ある日、爆弾がおちてきて
古橋秀之
イラスト/緋賀ゆかり
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【テキスト中に現れる記号について】
:ルビ
(例)古い懐中《かいちゅう》時計
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時空|潮汐《ちょうせき》爆弾
[#]:入力者注主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)時間的に固まった[#「時間的に固まった」に傍点]
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「人間じゃなくて、爆弾=H」
「はい、そうです。最新型ですよ〜」
ある日、空から落ちてきた50ギガトンの爆弾≠ヘ、なぜかむかし好きだった女の子に似ていて、しかも胸にはタイマーがコチコチと音を立てていて――
「都心に投下された新型爆弾とのデート」を描く代表作をはじめ、「くしゃみをするたびに記憶が退行する奇病」「毎夜たずねてくる死んだガールフレンド」「図書館に住む小さな神様」「肉体のないクラスメイトなどなど、奇才・古橋秀之が贈る、温かくておかしくてちょっとフシギな七つのボーイ・ミーツ・ガール。
『電撃hp』に好評掲載された短編に、書き下ろしを加えて文庫化!
ある日、爆弾がおちてきて
おおきくなあれ
恋する死者の夜
トトカミじゃ
出席番号0番
三時間目のまどか
むかし、爆弾がおちてきて
あとがき
[#改ページ]
ある日、爆弾がおちてきて
[#改ページ]
終末というのは、なんでもない日に不意にやってくるものかもしれない。
その日、頭上に落ちてきた自称[#「自称」に傍点]新型|爆弾《ばくだん》は、高校の頃《ころ》に好きだった広崎《ひろさき》ひかりに似ていて、僕は少しドキドキした。
じょわじょわじょわと暑苦しく蝉《せみ》が鳴き、今、夏は半分。
「夏を制する者が受験《じゅけん》を制す!!」なんていう鼻息の荒いその標語《ひょうご》に、たしかにその通りだよなあと同意しつつ、「でもまだ夏じゃないから。ほら、今日《きょう》はなんだか涼しいし」とか「昨日《きのう》夏じゃなかったものがいきなり夏になることもあるまい」とか、我《われ》ながらよく分からない言いわけをしてるうちに八月も一週間を過ぎてしまった。暦《こよみ》の上じゃ、もう立秋《りつしゅう》だ。
ちなみに今日返ってきた模試《もし》の結果は合格率四十パーセントの要努力≠ナ、去年の今頃と変わらない。たしか、一昨年《おととし》もだいたいそんなトコだったような。
高校を卒業して、予備校も二年目、受験勉強の時間は増えたけど、代わりにサボりの時間も長くなって、結局プラスマイナスゼロ。その間になにか変化があるとすれば、タバコを吸う習慣がついたことくらいだ。
ぷかー、と自分の吐いた煙を追って空を見上げると、青い空のてっぺんに向かって伸び上がる、でっかい入道雲。
どこからどう見ても、夏。
「……あ〜〜、ダメだ〜〜〜」
コォ〜ン、と、屋上の手すりにひたいを打ちつけると、手に持ったタバコの灰がポロリと落ちた。
「長島《ながしま》ァ、なにイイ音させてんの」
背後から呼ばれて振り向くと、辰美《たつみ》が立っていた。いつものようにキビキビとこっちに歩いてくると、僕の胸ポケットから勝手にタバコのパッケージを取り出し、一本口にくわえ、くいっと上を向く。
「ん」
「あ、ハイハイ」
僕は両手でライターを持って、彼女のタバコに火を点《つ》けた。辰美はひとつ歳下《としした》の一浪生《いちろうせい》だけど、僕なんかよりよほどしっかりしてるし、堂々《どうどう》としてる。
「どうも――で、どうだったの、結果」
答えを待たず、辰美は僕の手から模試の結果表を取り上げて、進路|指導《しどう》教官みたいな顔でざっと見ると、ふーっと長い煙を吹いた。
「全然ダメじゃん」
「う〜」
僕は手すりにだらりともたれ掛かった。
「オレ、アタマ悪いんだよう」
「あのね、それ違う」
「え?」
「長島《ながしま》は頭が悪いんじゃなくて要領《ようりょう》が悪いの。……って、同じことか。うん分かった。あんたは頭が悪い」
「はっきり言うなあ」
「はっきりさせなきゃ対策も立たないでしょ。『頭が悪い。ゆえに要努力』。違う?」
「……違わない」
「よろしい」
「そういう辰美《たつみ》はどうだったさ?」
「あたしは圏内。がんばってるし」
「……あ〜〜」
「ほら、そこで落ち込まない。『受験《じゅけん》は自分との戦い』でしょ? 人のこといちいち気にしないの」
「ごもっとも」
僕は手すりに背を預けて腰を下ろし、辰美は立ったまま手すりにもたれ、ふたりでぼーっと空を見上げた。
しばらくして。
「……あのさあ、長島」と、辰美が言った。
「んー?」
「今、私に怒られて、ちょっとホッとしたでしょ」
「え? ……あー」
「で、『今日《きょう》はもうサボっていいや』って思ってない?」
「うっ」
僕は辰美から目をそらした。頬《ほお》に当たる視線《しせん》が痛い。
「ねえ長島……ゆでガエル≠フ話って、知ってる?」
「なんだそれ」
「あのね、熱湯《ねっとう》にカエルを放り込むと、あわてて飛び出すでしょ」
「そりゃまあ、そうかな」
「でも、水から少しずつ温度を上げていくと、気づかないでそのまま煮えちゃうんだって」
「へえ」
「あんたはそれよ」
「……キッツイなあ}
「愛の鞭《むち》です」
辰美《たつみ》はタバコの先をぐりっと手すりに押しつけ、火を消した。彼女に言わせると、タバコの後ろ三分の二にはダラけ成分≠ェ入っているので吸ってはいけないそうだ。
「午後の授業、サボっちゃダメだよ」
そう言い置いて、辰美は長い吸殻《すいがら》を片乎にすたすたすた、と歩いていく――が、五歩行った先でくるりすたすたすた、と戻ってきて、腰をかがめて僕のひたいにキスした。
「いっしょに合格するって、約束したでしょ?」
辰美が行ってしまうと、僕はコンクリの床《ゆか》にごろりと仰向《あおむ》けになった。
じりじりと全身を灼《や》く夏の陽射《ひざ》しを感じながら、目を閉じる。
うーん、熱《あつ》い。
今この瞬間《しゅんかん》はその熱《ねつ》が気持ちいいんだけど、このままこうしていると、ゆでガエルならぬ干しガエルになってしまうなあ。
などと考えつつ、ひたいに残った辰美の唇の感触を反芻《はんすう》する。
「あたし、長島《ながしま》のおデコ、好きだよ」
と、辰美に言われたのは、今年《ことし》の春先、まだつき合い始めたばかりの頃《ころ》。好きとか嫌いとか、そういうことをはっきり言えるのは彼女のいいところだ。
「でもこれって、将来ハゲるね。ヤバいヤバい」
……時々、はっきりしすぎるけど。
実際うちはハゲの家系で、親父《おやじ》も伯父《おじ》も従兄弟《いとこ》も死んだ爺《じい》さんも、親類《しんるい》一同、ひとり残らずハゲている。十代の後半から生えぎわが後退し始め、三十になる頃にはてっぺんまで行ってしまうそうだ。みんなそうだったというから、たぶん僕もそうなるだろう。
イヤだなあ。
そもそも僕は生まれつきひたいの広いほうで、中学までは友達なんかにシャレでハゲハゲ言われていたのだが、高校に入る頃にはそろそろシャレにならなくなってきて、みんな僕の頭のことには触れなくなった。お気遣《きづか》いありがとう。
それ以降、面と向かって言ってきたのはふたりだけだ。辰美と、その前にもうひとり――
広崎《ひろさき》ひかりだ。
「長島君って、なんだかお父さん≠チぽいから」
と、僕の頭を見ながら言ったのは、あれは「毛が薄《うす》い」という意味だろう。ちえっ、どうせ老《ふ》けてますよ。そしてハゲてますよ。
広崎は高二の時のクラスメイトで、特に親しくしていたわけではないのだが。なんとなく気になる娘《こ》ではあった。
細身で色が白くておっとりとして、それでいて、どこか涼しげで上品な感じ。体が弱いのだとかで学校を休みがちで、そのため教室の中ではお客さん扱いというか、ぶっちゃけ、ちょっと浮いていた。休み時間などにふと手持ち無沙汰《ぶさた》になるのか、窓ぎわの席からなんだかまぶしそうに外を眺めているその横顔を、よく覚えている。
たぶん僕は、広崎《ひろさき》のことが好きだったと思う。
もっとも、それは言葉に出すほどのこともない淡い感情で、それによってなにか行動を起こすという類《たぐい》のものではなかったのだが――
――と、甘く切なげな回想中、青空になにか黒っぽい点が見えた。
なんだろう。鳥――にしては動かないし、ヘリコプターや気球でもないようだし――などと思っているうち、点はじわじわと大きくなっている。
ひゅるるるる――と、風を切る音が聞こえてきた。
なにかが落ちてきているのだ。まっすぐ、こちらに。
人だ。
この屋上よりも上、なにもない頭上の空から、人が落ちてきたのだ。
しかも女の子。
この位置からではパンツが見えそうで、見えなくて――いやそういう問題ではない、早く起き上がって逃げなくては、と思ったのだが、
――あ、見えた。
ズン。
「ぐおッ!?」
無防備のみぞおちに、超高高度からのヒップアタックが炸裂《さくれつ》。僕は身を折って転げ回った。
「うぐぐ……」
ひと口ゲロを飲み込みながら顔を上げると、長い髪の、セーラー服を着た女の子が、勢いあまってごろごろと転がり、ドタリと尻餅《しりもち》をつくのが見えた。
「あいたたた、着地失敗! ドジッ娘《こ》だァ〜」
なんだこいつ。いきなり人の上に落ちてきて、なにがドジッ娘か。ちょっとパンツが見えてうれしかったけど、それくらいで許されるものではありません。
「おい、なにすん――あれ?」
よく見ると、知った顔だった。
「……広崎?」
――いや、本人だろうか?
この広崎[#「この広崎」に傍点]は、あまりにも、僕の記憶《きおく》そのままの姿をしていた。
普通、三年も会わなければ女の子の容姿なんて別人みたいに変わるし、そもそも、いくらなんでも高校は卒業してるはずだ。セーラー服ってことはないだろう。
かといって、妹かなにか……にしては、やっぱり似すぎているような気がする。
そこでもう一度、本人に訊《き》いてみた。
「広崎《ひろさき》ひかり……?」
なにはともあれ、その答えでイエスかノーかははっきりする――かと思いきや。
「ビミョーに違います」
と、広崎(?)はなんだか微妙な答えかたをした。
「あたしはピカリちゃんです。ヒ[#「ヒ」に傍点]カリじゃなくてピ[#「ピ」に傍点]、カ、リ」
「なんだそりゃ」
僕は反射的にツッコんだ。
「そんな名前の日本人がいるか」
「日本人じゃないのです」
「ウソつけ。じゃあナニ人だよ」
「人間じゃあないのです」
「は?」
「爆弾《ばくだん》です」
「はあ……?」
――落ち着いて、状況を整理《せいり》してみよう。
「えーと、君の名前は、広崎ひかり……じゃなくてピカリちゃん=v
「はい」
「人間じゃなくて爆弾=v
「はい、そうです。最新型ですよ〜」
結論。
「なに言ってんだ。ウソつけ」
僕がそう言うと、自称ピカリちゃん≠ヘ、
「証拠ありますよ。ホラ」
といって、セーラー服の襟《えり》を、中のブラが見えるくらいまで、ぐっと引き下げた。
――うわ、いきなりなにをするか、ハシタナイ!
と思いつつ、ついその奥を見てしまう。深い陰影《いんえい》の浮き出た鎖骨《さこつ》、ひときわ白い胸元の肌、そして――
「あれ?」
彼女の言う証拠≠ェ、そこにあった。
胸の中央、ウルトラマンならカラータイマーがあるあたりに、それ[#「それ」に傍点]ははまり込んでいた。
金色《きんいろ》の太いふちとガラスのカバーがついた、アナログ時計の文字盤《もじばん》。針や文字のデザインはなぜかアンティーク風で、古い懐中《かいちゅう》時計を埋め込んだような形だ。時刻は六時半のあたりを指し、秒針が動いている。
「え……ちょっとゴメン」
「いやン」
「いやンじゃなくて」
白い胸元に顔を寄せてよく見てみると、歯車の動くかすかな音が聞こえてきた。
――本物の時計を、胸の中に埋め込んでる……?
シャレでここまでする人間がいるとも思えない。なにかの医療機器《いりょうきき》だろうか。たとえばペースメーカーとか……いや、ペースメーカーに文字盤《もじばん》はないよな。
それに、よく見るとこの時計、秒針の動きがめちゃくちゃだ。チッチッチッチッ、と時計回りに四秒動いたかと思えば、チッチッチッ、と三秒戻る。はたまた、五秒ほどじっとしていたかと思うと、チチチチチッ、と一気に進む。
「……なんだこれ?」
僕のつぶやきに、ピカリが答えた。
「トキメキ☆ドゥームズデイ・クロック≠ナす」
「ああ?」
……なんだかよく分からんが、トキメキ☆≠チてあたりがめちゃめちゃウソ臭い。
「なにするものなワケ?」
「平たく言えば、ピカリちゃんの起爆装置[#「起爆装置」に傍点]です」
と言って、彼女はオトメっぽいしぐさで、胸の時計にそっと両手を重ねた。
「こう、セーシュン的なドキドキ感というか、そういうのが高まると時間が進んでいって、この針が十二時を指した時にどかーん[#「どかーん」は倍角]!!」
「うわ!?」
急にでかい声を出されて、僕はめちゃめちゃびっくりした。そしてコケた。
「――と、なるわけです」
腰の抜けた僕に向かって、ピカリは白くて小さい手を差し出した。
「そういうわけですので、さっそくおデートをしましょう」
「はあ……え、なに? どういうわけ?」
「つまり、おデートをすることによってドキドキ感を高めどかーん[#「どかーん」は倍角]!!」
「うわ!?」
「――となるわけですよ」
「……はあ」
なんだか分からんままに、僕はピカリの手を取った。
すると、彼女の胸元で、
キュルルルルッ――
と、ねじを回すような音がした。
「あっ、今、手をつないだらちょっとドキドキした感じ! 見てください見てください」
ピカリは再び広げた胸元を僕に突きつけた。
「何時になってますかァ?」
「えーと……七時ちょい過ぎ、かな」
ひと息に三十分近くも進んだことになる。
「やったあ!」
ピカリは屋上の出入り口に向かって、僕の手をぐいぐい引っ張った。
「この調子《ちょうし》でどんどんイキましょう! そしてどかーん[#「どかーん」は倍角]!! ですよ!」
「……ま、どかーんはいいんだけど――それって、自分じゃ見れないの?」
「え?」
ピカリは両手で襟元《えりもと》を広げ、首をせいいっぱい前に倒した。
「んンんんん〜〜…………な、なんとか……」
意外と不使っぽいんだなあ。
それでも、この怪しくてちょっとアホっぽい女の子にホイホイつき合ってしまったのは、要するに午後の授業に出たくなかったからで。
僕らは連れ立って駅前の通りに向かった。僕としては、まあ適当に時間をつぶして、夕方になったら家なりビョーインなりに帰せばいいや、くらいの腹である。
そして――
「あっ、腕! 腕つかんでいいですかァ!」
「つかむって……ああ、うん、どうぞ」
ピカリは僕の腕にぎゅっとしがみついた。
「やったあ! あ、なんだか頼もしい感じ! またちょっとドキドキ!」
キュルルルルッ――と、彼女の胸元が音を立てた。文字盤《もじばん》を確認《かくにん》すると、時刻が二十分ほど進んでいた。つまり、七時二十分。
その後も、
「あっ、そこの露店《ろてん》で売ってる安っぽいアクセサリーを買ってくれたりしませんかね!?」
「ああ、うん、いいけど」
「やったあ!」
キュルルルルッ――と八時五分。
「あっ、そこでやってる映画はどうですか! いい評判は聞かないけどなぜか大ヒット中の!」
「ああ、映画もいいね」
キュルルルルッ――と八時四十分。
「あっ、プリクラ! プリクラ撮《と》りましょうよ! ヘン顔勝負で!」
「ああ、うん、勝負ね」
キュルルルルッ――と九時五分。
「あっ、そこのベンチがなんだかいいアンバイ! 街並みを見下ろしながら恋を語らったりするとすっごくオシャレっぽいような! わあ、すごいイイ景色ッ!!」
キュルルルルッ――と……。
「……君、テンション高いなあ」
僕がつぶやくと、ピカリはテヘヘと頭をかいた。
「いやあ、それほどでも」
「いや、別にほめてないけど」
まあ、そんなこんな[#「そんなこんな」に傍点]の様子《ようす》を見ているうちに、
――この子は広崎《ひろさき》とはちょっと違うかもなあ。
と、僕は思い始めていた。
広崎は体は弱かったが、別に頭は弱くなかったしなあ。
とはいえ、実は本物の広崎《ひろさき》のことをそれほど知っているわけではない。
まともに話をしたのは一度だけだ。
高二の頃《ころ》の、ある放課後《ほうかご》――
もう夕方近く、僕が通り掛かった渡り廊下には西日が斜めに射《さ》し込んでいた。
そこに、女子生徒がひとりうずくまっていた。苦しそうに胸元を押さえ、長い髪が幽霊《ゆうれい》みたいに顔にかぶさっていた。
「おい、どうした?」
駆け寄って声を掛けたら、広崎だった。
「……ポケット……に……」
「え……ポケットって、スカート?」
広崎はうなずいた。僕はその時まで女子の制服のスカートにポケットがあることさえ知らなかったのだが、どうにかチャックを開けて手を突っ込んだ。
指先に硬いものが触れた。
「これか? 出すぞ?」
それは仁丹《じんたん》入れみたいな錠剤《じょうざい》のケースだった。中身をひと粒出して手渡すと、広崎はそれを口に含んだ。丸めた舌の下に薬を置くしぐさに、僕はちょっとドキリとした。
「人、呼ぼうか?」
ビビり半分にそう言うと、広崎の細い手が伸びてきて、僕の制服の胸元をきゅっと握った。
「よ、よし、じゃあここにいるから。えーと、その、だ、大丈夫だから」
なにがどう大丈夫なのか、根拠もなくそう言うと、僕は空いた手を彼女の肩の上でふわふわと動かした。肩に手を添えて元気づけたほうがいいのか、それとも触っちゃいけないのか判断がつかなかったのだが、たぶんハタから見ると、どこぞの怪しい宗教のヒーリングの儀式《ぎしき》みたいだったと思う。
生死の境をさまよう彼女の横で、果てしなく長い時間が流れた――ような気がしていたが、おそらく一分も経《た》たないうちに、広崎の呼吸は落ち着いた。
「……ありがと」
広崎は薬を含んだまま、やや舌足らずの調子《ちょうし》で言った。青ざめた顔に、血の気《け》が戻ってきていた。それから僕の胸元を握《にぎ》り締《し》めていた手に気づくと、パッと手を離《はな》し、立ち上がって髪を直しながら、顔をさらに赤らめる。
「急に発作《ほっさ》が来たから、あわてちゃって」
――っていうと、持病のやつか。
とは思ったものの、人の体のことを問《と》い質《ただ》すのもためらわれて、
「大丈夫か、広崎《ひろさき》?」
とだけ言うと、広崎は意外そうな、それでいてちょっとうれしそうな顔をした。
「長島君[#「長島君」に傍点]、私のこと、覚えててくれたんだ」
「え、だって同じクラスだし、それにおまえ、よく休むから目立つし……あ、悪い」
「いいよ、べつに」
「……そういう広崎こそ、オレのことなんてよく知ってたな」
「だって、同じクラスだし。……それに、長島《ながしま》君も窓のほうよく見てるでしょ。それで」
「え? ……ああ、うん」
僕はあいまいにうなずいた。
(ほんとは広崎のことを見てた)などとは、さすがに恥ずかしいので言えない。
そのことに気づいていたのだろうか、どうだろうか。彼女は上目遣《うわめづか》いにほほえんだ。
「長島君も、想像したりするの?」
「想像って?」
「あ、ごめん。いきなり言われても分からないよね。……あのね、私、よく想像するの」
広崎は廊下の窓から外を指差した。三階のこの位置からは、野球部が練習をしているグラウンドを越えて、そこそこ遠くまで町が見渡せた。
「あの辺に、爆弾《ばくだん》がおちてね」
「ばくだん?」
「そう、どかーん! って。それでね、町も人も吹き飛ばして、誰《だれ》もいなくなった廃墟《はいきょ》の上に、大きなキノコ雲が立つの」
「……怖いこと考えるんだな」
「え? ……うん、そうね。そうだね」
広崎はそう言いながら、想像上のキノコ雲を見つめるように、目を細めた。
「でも、すごくきれいなんだよ……」
窓の外はいつの間にか日が暮れかけて、夕焼けに染まっていた。
僕は広崎の視線《しせん》に沿って、その光景を想像した。
夕焼けの街の上に怪獣《かいじゅう》のようににょっきりと立ち、金色《こんじき》の夕陽《ゆうひ》の照り返しを受ける、巨大なキノコ雲。それは終末的なありさまだったが、その反面、いやそれ故《ゆえ》にか――
「確《たし》かに、きれいかもなあ……」
僕がぽろりとつぶやくと。
「でしょ?」
と言って、広崎はぱっと顔を輝《かが》やかせた。
――それから一応、保健室《ほけんしつ》まで広崎を送ったのだが、養護《ようご》の先生が不在で鍵《かぎ》が掛かっていた。
そこで、
「……じゃ、まあ、その辺まで」
などと適当なことを言いながら、並んで帰った。それまで知らなかったのだが、自宅の方角もいっしょだった。
「……あのね、私、長島《ながしま》君とお話してみたかったんだ」と、広崎《ひろさき》は言った。
「へえ、なんで」
と、僕はどうでもいいような相槌《あいづち》を打ったが、内心かなりうれしい。
「さあ、なんとなく」
「なんだよそれ」
ぜひともそのへんの理由をお聞かせねがいたい。
「うーん、ええと、たぶんね……」
広崎は考え考え、言葉を継いだ。
「私、運動とか止められてるから、あんまりお友達と遊んだことってなかったのね」
「あー」
「だから、同じくらいの歳《とし》の子と話すの、ちょっと苦手《にがて》で」
「オレも同じくらいの歳の子≠セけど」
「うん、だけど……」
広崎は僕の頭をちらりと見た。
「長島君って、なんだかお父さん≠チぽいから……」
――そんなにハゲてますか。
「……あっ」
僕の内心の動揺が伝わってしまったのか、そこで会話が途切《とぎ》れた。
すっかり薄暗《うすぐら》くなった道を、無言で並んで歩く。
「……」
「……」
順番から言うと僕が話を振らなきゃいけないような気がするのだが、当時から女の子と話すのは苦手だった。はっきり言って間がもたない。
それでつい、僕は先ほどのことを持ち出した。
「あのさ、広崎……さっきの薬、あれ、なに?」
「え? ああ、これ?」
広崎はスカートの腰をポンと叩《たた》いた。ポケットの中でカシャリと音がした。
「ニトログリセリン」
「え、ニトロ……って、ダイナマイトの原料だろ? そんなもん飲んで大丈夫なのか?」
「別に、爆発《ばくはつ》とかしないよ」
と、広崎は笑った。意外とよく笑うんだな、と思った。
「心臓《しんぞう》の薬。発作《ほっさ》の時、心臓の血管を広げるんだって」
「へえ」
「知ってる? ニトロって、甘いんだよ。……まださっきの味が残ってる」
そう言って、広崎《ひろさき》は口元をむにゅむにゅさせ、それからふと立ち止まってこちらを見上げた。
「だから、今キスとかすると、きっと甘いよ」
「へえ……」
で、その先の交差点でそれぞれの道に分かれてから、
――あれはたぶん「今キスしてもいいよ」ってことだよなあ!!
と気がついた。しまった、惜しいことをした。
それで、あわよくばもう一度チャンスをいただきたく、今度会ったらいったいなんて言おうか――と、あんまりがっついた感じでないカッコいい台詞《せりふ》などをひと晩寝ないで考えていたのだが、次の日学校で広崎に会うとなんということもなく普通に会釈《えしゃく》されたので、蒸し返すのもヤボかと思って忘れることにした。
まあ、その程度のことだ。
僕としても、別に広崎のことばかりが気になっていたわけではない。受験《じゅけん》とか進路とか、期末テストとか、深夜放送とかナイター中継とか、気に入った歌手のアルバムの発売日とかいった、その時々でもっと気を取られることがあったのだ。
それからのちも、相変わらず広崎は教室から窓の外を眺めて(たぶん爆弾《ばくだん》とキノコ雲を想像して)いたし、僕は僕で、そんな彼女をなんとはなしに眺めていた。目が合うと照れ隠しに笑い合ったりしたが、そこからなにか進展があったわけでもない。
次の年度になると、別々のクラスになり、時々廊下ですれ違うくらいになった。
高校を卒業してからは、一度も会っていない。
――というわけで、僕が今、この何者とも知れないアホの子を連れ回しているのは「あの時のチャンスよ、もう一度」ということなのかもしれないなあ。
考えてみれば、なんとも浅ましいことである。
そもそも、面白《おもしろ》半分に若い子の気持ちをもてあそんだりしてはイケナイ。
――僕には辰美《たつみ》がいるんだし、君にもきっといい人が見つかるサ。
などと無責任に大人《おとな》ぶった台詞を考えつつ、まあ正直言うとちょっと面倒臭《めんどうくさ》くなってきたのやら、こんなところでふらふらしてることが辰美に知れたらめちゃめちゃ怒られそうなのやらで、ちょっと早いけどそろそろ切り上げようかな、などと思い始めていると、
「ここ、意外とあっついですねえ」と、ピカリが言った。
「あー、景色はいいんだけどねえ。今日《きょう》はあんまり風がないしねえ」
じょわじょわと蝉《せみ》の鳴き声。実際、高台から街を見下ろす公園のベンチは陽《ひ》がカンカンに当たって殺人的に暑い。
僕はひたいの汗をぬぐった。隣《となり》では、同様にピカリのこめかみに浮いた汗が、つうっとあごに垂れ、落ちる。
ドン!
突然の爆風《ばくふう》に、僕はベンチから転げ落ちた。
「な、なに? 今のなに?」
泡を食って周りを見回していると。
「あ、すいません。今のはピカリちゃんです」
と言ったピカリのあごから、さらにぽたぽたっと汗が落ちた。
ド、ドン!
「ど、どうなってるの?」
「どうって、別に。爆弾ですから〜」
ピカリはひたいの汗を指先でぬぐって、なんの気なしにぴぴっと振り捨てる。
ドドドン!
汗の粒が、落ちた端《はな》から爆発し、腰ほどの高さの土煙を上げているのだ。
「あぶあぶ、あぶないから、それ!」
どうも、汗がいけない。僕らはあわてて近所の喫茶店《きっさてん》に飛び込んだ。
「ひゃ〜、涼し〜!」
ピカリは冷たいおしぼりで顔を拭《ふ》き、それから中年のおっさんのように耳やら首筋やらをぬぐい、挙句《あげく》にセーラー服の裾《すそ》に手を突っ込んでわきの下をこすり始めた。
下品だなあ、と思ったが、まあそれはいい。
「すいませェ〜ん! この恋人同士のスイート・ジャンボパフェ!!」
と、メニューを頭上で振って注文をするピカリに、僕はおそるおそる聞いた。
「……店の中で爆発したりしないよな?」
すると、ピカリはこともなげに答えた。
「あんなの、爆発のうちに入りませんよう。ちょっぴり中のセイブンが出ちゃっただけで」
「成分って――」
ピカリは僕の疑問《ぎもん》をスルーして、胸元の文字盤《もじばん》をキュッキュッと拭きながら言う。
「ここ[#「ここ」に傍点]からじゃなきゃ、ちゃんと起爆しません」
「起爆≠ヒ……」
僕はようやくその言葉の意味をまじめに考え始めた。
ピカリの文字盤の時刻は、十時半を過ぎている(けっこう進んだな……)。これが十二時の位置まで進むと、おそらくこの子は本当に――
文字通り爆発《ばくはつ》≠キるのだ。
それを止める方法は? あるいは安全な距離《きょり》を取ったほうがいいんだろうか? そもそも彼女自身はそれでいいのか?
――とにかく、この子の正体をもっとよく知ってからだ。
そこで、ジャンボパフェをふたりでつつきながら、聞いてみた。
「キミって、そもそもなんなの? 自爆装置つきのロボットかなにか? そういや空から落ちてきたし」
「そんなまた」
ピカリは顔を上げた。苦笑じみた表情だ。
「ロボットだなんて、マンガじゃあるまいし」
――どの口が言うか!
