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なめくじ艦隊
―― 志ん生半生記 ――
古今亭志ん生
目 次
まくら
三千石の孫
不忍池の主
乃木さん凱旋
一文上がり
テクッて三年
留置場で一席
羽織と芸者
女とバクチ
うちの女房
カスリの着物
なめくじ長屋
酒・酒・酒
借物を質入れ
悴・馬生のこと
吉と菊の憶い出
空気草履
ワンマンが好き
三つ笑って楽しむべく候
町内に寄席一軒
寄席の今昔
名人かたぎ
税金は払うもの
口にかかる税金
満州行
森繁久弥
敗戦とデマ
しらみで死ぬ
地獄で仏
サケタノム
恩は返せない
五代目古今亭志ん生年譜
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まくら
世の中に「なめくじ」ほど、ズウズウしくて、ものに動じないやつは、またとありませんナ。
あいつは、刃物で切ろうが、キリでつこうが、ケロンとして、ちっともおどろかない。そればかりか、切ったって一滴の血も出やしない、まったく血もナミダもねえやつで……。
そいで、いまここにいたかと思うと、いつのまにかあっちの方へ飛んでってしまう。あれはピーンととぶんですナ。ウソみたいな話なんですが事実とびますよ。
そうして夜になると啼《な》きやがる。ピシッ、ピシッとね。なめくじの啼き声なんぞ聞いた人は少なかろうが、ほんとうに啼くんですよ。あれはたしかに魔物ですナ。蛇でさえも、あれを見るてえと、にげ出しちまうぐらいですからナ……。
昔からあれを飲むてえと、声がよく出るようになるといわれているんで、たまにゃ飲む人があるけれど、それは小さいかわいらしいやつで、あれがこうでっかくなっちゃって、背なかへスジができ、うす赤くなってきた日にゃ、飲むどころのさわぎじゃない、気味がわるくってネ……。
それにあれは、食欲がとても旺盛《おうせい》で、子供らが南きん豆なんぞこぼしておくと、それを食っちまうし、大根だろうが、じゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]だろうが、手あたりしだいに、ズーッとトンネルをあけちゃって、もう食いものにはならねえ。ネコだって、あれのさわったものを食うてえと、すぐに吐いちまうんですからネ。
家のなかのカベなんぞも、あれが這《は》っていったあとは、ピカピカ銀色に光っちまうし、あれに塩をかけるてえと、まいっちまうというけれども、あたしの家のやつなんぞなめくじの王様クラスで、塩なんかかけたって、平チャラでしたナ。
あたしは、大正十二年の関東大震災直後から、本所の業平町《なりひらちよう》のびんぼう長屋にズーッと住んでいたんですが、それは六畳と二畳の二間で、家賃はタダ。むかしだって、今だって、タダより安いものはねえんですがね。家賃はタダでも、入る人がなかったんで、みんなガラガラに空いていたんでサア。そこへあたしが入ったんです。
そこいらはもと、池か沼みたいなところだったのを埋めちゃって、二十軒ばかりのバラック長屋を建てたんだが、雨がふるてえと、たちまち洪水で、あたり一面海のようになっちまう。だから、どの家のカベにも、前に水びたしになったときの型がちゃんとついているんですよ。
家賃はタダだけれども、だれだっていのちはおしい、いのちあってのモノダネてえんで、入っていた人間もつぎつぎと、どっかへドンドン越しちまう。だけど、あたしは越さなかった。イヤ、越せなかった。しんぼうづよく長いこと住んでたんです。
地面がひくくって、ジメジメと湿気が多いもんだから、ナメクジ族にとっちゃアまたとない別天地……雨あがりのあとなんざアちょうど、日本海軍がはなやかだったかつての大艦隊のように、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦と、大型小型のいりまじった、なめくじ連合艦隊が、夜となく昼となく、四方八方からいさましく攻めよせてくる。
そればかりではない、夜になると、蚊軍の襲撃がまたものすごい、ものを言うてえと、ウワーと口の中へ蚊の群がとびこむんで、口をきくのも飯を食うのも、すべては蚊帳の中というしだいで、その防戦にはイヤハヤなやまされたもんですよ。
嬶《かか》アが坐って内職をしているてえと、どうも足のカガトが痛がゆいんでね、ハッとみると、大なめくじが、カガトに吸いついている、じゃがいも[#「じゃがいも」に傍点]とまちがえやがってネ。世間ひろしといえども、ナメ君にカガトへなんぞ吸いつかれたなんていう経験の持主は、あんまりききませんナ。
この長屋風景を、徳川夢声さんが、「なめくじ艦隊」という題で、あのころある雑誌に書いたんですよ。「なめくじ艦隊」とね――さすがは夢声さん、この当意即妙ぶりには、あたしもホトホト感心しちゃった。まさにそのとおりなんですからネ。それであの題名をちょうだいして、この本の題名にしてもらったわけなんですよ。
あたしはこの世の中へ、貧乏するために生れてきたようなもんで、若い時分から、貧乏てえものとは切ってもきれねえ深い仲で、さんざ貧乏をしてきたんです。一口に貧乏というけど、それにもピンからキリまである。あたしのはそのキリの方なんで……。
だから貧乏てえことにかけちゃ、そんじょそこらの人さまに、ぜったいひけをとらねえ自信をたっぷりもっているんですよ。さしずめ貧乏の神さまから、イの一番にノーベル賞かなんかをもらう資格があるんですがねエ。
あたしはちょうど、うちにおったなめくじ[#「なめくじ」に傍点]みたいに、切られようが突かれようがケロンとして、ものに動ぜず、人にたよらず、ヌラリクラリと、この世のなかの荒波をくぐりぬけて、やっとこさ今日まで生きてきたんですよ。
きょう食って、あす食うものがなくなっても、あたしはさほどあわて[#「あわて」に傍点]なかったし、なげき[#「なげき」に傍点]もしなかったんですよ。また、お金持ちをうらやんだこともないかわりに、貧乏をはずかしいと思ったこともさらさらねえ。今でも貧乏時代の味がなつかしいんですよ。
人間てえものは、ほんとうの貧乏を味わったものでなけりゃ、ほんとうの喜びも、おもしろさも、人のなさけもわかるもんじゃねえと思うんですよ。
この本は、いわばあたしが生きてきた六十年の貧乏物語なんです。あたしにとっちゃアなつかしいことだけど、ひと様には馬鹿馬鹿しいことでしょうが、まア、お退屈しのぎにこれを読んで、志ん生を笑って下さい。
昭和三十一年六月
[#地付き]古今亭志ん生
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三千石の孫
あたしは生れつき、ウソてえものが大きらいなんで……だから、ウソと坊主のアタマだけはまだ結ったことがないんです。
みなさんの中には、これからあたしのいうことを、とかく噺家《はなしか》てえものは、おもしろいことをしゃべって人を笑わせるのが商売だから、志ん生も、大福もち[#「もち」に傍点]のことを、お正月のかがみもち[#「もち」に傍点]のようにいってるんじゃねえかと、もち[#「もち」に傍点]がえられちゃ残念だから、まずはな[#「はな」に傍点]にことわっときますが、あたしのいうことには一分一厘ウソはねえ、かけね[#「かけね」に傍点]なし、正真正銘のことをいってるんですから、そのおつもりで読んで下さい。
あたしの本名は美濃部孝蔵てえんです。親としちゃあたしに、孝行させるつもりで、孝蔵なんてつけてくれたでしょうが、恥かしながら、孝蔵のコ[#「コ」に傍点]の字ほども孝行せず、ガキの時分から手のつけられねえ親不孝もんだったんで、ついに親から勘当され、いろんな道楽のかぎりを尽し、とうとう親の死に目にもあえなかったというしだいで、自分が親となった今日、今さらながら何ともハヤ申しわけないことをしてしまったと、つくづく後悔してるんですよ。
今となってどんなに後悔してみたってしようがねえから、せめてこの本のなかで、あの世の親父とおふくろに、親不孝のおわびをしたいと思っております。だから、ウソなんぞいえるわけがねえ。ただモウあたしはおがむような気持なんですよ。そういうわけでこの本は、あたしの貧乏物語であると同時に、ちっともいつわりのねえざんげ[#「ざんげ」に傍点]話でもあるんです。
あたしの生れですか、神田なんですよ。明治二十三年の六月五日、いまの五軒町を右へ入った亀住町で生れたと、戸籍にちゃんとのってますから、これでもあたしゃア、まぎれもねえ江戸ッ子てえわけなんですよ。
ところで、あたしのおじいさんという人は、徳川の直参《じきさん》で、槍の指南番をやって三千石の知行をとっていたんです。このことは「旗本武鑑」てえ本に出ていますけどね。小石川の水道橋に住んでいたんです。
あたりまえの話なんですが、そのおじいさんのセガレがあたしの親父なんです。親父はそういう武家の家柄に生れたのに、相当な道楽もんで、サムライのくせに表へ出るてえと、着物や大小をどっかへあずけて、頭髪《あたま》をなおして、町人の格好をして遊んでたというんです。
親父は、初代の「ステテコの円遊」という噺家と友達で、その円遊(本名・竹内金太郎)も小石川に住んでたもんだから、「金ちゃん、金ちゃん」とよんで、一しょに寄席の楽屋なんぞへ出入りしていたんです。だから、サムライのなりじゃ工合がわるい、そいであたま[#「あたま」に傍点]をなおし、大小をあずけといて行ったんですよ。
そのうちに、ご維新になり廃刀令や斬髪令などが出て、サムライはチョンマゲを切って、刀を差さんでもよいことになった。そして徳川直参の者だけに、いままで禄をとっていたものが、それがなくなってしまっちゃ、さしずめ食うに困るだろうから、なにか商売でもやれてんで、身分に応じて金がおりた。あたしのところへは八百両おりたんですよ。
そのころのゼニは、まだ「円」でなく「両」といったんですナ。とにかく明治になってかなり経った頃でも、上野広小路あたりの地所が一坪タッタ五銭だったのに、それでも買い手がなかったというくらい、物の安い時分の八百両ですから大したもんですよ。今ならどのくらいの金額になりますかナ、見当がつきませんや。
とにかく、この金で本郷の切通の岩崎邸の向う側、いまでも「猿あめ」てえあめ[#「あめ」に傍点]屋があるはずですが――そのころ子供が生れてお宮詣りの時、知恵が早くつくてんで、あすこであめを買ったもんですよ。猿があめの袋をもっている看板がかかっていたが、サア、戦争で焼けちゃったかナ、その横町へ家をたてて、親父たちが住んでいました。
親父は、その時分、警視庁へつとめていたんですが、明治になるちょっと前か明治になってからか、ちょっとハッキリしませんが、横浜なんぞへ外人が来るてえと、それに護衛をつけたもんです。親父はそれをやってたんですナ。
それからこんどは、巡査になっちゃって、棒みたいなものを持って、歩いていたんですよ。サムライあがりのもんにゃ、うってつけの仕事だったんでしょう。巡査てえものがサアベルをつけるようになったのは、それからあとのことですナ。
なにしろ、その時分から警視庁にいたんですから、ずいぶん永いんで、年金というか、それがあったんで、くらしは楽のほうだったんですよ。
で、あたしは五人兄妹で、女が二人男が三人。ところが四人の兄妹は二十五、六か三十くらいで、みんな早く死んじゃって、あたしひとりだけ残っちゃった。親ゆずりというもんか、死んだ男の兄弟も、いずれおとらぬ道楽もんでしたが、あたしがまた、それに輪をかけたような道楽もんで、十一、二の頃だったんですが、親父の年金の証書なんかを持ちだして、それを抵当《かた》において金を借り、みんな使っちゃったりして、大そうどうをおこしたんです。親父が怒る、おふくろが泣く、いやはや大へんなさわぎ……。
あたしだって、なにもそんなに親不孝をするつもりじゃなかったけども、こういう商売へ入るてえと、つい親不孝になっちまうんですよ。というのは、あたしは十二、三の頃からほとんど親たちのそばにいなかったし、ろくでもない仲間がいたんで、とうとうそういうふうになっちまったわけなんです。
だから、こういう商売に入ったために、へんにぐれて、親不孝になったというんじゃなく、さんざ道楽したあげく、どうにもこうにもしようがねえんで、生きていくためにズルズルとこの商売に入ったというほうが当っているでしょう。
なにしろあたしは、もう十三、四の頃から遊びにはいくし、バクチはうつ……そのうちに神田から浅草へ引っ越しましてね。その時分にも浅草には、あやしげな銘酒屋なんてものがあって、箸《はし》にも棒にもかからねえようなやくざ者がウヨウヨしていたんです。そういう環境なんで、ろくなことはおぼえない。十三、四の頃から酒屋の前へ突ったって、ひや酒をマスからガブガブと飲んだんですから、末おそろしい子供だったんですよ。エエ、その頃は酒屋でも平気で酒をのませてくれたんですよ。子供にだって……。
ただタバコをすってるのを、お巡りさんに見つけられると罰金をとられちまう。どうしてタバコがいけなかったかというと、子供の時分にタバコをのむと、ものおぼえが悪くなるからてんじゃなかったでしょうか。とにかく未成年者にはタバコを売ってくれなかったんです。
あたしは子供の時から酒が大すき、その上に十四、五くらいから賭場《とば》へ出入りして、バクチを打ち、スッカラカンに負けちゃって、ハダカでスゴスゴ家へ帰ったことも、たびたびあったんで、親父が怒ったのも無理はありませんや。
親父だって相当な道楽もんでしたけれども、そこはそれ、まだチョンマゲを切ったばかりだから、サムライの気分がぬけちゃいない、それに槍の方もちょっとウデにおぼえがあるんで、だれにもグズッともいわせない。余計なことでもいおうものなら、槍玉にあげてやるっておどかされるから、みんなちいちゃくなっていたんです。
ある時あたしが、親父が大切にしているキセルを持ちだして売っちまった。その頃はみんなキセルに金をかけたもんで、親父もいいのを持っていて、時々それを出して悦にいっていたんです。そいつも売っちゃったんだから、親父は烈火の如く怒ったんです。
あたしは、ナーニ分るもんかと、たか[#「たか」に傍点]をくくって知らん顔をしていたところが、とうとうバレちまった。巡査だけに、目がきいたんですナ。
それは真夏のことで、あたしが猿又ひとつで昼寝していると、そこへおふくろが青くなってとんできて、「おにげッ、おにげッ」という。ビックリして飛び起きた。やっぱしスネにキズをもってるからカーンときた。「お前があんなことをするもんだから、お父さんはとっても怒ってるよ。グズグズしていると、本当に槍で突っ殺されちまうよ。あのいきおいじゃ!」
と、せき立てるけれども、真っ裸だから遠くへ逃げるわけにゃいかない。しようがねえから裏口へ飛び出て、ビクビクしてると、そこへおふくろが着物をもって来てくれたんです。親父はふだんから、
「――昔ならば、とうにおめえなんか槍玉にあげちゃう奴なんだけれども、こういうご時勢になっちゃア、それもできねえ……」
となげいていたし、それに親父の気性じゃ、こりゃアやり[#「やり」に傍点](槍)かねねえと思ったんで、戸のすきまからソーッとのぞいて見ると、親父はなげし[#「なげし」に傍点]から長い槍をおろして、こわい顔をしているんですよ。こりゃア、ほとぼり[#「ほとぼり」に傍点]がさめるまで当分、家へ寄りつけないわいと思ったから、あっちこっちの友達のところに居候をしていたんです。
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不忍池の主
あたしの子供の時分は、ハダシで外を歩いていると罰金をとられたもんです。往来で立小便をしているのを巡査に見つかるてえと、これも罰金。また、肌をぬいで歩いていても罰金、往来ばかりじゃねえ、人の大ぜい集まってるところでは、家の中だって、肌をぬいでいるてえと、罰金をとられちゃったもんですよ。
だから、こんな話があるんです。ある噺家《はなしか》が、高座でもって雪の話をしていたところが、服をぬいで聞いていたお客さんが、あわてて肌をかくした。噺家は、ハハア……おれの噺が真にせまっていたのだナと、喜んでいたところが、そうじゃねえ、うしろへ巡査が入ってきたからだったというんです。
とにかく、こういうことは今よりも、もっともっとやかましかった。それというのは、ご維新後、どんどん文明国の人間がやってくる、日本はそういう国の仲間入りをするためにお行儀をよくして、向うの人にバカにされたくなかったからでしょうナ。
ところで、あたしが七つ八つぐらいの時には、今の上野鈴本亭という寄席が、向う側にあったんです。円朝だとか、そういう大家がかかっていた時分のことです。あたしはその頃、おやじなんかにつれられて、よくその鈴本亭へ行ったことをおぼえているんです。
今の松坂屋のところには、もっと裏っ側の方に、伊藤松坂屋てえのがあって、紺のノレンがぶらさがってて、お客が入って反物なんぞ見てたんです。店には大番頭だの中番頭だのがおって、小僧に呉服物なんぞを持ってこさせて売ってました。今のようにズラリと品物がならんでいて、お客が勝手に見たんじゃないんです。そうして、そのころ一円以上の買物をした人にはちゃんとお膳が出てご飯なんぞ食べさせたんです。当時の一円は大したもんだったんですね。
その頃は今みたいに、ほかにゃ店らしい店なんぞありゃしませんからね。それにあの辺は夜になると真っ暗なんでちょうちん持たない人は、あんま[#「あんま」に傍点]さんみたいに手さぐりで歩いていたんですからね。いま考えると、まるで夢みたいな話なんですよ。
その頃、下谷《したや》にはイヨモンとかいう名代の料理屋があって、その店に雁鍋《がんなべ》というのがあったんです。雁がとんでる絵を木彫りにして、店の前にかかげちゃって、それが今の上野の山の下の所にありました。
