タツモリ家の食卓
第2回 猫と生活
[#挿絵(img/D-hp11_222.jpg)入る]
[#改丁]
「む…」
二階の宇宙人部屋の「銀河連邦領」の片すみで、バルシシアは息を止め、構えたわり箸《ばし》に意識を集中した。忠介《ただすけ》(ミュウミュウつき)とカーツが、その背後から手元をのぞき込《こ》んでいる。
カーツの猫トイレの中にそろりと差し入れられた箸先が、親指ほどの大きさのできたて猫糞[#「できたて猫糞」に傍点]をつつき、そのホカホカの表面にトイレ砂をまぶすように、ころり、ころりと転がし、そっとつまみ上げた。
バルシシアの広げた左|掌《てのけら》の上には、何重にも畳《たた》んだトイレットペーパーが敷《し》かれている。この上に猫|糞《ふん》を乗せ、トイレまで運んで流す予定だ。
だが、バルシシアはまだ、箸を使うことに慣れていない――ふるえる箸先が、猫糞をぽろりと取り落とした。
「――ぬっ!?」
思わず伸ばした左手が、猫糞を弾《はじ》いた。
「ぬうっ!!」
エラーした野球のフライをグローブが追うように、バルシシアの左手はトイレットペーパーをふり落としながらさらに猫糞を追い、顔の前でそれを捕《とら》えた。
勢いあまったスピードと握力《あくりょく》が、猫糞をぐちゃりとつぶした。
トイレ砂とともに飛び散った柔《やわ》らかな破片が、生あたたかいしぶきとなって、ぴぴぴっ、と、バルシシアの顔と頭に当たった。
「くわあああっ!!」[#「「くわあああっ!!」」は本文より1段階大きな文字]
バルシシアの怒声《どせい》は一階の風呂場まで響《ひび》き、入浴中の陽子《ようこ》が、湯船から身を乗り出した。
「殿下《でんか》――?」
陽子がみなまで言わぬうちに、ドドドドドバーン、と、階段を駆《か》け下り脱衣場《だついば》を抜《ぬ》けたバルシシアが、風呂場に飛びこんできた。
「きゃっ、なに!?」
湯船に飛びこむ陽子を横目に、バルシシアはぽぽぽいと服を脱《ぬ》ぎ、シャンプー代わりに使っているクレンザーを頭にぶちまけると、
「ぬおおおお!」ガシュシュシュシュ!
と、頭を洗い始めた。
そもそも、ことの起こりをいえば――
昨夜、夕食のあと、
「おニイ、お皿洗うの手伝って」と、台所から居間へ声をかける陽子に、
「はいはい」と答え、忠介は立ち上がった。
そこに、
「忠介」と、バルシシア。
「はいはい、なんでしょう?」
「てれびが映らんのじゃ。なんとかせよ」
「あ、えーと、出力モードが『ビデオ』になってますね――はい、OKです」
リモコンを置いて台所にむかおうとする忠介に、
『忠介、すまないが、私のトイレの始末をたのむ』と、カーツ。
「あ、はいはい」
忠介が二階に上がってカーツの猫トイレを掃除《そうじ》し、
「すみましたー」
といって、とった猫糞を人間トイレにドジャーと流して出てきたところに、
「ミュウ」と、忠介のシャツのすそを引っぱりながら、ミュウミュウ。
「え、なに? お散歩?」
忠介はミュウミュウを小わきにかかえ上げながら台所をのぞきこみ、
「えーと……陽子?」
「いいわよ、いってきて」と、ちょっと不満げに、陽子。「ついでにジロちゃんにごはんあげて」
「はーい、いってきまーす」
「ミュウ〜」
『うむ、私も同行しよう』
忠介、ミュウミュウ、カーツの三人はぞろぞろと玄関にむかい、陽子は冷蔵庫に夕飯の残り物を入れる手を止めて、その背を見送った。無意識のうちに、む〜っと口をとがらせている。
やがて、三人が玄関から出ていくと、おもてからジロウマルのオンオンと鳴く声が聞こえてきた。そして居間からは、カカカカカ、と、バルシシアがテレビを見ながら笑う声。さらに手元の冷蔵庫の中からは、ペットボトルに入った液体宇宙人〈教授21MM〉が、
