ブライトライツ・ホーリーランド
古橋秀之
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)機甲折伏隊《ガンボーズ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)装甲倍力|袈裟《けさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)正解は四つに一つ[#「正解は四つに一つ」に傍点]
置き換え
迦[#迦は2点しんにょう]楼羅→迦楼羅
祈?→祈祷
?→噛
這[#這は2点しんにょう]→這
?→躯
※[#「くさかんむり/曷」]藤→葛藤
?→フン[#「口+享」、Unicode=554D](面区点番号が存在しません)
?→オーム[#「口+奄」、第三水準1-15-6]
遡[#遡は2点しんにょう]→遡
《それ》→【それ】
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目次
01 機甲折伏隊縁起
02 嗤う悪霊
03 天使とビスケット
04 僧兵くずれ
05 一なる神のほかに神なし
06 天使の涙
07 魔人と魔女
08 衆生を救うもの
09 〈α〉と〈Ω〉
10 ノスフェラトゥのゲーム
11 〈α〉は〈Ω〉
12 「東」よりきたる
[#改丁]
『機甲折伏隊縁起』
01
[#改丁]
積層都市〈ケイオス・ヘキサ〉、北東一二〇キロ地点。地上二〇〇〇メートルの高空を、一羽の大鷲《おおわし》が飛行している。
頭のない鷲だ。
開張八メートルに及ぶ漆黒の翼《つばさ》を広げる、機械の猛禽《もうきん》――装甲倍力|袈裟《けさ》/六番兵装、偵察飛行装備〈迦楼羅《カルラ》〉。その欠けた頭部に当たる部分には蓮華座《れんげざ》が固定され、一人の僧が結跏趺坐《けっかふざ》を組んでいる。
〈迦楼羅《カルラ》〉をまとい、頭部にヘッドギアとバイザーを着用した機甲|羅漢《らかん》――ヤコ曹長の意識は、その空間にありながら、そこにない。機械的に拡張された末那識《まなしき》はさらに高次の時空間認識、阿頼耶識《あらやしき》に至り、その肌は装甲に鎧《よろ》われてなお、空間の流れを直接に観じている。
周囲の気が、重い。大小無数の魔《ま》が、色/欲境界面すれすれにまで降りてきている。
前方に赤子ほどの大きさの三匹の飛魔《グレムリン》が界面を越えて具象化し、戯れるようにもつれあいながら飛来、ヤコの体にまとわりついた。飛魔《グレムリン》の一匹が、くぐもった笑い声を立てながら豊かな乳房に触れた。
ヤコは眉《まゆ》をひそめた。己《おの》が肉体を意識した刹那《せつな》に阿頼耶識が断たれ、〈迦楼羅《カルラ》〉の翼が空を切る轟音《ごうおん》が耳を打った。
ヤコは速やかに気息を整え、観想のために組んでいた印を解き、合掌。体内の気の圧力が高まり、体表面から発散。飛魔《グレムリン》たちは南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の名号を唱えながら蒸発した。
深くひと息をつき、ヤコは再び結印。偵察任務を再開。
その時――
次元の層を越え、気の渦を巻きながら、巨大な存在がゆっくりと降下してきた。
『〈迦楼羅《カルラ》〉より報告! 目標を第八識にて確認!』
『全隊、進路修正〇三秒!』
〈迦楼羅《カルラ》〉の後方一五キロの荒野に、機甲折伏隊《ガンボーズ》の大部隊が隊列を組み、土煙を上げて行軍している。
装甲車、自走砲、機動明王、装輪自走|菩薩《ぼさつ》など、二〇〇両に及ぶ装甲|戦闘《せんとう》車両。その中央には、装軌式の大蓮華座《だいれんげざ》に結跏趺坐《けっかふざ》する巨大仏。座高三〇メートル、本体重量二八〇〇トンを超える機甲折伏隊《ガンボーズ》の本尊、重機動如来〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉。
『現行《げんぎょう》相解析終了、目標は希臘《ぎりしあ》系百手巨人属、三〇秒後に欲界に出現!』
『金剛陣展開、迎撃《げいげき》用意!』
『――金剛陣展開、迎撃用意!』
密集隊形を取っていた車両群が〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉を中心に散開し、やがて、直径五〇〇メートルの車輪型の隊列を組んだ。次いで、〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉とその支援車両が後退し、隊列の最後方に位置を取った。放射状に散開していた車両群が縦横《じゅうおう》に位置を変え、格子状に整列した。
停止した〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉の前に自走|護摩壇《ごまだん》が固定され、電装|礼盤《らいばん》が敷設《ふせつ》された。また、装甲車のハッチが開き、次々と吐き出された装甲倍力|袈裟《けさ》と浮遊蓮華砲座が迅速に配置についた。
本隊の上空に帰還《きかん》したヤコは、そのさまを眼下に視認した。全体的には方形、局所的には円を成し、蓮の群れが花開くかのように展開する陣形は、まさしく巨大な生きた曼陀羅《まんだら》だ。
『金剛陣、展開完了!』
そして――
地平線に近い積乱雲の中から、巨神が足を踏み下ろすかのごとく、漏斗雲が生じた。次いで、その中心部から柱のように地表に垂れ下がった巨大な竜巻が、土砂を巻き上げながら、激しい雷光と爆音《ばくおん》を発し始めた。
『目標出現!』
各隊員の視界に〈迦楼羅《カルラ》〉からの他力観想によって転送された種字化イメージがオーバーラップし、その竜巻が単なる物理現象ではなく、意志持つ外道の魔物《まもの》であることを示した。
竜巻は見る間に太さと勢いを増し、恐ろしい速度で隊列に、否、その背後に存在する都市に向けて驀進《ばくしん》した。
『目標、柱状体中央――構え!』
急速に勢いを増す横殴りの狂風の中、倍力袈裟の構える二〇ミリ種字機関砲、八一ミリ合掌|迫撃砲《はくげきほう》、蓮華砲座に据えられた一〇六ミリ無反動香炉、機動明王が肩に負う一二〇ミリ金剛|滑腔砲《かっこうほう》、自走式二〇三ミリ祈祷《きとう》榴弾砲《りゅうだんほう》及び多連装仏塔発射器――すべての火砲が竜巻の中心を指した。
機甲折伏隊《ガンボーズ》は疲弊していた。
荒野の只中《ただなか》に存在する強力な意識の渦――積層都市〈ケイオス・ヘキサ〉を目指し、次々と具象化する大小の魔《ま》、その中でも都市自体の結界機能を超過する大型の魔神・幻獣《げんじゅう》を狩る、それが機甲折伏隊《ガンボーズ》の務めだ。
かつて、機甲折伏隊《ガンボーズ》の出動は年に数度という頻度《ひんど》であり、対象となる魔も戦車砲の一撃《いちげき》で成仏する程度のものであった。しかし、ここ数年、その数と規模は急激に膨《ふく》れ上がり、今回のような全兵力に近い出撃が月に幾度と重なるようになっていた。
武器弾薬の損耗は激しく、兵員の疲労も極限に近い。
それ自体巨大な魔であるとも言える「都市」が、他の魔を引き寄せているのだ、と言う者がいる。また、都市の成長が、飛来する魔をも育てているのだ、と言う者もいる。
ならば、都市が存在する限り、魔がついえることもまたない。
それでも、機甲折伏隊《ガンボーズ》は都市を守り、魔を祓《はら》う。
機甲折伏隊《ガンボーズ》の務めは不毛であった。
『――撃《て》ェ――――ッ!』
空間を打ち壊《こわ》さんばかりの轟《とどろ》きと共に、数百の砲口が一斉に火を噴《ふ》いた。
一気に数万発の種字弾がばらまかれる空間を、滑腔砲から発射された五鈷《ごこ》弾、三鈷《さんこ》弾、独鈷《とっこ》弾が衝撃波《しょうげきは》と光の残像を伴って切り裂き、あるものは竜巻に、あるものはそのはるか後方に着弾。追って、放物線を描いて到達した大小数百発の聖榴弾及び迫撃舎利弾が竜巻の周囲三〇〇メートルを爆炎《ばくえん》の曼陀羅《まんだら》と化し、釈尊五〇〇人分相当量の仏舎利をまき散らした。
ゴオオオオゥ――
猛烈な砲撃に対抗するかのように、竜巻の唸《うな》りが高まり、野獣の咆哮《ほうこう》のような音色を帯びた。
次いで、中心部の柱状の渦が太さを減じた。だが、その勢いは失われたわけではない。土砂の渦はその密度を高め、雷光と爆音はなおも激しさを増している。
そして、渦の中から一本の太い腕が、暴風をまといながら突き出た。その巨大な拳《こぶし》が握り締《し》められると、掌《てのひら》の中で閃光《せんこう》が走り、生きた稲妻が手槍《てやり》のように握られた。「腕」が稲妻を地上に投げつけると、一体の明王が雷霆《らいてい》に撃《う》たれ、爆発した。
渦の中から、さらに腕が現れた。二本、三本、四本、五本――
腕が増えるにつれて、渦の勢いがゆるんだ――いや、吸収されたのだ。土砂の色が薄《うす》れた柱の中に、異形の影が現れた。上半身に大小何十対もの腕を生やし、暴風と雷光をまとい、荒れ狂う竜巻のエネルギーをその身に凝縮《ぎょうしゅく》した雲突く巨人――異教の論理によって人格化した嵐《あらし》の魔神《まじん》、〈百手巨人《ひゃくてきょじん》〉だ。
『目標の具象化を確認!』
『本尊起動準備!』
『――本尊起動準備!』
護摩壇《ごまだん》が点火され、送風機の唸《うな》りと共に大量の白煙を吐き出した。発動機に連結された変速装置が作動し、祈祷車《きとうしゃ》の回転数をトップに乗せた。自走|菩薩《ぼさつ》や倍力|袈裟《けさ》が背負った法輪型の光背ジェネレータが回転し、霊光《れいこう》と妙音を発し始めた。
『本尊起動準備よし! 有線|結集《けつじゅう》! 三、二、一、三昧《サマディ》!』
巨大な礼盤《らいばん》に結跏趺坐《けっかふざ》を組み整列した五〇〇名の羅漢《らかん》が、ヘッドギアを結線し、一斉に読経を開始した。
[#ここから1字下げ]
如是我聞一時薄伽梵成就殊勝一切如来金剛加持三摩耶智已得一切如来潅頂宝冠為三界主已証一切如来一切智智瑜伽自在能作一切如来一切印平等種種事業於無尽無余一切衆生界一切意願作業皆悉円満常恒三世一切時身語意業金剛大毘盧遮那如来在於欲界他化自在天王宮中一切如来常所遊処吉祥称歎大摩尼殿種種間錯鈴鐸諸ヲ微風揺撃珠鬘瓔珞半満月等而為荘厳与八十倶胝菩薩衆倶所謂金剛手菩薩摩訶薩観自在菩薩摩訶薩虚空蔵菩薩摩訶薩金剛拳菩薩摩訶薩文殊師利菩薩摩訶薩纔発心転法輪菩薩摩訶薩虚空庫菩薩摩訶薩摧一切魔菩薩摩訶薩与如是等大菩薩衆恭敬囲繞而為説法初中後善文義巧妙純一円満清浄潔白説一切法清浄句門所謂妙適清浄句是菩薩位欲箭清浄句是菩薩位触清浄句是菩薩位愛縛清浄句是菩薩位一切自在主清浄句是菩薩位見清浄句是菩薩位適悦清浄句是菩薩位愛清浄句是菩薩位慢清浄句是菩薩位荘厳清浄句是菩薩位意滋沢清浄句是菩薩位光明清浄句是菩薩位身楽清浄句是菩薩位色清浄句是菩薩位声清浄句是菩薩位香清浄句是菩薩位味清浄句是菩薩位何以故一切法自性清浄故般若波羅蜜多清浄金剛手若有聞此清浄出生句般若理趣乃至菩提道場一切蓋障及煩悩法障業障設広積習必不堕於地獄等趣設作重罪消滅不難若能受持日日読誦作意思惟即於現生証一切法平等金剛三摩地於一切法皆得自在受於無量適悦歓喜以十六大菩薩生獲得如来執金剛位時薄伽梵一切如来大乗現証三摩耶一切曼陀羅持金剛勝薩捶於三界中調伏無余一切義成就金剛手菩薩摩訶薩為慾重顕明此義故熈怡微笑左手作金剛慢印右手抽擲本初大金剛作勇進勢説大楽金剛不空三摩耶心――
[#ここで字下げ終わり]
大蓮華座《だいれんげざ》の千葉《せんよう》の花弁が回転し、光背に組み込まれ羅漢の一人ひとりと結縁《けちえん》した五〇〇体の小仏が合掌。〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉の青銅の巨体が金色の光を帯び始めた。
一方、〈百手巨人〉は咆哮《ほうこう》を上げながら歩を進め、機甲折伏隊《ガンボーズ》の陣に迫った。なおも続く砲撃《ほうげき》の嵐《あらし》の中、大小の腕を猛烈に回転させ、その掌《てのひら》の一つひとつに握った巨岩や稲妻を投げつけてくる。車両が次々と吹き飛び、機関砲に迎撃された岩塊が破片となって降り注いだ。さらには、〈百手巨人〉の存在に影響《えいきょう》された中小の魔物が次々に具象化し、宙を舞い、地を馳《は》せ、僧兵たちを襲《おそ》った。
『本尊|開眼《かいげん》!』
〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉の巨顔が、眠るように閉じていた眼《め》を半眼に開いた。同時に、白毫《びゃくごう》――額《ひたい》の中央にある螺旋状《らせんじょう》の白毛から一条の光線が放たれ、中空を一閃《いっせん》、翼《つばさ》もつ魔物《まもの》が一気に蒸発した。
次いで、巨大な脚が趺坐《ふざ》を解き、蓮華座《れんげざ》から降りた。千輻輪相《せんぷくりんそう》――法輪を備えた足の裏が接地すると、大地が鳴動し、地にある魔物がすべて分解した。
巨大な座像が、全身から金色の光を放ち、緑青《ろくしょう》の破片を落としながら、ゆっくりと立ち上がった。身長五〇メートル超――だが、つかみ掛からんばかりに肉薄《にくはく》した〈百手巨人《ひゃくてきょじん》〉は、さらにそれよりふた回りほど大きい。
〈百手巨人〉はひと声怒号すると、数本の稲妻を束ね、〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉に叩《たた》きつけた。怒濤《どとう》の雷電を〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉は施無畏《せむい》印を成す右掌で受け止めた。オーバーフローした電流と霊気《れいき》によって、背部の小仏十数体、及び結線した同数の羅漢《らかん》が弾《はじ》け飛んだ。
『一〇五、寂滅!』
『三九二、四一九、寂滅!』
『一九五、二一一、二五〇から二五七、寂滅!』
しかし、傍らに爆裂《ばくれつ》した同胞を見ながらなお、礼盤《らいばん》上《じょう》の羅漢の読経は淀《よど》みない。
〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉は右手に金剛拳《こんごうけん》の印を結び、〈百手巨人〉の腹部に叩き込んだ。気の奔流が青銅の巨腕を伝って腹中に解放され、巨人は身を折って苦悶《くもん》の咆哮《ほうこう》を上げた。〈百手巨人〉がその百の腕をもって嵐のように打ち掛かると、〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉は合掌。額の白毫から光線が発し、巨人の眼《め》を射貫いた。〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉はさらに、合掌した両手を頭上に振り上げ、全体重を掛けて〈百手巨人〉の頭部を拝み打った。仏性を帯びた大質量の衝突《しょうとつ》により、衝撃波を伴う爆発的な功徳が炸裂《さくれつ》した。
『胎蔵陣展開!』
『――胎蔵陣展開!』
如来と巨人の組み打つその足元、巨人の幾十もの手から取り落とされた稲妻と岩石が地に降り注ぐ中を、車両と僧兵とが駈《か》け回り、新たな配置についた。
よろめく〈百手巨人〉に向けて〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉は地響《じひび》きを立てて助走し、跳躍《ちょうやく》。両足を空中で揃え、捻《ひね》りを加えたドロップキックを放った。両足の裏の千輻輪が激しい光と音を放ち、回転、衝突。巨人の腹部に仏足跡を刻印した。如来が着地した数秒後、巨人は呻《うめ》きを上げながら膝《ひざ》を突き、活動を停止した。
轟音《ごうおん》が途絶え、静寂が、一万の爆音にも増す存在感をもって、空間を支配した。
〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉は再び蓮華座に着座し、〈百手巨人〉を見下ろすように趺坐を組み、印を結んだ。
『胎蔵陣、展開完了!』
『総員合掌!』
『――総員合掌!』
如来と巨人を中心にした放射状の陣形を組んだ菩薩《ぼさつ》、明王、天部、羅漢《らかん》が、一斉に合掌し、各々《おのおの》の持つ光背の出力を最大にした。巨大な結界を成した円陣全体が、天上世界のごとき金色の光を放った。
『目標の仏性上昇、仏法下に帰依します』
ヤコは上空からその過程を観想した。同心円状のフィールドの中心で、〈百手巨人《ひゃくてきょじん》〉の論理構造が組み変わっていく。その荒ぶる巨大なエネルギーが方向を制御され、解脱――自らの存在の解体に向けられていく。
〈百手巨人〉が姿勢を正し、結跏趺坐《けっかふざ》を組んだ。その体から発していた暴風は今や、妙《たえ》なる調べを奏でながらゆるやかに天に昇る、金色の清風となっている。巨人の腕の何対かが持ち上がり、合掌した。遅れてもう何対か、さらに遅れてもう何対か。終《しま》いには、あるものは高く天に突き上げられ、またあるものは体に引き寄せられながら、すべての手が合掌した。その姿はあたかも、無数の仏塔を生やした異形の寺院のようだ。
だが。
オォ――
金色の風が乱れ、〈百手巨人〉が呻《うめ》き声を上げた。
『目標内部に煩悩が侵入! 結界が不完全です!』
結界の強度が足りない。先ほどの交戦での損耗が大きすぎた――いや、交戦以前に、この規模の魔神《まじん》を折伏《しゃくぶく》しうる戦力は、もはや機甲折伏隊《ガンボーズ》には残されていなかったのだ。
オオオオオォ――!!
合掌を解いた数十の手が、稲妻を作り上げ、一斉に我が身に叩《たた》き込んだ。巨人の上半身のほとんどが弾《はじ》け、残る胴体はくすぶる消炭と化した。炭化した皮膚《ひふ》を破り、鉤爪《かぎづめ》を持った獣《けもの》の腕が突き出た。百の腕を持ち、全身に獣毛《じゅうもう》を生やした野獣が現れ、天を仰ぎ咆哮《ほうこう》した。野獣は見る間に先ほどまでの〈百手巨人〉のサイズを越えて成長すると、鉤爪を我が身に突き立て、その胸を引き裂いた。引き裂かれた胸の中から、肉を焦がしつつ、炎の塊が現れた。炎は野獣の身を焼いて勢いを増し、百の火焔《かえん》の腕を高々と天に突き上げた。そして、その腕で自らを抱きしめるように収縮《しゅうしゅく》すると、次の瞬間《しゅんかん》、爆散《ばくさん》した。爆炎に身を焼かれながら、巨大な一匹の餓鬼《がき》が現れた。百の腕を持つそれは、骨と皮ばかりにやせ細り関節を異様に浮き上がらせたその腕を、一本ずつかじり始めた――
『――目標は六道を高速|輪廻《りんね》! 業《カルマ》が急速に蓄積されています!』
『総員|退避《たいひ》!』
『――総員退避!』
再び荒れ狂う暴風の中、羅漢が次々と装甲車に乗り込み始めた。しかし――
『間に合いません――奈落《ならく》堕《お》ちします!』
当初の数倍のサイズに膨《ふく》れ上がり、ますます高速に相を変転させる巨大なエネルギーの渦動と化した〈百手巨人《ひゃくてきょじん》〉――その業《カルマ》が臨界点《りんかいてん》を突破。巨人の足元の地面がたわみ、床が抜けるように陥没した。
巨人を呑《の》み込んだ底なしの穴から、大量の瘴気《しょうき》が噴出《ふんしゅつ》した。〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉が瘴気の直撃《ちょくげき》を受け、五百|羅漢《らかん》が一斉に爆裂した。穴の縁《ふち》が急速に、かつ際限なく崩れ、現世に生じた奈落の口は、〈毘盧遮那《ビルシャナ》〉を、護摩壇《ごまだん》を、撤収《てっしゅう》する車両を次々と呑《の》み込んだ。
瘴気のあおりを喰《く》らい、〈迦楼羅《カルラ》〉が失速した。墜落《ついらく》の寸前に蓮華座《れんげざ》ごと射出されたヤコは、空中で金剛合掌したのち、両膝《りょうひざ》、両肘《りょうひじ》、額《ひたい》の五点に気を集中しつつ、地表に衝突《しょうとつ》。五体投地式接地法。着地の衝撃が功徳に変換され、ヤコの身を護《まも》った。
地上を鞠《まり》のように跳ね転がったのち、ヤコはバイザーを外し、顔を拭《ぬぐ》いながら立ち上がった。
本隊の位置を確認しようとしたが、それはもはや叶《かな》わなかった。
西の地平線の近くに、瘴気の柱がそびえ立っている。太さは胎蔵陣の直径を優に数倍するだろう。その周囲では、〈百手巨人〉に匹敵する規模の魔物《まもの》が、瘴気に当てられ次々と具象化している。
暮れゆく太陽を背後に、もつれあい、喰らいあいながら、巨大な百鬼夜行は都市に向けて行進を始めていた。
機甲折伏隊《ガンボーズ》の前身は、〈ケイオス・ヘキサ〉の成立期にこの地に流れ着いた行脚僧の一団であるという。その当時の粗雑にして貧弱な結界を縫《ぬ》って市内に侵入する様々な魔から人々を護るうちに、彼らはその独自の論理に基づいて自らを武装し、組織化していった。
そして、時と共に都市は巨大化し、魔も巨大化し、機甲折伏隊《ガンボーズ》の組織もまた巨大化していった。また、都市の結界が整備・強化されるうちに、機甲折伏隊《ガンボーズ》の務めは「市外における魔の掃討」へと変わっていった。
都市が、「異物」である彼らを体外に排出したのかもしれない。
都市は、自らの内部に彼らを必要としなくなったのかもしれない。
そして現在――〈ケイオス・ヘキサ〉・都市暦一〇〇年。
機甲折伏隊《ガンボーズ》、壊滅《かいめつ》。
市外における魔導《まどう》災害の、およそ考え得る内で最悪の展開――機甲折伏隊《ガンボーズ》壊滅及び都市付近での魔孔開口の報を受け、市政当局は最高議会を召集。〇・三秒間の討議ののち、市外への〈アザナエル〉の投入及びその前提条件である「プロジェクト・トリニティ」の始動が正式に決定され、五秒後に実行に移された。
[#改丁]
『嗤う悪霊』
02
[#改丁]
降魔《こうま》管理局の廃棄物処理場から、狂った魔女が逃げ出した。
ヴァージニア・サーティーン。V系列|妖術《ようじゅつ》技官、最後の一体。ナンバー12以前は人格劣化のため廃棄済み。滅却工程の直前に記録符から抜け出したV13は、同様に廃棄を待っていた一体の旧型|依代《ホスト》に憑依《ひょうい》し、処理場を脱走。その逃走ルートは絶妙を極め、神社仏閣、大型苦行炉など、大霊力《だいれいりょく》の集結地点を縫《ぬ》うように移動する彼女の位置を特定するまでに、公安局は一七分の時間を要した。
――くそくそくそ、公安のくそ共め、この俺《おれ》を、「  04  」を阿呆《あほう》にしやがって――自分の名前を思い出すのに、なんだってこんな苦労をしなけりゃならん。
ただひたすらに任務の遂行に従事するフラットな表層意識の片隅に、精神拘束《ゲアス》に縛《しば》られ、記憶《きおく》の深層に押し込められた自我を少しずつ染み出させ、小さな分身――使い魔を作り出す。ただそれだけのために、「  04  」は何年もの時間を費やしてきた。
行動を起こすにはまだ早い――使い魔に力が足りないかもしれない。しかし、現在のミッションは千載一遇の(そして恐らくは最後の)チャンスだ。悪魔《デーモン》の端末たる魔女に対する追跡は、最大限の魔法防御を展開しつつ実行される。つまり、己《おの》が内部に対する警戒《けいかい》が、最も手薄《てうす》になる状況だ。加えて、複数個体の共同動作のため暫定的《ざんていてき》に割り振られたナンバーは、空白の固有名に代入されることによって、一時的な自己同一性を「  04  」に与えている。
自らの脳内に張り巡らされた、忌々しい呪力《じゅりょく》の網。その刻々と変化する生きた呪文表面を読み、時折息継ぎのように開く隙間《すきま》を見つけ、呪言を織《お》り込んで解呪する――この数分間で、七重に掛けられた精神拘束《ゲアス》の四つ目まではクリアした。だが、一度にすべてを解除しなければ、意識の空き時間に優先的に行われる復元過程により、再び精神拘束《ゲアス》は修復される。残り三つは未《いま》だ、「  04  」が先天的に持つ三つの運動言語中枢をぎちぎちと縛《しば》り、「  04  」を自らの固有名に限定された健忘失語状態――「名なし」に保っている。
残り三つ? いや、一つだ。中枢が一つでも解放されれば、より強力な言霊《ことだま》を込めた発語が可能になる。そうなれば、残りは一瞬《いっしゅん》で片がつく――そら、今だ!
最後から三番目の拘束が解かれた。解放された言語中枢が素早く解呪の呪文をつむぎ出し、「  04  」の「三つ子の脳髄《のうずい》」の残る二つを解放、記憶《きおく》の底に厳重《げんじゅう》に封印された名前を呼び出した。その名は
――全身が硬直し、意識が凍結した。最大の禁忌にして機密事項である自らの名前を掘り起こそうとした瞬間、「  04  」に掛けられた精神拘束《ゲアス》の中核を成す最も基礎的《きそてき》な呪誼《じゅそ》がトリガーされ、あらゆる行動に優先して自らの意識を初期化、精神拘束《ゲアス》を再セットした。
ノイズとして抹消される直前、「  04  」は――「  04  」の使い魔《ま》は――意志力のすべてを振り絞って運動神経の一部を把握し、ち、と舌を鳴らした。
〈ケイオス・ヘキサ〉、最下層市街、辺縁部《へんえんぶ》。
繁華街《はんかがい》のねっとりとした空気は、この辺りで、埃《ほこり》混じりの霊気《れいき》に取って代わる。
雑霊よけのスピーカーが聖句や題目をがなり立てる下、ひびと瓦礫《がれき》だらけの薄暗《うすぐら》い街路を、ぼろをまとった一人の少女が、拙《つたな》い足取りで駈《か》けている。
その依代《ホスト》は半世紀物の関節人形モデル。一歩走るごとに全身の関節がキシキシと悲鳴を上げ、稚拙な音楽を奏でる。しかし、彼女の表情に乱れはない。青白く整った顔の小さな唇に花のような微笑を貼《は》りつけたまま、少女は走る。旧型|依代《ホスト》のぞんざいな表情ルーチンは複雑な不安の感情を表現できず、彼女は基本表情のまま微笑《ほほえ》みながら走り、微笑みながら怯《おび》える。瞳孔《どうこう》のない青い眼《め》をいっぱいに見開いて、両親の姿を確認する子供のように、楽しげに振り返る。何度も、何度も、何度も。
どこに逃げても無駄だ。彼らはどこにでも現れる。それは承知の上。問題は、充分に時間が稼《かせ》げたかどうか。「彼」の解放のための時間が。
四つ辻に差しかかった時、気流の向きが変わった。プラスティックの外皮を通して霊体に直接|響《ひび》く、霊圧変化。霊気の流れがうねり、彼女の前後左右、四箇所に渦を巻き、ほんの一瞬、それぞれの中心にエーテルの真空状態を作る。
そして、彼女を取り巻くように、空間の隙間――〈径《パス》〉を通過し出現する、四体の黒い人影。
黒杖特捜官《ブラックロッド》。
黒革のコートに黒いブーツ。黒い制帽の正面に、眼《め》をかたどった徽章《エンブレム》。右前腕部に固定された、細身の黒い呪力増幅杖《ブースターロッド》。四人の黒い男は完璧《かんぺき》な同期を取りながら一斉に奇妙なステップを踏み、空間を踏み越えて接近する。
〈|馬鹿歩き《シリー・ウォーク》〉――かつて、『縮地《しゅくち》』と呼ばれたこの跳躍術《ちょうやくじゅつ》を用いて、市内を自在に跳梁《ちょうりょう》した魔物《まもの》がいた。その後、公安局は市内を血管のように巡る霊走路《れいそうろ》網《もう》を厳重《げんじゅう》な管理下に置くことによって、同種の術者の行動を封じると同時に、自らの機動性を完全に確保した。霊走路網の霊力配分を調整することにより、彼らは市内の霊相を制御、あらゆる空間に〈径《パス》〉を引き、瞬時《しゅんじ》に出現する。
「止まれ、ヴァージニア・サーティーン」
四人のブラックロッドが、一斉に彼女の名を呼んだ。呪式発声《ハードヴォイス》。ローディブ偏向の掛かった、死者の声音。V13の依代《ホスト》に強制的な制動が掛かり、彼女はカラカラと音を立てて転倒、頭から一回転したのち、両足を投げ出した姿勢で静止した
V13は座り込んだまま、全感覚器の感度を最大レベルに引き上げ、霊感を研ぎ澄《す》ませた。四人のブラックロッドの呼吸音、足音、コートの革の軋《きし》み、体表面に常駐《じょうちゅう》する防護《ぼうご》呪文《じゅもん》の揺らぎ、増幅杖《ロッド》に干渉される霊気の流れ――すべてを詳細に知覚する。ここが正念場。正解は四つに一つ[#「正解は四つに一つ」に傍点]。どんな小さなずれも見逃さない[#「どんな小さなずれも見逃さない」に傍点]。
ブラックロッドは一斉に右腕のロッドを伸長した。前腕に沿うように短縮状態で固定された本体が前後に数十センチずつ伸び、掌《てのひら》の中にグリップが射出される。現行モデルのロッドには、かつてのように威圧的な大きさはない。必要にして充分なサイズ。市内における絶対の機動性を得た彼らには、もはや恐怖を演出する必要はない。暗殺者の針のごとく、ただ自らが恐怖たればよい。
ブラックロッドは一斉に左手をV13に向けた。その掌に埋め込まれたディスプレイ・フィルム――自在|護符《ごふ》に、何種類かの発光する図形が表れ、半秒後、『呪盾』の印形で固定された。
そして、ブラックロッドが一斉に足を踏み出した時、その一人の動きが一瞬引きつり、
ち――
と、かすかな舌打ちが漏れた。
「見つけた、見つけた!」
V13の頭部がぐるりと半回転し、背後のブラックロッドを見つめた。次いで、V13は路面から跳ね起き、視線を固定したまま首から下を回転させ、正位置に戻った手でブラックロッドを指差した。
「あなた、あなた、あなただわ!」
だが、ブラックロッドは取り合わない。ロッドと護符とを構えながら、なにも聞こえなかったかのように距離を詰める。次いで、一人のブラックロッドが放った捕捉《ほそく》呪文《じゅもん》がV13を捉《とら》え、V13の依代《ホスト》は糸の切れた操り人形のように、その場にくずおれた。しかし――その直前に青白い光を放つ霊体《れいたい》が依代《ホスト》から分離し、ブラックロッドの足元をすり抜け、路傍の鉄柱を駈《か》け登り、その頂上に据えられたスピーカーに飛び込んだ。
「よくお聴き、よくお聴き!」
スピーカーが、V13の声で叫んだ。
「汝《なんじ》魔術士《まじゅつし》、七重に名を秘めし者! されど今、我は汝《な》が名を七たび呼ばん!!」
ブラックロッドの放った呪弾《じゅだん》がスピーカーを破壊《はかい》した。しかし、降り注ぐプラスティックの破片と共に、またもや直前に脱出した霊体が幾つにも分裂しながら降下、落下点から散開、周囲の物に手当たり次第に憑依《ひょうい》しながら言葉をつないだ。
「スレイマン!〈嗤《わら》う悪霊《あくりょう》〉!!」と、蓋《ふた》のないマンホールが言った。
「スレイマン!〈スペルジャグラー〉!!」と、塀に描かれた落書きが言った。
「スレイマン!〈踊る死人占い師〉!!」と、灯《あかり》の消えたネオンサインが言った。
「スレイマン!〈殺戮《さつりく》の狂詩人〉!!」と、倒れたゴミバケツが言った。
「スレイマン!〈馳《は》せる疫病〉!!」と、側溝を走る鼠《ねずみ》が言った。
「スレイマン!〈怒れるジョーカー〉!!」と、割れたブラウン管が言った。
「スレイマン!〈悪意のアヴァタール〉!!」と、路面のひび割れが言った。
ひと声発するたびに、命令を消化した使い魔《ま》――V13から分離された霊体は蒸発し、七度目の呼び声ののち、街路は動くものもなく、しんと静まり返った。
ブラックロッドは制帽の霊視眼《グラムサイト》で周囲を走査。だが、ところどころに残る霊気のかすの他《ほか》には、なにも見つからない。
――V13の行動の目的は不明だが、本体の逃走のための陽動の可能性が高い。しかし、依代《ホスト》を捨てた今、V13にさほどの選択肢は残されていない。
ブラックロッドは特捜本部と交霊、V13の逃走経路のシミュレーション及び自らの帰還《きかん》のための〈径《パス》〉の開通を指示。ブラックロッドは〈|馬鹿歩き《シリー・ウォーク》〉に備え、フォーメーションを組み直し、待機の姿勢に。
だが――
一人のブラックロッドが、その場から動かない。先ほどV13に指差された男だ。左手で顔を押さえるようにうつむき、小刻みに体を震《ふる》わせている。左眼《ひだりめ》に当てた掌《てのひら》から、光が漏れている。自在|護符《ごふ》が作動しているのだ。それも、尋常ではない速度で印形を書き換えている。
「どうした、04」と、その隣《となり》のブラックロッドが問うた。
「…く」と、04と呼ばれたブラックロッドは声を漏らした。掌を押し当てられた左半面から、細い煙が立ち上る。限界を超える稼働《かどう》により熱を帯びた護符が、皮膚《ひふ》を焼いている。
――左眼からの連続|呪紋《じゅもん》入力で精神拘束《ゲアス》の動作を押さえ、その間に強力な『解呪』の呪文を編成――しかし、自我を封じるために設定された精神拘束《ゲアス》は、内部からの干渉を受けつけない。ならば、一旦《いったん》ロッドを経由して――
「……くは、はハ………!」
04のロッドが伸長した。04の左手が、焼けただれた皮膚《ひふ》を掻《か》きむしりながら顔面を離れ、入れ替わりに、ロッドの先端が左眼《ひだりめ》に突き込まれた。04は自らの体内に向けて呪文《じゅもん》を圧唱《クライ》。ロッドから放たれた『解呪』の高圧呪文は視神経を駈《か》け登り、自らを産み出した脳髄《のうずい》を灼《や》けた鉄杭《てつくい》のように貫き、その最奥に仕込まれた精神拘束《ゲアス》の核を破壊《はかい》した。そして、呪文はさらに頭蓋《ずがい》の中を駈け回ったのち、額《ひたい》の通信素子を焼き切り、制帽の霊視眼《グラムサイト》を破裂させながら空中に飛び出し、そこで分解した。
「ハ、ハ、ハ!!」
焼けた制帽が落ち、04の顔に引きつった表情が浮かんだ。苦痛、怒り――いや、嘲笑《ちょうしょう》だ。
「04?」
ブラックロッドはうろたえない。三人のブラックロッドは04を中心にした正三角形のフォーメーションを組み、『呪盾』の呪紋を表示した左手を前に掲げ、簡易的な結界を形成した。
「04、君の行動は常態を逸脱している」と、ブラックロッドの一人が言った。
「――ハ、『04』だ?」
04はブラックロッドの包囲をあざ笑うように、傲然《ごうぜん》と顔を上げた。その半面は焼けただれ、潰《つぶ》れた左眼は血の涙を流しているが、残る右眼は禍々《まがまが》しく力強い視線を放っている。
「いいか、よく聴け死人共」
三人のブラックロッドによる結界は04の言霊《ことだま》をも封じているはずだ。だが、04は血まみれの顔に威圧的な笑みを浮かべ、はっきりと名乗りを上げた。
「俺《おれ》の名はスレイマン、G・G・スレイマンだ!!」
ブラックロッドは公安本部のファイルに交霊《チャンネル》、『G・G・スレイマン』の名を検索。だが、結果は〈コードΩ〉。いかなる過去にも、そして予測され得る未来にも、G・G・スレイマンという人物が存在してはならない[#「存在してはならない」に傍点]。
ブラックロッドは『呪盾』を強化しつつ、「〈Ω〉」と言った。スレイマンの名を呼ぶことは公的な禁忌だ。
「〈Ω〉、君の行動は――」
「ハ、うるせえバカ黙《だま》れそして死ね」
高圧の言霊が、三人のブラックロッドに叩《たた》きつけられた。通常言語として発語されながらなお、死の呪文に匹敵する威力を孕《はら》んだ悪態。それに耐えるため、ブラックロッドは自在|護符《ごふ》の印形を『抗死』へ変更。『呪盾』による結界が解けた中、04――スレイマンは正面のブラックロッド――03に向かって大きく踏み込み、その顔面に身体施呪《フィジカル・エンチャント》によって加速した左手を打ち込む。掌《てのひら》には赤く光る『衝撃《しょうげき》』の呪紋。頭部が半壊《はんかい》し、頸椎《けいつい》が折れ、03は血と肉と欠けた歯をまき散らしながら倒れた。
一方、背後のブラックロッドの一人――02はロッドを構え、呪弾を圧唱《クライ》。小指の先ほどの大きさの高密度の呪力《じゅりょく》の塊が空中に生じ、唸《うな》りを上げてスレイマンの背に飛んだ。スレイマンは血まみれの左手を肩越しにかざし、自在|護符《ごふ》の印形を変更、規定のパターンにないオリジナルの呪紋を表示。『悪魔《あくま》罠《わな》』に似たその呪紋の効果を受けて、呪弾はスレイマンの左手に吸い込まれた。
二人のブラックロッドに向き直りながら、スレイマンの左手が握られ、そして開かれた。一つのく卵Vが手の中からぽろりと落ち、下に構えられた右手に収まった。〈卵〉はピンポン玉大の小結界。低い唸りを発しながら光っている。護符に捉《とら》えられた呪弾が、その破壊力《はかいりょく》を保ったまま封印されているのだ。
02は呪弾を立て続けに圧唱《クライ》。一秒強の間に合計一三発の呪弾がスレイマンに撃《う》ち込まれた。だが、スレイマンはそれらを残らず加速した左手で受け止め、〈卵〉に変えて右手に落とす。腕部の身体施呪《フィジカル・エンチャント》、自在護符の作動、そして結界の生成――三つの術を並行して制御している。そしてもう一つ――スレイマンの右手は〈卵〉を放り投げては受け止め、忙しく、だが的確な動作で|手玉に取る《ジャグル》。
呪弾の発射が息継ぎのように途切れると、スレイマンは左手をジャグルに加えた。一三個の〈卵〉が光の数珠のように宙を舞い、唸りの不協和音を奏でながら、両手の間を複雑な軌道を描いて高速回転する。
「聞こえなかったか? 死人だからといって甘えるな」
スレイマンが手の動きを止めると、〈卵〉の群れは一瞬《いっしゅん》にして両の掌《てのひら》に収まった。次いで両手が跳ね上がると、〈卵〉は空中にばらまかれ、瞬間、スレイマンの前に幾何的図形を描きながら滞空した。一二個の〈卵〉による六芒星《ろくぼうせい》と、その中心やや後方に一三個目の〈卵〉。
「――死ねと言ったらちゃんと死ね」
呪力を帯びたロッドが、一三個目の〈卵〉を叩《たた》き割った。残るすべての結界が連鎖《れんさ》反応によって弾《はじ》け、解放された一二個の呪弾が、見掛けの平面を保ちつつ、あるものは直線的に、またあるものは小さな弧を描いて飛んだ。時に交差し、あるいは互いに衝突して軌道を変える呪弾の軌跡が空中に複雑な魔法円を描き、その中心を一三個目の呪弾が通過。呪弾は魔法円の呪力を吸収、爆発的《ばくはつてき》に加速し、激しい唸りを上げながら02に向かった。02は左手を前にして『呪盾』を構えたが、高速の呪弾は護符もろともに左手と左胸を爆裂させながら貫通した。
最後のブラックロッド――01がロッドを構えた。約二秒前から特捜本部に交霊《チャンネル》していた彼は、02がくずおれると同時に、呪文編纂機《スペルコンパイラ》からの言霊《ことだま》の降霊《こうれい》を完了。〈Ω〉コードを織《お》り込まれた死の呪文を圧唱《クライ》。
「ハ、遅ぇ」スレイマンは全身を三重に加速、01の懐《ふところ》に瞬時に踏み込み、高速詠唱中のロッドに自らのロッドを叩きつけ、作動。詠唱に割り込まれ、目的語を書き換えられた死の呪文が逆流し、01は即死。
01がゆっくりと倒れると、やがて、高圧の言霊がまき散らされていた空間に、静寂がひんやりと染み始めた。
「……ハ」
スレイマンは三人のブラックロッドの屍体《したい》を見下ろした。嘲笑《ちょうしょう》を浮かべたその顔が、見る間に青黒く変色した。額《ひたい》にぽつぽつと血の玉が浮かび、左半面の火傷《やけど》は血で真っ赤に染まった。極端な運動のため、全身の毛細血管が破れ、内出血を起こしている。
「…ク、ハ」
身体施呪《フィジカル・エンチャント》が解け、スレイマンの肩が大きく上下し始めた。乱れ始めた呼吸を制御しようとするが、笑いの衝動《しょうどう》がその邪魔《じゃま》をする。
「クハ…! ハハハゲバ、ブハハハ――げぶ」
腹中で胃が持ち上がり、スレイマンは身を折って嘔吐《おうと》した。動かぬブラックロッドの、死せる死者[#「死せる死者」に傍点]の横顔に、吐瀉物《としゃぶつ》がぶちまけられる。スレイマンはげろまみれの「仲間」の姿に、さらに笑い、さらに吐く。
スレイマンは胃の内容物をすべて吐いてしまうと、哄笑《こうしょう》の余韻《よいん》に痙攣《けいれん》しながら、コートの前をはだけ、インナーウェアを引きちぎった。体調の監視《かんし》や身体施呪《フィジカル・エンチャント》のための呪紋《じゅもん》処理が施された胸が、血の汗を流している。次いで、腕力を強化しながらコートの袖《そで》を一本ずつ肩口から引きちぎり、袖口からぽたぽたと血を垂らすそれらを無造作に投げ捨てた。
「……さて」
スレイマンはV13の依代《ホスト》に近づき、その胴をブーツの先に引っ掛け、高々と蹴《け》り上げた。そして、落下する依代《ホスト》の胸倉をつかみ、
「使い魔を飛ばして、本体は依代《ホスト》に隠れる――それで逃げおおせると思ったか?」
そう言って、依代《ホスト》を縛《しば》る捕捉《ほそく》呪文を解呪した。
すると、
「――キャハハハハ! お見事、お見事!」
V13は宙づりの姿勢のまま、ぜんまい仕掛けの人形のように激しく頭を振って笑いだした。
「スレイマン、在り得ざる者スレイマン! ただ一人の〈コードΩ〉! 市政史上最大の〈変動因子《トリックスター》〉! 最高の言霊《ことだま》使いにして最悪の言語|破壊者《はかいしゃ》! 市政当局はその記録を抹消し、人々は彼を〈悪霊《あくりょう》〉と呼んだ! だが――だが! 彼がいかなる種族いかなる組織いかなる思想に帰属するか、それは問題ではない! G・G・スレイマン、其《そ》は比類なき魔術士――ただひたすらに唯一無二《ユニーク》!!」
「おい」
スレイマンは、整った人形の顔に自分の顔を寄せてささやいた。
「俺《おれ》は質問した[#「質問した」に傍点]んだ」
ごきん、と反響《はんきょう》を伴う音を立てて、V13の顔面が傍らの鉄柱に強《したた》かに打ちつけられた。
「誰《だれ》が俺を評価しろと言った? あ?」ごきん。
「誰《だれ》が俺《おれ》を解説しろと言った? あ?」ごきん。
「ひあ」とV13が言った。
「『ひあ』じゃ判《わか》らん、ちゃんと答えろ」ごきん。
一撃《いちげき》ごとに、精巧に細工された前歯がへし折れ、霊液《れいえき》の飛沫《ひまつ》が飛び、硬く劣化した皮膚《ひふ》が破片を散らした。
「ひあああ――知らない! 知らない!」
スレイマンがV13をつかんだ手を離した。尻餅《しりもち》をついたV13がスレイマンを見上げると、伸長したロッドの先端がその額《ひたい》を指した。
「ああ、自分のしていることも判らんとは、かわいそうに、バカなんだな? 頭のよくなるオマジナイをしてやろうか? え?」
「…ひあ……!」
ロッドの先端が、V13の額をとん[#「とん」に傍点]と小突いた。
「――と、それはさておき」
スレイマンの無傷の半面に、明朗な笑みが浮かんだ。
「君には世話になった。よく俺を解放してくれたな――ぜひ礼をさせてくれ」
「礼……いらない。お礼、いらない」
V13はロッドの先端でゆるゆると光る呪文《じゅもん》発振部を見つめながら首を振り、じりじりとあとずさった。
「そう遠慮《えんりょ》するな。おとぎ話はどうだ? そうだ、『漁師と魔神《まじん》』の話をしてやろう」
スレイマンは歌うように抑揚をつけて、語り始めた。
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年老いた漁師が、海の底から真鍮《しんちゅう》の壺《つぼ》を引き揚げた。
鉛の封を解き、蓋《ふた》を開くと、一柱の雲突く魔神が現れた。
魔神は己が身の上を語る。
「至高者の名の下に封印され、水底で解放を待つ我は、最初の百年にこう思った。
『我を解き放つ者を、永久の富者としてくれよう』
次の百年にはこう思った。
『我を解き放つ者に、地の宝物すべてを与えよう』
さらに次の百年にはこう思った。
『我を解き放つ者の、あらゆる願いをかなえよう』
だが救い手は現れず、終《しま》いに我はこう思った――
『我を解き放つ者を、たちどころに殺してくれよう!!』」
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「ハハハ、面白いお話だ、面白いお話だ!!」と、スレイマンは言った。
ロッドの発振部が灼《や》けるように発光し、甲高い唸《うな》りを発しながら、V13の鼻先に突きつけられた。
「ひ……は…」
V13は光をよけるように尻《しり》を地に着けたままあとずさり、やがて、その背がコンクリートの壁《かべ》に当たった。
そして――
「――キャハハハハハハハハハハハハハハ!!」
突然、眼《め》を見開き、前歯の欠けた口を開けて、V13は哄笑《こうしょう》した。
「あなたは私を殺すのね!? あなたが私を殺すのね!? その長くて硬くて太くて熱くて黒いモノで!! いいわ、いいわ、いいですとも! ズバーッと殺《や》っておくんなさい! でもでもでもでも――」
V13はぴたりと笑いを止め、わざとらしくしな[#「しな」に傍点]を作りながら、
「初めてなの。痛くしないでね」と言った。
それから、
「――なああーんちゃってちゃってちゃって! キャハハハハハハ! 傑作、ケッサク、ひー、ひー、ひー! ひはひはひー! ひはひはひー! ひはひはひはひはひはひはひー!」
と、再び爆笑《ばくしょう》。何度も、何度も、コンクリートの壁に後頭部を打ちつけながら笑った。
「ひはひはひは」
やがて、V13はずるりと路面に倒れ、頭を抱えて丸くなり、
「……ひい………ひい……」
小動物のように震《ふる》えながら、嗚咽《おえつ》を漏らし始めた。
「おい」
ブーツの爪先《つまさき》が容赦なく腹に叩《たた》き込まれた。V13の体は壁に当たって跳ね返り、カラカラと音を立ててスレイマンの足元に転がった。
「なに一人で盛り上がってんだ、え? 最初の質問がまだだろうが」
「ひぐ」
スレイマンが、V13の側頭部を踏みつけた。厚い靴底の下で、プラスティックの頭蓋骨《ずがいこつ》が音を立てて軋《きし》んだ。
「どういうつもりだ? 本当に逃げる気があるのか? たとえ俺《おれ》が見過ごしても、公安に依代《ホスト》を回収されれば同じことだ。それともこの俺が助けてくれるとでも思ったか? そこまで阿呆《あほう》じゃないだろう。……貴様、いったいなにを企《たくら》んでいる?」
「あたしは、なにも」とV13は言い、さらに、事務的な口調で「――『プロジェクト・トリニティ』の一環《いっかん》である当ミッションの目的は〈変動因子《トリックスター》〉G・G・スレイマンの解放にあり、ヴァージニア・サーティーンはそのための損耗分として計上されています」
「ハ、降魔局《こうまきょく》お得意の悪だくみか」
「そう、〈|馬鹿歩き《シリー・ウォーク》〉の技能を持つあなたの存在によって、公安局は〈径《パス》〉の利用――すなわち最大の武器である機動力を大きく制限される上、あなたへの対応に実行力を大きく割かれます。降魔局はその状況を利用してプロジェクトを推進し、そして私は…………私は捨て駒《ごま》、用済み、ただのゴミ。……それがあたし、今のあたし」
「ほう」
スレイマンはV13から足をどけると、ロッドを構えた。
「すると、この俺《おれ》はゴミ掃除のおじさんか」
「……そうね。そうだわ」
V13の顔を指すロッドが、唸《うな》りを上げ始めた。V13は眼を閉じ、息を止めて、祈るように天を仰いだ。だが、なにに祈ればいいのか判《わか》らなかった。
「ハ」
ロッドは破壊《はかい》の呪文《じゅもん》を発する代わりに、V13を横殴りに打ち据えた。頬《ほお》の中で奥歯が折れ、V13は小さな悲鳴を上げて再び倒れた。
「ク、ハ、ハ! 殺せと言われて殺してやるのも芸がねえ。ゴミとして存在し、ゴミとして朽ちろ。それが似合いだ。クク――ゴミが!!」
スレイマンはV13を捨て置き、歩き始めた。
街路のあちこちに引かれた霊走路《れいそうろ》が、低い唸りを発し始めている。派遣したブラックロッドの異常を察知した公安局は、やがて後続を送り込んでくるだろう。
「どこへ行くの…?」と、V13はスレイマンの背に問うた。
「どこへでもだ」
スレイマンは薄笑《うすわら》いを浮かべながら宙を見上げ、変化し始めた気流を読んだ。だが、制帽の霊視眼《グラムサイト》を失ったため、明瞭《めいりょう》な像が結べない。
V13はよろめきながら立ち上がり、スレイマンに歩み寄った。気づいたスレイマンが眼《め》をやると、びくりと立ち止まり、おずおずとスレイマンを見上げた。ひび割れた顔、欠けた歯で、壊《こわ》れた人形のように笑う。怯《おび》えと警戒《けいかい》の混じった青い瞳《ひとみ》に、精一杯の媚《こ》びが浮かぶ。
「ク、ク! なんて面だ! しかし――」
スレイマンはそう言いながら、V13の傍らに膝《ひざ》を突き、左手を伸ばした。スレイマンの手が頬に触れると、V13は一瞬《いっしゅん》身を強《こわ》ばらせた。
「きれいな眼だ。よく見せてくれ」
「え…」
V13が見上げると、スレイマンは半面に慈しむような笑みを浮かべ、細いあごをがっちりと押さえると、右手の指をV13の眼窩《がんか》に突き込み、青い左眼を抉《えぐ》り出した。
「ぎゃん!」
V13は霊液《れいえき》をまき散らす左眼《ひだりめ》を押さえながら倒れ、路面をのたうった。
「クハ! 『ぎゃん』はよかったな!」
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蒼《あお》ざめた人形娘が
犬の眼をして笑う
蒼ざめた人形娘は
犬の眼をして『ぎゃん』と鳴く
『ぎゃん』と鳴き悶《もだ》えるその娘を
その青い眼が見つめてる
[#ここで字下げ終わり]
スレイマンは歌いながら青い瞳《ひとみ》の眼球――高性能|霊視眼《グラムサイト》を自分の左の眼窩《がんか》にはめ、体内の治癒《ちゆ》プロセスを調整し、神経接合。青い左眼で気流を読み、空中に渦巻くその中心部に〈径《パス》〉を確認。
しかし――
「妙なところに穴が開いたな……霊相《れいそう》が歪《ゆが》んでるぞ」
「……〈アザナエル〉よ」
「あ?」
振り返るスレイマンに、再びよろよろと身を起こしながら、V13は言った。
「〈アザナエル〉が、出るの」
「…それも、例のプロジェクトとやらの絡みか」
V13は答えの代わりに、上眼遣いにスレイマンの顔をうかがった。
「ク、ク、そうかそうか、なぞなぞごっこか。『答えはCMのあとで』ってわけだ。え?」
スレイマンのロッドがV13を指した。
「よし、ゲームに乗ってやる――俺《おれ》と来い、ボロ人形」
V13は躊躇《ちゅうちょ》した。
運命の乱気流、不確定性の申し子――スレイマンの行動は、降魔局《こうまきょく》にさえ把握しきれていない。多分、本人にすら判《わか》ってはいないのだろう。
この男についていったとき、自分がどうなるかはまったく判らない。誰《だれ》にも判りようがない。
判らないが、ろくでもないことに決まっている。
それでも……。
V13はスレイマンを見上げた。その焼けただれた半面に、青い瞳が光っている。自分と揃《そろ》いの眼を持つ青黒い顔が、まぶしいほどに傲慢《ごうまん》な嗤笑《ししょう》を浮かべている。
V13はうなずいた。眼窩から霊液を涙のように流し、まるで泣き笑いのような顔。
「うん……連れてって」
「ハハ、よし!」
V13の髪が乱暴につかまれた。スレイマンは、無理矢理仰向けたV13の顔に噛《か》みつくように言った。
「貴様に地獄を見せてやる! 死ぬほど後悔させてやるぞ!!」
スレイマンは自らの脚を身体施呪《フィジカル・エンチャント》。V13の髪をしっかりとつかんだまま、正面の、高い塀に向かってダッシュ。
「キャ――」
――なぜだろう。
泣きたいほど怖くて悲しいはずなのに。
なんだか、とても、楽しい。
「――キャアァハハァ!」
両手で髪を押さえ、恐ろしい勢いで引きずられながら、V13は悲鳴とも嬌声《きょうせい》ともつかぬ声を上げていた。
スレイマンは助走の勢いを借りて約五メートルを駈《か》け上がりながら、壁面《へきめん》を蹴《け》りつけるように〈|馬鹿歩き《シリー・ウォーク》〉。空中の〈径《パス》〉に滑り込み、V13と共に姿を消す。
「キャハハハハハハハハハハハハハ――!!」
「クハハハハハハハハハハハハハハ――!!」
哄笑《こうしょう》の残響《ざんきょう》のみをその場に残し――
〈悪霊《あくりょう》〉は、野に放たれた。
[#改丁]
『天使とビスケット』
03
[#改丁]
包囲作戦は成功した。吸血鬼《ヴァンパイア》はリヴィングの片隅に追い込まれ、もはや逃げ場はない。だが――奴《やつ》の余裕はどうだ。その顔に浮かぶ傲慢《ごうまん》な笑みは!