現在の上野の不忍池は、もっとずっと広くって、山のふもとまで水がきていました。弁天堂がひとつ真ん中にあるきりで、今の神明町の方へ行く電車が曲っていくとこまで池があって、あの池の水があふれて、あすこのとこに滝がおちていたんです。それからあすこの三枚橋――三橋《みはし》といった橋の下に流れていたんです。だから、まるっきり想像もつかん話なんですよ。
そして、あそこから流れて行く所を忍岡《しのぶがおか》といって、その上に橋がかかっていて、料理屋なんぞがたくさんありました。その流れていくところに、立花様というおやしきがあって、そこから三味線堀――三味線の形になっている堀へ流れていったんです。
そこいらに三筋町《みすじまち》という町があって、三味線堀のすぐ側に、流星座という芝居小屋があり、二流どころの役者がかかっていたんです。そして、そこはずっと市場になっていました。その頃の下谷は、そういうような所で、今の上野公園なんてものは想像もつかないようなさびしい所で、ウワバミが出るというウワサがあったぐらいで、親たちは子供を上野の山なんぞへ遊びにやらなかったもんですよ。
今でいえば青年団の連中が、そのウワバミを退治しようてんで、山を包囲してさがしたけれども、そのときは、すがたを見せなかったということがありました。
けれども下谷てえところは、なかなか景色もよく風情のあるいい所でしたね。今はあんなにあんなにたくさん家が建って、むかしのおもかげなんぞありゃアしませんけれど、むかしの不忍池なんてものはなかったですね。蓮《はす》の花が、池のおもて一ぱいに咲いていて、その蓮の葉かげに、大きな鯉が白い腹をひるがえしているのを見るてえと、何ともいえないいい気持でしたね。そして上野の山でつく鐘の音が、不忍池へひびきわたって、暮れがたの風情なんてものは、すばらしいところでしたよ。
そのころ、弁天様の池の主が、龍だなんていっていましてネ、不忍池のまん中に井戸があったんです。その井戸の中に龍が棲《す》んでいるといわれていましたがネ。ところがこの池が一ぺんかい[#「かい」に傍点]堀になったことがあるんです。そのちょっと前に、俥屋《くるまや》があすこを通っていたら、年の若いとてもきれいな女があらわれて、
「俥屋さん、印旛《いんば》沼まで行ってくれませんか?」
という。俥屋はおどろいた。印旛沼てえと、千葉県の佐倉の方ですからね。
「とんでもない。そんな遠いところへなんかいけませんよ」
といったら、女はこぼれるような笑顔をしちゃって、
「そういわないで行って頂戴よ、お金はあなたのお望みどおり上げますから……」
俥屋はスッカリ悩殺されちまって、その女を俥にのせて、とうとう印旛沼のそばまで曳《ひ》いてって、女を俥からおろしたところが、
「実はあたし金もっていませんから、その代りにこの櫛《くし》を持って、下谷のこういう薬屋へ行き、これを出して、お金をもらって下さいナ」
という。俥屋はちょっとガッカリしたけれど、来ちまったんだからしようがねえ。それをもらって帰ろうとしたところが、ドブーンと音がしたんで、ヒョイと見たら、女は印旛沼へ飛びこんじゃった。そこで俥屋は東京へ帰り、その薬屋へ行って、くわしく訳を話したところが、
「なるほど、そうですか……」
てんで、薬屋がその包みをあけてみると、櫛じゃなくて、大きな鯉のコケラが入っていた。この薬屋はたいへん弁天様を信心しておったんですナ。で、その弁天の池がかい[#「かい」に傍点]堀になるてえんで、池の主だった鯉が人間にすがたをかえて、印旛沼へ逃げていったんだろうというわけで、薬屋は五円の金を俥屋にくれたんだそうです。
その時分だったら、下谷から印旛沼までだと、せいぜい五十銭から一円くらいが相場だったんでしょうから、五円とは大フンパツですよ。
ところで、その薬屋では、さっそく庭へお宮をこさえて、その鯉のコケラを祀《まつ》ったんです。あたしは八つくらいの時に、それを見に行ったんですが、新しい小さなお宮が出来ていて、たいへんなお供物がそなえられ、たくさんの人がお詣りに行ってました。それはたしかお祭りのときで、そのお宮は今でもそこにあるはずですよ。
ですから、不忍池の主は龍じゃなくって鯉だったということですがね。で、その鯉が昇天するてえと、その近所へたいへんな魚が落ちてきたなんかいってました。つまり鯉が天へのぼるてえと、ほかの魚もそれにくっついて一しょにのぼろうとするけれども、そういかないから、パラパラ落ちてくるんだといってましたがネ。
神田で生れたあたしは、七、八つの頃、よく上野へやってきて、ずいぶんいたずらをして歩いたもんですが、上野界隈てえものは、とてもおもしろい所でしたよ。不忍池で魚を釣ったもんですが、木綿糸みたいなものに、ミミズをくっつけて釣るといくらでも釣れるんです。ところが山番てえのがいて、魚を釣るとおこるんで、山番がやってくるとどんどん逃げちまう。あの辺はズーッと原っぱみたいな所で、バッタとか、赤ガエル、ヘビなんぞ、いくらでもいましたからね。よくトンボもとったんですが、そのトンボだって貧弱なトンボじゃない。「泥棒ヤンマ」なんてのがいましてね。泥棒ヤンマといって、物をとるわけじゃないけれど、たいがいトンボてえものは、家が開いていたりすると、スーッ、スーッと家の中へ入ってきて、また入ってきたところからスーッと出ていっちゃう。ところがその泥棒ヤンマてえのは、人の家をスーッスーッと通りぬけやがる。だから、そういう名前をつけたんですがね。
それから、「お車トンボ」てえのがいたが、そいつはお尻のとっつきに車がついているんですよ。それから「お歯黒トンボ」、これはお歯黒みたいな色をしていました。蜘蛛《くも》にしたって、「花魁《おいらん》グモ」てえのがいたんですが、それはとてもきれいな手の長いクモで、腹のところが桃色になっていて、実にみごとなクモでしたよ。
そういうのを、手あたりしだいにつかまえて、友達同士でクモとトンボに相撲をとらしたりして遊んだもんです。そんなふうで、その頃の子供の遊びてえものは、今の子供の遊びとは、まるっきりちがっていたんですよ。
それから下谷には、佐竹というところがあって、佐竹ガ原には、たいていいつも見世物があったんですが、「でろれん祭文」てえのが来て、宮本武蔵だの荒木又右衛門などを聞かしてくれたんですよ。ホラ貝を吹いたりして、しゃべってるが、面白いところになるてえと、「どうだい、ここんとこは面白いところだから、ちょっと飲み代《しろ》を、いただこうじゃアねえか……」
てなことをいって、客の中へ出る。別に木戸銭をとってるわけじゃねえから、そういう工合にして金をあつめるんです。そうすると、あたしたちは、スッと逃げちゃう。そうして金あつめが済んだのを見はからって、また入っていったんです。
それに玉ころがし――赤、白、青、黄などの玉がズーッとならんでる。赤なら赤のところへ一銭のっけていると、玉ころがしのおやじが玉をこっちへよこす。そうすると向うにもまた赤、白、青、黄の穴があるんですよ。で、自分が赤なら赤の玉をコロコロところがして、それが赤の穴へ入るてえと、反物が一反とれる。ところが、それがなかなか入らない。もっとも一銭でもって、反物を一反ずつとられたんじゃ商売になりませんがね。どういうものか、まん中のところで玉がまごついちまって入っていかないんですよ。
そうすると、おやじがまた玉をぽんと返してくれる。そのときおやじは「ドンタクだよ」という。その時分、仕事に行こうとして、気がすすまんので、帰ってきたりすると、「なんだい、今日はドンタクか」という言葉が、はやっていたもんです。だから土曜日は半分休むんで「半ドン」というんですな、ドンタクということばは、スペイン語だそうだが、スペイン語の半ドンもすっかりすたれちゃいましたナ。
上野の昔ばなしをしているうちに思い出したんですが、いまの松坂屋の横へちょっと入ったところに、「青石横町」というのがあったんです。なぜ青石横町といったかというと、そこんところにタタミ二畳くらいの大きな石があって、雨が降って泥がどんどん流れちまうと、下から青いその石があらわれてくる。実にきれいなもんでした。それが天気になるてえと、泥やホコリなんかで分んなくなっちまうんです。その石を掘りだした人もないんでしょうから、今だってそのまんまあのへんの土の下に石のタタミがあるんじゃないですかナ。くだらねえ詮議《せんぎ》だてなんですけど……。
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乃木さん凱旋
いまの精養軒というのは、東照宮の方へ上っていくところに鳥居があるでしょう、あの手前のところへ出来たんです。やっぱりあたしが八つか九つの頃なんですよ。
その頃からですナ、日本にそろそろ西洋料理てえのがあらわれたのは……。そのころの日本は文明開化てんで、なんでもかんでも西洋のまねばっかりしたもんです。舶来てえものが、おそろしくハバをきかせたもんですよ。当時、英語なんぞをちっと知っている人間は、ほかに何にも能がなくても、ただそれだけで、りっぱな官員さまになれたんですナ。
そのころ、あたしたちの仲間で、ライスカレーを食ったために、給金をさげられた奴がいるんですよ。その男は今では一流の芸人になってるんですけれども、彼の名誉のために名前だけはヒミツにしときましょう。
その時分、ライスカレーがいくらだったかナ? たしか八銭くらいだったでしょうが、八銭といやアたいしたもんでしたからナ。だまっていれば分りゃしねえのに、そういうハイカラなもんを食うてえと、人に自慢したくなるのが人情でね。やたらに人に話したもんだから、「あいつはライスカレーてえのを食ったそうだ……」という評判がパーッと立っちゃったから、もう取りかえしはつかねえ。
「前座のくせに、西洋料理を食うなんて、思いあがった了簡《りようけん》だ。それというのも給金を余計にやるからだ。けしからん奴だから給金を下げろ……」
てえんで、グッと給金をさげられちゃったんですよ。そのころ彼の給金は十五銭くらいだったんでしょうが、その半分以上をつかって、ライスカレーを一ぱい食ったんですから、まア度胸もよかったわけですな。
食った方だって、ただモウ舶来のハイカラなものを食ってみたいという、ちょっとした出来ごころなんですから、それを食ったために給金をさげるなんて、本人がかわいそうですよ。「これからは、そういうものを食うんじゃないよ」と、注意するぐらいで、なにも給金までさげなくってもよさそうなもんですよ。
そのころは、よっぽど金持ちか、えらい人でないかぎり、普通の平民じゃ、西洋料理なんてものは食えるもんじゃねえとあきらめていたんです。ライスカレーなんて大へんなもんでしたからね。そのうちに、だんだん洋食てえものがはやってきた時分でさえも、だいいち食べ方を知らねえし、値が高いんで、あたしたちの仲間じゃ手を出すものはなかったんです。
カツレツなんてものは、よく広告やなんかに出てましたから、名前だけは知っていましたけれども、実物にお目にかかったものはめったになかったんです。西洋料理のことを洋食といい出したのは、ずっと後のことなんですナ。
日露戦争がすんだとき、凱旋門てえのが上野にできたんです。いまの博物館のちょうど入口のところでしたよ。日露戦争で大勝利をしたてえんで大したさわぎでした。
そのとき東郷さん、乃木さん、大山さん、黒木さんというような偉い人がたくさん凱旋してきたんです。その頃は自動車なんぞ日本には一台もなかったんですから、馬車だったかナ、なんかに乗ってズーッと通っていくのを、あたしたちは日の丸の旗をふって「万歳、万歳ッ」ってやったことを、よくおぼえてます。
それはとてもいい天気の日で、東郷さんなんて、胸の勲章と金モールでまぶしくって、見てられませんでしたよ。あたしはそれを見て、「ああ、日本てえ国は大したもんだナ」と子供心に思いましたね。子供でさえそう思ったんですから、大人は熱中しちゃったにちがいありませんナ。なにしろ日清戦争に勝って、また日露戦争に勝ったんですから、「日本ぐらい強い国は、世界にないだろう」と思ったんです。
あたしは、下谷の小学校へいったんです。その時分は尋常四年まであったんです。それから高等一年になって、高等四年で卒業したんですナ。
あたしなんぞ、尋常四年を卒業するまぎわでもって、学校を退校させられちゃったんです。品行がよくないってんですよ。そのころは、尋常四年ぐらいまで行けばいい方で、たいがいの子供は十一、十二になるてえと、どっかへ奉公にやられてしまったもんです。あきんどの家へ小僧に行くとか、なにか手に職をおぼえるとかでね。
だから、高等科へ入れてちゃんと卒業するまでやらせる家なんてものは、よっぽど家庭のゆたかな家だったんです。あたしは十一のとき奉公にやられましたがね。ちっとも辛棒しないで、すぐ出てきちゃいましたよ。何軒も何軒も奉公にいって、みんな逃げて来ちゃいました。いや、もういろいろな商売家へ行きましたがね、長くいて一週間、たいがい三日か四日ぐらい、どうかするてえと、つれてってくれた者よりも、一足先に家へ帰っちまうこともあったんです。よっぽどやんちゃで、どうにもこうにも手のつけられない子供だったようですナ。なぜそんなに親たちのキモをやかせたのか、今だってわかんないんですよ。
そんなぐあいで、家から近いところへ奉公にやったんじゃ、どうしても居つかないからてえんで、おやじと兄貴で相談して、あたしを朝鮮へやっちまったんです。その頃朝鮮へ行くなんて大変なことだったんですよ。朝鮮へやったら帰ってこないで辛棒するだろうてえんでね。
で、あたしには朝鮮なんていわない。いろんなうまいことをいって、汽車に乗っけられちゃったんです。汽車にのってどけどんどん行くが、いつまでたっても降りられない。やっと降ろされたのは、今で思えば下関ですよ。そこで一晩泊って、あくる日に船に乗せられちゃった。「ありャおかしいぞ、どっか遠くへやられちまうんだな?」と思ったときはモウ手おくれで……。とうとう京城の印刷会社へつれていかれちまったんです。
その印刷会社で小僧を募集したんですよ、あたしばかりじゃない、ほかにあたしぐらいの小僧が五人と、大人も四、五人行きましたがね。今から五十何年前のことで、その時分の朝鮮なんてものは、なっちゃいなかったんですよ。それに寒くて寒くてしようがねえ。あたしが子供だと思って、だましたのが腹がたって腹が立って……。
「チキショウ、こんなところへ連れてきやがって、ようし、意地でも帰ってやろう……」
寒いし、くやしいし、あたしゃ初めから辛棒する気になれない。だから、用をいいつけられても何もしないもんだから、向うでも手こずっちゃったんですよ。社長だったか何だったかが、
「お前は、どうしても、ここではたらくのはいやなのか?」
「エエ、いやなんです。早く東京へ帰してください。帰してくれなきゃ、あたしは死んじまうんだから……」
てえんで、三日も四日も、めしを食わなかったんです。そうするてえと、向うでも預かってきた人間にもしものことがあっちゃアてんで、
「そいじゃ帰してやる。が、お前ひとりで東京まで帰れるかい?」
「エエ、ひとりで帰ります」
てんで、京城から東京まで、たしか十五円か十六円かもらって、東京行の切符を買い、帰ってきたんですよ。
「やれやれ、朝鮮だから帰ってくるきづかいはない」と、おやじなんかが、ホッと一安心しているところへ、あたしがヒョックリ帰ったんで、みんなビックリしましたよ。
もともと、おふくろは、そんな遠いところへやるのは可哀相だといってとめたんだけど、おやじと兄貴が、あたしを内地においては、ろくな者にならんからてえんで、朝鮮へやったんです。それからてえものは、おふくろの言うことは聞いても、おやじや兄貴の言うことはききたくなくなった。そんなわけでもう奉公にもゆかず、ゴロゴロしてるうちに、とうとう家をとび出すようになり、しだいしだいにぐれ[#「ぐれ」に傍点]ちまったんです。
だから、今になってこうして自分の子供を見ておりますと、親として考えさせられることがたくさんありますよ。とにかく、あたしにくらべると、家の子供なんかおとなしいもんだナと思います。時代がちがいますけれども、その頃の子供てえものは、今の子供よりずっとませ[#「ませ」に傍点]ていたんじゃないかと思うんですナ。あたしなんぞ、周囲がいけなかったもんで、特にませちゃったんです。やっぱし当時は下町の子供ほど、いろいろ大人のいうことすることの悪いところを覚えて、ませていましたね。
まして、あたしなんぞは七、八つの頃から、家のものにつれられて寄席なんぞへのべつ行った。寄席へ行くのをなんで喜んだかてえと、何か買ってもらえるからなんです。人の中でねだるもんだから、親は仕方なしに買ってくれる。それをよいことにしてますますねだる。そういう悪い習慣がついてしまったんですよ。いちどそういうくせがつくてえと、ちょっとやそっとで治るもんじゃねえんですよ。
あたしの子供時分のことを、いまじっと目をつむって考えてみますと、人いちばいきかん坊だったし、それにサムライあがりの親父がきびしすぎたもんだから、家てえものがあんまり居心地がよくなかった。そのために自然そとへ出てブラブラする。おまけに浅草みたいな土地で、ロクでもない人間がウヨウヨしていたんで、知らずしらずそういうものからよくねえ感化を受けちゃって、ズルズルと道楽もんの世界へ足をふみこんでいっちゃったんです。
親父がきびしいことも、おふくろが甘いこともほどほどでなくちゃいけないし、子供のころの環境てえものは、考えてみるとおそろしいものだナと、つくづく思ってますよ。
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一文上がり
