ブラックロッド
古橋秀之
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)黒杖特捜官《ブラックロッド》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|謹聴せよ《ヒア》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)2n[#「n」は上付き小文字]
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CONTENTS
プロローグ
第一章 ブラックロッドは笑わない
第二章 吸血鬼もどきはもういない
第三章 見た目ほどにはヒマじゃない
第四章 魔女は男を眠らせない
第五章 永劫の夜に悪夢は覚めない
第六章 ヒトオオカミなんか怖くない
第七章 死神は死人を相手にしない
第八章 生ける死者に安息はない
あとがき
文庫版あとがき
[#改丁]
プロローグ
[#改丁]
積層都市〈ケイオス・ヘキサ〉A層中央。祈祷《きとう》塔の周囲に、呪装戦術隊《S.E.A.T.》の包囲が敷かれている。
隊員はみな無言。付近の住民の避難もすでに済み、可聴領域ぎりぎりの高音域で祈り続ける祈祷塔の他は、物音一つ立てるものはない。
戦力のほとんどはB層での交戦で失われた。〈アレフ〉は呪装戦術隊《S.E.A.T.》の銃撃を無視して歩み続け、昇降機《リフト》坑を登り、このA層にたどり着いた。
凶眼で周囲を睥睨《へいげい》し、悠然と歩む。その視線に触れた者はことごとく昏倒《こんとう》した。
屍体《したい》の山を乗り越え、〈アレフ〉は祈祷塔に取りついた。塔を破壊する危険性のため、重火器は使えない。呪装戦術隊《S.E.A.T.》が遠巻きに手をこまねく中、コンクリートに爪《つめ》を打ち込みつつ、七〇メートルを登攀《とうはん》し、活動を停止。
そして二〇分。
〈アレフ〉が再び動き出したとき、それを止められる者はここにはいない。
だが、止めねばならない。なんとしても。
悲壮な決意が、静寂の中に満ちている。
Gya-tei Gya-tei
Hara Gya-tei
Harasoh Gya-tei
Boji Sowaka
静寂を破ったのは、勇壮なマーチ調にアレンジされた般若心経《はんにゃしんぎょう》だ。高架道の彼方《かなた》から、黒い兵員輸送車が土煙を上げて驀進《ばくしん》してくる。車体上部の、斜めに組まれた装甲パネルが和式家屋のような印象を醸し、無骨な霊柩車《れいきゅうしゃ》とも見える。
兵員輸送車はろくに減速もせず、派手にタイヤを軋《きし》ませながら半回転、包囲陣に横腹を見せて乗りつける。側部装甲に、雷撃を象徴する金剛杆《ヴァジュラ》のマーキング。
呪装戦術隊《S.E.A.T.》の間に、期待と不安の表情が入り交じる。機甲折伏隊《ガンボーズ》……たったの一分隊?
だが、観音開きの後部ドアから降り立つ一〇名の機甲羅漢の姿が見えたとき、その不安は払拭《ふっしょく》された。
その全員が、二メートルを越える巨躯《きょく》に法衣《ほうえ》と装甲をまとっている。装甲倍力袈裟《パワード・カシャーヤ》/三番兵装。通称〈阿修羅《アスラ》〉。機甲折伏隊《ガンボーズ》最強の個人兵装の一つだ。重火器支持用の補助アームと光背《ハロー》ジェネレータが、人ならぬ力強いシルエットを形づくっている。
機甲折伏隊《ガンボーズ》の軍曹が、一歩進み出た。巌《いわお》のような顔面に、永久脱毛した頭部。前頭部には六つの通信素子が、骰子《さいころ》の『六』の目のように並んでいる。呪装戦術隊《S.E.A.T.》指揮官に向かい、手にした数珠《じゅず》――弾帯で出来ている――をじゃらりと鳴らして手を合わせ、深く一礼する。指揮官がぎこちない動作で礼を返すと、
「状況は?」
指揮官は、噛《か》みしめるように報告。
「通常弾、徹甲弾、死呪《しじゅ》弾、聖榴《せいりゅう》弾、いずれも効果なし。当方の損害は、〈アレフ〉の凶眼による心的障害一五四名、うち一〇〇余名は魂魄《こんぱく》消失。〈アレフ〉に吸収された模様」
うつむきかげんだった顔を上げ、
「奴《やつ》は……人を喰《く》います」
軍曹はうなずき、
「それで?」
――『それで』!?
「ああ、そうか」
絶句の表情に気づいた軍曹は、整列した隊員に向き直り、
「奴は人を喰うそうだ。注意しろ」
隊員の間で、粗野な笑いが漏れる。
――これだから裟婆《しゃば》の連中は困る。一歩外界に出れば、人喰う魔物など珍しくもない。
「なお、調伏《ちょうぶく》系は無効と予想される。装備を滅相《めっそう》系に変更」
隊員は各々の補助アームにマウントされた二〇ミリ種字《ビージャ》バルカンの装弾を、ナウマクサマン弾からプラジュニャー・パラミット弾に換装。
機甲羅漢は対象の属性に合わせ、臨機応変に装備・戦法を変化させる。これをして『対機殺法』という。
「〈アレフ〉は二〇分前からあの状態です。……あれは、まるで――」
指揮官の言葉は観測員にさえぎられた。
「霊圧上昇! 動きます!!」
〈アレフ〉の姿が、尻切《しりき》れになった彼の言葉を裏づけるように変化し始めた。
その器体《ボディ》が、内側から光り始めた。脈動し光り輝くなにものかを、薄皮となった装甲が包んでいる。
まるで、蛹《さなぎ》だ。
蛹の背に、細い筋が歩った。まばゆい光が漏れ出す。
「出ると同時にやるぞ――構え!」
一〇門の機関砲が〈アレフ〉を指した。各々、毎分六〇〇〇発。秒間計一〇〇〇発の種字弾《ビージャ》が発射される勘定になる。下手をすれば〈アレフ〉共々、祈祷《きとう》塔までぶち壊しかねない。だが、ためらう者はいない。薄笑いさえ浮かべて照準する。『破壊僧』の俗称は伊達《だて》ではない。
〈アレフ〉の背の裂け目が大きく広がった。輝く翼を持つ上半身が、ずるりと抜け出す。
軍曹の檄《げき》が飛んだ。
「今だ――――仏締《ぶっち》めろ!!」
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第一章 ブラックロッドは笑わない
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異形の町。
全身に真皮層写経《ダーマスートラ》を施し、念仏を唸《うな》りながら歩く少年僧侶《ボーズキッズ》の一団。重格闘用に成型《シェイプ》された力士《スモウレスラー》たち。人形嗜好者《ピュグマリオン》を当て込んだ外骨格娼婦《ヴァンプ・ドール》。そこここにうずくまり、街路の地下に埋設された霊走路《ケーブル》から漏れ出す霊気をすする地縛霊。
最下層市街。陽光も、階上で毎秒五〇メガ祝福単位《クライスト》の祈りを上げ続ける祈祷《きとう》塔の金切り声も、ここまでは降りてこない。
異形の雑踏をかきわけて、駈《か》ける男。荒い呼吸、追われる者の表情。振り返るその視線の先に、黒い男。
黒杖特捜官《ブラックロッド》。
黒革のコートに黒いブーツ。黒い制帽の正面には眼《め》をかたどった徽章《エンブレム》。その瞳《ひとみ》に埋め込まれた、青く光を放つ擬似水晶体。魔術士の象徴『第三の眼』、霊視眼《グラムサイト》。魔導特捜《ブラックロッド》は達人級《アデプト》以上の位階の魔術士によって構成される。
そして、右手にたずさえられた巨大な黒い呪力増幅杖《ブースターロッド》。冷たい光沢と身の丈を越える長さを持つそれは、権力《ちから》の象徴であり、呪力《ちから》の源であり、威力《ちから》そのものだ。人は「力」に対する畏《おそ》れを込めて、それ[#「それ」に傍点]を持つ者を〈ブラックロッド〉と呼ぶ。
ブラックロッドはゆっくりと歩く。その視線が逃げる男からそれることはない。
男は全力で駈《か》ける。喉《のど》の奥に粘膜がへばりつく。空気が粘る。
壊れた表示板の横を駈け抜ける。残留思念濃度計《ラルヴァカウンター》。アナログの表示針は何十年も前からレッドゾーンに振り切れっ放し。
粘る空気をかきわけ、人間と、人間に似た者たちを押し退《の》けて、男は駈ける。だが、黒い男との距離はじりじりと縮まっていく。
畏怖《いふ》、好奇、嫌悪。ブラックロッドの周囲には様々な感情が渦を巻く。だが、渦巻く感情の中心に存在するのは、台風の目のような無感情。
ブラックロッドをさえぎる者はない。彼のまとう威圧感が、ほとんど物理的ともいえる圧力となって周囲の者を押し退ける。混沌《こんとん》の海を渡る聖者のように、黒い男は平然と歩を進める。
ブラックロッドは急がない。ゆっくりと、だが確実に獲物を追い詰める。
なぜこんなことになっちまったんだ、と男は思う。
オースン・D・ベイカー。ケチな裏通りの、ケチな|安売り呪具屋《アイテムショップ》の、ケチな親父《おやじ》。しかしてその実体は――やっぱりケチな呪文《じゅもん》彫り。非公認《もぐり》の呪術行為は違法とはいえ、身のほどはわきまえている。特捜に追われる覚えはない。
だが、現に奴《やつ》はきた。なにかの間違いだ、と言いたいところだが、奴らは絶対に間違えない[#「奴らは絶対に間違えない」に傍点]。俺《おれ》はいったいなにをやらかしたんだ?
腰のあたりになにかがぶつかった。蛍光イエローのレインコート。ベイカーは姿勢を崩すが、後も見ずに再び駈け出す。
ベイカーに突き転ばされたレインコートの少女が、埃《ほこり》を払いながら立ち上がった。
年の頃《ころ》は一二、三。不釣合に大きなゴーグルが顔の半分近くを覆っているが、残りの部分から整った顔だちが見て取れる。
少女はベイカーを見送りながら口を尖《とが》らせた。
「失礼ね」
そして、すぐ後ろまで追いついた黒い男を振り返って、ニッと笑う。
「ねえ」
だが、ブラックロッドは笑わない。視線さえ向けずに歩き続ける。少女はふん[#「ふん」に傍点]と鼻を鳴らし、雑踏の中に歩み去る。
ベイカーは背後を振り返った。ブラックロッドとの距離は、さらに縮まっている。表情すら読み取れるほどに。
だが、その顔にはなんの表情も浮かばない。まるで、死人の顔。
「オースン・D・ベイカー」
死人の声が、ベイカーの名を呼んだ。文節ごとに、念を押すように発音。聞く者の意識に直接介入する、呪式発声《ハードヴォイス》。心臓を氷の手につかまれる感触に、彼は思わず立ち止まる。
「ランドーは、何処《どこ》だ」
ランドーという名に聞き覚えはない。だが、ベイカーの脳裏には突然、長身の東洋人の姿が鮮やかに浮かび上がる。共感効果《フレイザーエフェクト》による強制記憶喚起。まさに名が体を顕《あらわ》す。
影のような男。瘤《こぶ》のように盛り上がった背中。不思議な身のこなし。見慣れぬ軍服。蒼白《そうはく》な細面に、細くつり上がった右目と、ぽっかりと肉の落ちた左の眼窩《がんか》。
「その男だ」
ベイカーの表情を読んで、ブラックロッドは言う。
芋蔓《いもづる》式に、様々な記憶がベイカーの脳裏に蘇《よみがえ》る。
隻眼《せきがん》の男……呪紋複写の依頼……黒い記録符《ディスケット》……O2の封印《シール》……厄介な自壊構造……一三枚の水蛭子《ミスコピー》……法外な報酬……それから……
ベイカーの顔に、引きつり気味の愛想笑いが貼《は》りついた。
「なあ、あんた、見逃してくれよ……」
不毛の極み。特捜に目こぼしを願うくらいなら、死神に命乞いをする方がまだましだ。
「金ならあるんだ、ほら……」
ベイカーは懐からドル入れを引っ張り出した。おざなりにはみ出す海賊紙幣。非公認市民の溜《た》まり場であるこの街では、信用通貨《クレジット》など相手にされない。
だが、どのみちブラックロッドに買収はきかない。ブラックロッドはいかなる欲求も持たない。彼らは義務と必要によってのみ行動する。
ベイカーがドル入れから取り出したものは紙幣ではなかった。複雑な印形を記された封紙。もぞり、とかすかに動く。ベイカーは不器用に封紙の一部をちぎり取った。印形によって設定されていた小結界が破れ、封紙の裂け目からなにかが飛び出す。
肉眼には見えない、『気配』の塊。だが、ブラックロッドの霊視眼《グラムサイト》はそれを捉《とら》える。〈式鬼《シキ》〉と呼ばれる人造霊《オートマトン》。死人の顔をめがけ、矢のように飛んでくる。
だが、ブラックロッドは怯《ひる》まない。左手の甲を、すう、と額にかざす。
前方に向けられた掌《てのひら》が青く光る。左掌の皮下に貼り込まれたディスプレイフィルム、自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》。選択|印形《パターン》は『悪魔罠《デーモントラップ》』。
式鬼《シキ》は光る掌に吸い込まれるように収まった。霊視眼《グラムサイト》を通してイメージ化された姿は、鼠《ねずみ》とも蜥蜴《とかげ》ともつかない小動物。細い声で、キイ、と鳴く。
ブラックロッドは左手で式鬼《シキ》を把持しつつ、低い声でなにごとか呟《つぶや》いた。
式鬼《シキ》は「式」、一定の呪式《じゅしき》によって起動する霊力場。対抗呪式を入力され、霧散する。掌には式鬼《シキ》の核《コア》になっていた一枚の呪符が残るが、それも一瞬後には繊維に分解し、指の間からこぼれ落ちる。
式鬼《シキ》を放つと同時に駈《か》け出したベイカーは、再び一〇メートルほどの距離を得た。
だが、ブラックロッドは焦らない。指に残った粉を払うと、なにごともなかったかのように後を追う。
ベイカーは二枚目の封紙を取り出した。一枚目と同様、「仕事」の報酬と共に隻眼《せきがん》の男――ランドーに手渡されたものだ。
「追わるる身とならば、これを使うがよい」
ランドーはそう言って、薄く嗤《わら》った。
「呪的《じゅてき》逃走だ」
わけも判《わか》らずに受け取って財布に突っ込んでしまったが、使い魔の類《たぐい》は所持しているだけで十分に公安に引かれる理由になる。
はめられた。だがこうなってしまっては、奴《やつ》の置き土産に頼る他《ほか》ない。ベイカーは再び封紙をちぎる。
ベイカーとブラックロッドの間を横ぎりかけた女の頭部が、風船のように弾《はじ》け飛んだ。血煙の中から、二体目の式鬼《シキ》が飛び出してくる。女の血肉を喰《く》らい、式鬼《シキ》は加速する。
だが、ブラックロッドは動じない。自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》を『呪盾《シールド》』に設定。左|掌《てのひら》を前方に突き出す。手首を弾き飛ばすに足る速度で飛んできた式鬼《シキ》は、掌の数センチ手前で不可視の障壁に弾《はじ》かれ、大きく右にそれる。
右後方にいた男の頭が爆《は》ぜた。式鬼《シキ》は大きく弧を描いて反転。軌道上の人間を次々に弾き散らし、矢のように、弾丸のように、稲妻のように加速し、再びブラックロッドを襲う。
ブラックロッドは怯《ひる》まない。式鬼《シキ》を「眼《め》」で追いつつ振り返り、再び掌を突き出し、今度は上方に弾く。同時に右手で杖《ロッド》を起動、式鬼《シキ》に向けて高く掲げる。
キュン、と杖《ロッド》が鳴った。高速詠唱《クイッククライ》。ほとんど超音波の領域にまで加速された圧縮呪文《ノタリック》が、式鬼《シキ》に向けて解放される。
呪力増幅杖《ブースターロッド》は単なるテープレコーダーではない。魔術士と|霊的に接続《チャンネル》し、魔術士の言語中枢から言霊《ことだま》を汲《く》み取り、増幅、加速、放出する。
選択呪文は『呪弾《ブリット》』。十分な速度と衝撃力を持った魔力魂が空中に組成され、上空で反転しかけた式鬼《シキ》を撃ち抜く。
式鬼《シキ》の霊体は飛沫《ひまつ》となって飛び散り、やがて周囲の雑念に溶け込んだ。空中には硬貨大の穴の開いた呪符が残されたが、それも路面に落ちる前に分解し、埃《ほこり》の中に紛れていく。ブラックロッドは杖《ロッド》を下ろし、追跡を再開。
もつれる足を無理に動かし、ベイカーは全力で駈《か》け続ける。逃げれば逃げるほど、自分の首が絞まっていくのが判る。
なぜ特捜の噂《うわさ》を耳にしたとき、即座に公安に出頭しなかったのだ。罰金、懲役。それがどうした。命あっての物種だ。
だが、使い魔をもって特捜を攻撃したとあっては、もはやそんなものでは済まされない。死刑ならまだましだ。社会奉仕に対する強迫観念を殖《う》え込まれ、菩薩《ボサツ》として一生を過ごすか、三重絶対精神拘束《アジモフ・ゲアス》をかけられて、生きたままゾンビイにされるか……。
とにかく、今はただ全力で駈《か》けるのみ。
体が妙に重い。ふと袖口《そでぐち》を見ると、薄いもやのようなものがまとわりついている。目を凝らす。何体もの浮遊霊。まだ人の形を保っているものからなにやらどろりとした塊にしか見えないものまで、無数の霊体が腕のみならず全身に貼《は》りついている。ひと声叫んで振り払おうとした瞬間、地縛霊に足を取られ、転倒する。
ベイカーは立ち上がろうとするが、路面から伸びた何本もの見えない手が彼を地面に引きずり倒す。沈殿した埃《ほこり》と霊気の中を、彼は必死に這《は》いずりまわる。
下水の匂《にお》い。砂埃。街のざわめき。すべてが遠くかすむ中で、ただ一つ確かなものは、死神の時計のように規則正しいブーツの足音。体内で、秒刻みに恐怖が膨れ上がる。
ブラックロッドは急がない。街の灯《あかり》を背に、ゆっくりと歩いてくる。
やっとのことで半身を起こしたベイカーは、懐から三枚目の封紙を取り出した。前の二枚と型は同じだが、より複雑な印形が書き込まれ、禍々《まがまが》しい緋色《ひいろ》に染められている。
「紅《あか》い呪符《ふだ》は最後に使え」
ランドーはそう言い、それからもう一度念を押した。
「一番、最後だ」
今がそのときだ。ベイカーは紅い封紙をちぎる。
掌《てのひら》の中で圧倒的な存在感が膨脹《ぼうちょう》し、封紙が破裂した。左手の指がちぎれ飛ぶ。
常人においても、死の予感が一時的に霊感を高めることがある。ベイカーは一瞬、ナイフのような牙《きば》を何列にも生やした、巨大な口腔《こうこう》のイメージを見た。
ブラックロッドの目の前で、ベイカーの上半身が、消えた。一拍遅れて、左右の手が腰の両|脇《わき》にぽとりと落ちる。
前の二体とは桁《けた》違いに大きな式鬼《シキ》。人間の子供ほどの大きさ。身長の三分の二を占める巨大な頭部。どことなく人間に似た顔が黒い男を振り返り、巨大な牙を剥《む》き出してにたり[#「にたり」に傍点]と笑う。
ブラックロッドはうろたえない。式鬼《シキ》に向かって無造作に杖《ロッド》を構える。
ベイカーが死んだ今、この式鬼《シキ》は重要な証拠品の一つだ。破壊せずに捕らえる必要がある。脳裏に『捕捉《ホールド》』の呪文《じゅもん》を呼出《コール》。一瞬のタイムラグ。
式鬼《シキ》はブラックロッドには目もくれず、上方に跳び上がった。ベイカーの屍体《したい》に群がる浮遊霊が式鬼《シキ》の代りに捕捉呪文に呪縛され、キュッと鳴いてびちびちと地を跳ねる。
捕獲が叶《かな》わないなら打ち砕くまで。ブラックロッドは呪文設定《マインドセット》を再び『呪弾《ブリット》』に戻し、たて続けに圧唱《クライ》。『呪弾《ブリット》』は『捕捉《ホールド》』より有効範囲《レンジ》が広い。より単純で、強力だ。
狙《ねら》いは正確。式鬼《シキ》は呪弾《ブリット》が当たるたびに霊気の飛沫《ひまつ》を散らし、子供ほどあった霊体が赤子ほどに、胎児ほどに縮んでいく。だが、核《コア》に損傷はない。目に見えぬ顔で嘲笑《あざわら》い、聞こえぬ哄笑《こうしょう》をまき散らしながら、さらに上昇し、『呪弾《ブリット》』の有効範囲《レンジ》を離脱する。
突然、式鬼《シキ》の哄笑《こうしょう》が止《や》んだ。
どこからか飛んできた霊体が式鬼《シキ》をくわえ込んでいる。青白く輝く鳥類のイメージ。
光る鳥は目の前に降りてくると、式鬼《シキ》を放した。ブラックロッドは自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》を作動、逃げ出す式鬼《シキ》をトラップ。封印式を唱え、呪符《じゅふ》を凍結。コートの封印ポケットにしまい込む。
鳥は漠然とした人型に姿を変えた。ゆらゆらと、笑っている。
「……ジニー……か?」
死人の顔に一瞬、表情のようなものが現れた。
『そう。でも、違う』
公安局の交霊経路《チャンネル》を通じて、人型は答える。
『待って。依代《からだ》を取ってくる』
人型はそう言い残すと、再び鳥に姿を変えて飛び去った。
三分ほどして、こちらに駈《か》けてくる者があった。少女。黄色いレインコート。大きなゴーグル。黒い男の前で立ち止まると、
「おまたせ」と軽く息を切らせて言う。
「このたび公安に派遣《リース》されました、降魔局《A・S・C》妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》、ヴァージニア・ナイン。稼動中の|V《ヴァージニア》系列の中じゃ一番の『末娘《すえっこ》』よ」
そう言って、V9はゴーグルを外した。
人形めいて整った顔に、瞳孔《どうこう》のない青い瞳《ひとみ》。霊視眼《グラムサイト》。
黒い男は無意識に目を伏せ、制帽の霊視眼《グラムサイト》でV9を確認《アイデンティファイ》。
ブラックロッドはおのれの眼《め》を信じない。怪しいものはすべて、霊視眼《グラムサイト》を通して認識する。
V9はその「視線」に気づき、黒い制帽と自分の眼を交互に指差して、
「あはは、おそろいだね」と笑いかける。
だが、ブラックロッドは笑わない。足元を見やり、
「これは、君が?」
足元に転がるベイカーの残骸《ざんがい》。流れ出す霊気と血液に群がる地縛霊。
V9は肩をすくめ、
「まあね。さっきあたしにぶつかったせいで、運勢《ツキ》が堕《お》ちて地縛霊に引っかかったってわけ」
そこまで言ったところで、親指で腹に横一文字の線を引き、
「これはあたしのせいじゃないけどね」と、白目を剥《む》き、べろりと舌を出して、おどけた死相を浮かべてみせる。
「やはり、ランドーか」
V9はうなずいた。
「抜け目がないね。この男を使って時間を稼いで、あげくにこれ。これじゃ死者尋問《インクエスト》もできないでしょ」
死者尋問《インクエスト》の際には残った屍体《したい》の割合はさほど問題にならない。屍体は触媒でしかない。死にたての完全屍体がベストだが、条件さえ揃《そろ》えば髪の毛一本からでも死霊は呼び出せる。
しかし、この場合は呼び出すべきベイカーの霊自体が、中枢神経のほとんどと共に、式鬼《シキ》に喰われてしまっているのだ。
ブラックロッドは血|溜《だ》まりの傍らに膝《ひざ》を突き、血液や肉片のサンプルを採取し始めた。
正午の聖水散布が始まった。建築物の谷間に張り渡された格子の随所に取りつけられたスプリンクラーが、聖別された希アルコール溶液を一斉に振りまき始める。
立ち上がったブラックロッドの足元、ベイカーの下半身と両前腕部のまわりでは、聖水の小雨に打たれた地縛霊が溶け始めている。あるものは呪縛《じゅばく》を解かれて雨の中を漂い、またあるものは泥水に混じって下水口に流れ込む。
「申し遅れたけど、はじめまして……かな?」と言って、V9は右手を差し出した。「よろしく、ブラックロッド」
ブラックロッドは応じない。軽くうなずくのみ。表情のないその顔を雨滴が淙々《そうそう》と伝うさまは、教会の屋根に据えられた、物言わぬ守護魔像《ガーゴイル》を思わせる。
V9は肩をすくめると、いささかの皮肉を込めてポケットに手を突っ込み、それからもう一度、
「よろしく」と言って、ニッと笑った。
だが、ブラックロッドは笑わない。
ブラックロッドは、笑わないのだ。
[#改丁]
第二章 吸血鬼もどきはもういない
[#改丁]
ビリー・龍《ロン》は夜を好む。彼は元来、夜の生き物なのだ。
〈ケイオス・ヘキサ〉最下層市街。永劫《えいごう》の夜の街。
ネオンの洪水の中を、ビリーは闊歩《かっぽ》する。身長一八五センチメートル。ダークレッドの軍用ジャケットに包まれた均整のとれた体には、体格の割に威圧感はない。機敏な動作と東洋人風の童顔に絶えず浮かぶひとなつこい表情が、彼に軽快な印象を与えている。糸のように細い眼《め》を薄茶色のサングラスで隠し、道ゆく娘に愛想を振りまくときには発達した犬歯が口元からちらりとのぞく。|吸血鬼狩り《ヴァンパイア・ハント》の全盛期ならBJに追い回されるところだが。吸血鬼《ヴァンパイア》の絶滅から一〇年が経過した現在、〈BJ〉――吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》も、ファッションとしての吸血鬼《ヴァンパイア》ルックも、とうに全滅してしまっている。ただ一人を除いて。
彼こそがその[#「その」に傍点]最後の生き残りだ。ウィリアム・龍《ロン》。最後の|吸血鬼もどき《ファンギー》。
吸血鬼《ヴァンパイア》がまだ人類に対する脅威であった頃《ころ》、若者たちはこぞって鋭利な培養犬歯を移植し、虹彩《こうさい》の色素を抜いて瞳《ひとみ》を紅に染めたものだ。だが、流行はスリルに始まり笑いに終わる。今では子供さえ吸血鬼《ヴァンパイア》を怖がりはしない。大きな牙《きば》を生やした夜の魔人のイメージは、かつての恐怖の反動から極度に卑小化され、もはやユーモアの対象でしかない。
もっとも、それが彼のキャラクターに一役買っているのではあるが。
通りかかった力士《スモウレスラー》の体をすれ違いざまにぺたぺた触る。下水溝から這《は》い出し繰り言を呟《つぶや》く地縛霊に相槌《あいづち》を打ってやる。街角で手頃《てごろ》な奇跡を起こしている宗教勧誘員をひやかしてみる。
生ける死者を演じるには、陽気に過ぎるというものだ。
一人の娘と目が合った。だぼだぼの黒の革ジャンには、眼《め》をかたどった徽章《エンブレム》。サイドに深い切れ込みの入った黒革のホットパンツから形のよい脚がすらりと伸びる。青く染めたショートヘアを四方に流しているが、額の前だけは大きく開き、その真ん中には透きとおる青い瞳《ひとみ》。ただし、額の眼は松果体《しようかたい》に神経接合《コネクト》された本物の霊視眼《グラムサイト》ではない。しばしば自前の二つの眼の動きを無視して、きょろりとよそを向く。
ビリーは娘に向かって、
「がおう!」と牙《きば》を剥《む》き出し笑わせて、手近なバーに連れ込む。
店内は狭く、騒然。悪酔いした客が吐き出した下露《げろ》まじりのエクトプラズムを、店員が悪態をつきながら除霊器《クリーナー》で分解している。
「あなたの、それ……」と、三つ眼の娘は舌で自分の犬歯をチロリとなめ、
「素敵《すてき》な趣味よね――いまどき見かけないわ」額の眼をきょろりと回し、くすりと笑う。
ビリーは器用に右の眉《まゆ》を上げて、尖《とが》った犬歯を剥き出して笑い、
「ただの時代錯誤《アナクロニズム》ならいいがね。どうする? このグラスを外して、紅《あか》い眼が出てきたら」と、サングラスのつるに指をかける。
「やだ、まさか本物?」
三つ眼娘は、耐えきれない、というようにテーブルに突っ伏し、アクセサリーをジャラジャラと鳴らして笑う。
この街では、流行は常に危険の匂《にお》いを伴わなければならない。もはや吸血鬼《ヴァンパイア》にはその資格はない。さながら、根絶された伝染病。いまどき吸血鬼《ヴァンパイア》を恐れる若者はいない。吸血鬼《ヴァンパイア》ルックを装う物好きも。
近頃の流行《はや》りは、人狼《ワーウルフ》風の尖《とが》った耳や、額の中央の青い眼玉。吸盤式の玩具から本物そっくりの疑似生体組織まで程度は様々だが、この小さなバーだけでも五、六人はつけている。馬鹿でかい呪力増幅杖《ブースターロッド》の模造品《レプリカ》も売り出されたが、街なかで持って歩けたものではないのでこちらはいまいちウケが悪い。
ひとしきり笑った三つ眼娘が顔を上げると、ビリーはもう一度|訊《き》いた。
「どうする?」
再び吹き出しかけたとき、三つ眼娘は気がついた。ビリーの表情から先ほどまでの剽軽《ひょうきん》さが消えている。サングラスから飛び出した眉《まゆ》も、口元のにやけた笑いも変わらない。だが、なにかが違う。
眼だ。先ほどまで薄い色のグラス越しに線のように見えていた眼が、若干見開かれている。細くつり上がったそれは意外に鋭く、なにか禍々《まがまが》しい光さえたたえている。そしてなによりも、瞳《ひとみ》。グラスにさえぎられて、色までは確認できないが……
「どうする?」
「やめてよ……もうつまんないよ、それ」
三つ眼《め》娘の声には先ほどまでの元気がない。顔から血の気が引いていく。蒼《あお》ざめた額の真ん中で、青い眼がきょろりと動く。
瞳の色は……?