『まろの部屋を開けるときにはノックをするでおじゃる』
「そこはうちの冷蔵庫です!」
陽子はなにやら急に理不尽《りふじん》な怒《いか》りに駆られながら、冷蔵庫をバタンと乱暴に閉めた。
それから居間に入り、
「殿下」
「うむ、なんじゃ?」
ふり返るバルシシアに陽子は、
「お部屋にもテレビあるじゃない。なんで下で見てるのよ」
なんだかいいがかりっぽいその言葉に対し、バルシシアは、
「こちらのほうが、画面がでかいのじゃ」と、こちらはなんだかいいわけっぽい。
実のところをいえば――
バルシシアは、ひとりでいることを好まない。まわりの者がいそがしく立ち働いている中でふんぞりかえっている、といった状況《じょうきょう》が、彼女にとっては最も望ましいのだ。
一方陽子にとって、それははなはだ面白《おもしろ》くない。バルシシアが部屋にこもっているならともかく、「そこにいるのに働かない」のは、なんだか自分が損をしているというか、馬鹿《ばか》にされているような気がしてくる。かといって、バルシシアになにか仕事をさせるには、こちらから下手に出て頼《たの》まなければいけない。それもなんだか癪《しゃく》だ。
そこで、
「殿下、あたしテレビ見るからどいて」といって、陽子はちゃぶ台についた。
バルシシアの部屋にテレビを置くにあたって、「居間のテレビは陽子に優先権があるものとする」というルールが設定されている。
だが、
「うむ?」
バルシシアはきょとんとした顔で、
「皿を洗うのじゃろ? 苦しゅうない。存分に洗うがよいぞ」
「それはあとにしたの」と陽子。
「おかしな奴《やつ》じゃの」
バルシシアはテレビに目を戻《もど》し、ちゃぶ台にほおづえをつきながら、
「こまーしゃるになったら代わってつかわすによって、そこで待っておれ」
陽子は「うん」とも「いや」とも答えず、む〜っと無言。
「……なにを怒《おこ》っておるのじゃ?」と、再びふり返るバルシシアに対し、
「……別に」ぷいと横をむく。
で。
忠介たちが帰ってくるのを待って、陽子は家族会議を招集した。
議題は「殿下にも、家の中のことをやってもらいましょう」。
「なんでわらわだけが」と口をとがらせるバルシシアに、
「だって……」と陽子。
「ミュウちゃんはまだ小さいし、大尉《たいい》はニャンコだし、教授は」
陽子はちゃぶ台に出されたペットボトルをちらりと見た。
黄緑色に発光する粘性《ねんせい》の液体――「教授」こと銀河連邦の〈教授21MM〉は、ボトルの中で、たぷんたぷぅん、と波打ちながら、
『おほほほほ、まろがどうかしたでおじゃるか?』
「……教授は、なんだかよくわからないし」と陽子。
とにかく、陽子にしてみれば、相手がカーツ大尉や〈教授21MM〉くらい人間ばなれしていれば、はなから「労働力」とは認識《にんしき》しないのだが、バルシシアはなまじ外見が地球人に近いだけに、「ただのなまけ者」に見えてしまうのである。
しかし、そういわれたところで、バルシシアは納得《なっとく》しない。
「わらわより先に、このくそ猫に芸のひとつもしこむがよかろう」
と、カーツを指さし、
「なにしろ食って寝ておるだけなのじゃから」
自分のことは棚《たな》に上げている。
『いや、それはちがうな、バルシシア』
ちゃぶ台の上に座り、背中の毛をくしゃくしゃにするミュウミュウの手を「ちゃいっ、ちゃいっ」と前足で牽制《けんせい》していたカーツが、きりっと顔を上げた。
『私はこの家庭におけるペットとして、他の構成員に対して貢献《こうけん》している。愛らしいしぐさによってみる者の心をなごませるほか、このように(ちゃいっ)毛皮をなでたりノミをとったりといった、さまざまな娯楽《ごらく》を提供しているのだ』