あたしが家をとびだした頃、友達の一人ですが人形町に、橘家円喬《たちばなやえんきよう》という落語家のタマゴみたいなのがいて、そのころの名人といわれる噺家《はなしか》の俥《くるま》をひいていたんです。その円喬があたしに、
「おめえ、噺家になったらどうだい?……」
「ウム、じゃアひとつやってみようか……」
てえんで、いきなりこの世界へ入ってきたんです。
あたしは、前にもいったように、子供の時分からしょっ中、寄席へいってたんで、噺なんざ下手な噺家なんかよりも、ずっとよく知ってました。それでよくなんかの催し物なんかがあると、一席やったりしたもんですよ。するとみんなが、
「おめえが噺家になったら、きっと売り出すぞ、やれ、やれ……」
なんて、よく言われたもんです。そんな風だったのだから、噺家ぐらいわけはねえてんで、この道にとびこんだわけですが、さて、なってみるとはた[#「はた」に傍点]でみていたような生やさしいもんじゃないんです。わかってくるにつれて、だんだんむずかしくなっちまいましてね……。
この商売てえものは、上の者からも、楽屋のものからも可愛がられて、引きあげてもらわなくちゃ、とてもうだつ[#「うだつ」に傍点]は上がらねえということを、この商売に入ったとたんに、みんなからこんこんと言われたんですよ。どんな辛いことがあろうとも、一文上がりの商売なんだから――一文上がりというのは、給金が一厘、二厘と順に上がっていくから、そういったもので、その時分、前座から今度かけもちをするようになって二厘ですよ。お客の頭数が一|束《そく》(百人。噺家の符牒《ふちよう》で百を一束という)くると、二厘とってるものは二十銭、三厘ならば三十銭、五厘ならば五十銭になるわけです。それを「割り」といって、五厘とるようになると、真打《しんうち》の部に入るんです。
ところが、そうなってくると、つきあいが多くなって、いちばん苦しいんですよ。むかしの軍人でいえば少尉ですね、「少尉貧乏」ということばもあったくらいで……。つまり、出役《でやく》といって、どこかに何かの披露目《ひろめ》でもあるてえと出られるんで、思わぬ金が入ってくるけれども、そうなるとなり(服装)だって、ととのえなくちゃならない。たとえどんな変なもんでも、やわらかい[#「やわらかい」に傍点]もんを着なくちゃいけないし、たまには、楽屋の連中に、そばの一ぱいもふるまわなければならんし……。
それだけではなく、そのころ真打になるてえと、俥に乗らなくちゃならない。テクテク歩くわけにゃいかなかったんですよ。どこでも寄席のわきには、みんなの乗ってきた俥がズーッと並んでいて、高座をつとめるてえと、自分の俥屋の待っているところへ行って、腕組みをしてツーッとそれに乗る。だれがみたって、いい商売だなアと思いますよ。
ところが本当は俥なんぞに乗るどころじゃない。電車に乗るのも心ぼそいふところ[#「ふところ」に傍点]工合なんですよ。正直のところ歩いて行きたいと思うこともありました。でも、俥に乗らなきゃならねえおきてなんだから仕様がねえ。
夜になるてえと俥屋がむかいに来る。自分のはんてん[#「はんてん」に傍点]を着せて、ちょうちんをつけましてね。それで当時七十銭ぐらいとられたんですよ。一晩に……。その俥屋は昼間は自分でかせいでいて夜だけ専属になってくるんです。その七十銭がなかなか払えないんです。というのは、自分がとるのは六十銭くらいですからね。俥屋にとられちまうと、自分は食わずにいなくちゃならない。
けれども、俥をおりるわけにいかない。だから、俥屋に七十銭払うところを、
「すまんが、ちょいと二貫(二十銭)貸しといておくれ……」
てんで、五十銭だけ払っておく。が、それがだんだんたまっちゃって、俥屋にたいして気がねをしなくちゃならねえんですよ。はな[#「はな」に傍点]のうちは、「オイ、早く俥をもってこないか、何をグズグズしてたんだ――」
てなことをいったのが、
「ああ、すまないナ、きみ――」
と、お世辞のひとつも言わねばならぬ。俥屋の方にしても、はなのうちは「師匠、師匠」といってたのが、あんまり俥代がたまってくると、
「しようがねえなア、こっちだって道楽で俥をひっぱってるわけじゃねえ、苦しいんだから」
なんて、聞えよがしに不服をいったりするようになるんです。
そんなあんばいだから、こっちのふところは火の車で、着物なんざ、夜、高座へ上がる着物よりほかに一枚もありゃしません。まったくの一枚きりだから、昼間はきたねえ半てんかなんかを着て、その着物をたたんで座布団の下へ入れ、自分がその上に坐って押しなんかしているような始末なんで――。
そういうふうでやっているのが、ほんとうに売れてきて、いい大看板になってくると、それまでの苦労がいくらか抜けてくるんですけれども、そういうのは指を折るだけの人で、まア三百人いる中で、せいぜい三人か五人でしょう。あとのもんはのべつそういう苦しみをしていかなくちゃならないんですよ。
一文上がりというと、一文でも自分より給金の上の人には、タテをつくことはできない。何ごとにかぎらず、ご無理ごもっともでいなけりゃならない。腹のなかでは「コンチキショウめ!」と思っても、その野郎をとっちめたり、仕返しをするためには、自分が売れてきて、位置が上にならなければどうにもならないんです。円朝という師匠が弟子たちに、「恩を仇《あだ》で返すということがあるけれども、この商売では逆に、仇を恩で返さなくちゃならない。仇をうけた人間に恩でかえすんだ――」
と、よくいいましたけれども、自分がさんざいじめられた人間に対して、自分がその人より位置が上になってきたとき、たとえばどっかへめし[#「めし」に傍点]でも食いに行くような場合、「いっしょにおいでよ」というふうに言って、その人間に心の中で、
(自分はこの人にこれまで、こんなひどいことをした、悪かった!)と、自然にさとらせるように仕向けることが、一種の仕返しというわけですが、自分の位置が上がってくると、
「おめえ、おれに、こういうひでえことした覚えがあるだろう?」
と、うらみ言をいって、ウップンを晴らすことはよくあることですが、そういうことは、この世界ではいけないというわけなんです。
けれども、あたしなんザ若かったもんだから、そいつががまんできない。さんざんやられて、ウラミ骨髄に徹している奴に対しては、いろいろとやりましたよ。
むかし五軒町に日本亭という寄席がありました。いまは映画館になっていますがね。そこで、あたしの上に立っていた野郎が、お話にならん悪い奴で、シャクにさわってしようがない。あたしゃア、がまんにがまんしていたが、どうしてもがまんできなくなった。そこで、そいつを殺しちまおうと肚をきめたんです。そいつを殺しておれも死んじまおうとね――。それで小刀をふところにしのばせて楽屋へ行ったんですよ。
そして、帰りにやっつけちまおうと思って、いっしょに表へ出るてえと、そんチクショウ、その晩にかぎって、いやに親切らしいことをいやがる。野郎に虫が知らせたんでしょうね。なにかいってることが、バカにやさしくてね。「チキショウめ!」と思ったけれども、とうとう殺すことをやめちゃったんですよ。そいつも生き運があったんでしょう。あたしもあとになって、「ああ、やめてよかったなア」と、つくづく思ったんですよ。
あたしたちの世界では、そんなおぼえ[#「おぼえ」に傍点]はあたしばかりじゃない。だれでもみんなある。相当になってさえもそれがあるんですからね。それでがまんの出来ない奴が東京をとび出して、旅にまわって行方知れずになったり、旅先で死んじまったりしてしまうんですよ。
だから、この世界で生きぬくためには、一にも二にも辛棒ですナ。そして自分の腕をみがくこと、これ以外はないんです。上の者だって、みんなそうしてやって来たんだから、自分もそうしなければならないという堅い信念でもって、辛いことにも堪えしのんでゆく、それが一つの勉強になるわけですよ。
相撲なんざア、その修業はひどいもんで、しょっちゅうポカンポカンとひっぱたかれるんですよ。それを歯をくいしばって修業する。そうして、強くなってくれば、とたんに立場が逆になっちまう。とにかく相撲は勝ちさえすりゃアいいんですが、あたしたちの方はそうはいかないんです。取り組むんじゃないですからね。いつとはなしに自然と自分の位置が上がってこなければ、いくらもがいてもダメなんですよ。だから、あたしが噺家になったときに、
「――上の者にかわいがられなくちゃダメだよ。そしてなり(服装)をきちんとして、如才なくおやりよ――」
と、いわれたんですよ。ところがあたしは、如才なくして上の者にかわいがられ、人に引き上げてもらったって、それは自分の力じゃない、何でもかまわねえ、八方敵だらけになって爪弾《つまはじ》きされてもいい、自分の力で上がってゆこう、と思ったんで、その忠言にさからって、逆に逆にといったもんですから、人に憎まれて出世ができなかったのは、あたりまえですよ。
だから、あたしは二つ目になってからも、なりはきたねえし、酔っぱらって楽屋に入っていくし、人に世辞一つも言わねえ。だから爪はじきもんで、どうにもしようがなかった。そして、しまいには、どこへも出られなくなっちまったというわけです。
とにかく、あたしたちの商売てえものは、いつもおかしなことばかりしゃべって、人を笑わせてさえいりゃいいんだから、いかにも呑気《のんき》そうな商売にみえるかも知れませんが、とんでもない話なんです。
さて、この商売に入ってみるてえと楽じゃありませんよ。いつも同じような噺ばかりしていた日にゃ、やがてはお客さんにあきられて、人が使っておれなくなっちまう。
だから、どうにかして新しい噺、おもしろい噺と、それを考えたり覚えたり、そういう苦労は並たいていじゃないんです。すこし人気でも出るとうぬ[#「うぬ」に傍点]ぼれ[#「ぼれ」に傍点]て勉強をサボる、するとたちまち転落しちまう。それこそ油断大敵なんですよ。
相撲にしても、上の方にのぼって、その位置を保つための努力てえものは生やさしいもんじゃない。それをいい気になってなまけていたら、たちまちタドン屋にされちまう。噺家だって同じことですよ。
噺家にしても、ただ名前だけじゃダメなんで、その名前を保つためには、人知れぬ努力がいるんです。ある意味においては位置が上がれば上がるほど、余計な努力もしなければならないんです。つらい商売なんですが、人がつらいと思っても、あたしゃ好きで入ったんだから、さほどつらいと思ったことはなかったですね。まア、この社会の中じゃ、あたしなんぞ、自分から言っちゃおこがましいけれども、たち[#「たち」に傍点]がよかったんでしょうね。だから、どうやらこうやらここまで来られたんですよ。
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テクッて三年
あたしはもともと、噺《はなし》てえものが好きなんで、稽古はずいぶんしましたよ。三年間ぐらいあちこちと稽古に歩いていたんです。その時分にはめし[#「めし」に傍点]もろくに食えなかった。イモを食っちゃア、生きていたようなもんですよ。それでどうやらこうやら生きてきた。なにしろその頃は一日に二十銭くらいしかとれない。それで電車が往復七銭でしょう。だから、電車に乗っちゃうと、あとはタバコをすうことも、めしを食うこともできない勘定になる。仕方がねえから、どんな遠いところへでも歩くんです。青山だろうが、新宿だろうが、尻はしょって、羽織を首ッ玉へゆわえつけて出かけるんです。
歩くといっても、ただボンヤリ歩くんじゃなしに、噺のけいこをしながら歩く。これがいちばん噺がおぼえられるんですよ。だから時には気ちがいに間違えられたこともあるんですよ。きたねえ格好をして、何かモソモソ言いながら歩いていると、誰だって気が狂ってるんじゃないかと思いますよ。だが歩きながら稽古していると、いつの間にか遠いところへ歩けちゃうですよ。噺の方に気をとられますからナ……。
それに今とちがってその頃は、寄席がはねるのがたいてい十一時ぐらいで、それから二時間も三時間もテクテク歩いて帰ってくるてえと、家へ着くのが朝の二時、三時ごろになっちまう。すぐ寝ちゃって、八時ごろに起きてけいこに行く。
この商売は月謝をとって噺を教えてくれるのではない。先輩のところへ稽古をつけてもらおうと思って行くんですから、向うへ行くと、なんでもその家の用をしてやるんです。やれ掃除をするとか、やれ赤ん坊の守をしてやるとか、時には洗濯をしてやるとか、いろんなことをしてやって、しまいに稽古をつけてもらい、またほかの先輩のところへ稽古に行くんですから、三軒も歩いて帰ってくるてえと、もう寄席へ行く時間がカスカスだから、すぐ顔を洗って、寄席へかけつけるんですよ。これが毎日のことなんで楽じゃありませんよ。それをあたしゃミッチリ三年つづけましたよ。
あたしが稽古をつけてもらった人は、今はみんな故人になっちゃっていますがね。あたしが主にいったのは、めくらの柳家小せん、あたしの師匠だった志《し》ん生《しよう》という人――志ん生が馬生《ばしよう》といった時分――。それから「朝寝坊むらく」「三遊亭円馬」というような人の所へ行ったんです。
それから稽古てえのをピタリと止めちゃって、こんどは自分でいろんなことを考えて、噺をでっち上げることを稽古したんです。三年ぐらいほんとうに打ちこんで稽古をつんでおくと、こんどは人の噺をちょっと聞いただけでも、それをたどってちゃんと一席ぐらい噺ができちゃうんですよ。いまでもその時分のうまい人の話なんか、目をつぶって考えてると、だんだん思いだしてくるんです。
はな[#「はな」に傍点]は三十でも五十でも、噺をおぼえちゃうんですね。それからあたしは志ん馬を名乗ったのですが、仲間からは、まアうまいとか何とかほめられて、
「どうしてきみは、売りださないんだろうナ?」
なんて、言われたことがずいぶんありましたよ。だけどあたしゃア、
「売れなくたってかまうもんか。人にペコペコしてまで、売り出したくはねえ」
どうもあたしゃ、もって生れた性分で、人にたよることがきらいなもんだから、平気でやっていたんですが、人の前で恥をかかされたことが一ぺんあるんです。それだけは今でも忘れられないんですよ。
名前はいいませんが、すでに故人になった人ですがね、あるとき大ぜい人のいる前で、何かのことでもって、
「お前なんぞ、うまくもなんともねえんだ。正宗だって貞宗だって、銘ばかりで切れなけりゃダメなんだ。くやしかったらその切れ味をみせてみな。邪魔にされて、下ッ端でウロウロしているのは、つまるところ人が買わねえからじゃねえか……」
と、言われたんです。それがカーンと頭にきて、あたしゃくやしくてくやしくて、チキショウめと、その晩眠ろうにも眠れなかった。こんなにこっぴどくやられたことは、あとにも先にもなかったんですよ。
だが、静かに考えてみると、やっぱりその言葉にも一理ある。ようし、がんばろう! と決心して、やっているうちに、自然といくらか自分の人気が出てきたから、この際ひとつがんばれるだけがんばってやろうと肚をきめて、こんどは宗旨をかえて、前のように芸をあっさり投げないで、一心ふらんにやるようになったんですよ。
一年ばかりというものは、高座から降りるてえと、息がきれちゃって、「誰か一ぱい水をもってきてくれ、水を……」といって、それをグーッとのまないうちは、人と口もきけないくらいでしたよ。そのころでしたね、自分がほんとうに魂を入れかえて無我夢中でがんばったのは……。
ほんとうに芸に一身をぶちこんでやれば、眼のある人はきっと見てくれます。そういうことが一つのきっかけとなって、しだいしだいにあたしの芸というものが人々からみとめられ、地位もどうにかなってきたんですよ。
だから、人間てえものは、無駄なときばかり骨を折ったってダメですナ。何かそういうチャンスがきたときに、それをガッチリとつかまえて奮闘することですよ。けれども、ただ奮闘するといっても、はな[#「はな」に傍点]に自分がそれだけのものを仕入れておかねえことにゃダメなんで、ネタのない手品は使えないわけですからね。ただ気分だけじゃどうにもならぬ。ですから、そういっちゃなんだけれども、この社会じゃ、誰に引きあげられたとか――たいがいみんなそうですけれども――、あたしは若い時分から、やりたい放題のことをやって、だらしがなかったもんですから、不徳のいたすところで、人から殊さらに引っぱりあげてもらったというようなことは、あまりなかったんですよ。
あたしは別に、早く出世しようの偉くなろうのと思ったことはなかったけれども、何だかんだやっているうちに、ほんのタタミの目ほどの目立たなさで、あたしの位置が自然自然と上がってきたんですがね。いつか、
「オヤ、オヤ、おれはいつこんなになっちゃったかなア」
と、自分で気がつく。自然と自分のからだが動いてくる。それも人にいわれてみて、「そうかしら?……」と思って気がついた時分には、どうにかこうにか、かっこうがついてきたというわけですよ。誰だって、
「おれは今にこうなるぞ!」
と、思うんです。が、あたしははな[#「はな」に傍点]から、「出世なんかしたくはねえ、自分はこれが好きだからやっているんだ……」
という了簡《りようけん》で、今日までやってきたんですが、まア、今にして考えてみるてえと、あんまりほめた了簡じゃなかったと思いますけどね。
その代り、長いこと貧乏だけは、たっぷり味わってきました。これだけは誰さまにだってひけはとりませんよ。けれども貧乏てえものは、考えてみるてえと面白いもんですナ。あたしなんざア貧乏が性に合っているというものか、貧乏てえものがあんまり苦にならんですよ。
おあし[#「あし」に傍点]のない時に、思いがけなく、おあしが入ってきたときなんかの嬉しさったらないですからね。楽なときに入ってきても嬉しくも何ともないけれど、二進《につち》も三進《さつち》もいかないときに、ヒョックリ入ってくるてえと、たしかにおあしのありがたみをしみじみ感じますね。
