アラビアの夜の種族V
古川日出男
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)聖還《ヒジュラ》暦
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(例)一二一三年|二月《サファル》
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総目次
聖遷《ヒジュラ》暦一二一三年、カイロ
第一部 0℃
第二部 50℃
第三部 99℃
仕事場にて(西暦二〇〇一年十月)
文庫版附記
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目次
第三部 99℃
仕事場にて(西暦二〇〇一年十月)
文庫版附記
[#改ページ]
第三部 99℃
※[#底本ではアラビア文字の15]
ゾハルはいまや盛大な祝宴の熱気に呑《の》まれようとしています。都の住人は、ほぼ余さず、大通りのなかの大通りに殺到しています。その沿道《みちばた》に。城門から王宮にまで通じている広小路を、威風堂々、さしだされた駿馬に乗って進む英雄をながめようと集まったのです。ひと目、わが眼《まなこ》にとらえようと。仕事も抛《ほう》りだして(ですから市場《スーク》は空っぽです)、礼拝も抛りだして(ですから寺院《モスク》は空っぽです)、せいぜい窓から顔をのぞかせる女人《にょにん》どもがのこるばかり。そうまでして偉業をなし遂げた「勇者」を、自称ではない、ほんものの「勇者」、地下|遺蹟《いせき》の深みから昇ってきた凱旋《がいせん》将軍を歓迎したわけですが、ああ、観衆たちには期待してじゅうぶん果報《おかえし》があるだけの英雄の容姿《すがた》でございました。
その特別な麗容。
異界《あちらがわ》の玲瓏《れいろう》さを具《そな》えた美青年。
沿道にいた都の住人たちは、たちまち、その姿態の綺羅《きら》に魅了されて嘆息します。そして英雄にふさわしいだけの、妖《あや》しい迫力にも。騎馬のファラー――もちろん、英雄とはファラーでございます――にぴったり添うように大通りをタッタカ走っているのは、異様な形骸《むくろ》を咬《か》んで搬《はこ》ぶ、あきらかに人外境の尨犬《むくいぬ》。そして、この一人と一頭のまわりには自然発生した護衛が従い、王宮に案内していたのです。
詳細はこうでございます。ファラーが迷宮の最下層から地底の市街、すなわち阿房宮《あぼうきゅう》を改造した地下都市内をめざして発つと、ほどを経ずして魔王アーダムの征伐行におもむかんとしていた魔術師の三人組とひょっこり行《ゆ》きあい、出会い頭《がしら》に仰天させました。この陰陽師《おんみょうじ》と方士と護符をつけた托鉢僧《ダルウィーシュ》の組みあわせこそは、魔術師横丁の評議会で「今週の挑戦者」に選ばれた誉《ほま》れ高き強豪たちで、いましも目標達成のために秘奥の玄室にむかう途上だったのです。けれども、この三人組、市域をでて千尋《ちひろ》の深みのなかばにも下降しきらないうちに、単身のファラーとばったり! 遭遇するではありませんか。単身――に添えて半身です。忠犬然とファラーに仕える尨犬(それは瀝青《チャン》よりも黒い膚をしておりました。このような呪われた生物《いきもの》にわざわいあれ!)が運搬役となって、ああ、無残にして、不祥! 胴体のみの屍骸《なきがら》がともなわれていたのです。首のない半身からは死してなお邪悪無類、瘴気《しょうき》そのもののような印象がたち昇り、なんたる大凶! しかも、これは地下都市を激震させてしかるべき、信じがたい光景でした。単身のファラーと半身の屍骸《なきがら》に行きあった三人組のなかには、すでに過去、アーダムの玄室に躙《ふ》みこんで一度は死闘を演じ、かつ遁走《とんそう》を――仲間の犠牲とひきかえに、まるっきり奇蹟《きせき》的に――果たして生きのこったという経歴の人間《もの》がおり(すでに説いたように、数十人にたまたま一人、二人は逃げ帰って都市《まち》に情報をもたらしていたのです)、一見して魔犬に咥《くわ》えられているのがアーダム、ほかならない魔王アーダムの骸躯《からだ》であることを了《さと》りました。
ときを移さず、鼎《かなえ》の沸くような大騒ぎです。「ご同行《どうぎょう》の皆さん、一大事の出来《しゅったい》です!」と第一声を発したのが魔王との対決すでに経験ずみの陰陽師。「あれは――というのは妖犬《いぬ》が咥えているものですが――誓って申しますが魔王アーダムのミイラ! たいへんです、獲物は狩られてしまいました!」
「なんですと!」と声を裏返らせたのは方士。
「どのような根拠をもって、あなた、断言なさるのですか?」と詰問したのは托鉢僧《ダルウィーシュ》。
「ご覧なさい、あのミイラの醜悪さ。忘れたいと希《ねが》っても、いやいや、いかにしたって忘れられない類《たぐ》いの鬼醜《おぞし》さですぞ! あれこそはたしかに、かつてみどもの仲間を無慈悲に戮《ころ》した玄室の主《あるじ》、古《いにしえ》の魔王アーダムにほかなりません! ぜったい保証します! あのミイラっぷり、見誤るものですか!」
「あにはからんや、ではあれは――」と大口をあけて絶句したのは方士。
「ファラーさん、あなた、魔王を斃《たお》してしまったので?」と二の句を継いだのは托鉢僧《ダルウィーシュ》。
ファラーがにやりと哂《わら》うと、ああ、滲透《しんとう》する絶望! 三人組はめいめい口々に叫びます。
「あわれじゃ! わしらはあわれじゃ! やはり早い者|勝《が》ちであった!」と花鉢僧《ダルウィーシュ》がいえば、「予定の運命(勝利のこと)は横どりですか? 横から掠《かす》めとられてしまったので? されば――さようなら、満天下にうたわれる雷名。さようなら、数えきれないご鳥目《ちょうもく》。立身出世は泡沫《うたかた》、一瞬の夢でした!」と方士が歎《なげ》き、「なにもかも神意。いかにも、いかにも、これもアッラーの御心《みこころ》ですぞ。ファラーさん、なにとぞ最高至上の造物主があなたにこれ以上の幸運を授けませんように(これは皮肉であり呪詛である)!」と陰陽師がわが手を噛《か》みます。
それから、三人組は来た道をとって返し、曲がったり狭まったりしながら上方《うえ》に、上方《うえ》にとのびている安全な径路を昇りに昇って、市域の内側《なか》にいたりました。もちろん、ファラー(とお伴《とも》の魔犬)にははるかに先行したのでございます。そして、一人は地下都市の往来に、のこる二人は魔術師横丁の広場につっ立ち、大声でわめきました。「皆さん、たいへんな事態が起こりましたぞ! あの秘奥の玄室の陋劣《ろうれつ》な悪人、ゾハルのわざわいの根源である古《いにしえ》の怪人、魔王アーダムは斃されてしまいました!」
「なにをおっしゃるのですか!」
即座に反応するのは報《し》らせを耳にした自称「勇者」たち。
「いったいぜんたい、証拠はあるのですか? 示されたのですか?」
「示されたうえに、その証《あか》しはたずさえられて昇ってきますぞ!」
このようにふれまわったものですから、さあ、大|波瀾《はらん》です。三人組の言《こと》ぶれを聞いて、この飛報をさらに三人がおのおの三人に告げてまわって、つまり一人が三人に、三人が九人に、九人が八十一人に、急報は奔《はし》りに犇《はし》ります。往来、怒濤《どとう》! 青天の霹靂《へきれき》は、いま、轟《とどろ》きました。報らせは何階層にもつみ層《かさ》なった地下都市の、内部《なか》を、上昇しながら席捲《せっけん》します。さながら霹靂《らいめい》が――建設途上の阿房宮の空洞の――その地下都市の空虚にこだまして、螺旋《らせん》を描きながら昇り、反響をつづけているようです。しっかり、市域の外側《そと》にも弘《ひろ》まります。まずは演習場で、腕試しに化物《グール》どもと挌闘《かくとう》していた剣士たちのあいだにも、妖法《ようほう》をふるいつづけていた魔術の達人たちのあいだにも。
波瀾を、怒濤を捲《ま》き起こしたのです。
さて、陰陽師と方士と托鉢僧《ダルウィーシュ》の三人組がさきぶれとなって、ファラーが地底の市街に(迷宮の最下層を発って)到達するのにさきがけて情報は轟いたわけですが、これ以降も、弘報《おしらせ》はファラー本人を追い越して、ひたすら拡がります。弘まります。上昇のかぎりに上昇して、しまいには地下都市を昇りきり、最上層から地下世界をでて、砂漠を疾走して――早飛脚《はやびきゃく》だって走りました――そしてゾハルの城門へ!
ああ、ファラーのさきぶれ、限度《かぎり》なし。たちどころに報らせは地上の市内にもとどいたのです。
とどけられたのです。
報らせがあれば波紋あり。騒擾《そうじょう》あり。しかし――地下の都市《まち》にあったのは歎声《たんせい》ですが、地上の都市《まち》にあったのは歓声です。こちらでは飛報はまごうかたなき吉《よ》き報らせ、その滲透のすばやさといったら!
「聞いたか?」
「聞きました!」
との応酬が平安《サラーム》のあいさつにとって代わり、なにしろ吉報というものは流行病《はやりやまい》も同然に伝染性、ゾハルの市内の隅ずみ、うわさを知らない者はございません。
吹く風よりも疾《はや》い、朗報の浸潤でございました。
このようにゾハルに「魔王討ち滅ぼされる」の報がしっかり膾炙《かいしゃ》した頃あい、ちょうどファラーは地下都市の全階層を昇り、地表の陽光のもとにでたところでした。これが凱旋《がいせん》将軍! 妖しい麗容の救世主! 特別なまでに美《うる》わしい、その全姿《なりかたち》は、苛烈《かれつ》な陽射しの真下でさらに、全身にまとわれた魔性の闇によって――無色《いろなし》の皮膚《はだ》を保護するための陰翳《かげ》によって――蠱惑《こわく》のどあいを昂《たか》めます! 砂漠をわたろうと歩みだした英雄のために、だれかが駿馬を提供しました。すでに大勢、この阿房宮の出入り口に(つまり以前の「大地の裂け目」、その後に建築家一族による改築の手がはいった地下都市の開口部に)つめかけておりました。さしだされた駒には馬勒《ばろく》も鞍《くら》もつけられていて、志願した若者が鞦《しりがい》をとりました。まるで奴婢《ぬひ》のように、と申しますか、騎馬の英傑となったファラーの護衛のように。このような護衛めいた同行の志願者が、ファラー(と魔王の形骸《むくろ》を担う尨犬)の前方《まえ》にも、後方《うしろ》にも、どんどん従ったのでございます。
それは砂漠の大行列でございました。
英雄はいずこをめざして? もちろん、ゾハルを。ゾハル市内を。そしてゾハルの王宮を!
自然発生的な護衛たちは、こうして美しい騎乗の魔術師を列をなして案内したのでございます。
ある者は露払いをして、ある者は「さがりなさい! これこそ世紀の偉人殿ですよ!」と周知して、導いたのでございます。
そしてゾハルでは――すでに吉報、徹底していたゾハル市内では、民草は太鼓をうち鳴らして、英雄ファラーを迎えたのです!
このような経緯《けいい》なのでした。おお、この歓迎ぶりを御覧《ごろう》じろ。すでに街まちは飾られ、実質的に嘉辰《かしん》の宴がもよおされて、市街にあるのは自発的な大祭礼です。おりから午後の祈祷《きとう》の時刻でしたが、ほぼ全員、ファラーを迎えて沿道に立っています。ゾハルの本通りは歓呼の群衆に埋まり、祝福が飛びかい、その声はもっぱらファラーにむけられて――「アッラーの御加護のありますように!」「神かけて、あなた様の幸《さち》を願います!」「アッラーがあなた様を、いや栄えしめんことを!」等。都大路のまんなかを行進するファラーは、王侯以上のあつかいです!
庶民の歎待《かんたい》はこうでございました。いっぽう、地下《じげ》ならぬ宮仕えの人びとはどうでしょう? これについては、すぐと描写することができます。なんといっても、ファラーは自主護衛に導かれて大観衆に見送られて一路、王宮をめざしていたのですから。門前《かどさき》にファラーが立てば、王宮づきの守衛もさっと扉をひらき、いざ、ファラーは御殿にあがったのです。
魔王を打倒した勇者として。
あらゆる権利を約束された傑士として。
あたりを払い、すすみます。
魔犬とともに。魔犬のたずさえた証拠《あかし》とともに。
七つの控えの間《ま》をすぎて、やがてはファラー、ついに大広間にいたりました。
ここに居ならんでいたのがゾハルの貴顕高官、太守や大臣たち。奴儕《やつばら》がいかなる反応を示したかと申しますれば、まずは呆然《ぼうぜん》、陶然、感嘆。一般庶民《しもじものたみ》と同様に、あでやかなファラーの麗姿を目にとめた途端、身も心もたちまち奪い去られるような心地となりました。しかも、典雅なファラーの足下に匍《は》うのは、瀝青《チャン》よりも黒い厭《いと》わしい魔犬に、さらに魔犬よりも悍《おぞ》ましい首なしのミイラ! 不調和を超えて絶対的対極の存在です。しかし、醜怪きわまりないミイラの半身だからこそ、それが何者《なにやつ》のしかばねであり、どのような種類の手柄をにおわせるのか、あるいは顕示するのかを(ファラーそのひとからの説明もなしに)雄弁に物語っていました。
殿上人《てんじょうびと》たちが注視するなか、ファラーは優雅な指さきで宙に文字を描き、すると、たちまち! 見守っていたゾハルの大公連も腰をぬかしたことには、王宮の大広間には不可視《ふかし》界との通路となる裂け目が生じるではありませんか! この時空の間隙《かんげき》に、魔犬はファラーの合図をまって飛びこみ、去ります。しかしながら、首なしのミイラは不可視界にともなわれず、この胴体のみの屍骸《なきがら》は床にゴロリと転がりました。
と同時に、魔犬を呑《の》んだ裂け目のほうはピタッと閉じて、瞬時、消え失せます!
以上が衆人環視のなかでの出来事、ファラーの一挙手一投足に注目していた雲上人《うんじょうびと》たちの驚嘆はいとど募って、「こはいかに!」だの「いやはや、愕《おどろ》いたわい!」だの、感銘と陶酔の声がそこかしこから涌《わ》きました。
さて、この場面の主人はといえば、じつはファラーにあらず、数々の侍従にかしずかれた玉座の人物でございます。なにしろ、大広間は謁見式のおこなわれる場所、文武百官の家臣連が列座している右と左の間《あわい》には、頭上に天蓋《てんがい》をはった高御座《たかみくら》が置かれていたのです。しかれども、大王《おおきみ》の玉顔はそこにはあらず、なぜならば御簾《みす》がしっかと垂れて、拝謁する者の視野から高御座(とそこに坐《ざ》した人物)の外形のいっさいを隠していたのです。
この御簾のむこう側の人物もまた、ファラーの登場とその業《わざ》に感動の声をあげました。
「あら、すごい! 鳥膚がたっちゃうような妖術《ようじゅつ》じゃないの! それで、なにかしら? 御殿にもちゃんと報らせはとどいているけれど、床にのこった残骸《それ》は、もしかして魔王の屍《かばね》なのかしら? 正真正銘、いかさまなしの魔王征伐の証《あか》しなのかしら? だとしたら、わたし、慶《よろこ》んじゃいますわよ!」
御簾をつらぬいて響いたのは意外にも処女《おとめ》の声音、それも布帛《たれぎぬ》の美しさ(その御簾は真珠や宝玉、風信子《ヒヤシンス》石などの縁飾りをつけた、真紅の錦でございましたので)よりもはるかに蠱惑的な、天然の鈴の音《ね》にも譬《たと》えられる声色《こわいろ》でした。
いかにも、布帛《たれぎぬ》にその容姿《すがた》を秘されながら玉座についていたのは、大王《おおきみ》ならぬ王家の息女だったのです。
ファラーは謁見の間《ま》の主人からの訊《き》いに、まずは服従の大地に接吻《せっぷん》して、会釈し、それからツッ、ツツッと進みでて対《こた》えました。「さようでございます」
「やったのね? 斃《たお》したのね? いよいよ、暴虐、貪婪《どんらん》、愚者《あほたれ》の魔王を処刑《おしおき》しちゃったのね? すばらしいわ! わたし確認していいかしら? これ、そこの大臣《おとど》、そこもとがミイラを運んできなさい!」
命じられた重臣はただちに起《た》ちあがり、その感触にぞっとしながらもゴロリと転がった魔王の屍骸《なきがら》をひろいあげて(口のなかでは不浄《ふぞう》! 不浄《ふぞう》! と叫びつづけていましたが)形式《かたち》ばかりは鄭重《ていちょう》に、これを御簾のむこう側にさしだしました。
そして御簾のこちら側、坐していたのはむろん、ドゥドゥ姫です。いまではゾハルの代理王として、平気の平左《へいざ》でなかば公然《おおっぴら》、組成をつづける女帝《スルターナ》。太守や近臣などの一同を――政務所《ディワーン》において――その御身所《おましどころ》の右側と左側に列座させるのみならず、背後には百名の腰元を控えさせて(それにしても、ずいぶんと収容人員のたっぷりした宏大《こうだい》至極の大広間でございます)、さらに後方《しりえ》に同数の宦官《かんがん》たちを控えさせて(ここまで表現が大仰になると、物語作家が大広間の現実的なスケールを忘却しているとしか思えない)、父王摂政的立場で非公然に権力を握っていた後宮《ハリーム》時代と同様、おびただしい奴婢《ぬひ》の大軍を扈従《こしょう》と申しますか、手駒として従《つ》かせていたのです。これら近習《きんじゅ》の者どもはほとんど、常時|侍《はべ》り、いまも高御座の両側には武装した黒人奴隷と白人奴隷の好一対が双璧《そうへき》の衛《まも》りとして立ち、さらに二人の閹人《えんじん》が姫|御前《ごぜん》の御席《みまし》のまわりから蝿を追っています。描写いたしますれば状態《ありさま》このような御簾のこちら側に、ファラーによる魔王|処刑《おしおき》の証しはたてまつられたのです。すると、ドゥドゥ姫、征伐された魔王のミイラを矯《た》めつ眇《すが》めつ、さらに怖《お》めず臆《おく》せず直接さわって、叩《たた》いたり、撫《な》でたり、ばさばさになって貼りついた衣裳を(おなじようにカサカサとなっていたミイラの膚から)剥《は》がしたりしながら、「やっぱり! 魔王だわ! 魔王にちがいないのよ!」とつぶやいて、にたーっと猥《みだ》らな婀娜《あだ》笑いをたたえました。満足げに。下半身にべたっと接着した段袋《ズボン》もひき剥がすと、あらわれたのは勝手知ったる魔羅《まら》(蛇のジンニーアにとって。かぎりない回数、憑依を通して性交したから)。ああ、これはまさにアーダム! 確証はついに得られて、いよいよ感きわまってドゥドゥ姫は――その姫君の麗姿を借りた存在《もの》は――口走ります。
「まあ! ミイラはちんぽこも枯れ果ててますのね!」
それから、御簾を通してですが視線《まなざし》をあげて殊勲者のファラーにむけ、
「あなたはどうかしら? あなたのちんぽこは元気いっぱい、みずみずしいんですの?」
「は?」
床に平伏していたファラーは瞬時、唖然《あぜん》。そもそも大王《おおきみ》が治めると思っていたゾハルの玉座から、布帛《たれぎぬ》を通して乙女の声が響いてきた現実もそれなりに意外だったのですが(しかしながらファラーは異邦人ですから、このゾハルは女王の統治国であったかと納得するにとどまり、困惑にはいたらずに柔軟に構えておりました)、この質問はあまりに唐突、大胆です。しかし、周囲の者の反応を見れば――これらはゾハルの重臣連ですが――何人《なんぴと》もいっかな動揺しておりません。このような珍問が日常茶飯事?
ですがファラー、状況を見定めて即座に返答します。
「たしかに生気に満ちて、つやつやと輝いていると自負しております」
「それは結構! 男子の大事は陽根《いちもつ》、そして女《おみな》の大事は玉門《われめ》ですものね。やっぱり萎《しな》びちゃったらいけないわ! それでは魔羅もみずみずしい妖術師のあなた、偉業をどのように達成したのか、教えていただけます? あなたが独りで斃したの?」
「さようでございます」とファラーはきりだすと、それから一部始終の顛末《てんまつ》を――ああ、立て板に水!――虚偽《うそ》の陸屋根《ろくやね》にさらなる虚偽《うそ》を重ねて、破綻《はたん》なき虚構《つくりごと》として語り、みずからの奮闘を主張しました。単身での奮戦を、宣言したのです。「ですから」と最後にファラーはいい添えました。「この魔王アーダムとの魔術戦、これは乾坤一擲《けんこんいってき》の闘いでございました」
「そして、あなたが勝利したのか!」とドゥドゥ姫は御節のむこうから応じました。「あなたは――仰天しちゃうけれども――地下|遺蹟《いせき》の主《ぬし》たる魔王にも勝る妖術師だったのね! たしかに、感じるわ、あなたの具《そな》えた魔力! びしびし感じちゃう! それに、さっき見ましたもの、あの方術! ああ、認めます、あなたは不世出の魔術師、地上《このよ》の人類のあいだで確実に、ひときわ擢《ぬき》んでた、おおよそ稀代《きたい》の魔術師だわ!」
さて、ここでドゥドゥ姫が侍従たちに合図します。たちまち、王家の宝庫はひらかれて、ときを置かずに大広間には約束どおりの品《しな》じなが搬びこまれてきました。そうしてファラーのまえに陳《なら》べられたのは、目も眩《くら》まんばかりの黄白《こうはく》がつまった櫃《ひつ》が数十、宝石の横がおなじ数だけ、御衣《ぎょい》が入れられている長持《ながもち》が数|棹《さお》――もちろん、ひと揃いが千金にあたいするような豪奢《ごうしゃ》な衣裳ばかりです。こうした金帛《きんぱく》のみならず、スーダン産の黒人奴隷の一団と、白人の奴隷女の一団が、魔王を討ち滅ぼしてゾハルを救った英傑に対する褒賞の一部として、下賜《かし》される奴僕《ぬぼく》として大広間に列《なら》びます。さらに「その所業に絶対的な恩寵《おんちょう》を! あなたが望む王領内での地位《いどころ》は、なにかしら? 本懐をとげさせてあげますわよ。勲等は最高、俸給《ほうきゅう》は永遠、青雲《せいうん》の士とはすでにあなたのことよ!」とドゥドゥ姫はいい、あらゆる権限をさずけると確約します。
「大臣《おとど》の職がよいかしら? だれの後釜《あとがま》にも据えさせてさしあげますわよ」
以上のような授受の場面があって、ファラーが王侯の列に加わるのも確実になった事後、こんどはドゥドゥ姫、侍従長に目と口をもって合図します。「この御方《おかた》を市内の浴場《ハンマーム》にお連れして、からだからすっかり疲労《つかれ》がとれるまで恵《やす》ませてあげてちょうだい。手足をさすったり揉《も》んだり、軽石《ダラク》で洗ってさしあげたり(足の裏に使用するこの軽石には、目の粗いものと細かいものの二種類があるという)、湯槽《ゆぶね》につからせたりして、ねんごろにお接待《もてなし》をしてね!」それから、風呂《ふろ》がすんだら御衣《おんぞ》をまとわせて御殿につれ帰るように申しつけました。
事態《こと》は指図されたように進み、浴場《ハンマーム》でしっかり汗をながしたファラーは、その湯上がりにして匂いやかな白皙《はくせき》の皮膚《はだ》を、これは賜わったばかりの豪華きわまりない名誉の衣服でつつんで、貴人のなかの貴人として日没をむかえる頃おいに御殿にもどりました。すると、侍従長はファラーをさらに王宮の楼閣に案内したのですが、その道次《みちすがら》、殿中は番紅花《サフラン》の香が※[#「火+(生−ノ」、第3水準1-87-40]《た》きこめられて、かぐわしい芳香に馥郁《ふくいく》としております。この※[#「火+(生−ノ」、第3水準1-87-40]《た》きこめられた薫香の道ゆきのはてに、ファラーは楼閣の一室にいたったのです。
それは――おや、まあ!――姫御前の寝室でございまして、面紗《かおあみ》を垂らした美しい王女が、黄金の寝椅子に腰をおろしていました(その寝椅子の脚は象牙《ぞうげ》造りでございました)。二度めの謁見式に参じたも同然のファラーは、床にぬかずいてドゥドゥ姫にあいさつしました。ところで侍従長はこの寝所からは退室を命じられており、室内には腰元のひとりもおらず、わずかに閉ざした扉のむこう側に閹官《えんかん》二名が控えているだけでしたので、ファラーはもちろん、対面が要求するところを察しておりました。なにを察したかというと、これは寝室へのいざないであって、つまり王女との同衾《ともね》が――今晩の合歓《ねやごと》が――もとめられていると諒解《りょうかい》したのです。もともとファラーは十六歳の誕生日に森を去って以来、女からも男からも誘惑されつづけて、同時に誘惑に応じて奔放な性的遍歴を送ってきた背景がありますので、王女そのひとからの誘いも自然体で受けとめます。ほかの人間たちがそうであったのと同様、自分の類《たぐ》いのない麗容に酔いしれて(ひと目で魅入られてしまい)、抱きたい、抱きたいと念《おも》っているのだろうと判断しただけです。あるいは魔王をやすやすと滅ぼした英雄ぶりにぞっこん、惚《ほ》れこんで、欲情の虜囚《とりこ》となってしまったか。いずれにしても怪訝《けげん》に思いなどせず、おのれの座右の銘としている「利する性交は姦《や》る性交」に遵《したが》って、行動する心もちでした。
そのファラーに、王女は寝椅子から声をかけます。
「さて、あなた、ファラーといいまして? まずは面《おもて》をあげて」――と申しますのも、ファラーは御前にひれ伏しておりましたので――「わたしに玉《たま》の顔を見せてちょうだい。それから、あのね、わたしの素顔もご覧になって」
こういうが早いか、ドゥドゥ姫はためらいなど皆無に面紗《めんしゃ》をとります。と、あらわれたのは、ファラーも想像した例《ため》しがないような、天《あま》つ少女《おとめ》さながらの美人ではありませんか! これほどまでに妖冶《ようや》な佳人を、色恋ざたの経験豊富なファラーといえども目にしたことはありません。なにしろ容色無双、天賦の麗質が眸《ひとみ》といわず歯といわず滲《にじ》みだして、天日の照りはえる光とも紛《まご》うばかり。まさに楽園の花嫁、この面輪《おもわ》あらわにした姫君は、ひとことで申せば女性《にょしょう》の美貌《びぼう》というものの精華でございました。
年齢的にも、その魅力はまさに花ひらいております。いまやドゥドゥ姫は――ファラーは知る由もありませんが――従兄《いとこ》のサフィアーンが天運によって見初めた場面《とき》よりも齢《よわい》を増して、芳紀十五歳。蕾《つぼみ》であった部分も、どれもが開花していたのです。現在の素顔を目にしていたならば、サフィアーンの恋情はより苛烈《かれつ》になり、(恋が成就しないための憂悶《ゆうもん》による)病はより重篤となって、必定《ひつじょう》、霊剣の化身である巨鳥があらわれる以前《まえ》に病床で息絶えていたことでしょう。
それほどの器量、それほどの絶世の容儀なのでした。
ファラーがこの姫君の窈窕《ようちょう》とした美しさに痴《しび》れて、あまりにも意外な現実に――と申しますのも、謁見の間《ま》で聞いた口調《ものいい》の予想からは、王女の実像が極端にかけ離れておりましたので――呆然《ぼうぜん》として、絶句しておりますと、対する早乙女《さおとめ》の唇からは再度、その外見《そとみ》に不釣りあいもはなはだしい言辞《ことば》が漏れます。
「どうかしら?」と佳人はファラーに訊《き》きます。「お気に召したかしら? この女なら、同衾《ともね》できるかしら? あなたの若いちんぽこは、熱《いき》りたって陰門《あそこ》をつらぬけそう?」
ああ、単刀直入! あまりの下劣な問いかけに、平然と心構えしていたファラーもすこぶる周章|狼狽《ろうばい》して、「は? いや、そうですね。詩に歌いたいほどに、てまえの劣情も昂《たか》まりまして……」と、もじもじ答えるのが関の山。しかも、姫君はファラーに詩歌を詠《よ》ませる隙《いとま》もあたえず、すかさず命令します。
「いいわ! それじゃあ、姦《や》ってちょうだい!」
その後の次第はといえば、いうも疎《おろ》かではございますが、ファラーはこの姫君と巫山雲雨《ふざんうんう》の夢をむすんだのです。接吻《せっぷん》すれば相手の吐息には竜涎香《りゅうぜんこう》がにおい、唾《つばき》はまるで甘露、膚はモチモチッと吸いついて、さらに意外! 淫奔《いんぽん》多情に見えた言動にもかかわらず、ドゥドゥ姫はほんものの処女《きむすめ》、いちども玉茎など受け容れたことのない未通女《おぼこ》そのものでございました(その破瓜《はか》の証《あか》しもありました)。これにはファラーの側がまたもや唖然と驚かされて、この最初の一戦によって春情はおおいに波たち、ほとばしり、ファラーはその晩、乞《こ》われるままに四度、五度と最前まで生娘《ていらず》であったドゥドゥ姫の美《うま》し肉身を堪能したのです。
ひと晩を愉しみ、朝方には首をかしげながら(なにしろ意想外な事実つづきでしたので)、ファラーは翠帳紅閨《すいちょうこうけい》より退出したのです。
すると寝所にのこったのはドゥドゥ姫ばかり。室内には――ひと晩の媾《まぐ》わいによって――椰子《やし》の乳の薫りがしっかり充満しておりました(アラブ世界ではしばしば精液臭と椰子の大花苞のにおいとの共通性が指摘される)。
その自然の薫香のなかに裸体のドゥドゥ姫はいたのです。
寝椅子に、その稀代《きたい》の美人は、恥毛をきれいに剃《そ》り落とした全身を愉快そうに伸ばして。
毛のない下腹を撫《な》でて(ちなみに恥毛とは腋毛と陰毛の両方を指し、これを剃るのはアラブ世界での基本的なみだしなみである)
淫猥にほほえむと、いいました。「本人が主張したとおり、元気なちんぽこだったわ!」すると、その声に反応して、寝椅子の下からは蛇が――一匹といわず、十数匹――這《は》いだし、しゅーと鳴きました。怪蛇《くちなわ》のなかには白蛇も一匹、これは舞踏《ぶとう》でも踊るかのように鎌首をもたげて身をよじります。
歓喜の舞いを、演じるかのように。
涌《わ》きだした怪蛇《くちなわ》に囲まれて、寝椅子の王女は子宮《こつぼ》を撫でつづけながら独り、叫びました。
「ああ、いいわ! 身ごもりそうだわ! 人類最上の魔術師の胎児《こども》!」
運命は変転します。二人の拾い子がいて、いっぽうは世にも稀代の処女《きむすめ》を獲ました。これが地上での出来事。われわれは視線をここから下方《した》に――奈落の深みのさらに下方《した》に転じて、他方の拾い子を見舞う宿命《さだめ》も追ってみましょう。
いえ、追わなければなりません。譚《かた》られているものが二人の拾い子の物語であるかぎり。
他方の拾い子は、愛するひとを先刻までの相棒に奪われたことなど知らずに、地下のさらに地下にいました。四つの隅をもって展《ひろ》がる宏大《こうだい》な岩室《いわむろ》に。かつて「大地の子宮《こつぼ》」といわれた場所に。愛するひとを奪われたことを知らない――それをいったら、ファラーも奪ったことを知らないのですが。しかし、要点はそこにはありません。地下にいる拾い子にとって問題なのは、愛するひとと戦闘《たたかい》の相方のあいだで起きた出来事を感知しないばかりか、おのれ自身についても知るところがまるでない、という現状なのです。
おのれ自身が拾い子であることも知らない。
いっさいの過去を知らずに(あるいは関与をまるで拒んで)竚《た》っているのです。この円天井の岩室に。地底の岩盤にぽっかり空《あ》いた、奇蹟《きせき》のような洞《うつろ》。四ヵ所の隅があり、それぞれが東西南北に位置し、壁面と形容するのも妥当なゴツゴツッとした岩膚には扉が――ひじょうに年|経《ふ》りた扉が――嵌めこまれています。いわば四つの門のような、四つの扉。
夢の石室にむかう扉。
四つの石室の開《ひら》き。
それぞれを、ひとつ、ひとつ、拾い子であることもわからないでいる地下の拾い子は、順に視ていました。
その目《まな》ざし! その双眸《そうぼう》には純真さはありませんでした。かつて一家《アーイラ》を、地底に棲《す》む剣士仲間を感化してやまなかった闊達《かったつ》さ、鷹揚《おうよう》さ、任侠《にんきょう》精神はもはや見あたりません。雅量も――優美さも――。拾い子がその全身から放っているのは兇暴《きょうぼう》な印象であり、その目は燃えていました。めらッめらッと、瞋恚《しんに》のほむらを燃えさからせていました。
兇暴に。
兇悪に。
いまにも吼《ほ》えるように――
ああ、魔王サフィアーン!
地下の拾い子は、譬《たと》えるならば標題《うわがき》と内容《なかみ》の異なる書物です。そこには「サフィアーン」と書名が印されてあるのに、なかに録《しる》されているのは一行めから「アーダム」です。展《ひろ》げてみれば、アーダムについての書物でしかない。しかし、うわべはサフィアーンでしかない。どんなに目をこらして表紙と装訂の細部を眺めても、のみならず手にとって確認しても、紐解《ひもと》かないかぎりはサフィアーンでしかない。
ページを――じっさいに――ひらかないかぎりは。
それがこの拾い子。
それが魔王サフィアーン。
しかし、これをサフィアーンと呼ぶべきなのか? むずかしいところです。サフィアーン、それともアーダム? 強いて判断をするならば、サフィアーンはなにしろ死んでいるのですから、やはりアーダムでしょうか。しかしながら、生きて動いて目を燃やしているのは、ほとんど火の唾《つばき》な叶きださんばかりに!)サフィアーンそのものの肉体なのですから、語り手としては躊躇《ちゅうちょ》してしまいます。かりに霊剣が手放されていたら――この拾い子の右手から離れていたならば、戸惑いは確実に減ったでしょう。ためらわずに「アーダム」と呼称したでしょう。しかれども――いかんせん、霊剣こそはサフィアーンがおのれの血の由来をついに獲得したという証し。霊剣《それ》を手にしているから絶対的にサフィアーンは(王家の嫡子としての、ドゥドゥ姫を妻に所望する正当な権利をもつ従兄《いとこ》としての)サフィアーンであり、血統《でどころ》は保証されているのです。
サフィアーンであるとの証左《しるし》を抛棄《ほうき》せずに、依然として具《そな》えたままでいるサフィアーンを、どうしてアーダムと呼べましょう?
いまだに従妹《いとこ》と妹背《いもせ》の契りをむすぼうとしている若者の、人身《からだ》を?
純愛の対象であるゾハルの姫御前を、本来の人格が滅し去ってもなお切望しつづけている、この人身《からだ》を?
肉体はたしかにサフィアーンなのです。霊剣を手放さないでいる剛勇無双の剣士の肉体《それ》、当代一流の剣客の肉体《それ》は。
だから、やはり、魔王サフィアーンの呼称を採りましょう。
内容《なかみ》がアーダムであるにしても。
地上での出来事を発端から物語ったように、地下での出来事も発端から(時間《とき》のながれに沿って)略述するならば、まずは迷宮の最下層であった玄宮の室《むろ》からはじめなければなりません。この舞台を去ったいっぽうの拾い子、ファラーは上方《うえ》をめざしました。その拾い子が地上にでる頃おい、最深層の無人の部屋に復活して、結果、その無音《しじま》の空間を無人ならぬところに変えた魔王サフィアーンは、魔力によって壁を裂き、横穴の入り口をひらきました。狭い、狭い隧道《すいどう》の――
それは一種の産道でした。乳児の姿勢で、ひざと肘《ひじ》をつかなければ進めない産道《みち》。産み落とした母親の胎内にもどる、時間に対して叛逆《はんぎゃく》的な(ということは、敷衍《ふえん》すれば歴史に対して叛逆的な)通路。
赤子のように這い、暗闇の隧道はわずかずつ下降をはじめ、そして――そして――終点の岩室についたのです。
すなわち、子宮《こつぼ》に。
魔王サフィアーンのなかにいるアーダムにとっては、一千年を経ての帰還、しかし実感としては封印(玄室にほどこした第二の封印)の翌日に帰ったも同然でした。なぜならば、睡眠《ねむり》に落ち、目覚めて、そのはてに(ただ一回の睡眠を経ただけで)もどっただけだからです。隧道はまるで歴史を貫通する穴であり、千載の歳月はここでは消えて、魔王サフィアーンのなかのアーダムは子宮《こつぼ》に帰ったのでした。
この窟《いわや》に。
さて、魔王サフィアーンが竚《た》っているのは封印のうえです。これは第一の封印、ダーウドの御子《みこ》スライマーン(おふたかたに幸《さち》あれ!)が蛇のジンニーアの本体を監禁《とじ》こめるためになした大地の封印、牢獄《ろうごく》の蓋《ふた》、その聖なる印璽《いんじ》を(捺《お》された「図像」を)ふとどきにも踏みにじって、魔土サフィアーンはたたずんでいるのです。
かつて、蛇神の偶像があった箇所に。
破壊された偶像の、礎《いしずえ》の箇所に。
それを無双の妖術《ようじゅつ》によって毀《こわ》して、ちりぢりに砕いて倒潰《とうかい》させたのは、むろん自身です。魔王サフィアーンのなかのアーダムです。一千年のむかし、みずから破壊したのです。
その痕跡《こんせき》の箇所に竚って(いまはない人面蛇身の彫像の基盤に蹠《あしうら》を置いて)、魔王サフィアーン――他者にとっては長い時間を――じっと考えこんでいました。梟猛《きょうもう》な面《おも》ざしは一瞬もやわらぎません。しかし、恚望《いぼう》の目《まな》ざしは燃えあがったままで、意識は内側に探索の旅をつづけていました。四隅の扉を見ながらです。子宮《こつぼ》の岩室の、四つの石室の開《ひら》きを視ながらです。すでに述べたように、その思索についやされたのは長い時間でしたが、魔王サフィアーンにとっては長い時間というものは存在しません。隧道を通ったのが十世紀もむかしでありながら昨日と同然であるように、すでに一日後と十世紀後が等値であることが証明されたように、時間はこの存在《もの》の内部において無効です。
無効の時間、死んでいた時間、死んでいた十世紀間――しかし、それは無時間ではありません。ひたすら悪夢が永続していた期間《とき》、眠りながらも睡魔に襲われて、極限の凶夢に魘《うな》されつづけて、しかも魘《おそ》いかかる悪夢の内容はいっさいの変化を孕《はら》まず、無際限の反復が一千の一千乗もの錯綜《さくそう》を呈示するという、狂乱の期間《とき》です。この存在《もの》の内部において――夢寐《むび》に就きながら「眠い! 眠い!」と咆哮《ほうこう》しつづけざるをえなかった惑乱者の内面《なか》において――時間はぜったいに滅《き》えず、ただ時間は迷宮化し、時間はついに無効になったのです。
歴史? 歴史などもちろん、消滅しました。
前提の時間が経過しないのですから。
あるいは、迷宮的にしか経過しないのですから。
年代記の主人公として、これほど不都合な人間は、ちょっと想像できないでしょう。
しかし、それが魔王サフィアーンであったのです。
無効の時間とともに、じっと考えこんで、四つの扉になにを見ているのでしょうか? 殺気だち、双眸《そうぼう》をらんらんと赫《かがや》かせて、それほどこらしている意識の対象は? 魔王サフィアーンはつぶやいていました。たたずみながら、「あす……あすは運命。きのう……きのうは義心。森は……森は武術と膂力《りょりょく》だったか? のこるは海……」とつぶやいていました。
記憶を追っていたのです。
狂気のなかにアーダム時代の記憶を。
ただひとつの記憶を。
魔王サフィアーンは。
四種類の夢の石室の、守護者について。いわば関守《せきも》りたちについて。それぞれの弱点、いかにすれば通行手形としての天運、武芸の資質、清廉潔白さといったものを封印に示せたかを。どの石室の守護者が、なにによって斃《たお》れる(討ち滅ぼされる)可能性をもっていたかを。
そして――人間のあたりまえの時間感覚でいったら、半日あまりがすぎ、地上の御殿ではファラーが姫御前との合歓《ねやごと》を愉しみおえて、寝所を退去して、さらに半時《はんとき》あまりが経ってから――魔王サフィアーンはぽつりと、吐きだしました。
「そうだ、海だ。海のものの夢の石室の守護者は、蟒蛇《うわばみ》とやらは、智慧《ちえ》の術によって薙《な》ぎ斃せる」
と、たちまち、すさまじい勢いで走りだします。岩室のひと隅をめざして「おッ……おッ……おッ……おッ……!」と吼えて、距離をちぢめて石室の扉のまえにいたり、そして躊躇もあらばこそ、扉にふれるというよりも蹴り倒すような冒涜《ぼうとく》的な態度で、ぶわりと、妖力を前方《まえ》にむけて噴きださせながら(目を眩《くら》ませるような七彩の霊気《オーラ》の輝きとともに)、魔王サフィアーンは突入しました!
海のものの夢の石室内に。
一瞬《ひとまたたき》、それが千の場面。人間のわたしが海についてなにを語れましょう? しかし、語りましょう。貝類の憎悪、群棲《ぐんせい》する小魚たちの集団幻想、鰓《えら》の論理。鹹水《かんすい》に棲息するあらゆるものたちが、大海をかたち作っています。海底《わたのそこ》には海藻と海草が、根づいて、ただよって、潮《うしお》になぶられて陽光を夢幻《ゆめまぼろし》のなかに透視します。烏賊《いか》の性欲と食欲があり、あざやかに色彩を演じながらの変身が夢見られます。海獣、大亀、巨魚、大蛸《おおだこ》、八本の脚と十本の脚が幻視されて、吸盤はそれぞれの独立闘争をくり広げます。深海の怪物が水母《くらげ》に変じる夢想におぼれて、稚魚の大群が鮫《さめ》に怯《おび》えている夢に怯えています。いかにも、魚群は千の集団で夢路《ゆめじ》をたどりながら、千尾がただの一尾として――巨大な、あらゆる水妖を撃退できるほどに巨《おお》きな――単一の夢を構成します。夢のなかにある基本の旋律は、まずは天敵の恐怖、ついで獲物の驚喜、それから霊夢があります。色とりどりの浅瀬の魚族がアッラーの唯一性を証言します。ほかにも歌っている生物《もの》があり、それは七つの海をつらぬいて浮かんでほ没《しず》み、浮かんでは没むという長鯨《おおくじら》、その勇魚《いさな》の背中には樹木も茂るような島が背負われています。みずから歌を生むものは歌を聴き、そのために海中《わたなか》のあらゆる音響が夢のなかで実体を具えて、一千尾から成る楽団を組みたてます。海原《わたのはら》そのものは水圧を夢見て、なにかを戦《おのの》かせます。
恐怖は直接的で、もっぱら死に対する恐怖であり、海のものの夢のなかにあふれています。罪に慄《ふる》えている蟹《かに》もいます。淡水を夢想して、この魚どもは塩水でなければ生きていけませんから、絶対的な絶望に腸《はらわた》をちぎれさせて、泣きます。しかし、その涙も塩辛くはない、淡水です。その悪夢――その悪夢! さらに魘《おそ》いかかる夢魔があり、それは海のものたちに溺死《できし》を夢見させるのです。
泳ぎを忘れた魚の凶夢。
いっぽうには、海を越えてしまう生物《もの》もいます。それは跳び、水平線に跳ねる魚類《もの》です。海面から遊離して、水のない世界に異郷を視《み》、宇宙《そら》という空間を――目撃しながら――幻視する。
壮絶な幻想がちりばめられて、一瞬《ひとまたたき》、千の場面が増殖している、これが海のものの夢の石室でした。
魔王サフィアーンが飛びこんだ扉の、むこう側に展《ひろ》がる光景《けしき》でした。
無限の閉鎖空間の中心に、ついと割れる時間があります。裂けたそこから、魔王サフィアーンは顕現《あら》われる妖獣を見ました。それは海原《わたつみ》の蛇、この石室の守護者、おおいなる海の蛇でした。
猛烈で速い蛇。
海蛇の王。
魔妖の蛇族。
その大海の巨蛇《おろち》が、魔王サフィアーンめがけて攻め来たります。
瞬間《たまゆら》、魔王サフィアーンの妖力《ようりき》は(すでに全身をつつんで七彩に輝いていましたが)ここぞとばかりにあふれて、出現した大蛇めがけて突貫します。死闘は予期されていた展開《もの》、侵入者の側からは呪文《まじない》と妖《あや》しの所作《みぶり》が連続して、攻めに、攻めて、猛襲します! 魔王サフィアーンのなかのアーダムの、古今無比といわれた妖術師としての力量が――目下《いま》――実地に試されているのです。ちょうど一千年まえに、蛇のジンニーアの憑代《よりしろ》からの多大な期待を背負って、この海のものの夢の石室の守護者との(四種類の関守りちゅう、この蟒蛇《うわばみ》の守護者がいちばん斃しやすいとの理由で)一戦をはじめようとしたように。
驚異の域に達した魔力を、試験する時機《とぎ》が、遅れながらも到来したのです。
しかるに、演じられるのは血戦でした。比類のない破壊の妖術のもちぬしならば、もっとも容易に討ち破られると示唆された海の大蛇は、やすやすとは古今|未曾有《みぞう》の記録を――魔王サフィアーンに――達成させようとはいたしません。人間、しょせんは人間、これが夢の石室の守護者の一員に太刀打ちできるか、やはり現実は厳しいのか。術の撃退、術の防禦《ぼうぎょ》、逆襲に逆襲、おおいなる海蛇は口から黒い液体を吐きます。真珠の目は(それは実物の海の真珠、ふた粒で、地上には顕われえない大きさでしたが)ギラリと燃えて、橄欖《かんらん》石の牙《きば》はガギッと咬《か》みます。その尾が、魔王サフィアーンの肉身《なまみ》を強攻の魔術の壁をつきぬけて撃とうとします。が、そのとき早くそのとき遅く、反射的に動いたのは魔王サフィアーンのなかのアーダムの意識ではありませんでした。動いたのは、方術を放つために集中しているアーダムの意識とはかかわりをもたない、サフィアーンの肉体そのもの。剣術の達人の身体《からだ》が、条件反射的にその手を――その手に握られた霊剣を――襲撃する蛇尾《もの》にむけてふるわせました。
武芸の通達者の身体《からだ》は、司令塔であるアーダムの意志にかかわらず、それじたいの意志で反撃したのです。
刀身、ひるがえり、両足踏みこんで、さらに一閃《いっせん》! ブーラークの魚屋が鰻《うなぎ》を庖丁《ほうちょう》で輪切りにするように、間合いは絶妙の汐時《しおどき》でつめられ、はかられ、しかもこの刹那《せつな》、魔王サフィアーンのなかのアーダムがじゅうぶんに強烈な咒《かしり》を投げたからたまりません! 気がつけば前部《まえ》の半分しか胴体がのこっていなかった巨蛇《おろち》は、グボボボボッと水のなかの泡を吹いて、仆《たお》れて――
――僵《たお》れて、床に落ち、斃れました!
ジュワッと、鱗《うろこ》と肉を泡だった塩水に変じるようにして、絶命! ああ、その瞬間、石室の内部《なか》からは夢が消えるではありませんか! 海のものの夢が、あらゆる夢、恐怖と歓びの夢、自律する共棲《きょうせい》関係の夢、歌の夢、実体化した死の夢、神性の幻視の場面が――いっさい、滅《き》えます!
消滅!
のこったのは……ただの石造りの室《むろ》です。
方形の小部屋です。
魔王サフィアーンのなかに宿るアーダムにしてみれば、あまりに唐突、あまりに拍子ぬけ、闇黒《あんこく》の秘法のうちの最高度の業《わざ》はいまだ未使用だったというのに、勝利してしまいました。頃あいを見て、二、三の最強の術をくりだすつもりだったのですが……。ですから魔王サフィアーンは、なにごとだ? というような態度《そぶり》で、わが手を見おろしました。無意識に動いた――アーダムの意志とはまるっきり無縁に――霊剣を握っている右手を。
「魔術戦?」と独白します。「いや、無手勝流だ」
それから、ただちに、身体《からだ》の条件反射があらゆる戦況を超えて勝利した事実を直観するのです。
ただちに――といいながら、地上の時間ではたっぷりと沈黙したはてに。
それから、表情を変えました。すこしずつ、すこしずつ、口もとのかたちを……あげて。両端をあげて。
笑おうとしています。大笑いしようとしているのです。
「ハ……ハ……ハ……ハッ! ハッハハッハ! これは剣客の屍体《からだ》か? おれがのっとったのは、当代無双の剣豪のそれか? 屍骸《なきがら》、いや、生き返った生身《からだ》! 僥倖《ぎょうこう》! おお、おれの願ってもいなかった幸運! これで……これで斃《たお》せるか? 魔力はいっさい通用しないと忠告された森のものの夢の関守りも? あの石室の、守護者の巨竜も? これで、おれは四つの石室の守護者をみな、懐かしの半人半蛇の精霊も――あの男女のひと組も容《い》れて、のこらず戮《ころ》せる可能性がでたか? ジンニーア、おれの愛した蛇神《へびがみ》よ、いよいよ期待に(おまえの欺瞞三昧《ぎまんざんまい》の期待に)応えられる時機《とき》が来たぞ。夢の石室は、四つとも、潰《つぶ》してやるぞ。スライマーンが為《な》したという、神秘の装置は、毀《こわ》してやるぞ。あの印璽《しんじ》の捺《お》された大地の封印は。どうだ? いま、一つ、石室の力は殺《そ》がれた。海のものの夢の石室は、夢を生まないただの石室にかわったぞ! 封印の威圧《ちから》は軽減しただろうや。ちがうか? ちがわないだろう? もっと弱めてやる。もっと威圧《ちから》を弱めてやる。四つの石室の守護者をつぎつぎに斃して(なんといっても、すでに一柱《ひとはしら》、斃したからな)、スライマーンの封印を解いて、それから――」
魔王サフィアーンは、大笑いの表情に凝《こご》ったままで、ふたたび無言《しじま》のはざまに落ちました。
半時も経ってから、つぎの句を継ぎました。
「――それから、おれがジンニスタンにのりこんでやる。大地の蓋《ふた》を開けて、おまえが監禁された牢獄《ろうごく》の蓋を開けて、おれが直接ジンニスタンに入牢してやる。おまえに会うために。おまえに会って、ほんとうの邪神のおまえに会って、ジンニーア! おまえの本体を亡ぼす。おれが……おれが……この手で。わかるか? これがおれの愛の証《あか》しだ。永眠しろ、おれとともに。おれの真実の情念をもてあそんだ蛇神《へびがみ》よ!」
哮《たけ》りをあげて、魔王サフィアーンはきびすを返しました。空っぽの(夢のない)石室から、再度「大地の子宮《こつぼ》」の中心部に。
封印の箇所に。
スライマーンの印璽のある鉛の蓋が、地盤を塗りこめている場所に。
すると――たちまち感じます。封印の神力《ちから》が弱まっていることを。
四分の一ばかり、弱まっていることを。
感じとれたのです。
安心して、魔王サフィアーンはひいひいひいっと嗤《わら》いました。狂想の人物は、つぎの行動に意識を――意識のすべてを――むけました(あるいは夢見ました)。この剣客の肉身《からだ》、霊剣を佩《は》いた天下無双の剣士の肉体を頼んで、森のものの夢の石室に躍りこむのです。天下無双の剣術と、古今無比の魔術をともに具えた超人として、石室を護るという翼ある巨竜を斃すのです!
これは笑えるではありませんか。大笑いできるではありませんか。ただ独りで魔術と剣術の連繋《れんけい》をおこなえる、超人として再生していた自分《アーダム》を見いだすとは!
その未来は薔薇《ばら》色であったのです。
それから、魔王サフィアーンは備えます。薔薇色の夢を実現させるために、森のものの夢の石室に必勝を期してのりこむまでに、やらなければならないことは? 肉体に訊《き》けば、それは休息だ、と答えます。一戦すんだいま、必要なのは憩《いこ》いであり、そののちに剣客の肉体は準備万端、いつでも条件反射で撃剣《げきけん》がふるえるようになる、と。
なるほど、電光石火の早業をだすには、からだは弭《やす》めなければなりません。戦闘のあとに偃息《えんそく》をもとめているのを、ひし、ひしと感じます。おまけに「寝《やす》まなければ」とわきまえたとたん、ふいに魔王サフィアーンの精神の内側《なか》で、ヌーッと起《た》ちあがる饑餓《きが》感がありました。さきほど海蛇を斬り棄てたのが身体《からだ》の条件反射なら、こちらは魂の条件反射。つまり――睡眠《ねむり》に対しての饑《ひも》じさが――いっきに浮上したのです。
「そうだ、おれは眠い」とアーダムの精神《こころ》が囁《ささや》いたのです。「眠い。おれは眠い!」
この饑渇《きかつ》は回避しがたい。満たしても、理窟《りくつ》を超えてしまっていて満たされない。ですから、魔王サフィアーンはたちまち睡魔の虜囚《とりこ》と化します。それが剣士の肉体にとって必要ならば、それを実行に移すまで。ただちに、ただちに。この場で。
印璽の捺された封印に、魔王サフィアーンは膝《ひざ》を曲げて(関節をうしなうように落として)、横になり、封印の神力《ちから》の弱まりを感じとりながら、満身が吼《ほ》えあげるような歓びのうちに、眠りに就きました。
偃憩《えんけい》する肉体がたちまち寝ついて、精神《こころ》も寝ついて、それから魔王サフィアーンのなかのアーダムの意識がゆるりと夢に落ちて――
落ちた刹那に、魔王サフィアーンのまぶたは、パチッ、とひらきました。
「あれ?」と魔王サフィアーンはいいました。
むくっと上半身を起こして、あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、うち見ては「……あれ?」とつぶやき反《かえ》して、きょとんとした表情です。
「なんだろう……なんだったっけ? いや、いや、まてよ。たしかに地底に降りたぞ。そうだ、魔術師のファラーさんといっしょに――あの博識で天晴《あっぱれ》な実力家の、すばらしい大人物のファラーさんといっしょに。それで?」
ぽかんとした面《おも》ざしで独りごちる、魔王サフィアーンの口調《ものいい》には、先刻までの兇暴《きょうぼう》な印象はゴソッとぬけおちています。その双眸《そうぼう》に、燃えあがる瞋恚《しんに》のほむらはありません。むしろ存在するのは優雅な印象、邪悪さよりも天衣無縫な善良さです。「それで……対決していたはずだぞ。あの魔王の玄室で。いよいよ、とうとう、古《いにしえ》の魔王に決戦を挑んで――挑んだはずなんだけれど、なんだろう、ここ? あれれれれ?」
ここまでいうと、魔王サフィアーンはしっかり全身を起こして立ち、まずは足もとを見て――
「なんだ、この印形《いんぎょう》は?」
もちろん、スライマーンの印璽を指して自問しました。
「ぼくはどうなっちゃったんだ? というか、魔王アーダムはどうなったんだ? 斃したのかな? 霊剣は?」と手もとを見れば、その刀剣《つるぎ》はいまも握られてともにあります。「――ある。たしかに、ちゃんとありますようね、鬼神《イフリート》あらため霊剣さんは。へんだなあ。奇天烈《きてれつ》だなあ。記憶がすっぽり、飛んじゃったのかな? 相棒……相棒は? 相方のファラーさんは? おーい、ファラーさああぁーん!」
この呼びかけに、静寂の「大地の子宮《こつぼ》」は十重二十重のこだまを返します。むきだしの岩盤の弩窿《きゅうりゅう》が、グォン、グォンと反響にさらなる反響を複《かさ》ね、魔王サフィアーンの前後、左右、上下から「ファラーさああああああーん!」と答えます。
残響のなかに佇立《ちょりつ》する魔王サフィアーンは、この自答ともいえるこだまの波を聞きながら、しだいに眉根《まゆね》をよせて、しわをよせて、寝ぼけ頭から意識が目覚めるように、キリッとした表情に変わりはじめます。
「……いや、いやいや、いやいやいや、まて、最後にちゃんと首級《くび》を討ちとったぞ。感触《てごたえ》を憶えているぞ。ひと太刀、それから、なんだか心臓をしめつけられるようなゾッとする苦しさのなかで、たしかに――とどめの一撃。ふりおろしたぞ。それで……ない。記憶がない。ここまでしか、ない。魔王を討ち滅ぼしたら、そのあとは、いとしい女《ひと》と対面するばかりだったのに……なんなんだ、この意味不明の状態は? いったい、ここはどこなんだ? ぼくはどうしたんだ?」
――ぼくはどうしたんだ? そうです、この発問《といかけ》! この発問《といかけ》の主《ぬし》は、だれあろう、サフィアーンではないですか。魔王サフィアーンのなかにいるのは、魔王ではない純粋のサフィアーン! アーダムの意識が眠りに落ちるや、純然たるサフィアーンが(魔王サフィアーンの肉体の内部に)覚醒《かくせい》したのです。
ようするに、こういうことでした。あの「冷たい手」の秘術《わざ》によって生命《いのち》を奪われて、しかし直後、すでに怨念《おんねん》と化していたアーダムの妖術《ようじゅつ》によって黄泉《よみ》帰りを果たしたサフィアーンは、人間《ひと》として蘇生《そせい》したのですから肉身という容器《いれもの》のみならず、そこに容れられる魂も! 当然のように――復活させていたのです。しかしながら、屍体《したい》のあいだは人体はなべて単なる空蝉《うつせみ》、サフィアーンも同様、人身とは呼べない肉塊《にっかい》の状態でアーダムにのっとられました。それから再生を果たしても、思考をつかさどる領域はあまさずアーダムの所有《もの》。すなわち、時機《とき》、すでに遅し。ひっそりと息を吹き返したサフィアーンの人格《こころ》に、意識の表層に飛びでる権限はいっさい附与されておらず、隅に追いやられて(思考を担っている領域の深層《ふかみ》に)仮死のありさまに置かれていたのです。
そして抑圧された仮死の魂が――それがサフィアーン本来の魂だったのですが――憑依《ひょうい》している側であるアーダムの意識《こころ》が眠りに落ち、さらに夢に落ちて現実との接点をうしなった瞬間、表面《おもて》に顔をだしたのです。
サフィアーンそのひとの人格《こころ》が、魔王サフィアーンの肉体の支配者として。
もともと、正当なる権利をもっているのはこちらの魂にほかならないのに、それはアーダムの意識が夢幻の境をさまよっている間《かん》にしか、現世《うつしよ》にたちもどれないのです!
いずれにしても、アーダムが眠り、夢|見《み》――肉体の制禦《せいぎょ》を抛棄《ほうき》して――サフィアーンが目覚めたのでした。魔王サフィアーンはいまやただのサフィアーンでした。あるいは内部にアーダムを飼ったサフィアーンでした。
夢寐《むび》に就いた無言のアーダムを。
このサフィアーンそのものの魔王サフィアーンは、茫然《ぼうぜん》自失とばかりはしていません。発問《といかけ》には回答を、吐きだした疑念にはみずから解明の糸口をつかませねばと、精神もどんどん澄明となってきておりますので、ただちに探索を開始しました。すなわち、ここはどこなのか? それを知れば、なにかは把《つか》めるはずです。
というわけで、魔王サフィアーンは子宮《こつぼ》のなかを歩いて、観察して、その宏《ひろ》い、宏い空間を――円天井も、四つの隅の扉も、なにもかも――認めて、あきらかに地底の窟《いわや》であることを諒解《りょうかい》します。ちなみに、このように看《み》てとれたわけは、魔王サフィアーンがアーダムとしてこの場所に入りこんださい、岩室の内部に(まずは初手《しょっぱな》に)魔力による妖光《ようこう》をボウッと灯《とも》していたためでございます。ボウッ、ボウッと、魔法の灯火《ともしび》は三つ、四つと宙に浮いていたのでございます。その燐火《おにび》のもとでも、あきらかに動いている影はわずかに一つ、これは探索者の魔王サフィアーンのみ。人間《ひと》の気配はいっかな見いだせず、あるいは四隅の扉のむこう側という可能性もありますが、なにやら剣豪としての本能が「入るな、入るな」と囁いて、そこが魔窟《まくつ》のなかの魔窟めいた場所であることを直観させます。それにしても、視界のかぎりにおいては無人にして、あるのは静寂《しじま》ばかり。相方のファラーが消えた理由も、依然として不明です。
そのうち、魔王サフィアーンが目をとめたのは、落石の痕跡《あと》でございました。じつは、これは「大地の子宮《こつぼ》」に通じている隧道《すいどう》を塞《ふさ》いだ岩盤崩落の形跡《あと》でして、むろん自然がなした現象《わざ》にあらず。魔力によって封じられた結果です。魔王サフィアーンのなかにいたアーダムは、産道のような通路を這《は》って「大地の子宮《こつぼ》」に降りたのち、ひょいと咒《かしり》を飛ばして唯一の隧道《みち》を蓋したのです。もはや――自分と蛇のジンニーアの愛憎劇に――地上からいっさいの横槍《よこやり》を入れないように。
これから牢獄《ろうごく》のジンニスタンにのりこむために。
その落石の痕跡《あと》が、あまりにも残忍な形状《かたち》をなして冷然と、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンにゆるがしがたい事実をつたえていました。
愕然《がくぜん》として魔王サフィアーンは叫びました。
「閉じこめられている!」
うたがいをさしはさむ余地もありません。惨《むご》たらしい現況は、ここに(無数の証拠とともに)具現しているのです。ああ、明瞭《めいりょう》に理解された環境は――「出口なし」。
魔王アーダムを斃《たお》したはずが、記憶をうしなって目覚めてみれば、獄に投じられていたのです。
「いったいぜんたい、どういう罠《わな》にかかったんだ? まるっきり悪魔の所業、まるっきりの悪日《あくび》じゃないか! ああ、状況あらんかぎり意味不明! ぼくは夢でも見ているのか? あるいは現実が夢を見ているのか? 他人《ひと》が見ている夢のなかの人物が、あるいはこのサフィアーンなのか? そんな!」
ほとんど逆説的に核心をついた真理を得ながら、即座に「そんな阿房《あほう》な!」と否定して、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンはさらに自問します。
「ヤア、サフィアーン、おまえは自分がどうして獄舎《おり》のなかに入れられたかも知らない、それでサフィアーン本人にまちがいないっていえるんだろうか。危ない、やばいぞ、気が狂《ふ》れちゃいそうだ。サフィアーンはサフィアーン、これを認めなかったら太陽だって月になり、エジプトだってアル・ヤマンになり、木曜日だって日曜日になり、三日後だって百年まえになっちゃうぞ。ね、そうですよね、霊剣さん?」と手にした神秘の剣《つるぎ》にたずねますが、もちろん返事《いらえ》はございません。「運命の葦筆《よしふで》に書きしるされたものは、おお、天界の主《あるじ》よ、いかなる仕儀なのですか! とりあえず、自分がサフィアーンであることは信じよう。しかし、このサフィアーン、現実を現実と認めるのならば目下の窮地からでられないぞ。ということは、牢獄に禁《とじ》こめられて、もうちょっとで邂逅《であい》もかなうやもしれなかった姫君には逢《あ》えもせず、恋のわずらいも癒《いや》せない?」
仮定から導きだされた結論に錯愕《さくがく》と狼狽《ろうばい》して、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンは憂悶《ゆうもん》の海におぼれます。いいえ、おぼれるにも到りませんでした。あまりにも衝撃的で、恋に病む若人《サフィアーン》には絶望的な結論でしたから、魔王サフィアーンは自分の頬を平手でぴしゃと叩《たた》いて、「ああ、なむさん!」とひと声高く呼ばわると、精神《こころ》に浴びた痛打から気絶してしまいました。
喪心して、その場にパタッと倒れたのです。
ですが、気をうしなって窟《いわや》の床に転がる(転がった刹那《せつな》の)肉身《からだ》は、失神とは縁もゆかりもない行動を起こしました。
ようするに、パチッ、と両目をひらいたのです。
「……眠った。しっかり寝たな」と魔王サフィアーンはいいました。
むくっと上半身を起こして、独りごちました。
「これで剣客の肉体も憩《いこ》い、癒され、精力をとりもどしただろう。いよいよ用意万端か」
すると、魔王サフィアーンは、にやっ、にやにやっと嗤《わら》い、立ちあがります。
「さて、行くか。第二の戦闘《たたかい》だ。頼むぞ、ひとの世に無双の剣豪の屍体《からだ》よ」
そして目《まな》ざしも兇暴《きょうぼう》に、兇悪に、ぶるっと霊剣のダイヤモンドさながらの刃《やいば》をふるわせて、めざす石室の扉にむかって歩みだしました。
森のものの夢の石室に。
巨竜が護る、と教えられた(だれに? 蛇のジンニーアにです。人間の時間で、千載の往古に)石室の扉に。
いうまでもないことですが、魔王サフィアーンのなかのアーダムは、寝ているあいだにサフィアーンが蘇生《よみがえり》を果たして目覚めていたことなど、気づきもせず、想像もしていませんでした。
いまは消去してしまったサフィアーンも、これに同然。
魔王サフィアーンの肉体の内部《なか》で、片方が夢見れば目覚めるものが、二人、相手の存在を知らずに回生していたのです。
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イスマーイール・ベイは万巻の書の視線を一身に集めて、微動だにせずに闇《くら》がりにいる。邸宅の一室に。四囲からの書物の視線をイスマーイール・ベイは感じているか? いまにも重い鉛の刀槍《とうそう》として脇腹を、肩口を、そして口髭《くちひげ》と顎鬚《あごひげ》になかは覆い隠された顔面を刺して裂きそうな書物の視線を? イスマーイール・ベイは、感じているか?