吸血鬼《ヴァンパイア》の瞳の支配力については、両親や祖父母にしつこく聞かされている。一度その紅《あか》い瞳をのぞいたが最後、犠牲者には抵抗することさえ許されない。吸血鬼《ヴァンパイア》の視線は一瞬にして犠牲者の魂を呪縛《じゅばく》し、その瞬間に彼、あるいは彼女は人であることをやめ、吸血鬼《ヴァンパイア》の奴隷となり、家畜となるのだ。
つまり、彼はたったのひと睨《にらみ》で彼女を支配できる。人気《ひとけ》のないところまで連れて行けば、後はお気に召すまま。
一説には、吸血鬼《ヴァンパイア》は人類の天敵、あるいは人類という種に発生した癌《がん》だという。また一説には、吸血鬼《ヴァンパイア》の発生は人類の個体数調整のメカニズムの一環だとも。諸説紛々、論旨は様々だが、どの説からも共通して言えることがある。殊《こと》、個体レベルにおいて、人間が吸血鬼《ヴァンパイア》に抵抗することは本質的に不可能なのだ。
ビリーはもったいぶった仕種《しぐさ》でサングラスを外す。ゆっくりと、時間をかけて。
「ちょっと、やだ……やめて!」
最後は悲鳴に近い。店内がしんと静まりかえり、数人の客が視線をよこすが、大部分は無関心を装って目をそらす。
――そうだ、あれは確かに現実だったのだ。子供の頃《ころ》……ほんの一〇年前。毎夜|吸血鬼《ヴァンパイア》の影に怯《おび》えながら過ごした日々。母は私が悪戯《いたずら》をすると、必ずこう言ったものだ。
「悪い子にしてると〈ロング・ファング〉がくるよ」
「〈ロング・ファング〉がおまえを連れて行くよ」
「だれか……!」
逃げ出そうとする三つ眼娘の肩が、恐ろしい力で引き止められた。そのままグイと反転させられ、切れ長の眼と正面から向かい合う。
「さあ、どうする?」
一瞬の恐慌状態の後、彼女はそれを見た。
悪戯っぽい光をたたえた、薄茶色[#「薄茶色」に傍点]の瞳。
三秒間の静寂の後、景気のいい破裂音が店内に響き渡った。それを合図に、再び時が流れ出す。ある者は笑い出し、ある者は雑談を再開し、ある者は怒鳴り声でオーダーを繰り返す。
強烈な平手をかまされ、椅子《いす》から半ば転げ落ちながら、ビリーは見事に手形のついた頬《ほお》を押さえ、
「はっはっは」と笑っている。
三つ眼《め》娘は仁王立ちになり、肩で息をしつつビリーを睨《にら》みつけていたが、やがて緊張の糸が切れ、プッと吹き出した。
「いつも、こんなことしてるの?」
笑いと安堵《あんど》から出た涙を拭《ぬぐ》いながら、三つ眼娘は言った。
「可愛《かわい》い娘《コ》が相手のときはね。俺《おれ》、女の子が怖がるとこ見るの、好きなんだ」
「ヤな趣味〜」
口を尖《とが》らせる三つ眼娘をビリーは屈託のない笑顔でいなし、
「昔はマジに紅《あか》い眼してたんで、ウケたウケた。そりゃもう洒落《しゃれ》にならんくらいに」
「え?」
三つ眼娘の顔に再び不安がよぎる。ビリーはそれを打ち消すように手を振り、
「いやいや、やり方があるのさ。眼ン玉をこう、引っこ抜いて――」
眼球を抜き出す仕種《しぐさ》。
「――漂白剤でちゃぷちゃぷ洗って、またはめる。瞳《ひとみ》の色素が抜けるから、血管の色が透けて紅く見える。ほら、白い兎《うさぎ》の眼って紅いだろ? あれと同じさ」
マグカップを持った盲目の兎を想像する。自分の眼球を、その視神経をつまんでティーバッグよろしくカップの中に揺らしている。その不気味なイメージに、三つ眼娘は引きつり気味の笑いを浮かべた。
「なんでやめたの?」
「なにを?」
「紅い瞳。気に入ってたんでしょ?」
「ああ」
ビリーは前髪をかき上げ、
「一度BJに捕まってね。逃げ足には自信があったもんで、とことん逃げたんだが、結局追い詰められちまった。当時は『吸根法』が効いてたから……吸血鬼根絶特別法ってのは…?」
「学校で習ったわ」
三つ眼娘はちょっとした教養を示すように微笑《ほほえ》み、
「|地獄の《ヘル》なんとか計画とかいう……」
「ヘルシング計画。ヘルシングは人名だよ。吸血鬼学の権威さ。そいつのおかげで、危うくその場にピン止めになるところだったんだが……」
うっと呻《うめ》いて、自分の心臓に杭《くい》を突き立てるジェスチュア。
「念のため聖象徴反応試験《クロスリアクション・テスト》をさせられて、結果は陰性《シロ》。無罪放免になった。別れ際にBJのリーダーがこう言ったよ。『気をつけるんだな、坊や。――』」
「『――俺《おれ》は二度は見のがさん』」
三つ眼《め》娘はビリーの言葉を引き継ぎ、くすりと笑う。
「『キャプテン・ドレイク』なら、小さい頃《ころ》によくテレビで見てたわ。吸血鬼《ヴァンパイア》にして吸血鬼《ヴァンパイア》ハンター。弱きを助け、悪《あ》しきを挫《くじ》く。あの〈ロング・ファング〉でさえやっつけたっていう――」
「いやいや、|〈ドレイク〉《そいつ》にはモデルがいてね。本物はあんな馬鹿みたいな脳筋《マッチョ》じゃない。アーヴィング・ナイトウォーカー少佐。吸血鬼殲滅戦《ヴァンパイア・ハント》の英雄さ。今の娘《コ》は知らんかなあ?」
「やだ、オジンみたい」と、三つ眼娘。
「その人も吸血鬼《ヴァンパイア》だったの?」
「さあね。確かに牙《きば》は生やしてたが……こんなもん、移植でどうにでもなるしな。BJのメンバーは全員『|牙持ち《ファンギー》』なんだ。それも、こんなチャチな差し歯じゃなくて――」
人差し指で犬歯をコツコツと叩《たた》き、
「本物の吸血鬼《ヴァンパイア》から引っこ抜いた、ゴツい奴《やつ》さ。眼の方はグラサンで隠して――これと同じ奴《やつ》。高価《たか》かったんだぜ」
サングラスをかけ直し、
「まあそんなわけで、俺《おれ》は吸血鬼《ヴァンパイア》の真似《まね》をやめて、ナイトウオーカー少佐の真似をすることにした」と、椅子《いす》にかかったダークレッドの護法胴着《チャームドジャケット》をぽんぽんと叩く。左の肩と胸には、黒地に赤く吸血鬼《ヴァンパイア》の牙を持つ死神を描いた、吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の徽章《エンブレム》。
「なんでそうなるのよ」
「カッコいいから」
「あは。なにそれ」
三つ眼娘はひとしきり笑うと、
「ねえ、その……ジャケットもメガネも本物なのよね?」
「靴と時計もだ」と、胸を張って、ビリー。
「じゃ、なんで牙だけ作り物なの?」
「うん、それなんだけどな」
ばつが悪そうに頭をかき、
「前に粗悪品つかまされてさ。確かに本物の吸血鬼《ヴァンパイア》の犬歯には違いなかったんだが、耐太陽光処置《コーティング》がちゃんとしてなくて……」
言いながら肴《さかな》の巻寿司の海苔《のり》をぴりぴりとちぎり、口に運ぶ。
「次の日ヘルスセンターに行ったら、サンライトでポロっと」一瞬口をへの字に曲げ、続いてニッと笑うビリーの両の犬歯には、ちぎった海苔《のり》が貼《は》りつけられている。ぽっかりと歯が抜けたようで、間が抜けている。
三つ眼《め》娘、再び爆笑。
「じゃんじゃん飲も、じゃんじゃん」
三軒目の店。呂律《ろれつ》の回らない舌で、三つ眼娘が言う。
「お金ならね、バイトしたの。この間、あたし。ヘンなバイト」
初対面の男に言うべき言葉ではない。この街ではほんの小銭のために命を落とす者が絶えない。しかし、ビリー・龍《ロン》にはどこか人の警戒を解いてしまうようなところがある。
「変《ヘン》って?」
「なにが?」
「だから、バイトって?」
「あ、そっか」
いいかげん、酒が入っている。三つ眼娘はけだるく目を伏せ、記憶をさらう。額の眼だけが陽気にきょろりと動く。
「んーとね、なんか、健康診断みたいのして、星占いとか相性判断みたいのして……ん、まぁ大体そんなとこ。それでおしまい、『帰ってよろしい』」
「そりゃ『テストで落とされた』って言わんか?」
「でも、お金もらったよ」
「いくら?」
ぴっと指二本。
「全部で二〇万」
二〇万ワーズといえば、この辺りでは優にひと月分の実入りだ。
「おいおい、そりゃなんかヤバい仕事じゃねーの?」
「えー、でも、ちゃんとしたとこの仕事だよ」
「どこだよ、言ってみ?」
三つ眼娘はつんと顎《あご》を突き出し、
「マグナス・クロックワークス社」
マグナス社といえば、精密機器の超大手《モンスター》メーカーだ。前世紀から続く老舗《しにせ》だが、特にここ数年、人造霊《オートマトン》などの心霊工学《サイテク》分野で怪物的ともいえる業績の伸びを見せている。
だが、その大企業が身元の保証もこころもとない娘を雇い、やったことといえば簡単な適性検査のみ。そして法外な報酬。なにやら怪しい。
犬歯がうずきだした。なにか危険の匂《にお》いを感じるときには、いつもこうだ。ビリーは顔をしかめ、上下の犬歯をコリコリと擦《す》り合わせる。
「……なによ、怖い顔して。ちゃんと広告にも出てたんだから。『新型|人造霊《オートマトン》の開発協力』って」
一般には公的経路をたどった情報は確かなものだと言われている。放送、出版ルートには規約により一種の誓約の呪文《じゅもん》がかけられており、虚偽の報道や広告は自動的にキャンセルされるからだ。だが、抜け道はいくらでもある。どんな嘘《うそ》も真実のかけらで組み立てられていることに違いはない。
「新型|人造霊《オートマトン》…」
マグナス社が『魂を持った道具』とかいうコンセプトで模擬人格を塔載した人造霊《オートマトン》を開発しているという話は聞いたことがある。
現時点でもっともそれに近いものといえば、降魔局《A・S・C》の妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》だろうか。規制の厳しい悪魔《デーモン》との接触を最大の効率で活《い》かすべく、降魔局《A・S・C》公認魔女《オフィシャル・ウィッチ》――霊的適性を基準に選定された、悪魔《デーモン》の憑坐《よりまし》――たちは、その『悪魔と共生した魂』を複数の人造霊《オートマトン》に複写《コピー》し、自らは共感効果《フレイザーエフェクト》による心霊的ダメージを避けるため、結界内で無期限の魔法の眠りに就いている。そのため、普段〈妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》〉の名をもって呼ばれるのは複写《コピー》の方だ。
件《くだん》の『新型』が同様のもので、この娘がそのモデルとして選ばれたと考えれば、一応理屈は通る。
未完成の技術で行なう人格複写。後々、共感効果《フレイザーエフェクト》で『原版』に悪影響が出る可能性もある。二〇万ワーズは危険手当込みというわけか。A層やB層の『上層階級《ハイ・クラス》』ならともかく、最下層で引っかけた娘なら、もしものときに補償などでもめることもない。
「それにね、ほんとはそれだけじゃないの。技術顧問とかいうブキミなおっさんが、なんかヘンなこと言ってたのよ。『ツキミツルヨノコヨミノウツロウトキ』に迎えにくる、とかなんとか。追跡調査かなんか知らないけど、ワケ判《わか》んないし気味悪いし、バイト代前金でもらったからそのままトンズラしちゃった」
「『月満つる夜の』……」
「『ツキ』って、ひと月ふた月の『月』よね。『ミツル』ってなに? 月末ってこと?」
この娘は自分の目で月を見たことがないのだろう。この娘に限らず、各地に点在する積層都市《バビロン》の下層市街に住む者の多くにとって、『月』や『太陽』という言葉は、暦の用語としての意味しか持たない。
「……今夜は満月だ」
ビリーは、コリ、と犬歯を鳴らした。
「あ、そーだ」
不自然に大きな声で、三つ眼《め》娘が言う。ビリーが一人で考え込んでいるのが面白《おもしろ》くない。
「あと、ヘンなプリントされたんだよ。ほら」と、大きく脚を開く。左の内腿《うちもも》に、小さな魔法円《マジックサークル》。
「どこでもいいってゆーから、こんなとこにしてもらっちゃった。なかなかキワドイっしょ?」
ビリーは顔を近づけ、魔法円《サークル》を観察。かなり精巧なものだ。
「やだ、なにじろじろ見てんのよう」
犬歯のうずきが強まる。歯根が泡立つような感覚。今にも抜け落ちそうだ。
ビリーは低い声で呟《つぶや》いた。
「……『マクスウェル、しっかりしろよ[#「マクスウェル、しっかりしろよ」に傍点]』」
「なにそれ」
「友達さ」
ビリーは顔も上げずに言い、なおも魔法円《サークル》を観察。
「……召喚円だな、こりゃ」
ようやく頭を上げる。
「|かみ〜ん《COME IN》、って感じ?」と、三つ眼《め》娘は脚をさらに開き、自分のジョークに大ウケする。
ビリーは黙って腕時計を見る。吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》制式採用品。各種天体の運行から〈ケイオス・ヘキサ〉の地相学的バイオリズムまで表示可能な優れ物。一五年以上の間、一秒たりとも狂ったことはない。
現在、二三時五五分。
ビリーは舌打ちし、
「出るぞ」
「えー、なによ、急に」
三つ眼娘の腕をつかみ、レジに数枚の紙幣を投げ出して店を飛び出す。
「こんな所に連れ込んで、どーしようっての?」
店の裏の、路地というよりは建築物の隙間《すきま》。大きなポリバケツがいくつも転がり、悪臭を放っている。
「あたしってば、結構ムードを大切にする人なのよね」
ビリーは応《こた》えず、時計を見る。二三時五九分四八秒。時間がない。
無言のまま、懐からポケットナイフを取り出し逆手に構え、左手で三つ眼娘の腿《もも》を押さえる。
「ちょっと、なにすんのよ!」
「静かに。ちょいと引っかくだけだ。……放っておけば、こいつはなにかを呼び込むぞ[#「なにかを呼び込むぞ」に傍点]」
召喚円に傷をつけ、無効化する。だが、爆発物処理と同様、高度な呪的《じゅてき》紋様の操作には専門技術と細心の注意が必要だ。上手《うま》くやらなければ、かえって厄介なことになる。
「やだ、やめてよ!」
娘がもがくため、切っ先の狙《ねら》いが定まらない。
当て身でも喰らわすべきだった、とビリーは思い、
「バカ、放せ、変態!」
三つ眼《め》娘は事態を理解できぬまま、
『人類とテクノロジイの未来を見つめるマグナス・クロックワークス社が、午前零時をお知らせします』と、どこからか流れる有線放送。
『ピ』
ビリーは息を詰め、
『ピ』
白い腿《もも》が揺れ、
『ピ』
犬歯がうずき、
凄《すさ》まじい衝撃が横殴りにビリーを襲った。反射的にガードした腕の骨が砕ける。それでも勢いは止まらず、ビリーは横様に吹っ飛んだ。
その足元をすり抜けて、小さな気配が走った。海月《くらげ》のような、あるいは奇形の胎児のような、禍々《まがまが》しい印象を持つ半実体。娘の脚を伝い、召喚円の中にずるりと滑り込む。
ビリーは汚物の詰まったバケツを跳ね飛ばし、壁に激突。彼を突き飛ばしたものが、再び地面を蹴《け》った。ぐるるう、と唸《うな》り、コートをはためかせ、胸の上にのしかかる、恐ろしい重量。
三つ眼娘が倒れた。アスファルトの上を、はじけ豆のようにびくびくとのたうつ。
「『マクスウェル』――!」
ビリーが言い終えるより速く、鋭い爪《つめ》が気管を断ち切った。
三つ眼娘が大きくのけぞった。胸郭が破裂し、肋骨《ろっこつ》がばらりと外を向く。おびただしい量の血液が噴出する中から、ひと回り大きくなった『気配』が飛び出す。
闇《やみ》の中から、隻眼《せきがん》の男が影のようにズウと現れた。懐から、葉書ほどのサイズの記録符《ディスケット》を取り出す。『気配』がよちよちと駈《か》けより、男の腕を這《は》いのぼると、符の中にずるりと収まった。
隻眼の男は薄く嗤《わら》うと、闇の中に溶けた。
ビリーにのしかかっていた重量が、不意に消えた。闇に溶けた男を追って、コートのはためく音が遠のき、消える。
零時ジャスト。昨日と今日の狭間《はざま》。暦のうつろう時。
『ポーン』と、時報が鳴った。
表通りの喧騒《けんそう》は遠く、地の底から下水口を通って漏れ出す怨霊《おんりょう》の呻《うめ》きの他《ほか》に、路地裏には音もない。
死の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけて、小さないきもの[#「いきもの」に傍点]が漂《ただよ》ってきた。
『沙弥尼《シャミニ》』と呼ばれる、市街地の除霊《クリーニング》にたずさわる人造霊《オートマトン》。燐光《りんこう》を放つかぼそい体は昆虫のようでもあり、妖精《ようせい》のようでもある。体表に出来た皮膚のひだが東洋風の衣類に見えなくもない。
沙弥尼《シャミニ》は路面に転がる二つの屍骸《しがい》を見つけた。
胸部のほとんどが弾《はじ》け飛んだ娘。喉元《のどもと》を切り裂かれた男。
不慮の死を遂げた者の怨嗟《えんさ》の声を聴き、その念を取り込んで浄化するのが沙弥尼《シャミニ》の役目だ。娘の屍骸《しがい》に近づいていく。娘の血色を失った額に貼《は》りついた青い眼《め》が、動体を感知してきょろりと動く。
沙弥尼《シャミニ》は小首をかしげた。この屍骸には霊気が残っていない。
ちょうどそのとき、男の屍骸――ビリーがむくりと起き上がった。右手を振ってなにか言いかけるが、声の代わりに喉元からごぼりと血の泡が出る。ビリーは左手で喉を押さえ、血の塊を吐き出した。
「……その娘に…」
喉からごぼごぼと息が漏れる。
「…その娘のために、祈ってやってくれよ」
言いながらポケットに手を突っ込み、沙弥尼《シャミニ》に硬貨を放ってやる。
沙弥尼《シャミニ》は空中で器用にキャッチ。硬貨に付着した雑念を食べると、眼を閉じ、両手を合わせて、鈴のような声でさえずる。
『なむからたんのーとらやーやー』
沙弥尼《シャミニ》には知能と呼べるものはない。念を喰《く》らい題目を唱える一連の動作は、条件反射でしかない。だがそれゆえに、その祈りにはなによりも純粋だ。彼女らはなんのためでもなく、ただ祈るために祈る。
「それから――」
ビリーが言いかけた瞬間、沙弥尼《シャミニ》は無数の光の粒となって、小さな花火のように弾けた。光が消えた後には、空中に残された構造材《シャリ》がさらさらと地に落ちる。
『一〇八回目』だ。
沙弥尼《シャミニ》は起動後一〇八回目の祈りを上げると、自らの取り込んだ業《ごう》と共に分解する。大量に業を取り込み、悪霊に変ずるのを防ぐための措置だ。
「――くそったれ」
血の混じった唾《つば》を吐き、ビリーは歩き始めた。
通りに一歩踏み出してから、最後にもう一度、路地をのぞき込むように娘の屍骸《しがい》を振り返る。
――こんなことなら、俺が喰っちまうんだったよ[#「俺が喰っちまうんだったよ」に傍点]。
娘の蒼《あお》ざめた死相の中で、額の眼《め》だけがきょろりと笑った。
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第三章 見た目ほどにはヒマじゃない
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〈ケイオス・ヘキサ〉D層五〇五番街。
陽光に見捨てられたこの街にも、律義に朝はやってくる。ぼんやりと薄明るい昼までにはまだかなりの時間があるが、朝もやと冷えた空気がどこからともなく朝の匂《にお》いを運んでくる。
高層建築物の隙間《すきま》に、くさびのように収まる小さなビル。うちはなしのコンクリートの愛想のない壁面に、愛想のないプラスティックプレート。愛想のないゴシック体で『ジェニスンビル』の表示。愛想のない入口がぽっかりと口を開けたその横に、広げた新聞ほどのサイズの看板が、阿呆《あほ》らしいほどの愛想を振りまいている。
点滅する『WILLIAM LONG DETECTIVE AGENCY』の金文字の下に、虹《にじ》色に色彩を変えるTELNo.[#「No.」は縦中横]。『地下一階』の表示から右側に出た赤い矢印が、ぐにゃりと曲がってつんつんと下を指すアニメーション。外周を囲う中華風の飾り枠の内側を、眼《め》玉をぎょろりと剥《む》いたコミックタッチの龍が二匹、互いの尻尾《しつぽ》に喰《く》らいつこうとして、ぐるぐると回っている。
その滑稽《こつけい》な仕種《しぐさ》に、コートの女は苦笑した。
平均していうと、私立探偵ウィリアム・龍《ロン》の朝は早い。普段は遅いが、大家の娘に叩《たた》き起こされる日には、それはもうとんでもなく早い。
「こぉら、探偵! いつまで寝てんの、このぐーたら!!」
ナオミ・ジェニー・ジェニスンが、手にした箒《ほうき》の柄でビリー・龍《ロン》の眠る待機殻《シェル》をガンガン叩《たた》く。
ビリーがベッド代わりに使っている待機殻《シェル》は、彼のミリタリーコレクションの一つ。機甲折伏隊《ガンボーズ》の長期戦術行動に使用される個人用庵室《パーソナル・チェンバー》だ。俗に『棺桶《カンオケ》』とも呼ばれるそれを見て、ナオミは「こんな中で寝たらチッソクしそうだわ」と感想を述べたが、ビリーは涼しい顔で言ったものだ。
「いやいや、棺桶《カンオケ》だけに、死んだように眠れる」
それはさておき。
ウィリアム・龍《ロン》は大方においてよき市民であり、よき借家人である。店賃の払いが滞りがちではあるが、だからといって朝っぱらからマスターキーで押し入ってきて叩き起こしてもよいという道理はない。
だが、一五、六の娘にものの道理を説いても無駄なことだ。このぼろ家のどこが気に入ったのか、ナオミはことあるごとに(ときには意味もなく)このウィリアム・龍《ロン》探偵社を訪れ、好き勝手にふるまっている。ビリーはただ、待機殻《シェル》に防音機能がないことを嘆くのみ。
最大五センチ厚にも及ぶ積層|呪化《じゅか》鋼板に鎧《おお》われた待機殻《それ》は、核攻撃や魔神《ジン》の一撃にすら耐え、象《ベヒモス》が踏んでも壊れないという代物なのだが、この調子では今にも叩き壊されかねない。ビリーは観念して殻《シェル》を開く。
「……俺《おれ》ぁ昨日遅かったんだよ」
殻《シェル》の中にあぐらをかき、ビリーは言いわけがましく頭をかいた。うつむいた拍子に襟元《えりもと》一面にこびりついた乾いた血のりに気づき、あわてて弁解する。
「あ、いや、これは…あ〜……そう、昨日ちょいとゴタゴタがあってな、ガラの悪いのに軽くなでられた[#「なでられた」に傍点]ら、そりゃもうあふれんばかりの鼻血が止めどもなくとくとくとくとくと――」
「ふうん、大変だったわね。気をつけなくちゃ」
意外。てっきり怪我を見せろだのどんなふうにやられただの敵は何人だのと大さわぎされるかと思ったが、ナオミはただ上機嫌で微笑《ほほえ》んでいる。なにかを期待する目つき。ビリーの第六感が危険を告げる。
次の台詞《せりふ》が問題だ。これをしくじるとえらいことになる。ビリーはナオミを観察。なにか変わったところはないか?
髪型か? いや、いつもと同じショートカットだ。
服装か? いや、このシャツの柄は以前に見た。
化粧…は、してない。靴か? 小物か?