思わず突っ込みかけるのを我慢していると、ピカリは言葉を続けた。
「ピカリちゃんの体はハイパーPNTで出来ているのです」
「ハイパー……なに?」
「簡単《かんたん》に言うと、全身コレ生きた爆薬≠ネのです」
「爆薬って、ダイナマイトとかTNTとかみたいな?」
「そんなの全然レベルが違います。カクバクダンだって目じゃないです」
ピカリはちょっぴり自慢げに胸をそらした。
「HPNTは正五泡体ベースの結合構造を持つ超次元化合物で、TNT火薬の一兆倍の威力があるのです。そりゃもう、スゴイんです」
「一兆倍って……ちょ、ちょっと待った。キミ、体重何キロ?」
「いやン、はずかしい」
「いやンじゃなくて」
僕はテーブルに備えつけの紙ナプキンを一枚取り出した。
「……まあ仮に五十キロくらいとして」
ナプキンに爪楊枝《つまようじ》とチョコレートソースで「50」と書き、その後ろに「0」の代わりの点を十二個打つ。これで一兆倍だ。
「トンに直すと0が三つ減って、それからキロ、メガ、ギガ――『五十ギガトン』って、水爆でもそんなのないぞ!?」
「いやあ、それほどでも」
「ほめてないって!」
僕は思わず立ち上がった。
「おまえが爆発したら、この辺の人、全部死んじゃうってことだぞ!?」
「えっと……この辺っていうか、関東《かんとう》地方はスッキリしちゃいますねえ」
「なにが『スッキリ』だよ。人の命の話だろ……!」
シン……と、店内が静まり返った。みんな、大声を出した僕のことを見ている。
しかし、今はそれどころじゃない。
僕はピカリを見下ろした。ピカリはきょとんとした顔で僕を見返していたが、やがてうつむいて、口を尖《とが》らせた。
「命は命ですけどぉ」
そう言って、ピカリはスプーンでパフェをつつきだした。
「……だってピカリちゃん、爆弾《ばくだん》ですから」
――なんだ、この違和感。まるで妖怪《ようかい》かなにかと話してるみたいだ。
こいつはなんなんだ。僕はこいつをどうしたらいいんだ。
「……分かったよ」
僕はできる限り気を落ち着けながら、席に着いた。
「キミは爆弾で、爆発したがってて、それはたぶん、キミにとって大事なことなんだ。そうだよね?」
「はい」
ピカリが顔を上げた。ちょっとうれしそうな、あくまで素直な表情だった。
が――
「それ、人のいないところでできないの? 太平洋の真ん中とか、それとも宇宙とか」
僕がそう言うと、その表情がすうっと曇《くも》った。
「だって……それじゃあ、トキメキがないっていうか……」
「だから、そのトキメキってなに」
「……手をつないで歩いたりとか……いちゃいちゃしたりとか……」
「そんなのひとりでやんなよ」
「ひとりじゃできませんよう。長島《ながしま》君がいなきゃ……」
「――オレは関係ないだろ」
その時、バッ、とピカリが顔を上げた。
なぜだか、両目に涙が溜《た》まっている。
あっ、ヤバ――
ぽろぽろっ、と大粒の涙が落ちるのと、僕がソファの陰に伏せるのが同時。
ドドン!
先ほどの汗≠ニ同等か、それ以上の威力の爆発が起きた。
テーブルは微塵《みじん》に砕《くだ》け、パフェが頭から降ってきた。巻き上がった埃《ほこり》の向こうに、ガラスが吹き飛んだ窓を乗り越えて駆けだすピカリのうしろ姿が見えた。
「おーい、ピカリー!」
ほかにあてもなかったので、予備校と駅前通りの間を、名前を呼びながら何度も往復した。
――あんな、歩く危険物を野放しにしておくわけにはいかない。
それもある。
――彼女の話が本当なら、説得でもなんでもして止めないと、何千万レベルの人間が死んでしまう。
それもある。
だが、埋由はそれだけじゃない。
先ほど、ピカリは僕のことを長島《ながしま》君≠ニ呼んだ。僕は名乗っていないのに。
たまたま僕の前に現れたわけじゃなくて、最初から僕のことを知っていたのだ。
つまり――
再びピカリを見つけたのは、例の高台の公園だった。
もう陽《ひ》が落ちかけていて、展望コーナーの柵《さく》に寄り掛かる彼女の姿が、黒っぽいシルエットになっていた。
「あ、見つけてくれたんだあ。ちょっとドキドキ」
先ほどのことなどなかったかのように、ピカリはうれしそうに振り向いた。
キュルルルルッ――と、胸元に覗《のぞ》く文字盤《もじばん》の針が進み、十二時十分前を指した。
「……ここ、いい景色ですよねえ」
再び眼下の街に向き直りながら、ピカリは言った。
「すごい夕焼け……」
「おまえ……やっぱり広崎《ひろさき》ひかりなのか?」
と、僕は先ほどからの疑問《ぎもん》を口にした。
すると。
「ビミョーに違います、けどね」
と、彼女はやっぱりよく分からない答えを返してきた。
僕は構わず言葉を続けた。
「……広崎、なんで爆発《ばくはつ》とか言うんだよ。それ、自殺ってことだろ? ……いや、この場合、無理心中か。なんで他人まで道連れにしたがるんだよ」
「うーん」
彼女は首をかしげた。
「自殺≠ニか道連れ≠ニか、そういう感じじゃないんですけどね。死ねばいいわけじゃなくて、きれいに終わりたい[#「きれいに終わりたい」に傍点]っていうか……」
「同じだろ。死にたくない奴《やつ》を無理矢理《むりやり》つき合わせるんだから」
「無理矢理……?」
彼女は不思議《ふしぎ》そうに言った。
「そうなのかなあ。みんな、死にたくないのかな」
「……なに言ってんだよ。当たり前だろ」
「そうなのかなあ。ちょっと踏ん切りがつかないだけじゃないかしら」
「なに言って――」
「ねえ、想像してよ[#「想像してよ」に傍点]」
彼女は目を細めた。夕陽《ゆうひ》に照らされたその横顔は、いつか見た広崎《ひろさき》ひかりそのものだった。
「このごみごみした街も人も、その先のごちゃごちゃしたアレコレも、みんな一瞬《いっしゅん》で消し飛んで、あとは大きな、きれいなキノコ雲だけが残るの。そのほうがいいじゃない。長島《ながしま》君もそう思うでしょ?」
「なんで、オレが――」
「だって長島君、大人になんかなりたくない人[#「大人になんかなりたくない人」に傍点]でしょう?」
「な――」
白い腕がすうっと伸びてきて、僕のシャツの胸元をそっとつかんだ。
「生きてるのって、すごくたいへんよね。先が見えなきゃ不安だし、かと言って、見えちゃったらゼツボーだし、未来≠ニか将来≠フことって、どっちにしても苦しいばっかりだよ」
「……なに言ってるんだよ、広崎……」
「だからみんな、目先のことに一生懸命《いっしょうけんめい》になって忘れたふりをしてるけど、でも、ほんとはみんな思ってるよ――『誰《だれ》かが終わらせてくれないかなあ』って」
僕はその場から動けなかった。その細い腕が、どうしても振り払えなかった。
「……だから、あたしたちで終わらせちゃおう。未来なんかどかーんと吹き飛ばして、きらきらした現在《いま》だけを永遠にする[#「永遠にする」に傍点]の。みんな『そのほうがいい』ってよろこんでくれるよ。よろこぶ暇《ひま》もないけれど」
まるで悪魔《あくま》のささやきみたいに、彼女は言った。
……いや、違う。彼女は本当にそう思っている。本気で、僕や彼女自身や、その他のすべての人のためを思って、そう言っている。
――そしてそれは、たぶん、本当のことなのだ。
「広崎……」
彼女の胸元の時計の秒針が、すごい勢いで回っていた。
分針もまた、目に見えて動いていく。
五分前――
四分前――
「ドキドキの、クライマックスだよ」
彼女がつぶやいた。そして、上を向いて、目を閉じた。
「きっと、甘ぁいよ……」
三分前――
二分前――
するべきことは、分かっていた。
彼女の頬《ほお》を支えて、キスをする――それだけで、僕らの世界はきれいに終わる[#「きれいに終わる」に傍点]。
一分前――
僕には、拒む埋由はない。
それこそは、実は僕自身が望んでいたことだったから。
そして――
「……あれ?」
彼女は不思議《ふしぎ》そうな顔をした。
「なんで……?」
僕自身、意外だった。
なんでそうしなかった[#「そうしなかった」に傍点]のか、自分でも分からない。
時計の針は、十一時五十九分。
チッ、チッ、チッ、チッ――
秒針が、五十八秒と五十九秒の間を何度も往復している。
チッ、
チッ、
チッ、
チッ、
チッ――
「……そっかあ」
僕より先に、彼女のほうがなにかに気づいた。
大きくひとつ息をついて、ほほえんだ。
「長島《ながしま》君の未来は、ほかの誰《だれ》かのものなのね」
「え……」
「そっか、そっかあ……あたしはずっと長島君が好きだったのに、長島君はもう、ほかの人のことが好きなんだ……」
彼女は僕から手を離《はな》し、三歩下がった。
「残念、時間切れ――バイバイ」
そう言ってさびしそうに笑うと、ぽろぽろっと涙をこぼし、
ポン――
小さな破裂音を残して、消えた。
すっかり日が暮れた公園に、僕はひとりで立っていた。
眼下の街に、ぽつぽつと街頭の明かりが点《とも》り始めた。
その日、広崎《ひろさき》ひかりが長年の心臓《しんぞう》の病《やまい》で亡くなったとの連絡が、実家に届いた。
ちょうど、僕ら[#「僕ら」に傍点]が例の公園にいた時刻だったらしい。
その翌々日、予備校に出たら、いきなり辰美《たつみ》に後ろ頭をシバかれた。
「あんた、あれほど言ったのに、二日もなにしてたのよ!」
「ああ、うん。知り合いの葬式《そうしき》に行ってた」
「え……ごめん。それじゃしょうがないね」
辰美は叩《たた》いた分を埋め合わせるように、僕の頭をしゃかしゃかとさすった。やめなさい、毛が抜ける。
「で、どういう関係の方が亡くなったの? 親戚《しんせき》?」
「いや、高校の時のクラスメートで、一回しかしゃべったことない女の子」
「赤の他人じゃん!」
またシバかれた。
「……でも、形見をもらってきたよ」
後ろ頭をさすりながら、僕は金色《きんいろ》の懐中《かいちゅう》時計をポケットから取り出して、机の上にコトリと置いた。年季《ねんき》の入ったアンティーク風のそれは、元々は広崎ひかりの早くに死んだ父親のもので、僕に受け取って欲しいとの遺言《ゆいごん》があったそうだ。
「へえ、値打ちモノ?」
「動かないけどね」
「なにそれ。バカにされてんじゃないの?」
「さあ」
タバコをくわえる辰美を尻目《しりめ》に、僕はさっさと鞄《かばん》から参考書を取り出し、机に広げだした。
「あら、なんだかやる気になってる?」
「まあね。人の死に触れて、限りある人生の尊さを知ったというか」
「またまたァ」
僕は懐中《かいちゅう》時計をちらりと見た。
時計の針は、十一時五十九分五十九秒で止まっている。
彼女[#「彼女」に傍点]の時間は止まってしまったけれど、僕らの時間はゆっくりと流れている。
「あのさあ、辰美《たつみ》」
「なによ」
「オレ、将来ハゲるよ」
「なに言ってんの、今さら」
辰美は僕の頭のてっぺんをぺちりと叩《たた》いた。
[#地付き]〈了〉
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おおきくなあれ
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今年《ことし》の風邪《かぜ》は脳にくる[#「脳にくる」に傍点]。
たちの悪い阿呆《あほう》風邪≠ェ流行《はや》っているので、外出後はうがいや手洗いなどをよくして予防に努めるように、てな話を今朝《けさ》もテレビでやっていた、のだが……。
「ううう」
俺《おれ》が頭を押さえてよろめきながら教室に倒れ込むと、チョリとショージが駆け寄ってきた。
「おい、どうした慎一《しんいち》――うわ、すげえタンコブだ!」
「頭頂部に打ち降ろすような一撃《いちげき》! とても人間|業《わざ》ではないぞ!?」
「慎一! 誰《だれ》にやられたんだ慎一!?」
「きょ……」
俺はチョリの腕をつかみながら言った。
「……きょ、じ、ん……」
「だれが巨人かあっ!」
地響《じひび》きを立てて飛び込んできたのは、身の丈《たけ》一八五センチの大女だ。
「「うわっ! 出たな、ジャイアント高峰《たかみね》!」」
「ジャイアント′セうな!」
高峰はチョリとショージを左右に撥《は》ね飛ばしながら近づいてくると、俺を見下ろす形で仁王立《におうだ》ちになった。
上喜多沢高校《カミキタ》のタカさん≠アと高峰|真琴《まこと》は県下最強のアタッカー≠ニか空飛ぶ人間山脈≠ニか呼ばれる女子バレー部のキャプテンで、そのスパイクの威力たるや、県大会の決勝でブロックしてきた選手の頭を誤って叩《たた》いたら首がもげて観客席《かんきゃくせき》に飛び込んだというからただごとではない――って、いやそれはさすがにウソだろうと思うが。
「小《こ》ォ暮《ぐれ》ェ〜……」
左手で胸倉をつかまれて爪先立《つまさきだ》ちになるまで引き上げられて、もう片方の手がぐぐぐっと振りかぶられるのを見ると。
――ひょっとしたら本当かも。そして俺、死ぬかも。
と俺は思った。
そんな俺の危機的《ききてき》状況を、チョリとショージはにたにたと笑いながら眺めている。
「おまえら仲いいよなあ」とショージ。
「もう籍《せき》入れちゃえよ」とチョリ。
「いや、それは気が早すぎ」と、またショージ。
「……なによ、それ」
高峰の顔が真《ま》っ赤《か》になり、腕の動きが止まった。それから再び右手を振りかぶるが、今度はさっきみたいな勢い任せではないから、まあ死にはしないだろう――と油断したら、
「ふ……ふあ…………え[#「え」は濁点付き]っくし!」ドカン!
「ぐわっ!?」
高峰《たかみね》がくしゃみをした拍子《ひょうし》に、首が胴体にめり込むほどぶん殴られた。
チョリとショージは後ろで無責任にゲラゲラ笑っている。
「てめ、この……!」
悪態のひとつもついてやろうと、俺《おれ》は高峰を見上げた。
すると――
「あれ……」
高峰はきょとんとした顔で、俺を見下ろしていた。
「小暮《こぐれ》……君? どうしたの、そんなとこに転がって」
「あ? なにが『どうした』だ、この――」
なにかの冗談《じょうだん》かと思ったが、さにあらず。高峰は不思議《ふしぎ》そうに――いや、不安そうに周囲を見回した。
「ここ……どこ?」
キーンコーンカーンコーン、と、午後の始業チャイムが鳴った。
「――高峰さん、あなた今、歳《とし》はいくつ?」
そう訊《き》かれて、高峰はでかい背を丸めながら、おずおずと答えた。
「あの……先月の誕生日《たんじょうび》で、十五|歳《さい》です」
「てことは、中学三年生?」
「はい」
「十五歳、中三……と」
養護《ようご》の先生は、ノートに短いメモを取ると、微妙な表情をしながら高峰に向き直った。
「あのね、高峰さん、落ち着いて聞いてね? ……実は、あなたはもう中学生じゃないの」
「はい?」
「現在十七歳、高校二年生で、ここは高校の保健室《ほけんしつ》。ほら――」
先生は高峰のでかい左手を取った。薬指と小指にテーピングがしてある。
「これは昨日《きのう》、部活の練習中に突き指して、私が手当てしたの。覚えてる?」
「はあ……」
高峰は不思議そうに左手を眺めると、今度は赤くなった右手の拳骨《げんこつ》をさすった。
「それじゃあ、こっちの手がひりひりするのも……?」
「いや、そりゃ俺を殴った跡だ」
俺《おれ》が解説を入れると、高峰《たかみね》は不満げに振り返った。
「そんなこと、しないわよ」
俺は自分の頭のタンコブを指した。
「したんだよ、ついさっき」
ふぅ、と、先生が息をついた。
「……典型的なゴードン症候群ね。いわゆる阿呆《あほう》風邪《かぜ》=B知ってるでしょ?」
神妙に黙《だま》っている高峰に代わって。
「たしか、老人ぼけみたいな症状が出る風邪、ですよね」と、俺が答えた。
「ま、そんなとこね。正確《せいかく》には記憶《きおく》遡行《そこう》症状≠チていうんだけど。今年《ことし》のは特にきついらしいわ――あ、高峰さん、心配しなくてもいいのよ。普通の風邪といっしょで、すぐ治るものだから」
先生はキャビネットから一枚のチラシを持ち出してきた。丸っこいフォントで文章が書かれた、モノクロコピーだ。
[#ここから1字下げ]
|ゴードン《ごうどん》症候群《しょうこうぐん》の患者《かんじゃ》さんへ
あなたは今《いま》、かぜの症状《しょうじょう》による一時的《いちじてき》な記憶喪失《きおくそうしつ》(ものわすれ)の状態《じょうたい》にあります。
まずはおちついて、身《み》に着《つ》けている物《もの》を確認《かくにん》しましょう。身分証《みぶんしょう》やメモ《めも》のたぐいはありませんか?
それから、できれば現在《げんざい》の日付《ひづけ》と今いる場所《ばしょ》も確認《かくにん》しましょう。
ひとりで行動《こうどう》するのは危険《きけん》です。以下《いか》の連絡先《れんらくさき》に電話《でんわ》して、ご家族《かぞく》にむかえにきていただきましょう。
お家《うち》でご家族《かぞく》といっしょにかぜを治《なお》していきましょう。三日《みっか》ほどですっかりよくなります。
―――――――――――――――――――
この欄《らん》に、あなたのご家族《かぞく》の連絡先《れんらくさき》(住所《じゅうしょ》・電話番号《でんわばんごう》)を書《か》いてください(書《か》いておかないと、忘《わす》れてしまうことがあります)。
―――――――――――――――――――
ご家族《かぞく》と連絡《れんらく》がとれない場合《ばあい》は、こちらにお電話《でんわ》ください。
※△△市《し》健康課《けんこうか》 123(456)789X
[#ここで字下げ終わり]
次いで、先生は生徒|名簿《めいぼ》を開いて、高峰の家の住所と電話番号をチラシの「連絡先」の欄《らん》に書き写した。
「お迎えを呼びたいんだけど、今、ご家族の方はお家《うち》にいらっしゃるかしら?」
「はい、たぶん母が……」と高峰《たかみね》。
「あー、おまえンちのおばさん、昼間はパート行ってるぞ」
「え……?」
俺《おれ》は高峰に説明した。
「たしか、去年の今頃《いまごろ》始めたんだ(だから、十五歳の高峰[#「十五歳の高峰」に傍点]は知らないわけだな)。連絡するなら、おまえの携帯におばさんの番号も入ってるだろ」
「あら、ずいぶん詳しいじゃない」と先生。
「いや、親同士が仲いいんで――」
「えーと……あたしの携帯って、これ?」
高峰はポケットから取り出した携帯電話をしげしげと眺めた。ミッキーマウスのストラップがプラプラゆれている。
「あたし、携帯なんか持ってたんだ……これ、どうやって使うの?」
「俺が知るか」
「ゴメン、そうよね……これでいいのかな」
いかにも不慣《ふな》れな手つきで携帯を耳に当てる高峰を見て、こりゃけっこう重症かもなあ、と思ったが、しかしまあ、迎えが来るなら俺がここにいる意味もないので、
「じゃ、俺、戻るから」
と立ち上がった時、高峰が顔を上げた。
「……出ないよ、小暮《こぐれ》君」
あー、向こうは仕事中だしな。
「弱ったわね、なるべく症状が進まないうちに帰ったほうがいいんだけど」
「ひとりで帰れます……たぶん」と、携帯を両手で握りながら、高峰。
「それはダメ。途中でまた記憶《きおく》が飛んじゃうかもしれないから、つきそいは絶対必要なのよ――と」
そこまで言うと、先生は俺に目を留めた。
「小暮君、この子とはご近所なのよね?」
なんかヤな展開だなと思いつつ、俺は答えた。
「はあ、近いというか……隣《となり》っスけど」
「くしゃみとか、ちょっとしたショックでまた退行[#「退行」に傍点]が起きるかもしれないけど、不安にさせないように、上手《うま》く状況を説明してあげてちょうだい。――任せたわよ」
と言って、先生は俺の肩をぽんと叩《たた》いた。
で。
俺《おれ》たちは連れ立って早退し、家に向かった。
通学路は片道一・五キロほどのほぼ一本道で、川沿いの土手の上をひたすら歩く形になる。登校は川の流れに沿い、下校は流れに逆らう形だ。
どちらからともなしに、俺たちは前後に二歩ほどの距離《きょり》を保って歩いた。向こうはどうか知らないが、俺は高峰《たかみね》と並んで歩くのはあまり好きではない。
なぜって、俺はチビなので。
俺の身長は一五八センチしかなくて、まあ普段《ふだん》はそんなに気にしてないのだが、高峰と並ぶとその身長差は約三十センチ。はた目にはかなり滑稽《こっけい》だろうと思う。
俺の後ろをうつむき加減に歩きながら例のチラシを読み返していた高峰が、左手のテーピングに目を留め、ぽつりと言った。
「高校でも、バレーやってるんだあ……」
「あ? ……おう」
「……あたし、がんばってる?」
「来年はインターハイ行けそうだってさ」
「へえ〜、すごいね」
と、他人事《ひとごと》みたいな調子《ちょうし》で、高峰は言った。
「二年後かあ……そんな未来のことが分かっちゃって、どうしよう」
「いや別に、二、三日寝てれば元通りだっていうし」
「元通りって――ああ、十七歳になるってことね。……んー、それってなんか損したような、ほっとしたような…………まあ、どっちかっていうと、ほっとしたかな……」
「なにが」
「いろいろ。ほら、最近はパパのこととかあったし、部活どころじゃないと思ってたから……あっ」
「なんだよ」
「ひょっとして、うちのお母さんがパート始めたのって、あたしのためとか……?」
「いや、元々働くの好きなんだって聞いたけどな。おまえがしっかりしてきたから家空けられるようになったって」
「あ……ならよかった。これまでも、すごく迷惑掛けちゃってると思うから……」
「いやあ、自慢の娘≠セって聞いたぞ、俺は」
「へへ……」
「まあなんにしても、たいがいのことはどうにかなるもんだから、心配すんな」
「そうだよね。だって小暮《こぐれ》君が……え[#「え」は濁点付き]っくし!」
「……え? 俺がなんだって?」
振り返ると、高峰《たかみね》はまるで道に迷ったヒグマみたいに、呆然《ぼうぜん》と突っ立っていた。
「あ……えーと、慎ちゃん[#「慎ちゃん」に傍点]? ここ……どこ?」
また記憶《きおく》が飛んだらしい。
「…………あー、まあ落ち着け。おまえ今、何年生だ?」
「え? ……一年に決まってるじゃない」
「中一か……よし、えーとな、おまえは今日《きょう》、風邪《かぜ》で早引けして家に帰るところだ。詳しくはそれを読め、そのチラシを」
「え……これ?」
高峰は両手でチラシを持ち、頭を突っ込むようにして読んだ。
「……電話、しなきゃ……?」
「ああ、したした。おばさんが今いないから、俺《おれ》が任されてるんだ。ほれ、さっさと帰るぞ」
俺が歩きだすと、高峰は神妙な顔でそろりとあとに続いた。
「うん…………あの……ありがと、慎《しん》ちゃん」
「おう――慎ちゃん≠チてのも、なんか久しぶりだな」
「あっ、ゴメン。『苗字《みょうじ》で呼べ』って言ってたよね、慎ちゃ……小暮《こぐれ》君」
「あー、そんなこと、言ったっけなあ」
ベタベタしてるみたいで、なんか恥ずかしかったんだよな。ま、そういう頃《ころ》もあった。
「別にいいから、呼びやすいように呼べよ」
「え、いいの? ……よかったあ」
「なにが?」
「慎ちゃんに、嫌われたかと思っちゃった」
「いや、別に嫌いやしねえけど」
「えへへ、そぉだよねぇ〜」
あー、そんな顔するな。照れる。
また前後に並んで、しばらく歩く。俺のあとにつきながら、なにが楽しいのか、高峰はくすくす笑っている。
「……あのね、慎ちゃん」
「んー?」
「この聞、あたしバレー部に勧誘《かんゆう》されたんだけど、どうかなあ?」
「どうって?」
「パパもなにかスポーツしたほうがいいっていうし、ほら、バレーならほかにも大きい子がいるから、あたしでもあんまり目立たないかなあって……」
「ンなもん、『目立たないため』とかでやるもんでもないだろ――っていうか」
俺《おれ》は高峰《たかみね》の手からチラシを取り上げ、ぴらぴらと振った。
「おまえ、これの内容、ちゃんと分かってないだろ」
「え?」
高峰は眉根《まゆね》を寄せながら、チラシに顔を近づけた。
「えーと、記憶《きおく》、喪失《そうしつ》……?」
「あのな、中学の部活に入るとか入らないとか、今決めても意味ねえの。なぜかっていうと、おまえはもう高校生だから」
「……ウソ」
「ほんとだって」
「ウソだあ。慎《しん》ちゃん、変なこと言ってからかってるでしょ」
「ンだよ、ムカつくなこの野郎。ウソかどうか、このマナコを見てから言え」
「えぇ〜?」
高峰はぬっと顔を突き出し、俺の目をのぞき込んだ。
「……ホントだ」
「だろ?」
「じゃあ……じゃあじゃあ、高校生のあたしってどうなってるの?」
「いや別に、どうもこうも……見たまんまだけど」
「まんまって……あ、これ高校の制服?」
高峰は近くの米屋のガラスに駆け寄り、自分の姿を映した。
「へええ……あ、ヤダ、あたし、ひょっとしてまた身長伸びてる?」
「今=A何センチだよ」
「ええと……一七三」
「じゃ、あと十二センチ伸びる」
「ええ〜、ヤダ」
「まあ、バレーじゃデカいほうが有利だろ」
「あ、やっぱり始めたんだ」
「けっこう強いみたいだぞ」
「へえー……パパ、きっとよろこぶねえ」
「あー、おまえんちの親父《おやじ》さん、スポーツマンだった[#「だった」に傍点]もんな」
「今でもそうだよ。毎日走り込んだりしてるし――って」
「あ……悪い」
俺はつい、視線《しせん》をそらしてしまった。
「そういや今でもそうだ、そうだそうだ」
「……パパになにかあったの?」
「いや別に、なにってことは」
「教えて」
――なんでこいつ、こういう時だけ鋭《するど》いのだ。
「別に、今でなくてもいいだろ。どうせあとで思い出すんだし――」
前を向こうとした俺《おれ》の頭を、高峰《たかみね》は両頬《りょうほほ》を押さえてぐいっとねじった。
「今、知りたいの」
「いでででで……分かった、分かったよ」
俺はあっさり観念《かんねん》した。ウソは元々得意じゃないし、特に高峰が相手だと、すぐばれる。
「あのな、おまえんちの親父さんは、俺らが中二の時――」
「……え[#「え」は濁点付き]っくし!」
「――交通事故で」
「え、なに? 事故って――」
きょとんとした顔で聞き返してきた高峰が、んん〜?≠ニ怪訝《けげん》な顔をした。
「……だれ?」
「――なんだあ、慎《しん》ちゃんかあ。なんだかオトナっぽいから、だれかと思っちゃった」
「あー、うんうん、ところでおまえ、今いくつだ?」
「え、とし? うーんと……九つ」
いきなり、だいぶ飛んだなあ。
高峰は歩きながら、スカートの裾《すそ》をひねくったり、両手の指を合わせてもじもじさせたりしている。そのくらいの歳《とし》だと高校生なんかは丸っきり大人《おとな》に見えるんだろうが、不思議《ふしぎ》なことに、それでも俺のことは俺と分かるらしい。
まあ、小学校の時のツレに久しぶりに会ったりすると、急に背が伸びててぎょっとしたりするが、ちょっと話すと気にならなくなるしな。たぶん、似たようなもんだろう。
ともあれ、ここまで子供に戻ると記憶喪失《きおくそうしつ》とかなんとかを理解させるのもしんどそうなので、
「おまえは今日《きょう》、熱《ねつ》があるので、送ってやるからさっさと帰って寝ろ」
とだけ説明した。
「えぇー、おねつ? べつに平気だよ?」
「いや、平気じゃないって」
「平気だよう」
そんな問答をしているところに。
ピンピロピンポン、ピンピロピロピロ――
高峰《たかみね》のポケットから、携帯の着信音が聞こえてきた。ディズニーの『エレクトリカル・パレード』だ。
「ぎゃッ! なにッ!?」
高峰は思いっ切りビビりながら携帯を取り出し、まるで爆弾《ばくだん》かなにかのようにこちらに突き出してきた。
「ヤダ、慎《しん》ちゃん、これとめてェッ! これとめてェッ!」
なんか、携帯の着信音が怖いらしい。子供って、時々よく分からんものを怖がるよな。
「あー、分かった分かった」
俺《おれ》は携帯を受け取ると、電話に出た。
「はい、もしもし?」
『あら? ……ああ、慎一《しんいち》君ね? お隣《となり》の高峰です』
高峰のおばさんだ。
「あ、どうも、慎一です」
『今、学校から職場《しょくば》に連絡があったんだけど、真琴《まこと》がたいへんなんですって?』
で――
「うん……うん、大丈夫。うん、わかった。……じゃあね」
高峰は少しの間おばさんと話したのち、
「また慎ちゃんに代わって、って」
と、携帯を戻してきた。
『――それじゃ、おばさんもできるだけ急いで帰るから、慎一君、真琴のことよろしくね』
「はいはい。それじゃ、また」
てなやり取りののち、
「よかったな。おばさん早引けしてくるって」
と、携帯を返しながら俺が言うと、高峰は暗い顔でうなずいた。
「うん……そう言ってた」
「なんだよ……なんかイヤそうだな」
「ヤじゃないけど……ちょっと、苦手《にがて》かも」
――へえ……八年後にはずいぶん仲よくなるんだけどな。
と思いつつ、
「なんで。おばさんいい人じゃん」
「うん、すごく」
「じゃ、なにが不満なんだよ」
「お茶入れてくれたり、おしゃべりしたり……なんか、やさしくされて」
「いいじゃん、俺なんか、どこ行ってもズサンに扱われてるぞ」
「すごく、気、つかわれてるかんじで……」
「……あー、気ィ遣《つか》いすぎて気まずい、と」
高峰《たかみね》はまた、うなずいた。
「パパがかえってくるまで、お外でまってちゃダメかなあ」
「あ、イカン、それはイカン」
パパ、帰ってこないし。
「……あー、と」
上手《うま》い言い方が思いつかず、俺《おれ》はしばらくそのまま道なりに歩いた。そして、
「……えーと、つまり、病気なんだから、さっさと帰って寝なきゃダメだろ」
そう言いながら振り返ると、高峰が、いなくなっていた。
……少々、やばいかもしれない。
阿呆《あほう》風邪《かぜ》≠フ患者は子供というより痴呆《ちほう》老人に近い。なにかの拍子《ひょうし》に今自分がしていることも忘れてしまい、その結果、よく事故に遭《あ》ったり行方《ゆくえ》不明になったりするという。
ああ、やばい、やばい。
高峰は「パパを待つ」と言っていたから、ポイントは駅の周辺の何点かに絞られるはずだ。改札前とか、駅前公園とか――
俺はしばらくその辺をぐるぐる回ったが、高峰は見つからない。いよいよ心配になってきた。あの図体《ずうたい》に向かって誘拐《ゆうかい》とかいたずらしようってな果敢なるチャレンジャーはそうそういないだろうが、車に轢《ひ》かれたり、川に落ちたりはしてるかもしれない。
……あ。
三十分ばかり駆けずり回った頃《ころ》、ふと気がついた。
俺はちょっと勘違いをしていた。
「家に帰りたくない」のは九|歳《さい》時点の高峰の考えであって、記憶《きおく》の退行がさらに進めば、その考えはリセットされるのだ。
高峰は駅でパパを待つことをやめ、ママの待つ家へ帰ろうとしているのかもしれない。
幸い、俺や高峰の家は、川沿いに歩けば迷いようがない。かなり小さな子供でも、ひとりで帰れるはずだ。
――そう思って、家と駅の間を二往復ほどしたが、やっぱり見つからない。
「あー、もう、しょうがねえなあ」
俺はタバコ屋の店先の公衆電話から、高峰の携帯の番号に掛けた。
高峰自身が電話を取れるとは思わないが、誰《だれ》か近くにいる人が出てくれるかもしれない。
すると――
ピンピロピンポン、ピンピロピロピロ――
「ぎゃッ!?」
タバコ屋の店内から聞き覚えのあるメロディと叫び声が聞こえてきた。
この半分|駄菓子屋《だがしや》みたいなタバコ屋は、俺《おれ》が中学にあがる頃《ころ》までは近所の子供相手にそこそこ繁盛《はんじょう》していたのだが、店の婆《ばあ》さんの加齢《かれい》に伴って営業規模を縮小《しゅくしょう》し、ここ一、二年は開店休業に近い状態だ。
そこにふらふらと通り掛かった高峰《たかみね》を、婆さんが気を利かせて呼び止めてくれていたわけだが、それにしても、俺が表を行ったり来たりしてる間に、この女がここでのんきにアイスなど食っていたかと思うと、どうにも釈然《しゃくぜん》としない。
「おいこら」
俺がむすりとしながら声を掛けると。
「え……?」
高峰はきょとんと俺を見上げた。
「……」
「……」
「……」
「ほら、慎《しん》ちゃんだよ、小暮《こぐれ》さんちの」
婆さんが助け舟を出すと。
「あ! しんちゃんだあ!」
と言って、高峰はぱっと笑った。
「へへ……なんか、しらないおにいさんかとおもっちゃった」
うーん、だいぶ戻ってる[#「戻ってる」に傍点]な、これは。
「で、今おまえ、歳《とし》はいくつだよ」
「え? うう〜ん……」
高峰は巨体をくねらせながら、恐ろしく不器用な手つきで指を三本立てた。
「マコね……さんしゃい」
「あら、まァ」
婆さんは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「小っちゃい頃のまんまだよ。かわいいねェ」
「はあ」
俺はかわいいというよりかなり不気味だと思うんですが、八十の婆さんには三|歳《さい》も十七歳も大して変わらないんだろうか。
ともあれ、口の周りをベタベタにしながらお茶菓子の最中《もなか》をほおばっている高峰《たかみね》に、
「じゃ、それ食ったら行くぞ」と言うと、
「む[#「む」は濁点付き]――――ッ」と高峰は首を横に振る。
「ゆっくりしてったらいいよゥ」
「いやあ、今日《きょう》は早く帰らせたほうがいいみたいですし」
ていうか、俺《おれ》が早く帰りたい。
「ほら、早くしろって」
「や――――ッ」
すっかりこの場が気に入ったらしい高峰は、ぷいと横を向いて動こうとしない。
――この野郎……っ!