カイロ最大の蔵書量を誇る私有の図書室のなかにいて。
書棚を飾っている手写本たちの注視に、そうして注視される対象《もの》、イスマーイール・ベイは気づいていない。いや、注視されているのがイスマーイール・ベイそのひとであるとしか受けとれない表現は、正確ではない。たしかに万巻の書のまなざしがイスマーイール・ベイのもとに集中している。しかし、所蔵された書物が視線をむけているのは――尊崇の目づかいで対しているのは――イスマーイール・ペイの手もとにあるもの、視線をそそがれている人間が見おろしていて、その瞬間にも視線をそそいでいる対象《もの》。
イスマーイール・ベイの視線《め》を釘《くぎ》づけにしている品物に、この知事《ベイ》がほかならない主人《あるじ》である巨大図書室の手写本たちの注目は、いまにも刀槍に化さんというばかりの勢いで、四方から集められている。
燭台がイスマーイール・ベイの手もとを照らした。
シスマーイール・ベイは絨毯《じゅうたん》を敷いた床面に長椅子《ディワーン》(マットレスとクッションにわかれる、可動式のもの)を置いて、正面に脚の低い円卓を据え、そこに品物を置いていた。燭台がきれいに照らしだす範囲内に。つつまれている。イスマーイール・ベイの全感覚を奪って釘づけにする品物は、高価なアレクサンドリア絹の布につつまれている。布にふり撒《ま》かれているらしい薔薇《ばら》と麝香《じゃこう》と樟脳《しょうのう》の香が、ぷーんと強烈ににおう。
円卓のかたわらにも、床につみ重ねられるようにして、品物の同類とおぼしい布づつみの山がある。
微動だにしない時間と、微動だにしない凝視が、この閉ざされた一室を盈《み》たしている。
この閉ざされた空間。図書室内。そこには厳選された稀害《きしょ》がある。当代にまれに見る蒐集《しゅうしゅう》家によって(それもエジプトを少数独裁する一員であるマムルークの大人《アミール》によって)、美的浪費の対象として確保されてきた豪華な装飾写本の数々。巨富を投じて購入され、あるいは掠奪《りゃくだつ》されてきた絢爛《けんらん》きわまりない稀覯《きこう》書。所有するのはイスマーイール・ベイであり、陳列されているのはイスマーイール・ベイただ独りの愛蔵書。万巻の愛蔵書。ここには主人《あるじ》いがいの人間はたち入れない。管理のために傭《やと》われた人間はべつだが、閲覧できるのはイスマーイール・ベイだけである。
所蔵本の保存状態はよい。一冊の例外もなしに状態がよいのは、七名の専属の司書(あるいは保管人)がいるためである。この図書室の維持のためだけに、イスマーイール・ベイは奴隷たちを訓育して、七名を専門家《プロフェッショナル》として選《え》りぬいた。私有図書室はひとつの機関として運営されている。機関はあらゆる攻撃から書物を守る。その攻撃とは書物の美に対して重大な侵害をもたらす類《たぐ》い、たとえば湿気、たとえば不用意な陽射し、たとえは家鼠《いえねずみ》、たとえば自己増殖的に見える塵埃《じんあい》。あらゆる攻撃はその要因《もと》の段階から排除される。攻撃に対して機関は迎撃する。迎撃してさらに追撃する。
書庫は完璧《かんぺき》に守られている。
これがイスマーイール蔵書《コレクション》。
すべての書物の表面《おもて》に光沢がある。扉には嵌入《かんにゅう》された宝玉があり、金箔《きんぱく》が、象牙《ぞうげ》細工があり、洗棟《せんれん》をきわめている。芸術の範疇《はんちゅう》において美しい。では、なかみは? 内部には――たとえば――智慧《ちえ》がある。豊かな詩情があり、あふれんばかりの物語がある。宇宙誌学がある。いってみれば封じこめられた世界《このよ》がある。
それがイスマーイール蔵書《コレクション》。エジプト内閣第三位の実力者となったマムルークの長、知性派の知事《ベイ》であるイスマーイール・アリーの自尊をつちかいながら癒《いや》して満たしてきたもの。
この私有図書室にはイスマーイール・ベイいがいは入れない。完全な許可を得なければ。そして完全な許可というものは、イスマーイール・ベイいがいは附与しない。蔵書はあまさず分類されていて、書架と通路と香木の函《はこ》が種別の区切りとなっていたが、しかしながら――イスマーイール蔵書《コレクション》には一冊の本のような巨《おお》きな存在感がある。
連続した印象。万巻の書で、ただの一巻を成すような。それが四囲からイスマーイール・ベイを凝視している。微動だにしないでイスマーイール・ベイが凝視している品物《もの》を、ただ呼吸《いき》を殺して注目している。
注目している。尊崇のまなざしで。
なぜならばその品物《もの》には巨財によって買い揃えられた四囲の蔵書――すなわち、自分たち――をうわまわる価値があるのだと感じとって。
稀書の(稀書群の)本能が感じとって。
依然、時間は微動だにしない。
燭台の灯火《ともしび》だけがチラリ、チラリとゆれて「現在《いま》」をおしながそうとする。
どこに? 過去に。
蝋燭《ろうそく》には伽羅《きゃら》が煉《ね》りこまれてあって、燃えるにつれて拡がる芳香もまた時計の役目を摸《も》そうと意図したが、いまだイスマーイール・ベイの嗅覚《きゅうかく》は非時間のしもべである。においは認識されない。全感覚が、目下、凝視に動員されている。
図書室内の静寂。そも音響という音響が――ここでは――紙に吸いこまれる宿命《さだめ》にある。万巻の書の、紙面に。しかし、気配は濃い。あたかも書物が(その大群が)わさっわさっと囁《ささや》きだそうとでも画策しているかのように、気配は濃い。
なにを囁く? たぶん、尊崇の――雑《ま》じり気のない崇拝の――一語を。
「讃《たた》えよ」と。
その念《おも》いはイスマーイール・ベイにも共通する。
だから、いう。
ついに、時間も停止する無音《しじま》を破って、イスマーイール・ベイは独りごちる。「この……書を……」と。
書。凝視のさきにある品物《もの》を指して、イスマーイール・ベイは独白した。
卓上のつつみを指して。
その声は嗄《か》れている。さらに、蝋燭に半分だけ照らされたイスマーイール・ベイの貌《かお》。その面輪《おもわ》はやつれている。なにがイスマーイール・ベイをここまで憔悴《しょうすい》させたのか? この日、聖遷《ヒジュラ》暦一月三十日(西暦七月十四日)、土曜日、イスマーイール・ベイのもとに飛報はとどいている。飛報にして、秘報。あれだけ意気揚々と首府カイロを出発したムラード・ベイ率いる水陸両軍の大集団は、ジッブリシュにて敗れた。フランス軍とまっこうから衝突したジッブリシュの会戦で、剛勇無双のマムルークの強者《つわもの》たちは完敗を喫した。そこには釈明の余地はない。砂漠の敵勢に背をむけて、われさきに遁《に》げだしたという。この潰走《かいそう》の報《し》らせは、潰走する軍隊よりも速いほどの勢いで――じっさい、そうだったのだが――カイロにのこった後方支援のベイたちの耳に入った。飛脚と密使間の情報網《ネットワーク》により。たちまち滲透《しんとう》した――飛報にして、秘報として。
一時間と保《も》たなかった。
フランク族の軍勢を邀《むか》え撃ったはずの、わがエジプトの精鋭部隊は。
赤子の手をひねるように蹴散《けち》らされた。
武闘派のなかの武闘派である総帥ムラード・ベイの統率下にありながら。
一時間と張りあいきれず、恐慌を来たして遁走《とんそう》した。
その衝撃は計りしれない。ジッブリシュからの報知は、おおかたのベイたちにとっては青天の霹靂《へきれき》。完膚なきまでに討ち破られたのが、エジプト軍? 動揺はひろがる。いまはまだ、事態のなりゆきを把握しているのは指導者層だけだが、敗残の騎士たちは一日と遅れずにカイロの目路《めじ》内に撤退してくる。凶事の報らせは秘めてはおけない。庶民に対して。もろもろのカイロの住人に対して。いずれ堰《せき》を切る。そう、今晩には――
やがて無秩序状態が生まれるだろう。二十五万の人口をかかえた栄光の都カイロに。
ベイ間に動揺がひろがりながら、あるアミールは財産を匿《かく》して脱出に備える。カイロの後方待機軍を束ねていたイブラーヒーム・ベイ(老獪《ろうかい》をきわめた鉤鼻《かぎばな》の卑劣漢、エジプトの副総帥)は、予想される無秩序状態になんらかの手をうたねばならないと、市外に遁《のが》れようとする住人たちを処罰し、カイロの城門はのこらず鎖《とざ》して脱出をいっさい不可とする方策をさぐり、と同時に手駒となっているアミール連中を「約束を反故《ほご》にして、国外に高飛びするではないぞ」と牽制《けんせい》する。
その牽制が必要なほどの精神《こころ》の動揺がマムルークの首長たちのあいだにはある。
総大将ムラード・ベイの防衛軍がまるで太刀打ちできなかったという事実によって、逃げ腰となる心情が。
いちおうは、首府カイロでの決戦が当然視されている。でなければ、エジプトは亡ぶ。異教徒軍によって蹂躙《じゅうりん》されて、陥《お》とされる。すでに陥落したアレクサンドリアのように、カイロが陥ちて、すなわちエジプト全土が掌握される。マムルーク――永きにわたって特権階級としてエジプトを所有《わがもの》としていた異邦出身の奴隷軍人たち――に従来どおり甘い、甘い汁を吸いつづけられる未来の夢はない。
その夢は絶たれる。
恐怖。すさまじい動揺がひろがって、熄《や》まない。ずらかりたいと願うベイがいて、しかし逃亡してはエジプトが奪われるという現実があり、たしかにマムルークの、主戦力はむしろ首都を衛《まも》るために温存されていたともいえるが(つまりジッブリシュにむかったのが全軍ではない。あれは総勢四千騎になるかならないかという精鋭の騎馬部隊、ようするに選《え》られた一部にすぎない)、ただ単純に人員をふやしただけで勝機を見いだせるのか?
見いだせないのではないか?
いったい、フランク族の軍勢とは、化物か?
なぜアラブ世界最強の騎馬軍団が、通用しなかった?
それまで自軍の勝利を毫《ごう》ともうたがっていなかっただけに、おおかたのベイたちの精神が受けた痛打は、まるっきり近代戦術なみに烈《はげ》しい。それまでマムルークの騎兵力をひたすら過信して、絶対的強者の自負に、無疵《むきず》の驕慢《きょうまん》におぼれていただけに、ジッブリシュからの凶報とのおりあいがつけられない。たちなおれないで、追いつめられている。
おおいなる敗北を予期していなかったベイたちの精神は。
しかし、完敗を予想していたベイの精神も。
すなわち、イスマーイール・ベイも。近代戦のなんたるかを知っていたイスマーイール・ベイにとって、事態《こと》は筋書きどおりに運んでいる。認めるだけで背骨に慄《ふる》えが走ってしまうほどに、完璧に筋書きに沿って展開している。このエジプト内閣第三位のベイは断言できたが、フランス軍に武力で抗してもむだなのだ。はっきり見通せたが、エジプトの騎馬部隊は無力なのだ。採れる方策はただひとつ、ただひとつ……。
「この……書を……」とイスマーイール・ベイは独りごちる。
静寂に支配されている図書室内で。
卓上の品物《もの》に目を落としながら。
その午前、いま語られている図書室の場面の数時間まえに、イスマーイール・ベイは側近のなかの側近の口を通してジッブリシュでの敗戦を知った。アイユーブの口から知らjれた。「想うていたとおりに、敗《ま》けたな」とのことばがイスマーイール・ベイの第一声だった。
そして第二声は「翻訳はまにあうのか?」だった。
これに対してアイユーブはほほえんだ。
「憂慮など要らんということか?」と主人のイスマーイール・ベイは訊《き》いた。「しかし、おれには『災厄《わざわい》の書』しかない。おれが――われわれが生きのびる手段《てだて》は、それしかないのだ。おまえを信頼している。その信頼はもちろんだ。それでも……時間《ゆとり》はあるのか?」
「フランク族が擁しているのは歩兵軍団です。破竹の強勢ですすんだとしてもカイロに攻め入るまでには相当の日数を――騎馬部隊の思考では想像もつかないだけの日数《それ》を――必要とします。あやつらは、戦闘隊形を維持したままで行軍するでしょうから。それに、アラブの砂漠も連中には敵しましょう。ですから――」
「のこされた時間はどれほどだ?」
「正確にはもちろん弾《はじ》きだせませんが、しかし、五日か、六日か」
「かせいで一週間か」
「予想しますに」
「おまえの予想ははずれた例《ため》しがない。おまえの予見した筋書きは、おれにはほとんど予言だ」
「では、ご安心を、閣下」
「おれは……」とイスマーイール・ベイは抑揚のない口調で――ほとんどアイユーブのことばを遮るように――いった。「おれは、おそろしい」
とり憑《つ》かれたような声音でいった。
「おれのなかに懼《おそ》れがある。この事態の歯車がひとつでも狂ったらと、想い描いただけで顫《ふる》える。未曾有《みぞう》の事態は、ここまで、おれが想い描いたように現実化してきたからだ。手をこまねいて破滅を款待《かんたい》するような心地だったわ。ほかの奴儕《やつばら》は――ムラードやらイブラーヒームやら、あの連中の手駒めらは――翻弄《ほんろう》されただけで足りただろう。おれは打撃を覚悟して、遅れてじっさいに打撃を受けたのだ。想像していたとおりの衝撃《いたみ》を、おれの精神《こころ》は。おれは……だから、おそろしい」
とり憑かれたような口調でいまいちど、つぶやいた。憑いているのは恐怖だった。
「効果はあるのか? その贈りものは、確実に――」いまにもアイユーブに躙《にじ》りよらんかという様態で、イスマーイール・ベイは押しだされる声を切れずに訊《と》う。「フランス勢の総大将に献上されて、のち、破滅の原因《もと》となるのか? それは……ぜったいにか?」
「わたしは」とアイユーブは主人と視線を錯《ま》じらせながら対《こた》える。「確信しております」
「おれも確信したい」
「と申しますと?」
「おれは、確認したい。その稀書《きしょ》を、美しい刺客として敵将軍に献じられるという災厄《わざわい》の書物の一端を、見たい。ふれたい。感じとりたいのだ。その災厄《わざわい》の滲《にじ》みでるような猛威を、この目で、この指さきで、確認したいのだ。その内容も、むろん、読めるのならば――」
「それは危険でございます、閣下」
「全部ではない。一端だ。ほんの一端だ。できないか? いや、できないとはいわせないぞ。なぜならば翻訳の作業はそのようにおこなわれていると、おまえは説いた。アイユーブ、おまえは説いたぞ。『災厄《わざわい》の書』が一冊から十部、二十部に剖《さ》かれて、その内容《なかみ》がつながらない形態《かたち》となれば、順番が狂ってその玄妙驚異の内容《なかみ》が物語られる連続性を失すれば、威力はないと。ばらばらならば虞《おそ》れはないと。ばらばらの、その一部ならば。おまえはそう説明したぞ。おれに、割《さ》き離すならば『災厄《わざわい》の書』の魔力は一時的に滅《き》えるといい、だから作業に耐えうると解説した。翻訳の作業に。そして、おまえは作業をしている。毎晩の翻訳の作業にたずさわり、おまえは魅入られてはいない。そうではないか? おまえは証左ではないのか? ばらばらにした『災厄《わざわい》の書』の一端、それぞれの一端ずつならば、順番をわざと狂わせたならば理解は不能であって、読んでも問題はないと。脅威も、祟《たた》りもないと。ちがうか?」
「なにひとつ、ちがいはいたしません」
「だろう? だろうとも」
「閣下の洞察力に、ひじょうに感服いたすばかりです」
「主人《おれ》の身を案じる気持ちはわかる。だが、アイユーブ、おまえがぶじなら、おれもぶじだ。だから、おれは確認のために一部を所望する。所望したい、『災厄《わざわい》の書』の――中途でよい――割《さ》かれた一部を。翻訳の終了した部分だ。アラビア語の、原本の一端だ。おまえはそれを、毎日、毎晩、破棄するといった。フランス語版が誕生したならば地上から抹殺するといった。そうして破棄するまえに、おれに一部を、切り離された物語の束をわたして、目を通させてくれ。その効力をわずかでも感じとって安心するために、安心立命のために――」
その声はアイユーブにすがっていた。
それから再度、感情を抑えてイスマーイール・ベイはいった。「でないと、おれは、おそろしい」
これに応じてアイユーブがいうには――「わたしは閣下の奴隷でございます」
「ならば、よいのか?」
「いやしい奴隷の身としては、命令《おことば》には逆らわずに順《したが》い、なお万全を期して安全策を採るのが仕事《つとめ》。ですから、イスマーイール閣下の御目《おめ》に、今晩、ご所望の品物《もの》はかならず。それにしても、効力は――」アイユーブの表情は、すうっ、と咲《わら》うようなものに変じる。「――そのような確認などはこれ以上必要としないほどに、ぜったいでございますが」
「これ以上?」
「と申しますのも、すでに『災厄《わざわい》の書』の威力はわたしの推量の埒《らち》をはるかに超えて、翻訳にたずさわる人間を詛《のろ》っているからです」
「呪詛《じゅそ》……」
「さきに閣下のご理解を得ておかなければなりませぬが、翻訳が完了した部分から夜ごと、朝ごと、原本の割《さ》き離された部分を棄て去るという目論み、あれは――腹蔵なしにご説明申しあげれば――みごとに破れました。『災厄《わざわい》の書』の霊力を、不用心にもあまく見ていたのだと、お叱りを受けても反駁《はんばく》はまるでできようもないという為体《ていたらく》です。アラビア語の原本を破棄する担当となった人間、ようするにフランス語版の同一の部分が、この地上に、産み落とされたからという理由で消し去ろうと試みた人間は、つぎつぎと生命《いのち》を落としました。われわれ翻訳の関係者のなかに、すでに業火の民の群れに加わった者が三名(これは自殺し果てたことを暗示している。自死者の焦熱地獄がイスラームにはある)、作業班においては恐怖が蔓延《まんえん》しています。すべてはわたしの咎《とが》、わたしの計算ちがいでございました。『災厄の書』の効力は、驚異的に凄絶にすぎたのです。その――意思が――一冊でありつづけようとする稀書ならではの意思が。わたしの予想《みこみ》など無効にして、翻訳が完全に完了するまで(すなわち、フランス語版の美しい一冊がこの世に誕生するまで)廃棄されまいと志向したのです。原本が。すでに二十部あまりに剖《さ》かれたアラビア語の『災厄《わざわい》の書』が。分解させることも、翻訳させることも許しましたが、唯一無二なる極美の書物は中途の段階は許さなかったのです」
「中途とは?」
「この稀代《きたい》の物語集……われわれが了知するところの魔術的な媒体としての『災厄《わざわい》の書』は、美しい書物ならではの美しい意思を具《そな》えて、わたしは十全に敬意を示している心境《おもい》でおりました。ですが、わたしごときは真実の美をまえにしては小物のかぎりに小物です。歴史を書き換えてしまうほどの稀書のなかの稀書の意思、それは推測をはるかに……はるかに凌駕《りょうが》し超越するひろがりを内蔵して、その意図はあらゆる限定された範囲を超えて展延《てんえん》し……いまも展延しつづけています。この書物を紐解《ひもと》き、所有する人間の(あるいは割《さ》いて、翻訳する人間の)言動のあらましを規定し、懲罰か褒賞か――たとえば耽読《たんどく》の喜悦か――を決定する……。それが『災厄《わざわい》の書』であり、この書物の美しい意思です。わたしは当初、二十部あまりに分割された原本の、一部分でも翻訳がなされれば『災厄《わざわい》の書』は多重に存在をはじめると考えました。物語のある箇所において、アラビア語とフランス語、二つが併存してしまうと。ですから――これを前提として――訳了した原本の部分は破棄して、つねに地上に一冊だけを存《あ》らしめようと計画いたしました。しかし、そうではなかった。この敬意の表わしかたは的外れだった。フランス語版が完成したのちでなければ、『災厄《わざわい》の書』は二冊とはならないのです。書物そのものによって、二冊とはみなされない――認定されないのです。たしかに、最終的に二冊になることはきらうでしょう。翻訳版の制作を厭《いと》い、『災厄《わざわい》の書』は二重存在を拒否するでしょう。にもかかわらず、現時点においてほ重要なのはアラビア語の原本のみなのです。翻訳がすべてかたづかない局面にあっては、一冊なのはアラビア語の原本を措《お》いてほかにないのです。そうであるとするならば、原本の側が……それが部分であっても……破棄されることは一冊が地上から消えることを意味します。この行為《おこない》が許されるはずもありません。そしてわれわれは詛《のろ》われました」
「呪詛……」ふたたびイスマーイール・ベイは一言を漏らした。
「創造途上のフランス語版、これは未完であり、未完のものは書物としても不全であり、完成された書物の多重性という罪には、いたらなかったのです。わたしは判断を謬《あやま》り、わたしは地上にただ一冊しかない『災厄《わざわい》の書』を抹殺しようと試みてしまい、そして廃棄に関与した部下をうしないました。ですから、すでに十五夜を経てフランス語への移行が完了している物語の部分、それは一部のこらず、棄てられずに束として生きております。これらは、ばらばらの場所に存在することも厭い、切り離されながらも一ヵ所につどっております。つどって、保管されております」
「一部も……消却、されずに?」
「さようで」
「しかし断たれてはいる」
「さようで」
イスマーイール・ベイは感情を殺して口をむすぶ。
「いかにも、閣下、わが君さま」とアイユーブはいった。「わたしにとっては、すでにフランク族の将軍《パシャ》への献上品、そのぜったいの効果は証明《あかし》されたわけでございます。なにしろ、閣下」
そこでアイユーブは沈黙を挿《はさ》んで、それから添えた。
「わたしは呪詛を浴びつづける人間たちの頭脳《シャイフ》でございます」
日没が迫り、イスマーイール・ベイが所望した品物《もの》はアイユーブが指定した場所にとどけられる。図書室。イズベキーヤ貯水池の東岸にかまえられたイスマーイール・ベイの私邸内の、当時のカイロの市《まち》で最大規模の図書室。「ふさわしい対応が必須《ひっす》なのです」とアイユーブはいった。「美の書物に対しては、美の書物にふさわしい待遇が。そのための場所、空間が。わが君さまが所有《もちもの》となされている図書室ほど、これに適したところは想い描けません。都会のなかの都会カイロにおける、書庫のなかの書庫。万巻の写本を蔵した部屋に、書物の王として『災厄《わざわい》の害』を君臨させるのです」とアイユーブは主人に説いた。「巨大図書館の、玉座にすえるのです」
そしてイスマーイール・ベイはここにいる。
この図書室の場面に、時間《とき》を静止させて、視線を円卓の品物《もの》に釘《くぎ》づけにして、いる。
閉ざされた空間に、書物の王として、ついに稀書《きしょ》のなかの稀書は出現した。
「この……書を……」とイスマーイール・ベイは囁《ささや》いた。無音《しじま》をやぶって。「……おれは確認するのか」
からだが動いた。イスマーイール・ベイの、腕が、指が、高価なアレクサンドリア布につつまれた品物《もの》にのびる。
つつみにふれる。稲妻に愛撫《あいぶ》したような感触。
ひらいた。※[#「火+(生−ノ」、第3水準1-87-40]《た》《た》きこめられた香がさらに顕《た》ち、イスマーイール・ベイを撲《なぐ》る。
「おれは……読むのか?」
架空の書物。それは実在している。
エジプトの知事《ベイ》の眼前に。
イスマーイール・ベイは読みはじめた。
夜が朝《あした》に代わり、朝《あした》が夜に代わる。
第十六夜は訪れる。
[#改ページ]
※[#底本ではアラビア文字の16]
扉を開ければ森のものの夢がひろがります。
魔王サフィアーンが岩室《いわむろ》のひと隅にある石室の内部《なか》にその身を躍らせた、刹那《せつな》。
存《あ》ったのは鏡のような緑です。有《あ》ったのは眩暈《めまい》する若葉の、あるいは老木の苛烈《かれつ》な囁き、そして樹液の鮮血です。森のものの夢、それは――いわずもがな――人智のうかがい知れない、むしろ言語が通用しない領域に在中します。ですが、語りえないものについてわたしは語りましょう。なぜならば物語り師はわたし、わたしは夜《ライル》の語り部ですから。
奔放なことばの涯《は》てを夢見ること。
わたしはそのように現世《うつしよ》の言語に添うて生きてきました。
彼岸の言語の呼吸《いき》を感じて。
ある夢の主人《あるじ》は稚樹《ちじゅ》。それは高さを喰らいます。樹冠の世界を焦がれて、恋い焦がれて、眠りながらも目覚めながらも陽光を婪《むさぼ》る熱意に焼かれ、空中楼閣の夢幻にいます。その夢のかたわらに、ただなかに、あるいは内包された外側に、飛散する果実の意志《こころざし》があって、パッと弾《はじ》け、閃光《せんこう》の宇宙の――それは味覚をともなった色彩でしたが――誕生と消滅を見せて、ほほえみながら虚無と化します。世界を抱擁しつくしたいという蔓《かずら》の野望があって、それが時間の手ざわりを螺旋《らせん》に変えています。下草は香りを夢見ています。どこかで結実の疲弊が哭《な》きます。陽射しが消耗します。森は厖大《ぼうだい》な因果関係の連鎖となり、閉じながら一個となり、一個となりながら千個となり、空間は通底し、夢の底と底はつながり、森のものたちの快感は滲《にじ》みます。開花という行為、それは植物の性欲であって、受粉の媒介をもとめる花瓣《はなびら》はその内側に一匹の雌蜂の似姿《にすがた》となる蕊《しべ》を孕《はら》みます。雄蜂がささやかに(敬虔《けいけん》なる心情につらぬかれて)勃起《ぼっき》します。夢が勃《た》ちます。集団の蝶《ちょう》がそれぞれ身勝手に舞うように見せかけて森のものの夢のぜんたいを攪拌《かくはん》します。蝶でありながら芋虫、蝶でありながら毛虫、完全変態はアッラーの恩寵《おんちょう》です。飛べないものでありながら飛び、一者は二者、三者、四者です。ある種の昆虫《むし》と鳥は色彩《いろ》を夢見ました。太陽鳥《たいようちょう》はさえずりの尖端《せんたん》に夢を刺し、戴勝《やつがしら》はボッボッボッと宙に転がします。
また蜂。胡蜂《すずめばち》が死の瀬戸際にいて最後の夢を見ています。刺して役割を了《お》えた毒針の無念を、まるで雨のように濡《ぬ》れている歎《なげ》きの感情を、かたちにして、悪夢を編みます。蜂房《ほうぼう》の世界を肉片から成る針《ぬいばり》に変えます。
動物《けだもの》は森のものの夢のなかに肉食と草食の王土を築きます。
灌木《かんぼく》と岩と苔《こけ》のあえぎ。腐葉土が擁《いだ》いて産み落とす宇宙卵。その腐葉土の表面《おもて》をまるで騎馬部隊のように行軍している、猛《たけ》だけしい一列の蟻どもの――蟻塚型をした奇夢《きむ》。気象が夢見られます。森のぜんたいに夢見られます。林冠から落花《らっか》が熄《や》まず、林床からその情景を仰いでいる動物たちの目には希望の驟雨《にわかあめ》が幻視され、快夢《かいむ》のなかでそれは現実の慈雨として浴びられます。最初にあったのは植物の部分的な死、すなわち花は死に、にもかかわらず生命《いのち》がふり、夢は――だから――気象の内側《なか》においては連続して変容します。慈雨はそれから殺すものに、犯すものに、詩を詠《よ》むものに。アッラーの主権と栄光が歌われて、永い、永い連鎖が展開して、終焉《おわり》はありません。
ある瞬間、色彩とにおいがその夢の空間の法でした。
絶対的に律し、食うものと食われるものの喜怒哀楽をになって専制をつづけました。
夢の本能はにおいによって肥大して、夢の知性はいろどりによって燦《きら》めきました。しかし、間色《かんしょく》はときに連鎖の天地から遁《のが》れでて、判官《カーディ》である原色の大公連を撃ちました。夢見る実体からにおいは釈《と》かれました。甲論乙駁《こうろんおつばく》する色彩とにおいによって、一瞬にして千個の虚夢《そらゆめ》が分娩《ぶんべん》されました。
一瞬、しかし遍在する時間は二種類。森のものの夢の空間にただようのは、約《つづ》めて説けば植物の時間と動物の時間。いっぽうは(対する生物《いきもの》の目から見るならば)烈《はげ》しさをおぼえるほどに停《とど》まった時間のなかに生き、不動の夢幻《ゆめまぼろし》を産み、その幻想の領土をじわりじわりとひろげて奪《と》り、他方はまるっきり躍動しつづけて、そうであるために前述した生物《いきもの》の目には運動の軌跡も捕らえられず(だから植物の時間の内側《なか》においては動物は一秒たりとも動きはしないで)、ひたすら距《へだ》たりを埋めて、埋めて、埋めて、そこに在《あ》る距離のもっぱら無化を冀求《ききゅう》します。この二種類の時間が――融けているのでしょうか、あるいは反撥《はんぱつ》しているのでしょうか――夢見られた瞬間に交雑して、森を構成している生物《いきもの》のなにものかが夢見れば即、やすやす異種交配をなし遂げて、一つの時間を生むのです。
始原の時間を生むのです。
夢の時間を孕んで呼吸《いき》するのです。
そして一千の虚夢《そらゆめ》が一つの森を夢想して、光景《けしき》は閉じます。無限のひろがりのなかに閉じます。ただひとつの石室の内部《なか》に、森のものの夢は視られるのです。
魔王サフィアーンが扉を開けて――攻め入るための霊剣を手にして――闖入《ちんにゅう》した世界とは、このような空間《もの》でした。魔王サフィアーンのなかのアーダムの精神《こころ》が感じとった全現象は、ことばにするならば以上の推移を見せたのです。
一瞬《ひとまたたき》のあいだに。
始原の時間の一瞬に。
それから時間は割れました。魔王サフィアーンの肉身《からだ》であるサフィアーンの膚が、押しひらかれる時間の悲鳴を感じました。ながされる時間にふれて、羽をむしられた鶏のようにボツッボツッと鳥膚《とりはだ》をたてました。右手に握られた霊剣が――ダイヤモンドさながらの鋭利な刃《やいば》が――ぶるッぶるッと武者顫《むしゃぶる》いしました。予見していたのです。石室の守護者の登場を。はっきり感知していたのです。時間を裂いて顕現《あら》われる魔妖《まよう》を。
森の王を。
両の翼をひらいた巨竜は、容赦のない狂暴さを前面に押しだしながら、牙《きば》をむいて、蛇毒のよだれを垂らして、翠玉《エメラルド》の双眸《そうぼう》を宙《そら》に賁《はし》る彗星《すいせい》のようにボォォォッと燃やして、いきなり迫りました。目的はひとつ、森のものの夢の石室内に躙《ふ》みこんだ「異物」の迎撃! それにしても、この巨竜のすさまじいばかりの威容は、まるで緑の魔境の偶像化ではありませんか。その鱗《うろくず》によって被われた皮膚には苔がびっしりと生えて、深い光沢のある緑色に耀《かがや》き、さらに後背部には樹々も根づいて、まるで山を背負《しょ》っているようです。あれはレバノン杉? 沈香《じんこう》もにおっているではありませんか。そんな見るも物《もの》すさまじい怪物が、激越なる感情もあらわに、魔王サフィアーンをめざして真一文字に――夢の虚空《こくう》を飛び――攻め来たるのです。
みずからが守護している石室にのりこんできた「異物」、ただちに排除すべき夢にとっての「異物」の魔王サフィアーンをめがけて、突質します。
しかし、闖入した人間《もの》もまた突貫します。人間《もの》? これはしかし、すでに常人ならざる超人。元来が古今無比の魔術を習得した魔王でありながら、天下無双の剣術をその肉身《からだ》に刷りこませて、さらに霊験《れいげん》あらたかな「生きた剣」を佩《は》いた豪勇無頼、万夫不当の剛の者。森のものの夢の石室の守護者が顕現《あら》われて襲いかかってきたと認めるや、瞬間《たまゆら》、魔王サフィアーンの総身からぶわっ、ぶわっと妖力《ようりき》が噴出し、霊気《オーラ》は第二の、第三の、第四の皮膚となり、そして魔王サフィアーンは吼《ほ》えます! これもまたひと柱の怪物、激甚のかぎりに激甚な威容をここに示した超人の王!
その双つの眸《ひとみ》がめらッめらッと赫然《かくぜん》と燃えて、魔王サフィアーンは武人として駆けました。いえ、翔《か》けました。およそ通常の人間の目にはとまらない迅《はや》さです。そして、斬ります! 斬って、斬って、斬り棄てます! 巨竜のしかける攻撃を、森羅万象いっさいを斬る! 毒液が吐きかけられれば猟犬のすばやさで身をかわし、毒牙《どくが》がガギッと喰らいつきにかかれば巨竜の喉《のど》もとに霊剣の切っさきを刺し、その尾が――鏃《やじり》のように尖《とが》った竜尾が――ひるがえるように襲撃すればパッと宙に跳んで避《よ》けながら稀代《きたい》の秋水《しゅうすい》をふり下ろし、竜頭に生えた角(それは黒曜石の突起物でした)が突いてくれは二本の角を二本とも断ち、撃とうとする前肢を逆に撃ち、さらに竜の鬚《ひげ》がしゅるしゅるしゅると巻きついて身体《からだ》を絞めれば床屋も顔負けの技術で梳《す》いて切り、すべてが電光石火、すべてが常軌を逸した早業《はやわざ》です。これこそが奇蹟《きせき》の剣技、王者の撃剣《げきけん》、すなわち剣術の王こそが魔王サフィアーン! 驚異の域に達した武術と膂力《りょりょく》で、森のものの夢の石室の関守《せきも》り、古今|未曾有《みぞう》の武芸を習得した人間にしか斃《たお》せないという巨竜を、森の王を、がっぷり四つに組んで正面から邀《むか》えて――しかも、互角! だが、ああ、やはり演じられるのは血戦です。常識からいえばそろそろ魔王サフィアーンに勝機がおとずれて当然ですが、しかし巨竜に常識なし。斬られても、斬られても、なんと! その四肢は、角は、砥《と》ぎすまされた牙にしゅるしゅると伸びて巻いて身体《からだ》の自由を奪う鬚は、再生するのです。たちまち、もういちど生えでるのです。まるで蜥蜴《とかげ》の尻尾《しっぽ》、その毒牙は赤子の乳歯ではありませんか。これには魔王サフィアーンといえども対抗しうる術《すべ》はなし。類のない才気もいたずらに消耗して、あらゆる神業がその場をしのいで徒爾《むだ》に終わり、剣豪の肉身《からだ》には(当代のあらゆる剣豪から穎脱《えいだつ》した剣豪のそれにも)疲労がしだいに蓄積し、困憊《こんぱい》し、ああ、動作《うごき》は微妙に鈍り、と、そのとき――
巨竜は猛突進をくわだて、その大口をひらいて魔王サフィアーンの頭部《あたま》を咬《か》みにかかりました!
けれども、造次顛沛《ぞうじてんぱい》、まるで余力のすべてをふり絞るように踏みこみ、標的を捕らえてズザザザザッと霊剣の――それこそ肉のまえに骨を切るような――刃《やいば》を斬撃《ざんげき》として放ったのは、魔王サフィアーンでした。
狙いは、巨竜の首。
その首級《あたま》。
相手の攻撃にさきんじて、ふところに飛びこんでいた魔王サフィアーンは、いきなり――すさまじい鼻面《はなづら》をした巨竜の頭部《あたま》を――真下から輪切りにしたのです!
即座に、雄叫《おたけ》びとともに首級《あたま》は蜚《と》びます。どろりとした濃い竜血《りゅうけつ》が魔王サフィアーンの頭上に雨とふります。ふって注《そそ》ぎます。と同時に、魔王サフィアーンの眼前では頭部《あたま》を斬り落とされた頸部《けいぶ》が(首のつけ根が)めりめりめりと外側にひらいて、筋肉が花とひらいて、食道がのぞき、その粘液にヌルッヌルッと煌《かがや》いた消化管のはてに胃が見えて、そ、そのとき早くそのとき遅く、魔王サフィアーンはこの胃の腑《ふ》をめがけて渾身《こんしん》の攻撃をあたえました。一撃を、投げました。だが――それは――霊剣のひと振りではありません。従来とはまるでちがう、それは――
巨竜の五臓六腑《ごぞうろっぷ》の内側に投げこまれたのは咒《かしり》です。
破壊の妖術《ようじゅつ》、それも最強の闇黒《あんこく》の秘法が、秘術のなかの秘術が、この石室の守護者の赤い肉の内部《なか》に躍りこんだのです。
飛びこんで、弾《はじ》けたのです。
頭部《あたま》が再生するまえに。
巨竜の知性を(戦闘《たたかい》のための意志を)つかさどる部位の、復活がなされるまえに。
それまでいっさい、魔術をつかわず、完全に虚をついていました。魔王サフィアーンは、まるっきり巨竜の隙をついて、絶妙の汐時《しおどき》で最高度の妖術を放ったのです。
そして――巨竜はその頭部《あたま》を再生できぬままに――体内から灼《や》けて、火焔《かえん》を発して、ああ、燃えます!
灼熱《しゃくねつ》におぼれて、燃えあがる、首なしの竜!
森の王の末路!
ジュッ、ジュジュッゥゥゥと、巨竜はついに翼まで焼いて、ボッ、ボボッォォォと、のたうちながら尾の尖端《せんたん》まで焼いて、背中にあったレバノン杉は木炭《きずみ》にいたるまで蒸され、苔《こけ》の群落は悶《もだ》えて息絶え、白檀《びゃくだん》の香木もあったのに悪臭を発して枯れ果てるだけとなり、ああ、ついに、ああ、ついに、炎上する巨竜は余炎《のこりび》も絶ち。
そして、瞬間、夢が――森のものの夢が――滅《き》えます。
あらゆる夢が、わたしがことばをつくした幻想が。花々や樹々や鳥や野獣や昆虫《むし》が構成していた巨大な一個の光景《けしき》、始原の時間が織りなしていた空間が。王として翼ある巨竜をいただいていた夢が。
夢が。
消滅!
あらわれたのは石敷きの床。無機物の壁。それらが中央に……ただ巨竜の屍骸《しがい》をおいて……焼けた屍骸《それ》だけをおいて……もはや往時の面影はない、ちっぽけな石造りの室《むろ》に変じています。
単なる方形の小部屋に。
呼吸《いき》しているものは、いま、魔王サフィアーンだけ。
そうです、魔王サフィアーンは勝利したのです。
竚《た》っています。その勝利者は、またも無効の時間のなかに身をおいて、たたずんでいます。最後に咒《かしり》を放ったときのままの姿勢で。片手には霊剣を握り、その両の眼《まなこ》は敗北した巨竜の殪仆《えいふ》の場所を、方角を見すえたかたちで固定し、むしろ固着して停《とど》まり。
殺気はそのままに。
膨れあがる妖力の霊気《オーラ》はそのままに、荒れ狂い。
しかし微動だにせず。
意識をこらしつづけているかのように、無言《しじま》のはざまに落ちて、常人に対して形容するならば「茫然《ぼうぜん》自失」といった態《てい》で、たたずみつづけています。
勝利者は。
半日、いや、地上ではひと晩とそれに附《つ》いた昼間がすぎて、一日半も経過したでしょうか。人間の時間は、あいもかわらず魔王サフィアーンのなかのアーダムの精神《こころ》には意味をなしません。この一日半が一瞬となって、魔王サフィアーンはふいに――ハハハハ! ハッハハッハ! と笑いだし――現実を認めました。森のものの夢の石室の守護者に剣術のみで互角にわたりあい、さらに魔術によって打倒した現実を。海のものの夢の石室の守護者につづいて、スライマーンの封印の関守りを、これでふた柱め、斃したことを。
「また勝利か? またおれの勝利か? 当代無双の剣士は古今無比の魔術師ときっちり一体となって、海蛇も巨竜も斃したか? 感じるぞ、封印の威力《ちから》の弱まりを。感じるぞ、大地の蓋《ふた》に抑えこまれているジンニスタンの鼓動を。その動悸《たかなり》を。脈搏《う》つ男根《まら》のようにな。ハハ! ハ! のこるは二つ、わずかに二つの石室のみだ。ジンニーアよ、おまえを監禁《とじ》こめている神秘の装置は毀《こわ》れるぞ。おれが、毀してやる。おれが、その神力《ちから》を順番に殺《そ》いでやる。どこにいる、蛇神《へびがみ》よ? 感じているか? おまえを解放しようとしている魔王《まおう》の活躍を、その全身で感じとっているか? 感得しているか? 堪能しているか! さあ、あとふた柱、半人半蛇の精霊どもだ。ハハ! ハ! ハッハッハッハ!」
呵々大笑《かかたいしょう》して魔王サフィアーンは、満足げにニヤつきます。それから、おのれの剣士の肉体を見おろします。その肉体は、憊《つか》れています。その肉体は、まさに巨竜との激闘によって酷使されて、疲弊のきわみにあります。筋肉《すじ》という筋肉《すじ》、そして満身の反射神経という反射神経に、ずしりと倦怠《けんたい》がのしかかっています。肉身《からだ》は休息を欲していました。それも徹底した憩《いこ》いを、あらゆる疲弊を癒《いや》して、全身に精力をとりもどし――ふたたび漲《みなぎ》らせるに足りるだけの休憩を。
安息を。寝《やす》みを。
「そうだ、眠い」と魔王サフィアーンはつぶやきます。「おれは眠るのだ。ただちに。眠いぞ、おれは狂おしいほどに眠い!」
そして――もはやその場で――膝《ひざ》を折って、偃息《えんそく》の姿勢をとりました。すでに起《た》ちあがった饑餓《きが》感(それは睡眠《ねむり》をもとめる異常な餓《う》えです)の虜囚《とりこ》となって、条件反射から囚《とら》われて、夢の消えた森のものの夢の部屋の石甃《いしだたみ》に横になると、たちまち眠りこけました。
寝入るや、夢寐《むび》に陥《お》ちました。
その瞬間にです。覚醒《かくせい》したのがサフィアーンです。けれども、いったいなにが起こったというのでしょう。視界は翳《かす》んで見えません。「う……ガ……グッ……」でてくることばも意味不明。つい先刻、もはや牢獄《ろうごく》に禁《とじ》こめられて愛するドゥドゥ姫(心底から切望する従妹《いとこ》よ!)には出逢《であ》えないと絶望して脳裡《のうり》が真っ白になったと思ったら、失神から覚めれば再度、状況が把握できない状態《ありさま》。なにしろ総身に疲労が充ち満ちて、記憶を探ろうとしても、ああ、またもや記憶は欠けており、しかもどうしたというのでしょう。翳《かす》み目となって空間《もの》は見えず、聴覚《みみ》はグワングワンと頭蓋《ずがい》のなかに耳嶋《じめい》を轟《とどろ》かせるだけで、脣《くち》はかさかさに乾ききって、のこされている体力《ちから》というものが皆無。魔王サフィアーンは「……ゴ……ム、ムム……う……おお……」と呻《うめ》きながら、その精神《こころ》のなかでは懸命に発問《といかけ》をつづけていました。
「なんだ? なんだ? なんだ? どうなっちゃったんだ?」と。魔王サフィアーンの内側に目覚めたサフィアーンの人格《こころ》が。「おかしい、見えない、動けない、しんどいぞ。お腹《なか》が、お腹が、……ああ、そうか、ぼくは猛烈に空腹を感じている!」
そうなのです。魔王サフィアーンの肉身《からだ》を襲っている危機的状況、これは餓えと渇きに由来していました。睡眠《ねむり》の饑餓ではない、ほんものの生身《なまみ》の饑餓状態です。ふり返ってみれば、サフィアーンの屍体《からだ》がアーダムの精神《こころ》に憑《つ》かれて以来、生き返った肉体は――魔王サフィアーンとなった肉体《それ》は――ずっと飲まず食わず。産道のような狭い隧道《すいどう》をぬけて「大地の子宮《こつぼ》」に降り立った直後も、相当に長い時間をたたずんで無為に抛《なげう》ったのに加えて、まずは海のものの夢の石室の守護者との死闘、さらにさきほどの森のものの夢の石室の守護者との決闘を経て、その後の「茫然自失」状態が一日半あまり。この間《かん》、飲まれる水もなければ摂られる食物もなし。しかも苛酷《かこく》に活動して(させられて)、魔王サフィアーンの肉体はほぼ限界の饑渇《きかつ》と栄養失調におちいっていたのです。なんといっても肉体を操縦していたのはアーダムの精神、これは一千年間をミイラとして生きてきましたから、水分や栄養の補給など考えたこともありません。ですから、あたりまえのように生身を餓死寸前の状態に追いやったのです。
そう、それは半端な状態ではありませんでした。海蛇や巨竜との戦闘《たたかい》はあらゆる栄養を消費して、燃焼しきり、魔王サフィアーンの体内からいっさいの水分も奪って、涸渇《こかつ》の極北《さいはて》にいたらせていました。じっさい、限界でした。そして魔王サフィアーンのなかのサフィアーンの人格《こころ》も、それに気づいていました。「だめだ、なんだか胃が空っぽで……ぐーぐーと腹の虫が鳴く……いや、鳴かないほど減っている……減っている、お腹が……ああ、やばい、これじゃあ死んでしまうぞ。のども渇いて……乾ききって……」
と、そのときです。魔王サフィアーンは鼻腔《はな》は嗅《か》ぎました。美味《おい》しいにおいを! 餓死寸前の肉体の嗅覚《きゅうかく》器官は、はっきり料理のにおいを嗅ぎつけたのです。幻臭? そうではありません。現実に、魔王サフィアーンのかたわらにある、芳烈な香り。あろうことか、それは焼き肉のにおいでした。こんがり焼けた美味しい肉のにおいでした。ちょうどいい焼き加減の――
「ありがたや!」と魔王サフィアーンのなかのサフィアーンは声にはださずに叫びました。というか、声にはだしていましたが、内容不明の「シュ……ゴ、ゴゴゴ……」としか響きません。サフィアーンの人格《こころ》は思いました。「これは焼き肉にちがいないぞ! ああ、極上の羊肉だろうか、最上級の牛肉だろうか、それとも肥りに肥らせた鶏《とり》や鳩? すばらしい肉汁の香りもする!」なにしろ飲み食いを何日間も断たれていたものですから、その鼻腔《はな》も繊細に、あらゆる細部を嗅ぎつけて働きます。「ヤア、アッラー! この美《うる》わしの芳香は……ふんぷんと、そばに、ほんの前方《かたわら》に――ちかい、ちかいぞ!」
いつしか、魔王サフィアーンは匍《は》っていました。石甃を、ずり、ずり、ずりッと匍匐《ほふく》前進して、においの側へ、においの源泉《みなもと》へ。
すばらしい焼き肉へ。
そして、たどりつきました。
焼き肉に。
こんがり焼けた巨竜の屍骸に。
「ビスミッラー!」
万物の主アッラーに「いただきます」といい、翳《かす》み目の魔王サフィアーンはなにも見えないまま、その肉を喰らいました。ああ、なんたるあじわい! これぞ炊金饌玉《すいきんせんぎょく》、肉料理の精華といえるような香味にして風味、悦楽の滋味でございます。空腹感がもたらす幻想ではなしに最高に美味、あらゆる肉類のなかで一等すばらしい、いわば極楽的な食肉がこの竜の肉《しし》だったのでございます。脂肉《あぶらみ》もたっぷり、囓《かじ》った感触は焙《あぶ》った仔羊《こひつじ》も顔負け、これでは顎《あご》が落ちそうです! しかも――目の見えない魔王サフィアーンが――食べても食べても、焼き肉はつきるようすが感じられません。食い倒れも可能なほど、たんまり存《あ》るのです。魔王サフィアーンの目のまえに、手もとに、這《は》ってすすめる範囲に供されているのです。ああ、ご馳走《ちそう》が待機する夢の世界! 魔王サフィアーンはこの屍骸《しがい》の体内《なか》をながれていた竜血もすすりました。蒸発せずにのこっていた竜血でのどの渇きを癒しましたが、これがまた! サルサビルの河(イスラームで約束された天国を流れる河のひとつ)の清水にもおよぶかと想像される甘露ではございませんか! さすがは巨竜、妖魔界の王族の一員ともみなされるような竜! 魔王サフィアーンは厭《あ》かず巨竜の焼き肉を喰らい、その天然のシャーベット水のような鮮血を飲みました。さらに巨竜の屍骸を食いすすみ、さらに竜血を飲みすすみ、臓腑《はらわた》にいたって滋養満点のそれら(臓物のこと)も平らげにかかりました。竜の心臓も頬ばり、これはもう圧巻の美味なるあじわいでした。
こうして魔王サフィアーンが焼き肉――と当人が盲信しているもの――をしたためつづけると、餓死寸前の状態だった剣士の肉体《からだ》のなかで、摂られた食事はたちまち消化《こな》されて、食されるはしから魔王サフィアーンの養分に(うしなわれた肉に、血に)変わります。
魔王サフィアーンの、肉に、血に。
巨竜の屍肉《しにく》が――魔王サフィアーンの、生きている肉に、生血《なまち》に――生まれ変わるのです。
かきこまれて、消化されて、あらたな生命《いのち》として生きなおして。
竜の心臓《ハツ》ですら。
魔王サフィアーンのなかで新生するのです。
サフィアーンの人格《こころ》は盲目に喰らいつづけていました。その背景で、変化は生じていました。むろん、魔王サフィアーンには目撃できません。しかし――それは――息を呑《の》むような情景。空っぽになっていた方形の小部屋に、ちっぽけな石造りの室《むろ》に、ふたたび夢が生《は》えはじめました。消滅しきってしまったはずの、森のものの夢が。
ふたたび。そして、たちまち。
あの夢が。
始原の時間が。
巨竜の屍肉を喰らいつづける魔王サフィアーンの背景で、始原の時間はひろがり、呼吸《いき》をしはじめました。
吹き返しました。
森のものの夢は。
以前とおなじように、繁殖しだしたのです。
地下のさらに地下から――この「大地の子宮《こつぼ》」から――地上へ。煩悩の巷《ちまた》であるゾハルの京師《けいし》へ。いっぽうの拾い子は、いかなる宿命《さだめ》にあったでしょうか? われわれは剣士の肉身《からだ》を翻弄《ほんろう》している二つの精神の挿話から、いまいちど魔術師のそれに視線を転じます。
ファラーの生身《からだ》を見舞うものは、他方のサフィアーンとは対照的、難儀とは正反対の待遇《もてなし》です。
その下半身は淫佚《いんいつ》にふけり、夜ごとの痴戯三昧《ちぎざんまい》。しかも場所は王宮のなかの楼閣、姫|御前《ごぜん》の寝室です。いつも朝方まで容色無双のうら若い乙女の陰門《ほと》をあじわって娯しむと、一日めの昼間には永世|禄《ろく》を授けられ、二日めの昼間には宮殿さながらの家屋敷を賜邸《してい》としてちょうだいし、すでに拝領している男女の奴隷をずらりと侍《はべ》らせて、かしずかせて身のまわりの世話をさせ、当人はりっぱな御衣《ぎょい》をまとって邸内とゾハルの往来を――威風堂々――闊歩《かっぽ》する毎日。なにしろ、いまだに凱旋《がいせん》将軍の「勇者」です。さて、三日め、この「勇者」は王領内での地位《いどころ》をいよいよ望むままに定《き》めよと問われて、みずからの希望するところを口にしました。
ファラーはどの大臣の後釜《あとがま》にすわったのでしょうか? 宰相? いかなる権限でも授与すると確約されておりますから、やっぱり最高の顧問官として高御座《たかみくら》の次席あたりに? それとも、手に入る身分が永久《とこしえ》ならばと、ゾハル領内の藩侯になることを所望? ちがいました。ファラーがもとめたのは既存の地位《いどころ》にあらず、創出されなければ就けない境遇、あたらしい役職でございました。
「あの迷宮を」とファラーは申したのです。「てまえが管理したい所存でございます」
「あら、まあ!」と答えたのは玉座の王女、夜は夜とてこの麗容の魔術師と雲雨《うんう》の夢をむすび、昼は昼とて絶対君主として専制と圧政、専断横暴の翔《ふるま》いをつづけている芳紀十五歳の佳人、ドゥドゥ姫でございます。場面はゾハル王宮内の謁見室、居ならぶ貴顕重臣連をまえにしての問答《やりとり》です。「あの邪悪な地下|遺蹟《いせき》の、管理? 管理っていったい、なんのことかしら?」
「いまだにゾハルには腐敗堕落した衆生《しゅじょう》があふれ、忌まわしき魔王アーダムがわが手腕により討ち滅ぼされた現在《いま》も、完全には災禍は絶えておりません」とファラーは立て板に水で語りだしました。「むろん、諸悪の根源はこの古《いにしえ》の魔王でございました。これこそが往古の遺蹟の主《ぬし》でございました。しかし、しかしながら――すでに迷宮内には棲《す》みついている(ここを棲み処《か》として数を殖《ふ》やしている)魔物があまた。はびこっている人外境の化物《グール》の類《たぐ》いは、もはや千尋《ちひろ》の秘奥にあの迷宮の主人《あるじ》が瞑《ねむ》っていようと、いまいと、無関係にのさばり野生しているのです。群居しているのです。地中にひろがっている宏大《こうだい》な迷宮内をおのれらが棲むに理想的な環境に変えて――。すなわち、瘴気《しょうき》。たっぷりと、瘴気。それが迷宮《そこ》にはあふれています。あふれて、わが勲功《いさおし》によって魔王アーダムがうち斃《たお》された現今も、無念なことながら地上に噴きだしているのです。地上に、そしてゾハルの巷間《こうかん》にもながれこんで、滲透《しんとう》して――」
「それじゃあ、依然としてあの迷宮が禍事《まがごと》の本家本元ね!」
「さようでございます。市井《しせい》の徒はそのため、あいもかわらず悪逆無道に堕ち、ゾハルの将来の見通しも――ああ、口にするのは憚《はばか》られるのですが――昏《くら》い影が翳《さ》されたままなのでございます。てまえは単身にて魔王アーダムを撃滅した魔術師として、偉業をなしたと囃《はや》され、かつ『勇者』との過大なる賞讃《おほめ》にあずかりましたが、完全にゾハルを救済せずしてなんの『勇者』でしょうか。いかほどの偉業でございましょうか。これこそは瑕瑾《かきん》、英傑としての名折れ、ですから不備はおぎなわなければならぬのです。それも、わが手で、早急に。あの砂漠の地下遺蹟を管理するとは、すなわち以上のようなしだい。世に害毒をながす瘴気をできるかぎり早々に絶って、迷宮内から化物《グール》の類いを一掃するために、挺身《ていしん》するということでございます」
「すばらしい熱意《こころざし》だわ! あなたが瘴気根絶の担当にみずから志願してなるというのね。担当の大臣《おとど》に!」
「その許可《おゆるし》がいただけますなら。破滅の淵《ふち》、あれなる堕落と破滅の淵源《えんげん》、そして魔霊《マーリド》や見えざるものの族《やから》や悪鬼の淵藪《えんそう》、てまえが管掌いたしましょう。いずれは、ありとある化物《グール》をのこらす、平らげることを最終目的に、まずは魔王アーダムという主人《あるじ》をうしなった現下の迷宮を――この古代遺蹟に関するいっさいの権利を正式に授けていただいて――飼い馴《な》らしましょう」
このようにファラーは申しでました。肚《はら》に一物どころか、百物いれて。
対するドゥドゥ姫はといえば、こちらも胸に百物。「あなたったら、ほんとうに英雄! 濁世《だくせい》の浄化に邁進《まいしん》する、すばらしい救世主さながらの心もちなのね。よろしいってことよ。もう、なんだって宜《うべ》な宜《うべ》な。ほしい権利はもってけ泥棒よ!」と即座に応じて、にたーっと婀娜《あだ》めいた笑みをたたえます――垂らした面紗《かおあみ》のむこう側で。「砂漠に掘られた巨大な墓穴みたいな遺蹟《あれ》、穢《けが》らわしい不祥の迷宮《あれ》、全部あなたに任せちゃうわ。こんこんちきの魔王アーダムもちゃっきりちゃっと打倒した不世出の妖術師《ようじゅつし》のあなたなら、ああ、美《うる》わしいファラー、きっと地底の巨大迷宮だろうが魔王《イブリース》の天空に築かれた楼閣《たかどの》だろうが、もしかしたら悪魔《シャイターン》の『地獄でいちばん』といわれている雪隠《せっちん》だって飼い馴らせるわ。だって、あなたの魔術の分野における大自在力、あれは半端じゃないですものね。それじゃあ、この政務所《ディワーン》にぞろぞろッと列席なさっている大臣《おとど》がたが証人で、かまわない? あなたにね、すっかり下賜しちゃうわ、冀求《のぞみ》どおりの権限!」
「うえなき喜びでございます」
「あ、ちょっと確認。よもや独りで迷宮内の化物《グール》の一掃にはげむということじゃないわよね?」
「もちろんでして。わたしが目下想い描いているのは、あの迷宮内の地下の都市《まち》に暮らしている強者《つわもの》たち、すなわち魔王アーダムの討伐のために諸国からつどい来た練達の騎士やら幻術師の一党やら、その他の豪胆きわまりない人間たちに協力を乞《こ》い、事業《こと》をすすめるというものです。すでに熟練の魔物|狩人《ごろし》となった武士《もののふ》や横丁の魔術師たちも多数、利用しない手はありませんし、なにしろ地底に徘徊《はいかい》している魑魅魍魎《ちみもうりょう》の数といったら、無限から四つか五つだけ引いたほどに無数。とてもとても、てまえ独りでは処理《さば》ききれない事柄でして。ですから――」
「いいの、いいの、それでいいの。とっても効率的! そして理智的な結論! あなたとは意気投合しちゃうわ。管理という行為《おこない》はなるほどそうだわ。希望《おのぞみ》のままに法も定めるし(このゾハルの国家内のよ)、お布告《ふれ》もだすから、全力でがんばってちょうだい! 荷《に》やっかいな瘴気の浄化、期待しておりますわ!」
ふり返れば地下都市、一大事の出来《しゅったい》に翻弄されたのがこの三日間でした。「魔王討ち滅ぼされる」――この情報に、あわれ古《いにしえ》の魔王の首級《くび》を狙っていた猛者《もさ》の一群《ひとむれ》は悲鳴をあげます。ああ、大目標は奪われてしまった! 秘奥の玄室の主人《あるじ》はいきなり斃されて、われら自称「勇者」にとっては鳶《とんび》に油揚げをさらわれたも同然! 阿房宮《あぼうきゅう》を改造した都市《まち》は大騒ぎ、地底の市街に激震は走ったのです。この三日間、ある槍騎兵はすごすごと地上にひきあげ、弓術の達人はあてがわれた地中の家屋(というのは無料の旅寵《ハーン》でございました)の一室にこもって泣き暮らし、棲みなれて愛着すらできた都市《まち》をあとにすべきかどうか悩みに悩み、魔術の才物は悄然《しょうぜん》、隠秘学の生き字引は青菜《あおな》に塩、剣法の麒麟児《きりんじ》は落胆してぼやぼや、ペルシアの聖人はぽかんと空《うつ》ろ、こうして立身出世を夢見て地中に降《くだ》った自称「勇者」の何割かはたしかに早々に荷物をまとめて地上にもどり、故郷《おくに》に帰りました。あるいは、帰郷の支度を――地中の市街で――はじめていました。ふんぎりのつかない者たちは、
「なに、いずれ逐《お》いだされるならば、それまで演習場にしていた『万魔殿』地帯で、最後の財宝《おたから》強奪にはげんでやるわい!」
と、悵然《ちょうぜん》として歎《たん》じる仲間を尻目《しりめ》に、従来どおりに化物《グール》の巣窟《そうくつ》に突進していきました。いずれにしても、自称「勇者」たちは魔王アーダムが打倒されてしまった以上、この古代|遺址《いし》は鎖《とざ》されて、地下の都市《まち》からは全員が追いたてられるものと予想していたのです。そのように覚悟して、ある者は愕然《がくぜん》としておろおろ、ある者は悲痛にひいひいと叫《わめ》いていたのです。
とはいっても、悲款《ひたん》の声をあげていたのは理性があって状況が把《つか》めている者ばかり。市街に暮らしていない人間は動揺などとは無縁でしたし、はたまた建築家一族によって用意された都市《まち》ではない都市《まち》の内部、ようするに奇人の奇人による奇人のための市域に棲《す》みついている人間は、問題をまるで問題とせずに問題ではないものを問題として痴者《しれもの》ならではの太平楽に生きて、だれひとり外界《そと》などめざしてはいませんでした。立ち退き? 立ち退きとはなんぞや? ああ、奇人たちに変化《かわり》なし。かように錯乱した迷宮にみごとに適応して生きる惑乱の居住者たちは、のうのう――自称「勇者」たちとは反対《あべこべ》に――暮らしつづけておりました。
阿房宮という楽園の内側《なか》に。
以上のしだいが地下の三日間。
そこに、勅諚《ちょくじょう》は発布されたのです。
ぶじに魔神のなかの大魔神、古《いにしえ》の魔王アーダムは討ち滅ぼされましたが――と、これなる詔《みことのり》は語っておりました――ですけれども古代|遺蹟《いせき》は封鎖しませんことよ。王家の専有にはもどさずに、変わらず万人にその門戸をひらいて、地下都市内にも棲まわせますわよ。なにしろ、いまだに迷宮に巣食う化物《グール》ども、これはゾハルを詛《のろ》う類いの氛妖《わざわい》の種、無視はできない諸悪の原因《もと》ですから、どうか勇士のみなさまは従前のとおりに地底の都市《まち》におのこりになって、魔物の栖《す》の撃滅におはげみになって。もちろん、殲滅《せんめつ》の結果として獲《え》た財宝《おたから》はそなたたちの独占《もの》ですし(まるっきり課税もいたしませんわ)、食糧供給もいままで同様、旅籠《ハーラ》の類いももちろん無料《ただ》。地下に棲まう人間《もの》はわがゾハルの王室が責任をもって扶養いたします。いかがかしら? 満足していただける条件かしら? 朕《ちん》はそのように信しているわ! それでは、勇士のみなさま、心から武運長久お祷《いの》りしております。追伸。こちらから大臣《おとど》を遣わしますので(この救国の魔術師ファラー公が迷宮のあらゆる権利を有しております)、信頼なすってね。
おお、これは朗報! いったんは落胆に没《しず》んだ自称「勇者」たちが――この御言《みこと》に接して――驚喜しないでいられましょうか。かように現状維持が約されたならば、地下居住者たちにとっては生活《なりわい》の糧《かて》はほぼ永続! これはもう、大歓迎です。俗称「地下宝物殿」からいままでどおりに宝物《たからもの》を漁りつづけてよいという、奇蹟《きせき》のようなお布告《ふれ》です。すばらしきはゾハルの大王《おおきみ》の寛大な御心《みこころ》! もちろん、地下の都市《まち》にあって歓喜の声をあげたのは、伎倆《うで》におぼえのある自称「勇者」ばかりではありません。借金から夜逃げして地底に移っていた貧乏人たち、地上(ゾハル市内)には仮寓《かぐう》も得られなかったあまたの無宿《むしゅく》者たちは随喜の涙をながしましたし、それに類した世捨てびとの旅烏《たびがらす》だって同然。あるいは地底での商売が繁盛して、軌道にのっていた商人《あきんど》たちも安堵《あんど》してへなへなと頽《くずお》れます。
事情をまるで知らずに、救われたのは奇人たちですが、この大集団は(じつをいえば阿房宮内にわんさか群棲《ぐんせい》している痴人《しれびと》たちの総人口は、いやはや、五|桁《けた》の大台を突破しておりました)たぶんに古代遺蹟の入り口が鎖《とざ》されてもその内部で生きのび、さらに食糧の補給がつきても超越的、魔界的な自給自足をはじめたのではないかと想像されます。
はて、ドゥドゥ姫は(あるいは、それに憑《つ》いている存在《もの》は)なにを考えていたのか? 分析は容易です。自称「勇者」たちが阿房宮内で魔物との戦闘《たたかい》をつづければ、かならず犠牲者はでる。怪物の手にかかって悶《もだ》え死《じ》にする剣士は、魔術師は、ぜったいにいる。けっして皆無とはなりません。そして、それは贄《にえ》となる。定期的な、犠牲に、人身御供《ひとみごくう》に。
のたうちまわる魂が捧げられるのです。
祭神《さいじん》に。
生け贄の装置は機能しつづけるのです。
装置を稼働させつづけるための策略。なるほど、いかにも。しかも、祭神は知っています。魔物を殺せば殺すほど、迷宮の内部《なか》に人外境の生物《いきもの》は涌《わ》きつづけることを。これは永久機関なのです。減らそうとすれば殖《ふ》える。戮《ころ》そうとすれば生じる。より生じる。魔窟《まくつ》は、それを放置しないかぎり、終焉《しゅうえん》をむかえない。平定をこころみて、征伐にむかえばむかうほど、怪鬼《かいき》の食餌《かて》としての恐怖は撒《ま》かれ、妖霊《ようれい》の佳肴《かこう》としての苦悶《くもん》は撒き散らされる。
血がながれていては終わらない。
戦慄《せんりつ》する感情があっては、屠《ほふ》られる者の絶叫があっては、終わらない。
それを――もちろん――ドゥドゥ姫の口を(そして全身を)借りている存在《もの》は知っていたのです。
瘴気《しょうき》が根絶されることはありえないと承知して、ファラーの申し出を容《い》れたのです。
知っていて、にたーっ、と笑ったのです。
そして、いまひとり。にやっと哂《わら》って……皓《しろ》い歯をきらっと耀《かがや》かせて……玲瓏《れいろう》たる美貌《びぼう》を具《そな》えた魔術師が動きだします。
おのれの秘めたる意思を現実化して。
化物《グール》は減りようがないのだという事実を、諒解《りょうかい》しているのか、いないのか、事態のこの展開《なりゆき》のそもそもの発案者であるファラーは、玄室でのアーダム打倒から四日め、約束どおり――「迷宮を飼い馴《な》らすために」――地下にむかいます。
ふたたび地上のゾハルの俗塵《ぞくじん》から離れて。
享楽を後方《しりえ》にして、城門を発って砂漠に踏みこみ、それから地中の遺蹟にのりこみました。
こんどは所有者として。この巨大な地下の建造物の――全体像すら把握できない無限界の迷宮の、そう、魔王アーダムに代わる主人《あるじ》として。
阿房宮の第二の所有者としてです。
地下世界の住人たちの歓迎ぶりは(奇物《いかれもの》をのぞいた都市《まち》の居住者にかぎっていえば)、四日まえに地上の都市《まち》で――ゾハルの全市で――見られた熱烈な款待《かんたい》に、勝るとも劣らないものでした。ここでもファラーは英雄、ゾハルの市民にとってこの「勇者」が救世主なら、地底の市民にとっても救世主。迷宮のなかの都市《まち》の閉鎖という、最悪の事態をみごとに回避して、現状維持を大王《おおきみ》に奏上した大人物ですから。
なにしろ遺蹟の土地を永代所有したという「ファラー公」。ある意味では都市住人ぜんいんの大家です。有象無象《うぞうむぞう》が媚びて、へつらいます。味噌《みそ》を擂《す》って胡麻《ごま》を擂って、いつだって大地に額《ぬか》ずきかねない様態《ありさま》。ところがファラー、帝王《スルターン》のようにふるまうのかといえば、まるでちがいます。「まあ、まあ、面《おもて》をあげて。おれたちは兄弟みたいなものじゃないか。先日までいっしょに魔王征伐にいそしんでいた同輩《ともがら》じゃないか」という洒々落々《しゃしゃらくらく》たる態度。その飄々《ひょうひょう》とした物腰に、感動して涕涙《ているい》を禁じえない妖術《ようじゅつ》家に槍術《そうじゅつ》師、剣法の業師《わざし》、無宿人(地上のゾハルでは無宿《いえなし》だった元無宿人)、商人《あきんど》たちもあまた。がっちり人心をつかみます。
「おれはさあ、たしかに天子さまの許可《おゆるし》を得てこの迷宮の全部《まるごと》を預かったが、というか、いっさいの権利を正式にちょうだいして、管理者の地位に就いたんだけれども、だからといって王さま然とみなの者を治めにきたわけじゃないんだ。宰領するというよりも、保護にきたっていうのかなあ、できるかぎり自由にやってほしいんだよ。兄弟がた、一人ひとりにね。この迷宮の家主《やぬし》であるおれとしてはね、最終目的は瘴気の根絶、というのはさ、つまり化物《グール》の類《たぐ》いの一掃だから、恃《たの》めるのはやっぱりおまえさんがたの伎倆《うでまえ》、比類のない経験、そして据わった胆力だからね。なにしろ、この目で見ているから、信頼がおけるよ。どうか全力をだして徘徊《はいかい》している化物《グール》どもにたちむかっていってもらいたいんだ。おれは心底から応援するし、便宜も図る。ここは弱肉強食の世界ではあるけれども、おれたちは――おお、『コーラン』の開扉章に誓約《ちかい》をたてて――相互扶助の精神に生きようじゃないか。任命された大臣として約束するんだが、この地下の都市《まち》からは、いっさいの無法は排除。そして愉快に、できるかぎり娯しみながら魔物殲滅にはげんでもらうよ」
そこで、きらっと皓歯《こうし》を光らせるのです。
「おれの都市《まち》に暮らしている兄弟がたの、一人ひとりにね」
ああ、このうえない容姿《かおかたち》から吐きだされる、このうえない甘言。その澱《よど》みのない、巧みなことばづかいはどうでしょうか? これこそ弄《ろう》される巧言令色、居あわせた人間はコロリとこの「ファラー公」の信奉者に転んでしまいます。しかも、絶対的な感服、傾倒をもって。
ついでファラー、こんどは古巣でもある魔術師横丁をはじめとした地下の都市《まち》の地域社会から、評議会の構成員などになっている親方《シャイフ》格の面々を招《よ》びあつめて、これら古兵《ふるつわもの》の自称「勇者」たちと話しあいをもちました。地域社会をしきっている巨頭の剣豪や大妖術家たちにむかって、ファラーは懇《ねんご》ろのかぎりに懇ろに、
「いろいろ組織して、この迷宮内の規律や人間をたばねると思うけれども、基本的には――ここに鳩《あつ》まった――親方がたの裁量にまかせるよ。おれとかゾハルの御殿に右顧左眄《うこさべん》なんて、しないでいいから。とにかく、あの化物《グール》ども、全能のアッラーのほかは把握できないほどにわんさか、どっさり徘徊している化物《グール》を全滅させるためにだけ、いままでどおりにがんばってほしいんだ」
といいます。
感激するのは親方《シャイフ》連中。たった独りで魔王アーダムの首級《くび》を獲り(それもぬけがけ的に)、富と数々の恩寵《おんちょう》を独占すると思いきや、英雄ファラーのなんたる度量の寛《ひろ》さ。やはり救世主、やはり外見《そとみ》同様に雅やかな、品行の賤《いや》しさとは無縁の、生まれついての華やかな大人《アミール》でございました。すっかり魅入られて、蠱惑《こわく》されて親方《シャイフ》連中は答えます。
「ご兄弟、それがしは、いま猛烈に感動しています!」
「こうなったら、わが魔術師横丁の町内会、下っ端にいたるまで総力を挙げて万魔殿にのりこみますわ」
「射手《いて》組合も同様!」
「陰陽師《おんみょうじ》協会も同然!」
「投げ槍《やり》達人の五人組も、はい、もちろん!」
「オマーン郷士会もですぞ!」
「いっさいがっさい、よござんす」
さるほどに地下都市の住人たちの意思は、ひとつに、阿房宮の(この地中の巨大建造物、以前はアーダムが主人《あるじ》であった無限界の迷路空間の)いまでは第二の所有者となったファラーのもとに、束《つか》ねられて据えられます。まるで救世のために顕現した聖者、まるで預言者のように。
ファラーが演じている立場、そのままに。
この日、地下都市では往来あげての大騒ぎ。呑《の》めや歌えやのにぎやかな宴《うたげ》が、全市の通りを、集会所を、旅籠《ハーン》を、庭園を、長屋を、さらに花街や市場《スーク》や食堂街を波濤《はとう》のように襲って、地中に類例のない祝典《おまつり》の華やぎでゆるがしにゆるがしました。
ファラーは哂笑《わら》っていました。現実化しつづける思惑に、にやっ、にやっ、魔王アーダム打倒からまる三日を経ての再度の地底行がはじまって以来、ずうっと。さて、ファラーによって所有された地下建造物は、はるか市域から深層《ふかみ》にのびています。そしてファラーは、何階層にもつみ層《かさ》なった地中の都市《まち》の領域のもっとも下層に降りたのち、それでも遺蹟《いせき》を――わがものとした地下宮殿の内部《なか》を――降下し、以前は上昇したのとおなじ径路《みち》を逆にたどりつづけました。もっとも、前回は単身といえども尨犬《むくいぬ》然とした怪物がかたわらに従《つ》いていたわけですが、今回はそれもなし。真実の単身です。お伴《とも》はいっさい引き連れず、従者《とりまき》になりたがる崇拝者の一群もふりきって、祝宴にうち興じるように命じて、地底行をさらに――終点まで――すすめたのです。
もっと下方《した》に、下方《した》に、阿房宮の千尋の底に没《しず》むように、天才建築家の一族の技術《わざ》によって開通《ひら》かれた径路を、歩んで。
最深層に。
迷宮建設の基底の層に。そこに魔王アーダムが瞑《ねむ》っていた玄宮の室《むろ》の――
――ある層に。到達したのです。
そして、アーダムの棲《す》み処《か》であった方形の部屋の、入り口に。
扉は鎖《とざ》されていました。こんどは、封鎖したのは……厳重に封印したのはファラーそのひとです。妖術によって。魔王アーダムの形骸《むくろ》を(あの胴体のみのミイラを)地上にひき揚げるために搬《はこ》びだした、その場面で。
「ほう、ほうっ」とファラーは野育ちの鳩が番《つが》いの相手を呼ぶような丸みのある声で、この封印のもとに帰還した歓びを表現します。「やはり手つかず。いちども閨房《ねや》に男をむかえていない処女《ていらず》のように、手つかず。誓いは守られたなあ、生娘《きむすめ》の封印よ。つぎにこの石室に蹂《ふ》みこむのは――ほかのだれでもない――おれだと、約束したも同然だものなあ」
ああ、ファラーは、にやりにやりと笑います。その哂《わら》いは消えずにのこりつづけています。ここまで。地底行の終点まで。そして魔術的に封鎖された扉、物理的にもひらきようがない閉門を、猥《みだ》りがわしいほどに官能的に撫《な》でたのです。
笑いながら。
妖法の封鎖を解いて、女体の初鉢《あらばち》をやぶるように、じつに愉しそうに塞《ふさ》がれた石室に押し入ります。
そこで笑いが冷えます。
いっきに零度に凍りついて、ファラーはぴたっと静止します。
「……おかしい……おかしい、変わっているぞ――」
独りごちるファラーの声音が、ぶるぶるという慄《ふる》えを帯びはじめます。ファラーの視線があちらにキョロリ、こちらにキョロリと動きます。これはまたなんとしたことか、たしかに石室の扉になされた封印は手つかずで、なんぴとも侵入《はい》った痕跡《こんせき》のない――なかったはずなのに、見れば、石造りの室《むろ》の内部はあきらかに、大胆に変化しているではありませんか。その壁の一面が、まるで魔術の攻撃をこうむったかのように破壊されて、板瓦《タイル》状の小片の石塊は四方《よも》に飛びちり、さらに! 横穴がぽっかり口を開けています。黯《くろ》い、狭い、忽然《こつぜん》と出現《あら》われた隧道《すいどう》の入り口として――
「どうしてだ、だれも封印にふれていないのは、いま、たったいま確認した。確認したんだぞ。おれが。なのに、この横穴《あな》は……」
見れば、変化しているのはその壁面ばかりではないもよう。ファラーは数えあげます。石棺《せっかん》はあります。魔王アーダムの形骸《ミイラ》の寝台だったそれは、おなじ位置に、堆積《たいせき》した自称「勇者」たちの白骨に囲まれて、変わらず――どっしり――鎮座しています。その魔王アーダムの頭部《あたま》もあります。截断《せつだん》された不眠《ねむらず》の迷宮王の首は床に転がっています。そして、その頭部《あたま》が喰らいついていた……喰らいついていたサフィアーンの、屍体《なきがら》は?