だから、あたしがやる小噺のなかにこんなのがあるでしょう。
「金を拾ってうれしかったというはなし[#「はなし」に傍点]を聞いて、金を拾うとそんなにうれしいのかと、小判をタタミへ放り出しておいて、ひろってみたけれども、うれしくも何ともない。どうしてうれしいんだろうと思って、放り投げているうちに、コロコロころがってタタミの間かどこかへころがりこんで、つい分んなくなっちゃった。さア困ったというんで、あっちこっち血眼になってさがしていると、やっと隅の方で見つかった。ああ、あった、あった、有難え!」
これがうれしいんですナ。人間なんてものは、当りまえのことで嬉しいなんてことはあるもんじゃなくて、当りまえでないことがうれしいんですよ。
子供が急に高熱をだして、どうなるかと首をかしげて心配しているときに、
「この注射で大丈夫! もう持ちなおしましたよ……」
と医者にいわれると、ホッと安心してうれしいんですよ。物事てえものは、うれしい前にはきまって、心配事や悲しいことがあるんです。心配事や悲しいことから、うれしいことが生れてくるもんですナ。タナからボタモチみたいなうれしいことなんて、ザラにありゃアしませんよ。
たとえば火事があって、近所まで焼けてきた。ハラハラして心配しているときに、急に風向きが変って、焼けのがれたといえば、たしかにうれしいんですよ。もし火事がなければ、そういう嬉しい味わいなんてものはなかったわけでしょう。
だから、貧乏でもって金がちっともなく、せっぱつまっているときに、思いもかけずお金が入ったときなんか、たしかにうれしいですよ。この金を何に使おうかと、使いみちを考えたりするんですナ。
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留置場で一席
あたしたちの若い時分は、東京にいたんじゃ食えねえから、誰だって旅に出たもんです。旅に出るてえと、くさく[#「くさく」に傍点]なるとか言ったもんですが、その半面、旅に出ることはひとつの勉強でもあったわけですよ。
その時分は今のように、マイクなんぞないときですから、大きな芝居小屋なんぞでしゃべるでしょう。こんな時には客のめえ[#「めえ」に傍点]ないようなところがあるんですから、いきおい大きな声を出さないと聞えない。ですから、のどがスッカリふっきれ[#「ふっきれ」に傍点]ちまうんですからね。
このごろの人は、みんなマイクを使ってしゃべってるから、ほんとうの大きな声は出やしません。あたしゃふだんはこんな小さな声だけれども、ほんとうにどなるてえと、自分でも驚いちゃうような大きな声が出ますからね。これだって、旅に出て修業したおかげのひとつなんですよ。
その時分は旅へ興行に行ったって、客がなかなか来なかったんですよ。不景気な時分でしてね。ほんとに来やしませんでした。旅というのは、つまり汽車賃だとか、向うの小屋代だとか、電気料までスッカリ入費を引いちゃって、その残りを向うの人と芸人とで、七三にわけるんですけど、その頃はそういう入費を引いちゃうと、あとはなくなっちまう。どうかすると足が出ちゃうしまつなんです。しようがねえから証文かなんかを書いて、次の興行先へ乗りこんで行くというようなわけで、とても苦しいもんでしたよ。
浜松にそのころ勝鬨《かちどき》亭という寄席があったんです。そこの家は今でも懇意にしてますが、今は玉突きかなんかやってますよ。その寄席で興行をやっていたときのことでしたが、その寄席での興行は終ったのに、その次に行くところがなくなっちまった。さア困った。向うでも出ていってくれと言うわけにいかないから、「仕方がない、つづくだけここで興行なさい」ということになったんです。
芸人連中の共同の財産といえば、東京のゆかたが一枚と、さわるとピリピリ切れちまうような絽《ろ》の羽織が一枚、それしかなくなっちまった。連中はみんな半じゅばんに猿又ひとつきり、なにしろ入りがないもんだから、金になりそうなものは、みんな質においちゃって――。
そこで五銭の木戸銭を三銭に値下げして、三月くらいしけ[#「しけ」に傍点]こんでいたもんです。ゆかたに羽織が一枚しかないが、その羽織というのは、みんなが着るんだから、さんざくたびれ[#「くたびれ」に傍点]て、すり切れちゃって、すいているんで、その裏から黒い紙をはりつけたりなんかしているんです。そいつを着て誰かが高座に上がるてえと、楽屋にいるものはみんな、じゅばん一枚に猿又かももひきだけでいるんです。そうして、高座から下りてくると、すぐさま次に上がるものが、そのゆかたと羽織に着かえて上がってゆくというあんばいだから、いそがしいのなんのって……。
そこで、どっかいいところへ行って興行しようてんで、心あたりの寄席へ手紙を出したが、一向その返事がこない。みんな弱りきっていると、浜松の在から普請開きで、あたしたちの一行に来てもらいたいといって来たんです。それで、その寄席のおやじと、在からきた人とが、客席で話をしている。おやじの声が大きいんでよく聞えてくる。
「みんな東京の一座のもんばかりだから、なかなかこれだけの芸人を招《よ》ぼうたって招べるもんじゃないよ」
「そうでしょうとも……」
「なにしろ、物に不自由のない芸人ばかりですからナ」
「なるほど、それはそうでしょうナ」
てなことを言っている。おやじとしては、少しでもあたしたちの割のいいようにと考えて話をしてるんですが、不自由してないどころか、みんなじゅばん一枚でふるえているのに……一同はその話をきいて、にが笑いをしたんですよ。そのうちに出演料なんぞの話がきまって、あくる晩寄席がはねた頃に、向うの人がちょうちんつけて、むかえにやって来た。ところが着ていくもんがねえ。不自由をしていないと言われた手前、まさかじゅばん一枚で行くわけにはいかない。そこで、寄席のおやじの着物だの、となりの芸者屋のあるじの着物などを借りて着て、ゾロゾロたんぼ道を歩いて、その普請の家へ行くてえと、
「ちょっとお待ちねがいます」
といって、大きな座敷へ通された。ヒョイとみると、食卓の上には鰹《かつお》のさしみや、とうなす[#「とうなす」に傍点]の煮たのなんかと、お酒が何本ものっかっている。
「サア、景気づけに一ぱいのんで下さい」
といわれて、連中の飲むこと、食うこと、人が高座へ上がってる間にも飲むんです。高座へ上がっている者は、みんな飲まれてしまやアせんかと気が気でない。しまいには酒を空いてるビールびんに、何本も何本もつめちゃって、下駄箱のわきのところへかくしておいた。そして、いよいよ帰ることになると、連中が下駄箱のあたりでゴソゴソしているもんだから、その家の人がぼんぼり[#「ぼんぼり」に傍点]なんかつけて、
「おはきものがどうかしましたかね?」
なんていわれたもんだから、かくしておいたビールびんを持ちだすことが出来ない。だが、そこは芸人で、うまい工合にそれを何本か持って来るには来ましたがね。
そのとき、なんでも一座で四十円くらいでしたね。その四十円でもって翌る日に、あちこちの古着屋なんぞへ行って、へんなものを買ってきて、どうにかこうにか一息ついたんです。その頃の四十円は大したもんでしたね。それから一行は浜松をたって九州の方までグルグルまわって来ましたよ。
なんといっても昔は、世間がのんきでしたよ。それでいい席がなくなると一座を解散してしまって、また他の座へとびこんで行く。浪花節《なにわぶし》の一座だの、いろいろな中へ入ってゆくんですよ。その時分、落語なんぞ都会はいいけれども、漁師町なんかへ行った日にゃ、わかりゃしないからどなりやがってね。高座へ突っ立って、けんかしたこともあるんですよ。だから、そういう座を何べん飛び出したかわからない。しかし、どっかへ入らなけりゃめし[#「めし」に傍点]が食えねえから、どっかしら入って歩いてるんです。しまいには二進《につち》も三進《さつち》もいかなくなって、あたしゃ、名古屋から東海道を掛川まで歩いたことがあるんです。
なにしろ汽車で四時間もかかるんですから、かなり歩きがいがありましたよ。しかも一文なしで歩くんですからね。そうなるてえと、早く東京へ帰りたくなっちまう。が、東京まで歩いて帰るわけにはいかねえ。
それであたしゃ、弁天島の手前のところまで来たんですよ。名古屋をたって二日目だったかナ、あすこに渡しがあったんです。その渡し賃が八銭だったが、それがないんで渡ることができない。どうしようかと思案にくれて、わきのめし屋かなんかをみるてえと、そこで歌を唄っている奴がいるんで、あたしゃそこへ行っちゃって、
「ひとつ都々逸《どどいつ》を唄わして下さい」
「うん、唄いねえ」
二つばかり唄ったら、そこの女中が、
「いくらかおやんなさいよ、東京の芸人らしいじゃないの……」
といって十銭くれた。それで渡しを渡っても二銭あまるからと思って舟にのった。で、舟が向う岸へ着く前に、渡し賃をあつめにきたが、それがどういうわけか、天の助けですね。あたしのところへ来るのを忘れちまった。しめたと思って、向うの岸へ上がると、その十銭でイモを二銭買って食い、またこっちへ来てせんべいを二銭買って、それをかじりながらとうとう暮れがたに浜松へ着きました。
この浜松で寄席へ出て、いくらかもらって、あくる日にまた浜松から歩いて掛川まで行ったんですよ。焼けつくような炎天を一日じゅう歩くんですからね。そうなるとタバコもすいたくなければ、酒ものみたくない、もっともそんな金なんぞないけれども……ただ食べもんのことばっかり考えちまう。ヘトヘトに疲れてるから、宿へとまると、夕飯をガーッとかきこんで、そこへ引っくりかえり、死んだようになって寝ちまう。湯に入る元気もないんですナ。
ところで宿へ泊ったはいいが、お金を一銭も持っていない。宿へ泊ってから何とか考えればいいと思って泊っちゃいましたよ。考えてみりゃ向う見ずの話なんですがね。
朝になった。朝飯を食べた。しかたがねえから宿のあるじのところへ行って、
「実は、そのおあし[#「あし」に傍点]がないんですがね、あたしゃ東京のもんだけれども、帰ったらじきに届けに来ますから、貸しといて下さい」
といって頼んだんです。するてえと間もなくドカドカッと巡査が三人と刑事が二人やってきやがった。そうしてとうとう警察へひっぱって行かれちゃった。なんでもその時分、東海道にしょっちゅう宿屋荒しがあって、警察ではウの目タカの目だったんですね。あたしゃその宿屋荒しと間違えられたんですよ。
こっちは毎日炎天を歩いているから、色は黒いし、人相はわるい、懐中しらべても一銭も持ってないから、テッキリ宿屋荒しに相違ないとにらんだんでしょう。警察へ行くとすぐさま留置場へほうりこみやがった。その時は留置場に一人もいなかった。ガランとしている。あたしゃ、しようがねえから弁当がくるとそれを食ってのべつ[#「のべつ」に傍点]寝ていたんです。寝ていて窓のところをみると大きなまっ赤《か》い足の長いクモが、チョコチョコ出てきやがって、日があたるうちはそこにいて、日がかげるとどっかへ消えちまう。毎日毎日、おなじ時間に出てきて、おなじ時間に消えていくんですよ。
あたしゃたいくつでしようがねえから、噺のけいこでもしようと思って、小さな声でそれをやってたんです。するてえと、その土地のやくざの親分が、けんかかなんかして投《ほう》りこまれてきたんです。それは大した親分らしく、毎日毎日差し入れがどんどんくる。
「オウ、差し入れがまた来たナ。こりゃおれ一人じゃとても食いきれねえから、おめえもちっと食ってくれ……」
と、その親分がいうんで、あたしゃ毎日ごちそうを食っていたんですよ。そんなわけでその親分と心安くなっちゃった。
「おめえ、いったい何だい?」
「あたしゃ噺家《はなしか》だがね、宿でこうこうこういうわけで……」
と、そこへ放りこまれた訳を話すと、
「フーム、宿屋荒しと……なるほど、そりゃ気の毒だナ。時に噺家なら一つ噺をきかせろよ」
「それじゃ一席やるから聞いてくんねえ」
てなわけで、あたしゃ一席も二席もやったんです。留置場なんぞで噺をやったなんていう人はあんまりないでしょうナ。あたしが小声でやるてえと、手はたたかれねえけれど、スッカリ喜んじゃってね。親分がいよいよあしたそこを出るということになると、
「おれはあした出るが、おめえも出たら、おれのところへやって来い。出来るだけのことはしてやるからナ……」
てんで、その人とは別れましたがね。ところが、あたしはなかなか出してくんねえ。とうとう無銭飲食とかなんかというんで、裁判所へまわされちゃった。そうして検事が出てきて、ヒョイとあたしの顔をみて、
「お前は東京の芸人だな」
「ヘエ、そうなんです」
検事は書類とあたしの顔をみくらべながら、
「このごろ東海道をまたにかけて、宿屋荒しをする奴がいるんで、お前もその一味じゃないかというわけだが、お前はそうではないらしい。わたしはお前の噺を聞いたことがある」
あたしはホッとしましたよ。それから宿屋の亭主なんかも呼びだされて、
「この者はなにも怪しい者ではない。して、宿料はいくらなんだ?」
「ヘエ、一円三十銭でございます」
「そうか、たとえ一円三十銭でも払わなければ罪になる。お前はいま払えるか?」
「ありゃア払うんですけれども、一文もないんです。東京へ帰れば届けますけれども、それでいけませんのなら、どうでもよろしいようにたのみます」
「フム、では、わたしが立てかえてはらってあげる」
といって立てかえてくれたんですよ。あとで、その検事さんにあたしゃ大分意見されたんですが、助かりましたよ。ほんとうに。
「お前も芸人になったからには、はやく東京へ帰りミッチリ修業をつんで、りっぱな芸人になるんだな……」
というわけで、やっとそこを出してもらったことがありますが、この時ばかりはあたしも閉口しましたよ。
旅に出るてえと、そんな悲喜劇もちょいちょいありましたナ。けれども、そんなひどい目にあわされたことは、これがあとにも先にもはじめての終りなんです。今でこそ笑いばなしで済みますけれども、その時のあたしは、笑いごとどころかシンコクなもんでしたよ。もしもこの検事さんがあらわれなかったら、有無をいわさず留置場から本家の方へやられていたか分りゃしませんよ。なにしろその頃は今のように黙秘権なんてものは認めちゃくれませんでしたからねエ……。
それにしてもあの親切な検事さん、その後どうしているかしら。一ぺん会ってお礼をいいたいな――と思いながら、とうとう会うこともできず、あれからもはや四十何年の月日が過ぎ去ってしまいました。
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羽織と芸者
その頃は旅に出ているてえと、ご難しているのが八分で、客がたくさん来て、意外に金が入るというようなことはめったになかったんですよ。
でも、その時分は、世の中がまだのんびりしていたんで、土地の芸者とか、若い娘とかが、よく来ましたがね。こっちは二十二、三の頃だったし、旅だから噺《はなし》の方はよけいやらなくたって、歌ったり、踊ったり――踊りを七つも八つも踊ることがよくあったんです。
そうするてえと、土地の芸者なんかが、タバコ銭ぐらいはくれるということがずいぶんあったもんでしたよ。それは久留米の松栄座で興行していた時の話ですが、千秋楽の前の晩に寄席の女中があたしに、
「ちょいと、あんたに会いたいという人がいるから、お茶番のとこまで来ておくれ」
というので、行ってみると、そこに年増の芸者がいて、
「このねえさんが、あんたが着物や長じゅばんなんどで、踊っているのを見ていると気の毒になっちゃったと、いっているのよ……」
という。遠くから見るとちりめん[#「ちりめん」に傍点]みたいに見える着物だったが、実はメリンスの色のさめたものなんです。が、やっぱりそういう商売の人には、一目みてわかるんですね。
「とにかく、失礼だけれどもあたしが、じゅばんと着物をこしらえてあげますよ」
とこういう。そして友禅の長じゅばんと、羽二重の羽織にする反物を持ってきて、
「これをどっかで仕立ててもらいなさい」
という。仕立てるって、この土地の仕立屋なんぞ知らないというと、
「そいじゃ、あたしの方で仕立ててあげましょう……」
そこであたしが仕立てて下さいといったんです。ところが千秋楽で、明日は若松に行かなくちゃならないんですが、仕立に二、三日かかる。で、そこの菓子屋のおばさんと懇意だから、その菓子屋の二階に三日ばかりいて、仕立ができたら、その着物を着ていってくれというわけですよ。あたしもまだ若いからうぬぼれ[#「うぬぼれ」に傍点]が出ちゃったし、また、宿の女中までが、
「あんたお安くないわね。着物ができたら、それを着ていっしょにどこかへ行くんでしょう。なんかおごんなさいよ」
てなことを言ってひやかすんですよ。しようがねえから一座の者に、
「こういうわけで、あたしゃ三日ばかり残るから……」
「冗談いっちゃいけない。残られてたまるもんか……」
しまいには、とうとうけんかになっちゃった。
「勝手にしやがれッ、おめえはこの一座をぬけるつもりだなッ」
「ああ、ぬけるよッ」
えらいことになっちゃった。あたしゃ抜けたら東京へ帰っちまえばいいんだと肚をきめて、その菓子屋の二階に三日ばかりいたんです。ところが、三日たっても、その女は顔をみせない。
そのとき久留米に、東京相撲がかかっていたんですが、その女はこんどはその相撲に夢中になっちまった。しようがねえんであたしは、人にたのんでその年増芸者の家をしらべてもらったところが、その女は相撲にうつつをぬかして借金だらけだったんですよ。仕立屋へ行ったところがその反物をもってどっかへ逃げちゃったという。若気の至りとはいえ、一寸好《ちよつとい》い気持でいただけに、あたしゃくやしくてくやしくてたまらなかったですよ。こんなことなら喧嘩《けんか》までして一座を抜ける必要もなかったと思うとね。