俺はしばし思案《しあん》ののち、できる限り静かに言った。
「……早くしないと、ピンピロが来るぞ」
「ぴんぴろ……?」高峰がきょとんと俺の顔を見上げる。
「ほら、さっきそこから来た[#「来た」に傍点]ろ」
俺は最中の盆の横に置かれた高峰の携帯を指差し、
「ピンピロピンポン、ピンピロピロピロ、ピレピロピロピロピロピロリン♪」
と、『エレクトリカル・パレード』の節をアカペラで歌う。
「ひッ!?」
高峰が携帯電話から飛《と》び退《の》いた。
「ピンピロピンポン、ピンピロピロピロ、ピレピロピロピロピロピロリン♪
ピンピロピンポン、ピンピロピロピロ、ピレピロピロピロピロピロリン♪」
呪文《じゅもん》のように、お経《きょう》のように、あくまで無表情に歌い続けると、やがて高峰は、
「ぎゃ――ッ!! ピンピロいや――ッ!」
と言って、表に飛び出していった。
俺は呆気《あっけ》に取られる婆さんに、
「ども、ごちそうさまでした」
と言って、高峰の携帯を拾ってあとを追う。
タバコ屋から俺たちの家までは、百五十メートルほど。
やれやれ、ようやくここまで来たか、と思っていると、少し先を全力|疾走《しつそう》していた高峰が、不意にしゃがみ込んだ。
「あー、どうした?」
駆け寄って声を掛けると、高峰は掩を見上げて、
「……おんぶ」
「ああ?」
ちょっとまて、たしかおまえ、体重八十キロあるだろ。無理だ。どう考えても無理。
「甘えんな、こら」
俺《おれ》は携帯を水戸黄門《みとこうもん》の印籠《いんろう》のようにかざした。
「わがまま言うとピンピロ来るぞ、ピンピロ」
高峰《たかみね》はピンピロ≠フ名を聞いてびくりと反応したが、それでも動こうとしない。
「おんぶゥ〜〜……」
よく見れば、顔が真《ま》っ赤《か》だ。
「おい……おまえ、熱《ねつ》出てんのか?」
そういやすっかり忘れていたが、こいつは病人なのだ。最中《もなか》食ってる場合じゃないって。
「歩けるか? え、無理? ……よ、よし」
あと、残り百メートルかそこら。
俺はぐったりとした高峰の体をかつぎ上げた。
「んぐ……!!」
身長差三十センチ、体重差三十キロ。
どう見ても、隠し芸か罰ゲームである。一歩一歩が地面にめり込みそうだ。
高峰《たかみね》の胸が背中に当たって、普段《ふだん》ならうれしくないこともないのだろうが、今は数キロ分の余分なウェイトとしか思えない。外せるものなら外して置いていけと言いたい。
「んぬぬ……!」
「えへへ、しんちゃん、すごいね。ちからもちだね」
「ちょ……は、なし……かけ、るな……」
二十メートルほどで、汗がどっと出てきた。
「がんばれー、しんちゃん、がんばれー」
応援のつもりか、高峰は背中の上で体をゆすり始めた。その振動だけでつぶれそう。
一歩、また一歩。三十センチ単位でじりじりと距離《きょり》を稼《かせ》ぎながら、ようやく残り五十メートルを切ったあたりで。
「しんちゃん」
「だ、ま、っ、て、ろ、っ……て」
「しんちゃん……おしっこ」
なぬー!
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! どこかトイレ、いや、せめて川原で――」
「もれちゃうー!」
「降ろすから、今降ろすから待て!」
「いやぁー!」
「あ……」
じわわー、と、背中が温かくなった。
――で
「……ひぐっ、ひぐぐっ」
「あー、泣かんでいい、泣かんでいい。うっとおしいから」
ふたりして小便臭いまま、俺《おれ》たちは高峰家に転がり込んだ。
とりあえず濡《ぬ》れタオルをしぼって渡すと、高峰は、
「しんちゃん、ふいてー、ふいてー」
「甘えンな」
十分ばかりすったもんだして、ようやく高峰がパジャマに着替え終わった。
「……じゃ、俺も着替えてくるから、おとなしく寝てろよ」
「えー、しんちゃん、いっちゃうの?」
「ちょっと行ってくるだけだ。それに、おばさんもすぐ帰ってくるから」
「……ママが?」
「そうそう。じゃ、いい子で待ってろよ」
で、俺んちに帰って小便シャツと小便スボンを洗濯機《せんたくき》に放り込んで、さて、ざっとシャワーでも浴びるかな、と思った時、隣《となり》の玄関が開く音がした。
「ただいまー、真琴《まこと》、具合はどう?」と、おばさんの声。
「ママだ――――――――――ッ!!」どだどだどだ、と、階段を駆け下りる音。
やれやれ、これで一件落着だ。長い一日だったぜ――と思いきや。
「ぐわ―――――――――――――――ん!!」
ものすごい泣き声が、隣の家から聞こえてきた。
「――なんスか、いったい!?」
ありあわせのものを羽織《はお》った俺《おれ》が飛び込んでいくと、高峰《たかみね》の巨体がタックルをかましてきた。
「しんぢゃ――――――――――――ん!!」
「ごぼッ!? ど、どう……し……たん、だよ」
高峰はおばさんを指差した。
「ママじゃな[#「な」は濁点付き]――――――――――――い[#「い」は濁点付き]!!」
「へ? だってあれは――」
「じらないお[#「らないお」は濁点付き]ばざ――――――――ん!!」
「……あ」
そうか。
事情を理解した俺は、おばさんのほうを見た。むばさんは困った顔でうなずき返してきた。
つまり、こういうことだ。
高峰真琴のママ=\―実の母親は、俺たちが四つの頃《ころ》に亡くなっている。今いるお母さん≠ヘ、七つの頃に親父《おやじ》さんに嫁《とつ》いできた後妻だ。その親父さんも六年後に事故で亡くなって、真琴とそのお母さん≠ヘ、血はつながらないながらもふたりだけの家族として、親密な母娘関係を作り上げてきた。
しかし、三歳のマコ[#「三歳のマコ」に傍点]はそんなことは知らない。マコにとっては自分の家族とはパパ≠ニママ≠フことであり、お母さん≠ヘ未《いま》だ、ただの知らないおばさん≠ノすぎないのだ。
「ママぁ――――! パパぁ――――!
どこぉ――――!?
どぉこぉ――――――――――――ッ!?
うあ[#「うあ」は濁点付き]――――――――――――――――ッ!!」
床《ゆか》にべたりと座って、高峰はいつまでも泣き続ける。
まさか、死んだパパとママを呼んでくるわけにもいかない。
弱り果てたおばさんが、助けを求めるように俺を見た。
そこで――
「あー……マコ、パパとママがどこにいるか、知ってるか?」と、俺《おれ》は言った。
しばらく間をおくと、高峰《たかみね》の泣く声が低く、小さくなり、やがておさまった。
「(ひくッ、ひくッ)……ど、こ……?」
「うん、えーとな……まず、今日《きょう》はお泊まりの日≠セ」と、俺は言った。
「おとまり……」
「だから今日はママやパパは遠くの家に泊まって、代わりに俺がここンちに泊まるんだ」
「……しらないおばさんは?」
「あの人も、お泊りの日のためにわざわざ遠くから来てくれたんだ。だから仲よくしなきゃいけない。分かったか?」
「なかよく……?」
高峰はおばさんのほうを見た。
「はじめまして。よろしくね、マコちゃん」ナイスおばさん。
「……うん、わかった」
てなわけで、俺はその夜、高峰の家の客間に泊まることになった。
ただし、高峰が寝るまでは、高峰の部屋で子守だ。
高峰は顔に布団《ふとん》を半分だけ被《かぶ》って、どうでもいいようなことを、いつまでもしゃべり続ける。
「あのね、マコは小さいからおもらししたり、さびしくてないたりしちゃうのね。大きい人はそんなことしないの。だからマコ、はやく大きくなりたいなあ……」
「いや、大きくなっても泣く奴《やつ》は泣くし、もらす奴はもらすけどな」
「それでね。しんちゃん、大きくなったら、おともだちいっぱいできる?」
「ああ、出来る出来る。高校ぐらいになると彼氏も出来るぞ。彼氏って知ってるか」
「しってるよ!」
高峰は布団から顔を出した。
「カレシって、チューするんだよ」
「あー、するする。で……えー、これはたとえばの話なんだが」
「タトレバ?」
「たとえば、な。ある日の休み時間に、彼氏がおまえにチューをしようとするが、たまたまちょっと背が届かなかったりすることがあるかもしれない。それで――ここ、大事なとこだからよく聞けよ――そういう時、おまえは『くすっ』とか笑ってはいけない。彼氏がとても傷つくからな。で、お返しに『なに笑ってんだ、この巨大生物』てなことを言われたからといって、いきなりキレて彼氏を追い回してぶん殴ったりしてはいけない。分かったか?」
「……うん」
「よし、分かったらもう寝ろ。『寝る子は育つ』っていうだろ? 寝て起きたら、おまえはきっと、学校で一番デカい女になってるぞ。よかったな」
「えぇ〜? ……そんなに大きくなくて、いい……」
「まあ、そういうのが好きな奴もいるから育っとけ。ほら、動物園でもデカいのは人気があるだろ。ゾウとかキリンとか」
「マコ、キリンさん、すき……」
「うん、俺《おれ》もキリンさんは好きだな。デカいしな。……じゃ、もう寝ろ。おやすみ」
そう言って俺が布団《ふとん》を掛け直した時には、高峰《たかみね》はもう、すうすうと寝息を立てていた。
うーむ、この素早《すばや》い寝つきが成長の秘密か。
ところで、あとで高峰から聞いた話だが、高峰のおばさんはこの件について、
「自分と出会う前の小さい真琴《まこと》の姿を見ることができてよかった」
てなことを言っていたそうである。いやあ、出来た人だな。
ちょっといい話なので、ここに書いておく。
さて、阿呆《あほう》風邪《かぜ》≠ヘ一般に「三日で治る」と言われているが、
「どもォー、タカミネ、復帰しましたァ!」
などと言いつつ、高峰真琴は翌日の午後には教室に現れた。恐るべき生命力だ。
「おー、タカさん」
「もう大丈夫なの?」
「あはは、平気平気ィ! 試合も近いし、休んでらンないよ!!」
などと威勢のいいことを言っていた高峰だが、ふとテンションを抑え、そろそろとこちらに歩いてくる。
「あの……慎《しん》ちゃ……小暮《こぐれ》君」
俺は振り向きざまに右手を上げた。
「よッ、復活の大巨人」
ぴくッ、と一瞬《いっしゅん》表情を強《こわ》ばらせつつも、高峰は微笑を浮かべて言った。
「小暮君、昨日《きのう》はどうも、ありがと……」
「ああ、苦しゅうない。下がってよし」
と、今度は振り返りもせずに、俺。
俺は今、チョリとショージにネタを振るのに忙しいのだ。
「――それでな、これがその時の奴《やつ》のマネ。『おぐあぁ〜〜〜〜ん! ママ〜〜ッ! マぁマぁ〜〜〜〜〜ン!』」
激しくヘッドバンキングをしながら両手足をドタンバタンと動かす俺の大熱演《だいねつえん》に、
「だはははは!」と、チョリが膝《ひざ》を打って笑い、
「はっはっは、慎一《しんいち》、後ろ、後ろ」と、ショージが俺の背後を指差した。
「あ?」
振り返ると、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》を浮かべた高峰《たかみね》が右腕を大きく振りかぶっていて「ぐわッ!!」俺は頭蓋骨《ずがいこつ》が陥没するほど殴られた。
一瞬《いっしゅん》、目の前に火花が散って頭の中が真っ白になってお花畑が見えて、これはひょっとしていわゆる臨死《りんし》体験《たいけん》というやつか。つまり端的に言うと、死ぬかと思った。
――死ぬかと思ったが、一瞬くらっとしただけで、俺の視界と平衡《へいこう》感覚はすぐに回復した。
あー、あー、あー、大丈夫か俺? テステステス。
俺は小暮慎一、十七|歳《さい》、上喜多沢《かみきたざわ》高校二年一組、出席番号五番。
よし、頭もはっきりしてるぜ。イェイ。
「ふ〜ん、そっかァ〜」
「え?」
振り向くと、いつの間に背後に回ったのか、高峰がニタニタ笑っていた。
なにやら化粧などして、大人《おとな》っぽい格好《かっこう》。なんのコスプレだ、それは?
「そっかァ〜、十七歳かァ〜、若いねェ〜」
え、なに?
なんだよ、その笑いは。
「慎ちゃん、それ、それ」
高峰に指差されて手元を見ると、俺はなにやらチラシのようなものを握っていた。
|ゴードン《ごうどん》症候群《しょうこうぐん》の患者《かんじゃ》さんへ――
……なんだこりゃ?
……。
……。
……えーと。
…………ところで、ここはどこだ?
[#地付き]〈了〉
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恋する死者の夜
[#改ページ]
昔、天国とか地獄《じごく》とかいったものを、僕は信じていなかった。
しかし今は、そういったものが本当に存在することを知っている。
それらがどこにあるのかと言えば、それは――
「 ま も る く ん あ さ だ よ う 」
間近から声を掛けられて、飛び起きた。
いつの間にか夜[#「夜」に傍点]になっていたのだ。
暗い部屋の中、青白い少女の顔が、僕をのぞき込んでいた。
「 お ひ さ ま が ぽ か ぽ か だ よ 」
そう言う彼女の視線《しせん》は、微妙に焦点を欠いている。
ぱさついた髪に、乾いた肌、どこかうつろな表情。
昼間の陽《ひ》の光の下で見れば、そのありさまはうち捨てられた人形か、あるいは死体のそれだ。
しかし、窓から射《さ》し込む淡い月の光はそうした細部を霞《かす》ませ、彼女の印象を生前のままに保っている。
「……ナギ」
その名をつぶやいたきり黙《だま》ってしまった僕に向かって、彼女、ナギはゆっくりと眉《まゆ》をひそめ、首をかしげた。
「 ま も る く ん ひ み つ の や く そ く お ぼ え て る ?」
青白い手が、すうっと差し出され、僕の手を握った。
小さな室温の手のひらは、少しひんやりとして、柔らかかった。
――月の光の感触だ。
なんとなく、そんなことを思った。
窓から射し込む月明かりに照らされたナギの表情が、ゆっくりと、子供じみた笑顔《えがお》になる。
「 え へ へ そ う で す き ょ う は ゆ う え ん ち に い く ひ だ よ 」
昨日《きのう》も今日《きょう》も明日《あした》も、そしてその先もずっと、ナギにとって今日≠ニいう日は遊園地に行く日≠ネのだ。
死人が、蘇《よみがえ》る。
心臓《しんぞう》が止まっている以上、医学的には遺体《いたい》≠ニしか言いようがない。だが、それが生きているように動いたりしゃべったりする。
彼らが動くのは、生命活動とは微妙に違う、一種の化学的作用によるものだと言われている。
また、彼らがしゃべるのは、人間的な精神活動によるものではなく、その死んだ肉体に刻まれた記憶《きおく》がリピートされているためだと言われている。
ゼンマイ人形やテープレコーダーに生命がないように、彼らにも生命はない。
そう言われている。
原因については、早くからさまざまな仮説が出ていた。
曰《いわ》く、金星探査船に付着した病原菌。
曰く、新星|爆発《ばくはつ》による未知の放射線《ほうしゃせん》。
曰く、インドの奥地の奇妙な風土病――
しかし、実際には病原体も放射線も確認《かくにん》されてはいない。みんなそれぞれの立場から、自分の知っている[#「知っている」に傍点]未知の[#「未知の」に傍点]もの≠フ例を挙げているだけ――つまるところ、具体的に「今、なにが起こっているのか」は誰《だれ》にも分かっていないのだった。
だから、はなから理屈を放棄してフィーリングだけで物を言うほうが、あるいはよほど実際的であるのかもしれない。「地獄《じごく》の釜がいっぱいになって、死者が地上にあふれ出したのだ」なんて言い草には、馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいながらも奇妙な説得力があって、冗談《じょうだん》半分ながらも多くの人が口にしている。
だが、これを「審判《しんぱん》の日がつい来たのだ」などと大まじめに言うと、途端《とたん》にウケが悪くなり、クリスチャンも無神論者《むしんろんじゃ》もしかめ面《つら》で首を横に振る。
世界の終わりについて考えることは、自分自身の死について考えることと同様、まともな人間には耐《た》え難《がた》いことなのだろう。おそらく、人間の精神というのは、自分が「もう死んでいる」と考えるようには出来ていないのだ。
まあ、これは当たり前といえば当たり前かもしれない。普通は誰も、死んだあとに物を考えたりはしないのだから。
しかし、その普通≠ェ普通でなくなってしまったのは、いったいいつ頃《ごろ》からだろう。
今、街を歩いている死人たちは、自分の死についてどう考えているのだろう。
今、僕と手をつないでいるナギは、いったいどう考えているのだろう。
ナギと出会ったのは、僕が小学生の頃――まだ、死人がおとなしく死んでいた時代のことだ。
当時木登りに凝《こ》っていた僕は(高い所が好きなのだ)、近所の高校の校庭に植えられたくぬぎの木を片端《かたはし》から登ろうとしていたのだが、途中で両親に見つかって止められ、その後《ご》は時々、夜中にこっそりと校庭に通って続きをやっていた。たいていはその夜のうちに見つかって、家に帰るなり怒られたけど、僕はへっちゃらで何度でも家を抜け出した。
やがて、校庭の木を制覇《せいは》してしまった僕が次に目をつけたのが、近所でお屋敷《やしき》≠ニ呼ばれている大きな家の、柿《かき》の木だ。
月の明るい夜だった。
人の家に勝手に入るという意識《いしき》は、あまりなかった。柿の枝は塀《へい》を越えて道路の上に出ていたし、枝伝いに敷地に入ったとしても「空中はセーフ」みたいなつもりでいた。
助走をつけて高い塀の上によじ登り、その上に立ってしまうと、ちょうど手を伸ばした高さに枝が伸びていて、あとは簡単《かんたん》だった。
枝から枝へ、夢中になって登っていくと、すぐに二階の高さになった。
明かりのついていない二階の部屋の窓が、ぽっかりと開いていた。
無用心だな、と思ってのぞき込むと、窓辺に顔を出す女の子と目が合った。
やばい、泥棒《どろぼう》だと思われたかな、と思ったら、その子は大きな目をまん丸にして、
「……ピーターパン?」
「は?」
僕は枝からずっこけて、バキバキと音を立てながら庭に落ちた。
お屋敷£の明かりがついて、人の声がし始めた。僕はあわてて塀をよじ登って外に出た。
振り返ると、女の子が二階の窓から小さく手を振っていた。
かわいい子だな、と思った。
――それから、お屋敷《やしき》≠フ前を通り掛る時にはなんとなく例の窓を見上げるのが僕の習慣になったが、昼間はたいていレースのカーテンが掛かっていた。あとで聞いた話では、強い陽《ひ》の光がよくないのだそうだ。
一方、それを埋め合わせるためか、月の明るい晩には、例の女の子は窓を開けて外を見ていることが多かった。月に一度か二度、そういう晩に、柿の木に登って彼女に会いに行った。
枝を上手《うま》く伝うと、窓からほんの一メートルほどまで近づくことができる。手を伸ばせば触れられそうな、触れられなさそうな、そんな距離《きょり》で話をした。
といっても、それほどたくさんのことを話したわけではない。
彼女の名前がナギ≠ニいうこと。
なんだか難《むずか》しい病気で、ずっと自宅|療養《りょうよう》していること。
見た感じ、てっきり同《おな》い歳《どし》くらいだと思ったら、実は僕よりふたつ歳上だということ――
中学に上がり、高校生になっても、僕が彼女について知っているのはそれくらいだった。
ある満月の晩、いつものように窓辺と枝の上で向かい合うと、ナギはほほえみながら言った。
「ナギとマモルくんは、ロミオとジュリエットだね」
どこか舌足らずで、浮世《うきよ》ばなれしたそのしゃべり方は、僕が高校を受験《じゅけん》したり原付《げんつき》の免許を取ったり、後輩《こうはい》の女の子と初めてキスをしたりして(その子には少し前に振られたところだったけど)、少しずつ変わっていく間にも、まったく変化することはなかった。
その頃《ころ》には僕も、ああ、こういう子[#「こういう子」に傍点]なんだ、と気づいていたが、別段深いつき合いでもないので、大して気にはならなかった。
ともあれ、
「……いや、ロミオは別に木とか登らないと思うけど」
と、水を差すような答えを僕が返すと、
「あっ、そうなんだ」
と言って、ナギはくすくすと笑った。
「じゃあやっぱり、ピーターパンだね」
最初の印象がよほど強かったのか、彼女はなにかというと、僕のことをピーターパン≠ニ呼んだ。なんだかくすぐったかったけど、これも悪い気はしなかった。
そして――
「ねえ、ピーターパンはいつ、ナギをお外につれていってくれるの?」
と、ナギは言った。
「 ま も る く ん は や く は や く 」
ナギに手を引かれて家を出て、夜道を歩く。
小さな子供がそうするように、ナギはつないだ手にぐいぐいと全身の体重をかけて、僕の手を引く。けれども、生きた子供と違ってナギの動きは緩慢《かんまん》なので、引かれるままに前に進むと、彼女はつんのめって転んでしまう。だから僕は、くい、くい、と少しずつ彼女を引き戻しながら、ゆっくりと歩く。引いて、押して、引いて、押して――ふたりでリズムを取って綱引《つなひ》きのように引き合いながら、一歩一歩あるいていく。
くす、くす、くす――リズムに合わせて、ナギが笑っている。なんだかおかしくなって、僕もつられて笑ってしまう。ふたりで一体の、奇妙な歩き方をする変な生き物みたいに、月明かりの下をくいくいと引き合いながら歩いていく。
商店街では八百屋《やおや》や魚屋の親父《おやじ》さんが打ち水をして、店を開けている。
死人にとっては、日暮れが朝なのだ。
「ら っ し ぇ い 」
威勢がいいのやら悪いのやら、間延びした呼び込みの声に愛想笑《あいそわら》いで答え、僕らはくい、くい、くい……と駅へ向かう。
いつの間にか、僕らの周りに駅へと向かう人の流れが出来ていた。
時々早足に歩いているまだ生きている人[#「まだ生きている人」に傍点]が、奇妙に流れから浮いて、魚のように見える。
大河のようにゆっくりと流れる、死人の群れ。
死人の通勤ラッシュだ。
死ぬまで働いていた人たちが、死んだあとも働こうとしている。
元会社員は今夜も会杜に行き、元学生は今夜も学校に行く。
――ところで、彼ら蘇《よみがえ》った死人たちをなんと呼ぶべきか。
世間ではいろいろな呼び方がされていて、ゾンビ≠ニか、リヴィングデッド≠ニか、死人返り≠ニか、そんなおどろおどろしい名前で呼ぶ人もいるけど、まあ、あんまりいい趣味《しゅみ》とも思えない。
個人的には、リピーター≠ニいうのがなんだかしっくり来る。
日本語で繰《く》り返す者≠ニいう意味。というのも、彼らは人生のある一日≠、傷のついたレコードのように、ひたすら繰り返すからだ。
――あの満月の晩に約束をした僕たちは、次の週末の朝早くに落ち合った。
ひとりで家を出るのは初めて、というナギのいでたちは、パジャマみたいなトレーナーにカーディガンを引っ掛けて、それからなぜか野球帽とスニーカー――という、ぶっちゃけ寝起きのままコンビニに買い物に出てきてしまったような格好《かっこう》。
……このまま電車に乗る気か。
ちょっとしたデートのようなつもりでいた僕は、正直その時点でちょっと後悔したが、
「お陽《ひ》さまがぽかぽかだよ」
と彼女が実にうれしそうに伸びをするさまはやっぱりかわいくて、気を取り直した。
それにしても――陽の光の下で改めて見るナギは、思っていたよりもさらに小さく見えた。
物腰もそうだが、背丈《せたけ》も顔つきも、中学に上がる前の女の子のようで、これが二十歳《はたち》になろうとする歳上《としうえ》の女《ひと》とは、とても思えない。
彼女の希望で、行き先は遊園地に決めていた。
まだ小さい頃《ころ》に両親と行った遊園地が、とても楽しかったのだそうだ。
「ジェットコースターとか、そういうのはダメだけど――ナギね、観覧車《かんらんしゃ》が大好きだよ」
電車の座席で、子供みたいに足をパタパタさせながら、ナギはそう言った。
――あの日から、どれくらい経《た》ったろう。
数ヶ月か、それとも数年か。
死人の中で暮らしていると、季節感や昼夜の感覚が麻痺《まひ》していって、だんだん時間の流れが感じられなくなってくる。
また、死人を前にして「自分もいずれこうなる[#「こうなる」に傍点]のだ」と思っていると、物事に対するやる気や関心が磨《す》り減っていく。
生きながら、死人に近づいていくのだ。
死んだナギと死人のような僕は、死人の群れの中に溶け込みながら、電車に乗っている。
電車は七、八割の混《こ》み具合。この時間帯だと乗客の大部分はリピーターだ。
座席に座った僕とナギの周囲を、吊《つ》り革《かわ》に掴まった死人たちが取り囲んでいる。
ゾンビ物の映画だったら絶体絶命の場面なんだろうけど、リピーターは映画のゾンビみたいに人を襲《おそ》ったりはしないし、また、腐って悪臭を放ったりもしない。
いっそそうしてくれれば害獣《がいじゅう》のたぐいと割り切れたのかもしれないが、ただ生前と同じ日常を送ろうとするだけの彼らを殺す[#「殺す」に傍点]ことには、殺人に近い抵抗感がある。
曲がりなりにも生きて&烽「ているものを、捕まえて、縛《しば》り上げて、バラバラにしたり灰になるまで焼いたり――そんなしんどいことは、すぐに、誰《だれ》もやらなくなってしまった。
そういうわけで、世界中のあらゆる街を、死人が歩き回っている。今はそういう時代だ。
誰にも、ほかにどうすることもできず、そういうことになってしまったのだ。
もはや、世の中は死人に合わせて動いていると言っていい。リピーターたちの繰《く》り返すルーチンワークによって、辛《かろ》うじて杜会が維持されているのだ。
社会の中で、死人の占める割合がじりじり上がっていき、今や僕らは、死人の運転する電車に乗り、死人の開く店に入り、死人の提供する食事によって生きている。
――どこぞの神話だか伝説だかで、「死者の国の食物を口にした者は、そこから帰ることはできない」なんて話があったっけ。
だとすれば、もうとっくに手遅れだ、死者の国のラーメンや死者の国のコンビニ弁当を食べ続けている僕の体は、新陳代謝《しんちんたいしゃ》によって半分がた死人になっているのかもしれない。
もっとも、それを残念だと思う気もない。この死者の国を出たところで、ほかに帰る国があるわけではないのだし。
『こ の さ き ゆ れ ま す の で ご ち ゅ う い く だ さ い 』
と車内放送が告げ、ガクン、と大きな揺れが来ると、リピーターたちはうつろな表情のままで、ぞぞぞっ、ぞぞぞっ、と不気味なのれん[#「のれん」に傍点]のように揺れた。
隣《となり》に座ったナギが僕の腕にぎゅっとしがみつき、スニーカーの足をパタパタさせながら、くす、くす、くす、と笑う。
三十分ほど電車に揺られると、車内放送が次の停車駅として、遊園地の名のついた駅名を告げた。窓の外を見ると、日本で何番目だかに大きい、直径百メートルの観覧車《かんらんしゃ》が、夜の空にライトアップされているのが見えてきた。
近頃《ちかごろ》はリピーターに合わせて世の中全体が夜型になっているので、この手の遊園地も明け方までやっている。客の入りはそこそこで、そのうち生きた人間は半分足らずといったところだ。
遠足のつもりだろうか、ボーイスカウトかなにかの団休のリピーターが、僕らの前をぞろぞろと横切っていく。