はて?
「おい……おい、ないぞ、あれがない……消散している!」
いかにも摩訶《まか》ふしぎ! ファラーがどんなに視線をあちらに、こちらに飛ばして隅ずみを熟視し注目しても、その小さな閉じた方形の石室《いしむろ》には、あるはずの剣士の屍骸《しがい》がありません。
霊剣を手にして殪《たお》れているはずの百戦錬磨の丈夫《ますらお》の――サフィアーンの屍体が。
忽然と消失しています。
「そんな、そんな、莫迦《ばか》な!」ファラーはうなって、理解不可能な事態にとり乱し、わが顔を叩《たた》きました。「アーダムの頭部《あたま》はのこっているのに、それが囓《かじ》りついていた、ガブガブッと歯牙《しが》を刺しこんで離れないでいたサフィアーンの屍体《それ》がない? ないはずがない。死屍《しし》には雲散霧消は似あわない。いや、できっこないぞ。わからん。わからん。まるっきり合点がゆかない……。いったい、この不可思議は――お陀仏になったはずが――サフィアーンはたしかに往生して――まさか?」そこでピタリと自虐の平手うちをやめ、ファラーは癰《はれもの》にさわるようなささめきの声で自問します。「していない?」
その結論に、われながら愕《おどろ》いて再度、自問します。
「おれの秘術をまともに浴びて……にもかかわらず完璧《かんぺき》には息絶えなかった? 死んではいなかった? あの屍《かばね》、あれは仮死だったのか? なぜだ、なぜ……いや、理解できるものか! わかっているのは、ありえないことが起きてしまった、この現実ただ一つだ。死ななかったのならば、サフィアーンの屍体はいずれ動きだした。二本の――おのれの――脚で、立って歩いた。歩いて……」
そこでファラーの目は、この玄室の壁に、いきなり抉《こ》じ開けられた窓のような横穴《あな》に、むけられます。
「これを……やったのか?」
囁《ささや》きました。みたび自身に問いかけて。
「通路《みち》をひらいた?」
出口だ、とファラーは思いました。出口をもとめたのだ。封印された入り口の扉は、内部《なか》から開けようとしてもやはり開かない。妖術《ようじゅつ》で(おれの手による強力な業《わざ》で)塞がれていて、出口なしだ。だとすれば……だとすれば、息を吹きかえしても、外部《そと》にでる手段がない。封鎖からは逃れられず、だから……
通路《みち》をひらいた?
内部を破壊して、べつの出口を?
「壁を……破壊したのか。ガシガシと掘って、この石|板瓦《タイル》がぴっちり嵌入《かんにゅう》されて平らかな、平らかな線を垂直にのびあがらせていた一面の壁を――しかし、なにで? 素手ではない。できるはずもない、魔神《ジンニー》の怪力でも具有していなければ。徒手空拳《としゅくうけん》ではありえない。この石塊の飛散の痕跡《あと》には一種、魔術のにおいも――魔術?」
ふって涌《わ》いた暗示。
するとただちに、自答されます。「あの、魔剣か」と。
「あの、ただならない妖気《ようき》を放っていた霊剣か」と。
ぎりぎりと、音を立てるように、ファラーは下唇を噛《か》みました。
「あれで――あれで掘ったんだな。ここを掘ったんだな。出口をもとめて、秘密の通路《みち》をどうにかして――いずれはおれが発《あば》いて見いだすはずだった掩蔽《えんぺい》された隠し通路を、この壁のむこう側にあると探りあてて。むこう側に、あちら側に、秘められていると嗅《か》ぎつけて。脱出へのわずかな希望にも餓えている本能が、それを必死に嗅ぎあてて。そして、あの霊験《れいげん》あらたかなダイヤモンドさながらの刃《やいば》をふるい、硬い岩石を斬り、壁を裂いたのか。あの霊剣で――そうか、そうか! 刃にひそんだ験《しるし》こそが、おれの妖術、おれの闇黒《あんこく》の魔術、地上のすべての人間と動物から生命《いのち》を奪う『冷たい手』の詛《のろ》いから(避けがたい効用から)おまえを守護したのか、サフィアーン! あの霊剣こそが死の防禦《ぼうぎょ》、魔術に対する護衛だったのか、剣士のサフィアーン! おお、おお、してやられたぞ、瞞《だま》されたぞ、すっかり成仏したと思いこんで――そして」
ファラーの双眸《そうぼう》がめらめらと燃えあがり、昏い感情が(それは癇癪《かんしゃく》やら嫉妬やら、サフィアーンを奸計《かんけい》にはめきれなかった現実がもたらしている痛憤でした。それどころか、はめられたのは自分かもしれないのです)膨れあがります。
ぶんぶん膨れあがります。
「だしぬかれた。おまえがさきに、通路《みち》をひらいただと? この玄室、魔王アーダムの玄室、その涯《は》てにこそ聖域はある。ほんものの聖域が、蛇のジンニーアと邂逅《かいこう》を果たすための地底の聖域が。だから、魔王アーダムはミイラになってまで懸命にこの場所を鎖《とざ》して――封印して、侵入者を屠《ほふ》っていた。秘密の歴史を守って、ジンニスタンの顔役との契約《ちぎり》をおのれの墓とともに葬り去り、埋葬しつづけて。その墓を荒らすのはおれのはずだった。最初に、秘められたものを白日のもとに曝露《ばくろ》するのは、地底のほんものの聖域に通じている隠し部屋を発見して、下方《した》に降りて、神奥《しんおう》なるものを独占するのは、おれのはずだった。おれだ! サフィアーン、おまえではない! おお、おお、聖域を一千年ぶりに探検するのは、していいのは、おれなのだ!」
すさまじい恚《いか》りがファラーの総身から噴いて燃えました。ゴオッと燃えあがりました。ファラーにしてみれば、だしぬかれたのです。万全におし進めていた策略を、あと一手で詰められるという段階で、いきなり崩されたのです。それも、自分が利用して捨てたはずの剣士に。自分の側こそが弄《もてあそ》んだはずの若い剣士に。
しかも、この剣士に聖域への通路《みち》を見いださせたのは、もとをたどれば自分かもしれない。サフィアーンを出口なしの状態に追いやって、壁の破壊と隠し通路の発見に導いたのは……。他人にぬけがけするための機会を、知らずに、われ知らずに提供していたのはおれ自身……。
この、痴愚《たわけ》もの!
激怒して、ファラーはおのれの衣服をひき裂きます。白い皮膚《はだ》が蒼《あお》ざめます。ファラーは(ここにはいない、だから生きのびている)サフィアーンに激怒して、おのれに対して忿怒《ふんぬ》します。事態には、その将来《さきゆき》には暗雲がたちこめています。計略をかき乱したサフィアーンは、ややもすれば下方《した》の、下方《した》の、下方《した》の聖域でこれをはるかにうわまわるような攪乱《かくらん》劇を演じないとも――
「――かぎらんぞ。あの剣豪、そして霊剣。おれが得るべき、おれこそが独り占めにするべき命運《もの》を横どりして、そして――」
ギシッ、ギシッと、噛みしめられたファラーの歯が鳴りました。
継がれる文句《ことば》は、ファラーの口からは漏れませんでした。
だしようもないほどに、感情はたぎっていました。
その憤怒《いかり》、恚憤《いかり》、烈しい赫怒《いかり》は、ただサフィアーンにむけられていました。渦巻いて怒濤《どとう》と化して――屍《かばね》となって息絶えたはずなのに、絶命していなかった――サフィアーンにだけむけられていました。アーダムのことなど念頭には浮かびません。怨念からのアーダムの復活、そしてサフィアーンの屍体《からだ》ののっとりと再生など、ちらりとも想像されません。なにしろ一連のファラーの推理はほぼ金甌《きんおう》無欠にして説得的。「サフィアーンの遺体消失」という謎の解明のためには、みごとに瑕疵《かし》なき推理で、一つも欠点がないほどに錯《あやま》った推理だったからです。
完璧《かんぺき》な誤解を保証する推理。
なんぞ知らん、魔王サフィアーンという存在《もの》が生まれた事実を。ましてや魔王サフィアーンの肉体の内部に二つの人格《こころ》があることを。ですからファラーは――ああ、勘ちがい! 復活者サフィアーンを片怨《かたうら》み、生涯にわたる敵視をはじめたのです。
情勢《なりゆき》はさらに渾沌《こんとん》の方向にゆきます。その天秤《てんびん》は「混迷」と印された側にいきおい傾きます。この晩もまた、公然と独裁する女帝《スルターナ》の非公然の愛人であるファラーは、御前《ごぜん》に召しいだされて閨局《ねや》におりました。濡《ぬ》れごとにおよぶために参上したわけですが(ほかに理由などございましょうか?)、なんたる非常事態! 絶世の早乙女《さおとめ》との一戦をまえにして、ファラーの陽物《もちもの》がその支度をととのえられず、しんなり、ちぢこまって悴《いじ》けています。淫靡《いんび》に濡れた玉門《われめ》がきしだされているのに、ああ、すっかり休眠状態!
「あら、あら、あら、どうしたのかしら?」きょとんと小首をかしげるように、しかし徹底して猥賤《わいせん》な響きを帯びた口調で、ドゥドゥ姫はいいました。「その魔羅《まら》、その小さな、小さな、百姓《ファッラーフ》のやせっぽちの餓鬼《こども》たちがポリポリ囓《かじ》っている胡瓜《きゅうり》にも劣ったちんぽこは? 断然|小物《こもの》よ!」
「いや……その……はあ……」
口を濁すのはファラーですが、これは緊急事態です。役にたたない非公然の愛人は、歴史の証《あか》すところ、宦官《かんがん》にされるか処刑《おしおき》されるのがおち(前者はペニスを切り落とされる悲劇の結果を意味する)。ファラーとしては、勃つものが勃たない釈明を、即座にしないわけにはゆきません。
「なんですの、これでは漬けものの胡瓜だわ。しわしわしわって、萎《しな》びちゃって、あら、あら、あら」
「じつは……たいへんな波瀾《はらん》が出来《しゅったい》したのです」
「波瀾ってなにかしら?。の無用のちんほこ?」
「ちんぽこの萎縮《いしゅく》は結果でございます。原因があって、その結実として不全となってしまいました。欲情がからきし発揮されないほどの一大事でございまして、それがなにかと告白いたすならば、あな仰天|怪顛《けでん》! てまえが陛下より借りうけて所有《わがもの》とし、管理する権限を賜わりました魑魅魍魎《ちみもうりょう》の巣窟《そうくつ》、あの砂漠の地下迷宮にぜんぜん望んでもいなかった秘密が発見されてしまったのです。陛下のおっしゃるところの禍事《まがごと》の本家本元をきっちり管掌いたすために、てまえはまず、穢《けが》れの淵源《えんげん》のなかの淵源である古《いにしえ》の魔王アーダムの玄室に降りたのでこざいます。随伴《とも》として傭《やと》いの建築家やら職人たち――石工や大工や鍛冶《かぬち》――の棟梁《とうりょう》やらをひきつれての調査行で、なにしろ迷宮の深層《ふかみ》のなかの深層《ふかみ》にある部屋をとことん探る計画でございました。そうして根掘り葉掘り穿鑿《せんさく》して魔王アーダムの玄宮の室《むろ》を裸にしてみると、なんぞ図らん、壁面を崩したむこう側に現出いたしましたのが、匿《かく》された通路ではありませぬか! あきらかに瑞兆《ずいちょう》ならざる発見、というよりも凶事の発掘にまちがいないと直観されたものですから、てまえは気をうしなって倒れてしまいましたが、部下に薔薇水《しょうびすい》をかけられてやがてわれに復《かえ》り、通路をのぞきこんで査《しら》べてみました。これが、いやはやいやはや! どうやら下方《した》に、下方《した》にとのびる狭い、狭い隧道《すいどう》です。われわれが魔王の古代|遺址《いし》の最下層と思いこみ、終点はそこにありと考えていた階層は、さにあらず、さらに深層《ふかみ》に降下するための穴を有していたのです。この隠し通路、魔王アーダムの棲《す》み処《か》から延長している秘密の径路《みち》によって、魔物どもの領分《なわばり》はさらなる邪悪の井戸を孕《はら》んでいることが、ああ! こうして陛下に奏陳《そうちん》いたすのも、あなに心苦しい! 判明してしまったのです。つまり、砂漠のあの巨《おお》きすぎる迷宮、一大構築物の基底の層はいまだに把握されておらず、その実態は捕捉されないで彼岸に――闇黒《やみ》のなかに、奈落のかなたに、魔王が猛威をふるっていた階層のさらに下方《した》に――秘められて、手つかずで維持されているのです。ああ、迷宮は、迷宮は、とめどもなく深い。てまえは通路《それ》を見て、ゾハルの将来をおもんぱかって、劇《はげ》しい不安に駆られて、すーっと血の気がひいたのでございます。全身から、すなわち面輪《かお》からのみならず一物からもひいてしまいまして、それで勃《た》たないのでございます」
「ついぞ想いださなかったことを、いま想いだしましたわ!」ファラーの嘘八百(といっても、虚偽のなかに多数の真実がちりばめられていましたが)をうけて、ドゥドゥ姫があげた第一声はまさに予想外。しなしなっと萎《しお》れたファラーの勃起《ぼっき》不全の男根《もちもの》をギュッとつかみ、おや、おや、おや、「わが王家につたある伝承《おはなし》が、ひっそり秘められて、はるか数十代まえの大昔から存在しておりましてよ!」と叫ぶではありませんか。
「はて、それはなんでしょうか?」
「その穴のこと」とドゥドゥ姫はつづけます。「今回の魔王アーダムの一件と、つまり天災《わざわい》の結果によって砂中から顕われた古代|遺蹟《いせき》と、まるでむすびつかないでいたのだけれど、ゾハルの王家には数々の秘宝《おたから》の伝説があるのよ。そのなかの一つに、異端の魔王が匿《かく》しもっている『蛇の遺蹟』の伝承《おはなし》があってね、まあ、まあ、まあ、すっかり忘れておりましてよ!」
ムムムと気を惹《ひ》かれたのはファラーです。なにやら重大事が告白されそうではありませんか。しかも、蛇? 蛇とは、蛇のジンニーアの、蛇? ファラーがいずれ地底の――ほんものの――聖域にて契約《ちぎり》をむすぼうと意図している、ジンニスタンの顔役の蛇神《へびがみ》?
「それはいったい」と知らず急《せ》きこんで、ファラーはみずからの陽物《もちもの》をギュッ、ギュッと搾るように握りつづけている妖冶《ようや》な乙女にたずねます。
「正統の王族にしか入れない建物がこの御殿の敷地内にはありましてね、わたしがそこで、おじいきまに解説していただいた伝説の画図《がと》がございますの。それは古い巻きものの類《たぐ》いで、こうした書巻が何百とその建物には蔵《おさ》められておりますのよ。それで、おじいさまはするするするっと巻きものを紐解《ひもと》いて、わたしに示してくださったのね、
『こりゃ、かわいい孫のドゥドゥ・アル・ジャミーラ(美人のドゥドゥの意)よ、これは「蛇の遺蹟」の図面じゃ。見ればわかるように、閉られた空間の東西南北に置かれた四つの石室が書きこまれておる。図示されておる空間は世界《このよ》の縮図で、四つの石室は、ほれ、神秘と註釈されておるじゃろ?』
『神秘ってなんでございますの、おじいさま?』
『四つの石室には種類を異にする夢が生成しておるのじゃ。そして海の蟒蛇《うわばみ》やら翼のある巨竜やら、それぞれの夢の内容にふさわしい蛇の眷族《うから》がそこを守っているのじゃ。これらを斃《たお》すと、蛇の邪神の秘宝《おたから》が手に入るという』
『どのような秘宝《おたから》ですの、おじいさま?』
『具体的なことは録《しる》されておらんのう。しかし「世界《このよ》を統《す》べる」とあるな。わしが想像するに、それを手にするならば人類の覇王となれるような権能《ちから》じゃな。秘鑰《ひやく》じゃな。ほう、ほう、ここには四種類の魔妖《まよう》の蛇族の斃しかたは説かれておるぞ』
『どうすれば個々の石室を守護している蛇の眷族《うから》どもを討ち滅ぼせますの、おじいさま?』
『四つの力が要るな。心の義《ただ》しさと、比類のない智慧《ちえ》と、武芸の達者さと、運命の書《ふみ》に記された善《よ》き天命じゃ。これを有《も》つ人間がそれぞれの夢の石室の守護者をやぶれるわ。しかるに、智慧の顕現である魔術によって撃滅しうる海の大蛇はすでに滅ぼされておる、かもしれぬ――と註されておるな。ふむふむ、必要なのは清い心のもちぬし、つまり義心の徒と、武術と膂力《りょりょく》に長《た》けた人間と、アッラーより命数長いという宿命《さだめ》を授与されている者じゃな。これらがしっかり揃って、夢の内部《なか》に生きる守護者どもにうち勝てば、蛇の邪神の秘宝《おたから》が獲《え》られるわけじゃ』
『それで、おじいさま、この「蛇の遺蹟」はいずこにございますの?』
『貴い高祖《ごせんぞ》からの伝説によるとじゃな』とおじいきまはいわれたのね、『異端の魔王によって隠匿された地底の深奥《ふかみ》じゃ。はるか奈落の下方《した》の下方《した》じゃ。まあ、しかし、その場所が見いだされることはないとあるな。かりに天運が迴《めぐ》りに運《めぐ》って、天変地異にも匹敵する凶事によって発見されたとしても、異端の魔王はまず通常《なみ》の人類には斃せんとあるな』
『おじいさま、それじゃあ、こんな秘宝《おたから》の画図は役にたたないのでは?』
『おお、そうじゃな。わが孫娘よ、ドゥドゥ・アル・ジャミーラよ、おまえはほんとうに頭がいいのう。利発さは父方の祖父ゆずりじゃ。ガッハッハ!』
『じゃあ、こんな意味のない巻子本《かんすぼん》は、大事にとっておいてもしかたがないわ。捨てちゃいましょう』
『いかにも、いかにも。燃やしてしまおうて。ガッハッハ!』
そしてわたしたち、燃やしちゃったのね。それっきり、この伝承《おはなし》を――わたしったら――失念のかぎりに失念していたのだけれども、ああ、いま想いだしましたわ! どうかしら、たいせつな情報ではないのかしら? 魔王アーダムの玄室から――さらに、さらに――地底の深層《ふかみ》に通じている通路とか、その邪悪の井戸のみならず、あの砂中の古代遺蹟そのもの、そもそも天変地異の結果として偶然《たまたま》顕われた異端の魔王の居城《いどころ》とか、なんだか『蛇の遺蹟』の伝承《おはなし》とつながるのではないかと思うのだけれど、あなたは、ファラー」と呼びかけます。艶《なま》めかしい絃楽器《ウード》のような美声で。「――どのように感じまして?」
「どのようにもこのようにも」と肝をつぶして答えたのはファラー、重要すぎる姫御前の告白(といっても嘘八百のどあいではファラーの先刻の告白《それ》に勝るのですが)に口中はからからに渇き、すっかり翻弄《ほんろう》されています。「いやはや、愕《おどろ》きいったしだいです。その伝承《おはなし》とあの迷宮は、まず絶対的につながります。しかれども、なにをどうたしかめてよいのやら。てまえが目撃した魔王アーダムの玄室に秘匿された通路は、その迷宮のはるか深奥《ふかみ》に下降する隧道《すいどう》の入口《とばくち》部分はですが、きわめて禍々《まがまが》しい……忌まわしい気配にたっぷり、濃厚に蔽《おお》われておりました。一瞥《いちべつ》、てまえが不安に駆られたのはそのためでございます。あの不吉な様相! さきほどの陛下のお話において、夢の精霊とおっしゃられましたか、夢の部屋を守護する蛇の眷族《うから》どもとお釈《と》きになられましたか、以上の連中は(それらは四種類、あるいは三種類とのことですが)ゾハルに災禍《わざわい》をなすものではないのでしょうか?」
「あら? どうかしら? そう指摘されると、不安な想いが胸のうちでヌーッと鎌首をもたげるわ!」
「明瞭《めいりょう》に予測できることではございますが、その石室を守護するという精霊たち、巨竜や蟒蛇《うわばみ》たち、あきらかに魔物のなかでも強力至極な魔物でしょう。このような存在《もの》が人間に害をなさないとは想像が――てまえには――難《かた》いですし、いずれにしても迷宮は瘴気《しょうき》の淵源《えんげん》でありつづけるでしょう。このような存在《もの》をいまだ未知なる深奥《ふかみ》にかかえて、迷宮が化物《グール》の類いの淵藪《えんそう》でありつづけることは必至です。ですから……」
「ですから、なに?」
「てまえは管理者として、ただちに探索をおこなう必要を痛感し(これはまずもって責務です)、ばあいによっては、これらの石室の守護者とわたりあわねばならぬかと」
「征伐ね!」
「いかにも、さようで」
「それはいいわ。大量の人員をもって、探索隊を組み、征伐隊を組むのがよろしいわ」とドゥドゥ姫はそれはそれは嬉々《きき》としてファラーの提案に応じました。いまにも雀躍《こおど》りしそうです。「そうすれば、わたしの胸のうちにも、安心の心情《おもい》というものがヌーッと頭をもたげましてよ」
「それでは、夜が明けましたならば時を移さず、てまえ自身の所有《もちもの》である迷宮内に棲《す》まう剣士、万上、魔物|祓《ばら》いの托鉢僧《ダルウィーシュ》、いっさいの勇士たちを組織して、探索と征伐のための部隊を編制いたします。ただちに編んで、その『蛇の遺蹟』の階層に――推し量るに古代遺蹟の真実《まこと》の最下層に、あの魔王アーダムの玄室内から発見された隧道より、送りこみます。ただちに、傑士たちを大量に夢の石室に投入して、それぞれの心の清浄さや武芸の力量やアッラーによって定《き》められた寿命の長さを験《ため》させましょう。てまえの陣頭指揮のもとで――」
「すばらしいわ!」感きわまってドゥドゥ姫は答えます。「やはり信頼できるのはあなたね! 瘴気根絶の担当の大臣《おとど》に任命して、迷宮の権利をすっかり恩賜して、大成功だわ! わたしも便宜をなんなりと図り、征伐隊の編制につごうのいいように、そうね、お布告《ふれ》をわんさか発《だ》しちゃうわ。それはもう全面的に協力いたしますことよ」
「ありがたい、そして心強いおことばでございます」とファラーは応じました。「かならずや、なんとか算段いたします。ゾハルに災禍《わざわい》をもたらした、かの迷宮(古代|遺蹟《いせき》にして魑魅魍魎《ちみもうりょう》の玉手箱)、あれを飼い馴《な》らすと宣言したうえは不惜身命《ふしゃくしんみょう》、最善のかぎりに最善をつくして、ほんものの奈落のどん底にも――勇を鼓して――降り立ちましょう。また、あらためて奏上いたすまでもない話ではございますが、かりに蛇の眷族《うから》どもの征伐が虧欠《きけつ》なしに達成され、その『蛇の遺蹟』より秘宝《おたから》が獲られた事態《あかつき》には、その――『世界《このよ》を統べる』との――秘宝《おたから》をてまえは陛下の御前に、かならずやひき揚げて奉りたいとの所存にございます」
「内容《なかみ》しだいよね」
「は?」
「あなたにふさわしいものなら、ファラー、あなたが獲《と》ればいいし、わたしも食指が動かされちゃう類《たぐ》いなら、事柄《こと》によっては折半すればいいし、そうじゃなくて? わたしもゾハルにおいてはとうに民事の覇王になっている身分、これ以上に統べるものなんてないわ。そして、おお美《うる》わしの魔術師ファラー、あなたが覇王の秘宝《おたから》に対して山気をだすなら、いいこと? まずはゾハルの女帝《スルターナ》であるわたしと妹背《いもせ》の契りをむすんで、判官《カーディ》たちを召しだして結婚契約書を作成して、それから――正妻に代わって――王位にのぼってちょうだい。もともと魔王アーダムを斃《たお》したゾハルの(真実《まこと》の!)救い主は、褒賞《ごほうび》の一部としてわたしを花嫁にむかえる権利も有していてよ。そのように徇示《ふれ》まわらせていたはずよ。いっしょになれば――わたしと蛇の秘宝《おたから》を手にしたあなたが――なにしろゾハルの威勢は永久《とこしえ》に安泰、ゾハルの大王《おおきみ》は人類の帝王《スルターン》となって、すべてが結構! 大団円! わたし、それで満足。ああ、愛しい愛しい魔術師のファラー、それでは遠くない将来にこの地上世界の主上《すめらぎ》になってね!」
この事態の変化は、はたして夢でもありましょうか? ファラーの胸のうちからは懊悩《おうのう》が消えて、代わって希望が育まれました。それも想像をはるかに超越した希望です。なにしろ聖域の「見取り図」すら頭に入っています。ひとことでいって目処《めど》がたったのです。渾沌《こんとん》の情勢《なりゆき》はいきなり整理されて(整理されたかのようにファラーには見えて)、あとは攻めて攻めて攻めるのみ。これこそ、むしろ、おれの独壇場ではないか? 不安材料は先行《ぬけがけ》したサフィアーンばかり。しかし、それだって斃《たお》せばよいのだ。四柱、あるいは三柱とかいう夢の石室の守護者どもといっしょに、はたまた征伐劇の混乱《どさくさ》のなかで――。こちらには聖域の、その「蛇の遺蹟」のしっかりした情報がある。
ならば、焦る必要はない。
もう焦慮は要らんぞ。
目処はたちました。ついに、ファラーの目処は。この瞬間、本来の策略家にたちもどった心地です。すると――人心地《ひとごこち》ついたとたん――ちぢこまっていた股間《こかん》の一物も、むくっ、むくっ、むくっと勃《た》ちあがります。
「おお、ご照覧《しょうらん》ください、陛下。てまえの陽物《もちもの》が、憂いを解かれて、血が通いはじめましたぞ」ファラーはにたりと笑います。「漬けものの胡瓜《きゅうり》から、これはファラオの方尖《ほうせん》塔(オベリスク。単一の巨大な石材を切りだして作った古代エジプトの記念碑)ですぞ!」
「まあ、ちんぽこの復活《よみがえり》だわ!」
まさにピィーンと勃起《おえ》たちました。ファラーは喜悦に満たされつつ、その元気いっぱいの玉茎で稀世《きせい》の佳人の陰門《ほと》を満たしました。
烈《はげ》しい春情は絶えません。その宵から朝方にかけて、ファラーは四たびも精《き》をやりました。この日もまた、四日まえまでは未通女《ていらず》であったドゥドゥ姫の子宮《こつぼ》は、きっちりファラーの精液《たね》を受けとめたのです。
すべてがこんがらがってゆきます。ああ、裏には裏! ドゥドゥ姫を憑代《よりしろ》としている存在《もの》は、人類最上の魔術師を導いて、いっきに一千年の停滞を、沈黙しつづけていた空白の歳月《としつき》を埋めようとします。沈滞の無時間、砂塵《さじん》にまみれた年代記の――この年代記の――白いページを。白い皮膚《はだ》の主人公とともに。万全の態勢を作りあげます。その態勢とは? かつてアーダムを相手に選んで試みられていた性魔術が、こんどは当代の無比なる妖術《ようじゅつ》つかいであるファラーを相手に試みられ、同時に、スライマーンの封印の装置を毀《こわ》してしまうための方策もおし進められます。ファラーを使嗾《しそう》して、四種類の夢の石室の守護者どもを討ち滅ぼさせようと――。すでに一種類の封印の威圧《ちから》が、なんらかの働きによって殺《そ》がれていることは感じていました。ですから、のこるは三種類。なし遂げられる可能性はたっぷり。一千年のむかしよりもはるかにたっぷりです。糅《か》てて加えてファラーを相手どっての性魔術も成就の望みがたんまり、活きのいい精液《たね》が腹中に躍っています。ああ、二つの方策がどんどん勝ち目をふやしながら進むさまが手にとるよう。そのために詐《いつわ》りの報告をするファラーを瞞《だま》し(上には上、裏には裏!)、完全に手玉にとったのです。
大地の子宮《こつぼ》を「蛇の遺蹟」なんていっちゃって。
――しかし、ファラーを利用する存在《もの》は、手玉にとっている魔術師の目的については無知です。その魔術師が、蛇のジンニーアと契約《ちぎり》をむすびたいという一心で迷宮の真実《まこと》の地底をめざしていることなど、知る由もありません。そしてファラーは? ひたすら邂逅《であ》うことを焦がれているジンニスタンの顔役、蛇神《へびがみ》が、よもや自分の腕のなかで靱《しな》やかな柳腰《やなぎごし》をひねったり、臀《いしき》をはずませたり、玉門《あそこ》をしめたり金玉《あれ》を握ったりしているとは、夢想だにいたしません。そして……そしてファラーがだしぬかれたと恚《いか》りを燃やしているサフィアーンは?
ファラーがいずれ打倒しようと決めている、通路《みち》をひらいて聖域に降りたサフィアーンは?
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イスマーイール・ベイは睡眠《ねむり》から拒絶されている。
まる一日、図書室をでていない。床に就いて寝《やす》んではいない。図書室にもちこまれている長椅子《ディワーン》でも睡《ねむ》らない。
転寝《うたたね》もせずに、どうしたか?
多数の所蔵本、イスマーイール蔵書《コレクション》とともに、沈黙をわかちあっていた。永遠の無言《しじま》が図書室内に落ちていた。もはやイスマーイール・ベイの独白もない。
あるのは書冊の海楼《しんきろう》。
イスマーイール・ベイは『災厄《わざわい》の善』におぼれている。
読みつづけている。アイユーブにみずから所望した稀書《きしょ》のなかの稀書を。イスマーイール蔵書《コレクション》の万巻の写本から崇拝の感情に充《み》ち満ちた視線を一身に集めている書物の王を。
ばらばらに割《さ》かれた一冊の書物、剖《さ》かれた極美の書物を、イスマーイール・ベイは手にして、滲《にじ》みでる災厄《わざわい》の効力を指で、目で、その頭脳《こころ》で感得するために、ページを繰っている。
さらッ。
さらッ。
その音だけが無言《しじま》の空間に響いて、消える。
何度も。
何度も。
イスマーイール・ベイがふれるのは『災厄《わざわい》の書』の一端である。いかにも、用意された現物《もの》は切り離されている。分割されて、十数部の束として重ねられて存《あ》る。イスマーイール・ベイの眼前《まえ》に、円卓上とそのかたわらに、アレクサンドリア絹の布に鄭重《ていちょう》につつまれて。
その物語は理解不能? たしかに。つみ重ねられた順番は、物語が譚《かた》られた順番ではない。ながれは寸断されて、有機的なつながりは軒なみ排除されて、イスマーイール・ベイのもとに提供されている。挿話《おはなし》と挿話《おはなし》の連続性は九割がた失している。いや、十割。まるで意図的に、十割、つまり用意された順番に紐解《ひもと》いていったのでは物語はつながらない。
だが、読まれている。
読了された束はすでに数部。つつみが解かれているから傍目《はため》にも容易に判明する。それだけの数が(それだけの数の災厄《わざわい》の「一端」が)、この知事《ベイ》によって目を通されている。
はじめに美しさがあった。ページいっぱいの優雅な書《カリグラフィー》が、第一の束の第一の紙葉をひらいたイスマーイール・ベイの視界にいきなり飛びこんできた。ほとんど物理的な圧力と化して。装飾写本の蒐集《しゅうしゅう》においては、むろん、書物そのものの美的な価値に重きを置くことが多かったイスマーイール・ベイの目にも、その鑑識眼にも衝撃をもたらすほどの書《カリグラフィー》だった。
端麗にして、濃艶《のうえん》にして、至高の芸術性が孕《はら》まれて。
あまりにも驚異的な筆蹟《ひっせき》。
その瞬間、昂奮《こうふん》を禁じえなかった。たちまち蠱惑《こわく》された。永年にわたって無数の書物を蒐《あつ》めてきたイスマーイール・ベイの審美眼があってこそだが、至上の書《カリグラフィー》はまことに至上であることを理解させた。そこに生み落とされている芸術の燦《きら》めきは、ひたすら圧倒的で、息を呑《の》むいがいになかった。それは紙面の全幅でもって奇蹟にも等しい感動をイスマーイール・ベイにあたえた。
投げつけた。
一葉、一葉が、すべて未知の水準に達していた。無比であって、この書《カリグラフィー》はほとんど地上のものではない。そのようにイスマーイール・ベイは確信した。そして(これが重要なことだが)災厄《わざわい》の猛威のなにがしか、すなわち「一端」を納得した。たしかに極美の書物、歴史に殃禍《おうか》を投じるほどに美しい書物、まるで期待にたがわないと理会《りかい》した。
その紙面の真あたらしさを、イスマーイール・ベイは疑問に憶《おも》わなかったのか? まるで一、二週間まえに録《しる》されたばかりの、あざやかにすぎる葦筆《よしふで》の墨の輝きを、合点がゆかないとは考えなかったのか? 考えなかった。紙魚《しみ》のひとつとてない、通常の古文書のようでないことが、むしろ確信を補強していた。それは魔術的な媒体であり、それは歴史に侵蝕《しんしょく》される存在《もの》にあらず――いっそ歴史を侵蝕する。そのような存在《もの》が、歳月と無縁なのは当然ではないのか?
歳月に侵されて、やすやす凡百の書物のように古びる書冊《もの》が、どうして真正の『災厄《わざわい》の書』でありえようか? 疑問のたちあがる空隙《すき》はなかった。どこにも――あとにもさきにも。右手にも上方《うえ》か下方《した》にも。
このように世界は開闢《かいびゃく》された。物語の宇宙は、イスマーイール・ベイの手で闢《ひら》かれた。『災厄《わざわい》の書』の第一の束は第二、第三、第四の紙葉とひらかれていった。ページがすすんで、『災厄《わざわい》の書』は読まれた。
イスマーイール・ベイに読みはじめられた。
イスマーイール・ベイは唐突に顕《た》ちあらわれる挿話《おはなし》にわけ入る。純粋な物語の次元に。導き手は書《カリグラフィー》、そして――けっして忘れてはならないのだが――マムルークたちには美に対しての一つの確信がある。その容態《かたち》はその内面《なかみ》を保証するとの。相貌《そうぼう》の美《うる》わしい人間はそれに分相応の精神《こころ》を有しているもので、また同時に強者という存在《もの》は外側にあらわれた美によって理解され、みすぼらしいだけの輩《やから》は疑いなく弱者であるとの。
ああ、美は善なるものを表わして、醜は悪なるものを表わす。
かならず。
絶対的に。
それこそはマムルークのよりどころとする真理。
美しい相貌は美しい精神《こころ》を具《そな》えている。だから、極美の書物であることが事実、確認された『災厄《わざわい》の書』は、その内容《なかみ》についても卓越したものであることが暗示されている。いや、明示されている。
そのようにして、イスマーイール・ベイは挿話《おはなし》にわけ入った。そのようにして、純粋な物語の次元にエジプトの知事《ベイ》は飛びこんだ。
架空の書物の現実の物語のなかに。
聞け、それは年代記ではない。ズームルッドによって譚られるときは年代記でありながら、イスマーイール・ベイによって読まれるいまは、年代記ではない。すでに陳《の》べたように有機的なつながりは排除され、廃棄されている。順番に紐解いても、挿話《おはなし》は時間のながれを生むことはない。その物語の内部において。
編年史として年代順《クロノジカル》に読まれることはありえず、三人の主人公の挿話《エピソード》はいっきに展開する。
アーダムの、ファラーの、サフィアーンのそれは。
それぞれの物語は。
聞け、イスマーイール・ベイのまえで、筋道には神秘的な跳躍があふれている。非連続をイスマーイール・ベイは読む。挿話《エピソード》が錯綜《さくそう》している。三人の主人公が交錯している。美醜それぞれのきわみにいる、出生《おいたち》になにごとかを(たとえば両親《ふたおや》の愛のまったき欠如《ぬけおち》を)孕んでいる男児の、少年の、青年あるいは壮年の挿話《エピソード》がいちどきに錯《ま》じる。時系列というものは無視される。ある佚話《いつわ》の結末はさきにあり、主人公の二人は、あるいは三人は出遇《であ》っている。あるいは成長している。あるいは裏切られている。
年代記は無効になり、淆《ま》じる。雑《ま》じる。物語の宇宙を構成する小宇宙――それぞれにファラーがいて、サフィアーンがいて、アーダムがいる――が、あまさず骨牌《カード》をきり混ぜるように錯綜《シャッフル》されている。
読み手のイスマーイール・ベイにとって、これは謎解きだった。
展開される物語の断片は、悪魔的《シャイタニ》な判じものであり、おおいなる神秘《ミステリー》であって、しかも組みあげれば巨大な時間を(それは歴史と呼ばれている)浮上させることは明白《あきらか》だった。
組みあげる? だれが?
聞け、あまりにも巨《おお》きな物語がイスマーイール・ベイを喚《よ》ぶ。構築せよ、歴史を抽《ひ》きだすように、断片を組みあげよ――と。これは謎解きだった。読み手のイスマーイール・ベイをまち構えていたのは挿話《おはなし》が成した迷路であり、迷路はその内部《なか》に抛《ほう》りこまれた人間に「脱出しないのか? 脱出しないのか? 這《は》いださなければ死ぬぞ」と呼びかける。だから、イスマーイール・ベイは(ほとんど本能的に)大幅に歩をすすめた。用意されていた第一の束から、『災厄《わざわい》の書』の第二の束に手をのばした。しかし、挿話《おはなし》は非連続をほぼ完璧《かんぺき》に仕組まれている。だから――この第二の束も読み了《お》えると――イスマーイール・ベイは『災厄《わざわい》の書』の第三の束を手にとった。
浩瀚《こうかん》な世界にまるっきり自然体で没《しず》んだ。飛びこみ、没入した。まるで躊躇《ちゅうちょ》はなかった。いっさいの懼《おそ》れがなかった。それどころではない状態《ありさま》だった。やるべきことは年代記の再構成であり、それは天地《あめつち》の誕生にも(すなわちアッラーの創世の御業《みわざ》にも)匹敵する行為《おこない》だった。
断片と、断片を、イスマーイール・ベイはつなげた。そして譚られるながれは――話術《ナラティブ》は――捏造《ねつぞう》された。ファラーとサフィアーンの古《いにしえ》の魔王との対決の場面がすでに読まれてから、その悍《おぞ》ましき魔王の一千年をさかのぼる出生《おいたち》が、わずか十七歳の少年アーダムの奇譚《きたん》(あるいは武勇譚、あるいは史譚)が物語られた。じつをいえば、それはそれで話術《ナラティブ》として効果的だった。イスマーイール・ベイを厖大《ぼうだい》な書物の内部世界に誘引するのに有効に作用した。この敵役はだれなのか? 何者なのか? なぜ、一千年が距《へだ》てられているのか?
それを読み、それを解いて、それを系《つな》げる。
この行為《おこない》にイスマーイール・ベイは熱中した。いや、本人は熱《ほとり》など自覚してはいない。ただ憑《つ》かれて没頭していた。数奇なこどもたちの境涯《みのうえ》が――三人の主人公の運命が――時間のあちらにあらわれて、こちらに顔をひょっこり見せて、ときに関係《むす》ばれ、通常はまるで縁《えにし》をもたずに譚《かた》られる。それを、見いだして、イスマーイール・ベイは維《つな》げる。
発端《はじまり》はどこなのか? わからない。
終焉《おわり》はどこなのか? わからない。
はたして擁《いだ》かれた時間は一千年だけなのか? 巨大な物語の全容について、イスマーイール・ベイは推理するともなしに推理し、ある瞬間、正解の感触《てごたえ》をつかんで、快感もおぼえた。イスマーイール・ベイは(ある角度から見るならばだが)この『災厄《わざわい》の書』の編纂《へんさん》者であり、書物にとって編纂者はあらまし神だった。
耽溺《たんでき》は不可避だった。
読むことに耽溺《たんめん》するのは。
『災厄《わざわい》の書』に溺《おぼ》れるのは――
だから、イスマーイール・ベイの視界に海市《しんきろう》は浮上する。読むという行為《こうい》が一種の建築になる。重層構造の豪壮無類なる歴史をイスマーイール・ベイは組みあげる。
組みあげる。
イスマーイール・ベイは図書室に籠居《ろうきょ》している。許可なしに立ち入れる者はいない。七名の専属の司書(あるいは所蔵本の管理人)だけが、その例外となる。この保管の専門家《プロフェッショナル》だけが、イスマーイール・ベイの鎖《とざ》された書庫に入り、そして現下《いま》は、交代で朝昼晩の食事を主人《あるじ》にとどける。さらに一日に何度も淹れた珈琲《カフワ》を。図書室に籠居するイスマーイール・ベイに。
まるで「図書城」への篭城。
そして晩餐《ばんさん》が運びこまれるとき、いっしょに搬入されてきた品物《もの》がある。このときだけ、食事と同時に。
高価なアレクサンドリア網の布につつまれた、一つの束。
前日にズームルッドによって譚られて、書家によって筆写された、砂の年代記の最新の部分。
いや、『災厄《わざわい》の書』の。
第十六夜が書物になってとどけられる。
イスマーイール・ベイは紙葉に目を落としつづけている。まだ寝ない。まだ読みつづけている。まだ寝ない。まだ没頭している。
まだ睡眠《ねむり》から拒絶されている。
だから、今晩も夢を見ない。昨晩も一睡もしないで、ふたたび今晩も――
眠らず、夢を見ない。
いずれ物語が彼の夢そのものとなる。
夜が朝《あした》に代わり、朝《あした》が夜に代わる。
第十七夜は訪れる。
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※[#底本ではアラビア文字の17]
そして大量に兵員が投入されたのです。大地の子宮に。ファラーが詐《いつわ》られて「蛇の遺蹟《せき》」と信じている、スライマーンの封印の装置として機能する岩室《いわむろ》に。魔王アーダムの玄室からゴポッと横穴がひらき、産道のようにして通路《みち》がつづいている聖域に。その窟《いわや》に、自称「勇者」たちは続々と送りこまれたのです。
古代遺蹟の真実《まこと》の最下層に、しかし自称「勇者」たちの精鋭は無理|強《じ》いではなしに志願者としておりたちました。ふたたび勅諚《ちょくじょう》が発布されて、地下都市内を徇示《ふれ》役人が大声をだして歩きまわっていたからです。これによれば、怪しい真実《まこと》の最下層の探索、そして四種類あるいは三種類という妖魔《ようま》の生態の調査に進んでのりだす勇士が募集され、探索隊はばあいによっては征伐隊ともなるということ。この(布告日のただいまより)編制される探索および征伐隊の隊員に望んで申しでて、採用された強者《つわもの》には、ゾハルの大王《おおきみ》じきじきの下賜品、数々の栄誉と祝儀があたえられる、とも。さてもさても、王室から扶持や手当てを定められれば、化物《グール》の棲《す》み処《か》を荒らして財宝《おたから》を漁るのとはまるでちがった、安定至極にして危険《あやうき》からも解放された大人《アミール》の暮らしが約束されるわけです。身分も保証されます。ああ、こりゃ結構! またもや意外な詔《みことのり》、ふたたび大歓迎の朗報! そも一攫千金《いっかくせんきん》のために地底に居を移した自称「勇者」たちです。立身出世を夢見てゾハルの地下都市まではるばる渡来した異邦辺境の猛者《もさ》たちです、これこそ所期の目標が達成されるというもの。志願しないでおられましょうか?
さて、阿房宮《あぼうきゅう》内部の都市《まち》に採用窓口が設けられ、面接試験がおこなわれます。いずれ陣頭指揮に立つのはもちろんファラー、この迷宮の所有者です。一般の募集の径路《みちすじ》とはべつに、剣士や魔術師の地域社会の親方《シャイフ》たちの協心戮力《きょうしんりくりょく》を得て、おのおのの評議会が太鼓判を捺《お》した逸材の選出もおこない、これらは率先して銓衡《せんこう》にまわしました。
なにしろ、だれもが協力します。なにしろ、だれもがファラーを地下世界の大聖者としてあつかっていて、いっさいがっさい信頼し、地底の遺蹟内からの悪しき因縁の勦滅《そうめつ》をなし遂げると誓っていたのです。ファラーに協力して、ファラーのために総力を挙げて。
こうして剣士として(はたまた方士として、はたまた隠秘学の博士として)最高の階梯《かいてい》に達した一人当千《いちにんとうせん》の精鋭ばかりが採用されて、無敵の探索隊にして征伐隊が組まれました。総兵員は四十名、さらに第二軍、第三軍が編制されました。これらはファラー麾下《きか》の軍隊も同然、ああ、全員が臈《ろう》たけた指揮官の下僕《しもべ》です!
そして大量に兵員が投入されたのです。
大地の子宮《こつぼ》に。
ファラーが詐《いつわ》られて「蛇の遺蹟」と妄《みだ》りに信じている岩室《いわむろ》に――スライマーンの封印の装置が機能しつづける空間に。
自称「勇者」たちの軍隊は続々と送りこまれたのです。
隧道《すいどう》のはては落石で埋まって蓋《ふた》されていましたが、それを総員がせっせと掘り、すると、最後《いやはて》の階層は確認されました。迷宮のこれ以上はない深奥《ふかみ》が踏まれて、「はるか奈落の下方《した》にある窟《いわや》の四つの石室」も認められました。そこには四種類の、さもなければ三種類の蛇の眷族《うから》がいるはずです。夢の石室を守っているはずです。おまけに弱点は――それぞれの守護者がなにによって斃《たお》される可能性を有《も》つのかは――采配《さいはい》をふるファラーに諒解《りょうかい》されております。あとは攻めて攻めて、攻めて、それでも攻めて、突撃あるのみ。ファラーは探索隊を爾後《じご》、名実ともに全面的に征伐隊に革《あらた》めて、いざや突入せよ! と下知したのです。
「いでや、石室の内部《なか》へ! どりゃあ!」
やにわに大展開です。怒濤《どとう》の変転《なりゆき》です。魔王アーダムの玄室よりはるか下方に展《ひろ》がっている聖域――「蛇の遺蹟」の宏大《こうだい》な岩室に送りこまれた兵員のなかには、善《よ》き天命をもつ者も、心の清い者もいたのです。征伐行の初日、諸国行脚の道士が「きのうの夢」の石室の守護者を討ち滅ぼしてしまいました。粗衣に身をくるんだ霊気《オーラ》もどえらいこの道士は、地上では粗食に断食を重ねて比類なき信心家となり、あらゆる正邪の知識を修め、アッラーの恩寵《めぐみ》を得た道心堅固な人物。その苦行が魂を鍛えて、他者《ひと》の目にとらえられる常時の信心と精進はほんもの、のみならず夢のなかでも敬虔《けいけん》さと徳性はゆるがなかったのでございます。おのれの夢想した思念《おもい》の隅ずみまで、容易に直視できたのです。ですから、実体化した「きのうの夢」の世界においても恐怖せず、懺悔《ざんげ》せず、妄想におぼれず渾沌《こんとん》に陥《お》ちず、ひたすら清澄な精神をたもちつづけて、怨霊《おんりょう》退散! 下《しも》半身がズルッと蛇の尾となって伸びている中空に顕《た》った小女《こおんな》を(それが「きのうの夢」の石室の関守《せきも》りとなっている精霊でした)たちまち御業によって滅没《めつぼつ》させました。さらに征伐行の二日め、モーリタニア出の益荒男《ますらお》が「あすの夢」の石室の守護者をさらりと打倒するという芸当を見せます。なぜにというに、天寿に関して語るならばこのモーリタニア人が死神に襲われるのは九十年もさきの事態《こと》。つたえ聞いたところに拠《よ》りますと、じつに百二十三歳まで故郷の日没の海岸(サハラ砂漠の西端、大西洋岸の地域のこと)で生き存《なが》らえたのです。おまけに未然《みぜん》の夢にどっぷり淫《ひた》りながらも、おののきは無用、モーリタニア人は渾沌に打擲《ちょうちゃく》されたりなど皆目いたしません。というのも、実体化した未来の夢にあふれていたのは幸運の形象ばかり、すなわち「あすの夢」の石室の守護者をうち斃して(この偉業に成功して!)賞讃《しょうさん》のかぎりに賞讃されて、英雄となって、ゾハルの王家から山のような財貨を賜わり、十四夜の月のような処女《おとめ》たちを侍《はべ》らせている、すばらしい予知の幻しか示さなかったからです。これぞ瑞夢《ずいむ》、これぞ吉夢《きちむ》! すばらしい喜夢《きむ》! 悦びのなかで、モーリタニア人は半蛇身の小男《こおとこ》を(これが「あすの夢」の石室を守護している、蛇類の瞳《め》をした精霊でした)斬り捨てました。あっさり。打倒できるのだという確信のもとに。
ああ、夢というものの摩訶《まか》ふしぎ、翌朝にはモーリタニア人はすでに目撃したように王宮の謁見室に招かれて、英雄として遇され、さまざまな褒賞を賜わり、玉の頬をした奴隷娘たちの控える家屋敷を――地上のゾハルの市域内に、貴顕の一人として――さずかっておりました。この待遇に関しては征伐行の初日の道士もおなじでして、拝謁のその場で金貨九千枚、散じても散じきれないほどの黄白《こうはく》を下賜されて、すばらしい綺羅《きら》を恩賜され、同時にまた貴顕大公としての地位も得ました。この二人がいとめたのはファラーの次席ともなるような永久《とこしえ》の身分、いってみれば迷宮所有者の「ファラー公」の右手と左手にもまごう御座《おまし》でした。
状況いっさい急転直下、すでに一種類の石室が夢など孕《はら》まず(すなわち守護者の妖魔などは宿さず)、ただの石造りの小部屋にすぎない事実があきらかになっていたので、征伐隊の突入の劈頭《はじめ》から問題となるのは三種類のみと判明しておりました。そのうち、二種類がわずか二日間で鎮められてしまったのです。そして、ご覧あそばせ、離れ業をなし遂げて擢《ぬき》んでた征伐隊の同輩が、どれほどの盛運にむかっていったかを。おお、ファラー麾下の軍隊のなかに、吹き荒れる羨望《せんぼう》! 燃やされる修羅! 征伐隊の面々はそうして嫉妬《しっと》に駆られて、われもわれもと、鎮定されていない最後の一種類の夢――最後の夢の精霊の居城《いどころ》に殺到したのです。
さて、三日めのうちになるか?
征伐隊は「蛇の遺蹟《いせき》」の四隅に置かれた夢の石室の守護者を――蛇の眷族《うから》どもを討ち平らげきってしまうのか? 平定はなるか? なりません。三日めに、続々死にました。地下都市に暮らす自称「勇者」のなかでも上等のかぎりに上等な逸材たちが、あたら斃死《へいし》いたしました。三日めが終わるまでに第一軍の四十名のみならず、投入された第二軍、第三軍がのこらず討ち死にするかの勢いでした。
ここにいたってファラーはいらだち、またファラーのもとには怪情報がとどけられます。もはや縁もゆかりもないものとなった(と本人は確信していた)焦りにふたたび見舞われた理由はといえば、それは二つあり、まずは第一に「こりゃあ武力だな」と悟った最後の夢の石室の内部《なか》に名だたる剣豪たち、手練《てだ》れの武芸の達人たちを選びに択《えら》んで大量に送りこんだのに、弱点を把握しているはずののこり一種類の蛇の眷族《うから》がまるで斃れないという現実。いったい、なぜ? 時間が経てば経つほど武術と膂力《りょりょく》において秀でた人間も――討ち死にして――減りますから、なるほど、これは目をつぶれない不安材料です。
焦慮の由来の第二。ファラーはみずから指図して投入した初期の探索隊、現在の征伐隊のさまざまな(かつ頻繁の)報告に耳をかたむけ目をこらしながら、こう自問しています。サフィアーンはどこにいるのだ?
なぜサフィアーンが目撃されない?
あの真実《まこと》の最下層に、さらに下降する出口でもあるというのか?
この焦躁《しょうそう》がごぼごぼと奔騰するさなかに、怪情報は大将《かしら》のファラーのもとにあがってきたのです。
「蛇の眷族《うから》とは思えない?」
「いかにも、みどもが視認したかぎりでございますが、蛇らしさがなかったのでござる」とファラーの問いかけに答えたのは奇蹟《きせき》の生還者、最後の夢の精霊の居城《いどころ》に闖入《ちんにゅう》して、逃げ帰ることのできた僥倖《ぎょうこう》の寵児《ちょうじ》でございます。
「なかったっていうのは、おかしいなあ。おかしいぞ」
「御身《おんみ》に助言されて、みどもも蛇の眷族《うから》を――蟒蛇《うわばみ》やら、巨竜やらを予想しておったのですが――」
「人間じみた精霊だったって?」
「さようでござる」
「で、腰から下は蛇の尾っぽ?」
「さにあらず、二本の足がございましたな」
「じゃあ、顔が蛇かな? たとえば、ぶきみな、縦の切れ込みでしかない瞳《め》は?」
「そのような代物は、憶えがござらん」ここで奇蹟の脱出者はゴクッと唾《つばき》を呑《の》みこんで、「それどころか――」とことばを継ぎました。
「なんだなんだなんだ? いったい、間《ま》をおいちゃうような事態は?」
「……たしかに人類《ひと》と同様の左右ひと揃いの眼《まなこ》でありながら、ああ! あの炯々《けいけい》と燃える瞳《め》のおそろしさは! あの悍《おぞ》ましさは! あれは魔人でござる。一瞥《いちべつ》して、極悪非道な面《おも》ざし、兇悪《きょうあく》無比の目《まな》ざし、あの梟猛《きょうもう》な――全身の輪廓《りんかく》を滲《にじ》ませて膨れあがった妖力《ようりき》の霊気《オーラ》と、荒れ地の豺狼《さいろう》も尻尾《しっぽ》を巻いて逖《に》げだすであろう吼《ほ》え声! そして――」
「まてまてまて! 妖力がすごいのか? そいつは、武力だけで太刀打ちできる類《たぐ》いでは――」
「ござらん、ござらん。なにしろ業物《わざもの》とともに殺気が荒れ狂い、のみならず咒《かしり》が飛ぶわ飛ぶわ、それこそ斬りながら妖《あや》しの所作《みぶり》をし、比《たぐ》いのない破壊の呪文《まじない》を放ちつづける、魔術と武術の両刀づかい。無念でござる! せめて襲いかかる妖術を無化するための手勢がこちらにおったらのう。おお、ご兄弟よ、御身《おんみ》に――あの魔人の齶門《あぎと》からのかろうじての脱出者《いきのこり》として――申しあげますが、かならず友軍内に魔術のつかい手は要りますぞ。敵する魔人の妖術《あれ》を防禦《ぽうぎょ》するために、対処するという一点においても、稀有《けう》の術者が必要ですわい。稀有の――それこそ、ご兄弟、御身《おんみ》ほどに研鑽《けんさん》をつんだ魔力戦の第一人者が、いなければ武術家だけでは、徒労にして無益! とうてい最後の守護者は斃《たお》せんでござる」
この怪情報、そして猛襲の体験者(にして生存者)によって説かれた対処法。武術と膂力によってしか撃滅は不可能といわれる守護者を、武術と膂力によって撃滅するためには、まずは妖術の攻めを禦《ふせ》いで勝機をつかまなければならない――。「そうか、そういうことだったのか!」とファラーはいいます。
そして、ならば、と。
「ならば、いざ戦いの場に同行ってことだな」
「はてな、いかなる意味でござる?」
「おれがさ。いかにも魔術師が戦闘《たたかい》に参加しなければならないのなら、おれ以外に、なあ大兄《たいけい》、いったい適任者はいるかね?」
「おらんでござるのう」
「で、結論だ」とファラーはニヤッともしないでいいます。「いきなりの征伐劇の停滞を打破するために、最後のひと柱の守護者を平らげるために、征《ゆ》く魔術師は、おれだろう?」
四日め、大地の子宮《こつぼ》に投入されたのは、ただ一隊の戦力でした。ただ一隊――第一軍から第三軍までの死にぞこないのなかから、実力だけで判断されて選抜された武士《もののふ》たちを中心とした。武術家として属しているのはクルド人の三兄弟、あたかも同胞《はらから》の三名にしてひと組のような、見るも異様な面々でした。まずは全員が具足ひと領《くだり》で身を固めて、薄刃の剣や長柄の鉾《ほこ》を獲物としておりますが、長男は身の丈《たけ》七尺を超える巨人、そして稀代《きたい》の大剣を肩に吊るしております。次男はうって変わって五尺にも満たない侏儒《ちび》、ですが威力抜群の弩《いしゆみ》で武装して、シャームの曠野《こうや》では「祟《たた》り屋の小鼠《こねずみ》」と渾名《あだな》された悪党《ワル》のなかの悪党《ワル》。のこる三男というのが、上背《うわぜい》は六尺ぴったりで二名の兄のちょうど中間、しかし物《もの》すさまじいのは肩幅やら胸幅やらで、丸太のような腕や太腿《ふともも》を誇り、その名も「鉄腕のアフマッド」と呼ばれる剛力無双の山賊です。外見からすれば血縁の関係《つながり》にあるとはとうてい考えられない、けれども事実、おなじ胤《たね》と腹から生まれた家族でございました。ああ、三兄弟が揃えば無敵! 揃わなければ――まあ、そこそこの――武芸の強者《つわもの》。そして、この三名の「武力戦」用の顔ぶれに、ただひとりの「魔力戦」用の兵員として、この征討作戦の大将《かしら》であったファラーそのひとが仲間入りを果たしたのです。
こうして四日めの部隊、唯一の征伐隊は編制されました。
わずか四名から成る一行は、ファラーの所有《もちもの》である迷宮内の地下都市から古《いにしえ》の魔王アーダムの玄室におり、その室の壁面にぽっかり開いた黯《くろ》い円のような横穴を入り口として隧道《すいどう》に這入《はい》り、宏《ひろ》い岩室に――すなわち「蛇の遺蹟」の空間に――おりました。ついに真実《まこと》の最下層におり立って、いまだ夢を生成しつづけている唯一の石室、いまだ神秘を孕《はら》みつづけて守護者を抱えつづけている石室の扉のまえに立ちました。
四名が。
そしていっせいに――突入しました――すでに三|桁《けた》にのぼる一騎当千の猛者《もさ》たちを呑みこみ、絶命させてきた石室に――蹴りやぶるように扉を開けて――
闖入し、たちまち、森のものの夢がひろがります。クルド人の三兄弟とファラーをつつんで、蔽《おお》って、塞《ふさ》いで、嚼《か》んで、一千の虚夢《そらゆめ》が、植物的なるものと動物的なるものの二種類の時間が、ただ一つの幻想が、ただ一つの森が、鎖《とざ》された宇宙に無限の奇夢《きむ》と凶夢と快夢《かいむ》と妖夢《ようむ》とぬばたまの夜と闇を孕んで呼吸《いき》をする始原の時間が。そして時間は割れます。森の王を出現させるために。森の王、ひと柱だけのこった夢の石室の守護者、森のものの夢の守衛である蛇の眷族《うから》。その森の王が顕現《あら》われます。ついと始原の時間を割いて、おしひらいて、虚夢《そらゆめ》どもに断末魔をあげさせて、一千の一千倍の残夢《ざんむ》を弾《はじ》けさせて。
森の王は、森のものの夢の守護者は、四名の闖入者に迫ったのです。
武士《もののふ》たちは構えます。攻め来たる森の王を認めて、ゾゾッと鳥膚《とりはだ》をたたせながらも瞬間《たまゆら》に臨戦態勢に入ります。ファラーもまた、総身から魔力の霊気《オーラ》を噴きあがらせます。霊気《オーラ》を陽炎《かげろう》のようにたち昇らせながら、森の王の咒《かしり》やらなにやらに対する対抗措置をととのえます。一瞬にして魔術的に迎撃の態勢を準備しながら、猛烈な勢いで迫る敵方を、その形態《すがた》を認めます。たしかに魔人でございました。一見しては蛇の眷族《うから》を想わせる類いの徴《しる》しはみつからず、ただ人類《ひと》と同類の形態《すがた》と認識されるのみ。それにしても、ああ、それにしても、なんという猛悪《もうあく》な顔だち! この壮絶なまでに邪気あふれる面相はいかに? まさに魔人、これこそは死魔さながらの癲人《てんじん》、世に類例のない邪悪の頂上《いただき》!
だからこそ、クルド人の三兄弟は顫《ふる》えに慄《ふる》えながら獲物を手にして戦闘《たたかい》に突入し、いっぽう、ファラーはおなじように戦慄《せんりつ》しながら、しかし異なる感情につらぬかれました。
なぜならば、哮《たけ》りをあげる前方の魔人の極悪非道な面《おも》だちのなかに、ファラーは――ファラー独りだけは――認めていたからです。
信じられないものを。
兇暴《きょうぼう》無比に変貌《へんぼう》した表情の、本来の顔貌《かおかたち》の造形を。
その輪廓《りんかく》の端正さ。優美な――生まれついての――完全無欠の眉目《みめ》かたちを。とり憑《つ》いている悪の感情をはがし奪《と》るならば、どうしたって見憶えのある美貌《びぼう》を。
天下無類の剣士の美貌《びぼう》を。
「――サフィアーン!」
名を呼ばれた者、天来の気品をそのすさまじい邪悪な情意の仮面の下にしのばせていた義侠《おとこぎ》の美丈夫はどうしていたのか?
では、森のものの夢の石室に闖入《ちんにゅう》した側の視点から、こんどは旋反《せんぱん》、闖入された側の身に起こっていた事態を、時間《とき》をさかのぼって譚《かた》りましょう。
これは巨竜の屍肉《しにく》に喰らいついてからの魔王サフィアーンの後日譚《ごじつたん》でございます。さて、魔王サフィアーンが森のものの夢の石室を守っていた巨竜を斃してから、その意識の表面《おもて》にあらわれたのはサフィアーンでした。二つの人格《こころ》を具《そな》えている魔王サフィアーンの肉身《からだ》を制禦《せいぎょ》して、空腹に(そして渇感《かつかん》に)ただちに処置を講じようと「焼き肉」に齧《かぶ》りつき、甘露さながらの竜血をすすったのは、事情にまるで昧《くら》い純然たるサフィアーンでございました。ただのサフィアーンの精神《こころ》が、餓死目前の肉体を救済するために、人間《ひと》としての欠かせない欲求にただ盲目的に従ったのです。盲従《それ》もむべなるかな、じっさい、サフィアーンに馭《ぎょ》される魔王サフィアーンの肉身《からだ》は盲目でございました。極度の饑渇《きかつ》と栄養失調から翳《かす》み目となり、いま喰らっている「焼き肉」がいかなる範疇《はんちゅう》の肉《しし》なのかは見当もつかずに――なにしろ見られないのですから――むさぼって、むさぼって、頬ばりつづけて、ついには食い倒れのほんの寸前まで喰らいつづけたのです(このパラグラフにおいては、アーダムの人格に制されたならば魔王サフィアーンの盲いた肉体は――肉体の不全は――まるで問題にされず、視力の不備はその超絶な魔力によってカバーされて、結果としては十全に機能するのも同然となるであろうことが示唆されている)。
この食事が消化《こな》されて、摂られた養分がつぎつぎと筋《すじ》、脈、肉《しし》、骨、皮膚にゆきわたり、総身に滲《し》みわたり饑餓《きが》と渇きを癒《いや》した終局《はて》、フウッとひと息つきますと(じつに数時間も飲み食いにはげんでいたのですが)、ありがたや! その肉体《からだ》は低栄養状態をようやっと脱して、いよいよ視覚もよみがえるではありませんか。そこで魔王サフィアーンのなかのサフィアーンは欣《よろこ》びのかぎりに喜び、いまにも雀踊《こおど》りせんばかりの陽気な風情で「これで現状のいっさいがっさい、なにがなにして、どうなっちゃってるのかが確認できるぞ」と周囲《あたり》の空間に目をこらしました。
ああ、ですが――
「すわ! ぜんたい混迷して森羅万象が聳動《しょうどう》! なにがなんだ?」
視界に映るのは渾沌《こんとん》ということばでは収拾のつかない渾沌、はたまた混乱ということばでは論理的にすぎる混乱です。それこそ幻想の跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する、現世《うつしよ》の法からは一切有為《いっさいうい》が遊離して恣意《しい》に走っている無法地帯です。魔王サフィアーンの視覚《め》は――どこから語ればよいのか――信じられない色彩を見ました。宙《そら》がすいっ、すいっと歪《ゆが》んでいます。その彼岸の色彩のただなかに千に千を累《かさ》ねた根茎がのびて、這《は》い、定着しながら渾然《こんぜん》たる視野を分岐させています。支離滅裂? もちろん、魔王サフィアーンのなかの委細《いさい》知らない(知りようのない)サフィアーンの人格《こころ》にとっては。ああ、ふり乱している髪のような葉うら、葉うらの夢、銀色に煌《かがや》こうという意思、撓《みだ》れている花粉の熱情、舞いながら弾けるフワッ、フワッとした詩想、いたるところに滲《にじ》みでている聖樹の威厳、さらさらの榛《はしばみ》(ヘーゼルナッツを実らせるセイヨウハシバミ)の夢魔の滲透《しんとう》と、じりじりと刺しこむような目箒《めぼうき》(香味料から解熱剤、鎮咳剤にまで使用されるバジリコ)の妖気、それから愛が分泌《ぶんぴつ》しています。雄が雌をもとめて、樹液は沸騰し、一枚いちまいの葉になまなましい官能の呼吸があります。樹齢が七十と二の小さな夢を濡《ぬ》らしています。左手に叛乱《はんらん》する椰子《やし》の戦闘本能を視たかと思えば、右手には栗鼠《りす》の体毛の宇宙感覚がシュッ、シュッと噴きだし、羚羊(優美な姿態のガゼル)の化身を頭上と同時に足下のはるか地中に感じます。群棲《ぐんせい》する巨樹の奥津城《おくつき》、そそりたった棘《おどろ》の敵愾心《てきがいしん》、あるいは自惚《うぬぼ》れ、唯我独尊の態度。なびいている蝶《かわひらこ》どもの、蛾《ひひる》どもの鱗粉《りんぷん》が、砂塵《さじん》となって夢の空間のこの世の涯《は》てにふり、目と鼻のさきに剽軽《ひょうきん》な地虫の笑いが浮かんでいます。
目に見えるものとして。すべてが視界にとらえられるものとして。
法外な夢が魔王サフィアーンをつつんで――四囲から呑《の》んでいます。それは森のものの奇想です。人間《ひと》ならざる存在が(大きなものも、小さなものも、植物とみなされるものも動物と呼びならわされているものも、睡《ねむ》るものも寐《ねぶ》るものも睡眠《ねむり》をむさぼらないものでさえもが)織りなしている夢寐《むび》の実情を顕示します。視界に映っているだけではありません。口腹《こうふく》の欲が満たされて、嗅覚《はな》が解放されてみれば、いまでは「焼き肉」の芳香ではない数々の臭気が認識できます。しかし、そのにおいもまた夢を見ていて、夢に見られていて、幻想の百花|繚乱《りょうらん》です。繚《みだ》れに擾《みだ》れて、たがいに足をひっぱって、信じられない幻臭を濫《みだ》りに奔放に編みます。そして魔王サフィアーンにとどけます。もともと自身の所有である肉身《からだ》を統べているサフィアーンの精神《こころ》は、レバノン杉が発する芳しい香りを認めますが、それも夢?