「ふふふ、どうしたビリー、ビリーJ! おまえの力はそんなものか!?」
ビリーの前に魔王《まおう》のように立ち塞《ふさ》がった男は、悠然と自らの額《ひたい》と左胸を指した。
「この〈ロング・ファング〉を殺したければ、脳か心臓、脳か心臓を撃《う》つことだ」
ビリーJは状況を理解した。対吸血鬼作戦における最終局面は常に、吸血鬼《ヴァンパイア》との直接|対峙《たいじ》。追い詰めたつもりが、逆に追い詰められているということもある。
そう、エンチャントマグナムの装弾は残り一発。これをしくじれば、もはやあとはない。
しかし、ヒーローは恐れない。ビリーは臆《おく》することなく両手でEマグを構え、息を止め、トリガーを引き絞った。
「ぐおっ!」
必殺の一撃《いちげき》は命中した!
〈ロング・ファング〉と名乗った男はひと声|呻《うめ》き、ソファに倒れ込んだ。再びビリーに向き直ったその額には、Eマグから放たれた吸盤《きゅうばん》つきの短矢が突き立っている。
「なんと……なんと! 悪の中の悪、闇《やみ》の中の闇、吸血鬼《ヴァンパイア》の中の吸血鬼《ヴァンパイア》たるこの私を倒すとは――見事だウィリアム・ジョーンズ、おまえは強い男だ。おまえこそ本物のヒーローだ……がくっ」
男は頭をのけぞらせ、白眼《しろめ》を剥《む》いた。
「クリス! ビリー!」
キッチンから手を拭《ふ》きながら出てきたナオミが、大声を張り上げた。
「いつまでも遊んでないで、さっさと食べる! 着替える! 出てく!」
男――クリスはソファから起き上がると、テーブルに置いてあった眼鏡《めがね》を掛けた。明晰《めいせき》にして冷徹《れいてつ》な氷の知性を示す銀縁《ぎんぶち》の眼鏡を掛けたとき、彼の役どころは〈ロング・ファング〉ではなく、吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の司令官「ミスターC」となる。額《ひたい》に矢が突き立ったままだが、気にしてはいけない。
「ビリーJ、緊急《きんきゅう》指令だ! 『速やかに朝食を済ませ、洗顔ののち就学装備を着用、小学校に急行せよ』!」
「|Yah《ヤー》―|Yah《ヤー》―|Yah《ヤー》!!」
ビリーは拳《こぶし》を天井に向けて突き上げながら、跳ねるようにテーブルにつき、食べかけのパンに追加のジャムを塗りたくった。
「ああ、また朝っぱらからこんなにして!」
ナオミは両手を腰に当て、居間を見渡した。テーブルの皿の横には玩具のEマグと装甲車、ジャムの瓶の横にはトレーディング・カードの束、床の上には今まさにフォーメーションを展開していた、何体もの「キャプテン・ドレイクと吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》」人形が散乱している。
「ビリー! 学校から帰ったら自分で片づけるのよ! でないとみんな捨てちゃうからね!」
次いでナオミはクリスの額の矢をポンと音を立てて抜き、前髪を直しながら、
「あなたも、もうちょっと父親らしくしてよ」
「父親なんかじゃないよ!」
ナオミの手が止まった。
ビリーは椅子《いす》から飛び降り、洗面所に走りながら、拳を突き上げた。
「俺《おれ》たちゃチームだ! |Yah《ヤー》!!」
「……ナオミ?」と、クリスが言った。
ビリーの駈《か》け去ったあとを見ながら思案の体《てい》だったナオミは、クリスの声で我に返り、
「あ、うん――作業着、洗ったの出しといたから、持ってってね。今日は工場にエラいさんが来る日でしょ?」
「ああ、そうだったね」
「…ああ、もう! これ、跡になっちゃってるじゃない!」
ナオミは化粧台からファウンデーションを持ち出してくると、クリスの額に残った吸盤《きゅうばん》の跡に塗りつけ始めた。
「平気さ。僕の顔なんて、誰《だれ》も見やしないよ」
「甘い甘い! 他人はこういうとこ、見てないようでもちゃんと見てるんだから。人生は、バトル! なのよ。ナメられたら駄目。判《わか》ってる?」
「判ってるよ、ナオミ――君の判断は常に適切だ」
「また、そんな風に茶化す」
ナオミは苦笑しながらクリスのネクタイをつかみ、強く引いた。
「あなたがなんのために戦うべきか、思い出させてあげるわ」
頭を下げたクリスに、ナオミはいつもの二割増しの情熱を込めて口づけた。
「どう?」
「思い出した」とクリス。
「ヒューヒュー、アツいアツい!」
ビリーが洗面所から飛び出し、タオルを振り回しながら二人の脇《わき》を駈《か》け抜けた。
夫と息子を送り出したのち、ナオミは服を着替えて街に出た。
待ち合わせた喫茶店に、ジョーはすでに座っていた。ジョーはどこでもよく目立つ。大きくて真っ黒で、異教の女神みたいに美しい。漆黒の肌に金銀の星形のアクセサリーをつけた、星空の神様だ。
もっとも、最初に会ったころの姿は、今とは全然違っていた。色は真っ白だったし、こんな立派なおっぱいもなかった。ジョーに再会したのは高校を出て三年後だから、もうこの格好でのつきあいの方がずっと長い。しかし、ナオミには未《いま》だに違和感がある。黙《だま》って座っているとまるで知らない人みたいで、ちょっと声を掛け辛《づら》い。
と――こちらに気づいたジョーが、大きな手をひらひらさせた。
「ハイ、ナオミ」
ナオミは少し安心した。この仕草は昔から変わらない。やっぱりジョーはジョーなんだ、と思う。
「ごめん、ちょっと遅れた」
ナオミがバッグを降ろしながら言うと、ジョーはすました顔で伝票を滑らせてきた。遅刻のペナルティはその店の払い――誘われたときなら半額、誘った場合は全額。高校時代からの、一〇年来のルールだ。
「『シヴァ』一五〇〇――って、なにこれ?」
と言った途端に運ばれてきた『シヴァ神の猛《たけ》り』は、チョコバナナ・サンデー・スペシャル。生クリームとフルーツの祭壇《さいだん》の中央に、バナナを丸ごと使った黒光りする陽根《リンガ》がそそり立っている。
「わぁお! たくまし〜い」と、ジョーが両手を打ち合わせ、
「うわ、最ッ低」と、ナオミは顔をしかめ、舌を出した。
ナオミはチョコバナナを運んできた店員にコーヒーを注文し、席に着いた。
「ビリーはどうしてる?」と、ジョーが言った。
「相変わらずよ。毎日『ババババキューン!』、ごっこ遊び。――そろそろ卒業しなきゃ、困るわね」
「あはは、いっぱしの母親みたいなこと言うじゃない」
「失礼な。あたしゃいっぱしの母親だわよ」
それから、服のこと、メイクのこと、最近見た映画のこと、家賃が上がること――そんな他愛もない話をするうちに、ナオミがふと、なにかもの言いたげな顔をした。ジョーは促すように、
「……で? 旦那《だんな》の具合はどうよ?」
「うん……相変わらず。昔のことは判《わか》らないみたい」
「じゃなくて、シモの方」
ジョーは舌の先で、半分ほどの長さになったチョコバナナをつんつんとつつき、
「インポの旦那のチンポの具合」
「あんたね、インボインポってでかい声で――」
「声でかい、声でかい」とジョー。
ナオミは声を抑え、周囲の様子をうかがいながら、
「――もうちょっと、言い方ってもんがあるでしょ」
「言い方って?」
「例えば、そう――『非常に紳士的』とか」
「ぶは、紳・士・的」
ジョーは白い歯を見せて笑い、
「――で、あまりにも紳士的な旦那様の態度に、若奥様は欲求不満ってわけだ?」
「ん……あたし、ひょっとして淫乱《いんらん》のケがあるのかしらん」
「ぶはははは、あんたが淫乱なら、あたしゃさしずめセックス・マッシィーン! でございますわよ」
「茶化さないでよ」
「いーんじゃないの? 適当に外で遊べば。『家では貞淑なツマ、外では奔放なオンナ』。最初っからそのつもりだったんでしょ?」
「…うん」と、ナオミは言った。「最初は……あのころはまあ、色々あって最悪だったからね。家は取られるわ親父は首|吊《つ》るわ借金はこっちに回ってくるわ子供は小さくて手が掛かるわ」
「ハラませた野郎は逃げてるわ」
「そ」
と、ナオミは舌を出してしかめ面を作って見せ、
「――で、結構ヤケんなってたからさ、ビョーニンの家族ごっこに適当につきあってお手当てもらって、ヤバくなったらトンズラしちゃおう、ってのもそれなりにいい考えだと思ったわけよ」
「いい考えじゃん?」
「でもね、近ごろは、もっとこう……マジメに幸福とゆーものを追求してみようかと思ってみたりして」
「…あら、そう来たか」と、ジョーが言った。
ナオミは無言のまま、眼を伏せた。
「はッはァ〜ん」
ジョーは上眼遣《うわめづか》いにナオミの表情をうかがいながら、
「アイしちゃったのねん?」
ナオミはその視線を逸《そ》らしながら、
「…コーヒー、遅いわね」
「意外や意外、あんた、もっと遊び人風がタイプだと思ってたわ」と、ジョーが言った。
そこに――
「お話は聞かせていただきました」
分厚い聖書を手にした牧師風の男が、二人の間に頭を突っ込むように割り込んできた。
「楽園を追われてのち、愛しあう男女が霊《れい》と肉との不完全さゆえに苦しまねばならぬことは大きな不幸です。神はなぜ、このような試練を我々に与えたもうたのでしょうか」
「は?」
二人が顔を見合わせると、男は聖書を開いた。革表紙のそれは、本に見せ掛けた中空のケースだった。ケースの中に入っていた十字架を取り出し、胸の前に構えながら、男は言った。
「おお――『オナンそのたねのおのれのものとならざるを知りたれば兄の妻のところにいりし時兄に子をえせしめざらんために地に漏らしたり』――こすれよ、さらば満たされん」
男がスイッチを入れると、モーターのかすかな唸《うな》りと共に、男根の形に成形された十字架の下端が、芋虫のように首を振った。
「…失《う》せな」と、ナオミが言った。
だが、男の口上は止まらない。男がマントを広げると、その内側には大小様々な十字架型の性具がずらりと並んでいた。男はそれらを指し示しながら、
「これらのお道具は振動、回転、膨張《ぼうちょう》、発熱、発光など、各種機能により様々なニーズにお応《こた》えします。サイズの方も、小、中、大、特大、コンパクトで便利な携帯用など各種取り揃《そろ》え、すべて抗菌仕様でとても安心、今ならこちらの専用高級ケースもおつけします。おお、神の愛があなたと共にありますように。アーメン」
「消えろってンだよ、チンカス野郎」
恐ろしくドスの利いた低い声で言いながら、ジョーが立ち上がった。男より優に頭一つは背が高い。しかし、男は臆《おく》した風もなく、晴れやかな笑みを浮かべながら、
「なんでしたら、お二人様にはこちらの双頭タイプなど――」
ジョーは両手で男の胸倉をつかんで持ち上げ、強烈な頭突きをかました。男は床に尻餅《しりもち》をつくと、這《は》うようにして逃げていった。
ナオミがくすりと笑い、ジョーは、
「――ええと、なんの話だったっけ? ああそうそう、インポインポ」
と額《ひたい》をさすりながら再び着席、
「そういうことなら、なにかやり方考えてみたら? えー、いわゆるプロの意見とイタシましては、もし心理的なコトが原因なら――なんかこう……ムード作りに凝《こ》ってみるとか?」
「ムード、ね……あんま期待できないわ」
とナオミは言い、性具売りの男が逃げ去った方向をあごで指した。
「うちの人、この前、アレ買わされて帰ってきたわよ」
一旦《いったん》言葉を切り、真面目《まじめ》な顔を作り、
「『もしよければ、その――』」
身を乗り出して聴くジョーに、ナオミは真顔で、
「『――サイズが合うといいんだが』」
「ぶはは、そりゃ靴か指輪のときに言う台詞《せりふ》でしょ!!」
「そうよねえ」
「…でも、そういう気の利かないのには、こっちからアプローチしてやんなきゃね」
「うん」と、ナオミは言った。「それで、今日はこのあと『ミディアン・トイズ』に寄って、『〈カラミティ・カーミラ〉コスチュームセット』を購入《こうにゅう》の予定」
「カラミティ……なに?」
「知らない? ほら、『キャプテン・ドレイク』に出てくる女|吸血鬼《ヴァンパイア》で、『あなたの首にキスさせて……』っての」
「ぶは! マジそれ!? いったいどういう趣味《しゅみ》よ?」
「あたしに訊《き》かないでよ」と、ナオミが口を尖《とが》らせた。
「で? 旦那用《だんなよう》に赤ジャケとラバースーツは要らないの?」
と、からかうようにジョーが言うと、ナオミは肩をすくめ、
「それはもう、持ってるから」
「ぶはははは!!」
ジョーは机を叩《たた》いて爆笑《ばくしょう》した。
「…いやあ、安心した! あんたら最高! もー最高にハッピーなご家庭だわ」
そして、涙を拭《ふ》きながら、
「それじゃあ、もう……あたしたち、あんまり会わない方がいいよね」と言った。
ナオミはなにか言いかけて、口をつぐんだ。
それから、バッグから一枚のキャッシュカードを取り出し、ジョーの前に差し出した。
「これ、今までもらったお金……返すね」
「……うん、判《わか》った。もらっとく」
と言って、ジョーはそれを手に取り、無造作にポケットに放り込んだ。
ナオミはテーブルの一点を見つめながら言った。
「別に、お金がどうこうっていうんじゃないのよ。……だけど、あんたにも、もうあんまり危ないことして欲しくないし……」一瞬《いっしゅん》言葉を詰まらせ、「……ごめん、言い訳したりして……ごめんね」
「駄目だよ、ナオミ」
ジョーの掌《てのひら》が、ナオミの手を包んだ。
「自分だけ幸せになるのが不公平だとか、そんな風に思っちゃいけない。それはあんたが手に入れた、あんたの取り分なんだ。あたしなんかより、旦那《だんな》と子供のこと考えな」
「……うん」
店員がナオミのコーヒーを持ってきた。店員の置いていった伝票をさりげなく取り上げながら、ジョーが立ち上がった。
「じゃあね、ナオミ。旦那のフニャチンしっかり握って、離すんじゃないよ」
大きな手がナオミの肩に乗り、やがて離れていった。
ナオミはそのままの姿勢で、遠ざかるジョーの足音を聞いた。
肩に残る掌の感触も、足音のリズムも、一〇年前と変わらない。
足音が店のドアの向こうに消えたあとも、それはナオミの中でずっと繰《く》り返されていた。
やがて――
室温でクリームがゆるみ、ぼとっ、と音を立てて、チョコバナナが倒れた。
なんだか不意におかしくなって、ナオミは吹き出した。
少し、涙が出た。
C層の中央付近に位置するブラインドフォーチュン・ビスケット社の製菓工場は、比較的小規模ながら、この階層における最も「クリーンで先進的」な工場を自任し、喧伝《けんでん》している。ここ数年、独自の製法をもって業界内に確固たるシェアを築《きず》いた同社の、大きな自負の表れだ。
その中にあって、クリストファー・ジョーンズは、BFB社の主力商品「占いビスケット」の生産ラインの現場主任を務めている。機械の騒音《そうおん》と甘い匂《にお》いのする熱気の中、ベルトコンベアを流れるビスケットと共に場内を巡り、機械を点検し、検査や包装に働くパートタイマーの機嫌を取る。非常に紳士的で人当たりのよい彼は、パートの間でもおおむね受けがよい。
構内電話のベルが鳴った。受話器を取ったパートのライアン夫人が、
「主任、お電話ァ! 内線!」と、機械に負けない大声を張り上げた。
「はいはい、どうも」
と言って、クリスは小走りに駈《か》け寄り、受話器を受け取った。
「はい、ジョーンズです」
『あの……主任?』と受付のモニカが言った。
「はい、なんですか」
『こちらに、その……変わった方が』
「ああ、本社の視察の方ですね。すぐそちらにうかがいます」
クリスは電話を切り、受付に走りながら、「変わった方」はよかったな、と苦笑した。新人のモニカは、視察官を見るのは初めてなのだ。
本社から来る視察官は、れっきとした上層人だ。目鼻の作り、体型、物腰、すべてがあまりに完璧《かんぺき》すぎて、確かに自分たちと同じ人間という気がしない。おまけに、変わった仕立ての服(もっとも、彼らに言わせると、我々の服装が「恐ろしく遅れている」のだとか)や光背ジェネレータを身に着けてくるので、まるで遠い未来か宇宙の果てからやって来たみたいに見える。
さらに奇妙であり、厄介でもあるのは、上層の整形技術だ。彼らは月ごとに、自らの容姿を、顔立ちから体格、年齢《ねんれい》、性別までも、まるで服を着替えるように、自在に変える。
その辺りの事情が呑《の》み込めていないころ、ある時の視察官――以前に見た担当者と似たところがあった――に、「前の担当の方のご血縁《けつえん》でいらっしゃいますか」と訊《き》いて、ひどく機嫌を損ねてしまったことがある。実際には、それは前回も視察に来た当人だったのだが、イメージチェンジが不完全だと指摘されるのは、彼らにとって非常な侮辱に当たるらしい。
それ以来、クリスは余計な詮索《せんさく》をやめた。実のところ、毎月来る視察官は、ここ数年の間に何度か代わっているらしいが……どういうタイミングで交代があったのか、クリスにはよく判《わか》らないし、特に知ろうとも思わない。彼らは人格を特定されるのをひどく嫌うし、彼らにとっても、「下」の人間の見分けはつきにくいらしい。結局のところ「上」から来る人々に対しては、礼を尽くし粗相のないようにして、無難にお帰りいただくのが一番だ。お互いそれで支障はない。
受付に立っていた上層人は、ハイティーンの少女の姿をしていた。小柄でありながら伸びやかなその肢体を、不思議な光沢のある白いボディスーツ――縫《ぬ》い目もジッパーも見えないが、いったいどうやって着るのだろう?――に包んだその少女は、背筋をすっと伸ばした姿勢で手を前に組み、周囲を物珍しげに見回している。肩まであるストレートの髪、花のように微笑《ほほえ》む桜色の唇、好奇心できらきらと光る青い瞳《ひとみ》――「初々しい少女」が彼女(あるいは彼)の役どころなのだろう。
別に驚《おどろ》くには当たらない。以前には一二歳の少年(に見える人物)が来たこともあったし、レスラーのような大男(に見える人物)だったこともある。彼らの外見は、中味とは関係ないのだ。この少女も、ひと皮|剥《む》けば中年の婦人かもしれないし、七〇の老人かもしれない。まあ、なんにしても、丁重に扱っておけば間違いはない。
クリスはモニカに手を振って交代すると、少女の前で姿勢を正し、
「ようこそおいでくださいました。ビスケット・ライン主任のジョーンズです」
と名乗り――出しかけた右手を、慌てて引っ込めた。…というのも、上層人同士でもそうなのか、それとも「不潔《ふけつ》な」下層人を相手にするときだけなのかは判《わか》らないが、上層人は肉体的接触を嫌うからだ。
しかし――
「はい」と言って、少女はクリスの真似《まね》をするように、右手を半分出し、素早く引っ込めた。
「…は?」
クリスはその仕草の真意が読めず、少女の顔をうかがった。すると、少女は青い眼《め》でクリスの顔を見返し、微笑《ほほえ》みを浮かべたまま、首をかしげた。
よく判らないままに、クリスがそろりと右手を出すと、少女ももう一度右手を出した。その手をそっと握り、上下に振ると、少女の顔がパッと輝《かがや》いた。まるで新しい遊びを教わった子供のように、手元とクリスの顔を交互に見ながら、握った手を何度も強く上下に振る。
クリスが手を離すと、少女は眼を輝かせてその顔を見上げた。彼が次はどんなことをするのかと期待する眼。家で遊んでいるときのビリーと、同じ眼だ。
そのあまりにもまっすぐな視線に、クリスは少々気恥ずかしさを覚えながら、
「では、工場をご案内いたします」
と言った。相手の名前は訊《き》かない。それが上層人に対する作法だ。
「はい」と言って、少女は花のように微笑んだ。
クリスはこの娘のことが、少し好きになった。たとえ中味が七〇の老人だったとしても――と、そこまで考えたところで、少々不思議にも思った。彼らが容姿をいくら変えても、その仕草の端々には実際の年齢や経験がうかがえるものだ。しかし、それにしては、この少女の物腰はやけに子供じみている。
――いやいや、詮索《せんさく》はなしだ。
「こちらにどうぞ」と言って、クリスは少女の先に立ち、歩き始めた。
二人はまず、現場の手前の準備室に入った。洗面台や衛生管理のための器具が置いてある、身支度の場だ。
「安全のため、髪の長い方には、後ろで束ねていただくことになっています――ええと、髪留めのゴムは……少々お待ちを」
クリスは受付に戻ってモニカに予備のゴム紐《ひも》をもらい、再び準備室へ。
「ではこのゴムで――あれ?」
肩まであった少女の髪が、いつの間にか、さっぱりとしたショートヘアに変わっていた。
「あの……髪をどうされました?」
「短くしました」と言って、少女は微笑《ほほえ》んだ。
「はあ」
クリスはくずかごや洗面台を覗《のぞ》いてみた。だが、切った髪は見当たらない。そもそも、ほんの数分できれいな散髪ができるとも思えない。かつらかなにかを着けていたのだろうか?
念のため、
「…切った髪はどちらに?」と訊《き》くと、
「いいえ、切っていません」
そう言った瞬間《しゅんかん》、少女の髪がするりと伸び、腰まで垂れた。そして、次の瞬間には丸坊主に近い長さまで縮《ちぢ》み、それからまた、先ほどのショートヘアにまで伸びた。
「うわ、あの……便利ですね」
「はい」と言って、少女は微笑んだ。
その後、手を洗って乾かし、アルコールで拭《ふ》いた。
――これも、彼らに対していったいどの程度の意味があるのか判《わか》らないが――そう思って傍らを見ると、少女は自分の手の匂《にお》いを右、左、と交互に嗅《か》ぎ、クリスに向かって、
「スースーします」と、楽しそうに言った。
準備を整え、スチールの扉とエアカーテンをくぐって騒音《そうおん》と熱気の支配する場内に入ると、
「まあ……いい匂い!」と、少女は言った。
「――えー、まず、この工場ではAB二つのコンベアラインをビスケットの生産に当てておりまして、ここに流れているのはBラインの方です――」
と、クリスは説明を始めた。どの視察官に対しても、初見のように一から説明することに決めている。
「こちらの機械――生地の原料を混ぜる機械で、ホリゾンタルミキサーといいますが、これは先週定期点検を済ませてあります。Aラインの方の機械も同様です」
と言って、クリスは巨大なミキサーの点検パネルを開いた、その内側に点検のチェックシートが貼《は》られているのだ。だが、クリスの顔の高さにあるパネルは、少女の背丈では上手《うま》く見ることができない。
「今、踏み台を持ってきますね」
と、クリスは言った。前に少年の姿で現れた視察官にも、同様に計らった。まさか、ビリーにするように抱き上げるわけにもいかない。
しかし――
眼《め》の前で、少女の背丈が一五センチほど、にゅっと伸びた。
クリスより若干低い程度の背丈になった少女は、パネルを覗き込み、にこりと笑った。
「は――」
と、クリスは言った。
「……えー、では次、ロータリーモルダー――」
いったいどういう仕組みなのか、見当もつかないが――上層人のすることにいちいち驚《おどろ》いてはいられない。
「モルダーというのは、生地の型を抜く機械でして――」
回転するドラムの表面に刻まれた型から、表面に簡単な魔法円《まほうえん》を刻印した丸いビスケットの生地が、次々とコンベア上のプレートに打ち出されていく。クリスは先ほどと同じようにチェックシートを見せようとしたが、少女は上の空でコンベアの流れを眺めている。
クリスは苦笑しつつ、モルダーのパネルを閉じた。どのみち、視察官の監査《かんさ》は毎度おざなり。形式的なものにすぎない。それよりも、少女が興味《きょうみ》をもってラインを見ていることが、クリスにはずっと好ましく思えた。
それから――
「このトンネルオーブンは二〇メートルの長さがあり、ビスケットの生地はこの中を五分間掛けて移動し、毎秒五枚の速度で焼き上げられます。もう一台のオーブンと合わせて、毎時三六〇〇〇枚――」
少女はオーブンの口を覗《のぞ》き込み、列になって続々と出てくるプレートを、口を尖《とが》らせながら、左から右へ、真ん丸にした眼《め》で追っている。
クリスはその表情に笑いそうになりながら、
「熱いので、お手を触れないよう――」
その言葉が終わらないうちに、少女の手がラインに伸び、焼けたプレートに触れた。
――プレートの温度は二〇〇度。
「大丈夫ですか!?」
クリスが駈《か》け寄ると、少女は、
「はい?」
と、その慌てぶりを不思議そうに見ながら、プレートから一枚のビスケットを抜き取った。熱も痛みも、まったく感じていないようだ。念のためにその手を診ても、傷ついた様子はない。一見素手に見えるが、なにかの耐熱処置がしてあるのかもしれない。
クリスはなにか小言を言おうと思ったが、少女がビスケットを不思議そうに透かし見るさまに、思わず笑ってしまった。
「…占いビスケットを見るのは初めてですか」とクリスが言うと、少女は、
「はい――加熱によって変化した外周部の分子構造が結界索を作って……中心部に、なにか言霊《ことだま》が封印されていますね」と言った。
きっと予備知識があったのだろう。もちろん肉眼で見えるわけはない。
「ええ」
と言って、クリスは傍らのキャビネットにハンカチを広げた。
「ちょっと貸していただけますか――あちち」
まだ熱を持っているビスケットを受け取ってハンカチの上に持ち、
「いいですか?『これは、この一枚を選んだあなたの運勢です』――」
もったいぶった口調でパッケージに印刷される決まり文句を言って、ぽきっ、と音を立てて割ると、ビスケットの断面からひと筋の湯気と共に、体長三センチほどの、天使の姿をした半透明の霊気《れいき》の塊が飛び出してきた。
「まあ!」と言って、少女が手を打った。
天使は空中でくるくると回転しながら、
『大吉! 大吉! 仕事運良好・新しい出会いの予感! 金運良好・意外な収入が! 恋愛運良好・気になる異性と結ばれるチャンス! 健康運注意・体を壊《こわ》さないように! ラッキーカラーはモノトーン!』
と甲高い声で叫び、パッと弾《はじ》け、空気に溶けた。
「ほう、大吉ですね」
とクリスは言い、ビスケットの片割れを少女に手渡した。
「もちろん、占いのあとは普通に召し上がっていただけます――本当は、ここでは服務規定違反ですけどね」
周囲を見回しながら肩をすくめ、クリスは自分の手に残った方の片割れを口に放り込んだ。
その仕草を真似《まね》ながらビスケットをかじった少女が、
「――おいしい!」と叫んだ。
クリスは、初めてビリーにビスケットを与えた時のことを思い出した。ビリーもやはり、こんな顔をして喜んでいた――もっとも最近は、クリスがたびたび持ち帰るビスケットにはもう飽きたらしく、少々受けが悪い。
少女はビスケットを咀嚼《そしゃく》しながら、胸の前で手を組んだ。
「(もぐもぐ)素晴らしいわ! 日産三〇万枚、ストック量五万カートンの中の一枚一枚が、こんなに可愛《かわい》くて楽しくて(もぐもぐ)おいしいなんて! なんて素敵!」
「ストックのことまで、よく勉強されましたね」
と、普段なら決して口にしないであろう――場合によっては無礼と取られるかもしれない――言葉が、つい漏れた。
しかし、
「いいえ、勉強はしていません」と言って、少女は微笑《ほほえ》んだ。「ただ知っているだけです」
「はあ」
意味を取りかねたクリスが、
「えー、では続いて検査と包装の方に――」
と言うと、少女はビスケットの行進を名残惜しげに見つめながら、あとに続いた。
そこに――
「主任、お電話ァ! 内線!」と、ライアン夫人の声がした。
「失礼、ここで少々お待ちください」
と少女に言い置き、クリスは電話に出た。
「はい、ジョーンズです」
『あの……主任?』と受付のモニカ。
「はい、なんですか」
『こちらに、その……本社の視察の方がお見えになってます』
「はい?」と、クリスは言った。
受付に立っていたのは、いかにも上層風のスーツを着た、背の高い男だった。
後頭部にセットした直径三〇センチほどの光背ジェネレータがまばゆい光を放ち、顔面を逆光に隠している。そのため、年齢《ねんれい》はよく判《わか》らないが、多分五〇歳前後ではないだろうか。
慌てて駈《か》けつけたクリスが、
「は、あの……ビスケット・ライン主任の、ジョーンズです」
と言うと、男は無言のまま、「早く行け」と言うように、軽くあごを突き出した。
この威圧感――間違いない、本物の視察官だ。
――とすると、あの少女はいったい何者だろう?
なんにしても、一旦《いったん》別室にでも待ってもらって、まずは視察を無事に済ませなければ――
そう思いつつ現場に戻るなり、内線が回ってきた。
『主任? ビスケットのBラインの検査ですが――』と、パートのレインが言った。
「ああ、一枚抜けていたでしょう? 問題ありません。こちらでサンプルを――」
『いいえ……一枚も回ってこないんです』
「えっ!?」
――もしや……。
クリスが駈けつけると、トンネルオーブンの出口に、天使の群れが発生していた。
例の少女が、コンベアの傍らに立って、オーブンから毎秒五枚のペースで吐き出されるビスケットを片端から食べている。上半身がぼやけた塊に見えるほどの猛スピードで、淀《よど》みなく手と口を動かすさまは、あたかも生産ラインの機械の一部と化しているようだ。
少女の口元で割れたビスケットから、次々と天使が飛び出し、占いの結果を歌う。数秒の滞空時間ののちに弾《はじ》け飛ぶそれは、同時に毎秒五体のスピードで生まれ続け、彼女の周囲には数十体の天使が生まれ、回転し、弾けている。
レインを始めとするパートタイマーが、なにごとかと周囲に集まり始めた。
「あの――」と、クリスは少女に声を掛けた。
「あら」
少女はぴたりと手を止め、きょとんとした表情で周囲を見回した。
滞空していた天使は次々に寿命を終えて弾《はじ》け飛び、数秒後、最後の天使が、『ラッキーカラーはモノトーン!』と叫んで消えると、場内には通常の機械音だけが残った。
「…皆さん(もぐもぐ、ごくん)どうかしまして?」
「あの、た、食べ……全部?」と、クリスは言った。
「はい、とてもおいしくいただきました」と言って、少女は微笑《ほほえ》んだ。口元にビスケットの粉がついている。
クリスが席を外してから約五分――その間に焼き上がった一五〇〇枚のビスケットはいったいどこに収まってしまったのか、少女はなんの障りもなく、けろりとしている。
新たにオーブンから吐き出されたビスケットが、コンベアを巡り始めた。
クリスは周囲のやじ馬に向かって、
「皆さん――皆さん、持ち場に戻ってください!」
と、声を張り上げた。
だが、やじ馬は立ち去りがたい様子で、ただにこにこと笑う少女の姿を覗《のぞ》いている。
「あの、皆さん――」
「粗末な管理能力だな」
いつの間にか、視察官が背後に立っていた。
「は、あの、これは――」
視察官は、クリスの声など耳に入らないというように、
「監督者《かんとくしゃ》を交代する必要がありそうだ」と呟《つぶや》いた。
「いえ、その――」
クリスはしどろもどろになった。視察官のまばゆい光背に威圧され、眼《め》を伏せながら何度も冷や汗を拭《ふ》いた。
そこに――
「すみませんが、光背の輝度《きど》を落としていただけませんか?」
と、少女が言った。
「この工場の残留思念|濃度《のうど》はA層の一般区画以下ですから、光背は必要ありません。それに、主任さんがとても話しにくそうです」
「なんなのかね、君は。一見、『ちゃんとした人間』に見えるが……」
と、視察官は言った。
「位階と姓名を述べたまえ」
クリスは思わず身を固くした。こうした物言いは、上層人にとっては最大の侮辱であり、威嚇《いかく》でもある。
「申し訳ありません」
少女は自分の胸に手を当てながら、微笑《ほほえ》んだ。
「私は元型相似率九九・九九九九九九九九九九九の〈コードα〉ですので、位階も固有名も、共に持ちません」
「……!」
視察官の光背が、不意に光を消した。中から現れたのは、蒼《あお》ざめた老人の顔だ。
「君――視察は来週に延期だ。私は今日ここでなにも見なかったしなにも言わなかった」
と、視察官は早口でクリスに言った。上層人がこんなに取り乱すのを、クリスは初めて見た。
「ええと、この方は……?」とクリスが少女を指すと、
「私の関知するところではない。だが……忠告しておく! 粗相があってはならんぞ!」
叫ぶように言うと、視察官は逃げるように足早に去っていった。取りつく島もない。
「あの…」クリスは少女に言った。「いったい、どういうことでしょう?」
少女は「さあ」と言い、微笑みながら首をかしげた。
少女の素性は判《わか》らなかった。
「どちらから来られたんですか?」
「上の方から」
「なぜ、この工場に?」
「いい匂《にお》いがしたものですから」
「どこへ行くところだったんですか?」
「〈アザナエル〉のところへ」
「アザナエル……? それはなんですか?」
「現行の言語及び概念においては、正確な説明は不可能です。強いて言うならば――」
少女は少しの間首をかしげ、
「私に似ています。いずれ私自身になります」と言った。
「――?」
結局、要領を得ないまま終業時刻になり、少女の身柄は一旦《いったん》クリスが預かり、明日身元の確認をするということになった。
工場から最寄り駅までの道すがら、少女は道端のポスター、マンホール、自動販売機など、なんでもないものに興味《きょうみ》を示しては、ふらふらと立ち止まった。ほんの一〇〇メートルの道のりが、一向に進まない。
なるほど、こうやって工場に迷い込んだのか、と、妙なところで納得しているうちに、クリスはふと少女を見失った。
「あ……」
クリスは少女を呼ぼうと思ったが、名前が判《わか》らない。
こういうときになると、名前が判らないのは不便だな、と思った。
「主任さん!」
その声に振り返ると、少女が小走りに駈《か》けてきた。どこから出したのか、くすんだ色の上着を着ている。
「あの、それは…?」
「今、そこで親切な方が、『姐《ねえ》ちゃん、そんな格好じゃ寒かろう』って!」
少女が振り返り、飛び跳ねるようにして手を振った。
見れば、路肩に座った数人のホームレスが、笑いながら手を振り返している。
クリスはあいまいな笑みを浮かべて会釈を返した。
少女は、歩きながら上着の袖《そで》を鼻に押し当てて深呼吸をし、
「変な匂《にお》いがします」
と言って、くすくすくす、と笑った。
「アンモニア、尿素、硫化水素にインドール……それから、いろいろ!」
実際、元が何色だったのかも判らないほどに汚れ、垢《あか》じみた上着は、半径二メートルの範囲に、まるで鼻を指で弾《はじ》かれるような、強烈な悪臭を放っている。そのまま駅に入り電車に乗ると、そこそこの込み具合の車内に、二人を中心にした円形の空間が空いた。
少女はくすくすと笑い、
「見えない壁《かべ》があるみたい。まるで、魔法《まほう》の上着だわ!」と言った。
「ええと……それ、少し汚れているようですから、うちに着いたら洗濯《せんたく》しましょうか」
とクリスが言うと、少女は、
「まあ、ありがとう」それから首をかしげ、「でも、魔法が解けてしまわないかしら」
「さあ、それは保証しかねますが…」と、クリスは頭を掻《か》いた。
C層の一角にある――どこにでもある――高層住宅が、クリスの自宅だ。
黒々とした壁のようなビルが、ところどころ歯の抜けた明かりを整然と灯《とも》している。
「ここですよ」と、クリスが立ち止まると、少女はビルを見上げ、
「まあ、なんて大きなおうち!」と言った。
「いえ、私の家は、あの辺りの――明かり一個分です」とクリスが訂正すると、
「まあ――まあ!」
と、さらに大きな声を上げて、少女は胸の前で手を組んだ。
「それでは、このたくさんの明かりの一つひとつに、幸せな家族が住んでいるのですね! ――まるで、ミツバチの巣みたいに!」
「ええ…そうですね」と、クリスはうなずいた。
――みんなそうかは判《わか》らないけど、まあとりあえず、自分は幸福だ。
再び歩きだすクリスのあとを、少女は跳ねるようについていきながら、大きな声で歌った。
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ハニー、ハニー
甘い甘いしあわせ
ミツバチのおうちは
ハニカム構造!