遊園地というのは、思い出に残る晴れの日≠演出する場だ。だから、死後に繰《く》り返す一日をその特別な日≠ノ決める死者が多いということだろうか――いや、自分で決めてるのかどうかは知らないけど。
ともあれ、特別な日≠ルーチンにして永久に繰り返すというのも、なんだか皮肉な話だな、と思う。
……人のことは言えないけど。
僕の腕にしがみついたナギが、ぴょん、ぴょん、と跳ねながら言った。
「わ あ こ ん な に お お き い ゆ う え ん ち は じ め て だ よ 」
「うん……」
と、僕は生返事をした。
――昨日《きのう》も来たけどね。
とは、思ったけど、言わない。もし言っても、ナギはその言葉を埋解しないのだし――
――まあ、今、彼女が楽しければいいじゃないか。
そう思うのも、僕の自己満足なのだろうか。
もう、自分でもなんだかよく分からない。
僕はややこしい価値判断を諦《あきら》め、作業に専念することにした。
――まず、最初はメリーゴーランドから
「 あ っ め り ー ご ー ら ん ど 」
ナギが僕の腕を引っ張った。
「 ま も る く ん の ろ う の ろ う 」
メリーゴーランドにコーヒーカップ、鉄骨の腕にゴンドラのついたオリジナルの遊具、ループを描くジェットコースター、それに観覧車《かんらんしゃ》。
遊園地の設備には、円運動を基本とするものが多い。
みんな、直線《ちょくせん》運動する電車に乗ってここに来て、一日ぐるぐる回転して、また直線で帰っていく。しかし、たまには帰らないリピーターもいて、そういうのは、遊園地に居残って、何日でも、何ヶ月でも、ぐるぐるぐるぐる回っている。
世の中全体が、そうなりつつあるんじゃないかと思う。
いずれ、そう遠くない未来に、すべての人がリピーターとなり、それぞれの、特定の一日を永遠に繰《く》り返す――線上に動いてきた歴史が、ある一点から無限のループに入る。
あるいはそれが、神様だか誰《だれ》だかが決めた、世界の終わりの形なのかもしれない。
「 ま も る く ん た の し い ね た の し い ね 」
僕とナギを乗せたFRP製の白馬が、体を上下に揺すりながら疾走《しっそう》する。
……けれどももちろん、それはどこにもたどり着くことはない。
メリーゴーランドにコーヒーカップ、鉄骨の腕にゴンドラのついたオリジナルの遊具――縦《たて》に横に、さまざまな軌道を描いてひと晩中ぐるぐる回転したのち、僕らは最後の仕上げに観覧車《かんらんしゃ》に乗った。
ゴンドラの窓から見下ろす地上の夜の街には、電気の明かりが天《あま》の川《がわ》のように散らばっている――が、それも以前よりだいぶ少なくなった。
生きた人間は確実《かくじつ》に滅っているのだ。
いずれそう遠くないうちに、生きた人間の社会は機能《きのう》しなくなり、今いる生き残りも残らず死人の仲間入りをする。
そのことはもう、ずいぶん前から分かっている。分かっているけれど、今さらどうこうしようという者もいない。そういう人間は、もっと早い段階に大騒《おおさわ》ぎをして、どさくさの中で殺し合ったり自殺したりして生きた死人の仲間に入り、そうでない者は疲れ果てて、死人のような生者の仲間に入った。
そしてその後《ご》、あらためて、後者は少しずつ前者へと変わっていくのだ。
「 な ぎ か ん ら ん し ゃ だ い す き 」
ナギは楽しげに言うと、窓にべたりと貼《は》りつき、顔中でガラスを拭《ふ》くようにして周囲の景色を眺め、そして、顔を真上に上げた。
「 お そ ら が あ お く て あ お く て お そ ら の う え は て ん ご く だ よ 」
彼女の目には実際に、青い空に浮かぶ、大きな白い雲が――ひょっとするとさらにその上の天国≠ワでもが見えているのだろう。
しかし、僕の目に見えるのは、吸い込まれてしまいそうな、底知れず暗い夜の空だけだ。
「 か ん ら ん し ゃ の て っ ぺ ん は て ん ご く の ち か く だ ね 」
「……天国って、どんなところかな」
これまで何十回となく繰《く》り返してきた台詞《せりふ》を、僕はさも今思いついたかのようにつぶやいた。
「 え ? 」
ナギはこちらを振り返り、ぎこちない動きで首をかしげた。
ぱちり、ぱちり。
うつろな目が二回|瞬《まばた》きをし、青白い頬《ほお》が大きな笑《え》みを浮かべた。
ああ、やっぱりかわいいな、と僕は思った。
ナギを最初にここに連れてきた時も、そう思った。
いっしょに来てよかったな、と、その時は、そう思った。
あの日、観覧車《かんらんしゃ》のゴンドラが軌道のてっぺんに差し掛かる頃《ころ》、ナギは倒れた。
彼女の病気は僕が思っていたよりずっと重く、無理は絶対に禁物《きんもつ》だったとかで、ゴンドラが地上に戻った時にはもう、半ば昏睡《こんすい》状態になっていた。
そのまま救急病院に運ばれ、集中|治療室《ちりょうしつ》に移されて、一度も意識《いしき》を取り戻すことなく、彼女は死んだ。
僕は取り乱したナギのお母さんに「人殺し」と言われ、責任を取って死ねと言われて確《たし》かにその通りだと思い、しかしナギのお父さんには「せめて君は娘の分まで生きてください」てなことを言われ、それではどうするべきなんだろうかと途方《とほう》に暮れていると、その次の晩にナギが蘇《よみがえ》った。例の現象の、かなり初期の事例だったと思う。
死んだ娘を前に、ナギの両親は神経を病んで自殺し、それを知った僕の両親も自殺してしまい、それから、みんな死ぬ前の日常に復帰した。
そして、僕はひとりで生きていて、生きている僕のところに死んだナギが毎晩やってきて、遊園地に連れて行けと言う。
その場から逃げ出して、どこか遠くの町に行くこともできたかもしれない。しかし、なぜかそうしようとは思わなかった。
いったいなぜだろう。
ひょっとして、僕はすでに死んでいて、リピーターとしてこの暮らしを繰《く》り返しているのか。
そうかもしれないし、違うかもしれない。それを判断することに、あまり意味はない。
僕が生きていることと、僕が死んでいること。
どちらでも、大して違いはないのだ。
あの日――僕にとって世界が正常だった最後の日。
「ナギ、カンランシャだいすき」
ゴンドラの窓に両手をついて、せいいっぱい真上を見上げながら、ナギは言った。
「お空が青くて青くて、お空の上は天国だよ」
「天国?」
「カンランシャのてっぺんは、天国のちかくだね」
当時、天国も地獄《じごく》も信じていなかった僕は、なにとはなしに聞き返した。
「……天国って、どんなところかな」
「え?」
ナギはこちらを振り返り、首をかしげた。
ぱちぱちと|瞬《まばた》きをしたのち、大きな笑《え》みを浮かべた。
「……ゆうえんち!」
この世が天国か地獄《じごく》かは、つまるところ本人の気の持ちようだ、なんてことを言うけれど、それはあの世だって同様だ。
……いや、すでにこの世があの世かもしれない[#「この世があの世かもしれない」に傍点]のだ。
もし、人が死後に招かれる天国が本当にあるとしたら、ナギにとってはこの場こそがそうなのだろう。そして、人が死後に落とされる地獄が本当にあるとしたら、僕にとってはこの場こそがそうなのだろう。
彼女にとっての、もっとも幸福だった日。僕にとっての、もっとも後悔すべき日。
それが、今、ここだ。
ナギが僕の膝《ひざ》に飛び乗り、抱きついてきた。
ひんやりとして、月の光のようだった。
「 ま も る く ん い つ か ま た こ よ う ね 」
と、彼女は言った。
「うん、また来よう」
と、僕は答えた。
「 き っ と い っ し ょ だ よ 」
「うん、きっといっしょにね」
僕と共にいるここ[#「ここ」に傍点]は、彼女の天国だ。
彼女と共にいるここ[#「ここ」に傍点]は、僕にとっての地獄だ。
生きているのだか死んでいるのだか分からない僕らを乗せて、観覧車《かんらんしゃ》はゆっくりと回転する。
天国の風車のように、
地獄の歯車のように、
永遠に、回り続ける。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
トトカミじゃ
[#改ページ]
僕が通っているのは、創立百年を超える古い中学校だ。
とはいっても、校長先生なんかのよく言う「地域と共に歩んだ長い歴史がどうのこうの」とかいった話は、僕らにはあんまり関係ない。生徒は三年で入れ替わるんだし、十年もすれば先生の顔ぶれも、周りの町の様子《ようす》も変わる。校舎だって何度か建て直されていて、元のまま残っている部分はほとんどない。
ただひとつ例外と言えるのが、明治時代に建てられたというはなれ[#「はなれ」に傍点]の図書館《としょかん》だ。
なんでも、学校創立の時に土地のえらい人が私設文庫の蔵書《ぞうしょ》を寄付して作ったのだとかで、当時としてはちょっとしたものだったらしい。その後《ご》、戦災で校舎が焼けてしまった時にも、この木造平屋の図書蝕だけは運よく無傷で残ったそうだ。建物の作りはなかなかしっかりしたもので、屋根や内装には何度か大きな補修の手が入ったものの、ひと抱えもある大黒柱はこの先も百年や二百年くらいは傾きそうにないと思えた。
学校としてはこの大きな古い建物が自慢らしく、校歌の歌詞や地方新聞の学校紹介などで触れられることも多かったのだが、実のところ、生徒のほとんどはまったく関心がなくて、渡り廊下を通って図書館に行く者は、日に何人もいなかった。
そういうわけで、放課後《ほうかご》も遅くになると、西日が射《さ》し込む館内は、がらりとしてなんとも物|寂《さび》しいありさまになる。
そこには、今年《ことし》の頭まで、小さな神様が棲《す》んでいた。
図書館の奥にある神棚本棚[#「神棚本棚」に傍点]を見つけたのは、中二になった春先のことだ。
たまたま学級会のあった日に風邪《かぜ》で休んだら、
「おい蒲田《かまた》、おまえ図書委員だから」
と、勝手に役をつけられてしまっていた僕は、まあ選《えら》ばれた以上は怒られない程度にちゃんとやろうと思って、翌日の放課後に一回目の定例会が開かれる図書館に行った。
渡り廊下につながる入り口は大きく開放されていて、ゆるやかな風が吹き抜けていた。
「えーと……失礼しまーす」
と、僕は館内に踏み込んだ。入学した最初の週に校内オリエンテーションでざっと上《うわ》っ面《つら》を眺めただけで、まともに中に入ったことはなかったので、ちょっと緊張《きんちょう》する。
教室の五、六個分はありそうなやたらに広い館内は無人で、カウンターにも人は着いていなかった。早く来すぎたかな、と思いつつ、ぐるりと周りを見てみた。
カウンターの周囲は新入荷や貸し出しから帰ってきた本のコーナー。窓ぎわのあたりには、自習スペースだろう、いくつかのデスクと長テーブル。そこから少し離《はな》れると、ジャンル別に分けられた背の高いスチール本棚の群れ。ここまでは普通の図害館と同じだけど、そこから奥のほうが、なにやら薄暗《うすぐら》くなっている。
最初は照明の具合かなにかかと思ったのだけど、近寄ってよく見たら、並んでいる本が全体的に茶色《ちゃいろ》っぽいのだった。真っ茶色に変色した古い文庫本や、バラバラに分解しかけたハードカバー、本だかなんだかも分からないよれよれの和紙を閉じたもの、解《ほど》くと崩れそうな巻物などなど、奥に進んでいくほど古いものになるみたいだ。で、それらが木目の浮き出た古い本棚にぎっしりと詰められていて、古本屋の倉庫かなにかみたいになっている。心なしかそのあたりだけ空気も埃《ほこり》っぽくて、なんだか陰気な感じだ。
(こりゃあ、図書館《としょかん》に人気《にんき》がないわけだ)
と納得《なっとく》してしまったが、それでも僕は、実はこういうのも嫌いじゃない。幼い頃《ころ》には父方の田舎《いなか》の、腐った漬物《つけもの》みたいな匂《にお》いがする土蔵《どぞう》の中をよろこんで探検したりしていたものである。
そんなわけで、ちょっとした迷路を思わせる古本の山の奥に、少しばかりワクワクしながら分け入っていくと、入り口から最も奥まった突き当たりの壁《かべ》に、それ[#「それ」に傍点]があった。
技術科の課題《かだい》で作ったような、小さな、素朴な本棚――だと思うんだけど、ちょっと自信がない。頭ほどの高さの壁《かべ》に直接打ちつけられ、正月|飾《かざ》りみたいな小さな注連縄《しめなわ》をつけたそれは、本棚というより、
(神棚……?)
いやしかし、それにしては解《げ》せないことに、お札《ふだ》とかお神酒《みき》とかが祭られているはずの棚の上には、つやつやとした真新しい文庫本の背表紙が並んでいるのだった。
そのタイトルはというと、
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『誘惑《ゆうわく》 甘い罪の罠《わな》』
『今夜だけ野蛮人《やばんじん》』
『仮面|熱愛《ねつあい》スキャンダル』
『おまえしか見えない……』
『ナイ☆ナイ はにぃNIGHT』
『ハートに暗殺者《アサッシン》』
『恋に恋して恋してるっ!』
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……えーと?
一冊手にとって見ると、少女漫画風の美青年がふたり寄り添っている絵で、タイトルからすると女の子向けの恋愛小説かなにからしい。
どう見ても神棚に供《そな》えるようなものではないので、やっぱりこれは本棚なのかな、しかしまた、なんでこんなところに、と思っていると、
「おい」
脚立《きゃたつ》に声を掛けられた。
「え……?」
いや、声がしたのはもっと下のほう。脚立をかついだ小さな女の子が、僕を見上げていた。
身長は僕の腰のあたりまでしかなく、パッと見、幼稚園児くらいの年頃《としごろ》に見える……が、表情はあどけないというよりなんだか気の強そうな感じで、口元をへの字に結んでいる。おまけに学校指定のセーラー服(さすがにちょっとサイズが大きいけど)を着ている。
「あ、えーと……新人生?」
「誰《だれ》が新入生じゃ」
そう言って、女の子は僕の手から文庫本をひったくった。
「勝手に触るな。わがものじゃ」
「あ、ごめん、すいません」
僕は素直に謝《あやま》った。えらそうな人の前に出ると、つい腰が低くなってしまうのである。
「……あの、じゃあ先輩《せんぱい》ですか?」
うちの学校は学年二クラスしかないので、同級生なら顔ぐらいは知っている。だから、下級生でなきゃ上級生かな、と――
「トトカミじゃ」
「え? あー、はあ、変わった苗字《みょうじ》ですね」
女の子――トトカミさんは、僕の相槌《あいづち》を無視して、ガタガタと脚立を広げ始めた。
その様子《ようす》がなんだか危なっかしいので、
「あ、取りますよ? どれっスか?」
本棚に手を伸ばすと、じろりとにらまれた。
(わ、怒られる?)
と一瞬《いっしゅん》思ったけど、トトカミさんは僕の顔をじっと見ると、
「全部じゃ」
「あ、ハイハイ」
十冊ほどの文庫本をまとめて手渡すと、トトカミさんは両手でそれを抱えてのしのしと歩き始めた。
「えーと、あの、これ……脚立は?」
小さな背中に呼び掛けると、トトカミさんはぐるりとこちらを振り返って、
「ん」
と、あごを回す。ついてこい、ということらしい。
脚立を持ってよたよたと歩いていくと、トトカミさんは窓ぎわの長テーブルの端の席に座り、文庫本を目の前に塔のように積《つ》み、てっぺんの一冊を手に取って読み始めた。
たぶん、ベテランの図書委員の人なのだろう。テーブルの縁《へり》が胸まで米てしまうくらい小さいのに、その姿はあまりにも堂々《どうどう》としていて、まるでこの場の主《ぬし》というかボスというか、とにかくすごい貫禄《かんろく》だ。
いや、それはいいんですけど、脚立《きゃたつ》。
僕が馬鹿《ばか》みたいに突っ立っていると、
「ん」
トトカミさんは顔を上げ、壁《かべ》ぎわのロッカーをあごで指した。掃除用具入れらしいそのロッカーの横に、ちょうど脚立を置いておくだけの隙間《すきま》があった。
「あ、ハイハイ」
ガタガタと脚立をしまうと、僕は長机をぐるりと囲って、トトカミさんからちょっと離《はな》れたはす向かいの席に着こうとした。すると、彼女は再び顔を上げて、正面の席をぐいっとあごで指す。
「……あ、ハイ」
僕はトトカミさんと差し向かいになって座った。
少々|緊張《きんちょう》しながら、そわそわと周りを見回し。
「……ほかの委員の人は、まだですかねえ」
なんてことを言ってみるが、これは無視された。
――ぺらり、ぺらり、ぺらり。
トトカミさんは開いた本に集中しながら、けっこうな速さでページをめくっていく。子供向けであんまり文字が詰まっていないのかな、とも思ったけど、それにしても速い。
「あ、ひょっとして速読法かなにか――」
と聞くと、トトカミさん、くいっと顔を上げて、こちらをじろり。
「――スイマセン、なんでもないです」
困ったなあ、なんだか怖い人に捕まっちゃったなあ。
などと思っていると、入り口のほうからがやがやと人の声が聞こえた。
七十くらいのおじいさんがひとりと、学校の生徒が男女取り混ぜて六人。
僕の姿を認めて、
「おや」
と言ったおじいさんは非常勤の司書|教論《きょうゆ》の小松《こまつ》先生。生徒は各クラスの図書委員だろう。
メガネを掛けた女の子――去年同じクラスで委員だった子で、名前はたしか、えーと、星野《ほしの》さん――が、僕を見つけて小さく手を振った。
余談《よだん》ながら、こういう風《ふう》に多少なりとも好意的な態度を取られると「そうそう、そう言えば僕もあの子のことが好きだった」とか思えてきてしまうのが、我《われ》ながら単純というか虫がいいというか。名前忘れかけてたくせに。
ま、それはさておき、
「あ、どうも……」
集団に向かって腰を浮かせて頭を下げ、ああよかった、今まで気まずかったですなあ、と思って向かいの席をちらりと見ると、
「……あれ?」
トトカミさんの姿は、文庫本もろとも、跡形もなく消えていた。
大福餅《だいふくもち》と煎餅《せんべい》と、淹《い》れたての玄米茶《げんまいちゃ》。
図書委員会の定例会は、会議《かいぎ》というより小松先生を囲むお茶会といった感じで、和気あいあいとしたものだった。今年《ことし》は委員じゃないけど来ちゃった、なんて人もいる。
いやあ、みんないい人そうでよかった。怖い人もいたけど。
ところで、その怖い人、件《くだん》のトトカミさんが座っていた席は空席になっている。先生の手で空《から》の椅子《いす》の前に湯呑《ゆの》みとお茶菓子の紙皿が置かれたので、彼女もまたすぐに戻ってくるのだろうと思っていたのだけど、お茶が冷え切る頃《ころ》になってもまだ来ない。そして、そのことをほかの人たちが気にしている様子《ようす》もない。はて?
そんなこんなで、小一時間ほど雑談したのち、小松《こまつ》先生がほろりと言った。
「ん……それじゃあ一応、今年《ことし》の役職《やくしょく》、決めようか。まあ、ネギサマ[#「ネギサマ」に傍点]以外はみんなで好きにしたらいいから」
すると委員の人たちは、はあい、と答えて、
「オレ、推薦《すいせん》の内申《ないしん》があるんで、委員長やっていいですかあ」
「じゃあ私は副委員長で」
「あたし、書記やりますね」
といった具合に、自然に枠《わく》が埋まっていく。
ああ、なんて自主的な。この人たちは風邪《かぜ》で休んだ人間に勝手に役を当てたりはしないのだなあ。ところでネギサマ≠チてなんだろう?
あと、例のトトカミさんがいないままだけど、それはいいのかな。すごくえらそうだったから、なにかの役に就《つ》くんじゃないだろうか。それともネギサマ≠チて言うのはあの人の役職の名前なのかしらん? あるいはあだ名とか?
なんだかちょっと混乱してきたので、とりあえず聞いてみた。
「あのー、そこに座ってた、小さい先輩《せんぱい》は――?」
すると、わいわいと顔を寄せ合っていた委員の人たちがぴたりと黙《だま》り込み、いっせいにこちらを見た。
わ、なんか怖い。
「先生……?」
メガネの星野《ほしの》さんが、小松先生を振り返った。
「あー、うん、うん」
小松先生は落ち着いた様子《ようす》でうなずくと。
「じゃ、君が今年のネギサマだね」
「は……?」
――以下、小松先生の説明。
ネギサマとは、おおむね神主《かんぬし》とか宮司《ぐうじ》とかみたいな意味の言葉で、禰宜《ねぎ》様≠ニいう難《むずか》しい字を書くそうだ。
神主だから、神様を祀《まつ》るわけである。
なんの神様かといえば、図書館《としょかん》の神様である。
その図書館の神様が、トトカミサマである。
トショのカミ≠ェ訛《なま》ってトトカミ≠ノなったんじゃないか、と、これは小松先生の説。
そのほかには、
「たしか、エジプトの神話で、トト神っていう書物の神様が……」
と星野さんが言っていたけど、うーん、エジプトは関係ないと思うなあ。
ともあれ、あの小さくてえらそうなセーラー服の女の子は、この図書館《としょかん》に棲《す》む神様だというのである。
「まさかあ」
と、僕は頭を掻《か》きつつ常識的《じょうしきてき》な感想を述べたのだが、小松《こまつ》先生も委員の人たちも大まじめな顔なので、愛想笑《あいそわら》いを引っ込めた。
――で、説明の続き。
トトカミサマは基本的に、人がいるところには出てこず、毎年決まったひとりの人――つまり、ネギサマ――の前にだけ現れるという。
「はあ……えーと、現れて、なにするんですか?」
なんか、本とか読んでましたけど。
「まあ、神様には神様のおつとめ[#「おつとめ」に傍点]があるんだねえ」
と、小松先生は分かったような分からないようなことを言った。
「こちらはただ、きちんとお祀《まつ》りすればいいんだよ」
「はあ、じゃあ、もしきちんとしなかったら」
自慢じゃないけど僕、わりとポカをやるほうです。
すると小松先生、いたってのんきに、
「それは、祟《たた》りがあるかもねえ。なにしろ神様だから」
「た、タタリですかあ……」
「本棚の本が入れ替わったり、蛍光灯《けいこうとう》が切れたり、かわいいものだけどね」
先生、ぽんと僕の肩を叩《たた》き。
「それを直すのもネギサマの役目だから」
え〜?
僕が嫌《いや》そうな顔をしていると。
「いいなあ、蒲田《かまた》君」
と、メガネの星野《ほしの》さんがうらやましそうに言った。
「小さな神様だなんて、ロマンチックだわ」
――というわけで、懸案《けんあん》のネギサマ役も無事(?)決まり、そのあとは放課後《ほうかご》の貸し出し当番を決めてお開きになった。
僕の担当は毎週|土曜《どよう》で、放課後の時間も長い、しかも、ほかの曜日には小松先生とか当番じゃない人とかが集まって毎日お茶したりしてるのに、土曜日だけはトトカミサマが出てこれるように、ひとりでやらなくてはいけないのだそうだ。
一年間も。しんどいなあ。
「まあ、過ぎてしまえばあっという間だよ」
と、小松先生はにこにこ笑いながら言った。
「はあ、まあ、人間、歳《とし》を取ると一年や二年はすぐだ、なんてコトいいますけど」
「そうそう、一年だけの恋人になって、短い逢瀬《おうせ》を楽しむような気持ちで……いい思い出になるように、ね」
先生が歳のわりにシャレたことを言うと、言葉尻《ことばじり》に反応したのか。
「そういうのって……素敵《すてき》よねえ」
と、ぽわんとした顔で星野《ほしの》さん。いや、こっちに振られても。
いや、ま、それはともかく。
なんだか雰囲気でこういうことになってしまったけど、そもそも、神様とかなんとか、ホントにそんなのがいるのだろうか。ひょっとして僕、かつがれてるんじゃないかしらん。最初の日に僕が出会ったあれは、実はただの背の小さい人だったんじゃ?
などと、その週末、がらんとした放課後《ほうかご》の図書室のカウンターに着いて考えていると――
ガタガタガタ。
と、掃除用具入れのあたりで物音がした。
見ると、小さな女の子が脚立《きゃたつ》を引っ張り出そうとしている。
「あっ、トトカミサマ?」
女の子はぐりっとこちらを見ると、
「トトカミじゃ」
わ、なんかやっぱりホンモノっぽい。
僕はあわててカウンターから出ると、彼女の脚立《きゃたつ》の代わりになった。つまり、例の本棚から本を下ろして彼女に手渡した。
本棚の本はこの前と同じような少女小説だったけど、タイトルは違うもののようだ。
「あ、こないだのはもう読んじゃったんですか」
なんとはなしに言うと、例によってじろりとにらまれた。
「……スイマセン」
トトカミサマがこの前と同じ窓ぎわの席(そこが定位置らしい)にどっしり座って本を読み始めると、僕は準備室の電気ポットで玄米茶《げんまいちゃ》を淹《い》れ、買い置きの大福《だいふく》といっしょに差し出した。
「あの……お茶です」
「ん」
文庫本を片手で開いたまま、トトカミサマは湯呑《ゆの》みに手を伸ばす。
神様の世話というから、てっきりお神酒《みき》を上げたり祝詞《のりと》を読んだり、ピロピロした紙の帯がついた棒を振ったりするのかと思ったら、なんのことはない、お茶を出したり身の回りの雑用をしたりして接待すればいいらしい。
ただまあ、彼女が黙《だま》って本を読んでいる問、向かいの席で手持ち無沙汰《ぶさた》にしているのが、しんどいといえばしんどい。窓の外の運動部の練習をぼーっとながめたり、図書館《としょかん》の本をぱらぱらめくったり、それにも飽きると、トトカミサマの様子《ようす》をなんとはなしにウォッチングしたり。
――ぺらり、ぺらり、ぺらり。
トトカミサマは相変わらずの高速度でページをめくっている。
終始|面白《おもしろ》くもなさそうな顔をしてるけど、ホントにちゃんと読んでるのかな。そう思ってよく見てみると、眉毛《まゆげ》のあたりがぴくぴくと動いているので、少なくとも、本の内容に反応はしているようだ。
と――眉毛がひときわ大きくぴくりと動き、トトカミサマは文庫本の間に挟まれたしおりを抜き出した。パステルカラーのコピー紙を切って作ったような短冊《たんざく》に、赤いボールペンでなにやら文字が書いてある。
トトカミサマはその文章を一瞥《いちべつ》すると、ふん、と鼻を鳴らし、
「筆をもて」
と言った。
それから何週間かして――
図書館《としょかん》利用者は相変わらず少なくて、土曜《どよう》の午後、半日座っていても、せいぜい両手の指で数えられる程度だ。実際、この図書館は得体《えたい》の知れない古書をのぞけばそんなに品揃《しなぞろえ》えがいいとも言えないし、勉強するなら本校舎のほうにきれいな自習室があるしで、そもそもの存在意義すら怪しいところなので、まあ無理もない。
それでもちらほらと現れる生徒は、たいてい新しめの本をつまんで借りていくのだが、一日にひとりかふたり、奥のほうへ入っていくのがいる。たいてい女の子だ。気をつけてじろじろ見たりしないようにはしているのだが、なにしろお客が少ないので、どうしても気になる。
で、そういう子が立ち去ったあとに例の本棚を覗《のぞ》くと、新しい本が何冊か増えている。つまり、不特定多数の女の子が、入れ代わり立ち代わり、トトカミサマの読む本を運んでいるのだ。
でも、なんで?