夢です。万有はのこらず夢、森のものの夢。
尋常ならざる情景と嗅覚《きゅうかく》的な眺望《みはらし》につつまれて、魔王サフィアーンは愕然《がくぜん》にして呆然《ぼうぜん》の態《てい》、ひと声「ああ、ぼくの狂気は済度しがたい!」と叫びます。
その声音には狼狽《ろうばい》と絶望が滲《にじ》んでいます。
「またまた状況あらんかぎり意味不明! ヤア、サフィアーン、おまえは何者かに薬でも盛られて、幻覚に酔っているのかな? それとも寝ぼけているのかしら? むむむ、そうだ、寝ぼけている。寝起きの前後で惚《ほう》けているにちがいない。だって、これは夢だもの」と確信をもって自問自答します。なにしろ、おのれを包囲している世界の感触《てざわり》は、たしかに夢のものだったからです。「ヤア、サフィアーン! 夢にちがいないもの。そうか、そうか、連綿とぼくは夢の論理の内部《なか》にいるのか。合点がいったぞ! ああ、それならば……うん、そうだ、寝よう。もっと寝よう。お腹《なか》もいっぱいになったし、なんだか物《もの》の怪《け》と烈《はげ》しい一戦でも演じた翌日のように肉体《からだ》が憊《つか》れているし。うん、グーッと寝よう。グーッと寝てガーッと息《やす》もう!」
有言実行、魔王サフィアーンはただちに目をつぶり、この渾沌から一歩退却するためにスーッと睡眠《ねむり》に落ちます。満腹のどあい汰《はなは》だしいうえに(ちなみに健啖家は王侯的な美質を有した者として、食い意地がはって賤しいと目されるどころか、伝統的アラブではむしろ賞讃の対象となる)肉身《からだ》があいかわらず偃息《えんそく》を欲しておりましたので、すやすやと寝入ってしまったのです。
そして――
――そして、夢の世界に没《しず》み、須臾《しゅゆ》にして魔王サフィアーンのなかの他方の人格《こころ》が目覚めます。
むくりと起きあがります。
数瞬、前方に目を凝らしつづけたのちに、ギロッ、と右手を見ます。それから、ギロッ、と左手を見ます。
「……なんだ?」と囁《ささや》きました。「……夢……なぜ夢がある? おれは森のものの夢の石室の関守りを滅ぼしたぞ。守護者の巨竜を。おれは……夢が滅却するのを見きわめた、この目で、しかと確認した。おれは勝利したのだ」
またギロッ、ギロッと四方《よも》をねめます。
「なのに……なんだ?」
魔王サフィアーンはぶわっと妖力《ようりき》の霊気《オーラ》を膨れあがらせて、まといついている四辺《あたり》の森のものの夢を裂きました。裂いて、ちらして、現実《うつつ》をのぞかせました。「どけ、おれはすでに勝利した。おれはスライマーンの封印の第二の威力《ちから》を殺《そ》いだ。おまえらに用はない。おまえら、森のものの夢には。つぎに挑むのは男女ひと組の半蛇人どもであって、明晩とゆうべの夢の二種類のみ。巨竜の残夢になど構っておられぬわ。いかで消滅しきれずに涌《わ》いている? いかで、小童《たわけ》ども、うろうろしている? 邪魔だわ」アーダムの人格《こころ》に統べられている魔王サフィアーンが業《ごう》を煮やすかのようにいい、おのれの視野から夢を消して、じゅっ、じゅっとちらしました。
一瞬、それらは消滅しました。魔王サフィアーンの(ただ噴きだされるだけの)妖術にふれて、現実《うつつ》に復《かえ》された夢は。森のものの夢の部分は。奇怪千万な夢幻《ゆめまぼろし》は、この石室の出口をめざしている魔王サフィアーンの周囲で、破《わ》れたのです。アーダムの意思のままに歩み、すすむ魔王サフィアーンの周辺で、さながら円陣《ダイラー》(旅さきの野営地での休憩等において使用される垂れ布の囲い)が作られるように現実《うつつ》の空間が作られて、夢は割れて死滅したのです。魔王サフィアーンの聴覚《みみ》は悲鳴を聞きました。樹木の肉声を、それじたいが夢魘《むえん》めいた怒号を聞きました。裂けて沈む森林言語の燦《きら》めきが十方《じっぽう》にちらされて、緑の浄土を夢見ながら「朝陽《あさひ》が射した、朝陽が射した!」とざわめいている下草の合唱が噛《か》みちぎられて、魔王サフィアーンの歩みによって世界は滅びます。
歩まれるままに、歩まれるままに。
そこまでは魔王サフィアーンのなかに棲《す》むアーダムが意図していたこと。それからは魔王サフィアーンのなかのアーダムには予想もされていなかったこと。消えた夢は(森のものの夢の千分の一、あるいは七十二分の一やもっと、もっと細かいあじわいたちは)、ただちに再生しました。しかも――一が滅べば三となって再生し、三が亡《ほろ》べば九となって再生します。繁殖、また繁殖、また繁殖。森のものの夢はけろりとして、魔王サフィアーンの乱行《らんぎょう》をうけながしているかのようです。むしろ接触によって「生い茂れ、生い茂れ!」と鼓舞されて活力を得たとでもいわんばかりに、いちどは消滅するものの完全には絶え入らず、また――元気いっぱい――殖《ふ》えます。
魔王サフィアーンにとっては困惑のきわみ、ですが、構うよりも出口の探索です。夢を裂けば、現実《うつつ》がのぞき、石造りの室《むろ》の本来の壁が、床があらわれます。その無機物の壁のどこか、魔王サフィアーンは扉を探していたのです。年|経《ふ》りた扉、この石室の(魔王サフィアーンにとっての)闖入口《ちんにゅうぐち》であり、いまや出口となった扉を。
じきに見いだされました。扉に貼りつき、蔓延《はびこ》る夢をいっきに絶やして、確乎《かっこ》たる現実のなかにこの扉を現出させて、魔王サフィアーンは――ふしぎな感触の扉《とびら》であるはずのそれに――ふれました。
ふれられません。
でようとしました。石室を。
でられません。
「……なんだ?」とまた囁きました。「……手が……ふれられん。この……出口の扉を……押しひらけない? おかしい……この肉身《からだ》、この剣客の肉身《からだ》が……いったい何事を避けている? 厭《いと》うている? なにを……おい、なにを阻んでいる?」
そのむきだしの石壁も、そこに嵌《は》めこまれた扉も現実――たしかに即物的な世界に在ります。夢の形象ではない出口、しかも施錠もされていない戸口《もの》でありながら、魔王サフィアーンにはふれられず、ですから前方《さき》へ進めません。石室から外部《そと》にでられないのです。両手が(おのれの両手、魔王サフィアーンの両手が)出口の扉との接触を拒んでいて、あるいは接触したかに見えても、ふっと空間が歪《ゆが》んでしまいます。――あざむかれている。術? 不可視の神力《ちから》による封印でもほどこされているのか?
「ひらかぬのならば」と魔王サフィアーンは声を尖《とが》らせながら独りごちました。「そのような扉は、こっぱ微塵《みじん》に消滅させるまでだ」
いうが早いか、魔王サフィアーンは吼《ほ》えました。咆哮《ほうこう》するように咒《かしり》を吐きだしていました。唾《つばき》とともに。それが扉をめざし――撃とうとして、しかし果てます。空中において霧散します。「ムッ?」と魔王サフィアーンは唸《うな》り、妖力をぶわぶわっと満身の毛穴から噴きださせて七彩に燦《きら》めかせると、つづいたのは無数の呪詛《のろい》、これを浴びれば万物が塵埃《じんあい》のように砕けるのは必定《ひつじょう》の妖術を筆頭に、あまたの災禍《わざわい》の術がいちどきに束《たば》となって、その扉を撃ちます。
撃ちません。
またも雲散霧消したのです。いみじき破壊の妖術が、なべて。刹那《せつな》、魔王サフィアーンは形相を変えました。熱《いき》りたったのでございます。「この、雌犬の息子の、扉め!」そして海のものの夢の石室を守護していた蟒蛇《うわばみ》やこの森のものの夢の石室の主人《あるじ》の巨竜を討ち滅ぼしたのと同様のもろもろの業《わざ》を、どうッとばかりに繰りだしました。扉のみならず、その周囲の壁も、はては石室そのものも狙いました。石室の外部《そと》にでるには、石室をなくしてしまえばいいという論理です。なぜにというに、森のものの夢の部屋の関守りは斃《たお》されているのですから、もはや――こんな、腹だたしい――岩窟《いわや》は用なしです。すさまじい権幕《けんまく》で、それこそ妖術はさか巻いているインド洋の怒濤《どとう》も顔色なからしめる勢いで放たれ、飛ばされてちりさわぎ、弾《はじ》けて、審《さば》きの日(天地終末の日。『コーラン』によれば、この日、天空は裂けて星々は飛びちり、山々もこなごなに砕けて海洋はあふれ、いっさいは創造される以前の渾沌に回帰するという)もかくやと想われる様態《ありさま》。
放たれて、飛ばされてちりさわぎ、弾けて。
しかし、依然として扉は無庇《むきず》です。
生きとし生けるものを戮《ころ》して形態《かたち》あるものを虚《むな》しゅうする妖術を、滅ぼす業を連続してこうむりながら、扉はいっかな挫《くじ》けず、石室は不滅です。なにもかもが無益《むだ》、未曾有《みぞう》の妖術師の称号の形《かた》なし! ああ、この展開《なりゆき》に魔王サフィアーンはたちまち嬰児《みどりご》ですら白髪となるような(目にしたならば)腹だちの面《つら》がまえに変じて、こんどは握っていた霊剣をひるがえらせて、一閃《いっせん》! その扉に斬りかかりました。
天下に双《なら》ぶ者のない武術家の撃剣《げきけん》で。
けれども、南無三《なむさん》! この襲撃も――やっぱり――不首尾に終わり、刃《やいば》はふれません。手がふれられないのと同様です。それこそ暖簾《のれん》に腕おし、糠《ぬか》に釘《くぎ》。はたまた豆腐に鎹《かすがい》です。ここにいたって、魔王サフィアーンのなかのアーダムの精神《こころ》は事態の異様さに気づきます。なにしろ、天変地異にも匹敵し、イスラームの都邑《まち》の三つや四つはやすやすと破壊できるだけの妖術《ようじゅつ》の奥義をぶっぱなして、すべてが徒労に終わっているのですから。
「……おれの肉身《からだ》はどうなっている?」魔王サフィアーンは歯軋《はぎし》りしながら囁《ささやき》きました。その面《おもて》には羅刹《らせつ》さながらの梟猛《きょうもう》にして無慚《むざん》な憤激が貼りついています。「……どうなっている、この肉身《からだ》は? 戸口を破壊することも、それどころか手にふれることすら拒絶される。さらには妖力の類《たぐ》いも……無益《むだ》に、いたずらに霧散する。刀身のきっさきがとどかぬよう、ならば――理由《わけ》はただひとつ。やはり……やはり、おれの肉身《からだ》か?」
なにかを避けているぞ、と魔王サフィアーンのなかのアーダムは惟《おも》います。
なにかを厭《いと》うて、忌避しているぞ、と意《おも》います。
なにかを阻止しようとしているぞ。
結論は容易にでます。
「おれが、ここからでることを拒んでいるのか?」
その結論に驚いて、魔王サフィアーンはつぶやきます。
「拒んで、そして阻んで。おれの肉身《からだ》は、おれが石室からでることを許そうとしていない? あるいは、おれが戸口を――石室《いわむろ》に附属するいっさいを破壊することも? そういうことなのか?」
この無人の石室のなかで、答えるものはあったでしょうか。ありました。魔王サフィアーンの独白を聞き、ただちに声なき返事《いらえ》を――色彩によって――においによって――変幻の自在さによって――するものが。
夢。
森のものの夢。
裂かれては涌《わ》き、斬られては涌き、いっせいに繁殖し、生い茂りつづけている夢幻《ゆめまぼろし》。
森のものの夢。
その稠密《ちゅうみつ》な夢こそが、啓示のように回答を到来させたのです。魔王サフィアーンに――魔王サフィアーンの内なるアーダムの脳裡《のうり》に。巨竜という守護者が討たれたならば森のものの夢はぜったいに、海のものの夢がそうであったように死滅するはずであり、ふたたび涌いたりはしない。これは巨竜の残夢などではない。守護者がいるから、夢は、涌いて――熄《や》まずに涌いて活性化している。
……守護者……巨竜ではない守護者? そして守護者は……石室からはたち去れない。
なぜならば……夢の石室の守護者は、夢の石室の一部なのだから。
でられるはずはない。スライマーンの用意した封印の装置の一部なのだから。
「守護者のまえでは開扉《かいひ》しない?」ほとんど茫然《ぼうぜん》自失として魔王サフィアーンはいいました。「ならば、おれが……おれが守護者なのか?」
守護者は退室できない。それが夢の石室の理《ことわり》。海の蟒蛇《うわばみ》であるにしろ、半人半蛇の精霊であるにしろ、巨竜であるにしろ、石室の守護者はかならずや――いずれの系譜に列《つら》なる生物《いきもの》であっても――この法《のり》を遵守します。
封印の装置にとって、定められた事柄なのです。
スライマーンの意図《みこころ》によって。
ですから、修辞を弄《ろう》するならば、それぞれの石室の守護者はそれぞれの石室の掌《たなごころ》のなかにあるのです。
掌中にあって、逃げだせないのです。
それを悟り、魔王サフィアーンは豺《やまいぬ》のように吼えて地獄の悪魔《シャイターン》のように哮《たけ》りました。その声音の響きだけで夢を千の千倍に裂きました。窖《あなぐら》をゆるがして瞋恚《しんに》の絶叫はつづきました。
まるで猟師の罠《わな》に陥ちた獅子《しし》のように。
「それだ、罠」と魔王サフィアーンは、突如、尾をひいていた怒号を停めて、吐きだします。「おれは罠に陥ちた。巨竜を斃し、目覚めればこうだ。あざむいたのか、あざむいたのか? だれが? いや、一人しかおらぬわ。蛇神《へびがみ》……蛇神め! いかなる嘘をおれにつたえた? いや、絡繰《からく》ったな……陥穽《かんせい》を。この罠を。読まれたか、蛇神、おれの動きを読んだのか? いかでか……知らんわ。問題は、この肉身《からだ》――」
ああ、魔王サフィアーンのなかのアーダムの精神《こころ》は、みずからが森のものの夢の石室の守護者になったという現実を直観的に把握しながら、勘ちがいに落ちます。いたしかたございません。なにしろアーダムの精神《こころ》は(その肉体を癒《いや》すために)寝《やす》み、夢を見ていただけで、サフィアーンの人格《こころ》の存在やなにかは知りもしない。かくなりはてた経緯《けいい》は想像もつかなかったのでございます。
「おれは囚人《とらわれびと》か」
魔王サフィアーンはいいます。
「おれは囚獄《ひとや》にとじこめられたわけか」
いいながら、声をふたたび怒号のようにぐつぐつ、ぐつぐつと滾《たぎ》らせはじめます。
いまや魔王サフィアーンは感じます。住《とど》まれ、住まれ、住まれ――とおのれの肉身《からだ》が指図をうけていることを。この石室から。この森のものの夢の石室、スライマーンの封印の設《しつら》えられた装置から。ああ、その絶対命令! のがれでるを能《あた》わず。たち去ること不可能。されば、おお、手詰まりも同然。いかにも、暗礁にのりあげてしまったではありませんか。出口はうしなわれ(目のまえにあるというのに!)、突破は困難。魔王サフィアーンのなかのアーダムの憤りはいかばかりか。現実を認めた瞬間に、沸騰した感情が弾けます。
烈《はげ》しさのきわみの忿怒《ふんぬ》が!
ここに猛《たけ》り狂う魔王サフィアーン!
さて、現実を認めた瞬間に、と申しましたが、魔王サフィアーンを統べるアーダムにとって瞬間というのは常人の時間感覚でいう「刹那《せつな》」とはまるでちがいます。以上の結論に達して、剛忿《ごうふん》のかぎりに号《さけ》び憤《いか》るのに、世間ではたっぷりと時間がすぎていたのです。そして魔王アーダムのなかのアーダムの精神《こころ》が、まさに腹だちの頂点にいて、開《あ》かずの扉となった戸口《それ》を内側からにらんでいた、壮絶な形相で凝視していた最中に、こはそもいかに! 鎖《とざ》されて閉め切られていた扉が、ひらいたのです。外側から。信じられない思いで、魔王サフィアーンはそれを目撃しました。
窮《きゅう》すれば通ず?
さにあらず、魔王サフィアーンの脱出を許すまえに、ひらいた扉は刀剣《かたな》で、槍《やり》で、弓で、鎖帷子《くさりかたびら》に円楯で武装した四名の武術家を雪崩《なだ》れこませて、ただちに閉じました。ふたたび封じられたのです。
そして四名の武術家は、いっせいに魔王サフィアーンに躍りかかりました。
当然、襲われた側の魔王サフィアーンは、先頭の一名に発止《はっし》とばかりに霊剣の一撃を加えて脳天を斬り割き、のこる三名に咒《かしり》を見舞って戮《ころ》しました。
条件反射的に、襲いかかってきた武術家たちを逆襲して、殺戮《さつりく》したのです。
「……なんじゃこりゃ?」と魔王サフィアーンはつぶやきました。これが緒戦でございまして、ついで、来ました。魔王サフィアーンのなかのアーダムが地上世界にながれる通常《なみ》の時間を無視して稽《かんが》えているさなかに、襲撃者の第二波は来て、いわずもがな連続したのが第三波、さらに後続して第四波、第五波、第六波。このなかには、たった一名でつっこむ輩《やから》もいれば、六名からが組んだ集団もあり、人員の構成は多種多様。が、意図においては明確にして一如《いちにょ》、ようするに魔王サフィアーンを討ち滅ぼそうと突進してきます。そのために、戦《いく》さ道具に身をつつんだ猛者《もさ》どもは石室に闖入《ちんにゅう》をつづけているのです。
しかり、征伐隊でございました。
ファラーが「蛇の遺蹟《いせき》」の四種類の夢の石室、そこを守る蛇の眷族《うから》を討ち平らげるために編制した、一騎当千の強者《つわもの》たちから成る征伐隊が押しよせているのでした。
森のものの夢の石室に。
その石室の守護者を撃滅しようと。
猛襲をしかけていたのです。
ファラー麾下《きか》の軍隊が送りこまれていたのです。ぶりぶりと盛怒《せいど》の絶頂にいる魔王サフィアーンの眼前《まえ》に、いちいち開《あ》かずの扉を開けて、刺戟《しげき》して。「……なんじゃこりゃ。おい、こりゃ!」魔王サフィアーンが猛るのも、なるほど、ごもっとも。扉はひらいても救済にはならず、むしろ陥穽《わな》が悪辣《あくらつ》さを増すばかり。
「殲滅《せんめつ》じゃわい!」
殺しにきた連中を鏖殺《みなごろし》! 全員、返り討ちです。それこそ巨竜に代わる森のものの夢の石室の主人《あるじ》として、ふとどきな闖入者どもは魔王サフィアーンに討たれます。ファラーの軍勢は根こそぎ邀《むか》え撃たれて果てます。故郷では花形の剣士が、非凡な騎士が、自慢の怪力をふるおうとする闘士が、まち構えていた(と侵入者の側には映る)魔王サフィアーンのまえでは無為無能! その肉体の比倫を絶する剣術によって、そして、その精神の人類史上に冠絶した妖力《ようりき》によって、征伐隊の精鋭たちは屠《ほふ》られ、悶死《もんし》し、血みどろの肉塊《にっかい》に変わります。強大無比な魔力が、ああ、三|桁《けた》の逸材を斃死《へいし》にいたらせます。
ファラーが投入する大量の兵員を。あすの夢ときのうの夢の石室の守護者を斃《たお》して勢いにのり、われこそはわれこそはと最後の夢の精霊の居城《いどころ》――森のものの夢の石室に殺到する武芸の逸材たちを。
勇士を。
豪傑を。
霊剣が斬り、二つに割《さ》いて棄て、あるいは三枚におろして、ときには背開《せびら》きにし、妖術がそれを揚《あ》げ、こんがり焼いて調理して、あな恐ろしや、その面《おも》ざしは百魔《ひゃくま》の王にして、その手捌《てさば》きは阿鼻《あび》地獄の料理人!
征伐隊との血戦は(といっても血をながすのは攻め入る側ばかりでございますが)常人の感覚によって計るならばまる三日つづき、その間《かん》、魔王サフィアーンのなかではアーダムが目覚めつづけていました。寝《やす》む? それはむりです。時間は――アーダムの意識の内面《なか》では――「瞬間」の連続として顕われていて、切れ間なしに来襲する征伐隊の無礼《なめ》し勢力は、じっさいの何倍も、何十倍も、数珠つなぎの現象として認識されています。開《あ》かずの扉を見ていれば、それはひらき、下人《げにん》どもが訪れて、魔王サフィアーンをやぶからぼうに血祭りにあげようとするのです。
いつだって不意討ちしようと。
そして四日め、目覚めつづけるアーダムの精神《こころ》に支配された魔王サフィアーンのまえに、闖入する征伐隊――という現象――の連鎖の末尾《しんがり》として、それは出現《あら》われたのでした。
クルド人の三兄弟、そして白皙《はくせき》の魔術師が。
ファラーが。
運命が二人の拾い子を対面させます。いいえ、対決させます。再会のように見えながら、再会ではありませんでした。ふたたび対面したのは拾い子たちの形骸《からだ》であって、精神《こころ》ではなかったのです。ファラーが対峙《たいじ》しているサフィアーンは魔王サフィアーン、その内側に宿るのはアーダムの意識で、しかも目下《いま》はアーダムだけだったのです。そのような奇々怪々な事態をファラーが理解したり、わずかでも推し量ったりできるはずはありません。ですから――征伐隊の投入の四日めに、森のものの夢の石室にクルド人の三兄弟とともに押し入った――ファラーは叫びました。
「――サフィアーン!」
獰猛《どうもう》な面貌《めんぼう》の守護者をまえにして。
視点を転じましょう。邀撃《ようげき》する側から、闖入する側へ。ファラーと三名の武術家が躙《ふ》みこんでしまった以上、魔王サフィアーンにとっての開《あ》かずの扉をひらいて、突入し、背後で扉が閉じて前方《まえ》に守護者がたちはだかってしまったからには、もはや闖入者は夢の領土の虜囚《とりこ》。目覚めている人間のいかなる理窟《りくつ》も、時間も、ここでは通用しません。
一千の虚夢《そらゆめ》が一瞬にして娩《う》みだされるように、宿命《さだめ》はたちあう全員を捲《ま》きこんで、一瞬にして疾風迅雷《しっぷうじんらい》、状況は動いていました。
はじまっていたのです。
三兄弟のうち、巨躯《きょく》の長男は大剣をひきぬいて抜刀《ぬきみ》にして右手から魔王サフィアーンに躍りかかり、次男の「祟《たた》り屋の小鼠《こねずみ》」はサッとかたわらに飛ぶと左手から攻めこむように弩《いしゆみ》の狙いを定め、同時に三男の「鉄腕のアフマッド」が二本の剣《つるぎ》をブンブンふりまわしながら正面から魔王サフィアーンに突進しました。みごとな三角攻撃、無敵にして無欠の連繋《れんけい》戦術に見えましたが、しかし、魔王サフィアーンに死角なし! 兄弟の上背《うわぜい》のちがいから上中下の三種類の高さで撃ちこまれる、または斬りこまれる矢や剣を、右手にあっては弾《はじ》いて打《ぶ》ち折り、かえす刀で左手の迫撃をガキッ! 剣に対して剣で禦《ふせ》いで、おなじ瞬間、正面に顔をむけて、ああ、吐きだしたのは破壊の妖術!
速攻で攻めたのに、それ以上の速攻で――ただちに、守護者の魔王サフィアーン側から――猛撃が襲いかかります。「――サフィアーン!」と口ばしったファラーも、戦闘《たたかい》のただなかとなった現下《いま》、動揺している余裕もありません。妖術に対して即時|防禦《ぼうぎょ》、心身ともに反応して、間髪を容れず咒《かしり》を返します。呪文に襲われたクルド人の剛力の三男を掩護《えんご》します。信じられない、という感情も、なぜだ? という疑問も、いまでは抑えこまれていました。これほどまでに烈しい攻防の渦中、雑念を封じられない者は敗《ま》けます。
敗北すれば死ぬだけです。
それも悶死。
野心、断たれての惨死。
ファラーであれ、クルド人の三兄弟のいずれかであれ、その認識は共通しておりました。すこしでも気をぬいたり、逸らしたりした瞬間に敗《やぶ》れる、そして肉体が敝《やぶ》れると。石室の守護者――この魔人!――に屠られて魂が壊《やぶ》れると。例証には事欠きません。いったい、どれだけの勇士が、豪傑がこの森のものの夢の石室から還らなかったか? そうです、先行した征伐隊の猛者《もさ》たちの、三桁にのぼる屍体《したい》がどこかに累々と転がっているはずなのですから。
この石室の内部《なか》に。
夢の内部《なか》に。
すでに肋骨《ろっこつ》の穹窿《きゅうりゅう》も痛ましげに、白《しら》じらとさらした巨竜のしかばねとともに。魔王サフィアーンによって「焼き肉」あつかいされて、齧《かじ》りつかれ、内蔵《ホルモン》まですっかり平らげられた前任の守護者の屍《かばね》とともに。竜骨のかたわらに。
ですから、動揺も疑念も抑えつけて、ひたすら戦闘《たたかい》の場にのみ集中するのは当然でした。さらにいえば、全身全霊で守護者との戦闘《たたかい》に挑んでいるクルド人たちのなかで、魔術の防衛をになっている――攻めこむ兄弟三人の後方にいる――ファラーが口にしたことばをまともに聞いた者はいなかったし、耳に入れても、さて……「サフィアーン!」という叫びが意味するところを惟《おも》んみる隙《すき》などは、さらさらなかったのです。これもまた排除しなければならない雑音でございましたので。
そして一意専心《いちいせんしん》、無二無三、烈々と魔王サフィアーンに突進していったのです。
弾かれても、再度、連繋して三角攻撃! 背後にはファラーの稀有《けう》の魔力による掩護がありました。クルド人の三兄弟はいまや相対する守護者の殺気にも怖《お》じず、吼え声にもひるまず、業物《わざもの》の霊剣をぎりぎりに回避して、かわしながら攻めて、死角なしの魔王サフィアーンを変幻自在に奇襲、電撃、だまし討ち! 身の丈《たけ》七尺を超える長男が大旋回して背面から突貫したと思えば、正面には五尺にも満たない次男がまわって弩を発射して挟《はさ》み撃ち、さらに側面から六尺ぴったりの三男が肉弾戦で突入し、その丸太のように太い腕で正拳《せいけん》突き! 肘《ひじ》打ち! ついで飛び蹴《け》り! ガッと目をむいた魔王サフィアーンをつかんで羽交いじめ! もちろん、即座に霊剣の柄で打ちかえされて離れますが、いやはや、魔術を無化する加勢のファラーがうしろに控えていると、まさに水を得た魚! これほど厄介な敵ははじめて、魔王サフィアーンもてこずります。いかに神秘の霊剣でも、天下無類の撃剣を身につけた達人の剣士――の肉身《からだ》――でも、父母をおなじゅうするクルド人の三兄弟はまるで三者にして一者のような突撃をつづけます。魔王サフィアーンの側では手が足りません。ああ、手が六本あれば! しかし、妖怪《もののけ》ではございませんから、魔王サフィアーンにはやっぱり二本の手しかございません。足だって六本ほしいところですが、やっぱり二本しかないのです。最大の問題はなにしろ妖術、この鬱陶《うっとう》しい三兄弟をいっきにかたづけようと大地をパカッと二つに割っても、ピタッとたちまち閉じられてしまい、咒《かしり》を飛ばせば空中で霧散、忽然《こつぜん》と化物《グール》の類《たぐ》いを出現させて応援にまわらせようとしても、ありゃ、まあ! 忽然と消滅させられてしまいます。七つの世界の魔神族をも驚嘆させる闇黒《あんこく》の秘法が、奇蹟《きせき》に秘術が、いつだって成果をあげずに無に帰します。むろん、問題のなかの問題はファラー、このように業《わざ》の達成を阻んで魔王サフィアーン――のなかのアーダムの人格《こころ》――をいらだたせているのはファラーです。終始一貫、ファラーは防禦につとめて、あらゆる呪的攻撃を無効にしました。ですから、いまでは魔王サフィアーンなる最後の守護者も、当初の情報どおりに武術と膂力《りょりょく》によってのみ猛威をふるう存在《もの》。手練《てだ》れの武闘派なら太刀打ちが可能でしたし、じっさい、クルド人の三兄弟はその全員が揃えば東西に比類のない剣豪にして、かつまた、古今に例のない剛力となっていたのです。
すなわち好機到来。事実、クルド人の三兄弟にも――あの刹那《せつな》、この刹那には――勝機が萌《きざ》して、おお、さらば、ファラーもいずれは防衛一辺倒にならずに、乗ずべき機会を見いだして、一瞬の隙《すき》を衝《つ》いて、攻めにまわるのもできないことではないと感じられました。ようするに、斃せないでもない。斃せるであろうと。この守護者の意識があまさずクルド人の三兄弟にむいた瞬間に、魔術の電光|一閃《いっせん》、最高度の妖法《ようほう》――よろずの闇黒の業で討ち滅ぼせるだろう、討ち滅ぼせるはずだと、ファラーは確信したのです。
絶対的に確信したのです。
ああ、しかし。
ファラーはここがいかなる軍《いくさ》の庭なのか、わかっていませんでした。頭脳《あたま》では理解していましたが、魂では……魂の深奥ではちがいました。まるで理解していませんでした。
ここは森のものの夢の領土、そして、ファラーたちはその領土の虜囚《とりこ》だったのです。
死闘のさなかにも、鬱蒼《うっそう》と夢は呼吸していました。守護者である魔王サフィアーンとファラー、そして三名の兄弟のクルド人がしのぎを削っているあいだにも、森のものの夢は繁殖し、空間に蔓延《はびこ》り、時間に根をのばしていました。それは魔王サフィアーンはいうにおよばず、血をわけたクルド人の三兄弟も、ファラーも捲きこんで囁《ささや》いたり唸《うな》ったり歌ったり号《さけ》んだり、催《もよお》したり合唱したり裂けたり歎《なげ》いたり、つながったり、ねじれたり、死を夢見たり死を夢見る夢の主体を夢見たりしていたのです。それは、ほとんど襲いかかるように、闖入者《ちんにゅうしゃ》の人間たちをつつんでいました。
夢は、邪魔でした。
魔王サフィアーンとぎりぎりの戦闘《たたかい》を演じているファラーにとって、闖入者のファラーたちにとって、森のものの夢は目ざわりで、あるいは耳ざわり、足ざわり、気ざわりで、はっきりと障碍《しょうがい》でした。色彩が邪魔です。花がひらいて茎がのびて葉がひろがることが支障《さしさわり》です。森に群棲《ぐんせい》する蟻の怒りが尖《とが》って、ファラーの白い皮膚《はだ》に刺さりました。チクリ、チクッ、チクリと間歇《かんけつ》的に刺して咬《か》みました。ある種の植物の夢は寄生しました。ファラーの白い肉体《からだ》を宿主として、夢のなかの咬み傷やいたぶり、刺した傷口から滲《し》みこみ、発芽しました。
夢は、このように邪魔でした。
戦闘《たたかい》を害しました。
手足まといでした。
それでもファラーは、そしてファラーと行動をともにするクルド人の三兄弟は、これを無視しました。刃《やいば》にかければ繊維状に折れる夢を無視して、いっさいを雑音として封じて、夢から生じる感覚も雑念として消して、さきにも陳《の》べたように攻防に集中し、一意専心、魔王サフィアーンと打々発止《ちょうちょうはっし》やりあっていたのです。
それですむはずでした。
じっさい、クルド人の三兄弟はそれですんでいました。
しかしファラーは――
妙な感覚に捕らわれはじめます。奇異な、なにかを疼《うず》かせるような。自身でも、はじめは把握できていませんでした。ファラーは想いだしつつあったのです。ある感触をです。森の感触をです。あたりまえでした。森のものの夢の内部《なか》に、ただなかに存《あ》るのですから、森の感触を得るのは当然でした。しかし、ファラーのばあいは想いだしたのです。みずからの内面から抽《ひ》きだしつつあったのです。
その感触を。
森の全的、全感覚的な手ざわりを。
なにかが想い起こされます。封印されていた感情です。憶えのある情念《おもい》ですが、しかし棄て去っていたものです。意図的に、内面から消したものです。ですが、それをファラーは体験しました。森というものの生みだす夢幻、その夢幻につつまれていた――幼児期、少年期。それが、ふいに顕《た》ちあがったのです。十六歳以前のすべての記憶のなかにあったもの、そして消滅させた情念《おもい》、愛情?
愕然《がくぜん》としました。
衝撃的な打撃があたえられました。
まる十六年間が、奥深い緑の内部に暮らしていた十六年間が、顕《た》ちあがったのです。森の呼吸、森のものの夢の鬱蒼とした呼吸として。捨て子であったファラーを拾い子として迎え入れた「左|利《き》き族」の森、ふしぎな生物《いきもの》のジャッカル牛が放牧されていた森、そこで幼い時分、樹々を茂らせようと駆けていた情景が、よみがえりました。一瞬に時間を無効にして、ファラーの内部に過去が回生しました。感触とともに――森のものの夢の色彩《いろ》、におい、あじわい、下草の痛み、昆虫《むし》と鳥のすだきといっしょに。走りまわっていたのでした。稚《いと》けないファラーが、魔法の水を革製の水筒に容れて日がな一日、樹木をいっぱいに繁茂させるために飛びまわっていた。緑の天蓋《てんがい》を仰いでいた、地面に埋《うず》もれるように昼寝のために横たわっていた、草木のにおいを嗅《か》いでいた。嗅いでいたのです。豊饒《ほうじょう》な生命世界をあじわっていたのです。
そして愛情につつまれていたのです。
森の愛情に。
森の人間《ひと》たちの愛情に。
いつだって、生きる歓びに満たされて。
――その情念《おもい》。その情念《おもい》が、唐突に顕《た》ちあがって、ファラーを襲っていました。魔王サフィアーンとの戦闘《たたかい》のさなかだというのに、ファラーは襲われて、逃れる術《すべ》がありませんでした。みずからの内部《なか》になした封印が、ささいな森のものの夢に刺され、咬まれ、寄生されることによって……つつまれて、森のものの夢のさながら一部とされることによって、破られたのです。愛情が封印《それ》を破ったのです。
この魔術師の内部の封印を切ったのです。
堰《せき》切って、まるっきり無防備だったファラーを不意討ちするように、ああ、愛情が奇襲します。
動けはしませんでした。
この瞬間、無垢《むく》の少年に回帰して。
ファラーは泣いていました。
森のものの夢に触発されて、喚《よ》び起こされた過去が、ファラーを撲《う》ちます。はっと正気づいて、見ればクルド人の長男がダイヤモンドさながらの切れ味をもった魔王サフィアーンの霊剣によって脳天から二つにひらかれ、シック(アラブ人の妖怪伝承にある「分裂した人間」)さながらに片方ずつ左右にわかれて仆《たお》れ、つぎに霊剣のきっさきが正面に伸びて、ちょうど前方にいた三男の「鉄腕のアフマッド」のぶ厚い胸板を串《つらぬ》いて心《しん》の臓を刺し、絶命させて、ひき抜いた霊剣の刃がぶんッと弧を描いたかと思いきや、次男の侏儒《ちび》の頭が飛んでいました。そうして順番に斃れたのです、勝機を見いだしたかに感じられたファラーの同志、クルド人の三兄弟は。ファラーが過去の情念《おもい》に不意討ちされているあいまに、咒《かしり》を浴びたのか、呪縛《じゅばく》の妖術に嬲《なぶ》られたのか。いずれにしても、もはや伴侶《みちづれ》は戦ってはおらず、生きているのはファラーのみ。
すさまじい形相の魔人が、森のものの夢の守護者にして、森の王であった巨竜にとって代わった経緯《けいい》をもつ魔王サフィアーンが(その経緯《けいい》についてはファラーは想像もできませんが)、ただひとりの生存者《いきのこり》にむきなおります。
石室の関守り、というよりも、これは地獄の渡し守り。そして――目途《めあて》としているものは――征伐隊の殲滅《せんめつ》。侵入者の、容赦なき撃滅。
まるで守護者の役割をきっちり果たすかのように。
だから、決戦《たたかい》ははじまったのです。
二人の拾い子の対決は。
いいえ、三人の主人公の……その形骸《からだ》と精神《こころ》がいり淆《みだ》れた対決は。
それぞれが宿命に翻弄《ほんろう》されるままに。
ファラーは、決戦《たたかい》に応じました。ファラーは、頬に涙がながれるのを構わず、みずから挑んだ決戦《たたかい》にしっかりむきあいました。無垢の少年は、いまは抑えつけられていました。負けてはならないのです。最後にのこった目のまえの守護者に、そして過去に。ファラーは、呑《の》まれてはならないのです。過去の自分に、純粋な情念《おもい》に。愛情の奇襲に。
愛に呑まれてはならない。愛は殺した。
生かしていいのは憎悪《にくしみ》だけ。
なぜなら――ファラー自身が生きのびるために。
十六歳になったときのファラーの決断が、いまのファラーを動かしています。流離《さすらい》の日々からこのかた、ずっと同様でした。いまも。いまも。だから、生きるために――生きのびるために決戦《たたかい》ははじまります。
一心に。永い戦闘でした。静かで、永い、あたかも時間が消失して無限停止するように永い戦闘でした。あらゆる妖術《ようじゅつ》の奥義を知悉《ちしつ》した現代の魔術師が、往古の人類最上の魔術師――の精神《こころ》――と一騎討ちを果たします。魔法の側面だけを照らすならば、そうです。ファラーはサフィアーン(純正のサフィアーン)としか認めていませんが、魔王サフィアーンとの対決とはすなわち、千載のむかしに地上世界に君臨して、前人未到の魔力を有したアーダムとの一騎討ち。この決戦《たたかい》はあの玄宮の室《むろ》でおこなわれた一戦の再現です。
ですがファラーは理解せず、サフィアーンは――なぜだ?――アーダムのようにつよい、と歯噛《はが》みします。いや、ミイラと化していたアーダム以上?
ああ、ファラーにとってはサフィアーンでした。ただのサフィアーンでした。どのようにしてか絶大なる魔力を身につけた剣豪、ファラーをだしぬいた霊剣の所有者、独り占めにするはずだった聖域の空間にさきがけて入りこんだ者。その悔しさ、あたえられた屈辱、そして目下の……目下の苦戦!
憎悪《にくしみ》を、ファラーは生かしました。退《しりぞ》かないで生きのびるために、またしても。だから、死闘にも食いさがっていました。ファラーと魔王サフィアーンの妖術戦の詳細は、基本の骨骼《こっかく》としては前回のアーダム(ミイラ化した古《いにしえ》の魔王アーダム)との戦闘のもようをなぞります。防禦《ぼうぎょ》に徹して、つねに意表をついて、なかば誘導して。そうしていれば、敗れはしません。一見すれば互角です。しかし……ああ、しかし! 前回の戦いで、ファラーの側には天下無双の剣士が味方していました。今回の戦いで、その剣士はアーダムの――精神《こころ》の――側についているのです。魔力だけなら、禦《ふせ》げたでしょう。かなりの時間、はりあえたでしょう。三日でも、四日でも、均衡の場面を演出しつづけられたかもしれません。いま、ファラーは同時に撃剣もかわさなければならないのです。太刀もいちどきに禦がなければならないのです。
永い、永い戦闘でした。わたりあいでした。けれども、永遠ではなかった。魔術のみで相搏《あいう》ちつづけたファラーの善戦も、ついに絶える瞬間《とき》が来ました。
それがファラーにはわかりました。
接戦が終わったことが。
奮戦が空《むな》しかったことが。自身もまた虚しい存在になるであろうことが。
唯一の未来が。
……唯一?
ちがったのです。ファラーは、無意識に、べつの行動を採っていたのです。背後に、跳んでいたのです。跳んで、魔術的に翔《と》んで、扉を押していたのです。石室の扉を――森のものの夢の石室の、ただ一ヵ所の出入り口の――扉を。
押して、でていたのです。
石室の外部《そと》に。
そして扉は閉じました。
守護者は外部《そと》にはでてきませんでした。
われ知らず敗走を選んだのでした。敗者となる道を。ですが、ファラーにとって、事実はそれだけではなかった。ファラーは――またもや――森から逐《お》われたのです。森のものの夢見ている世界から、愛情の世界から。
追放されたのです。異物として。
森の異物、異分子として。
そう、森のものの夢の石室の守護者は、森の王でした。魔王サフィアーンは、森の王でした。そして森の王は――あの左利き族の「森の王」、立ち入り禁止の緑の聖所のなかに庵《いおり》をむすんでいて、ファラーの十六歳の誕生日に呪わしい真実を告げた指導者の聖者《ひじり》、あの「森の王」と同様に――ファラーを排斥したのでした。
絶対的な異分子として。
ふたたび。
もはや森の部屋は閉じて、ファラーにはなにものこされていませんでした。
生命《いのち》以外。
森は二度、ファラーを拒否したのです。
地上《このよ》で最強の魔力をサフィアーンにあたえて。
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図書室をでなければ現実の時間はない。
現実の時間、歴史は。
歴史? それは蓄積された単位としての時間から成る。一日の長さが、ひと月の長さが、ひと年《とせ》の長さが、つみ重ねられる。いまはいつか? 聖遷《ヒジュラ》暦一二一三年|二月《サファル》の、二日、月曜日(西暦一七九八年七月十六日)。
二月になっていた。
われわれは図書室をでる。イスマーイール・ベイをあとにのこして、物語から現実に復《かえ》る。カイロ全市の情景がひろがる。予想された事態は、やはり予想された「無秩序状態」として生まれながらも、抑えつけられている。権力によって、武力によって。
威圧《ちから》によって。
ジッブリシュの会戦の劇的な結末、そう、あの釈明《いいわけ》の余地のないムラード軍の潰走《かいそう》は、白日のもとにさらされている。カイロの住人のあいだで、もはや知らない者はいない。衝撃は滲透《しんとう》している。フランス軍に完敗を喫して遁《に》げだしたマムルーク騎兵たちが、現に首府にもどり、その証拠《あかし》を見せている。
にもかかわらず――にもかかわらず。
読者よ、いまいちどカイロ市内を旅しよう。いや、それは煩瑣《はんさ》にすぎるか? ふたたび「|世界の母《ウンム・アルドンヤー》」と呼ばれているカイロの観光案内をすることや、網の目のようにひろがり随所で公共建築を孕《はら》んでいる街路の、給水泉《サビール》周辺や城塞《シタデル》まえの広場の、あまたの市場《スーク》の、寺院《モスク》の中庭での情景を(もっぱら恐慌《パニック》について、ふれながら)一例、一例、挙げるのは。そもそも名状しがたい。市内の地理で読者をわずらわせずに、肝腎《かんじん》の部分だけを告げよう。場所はどこでもよい、カイロの城門でさえあれば。
そこで、逃散《ちょうさん》しようとする人間は捕らえられて、投獄された。
首府からの移住は禁じられた。フランス軍は迫るが、しかし、だれひとりとしてカイロを繞《めぐ》っている城壁の外部《そと》には、でられない。
人びとは威嚇されて、抑圧された。予想された「無秩序状態」はあらまし誕生していたが、にもかかわらず、強引に抑えつけられた。
にもかかわらず。
希望もなにがしか、種として播《ま》かれてはいた。フランス軍をおい払うことはいまだに可能なのだという迷妄の原因《もと》となる類《たぐ》いが。たとえばこの日、河が塞《ふさ》がれた。大人《アミール》たちによってナイル河にバリケードが築かれはじめて、作業のうわさはたちまちひとの口に膾炙《かいしゃ》して、フランス軍はこれで艦隊を遡上《そじょう》させることはできない、われわれの域内《もと》に侵犯をなすことはできなくなったのだと信じられた。
だが、下層の市民たちはたしかに目撃した。富裕な連中がひっそり、こっそり、家財をわけて――どこかに、人知れぬ場所、親族の住む地方の都市《まち》や村に――移しはじめている現場を。家畜が買いこまれれば、それは荷物を搬《はこ》ばせるための駄馬《だば》や騾馬《らば》、駱駝《らくだ》にちがいなかった。逃亡は目論まれていた。たしかに。
フランス軍が蹂躙《じゅうりん》するのが、わかっているから。
確実に。
目下は遁《のが》れようもなかった。にもかかわらず、逃亡はすでに意識においては達成されていた。カイロに暮らす人びとの全員の精神《こころ》が、すでにカイロから逃走していた。その身体《からだ》は権威すじに縛られて、都城の内側にのこされながらも。
そして、ふしぎな事態《なりゆき》が生ずる。
人びとはあたえられたのではない希望を頼みにしはじめる。
塞がれたナイル河などではなかった。緊迫と、一瞬ごとに強度を増すような恐慌《パニック》と、絶望すれすれの恐怖のなかで、真実の希望をだれかが探した。あらゆる可能性を手で索《さが》して、生きのびたいと冀求《ききゅう》して、だから必死に手さぐりした。すでに産み落とされている――が停滞している――「無秩序状態」の凝《こご》りのもとで。だれかが。
何人かが。いや、何十人かが。いや、何千人かが。
二十五万を数えるカイロの人口の、あるいは――ほぼ総勢が?
だから、見いだされる。
何者かがカイロを護ろうとしている、と人びとはいう。
救世主《マフディ》が夜のなかに……闇のなかに存在している、とうわさする。
その救世主《マフディ》は譚《かた》る。稀代《きたい》の物語を譚る。カイロを亡ぼさせぬために、もう十数夜にわたって譚りつづけている。
蜜《みつ》の舌を有した話し手が、憩《やす》まず、聴き手を一日も倦《う》ませずに、譚りつづけていて、フランク族の軍勢をわれわれの都市《まち》から遠ざけている。
カイロを侵掠《しんりゃく》から護っている。
その救世主《マフディ》が。
「その人物が譚りつづけているあいだは、カイロは欧州《フランク》びとの手には陥《お》ちない」
なにかの真相が漏れでている。
伝説は囁《ささや》かれはじめている。
夜が朝《あした》に代わり、朝《あした》が夜に代わる。
第十八夜は訪れる。
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※[#底本ではアラビア文字の18]
ファラーは迷路をさすらい歩いていました。
森から拒否されてい拒絶されて。
いま、絶望に酔い痴《し》れたようになって、その遺蹟《いせき》の所有者はみずからの領土を彷徨《ほうこう》していました。無辺際に宏《ひろ》い、迷宮の内部を。再建された領域ではない、そして……あるいは、再建途上の領域ではない、阿房宮《あぼうきゅう》の手つかずの辺境に。
野生の迷宮に。
ファラーは苦悩に打擲《ちょうちゃく》されて、その顔は惚《ほう》けて、頬をつたっているのは涙です。つきることのない涕涙《ているい》です。ファラーは感じています、なにかが終わったのだと。完全に終わってしまったのだと。断たれてしまったのだと。
断たれた――希望が。おれにはなにものこされていない。
示された現実はまるっきり暴力であって、ファラーは愚弄《ぐろう》されたも同然でした。ファラーは敗者でした。みずから逃走して逐《お》われた弱者でした。思わず知らず、ですがファラーは敗れたのです。たしかに。だれに?
サフィアーンに。
あまりにも強烈かつ強大すぎて、屈辱とも名づけられない感情に、うちのめされています。ファラーには希望がいっさいのこされていないのではなく、絶望だけがのこされたのです。
生命《いのち》というのが、絶望の代名詞でした。
ただ敗残の魔術師として生きている。
ファラーにはすべてが耐えがたい。当然です。純粋な人間でありながら、精霊の眷族《けんぞく》にも肩をならべるような魔力を手に入れようとあがき、不世出の傑物となるために明け暮れっつけてきた十六歳からこのかたの日々。魔術師として、空前絶後の魔術師として、地上《このよ》で最強の力をわがものにしようと、うちこみつづけてきた日々。その歳月が翳《かす》みます。すでに人類のあいだでは、おのれに比肩する存在《もの》はいないことを確信していました。あらゆる秘術を自家薬籠《じかやくろう》ちゅうのものにして、あらゆる智慧《ちえ》を学び、奪い、獲《え》て、その力量は前人未到の域に到達したと自負していました。ファラーは、――おれこそが人類最上の魔術師である――、と自任して(いいえ、むしろ自覚して)いたのです。ですから、あと一歩のはずでした。人類の「魔術師としての資質《もとで》」という足伽《あしかせ》をはずして、超人の領域に突入するのは。そして、その資格がある人間は、ファラーだけのはずでした。確信していたのです。
なのに、おなじ人類に――足を――抄《すく》われて。
最上の魔術師の座からも転落して。
あっさり転げ落ちて。
屈辱とも名づけられない。
もうむりなのです。もうだめなのです。精霊の眷族に匹敵する魔力など、とうてい獲得できるはずもない。人間のあいだで頂点をきわめてもいない存在《もの》が、人間を超えるなど。
ああ、おこがましい! 努《ゆめ》ゆめ想うなかれ!
おれは、もう、だめだ、おれは、もう、だめだ、
もう、だめだ、
だめだ、だめだ、だめだ――
自滅だけを糧《かて》にした絶望。腑《ふ》はぬけて、心身はともに渾沌《こんとん》に陥《お》ちて、混濁の世界にさまよっていました。いま、背中の創傷《きず》が痛みました。もはや――ファラー自身ですら――あったことも忘れていた創傷《きず》、肩甲骨のすこし下のあたりにのこされている真一文字の瘢痕《はんこん》が、ひさびさに、痛みました。幻痛に疼《うず》きました。
生涯消えない肉体の瘢痍《きずあと》が、ふたたび存在を主張して。
その醜い瘢痍が。
けっして他人《ひと》の目にはふれない、玲瓏《れいろう》の美貌《びぼう》を具《そな》えた人物の秘められた場所に封印されている、古い、古い、疵《きず》が。
そしてファラーは混濁した意識のなかで混濁した空間をさまよいました。
迷路を、阿房宮の辺境を、迷妄の精神《こころ》の命ずるままに流離しました。
地上にはでずに。地上にはでられずに。もはや英雄ではないのだから。
もはや終わってしまったのだから。
あらゆる見通しが。
ファラーの夢が。
だから、帰還せずに、地下都市内にも入らずに、野生の迷宮にぬけて、彷徨します。建築そのものが狂気を志向した領域に。ああ、流寓《りゅうぐう》こそはファラーの宿命、流亡《るぼう》こそはファラーの人生。いったい、どれだけの移動が、流浪が、遍歴が、流離《さすら》いがファラーの運命の書《ふみ》に書きしるされているのでしょうか?
ファラーは森を放逐されて(そう、二度めに遠離《とおざ》けられて)、さまよい歩いたのです。迷宮の辺境――夢の論理だけが絶対的に統べる空間に、迷路を循環しながら、無秩序という秩序にいろどられた無定形の空間、そして時間にさまよいながら、消えたのです。
無尽蔵の絶望を擁《いだ》いて。
ファラーは失踪《しっそう》します。「蛇の遺蹟」の征伐隊は、指揮官を欠いて活動をいっさい、やめます。迷宮の所有者は、ぜんたいどこに? 死んだのだと、何人もがいいます。夢の石室の最後の守護者を斃《たお》せずに、逆に討ち死にして果てたのだと、真実《まこと》しやかに語られます。でなければ「蛇の遺蹟」から地下都市にもどらないことがあろうか? 地上のゾハルに(いつもそうであったように)もどらないことが? 地下の市街には再度激震が走りますが、しかし風聞は風聞、真相は不明です。それに、いってみればこれだけが肝腎《かんじん》でしたが、食糧やらなにやらの供給はつづいていて、阿房宮の改造もひたすら続行ちゅう。暮らしむきは変わらず、地中を棲《す》み処《か》とする人びとがその都市《まち》の内部から抛《ほう》りだされる気配はございません。ならば、なべて世はこともなし。
地底の日常はファラーなしにも営まれつづけます。
都市《まち》は閉鎖されずに動きつづけます。
するうちに、目撃証言がささめかれだしました。幽霊|譚《たん》のような奇妙な証言。ファラーを見たと、一部の自称「勇者」がいうのです。迷宮のあらゆる権利を有した大臣《おとど》の「ファラー公」、遺蹟の土地の永代所有者にして、都市《まち》の住人ぜんいんの大家さながらの地底の最重要人物。そのファラーが、迷宮の辺境で目にされたとの声が、化物《グール》の巣窟《そうくつ》に突進しつづける自称「勇者」たちのあいだから一つ、二つとあがりはじめるのです。さらに五つ、六つ。はじまりは「優雅な魔物を見たぞ」といった程度の証言でした。「あの『万魔殿』に徘徊《はいかい》している魑魅魍魎《ちみもうりょう》のあわいに、それはそれは美しい魔物が、一匹」と囁《ささ》かれて、だれかが「いや、あれは人類《ひと》だった。あの満月に似た顔《かんばせ》、あの雪花石膏《せっかせっこう》よりも皙《しろ》い膚。あの聖《きよ》き容色は、魔族の郎党が具える類《たぐ》いではない」とつけ加えます。
「おれも見た。人間だった」
「それだけではない。憶えのある面《おも》ざしだった」
「見憶えが?」
「いかにも、しかり。あれはファラー公だったわい」
「まさか!」
「悪魔《シャイターン》ではないのか? ひとの眼《まなこ》を眩《くら》まさんばかりの艶麗《えんれい》な風情をした魔神は、たしかにいるという話だぞ」
「われらが大兄《たいけい》のなかの大兄、雅やかなファラー公に肖《に》た魔神《ジンニー》?」
「いや、面《おも》はやつれていた。こう、幽《くら》い感じに、そうだなあ……本家に比しては華やかさが消えていたかなあ」
「ならば、やっぱり魔族じゃ!」
阿房宮の迷路《まよいみち》のかなたに果敢に跋《ふ》みこんで、魔物たちの財宝《おたから》強奪にはげんでいる自称「勇者」たちは、囁きかわします。ファラー本人なのか、魔物か? いずれにしても、もっとも美《うる》わしい化物《グール》のうわさは、幽霊譚さながらに弘まりつづけたのです。
剣士や魔術師の地域社会の隅ずみに、それから地中の都市《まち》のあちらこちら――花街に、食堂街に、市場《スーク》に。滲透《しんとう》して、じわじわと拡がって、人びとの口の端《は》にのぼって。
阿房宮の手つかずの辺境をさまよい歩いている、美しい、ほとんど壮絶なまでに美しい、一匹の魔物がいる。
宏大《こうだい》無辺の迷宮の辺緑に、顕われては消える、妖々《ようよう》とその雅美をきわだたせた悪魔《シャイターン》がいる。
ファラー公に肖《に》ている。
ぞろぞろとファラーのあとを尾《つ》いてまわる魔霊《マーリド》がいました。いまだ地上の建築家たちによって改築の手を入れられていない、野生の迷宮の内部《なか》にさすらい呻《うめ》いているファラーは、いつしか醜悪な軍団をそい率《したが》えていました。その前後に、その左右に――ぞろぞろと。奇態な、あまりに奇態な生物《いきもの》たち。
化物《グール》の群れに雑《ま》じっても平気の平左、ファラーは元来の迷宮の野獣であったかのように、暴虐無残な空間をゆきます。
暴虐無残……通常の人間にはそうでしょう。しかし、ファラーに対しては暴戻《ぼうれい》なその性《さが》は発揮されません。ファラーを陥穽《わな》におとしいれようとする狂気は、いまではファラーの内側に渦巻いているものと同質、むしろ友人であって、さらにファラーを襲おうとする化物《グール》もおりません。なぜなら、襲撃を意図するには相手の(おのずと滲《にじ》みだしている)魔力の霊気《オーラ》がずぬけすぎていて、危険だったからです。いかに目下《いま》は惚《ほう》けていても、本来は稀世《きせい》の妖術家《ようじゅつか》であることが明瞭《あきらか》で、どのような類いの化物《グール》であっても恐れをなしていたからです。
その絶大な魔力、破壊のために揮《ふる》われるであろう伎倆《わざ》に。
ですから、逆襲されて殄滅《てんめつ》させられてはたまりません。
それでは、なぜ? なぜ尾いてきているのでしょう、無数の怪物が? ひとつには、ファラーが地獄のなかの光源のように、美しかったからです。蛾が蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りにつどい、群れて周囲を翔《と》びまわるように(ときには感情を抑えきれずに飛びこんで、焔《ほむら》に灼《や》かれてしまうように)、化物《グール》どもはファラーの無類の美しさに惹《ひ》かれていたのです。七つの地獄には麗容を誇る人型の悪魔《シャイターン》もいたのですが、じっさい堕天使の幾人《いくたり》かは端正きわまりない眉目《みめ》かたちをしていたのですが、ファラーの美《うる》わしさは珠玉のなかの名玉。地獄の貴顕大公にはない繊細な輝《かがや》きは、あまりに蠱惑《こわく》的です。いまひとつ、ファラーには自称「勇者」たちのように魔物を征伐して財宝《おたから》を奪い獲《と》ろうというような心算がありませんから(これはもう明々白々でございました)、まわりに群れていても平穏無事、剣呑《けんのん》さとは無縁に愛《め》でつづけられたのです。その美容を。
ですが、最大の理由《わけ》はといえば、以下のもの。
つまり、ファラーは絶望していたのです。苦悶《くもん》のかぎりに苦悶して、劇的に絶望していたのです。無尽蔵の絶望を発散しながら流離《さすら》っていたのです。このファラーがまき散らしている感情、これこそ、夢の――悪夢の――食糧《かて》ではありませんか! 化物《グール》がもとめてやまないもの、栄養満点であじわい深い食糧《かて》ではありませんか! ああ、憂苦こそは快楽《けらく》、だから無数の闇の生物《いきもの》が貪婪《どんらん》な瞳《ひとみ》を輝かして、ファラーのまわりにつどうのです。苦悩をチュウチュウと吸うのです。すするのです。胆嚢《たんのう》もはり裂けんばかりのファラーの絶望は、魔物を養い、むしろ魔物を喚《よ》んだのです。
招《よ》びあつめていたのです。
巨大な絶望が化物《グール》を産み、生やしているような情景でした。
そんなファラーを目撃したのは、しかし、財宝《おたから》目当てに「万魔殿」に入りこんでいる剣士や魔術師、その他の猛者《もさ》や山師ばかりではありません。では、だれが?
何者が迷宮の――奇想が猛威をふるっている、夢の権勢《ちから》をほしいままにしている――辺境にあって、この情景を目撃できるというのでしょう?
理性がなければ、何者であっても。
だれであっても、目撃できました。
すなわち、痴人《しれびと》であれば。
まず、悪鬼や羅刹《らせつ》、牛鬼やらと刎頸《ふんけい》のまじわりをむすんでいる阿房《あほう》ものたちが、彷徨《ほうこう》するファラーをしばしば迷宮の天地《あめつち》のあいだにみつけました。異類異形《いるいいぎょう》の友人とともに、地中の曠野《こうや》に認めました。ときには眺望《パノラマ》のはてを崇拝者の一群とともに翔《か》け、地平線を輪廓《シルエット》として移動しています。煩悶《はんもん》に吼《ほ》えながら、さまよっています。まるで辺境の奇岩地帯のあらたな名勝、刊行にもぴったりの新名物です。家畜化した魔物を放し飼いにしている牧童も、その放牧のかたわらにファラーを目撃しました。有翼の獅子《しし》の群れが熟した空虚《うつろ》を揃って食《は》んでいる草原を、絶望の王者である美《うる》わしの魔術師があちらにフラフラ、こちらにフラフラと往き来しています。ながれ歩いています。怪物に乗って迷宮内を駆けている奇物《いかれもの》の騎士も、ファラーに邂逅《めぐり》あいました。心の疾病《いたずき》によって目に見えない三百と六十の死神と会話している痴女《しれおんな》も、ファラーに遇《あ》いました。ふだんは物事のいっさいの区別《けじめ》がつかないけれども酒がしこたま入ると正気になるような逆《さかさ》酒狂も、ファラーをおととしとあさっての斜め左側あたりに見いだしました。甘蔗《かんしゃ》を齧《かじ》りながら『コーラン』を最終の文字《アルファベット》からまるっきり反対《あべこベ》にそらんじていた聖者《ウェリー》も、自称「勇者」の屍骸《しがい》から十一対めの肋骨《ろっこつ》ばかりを蒐《あつ》めている行脚《あんぎゃ》の痴者も、その伴《とも》となって骨を鳴らしてまわっている珍癖の芸術家も、ファラーを目撃しました。そして続々、奇人たちはファラーに遭遇しました。花園に遊んでいても、河童《かっぱ》となって地中の湖沼と水路を泳いでいても、そして白い魚(地底魚のこと)を生《なま》のままで喰らっていても、惑乱《たぶれごと》の寵遇《ちょうぐう》を得た人間であれば、何者であっても、だれでもファラーを目撃できました。
それほど、流浪をつづけていたのです。
宿命《さだめ》にしたがって。
迷宮の隅ずみに、空間のあわいに、端《はし》に、尖端《せんたん》に、なかに、下に。
そして、ファラーはある日(それは分裂した四方八方《よもやも》の時間のどこかにある一日でした)、発癲《はってん》者たちの桃源郷のなかの秘境の楽土の戸口《とばくち》に、たどりついていました。
それは奇人の奇人による奇人のための市域の城門でした。
自分がなにを前方に目にしているかなど意識せず、ファラーは門番の役割《つとめ》もしている奇人組合――それがどんな組合であるかは理性には不明です――の監視のもとに、巨大な二基の塔に附属したかのような城門をフラッ、フラッと歩いて抜けました。
その背後で、魔霊《マーリド》の群れていた軍勢が、ぱっとちりました。
こうして、ファラーはいまでかつて挑発的な精神《こころ》の奔放さなき人間が出入りしたという前例をもたない、そも存在も嗅《か》ぎつけていない大都《たいと》に、入ったのです。
奇人たちの自前の都市《まち》に。
ファラーがある意味では常人に対して鎖《とざ》されていた空間にわけ入った頃あい、いっぽう、出られない者は依然としてでられず、開扉しない戸口をまえにして、忿怒《ふんぬ》の形相のままで停《とど》まっていました。
その閉鎖された室内に住《とど》まっていました。
魔王サフィアーンは。
森のものの夢の石室の守護者を化していた魔王サフィアーンは。
状況は変化を容《い》れません。守護者が退室できないという理《ことわり》、厳格なる掟《おきて》に、例外は認められず、あらゆる手段《てだて》が無効です。その肉身《からだ》はほんの一瞬たりと扉にふれることができない。一歩も、戸外《そと》に踏みだせない。あらゆる破壊の妖術が効かず、霊剣は刃《やいば》をとどけることすらできない。
どんなに望んでも。
退室をいかに一心に念じても。
守護者であることは、すなわち囚人《とらわれびと》であることだったのです。
この囚獄《ひとや》の。森のものの夢にあふれて、色彩とにおいにむせ返っている石室の。
石室の。
魔王サフィアーンのなかのアーダムの人格《こころ》は、ファラーとの決戦ののちも、変わらず目覚めていました。変わらず事態を誤解していました。おれは蛇神《へびがみ》の罠《わな》に陥ちたのだ、と、あい変わらず誤信しつづけていました。剛忿《ごうふん》のきわみで瞋《いか》り、にらみつけています。開《あ》かずの扉を。かつて三|桁《けた》の武術家を雪崩《なだ》れこませて、対戦を強いてきた扉を。
しかし、いま、扉は閉め切られたままです。外側からも。闖入者《ちんにゅうしゃ》に対しても、鎖されています。凝視しても、凝視しても、ひらきません。
魔術師と対戦したことは、魔王サフィアーンのなかのアーダムも憶えています。この白皙《はくせき》の魔術師が闇黒《あんこく》の秘法の数々をつぎつぎ無に帰したほどの伎倆《わざ》の所有者であった事実《こと》も、その仲間《つれ》の三名は斃《たお》せたが魔術師そのものは逃してしまったことも、憶えています。そして? そこまでです。爾後《じご》、出来事と呼べるような出来事は生じていません。なにより、石室の扉がそれを最後に閉じて――白い魔術師を逃走させて閉じて――以来、なにも起きていません。
扉は閉め切られたまま、出来事は起きません。
ただ一ヵ所の出入り口は、鎮《しず》まり返って、魔王サフィアーンの赫怒《いかり》の目《まな》ざしにも、無反応をつづけました。だれも来ないのです。だれも闖入してこないのです。いかさま、そのとおり。征伐隊はファラーという指揮官をうしない、活動をいっさい熄《や》めていたのですから、訪問者がないのは当然です。
そして魔王サフィアーンのなかのアーダムの時間が、空白を認識します。
記憶にあたいすることはない、時間《とき》は無為にながれている、と。
征伐隊の第一波が訪れてから四日間、その戦闘《たたかい》の日々は、数珠《じゅず》つなぎの現象としてアーダムの精神《こころ》にとらえられていました。剣豪を斬ることも、槍術《そうじゅつ》の勇士を魔法で焼却することも、怪力無双の集団をポンッ、ポンッ、ポンッと破裂させることも、瞬間の連鎖の内側《なか》にあったのです。その連鎖の末尾《しっぽ》が、ファラーとの一戦でした。
それで、お終《しま》いです。
時間はふいに、出来事はもう連続していないのだと、空白を認識しました。
アーダムの意識の内面《なか》で、そのために時間がながれはじめたのです。
地上世界と同様の時間が? さにあらず、それよりももっと速い――通常《なみ》の人間の感覚にぬけがけするような、数倍の、数十倍の速度の時間でした。これまでの停滞を埋めあわせるように、いっきに時間はながれました。ドッと、疲弊が襲いました。戦闘《たたかい》のおおいなる疲労が「安息を! 安息を!」と叫び、魔王サフィアーンのなかのアーダムに信号を発していました。腕が、足が、腹が、胸が、筋《すじ》という筋が口々に叫んでいたのです。ひとの一瞬《ひとまたたき》のあいだに、アーダムの精神《こころ》は一時間を耐え、二時間を耐え、半日を耐えました。もう一瞬《ひとまたたき》のあいだに、眠らずに扉をにらみつけているような心情《おもい》になりました。だれも自分を斃しに来ない、開《あ》かずの扉をひらいて挑戦に来ない、まるで膠着《こうちゃく》状態で、なにも変わらない。
変わらない。
おれはむだに戸口をにらんでいる。
睡眠《ねむり》もとらないで。
耐えられるはずはありませんでした。眠らない、それは窮極の苦痛だったのです。アーダムの精神《こころ》にとって、回避しがたい饑餓《きが》感を生む要件《もの》だったのです。
もう一瞬《ひとまたたき》の半分も堪《こら》えきれずに(もはや徹夜をこなしたような心境でした)、魔王サフィアーンのなかのアーダムは、睡眠《ねむり》に対しての饑《ひも》じさに屈しました。
「安息を!」との声に順《したが》って、ひたすら惰眠をむさぼったのです。
アーダムの人格《こころ》が事態の打開策をいっさいたてもせずに、それどころか突破口を見いだすために頭脳《あたま》を働かせもしないで寝《やす》んでしまい、目覚めたのはサフィアーンの人格《こころ》です。こちらはスライマーンの封印のことも、守護者のことも、ひとつとして弁《わきま》えていないにとどまらず、自分がどこにいるのかすら呑《の》みこめていないで、またまた森のものの夢の石室の内部《なか》で覚醒《かくせい》してしまったのです。
智慧《ちえ》をしぼろうにも、どだい「守護者ってなんだ?」という状態《ありさま》の純正なるサフィアーンが、これでアーダムの人格《こころ》と交代すること三度め、魔王サフィアーンのなかに目覚めたのでした。
この魔王サフィアーンが知らないのは、守護者や四つの夢の石室から成る封印の背景にとどまりませんでした。
アーダムの人格《こころ》が統べていた期間のいっさいがっさいの記憶をもたず、すなわちファラーと決戦したことも認知していませんでした。
ファラーと魔力の戦闘《たたかい》となる一騎討ちを演じて、ああ、かつての相方(それも空前絶後の魔術師として尊敬の念をいだき、いまだにアーダム戦で謀《はか》られた現実に気づかないために信用しつづけている、あの「天晴《あっぱれ》な相棒のファラーさん」)を惨敗に逐《お》いやったことも、ぜんぜん知らなかったのです。
さもあらばあれ、とファラーはいったでしょうか。たぶん、いわなかったと思います。ですが、この問いは仮定でございまして、ファラーは本来のサフィアーンがなんら咎《とが》を負わないとは想像もできず、じっさい、真相にふれる機会もございませんでした。
なぜならば、魔王サフィアーンは――それが二つの人格《こころ》のどちらに統べられていようとも――鎖《とざ》された石室のなかから一歩も動けず、ひるがえってファラーは、その宿命《さだめ》に強いられて絶望を擁《いだ》きながら移動し、ひたすら流離しつづけていたからです。
辺境へ、辺境へ。
それは対照的な運命でした。住《とど》まりつづけることと、漂泊しつづけること。二人の拾い子の形骸《からだ》の。
そして生誕の瞬間《とき》から孕《はら》まれていた運命の力が、ファラーを迷宮内の遍歴のあらたな、同時にもっとも巨《おお》きな空間《ステージ》にいたらせたのです。
奇人都市のなかに――。
この喧燥《けんそう》をお聞きください。着飾った牝騾馬《めすらば》を乗せた人力車が往来を往《ゆ》きかい、商人街では鶏冠《とさか》が流通する貨幣となって売買《あきない》がおこなわれ、雄鶏のそれは銀貨《ディルハム》と呼ばれて、雛《ひよこ》のそれは金貨《ディナール》あつかい。靴直しは雪隠《せっちん》に店を構えて、モロヘイヤの汁を客人《まろうど》の足うらに塗りつけています。天才的な双瞳《そうとう》の職人が設計した玻璃《はり》の池には駝鳥《だちょう》が泳ぎ、麒麟《きりん》の群れが裏道を駆けて(迷宮内の辺土の牧場から逃げだしてきたのです)、袋小路では家鴨《あひる》がガーガーと啼《な》き、鵞鳥《がちょう》がギャーギャーとわめき、三羽の怪鳥《けちょう》の背にまたがった六名の老痴女に奉仕活動を命じています。ああ、奇人たちの洛中洛外《らくちゅうらくがい》、天下太平万民安泰。ザグルーダ(めでたいときにアラブ人が発する歓声)が響いたかと思えば、これはカルカデ(ハイビスカスの花を煎じた飲料)の悲しみを意味し、さて、カルカデの悲しみとはなにかといえば、これはスマトラ産の伽羅《きゃら》の入った香炉の愁《うれ》いを意味し、この意味不明の連鎖に「それはいったいなんですか」と奇人に問えば、最後には脂《あぶら》がのった羊の尻尾《しっぽ》(これは食用)が示されます。おお、素焼きの冷水|壜《びん》の喜怒哀楽! 癲者《たわもの》たちの、なんたる、なんたる豊かな感性よ!