[#ここで字下げ終わり]
すれ違う人々の怪訝《けげん》な顔に愛想笑いで応えながら、クリスはビルの中に入った。
エレベーターで二〇階に昇り、廊下を少し歩いたのちに自宅のチャイムを鳴らすと、ドアの向こうから「帰ってきた!」と、ビリーの声がした。
「こっちこっち!」ビリーに手を引かれながらリヴィングの入り口まで来ると、壁《かべ》の向こうから、ブーツを履《は》いた脚が、にゅっと突き出された。
「じゃ〜ん、どーおン?」
芝居がかった仕草で腰に手を当てながら、ナオミが登場した。
黒いエナメルのハイヒールブーツに、エナメルのパンツ、エナメルのビスチェ。ところどころに金の髑髏《どくろ》があしらってある。耳にも大きな髑髏のピアス、眼《め》には赤のコンタクト。燃えるような赤毛のウィグを頭に着け、大きな牙《きば》も、自前の犬歯の上にパテで着けてある。
ナオミはクリスの首に腕を回しながら、
「うふふ、『あなたの首に……』――なにこの匂《にお》い?」
クリスの背後を見たナオミは、汚い上着を着た少女に気づくと、
「ぎゃっ!?」と叫んでリヴィングに飛び込んだ。「なしなし、今のなしっ!」
「ナオミ?」と、クリスが言った。
「お客が来るなら電話ぐらいしてよォ!」とナオミ。「あたし、まるでバカみたいじゃない」
「いやいや……素敵だよ、ナオミ」と言って、クリスはちらりと背後を見た。
「ええ、とっても!」と、少女は言った。
数分後――
服を着替えて出てきたナオミが、
「あの、さっきのカッコだけどね――」と言うと、
「女|吸血鬼《ヴァンパイア》〈カラミティ・カーミラ〉。『キャプテン・ドレイク』第二シーズン以降に登場する主要な敵役の一人で、妖術《ようじゅつ》技官M5と並んで同シリーズの華とされた、「悪のヒロイン」。初回登場は第四二話『戦慄《せんりつ》のシャドウビースト』。先ほどのコスチュームは第五八話のカーミラ再登場編『レディ・ヴァンプ再び』以降に用いられた定番衣装のレプリカで、現在『ミディアン・トイズ』社で製造・販売されているものですね」と、少女は言った。
「…やけに詳しいわね。そのスジの人?」
「いいえ」と言って、少女は首をかしげた。「それに、奥様がカーミラの扮装をされていた理由は存じ上げません」
ナオミは赤面し、
「……忘れてちょうだい。頼むから」
少女はもう一度首をかしげ、それから、
「はい、忘れました」と言って微笑《ほほえ》んだ。
「急に来るからなにもないわよ。パン、シチュー、サラダ、以上っ!」
と言いながら、ナオミはシチュー鍋《なべ》をテーブルの中央に置いた。残る三人はテーブルについている。少女は上着を脱ぎ、脱いだそれはすでに、ナオミの悪態と共に洗濯機《せんたくき》に放り込まれている。
「ごはんのあと、このお姉ちゃんにクロスリアクション・テストをしなくちゃ」
と、椅子《いす》から伸びた足をぶらぶらさせながら、ビリーが言った。
クリスはビリーに顔を寄せて耳打ちした。
「いや、その必要はないな。――私が見たところ、彼女はシロだ」
テーブルの中央に置いた鍋からポテトとコーンのシチューを皿に盛りながら、
「で、お客さんのお名前は?」と、ナオミが言った。
「あ…」と、クリスが言った。ナオミが上層人の常識を知るわけがない。
シチューの皿を覗《のぞ》き込んでいた少女は顔を上げ、
「名前はありません」と言った。
「私は元型相似率九九・九九九九九九九九九九九の〈コードα〉ですので――」
「名前がないってこたないでしょう」と、ナオミは言った。「なきゃ困るもの」
「困りますか」
「困るわね」
少女は困惑の表情を見せた。
「困りました――どうしましょう?」
「さっきのはなに?『ゲンケーなんとかのなんとかかんとかのコードアルファ』ってのは」
「元型相似率は〈完全者〉の理論値を基準とした霊基《れいき》構造の精度の指標です。外的要因による人格劣化への対策の一環《いっかん》として、私たちの個体及びグループに対する固有名詞は設定されず、ただ〈α〉コードのみが用いられます」
「よく判《わか》んないけど……『アルファ』って呼べってこと?」
「さあ……そうでしょうか」
「ま、そういうことにしときましょ、アルファさん。ハイ決まり!」
と、ナオミは話を強引に切り上げ、サラダを取りにキッチンに戻っていった。小難しい話は嫌いなのだ。
「…アルファ」
その言霊《ことだま》が、少女――〈α〉の魂に組み込まれ、元型相似率が小数点以下七位のレベルで減少した。
「アルファ――私の名前」
もう一度|呟《つぶや》いて、少女――アルファは、くすくす、と笑った。
夕食ののち、ナオミは片づけもの、クリスは部屋にこもって職場から持ち帰った報告書の整理を始めた。そして、ビリーはリヴィングに山のように人形を抱えてきて、アルファを相手に『キャプテン・ドレイク』ごっこを始めた。
「――違う違う、貫通隊形はもっと中央に密集するんだ。部隊全体が一本の矢になるようにね。それに、この位置は敵から丸見えになっちゃうよ」
アルファが配置した人形の位置を、ビリーは少しずつずらし始めた。
「まあ――まるで本当の隊長さんみたい! いったいどちらで訓練を?」と、アルファは言った。
「パパに教わったんだ」と、ビリーは言った。「パパはなんでも知ってるんだ。それに――」
ビリーは周囲をうかがうように見回しながら、声をひそめた。
「パパとママの部屋に赤いジャケットが隠してあるのを、僕はちゃんと知ってるんだ。パパはきっと、ブラッドジャケットの一員だったんだ。いや、ひょっとするとキャプテン・ドレイクその人かもしれないな」
「ええ、そうですね」と、アルファは言った。
「あっ、これは秘密だよ」
ビリーは唇に人差し指を当てた。
「トップシークレットだからね」
[#改丁]
『僧兵くずれ』
04
[#改丁]
〈ケイオス・ヘキサ〉最下層、外周地区。
黒々とそびえる都市|外壁《がいへき》の内側に、こびりつくように設営された飯場。結界印をペンキで描いたプレハブの宿舎、その軒先に並ぶ黄ばんだ洗濯物《せんたくもの》が、はるか遠くに街の灯《あかり》を眺めている。
宿舎の群れの中央に、酒場があった。
染みのついた打ち放しの床にひび割れたテーブルが並び、裸電球の灯の下に、祈祷車《きとうしゃ》の唸《うな》りと共に、罵声《ばせい》と下卑た笑い、安酒と男の汗の匂《にお》いが充満している。
そこに――
「ミスター・ナムはおいでか?」
よく通る女の声に、店内がしんと静まり返った。
粗野な男の群れの中に、一人の女が毅然《きぜん》と立っていた。大きな女だ。背丈も、肩幅も、標準を大きく越えている。だがそれでいて、厚い上着の上からでも見て取れる引き締《し》まった体つきは、匂うほどに女らしい。三〇がらみの線の整った顔に、赤い唇が映えている。
「ひゃあ、ベッピンさんだな、おい!」と、酔客の一人が頓狂《とんきょう》な声を上げた。
女が振り返った。長い髪を疎ましげに払いながら、声を上げた客に大股《おおまた》で歩み寄る。
客は小男だ。テーブルに肘《ひじ》を突き、椅子《いす》ごとのけぞりながら、
「おいおい、俺《おれ》は褒《ほ》めたんだぜ? なあ、なあ?」
言い訳のように言って、女の顔と他の客とをせわしく交互に見る。
「ミスター・ナムを捜している。こちらにおいでか」と、女は言った。
小男は片眉《かたまゆ》を上げ、視線を宙に巡らせて、愛嬌《あいきょう》のある思案顔を作った。
「あァ? 聞かねえ名前だな。――すまねえが、コチラにゃオイデじゃねえようだ」
「……ここでは、『グウ』と呼ばれておいでと、聞きおよんでいる」
小男の顔から、愛想が消えた。
「…さあ」
小男はさもつまらなそうに、音を立てて椅子《いす》を直した。そして、視線を逸《そ》らし、コップを口に運びながら、
「知らねえなぁ…」と言った。
女は店内を見回した。ある者は慌てて視線を逸らし、ある者は好奇の視線をそのまま女に向けている。
「小便たれのグウか」と、一人の男が言った。
店の最奥に、壁《かべ》にもたれて座っている、ひげ面の男だ。
女は歩み寄り、
「何処《いずこ》においでか」と問うた。
「まあ、そうつんけんするな」
ひげ面が立ち上がった。身の丈は眼《め》の前の女を超えている。大男だ。
ごつい手が、女の肩に置かれた。女に顔を寄せ、酒臭い息を吐き掛けながら、ひげ面は言った。
「まあ座れや。あんな腰抜けに構うこたあねえ」
一瞬《いっしゅん》、女は顔をしかめ、嫌悪の表情を露《あらわ》にした。ひげ面は構わず、女の肩に乗せた手に力を込めた。
と――
その手が不意に、静電気に打たれたように弾《はじ》かれた。ひげ面はバランスを失ってたたらを踏み、テーブルに手を突いた。
思わず掌《てのひら》を見るひげ面を、女は超然と見下ろし、
「おまえに用はない。ミスター・グウは何処か」と言った。
「おい、俺《おれ》をなめ――」
ひげ面は立ち上がりながら女の髪をつかみ、思い切り引いた。
「ッ!?」
女の髪が、なんの抵抗もなくするりと取れた。ひげ面は勢い余って横に転げ、テーブルに突っ込んで皿と瓶とを床にぶちまけた。店内に笑いが巻き起こった。
女は禿頭《とくとう》であった。電球の光を受けて照り映えるその額《ひたい》には、骰子《さいころ》の『六』の目のように、なんらかの埋込機器《インプラント》が並んでいる。
「てめ、このアマ…!」
わめきながら立ち上がったひげ面が、手にしたかつらを投げ捨て、懐《ふところ》からナイフを取り出した。刃渡り二〇センチ近いサバイバルナイフだ。
「いけねえなァ。ロウ! そいつあ野暮だ野暮だ」
と、口元に手を添えながら、先ほどの小男が言った。
「チビは黙《だま》ってろ!」
ひげ面の男――ロウが怒鳴りつけると、小男は笑いながら肩をすくめた。
ロウは威嚇《いかく》するようにナイフを構え、ゆっくりと女に迫った。そして――足元に転がる瓶を踏み、前につんのめった。
はからずも前方に突き出された刃が女の胸に刺さるかと思われた瞬間《しゅんかん》、女はナイフの背をつかみ、身をひるがえしながら背後に引いた。
ロウの体が、握ったナイフに引かれて前に泳いだ。どういうわけか、柄《つか》を握った手が貼《は》りついたように離れない。次いで、女が手首を返すと、巨体が宙に舞い、一回転して女の背後のテーブルに突っ込んだ。
うつぶせに這《は》ったロウの眼《め》の前に、ズカッ、と音を立てて、女の投げたナイフが突き立った。コンクリートの床に、刃が柄元まで埋まっている。
「侮るな!!」
女が大喝した。合板の壁《かべ》とテーブルがびりびりと震《ふる》え、発泡酒が一斉に吹きこぼれた。
「本物の機甲羅漢[#「本物の機甲羅漢」に傍点]の技は、こんなものではないぞ!」
女はかつらを拾い上げると、眼を見開いて凝視《ぎょうし》する客を尻目《しりめ》に、店内を大股《おおまた》に横切り、戸口から出ていった。
「――姐さん、待ちなよ姐さん」
店を出ていくらも行かぬうちに、女の背中に声が掛かった。振り返ったところに、先ほどの小男が、小走りに駈《か》けてきた。紐《ひも》で結んだ二本の一升瓶を、右手に下げている。
「ヅラがずれてるぜ」
思わず頭に手をやる女に、小男は肩をすくめて、
「――なんてな、へへ」
無言で踵《きびす》を返す女に並んで、小男は歩き始めた。女の胸ほどまでしかない小男が上を向いて話し掛けるさまは、母親にまとわりつく子供のようだ。
「あんた強いなあ! 見たとこ、尼さんかい?『どこが尻やら頭やら』ってか! ひゃ、ひゃ! ――おい、待ちな、待ちなって!」
小男は再び小走りになって、大股で歩を進める女を追った。
「いや、すまねえすまねえ、ひと言多かった! いっつも言われンだよ、『だからおめえは女にモテねえんだ』って。こりゃ酒のせいだよ、酒が俺《おれ》に余計なことを言わせてンだ。へへ、安酒はよくないね、どうにも酔い方が悪い」
女がちらりと振り返り、小男の手の一升瓶に眼《め》をやった。小男は肩をすくめ、もう一度、
「へへ、どうにも」と言った。
女は再び前方に視線を戻し、昇降機《リフト》の方向に向かった。
「ああ、そっちじゃねえよ、こっちこっち」
と、小男が言った。
「あんた、グウさん捜してンだろ」
弾《はじ》かれたように振り返る女の顔を、にたりとうかがいながら、
「――惚《ほ》れてンだろ?」
表情を硬くする女に、
「へへ、俺もさァ」と言って、小男は黄色い歯を見せて笑った。
小男は「李《リー》」と名乗った。
「『チビの李《リー》』と呼んでくんな」
路地を分け入り、道々振り返りながら、李《リー》は途切れることなく女に話し掛ける。
「チビったって捨てたもんじゃないぜ。人間、ただ図体《ずうたい》がデカけりゃいいってモンじゃない――おっと失敬、今言ったのはロウみたいなでくの坊のことさ。……ロウの野郎、前にグウさんにとっちめられたんで、根に持ってやがるんだ。さっきあんたがやったみたいに、腕一本で投げ飛ばされちまって、ひゃ、ひゃ! いいザマだったな、ありゃ。引き換え、グウさんカッコよかったぜえ。そりゃあ、面はマズいよ。ほとんどその辺に落ちてる石っころと変わんねえもの、見てるとやすりの一つも掛けたくなってくらあ。……けど、男の価値ってのはそういうことじゃねえンだなあ、これが」
「然《しか》り」
「へ?」李《リー》は頭上を振り仰いだ。
店を出てより、ただ無言だった女が、前方を見ながら満足げな笑みを浮かべている。
「然り」と、女はもう一度言い、深くうなずいた。
「ひゃ、ひゃ! 話が合うな、姐《ねえ》さん!」と言って、李《リー》は女の背を叩《たた》いた。
「――着いたぜ、ここだよ」
長屋状の個人宿舎の一室を前にして、李《リー》はそう言った。次いで、歪《ゆが》んで隙間《すきま》の出来た扉を、軋《きし》ませながら開く。鍵《かぎ》は掛かっていない。
「グウさん、俺だよ。酒持ってきたぜ。へへ、女《スケ》もいっしょだあ」
そう言いながら、李《リー》は遠慮《えんりょ》なく暗い部屋の奥に入っていく。そのあとに続く女は、室内にこもった空気に顔をしかめた。むっとするような酒と男の汗の匂《にお》いに、なにか別の臭気が混じっている。
「グウさん?」
「う…」
部屋の片隅から、低い唸《うな》りが漏れた。
李《リー》が灯《あかり》をつけた。揺れる電球に照らされた三メートル四方の部屋の奥の壁《かべ》に、坊主頭の巨漢がもたれていた。その無毛の額《ひたい》には、刷毛《はけ》で書いたような大きな×印が記されている。
坊主は灯に気づかないのか、虚《うつ》ろな眼《め》で中空を見ている。
岩のような顔面が蒼《あお》ざめている。紫色の唇が小刻みに震《ふる》えている。
先ほど感じた臭気の正体が判《わか》った。小便の匂《にお》いだ。
薄汚《うすよご》れた下着と床が、大きな濡《ぬ》れた染みを作っていた。
「ああ、こいつァいけねえ……今日は日が悪いや」と言って、李《リー》が頭を掻《か》いた。
外に出て一〇分ほど待ったのち、女は再び室内に通された。
女はあらためて周囲を見回した。
空虚な部屋だ。
脱ぎ散らかされた衣服と、空の一升瓶が数本、それだけしかない。
汚れた床は拭《ふ》き清められ、坊主は服を着替えて、先ほどと同様に壁にもたれている――いや、立て掛けられているといった体だ。先ほど下着一丁だったものが、ゆったりした股引《ももひき》を穿《は》かされているのは、李《リー》が女に気を使ってのことか。
「姐《ねえ》さん間が悪かったなあ――グウさん、いつもはもうちょっとシャキッとしてンだけどよ」
李《リー》が坊主の前に座った。李《リー》が手に持っている一升瓶とぐい呑《の》みを見て、女は眉《まゆ》をひそめた。
「少々……お酒がすぎるのでは?」
ためらいがちに言う女に、李《リー》はあおぐように手を振りながら、
「逆だよ逆、グウさん酒が切れるとこうなっちまうんだ。へへ、酒で動いてるようなモンだな――そらグウさん、ぐいっといけ、ぐいっと」
李《リー》が酒を注《そそ》いだぐい呑みを鼻先に出すと、坊主――グウと呼ばれた男は、吸いつくように首を突き出した。そして、李《リー》がぐい呑みを傾けると、震える唇の端から酒をこぼしながら、喉《のど》を鳴らして呑んだ。
「まずは駈《か》けつけ三杯――とか言って、駈けつけたのは俺《おれ》の方だけどな。ひゃ、ひゃ!」
続けて二杯、三杯と呑むうちに、岩のような頬《ほお》に赤みが差し、また、硬直していた体がほぐれ、自然な力が入った。
グウが自らの手で支えたぐい呑みに、李《リー》はさらに酒を注ぎながら、
「大丈夫かい、グウさん」
「…う…む」
「判るかい、客が来てるぜ」
グウは半眼にぐい呑《の》みを見ていた眼《め》をちらりと上に向け、
「………ヤコ、か…」と言った。
「はい」
長髪のかつらを外して腕に掛け、女――ヤコは合掌した。
「…紅を、さしたか」と、グウが言った。
「は、これは――」
――かつらと同様に、変装のためである。
しかし、思いがけず動揺したヤコの口を突いて出たのは、
「――おかしゅうございますか」
そんな言葉であった。
そう言ったヤコが、唇の赤みを隠すように固く口をつぐむさまを見て、李《リー》が笑いをかみ殺した。
「いや……すまぬ」
グウはわずかに苦笑した。×印の描かれた額《ひたい》をなでながら、
「――女を褒《ほ》めたことがない」と言った。
ヤコが身を落ち着けると、李《リー》は、
「これだけじゃグウさん、明日までもたねえだろ?」
酒をもっと買ってこよう、と言いだした。
「へへ、なるべく遠ぉ〜くで買ってくるよ」
そう言って笑う李《リー》をヤコは怪訝《けげん》な顔で見やり、ひと呼吸後に、赤面した。そのヤコを、グウは眺めるともなく眺めている。岩のような顔は、岩のように泰然としている。
「ひゃ、ひゃ――」
李《リー》の笑い声が戸口を出ていったのち――
ヤコは昨日の〈百手巨人《ひゃくてきょじん》〉との交戦のあらましとその結果を、グウに語った。
だが、
「機甲折伏隊《ガンボーズ》は、壊滅《かいめつ》いたしました」
ヤコがそう言った時も、グウの反応は鈍いものであった。
ぐい呑みを覗《のぞ》き込みながら、
「そうか」とだけ、言った。
「予備の人員、装備を掻《か》き集めても、もはや戦力の体を成しません」
「……魔物《まもの》は、どうした」と、グウは言った。「こちらに向かっておるのか」
「いいえ――」と、ヤコは言った。
昨日、黄昏《たそがれ》の荒野の只中《ただなか》にあって――
巨大な瘴気《しょうき》の柱と魔《ま》の群れの行軍を見ながら、ヤコは墜落《ついらく》した〈迦楼羅《カルラ》〉のもとに駈《か》けて行き、通信機の無事を確認した。
機甲折伏隊《ガンボーズ》のいない今、なにができるというわけでもなかろうが、せめてできる限りの備えをするよう都市に伝えなければ――そう思いつつ、電源を入れた。
すると――ヤコの耳に、凄《すさま》じいノイズが飛び込んできた。また同時に、ヤコ自身の感覚が、なにか巨大な存在の接近を知覚した。次いで、都市の方向からかすかな甲高い音が聞こえてきた。振り返ると、肉眼でそれ[#「それ」に傍点]を見ることができた。
最初、地平線近くに存在する光点と見えたそれは、金属的な唸《うな》りを上げながら見る間に接近してきた。夕暮れた空に、時に正確な鋸刃状《のこばじょう》の、かと思うと羽虫の飛行を思わせる不規則な軌跡を描いて飛ぶ発光体。魔物にしてはあまりに整然とした、人造霊《オートマトン》の類《たぐい》にしてはあまりに巨大な霊気《れいき》の渦動。
発光体は高度を落とし、都市に向かって伸びる魔物の群れの先頭にその位置を合わせた。
そして、急激に唸りと光度とを上げ、それまでに倍する速度と直線的な軌跡をもって、群れの中心を巨大な曳光弾《えいこうだん》のように通過した。
発光体に触れた魔物が、片端から蒸発した。
群れを蹴散《けち》らすように低空飛行した発光体は、魔孔からそびえ立つ瘴気の柱の直前で、ぴたりと停止した。
瘴気の柱は巨大な霊圧に一時揺らいだものの、再び世界樹《せかいじゅ》のごとき威容を取り戻した。
ヤコはすでに発光体を肉眼で追うことをやめ、地面に結跏趺坐《けっかふざ》を組んで観想していた。〈迦楼羅《カルラ》〉の索敵機能による支援がない今、その存在の本質をつかむことは難しい。だが、肉眼よりはそれに近い情報を得ることができよう。
発光する胎児――
ヤコがそれ[#「それ」に傍点]から受けた最初の印象は、そのようなものであった。
だが、それは赤子の持つ弱々しさを意味しない。より高次の力の胚《はい》を秘めた、無垢《むく》にして強力な存在だ。
その印象を証明するように、胎児はゆっくりと手足を広げ、背筋を伸ばした。それにつれて胎児のバランスを持っていたその体は成人のそれとなり、また、巨大化していった――いや、高密度に折り畳まれていた複雑な繊維状《せんいじょう》の霊体が、展開されたのだ。その姿は、発光する樹状構造によって構成された、人間の身長を一〇〇倍する光の巨人。ヒトの神経樹の拡大投影像だ。
瘴気の柱の直径は巨人の身長をさらに数倍している。だが、その柱を前にして、巨人は空中に、臆《おく》する風もなく堂々と直立している。むしろ、巨人の放つ霊気の波動が瘴気の柱を圧している。
そして――
「我は〈アザナエル〉――禍福の縄《なわ》なり!」と、巨人は叫んだ。
巨人の体を構成する組織がほどけ、まとまり、二重|螺旋《らせん》を描く二匹の蛇となった。
「我は〈アザナエル〉――輪廻《りんね》の蛇なり!」と、二匹の蛇は叫んだ。
二匹の蛇は絡み合いながら柱を一周し、二つの口に互いの尾をくわえ、巨大な輪となった。
「我は〈アザナエル〉――神の爆薬《ばくやく》なり!」と、輪は叫んだ。
輪は柱を中心に高速回転を始めた。遠心力で弾《はじ》き出された霊気《れいき》が、そのまま言霊《ことだま》となって歌いだした。
[#ここから1字下げ]
神よ 未だ生まれぬ神よ
御身への想《おも》い抑えがたきに
我が身は今やはりさけぬ
[#ここで字下げ終わり]
輪は歌いながら上昇し、回転の速度を上げ、急速に収縮《しゅうしゅく》した。伴奏のようなリズムを持った唸《うな》りがトーンを上げ、再び金属的な金切り声となった。瘴気《しょうき》の柱は輪に絞られるように細くなり、光の輪はさらに上昇し、さらに回転し、さらに収縮し、まばゆい光の点となり――そして、爆発した。
瞬間《しゅんかん》、地上一キロの空中に太陽のごとき巨大な光球が発生し、瘴気を吹き散らし、見渡す限りの大地を真昼のごとく照らした。次の瞬間、あらゆる魂を消し飛ばすであろう、霊圧の衝撃波《しょうげきは》が同心円状に広がり、地上に残る魔物《まもの》を一瞬にして消し飛ばした。ヤコは素早く印を組み替え、おのれを無と化してその波をやり過ごした。続いて、凄《すさ》まじい轟音《ごうおん》が大地を揺るがしながら轟《とどろ》き――
光球は不意に消え、夕闇《ゆうやみ》と静寂が空間を支配した。
瘴気の柱は消滅していた。
そして、光球の中心にあたる空中から、なにか小さなものが、地表に落下した。
数分後――
荒野に一人残されたヤコは、奈落《ならく》の口の跡に向かって歩み、その縁《ふち》に至った。高熱に溶け、ガラス状になった一メートルほどの高さの縁を降りると、そこには真白いクレーター状の地面があった。一面に敷《し》き詰められ、ざくりとした感触を靴底に伝える、焼けた白い砂のようなものは、塩の結晶のようであった。言わばそこは、一キロを越える直径をもつ、塩を盛った椀《わん》となっていた。
ヤコは熱風から口元を守りながら歩を進めた。
塩の椀の中心に、先ほど落下したものが転がっていた。直径三メートルほどの、勾玉《まがたま》にも胎児にも似た形状の物体。その材質は金属ともプラスティックともつかず、全体の印象は機械とも生物ともつかない。
その焼けた表面は、熱による膨張《ぼうちょう》が収まりつつあるのか、きしきしと音を立てていた。物体の、胎児であれば頭部にあたる部分に、人の手になる刻印が見えた。陽炎《かげろう》に揺らめくその文字は「OTHERNOEL」と読むことができた。
「直ちに人を呼んで回収させましたが――あれがなんであるのか、未《いま》だ一向に判《わか》りませぬ。〈アザナエル〉とは、いったいなんなのでしょうか」
「さて……俺《おれ》が知るはずもない」と、グウは言った。
「は、恐れ入ります」
と、ヤコは生真面目《きまじめ》な仕草で無毛の頭を下げた。
「ともあれ――なにか不可解な事態が起こりつつあるように思われます。しかも我々は組織の中核を失い、残った者を率いる人物もおりません」
ヤコはグウににじり寄るようにして言った。
「隊に御戻りください、アレックス・ナム。皆、あなたの指揮を望んでおります」
「さあ……知らぬな」
と言って、グウはヤコに背を向け、床に転がった。そして、
「俺は知らぬ」と、壁《かべ》に向かって言った。
ヤコは、赤い唇を噛《か》んだ。
[#改丁]
『一なる神のほかに神なし』
05
[#改丁]
逃走するスレイマンに対し、公安局は速やかに追っ手を差し向けた。公安局の要請《ようせい》を受けた降魔《こうま》管理局は、自らの施設に凍結されていたそれを、快く供出した。
追っ手は八体のジブリール。スラーン教団の聖霊《せいれい》。脳を焼き神経を灼《や》く、高圧の言霊《ことだま》だ。
腕時計のアラームが鳴った。正午の礼拝の一分前だ。
C層のオフィスビルの五階にある小さな会計事務所で、ターバンを巻いた青年が、書類を書いていたペンを置き、デスクから立ってボスの方に――ボスの背後の窓に向いた。
「いつも熱心だな、ジョミー」と、ボスが言った。
青年――ジョミーは聖典の定めに従って、静かな微笑《ほほえ》みをもってそれに応《こた》えた。
ジョミーはボスが好きだ。異教徒だが、とてもいい人だし、信仰に理解がある。この人の魂が救われないのは残念なことだ、とさえ思う。
ジョミーがスラーンに改宗して、五年になる。
スラーンはただの宗教団体ではない。全人格的な絶対|帰依《きえ》を基本とし、脳に焼き込んだ聖典にその行動のすべてをゆだねる、宗教であり、政治形態であり、生活共同体でもあるものだ。
〈ケイオス・ヘキサ〉の中にあって市政とは異質なこの組織がまがりなりにも存続を許されていたのは、その性質上、信徒数の増加――それは最も高度な心霊/脳外科的処置に依存する――が、ごくゆるやかなものだったからだ。穏健《おんけん》な異端者、社会的な「良性|腫瘍《しゅよう》」としての自由を与えられていたと言ってもよい。
ジョミーは自分が改宗した時のことを思い出し、身震《みぶる》いした。聖なる言霊《ことだま》が自らの脳内を灼《や》けた針のように駈《か》け巡る――おお、その法悦たるや!
言霊の巡った痕跡《こんせき》は聖典のデータとして脳髄《のうずい》に刻印された。礼拝の作法、法的|規範《きはん》、日常の過ごし方――人が生きる上で必要なことはすべて記されている。聖典に従って生きることは大いなる安息であり、同時に改宗時の悦《よろこ》びを常に思い起こさせる。これより他《ほか》に価値ある人生はない。この都市の、そして世界中のすべての人がスラーンに帰依《きえ》すればよいのに、と、ジョミーは心から思う。
しかし、三年前――
一〇万人の信徒を擁していたスラーンは、たった一人の男の手によって、一日のうちに壊滅《かいめつ》した。守護者《しゅごしゃ》たるジブリールはすべて当局に捕獲《ほかく》され、入信|儀礼《ぎれい》のための技術や設備も失われた。かつての強固な共同体は、穴だらけの姿で打ち捨てられ、今では一〇〇〇人規模の小さな居留地一つと、ジョミーのように単身信仰を守っているごく少数の信徒が残るのみとなった。
組織としてのスラーンは、すでに死んでしまったと言える。しかしそれでも、一なる神は不滅だ。聖典のもと、我らは一つ。いつの日かジブリールがこの身を焼き尽くし、一なる神の御元《みもと》に導《みちび》きたもうことを、ジョミーは疑わない。――「疑え」とは、聖典に記されていない。
窓の外、ビルの隙間《すきま》に見える尖塔《せんとう》が、礼拝同期信号を発し始めた。
ジョミーの体内でコンパスが作動し、聖地の方角を確認。聖典に記された通りの作法で、自動化された礼拝動作が開始された。床に膝《ひざ》をつき、頭を垂れ――
『一なる神は偉大なり』と、脳内の聖典が誦《よ》み上げられた。
「一なる神は偉大なり」と、ジョミーは口の中で復唱した。
『一なる神のほかに神なし』
「一なる神のほかに神なし」
『サムイールは一なる神の使徒《みつかい》なり』
「サムイールは一なる神の――」
と、そこに――
高圧の言霊が、雷のごとく割り込んできた。六〇〇の翼《つばさ》を持つ光がジョミーの中に宿り、彼に命じた。
『立てジョミー、神の下僕よ――聖戦だ!!』
霊気《れいき》が大麻エキスのように体内を駈け巡り、全身の細胞を震わせた。
「おお――」ジョミーは思わず叫んでいた。「ジブリール! ジブリール!」
ジブリール――その構造の精緻《せいち》さと堅牢《けんろう》さ、そして巨大なエネルギーゆえに「人造の魔神《まじん》」とも呼ばれる、スラーンの守護を旨とする人造霊《オートマトン》。ジブリールは信徒の体に天啓のごとく打ち入り、生身の人間を不死身の聖戦士に変える。
『敵はスレイマン! 一なる神に逆らい、預言者をあざ笑う者!!」
――スレイマン! 〈愚弄者《ぐろうしゃ》〉スレイマン!
その男に対する憎悪が、ジョミーの体内で烈火となって燃え上がり、全身に常ならぬ力がみなぎった。ジョミーはロッカーに走り、戦闘用《せんとうよう》のグラブとブーツを素早く身に着けた。聖戦への備えを常に怠るなかれ。聖典にはそのように記されている。
ジョミーは曲刀を手に、聖戦の場へ向かう最短ルートを選択し、突進した。すなわち、尖塔《せんとう》の見える窓に。
「ジョミー、どうした!?」
ボスが立ち塞《ふさ》がったのは、ジョミーの身を案じてのことだったのだろう。しかし、ジョミーは聖戦の場への最短の行動を選択し、その通りにした。
曲刀の刃《やいば》が、ボスを一刀両断した。
ジョミーはボスが好きだった。この人の魂が救われないのは残念なことだと思った。
五階の窓を破って一足に飛び出し、街路に着地した。たまたま着地点にいた子供を踏み殺してしまったが、聖霊《せいれい》の霊気をまとった体は傷一つ負わない。とりすがる母親をも斬《き》り捨て、ジョミーは聖戦の場へひた走った。
ジョミーは今しがた殺した母子の顔を思い出した。いつもビルの前に小物の屋台を出し、今朝《けさ》がたも自分と丁寧な挨拶《あいさつ》を交わした、やもめの母と子だ。心やさしきジョミーは、異教徒である彼女らの魂が救われないのは残念なことだと思い――しかし、それもまた一なる神の御心《みこころ》なのだ、と思った。
ジブリールを介して伝えられる霊感が、神の敵の位置を指し示す――ジョミーは路地裏を通って大通りに飛び出した。それから曲刀を口にくわえ、傍らの鉄柱をするすると登り、鉄柱から張り出した標識の上に立ち、通りを見渡した。
都市の中央からスポーク状に伸びる街道の一本、その車道を、青黒い顔をした黒衣の男――スレイマンが、ネイキッドの大型バイクにまたがり疾駆《しっく》してくる。スレイマンの首筋にしがみついた少女人形――V13が、髪を振り乱しながら「キャハハハハ!」と、けたたましい笑い声を上げている。
V13の笑いが止まった。巨大な霊気を感じ、その発生源に青い片眼《かため》を凝《こ》らす。
「なにかいる、なにかいるよ!」
「オオオ!」
ジョミーは雄叫《おたけ》びを上げながらバイクの直上に飛び降り、スレイマンの頭上から曲刀を振り下ろした。
「一なる神は偉大なり!!」
鮮烈《せんれつ》な霊気を宿した曲刀の刃を、スレイマンの右腕のロッドが受け止めた。ロッドが伸長し、体内に入れば内臓をも焼き尽くすその霊気《れいき》を言霊《ことだま》の形で放散。独特の韻律《いんりつ》を持ったスラーン聖典の詩句が、往来する自動車の排気音を圧して響《ひび》き渡った。
未《いま》だ空中にあるジョミーの股《また》の下を、バイクとスレイマンの体が通過した。ジョミーは身を捻《ひね》って左手でバイクのテールをつかみ、路面を引きずられながら叫んだ。
「一なる神のほかに神なし!!」
ジョミーは自分の体を左腕一本でバイクに引き寄せながら、右手の曲刀を突きの形に構えた。
「キャア!」V13が悲鳴を上げた。「キャアァア――ギャフッ?」
スレイマンのロッドが、V13の頭を強打した。スレイマンは正面を向いたまま、背中を掻《か》くようにしながらロッドの先端を背後に向け、呪弾《じゅだん》を圧唱《クライ》、圧唱《クライ》、圧唱《クライ》。三発の呪弾を頭部に受け、ジョミーの手がバイクから離れた。路面を横ざまに転がって後方に去るジョミーの体を、数台の後続車が轢《ひ》いた。
「あー、びっくりした」と、V13が頭をさすりながら言った。
「ハ、来やがったな。……ジブリールだ!!」
「ジブリール? スラーンの聖霊!? すごい! やっつけたよ!!」
「いや、まだだ――ク、ク、奴《やつ》ら、死ぬほどしつけえぞ」
その言葉に応《こた》えるように、
「サムイールは一なる神の使徒《みっかい》なり!!」と、後方から声が掛かった。
ジョミーは一台の走行する乗用車の屋根に上っていた。さらに、額《ひたい》に開いた三つの穴から血を噴《ふ》きながら、街道を走る何台もの自動車の屋根を飛び石のように踏み渡り、スレイマンのバイクに接近してくる。
「キャアア! 急いで、急いで! スピードアッープ!!」
と、スレイマンの背を叩《たた》きながら、V13が叫んだ。
しかし、スレイマンは逆にバイクのスピードを落とし、ジョミーにするすると近づいていった。ジョミーは大型トラックの荷台から跳躍《ちょうやく》し、並走するタンクローリーに取りつき、燃料を積んだタンクの上によじ登ると、さらなる跳躍のために身構えた。
スレイマンはその横に並び、ロッドをタンクの横腹に向け、呪弾を圧唱《クライ》。
タンクローリーは爆発《ばくはつ》、炎上。燃える鉄塊と化したその車体に巻き込まれ、後続の車が次々に衝突《しょうとつ》し、炎上した。
「キャハァ!」
爆風にあおられながら、V13が歓声《かんせい》を上げた。そして、次の瞬間《しゅんかん》、急旋回したバイクから振り落とされ、「キャウッ!」路面をカラカラと転がった。
スレイマンはバイクを止め、地に足を着き、爆炎に向けてロッドを構えた。
炎の中から、曲刀を持った燃える人影が飛び出してきた。衣服も肉も焼けただれ、もはや人相も定かでない。その体から舞い散る火の粉が、聖典に用いられる聖なる書体を形作った。
「――ハ」
スレイマンは突進する人影――ジョミーに向けて、呪弾《じゅだん》を連続して圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》。ジョミーは足を止め、凄《すさ》まじいスピードで曲刀を振るい、嵐《あらし》のように迫る呪弾の群れを残らず弾《はじ》き飛ばした。スレイマンはなおも、ホースで水をぶちまけるように呪弾の雨を降らせながら、並行して脳内で呪文編成。左手の自在|護符《ごふ》上《じょう》に〈卵〉を作り、呪文を封入する。
呪弾の流れが止まった。ジョミーは再び突進し、曲刀を振りかぶった。
「一なる神は――!!」
「くそったれ、だな」
スレイマンの左手が、ひょい、とジョミーに〈卵〉を放った。ジョミーは反射的に曲刀を振るい、唸《うな》る〈卵〉を叩《たた》き割った。〈卵〉が爆発《ばくはつ》し、スレイマンの編成した『狂乱』の呪文が起動した。
「ハ、バカが」
スレイマンは自在護符を『呪盾』に設定し、爆風と狂乱呪文の効果を防いだ。言霊《ことだま》を乱す不協和音が周囲に響《ひび》き渡り、ジブリールの論理構造を半壊《ほんかい》させ、ジブリールは悲鳴を上げながらジョミーの体から抜け出した。ノイズの入った炎の文字列が、空中に立ち上り、やがて見えなくなった。
聖霊《せいれい》の力の抜けたジョミーは、焼けた屍体《したい》となって路上に倒れ伏した。
スレイマンの左眼《ひだりめ》と鼻から、ひと筋ずつの血が流れ出た。血圧が極度に上がっている。フル回転した脳が血液を欲しているのだ。スレイマンは血圧を調整しつつ顔をしかめ、鼻をすすり、血の唾《つば》をジョミーの上に吐きつけた。
「キャハハ! やった、やった!」
と、路面に仰向けに転がり、足をばたつかせながら、V13が言った。
スレイマンはロッドを畳みながら、
「端末を一つ潰《つぶ》しただけだ。奴《やつ》め、別の信徒に憑依《ひょうい》すれば、脳内聖典を鋳型《いがた》にして再生するぞ」と言った。
「あら! 詳しいね!」
「……昔、ちょいと相手してやったことがある」
スレイマンはバイクに座り直すと、大きな音を立ててエンジンを吹かし、再び車体を反転させた。駈《か》けよったV13が、タンデムシートに飛び乗った。
排気音が遠のき、炎の燃える音と群衆の悲鳴、遠くから聞こえるサイレンの音が、それに入れ替わっていった。
焼けた路面に横たわるジョミーは、それらの音を聴いていない。彼の焼けた耳に聞こえているのは、殉教者の列に加わる彼を誉《ほ》め称《たた》える歓声《かんせい》だ。
ジョミーはもはや声にならない声で、
「おお、一なる神よ――感謝《かんしゃ》します」と呟《つぶや》いた。
後続車の絶えた街道を、スレイマンのバイクは疾走する。スレイマンにしがみついたV13が、
「そもそもー! なんで、スラーンに、追われてるのー?」と、風圧に対抗する大声で言った。
「ハ、聴きたいか――俺《おれ》のお話を?」
「聴き――」スレイマンの視線に、V13は思わず息を呑《の》み、「……コワい話?」
「面白いお話だあ!」と、スレイマンは言った。
三年前――
「預言者サムイールの再来」と謳《うた》われた偉大な導師《どうし》が、組織内の反逆者の凶弾に倒れた。
暗殺者はその場で自決したが、導師もまた、即死であった。彼の損壊《そんかい》した脳と顔面は修復不可能であったが、共同体は指導者を必要としていた。
導師はあまりに偉大であったので、誰《だれ》もが彼のあとを継ぐ者を決めかねた。また、後継者争いは組織内に新たな火種を生むと考えられた。
そこで、スラーンの有力者たちは、降魔局《こうまきょく》の紹介で一人の死人占い師を招き、こう言った。
「我々のために、最も偉大な指導者を造れ。最も偉大な導師の体に最も威厳《いげん》ある顔を乗せ、その脳は初期化し聖典のみを収めよ。さすればそれは、最も偉大にして威厳あり、かつ純粋な導師となる。我らスラーン、どの一人であっても、新たな指導者のために喜んでその頭《こうべ》を差し出そう」
死人占い師はしかとうなずき、断食月の礼拝までにそのようにしよう、と言った。
さて、どのみち聖典は唯一にして絶対であるので、新たな指導者への皆の興味《きょうみ》は、主にその容姿に集中した。指導者の新たな顔は誰のそれか。高潔《こうけつ》さで知られる神学者か、共同体一の美男子か、はたまた最も導師に近しい側近か。
そして、予告された礼拝の朝、期待する皆の前に、生まれ変わった導師は現れた。
その肩の上に乗った頭は――白い豚のそれであった。
指導者は豚の顔に慈愛と威厳を兼ね備えた表情をたたえ、聖典を朗々と誦《よ》み上げ始めた――
そして、死人占い師に対する暗殺命令が下った。
「――くそ、あいつら! くそくそくそ共! 許さねえ、許さねえ!」
スレイマンは子供のような仕草で、ハンドルを左右に揺さぶった。バイクが蛇行し、振り落とされそうになったV13が「キャわわわわ!」と言った。
「この俺が豚に聖典誦ませるためにどれだけ苦労したと思ってる!? 豚の脳の認識処理に合わせて全段|翻訳《ほんやく》したんだぞ!! 声帯も整形したし免疫反応の制御|呪文《じゅもん》も一ダース作った!! そもそも――あそこは笑うトコだろが!! なあ!?」
「キャハハハ――ギャフッ!?」
スレイマンのロッドが肩越しに打ち振られ、V13の頭部を強打した。
「てめえが笑うな」
V13は頭をさすりながら、
「それから……それから、どうなったの?」
「奴《やつ》ら、ジブリールを差し向けてきやがった。ジブリールは信徒を依代《よりしろ》にして行動する――当時のスラーン一〇万人、すべてが不死身の暗殺者になるってわけだ」
「キャハハ、たいへん! それで? それで!?」
「ハ」と、スレイマンは言った。「しょうがねえから全部殺した」
「全部? 全部!?」
「奴らの礼拝同期信号に死の呪文《じゅもん》を混ぜてやって、一発だ」
「キャハ! いっぱい殺せてうれしかった!? 楽しかった!? ――ギャフッ!?」
ロッドが再びV13の頭部を強打した。
「俺《おれ》は殺しが好きなんじゃない、楽しく殺すのが好きなんだ。死にたがりのスラーンなんざ、蛆虫《うじむし》といっしょだ。何万匹殺してもちっとも面白くねえ。めんどくせえだけだ」
青黒い顔に、嫌悪と悪意の混じった笑いが浮かんだ。
「ああいうのは、嫌がって泣き叫ぶのがいいんじゃねえか!!」
「キャハハ!」
「おまけに――ジブリールとやり合ってへばったところに公安と降魔局《こうまきょく》が手ェつないでやって来やがった。公安は俺を、降魔局はジブリールを、仲よく取り取りだ。くそ、くそ、俺をハメやがって! スラーンも許せねえが、奴らはもっと許せねえ!! おッ・しッ・おッ・きッ・だァッ!!」
スレイマンは体を激しく上下に揺らした。V13は「キャわ」と言ってその首にしがみついた。
「――それで、どこ行くの? 今、どこに向かってるの?」と、V13は言った。
「どこだと思う?」と、スレイマンは答えた。
「あっ、ずるい! 質問したのは――ギャフッ!?」
「答えろ」と、スレイマンは言った。
V13は頭をさすりながら、
「〈径《パス》〉を捜すんでしょ? 公安局か降魔局に侵入できる奴――でも、大霊力《だいれいりょく》が流れてる場所じゃないと駄目だよ。どんどん外れた方に行ってるよ?」
「ブブーッ、だ」とスレイマンは言い、ロッドでV13の頭を打ち据えた。「ギャフッ」とV13は言った。
スレイマンは続けて、
「まず向かうのはスラーンの居留地――まだ一〇〇〇人ばかり生き残りがいるはずだ。ジブリールもありったけ出てくるぞ!!」と言った。
「――なんでェ!?」と、V13は叫んだ。「やだ、やだ! 殺されるう!!」
「ハハ、いいぞ、それだそれだ! もっと泣け!!」とスレイマンは言い、アクセルを捻《ひね》った。
バイクが急加速し、前輪を高く持ち上げた。振り落とされそうになったV13がスレイマンの首筋にしがみつき、
「キャアアアア!」と悲鳴を上げた。
「ハハハハハ――!」
哄笑《こうしょう》を響《ひび》かせながら、スレイマンのバイクは車道の中央を一直線に疾走した。
数時間ののち、スレイマンとV13はD層のスラーン居留地に乗り込んだ。
密集した住居の間に迷路のような路地が張り巡らされ、戸口や看板には不可思議な聖書体の文字が並ぶ、文化的な異空間。スレイマンのバイクは立体的に入り組んだ小道を、野良犬を蹴散《けち》らしながら駈《か》け抜ける。
側溝の傍らで洗濯《せんたく》をしていた一〇歳ほどの少年が、突如として天啓に打たれ、
「一なる神は偉大なり!!」
と叫んでスレイマンに濡《ぬ》れたターバンを投げつけた。霊気《れいき》を帯びた長布がスレイマンの右手をからめ捕《と》り、少年は引きずられながらも布の端を離さない。
「上ェ!」と、V13が叫んだ。
路地に面する二階の窓から、顔を黒いベールで覆《おお》った女が、
「一なる神のほかに神なし!!」
包丁を振りかざしつつ飛び降りてきた。
「ケッ」
スレイマンは右腕を身体施呪《フィジカル・エンチャント》。少年の体を布ごと振り回し、落下してくる女に打ち当てた。少年と女の体は絡み合いながら壁《かべ》にぶつかり、鈍い音を立てた。
前方の住居の戸口から、曲刀を持った男たちが次々と飛び出し、路地を塞《ふさ》いだ。
「一なる神は――」
「一なる神は――」
「一なる神は――」
「ハ、キリがねえ」
スレイマンは全身を身体施呪《フィジカル・エンチャント》。V13の髪をつかむと、バイクのシートを蹴って跳躍《ちょうやく》。ひび割れた土壁《つちかべ》とひさしを蹴《け》りながら、住居の屋上へ跳ぶ。曲刀の男たちの中に飛び込んだバイクをスレイマンの放った呪弾《じゅだん》が撃《う》ち、燃料タンクが爆発《ばくはつ》した。
「キャアアアア!」
と叫ぶV13を引きずりながら屋上を走るスレイマンの周囲に、曲刀の男たちが次々と飛び出した。中には先ほどの爆発《ばくはつ》で半身が焼けただれている者もいる。
「一なる神のほかに神なし!!」
「ハ」
嵐《あらし》のように振り回される、何本もの曲刀の軌跡をくぐり抜けながら、スレイマンは屋根から屋根、屋上から屋上へと跳躍《ちょうやく》した。
住居と路地を抜けた先、居留地の中央部には、スラーンの礼拝堂がある。この迷路状の街自体が、異教徒から信仰を護《まも》るための装置であると言ってもよい。
そこに今、最悪の異教徒が侵入した。
尖塔《せんとう》を備えた礼拝堂前の広場は、共同体の集会場を兼ねている。最大数千人の信徒が並び立つことのできるその空間に、スレイマンはV13と共に躍《おど》り出た。
「おい、人形」
スレイマンはいつの間に作ったのか、一つの〈卵〉をV13に見せた。
「礼拝の時間になったら、こいつをそこの尖塔に放り込め――しくじったら殺す」
「え…?」
「判《わか》ったら飛べ」
自在|護符《ごふ》が作動し、スレイマンの左手が霊力《れいりょく》を握り込んだ。その手がV13の側頭部を強《したた》かに打つと、「ギャフッ」V13の霊体が依代《ホスト》から強制的に弾《はじ》き出された。次いで、スレイマンは〈卵〉を頭上に高く放り上げた。飛行形態を取ったV13は、唸《うな》る〈卵〉を空中でキャッチ。高空へ避難《ひなん》した。
スレイマンを追って、八人の「聖霊|憑《つ》き」が、次いで無数の信徒たちが広場になだれ込んだ。スレイマンは抜け殻となったV13の依代《ホスト》を傍らに放り捨てながら、
「ハ、遊んでやるぜ!」と言った。
次の礼拝まで五分。一瞬《いっしゅん》でも気を抜けば、八本の曲刀がスレイマンの体を文字通り八つ裂きにするだろう。スレイマンは身体施呪《フィジカル・エンチャント》に呪力《じゅりょく》を上乗せし、肉体を加速。怒濤《どとう》のように振り下ろされる曲刀を踊るように避《さ》け、時にはロッドで、時には自在護符でその霊気を帯びた刃《やいば》を受け止めた。また、時折|牽制《けんせい》で放つ呪弾が、場を取り囲み怒声を放つ信徒の輪に飛び込み、血の花を散らした。
まれに、スレイマンに強打を加えられた、あるいは過剰な霊力によって神経の焼き切れた「聖霊憑き」が倒れたが、ジブリールは信徒の群れの中から新たな体を選び、再び参戦した。
「…ク、ハ!」
スレイマンの呼吸が乱れた。スレイマンはさらに循環器系《じゅんかんきけい》に身体施呪《フィジカル・エンチャント》を追加。もはや全身が呪文によって駆動《くどう》していると言っていい。骨肉が軋《きし》み、青黒い肌が血の汗を流し始めた。
スレイマンも、スラーンやジブリールに負けない力の源――信仰を持っている。自らに対する、絶対の自信。だが同時に、ジブリールと同様、あまりにも強く大きいその力は、器である自らの肉体をも破壊《はかい》しかねない…。
上空で高圧の霊気《れいき》にあおられながら、V13はその光景を霊視した。
多人数に対しては、狭い路地の方がよほど有利に戦えるだろうに、スレイマンはなぜ不利な広場での戦いを選んだのだろう? その疑問はさておき――
V13は眼下の光景を、とてもきれいだ、と思った。
八つの巨大な言霊《ことだま》の塊が、それに匹敵する巨大で複雑な「力」を中心に、広場の中央で戯《たわむ》れるように動いている。また、その周囲を、無数の小さな魂、信仰によって純化された魂が取り巻き、戦いのさまに色めき、沸き立っている。
――やがて五分が経過し、尖塔《せんとう》のスピーカーが、美しい旋律を持つ礼拝同期信号を、朗々と発し始めた。V13はスレイマンの言いつけ通り、スピーカーに〈卵〉を投げ込んだ。割れた〈卵〉から発した呪文《じゅもん》がケーブルを逆流し、同期信号を書き換えた。
いかに厳格《げんかく》なスラーンの聖典とても、戦闘中《せんとうちゅう》の礼拝までは強制しない。しかし――
スレイマンを襲《おそ》う「聖霊|憑《つ》き」の動きが止まり、信徒たちの声もぴたりとやんだ。
書き換えられた信号が信徒たちの行動に強引に割り込み、礼拝動作を開始させた。しかも、コンパスの制御に手を加えられ――八人の「聖霊憑き」と一〇〇〇人の信徒が、一斉にジェラルディン旋回を――聖地の方角を求めての、半永久的な回転運動を始めた。男も女も、子供も老人も、そして戦士も皆、着衣の裾《すそ》をひるがえし、その場で独楽《こま》のように回転する。
「ク、ハ、ハ! いいぞ、上出来だ!!」
全身血まみれのスレイマンが、V13の依代《ホスト》を拾い、尖塔を一気に駈《か》け登った。そして、駈け登ったその頂上で吐き気を催し、広場に向かって血の混じったげろを盛大に吐いた。
再び依代《ホストひ》に憑依《ひょうい》したV13が、広場を見下ろしながら、
「死の呪文じゃ、なかったの?」
と問うと、スレイマンは全身で息をし、口元を拭《ぬぐ》いながら、
「げふ……言ったろう、ただ殺すんじゃつまらねえ」
ロッドで眼下の光景を指し示し、
「どうだ、この形、なにかに似てるだろ?」
高速回転する八人の「聖霊憑き」と、それを円形に取り囲み、自らもまた回転する、一〇〇〇人の信徒。これはまるで――
「…旋回|祈祷型《きとうがた》苦行炉の、炉心みたい」と、V13は呟《つぶや》いた。
「当たりだ」
とスレイマンは言い、青黒い顔に悪鬼の笑みを浮かべた。
「暴走する苦行炉、触媒は八体のジブリール、贄《にえ》は一〇〇〇人の狂信者――ハ、ハ! 空間に大穴が開くぞ!」
スレイマンは身を折って嗤《わら》い、そして歌いだした。
[#ここから1字下げ]
踊れ踊れ、ダーヴィシュ!