その点について、以前メガネの星野《ほしの》さんに聞いた話では――
トトカミサマの存在は、一部女子生徒の間でけっこう有名なのだそうである。
まず、一冊の文庫本を用意し、悩みごとや知りたいことなどを書いたしおりをはさむ。
それから土曜の放課後《ほうかご》に図書館に行き、入り口から十三歩ぴったりでいちばん奥の神棚本棚[#「神棚本棚」に傍点]にたどり着き、
「トトカミサマ、トトカミサマ、オフデ、オコトバ、オツヅリクダサイ」
と唱《とな》えながら持ってきた本を捧《ささ》げると、一週間後にはそのしおりの裏側に神託《しんたく》のようなものが書かれている――と、これはつまり、コックリさんみたいなおまじないのたぐいですな。
僕はあんまりオカルトとか信じるほうじゃないので、いつもなら、
「まさかあ」
とか言って流すところだけど、今回はバッチリ信じます。
なぜって、目の前で書いてるし。
トトカミサマは僕の手渡した赤い筆ペン(習字の採点用)の先っちょをぺろりとなめると、さらさらと短冊《たんざく》に走らせる。神様だけあって(?)なかなか達筆だ。
内容は以下のような感じ。
[#ここから1字下げ]
――先輩《せんぱい》に告白する勇気が出ません。
『当たって砕《くだ》けるが吉』
――志望校の選択《せんたく》で迷ってます。
『悔いなき道を歩め』
――やせたいです。
『運動せよ』
[#ここで字下げ終わり]
「……ははあ」
なんだかおみくじみたいな、それなりにそれっぽいことが書いてあるので、
「やっぱり、神様だけあって、ベストの選択《せんたく》がビビッと来たりするわけですか」
と僕が言うと、トトカミサマ、ぐりっと顔を上げて。
「適当じゃ」
わ、言い切った。
……いやしかし、適当って、中にはシャレにならないっぽいのもあるんですけど、ほら、嘘《うそ》かホントか知らないけど、
[#ここから1字下げ]
――生理が来ません……。
――親が殺したいほど憎いです。
――女の子を好きになっちゃダメですか。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、そういうディープな質問に対しても、トトカミサマはしれっと、
『なるようになる』
とか書いている。
いや、そりゃまあ、なるようにはなるんでしょうけど、
「ほんと、適当だなあ」
僕がぽろりと言うと、トトカミサマ、仏頂面《ぶっちょうづら》をますますむすっとさせて、
「どうせ暇つぶしじゃ」
……神様って、ヒマなのだろうか?
で、貸し出し当番(兼ネギサマ活動)にも慣《な》れてきた梅雨《つゆ》の頃《ころ》、
「そういうのって、どうなんですかねえ」
と、定例会のあとに小松《こまつ》先生に聞いてみた。
「悩んでる人に変なこと言って、自殺でもされちゃったら責任重大ですよ」
「そうだねえ」
小松先生は、にこにこ笑いながらうなずいた。
「でも、そういうのは、少しいい加減なくらいがいいんじゃないかねえ」
「はあ」
「あまりきっちりしすぎるのも、よくないからねえ。神様とかそういうものは、『いるかもしれない、いないかもしれない』ぐらいの塩梅《あんばい》が一番いいんじゃないかと思うねえ」
「はあ、そんなもんですか……」
「あの人も意外とまじめなところがあるから、きっと、その辺はちゃんと考えてるんだよ」
「あの入って……トトカミサマ?」
なんだか知り合いのようなことを言うので、
「あ、先生も会ったことあるんですか」
と聞いてみると。
「また、お会いしたいものだねえ」
と、遠い目をしながら、先生。
「とてもかわいらしい女の子の姿をしてらしたからねえ……」
「ははあ」
いえ、どっちかというと、かわいげのない感じだと思いますけど。
それから、その次の当番の時にその話をすると、トトカミサマ、ぺらりぺらりと文庫本のページをめくりながら。
「小松《こまつ》の小倅《こせがれ》、そんなこと言っておったか」
「うん……って、七十のおじいさんに小倅≠ヘないでしょ」
「ふん、洟《はな》たれに多少しわが寄っただけじゃ」
「あ、子供の頃《ころ》からのお知り合いなんですか」
「六十年ばかり前の禰宜《ねぎ》じゃな」
……ふむ。
この頃になるとだいぶ分かってきたのだけど、トトカミサマ、いつも不機嫌《ふきげん》そうなのは地顔で、本当の機嫌は、微妙な眉毛《まゆげ》の角度とか声の調子《ちょうし》で分かる。小松先生の話をする時は、実はちょっと楽しそうだ。
「それじゃあ、ずいぶん長いつき合いですね。あの人も長生きしそうだから、上手《うま》くすると百年越しとかになるかも」
と――トトカミサマの眉毛が、すっと不機嫌≠フ位置に下がった。
「あ奴《やつ》、今年《ことし》のうちに死ぬるぞ」
「え――なんですか、いきなり」
「寿命じゃ」
「……そういうの、分かっちゃうんですかあ」
トトカミサマは答える代わりに、僕の顔をじっと見た。
「あの……僕の寿命も?」
恐る恐る聞いてみると、トトカミサマ、ふいと窓の外を向き、
「みんな、勝手に消えていきよる」
と、つまらなそうに言うのだった。
その不機嫌《ふきげん》な横顔を見ながら、僕はちょっと考えた。
推定|百歳《ひゃくさい》のトトカミサマにしてみれば、人間なんてひどくあやふやな、ひと息吹けば揺らいで消えてしまう、煙みたいなものかもしれない。
ネギサマもほかの生徒も毎年変わるわけだし、十年ぐらいたったらひとりの人間の顔かたちすら変わってしまうし、百年のうちには、たいがいの人間は死んでいなくなってしまうのだし。
同じ建物の、同じ部屋に百年も座っていて、自分の周りだけが、自分を取り残して、ものすごい勢いで動いている――
そういうのって、いったいどういう気持ちがするんだろう。
などと思いつつ、あんまりじっと見ていたら、不意にじろりとにらみ返された。
と、同時にぷつんと蛍光灯《けいこうとう》が切れて、室内が真っ暗になった。
「わ、暗い暗い」
僕が脚立《きゃたつ》と換えの蛍光灯と頭につける式の懐中《かいちゅう》電灯(タタリ用)を持ち出してきた時には、トトカミサマは姿を消していた。神様だけに神出鬼没である。
ところで。
変なことを聞いてしまったせいで、僕はその後《ご》しばらくの間、小松《こまつ》先生の顔を見るたびに、この人いつ倒れるか、いつ死ぬか、とドキドキしていたのだけど……。
実際には、先生は年末になってもぴんぴんしていた。
それで、冬休み前の当番の前に、小松先生とお茶を飲みながらその話をして、
「あのヒト、けっこう冗談《じょうだん》キツいですよねえ」
てなことを言っていると。
「なるほどねえ……」
先生は相づちを打ちつつ、くるりと館《やかた》の奥の神棚本棚のほうを振り返った。
と――
ばさばさっ、と、ひと棚分の古書がひとりでに床《ゆか》に落ちた。
「おや」
なにが気に入らないのか、トトカミサマのタタリだ。
「あー、もう」
僕がぼやきながら落ちた本を元の棚に戻すのを、小松先生はなんだかやけに楽しそうににこにこ笑いながら見ていたのだけど、やがて、
「それじゃあ蒲田《かまた》君、今日《きょう》のおつとめもがんばって」
と言って、帰っていった。
帰りぎわに、入り口のところから棚の奥に向かって軽く帽子を持ち上げて、
「それでは、また」
と言っていたのは、たぶん、トトカミサマへの挨拶《あいさつ》だろう。
先生の背中を見送っていると、
「おい」
僕のすぐ横に、トトカミサマが立っていた。いつにも増して機嫌《きげん》が悪そうだ。
「よけいなことをいうな」
「え、余計って……ああ、小松《こまつ》先生が死ぬとか死なないとか? いや、あの先生それくらいじゃ怒りませんよ」
と僕が答えると、トトカミサマ、むむーっ、と、ますます険悪な顔をして――
――どさどさどさっ!
棚のほうですごい音がしたので思わず振り向くと、まるで大地震《だいじしん》のあとみたいに、全部の棚の本が一瞬《いっしゅん》で床《ゆか》に落とされていた。
「うわわあ〜」
その日は残りの時間中、ずっと本を棚に戻していた。
その間、トトカミサマは平然とお茶など飲みながら文庫本を開き、時々ちらりとこちらのほうを見る。タタるだけタタってすっきりしたのか、機嫌は悪くないようだ。
しかし、それにしても、床の本は量がかなりあって、結局、図書館《としょかん》の閉館時間を過ぎ、日が暮れて、全校下校時間になっても、半分も終わらなかった。
そこで。
「あのー、これ、残りは明日《あした》でいいですかあ」
と聞くと、
「いや、もうよい[#「もうよい」に傍点]」
と、トトカミサマ。
同時に、
――ばさばさばさっ。
と背後で音がして、
(うわ、またか!?)
と思って振り返ったら、床に広がっていた本は残らず本棚に収まっていた。近寄って確認《かくにん》してみたら、きちんとラベルの整埋《せいり》番号順に並んでいる。
「なんだあ、自力で直せるんじゃないですか」
と、ちょっとばかりぶーたれながら言うと、トトカミサマ、僕の顔をじっと見上げて、
「世話になった」
「え、なんですか?」
――今までお礼なんて言ったことないのに、いきなり気持ち悪い。
思わず僕が聞き返した時、蛍光灯《けいこうとう》が一瞬《いっしゅん》だけぷつっと暗くなり、再び明るくなった時にはトトカミサマの姿は消えていた。
「……なんなんだ」
と言いつつ、僕は戸締《とじ》まり消灯して帰ったのだが――ほんとに、なんなんだろう。
最後に僕を見たトトカミサマの顔は、相変わらずの仏頂面《ぶっちょうづら》だったけど、なぜか、ほんのわずかに、さびしげに見えたのだった。
そんなこんなで、なんだか腑《ふ》に落ちないまま冬休みになってしまったのだが……まあ、トトカミサマの言動が微妙に意味不明なのは今に始まったことでもなし。
休み明けにでも、小松《こまつ》先生に聞いてみればいいかな。
――と思っていたら、先生、冬休みの間に風邪《かぜ》をこじらせて、あっさり亡くなってしまった。
さらに、それからひと月ほどで図書館の取《と》り壊《こわ》しがぱたぱたと決まってしまったのは驚《おどろ》いた。なんでも、そういう話自体はもう何年も前から出ていたのだとか。
で、その時に初めて知ったことなのだが、あの図書館を建てたのは小松先生のおじいさんに当たるかただったのだそうで、まあ寄付したんだから先生の持ち物ってわけでもないんだけど、権利|云々《うんぬん》はともかく、先生が生きている間はそのままにしておこう、というようなことになっていたのだそうだ。
数十年の教師生活とその後《ご》数年の半引退生活を通じて――いや、トトカミサマとは子供の頃《ころ》からのつき合いだというから、たぶん人生のほとんどの期間を通じて、小松先生はあの図書館に通っていたことになる。
生涯《しょうがい》独身で、家族はなかったというから、トトカミサマにとってそうだったように、小松先生にとってもあの建物は自分の定位置みたいなものだったのだろう。ひょっとしたら、先生のほうこそが、あの古い図書館の生命みたいなものを支えていたのかもしれない。
――てなことを、図書館の跡地に立って考えた。
少し風が出てきて、寒かった。
廃材が片づけられ、ぽっかり広々としたそこは、春には立派な視聴覚《しちょうかく》設備棟が建てられて、映画やなんかが見られるようになるそうだ。まあ、それはそれで少し楽しみではある。
「一、二、三、四――」
途切《とぎ》れた渡り廊下の数歩先、図書館の入り口のあったあたりから、一歩一歩数を数えながら、メガネの星野《ほしの》さんが歩いていく。
「――十一、十二、十三」
例の神棚本棚があったあたりで、星野《ほしの》さんが立ち止まった。
「……このあたりに、小さな神様がいたのねえ」
「うん」
「どこに行っちゃったのかしら」
「さあ……」
「小松《こまつ》先生ってさあ」
「うん?」
「もしかして、トトカミサマのこと、好きだったのかな」
「えー?」
そりゃまたいきなり。
「だって、そういうのって素敵《すてき》だと思わない?」
いや、こっちに振られても。
「……きっとそうよ。ロマンチックだわ」
星野さんは勝手に決めつけてうっとりしてるが、いや、それってどうかなあ。
恋愛とか、そういう感じじゃないと思うけど。
ところで、図書館《としょかん》はなくなったけれど図書委員会が消えたわけではなく、本校舎の空き教室を改装して作った図書室に旧図書館から蔵書《ぞうしょ》の何割かを移して、委員会活動は続行された。ちなみに、あの誰《だれ》も読まなかった古書のたぐいは、大して価値のあるものでもなかったとかで、みんな処分されてしまったそうだ。
小さいながらも小ぎれいな新図書室は、教室から近いこともあって、以前よりも盛況だ。
その図書室の一番奥の壁《かべ》に、僕と星野さんは旧図書館から回収した神棚本棚を設置した。
「また来てくれるかしら」
「さあ……」
と、なんだか鳥の巣箱を作る人みたいなことを言う僕ら。
「一応、本も置いといたら?」
「うん……」
星野さんはカウンターの上の小さな本棚に顔を寄せた。☆no文庫≠ニ書かれたプレートがネジ止めされたその本棚に入っているのは、星野さんの私物の三十冊ほどの少女小説だ(ちなみにカウンターの下には、ダンボール三箱の在庫がある)。
「――あのヒトね、たぶんこの辺の作家さんが好きだよ」
星野さんの顔の横から手を伸ばして、僕は何冊かの本を指した。
いつも面白《おもしろ》くもなさそうにページをめくっていたトトカミサマだけど、何冊かに一冊は、眉毛《まゆげ》を楽しげにぴくぴくさせながら読んでいたものである。
と――いきなり星野《ほしの》さんが顔を真っ赤にして振り返った。
「えっ、蒲田《かまた》君、こういうの読むの?」
「え……あ、うん、何冊かは。面白《おもしろ》かったよ」
いや、そんな顔されるとこっちが恥ずかしい。
――そんなこんなで僕は、毎週|土曜《どよう》の当番に、再びひとりで着いていた。
以前より利用者が増えたので、室内にちらほらと人がいることが多い。それでも、ふっと人が途切《とぎ》れた時などに、なんとなく小さな女の子がいるような……そんな気配《けはい》を感じて振り向くと、がらんとした無人の図書室に西日が射《さ》し込んでいるだけだった。
それから、どこで時間をつぶしているのか、日が暮れる頃《ころ》になると、
「今日《きょう》も来なかった?」
と言って、星野さんが顔を出すようになった。
その週の新刊本を神棚本棚に上げて、トトカミサマのために一応用意しておいたお茶菓子をふたりで食べて、それから図書室に鍵《かぎ》を掛けて帰る。
いつからか、そういうのが習慣になった。
でも、星野さんの場合はどっちにしても姿が見られるわけでなし、そんなに一所懸命《いっしょけんめい》にならなくても。
僕がそう言うと、星野さん、
「でも、やっぱり……見えなくても、っていうか、見えないところに、そういう人[#「そういう人」に傍点]がいてくれたらいいな、って思って」
と、なんだか生前の小松《こまつ》先生みたいなことを言うのだった。
それでも――
と、僕は思った。
それでもたぶん、トトカミサマはもう現れないだろう。
おそらく、あのどことなく薄暗《うすぐら》い図書館《としょかん》や、真っ茶色《ちゃいろ》の古本の山があるからこそ、あの小さな神様は存在できたのだ、いや、そういったもののかもし出す空気というか、雰囲気そのものが、彼女の正体だったのかもしれない。
あのヒトいつも、ひとりで深刻ぶった顔をしてたけど、存在のあやふやさという点においては、彼女も僕ら人間も、大した違いはなかったのだと思う。
――と、その想像がどの程度当たっていたのかは分からないけれど、ともかく、僕がトトカミサマに再び会うことはなかった。
僕と星野さんが土曜の夕方に図書室から引き上げる時間は少しずつ早くなり、例の本棚に新刊本が置かれることもだんだん少なくなっていき、三月も半ばを過ぎる頃には、どちらからともなく、そういうことはやめてしまった。
だから、僕の出会った図書館《としょかん》の神様の話は、これで終わりということになる。
さて、年度が替わり三年生になった僕は、またしても初《しょ》っ端《ぱな》に風邪《かぜ》を引いてしまい、休んでいる間に図書委員にされてしまった。まあいいけど。
委員の面子《メンツ》は大体そのまま繰《く》り上がりで、星野《ほしの》さんが新しい委員長になった。
で、それから。
進級時のガチャガチャも落ち着いた四月の半ば頃《ごろ》、図書室を訪ねてきた人があった。
ほんの何丁目か先にある、地元の町役揚の職員《しょくいん》のかただそうだ。町営の郷土史《きょうどし》博物館《はくぶつかん》――といっても、役場の一角に本棚とかショウケースを並べただけのコーナーだそうだが――の担当者だとかで、四十代くらいのおじさんである。委員長の星野さんと、特に用事はないけど図書準備室でお茶を飲んでいた僕が応対した。
で、その郷土史のおじさんが、なんの用かというと――
「え、この冬に、こちらの学校様から、貴重な古書をたくさん譲《ゆず》っていただきまして」
「あ……はい、こちらこそ、引き取ってくださって、ありがとうございます」
と――これは星野さんも前日に聞くまで知らなかったそうなのだが、古い図書館が解体される時、中の本は捨てちゃったわけじゃなくて、町の自治体に寄付されたのだということである。あんなの誰《だれ》も読まないと思うけど、まあ、飾《かざ》っておくとなにやら歴史≠感じさせるものではあるので、役場のインテリアにはいいかもしれない。
そして、
「や、おかげさまで当方の展示資料もたいへん充実しまして、とても感謝《かんしゃ》しているのですが、その、いや、変な話なんですけど……」
おじさん、汗を拭《ふ》き拭《ふ》き言いにくそォ〜〜に、
「近頃うちに、あの……オバケ、が、出るようになりまして」
「「オバケ」」
僕と星野さんは、思わず顔を見合わせた。
それをみて、役場のおじさんはますます恐縮《きょうしゅく》し、ことの次第を語った。
――例の古書を仕入れてからこっち、最初はなんだか展示コーナーのあたりの蛍光灯《けいこうとう》がやたらによく切れるとか、本棚の本の配置が微妙に替わっているとか、そんなちょっとした怪現象が続き、やがて、職員のひとりがコーナーの応接セットに座るオバケ≠見るに至り……それからというもの、あんまり流行《はや》らない展示コーナーの整理《せいり》などをしていてふとひとりになると、必ず出る[#「出る」に傍点]そうである。
「その職員というのは……つまり、実は、私でして。いえ、十中八九気の迷いとは思いますが、その、一応、念のため……」
おじさん、脂汗《あぶらあせ》をダラダラたらしながら、一枚の短冊《たんざく》を差し出した。
そこには、見覚えのある朱色《しゅいろ》の筆字で。
『新刊、奉納《ほうのう》せよ』
「いえ、唐突《とうとつ》ではありますが、これを見せれば分かると、ア、アレ[#「アレ」に傍点]が……」
おじさん、オバケ≠ェよっぽど怖いのか、お茶の入った湯呑《ゆの》みを片手に、ぶるぶる震《ふる》えている。
「あー、ハイハイ」
「ちょっと待ってくださいね」
僕と星野《ほしの》さんは同時に席を立ち、五分足らずで支度《したく》を終えた。
僕は図書室の奥から神棚本棚を外し、星野さんは二重にした紙袋いっぱいに文庫本を詰め込むと、おのおのそれらの荷物を持って、
「さ、行きましょう」
「はあ……?」
わけの分かっていない様子《ようす》で首をかしげるおじさんを追い立てるように、僕らは学校を出て歩きだした。
で――
「オバケって、このくらいの小さな女の子ですよね?」
と、念のため僕が言うと、
「は、ハイ、ハイ!」
おじさんは何度もうなずきながら。
「それと……七十|歳《さい》くらいの、にこにこした、品のいいおじいさんで」
「あ……」
「……あは」
急ぎ足で先を歩いていた星野さんが、重い紙袋に振り回されながら、こちらを振り返った。
「それって、ロマンチックね!」
うーん、そうかなあ。
まあ、そうかもね。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
出席番号0番
[#改ページ]
月曜《げつよう》の朝。
クラス委員の月本《つきもと》沙耶《さや》が「木崎《きざき》君、ちょっといい?」などと言うので、生徒会の機材《きざい》でも運ばされるのかと思ったら、渡り廊下で急に立ち止まって、頬《ほお》にキスされた。
メガネで奥手でどちらかというとお堅いタイプの月本らしからぬこの積極的行動に、
「ふェ?」
と、俺《おれ》が思わず変な声を出しながら自分の頬をなでると、月本は線《せん》の細い顔に恥じらいの色を浮かべながら、
「ごめんなさい、急にこんなことされたら……迷惑、よね?」
などと上目遣《うわめづか》い。
「いやその別に、っていうか全然ぜんぜん」
俺が顔の前で手をぶんぶん振ると、
「よかったあ……」
月本はきゅっと抱きついてきた。俺の顔の前で黒い髪がさらりと流れて……あ、なんかいい匂《にお》い。
――しかし、いったいなんですか、この唐突《とうとつ》にうれしい展開は。
俺が喜ばしく混乱していると、月本が意味深《いみしん》な表情で俺を見上げた。
「じゃあ、こういうの[#「こういうの」に傍点]は……?」
と、俺の首に回った細い手に、ほんのわずかな、しかし抗《あらが》いがたい力が込められ、
「や、は、いやもう迷惑どころか」
なすがままに頭を下げ、顔を寄せていくと、月本の動きが不意に止まった。
「あっ……やだ、メガネ、邪魔になるかも……」
「あ、取る?」
「でも、どうしよう……」
なぜかそこで逡巡《しゅんじゅん》する月本。
「……木崎君、わりとフェチだし」
「そうそう実はメガネ重要――って、おいコラ」
俺は月本のひたいに手を当てて、ぐいーっと押し戻した。
「おまえ、日渡《ひわたり》だろ」
「ぬはっ」
月本が[#「月本が」に傍点]破顔一笑《はがんいっしょう》した。
――いや、この鼻に掛かったような特徴的な笑い方は、日渡の[#「日渡の」に傍点]それだ。
「ぬふはは、ばれたか」
今日《きょう》、月本は日渡[#「月本は日渡」に傍点]なのだった。
三年A組出席番号0番・日渡《ひわたり》干晶《ちあき》は、いわゆる憑依《ひょうい》人格というやつで、自分の肉体を持っていないものだから、クラスメイトの体を日替わりで借りている。毎朝、A組の生徒(男女問わず)の誰《だれ》かしらの中に、日渡の記憶《きおく》と性格が現れ、彼または彼女はその日一日、日渡千晶として行動するのだ。
この手の、いわゆる狐《きつね》憑《つ》きとか悪魔《あくま》憑きとかいった類《たぐい》の現象(この場合は日渡憑き≠ゥ)は、古くはオカルト、ごく最近までは精神|疾患《しっかん》の一種として扱われていたが、最新の説では「一種の社会的な生理現象」として認められている――と、これは月本《つきもと》の言ってたことの受け売り。
先週のいつだったか、ちょうどそんな話をしていて、
「いわゆる超自我とか共同|無意識《むいしき》とか言われるものの一種、って言われてるんだけど――人間関係の仲介役として自然に作られた公平な第三者≠ニいうわけね。昔だったら神様とか国とかがそういう存在だったんだけど、現代社会は宗教や共同体の力が昔ほど強くなくて、その反面社会的なストレスは大きいから、その反動としてクラスにいる、誰《だれ》でもない人≠ンたいな人が存在させられてしまう[#「存在させられてしまう」に傍点]というわけ」
月本がそう説明すると、
「ふへぇ〜、そーなんだ」
と、俺《おれ》の横で話を聞いていた日渡が、さも感心したように言った。その日憑依していた土屋《つちや》遼平《りょうへい》の、ちゃんこごっつあんです系肥満顔からそんな言葉がもれると、ことさら暑苦しく、かつ鈍重《どんじゅう》に見える。
「ふへぇ〜≠チておまえ、他人事《ひとごと》みたいに」
俺が日渡の頭をしばくと、
「いやいや、まるで我《わ》がことのようだよ」と日渡。
「だからまるで≠カゃねえって」
「――うらやましいな」
「え?」
「仲、よくって」
月本が、そう言ってくすりと笑った。こちらは華《はな》やいだ中にも凜《りん》としたものがひと筋通った、なんとも涼やかな表情だ。
あと、メガネもポイント高いです。
で、現在。
その月本の顔で、日渡はぬふぬふと笑っている。同じ顔でも、中身次第でずいぶん品がなくなるもんだなあ――と、それはさておき、
「おまえね、冗談《じょうだん》にしたって、やっていいことと悪いことがあるだろ」
説教モードの俺《おれ》に対し、日渡《ひわたり》はしれっ[#「しれっ」に傍点]と、
「ぬはは、堅いこと言わない、言わない。セップンのひとつやふたつ、減るもんじゃなし」
「いや減るだろ、気持ち的なナニカが。もし俺があのまま……まあなんだ、ホレ、な? 俺は構わなくても、月本《つきもと》は、その……女の子なんだし。大事だろ、そういうの。いやその、あくまで一般論《いっぱんろん》として、な?」
「ぬはっ、この純情紳士」
「なんだそりゃ」
「そもそも女子に幻想を抱きすぎだね、木崎《きざき》は」
「んむ、そ……そんなことはないと思う、が?(疑問系)」
「いやいや、男女双方のオモテウラに通じるこの日渡|千晶《ちあき》に言わせれば、キミ、ちょっと騙《だま》されすぎ。騙され上手《じょうず》の騙され紳士」
「騙され……って」
微妙にうろたえる俺に向かって、日渡は顔の横でこちょこちょと手を振った。
「ぬふ、じゃあ、特別に教えてあげようか?」
「なにを」
「月本|沙耶《さや》の秘密」
「……なんだよ、それ」
なるほど確《たし》かに、日渡はクラス中の生徒の体を日替わりで渡り歩いているので、ほうぼうの個人的事情に通じているのだろう。しかし、そういう陰口とか密告みたいな振《ふ》る舞《ま》いは感心せんな、俺は。
――と思う心とは裏腹に、神妙に耳を寄せてしまう俺。
日渡は身をかがめた俺の耳を軽くつまみ、吐息《といき》が掛かるほどに唇を寄せてささやいた。
「あのね、この子[#「この子」に傍点]には悩みがあるんだ」
「なんと……?」
俺はさらに身を乗り出した。なにか自分なりに力になれることはないかと思ってのことであって、野次馬《やじうま》根性とかではないぞ。決して。
「もしかして木崎にとってはショックなことかもしれないけど、月本は……」
日渡は意味深《いみしん》な間を一拍置き、
「……最近ちょっと便秘気味」
「なんだそりゃあ!」
俺が大声を出すと、
「ぬははは」
と、奇怪な笑い声を土げながら、日渡《ひわたり》はパタタタタ、と走り去った。
「あ、このヤロ」
ことさらにガニ股で駆けていく日渡の、一応モノとしては月本《つきもと》のものである尻を見送りつつ、
(便秘……)
イカン、ちょっと想像してしまった。
その翌日、火曜日《かようび》。
「えー、日渡ィー。今日《きょう》はどいつが日渡だ?」
出席番号0番・日渡|干晶《ちあき》は、どの授業でも真っ先に名前を確認《かくにん》される。
体育の吉崎《よしざき》が名簿《めいぼ》を開きながら呼び掛けると、
「ふぁーい」
と、陸上部の金子《かねこ》和臣《かずおみ》が答えた。今日は金子が日渡[#「金子が日渡」に傍点]なのだ。
吉崎は一瞬《いっしゅん》、ありゃ……という顔をした。
どの教科の教師も、自分のお気に入りの生徒が日渡に取って代わられると、一瞬がっかりしたような顔をする。日渡自身のことが大好き、という人はあまりいない。俺《おれ》らより少し上の世代になると、日渡のような存在は妖怪《ようかい》か病気のように見えて、薄気味悪《うすきみわる》く感じるらしい。
もっとも、最近は憑依《ひょうい》人格にもごく普通に接するのが一般的だし、日渡のほうも別になにか悪さをするというわけではないので、そんなに嫌われているわけでもない。ただ、気に掛けてる生徒が一日休んでることになるので、ちょっと拍子《ひょうし》抜けするんだろう。
「あー、日渡。金子は来週試合があるから、あんまり無理しないようにな、今日は適当に流しとけ」
俺らには「死ぬ気で走れ」とか言うくせに、吉崎は自分が顧問《こもん》をしてる陸上部の生徒には甘い。特に、金子和臣は陸上部始まって以来の素質の持ち主だとかで、次の大会に向けて学校中の期待を背負っている身であるから、俺らとは存在の価値からして違う。まあ別に腹も立たんけど、実に露骨《ろこつ》である。
その辺を分かっているのかいないのか、
「ふぁーい」
と、今日は金子であるところの日渡は、至って軽く答えながら、屈伸なぞしている。
それから、準備運動として校庭のトラックをたらたら走っていると、なんとなく日渡が横に並んできた。