――「ノミをとる」のって、「娯楽」なのかしら。
と陽子は思ったが、
「ノミとるの楽しいですよね」と忠介が相づちを打つので、口に出しそこねる。
一方、不満顔のバルシシアは、
「……わらわにシラミでも飼えと申すか」といって、頭をバリバリとかいた。「いっておくが、わが故郷の掘削《くっさく》ジラミにつかれた日には、貴様らのヤワな頭蓋骨《ずがいこつ》など一撃《いちげき》で貫通《かんつう》するぞ」
「そういうことじゃなくて――」
陽子の言葉を継《つ》いで、
「せっかくの殿下の力を、遊ばせておくのはもったいない、ってことだよね」と、忠介がいった。
「え……うん、そうそう。そういうこと」陽子が調子を合わせると、
「うむ? ……ふむ、『せっかくの力』」
バルシシアは腕を組んで、
「わらわに何をせよと?」さっそく機嫌《きげん》が直ったようだ。単純である。
だが――
「それじゃあ、『大尉の世話』を殿下の担当にしましょう」
という陽子の提案に、バルシシアは猛《もう》反対した。
「なぜわらわがくそ猫のくその始末をせねばならんのじゃ!? くそ毛玉などは、くそにまみれておるのが似合いじゃ!」
バルシシアにびしっと指さされたカーツは、不満げな様子で、しっぽを座布団《ざぶとん》の上にぽすんと打ちつけた。
「くそくそって大声でいわないで」と、陽子。
「くそをくそといってなにが悪い」
陽子の表情が、むむ〜っと渋《しぶ》くなった。「宇宙人のことは宇宙人同士で片づけてくれれば」程度の思いつきだったが、そんないわれかたをすると、こちらも意地である。
「とにかく、決まりだから」といって、陽子はバルシシアをじろりとにらみつけた。
バルシシアは口をぱくぱくさせながら、忠介の顔をちらりと見た。
しかし、たのみの忠介は、助け船を出す代わりに、
「んんー、それ、いい考えかも」
普段《ふだん》は口も利《き》かないカーツとバルシシアが、こういうきっかけで仲よくなってくれれば、という理屈《りくつ》である。
だが――現在。
忠介が飛び散った猫糞を掃除し終えるころ、風呂から上がったバルシシアは宇宙人部屋に戻ってきた。
「いやあ、大|惨事《さんじ》でしたね」と、うんこの飛んだタンスに雑巾《ぞうきん》をかけながら、忠介。
『ふむ。もう少し、訓練の必要がありそうだな』と、カーツ。
カーツは長いしっぽをミュウミュウの前で、ぱたり、ぱたりとふっている。忠介の作業を邪魔《じゃま》しないよう、ミュウミュウの気を引いているのである。
「ふん」
バルシシアは「グロウダイン帝国領」のベッドの上にどさりと転がりながら、
「馬鹿馬鹿しい。なぜわらわがくそケダモノのくその始末をせねばならんのじゃ」
『その件については、君もすでに了解したはずだ』と、カーツ。
バルシシアは顔もむけずに、
「うるさい。貴様がくそなどたれねばよいのじゃ。尻《しり》の穴に栓《せん》でもしておけ」
『無茶をいわんでくれたまえ』
……なにやら、余計に仲が悪くなりそうな雲ゆきである。
翌日、午後。
バルシシアは縁側《えんがわ》でカーツにブラシをかけていた。
元来、力かげんのたぐいが苦手なバルシシアは、カーツの体に血が出そうないきおいでごりごりとブラシを当て、毛がもつれて引っかかったりすると、力まかせにぶつんと引き切ってしまう。
ギャオッと跳《と》びはねたカーツが、顔を上げながら、
『もっとていねいにしてくれたまえ!』というと、
「うるさいわッ」
その首根っこを押さえ、さらにごりごりとブラシを当てる。
そこに、
「殿下、終わったら大尉のお皿洗ってね」と、サッシを開けながら、陽子。