回れ回れ、ダーヴィシュ!
聖地はいずこ?
聖地はいずこ?
葦笛《あしぶえ》の音に乗って――踊れダーヴィシュ!!
[#ここで字下げ終わり]
ジェラルディン旋回の回転数は信仰の強度に比例する。強力な言霊《ことだま》のこもったスレイマンの歌声に乗せられて、スラーンはますます回転を速めていき、やがて――
「聖霊《せいれい》憑《つ》き」の一人が、遠心力に耐えきれず破裂した。
殉教者の聖なる血肉が降りかかり、周囲の信徒の回転数が上がった。回転数が上がった信徒は同様に破裂し、さらにその血が降りかかった信徒の――さらにまたその――
数秒後、一〇〇〇人の信徒は連鎖《れんさ》反応によって、残らず回転する血しぶきと化した。
信仰による単一の指向性を持った超高圧の霊波が爆発的《ばくはってき》に発生し、空間の位相をゆがめ、空中に巨大な〈径《パス》〉を発生させた。それは言わば、位相を反転させた『|奈落堕ち《フォールダウン》』だ。
広場の中央でひときわ大きく、高速に回転する八体のジブリールは、他の信徒の血肉を巻き込みつつ、血で描かれた聖典の文字列と化し、うねりながら上昇を始めた。行先はすでに、スレイマンの〈卵〉によって設定されている。
「よし、つながった――行くぞ! 公安本部に直通だ!!」
スレイマンはV13の髪をつかみ、空中に飛び出した。
「キャアア!?」
「ハハハハハハ――!!」
うねる血肉と霊気の渦に巻き込まれ、巻き上げられながら、スレイマンとV13は、空中の〈径《パス》〉に呑《の》み込まれていった。
[#改丁]
『天使の涙』
06
[#改丁]
アルファが家に来た翌日、クリスは会社の許可を得て、公安の連絡所にアルファの身元確認に行った。アルファ本人には、ナオミと共に、自宅で待機してもらうことにした。複雑な手続きの間にふらふらと歩き回られては、またややこしいことになる。
写真の一枚も撮って行こうかと思ったが、やめた。今この瞬間《しゅんかん》の彼女の顔がどの程度判別の基準になるのか判《わか》らないし――そもそも上層人がこの階層まで降りてくること自体がまれなのだから、特定するのはそう難しくないだろう。
クリスが学校に行くビリーと共に出ていったあと、ナオミは家の掃除を始めた。
アルファはリヴィングで一人、テレビを見ている。
「悪いけど、うちじゃ娯楽といえばコレなのよ」
そう言ってナオミが持ち出してきた、『キャプテン・ドレイク』のビデオだ。
吸血鬼《ヴァンパイア》にして吸血鬼《ヴァンパイア》ハンター、吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の隊長、〈|神鳴る拳を持つ男《クラックナックル》〉ことジョン・R・ドレイクの、波乱万丈の大活躍《だいかつやく》。小粋なジョークあり、甘くせつないロマンスあり、凶悪にして強大な敵を相手にした、息をもつかせぬアクションありの、各話六〇分。
もちろん、他にタイトルがないわけではない。だが、ナオミはこれがよかろうと判断したのだ。なぜなら、アルファの昨日の〈カラミティ・カーミラ〉のコスチュームに対する反応は(クリスのような)マニアのそれだったし、夕食のあと、ビリーといっしょに遅くまで『キャプテン・ドレイク』ごっこをしてもいた――今もリヴィングの床の上には、『キャプテン・ドレイク』人形が散乱している。
床に掃除機を掛ける手を休め、ナオミはアルファの背中をちらりと見た。
――退屈してないかな?
どうやらその心配は要らないようだ。アルファは時にソファから身を乗り出し、時に手を叩《たた》き、はたまた画面に向かって大きくうなずき、また大きくいやいやをし――かと思うと、クッションを胸に抱きしめて脚をばたつかせている。
「……テレビより、この子見てる方が面白いわね」と、ナオミは呟《つぶや》いた。
「はい?」と、アルファが振り返った。
「あ、こっちの話。気にしないで」
掃除に戻ろうとしたナオミが、
「あっ! ちょっ、ちょっとごめん!」
と、掃除機を放り出し、アルファの隣《となり》に尻《しり》から飛び込むようにして座った。
「ここなのよ、ここ」
テレビの画面に、黒いサングラスを掛けた〈キャプテン・ドレイク〉がアップになっている。その視線の動きと共にカットが変わり、一人の女の姿が映し出された。
背の高い細身の体に、黒いエナメルのパンツとビスチェを身に着けた、赤毛の女|吸血鬼《ヴァンパイア》。
『やはり君か、〈カラミティ・カーミラ〉』と、ドレイクは言った。
『そうよ、ジャック』と、女|吸血鬼《ヴァンパイア》カーミラは言った。『ふふ……また会えてうれしいわ』
『魅力的《みりょくてき》なレディとの出会いはいつでも歓迎《かんげい》したいところだが――』
ドレイクは肩をすくめ、
『あいにく私は公務中で、君は吸血鬼《ヴァンパイア》だ』
『ささいなことだわ――ねえジャック、お願いがあるの』
カーミラは両手を広げ、口の端から牙《きば》の先を覗《のぞ》かせて、艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。
『あなたの首に…キスさせて』
「ごめんね、ちょっといい?」とアルファに言って、ナオミがリモコンを操作した。
画面にノイズが入り、一秒ほどの逆再生ののち――
カーミラは再び両手を広げ、口の端から牙の先を覗かせて微笑んだ。
『あなたの首に…キスさせて』
「ふーむ」と、頬《ほお》に手を当てながら言うナオミに、
「この方が、どうかしまして?」と、アルファが言った。
「またまたァ、知ってるくせに、とぼけちゃって」
とナオミが言うと、アルファは首をかしげ、
「いいえ? まったく存じ上げません」と言った。
「え……昨日言ってたじゃない、ほら、その〈カラミティ・カーミラ〉よ」
「そうですか? 記憶《きおく》にありませんが…」
と、アルファはテレビ画面を見て、
「カーミラさんは、吸血鬼《ヴァンパイア》なんですね」と言った。
「……変な子」と、ナオミは言いつつ、もう一度ビデオを巻き戻し。
カーミラは両手を広げて微笑《ほほえ》み、
『あなたの首に…キスさせて』
「ふーむ」ともう一度ナオミは言い、両手を広げ、
「『あなたの首に…キスさせて』――どう、似てる?」と、アルファに言った。
すると――
アルファが立ち上がった。その背が伸び、長身、細身の体型になった。瞳《ひとみ》が赤くなり、犬歯が長く尖《とが》った。髪はウェーブし、燃えるような赤毛に変わった。
アルファは画面中のカーミラの動きを正確にトレースしながら、
「あなたの首に――」
「うわっ!?」
ナオミが思わずクッションを盾に身構えると、アルファは瞬時《しゅんじ》に先ほどまでの容姿を回復し、
「どうしました?」と言った。
ナオミはクッションを抱えたまま深呼吸した。クリスには、この娘が「なにか変わったこと」をしても、あまり驚《おどろ》かないように、と言われている。
「確かに……あんた、変わってるわ」
とナオミは言い――五秒後にはその現実に順応した。
ナオミの求めで、再びアルファは演技を繰《く》り返した。体型は〈カラミティ・カーミラ〉とナオミの間を取ったくらいに調整している。
「あなたの首に…キスさせて」
とアルファが言うと、正面に立ったナオミはその動作を真似《まね》ながら、
「あなたの首に――なんか違うのよね。あたし、今どんなふうだった?」
アルファは今度はナオミの動作を真似ながら、
「あなたの首に――」
「そっか、手が違うんだ。もっとこう……ワキ締《し》めるのかしらね、ワキを」
眉根《まゆね》を寄せ口を尖らせ、肘《ひじ》を内に寄せるナオミの姿を、アルファは表情も含めて、なおもトレースする。そのさまに気づいたナオミが、
「ぷは! あたし、そんな顔してた?」と言うと、
「はい」と、体型を元通りに戻しながら、アルファは微笑んだ。
「あはは」
と笑いながら、ナオミは掃除に、アルファはビデオ観賞に戻った。
やがて、
「はい、ちょっとごめんごめん」
と、ナオミはアルファの足元の人形を拾い、掃除機を掛けた。
掃除機を掛け終わると、ナオミはリヴィングの床に再び人形を置き始めた。そして、そのさまを眺めるアルファの視線に気づくと、
「ちゃんと自分で散らかしたとこから片づけさせなきゃね。これも教育よ、教育」と言った。
「それでは…」
アルファはナオミに並んで床に膝《ひざ》を突くと、人形の位置を素早く置き替えた。
「先ほどまでは、このように配置されていました」
「…細かいわね」
アルファが、ふと真面目《まじめ》な顔つきになって、人形の一つを見つめた。
「――〈フルアクション・キャプテン〉の位置を、ずらした方がいいでしょうか?」
「え、なに?……別に、それでいいんじゃない?」と、ナオミは言った。
「では、このままに…」
とアルファは言い、それきり人形には興味《きょうみ》を失ったのか、再びソファに座り、テレビを見て手を叩《たた》き始めた。
掃除を済ませると、ナオミは分厚い「おかずクッキングブック」を持ち出してきた。
「晩ごはん、なに食べたい? 昨日はちょっと質素だったからね。あれが実力と思われちゃシャクだわ」と言って笑い、「遠慮《えんりょ》しないで。なんでもいいわよん」
「まあ!」
受け取った本のページを、アルファは凄《すさ》まじいスピードでめくり始めた。風圧がナオミの髪を揺らし、三秒後、パタリと本を閉じたアルファは顔を輝《かがや》かせ、
「これを――全部!?」
「……やっぱ遠慮して。どれか一個よ、一個」と、ナオミが訂正した。
「まあ……どうしましょう」と、アルファは言った。「うーん、ええと、ええと……」
五分に及ぶ長考の末、アルファが選んだのは、本の一番最初の項目「ハンバーグ」だった。
「うーん、ハンバーグかあ、なんだかフツーだわね。あ、いいのよ、もちろん」
ナオミはアルファから本を受け取り、ページを繰《く》りながら、
「じゃ、あとはあっさり目のスープと、なにか野菜が摂《と》れるもの、って感じかな、と――」
「それでは、五〇六ページの『エビとカブのスープ』と三八九ページの『ゆで野菜のサラダ』がよろしいかと思います」
ナオミは本から顔を上げ、
「……あんた、決断力があるんだかないんだか、どっちなのよ」と言った。
「決断はしていません」と、アルファは言った。「提示された条件に従って選択しているだけです」
「ふうん」と、ナオミは言った。「ま、どっちでもいいけど」
それから、材料のメモを取ったナオミは、アルファに向かって、
「お買い物、いっしょに行こうか」と言った。
この子を外に出すのは危ない気がするが、一人でうちに置いておくのはかえって心配だ、とナオミは思った。要は、小さな子供に対するように、眼《め》を離さなければいいのだ。
身支度を終えたナオミは、アルファを連れて街に出た。
昨日のうちに洗濯《せんたく》して乾燥機《かんそうき》に掛けた、それでもどうしようもなく薄汚《うすよご》れた上着を着て、アルファはナオミのあとを跳ねるようについていく。
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合いびき肉三〇〇グラム
タマネギ小一個
パン粉三分の一カップ
牛乳大さじ一杯
卵一個
塩小さじ二分の一杯
コショウ・ナツメグ各少々
ケチャップ大さじ四杯
赤ワイン・ウスターソース各大さじ二杯
おろしニンニク少々
サヤインゲン一〇〇グラム
ニンジン一本
お好みで――
松の実
レーズン
スライスマッシュルーム!
[#ここで字下げ終わり]
アルファが大きな声で歌うハンバーグの材料の品目を、ナオミはハンドバッグから出したメモで確認した。
「あら、合ってる……メモ要らなかったわね」
「はい!」と、アルファは言った。
「あ、でも駄目よね。あんた、なんかの拍子に忘れちゃうから」
「はい!」とアルファは言い、今度は「エビとカブのスープ」の材料を歌い始めた。
そして――
「奥様、たいへん!」
ショッピングセンターの食品売り場に、アルファの声が響《ひび》いた。
「タマネギを『小一個』売っていません! どうしましょう!? 袋で買うと二四人分に相当しますが、お宅の設備では調理しきれません」
「余らしときゃいいのよ、余らしときゃ」と、カートを押しながら、ナオミ。
「なるほど、名案!」と、アルファは手を打った。
それからしばらくして、
「たいへん! パン粉を『三分の一カップ』売っていません!」
「…応用利かない子ね、あんた」
夕飯の買い物がひと通り済むと、ナオミはアルファに、
「なにか他《ほか》に欲しい物あったら、持ってきて」と言った。
アルファは顔を輝《かがや》かせ、店内を小走りに駈《か》けていった。そして、しばらくして、両手いっぱいに細長い紙箱を抱えて戻ってきた。クリスの勤め先で生産している「ブラインドフォーチュン・ビスケット」のパッケージだ。
「やだ、そんなの――」
クリスに言えば、明日にでも好きなだけ持ってきてくれるのに――と言おうと思って、気がついた。
明日の晩には、多分、この娘はいないのだ。
少々さびしい気持ちになりながら、
「いいわ、入れて」と言って、ナオミはカートを押した。
そして、さらにビスケットを取りに行こうとするアルファに、
「もう充分、充分」
アルファは構わず菓子売り場に走りながら言った。
「あとひと箱だけ!」
それから、ナオミがレジで払いを済ませようとしたところ――
総額は各種税金も合わせてぴったり一万ワーズ。店員がハンドベルを鳴らし、
「ピタリ賞! あなたは当店開店より一〇年目の今日、一万ワーズきっかりのお買い物をされた一〇人目のお客様です!」
ナオミの買い物は無料になり、
「この方をもちまして、本日の『ラッキーチャンス』は終了させていただきます」
レジの周囲で暗算に励んでいた何人かの買い物客がため息をついた。
「最後の一個が利いたわね」とナオミが言うと、
「はい!」と、アルファは言った。
店から出ると、もう薄暗《うすぐら》くなっていた。
正式な日没までにはまだ数時間があるが、ここC層において、日照量は自然のそれより、はるかに少ない。配光板から供給される光は、時間的にも量的にも、数分の一に薄められ、弱められている。それで、日暮れも早い。
アルファはビスケットをかじり、そこから飛び出し『大吉! 大吉!』と叫ぶ天使に合わせて「ゆで野菜のサラダ」の調理法を歌いながら、買い物袋を下げたナオミに続いて歩いた。
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『仕事運良好・新しい出会いの予感!』
グリーンアスパラ四本は
『金運良好・意外な収入が!』
根元を切り落として
『恋愛運良好・気になる異性と結ばれるチャンス!』
四センチの長さにし
『健康運注意・体を壊《こわ》さないように!』
[#ここで字下げ終わり]
「――あたし、こういう時間帯、好きなんだ」と、ナオミが呟《つぶや》いた。
「熱湯でサッと塩ゆで――はい?」と、アルファは言った。
『ラッキーカラーはモノトーン!』と叫んで、天使が弾《はじ》けた。
「あたしが育ったのは、一つ下の階層でね。一日中こんな風に薄暗かったの。人がもっと多くて、街ももっとゴミゴミしてて、年中くだらない騒《さわ》ぎが起こってて。うっとうしいし、むかつくことも多かったけど、楽しいこともたくさんあったわ」
「では、|C層《こちら》には、なぜ?」と、アルファが問うた。
「うちの人に――クリスに誘われてね。『僕の家族になってほしい』って。ううん、今の暮らしに不満があるわけじゃないのよ。文句なんか言ったらバチが当たるわ。ただ、ここはなんだかきれいすぎて『ほんとっぽい』気がしないっていうか……これは誰《だれ》かの見てるテレビドラマかなにかで、スイッチを切ったらパッと消えちゃうんじゃないか、なんて思ったりして――」
パン、と、アルファが手を打った。
「そうですね!」
「そこ、相づち打つトコじゃないわよ」と言って、ナオミは笑った。「変な子」
自宅に帰ってから、ナオミはさらに話を続けた。
冷蔵庫に生ものを入れながら、
「――クリスはね、事故でかなんでか知らないけど、ここ何年かより前の記憶《きおく》がないの。ビリーももう『下』のことは覚えてないし。だから、あの人たちにとっては、今の暮らしだけが現実。……なんだかちょっと、うらやましいわ。あたしだけ仲間外れみたい」
「確かに、ご主人にも、奥様にも、記憶《きおく》がブロックされている部分があるようですね」
「え、あたし? あたしは違うわよ。記憶喪失なんて、なったことないもの」
「いいえ、脳内で言霊《ことだま》が結節している部分があります。ほどきましょう?」
そう言いながらアルファのかじるビスケットから、一体の天使が飛び出した。
『大吉! 大――』
アルファの指先が一瞬《いっしゅん》発光し、回転する天使をつんとつつくと、天使はパッと弾《はじ》け、空中に溶けた。
「やめてよ」アルファの指先を見ながら、ナオミは言った。「なんだか怖いわ」
それから、
「歩きながら食べないで。掃除したんだから」
アルファはビスケットの残りを頬張《ほおば》りながら、眼《め》を丸くして、
「フみません」と言った。
その表情にナオミはぷっと吹き出し、
「やだな、あたし、なんでこんな話しちゃってるんだろ」
そう言ってアルファの顔を見て、
「……多分、あんたがちょっとタリナイ風だからよね。つい安心しちゃうっていうか」
「『足りない』とは?」
「あはは、ごめん、怒んないで。いい子だって言ったの」
と、ナオミは言いながら、アルファのビスケットを置きにリヴィングに入った。
その足が、なにか硬いものを踏みつけた。
パキッ、と足の下で大きな音を立てたそれは、『キャプテン・ドレイク』人形。その中でもビリーが一番大事にしている〈フルアクション・キャプテン〉だった。
その夜――
クリスが帰宅すると、リヴィングからビリーの甲高い罵声《ばせい》が聞こえてきた。
「バカ! ママのバカ!」
「…どうしたんだい?」
クリスが入っていくと、ビリーはその顔を見上げ、
「ママが僕の〈フルアクション・キャプテン〉を壊《こわ》したんだ! ママが踏んづけたせいで、キャプテンの腕が取れちゃったんだ!」
「ちゃんと謝《あやま》ってるじゃない! それに……そもそも、あんたが散らかしとくのがいけないんだから!」と、ナオミが言った。
「いいえ、最終的な配置は――」
と言いかけたアルファを、ナオミは肘《ひじ》で小突いた。アルファは不思議そうな顔をして、小突かれた横腹をさすった。
「いいわ、いいわよ! あんなのもう全部捨てちゃう! そしたらもう踏んづけようがないもの! それでいいわね! ハイ決まり!!」と、ナオミは顔を真っ赤にして言った。
「そうじゃない! そうじゃない! ママのバカ!」
ビリーが〈フルアクション・キャプテン〉を床に投げつけた。片腕のもげたそれは、クリスの足元で一旦《いったん》はずみ、カラカラと転がった。
「……うん、だいたい話は判《わか》ったよ」
と、クリスは言い、人形を拾い上げた。
それから、ビリーの肩に手を置いてしゃがみ、
「ビリー、いいかいビリー」
クリスはビリーに、人形を手渡しながら言った。
「…『スタンピード作戦』の最中に左手を失った時、キャプテン・ドレイクはひと言でもチームメイトを責めたりしたかい? まして、オモチャを間違って壊《こわ》した程度で、彼は自分のママを罵《ののし》ったりすると思うかい?」
ビリーはうつむきながら、口を尖《とが》らせた。
「だって……キャプテンの腕が……」
「キャプテンじゃない」と、クリスは言った。「ここにあるのはただの人形、プラスティックの塊だ。こんなものには――これ自体には、なんの価値もない」
ビリーがクリスの顔を見上げた。その表情に、あっさりとキャプテンを否定されたことに対する不満とショックがありありと見える。クリスはビリーの視線を正面から受け止め、さらに言葉を続けた。
「ビリー、本物のキャプテン・ドレイクは、どこにいると思う?」
「……キャプテンがいるのは、B層のどこかにあるクリムゾン・ベース……だけど、正確な場所はトップシークレットなんだ」
クリスはゆっくりとかぶりを振った。
「それは昔の話、ビデオの中のお話だ。――今、彼はどこにいる?」
「知らないよ……だって、最後の戦いのあと、キャプテンはどこかに行っちゃったんだよ」
「そうだ、彼の行方は誰《だれ》も知らない。彼は死んだとみんなが言っている。しかし、パパは知ってるんだ。彼は生きている。どこにいるかも判ってる。――キャプテンがどこにいるか、知りたくないかい?」
「え……」
「彼は今――」
クリスは悪戯《いたずら》っぽく微笑《ほほえ》み、右手の人差し指を立てた。ゆるゆると動く人差し指の先を、ビリーの視線が追う。
「ここにいる」
人差し指が、ビリーの胸をとんと突いた。
「キャプテン・ドレイクは、おまえの中にいるんだ」
ビリーはなにか不思議なものを見るように、クリスの指先を見、そしてその顔を見上げた。
「さて、ビリーJ」
クリスは微笑みを消し、声色を作り、胸ポケットから眼鏡《めがね》を取り出した。
「私は司令官として君の行動を検証しよう。今回のミッションにおいて、君は二つのミスを犯した。一つはミッションに参加した隊員を速やかに撤収《てっしゅう》させなかったこと、もう一つは無辜《むこ》の市民であるジョーンズ夫人に対し不適切な言動を取ったことだ。君はこれらの事実を認めるかね?」
ビリーは再び表情を曇《くも》らせたが、やがて、ゆっくりとうなずいた。
「よろしい。では、その後の対処は現場の判断に任せよう」
そう言って、クリスはビリーの両肩をつかみ、くるりと後ろを向かせた。
ビリーはためらいながら口を開いた。だが、言葉が上手《うま》く出てこない。
クリスの手が、ビリーをそっと押し出した。
「…ママ……ごめん、ママ」
ビリーがやっとのことでそう言うと、ナオミは、
「ええ、その……ママも、キャプテンには悪いことしたと思うわ」と言った。
ビリーは自分が手にした人形を見つめた。片腕を失ってなお不敵に笑うキャプテン・ドレイクは、以前にも増して英雄的だ。
ビリーはナオミの顔を見上げ、
「…キャプテンは、そんなの気にしない」と言った。
「いいぞ、ビリー。それでこそドレイクの魂を継ぐものだ」
クリスは背後から、ぱん、とビリーの両肩を叩《たた》き、それから、
「ところで、さっきからいい匂《にお》いがするね」と言った。
夕食の準備が出来た。
キッチンのテーブルの上に、湯気を立てるハンバーグとスープ、それからパン、アスパラのサラダ、そして、片腕のキャプテン・ドレイクが並んだ。
「で、アルファさんの件はどうなったの?」と、ナオミが言った。
「うん、それがね」と、クリスは言った。「なんだか上の方がゴタゴタしてるとかで、〈コードα〉っていうのがなんなのかも結局|判《わか》らなくて……その代わり、なんだか偉い人が出てきちゃって、びっくりしたよ。公安の人じゃないみたいだったな。そのあと会社の方にも話がきてね。『何人《なんぴと》たりとても、〈コードα〉の行動を妨げるなかれ』だそうだよ」
「それ、『好きにさせとけ』ってこと?」
「うん、とりあえずは、しばらくうちで預かることになると思う……いいかな?」
「おいしーい!!」と、ハンバーグを頬張《ほおば》ったアルファが言った。
「当然さ。僕のママが作ったんだから」と、ビリーが言った。
「でも(もぐもぐ)私も生地をこねたんですよ」と、アルファ。
ナオミは肩をすくめ、
「アルファさん、しばらくお料理手伝ってくれる?」と言った。
すると――
「はい、明後日までなら」
と、アルファはハンバーグを噛《か》みながら言った。
「え……その次の日は、なにか予定があるの?」
「いいえ……でも、(もぐもぐ)三日後の夕刻には、奥様も皆さんも、すでに亡くなっていますので」
「え…?」と、クリスが言った。
「……なによ、いきなり不吉なこと言うわね」と、ナオミが言った。
「三日後正午からの『プロジェクト・トリニティ』最終フェイズの進行に従い、B層以下の全市民はその存在を抹消されます」
そこまで言った時、アルファの眼《め》から、不意に涙がこぼれ落ちた。
「まあ――どうしましょう!?」
ナオミはわけも判《わか》らぬままに、
「え……ま、その、大丈夫、大丈夫。……プロジェクトだかなんだか知らないけど、人間そう簡単に死にゃしないわよ」と言った。
「いいえ――これはすでに決定された未来であり、変更は不可能なのです」
大粒の涙をボロボロとこぼしながら、アルファはさらにハンバーグを頬張った。
「どうしましょう、(もぐもぐ)どうしましょう」
そして、
「おいしいです」と言って、さらにボロボロと泣いた。
[#改丁]
『魔人と魔女』
07
[#改丁]
数時間前――
〈ケイオス・ヘキサ〉B層、公安局本部、上空。
空中に突如生じた巨大な〈径《パス》〉から竜巻が伸び、真っ赤な龍《りゅう》のように空中をのたくった。血肉の嵐《あらし》を依代《よりしろ》にした八体のジブリール、それらのさらにもつれあった姿だ。
竜巻の中から、二つの人影が飛び出した。スレイマンとV13――共に血まみれで、ほとんど人相も判《わか》らない。まずスレイマンが本部施設の屋上に降り立ち、その傍らにV13が落下し、カラカラと転がった。
スレイマンは左掌を天に向け、自在|護符《ごふ》を作動させた。上空でうねっていたジブリールが一体ずつ、竜巻を構成する血肉を振り捨て、純粋な言霊《ことだま》となってスレイマンの掌《てのひら》に降りた。ジブリールはすでに、礼拝同期信号からの介入によって信仰の対象をスレイマンに書き換えられ、手なずけられている。巨大な言霊が、新たな主のために、徐々に、徐々に、自らの体積を圧縮《あっしゅく》し、ピンポン玉大の〈卵〉に収まっていく。通常の〈卵〉よりひときわ大きな唸《うな》りと金色の光を発する、〈金の卵〉だ。一体、また一体とジブリールが〈卵〉になるにつれ、振り捨てられた血肉が周囲に文字通りの血の雨を降らせた。
そして、唸りを上げる〈卵〉は一つずつスレイマンの右手に落とされジャグルされていたが、八つ揃ったところで高く放り上げられ、両の手に握り込まれたかと思うと、消えた。
それらの作業を終えたスレイマンが、血まみれの屋上を歩き始めた時――
「聞こえるか、〈Ω〉」と、スピーカーの声がした。
三基の浮遊銃座が、屋上を取り囲むように、柵《さく》の向こうに上昇してきた。
スレイマンに呼び掛ける声は、本部前に止められた指揮車からのものだ。
「〈Ω〉、武装を解除し、投降しろ」
「ハ、なかなか素早いぞ。オリコウだ」と、スレイマンは言った。
公安本部に常駐《じょうちゅう》する呪装《じゅそう》戦術隊が、スレイマンに対処するために展開しつつあった。スレイマン脱走の時点ですでに、このような事態は想定されていたのだ。
真っ赤に染まった屋上の中央に悠然と立つスレイマンを、はるか遠くから狙《ねら》う銃口があった。長銃身のスナイパー・ライフル。五〇〇メートル先のビルの屋上にうつ伏せた、呪装戦術隊の狙撃手《そげきしゅ》だ。
浮遊銃座は陽動にすぎない。魔術士《まじゅつし》に対しては、正面からの物量による攻撃よりむしろ、不意を打っての狙撃の方が有効――その力ある意志の盲点を狙い撃《う》つのだ。
狙撃手は銃床に頬《ほお》を当て、呼吸を止め、引き金を引いた。
死と必中の呪《まじな》いを掛けられたライフル弾がスレイマンの側頭部に飛び、そして――スレイマンの左手の自在|護符《ごふ》に受け止められた。護符の印形は『呪詛《じゅそ》返し』。ベクトルを反転させられた死の弾丸は、勢いもそのままに半キロを引き返し、狙撃手の頭部を撃ち抜いた。
狙撃の失敗を合図に、浮遊銃座の攻撃が始まった。身を隠す物のない屋上に機銃弾の雨が降り、コンクリートの床が掘り起こされ、給水塔が破裂した。スレイマンはV13の髪をつかみ「キャアア!」屋上のドアに駈《か》けだした。ドアにはすでにトラップが仕掛けられ、その奥には重武装した隊員が配置についている。しかし――
スレイマンはドアの前を素通りし、柵を乗り越えて空中に飛び出した。と同時に、脚部に浮遊呪文を織り込んだ身体施呪《フィジカル・エンチャント》。スレイマンは地上五〇メートルの空中、水平距離にして三〇メートルを猛スピードで走り抜け、浮遊銃座の射手に小さな〈卵〉を撃ち込みながら操縦士《そうじゅうし》を蹴《け》り落とし、自らがシートに着いた。
「ハッハァ!」
続いて、スレイマンの放った呪弾にエンジンを撃たれ、残る二基の銃座が空中で爆発《ばくはつ》、墜落《ついらく》した。さらに、スレイマンは乗っ取った浮遊銃座のエンジンに加速呪文を掛け、アクセルを捻《ひね》った。通常の数倍の出力の浮揚呪力が発生し、機体が軋《きし》みながらホップした。
「キャアアアァァァ――」V13の悲鳴をあとに引き、浮遊銃座は飛び去った――かと思うと、
「――ァァァアアア!!」大きな弧を描いて舞い戻り、本部ビルの窓に突入した。
呪装戦術隊の指揮車の上に、重く柔らかいものが音を立てて落ちてきた。スレイマンが撃った銃座の射手の体だ。
「う…」
と、指揮車の屋根から転げ落ちた射手が呻《うめ》き、数名の隊員が救護に駈《か》けつけた。
すると――
「ゲラゲラゲラ!!」
射手は全身を激しく痙攣《けいれん》させながら笑いだし、一瞬《いっしゅん》後《ご》、その肉体を爆裂《ばくれつ》させた。スレイマンの呪文《じゅもん》に全身を喰《く》い荒され苗床にされた射手、その体を喰い破って、無数の死の呪文が飛び出し、周囲の隊員を次々と襲《おそ》った。スレイマンの常套《じょうとう》手段、屍体爆弾《ゾンビイ・ボム》だ。
一方、本部のオフィスに突入したスレイマンは、避難《ひなん》の遅れた事務職員の背に同様の呪文を孕《はら》んだ〈死の卵〉を撃《う》ち込んだ。仲間に助け起こされドアを抜けた彼は、数秒後に笑いながら爆裂。飛び出た呪文に撃たれた数名の仲間は、その数秒後に爆裂。さらにその数秒後に――
「ク、ク……潜伏《せんぷく》時間のさじ加減がミソだ」と、スレイマンが言った。「すぐに死んじまったら連鎖《れんさ》しねえからな」
「キャハ! 最低! 最悪!」と、V13が言った。
血の惨劇《さんげき》を、また、職員の逃げまどうさまを楽しむように、スレイマンはゆっくりと廊下を進んだ。スレイマンに背を向け廊下を走る血まみれの一般職員が、急行した武装隊員にすがりつき、「た、助け……ゲラゲラゲラ!!」爆裂した。
血しぶきと共に呪文を浴び、防弾・防呪ベストの隙間《すきま》から呪文に侵入された隊員は、数秒後に痙攣を始め――
その時。
廊下の中央に〈径《パス》〉が発生し、その中から一人の人影が踏み出した。
黒革のコートに黒いブーツ。黒い制帽の正面に、眼《め》をかたどった徽章《エンブレム》。右前腕部に固定された、細身の黒い呪力増幅杖《ブースターロッド》――ブラックロッドだ。
ブラックロッドは眼の前で爆裂した隊員に向かって左手をかざし、自在|護符《ごふ》を作動。隊員の体から飛び出した数束の呪文は、護符にトラップされ、解呪された。
そのさまを見たスレイマンが、
「ハ、出やがったな」と言い――ブラックロッドに背を向け、廊下の反対方向に駈けだした。
「なんで!? なんで逃げるの!? 一人くらいメじゃないよ!」
と――V13が指差した先の空間に、無数の〈径《パス》〉が生じた。その一つひとつからブラックロッドが歩み出し、廊下を真っ黒に埋めた。
「キャアア!」V13はスレイマンのあとを追って駈《か》けだした。
市内の霊相《れいそう》及び〈径《パス》〉の管理は、公安局の権限のもとに行われている。その本部が襲撃《しゅうげき》された今、公安局はあらゆる空間に〈径《パス》〉を穿《うが》ち、すべてのブラックロッドを呼び戻した。
その数、一九名。
スレイマンが足を止めた。廊下の突き当たりだ。
「キャアア、行き止まり! 行き止まりいィ――ギャフッ!!」
V13をロッドで横殴りに張り飛ばしながら、スレイマンは振り返った。
一九名のブラックロッドが、一斉にロッドを構えた。
「ハ、貴様ら、口上と最後通告はどうした?」
ブラックロッドは応《こた》えない。公安局は〈コードΩ〉を制御することは不可能であると判断した。もはや〈悪霊《あくりょう》〉と対話をする必要はなく、義務もない。ただ滅却するのみだ。
一九本のロッドから、一斉に呪弾《じゅだん》が放たれた。
『呪弾』は最も単純にして効果的な呪文の一つ。正体不明の魔物《まもの》に対しては、まず呪弾をもって当たるのが、彼らのセオリーだ。凝縮《ぎょうしゅく》され指向性を与えられた呪力、論理化された攻撃《こうげき》の意志そのものであるそれは、ブラックロッドの持つ属性――「秩序」の具現とも言える。
ブラックロッドは呪弾を連続呪唱。怒濤《どとう》のように呪弾が群れ飛び、スレイマンを襲《おそ》った。
「ハ」と、スレイマンが嗤《わら》った。
廊下の端に来たのは、逃げるためではなく、呪弾の射線を限定するためだ。
スレイマンの左腕が、瞬間《しゅんかん》、視認が不可能なほどの速度で動いた。三重の身体施呪《フィジカル・エンチャント》によって加速された左腕、その先端にある自在|護符《ごふ》が、高速に印形を書き換えながら光の残像を引いた。極端な運動によってスレイマンの左腕から噴《ふ》き出した血煙と、過剰な呪力によって加熱した護符が掌《てのひら》の肉を焼く黒煙、それらが混じり合って滞空する赤黒いもやの中に、複雑な光の魔法円が描かれた。そして、スレイマンの前に、空間的にゼロ、論理的に無限の厚みを持つ、自己相似性を持った呪力|防壁《ぼうへき》が展開し、数百の呪弾をトラップした。
さらに、スレイマンが右手をひと振りすると、その掌の中に〈卵〉が現れた。金色に光り激しく唸《うな》るそれは、先ほど封印したジブリールの〈卵〉の一つだ。スレイマンが〈金の卵〉を魔法円に放り込むと、〈卵〉の結界が破れ、解放されたジブリールが数百の呪弾を巻き込みながら歌いだした。
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スレイマンは偉大なり!!
スレイマンのほかにスレイマンなし!!
ジブリールはスレイマンの下僕なり!!