「にゃ、昨目《きのう》はどうも」
「おう」
金子の身長は俺より頭ひとつ高いので、今日は俺が日渡を見上げる形になる。
「ぬふん、よかった。もう怒ってないね」
「そりゃまあ、あのくらいで根に持ったりゃしないけどな」
「木崎《きざき》に嫌われたら、ボクはもう生きていけないよ」
「おまえね、すぐそうやって人を茶化《ちゃか》すようなこと言うの、よくない癖《くせ》だよ」
「ぬはは」
日渡《ひわたり》がペースを上げたので、俺《おれ》はあとを追った。
日々の鍛錬《たんれん》の賜物《たまもの》か、金子《かねこ》の体は、俺と同じペースで足を動かしながらも、するすると前に進んでいく。ホモみたいな言い草でアレだが、金子の走る姿は男の俺から見ても、なかなか格好《かっこう》がいい。
「なあ、日渡」
俺はなんとなく聞いてみた。
「学校で一番足が速い奴になるのって、どんな感じだ?」
「ふむん?」
日渡は軽く首をかしげた。
「んー……まあ、けっこう楽しいかな。ほかの人になってる[#「なってる」に傍点]時より、体が軽いんだ」
「ははあ」
俺たちは周回遅れの土屋《つちや》遼平《りょうへい》を追い抜いた。相撲《すもう》取りみたいな体格の土屋は、真《ま》っ赤《か》な顔をしてハアハアどすどすと、あれは走ってるんだか四股《しこ》を踏んでるんだか。
「……なるほど」
「ただまあ、借り物の高級車を乗り回してるようなもんだから、ちょっと気を遣《つか》うね。調子《ちょうし》に乗って怪我《けが》させたりしたら悪いから」
「あー、さっき吉崎《よしざき》も気にしてたな」
普段《ふだん》はいかにもなんにも考えてなさそうな日渡だが、ひょっとしたらその辺、俺には分からん気苦労とか、あるのかもしれんなあ。
すると日渡、
「その点、木崎とか土屋はあんまり気を遣わなくていいからラクだよ。ちょっとくらい雑にしても誰《だれ》も気にしないし」
――えらい言われようだ。
俺がむっとすると、日渡は話題を変えるつもりか、
「……あと、金子は女の子にモテるよねえ」
なんてことを言いだす。
「あー、そりゃモテるだろうなあ」
俺がそう答えたか答えないかのうちに、バスケコートにいた女子が何人か塊《かたまり》になって、
「金子くーん!」
とか言って手を振ってきた。
えーと、あれは、火浦《ひうら》彩華《あやか》に、水里《みなさと》静《しず》に……あ、隅《すみ》っこに月本《つきもと》沙耶《さや》もいる。
日渡《ひわたり》は女子集団に向かってへらへらと手を振り返していたが、
「あっ、そういえば」
両手を口元に添え、大声で、
「月本〜っ、いいウンコは出たか〜い?」
「なっ、バカおまえ、なんちゅうセクハラ」
「大丈夫だってば。木崎《きざき》はどうも堅いって言うか、いろいろ構えすぎなんだよね」
「いやしかし、あれ」
俺《おれ》は日渡の背後を指差した。
女子連中が「なーんだ、今日《きょう》は日渡か」とか言いながらばらばらと解散する中から、月本が飛び出し、すごい勢いで走ってくる。
「うわっ!?」
日渡は反対方向に走りだし、
「わはははは」
なぜか笑いだし、
「は」
そしてコケた。
一方、月本は俺の横まで駆けてくると、荒い息をつきながら立ち止まり、バスケボールを肩の上に振りかぶったまま、グリッとこちらを向いた。
顔、真《ま》っ赤《か》。
「……」
「……」
「……」
「えーと」
俺が話し掛けようとすると、いきなり俺にボールを投げつけて、パタパタと帰っていく。
……なんなんだ。
それはそれとして、コケっぱなしの日渡に、
「おいバカ、平気か?」
と声を掛けると、
「ははは……あ、いてて?」
立ち上がりかけた日渡は、足首を押さえてうずくまった。
というわけで、水曜日《すいようび》。
「ごめんな、俺《おれ》が相手なんかしたもんだから」
俺が金子《かねこ》和臣《かずおみ》に咋日《きのう》の分の授業のノートを貸しながら頭を下げると、
「ううん、私が追いかけたりしたから」
と、月本《つきもと》が横から言った。
「いや、月本は別に悪くないっしょ」
「それを言ったら、木崎《きざき》君だって別に」
「いやいや」
「いやいやいや」
ふたりで責任を取り合っていると、
「どうせ日渡《ひわたり》が勝手に調子《ちょうし》コイてたんだろ」
と、金子。やはり怪我《けが》が気になるようで、先ほどから、右のつま先を床《ゆか》につけて、足首をくりくり回している。
全治二日だか三日だか、まあ大したことはない捻挫《ねんざ》である。日渡が調子に乗ってヘマをするのは別に今に始まったことじゃないし、たいていは笑って済まされるのだが、しかし。今回に限っては、どうにも間が悪い。
金子にとっては高校最後になる陸上競技会の直前だ。当日走れないことはないにしても、最後の調整《ちょうせい》に多少の影響《えいきょう》はあるだろう。
「ほんと、ごめんなあ」
俺《おれ》がもう一度言うと、金子はノートを受け取り、気を取り直すように笑った。
「ん、まあ気にすんなよ。日渡《ひわたり》も朝イチで謝《あやま》ってきたし、あとは俺の問題だから」
わ、こいつえらいなあ。さわやかスポーツマンだな。
と、そこに――
「あんた、本当に反省してるワケ!?」
と、甲高い怒鳴《どな》り声が響《ひび》いた。
見ると、教室の片隅で何人かの女子に囲まれて、水里《みなさと》静《しず》が吊《つ》るし上げを食っていた。
正確《せいかく》に言うと、水里ではなく、今日《きょう》は水里に憑依《ひょうい》している、日渡である。
うーむ。
今、こういう状況で水里っていうのが、またいかにも間が悪いというか。
水里静は、小柄で地味顔で、自己主張とか攻撃性《こうげきせい》があんまりなくて、見た感じ、ちょっといじめてちゃん[#「いじめてちゃん」に傍点]が入ってる娘《こ》だ。
「反省、してますよぅ」
などと言って小さくなっていると、もう「叩《たた》いてください」と言わんばかり。
一方、
「してないでしょ! 全然してないね!」
と、先頭になって責め立てているのは、火浦《ひうら》彩華《あやか》だ。普段《ふだん》は水里とよくつるんでるが、こういう時はお構いなしらしい。
……ヤバいなあ。
火浦彩華は茶髪バリバリ、化粧ケバケバ、アクセサリーじゃらじゃらで、校則なんぞは全然守らないくせに、自分なりの正義感はやたらにあるという、典型的なオレ様クイーン。しかも、着地点を決めずにしゃべりだして、途中でわけが分からなくなってしまうタイプだ。
「どうしてくれるのよ! 最後の大会なのよ! 金子《かねこ》君の三年間が台無しよ!!」
金子、勝手に台無しにされてるし。
「……おーい、火浦――」
と声を掛けたら、すごい勢いでにらまれた。
「木崎《きざき》! あんたも同罪よ! 死刑よ!!」
死刑て。
おずおずと歩み寄った月本《つきもと》が、
「ねえ、火浦さ――」
と話し掛けようとしたが、これまたギッとにらまれて黙《だま》ってしまった。火浦の法律で言えば、月本も死刑だ。
そして、
「……おい金子《かねこ》、あいつ止めてやれよ。おまえの言うことなら聞くだろ」
「……いや、俺《おれ》にはどうにも」
ちょっとビビリ入ってる金子。
いつの間にか、息を荒げて日渡《ひわたり》を見下ろす火浦《ひうら》ひとりを、クラスの連中が遠巻きにする形になっていた。その無言の圧力が、ますます火浦のテンションを上げている。
「分かってんの!? みんなあんたには迷惑してるのよ! はっきり言って邪魔《じゃま》なの! 目障りなの! さっさと消えてなくなんなさいよ!」
「おい、そりゃ言いすぎ――」
という俺の言葉が引き金になってしまったか、
バシッ――
ついに手が出た。
日渡の――水里《みなさと》の横《よこ》っ面《つら》を張り飛ばした火浦は、もう自分でも止められない勢いで再び手を振り上げ――
その時、
「火浦さん」
と声を掛けたのは、意外な伏兵《ふくへい》、リキシマン土屋《つちや》だった。
「なによ、ツチブタッ!」
振り返りざまに上手《うま》いこと、もとい、ひどいことを言い放つ火浦。常人ならばこの一撃《いちげき》で泣いて逃げ出すところだが、土屋はなにも言わず、ただ自分の横腹を二、三度さすっただけだ(コトバの槍《やり》がその辺に刺さったらしい)。
「火浦さん」
土屋はもう一度、静かに言った。怒っているのか悲しんでいるのか、肉厚な無表情からは読み取れない。
「そういうことは、金子君か、金子君に頼まれた人が直接言うべきで、関係ない火浦さんがそこまで言うのは、ちょっと変だと思う」
うぐっ、とくぐもった声を立てて、火浦が口ごもった。
「それに、日渡君は反省してるって言ってるし、これ以上責めても誰《だれ》の得にもならないと思う。あと、水里さんにはなんの責任もないんだから、ぶっちゃいけないと思う」
ほお……と、周りから感嘆《かんたん》の声が上がった。
まったく正論《せいろん》だ。
これは意外な発見だが、寡黙《かもく》なデブが正論を吐くと、たいへん重厚な説得力がある。
しかし、正論が誰にでも通じるというわけではない。
「な……なによ、あんたこそ関係ないでしょ!? なに勝手に人の話盗み聞きしてんのよ、このぬすっとブタ!」
火浦《ひうら》は矛先《ほこさき》を土屋《つちや》に変えた――ぬすっとブタ≠チてのはまたスゲえな――が、完全に風向きが変わってしまった今となっては、もはや言い掛かりにしか聞こえない。
その空気が自分でも分かっているのだろう。
「ブタブタブタ、死ねブタ!!」
と、小学生みたいな捨てゼリフを吐くと、火浦は教室を飛び出して、その日はもう帰ってこなかった。
翌日、木曜日《もくようび》。
俺《おれ》が登校すると、朝っぱらの教室で水里《みなさと》静《しず》が見知らぬ女子生徒と話し込んでいた。
「ごめんねえ、ごめんねえ」
と、しきりに頭を下げている地味な感じのその人は、よくよく見れば、すっぴんの火浦だ。眉毛《まゆげ》薄《うす》いんで誰かと思った。
下手《へた》に刺激《しげき》してまた絡《から》まれてもつまらんので、そっと横を通り過ぎようとすると、火浦はげっそりとしょげ返った顔で俺を見上げ、
「……あ、おはよう木崎《きざき》」
「え? ああ、なんだ、日渡《ひわたり》か」
つまりこいつは、咋日《きのう》は水里と入れ替わって火浦に引っぱたかれて、今日《きょう》はその火浦と入れ替わって水里に謝《あやま》ってるわけだ。忙しい奴《やつ》だな。
「うん、ほんと、大丈夫だから。ね、ほら、ぜんぜん平気だから」
そう言って日渡を慰《なぐさ》める水里の白い頬《ほお》には、咋日ついたあざが薄《うす》く浮かんでいるが、まあ、あとあと残るようなもんでもなさそうだ。
「あっ、それより、あとでお化粧してあげるよ。道具は鞄《かばん》に入ってるでしょ? 彩《あや》ちゃん、眉毛《まゆげ》に命|賭《か》けてるから、ノーメイクで歩き回ってたりしたら、またすっごい怒られるよ」
「いちいちめんどくさい奴だよなあ」
と俺が言うと、
「彩ちゃん、がんばり屋さんだから」
などと水里、今度は火浦の弁護《べんご》を始める。
「昨日のこともねえ……あのね、彩ちゃんは金子《かねこ》君のことが大好きなのね。だから、金子君のことになると、つい一生懸命《いっしょうけんめい》になっちゃうんだよねえ」
「――ていうか、水里は災難《さいなん》だったよな。丸っきり関係ないのに」
俺が合いの手を入れていると、
「いや、それはどうかなあ」
と、少し離《はな》れた自分の席から、土屋《つちや》遼平《りょうへい》も話に入ってきた。
「たぶん、水里《みなさと》さんだったから、ぶたれたんだと思うけど」
「え……?」
「なんでまた。火浦《ひうら》と水里は仲いいじゃん」
「うん、普段《ふだん》はそうだけど、金子《かねこ》君が絡《から》む時は、ちょっとよそよそしく見えるよ」
「あ……」
思い当たる節があるのか、水里が小さく声を上げた。
「えー、それはつまり……どういうことだ?」
俺《おれ》が聞くと、土屋は日渡《ひわたり》に向かって言った。
「日渡君、昨日《きのう》、君が水里さんになった[#「なった」に傍点]のは一昨日《おととい》の件で金子君に謝《あやま》るためだよね」
「え……別に、誰《だれ》になるとか、自分で選ぶわけじゃないけど」と、日渡。
「自覚はないかもしれないけど、君、大事な用事がある時にはいつも、それが一番やりやすい人を選《えら》んでるんだよ。例えば今日《きょう》、あえて火浦さんになってるみたいに」
「はあ、もしそうだとして」
と、俺は聞いた。
「なんで、金子に謝るのに、水里?」
「それはたぶん、金子君は水里さんみたいなおとなしいタイプの女の子が好きで、その分印象がよくなるから」
「……あー」
日渡がポンと手を打った。
「そういえば、そうかも」
「で、火浦さんもそのことには前から薄々《うすうす》気づいてて、内心|嫉妬《しっと》する気持ちがあるけど、水里さんとは友達だからケンカはしたくない。そういうもやもやをずっと抱え込んでて……そこに日渡君が入ってきて、水里さんをぶつ理由が出来た[#「理由が出来た」に傍点]もんだから、つい手が出ちゃったんだね」
「ははあ」
「もちろん、金子君も火浦さんも、はっきりそうと意識《いしき》してるわけじゃないだろうけど、今みたいな話で、だいたい合ってると思う」
「ふへぇ〜、なるほどねえ」
日渡がさも感心したように言うので、
「そういうのに気づくのは、おまえの役どころだろ」
と、その後ろ頭をしばきつつ、俺は土屋に向き直った。
「しかし土屋、おまえ太いのに鋭《するど》いな」
「太い細いは関係ないでしょ」
土屋はわき腹のあたりをさすりながら、不服げに言った。
「君たちが鈍《にぶ》すぎるの」
「そっかあ……」
水里《みなさと》が、両手で日渡《ひわたり》の――火浦《ひうら》の手を取り、ちょっと困ったような顔で笑った。
「あたし、そういうの、気づいてあげられなかったねえ。ごめんね、彩《あや》ちゃん」
「まあ、僕らが気づいても、火浦さん自身が、なにをどうしたいのか自分で分からない限り、また同じようなことは起こるだろうけど」と土屋《つちや》。
「どうしたいのか……って?」
「ぶっちゃけ、恋と友情のどっちを取るか、みたいな?」と日渡。
「しかし、金子《かねこ》のほうには脈がないんだから、どっちもクソもないだろ」
「うん。問題は、誰《だれ》がそれを指摘するか、だね」
「あー、あいつの性格じゃ、下手《へた》に他人に言われても依怙地《いこじ》になるだけか。っていうか、言った奴《やつ》に噛《か》みつくんだから、言うだけ損だよなあ」
「あたしは、損とかは、別に構わないけど……」
と、水里が言ったが、
「水里さんが言っても、火浦さんとの仲がこじれるだけで、なんにも解決しないと思う」
「まあ、そうだよな」
「いっそ、水里と金子がくっついちゃえば、火浦も諦《あきら》めがつくんじゃない?」
と、無責任に日渡。
すると水里は困り顔で、
「でもあたし、金子君のことは格好《かっこう》いいと思うけど、別にそこまで好きじゃないよ?」
「ままならんモンだなあ」
うーん、と、一同腕組み。
そこに、
「おーっす、おはよう」
当事者のひとり、金子|和臣《かずおみ》が、陸上部の朝練《あされん》を終えて教室に入ってきた。
「あれ、なんの話してんの?」
金子は塊《かたまり》になっている俺《おれ》たちをのぞき込み、日渡を見て「え、誰?」という顔をして、それがすっぴんの火浦であることに気づき一瞬《いっしゅん》ぎょっと身を引いた。
脈がないどころか恐れられてるんだから、これはもうどうしようもないよな。
「足、大丈夫?」
「え? ……ああ」
金子はようやくそれ[#「それ」に傍点]が日渡だと気づいた。
「問題ないない。気にすんなって」
トントンと右足で床《ゆか》を叩《たた》きながら、あらためてその顔をじっと見る。
「へえ……火浦《ひうら》も土台は悪くないんだから、ケバい化粧することないのになあ」
うーん、と一同、再び腕組み。
「え……俺《おれ》、なんか変なこと言った?」
で。
その後《ご》の相談《そうだん》で、土屋《つちや》の提案した計画――というほど大したモンでもないが――は、実に簡単《かんたん》なものだった。
翌日、火浦に向かってこう言うだけである。
「『火浦は素顔のほうがいいな』って金子《かねこ》が言ってたよ」
つまり、金子のためにすっぴん地味顔系に路線《ろせん》変更するか、あくまで自分の理想の眉毛《まゆげ》にこだわるか――という選択肢《せんたくし》を突きつけるわけだ。
「別にどっちを選《えら》んでもいいんだよ。重要なのは、火浦さんが納得《なっとく》して、自分自身の選択をすることだから」
などと、土屋は分かったようなことを言う。
問題は、それを言った人間が反射的に火浦の恨みを買うことになる、という点だが、この役はまあ、日渡《ひわたり》が担当するべきだろう、ということになった。
そもそも今回の件の発端《ほったん》が奴《やつ》にある、ということもあるし――火浦に憑依《ひょうい》していた日に眉毛メイクを怠《おこた》り、あまつさえ金子にすっぴんの素顔を見られてしまうという(火浦法的には)許されざる失態により、どの道、恨みを買う立場である。もののついでというやつだ。
しかし、ここに新たな問題が。
その時、誰が日渡の体[#「日渡の体」に傍点]を担当するのか。
日渡もろとも斬《き》って捨てられても問題がない立場で、できれば前述のようなデリカシーのないことをボロッと言いそうなキャラクター――
「え、俺が? まさか」
と言ったら、土屋に日渡、水里《みなさと》までが、真顔《まがお》でうなずいた。
えー……俺ってそうなのかー。
「――へえ、みんなでそんな相談してたんだ」
湿布《しっぷ》の袋の封を切りながら、月本《つきもと》沙耶《さや》はくすくすと笑った。
「私も混ざりたかったなあ。なんだか面白《おもしろ》そう」
「俺《おれ》は別に、面白《おもしろ》くないよ」
と、俺は左の頬《ほお》をさする。
「あっ、ごめんなさい」
月本《つきもと》は笑いを引っ込め、俺の頬の絆創膏《ばんそうこう》にそっと手を伸ばした。
「そうよね、これ[#「これ」に傍点]って、元はといえば、私のせいでもあるわけだし……」
あのあと、木曜《もくよう》の晩に風呂《ふろ》入って寝て、起きたら(俺にとっては)空白の一日を挟んで土曜になっていたわけだが――
なにやら顔面がやたらに痛かった。
鏡《かがみ》を見たら、左の頬が試合後のボクサーみたいに腫《は》れ上がっていた。
朝っぱら早々に土屋《つちや》を捕まえて、金曜にあったことを問いただすと、
「……ごめん、予想と違ってた」
と言って、土屋は目を逸《そ》らした。
当初の予定では「まあ、せいぜい水里《みなさと》さんみたいにビンタされるくらいだから」という話だったのだが、その場に当たって実際に繰《く》り出されたのはグーパンチ、それも、ものすごい右フックで、日渡《ひわたり》は――つまり俺は――一撃《いちげき》でKOされたそうである。
「水里さんの時には、手加減してたんだね……」
って、あとから言うな、そういうことを。
「ごめんね、木崎《きざき》君」
水里が神妙に頭を下げ、しかしその後ろに立つ火浦《ひうら》は「あたしは悪くないからね!」という顔で、頭ひとつ下げない。
なにも知らない金子《かねこ》は、
「お、木崎、なんだよその顔」
などと、のんきなことを言っている。
――ちなみに、火浦|彩華《あやか》はそれからのちも相変わらず毎日バッチリ眉毛《まゆげ》を描《か》いてたので、まあ、あいつの中の優先《ゆうせん》順位としては、金子より眉毛のほうが上なのだろう。一方、学校と地元の期待を背負った中距離《ちゅうきょり》の俊英《しゅんえい》・金子|和臣《かずおみ》はその後《ご》、八百メートル走で自己ベストの記録《きろく》を出して関東《かんとう》大会への出場を決めることになるのだが、本人も預かり知らぬところで、眉毛との勝負に負けていたということになる。
まあ、眉毛はさておき。
その日、肝心《かんじん》の日渡は、朝から何度出席を取られても姿を見せなかった。奴《やつ》が病欠ってことはあり得ないわけだが――
で、放課後《ほうかご》になってもまだ顔が痛むので、湿布《しっぷ》を換えてもらいに保健室《ほけんしつ》に行った。
養護《ようご》の先生は不在で、つき合いで来てくれた月本《つきもと》が、絆創膏《ばんそうこう》の準備をしてくれている。
俺《おれ》は丸椅子《まるいす》をキコキコ言わせながらブーたれた。
「……そもそも俺、別に殴られるようなことしてないし」
考えてみれば、金子《かねこ》は捻挫《ねんざ》、水里《みなさと》はビンタ、俺はパンチ――と、このところ日渡《ひわたり》に憑《つ》かれた人間は、軒並《のきな》みひどい目に遭《あ》っている。
「疫病神《やくびょうがみ》か、あいつは」
「まあまあ、本人に悪気はないんだし」
と、月本が笑った。
「そういえば日渡君、今日《きょう》いなかったみたいだけど、どうしたのかしらね」
「あの野郎、俺に会うと文句言われると思って、隠れてるんだ」
「あはは、そうかもねえ」
「ちぇっ、ほかの奴《やつ》にはちゃんと謝《あやま》るのに、俺には挨拶《あいさつ》もなしってか」
すると月本、なにやら微妙な表情でほほえみながら、
「あの子たぶん、木崎《きざき》君のこと好きだから」
「……え? なんだそりゃ、唐突《とうとつ》な」
「日渡君、いつもあんな調子《ちょうし》だけど、木崎君が相手だと特に甘えてるみたいよ」
む……そう、なのか?
俺は腕を組んで唸《うな》った。
「ぬぅ〜む、いやしかし、あんなのに好かれてもなあ……」
「そう言うけど、日渡君のこと嫌いってわけじゃないでしょ? よくいっしょに話してるし」
「嫌っちゃいないが、時として迷惑だ」
「頼りにされてるってことよ」
月本は俺の頬《ほお》に手を伸ばした。
「ハイ、取りまーす」
「いててて」
ぺりぺりぺり、と湿布を剥《は》がした俺の頬を見て、
「ありゃー、すごいね」
と、月本は言った。
「うん、すごかろう」と俺。
「あ、じゃあ新しいの貼《は》る前に――ちょっとあっち向いて」
「ん?」
素直に顔を逸《そ》らした俺の頬に、なにか生暖かい感触。
「いてて……ふェ?」
くすくすくす、と、月本《つきもと》が笑い、
「ハイ、おまじない、でした」
と言って、人差し指を自分の唇に当てた。
「え、あ……ハイ?」
「あ、痛くないところのほうがもっと効くかナ〜」
「え、いや、い、痛くないところって……あ! おまえ日渡《ひわたり》か!?」
「んふ。さて、どうでしょう……?」
月本(?)は謎《なぞ》めいた笑《え》みを浮かべながら、メガネを外す。
「ちょちょ、ちょっと待て!」
俺《おれ》は椅子《いす》から腰を浮かせながら、右手を月本(?)に向かって突っ張った。
「ちゃんと! ちゃんと答えて! そういうの大事だから! けっこう大事だから!」
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
三時間目のまどか
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授業中の教室というのは、考えてみれば変な空間だ。
三十人からの生徒が漠然《ばくぜん》と黒板のほうを向いて、じっと座っている。まるで小劇場《しょうげきじょう》……というには、正面の教壇《きょうだん》では大して面白《おもしろ》い出し物をやっているわけでなし、どちらかというと、新幹線《しんかんせん》とか飛行機《ひこうき》みたいな大型の乗り物の客席に近い感じだろうか。みんな、暇つぶしの内職《ないしょく》はしても、席を離《はな》れたりはせず一応前だけは向いて、一律《いちりつ》にどこか[#「どこか」に傍点]へ運ばれていく、というような――
三年二組担任、古文教師のシェムラ[#「シェムラ」に傍点]は。
「それはつまり、若者はみな未来に向かって進んでいかニェばならぬということなのディェす。たとえ僕の授業がおもシェろくなくても、君たちはショこから、人生の糧《かて》を自《みずから》の手でつかみ取っていかなければなりまシェん」
などと珍妙な訓示を垂れて笑われたりキモがられたりしていたが、俺《おれ》はひそかに、これは意外と含蓄《がんちく》のある意見かもしれないぞ、と思った。
実際、授業中にちゃんと前を向いていないと、その時間の分、なにかに置いていかれそうな気がするもんな。なにかに≠チて、まあそりゃ授業内容に、なワケだけど。
――と、そんなことを思いつつ、俺は授業中、やっぱり黒板ではなく窓のほうをぼーっと眺めていたりするのだった。
俺の席は教室の一番後ろの窓《まど》ぎわで、校舎の配置の関係で午前中は日陰になる。向かいの棟《とう》が黒っぽい壁《かべ》になってのし掛かってくるような塩梅《あんばい》で、それ自体は別に見て楽しい風景でもないのだが、背景が暗いせいで窓ガラスにうっすらと自分の顔が映り込んで見えたりするのが、ちょっと面白い。さっきの乗り物のたとえで言えば、夜汽車の窓を見るような感じ。いや、汽車≠ネんか乗ったことないけどな。
で、ある日、いつものようによそ見をしたら――
夜汽車の窓≠フ中に、彼女[#「彼女」に傍点]がいた。
髪の長い、知らない女の子の横顔。かなりの色白で、ことさらにガラスの中に浮かび上がって見えた。
俺はビビったね、だってそこは目の前のほんの一メートル足らずの距離《きょり》で、本来は俺の顔が映ってるはずの場所なんだから。
「うおっ!?」
とのけぞった拍子《ひょうし》に、俺は椅子《いす》から転げ落ちた。オバケは嫌いです。怖いもん。
「どうシェました、林田《はやシェだ》君?」
と、教壇からシェムラ。ちなみに林田《はやしだ》というのは俺の名字《みょうじ》だが、読みはハヤシェダじゃなくてハヤシダです先生。
「……あ、いやその、なんでもないっス」
周囲にテヘヘと愛想《あいそ》を振りながら、俺は席に座り直した。
ゲラゲラ笑ってるクラスの連中は、窓の中のことまでは気づいていないようだ。ひょっとしたら、今のは俺《おれ》だけにしか見えない現象なのかもしれない。
騒《さわ》ぎが収まり授業が再開されると、俺は三回深呼吸をして、窓のほうをチラリと見た。
その時、妖怪《ようかい》窓女≠ェものすごい形相《ぎょうそう》でこちらをにらみ返し、
「見ィーたァーなァー!!」
と叫んで自分の長い髪の両サイドをわしづかんで歌舞伎《かぶき》みたいに頭をぐるんぐるん回しだしたりしたら俺は怖くて泣いてしまうところだったが、幸いそんなことにはならず――
よく見れば、窓ガラスの向こうはこちら[#「こちら」に傍点]とよく似た学校の教室で(もっとも、教室なんてどこもだいたい同じかもしれないけど)、ちょうど俺の位置の席に座っている彼女は今しがたの騒ぎに気づいた様子《ようす》もなく、シャーペンの尻《しり》で下唇をトントンと叩《たた》きながら、(向こう側[#「向こう側」に傍点]の)黒板のほうに集中している。よく見ればなかなか知的な感じで、けっこうかわいいかも。
俺がそのままじーっと見ていると、彼女はなにが気に入らないのか正面を向いたまま眉《まゆ》をひそめ、ガラモンみたいな表情をしながら下唇の下にシャーペンの尻をはさんでピコピコ動かしだした。や、バカっぽい子もわりと好きですよ。
面白《おもしろ》いのでなおも観察《かんさつ》していると、彼女はシャーペンを顔につけたままふとこちらを向き、次の瞬間《しゅんかん》、全身でぎょっとのけぞり、椅子《いす》から転げ落ちた。
窓越しだとよく見えないのだが、向こうの教室[#「向こうの教室」に傍点]が笑いさざめいている様子が伝わってくる。
あわてて立ち上がった彼女は前方に向かってぺこりと頭を下げると短く二言三言いいわけ(たぶん)をして、席に座り直した。
そして、三回深呼吸をして、こちらをチラリと見る。
思わず頭を下げる俺。オバケに失礼があってタタられたりしたら怖い。
すると――
女の子のほうも、こちらに向かっておずおずと頭を下げ返してきた。
「あ、えーと……」
俺は口を開きかけたが、途中でやめた。ひとりで窓に向かってしゃべりだしたりしたら、いくらなんでもヘンすぎる、それにたぶん、音声は向こうには伝わらないのだ。
そんなわけで、俺たちはそれ以上することも思いつかず、なんとなくそれぞれの前方に向き直ったのだが……はっきり言って、気になる。
俺は好奇心半分、警戒心《けいかいしん》半分で、窓のほうをちらちらと横目で盗み見た。
向こうも同じようにこっちをちらちら見ている。
――ということは、はて、オバケってわけじゃないのか?
