タツモリ家の食卓
第3回 ドッグファイト!
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[#改丁]
特務|監察《かんさつ》官カーツ大尉《たいい》の存在は、地球と呼ばれる辺境|惑星《わくせい》上で終わりを告げる。
その最後の戦いは、熾烈《しれつ》なドッグファイトだった。
一団の仔猫《こねこ》たちが、訓練場のトラックを駆《か》ける。
ゴムボールのかごを坂道にぶちまけたように、はずみ、転がり、ぶつかり合いながら、一六匹の仔猫たちは駆けていく。夢中になるあまりトラックを外れ、ぶつかり合った拍子《ひょうし》にとっくみ合いを始める仔猫たちを、教官の大きな手がやさしく持ち上げ、そっとコースに戻《もど》す。
カーツは仲間たち――同じ人工子宮群から生まれた、一五匹の兄弟たち――に目もくれず、青い閃光《せんこう》のように集団のトップにおどり出た。
――いっとうになったら、ごほうびがもらえる。
それは合成マタタビのパックであるかもしれないし、カツオブシ・スティックであるかもしれない。あるいは、のどをなでる教官の手や、「えらいぞ」というただひとことであるかもしれない。
――ごほうびはなんでもいい。ぼくはいっとうになる。
幼いカーツは、自分がただ名誉《めいよ》のために走っていることを意識してはいない。それは、ほこり高いク・ドランの遺伝子に刻みこまれた、本能的な行動だ。
カーツはさらにスピードを上げた。
同系統の遺伝子をもとに、同規格の子宮から同時に生まれたにもかかわらず、彼らの個性や能力には、いくぶんかのばらつきがあった。
カーツは誰《だれ》よりも小さかったが、誰よりもすばやかった。ハンティングにおいても格闘《かくとう》においても、自分の倍も体重のある兄弟たちと、互角《ごかく》以上に渡《わた》り合った。あいつらはみんなのろまだし、いくじなしだ。ぼくのてきじゃない。
例外は、ただひとり。
カーツの横から、真っ赤なつむじ風のように、一匹の仔猫が飛び出した。
赤毛のケイトだ。
ケイトはカーツをふり返ると、大人びたしぐさでしっぽをひゅっとふった。
『おさきにしつれい、おチビさん!』
――なんだって!?
カーツはケイトを追って、さらにスピードを上げた。そして、コーナーの内側から強引《ごういん》につっこみ、ケイトの横腹に突《つ》き当たった。
ケイトは一瞬《いっしゅん》進路をふらつかせたが、すぐに復帰し、
『なにするのよ!』と叫《さけ》んだ。
『うるさい! さっきのをもういちどいってみろ!』
カーツはケイトに並んで走りながら、
『……ぼくよりしっぽが五ミリながいだけのくせに!』
そういって、再び体当たり。二匹はもつれ合いながら転倒《てんとう》した。
ケイトはすばやく受け身をとって起き上がり、立ちおくれたカーツを両前足で組みしいた。
『きこえないなら、なんどでもいってあげるわ! このチビ! チビチビチビのおおチビすけ――ギャウ!!』
カーツがケイトのしっぽにかじりついた。
『なまいきなおんなめ! ごじまんのしっぽをはんぶんにつめてやるぞ!!』
『やったわね、この――」
赤と青、二匹の仔猫は、紫色の毛玉のようにはげしくからまりながら、かみつき合い、引っかき合い、猫キックを応酬《おうしゅう》した――教官の大きな手が、彼らをやさしく引きはなすまで。
人工照明のやわらかな光。あたたかな、いいにおいのする空気。
ゆりかごの中の闘争は、ミルク色の思い出だ。
龍守《たつもり》家のむかいの郷田荘《ごうだそう》の玄関先に、一台の機械が停《と》められている。まるで、真っ赤な冷蔵庫に手足を生やしたような姿のそれは、陸上自衛隊の装備品、00[#「00」は縦中横]式|装甲《そうこう》戦闘服だ。
その00[#「00」は縦中横]式の、午前の陽の光にほどよくあたためられた装甲の上に横たわり、カーツ大尉はゆったりとまどろんでいた。
カーツに背をむける形で、ひとりの巨漢が体操をしている。赤い00[#「00」は縦中横]式の主《あるじ》、陸自の対エイリアン部隊・倉本《くらもと》小隊に所属する、手力《たぢから》曹長《そうちょう》だ。
数日前、グロウダインの一団が居留する郷田荘の一室に、手力は越《こ》してきた。倉本小隊の代表として、グロウダインの身の回りの便宜《べんぎ》を図《はか》る窓口の役目をはたすためである。
もちろん、グロウダインや龍守一家に対する警戒《けいかい》の意味もあるのだろうが、手力の屈託《くったく》のない人がらは、その種の任務について回る不穏《ふおん》な印象を感じさせない。
「イッチ、ニッ、サンッ、シッ、ゴオッ、ロック、シチッ、ハチッ」