バルシシアはむむ〜っと不機嫌な顔をすると、さらにブラシをごりごりごりごり。ギャオオオオ、とカーツ。
さて、それから。
バルシシアがカーツの餌皿《えざら》を洗い終えたころ、陽子の同級生の美咲《みさき》が龍守《たつもり》家を訪れた。
宇宙人がらみのごたごたで(というのは秘密だが)学校を休んでいる陽子のために、美咲はたびたび、学校帰りに授業のノートを持ってきてくれているのだ。
当初、
「コピーしてこよっか?」
と美咲はいっていたのだが、陽子はその申し出を断り、毎度、ちゃぶ台の上に自分のノートを広げ、生真面目《きまじめ》に手書きで写しをとっている。
「そうしないと勉強にならないでしょ」というのが理由のひとつだが、いまひとつには、美咲のノートが、コピーを見ただけでは意味がわからない、というのもある。
たとえば、先日見せてもらった日本史のノート。
『645年、大化のカイシン。アニキ&カマカマVSエミー&イルカ』あだ名で書かれても困る。
しかもその横には、
『イルカの必殺技はドルフィンキック』
などと、うそっぽい豆知識(イラストつき)がコラムになっていて、ますますわけがわからない。
ちなみに、このようなノートをとっている美咲が授業内容を理解していないのかというと決してそんなことはなく、
「『エミー』って、なによ」と聞くと、
「ソガノエミシって人」と、ちゃんと答えるし、そら[#「そら」に傍点]で「蘇我蝦夷」と書くこともできる。たしか、テストの成績もそれほど悪くなかったはずだ。
――ひょっとすると、美咲ってすごく頭がいいのかも。
と、陽子は思う。
――授業の内容を覚えちゃってるから、まともなノートをとる必要がないのかも……。
ま、それはさておき。
陽子は美咲の古文のノートを広げ――
『ちょけり(自ラ変)――ちょけら/ちょけり/ちょけり/ちょける/ちょけれ/ちょけれ』
「この、『ちょけり』って、なに」
「あたしの考えた動詞でちょけり」
陽子は「う〜っ」とうなりながら、教科書とノートを突《つ》き合わせて、暗号解読のノリで授業内容を要約していく。
その様子を見ていた美咲は、しかし三〇秒で飽《あ》きて、テレビを見ているバルシシアにちょっかいを出し始めた。
「殿下〜、かまってン」
背中にしなだれかかる美咲を、どーんと突き放しながら、
「断る」とバルシシア。
他種族の者とほいほいとなれ合うのは好まない――と本人は主張しているが、要はバルシシアには、少々人見知りの気があるのである。それにまた、美咲の行動パターンは、バルシシアの苦手とする航海師ゼララステラに似たところがあるかもしれない。なれなれしいところとか。
ともあれ、バルシシアに押しのけられた美咲は、よろりら〜、と部屋の中を横断し、ぱたりと倒《たお》れながら、
「じゃ、大尉と遊ぽっと」
といって、部屋の隅《すみ》に積まれた座布団の上で丸くなっていたカーツのしっぽを、はっしとつかんだ。
それから、座布団に爪を立てるカーツをベリリと引きはがし、その両前足を持って立ち上がらせて、
「は〜ァ猫じゃ猫じゃ、猫じゃ猫じゃ」
と、でたらめな節をつけて歌いながら、よいよいよい、とおどらせる。カーツは目いっぱい不満な顔をするが、おかまいなしである。
バルシシアはそのさまをちらりと見ると、
「ふん、くだらん」
とテレビに目を戻し、一方陽子は、
「制服、毛だらけになっちゃうわよ」と、顔も上げない。
「……」
ふたりに無視された美咲は、よいよいよい、とカーツをおどらせながら、つまらなそうな顔。
それからしばらくして、
「殿下、殿下?」
とんとん、と、バルシシアの肩が叩《たた》かれた。
「……なんじゃ」