「…あー……」
心もち持ち上げた人差し指が止まり、視線がナオミの体表面上をさまよう。
――そういえば、若干肌の色が……
「……いやー、よく焼けたなぁ」
ビリーは大仰に感心して見せる。
ナオミは両手を腰に当てて、ビリーを睨《にら》みつけた。(ギクリ、とビリー。)次いで、にいっと相好を崩すと、自慢気に胸をそらす。
「えっへへー。わっかるぅ?」
正解《ピンポン》。ビリーは内心胸をなで降ろす。後は適当に話をつないでいけばいい。
「階上《うえ》、行ってきたのか?」
「じょーだん! そんなお金ないって」
陽光の降り注ぐA層へは螺旋《らせん》モノレールを乗り継いで片道二時間。ちょっとした小旅行だ。おまけに屋上プールやら人工海岸の入場料がこれまた馬鹿|高価《たか》い。階層が違えば貨幣価値も変わるのだ。
「ほら、四六三の通りに教会があるじゃんよ」
「『聖アーノルド教会《チャーチ》』か」
「そーそーそれ。あそこでも、聖光浴《ハローライティング》ってやつ、始めたのよ」
「ああ、それで」
「説教がちょっとかったるいけど、そんなもん寝て過ごしちゃえばいいんだしね。あんたも行ったら? そんな青っちろい顔しちゃって」
「俺《おれ》はお肌がデリケェトなの」
聖光浴《ハローライティング》というのは健康教会《フィットネスチャーチ》や寺社クラブが近ごろ客寄せに行なっているサービスだ。要は日焼けサロンとかサンルームといったもののバリエーションで、紫外線の代わりに聖人や菩薩《ぼさつ》の光背と同質のスペクトルを持つ光線を照射する。ファッション性に加え、体内の不純物や鬼業霊障を取り除く効能があるというが、実際の効果のほどはさだかではない。
まあなんにしろ、流行《はや》りものに弱いナオミを引っかけるにはその話題性だけで十分だ。
「ココロもカラダもぴっかぴかH[#ハート(白)、1-6-29] ほっほー♪」などとキャッチコピーを唄《うた》いながら、彼女は楽しげにステップを踏み、両の掌《てのひら》で頬《ほお》をぴたぴたと叩《たた》いている。
「この夏は小麦色の美少女になるのだっH[#ハート(白)、1-6-29]」
「ん…?」
気のゆるみから、ビリーは話の筋を見失った。
「……いや、顔まで整形《いじ》ることぁないと思うぜ。今のままで十分々々」
真顔でいうビリーに、今度はナオミが怪訝《けげん》な顔をする。
「……は?」
白けた間。『魔物が通りすぎる』という奴《やつ》だ。
しまった、とビリーが思うのと、ナオミの顔がサッと紅潮するのが同時だった。
「なるのは『小麦色』! 『美少女』は元からよっ!!」
ナオミは箒《ほうき》を振りかぶり、
「神に祈れ〜〜〜い!! …と、そうそう。『祈る』といえば――」
「うん?」
ビリーはガードをゆるめた。気がそれたのならもう安心。ナオミの怒りは持続しない。
ナオミは自前のポーチから天使の形をしたマスコットを二つ取り出し、自慢気にビリーの目の前に差し出して見せる。
「なんだそりゃ?」
「〈セラピムくん〉と〈ケルビムくん〉。(というと、赤い六枚羽根の方が熾天使《セラピム》で、一輪車に乗った青い四枚羽根が智天使《ケルビム》か。)教会で売ってたの。面白《おもしろ》いんだから」
ナオミはぺたりと床に座り込み、二つの人形を前に置くと、慣れない動作で胸の前に手を組み、目を閉じた。
「えー、天にマシます我らの神さまホトケさま」
その祈りに呼応して、二体の天使はふわりと直立した。そして、熾天使《セラピム》は羽根をはばたかせて螺旋《らせん》状に舞い上がり、智天使《ケルビム》は一輪車で小さな円を床に描きながら、声を揃《そろ》えて歌い出す。
『聖なるかな! 聖なるかな! 聖なる……』
ぽとり。ぱたり。
「あらら。牧師《うりこ》の兄ちゃんは倍くらい飛ばしてたのに。信心が足りないってことかしらん」
おそらく、簡単な霊力計を内蔵しているのだろう。これならついつい祈りに熱がこもろうというものだ。なかなかのアイデア商品といえる。
ドアチャイムが鳴った。
「あら依頼人《おきゃくさん》? 珍しい」
「ほんと、珍しい」
「あんたが言ってどーすんのよ」
ナオミはまくっていた袖《そで》を直しつつドアに向かう。
「そのシャツ着替えなさいよ。顔も洗って! ピシッとすんのよピシッと! ――どうぞぉ、いらっしゃいませー♪」
ナオミが応接室――といってもソファとテーブルを衝立《ついたて》で仕切っただけのものだが――に客を案内する。衝立の曇りガラス越しに見える赤いコート姿のシルエットは、ビリーと同じくらいの背丈。硬い足音に加えて床がギシリと軋《きし》む。
「どうぞお掛けになってお待ち下さい」
ナオミはすっかり秘書きどりだ。まるでままごと[#「ままごと」に傍点]だな、と思い、ビリーは苦笑する。まあ俺《おれ》も似たようなものか。
依頼人は立ったままビリーを待っていた。
大柄な女だ。ハイヒールの分も入れればビリーの身長をわずかに越える。彫像のように整った顔に薄い化粧をし、耳は流行《はや》りの形に整形してある。注意して見れば、顔や胸元、おそらくは全身に、薄い刺青《いれずみ》のような線《ライン》が走り、筋肉質のボディのフォルムをさりげなく引き立てている。タイトな上物のスーツに身を包み、脱いだコートを片腕に抱えて立つ様は、バリバリの女企業戦士《アマゾネス》といった風情だ。
「お待たせしました」
シャツを着替えて出てきたビリーを見て、女の表情が一瞬硬くなった。
だが、次の瞬間には完璧《かんぺき》な笑みを浮かべ、右手を差し出す。
「お会いできて光栄ですわ。ミスター・|ロング《LONG》」
ビリーはその手を握り、
「龍《LONG》です――ロンと発音します。意味するところは『|中国の竜《チャイニーズ・ドラゴン》』」と、笑って訂正。
「あら、それは失礼――」
「しかし、覚える必要はありません」
女の言葉をさえぎり、ビリーはにまと笑った。
「どうかビリーと呼んでください」
女はくすりと笑い、
「驚きましたわ。最下層に顔のきく、敏腕《うできき》の探偵とうかがっていたものですから……こんなにお若いかただなんて」
「いえ、この通り童顔でね。もちろん、気は若いつもりですが」
ナオミが珈琲《コーヒー》をいれてきた。
「……なに突っ立ってんのよ」
「お、サンキュ」
ビリーは盆からカップをひょいと取り、
「悪いが、ちょっと外してくれ」
「……言われなくたって、ジャマなんかしませんよ」
ナオミは口を尖《とが》らせ、テーブルにカップを一つ置くと、自分の分は盆に載せたまま退場。
彼女が玄関から出るのを確認した後、ビリーはどっかりとソファに腰を降ろした。
「で? 用件をうかがいましょうか、|マグナス社のお姉さん《ミズ・マグナス》」
女の顔から表情が失《う》せた。
「なぜ、それを?」
「なに、簡単なことさ、ワトスン君」
ビリーは珈琲をすすり、
「あんたの仕草《しぐさ》をちょいと注意して見れば、見かけの五倍は体重があることが判《わか》る。ダイエットが必要だな。ソファをぶっ壊されないかって、こっちはひやひやもんさ。それに、俺《おれ》の眼《め》は特注品でね。その気になれば赤外線も見えるんだ。熱分布から、あんたの体が全身義肢だと知れる。ボディのラインは感覚格子《センサーグリッド》かな?」と、右手の指を広げ、左の前腕に格子を引く。
「で……ハードタイプの、それでいて人体そのままの外観を持つ全身義肢の使い途《みら》なんぞ、そうはない。暗殺とか、ボディガードとか、な。だがあんたはそのどちらでもない。少なくとも、あんたの動作は戦闘用に訓練されたものじゃない。かといって、価格的にも、機密の点から言っても、その躰《からだ》は民間に供されるようなもんじゃない。唯一|例外《ぬけみち》があるとすれば、それは製造元のマグナス・クロックワークス社だ」
「……ご明察ね」
女は微笑《ほほえ》み、紅《あか》い唇《くちびる》をちろりとなめた。営業用のものではない、肉食獣の笑み。
女が事務所(兼自宅)を出るのと入れ替わりに、ナオミが階段を駈《か》け降りてきた。
「ね、ね、今の女《ひと》、すっごいカッコよかったねー。あたしもあんな風にしてみよっかな。どう?」と、彼女は両手で耳をピンとつり上げてみせる。
「俺は――」
「判ってるわよ。整形とか、嫌いなのよね。自分はそんなアナクロなキバ生やしてるくせに。ちょっと訊《き》いてみただけ。で、いったいどんな仕事《ヤマ》?」
「ヤマって……ただの人捜しだよ」
「男関係?」
「いや、女。会社の同僚がノイローゼだかなんだかで失踪《しつそう》したんだと」
「なんだつまんない。ま、いっか。……で? なにから始めんの? |聞込み《キキコミ》とかやるんでしょ。なにか手伝ったげよか」
「そーだな、コーヒー、おかわり」
「そーゆーのじゃなくて」
ナオミはソファに乱暴に腰掛け、
「もっとスリルとサスペンスに満ちた奴《やつ》、ないの?」
「年中そんなもんに満ちられてたまるかっての」
ビリーは女が手をつけずに置いていった珈琲《コーヒー》に手を伸ばし、
「探偵なんてのはもともと地味な仕事なんだよ。例えば……ある男の素行調査を依頼されるとする」
「ふんふん」
ナオミは目を輝かせて身を乗り出す。
「男は朝、家を出て、職場に行き、経理の帳簿をつけ、昼飯はジャンクで済ませ、午後は書類の整理をして、会社が引けたらそこらで一杯引っかけて帰る」
「それで?」
「以上、報告終り。報酬《ギャラ》は一日二万。必要経費は別途請求」
「……判《わか》った。その帳簿ってのが実は裏帳簿なのね?」
「さあな」
「殺人《コロシ》とか『ブツ』の取引は?」
「なんなんだよ、その『ブツ』ってのは」
「いや、なんかそーゆーフィーリングのもの」
「ないないない。ブツもなければコロシもない」
「なあんだ……ヒマそうな仕事」
「そうそう、世間様はどこも忙しいからな。代わりに俺《おれ》がそれをやってやるわけだ」
今の話の半分は嘘《うそ》だ。今日の依頼もただの人捜しには違いないが、ビリーの主な仕事場《フィールド》は最下層の暗黒街。殺人もヤバい取引も日常的に行なわれるところだ。口コミを頼りにビリーを訪ねる者は、大抵時間よりは命を惜しんでいる。
だが、ナオミはそれで納得したようだ。
「そうよね。あんた、見るからにヒマ人だもん」
[#改丁]
第四章 魔女は男を眠らせない
[#改丁]
特捜本部の鑑識課に凍結した式鬼《シキ》を提出した後、ブラックロッドとV9は再び最下層へ向かった。A層から最下層まで、公務専用の高速|昇降機《リフト》でも一五分ほどかかる。
暗く果てしなく続く縦穴の中を金網張りのケージが下る様は、さながら地獄への直行便だ。下方から吹き上げる瘴気《しょうき》混じりの風が、地の底から湧《わ》き出るような、かすかな呻《うめ》き声を運んでくる。
「この『下り』の感覚が嫌なのよね」
V9は軽く足を踏み鳴らした。足元の金網がシャン[#「シャン」に傍点]と鳴る。
「足元が崩れていくみたいな……そんな気、しない?」
ブラックロッドは応じない。V9はふん[#「ふん」に傍点]と鼻を鳴らし、
「ところで……今夜はどうするの?」と、死人の顔を見上げる。
ブラックロッドは制帽のつばをずり上げ、親指で額を指した。ブラックロッドの眉間《みけん》には通信用の銀の小片《チップ》が埋設《インプラント》されている。そのチップを介して、ブラックロッドは霊視眼《グラムサイト》を始めとする各種の機器《デバイス》と接触するのだ。
「鑑識の結果が出次第、連絡がくる。――それまでは、ベイカーのオフィスを再捜査だ」
「『ホテルに部屋《スイート》をとってあるんだ』くらいの冗談が言えないのかしらね」
ブラックロッドは応じない。
「到着まで、少し休む」と言うと、杖《ロッド》を抱え込むようにしてケージの金網にもたれ、目を閉じる。
特殊な訓練による自律神経制御に加え、何重もの精神拘束《ゲアス》と身体施呪《フィジカル・エンチャント》によって、ブラックロッドは必要ならば何百時間もの間、覚醒《かくせい》状態を維持する。だが、彼らとて不死身ではない。任務の合間には自らを休息させる必要がある。
「ちょっと、それじゃあたしはどーしてろっての?」
V9の依代《ホスト》には、すでに一任務《ワンミッション》分の呪力《じゅりょく》が蓄えられている。だが、無視されることが気に食わない。
「待機だ、V9」
ブラックロッドはそれだけ言うと、第六感を除くすべての感覚をカットオフ。V9がなにか言っている気配がするが、もはや耳には入らない。
夢とは脳髄に溜《た》め込まれた記憶の漏洩《リーク》、あるいは未知領域からの強制|交霊《チャンネル》。すなわち、精神構造の隙間《すきま》への入出力。
ブラックロッドは夢を見ない。
夢を見る者は、ブラックロッドではない。
「番号《ナンバー》で呼ばれるのは好きではありません」
そう言って、V7[#「V7」に傍点]はうつむいた。
「どうか……ジニーと呼んでください」
魔女の感情は見えやすい。
ブラックロッドの前に立つ、くすんだ黄土色の外套《がいとう》を羽織った一二、三の少女、それ自体はヴァージニア・セブンではない。ただの依代《ホスト》、亜生体《ホムンクルス》だ。肉体を持たない妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》が自我を固定するために使用する道具にすぎない。ブラックロッドの霊視眼《グラムサイト》には、依代《ホスト》に重なるV7の霊体が不満の色に染まっているのが、はっきりと知覚できる。
妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》の能力は精神状態に大きく影響される。彼女らを相棒《パートナー》とするときには、できる限り機嫌を損ねないようにする必要がある。
ブラックロッドは無表情に、
「了解した」
「ありがとう。…でも『ジニー』ってつけて」
「了解した、ジニー」
V7の霊体は明度を増した。
「それで、これからの予定は…?」
「C−三七五−八六八、ソロモン社だ。六〇時間前、そこで大容量|記録符《ディスケット》を大量に購入した者がいる」
V7は移動を始めた黒衣の背を小走りに追いながら、
「それが、例の件の?」
「不明だが、可能性は高い。確認を頼む、ジニー」
「了解、ブラックロッド」
V7は上機嫌で応《こた》える。
ブラックロッドは高速|昇降機《リフト》脇《わき》のタブレットに左|掌《てのひら》の自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》を押し当て、身分証明《アイデンティファイ》。特捜本部を通じて手配されすでに待機していたケージに乗り込み、C層へ。
「この『下り』の感覚、嫌ですよね…」と、V7が呟《つぶや》いた。
ソロモン社は元来魔法書の出版を主な事業としていた企業だが、近年に至って減次元封印法の技術を応用した護符や呪符《じゅふ》などの呪的アイテムの製造に手を染め、成功を収めている。現在広く出回っている汎用記録符の原型もソロモン社の特許になるものだ。
ソロモン社販売部は小ぎれいに片づいたオフィスだった。業務を停止し、総出でブラックロッドを迎える。特捜に逆らって得になることなど一つもない。
「呪具販売店《アイテムショップ》って、もっとゴチャゴチャしてるのかと思ってました」と、V7が小声で感想を述べる。
その強烈な存在感のためブラックロッドのみに気を取られていた責任者は、ようやく黒衣の陰に寄り添って立つ少女に気がついた。
「そちらのお嬢さんは…?」
妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》に公的な発言権はない。V7に代ってブラックロッドが答える。
「ヴァージニア・セブン。降魔管理局《A・S・C》妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》だ」
ソロモン社スタッフの顔色が一斉に変わった。
ブラックロッドはまだいい。いかに高圧的であり、冷徹であっても、彼らは魔術士であり、法を守護する者だ。
だが、妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》は違う。
妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》。降魔局《A・S・C》|公認の魔女《オフィシャル・ウィッチ》。悪魔《デーモン》と契約を交わし、悪魔《デーモン》と共生し、悪魔《デーモン》に益する者。凶運を振りまき、人類に仇《あだ》なす――|魔女め《ウィッチ》、|魔女め《ウィッチ》、|魔女め《ウィッチ》!!
声にこそ出さないが、濃密な敵意が室内を満たす。
ブラックロッドはV7を見た。V7は平静を装って微笑《ほほえ》み返すが、感情の動きに敏感な彼女が動揺しないわけがない。彼女の霊体は強く不安の色を発している。
黒い杖《ロッド》がおもむろに高く掲げられた。先端部の発光板から、虹《にじ》色の光彩を放つ立体映像《ホログラム》が燃えるように立ち上る。
威圧の効果を織り込んだ、魔導特捜の立体徽章《ホロ・エンブレム》。V7に向けられていた視線が、燃える徽章《エンブレム》に吸い寄せられ、固定される。
「|謹聴せよ《ヒア》」
低く、強く、死人の声が告げる。通常言語の何倍もの言霊《ことだま》を込めて発音される、呪式発声《ハードヴォイス》。
「公安局の権限の下、以下の三つの事項に関して諸君の理解を求める。第一に、ヴァージニア・セブンは降魔管理局《A・S・C》所属の正式な妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》であり、諸君に害をなす者ではない。第二に、彼女はブラックロッドの監督下に置かれており、これに関するすべての責任と権限は公安局が負っている。最後に――」
V7をちらと見やり、
「ジニーは私の協力者《パートナー》だ。彼女に敵意を向ける者は、私の敵対者と判断する」
ブラックロッドは室内を大きく見回した。皆一様に目を見張り、息を詰めている。
「ありがとう」
V7が少さく言った。ブラックロッドは軽くうなずき、仕上げに安息《リラクゼーション》の呪文《じゅもん》を呟《つぶや》く。スタッフの緊張が目に見えて解けるが、威圧状態で与えた警告は無意識下に刻み込まれる。V7に対する敵意は、完全に消えはしないまでも、容易に無視できる程度にまで抑えられた。
販売担当者はブラックロッドにうながされ、誓約の呪文《じゅもん》を復唱した後、事情聴取に応じた。
三日前、その男が入ってきたことに、初めは誰《だれ》も気がつかなかった。カウンターの前に、彼は影のように立っていた。男は一三枚の大容量|記録符《ディスケット》を注文した。呪文にして数億語分、人間の魂を丸々飲み込み、圧縮の仕方次第では悪魔《デーモン》や魔神《ジン》すら封入できる代物。実際、公安局が悪魔《デーモン》を封印するのに使用しているのも、ほぼ同方式、同容量の記録符《ディスケット》だ。男は契約を済ませるとふい[#「ふい」に傍点]と消え、ほぼ同時刻に一〇キロ離れた倉庫を訪れて記録符《ディスケット》を受け取り、いずこともなく去っている。
V7の依代《ホスト》は話の間中、ソファに座って目を閉じていた。V7自体は依代《ホスト》を離れ、話し手を始め室内の全員に順々に接触、彼らの脳裏に浮かぶイメージを拾い集める。悪魔《デーモン》がしばしばそうするように、魔女は人間の精神に侵入し、本人が気づくことさえない意識の深層をのぞくことができる。
ソロモン社を発《た》ち、ブラックロッドとV7は通りを歩き始めた。
地味なスーツを着た通行人たちが、巨大な黒い杖《ロッド》に振り返る。どこに行っても風景に馴染《なじ》むことのないブラックロッドだが、いわゆる小市民的な空気を持つこのC層では特に浮いている。
「個々の印象が不自然に薄いの」
V7が言った。
「誰《だれ》もはっきりと例の男の人相や風体を言えなかったでしょう? 特徴がないというより、なんらかの手段で気配を抑えていたのね。イメージを統合すると、相当印象的な人物像になるもの。…照合願います」
V7は霊体の一部をブラックロッドの通信素子に伸ばし、イメージを転送。
影のような男。長身。面長。盛り上がった首のつけ根。不思議な身のこなし。細くつり上がった右目に対し、左目の印象は不自然にぽっかりと抜けている。
「間違いない」
ブラックロッドは断定した。
「ゼン・ランドー。元大日本帝国陸軍陰陽将校。大戦後に三つの積層都市《バビロン》の|奈落堕ち《フォールダウン》に関係したテロリストだ」
「ダイニッポンテイコク」
V7はその単語の奇異な響きを舌の上で転がした。
「欧亜大陸《ユーラシア》の東端・日本群島が龍の形をしていた頃《ころ》、そこに存在していた国家だ」
ブラックロッドにしてはいつになく饒舌《じょうぜつ》だ。V7を自分と同等の一人格として扱うことに、もはや抵抗は覚えていない。
大日本帝国は当時の同盟国である独逸《ドイツ》帝国と並んでオカルト技術をもっとも早く実用化した国家として知られる。先の大戦では易占機関による情報の先取り、奇門|遁甲《とんこう》を駆使した戦術、独特の体系を持つ有魂兵器《ヤップ・アーム》などによって有利に戦略を展開したが、敵国に向けて国を挙げての大規模|呪詛《じゅそ》を敢行した際、霊的エントロピーが臨界点を越えて首都が|奈落堕ち《フォールダウン》し、同時に国土の八〇%が水没してしまった。これは歴史上初めて確認された、そしていまだに最大の|奈落堕ち《フォールダウン》現象である。
現在の日本群島は、首都の跡地に生じた|虫喰い穴《ピット》から這《は》い出す魑魅魍魎《ちみもうりょう》の徘徊《はいかい》する人外魔境と化している。どこの国家もこの土地に縁を作ることを避け手をつけかねているため、便宜上国連の管轄になっているが、やっていることといえば広域結界と海路封鎖のみ。事実上、結界内は無政府状態だ。
「それで、その男が例の――?」
「公安本部に侵入し、封魔|呪符《じゅふ》を盗み出した男だ」
――盗み出した、という表現は適切ではなかったか。
半月前、ランドーは呪符を手に入れる際に、何重もの結界や呪的施錠《ウィザードロック》からなる防衛機構の大半を無力化し、武装した警備員を含む三〇人余りを殺害している。
公安局には過去に捕獲された六体の悪魔《デーモン》の中核《コア》が呪符に収められ、凍結されていた。今回奪われたのは、堕天使系公爵級の悪魔《デーモン》、一般呼称〈クロセル〉。六体の内では一番の大物だ。ランドーがなぜこれを選んだのか――霊格の高いものから取ったのか、〈クロセル〉になんらかの縁を持つのか、それはまだ判《わか》らない。
六枚の呪符《じゅふ》にはすべてO2レベルの神秘学的封し込めが施されている。すなわち、悪魔《デーモン》の核《コア》には封入の際に一種の自壊構造が仕掛けられており、呪符から呼出《コール》する時点で無害な|出来損ない《ヒルコ》に変質してしまうのだ。しかし、呪符自体を破壊すれば、解放された悪魔《デーモン》は自らを完全に再構成できる。
通常、そんなことをしようとする者はいない。魔導士であれ魔女であれ、彼らは自分の願望を助勢させるために悪魔《デーモン》を召喚するのであり、無制限状態での解放には危険こそあれ、なんの益もない。
だが、ランドーは違う。彼の目的がかつて三つの都市で起こしたことと同様だと仮定するならば――『〈ケイオス・トライ〉の惨劇』は、いまだ記憶に新しい――〈クロセル〉をただ解放するだけでこと足りる。
上級悪魔《アークデーモン》の無制限解放。最大級の魔導災害《デモノハザード》だ。解放された悪魔《デーモン》は周囲の人間に手当たり次第に接触し、幸運を奪い、狂気を吹き込む。地域規模で霊的エントロピーが急速に増大し、都市の地盤と次元の壁をたわませる。幾千万の生者と死者の吐き出す負の感情の密度がある一点を越えたとき、行き着く先は――
「……ひゅう、どすん」と、V7が呟《つぶや》いた。
――思考が漏れている?
ブラックロッドは反射的に精神拘束《ゲアス》を強化。制帽を目深《まぶか》に直す。
「あ……ごめんなさい…」
V7はうつむいた。魔女の自我の殻は非常に曖昧《あいまい》だ。ときとして、本人の意志にかかわらず他者の意識に浸入してしまう。
ブラックロッドは前方を向いたまま、
「問題ない」
一拍間を置き、なおも目を伏せているV7を見やり、
「問題ない、ジニー」
V7はようやく顔を上げると、
「ありがとう……やさしいのね」
ブラックロッドは再び前方を向いている。歩調は乱れない。
V7は寂しげに微笑《ほほえ》んだ。
日出《い》ずる方よりきたる影
人の名を持つ獣を率い
神の器に贄《にえ》を盛る
且《そ》に応《こた》うるは聖か魔か
一の欠けたる三つの眼と
空虚《うつろ》な精神《こころ》の名なき者
万の魂の侵入を受け
満たされ 奪われ 生きて 死ぬ
地に縛られし怨霊《おんりょう》の
怨嗟《うらみ》の声は吹き上がる
ああされど神は座《いま》せり!
死者の祈りは不遜《ふそん》なれども
「……それは?」
誰《だれ》にともなく詩のようなものを口ずさむV7に、ブラックロッドが訊《き》いた。
「三年前に降魔局《A・S・C》の神託機が出した予言詩です。今回の事件に関連ありと判断されたの。……一応、参考までにと思って」
神託機ことノートルダム型自動書記装置は二〇〇机からなる並列|霊応板《ウィジャボート》を基本構造とする予言器械。毎時一五篇の四行詩を吐き出し、その解析には五〇〇人の専任スタッフが二四時間体制で当たっている。
しかし、神託機の存在意義を疑問視する向きも多い。無理もない。神託機の打ち出す予言詩の対象はほぼ完全に予測不可能《ランダム》だ。一〇〇年後の戦争を予言した次に、職員のその日の晩飯を推測することもある。なにか特定の情報を得ようとしても、運転開始から数えて一〇〇万篇近く溜《た》まった予言詩をすべて検索したあげく、ほとんどの場合無駄骨に終わる。発効時期や対象の特定できない予言など、いうなれば索引のない事典。神託機が次に出す予言を予測する装置、などというものまで考案されたほどだ。
だが、それにもかかわらず降魔局《A・S・C》がかなりの予算をさいてこの部署を維持しているのには理由がある。
神託機は元来、預言[#「預言」に傍点]器械、つまり〈神〉――〈反悪魔〉とでもいうべき仮説上の存在――に接触するための装置として設計されたのだ。ランダムな予言を繰り返すのも、可能性の源たる〈神〉と接触している結果だと解釈できなくもない。
現在、〈ケイオス・ヘキサ〉最上層に建てられた祈祷《きとう》塔はフル稼働し、沙弥尼《シャミニ》等の『掃除屋《クリーナー》』も最優先で生産されている。だが、〈ケイオス・ヘキサ〉の霊的エントロピーは刻々と上昇している。〈神〉の存在の立証と本格的な接触は、|奈落堕ち《フォールダウン》を未然に防ぐための急務なのだ。
「つまり、この予言が的中すれば、それは〈神〉の存在を証明する有力な証拠ということになるの。――あなたは、神様って、信じる?」
訊《き》くまでもない。ブラックロッドは仮説上の存在など考慮に入れない。
V7は答えを待たずに続ける。
「私は信じます。私だけじゃない、他の魔女たちも信じてる。神様がきっと、私たちみんなを救ってくれる……なんて、御都合主義かしら、こんな考え」
魔女の霊的属性《アライメント》は限りなく魔に近い。死んだ後は――ことによると生きているうちに――悪魔《デーモン》の鈎爪《かざつめ》に捕らえられ、地獄に引きずり込まれることが運命づけられている。殊《こと》に降魔局《A・S・C》妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》――悪魔《デーモン》と契約した後、無期限の呪的《じゅてき》仮死状態に入った『眠り姫』たちの複製人格――にとって、地獄行きは生まれたときから決まっているのだ。
V7は小走りに二、三歩先を行きながら呟《つぶや》いた。
「いっそのこと、みんな堕《お》ちてしまった方が、すっきりするかも……」
ブラックロッドは答えるべき言葉を持たない。いかにこの都市のために尽くしても、どのみち彼女の運命は決まっている[#「どのみち彼女の運命は決まっている」に傍点]のだ。
V7は彼を振り返り、
「…冗談よ。怖い顔、しないで」
ブラックロッドは思わず顔面に手を伸ばした。
自分には、この娘を非難する権利があるのか?