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呪弾――スラーンの祈りと同等かそれ以上の超指向性を与えられた高密度の言霊《ことだま》が、ジブリールを核に組み合わされ、その新たな肉体の構成要素となった。直径一・五メートル。もつれあい、弾《はじ》けあう呪弾の嵐《あらし》と化したジブリールは、スレイマンの前に恭順の意を示すように滞空した。
『なんなりと命令を』
ジブリールは先の介入の際、通常の行動に優先してスレイマンの命令を受けつけるように、そのルーチンに代入子を組み込まれていた。
スレイマンは右手に三本の指を立てた。
「願いは三つ! 『殺せ!』、『殺せ!』、そして『殺せ!』だ!!」
『スレイマンの意のままに!』
荒れ狂う呪弾《じゅだん》の暴風、すべてを呑《の》み込み噛《か》み砕く呪力のミキサーと化したジブリールは、廊下いっぱいに広がりながら突進、一九人のブラックロッドの体が無数の呪弾に貫かれ、壁《かべ》や天井に叩《たた》きつけられた。
「ハ、ハ、ハ!」
左肩を押さえながら、スレイマンは嗤《わら》った。裂けた肉の塊となった左腕は、血にまみれ力なく垂れ下がり、その前腕部は黒く焼け焦げていた。炭化した指が、ぼろりと落ちた。
ジブリールは、呑み込み噛み砕いた贄《にえ》からさらに力を得て、破壊《はかい》の限りを尽くした。やがて、本部施設内をくまなく駈《か》け回り、殺戮《さつりく》の対象がなくなると、ジブリールはようやく力を失い、〈金の卵〉の姿に還《かえ》ってスレイマンの足元に転がった。
スレイマンは唸《うな》る〈卵〉を拾い上げ、右手に握り込んで消しながら、
「さて、お次は降魔局《こうまきょく》だ……」と言った。
「それより、腕、腕! 血が! 肉が! ひああ――ギャフッ!!」
V13が、スレイマンのロッドに殴り飛ばされた。
スレイマンは損傷の激しい左前腕を自らちぎり取った。次いで、幻肢痛《ファントム・ペイン》を核に霊体《れいたい》を呪力固定、神経組織の投影像――「幽霊の腕」を、肘《ひじ》の先に作り上げた。さらに、半透明に揺らめくそれを眼《め》の前で数度振ると、
「……固定が甘いな」と呟《つぶや》き、左腕の痛覚を強化した。
増幅された激痛に、スレイマンは歯を食いしばった。青黒い額《ひたい》に汗の玉が浮いた。「腕」は存在感を増し、より鮮明《せんめい》に視覚化した。前腕の神経樹《しんけいじゅ》から青白く揺らめく霊気を吹き上げる「炎の腕」――霊気によって構成され、呪術によって駆動《くどう》する、〈栄光の手〉だ。
スレイマンは〈栄光の手〉を数度握り、
「これで用は足りる」と言った。
廊下には一面に血の跡と呪弾の弾痕《だんこん》が残り、幾つもの半壊した屍体《したい》が転がっている。
スレイマンはその中央を行きながら、頭をさすりつつあとをついてくるV13に、
「〈径《パス》〉の管理システムがあるはずだ。捜せ」と言った。
そこに――
「その必要はありません」と、声が掛かった。
廊下の中心の空間が歪《ゆが》み、新たな〈径《パス》〉が生じていた。
「予言装置、呪文編纂機《じゅもんへんさんき》、各種論理器械及び、公安局の通信・移動管制システムの基盤《きばん》となるハードウェアは、先ほどの混乱に乗じて、すべて破壊《はかい》しました」
踊るようなステップを踏みながら、〈径《パス》〉の中から一人の少女が歩み出た。少女の足が床を踏むたびに、巨大な霊圧《れいあつ》と瘴気《しょうき》が廊下を吹き抜けた。
降魔局《こうまきょく》の制服を着たその少女は、数メートルの位置で立ち止まり、スレイマンの顔を見た。一見したところ、一三、四歳。人形のような白い顔に、金色の瞳《ひとみ》。血のように赤い唇が、愛らしい微笑《ほほえ》みを浮かべている。
しかし、その身にまとっているのは、ただ立っているだけで空間を歪《ゆが》ませるほどの、禍々《まがまが》しい瘴気だ。事実、彼女はなんの外的支援もなく、自らの発する霊圧のみによって〈径《パス》〉を開いてきたのだ。彼女の傍らに転がる屍体《したい》が瘴気に当てられてゾンビイとなり、死者の苦悶《くもん》の呻《うめ》きを上げた。
「ひ…ッ!」
少女の姿を見たV13が息を呑《の》み、悲鳴を上げた。
「ひ、ひあ……! ひィああああああああァァァ――ギャフッ!!」
V13を殴り飛ばしたスレイマンが、少女に問うた。
「貴様……『悪魔|憑《つ》き』か」
「はい。降魔管理局のヴァージニア・オーといいます」
少女は愛らしい微笑みを浮かべながら、首をかしげた。
「はじめまして、と言うべきでしょうか? G・G・スレイマン」
「ヴァージニアの……あ? 何番だと?」
「ナンバーはありません。私こそがヴァージニア――ヴァージニア・オリジナル。V系列|妖術《ようじゅつ》技官は、すべて私の使い魔です」
「ひああ!」と、V13が叫んだ。「やだやだ! 使い魔って言っちゃやだあ――ギャフッ!!」
「ハ――『部分品』ですらエンガチョだってのに、ご本尊がのこのこ出歩いていいのか? え? 腐れ魔女《まじょ》が」と、スレイマンは言った。
「ええ……私の存在は数日のうちに都市全域を深刻かつ不可逆的な霊相変化に陥れるでしょう」と、ヴァージニアは言った。「しかし、『プロジェクト』はすでに詰めの段階に入っています。長期的展望を考慮《こうりょ》する必要は、もはやありません――あと三日のうちに、すべてが終わります」
「すべて……?」
「そう、『プロジェクト・トリニティ』の全過程――すなわち、私たちにとっての『すべて』です」
「ハ、下層《した》の連中はそうは思わんだろうがな」
「ええ……しかし、『プロジェクト・トリニティ』はその進行にB層以下の市民を必要としません。むしろそれらは計画完遂の障害となる可能性があります」と、ヴァージニアは言った。「その場合――ノイズはできる限り排除しなければなりません」
「ハ、ハ――下層のくそ共を皆殺しか!!」と、スレイマンは言った。「そいつは結構な話だが、さて、くそのないくそ溜《だ》めになんの存在意義がある?」
「『トリニティ』の遂行は都市の存続に優先します。むしろ〈ケイオス・ヘキサ〉一〇〇年の歴史はそのために存在したというのが降魔《こうま》管理局の見解です」
「ハ、大きく出たな」
「無論、公安局はそれをよしとしないでしょう。我々は彼らを排除する必要がありました。あなたの存在がその助けとなることは期待しましたが、あなたがそれをほぼ単独で成し遂げたのは、我々にとって幸運な誤算です」
「ほう……俺《おれ》がやらなきゃてめえがやってたってか?」
「ええ、そう予定されていました。やはり〈変動因子《トリックスター》〉であるあなたの行動を完全に占うことは不可能です。現段階において、あなたの存在は計画に対する完全なイレギュラーとして認識されています」
「ほう、今度は邪魔になってきた、と」
スレイマンのロッドが伸長し、全身が呪力《じゅりょく》を帯び始めた。
「……取り引きをしませんか?」と、ヴァージニアは言った。
「なんだと?」
「我々が求めるのは、八体のジブリールと、あなたの中立の態度――積極的な協力までは要求しません」
「それで、俺の取り分は?」
「あなたの身の安全」
「ハ、『おとなしくしていれば生かしておいてやる』か。『そいつはどうもありがとう』、だな、ハ、ハ、ハ、――」
ロッドが振りかぶられ、「気に入らねえな!!」V13の側頭部に打ちつけられた。
「ギャフッ!!」と、V13は言い、壁《かべ》に叩《たた》きつけられ、転がった。
「残念です」と、ヴァージニアは言った。「我々はあなたに非常に興味《きょうみ》がありました。三年前のスラーン事件の際も、ジブリールよりむしろあなたを欲していたのですよ。『最も神に近い男』G・G・スレイマン」
「神だァ? 俺をつまらんものと比べるな」と、スレイマンは言った。「俺は俺だ。ただひたすらにオ・レ・サ・マ・だ!」
スレイマンはロッドを構え、最大呪力で呪弾を圧唱《クライ》。だが、ヴァージニアに向かって一直線に飛んだそれは、彼女の体の直前で空間の歪《ゆが》みに捕らえられ、体の脇《わき》を通って後方にすり抜けた。
さらに連続呪唱される呪弾を無視しながら、少女はスレイマンに歩み寄った。その体から、致死レベルをはるかに超える濃度《のうど》の瘴気《しょうき》が吹きつけた。「悪魔|憑《つ》き」である彼女は、降魔局の使徒であると同時に、地上と地獄をつなぐ接点でもある。本物の魔女[#「本物の魔女」に傍点]は、ただ存在するだけでその周囲を文字通りの地獄に変えるのだ。
左腕の〈栄光の手〉が揺らぎ、焦点を失ってぼやけた。高濃度《こうのうど》の瘴気《しょうき》からの防御に呪力《じゅりょく》を割かれ、スレイマンの身体施呪《フィジカル・エンチャント》が解けつつあった。
「ク…ッ!」
力を失いくずおれるスレイマンの体を、ヴァージニアの細い腕がとん[#「とん」に傍点]と突いた。スレイマンが仰向けに倒れると、ヴァージニアはその胸の上に馬乗りになった。
「なぜ『サーティーン』をあなたに接触させたかは、もうお判《わか》りですね?」
上体を屈《かが》め、スレイマンに白い顔を寄せ、ヴァージニアはささやいた。赤い唇の隙間《すきま》から、桃色の舌がちろりと覗《のぞ》いた。
「あなたがいくら否定しようとも、彼女の存在はあなたの精神に食い込み、私のための侵入経路を作る――」
ヴァージニアの舌が、ずるりと伸びた。いや、正確に言うならば、それは舌ではない。高密度の霊体《れいたい》によって構成された触手だ。
「舌」はスレイマンの左頬《ひだりほお》のただれた傷跡をなぞり、舐《な》め上げ、左眼《ひだりめ》の霊視眼《グラムサイト》に触れた。そして、感触を楽しむように眼球を舐《な》め回したかと思うと、眼窩《がんか》からそれを抉《えぐ》りだした。
スレイマンは眼窩から血を噴《ふ》きこぼし、痙攣《けいれん》した。のたうつその体の上でヴァージニアがくすくすと笑い、霊視眼《グラムサイト》を指の上で転がしながら、愛らしく微笑《ほほえ》んだ。
「ほら……ちょうど、この左眼のように」
「キャアア! スレイマン!!」と、V13が叫んだ。
ヴァージニアはスレイマンの両頬を小さな掌《てのひら》で包みながら、なおも言葉を続けた。
「それでも、あなたの自由意志を奪うことは我々の本意ではありません。そこにこそ、あなたの本質、最大の存在価値があったのですから。……とても残念です」
左眼から血の涙を流しながら、スレイマンは嗤《わら》った。
「ク、ハ…!……できもしねえことを勝手に残念がるな、バカが」
「とても、残念ですよ」
ヴァージニアはもう一度言うと、眼をつぶり、顔を傾けて、赤い血を流すスレイマンの眼窩に口づけた。
眼窩から巨大な質量を持つ霊体が侵入し、スレイマンの体は再び大きく痙攣した。
混沌《こんとん》として広大、大胆にして複雑な構造を持つスレイマンの精神の中を、ヴァージニアの触手はうねりながら突き進んだ。そして、公安局の施した精神拘束《ゲアス》のなごりを、またスレイマン自身による精神|防壁《ぼうへき》を、時には巧妙に、時には強引に突破し、瞬《またた》く間に意識の深層に侵入した。
『ところで、おとぎ話はいかが? 「不死身の巨人の物語」は?』と、ヴァージニアが言った。
むかしむかし、あるところに、不死身の巨人がおりました。
巨人は卵の殻の中に自分の心臓を入れ、この世のはてにこっそり隠しました。
心臓が潰《つぶ》されないかぎり、巨人が死ぬことはないのです――
『……あなたのような人は必ず、精神のどこかに「心臓《ハート》」を隠している。「心《ハート》」と「意志」を切り離し、不死身の怪物として振る舞う。でも、「心」を消してしまうことはできない。「心」は自分そのものだから。ただ、どこかに隠しておけるだけ。誰《だれ》にも見つからないように、決して見つからないように、一心にそう願いながら――でも、ほら、見つけた!』
スレイマンの意識の最奥に、小さな結界があった。
その奥には、抱えた膝《ひざ》の間に顔をうずめる、一人の少年がいた。
ヴァージニアは結界を難なくすり抜け、そっと少年の背に寄り添った。
『君は誰……?』と、少年が言った。
『あなたの友達よ』と、ヴァージニアは言った。
『うれしいな。僕はずっと独りだったんだ。君はここにいてくれる?』
『…ええ、いてあげる』
ヴァージニアは背後から少年の肩を抱き、耳元にささやいた。
『ずっといっしょにいてあげるわ――』
『――いや、あと三秒で充分さ』
少年が振り向くと、そこには目鼻の代わりに巨大な時計の文字盤《もじばん》があった。一つ眼《め》巨人の眼玉のようなその文字盤は「零時三秒前」を示していた。
『ひ…!』
離脱しようとするヴァージニアを、少年の手が、がしりとつかんだ。時計の顔に悪鬼の笑みを浮かべながら、少年は叫んだ。
『僕を置いていかないで! 僕を独りにしないでよ! なんてな、そら、三、二、一!』
少年の体が爆発《ばくはつ》し、ヴァージニアの端末イメージを半壊《はんかい》させた。さらに、そこに生じた傷口に、少年の体の中から飛び出した一群の祓魔式《ふつましき》が侵入。ヴァージニアの触手を分解しながら駈《か》け登った。
「ぎゃああ!」
スレイマンの胸の上で、ヴァージニアがのけぞった。スレイマンの眼窩《がんか》から引き抜かれた「舌」が、煙を上げて崩れ落ちた。ヴァージニアは床に転がり、そこでさらにびくびくとのたうった。体内で強力な祓魔式が増殖し、彼女の魂の半分を構成する悪魔《デーモン》の霊体《れいたい》を分解している。
「ッハァ!! バカが! 貴様らのやり口はお見通しだ!!」
と、スレイマンが叫んだ。その左の眼窩に加え、右眼と鼻からも血が流れだした。脳内での論理爆弾の爆発は、彼自身にも無視できないダメージを与えている。
「ゴアアアア――」
ヴァージニアの口が、野獣《やじゅう》のような咆哮《ほうこう》を発した。地上での拠《よ》りどころを失った悪魔《デーモン》が地獄へと引き戻される、断末魔《だんまつま》の叫びだ。同時に、周囲の瘴気《しょうき》が渦を巻いてその体に集まり、元きたところに還《かえ》っていった。
スレイマンは床に転げたまま、血の涙を流しながら、
「ハ、ハ、ハ! バカが! バァァカが!!」と言って嗤《わら》い続けた。
数十秒後――
空間を支配していた瘴気は失《う》せ、廊下には、少女の肉体と、その半壊《はんかい》した魂のみが残った。
スレイマンは再び全身を身体施呪《フィジカル・エンチャント》して立ち上がり、顔面の血を拭《ぬぐ》いながら、ヴァージニアの体を爪先《つまさき》で転がした。
「悪魔《デーモン》はもう引っ込んだぜ。『契約』は解消だ――ってことは、だ。今の貴様は魔女じゃない。ただのメスガキってことだ。判《わか》るか? あ? 判ったらお返事だ!!」
スレイマンが腹に蹴《け》りを入れると、ヴァージニアは、
「…か……は……」と、息を漏らした。
常に肉体を巡っていた強大な呪力《じゅりょく》を、それ以前に、共生関係にあり、もはや自分の一部と化していた悪魔《デーモン》の霊体《れいたい》を失った今――彼女は言葉を発することはおろか、思考することさえできない。ただ、涙と涎《よだれ》をこぼしながら、床の上に痙攣《けいれん》する。
「ちっ…」
スレイマンは少女の傍らに膝《ひざ》を突き、その両足を割り広げた。〈栄光の手〉の触れた白い膝が、ちりちりと焼けた。
「やめて!」V13がスレイマンの腕に組みついた。「あたしに[#「あたしに」に傍点]ひどいことしないで!」
スレイマンはロッドでV13を殴り飛ばし、
「黙《だま》ってろ。ちょいと根性入れてやるだけだ」と言った。
そして――
青白い霊炎をまとう〈栄光の手〉が少女の股間《こかん》に突き込まれると、「ギアアア!」少女の体が激しく痙攣した。
V13は眼《め》をつぶり、耳を塞《ふさ》ぎながら、身をすくめた。感度の悪い旧式の依代《ホスト》にも、「本体」の感じている、体を引き裂かれるような衝撃《しょうげき》の余波が伝わってくる。
〈栄光の手〉から流し込まれた呪力によって身体施呪《フィジカル・エンチャント》と言霊《ことだま》の補強が行われ、ヴァージニアに一時的に意識が戻った。全身を激しく震《ふる》わせるヴァージニアのあごを押さえ、スレイマンは詰問した。
「答えろガキ。プロジェクトってのはなんだ。その目的は?」
「………あ……か……」
白い顔に、子供のような怯《おび》えの表情が浮かんだ。
「…かみさま! かみさまァァ!」
そう叫ぶと、ヴァージニアは大きく身をのけぞらせて、大量の血を吐いた。金色の瞳《ひとみ》がぐるりと回転し、白眼《しろめ》を剥《む》いた。壊《こわ》れかけた魂は呪力《じゅりょく》の流れに耐えきれずに消し飛び、彼女はそれきり動かなくなった。
「ハ、やっぱりそれか」
スレイマンは〈栄光の手〉をスカートから引き抜き、ただの物体となった少女の体を蹴《け》り転がした。
「くだらねえ」
スレイマンは抉《えぐ》られた霊視眼《グラムサイト》を床から拾い、再び左眼に収めた。
それから、後ろを振り返り、
「どうした、人形」と言った。
廊下の端では、V13が両足を投げ出して壁《かべ》にもたれ、放心していた。
「なんだろう、なんなんだろう」と、V13は呟《つぶや》いた。「『ほんとのあたし』は死んじゃって、『うそのあたし』だけがまだ生きてて、まるで、気がついたら自分は死んでて幽霊《ゆうれい》になってた、みたいな、なんだか空っぽで宙ぶらりんな感じ……ギャフッ!?」
スレイマンのロッドがV13の頭を打った。
「うぬぼれんな。『ほんと』も『うそ』もねェ。てめえは端《はな》から徹頭徹尾《てっとうてつび》ただのゴミだ」
ロッドの先端が、V13の鼻先を指した。
「しかも、今や俺《おれ》にとってもてめえは用済みだ。…さあ、どうするゴミ野郎?」
「でも…」
と、頭をさすりながら、V13は言った。
「スレイマンは、あたしのことが好きなんでしょ? うそでもわざとでも、ちょっぴり好きになったんでしょ?」
スレイマンの青い左眼が、V13をにらんだ。
V13は身をすくめた。しかし、上眼遣いの青い右眼は、その視線を受け止めて離さない。
「……そうだな。もう少し好きになってみるか」
と呟きながら、スレイマンは〈栄光の手〉を伸ばし、V13の首筋をなでた。その青黒い顔に、悪鬼の笑みが浮かんだ。
「ク、ク……たまらんぞ。愛する者が、俺の手の中で喚《わめ》き、泣き叫び、命乞《いのちご》いをし、俺を呪《のろ》いながら死んでいく瞬間《しゅんかん》は……!!」
「……いいよ」と、V13は言った。「あたしはそれでもいいよ」
霊体に直接、焼けるように食い込む霊気の「指」の力を意識しながら、V13は精一杯の笑みを浮かべた。
「それがスレイマンの『好き』ってことなんでしょ? それなら……怖いけど、うれしいよ」
スレイマンの顔から、笑みが抜け落ちた。
「…そいつはつまらんな。やっぱり今殺すか」
ロッドが伸長し、甲高い唸《うな》りを上げ始めた。
「ひああっ!?」と、V13が叫び、頭を抱えた。
「クハ!」
と、スレイマンが嗤《わら》い、V13を蹴《け》り転がした。
「それだそれだ! いいぞ、もっと俺《おれ》を笑わせろ!!」
三〇分後――
スレイマンとV13の姿はC層の繁華街《はんかがい》の外れにあった。
上層より早く訪れる夕闇《ゆうやみ》の中にあり、また、この階層にしてはがら[#「がら」に傍点]の悪い界隈《かいわい》にあって、奇妙な二人連れの姿も、あまり目立たない。出の早い街娼《がいしょう》や酔っ払いが、時折|胡散臭《うさんくさ》げに見送るだけだ。
「なんでわざわざ降りたの?『次は降魔局《こうまきょく》』なんでしょ?」と、V13が言った。
「まずは、人が多いところだ」と、スレイマンは言った。「降魔局行きの〈径《パス》〉を開けにゃならん。あっちでも対策はしてるだろうが……ハ、ジブリールに二、三〇〇〇人ばかり贄《にえ》を突っ込めば、ゴリ押しで行ける」
「キャハハ! また殺しまくりね! いつ殺《や》るの!? 今すぐ殺るの!?」
そう言って、V13が振り向いた時――
どさりと音を立てて、スレイマンが倒れた。
すでに彼の肉体は呪力《じゅりょく》の支援なしには機能せず、また、彼の精神は限界まで疲労していた。歩きながら意識の途絶えたほんの一瞬《いっしゅん》、呪術のサイクルが途切れ、スレイマンは瀕死《ひんし》の状態で路上に転がった。
「ひああ!? スレイマン!? スレイマン!!」
駈《か》け寄ったV13が、スレイマンの体を揺さぶった。しかし、スレイマンは反応しない。その肉体はもはや屍体《したい》同然。心臓すらまともに動いてはいない。左肘《ひだりひじ》の先で、〈栄光の手〉が、揺らめき、消えた。
「きああああ――! 誰《だれ》か! 誰かァ!!」
V13の声が、夕闇にこだました。
[#改丁]
『衆生を救うもの』
08
[#改丁]
〈ケイオス・ヘキサ〉東部|外壁《がいへき》。定期補修工事現場。
都市全域を殻のように覆《おお》う外壁の中でも、地上数十メートルまでの部分は、特に堅固に作られている。地を這《は》って都市に侵入しようとする魔物《まもの》に備えてのことであり、実際、魔物の衝突《しょうとつ》によるその結界機能の劣化は早く、激しい。
今、地上から四〇メートルほどまでの高さの壁面に足場が組まれ、劣化したコンクリートと結界用の呪符《じゅふ》パネルの撤去《てっきょ》作業が行われている。常にどこかしらで補修が行われている外壁は、皮膚《ひふ》のように新陳代謝《しんちんたいしゃ》を繰《く》り返していると言ってもいい。
コンクリートを打つハンマーの音を聞きながら、グウは一人、地上にあぐらをかいている。
足場より約二〇メートル――作業のさまは見えるが、機材を担いで駈《か》け回る者の邪魔にはならない、そんな位置だ。
都市を取り囲んで円形を成す外壁は、あまりに巨大なため、無限の面積を持つ平面と見える。左右を見、そして上方を見上げても、そこに見えるのは、空間を二分する「壁《かべ》の地平線」だ。
グウはぐい呑《の》みを手に持ち、傍らには三本の一升瓶を置いている。
作業の様子か、壁そのものか――どこを見るともつかぬ視線を巨大な壁に向けながら、グウはぐい呑《の》みを口に運ぶ。二度、三度とぐい呑みを傾け、それが空になると、視線はそのままに、半ば無意識の動作で瓶から酒を注《そそ》ぎ足し、また口に運ぶ。
そこに、影が差した。
「アレックス・ナム」
いつの間にか、禿頭《とくとう》の大女――ヤコが、陽《ひ》の光を遮り、グウの傍らに立っていた。ヤコが今日身に着けているものは、女物の装束ではない。ゆったりとして、かつ機能的な、機甲|羅漢《らかん》の平服だ。
「そこでなにをしておられます」と、ヤコは言った。
グウはヤコに顔も向けず、巨壁《きょへき》に視線を据えたまま、
「達磨《だるま》は面壁九年して菩提《ぼだい》を得たというぞ」と言った。
「すでに九年をふた回りしました」
ヤコの声には、幾分かの険がこもっている。
「さよう…」
グウの視線が動いた。グウはちらりとヤコを見ると、
「小娘が年増になる時間だな」と言い、再び壁《かべ》に眼《め》を向けた。
ヤコが言葉を詰まらせると、
「まあ座れ」と、グウは言った。
ヤコはグウの横に乱暴に腰を下ろし、足首を持って結跏趺坐《けっかふざ》の形に組んだ。
そのさまを見たグウが物言いたげに口を開くと、
「これより他《ほか》に、座り方を知りませぬ」
ヤコは背筋を伸ばし、巨壁を正面に睨《にら》みつけた。
「――かつてあなたは言われた。『立っても禅、座っても禅』と」
「さよう……飯を喰《く》っても禅、屁《へ》をひっても禅、酒を喰らっても禅だ」と、グウは言った。
眉《まゆ》をひそめるヤコに向かって、グウは一升瓶を持ち上げて見せた。
「呑《の》むか」
「精進とあらば」
ヤコがグウの使っていたぐい呑みを受け取ると、グウはそこに酒を注《そそ》いだ。ヤコは深くぐい呑みを傾け、注がれた酒をひと息にあおった。
「よい呑み振りだ――と、言いたいところだが」
グウはぐい呑みにさらに酒を注ぎながら言った。
「敵《かたき》のように呑むのだな」
ヤコは答える代わりに、もう一度ぐい呑みをあおり、グウに向かってぐい呑みを突き出した。
それから――
グウに呑むひまを与えまいというように、いや、自らが三升の酒を呑み尽くしてしまおうとするかのように、ヤコは酒をあおり続けた。
「…呑むときには、呑むときの顔というものがある」と、酒を注ぎながら、グウが言った。
「あいにくと、知りませぬ」と、酒をあおりながら、ヤコは言った。
「もそっと、愛想ようできんか」と、グウが注《そそ》いだ。
「できませぬ」と、ヤコがあおった。
「はや酔うたか、ヤコ」と、注いだ。
「酔ってはおりませぬ」と、あおった。
「酔うておらぬと言うは、酔うておる証拠だな」
「酔ってはおりませぬ」
眼《め》の前に突き出されたぐい呑《の》みを見て、グウがため息をついた。ヤコの顔は、鬼のように赤くなっていた。
「話があったのだろう」
もはやとぼけ通すことはできぬと見て、グウが切り出した。
「は…」
ヤコは趺坐《ふざ》を解き、グウに向き直った。
「――〈アザナエル〉について調べていた手の者が、さる企《たくら》みに行き当たりました」
「企み?」
「『トリニティ』と呼ばれる、法外な陰謀《いんぼう》です」
ヤコが得た「トリニティ」についての情報は、決して多いものではなかった。それが降魔局《こうまきょく》によって遂行される計画であること、その実行の際には多大な死傷者が出るであろうこと、〈アザナエル〉はその中にあってなんらかの役割を担うものであること、加えて――
「公にはされていませんが、昨日、公安局の中枢が壊滅《かいめつ》いたしました」
グウの顔に、一瞬《いっしゅん》、真剣な表情が疾《はし》った。
それを見たヤコは、身を乗り出しながら、
「今の我々に、どれだけのことができるかは判《わか》りませぬ。しかし、民のため、ことに当たって迅速に動けるよう、残存兵力を再編成しつつあります」
「結構なことだ」と、グウは言った。
「しかし、先の交戦で士官はすべて失われ――」
「知らぬ」
グウはヤコが傍らに置いたぐい呑みを取り上げ、自らの手元に酒を注ぎながら言った。
「俺《おれ》は知らぬ」
ヤコは唇を噛《か》んだ。
次いで、砂ぼこりを舞い上げながら立ち上がり、大きく息を吸い、大喝した。
「――なお逃げるか、アレックス・ナム!!」
巨壁《きょへき》にヤコの声が反響《はんきょう》し、壁面の足場がびりびりと震《ふる》えた。作業員たちが、なにごとかと顔を向けた。
「なぜおのれの務めを果たそうとしない! いや、そもそも――」
ヤコは酔っていた。体の奥から込み上げる感情のままに、言葉を発していた。
「なぜ逃げた、アレックス・ナム!! なぜ我々を捨てた!?」
グウはヤコの飛ばす檄《げき》を、頭上を吹き抜ける嵐《あらし》のように流した。
「逃げねば、さらに多くが死んだ」
「問題ではない! 億の衆生《しゅじょう》のために千の羅漢《らかん》が死ぬは必定、ましてあなたに殺されたならば、大往生というものだ!」
「買いかぶるな。俺《おれ》は如来ではない」と、グウは言った。
「かつてあなたは言われた。確かにそう言われた」
「つまらぬことを覚えている」
グウはぐい呑《の》みに酒を注《そそ》ぎながら言った。
「方便だ」
ふと、一升瓶を持った手元が狂い、こぼれた酒がグウの袖《そで》を濡《ぬ》らした。
「お…」
グウは袖を口に含み、ちゅうちゅうと音を立てて吸った。
ヤコは唇を噛《か》み、押し黙《だま》った。
そして、今自分が見下ろしている、この抜け殻のような老人が、本当にあのアレックス・ナムなのか、と思った。
一九年前、機甲折伏隊《ガンボーズ》練兵場――
「魔物《まもの》に喰《く》われれば地獄に堕《お》ちて浮《う》かばれぬ! ここで死ぬるがよほどにましだ!」
一人の男が飛ばす檄が、衝撃波《しょうげきは》のごとく空間を圧した。
アレックス・ナム。最大最高の機甲羅漢。機甲折伏隊《ガンボーズ》全隊の中でも、その力量において、最も仏に近いと言われている男。
「諾《だく》!」
声を揃《そろ》えて応《こた》えるのは、整然と並んだ沙門《しゃもん》――機甲折伏隊《ガンボーズ》の羅漢候補生たちだ。
「力及ばぬ者は、この場にて引導《いんどう》を渡す! 功徳と思え!」
どおん、と、地面にナムの手にした六尺棒が打ち込まれ、運動場を鳴動させた。
体全体にその振動を感じた一〇〇人の沙門たちは、己《おの》が身をも震《ふる》わせながら、
「諾《だく》、諾《だく》!」と叫んだ。
「全員着座! 数息観開始! ――三! 二! 一! 三昧《サマディ》!」
沙門は一斉にその場に座り込み、結跏趺坐《けっかふざ》を組んだ。さらに、印を組み、眼《め》を半眼にし、背筋を伸ばして気息を整えた。
ほどなく、一〇〇本の気の柱が、天に向けて立ち昇った。
ナムは六尺棒を携え、沙門の間をゆっくりと歩き始めた。その体から発する巨大な気が、沙門から立ち昇る気の柱を揺るがせた。
ナムは一人の沙門《しゃもん》の前に足を止めた。
そして、その肩に、鉄鋲《てつびょう》を打った六尺棒の先端を、ひたりと当てた。
「作麼生《そもさん》!」と、ナムが言った。
「説破《せっぱ》!」と、沙門が応《こた》えた。
「何者か!」と、ナムが問うた。
「主人公!」と、沙門は応えた。
「ならぬ!」
強大な気を孕《はら》んだナムの棒が、沙門の腹を打った。沙門は数メートルを吹き飛び、同様に結跏趺坐《けっかふざ》を組んでいた同朋《どうほう》に突っ込んだ。
ナムは自分が打った沙門を捨て置き、歩を進めた。救護係《きゅうごがかり》が、呻《うめ》く沙門を担架に乗せ、運んでいった。
ナムは再び一人の沙門の前に足を止めた。棒の先端をその肩に当て、
「作麼生《そもさん》!」と、ナムが言った。
「説破《せっぱ》!」と、沙門が応えた。
「何者か!」と、ナムが問うた。
「無位真人!」と、沙門は応えた。
「ならぬ!」
棒が振りかぶられ、沙門の肩を叩《たた》きのめした。骨の折れる、鈍い音がした。
ナムはさらに歩を進め、行く先々の沙門に問答を仕掛けた。
「おのれは何者であるか」とのナムの問いに、
「不識」と応えた沙門が、打たれた。
「無」と応えた沙門が、打たれた。
無言をもって応えた者も、打たれた。
一指を立てて応えに代えようとした者は、その指を折られた。
言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒――まさしく問答無用だ。
沙門の回答はそのどれもが、各々《おのおの》に知識と見識を総動員して導《みちび》き出したものだ。だが、「看話法」と呼ばれるこの修法は、元より、問答の答えを求めるためのものではない。沙門を論理的、精神的な閉塞《へいそく》状況に追い込むことを目的とした訓練なのだ。
ナムはさらに歩を進めた。
こちらに近づいてくるナムを見て、ヤコは息を呑《の》んだ。
当時一五歳のヤコは、機甲折伏隊《ガンボーズ》の中では数少ない女性隊員の一人であり、また、最も年少であり、かつ、最も軽量な沙門でもあった。
娑婆《しゃば》にあっては人目を引く一八八センチの長身も、二メートルを越す沙門の群れの中では、ただの短躯《たんく》でしかない。格闘《かくとう》においても、装備を用いての訓練においても、ただ体格差のために、同朋《どうぼう》の沙門《しゃもん》に一歩も二歩も後れを取る、そのことが、ヤコには不満であった。また、この体ゆえに娑婆《しゃば》に身の置き所のなかった自分が、この場に位置を見出せなくてどうする――そのような思いもあった。
そもそも、市外の魔物《まもの》に相対するに当たっては、人間の体格差など、ほんの誤差にすぎない。巨大な魔に対峙《たいじ》しておのれを失うことなく、圧倒的な火力を的確に操る平常心と、それを支える胆力――それのみが必要なものであり、体力に依存する訓練などは、無意味な慣習にすぎないと、ヤコは考えていた。
「看話法」は、座したまま置かれる極限状況に、ただおのれの精神のみによって対処する、そのような訓練であると聴いた。それこそが、自らの価値を示す絶好の機会であると、ヤコは思っていた。
だが、今――
ヤコはおのれの驕《おご》りを恥じ、後悔していた。
確かに、体格差などは問題ではなかった。眼《め》の前にあるのは、絶対の恐怖と理不尽。一〇〇人の沙門は今、圧倒的な力を前にして、等しく無力であった。
「地竜をも一撃《いちげき》で打ち倒す」と言われるアレックス・ナムの剛棒が、今、この瞬間《しゅんかん》にも自分に向かって打ち込まれようとしている。
身動きが取れれば、逃げることも、あらがうこともできよう。たとえ相対的に劣っていようとも構わない、自分の身一つを頼りに、この場を駈《か》け去りたい――ヤコはそのような衝動《しょうどう》に駆《か》られていた。
「ならぬ!」
また一人、沙門が突き飛ばされた。
重い打撃音と、呻《うめ》く声の調子からして、どこか骨を折ったかもしれぬ。血を吐いているかもしれぬ。
今日の訓練が終わるころには、ナムが宣言した通り、幾人かの死人が出ているかもしれぬ。
それは、自分であるかもしれぬ。
巨大な気配が、ゆっくりと、自分の眼の前を通り過ぎていく。
ヤコは止まりそうになる呼吸を必死で平静に維持し、ナムが早く通り過ぎるよう、ひたすらに願った。
しかし――
ナムの足が、眼の前で止まった。
肩口に、六尺棒の先が、ひたりと当てられた。
「作麼生《そもさん》!」
――!!
それは、単なる錯乱《さくらん》であったかもしれぬ。
あるいは、ヤコの奥底に眠る「修羅《しゅら》」が、ほんの一瞬《いっしゅん》眼覚《めざ》めたのかもしれぬ。
恐怖の極限にあって、ヤコの精神は空白であった。体の奥底から突き上げる衝動《しょうどう》のままに、声にならぬ声を上げ、趺坐《ふざ》を解いた。ヤコは飛び上がりながらナムの棒を奪い取り、全霊《ぜんれい》を込めてその腹に打ち込んだ。
ナムは不動であった。
ただ、巨大なゴムの塊を打ったかのような不可思議な感触のみが、ヤコの手に伝わってきた。
ナムが笑った。
岩のような顔面が、ごり、と、音を立てたかのようだ。
そして、
「足りぬ!」
ナムは腹に突き込まれた棒を奪い返し、ヤコの腹に突き返した。
棒自体の勢いと、そこに込められた爆発的《ばくはつてき》な気に、ヤコは体ごと突き上げられ、高く高く、宙に舞った。
その夜――
沙門《しゃもん》の宿舎は、苦悶《くもん》の呻《うめ》きに満ちていた。
死者こそ出なかったものの、今日の訓練に参加した沙門の半数が救護室《きゅうごしつ》に送られ、その内半数はまだ戻らない。そのまま除隊になった者もいるという。
各々《おのおの》の寝台に転がり、肉体の痛みを訴え、アレックス・ナムを呪詛《じゅそ》する同朋《どうほう》の呟《つぶや》きが低い唸《うな》りとなって響《ひび》く宿舎を、ヤコはひっそりと抜け出した。
腹の打撲のため、全身が微熱を帯びていた。
また、気を散らさずに考えてみたいことがあった。
その足が、なにとはなしに、運動場へ向かった。
夜間照明の半分ほどに照らされた運動場は、昼間の騒《さわ》ぎなど、はや忘れたとでもいうように、ひっそりと静まり返っている。
ヤコは昼間自分の座していた位置を確認し、そこに再び結跏趺坐《けっかふざ》を組んだ。
そして、痛む腹筋を伸ばし、気息を整えながら、考えた。
「足りぬ」――アレックス・ナムは、確かにそう言った。
「ならぬ」ではなく、「足りぬ」と。
方向は誤っていない、ということか。
――「何者か」との問いに、答えねばならぬということはない。
「答えれば打つ」、そしてまた「答えなくとも打つ」という理不尽に対し、答えるでも答えぬでもなく、「問うた者を打つ」という回答もあるだろう。
これはすなわち、人外の論理で行動する魔物《まもの》に対する、機甲折伏隊《ガンボーズ》の基本姿勢でもある。
ここまではよい。
だが、打つだけでは「足りぬ」――打ち倒してしまわねば、それは答えとしての意味を成さない。
――馬鹿《ばか》な。
自分が、あのアレックス・ナムを倒せるものか、とヤコは思う。しかも、こちらは座したまま、棒をもって打ち掛かってくるナムを、だ。
ヤコは数ヵ月前に行われた、格闘《かくとう》訓練の模範《もはん》試合の光景を思い出した。
道場の中央、一〇〇人の沙門《しゃもん》が座して見守る中――
どおん、と、道場全体を振動させながら、ナムが足を踏み締《し》め、構えを取った。
構えたナムを、八人の機甲|羅漢《らかん》が取り囲んでいた。羅漢はいずれもコマンド・ヨーガの師範クラスであり、しかも、各々《おのおの》が棒を携えている。対するナムは、徒手空拳《としゅくうけん》だ。
そして――
「哈《ハ》ッ!!」
一斉に気合いを発し、ナムの体に棒を打ち込んだ羅漢たちが、次の瞬間《しゅんかん》には残らず跳ね飛ばされ、壁《かべ》や床に叩《たた》きつけられていた。
ヤコの眼《め》には、なにが起こったのかを正確に見極めることはできなかった。ただ――道場の内に張り詰めた気が、ナムを中心に複雑な回転を見せたかに思えた。
しかし、ナムは最初の構えのまま、微動だにしていない。
そこまで考えて、ヤコはふと思い至った。
ナムもまた、動いてはいなかった。
ならば、座した自分と、条件は同じだ。
あの時ナムは、いったいなにをしたのか。そこに、自分の求める答えもあるのではないか。
ヤコはますます深く、鮮明《せんめい》に、ナムの姿を思い描いた。
やがて――
運動場を横切り、ヤコに近づく気配があった。
ヤコはその気配を意識しつつ、なおも己《おの》が行為に没頭した。
気配が、眼の前で立ち止まった。
ひたり、と、ヤコの肩になにかが当てられた。
鉄鋲《てつびょう》を打った、六尺棒の先端だ。
「何者か」と、棒の主が問うた。
「――フゥーム」と、ヤコは呼気を漏らした。
それは、応えであり、応えでない。
気息を整え、体内の気を独楽《こま》のごとく高速に循環《じゅんかん》させる――おのれ自身を気の回転体と化し、打撃《だげき》に備える。それは、棒の主の問いに対するものではない、ヤコ自身が得た、おのれに対する答えであった。
空を切る音と共に、ヤコの肩に六尺棒が打ち込まれた。
ヤコの精神は鏡面《きょうめん》のごとくに澄《す》んでいた。意識するでもなく、せぬでもなく、棒に込められた爆発的《ばくはつてき》な気を引き込み、己《おの》が身を一巡させ、棒に伝えてそのままに打ち返した。
奇妙な手応《てごた》えがあった。
あたかも、天に突き上げた拳《こぶし》をつかまれ引き上げられるような感覚と共に、ヤコの気が逆に引き込まれた。
否、巻き込まれたのだ。
巻き込まれた先に、稼働《かどう》するタービンのごとく、さらに巨大な回転体が存在した。ヤコに一〇倍する大きさと回転速度とを持つそれと縁《ふち》を接した瞬間《しゅんかん》、ヤコの気は強制的に回転数を上げられ、その遠心力によって弾《はじ》け飛んだ。
宙に舞い上がるような感覚と共に、意識が拡散した。自我はその濃度《のうど》を失い、やがて無に等しくなった。我を失った意識は感覚をますます明晰《めいせき》にし、その視野と精度を増した。
渦があった。
一つの渦の中に回転する無数の渦があり、その一つひとつの中に、さらに無数の渦があり、さらにその中に、数えきれぬ渦が存在した。
また、一つの渦が無数に集合して大きな渦を成し、大渦が集合してさらに大きな渦を成し、それらがさらに集まって、途方もない大渦を構成していた。
部分を成す渦の一つであると同時に、すべてを内包する大渦。
それはあらゆる時間と空間を表す曼陀羅《まんだら》であった。
と同時に――それはまた、ヤコ自身でもあった。
――とん。
棒が地面を打つ音で、ヤコは我に返った。
眼《め》の前に、岩のような、大きな顔面があった。
アレックス・ナムの顔だ。
「観《み》たか」
ヤコは眼を見開き、口を半開きにしたまま、ナムの顔を見返した。
大きな顔が、岩のような笑みを浮かべた。
棒を地面に立て、ヤコの顔を覗《のぞ》き込むようにしゃがんでいたナムは、膝《ひざ》を払って立ち上がった。
「ますます精進せよ」
ナムはヤコに背を向け、運動場の外れにある道場に向かって、歩きだした。
「……は……はッ!!」
我に返ったヤコは、跳ねるようにして立ち上がり、姿勢を正した。
そして、六尺棒を担いだ大きな背に向けて合掌し、深く一礼した。
一年後――
最年少の沙門《しゃもん》から最年少の機甲|羅漢《らかん》となったヤコは、初陣の日を迎えていた。
数ヵ月前から、装甲倍力|袈裟《けさ》〈迦楼羅《カルラ》〉をあてがわれ、飛行訓練も充分に済ませてある。未《いま》だ経験がないのは、実戦のみだ。
その日の任務は、機甲羅漢一〇〇余名が参加する、当時としては大規模なものであった。
指揮官は、アレックス・ナム大佐。
ヤコはあの日以来、ナムと個人的に言葉を交わすようになっていた――とは言っても、廊下で行き会ったとき、二言三言話すというだけのことであり、しかも、羅漢に昇格してからは、一度も会っていない。
それが、慌ただしい出撃《しゅつげき》準備の最中、たまたま廊下で出会った。
思わず、音が鳴るほどの勢いで合掌するヤコに、ナムが気づいた。
「ヤコか」
「はッ」
舞い上がったヤコの口から、思わず長い口上が滑り出た。
「愚僧の羅漢への昇格の儀《ぎ》、ナム大佐のご推挙があってのことと聴いております! 感謝《かんしゃ》に耐えませぬ!」
「おお、あれか」と、ナムは言った。「うむ。〈迦楼羅《カルラ》〉の増員に誰《だれ》を充てようかと思っておったら、おまえのことを思い出した」
「光栄に存じます!」
生真面目《きまじめ》に姿勢を正すヤコを見て、ナムの顔に、ふと、笑みが浮かんだ。
「…『看話法』の時のことを、覚えているか」と、ナムは言った。
「はッ! 忘れもいたしません!」
「俺《おれ》が棒で突いたらば、おまえはよく飛んだな」
「は…?」
「やはり、体が軽いからな」
「はあ……」
「それで、〈迦楼羅《カルラ》〉にちょうどよいと思うた」
ナムが言うのが「看話法」の日中の訓練の時のことであり、また、この話題自体がナムの軽口である――そのことにヤコが気づくのに、若干の時間が掛かった。
自分の起用について茶化されるのも、体の軽さについて言われることも、不思議と気にはならなかった。
「はい」
ヤコの顔に、自然な笑みがこぼれた。
「よい顔だ」
と言って、ナムが岩のように笑った。
――それが、ヤコの初陣の日の朝であった。
また同時に、その日は機甲|羅漢《らかん》アレックス・ナムの、最後の日でもあった。
数時間後、機甲折伏隊《ガンボーズ》の部隊は全滅した。
大規模ではあったが、困難な任務ではなかった。その日の攻撃《こうげき》対象であった巨象は、通常の包囲と斉射によって倒れるかに思えた。
だが――
断末魔《だんまつま》の巨象が、火炎を吐いた。
炎にあおられた〈迦楼羅《カルラ》〉が墜落《ついらく》し、ヤコはその時点で気を失った。
あるいは、それがヤコの命を救ったのかもしれぬ。
その直後、アレックス・ナムの「修羅」が、暴走した。
修羅――
精神の奥底に潜《ひそ》む、禍々《まがまが》しい攻撃|衝動《しょうどう》を、機甲折伏隊《ガンボーズ》ではそう称している。
修羅に呑まれた者は、身も心も、闘争と殺戮《さつりく》のみを求める鬼神と化す。
大きな力を持つ者は、同時に強大な修羅を抱えてもいる。アレックス・ナムは超人的な精神のバランスによって、自らの裡《うち》に潜む巨大な修羅を飼い馴《な》らしていた。
しかし――
なにがそのバランスを崩したのか、それは今もって判《わか》らない。
修羅の制御を失ったアレックス・ナムは、巨象にも勝る魔物と化した。
ナムの駆《か》る装甲倍力|袈裟《けさ》〈阿修羅《アスラ》〉の一撃で、衰弱した巨象は絶命した。次いで、ナムの攻撃の矛先は、同朋《どうほう》の機甲羅漢に向けられた。
無線を伝って駈《か》け巡ったナムの修羅に、一瞬《いっしゅん》にして羅漢の半数が精神を喰《く》らい尽くされた。残る半数が〈阿修羅《アスラ》〉に砲弾の嵐《あらし》を浴びせたが、ナムの強大な気によって強化された装甲面は、それらをすべて弾《はじ》き返した。ナムは自らの手にした種字機関砲で同朋を掃射。砲弾が尽きると、徒手空拳《としゅくうけん》をもって、生き残った羅漢に向けて悪鬼のごとく打ち掛かった。
――ナムが我に返ったのは、最後の羅漢をくびり殺したあとのことであった。
ナムは単身本隊に帰投すると、額《ひたい》の通信素子を塗り込め、羅漢の座を辞した。
その後、ナムの行方を知る者はなく、機甲折伏隊《ガンボーズ》の上層部も、隊の者に対し、彼を追うことを禁じた。
――そして今、アレックス・ナムはここにいる。
いや、本人に言わせるならば――アレックス・ナムという男はすでに死に、ここにはグウと呼ばれる男のみがいる。
そうかもしれない、と、ヤコは思い始めていた。
アレックス・ナムは、もういないのかもしれない、と。
「おおーい、グウさーん」
修復現場の足元から「チビの李《リー》」が、手を振りながら駈《か》けてきた。
「ちょおっとすまねえ! 手ェ貸してくんな!」
「うむ…」
一升瓶を片手に、グウが立ち上がった。
李《リー》はヤコを拝むように片手を立て、
「姐《ねえ》さん悪《わり》ィね、ちょっと借りてくよ」と言った。
李《リー》を先に立て、ふらりと歩きだすグウを追って、ヤコもまた歩きだした。
その足元がふらついた。思いのほか酔っていた。
ヤコは気息を整え、体内の気の流れを調節し、経絡の一〇八|個所《かしょ》に埋め込まれた放気釦《ほうきこう》からアルコールを排出――しようとしたが、すでに酔った身には、それすらも上手《うま》くいかない。
壁際《かべぎわ》に着き、壁面《へきめん》に組まれた足場を登りながら、李《リー》が振り返った。
「大丈夫かい、姐さん。酔って乗ると危ねえよ。落ちて死ぬ奴《やつ》もいンだから」
そこでヤコの視線に気づき、
「え、グウさんかい? グウさんは特別だよ。どっちかってェと、この人は素面《しらふ》のときの方が危ねえな! ひゃ、ひゃ!」と言った。
足場を何階も登って行く途中、何人もの作業員が、グウに声を掛けた。手を上げて挨拶《あいさつ》する者、肩を叩《たた》く者、ヤコを指して冷やかす者に対して、グウは等しく、
「うむ…」と応《こた》えた。
やがて、壁を壊《こわ》している現場に三人が着くと、壁面の一部を指して、李《リー》が言った。
「ほら、ここ、ここ、パネルがイガんでて取れねえンだ。おおかた、空飛ぶ魔物《やつ》が突っ込んだんだろうけどよ。いっちょ頼むよグウさん」
「うむ」
グウは李《リー》に一升瓶を預け、分厚い鉄板で出来た呪符《じゅふ》パネルを持て余している作業員たちの間に割り込むと、パネルの浮いた端に肩を添え、「む…」と、力を込めた。
みしみしと音を立てて、パネルが動き始めた。
李《リー》はヤコの顔を見上げながら、
「この高さじゃ機械も入んねえからさ、グウさんいてくれて助かるよお」と言った。
そこに――
「地虫野郎だ!」という、叫び声がした。
すぐさま、ヤコもその声が指すものを確認した。
外壁《がいへき》から数百メートル先に実体化した地竜。土煙の大きさから見て、中程度の大きさだろう。武装した機甲|羅漢《らかん》が一分隊いれば、難なく片づく程度の魔物《まもの》だが――
手すりに乗り出す者、階下に駈《か》け出す者――足場の上がにわかに慌ただしくなる中、
「速いぞ!」と、また誰《だれ》かが叫んだ。
結界の綻《ほころ》びか、この現場に集う人間か、なにを狙《ねら》ってかは判《わか》らないが、地竜は蚯蚓《みみず》に似た長い体をうねらせて、一直線にこちらに向かってくる。もしこの現場に突入されれば、大惨事は必至だ。
「急ぎ避難《ひなん》を!」と叫ぶヤコに、
「大丈夫、大丈夫だよ、姐《ねえ》さん」
と、李《リー》は呑気《のんき》な口調で言った。
「グウさんがいりゃ安心さあ。な、グウさん!」
「む…」
グウがパネルから離れ、地竜を確認した。
風を巻き、飛ぶような勢いで迫る地竜は、すでに一〇〇メートルほどの距離に迫っている。地竜の立てる地響《じひび》きに、足場全体がぐらぐらと揺れ始めた。
「倍力袈裟《けさ》の用意があります!」と言って駈《か》け降りようとした足がもつれ、ヤコは足場の手すりにしがみついた。
「要らぬ」と、グウは言った。
「は、しかし――」
「俺《おれ》はな……」と、グウは言った。「袈裟《けさ》が、憎いのさ」
グウは地上三〇メートルほどの高さの足場から、ふらりと宙に歩み出た。
「ナム――!?」
グウの姿を追って、ヤコが手すりから身を乗り出した。
三〇メートルを垂直に落下し、どおん、と音を立てて、グウが着地した。
グウの足から大地に放たれた気に、足場がびりびりと震《ふる》え、壁際《かべぎわ》に積まれていたセメント袋が残らず破裂した。地上にぶちまけられたセメントが赤みがかった土と混じりあいながら渦を巻き、一瞬《いっしゅん》にして、グウを中心に巨大にして精緻《せいち》な砂《すな》曼陀羅《まんだら》を描いた。
ヴォオオオ――
間近に迫った地竜が、突如として出現した「聖地」を警戒《けいかい》し、人の身長ほどもある鎌首《かまくび》をもたげて吼《ほ》えた。
「|フン[#「口+享」]《フン》!」
グウの体の一〇八|個所《かしょ》に埋め込まれた放気釦《ほうきこう》からアルコールが一気に排出され、純化された気が体内を駈《か》け巡った。
次いで、
ドン――!