この喧噪のなかにファラーはいたのです。
奇人都市のただなかに。
しかし、どれほどの情景をファラーの五感はしかと認めたでしょうか? 主体的には、ほとんど一片も。絶望の無辺際の王領に君臨するファラーにとって、現実を把握するのは(それが非現実そのものの現実であっても)困難でした。この都市《まち》の城門をフラフラッとさまよいながら通りぬけた第一歩からして、前方《まえ》にあるのがなにかなど、まるで、まるで、まるで意識していませんでした。五感は把《とら》えられなかったのです。絶望だけがファラーを盲目につき動かしていたのです。ファラーを統べているのは絶望だけ、それが肉身《からだ》を作動させて精神《こころ》を崩潰《ほうかい》させて、外界については認識できない。認識できないのです。そもそも、いかなる理由《わけ》で放浪しているのかも――
それでも、放浪しつづけていました。
そしてファラーのまわりを認識されない体験が通りすぎました。右手に、後方に、上方に。ちかづいては、離《さか》り、さわいでは、無言《しじま》を強いる者たち。反古《ほご》にされた預言の説教師(これはナザレ人《びと》でした)、お猿の先生《ムダッリス》、毒|茸《きのこ》の菓子屋、馬と麒麟の医者(精神病の馬を麒麟が診ていました)、芸をしないことで喝采《かっさい》を浴びている大道芸人、と思えば批難ごうごうの屁《へ》こき師(ダッラートと呼ばれる、中世カイロなどにも実在した専門の芸人である)、鳩レースならぬ揚げた乾酪《チーズ》のレース。さまざまな熱狂、さまざまな悶絶《もんぜつ》。もっとも千万な憩いの数々が躙《にじ》り寄っては飛び離れ、退《の》きます。
あらゆる狂気がファラーを無体験の――ただ過《よぎ》るだけの――体験者としてあつかっていたのではありません。都市《まち》の狂気への介入は、ときに強要されました。すっかり狂《ふ》れた市内の暮らしの一部となれと。この狂気に参加しろと。ファラーは、ですから(前後も知らない精神はさておき、その肉体面では)直接に交流《まじわり》もいたしました。たとえば大道《だいどう》、剃《そ》った頭頂に番紅花《サフラン》をすりこんだ女児があらわれて、いきなり「お父ちゃん!」といって袖《そで》をつかみ、「ほら、ごちそうだよ!」と丸焼きにしたシャンマーム(紡錘形をしたメロン)をさしだせば、ファラーはこれを頬ばります。笛がさしだされても齧《かじ》ります。「食べろ」といわれれば、なんでも食べました。そして「脱げ」といわれれば脱ぎました。お頭《つむ》の螺子《ねじ》がゆるむどころか代わりに無数のバーミヤ(オクラ)をつき刺して填《は》めたかのような法律学者が、さすらうファラーを呼びとめて「罰金! 罰金!」と宣告すれば、ときには科料《とがりょう》として髪の毛の一本の正確に二十六分の一を切ってわたし、ときには豪奢《ごうしゃ》きわまりない表着《うわぎ》の一枚、二枚やら、帯やらをわたしました。
交換に驢馬《ろば》用の鞭《むち》、結婚契約書の下書きや、ミラーア(エジプトの女性たちが頭から身体にかけて巻きつける黒い布)を受けとったりもしました。
ばあいによっては全裸にもなりました。市内を流浪しながら、茶屋《マクハー》らしき建物に入ると、「ここは浴場《ハンマーム》ですよ」といわれ、忠告者といっしょに衣類をのこらず脱ぎました(けれども、常識的なハンマームでの作法から敷衍すれば、下穿きだけは着けているのではなかろうか?)。すると曝《さら》されたファラーの裸身を見て、何人も、何人も、老若男女の泡斎《ほうさい》がつどってきました。さて、奇人たちは美意識もなかなか独得でありますから、その半数がファラーの比いない眉目《びもく》の秀麗さを認めえたとしても、もう半数の判断といったら正反対。なんと醜怪な! と叫ぶ婦人もおれば、これほどの醜男《しこお》は世にも稀《まれ》だわい! とおのが視線を逸《そ》らそうとする殿方もおります。醜男《ぶおとこ》のなかの醜夫に思われてしまうのです。ですから、ファラーの裸身に惹《ひ》かれて、浴場《ハンマーム》の界隈《かいわい》じゅうから群れつどった奇人たちの反応も二種類でした。第一に、うっとりとする者たち。第二に、これもうっとりする者たち。はて、なにに? もちろんファラーの裸身にですが、眺めているのは端正な部分ではありません。その背中の醜い瘢痍《きずあと》、真一文字の創傷です。はるかむかし、十歳の少年のときにファラーが浴びた破壊の意志の痕跡《こんせき》。そしていま、絶望に陥ちてから疼《うず》きつづけている刻印の疵《きず》です。
それを、美しい、と半数の奇人がいいます。
その瘢痕《はんこん》を、めざましい優美さ、と讃《たた》えて撫《な》でます。
そうです、ふれます。裸の皮膚《はだ》に。その――ファラーの目にはけっして入らない、後背の憂幻――やまない瘢創《きずあと》を。
ふいに、安らぎがありました。疼いている瘢痕は、その瞬間だけ、やわらぎました。
撫でられていると、醜麗《しゅうれい》も逆転して、苦痛の刻印から愛情もたち昇って。
ですが、入った浴場《ハンマーム》からは、いずれは退場しなければなりません。
ファラーは住《とど》まれない。それがファラーの宿命《さだめ》なのです。奇人都市の内部《なか》での流離はつづきます。さまよい、さまよい、奇人たちの楽園都市の隅ずみに。曲がって沈んだ仙境の前後左右と上下に、都心に、北限《さいはて》に。いつしか、ファラーの発散する絶望は痴人《しれびと》たちのなかに熱烈な信者を生みました。断腸の思いが歌舞音曲の愛好家を刺戟《しげき》して、陶然となって歌いだす歌手《アルマー》もおりました。ああ、ファラーの絶望ははるかカフ山の峻嶺《しゅんれい》のように巨大、ダイヤモンドの純粋さのように無尽蔵、艶歌師《えんかし》たちはファラーのあとを追い、惹かれるままに尾いてゆきます。歌いながら、謳《うた》いながら。至福の恍惚感《タラブ》をかきたてられて。歌手《アルマー》たちだけではありません。ウードの奏者も、ラバーブ(日本や中国の胡弓に似た一絃琴)を手にした詩人も、続々あとに従って歌い、奏で、弾き、わめき、号《さけ》び、笑い、囁き、つぶやき、沈黙して「禍事讃歌《まがごとさんか》」を心中に唱え、バウバウと吠《ま》えて(犬男もいたのです)、まるで楽団です。ファラーはかつての魔霊《マーリド》の軍団のように、こんどは奇人たちの絢爛《けんらん》貧困たる楽団をひきいて全市に流浪をかさねたのです。
その艶《あで》やかなまでに鮮烈な絶望で彼らを蠱惑《こわく》して。
楽団といえば、その親類のような職に就いているのが講釈師です。楽師なしに茶屋《マクハー》や広場で仕事《つとめ》が果たせる講釈師はおりません。譚《かた》られる物語の背景に演奏を必要とする講釈師がいて、講釈師を必要とする演奏家がいて、この因果によってファラーは駱駝《らくだ》用の水飲み場のなかに暮らしている講釈師のもとに誘《いざな》われました。ですが、これまた奇人の一員、ただの|語り部《シャーイル》にはなろうはずもありません。
つまり、わたしのような存在《もの》には。
譚らせることが、譚ることでした。だれに閑談《おしゃべり》させるのかといえば、聴き手に。純然たる逆転にあらず、ここには深い狂気が、それも奇人都市のぜんたいの巨きさにも匹敵するものが胚《はら》まれていました。講釈師は、生きている百科全書ともいえる、異能の天才でございました。どのような意味あいで百科全書? 全市の住人のあらゆる境遇、性癖、野望、嗜好《しこう》、ついで身長体重、毛の色目の色|皮膚《はだ》の色、血のつながっていたりつながっていなかったりする血縁関係、上機嫌とぶきみさの許容量、狂気における業績、その他、いっさいがっさいの人生――および構想された人生――に通じているという側面においてです。この講釈師は一人の乱心者《らんしんもの》にしてそのまま「奇人都市の住民事典」でした。年代記や滑稽《こっけい》談の代わりに他人《ひと》の一代記ばかりを蒐《あつ》めました。聴き手に譚らせて、その自伝を蒐集《しゅうしゅう》したのです。ああ、個人的な物語はいっっさいが珍談奇談(他者にとっては、の意味であろう)、さらに聴き手は変人、講釈師も変人、蒐められた「実録|安本丹《あんぽんたん》伝」はきちんと物語の鋳型に嵌《は》めこまれるのですが、材料はもちろん鋳型に嵌まりきりません。
しかし、すべては講釈師の天才の技術《わざ》で、処理されます。
処理? それほどのような?
ファラーを例に挙げましょう。ファラーもこの講釈師のもとに誘われて、譚ったのですから。「食べろ」といわれれば食べ、「脱げ」といわれれば脱ぎ、「譚れ」といわれれば譚るのが、精神《こころ》を崩潰させたファラーでした。その問いは絶妙、その話術《かたり》は無秩序の狂気を順序だてて抽《ひ》きだすほどに神|憑《がか》り、一定の体系のもとに排列《はいれつ》されるほどに天才的。ただ聴き手に徹するだけで、そのひとの生涯はたしかな譚りとして、ことばとして、声として吐きだされ了《お》えました。
たとえば欠色《アルビノ》の赤んぼうの物語が。
二度におよんだ森の拒絶が。
敗残の魔術師の境涯《みのうえ》が。
数時間後に、講釈師はその本来の仕事《つとめ》――理性が把握するところの講釈師という定義――を完遂します。ようするに、ラバーブの演奏家とともに市内のどこかに立って弾き語りがおこなわれたのです。講釈師は輪を描いた聴衆のまえで物語ったのです。それは聴かれたのです。それは――そして――しっかり滲透《しんとう》して流布したのです。その結果をファラーは目《ま》のあたりにします。さまよいながら、全市を彷徨《ほうこう》しながら。給水泉《サビール》のかたわらに、ファラーがいます。墓廟《ぼびょう》の屋根のうえにも、薬種商《アッタル》(香料商を兼ねる)の店さきの籠《かご》のなかにもファラーがいます。旅籠《ハーン》のあたりには同時に七名のファラーがいて、そのうち三名は老婆、一名は小童《こわっぱ》の狐|憑《つ》き、のこる三名が狸爺《たぬきじじ》いのファラーです。なぜ、そうした全員が同時にファラー? これらの奇物《いかれもの》のファラーたちは聴き手であったのです。講釈師の物語りに耳を傾けて、そしてファラーとなったのです。ファラーの一代記を消化《こな》して、みずからが主人公のファラーであると確信して。
譚りが終われば講釈師を中心とした円から離れて、市域のあちらこちらにちり、本家のファラーが流離しているように徘徊《はいかい》して、ファラーを増殖させたのです。
奇人都市の内側《なか》に、無数に。
数十人のファラーを。数百人の絶望する魔術師を。
これが異能の天才の|語り部《シャーイル》によって煥発された技術《わざ》。その最終の発現《あらわれ》。むろん、聴き手の放縦《ほうじゅう》にして豊饒《ほうじょう》な精神あっての。
この一日間に、およそ四百人超のファラーにファラーは出遇いました。流布するファラーの詳伝《おはなし》がまたファラーを生んで。追体験されればファラーが誕生して。増殖をつづけて、増殖をつづけて。あたかも永続する生命を暗示するかのような情景。
だが、いかに永遠が目論まれても、ファラーにとっての生命《いのち》、それは絶望の代名詞です。ただ空虚《うつろ》にとりのこされているだけのものが複製を産みつづけても(それがきわめて精確な写しであっても)、どうしたって自滅からの浮上は叶《かな》いません。そこに救済はないのです。
それこそ、永遠に。絶対的に永久《とわ》に。
とはいうものの、本家のファラーにとってはさいわいなるかな、増殖は二日めに入れば已《や》み、もはやファラーは鏡のような(しかし容貌《ようぼう》においては霄壌《しょうじょう》の差がある)連中には遭遇しません。たぶん、奇行者たちのあいだでは増殖があるとき減殺《げんさい》を意味して、永遠は
「その日かぎり」と解釈されたのでしょう。これぞ狂気の面目躍如、都市《まち》はファラーを忘却したのでした。
そしてまた。ファラーはただ楽団だけをひきつれて、さまよい歩きます。
奇人たちの桃源の市域の隅ずみに。
マグレブ(ここでは世界の西方のこと)について云々《うんぬん》するのならばサラセン(世界の東方)をついで云々するのが世の筋道。ならば、話されて聞かれる物語の類《たぐ》いについて佚話《いつわ》を披露したのですから、こんどは書かれて読まれる文学について言及しないわけにはゆかないでしょう。そして事実、ファラーは遍歴の旅行者がマグレブからサラセンにいたるように、この奇人都市の内部《なか》での遍歴において、さきの講釈師の挿話からいっきに反対側の極にいたったのです。
これはひたすら遍歴のなせる業《わざ》でした。
これはひたすら流離のなせる業でした。
宿命《さだめ》の。
市場通りをぬけて、運命はファラーをその場所にいたらせました。両替屋がつづいていて――ちなみに阿房宮内のもうひとつの地下都市、自称「勇者」を中心とした精神正常な人間たちの暮らす都市《まち》では、両替屋では財宝《おたから》類を地上のゾハルで流通する貨幣に換える商売《あきない》をしているのですが、ここでは腐った川魚の肉やらバジリスクの卵やら猫の触毛《ひげ》やらユダヤ人の左足の小指の爪の三分の一やらと交換されます――店屋の裏側を(これらの商店街には裏側と梁《はり》しかなかったのです)ぬけると、それまでガチャンガチャンと囂《かまびす》しくファラーに尾いてきていた楽団が、ぱっとちりました。騒然としていたのに、忽然《こつぜん》と顕《た》ちあがったのが静寂です。
その無言《しじま》をついて、ファラーを誘惑するように詠《よ》まれる詩歌が響いてきたのでした。
[#ここから2字下げ]
うっちゃらかして、穀《ごく》つぶし
さて ハズラマウト(現イエメンの東部にある地域)の年代記
シャッハラ シャッハラ 叫んでみても
馬の耳に念仏で
一冊、二冊、三冊、四冊、
五冊、四冊、三冊、一冊、
あれま 一冊 どこ行った?
かちかち価値|価値《カチ》 スッカル スッカル
同心円も うっちゃらかして
う?
[#ここで字下げ終わり]
なんら詩歌の体裁をなしていない烏滸《おこ》の沙汰《さた》ではありました。しかし、運命はここにファラーを導いていたのです。遍歴の宿命《さだめ》は。建物がありました。市場通りの前方に、すっぽりファラーを呑《の》みこむように、戸口《とばくち》をひらいて。
天地《あめつち》が割れるように闢《ひら》いて。
だから、ファラーは呑まれるままに、そこに入ったのです。
なにを見たでしょうか? 霞《かす》みがかかったような視界ですが、精神《こころ》は潰減《かいめつ》のさなかにも奇《めずら》しいものを見ました。書架でした。その書架に、ずらっと列《なら》んでいる典籍でした。汗牛充棟《かんぎゅうじゅうとう》の蔵書でした。
図書館だったのです。
そこは。
この奇人都市、唯一の。
「千客万来!」と濁声《だみごえ》があがります。ファラーをむかえたのはこれらの無数の典籍、そして、ファラーをむかえたのは本男《ほんおとこ》でした。
この図書館の司書にして主人。書物の空間《なか》に――ページの内側と文字の絶対的|恩寵《おんちょう》の凹部に幽居する稀代《きたい》の風人《ふうじん》。
書物でできた衣類に身をつつんで、長い顎鬚《あごひげ》を束ねて叩《はた》きにして書架の塵埃《じんあい》を払っていました。
いまも、珍書のページをむしりながら齧《かじ》っていました。
だが、その本男がファラーの目を惹《ひ》いたわけではありません(いうまでもないことです)。ファラーの壊れていた精神《こころ》が、館内にある強烈なにおいに反応していたのです。反応? そう、ほとんど斬新に祟《たた》られていたのです。におい――といっても嗅覚《はな》に感じられるものではありません。あるいは嗅覚《はな》にも感じられて、その他の四つの感覚器官にも把《とら》えられて、なおかつ第六感にもふれる類いでした。そのにおいは、鬼気迫ります。魔神《ジン》の呻《うめ》きのように香ります。絶望に痺《しび》れたファラーの意識に、火縄《マスケット》銃の弾丸を撃ちこむように、劇烈《げきれつ》かつ覚醒《かくせい》的に作用しました。
現実のにおいではないもの。
それが、ふいに、ファラーの精神《こころ》に目覚める部分をもたらしたのです。
ファラーは、だから嗅《か》ぎました。
嗅いで、見ました。それまでの朦朧《もうろう》とした(意識の、視界の)靄《もや》をかきわけて。
すると、すさまじい一冊が――
妖気《ようき》がたち昇るような一冊の古書が、陳列棚にありました。
流離していた者は足を停めました。そのとき、住《とど》まりつづけることを運命によって強いられていた者は?
「ああ、どうして目覚めても夢のなかなんだ!」と叫んでいました。
さて、こちらは魔王サフィアーンです。三度めにその肉身《からだ》のなかに覚醒してアーダムの精神《こころ》と交代した本来のサフィアーンのそれは、劈頭《はじめ》、またしても狼狽《ろうばい》の大海に抛《ほう》りこまれていました。パチッと眼《まなこ》をひらいてみれば、いかなるしだいでございましょう、すやすやと寝《やす》んで起きたはずなのに、寝覚めの世界にその視覚《め》が認めたものはといえば森のものの夢。なにを嗅いだのか、なにを聴いたのか、なにをあじわい接したのか――またもや跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する幻想だったのです!
「いかん、いかん、いかん」と魔王サフィアーンは独りごちていました。「ヤア、サフィアーン、いよいよ事態は冷静な、きわめて冷静な判断をもとめているぞ。もう寝ぼけているなんて釈明《いいわけ》は通用しないのだ。だって、ぼくは寝ぼけていないんだから! ご飯を食べれば満腹を実感できるように、たっぷり寝《やす》んだ現実は、ほら! 熟睡の感覚としてあじわえるじゃないか。だいたい、寝すぎたみたいな気分だもの。そんな後味だもの。それに、寝入るまえに『グーッと寝てガーッと息《やす》む』と決意したことだって憶えているし、ほら、ほら、ほら、記憶は鮮明じゃないか! おかしいのは自分だなんて、だめ、だめ、だめ。あて推量しちゃいけない。悲観主義に未来はないぞ。論理でいこう! 第一に、ぼくはあのとき寝た。たしかに自発的宣言とともに寝ました。第二に、それから起きた。さっき起床しました。ですから、結論――ヤア、サフィアーン、きみは目覚めているのだ!」
足もとの腐葉《ふよう》の泥沼を感じながら(それも夢です)、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンはいいました。
「うーん、意識は澄明だ! これは寝ぼけ頭じゃない。しかし、目のまえに……というか四方八方になんだけれど、たっぷり夢の感触《てざわり》をした状況があるということは、このおおいなる渾沌《こんとん》、この渾沌こそが現実だ!」
おお、純然たるサフィアーンは頭脳|明晰《めいせき》、きわめて聡明《そうめい》にして、おまけに前むきでした。
「なにがなんだっていいたいけれど、それでもやっぱり、現《うつつ》の世界なんだ。必要なのは狼狽の類いじゃなくて探索、おかれている状態の把握なんだ。不運をかこっていても徒爾《むだ》だっていうのが人生訓だったじゃないか。さあ、頭から無知を払いのけよう。おちいった苦境の実態をしっかり把《とら》えて、噛《か》みわけよう。こんどこそ失神しているばあいじゃないし、ごまかして寝入っちゃうばあいでもないぞ。ないんだったら。それでは、探険は可能かしら?」
こうして魔王サフィアーンは踏査をはじめたのです。ああ、前人未到の森のものの夢の領土を、人間として、それも守護者に屠《ほふ》られない人間として蹈《ふ》む単独探険隊よ! そしてサフィアーンの精神《こころ》は――森のものの夢の深奥に――みずからが守っている(と守護者だけが知らない)世界の心臓部に、始原の時間を割るようにして入っていきました。
爾後《じご》、探索はつづいたわけですが、さて、アーダムの精神《こころ》とちがって一般的な時間感覚を有しているサフィアーンの精神《こころ》は、前回目覚めたときのような空腹や、身体的な疲労は感じなかったのでしょうか? なんといっても、魔王サフィアーンの肉身《からだ》はさきだつこと数日間、征伐隊の三|桁《けた》の猛者《もさ》と対戦しつづけてきたのですから。これが――アイワ(アッラーに誓って)、意外な事実だったのですが――腹も減らなければ喉《のど》も渇かず、おまけに憊《つか》れもなかったのです。完全無欠に精力に充ち満ちていたのです。いかなる仕儀で? 原因《もと》はただひとつ、巨竜の屍肉《しにく》でございました。魔王サフィアーンが打倒し、喰らい、たっぷり摂って養分に変えた巨竜の肉《しし》に、内臓《はらわた》に、血に存しておりました。いまや魔王サフィアーンの肉身《からだ》にながれている血液は、生まれ変わった巨竜の生血《のり》でもあり、心臓がそもそも巨竜の心臓《ハツ》でもあり、筋肉という筋肉が――あらたな生命《いのち》として生きなおしている――巨竜のそれであったのです。魔王サフィアーンの肉体は、もはや単なる人間の生身《なまみ》ではありません。
変容していたのです。
妖魔《ようま》界の王家の一員ともみなされる竜族のそれに。
竜的な肉体に。
サフィアーンの精神《こころ》がまるで饑渇《きかつ》をおぼえなかった理由、数日間の飲まず食わずも今回はぜんぜん堪《こた》えていなかった背景は(神秘の事情は)、かようなしだいでございました。
というわけで、空腹《すきっぱら》にも苦しめられずに探険はつづきます。森のものの夢の、そして夢の石室の内部《なか》の踏査行でした。たちまち意外な発見につきあたって、魔王サフィアーンは「うわっ! なんだ、この髑髏《しゃれこうべ》!?」と声をあげました。それは夢の感触《てざわり》とはまるっきり対照的な代物、ひたすら実体のなかの実体、それこそ即物のなかの即物であるばかりの人骨でした。おまけに半端な数ではありません。石室の床を(森のものの夢の触感をふり払いながら)どうにか手探りすれば、あるわあるわ、累々と転がっていて――二十体――三十体――どころか、五十体――六十体。いや、それ以上です。
下手をすれば百の大台を突破しています。
三桁にのぼる人骨の散乱。
夢に埋められた髑髏《しゃれこうべ》をまえにして、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンは唖然《あぜん》と「このひとたちは魔物にでも屠られたんだろうか?」と思案します。よもや、おのれが寝ているあいだに手ずから戮《ころ》したのだなんて、夢想だにいたしません。ああ、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンの人格《こころ》の、なんたる無垢《むく》。なんたる清さ。魂は奇蹟《きせき》のように無疵《むきず》でありつづけていました。純真にして、天衣無縫の性分《さが》のままでした。これは殺人を犯しても――殺戮《さつりく》の記憶をもたず――だから罪を浴びず――けっして殺人者になることのない拾い子でした。
同胞《どうぼう》の人間を殺《あや》めても。
その手で大量殺戮を実行しても。
殺人者《ひとごろし》にはなりえない。
それがこの拾い子の宿命《さだめ》だったのです。
罪の意識からは永遠に守られていました。
さて、魔王サフィアーンは人骨の散乱を現実の大地に(それが石室の床面でした)感じながら、それこそ愕然《がくぜん》としながらも夢のなかを泳ぎます。「どうやら四方八方の夢の感触《てざわり》のこの空間のなかに、兇悪《きょうあく》な化物《グール》がひそんでいるにちがいないぞ。それが骸骨《がいこつ》化した犠牲者の皆さんを殺《バラ》しちゃったんだ。剣呑《けんのん》、剣呑。ぜったいに寝ぼけていられないぞ!」とおのれの心中にて臍《ほぞ》を固めますが、まさか当の化物《グール》が(その兇悪な魔物が)自分だとは知る由もなし。石室の守護者の魔王サフィアーンに襲撃されるのを避けて、魔王サフィアーンがそっと石室の内部《なか》を探険していたわけです。ちなみに、征伐隊の猛者たちの屍骸《しがい》がのきなみ白骨化していたのは、魔王サフィアーンとファラーのあいだで演じられた一騎討ちの魔法戦のためで、この森のものの夢の石室が軍《いくさ》の庭となったあの秋《とき》、妖術《ようじゅつ》の火焔《かえん》がすっかり屍体の群がりを焼いていたためです。
ですから、ときに魔王サフィアーンは頭骨をガシャリと踏み、肋骨《ろっこつ》をガシャリと躙《にじ》りました。
三桁の人骨は焦げた大鎧《おおよろい》をまとい、鎔《と》けた兜《かぶと》を頭蓋《ずがい》に嵌《は》めこんで、刀剣や鎚矛《つちほこ》を足下にちらしてもいました。
この壮絶な探査行を魔王サフィアーンのなかのサフィアーンは強靭《きょうじん》な精神でもって敢行したのです。なぜかと申せば、愛のため。そう、愛のために出口を模索《もさく》しておりました。ドゥドゥ姫の曲眉豊頬《きょくびほうきょう》を想い起こし、酷《むご》い別離の痛みから脱《ぬ》けだすために、そうしてあの従妹《いとこ》の(みずからが結婚の権利をもっている従妹の、のみならず正式な縁組みの特権も――お布告《ふれ》に従い、アーダムと呼ばれる古《いにしえ》の魔王の首級《くび》を討ちとったことによって――手に入れたはずの王女の)世に双《ふた》つとない均整のとれた風姿、艶麗《えんれい》典雅な容儀にふたたび邂逅《めぐり》あうために、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンそのひとは奮戦していたのです。その第一歩として、状況いっさいを理解しなければ――。
観察、観察、観察。尋常一様《じんじょういちよう》ではない幻想を、魔王サフィアーンは看《み》て、聴いて、嗅《か》いで、さらにあじわい、さらにふれて、それから翔《と》んだり逆行したり垂直に落ちながら匍《はらば》ったりしたのです。珍無類の、肝をつぶすような光景ばかりでした。偉大な造物主を讃《たた》えている歌を聞きました。
始原の時間の母胎《はら》のなかで。
それでも、魔王サフィアーンがようよう到達した第一の結論は――「出口なし」。森のものの夢の石室の現実部分を知りぬいてみれば、これは完全に鎖《とざ》された空間です。脱出の糸口を見ようとはげみながらも、把握できた真相はまるで反対のものでした。
ああ、またもや惨《むご》たらしい現況! こんどは絢爛《けんらん》たる森のものの夢の内部《なか》という、煌《きら》びやかな獄に投じられていたのです。
事実を認識して、魔王サフィアーンは「なむさん!」と天を仰ぎました。
「ふたたび獄舎《ひとや》に入れられている。どうやら、囚人《めしうど》の運命がガシッと咬《か》みついちゃって、離さないらしいぞ。これはあの古《いにしえ》の魔王の、玄室の主《ぬし》だった魔王アーダムの詛《のろ》いかしら? かもしれない。斃《たお》しちゃまずかったのかもしれない。もしや……もしや、いまごろは相方のファラーさんもおなじ憂き目に遭って、ちがう牢獄《ろうごく》に飛ばされているのかも。おなじように閉じこめられているのかもしれない。ふむふむ、可能性は大きいぞ。しかし、これは最悪の展開《なりゆき》だなあ。ただ、あれだぞ、ヤア、サフィアーン! この獄舎《ひとや》は最初に目覚めたときにいたそれとはちがうじゃないか。移動は……している? 眠ると、移動した? でも、二回めに目覚めた場所とここは、同一の空間という気がする。どうだろう、ちょっと試してみよう。じゃあ、こんどは建設的に寝入るぞ!」
こう宣言して、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンの人格《こころ》は――森のものの夢の石室の探険の延長として――横になったのです。寝つきは抜群のサフィアーンですから、たちまちすやすや、グーッと眠りこんで夢寐《むび》に就きます。
もちろん、アーダムの人格《こころ》が目覚めます。
ところが、どうでしょう? こんどのアーダムは? アーダムに司宰《しさい》された魔王サフィアーンは? たしかにパチッと両目をひらいて、起きあがりました。周囲に繁殖している夢を見て、出口の――唯一の外部との接点である戸口《とばくち》の――開《あ》かずの扉のほうを睨《ね》めました。猛《たけ》った形相でたたずみました。しかし、数秒で、忿怒《ふんぬ》の感情が鎮静化するように強《こわ》ばります。表情が、妖力の霊気《オーラ》が。
「……むだか」と魔王サフィアーンはいいました。
魔王サフィアーンのなかのアーダムの人格《こころ》が。
「またも、これほどまったのに」といいました。これほど?
わすか数秒しか経っていないのに?
常人の時間感覚でいえば数秒だったかもしれませんが、魔王サフィアーンのなかのアーダムにはちがいます。たっぷり、すぎていたのです。地上世界に比して数十倍の速度でながれていたのです。いや、数百倍に達していました。わずか一瞬《ひとまたたき》のあいだに、ひと晩がすぎました。魔王サフィアーンは眠らずに事態の(なんらかの)変転をまちました。以前のように武装した闖入者《ちんにゅうしゃ》が来るのでもいい、けれども――もちろん――来ません。石室の守護者となって禁足《あしどめ》を喰らってしまっている現実に、ほんのわずかの光明でも射せばいい、けれども――ああ、当然とでもいいたげに――射しません。
眠らずに耐えて、徹夜して戸口をにらんで、見張って、徒労でした。
すべては徒労でした。瞋恚《しんに》のほむらですら、むだに燃やされただけでした。
むだでした。
「でられん」
魔王サフィアーンは、ひとこと、吐いて、それから睡眠《ねむり》の狂おしいほどの求愛に屈して、ただちに寝《やす》みました。目覚めて、数秒で、魔王サフィアーンのなかのアーダムの人格《こころ》は即座に寝入ったのです。
アーダムが脱出不可能を知っているからこそ、アーダムは惰眠をむさぼったのだといえます。サフィアーンは脱出不可能に(その探査行の結果から、さらに明晰《めいせき》な頭脳の推論から)気づきつつありましたが、アーダムの人格《こころ》がなにしろ目覚めると一瞬《ひとまたたき》であきらめて寝てしまいますので、魔王サフィアーンの肉身《からだ》の支配者として本来のサフィアーンの人格《こころ》が存在しつづける時間はどんどん長びきます。たとえば「出口なし」の現実に疲弊して憊《つか》れきって横になっても、一瞬後か二、三瞬後には目覚めていました。
とはいっても、覚醒《かくせい》したサフィアーンの精神《こころ》にとってみれば、それは「たっぷり眠った」という合図であり、自身が瞬時のあいだしか睡眠《ねむり》に落ちていない――夢見ていない――という事実を知ることはありません。
サフィアーン当人は悟ることはできなかったのです。
このような状態のもとで、ふつうの時間感覚のもちぬしであるサフィアーンが、魔王サフィアーンの主人《あるじ》として森のものの夢のなかに居つづけました。サフィアーンの人格《こころ》に添って描写するなら、放置されつづけていました。目覚めている時間を夢のなかですごして(それは森が呼吸《いき》している始原の時間のなかですごすことですが)、睡眠《ねむり》のための時間はたちまちアーダムの時間感覚に翻弄《ほんろう》されて剥奪《はくだつ》されて、また目覚めたのです。
一日が倍の長さに変わるのです。
通常の時間感覚のもとで、サフィアーンの精神《こころ》の日々は倍加しはじめました。
ひたすら牢獄の内側に禁《とじ》こめられているだけでした。憂悶《ゆうもん》は当然生まれます。どうにか前むきの姿勢をたもとうと恋愛詩を詠《よ》んだり『コーラン』の章句を唱えたり、そんなふうにサフィアーンの精神《こころ》はおのれ自身を叱咤激励《しったげきれい》しましたが、じわじわ悲惨は滲《にじ》んできます。
「だめだめだめ! すべては、インシャラー、御意《みこころ》によって叶《かな》えられるときに実現するさ。建設的に、建設的に。たとえば――ヤア、サフィアーン、この夢のなかをじゅうぶんに探索したけれど、ぼくは恐れていた兇悪《きょうあく》な化物《グール》には出遇わなかった。これはさいわいじゃないか? 髑髏《しゃれこうべ》となってしまった犠牲者の皆さんが(ああ、皆さんの冥福《めいふく》を祈ります)、きっと『うわあ』とか『ぎゃあああ』とかいって魔物に殺生《せっしょう》されただろうに、アルハムドゥリッラー(アッラーを誉めそやさん)! 同様の惨事には遭わないですんだんだ。これぞ冥加《みょうが》のいたり、弱り目だけれど祟《たた》り目はなしだ。なしなしなし!」
このように、希望を捨てまいと奮《ふる》いたっていたのでした。
対照的なのがアーダムの精神《こころ》で、これは前述のとおりでございます。膠着《こうちゃく》状態を打破できないと道理を弁《わきま》えているのが徒《あだ》になって、希望はひとつものこされない始末。なにしろ妖術《ようじゅつ》のいっさいが通用せず、あらゆる方策《てだて》が――「しょせん、石室の掌《たなごころ》のなかで踊るだけだわ」と、その無益《むだ》を、ほぼ虚無的に承知しています。いっさい無益《むだ》、もはや虚無。夢の石室の理《ことわり》のもとでは守護者の退室は不可能であり、手詰まりなのです。はなから手詰まりだったのです。
それが蛇のジンニーアの陥穽《わな》、とアーダムの精神《こころ》は盲信しています。
諦観《ていかん》が……病魔が肉体《からだ》をむしばむように……忍びよります。
アーダムの精神《こころ》は倦《う》みます。すでに脱出はない、四つの夢の石室を潰《つぶ》して、スライマーンの封印を解いてジンニスタンにむかう野望も、蛇のジンニーアに再会して亡ぼす可能性《みこみ》も、ない、おれの愛の証《あか》しを蛇神《へびがみ》に示す機会は、ない、絶えた、むだになった、赫怒《いかり》すらもむだ? アーダムの精神《こころ》は、そうして倦憊《けんぱい》して眠ります。惰眠をむさぼる以外に、途《みち》がなかったのです。
強烈な動機が――不可避にもぼろッぼろッと滅《き》えて――霧消しはじめて。
そのために、目覚めつづけなければならなかったのがサフィアーンの人格《こころ》なのでした。
じわじわ、じわじわ、憂悶が首をしめます。サフィアーンそのものである魔王サフィアーンの首を真綿でしめます。起きている時間が長すぎたのです。けれども、同時にそれは魔王サフィアーンが森のものの夢とふれあう期間《とき》を、どんどん延ばしてもいました。
実質的に不眠《ねむらず》の状態にして延長していました。
ふれあう? 最初から魔王サフィアーンは四方八方の現《うつつ》の夢と接していましたが(その五感のすべてで)、ここでのふれあいとは?
もっと、深い、深いものです。
苦悶《くもん》のさなかに癒《いや》されるような、そうした類《たぐ》いの、心情における交際《まじわり》です。
いかにして?
ただ、無心になることで。
懼《おそ》れを棄て、また、探査の対象として――いわば敵対的に――察《み》なければ、そのままうけとめていれば、それはサフィアーンの精神《こころ》になにかを語りかけてきていたのでした。
語りかけている現実を感じとれるだけの時間が、その余裕、暇《いとま》が、魔王サフィアーンにはありました。
虚夢《そらゆめ》にふれて、さわさわと撫《な》でたり、手のひらにのせたり、ちょっと噛《か》んでみる。いまにも希望を見喪《みうしな》いそうな瞬間、魔王サフィアーンの肉身《からだ》のなかにいる純粋なサフィアーンの精神《こころ》は、そのように四方《よも》の万有とふれあったのでした。花を愛でるように、猫とじゃれるように、騾馬《らば》の背中を撫でるように。そう、戯れようという意思もなしに戯れたのでした。
世界と、森のものの夢と。
その心の寛《ひろ》さがサフィアーンを――本来のサフィアーンの精神《こころ》を――救いました。
いまにも愛別離苦《あいべつりく》にめそめそ泣いて失神しようかという瞬間、稚樹の、蝶《かわひらこ》と蜜鳥の、栗鼠《りす》の温かい幻想は魔王サフィアーンを慰めました。花粉は愛のようにふりました。宙《そら》には歌があって、それは哀歌というよりも慰撫《いぶ》の旋律で、色彩《いろ》に祝福されていました。とうてい地上では耳にすることはかなわない、現世《うつしよ》の人間には下賜されていない彼岸の音曲でした。慈雨があって、陽光でした。夜が来たり朝が来たりしました。朝のあとにまた朝が来たりしました。絶望の到来を予感して慄《ふる》える魔王サフィアーンに、動物の時間がほほえみをさずけて、植物の時間がなにかを諭《さと》しました。腐葉土はとりなしました。魔王サフィアーンを愛《あい》おしむ蜘蛛《くも》の巣のような蜘蛛の喜夢《きむ》がありました。
魔王サフィアーンは知ったのです。
幽閉されているが、独りではない。
ここは獄舎《ひとや》に見えたけれど、もっとやさしいし、もっと烈《はげ》しい。
喜怒哀楽の、その饒《ゆた》かさ。
独房の囚人《めしうど》だと思っていたのに、ちがったのです。人語はないけれども、会話もできました。そう、魔王サフィアーンは交流していたのでした。
森のものの夢と。夢たちと。
睦《むつ》んだのです。
一千の虚夢《そらゆめ》にふれて、ただ一つの森を感じました。その森が人間を夢見て、さながら樹木の化身のように童子《わらわべ》を数人、実《みの》らせて魔王サフィアーンの眼前《まえ》によこしました。それは夢想でしたが、濃《こま》やかな情感だけがあふれて、一家《アーイラ》のようにサフィアーンの精神《こころ》を思いやりました。血のつながらない者たちの家族、それどころか夢と現《うつつ》という(棲《す》む次元ですら、種族ですら)かけ離れた人間たちの家族。
むすばれた一家《アーイラ》。
森のものの夢は魔王サフィアーンを癒していました。
この無垢《むく》の、そして無辜《むこ》の剣士の精神《こころ》を。
また、サフィアーンも――
魔王サフィアーンもときに虚夢《そらゆめ》の痛みを、幻傷《きず》を癒しました。ふれることで、病葉《わくらば》が魘《おそ》われている悪夢を緩和して、その皮膚《はだ》を撫でることで、色彩《いろ》をあざやかに葉にもどしました。受粉の熱を冷まして、囁《ささや》いて蝙蝠《こうもり》の愁いを解き、紅《あか》い蛙の毒が夢見ている罪の意識を中和して、崩れてしまう虞《おそ》れにおののいている蟻塚の夢の塔をしっかり建てました。
ふれあって、固めました。
葉脈は魔王サフィアーンとともに期待をながして、水の芳香がチイチイと囀《さえず》り、いまやサフィアーンの精神《こころ》はその囀《ひひら》かしを聴いただけで、幻想の内側《なか》にひろがろうとしている感情を理会しました。
共存をはじめていたのです。
この石室のなかで、たしかに、魔王サフィアーンは森のものの夢とともに生きはじめました。
だから、共存をはじめていたのです。
それから、もっと大きなものがはじまりました。共存のつぎの段階、あえていうならば共鳴《ともな》りでした。魔王サフィアーンの肉身《からだ》にとっては当然であったかもしれない、けれども、自分が「守護者」であることを知らない精神《こころ》には、まるで予想もつかなかった現象。
森のものの夢とその守護者が共感して、しばしば共鳴《きょうめい》したのです。
その肉体の内部に――おのれの内側に――四囲の夢に反応して呼吸《いき》をするものを、サフィアーンの精神《こころ》は感じとりました。
その作用《てごたえ》を。
認識した最初の現象は、純然たるサフィアーンの精神《こころ》が目覚めている期間に起きたのではありません。そのとき、魔王サフィアーンの肉体をつかさどっていたのはアーダムでした。アーダムの人格《こころ》が支配して、わずか一、二秒で――永久《とわ》に変わらない膠着状態がもたらしている倦弊《けんぺい》から――惰眠をむさぼるにいたるまでの間《あわい》に、その現象は顕われたのです。
アーダムが目覚めている数秒間、サフィアーンは眠っていました。
サフィアーンの精神《こころ》は夢見ていました。
その一瞬《たまゆら》のあいだに、ふしぎな幻が顕《た》ったのでした。
千の卵の夢でした。
共鳴、あるいは共振とでもいいましょうか、阿房宮はただひとつの現象《それ》を孕《はら》んでいたのではありません。魔王サフィアーン(サフィアーンの精神《こころ》をもった魔王サフィアーン)と森のものの夢の共鳴について、つづけて詳解するまえに、巨大な空間《ステージ》そのものの共鳴についても、語らないわけにはまいりません。
なぜなら、その共鳴はとうにはじまっていて、魔王サフィアーン以前にわたしたちの拾い子を捲《ま》きこんでいたのですから。
流離する拾い子、そして――奇人都市の図書館で――ついに足を停めた拾い子、ファラーを捲きこんでいたのですから。
共鳴、あるいは共振。わたしはいちどだけ、この年代記の譚《かた》りのなかで「共鳴」ということばをつかいました。はるか遠い夜です。二人の拾い子の、のみならず三人の主人公の――アーダムと、それからファラーとサフィアーンの――はじめての出邂《であ》いを物語った晩のことです。三者がミイラ化して復活したアーダムの玄宮の室《むろ》で顔を揃えて、いっさいの流転の機縁《はじまり》となる舞台装置にたった瞬間。その瞬間を聴いていただいた夜話の一夕《いっせき》、わたしは「共鳴」について物語ったのでした。
共鳴したもの、あるいは共振したもの、それは一千年まえに建造された阿房宮と、その内部でいま現在も改築の工事がすすめられている都市《まち》でした。当代、音に聞こえた建築家の一族によって「建築の最終形というものが存在する」と誤解され、誤謬《ごびゅう》におぼれながら産み落とされつづけている部分。生命《いのち》あるもののように成長をつづけている常人の都市《まら》と、この地下の市域をまるごと体内におさめた阿房宮が、一対の存在となって――それぞれの空間と空間、あちこちの間隙《かんげき》という間隙が――共鳴している、わたしはそう説いたのです。
そのように譚ったのです。
未完を意図された迷宮建築を(無辺際のそれを)、竣工《しゅんこう》も予定されていた建造物だと謬《あやま》って理解したために、この事態は生じていました。そして、日を逐うごとに悪化しました。遺構としてのこされた一千年まえのアーダムの妄想が、建築家一族の熱意――すなわち地上の諸原則に準じて改造しようとする蒙昧《もうまい》によって、ただ素材としてあつかわれて軋《きし》みをあげていました。烈しい軋轢《あつれき》、そして共振。にもかかわらず地下都市は――前進します、その工事は――ひとときも熄《や》まず、突貫に突貫をかさねて続行させられます。
軋轢などだれも聞いていないのです。
こんなにも共鳴しているのに。
空間は共振しているのに。
干渉しあっているのに。
奇人たちにも軌範《きはん》を示して普請されつづけている、通常《なみ》の人間にも居住可能な空間は、生きもののように成長をつづけて、その共鳴を、ついには限界の地平に到達させました。それは妄想の力学でした。建築家一族の描いている夢が、その建築的な挑戦が、「夢の建築化」である迷宮にあってはならない嘔吐《おうと》を強いたのです。すでに消化《こな》されていたものを未消化にして、けっして吐きだされるはずのなかったものを吐きださせたのです。
埋められていたものを。千載の過去、アーダムといっしょに埋められていたものを。
世界《このよ》の歴史とは無縁だとして。
宏大《こうだい》無辺の迷宮のどこかに、厳重に蔵《しま》われるように、建材の一部のように埋めこまれていたものを。
臓腑《ぞうふ》のなかの結石のように、切りきざまなければ体外《そと》にあらわれないはずでした。
永遠に。
それは。
書物《それ》は。
工事のために、あるいは阿房宮が(その所期の目的によって)はなから具《そな》えている悪魔的《シャイタニ》な構造のために、そこかしこに穿《うが》たれた間隙のひとつから、千年のときを超えて書物《それ》は吐きだされました。
一冊の古書。奇人都市の唯一の図書館に、その妖気《ようき》をたち昇らせる古書は陳列されています。
書架に。
ファラーの意識に、火縄《マスケット》銃の弾のように劇《はげ》しさを撃ちこんで。
ありとあらゆる典籍のあいだに置かれながら、その一冊だけがファラーに喚《よ》びかけていました。度を越した呪わしさでした。ファラーの嗅覚《はな》を衝《つ》いて、視聴覚と触覚、味覚も衝いて、さらに六番めの感覚器官も刺戟《しげき》しました。その霊感の領域に――滲《にじ》み――においました。
ファラーを祟《たた》っていました。
ファラーはその一冊を、借りました。図書館の司書、にして主人、の本男《ほんおとこ》から。蔵書の借り賃は、笑い声でした。ファラーは代償として「へなへな笑え」と沙汰《さた》されて、へなへな笑いました。それどころか呵《わら》いました。
陳列棚から抽《ひ》きだして、閲覧にもちいたのは麺麭《パン》焼き窯の内側です。さすがに本男みずからが提供した閲覧室だけあって、窯は人間《ひと》が四、五人はやすやす収納されて茶飲みばなしができるほど巨大で、樟脳《しょうのう》入りの蝋燭《ろうそく》も(灯《あか》りとして)燃やされています。蒔蘿《デイル》と番紅花《サフラン》の薫りがただよって、厨房《ちゅうぼう》のようでもありました。
ささやかな狂気のなかで、ファラーは借りだした一冊を絨毯《じゅうたん》のうえに置いて、眺めました。
その装訂を。ふれずにも確信できましたが、表紙は人皮でした。
人間の皮膚を鞣《なめ》して、革に加工したにちがいありませんでした。
その革装に指さきを這《は》わせて、こんどは――内容《なか》を――ひらきました。
さらさらさらとページをながして。
墨の代わりに血で書かれた文字が認められました。
処《ところ》どころ。あきらかに人血《じんけつ》で録《しる》された章。
呪わしさが度を越しているというよりも、むしろ呪詛《のろい》そのものでした。
……それから。
ファラーは、それから。
絶望の靄《もや》がふいに宿命《さだめ》によって吹き払われたかのような砌《みぎり》、この流離の際涯《さいはて》のとき、ファラーは読みはじめていました。
窯のなかの閲覧室に隠《こも》って、手にした一冊の古書を。
これがいま一方《ひとかた》の共鳴の現象の、その結果となろうとしている場面でした。拾い子は捲きこまれていたのです。
あるいは拾い子が、阿房宮という巨大な空間《ステージ》をただの手段として捲きこんでいたのか。
運命の転変のために、すべてを捲きこんでいたのか。
拾い子たちが。
ファラー……ファラーは読みはじめました。それから、サフィアーンです。魔王サフィアーンは共鳴して……森のものの夢との共鳴から、夢を見たのでした。
千の卵の夢を。
それがサフィアーンの精神《こころ》の認識した、共鳴《ともな》りの作用の第一の表出《あらわれ》でした。目覚めて、おかしな感覚に襲われます。まるで自分が見たのではないような夢。
だけど、と魔王サフィアーンは純然たるサフィアーンの表情で、自問します。
「じゃあ、だれがあの卵を見たんだろう?」
その卵はあまりにも細部が奇ッ怪で、なお生々しい現実感を具えていて、おまけにサフィアーンの精神《こころ》の内側には、喚起される感情がありました。なんとも筆舌につくしがたい、母性的な愛情にも似て……
「愛おしい? ずらっと並んでいた一千個の卵が、無気味なヌルヌルッとした殻子《かいご》が、なんだか、とっても、翼卵《よくらん》して――たいせつに温めて――孵《かえ》したいほど、愛おしい?」
魔王サフィアーンはムムムムッと唸《うな》りました。そして沈黙、眉間《みけん》にしわをよせます。それから額を手のひらでピシャリと叩《たた》いて、
「だいたい、卵を翼でかばいたいって、なんだ? ぼくは鳥か? いつから鳥類になったのだ? 翼なんてないじゃないか。いや、翅《はね》……翅……翅……はて?」
サフィアーンの精神《こころ》はたちまち異様な混乱に陥《お》ちました。翼を動かした記憶を、その瞬間、背中に感じてしまったのです。ああ、二つの翼がブワッ、ブワッと動いて、躍動感あふれた飛翔《ひしょう》は愉しい――愉しい?
これはいったい、だれの記憶?
ざわざわざわと騒いでいます。魔王サフィアーンの肉身《からだ》の肉の一片が、血の一滴、一滴が、心臓が、鳴っています。膚鳴《はだな》りです。森のものの夢と共振して、「守護者」である魔王サフィアーンが反応していたのです。ざわざわざわ、ざわざわざわ。
そしてさらに、サフィアーンの精神もサフィアーンの肉体と、共鳴しはじめていたのです。
魔王サフィアーンの肉体《それ》、前任の守護者の肉《しし》がたっぷり輸《うつ》し入れられて――啜《すす》られた血が生まれ変わって――内臓《はらわた》があらたな生命《いのち》として機能しなおして――もはや単なる人間の生身《なまみ》ではない肉体。
変容した魔王サフィアーンの肉体。
その肉体が干渉しました。
サフィアーンの精神に共鳴《ともな》りして。
自分のなかにだれかいる、とサフィアーンは感じました(もちろん、それはアーダムを指していたのではありません)。剣士として殺気を感じとるように、ほとんど絶対的な確信を懐《いだ》きながら、刹那《せつな》、直覚したのです。肉体の内奥に、だれかがいる。
棲《す》んでいる。
「ぼくと血肉をわけているぞ」と魔王サフィアーンは独語しました。声音はのけ反《ぞ》りそうでした。「この内身《からだ》のあっちに、こっちに、やたらめったら記憶をもっている。有しているのだもの。それが卵を夢見たのかな? たぶん。ああ、面妖《めんよう》な! それにしても……それにしても……鳥なのかしら? 鷲鷹《わしたか》? 駝鳥《だちょう》? 巨鳥のルフ(ロック鳥としてしられている、アラビアの伝説上の怪鳥。インド洋に棲息して、象をさらうともいわれる)だったりして。なんだか鵬《おおとり》に縁のある数奇な人生だなあ。ねえ、霊剣さん」と、かつて巨鳥に変化《へんげ》して十六歳の誕生日にサフィアーンを誘拐し、はるか西方の大嶽《たいがく》につれ去った鬼神《イフリート》の霊剣にことばを投げます。それから、また眉根《まゆね》をよせて独りごちます。「いったい何者が、血肉をわけて棲んでいるのだろう?」
強烈な好奇心が起《た》ちあがり、同時にそれはサフィアーンの精神《こころ》にとっての膠着《こうちゃく》状態を打破するような可能性もかいま見せていましたので(なにしろ新事実が明白《あきらか》になろうとしています)、とりあえず、魔王サフィアーンのなかのサフィアーンはつぎの「記憶の炸裂《さくれつ》」をまちました。
つまり、夢を。
自分のなかのだれかが夢見ている世界を。
だから、一生懸命、寝ました。
むりにでも横になって、うとうと寝入るようにしたのです。
夢、それはたち昇る世界です。意識の深奥からたち昇り、肉体の経験からたち昇る。人間《ひと》という一個の存在を構成している要素の、あらんかぎりが、夢のなかでは主張します。痛みをたち昇らせて、悦びをたち昇らせて、蓄積された疲弊をたち昇らせて、過去をたち昇らせて、ときに未来も。
魔王サフィアーンのなかにいたサフィアーンは、いくたびも夢路をたどり、アーダムの人格《こころ》の一瞬の目覚めのあいだに、無限の記憶を視ました。
目撃しました。
たとえば脱皮を。サフィアーンは脱皮したことがあったのです。
たとえば産んだ卵を。そう、あれはサフィアーンが産み落とした卵だったのです。
愛しい、愛しいわが子だったのです。一千個の。
たとえば苔《こけ》を。苔?
苔はサフィアーンの背中に生えていました。鱗《うろくず》に被われたサフィアーンの背中の、皮膚の、いたるところに。
――鱗《うろこ》。
そう、サフィアーンは逆鱗《げきりん》をも有した生物《いきもの》です。
そして翼があって、森の、縁の終焉《おわり》なき繁栄を望んでいて、後背部には樹々も根づかせていて、レバノン杉も茂らせていて。
それからサフィアーンの精神《こころ》は、自分のなかのだれかが見ている夢のなかで、脱《ぬ》け殻《がら》も視ました。
脱皮した記憶。
その半透明の皮殻《から》は、蛇の異族のようでした。
蛇蛻《だぜい》に似ていて、さらに巨《おお》きな、森の王の形態《かたち》をしていました。
森に棲んで万象を統べる怪物の。竜の。
翼をもった竜の。
だから、サフィアーンが竜でした。だから、サフィアーンの肉体の内奥にいる存在《もの》は、森の王、双《ふた》つの翼を有した一頭の竜でした。だから――そうして――サフィアーンの精神《こころ》は「内なる竜」を認識したのです。
夢のなかでだけ会話は可能でした。夢見ているものと語るのです。
(御身《おんみ》はいったい何者ですか?)
(何者トハナンジャ?)
(いえ、あの、こんばんは。じつは……いい難《にく》いなあ、これはぼくのからだなんですが)
(オマエハワシダ)
(わし? そういわれても、なんだかなあ)
(ナゼワシガ――オマエガ――ワシノ夢ニ喙《クチバシ》ヲ容《イ》れる? ワシハ夢ヲ見テイル。タダ亡《ホロ》ビナイ夢ヲ見テイルダケダ)
(でも、竜さん?)
(ナンジャ)
(やっぱり、竜ですよね! 予感的中! それはさておき、竜さん、ぼくは人間なんですが)
(知ッテイル。ソレガドウシタ?)
(つまり、御身《おんみ》は人間じゃないでしょ? ということは、わしはわしじゃない、別人になるじゃないですか。だから、どうして御身《おんみ》がなかに――からだの内奥《なか》に棲んでいるのかなあって思って)
(ワシハ守護者ジャワイ)
(守護者?)
(コノ石室ノ。森ノモノノ夢ノ石室ノ)
(の? のののの? ちょっと論理的な筋道がわからないんですが。森のものの夢というのは、わかります。理解できてます。ぼくはこの夢たちといっしょに生きています。それで――)
(オマエハ守護者ダ)
(はい?)
(ダカラ、オマエハワシジャワイ)
(……ぼくが守護者なんですか?)
(頭脳《アタマ》ガワルイノカ?)
(きついですね。復唱したようなものです。でも、基本的な質問なんですけれど、どうしてぼくが守護者なんですか?)
(オマエガワシダカラジャ)
(……それって矛盾じゃないかなあ。頭脳《あたま》がわるい返事ですよ。オマエガワシである理由を訊《き》いているんだから)
(オマエハヮシヲ喰ッテワシニナッタ)
(へ?)
(ダカラワシハオマエノ生身《ナマミ》ノナカデ回生シ、オマエハ守護者ダ)
(へ? へ? へ? あの……あの「焼き肉」ですか? あの極楽的なあじわいの「焼き肉」とか、シャーベット水(竜血を指している)とか? とか、ですか? そんな……へ?)
(ワシノ心臓ガオマエノ心臓ニ生マレ変ワッタ。オマエハワシダ)
(守護者だと?)
(ソウダ。コンドハ飲ミコミガ速イワ)
(どういたしまして。しかし、途方もない話だなあ。夢みたいな話ですよ。ここは夢のなかなんですけどね)
(イカサマ、オマエハ夢ノナカナノニ、ウルサイ)
(でも、竜さん、御身《おんみ》がぼくのなかで御身《おんみ》の夢を見るというのは、こりゃ御身《おんみ》のほうがうるさいですよ)
(ソウユウ理窟《リクツ》ガウルサイ)
(そうでっか。でも、聞かせてほしいんです。だって一大事なんだから)
(ナニガ聞キタイ?)
(たとえば……いつ、いつ御身《おんみ》がぼくを解放してくれるとか)
(ムリムリ)
(むりって! だって、こちとら人間の分際《ぶんざい》ですよ。守護者なんてつとまりませんよ。どんな役割をするものなんだか、ぜんぜん知らないけれど)
(ツトマッテル)
(はい?)
(森ノモノノ夢ノ石室ニイレバイイ。オマエハ守ッテイル)
(……なんだかヤな予感がするなあ。守護者であるということは、石室《ここ》をでれないということだったりして?)
(当然ダ。ココニイツヅケルノダ)
(それは、つまり「出口なし」という――)
夢の声がわなわな震えます。
(そんな、困ります!)
(オマエハワシダ。ワシハ困ラン)
(な、な、な、屁理窟《へりくつ》な!)
夢の舌がもつれます。
(アキラメロ。ワシハ抛棄《ほうき》デキン。ワシハ、ワシハ、ワシハ――ワ――)
(竜さん?)
(……)
(いったい、なにを、そんなに、背負っているんですか?)
(……)
(いったい、どうして、死んでも黄泉《よみ》帰って、そこまでして守護者でありつづけなければならないんですか? それは……それは、つらいことでは? 安らかに成仏したいとは、念《おも》わなかったのですか? それほどの未練は、それほどの使命は、竜さん、いったい、なにを背負って……)
(ダカラ、使命ダ)
(守護者の?)
(守護者ノ、使命ダ)
(昇天もままならない類《たぐ》いの?)
(ワシハ――)
(成仏したいとは、思いませんか?)
(……)
(安らかに、極楽往生したいとは?)
(……永眠デキナイノハ……)
(つらいでしょう? 審《さば》きの日まで、ただ一度の死を経たら、のち、瞑目《めいもく》していたいと庶幾《こいねが》いもするでしょう?)
(アア……イヤ、……アア……)
(いったい、どれほどの使命が?)
(……ワシニ劣ル者ヲ、滅ボスコトダ。ソシテ、石室ニ入ッテ、ワシヨリ優レタ者ニ、亡ボサレルコトダ)
(亡ぼされること? いずれは亡ぼされるために、あえて回生したっていうんですか?)
(ソウダ)
(なぜ!)
(ワシヲ討チ斃《タオ》セル人間ナラバ、封印サレタ蛇神《ヘビガミ》モ討チ斃セルカラダ。コレハだーうどノ御子《ミコ》すらいまーん王ガナシタ御業《ミワザ》。四ツノ石室ガ装置トナッテ、地中ノ――じんにすたんニアル――蛇神《ヘビガミ》ヲ封印シテイル。スデニ他ノ三ツノ石室ノ守護者ドモハ、斃サレタ。ノコルハワシダケダ)
(……斃されて、どうするんです?)
(ワシヲ斃シタ人間ガ、封印ヲ無効ニスル。ソノ人間ガじんにすたんニ降《クダ》り、蛇神《ヘビガミ》ヲ成敗スル。アノ邪神ヲ処罰《オシオキ》スル。スルダロウ。アラユル夢ヲ殺セルホドノ人間ナラバ、カナラズヤ――ダカラ――)
(それだけのために?)
(ダカラ――)
(ただ、それだけのために、御身《おんみ》は死ねなかったのですか? 復活を強いられたのですか? いずれ亡ぼされろと。ただ、殺されるために復活しろと? 成仏も許されず?)
(ダカラ、すらいまーん王ノ用命《オオセ》ニヨッテ――)
(あなたは)サフィアーンの夢の口調が変わります。(もう解放されるべきだ。竜さん、あなたは――もう釈《と》き放たれていい)
(……釈《ト》カレル?)
(これほどの痛みを、ぼくは見逃せない。これほどの惨《いた》ましい宿命《さだめ》を。つらいです、竜さん、あなたに負わされた荷重《におも》を思うだけで。あなたの境涯《みのうえ》を思いやるだけで――。だから、だから釈かれていい。もう解放されていい。あなたは一度死んだんだ。成仏は許されいてる)
(アア、ダガ――許サレテイナイノダ――)
すると強靱《きょうじん》な声がいったのです。その夢のなかで、その夢を見ている守護者の竜に。
(あなたは、ぼくに亡《ほろ》ぼされなさい)
(ナニヲ……イウ?)
(だから、ぼくがあなたを亡ぼす。そうすれば、あなたの使命は達成される。あなたの成仏は許容される。そして、ジンニスタンに封じられている蛇神《へびがみ》とやらの成敗は、ひきうけます。それでいいのでしょう? あなたは一つも、一つとしてスライマーンの王命には叛《そむ》かない。そうでしょう?)
(ソウダ。アア、ダガ……ダガ、シカシ――)
(亡びなさい)
声は夢のなかに轟《とどろ》きました。サフィアーンの声は。
(成仏するのです。ぼくがあなたを、討ち斃すのです。この人間が)
(……ワカッタ。ナラバ……)
(ならば?)
(森ヲ焼ケ。コノ森ノナカデ、森ヲ焼キ払エ、サスレバ――)
(夢見るのですね?)
(ソウダ)
(森の夢を滅ぼす山火事を、夢見るのですね?)
(ソウダ)
(ならば、燃えよ、夢よ、あらゆる夢よ、森のものの夢のいっさいの天地《あめつち》に、告げる。繁殖する一千の虚夢《そらゆめ》に、告げる。いま、御身《おんみ》ら、その守護者の使命《つとめ》を用ずみとして――)
そして声は現実に――魔王サフィアーンの口から――ほとばしりました。
「――燃えよ!」
瞬間、目覚めていたアーダムの人格《こころ》は眠り、サフィアーンが夢見ながら目覚め、夢のなかで夢見られた森林の大火事が、劫火《ごうか》となって噴きました。
石室の内部《なか》に。
そのすべてに。
森のものの夢を焼いて。音もにおいも色彩《いろ》も燃やして。
そして、石室の扉はひらいたのです。
開《あ》かずの扉が、内側からひらいたのです。
石室を出《い》ずる魔王サフィアーンは、霊剣を手に、ごうごうと燃えあがる緑の空間をあとにして、その火焔《やまび》を背景に負った一体の忿怒《ふんぬ》の像と化して、歩みだしました。
鎖《とざ》されていた囚獄《ひとや》から、ついに、守護者ならざる存在《もの》となって外部に。
[#改ページ]
18
カイロは物語によって護られ、その語《かた》りは今晩もつづいている、そのように希望をもとめる人間たちは信じた。
いまも、救世主《マフディ》は譚っているのだ。
譚りつづけているのだ。
夜のなかで……闇のなかで。物語は欧州《フランク》びとの軍勢を遅らせようと、ほとんど無限の時間《とき》のなかに泳いでいる。雄篇《ゆうへん》のなかの雄篇が、時間《とき》に――あるいは砂の海に――遊泳して踊り、さまよい、人物たちの漂浪が譚られている。冒険が編まれている。
稀代《きたい》の物語が。玄妙驚異の内容《なかみ》が。
きっと。きっと。
ひたすら都市の守護のために。
それが|夜の種族《ナイトプリード》の伝説。秩序の崩潰《ほうかい》に瀕《ひん》した(いまにも理性的部分は潰滅《かいめつ》しようとしていた)カイロの、むしろ闇から生まれて、闇の内側《なか》に流布した伝説。「物語る救世主《マフディ》」――恐慌《パニック》を増長させる類《たぐ》いの流言蜚語《りゅうげんひご》ではなかった。これは希望。これは真実の希望。信じるに足るだけの印象《てざわり》があった。根も葉もない空想とはちがっていた、あきらかに。空言《そらごと》はすでに五万《ごまん》と聞いた。昨今、カイロでは種類豊富な流説《るせつ》こそが特産品だった。そんな人びとの肥えた目に、耳に、舌に、ささいな印象《てざわり》のちがいもきわだった。
根拠があることが、わかった。
確信できた。
だから、信じた。
今晩も物語は譚られた。われらが救世主《マフディ》によって。われらの都市をフランク族の侵掠《しんりゃく》から護るために、衛《まも》るために、異教徒の軍勢を遠ざけるために。
いったい、どれほど長大な伝奇物語であることか。どれほどの無限を内蔵して展延《てんえん》する(夜ごとに展延する)譚りであることか。
それを知っている者は市井《しせい》にはいない。それを知っている者は、わずかに四名しかいない。
四名?
そう、まずは聴き手の三名。すでに語り手とともに|夜の種族《ナイトプリード》となった、鎖《とざ》された邸宅のなかの三名。非公式《うらがわ》の歴史に属しているアイユーブと、書家と、そのヌビア人の助手と。
そしてもう一名。
さきの三名が日々の分冊として制作している書物を――『災厄《わざわい》の書』を――あたかも捧げられて読んでいるような、エジプト第三位の権力者。
イスマーイール・ベイは砂の年代記の量《かさ》のなかにおぼれている。
遊泳できずに、没《しず》んでいる。
この一名もまた、鎖された邸宅のなかに。べつの邸宅の、さらに一室のなかに。
私有の図書室の内部《なか》でおぼれている。
順番の狂った年代記を、紐解《ひもと》いて、あらたな挿話の連続のなかに不眠《ねむらず》の状態でイスマーイール・ベイはいた。断片を組みあげていた。ばらばらの佚話《いつわ》を再構成し、跳躍する筋道《ストーリー》に糸を通して、紡ぎなおした。話術《ナラティブ》は捏造《ねつぞう》されていた。ここでは語り手はイスマーイール・ベイ、『災厄《わざわい》の書』に内蔵された年代記を譚っているのは本来の夜《ライル》の語り部ではない、イスマーイール・ベイだった。
代行した救世主《マフディ》として。
その人間《もの》もまた、エジプトを欧州《フランク》びとの軍勢から防衛するために。
年代記を再構成して、一冊の宇宙を編みあげようとしていた。
その名前は――宇宙の題号は――『災厄《わざわい》の書』。
詛《のろ》われている。イスマーイール・ベイに、何事かがはじまっていた。これまでよりも、もっと、もっと大きなものが。
事態《ものが》が。
眠らない知事《ベイ》がページを繰る。その速度があがっている。さらッ、さらッ。さらッ、さらッ。さらッ、さらッ。繙読《はんどく》の速度があがっている。なぜなら、分冊の年代記はすでに十五部が読了されていた。理解不能の順番にならべられていた挿話《おはなし》の束が、それぞれアレクサンドリア絹の布のつつみを解《ほど》かれて、読まれていた。いっさいが。いっさい――ながれの寸断された分冊の時期は、そこで了《お》わっていた。
ばらばらに割《さ》かれた『災厄《わざわい》の書』はイスマーイール・ベイによってひたぶるに読み進められ、イスマーイール・ベイの睡眠《ねむり》を奪って(夢を奪って)読み進められ、いまでは……追いついていた。
現実の譚りに。
ズームルッドが物語るままのながれに。
もはや推理された話術《ナラティブ》ではない。
一部を読み了えるたびに、イスマーイール・ベイが手にするのは、その「つづき」だった。
ついに到達していた。いつかはこのときが来るのは当然だった。イスマーイール・ベイが図書室に籠居《ろうきょ》をはじめてから、毎日、晩餐《ばんさん》のたびに司書たちによって搬《はこ》びこまれる最新の分冊は、直前の(すなわち前夜の)ズームルッドの譚りを書物のかたちに封じこめて送りとどけていた。つまり、順番に。ひとたびイスマーイール・ベイが当初に用意された分冊群を読破してしまえば、仕組まれた筋道《ストーリー》の非連続は終わる。断片と断片は有機的につながる。
有機的に。だから、これは切られていない骨牌《カード》。
これは錯綜《シャッフル》されていない挿話《エピソード》。
シャッフルが閉じる。
編年史として年代順《クロノロジカル》に読まれていなかったものが、いま、読まれている。イスマーイール・ベイは「つづき」を読んでいる。断片というよりも断章。その順列は憂いまではーー絶対的に正しい。
繙読の速度はあがる。
さらッ、さらッ。
さらッ、さらッ、さらッ。
さらッ、さらッ、さらッ。
停まらない。物語は進行している。直線に進行している。
まず、第十六夜から。
そして第十七夜。
この日、夕餉《ゆうげ》のとどけられる時刻に、イスマーイール蔵書《コレクション》の管理を職務としている七名の司書の一員《ひとり》の手で、第十八番めの分冊が搬入された。
紐解けば、ファラーは迷路をさすらい歩いていました、と書きだされている、最新の分冊《それ》が。
ファラーは迷路をさすらい歩いていました。
連続的《シーケンシャル》に物語られている。拾い子たちの宿命《さだめ》。イスマーイール・ベイは呪詛《のろい》を浴びている。繙読はやめられない。
もう、遁《のが》れられない。
主人《あるじ》の姿は異常だった。イスマーイール・ベイの奴隷である司書たちは、動揺した。
烈《はげ》しい懼《おそ》れに襲われていた。
図書室の専属の司書は、全員がイスマーイール・ベイの書物への愛を知っていたが、その目にも狂気は感じとれた。睡眠《ねむり》もとらないし、食事もほとんど摂らない。珈琲《カフワ》には手をつけていたが、はたして「なにかを飲んでいる」という行動が主人《あるじ》の意識にのぼっているか。三日三晩にわたって、余所目《よそめ》には茫然《ぼうぜん》自失の態《てい》となって、主人《あるじ》は――イスマーイール・ベイは――搬入された稀書《きしょ》のページに視線を落としている。
尋常ならざる耽溺《たんでき》。
精神《こころ》を閉ざしてしまっていて、没入ということばでは足りない。
その書物と「特別な関係」におちいってしまったかのようだった。
命令には順《したが》わなければならなかったが(イスマーイール・ベイの奴隷として)、主人《あるじ》の所望するもの――附香された高価なアレクサンドリア絹の布につつまれる分冊――を毎日、図書室内に搬入するのは、正直いって七名の司書にも空《そら》恐ろしい思いをいだかせた。
予感させた。
それも、日ごとに。
図書室の所蔵本の管理の専門家《プロフェッショナル》である司書たちもまた、カイロの住人であって、必定《ひつじょう》「フランス軍迫る」の報《し》らせに怯《おび》えていた。カイロは七名の司書も捲《ま》きこんで、恐慌にしたたか撲《は》られていた。そして司書たちは……司書たちは伝説を聞いていなかったのか? あの「物語る救世主《マフディ》」の伝説を?