タンクトップに短パンといういでたちの手力は、根が生真面目《きまじめ》なのか、ひとりでかけ声を出しながら、ぴしっぴしっと手足を動かしている。
手力の背を漫然《まんぜん》とながめながら、カーツは今しがた夢うつつに思い出していた光景を吟味《ぎんみ》した。あれは基礎《きそ》訓練課程の記憶《きおく》――おそらく、このやわらかな陽光と、風のにおいのせいで喚起《かんき》されたものだろう。
彼が幼年期をすごした保育設備。ク・ドランの体質に合わせて調整されたそれに、この惑星の風土は酷似《こくじ》している。凍《い》てつく宇宙のただ中に浮かぶ、天然のゆりかご。あまりにも、あまりにも快適だ。
同時にそれは、彼に兄弟たちのことを思い出させる。彼とともに〈リヴァイアサン〉捕獲《ほかく》作戦のために育成された、一五匹の仔猫たち。
パイロット適性をもつク・ドランに、高機動装備のマルチプル・タスク・システムと、銀河連邦領内のあらゆる自治宙域を横断できる監察官権限、すなわち、物理的かつ法的な最大限の機動力を与え、銀河最速にして最強の超存在〈リヴァイアサン〉を追跡・捕獲させる――その作戦における唯一《ゆいいつ》の成功例がカーツであり、この地球という惑星であり、ミュウミュウと呼ばれる〈リヴァイアサン〉の幼体だ。
いや、はたして成功といえるのかどうか――それはまだ、わからない。
いまだミュウミュウに対し「保留状態」の態度を保つ「人類の守護者」〈キーパー〉は、ミュウミュウを「非人類」と判断すれば、即座《そくざ》にこの星系もろともミュウミュウを焼却《しょうきゃく》しようとするだろう。
この近隣《きんりん》の星系の多くが、そのようにして破壊《はかい》された。〈リヴァイアサン〉の幼体と、おそらくは、それを追うク・ドランたちとともに。
彼ら兄弟は超新星爆発のエネルギーの奔流《ほんりゅう》に呑《の》まれ、今、自分ひとりがこの惑星の大気越しの、あたたかな光に包まれている。
まったく、なんという快適さだ。
カーツはころりと寝返りを打ち、それから目を細め、のどを鳴らした。だが、その音には若干《じゃっかん》の苦い響《ひび》きが混じっていた。
と――
カーツの耳が、ぴくりと動いた。
龍守家の玄関から、カロカロと鉄|下駄《げた》の音が聞こえてきた。
手力の体操をしっぽをふりながら見ていたジロウマルが、音のほうにむかって、
「オンッ」と吠《ほ》えた。
「イッチ、ニッ、サンッ――おっ、これは皇女《おうじょ》殿下《でんか》。おはようございます」
龍守家の玄関から出てきた、ジーパンに鉄下駄姿のバルシシアを認めると、手力はまるで、体操の動作の一部のように、ぴしっと敬礼した。
「苦しゅうない、続けよ」と、バルシシアはいった。
「はっ、それでは失礼して――ゴオッ、ロック、シチッ、ハチッ」
先日、マルタンデパートで互いに死闘を演じた手力に対し、バルシシアは悪感情をいだいてはいない。おのれの実力とともに敵に対する尊敬をもしめし、しかも恐《おそ》れや媚《こ》びを見せることがない。手力のそうした性格は、グロウダイン的見地からしても、好ましいものである。そもそも、この辺境惑星の上にあって、まがりなりにも星間帝国の帝位|継承《けいしょう》候補者《こうほしゃ》たるバルシシアに対しまともな敬意を払っている者は、この男だけではないか。
「ヘッハッハッハ」
「うむ、苦しゅうないぞ」あとジロウマルも。
手力は両手を大きく空に伸ばしながら、小さな頭だけを横にむけ、
「本日は、どちらにお出かけでありますか」と、バルシシアにいった。
「いや……」
バルシシアは周囲にちらりと目を走らせると、
「猫の奴《やつ》めを見なんだか?」
「はっ、大尉どのはあちらに」
と、00[#「00」は縦中横]式のほうをふり返った手力が、
「おや?」といった。
つい先ほどまで00[#「00」は縦中横]式の上にだらりと寝そべっていたカーツは、影も形もない。
「……逃《に》げおったか、くそ猫」
バルシシアの目が、刺すような光を宿して細められた。手力の動きを片手ををあげて制し、鋭敏《えいびん》な感覚をさらにとぎすませ、狩人《かりゅうど》の目を周囲にめぐらせる。
その視線が、ある一点で止まった。
バルシシアはノコギリのような歯をむき出してぎらりと笑うと、
「そこじゃあっ!」
郷田荘の前庭に飛びこみ、軒先《のきさき》に張り出した縁台《えんだい》を一足に踏《ふ》み抜《ぬ》いた。
ギャオッとひと声鳴いて縁台の下から飛び出したカーツが、ブロック塀《べい》を駆けのぼり、苔《こけ》むした上面に脚をすべらせ、反対側にどてっと落ちた。