グウが地竜の頭部に向けて右手を突き出すと、体内で圧縮《あっしゅく》された気が、砲撃《ほうげき》のような破裂音と共に、掌《てのひら》から放たれた。
ヤコは刮目《かつもく》した。
隻手音声《せきしゅおんじょう》――
時として、「坐禅《ざぜん》」に対し「斗禅」とも言われるコマンド・ヨーガ――その公案《カリキュラム》の最高峰に位置する「隻手音声《せきしゅおんじょう》」は、超絶的な気の出力と、その完璧《かんぺき》な制御によって初めて可能になる技だ。しかも、手を打ち鳴らす程度の音が出れば及第とされているそれを、ナムは実戦における攻撃手段として用いている……。
圧縮された気の塊を打ち当てられ、地竜の頭部が数メートルも跳ね上げられた。
そして、地竜は悲鳴を上げ、体をねじりながら巨大な仏塔のように直立し、金色の光を放ちながら分解した。
わああ――と、足場の上で歓声《かんせい》が上がった。
作業員たちが、手すりを叩《たた》き、足を踏み鳴らして、グウに手を振っている。低い階からは、手すりを乗り越えて飛び降りていく者もいる。
グウはそのままの姿勢で数秒間立っていたが、ふらりとふらつくと、尻餅《しりもち》をついた。
尻餅をつき、そして、小便を漏らした。
「いけねえ、酒だ酒、酒!」
李《リー》が一升瓶を持って足場を駈け降りた。
「ちょっ、いいザマだぜ! 小便垂れが!」
と、ヤコの傍らを通り過ぎながら、昨日のひげ面――ロウが毒づいた。
「ひゃ、ひゃ、グウさんハリキリすぎだあ!」と、何階か下で、李《リー》が叫んだ。
それらの言葉を、ヤコは聞いていない。
ヤコは己《おの》が裡《うち》から発する心のままに、眼下のグウに向かって合掌していた。
[#改丁]
『〈α〉と〈Ω〉』
09
[#改丁]
スレイマンの肉体は、ほぼ機能を停止していた。
手も足も、ぴくりとも動かず、ただ鉛の塊のような感覚のみがある。眼《め》はかすみ、意識も朦朧《もうろう》としている。
額《ひたい》や胸の上に、掌《てのひら》の感触があった。遠慮《えんりょ》がちな、気づかうようなその動きを途切れ途切れに感じながら、やがて、スレイマンの脳は身体施呪《フィジカル・エンチャント》の言霊《ことだま》を組み始めた。
血流が調整され、神経の働きが補正され、意識が急速に覚醒《かくせい》した。あたかも、電源を入れられた機械が生命を宿すように、スレイマンの体は唐突に生気を取り戻した。
スレイマンの右手が素早く動き、胸の上に乗った手をつかんだ。
「きゃっ」
と、手の主が叫んだ。漆黒の肌に金銀のアクセサリーをつけた、大柄な女だ。
「キャハア! 起きた、起きた!」と、V13の声がした。
「――誰《だれ》だ、貴様?」
黒い手を絞り上げながら、スレイマンは言った。
「……ジョーって呼んで」
横たわるスレイマンの隣《となり》に腰掛けた、黒い女――ジョーは、死にかけていたはずのスレイマンの意外な腕力に戸惑いながらも、白い歯を見せて笑った。それから、自分の手を締《し》めつけるスレイマンの手に、もう片方の手を添え、豊かな胸に押しつけた。
「あなたの命の恩人『その二』よ、スレイマン。倒れてたあなたを運んで手当てしたの」
スレイマンは服を脱がされ、体中に包帯を巻かれていた。左眼《ひだりめ》は塞《ふさ》がれ、肘《ひじ》までしかない左腕は先端まできっちりと縛《しば》られている。
ジョーはさらに言葉をつないだ。
「――『恩人その一』はそっちのお人形さん。あの子がいなかったら、あなた、あのまま死んでたわよ。感謝《かんしゃ》しなきゃね」
「キャハハ! お手柄、お手柄ァ!」と、テーブルの上に座ったV13が、脚をばたつかせた。
「あァ?」と、スレイマンは言った。「犬っころが忠実なのはただの習性だ。なんで礼を言わにゃならん」
「あっ、ひどい!」と、V13が言った。
その言葉を無視し、スレイマンは周囲を見回した。
ひび割れた壁《かべ》、しみの出た床。部屋の隅に置かれた机に、細々としたがらくたが積まれている。全体に、安ホテルの一室といった風情だ。
「しけた部屋だな」
「そうね、次はもうちょっといいトコにするわ。もうここは引き払おうかと思ってたとこ。……昨日、あたしフラれちゃってね。『傷心、そして旅立ち』なんちゃって」
ジョーは肩をすくめ、
「もっと下の階層にでも行って、オンナの幸せ探してみようか、とか思ったりして」
「男の、だろ」
スレイマンは顔の包帯を剥《は》ぎ取った。ほどけた包帯の下で、青い霊視眼《グラムサイト》が光った。
「骨格も体臭も霊気《れいき》の流れも丸っきり違う。だいたいなんだ、そのチンポは」
「あら、バレバレ?」
ジョーは股間《こかん》を隠すように膝《ひざ》を閉じた。そして、肩をすくめながら、
「でも、表じゃ美女で通ってるのよ。それに――」
再びジョーはスレイマンの手を取って自分の股間に導《みちび》き、
「そういうニーズもあるの。元気になったら試してみる?」
「ハ、俺《おれ》ぁホモじゃねえ。しかし――」
スレイマンはジョーの顔を見て、
「確かにあんたは美人だな……俺のママに似てるよ」と言った。
「ありがと――お母さんがいるの?」
「今はもういない」
とスレイマンは言い、自分の胸を指した。
「だが、この俺の体の中に、その人は生きているのさ」
「キャハハハハ!」と、頭を振ってV13が笑った。
スレイマンが上体を起こし右手を振りかぶると、V13は、
「ひああっ!?」と言って、頭を抱えた。
「じゃあ、この体、大切にしなきゃ駄目じゃない」
ジョーは体全体を押しつけるようにして、スレイマンを再び仰向けに寝かせた。
「なにしたか知らないけど、あなた、体中ボロボロよ」
自らも添い寝するように身を横たえたジョーは、やがて、包帯の胸にそっと手を置きながら、スレイマンを落ち着かせるようにささやいた。
「……ねえ、どんな人だったの? あなたのお母さんって」
「聞きたいか――俺《おれ》のママのお話が?」
「聞かせて」
「よし」
スレイマンは天井を見上げ、薄《うす》く笑いながら、語り始めた。
「まず始めに……俺のママは、パパでもあった」
「…は?」
「彼女というか、彼というか――ともかくその人間は正真正銘の両性具有者《ふたなり》で、その生涯の最後の時まで処女で童貞だったが、てめえのチンポしごいた手をマンコに突っ込んでひとりよがって十月と十日、便所で俺を産み落とした。ク、ク……とんだ処女|懐胎《かいたい》だ」
「ハレルゥ〜ヤ!」と、V13が言った。
「奴《やつ》はいつも言っていた。『誰《だれ》の手も借りずに作ったおまえは、隅から隅まで私のものだ。尻《しり》の穴まで私のものだ』」
突然、スレイマンは上体を起こし、頭を抱えながら叫んだ。
「ママ、ママ! お尻が痛いよ! お尻が痛いよ!」
「スレイ――!?」
スレイマンの右手が素早く動き、ジョーの頬《ほお》に添えられた。鼻先が触れるほどに顔を近づけながら、スレイマンは言った。
「――で、俺はどうしたと思う?」
青黒い顔に、悪鬼の笑みが浮かんでいる。
「さ……さあ…?」
ク、ク、ク、とスレイマンは嗤《わら》った。
「むかついたんで犯して殺して刻んで喰《く》った。――おお、かの人は今や我が血であり肉である。輪廻《りんね》の蛇のあぎとのごとく、俺は自らを生み出したものを喰らい、呑《の》み込んだ」
スレイマンの鬼気迫る表情に、ジョーは息を呑み、顔を背けた。
「いいぞ、その顔、その表情だ……ク、ク」
スレイマンが左肘《ひだりひじ》を前に突き出すと、彼の左手――霊気《れいき》の炎で出来た〈栄光の手〉が、包帯を内側からほどきながら、生えて出た。
〈栄光の手〉がもう片方の頬《ほお》に添えられ、皮膚《ひふ》を焼きながら、ジョーの顔を無理矢理正面に向けた。
「ひ…!?」と、ジョーは言った。
スレイマンは眼《め》を細めながら言った。
「――あんたはやっぱり、俺《おれ》のママに似ているよ」
数分後――
スレイマンとV13は、大通りを眼下に見下ろす、ビルの屋上にいた。
「ねえ、スレイマン……さっきの話、本当?」と、V13が言った。
「なんだ、話って」
「あなたのママの話」
「ああ、あれか。知らん」と、スレイマンは言った。「その手の記憶《きおく》は全部焼き捨てた。残しておくと、魔女《まじょ》やら魔物につけ込まれるからな。冗談半分、思いつくまま言ってみたが、あれが本当のことなのかどうか、自分でも判《わか》らん。――ま、どっちでもいいがな」
「どっちでも、って……自分の親とか生まれのこと、気にならないの? あたしはすごく気になるよ。自分がどこからきたのか、自分がなんなのか……」
「ハ、『俺の発生源』に興味《きょうみ》はねえな。今、俺が俺であるためには、俺以外の何者も必要ない。俺はただ、『在って在る者』だ」
「ふうん……強いんだね、スレイマンは」
と言いながら、V13は足元の通りを見下ろした。
側面に教会のロゴが入った飛行香炉が、朗々と賛美歌《さんびか》を歌いながら、ビルの谷間を縫《ぬ》ってゆっくりと飛んでいく。
「……だいぶ集まってきたね」
下にいるジョーの周りに、人だかりが出来始めていた。
ジョーは笑っている。
裸に剥《む》かれ、四肢を切断され、道端の信号機の鉄柱に高くくくりつけられたジョーは、眼玉をぐるぐる回しながら、けたたましく笑っている。
生きた呪文爆弾《じゅもんばくだん》と化した美しい黒い体は、その内部を増殖性の死の呪文に喰《く》い荒され、びくびくと痙攣《けいれん》している。豊かな胸を大きく揺らしながら、眼下のやじ馬に向かって糞《くそ》と小便をまき散らしている。
「……もう二、三人、ってとこだな」
スレイマンは起爆呪文を封入した〈卵〉を作り出し、ロッドにセットした。
「ジブリール八匹分の贄《にえ》を得る――街中に一気に連鎖《れんさ》させるには、第一世代にもう少し数が要る」
遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえてきた。
「あの人……いい人だったね」と、V13が呟《つぶや》いた。「あたし、あの人のこと、好きだったよ」
「ああ……俺《おれ》もだ」
とスレイマンは言い、クハ、と嗤《わら》った。
「なにしろ、俺のママに似てたからな」
ぽろり、ぽろり、ぽろり。
アルファの眼《め》から、大粒の涙が、途切れることなくこぼれ落ちている。
彼女の中で、毎秒三パターンのペースで繰《く》り返されるラプラスサイト・シミュレーション。そのすべてが、B層以下の全市民の消滅を結論する。ただの一人たりとも、生き延びることはあり得ない。
一つ結論が出るたびに、一粒の涙。――アルファがこぼす涙が二〇万粒目を数えようとした時、ナオミはその気分を変えようと、彼女を散歩に連れ出した。
「なにが心配なのか知らないけどさ」
アルファの手を引き、通りを歩きながら、ナオミが言った。
「世の中、たいていはなんとかなるように出来てるもんよ。あんまり気にしない方がいいんじゃない?」
アルファはうつむいたまま、首を振った。ぽたぽたぽた、と路面に涙の粒が落ちた。
「最長でも、今から四九時間三二分一二秒後には、すべての下層市民が亡くなります。その中には――奥様と坊ちゃんも含まれます」
「だから、それさあ……やけに細かいけど、全然根拠ないじゃない。占いかなにか知らないけど、当たらないわよ、そんなの」
アルファは再び首を振った。
「予測や予見ではありません。これは確定的な未来において観測された事実なのです」
ナオミはため息をつき、アルファはさらに涙をこぼした。
と――
二人の脇《わき》の車道を、公安のパトカーが、サイレンを鳴らしながら通り過ぎていった。
アルファが、不意に顔を上げた。
「どうしたの?」と、ナオミが振り返った。
アルファは不思議そうな面持ちで、パトカーのあとを見送った。その涙が、ぴたりと止まっている。
「おかしいわ……この道を、この時間にパトロールカーが通るはずはないんです。そのような事実は観測されていません」
「……観測もなにも、通ったじゃない、今」
「ええ、でも、通るはずがないんです」
上着の裾《すそ》をひるがえし、アルファはパトカーを追って駈《か》けだした。
「ちょ、ちょ――!?」
十字路を曲がったアルファを追って、ナオミもまた駈けだした。
パトカーがサイレンを止め、停車した。十字路の一つ先の信号に、大きな人だかりが出来ていた。信号機の下についている、黒く蠢《うごめ》くなにかの塊を指差し、口々になにか叫んでいる。
パトカーから少し離れたところに立ち止まったアルファに、しばらくしてナオミが追いついた。アルファの肩につかまり、大きく息をつきながら、
「ねえ、いったい、なんなのよ……」と言う。
そこに、周囲のやじ馬の声とは明らかに違う声が、頭上から掛かった。笑い声だ。
笑い声の元を見上げたナオミが、息を呑《の》んだ。
「なに……あれ……」
笑っているのは、信号機の真下の黒い塊。四肢を切断された女の体――だが、その股間《こかん》にはしなびた男根がついている。乳房を揺らし、陽物《ようもつ》を揺らし、狂ったように〈男女〉は笑う。
「おかしいわ……」と、〈男女〉を見上げながら、アルファが呟《つぶや》いた。「あの方――ジョセフ・デール・ディック氏は現在、D層に向かうリフトの中にいるはずなのに……周りにいる皆さんも、ここに立ち止まっているはずはないのに……」
「ジョセフ………ジョー……?」と、ナオミが言った。
「ゲラゲラゲラ!!」と、〈男女〉――ジョーが笑った。その耳元で、銀の星のイヤリングが揺れた。
「なんで……ジョー………なんで……?」
ナオミは眼《め》を見張り、口元を押さえた。その体内に込み上げ、混乱し、絡まった感情が、やがて爆発《ばくはつ》した。
「いやああ!」
ナオミは人込みを無理矢理に掻《か》き分け、信号機に向かった。
「ジョー、ジョー! なんで!? ジョー!!」
その時――
ピンポン玉大の光る球体が空間を貫いて疾《はし》り、ジョーの体に撃《う》ち込まれた。起爆|呪文《じゅもん》を封入された、スレイマンの〈卵〉。ジョーの体内で〈卵〉の結界が解け、呪文が解放された。
ジョーは一層激しく爆笑し、痙攣《けいれん》し、爆裂した。
巻き起こる悲鳴の中、雨のように降り注ぐ血と肉片と共に、何束もの死の呪文が降下し、やじ馬の体に侵入した。呪文に貫かれたやじ馬は、数秒後、「ゲラゲラゲラ!!」と笑い、爆裂した。信号機を中心に集まっていたやじ馬の群れは、悲鳴を上げながらクモの子を散らすように逃げだした。中には、車道に飛び出し轢《ひ》かれる者もいる。
「ッハァ!!」
その光景を見下ろしながら、スレイマンが嗤《わら》った。
「逃げろ逃げろ、逃げて死ね! 走って『死』をまき散らせ!!」
「キャハハァ!」と、V13が足を踏み鳴らしながら笑った。
血の雨と逃げまどう人の群れの中、ナオミは呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした。その脚の力が抜け、ナオミはかくりと膝《ひざ》を突いた。眼の前で、一人の「爆弾《ばくだん》」が、爆笑し、爆発した。その体内から飛び出した死の呪文《じゅもん》が、ナオミに向かって疾《はし》った。
「奥様!」
アルファはナオミまでの一〇メートルほどの距離を、風を巻きながら、一瞬《いっしゅん》にして詰めた。叩《たた》きつけるような突風に突き飛ばされ、ナオミは横ざまに転がった。
見上げるナオミの眼の前で、アルファの上半身が、シュッと音を立てて二つに割れた。
頭頂からへその辺りまで、縦《たて》に切ったように割れた体の奥から、金色の光が漏れた。光の源にあるのは、直径三センチほどの高密度|霊体《れいたい》――〈コードα〉の本体だ。勾玉《まがたま》にも胎児にも似たその霊体は、左右に割れた胸の間に浮遊している。
霊体が唸《うな》りを上げ、高速回転を始めた。爆発的な霊圧が発生し、半径数十メートルのすべての人間の意識と、死の呪文を消し飛ばした。呪文の連鎖《れんさ》は、アルファの放った霊波の爆圧によって鎮火《ちんか》した。
「あァ!? ――くそっ、なんだあいつは!?」と、スレイマンは言った。
「きああああ!」と、V13が叫んだ。「〈コードα〉! 〈コードα〉!!」
再びシュッと音を立て、アルファの上半身が閉じた。継ぎ目は完全に合わさり、筋一つ残っていない。
その周囲では、血の雨の跡に、ナオミを始め、失神した多数の人間が倒れている。何台かの車が車道を逸《そ》れ、商店や対抗車線に突っ込んでいる。
アルファの眼《め》は、スレイマンの〈卵〉の軌跡を捉《とら》えていた。再び起こり始めたパニックの中、アルファの視線は〈卵〉の発射地点を追い、数十メートル離れたビルの屋上にスレイマンを発見した。
〇・五秒の注視ののち、
「あり得ません! あり得ません! 見えません! 判《わか》りません!」と、アルファは叫んだ。「あの方を中心に、シミュレーション結果がスポイルされていきます! 未来が組み変わっていきます! 誰《だれ》、あなたは誰!? 〈変動因子《トリックスター》〉…!? 〈変動因子《トリックスター》〉――〈コードΩ〉!!」
「――ひああ! こっち見てるう!」
スレイマンのコートをつかみ、V13は叫んだ。
「逃げなきゃ灼《や》かれるよ、灼かれるよ!!」
「ちっ」
スレイマンはV13の髪をつかみながら身体施呪《フィジカル・エンチャント》、
「キャアアアア!」
叫ぶV13を引きずりながら屋上を横切り、高くジャンプ。隣《となり》のビルに飛び移り、さらに走り、ジャンプ。
「待って!」
アルファはスレイマンを追って駈《か》けだした。自動車を追い越し、音速の壁《かべ》を軽く破り、衝撃波《しょうげきは》を伴ってジャンプ。コンクリートとガラスの破片をまき散らしながら、大通りを挟んだビルとビルの間を、交互に壁を蹴《け》って登り、屋上へ。
「ひあああ! 速いよ!!」
「うるせえ、黙《だま》ってろ!」
スレイマンは再び高くジャンプし、通りの上空を進む飛行香炉の上に着地。〈栄光の手〉を機関部に突き込み掌握、エンジンを加速。一旦《いったん》高度を下げた香炉は、甲高い声で早回しの賛美歌を歌いながら、一直線に加速する。
一方、アルファは屋上を蹴って跳躍《ちょうやく》し、再び落下しながら、空中で胎児のように体を丸めた。その全身がまばゆく光り、体内で超高出力の浮遊|呪文《じゅもん》が発生、アルファの体は金属的な唸《うな》りを上げ、ちぎれたぼろ布と化した上着を弾《はじ》き飛ばしながら前回りに回転、鋸刃状《のこばじょう》の軌跡を描いて飛行を開始した。
「きああ、飛ん――ギャフッ!!」
V13を張り飛ばしながらロッドが後方に打ち振られ、スレイマンは呪弾を連続発射。だが、呪弾の多くはスピンする光弾と化したアルファの変則的な機動を捉《とら》えきれず、まれに命中するものも、本体に到達する前に高圧の霊波《れいは》によって分解した。
数秒後、アルファは香炉に追い着き、空中で伸びをするように飛行姿勢を解くと、勢いよく着地した。香炉が沈み、また浮上した。
「くそがッ!!」
スレイマンは〈栄光の手〉を機関部から引き抜き、最大の呪力を込めて拳《こぶし》を握り、超高圧の死の呪文を孕《はら》んで赤熱する〈栄光の手〉をアルファの胸に向けて突き込んだ。だが、アルファの両手はその拳を胸の前で止め、呪文を解呪しながらしっかりと押さえ込んだ。
「くっ」とスレイマンは言い、
「ひああ! スレイマン! 前、前!」とV13が叫んだ。
次の瞬間《しゅんかん》、香炉はビルに正面衝突。ガラス窓を破って突入し、内部の壁を打ち壊《こわ》しながら停止した。
ばらばらとコンクリートの破片が降り注ぐ中、スレイマンは姿勢を崩し床に転がった。アルファは膝立《ひざだ》ちになりながら、両手で包んだ〈栄光の手〉を、胸の前で何度も振った。
「〈Ω〉――いえ、『スレイマン』とおっしゃるのですね! はじめまして!」
「あァ?」と、スレイマンは言った。「……なんだ、てめえ?」
「私は『アルファ』です」と言って、アルファはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
〈ケイオス・ヘキサ〉外郭北東部、機甲折伏隊《ガンボーズ》駐屯地《ちゅうとんち》。
外気に対して開かれた構造を持つこの施設は、都市の結界内にありながら、半ば「市外」に近い。機甲折伏隊《ガンボーズ》は、都市に所属しながらなお、都市とは相容れない存在でもあるのだ。
駐屯地には、放射状に配置された八つの格納庫があった。それぞれ五〇〇〇平方メートル近い庫内の空間は、今、ひたすらに空虚だ。かつてこの場に収納されていた兵器群は、そのほとんどが一昨日に奈落《ならく》の口に呑《の》み込まれている。
格納庫の一つを、武装した数名の機甲|羅漢《らかん》が護衛《ごえい》している。
庫内の片隅には、クレーンに吊《つ》り下げられた奇妙な物体がある。直径約三メートル、勾玉《まがたま》にも胎児にも似た形状。材質不明の、機械とも生物ともつかない物体。頭部に施された「OTHERNOEL」の刻印が、それが人工物であることを主張している。
物体の周囲には、一一名の男女が集まっている。
一人を除き、その全員が禿頭《とくとう》である。また、同じ一人を除き、その全員が身長二メートル前後の巨漢である。
ヤコと、ヤコに引きずられるように連れてこられたグウ、グウの世話役としてついてきた李《リー》、残りは機甲折伏隊《ガンボーズ》の下士官たちだ。
巨体の羅漢に囲まれた李《リー》が、物体の頭部を見上げながら言った。
「こいつが、その……?」
「〈アザナエル〉だ」と、ヤコは答えた。
ヤコは李《リー》に、事件のあらましを語っていた。その中には〈アザナエル〉や「トリニティ」についての、ヤコが知り得た範囲《はんい》の情報も含まれている。
ヤコは李《リー》を信用することに決めていた。よく気の回る男であるし、グウを動かすきっかけになるかもしれない。
一方、当のグウは、酒瓶を抱え格納庫の壁《かべ》にもたれている。起きているものか、眠っているものか、ひと目には判《わか》らない。羅漢たちが、ちらり、ちらりと、困惑の表情を浮かべながら、眼《め》をやっている。
李《リー》は〈アザナエル〉の体がかすかな唸《うな》りを発していることに気がついた。
「姐《ねえ》さん、こいつ……生きてんのかい」
ヤコはうなずいた。
「…ってえか、そもそもなんなんだい、こいつは」と、李《リー》はさらに言った。
「判らぬ」
〈アザナエル〉を見上げながら、ヤコは言った。
「解体して調べようにも、どこから開くものかも皆目判らぬ。工具の類《たぐい》も受けつけぬ。手荒に扱えば、また爆発《ばくはつ》するかもしれぬ。そうでなくとも、時間によって動きだすものやもしれぬ」
「わけの判《わか》んねえ爆弾ってことかい。そいつはぞっとしねえや」李《リー》は肩をすくめ、「穴掘って埋めちまおう」
ヤコはその言葉にうなずきつつ、
「それも考えたが、どちらにしても、護衛《ごえい》はせねばならぬ。……『トリニティ』の遂行には〈アザナエル〉が必要であると聴く。これを用いてなにをするのかは判らぬが、いずれ降魔《こうま》管理局は、これを取り戻しに――」
そこまで言った時、庫内に突然、ただならぬ高圧の気が張り詰めた。
訓練された羅漢《らかん》たちは、渦巻く気の中心を捉《とら》え、身構えた。
気の渦の中心に生じた〈径《パス》〉から、三人の人影が歩み出た。
スレイマンと、アルファと、V13。
〈栄光の手〉を取り、スレイマンをリードしながら、アルファが軽やかなステップを踏んだ。その全身が金色に発光している。アルファと同様に足を運ぶスレイマンの首筋にしがみついたV13が、けたたましく笑った。
〈径《パス》〉から出たアルファの体が、ふっと光を失った。高圧の気が瞬時《しゅんじ》に消え、〈径《パス》〉もまた消滅した。
「何者か!?」誰何《すいか》するヤコに対し、
「ハ」スレイマンがロッドを伸長し、構えた。
スレイマンとヤコの間にするりと割り込んだアルファが、胸に手を当てながら、花のように微笑《ほほえ》んだ。
「私はアルファ、こちらはミスター・スレイマンとヴァージニア・サーティーンです。――はじめまして、皆さん」
スレイマン――〈悪霊《あくりょう》〉スレイマン!
八名の羅漢が一斉に緊張《きんちょう》し、身構えた。
さらに、ヤコの目がV13に留まった。
「妖術《ようじゅつ》技官――降魔管理局の手の者か」
「お二人は私の協力者です」と、アルファは言った。「私は現在、最高会議の権限のもと、『プロジェクト・トリニティ』の推進のために行動しています」
「〈アザナエル〉を奪い返しに来たか」
「ええ。〈コードα〉である私に課せられた任務は〈アザナエル〉の回収――または、破壊《はかい》です」
「ばああん!」とV13が叫び、けたたましく笑った。
「破壊《はかい》…?」
ヤコはコマンド・ヨーガの構えを取った。腰が落ち、全身に気が充実した。
「でも――やめました!」と、アルファは言った。
「は…?」と、ヤコは言った。
「『アルファ[#「アルファ」に傍点]』である私[#「である私」に傍点]は、皆さんに協力することができます」
と言って、アルファはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
数分後――
アルファは一人、〈アザナエル〉の前に立っていた。他の者は、数メートルの距離を取って周囲を取り囲んでいる。
アルファは〈アザナエル〉に向かって、挨拶《あいさつ》をするように両手を広げた。
すると――
〈アザナエル〉の頭部がシュッと音を立てて花開くように割れ、内部から金色の光が漏れた。光の中心に、勾玉《まがたま》にも胎児にも似た、直径三センチほどの高密度|霊体《れいたい》が浮遊していた。同時にアルファの上半身も音を立てて割れ、金色の光を放つ本体を露出《ろしゅつ》した。
〈アザナエル〉とアルファ、それぞれの体から霊体が飛び出し、両者の中間の位置で相対した。形状は瓜二《うりふた》つだが、〈アザナエル〉の霊体の方が、光が鈍い。
二つの霊体――二体の〈コードα〉は、羽根持つ昆虫の求愛のダンスのように、互いの周りを回るように回転を始めた。戯《たわむ》れるような軌跡を描くその機動は徐々に速度を速め、見る者の眼《め》に残像を残し、空中に光の筋で編んだ球形の結界を出現させた。
光の球は数秒間滞空したのち、急速に収縮《しゅうしゅく》した。密度を増しながらピンポン玉ほどの大きさにまで縮《ちぢ》んだそれは、スレイマンの〈卵〉に似ていた。そして、バン、と音を立て、〈卵〉を内側から破裂させながら、回転する一つの霊体が飛び出した。最初の二つの霊体と寸分《すんぶん》違《たが》わぬ形状だが、そこから放たれる光は前の二つを足した、さらにその何倍もの強さだ。
融合《ゆうごう》した霊体の発するまばゆい光と霊波の衝撃《しょうげき》が庫内を圧し、びりびりと壁《かべ》を震《ふる》わせた。
霊体は回転を止めると、アルファの二つに割れた上半身の間に、ひゅっと飛び込んだ。
アルファの体がシュッと音を立てて閉じ、〈アザナエル〉もまた、中味のないままにその機体を閉じた。
周囲を見回して、アルファはにっこりと笑った。機甲|羅漢《らかん》たちが、気圧《けお》されたように息を呑《の》んだ。
「なんだかおっかねえや……」と、李《リー》が言った。
全二三九体の〈コードα〉の霊体融合による〈神〉の創造――
「プロジェクト・トリニティ」とは、ひと言で言ってしまえば、そのような計画だ、と、アルファは説明した。
だが、それだけの規模の霊体《れいたい》融合《ゆうごう》を可能にする霊圧、それを維持する強力な結界は現行の技術では作り得ない。そこで、三二体の〈アザナエル〉を球殻状に配置し、完全な同期を取って霊体|爆発《ばくはつ》を起こし、球の内側へ向かう霊波の爆圧をもって結界に代える――
「すなわち、三二体の〈アザナエル〉による、霊体|爆縮《ばくしゅく》です」と、アルファは言った。
「三二体……」
ヤコは〈アザナエル〉を見やり、一昨日の大爆発の光景を思い出した。あれがこの地で起これば、市街などひとたまりもない。
アルファはさらに言った。
「続く神の誕生《たんじょう》の際に発生が予想される霊的・物理的|衝撃《しょうげき》はその比ではありません。都市の構造物は完全に消滅する予定になっています」
「しかし嬢《じょう》ちゃん、俺《おれ》たちがこいつをガメてれば、その霊体ナントカはできねえんだろ?」
と、〈アザナエル〉の腹を叩《たた》きながら、李《リー》が言った。「本体」を失ったそれは、今は奇怪な生物の死骸《しがい》のように沈黙《ちんもく》している。
「いいえ――この個体は〈アザナエル〉の動作テスト用に供出されたものにすぎず、その損失は予想されています」と、アルファは言った。「ただし、稼働《かどう》する〈アザナエル〉が計画外に存在することは避《さ》けられねばならない――それが、私が派遣された理由です」
「それじゃあ……」と、眉根《まゆね》を寄せて思案しながら、李《リー》が言った。「逆に言えば、こいつの使いようで、なにかできるってことだよな?」
「ええ!」と言って、アルファは微笑《ほほえ》んだ。
縦横《たてよこ》一五メートルほどのブリーフィングルームに場所を移し、協議は続けられた。
今、一同はスクリーンに投影された地図を前にして座っている。
椅子《いす》はない。板張りの床に八名の機甲|羅漢《らかん》が結跏趺坐《けっかふざ》し、残りの者は思い思いの格好で座っている。
グウは壁《かべ》にもたれ、いびきをかいている。
また、格納庫の面々に加え、一人の男が新たに参加していた。日に焼けた、東洋人風の顔立ち。背筋を伸ばし、正座している。
そして――
「ええっ、外壁《かべ》に発破掛けろォ!? 今朝《けさ》直したとこだぜ!」
叫んだ李《リー》に、ヤコと羅漢たちが顔を向けた。李《リー》は肩をすくめ、
「……ま、人の命にゃ代えられないね」と言った。
――たとえ〈アザナエル〉を用いて「トリニティ」の遂行を妨害したとしても、三二体の〈アザナエル〉の爆発は、それだけで確実に都市機能を破壊《はかい》する。
現在取り得る最善の行動は、可能な限り多くの市民の市外への退避《たいひ》、その支援である。〈アザナエル〉と機甲折伏隊《ガンボーズ》の戦力はそのために用いるべきだ――それが、一同の出した結論であった。
まず、都市の東部|外壁《がいへき》にトンネルを開け、B層以下の市民を市外へ誘導《ゆうどう》する。それから――
「輸送手段《あし》はどうすんだい。歩きってわけにゃいかねえだろ?」と、李《リー》が言った。
「いや、徒歩だ」と、ヤコは言った。
「あの荒野を!? そりゃ無理だ! 食いもんはねえし、魔物《まもの》だっている」
そこに、
「皆様はご存じでしょうか、〈ケイオス・トライ〉の大脱出行を――」
声を発したのは、それまで無言であった東洋人だ。
「かねて龍《ロン》大人《たいじん》より、かような事態への備えを申し渡されております。この都市に縁《えん》あるすべての隊商が、市民の皆様を支援いたします」と、東洋人は言った。
「それでも、生きて他の都市にたどり着けるのは全体の何割か……」と、ヤコが苦々しげに言った。
「……まあ、なにもしねえよりましさ」と、李《リー》が言った。
「けっ、端《はな》から逃げ腰か」とスレイマンが言い、にらみつけるヤコを傲然《ごうぜん》と見返した。
「兄さん、ここは逃げるのが正解だよ」と、取りなすように、李《リー》が言った。
「ハ」
「呪《まじな》い師一人になにができる」と、ヤコが言った。「不服があらば、去れ」
「ほう……俺《おれ》になにができるのか、そんなに見たいか」
スレイマンのロッドが伸長し、唸《うな》りを上げ始めた。
「スレイマンの協力は不可欠です」と、アルファが言った。「私が起動させる〈アザナエル〉と機甲折伏隊《ガンボーズ》の全残存兵力を投入しても、安全域まで市民の皆さんを護衛《ごえい》できる可能性は、ゼロですから」
「ゼロ…!?」
呻《うめ》くように言う一同に対し、アルファはにっこりと笑って、
「ええ、一人たりとも生き残れません」と言った。
「で……その兄さんが加われば、なんとかなるってのかい?」
「判《わか》りません」と、アルファは言った。「その場合の結果は完全に予測不可能です」
「ゼロよりましってことか」と、李《リー》は肩をすくめた。「そいつは頼もしいや」
「ク、ク、ク」
一同の視線を集めながら、スレイマンが嗤《わら》った。
「――判ったか? 判ったら頭を下げろ、そのハゲ頭をよ」
ナオミが気づいた時には、もう日が暮れていた。
公安の事務的処理も、現場の片づけもとうの昔に済んでいた。歩道の隅に集められた失神・軽傷者は気がついた順に帰され、ナオミはその最後の一人となった。
誰《だれ》かに手渡されたタオルでぼんやりと顔を拭《ふ》きながら、ナオミはとぼとぼと家路を歩いた。
ジョーのこと、アルファのこと……なにもかもが、夢の中の出来事だったように感じられる。とびきりの悪夢だ。
しかし――
右手のタオルには返り血、それに、左手には、いつの間に拾ったのか……銀の星のイヤリングをした、黒い左耳。
悪夢が、まだ覚めない。
イヤリングを外して、耳はエレベーター前のゴミ箱に捨てた。楽しき我が家に、汚いものを持ち込んではいけないと思ったから。
じゃあ、なんで全身に血を浴びた自分の体はいっしょに捨ててしまわないんだろう。なんで私だけが、しゃあしゃあとドアをくぐって「ただいま」なんて言えるんだろう。
ずるい、ずるい。
ずるい、ずるい、ずるい、と呟《つぶや》きながら、ナオミは玄関のドアを開けた。鍵《かぎ》は掛かっていなかった。
キッチンから、肉の焼ける匂《にお》いと、ジャージャーと油のはぜる音がした。
「違うよパパ、コショウは塩を振ったあとだってば! 作戦行動中はささいなミスが命取りになるんだからね!」と、ビリーが叫ぶ声がした。
次いで、キッチンを飛び出したビリーは、廊下を小走りに駈《か》けながら、
「おかえり! 今日の晩ごはんは『アーミー風サバイバル炒《いた》め』……あれ、アルファは?」
ビリーの姿を眼《め》にした途端、ナオミは胸の奥から込み上げるものに喉《のど》を塞《ふさ》がれ、玄関に突っ伏して泣いた。泣きながら、気を失った。
再び気づいた時、ナオミは暗い部屋の中で、ベッドに横たわっていた。
「気がついたかい」
と、ベッドの横で椅子《いす》に掛けているクリスが言った。
「いったいなにがあったんだい? …アルファさんは?」
「ごめんなさい……判《わか》らない……」
クリスはうなずいた。
「……もう少し、休んだ方がいいね」
ナオミは髪を掻《か》き上げた。ごわごわと、乾いた血糊《ちのり》の感触がした。
「……あたし……こんなに汚いわ…」と、ナオミは呟いた。
クリスはナオミの手を取り、
「今度の休みに、新しい服を買いに行こう。髪もセットするといいよ」と言った。
それから、クリスはナオミに、なにか小さなものを握らせた。
片方しかない、銀の星のイヤリング。
「それ……ずいぶんしっかり握ってたよ。大事なものなのかい?」
ナオミはイヤリングを眼の前でくるくると回した。
心のどこかが麻痺《まひ》してしまったのか、なんの感慨も湧《わ》かなかった。
「……友達が、死んだの」と、ナオミは呟《つぶや》いた。
「友達…?」
「あなたにも、話したことあるでしょ。ジョー……ジョー・ディック」
「ビリーの…?」
ナオミはうなずいた。
「そう……ビリーの、父親」
くるくるくる、くるくるくる、と、イヤリングを回しながら、ナオミは言った。まるで魂が吸い込まれてしまったように、ナオミは回転する銀の星をじっと見つめていた。
クリスはナオミの手からそっとイヤリングを取り上げ、サイドテーブルに置いた。
「人はみんな死ぬ」
クリスの手が、ナオミの頬《ほお》に添えられた。
「……そして、天国でお茶を呑《の》みながら、友達を待つんだ」
ナオミのこわばった髪をなでながら、クリスは微笑《ほほえ》んだ。
「悪いけど、ジョー・ディックには少し待っていてもらおう……遅刻分の払いは、僕が持つよ」
ナオミはクリスの手を取って、
「うん……ごめんね」と言った。
不意に、涙があふれ出た。
ジョーか、クリスか、それともビリーか――誰《だれ》に、なにを謝《あやま》っているのか、自分でも判《わか》らない。
ナオミはクリスの手にすがりつくようにしながら、
「ごめんね……ごめんね」と言って、すすり泣いた。
[#改丁]
『ノスフェラトゥのゲーム』
10
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翌日、早朝――
東部|外壁《がいへき》が爆破《ばくは》された。最下層に溜《た》まった瘴気《しょうき》が噴出《ふんしゅつ》し、瘴気に乗って流出した浮遊霊《ふゆうれい》が日光に当たり、悲鳴を上げながら蒸発した。瘴気の噴出が収まると、マスクをした作業員が瓦礫《がれき》を取り除いた。そのようにして、高さ一〇メートルもの、何層もの壁《かべ》を貫くトンネルが、数時間のうちに何十と穿《うが》たれた。
市民への告知はアルファが担当した。
皆の見ている前で、アルファの上半身が二つに割れ、〈コードα〉本体が飛び出した。
光弾と化して飛行するその霊体が、空中で二体に分かれた。二体はさらに四体に分かれ、四体はさらに八体に分かれ、八体はさらに一六体に分かれ――最終的には、何万という光弾の群れが流れるようにトンネルの中に吸い込まれていった。魔女《まじょ》が使《つか》い魔《ま》を分離するのと理論的には同質の行為だが、〈コードα〉の霊的質量の大きさと霊基構造の精確さのため、劣化の恐れはさほどない。
そして――
『皆さん、皆さん!』
B層以下の、あらゆる階層、あらゆる街角で、アルファは歌うように言った。
『お出掛けの時間です! ブーツを履《は》いて、リュックを背負って、水とチョコレートと一番大切な宝物を持って――街に出て、街を出て、地平線の向こうまで!』
ビリーはその声を、学校の教室で聞いた。
小さな光弾が、校庭を横切りながら、大きな声で歌っている。
『皆さん、皆さん! お出掛けの時間です――』
と――
光弾が急に軌道を変え、窓から教室に飛び込むと、ビリーの前で静止した。
『坊ちゃん! お出掛けの時間です!』
「……アルファ?」と、ビリーは言った。
やがて、強力な言霊《ことだま》に誘導《ゆうどう》されて、人々は自宅に帰り、旅支度をして再び外に出た。
最初はちらほらと、やがて川の流れのように、人々は街路を行った。巨大な流体と化した人の群れは、そこかしこで小さな渦を巻きながら、下層行きのリフトに吸い込まれていった。
最高会議はこの現象を取るに足らぬものとして無視したが、降魔《こうま》管理局は不確定要素の分散をよしとせず、さらに手駒《てごま》を一つ投入した。
各層の天井に張り巡らされ、二〇年近くも使用されていなかった専用|輸送路《シューター》の中を、銀のポッドが駈《か》け巡った。
BFB社製菓工場にも、アルファの声は届いていた。直ちに現場責任者が集められ、撤収《てっしゅう》が決定された。
決定を伝えに、クリスが工場へ戻った時――
屋根を突き破って、なにか大きなものが飛び込んできた。
コンベアラインにめり込んだ、人の胴体ほどのサイズの円筒状のポッド。銀色をした表面に、黒い十字架型の刻印が施されている。
物音を聞きつけたパートタイマーが、周囲に集まってきた。
ガコン、ガコンと音を立ててビスケットの乗ったプレートを塞《せ》き止めているそのポッドに、クリスは見覚えがあった。だが、どこで見たのか思い出せない。いったい、あれはなんなのだろう。
このようなことは、これまでにもたびたびあった。自分の中にある得体の知れない記憶《きおく》。クリスは努めてそれを意識しないようにしていたが――
「ああ、びっくりした! なによこれ?」
と言いながら、パートのライアン夫人がポッドに歩み寄った時、クリスは思わず叫んでいた。
「そいつから離れて!」
「え――」
振り返ったライアン夫人の背後で、ポッドの腹に刻まれた十字架が赤く光った。
シュッと音を立ててポッドが大きく割れ、中から畳んだ布のようなものが、重い音を立てて床に落ちた。黒いラバースーツと、赤い革のジャケットだ。
ラバースーツには拳《こぶし》ほどの大きさのポンプが内蔵されていた。ポンプが唸《うな》りを上げると、人の形をした風船に水を入れるように、スーツが急速に膨《ふく》れ上がった。
一秒足らずの間に、それは人の姿を取って立ち上がった。
降魔局《こうまきょく》の切り札、ブラッドジャケット――吸血鬼《ヴァンパイア》から造られた吸血鬼捕殺者《ヴァンパイアハンター》。対吸血鬼戦の訓練を受けたのち、心霊的《しんれいてき》に去勢され、人為的に吸血鬼化された、人造の不死者《ノスフェラトゥ》。脳と心臓を銀のポッドに詰め、吸血鬼禍の中に投入される、牙《きば》持つ死神、毒を制する毒。
それは黒いラバースーツの上に赤いジャケットを羽織《はお》っている。その胸には心臓に代わり、時限|爆破《ばくは》装置つきのポンプが埋め込まれている。催眠能力を持つ危険な眼球はくりぬかれ、視覚は頭部に固定された黒いバイザーで補われている。
その口にはめられた口枷具《くちかせ》が音を立てて外れ、牙を持つ口元が、シュア、と呼気を漏らした。
ブラッドジャケットはライアン夫人を背後から羽交い締《じ》めにすると、その首筋に牙を突き立てた。ライアン夫人の肥満した体が、びくびくと痙攣《けいれん》した。
無我夢中で組みつき、二人を引き離そうとするクリスを、ブラッドジャケットの裏拳《うらけん》が打った。一撃《いちげき》で頭部が陥没し、そのまま跳ね飛ばされたクリスは、トンネルオーブンの口に突っ込んだ。周囲を囲むパートから悲鳴が上がり、肉の焼ける匂《にお》いが辺りに漂った。
ブラッドジャケットはライアン夫人の体を投げ捨て、次なる獲物《えもの》を求めてダッシュした。逃げ遅れたレインが腕をつかまれた。
そこに――
焼けたプレートが音を立てて回転しながら空間を疾《はし》り、赤いジャケットの背を打った。
オーブンの口から全身を燃やしながら飛び出したクリスが、振り向くブラッドジャケットの首を背後から締め、床の上に引き倒した。ブラッドジャケットはその勢いを利用して後転し、クリスから距離を取ると、懐《ふところ》から抗不死ナイフを抜き、構えた。ブラッドジャケットの格闘術《かくとうじゅつ》――「吸血鬼《ヴァンパイア》による対吸血鬼格闘」の構えだ。
対するクリスは、自分の顔をひとなでした。焼けただれた皮膚《ひふ》がずるりと剥《む》け、その下には青白い肌が早くも再生していた。その眼《め》が赤い光を放ち、その口元に、ブラッドジャケットのものよりなおひと回り大きい、長大な犬歯が覗《のぞ》いた。
ブラッドジャケットがクリスに向かって踏み込み、ナイフを突いた。セオリー通り、狙《ねら》うのは心臓だ。脳か、心臓か、脊髄《せきずい》――吸血鬼《ヴァンパイア》に対し、それ以外はダメージにならない。
くく――と、クリスの喉《のど》から笑いが漏れた。
――素直な攻めだな、坊や。
クリスは体をずらしながらナイフを握った腕を取り、相手の体の勢いを利用しながらねじり、音を立てて関節を破壊《はかい》。再生までの〇・五秒間に生じる攻撃の死角に滑り込んで相手に密着し、左胸に手を伸ばした。
赤いジャケットの陰にあるポンプの調整つまみを、「戦闘《せんとう》」から「死」に。
ポンプが激しく唸《うな》り、人造吸血鬼の全身に聖水を循環《じゅんかん》させた。ブラッドジャケットは体を激しく震《ふる》わせ、ラバースーツの襟《えり》から煙を噴《ふ》き出し、次の瞬間《しゅんかん》、内蔵《ないぞう》する爆薬《ばくやく》に脳とポンプを爆破され、上半身の半ば吹き飛んだ、ただれた屍体《したい》と化した。
それから、クリスはライアン夫人に歩み寄り、その状態をチェックした。ライアン夫人は床に転がり、小刻みに身を震わせている。その体内で、大規模な呪術的《じゅじゅつてき》・生物学的変化が起こりつつある。すなわち、人から魔物《まもの》への変質。
第一度の吸血鬼化――源吸血鬼を殺し呪術感染経路を断った今、適切な処置をとれば、人間としての健康を回復するレベルだ。しかし――
一つ間違えば都市を全滅させかねない、常に厳重《げんじゅう》に管理される「劇薬《げきやく》」であるブラッドジャケットが、一般人を襲《おそ》い吸血鬼化させたということは……これは降魔局《こうまきょく》の意図した事態か、あるいはその基盤《きばん》が揺らいでいるのだと考えられる。つまり――「適切にして速やかな処置」は、望めない可能性が高い。
クリスは銀のポッドに歩み寄ると、その内部にセットされた装備品を確かめた。ショットガン、サブマシンガン、エンチャントマグナム――
ショットガンを手に取って戻り、クリスはライアン夫人の脳と心臓を吹き飛ばした。
銃声の尾が、やがて、工場の機械音に紛れた。クリスが周囲を見回すと、パートのほとんどはすでに逃げ出し、腰を抜かしたレインだけがその場に残っていた。
「レイン――?」
とクリスが声を掛けると、レインは、ひっ、と言って顔を背けた。吸血鬼《ヴァンパイア》と眼《め》を合わせてはいけない。
クリスの青白い顔に、一瞬、泣き笑いのような表情が浮かんだ。そして――ショットガンを放り捨て、レインの横を駈《か》け抜け、クリスは工場を飛び出した。
吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》による、全市民の吸血鬼化――
一見、より大きな混乱と取れる事態だが……吸血鬼《ヴァンパイア》の心霊的《しんれいてき》属性は屍体に等しい。すなわち、完全な「無」だ。荒れ狂う吸血鬼禍に完全に覆《おお》い尽くされた都市は、霊的には「凪《な》ぎ」の状態になる。
それは、「プロジェクト・トリニティ」にとって、より好ましい状況なのだ。
学校は早々に解散し、今、ビリーは自室で装備を吟味していた。
リュックの中味は、水筒、懐中電灯《かいちゅうでんとう》、ラジオ、ライター、ロープ、十徳ナイフ、絆創膏《ばんそうこう》と鎮痛剤《ちんつうざい》、タオル、手袋、予備のシャツ――もちろん、片腕の〈フルアクション・キャプテン〉も忘れちゃいけない。
食料は定番のチョコバーに……ビスケットは少しかさばるのでどうしようかと思ったけど、
「知ってるかい、ビリー。『ビスケット』っていうのは元々『二度焼き』っていう意味なんだ。旅に出るときに持っていくパンを、日持ちがするように固く焼締《やきし》めたのがそもそもの始まりなんだよ」
ここはパパの意見を採用だ。
それから――
ビリーは胸の高鳴りを抑えながら、ずしりと重い、巨大な銀色のリボルバーを手に取った。
R&VM92E・五〇口径エンチャントマグナム。|吸血鬼狩り《ヴァンパイアハント》専用の大型|拳銃《けんじゅう》。弾丸も、ミスリル弾が一パックある。
パパの机から、持ってきた。
だって、今は非常事態だし、パパが帰るのが遅れたら、僕がママを守るんだから。
ビリーは装備をもう一度最初から点検した。
――しまった、懐中電灯《かいちゅうでんとう》の電池が切れてる。ラジオもだ! これはいざというときに命取りになるかもしれないぞ。なんだか外《そと》が騒《さわ》がしくなってきたけど……まだお店はやってるかな?