聞いていた。
だから、この日、司書の一人は主人《あるじ》に淹《い》れたての珈琲《カフワ》の膳《ぜん》をとどけながら、まるで「特別な関係」におちいったかのように書物の世界におぼれている知事《ベイ》の姿に、あることを感じた。
魅入られて、分冊の紙葉に目を落とすイスマーイール・ベイは、没頭が度をこしたがために黙読できず、ブツブツとつぶやいていた。われ知らず、モゴモゴ、ブツブツと声にだしながらページを読んでいた。
――譚《かた》っているのか?
司書は感じた。
「あれは、伝説の救世主《マフディ》と共感して、譚っているのではないか?」
司書たちが会話した。
「われらが主人《あるじ》、イスマーイール閣下が?」
「エジプトを護るために」
「防衛するために」
「だから、眠らずに、没頭して」
「おお、そうだ、われらが知事《ベイ》こそが異教徒軍を阻むために、斥《しりぞ》けるために、あれほどの神秘の苦行を、瞑想《めいそう》のような勤行《つとめ》を」
「図書室に隠《こも》られて」
「隠者として」
「そして共感している。神人一如の恍惚《こうこつ》状態(ファナーと呼ばれる忘我の境地)にあるスーフィーのように、伝説の救世主《マフディ》と共感して、譚っているのだ」
「場所はたがえども、いっしょになって」
「エジプトを護るために」
「エジプトを衛《まも》るために」
「空間を超えて、ともに譚られている。夜のなかで、闇のなかで、稀代《きたい》の物語を。何夜にも……何夜にもわたって」
「きっと、イスマーイール閣下だけではない」
「きっと、何人もいるな」
「市内の闇のなかには、何十人もいる」
「ああ、分身のようにいる。救世主《マフディ》とともに譚っている、イスラームの闘士たちが。暗殺者の軍勢のように」
「譚っているのだ」
「稀代の物語を譚りつづけているのだ」
「これを、皆に知らせねば」
「この真実を、皆に弘めなければ」
譚られつづけているあいだは、エジプトは護られているのだから。
その首府、カイロは。
「この真正の希望を。わしらが証人だ」
夜が朝《あした》に代わり、朝《あした》が夜に代わる。
第十九夜は訪れる。
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19
夜が朝《あした》に代わり、朝《あした》が夜に代わる。
第二十夜は訪れる。
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20
夜が朝《あした》に代わり、朝《あした》が夜に代わる。
第二十一夜は訪れる。
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21
譚《かた》られないふた晩がすぎた。
スームルッドが失踪《しっそう》した。
それから、夜が朝《あした》に代わらない、永遠の暗闇がカイロを蔽《おお》う。
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B
三色旗《トリコロール》がはためいている。
ナイル河がふた股に岐《わか》れようとしている場所に、フランス軍は野営していた。ここがデルタ地帯の南端だった。分岐したいっぽうの河はダミエッタ(アラビア語名ディムヤート。地中海沿岸の貿易港で、西のロゼッタとともにナイル河δの頂点のひとつをなしている、河口の都市である)にむかう。
そこからさき、もはやナイル河は一本の線でしかない。
最後の会戦ははじまろうとしている。
それは後世「ピラミッド会戦」と呼ばれる。じっさいにはビラミッド群の周辺でおこなわれたわけではないが(なにしろ十五キロあまりも離れていた)、いま、この全軍が露営するナイル河畔の土地からも、ピラミッドの輪廓《りんかく》はすでに望見できた。遠い砂漠に、それはあった。
当時の世界最強の軍隊として全ヨーロッパを慄《ふる》えあがらせていた革命集団――フランス軍――を率いる総司令官は、小型望遠鏡で三基の石の記念碑《モニュメント》をながめていた。
肩まで垂らした長髪の、蒼白《あおじろ》い顔の二十八歳の将軍《パシャ》は、その碧眼《へきがん》で。
地平線にあるのは蜃気楼《しんきろう》ではない。
幻ではないし、夢想でもない。
あるいは夢想は現実化しつつある。
陰気な面ざしは変えぬままに、ボナパルトはピラミッド群を、はるか四十世紀むかしの記念碑《モニュメント》とつたえられる神殿あるいは霊廟《れいびょう》を、東方征服の夢を実現する第一歩として、その視野に――ついに、長い、長い行軍のはてに――捕獲する。
カイロまでは、ここから、あと一日ぶんの距離しかない。
ボナパルトは全軍に休息を下知している。
それまで、七日間、軍団は敵対的な風土のなかで前進をつづけてきた。いや、ボナパルトがそれを強いてきた。饑渇《きかつ》があり、眼炎や赤痢の蔓延《まんえん》があり、士官たちですら不満を爆発させていたが、行軍をやめさせることはなかった。当然だが、退却など選択肢にはない。灼熱《しゃくねつ》の砂漠をひたすら歩きつづける苛酷《かこく》にして暗鬱《あんうつ》な日々に、またもや自殺者が続出していても、ボナパルトはゆるがない。
みずから命を絶つような弱い命、それはボナパルトの生命《いのち》ではない。
しかし、いよいよ時機《とき》はいたった。一日間の休息を――このデルタ地帯の南端で――ボナパルトは三万の将兵たちにあたえる。憩《やす》ませて、力を蓄えさせる必要があった。
最後の会戦の、主戦場はもう、そこなのだから。
カイロ市内に派遣していた密偵は、この直前にボナパルトのもとにもどってきていた。もたらされた情報によれば、エジプト側はその人口をナイル河畔に移動させている。どういうことか? まず、徴兵適齢のカイロ市民はみなナイル西岸の地区であるインバーバに集結を命じられている。三日まえの火曜日に総動員令がだされて(それを発したのはエジプト内閣第二位の古狐、イブラーヒーム・ベイである)、インバーバ村一帯には無数の天幕がはられて、じつに六万人のエジプト防衛軍が陣どっているという。ただし、そのおおかたは丸太や棍棒《こんぼう》を手にした、せいぜいが槍《やり》や刀しか有《も》たない非軍人で、正規のマムルーク騎兵は一万あまり。それからナイル東岸、カイロを護るように位置するブーラーク島には予備隊が配置されている。こちらには軍人と呼べるような軍人はほとんどいないが、数はたしかに多い。市内にのこされた婦女子や老人いがいは、あまさずブーラークの陸岸に集合しているような情景だった。
ナイル河中にはバリケードがあり――といっても小舟を沈めただけの粗末なものだが――河上には軍艦がつどっている。密偵からの報告によれば、およそ三百隻。
このように防衛態勢は整えられている。
まちうけているのは、基本的にナイルの西岸に展開する軍団であるとボナパルトは知る。
それはむしろ戦略に都合がよい。
あとは攻め寄り、ひたすら対戦する一局面があるばかりだと、二十八歳の「英雄」を自負する将軍《パシャ》は諒解《りょうかい》する。
ピラミッド群を望見しながら。
その目。記念碑《モニュメント》のはるか遠い輪廓を遠望する目《まな》ざし。それこそが邪眼だった。エジプトを――その首府のカイロの繁栄を妬《ねた》み、所有物《わがもの》にしようと妄想している人間の。
異邦人の。そして異教徒の。
邪眼だった。
エジプトにとっての呪わしい視線だった。
共和暦六年熱月一日、革命後のフランスで制定されたその暦で六年めの十一番めの月に、まず一日め、ボナパルトの三万余の軍団は最終決戦にむけて休憩した。それから翌二日、夜明けまえにボナパルトは全軍にふたたび前進を開始するとの指示を下した。ふたたび、そして最後の。
結果的に十二時間におよぷ強行軍がはじまった。
あと一日でカイロを侵す距離《みちのり》。
戦闘隊形を組んで進軍をつづける。
だれもボナパルトの進路を阻んでいない。ただ、エジプト側はまつだけで。
待機して邀《むか》えるだけで。
方陣行軍する五|桁《けた》のフランス人たちのかたわらで、棕櫚《しゅろ》の樹が風にゆれる。ナイルの河岸沿いには耕地がひろがり、しかし、作業をしている農夫《ファッラーフ》の姿はただのひとつもみつからない。
すでに世界は終わってしまったように。
それが共和暦六年熱月二日の侵掠者《しんりゃくしゃ》側の視点。
エジプトは聖遷《ヒジュラ》暦二月六日にいる。
二月三日からこの日にかけて、カイロの腸《はらわた》にはひたすら暗闇が入りこんでいた。あらゆる表情が見られた。狼狽《ろうばい》の、人心の荒廃の、秩序の崩潰《ほうかい》の。ある部分では、それは寸前でとどまり、ある部分では、それはすでに暴走していた。市場《スーク》は閉鎖されていた。発動された総動員令がいよいよ運命《さだめ》の決するときがちかいのだと市民たちに弁《わきま》えさせていた。ブーラークの陸岸に人びとは移動した。自発的な軍用資金の醵出《きょしゅつ》があった。マグレブ人とシリア人からなる部隊には食糧があたえられて、武器その他も供給された。決戦の緊迫感はひとりとして目をつぶれぬほどに昂《たか》まっていた。だから、財貨は平然と防衛のために捧げられたし、勝利はアッラーに祈願された。城塞《シタデル》から「預言者の旗」と呼ばれている大きな旗がおろされて、シャリーフたちの長(記録によればサイド・アウマール)の先導でブーラークまで運ばれた。楽器を手にした托鉢僧《ダルウィーシュ》たちがこの「預言者の旗」をとり巻き、さらに数千の群衆がつき従っていた。叫ばれることばはただひとつだった。ラー・イラーハ・イッラッラー。アッラーのほかに神はなし。
それは波のように、響いた。
唱えられながら響いて、カイロ市内を横切り、最前線に移動した。
人びとは覚悟を固めていた。
いっぽう、暴虐はとうに走りはじめていた。欧州《フランク》びとの屋敷は掠奪《りゃくだつ》されるに委《まか》されていた。異邦出身の商人たちは投獄されて(しかも正規の命令によって)、ムスリムいがいの人間は悪《にく》まれた。暴徒の群れが社会の最下層部に誕生した。ユダヤ教徒やキリスト教徒はいまにも殺されかねなかった。大衆によって。憎悪する大衆によって。それぞれの居住区が蹂躙《じゅうりん》された。コプトの教会や修道院には兇徒《きょうと》化した強奪者たちがおし入って、武器を奪い、宝石の類《たぐ》いを掠《かす》め奪《と》った。
カイロの腸《はらわた》には暗闇が入りこんでいた。
まるで……まるで……伝説が真実であるかのように。
事態は悪化していた。
「物語る救世主《マフディ》」の失踪《しっそう》によって、フランス軍の脅威はたしかに、逼《せま》っていた。ひしひしと、そこまで。まるであと一日の距離《みちのり》しかない近場まで、おし寄せているように。
異教徒の大軍が。
数万の異邦人が。
救世主《マフディ》によって譚《かた》りつづけられないために、ああ、軍勢はちかづいたのだ。
物語が、中断したために、たしかにフランス軍は接近した。
ふた晩、ズームルッドは消えた。砂の年代記は譚られなかった。その事実を正確に把握して、もっとも気をもんでいたのは、市井にいる人間たちではなかった。
鎖《とざ》された邸宅のなかにいる|夜の種族《ナイトプリード》だった。
この日もまた、大広間のアーチの下では、角灯《メムラク》の灯《あか》りに照らされて書家とヌビア人の奴隷が無為にまっていた。口述筆記の準備は、いつものように整っている。しかし、あらわれない。大広間の最奥の客間に、ズームルッドは出現しない。夜《ライラ》は、夜のなかの夜である語り部は。
書家とその助手は夜話《やわ》のつづきをまっている。
餓《う》えたように、まっている。
彼らに仕事を依頼したアイユーブが、カイロ市内の無数の情報源にあたって、探しているという。だが、いまのところはみつからない。書家とヌビア人はそれぞれに想う。厄介ごとにでも捲《ま》きこまれたのか? それとも、なにかの代償を支払わされているのか? なにかの……物語の?
年代記の主人公たちが顔を揃えてから、夜話はふたたび量《かさ》を増した。ひと晩に譚られる分量は、サフィアーン、ファラー、アーダムと時間も空間もべつべつに生きていたはずの人物が一堂に会することによって、ここ数夜はいや増した。しかし――それでも――ヌビア人は肥っていた。
読者は憶えておられるだろうか? かつて物語の一日の量《かさ》が減ることによって、書家もヌビア人も睡眠時間を(比例的に、たっぷり)ふやし、十二分に休息して食欲も増進させて、じっさい、珍庖佳肴《ちんぽうかこう》の晩餐《ばんさん》を摂りに摂り、そして中肉中背の下僕にすぎなかったヌビア人がすっかり肥り肉《じし》となって「肥満公」と渾名《あだな》されるまでに肥えたことを? ならば、睡眠時間がまたもや減りはじめれば(比例的に、どんどん)痩《や》せはじめてもよさそうなものだが、いちど促進された肥満は容易にはやまない。睡眠《ねむり》の長短にかかわらずに摂取された栄養は肉体《からだ》にまわり、だから肥っていた。いまも肥りつづけていた。
ヌビア人の「肥満公」はやはり肥満しつづけて、その神秘を全身で表わしていた。外界から遮断された邸内での愉悦そのもののような美食|三昧《ざんまい》。いま、最後の肥満が――ころころ、でっぷり、まるまる、でぶでぶ――進行している。まるで宇宙をその体内にかかえこんだように、ヌビア人の「肥満公」は肥っている。
書家は? ズームルッドの口述筆記者、『災厄《わざわい》の書』を生みだしている筆耕者は?
こちらは肥ってはいない。しかし、変貌《へんぼう》はしている。その筆さきに創造される書《カリグラフィー》の美のすべてを宿した書家は、その筆致のように優美に、描かれる曲線のようにしなやかに、すんなりと、まるでアリフ(アラビア語の一番めのアルファベット)の文字のように伸びている。その容姿が。
体つきが変形して、美しい文字のように化けている。
|夜の種族《ナイトブリード》は変容している。なにごとかの隠喩《メタファー》のように。
そして、変容した二人は、まちつづけている。
夜のなかの夜を。
ズームルッドを、ふた晩、まって、大広間のアーチの下にいる。書家もヌビア人の「肥満公」も、真摯《しんし》に控えつづけている。邸内に籠《こも》りっぱなしの両人は、カイロの動向のいっさいから切り離されていて、もちろん救世主《マフディ》の伝説など知らない。にもかかわらず、もっとも真剣に待望している。それが譚り接《つ》がれることを。再度、物語がズームルッドの口から……吐きだされ……譚りつづけられることを。
彼らには愛があった。
物語のつづきを聴きたいという、情熱が。
砂の年代記の結末を知りたいという、絶対的な愛が。
純粋な情動《おもい》が。
その愛はズームルッドを再臨させるほどに、つよい。
最初にアイユーブがあらわれて、書家とヌビア人のかたわらにすわる。「やっと」とアイユーブがいう。「到着された。わたしが見いだしたわけではないが。ただちに、こちらに移る。準備は?」
「もちろん」と書家は首肯する。アリフの文字が空気をしなやかに鞭《むち》うったように。
「万端、ととのってございます」とヌビア人はいう。生まれついて高貴な王侯《アミール》であるかのように。そのはち切れんばかりに肥った頬に、さながら奇蹟《きせき》のようにほほえみまで浮かべて。
待望していたものは、来たのだ。
いっせいに運命は動きだす。
|夜の種族《ナイトプリード》たちの、年代記の主人公たちの、あるいは譚りによって護られるイスラームの都城の――。
待望されていた人間《もの》は、二人になって舞いもどった。限定された聴衆のもとに。三名の聴き手のもとに。
「ふたたびおまたせしたようです」
そういったズームルッド――夜《ライル》の語り部は、まだ六つかそこらにしか見えない、稚《いと》けない女児を連れていた。恐ろしいほどに美しい幼子《おさなご》だった。一種、形容しがたい。単純な美《うる》わしさというものは、わずかも顕われていなかった。あきらかに混血で、しかも複雑な人種の融合が感じられる。皮膚《はだ》には、あきらかに黒さが淆《ま》じっている。しかし薄い。栗色が消え入るように、薄い。目鼻立ちは把《とら》えどころがないが、あらゆる人種的特徴は完璧《かんぺき》さだけを意志して融けあっていた。すばらしい扁桃《アーモンド》型の瞳《ひとみ》、幼さにもかかわらず蠱惑《こわく》的な印象がオーラめいてたち昇る。
その女児とともにズームルッドは帰還した。
この邸内に。いつもの大広間に。おなじ客間に。
「ふたたび?」問いを発したのはアイユーブだった。
「いちばん最初に、わたしはおまたせしたはずです。わたしの所在をつきとめようとしていた、あなたを」
「もう、ゆうに二十日も以前《まえ》のことか。そうだ、わたしは稀代《きたい》の物語り師を探していた。けっして外界《おもて》にはでない、あなたを」
「しかし、もどりました」
「聴きたい者のまえに、物語は――いずれにしても――姿を見せるからか」
ズームルッドは面紗《ブルコ》のむこう側でそっと咲《わら》った。その気配が、アイユーブと、書家とヌビア人のひと組につたわる。
「いずこに?」とアイユーブは問いかける。
ズームルッドは、それには直接は答えず、こういう。
「人間《ひと》はふいに消えてしまう可能性があるのです」
「ふいに?」
「そうです。物語とおなじように」
「物語も?」
「物語も。それもまた、不死ではありません。譚《かた》りつづける者がいなければなりませんし、そのためには、同様に聴き手も要るのです」
「わたしたちも要る?」
「おなじ夜の人間として」
なるほど、と答える声はなかった。
だれもが、そのことは知っていた。
アイユーブは三番めとなる問いを発した。ズームルッドのそばにいる女児を指して、「その子は?」と。
「わたしは『糸杉』と呼んでいます」とズームルッドはいった。「この子を連れてきたのです」
それだけしか、答えなかった。
女児はズームルッドのかたわらで、脣《くち》を閉じ、夜の人間たちを見ている。切れ長の美しい瞳で。幼さから隔絶したような美貌《びぼう》でもって。
ひとことも語らない。
それはアイユーブたちもいっしょだった。もはや、質問など意味はない。つぎに発せられることばは、回答などである必要はない。ズームルッドから――吐きだされることばは――あの「つづき」であればよい。
「では」とズームルッドはいった。「譚りに復《かえ》りましょう」
救世主《マフディ》が口をひらいて、カイロを巨大な邪眼から衛るための護符のように、物語は放たれた。
永い暗闇に。
夜に。
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※[#底本では「ファーティマの手」と呼ばれる魔よけの護符の図]
流離する拾い子が足を停めるとき、ついに運命は最後の歯車をまわします。
最後の変転が、ガチリ、という回転音とともに白い拾い子にのしかかります。
のぼるべき階梯《かいてい》のいちばん終《しま》いの高さに、それはファラーをおしあげます。
ファラー、自滅のただなかに生きていた絶望の王。潰滅《かいめつ》する精神《こころ》をもてあましている魔術師。
稀代の魔術師。しかし、人類では第二位の魔術師。
純血の人間のあいだでは、地上《このよ》で最強の魔力を手にしたサフィアーンに次ぐ魔術師。
第二位でしかない、しょせんは転落した敗残の弱者。
――それが、おれだ。
――おれは、その程度だ。
――だからもうだめだ、おれは、だめだ、だめだ、だめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだ。
そう信じ、ひたすら混濁に陥《お》ちている白皙《はくせき》の魔術師。
そのファラーが、いま、一冊の書物を読みつづけていました。
没頭していました。睡眠《ねむり》もとらずに、ページを繰りつづけていました。その書物に、おぼれていたのです。その書物に擁《いだ》かれている厖大《ぼうだい》な内部世界に、没《しず》んでいたのです。紙面からは、ありとある災厄《わざわい》が滲《にじ》みでるようでした。いっさいの邪悪、悪逆無慚《あくぎゃくむざん》さが、紐解《ひもと》いている拇指《おやゆび》と食指《ひとさしゆび》、中指にねっとり纏《まと》いついて、瘴気《しょうき》によって汚染するようでした。
なぜなら――じっさい――おぞましい嗜虐《しぎゃく》が、過去の記憶として、その一冊には滲《し》みついていたのです。
その、往古の大王《スルターン》の退屈しのぎの拷問によって殺された犠牲者の人皮で装訂され、墨の代わりに同様の犠牲者の人血がもちいられもしている書物からは。
魔性の書物からは。
呪詛《のろい》そのもののような古書を、ファラーは耽読《たんどく》しつづけています。ファラーは窯のなかの閲覧室にいて、その麺麭《パン》焼き窯はといえば図書館のなかにあって、図書館は唯一の存在として奇人都市の片隅にあって、奇人都市は宏大《こうだい》にして無辺の迷宮――はるか千載のむかしに「夢の建築化」として生みだされた阿房宮《あぼうきゅう》のなかにありました。
生みだされた阿房宮、それを指示したのはアーダムです。地下に涜神《とくしん》的な宮殿《カスル》を築いて、永遠に拡張しつづけるよう命令を下したのは、支離滅裂に工事をつづけさせて、竣工《しゅんこう》を意図しないように関係者一同に徹底させたのは。
大王《スルターン》として帝国に君臨していたアーダムでした。
そしてファラーが紐解いているものは、アーダム自身が筆を執って編んだ魔法書でした。
百章と一章の断片からなる、人類の目には(アーダムそのひとをのぞいては)一度もふれたこともないような高位魔術の解説書。蛇のジンニーアがあたかも一子相伝のようにアーダムにのみ教授して、当然のように門外不出としていた魔神《ジン》たちの秘事。闇の諸力をも擡頭《たいとう》させる、闇黒《あんこく》の地図でございました。
その一冊は。
破壊的な秘術の内奥にわけ入った、手引き書。
文字のみでは異界の秘技は説き明かせないという不可能事に挑み、註釈《ちゅうしゃく》に註釈を層《かさ》ねて推敲《すいこう》に推敲を累《かさ》ねてアーダムがそれを可能に――あるいは可能の寸前に――してしまった大著。
阿房宮が嘔吐《おうと》して、一千年後、ファラーの手もとにとどけたのはこれでした。
アーダムの魔法書でした。
嘔吐。共鳴がその現象をなしたのです。阿房宮と、その内部でいまも作業の途上にある改築部分との共鳴が。千載の過去に生きたアーダムの妄想と現代の建築家一族の妄想の衝突、空間と空間の共振が。建築家一族はアーダムの宮殿《カスル》に挑戦状を叩《たた》きつけました。建設的挑戦はとどまるところをしらずに、つづいて、幾何学的な形態が裏返った幾何学の成果を地上の美にもどします(ちなみに建築家と幾何学者はアラビア語でともにムハンディスと呼ばれる)。しかし、それをとり巻いている環境は無定形、無限、なにしろ「夢の建築化」である迷宮です。補修は戦闘でした。迷宮を分解して迷宮を再建する、ばらばらに分解して、引かれた図面どおりに組みあげる。しかし、アーダムの妄想が一つ、逆転するところ、建築家一族の前提は二つ、反転します。それに、阿房宮という地下空間を改築するために大量の人員が投入される工事の情景《さま》は、まるっきり一大発掘事業であって、それは一千年むかしの宮殿《カスル》の記憶を掘り起こすようなもの……いいえ、アーダムの記憶を掘り起こすようなものだったのです。
円や正方形の骨骼《こっかく》がねじれた夢の論理を枉《ま》げます。七十五度の斜面が平面を夢見ない迷路《まよいみち》を殺します。戦闘。戦闘。軋《きし》み。地上の建築の諸原則をむり強《じ》いされた阿房宮は、空間どうしで共鳴しあい――穿《うが》たれていた間隙《かんげき》の一つ、一つで響きあい――吐き気をもよおします。
嘔吐《えず》いたのです。
亀裂が――書物を――生んだのです。
ある工事のさなかに。掘りあてられた財宝《おたから》のように、書物《それ》は見いだされました。函《はこ》に納められていました。容れもの自体、表面《おもて》にたっぷり高価な貴石を嵌《は》めこまれて、ぜんたいに螺鈿《らでん》をちりばめるという装飾がなされた芸術品。ですから、第一発見者となった作業員たちは――しばしば掘りだされる金貨をつめた樽《たる》のような――魔王の遺蹟《いせき》の財宝《おたから》の一部と認識しました。その後は? 納められていた書物を確認して、詛《のろ》われた者が十数名。たち昇る妖気《ようき》の餌食《えじき》となって。人皮の装訂に不用意にふれた掘子《ほりこ》は、指を腐らせました。ページを繰った者は、紙葉に録《しる》された文字を認めるまえに、目を腐らせました。呪術《じゅじゅつ》的な媒体だったのです。魔法の心得のない人間には、とうていあつかえない。
では、その書物は?
納めていた函は、宝石商に売られました。書物は……狂乱からさらなる狂乱に、手わたされました。呪詛《じゅそ》を浴びた人間たち――癲《たぶ》れ者の新顔たち――から地下世界に暮らしている奇人に。常人たちの都市《まち》で最初に売りさばかれたのですが、たちまち(呪詛など商売《あきない》になりませんから、市場《スーク》から葬られて)、当然というよりも必然の経緯によって、奇人都市にながれました。
いわば惑乱が拾い、錯乱が買い入れ、癲乱《てんらん》が陳列したのです。
図書館の、書架に。
書物とはふしぎです。一冊の書物はいずこより来るのか? その書物を紐解いている、読者の眼前《まえ》にです。読者は一人であり、書物は一冊。なぜ、その一冊を選んでいるのでしょう。ある種の経過《なりゆき》で? ある種の運命で? なぜ、その一冊と? おなじ時間を共有して――読むのでしょう? 読まれている瞬間、おなじ時間を生きているのは、その一冊と、その一人だけなのです。
一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指すのです。
だから、どのような経緯で?
強制?
偶然?
だから、運命?
わたしは惟《おも》うのですが、書物はそれと出遇《であ》うべき人物のところに顕われるのではないでしょうか。
書物じしんの意思で。
物語のこの場面において一冊の書物はただ一人の読者を選びました。はるか十世紀の時間《とき》を隔てて、アーダムの魔法書はそれをもっとも必要としている絶望の王のもとに、とどけられました。邂逅《かいこう》した魔術師の側から見れば、到来しました――古書のなかの古書――ファラーを陳列棚から喚《よ》んでいる存在として。
奇人都市の、図書館の、開架で、ファラーを祟《たた》って。
隅の部分は腐蝕《ふしょく》しつつあり、さまざまに傷み、紙魚《しみ》にも食害されようとしています。それほどに古い一冊。それが、書見台に載っています。ああ、ファラーが隠《こも》りつづけているこの閲覧室、この麺麭《パン》焼き窯――窯のなかには魔術の神秘のすべてがありました。なんと狂乱の都市にふさわしい情景でしょう。時おり、奇人たちの吠《ほ》え声が、路地やら図書館の天井やら、床下に相当する一階層|下方《した》の迷路から轟《とどろ》きますが、耽読《たんどく》しているファラーの耳には入りません。時おり、料理人が窯の裏手だの横手を出入りしますが(その理由は不明です)、ファラーの目には入りません。ただ、視界に映っているのは書見台の上のアーダムの魔法書、その紙面。ただ、聴覚にとどいているのは著者の肉声、つまり、ああ、著者とはつまり――
窯の内部の壁龕《へきがん》で、樟脳《しょうのう》入りの蝋燭《ろうそく》が燃えます。
読まれる一冊の書物のまわりでは、空気が爛《ただ》れています。
書見台の四囲でも。ファラーの四囲でも。
ひらかれた書物からたち昇るのは、狎《な》れ狎《な》れしい魔法。
闇黒の世界のうちあけ話でした。
あどけなくファラーは昂《たか》ぶっていました。妖術《ようじゅつ》の深淵《しんえん》をのぞいていることを、理解していたのか、いなかったのか。自覚というものを有たない最良の読者でした。糊《のり》づけが人間の脂肪でなされている(と見える)ページの綴《と》じ目を、見いだせば撫《な》でて、そっと押さえます。正常な人間であればすさまじい嫌悪か、あるいは原初的な恐怖に襲われたでしょうが、ファラーは避けるよりも受け容れます。魔法書にとっては献身的な読者でした。やはり、おたがいに相手をもとめ、もとめられている一冊と一人でした。ファラーはたしかに、依然として空ろな絶望のただなかに鎖《とざ》されていて、あらまし理性も感情も凍結させています。けれども、その書物が薄情ではないと、(混濁する精神《こころ》ではない)骨で感じていました。出邂《であ》ったことの命運を、肝《きも》で感じとっていました。
だから、読書に没《しず》みました。
そして読むことは体験することでした。読むことは実践することでした。それは手引き書だったからです。悪魔的な図があり、彩色されていて、視界におさめるだけで悪魔的な業《わざ》は獲得されました。ファラーの脳に、それらはただちに滲透《しんとう》するのです。ファラーには会得されるのです。ファラーは――いかに高度な秘法といえども、それが妖術の範疇《はんちゅう》にあるかぎり――一を示唆されれば十を理解しました。その素地が、この人類のなかでも一、二を争う最上の部類の魔術師にはありました。
一素地、おお、資質《もとで》が。
異界の秘技を文字だけで解説するという不可能事に挑んで、それを可能の「寸前」にしているアーダムの魔法書であっても、おお、ファラーにはじゅうぶんでした。
そう、「寸前」でも。
一読して理解されたのです。資質《もとで》のあるファラーには、理解され、体得されたのです。
闇黒の地図を、ファラーは読みとれました。
百章と一章が(すなわち全ページが)順次、読まれる過程で、百章と一章に録《しる》された秘術は紐解《ひもと》かれながら学ばれ、実践されました。アーダムが不眠《ねむらず》の地獄の日々のなかで書きのこした超人類的な智慧《ちえ》の数々が、用意周到に手引きされて、蛇のジンニーアと契約《ちぎり》をむすばないかぎりは獲《え》られるはずのない秘術が。用意周到に著者に手引きされて、いちいち実践されたのです。奇妙にして――しかし――あまりにも美しい光景《シーン》が生まれました。さきほども述べたように、ファラーの閲覧室である麺麭《パン》焼き窯のなかには魔術の神秘のすべてがありました。窯から、地上《このよ》の破滅のための魔焔《まえん》が噴きあがる一瞬がありました。あるいは窯を透かして、内部でなにごとかの妖《あや》しい存在《もの》が発光していました。透かして、ファラーの姿態も摩訶《まか》ふしぎな輪廓《シルエット》となって窯の外からうかがえました。エメラルド色の光線が躍り、ピシッ、ピシャッ、という晃《ひか》りほ海月《くらげ》のように巨大な窯の表面をいろどります。霊妙な燦《きら》めき、金色の霊気《オーラ》の浮上。ときに回転し、ときに目茶苦茶に炸裂《さくれつ》し、さまざまな異音も発します。耳を劈《つんざ》いて、囁《ささや》いて、歌って! 窯がです。図書館のなかに用意されていた閲覧室の繋がです。あまりにも印象的にして、あまりにも壮観。そして狂気の沙汰《さた》。これが、奇人たちを惹《ひ》きつけないでいられましょうかっごもちろん、否《いな》! ファラーの繙読《はんどく》がはじまった途端、奇人都市の唯一の図書館はにぎわいのかぎりににぎわう、盛況のなかの大盛況となったのです。千客万来、汗牛充棟《かんぎゅうじゅうとう》の蔵書よりもつめかける見物人のほうが数が多いという、たいへんな事態です。みな、押すな押すなで麺麭《パン》焼き窯を囲んでいます。もちろん、全員が奇物《いかれもの》、うわさがうわさを呼んで都市《まち》じゅうの痴人《しれびと》たちを駆り集めているしだいで、図書館の建物の枠などとうに外されて壊れています。そして、衆人環視の円の中央におかれた窯から七彩の光線が放たれれば「バー!」といい、ピシャガシャ、ドゥヮヮヮヮーンと轟音《ごうおん》が賁《はし》って稲妻がひらめけば「ター!」といいます。なんという華麗な見せ場でしょう! ある奇人が訳知り顔で絶叫しました。
「恐ろしい麺麭《パン》ができるぞ!」
すると、二百と二十と二人の奇人がこれに呼応しました。
「然《しか》り、然り。美味にして戦慄《せんりつ》の王者が焼きあがるぞ!」
「駱駝《らくだ》型の麺麭《パン》が!」
「天地|崩潰《ほうかい》の喇叭《らっぱ》のエジプト麺麭《パン》が!」
「原料の小麦粉が!」
「玉蜀黍《とうもろこし》が!」
「コロハ豆も挽《ひ》き雑《ま》ぜて!」
「ああ、美味《おい》しそう!」
「でも、恐ろしそう!」
「平たい平たいエジプト麺麭《パン》!」
書庫もおし倒した大合唱のなか、窯の内側ではただ読書に没頭しつづけるファラーの姿があります。睡眠《ねむり》もとらずに、ひたすらに。ページを繰ります。そして、獲得された秘術がつぎつぎと実践されます。窯のまかで。閉ざされた閲覧室のなかで。業《わざ》にはあらゆる種類がございますから、すべての秘法の実践の結果が、奇人たちの拍手|喝采《かっさい》を浴びるというわけではありませんでした。派手さよりも地味さにむかっている傾向もある種の奥義にはございますし、その秘法を成就させても結果は――外面《おもて》には――しかとは表われない、智慧のための智慧の章も一定のわりあいでこの大著のなかに挿《はさ》まれていました。たとえば不死、これは不老不死のような仙術の類《たぐ》いではなく、著者の手で「自己の永続化」と註釈が録されている未知の術ですが、やはり手順を逐《お》って実践しても(それが実行に移せるのがファラーの資質《もとで》あっての偉業《こと》なのですが)、具体的な成果というものは窯のなかにひらめきません。窯は、内側にいるファラーにとっても、外側でとり巻いて見学している奇人の大群集にとっても、静かなものです。しかし、結果が確認できるか否かにかかわらず、ファラーは読み進めたのです。
書物のうちあけ話に耳を傾けて、高度な秘法をいっさい選別することなく吸収したのです。
それだけに専心していました。この一冊の由来について遠慮を転《めぐ》らしはせず、その内容がだれの手になるものなのか、だれが編んだ秘奥の術の解説書なのか、邪術の蘊奥《うんのう》の手引き書なのか、推測もしなければ、理解しようとする意欲ももちません。だからこそ、空虚《うつろ》のただなかに生きる絶望の王でした。けれども、その古さは感得されます。その秘伝の書物が、あまりにも古い、おそらくは迷宮の建造年代とおなじように古いことは、明瞭《めいりょう》でした。
地獄の設備をたっぷり具《そな》えた、地中の、呪わしい涜神《とくしん》の宮殿《カスル》とおなじよう隼――恐怖を具現化している――古い、古い、呪わしい書物。
同様の出自を。
それだけを感得していました。
そして、読み了《お》えました。
最後の章に達して、実践を終了しました。無意識に全身がわなわな顫《ふる》えていました。なにごとが? なにごとが、ファラーの内部《なか》で? ある確信です。ある理会です。それは昂奮《こうふん》とはべつの次元で、ファラーに事実を告げています。すなわち、史上空前の域にも達した魔術師に――ファラーが――おのれが――変えられている現実。あらゆる妖術を修めて、そのような存在に変化《へんげ》していること。
歴史において空前の。
ほとんど全能となるような。
それを骨でファラーは知りました。それを肝でファラーは知りました。そしてファラーの精神《こころ》も、ついに理解しました。
「おれは……」とファラーは独りごちました。永い絶望の流離のはてに、はじめて吐きだした台詞《せりふ》でした。ようやく口をついた、ファラーのそのひとのことばでした。「……感じている。おれは、迷宮そのものとなった。この古い、古い、古い、詛《のろ》われた迷宮と、まるでおなじ存在《もの》に」
ファラーの意識が、ほんとうの意味での覚醒《かくせい》をはじめます。
ファラーの全身が、ブルッ、ブルッと顫えています。
そして腰をあげ、書見台の上に展《ひろ》げられた魔法書を、閉じました。
閉じて、表紙に手のひらをあてました。
人間の皮膚を鞣《なめ》した革装に。
「本よ」とファラーはいいました。「おれは、おまえだ」
それから、ファラーの手のひらから、魔術の火焔《かえん》がほとばしります。それは、アーダムの魔法書に滲《し》みこみます。それは、銀朱《バーミリオン》の色彩となって、焼きます。
燃えあがらせます。
冷たい焔《ほのお》で。
零度の猛火で。
読者は自分一人でじゅうぶんなのを了《さと》って、ファラーは焼きました。それこそが書物の意思であるから、焼きました。一冊の書物、それを読んで咀嚼《そしゃく》した完璧《かんぺき》な読者。ここに環《わ》は閉じます。
だから、焚書《ふんしょ》は許されました。
焼棄《しょうき》されます。闇黒《あんこく》の地図が。アーダムの大著が。
窯のなかで火が燃えます。
「たしかめなければならないな」とファラーはいいます。「おれが地上《このよ》で最強の魔力を手にした人間なのかどうかを。もういちど、こんどこそ。人類のあいだでなら、比肩する者のいない存在であるのか否かを」
最後に、ひとこと、つけ加えます。
「サフィアーンよ」と。
ファラーが閲覧室の窯をでます。たいへんな歓声がまっていました。奇人たちです。叫んでいます。泣いています。哭《おら》び、唄っています。
「麺麭《パン》王、万歳!」
「エジプト麺麭《パン》の治世に、猫と紫鷭《むらさきばん》(ナイルの葦原に棲息している水鳥。啼き声が人間の笑い声に似ている)の祝福あれ!」
「おおいなる感銘を!」
「ハマアン(鳩料理)の助力を!」
「希望だ、希望だ!」
「ああ、天空の星ぼしは墜ちて麺麭《パン》がふる!」
「山やまは飛びちって麺麭《パン》を産む!」
「魂、そして、麺麭《パン》!」
「麺麭《パン》!」
「ついでに茶?」
金切り声、絶叫、誇らかな歓呼。閲覧室の管理者でもある司書の本男《ほんおとこ》が歩みでて、ファラーに返却を命じました。もちろん、貸しだした古書――アーダムの魔法書のです。ファラーは美しい微笑を浮かべて首をふり、「おれは返却できない」と告げます。
「う?」と本男が問います。
「おれが、あの本だ。いままで世話をありがとう」
すると、司書である本男はニイッと笑って、長い顎鬚《あごひげ》の叩《はた》さでファラーの肩を、胸を、ほこりを払うようにペタペタしました。
ファラーという大判の書物を送りだしたのです。
世界に。
図書館の外部《そと》の、閉ざされていない世界に。
そして、全奇人に見守られて、かつての絶望の王は発ちました。
痴呆《ちほう》の楽園から。
まずは、森のものの夢の石室へ。
扉を開けて、しかしファラーが見たものは、夢ではありません。一千の虚夢《そらゆめ》でも、一つの森の時間でも。ただの空っぽの部屋でした。年|経《ふ》りた石造りの室《むろ》、無機質な壁と、石敷きの床があるだけです。ほかには、なにもない。ただの方形の小部屋。
もちろん、いませんでした。
再会を期した者は。
ファラーが再戦を期した相手は。
天下無類の剣士にして闇黒の秘法を自在にあやつった森のものの夢の石室の守護者、サフィアーンは。
すさまじい形相でファラーを敗北に追いやった魔人、サフィアーンは。
しかしながら、ファラーは「どこへ?」とは問いません。
ファラーが「蛇の遺蹟《いせき》」と呼びならわした地底の聖域の、中央にでてみれば、それはあきらかだったのです。
そこに、大地の蓋《ふた》がありました。
スライマーンの聖なる印璽《いんじ》が捺《お》された封印が。
それは開放《ひら》しています。
地獄の釜《かま》の蓋のように闢《ひら》いています。
四種類の夢の石室があまさず、夢を生むことのない石室に変えられて、その「装置」は役目を終えていました。四つの威圧《ちから》は滅えたのです。
大地は開闢《ひら》いたのです。
その穴の縁に、ファラーは立ちました。
のぞきこめば、異様な悲鳴が聞こえて、深い井戸の奥底のように深淵《ふかみ》でゆらいでいる光線があります。
「……蛇の邪神の、栖《す》?」とファラーはつぶやきます。「……これが……入り口か?」
それから、一瞬にしてなにごとかを想いだして、目を細めます。
「そうか」とファラーは独り、いいます。「世界《このよ》を統べるという邪神の秘宝か。あの淫猥《いんわい》なゾハルの姫君がいっていた、人類の覇王になれる権能《ちから》、秘鑰《ひやく》か。それを、サフィアーン――(ファラーはその秘法が蛇のジンニーアとの契約であると推測していたはずだが、ここではそれにふれる記述はない。あるいは意図的に排除されているのかもしれない。この場面でのファラーの心理を考えれば、それは妥当ともいえる)」
ファラーはたち昇るにおいを嗅《か》ぎます。
深淵《ふかみ》から。牢獄《ろうごく》であったジンニスタンから。
生きている魔術のにおいを。
魔法と剣法の戦闘《たたかい》のにおいを。
「――まだ、いるな」とファラーはいいます。「あの神秘の霊剣のにおいがする。するぞ。サフィアーン。おまえはまだ、いる。この内奥《なか》に」
ジンニスタンが、どよッと、叫喚にゆれました。
ファラーは踝《くるぶし》の下側にその鳴動を感じました。
「いいとも」片足を空洞にむかって踏みだして、ファラーは囁《ささや》きます。「おまえが秘宝《それ》を手に入れても。でも、それは、おれに斃《たお》されてからだろう?」
そうして、ファラーは飛びました。井戸のような竪穴《たてあな》の深淵《ふかみ》に。
蛇神《へびがみ》を禁《とじ》こめてきたジンニスタンに。
舞いおりながら、呪文《まじない》を放ち、上方で――再度――封印の蓋を閉じました。劇烈と形容するにふさわしい魔力でもって、内外のどちらからも開放不可能な状態に、封鎖しました。サフィアーンに、逃げられないようにでした。サフィアーンが、勝負を避けることがないように、その保険としていの封印でした。
なぜならばファラーは決戦しなければならないのですから。
脱《のが》れられてはならないのですから。
人類最上の魔術師の座を――ファラーから――奪ったサフィアーンに。
着地する。蹠《あしうら》をついた、そこが戦場のジンニスタンでした。投獄された蛇の邪神の領域。蛇神《へびがみ》の世界。そこは……悲鳴にゆれています。哀れな叫び声に、欺《なげ》きに。
ファラーはその怒号、その破滅の声、その苦悩の雄叫《おたけ》びを聴きながら、魔的な嗅覚《きゅうかく》に導かれるままに獲物を追いました。
目にするのは幻想の領土であり、そして、そこでは――あらゆる面《おもて》に――破壊の爪痕《つめあと》がありありと認められました。まあたらしい、新鮮な創《きず》。
だれかが刻んだのです。
だれかが、闖入者《ちんにゅうしゃ》として侵しているのです。
それを見ながら、ファラーが猟犬のように主戦場にむかいます。目下の戦闘《たたかい》の主戦場に。
盲目の太陽がジンニスタンの宙《そら》にかかり、地表《ちのおもて》を照らしていました。
なかば翔《と》び、浮遊するように道を征《ゆ》きます。この世のものではない法則下の宇宙《あめつち》に、存在している道はどの道も三叉でした。
玻璃《はり》の海に煌《きら》めいている橋が架けられていて、無残に折れていました。
中途で折れて、無数の蛇を吐きだしていました。
流血の代償? 橋は贖《あがな》うように、叫び哭《おら》び涕涙《ているい》雨のごとき蛇を、その疵口《きすぐち》から産み落とします。
何者かの刃《やいば》が斬って捨てた、橋の肺腑《はいふ》から。
轟《とどろ》いている阿鼻叫喚《あびきょうかん》。
人間たちには地獄そのものとも理解されているジンニスタンが、いま、地獄に堕ちようとしています。
海ととなりあわせにアル・ヒジャズにも似た砂漠があり、ここもまた涙と絶望の場所でした。あふれだす蜃気楼《しんきろう》は岩石の山脈《やまなみ》を咬《か》み、地平線は消えていました。幻想の色調は破綻《はたん》を余儀なくされて、ただ内臓色に、それも腐敗する肉の悲鳴やら嗚咽《おえつ》やらにも通じるヘンナのただ赭《あか》い、冥《くら》い、深い茶色に没《しず》んでいました。
幻滅しながら、異世界の光輝は燦《きら》めきました。
蜃気楼は砂漠をうしなうのを懼《おそ》れて、砂漠を冀求《ききゅう》するかのようでした。
つづいて火の河があり、熱源をうしなったように爛《ただ》れて、蛇の形状《かたち》で横たわっていました。あきらかに死に瀕《ひん》して。ファラーは翔《か》けるように河をわたりました。
これはどのような世界でしょうか? 暴力|沙汰《ざた》に見舞われる以前の、この邪神の領域は? 監獄であったジンニスタン、わたしは幻想の領土とひとこと簡潔に説きもしましたが、全容の描写もまた為《な》されなければなりません。ファラーはその全容を――おりたった「深淵《しんえん》」であるジンニスタンの全容《それ》を――直観しています。いまや偉大な妖術師《ようじゅつし》であるファラーは、蛇神《へびがみ》の栖《す》、その一部を通過するたびに十を知るどころか百を知りました。いっさいを識《し》りました。
この空間は一匹の蛇の口のなかにある。
それは地上そのもののように巨《おお》きい神蛇。
蛇の邪神は(スライマーンによって監禁《とじ》こめられていた女魔神《ジンニーア》は)、この神蛇とは無関係です。神蛇はアッラーによって創造された聖獣の一種類であって、地上を(これはわれわれの概念でいう「地球」を指している)支えている神的動物の同胞《ともがら》です。そこに、後《のち》の世に、精霊たちが棲《す》みついたのです。火から創りだされた精霊たちが(魔神類のこと。ちなみに天使は光から創造され、人間は泥から創造されたと『コーラン』に記されている)それぞれに相応の土地――もっぱら魔的な辺土、人外境――に縄張りを定めるように、蛇族に属している一群はこの「深淵」におりたのでした。
棲息《せいそく》域とするために。
もっともふさわしい、魔神《ジン》たちのジンニスタンに。
巨大な蛇の口。そのなかにある現象世界。
異形の時空が展《ひろ》がって(そして口腔《こうこう》内部の宇宙《あめつち》として閉じて)いるのは当然でした。そこが幻想の領土いがいのなにになりえましょうか? ちなみに、その移住者たちの女帝《スルターナ》が、いわずもがな蛇のジンニーアです。大空《あまつみそら》と見えるものは口蓋《こうがい》、無生物と見えるものはあらんかぎり神蛇の一部です。
この事実をファラーは洞察していました。
しかしながら――ああ、閉ざされているといっても――なんたる宏大《こうだい》な宇宙《あめつち》。辺縁のかなたは人智のおよばないところです。蛇よ、蛇よ、と囁きかけるように、歌うようにファラーは翔びます。絶対的な嗅覚でもって(一時《いっとき》たりとも迷うことなしに)ファラーは主戦場に移動しています。そこで戦闘《たたかい》を起こしているのは闖入者、破壊の業《わざ》をなしながら進んでいる闖入者にちがいありません。
そう、先行した闖入者。
そう、再会をもとめてやまないサフィアーンに。
内奥に足をのはすほどにファラーの眼前でジンニスタンの神秘が、そして破滅の様相《さま》が変容します。ああ、生物《いきもの》たちが、いました。歯だけの蛇、鱗《うろこ》だけの球《たま》、顔のついた骨、手のある石。彎曲《わんきょく》した肋骨《ろっこつ》が緑野《オアシス》にそびえて喚《わめ》き騒いでいます。痛い、痛い! 斬られたのです。侵入者の霊剣によって、断たれたのです。断たれずとも、撲《ぶ》たれ、正義の霊気《オーラ》にやられて呻《うめ》いていました。畸形《きけい》の蛇たちが、あるいは――一万年もの大昔に――蛇たちと暮らすことに決めたその他の怪異《もののけ》が。魔境だからこそ棲みうる生物《いきもの》が。
瀕死《ひんし》の姿を、ファラーのまえに暴《さら》していました。
凄惨《せいさん》な情景でした。
それから――
傷ついているものよ、とファラーはいいます。歩みながら、移動しながら。
醜いものどもよ、とファラーは囁《ささや》きます。翔ぶようにサフィアーンをもとめて進みながら。
破壊されている、愛おしいものどもよ、と歌います。
顔をあげるのは傷負える魂。つづいて、目をうるませた小蛇《こへび》。つづいて、絶望する瀕死の妖魔《ようま》。小さな生物《いきもの》。
それらは歌いながら翔ぶファラーを追いました。
生きているだけであふれている、無意識状態でも周囲に噴きだしている、ファラーの絶大にすぎる魔力にふれて、ああ……安らごうとして。
痊《いや》されようとして。
その尋常ではない魔力のおこぼれに与《あずか》って、治癒されようと。
愛をもとめたのです。
再生のために、ファラーの愛を。
それはあたえられました。
「偶数にかけて、奇数にかけて」とファラーは歌っています。「おれはおまえたちが愛おしいと誓う。醜い小物《こもの》たち、破壊された捨て石たち。捨て石たち。そうだろう? おまえたちは、戦闘《たたかい》の、ただ前線におかれた犠牲《いけにえ》だろう? ああ、だから――従《つ》いてこい。尾《つ》いてこい。おれのあとに、すべての結末《おしまい》を見学するために。治癒されたいのなら、おれが療《いや》そう。だから、傷ついているものよ、醜い生物《いきもの》たち、絶望から脱却するために、来い。おれの背後に」
それもまたふしぎな運命でした。地上のゾハルでは魔王を斃《たお》した凱旋《がいせん》将軍として入都するさいにやはり同様の一大行列を随《したが》えて(歓呼する崇拝者たちでした)、そののち、絶望から阿房宮内の辺境を彷徨《ほうこう》する場面では魔霊《マーリド》の軍団をそい率《したが》えて(ファラーの麗容に蠱惑《こわく》された魑魅魍魎《ちみもうりょう》どもでした)、奇人都市に入れば騒然たる楽団をつらねて歩いたように、いまも。
いまもまた。
ジンニスタンの半死半生の小さな精霊たちをひきつれて、第二の闖入者であるはずのファラーは悲鳴にゆれるジンニスタンを進んでいました。
獲物をもとめて。
戦闘《あらそい》の主戦場をめざして。
ほどを経ずして、あらゆる生物《いきもの》のなかで極大の鼓動が響いてきました。
つねにも増して脈|搏《う》っている、動悸《どうき》です。
それが邪神の心臓の音でした。
魔王サフィアーンはジンニスタンに破滅の秋《とき》をもたらしていました。
幻想の領土を破壊しながら進んでいました。第一の闖入者《ちんにゅうしゃ》は。ファラーに先行する人間《もの》は。
ついに封印を開放いた瞬間から、唯一の目的のために、一途《いっと》に前進をつづけていました。舞いおりた「深淵」の内奥はたしかに驚異でした。魔王サフィアーンのなかの純然たるサフィアーンの人格《こころ》に、驚嘆ということばでは表現しきれない愕《おどろ》き、衝撃、さらにはある種の感動までもたらしました。視界に映る森羅万象《ものみなすべて》、人智を超えて神秘霊妙、しかも宏大な宇宙《あめつち》でございました。無辺ですらあると感じられる世界、地中のもうひとつの地上《このよ》だったのです(ここでも地上は「地球」の意味でつかわれている)。
しかし、魔王サフィアーンはだからといって停まりはしませんでした。
立ちどまり、さまざまな驚異に目をみはったりは。
また、迷いもしませんでした。
たとえば三叉の道に立って、どちらにむかえばよいかなど。前後に暮れず、居場所が――この「深淵」における自身の、そしてめざしている存在《もの》の――まるで不明で、手がかりもない、わからない等と歎《なげ》いたりはせずに、前進しました。
サフィアーンの精神《こころ》は、強靭《きょうじん》な意志で固められていたのです。
封印されていた蛇神《へびがみ》をかならず討ち斃すとの。
蛇の邪神を成敗するとの。
なぜなら、それが「内なる竜」――サフィアーンの精神《こころ》が認識して夢のなかで対話した「内なる竜」との、約束だったからです。いまは成仏した、あの森のものの夢の石室の守護者との。
――竜さん! ぼくは断乎《だんこ》として、断乎として、アッラーに誓ってかならずや、蛇神《へびがみ》をきっちり処罰《おしおき》しますよ! それはもう、ぼくの使命なんだもの!
「いや、天命だ!」と叫びました。
この鞏固《きょうこ》な意志。すべてはサフィアーンの精神《こころ》がガシッと認める任務《つとめ》でした。ですから、ひたすら前進します。どちらに歩を進めれば蛇神《へびがみ》を迫撃できるのか? 悩む必要はありません。視界に入るいっさいを破壊して、突進すればいいのです。そうすれば、何者も遁《のが》れられない。そうすれば、いずれにしたって追いつめられる。討伐できるんだ。掩蔽《えんぺい》された神秘だって、のこらず発《あば》いて、斬って、斬って、斬り棄てて、進めば!
いずれ逃げ場のない場所に追いこんで、そして決闘――一騎討ちだ!
無類の闘志《こころざし》につらぬかれた戦士が、ジンニスタンをつき進んでいるのでした。まるっきり破壊の化身、ジンニスタン全土をゆるがす災厄《わざわい》でした。なにしろ魔王サフィアーンそのものが蛇神《へびがみ》の王領ジンニスタン以上に驚異です。この剣士は、もはや単なる人間の生身《なまみ》ではない肉体を具《そな》えています。その肉身《からだ》にながれるのは巨竜の血液、その心《しん》の臓は生まれ変わった巨竜の心臓《ハツ》、のみならず全身の筋肉という筋肉が竜族に匹敵するものなのですから。餓《う》えも知らず、疲れも知らず、しかも妖魔界の王家の一員さながらの剛《つよ》さと靱《しな》やかさを秘めて、完全無欠な存在として常時精力を充満させているのです。巨竜の霊性は極楽往生しても、肉体に転生した肉《しし》は、血は、内臓《はらわた》と皮膚と骨と毛髪は(そう、毛ですら竜的な神秘を宿した毛でございました)、そのまま魔王サフィアーンの肉身《からだ》としてのこりました。
竜的肉体は消滅も成仏もせずに、断乎として蛇神《へびがみ》征伐に邁進《まいしん》するサフィアーンを(純粋なサフィアーンの精神《こころ》を)護っていたのです。
これ以上はない護衛として、圧倒的に掩護《えんご》して。
いまひとつ。魔王サフィアーンの佩《は》いた刀剣《かたな》があります。いうまでもない、その刀剣《かたな》は――妖魔に類する存在である「生きた剣」。無敵の霊剣にして、世に比《たぐ》いのない業物《わざもの》です。それをふるうのが独自に実戦の剣技を体得した天下無双の剣士。ああ、これぞ相乗作用! 二倍どころか十数倍の威力が、いま、発揮されています!
ダイヤモンドさながらの霊剣の刃《やいば》は、魔王サフィアーンの眼前にたちはだかる万有を斬り、裂き、塵《ちり》のように払い捨てて、ジンニスタンに破滅の秋《とき》をもたらしていました。
この人物《もの》が通るところ、怪異《もののけ》たちに平穏無事はございません。蛇のジンニーアの栖《す》に棲《す》みついている生命《いのち》(あるいは生命《いのち》なき怨念《おんねん》のような生物《いきもの》、現象、風景)を見舞う責め苦、想像をはるかに凌駕《りょうが》した痛み。火の湖が泣いて、山脈《やまなみ》はあとずさり、妖魔の小物たちは咆哮《ほうこう》するばかり。絶望するばかり。
魔王サフィアーンは厳粛な儀式のように斬って進みました。
「深淵《しんえん》」の驚異のいっさいを。
穢《けが》れを見れば払い、威勢をふるった大地を認めれば斬り、視界の隅を薙《な》いで、捨てました。それが通過するところ、希望など一片《ひとかけら》ものこされてはいませんでした。
天地終末がジンニスタンに来たったかのようでした。
崩潰《ほうかい》させるものが魔王サフィアーンでした。
疫病のように魔王サフィアーンは前進しました。すべてを死に追いやる黒死病《ぺスト》のように。
ただし、魔王サフィアーンは魔術は繰りだしていません。ただ霊剣でもってジンニスタンを破壊していました。つきぬ精力と超絶の膂力《りょりょく》、あらゆる猛獣よりも速い駿足《あし》でもって、覇業《こと》をなしていました。そもそもサフィアーンの精神《こころ》は――魔王サフィアーンの肉身《からだ》の主人としてジンニスタンをつき進んでいながら――魔術をあつかえる自分がいることを知らないのです。前人未到の魔力を具えた妖術師《ようじゅつし》の人格《こころ》が、自身の内部《なか》に眠っていることを。
いま、こうしている瞬間にも夢見ている事実を。
サフィアーンである魔王サフィアーンにはまるで魔法がつかえなかったのです。
破壊のための呪術《じゅじゅつ》を知らず――ただ、ひたすら、霊剣を手にした破壊の化身として――物理的にたちはだかる穢れを排除しながら、驀進《ばくしん》また猛進と蛇神《へびがみ》めざして進んでいたのです。
東進も西進も北上も南下もない、追いつめるための単独の行軍。突進されていない場所と、すでに突進された場所のみにジンニスタンを色わけしています。この蛇神《へびがみ》の栖《す》を、閉じている世界を。
悪疫として、まるで火焔《ほむら》の塊まりとして。
もしもアーダムが目覚めて、この行動を見ていたならば、どう反応したでしょう? 一千年ののちに復活して「大地の子宮《こつぼ》」におりたアーダムの目的とは、スライマーンの封印の装置を毀《こわ》すことでした。スライマーンの印璽《いんじ》の捺《お》されていた大地の蓋《ふた》を開けて、ジンニスタンにのりこみ、蛇神《ヘびがみ》に会うことでした。会って、そして……その本体を(すなわち憑代《よりしろ》ではないものを)亡ぼすことでした。おのれの手で、裏切られた愛に始末をつけることでした。決着を。それを……その行動を……アーダムの精神《こころ》が動かしているのではない魔王サフィアーンの肉身《からだ》が、忠実に採っているのです。
実行しているのです。アーダムが「このようにする」と決意した計画の、そのままに。
目論みのままに。筋書きのままに。
まるで――全行動が――アーダムの裏切られた愛のために。
愛のために。
驚くべき展開です。そして愛に利する行動がいまひとつ。これもまた、魔王サフィアーンの肉身《からだ》に宿っている人格《こころ》は気づいていない(アーダムも、サフィアーンも、ともに)のですが、蛇神《へびがみ》の本体をその栖《すみか》であると同時に永劫《えいごう》の歳月の牢獄《ろうごく》でもあるジンニスタンに降《くだ》って討ち滅ぼすこと、その結果は地上で憑代《よりしろ》となっている人間を――ゾハルの王宮にいる姫君を――救済することでもありました。実体が斃《たお》されれば、順当ななりゆきとして「憑《つ》きもの」は落ちます。蛇のジンニーアに憑依《ひょうい》されていたドゥドゥ姫は解放されるのです。
そう、ドゥドゥ姫、サフィアーンの従妹《いとこ》にして、命をかけて愛する女《ひと》が。
その真実をサフィアーンの精神《こころ》は知りません。
ああ、いっさいがっさいが愛のために。サフィアーンの精神《こころ》はもっとも適切なかたちで愛のために行動を起こしていて、しかも、その行動はアーダムが望んだものとぴったり一致していました。
すべてが――ああ、すべてが――結末《おしまい》にむかって進行していたのです。
そして魔王サフィアーンは目標をとらえます。
ついに、視界に、獲物として捜索《さが》していた蛇の邪神を。
疲れを知らず、ついに追いつめます。
ジンニスタンを破壊した場所といまにも破壊される場所の二つに塗りわけたはてに。
潰滅《かいめつ》をまぬかれる土地など、のこされはしないのだと絶望しきった状態にとことんおちいらせた最後《いやはて》に。
回転する地平がありました。
黄金《こがね》色の。このジンニスタンで「放心」と呼ばれる大地でした。
遁《のが》れられないと諦観《ていかん》した蛇神《へびがみ》は「放心」にて魔王サフィアーンをまち構えて、歯をぎらぎらさせていました。邀撃《ようげき》のために。処罰《おしおき》しようと迫る者を返り討ちにするために。
ほかには途《みち》はなかったのです。
成敗されるわけにはいかなかった。
だから、まち構えました。
とはいうものの、おお、どこに実体が看《み》てとれるというのでしょう。魔王サフィアーンのまえに開《はだ》かったのは泰山《たいざん》のように巨大な煙、あるいは湯気でした。ちらりと一瞬、牙《きば》そのものが見えて、鱗《うろこ》そのものが煌《きら》めきもしますが、魔王サフィアーンには全容はまるでつかめません。いかにも、これは幻術でした。それどころか、おそろしい戦略でした。
蛇神《へびがみ》はまるでただの色と線でした。瞬時に変容して、ひたすら魔王サフィアーンを邀《むか》えます。正面にたち塞《ふさ》いだ巨大な壁として、さまざまな魔法をつぎつぎと魔王サフィアーンめがけて放ちながら。
咒《かしり》を四方八方から投げ飛ばしながら。
その一枚の――天と地をつないだ――壁から。
大地はまわっていました。蛇のジンニーアとそれを討とうとする人間の剣士をのせて(しかし、その人間は竜の肉体を具えた人間、まことに魔王と呼ばれるのにふさわしい超人です)、黄金色の「放心」は回転をつづけていました。地中には虹《にじ》の橋が半円を描いて架かって、それが「放心」の大地から見おろすように覗《うかが》えました。連鎖する光線がありました。それらの一から十までが同心円のように対決する魔神と、人間にして魔王をつつんで――まわっていました。
魔王サフィアーンは苦戦しました。いよいよ目途《めあて》の獲物に対面したことは、戦士の本能が直覚させています。しかし、どのように攻めればいいというのか? なにしろ蛇神《へびがみ》の実体がまだ見えない。術がどんどん放たれて、眼前《そこ》にめざす決戦の相手がいる――というより存《あ》る――のがあきらかでありながら、さて、威力をもって斬りつけられません。煙を断つようで、湯気を裂いて遊ぶようで、蛇のジンニーアの戦略に翻弄《ほんろう》されます。翳《かす》んだ目をこする手のように撃剣が放たれましたが、手応えはつねにわずか。悲鳴すらあがりません。
それにしても、静か。静寂《しじま》のなかの戦闘《たたかい》でした。魔王サフィアーンに雄叫《おたけ》びをあげる余裕《ゆとり》はなし、真剣勝負の一騎討ちで、それは成敗されるかいなかの瀬戸際に立った蛇のジンニーアも同然でした。
無音のなかで咒《かしり》だけが宙を切り、刃《やいば》だけがヒュッと鳴りました。
ほとんど粛《しめ》やかな死闘でした。
そして大地はまわっていました。
両者をつつんで。
たち塞いだ巨大な壁はまた変容します。それは(サフィアーンの精神《こころ》に感得される印象では)海でした。海、象徴としての海でした。陸をとり巻いた円環、だから大蛇でした。
ああ、魔王サフィアーンのすさまじい太刀すじが、海をなで斬《ぎ》ります!
無謀だが、美しい――あまりにも美しい戦闘《たたかい》。
一刀、両断。だが、そのさきは? 終焉《おわり》のない、無疆《むきょう》です。無窮《きわまりなし》の時間がながれるばかり、勝敗以前の鍔迫《つばぜ》りあいに終始します。いつまでも、くり返されて、くり返されて。だからこそ――魔王サフィアーンは苦戦しているように見られました。当初は。にもかかわらず、おなじ様相が呈されつづけているのに、しだいに形勢は逆転します。
魔王サフィアーンがまるで疲れないのです。
いつまでも俊敏に、斬って払って薙《な》ぎつづけているのです。
跳躍して、踏みこんで、後退して、駿足《あし》を動かしつづけて。
竜的肉体は想像を絶する境地《たかみ》に剣士としての魔王サフィアーンを到達させていました。
いつのまにか蛇神《へびがみ》の鼓動が昂《たか》まっていました。ジンニスタンの空間を轟《とどろ》かせて、搏《う》っていました。戦場の「放心」はその鼓動にゆらぎました。
接戦でした。優位と見えたものは消えていました。いかにして? 攻めが効かないからです。蛇のジンニーアがさまざまに放つ咒《かしり》が、続々しかける破壊の業《わざ》が、禦《ふせ》がれてしまうからです。避けられてしまうからです。第一に魔王サフィアーンの手にした霊剣が魔術的防衛の役目を負っていました。これは「生きた剣」であって鬼神《イフリート》でもある存在《もの》、ですから魔焔《まえん》がブワッと襲いかかって魔王サフィアーンを嘗《な》めようとしても、この刃で弾《はじ》けばよいし、毒液が噴きかけられてもパシャッと反撃して四方《よも》にちらして、さらには魅入られた人間を石に変えてしまうような、致死の凶眼だって弾きかえします! おまけに魔王サフィアーンと化す以前のサフィアーンは、阿房宮内の化物《グール》の巣窟《そうくつ》であまたの魔物を相手どって演習を重ねた経歴のもちぬしですから、魔術的攻撃にもしっかり慣れ親しんでいて、いっさい怯《ひる》みもしなければ、回避の手段も――その直接経験から――学んでいたのです。
ああ、変通自在の防禦《ぼうぎょ》。魔術はほとんど魔王サフィアーンに効きません。この巨竜の代理人には。禦いで、禦いで、それから打々発止《ちょうちょうはっし》、組み討とうとなで斬って。
おまけに、疲労を見せません。
その速度がゆるみもしなければ、一瞬の隙があらわれる瞬間も皆無。鉄《かね》の魔術を放っても、無益。流砂の幻影におぼれさせようとしても、徒労。四肢に火傷《やけど》を負わせることもできなければ、一千匹の蠅に屠《ほふ》らせることもできないのです。
では、禦がれない魔術ならば?
その霊剣にも、ずばぬけた身体能力にも、たぶん経験にも。
そう蛇のジンニーアは考えたのか、そして――
壁は歌いだしたのです。幻術によって煙とも湯気とも、ただの線と色彩《いろ》の混淆《こんこう》とも、はたまた海とも擬装していた「放心」に鎮座するような巨きな壁が、心臓を搏ち鳴らしている蛇神《へびがみ》の壁が、歌いだしたのです。有象無象《うぞうむぞう》がおめきあげるような声。妖女《ようじょ》の斉唱のような奇ッ怪な旋律でした。音程の上下、そしてジンニスタンならではの旋法。
破綻《はたん》した官能。
そのような印象の、歌が。
老婆の羞《は》じらいにも似ていました。
このようにして決戦の静謐《せいひつ》はやぶれていきました。最初に蛇のジンニーアの動悸《どうき》によって(極大の鼓動の響きによって)、それから歌によって。壁ぜんたいが囁《ささや》いて、ひきずるような声音によって。静寂《しじま》は裂けてしまいました。無音は砕けて、ひらいて、沈黙が支配する王朝は倒れました。
魔王サフィアーンですらも無言《しじま》をやぶりました。
はじめて、閉ざしていた口をひらいて、いったのです。
「う? う、うううう――」と呻《うめ》いたのです。
表情がゆがみます。それまで全身全霊|挙《あ》げて戦闘《たたかい》に挑み、ひたすら凛《りん》とした顔つきで霊剣をふるいつづけてきた魔王サフィアーンが、ふいに渋面を作ります。空気が重い、と感じられたのです。その壁の歌を耳にするやいなや、闇が――ああ、闇が――サフィアーンの精神《こころ》におりてきました。
それまでゆるぎのない闘志《こころざし》につらぬかれてきたサフィアーンの精神《こころ》に、ぬばたまの黒さを具《そな》えた帳《とばり》が。
「な、なんだ? こんなときに――眠い! うおおおお、睡魔が、いまなぜ、あまりにも理不尽に――」
魔王サフィアーンの顔は蒼《あお》ざめ、貝殻骨がガクッと落ちます。上のまぶたが垂れます。垂れて、目を蓋《おお》うように落ちはじめます。一騎討ちのさなかだというのに。ああ、渾身《こんしん》の戦闘《たたかい》のまっさいちゅうだというのに。
しかたがないのです。耳にしてしまったのは、眠りの歌なのですから。
そう、魔性の子守り歌だったのですから。
魔神《ジン》だけがあやつれる搦《から》みの歌。
たしかに、これは霊剣でも斬れませんし、明鏡さながらの刃《やいば》でもってしても弾き飛ばせません。
ということを理解する暇《いとま》もあたえられずに、魔王サフィアーンは睡魔に咬《か》まれて、睡魔に撫《な》でられて――はや陥落寸前! そして陥《お》ちる直前、刹那《せつな》にしてひらめいて諒解《りょうかい》しました。
「これが、新手の、魔術?」それが最後のひとこと。あおむけにのびてしまいました。
笑い声が響いたようです。心臓の轟きのなかに、層《かさ》なって響いたようです。蛇《くちなわ》が獲物をペロリと平らげようとするように、壁がグゥゥゥッと動いて、魔王サフィアーンにのしかかろうとしました。
が、そのとき!