もっともその芸者もはな[#「はな」に傍点]からあたしをだます気じゃなかったんだろうけれども、バカを見たのはあたしですよ。そのかわりいい思いをした相撲とりは今は年寄になって、あたしはよく知ってますがね……。いい男ぶりでねエ……。そうとわかった以上、どうかしなきゃならんと思ったが動くに動けないんで、そこに何日かぐずぐずして居たら、バイオリンの一座がやってきた。しようがねえから、そいつに飛びこんで方々まわって歩いたんです。
若い時分にはうぬぼれというものは、多かれ少なかれ誰にもあるもんでね、そういうことが旅先でちょいちょいあったんです。あたしが自分でいうのも変だけれども、二十二、三でこの商売に入ったときには、これで、
「噺家というものは人を笑わせる商売だから、おかしな顔をしている方がいい。お前なんざあ、噺家って顔じゃねえ、役者になった方がうつりがいいよ」
といわれたこともあったんですよ。それに旅に出て踊っていたりすると、土地の芸者なんぞが踊りでも何でも、手をぬすみに来るんですよ。だから自然うぬぼれも出たんですが、そういう女にかかりあうと、たいがいはご難でしてね。
むかし、林屋正蔵という人がいたでしょう。その人は一|束《そく》十五(百十五)まで生きた人ですけどね――先年亡くなった林屋正蔵の先々代なんです。その人が一束のときに、あたしたちと一しょに興行して歩きました。その一束を売りもんにして歩いたもんですがね。その人は高座で噺をしたあとで、三味線をひいて歌を唄ったんですが、一束でもって女のところに夜ばいに行ったんです、下座《げざ》のおばさんのところへね。長生きする人てえものは、やっぱしちがったもんですナ。おどろいたもんですよ。相手がなにしろ一束なんだから、しようがねえと、おばさんがみんなにバラしたもんだから、大笑いでしたよ。
「おとっつぁん、何でそんなことをしたんだよウ……」
「なんでもかんでもねえよ。あの女はナ、あたしに気があるんだ。だから、始終わしの手をひっぱって歩いてくれる……」
「そりゃあんたが年とって危ねえから、手を引いてくれるんだよ」
そういうおじいさんでした。とても丈夫な人でしたよ。その人と岐阜の金華山の不動の滝へ行ったとき、そこまで皆にくっついて来たんです。大きな眼鏡をかけちゃってね。それから敦賀へ行ったことがある。そこに翁《おきな》亭という寄席があったんです。この寄席の前におきな[#「おきな」に傍点]の面がかかっていたが、今は戦争であの辺もかなり変っていますがね。
その寄席のおやじが、みんなに酢ダコを食わせたんです。焼酎《しようちゆう》かなんかを飲ませてね。ところがそのタコがいくらかんでも噛みきれない。若い時分で、かみきれないのを呑みこんじゃった。すると、そのおやじが指をほうたいして出てきたんです。
「おやじさん、指をどうしたんだい?」
「これかい。さっきのタコを切っていて、指を切り落してしまったんで、一生懸命さがしてみたけど、とうとう見つからないんだよ」
「アッ、じゃ、あたしが食ったのが、その指にちがいねえ。かんでもかんでも噛みきれなかったんだが……」
「ハハア、それだ、それだ……」
当分、あたしゃ気持がわるくてね。ところで、その寄席にも、しまいには客が来なくなったんで、しようがねえ、じゃア、町廻りをしよう、というわけで、屋台で太鼓をたたきながら、町中を廻って歩いたんです。帰ってくると、ミカン水をみんなに一本ずつくれる。よく水に冷してあるんで、それを飲むのが楽しみでしてね。その頃は酒どころか、ミカン水だって飲むのが楽しみなぐらいでしたよ。
あるとき、町廻りから帰ってくるてえと、正蔵じいさんが――年をとっているから、その人は出歩かなかった――一升びんを持って、
「きょうはこれだよ」
って、山吹色のやつを出してくれた。
「ウワーッ」てえんで、中の一人がそいつを引ったくって、二階へかけ上がって行った。
「コンチキショウ、てめえ一人で飲むなんて法があるかッ」
てんで、けとばされて鼻血を出すやつ、ひっくり返って頭に大きなコブをこしらえたやつ、いやはや大変なさわぎのあげく、みんなが目の色をかえて、あわてて飲んでみると、なーんだ、お茶なんですよ。番茶を冷して一升びんに入れておいたんです。その日はミカン水屋が来なかったもんだから、みんなのどをかわかして帰るから気の毒だてえんで、正蔵じいさんがお茶を冷して出してくれたんですよ。
「なんだい、おとっつぁん、これは――」
「わしは酒だなんて言わなかったよ。お前たちが勝手に酒だと思っただけの話よ」
正蔵じいさんのいう通り、酒といったんではなく、お茶を冷しておいてくれたんだから文句のいいようはない。結局、鼻血を出したり、コブをこさえた連中が災難だったんですよ。
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女とバクチ
あたしによく、若い時分女のことで何かおもしろい話はないかと、雑誌社なんかから聞かれるけれども、それについてはあんまり粋な話なんぞないんですよ。
あたしたちは商売柄、いろいろな女とつきあってはきたけれども、女との関係がこんがらがって、どうのこうのというようなことは一ぺんもなかったんです。あたしはたいがい酔っぱらっちまうから、色っぽくなるまでにはいかねえんですよ。
あたしは若い時分からさんざ道楽はしたけれど、女でしくじったことだけはないんです。むかしから女てえものに深入りしないタチなんでね。あたしの師匠のところにも、ちょっといただける娘がいて、ぜひ嫁にもらってくれなんて言われたことがあったけれども、あたしは当時、嫁のことなんぞ考えてもいなかったんで、いつとはなしにウヤムヤに終ってしまった。
あたしはよく遊びには行ったんだけれども、その女に夢中になったり、いろんなトラブルを家の中へもちこんで女房どもをなやませたりしたことはかつてなかったし、そういう器用なことは出来なかったんです。
どうして男てえものは、女にうつつを抜かして物を入れあげたり、心中なんぞしたりするんだろうと、おかしくてしようがなかったんですよ。あたしだって男のはしくれだから、いい女だなアと思う女に出あったこともあるし、ほれたことも、ほれられたこともないとはいわないけれども、あと先も考えずにのぼせあがったことはない。その女に会わなきゃ片時もいられない、起きてはウツツまぼろしの……そういうような、なまめかしくてしめっぽい恋心なんぞいだいて、なやんだことなんか、残念ながらないんですよ。
遊びなんかに行って、女がチヤホヤいって寄っかかってきたりしても、ナニ言ってやがるんだいと、腹の中で思っているから、自然とあたしの心が向うに通じるというのか、向うだって燃えあがる余地がないんでしょう。じゃ女にもてんのかと言うと、かえってそういう態度に出ると不思議にもてるんですね。ただあたしが、深入りしないだけの話なんですナ。女でも男でも、自分にペチャペチャとまつわりついてくる相手よりも、自分から逃げようとする相手を、追いかけたいような気持になるんじゃないですかナ。
女に対してあたしゃ、そんな工合でしたが、その代りバクチなんかにはおぼれちまいましてね。十五、六からさかんに賭場《とば》へ出入りしていたんですから……。
ところで、いま流行の競輪だろうと、競馬だろうと、つまるところ国家公認のバクチですからね。バクチてえのはつまり、人のふところから金を出させて、いくらかでも損をさせる種類のもんですよ。将棋をさしても、碁をやっても、賭《か》けないでやってる以上は、バクチじゃないけれど、金でも何でも賭けてやったら、それは完全なバクチなんですよ。考えようによっては、戦争だってバクチの一種じゃないですかナ、勝てばとる、負ければとられるんだから……。
だから、あたしなんざア、物のやりとりで、取るということが、若い時分から人いちばい好きで、物を賭けていなければ、おもしろくないからやらなかった。だから賭場なんぞへ行って、スッカラカンにとられちまう。取られちまったら、もう行かねえかというと、こんどこそ、今まで負けたものを取り返してやろうという欲が出てきて、とことんまでやったもんですよ。しかし今日では、金銭をかけるほどいやなことはないなアと、自分で思って、ぜったいにやりません。パチンコだって……。
あたしが今、好きでやってるのは、将棋なんですが、そういうものは、止しましょうといっていつ止めちゃっても、あとはサッパリして、実にきれいなもんですよ。ところが、それに何か賭けたりすると、勝って止めては悪いような気がするし、負けていてはくやしいし、とにかくあとくされになって不愉快ですよ。勝っていながら止めようなどといい出すと、負けたものとしてはひっぱたいてやりたいような、すさんだ気持になるもんですよ。若い時分は、それが好きでさんざやったために、ついに身をほろぼすもととなったんです。
丁半というのは、ふせて丁と半との勝負でもって、たちどころに勝負がつくんで、いちばん男らしいもんですよ。丁と半のどっちかにきまるんですからね。バクチであたしだって儲《もう》けたこともありますよ。だが、儲かるてえと、ただ貰ったような了簡《りようけん》になってパッパッと使っちまう。悪銭身につかずというが、負けたのは身について、勝ったのは身につかない。
競輪だって、競馬だって、勝ったときのことばかり考えている。損したときのことは考えていない。だから身につかなくなっちまう。むかし、あたしたちの商売でこのバクチをやったのは、お通夜だとか、披露目だとかには、たいていやったんです。それがあるからまた人が来たんですよ。ふだんのくらしが苦しいもんだから、そんなもんで一かせぎして、どうにかしようなんて考えで、やるわけなんですけど、それがために前よりも一層苦しくなっちゃうんですよ。その苦しい中から、また、おもしろ味も出てきたけれどもね。
そんなわけで、競馬だって、競輪だって、こういう世の中になってくると、ますます盛んになるわけですよ。金がほしい、働いたって大したことはない。まだ働く職場のある人はいいが、働こうにも働くことのできない人がたくさんある。生きていくためには何とかしなければならない。エエッ、のるかそるかやってみようてんで、やけのやん八で賭けごとをやる。だから犯罪というものが増えるんですよ。この勝負で何がなんでも勝たなきゃならんというような、追いつめられた気持でやるてえと、賭けごとてえものは、とかく負けちまうもんですよ。余裕しゃくしゃくでやると、つい勝ったりする。そんなもんですナ。
ところが、腹がへってくる。明日の朝までがまんして食わずにいようということはなかなか出来ない。だから、バクチのための借金なんてものは、どうやったって出来るもんですよ。あわよくば勝ってくるという目当てがあるから、どんなウソをついたって、ナーニ、勝って返しゃアいいんだという肚があるから、金を借りてまで行くわけですよ。
それが飲みに行ったり、女を買いになぞ行けば、その金はたちまち消えてなくなっちまうから返すあてがない。だから、そのために、バクチの金を借りるような無理はしないんですよ。誰だって人から金を借りてまで、女郎買いなんぞしようという気持にはなりませんけれども、バクチの方は、たとえば人から三百円の金を借りる、その金をもとに八百円になれば、三百円返しても、五百円儲かったことになる。だから、やるんですよ。
うまく勝てば、儲かるという目当てがあるから、いろんな無理をしてまでやることになっちゃうですね。金銭を賭けるということは、あたしの永年の経験からいうと、いつの間にか人間がなまくら[#「なまくら」に傍点]になってくる。つまり、やくざで遊んでるやつが多くなっちまう。たまにぼろい儲けなんぞすると、汗水たらしてちっとばかり稼ぐのが馬鹿馬鹿しくなってくるんですよ。
むかしは賭場というのがあって、そこでバクチをやる。一分の金をもっていって、うまくゆけば三百両にもなることがある。そうなると普通の商売なんか、おかしくてやれるもんかということになる。ところが、運わるく負けた日にゃ、その一分の金がなくなっただけじゃすまない。そのほかにテラ(場代)というものを一割でも二割でもとられちまう。これはやらない前から取られるんです。場[#「場」に傍点]でくち[#「くち」に傍点]るから博奕(ばくち[#「ばくち」に傍点])というくらいなもんですよ。
それは競輪、競馬においても、みんな同じことなんです。あれだけの人間が、何でめしを食っているかといえば、みんな客の出す金で食っている。それは生やさしい金じゃありませんよ。そういう金を差っ引いて、配当金を出すんですからね。
だから、その金は誰かしら払っているにちがいない。それを、きょう運のいいやつ、あした運のいいやつが、入りまざりあって、あすこの経費をみんな出しているわけです。だから結局、しまいにはスッテンテンになっちまう。
それにああいうことをやってると、了簡がきたなくなってくる。女郎買いのぬかみそ[#「ぬかみそ」に傍点]汁といいますが、バクチの方は百円の金が、当れば十万円になるかも知れないというので、百円の金がたっとくてしようがない。うまくゆけば、この金がいくらになると思うから、金が惜しくてしようがない。それでいて、バクチにはパッパッと何ともなく使っちまう。だから実にいやなもんです。根性がきたなくなっちまうんですよ。あたしなんぞも、そういうことに早く気がついていたら、こんな商売にも入らなかったし、親からかんどう[#「かんどう」に傍点]もされないですんだでしょうがね。
ところが、世の中はみんなバクチですよという人がいる。そういえば株だってそうですね。あれがなければ金はうごかないし、世の中は立っていかないかも知れんから、そういうものはやったってかまわないですけれども、よく悟ってくるてえと、やったってソロバンに合わないのはバクチですな。バクチでもうけて倉を建てた人も、何万人の中には一人ぐらいおるかも知れないけれども、ケチくさいバクチなんかやるんなら、その金をドブにでもうっちゃった方が賢明なんですよ。千円うっちゃったら千円だけですむ。
ところが、あれにこっていると、知らないうちに千円が万円と太っちまうんです。だから、いま思いきって捨てさえすれば、千円を二度と捨てないですむ。だいたいバクチなんてものは、しまいには人間をハダカにするような仕組みにできているんですよ。
決してほめたことじゃないけれども、あたしは若い時分から、道楽という道楽を、したいだけしてきたんです。もっとも昔は、芸人になるてえのは、たいがいさんざ道楽のかぎりをつくして親も親類もあきれかえって、サジを投げたというような人種が多かったんです。
だから、ちょいとした踊りもできるし、唄も唄える、それに三味線のひとつもひけるし、芸者てえものは、どういう口のきき方をして、どういう態度をする、長屋のお神さんは、亭主が遊んで帰ったようなとき、どうだとか、こうだとか、たいていのことは教えられなくってもわかってたんです。
今の人だったら、「待合のお神さんが、そんな口をきくもんか、こういうふうだよ」とか、芸者とはこんなもんで、半玉はどういうもんだと、一々教えなくちゃアならん。ところが昔、噺家になろうというような人間は、そんなことはセンコク御承知で、つまり世のなかの酸いもあまいもかみわけたという連中なんだから、何もそんなことを教えるにゃおよばない。
いま時の人を一人前に仕こむには、とても骨が折れるんですよ。むかしの噺家なんてものは、この道に入ったときすでに、すべて経験ずみだったわけで、ツーといえばカーとくる。たとえば、ちょっと火鉢へ火をついでねといっても、今の人だったらただ、上の方へ炭をのっけてみたりなんかする。そういうことは遊んだ連中にゃかなわない。
だから、女の噺家てえものが出そうなもんだが出てこない。というのは、やっぱりそういう皮肉な世の中のウラをしゃべろうというのには、どうしても、あらゆることを経験しなければダメなんですね。そいで女の噺家てえものはあらわれない。
そういうわけで、噺家として世の中の人が十分みとめるてえのは、ある程度年齢がこないとダメだというのは、つまりそこなんじゃないですかナ。
あたしなんぞ、道楽大学の優等卒業生なんだけれども、月謝はずいぶん高くついてますよ。何しろ在学期間が永かったんでネ。だが、これからの噺家てえものは、ただ道楽の経験がどんなにあったって、それだけじゃうだつ[#「うだつ」に傍点]はあがらない。やっぱし噺てえものは、時代とともにうごいていかなくちゃなりませんからね。
世の中てえものは、自然自然にうごいてゆくんですから、ウカウカしていると、おいてきぼりを食っちまう。なんといったって、ふだんの勉強ですよ。勉強もしないで遊んでいたんじゃ、ぜったいに頭のあがる時なんてきやアしませんよ。天才てえものもありましょうけれども、千人に一人か万人に一人で、それだって、勉強しないでいたら、すぐにくさってしまいますからね。芸なんてものは、はた[#「はた」に傍点]から見ると呑気そうだが、中へ入って見るてえと、これほどきびしい世界はありませんよ。
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うちの女房
うちの嬶《かか》アは下宿屋の娘でしたが、何か自分で仕事をしたりして金を貯め、箪笥《たんす》、長持、琴なんぞまで持って、あたしのとこへ来たんですが、あたしはそれを、一カ月半ばかりの間にスッカラカンにしちまったんです。それはあたしが三十くらいの時で、ひとり床屋の二階を借りて住んでいた頃のことなんです。
「お前さん、いつまでも一人でいて、飲んで遊んでばかりいたんじゃ駄目になる。からだでもこわしたらどうする。おもらいなさい、私が世話をするから……」
「あたしみてえなもんのところへ、来るもんなんかありゃしませんや……」
「イヤ、世話したい人があるんだ」