うるさそうにふり返ったバルシシアのほおに、美咲のもったカーツの前足の肉球が、うにゅっと押しつけられた。
「ぱ〜んち」
「……」
バルシシアの表情が、む〜っと渋くなった。
その鋼鉄の指がすっ[#「すっ」に傍点]と伸び、デコピンの要領でカーツの鼻先を弾いた。
カーツはギャオッとひと声鳴くと、美咲の手から身をもぎ離し、部屋中を駆け回り始めた。
「うっしゃっしゃっしゃ」と美咲が笑い、
「ふん」とバルシシアが鼻を鳴らし、
「もう、静かにしてよ」と、陽子がいった。
しばらくすると、カーツはテレビのうしろのすき間に逃《に》げこみ、そこに腰《こし》を落ち着けた。そして、
「大尉〜、おいで〜、遊ぼ〜」
美咲の猫なで声には聞く耳もたず、ぺろぺろと毛づくろいを始める。
すると――
美咲はどこからもってきたのか一メートルほどのひもを取り出し、
「にンにきにきにき、にンにきにきにき――」
と鼻唄《はなうた》を歌いながら、自前のハンカチに結びつけた。それから美咲は、ひもの端《はし》をもつと、テレビの台座と壁《かべ》のすき間に近い位置にハンカチを下ろす。即製《そくせい》のねこじゃらしである。
「にンにきにきにきにンにンにン♪」
カーツがハンカチに気づくのを待ってから、ぴくっ、ぴくっ、とひもを引っぱると、無関心をよそおいつつ横目でそちらを見るカーツの体が、ぴくん、ぴくん、と反応する。
ただ動かすのではなく、しばらくじっと止めたのち、カーツが興味《きょうみ》を失いかけた瞬間《しゅんかん》にちょっとだけ「ぴくっ」とやるのがコツである。それに応じるカーツの「ぴくん」は次第《しだい》に大きくなり、やがて、カーツはハンカチの見え隠《かく》れするすき間にむかってじりじりと近づき始めた。ちなみに、その挙動の一部始終は、壁に顔をつけるようにしてテレビの裏をのぞきこむ美咲につつぬけである。
一方、その美咲の尻がテレビの画面の前にせり出してくるのをぐい〜っと押し戻しながら、
――また、つまらんことをしておる。
と、バルシシアは苦い顔をする。
やがて、
「それっ!」
というかけ声とともに、美咲は思いきりひもを引いた。はねるように動くハンカチを追って、カーツがテレビの陰《かげ》から飛び出した。
「あはははは、釣《つ》れた釣れた」
美咲が右に左にハンカチをあやつりながら移動すると、カーツはそれを追って部屋中をドダダダと駆け回った。タンスを駆け上り、ちゃぶ台の上を走り抜け、花瓶《かびん》をけたおし――
「静かにしてったら!」という陽子を尻目に、
「うっしゃっしゃっしゃ」
と笑いながらハンカチをひざの高さでぴんぴん動かし、カーツをうにゃにゃにゃっ、とじゃれつかせていた美咲が、ふと、バルシシアの表情に目を留《と》めた。
いつの間にか、バルシシアは美咲のほうをちらちらと見ていた。口を半開きにしながら、ハンカチの動きを追って、体をわずかに泳がせている。
美咲が「うしゃっ」と笑いながら、顔の横にハンカチを持ち上げ、
「殿下もやる?」
というと、バルシシアはあわててむっとした表情を作り、
「ふん」畳の上にごろりと転がった。
夕方、美咲が帰るのと入れ替《か》わる形で、買い物に出ていた忠介(ミュウミュウつき)が帰ってきた。
「ふうん、美咲ちゃん、きてたんだ」
「大尉と大さわぎしてたのよ」と、ちらかった部屋を片づけながら、陽子。
座布団の上で丸くなっていたカーツはしっぽをひゅっとふり、
『やれやれ、道化をつとめるのも楽ではないよ』といった。
それを聞いて、
「うそをつけ。思いきり楽しんでおったくせに」とバルシシアが毒づくが、
『HA、HA! たまには童心に帰るのもいいものだな』と、カーツは照れもしない。
「ぬかせ」