すると、
「バウッ!」
郷田荘のとなりの中野《なかの》さんの家の庭には、体重が三〇キロもあるでかいブルドッグが放し飼いになっている。
とげとげの鋲《びょう》を打った首輪に、凶悪《きょうあく》な面構《つらがま》え。昔の漫画か外国のアニメに出てくる、泥棒《どろぼう》の尻《しり》に噛《か》みついてズボンを破ってしまったりする、ああいう感じの犬だ。
名前はブル。まんまである。
ちなみに、その外見から獰猛《どうもう》なイメージをもたれがちなブルドッグは、実際には、ここ百数十年の間に穏《おだ》やかな性格に改良されてきた犬種である。
……が、中野家のブルは性格も見た目通りに獰猛で、一般に動物には好かれるたちの忠介《ただすけ》までが、
「いやあ、ブルは凶暴だよね」というくらいだから、相当なものである。
なんでも、なでようとして手を噛まれたことが、今までに五回あるとかいう話。
しかし、これはどちらかというと忠介の側の問題かもしれない。忠介はその話をした時、「少しは学習しろ」と清志《きよし》にいわれた。それから憲夫《のりお》には「バカかおまえは」といわれた。
それはさておき――
「バウバウッ! バウバウッ!」
「ギャオオオッ!!」
カーツとブルは、まるで『トムとジェリー』みたいに庭中を駆け回った。うそか本当か、ブルはそのするどい牙《きば》で(それはもう、手のひらに穴が空くぐらいするどい)庭に迷いこんできた野良猫を噛み殺したことがあるという。これは洒落《しゃれ》にならない。
ブルに追われながら、植木|鉢《ばち》を蹴倒《けたお》し、庭木の周りををぐるぐる回って再び最初の落下地点に戻ったカーツは、塀にむかってジャンプした。だが、高度が足りない。カーツは両前足をかろうじて塀の上にかけ、後ろ足でがりがりとブロックをかいた。
その尻にブルの牙が食らいつこうとした時――
バルシシアの手がカーツの首根っこをつかみ、ひょいと持ち上げた。
「なにをしておるのじゃ、貴様は」
バルシシアは塀にもたれ「バウバウバウッ!」と躍《おど》り上がるブルの上で、ギャワワとあばれるカーツをぶらぶらとふった。
「特訓の時間じゃぞ」
カーツの態度いかんによっては、このまま落としてやろうという構えだ。
前門のバルシシア、後門のブル。カーツは観念してぷらりと力を抜いた。
バルシシアは満足げにふふんと息をもらし、手力にむかって、
「邪魔《じゃま》をしたの」
といって手をふると、カーツを片手で引っさげ、龍守家にむかってガロンガロンと歩いていった。
と、その時。
敬礼してバルシシアの姿を見送る手力の腰で、ぶるるるる、と携帯電話がふるえた。
同時に、赤い首輪につけられた金色の〈ベル〉がキンと音を立て、カーツがバルシシアを見上げた。
『……すまないが、自主トレーニングをしているひまはないようだ』
「なに?」
『〈アルゴス〉から連絡《れんらく》が入った。この星系に正体不明の界面下航行体がむかっている。様子を見てこなければならん』
「なんじゃ、またか」
といって、バルシシアは手力の方をちらりと見た。手力は携帯を相手にふた言三言言葉を交わしたのち、
「――はっ、了解《りょうかい》です」
といって携帯を腰のホルスターに戻し、
「こちらも同様の指示を受けました。他のみなさんには、龍守家で待機をねがいます」と、バルシシアにいった。
「ふん」
バルシシアの手が、カーツをつかんだまま、無造作にふり上げられた。
くるりと回転しながら屋根よりも高く放り上げられたカーツを見上げ、
「早うすませてくるがよい!」と、バルシシアはいった。
『了解だ――〈スピードスター〉!!』
龍守家のベランダから飛んできた銀色の流線型をした物体が、カーツの体を放物線の頂点でキャッチした。
銀色の物体――|MTS《マルチプル・タスク・システム》〈スピードスター〉のコアユニットは、〇・五秒ほど滞空《たいくう》してカーツの体を格納すると、東の空にむかって急加速。ギュン、と空気を切り裂《さ》く音を残し、一瞬にして視界から消えた。
〈スピードスター〉はまず地上に隠《かく》してあったハイパードライブの一基とドッキングしたのち、大気圏《たいきけん》を離脱《りだつ》。さらに、衛星|軌道《きどう》上に待機する九基のドライブを始めとする装備群を回収し、〈アルゴス〉からの情報|支援《しえん》を受けつつ未確認航行体との接触《せっしょく》コースに乗った。
航行体は約二〇光速の速度で地球にむかっている。先日の〈マッパー305〉と同等のスピードだが、そのサイズは明らかに小さい。