然《しか》り。人間世界の維持のため、ブラックロッドにはあらゆる法的権限が与えられると共に、感情や狭義の道義心に左右されることのないよう精神拘束《ゲアス》が施されている。だが、しかし……
V7はくすりと笑った。
「冗談よ、鉄仮面さん」
そう、ブラックロッドは怒らない。
ブラックロッドはうろたえない。
ブラックロッドは憐《あわ》れまない。
その顔には、ただ無表情が凍るのみ。
ランドーが訪れたソロモン社の倉庫に、ブラックロッドとV7は到着。現場にはすでに感染情報判読者《オブジェクトリーダー》を含む捜査陣が先行している。杖《ロッド》を掲げ、指揮権の接収を宣言。引継ぎの宣言を復唱した警部はブラックロッドの後につくV7を見て怪訝《けげん》な顔をするが、死人の一瞥《いちべつ》で出かかった言葉を飲み込んだ。
倉庫からは指紋も足跡も検出されず、防犯カメラにもランドーの姿は写っていない。丁度訪問のあった時間の映像に、ひどいノイズが入ってしまっている。来客の応対をした職員の記憶も不鮮明で、注文された記録符《ディスケット》を受け取ったのがランドー自身なのかということさえもさだかではない。
だが、そうしたときのために、感染情報判読者《オブジェクトリーダー》がいる。
感染情報判読《オブジェクトリーディング》とは、感染魔術の応用型の一種。特定の人物の情報をその肖像や所持品を経由して得る、千里眼や過去視に近い能力だ。この場合は受領票のサイン――無論偽名だろうが、その筆跡は署名者自身のものだ――や、防犯カメラのノイズ――これもまた訪問者、おそらくはランドー自身の手になるものだろう――が手がかりとなる。
ノイズの出ているモニターに掌《てのひら》を当て意識を集中する判読者に、V7がささやきかけた。
「……どう? なにか見えますか?」
精神集中を乱さぬように、意識に滑り込む。妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》は様々な心霊能力に対し、触媒の機能を果たす。
トランス状態に入った判読者は、V7にうながされ、呟《つぶや》くように報告する。
「……なにかの模様……いや…印形が見える……東洋風の……呪式《じゅしき》……?」
判読者に同調するV7にも、それが――表意文字を基調にした複雑な呪的印形が、判読者の脳内にぼんやりと浮かび上がる様が見える。
V7と目を合わせ、ブラックロッドは軽くうなずいた。記録によれば、ランドーはしばしば中国の呪符を使用する。
判読者が没入して行くにつれて、印形が鮮明に見えてくる。意識の焦点が合い、完全に結像した瞬間――
「呪式が……生きて……!」
判読者の脳内で、それは起動した。
「……ブービートラップよ!!」
V7は判読者から緊急離脱。判読者は大きくのけぞり、頭部の穴という穴から血を噴き出した。続いて、頭蓋《ずがい》を中心に胸元のあたりまでが破裂し、骨肉が散弾のようにばらまかれる。数人の警官が骨片に突き刺され、うずくまった。
血煙の中から、大きな牙《きば》をもった霊体が飛び出した。
「式鬼《シキ》……!」
叫んだV7が突き飛ばされた。V7の肩口を大きく噛《か》みちぎった式鬼《シキ》は、ブラックロッドに向かって突進する。
ブラックロッドは反射的に左掌を正面に。自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》で式鬼《シキ》を弾《はじ》きながら、V7に叫ぶ。
「ジニー!」
瞬間、ブラックロッドの意識がそれた。弾かれた式鬼《シキ》はその隙《すき》に乗じ、周囲の人間を襲う。
呪的装備を持たない通常警察や一介の倉庫職員に、式鬼《シキ》に抵抗するすべはない。式鬼《シキ》はコンマ数秒の間にブラックロッドを除く倉庫内のすべての人間を喰い尽くした。
凄《すさ》まじい圧迫感《プレッシャー》がブラックロッドを襲った。十数人分の魂を喰らい、魔神《ジン》と見違うほどに肥大した式鬼《シキ》が、一直線に飛びかかってくる。
だが、ブラックロッドは恐れない。必要最小限の動作で体をかわし、後方に飛び抜ける式鬼《シキ》に向けて身をひねる。
式鬼《シキ》は壁や天井を跳弾のように跳ね、再びブラックロッドを襲う。しょせんは携帯|人造霊《オートマトン》。そのルーチンは単純だ。ましてノイズに擬装して放置しておくとあれば、情報の劣化は必然。精妙な機動など望むべくもない。人造霊《オートマトン》というよりは呪弾《ブリット》に近い。その軌道を読むのは容易だ。
左|掌《てのひら》を式鬼《シキ》に突き出す、自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》が青く発光。
式鬼《シキ》は勢いを増し、そのままブラックロッドに突っ込んだ。正面から受け止める。自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》が過負荷を受け、その光を赤く変える。左手に焼けるような痛みが走るが、ブラックロッドは痛覚をキャンセル。かまわず『捕捉《ホールド》』の呪文《じゅもん》を圧唱《クライ》。
呪力《じゅりょく》の縛鎖《ばくさ》に縛り上げられた式鬼《シキ》が、床に落ちた。
ブラックロッドはのたうつ霊気の塊から霊視眼《グラムサイト》を上げ、周囲を見渡した。血の海の中、累々と横たわる屍体《したい》のそれぞれの周囲に、霊気のかすが漂っている。
公安局に交霊《チャンネル》し、霊体回収の手配を数秒間で済ませた後、彼はV7に歩み寄った。
V7はおのれの血|溜《だ》まりの中に倒れていた。肩から胸部にかけて、大きく肉を噛《か》み取られている。剥《む》き出しになった鎖骨や肋骨《ろっこつ》の間から、青白い燐光《りんこう》を放つ霊液《エリクサー》がどくどくと流れ出ている。
ブラックロッドの声が、初めて不安の色を帯びた。
「……ジニー?」
V7は力なく微笑《ほほえ》んだ。
「……ごめんなさい…失敗しちゃった……あんな……単純なトラップ……」
「問題ない」
ブラックロッドはV7の言葉を左手で制した。
「……血が出てるわ」
V7に向けられた左掌から、血液が滴《したた》り落ちている。過負荷に耐えかね加熱した自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》が、掌の血管を焼き切ったのだ。
「問題ない。護符も神経も破損していない」
「駄目よ、ちゃんと手当てして」
そう言ってから、V7は頭を巡らし、自分の胸元を見た。常人なら即死に至るであろう咬傷《こうしょう》から、今なお霊液《エリクサー》が流れ続けている。
「なんだか、あべこべね」
V7は力なく笑った。
「ああ」
それに応《こた》えて、ブラックロッドは微笑んだ[#「ブラックロッドは微笑んだ」に傍点]。
「……これでよいか?」
応急処置として停滞の呪文《じゅもん》をかけ、ハンカチで縛った左手を示し、彼はぎこちなく訊《き》いた。通常、ブラックロッドの発言は、命令、宣言、尋問といった高い位置からのものだ。他者の評価を受けることには慣れていない。
『ええ、上出来ね』
V7はゆらゆらとゆらめきながら、ブラックロッドのまわりを漂った。依代《ホスト》は体組織の劣化を防ぐため、仮死モードにした上、停滞の呪文をかけてある。
「これから、君はどうなる?」
妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》や人造霊《オートマトン》は、死霊と同様、霊体のみでその存在を長時間維持することはできない。いずれは拡散して成仏するか、地縛霊のような|単純な反射《ルーチン》を繰り返す存在になってしまう。個性を維持する鋳型として依代《ホスト》や呪紋を必要とするのは、そのためだ。
『とりあえず降魔局《A・S・C》に回収されて、本部の論理器械《プログノメータ》に憑依《ひょうい》することになるわ。後は依代《ホスト》の再生待ちね。……心配してくれたの?』
「いや……判《わか》らない」
事実、彼には判断がつかなかった。依代《ホスト》の大破した妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》がリタイアするというのは自明のことであり、その後V7がどうなろうと、ブラックロッドの執る行動に変化はない。
――自分はなぜあのような質問をしたのか?
「うっふう、うっふう」
黒衣の背に、不意に声がかかった。
ブラックロッドは振り向きざまに、『捕捉《ホールド》』を圧唱《クライ》。ブラックロッドに気配を悟らせずに近づくとは只者《ただもの》ではなく、味方でもない。
呪文は声の出たポイントを正確に捉《とら》えた。空中に浮遊していた|替え玉呪符《デコイ》が呪縛され、ぽとりと落ちる。
「!」
「あせるな、あせるな」
またもや後方で声がした。
先ほどまで彼が向いていた方向、のたうつ式鬼《シキ》を足元に、隻眼《せきがん》の男が影のように立っている。
「ゼン・ランドー!」
ブラックロッドが、『呪弾《ブリット》』を放つのと、ランドーが懐から呪符を出すのは同時。呪弾《ブリット》は呪符に当たり、共に消滅する。
ランドーは無造作にかがみ込むと、式鬼《シキ》を拾い上げた。薄い嗤《わら》いを浮かべながら、式鬼《シキ》の表面を指でなぞり、呪縛を難なく解呪《ディスペル》する。
「よう肥えた、よう肥えた」
十数人分の霊気を喰《く》らい、ひと抱えもあるサイズと実体に近い密度を得た式鬼《シキ》が、狂ったようにもがいた。ブラックロッドでも御《ぎょ》し切れぬであろうそれを、ランドーは猫の子のように軽々とつまみ上げ、すぼめた吻《くち》を寄せると、つるりと吸い込んだ。
『ほとんど妖怪《ようかい》ね』と、V7があきれかえる。
「動くな、ランドー」
ブラックロッドは杖《ロッド》を向け、呪式発声《ハードヴォイス》で命じた。だが、ランドーに通用するとは思えない。
「……次は|死の呪文《デス・スペル》が飛ぶぞ」と、警告を追加。
「殺せぬよ」
ランドーはこともなげに言った。確かにここでランドーを殺せば、盗まれた悪魔《デーモン》は行方知れずになってしまうおそれがある。それともブラックロッドにはランドーを倒す力はないということか。あるいはその両方かも知れない。
だが、ブラックロッドは迷わない。ランドーが少しでも不審な挙動を見せた瞬間、全力で攻撃するつもりだ。ランドーを野放しにすることは、悪魔《デーモン》をそうすることより危険だ。彼はそう判断した。
ランドーが、ひゅっと息を吐いた。
呼気だけではない。口笛を吹くようにすぼめられた薄い唇から、今しがた飲み込まれた式鬼《シキ》の核《コア》が同時に飛び出した。
先ほどのような単純な動きではない。ランドーの口から出る際に新たな呪《まじない》を乗せられた式鬼《シキ》は、微妙な軌道修正をしながら弾丸のようにブラックロッドを襲う。
ブラックロッドはランドーのために設定していた『呪弾《ブリット》』を最大|呪力《じゅりょく》で圧唱《クライ》。式鬼《シキ》を撃ち砕く。
もしも杖《ロッド》の設定を予告通りに『即死《デス》』にしていたならば、彼の頭部は式鬼《シキ》に噛《か》み砕かれていただろう。|死の呪文《デス・スペル》は生体にしか効果がない。
ブラックロッドが『呪弾《ブリット》』を選択したのは、ランドーの正体が特定できないからだ。ランドーはこれまで、ある種の呪術体系をマスターした「人間」と考えられてきた。しかし、ランドーの行動を目《ま》の当たりにすると、彼が尋常の人間とはとても思えない。仙人のような、なんらかの手段で人間の枠を越えた者かも知れないし、人間に擬態した魔神の類《たぐい》かも知れない。
正体の特定できない相手に対しては、『呪弾《ブリット》』は最も確実な呪文だといえる。『即死《デス》』や『睡魔《スリープ》』、『捕捉《ホールド》』のように過不足のない効果を望むことはできないが、半実体化した呪力の塊は、霊体、実体を問わず、必ずある程度の効果が期待できる。
ブラックロッドは次弾を設定、ランドーを視認《サイト》。
ランドーは奇妙な舞を舞うように、ゆるりと動いた。
ブラックロッドの視界から、ランドーの姿がかき消えた。
『禹歩《うほ》』や『反閇《へんばい》』と呼ばれる呪術的ステップによって、ブラックロッドの霊的死角に滑り込んだのだ。
「うっふう、うっふう」
ランドーの声が遠のいていった。
「ここは地相が悪いでな……」
ブラックロッドは霊視眼《グラムサイト》で周囲を索敵《サーチ》。だが、すでにランドーの姿は跡形もない。
『こっちよ!』
V7は飛行形態に変態し、通りに向けて飛び出す。
『使い魔を貼《は》りつかせておいたから、方向は判《わか》るわ。この階層じゃない。もっと下の方。……でも、急いで』
妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》は自らを構成する霊体の一部に独立した命令を与え、切り離すことができる。それが使い魔だ。式鬼《シキ》と同様の小型|人造霊《オートマトン》ともいえるが、即席に組まれるため構造が不安定であり、寿命は短い。
ブラックロッドは公安局に交霊《チャンネル》、包囲陣の手配を指示した後、短く呪文《じゅもん》を唱えた。身体施呪《フィジカル・エンチャント》。脚力を強化し、V7を追って通りに駈《か》け出す。
黒い疾風の如《ごと》く、彼は駈ける。人間の出し得る最大限の速度を、平然と維持し続ける。その印象は、走る人間というよりは無音の機関車だ。
だが、それでもその速度は飛行するV7には遠く及ばない。そのV7さえ追いつけないランドーは、いかなる手段で移動しているか。
V7が高度を落とした。ブラックロッドに速度を合わせ、接触する。
『このままじゃ、私の方が保《も》ちそうにないわ』
妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》が依代《ホスト》なしで行動することには無理がある。
「どうすればいい?」
ブラックロッドらしからぬ物言いだ。通常、ブラックロッドがその行動を他者の判断にゆだねることはない。
『あなたに憑依《ひょうい》させて』
V7の提案に、彼は躊躇《ちゅうちょ》した。
何者の影響も受けず、何者の侵入も許さない。その点こそが、ブラックロッドの最大の特性なのだ。
一拍間を置いて答える。
「了解、ジニー」
彼は自らの閉塞《へいそく》性よりも、ランドーの追跡を優先した。少なくとも彼自身は自らの行動をそう解釈した。
彼は自らの交霊経路《チャンネル》を解放し、精神拘束《ゲアス》の一部をゆるめた。生じた隙間《すきま》にV7がするりと収まる。
『…ふふ』
「なにか?」
『思った通り。あなた、外見《そとみ》はガチガチに固めてあるけど、中はとても暖かいわ』
「そうか」
無意味な発言。ブラックロッドはその行動によってのみ評価される。その人格にはいかなる価値もない。無人格にこそ彼の価値はある。
『V7よりBRへ、報告します』
V7は不意に事務的な口調になった。V7の言葉を半ば聞き流していた彼は「報告」に集中する。
『……あなた[#「あなた」に傍点]に会えて、よかった』
くすくすと、V7。
「了解した」
『「ジニー」って――』
「了解した、ジニー」
またも、無意味な対話。
だが、悪い気はしない。
ブラックロッドは最寄りの昇降機《リフト》に着いた。ケージの到着を待たず、開門の呪文《じゅもん》を唱え、扉を開く。躊躇《ちゅうちょ》せず昇降機《リフト》坑に飛び込み、数百メートルを自由落下。D層を通過し、封印空間[#「封印空間」に傍点]ぎりぎりで浮遊呪文を唱え、慣性を制御。再び扉を開き、最下層へ。
最下層の無人地域。打ち捨てられた市街地には、街灯一つない。肉眼に見えるものは、浮遊霊の放つ燐光《りんこう》のみ。埃《ほこり》じみた無明の街路を、ブラックロッドはひた走る。
周囲の霊圧が異常に高い。地下から吹き出す怨念《おんねん》のためだ。長期にわたって晒《さら》されれば、霊障に心身を蝕《むしば》まれる。人の住めるところではない。だから、廃棄された。
使い魔からの感覚が、V7を介して彼にも流れ込んできている。かなり、近い。
V7はブラックロッドの精神から離脱し、再び飛行形態を取った。
『気をつけて。……すぐそこにいるわ』
数十メートル先にある廃ビルから、高圧の怨念《おんねん》が吹き寄せてくる。
ブラックロッドは速度をゆるめ、呼吸器系を呪化《エンチャント》。走りながら大きく息を吸い、吐く。入口の脇《わき》の壁に背を着けたときには、呼吸は完全に整っている。息を荒くしていては、とっさの唱呪《しようじゅ》に支障をきたす。
ブラックロッドは特捜本部に交霊《チャンネル》、呪文編纂機《スペルコンパイラ》を呼出《コール》。
標準型《スタンダード》の『捕捉《ホールド》』や『呪弾《ブリット》』の呪文がランドーに通用しないのは経験済みだ。呪文編纂機《スペルコンパイラ》は『呪弾《ブリット》』をベースに、ランドーに対する自動追尾や対・対抗呪文を織り込んだ攻撃呪文を編成、彼の短期記憶に刷り込む。この間、一・五秒。特捜の編纂機《コンパイラ》は世界でもトップクラスの性能を誇る。
ビルの鉄扉には市当局による呪的施錠《ウィザードロック》が施されていた。ブラックロッドは開門の呪文《じゅもん》を唱える。開いた扉から、皮膚を焼かんばかりの密度な怨念《おんねん》が、どっと流れ出した。
「ようきた、くろすけ[#「くろすけ」に傍点]」
撤収した工場のような、広く寒々とした空間。その暗がりの中に、闇《やみ》が凝固したような人影が立っていた。
ランドーの足元には、錆《さ》びた鉄枠のはまった巨大な排水坑。地の底から響くような呻《うめ》きを、怨念と共に吹き上げている。
「聞えるか、この声が」
ブラックロッドを見据え、薄く嗤《わら》う。
「この都市《まち》は呼ばれておるのよ……地獄に、な」
誰《だれ》が、呼んでいる? 地獄の住人と推定される悪魔《デーモン》の行動原理にはまだ解明されていない点が多いが、執拗《しつよう》に現世へのアプローチを試みるのは人間との接触が目的だ。一瞬のうちに全員を殺してしまう|奈落堕ち《フォールダウン》は、あくまで結果であって、目的ではない。
だが、そのことを詮議《せんぎ》する余裕はない。ブラックロッドはランドーに向けて杖《ロッド》を構え、用意してあったアレンジ版の『呪弾《ブリット》』を、無警告で圧唱《クライ》。
呪弾《ブリット》はランドーの手前で花火のように弾《はじ》けた。その一つひとつが大小の弧を描いてランドーを襲う。
ランドーは薄い笑みを浮かべたまま、懐からひと束の呪符を取り出した。排水坑から一陣の突風が吹き上がり、呪符を彼の周囲に吹き散らす。
だが、今度の呪弾《ブリット》は特別製だ。十数発の呪弾《ブリット》は各々目の前の呪符を貫き、ランドーの体にシャワーのように着弾。
ランドーの顔に、壮絶な笑みが浮かんだ。
「うっふう」と、含み笑いを漏らす。
呪弾《ブリット》に効果がなかったわけではない。ランドーの腕から血の滴が滴《したた》り、排水坑に消えた。
だが、弱すぎる。
意識容量の一部を身体施呪《フィジカル・エンチャント》の維持に使っていたため、増幅《ブースト》が不完全だったのだ。しかし、延べ一〇分間近く全力疾走を続けた彼の体には、相当な負担がかかっている。今、呪化《エンチャント》を解けば、立っていることさえできまい。すべてはランドーの計算の上だったのか。
ランドーは懐から青い燐光《りんこう》を放つ霊体をつまみ出した。V7の使い魔だ。
一気にひねり潰《つぶ》す。
『あっ!』
ブラックロッドの頭上でV7が悲鳴を上げた。使い魔は切り離された後も母体と感染魔術的な連携を保ち、感覚を共有するのだ。
注意が一瞬それた。
ランドーの懐から、小さな影が走り出た。肉眼で視認できるほどの高密度霊体。ランドーの腕を蹴って、ブラックロッドに跳びかかる。
反射的に左|掌《てのひら》を向け、自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》を作動――できない。先ほど自らかけた停滞の呪文《じゅもん》に縛られている。
影はその掌をかいくぐり、左腕を駈《か》け登った。
ブラックロッドの顔面に、痺《しび》れるような感覚が走った。
影は頬《ほほ》から左目にかけて、ざくりと斬《き》り上げた。続いて制帽を跳ね飛ばし、頭を蹴って空中に躍り上がると、ショック状態にあるV7に喰《く》らいつく。
『あ――あ――ああ!』
断続的な悲鳴を上げるV7の喉笛《のどぶえ》をくわえたまま、影は降下。ランドーの眼前に落ちていく。
ランドーの口元に、紅《あか》い舌が閃《ひらめ》いた。
影はV7もろとも長い舌にからめとられ、ランドーの口中に収まった。
ランドーはごくりと喉を鳴らして口中のものを飲み下し、にたりと笑う。
「ジニー!」
精神集中が破れ、身体施呪《フィジカル・エンチャント》が解けた。凄《すさ》まじい疲労と痛みが鉄鎚《てっつい》のように全身を襲い、ブラックロッドを打ちのめす。
「『鍵《かぎ》』は得た[#「は得た」に傍点]」
ランドーが呟《つぶや》いた。
「……『印《しるし》』はついた[#「はついた」に傍点]」
おおおん、と、地の底の呻《うめ》きが応《こた》えた。
「はやるな、はやるな。……今一時の辛抱ぞ」
なんだ? なにを言っている?
意識が集中できない。思考がまとまらない。薄れゆく意識の中、ブラックロッドは片|膝《ひざ》を突き、ランドーを睨《にら》みつける。
「……ランドー……!!」
ランドーは彼を見下ろし、告げた。
「では、いずれまた会おうぞ、くろすけ[#「くろすけ」に傍点]よ……」
薄い嗤《わら》いが、闇《やみ》の中に遠のいていった。
顔面の痺れは、熱く脈打つ痛みに変わり始めていた。
痛みを意識の外に追いやることもできたが、あえてそうはしなかった。
左手にかけられた停滞の呪文はすでに解け、新たに噴き出た血でハンカチは真っ赤に染まっている。
両|膝《ひざ》を突き、くずおれた姿勢のまま、血に滑る手で杖《ロッド》にすがり、彼は全身で痛みを受け止めていた。
胸の中からなにかが抜け落ちたあとを、痛みで満たそうとしていた。
頬《ほお》から顎《あご》を伝い、ぼたぼたと血|溜《だ》まりに落ちる血液だけが、時を刻み続けた。
うつむく彼の傍らに、いつのまにか、小さく暖かな気配がいた。制帽を落とし霊視眼《グラムサイト》が使えないため、形は捉《とら》えられないが、その感触には馴染《なじ》みがあった。
V7の使い魔だ。
『V7よりBRへ、報告します』
ブラックロッドは震える声で応《こた》えた。
「……報告を受理する」
『V7よりBRへ。報告内容は――
あなたに会えて、よかった』
彼は傷の痛みを忘れていた。強い喪失感のみがあった。それは彼の胸に穴を穿《うが》ち、別種の痛みをもたらしている。
『報告を繰り返しますか?』
「……行くな……」
使い魔はブラックロッドの発言をエラーと判断。
『報告を繰り返しますか?』
「……行くな、ジニー」
左目の傷口から、血は涙のように流れ続ける。
『報告を――』
「……ジニー………!」
ブラックロッドは杖《ロッド》を放し、両手で使い魔を包み込む。無意識に自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》を作動、左手に使い魔の感触を捉える。
血にまみれた手の中で、手ごたえが溶けた。命令を消化した使い魔が分解したのだ。
ガラン、と音を立てて杖《ロッド》が転がった。
V7の気配は完全に拡散した。それでも彼は固く手を握りしめ続ける。彼女を放すまいとするように。
その肩が、小刻みに震えている。
ブラックロッドが嗚咽《おえつ》を漏らしていた。
血は涙のように流れ続ける。
ブラックロッドが、吠《ほ》えた。
青い瞳《ひとみ》が、ブラックロッドの目をのぞき込んでいた。
「あたしのこと、呼んだ?」
ブラックロッドは、自分が歯を食いしばり、体を強張《こわば》らせていたことに気がついた。杖《ロッド》を握りしめている手が白い。
「すンごい声だったよ。『じにぃ〜〜〜〜〜〜〜』って」と、V9はさもおかしそうに言う。
「そうか」
ついと顔をそらす。
「あら、なにそれ」
あかんべえ[#「あかんべえ」に傍点]にも似た仕種《しぐさ》で、V9は自分の右目から頬《ほお》にかけて指で線を引いた。
ブラックロッドの、汗の玉の浮いた顔の左まぶたから頬にかけて、道化の化粧のような紅《あか》い筋が走っている。
「なにか?」
問い返す彼の声は、すでに平静を取り戻している。涙を思わせる紅い筋は、V9の見ている前で薄れていき、数秒で周囲の皮膚と見分けがつかなくなった。後に残るものは、死人のような無表情。ブラックロッドの顔を指そうとしていたV9の指先は目標を失い、空中に小さな円を描いた。
軋《きし》るような、鉄板を打ち鳴らすような不協和音を立ててケージは減速し、軽い衝撃と共に停止した。
「着いたね」
V9はドアの前に立ち、その場で駈《か》け足の真似《まね》をする。
扉を開けろ
扉を開けろ
ここは地獄の一丁目♪
即興の唄《うた》を陽気に歌うV9を無表情に眺めていたブラックロッドが、ぽつりと呟《つぶや》いた。
「……君は、ジニーとは――V7とは、だいぶ違うようだ」
ガコン、という音と共に昇降機《リフト》坑の鉄扉が、次いでケージの金網の扉が開いた。
「……同じよ」
「同じ?」
問い返す彼を後に、V9は昇降機《リフト》から駈《か》け出した。
「性格設定をちょっと変えてあるだけ。V7の悲観主義は、あんたの足を引っ張っちゃったからね」
「……死者を悪《あ》し様《ざま》に言うのは、感心しないが」
「ふふん」
振り返るV9の顔には、なんとも形容しがたい表情が浮かんでいる。
「もともと生き物じゃないから、『死ぬ』ってのは正確な言い方じゃないけど……ある意味じゃ、確かに彼女は『死んだ』わ。でも、ご安心あれ! 保証期間中はメーカーが交換に応じてくれるから大丈夫。それがあたしってわけ」
「しかし……」
「あんたとV7のささやかなロマンスは承知してるわ。あたしはV7の記録《レコード》を引き継いでるからね。……あんたがV7を特別なものだと思いたいのも判《わか》る。でもね――」
V9は上着の胸元を大きくはだけた。その肩口の、白い肌の中にさらに白々と、大きく引きつれたような傷跡があった。
「……あたしもその[#「その」に傍点]ジニーなのよ」
身をひるがえし、小走りに駈《か》け出すV9を、ブラックロッドは呆然《ぼうぜん》と見送った。
その左|頬《ほお》には、再び紅《あか》い筋が浮き出ている。
あたしゃ哀《かな》しき工業製品
泣くも笑うもお好み次第
頭《おつむ》のネジをちょいとゆるめりゃ
笑って地獄にまっさかさま(ひゅう!)