ビリーはEマグをズボンにねじ込み、そっと玄関を抜け出した。
ママは昨日から具合が悪い。今も部屋で寝ている。
今は非常事態だけど、パパが来るまで寝かせておいてあげよう。
街路はアルファに誘導《ゆうどう》される人の流れで埋まっている。電車も自動車も、すでに動いていない。
クリスは常人には視認不可能な速度で、疾風のように人込みの中をすり抜けていく。
『あら、主任さん!』
直径三センチほどの光弾が、クリスのあとをついてきた。アルファの分身の一体だ。
「もう『主任さん』じゃない」と、クリスは言った。
『――では、なんとお呼びしましょう?』と、アルファは言った。『〈クリストファー・ジョーンズ〉さん? 〈ウィリアム・龍《ロン》〉さん? 〈アーヴィング・ナイトウォーカー少佐〉? それとも〈ロング・ファング〉?』
「好きにしてくれ――たいして意味はない」
『まあ……どうしましょう』と、アルファは言った。『うーん、ええと、ええと……』
クリスはすでに過去の記憶《きおく》を取り戻していた。先の戦闘《せんとう》で半壊《はんかい》した脳が再生する際、彼の「相棒」――脳内に常駐《じょうちゅう》する人造霊《オートマトン》〈マクスウェル〉は、自身がブロックし、バックアップしていた記憶を解放したのだ。
自分が誰《だれ》であるか、自分が何であるかを、彼はすでに知っている。
永劫《えいごう》の夜を往《ゆ》き、あまたの名を持つ吸血鬼《ヴァンパイア》。だが、真の名は一つもない。生ける死者たる吸血鬼《ヴァンパイア》は、その名を刻印されるべき魂を持たないのだ。
「……この避難《ひなん》を仕切ってるのは、上層《うえ》の連中じゃないな。――機甲折伏隊《ガンボーズ》か?」と、クリスは言った。
『ええ』
「『今からそちらに行く』と、連中に伝えてくれ。取り引きがしたい」
『判《わか》りました。ええと……』
「〈龍《ロン》〉だ。龍《ロン》が行くと伝えてくれ」
辺境絡みでは、それが一番通りがいい。
『はい!』と言って、アルファは高度を上げ、飛んでいった。
クリスは――今はクリスと名乗っている吸血鬼《ヴァンパイア》は――常に、その時々で都合のいい名前を用いてきた。そのすべてが、虚《うつ》ろな魂を覆《おお》う中空の仮面――ただ便宜のために用いられる記号だ。
〈クリストファー・ジョーンズ〉もまた然《しか》り。
クリスは今、昨日までの日常が、すべてまやかしだったことを知っている。
しかし、まだ自分には守るものがある。
妻と息子――彼の正体を知ったのちも、彼女らが自分を受け入れるとは限らない。いや、むしろ安全を確保し次第、自分から身を引くべきだろう。
重要なのは、自分には守るべきものがあるということだ。
自分の中に、なにかを守りたいという気持ちがあるということだ。
だが――
その気持ちすらもまやかしだということを、彼は知っている。
記憶《きおく》を封じての「ままごと」も、異常な事態から家族を救おうと走ることも、永劫《えいごう》を生きる不死者《ノスフェラトゥ》が、ほんのひと時、無聊《ぶりょう》を慰めるために行うゲームにすぎない……。
クリスは頭を振って、自らの心の声を打ち消した。そして、精神を背後からつかみ取ろうとする虚無の手を振り切ろうとするように、さらに足を速めた。
自宅への道のりの最中、何度か吸血鬼|騒《さわ》ぎの物音を聞いたが、クリスはそれらを無視して先を急いだ。自分は市民を救うヒーローではない。ただ己《おの》が欲望のために走る、一匹の魔物《まもの》だ。
ふた駅の距離を数分で走破し、クリスは自宅のビルの前に立った。エレベーターを待つ時間さえ惜しい。壁面《へきめん》に指を掛け、地上二〇階までを飛ぶように登る。
ガラス戸を破ってリヴィングに入り、クリスはナオミとビリーの名を呼んだ。
応《こた》えはない。
クリスは寝室に向かった。吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の装備品を、半ば無意識のうちに溜《た》め込んである。丸腰よりはだいぶましだろう。
音を立ててドアを開け、暗い部屋の中に入り、クローゼットを開けて――
「クリス…?」と、ナオミの声がした。
ベッドから半身を起こして、ナオミがこちらを見ていた。
「ナオミ……いたのか」
クリスは慌てて視線を逸《そ》らした。望むと望まざるとに拘《かかわ》らず、赤《あか》い瞳《ひとみ》は人間の自由意志を奪い、吸血鬼《ヴァンパイア》の奴隷《どれい》にしてしまう。
「おどかしてすまない」
「どうしたの、その格好?」
クリスはオーブンから出たままの、黒焦げの作業着を着ていた。
「…大丈夫、なんでもないよ」昔から、この手の嘘《うそ》は苦手だ。
クリスは視線を隠すために、引き出しから出したサングラスを掛けた。それから、焦げた作業着が多少なりとも隠れるように、クローゼットから出した赤いジャケットを羽織《はお》った。
「出発の準備を――」
と言いながら銃器の類《たぐい》をチェックするクリスの横顔を見て、
「クリス? その歯……」と、ナオミは言った。
クリスの犬歯は長い牙《きば》になっていた。
それだけではない。サングラスと、赤いジャケットと――
ナオミはベッドから起き、クリスの正面に立った。
クリスの青白い頬《ほお》に手を添え、乱れた髪を直しながら、なにかを思い出そうとした。
遠い記憶《きおく》の彼方《かなた》に、なにかとても大事なことを置き忘れている気がする。
「クリス……いいえ………」
極度に安定を欠いた精神が、今、封印されていた記憶を蘇《よみがえ》らせた。
「そうだわ…………ビリー! ビリー・龍《ロン》!」
不意に涙がぽろぽろとこぼれ出した。ナオミはクリスの胸に抱きついた。
「なんで気がつかなかったんだろう! なんで忘れちゃってたんだろう! もう行かないで! ずっといて、お願い、ビリー!」
「ナオミ……」
胸の中で泣きじゃくるナオミを感じるうち、クリスの胸の中に、一つの強烈な衝動《しょうどう》が沸き上がった。愛であり、欲望であり、破壊的《はかいてき》欲求でもあるもの――すなわち、吸血衝動。
ナオミを抱く手が、激しい葛藤《かっとう》に硬直した。
涙に濡《ぬ》れた顔を上げて、ナオミが微笑《ほほえ》んだ。
「ねえ、ビリー――」
クリスのサングラスを取り上げ、赤い瞳を正面に見ながら、ナオミは言った。
「私の首に、キスして」
最寄りのドラッグストアは開いていたが、店員はすでに避難《ひなん》したあとだった。棚の半分ほどは行きずりの万引きに荒されていたが、望みのサイズの電池を見つけることができた。商品を取り、無人のレジに代金を置いて、ビリーは店をあとにした。
家に帰ると、なにか妙な気配がした。
「ママ…?」小声で言ってみたが、返事はない。
――自分が留守にした間に、なにか魔物《まもの》の侵入を許してしまったのだろうか?
Eマグを両手で持ち、壁《かべ》に背を着いて、ビリーはそろそろと廊下を進んだ。
リヴィングの窓が破られ、カーテンがゆらゆらと揺れていた。ビリーは息を呑《の》み、Eマグのグリップを握り締《し》めた。
両親の寝室から、物音がした。
ドアの横に立ち、呼吸を整えていると、ベッドの軋《きし》む音と、呻《うめ》くような母の声が聞こえた。
「ビリー……ビリー」
――ママがなにかに襲《おそ》われてる!? ……僕の助けを呼んでる!
ビリーは大きく息を吸った。自分の中にある英雄の魂を全力で奮《ふる》い立たせ、膨《ふく》れ上がる恐怖を押さえ込んだ。
そして、ビリーはドアを開けて、部屋の中に飛び込んだ。
暗い部屋の中に、白く蠢《うごめ》くものがあった。
荒い息、すすり泣くような呻きと共に、
「いいわ――素敵よ、ビリー」と、母の声がした。
ビリーがその光景を認識するまでに、数秒の時間が掛かった。
一糸まとわぬ姿の父と母が、血と汗にまみれながら絡み合っている。
奇怪な生き物のように、その体が踊っている。
腕、腿《もも》、首筋――幾つもの箇所で、母の肉は削《そ》げ、鮮血《せんけつ》を噴《ふ》き出している。
母は生きながら喰《く》われていた。
喰われながら犯されていた。
犯されながら笑っていた。
笑いながら父の首に腕を回し、涎《よだれ》を垂らしながら舌を絡めた。
父の口元にも、母の口元にも、白く長い牙《きば》が伸びていた。
立ち尽くすビリーに、ナオミが気づいた。
「あら…見てたの」と言い、ナオミはくすくすと笑った。「悪い子ね」
「マ……ママを離せ!!」
ビリーはEマグを構え、クリスの額《ひたい》に照準した。
「――悪い吸血鬼《ヴァンパイア》め! 悪い吸血鬼《ヴァンパイア》め!」
「おや……ママを取られて怒ったのかい?」と、クリスが言った。
「しょうがない子ね」
欲情した赤い瞳《ひとみ》がビリーを捉《とら》え、上気した笑みに白い牙《きば》が覗《のぞ》いた。ナオミは妖《あや》しく微笑《ほほえ》みながら、ビリーに向けて脚を開いた。
「ママの中に入りたいの? ママの中に帰りたいの? あはははは! いいわ、いらっしゃい、私の坊や!」
ビニール製の十字架が、ぼとりと床に落ちた。丸みを帯びたその下端が、しゅうしゅうと煙を立てながら、芋虫のようにうねった。
「う――」
ビリーの心が空白になった。
「うわあああ!」
泣き叫びながら、引き金を引いた。
ナオミの頭部が、飛散する血しぶきとなって消滅した。
「ハハハ! いいぞ、ビリー! ビリーJ!!」
クリスが狂ったように笑いながらベッドを飛び出し、ビリーの眼《め》の前に立った。
「おまえの黄金時代はたった今終わりを告げた! おまえの放った初めての弾丸はおまえの母親を貫いた! 見ろ――人の生は、人としての生は、儚《はかな》く、もろく、移ろいやすい。一瞬《いっしゅん》のうちに幸福は冷め、愛情は揮発する。一瞬にして人は生まれ、一瞬のうちに老いて死ぬ。すべては幻だ! だが、俺《おれ》がおまえの人生に意味を与えてやろう!! 眠ることなく吸血鬼《ヴァンパイア》を追い、怯《ひる》むことなく殺せ! 母を奪ったこの男を、地の果てまでも追いかけろ! 復讐《ふくしゅう》はおまえの存在を燃焼させ、その熱をもってなお、タールと化した憎悪は気化することがない。おまえは母殺しの殺し屋、煮えたぎる虚無を胸の奥底に氷結させた、怪物を狩る怪物だ。そうとも――」
薄《うす》れゆく意識の中で、ビリーにはクリスが笑ったように見えた。気のせいだろうか――それは穏《おだ》やかで温かい、ビリーの知っているクリスの笑顔だった。
「――おまえはパパの生きがいさ」と、クリスは言った。
ビリーJは夢を見ていた。
初めて本物のEマグを見た時――
ビリーが眼を丸くして、
「すごいや! ……これ、誰《だれ》にもらったの!? どこで売ってるの!?」と言うと、
「おまえが大人になったら、譲《ゆず》ってあげるよ」と言って、クリスは笑った。
――気がつくと、ビリーはなにか車の荷台のようなところに寝かされていた。
「よう、気がついたかい、坊主」
傍らに、小柄な男があぐらをかいていた。
「おいちゃんは李《リー》ってんだ。よろしくな」
ビリーは無言でうなずき、体を起こした。埃《ほこり》じみた毛布が掛けられていた。
「…親父さん[#「親父さん」に傍点]が、ほら、これを置いてったぜ。――ごつい鉄砲だな」
そう言って、小男――李《リー》は銀色に光るEマグを差し出した。
「……いらない」と、ビリーは言った。
「まあ、そう言うなって。坊主にゃまだごつすぎるっきゃしんねえけど、俺《おれ》と違って、これからでかくなンだからな、おまえさんは。――お、そうだ、伝言もあるぜ」
ビリーの懐《ふところ》にEマグを押し込みながら、李《リー》は言った。
「いずれそちらに行くので待ってろ、とさ」
「『そちら』……?」
「俺たちがこれから行くところさ」
「遠いところ…?」
「うんと遠いな」
「……うちに帰りたい」
李《リー》は、困ったように頭を掻《か》いた。
「今すぐには、ちいっと無理かな」
「…うん」ビリーはうなずいた。
ビリーには判《わか》っていた。今すぐにも、この先もずっと、それは無理なのだ。
Eマグを胸に抱き、ビリーは毛布の中に身を丸めた。
ビリーを機甲折伏隊《ガンボーズ》に預けたのち、クリスは再び市内に戻った。
クリスの提示した「ビリーを安全圏まで確実に運ぶこと」という要求に対する交換条件は「より多くの市民を市外へ脱出させること」――すなわち、市内の吸血鬼《ヴァンパイア》の掃討だ。
クリスは現在、対紫外線仕様のラバー製ボディスーツの上にホルスターを着け、抗不死ナイフ、サブマシンガン、各種マガジンを吊《つ》るしている。また、ショットガンで自ら吹き飛ばした左手首に、黒い電撃《でんげき》ナックルを装着している。その上に赤いジャケットを羽織《はお》り、仕上げにサングラスを掛けている。――吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の標準装備に近い姿だ。
市街の一画で悲鳴が巻き起こった。騒《さわ》ぎの中心に飛び込んだクリスは、手当たり次第に人を襲《おそ》う一体のブラッドジャケットを発見し、接近した。武装した吸血鬼《ヴァンパイア》――クリスに対し、ブラッドジャケットは反射的に発砲した。その射線をかいくぐり至近距離に至ったクリスは、人造吸血鬼の腹に電撃ナックルを打ち込んだ。ナックルから大電圧の制御信号パルスが発信され、その個体の指揮者をクリスに変更した。
く、く――と、クリスは笑った。
「眼《め》が覚めたか!? 思い出したか!? 貴様の主人が誰《だれ》なのか!! ――ついてこい!」
吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の輸送路《シューター》によって市内全域に人造吸血鬼をばらまき、手当たり次第に感染者を増やす――降魔局《こうまきょく》の取ったこの戦術に対し、クリスの取る手は、ばらまかれた人造吸血鬼を一体ずつ自分の手駒《てごま》にし、感染者を殲滅《せんめつ》する――というものだ。
くくく、と、クリスは笑った。こいつはなかなかよく出来たゲームだ。
ゲーム盤《ばん》はB層以下の都市全域。
得点源は市民の数――市外に出ればクリスのポイント、吸血鬼化すれば降魔局《こうまきょく》のポイント。
使える手駒は共に、吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の人造吸血鬼。初期配置においてはすべて降魔局側の駒だが、クリスは接触した駒を自分のものにできる。
正式に運用された場合の吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》に比して――降魔局は部隊の中核となる統率者を欠き、一方クリスは降魔局の情報網や、配光板、霊走路《れいそうろ》網《もう》などの都市設備を利用することができない、と、それぞれに不利な点がある。
クリスと配下の人造吸血鬼は、一度に一エリアにしか出現できないが、現れたエリアの感染者を全滅させ、そこに配置された人造吸血鬼を己《おの》がものとできる。一方降魔局は、人造吸血鬼を個別に移動させ、各地に感染者を増やすことができる。
勝利の鍵《かぎ》は、クリスがいかに効率よく「駒」を回収できるかという点にある。言い換えるなら、降魔局がいかにクリスの出現地点を避《さ》けて「駒」を移動できるかという点にある。
あとは、互いの打つ手の読み合いだ――
――数十分ののちには、クリスは一〇体以上の人造吸血鬼を確保していた。
吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の人造吸血鬼は全二五体。相手側の「駒」が少なくなれば、相手の得点力も減るが、こちらが尻尾《しっぽ》をつかむ確率も減る。ここからが本番だ。
クリスは左拳《ひだりこぶし》を天に突き上げた。その手の甲に刻印された三角形の護符《ごふ》が発光し、空間に雷撃《らいげき》を放った。
「〈|雷石を投じ死に至らしめよ《ABRACADABRA》〉!!」と、不死の王は言った。
シュア、と人造吸血鬼が一斉に呼気を漏らした。
一瞬《いっしゅん》後《ご》、クリスとその配下の不死者《ノスフェラトゥ》たちは、目まぐるしくフォーメーションを展開し、赤と黒の乱気流となって市街を駈《か》け抜けていった。
一匹の魔物《まもの》が、昏《くら》い街を疾《はし》る。
魔物の名は『ブラッドジャケット』。風のように速く、水のように柔軟で、闇《やみ》のように無音。銃弾の牙《きば》を剥《む》いて吸血鬼《ヴァンパイア》を喰《く》らう、馳《は》せる血溜《ちだ》まり、不定形の怪物だ。
[#改丁]
『〈α〉は〈Ω〉』
11
[#改丁]
そのころ――機甲折伏隊《ガンボーズ》駐屯地《ちゅうとんち》では、慌ただしく出撃《しゅつげき》準備が整えられていた。
ヤコの声が、格納庫に響《ひび》いた。
「避難民《ひなんみん》が一定数集まり次第、第一陣を出立させる!」
「はッ!」
脱出行の先頭は、最も魔物《まもの》に遭遇する可能性が高い。最終チェックが急がれているのは、第一陣に参加する装甲車や自走砲――いずれも旧式の装備だが、今やなけなしの戦力だ。
忙しく立ち働く羅漢《らかん》たちを尻目《しりめ》に、グウは格納庫の隅に荷物のように転がり、いびきをかいている。
「ク、ク、ク」
V13を連れたスレイマンが、含み笑いを漏らし、ロッドで各種兵器を小突き、あちこちを覗《のぞ》き込むようにしながら庫内を闊歩《かっぽ》している。その姿を見とがめたヤコが、
「今は休んでおけ。いずれおまえにも働いてもらう」と言うと、
「ハ、嫌だね」と、スレイマンは言った。
「なに…!?」
「ク、ク……聞こえなかったか? ――じゃあよく聞こえるようにしてやろう!!」
ロッドが伸長し、真横に打ち振られた。
「ひゃっ!!」V13が頭を押さえながらしゃがみ、それを避《さ》けた。
ロッドから呪弾《じゅだん》が放たれ、榴弾《りゅうだん》のラックに飛び込み、爆発《ばくはつ》を引き起こした。搬入作業をしていた数名の機甲|羅漢《らかん》が声を上げる間もなく吹き飛んだ。灼《や》けた破片が四方に飛び、次々と誘爆を引き起こした。轟音《ごうおん》が庫内を振動させ、爆圧が壁《かべ》の一部を吹き飛ばした。
「なッ――!?」
爆風にあおられたヤコが、受け身を取りながらスレイマンを見上げた。
「バカが! この俺《おれ》が正義の味方だとでも思ったか!!」
「キャハハ、バーカ、バァーカ!!」と、V13が叫んだ。
「アルファに協力していたのではなかったのか…!?」
「ハ、プロジェクトとやらにわけも判《わか》らず殺される連中なんざ、殺しても面白くねえからな。せいぜい上層《うえ》の奴《やつ》らの予定を掻《か》き回してやるつもりだったが――」
スレイマンは炎を上げる装甲車の屋根に飛び乗り、呪弾を乱射。さらに爆発を巻き起こした。
「貴様らは殺しがいがありそうだ! そら、抵抗しろハゲ共!!」
爆音を聞きつけ、格納庫の入り口から、装甲倍力|袈裟《けさ》を着用した三名の機甲羅漢が飛び込んできた。
ヤコはスレイマンを指し、
「撃《う》て!」と命じた。
機甲羅漢は素早く種字機関砲を構え、斉射した。
「ッハァ!!」
スレイマンの左肘《ひだりひじ》の先で、加速された〈栄光の手〉が鞭《むち》のように踊った。種字弾の嵐《あらし》は残らず弾《はじ》かれ、跳弾が新たな爆発を呼んだ。次いで、右腕のロッドが〈死の卵〉を射出した。装甲の隙間《すきま》に〈卵〉を撃ち込まれ、羅漢の一人が痙攣《けいれん》を始めた。
と――
身を折って痙攣する羅漢の肩がつかまれ、無理矢理に引き起こされた。次いで、腹部の装甲面に掌底が叩《たた》き込まれ、そこから放たれた爆発的な気が、体内を駈《か》け巡る死の呪文を、羅漢の意識と共に吹き飛ばした。
失神した羅漢を足元に放りながら、掌底の主が一歩進み出た。額《ひたい》に大きな×印を記した、坊主頭の巨漢――グウだ。
「ずいぶんと、騒《さわ》がしいな」
グウの横で爆発が起こり、拳大《こぶしだい》の破片がその顔に飛んだ。グウは燃える破片を手の甲で弾きながら、
「おちおち寝ておれん」と言った。
「あァ? じゃあこれ喰《く》らって寝てろ」
スレイマンはロッドをグウに向け、〈卵〉を射出した。
「む…!」
グウは胸の前で合掌した。強大な気を孕《はら》んだ両の掌《てのひら》にプレスされた〈卵〉が音を立てて弾《はじ》け、飛び出した死の呪文《じゅもん》もまた、一瞬《いっしゅん》にして分解した。
次いで、グウは腰を落とし、大きく足を踏み締《し》めた。放気釦《ほうきこう》からアルコールが排出され、爆炎《ばくえん》に引火し、グウの体が炎に包まれた。さらに、グウが全身から発した気によって、その炎が吹き散らされた。そして――
ドン――!
隻手音声《せきしゅおんじょう》によって放たれた超高圧の気の塊が、スレイマンに向かって飛んだ。
「きあっ!?」気の爆圧に、V13が耳を押さえた。
「クッ――!?」
受け止めようとした〈栄光の手〉が、気の圧力によって消し飛んだ。気の塊はそのまま直進し、スレイマンの胸を打った。体内を走る呪力の回路を断ち切られ、スレイマンの肉体の全機能が一瞬にして停止した。
装甲車から転げ落ちたスレイマンの体に、V13が駈《か》け寄った。
「ひああ! スレイマン!」
「どれ、殺しはせなんだつもりだが……」
一升瓶を片手に歩み寄ったグウが、スレイマンの脇《わき》にしゃがみ、その胸に掌を当てた。
「む…?」
グウはさらに、スレイマンの頬《ほお》と頸動脈《けいどうみゃく》を触った。その青黒い肌は冷たく、脈もない。
「はて、こやつ……とうに死んでおる」
「きあああああ!! スレイマン! スレイマン!」
V13はスレイマンの胸にしがみつき、激しく揺さぶった。
スレイマンの唇から、かすかな呟《つぶや》きが漏れた。
「……こ・の・ハ・ゲ…」
突然、スレイマンの死した右腕が持ち上がり、ロッドが激しい唸《うな》りを発した。
次いで、ロッドの発した呪文が、空中に複雑な霊的《れいてき》構造物を造り出した。
〈栄光の手〉のように、高密度の霊気で構成され青白い炎を噴き上げる、人体の神経樹《しんけいじゅ》のイミテーション。スレイマンの全霊力を込めた、「炎の肉体」だ。
〈炎の男〉は、激しく燃え盛りながらグウを見下ろし、
『くそハゲェ……絶対ェ殺す! てめえもくそ共も皆殺しだ!!』
と叫び、次の瞬間、その身を一条の呪弾と化して、炎と黒煙を噴き散らし、格納庫の壁《かべ》を撃《う》ち抜いて飛び出していった。
「なるほど……〈悪霊《あくりょう》〉の真骨頂か」とグウは呟き、
「きあああ! スレイマン! 行っちゃやだ、置いてっちゃやだぁ!!」と、V13が叫んだ。
そして――
庫内での消火作業がおおむね済むと、ヤコは格納庫|外壁《がいへき》の壁際《かべぎわ》に寝転がるグウの前に立ち、合掌した。
「あのような物《もの》の怪《け》に対し油断するとは……不覚でした」
グウは壁《かべ》にもたれながら上体を起こした。
「人であり、人でなく、人を害するもの……あれは、俺《おれ》の仲間だよ」
「は…」
「奴《やつ》め、じきに戻ってくるだろう。手負いゆえ、もはや不意打ちも利かん。俺たちは、大変なものに祟《たた》られたな」
思わず緊張《きんちょう》するヤコに、グウは一升瓶を口に運びながら、
「おお、怖い、怖い。寒けがするぞ」
と言い、ヤコを見上げて、岩のように笑った。
「ヤコよ……なんぞ、着るものはないか?」
「は…?」
怪訝《けげん》な顔をしたヤコが、やがて、こぼれるような笑みを浮かべた。
そして、
「倍力袈裟《けさ》の用意があります」と、ヤコは言った。
都市の外壁に穿《うが》たれたトンネルから、ぞろぞろと人の群れが這《は》い出してきた。各々《おのおの》に、まぶしそうに空を見上げ、地平線まで広がる荒野を見渡す。空も大地も初めて眼《め》にするという人々だ。
トンネルの出口に溜《た》まる人々が、機甲|羅漢《らかん》に誘導《ゆうどう》され、外壁から離れていく。未《いま》だ都市の結界機能の圏内だが、人々の顔には極度の不安が見て取れる。彼らは今、生まれて初めて、都市を離れ、自ら外界に対峙《たいじ》しているのだ。彼らがパニックを起こさずに済んでいるのは、アルファの声に含まれる言霊《ことだま》に半ば自由意志を眠らされているからだ。
一方、トンネルの中では――
局所的に発生する吸血鬼禍は、クリスの働きによって一定規模以下に押さえられている。
『押し合わず、落ち着いて、ゆっくりとまいりましょう!』
アルファの声に導《みちび》かれ、通りを行く人の群れに、最下層の瘴気《しょうき》や怨霊《おんりょう》も押し退《の》けられていく。この行進自体が、魔《ま》を祓《はら》う祭のパレードだ。
外界へと向かう人の流れが確定すると、アルファ――数万に分かれたアルファの一体は誘導をやめ、高度を上げ速度を増し、集合場所であるトンネルの出口に向かった。できればトラブルに備えずっと監視《かんし》していたいところだが、アルファはこれから、全霊《ぜんれい》をもって〈アザナエル〉を起動しなければならない。
と――
飛行するアルファの霊体《れいたい》を、青白い炎を上げる霊気の掌《てのひら》が捉《とら》えた。
『あら……スレイマン?』
『ハ』
アルファをその手に捉えた〈炎の男〉は言った。
『貴様、俺《おれ》が必要だと言ったな。……今でもそう言えるか?』
燃える掌にじりじりと焼かれながら、
『ええ、もちろん!』とアルファは言った。
『ク、ク――よし!』
〈炎の男〉は大きく口を開き、アルファの霊体を呑《の》み込んだ。それから、自らの霊体を結界に包み、圧縮《あっしゅく》した。ピンポン玉大にまで収縮し〈卵〉と化した結界が音を立てて弾《はじ》け、回転する霊体が飛び出した。〈コードα〉の霊体と寸分《すんぶん》違《たが》わぬ形状だが、金色の光の代わりに青白い霊炎をまとっている。
一方、最下層市街の上空に、上層から通気孔を伝って降りトンネルへと向かう、流れるような光弾の群れが生じ始めていた。
霊体は回転数を上げ、自らも青白く尾を引く光弾と化すと、金色の光の流れに身を投じた。
装甲車、自走砲、装甲倍力|袈裟《けさ》――焼け跡の中から掻《か》き集めた戦力が、今、トンネルの外に集合しつつあった。
そこに、避難民《ひなんみん》を吐き出すトンネルの口から、最初はちらほらと、やがて群れ飛ぶ羽虫のように、一群の光弾が現れた。光弾――分裂したアルファの群れは、直径一〇メートルの光球となって数秒間トンネルの上空に滞空したかと思うと、結界を生成しつつ、急速に収縮した。
バン、と音を立てて結界が破裂し、空中にはただ一体、まばゆく輝《かがや》く直径三センチの霊体が残った。霊体は地上に降下し、抜け出した時のままの位置に立つ少女の体の前に滞空した。少女の上半身がシュッと音を立てて割れ、霊体を収納すると、再び音を立てて閉じた。
少女――アルファの前に立ったヤコが、一台の輸送車を指して言った。
「〈アザナエル〉はあれに――」
アルファはその言葉が終わらぬうちに、ヤコの指す反対の方向に駈《か》けだした。
「どこへ――!?」
ヤコの問いに振り返りながら、
「忘れ物を取りに!」と、アルファは言った。
次いで、アルファは高く跳躍《ちょうやく》すると、空中で体を丸め、発光、回転。甲高い唸《うな》りを発し、不規則な光跡を描きながら、駐屯地《ちゅうとんち》の方角に向かって飛んでいった。
そのころ、駐屯地の片隅では――
屍体袋《したいぶくろ》に入れられ厳重《げんじゅう》に封印されたスレイマンの体に寄り添って座り込み、V13は放心していた。
第二陣以降の出立の準備が、遠くで忙しく行われている。その光景には妙に現実感がなく、ひょっとしてあたしはもう死んでいて、あの世からこの景色を眺めているんじゃないかしら、などとV13は思った。
もはや誰《だれ》にも必要とされず、かといってことさらに疎まれることもなく、自分はすでにいないもの[#「いないもの」に傍点]として扱われている。屍体袋《したいぶくろ》の中の、スレイマンの肉体と同じだ。それじゃあ――スレイマンの胸の辺りに頬《ほお》を当て、分厚い強化ビニールの匂《にお》いと肌触りを感じながら――あたしもいっしょに袋に入れてもらうんだった、と、V13は思った。
そこに――
かすかな甲高い音を立てながら、青い空に不規則な光の軌跡を描いて、光の点が飛んできた。かと思うと、空間を切り裂くような音と爆風《ばくふう》にも似たつむじ風を伴い、直径一・五メートルほどの光弾が、一瞬《いっしゅん》のうちにV13の眼《め》の前に現れた。
光弾は二メートルほどの高さに滞空し、その回転と光度をゆるめ、少女の姿になってV13の前に降り立った。
「アルファ――?」
アルファはにっこりと笑って屍体袋に歩み寄り、固く呪《まじな》いの掛けられた封印を無造作に引き剥《は》がし始めた。
「やだ、なにするの!?」
と言って、V13がアルファの腕にしがみついた。
アルファは構わず袋を完全に開いてしまうと、露出《ろしゅつ》したスレイマンの腕から、ブースターロッドを取り外し始めた。
「やだ、取っちゃやだ!」とV13が叫んだ。
アルファは自分の右腕にロッドをセットしながら立ち上がり、二度ほどその伸長と圧縮《あっしゅく》をテストした。そして、伸長したロッドをスレイマンの肉体に向けると、燃焼|呪文《じゅもん》を撃《う》ち込み跡形もなく焼却した。
「キャアア! スレイ――ギャフッ!?」
叫んだV13の頭に、ロッドが打ち当てられた。
「ハ」
と、アルファが言った。その顔に一瞬、傲慢《ごうまん》な嗤笑《ししょう》が浮かび、消えた。
ちろちろと残り火を燃やす屍体袋に背を向け、アルファはすたすたと歩きだした。そして、その背を呆然《ぼうぜん》と見送るV13を振り返り、花のように微笑《ほほえ》むと、
「では――まいりましょう!」と言った。
「あ…」
V13は眼を丸くし、それから、
「……うん!」
と言い、アルファのあとを追って、跳ねるように駈《か》けだした。
「出発!」
ヤコの号令と共に、各車両がゆっくりと動きだした。
そのあとに、のろのろと、しかし、人の群れがもつ独特の圧力をもって、数万の避難民《ひなんみん》が続いた。遠目には、その光景は岩塊を押し流す大河の流れのように見える。
武装した車両を中心にした先頭集団は、避難民の群れから間を取って、一〇〇メートル余りを先行している。理由の一つはこの位置がもっとも魔物《まもの》に襲《おそ》われやすいことであり、そしてもう一つの理由は、「チビの李《リー》」が運転する一台の輸送車にある。
輸送車の助手席にはぼんやりと外を眺めるビリーがいる。そして……荷台にはロープに固定された〈アザナエル〉が積まれている。
〈アザナエル〉の前には、一人の巨漢があぐらをかいている。額《ひたい》に×印の男――グウだ。一升瓶を傍らに、手酌で酒を呑《の》んでいる。〈悪霊《あくりょう》〉スレイマンはおそらく、脱出行の要となる〈アザナエル〉を狙《ねら》ってくる。その時のために、グウはここに控えている。
「グウさん、似合うなそれ! カッコいいぜ」と、荷台を振り返りながら、李《リー》が言った。
「そうか」と、グウは言い、ぐい呑みを傾けた。
グウが身に着けているのは、装甲倍力|袈裟《けさ》〈阿修羅《アスラ》〉。背部から伸びた二本の補助腕と、法輪に似た形をした光背ジェネレータが特徴だ。傍らには長大な種字機関砲を置いている。
やがて――
空を切り裂くような音を立て、駐屯地《ちゅうとんち》の方角から金色の光弾――アルファが飛んできた。
一行の先頭の指揮車の屋根に立ったヤコが、アルファに向かって手を振り、〈アザナエル〉の輸送車を指した。
アルファは了解の意を示すように滞空し、そして――飛行形態のまま、眼下の人の群れに飛び込んだ。光弾は密集した人の群れを舐《な》めるように地を這《は》い、悲鳴と血煙を空高く巻き上げた。
「なんだァ!?」運転席から身を乗り出して後方を見ながら、李《リー》が叫んだ。
「……来たか」と、グウが呟《つぶや》いた。
「グウさん――!?」
李《リー》はグウの表情に戦慄《せんりつ》を覚え、息を呑んだ。長いつきあいの中で、初めて見る表情であった。
グウは笑っていた。
それは、修羅《しゅら》の笑みであった。
血肉を巻き上げながら上昇した光弾が、大きな音を立てて輸送車の荷台の屋根に打ち当たった。飛行姿勢を解き、両足と左手を着いて着地したアルファの横に、V13が尻餅《しりもち》をついた。さらに一拍遅れて、その周囲にアルファの巻き上げた血肉が、豪雨のように降り注いだ。
「ッハァ!!」
血の雨を浴びるアルファが、スレイマンの声で嗤《わら》った。その顔に、悪鬼の笑みが浮かんだ。次いで、その体型が大きく変わった。長身で筋肉質、豊かな乳房とくびれた腰を持ちながらなお、男性的な印象をも持つ、両性具有的な体型。ボディスーツはその色を輝《かがや》く純白から闇《やみ》のような黒に変え、発光する複雑な呪紋《じゅもん》を全身に浮かび上がらせた。皮膚《ひふ》の色は青黒く変わり、瞳孔《どうこう》のない左眼《ひだりめ》が青く光を放った。
「アルファ!? ――いや」
ヤコが自動小銃を構えた。
「何者か!?」
青黒い顔が、花のように微笑《ほほえ》んだ。
それはすでにアルファではない。
アルファであり、スレイマンであり、そのどちらでもない。
また、〈コードα〉であり、〈コードΩ〉であり、そのどちらでもある。
〈α〉であり、〈Ω〉であるもの――〈α=Ω〉は、微笑みながら右腕のロッドを振りかぶり、呪弾を発射しながら打ち振った。
一発一発が戦車砲に匹敵する威力を持つ超高出力の呪弾が、ひと息に三発、人の群れの中に撃《う》ち込まれ、土煙とちぎれた人体を高く舞い上げた。
花のような微笑みが、転瞬《てんしゅん》、悪鬼の笑みに変わった。
「ク、ク、ク………くッ・そッ・坊ォォ――主!!」
地平線まで響《ひび》こうかという大音声で、〈α=Ω〉は叫んだ。
「約束通り来てやったぜ! 皆殺しのお時間だァ!!」
その時――
荷台の屋根を突き破り、数百の種字弾が〈α=Ω〉を足下《そっか》から襲《おそ》った。
機関砲を天井に撃ち放ったグウに向かって、
「うわぁ、無茶すんなよグウさん!!」と、李《リー》が叫んだ。
グウはにやりと笑いながら酒を口に含み、右手と補助腕が支える機関砲の六連銃身に吹きつけた。加熱した銃身の表面で、じゅっと音を立てて酒が蒸発した。
「|フン[#「口+享」]《フン》!!」
グウはさらに、全身の気を床に打ち当て、あぐらをかいたまま跳躍《ちょうやく》。穴だらけの天井を突き破り、屋根の上に飛び出した。
足元をすくわれた〈α=Ω〉が屋根から転げ落ち、
「キャアア!」と叫びながら、V13がボンネットの上に転げ落ちた。
「くそッ!!」
〈α=Ω〉は落下しながら体を丸め回転。地表でスピンし、土煙を巻き込みながら急上昇。そして、地上五〇メートルの位置で飛行姿勢を解き、頭から落下しながらロッドを構え、呪弾《じゅだん》を圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》圧唱《クライ》。
「哈《ハ》ッ!!」
グウが気合いを込めると、倍力|袈裟《けさ》の漆黒の装甲面に金色の気焔《きえん》が疾《はし》り、〈α=Ω〉の呪弾を残らず弾《はじ》き飛ばした。
「よう来た、〈悪霊《あくりょう》〉」
落下する〈α=Ω〉に向かって、グウが笑った。
修羅《しゅら》の笑みだ。
「――骨も身も、もろともに喰《く》ろうてやろう」
「ちッ」
〈α=Ω〉は垂直に落下しつつ再び飛行形態を取り、地表すれすれから直角に加速。急激にホップしながら避難民《ひなんみん》の群れへと飛んだ。そして、高空で飛行姿勢を解き、浮遊呪文を唱えて滞空すると、パニックを起こし右往左往するバクテリアのような人の群れを見下ろし、両脚の間にロッドを構え、〈死の卵〉を直下に撃《う》ち込んだ。
「ハ、こんだけ密集してりゃ――!!」
潜伏《せんぷく》時間を「ゼロ」に設定した増殖性の死の呪文によって、眼下の人の群れが、〈卵〉を撃ち込まれた一点から同心円状に、血肉をまき散らし爆裂《ばくれつ》し爆裂し爆裂し爆裂し爆裂した。
「む…いかん」
グウは輸送車から飛び降り、駈《か》けだした。
ドドドドドン――!
隻手音声《せきしゅおんじょう》と同様のプロセスにより体内で圧縮《あっしゅく》された超高圧の気を、大地を蹴《け》る左右の足の裏から交互に放ち、その反発力によって自らの肉体を推進する技術――「韋駄天足《いだてんそく》」。グウは一〇〇メートルを一瞬《いっしゅん》にして駈け抜け、「|フン[#「口+享」]《フン》!!」高く高く跳躍《ちょうやく》した。
一方、空中で〈α=Ω〉が両手をひと振りすると、すべての指の間に〈金の卵〉が現れた。足下の「死の円」の中はすでに、空間が歪《ゆが》むほどの怨霊《おんりょう》に満ちている。あと数世代の増殖で、八体のジブリールを起動するのに充分な贄《にえ》が得られる――
だがその瞬間、血の海と化した円の中心に、グウが飛び込んだ。光背ジェネレータを激しく発光・回転させながら空中で合掌し、迫撃《はくげき》砲弾のように山高い放物線を描きながら地表に衝突《しょうとつ》。同時に両足から大地に放たれた気によって、血の海が一気に蒸発し、一千の怨霊が名号を唱えながら成仏した。
「くそッ!!」
両手にジブリールの〈卵〉を構えたまま、〈α=Ω〉の上半身が二つに割れた。露出《ろしゅつ》した霊体《れいたい》が、巨大な青白い炎を噴《ふ》き上げながら高速回転。〈α=Ω〉は自ら発生させた爆発的霊圧の中に八つの〈卵〉を放り出し、ジブリールを起動させた。
[#ここから1字下げ]
スレイマンは偉大なり!!
スレイマンのほかにスレイマンなし!!
ジブリールはスレイマンの下僕なり!!
[#ここで字下げ終わり]
高圧の霊気《れいき》を巻き込んで実体化した八体のジブリールが、〈α=Ω〉を取り囲むように滞空し、声を揃《そろ》えて、
『なんなりと命令を!』と言った。
上半身を閉じながら、〈α=Ω〉は三本の指を立てた。
「願いは三つ! 『あのハゲを殺せ!』、『くそ共を殺せ!』、そして『手当たり次第にぶち殺せ!』だ!!」
『スレイマンの意のままに!』
各々《おのおの》が持つ六〇〇の翼《つばさ》を広げ、地上に降下したジブリールは、避難民《ひなんみん》を巻き込み、巻き上げながらグウの体に打ち当たった。
「む…!」
八方から超高圧の霊気に押さえ込まれ、グウは体の自由を失った。身動きの取れぬグウにさらに圧力が掛かり、装甲がみしみしと音を立て始めた。
「哈《ハ》ッ!!」
倍力|袈裟《けさ》の装甲面に金色の梵字《ぼんじ》の文字列が浮かび上がった、超人的な精度で制御され投影された、グウの気だ。全身に浮かび上がった梵字はグウの意のままに、左から右へ高速でスクロール。相対的に祈祷車《きとうしゃ》効果が発生し、ジブリールを弾《はじ》き飛ばした。
「作麼生《そもさん》!」
と、グウは叫んだ。
「一切《いっさい》衆生《しゅじょう》悉《しつ》有《う》仏性《ぶっしょう》、魔神《まじん》に還《かえ》って仏性《ぶっしょう》有りや!?」
ジブリールの動きが止まった。魔神――論理によって指向性を与えられたエネルギー体が、グウの提示した超論理にトラップされたのだ。
次いで、グウは左右の手に同時に隻手音声《せきしゅおんじょう》を発生させながら、胸の前で打ち合わせた。
すなわち、「双手音声《そうしゅおんじょう》」。
ドォン――!!
二つの掌《てのひら》の間を中心に同心円状に広がる気の衝撃波《しょうげきは》が、八体のジブリールの論理構造を崩壊《ほうかい》させ、霊気を吹き散らし、成仏させた。
グウは頭を巡らし、〈α=Ω〉の姿を求めた。元々ジブリールは時間|稼《かせ》ぎに使うつもりだったのだろう。唸《うな》りを上げる光弾が、グウの直上を離れ、銃撃を受けながら再び車両群に向かっている。
「|フン[#「口+享」]《フン》!!」
グウは爆音《ばくおん》と共に跳躍《ちょうやく》し、群衆の頭上を飛び越えて着地、韋駄天足《いだてんそく》。重機関砲のような連続音を立てて光弾を追った。〈アザナエル〉と群衆、グウはその二つを同時に護《まも》らねばならない。
だが――〈α=Ω〉の狙《ねら》いは〈アザナエル〉ではなかった。ヤコの指揮車の上空で飛行姿勢を解いた〈α=Ω〉は体表面の呪紋《じゅもん》でライフル弾を弾《はじ》き、ヤコの隣《となり》に立つ羅漢《らかん》の頭部をロッドで叩《たた》き潰《つぶ》しながら、着地した。
ヤコは屋根の上に身を伏せながら叫んだ。
「撃《う》て!」
周囲の車両に搭載された機銃及び羅漢の持つ自動小銃が〈α=Ω〉を照準し、斉射した。
「ハ」
〈α=Ω〉が嗤《わら》った。同時に、全身を覆《おお》う呪紋が、その印形を変えた。
『呪詛《じゅそ》返し』――梵字《ぼんじ》を刻印された必殺の機銃弾及びライフル弾が、〈α=Ω〉の体表面に触れた途端に射線を逆行し、狙撃者《そげきしゃ》を残らず撃ち倒した。
ヤコは舌打ちしながら、腰に下げていた手榴弾《しゅりゅうだん》を手に取り、ピンに指を掛けた。が――〈α=Ω〉は素早くその手をもぎ離し、ヤコの身を引き起こしながら後ろ手にねじり上げた。手榴弾が足元に落ち、指揮車の揺れに合わせて転がった。
ドドドドドン――!