そして、航行体は識別信号を発していない。つまり、所属不明の宇宙艦か、あるいは〈リヴァイアサン〉や〈マッパー〉のような恒星《こうせい》間生命体か……いずれにせよ、地球への接近を許すのは危険だ。
『この宙域を航行中の航行体、応答せよ――』
セオリー通りに共用周波数帯で呼びかけつつ、カーツはハイパードライブの一基の切りはなしをコマンドした。
水銀の粒が分裂《ぶんれつ》するように、〈スピードスター〉の流線型の機体の一部が、液体装甲の鏡面をゆがめながら分離した。最悪の場合、このドライブを衝突《しょうとつ》させ、航行体を撃沈《げきちん》することも辞さないつもりだ。
無論、このパワーバランスをあやうく保つ星系にあっては、些細《ささい》な判断ミスが破局の引きがねとなる。ぎりぎりまで状況《じょうきょう》を見極《みきわ》めてからのことになるが――
しかし。
切りはなされたドライブが突如《とつじょ》として回転数を上げ、ミサイルのように飛び出した。
それだけではない。残る九基のドライブも、カーツの意志とは無関係に、一斉《いっせい》に切りはなされ、コアユニットを置いて飛び出していく。
外部からの割り込《こ》み――おそらくは例の航行体からのものだ。
通信のためチャンネルを開放していたカーツにも油断があった。だが、MTSの暗号化された遠隔《えんかく》操作コマンドを、どうやって偽装《ぎそう》したのか。
航行体が突如としてコースを変えた。地球への予測進路から、ほとんど直角に加速する。〈スピードスター〉のハイパードライブ群も、それを追う形でコースを変えていく。
カーツは即座にドライブの一基のコントロールを奪《うば》い返すと、再結合。航行体を追って加速しながら、その姿を電子的に凝視《ぎょうし》した。
その「視線」を意識してか、航行体はカーツを挑発するように――尻をふるように蛇行《だこう》したかと思うと、さらに加速した。
――なるほど、そういうことか……!
のどの奥《おく》から狩人の唸《うな》りをもらしつつ、カーツは航行体にむけて、圧縮したコマンドを打ちこんだ。すると、〈スピードスター〉と同様に、航行体は水銀の粒のように弾《はじ》けた。航行体はMTS――〈スピードスター〉と同型の高|汎用《はんよう》機動システムなのだ。
カーツの介入《かいにゅう》によってハイパードライブを強制的に切りはなされ、一時的に推進力を失ったMTSに対し、〈スピードスター〉は急速に距離を詰《つ》めていった。二機のMTSは二十数基のハイパードライブをともない、界面下空間にいく重《え》もの螺旋《らせん》の航跡を描《えが》いて飛びながら、はげしい電子戦を展開した。通信波の周波数を刻々と変えながら、互いのコマンドを論理的にブロックし、あるいはそのブロックを迂回《うかい》し、併走《へいそう》するドライブの指揮《しき》権を奪い合う。
やがて、〈スピードスター〉がMTSに追いつくと、MTSの液体装甲の中から、Cプラス機関|砲《ほう》の六重砲身が突き出た。敵機からのロックオンを告げる警報が、身体感覚に翻訳《ほんやく》され、カーツの背筋を疾《はし》った。
だが――
『HA、HA、HA!』
砲口の凝視を受け止めながら、カーツはさらにMTSに肉迫《にくはく》し、まぎれもない歓喜《かんき》の響きをともなった波長で呼びかけた。
『〈スピードスター〉から〈クイックシルバー〉へ――冗談《じょうだん》はそのくらいにしておきたまえ!……さもないと、ご自慢のしっぽを半分に詰めてやるぞ!!』
その日の午後――
〈アルゴス〉の鈴木《すずき》が天井《てんじょう》にむけてぽわっとタバコの煙《けむり》を吐《は》き、
「……つまり、あんたのご同輩、ってことか」
といった。
『その通り』と、カーツは答えた。『彼女はケイト少佐、私と同じ、銀河連邦軍特務監察官だ』
そういってカーツが紹介したのは、一匹の牝猫《めすねこ》だ。カーツと同じくらいの大きさだが、ちゃぶ台の上に並ぶと、こちらはやや細身であることがわかる。体毛は鮮《あざ》やかな赤色。青い首輪に、カーツと同じ金色の〈ベル〉をつけている。
ちゃぶ台を囲む形で座る一同――龍守忠介、龍守|陽子《ようこ》、ミュウミュウ、バルシシア、鈴木、手力――それから、ペットボトルに入った〈教授21MM〉を見回し、
『よろしく、みなさん』といって、ケイトはしっぽをひゅっとふった。
「いやあ、どうもどうも」
「ミュウ」
「はっ」
忠介とミュウミュウが頭を下げ、手力が敬礼した。が、他のいく人かは、むっと不満げな顔をしている。
「この星にくるなとはいわんが――」と、一同を代表して、鈴木がいった。「事前に一報は欲しいところだな」