魔王サフィアーンのまぶたは、パチッ、とひらきました。
愕《おどろ》いて、いまだ壁の擬装《かたち》のままである蛇神《へびがみ》は飛び退《の》き、ヒィィィッと息を呑《の》みました。完全に虚を衝《つ》かれて――それだけではありません。どうでしょう、尋常ならざる気配がはるか遠方からこの「放心」をめざして接近しつつあります。接近、いや、正確を期すならば大接近です。あらたな刺客? それも軍団? 判断は一瞬になされました。蛇のジンニーアは――さッと雲のように飛んで――逃避したのです。遁走《とんそう》したのです。ジンニスタンの、どこか、とりあえずの(その場しのぎの)避難所に。
蛇のジンニーアの本体は。
アーダムの精神《こころ》は目覚めました。
「放心」という名の闘技場で起《た》ちあがったのは、アーダムである魔王サフィアーンでした。
覚醒《かくせい》の瞬間《たまゆら》、アーダムはなにかを目撃したのでしょうか? つまり、後退する蛇のジンニーアの影のようなものを、魔王サフィアーンの視野のうちにアーダムの精神《こころ》は認めたでしょうか? まるで。まるで全然、まるっきり。ある意味では、アーダムは腑《ふ》ぬけていました。アーダムは森のものの夢の石室の守護者となって(アーダムの視点から描けば「守護者にさせられて」)足止めを喰らい、どうしても石室から脱出《でら》れないという窮地におちいり、それを確信して以来、ひたすら惰眠をむさぼってばかりの醜態《ありさま》に堕していました。もはや手詰まり、とあきらめて、蛇のジンニーアの術策《わな》に陥ちたおれには永遠に救いはない、と盲信して。虚しさに没んでいたのです。虚無感に。
いまも、ゆり起こされて目覚めて、意識は朧《おぼろ》おぼろと痺《しび》れていました。不鮮明で、だらしのない状態で、どうせ目にするものは森のものの虚夢《そらゆめ》はかり――支離滅裂に乱舞している小煩《こうるさ》い色彩とにおいと味覚の夢幻ども――と決めつけていました。周囲の状況に対して(それは自身の肉身《からだ》をとり巻いている環境です)、たかを括《くく》っていたわけです。だって、アーダムの精神《こころ》は魔王サフィアーンのなかのサフィアーンの精神《こころ》が「内なる竜」とことばを交わして守護者の任務《つとめ》を用ずみにしたこともしらなければ、ついに囚獄《ひとや》であった石室をでてスライマーンの封印を解いたことも、さらにはジンニスタンに降《くだ》ったことも知らず、この一連の経緯のあいだにただ眠りつづけていたのです。
夢をむさぼりつづけていたのです。
ようするに、魔王サフィアーンが森のものの夢の石室の「囚人《とらわれびと》」でなくなってから、これがはじめての目覚めだったのです。
いっさいの展開を知らずに(知らされていない無知の状態で)、アーダムの精神《こころ》は叩《たた》き起こされたのでした。
蛇のジンニーアがサフィアーンの精神《こころ》に眠りの歌をふりかけたために。
魔神《ジン》の子守り歌をそそいだために。
いまだ夢うつつ、意想外のものを見ることを予測していないアーダムの精神《こころ》は、ちるように去る蛇神《へびがみ》の影を、認めませんでした。寝起きのアーダムは腑ぬけでした。そして蛇のジンニーアは遁走《とんずら》こいたのです。それからアーダムが――すこしずつ――あたりを認識しはじめたのです。
自分の置かれている環境を。
「夢が……?」起きたアーダム(の人格《こころ》に支配された魔王サフィアーンの肉身《からだ》)は独りごちました。「……あの煩《わずら》わしい緑の虚夢《そらゆめ》どもが、いない?……いないぞ。いない……」
たちまちカッと眼《まなこ》を刮目《みひら》きました。
「おれは、石室に、いない!」
驚愕《きょうがく》して叫んだのです。
吼《ほ》えたのです。
その咆哮《ほうこう》に呼応するものが、はるか彼方《かなた》よりあらわれました。
この金色《こんじき》の鉱物の大地、回転している闘技場――ジンニスタンの「放心」を一路|指《さ》して。
ついにファラーが追いついたのでした。
そして真摯《しんし》な恋情を謳《うた》いあげる狂恋の若人《わこうど》のように呼ばわります。「サフィアーン!」
アーダムである魔王サフィアーンはその声を聞いたのでした。それから、認めたのでした。彼方から到来する者を――者たちを。濛々《もうもう》たる砂塵《さじん》があがっていました。異界の、ジンニスタンの砂けむりです。ファラーは独りではない。怪異《もののけ》の軍団をしたがえていました。背後に、そして左右――その軍団の布陣された両翼に。飛び跳ねていました。尾や下肢をひき摺《ず》っていました。内臓をさらけだしながら苦悶《くもん》の声をあげて、しかし行軍していました。遠吠《とおぼ》えがありました。悼《いた》みが告げられました。鱗《うろこ》のあるもの、牙《きば》のあるもの、翼のあるもの、骨でしかないもの、泣いている怪物《もの》。
このジンニスタンの傷ついた小物たちが、数千。
ファラーにしたがっていたのです。
壮絶なまでに劇的な光景でした。かつ、なにもかもが魔王サフィアーン(であるアーダムの精神《こころ》)には寝耳に水でした。これほど壮観な場面に、わけもわからず抛《ほう》りだされて。けれども魔王サフィアーンの頭脳は認識しようとしています。アーダムの精神《こころ》、アーダムに固有の記憶が……疼《うず》いています。怪異《もののけ》どもの大軍を率いて登場した人間、たったいま彼方より到来した、おれにむかって何事かを嬉々《きき》として叫んだ人間、あれは……見憶えのある、魔術師ではないか? おれが森のものの夢の石室の守護者にさせられて縛られて、三|桁《けた》の人間どもとの対戦を強いられた連鎖の末尾《しんがり》にあらわれた、白皙《はくせき》の魔術師ではないのか? アーダムである魔王サフィアーンは、もちろん憶えていたのです。その白い人間を。征伐隊との連戦の最後《おしまい》に、その――すさまじい伎倆《わざ》の所有者であった、魔術において才気爆発な――人間と永い、永い、永い攻防を演じて、しまいには戮《ころ》せずに逃したことを。そして、肝腎《かんじん》の森のものの夢の石室の開《あ》かずの扉が、それから閉め切られたままになって、いっさい挑戦者を雪崩《なだ》れこませなかったことを。いちばん終《しま》いの襲撃者――かつ非凡な、最後の対戦相手。忘れられるはずはありません。石室の戸口はその人間《もの》を排除して以来、どんなに念じても動かなかったのですから。どれほど武装した闖入者《ちんにゅうしゃ》の出現を庶幾《こいねが》っても。
だから、アーダムの精神《こころ》は――堕落して――惰眠をむさぼったのですから。
「おまえか……また、おまえか!」
アーダムである魔王サフィアーンは叫びました。
ファラーからの呼びかけに応じて。
他方、ファラーが囁《ささや》きました。囁いて、歌うように自身の背後とそして両翼にそい率《したが》えた半死半生の精霊たちに告げました。「愛おしい捨て石の生物《いきもの》よ」と。声をかけられたジンニスタンの小物たち(その何割かはすでにファラーの絶大な魔力のおこぼれで、どうにか瀕死《ひんし》の状態からは脱していました)は、耳をそばだてました。耳のないものは、魂の聴覚《みみ》で聴きました。「犠牲《いけにえ》として破壊された生物《いきもの》たちよ」とファラーはつづけました。「さあ、いよいよ物見《ものみ》のときだ。戦場を――決戦《たたかい》の舞台を――とり囲むがいい。おれだけがそこにあがる。大地《そこ》に昇る」
こう告げて、ファラーはただ独り前方《まえ》に踏みだしました。
翔《と》びました。魔王サフィアーンのもとに。
回転する「放心」の大地に、滑らかな軌跡を描いて――スッと――乗りました。
同時に、あまたの魑魅魍魎《ちみもうりょう》がいっせいにちらはり、黄金《こがね》色の「放心」をとり巻きました。
まわっている大地を。ジンニスタンの神秘の空間《ステージ》を、円陣を組むように。
観戦のために。見て学ぶために。
決闘《それ》を。
その舞台は見られています。大観衆に。
そして二者は「放心」の上で対峙《たいじ》したのです。
ジンニスタンの第一の闖入者と、第二の闖入者が、対面したのです。それぞれの肉身《からだ》が。いいえ、このかたちでの対面はたしかに二度め。アーダムの精神《こころ》が想い起こして叫んだように、なるほど二度めでございました。いっぽうの拾い子には往古の人類最上の魔術師の精神《こころ》が宿り、それが現代の稀有《けう》の魔術師である、いまいっぽうの拾い子とむかいあっているのです。
たしかに再会でした。
だから、アーダムである魔王サフィアーンはことばを――訊《と》いを――つづけるのです。
「説明しろ」
「説明?」
「おれを石室からだしたのか」
「だした?」
「そうまでして討ち滅ぼしたいか、おれを。そうか、だから謀《はか》ったな? 守護者に利のある森のものの夢の石室ではない場所に、ここに。だろう? そのほうが、おれを死に逐《お》いやれると。つまり――」
魔王サフィアーンがこれ以上はない兇悪《きょうあく》無比な面貌《めんぼう》に変わり、忿怒《ふんぬ》に目をむきます。
「おまえが蛇神《あれ》の刺客か」
「口数が多いやつだなあ」とファラーは嗤《わら》いました。それから消えた心臓音の轟《とどろ》き(蛇のジンニーアの動悸)に言及してなのか、いいます。「いろいろと多忙《とりこみ》ちゅうだったようだ。それに、ずいぶん混乱しているみたいじゃないか。なあ」と、にっこりします。「おれはだれの刺客でもないよ。おれは自分のために、おまえに逢《あ》いに来たんだよ、サフィアーン」
「サフィアーン。また呼んだな」
それが肉身《からだ》の本来の名前だとは気づかずに、アーダムの人格《こころ》は答えます。
「呼びかけると恋《いと》しいよ」とこちらも会話の行《ゆ》きちがいにまるで勘づかないで、ファラーは目を細めます。「おまえのことだって愛おしいんだよ。だから、来たんだよ。おまえと逢瀬《おうせ》に。おまえと再戦するために」
「わかっているわ」
「それならばよかった。再度、対戦させてもらえるな? それとも、混乱しているから、あるいは多忙《とりこみ》ちゅうだから、いやだというかな?」
「おれを平らげたいのなら」と魔王サフィアーンはいいました。「有無などまつな。烏滸《たわけ》め、やってみるがいい」
それから、開戦の合図もなしに、人間と人間とのあいだで最大級に苛烈《かれつ》にして過去にも(きっと未来にも)例のない魔術戦が、一騎討ちとしてはじまりました。
数千の魑魅魍魎が見つめているのでした。金色の「放心」は回転をつづけているのでした。まさに野天の、円形の、法外な巨《おお》きさの闘技場でした。人類の一大決戦の証人は、ただ怪異《もののけ》たち、そして戦場に選ばれた場所はサラセンでもマグレブでもその他のいかなる地上の極北《さいはて》でもない、ジンニスタンでした。異形の(というよりも畸形《きけい》の)時空のジンニスタンでした。
秘儀は瞬時に実行に移されて、魔王サフィアーンの側からもファラーの側からも妖力《ようりき》たち昇り、闇黒《あんこく》の叡智《えいち》と叡智は解き放たれました。奇蹟《きせき》はほとんど無限に増殖するかのようでした。摩訶《まか》ふしぎが鎬《しのぎ》を削り、魑魅魍魎たちは息を呑《の》んで、まるで彼らのための大祭がひらかれているかのようでした。
じっさいには三度めの対戦でした。魔王サフィアーンとファラーの決戦《たたかい》を、アーダム対ファラーのそれと見て数えあげれば。前二回を髣髴《ほうふつ》とさせる一瞬は多々あり(それは幻術の代理戦といった展開《なりゆき》や熾烈《しれつ》な秘法の攻防でしたが)、しかし、水準においては前二回をはるかに凌駕《りょうが》する空前の戦闘《たたかい》がおこなわれました。そして決戦《たたかい》の様相は――ふいに、かつ必然として――次元を変えたのです。両者、いちばん終《しま》いの高みにまで階梯《かいてい》をのぼりつめて、まるっきり次元のちがう領域で闘いはじめ、異様な場面を描きはじめたのです。
ようするに決戦《たたかい》とは、ファラーの術をアーダムの精神《こころ》に統べられた魔王サフィアーンが(禦《ふせ》いで、うけとめて)読み、魔術師としてのファラーを解読する行為でした。その力量を、修得している数々の業と智慧《ちえ》を、秘められた魔力の容量《おおきさ》を。最高度の魔術戦とは、まさにファラーが会得したばかりの秘術を繰りだし、破滅の秘事をぶちまけることだったのです。奇人都市の図書館の、あの麺麭《パン》焼き窯の閲覧室に隠《こも》って吸収した、所有《わがもの》としたばかりの門外不出の妖術を。そして魔王サフィアーンがそれを読みました。
闘いながら、紐解《ひもと》きました。ファラーという文書《もんじょ》を解読したのです。
ファラーを真半分のページでひらいたり、反撃によってページをちぎりとったり、防禦《ぼうぎょ》を誘導することによって端をむしったり。録《しる》されている片言隻語《へんげんせきご》をひろい、一手の攻守で百を読み、二手の攻防で千の文字を走り読んだのです。唱えられる呪文《まじない》は筆蹟《ひっせき》でした。その筆勢、その運筆《うんぴつ》、魔王サフィアーンの目に入る手蹟の一つひとつが記憶を刺戟《しげき》しました。アーダムの記憶を疼かせました。予想もしていなかった感情が、アーダムの精神《こころ》の内部に喚び起こされます。ぎょっとして、うたがいを懐《いだ》き、しだいに動顛《どうてん》をおぼえます。よもや……よもや?
しかし、断定などできない。
魔王サフィアーンの放った術が中空で燦《きら》めいて砂の河を生み、その一部が凝《こ》り固まって黄丹《おうだん》の色彩をした右手となりました。巨大な右手。神秘的な腕さきが宙《そら》に幻出しました。それは五本の指を具《そな》えた怪異、そして人間を読む手でした。人間のページをひらいて魔術的な内奥を繙読《はんどく》する手、盗み読む手でした。その巨きな手が、ファラーに迫り、その読書する手が、いっきにページをぬき読みします。読みながして、前後にもどり、一章、あるいはひと行《くだり》をつかのま精読して、気になる部分は読みかえします。
さらさらさらとファラーが紐解かれます。
ぱらぱらぱらと、綴《と》じられた肉身《からだ》がひらかれて、判読されます。
魔術的な判読でしたが、この「放心」の大地をとり囲んで観戦している怪物たちの目には、たしかにファラーの肉身《からだ》が紙のように薄切りにされて読まれる情景がとらえられました。
縦に薄切りにされた肉身《からだ》が、はらはらはらとめくられて、紙片の集合としてその場に(闘技場の舞台に)幻出するのでした。
その魔法のすばらしい、いや、すさまじい顕現!
そして大奇《ふしぎ》の右手はすっと後退します。
もちろん、ファラーがそれ以上、読ませることをしなかったからです。しっかり、抗していたからです。拮抗《きっこう》しうるだけの魔力を、ファラーが放っていたからです。
ですが、魔王サフィアーンにはこれでじゅうぶんでした。
魔王サフィアーンのなかのアーダムの精神《こころ》には、はや諒解《りょうかい》されていました。
誤読はしませんでした。
誤読はありえませんでした。
ことごとくが、うたがいをおぼえたとおりの筆致にして、内容。アーダムの精神《こころ》は驚愕《きょうがく》します。呪文のなかには人間が発しえない文句があり、人類には知りえるはずのない知識が孕《はら》まれています。それを伝授されたのは(純血の人間としてほ)ただひとり、アーダムだけのはずでした。秘匿された智慧、地上にはあかされるはずのない情報、それに通暁したのは人類としては唯一、アーダムだけのはずでした。ぜったいに、ぜったいに。ああ、そのようなものが――無数。
それは地図でした。闇黒の地図。そしてアーダムだけが歩み慣れたはずの世界の、冥《くら》い図面。
この現実を理解して、決戦《たたかい》は術の応酬から一転、ことばの応酬となります。頡頏《けっこう》した魔力の(それだけが誕生させた)恐ろしい静謐《せいひつ》の時間、ものみな動かない静寂《しじま》の場において。
完璧《かんぺき》な均衡が存在するがゆえに生み落とされている場において。
「読んだな?」ギロッと目をむいて、アーダムである梟猛《きょうもう》な面《おも》ざしの魔王サフィアーンはいいました。「おれの魔法書を、読んだな?」
「おれの?」
その瞬間まで、苛烈な戦闘《たたかい》のただなかにも余裕の莞爾《ほほえみ》のようなものを絶やさなかったファラーが(じっさい、こうして実践している智慧と業は、じじつ千人力にして最強と感じられましたし、まだまだ闘いをつづけられるだけの魔力の余剰《ゆとり》があって「得たりや応《おう》」との思いだったのです)、はじめて表情に翳《かげ》を射しこませました。
ほんのわずか。
「おまえのではない、おれの」と魔王サフィアーンが応じます。
「おれの?」訂正を無視して、ファラーは復誦《ふくしょう》しました。
「どういうことだ、サフィアーン?」
「サフィアーン。サフィアーン。サフィアーン」と魔王サフィアーンは壊れたようにくり返して、「なんだ、それ。もう呼ぶな」
「おまえの所有していた本だったのか? だから――そうか――短期間で、これだけの魔力を?」
「おれの本だ。それを、読んだな」またも会話は行《ゆ》きちがいます。魔王サフィアーンは詰問にこだわって、ファラーに畳みかけます。「おれが署名しなかったからか。あるいは、だから、おまえが奪ったか?」
この奇妙なやりとりに、ファラーの顔面の翳が増します。剣士のサフィアーンが短時日に魔術師と化した背景をつきとめたと思ったのに……おかしい。
「おまえが繰りだす秘術《わざ》は全部おれのものばかり。それとも、おまえは剽窃者《ひょうせっしゃ》か?」
魔王サフィアーンの問いかけに、ファラーはさらに、おかしい、と感じます。おれたちは会話をしているようで……端緒《はな》からしていない?
「剽窃者?」とファラーは復誦します。
「それとも、おまえが書いたと、嘘をいう? 露顕《ばれ》ているぞ、あらゆる筆蹟がおれのものだと、この剽窃者め! ごまかして、とぼけた顔をするな、白い魔術師、この盗作の烏滸《たわけ》め!」
「おまえの筆蹟だと?」
「看《み》てとれぬとも思ったか?」
「おまえが……筆記者だと?」
「あたりまえだ。おれが筆記者。おれが記述者。ほかにだれがいる? これだけの妖術の蘊奥《うんのう》を人類でありながら獲《え》た人間、悪魔でもないただの人間が? この地上世界の、この歴史のどこに? いるのならば答えるがいい。答えてみるがいい。どうだ? いないだろう? いるはずもない!」
この訊問《じんもん》めいた台詞《ことば》のあとに、ファラーは要求されたものとはまるでちがう、一つの訊《と》いを魔王サフィアーンに投げかけました。
「おまえはだれだ?」
「アーダム」
なにごとかをファラーは分別《ふんべつ》しましたが、いったい、なにごとが氷解されたのか、自覚はされませんでした。そのためには須臾《しゅゆ》ではあってもいますこしの時間を要しました。だから、つづいた「放心」上の場面で、ファラーは蒙《もう》を啓《ひら》かれないままにアーダムと名告《なの》った魔王サフィアーンに訊《き》きました。
「おまえは……著者か?」
「おれが著者だ」
「おまえがおれを書いたのか?」
その返事はまるで魔王サフィアーンの予期していないもので、そのために魔王サフィアーンであるアーダムの精神《こころ》を瞬間の渾沌《こんとん》におとしいれました。
「おまえ……おまえがおれに書かれた?」
「わからないのか?」
「なにを?」
「おれが魔法書だ」
「あの?」
「おまえの。おまえ――アーダム――おまえが書いたという、あの一冊が、おれだ」
著者とその書物が一千年の時間《とき》を隔てて、なお、邂逅《かいこう》した舞台がこのジンニスタンの魑魅魍魎《ちみもうりょう》たちが見つめる「放心」上なのでした。
回転する金色《こんじき》の大地なのでした。
「おまえが著作《あれ》かどうかは」とアーダムである魔王サフィアーンはぶるぶると顔じゅう――額や頬や口もとの筋肉を顫《ふる》わせながら、劇《はげ》しい眩暈《めまい》のなかでいいました。「おまえを読み切るまでは、おまえを読み了《お》えるまでは、いっさい、いっさい、いっさい――」
狼狽《ろうばい》というよりも精神的な混濁、認識のあらゆる側面における途方もない錯雑によって(すなわち石は獅子《しし》なのかもしれず、猿の啼《な》き声は葡萄酒《ぶどうしゅ》なのかもしれず、夜はアラビア馬で、少女の髪の毛は緑野《オアシス》の日照り、猫はウードの旋律なのかもしれない)アーダムの精神《こころ》はファラーにいいます。いいかけて、途切れ、口角|泡《あわ》を飛ばすかのような勢いで、ただちに魔王サフィアーンは攻めに移りました。
魔力の均衡を崩しにかかったのです。
ファラーがみずから著わした魔法書である、という、この論理を受け容れられないために、あるいは、その事実をたしかめるために、魔術戦は再開されました。
ファラーの術をあらんかぎり読みにかかったのです。アーダムである魔王サフィアーンは、一冊の書物であるファラーのすべてのページを紐解きにかかったのです。
応酬によって。
秘術と秘事の攻防によって。
あるときは幻出させた神秘の右手によって読み、あるときは目で筆致を読み、あるときほ耳で、鼻で、皮膚《はだ》で、舌で――筆蹟《ひっせき》を聴きとって。嗅《か》ぎとって。撫《な》でてたしかめて、あじわって確認して。
魔王サフィアーンのなかのアーダムの精神《こころ》は、先刻、つまり「おまえを読了するまではいっさい、認められない。おまえが著作《あれ》かどうかの判断は保留する」と告げようとしたのでした。
妖術《ようじゅつ》の奥義が駆使された攻守が、ジンニスタンの「放心」の穹《そら》を七彩にいろどり、轟音《ごうおん》によって謡《うた》い、観衆の魑魅魍魎たちを感嘆させる永い時間、その(いうなれば)開巻|劈頭《へきとう》でした。ファラーの内部にすでに分別された道理が浮上したのは。その意識の、表層に。おのれが闘っている相手がサフィアーンの肉身《からだ》をもちながらもサフィアーンではない現実、あろうことか魔法書の著者であると名告《なの》り、たぶん、それは真実の素姓であろう感触《てごたえ》。だとすれば、おれはまちがっていた? おれは……ずっと……まちがっていた? サフィアーンは何者かに憑《つ》かれ(いいや、何者かではない、それは不眠《ねむらず》の迷宮王、アーダムだ、おれが何年ものあいだ、何年にもおよんだ遍歴のあいだ、いつだって魔力において肩をならべたいと希《ねが》っていた人間でありながら人間を超えた魔術師、アーダムだ)、そして森のものの夢の石室にいた。あの石室でおれが対戦し、おれに敗走を強いた守護者である魔人は、ならば……サフィアーンではなかった? おれはアーダムと闘っただけなのか?
つまり、人類の歴史において、より正確には記録されていない人類の歴史において、前人未到の階梯《かいてい》にのぼったとつたえられている、もっとも忌まわしい妖術師と。
蛇のジンニーアと契約《ちぎり》をむすぶことによって、その域に到達し、おれもまた蛇のジンニーアと契約《ちぎり》をむすぶことによって、その域に到達したいと切望した、その――憧《あこが》れもしたし、うらやみもした――当人と。
いちどはミイラの肉身《からだ》を往生させて、お陀仏《だぶつ》にしたとおれが能天気にも思いこんでいた、それ。
それ、アーダム。
だが、アーダムは亡びず……ともに往生したはずの(玄宮の室《むろ》で)剣豪の肉体、サフィアーンの肉身《からだ》にとり憑いて……ああ、そうか。そうか。そうなのか。
森のものの夢の石室で、あの場面《とき》、おれはサフィアーンに敗《やぶ》れたのではなかった。
敗北して当然の相手《もの》に挑んで、敗れた。
それ、アーダム。
いま、また邂逅《かいこう》した。再戦なのだ。それどころか、三戦めなのだ。しかし、いまは――生きている魔術師と往古の亡霊《ぼうれい》のような魔術師として対戦しているのではない。おれは著者に邂《あ》っている。宿命《さだめ》として読んだ一冊の魔法書の、著者に。そして、おれはその魔法書だ。
ならば――ならば?
アーダムの精神《こころ》をもった魔王サフィアーンが、ファラーを読みます。
読みつづけます。
一見、互角がわかりきった魔術戦でした。ファラーは魔法書の内容を完全に修め、アーダムは魔法書におのれの会得していた最高の秘術をあまさず、記述していたのですから。だから、互角であるべきでした。
それでも――わたしは問います――著者とその作品は、書物は、どちらが勝つのでしょうか?
アーダムの精神《こころ》をもった魔王サフィアーンが、ファラーを読み切ろうと、きっちり閲読しようと、趨《はし》ります。驟《はし》ります。たしかに、すでに確信していたように、随所にあるのはおのれの筆蹟。ファラーという一冊のあらゆる箇所に、不可視の署名として看取できるのはアーダムの署名、おのれの署名。
剽窃《ひょうせつ》ではない、これはおれの書物。
贋作《がんさく》ではない、これはおれの著作。
おれが手ずから筆を執った、あの大著。ああ、あの一行一行、一章一章。おれの註釈《ちゅうしゃく》。おれの推敲《すいこう》。
この白い魔術師は、たしかに、おお、おお、おれの著書。
おれのいっさいを孕《はら》んでいる。
認めたのでした。アーダムの精神《こころ》は、ほとんど認めたのでした。アーダムの精神《こころ》を有している魔王サフィアーンは、すでに百草の内容《それ》を読んで、呑《の》みこむしかなかった。理会してしまったのです。それでも戦闘《たたかい》をやめずに攻防をつづけていました。魔術的な攻守を。そして永い決戦《たたかい》の終局、魔王サフィアーンはのこされていた章も読みました。最後の一章を読んで、それから、またページをめくりました。
つぎの章はありませんでした。
もうページほのこされていませんでした。
すべては終局、書物は――その内容において――幕切れだったのです。
愕然《がくぜん》として、アーダムである魔王サフィアーンは咒《かしり》を発するための行為を停め、呪文《まじない》を停め、あらゆる動作を停止させて、下顎《したあご》をガクッと落とします。
茫然《ぼうぜん》自失として、みずからの著書であるファラーを見て、つぶやきます。
「もうページはない。おれは終わった」
それが敗北の宣言でした。
その一瞬、ファラーは生きている一冊として、書物がついに作者の手を離れたことを識りました。
どのようにでも攻撃可能な高みに、ファラーはいました。
優位に立っているのは、書いた人間《もの》ではない、書かれた人間《もの》だったのです。
「おれはすべての、おれの、おれの魔法を読んだ。おれは、だから、空虚《うつろ》になった。おまえの内容は満ちているというのに。だから、おれは敗れる」
魔王サフィアーンがいいました。アーダムが。
それを書物は聞いていました。
「白い魔術師よ、書物よ、おまえは勝った。しかし、これは夢か? おれは眠る」
魔王サフィアーンは、膝《ひざ》を折りました。
ガタガタッと肉身《からだ》は落ち、頽《くずお》れて、回転する「放心」の大地にそれは横たわりました。
勝利を理解したのはファラー、決闘の証人となるように勝敗を目撃したのは数千の魑魅魍魎《ちみもうりょう》、そして黄金《こがね》色の大地はまわっていました。
結末の空間《ステージ》は。
アーダムの人格《こころ》は眠り、やがて夢見ます。ほとんど、たちまちのうちに。やがて他方の人格《こころ》が目覚めます。
ギュッと霊剣を握りしめて、いまにも構えて立とうとする、それがサフィアーンでした。
魔王サフィアIソの肉身《からだ》を具《そな》えた、純然たるサフィアーンの精神《こころ》でした。
「はっ! しまった、眠らされたのか!」
開口一番、魔王サフィアーンはそういいました。そして蛇神《へぴがみ》の壁を見いだそうとしました。たち塞《ふさ》いだ巨大な壁を正面に見いだして、幻術を回避しつつ、襲いかからなければと肝に銘じていました。まるっきり無意識に。ひたすら剣士の本能によって。しかし、壁はいずこに? 蛇神《へびがみ》はいずこに?
いません。
いないのです。
魔王サフィアーンのなかのサフィアーンが認めたのは、蛇神《へびがみ》の不在でした。
代わりに認めたのが、ファラーの存在でした。
この回転の人地に(ジンニスタンの「放心」に)、おなじように立って、正面から自分を見つめている――
「ファラーさん?」を魔王サフィアーンはきょとんとしていいました。「あなたは相方の、ファラーさん? 魔術師の、天晴《あっぱれ》な魔術師の。え? え? え? ですよね? ファラーさんですよね? うわああああ、愕《おどろ》いちゃうなあ、驚倒しちゃいます。やっと邂逅《めぐり》あえるなんて! ファラーさんもやっぱり、魔王アーダムに詛《のろ》われて、ここに? たいへんだったでしょう。時空の辺境ばっかりで、ぼくなんて囚人《めしうど》の運命に何度も何度も咬《か》みつかれちゃって。ああ、でも、うれしいなあ」
魔王サフィアーンはいいました。
ほんとうに、天真|爛漫《らんまん》に、いきなり眼前に認めたファラーの姿に喜んで、いいました。
「ずっと心配していたんです。こっちも、しょっちゅう、睡眠《ねむり》に就いて目覚めると異界に飛ばされているような状態《ありさま》で。いや、説明はむずかしいですけどね。もっと複雑にこみ入っていて。でも、ファラーさんはぶじだった! ああ、それがなによりです。また会えてよかった!」
そう魔王サフィアーンはいったのです。ひたすら無垢《むく》の目《まな》ざしをむけて。
ファラーにむけて。
見つめられた者の魂の内部《なか》になにかが芽生えて、見つめられた者の頭脳はこのわずかの説明の隻語《ことば》のうちに展開《なりゆき》のもっとも肝要な部分を見いだして。十二分に推測して、理解して。
そして、眠るアーダムの代わりに目覚めた者に、柔らかい陽射しのような声音で、いったのでした。
「おはよう、サフィアーン」
[#改ページ]
※[#底本では「ファーティマの手」と呼ばれる魔よけの護符の図]
それから払暁をむかえる。浅い黄味がかった赤の色彩《いろ》が空を染めている。そう、すでに陽《ひ》は射している。イスラームの「|世界の母《ウンム・アルドンヤー》」である都カイロに、尖塔《ミナレット》が林立している市街に、ナイル河の畔《ほとり》にひろがり、夜明けの礼拝を呼びかける告時係《ムアッジン》たちの朗唱《アザーン》が響いている都市《まち》に。
現実の世界に――ナイル河畔に――陽は射している。
この夜明けまで、フランスの三万余の軍勢は黙然と方陣行軍をつづけていた。戦争のための機械のユニットとして、非人間的にすすんだ。結末《おしまい》にむかって進軍していたのだった。あきらかに最終決戦をめざして。そう、あの「ピラミッド会戦」をめざして。
歴史は動いている。
二十八歳の将軍《パシャ》が超然と君臨して指揮している。
そしてこれはタウラ(バックギャモン。西洋双六)ではない。二つの賽子《さいころ》はまわらない。偶然はほとんど当てにならない(し当てにしてはならない)。むしろ必然的に頭脳が勝利する。圧倒的に。
フランス軍の行進はだれにも阻まれず、それから東雲《しののめ》、ナイル河畔は東の空に光を冠した。淡い、散乱するような、赤や黄色の。フランス側にあって、最前線に置かれてすすんでいる将卒たちは目撃した。ジッブリシュ村での会戦以来となる、マムルーク騎兵隊の姿を。
東洋《オリエント》の敵勢を。
一千騎が列を作り、静かに、静かにこちらを望んでいる。
砂漠のはてに一千騎がいる。
それがエジプト軍の前哨隊《ぜんしょうたい》だった。そのむこうにインバーバの集落がある。徴兵適齢のカイロ市民がのこらず集結《つど》っているという、野営の陣地が。無数の天幕がはられて、およそ六万人の防衛軍が――ここにムラード・ベイが主力の軍人たちをあまさず投入していた――まち構えているという、決戦場が。
太陽は東から西に走る。何者もその進行をとめられない。
しかしカイロは物語を服《の》んでいた。
ことばの奔流があった。譚《かた》りのことばの、物語ることばの烈《はげ》しい勢いが、ほとばしりが。ほんとうに夜は明けたのだろうか? 永い暗闇に鎖《とざ》されているのではないか? たしかに、黒い夜はまだそこを満たしていた。市内全域かどうかはわからない。それでも、屋敷の内部《なか》はたしかに夜だった。
まだ闇がつづいていた。
ズームルッドの深い声だけがそこに充ちていた。
隅ずみまで充満していた。だから、朝陽《あさひ》は射さなかった。たとえ世界に(ナイル河畔の決戦場に)太陽が昇っても、夜明けが午《ひる》にむかって進んでも、屋敷の内部《なか》はいまだに――夜。
夜のなかの夜の声に満たされた夜。
日輪とは無縁にカイロの夜はつづいた。
払暁は訪れず、ズームルッドの密《みつ》の舌は譚っていた。
まるで――ほんとうに――戦力とならない婦女子や老人たち以外はあらかた無人となってしまったカイロの都市《まち》を護るように。守護者のように、ズームルッドの賓の舌は譚りを歇《や》めなかった。
消歇《や》めるときではなかったから。
「あとは後日談ばかりです」とズームルッドはいった。「サフィアーンはどうしたでしょうか? つまり、魔王サフィアーンのなかの純然たるサフィアーンは? もちろん、目的としている任務《つとめ》を遂行するために邁進《まいしん》しました。つまり、蛇のジンニーアの処罰《おしおき》です。征伐のために、サフィアーンは当然のように再会したファラーにいいました。『ぼくは蛇神《へびがみ》を斃《たお》さなければならないんです』と。
『なら、ここに喚《よ》ぼう』
『喚ぶ?』
『ああ、おれの術でな。そしておまえが、その使命を達成すればいい。おれも力を協《あわ》せよう』
瞬時に、ファラーの空前にして絶後の魔力が、容易に蛇のジンニーアを『放心』上に召喚しました。呪文《まじない》によって出頭を命じたのです。むろん、蛇のジンニーアは轟《ゴウ》ッという悲鳴をあげて抵抗しましたが、避難所からひきずりだされるのは(ちなみにその避難所は、ジンニスタン内で『落胆』と呼ばれている土地でした)、抗《あらが》いがたい運命《さだめ》でした。
逃げだした黄金《こがね》色の大地に蛇のジンニーアが喚びだされて還ったとき、その本体は依然として、魔力によって変容しつづける巨大な壁状の存在《もの》に擬装していました。実体を露骨《あからさま》にしないことで、魔王サフィアーンの恐ろしい撃剣から逃れようとしていたのです。無意味に弄《ろう》された策でした。いまは、魔王サフィアーンの側にはファラーがついていたのです。純血の人間でありながら精霊の眷族《けんぞく》に匹敵するだけの魔力を有《も》ち、それどころか、おおかたの魔神《ジン》を驚愕《きょうがく》させるに足りるだけの秘法と智慧《ちえ》を修得した、空前絶後の魔術師が。
蛇のジンニーアの幻術《まやかし》は、やぶれます。
姿をあらわした実体は、なるほど巨大さは擬装そのままの、しかし想像を絶する――というよりも想像力の無礼講のような!――生物《いきもの》でした。
生物《いきもの》? そうではないのかもしれません。だって、それは、地上の言語の範疇《はんちゅう》を超えています。見たところは確たる蛇でございました。どのような蛇? おそらくは一千の一千倍の怪蛇《くちなわ》です。それぞれが相手の尾を咬《か》んで、あるいは蛇身をからめて、グニュッとうねり、融けるようにムニュッとつながり、誕生するのが巨大な環でした。一千の二千倍の双《ふた》つの毒牙《どくが》、一千の二千倍のさらに数千倍には達する鱗《うろこ》の煌《きら》めき、おお、それは――蛭《ひる》のように蛆《うじ》のようにジンニスタンの蒼穹《おおぞら》を背景にして伸縮し、這い、立つ、怪妖《かいよう》の巨蛇でありました。
それじたいが回転する環のような、蛇族の魔神《ジン》のなかの女王、生物《いきもの》を超えた生物《いきもの》でした。
深淵《しんえん》の支配者でした。
だが、その支配者もむきだしになり(まるで敬虔《けいけん》なムスリムの女性《おなご》が素顔をさらすようなもの、いな、一糸まとわぬ全裸をさらすも同然だったのです)、魔王サフィアーンと、そしてファラーの目前に、あらゆる弱点をそのまま露出しました。生物《いきもの》ならざるおおいなる円環の蛇腹を。
『ご無体な、ご無体な』と化粧した声が哀願しました。まるで脂肪が内臓《はらわた》から発したかのような響さで、なおかつ、一つの声が同時に無数の口でしゃべっていました。『ああ、殺生《せっしょう》たまりません!』と怪蛇《くちなわ》の環の声は顫《ふる》えました。そのとき、たしかに蛇のジンニーアの本体の目はファラーを認めました。その目は(といっても数は計りしれませんし、全部で一つの目なのか、全部がべつべつの目なのかも不明ですが)みずからを召しだした魔術師を確認して、驚愕し、そして嘶《いなな》いたのです。『助けて!』
ファラーを認めて、ファラーにすがって。なぜって、蛇のジンニーアの知性はファラーを識っていましたし、なにしろ地上の王宮で――憑代《よりしろ》を通して――何度も同衾《ともね》していたほどですから。
『意味がないな』
これがファラーの返事でした。
まるっきり一蹴《いっしゅう》していました。
『もう、蛇神《おまえ》には意味がない。さあ、サフィアーン、討つならば討ち、殺《や》るならば殺れ』
『はい、ファラーさん!』
容赦など皆無。ジンニスタンに破滅の秋《とき》をもたらした第一の闖入者《ちんにゅうしゃ》にして、竜的肉体のもちぬしである魔王サフィアーンは、電光石火、踏みこみました!
ふところに(おお、それはなんと巨大なふところでしょう)飛びこみ、霊剣の刃《やいば》で――天下無類の剣術で――斬りかかったのです。それだけではありません。ファラーが掩護《えんご》していました。魔王サフィアーンのこの霊剣のひと太刀に、刹那《せつな》の妖術《ようじゅつ》、ふり複《かさ》ねて無敵の妖力《ちから》をさずけます。附与したのです。それは七彩に燦《きら》めいている太刀であり、太刀すじでした。『あれえ』と蛇のジンニーアの本体が人声《じんせい》めいた絶叫をあげる暇《いとま》もあらばこそ、まず蛇腹が割《さ》かれました。一千の一千倍の連なりでもある蛇腹が劈《つんざ》かれて、みごとに剖《さ》かれます。およそ天から地まで直線を描いて賁《はし》るように、刃《は》さきは奔《はし》りました。
おお、奔走《はし》ったのです。
怪蛇《くちなわ》の環が、その斬り口からボロリ、バラリッと、ほどけます。
環がねじれるように回転し、崩れます。
崩潰《ほうかい》でした。
蛇のジンニーアの崩潰でした。
一匹の怪蛇《くちなわ》が『破滅だ! 破滅だ!』と号《さけ》んで仲間の(いいえ、それは小指にとっての中指のようなもの、一本の手の部分であることには変わりありません)尾を放しました。みなが、離れはじめました。すべてが、崩れはじめました。それが蛇のジンニーアの本体の末期《まつご》。終焉《しゅうえん》でした。あるいは終焉のはじまりの一瞬でした。一瞬《ひとまたたき》の場面――裂かれて、ちりぢりにされて、攪《みだ》れて。上半身から切り離された下半身がそれだけでは生きていけないように、胴体から切り離された頭部《あたま》がもはや口をきけないように、死が迫ります。崩れたものは生命《いのち》をうしない、いっさいの部分が屍《かばね》となり、そう――
斃れるのです。
一瞬。そのつぎの瞬間には。
もはや回転するものは、魔王サフィアーンとファラーを載せた『放心』の大地のみ。
ただ、ふりそそいでいる怪蛇《くちなわ》の屍骸《しがい》があるばかり。
慈雨よりも豊饒《ほうじょう》で、きらびやかな光景を、いま魔王サフィアーンとファラーは見ます。そして魔王サフィアーンのなかのサフィアーンの精神《こころ》が歓声をあげるのです。その心中で。竜さん! と。
竜さん、見えますか! いま、蛇神《へびがみ》はきっちり処罰《おしおき》されました。
いま、成敗したのです。竜さん!
たしかに純然たるサフィアーンの精神《こころ》は『内なる竜』との約束を果たしました。サフィアーンは――ここに――アッラーに誓った天命を果たしたのです。
その任務《つとめ》を達成したのです」
ボナパルトが報告を受けて前線にでる。
マムルークの前哨隊《ぜんしょうたい》が確認されたとの報《し》らせから時間《とき》を移さずに、騎乗の人物となって、みずから望遠鏡で確認した。ただちに認めた。一千騎のマムルーク騎兵隊の列ではない。その背景にあるもの。この午前の陽光《あかり》のなかで、敵陣は望まれた。ほんの二、三キロ前方《さき》? インバーバ村に構えられた大野営陣地は、たしかにあった。
色彩《いろ》とりどりの幕舎。十字軍時代さながら旗指物と黄金の新月旗。
塹壕《ざんごう》線らしきものも看《み》てとれた。
四十門ばかりの火砲もある。
歩兵は数万。
あらゆる布陣をボナパルトは見とどけた。じゅうぶんな時間をかけて、しかし、ほとんど一瞥《いちべつ》で。
ナイル西岸の、砂漠の布陣を。
エジプト防衛軍の。
それから、ただちに麾下《きか》の全軍に戦闘準備に移るよう指示を発した。
将軍《パシャ》ボナパルトの判断にもとづいて、フランス軍側の布陣が開始される。
また太陽が束から西へ。
「後日談です」とズームルッドは拾い子のいっぽう、サフィアーンの使命の達成を譚《かた》ったのちに、挿話のつぎの段階に移った。まだファラーについて譚るわけではなかった。その以前《まえ》にふれるべき主人公がいた。敗北を認めて夢路に就いている、魔王サフィアーンの肉身《からだ》のなかの、第一の主人公が。「アーダムはどうしたでしょうか? 魔王サフィアーンのなかで夢見ていた、アーダムの人格《こころ》は? 蛇のジンニーアの本体が崩れて――崩潰して――破滅への道を疾走している場面で、たしかにアーダムは寝ていました。
アーダムが寝ている魔王サフィアーンの肉身《からだ》のかたわらに、ファラーが立っていました。
ファラーは推し量って十全に(ほぼ完璧《かんぺき》に)理解していました。このサフィアーンの内部《なか》に、とり憑《つ》いているアーダムの魂がある――と。それは眠っている。亡んではいない。
たぶん、サフィアーンが目覚めているあいだは、表面《おもて》にはでない。
そして逆もまた真だろう。
ファラーはつづけて惟《おも》います。眼前に怪蛇《くちなわ》の死の降雨を見ながら。
旧《ふる》いものたちの歴史は終わった。
蛇のジンニーアが滅《き》えたのなら、つぎに消滅するべきなのは必然、アーダムだろう。
不眠《ねむらず》の迷宮王、アーダムだろう。ならば、これを眠らせよう、永久《とわ》に。
『サフィアーン』とかたわらの剣士にいいました。
『はい?』と魔王サフィアーンはふりむきました。
『眠れ』
ファラーは囁《ささや》き、その刹那に、魔術は放たれてサフィアーンの精神《こころ》は眠りに落ちました。浅い夢境に陥《お》ちました。もちろん、瞬時に目覚める存在《もの》がありました。魔王サフィアーンの内部で、その肉身《からだ》の主人として。
『そして』とファラーはいったのです。『起きろ、アーダム』
はっきりとした声で、命じたのです。
魔王サフィアーンが(その肉身《からだ》が)グリッと目をむきます。グリグリッと、その眼《まなこ》を前方と左右、上下に動かして、覚醒《かくせい》した現在《いま》を確認しようとします。ですが、そのとき早くそのとき遅く、ファラーの声がアーダムの精神《しころ》に告げたのでした。
『見ろ』
なにを?
もちろん、この『放心』の空間《ステージ》に展開している、きらびやかな現象《それ》、豊饒な印象にあふれた情景、すなわち怪蛇《くちなわ》の死の降雨を。
誘導されて、魔王サフィアーンは顔を動かしました。
視線を動かして、視線で捕捉《つか》まえました。
『うう……』と唸《うな》り、むおう、むおう、むおう、と言語《ことば》にならない震え声に喉《のど》と胸もとを膨らませて、へこませました。
あれは、あれは、あれは、といっているのでした。
『見ろ』ファラーがくり返します。『夢などではない。現実《うつつ》だ。幻想ではない、たしかな事実だ。わかるな? 目覚めたアーダム、かつては不眠《ねむらず》の大王《スルターン》だったアーダムよ、アーダムよ、確信できるな? 目にしている情景を。斃《たお》されて散る存在《もの》を。そう、あれは蛇神《へびがみ》。あれは亡びる蛇神《へびがみ》だ』
『……蛇……おれの……ジンニーア……女魔神《ジンニーア》!』
アーダムの精神《こころ》が叫びました。ことばとして。
魔王サフィアーンは絶叫していました。
討たれた残骸《もの》を見ながら。
『蛇神《へびがみ》の歴史は終わり』とファラーは壮絶なる視線《まなざし》で眼前の光景の一部始終を噛《か》みわけている魔王サフィアーンに、アーダムである魔王サフィアーンにいいました。『おまえの歴史が終わった。アーダム』
現実を呑《の》みこんでいるアーダムの精神《こころ》が狂ったように復誦《ふくしょう》します。
『終わった。終わった。終わった』
痴人《しれびと》のように、おお、あらゆる悖乱《はいらん》の奇行者のあいだに王として君臨する奇人の大王《スルターン》のように。
『そう』とファラーは告げました。『終わったのだ。蛇伸《へぴがみ》は死んだ。いま、死ぬ。おまえが斃した』
つけ加えた一語。それは直感によって口にされて、だからこそ絶対的に必要なのだとファラーに感得されました。
魔術師にとって直感は(いわずもがな)、予言とも透視とも同義語です。
『おれが……斃した』啓示に撃たれた痺《しび》れ声があがります。
『おまえの肉身《からだ》が』
そこには嘘はない。いっさい、空事《そらごと》は孕《はら》まれていませんでした。その虚偽のなさは語感のみならず、霊感同様のオーラの感触《てざわり》としてもアーダムの精神《こころ》につたわりました。
『おれが……亡ぼした?』
ファラーが説き聞かせようとした内容《こと》は、じわり、じわりと滲透《しんとう》しました。魔王サフィアーンに。魔王サフィアーンのなかのアーダムの精神《こころ》に。寝起きのアーダムの精神《こころ》に、そうです、はっきりつたえられたのです。
滲《し》みたのです。
『おれが……蛇神《へびがみ》を……討った……』
魔王サフィアーンの表情が変化しました。そもそもアーダムの人格《こころ》が支配的になるや目を瞋《いか》らせて極悪非道の面ざしになるのがつねですが、その悪しき顔つきが変わります。柔らかいものが、すーッと、浮かんだのです。柔和なもの、浅い含笑《えみ》のようなものでした。感情でいうならば歓喜、さらに精確に形容するならば満悦が宿って、いつもであれば醜悪に見えたであろう笑い顔が、むしろ静謐《せいひつ》をたたえていました。
なにごとかをなし遂げた者の、その一期《いちご》の場面にのみ浮上する類《たぐ》いの、それは美醜の基準を超えた表情でした。静かで、かつ十二分に語りつづける、無言《しじま》にして多弁の含笑《えみ》でした。
『だから』ファラーが告げました。『おまえは眠れ。アーダム。満たされて。一千年の情念《おもい》のすべてを成就させて。アーダム、蛇神《へげがみ》の歴史は終わり、おまえの歴史は終わった。眠れ。永遠に瞑《ねむ》れ』
そのファラーの声もまた、アーダムの精神《こころ》に滲透しました。
その指示も。
助言のような命《めい》も。
導かれて、アーダムの精神《こころ》は眠ります。
蛇のジンニーアの消滅を目撃して、いいえ、目撃しながら――みずからも消滅の途《と》に。
それが最後のアーダムの睡眠《ねむり》でした。
アーダムは永久《とわ》に目覚めず、以来、魔王サフィアーンのなかでサフィアーンの人格《こころ》が眠りについても、それは同様でした。
満たされた者は、もはや餓《う》えはしなかったのです」
フランス軍がエジプト防衛軍を見るように、マムルークの騎馬部隊の側も敵軍を見ていた。
両軍が動きだしていた。
マムルークたちは横列の戦闘隊形をとっている。
指揮官はもはやフランス軍の実力をあなどってはいない。もちろん、エジプト防衛軍を総大将として率いているのはムラード・ベイだった。エジプト内閣の暫定首位、武闘派のなかの武闘派、文盲の大人《アミール》。ジッブリシュ村での会戦でのあの屈辱的な潰走《かいそう》にもかかわらず(ああ、それが完敗であったのは明白なのに)、いまだに第一位の知事《ベイ》として全軍の頂点に立っていた。権力は維持されていた。決定的に敗れないかぎりは、彼の代わりとなる人物《もの》はエジプト内閣にはいない。
なぜならば、現下、エジプトがむかえているのは軍事的危機だったのだから。
ジッブリシュで惨敗を喫して以来、ムラード・ベイは怯《ひる》んだか? 自覚されない内面には、怖《お》じて気後れする部分もあっただろう。それはぜったいにあっただろう。しかし、意識の表層での反応はまるでちがう――衝撃はあったが、むしろ憤りを喚び起こしただけだった。ムラード・ベイが地上最強と信じるマムルークの騎馬部隊の、その主戦力は首府のカイロに、待機するように市外に多数とどまっていたし、だから危ぶまずにいた。フランス軍を食い止められると迷わずに狂信していた。その実力をもはやあなどってはいないが、およそ戦力となるカイロの住人たち(成人男子。カイロに隣接する村々の農夫も駆りだされたという)を大半戦場に移動させて、総動員させた防衛態勢が、有効に機能しないとは想像だにしない。
つまり勝機はある。
そして――こんどこそ、この会戦でこそ――雌雄を決するのだ。
あのフランク族のみすぼらしい軍隊を、そしてフランク族の王を、われらの美《うる》わしいアラビア馬のひづめで蹴散《けち》らすのだ。
ムラード・ベイは執念にとり憑《つ》かれていた。
憑かれた男がエジプト防衛軍を率いていた。
午前九時。
「ファラーは?」夜そのものの屋敷の内部《なか》で、ズームルットは後日談をつづけている。深い声で、闇に充ちる声で。譚《かた》りをやめないズームルッドの面《おもて》からは輝きがほとばしっていたが、それは燻《くすぶる》る濡烏《ぬれがらす》、浄《きよ》らかな夜に所属していた。「すでに決着を迎えていた主人公、まっさきに結末《おしまい》を見た魔術師の、その後は?
まずは拾い子たちの訣《わか》れから描きましょう。
アーダムが魔王サフィアーンの内部《なか》で永眠し、当然のように直後、サフィアーンの人格《こころ》が目覚めました。魔王サフィアーンはついに純粋《ただ》のサフィアーンになりました。覚醒の瞬間に『あれ?』とサフィアーンはいいましたが、もちろん記憶が飛んでいたような感触をおぼえたからで、なにやらファラーから『眠れ』と告げられたような気もします。
『あれ? 眠ったのかしら?』
『いいや』とファラーが答えました。
『寝てないですか?』
『すこし癒《いや》しただけだ。おれの業《わざ》で。ほら、おまえが成敗した蛇神《へぴがみ》の最後の一片が――怪蛇《くちなわ》の一匹が――崩潰《ほうかい》して前方《まえ》にふる。いま、そこで、すべてが畢《おわ》る。おれたちが見ているまえで』
そのとおりでした。サフィアーンは目撃しました。もういちど、使命の達成を感得しました。
感動にうち震えているサフィアーンのかたわらで、ファラーがたずねます。
『サフィアーン』
『はい?』
『ここがどこか、わかっているか?』
『いやあ、じつは。ほとんど全然。ジンニスタンなのは知っていますが、どうやって地上のゾハルに還ったらいいのか』
『ならば、送ろう』
途端に術は放たれていました。ファラーとサフィアーンは、ともに翔《と》んでいました。おそろしい疾《はや》さです。魔法を知らないサフィアーンの精神《こころ》と肉身《からだ》にとっては(いまでは肉身《からだ》もそれを知らないのです。ああ、とうとう絶対的に!)ほとんど瞬時に、遥《はる》けき場所に送りとどけられた感じでした。モーリタニアと絶東《シーニー》ほども遠い距《ヘだ》たりが、稀代《きたい》の妖術《ようじゅつ》によって躍りあがって越えられたかのよう。飛翔《ひしょう》めいた移動のさなかにサフィアーンはその眼下、蛇の沼を、火の河を、アル・ヒジャズのごとき砂漠地帯とその蜃気楼《しんきろう》を、峻厳《しゅんげん》な山脈《やまなみ》を、玻璃《はり》の海を目にして、かつ、越えたのでした。
陶酔のような感覚におぼれる隙《ひま》もなしに、サフィアーンは(もちろんファラーとともに)頭上に空洞をのぞいている場所に立っていました。そうです、真上に竪穴《たてあな》があるのです。まるで深い井戸の奥底から、水棲《すいせい》動物の目となって外界にひらいた唯一の窓を見あげているようです。
ジンニスタンの二名の闖入者《ちんにゅうしゃ》は、その入り口にして唯一の出口についたのでした。
封鎖されている戸口《とばくち》に。
ファラーがみずからの尋常ならざる魔力で封印を捺《お》した、あの竪穴の真下に。
『うわあ、なんですか?』とサフィアーンは感嘆ともおののきともつかない声音でいいました。
『ここがどこなのか、ということだ』とファラーは答えました。『ここは深淵《ふかみ》だ。大地のはるか下方の世界だ。だが、真上を見ろ、サフィアーン。あの竪穴をおしまいまで昇れば、おまえは迷宮の底にでる。おれたちが魔王アーダムと闘った玄室にもいずれ通じる、古代|遺蹟《いせき》のほんとうの最下層に。だから、竪穴をぬけたならば、ひたすら上方にゆけ。昇れ。いずれ地下都市にでる。やがて砂漠にでる。そしてゾハルに通じる路(隊商路的なルートのこと。砂漠にはっきり道があるわけではない)を見いだす』
『なんと、そうでしたか!』
サフィアーンは見事に感心していました。
『しかし、ここからの登攀《とうはん》は……』と、竪穴を見あげて歎息《たんそく》します。『この霊剣《かたな》を背中に縛りつけても、うーむ、かなりの体力がいるなあ。猿《ましら》のようにがんばらないと、墜ちますね。めいっぱい恐いなあ。でも、やらねば!』
『必要ない』ほほえんでファラーがいいます。『おれの術があるだろう?』
ファラーは自分の頭頂から、髪の毛を一本、ぬきとりました。銀髪でした。色彩《いろ》のない燦《きら》めきの白い毛髪でした。
その長い髪の毛を、サフィアーンに手わたすのでした。
『この髪につかまれ。そうすれば浮上する。この竪穴の空洞をひたすら上方に、おしまいまで。そこは魔力で封印されているが、おれが解散する。おまえがでる瞬間にな、サフィアーン』
『なるほど。あれ、でも、ファラーさんは?』
『地上に帰還するのはおまえだけだ』とファラーはいったのでした。『おれはここにのこる』
『のこるって?』
『この人外境《ジンニスタン》に』
『ファラーさん?』
『この深淵《しんえん》の内部《なか》に。聞こえるか?』
『え? え? なんですか?』
『喚《よ》んでいる声があるのを、サフィアーン、おまえは聞こえないか? おれを喚んでいる声だよ。おれをもとめている声だ』
『だれのです? だれのなんです?』
『精霊たち』とファラーはいいました。『この異界に暮らしていた畸形《きけい》の生物《いきもの》たち。数えきれない魑魅魍魎《ちみもうりょう》たち、あまたの小物たち。それらが、おれをもとめている。醜い生物《いきもの》たちが、泣いている、叫んでいる、乞《こ》うている。おれに王になってほしいと希《ねが》っている。滅《き》えた蛇伸《へびがみ》に代わって王になれと。わかるか? おれたちが背後《あと》にしてきた金色《こんじき》の大地で、あの回転する地平で、幾千もの怪異《もののけ》がおれに歌いかけているのだ。主人《あるじ》がいなければ滅んでしまう。人外境《ジンニスタン》のいっさいが滅んでしまうのだと。生命《いのち》をうしなう運命におかれるのだと。だから、おれが要る』
それがファラーの結論でした。
異界にのこり、ありとある怪物たちと棲《す》むことが。ジンニスタンのあらたな王となることが。ファラーのなかには巨《おお》きな愛があって、それが――つつもうとしていました。深淵のあらんかぎりの生物《いきもの》を。傷ついたものを。半死半生の、小物たちを。悪もつつみこみ、醜もつつみこんで。
巨大な愛が決断をなしていました。
『……ファラーさん?』
『サフィアーン』
『はい?』
『地上はこの人外境《ジンニスタン》を忘れたほうがよい。おまえが最後の通過者だ。この頭上の竪穴の。おまえをだしたら、ふたたび封鎖する。おれの魔力が、永遠に閉じる。もはや大地の蓋《ふた》は闢《ひら》かない。何者の手によっても、二度と。そう、二度とだ』
『では……ではファラーさん、これが今生《こんじょう》の?』
『訣《わか》れだ』
『ああ、ファラーさん――』
『さあ、おれの呪文《まじない》を聞け』
そして術は放たれだしたのです。
サフィアーンにむかって。サフィアーンの手にした銀髪と、サフィアーンそのひとにむかって。
『もはや世界は封じられる。人外境《ジンニスタン》は歴史のおもて側から消える。時間《とき》の砂のしたに埋もれる。けれどもサフィアーン、おまえに一つだけ托《たく》そう。おまえは呪文《まじない》によって眠り、おまえは忘れるだろう。だが、托すのだ。サフィアーンよ、眠りながら聞け。意識の深層で。おれの物語を』
それは譚《かた》られます。
『聞け、一人の無色《いろなし》の子の流離の生涯を』
それはたしかに譚られます。
譚られて、眠りながらサフィアーンに聞かれて、それからサフィアーンは竪穴の空洞を浮上し、それからサフィアーンは発ちます。
ジンニスタンを。
天上に昇るように(あたかも昇天《ミラージュ》のように)宙を翔びはじめるサフィアーンの肉体に、ファラーは囁《ささや》いたのでした。
『サフィアーンよ……』歌うように囁いたのでした。『おれはいつまでも生きる。おまえもいつまでも生きよ』
これが物語にファラーが姿を見せた、その結末《おしまい》でした」
ボナパルトはエジプト防衛軍の側が、およそ九千騎から一万騎のマムルーク騎兵隊を構えられたインバーバ村の陣地の西方に動かしたのを見て、ほとんど作戦を固めた。第一にすでに確認されている火砲の射程外でわたりあわなければならないこと、敵の歩兵部隊はむしろ陣営から救援のために打ってでてこさせて、やはりこれも砲兵隊に掩護《えんご》されない砂漠のただなかでしとめること。フランス軍の側には移動銃砲があった。そして方陣の隊形こそはひたすら自在に移して動かせる火器の要塞《ようさい》なのだった。
右翼に二人の将軍、中央に二人の将軍、左翼に二人の将軍。それらが六つの軍団をなした。ボナパルトは中央の軍団の背後に陣どった(なぜ原著者が将軍名をださないのか理解に苦しむけれども、中央についていたのはデュガとマルモン将軍で、ボナパルトはこのうちの前者・デュガの師団とともにあった)。
完翳な布陣までには三時間かかった。
砂漠での三時間。
十戦列の方陣が組まれて、四隅に大砲《キャノン》が据えられた。
機が熟そうとしている。
まずは右翼が動きだした。
すでに繰りだしてきているマムルーク騎兵隊の方角、すなわちインバーバの西方にむかって。
ナイル河と並行するように移動をはじめていたが、河のながれとはまるで逆行していた。
「そしてドゥドゥ姫は?」ついにズームルッドの後日談は、年代記に登場していた脇役にまでふれはじめた。「地上の王宮にいたドゥドゥ姫は? 見事に憑《つ》きものを落としていました。蛇のジンニーアの本体がはるか地中の奥底、ジンニスタンにおいて従兄《いとこ》であるサフィアーンの刃《やいば》にかかって果てたときに、さいわいなるかな、長かった憑代《よりしろ》の役目は終わったのです。ああ、ついに清純の処女《おとめ》が帰ってきたのでした。いえいえ、もちろん、肉身《からだ》は残念ながら未通女《おぼこ》ではないにしろ……それはさておき。
ぶじにドゥドゥ姫はドゥドゥ姫として帰ったのです。
三千世界にもまれなる美《うる》わしの処女《おとめ》に。
蛇のジンニーアの憑代はこれまで、役目を終了すると憑いている存在《もの》それじたいの意思で棄てられて、そのために生命《いのち》を落としていました。たちまち屍骸《なきがら》となっていました。けれども、今回はちがいます。蛇のジンニーアが憑代であるドゥドゥ姫を(その肉体《からだ》を)去ったといっても、それは征伐されてのことですから、ドゥドゥ姫は無傷。この時点で十六歳となっていた美姫《びき》はほんとうに万全の状態でもとに復《かえ》ったのです。
その姫君のまえに、地下からの英雄があらわれます。
まるで非のうちどころのない、満月のように美しい若者でした。のみならず、眉宇《びう》には勇猛な気性をみなぎらせて、歴戦の剣士であることも一目|瞭然《りょうぜん》。身震いするほどの逞《たくま》しさです。そしてこの者は、芸術品のようなひと振りの霊剣を佩《は》いていました。柄には橄欖《かんらん》石に真珠、瑪瑙《めのう》、紅玉、翠緑石《エメラルド》、緑閃石《スマラグダイト》といった絢爛《けんらん》多彩な宝玉が嵌《は》めこまれて、純金の鎖が飾りとして下がっていました。また、さまざまな名前や呪符《まじない》が刻まれていました。すッと抜いてみれば、刃《やいば》はダイヤモンドさながらの硬い、薄い細身。しかも霊験《れいげん》をたち昇らせます。
『これを』と御殿にあらわれた若者はいったのです。『鑑定していただきたい。そして、わたしが何者であるかも』
この若者が参内《さんだい》を許されたのは、地下都市の自称『勇者』たちの推薦があったからでした。あの阿房宮《あぼうきゅう》内の都市《まち》は閉鎖されずに動きつづけていましたから、ジンニスタンをでて迷宮内部を上方にむかって進んだ若者は(もちろんサフィアーンです)、途上であまたの自称『勇者』たちと出遇《であ》いました。『おお、サフィアーン!?』と半数以上の地中の住人がこの若者を認めて、いいました。なにしろ武士《もののふ》としては猛《たけ》き獅子《しし》にも譬《たと》えられていた美貌《びぼう》の剣士、若者を知らぬ人間よりも知っている人間のほうが多かったのです。
『いったい、いずこに? いままで、なぜ不明に?』
返事は意外なものでした。
『魔術師のファラーさんといたのです』というのです。
失踪《しっそう》してしまった阿房宮の所有者の名前をだして、サフィアーンはつづけるのです。
『ファラーさんと組んで、諸悪の根源である(そう、真実《まこと》の諸悪の根源です!)蛇神《へびがみ》を、ジンニスタンにて亡ぼしたんです』
『なんと!』聞いた全員が叫びました。
『ファラーさんは……』
『ファラー公は?』
『ファラーさんはみずからジンニスタンを封印しました。その内部《なか》にのこって、二度とジンニスタンが人間《ひと》の目にふれないように、おのれを犠牲にするように封鎖したんです。その魔力で、永久《とわ》に閉じたんです』
何人かは、これを聞いて失神しました。『ああ! われらが敬愛する大兄《たいけい》が』と呻《うめ》き、『おお! あの「蛇の遺蹟《いせき》」から還らないと思ったら、そのような決死の戦闘《たたかい》を演じつづけて、ついには殉じて!』と号《さけ》び、度を越した感銘のなかで。
サフィアーンの話をだれもうたがいません。だって、つじつまはすべて合い、ジンニスタンで蛇神《へびがみ》を討ち斃《たお》したという証言にしても、目のまえにいるサフィアーンにその偉業が達成不可能とでも? ただちに感得されるではありませんか。サフィアーンが尋常ならざる剣豪であることが。その筋肉《すじ》、その循《めぐ》っている血の滾《たぎ》り、途方もない威勢を感じさせます。説明されずともこれは妖魔《ようま》の王族に匹敵するような肉体《からだ》です。無敵の生身《なまみ》です。日ごろから迷宮内の化物《グール》相手に激闘を演じている剣士や魔術師だからこそ、わずか一瞥《いちべつ》、合点《がてん》されました。
竜的肉体のすごみが。
サフィアーンの『蛇神《へびがみ》をジンニスタンで成敗した』との証言、というか告白の真実性が。
そして英雄としてゾハルの王宮に推されたのです。
ただの英雄として謁見室の殿上人たちは揃ってサフィアーンを迎えましたが、あにはからんや、ただの英雄などではないのでした。いきなり、若者は携えた霊剣を示したのでした。さて、ゾハルにおいては人びとの精神から毒気《どっき》は消え、かつては伏魔殿ともみなされた王宮でも(それは蛇神《へびがみ》がジンニスタンで討たれるや日《ひ》ならず)いっさい邪道は絶たれて、みなが健全にもどっておりました。ですから、サフィアーンによって示された身分証明とも思われる霊剣を、きちんと鑑定できる人物もおりました。
長年王家に事《つか》えていた長老《シャイフ》の大臣が、まともになった精神《こころ》に照らして、さしだされた刀剣を見わけたのです。
愕《おどろ》いて、長老《シャイフ》の下顎《したあご》がダラーンと落ちました。
『これは王者以外はもてない、神秘の武具。正統の王にしかもてないはずの宝剣ですぞ。それ以外の人間が不用意にあやつれば、そやつは落命の憂き目に遭うはず。すなわち、つまり、ということは、うむむむむ……ム?』
『それをわたしが継受《けいじゅ》したのです』とサフィアーンは毅然《きぜん》として答えました。『おわかりですか? わたしが何者であるか。ここに揃った一同、貴顕大公のみなさん、聞きなさい。わたしこそは真実《まこと》の王子、正しい胤《たね》から誕生した、貴公子のなかの太子《たいし》、僭王《せんおう》を排して第五代となるべき王そのひとです』
てんやわんやの騒ぎでした。殿中は。ですが、だれがうたがうでしょう? だれがサフィアーン王子を歓迎しないでしょう? 野望に燃えた宰相が? いまだに腹に一物ある領内の太守が? 性悪な大臣《おとど》が? いいえ、だれも! そして、サフィアーンが正真正銘の従妹《いとこ》であるドゥドゥ姫に求婚して、これを『だめじゃ!』と拒む法が、アッラーの御目《おめ》の下(この地上世界)にありましょうか?
ですから、サフィアーンはついに獲《か》ちとったのです。かつて忍びこんだ後宮《ハリーム》で見初めて、宿命の恋に落ちて以来、死病にも肩をならべるほどの烈《はげ》しさで焦がれて(じっさい、サフィアーンの肉身《からだ》は一度死んだのですが)、胸ふたぎ、ひたすら懸想《けそう》して愛の成就だけを夢見てきた相手を。その女性《ひと》を。あまたの苦難の果てに。
そう、人類に体験しうる冒険のなかの大冒険の終局《おしまい》に。
そして大団円でした。さあ、祝典の準備がはじまります。ゾハル全市あげての大騒動です。ただちにサフィアーンとドゥドゥ姫の婚姻契約書の作成が下達されて(イスラームの老師に)、その沙汰《さた》は洛中洛外《らくちゅうらくがい》にひろまります。のみならず徇示《ふれ》役人がゾハルのあらゆる通りという通り、城門という城門、市場《スーク》という市場《スーク》に立って、『華燭《かしょく》の典に備えましょう! 都じゅうを飾りましょう! 鉦《しょう》や太鼓《たいこ》をとどろかせて、芸人たちも、いざ表舞台に!』と唱えつづけたものですから、民草の盛りあがりといったら! 披露の宴《うたげ》は四十日間つづけられる予定で、しかも、華やかな祝儀につづいてはサフィアーンの即位式が執りおこなわれるとの告知も(だめ押しです!)。貧乏人は施しものを心待ちにして、道化師と軽業師がいっぱいに広場にあふれ、自称『勇者』たちもこぞって砂漠の地下都市からでてきました。
あの奇人たちですら!
都が胸を躍らせています。到来するであろう佳《よ》き日々の、瑞兆《ずいちょう》に、すっかり浮かれ騒いでいます。その間《かん》に、さて、ほかの人物についてもその後の行方を見てみましょう。さほど多い人数ではありません。ですが忘れてならないのがサフィアーンの家族、篤《あつ》い仁義と親愛でむすばれた盗人《ぬすっと》の一家《アーイラ》です。じつは一家《アーイラ》はすっかり泣き暮らしておりました。サフィアーンが『天晴《あっぱれ》な魔術師』と感嘆するファラーと邂逅《かいこう》して、二人組となって魔王アーダムの征伐のために地下都市を発った日――ああ、いまでははるか昔に思えます――なにしろ急いでおりましたので義父《ちち》にも義弟《おとうと》たちにも往《ゆ》きさきを告げずにサフィアーンは首途《かどで》をいたしました。そして、もどらなかったのです。サフィアーンが修行の副産物として手に入れる財宝《おたから》(あの『万魔殿』地帯での化物《グール》との闘いのたびに、しこたま獲《え》られた戦利品です)を地上に運搬するため、ともに迷宮内の都市《まち》におりて棲《す》みついていた一家《アーイラ》の面々は、いきなり失踪事件の当事者となったのです。気をもんだという表現ではあまい、あまい。迷宮での修行のさなかに消息を絶ったことは通常、化物《グール》に返り討ちに遭って果てた末路《こと》を意味しますから、義父《ちち》や義弟《おとうと》たちは周章|狼狽《ろうばい》して、ですが情報|蒐集《しゅうしゅう》しても所在は不明、剣士仲間にも行方を知る者は皆無で、一日経っても連絡は入らず、二日経っても姿は見せず、ただ時間はすぎて、時間はすぎて、ああ、絶望のお父《と》っつぁん! そして『お義兄《にい》さぁぁぁぁん!』と涙する義弟《おとうと》たち。
もはや死んだとあきらめるしかないだけの日々がすぎ、一家《アーイラ》の面々は地上にひきあげたのでございます。報らせを受けて義母《はは》は慟哭《どうこく》し、『わたしの義子《むすこ》が、義子《むすこ》が! 心配したとおりだったねえ、ヤア、アッラー! 魔王征伐になんて征《ゆ》かせなければ!』と泣き崩れます。それから家のまんなかに墓をこしらえて、おっ母《か》さんのみならず、家族揃って欺《なげ》きながら、咽《むせ》びながら、夜も昼もひたすら墓守りをして彼らは暮らしたのでございます。
ですが、ひょっこり、サフィアーンは帰ってまいりました!