バルシシアがごろりと転がると、丸まったハンカチが手にふれた。見れば、美咲の忘れていった、手製のねこじゃらしである。
ねこじゃらしを手にしたバルシシアが、なにとはなしにカーツのほうを見ると、こちらを見るカーツと目が合った。
「……ふん、くだらん」
バルシシアはねこじゃらしをぽいと放ると、ごろりと寝返りを打った。
「殿下、ちらかさないでよ」と陽子。
台所では、
『早く閉めるでおじゃる。まろはぬるまってしまうでおじゃる』
「いやあ、すいません」
などといいながら、忠介が夕食の食材を冷蔵庫に詰《つ》めている
やがて、居間に戻ってきた忠介は、スーパーのビニール袋から『月刊 猫と生活』の今月号をとり出しながら
「今月、トイレのしつけの特集だそうなので、買ってきました」
『私の排泄《はいせつ》行為《こうい》に問題はないはずだが?」と、カーツ。
「ええ、でも、殿下の意見も聞いて、もうちょっと相談してみましょう」
といって忠介は、にゅい、と笑った。
で、それから。
陽子が夕食の支度《したく》を始めると、忠介とカーツ、バルシシアの三人は、頭を突き合わせるようにして『猫と生活』誌に見入った。
「トイレの設置場所は、えー、うちの場合は『部屋の中』ですね。『お掃除のしやすさで選ぶなら、人間用のトイレや洗面所などが便利』だそうですけど、どうですか?」
日本語が読めるのは忠介だけなので、忠介がふたりに解説するような形になる。
「ふむ、くそをもって歩かずにすむのなら、それがよいな」
『私としては自国領内が望ましいが……よろしい、そこは譲歩《じょうほ》しよう』
「じゃ、一応トイレが第一候補ということで」
忠介は赤ペンで雑誌に印をつけつつ、
「あ、容器もいろいろあるんですね。大きく分けて、『固まる砂用』と『普通の砂用』――じゃあ、砂を先に選んだほうがいいですね」
と――
べろりべろりとページをめくる忠介の手を、「む、待て」と、バルシシアが制した。
「はい?」
指示に従って忠介が戻したページの、一葉の写真をバルシシアは指さした。
「これはなにをしておるのじゃ?」
写真の中では、一匹の猫が、人間用の洋式便器の便座の上に足を突っぱって、力んでいる。
「はあ、ええと――『猫ちゃんの中には、人間用のおトイレの使い方をおぼえてくれる子もいます』」
「それじゃ!」と、バルシシアはひざを打った。
で。
忠介、バルシシア、陽子、ミュウミュウの立ち合いの下、カーツは人間用トイレの使用を試みた。
便座の上に飛び乗り、ふらふらとバランスをとりながら足を踏《ふ》み換《か》え――
ドボン、ギャオオオ![#「ドボン、ギャオオオ!」は本文より1段階大きな文字]
数分後、「はっはっは」と笑う忠介にタオルでふかれながら、
『まったくもって、ナンセンスだ』と、カーツはいった。
「殿下、『できないときには、無理《むり》強《じ》いはいけませんね』って書いてあるけど……」
と、『猫と生活』を広げながら、陽子はバルシシアの表情をうかがった。
だが――多少は残念そうな顔をするかと思ったバルシシアは、気にした風もない。むしろ楽しげに、にやにやと笑っている。
「どうするの?」
「知れたことよ」
バルシシアはにたりと笑い、
「特訓じゃ!」といった。
『特訓――特別訓練、ということかね?』
「うむ。なに者であれ、得手不得手というものはあろう。だが、不得手なることなればこそ、特訓をもってそれを乗り越えねばならぬ」
バルシシアは、遠い目をしながら天井《てんじょう》を見上げた。
「わらわもまた、幼きおりには、母上やふたりの姉上らによって、それはきびしいしこみを受けたものじゃ……」
そして、全身をぶるぶるっとふるわせて、
「……あのときは、死ぬかと思うた」