カーツだけではない。〈アルゴス〉の全システムが、未確認航行体――ケイトのMTS、〈クイックシルバー〉――への対応に力を割《さ》かれたのだ。彼らが相手にしなければならないのは、そうしたUFOだけではない。地球社会内部への各種働きかけや情報管理、〈青い地球〉を始めとする敵対勢力への牽制《けんせい》など、重要事項は山ほどある。警戒体制をとる間、それらへの対応が手薄《てうす》にならざるを得ない。
しかし――
『報告の義務はありません』
ケイトはぱたりとしっぽを鳴らすと、あごをつんと突き上げた。
『私たち特務監察官は、連邦領内における最大限の行動の自由を保証されています』
「なによ、それ」と、陽子がいった。買い物の途中《とちゅう》で家に呼び戻されたので、機嫌《きげん》が悪い。しかもまた、例によって居候《いそうろう》が増えそうな雲ゆきである。
『ここは連邦領ではない』と、カーツがいった。
『この星系は、中立地帯であり、緩衝《かんしょう》地帯であり、臨界寸前のノヴァ爆弾を収めた火薬庫なのだ。われわれは互いの陣営《じんえい》の利害や文化的|禁忌《きんき》に抵触《ていしょく》しないよう、最大限の注意を払う必要がある。ケイト、君は――』
『あなたの命令を受けるいわれもないわ、大尉[#「大尉」に傍点]。それより、お部屋に案内してくださる? 長旅で疲《つか》れているの』
ケイトはちゃぶ台から飛び下り、しっぽをひゅっとふった。
『それでは失礼、みなさん』
カーツがケイトを追って居間を出ていくと、
「なんなのじゃ、あ奴は!」と、バルシシアが聞えよがしの大声でいった。
いつもなら、バルシシアのそうした態度をいさめる陽子も、今日はむっとした表情のまま黙《だま》っている。
「……まあ、カーツが増援を要請《ようせい》しているって話は、前からあったがな」と、鈴木がいった。
「えーと……じゃあ、教授はあの人のこと知ってたんじゃないですか?」
と、ペットボトルを見ながら、忠介。超知性をもつアメーバ状生物の〈教授21MM〉は、地球‐銀河連邦間のテレパシー通信機の役目をになっているのだ。
はたして、
『当然でおじゃる』と、〈教授21MM〉は答えた。
「では、なにゆえにさっさといわんのじゃ」
『べつに聞かれなかったでおじゃる』と、教授。
『そもそも、まろはそのような瑣末《さまつ》なことには興味がないのでおじゃる。しもじものことは、しもじもでよきにはからうがよいでおじゃる。おほほほほ』
「なんじゃとこの――」
バルシシアの言葉をさえぎって、陽子がペットボトルを持ち上げた。そして、むむ〜っとした表情のまま、両手でしゃぼしゃぼしゃぼしゃぼ。
『ああっ! ふってはいかんでおじゃる! ふってはいかんでおじゃる!』
ケイトを案内した二階の宇宙人部屋で、
『どうやら、少々いたずらがすぎたようだな』
と、カーツはいった。
『地球側の対応力をこの目で見ておこうと思ったのよ』と、悪びれた様子もなく、ケイトは答えた。『あなたが出てきたのは意外だったけれど。仲よくやってるようじゃない』
『ふむ……だが、いらぬ刺激はさけてもらいたい。先にもいったが、この星系はきわめて微妙《びみょう》な状況下にあるのだ』
『あら』と、ケイトはいった。『ハイパードライブをさらに一四基、対艦武装一式に、対地抑止力《ダモクレス》ユニット――私はあなたが申請した通りの追加装備を持ってきたわ。……これが「刺激」ではないというの?』
『リスクは最小限に留《とど》めるべきだといっている』
『あなたの命令は受けません。私たちはともに同等の監察官権限をもち、さらにいうなら、今の私はあなたの上官に当たるのよ』
『その通りだ、ケイト。だが現場の判断は――』
『ああ、それから』ケイトは長いしっぽをひゅっとふり、『私のことは「閣下」と呼んでくださる?』といった。
カーツはしっぽをぱたりと鳴らし、
『……了解しました、閣下』といった。
それから、段ボールにバスタオルを敷《し》いた寝床を鼻先でしめし、
『ベッドはこちらでございます、閣下。トイレは一階にございます、閣下。粗相《そそう》などなされませぬよう、閣下』
そういって、部屋を出た。
そして――
――なぜ、こうなってしまうのか。
ひとり階段を降りながら、カーツは考えた。
――再び会えたなら、他にいうべきこと、いわねばならないことが山ほどあったはずだ。つまらないことで意地を張ってどうする。
ケイトは決して無能でもわからず屋でもない。それはカーツ自身がよく知っている。そもそも、無能な者が特務監察官の黄金の〈ベル〉を身につけることはありえない。だが……自分に対して見せる、あの愚劣《ぐれつ》ぶりはどうだ!