地獄にゃ待ってる|悪魔たち《オトモダチ》……
調子外れの唄《うた》を歌いながら、踊るようなステップを踏むV9の小さな背に、哀《かな》しみが、ゆらりと揺れた。
[#改丁]
第五章 永劫の夜に悪夢は覚めない
[#改丁]
最下層に違法施工された大型|昇降機《リフト》の一つを中心に、蜘蛛《くも》の巣のように広がる歓楽街。群れ集う綺形娼婦《ファニーズ》の媚薬《びやく》混じりの吐息にあてられ、ふらふらと迷い込んだが最後、粘着質の肌にからめとられ、精気を吸い尽くされて、あっという間に即身成仏。まさに巨大な女郎蜘蛛の巣。またの名を〈サキュバス|通り《ストリート》〉。
サキュバス|通り《ストリート》のもう一つの中心ともいえるのが、クラブ〈メルクリウス〉。「先生《ドク》の娼館《みせ》」と尋ねれば一発で判《わか》る。
〈先生《ドク》〉は天才違法整形外科医。本名不詳、年齢不詳、性別不詳。だが、腕は確かだ。日々、自らの商品価値を上げたいという娘たちの肢体《からだ》を切り刻み、あっと驚く形に組み上げる。つい昨日まで、ただ平凡であることだけを特徴としていた娘が、灰かぶりの姫君よろしく夢《ファンタジィ》の世界の住人となる。
悪夢、淫夢《いんむ》も夢のうち。
娼館に入るなりビリーの首ったまに跳びついてきたのも、そんなお姫さまの一人だ。源氏名《げんじな》は〈パッティ〉。ひと月ばかり前に入った新人だが、筋がいいというのか、すっかりここの水に馴染《なじ》んでいる。
「やーん、ビリー、ひさしぶりぃ」と、子猫のような声を上げて、ビリーの首筋に腕をからめる。
ビリーの首筋に、ペタリとした感触。パッティの左腕の、エナメル質の人造皮膚。彼女は左腕のつけ根から指先までを万国旗のパッチワークで覆っている。|つぎはぎ娘《パッチワーク・ガール》。略してパッティ。
「今日こそはイクとこまでイってくれるんでしょ? いっつもはぐらかして帰っちゃうんだから」
パッティは腰を押しつけるようにしがみつき、ビリーの耳元にささやきかける。
「あたしのアソコ、先週ヴァージョン・アップしてもらったの。すごいンだから。レロレロしてあげるよ」
肉感的な唇の奥でピンクの舌先が閃《ひらめ》くと同時に、ビリーの腿《もも》に密着した股間《こかん》がもぞりと動く。
「おほ」
ビリーはぐいと犬歯を剥《む》き出し、
「喰いつかれたりして、な」
「そーゆーのがお望みならね」
ビリーの真似《まね》をして歯を剥き出すパッティにビリーは、はは、と笑いながら、
「悪いけど、俺《おれ》――」
「うそ! あんたがダメ[#「ダメ」に傍点]だなんて、誰《だれ》も信じてないよ。ホモだってンならまだ判《わか》るけど。ね、変わったのが趣味ならあんたに合わせるからさ」
ビリーはひょいと片眉《かたまゆ》を上げ、
「そこまでバレてちゃ仕方ない。実は俺は――」
熊のようにパッティを襲うポーズをし、
「女を切り刻んで喰《く》っちまうのが好きなんだぁ〜」
パッティはケタケタと笑い、
「やーん、食べられたーい」
「あいにく晩飯は済ませてきたんでね。先生《ドク》、いるかい?」
顔見知りの娼婦《しようふ》や常連客に愛想を振りつつ、ビリーはすたすたと奥に向かう。
「もう!」
パッティはふくれっつらでビリーを見送るが、新たな客が入ってくると、嬌声《きょうせい》を上げて跳びついていく。
その彼女の目が、大きく見開かれた。
客の肩越しに見える通りの雑踏の中に、赤いコートが閃《ひらめ》き、消えた。
骨董《こっとう》じみた大きなデスクに向かい、眼鏡《めがね》をかけた少年が書類を整理している。透きとおる白い肌と少女のように線の細い顔は、上層階級《ハイ・クラス》のお坊ちゃんといった風で、どうみてもこの界隈《かいわい》にはふさわしくない。
だが、その彼が今、手にしているのは〈メルクリウス〉の娼婦《しようふ》たちの管理書類《カタログ》だ。彼はまるで雑貨屋が在庫管理をするように、書類にチェックを入れ、右に左にさばいていく。
「いよーう、先生《ドク》、久しいな」
少年は戸口に顔を向けた。卓上ランプに照らされたその顔が陰影の具合を変え、一瞬、老人のような表情を見せる。
「やあ、ビリーロン。よくきたね」
ビリーは先生《ドク》の前を横切り、無造作にデスクに腰掛けた。
「先生《ドク》、ちょいと訊《き》きたいことがある。人を捜してるんだ」
下水にゴミが溜《た》まるように、最下層でのゴシップは娼婦たちを通して自然に先生《ドク》のもとに集まってくる。
「ふむ、性別は?」
「女。性転《ころ》んでなけりゃな」
懐から写真を取り出し、先生《ドク》に差し出して見せる。
身分証か社員登録票からの複写だろう。眼鏡《めがね》をかけたロングヘアの娘が無表情に正面を向いている。
「名前はオードリー・クラーク。三ヶ月前まで、メーカーで|機械技術の魔神《メカニカル・ジン》のオペレータをしてたそうだ」
少年の顔に、老獪《ろうかい》な表情が浮かんだ。
「この娘なら……知らんでもない」
上目づかいにビリーを見る。
「話が早いな。金ならかなりのところまで出せるぜ」
ビリーはポケットから一枚のカードを出すと、ひらひらと振ってみせる。マグナスの子会社の社員名義のクレジットカード。資料と一緒に依頼人が置いていったものだ。名義は架空のものだが封じられた金霊《かなだま》は本物。一〇〇〇万ワーズ入っていた。
「儂《わし》とおまえの仲だ。金なぞ要らん」
「ふん、そうくると思ったよ」
にやりと笑うビリーに先生《ドク》は左手をひらひらと振ってみせる。
「見てくれ、ビリーロン。先月張り替えたばかりだ。いい張りだろう?」
ビリーはあきれ顔で、
「また女の生皮を剥《は》いだのか」
先生《ドク》は気にもせずに、
「だが、それでもおまえにゃかなわん。顔突き合わせて一〇年にもなるが、おまえの顔にはしわ一本刻まれん。いったいどんな延齢法を使ってるんだ」
哀願するようにビリーを仰ぐその顔には、よく見れば無数の細かいしわやしみが浮かんでいる。
「俺《おれ》だって別に意地悪で教えないわけじゃない。ちょいとワケありでね……。もしそれをあんたに知られたら――」
サングラスの奥で、ビリーの眼《め》が光る。
「俺はあんたを殺さにゃならん」
「死ぬことなど恐れはせんよ」
先生《ドク》はあっさりと言った。
「儂《わし》が恐れるのは『老い』だけだ」
そして、書類の束から無造作に一枚を抜き取り、裏返しにデスクに置く。
「……娼館《みせ》の女か! 〈メルクリウス〉の!?」
ビリーは思わず手を伸ばす。先生《ドク》は書類の上に手を重ね、ゆっくりとうなずいた。
「全部教えろとは言わん。だが、一つだけヒントをくれ。今から儂が言うことが合っているかどうか……それだけ答えてくれるなら、これはやる」
「……判《わか》ったよ。言ってみな」
「ロン……龍《ロン》というのは、中国の姓だな?」
「ああ」
「今から一〇〇年ばかり前……大戦直前の頃《ころ》、中国の秘密結社や学究グループでは『人造仙人』の研究が流行していた。通常、肉体的、精神的修行によって行なわれる内丹炉――人体内における錬金術的プロセス――の制御を、人造霊《オートマトン》に肩代わりさせようというものだ。開戦で研究は中断され、成功例は皆無とされているが……」
「近い」
「なに?」
「かなりいいとこまで行ってるよ。確かに、俺はそうした実験に立ち会ったこともある。だが、ありゃあ駄目だ。脳みそにとり憑《つ》かせた人造霊《オートマトン》に食欲、性欲なんかを抑制《セーブ》させるとこまではなんとかなるんだが、本能に代わって人体を正確に維持、制御するなんざ、現在《いま》の技術《テク》だってできやしない。全員自律神経失調でくたばったさ」
「そうか……」
肩を落とした先生《ドク》の横顔は、一気に半世紀ほども老《ふ》け込んで見える。
「若さの秘訣《ひけつ》は早寝早起き、それにくよくよしないこと。それで充分だろう?」
「おまえにゃ判らんよ」
先生《ドク》は左手を書類から退けた。
「……先生《ドク》」
ビリーの声の調子が変わった。視線が書類ではなく、先生《ドク》の手に釘《くぎ》づけになっている。
線の細い左手の甲に、小さく召喚円がプリントされている。
「先生《ドク》、その皮、どこから盗《と》ってきた?」
「なぜ、そんなことを?」
「俺《おれ》の知っている娘が、それと同じプリントをしてた……もう死んじまったけどな」
「屍体《したい》からなぞ採らん。鮮度が悪いからな」
「そんなことじゃない。とにかくそいつはヤバいぜ。呪紋屋《じゅもんや》の……そうだな、ベイカーにでも無効化してもらえ」
「ベイカーなら、失踪《きえ》ちまったよ」
「なに?」
「特捜に追われてるって話だ」
「特捜…」
「それと、これの出所、な」
左手の召喚円を、続いて書類を指し、
「そいつを見れば判《わか》る」
ビリーは書類をひったくった。
「……」
空いている方の手で口元を押さえる。
犬歯がうずき始めていた。
管理書類《カタログ》は娼婦《しょうふ》たちのカルテも兼ねている。ビリーが手にした書類に記載されているのは、顔面整形、左腕部の人造皮膚移植、陰部の整形及び機能付加。
パッティ=オードリー・クラークのものだ。
クラブに戻りパッティを捜すビリーに、ハリ――印度《インド》の二面神《ハリ・ハラ》を模して全身に左右非対称の動画刺青《ムーヴタトゥ》を施した綺形娼婦《ファニー》――が声をかけた。
「パッティならフケちまったよ。珍しいじゃない、あんたの方から女のコ捜すなんてさ。あたしじゃ駄目?」
左半身に描かれた炎が、扇情的に燃えさかる。
「悪いが、どうしてもパッティにレロレロしてもらいたいんでね」
ハリは肩をすくめ、
「あの娘《こ》の荷物、預かってるよ。あんたに渡してくれってさ」
革のハンドバッグには、無秩序に突っ込まれた紙幣や貴金属の類《たぐい》。それに、黒い記録符《ディスケット》となにごとか走り書きをした紙ナプキンが一枚。
[#ここから1字下げ]
ウィリアム・ロン様
同封の呪符《じゅふ》を、誰《だれ》にも見つからないように隠してください。
もし私が死んだら、公安に提出して。封印形式《フォーマット》はCHR。読み出しは必ずP4レベルの多層結界下で行なうように伝えてください。
迷惑をかけてすみません。お金がこれで足りるか判《わか》らないけれど、どうかお願いします。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]パッティ
「いったいどうしたの? ……あの娘《こ》、なんかヤバそうな感じだった」
ビリーは答えず、記録符《ディスケット》を観察。
市販品ではない。相当な大容量だ。すでになにかの書き込みがしてある。裏返すと、片隅に小さくソロモン・インクのロゴの刻印。
ビリーは呪符《じゅふ》とナプキンをポケットに。バッグはバリに投げ渡す。
「預かっててくれ」
「あたしは物置じゃないよ!」
バリの声を背に、ビリーは通りに駈《か》け出す。
マグナス社、召喚円、パッティ……。様々な要素が頭の中で絡まり合い、パズルのピースのように噛《か》み合い始めている。
だが、まだ情報が足りない。ヒントが必要だ。
ビリーはコリコリと犬歯を擦《す》り合わせる。
この状況……〈マクスウェル[#「マクスウェル」に傍点]〉には荷が重い[#「には荷が重い」に傍点]。
繁華街を離れると、通りは闇《やみ》に包まれる。目印程度に点在する街灯の他《ほか》に明かりはない。
明けることのない、夜の町なみ。最下層に住む者にとって、市の定めた標準時など意味はない。街に出るときが昼、ねぐらに帰るときが夜だ。
街の灯を遠く背にし、パッティはようやく歩調をゆるめた。肩で息をしながら、背後を振り返る。尾行者は、ない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう、と彼女は思った。
マグナスに勤めていたのが、もう何年も昔のことに思える。その頃《ころ》の彼女は、ただの平凡な娘だった。人づき合いは苦手だったけれど、仕事は楽しかった。平穏な日々の繰り返しの向こうには、誕生日の贈物のように、なにか素敵《すてき》な幸運が用意されていると信じていた。
『プロジェクト』のメンバーに選抜されたとき、これがその幸運だと思った。愚かにも。――生贄《いけにえ》に選ばれたとも知らずに。
それでも私は幸運だったのだ、と彼女は思う。
適性検査の項目と合格者の体にスタンプされた魔法円《サークル》が、なにを意味するのかを知ることができる立場にあったのだから。
他の『合格者』が一人ずつ、なにも知らぬままに記録符《ディスケット》から這《は》い出す悪魔《デーモン》に魂を喰《く》われていく中、パッティは自分の魔法円《サークル》に対応する記録符《ディスケット》を盗み出し、マグナスを抜け出した。そして、顔を捨て、名前を捨てて、最下層に逃げ込んだ。
だが、それも今日で終りだ。あの女に見られた以上、もう娼館《みせ》には戻れない。
雨が降り出した。
この一帯の天井には大出力|霊走路《ケーブル》が敷設されている。結界《シールド》が甘いのか、霊走路《ケーブル》から常に漏れ出している霊気が結露を呼び、雨垂れとなって落ちてくる。
水滴を顔で受けるように、パッティは上方を見上げた。
建設途中で打ち捨てられたままの高層ビルが、鉄骨を雨|晒《ざら》しにしている。所々に鳥の巣のように見えるのは、何世代にもわたって棲《す》み着いた鉄骨居住者の集落だ。
パッティは顔を拭《ぬぐ》うと、再び足を速めた。
どこまで逃げればいいのだろう?
いつまで逃げればいいのだろう?
その答えを知るものが、彼女の頭上、鉄骨を縫って疾《はし》った。
鉄骨を野晒しにした未完成高層ビル、通称『骨ビル』。そして、『骨ビル』の前には『ジェフの店』。洗剤、鼻紙から銃器《ガン》、薬物《ドラッグ》までのなんでも屋。
『雨降り横丁 骨ビル向かい ジェフの店二階』。それがパッティの住所だ。番地はない。そもそも最下層に行政区分などというものはない。
パッティの部屋は明かりが消えている。カーテンを閉め、室内はほぼ完全な闇《やみ》の中。
闇の中で、蠢《うごめ》くものがあった。調度をあさり、なにかを探している様子。
「ふるるう」と、呼気とも唸《うな》りともつかぬ音を漏らす。その気配は人間のものではない。
金臭い匂《にお》いが室内に充満している。血の匂いだ。
ドアを蹴り開け、何者かが室内に飛び込んだ。
ビリー・龍《ロン》だ。
路上で室内の異変に気づき、気配を消して階段を上ってきたのだ。
獣は「ぐるるう」と唸り、背筋を発条《ばね》のようにたわませた。
ビリーはナイフを右手に、身構える。
刃渡り二〇センチほどの、対不死仕様《アンチ・アンデッド》のアーミーナイフ。吸血鬼《ヴァンパイア》や人狼《ワーウルフ》などの不死性の魔物を殺傷し得る兵器としては最小の部類に入る。死の呪紋《じゅもん》を刻印され、半永久|呪化処理《エンチャント》を施された|鋼化銀の刃《ミスリル・ブレード》が闇の中でぎらりと光る。
獣はテーブルとソファをひと跳びに跳び越え、ビリーの正面から恐ろしい勢いでぶつかってきた。
ビリーは仰向けに転がりながらその勢いを受け流し、ナイフを逆手に持ち替え、獣の背に叩《たた》き込む。
ミスリル・ブレードは鋼板並の剛性を持つ人狼《ワーウルフ》の筋肉さえ貫く。だが、その刃は今、いとも簡単に弾《はじ》かれた。
獣は勢い余って戸口から転げ出し、ビリーは第二撃に備えて跳ね起きる。
しかし、獣は身をひるがえし、踊り場から驚異的な跳躍を見せ、ビルの狭間《はざま》の闇《やみ》に消えた。
コートのはためく音だけが残った。
ビリーは目を凝らして義眼の感度を上げ、赤外線探知。転げた際に体を引きずった跡が床の上にほのかに残っている。空中に明るく漂っているのは奴《やつ》の呼気か。生き物の吐く息としては異常な温度だ。そして、ソファの陰から立ちのぼる、かすかな温《ぬく》もり。
照明のスイッチを探る。何度かきたことがあるので、位置は判《わか》る。部屋にまできたあげくなにもしない、と言って、パッティは随分ふくれたものだが。
蛍光灯はためらうように明滅した後、点灯。
ソファの陰から広がる、絨毯《じゅうたん》の赤い模様が目を引いた。
血の模様だ。
ソファの陰にパッティが倒れていた。断ち切られた頸動脈《けいどうみゃく》から、血が流れ続けている。
ビリーはパッティの傍らに膝《ひざ》を突いた。まだかすかに息がある。今は、まだ。
「パッティ?」
パッティはわずかに視線を巡らせた。だが、その目にはすでになにも見えてはいない。
「ビリー……ビリー…?」
「ああ、俺《おれ》だよ」
「ビリー、あたし……」
なにから話そうか、というように首をかしげ、
「あたし……ほんとは、こんな女じゃないのよ……ほんとは……もっと……」
「…知ってるよ」
パッティは力なく微笑《ほほえ》み、
「みんな……アレフの……」
アレフとはなんだ?
問い正そうとしたときには、パッティはすでにこと切れていた。
訊き出す方法ならまだある[#「訊き出す方法ならまだある」に傍点]が、ここは静かに死なせてやろう。
ビリーは手にしたナイフで、パッティの心臓をひと息に貫いた。吸血鬼《ヴァンパイア》やリヴィングデッドによって引き起こされる伝染性|還屍症《かんししよう》に対する、最も簡単な応急処置だ。
懐で、なにかがもぞりと動いた。
半透明の胎児のような気配の塊がジャケットの内ポケットからずるりと抜け出し、ビリーの体を伝って絨毯《じゅうたん》に滑り落ちた。
「……!?」
『気配』はいぶかるビリーの足元から、絨毯にこぼれた血の匂《にお》いを追うようにパッティの屍骸《しがい》に近づき、彼女の体に這《は》い登った。
ビリーはポケットから記録符《ディスケット》を取り出し、しばらく表裏を検分した後、パッティの方に目をやった。
パッティの体の上を、『気配』がずるずると這い回っている。
入口を、探している。
試しに入出力紋の刻印された端を先にして記録符《ディスケット》を差し出すと『気配』は未練がましくためらった後、ずるりと符に収まった。
「……」
ビリーは立ち上がり、室内を見回した。部屋全体に荒らされた痕跡《こんせき》が残っている。
彼がこの部屋に入ってきたとき、コートの獣は探し物の最中だった。
手にした記録符《ディスケット》が、重く感じられる。
ソファの上に、スーツケースが載っていた。口が開き、中身が散乱している。パッティは夜逃げの準備中に襲われたのだろう。
つい数十分前、彼女はいつも通り『仕事』に精を出していた。それが、ビリーが先生《ドク》と話をして出てきたときには、すでに逃走に移っていた。
その間になにがあったのか。
パズルの一片がパチリと噛《か》み合った。
俺《おれ》が奴《やつ》を連れてきたのだ。
奴は俺の後を尾《つ》け、〈メルクリウス〉でパッティ=オードリー・クラークを見つけた。そして、ここまで追ってきて、殺した。
パッティを死神に引き渡したのは、俺だ。
「くそったれ…!」
ビリーはパッティの死に顔を見た。
虚《うつ》ろな視線が、ビリーを見上げている。
[#改丁]
第六章 ヒトオオカミなんか怖くない
[#改丁]
雨降り横丁は今日も雨。
ハイヒールの靴音が、雨音に混じって人気《ひとけ》のない通りに響く。フードにかかる水滴を気にする風もなく、赤いコートの女が歩いている。
「いよーう」
女の頭上に、歌うような声がかかった。
「ちょいとそこ行くお嬢さん、赤い頭巾《ずきん》のオオカミちゃん。そんなに急いでどこ行くの……」
女はフードを脱ぎ、骨組だけのビルを見上げた。
オードリー・クラーク捜しの依頼人、ミズ・マグナスだ。
「こんばんは、ミスター・ロン。お久しぶりね」
ビリーは二階の梁《はり》にあたる鉄骨から、柱を伝ってするりと降りてきた。
「俺《おれ》はわりと最近会ったような気がするぜ」
マグナスは、意味が判《わか》らない、というように軽く首をかしげ、
「突然連絡を絶ってしまわれるものですから、随分心配致しましたわ」
ビリーは背後の骨ビルを肩越しに親指で差し、
「ちょいと、そこで張り込んでたもんでね。あんたの方こそ、なにしにこんな所に? ここはレディのくる所じゃないぜ」
にやりと笑い、
「その辺を、人狼《ワーウルフ》がうろついている」
「失礼とは思ったのですが、私どもの方でも独自に調査を進めさせて頂きました。その結果、クラークが素性を隠してこの付近に滞在していたことを突き止め、私が出向いてきたわけです」
マグナスは優雅な動作でひと呼吸置き、
「もちろん、あなたの調査も評価致しますので、続行して下さって結構ですわ」
「そりゃどうも」
ビリーは片眉《かたまゆ》を上げ、
「今あんた、『滞在していた[#「していた」に傍点]』って言ったな。パッティ…オードリー・クラークが死んだことは知ってるわけだ。死人の家で捜し物か?」
「そういうことになりますね」
困ったような微笑を浮かべ、マグナスはあっさりと肯定した。
「お恥ずかしい話ですが、彼女は失踪《しつそう》時に参加していたプロジェクトの製品サンプルを持ち出しているのです。それが見つからなければ開発に支障をきたします。それで、なにか手がかりはないかと……」
「サンプルってのは、記録符《ふだ》かい?」
マグナスの目が、わずかに細められた。
「なにか御存じなのですね……?」
ビリーはそれには答えず、
「アレフって、なんだい?」
マグナスが、微笑《ほほえ》みながら一歩踏み出した。
「あるプロジェクト名としか言えません」
「つれないなあ」
ビリーはコリコリと犬歯を擦《す》り合わせ、間合いを取りつつ、
「……それじゃ、こいつと引き換えなら、話してもらえるかな?」
ポケットから黒い記録符《ディスケット》を取り出す。
マグナスの発する気配から、人の匂《にお》いが消えた。
三メートル近い間合いを一気に詰め、拳《こぶし》をビリーに叩《たた》きつける。
右腕の骨が砕け、筋肉がざくりと切り裂かれた。
ビリーは記録符《ディスケット》を取り落とし、大きく後退した。
マグナスの指先から、長く鋭利なブレードが猫の爪《つめ》のように突き出し、ビリーの血をポタポタと滴《したた》らせている。
ビリーの目の前で、マグナスはその形態を大きく変え始めた。
全身に走る刺青《いれずみ》状のラインにそって、皮膚がぱくりと割れた。
顔面のラインにそって、鼻づらがぐっとせり出した。妖艶《ようえん》な口唇は耳まで裂け、鋭いクロームの牙《きば》が突き出す。
骨格が組み替わり、獣じみた前傾姿勢をとった。
体内を走るチューブやシリンダーが、異常に膨れ上がった。スーツは内圧に弾《はじ》け、布きれとなって体にぶらさがる。
『獣』が身にまとうものは、今や赤いコートのみ。
体のあちこちに生じた隙間《すきま》の、ある部分には感覚器《センサ》がせり出し、他の部分では吸排気口が機能し始める。
マグナス社製666型全身義肢。通称〈|人/器械《ワー・マシン》〉。チューブと歯車の器体《ボディ》に人の持つ獣の本能を載せた、器械の獣《けだもの》。獣人形態時には着装者のパーソナリティは凍結され、人体は制御系の一部として利用される。
「ぐるるう」と、内燃機関が咆哮《ほうこう》を上げた。路上に落ちた記録符《ディスケット》には目もくれず、ビリーに向けて突進する。
過去二回、この〈|人/器械《ワー・マシン》〉はビリーを襲っている。武器を警戒した二度目はともかく、最初のときは気管と頸動脈《けいどうみゃく》を確実に断ち切った。それがなぜ、いまだに生きているのか。
私立探偵ウィリアム・龍《ロン》を訪ねたときには驚いた。だが、あのときは探偵の力を必要としていた。始末し直すのは、クラークと記録符《ディスケット》を見つけてからでいい。
つまり、今だ。
敵が未知数の生存能力を持つ以上、全力をもって抹殺する必要がある。論理というよりは本能による判断だ。
赤いコートをはためかせ、〈|人/器械《ワー・マシン》〉は正面からビリーにぶつかった。体をさばいて受け流すビリーの右手に喰いつき、勢いにまかせて引きちぎる。
そのまま数メートル進んで反転。低く突進して左足首を噛《か》み切る。
ビリーが倒れるより速く、高く跳躍してビリーの頭部に跳びつく。その重量と勢いで、ビリーの頸椎《けいつい》が折れた。
倒れると同時に、胴体に体重をかける。肋骨《ろっこつ》がばきばきと音を立てて折れ、内臓のほとんどが破裂する。
サングラスが外れ、路面にからからと転がった。
〈|人/器械《ワー・マシン》〉は爪《つめ》で眼球を薙《な》ぎ、手刀を正面から突き込む。
頭部が半壊した。
眼鼻をえぐり、内臓を引きずり出すその姿は、まさに獲物を貪《むきぼ》る肉食獣だ。
ビリーが人というより肉塊といった方がふさわしいものに姿を変えた頃《ころ》、〈|人/器械《ワー・マシン》〉はようやく彼から離れた。
もうよかろう、と彼女は思った。
だが、まだ充分ではなかった。
ウィリアム・龍《ロン》の肉体は大小の肉片となり、雨降る路上に半径五メートルの円を描いて散乱していた。
その中で一番大きな塊――かつてウィリアム・龍《ロン》の頭部と胴体だったもの――が、ふつふつと音を立てている。
それが単に体内に残った空気が漏れる音ではなく、死者の漏らす笑いであることに気づき、〈|人/器械《ワー・マシン》〉は戦慄《せんりつ》した。
即座に攻撃を再開するべきだったが、躊躇《ちゅうちょ》した。全身のチューブがこわばり、吸排気口がぎゅっと閉じた。
生き物として――魔物に対峙《たいじ》した生き物として、当然の反応であった。
横たわる肉塊は笑いを止め、低く、小さく、だが確実に呟《つぶや》いた。
「『マクスウェル』……」
『マクスウェル、休暇をやるよ』。
ウィリアム・龍《ロン》の大脳旧皮質に憑依《ひょうい》し、吸血衝動や各種の超常能力の発現を抑制《セーブ》していた中国製内丹炉制御|人造霊《オートマトン》〈太乙《タイオツ》〉系、個体|名《コード》〈マクスウェル〉が、その機能を停止した。
続いて生じた変化は、〈|人/器械《ワー・マシン》〉の変身の何倍も迅速にして奇怪なものであった。
肉塊が跳ね起きた。
喰《く》いちぎられた右|膝《ひざ》と左足首の切断面を地に着け、片膝を立てた姿勢で静止する。両腕はすでになく、顔面はこそぎ取られ、腹腔《ふくこう》にはほとんど内臓は残っていない。さながらシュルレアリズムの胴像《トルソ》のようだ。
全身が小刻みに震え、肋骨《ろっこつ》の隙間《すきま》から垣間見える心臓が、狂ったように激しく脈打ち始めた。
路上にまき散らされた量からみても、体内にほとんど血液は残っていないはずだ。だが、あたかも異次元の血|溜《だ》まりから汲《く》み出しているかのように、心臓は着実に鮮やかな紅《あか》い血を送り出す。
血流の速度に合わせ、網の目のように血管が再生する。四肢の断面から虚空に伸びる血管の網の中に、骨格が生じ、筋肉が形成される。腹腔では内臓が蠢《うごめ》き始めている。
右足を踏み出した。数秒前には存在しなかった足首が地面を踏みしめる。
そのまま右脚に体重を預け、直立する。
顔面が再生しつつあった。だが、修復されたその輪郭は鋭く端正で、かつてのビリー・龍《ロン》とは微妙に印象を異にしている。
全身を青白い皮膚が覆った。
上|顎《あご》から犬歯が二本、たて続けに抜け落ちた。口腔《こうこう》には義歯を押し出した本物の牙《きば》が、鋭くせり出している。
うつむいた顔の眼窩《がんか》から、赤外線義眼の破片がパラパラと落ちた。血と雨に濡《ぬ》れた髪をかき上げると、すでに眼球が再生している。
爛々《らんらん》と光を放つ、狂気を孕《はら》んだ紅《あか》い瞳《ひとみ》。
ほんの数秒でビリーは――ウィリアム・龍《ロン》という仮面を脱いだ一体の吸血鬼《ヴァンパイア》は――完全に再生した。おのれの血に染まったぼろをまとう肉体には、もはや擦傷《すりきず》一つない。
吸血鬼《ヴァンパイア》の肉体の持つ超恒常性のみがなし得る、物理を越えた再生だ。
ビリーは〈|人/器械《ワー・マシン》〉を見つめ、くつくつと笑みを漏らした。狂気の笑みだ。
その口元にのぞく犬歯は、吸血鬼《ヴァンパイア》の標準からしても、やや大きい。それがため、かつて
「彼」はこう呼ばれていた。
〈長牙《ロング・ファング》〉。
〈|人/器械《ワー・マシン》〉は恐怖した。四肢を、背筋を、冷たいものが駈《か》け抜けた。
その中に、僅《わず》かな疼《うず》きがあった。
期待、である。
「吸われたい」
そう感じた。
「支配されたい。そして、全身の血を吸い尽くされたい」
熱いもやのかかった頭の中で、そう思った。
吸血鬼《ヴァンパイア》の魔の魅力に、〈|人/器械《ワー・マシン》〉の人間部分は確実に冒されつつあった。
通常の器械化人であれば、すぐさま吸血鬼《ヴァンパイア》の前に白い喉《のど》を差し出していただろう。だが、彼女は〈|人/器械《ワー・マシン》〉――ときには人であり、ときには器械であるものだ。そして、現在彼女の精神の主導権は器械部分にある。
〈|人/器械《ワー・マシン》〉は人間部分を閉鎖。自らの制御系からカットした。
全身を支配していた恐怖が消えた。今、目の前の敵に感じるのは未知数の能力に対する警戒のみ。それすらも論理的に――常識的に推測できる範疇《はんちゅう》でしかない。
〈|人/器械《ワー・マシン》〉は咆哮《ほうこう》を上げ、ビリーに跳びかかった。精妙さを欠く、直線的な動き。いまや彼女は自動器械《オートマトン》でしかない。
くく、とビリーは笑みを漏らした。
「イカスなあ、お姉さん」
振り下ろされた右手首をがしりと受け止め、こともなくねじ切る。
「気に入ったぜ。一緒に食事[#「一緒に食事」に傍点]なぞ、どうかな?」
〈|人/器械《ワー・マシン》〉は短く吠《ほ》えて跳びすさった。
ビリーは、くく、と笑い、
「俺《おれ》は女を切り刻んで喰《く》っちまうのが好きなんだ」
手にした手首から中指を齧《かじ》り取り、葉巻のようにくわえてにやりと笑う。
性欲、食欲、闘争本能から狂ったユーモア感覚まで、吸血鬼《ヴァンパイア》の欲求はすべて一つの衝動として噴出する。吸血鬼《ヴァンパイア》の狂気の源、吸血衝動だ。
ビリーは指を吹き出した。鋭い爪《つめ》を先にして〈|人/器械《ワー・マシン》〉の眼《め》を狙《ねら》う。
〈|人/器械《ワー・マシン》〉が指を打ち払った隙《すき》に、するりと間合いに入る。器械を幻惑することなど造作もない。
ビリーは、くくく、と笑った。尽きぬ衝動、楽しき狂気。思わず知らず、唄《うた》も出る。
「つんたか つんたか つんたったかたか らったったったった♪」と、これは前奏。
「ヒトオオカミなんか怖くないィ」
〈|人/器械《ワー・マシン》〉の左手首をつかみ、腕を引き抜く。
「ア、怖くないったら怖くないィ」
同様に右腕を引き抜きつつ、胸部に手刀を突き込む。
「ヒトオオカミなんか怖くないィ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」胸に手を突っ込んだまま頭より高く差し上げ、
「とぅら、ら、らァ〜ららァ〜〜〜〜〜〜〜っ! はっはァ!!」
路面に叩《たた》きつけ、腰椎《ようつい》を踏みちぎる。
〈|人/器械《ワー・マシン》〉は一塊の屑鉄《くずてつ》と化した。
ほんの一分足らずのあいだに、立場が完全に逆転した。吸血鬼《ヴァンパイア》ならぬ〈|人/器械《ワー・マシン》〉の身に待つものは、死以外には有り得ない。
だが……。
「おっと、まだ夜は長いぜ[#「夜は長いぜ」に傍点]、お姉さん」
紅《あか》い瞳《ひとみ》がぎらりと光った。
ベイカーのオフィスは、幸運の護符や汎用|記録符《ディスケット》に始まり、儀式用のスプレー香やチョーク、真空パックされた鶏の血、玩具レベルの呪殺《じゅさつ》人形など、雑多な在庫で足の踏み場もない。
「そうそう、こうでなくちゃね」と、妙に満足気に、V9。
「やはり、例の式鬼《シキ》はランドーから渡されたようだ」
ひと通りの調査を済ませると、ブラックロッドは呟《つぶや》いた。
鑑識の結果、ベイカーの使用した式鬼《シキ》は『鼠蜥蠱《そせきこ》』、すなわち齧歯類《げっしるい》および蜥蜴《とかげ》科の爬虫類《はちゅうるい》を贄《にえ》とする『蠱毒《こどく》』――高濃度の複合|怨念《おんねん》――から造られたと推定されている。
だが、オフィスはもちろん、本棚の裏につくられた隠し小部屋からも、蠱毒の製造、使用に不可欠な、強力な結界装置は見つからない。
「あら」
V9が呟《つぶや》き、なにかを思い出そうとするように中空を見つめた。
降魔局《A・S・C》と交霊《チャンネル》している。
「なにか?」
問いかけるブラックロッドにニッと笑い、
「たった今、降魔局《うち》から連絡がきたわ。ちょっとおトクな新情報」
ブラックロッドは先をうながした。
「これまで死亡したとされていた、ある重要人物が見つかりました。さて、それはいったい誰《だれ》でしょう?」
無言。
「ちょっとはノってよ。……それでは第一のヒント! 彼はかつて国民的英雄と呼ばれていました」
ブラックロッドは公安本部のファイルと交霊《チャンネル》。ゼン・ランドーの関係者を始めとする今回の捜査の参考人リストのうち、死亡や消息不明のため省かれた人物を再検索。
降魔局《A・S・C》の監視網に注目される潜在危険要素のうち、人間格を持つ者、つまり高レベルの呪術《じゅじゅつ》系技能を持つ人間もしくは亜人間。男性格。ここ数年以上の活動記録なし。認知度、カリスマ性、いずれも高し。
「……アーヴィング・ナイトウォーカー」
「ピンポーン、大正解! ズバリ賞は地中海沿岸一週間の……待ってよ!!」
ブラックロッドは足早にオフィスを出る。
「位置は?」
「近いわ。サキュバス|通り《ストリート》の外れの――あ、移動してるって」
ブラックロッドは自らの脚力を呪的《エンチャント》強化。最下層の人込みの中を、疾風のように駈《か》け抜ける。
サイモン・レクターは足どりも軽く研究室に向かった。
何十年もの間取り組んできた研究が、今日にも実を結ぼうとしているのだ。あの女が最後の一枚[#「最後の一枚」に傍点]を持ってくれば――
角笛を吹き鳴らせ! メシアがくるぞ! ハレルヤ!