「じゃ、向うで聞いておくんなさい、芸人だから金を余計とると思われちゃいけねえから。金はとらねえ、財産もねえ、着るものもねえ、ねえねえづくしで、酒はのむ、バクチはする、あそびも好きと三拍子そろっている。それが承知ならいいが、そんな物好きな女ってねえでしょう……」
すると間もなくその人がやって来て、承知だという。先方もまさかそんなだとは思わなかったでしょう。ところが来てみると話以上だったんで、女房もあきれたらしいですよ。
あたしゃ女房をもらったあくる晩から遊びに行ってたんです。仲間が迎いに来るんでしようがない。
「――この商売はつき合いが大事なんだ、女房をもらったからって、つき合いを欠くわけにはいかねえから……」
こっちの都合のいいことをいって、
「ちょっと行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
女房のやつ、下駄をそろえたりする。収入がないのに遊ぶんだから苦しくなるのは当りまえですよ。けれども女房は承知の上で嫁に来たんだから何にも言わない、気は楽ですよ。それをよいことにして、打つ飲む、あそぶ。
金がほしい、なにかいい工夫はないかと毎日考えている。女房の方も、これではたまらんというんで、実家のおふくろのところへ借りに行くが、仏の顔も三度(というが、仏さまはすでに売りはらっていたが)で、たびたびのことだから、気前よく貸してくれるわけがない。
あたしがある日一人で、何か金になるものはねえかなアと考えこんでいると、そこへくず屋がやってきた。
「なにかお払いものはありませんか?」
「なにもねえよ」
くず屋の奴、家の中をジロジロ見まわしていたが、壁に短冊がかかっているのを見て、
「それをお売りになりませんか?」
という。ゴマメが二匹描いてある絵で、あたしが道楽で買っておいたもんです。
「売ったっていいよ」
「いくらで売ってくれますか?」
「いくらでもいい」
「じゃ、五十銭で買いましょう」
それはあたしがたしか、一円かなんかで買ったんです。描いた人がちょっと名の売れた人で。
すると、そのあくる日、またそのくず屋がやって来やがって、
「きのうの短冊が三円に売れました。儲《もう》かりましたよ。あなたのところには、いいもんがありますね」
「おいおい、おだてるない」
「ほかになにかありませんか?」
「質に入ってるものならあるんだが……」
くず屋のやつ、それを質屋から出して値よく買おうというんです。きのうの短冊で味をしめてるから、それでまた一もうけしようというハラらしい。
「どのくらいの金で質屋から出せますか?」
「キチキチに入ってるから、利子といっしょで二十円くらいだな、五《い》つ品か六品だ」
「どういう品物ですか?」
そこであたしが、入ってる着物のものや柄などをいうと、くず屋はしばらく首をかしげて考えてましたが、
「じゃ、金を立て替えますから、それをひとつ出して来て下さい」
二十円出した。ところが本当は利息をふくめて九円いくらでしたよ。あたしはそれを出して来て、お金は自分のふところへしまってすまして衣類だけくず屋に渡したんです。
「ハイ、どうも……」
と、くず屋はそれを風呂敷に包んで、威勢よく行っちまった。ところが一時間ばかりするてえと、そのくず屋がしょげた顔でまたやって来た。
「旦那、さっきのあれは五円にも売れません。すいませんが、利息だけはあっしが損しますから元へ入れといてくれませんか?」
「それはダメだよ、元の値段で入りっこはねえよ。あれはもう、利息がずっとたまっちゃって、流れがきて、出したり入れたりした品物だから、今持ってったっていくらにもなりゃしない」
「旦那、そんなバカなことがありますか!」
「おめえはそれを持ってって、儲からなかったから、また持って来たんだろう。もしそれが五十円にもなったら返しに来るか、来ないだろう。売れたら持ってこねえ、売れないから返しに来る、そんな虫のいい話があるか。こうなったのも、おめえが儲けようと思ったからだろう。こういうことは勝負で、しようがねえじゃねえか……」
こっちは若くって威勢がよかったし、裸で、やけのやん八、どなりつけてやった。こりゃアねばってもラチはあかんとあきらめたんでしょう。何かグズグズ言いながら行っちまった。実はその中には、女房が仕立物であずかっていたよその反物もあったんですよ。それを出した上に、思いがけなく十円いくら浮いたから、米を買ったり、酒を飲んだり……。
それから一週間ぐらいたって、「くずーい」といって、そのくず屋が向うからやってきやがったが、ヒョイとあたしの顔をみてあわてて逃げちまった。いま考えてみりゃ、ああ気の毒なことをしたと思ってますよ。だが、その頃はひどくつまっちゃって、思いなやんでいたときに、やっこさんが来たから、苦しまぎれにやったことで、今でもくず屋の声を聞くてえと、その時のことを思い出しますよ。
ところで、あたしが女房をもらった時にゃ、女房のおやじと見合をしたんですよ。今時の娘なら、先《ま》ず見合をして気に入ったら、しばらくつきあって、という段取りになるんですが、あたしの時は、女房のおやじがやって来てあたしと会って家へ帰り、
「いま見てきたが、おとなしそうな人じゃ。うちでかあさんとけんかしてるよりいいから、お嫁に行きなさい」
「ハイ、それでは、そうします」
てんで、カンタンなもんですよ。下宿のほうがいそがしかったから「お父さん、いってみて来てください」てえんですからね。実はその、忙しいてえのは口実で、見合なんて恥かしかったからだと後でいってましたが、とにかくその時分の娘てえものは、親の言うことをすなおに聞いたもんですよ。あたしが三十で、女房が二十四のときでしたかナ。
なにしろ堅気で育ってきたんで、女房をだまして遊ぶにゃアもってこいですよ。あたしたちの仲間だけに通用する暗号みたいな独特のことばでもって、女房の前で話をするもんだから、女房にはチンプンカンプン何が何やらわけがわからない。
それをよいことにして、いい気で遊んでるうちに、何もかもみんな売っちまって、またたくまにスッカラカンになっちまった。おとなしそうな人だからてえんで、お嫁に来てみると、たちまちそんなあんばいだったから、女房の奴、ビックリしたらしいんですが、家へ帰るような気配はさらになく、これではならんと思ったのか、内職をはじめたんです。よその着物を縫って縫賃をもらうんですよ。そうしてそれで足りない分は、実家へいって母親から借りてきて、どうにかこうにかお茶をにごしていたんです。しかし、実家の方だって、のべつ幕なしに借りに来られたんじゃ、たまったもんじゃアないんで、おいおい貸してくれなくなっちまった。
何しろその頃は寄席の方からは、ほとんど金が入らないから、家賃はたまる一方です。大正十二年の震災のちょっと前に、田端に越して来たんですが、二階家でもって家賃がたしか三円五十銭くらいでしたが、それが払えない。家賃がたまるばかりなんで大家さん考えちまった。
「これまでの家賃はいらないから、出ていっておくれ」
というわけですよ、大家さんも早く見切りをつけたわけです。そう言われてみるてえと、それ以上その家にがんばるわけにはいかないんで、亡くなった柳家権太楼と二人で、笹塚の方へ一軒借りたんです。引越しだって造作はねえ、ぼろ蒲団と、鍋と、釜くらいのもの、そのころは子供が二人いたんですが、それをつれて行ったんです。新しい家で気持はよかったんですが、女房のしようとする内職がちっともないし、あまり市内から離れすぎているために、あたしの仕事だってありゃアしない。権太楼も、こんなところにいたって、どうにもしようがないって、越して行っちまったし、そのうちにまた家賃がたまっちゃって、どうしても払えない。とうとう大家さんに追立てをくっちゃって、仕方なしにまた越していったけれども、その家がとってもわるい家で、子供がケガをしたり、病気したりして、悪いことばかりつづくんで、また泣きを入れて、笹塚の家へ舞いもどったわけなんです。
それにしてもその大家が、家賃も払わねえで出て行ったあたしに、ふたたびよくも貸してくれたもんですよ。もっともその頃は空家がどこにでもあったんですから、こんにちから見るてえと、想像も及ばない時分だったんですがね。
ふたたびそこへ落ちつくには落ちついたけれども、依然として仕事がないんで収入もない。これじゃどうにもならねえてんで、商売でもしようと考えたが、商売するにゃもとで[#「もとで」に傍点]がいるが、それがない。仕方がないんで女房が実家へ泣きついて、やっと五十円借りてきたんです。それでもって荒物屋を始めようてんで、紙だとか、草履だとかを少しばかり店へならべたんですが、いくら物の安いときとはいえ五十円ぐらいじゃ、しようがねえ。そのうえ場所がわるいんで、何日たったってちっとも売れやアしない。あたしゃアその品物をもって売りに歩いてみたけれども、売れるもんじゃない。足を棒にして歩いて疲れるだけが損なんですよ。
そこで今の馬生《ばしよう》(清)が生れたんですが、よくもまアそんなことをして食べていたもんだと、今さらふしぎに思ってるくらいですよ。そんなふうだから、その家にも家賃がウンとたまって居られなくなっちまったんで、またほかへ引っ越したんです。ところが、悪いときには悪いことが重なるもんで、あたしは寄席ではたらくことができなくなった。それはあたしの都合じゃなく、向うの都合で使わないということになっちまった。つまりクビになったわけですよ。
そうなっては、三人の子供をかかえて、どうにもならない。グズグズしているとひぼし[#「ひぼし」に傍点]になるばかりです。さすがのあたしも進退きわまったんですよ。とにかく働こう、働かんことにはアゴが干あがっちまう。自分ひとりなら、あわてはしないけれども、一家五人ですから、心中おだやかじゃなかったんです。そこで納豆売りをやろうてんで、納豆を仕入れてきたんですよ。ところが、高座の上なら大きな声で言えるけれども、表へ出てはどうしても、その呼び声が出ない、いい調子にどなれないんですよ。仕入れた納豆をちっとも売らないでは丸損だけれども、どうもそれを売って歩く気になれない。そこで今度は、醤油《しようゆ》でも売ってみようてえんで、醤油ビンをもって家を出たんだけれど、どうも他家の台所へ入って行けない、つまり御用聞きなんですからね。御用聞きてえものは、あたしが行かんでも、ちゃんとした店から毎日いってるんですから、家庭の方じゃ何も不自由はしていないし、せっかくの向うの得意先を荒す結果にもなるんで、これも止しちまったんです。
ところが、そのためにあたしゃア、よんどころなく醤油屋をふみつぶしてしまったんです。というのは、家に醤油がないもんだから、そいつを使っちまったんです。それは決してふみつぶそうと思ってその醤油を使ったわけじゃなく、売れたらちゃんと計算するつもりだったけれども、売るのは一合も売れないんだから、どうも仕様がない。納豆だって一本も売れやしない。売れないというよりも売らなかったんで、毎日毎日その納豆を食ったんですが、売るつもりで仕入れたんだから、かなり食いでがありましたよ。みんな食っちまうのももったいないと思ったから、金馬(三遊亭金馬)の所へ売りに行ったんです。するとその納豆を甘納豆とまちがえやがって、楽屋へもっていってみんなで食べようと思ったわけだ。中から甘納豆と思いのほか本物の納豆が出てきたから大さわぎになってしまった。まったくその頃のことを思いますと、実にさんざんなもんでしたナ。
なにぶんにも震災後二、三年というものは、本業の高座へ上がれないもんですからね。で、商売の方はどうもあたしの性に合わねえんで、見切りをつけちゃって今度は、洋服につかうバイヤスを作るところへ行ったんです。ところが当時は、それを作る機械がなかったんで、それを作るのに鉄の輪でやるんですから、一日中はたらき通しでせいぜい五十銭にしかならない。五十銭じゃ一家五人が食っちゃいけない。そこで女房も考えた。あたしひとりをたよりにしていたんじゃ心細いんで、どっからか着物を借りてきて、洋食屋みたいな家へ内働きに行ったんですが、そこでも一日に五十銭しかくれない。朝の八時頃に出かけて、夜は十一時、ときには十二時がすぎて帰ってきたりする。なにしろセガレがまだ赤ん坊なんで、ギァーギァー泣く、あたしゃア寝るどころじゃアない。起きてそいつをおんぶして守りをしなくちゃならん。泣きだすてえと、いつまでも泣きやまない。近所めいわくだと思うから、一生けんめいになってなだめたり、ゆさぶったりするんだけれども、乳がほしくって泣くんだから始末がわるい。これにはあたしもまったく閉口したんです。
しかし女房にしてみりゃア、好きで働いているんじゃない、家の生活のために仕方なく働いているんだから、あたしとしちゃア文句のいえた義理じゃない。申し分けないと心の中じゃ思っていましたよ。
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カスリの着物
とにかくあたしが、寄席の方へ出られなくなっちまったことは、なんといっても致命的だったんです。若い時分から噺《はなし》をする以外には、酒をのんでバクチをするくらいなもんで、何ひとつ手に職があるわけじゃなし、ほとほと困りぬいていたときのこと、あたしの心をゆり動かし、これではならんと起《た》ちあがらせてくれた動機があったんです。
それはどんなことかというと、そのころ笹塚きってのお金持ちの家で、
「志ん生さんのお神さんが気の毒だ、かわいそうだ、三人もの子供をかかえて、夜おそくまで外ではたらくなんて……。これはほんのつまんないお古ばかりだけれども、子供さんに着せて上げて下さい」
といって、いろいろな子供の着物を一包みにして持ってきて下さったんです。まったく親切な人でしてね。あたしはその包みを、なんの気なしにひらいて見たんです。するとその中に、まだ新品みたいなさっぱりした一枚のカスリの着物があったんです。その着物を一目みた瞬間、あたしの胸にグッとくるものがあったんです。
「ああ、こりゃアいい。子供にこんなのを着せてやったらさぞよくうつるだろう、子供たちがとびあがってうれしがるだろう。こういう着物を早くみんなに着せてよろこばせてやりたいなア。いつまでもこんなだらしないことではしようがない。ようし、働こう。ナーニ、一生けんめい働きさえすりゃア、こんな着物ぐらいじきに買ってやることが出来るんだ!」
と、あたしゃア心の中で思った。なんだかそのカスリの着物が、あたしの襟首をグッとつかまえて引き立ててくれるような気がした。ゆるんでいるあたしの心に、この着物がガッチリとタガを入れてくれた。まったく妙なもので妙な気持になったもんですよ。
そうなるてえと、もうじっとしていられない。すぐ外出の用意をした。
「おい、あたしゃア働くぞ。もう一ぺん高座へ上がってがんばってみる。これから出かけてくる」
と、いったら、あたしの顔色がふだんと変っているもんだから、気でも狂ったんじゃないかと思って、女房のやつ、キョトンとした顔で、あたしの顔をまじまじと見てやがる。あたしゃア、それ以外のことは一口もいわねえで、サーッと家をとびだして行った。
行ったところは、牛込の神楽坂演芸場――そこに柳家金語楼が出ていたんですよ。あたしとしちゃア何となくきまりが悪いような気がするにはしたけれども、勇気をふるって、金語楼に、あらいざらい事情をぶちまけた。
「なんとかならんだろうか、このままじゃアしようがねえんだが……」
というと、彼はこころよく聞きいれてくれて、
「ああ、いいとも。何時《いつ》からでもおいでなさい」
といってくれたんです。あたしゃア嬉しかった。正直のところ涙が出るほど嬉しかった。それはちょうど、水におぼれかかった時に、ポイッと浮袋でも投げてもらったような思いだったんですよ。
そもそもあたしが高座に上がれなくなったてえのは、あんまり勝負ごとに身を入れすぎたせいでもあったけれども、あたしの了簡《りようけん》のよくなかったことも影響しているんですよ。つまり人の力なんか借りて偉くなってもしようがない、あくまでも自分の力でもってやっていこうという、生来の強情ぶりがたたったことはいうまでもなかったんです。
あたしは、十二、三の頃から、ほとんど親のところにも居らず、他人のあいだでくらして来たけれども、人に引きあげられて偉くなったところで何にもならぬ。自分の力で生きて行こうという考えだから、自然と人から見放されたような形になった。やっぱりこういう世界では、人と摩擦を起さないように、円くやっていかなければならないと、しみじみ感じた次第ですよ。
金語楼がOKといってくれると、その他モウ一軒行くと、そこもうまくいったんで、ようやくここで盛りかえしてきたんです。盛りかえしたとはいえ、これでもって大安心というわけじゃないんです。ただ納豆売りなんかしなくても、どうやらこうやらやって行けるという程度なんですよ。そうなるてえと、また手遊びをはじめちゃった。しばらく遠のいていたのに、やっぱり地金が出たんですね。寄席に出られなかったのは約一年くらいのもんでしたが、その間はほとんど遊びはしなかった。しなかったというより遊べなかったんです。
そんなわけなんで、笹塚での生活は苦しみの連続で、夜逃げはしなかったけれども、朝逃げをしちゃって、とうとう本所の業平《なりひら》へやって来たんです。業平なんていうと、むかしの業平|朝臣《あそん》なんか連想したりして、ちょっといき[#「いき」に傍点]なところのように思われるけれどもどういたしまして、ここがどんなところかということは、あとでくわしくのべますが、家賃はタダというのですから、それから考えてみても、大体の察しはつくはずです。
あたしが結婚したときは、今の永住町の床屋の二階にいたんですが、その間代が払えないんで追い出され、田端へ行ってここでも追い出され、それから笹塚へ行って追い出されて別の家へ行き、その家がいけない家なんで、また笹塚の家へまいもどって、そこを朝逃げして業平へ来たわけで、都合六回ですが、いずれも家賃がたまっちゃって、追い出されたわけです。