それはまた、自分自身にもいえることだ。
昔からそうなのだ。自分たちは、顔をつき合わせれば必ず、生後一ヵ月の仔猫に退行してしまう。
――まったく、なぜ、いつもこうなってしまうのか。
カーツはおのれの問いに対する答えを、すでに心の中にもっていた。
それは、彼らふたりが、あまりにもよく似ているからなのだ。
さて――
カーツらが二階にいる間に、鈴木と手力は帰ったようだ。
カーツが一階に下りると、台所から、陽子と忠介の話し声が聞こえてきた。
なにやら、買い置きの「猫缶のいい奴」こと「ネコスキー・スペシャルゴールド缶」を下ろすかどうかでもめているようである。
「いやあ、だってお客さんだし……」という忠介に、
「あの人もどうせ居候になるんでしょ。もったいないからダメ」という陽子。
加えて、
「貸せ! そんなものはわらわがひと口に片づけてくれるわ!」
「ギギッ!?」
という、居間からの声を聞きながら、カーツは台所に入っていき、
『彼女は同居人にはならない』といった。『できる限り、早急に帰ってもらう』
「あ、そうなんだ」
陽子の表情が、ぱっと明るくなった。
「おニイ、やっぱいちばんいいの出して」現金なものである。
「はあ」
忠介はカーツの気の浮かない様子がちょっと気になったのだが、
――とりあえず、陽子の機嫌が直ったのはよかったなあ。
と思った。
もっとも、せっかく直った陽子の機嫌は、夕食の際の、
『まあ、代用食としては、我慢《がまん》できなくもないわね』
というケイトのコメントによって、再びぶち壊《こわ》しになるのだが。
翌日、カーツの案内のもと、ケイトは地球のいくつかの地域を視察した。
〈アルゴス〉の施設《しせつ》のいくつかと、倉本小隊の所属する駐屯地《ちゅうとんち》。自前のMTSを使用しているので、移動はすみやかだ。半日ほどで外回りを終えたふたりは、次いで龍守家を中心とするカーツのテリトリーを散策し、やがて、龍守家の前に戻ってきた。
むかいの郷田荘の前で、赤い00[#「00」は縦中横]式にホースで水をかけて洗っていた手力が、
「おっ、少佐どのに大尉どの、お帰りでありますか」といって、敬礼した。
『うむ』
カーツはしっぽをふって答礼し、郷田荘に歩み寄った。
「ヘッハッハッハ」
犬小屋から出てきたジロウマルが、大きな鼻づらを寄せてカーツの顔をなめた。それから、ケイトの体をふんふんと嗅《か》ぎ、「シャッ」と威嚇《いかく》されて、ぴゃっと跳《と》びすさった。
洗車用具を片づけ、00[#「00」は縦中横]式を定位置に戻した手力が、
「では、ごゆっくり」
といって奥に引っこむと、カーツは待機姿勢の00[#「00」は縦中横]式に飛び乗った。00[#「00」は縦中横]式の上部装甲は、カーツのお気に入りの休憩所《きゅうけいじょ》なのだ。
ケイトがカーツに続き、ふたりは並んで丸くなった。やわらかな熱をはらんだ装甲の上で、わずかに残った水滴が急速にかわいていく。
ぬれた地面から立ち上る土の匂《にお》いに鼻をひくつかせながら、ケイトはいった。
『ここはいいところね。まるで――』
『ああ』と、カーツは答えた。多くの言葉は必要なかった。
ケイトは軽く伸びをすると、空を見上げ、ほおひげを微風にそよがせた。
『私も、しばらくこの星で羽根を伸ばそうかしら』
しかし――
『それはお薦《すす》めしかねますな、閣下[#「閣下」に傍点]』と、カーツはいった。『この惑星は、見た目よりもずっと多くの危険をはらんでいる。早急に立ち去るのが賢明《けんめい》だ』
『まあ!』と、ケイトはいった。『そういうあなたこそ、さぞかし賢明でいらっしゃるんでしょうね!』
ケイトは00[#「00」は縦中横]式から飛び下り、小走りに遠ざかった。
『待て、ケイト』と、カーツがいった。
ケイトは前庭の端のブロック塀に飛び乗りながら、
『お伴《とも》は結構! この周囲の地理は、もう把握《はあく》したわ』
『そうではない――その塀を越えるな!』
「バウッ!」
塀の真下から急に吠えかかられ、ケイトは思わずバランスをくずした。その足元で苔むしたブロックがすべり、ケイトは塀の内側に転落した。
『ケイト!』
地上では、巨大なブルドッグ――中野家のブルが、地獄の入口のような真っ赤な口を開けて待ちかまえていた。地上に落ちた彼女の後ろ足を、刃物のようなするどい牙がとらえた。
「ギャウッ!!」ケイトののどから、獣《けもの》の悲鳴がもれた。
ブルドッグは左右に首をふってケイトの体をふり回し、放り上げた。宙を飛び、地面に叩《たた》きつけられたケイトは、反射的に半身を起こした状態で硬直した。激痛が思考力を弾き飛ばし、恐怖が行動力を吹き飛ばしていた。
唇《くちびる》をめくり上げ、むき出した牙のすき間から腐臭《ふしゅう》のする呼気とよだれ混じりの歓喜の唸りをもらしながら、ブルは頭を低くし、後ろ足をばねのようにたわめた。獲物に跳びつき、ひと噛みで仕留めようという姿勢だ。ケイトの全身の体毛が、恐怖に逆立った。
その時、
「シャ――――――――――ッ!!」
塀の上から、はげしい威嚇の声が投げかけられた。
ブルの視線がケイトからそれた瞬間、声の主――カーツは、
『走れ、ケイト!』と叫んだ。
だが、ケイトは混乱し、行動に躊躇《ちゅうちょ》した。
ブルの意識は再びケイトにむけられた。塀の上の青猫は脅威《きょうい》ではない。まずは確実に仕留められる獲物から――
しかし、ブルはカーツを見くびっていた。
「ジャアッ!!」
カーツは四肢《しし》の爪《つめ》をいっぱいに伸ばしながら、ブルの背の上に飛び下りた。同朋《どうほう》を守るために自らの命を賭《と》すことに対し、〈|黄金のベルの男《マン・オブ・ザ・ゴールデンベル》〉はためらうことがない!