『ALEF』のロゴの入ったドアの前まできて、IDカードを忘れたことに気づいた。着替えた上着の中だ。
レクターは少々興を殺《そ》がれ、それでも賛美歌なぞを口ずさみながら、廊下を引き返し始める。
その背中に声がかかった。
「開いてるぜぇ」
部屋の中には無数の得体の知れない機器が、それ自体の漏らす明かりに照らされて、闇《やみ》の中に無秩序な輪郭を浮かべている。
その中心に、ぼんやりと白いものが見えた。
機械の発するハム音に、女の呻《うめ》き声が混じっている。
「……誰《だれ》だ?」
レクターは闇《やみ》の中に呼びかけた。
くくく、と、男の含み笑いがそれに応《こた》えた。
闇に目が馴《な》れ、自分の呼びかけたものを認めると、レクターは言葉を失った。
白く見えていたものは、女の肌だ。
錬金変成機の筐体《きょうたい》に無造作に腰掛けた男が、女の胸像を抱えている。
男は血に染まったぼろの上に赤いコートを羽織っている。死人のように青白い顔ににやけた笑いを浮かべ、割れたサングラスの奥に紅《あか》い瞳《ひとみ》が光る。
ビリー・龍《ロン》だ。
ビリーの抱いているものは像ではなかった。女――ミズ・マグナスは腰と両肩から赤黒い液体を滴《したた》らせ、幾何学的な線の走る白い胸をせつなげに震わせている。
マグナスの漏らす呻《うめ》きは、単なる苦痛によるものではない。身|悶《もだ》えと共に吐き出される吐息には甘やかな響きが混じり、彼女はうわ言のようにビリーにささやき続ける。
「すって・すって・もっと・すって・もっと・もっと・もっと……」
半ば吸血鬼化しているのだろう。ビリーを見上げる眼《め》が紅い。完全再生できないのは、肢体の切断面にはさまった潰《つぶ》れた器械のため、血流が阻害されているからか。
「あんたは――」
レクターが問いかけると、ビリーはマグナスを軽く目の前に放った。筐体から跳び降りながら、一瞬で懐からナイフを抜いてマグナスの心臓に叩《たた》き込み、流れるような動作で頸部《けいぶ》を切断、跳ね飛ぶ頭部をキャッチ。
着地と同時に、マグナスの胴体がぐしゃりと落ちた。
ビリーはバスケットボール・プレイヤーのように、マグナスの頭部を指先でクルクルと回し、
「この女のことは、知ってるな?」
レクターに向けてピタリと止める。
マグナスは濡《ぬ》れた目でビリーに流し目をくれた。もはや言葉を発することのない唇が、なおもなにごとかささやき続けている。
ビリーは片眉《かたまゆ》を上げてそれに応《こた》え、
「ご苦労さん。地獄で会おうや」
頭を床に落とし、踏み砕く。
次いでレクターに向き直り、
「安心しな。今は抑制《セーブ》が効いてるから、(と、自分の頭を小突き)殺しゃあしない。ちょいと訊《き》きたいことが――」
「……対不死《アンチ・アンデッド》ナイフで心臓をひと突き。頸椎《けいつい》を切断の後、脳幹を破壊――吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》のマニュアル通りだな」
落ち着き払った声で、レクターは言った。
「!?」
身構えるビリーに、
「俺《おれ》だよ、アーヴィング[#「アーヴィング」に傍点]」
「――は?」
ビリーは虚を突かれて調子を狂わせながら、
「待て待て、ちょっと待ってくれ。つい先刻、脳みそ半分くらいぶっ飛ばされたもんで、思い出せん。今、マクスウェルに記憶転写させてるが……お! きたきたきた! ええと……」
レクターを指差し、
「サイモン! いや、久しいな!」
「まったくだ」と、レクター。
ビリーはレクターの肩に手を回し、
「お前のことは一日たりとも忘れたことはなかったぜ」
「おいおい、コップくらい置いとけよ。なんかへんな薬品《もん》がついてるぜ、こりゃ」
手渡されたビーカーを透かしながら、ビリーはぼやいた。
「それくらいで死ぬタマじゃないだろう、おまえは」と、膿盆《のうぼん》にビールを注ぎながら、レクターは笑う。
二人は研究室のリノリウムの床にじかに座り込み、床に転がるマグナスの残骸《ざんがい》を肴《さかな》に、酒盛りをしている。
「それにしても……マグナスの研究員とはいい御身分だな」
「まあな」
レクターは笑いながら血とオイルにまみれた塊を指し、
「怖いお姉さんの監視つきだがね」
ビリーは、はは、と笑い、
「やっぱりあれか、実践神秘学がらみか?」
「ああ」
実践神秘学とは|ユダヤ系神秘学《カバリズム》の一派。仮説上の存在〈神〉との接触を目的とする部門だ。別名『狂信者の科学』。レクターはその中でも異端中の異端である。彼の主張は「神がいないのならば、造ってしまえ」というものだ。曰《いわ》く――
人類はその創造者である〈神〉の模造品である。無論、人は〈神〉と同レベルにはない。その肉体も魂も、はなはだ不完全なものだ。だが、完全な肉体と完全な魂を用意すれば、共感効果《フレイザーエフェクト》によってそこに〈神〉を降ろすことが可能なはずだ。
「見ろよ、『器』はもう出来てるんだ」
壁際に、肩から膝《ひざ》ほどの高さにかけてゆるやかな傾斜のついた台が設置されている。レクターは壁際に歩いていき、そこにかけられた覆いを取り去った。
寝台のような整備台に横たわる巨人。それは身長二メートル半の大まかな人型で、全身の表面を大小のチューブや導線がのたくり、左胸の球状タンクから数本、ひときわ太いチューブが伸びている。左|眼《め》に当たる視覚器《センサ》を除けば、頭部はのっぺりとして造作《ぞうさく》がない。
「〈ALEF‐1型アルケマトン〉だ」
「アルケマトン?」
「錬金化学《アルケミカル》オートマトン。錬金化学《アルケミストリー》と電子数秘学《ゲマトロニクス》の|合いの子《キュマイラ》さ」
「複合型《ハイブリッド》オートマトンみたいなもんか?」
『オートマトン』という語は、本来自動式の器械人形を指す。しかし、人工霊体《ギズモイド》に一定のパターンを与えて操作する技術が確立され、それら『心霊工学的《サイテック》オートマトン』が一般化し、単に
『人造霊《オートマトン》』と呼ばれるようになってからは、従来のオートマトンは『器械式《メカニカル》オートマトン』、また器械式《メカニカル》オートマトンに心霊工学的《サイテック》オートマトンを憑依《ひょうい》させたものは『複合型《ハイブリッド》オートマトン』と呼ばれている。
「……まあ、当たらずとも遠からず、ってとこだな。ただ、こいつが決定的に違うのは、この器体と中に入る魂が相互作用《フィードバック》の関係を持つ点だ」
「フィードバック?」
「魂は肉体に影響され、肉体は魂に影響されるってことさ。錬金術師の精神の錬度が精製される金の純度に比例するように、しかるべき魂がこの器体に宿れば、それは器体を進化させ、進化した器体はおのが宿す魂を洗練する。洗練された魂は器体をさらに進化させ……てな具合に、正のフィードバックの循環《ループ》の果てに、限りなく神に近い魂が誕生するって寸法だ」
「…ふむ」
「この器体は人体をモデルに作ってある。人体の血管、神経、経絡を正確に再現したら、こんなサイズになっちまった。……ま、見てくれは悪いが、まさにこいつは完璧《かんぺき》な肉体――『神の器』さ」
「神の……ね」
ビリーは床に座ったまま横たわる巨人を見上げた。
「しかし、こいつはどう見たって……」
ねじ曲がった骨格、全身を這《は》う蚯蚓《みみず》の群れのようなチューブ群。
「悪魔だぜ?」
「言ったろう? 見てくれじゃないんだ」
「しかしなあ……『ハリガネとゴム管で神様を作りましょう』ってか?」
「それを言うなら人間なぞはただの土塊《つちくれ》だろうが。重要なのは、そこに吹き込まれる『神の息吹』だよ」
「そこなんだが……こいつが『神』に成るためには、『神の魂』が……少なくともその素質がある奴《やつ》が必要なわけだろう? どーすんだ? 聖人なんてのは、そうそういないからこそ希少価値《ありがたみ》があるんだぜ? その辺の新興宗教の即日|解脱者《げだつしゃ》なんぞ使った日にゃ……」
「そこなんだよ」
レクターは意味ありげに笑った。
「知っての通り、我々一人ひとりの魂ははなはだ不完全なものだ。とても神の領域に近づけるもんじゃない。だが、複数の魂を合成すれば……」
「なんだって?」
「『靴下の穴』の理屈さ。一つひとつは不完全でも、悪い所を補い合えばいい」
「魂の『|つぎはぎの怪物《フランケンシュタインズ・モンスター》』ってわけか。しかし、どうやって?」
「そこで、こいつの出番だ」
整備台の脇《わき》の身の丈ほどの筐体《きょうたい》を叩《たた》き、
「数秘学演算機《ゲマトリアル・カリキュレータ》。……数秘学《ゲマトリア》の基本概念は知ってるな?」
「天地万物を名前の綴《つづ》りから数値変換して、同値の存在は共感関係にある、って奴だな」
「乱暴な言い方だが、まあそんなとこだ」
「しょせんは言葉遊びだろ?」
「そうとばかりも言えんさ」
レクターは自分の胸に手をあて、
「すべての魂はその名前に存在の一部を依存している。〈神〉さえもだ。名前を介して魂を数値変換すれば、数学的処理が可能となる」
「人間の魂を足したり引いたりして、『|神の名前《テトラグラマトン》』と同値にしようってか?」
「ま、そういうことだ」
「口で言うのは簡単だがな、人造霊《オートマトン》一つ組むのにも何百時間の儀式が必要なんだぜ? 人間の魂を加工しようなんざ……」
「電子計算機を知ってるか?」
「大戦中にミサイルの弾道計算をしたっていう――」
「そう。そいつを使えば、超高速での数値演算が可能だ」
「おいおい、一〇〇年も前の代物だぜ?」
「無論、そのまま使うわけじゃない。だが、一世紀の間、それを使い、発展させてきた連中がいるんだ」
「?」
「中国の陰陽《いんよう》思想家さ。森羅万象《しんらばんしよう》を陰陽の組み合わせで処理するって考え方が、電流のON/OFFの組み合わせで動く電子計算機に通じるんだそうだ。特に今〈易経《えききょう》〉の占者が使ってる計算機は凄《すご》いぜ。恐ろしく高速・高密度の計算で、二、三秒先までのことならほぼ五〇%以上の確率で予見するんだとよ。なんでも、マグナスにそうしたものを扱ってる東洋人が出入りしてるって話でな。そのおかげでこいつも完成したわけだ」
「東洋人といえば……こないだ〈影男〉を見たぜ」
ビリーはマグナスの残骸《ざんがい》を指差し、
「――この女と組んで、悪魔《デーモン》にエサをやってた」
「影男……?」
「〈影男《シャドウ》〉ランドー。あちこちで都市《まち》を堕《お》として回ってる方術使いさ。ほら、おまえを……」
ビーカーを持つ手が止まった。
「俺《おれ》を、なんだって?」
ビリーは顔をしかめ、頭を振りながら、
「いや、これは俺の記憶の転写ミスかも知れんが……奴《やつ》は……ランドーは、お前を喰った[#「喰った」に傍点]男だ」
「うっふう、うっふう」
どこからか、低い笑いが響いてきた。
「アーヴィング!」
叫ぶレクターの影が、独立した生き物のように蠢《うごめ》き、ゆっくりと盛り上がった。
入れ替わりに、レクターの体が輪郭を失い始める。
「アー……ヴィング……!」
その姿は急速に明度を失い、闇《やみ》の塊となって足元に崩れていく。
レクターの影は長身の人型となって立ち上がり、彼自身は人型が床に落とす影に呑《の》み込まれた。影と実体とが完全に入れ替わった形になる。
「うっふう、うっふう」と、影は笑った。
「あゝびんぐ、ないとおうかあ……いや、今はゐりあむなにやら[#「なにやら」に傍点]というたな……」
「……ランドー!」
「如何《いか》にも、如何にも。ぬしが儂《わし》の名を出したおかげで、術が破れてしもうたわ」
「……降霊術《くちよせ》の心得もあるとは知らなかったよ」
「いささか、な。あ奴《やつ》の『神造り』の執念、使わせてもらった」
厳密にいうならば、ランドーの行なった術はおのれの取り込んだ魂を自分の人格の表層に出す一種の変化《へんげ》の術であり、冥界《めいかい》と交霊《チャンネル》する『降霊術《ネクロマンシー》』とは異なる。とはいえ、公安局の死者尋問《インクエスト》が結界要員を含む一三名のチームで行なわれることを考えると、類似の効果を持つこの術をランドーが一人で行なっているのは驚異的といえる。
「サイモンの死霊を利用して……『神の器』に生贄《いけにえ》つきの悪魔《デーモン》をぶち込んで、いったいなにを造る?」
ランドーは答えない。
「言ってみろよ。こう見えても口は堅いんだ。『死人に口なし』って、な」
軽口の中に、苛《いら》立ちが混じる。
「……場合によっちゃ、叩《たた》き壊す」
ランドーは薄く嗤《わら》い、
「ぬしは不思議な男よな……。僵尸《きゅうけつき》といえば、おのが妄念のままに跳梁《ちょうりょう》し、人の生き血をすする傀《もののけ》であろうが。なにゆえに人で在《あ》ろうとする?」
通常、人は吸血鬼化と同時にその性格を一変する。たとえ生前|如何《いか》な聖人君子であったとしても、ひとたび死から蘇《よみがえ》れば、抑制のない吸血衝動に突き動かされる最悪の殺人鬼となる。ビリー・龍《ロン》がまがりなりにも常人として社会生活を送れるのは情報制御|人造霊《オートマトン》〈マクスウェル〉に負うところが大きいが、その使用は彼の意志によるものだ。吸血鬼の思考としては異常の部類に入る。
「……俺《おれ》が思うに、他の吸血鬼《ヴァンパイア》がみんなキレちまうのは、吸血衝動の噴出がゲシュタルト崩壊を引き起こすからだな。自分の本能《ホンネ》とつき合える精神を持っていないんだ。……俺《おれ》や、サイモンみたいに」
ビリーは牙《きば》を剥《む》き出し、
「サイモンとは|人喰い友達《カニパル》だったのさ。よく二人で若い女を殺して喰《く》ったもんだ」
ナイフを握り、低く構える。
「あいつはいい奴《やつ》だったよ。神様を造ろうなんて言い出したのも、世のため人のためって奴さ。俺は|〈神〉《そんなもん》は信じちゃいないが、奴の気持ちはよく判《わか》る。奴も俺も、この都市《まち》と、この街《まち》に住む連中が大好きなんだよ、喰っちまいたいくらいにな。もしもそれをぶち壊す奴がいたら……」
紅《あか》い眼《め》が光った。
「殺す」
ランドーは魔物じみた笑いを浮かべた。
「殺せぬよ」
その言葉が終わらぬうちに、ビリーは前方に跳躍。吸血鬼《ヴァンパイア》の瞬発力は人間の限界をはるかに越える。その動きを予測[#「予測」に傍点]することは不可能だ。ビリーは超人的な速度でランドーの首筋をかき切った。
否、ランドーは舞うようなゆるりとした動きで、難なく間合いを外している。ビリーは素早《すばや》く踏み込み、たて続けに第二撃、三撃を打ち込むが、ことごとくかわされる。
ランドーは、ビリーの行動を予見[#「予見」に傍点]しているのだ。
ビリーはランドーの首筋から聞こえてくる、かすかなハム音に気がついた。見ると、ランドーのぼんのくぼと首筋の不自然な隆起の間は数本の導線で繋《つな》がれている。導線にそって視線を流すと、襟《えり》の奥に垣間見える首筋には、親指大の真空管が虫の卵のようにびっしりと植わっている。
電卜《でんぼく》易断器。特定の事象の行く末を2n[#「n」は上付き小文字]のケースに場合分けする過程で実事象の流れに共振し、共感効果《フレイザーエフェクト》によって一つのケースを抽出する予言器械。的中率は予言時刻のスパンに反比例するが、一秒以内ならほぼ一〇〇%だ。占卜結果は電気刺激の形でランドーの神経系に直接伝達される。
「ぬしは頭の中に式鬼《シキ》を飼っておったな。名を、確か……」
――まずい!
ビリーはナイフを投げつけた。
否。
「『まくすゑる』!」
ランドーが一瞬早い。
「『うぬがあるじを縛れ』」
無論、〈マクスウェル〉にはビリー以外の者からの命令をキャンセルするよう条件づけがなされている。だが、ランドーの発する呪言《じゅげん》は〈マクスウェル〉の識別錠を易々《やすやす》と突破した。
〈マクスウェル〉はビリーの運動神経を掌握。ナイフを振りかぶったまま、ビリーは凍りついた。
ランドーはゆっくりと歩み寄り、ビリーの懐から黒い記録符《ディスケット》を抜き出した。
「最後の一体[#「体」に傍点]……ようやく戻ったか」
ランドーは隻眼《せきがん》をすがめて記録符《ディスケット》を透かし見た。
「贄はなし[#「贄はなし」に傍点]、か。それでも起こすことはできよう[#「それでも起こすことはできよう」に傍点]が、さて……新たに贄《にえ》を求めるか?」と、〈アレフ〉を見やるその首筋で、真空管の群れが、ジジ、と音を立てた。
「おう……『艮門《うしとらのもん》より客|来《きた》る』……か。しからば、急がねばなならぬ、な」
ランドーはビリーのナイフをひょいと取り上げ、
「対不死《アンチ・アンデッド》ナイフで心の臓をひと突き、首を落とした後にのうかん[#「のうかん」に傍点]を破壊……だったな?」
[#改丁]
第七章 死神は死人を相手にしない
[#改丁]
『……少佐…』
ビリーにささやきかける者があった。
『……ナイトウォーカー少佐』
姿は見えない。今のビリーに視覚はない。視覚だけではない。五感のすべてが断たれている。彼の肉体は機能していない。今の彼は死者に等しい。生ける死者ではない。死せる死者だ。
その彼に触れる者がいる。その感触には覚えがあった。
『…いよーう、ジニー。久しいな。「何番目」だ?』
『「九番目」』
前に会ったのは吸血鬼殲滅戦《ヴァンパイア・ハント》の頃《ころ》だったか。そのときはまだ「三番目」…いや「四番目」か? また記憶が飛んじまった。後で〈マクスウェル〉に訊いてみなければ。
『……ところで、俺《おれ》の体は今、どんなだい?』
V9が笑う気配がした。
『どんなでもないわ[#「どんなでもないわ」に傍点]』
『なに?』
『だって……ない[#「ない」に傍点]もの』
ビリーの胴体はここにはない。首を切られ、後頭部を大きく破壊された生首。それが、今ある彼のすべてだ。
『そうか……ま、ないもんはしょうがない。グッバイ、再見《ツァイチェン》、アディオスアミーゴ、ホナさいなら』
いかに吸血鬼《ヴァンパイア》といえども、脳の中枢を破壊されてはおとなしく滅する他《ほか》はない。脳幹の発する再生命令を〈マクスウェル〉に代行させることもできるが、再生力の源である心臓がなくては話にならない。吸血鬼《ヴァンパイア》の脳組織の耐久力がビリーの意識をかろうじて現世に留《とど》めてはいるが、もはや肉体を再生する手段はない。組織の壊死《えし》共に〈マクスウェル〉も分解するだろう。お手上げだ。
人ならばどことも知れぬあの世とやらに行くこともあるかも知れないが、吸血鬼《ヴァンパイア》は消滅するのみだ。跡形もなく。
『それなんだけどね……』
V9は意味ありげな間を置き、
『あたしたちでなんとかできるかも知れないんだけど』
『「あなた次第でね」ってか。条件は?』
魔女との取り引きは高価《たか》くつくというが、浮世に未練がないでもない。
『力を貸して欲しいの、ナイトウォーカー少佐』
アーヴィング・ナイトウォーカー少佐。吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》隊長。〈ケイオス・ヘキサ〉市内の吸血鬼《ヴァンパイア》をほぼ完全に掃討するも、第五次|吸血鬼殲滅戦《ヴァンパイア・ハント》において吸血鬼化。隊員全二五名およびヘルシング計画の主要推進者をすべて殺害。逃亡の末、呪装戦術隊《S.E.A.T.》の包囲を受け、死亡。
公式記録では、そうなっているはずだ。
『そんな奴《やつ》は知らんね。人違いだろう?』
V9の出方を見るために、ビリーはあえてとぼけてみせる。
『それじゃ、〈ロング・ファング〉とお呼びしましょうか? それとも、私立探偵ウィリアム・龍《ロン》氏に調査の依頼ってのはどうかしら』
すべてお見通しってわけか。ちぇっ。
『あたしたちはある人物を追っているの。あなたと同様、「〈ケイオス・トライ〉の惨劇」の主要登場人物の一人。東洋人のテロリストで、名は――』
『ランドーか! よし、引き受けた!』
それから、いつもの癖でつけ加える。
『報酬《ギヤラ》は一日二万、必要経費は別途請求』
V9はくすくすと笑い、
『料金の交渉はまた後で』
ビリーの首の半ば潰《つぶ》れた切断面から神経と血管が注意深く選《よ》り出され、亜生体チューブに接着された。チューブの末端は拳《こぶし》大の白い塊、人工心臓につながっている。
処置をした医師たちは血管とチューブが完全に癒着したのを確認すると、早々に退散。
医師の退出を待って、人工心臓に起動信号が送られた。同時に〈マクスウェル〉が再生命令を発信。半透明のプラスティック製人工心室の中に真っ赤な血液が突如生じ、血管を再生しつつ、ビリーのまだない全身[#「まだない全身」に傍点]に送り出される。
一〇秒後、ビリー・龍《ロン》の肉体は完全に再生した。
「まったく、あきれたしぶとさね」
透き通る青い瞳《ひとみ》が、傍らで笑っている。
「男はタフでなければ生きていけない」
皮肉な笑いを片頬《かたほお》に浮かべながら、ビリーは自分の胸から生えた二本の起動コードを引き抜いた。五センチほどのコードがずるりとぬけ、胸元に二筋の血が流れる。
「……タフすぎると死んでもいられない」
掌《てのひら》で胸を拭《ぬぐ》うと、傷はすでに治癒している。
医務室かなにかだろう。ビリーが横たわっていたのは一〇メートル四方の白い部屋の中、床に描かれた無菌法陣の中央の白いベッドだ。周囲には白い医療機器に白いキャビネット、白い天井、白い壁、白塗りのドアを背にした、黒い人影。
黒革のコートに黒いブーツ。黒い制帽の正面には眼《め》をかたどった徽章《エンブレム》。そして右手には、巨大な黒い呪力増幅杖《ブースターロッド》。
「ブラックロッド!」
ブラックロッドはすべての魔物の天敵だ。ビリーはひと声叫ぶとブラックロッドにベッドのマットを投げつけた。ブラックロッドは即座に『呪弾《ブリット》』を圧唱《クライ》、マットはウレタンの破片をまき散らして弾《はじ》け飛ぶ。
ビリーはその隙《すき》に逃走経路を確認。ドアはブラックロッドの後ろ。窓はない。通風口、狭すぎる。床、壁、天井――
ビリーは垂直に跳躍、室内灯を叩《たた》き壊す。室内は闇《やみ》に包まれた。闇は吸血鬼《ヴァンパイア》に味方する。ブラックロッドは霊視眼《グラムサイト》で室内を走査。だが、吸血鬼《ヴァンパイア》は捉《とら》えるべき気配を持たない。
前方に空を切る音。ブラックロッドは紙一重に身をかわす。ビリーの体が破壊的な速度で通過し、ドアに打ち当たる。
分厚い鋼板のドアが変形し、光が差し込んだ。ドアだけではない。薄明かりに浮かぶビリーの体は、肩が潰れ、首はあらぬ方向にねじれてしまっている。
だがそれも、ひと呼吸の間に再生する。
二度目の体当たりが蝶番《ちょうつがい》を破壊したとき、『捕捉《ホールド》』の呪文《じゅもん》がビリーを捉えた。体の自由を失ったビリーはへこんだドアと共に廊下に倒れ込む。
吸血鬼《ヴァンパイア》は大概の呪文《じゅもん》に対し、強い耐性を持つ。その虚《うつ》ろな魂は精神に作用する呪的効果を受けつけず、その強靱《きょうじん》な肉体は物理的な効果をものともしない。あるいは、こんな言い方もできる。吸血鬼《ヴァンパイア》として存在することは、それ自体が強力な呪《のろ》いであり、いかなる呪《まじな》いもその上に追加することはできない。
今ビリーが呪縛されているのも、単にブラックロッドの桁《けた》外れの呪力《パワー》に押し切られているにすぎない。通常、被術者の肉体と精神に喰《く》い込み、解呪《ディスペル》されるまで半永久的に効果を持続する捕捉呪文に対して、彼自身はなんの影響も受けてはいない。呪文の効果発生時間が切れれば、即座に行動に移れる。
だが、当然ブラックロッドもそれは承知している。うつぶせに横たわるビリーを見下ろし、低く告げる。
「逃亡は不可能だ。この建物の周囲は太陽灯《サンライト》に照射されている。また、君の新しい心臓には標識器《マーカー》と爆薬がセット済みだ。常時私と交信し、連絡が切れると共に爆発する。あるいは、私が命じたとき、君の肉体との接続が切れたとき、外気に触れたときに」
そこでビリーの理解を待つように一拍置き、
「だが、私は君の敵ではない」
「敵でなきゃ、なんだよ」
ビリーは絞り出すように問うた。
人に害をなす魔物に対し、降魔、公安両局は大きく異なるスタンスをとる。観察・研究及びリスクコントロールの立場をとる降魔局《A・S・C》に対し、公安局の方針は『絶対根絶』。殊《こと》に対魔術・幻獣のエキスパートとして組織され、魔物のつけいる心の隙《すき》を完全に呪的遮蔽《シールド》した魔導特捜《ブラックロッド》に至っては、和解の余地など皆無。すなわち、ビリーとブラックロッドの間には敵対以外の関係は有り得ない。
脳と心臓に呪弾《ブリット》を一発ずつ。それで終りだ。念のため灰になるまで陽光に晒《さら》し、ビン詰めにして呪符《ラベル》を貼《は》り、封印倉庫《バンク》に保管すれば、永久に蘇生《そせい》することはない。
だが、ブラックロッドは霊視眼《グラムサイト》でビリーを見据えつつ、低く告げた。
「私は君の監督者であり、依頼人だ。君の協力を得たい。アーヴィング・ナイトウォーカー」
捕捉呪文の効果が薄れてきた。ビリーはいまだ締めつけられるような感覚を手足に覚えつつ、ゆっくりと立ち上がる。どういうつもりかは知らないが、どのみちこちらに選択の余地はない。
ちらりとV9を見る。V9は悪戯《いたずら》っぽい笑いを返す。やはり、魔女との取り引きは高価《たか》くつく。だが、自由を奪われるなら死んだ方がまし、などと言うつもりはない。どのみち人生とは不自由なものだ。それに、いずれはまた状況も変わる。時間は常に不死者に味方する。
「……やれやれ。判《わか》ったよ、ボス。ま、どうせあんたは一〇〇年もしないうちにくたばるんだしな」
とはいうものの、ブラックロッドはランドーの件が片づけば、すぐにでもビリーを消しにかかるに違いない。それまでに、どうにかして逃げ出すつもりだ。当然ブラックロッドもビリーの考えは予想しているだろう。だが、彼はただ無表情に軽くうなずく。
V9はキャビネットの上にちょこんと座り、二人の化かしあいを楽しげに見守っている。
「ウィリアム・龍《ロン》だ。今はこの名前が気に入ってる。ビリーと呼んでくれ。……あんたのことは、なんと呼べばいい?」
「ブラックロッド」
ブラックロッドは『名前』を持たない。本名は無論のこと、便宜上割り振られたコードナンバーさえも最高機密事項に属する。ブラックロッドはブラックロッド。それ以外の何者でもなく、いかなる個人でもない。
「そうかい、ま、仲よくやろうや、唐変木《ブロックヘッド》」
「ブラック・ロッド」
ブラックロッドは即座に訂正。たとえ戯《たわむ》れにつけられたニックネームであっても、それは彼の精神に入り込む鍵となり得る。
V9がくすくすと笑った。ビリーは肩をすくめ、
「冗談の通じない奴《やつ》は嫌われるぜ」
ブラックロッドは無反応。代わりにV9が肩をすくめ、
「冗談のセンスのない奴も、ね」
別室に移り、そこであてがわれた白い無個性な患者用寝間着をセンスが悪いのサイズが合わないのとぼやきながら身に着けると、ビリーはベッドに腰掛けた。
「……で? 今、ランドーはどこにいる?」
判《わか》らない、とブラックロッド。
「君との接触を最後に、足どりを見失っている」
ブラックロッドが現場に到着したときには、研究所はもぬけのから。ビリーの首だけが転がっていた。厳密には、それすらも吸血鬼《ヴァンパイア》の本性を現したビリーを発見した降魔局《A・S・C》の監視網からもたらされた情報を確認したのみであり、公安局は実質、完全にランドーの後手に回っている。
「マグナスの研究施設《ラボ》を中心に敷いた包囲もすでに突破された」
「はは! たいしたもんだな、公安の捜査網は」
膝《ひざ》を打って笑うビリーに対し、ブラックロッドは無表情に、
「君の意見が聴きたい」
「うむ、素直で結構」
ビリーは足に突っかけていたサンダルを脱ぎ、裸足《はだし》で立ち上がる。
「あんたらにとって、東洋系の神秘学《オカルティズム》に関する無知がなによりのネックだな」
ブラックロッドは否定しない。先をうながすようにうなずく。
「奴《やつ》は奇門に精通している。『奇門|遁甲《とんこう》』は知ってるな?」
「地脈《レイ・ライン》を利用して地の利を得る技術だと聞くが」
「まあそんな所だ。俺《おれ》もそんなに詳しいわけじゃないが……おそらく奴が使ったのは遁甲術の一つ、『縮地法』だな。霊力場のトンネル効果を利用して自分自身を神隠しする術だ。奴にとっちゃ、大出力|霊走路《ケーブル》網のぎっしり詰まったこの都市《まち》は自分の庭みたいなもんだろうよ。どこへ行くのも自由自在だ」
言いながら、ビリーは腕を組み、うろうろと歩き回る。足首をねじり、体をひねる奇妙な歩法。
「――こんな風にな」
ビリーの姿がブラックロッドの視界からかき消えた。ランドーと同様だ。
ブラックロッドはビリーの人工心臓に仕掛けた標識《マーカー》を追跡。D層への瞬間移動を確認。だが、爆破命令は出さない。ウィリアム・龍《ロン》にはまだ利用価置がある。また、吸血鬼《ヴァンパイア》といえども自らの心臓をえぐり出しはするまい。依然として、彼はブラックロッドの手の内だ。
青白く強い光がビリーを包んだ。全身に焼けるような激痛。いや、実際に焼けている。多少の炎では火傷《やけど》もしない吸血鬼《ヴァンパイア》の強靱《きょうじん》な皮膚が、煙を上げて黒く炭化しつつある。
座標計算を誤り、包囲陣の中に飛び込んだのか、と思う。だが|吸血鬼狩り《ヴァンパイア・ハント》に使用される大出力|太陽灯《サンライト》ならば、一瞬で骨まで炭になっているはずだ。
上方から降り注ぐ光から目をかばいつつ、ビリーは周囲を見渡した。青白い光に満たされた部屋の中、一面に並べられたカウチから二〇人ばかりの若い男女が半身を起こしてビリーを見ている。大抵は不健康なまでに健康的な褐色の肌に布地の少ない水着、サングラスにヘッドフォンといういでたちだ。一見してヘルスセンターのサンルームといった光景だが、BGMはなぜか賛美歌。
部屋の中央に突如出現し、聖光灯《ホリィライト》に焦げ出した[#「焦げ出した」に傍点]男を若者たちは呆気《あっけ》にとられて見ていたが、やがて一人の娘が悲鳴を上げると、それを合図に室内は大混乱に陥った。多くは身支度もそこそこに出口に殺到し、その他はカウチに貼《は》りついたまま硬直している。賛美歌をかき消す怒号と悲鳴の中、ビリーは手近な若者からサングラスをひょいと取り上げ(服もどうにかしたいところだが、黒のビキニパンツはいただけない)、窓にはまったステンドグラスを突き破って室外に飛び出す。
窓の外は地上二〇メートル。ビリーは頭から着地、頭蓋骨《ずがいこつ》と頸椎《けいつい》を骨折。首筋をもみながら立ち上がる。ついでに顔と手をこする。炭化した皮膚がぼろぼろと剥《は》げ落ちた後には、新しい皮膚がすでに再生している。
サングラスをかけ、自分の落ちてきた窓を見上げる。いくつかの日焼けした顔がのぞく窓の横の看板には、白く輝く光背を持つ、筋骨隆々、褐色の大男が白い歯を見せて胸を張っている
『聖アーノルド教会《チャーチ》』のネオンサイン。周囲の風景にも覚えがある。四六三番街。五〇五番街の事務所に出るつもりだったのだが、どこで間違えたのか、五〇〇メートルも出現位置がずれてしまった。
周囲に人だかりが出来始めている。もう一度『縮地法』をためす気にはなれない。それほどの距離ではないし、この調子では次はどこに出るか判《わか》らない。ビリーは人込みをかき分け、走り出す。
路駐の車を飛び越え、路地を駈《か》け抜け、事務所まではビリーの足なら一分足らず。公安の手が回るまで、うまくすれば数分の余裕があるだろう。その間に装備を整え、再び追っ手を引き離す。今は「別の仕事」をさせているが、〈マクスウェル〉の手が空きしだい人工心臓の爆破装置に疑似信号をかませ、棺桶《シェル》に籠《こも》って標識《マーカー》を遮断する。そうしておいて、ほとぼりがさめた頃《ころ》、先生《ドク》の所に行って顔を変えよう。名前もだ。
そして、〈ウィリアム・龍《ロン》〉ともお別れだ。かつて〈アーヴィング・ナイトウォーカー〉の顔を得て、〈ロング・ファング〉の名を捨てたときのように。
事務所の戸を開けた途端、中からナオミが飛び出してきた。
「おかえりビリー! あらなにその格好。ま、いいけど。それより、今お客さんがきて――」
ビリーの腕を取って奥へ引き込もうとしたナオミの動きが、はたと止まった。不審な表情を浮かべ、まじまじとビリーの顔をのぞく。
「ビリー……あんた、ほんとにビリー?」
――気づかれた。
ビリーの精神の奥底から、禍々《まがまが》しい衝動が込み上げてきた。
口元が引きつり、牙《きば》を剥《む》き出した獰猛《どうもう》な笑いを形づくる。
――喰っちまうか――今、ここで!