門口に立ったサフィアーンは、すばらしい御衣《ぎょい》をまとって騎馬の人物《ひと》となり、数十人の奴隷の侍従をひきつれて、威風堂々、これはもう王侯のなかの王者でした。腰をぬかしている義父母と義兄弟にむかって、もちろんサフィアーンはいいました。
『お迎えにあがりました。お父《と》っつぁん、おっ母《か》さん、そして義兄《あに》と義弟《おとうと》たち!』
そう、ゾハルの御殿にサフィアーンは身内を迎えたのです。血縁のつながりは皆無であっても、まことの情愛の絆《きずな》でむすばれた一家《アーイラ》を。王族として彼らを遇し、義母《はは》親には御殿をひとつ開けて百二十人の下女を侍らせて、見事な後宮《ハリーム》の女主人とし、義父親には二百四十人の従者をつけてゾハルの右大臣かつ枢密《すうみつ》顧問官に任命し(ちなみにサフィアーンのお父《と》っつぁんには類《たぐ》いまれな政治の才能があったのか、この職務を死ぬまでりっばに処理《こな》しました)、また義兄弟はそれぞれのこらず領内の副王などにすえました。こうして『いかさま師』の一家《アーイラ》はじきに真実の王公の血統《ちすじ》となるのです。詐術《ペテン》ではなしに。
では、玉座から逐《お》いだされるはずの人物、かつてサフィアーンの実父に叛乱《はんらん》の刃《やいば》をむけて違法に王位を簒奪《さんだつ》したサフィアーンの叔父《おじ》、つまりドゥドゥ姫の父親にほかならない、あの僭王は?
生きてはおりました。政務所《ディワーン》の玉座を空席にして、執政のいっさいを愛娘《まなむすめ》に代行させていた僭王は、たしかに後宮《ハリーム》にいたのです。病に臥《ふ》せっているという風聞《うわさ》(それは玉璽《ぎょくじ》の捺《お》された書《ふみ》の欺《あざむ》き等で、意図的にながされたものでしたが)どおり、寝間の帷《とばり》のむこうにいて、ですが、すっかり癲《たぶ》れていました。だって、愛《め》でてやまなかったひと粒|種《だね》の王女がいまや蛇神《へびがみ》そのひとになっちゃったのですから! とはいっても病んでいるのは精神《こころ》だけで、その肉体《からだ》はじゅうぶんに健康。そして、姫君から憑《つ》きものが落ちて後宮《ハリーム》の寝室の看視《みはり》がうっちゃられた時分、だれも知らぬ間《ま》に(牢獄《ろうごく》同然であった後宮《ハリーム》から)市中に脱けでていました。
寝室の窓から滲《し》み入る笛の音《ね》に惹《ひ》かれたのです。
市《まち》に鳴り響いている太鼓に、銅鑼《どら》に、その開放的な騒ぎにすっかり魅せられていたのです。
あまりにも陽性の喧噪《けんそう》でした。
だから、僭王は招《よ》ばれたのです。
にたにたにた、へらへらへらと笑いながら後宮《ハリーム》から脱走しました。天下にまたとない祝言をまぢかに控えて、大通りには曲芸師に役者たちがあふれていました。あちこちで余興が演じられていました。陽気な雄叫《おたけ》びがあがっていました。自称『勇者』たちを筆頭とする阿房宮の地中の都市《まち》の住人たちが、おまけに奇人たちも繰りだしていました。ああ、奇人集団! もちろん、空《うつ》けになった僭王は大喜びです。いわずもがな、これらの乱心者《らんしんもの》たちと出会いがしらに意気投合しました。気づげは、その夜半《よわ》には痴呆《ちほう》の楽天地《らくてんち》である地下の迷宮世界にむかっていました。ゾハルの市内にやってきていた奇人集団に招かれて、踊りながら砂漠の路《みち》をわたって(十四夜の薄い青のような月光(アラブ世界では往事、月光は有害と考えられていた)に照らされて)、阿房宮内のどこか辺縁にあるという奇人都市に身を寄せたのでした。その後の消息は不明です。
そして、婚礼の当日です。
宴楽《えんらく》のきわみの場面でした。大道《だいどう》では沈香《じんこう》などの香が※[#「火+(生−ノ」、第3水準1-87-40]《た》かれて、薫煙《くんえん》がたち昇り、人びとは上下|貴賤《きせん》の区別なしにめでたい! めでたい! とさけんでわれとわが身に番紅花《サフラン》をすりこんで、手と手をとりあったり、あいさつをしたり、前代未聞のにぎわいにして右往左往の大騒ぎといった様相を呈していました。貧者たちは施しものをさずかって、往来は幸運《しあわせ》の思いでいっぱいになりました。ゾハルもサブルにもどりました。
もはや不吉な土星《ゾハル》ではない、祝福された商都サブルです!
さはさりながら、いちばんの幸福者《しあわせもの》といったら、ほかならないサフィアーンです。四十日間の披露の祝宴がすっかり了《お》わってから初夜を迎えるのが当然、本来の王者の流儀でしょうが(説明の必要もございませぬ)、やぼはよしましょう。一日めの夜深《よふ》けに、抑えきれない恋情に駆られてサフィアーンは従妹《いとこ》の閨房《ねや》に入り、その初鉢《あらばち》を割ったのでした。巫山雲雨《ふざんうんう》の奇夢をむすんだのでした。もっとも、ドゥドゥ姫の肉体《からだ》はじっさいには処女《きむすめ》ではなかったのですが、そこはそれ、後宮《ハリーム》の海千山千の腰元たちが細工しました。つまり、鳩の雛《ひな》の血でごまかしたわけです(処女喪失の一種の証明ともいえる出血と、このように鳩の雛の喉笛をかき切った血が、それこそ瓜二つだとアラブの巷間では信じられていた)。
やがてサフィアーンは即位して、たしかにサブルを治めました。実父であった第四代の王とは異なり、これまた冥加《さいわい》、ただちに子宝にも恵まれました。まことを申しますればサフィアーンと床入りする以前にこの花嫁の肉体《からだ》は、その胎《はら》は、しっかりと一人の魔術師の胤《たね》を宿していたのですが、通常よりも短めの妊娠期間は『月足らず』とのことばで容易に解決されます。早産にしてはまるまるとした元気な赤んぼうが産み落とされまして、御殿の内外《うちそと》で歓迎されて、いっさい問題は噴出いたしません。女児でございました。サフィアーン王はそれはそれは歓んで、悦に入り、たっぷりの愛をそそいで育てました。
あらゆる物事が(起きてしまったことは、あらんかぎり)大団円にいたったのでした。
結局のところ、有為転変《ういてんぺん》のはての途方もない歓喜《かんき》のなかで、わたしの祖母はこの世に生を享《う》けたのです」
物語りが終わったことに、聴き手の何人が気づいたのか。あるいは、物語りは永久《とわ》に終わらない地平にいたったのか。
もちろん、だれも口をきけない。
|夜の種族《ナイトブリード》たちは沈黙のなかにいる。四名……五名。譚《かた》っていたのはズームルッド。耳を傾けていたのはアイユーブ、書家、ヌビア人の「肥満公」。それから……ズームルッドのかたわらの「糸杉」と呼ばれる幼女。
その客間は夜のままで閉じている。
全員がおし黙っている。無言《しじま》とともに十分、二十分、三十分が経つ。
「譚られることは不滅になることです」とズームルッドがいった。
「だれが?」
「わたしにとっての曾祖父《そうそふ》が」
「ファラー?」訊《き》いているのはアイユーブだった。
夜が濃い。闇が濃い。この屋敷の内部《なか》だけの、明けない夜が。
永遠に陽《ひ》の射さない闇《くら》がりのなか、物語り師はうなずいたように、感じられた。
見えないが、気配が首肯した。
「この『糸杉』にとっての曾々祖父です」とズームルッドの深い、深い、井戸のように深い声がつづけた。
「ならば」とアイユーブが問う。「あなたの娘か?」
「そうです。わたしの血統《ちすじ》の人間。コプトの血が半分、淆《ま》じっていますが」
「コプトの――」
話題となっている少女は語らない。
まるで生来《うまれつき》口の不自由な人間のように、ひとことも。アイユーブたちのまえに出現《あら》われてから、当然のように母親の物語りのあいだは沈黙をつづけて、さらに睡《ねむ》りもしないで坐《ざ》していた。
ただ、ズームルッドのことばの世界に耳を傾けていた。
しかし、ほとんど微動もしないで。
「祖母はアビシニアの血を皮膚《はだ》には見せませんでした」とズームルッドはつづけた。「まだ無色《いろなし》のそれが継がれていたのです。しかし、三代めにして、わたしの血統《ちすじ》には黒さがでます。柔らかい栗色が、その皮膚《はだ》に、アラビアの白さのなかに融けながら発現します。淆じりあった色彩《いろ》は美しいものです。それは混淆《こんこう》することばのように、強《したた》かで、美しい。わたしたちは混血します。物語は不死ではないから、その記憶の運び手こそが強靭《きょうじん》にならなければならないから。一族の聖なる血は雑《ま》じりあう血なのです。いずれは、この『糸杉』がつぎの語り手となりましょう。つぎの世代の。その者の玄孫《やしゃご》の代の。わたしの世代ではわたしが最後の一人ですが(そう、正統を継いだ択《えら》ばれた語り部としては)、娘はコプトの系譜をも所有《もの》にして、融かし(これは古代エジプト人の直接の血筋につらなることも意味している?)、より靱《しな》やかに譚るでしょぅ」
「血は……純粋さではない?」とアイユーブ。
「ただ、強靭さをもとめています。あらゆる時空の制限を超えてひろがり散ることもできるような、強さを」
「それで」アイユーブは問いつづける。「あなたは消えたふた晩、コプト街のバーブリューンに?」
「襲われておりましたので」とズームルッドはいった。「教会にも修道院にも、群れとなったムスリムの暴漢がおし入ったそうです。バーブリューンはそのような兇徒《きょうと》たちに荒らされていました。いま、この都市《まち》で異教徒であることは危険です。もっとも、欧州《フランク》の商人たちほどではないでしょうが」
「娘を守るために、消えていたのか」
「そうです」
「狙われたコプト人である、そのために」
「そうです」
その当の「糸杉」は黙っている。
ひとことも口をはさまず。
語らず。
無言で。結舌《ものいわず》のように。
母親のズームルッドがいう。
「守らなければならないのですから。物語は不死ではないのですから」
「しかし、譚りによって不滅になる?」
「なります」
「そうか……」アイユーブの声音がいちだん深いところに、没《しず》んだ。「永続化」
それに対する反応はない。ただ物語る母親の気配だけが暗闇のなかでほほえんだ。
「永続化……永続化?」とアイユーブがみずからに問うように、かつ|夜の種族《ナイトブリード》の全員の意思に問うように、囁《ささや》いた。ことばの温度が下がり、ことばの重量はきわめて重い。「ひとりの人間が不滅になる。魔法か?」
もちろん空気はうなずいた。
「不死の。自己の永続化。恒久《とこしえ》に譚られて、そして生きる。物語として生きつづける。まるで、まるで……」
その瞬間、アイユーブは「まるで歴史の譬喩《メタファー》だ」とつづけたかったのかもしれない。そうではないのかもしれない。筆者にはわからない。場面はただ、アイユーブの台詞《せりふ》に重ねるように発せられた、ズームルッドのことばで幕を落として転換させられる。
「いずれにしても、これで」と甘い蜜《みつ》の舌を有した物語り師はいった。「わたしたちの年代記は終わりました」
午《ひる》をまわっていた。ナイル河岸地帯には闇などない。
強烈な陽射しのしたで、まやかしの均衡は崩れる。
ボナパルトの右翼の二つの軍団が、戦端をひらいた。いいや、ひらいたのはムラード・ベイ指揮下のマムルークたちだった。本営を攻撃すると見せかけて――そこにボナパルトがいたのだが――マムルークたちは馬首を左に転じて、敵軍の右翼に討ってかかったのだった。ムラード・ベイはみずから陣頭に立って――もっとも危険な最前線にでて――号令をだしていた。突撃するマムルークの騎馬部隊、およそ六千騎。これがボナパルトの右翼(レイニエとドセー将軍の両師団)を急襲する。すさまじい勢いで、かつ輝かしい軍装の美を誇らしげに示しながら、殺到する。美しい者たちが殺到する。方陣は動かない。吶喊《ときのこえ》が酷烈な暑さの砂漠をわたり、マムルークたちの馬蹄《ばてい》に、もうもうと砂塵《さじん》があがる。フランス軍の将兵たちは、動かない。まち構えている。引きつけている。殺到する。引きつけている。ぎりぎりまで引きつけて――
機械《からくり》としての方陣が動いた。
一斉射撃。
火砲が爆《は》ぜる。
すでに「ピラミッド会戦」の火蓋《ひぶた》は切られていた。一度めの斉射で、突撃に加わっていたマムルークの一割が斃《たお》れた。屍骸《しかばね》は灼《や》ける砂に落ちた。馬も仆《たお》れた。銃撃されていない、生きている馬は怯《おび》えた。後ずさり、嘶《いなな》いた。十字砲火の轟音《ごうおん》にその鳴き声も聞きとられない。エジプト側にも、フランス側にも。さまざまな動きがあり、状況を把握している人間などいなかった。ただ、馬が、ああ、馬が、右往左往していた。築かれるのはエジプトの敗北の記念碑、死者の山だった。勇猛きわまりない騎士の。しかし戮《ころ》される。捕虜にはならない。あるいは逃げる。逃げようとする。だが彼らはどこに攻めこんだのか? 二つの軍団だった。その二つが動いている。マムルークたちを挟んでいる。そして両側からの一斉射撃がはじまる。
逃げ場は?
出口は?
ムラード・ベイは生きている。頬にかすり傷は負った。その傷痍《きず》が絶叫していた。終わりだ! 敗れたぞ! 勝敗はついた、雌雄は争われて、ああ、回答はでたのだ!
この理会《りかい》の瞬間に、もちろん、物語りは幕切れをむかえていた。
ズームルッドの譚《かた》りほ、あの邸内で。砂の年代記は。
記録によれば午後の二時であったという。史料によれば、地獄は太陽がその威勢をもっとも揮《ふる》う時間帯に、ナイル西岸の砂の海に現出したという。北風が吹いていたという。熱砂はずっと舞いつづけていた。それにふれれば時間も熔《と》ける。ムラード・ベイが生きのこった部下に号令をだした。退却。ギーザにむかって(そこにクフ、カーフラー、メンカウラーの三大ピラミッドがある)、退却。ギーザにはムラード・ベイの私邸も、遊園地もある。つまりムラード・ベイの根城だった。追撃をかわして、退却する。
いっぽうでは烈《はげ》しさを増しつづけている攻防がある。
エジプト防衛軍の、塹壕《ざんごう》を繞《めぐ》らしたインバーバ村の陣地に、ボナパルトの左翼が迫っている。この陣地には四十門の火砲があった。たしかに、それは一度は発射された。しかし、発射されたにしても機械《からくり》の俊敏な動作は見せない。間断のない砲撃をエジプト側はおこなえなかった。一発めを射った直後にいっきにフランス軍は突進して、ひしと逼《せま》り、二発めが装填される以前に、塹壕を突破した。
それは破滅《おしまい》を意味した。
殺到した。こんどはフランス軍が殺到した。制圧は時間の問題、というよりも虐殺の効率によってわずかに前後する、そういう次第だった。人馬が血にまみれた。地面では砂が血にまみれた。インバーバ村に構えられたエジプト防衛軍の陣地は、ナイル河に面している。囲まれてしまえば、ナイル河を背にしている。そしてボナパルトの軍勢はこの陣地を完全に包囲した。馬が斃れて、駱駝《らくだ》が仆《たお》れた。銃剣がエジプトの軍人たちを刺した。徴兵された市民たちを、刺し串《つらぬ》いて、あらゆる方向から銃撃した。殺戮《さつりく》から遁《のが》れるには、河に飛びこむしかなかった。だが、ナイルの河中に身を投じても、狙い撃ちにされた。おぼれる者がいた。急流に押されて、屍体《したい》と鮮血がながれる。ナイルが地獄の色彩《いろ》を宿して、泡だった。
ほら、地獄はここにも。
わずか一時間で勝負はついてしまう。
フランス側の死者は十名たらず(史料によっては四十名、また二百名弱という数字もある)。ほとんど犠牲ともいえない。
陽射しはまだ強烈なのに。太陽は束から西にすすんで、いまだ沈む気配はないのに。
にもかかわらず。にもかかわらず。
ナイルの東岸に目を転じる。ブーラークにはエジプト防衛軍の予備隊がいる。指揮をしているのはイブラーヒーム・ベイである。戦勝祈願のために城塞《シタヂル》から下ろされてきた「預言者の旗」とともにいる彼らの目に、敗北ははっきりと映る。対岸でくり広げられている殺戮戦は(インバーバ村の陣営での、出口のない虐殺は)、傍観するしかない。おぼれる友軍のマムルークを、傍観するしかない。マムルークだけではない。丸太や棍棒《こんぼう》しかもたない、ただの市民たちの死も。
それからインバーバ村が炎上する。
決戦の行方を見守りに来ていたカイロの住人たちは、わっと散った。
潰滅《おしまい》だった。
フランス軍は河をわたらなかった。敗走したムラード・ベイの勢力を追って、ギーザ方面にむかった。スフィンクスがあったが、それは首まで砂に埋もれていた。ビラミッドは歴史を目撃せずに、ただムラード・ベイの私邸がボナパルトと幕僚たちに接収される現場だけにたちあった。
ようやく日没の時間となる。
ボナパルトは当面の司令部として(大本営と呼んでもよいが)、ムラード・ベイの邸宅を奪ったのだった。では、かつての主人《あるじ》は? いちどは自宅までもどったが、十五分も逗《とど》まらずに手勢のマムルークたちを連れて逃走していた。上《かみ》エジプトへ、とりあえずはべニ・スエフ(カイロの南方の農村)へ。
ムラード・ベイは「ピラミッド会戦」にさきだち、ギーザにほどちかいナイルの河中におよそ六十隻の船を碇泊《ていはく》させていた。みずからとその手勢の私有の貨財をここに積みこませていた。万が一のために――つまり、敗走を予期して。しかしながら予想などあてにならない。船団を漕《こ》ぎださせる時間すら、ムラード・ベイにはのこされていなかったのだ。追い討ちのさなかにあるムラード・ベイの軍勢には、それだけの余裕《ゆとり》もなかった。だから、火を放った。おのれの船に。自分たちの全財産に。
ローダ島のわずかに上流で、焼き払われる船団が天空《あまつそら》の雲をまがまがしい朱に染めて、三基のピラミッドもおなじ色彩のなかに照らしだした。
逃走したのはエジプト内閣の暫定首位の知事《ベイ》だけではない。
対岸で、つまりカイロの都城がある側で、第二位の人物も逃げだした。こちらは家族と家財もともなった。古狐《ふるぎつね》の面目躍如、イブラーヒーム・ベイはそもそも逃げ支度にぬかりはなかった。ブーラークで予備隊とともに待機している時点で、あらゆる準備が潜在的にはなされていた。フランス軍の渡河作戦をまっていたり、ましてや反攻するイブラーヒーム・ベイではない。午後九時、オスマン帝国が派遣した総督《パシャ》とともに、この第二位の知事《ベイ》は城門を発った。
シリアをめざして、まずは下《しも》エジプトへ。
こうして城塞《シタデル》も空になる。
もはや傀儡《かいらい》の副王もいない、それがエジプトの首都カイロだった。
文字どおりの無政府状態が市内に生まれていた。動揺があり、動揺しかなかった。衝撃がのさばった。絶望がにんまりと笑った。だれもが即座にフランス軍が蹂躙《じゅうりん》してくると、信じて疑わなかった。じっさいには、占領開始は二日後となる。しかし、いまの時点で、だれがそれを知りえよう? だから、号泣しかない。悲歎《ひたん》しかない。人びとは逃げだした。
夜を徹して、首都からの脱出を試みる。
市内にのこればフランス人――嗜虐《しぎゃく》の軍勢――に殺害され、女たちは凌辱《りょうじょく》されると(その後にはむろん戮されると)盲信しない者はなかった。
だが、全員が驢馬《ろば》をもっているわけでも、駱駝をもっているわけでもない。家財を運搬する従者を有しているわけでも、護衛となるマムルークを有しているわけでもない。徒歩では砂漠をわたれない。近隣の町や村に、縁者がいなければ受け容れてももらえない。もっぱら財政的に無力な人間はやはりとりのこされた。そうした道を選ぶしかなかった。
カイロが内側から崩潰《ほうかい》する。
その夜に。掠奪《りゃくだつ》があった。放火があった。読者よ、もはや具《つぶさ》には述べまい。そこにはすべてがあったのだ。
無秩序の。
悪徳の。
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C
暫定首位のムラード・ベイが遁《のが》れ去り、第二位のイブラーヒーム・ベイに見棄てられて、オスマン帝国の名目上の総督《パシャ》すらうしなったカイロで、最後の権威者が椅子を奪《と》る。
当然、そうなるはずの展開だった。
その知事《べイ》は溝のなかにいる。
衣類は剥《は》ぎとられている。裸身だけがのこっている。蓄えられた鬚髭《ひげ》すらぬかれていた。だれがそんなものを売りものにするのかわからないが、ぬかれていた。
生命《いのち》はあった。荒廃した市内の、屋敷が焼かれた焦土のかたわらで、その精神《こころ》には悦びすらあった。
いや、悦びしかなかった。
満たされていた。ついに、イスマーイール・ベイは読了したのだった。ほんの二、三日まえには恐慌状態にあって、絶叫もした。抑制の利かない号《さけ》びをあげもした。それがいまでは。
それがいまでは。
どのような財産をもってしても購《あがな》えない喜悦にひたっている。
その面《おもて》にあるのは至福だった。
ズームルッドの第十九夜から第二十夜とつづいた失跡が、イスマーイール・ベイを慄《ふる》えあがらせたのだった。この時点《とき》までに、イスマーイール・ベイが『災厄《わざわい》の書』を読む速度は、現実の譚《かた》りに追いついていたのだった。イスマーイール・ベイはばらばらに割《さ》かれた挿話を読んで、それらの断片をみずからが捏造《ねつぞう》するように組みあげるのではなしに、ひたすら「つづき」を読み進めた。いっさいは連続的《シーケンシャル》に物語られている。つぎの分冊を紐解《ひもと》いて、つぎの分冊を繙読《はんどく》して、没頭して、呪詛《のろい》を浴びるように読みふけり、そこで語り手が消えた。
ズームルッドがふた晩、失踪《しっそう》した。
すでに書物《それ》と「特別な関係」におちいってしまっていたイスマーイール・ベイが、とりのこされた。
だから『災厄《わざわい》の書』の最後の分冊は、作られなかった。イスマーイール・ベイの隠《こも》る私設の図書室に、搬《はこ》びこまれてはこなかった。七名の司書は搬入することがなかった。食事以外。珈琲《カフワ》以外。要るのはそんなものではない。いるのは結末、物語の結末だった。年代記の大尾《むすび》だった。
「なぜない? なぜ続篇《つづき》がない!?」
絶叫した。ないことに恐怖もつのった。自制心の箍《たが》もはずれた。耐えられる状況ではない。しかし、何者に告発すればいいというのか? 裁判官《カーディ》か? あるいは司書たちにあたり、鞭《むち》うてば、それはとどけられるというのか?
とどけられない。とどけられない。とどけられない。
二日間の恐慌状態。いや、もっと長い。最後のズームルッドの譚りは午《ひる》にまでおよんだし、かならずとどけられるという保証を得られないでいたイスマーイール・ベイには、時間は迷宮の檻《おり》となった。
しかし、とどいたのだった。
狂喜のなかでページをめくったのだった。
読み了《お》えたのだった。
……いまは満悦の、ついに桃源郷にいたっていた。暴徒化した群衆が邸内におし入っても、気にならない。建物に火を放たれても、気づきもしない。放逐されて、身包《みぐる》み剥がれて、溝に棄ておかれても。
結びまで読めたのだから。その大団円まで。
たぶん、絶望するカイロに目下《いま》、これほどの幸福者《しあわせもの》はいなかった。
ほとんど痴愚と化していた。
第三位の知事《ベイ》は突出して然るべき時機《とき》に、ただ溝のなかにいて、悦びにひたっていた。素っ裸で。痣《あざ》だらけのからだで。
若者がそれを見おろしている。
道端で見おろしている。若者は美しい。分析不可能なほどに美しい。そして主人の末路をながめている。
アイユーブだった。
主人のイスマーイール・ベイのなれのはてに目をこらしてから、顔をあげた。
においを嗅《か》いだ。市内につづいている戦慄《せんりつ》のにおいを。もっぱら火勢の感覚をともなっていた。
桃源郷にいる主人に身を起こすように手も藉《か》さず、声をかけもせず、溝にただ放置して歩きだした。
もはや無縁の人物だった。
ナイルを挟んだ対岸に完敗が目撃されて、まる一日がすぎただろうか? 一日半? わからない。具体的な時間経過は判然としない。なぜなら、もう暗闇しかないから。
カイロの精神が闇に蔽《おお》われて、夜明けはむかえられない。
永い、永い、永い夜がつづいている。
たぶん、ずっとつづいていたのだ。
夜は朝《あした》に代わらない。すべてが坂を転がり、深淵《ふかみ》まで落ちた。あるのは破壊の活気《エネルギー》だけ。悪行を働かない者は(それは弱者だったが)働いている側の人間たちに、尻《しり》の毛までぬかれている。しかし悪行|三昧《ざんまい》の側が強者とはいえない。ここには秩序はないのだから。上下などない。貴賤《きせん》も。首都はイスラームの都市《まち》として現に存在していながら、古代の遺蹟《いせき》に肩をならべはじめる。ファラオの時代の廃墟《はいきょ》の都市《それ》に。
ゆうに二十日間は通いつめてきた邸宅《いえ》も廃墟となっていた。
腹いせの放火こそなかったが、格子窓《マシュラビーヤ》はほとんどが破られ(そこから進入したのだろう。門番のいない戸口も破壊されてはいたが)、屋内の装飾品はあらいざらい奪われている。すさまじい掠《かす》め盗《と》りの痕跡《こんせき》だけが、地面に鋪《し》かれているタイルを割るように、ときに裏返すように、やたら刻まれている。石腰掛《マスタバー》ですら(手段はまるで不明だが)真っ二つに折られていた。
中庭《ホシュ》の倉庫が荒らされ、葡萄《ぶどう》と桑の樹は倒されていた。家畜小屋に家禽《かきん》はいない。井戸のまわりに、なぜか斬られた牛の頭部だけがのこっている。血の海のなかに。牡牛だった。
噴水も、大理石も、無残きわまりない。
だれもいない。それをたしかめながら、アイユーブが歩いている。使用人は消えて、それを監督する使用人|頭《がしら》もいない。確認しながらアイユーブはすすんだ。無人。荒廃。割られている硝子《ガラス》、踏み躙《にじ》られている装飾《アラベスク》。
天井の角灯《メムラク》が落ちている。それどころか、天井そのものも落ちそうだった。
やはり無人。アイユーブが知っている顔はない。あるいは、侵入者なら出遇《であ》えたかもしれないが、書家もいなければ、その助手の「肥満公」も、滅《き》えていた。アイユーブにとって所縁《ゆかり》のある人間は、いない。もういない。この街にいない。
いつしか最奥の客間にすすんでいた。崩れ落ちそうな邸宅のなかを、迷路のように流離《さまよ》いながら。
アイユーブの歩みが停まる。
母子がいた。一人は面紗《ブルコ》から瞳《ひとみ》だけをのぞかせて、一人はむきだしの素顔《かんばせ》をさらして。どちらも美しい。玲瓏《れいろう》で、神秘をたたえて。母も、その幼子《おさなご》も。分析は不可能に、あらゆる人種の血を淆《ま》じらせて、だから世界《すべて》を呑《の》みこんで、美しい。
知っている顔だった。
再会など予期してはいなかった。
だが母のほうが面紗《ブルコ》の布ごしにきりだした。
「おまちしておりました」
「面妖《めんよう》なことをいう」
アイユーブは母子の両方の目を見すえて、つぶやいた。まるで独白のように。
それから、優雅に咲《わら》った。
「まるでわたしがまたせたようだ」
「時間はもう消えました」
「消えた?」
「わたしが夜を破ってしまったので」
「そうか……ああ、そうか」なにかを感得した声音で、アイユーブが応じた。「だが、なにを譚る?」
返事はない。
ズームルッドからも、その娘の「糸杉」からも。
「すべての後日談が終わり、年代記が閉じたいま、なにを譚る?」
「譚りはしません」
「物語り師なのに?」
「わたしたちの番なのです」
「番、とは?」
「わたしたちは物語をまち、ですから邸内《ここ》にいました」
ふしぎそうにアイユーブが目を細める。
「そして物語は」とズームルッドはいった。「それをもとめている者のまえに、かならず、顕現《あら》われます。ですから、あなたが、わたしたちの目前《まえ》に」
「では……譚らないで、聴き手になるのか?」
「そうです。夜の種族よ、アイユーブよ」
「わたしが譚《かた》るのか」アイユーブがいう。闇と囁《ささや》きかわすように。「あなたたちが聴き手となる番なのか」
「拾い子の名前はアイユーブといった。もちろん、本来の名前ではない。拾われてから授けられた呼び名、つまり命名された二つめのものだった。しかし、それでは一番めの名前がなんであったのか?
当人も憶えていない。
なぜなら、アイユーブは買われたときに、幼すぎた。
そう、マムルークとなるにも幼すぎた。
通常は十歳代の前半といったところだろう。だが、アイユーブは特殊ではなかった。その場所においては特例などでは全然なかった。この拾い子の物語《おはなし》において、アイユーブとおなじような境遇の男児は、無数にいた。その場所には。
有力なアミールの邸宅だ。しかも、人目につかない土地にその宏《ひろ》すぎる屋敷はあった。
アイユーブ……ああ、アイユーブはどこから買われてきたのか? 遠隔の地、とだけ情報はつたえられている。生地の記録はないし、記憶はましてや。キプチャクか? アルメニアか? ウズベクか? わからないがダマスカス経由でカイロに運ばれた。その時点で、これはアイユーブだけの境遇ではない。運ばれてきたのは百名を超える、大量に購入された白系奴隷の孤児たちだった。孤児といってもさしつかえあるまい。親を知らないし、それも両親《ふたおや》を知らないからだ。全員が。四歳から六歳まで、このように齢《よわい》は限定されていた。
最初は名前はなかったよ。アイユーブですらなかった。無名《ななし》だった。三|桁《けた》に達する孤児《みなしご》がのこらず『アブドゥッラーの息子』と呼ばれていた(当時の慣例としてこのように奴隷が呼ばれていたらしい)。
邸宅では選別がおこなわれた。それを譚るのはつらい。そう、アイユーブの物語《おはなし》を譚っているこの人間、この物語り師にも、つらい。基本は学校《タバカ》(より正確には軍事学校)で課される類《たぐ》いの、あたりまえの教育だ。アラビア語を学はせられたし(アイユーブたちはもともとアラビア語を話していたのではない。なら、以前は何語をしゃべっていたのか? 憶えてはいない。幼児期の言語《ことば》は消失した)、イスラームの知識を『コーラン』からはじめて学んで、弓術もあった。槍術《そうじゅつ》もあった。馬術もあった。アイユーブたちは稚《いと》けない。脱落者はいつもでる。想像するがいい、槍《やり》も重い、刀剣《かたな》も重い、練習用だがそれらは重いのだ。容赦はない。にもかかわらず弱音を吐けば終焉《おしまい》になる。終わるのだ。生命《いのち》が。
泣きごとなどいえない。なぜならば脱落者は消えた。
消された。
競争だった。いつも、いつも。アイユーブとその同期の孤児《みなしご》は、仲間であい争った。試験があるのだ。どのような頻度だったか、それはたしかに存在した。その試験では、最下位の男児が消える。
だから、必死に争った。
生きのこるためにだ。
選別されて、篩《ふるい》にのころ側を獲《と》るためにだ。
いつも競争だった。いつも悲痛な競争だった。数がどんどん減る。減ったぶん、のこった人間がいい目を見て(たとえば食事がそうだった)、しかし、次回にはそのなかから確実に一人減ることが、わかっていた。この競《せ》りあいには妥協はない。アイユーブたちは学んだ。生きのびるために知識と技術《わざ》を学んで、弱肉強食の真理を学んだ。叩《たた》きこまれていた。それから、策略がはじまった。仲間の蹴落《けお》としだ。
醜い世界だった。
だが孤児《みなしご》たちがわるいのではない。
アイユーブは憶えている。墓もない子どもたちの墓地を。名前もつけられなかった『アブドゥッラーの息子』たちの怨念《おんねん》を、憶えている。いまも背後に感じている。
選別されるのだ。のこれるのはわずか。選良《エリート》だけ。伎倆《わざ》をもち、知識に秀でて、騎士としての体力を幼いながらも超人の域に高めた、あるいは仲間をおとしいれる頭脳を有した――邪悪な才略を砥《と》ぎすました、生きた刃物のようなやつか。
六年、つづいた。
その残虐な日々が。
屋敷に押しこめられて、たがいに子どもたちが喰らいあうような歳月が。
じっさい、アイユーブたちは饕《むさぼ》りあったのだ。それが十名になるまでつづいた。六年めに。これで終わりかと意《おも》ったが、卒業試験というのがあった。十名がふた組に別れて、騙《だま》しあい、殺しあい、片方の五名だけがのこらなければならない。
三日間に、その屋敷のなかで。
鎖《とざ》された空間で。
もちろんアイユーブは生存者の側だった。いちばん最後の選良《エリート》の側だった。この五名だけが、試験の終了後に、自分たちを(孤児《みなしご》の百名強を)安値で買いあげたアミールに、はじめて対面した。
拝顔を許されたということだ。そのアミールは知事《ベイ》、名前はイブラーヒーム。痩《や》せていて……不快な長身|痩躯《そうく》をしていて、鉤鼻《かぎばな》で、見るからに古狐《ふるぎつね》だった。アイユーブはその主人を目にした途端、心の奥底では渾名《あだな》をつけていた。
犬、と。穢《けが》れた痩せ犬、と。
あらゆる犬は不浄だ。アイユーブという少年はそう惟《おも》っている。アイユーブはその時点で、十歳か、十一歳か。正確な齢《よわい》はわかるはずもないが成長している。
いろいろなものを憎んでいる。だが、生きのびた。
その主人、イブラーヒーム・ベイは独りで訪れたのではなかった。教団の教主のような風采《ふうさい》と容貌《かお》の(つまり魔術師のような)老師をつれていた。じっさい、魔術師も同然だった。この老師によって――
アイユーブの記憶は二度奪われる。
短い生涯で早《は》や二度めの、記憶の、消滅だった。
ふたたび過去を喪失した。自己《おのれ》というものを喪失した。五名の選良《エリート》がのこらず、術をかけられたも同然だった。いま想うに(ふり返るに)、それは暗示と薬剤の投与だ。麻薬《まやく》はあったのか、なかったのか。アイユーブはその嗅覚《はな》に薫《た》きものを憶えている。その聴覚《みみ》に連唱《ズイクル》を憶えている。視覚《め》は透明なグラスのなかの幻を見せられた。魅入られるようにしむけられた。ようするに感覚をいっさい剥《は》がれて、人工的な睡眠状態(つまり催眠)におかれる。
睡眠《ねむり》のなかで、記憶が奪われる。
奪われてしまったよ。盗《と》られた現実にも気づかないほどに、完璧《かんぺき》に。教義のなかの秘中の秘事だろう。おそろしい術、おそろしい洗脳だった。
アイユーブは『空白』になった。
『空白』になって、それから、売られた。
いつわりの記憶は――当然の絡繰《からく》りだが――空っぽの脳内《そこ》にあった。わずかに、貧弱に、しこまれていた。語れば数分ですんでしまう程度の、虚構《つくりごと》が注入されていた……ああ、安っぽい、紋切り型の生《お》いたちであったよ。それで、五名の『空白』の選良《エリート》はどこに売られたのか? アイユーブが知っているのは自身についての経緯だけで、ほかの四名については知らないし、その後の人生でも接点はもっていない。
だから、ここではアイユーブにだけ、ふれる。
べつの知事《ベイ》に売られたのだ。イスマーイールという名前の、そこそこに権勢《ちから》のあったアミールに、買いあげられたのだ。アイユーブの経歴はコーカサス地方の出身、チェルケス人の貧農の両親が(むしろ息子の栄達の可能性に賭《か》けて)手放した――というのが奴隷商人の口上。なにしろ商《あきな》いもののアイユーブ当人がそう信じていた。
ずいぶんと高値で購入された。
それからイスマーイール・ベイの子飼いとなる。十一歳、ということになっている。学校《タバカ》で教育を受けて、わずか二年で異様な頭角をあらわした。すさまじい英才ぶりだった。当然だろう。当然ではないか? 当人が忘れているといえ、すでに鍛えられていた。あらゆる知識が以前、一度は学ばれていた。そうして選良《エリート》として生きのこり、すでに価値と才能を証明していた人間なのだ。
たとえ『空白』であっても。
アイユーブはこんどはイスマーイール・ベイ所有の同期のなかで、ずぬける。そして主人の寵愛《ちょうあい》を得る。十四歳で――それは仮の年齢だが――従者となって、イスマーイール・ベイの寵童のなかの寵童となって、やがて一の側近にのしあがる。
従者筆頭に。
腹心に。
なにしろ有能だったのだ。そしてうたがわれることがなかった。
不審に思われるはずはない。アイユーブそのものに記憶がないのだから。お粗末な虚構《つくりごと》をその空っぽの頭脳《あたま》につめこんでいるだけ。どうしたら『空白』をうたがえる? だが、暗示……暗示があった。あの洗脳のときに。時機《とき》が来たら、行動にでろと。
ここが肝腎《かんじん》なところだが、アイユーブは密偵ではない。イスマーイール翼下の内情を探るようにしこまれてもいなければ、暗殺者の役割《つとめ》も負っていない。そうした単純な謀略《こと》のしだいではないのだ。もとの主人――イブラーヒーム・ベイ――は、野心家で、卑劣漢で、もっと巧妙な破滅をしかけた。
アイユーブは側近のなかの側近、いわば執事長にのしあがり、イスマーイール・ベイのために(現在の主人に利するように)暗躍し、この策動によって自壊に導かなければならない。
イスマーイール・ベイを。
その権勢《ちから》を、いっさい。自滅に。
アイユーブ本人もけっして、けっして自覚しないで。おのれの行動の内奥の目的を、理解しないで。
それが『空白』の戦略。真実の首謀者は永久《とわ》におもてにでない、手がかりの糸も手繰《たぐ》れない、それは腹汚い精神の犬、犬、穢れた鉤鼻のイブラーヒームという犬だけが編めた計画《すじがき》。
そして播《ま》かれた種。
種は開花する。アイユーブの『空白』の奥底で疼《うず》いて、指示がだされる。時機《とき》はいたったぞ、行動にでよ、と。衝動はアイユーブに理由を告げず、だが逆らえない。絶対的な猛威《ちから》を揮《ふる》っている。原理はアイユーブに理解されない。意識の領域にその原理は浮上しない。しないままに、アイユーブは仕組む。
イスマーイール・ベイは愛書家だった。私邸内にカイロ最大の図書室を有していた。七人の専属司書もかかえていた。ならば、筋書きは?
いうまでもない。
それから、ふしぎなことが起きた。
『空白』は、みずから仕組んだ手順どおりに事態を動かして、準備して、おし進めながら、満たされはじめた。充満《みた》された。予期していなかった。みずからが『空白』であることを、アイユーブは予期していなかったのだ。ほんとうに知らなかったのだから、物語は『空白』に滲《し》みた。一夜ごとに、ズームルッドという名前の稀代《きたい》の女物語り師の、そのひと晩の譚《かた》りごとに、空っぽの頭脳が満たされた。
『災厄《わざわい》の書』という架空の書物を生み落とし、主人をおとしいれようとしていた人間は、意識していなかった。承知していなかった。すなわち『空白』こそが本来的な読者であるという真理を。
記憶の空虚が――砂の年代記を――物語をまるごと受けとめる。
ズームルッドの譚りを。
『空白』が満たされるにつれて、しだいにアイユーブ内の消された過去がよみがえる。譚りが『空白』を詰めて、埋めて、あふれさせて、充満《みた》した。
ひきかえに、わたしはアイユーブに。
アイユーブはわたしに」
闇の市街を『災厄《わざわい》の書』が彷徨《ほうこう》している。
贋《にせ》の主人からも、ほんとうの主人からも、解放された若者が。
生きている書物だった。あるいは一冊の人間だった。「空白」は譚られた年代記をあまさず吸いとり、唯一の読者として、それじたいが文字の記された書物となっている。
永い闇の、闇の、闇の廃墟《はいきょ》を歩いている。
暴徒は鬣狗《ハイエナ》同然の習性で、群れて、走りまわっている。あらゆる界隈《かいわい》に悲鳴が絶えない。精液を浴びない若い女は――匿《かく》れ場所いがいには――いない。さほど若くない女も、あるいは十歳前後のあどけない少女も、闇《くら》がりでは凌辱《りょうじょく》の対象となり、犯されて捨てられた。男は血をながした。無頼の集団はあちこちで形成されて、しかし仲間同士でも咬《か》んだ。
治安ということばは意味を逆転させて、破壊に邁進《まいしん》すれば何事かは維持されるのだ――とだれかが信じた。
あるいは全員が。
この永遠の暗闇のカイロでは、瓦礫《がれき》が美しい瞬間があり、屍体《したい》が美しい瞬間があった。
書物は歩きながら、その一ページ一ページを見た。カイロという鎖《とざ》された闇の挿話を読んだ。
自分が救世主《マフディ》であろうとも思い、また災厄《わざわい》をまき散らしている死神であろうとも思った。
懐かしい者の影も見た。
肥った人影を。神秘的に肥満して、宇宙そのものを体内に孕《はら》ませたように横幅を拡げている影絵《シルエット》を。あるときは通りをよぎった。あるときは乾上《ひあ》がった運河のなかに、のぞいた。半分うち毀《こわ》された街区《ハーラ》の門の、うしろにいたと思ったら消えた。まるでヌビア人のように書《カリグラフィー》の断片もあった。焚《た》き火が残骸《ざんがい》となった市場《スーク》の壁に、その貼り紙を照らしていた。優雅な筆致。まさに能筆のきわみといっていい、至高の筆づかい。融通無碍《ゆうづうむげ》の。なにが書かれている? 雄篇の部分が。挿話の一部が。佚話《いつわ》の細部の細部が。
市内じゅうに美しい書《カリグラフィー》の貼り紙はあった。
ちっていた。政治的な告示のように。
城壁に。寺院《モスク》の柱廊に。水場の浮き彫りに。舗装もされていない袋小路の地面に。建物の二階の窓に。ちっていた。カイロの全市に、貼られて、残骸の世界にちりばめられて。
物語の切れ端を録《しる》している。
おのれの歯の一本を見るように、指の一本を見るように、毛髪の一本を見るように、書物である人間はそれらを認めた。
狂った者の所業であり、そのように|夜の種族《ナイトブリード》は永劫《えいごう》の闇の市内に放たれていた。
任務《つとめ》を了《お》えて。
『災厄《わざわい》の書』の最後の分冊を、きちんと地上《このよ》に誕生させて。
あとは解放されたのだった。二人は。
書物は闇の市街に投影された自分を見た。
それから、無宿児《やどなしのこ》たちと出邂《であ》った。
数えきれない無宿児《やどなしのこ》が生まれ落ちていた。この暴力の世界には。蛾が闇のなかで灯《あか》りに導かれてつどうように、一人、二人、三人、廃墟の市内のあちこちから無宿児《やどなしのこ》たちが涌《わ》きでてきた。性別も人種もばらばらで、マグレブ人の巡礼《ハッジ》の子どももいれば(それは男児だった)、ユダヤ教徒の家の者もいた(それは女児だった)。むろん、家屋《いえ》は焼かれていた。
幼かった。全員、妖《あや》しいほどに幼かった。
たちまち数はふた桁《けた》に達した。彷徨する書物のまわりに、背後に、従《つ》いていた。ほかに頼る者がないから。
立ちどまらずに書物はいった。「おまえたちは孤児か」と。
アイユーブの声でいった。
「おまえたちに過去はないのか。おまえたちは書物《おれ》といっしょか」
無数に誕生していた。孤児《みなしご》が。救済する人間をもとめていた。率いる人間をもとめていた。書物の肉身《からだ》のなかで――アイユーブの肢体の隅ずみで――血が滾《たぎ》った。動脈で疼いて、静脈で喚《わめ》いた。血はいまにも沸騰しそうだった。心臓の内部《なか》で。肺も、肝も、腎《じん》も破裂させて。
そして天地が蒸発する。九十九度の血潮とともに、その沸騰に姦《おか》されて。
いまにも。
闇に融けていない時間がながれている世界では、聖遷《ヒジュラ》暦二月十一日(西暦七月二十五日)をむかえた。
それ以前にローダ島で停戦会議があった。アル・アズハルの大寺院に集結したイスラームの老師たちが、フランス軍に代表団を派遣したのだった。全面降伏は当然だった。政治的かつ軍事的な指導者たちがのきなみ遁走《とんそう》した空っぽのカイロに、こうしてフランス軍による占領政策が領《し》かれることになる。
カイロ西岸から進駐軍が来て、これが最初の異教徒たちの渡河となったのだが、総督《パシャ》のいない城塞《シタデル》が占領される。エジプトの権威の象徴は、だれの目にも明瞭《めいりょう》にフランス軍の所有《もの》になる。
ボナパルトは、それから、入城した。
あらゆる準備をととのえて、安全も確保したうえで、カイロの城郭内に。
喇叭《らっぱ》があり、太鼓があり、ラ・マルセイエーズがあった。もちろん。アラブの文化にとっては騒音にしか聞こえない軍楽《それ》が。これは勝利者の行進であり、征服者の登場だった。欧州《フランク》びとの将軍《パシャ》が来る、いよいよ来る、カイロ市民たちは慄《ふる》えて、だが好奇心を抑えられる人間はそうざらにはいなかった。だから、行進の沿道におびただしい数が集結した。蟻のように。踏まれれば生命《いのち》を落とす蟲《むし》のように。
将軍《パシャ》を見た。総員が。
西暦紀元前のアレクサンダー大王にならって「英雄」を自負する将軍《パシャ》は、しかし、とても東方の基準では「英雄」然とはしていなかった。ターバンも巻いていない、ヨーロッパの軍装はひたすら異様で、むしろ貧弱さを印象づけた。痩《や》せていて、肩まで垂らした長髪はぼさぼさだった。その顔は蒼白《あおじろ》かった。その瞳《ひとみ》は碧眼《へきがん》だった。異国者《ガーリブ》の醜怪さしか感じとれなかった。どこに権威が? どこに絶対的な権力の、その目に見える証《あか》しが?
しかし、それがボナパルト。
二十八歳の青年将軍にしてエジプトを制覇した、ボナパルトだった。
偉大なスルターンにまちがいなかった。
恐怖と、戸惑いと、驚嘆のなか、行進を見守る者の人垣が割れた。
穹《そら》が落ちてきたように割れた。
秩序を乱して、暴動を起こす集団がいた。成員はみな小さかった。身長が、手足の長さが、横幅はいうまでもない。だが、無数にいた。いっせいに動いていた。体格の小さな者たちが見物の人集《ひとだか》りを裂いて、まるで計画的に割りこんでいた。
護衛が殺到する。その箇所に。
フランス軍の、完全武装の兵士たちが。
惹《ひ》き起こされた騒ぎはやまない。そして、小さな者たちのあいだから人影が一つ、飛びだした。翔《と》ぶように、行進の列なかに弾《はじ》けた。その人影は大きかった。体格はほかの者たちとはちがった。小さい生命《いのち》の王のように、孤児《みなしご》たちの王のように、人影《それ》は飛びだした。
美しい若者が。
ボナパルトのまえに立ちはだかるように、突入した。
そして若者は死ぬだろう。そして孤児《みなしご》たちは戮《ころ》されるだろう。しかしそれは、こちら側の歴史? しかしそれは、闇ではない時間? 銃火の正面にアイユーブは立ち、一冊の書物が刀《ナイフ》を翳《かざ》した。
祷《いの》るように。
恐慌は伝染する。通りの反対側でも人垣が割れて、裏返った叫び声をあげて群衆が狼狽《あわ》てて散りはじめた。だが、その場をたち去らない者もいた。母子だった。微動だにしないで騒ぎを見ていた。
二人が揃って。美《うる》わしい彫像のようにならんで。
母親の裾《すそ》をつかんだ幼い娘の「糸杉」が、あたかも祷《いの》りに応えるように脣《くち》を上下に、ひらいた。
譚《かた》りはじめた。「それはアイユーブという若者の物語です……」
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仕事場にて(西暦二〇〇一年十月)
暴夜《アラビア》とルビをふるとき、すこし昂揚《こうよう》する。日本語がなんだかバイオレントな跳躍をはじめるような、攻撃的な印象をおぼえてしまう。暴れ馬のような、そして薄い青い月光にさらされているような。もちろん、砂漠だって見えてくる。はるばると駱駝《らくだ》に乗って、ゆられてゆられて進んでいきたい砂漠だ。ぼくだけだろうか? 個人的な感覚なんだろうか?
でも、そんなふうに、ルビをふってみたいと思った。
そんな文章を綴《つづ》る瞬間をもとめてミレニアムの年に中東世界をめざした。暴夜《アラビア》。だったらイスラームの核心にふれたい。異教徒が聖地――メッカ――に入れないのはわかっていたけれど、ぎりぎり接近できたらいいと思った。その聖地とつながっている大地に、ちょっと足をおいてみられたらいい。メッカ・ロードの端のほうでも車で走れたらいい。
おなじ風景の砂漠にいられたら。
ついでに、愛用の運動靴で砂を踏めたらベターだな。
こんなふうに考えたのが西暦二〇〇〇年の夏。さて、聖地をかかえるサウジアラビアという国家はかなり強烈で、この四年まえまで観光客をいっさい受け容れていなかった。ようするに商用か、巡礼のムスリムか、政府関係か、の選択肢いがい、サウジアラビア国内に入るための方策はない。徹底していたのである。つまり鎖国体制をとっていて、日本もむかしは鎖国だったなあと惚《ほう》けた感想をいだきながら(こういうのも親近感である)、ぼくは旅行会社のパンフレットを調べた。
結論からいえば、この時点でもサウジアラビアには観光ビザの制度はなかった。でも、経済視察という名目でなら団体客を受けつけていて、ようするにサウジアラビア航空がスポンサーとなったツアーに参加すればよい。というわけで、商用ビザで――しかも集団の一員として――夢見る暴夜《アラビア》に渡航とあいなった。ああ、ビジネス? 入国のさいには視察団員としてネクタイをしめなさい?
三十歳をとうに越えているのにいまだネクタイを独りではしめられない。しかし、マスターする以外になかった。人生というのは数奇である。たとえば、そうしてネクタイをむすんだ非日常的ジャケット姿にて入国審査のブースを通過した域内で、結局はもとめていた文章を弾《はじ》きだすための恰好《かっこう》の素材に――つまりそれが一冊の The Arabian Night-breeds なのだが――邂逅《かいこう》したのだから。
いいかげん、作品そのものの背景について解説しなければならない。つまり、こうして邦訳を提出した The Arabian Night-breeds の素姓だ。これは文学における考古学となる。作者はだれなのかという疑問はつきまとっただろうし、底本の「英訳版」というのも意味不明だったと思う。さかのぼって掘り起こそう。まず、日本でも読書家むけの批評や文学史関係の事典類ではしばしは採りあげられてきた、通称「アラビアン・ナイトブリード」――『アラビアの夜の種族』(英語名 The Arabian Night-breeds )は波瀾《はらん》に満ちた成り立ちをもち、過去いちども真実の著者がつまびらかになったことはない。二十一世紀になった現在でも作者不詳である。諸説いり乱れているが、この特異な書物の誕生は十九世紀のなかばごろで、欧米人研究者間のもっとも有力な意見によれば原著者はフランス人、あるいはイギリス人の地理学者だったらしい。植民地時代の北アフリカや東地中海沿岸で、この原著者は民間説話を広汎《こうはん》に採集した。なかでもムハンマド・アリー朝のエジプトで一般大衆のあいだに流布し、語り継がれてきた数種類の叙事詩的物語のバリエーションに魅了され、これをアラビア語の口語体(アンミーヤと呼ばれる方言)で書き留めて記録するにとどまらず、編纂《へんさん》と潤色をおこないながら母語に翻訳した。さらにエジプトを舞台にした導入部をさながら『千夜一夜物語』ふうに創作して附加し、枠物語のなかに本篇――すなわち、もともとの民間説話――をおさめた。
おもしろいことに、というか、驚異的なことにと賞讃《しょうさん》しなければならないだろうが、本来が伝承文学であることを尊重した地理学者(原著者とみられる人物)は、翻訳の完了から数年を経て出版の機会がおとずれても、その著書にみずからの名前を記さなかった。編纂者としての、のみならず説話の採集者としての署名も拒んだのである。これによって『アラビアの夜の種族』は匿名の書物として世にあらわれる。もっとも、初版部数はわずかに百数十部と記録され、増刷もされていない。出版当時はアラブ地域の文化を研究する学究的な書物とみなされていたらしいふしもある。
ようするに、いわゆる文壇からは完全に無視された。
以上の出版時のいきさつは現存する最古のドイツ語版『アラビアの夜の種族』のはしがきに記載され、これをうわまわるような詳細についてはいっさい、ふれられていない。このはしがき自体の信憑性《しんぴょうせい》に疑問を呈する研究者も多いのだが、いずれにしてもドイツ語版に前後するようにオランダ語版、スペイン語版、イタリア語版が出現しているのは事実なので、「初版部数が百数十部だった」原典というものはあきらかに存在しているらしい。ただし、現物としてはのこっていない。原著者の国籍がらみで意見が割れるのはこのためである。
二十世紀の初頭に匿名のナイトブリード――夜の種族はいっきに拡散する。
著者不明であることが無数の翻訳版、無数の海賊版を生んだ理由として、まず筆頭にあげられる。時はながれた。もはや手がかりはない。権利関係はあやふやとなり、そのような時機にふいに注目度が昂《たか》まった。およそ数十年ぶりに「作者のいない書物」を発掘し、あらためて評価し、これを十九世紀文学における事件と呼んで大衆的な雑誌に記事を載せる文芸評論家があらわれたのがきっかけだった。すなわち匿名性を志向する意志、戦略がそこでは近代文学をだいたんに超克するものとして賞揚されたわけだが(じっさいには戦略なとではないと思うし、記事にはそこそこの反響があり、この「作者のいない書物」という概念の評価につづいて、超自然的な存在がつねに言及される内容、全篇をいろどる神秘的な幻想や、きわめてオリエンタルな驚異のあじわい、真実の歴史と荒唐無稽《こうとうむけい》さの正面衝突といったものが一般の読者をも魅惑しだした。拡散の季節のはじまりである。無名性は『アラビアの夜の種族』に超越的なたたずまいをあたえ、各国の批評家たちは第一の発見者に追随するかのように際限もない喧伝《けんでん》を開始し、(現時点から顧みれば)一時流行的なものではあったが神話が誕生した。初期の西欧諸語版からの重訳がただちにおこなわれ、もともとの版がある国では再版された。もしくは複写され、新規のエディション――廉価版、豪華版、挿画つき改訳版――が編まれた。版元が濫立して海賊版が氾濫《はんらん》した。新大陸から東方にまで拡がって、ここが『アラビアの夜の種族』をめぐる伝説のピークでもあるのだけれども、驚くことにアラビア語再訳すらなされている。
そしてだれもが内容に手を入れた。
ラテンアメリカの翻訳者が。合衆国の出版人が、オーストリアの校訂者が。チュニジアでも、台湾でも。忘れてはならない。書物として誕生する以前の「先史時代」のことを。これはアラブの民間説話だった。人びとのあいだで語り継がれてきた叙事詩的物語のバリエーションを、採集し、編纂し、潤色したものだった。ならば――口頭伝承の特質は、第一に変容にあるのではないか? それは時間的な拡がりと空間的な拡がりに比例して変化し、むしろ進化し、なにより語り手によって変容するのではないか?
これが関係者全員のエクスキューズ。
原典の作者がその権利をいっさい抛棄《ほうき》していたためだろうが、あまたのバージョンはどれも補筆まみれで、細部は好き勝手にいじってあるにもかかわらず、翻訳者や編集者のだれもが堂々と署名した。おのれの名前を表紙に冠して、あるいは附記に録して、はたまた序言に添えて出版した。今回の邦訳にあたって、ぼくもいちおうは参照用にフランス語版とスペイン語版の『アラビアの夜の種族』を入手して手もとに置いていたのだが、これらにも署名の類《たぐ》いはちゃんとある。当然といえば当然なのかもしれない。
そして、ぼくが底本にした英訳版は当然ではない。
無署名だった。発行所も印刷されていなかった。そんな The Arabian Night-breeds に、ぼくはアラビア半島の北緯二十一度の地点で遭遇した。
首都リヤドは空間を浪費していた。現代建築がにょきにょき、いきなり砂地からのびる首都。そしてサウジアラビアはひたすら宏大《こうだい》無辺。名目上の「経済視察」のために東にむかえば、アラビア湾があった。商業都市のダンマンでは三年ぶりという大雨がふり、非常事態宣言がだされた。大雨はすなわち非常事態なのである。道路には排水設備がないから(マンホール等を作っても、たちまち砂に埋もれてしまい、無意味らしい。なるほど)、道そのものが一種の大河になってしまう。自家用車も、バスも泳いでいる。子どもたちは雨で休校。あちらこちらで目一杯はしゃいでいる。いや、これは大人もいっしょ。
アラビア湾のみぎわでフラミンゴの群れを見る。それから南にむかう。イエメンの文化圏にある高原地帯。また北にむかい、こんどはイラクやヨルダンにちかい砂漠のオアシス都市。それから西にすすんで、南下する。
砂漠。砂漠。砂漠。暴夜《アラビア》。
結局のところ、どれだけの時間、砂漠に身をおいたのだろう。かなりになる。4WDに乗って――というよりも乗せられてオアシスまたオアシスと走り、運動靴でランニングしてもみた。昼間なら、足の裏側から熱で灼《や》ける。家畜の屍骸《しがい》をずいぶん見た。なかば白骨化した羊の全身だったり、腐敗過程の途中だったり。でも乾いている印象がある。蹄《ひづめ》や毛皮だけが、交換可能のパーツみたいにポロッと転がっている光景にしばしば出遇った。
一般人ははじめて立ち入るという遺蹟《いせき》にも特別許可を得て訪問(なにしろ経済視察団だ!)。発掘さなかのそこは、全容はほとんど砂に埋もれている。地上にでているのは遺蹟をとり囲んでいる壁の最上部だけ。あとは地中にある。踏んでいる大地に沈んで、裏側の歴史にとどまっている。
風の音が詩的だった。
こんなふうに東西南北に動いたが、行けた場所のなかでは最後のジェッダがいちばん好きだった。収穫としては最大だった。紅海に面している古都で、メッカ巡礼者の上陸地でもある。それまで見てきたサウジアラビアと、ジェッダはまるでちがった。空港には伝統衣裳の各国のムスリムたちがあふれ、人種はどんどん混淆《こんこう》し、まとわれた衣類は白もあればクリーム色も、他者をよせつけない黒も、黄土色もある。目がちがう土地を感じた。それまでは一律の規則として顕われていたイスラームが、ここでは個々の人間として出現した。そんな手ざわり。
多様性、にもかかわらず唯一神にむかう篤信ぶり。
聖地がちかい。
活気もあったし、港湾都市ならではの湿気もあった。というか、ほとんど東南アジア的な湿度だった。もしくは猛暑の東京的な。
それがジェッダ。異教徒禁制のヒジャーズ地方の、窓口。到着した当日の夜に、旧市街のスークにむかう。時間はあまりなかったが、独りで見られるかぎり見る。第一にスパイスのにおいを感じとって、だれかの足に蹴られて転がるペットボトルを雑沓《ざっとう》の最下層に認める。人波が急いでいる。路傍には目だけをのぞかせた黒衣の女性たちがすわりこんでいる。会話する声は異様に高音で、早口で、ただパララペラペラとだけ聞こえる。目抜き通りからはずれた広場では男の子が二人、サッカーをしている。乳香売りの屋台から強烈に滲透《しんとう》的な香木のにおいが立っている。下着売り場がいっぱいある。女性用のパンツが(それはサイズが大きすぎてパンティというよりもパンツだった)屋台に陳列されている。客を呼びこもうとする柏手《かしわで》。「アーシャラ、アーシャラ、アーシャラ」と店員が数字を唱えている。どこかで爆竹が鳴った。しだいに香料の氾濫に胸を冒されて、クラクラッとする。水のない噴水。声は右手からも左手からも、前方からも背後からも、上からだってふる。建物の上部から。張りだしたベランダから。拡声器から――預言者を讃《たた》える声が、大音量で。ペプシ・コーラの自動販売機を見る。さて、なにを探そう? 土産を買う必要なんてない。そういう旅行じゃない。
頭上からふる声。そして、このジェッダの印象。
そうだ、『コーラン』。
書店を探して、感動的な聖性を目で識るための、一冊を見いだしてみよう。カリグラフィーの美に満ちた色彩豊かな『コーラン』が、手ごろな値段でみつかるかもしれない。
書店はあった。文房具屋といっしょになっている。何百種類という『コーラン』がところ狭しとディスプレイされていた。たいていは註釈《ちゅうしゃく》がついていて、イスラームの学習用らしい。純粋な本文だけの『コーラン』を探す。ついつい熱中した。なにしろ美しかった。装訂も、アラビア文字も、右から左にながれる横文字も。
没頭していたために、店内から客の姿がいきなり減りはじめたのに気づかなかった。
というか、心づいたときには店員がシャッターを閉めはじめていた。
あれ? おい、おいおいおい。強力なボリュームのアザーンが、外から響いている。そうだ、礼拝の時間だ! 礼拝ちゅうには商店は営業してはならない。時計を見る。午後七時十五分。しかし、客が店内にのこっているのに――まあ、東アジア人が一名だけだけれど――シャッターを完全におろしちゃうか?
おろしちゃっているのである。
不注意ですみません。そういう忠告はガイドのひとから受けていた気がする。あとの祭りである。おまけに店員はニコニコしている。ことばが通じない相手なのかと思ったら、十二分にしっかりしたリスナブルな英語が話せた(だったらひとこと声をかけてくださいな)。
それからかなり奇妙な会話を交わす。
「ムスリム?」
「いや、仏教徒」
いちおう仏教徒と答えなければならない。詳細を語るのは面倒である。しかし、相当にへんな顔をされる。
「なぜここにいるの」
あなたが閉じこめたんじゃないの。
「イスラームについて学びたいので。だから、ほら、さっきから『コーラン』を見ている」
やっぱりへんな顔をする。
「ところで」と話題を変える。「ほかにはどういう本があるの? サウジアラビアのひとは、どういう本を読むの?」
「あなた、アラビア語は読めないんでしょ」
「うーん、アリフ、バー、クー、サー……」
とアラビア語のアルファベットの歌をうたって誤魔化す。
すると突如、理不尽な確信を得た顔つきとなって、「英語の本を買っていきなさい」という。
「英語の? どういう種類の?」
「どういう種類に興味があるの?」
「それはですね、いやあ、物語とか」
「ある」とひとこといった。
そしてカウンターの奥から、なにやらとりだした。なんだか古書っぼい。装訂がいい感じに味をだしている。店員がとりだしたのはその一冊だけ。やはり理不尽な確信をもっているらしい。テーブルに載せられた書冊の、タイトルを読みとって驚いた。 The Arabian Night-breeds とある。うわあ、まるでバグダッドで『千夜一夜物語』に遭遇するみたいな因縁じゃないか。
このシチュエーションに、完全にゆり動かされる。
手にとれば、たしかにそれは『アラビアの夜の種族』だった。その英訳版。
午後七時三十四分、シャッターはあがった。礼拝の時間は幕をひいて、商売の時間がはじまった。もちろん、ぼくは The Arabian Night-breeds をほとんど値引き交渉らしい交渉もしないで買ってしまう。じつをいえば『コーラン』は買い忘れた。ぼくの頭脳にはどこかに鶏的な天性が巣食っている。
ふり返って想うのは(というのはこうして約一年後に翻訳をすませてだけれども)、この底本との邂逅《かいこう》の場面にはどこかに物語そのものを変奏するような、奇人都市での図書室のシーンをなぞるような雰囲気がある。一人の読者は、一冊の書物とある種の必然として遭遇する。本文から引用すれば「一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指す」ということだ。購入した時点では、むろん神秘的な力が働いているなんて感じたりはしなかった。でもシチュエーションの吉兆は感得していたと思う。つまり、めちゃめちゃラッキー! という意識でいたわけだ。その晩にホテルで読みはじめて、サウジアラビアの国内便の機内でも没頭した。序章の、満ちあふれた中世的恐怖というものに撃たれた。想像以上にタフだった。つまりレビューの類《たぐ》いから『アラビアの夜の種族』――というか「アラビアン・ナイトブリード」という通称でぼくは脳内のデータベースに入れていたのだが――に対していだいていたイメージが、実物によって覆された。たちまち。
これが拡散したのか。
無数の言語に翻訳されて。
この百五十年ばかりのあいだに。
どれくらい内容をいじってあるのだろう? 徹底的な補筆と潤色を(つまり改竄《かいざん》だ)示唆するかのように、入手した英訳版の The Arabian Night-breeds には署名がない。だんだん、気分が昂揚《こうよう》した。日本語訳がでていないことは知っていた。出版されていれば、そもそも――きっと――読んでいる。ならば翻訳してもいいってことか? つまりぼく自身が。
そんなふうに夢見て、思いついてしまったのが帰国便の機内。リヤドからダンマンを経由し、なぜかそこに三時間あまりもとどまって、まだマニラにむけて発っていなかった。夢見られてしまったものは存在をはじめる。どわッと昂揚した。いいよ、やろう。ちょっとオリジナルの長篇小説を書くのは休みたかった。四作めの著作が翻訳というのも、とってもおもしろい。
まして、それが『アラビアの夜の種族』だなんて。
そして真正の帰国の途。マニラから成田に飛んで、時計をいっきに六時間すすめる、日本時間に。それから、髭《ひげ》を剃《そ》って(そう、アラビア半島にいる二週間、ずっと伸ばしつづけてきたのだ)つきあいのある数社と交渉する。こんなの出版しません?
どうにか地盤を固めて、じっさいの作業に入ると、たちまち時間はながれた。
もう西暦二〇〇一年十月だ。すっかり二十一世紀にもなじんでしまった、あの01/09/11をのぞけば。それは同時多発テロと名づけられたのか? だれかが十字軍の譬喩《ひゆ》をだした途端にテレビを消した。新聞の配達を止めてもらって、さっきまで、物語のなかではカイロにいた。あちら側の暦に。こちら側の暦の、いつもの仕事場ではない。
ここでは。
翻弄《ほんろう》される現実に帰る。作業は終わった。やっと訳了だ。小説でいったら、脱稿だ。それとも専門の翻訳家も「脱稿」ということばをつかうんだろうか? どうでもいい疑問だが、そうした他人事みたいな問いがポンッ、ポンッと浮上する。砂の年代記とは無関係のささいな疑問が。つまり、終わったんだな、とぼくは思う。この長大な物語から離れたのだ。あとは――順調にいけば――二ヵ月後には出版。これで『アラビアの夜の種族』もいよいよ日本語訳を所有する。また一段階、拡散するのだ。深いところに、遠いところに。物語は不滅にちかづいて譚《かた》られる。
いま、気づいた。こうやって『アラビアの夜の種族』の歴史に参加し、邦訳をおこない、拡散させる意味を。ばかみたいな話だ。たったいま、やっと分別した。物語を不滅にするということばを脳裡《のうり》に浮かばせて。
ファラー?
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文庫版附記
単行本の刊行から四年と半年が経つ。当然、歳月は砂のようにながれて、あらゆる環境が変わった。ぼくは相当なリスクを内側に抱えて、この「翻訳書」を自分の四冊めの著作として上梓《じょうし》したが、迎えたのは圧倒的にポジティブな反響だった。大きな賞もいただいて、何度も版を重ねることができた。すべては望外の喜びである。
それらの、千と一つの賞讃に感謝する。
この文庫版を準備している時点で、ぼくの著作数は『アラビアの夜の種族』(の単行本版)までのそれの三倍に達した。ほんとうに、驚いてしまう。そして、この文庫版も、最初のエディションの三倍に相当する冊数となる。ご覧のように、通し番号つきの全三巻の構成で、一冊には綴《と》じられていない。綴じるのはあなたである。
あなたはこの物語を紐解《ひもと》く。ぼくは、かつて一冊であった底本の紐を解いて、増殖させた。たんにその作業にだけ努めて、ほとんど修正やら補筆やらはしなかった。本文内に「これ(=『アラビアの夜の種族』)は一冊の本である」的な記述もあるが、そこも、あえて訂《ただ》さなかった。
大切なのは、シャッフルと拡散だけである、と意識して。
読者には、この三巻めから読みはじめられてもかまわない、と告げておこう。あまりにも不敵な発言かもしれないが、順番は自由だ。読まれればそれでいい。繰り返す。紐解いているのは、あなたであり、あなただけがこの本と邂逅《かいこう》している。あらゆる夜を生きよ。
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本書は二〇〇一年十二月に刊行された小社単行本を文庫化したものです。
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底本
角川文庫
アラビアの夜《よる》の種族《しゅぞく》 V
平成十八年七月二十五日 初版発行
著者――古川《ふるかわ》日出男《ひでお》