さて業平の生活はどうかてえと、相もかわらずピーピーカンカン、子供が大きくなるにつれてくらしはいよいよ苦しくなる一方なんで、女房のやつ大豆を一合買ってきて、それを煎《い》り、お茶をのまして、
「よく噛《か》むんだよ、噛むんだよ……」
てなことをいって、自分でもそれを食べるようなふりをして、子供たちに食べさせていたんです。これじゃアまるで、ママゴトですよ。またあるときは、パンのふちの固いところを三銭ぐらいと、砂糖を二銭ぐらい買ってきて、それをつけて食べさせる。砂糖ならまだいいが、時には塩を一銭ほど買ってきて、それをつけて食べさせたりする。
まったくその頃の生活てえものは、本当に食うや食わずで、すれすれ[#「すれすれ」に傍点]のところまできておったんですね。こうなるてえと、普通の家だったら、さしずめ一家心中ということになるか、さもなければ女房が家出をするか、親子がちりぢりばらばらになるか、そのいずれかになるところでしょうが、そういうようなドン底生活をしながらも、家の中は案外おちついていたんですよ。
もちろん女房はなやん[#「なやん」に傍点]ではいたようですけれども、子供がいるんで実家へ帰るわけにもいかないし、あたしとしても、いま夫婦別れなんぞしたら、子供が路頭にまようことになるし、貧乏もここまでくると、夫婦別れをするの、家出をするのてえことは考える余地がなくなって、今に何とかなるだろう、子供も大きくなってくるし、そのうちにはあたしも働くようになって、楽になる日がくるだろうというような、かすかな希望を胸にいだいて生きのびてきたわけなんです。
女房のやつも、時々、これで将来どうなるだろうと、ひそかに心配して、あたしのことを何となく人に聞いてみると、噺はうまいし、強情ばらなきゃアりっぱな芸人なのに惜しい人だが、とたいがいの人が言うもんだから、ちったア、あたしの芸のねうち[#「ねうち」に傍点]というものに、引かれちゃっていたところもあるらしい。あたしは酒ものむし、よく遊びもするけれども、女とのいざこざでもって、女房をおびやかしたということは一ぺんもないんで、その点も女房は安心していたんでしょうよ。
それにあたしが自分のことを自分でいうのは、ちっとおこがましいけれども、あたしゃア寄席に出られなくなった時でも、噺てえものを放ったらかしたことはなく、夜中にひとり起きて噺の稽古をよくやったもんです。この頃だって、噺はもちろん、浪花節でも、長唄でも、清元でも、たいていのがさずラジオで聞いていたんです。
ラジオでもって弟子の話なんぞ聞いていると、まずいのがあるんで、そんなときには家へ呼んで、なぜ一ぺん家へ来てやってみないんだ≠チて注意していたんです。弟子に教える時には相当きびしい方で、よし[#「よし」に傍点]ちまえッて、どなりつけることもあるが、あたしは、他家のように弟子たちに、キチンキチンと稽古にこいなどとはいわない。半年こないでも一年こないでも、決して呼びつけるようなことはしない。だから清(馬生)なんかにしても、勉強しろ、勉強が足りないといって叱言《こごと》をいうこともありますけれども、あたしに言わすれば、今の若い者は、われわれの修業時代よりもどうも勉強が足りないと思うんです。しかし若い人にもいいところもあるんだから、なるたけ憎まれ口はきかない方針をとっているんです。
そんなこんなで女房も、貧乏ぐらしにたえしのんで、家出もせず、どうにかこうにか今日まで生きて来たわけです。夫婦になって子供があったら、貧乏だからって、そう簡単に夫婦別れなんぞ出来るもんじゃないですよ。貧乏に苦しみながら、今になんとかなる、何とかしようと希望をもって生きて行くところに、また言うに言われぬおもしろ味もあるんですよ。
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なめくじ長屋
あたしは四人子供がいて、いま高校へ行ってるのが末ッ子で、その上が馬生《ばしよう》ですがね。この馬生が生れた頃は苦しくて苦しくて、産婆さんに払う金がない。しかもそれが難産でねエ、やっと生れた。ところが一文なしなんで、
「実はね、一文なしなんですよ。といって生れちゃったものを元の通りにするったってそうはいかねえ、いまにきっとどうにかなってお払いするから……」
と言いにくいけれども言ったんです。するとその産婆さんは、
「生れたものを元の通りにゃ出来やしません。しようがないでしょう」
と、いうわけ。そこであたしゃ、鯛焼《たいやき》てえのがあるでしょう、あれを買ってきて、お茶を入れ、「これはお祝いのしるしですから……」ってね。いい産婆さんだったから、それで帰ってくれましたが、その時ばかりは、あたしも冷汗をかきましたよ。何しろ難産だったんで、特に骨をおってくれたのに、一文のお礼も出来なかったんですから、気の毒でしようがないけれども、ない袖はふれない。産婆さんもいってましたよ。あたしも永いこと方々のお産に行ったけれども、こんなことは初めてだってね。そりゃそうでしょう。
そのころあたしが、浅草の寄席の楽屋にいると、そこへ変な人がやって来ましてネ。
「家賃のいらねえ家があるんですがね……」
「ハハア、そんな家があるかい。それはいったいどこなんだ?」
「本所の業平《なりひら》ですよ、六畳と二畳の家で家賃がタダ……どうです?」
「タダなら安いや、行ってみようか」
てんで、あたしはすぐさまその家を見にいったんです。行ってみると、まだ新しい長屋が二十軒ばかりズーッと空いている。そこで家主に会ってみると、
「あんた、噺家《はなしか》さんなら入って下さいよ。そうして陽気なことでもいってくれたら、だんだん人が入ってくれるでしょう。ちょうどいいや……」
というわけで、さっそくそこへ引っ越したんです。その長屋は、震災後すぐ建てた家なんですが、そこいらは池みたいなところだったのを埋めたてて建てたもんで、土地がひくいから、ちょっと雨でも降ろうもんなら、あたり一面海みたいになって、家の中へ水が入ってくる。だからカベなんかには、ちゃんと前の洪水のあとがついている。とにかくおそまつな急ごしらえのバラックなんですよ。
それでも、震災でみんな家が焼けちゃったんで、しょうことなしに人が入っていたけれども、そのうちに、ほかのところにいい家がどんどん出来たもんだから、みんなその方へ引っこして行っちまった。そこへあたしが行ったわけなんです。
夜になったんで、電気をつけたんですナ。ところが、なにしろまわりが空家でまっ暗でしょう。そこへぽつんと明りがついたものだから、蚊のやつがソレッとばかり押しよせてきた。夜なんぞ家の前に立ってみると、蚊柱とでもいうんでしょう、あれが立っていて、中へ入っていま帰ったよ≠ニいったとたんに、ワアッと蚊の群が口の中にとびこんで、口がきけなくなる。だから、いきなり蚊帳の中へとびこんで、そこで口をきいたり、めしを食ったりするんですよ。そうして蚊帳の中から外をみるてえと、蚊の群集のために向うは見えませんや。とてもものすごい蚊なんです。
まア蚊の方は、蚊帳さえあれば防ぐことが出来ますけれども、ここはナメクジの巣みたいなところで、いるのいないのってスサマジい。それも小さいかわいらしいやつならまだしも、十センチ以上もある茶色がかった大ナメクジが、あっちからもこっちからも押しよせてくる。よくナメクジに塩をかけるとまいっちまうというけれども、そこのナメクジは、塩をかけたくらいでまいるような生やさしい奴ではないんですよ。
女房が蚊帳の中で、腰巻ひとつで赤ン坊をおぶって内職をしていたんですが、どうも足のうらの方が痛がゆいんで、ハッとみると、大きなナメクジが吸いついていやがる。世のなか広しといえども、ナメクジに吸いつかれた経験をもつ人は少ないでしょう。
なにしろ家の中のかべなんか、ナメクジのはったあとがピカピカと銀色に光っている。毎朝、そいつをじゅうのう[#「じゅうのう」に傍点]に一ぱい取っちゃって、近くの川へ打っちゃりに行くんですが、あいつはナイフで切ったって、キリでついたって血も出ない、あれはまったく血も涙もねえやつなんですよ。しようがねえから、ある時、石油乳剤てえのを買ってきてぶっかけちゃったら、いくらかいなくなったんですが、夜なんぞピシッピシッと鳴くんですよ。ナメクジの啼《な》き声なんぞ聞いた人もないでしょうナ、気味のわるいもんですよ。
なにぶんにも、土地が低くてジメジメしているんで、ナメクジにはもってこいの世界なんですよ。その上に足の長いコオロギがウヨウヨいやがるし、ノミがいる。だから、みんな居つかなかったんですナ。よくもまああんなところにいて、からだがもったものだと思いますよ。
ところが、ある夏のこと、この長屋へ蚊帳売りがやってきたんです。やっぱり商売商売で、どのへんは蚊がたくさんいるということを、ちゃんと研究してくるんですな。
あたしんちの蚊帳は、よれよれの木綿の蚊帳で、色がスッカリあせちゃって、子供たちがふみぬいたり、あたしがトラになって帰ってきて、乱暴に扱うもんだから、ところどころ破けているんで、そいつをこうしばってはあるけれども、もう寿命がつきてきて、そろそろあぶなくなっていたんです。
蚊帳がダメになったとなると、蚊のために食い殺されるおそれが多分にあるんで、どうも弱ったなアと思っているところへ、蚊帳売りがやってきたわけです。あたしはそのとき、どっか外へ出ていたんですがね。
「蚊帳を買ってくれませんか、うんと勉強しときますよ」
「ほしいけれども、お金なんぞありゃしないもの……」
「月賦でいいですよ、月にいくらずつで……まア一つ見て下さい。品物はたしかなもんですよ。月賦でわるい品物じゃ、あとが払ってもらえませんからね」
それは麻のピタッとした上等の品で、嬶《かか》アのやつ、ほしくてほしくて仕方がないけれども、そんな金はありゃあしない。
「いくらなの、それは……」
「はな三円入れて下さい。あとは月々二円ずつでいいんです。こんないい品はなかなか手に入りませんよ。お買いどくですから、買っておくんなさい」
二人づれが、しきりにすすめる。
「いますぐなら十円に負けときましょう、三十円の品物ですがネ。一時払いだったら十円、タッタ十円に負けときますよ。安いもんでしょう」
のどから手が出るほど欲しいけれども、十円なんてありゃしない。どうせ買えないことは分り切っているけれども、そうつっけんどんにことわることも出来ないから、火鉢のそばへ坐って嬶アのやつ、フイッと火鉢の抽出《ひきだ》しを開けた。するとそこに十円札が一枚入っているんです。
「これでいいんですね……」
「ヘエ……どうもありがとう……」
と、その金を引ったくるように受け取って、二人はサーッと風のように行っちまった。そこへあたしが帰っていったんですが、嬶アのやつ、いつもとかわって、ニコニコしながら、
「これごらん、蚊帳を買いましたよ」
「ヘエー、いくらだった?」
「あててごらんなさい」
「こりゃアいい品らしい。本麻じゃねえか」
「タッタ十円で買ったんですよ」
「安い、十円とは安い……しかし、そんな金がどこにあった?」
「あんた、火鉢の抽出しの中へ入れておいたでしょう。あれで買いましたよ」
「火鉢の抽出しって……?」
あたしは思わず吹きだしました。それは昔、ルーブル紙幣とかなんとかいって、一枚五厘かなんかで売っていたでしょう、あのおもちゃの札、あれなんですよ。あれをあたしがどっかから持って来て入れておいたんです。
「フーム、それでよく向うがなんともいわなかったナ?」
といいながら、さっそくそのみごとな蚊帳をほどいてみて二度ビックリ。その蚊帳てえのは、切れっ端ばかりの蚊帳ですよ。蚊帳のスミを裁ちおとしたのがあるでしょう、あれをちゃんと四角に折りたたんで、赤いキレをつけ、環をつけてとじてある。誰が見ても蚊帳にみえる。
向うは売りたい一心で、金さえ受け取ったら、バレたらたいへんと思うから、まっしぐらに逃げていったんですよ。ところがその十円札をみたら、さぞガッカリして、「チキショウ、ふてえ野郎だ!」とかなんとかいってるだろうと思うと、その顔が目に見えるようで、あたしたちはおかしくておかしくて、大笑いしたんですよ。
向うも文句をいってくるわけにもいかないし、こっちもそんな蚊帳なんぞなんにもなりゃしない。まるで落語のタネにでもなりそうな話ですよ。とにかく貧乏のどん底時代には、こういう、ひっくり返って笑うようなおかしいことが、ちょいちょいあったんです。
そのうちにこの長屋にも、だんだん人が入って来ましたが、こういうところに入ってくる人はだいたい似たりよったりの人種で、くらしはみんな楽じゃない。それだけにみんなよく気があっていましたね、たのしいもんでしたよ。
「醤油《しようゆ》がすこし足りないから貸してよ」
「サア、つかっておくれ」
「お茶がなくなっちまったんだけれど……」
「ああ、うちに少しはあるから持っていらっしゃい」
「電気屋さんが来たけど五銭たりないの、ちょっと貸してよ」
「それくらいあるよ、もっておいで……」
「いま、魚のアラを買ってきたのよ」
「そいじゃうちに大根があるから、それと一しょに煮たらどう?」
だれかが、からだの工合でも悪くなったというと、まわりのお神さんたちが、みんなドヤドヤやって来て、医者へとんで行く、湯タンポをこしらえる、自分のうちにある薬をもってきて服《の》ませる。苦労をつんだ人が多いから、みんな人情があたたかくて、同情心がふかい。おたがいに理解しあい、助けあっていく。だから、ああいうところで暮らしたときのことが、今だってなつかしく忘れることができない。いばりちらしたり、きどったりする人がいない、ほんとうの人間の心と心とがふれあっているから、たとえ生活は苦しくても、たがいになぐさめあって、人間味がゆたかだから居心地がよい。
この業平で苦しい最中のことでした。講談社の婦人倶楽部から、あたしの落語を雑誌へのせてもらったお礼として二十円の為替を送って来たことがあるんです。なにしろ一文の金もなく弱りきっていた矢先だったんで、嬶アの喜びようはたいへんでした。あたしは寝ていたんですが、火事でもおきたのかと思って、ビックリしてはねおきましたよ。
「これ、二十円……講談社から送ってきましたよ……まアうれしい!」
と、飛びあがって喜ぶんです。そういう時のうれしさなんて、ことばじゃいいつくせませんね。今だにその時のことが目の前にチラつきます。苦しい時には、ほんとうにうれしいことがあるもんですよ。
世の中はおかしなもんで、それがきっかけのように、いまラジオ東京の社長かなんかになっている人が、そのころポリドールにいて、あたしに出てくれということになった。
そこで、玄関と台所といっしょのような家では、しようがねえから、無理をしてもモウ少し家らしい家へ引っこして行こうということになって、業平を引きはらって永住町へ越して行ったんですよ。その日がちょうど二・二六事件(昭和十一年二月二十六日)の当日でした。
もう引越しのトラックが来そうなもんだと、昼ごろから首を長くして待っているのに、一向に来やしない。外には雪が積っている。雪のせいでもあるまいにと不審に思っていたところ、やっと夕方になってトラックがやって来た。
「どうしたんだい、おそいじゃねえか?」
「ヘエ、大変なことがおきたんで、知ってるでしょう。二重橋から三宅坂《みやけざか》の方は……」
「なにかあったんか?」
「あったんかどころの騒ぎじゃありませんや。陸軍の兵隊が、こうこうこういうわけで、来ようにも来らりやしません」
その話で、トラックの来なかったわけがわかったんです。引越しだって、わずかな荷物ですから、その日の夕方引っ越して行ったんです。だから二・二六事件は、あたしにとっちゃ思い出がふかいんですよ。
あたしは、関東大震災の直後から昭和十一年まで、十数年間の永いあいだ、この業平町でしがねえ長屋住居をして、ずいぶん苦しいこともあったし、また、おもしろいことも沢山ありました。
はじめの頃は、こんなところに永く居らりやしないと思ったこともたびたびでしたが、住めばみやこ[#「みやこ」に傍点]でしまいには、なんだか離れがたいような心持ちになっちまったんです。それというのも、となり近所の人々とよく気が合って、人情がこまやかだったからですよ。
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酒・酒・酒
戦争中、酒のない時分のこと、築地のなんとかいう待合にお座敷があって、雪の降ってる晩、そこへ行ったところが、そのころ全盛だった双葉山(現在の時津風親方)が、正面にひかえていて、名寄岩《なよろいわ》をはじめたくさんの弟子がズラリと並んでいましたっケ。
その時分は物資の不足していた時分で、どこへ行っても火なんぞなかったもんですが、その家の奥の方をみると、炭が何俵もつんであるし、酒もコモかぶりがデエーンとおいてある。そういうものは、双葉山のひいき客がよこしたんでしょうがね。
そうして向うの方でとりてき[#「とりてき」に傍点]が、チャンコ鍋をつくっている。なにしろ当時は、酒なんぞ飲もうたって飲めない時分でしたがネ。あたしが一席やって帰ろうと思ったところ双葉山が、
「師匠、酒があるが飲んで行かないかね」
といってくれた。あたしはうれしくってね。そこで、鍋をつつきながら飲んだんだが、うまいのなんのって、たとえようがない。
「どうだい師匠、おれと飲みっこしようか?」
と、双葉山がいう。すると弟子たちがあたしに、御大はあまり強くはないよというんで、あたしは、ほんとうにしちゃって、
「じゃ、一つやりましょう。お相撲はあんたにかなわねえが、酒ならば……」
てんで、飲みっこをやったんです。そしたら一合以上タップリはいるコップを双葉山が持つてえと、ちょうど、あたしらが盃をもったぐらいにしか見えない。それをグッと一息に飲んじまう。こっちはそれを「ウッ、ウッ」なんて飲むんだが、向うはキュウ、キュウとやっちまう。かれこれ二升ぐらいやったでしょうね。ところが向うは平気なんですよ。