ビリーの脳内で、湧《わ》き上がる吸血衝動とその抑制を最重要命令とする〈マクスウェル〉との間に激しい葛藤が生じた瞬間――
部屋の奥から放たれた捕捉|呪文《じゅもん》がビリーの脚を捉《とら》え、瞬時に全身を呪縛。ビリーはコンクリートの床に顔面から倒れ込んだ。
「ビリー!?」
かがみ込むナオミに向かって、
「その男は、君とは無関係の存在だ」と、衝立《ついたて》の陰から、黒い男。ブラックロッド。
「君はもう帰りたまえ。協力を感謝する」
V9がナオミに近づき、ささやくように後を続ける。
「さあ、もう家に帰って…やることがあるでしょ……ウィリアム・龍《ロン》のことはもう二度と思い出さないし、興味も持たない……そうよね…?」
ナオミは憑《つ》かれたようにふらりと立ち上がり、
「そうだ……物理のレポートやんなきゃ……じゃ、またね」
屍体《したい》のように転がるビリーをそのままに、ぱたりとドアが閉じた。それでおしまい。
ままごとの終りはいつも空《むな》しい。
呪縛《じゅばく》が解け、ビリーは半身を起こした。
「……ありがとうよ」
ぽつりと言う。対象を失った吸血衝動は易々《やすやす》と〈マクスウェル〉に抑え込まれ、彼の表情は再びウィリアム・龍《ロン》のものになっている。
「いつだってそうだ……いつだって俺《おれ》は、自分の大事にしてたものを、自分でぶち壊しちまう。……その後で、自分がどんなにあさましい奴《やつ》なのかってことを、思い知るのさ」
「へえ、自覚はあるんだ」と、V9。
「きびしいな」
「……ま、誰《だれ》も自分の思い通りに生きられるわけじゃないってことよね」
V9はブラックロッドを見上げ、
「誰も、ね」
ブラックロッドは無言。
「そうそう、テレビ見よ、テレビ! 今、いいとこなんだから」
突然明るい口調になって、V9は言った。
「はあ?」
ビリーは呆気《あつけ》にとられてブラックロッドの顔を見る。ブラックロッドは軽くうなずいた。
二九インチのモニターからは土煙と銃声。続いてノイズの入ったレポーターの報告。
『――ええ、そうです。「怪物」は依然として歩(ザッ)める気配はありません。S.E.A.T.、呪装戦術隊の銃撃も効果(ザッ)うです。あっ、榴弾《グレネード》を(ザッ)模様です――』
土煙で埋まっていたモニターがフラッシュし、画像が乱れた。続いて爆音混じりのノイズの塊がスピーカーからぶちまけられる。
聖榴弾《せいりゅうだん》は爆発時に破片と共に仏舎利《ぶっしゃり》や聖遺物の粉末をまき散らす。直撃すれば、中級程度の魔物なら一発で吹き飛ぶ代物だ。
だが……。
土煙が薄れ、「怪物」が姿を現した。ねじくれた手足。胸部の球状タンク。頭部の単眼。全身をのたくるチューブと導線。
「こいつぁ……!」
ビリーは唸《うな》りながら画面に見入った。そのシルエットは紛れもなくマグナス社の研究所で見た〈アルケマトン〉のものだ。しかし、身長は五メートルを優に越えている。
「でかい……育ってやがるんだ」
以前はハリボテじみて見えた器体《ボディ》が、今は有機的な精緻《せいち》さを見せている。さらなる成長を暗示するように生物的に脈動する様は、器械というより新種の生物のようですらある。
「確か、〈ALEF‐1型〉だったよね」
「〈アレフ〉は現在B層中心部に向けて移動中だ。我々はその目的を祈祷《きとう》塔の停止|乃至《ないし》破壊と見ている」と、ブラックロッド。
「なぜ、そう思う?」
「〈アレフ〉の内蔵する電気式|論理器械《プログノメータ》は、いわば電子的な魔方陣《マジック・スクエア》だ。現在、公安本部から盗まれた悪魔《デーモン》が封入されている可能性が高い」
「悪魔《デーモン》って……公安の記録符《ふだ》にゃ、O2の封印《シール》がかませてあるだろうがよ?」
「ええ、通常の方法で読み出そうとすれば、低級霊に変質するわ。でも、何体かを合成して、欠損部分を補完すれば……」と、V9。
「そこで、〈アレフ〉か!」
V9はうなずいた。
「降魔局《こちら》の計算では、生贄《いけにえ》を与えて活性化させた水蛭子《コピー》を一三体用意すれば、〈アレフ〉の論理器械《プログノメータ》内に悪魔《デーモン》を再構成できるはずよ」
「……贄は足りないはずだぜ?」
三つ眼《め》娘の魂は悪魔《デーモン》に喰《く》われたが、パッティはそれ以前に〈|人/器械《ワー・マシン》〉に殺されている。
「そのようね。……今、〈アレフ〉が手当たり次第に人魂《じんこん》を捕食してるのも、おそらくは、それを補うためよ」
「最悪だな」
「〈アレフ〉にどう対処すべきか――君の意見が聴きたい」
「意見もなにも」
ビリーは肩をすくめ、
「機甲折伏隊《ガンボーズ》でも呼んでぶっとばしちまえよ」
「すでに手配済みだ」
モニターに映る「怪物」は、市街地においては確かに脅威だが、市外の荒野を徘徊《はいかい》する地竜や魔神《ジン》に比較し得る存在とも思えない。市立自警軍所属の機甲折伏隊《ガンボーズ》は主に大型幻獣を相手に運用される重呪装《じゅうじゅそう》機甲部隊。市街地に投入すれば、流れ弾だけでその地域一帯は焦土と化すだろう。
ビリーは口笛を吹き、
「やるね」
「だが、ランドーの狙《ねら》いが判《わか》らない」
「判らないといえば、やけに早かったな。おかげでこっちは着替える暇もねえ。どんな交通手段《あし》を使ったんだ?」
「君と同じ『縮地法』を。君の用いた歩法を基本に、霊走路《ケーブル》網の霊力配分《パワーバランス》を考慮して調整を加えた」
「やるね」
ビリーは片眉《かたまゆ》を上げる。
「しかし、あんたらも人が悪いな。俺《おれ》よりよっぽど上手《うま》く跳ぶ……バランスって?」
「〈アレフ〉が破損した際に生じる魔導災害《デモノハザード》に備え、祈祷《きとう》塔への霊力供給が最大限度まで引き上げられている」と、ブラックロッド。
「なるほど。それで都市《まち》中の霊相がずれて、俺は教会のど真ん中に――それだ!」
「『それ』とは?」
「ランドーの狙《ねら》いはその『ずれ』だ! 相の変化によって奴《やつ》が手を出せるようになる所――縮地法の新ルートや結界に穴の開くスポットをチェックしろ!」
ブラックロッドはうなずき、公安本部に交霊《チャンネル》。市内の霊相変化のシミュレーションを指示する。
「しかし、奴の目的はなんだ? 都市堕《まちお》としが目的なら、記録符《ふだ》を壊しゃすむことだしな。……陽動で悪魔《デーモン》に祈祷塔を襲わせて――」
「そのための〈アレフ〉ね。素《す》のままの悪魔《デーモン》じゃ、祈祷塔には近づけない。だから、魔方陣《スクエア》に保護しつつ外界に干渉させる手段として、あの器体をあつらえた…」
「そう、そして自分はこれまで行けなかった場所に行き……それはどこだ?」
丁度そのとき、ブラックロッドに公安局からの情報《インフォメーション》。
「情報が入った。最下層中央付近の工場跡の地下で気密結界が破損、大量の怨念《おんねん》が噴出。五〇〇名以上の非公認市民が中毒症状を起こし、うち六〇名が発狂、一〇余名が死亡」
「……封印空間[#「封印空間」に傍点]か。らしい所[#「らしい所」に傍点]だ」と、ビリー。
「ふうん、工場跡、ね」
V9は微妙な表情を浮かべながら、ブラックロッドを見上げる。
「あたしたち[#「あたしたち」に傍点]の想《おも》い出の場所ね」
ブラックロッドは無言。だがその左|頬《ほお》には、紅《あか》い傷跡が涙のように浮かび上がっている。
血流調整。傷跡は薄れ、消える。
[#改丁]
第八章 生ける死者に安息はない
[#改丁]
〈ケイオス・ヘキサ〉基部。ねっとりと熱く冷たい[#「熱く冷たい」に傍点]高濃度の怨念《おんねん》に満たされたそこは、虫一匹|棲《す》まぬ死の空間だ。闇《やみ》の中に、空気自体が暗く禍々《まがまが》しい輝きをぼんやりと放っている。はるか上方で最下層の床板を支える無数の巨大な柱が、ときには規則的に、ときには不規則に並ぶ他《ほか》は、建築物一つない。
封印空間。〈ケイオス・ヘキサ〉の底、最下層のさらに下にぽっかりと存在する、巨大な霊場、『あかずの間』だ。
おおおん、と柱の一本が唸《うな》った。呼吸するように、遠く離れた数本の柱が唸り返す。
唸る柱の一本に、手を触れるものがあった。むらのある赤い薄明をくり抜く、人型の影。
〈影男《シャドウ》〉、ゼン・ランドーだ。
ランドーは柱に向かって呟《つぶや》く。
「……いましばらく、いましばらくの辛抱ぞ」
そして、深く息を吸い込んだ。
「封印空間にあるものといえば、都市の支柱に、腐るほどの怨念、手つかずのだだっ広い空間。それだけだ。そこで奴《やつ》がなにをするかといえば……」
ビリーは手にした|E《エンチャント》マグナムの装弾を確認。ミスリルチップ・ハローポイント弾、六発。シリンダーを戻し、ショルダー・ホルスターに突っ込む。
「やっぱ、怨念《おんねん》の採集が目的か? 最下層の連中を即死させるほどの濃度だ。いい『人蠱《じんこ》』が出来るだろうよ」
「『人蠱』とは?」
無表情に問うブラックロッドに、
「人間を素材にした『蠱毒』さ」
「それは判《わか》る。だが、封印空間の怨念は、この地に封じられた地霊のものと聞くが」
「ああ、そういうことになってる[#「そういうことになってる」に傍点]んだっけな。……嘘《うそ》っぱちだよ」
対不死《アンチ・アンデッド》ナイフを抜き出し、切っ先の鋭さを確認。
「バベル型積層都市の支柱には、大量の有魂建材が使われてる。文字通りの『人柱』さ」
「有魂建材……」
「それくらいは知ってるだろう? 鉄骨一本に一人の生贄《いけにえ》。確かに強度は増すが……年経るにつれて、大量の怨念を放出するようになる。慌ててそこに封印をして、最下層を緩衝空間に指定、最上層には祈祷《きとう》塔を建てたが、しょせんはドロナワだ。なにも解決しちゃいない……解決しようがない。神様がゴンドラに乗って地上に降りてこない限り、な」
護法胴着《チャームドジャケット》を羽織る。武器や靴を始め、吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の装備は大量に確保してある。仕上げにサングラスをかけて、
「待たせたな。……行くか」
赤くもやのかかった空間が揺らぎ、三つの人影が実体化した。
ブラックロッド、V9、ビリー・龍《ロン》。
三人を取り巻く怨念は、常人なら即死を免れない濃度だ。だが……
「おかしいわね……薄すぎる[#「薄すぎる」に傍点]」
V9は周囲を見渡した。彼女の眼《め》は肉眼より確実に、微妙な『気』流を捉《とら》える。
疑問はすぐに解けた。
怨念はゆるゆるとした流れとなって、一つの方向に向かっている。その行き着く先は、穴のようにぽっかりと暗い、人型の影。
ランドーは怨念を吸い込む動作を止め、三人の方に向かって薄く嗤《わら》った。
おおおん、と、柱が鳴いた。
まっすぐにV9を見つめ、
「あれは、どうなった?」
「ああ、〈アレフ〉ね。おあいにくさま。今さっき、機甲折伏隊《ガンボーズ》の一斉射撃で破壊されたそうよ」
「そうか」
V9は肩をすくめ、
「ま、そうがっかりしないで。あれはあれで、なかなかのもんだったわよ」
次いで、ランドーはブラックロッドに向き直り、
「きたな、くろすけ[#「くろすけ」に傍点]……待ちかねたぞ」
ブラックロッドは無言で杖《ロッド》を構えた。呪文編纂機《スペルコンパイラ》とはすでに交霊《チャンネル》し、対ランドー用の呪文《じゅもん》を設定してある。
ブラックロッドの精神の奥底から、なにかが浮上してきた。
――これはなんだ?
久しく忘れていた『その感覚』の名を、ブラックロッドは思い出した。
怒り、だ。
それは瞬く間に膨れ上がった。ブラックロッドは反射的に精神拘束《ゲアス》を強化。体外に噴き出そうとする怒りを、無理矢理抑え込む。
「こぬかよ、くろすけ[#「くろすけ」に傍点]……恨みを晴らさぬのか?」
ランドーが嗤《わら》った。
初弾が勝負だ。ランドーに対し、精神拘束《ゲアス》や身体施呪《フィジカル・エンチャント》に意識を割く余裕はない。意識容量のほとんどを、ぎりぎりまで初弾に投入する。
「あの娘……じにい[#「じにい」に傍点]というたか」
ドクン、と心臓が脈打ち、精神の内圧が高まった。だが、ブラックロッドはかろうじて平静を維持。ランドーを照準《ポイント》し、タイミングを計る。
ランドーの口が薄く開き、紅《あか》い舌が蛇のように閃《ひらめ》いた。
「魔女の魂というは[#「魔女の魂というは」に傍点]、なかなかの美味であったぞ[#「なかなかの美味であったぞ」に傍点]」
「!」
ブラックロッドの怒りが爆発的に膨脹《ぼうちょう》した。精神拘束《ゲアス》を打ち破り、全身から炎のように噴き上る。
「――ランドー!!」
ブラックロッドは呪文《じゅもん》を圧唱《クライ》。呪文は以前と同様|呪弾《ブリット》ベースだが、さらにアレンジが加えられている。
発射された呪弾《ブリット》は三条の塊に分かれた。それぞれが微妙に周期をずらし、単一の手段では阻止できないように、刻々と属性《アライメント》を変える。
三条の呪弾《ブリット》はランドーを取り巻くように機動、直前でさらに散開し、一斉にランドーに着弾。
ランドーは大きくよろめいた。無数の穴の開いたマントの下に、赤黒い血がぼたぼたと落ちる。だが……
口から血の塊を吐きながら、ランドーはにたりと笑った。
「それだけか……?」
ブラックロッドが吠《ほ》えた。
「おおおおお……!!」
獣じみた咆哮《ほうこう》を上げながら叩《たた》きつけるように杖《ロッド》を構え、ランドーを照準《ポイント》。意識容量の配分を無視し、たて続けに『呪弾《ブリット》』を呼出《コール》。最大|呪力《じゅりょく》で圧唱《クライ》、圧唱《クライ》、圧唱《クライ》、圧唱《クライ》、圧唱《クライ》。
おおおおおん、と、封印空間が鳴動した。次いで――
不意の静寂が、周囲を支配した。
ランドーの肉体は再度無数の呪弾《ブリット》に貫かれ、襤褸《ぼろ》切れのようにくずおれた。同時にブラックロッドも、限界を越える呪唱《じゅしょう》のため虚脱状態に陥り、がくりと膝《ひざ》を突く。
「やけに呆気《あっけ》ないな。……ちょいと旦那《だんな》を頼むぜ」
ビリーはV9に言い置き、|E《エンチャント》マグナムを片手にランドーに歩み寄る。
放心したブラックロッドの精神に触れるものがあった。
その、か弱く暖かな感触。
『ジニー[#「ジニー」に傍点]――か?』
『ええ』
『すべて、終わった』
『そうね』
『……君と別れる前に、言っておくことがある』
『なにかしら?』
『君に会えて……もう一度君に会えて、よかった』
くすくすと、笑う気配。
ビリーはランドーの体を注意深くつま先で転がした。先ほどから感じている微妙な違和感が、どうにも拭《ふ》い切れない。ただの物体と化した肉の塊が、黒い血|溜《だ》まりからごろりとはみ出る。
違和感の正体が判《わか》った。
ランドーの肉体に、影がない。
ランドーは影を使う。本体を影に乗せ、肉体を捨てて逃げたとしても不思議はない。
「くそったれ……尸解《とんずら》しやがった!!」
ブラックロッドに強制|交霊《チャンネル》を試みるものがあった。ブラックロッドは反射的に精神拘束《ゲアス》を強化。交霊者《チャネラー》を確認。
交霊《チャンネル》を試みていたものは――
『V9からBRへ――そいつは、あたしじゃない[#「あたしじゃない」に傍点]!』
――!?