カーツはブルの背に爪を立て、首筋にかじりついた。ブルは体をひとふりして、カーツをふり飛ばし、再びケイトにむかった。だが、地面の上を一回転して立ち上がったカーツはブルの尾に跳びつき、思いきり牙を突き立てた。
「ガウッ!」
首を回して噛みつこうとするブルから飛びはなれながら、
『なにをしている! 走れ!』と、カーツが再び叫んだ。
ケイトはその声でわれに返り、びっこを引きながら距離を取り始めた。
カーツにむかって頭を低くしながら、
「ガルルルルルル!」と、ブルが唸った。
大きく弓なりにした背を高く突っ張り、
「フシャ――――――――――ッ!!」と、カーツが叫んだ。
体重差は一〇倍以上、だが、闘志において両者は互角だ。
『カーツ!』
ケイトがふり返ったちょうどその時、
「ガウッ!」ブルは顔を突き出してカーツを襲った。
「ジャッ!!」カーツの前足の爪が、その鼻づらを引っかいた。
ブルは顔をそむけながら、前足をふってカーツをはね飛ばした。カーツは地上を二回転したのち、その勢いを利用して横ざまに跳んだ。ブルのするどい牙が、カーツのいた空間にがちりと音を立てた。
カーツはブルの前足からぎりぎりの間合いをとり、フェイントを交えながら、じりじりと後退した。ケイトの脱出までの時間をかせぐ構えだ。
だが、ケイトの後ろ足のダメージは深かった。塀を越えて跳躍《ちょうやく》する力はない。
たとえそうでなくとも、ケイトもまたク・ドランであり、黄金の〈ベル〉をもつ特務監察官だ。仲間をおいて逃げることは考えられなかった。ケイトは自らのもてる能力の中から、ひとつの手段を選択《せんたく》した。
ケイトの〈ベル〉が作動し、衛星軌道上に待機する〈クイックシルバー〉にリンクした。
〈クイックシルバー〉はカーツに引き渡す予定の対地抑止力《ダモクレス》ユニット――すなわち対地攻撃兵器の集合体――を搭載《とうさい》している。対地|狙撃《そげき》用ハイパーウェーブ・レーザー砲が、ケイトのコマンドによって照準・射撃プロセスを開始した。対地レーザーの精度は、ブルドッグのみを地上から消滅《しょうめつ》させるに充分《じゅうぶん》だ。
――いかん!
ケイトの意図を悟《さと》ったカーツが、そのコマンドに割りこみ、プロセスを凍結《とうけつ》した。
闘争の最中《さなか》に、一瞬のすきが生じた。
カーツの肩口にブルが食らいつき、その体を持ち上げ、地面に叩きつけた。
「ギャオッ!」とカーツは吠えた。
『カーツ!』
ケイトは対地レーザー射撃を再コマンドした。だが、
『やめろ、ケイト!』
強大な牙に毛皮を引き裂かれながら、カーツは再び射撃プロセスに介入した。
『ユニット≠ヘ使用するな――たとえ、私が死んだとしてもだ!』
うかつな攻撃は、この惑星のパワーバランスにどんな余波をもたらすかわからない。それはあくまで「最後の手段」だ。その引き金が、自分の命程度[#「自分の命程度」に傍点]と引き換えに引かれてはならない!