それからバルシシアは、カーツにむき直ると、
「そういうわけじゃから、特訓はよいものじゃ」
「なんでそうなるのよ」と、横から陽子。
「よいものはよいのじゃ」
この瞬間、バルシシアは決して悪意でいっているわけではない。この「昔、自分がひどい目にあったので、ほかの者もそうしたほうがよい」という発想は、グロウダインの体育会系的文化の表れだ。グロウダインに限らず、世の文化とか伝統とかいったものはおおむねこうして保たれるものであって、これをいちがいに「悪い慣習」と決めつけるべきではない。
が――往々にして、当事者にとってそれは単なる災難である。
『その必要はないだろう』カーツはぱたりとしっぽを鳴らし、『私は連邦宇宙軍特務監察官として、しかるべき技能はすでに習得している』
「む」
バルシシアが顔をしかめ、
「手前のくその始末もできぬのじゃから、特務なにやら[#「特務なにやら」に傍点]とやらも知れたものじゃな」と、毒づいた。
『そうではない。この惑星《わくせい》上に、適切な生活|環境《かんきょう》が用意されていないのだ』
「それ、そこじゃ」と、バルシシア。「貴様ら連邦のふぬけどもは『あれが足りぬ、これが足りぬ』とふたこと目にはいいわけをしよる。足りぬ足りぬは根性が足りぬのじゃ」
『君たちといっしょにしてもらっては困る。こうした問題に対しては、意志力のみならず、知性をもって解決に当たるべきだ』
「ほほう」バルシシアの目が、すっと細まった。
「わらわは致《いた》し方《かた》なしと思えばこそ、このような屈辱《くつじょく》に甘んじておるに。わが手をくそにまみれさせておるは、貴様の『知性』とやらによる裁量じゃとぬかすか」
『ふむ……そうはいわん』
カーツは長いしっぽをヘビのようにくねらせながら、
『なるほど、確かに私の訓練課程において、このような原始文明下における長期行動は想定されていなかった。それは認めよう。この状況には、柔軟《じゅうなん》に対応する必要があるかもしれん』
「そうじゃろうて」
バルシシアはとがった歯をむき出して、にかりと笑った。
その夜――
「それそれ、どうした! バランスをとるのじゃバランスを! 頭をふらつかせるな! わきを締《し》めよ! ひざの力をぬけ! 腰が高ァい!!」
トイレから風呂場にまで響いてくるバルシシアの大声を聞きながら、忠介は、
「いぃ〜ち、にぃ〜い」と数を数えつつ、ミュウミュウを肩までお湯につけていた。
と。
バルシシアの声が、不意に聞こえなくなった。
忠介が思わず耳をすますと――
ドボン、ギャオオオ![#「ドボン、ギャオオオ!」は本文より1段階大きな文字]
数秒後、ずぶぬれのカーツを引っさげたバルシシアが、ドバーンと風呂場に入ってきた。
バルシシアは忠介にむかってずいとカーツを差し出し、
「カカ! くそ猫め、手前のくその上に転げ落ちよったわ!」
さも愉快《ゆかい》そうにそういうと、ジャージの腕をまくり、カーツに洗面器でお湯をぶっかけて(ギャオオ!)ガシュガシュと洗い始めた。
カーツの体に猫シャンプーをブチューとかけながら、
「猫よ、明日また続きをやるぞ。心しておけ!」と、バルシシア。
ギャオオオオ、と、カーツは答えた。
バルシシアはカカカと笑い、
「まっこと、特訓はよいものじゃのう!」
といって、さらにカカカカカ、と笑った。
ガシュガシュガシュガシュギャオオオ! というその光景を見ながら、
「うーん」と忠介はいい、
「ミュウ?」と、ミュウミュウがその顔を見上げた。
いや、「これでいいんだろうか」という気もしないではないが、
――まあ、仲がよくなったのはなによりだなあ。
と、忠介は思った。
[#地付き]〈つづく〉