ブラックロッドの脳の中にいるものが、ゆらりと笑った。
『わたしはわたし……あなたの知ってるジニー[#「あなたの知ってるジニー」に傍点]よ』
『V7か――!?』
『「ジニー」って、呼んで』
『いや……ランドー!』
それはみるまに変質した。禍々《まがまが》しい感触が、
『うっふう』と笑う。
ブラックロッドは補助記憶から祓魔式《ふつましき》を呼出《コール》。
『いやよ、追い出さないで』
それは再びV7の感触をまとった。ブラックロッドの思考が乱れる。
『祓《はら》うことはできぬ』再び、ランドーに。
『あなたの中、とても暖かいわ』
『そして、柔らかく、脆《もろ》い』
それはV7とランドーの人格を交互にまとい、ブラックロッドに語りかける。
『この人はとても優しい人』
『殊《こと》に、魔女にはな』
『なぜだと思う?』
『なぜだ?』
『「魅了《チャーム》」の呪文《じゅもん》よ』
『ほう』
『彼の精神に潜ったとき、こっそり仕掛けておいたの』
『なるほど』
『……やめろ』
『でも、本当はかわいそうな人なの』
『なにゆえに?』
『この人にはなにもない。大事にするものも、情熱を傾けるものも、自分に誇りを持つこともない。奴隷の扱いを受けているのに、それに気づくことさえない』
『哀れなものだ』
『やめろ!』
『だからこそ、こうも簡単に引っかかったのね』
『なにに?』
『降魔局《A・S・C》のあつらえた、陳腐なシナリオに』
『ほう、うぬらは浄瑠璃《じょうるり》も書くかよ』
『この人は売られた[#「売られた」に傍点]の。魔女にまんまと喰い破られた、虫喰いの精神《こころ》のままで歩き回れば、後は侵入し放題』
『なんとも買い得[#「買い得」に傍点]ではあったな』
『やめろ……!!』
『みんな嘘《うそ》よ! ……聴いちゃ駄目!』
V9の叫びも、もはや届かない。
ブラックロッドの左|頬《ほお》の傷跡から、血が――血の涙が、噴き出した。精神拘束《ゲアス》が解ける。
その瞬間――
地表を影が走った。
影――ランドーの本体は、黒革のコートを駈《か》け登り、左|眼《め》に飛び込む。眼球を潰《つぶ》し、脳内に侵入。
ブラックロッドの体がのけぞった。
熱く冷たい感覚が、脳髄に染み渡る。
「…ブラックロッド!」
杖《ロッド》が、がらんと落ちた。
「どうした!?」
ビリーが駈け寄った。
「ふぅ……」
仰向けに倒れるブラックロッドの口から、息が漏れた。ビリーとV9の見ている前で、その口角が、きゅう、とつり上がる。
「ふ……はぁ」
嗤《わら》っている。
ブラックロッドが、嗤っているのだ。
「は、は、は、は、は」
嗤い声は次第に低く、耳を聾《ろう》せんばかりに大きくなっていった。
あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、
それはすでに声ではない。音と呼べるものですらない。致死量をはるかに越える怨念《おんねん》を含む低周波が、大地を揺るがし、周辺一帯の空気を魔界さながらに震わせる。
揺れる大地に突き上げられるように、ブラックロッドの体が跳ね上がった。直立し、天を仰ぎ、神を、おのれを、この世に在《あ》るものすべてをあざ嗤う。
その顔面に、ありとあらゆる感情が現れ、消える。ブラックロッドは嘲《あざけ》り、怒り、哀《かな》しみ、慈しみ、なおも嗤《わら》い続ける。
振動が、止《や》んだ。
哄笑《こうしょう》を止《と》めたブラックロッドが、ビリーとV9に向き直った。眼球の代わりに血の塊が詰まった左|眼窩《がんか》から大量の鮮血が流れ出し、顎《あご》を伝ってぼたぼたと落ちる。顔面の左半分を真赤に染めながら、なおも薄く嗤うその表情は……
「……ランドー……!」
「如何《いか》にも」
ビリーの言葉に、ブラックロッド=ランドーは鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「そうか、最初からそれが狙《ねら》いか……|ブラックロッド《そいつ》の躰《からだ》が」
「如何にも、如何にも。……今こそ儂《わし》は『力』を得た」
ランドーは傍らに転がる呪力増幅杖《ブースターロッド》に手を伸ばす。ランドーの影が地表を伸び、杖《ロッド》の下でぐう[#「ぐう」に傍点]と膨《ふく》らみ、杖《ロッド》を持ち上げる。杖《ロッド》はふわりと直立すると、ランドーの手の中にすう[#「すう」に傍点]と収まった。
「此《これ》にある者は当代きっての術者《つかいて》の一人《いちにん》なれば、この身を阻む呪《まじな》いなく、この身に解けぬ呪いなし。然《さ》らば、今こそ――」
ランドーの顔が、人形からくりを思わせる唐突きでその表情を変えた。阿修羅《あしゅら》のごとき、凄《すさ》まじい憤怒《ふんぬ》の形相。
「呪《のろ》われよ、呪われよ、呪われよ! 我らを永劫《えいごう》の業苦《ごうく》の内に打ち捨てたる者、我らにその業《ごう》のすべてを負わせたる者、我らが苦悶《くもん》の上に楼閣を打ち建て、その内に安寧《あんねい》を貪《むさぼ》る者、それらを識《し》りて是《よし》とする者、識らずして安逸に日を暮らす者、それらすべての者よ……呪われよ!!」
「……やれやれ、なんとも壮絶なひがみ根性だな」
ビリーは肩をすくめ、
「同情して欲しけりゃ、階上《うえ》行って署名でも募《つの》ったらどうだ? 慈善家《ものずき》ってのは結構いるもんだぜ」
対してランドーは、
「笑止な。我が思考《おもい》のすべては怨恨《うらみ》、我が行動《おこない》のすべては呪詛《のろい》。呪いより生じ、呪うために在《あ》るこの儂《わし》に、呪うことより他《ほか》になにができようか」
「……なるほどね、やっとあんたの正体が特定できたわ、ゼン・ランドー」
V9が割って入った。
「正体?」
V9は霊体を伸ばし、ビリーに接触。
『大体の見当はついてたんだけどね、ビリー。彼は人間じゃない』
『そりゃそーだ』
『旧日本帝国軍が用いた戦術級|蠱毒《こどく》、〈伝屍兵《でんしへい》〉よ』
『…「人蠱《じんこ》」の一種か!?』
『そう。しかも自己増殖構造の。前大戦の終戦時にすべて処理されたはずが、彼は一〇〇年を生き延びたのね。〈伝屍兵《でんしへい》〉は怨念《おんねん》を呼吸し、怨霊《おんりょう》を無限に取り込み続ける。彼の本体を構成する「影」――高密度霊体の量からみて…おそらくこれまでに数万人の贄《にえ》を取り込んだはずだわ』
『厄介だな。祓《はら》うにその数倍の贄を使わにゃならんぜ』
『ええ。でも、祓えなくても、封じる方法はある』
『封じるか、儂《わし》を』
ランドーが嗤《わら》った。交霊経路《チャンネル》への割り込みは、ブラックロッドの特権の一つだ。
「できるか、それが」と、今度は口に出して言う。
「ま、ものは試しだ!」
対|憑依《ひょうい》戦のセオリーは、第一に対象の依代《ホスト》の無力化。ビリーは|E《エンチャント》マグナムを構え――。
「ビリー!!」
V9の叫びに構わず、ひと呼吸で全弾発射。銃身の呪化旋条《エンチャント・ライフリング》によって加速、呪化《じゅか》された六発のミスリルチップがランドーを襲う。
ランドーは自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》を『幸運《ラック》』に設定。ランドーの意識容量は人間の域をはるかに越える。おびただしい呪力を注ぎ込まれた自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》は白色に発光。弾丸は大きくランドーを避け、周囲の器物を破壊。
ビリーは短く舌打ちすると、銃を捨て、ランドーに突進。〈マクスウェル〉に命じ、人工心臓の調速装置《クロック》を変調、臨界稼働《フルドライブ》。胸の奥でモーターが唸《うな》り、工業用ポンプに匹敵する圧力に耐えかねて全身の毛細血管が破裂する。ビリーの肉体は爆発的に加速。全身を紅に染め、長い血霧の尾を引き、ランドーに肉迫。
ランドーは『呪弾《ブリット》』を圧唱《クライ》。ビリーは呪弾《ブリット》をかわしたためにコースをそれ、ランドーの傍らを唸りを上げて通過。紅を含んだ突風がランドーに吹きつける。
ランドーは振り向きざまに、
「『まくすゑる』……!」
ビリーの速度を見誤ったランドーの判断ミス。ランドーが続く命令をマクスウェルに下すより速く、ビリーは正面の鉄柱を蹴《け》って反転。拳《こぶし》を振り上げ、ランドーの正面に。加速度のついた吸血鬼《ヴァンパイア》の拳は人間の頭部を一撃で粉砕し得る。ビリーの勝利は確定した。だが――
『駄目よ、ビリー!』
ビリーに強制|交霊《チャンネル》したV9がその肉体を制動。彼の動きが切れを失った一瞬を突き、ランドーはビリーの体を薙《な》ぐように杖《ロッド》をさばく。キュン、と呪唱音。『切断《ハック》』の呪文。極限まで研ぎ澄まされた呪力の刃がビリーの頸部《けいぶ》を切断する。
吸血鬼《ヴァンパイア》といえども、脳と心臓が切り離されては再生能力が格段に低下する。ビリーは素っ飛びかけたおのれの首を右手でキープ。頸部《けいぶ》の切断面に押しつける。
即座に治癒、固定されかけた頭部を、ランドーの呪弾《ブリット》が襲った。貫通力より衝撃力を取り、あえて収束されることなく放たれた呪力《じゅりょく》の塊が、ビリーの頭をビリヤードの玉のように弾《はじ》き飛ばす。
ビリーの頭は血液をまき散らしながら二〇メートルほど転がり、水音を立てて|下水口に落ちた《ポケット》。残された胴体も、前のめりに倒れ伏す。
ランドーはそれに目もくれず、V9に向き直った。
「まずは礼を言おう……して、これよりぬしはなんとする? ぬしを生贄《いけにえ》として塗炭《とたん》の宿業《さだめ》の中に置きながら、自らは安穏《あんのん》と過ごす輩《やから》に義理立てするか?」
「さもなきゃあんたと一緒に世間に復讐しようって? 意外と気さく[#「気さく」に傍点]なとこ、あるじゃない。それともその科白《せりふ》はあんたの中の|V7《あたし》が言ってるのかしら?」
V9はくすくすと笑い、ランドーを値踏みするように眺めた。
ランドーはV9を正面から見据え、薄く笑った。
「これより儂《わし》は『仕事』に移る。ぬしの助けあらば、ことはさらに容易に運ぼう」
〈伝屍兵《でんしへい》〉は本能的に怨念《おんねん》の濃度の高い地域に赴き、怨霊《おんりょう》を吸収し、自らの霊的密度を強化する。彼の言う「仕事」とは、自らの「同類」である〈ケイオス・ヘキサ〉の基礎部分に封じられた人柱を、解放・吸収することだ。当然、基礎を失った都市は物理的/霊的に壊滅的打撃を受け、|奈落堕ち《フォールダウン》に追い込まれるが、ランドーは意に介さない。むしろ、あらゆる生者に対する怨念《おんねん》の塊であるランドーにとって、それは望むところだ。
しかし、積層都市基部に用いられる有魂建材は、最高レベルの多重封印によって呪縛《じゅばく》されている。その封印は強固であり、方術を究めたランドーにすら解くことができない。
だが、ブラックロッドなら。
ランドーがブラックロッドの魂と肉体を手に入れようとしたのはそのためだ。魔導特捜《ブラックロッド》の呪文編纂機《スペルコンパイラ》は、理論上、時間さえかければ〈ケイオス・ヘキサ〉において使用されているあらゆる呪術を解呪《ディスペル》できる。有魂建材の封印さえもだ。
ランドーはV9に、それに協力しろと言っているのだ。
「…そうね。あんたのしてること、人が言うほど外れちゃいないと思うよ。あたしも『こんな都市《まち》、さっさと潰《つぶ》れちゃえ』ってよく思うもの」
V9はまっすぐに頭上を見上げた。暗く、どこまでも続く有魂建材の支柱の彼方に、床下から漏れる街の灯が、星のようにちらちらと瞬いている。
「ならば――」
「せっかくのお誘いだけど、お断りするわ」
ランドーに向き直ったV9の顔には、哀れむような微笑《ほほえ》みが浮かんでいた。
「あんたはここでおしまいだもの」
目も眩《くら》む光が上方から二人を照らした。
ランドーは右目を細め、上方を仰ぎ見た。光源は三つ。『光焔《ルミナス》』の呪文《じゅもん》。各々の杖《ロッド》の先にまばゆい白炎を灯《とも》した、三人の黒い男[#「三人の黒い男」に傍点]。直立姿勢のまま、自由落下に近い速度で降下してくる。
三人の男は地表寸前で慣性をキャンセル。浮遊呪文《レビテーション》を解き、ランドーを囲む正三角形を描いて、音もなく着地。
「うぬらは……!」
ブラックロッドは答えない。ランドーが魔物と確認された以上、答える義務はなく、必要もない。三つの霊視眼《グラムサイト》が無言のままランドーを見据える。
ランドーは『呪弾《ブリット》』を圧唱《クライ》。常識をはるかに越える高速、高密度の呪弾《ブリット》が、爆発音と共にランドーの正面のブラックロッドに飛ぶ。ブラックロッドは左|掌《てのひら》を前方に。呪弾《ブリット》は呪盾《シールド》に弾《はじ》かれる。
呪法《じゅほう》戦において問題とされるのは、呪力《パワー》よりむしろその属性だ。対象の霊的属性《アライメント》に合わせ的確な対応をすれば、いかに強力な呪法も無効化できる。
そして、今ランドーが使える呪文は、すべてブラックロッドの手の内だ。
残り二人のブラックロッドも同様に左手を上げた。強力な呪盾《シールド》に三方から挟まれ、ランドーは躰《からだ》の自由を失う。
ランドーは呪文編纂機《スペルコンパイラ》に交霊《チャンネル》――できない。周囲を囲む呪盾《シールド》が結界を成し、交霊《チャンネル》を妨害している。ブラックロッドの肉体《ボディ》を捨て、尸解《しかい》――できない。そのための光焔《ルミナス》だ。三方から強力な光を受けているランドーには、乗るべき影[#「乗るべき影」に傍点]が出来ない。
「『力』を望んでブラックロッドの躰に入ったのが、あんたの敗因ね」
結界の外から、V9が言った。
「その躰《ボディ》はあんたに能力《ちから》を与えるけど、同時に属性を固定する。あんたが厄介だったのは、あんたが『わけの判《わか》ンない化物』だったから。……いくら呪力《パワー》があっても、一人のブラックロッドじゃ三人のブラックロッドにはかなわない。もっとも、普通《ただ》の化物ならブラックロッドが三人――あ、四人か――も出張《でば》るなんてことはないけどね」
三人の黒い男は左手を前に、じりじりと包囲の輪を狭めていく。ランドーはすでに口をきく事もできない。かろうじて自由になる右|眼《め》だけがぎょろりと動き、一瞬V9と視線を合わせる。
その瞳《ひとみ》の中に、無数の感情が渦巻いていた。憤怒《ふんぬ》、憎悪、軽蔑《けいべつ》、自嘲《じちょう》、そして憐憫《れんびん》と共感。
「――それにね、ブラックロッドの躰はそれ自体が強力な結界なのよ。交霊経路《チャンネル》を閉じちゃえば、なにも侵入できないし、なにも出ていけない。あんたは自分から蛸壺《タコツボ》にハマり込んじゃったわけ」
ブラックロッドの一人がランドーに近づき、その額の素子《チップ》と左|眼窩《がんか》に呪符《じゅふ》を貼《は》った。封印完了。
「さよなら、ランドー」
V9は光焔《ルミナス》を背に、暗がりの中に歩いていく。
ビリーの頭部はV9に拾い上げられ、胴体に戻された。切断部は一秒で癒着。ビリーは地面にあぐらをかき、髪をかき上げる。血に濡《ぬ》れたシャツに髪から滴《したた》る下水が染みていく。
「……やれやれ、死ぬかと思ったぜ」
物言いたげなV9の視線に気づき、つけ加える。
「死んでるけどな」
遠く煌々《こうこう》と見える明かりの下、三人の黒い男が横たわる黒い男にかがみ込むようにしてなにかの処置を行なっている。各々体格や肌の色は違うが、黒革のコートと共に一様の雰囲気をまとい、一見して見分けがつかない。互いにひと言も発することなく、昆虫のように黙々と作業を進めている。
「愛想のない連中だな」
ぽつりとビリーが言った。
「どいつもこいつも見分けがつかねえ……いや、一人だけはつく、か」
ビリーは横たわるブラックロッドを見やり、その顔を思い浮かべようとした。目鼻の造りは模糊《もこ》として思い出せないが、左|眼《め》を通る紅《あか》い傷跡がはっきりと脳裏に浮かぶ。
「奴《やつ》らは互いのことをどう思ってるんだろうな。まるで分身《ドッペルゲンガー》だ。自分自身との見分けもつかないんじゃないのか?」
V9はそれに答え、
「彼らには『自分』なんて考えはないのよ。たとえロッドが一〇〇本集まっても、ブラックロッドはブラックロッド。一人とおんなじ。『自分』もなければ『仲間』もない。ただ状況に反応するだけ」
「……友もなく、恋人もなく、おのれさえもなく……か。死人だな、まるで」
「封印空間《ここ》で生きていけるのは、死人だけだもの」
「違いない」
――だから奴は死に、俺《おれ》は生きている。
ビリーは再び『|傷持ち《スカーフェイス》』を見た。V9はその視線の先を追い、
「あの『印《しるし》』がついたとき……いえ、V7との接触の過程で『自分』を意識したとき、彼はすでにブラックロッドの資格を失っていた……『死人』ではなくなっていたのよ」
「だから、死んだ」
「そう」
二人の目の前に、きらきらと燐光《りんこう》が舞い降りてきた。結界のほころびから迷い込んだのだろう、一体の沙弥尼《シャミニ》。沙弥尼《シャミニ》は手近な屍体《したい》――ビリーの傍らで空中に静止し、ビリーの言葉を待つように小首をかしげる。
ビリーは沙弥尼《シャミニ》に硬貨を放ってやり、『|傷持ち《スカーフェイス》』を顎《あご》で示した。
「……奴《やつ》の魂のために、祈ってやってくれよ」
沙弥尼《シャミニ》は両手を合わせて目を閉じ、鈴のようにさえずる。
『なむからたんのーとらやーやー』
V9がビリーに向かって、ねだるように手を差し出した。ビリーが硬貨を渡してやると、それを沙弥尼《シャミニ》に放り、
「ランドーと、『七番目のあたし』のために」
『なむからたんのーとらやーやー』
「それから……」
――それから、どこかでよろしくやっている、この俺《おれ》の魂のためにも。
ビリーがもう一枚硬貨を放った瞬間、沙弥尼《シャミニ》は光の粒になって弾《はじ》け飛んだ。硬貨はむなしく空を切り、路面に小さな金属音を立てる。
『一〇八回目』だ。
「…くそったれ」
ビリーは舌打ちし、ズボンの尻《しり》をはたきながら立ち上がる。
「……ともあれ、この一件は片づいたわけだな」
「どうするつもり?」
問いかけるV9に背を向け、
「俺はここで抜けさせてもらうぜ」
「それは許可できない」
いつのまにか、ビリーとV9の周囲を三人のブラックロッドが固めていた。
「我々と同行してもらおう、ウィリアム・龍《ロン》」
常人ならばその言葉に逆らうことはできまい。だが、吸血鬼《ヴァンパイア》は呪言《じゅげん》に縛られる魂を持たない。ビリーは平然と言い放つ。
「嫌だと言ったら?」
「君の心臓を爆破する」
「おっと、そうだった」
ビリーはとぼけた口調で言うと、左胸に手を当てた。
「あんたらには借りがあったっけな……返すぜ[#「返すぜ」に傍点]」
ビリーの右手が胸の中にずぶりともぐり、一瞬で人工心臓をつかみ出した。心臓のセンサが外気を感知。起爆装置、作動。
「!」
三人のブラックロッドは左手を前に。自在護符《ヴァリアブル・タリズマン》を『防壁《ウォール》』に設定。爆風に押され、防壁《ウォール》ごと後ずさる。
爆煙がはれた。
ブラックロッドの包囲の中央には、肉片と霊液をまき散らして半壊した、V9の依代《ホスト》のみがあった。
最下層市街の路地、地上三メートルにビリーは出現。ゴミバケツの上に着地、生ゴミがぶちまけられる。
ブラックロッドもすぐには追ってくるまい。縮地の足跡は爆風に消されたはずだ。
すでに穴のふさがった左胸では、〈マクスウェル〉の遺伝コード改竄《かいざん》によって発生した第二の心臓[#「第二の心臓」に傍点]が脈打っている。
『なかなか過激なこと、するじゃない』
ビリーにしがみついていたV9が接触してきた。
「なんだ、いたのか」
『「いたのか」はないでしょ。あんたのお陰であたしの躰《からだ》、潰《つぶ》れちゃったんだから。――もっとも、V7のお古《ふる》だから、どのみち長もちはしなかったけどね』
「へえ?」
ビリーがいぶかるのも無理はない。通常、妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》は各々|専用《カスタム》の依代《ホスト》を使用する。同系列とはいえ、二体以上の妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》が一つの依代《ホスト》を使うとは考えにくい。
ビリーの疑問を察して、V9が答える。
『その方が、彼を――「|傷持ち《スカーフェイス》」をゆさぶる[#「ゆさぶる」に傍点]のに効果的だから。それが今回のあたしの仕事だったの。|V7《あたし》が彼の精神《こころ》に開けた穴を、|V9《あたし》がほじくり返す。そこにランドーが|V7《あたし》を「鍵《かぎ》」にして入り込んだところで、ブラックロッドのお仲間がフタをして、一丁上がり。生きたデーモントラップってわけ』
「やれやれ、全部計算ずくか。奴《やつ》らも浮かばれねえな」
『公安はブラックロッドの一人と引き換えにランドーを捕らえ、ランドーはすべてを失い……結局、この取引き[#「この取引き」に傍点]で一番得をしたのは、一体の妖術技官《ウィッチクラフト・オフィサー》と引き換えにのぞみの実験結果を得た降魔局《あたしたち》ってことになりそうね』
「実験って……おい、まさか!?」
『「神の器」は、もともと降魔局《A・S・C》がマグナス社に発注してたのよ。「神降ろし」――未知領域との交霊《チャンネル》は降霊法に引っかかるから、公安には内緒でね。それが|錬金化学オートマトン《アルケマトン》〈アレフ〉として完成するためには、マグナスの技術的ノウハウに加えて、ランドーの持つ「電子計算機の概念《パラダイム》」と、「サイモン・レクターの理念」が不可欠だったわけだけど』
そこまで言うと、V9は困ったように微笑《ほほえ》み、
『でも、何十、何百もの市民を犠牲にする実験なんて、降魔局《あたしたち》にはできないじゃない……立場上、ね』
「だからランドーをけしかけたってのか……なんて連中だ」
『降魔局《あたしたち》はただ、ランドーとマグナスの仲介をして……あとは黙って見てただけ。ランドーも知りたかったのよ。「はたして〈神〉は……自分を救える者は存在するのか」』
「で、結果は人|喰《く》いの化物か。大失敗だったな」
『そうでもないわ。オードリー・クラークがおとなしく〈クロセル〉に食べられていてくれれば、〈アレフ〉も人喰いなんかしなかったはずよ。あれは悪魔《デーモン》が生贄《いけにえ》を求めるというよりは、吸血鬼《ヴァンパイア》の吸血衝動と同様に〈心霊的欠損の補完願望〉が歪《ゆが》んだ形で表出したものと解釈するべきね』
ビリーは片眉《かたまゆ》を上げ、
「耳の痛い話だ」
『それに……情報では、機甲折伏隊《ガンボーズ》に破壊された〈アレフ〉の体内に育ちつつあったものはね――』
「ものは?」
『神聖値5000Gch/pinを超える超・超高密度霊体――〈天使〉だったそうよ』
「ほう?」
『サイモン・レクターの方法《やりかた》が正しいってことが判《わか》ったからには、もっともっと大きなプロジェクトが動き出すわ。堕天使を核《コア》にして、天使が生まれるのなら……あたしたちも、もっと違うものに生まれ変われるかもしれない』
「人間以外のものに……か?」
『いいえ、〈|真の人《アダム・カドモン》〉――神の分身に』
「……そのときゃ、俺《おれ》は置き去りだな。ひと口乗ろうにも魂《タマ》がねえ。……|くそったれ《マイゴッド》」
『聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな!』
ビリーの呟《つぶや》きに反応して、誰《だれ》が捨てたのか、生ゴミの中に埋もれていた熾天使人形《セラピムくん》が狂ったように翼をはためかせる。
『聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! 聖なる……』
『「ああされど神は座《いま》せり! 死者の祈りは不遜《ふそん》なれども」……か。これで例の予言も完成したわけね』
V9は満足気に言った。
『神様はきっと、いるよね』
「ああ、いるだろうさ」
――で、俺《おれ》はそいつに嫌われてるのさ。
ビリーはポケットに手を突っ込み、街の灯に向かって歩き出す。
『ちょっとその辺まで、送ってよ』と、V9はその肩に貼《は》りついていく。
『聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! ……』
ゴミ溜《た》めの中、残された熾天使《セラピム》はもがき続ける。
いつまでも、あがき続ける。
[#地付き]〔了〕
[#改丁]
あとがき
[#改丁]
本編を読み終えた人と、あとがきから読んでいる人、はじめまして。古橋秀之と言います。本名ではなく、筆名です。
[#ここから1字下げ]
洋の東西を問わず、オカルト的な発想として『名前が呪力を持つ』という考えがある。魔神さえもその名を突きとめれば支配する事ができ、逆におのれの名を敵に知られて呪殺される事もある。神は『聖四文字《テトラグラマトン》』と共にあり、魔術士は『真の名』を隠す。
名前とは凝縮されたアイデンティティであり、すなわち自分自身である。
サイバーパンクの世界観においても、アイデンティティの問題は重要なテーマの一つだ。意識《ソフト》と肉体《ハード》の不可分の関係が絶たれた時、『私』はどこに存在するのか? 人体以外のハードにおいて『私』が存在し得るのなら、初めから肉の器を持たない『私』も在り得るのか? 『私』というソフトがコピーされたとしたら、それもまた、『本物の私』なのか? 『今日の私』と『昨日の私のバックアップ』との関係は? 情報的に加工された『私』は『私』でいられるのか? 物質さえも、流れる情報のよどみに過ぎないというのなら、私が『私』であって『彼』や『君』ではないとなぜ言えるのか?
これらの疑問を突き詰めると、話はいわゆる『科学』から、仏教やアニミズムの方向に走ってしまう。現代科学が客観性の名のもとに棚にあげていた『自分』というものについて考える時、オカルトを避けて通る事はできない。
この小説では、WWUの前後を境に正調(?)『オカルト=科学』が発達した擬似未来世界と、その中に生きる『名前を持たない男』を設定し、アイデンティティを持つ事/持たない事について考察してみた。
[#ここで字下げ終わり]
……とまあ、突然なにやらよく判らない理論武装を展開して読者の皆様を30メートルくらい引かせてしまいましたが、未読の方も心配御無用、本編のほうはマンガノリのスプラッタアクションなので、何も考えずにズバーッと読んでやって下さい。とにかくひたすら突っ走ります。人、死にまくります。血ィドバドバ出ます。いや痛快、痛快。主人公の一人は不死身なので、どんな無謀なアクションもへっちゃらっス(安易だ)。エロスとバイオレンス、入ってます。その一方でちょっとリリカル入ってたりもするとこがまた、暖かな微笑みを誘いますね。そんな目で見るなっ。
とりあえず俺は、文中たくさん人間ぶち殺せて楽しかったっス。特に女の子。おわり。
[#地付き]平成七年霜月吉日
追伸
ありがとう。
んじゃ、また。
[#改丁]
文庫版あとがき
[#改丁]
いやいやどーも、古橋でございます。やっぱりはじめまして、ですね。ハードカバーは買ってないでしょう? いえいえ、いいんスよ。世の中には私の本を買わぬ人もたくさんいます。
あたりまえか。
というわけで、第2回電撃ゲーム小説大賞・大賞受賞作『ブラックロッド』、お求めになりやすいリーズナブルなお値段で再登場でございます。
文庫化に当たっては、以前ワープロ任せにしてしまっていた仮名遣いを逐一吟味し、イイ感じに修正いたしました。
これ、ほんとはやってはいけないことなのだそうです。前の版と変わっている部分は、メディアワークス書籍編集部のスズキさんが一つひとつ赤ペンでチェックして、出版部のエグチさんが一つひとつ手で直したのです。どえらいことです。
「日程とか工程とかは編集の領分だから、君はいい本を作ることだけを考えなさい」
と頼もしく言ってくださった(酒の席で口が滑ったという説もありますが)エグチさんの、輝ける職入魂に感謝、です。
怒ってないっスよね?
また、調子に乗ってその他の造語関係にも一部手を入れてしまいました。前の版が出た後に新しい資料が手に入ったものや、ちょっとひねりが足りなかったかな、と思う部分をちょぼちょぼと。初刊本を買って下さった方には大変申しわけありませんが、しかし、あれはいずれコレクターズアイテムとしてプレミアがつくので、決して無駄にはならぬはず(根拠なし)。
なお、初刊本あとがきは仮名遣いなど以前のままとしました。それと一ヶ所、以前校正が間に合わなかった、文脈がわざとじゃなく変[#「わざとじゃなく変」に傍点]な部分があり、悶《もだ》えるほどに恥ずかしいのですが、これも資料的な意味合いから直しませんでした。どことは訊《き》くな。そして探すな。
さてここで、無粋とは思いますが、文庫版のオマケとして、造語についていくつか解説《ヨタばなし》を。
『ナウマクサマン弾』というのは以前ミリタリー雑誌で見かけた広告に出ていたもので、エアガンに使うBB弾に梵字《ぼんじ》をプリントしたもの。「怨敵調伏《おんてきちょうぶく》」の効果があるとかないとか。お間抜けな響きが気に入ったので、梵字を刻印した二〇ミリ機銃弾として使いました。対する『プラジュニャー・パラミット弾(初刊ではパンニャパーラミタ弾)』も同様のものですが、こちらはとても「ありがたい」弾で、魔物を一気に仏に昇華する効果があります。『滅相《めっそう》系』と表現されていますが、仏教で『滅相』とは、仏陀《ぶっだ》のように修行が完了して仏になることをいうそうです。謙遜して「めっそうもない」などと言う、あの『めっそう』です。
『人造霊《オートマトン》』という語は、情報科学用語の「オートマトン」とオカルト用語の「オートマティズム(自動書記などの現象)」を引っかけて、式神とか人工精霊(というのが近代魔術にあるそうです)のような、特定の目的を与えられた半自律性の霊体を示すものとしました。また、本来の意味である、アンティークなイメージの「自動器械」あるいは「自動人形」も、媒体が違うだけで思想的には同質のものとして、同様に「オートマトン」と呼んでいます。余談ではありますが、ものかきの友人アキヤマ氏が以前同人誌に発表した小説の中で、AIのように使われている人工の魂(というか意識というか)を『造霊《AG》』と表記していてカッコよかったっス。『造霊《AG》制御』とかサラリと言ってしまう切れ味の鋭さがちょっと妬《ねた》ましい。
祝福単位『ch(クライスト)』というのは人の信心とそれに対応する神の恵みを測る数値で、十字を切って「|かみさま《ジーザスクライスト》!」と一回叫ぶのが約一クライスト。神聖値というのはある一定の時空間における祝福の密度を示す数値で、初刊では『ch/cm4[#「4」は上付き小文字]』としていましたが、「中世の神学者は、ピンの頭の上で何人の天使が躍れるか、といった議論をした」というような話を本で読んで、なんだか面白《おもしろ》かったので『ch/pin』としてしまいました。意味合いとしては同じです。
『|奈落堕ち《フォールダウン》』というのは原子炉のメルトダウンの他《ほか》に、マザーグースの『ロンドンばしおちた』のイメージが入っています。ロンドン橋というのはかつては住居や商店を乗せた一つの街のようなもので、実際それらを乗せたまましばしば落ちたそうです。豪快ですね。
しかし私、あの唄《うた》の歌詞をずっと「London Bridge is fallin'down 〜」だと思っていたのですが、正しくは「London Bridge is broken down 〜」でした。「落下した」というより「ぶっ壊れた」んですね。ということは『奈落堕ち』も『ブレイクダウン』とルビを振るべきなのでしょうが、より強い「落下」のニュアンスが欲しかったので『フォールダウン』のままとしました。
また、『ロンドンばし〜』の歌詞のラストの「My fair lady!」は「ロンドン橋が落ちないように『すてきなご婦人(お姫様?)』を人柱に立てよう」という意味だ、と聞いたような記憶があり、これまたイメージにぴったりだ、などと思っていましたが、どうもこれも怪しいですね。いやもう、なにより自分というものが信用できない。
最後になりますが、ここ一年ほどの間に、前出のスズキ、エグチ両氏の他《ほか》にも、仕事上で関《かか》わった様々な人に、わけの判《わか》らないミスをしたり、妙なところにこだわったりと、さんざんに迷惑をかけてしまいました。もとい、かけてます(進行形)。
毎度々々すみません、いつもありがとうございます。社交辞令ではなく、マジでマジで。
[#地付き]阿呆《あほう》であることは罪なのであるなあと、しみじみ思う平成九年如月吉日
[#改ページ]
底本:「ブラックロッド」電撃文庫、メディアワークス
1997(平成9)年4月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年11月6日作成