一方ブルは、自分が痛めつけている小さな獲物が、間接的にとはいえ、自分の命を守ろうとしている――その事実を知らない。
巨大なブルドッグは、致命の一撃を加えるべく、小さな猫の体を一旦《いったん》口からはなした。カーツはボロ切れのように地上に転がった。
と、その時――
「なにをしておるのじゃ、貴様らは」
いつの間にきていたのか、バルシシアが塀にひじを突いて、中野家の庭をのぞきこんでいた。背後では、ジロウマルがオンオンと吠えている。バルシシアはいつになくうるさく吠えるジロウマルの様子を見にきたところで、中野家の騒《さわ》ぎを聞きつけたのである。
「グルル……!」ブルは大きなうなり声を上げて、バルシシアを威嚇した。
「ハ」バルシシアは口の端に嘲笑《ちょうしょう》めいた笑みを浮かべながら、ブルをにらみつけた。その両目から高密度の光線が発し、チュン、と小さな音を立てて、猛犬のひたいを焼いた。
「キャンッ!?」
ブルは悲鳴とともに飛び上がり、しっぽを巻いて犬小屋に飛びこんだ。
ケイトが地球を去ったのは、翌日の夕方だ。
龍守家の屋根の上で、カーツとケイトは別れを惜《お》しんだ。大きなパラボラアンテナが、夕目に映えて赤く染まっている。カラスの鳴き声が、遠く聞こえてきた。
カーツの胴体とケイトの後ろ足には、忠介の手で包帯が巻かれている。ケイトに比べると、カーツはやや重傷だ。
MTS用の各種装備は、昼間のうちに滞《とどこお》りなく引きつがれた。あとは、ケイトが地球を去るばかりのはずだったが――
『実は、あなたにまだ渡していないものがあるの』と、ケイトがいった。
『申請した装備は、すべて受領したが?』
『監察局本部からの辞令よ』
『辞令…?』
ケイトは背筋を正して座りなおすと、しっぽをひゅっとふり、
『特務監察官カーツ大尉に、本日づけで大佐への昇進と、地球総督への任官を申し渡します』といった。『三階級特進、大変な快挙だわ――おめでとうございます、閣下』
『それは……光栄の至りだな』と、カーツはいった。
だが、カーツは理解している。その急な昇進は、銀河連邦軍の人的資源の枯渇《こかつ》をしめしている。先の〈リヴァイアサン〉捕獲作戦は、あまりにも多くのものを犠牲《ぎせい》にしたのだ。あまりにも多くの、先達《せんだつ》や同朋の命を。
『……屍《しかばね》の山の上の栄光か』と、カーツは呟《つぶや》いた。
『その通りね……でも、あなたには[#「あなたには」に傍点]それを受けとる権利が十二分にあるわ』と、ケイトはいった。『あなたは銀河連邦を代表して戦っているんですもの。それに引きかえ、私が生き残り、昇進したのは〈リヴァイアサン〉を捕捉《ほそく》しそこねたから――自らの無能と悪運のためなのよ』
『そんなことはない』と、カーツはいった。
『ああ、こんなことをいうつもりじゃなかったのよ』と、ケイトはいった。『私はただ、あなたが生きていることが、とてもうれしい。……そういおうとしただけ』
『私もだ』と、カーツ。『私も君に、そういおうと思っていた』
『あら、あなた、お世辞もいえるようになったのね』と、ケイトが笑った。
カーツはその言葉に反論しようとしたが、やめた。言葉は意味を持たなかった。
ケイトがカーツの胸に頭をこすりつけた。
カーツはケイトの首筋を、そっとなめた。
やがて、
『……それじゃ、もういくわ』
といって、ケイトは〈クイックシルバー〉を呼び出し、そのコクピットに収まった。
『また会いましょう、カーツ。……必ず、また生きて会いましょう』
『心配はいらん。私は君よりずっと上手《うま》くやる』
『まあ!』と、ケイトはいった。『あなたってやっぱり、鼻もちならない自信家だわ!』
〈クイックシルバー〉はカーツの目の前で三度機体の尻をふると、
ドンッ――
夕焼けの空をつらぬいて、一瞬にして飛び去った。
カーツが宇宙人部屋に戻り、
『今帰った』
というと、ベッドの上にあぐらをかいたバルシシアが、顔も上げずに、
「おう」と答えた。
カーツは寝床の段ボールの中に入ると、のろりと丸くなった。
「ダッシュ五本を三セット、バランス三〇秒を五セット、と……」
バルシシアはぶつぶつと呟きながら、雑誌を下敷代わりにして、チラシの裏にボールペンでなにごとか書き記している。
『なにをしているのかね?』
「特訓の新メニューを考えておるのじゃ。休みの分は溜《た》めておくゆえ、早く体を治すがよいぞ。……うむ、そうじゃ、りはびり[#「りはびり」に傍点]の分も足してやろう。遠慮《えんりょ》はいらぬ」
と、さらにボールペンを動かしたバルシシアは、そこではじめて顔を上げ、
「赤猫めは帰りおったか」といった。「ハ、あの高慢ちきめ、いなくなってせいせいしたの」
『まったくだ』と、カーツは答えた。
カーツはケイトの匂いの残るバスタオルに顔をうずめながら、
『……まったくもって、あれは生意気な女だよ』といった。
[#地付き]〈つづく〉