試しに愛想笑《あいそわら》いをしてみると、女の子はちょっとほっとしたように笑い、小さく手など振ってくる。俺もまたへらへらと手を振り返し、そのままへらへらへらと向き合ったまま五秒間。
だんだん間がもたなくなってきたので、俺はいったん反対側を向き、自分の口をガラモンにして下唇にシャーペンをはさみ、彼女がなにごとかと身を乗り出してきた瞬間《しゅんかん》に合わせて、グリッとあちらを向く。
ぶっ、と彼女が吹き出した。
ウケたウケた。
俺の経験《けいけん》から言うと、この手のギャグはなによりタイミングが肝要《かんよう》で、そこさえ押さえておけば他愛《たわい》のないネタでもけっこうウケるんである。今みたいにピキピキに緊張《きんちょう》してれば、なおさらだ。
さらに俺は、シャーペンを二本に増やし、顔を上げかけた彼女に再びアピール。
すると彼女は机に突っ伏し、笑いをこらえてぶるぶる震《ふる》えだした。
こうなると、がぜんやる気が出てきます。シャーペンをさらに一本、いや二本、上唇と鼻の間にもう一本――
「……シャっきから、君はなにをシェておるのディェすか」
いつの間にか背後に立ったシェムラが、俺の頭をポンと教科書で叩《たた》いた。
「え? あ、いやその」
俺は顔からボロボロとシャーペンを落としつつ、あやふやに窓のほうを指さした。
「窓が――あれ?」
夜汽車状[#「夜汽車状」に傍点]のガラスには、こっちを指さす俺の姿が映っているだけだった。
「窓がどうかシェましたか?」
「えーと……鏡《かがみ》みたいで、面白《おもしろ》かったんで」
これでは丸っきりアホの子である。再びクラス中に笑われる俺。
――おっかしいなあ……。
授業が終わり、俺が頭をひねっていると、
「さっきはなに怒られてたのよう?」
と、同じクラスの三村《みむら》祥恵《さちえ》が声を掛けてきた。
「んー?」
俺は顔も向けずに、なおも窓ガラスを確認中《かくにんちゅう》。しかし、薄暗《うすぐら》い窓には、難《むずか》しい顔をした自分の顔が映るだけだ。
「え、なに? なんか面白いもの見えるの?」
三村が俺の背後から窓をのぞき込んできた。ガラスの中の薄闇《うすやみ》に、三村の無駄《むだ》に広いデコが白く浮かび上がる。
にゅーっと寄ってくるその顔を、
「よせよ、暑苦しい」
と言って避《よ》けていると、
「――あら、こんなところに美少女が」
「えっ?」
俺《おれ》が顔を上げると、三村《みむら》がほおに手を当てておちょぼ口をしながら(美少女の顔≠フつもりらしい)、目で笑っている。アホか、このデコ女。
まあそんなこんなで、休み時間の間も、次の四時間目の授業の時間になっても彼女≠ヘ現れず、やがて午後になると窓に光が射《さ》し込んで、ガラスにはなにも映らなくなってしまった。
……うーん、気のせいだったのかなあ。
と思ってたら、次の日、また出た[#「出た」に傍点]。
前日と同じ、午前中の三時間目。十一時ちょっと前。
ふと横を向いたら目が合って、同時にぎょっとのけぞった。でも二回目なので、お互い、さすがにコケたりはしない。
(えーと……どーもー)
と頭を下げると、向こうもお辞儀《じぎ》を返してきた。
(……)
(……)
半端《はんぱ》に向き合ったまま三秒お見合い。
――あ、そうだ。
俺は世界史のノートにでっかく自分の名前を書き、ノートを立てて彼女に見せた。
林田京一
その文字と自分の鼻先を交互に指さすと、彼女はすぐにその意図を悟ってこくりとうなずき、ルーズリーフを一枚取り出して名前を書き始めた。
なんか、カラーペンとか使って軽くレタリングみたいなことをしている。いや、そういうトコ疑《こ》らなくていいから。
一分近く経《た》って、ようやく彼女はそれをぴらりと持ち上げた。
加賀まどか[#「加賀まどか」は鏡文字]
えーと、反転しててちょっと読みにくいが……加賀《かが》=Aか。
(カガマドカ)
俺《おれ》の口の動きを見て、彼女、加賀《かが》まどかはこくこくとうなずき、くすりと笑った。
うむ、一歩前進。さて、次はなにを聞こうか――っていうか、そもそもどういう状況なんだ、これ?
――えーと……この窓が、日本のどこかにある別の教室につながってる、とか?
高校生?
念のため紙に書いて聞いてみると、まどかはこくりとうなずき、指を三本立てた。
高三か。同《おな》い歳《どし》だ。
で、それから、
(キミ、オバケじゃないよね?)←コレ重要。
とか、
(この窓、いったいどうなってんの?)
てなことを聞こうと思ったのだが、ちょっと込み入ったことになると、なんだかゴチャゴチャした口パク&ジェスチャーになってしまい、どうにも上手《うま》く伝わらない。
窓の向こうのまどかも、怪訝《けげん》な顔をして首をかしげている。ああ、くそ、もどかしい。声が聞こえないってのは不便なもんだな。
――と
俺と同様にじれったそうな顔をしていたまどかが、ふと、なにか思いついたような顔をした。
そして、片手を小指と親指を伸ばした形に握り、耳元で軽く動かす。
あ、これCMかなんかで見たことあるぞ。電話≠フサインだ。
なるほど、電話ってのはいい考えだな。話が早い。俺は胸ポケットから携帯を取り出し、顔の横で振って見せた。学校では電源を切ることになってるが、休み時間になったらこっそり掛けてみよう。
まどかは一旦《いったん》うなずくと、電話≠フ手をもう一度動かし、それから両手に三本ずつ指を立て、手の甲をこちらに向けながら胸の前でトントンと打ち合わせた。
ん……なんだそりゃ?
俺が首をかしげた時、またしても光の加減なのかなんなのか、まどかの像がすうっと薄《うす》れ、消えてしまった。
あとには俺の怪訝な顔だけが、鏡《かがみ》のように映っていた。
「おーい」
と、その直後の休み時間、俺は三村《みむら》祥恵《さちえ》に声を掛けた。
「たしかおまえ、ボランティアかなんかで手話やってる親戚《しんせき》がいなかったか」
「え? うん、小学校の時に亡くなったオバが」
「む、そりゃ微妙だな……おまえもちょっとは分かるかと思ったんだが」
「んー、まあ簡単《かんたん》なのなら」
「んじゃ、えーとな、これ[#「これ」に傍点]ってなんだ?」
指三本ずつを、胸の前でトントン。と、俺《おれ》は加賀《かが》まどかが最後にしたサインを繰《く》り返した。
「んー……番号≠ゥな?」
と、三村《みむら》はその動きを真似《まね》ながら言い、それから例の電話≠ニトントンを交互にやって、
「こうすると電話番号=v
「あ、それだそれだ。サンキュ」
「ありがとう≠ヘこうね」
三村は自分の左手の甲にチョップをして、その手刀《しゅとう》を顔の前に立てた。
「いったいどしたの。いきなりこういう活動に目覚めたとか?」
「いや全然。じゃあな」
自慢にゃならんが、他人《ひと》とか世の中の役に立つことにはまったくもって興味《きょうみ》がない。
俺はありがとうチョップ≠三村のデコにかますと、自分の席に戻った。
そしてまた、翌日の三時間目。
これは俺の仮説だが、たぶん、あの窓ガラスがどこか別の教室[#「別の教室」に傍点]につながるのは、十一時前のほんの数十秒間だけだ。
限られた時間は有効に使わねばなるまい、というわけで、俺は授業そっちのけで窓ガラスを凝視《ぎょうし》する。
やがて、背景の影《かげ》の濃度《のうど》がある一定の具合になった時、俺の鏡像《きょうぞう》が、すうっと女の子のそれに入れ替わった。
――来た。
加賀まどかも、同様にこちらを見ていた。俺は目が合うなり、あらかじめ用意しておいたメモを突きつける。
TEL:090−※※※※−※※※※
ほんの半秒ほどで、まどかは状況を理解したようだ。俺のメモを見ながら、手元に用意してあった太いサインペンで、手元のルーズリーフに番号を写していく。
時々顔をぐっと窓に寄せるのは、数字が反転していて読みにくいからだろう。やや手こずりながら写しを終えると、今度は俺《おれ》が読む用に、やや大きめの電話番号を書き始める。これが彼女の番号だな。
差し出されたそれを俺が写し終える頃《ころ》に、ちょうど時間切れ。
彼女がくすりと笑いながら、手の甲にありがとう≠フチョップをしているのが見えた。よーし、よしよし。
授業が終わるのを待って、俺はメモした番号にいそいそと電話を掛けてみた。ひょっとしたら向こうは授業中かな、とも思ったが、まあそれなら留守電かなにかになってるだろう。
が――
『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません』
……あれ?
つながらないにしても、普通は『電源が入っていないか、電波が届かないところにあります』って言われるよなあ。
一応、放課後《ほうかご》と家に帰ってからも掛けてみたが、同様の音声メッセージが出るだけだった。
うーむ、番号の写し間違いだろうか。
それとも、でたらめな番号を教えられた……ってことはないと思うが、向こうからも掛けてこないし……ひょっとして俺、嫌われてるとか?
まあ、また今度、事情を聞くだけ聞いてみよう。向こうの気が乗らないなら乗らないで、こっちも無理強《むりじ》いするつもりはないんだし――などと思いつつ、なんとなくシオシオな気分。
そしてまた、次の日の三時間目。
窓に映った加賀《かが》まどかは初《しょ》っぱなに電話≠フポーズを取り、そして、首をかしげながら自分の頬《ほお》を軽くつねった。
よく分からんが、彼女のほうでも「電話が掛からない」という意味か、これは。
ついで、彼女は手の先をこちらに向けて、もう一度首をかしげた。
――あ、えーと。
俺はでたらめなジェスチャーで答えた。
(俺も)
(電話、掛けた)
(ダメ)
それを見たまどかは、あごに手を当てて考え込み始めた。時間がもったいないが、俺にもわけが分からない。
と――
まどかが紙になにごとか書き込んで、こちらに見せた。
高校、どこ?[#「高校、どこ?」は鏡文字]
――え?
(えーと……)
俺《おれ》は答えた。
東京
携帯のアンテナはちゃんと立ってるんだがなあ。
……すると、加賀《かが》まどかはぷるぷると頭を横に振り、最初に書いた文の「どこ?」の上に線《せん》を引いて消すと、その下になにごとか書き加えた。
高校、[#「高校、」は鏡文字]どこ?[#「どこ?」に二重取消線] 名前[#「名前」は鏡文字]
ん? ここでそんなローカルなこと聞いても……あ、学校の名前が分かれば住所も調《しら》べられるし、いろいろ情報も増えるか。よし。
都立 清陵一高
――えーと、陵≠フ字がちょっとごちゃごちゃして読みにくいかな。
と思った俺が「清陵」の横に「セイリョウ」とふりがなを振っていると、まどかはぴらりと、
東京都立 清陵第一[#「東京都立 清陵第一」は鏡文字]
あれ?
俺のを写したにしては反応が早い――っていうか、今、同時に書いてた[#「同時に書いてた」に傍点]よな?
俺が首をかしげると、まどかは自分の鼻先をトントンと叩《たた》き、こちらに向かってうなずいた。「自分も」という意味だろうか……じゃあ、この学校の同級生?
まどかはなんらかの確信《かくしん》を持った様子《ようす》で俺に向かってうなずき、次いで人差し指を立てて、自分の手首の腕時計をちょんちょんと指さした――と、今日《きょう》はここで時間切れ。
「時計」?
それとも「時間」か?
俺《おれ》に「時間切れ」を教えようとしてたとか?
――彼女の最後の仕草《しぐさ》がなにを意味するのか、それは分からなかったのだか、まあ、それはさておいて――なるほど、まどかのいる場所は、この学校の別の教室が、光の反射かなにかの都合で映り込んできていたというわけか。
考えてみれば、いかにもありそうな話だ。っていうか、一番最初に思いつかなきゃだよな。
加賀《かが》まどかは、この学校にいる。
さすがに他《た》のクラスの女子のことになるとちょっと分からんので(それに、あの子はあんまり目立つほうじゃなさそうだ)、三村《みむら》に聞いてみた。
「あのな、うちの学校の三年女子で」
「うん?」
「手話とかできて、ちょっとかわいい子、いないか?」
「え? ……あ、ひょっとして」
「お、知ってるのか」
俺が身を乗り出すと、三村は自分の鼻を指し、
「あたし?」
「ンなわきゃあない」
デコチョップ。
「あたっ」
「あ、そうだそうだ、名前は加賀。加賀まどか。……知らないか?」
「加賀……? 聞いたことあるような、ないような……あ、そうだ」
「お、なんだ?」
「うちの親戚《しんせき》のおじさんが加賀さん」
「それは明らかに関係ねえな」
ダブルデコチョップ。
「あたたっ……もお〜」
と、デコをさすりながら、三村。
「名前分かってるなら、名簿《めいぼ》ででも調《しら》べたらいいじゃん」
「あ、なるほど。意外とカシコイなおまえ」
放課後《ほうかご》、俺は職員室《しょくいんしつ》に行って、シェムラを捕まえた。
「先生ェ、在校生の名簿とか、ありますかあ?」
と聞くと、シェムラは卓上の本立てから名簿集の小冊子を抜き出しながら、
「いったいなんに使うのでシュか」
「いや、加賀《かが》っていう女の子が、どのクラスにいるのかだけ知りたくて」
すると、シェムラは怪訝《けげん》な顔で、
「……そんな子、いまシェたかねえ?」
「え? ……はあ」
念のため、他《た》の学年も含めて名簿《めいぼ》をざっと見てみたが、加賀まどかという名の女生徒はいなかった。
うーむ、なんか話が違うぞ?
次の[#「次の」に傍点]三時間目。
まず、例の「時計」の意味を聞くところから始めようか、などと思っていたら、まどかは窓がつながる[#「つながる」に傍点]や否《いな》や、あらかじめ用意してあったルーズリーフをこちらに突き出してきた。
3年2組 加賀まどか[#「3年2組 加賀まどか」は鏡文字]
1999年度[#「1999年度」は鏡文字]
東京都立 清陵第一高校[#「東京都立 清陵第一高校」は鏡文字]
――あれ?「三年二組」ってうちのクラスだけど――え、「一九九九年度」?
俺《おれ》が頭をひねっていると、まどかは手首につけた腕時計をちょんちょんと指さし、その指をこちらに向けて首をかしげた。
――こっち≠フ時間≠教えろって?
俺が自分の腕時計を指すと、まどかは先ほどのメモの「一九九九年度」の部分に指で傍線《ぼうせん》を引く。
――こっち≠フ年≠チてか。えーと……。
俺が手元のノートに、
2005年
と書いてから、
3‐2 林田
と書き足して見せると、まどかはちょっとだけ驚《おどろ》いた顔をしたが、すぐに納得《なっとく》したようだ。
再び自分の側《そば》のメモの「一九九九年度」を指し、次いで自分の鼻先を指す。
えーと、つまり。
加賀《かが》まどかはこの学校の、俺《おれ》と同じ三年二組の生徒である、と。
ただし、一九九九年の[#「一九九九年の」に傍点]。
一九九九年。前世紀だ。年号で言うと平成十一年。
……。
……。
……と。
俺は五秒ほど放心してしまった。
前回のやりとりの時点で、まどかはこの展開をある程度予期していたのだろう。しかし、俺にとっては不意打ちである。一瞬《いっしゅん》、気が遠くなりかけた。
……六年前って、何年前だ?
俺、小学生だよ。ヒャーヒャー言いながら半ズボンで駆け回ってた。
その時[#「その時」に傍点]に、彼女はいるというのか。
うーむ。
すごいぞ。時空を超えた通信だ。
俺が感慨《かんがい》にふけっている間に、まどかはなにごとかルーズリーフに書き込み、神妙な顔で持ち上げた。
恐怖の大王って、来た?[#「恐怖の大王って、来た?」は鏡文字]
恐怖の――ぶっ。
ちょっと吹き出した。
――あったなあ、そういうの!
俺自身というより、小学校の時の先生とかがやたら気にしてて笑った覚えがあるが、そうかー、加賀さん現役ですかー。
俺の様子《ようす》を見て、まどかはあわててルーズリーフをおろし、「今のなし、なし!」という感じでほかの紙の下に隠した。いや、笑ったりしてゴメン。
そんなこんなで、それからしばらくの間、三時間目の授業中、一九九九年[#「一九九九年」に傍点]の加賀まどかと話すのが俺の日課《にっか》になった。
ちなみに、会話の基本は身振りとメモの見せ合いだが、以前の「電話番号」とか「ありがとう」みたいに、ちょっとした単語とか挨拶《あいさつ》に手話のサインを混ぜたりする。
例えば、顔を合わせるとまず最初に、顔の横で拳《こぶし》を上下に動かし、それから両手の人差し指をドロボー≠フサインみたいに鉤形《かぎがた》に曲げながら突き合わせる。これは「おはよう」の手話だ。
いっぺん、
(なんでまた、手話?)
と聞いてみたら、
(うん、趣味《しゅみ》で)
とのこと。
なんでも、休日に手話サークルかなんかの手伝いをやってて、ゆくゆくは保育士と手話通訳の資格を取ろうと思っているとか。へー、なんか、えらいな。
ま、それはそれとして――
(宇多田《うただ》ヒカルって、まだ流行《はや》ってる?)
(うーん、最近はどうだろ。あ、そういやちょっと前に結婚した)
(ウソ)
とか、
(AIBOってカワイイよね)
(人間に進化したぞ(あれ、ASIMOはメーカーちがうのか? まあいいや))
(わ、えすえふ映画みたい)
とか、
(動物占いって、やった?)
(ぶっ! あったなあ、そういうの! ……あ、ゴメン)
などと、どうでもいい世間話をして、俺《おれ》たちはその数十秒ずつを過ごした。
不自由な身振り手振りだし、時間も限られているしで、どのみち難《むずか》しいことは伝えようがないのだが、そういう制限の中で「明日《あした》はなにを話そうかな」などと考えるのはけっこう楽しい。
……が、しかし。俺は考えた。
どうせなら、もっと有意義なことに使えないか、これ?
そこで、
(なんなら競馬か宝くじの番号でも教えようか? んで、当たったら半分くれ)
と言ってみたら、
(そういうのって、反則でしょ)
と、けっこう本気で怒られた。
(ああいうのは、みんなが平等なチャンスを持ってるっていうのが前提なんだし)
ううむ、立派というか……マジメだなあ。まあボランティアとかやるくらいだしな(ってのは偏見か)。
おまけにまどかは、しばらく考え込んでいたかと思うと、
(うーん……こういうの、もうやめようか)
などと言いだした。
(え、なんでまた)
(あんまり未来のこととか、知るべきじゃないのかも……それに、授業中に横向いてばっかいちゃダメでしょ)
わ、そりゃ正論《せいろん》だ。
正論だけど――
俺《おれ》はちょっとばかり躊躇《ちゅうちょ》した。
(ほかの奴《やつ》はともかく……加賀《かが》とここで話すのやめたら、もう一生話さないってことだよな)
なにしろ、俺と彼女の接点といえば、この一日数十秒の窓通信[#「窓通信」に傍点]しかないんだから。
すると、
(ほかの人だって、同じよ)
と、まじめくさった顔で、まどかは答えた。
(学校卒業してからも会う友達なんて、もともとそんなにたくさんはいないでしょ? 今、それぞれのクラスにいる人のほとんどとは、もう一生話さないわよ)
(ま、そりゃそうだけど――俺、クラスのどうでもいい奴はどうでもいいけど、加賀と縁《えん》が切れるのはさびしいなあ)
(え……ありがと)
まどかの表情が、少しゆるんだ。
(でも、あたしたちはもともと出会わないはずの人間なんだから、あんまりこだわっちゃダメだよ。電話がつながらなかったってことは、そういうことでしょ)
(……うーん、そうかなあ)
(きっとそうよ。ハイ、前見ましょ、前)
……というわけで、それ以降、窓雑談[#「窓雑談」に傍点]はなんとなく禁止ということになってしまった。
三時間目の十一時前になると、俺たちは一瞬《いっしゅん》目を合わせ、無言で「おはよう」の挨拶《あいさつ》をして、それから、それぞれの前方を向く。
挨拶の時はけっこうニコニコしてるんで、嫌われちゃいないみたいだが、時々俺がネタを振ってみたりしても、まどかは取り合わず、こちらを向きもしない。彼女の言うように、「縁がなかった」ってことなのかなあ。
それにしたって、ちょっと薄情《はくじょう》だ。
だから、というわけでもないが、ある日――一学期の終業式の前日の放課後《ほうかご》、俺は職員室《しょくいんしつ》の片隅《かたすみ》のロッカーから古い卒業アルバムを借りてきて、まどかの姿をチェックしてみたりした。住所くらいは分かるだろうから、せめて、今[#「今」に傍点]どうしてるかちょっとのぞいてみるだけでも……って、なんだかストーカーみたいでアレだが、まあ、彼女との縁《えん》を確認《かくにん》してみたい気持ちになったのだ。
平成《へいせい》十一年度の三年二組のページの中に、加賀《かが》まどかの写真は確《たし》かにあった。薄暗《うすぐら》いガラス越しに見るよりも生き生きとした姿だ。
が――あれ?
ずらりと並ぶ青い背景の個別写真、身分証明写真みたいにしゃちほこばった顔、顔、顔の中、彼女の写真だけは、スナップから切り出したみたいに、自然な顔で笑っている。
また、校舎をバックにした集合写真では、ならんだ生徒の中に彼女の姿はなく、その代わりに、切《き》り貼《ば》りをした半身像が宙に浮いていた。
「あのー、先生、この加賀さんって人なんですけど――」
俺《おれ》はシェムラを捕まえて事情を聞こうとした。
しかし、シェムラはこの学校に転任してきたのは三年前で、それ以前のことは分からないという。で、代わりに学年主任のヒゲオを呼んでくれた。
「おー、なんだあ〜?」
「えーと、この人、撮影《さつえい》の日に風邪《かぜ》でも引いたんですかね」
ヒゲオはアルバムをのぞき込んできたが、
「ああ〜、加賀《かが》……そんな子、いたっけな……?」
どうにも要領を得ない。
そんなことをしているうちに、
「お、どうした林田《はやしだ》」
とか言って、暇な教師がわらわらと集まってきた。
「加賀……?」
「あ、加賀さんって、ほらあの……」
「あー」
え、なに、なんですか。
「んー、この子はアレだな――」
教師のひとりが、神妙な顔で言った。
「その年の夏休みに亡くなった子だ」
……え?
「んー、確《たし》か、海の事故だったか……」
「夏休みの早々だったねえ……」
「まじめな子でねえ。大学の推薦《すいせん》も出てたのに……」
え、え、え――じゃあオバケ!?
――いやいやいや。
窓ガラスに出てくる加賀まどかは、一九九九年の一学期の、まだ死んでいない彼女だ。地縛霊《じばくれい》とかじゃありません。たぶん。
しかし、それじゃあ。
あと一ヵ月かそこらのうちに……!?
(注目、注目! 大事な話!)
次の三時間目――というか、一学期最後のホームルームの時間、通知表を配るシェムラの声を前方に聞きながら、俺《おれ》は両手を大きく振ってまどかにアピールした。
先生らの話では「海の事故」とのことなので、もし海水浴とか臨海《りんかい》学校の計画があったら、中止させなければならん。
しかし、
(あのな、今年《ことし》は海は――)
俺が手振りで説明しようとすると、まどかはこちらをチラリと見ると、うるさそうに手を振って、前を向いてしまう。
(――おい、こっち向けよ、おい!)
こうなってしまうと、もう手が出ない。窓の向こうは地続きの空間[#「地続きの空間」に傍点]とちがって、声も届かなければ、手を伸ばして肩を叩《たた》くわけにもいかないのだ。俺《おれ》にできることはといえば、せめて俺のただならぬ剣幕《けんまく》に彼女が気づくように、手を振り続けることだけだ。
しかし今、彼女は視界の端に俺の姿を納めながら、無視を決め込んでいる。
――まずい。
今日《きょう》このまま別れて夏休みに入ってしまえば、もうまどかに連絡を取る手段はない。
あと五秒か十秒かのうちに、「今年《ことし》は海に行くな」と伝えなければ、彼女は――
「……うぬうッ!!」
俺は顔に三本のボールペンをはさみ、両手にノートを持って、まるで奇怪なタコ踊りのような大仰《おおぎょう》な動きでまどかの注意を引いた。しかし、「またバカやってる」とでも思ったのか、まどかはぷいと向こうを向いてしまう。
そうじゃない! こっち! こっち見ろ!
――と、その時。
「林田《はやシェだ》君、いつもいつも、君はそこでなにをシェておるのディェすか」
背後から歩み寄ったシェムラが、出席簿《しゅっせきぼ》で俺の頭をぽこりと叩いた。
――今取り込み中だからあとにして、あとに!
俺はちらりとシェムラを振り返ると、再び窓に向き直ってアピール行動を再開。
すると――
「ボーイズ……」
「……え?」
「ボーイズ・ビー・アンビシャシュ!!」
シェムラは奇声を発すると、俺の頭を両手でガキッとつかんだ。
「若者はッ! 前を向くのでシュ!!」
「あだだだだ!」
ゲラゲラと笑う教室中の皆が笑う騒《さわ》ぎの中、妖怪《ようかい》じみた腕力の宿るシェムラの細い腕によって、俺の頭は黒板のほうにギリギリとねじ曲げられ始めた。
先生、分かったから、先生! 今はそれどころじゃ――
その時、この異常な光景に気を引かれたのか、まどかが窓の向こうからこちらを見た。
俺は力任せに振り向きながら、せいいっぱい大振りのジェスチュアで、
(海! ダメ!)
ちょうどその瞬間《しゅんかん》、窓通信の時間が切れて、暗い窓ガラスにはフライング・クロスチョップの構えをとる俺の姿だけが残った。
――その日の帰り道、俺《おれ》はとぼとぼと家路を行きながら、思案《しあん》にふけっていた。
最後のメッセージ……上手《うま》く伝わっただろうか。
そもそも、あの窓通信で未来を変えることは可能なのだろうか。
なにはともあれ、俺にできるわずかなことは、さっきのホームルームの時間に、もうすべてやってしまった。その結果を確《たし》かめるすべは、今はない。
新学期になって、加賀《かが》まどかがあの席に現れるかどうか、ただそれだけだ。
しかし、もし現れなかったら……。
と、そこまで考えた時――
ピロロロロ、と俺の携帯が鳴った。
携帯に電話をよこしたのは、デコ女の三村《みむら》祥恵《さちえ》だ。
「――え、なに? ……手話サークル?」
俺が聞き返すと、
『うん』
と、三村は答えた。
『「うちのクラスに、窓に向かってずっと手話の練習してる子がいる」って言ったら、オバが「ぜひ連れてきなさい」って』
「うぇ〜?」
と、俺はせいいっぱい嫌《いや》そうに答えた。
ボランティアとか自治会とかの人のこういうノリって、苦手《にがて》だ。なんか息苦しいというか暑苦しいというか。
「やだよそんなの。めんどくせえ――ていうか、おまえのオバさんって死んでなかったか?」
『人の親戚《しんせき》勝手に殺さないの。とにかく請《う》け合っちゃったから、一回は顔出してよ。学校でいろいろ教えてあげたでしょ?』
――と、人に物を頼んでるんだか恩を着せてるんだか分からんことを言いだす三村に引きずられて、俺は翌日、夏休みの初日にそのサークルとやらに顔を出すことになってしまった。
件《くだん》のサークルというのは、休みの日に公民館《こうみんかん》の会議室《かいぎしつ》を借りて行われる、クラブ活動みたいなものらしい。
会議室の入り口わきプレートには、
手話サークルまいむ@l 人数:10名 代表者:カガ様
――と印刷されたプリントがセロハンテープで貼《は》られている。
……カガ[#「カガ」に傍点]?