爆音と共に駈《か》けてきたグウが跳躍、李《リー》の輸送車の屋根に飛び乗り、〈α=Ω〉と対峙《たいじ》した。
グウの動きが、躊躇《ちゅうちょ》するかのように鈍った。
「ク、ク……どうしたハゲ、顔色が変わったぞ!」
〈α=Ω〉はヤコの服の襟元《えりもと》に指を掛け、一気に引き裂いた。ヤコの豊かな乳房と共に、下腹部の翳《かげ》りまでもがあらわにされた。
グウは一歩も動けずにいた。岩のような顔に、焦りの表情が表れていた。
〈α=Ω〉は身をよじるヤコの首に腕を回し、その身を引き寄せた。背に当たる乳房と共に、尻《しり》に硬いものが当たる感触があった。〈α=Ω〉の、男根だ。
息を呑《の》んだヤコの頬《ほお》を、長い舌がべろりと舐《な》めた。
「あんたはなかなかいい女だ……」
背後から体をまさぐりながら、〈α=Ω〉はヤコの耳元にささやいた。
「ママにするみたいにされたいか? それとも、ママがするみたいにされたいか?」
〈α=Ω〉の指が、ヤコの腿《もも》を割った。
「……ッ!」と、ヤコが声にならぬ悲鳴を上げた。
「ハ! アレックス・ナム――貴様のことも、この女のことも、なにもかも知っているぞ!!」
と叫びながら、〈α=Ω〉はグウの表情をうかがった。
「どうした、昔みたいにトチ狂ってみるか!? 自分の部下を皆殺しにしたときみたいに! 状況は似たようなもんだな!」
「…!?」
ヤコが身をよじり、〈α=Ω〉の顔を見た。〈α=Ω〉は悪鬼の笑みでそれに応《こた》えた。
「ハ、本人はご存じないか! 知らぬが仏ってか、え!? 奴《やつ》の一九年前の暴走――その原因は、お・ま・え・だ!! 奴め、死にかけたおまえに気を取られて、修羅《しゅら》のたずなを離しやがった。一五の小娘一人と一〇〇人の部下、都市の命運までも天秤《てんびん》に掛けやがったのさ!」
「…ッ!」
〈α=Ω〉はさらに、グウに向かって言った。
「ク、ク……うらやましいか、アレックス・ナム! 一九年間、自分のガキみてえな小娘の小便臭えアナに突っ込むのを想像してチンポこすってきたんだろう!? あァ!? 無理すんなチンポ勃《た》ってんぞ『ボクにもヤらせてェ〜ン』って頭下げてお願いしろよちゃんと判《わか》りやすいようにそのハゲ頭ピッカリ光らせてな!」
腰をヤコの尻《しり》にすりつけながら、〈α=Ω〉は右腕のロッドを伸長し、グウを指した。
「ク、ハァ――どうしたハゲ、気が乱れてるぞ? ……そんなことじゃあ、自慢の袈裟《けさ》も役立たずだな」
ロッドが唸《うな》り、呪弾《じゅだん》を連続発射した。
乱れ飛ぶ呪弾は、気の集中による強化のない装甲を紙細工のように破壊《はかい》し、機関砲を跳ね飛ばし、グウを裸同然にした。
超人的な精神の均衡《きんこう》による、気の制御。それこそがグウの力の源だ。そのグウが今、為《な》す術《すべ》もなく呪弾に撃《う》たれている。その事実は〈α=Ω〉の言葉をなによりも確実に裏づけていた。
ヤコは理解した。一九年前、アレックス・ナムを恐れさせ、敗走せしめたもの、そして今なお彼を縛《しば》っているものがなんであるのかを、今こそ理解した。
それは、自分を――ヤコを失うことへの恐《おそ》れだ。
――ならば、自分には、まだできることがある。
ヤコは体を這《は》い回る指を無視し、〈α=Ω〉に気取られぬように気息を整えた。
そして――
「哈《ハ》ッ!!」
体内で練り上げた気を、ヤコは爆発的《ばくはつてき》に放出した。〈α=Ω〉の体が跳ね飛ばされ、手すりに叩《たた》きつけられた。ヤコは素早く身を屈《かが》め、足元に転がる手榴弾《しゅりゅうだん》を手に取った。
「てめえ――!!」
ヤコは〈α=Ω〉の声を聞いていない。
ただ、こちらを見るグウのみを、まっすぐに見返している。
グウはヤコの意図を理解していた。
子供のように怯《おび》えた表情を浮かべ、ヤコに手を伸ばしていた。
それまで、ただ尊敬し、憧《あこが》れるのみであったアレックス・ナムを――
ヤコは今、とても愛《いと》おしいと思った。
ピンを抜いた手榴弾《しゅりゅうだん》を、ヤコは胸の前で、蓮《はす》のつぼみのようにささげ持った。
その顔に、菩薩《ぼさつ》の笑みが浮かんだ。
花のような笑みであった。
そして――
蓮が花開くように、ヤコの体が爆裂《ばくれつ》した。
爆風にあおられ、〈α=Ω〉が指揮車から転げ落ちた。
「ッ!! このアマ――!?」
〈α=Ω〉は地に手を突きながら上を見上げた。
その眼《め》の前に――
ずんと音を立てて、グウが着地した。
陽《ひ》の光を背負い、グウは笑っていた。
修羅《しゅら》の笑みであり、如来の笑みであった。
――失うことを恐れるのならば、なくしてしまえばよい。
それが、ヤコの答えであった。
爆発の瞬間《しゅんかん》、限りない喪失感と共に、グウの心は無となり、空となった。
そして、グウはすべてを失うと同時に、すべてを得た。
今や、その心を縛《しば》るものはなにもない。
グウはこの上なく自由であった。
「クッ!」
一気に一〇メートルを飛び退《すさ》りながら、〈α=Ω〉は呪弾《じゅだん》を連射した。
戦車の複合装甲をも貫く超高出力の呪弾が、グウの頭に、胸に、手足に着弾する。が――
グウは平然と笑っている。呪弾はグウの体の表面を戯《たわむ》れるように滑り、右腕を伝って掌《てのひら》の周囲に集まり、高速回転する光の数珠となった。そして、グウが胸の前に構えた右手を握ると、光の数珠は花火のように弾《はじ》け、空中に溶けた。
「……チッ!!」
〈α=Ω〉は高く跳躍《ちょうやく》し、飛行姿勢を取って、未《いま》だ騒乱《そうらん》状態にある群衆へ向かって飛んだ。
しかし――
「喝ッ!!」
グウが気合いを発すると、浮遊呪文が掻《か》き消され、〈α=Ω〉はつぶてに当たった鳥のように落下した。
「くそッ!」
落下しながら、〈α=Ω〉は人の群れに向かって何発もの〈死の卵〉を撃《う》ち放った。それらの内どの一つにも、生き残った人々を全滅させる力がある。
グウは大きく息を吸い、声を放った。
「|オ――――ム[#「口+奄」]《オ――――ム》!!」
グウの体を中心に、巨大な気の渦が発生した。周囲の雑霊《ざつれい》を呑《の》み込みながら回転するその渦に、〈死の卵〉は大きく軌道を歪《ゆが》められ、弧を描いて吸い込まれた。グウの体に接触した〈死の卵〉は気の圧力に耐えかねて爆《は》ぜ、そこに孕《はら》まれた死の呪文《じゅもん》も、分解し、蒸発した。
グウは〈α=Ω〉の落下地点に向けて歩み寄った。
その足取りの一歩一歩が、大地を揺るがす気を放っている。世界そのものを吸い込み、吐き出しているかのように、グウは凄《すさ》まじい量の気を呼吸している。「死」をも呑み込む気の奔流が、炎の龍《りゅう》のごとく、その体内を駈《か》け巡っている。そして、超統一状態にあるその精神は、あらゆる呪文を無効化する――今や彼は、この世に在りながら半ば現実世界の法則を超越した、悟りの怪物だ。
地表に受け身を取りながら、〈α=Ω〉は悪態をついた。
「く・そ・がァ……!」
〈α=Ω〉の力は今、グウの存在によってほぼ完全に封じられている。全身に結界呪紋を展開し、気の圧力に全力で耐えなければ、たちまち分解されてしまうだろう。
「〈悪霊《あくりょう》〉に問う」
グウは自ら巻き起こした気の嵐《あらし》の中に悠然と立ち、地に這《は》う〈α=Ω〉を見下ろした。
「その体の持ち主はどうした? 殺したか、喰《く》ろうたか」
「――いいえ」
グウを見上げる青黒い顔に、花のような微笑《ほほえ》みが浮かんだ。
「私はここにいます」
その答えを予想していたのか、グウは深くうなずき、
「……おまえは皆を救おうと言うたな。今でもそのつもりか」
「ええ、もちろん!」と、〈α=Ω〉は言った。
「おまえが殺した者たちもか」
〈α=Ω〉は突然、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「あの方たちを助けることはできませんでした。――でも、他にどうしたらよかったのか、私には判断できません」
〈α=Ω〉は手を胸の前に組み、
「どうしたら、どうしたら……」と、祈るように呟《つぶや》いた。
そして、パッと顔を上げると、両手をパンと打ち合わせ、
「俺《おれ》が知るか、バァーカ!」と言って、ゲラゲラと笑った。
「〈悪霊《あくりょう》〉よ――俺にも、おまえは読めぬ」と、グウは言った。「今、おまえを生かすべきか、殺すべきか……」
「ハ、言うじゃねえかハゲ……読めねえなら教えてやるぜ!!」
〈α=Ω〉の上半身が割れ、その本体が青白い炎を上げながら高速回転した。グウの放つ気の圧力に、瞬間的《しゅんかんてき》に高めた自らの霊圧《れいあつ》で対抗しながら〈α=Ω〉は右手のロッドをグウに向けた。
「む!?」
身構えるグウの背後を狙《ねら》い、〈α=Ω〉は自らの全霊を呪弾《じゅだん》に変換し、撃《う》ち放った。超指向性を与えられた〈α=Ω〉の霊体は気の嵐《あらし》を貫いて飛び、グウの足元には、右腕とロッドを過負荷によって破裂させた、抜け殻の肉体のみが残った。
その時――李《リー》の輸送車の中で、〈アザナエル〉の頭部が音を立てて開いた。
「あ?」
李《リー》が荷台を振り返ると、轟音《ごうおん》と共に後部ハッチを貫き、直径三センチほどの光弾が荷台に飛び込み、〈アザナエル〉の中に収まった。再び閉じた〈アザナエル〉の筐体《きょうたい》のあちこちの隙間《すきま》から青白い光がにじむように染み出し、やがて、激しい唸《うな》りと共に、全身がまばゆく発光し始めた。
「――やべえ! 爆発《ばくはつ》かぁっ!?」
李《リー》はビリーの手を引き、ボンネットの上のV13を抱えて飛び出した。
「スレイマン! スレイマンだ!!」と、手足を振りながらV13が叫んだ。
ドォン、と輸送車のエンジンを爆発させながら、〈アザナエル〉――〈α=Ω〉は垂直に飛び出した。
『ハハハハハハハ――殺す、殺す、殺す! 貴様ら皆殺しだ!! 楽しみに待ってろ!!』
頭を抱えて地面に伏せた李《リー》が、唸りを上げ、煙の尾を引きながら上昇する〈α=Ω〉を見上げながら、
「なんだァ……?」と言った。
「やだやだ、行っちゃやだぁ! ……なああ〜んちゃって!!」
と、V13が叫び、両脚をばたつかせながら笑った
「キャハハハハ! スレイマンはまたくるよ! スレイマンはまたくるよ!」
[#改丁]
『「東」よりきたる』
12
[#改丁]
「動ける者は負傷者を助けよ。銃を扱える者は申し出よ」
グウの号令のもと、隊列が再編され、再び一行は出発した。
そして、翌日――
機甲|羅漢《らかん》の半数以上は失われ、この先頭集団は今や、有志の避難民《ひなんみん》による自警団《じけいだん》の体を成している。
李《リー》は今、指揮車の運転をしている。指揮車の屋根には倍力|袈裟《けさ》を着用したグウ、後部座席にはビリーとV13が乗っている。
運転席の窓から顔を出して、李《リー》が言った。
「グウさん、あんま無理することないぜ」
「別段、無理はしておらん」
指揮車の屋根の上にあぐらをかき、一人ぐい呑《の》みを傾けながら、グウの眼《め》はしっかりと前方を見据えている。
「姐《ねえ》さんのこともあるしよ……」
「ヤコか…」と、グウは言った。「あれはな、ちゃんと俺《おれ》の中におる」
「あァ?」
「ヤコだけではない、おまえも、その他の人間もだ。俺の中におまえたちがおるのだとも言えるし、おまえたちの中に俺がおるのだとも言える」
「……平気か、グウさん?」と、李《リー》は人差し指で自分の頭をつついた。
「平気だ」とグウは笑い、背後に続く人の群れを振り返った。
都市から這《は》い出し、東方へ向かって長く伸びる避難民《ひなんみん》の群れは、平たく地を這う奇形の龍《りゅう》のようだ。すでに龍の尾は都市を離れ、十数キロの距離を取っている。
そのさまを、はるか高空から眺めるものがあった。
〈アザナエル〉の体を手に入れた、〈α=Ω〉。
直径三メートルの胎児状の筐体《きょうたい》〈アザナエル〉は、アルファの体と同様、〈コードα〉の肉体となるべく作られた装備の一つだ。――が、その用途は大きく異なる。
アルファの体――〈コードα〉専用の全身義肢は、本体の生命維持と市内での行動のために設計されている。
それに対し、〈アザナエル〉は〈コードα〉を燃料とする浮遊装置であり、霊体《れいたい》投射機であると言える。その最大の用途は、接続された〈コードα〉の魂を、神への愛と共に爆発的《ばくはつてき》に燃焼させることだ。
だが、スレイマンの人格を備えた〈α=Ω〉の裡《うち》に、神への信仰はない。〈アザナエル〉をして、神に仕える「人造の天使」と呼ぶならば、〈α=Ω〉はひたすらに自らを頼む存在――「プロジェクト・トリニティ」の予定外に発生した「人造の神」なのだ。
〈α=Ω〉とて、その持てる力は有限だ。通常運転で数日間、グランギニョル作用体の展開時で数分、霊体爆発を起こせば一瞬《いっしゅん》で、その存在は完全に燃焼してしまう。しかし――アレックス・ナムと避難民を皆殺しにするには、それは一二分な時間だ。
雲間から大河のような人の群れを望み、〈α=Ω〉は思考している。ただ殺すだけではつまらない。最も多くの人間に、最も悲惨にして最も滑稽《こっけい》な運命を与える手段はなにか――
人々は今、悪意の神の掌中にいる。
雲の出てきた空を見上げ――
「グウさん……あいつ、また来ンのかな」と、李《リー》が言った。
「来るだろうな」と、グウは言った。
「いやに落ちついてんな、グウさん。いったいどうすんだよ?」
「さて……皆殺しにされるやもしれんな」
「冗談じゃねえよォ――なに笑ってんだよグウさん」
「李《リー》よ……死ぬのは嫌か」
「当たり前だろォ?」
「まあ、あまり細かいことを気に病むな」
「細かくねえ、細かくねえって!」と、李《リー》は叫んだ。「一寸の虫にもなんとやら、俺《おれ》にとっちゃ、このちっぽけな命が一大事だよ!」
「――うむ、それだ」グウは膝《ひざ》を打ち、「李《リー》よ、よく言った――では、その大事な命のために、自分でなんとかしてみるとよいな」
「ちぇっ! グウさん急に人が悪くなったな――なに笑ってんだよォ」
そう言いながらも、李《リー》の表情にはどこか余裕がある。グウへの信頼が不安に勝っているのだ。
その時――
岩のような笑みを浮かべていたグウが、ふと表情を曇《くも》らせた。
そして、空を仰ぎながら、
「始まったか……」と、呟《つぶや》いた。
同時に――〈α=Ω〉の知覚が、都市構造の最上部から射出された複数の物体を捉《とら》えた。都市の全貌《ぜんぼう》からすれば芥子粒《けしつぶ》にも等しい、直径三メートルの筐体《きょうたい》――だが、その一つひとつが、空間を歪《ゆが》めるほどの霊圧《れいあつ》を放っている。
「プロジェクト・トリニティ」の要――三二体の〈アザナエル〉だ。
水平に、かつ放射状に、全方位に向けて射出された〈アザナエル〉は、不規則な軌跡を描きながら都市の周囲を戯《たわむ》れるように飛び、やがて、その一体一体がグランギニョル作用体――増幅・拡大投影された霊体を展開し、大気を震《ふる》わせながら神への賛歌を歌い始めた。
〈α=Ω〉はそのさまを霊視しながら、奇妙な虚無感を覚えていた。羽虫のように群れ飛ぶ〈アザナエル〉を――その巨大な力のうねりを感じながら、一向に興味《きょうみ》が湧《わ》かない。
〈α=Ω〉がその全霊をもって群れの中に飛び込み、数体の〈アザナエル〉を屠《ほふ》り、あるいは霊体|融合《ゆうごう》の素材である〈コードα〉の何体かを喰《く》らえば、計画を頓挫《とんざ》させることも可能だろう。
――だが、それがなんになる?
〈コードα〉――純粋培養された無原罪の魂は、スラーン信徒よりさらに純粋で、透明で、無機質だ。その〈コードα〉を動力源とする〈アザナエル〉もまた、とてつもない力を持ちながら、昆虫のように無意志の存在だ。二三九体の〈コードα〉と、三二体の〈アザナエル〉を中核にした「トリニティ」は、人の意志の介入する余地のない、機械的なシステムであり計画であると言える。
「トリニティ」の成功によって得をする者はいない。「トリニティ」は誰《だれ》にとっても、なんのための「手段」でもなく、ただ究極の「目的」なのだ。それに関《かかわ》るすべての者がその全身全霊を賭《か》け、その存在をも捧《ささ》げた計画、それが成功したとき、その事実を知り、喜ぶ者はすでにいない。また、それが失敗したとき、その事実を知り、悔やむ者もいない。
ただ最終的に、そこに神が存在するかどうか、異なるのはその一点のみだ。そこに生まれるであろう神のためにのみ存在する計画――その成否は、人間にとっては等しく無意味なのだ。
くだらない――と〈α=Ω〉は思う。「トリニティ」は〈α=Ω〉にとっても意味を持たない。〈α=Ω〉の興味《きょうみ》は神にはなく、あくまでも眼下の人の群れにある。ごみごみと地表に蠢《うごめ》く、矮小《わいしょう》で、滑稽《こっけい》な存在。数分後に迫った神の誕生《たんじょう》の瞬間《しゅんかん》に、朝日の前の霜《しも》のように消滅する運命にある、哀れな人間たち。
――それだけではつまらない。
では速やかに、なにか味のある方法で料理してやろう――
〈α=Ω〉は狂った笑いのような唸《うな》りを上げ、作用体を展開しながら降下した。
都市の動力の大部分は、「トリニティ」のために最上層に回されている。
陽光もなく、人工灯の照明も大部分がカットされた市内は今、暗い振動に満ちている。
ビルの空調の唸りが、信号機の点滅が、街頭|祈祷車《きとうしゃ》の回転が――市内のあらゆる設備の動作が、今や一定の指向性をもって、リズムを刻んでいる。
これより生まれいづる神への、礼賛の音楽だ。
都市全体が神を求めて身を震《ふる》わせ、祈りを上げながら天を仰ぐ中、肉体の半壊《はんかい》した吸血鬼《ヴァンパイア》が、一人地に取り残されていた。
闇《やみ》の中、かえりみる者もなく、路上にぼろくずのように横たわる――呪《のろ》われた夜の生き物には、ふさわしい境遇だ。
光弾の、巨人の、あるいは絡み合う蛇の姿を取る光のオブジェ――〈アザナエル〉が、金属的な唸りを上げ、戯《たわむ》れるような軌跡を描いて頭上を通過していく。巨大な霊圧《れいあつ》の発生源の高速で複雑な機動によって、聖性を帯びた霊気の乱気流が発生している。荒れ狂う聖水の嵐《あらし》にも似たそれは、吸血鬼《ヴァンパイア》の再生プロセスを攪乱《かくらん》し、また、市内に無数の〈径《パス》〉を発生させては押し潰《つぶ》していく。
人造吸血鬼は皆、ポンプのタイマー設定時間が切れ、爆破《ばくは》された。ここ数時間で吸血鬼化した者も皆、〈アザナエル〉の霊気に当てられ、ただの屍体《したい》となった。ゲームは終わり、自分はまたもや一人地上に残された。それは、一つには体表面を保護《ほご》する吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》のスーツ類のためであり、今一つには、ひときわ年季の入った「吸血鬼《ヴァンパイア》の呪詛《じゅそ》」のためである。
〈アザナエル〉は、結界機能を持つ都市の外壁《がいへき》も、市内の建築物も、まるで存在しないかのようにすり抜けていく。高次元の存在である〈アザナエル〉にとっては、都市も、そこに生きる人々も、陽炎《かげろう》のように淡い、空間の揺らぎにすぎない。神の誕生の直前の一〇〇年間にたまたま存在し、きたるべき瞬間に吹き散らされる運命にある、空気の淀《よど》みのようなものだ。
そう――数分後に迫った「その瞬間」には、今この地にあるものは、すべて跡形もなく消滅するだろう。
吸血鬼《ヴァンパイア》は、闇夜のように黒々とした天井を見上げた。巨大な光の巨人が、天井にその身をめり込ませ、神への愛を歌いながら通過していった。地表に取り残された吸血鬼《ヴァンパイア》の、小さく虚《うつ》ろな存在などは、その眼《め》に入りようもない。
吸血鬼《ヴァンパイア》は考えた。
――自分にとって、この運命は罰なのだろうか、それとも救いなのだろうか。
どちらにしても、呪《のろ》われた不死の生き物には、ふさわしい末路に思える。
吸血鬼《ヴァンパイア》は赤い眼《め》を閉じ、その時[#「その時」に傍点]を待った。
と――
「見つけた!」
と甲高い声を上げて、高く空中に生じた〈径《パス》〉から飛び出してくる者があった。
中華風の童子の身なりをした、一〇歳前後の子供。少年とも少女ともとれる、愛らしく整った顔立ちをしている。童子が吸血鬼《ヴァンパイア》の横に軽やかに降り立つと、どうしたことか、周囲の街灯や看板に、一斉に灯《あかり》が点《とも》った。
童子は上空に明滅する〈径《パス》〉の群れに向かって手を振った。
「鉤《コウ》師兄! ここだここだ!!」
その声に呼ばれて、〈径《パス》〉の一つから、また一人の人影が滑り出た。
長い銀髪を背にゆるく結った、真っ赤な道服姿の男。ゆったりとした袖《そで》に手を入れて腕を組み、自然に背筋を伸ばしたその姿には、不思議と年齢《ねんれい》が感じられない。老人のようにも、少年のようにも見える。
道服の男は空中を舞うように滑り、童子の横に音もなく降り立つと、吸血鬼《ヴァンパイア》に向かって、
「やあ、どうも――お久しぶりです、龍《ロン》さん」と言った。
「すぐに判《わか》ったぜ! 反剋《はんこく》の気がぷんぷんしてたからな!」と、童子が自慢げに言った。
吸血鬼《ヴァンパイア》は道服の男を見上げ、
「やあ、あんたは……誰《だれ》だっけ」と言った。脳が破損していて、名前を思い出せない。
「『鉤《コウ》』――今はそう呼ばれています」と、道服の男は言い、袖から両手を出した。
道服の男――鉤《コウ》道士の左手は、鉤爪状《かぎづめじょう》の義手になっていた。鉤《コウ》は薄《うす》く微笑《ほほえ》むと、鉤爪を動かし、カキンと鳴らした。
「師父の使いで、お迎えに参りました。『たまには顔を出せ』とのことで」
「はは、じいさん連中に茶|呑《の》み話か」
「ええ……楽しみにしておいでですよ」
それから、鉤《コウ》がなにかを捜すように周囲を見回すと、どこに持っていたのか、童子は自分の体ほどもある銀色のポッドをひょいと差し出した。鉤《コウ》はそれを右手で受け取りながら、
「やあ、これはいい容《い》れ物《もの》だ――しかし、少々小さいな」と言った。
するとさらに、童子は刃渡り二〇センチほどのサバイバルナイフを差し出した。吸血鬼殲滅部隊《ブラッドジャケット》の装備品の、抗不死ナイフだ。
「気が利くね、小雷《シャオレイ》。よく切れそうだ」と、ナイフを受け取った鉤《コウ》が言うと、
「へっへ」と言って、童子――小雷《シャオレイ》は歯を剥《む》き出して笑った。
次いで、鉤《コウ》は吸血鬼《ヴァンパイア》の傍らに身を屈《かが》め、
「では……少々小さくなっていただきます」
と言って、右手に持ったナイフと左手の義手を器用に使いながら、その肉体を手際よく解体し始めた。
やがて――
四肢を切断し、腸を掻《か》き出し、しかし、脳と心臓は傷つけないように――迷いなく的確に動き続けていた鉤《コウ》の手が、ふと止まった。
「どうでしょう、これは私の一存ですが――もしお望みなら、この場であなたの心臓を突いて、陽《ひ》の光にさらすこともできます」
と鉤《コウ》は言い、吸血鬼《ヴァンパイア》の心臓の上で、ナイフをくるりと逆手に持ち替えた。
「……『ただ生きる』のは、とても辛《つら》いでしょう」
「いや…」
吸血鬼《ヴァンパイア》は一瞬《いっしゅん》答えを躊躇《ちゅうちょ》したのちに、
「せっかくだが、約束を思い出した」と言った。「息子と鬼ごっこだ――待ってるように言っちまったんでね」
「ああ、それはいい。約束をするのはいいことです」
と、鉤《コウ》は再びナイフを持ち替えた。
「待つ方も、待たれる方も、張り合いが出ますからね」
「待つといえば……あの娘には会えたのかい?」と、吸血鬼《ヴァンパイア》は言った。
「いえ、まだ……しかし、私は待つのが得意ですから」
鉤《コウ》は手を動かしながら、歌うように呟《つぶや》いた。
「――天数の満ちるまで、幾千年でも待ちましょう。未来|永劫《えいごう》に会えぬとあれば、時を遡《さかのぼ》りもしましょう」
「はは、あんたは長生きしそうだ」
「……それは私の迷いだと、師父は言います。迷いを捨て、道《タオ》に身をゆだねよ、と――しかし、近ごろ私は、こうも思うのです」
鉤《コウ》は静かに微笑《ほほえ》んだ。
「これが迷いであるならば……迷うのが私なのだ、と」
解体が済むと、鉤《コウ》は銀のポッドに吸血鬼《ヴァンパイア》の肉体を詰め、呪符《じゅふ》を貼《は》って封印した。そして、立ち上がりながら、ポッドを右手でひょいと持ち上げ、左手の袖《そで》にたくし込んだ。どこをどうしたのか、大人の胴体ほどもあるポッドは、するりと袖の中に収まってしまった。
「なあ、鉤《コウ》師兄」
鉤《コウ》を見上げながら、小雷《シャオレイ》が言った。
「『あの娘』ってなんだよ」
「…さて、もう一つの用件だ――急ごう、小雷《シャオレイ》」
小雷《シャオレイ》は、すっと歩きだした鉤《コウ》のあとを小走りに追いながら、
「なんだよ、教えろよ師兄」と言った。
「ははは…」
鉤《コウ》は静かに笑いながら禹歩《うほ》を踏み、ふわりと跳躍《ちょうやく》した。そして、ゆるりと舞うように回転しながら、空中の〈径《パス》〉に滑り込んだ。
「ちぇっ、ケチ!」
と言いながら、小雷《シャオレイ》は鉤《コウ》を迫って跳び、〈径《パス》〉の中に飛び込んだ。
「で……『もう一つ』ってのはなんだい?」と、鉤《コウ》の懐《ふところ》から、吸血鬼《ヴァンパイア》が言った。
「つい最近――と言っても、私の生まれる前ですが――師父が丹炉《たんろ》の番に使っていた童子が逃げ出して、方々で悪さをしたとか……」と、鉤《コウ》は言った。
「ああ、あいつか」と、吸血鬼《ヴァンパイア》は不満げに言った。「奴《やつ》のおかげで、都市《まち》が三つ潰《つぶ》れたぞ――いや、ここも入れれば四つか」
「ええ、この都市《まち》を出た人々も、こちら[#「こちら」に傍点]に流れ込んでくるでしょう。またなにかとにぎやかになりますよ」
「……まさか、最初からそれを狙《ねら》ってのことじゃないだろうな?」
「あり得ますね……上の方々は、荒事がお好きですから」
「くそったれが」
「なんだい、龍《ロン》さんは長生きのくせに言うことが細かいな」と、小雷《シャオレイ》が言った。「百年都市の三つや四つ、あんたにとっちゃなにほどのこともなかろうに」
「小雷《シャオレイ》」
静かに微笑《ほほえ》みながら、鉤《コウ》は言った。
「細かいことの中にも、大切なことはあるんだよ」
そして――
二人(と、手荷物扱いの吸血鬼《ヴァンパイア》)が〈径《パス》〉を抜けて辿《たど》り着いたのは、公安局の本部だった。
スレイマンによる破壊《はかい》の跡も生々しいそこを、小雷《シャオレイ》の感覚を頼りに歩き、何重もの遮蔽扉《しゃへいとびら》をくぐって、やがて二人は巨大な封印設備に辿り着いた。
市街と同様、施設内の電源はすでに落ちている――が、中核となる封印装置は独立電源と強固な残留思念によって稼働《かどう》している。ここには今なお、六体の悪魔《デーモン》を始めとする種々の魔物《まもの》が、物理的、神秘学的な最高レベルの封印を施されている。
小雷《シャオレイ》が見つけた発動機を切り、懐から出した呪符《じゅふ》で呪的封印を中和し、鉤《コウ》は装置にセットされた封印タンクを片端から開封した。タンクから飛び出した悪魔《デーモン》の核が、空間を支配する〈アザナエル〉の霊波《れいは》に悲鳴を上げながら、いずこかへ飛び去っていく。悪魔《デーモン》を畏《おそ》れ憎む人の群れがいない今、それらはただ無力なのだ。
幾つ目かのタンクを開封した時、悪魔《デーモン》の代わりに、濃《こ》い闇《やみ》の塊が這《は》い出してきた。影を媒体とする、高密度の蠱毒《こどく》だ。液状の影は黒い水銀のように鉤《コウ》の足元に滑り落ちると、素早く床を這《は》って廊下のひびに滑り込もうとした。
鉤《コウ》が右手をひと振りすると、その手に瓢箪《ひょうたん》のような形をした容器が現れた。鉤《コウ》は親指で容器の栓を抜きながら、鋭《するど》く叫んだ。
「乱童!」
『オォ――!』
影は悲鳴を上げながら床から引き剥《は》がされ、渦を巻きながら容器の中に吸い込まれた。
鉤《コウ》は片手で容器の栓を締《し》め、袖《そで》の中に落としながら、
「用は済みました――では、行きましょう」と言った。
そして、鉤《コウ》と小雷《シャオレイ》が〈径《パス》〉を求めて封印施設を出た時――
周囲の霊気《れいき》の嵐《あらし》が、突然に凪《な》いだ。霊相の歪《ゆが》みが消え、〈径《パス》〉もまた消失した。
気ままに飛び回っていた〈アザナエル〉が、整然とした機動を始めていた。
「――これはいけない」
と、大きな「?」マークのような義手をあごに当てながら、鉤《コウ》は言った。
「帰り道が塞《ふさ》がってしまった」
「困った困った! 鉤《コウ》師兄は足が遅いからな!」と言って、小雷《シャオレイ》が笑った。
鉤《コウ》は微笑《ほほえ》み、
「では、足の速い小雷《シャオレイ》……ひと走り師父様の洞へ行って、兌《とり》の風を起こしてもらっておくれ」
「よしきた――十万八千里をひとっ飛びさ!!」
小雷《シャオレイ》はひらりととんぼ返りを打つと、一条の稲妻に身を変えて地上から天井に走り、配光板の隙間《すきま》から飛び出していった。
鉤《コウ》はその姿を見送ったのち、
「……さて、我々もここで待っているわけにはいきませんね」と言った。
鉤《コウ》がその場に禹歩《うほ》を踏み、右手で刀印を切ると、足元に一陣の旋風が巻き起こった。そして、指先を上に向けた鉤《コウ》が、
「疾《チ》ッ!」
と命じると、それは天を突く突風となって、鉤《コウ》の体を舞い上げた。突風は鉤《コウ》を乗せたまま、天井に穿《うが》たれたダクトに、渦を巻いて滑り込んだ。
「プロジェクト・トリニティ」は、最終段階に入った。
三二体の〈アザナエル〉の作用体が、すべて紐状《ちゅうじょう》形態に変態した。二重|螺旋《らせん》を描く光の蛇は、なおも歌いながら互いの尾をくわえ、三二の筐体《きょうたい》を結節点とする光のケージを形成した。
巨大な球殻を成すケージの中心には解凍されたばかりの二三九体の〈コードα〉が存在し、その周囲の都市構造物は無視可能なレベルのノイズと見做《みな》される。事実、それらは〈アザナエル〉の霊体《れいたい》爆発《ばくはつ》の前には無に等しい存在だ。
次いで、光のケージは〈コードα〉の群れを中心に複雑な四軸回転を開始し、唸《うな》りを上げる光の球――巨大な〈神の卵〉と化した。巨大な球面を滑るような、不規則でありながら制御された機動の最中、各作用体の大部分が筐体《きょうたい》の中に収納され、三二の筐体を結ぶ霊体は糸のように細くなった。〈神の卵〉はその回転を速め、霊気の飛沫《ひまつ》を飛ばしながら歌いだした。
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神よ 未《いま》だ生まれぬ神よ
御身への想《おも》い押さえがたきに
我が身は今やはりさけぬ
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〈卵〉は歌いながら上昇し、回転の速度を上げ、球形を保ちながら急速に収縮《しゅうしゅく》した。
そして――球殻状に配置され、細い神経で結ばれた三二体の「神の爆薬」は、完全な同期を取って爆発した。
〈卵〉の中心点に向かって、収縮する球形の衝撃《しょうげき》波が走り、〈コードα〉の群れを爆縮した。
衝撃波の球の容積が最小になり、二三九体の〈コードα〉が霊体|融合《ゆうごう》、容積当たりの神聖値が超臨界《ちょうりんかい》に達した瞬間《しゅんかん》――
【それ】は、誕生《たんじょう》した。
〈アザナエル〉の爆発による衝撃波は〈卵〉の外側にも走った。完全に近い効率で霊的・物理的なエネルギーに変換された〈コードα〉三二体分の魂は、都市の構造を半壊《はんかい》させるに足るものだ。
しかし、そのような形での破壊はついに起こらなかった。〈アザナエル〉の爆発による破壊が進行するよりも速く、それに一〇〇万倍するエネルギーが、都市を跡形もなく蒸発させたのだ。
【それ】の誕生のプロセスからこぼれ落ちた、余剰エネルギーだ。
【それ】は、単に〈コードα〉二三九体分の力を持つもの――といった、単純なものではない。霊体爆発の円環《えんかん》連鎖《れんさ》反応体――あらゆる可能性の源であり終局、その存在の一瞬ごとに永劫《えいごう》の時を含み、永遠にして無限のエネルギーを無から汲《く》み出し続ける、輪廻《りんね》の蛇だ。
あらゆる存在を霊肉共に吹き飛ばす霊圧の衝撃波が避難民《ひなんみん》の群れを襲《おそ》った、その時――
人々を殺し尽くすために降下していた〈α=Ω〉は、【それ】の存在を知覚した瞬間、展開していたグランギニョル作用体を平面状に引き伸ばした。
空一面に結界|呪紋《じゅもん》が広がり、衝撃波から人々を護《まも》った。
衝撃波をやり過ごすと、〈α=Ω〉は作用体を収斂《しゅうれん》し、光の蛇の形態を取った。絡み合う二匹の蛇は、笑い転げるように痙攣《けいれん》しながら人々の頭上を旋回し、
『ゲラゲラゲラ、見ろ、見ろ! ありゃなんだ!?』と、スレイマンの声で叫び、
『まあ、なにかしら? なにかしら?』と、アルファの声で叫んだ。
人々はその声に促され、西の地平線に【それ】を見た。
その存在に対し、ある者は畏《おそ》れおののき、ある者は歓喜《かんき》に涙した。人の群れに混じった野良犬が、尾を振り立てて吠《ほ》えた。
【それ】は〈神〉であった。
【それ】は〈悪魔〉であった。
【それ】は〈竜〉であった。
【それ】は〈巨人〉であった。
【それ】は〈怪物〉であった。
【それ】は〈胎児〉であった。
【それ】は〈骸骨《がいこつ》〉であった。
【それ】は〈獣《けもの》〉であった。
【それ】は〈大樹《たいじゅ》〉であった。
【それ】は〈塔〉であった。
【それ】は〈歯車〉であった。
【それ】は〈光の塊〉であった。
【それ】は――
【それ】を正確に認識することは、人間には、いや、この次元にあるものには不可能だ。各々《おのおの》が、その存在を認識するに当たって、おのれの魂の歪《ゆが》みに合わせ異なった像を見出している――人は人の神を見る。犬は犬の神を見る。
「――グウさん、ありゃなんだい!?」
運転席から身を乗り出しながら、李《リー》が言った。
「さて……俺《おれ》が知るはずもない」と、グウは言った「――おまえは、なんと見る?」
「よく判《わか》んねえ」と、李《リー》は言った。「よく判んねえけど、なんだかおっかねえや……」
「キャハハハハア!!」
と、後部座席から半分以上身を乗り出したV13が、足をばたつかせて笑った。
「ねえ、見て見て! かみさま、かみさま、かみさまだ!! ぴかぴか光ってる! くるくる回ってる! ねえ、見てったら!」
その言葉に顔を上げたビリーは、虚《うつ》ろな眼《め》で西を見ながら、
「見えないよ……」
と呟《つぶや》き、再びEマグを抱きしめ、膝《ひざ》に顔を埋めた。
「なにも、見えないよ……」
【それ】の直上に、霊波《れいは》と爆風《ばくふう》にあおられながら、平然とバランスを取って空中に立つ、真っ赤な道服を着た男がいた。
「やあ、すごいな――観《み》えますか、龍《ロン》さん」と、道服の男――鉤《コウ》は言った。
「…見たくない」と、吸血鬼《ヴァンパイア》は言った。
そして――
〈α=Ω〉の高次の知覚は、そこになにを観たのか。
【それ】の存在にざわめき右往左往する群衆を見下ろしながら、〈α=Ω〉は環状《かんじょう》形態を取り、回転を始めた。
ゲラゲラゲラ、と〈α=Ω〉は笑った。
くすくすくす、と〈α=Ω〉は笑った。
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この世は巨大な冗談だ!
ひっくり返ったおもちゃ箱!
せいぜい生きろ、這《は》いずり回れ!
てくてく歩いて大冒険!
一寸先は暗闇《くらやみ》だ! 不安におののけ、蚯蚓《みみず》共!
明日になにが待ってるか――わかってるけど教えなーい!
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高速回転する〈α=Ω〉の輪は、歌いながら収縮《しゅうしゅく》し、そして弾《はじ》け飛んだ。
見上げる人々の一人ひとりの頭上に、熱を持った塊が降り注いだ。
表面に魔法円《まほうえん》を刻印した、焼きたての、ブラインドフォーチュン・ビスケット。
「む?」
指揮車の上にも降ってきたそれを、グウは空中で受け止め、匂《にお》いを嗅いで、
「うむ……食べられそうだ」と言った。
ビスケットを裏、表と怪訝《けげん》な顔で検分しながら、
「中毒《あた》ンねえだろうなあ?」と李《リー》は言った。
「あたしにも、あたしにもォ!」
と言って、李《リー》からビスケットを受け取ったV13が、隣《となり》で膝《ひざ》を抱えるビリーに、
「あたしの代わりに食べて食べて!」と言った。
ビリーがひと口かじると、ビスケットの中から二体の天使が飛び出した。
『くすくすくす』と、白い天使が笑った。
『ゲラゲラゲラ』と、黒い天使が笑った。
「キャハハア!」と言って、V13が手を叩《たた》いた。
ビリーはただぼんやりとそれを見つめた。特に感想は抱かなかった。
くすくすくす、ゲラゲラゲラ、くすくすくす、ゲラゲラゲラ――
二体の天使はくるくると踊りながら、笑い続けた。
同様に笑い踊る天使を、蠅《はえ》を追うように払いながら――
グウが空を見上げ、
「……風が出てきたな」と、呟《つぶや》いた。
空高くにある空気の層が、西からの風を受けて動き始めている。
隊商との合流地点まで、あと数十キロ。そしてその後も――
車で飛ばしてもなお危険な道程。徒歩の集団には、一時も気の抜けない旅だ。魔物《まもの》も出るだろう。天候に祟《たた》られもするだろう。なにより、この荒野を歩き通す覚悟も訓練もなかった者たちだ。立ち方、歩き方から指導《しどう》しなければなるまい。
やがて、ある者は名残惜しげに、またある者は早く忘れようというように――人々は【それ】に背を向け、追い風を受けながら、一路「東」を目指して歩き始めた。
その背後で――
【それ】は天を仰ぎ、長い長い産声を上げた。
[#地付き]〔了〕
[#改丁]
あとがき
ちぅーす、お久しぶりです。どっこい生きてた古橋です。ここしばらく本が出ていなかったので、初見の方も多いかと思います。そちらの方々には初めまして。
『ブライトライツ・ホーリーランド』――私にとって二年ぶりの本でございます。
積層魔道都市〈ケイオス・ヘキサ〉の物語は、デビュー作『ブラックロッド』、二作目の『ブラッドジャケット』に、本作『ブライトライツ・ホーリーランド』を合わせた三冊でワンセットになる感じです。前二作をまだ読まれていない方は、この際、同時にお求めになるとステキです。
さて、この本を書いている間に、私は二八歳になりました。『ブラックロッド』を書いたのが二三歳の時、『ブラッドジャケット』が二五歳の時なので、このシリーズに関しては、間に他の仕事や作品を挟《はさ》みつつ、おおむね一定した間隔で書いていたと言えます。このシリーズのベースとなるドロドロした感情が体内に溜《たま》るペースがそのくらいなのかもしれません。とすると、次にこの種のものを書くのは、もう二、三年後になりましょうか。それまでの間は明るい話を書きながらまたドロドロを溜《た》めて、溜ったらまた暗い話を書いて、毒を吐いてすっきりしたらまた明るい話を書いて――そんな風にやっていけたらよいな、と思っています。
ところで、この空白の二年間、私が何をしていたかと申しますと――ああ、いかんいかん、この辺の経緯は面白すぎるのでまだ秘密。とにかく「うぎゃー!!」と叫びながら転げ回ったり、「酒! 飲まずにはいられないッ!」と昼間からビール喰らってダメになってたり、「わしはインドに行く〜!」と言って『地球の歩き方』を精読したりしておりました〈本当〉。
そんな中、友人関係のありがたみも再認識できました。見よ! 俺《おれ》がひと声泣けばウン十人の関係者が俺をいたわるぜー!! ……心配かけてごめんネ。
そういうわけで、この二年間は私にとって自分という人間の底を見た時期でした。いやー、キツかった。さすがにこの歳《とし》になると、オノレの限界が見えてきますな。
しかしその一方で、精神的に、また物理的に、色々な人に助けられているうちに――私はあることに気づいたのですよ。
「こりゃ便利だ」
やはり友は財産であるな。じゃあ有効に使わんともったいないな。もっと高利回りの資産運用をせねばな、と。
しょせん人間、一個人の力で処理できることは限られています。自分一人がなんでもできる必要はないのです。齢《よわい》二八にして社会性の目覚め。組織の力は俺の力だーっ!
さらに、私が今までに出会ってきた人々、それから、まだこの世に生まれていない人も含む、これから出会う人々、それらはすべて「私の一部」である――そう考えると、おお、私には未だ無限の可能性が! やったー!
というわけで、「やはり組織だコネだ人脈だー」とか言いながら、今回私は自分で絵描きさんを連れてきてしまいました。
本書のイラストレーターであるところの前嶋重機氏は、私が以前勤めていた会社の同僚だったのですが、その後へろへろとへっぽこ迷走人生を送る私と違って、才能あるし頭いいしオシャレな芸風で仕事も速い、将来を嘱望《しょくぼう》される新進気鋭です。ニクいニクい! いやマジですってマジ憎い。くそっ、憎いですね。畜生。
でも、いい絵描くでしょ? へへへ。
本人と新担当のミネさんに話通してアポ取って、よく頑張ったオレサマに乾杯。さらにここで背後に眼を転じ、
(この野郎、まるで全部自分の手柄みたいに言ってるが、リスク背負って上の許可取ってきたのは俺なのだぞ)
と、こめかみをピクピクっとさせつつ微笑《ほほえ》むミネさんに乾杯。
もちろん、これまでの本に描いてくださった絵描きの皆さんにも日々感謝しているのですが、この場ではいわゆる「仕事」の領域での感謝に加え、趣味的/ワガママ聴いてくれてありがとう的感謝を前嶋氏とミネさんに捧げています。あんまり作業工程上の意味はないんですが、表紙のラフ見せてもらったりして、いやー、楽しいっスよ。
「わーい、ケツだケツだーっ!!」
「いや、これは背中のギミックを見せるためのアングルやねん」
「あー、そっかあ。それにしてもいいケツだー」
「ほかのトコもちゃんと見てや……」
ま、そんなこんなで――。
話は前後しますが、去年の今ごろ、編集部の人事異動で担当が代わり、
「私は(前担当の)スズキさんほどやさしくないですからね。ビシビシ行きますよ!」
と宣言する現担当ミネさんに向かって、
「なにやっても上手《うま》くいく気がしねえっス……」
と呟《つぶや》いて逆にもっとやさしくされたりしていた私ですが、ここ最近は、なんだかなにやっても上手くいきそうな気がしてます。それはそれでマズイですか? いえいえ平気です、任せなさい。いいから任せなさい。大丈夫です。その手を離しなさい。いいから離しなさい。
そういうわけで皆さん、古橋秀之からは今後も目が離せません。心配だからな!
[#地付き]一九九九年一一月
[#改ページ]
底本:「ブライトライツ・ホーリーランド」電撃文庫、メディアワークス
2000(平成12)年1月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年11月21日作成