俺《おれ》が怪訝《けげん》な顔をしていると、三村《みむら》はドアを開けて室内に首を突っ込み、
「マー姉《ねえ》! クラスの子、連れてきたよ!」
「マーネエ……?」
「あれ、言ってなかったっけ? マー姉はオバだけどぜんぜん若いんだよ。あたしと六つしかちがわないし」
三村は俺を振り返ってそう言うと、にた〜っと下品な笑《え》みを浮かべた。
「それに、美人だよ〜?」
……六つちがいの、マー姉=H
俺はくるりときびすを返した。
「……俺、やっぱ帰るわ」
「え、なんで?」
「いやその、ちょっと不意打ちで、心の準備が」
「なによ、ここまで来ていきなり」
「いいからその手を離《はな》せ」
廊下でもめていると、入り口のドアが開いた。
「どうしたの? どうぞ、いらっしゃい」
会議室《かいぎしつ》から出てきたのは、二十代半ばくらいの女《ひと》だった。
あまり化粧気のない、長い髪を後ろで束ねたジーパン姿、というラフな格好《かっこう》ながら、中身がしっかりしているせいか、すっきりと清潔《せいけつ》な感じ。
なんというか、頼れるオトナ風。
なおかつ、かなりの美人だ……が、その面差《おもざ》しには少女の面影《おもかげ》が残っている。
「あ、そ、その……」
思わず気圧《けお》された俺は、ぺこりと頭を下げ、その場を逃げ出した。
「あ、もう! なによ林田《はやしだ》!?」
三村の声を背に、十メートルほど走った時。
ピロロロロ、と俺の携帯が鳴った。
「え、あの、もしもし?」
半ばパニクりながら、俺はその場で電話に出る。
と――
『つながっちゃったね、電話』
「あ……?」
振り返って見ると、マー姉≠ヘ右手に携帯を構えながら、くいくいっ、と左手の人差し指をドロボー型に曲げ、くすりと笑った。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
むかし、爆弾がおちてきて
[#改ページ]
昔、大きな戦争があって、たくさんの人が亡くなった。
だいたい六十年前の出来事だというから、ぼくの人生の四倍も昔で――ということは、それは織田《おだ》信長《のぶなが》とかティラノサウルスみたいな、大昔の話だ。
原《はら》ミチ子も、それらと同じ大昔の人ではある。
ただ、信長やティラノとちがうのは、彼女は博物館《はくぶつかん》の展示品なんかじゃなく、今、この瞬間《しゅんかん》も生きている、生身《なまみ》の女の子だってことだ。
ぼくの街には平和記念公園というのがあって、直径二百メートルのまん丸い敷地《しきち》内《ない》には、立木や池や芝生の間に、戦争中に使われた大砲の錆《さ》びたのやら、爆撃《ばくげき》でひしゃげた鉄柱やらが、ちらほらと置かれている。それらはまるで、どこかの芸術家が作った不思議《ふしぎ》なオブジェみたいで、この公園全体を今じゃないどこか[#「今じゃないどこか」に傍点]につなげているような感じがする。
公園の中心にいる彼女[#「彼女」に傍点]も、そういうもののひとつだ。
高さ一メートル、直径二メートルほどの円形のお立ち台≠ノ立っているその女の子の出《い》で立ちは、セーラー服にもんぺ[#「もんぺ」に傍点]、布製のボロっちい鞄《かばん》をたすきがけ、ダサいとかなんとかを通り越して、どこか外国の民族衣装みたいだ。
片足を自然に踏み出し、防空|頭巾《ずきん》を頭の後ろによけながら、彼女はひたいに手をかざして真上を見上げている。六十年前も、そして今も。
外国では琥珀《こはく》の少女≠ネんて呼ばれているらしい。
なるほど、よく目をこらすと、彼女の周囲の空間には、お立ち台の縁《へり》から垂直に伸びる、薄《うす》い虹色《にじいろ》の輪郭《りんかく》が見える。全体的には、透明なガラスの柱の中に彼女ひとりが閉じ込められているような形だ。あんまり趣味《しゅみ》のよくない表現だとは思うけど、たしかに、大昔の虫が封じ込められた琥珀みたいに見えなくもない。
六十年前この街に投下されたのは、歴史上初めて使用された時空|潮汐《ちょうせき》爆弾。
地上五百メートルの位置から放射状に発生した時間衝撃波[#「時間衝撃波」に傍点]が光も音もなく地上に叩《たた》きつけられた時、爆心地から半径百メートルは人も建物もその時間的連続性を引きちぎられて一瞬で分解し、あとに残った地面はお皿みたいなつるつるの真っ平らになってしまった――というから、なんだかよく分からないけど、とにかくものすごい威力だ。
もちろん被害はそれだけにとどまらず、その周囲、半径十キロ以上にわたって街は崩壊《ほうかい》し、瓦礫《がれき》の山になってしまった。この戦争で亡くなった人は当時の人口の一割にも当たるそうだけど、その中のさらに一割は、この一発の爆弾のために命を落としたのだという。
――そして、彼女だけが生き残った。
これはその時初めて知られた現象なのだけど、時空間|爆発《ばくはつ》の完全な爆心地[#「完全な爆心地」に傍点]の、半径一メートル、地上五メートルの円柱状の空間は、地面から反射した衝撃波《しょうげきは》が打ち消しあって、時波[#「時波」に傍点]の中立地帯となり――その代わり、周りからの圧力で時間の密度がぎゅっと凝縮《ぎょうしゅく》され、きわめて流れにくい状態に固着≠オてしまう、のだそうだ。
その結果、爆発の直後には、円形の更地《さらち》の真ん中に、ほとんど固体みたいな、時間的に固まった[#「時間的に固まった」に傍点]空気と地面で出来た柱≠ェ残っていたという。その後《ご》、爆発の影響《えいきょう》でえぐれた地面を平らに埋め立てて、この公園が作られたというわけ。
柱≠フ手前には腰ほどの高さの石の台があって、こんな説明文が彫り込まれている。
「――原《はら》ミチ子さん(十五|歳《さい》)は、時空|潮汐《ちょうせき》爆弾投下の瞬間《しゅんかん》、一九四×年八月六日十一時五十九分の当時の姿のまま、六十億分の一の速さで流れる時間の中を生きています。頭上の空を見上げるその姿は、平和への祈りを表しているかのようです」
前半は「ふうん、なるほど」って感じだけど、後半は――そんなわきゃあない。
彼女、原ミチ子が過ごす六十億分の一の世界≠ナは、まだ爆発の瞬間から〇・三秒しか経《た》っていない。世界平和だとかを祈る暇もない、瞬《まばた》きひとつほどの時間だ。
彼女はまだ、周りで六十年の時間が過ぎたことも、戦争が終わったことも、頭上に爆弾が落ちたことさえも知らない。ただ、はるか上空を飛ぶ爆撃機《ばくげきき》を見上げているだけなのだ。六十年前も、そして今も。
たぶん彼女には、空を見上げた瞬間、急に周りの音が消えると共《とも》に、空が雲のない、青とも灰色ともつかない薄暗《うすぐら》い色に変わってしまったように見えているだろう。というのは、彼女にとっての〇・三秒の間には、六十年分の春夏秋冬《しゅんかしゅうとう》と二万日分の朝昼晩が過ぎているわけで、人間の目にはそんなチカチカは捉《とら》えられないから、それらを全部足して平均した明るさ≠セけが感じられるはずなのだ。
また同じ理屈で、周囲を見回せば、はげしく振動し輪郭《りんかく》をぼやけさせながらニョキニョキと伸びる灰色の立木や建物が見えるはずだけど、今はまだ、彼女は頭上を見上げたまま、ぱらりと宙に舞《ま》ったおかっぱの髪が、そのままの形で空中にとどまっている。
異変に気づいた彼女が「あれ?」という顔をするのは、ぼくらにとって、もう五十年か百年あとのことだ。そして、周囲を見回して、異様な灰色の光景のただ中で不安に駆られるのは、さらに数百年あと。そこから歩きだそうとして、自分の目の前に、そして周囲ぐるりを、六十憶倍の速度で動く空気で出来た壁《かべ》が囲んでいることを知って、パニックになるのがさらに千年くらいあと――
まあ、その頃《ころ》にはもっと科学が進んで、固着時間を解凍[#「解凍」に傍点]する方法も発明されるだろうって話だけど……ちえっ、なにが平和への祈り≠セ。誰《だれ》だか知らないけど、他人事《ひとごと》だと思ってテキトー言ってる。
彼女のことをちゃんと考えたら、そんな無責任なことは言えないはずだ。
ふと空を見上げて、それから視線《しせん》を戻したら、そこは千年後の世界。家族や知り合いがいないのはもちろん、自分の話す言葉が通じるかどうかさえ怪しい。
そんな世界に、たったひとりで。
かわいそうじゃないか。
――などと義憤《ぎふん》に駆られながら言うと、たいていは笑われる。
みんな、原《はら》ミチ子のことは、公園の置物かなにかだと思ってるんだ。さもなきゃ、せいぜい六十年前の戦争で死んだ[#「死んだ」に傍点]人、くらいに。
……まあ、自分たちが生まれる前から死んだあとまで、ぴくりとも動かずにいるような人のことだ。生きた人間というよりは、化石かなにかの仲間――そう考えるのが、正しいのかもしれない。
それでもぼくが彼女に肩入れしてしまうのは、たぶん、じいちゃんの影響《えいきょう》だ。
じいちゃんは記念公園の管埋人をしていて、小学生のぼくは、公園の管理人宿舎に入り浸って、休みの日には一日中ついて回ったりした。
半日掛けて公園中を掃除するじいちゃんの周りを、ぼくは子犬みたいにぐるぐる回りながら空き缶などを拾い、ひと通り片づくとふたりで中央の柱≠フ前のベンチに座って、麦茶を飲みながらひと休み。
ぼくが両足をぶらぶらさせながらじいちゃんの横顔を見上げると、じいちゃんはお立ち台の上に立つ原ミチ子をじっと見上げていた。その原ミチ子は誰《だれ》もいない空を見上げ――
琥珀《こはく》の少女≠ェ神秘的な平和のシンボルみたいに扱われるのは「ポーズがいいから」だ、なんて言われることがある。高いところに立って空を見上げていれば、地上からは顔は見えない。それで三割増しに美少女に見えるのだ、と。
いやいや、なにをおっしゃる。
この子は正面から見てもかわいいのだ。
もっとも、その事実はぼくとじいちゃんだけの秘密だった。ここ十年ほど、彼女の顔をまともに見た人間は、ほかにいないはずだ。
だからそれは、今はぼくだけの秘密だ。
意外と知られていないことだけど、原ミチ子が封じ込められた柱≠フてっぺんには、実は透明な蓋[#「蓋」に傍点]がされている。最初はガラスで作られ、それから何度か交換されて今は透明なアクリル板で出来ているその蓋《ふた》は、柱の中に余計なものが入るのを防ぐためのものだ。
――というのも、固着時間の柱≠ヘ、横腹は金属みたいにガチガチに硬いのに、上方向は形成時の時間圧[#「時間圧」に傍点]の関係で、比較的柔らかい[#「柔らかい」に傍点]境界面で周りの(つまりぼくらの側の)空間と接しているからだ。
つまり……この柱≠ヘ、上からは物が入る[#「上からは物が入る」に傍点]のだ。まるで、透明な煙突か、理科室のメスシリンダーみたいに。
最初にそれを聞いた時、じゃあ、ロープかなにかを上から入れて彼女を釣り上げればいいじゃないか、と思ったのだが、どうもそう上手《うま》くはいかないらしい。そうやって垂らしたロープを、たとえ一時間に一ミリのスピードで巻き上げたとしても、それは柱≠フ中の時間に換算すると、音速をはるかに超える猛スピードだ。とても人間の体が耐え切れない。かといって、時間を掛けてゆっくり引っ張り上げようとすると、外側の世界ではやっぱり五百年とか掛かってしまう。結局、科学の発達を待つか、せめてもっといい方法がないか百年ほど考えてみたほうがいい、なんて話になってしまうのだ。
言い換えれば、この井戸≠ノは見た目よりもずっと大きな時間的な深さ[#「時間的な深さ」に傍点]があって、降りることはできても、はい上がることはできない、そういう仕組みになっているのだ。
だから、とりあえず今は蓋をしておく。柱≠フてっぺんにもいくらかの反発力はあるので、ある程度の重さがあるもの以外は弾《はじ》かれるようになっているのだが、例えばボールとか大きな雹《ひょう》とか、風で飛んできた看板とかが落ちてこないとも限らない。上を見上げた瞬間《しゅんかん》に千年分のガラクタがいっぺんに落ちてきたりしたら、原《はら》ミチ子もたまらないだろう。だから、蓋は必要だ。
ちなみに、蓋が透明なのは、原ミチ子の視界をふさがないようにとの配慮《はいりょ》だ。
同じ理由で、じいちゃんは脚立《きゃたつ》を使って柱≠フ上に登り、床《ゆか》をふくように、蓋の表面をきれいに磨《みが》いていた。毎日、毎日、お立ち台の上の透明な蓋=屋根に這《は》うようにして、ぞうきんを掛ける。そうして、時々手を止めて柱≠フ中をのぞき込む。
何回か、いっしょに上にあげてもらったことがある。その位置からだと、ちょうど原ミチ子と正面から向き合えるのだ。
五メートル下から、まぶしそうに手をかざして頭上を――こちらを見上げる女の子。なんだか少し頼りなげで、不安そうな感じにも見えた。
もちろん、彼女はぼくを見てるわけじゃない。もっともっと、はるか上空を見ているのだ。
それでもぼくはなんだか目が離《はな》せなくなって、何十秒も、何分も、じっとその子を見ていた。
そうしているうちに、気づいたこと。
下からだと角度の関係で見えにくいんだけど、原ミチ子の、ひたいにかざしている右手じゃなくて、胸に押し当てているような左手の中には、なにか鎖《くさり》のついた金属製のものが握られている。
ペンダント――にしちゃ、デカいけど……?
ぼくがそう言うと、
「ああ……あれは、懐中《かいちゅう》時計だよ」と、じいちゃんは言った。
「カイチュウドケイ?」
懐中電灯の懐中≠ノ、腕時計の時計=B外国の映画の金持ちなんかが、ストップウォッチみたいな丸い時計を懐《ふところ》から出すのを見たことはあったけど、そういう名前がついているということは、そのとき初めて知った。
ちなみにその頃《ころ》、ぼくはポケットに小さな双眼鏡《そうがんきょう》を入れて持ち歩いていた。それを使って見てみると、なるほど、小さな時計の文字盤《もじばん》を見ることができた。
時計の針は、「十一時五十九分五十九秒」を指していた。
――一九四×年八月六日の、十一時五十九分五十九秒。
それが原《はら》ミチ子の今≠ネのだった。
それからしばらくして、夜中に脚立《きゃたつ》を持ち出して、ひとりで柱≠ノ登ってみた。
透明な蓋《ふた》の上から、原ミチ子を見下ろす。
街灯の光に照らされ、昼間とはちがう濃《こ》い影《かげ》のついた彼女の顔は、それでもまぶしそうにこちらを見上げていて、なんだか不思議《ふしぎ》な感じだ。
ぼくには彼女が見えているのに、彼女にはぼくが見えていない。
彼女とぼくの間の五メートルの高さは、奇妙な距離《きょり》だ。
まるで双眼鏡《そうがんきょう》で見ているように、すぐそこに見えるのに、決して触れられない。
近いようで、無限に遠い。
そう思うとなんだか近づくことも遠ざかることもできなくなって、ぼくは原《はら》ミチ子の顔を見つめたまま、何分も、何十分もじっとしていた。
と――
不意に、下から懐中《かいちゅう》電灯の光が当てられた。
じいちゃんだった。
時々夜回りもしているのだ、と言っていたけど、本当のところは、原ミチ子に会いに行っていたのだと思う。
勝手に登ったりして怒られるかと思ったら、じいちゃん、ぼくの背中をポンと叩《たた》いて、
「かわいいだろう、ミチ[#「ミチ」に傍点]は」
とだけ言った。
その前だったか、あとだったか。
原ミチ子とじいちゃんが知り合いだったと聞かされた時には、さすがにびっくりした。
だって、じいちゃんは今生きてる人で、原ミチ子は昔の人だ、いきなり「俺《おれ》、織田《おだ》信長《のぶなが》と友だち」とか言われたみたい。不意打ちだ。
――しかしまあ、考えてみれば、じいちゃんはもともと地元の人だし、戦前生まれだっていうから、知り合いでも不思議はない。
そうそう、言い忘れてたけど、じいちゃんは数少ない[#「数少ない」に傍点]この街の出身者だ。例の爆弾《ばくだん》の投下された日にはたまたま家の手伝いでお使いに出ていて難《なん》を逃れたのだという。そして、戦後には苦労して市会|議員《ぎいん》のけっこうえらい人になり、この街の復興《ふっこう》に大きな役割を果たしたとかなんとか。
竹ぼうきで道路なんかを掃《は》いてるところはただの年寄りにしか見えなかったけど、それでも時々、知らない大人《おとな》の人に「君のおじいさんは立派な人だ」なんて言われたので、実際大した人だったんだと思う。
で、引退してからは記念公園の管埋人をしてたわけだけど、これは半分ボランティアというか、趣味《しゅみ》みたいなものだったらしい。現役時代のじいちゃんの大きな仕事のひとつがこの公園の設立だったというから、その管理人という立場は、一種のボーナスみたいなものだったのだろう。
ちなみに、ぼくは孫の中でも特にじいちゃんに似ているそうで、「おじいさんの若い頃《ころ》にそっくりだ」とか「この子は将来大物になるよ」なんて言われたりして、まあ自分の手柄じゃないにしても、悪い気はしないものだった。
でも、いつだったか、
「ぼくはじいちゃん似だから、将来立派な人になるって」
と言ったら、じいちゃん、なんだか微妙な顔をして、
「じいちゃんは別に、立派じゃないさ」と言った。
そして、ぼくの背中をポンと叩《たた》いて、
「おまえは度胸があるからな。じいちゃんみたいにはならん」
なんてことを言うのだった。
じいちゃんがそう言う理由――だったのだろうか、ぼくには昔から放浪癖《ほうろうへき》というか家出ぐせ[#「家出ぐせ」に傍点]みたいなものがあって、なにかの拍子《ひょうし》に家を飛び出しては数日後に連れ戻される、ということがよくあった。
物心ついた頃にはすでにやっていたようなので――一番古い記憶《きおく》は、知らない街の交番で迎えを待っていた時の風景だ――これはほとんど生まれつきの衝動《しょうどう》みたいなものだと思う。
で、そのたびに、迎えに来た父や母にこっぴどくしかられたものだけど、ぼくはまったく懲《こ》りることなく、隣町《となりまち》へ、隣の県へ、もっと離《はな》れた都市へと、順調《じゅんちょう》に脱走|距離《きょり》を伸ばしていった。そして、小六の夏休みにはひとりで北海道《ほつかいどう》まで行ってしまい、冗談《じょうだん》半分、警戒《けいかい》半分に「次は外国だろう」なんて言われていたのだった。
ちなみに北海道の時には、泡《あわ》を食った両親に一週間ほど軟禁されてしまったのだが、面会に来たじいちゃんは怒りもせずに、
「旅はどうだった」
と言った。
ぼくはなによりもまず、旅≠ニいう言葉のカッコイイ響《ひび》きに満足し、それから――なんと答えただろうか。
「行きはわくわくしたけど、帰りはふつう」
そんなことを言ったと思う。
じいちゃんはなにも言わずに、ぼくの頭をくしゃくしゃとなでた。
ぼくは調子に乗って、
「もっと、ずうっと遠くに行きたいな」
なんて言っていたと思う。
夜中に公園の柱≠ノ登るのは、その後《ご》も時々やってみた。
原《はら》ミチ子の姿は、小学生の時にはただ「きれいなお姉《ねえ》さん」という印象だったけど、ぼくが中学に上がる頃《ころ》には、以前思っていたよりも子供っぽい、かわいい女の子に見えた。
双眼鏡《そうがんきょう》で懐中《かいちゅう》時計の文字盤《もじばん》を見てみると、時計の針はやはり「十一時五十九分五十九秒」を指していた。最初にここに来てから、ぼくにとってはずいぶん長い時間が経《た》っていたが、彼女にとっては一秒にもならない。
つまり、原ミチ子にとっては、ぼくらは瞬《まばた》きの間の世界に生きる、影《かげ》みたいなものにすぎないのだ。ぼくが一生ここに座り続けたとしても、彼女の視界に一瞬《いっしゅん》映り込むかどうか。
それでも、ほんのわずかな残像みたいなものだけでも残せないだろうか――
そんな無理なことを思いながら、ぼくは夜回りに来たじいちゃんに声を掛けられるまで、何分も、何十分もじっとしていたものだった。
でも今は――
何十分と言わず、いつまでも、何時間でも、ぼくは原ミチ子のことを見てしまう。
なぜならもう、じいちゃんがここに来ることはないから。
じいちゃんが死んだのは、先月の末だ。
仕事中に足を痛めたらあっという間に体が弱くなって、風邪《かぜ》をこじらせて肺炎《はいえん》になって、一度はどうにか持ち直したかと思ったら急にぶり返して、結局死んでしまった。
葬式《そうしき》はたいそう盛大なものだった。
でかい花輪《はなわ》がばんばん贈《おく》られてきて、街の名士みたいな人がぞろぞろやってきて、口をそろえて生前のじいちゃんをほめ称《たた》えた。曰《いわ》く、あれほど責任感のある人はいなかった、とか、ここぞという時の決断力には目を見張るものがあった、とか、なんとか、かんとか。
そういう人たちは続けてぼくの顔を見ると、おや、この子はおじいさんにそっくりだ。こりゃあ将来が楽しみだ、なんてことを言うのだけど――
――どうもこの人たち、分かってないんじゃないだろうか。
と、ぼくは思うのだった。
現役時代にバリバリのやり手だったとかそういうのは、別に嘘《うそ》でも間違いでもないんだろうけど、そういうのは、じいちゃんにとって一番大事なことじゃないような気がする。
最後の日、病院で親戚《しんせき》一同に見守られながら息を引き取る寸前、じいちゃんが口にした、声にならない言葉。
それを聞き取ったのは、たぶん、ぼくひとりだ。
「――ミチ[#「ミチ」に傍点]」
じいちゃんは、そう言ったのだ。
今夜。
家の押し入れから持ち出した防災用品セットに、水とチョコレートを買い足して詰め込んで、ポケットには十徳《じっとく》ナイフと双眼鏡《そうがんきょう》。なるべく厚着をして(暑いけどガマン)、靴も一番丈夫な奴《やつ》にした。
これで備えは充分、なんてことはないのだろうけど、それを言いだしたらきりがない。
千年後[#「千年後」に傍点]に必要になる物なんて、いったい誰《だれ》に分かるんだ。
公園の真ん中に、備品の脚立《きゃたつ》を持ち出して登った。
夜中だというのに、勘違いした蝉《せみ》がじょわじょわと鳴いている。
今は、柱≠フ透明な蓋《ふた》にはいつも、薄《うす》くほこりが積《つ》もっている。じいちゃんが死んで、代わりの管理人は立ったけど、ここは掃除していないんだろう。
ほこりに指のあとをつけながら、丸い蓋を持ち上げ、ずらした。大きさが大きさだけに(なにしろぼくの体よりでかい)、バランスを崩して脚立ごと倒れそうになる――が、どうにか踏みとどまり、五十センチほどの隙間《すきま》を空けた。
半開きの蓋の上にいったんよじ登るとその縁《へり》のあたりに腰掛けて、柱≠フ上端に荷物をまとめたリュックを差し入れる。最初は軽い抵抗があったけれど、軽く体重を掛けて下に押すと、ずぶずぶ……と、まるで透明なゼリーの中に埋め込むような感触がして、手を離《はな》すとそこで止まった。
次いで、右、左と、つま先から足を入れる。
ずぶずぶ……と、今しがたの感触が、今度は足全体に――体の中にも――伝わってくる。
膝下《ひざした》を両方入れたところで、蓋に手をついて腰をぐるりと半回転させる。両手で支えた体が、柱≠フ中に腰まで浸《つ》かっている形だ。
それからぼくは、蓋の縁をつかむと、全身を一気に押し下げた。
息を詰めていたのは正解だった。どろりとした空気に、一瞬《いっしゅん》呼吸ができなくなり、
そして、加速=\―
――駆け落ち[#「駆け落ち」に傍点]を、しようとしていたのだそうだ。
六十年前の十五|歳《さい》というと、今よりはだいぶ大人《おとな》だったのだろう。将来を誓い合ったじいちゃんと原《はら》ミチ子は、しかし双方の親の反対にあっていた。まだ戦争のまっただ中で、お互いや周囲の状況がどう転がるかも分からなかった。
それで、駆け落ちだ。
その日、実家の商売の得意先からの集金を終えたじいちゃんは、その金を持って原《はら》ミチ子と逃げるつもりだった。そのように決めて、約束の印に自分の懐中《かいちゅう》時計を預け、待ち合わせの時間も決めた。
一九四×年八月六日の、正午ちょうど。
でも、じいちゃんは直前でちょっとだけ怖《お》じ気づいてしまった。
少し考える時間が欲しくて、街に帰る電車を一本遅らせた。
結果として、それがじいちゃんの命を救ったわけだが――
一九四×年八月六日、十一時五十九分五十九秒。この街に爆弾《ばくだん》が落ち、真っ平らになった跡地には、自分を待つミチ[#「ミチ」に傍点]の姿だけが残った。
もし自分が時間通りに着いていたら、ふたりで手を取り合って、この柱≠フ中に立っていたかもしれない。あるいは、ちょっと立ち位置がずれて、ふたりで跡形もなく消え去ってしまっていたかもしれない。
――そうするべきだった。
と思い続けながら、じいちゃんはその後《ご》六十年生きて、死んだ。
じいちゃんがこの街を建て直したのは、なにも漠然《ばくぜん》としたみんなの幸せとか平和とかのためじゃない。原ミチ子が戻ってくる場所を残しておくためだ。そして、公園の真ん中に彼女を飾《かざ》り立てたのは、あえて人の目に触れさせて、百年後、千年後に助けの手を呼ぶためだ。
そのために、人の何倍も働いて、その分の結果を出した。
もちろんそれは人に褒《ほ》められるだけのことはある、立派な生き方だ。
……でも、それだけのことをやり終えた時には、じいちゃんは歳《とし》を取りすぎていたのだろう。あるいは、その間に新しく出来た仲間や家族(ぼくもそのひとりだ)を振り捨てることができなかった、ということかもしれない。
じいちゃんは、原ミチ子が封じ込められた柱≠ノ飛び込んでいく勇気だけは、最後まで持てなかったんだ。
――もちろん、それはじいちゃんの問題であって、代わりにぼくが飛び込むなんてのは、ぜんぜんつじつまが合ってない。
ぼくの旅≠ノは、ぼく自身の理由がある。
つまり――
この近くて無限に遠い場所に、ぼくは行ってみたい。
そして、大好きなじいちゃんが大好きだった女の子に会ってみたい。
じいちゃんが最後まで待ち合わせの時間に近づこう[#「近づこう」に傍点]としていたことを、その子に伝えたい。
それに、その子のことを、もっと知りたいんだ。
いったいどんな声でしゃべるんだろう。
どんな顔で笑うんだろう。
どんな目をしてこっちを見るんだろう――
――そして、加速=B
一瞬《いっしゅん》の滞空状態の最中《さなか》、まず朝が来て、そしてまた夜になった。
またすぐに朝が来て、すぐ夜になった。
朝が来て夜、
朝が来て夜。
朝、夜、
朝、夜、
朝夜朝夜朝夜――
太陽がすごい勢いで頭上を横切り、昇ったり落ちたりしている。
その勢いはどんどん増していき、やがて光の軌跡を追うこともできない古い蛍光灯《けいこうとう》みたいなチカチカになり、ついにはそれすらも感じられない灰色っぽい光になる。
日≠フ単位が判別できなくなると、次は月≠セ。月の満ち欠けのため、全体の明るさが脈打つように変化する。それもチカチカに加速してよく分からなくなると、今度は年=B光の全体的な角度や量が、四季に合わせてグーッ、グーッと変化する。そして、それもまた――
やがて灰色の光は完全に均一な調子《ちょうし》になり、それまでちらついてまともに見ることができなかった周りの物が見えてきた。
この一瞬で、外の世界では十何年かの時間が経《た》ってしまっているだろう。
学校の友だちはもう大人《おとな》になっているだろう。
父さんや母さんもずいぶん歳《とし》を取っただろう。……ひょっとして、もう死んでしまったかもしれない。
灰色の光景の中、見慣れないビルが建ったり消えたりし、そのペースはなおも速まっていき――ぼくの知っていた世界は、今この瞬間、全部流れて消えてしまった。
――そして、あとに残ったのは、ひとりの女の子。
頭上を見上げる彼女の目が、ぼくの姿を捉えて[#「ぼくの姿を捉えて」に傍点]大きく見開かれ――
「きゃっ!?」
「いてっ」
ぼくは原《はら》ミチ子の目の前に尻餅《しりもち》をついた。リュックが傍《かたわ》らにどさりと落ち、彼女の取り落とした懐中《かいちゅう》時計が頭上から降ってきた。
「わ、わっ」
思わず時計を受け止めながら、彼女の顔を見上げる。
彼女もまた、目をまん丸にしたまま、こっちを見ている。
実際に会ったら、まずああ言おう、こう言おう――そんな台詞《せりふ》を一ダースは考えてあったのだけど、そんなのは、目があった瞬間《しゅんかん》に残らず消し飛んでしまった。
だって、あの子が今、ぼくのことを見てるんだ[#「ぼくのことを見てるんだ」に傍点]。
たっぷり五百年[#「五百年」に傍点]ほど見つめ合ったのち、ぼくはようやく口を開いた。
「や……やあ」
ぼくのおどおどする姿がおかしかったのだろうか、彼女の丸い目がほんの少し細まった。わずかに首がかしげられ、口元に興味《きょうみ》を含んだ微妙なほほえみが浮かび、そして。
ぼくの手のひらの中で、懐中時計が、
カチッ――
と、針をひとつ進めた。
[#地付き]〈了〉
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[#改ページ]
あとがき
久しぶりの人はお久しぶり。そうでないかたは初めまして。
毎回そんなことを言ってますが、古橋《ふるはし》です。
今回の本は、『電撃《でんげき》hp』誌に連載された六本の短編《たんべん》に書き下ろしを加えた短編集です。
「フツーの男の子≠ニフシギな女の子≠フボーイ・ミーツ・ガール」という大枠《おおわく》だけ決めて、あとは自由にやってみよう――という趣向《しゅこう》で、前半は力業で各話の印象を散らそう散らそうとしてたんですが、後半は自然に型≠ェ出来てきた感じ。これはこれで流れとして面白《おもしろ》いんですが、次にこういうのをやる時には、舞台《ぶたい》や人物は固定にしてもいいかな。
もっとも、その次≠ニいうのは五年先か十年先か分かりませんけど――いや、別に冗談《じょうだん》ではなくて、このトシになると十年後≠チて普通に想像の範囲《はんい》なんですよね。むしろ中学生が高校、大学、社会人へと進化するのを横目に見て「あんたらよく育つなあ!」と当方が驚愕《きょうがく》。
で、実は今回、その辺[#「その辺」に傍点]が隠しテーマになってまして。
各話のコンセプトを図にすると――
――とまあ、こんな感じで、普通のペースで生きている男の子の横を、女の子たちが追い越したり、目の前を通り過ぎたりしていくわけです。
「それぞれの属する時間軸が違う」なんて言うとなんだかえらくSFっぽいですけど、実はそんな大仰《おおぎょう》なことでもなくて、要するに人間はみんな、それぞれの時間を生きているんですよね。
こういうのって、みんなで学校に通ってる間はあんまりピンと来ないと思いますけど、三十|歳《さい》くらいになって、周りの人が転職《てんしょく》したり結婚して子供を持ったり、あるいは亡くなったりしだすと、実感として感じられるようになってきます。ていうか、最近そんなことをよく思うようになって、面白《おもしろ》いと思ったので書いてみましたよ、と。
短編《たんべん》≠ニいう形式もまた面白くて。
なにしろ尺が短くて「ああして、こうして、こうなって」みたいな長い話はやれないので、「おっ」と思う場画を切り出していくような形になります。特に今回みたいなテーマ連作だと、えーと、雪の日のニュースで通行人が滑《すべ》って転ぶ瞬間《しゅんかん》≠ホっかりを編集して流したりするでしょ。あれ、あれ。ああいう面白さがある。
え、言ってる意味が分からない?
うむ、君も大人《おとな》になればきっと分かる。
ところで今回の収録《しゅうろく》作品の連載中に、メディアワークス社の人事異動で担当の編集さんが替わりました。前担当のミネさんは、かれこれ七年くらいお世話になっている、一番つき合いの長い編集さんでして――いや、別にここで縁《えん》が切れてしまうということはないんですが、まあ距離感《きょりかん》は変化するわけです。図らずも連作のテーマに絡《から》めてひとネタいただいた感じ。
ミネさんおつかれさまでした。あとを引き継いでくださる新担当サトウさん、これからよろしくお願《ねが》いします。
イラストを担当してくださった緋賀《ひが》ゆかりさんも、ありがとうございました。「毎回(地味目な)新キャラで」って、ひょっとして面倒《めんどう》くさい注文だったかしらん。
それに、出版流通その他|諸々《もろもろ》の関係者の皆さん、どうぞ今後もよろしくお願いいたします。
もちろん読者の皆さんも、手にとってくださってありがとうございます。
どうぞ次の機会《きかい》にも、またご縁がありますように。
ではでは。
[#地付き]二〇〇五年七月
[#改ページ]
底本:「ある日、爆弾が落ちてきて」メディアワークス 電撃文庫
2005(平成17)年10月25日初版発行
入力:readme.txtの人
校正:readme.txtの人、追記(2007年5月6日)の人
2007年4月10日作成
2007年5月6日校正一回目