「どうしたい、師匠……」
あたしは手を合せて拝むまねをして、
「とても、あんたにはかないません」
と、とうと悲鳴をあげてしまって、帰りにモンペをはこうと思ったが、どうしてもはけない。やっとそれをはいて、ハカマなんぞ横へかかえ、外套《がいとう》きて、下駄をはいて二、三間出るとよろけたから、ピシッと鼻緒が切れちまった。下駄を片方はいて片方もって歩くと歩きにくいんで、はだしになったが、こう酔っていちゃア歩けない。
それでもどうにか銀座の四ツ角の所まで歩いてきた、夜の十二時ちょっと前です。そして大野屋という足袋屋の縁台に腰をかけた。その時分は泊ろうにも宿屋はないし、しようがねえからその縁台にひっくり返って寝ていると、そこへ神明町行の終電車が来たんで、しめたと思って乗ったんですよ。
電車の中へあたしが入っていって腰をかけると、どうしたのか、はたの人がみんな立ちあがった。おかしいなと思いながらグウグウ寝こんで、終点で車掌に起されて家へ帰ったが、格子の戸をあけるなり、土間へつんのめった。
朝になってみると、電車の中で人が立ったのも道理、ハカマも着物も泥だらけ、それを洗い張りにやったけれども、二度と着られなくなっちまった。あたしがそんなに酔うことは珍しいことで、お相撲さんと飲みくらなどするもんじゃないということがよく分りました。
それから少しあとの話ですが、音羽屋(六代目菊五郎)が、銀座のある寿司屋で、
「ないしょで飲ませるからいらっしゃい」
という。で、あたしは音羽屋さんと、その家の裏から入って行った。すると大関の一升びんを縁の下から三本ばかり持ち出して、それにマグロなんか出してくれた。あたしはうれしくてね。
「今夜、何かあるんだろう?」
「エエ、新宿の末広から中継があるんです」
その時分はナマ中継でしたからね。
「じゃ、そろそろ行かないとだめだよ」
「ポツポツ出かけましょう」
といっているうちに六時になっちまった。中継は七時からなんですよ。そのころは自動車もなかったし、電車だって少なくなっていたけれども、行かないわけにゃいかないから、省線電車で新宿へ行ったんです。するともう時間が過ぎていて、だれかが高座へつなぎ[#「つなぎ」に傍点]に上がっている。
「志ん生さんが見えましたから、すぐに……」
てえんで、あたしはマイクの前にすわるにはすわったけれども、何の噺《はなし》をしたか自分でもわけがわからねえ。なにか噺をしたのは事実だけれども。
「師匠、あんたは今夜なんの噺をしたんだか、楽屋で聞いていてもちっとも分らなかった」
というんです。本人のあたしが分らなかったぐらいだから、ほかの人に分るはずがない。思えばダラしないことでしたよ。
話がどうも飲む話ばかりになって、申しわけない次第ですが、ついでにもう一つ――。
酒飲みてえものは、飲みたくてしようがない時に、飲ましてくれるほど嬉しいことはないですよ。大阪の花月という席へ行くと、あすこに灘の別荘なんかあるんです。そして菊正宗を宿へとどけておいてくれる。それが楽しみで、行くんですけれどもね。
そして東京へ帰るときには、それを二本くらい持たしてくれるんです。ある時あたしが宿の女中に、お酒はないかというとないという。どっかねえかナと表へ出て方々歩いたあげく、おでん屋をのぞいてみると、そこで飲んでるやつがいるから、シメタ! と思って入って行き、
「お酒をくれないか?」
「お酒はおまへん……」
「しようがねえなア、この人飲んでるじゃないか?」
「あれは、お客さんから預かっていたもんで、店で売る酒はおまへん、ミカン水なら……」
「そんなものはいらんよ」
てんで、その店を出て歩いてみたが、どこにもない。仕方がないから宿へ帰って、ヤレヤレ大阪くんだりまで来て、酒も飲めんとはなさけないと、しょげかえっていたところ、となりの部屋のお客さんからといって、酒を二合ほど女中が持って来てくれた。
「これは一体どうしたんだ?」
「おとなりのお客さんが、師匠があんまり酒々といってたから、自分で飲もうと思ったけれどもお届けするとおっしゃって……」
「ナニ、その人、どうしたい?」
「さっき東京へお発《た》ちになりました」
という。旅の空でなんという親切な人だろうと感激して、よくしらべてみると、それは清元の梅津太夫さんだったんですよ。あの梅吉さんの息子さん。あたしは一面識もなかったんですが、向うじゃよく四谷の寄席へも来ていたらしい。あたしはうれしくてうれしくて、こんど会ったら、お礼を言おうと思っていながら、いまだにお礼をいう機会がないんですよ。
そういうことは、忘れようとして忘れられるものじゃないんですね。それから、昭和二十七年日航機が三原山で遭難したとき亡くなった大辻司郎さんが、戦争中あたしの出ていた寄席の楽屋へ名刺をおいていってくれた。それには、
「あしたの暮れ方、警戒警報がなかったら、数寄屋橋の家(漫談やというしるこ屋)へお出なさい。ビールを飲ませて上げるから……」
と書いてある。警戒警報がなけりゃいいがナと思っていたら幸いにないんで出かけていくと、大辻さんはモノモノしく武装している。
「こうやっていないと、万一表でぶったおれでもしたとき工合がわるいんでね」
とハリ切っているんです。そこで数寄屋橋のそばにある今のニュー・トーキョーへ行ったんです。ビールがジョッキ一ぱい十円で、一人に一ぱいしか飲まさない。一ぱいグッと飲んでジョッキをわきにおいて、ヒョイとみると、また置いてある。また飲んでおくと、また置いてある。いつ持ってくるか実にうまいもんですよ。あたしは三十ぱいぐらい飲んだかナ? それから店がしまった後、調理場の方へ行って、また飲んでいると、警戒警報がなった。
「師匠、これ持っていったらどう?」
といって、エビの絵が描いてある大きな土びんに一ぱいビールを入れてくれた。で、あたしは真ッ暗な中を、大きな土びんをさげて、銀座の四ツ角までくると、神明町行の電車が来たので、それに乗って、日本橋まで来たとき空襲警報! みんな電車から降ろされた。ゴウゴウと飛行機がやってくる。みんな右往左往にげまわる。あたしもダーッと駈けて行ったところが、ツルーンとすべって、あおむけにひっくりかえった。が、その土びんだけはちゃんと持ったなりで、こわさなかった。
こんどは、白木屋の地下鉄のわきに腰をおろして、そいつをグッと、グッとやっていた。そうすると、いよいよ空襲がはげしくなってきた。
「どうにもしやがれ。爆弾がおちて死にでもしたら、これがもったいない。あるだけ飲んじまわないと死んでも死にきれねえ」
てんで、みんな飲んじまって、そのまま寝てしまったんですよ。間もなく空襲解除になったけれども、あたしはそんなことはぜんぜん知らず、夜が明けてハッと気がついたら、そこに土びんが置いてある。それを持って家へ帰って来たんです。
その頃は、夜となく昼となく空襲があって、みんな神経をとがらせて、右往左往しているさなかに、大きな土びんなんぞさげて……どうヒイキめに見たって、ほめた格好じゃなかったでしょうよ。
家のほうじゃゆうべの空襲でテッキリあたしがやられたんじゃないかというんで、たいへん心配していたところへ、大きな土びんをもってノコノコと帰ったもんだから、みんなびっくりしたんですよ。
その土びんはいい記念だから、花でもさして、ぶらさげておこうと思って、あたしは大事にしていたんですが、とうとう空襲でやられちゃいました。大辻さんも、おしいことをしたねといって、ずいぶんくやしがりましたよ。
そんなはげしい大空襲の下でのんだ時のビールの味なんてものは、忘れられるもんじゃありませんナ。
戦争なんていうものは、ずいぶん恐ろしいことも、苦しいこともありましたけれども、そのうちにもまた、言うに言われない楽しみもあったんです。たとえば軍隊なんぞに慰問に行って、その頃誰の口にも入らないようなめずらしい甘いものなんぞもらうでしょう。それを家へ持って帰ってやると、みんな大よろこびでした。そういうことは、いくら金を出したって買えないものですよ。
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借物を質入れ
そんなわけであたしは、紋付だの羽織だの持っていたことがない。赤坂に幸楽という料理屋があったでしょう、あすこから余興屋へ落語をひとつ頼むといってきたんで、あまり忙しくないあたしをあすこに行くようにまわしてくれたんですが、着ていく着物がない。しようがねえから、大家さんのとこへ頼みに行ったんです。
ところが、月六円の家賃が払われないんで、いくつもたまっているんです。大家さんに訳を話して、
「今夜、おあし[#「おあし」に傍点]を貰って半分払いますから、紋付の羽織と着物をちょっと貸してください」
と泣きついたら、大家さんはそれじゃきっと金をもってくるネというわけできげんよく貸してくれたんで、それを着こんで向うで一席やり、謝礼を受けとったが、何しろ久しぶりにゼニの顔をみたもんだから腹の虫が承知しない。一杯だけちょっぴりと思って飲み始めたら、飲んでいるうちに気が大きくなってしまった。ゼニはまだあるまだあると、ふところ勘定しているうちにだんだんわけがわかんなくなり、その晩どっかへしけこんでしまって、うちへ帰ったのは翌る日の午後一時頃でした。
むろんその羽織と着物を返そうと思っていたけれども、ゼニがなくなってしまったんでそれを質においちまった。むちゃな話だけれどもあと[#「あと」に傍点]のまつり……。すると三日目に大家さんが、
「なんだい、あの晩家賃を持ってくるっていったんで待ってたんだが、どうしたんだ。お金がもらえなかったのかい?」
「イヤ、実はもらったには貰ったんですが、つい、そのう、飲んじまいまして……」
「ナニ、飲んじまった。しようがねえナ、で、いったい羽織と着物をもってこないがどうしたんだ……?」
「ヘエ、それが、そのう、ゼニが足りなくなったんで……そのう……」
「また、質に入れちまったんだろう?」
「ハイ、……そういうわけでして……」
大家さんもこれにはあきれてしまった。それから三日にあげずまだ出せないかって来るんだけれども、らち[#「らち」に傍点]があかないもんだから、しまいには、
「まあ、仕方がないから、家賃はあきらめるが、羽織と着物だけを早く返してくれ」
といって大分たまったのをあきらめてしまったんです。ところがねえ、一たん質におくとなかなか出せるもんじゃない。なんだかんだと一日のばしにのばして、それから三カ月目かにやっと返しましたがね、大家さんこそとんだ災難でした。
そんな工合のゼニなしだがよくしたもんで、ゼニの顔をみると怪しげなものを飲んだり食ったりしたけれども、ちっともあたらない。その時分、浅草に玉村とかいう馬肉屋があったんです。そこで「電気ブラン」てえのを売っていた。一ぱい七銭でネ。その一ぱいは酒を五合ぐらい飲んだほど酔っちまう。
そのかわり、あくる日になると、舌の先が突っぱって、いご[#「いご」に傍点]かなくなっちまう。その飲み方がなかなかむずかしいんです。そいつを飲むときはぜったいタバコは禁物、そのブランは火を呼ぶんです、アルコールが強いんでね。まず牛どん(馬肉屋だから馬どんでしょう)というのを三銭でとっておいて、どんぶりに水を一ぱいもらう。そうして「ブラン」をクーッとやり、急いで水を半分ばかりグーッと飲んで、牛どんを手早くかきこみ、またどんぶりの水を飲む。そうして少したつと、たいがいいい心持ちに酔っちまう。ところがきっとあくる日は、舌がまっつぐ[#「つぐ」に傍点]になっちまう――。よっぽどつよいんですね。
よくもまアあんなことをして、生きてこられたもんだと思いますよ。あたしは小僧の時分から酒を飲んだり、不養生をしたんですが、医者というものにはほとんどかからない。三日間飲みつづけようが、ものの一、二時間ぐっすり寝さえすれば、もとへ戻っちまう。
あたしの酒好きなことは、これであんた方にもお察しがついたでしょうが、酒は日本酒が好きなんです。ウイスキーなんかずいぶん貰うんですが、あんまり飲まない。酒は米の精だから、からだにさわらないんです。いい酒ならば……。
今じゃぜいたく言ってますが、戦争中なんかとんでもないもんを飲み食いしたけれども、非常時になってくると、腹の虫がちゃんと覚悟しちまう。ふだん胸がやけるとかいって胃の薬なんぞ服《の》んでいた人間が、非常時になるとピタッと治っちまう。おかしなもんですね。きょう何にも食うものがないとなると、何でも食べられる。芋ばっかし食っても生きていられるし、金にあかして美味《うま》いもんばかり食ってると早く死んじまったりする。
腹の虫てえやつはえらいもんで、食べものだけじゃなく、なんでもちゃんと知ってやがる。だからよく「虫の好かん奴」というのがいる、腹の虫がきらうんですね。ちょっとつきあってみてなんだか好きになる人と、いやだなアと思うような人がある。みんな虫のせいですよ。「腹の虫がおさまらねえ」とよくいうが、よっぽど虫が怒っているんですよ。その中でわれわれみたいなアマノジャクの虫は、もうしまつに困るんですけどね。
いつかあたしが、ちょっとからだの調子がわるかったんで、医者にみてもらうと、
「師匠、三日ばかり酒をやめて下さい」
「それじゃ寝られないよ」
「眠り薬をあげますから……」
しようがねえ、その晩、眠り薬を服んで寝たけれども、どうしても眠れない。トロトロとするてえと、うなされちゃって苦しくて、殺されちまう様な夢をみる。どうにもがまんできなくなって夜中に酒を二、三ばいひっかけたら、グッスリ眠れたんです。
腹の虫が、もうソロソロ酒が入ってくる時分だがナと、待っているところへ、これまで一ぺんもつきあったことのねえ変な薬なんぞが入ってきたんで面白くねえもんだから、つい、そんなことになるんですよ。
あたしは、どんな美味いもんでも、それをサカナにして酒をのんだら、それでご飯はたべられない。いちばん好きなものは納豆ですよ。前に納豆屋をやって、うんと食ってこのかた納豆が好きになったんですね。それにさしみ[#「さしみ」に傍点]ですよ。これは一年中たいがい食べているんです。さしみについてはうるさいんで、魚屋では、いいのがないとことわってくる。きょうはいいのがありますよ、って持って来るが、食べてみて、さほどよくないのがある。
「あんまりよくないよ。あたしはね、うなぎはどこ、てんぷらはどこ、なにはどこと、みんな食べて歩いているんだから、あたしをごまかそうたってダメだよ」
といったぐあいです。あたしは腹にもないウソをいうことが大きらいです。人間てえものは人の前で、鼻の穴を上に向けて話をするくらいでなくちゃダメですね。下を向いてモゾモゾ言うようなこっちゃしようがありませんよ。だから、あたしは思ってることをありったけしゃべっちまう、ものをかくせない性分ですよ。
酒をのむにしても、おあがんなさいよ≠ニいってくれたって、自分で飲みたくなけりゃぜったい飲まない。そのかわり飲みたいと思ったときにゃ、どんどん飲む。たとえ夜中だろうと飲んじまう。吉田さんみたいなワンマンなところがあるんですよ。
いつだったか、ある飲み屋で一ぱいやってると、横の方から、
「師匠、一ぱい」
と、徳利を差し出した。
「いや、あたしゃ自分で飲んでいるからいいですよ」
「そういわずに、一ぱい飲んで下さい」
「あたしは、いいといったら飲まないから、いいですよ」
「飲まないって、おれは飲ませる、どんなことをしたって飲ませてみせる」
「飲まないといったら飲みませんよ」
それであたしは黙って飲んで、勘定はらってそこを出たんです。するとその男は徳利をかかえて、あたしを追っかけてくるんです。
「どんなことがあっても飲ませる」と、いいながら、どんどん追っかけて来る。うまい工合に車があったんで、それに飛び乗った。すると車のそとから、くやしそうな顔をして、
「おれも男だ、一口でも飲まさねばおかん」
「飲まないといったらぜったいに飲まん、お前さん一人でお飲み。あたしは人とさかずきのやりとりをして飲むのはいやなんだから……」
「やりとりはせんでもいいから、タッタ一口でものんでくれ」
「御好意はありがたいが、あたしは飲まんと言ったらこんりんざい飲まん」
とうとう、しまいには、
「あんたはおそろしく剛情だな……」。その時ツーッと自動車が出たんですよ。
あたしも剛情だけれども、その人だって、あたしに輪をかけた剛情もんでしたよ。しかもしつこいったらありゃしない。徳利をもっておっかけてくるんだから、あたしもこれには閉口しました。まったく噺《はなし》の種になりますよ。
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悴・馬生のこと
あたしは、芸名を十六ぺんもかえました。朝太、円菊、馬太郎、武生、馬きん、志ん馬、馬生、芦風、ぎん馬、東三楼《とうざぶろう》、甚語楼、馬生、甚語楼、志ん馬、馬生、志ん生とね。よくもこんなにも変えたものだと、今さら感心していますよ。
それがすべて、襲名したんじゃなくて、名前をかえちまわないと、借金とりがやってきてしようがないということもあったし、そのほかいろいろのわけがあって、そういうことをしたんですが、たしかに驚異的記録なんですよ。
せっかく人に知られかけた名前を、そんなにちょいちょい変えたりなんぞすることは、芸人として、こんなに損なことはないんですナ。そういうことをしちゃ、早く売り出せなかったのも当りまえなんですよ。
せがれの馬生は、本名を清といって、今年二十九歳なんです。道楽もんのあたしにも似ず、まじめでやさしくて、おかげで人様に好かれるタチなんで、あたしも喜んでおりますよ。あれが講道館へいって、柔道を習っていた時分、ふだんはよく勝ってくるのに、試合というと大てい負けてきやがる。
「どうして、試合に負けるんだい?」
「どうも、相手をしめるのが気の毒なんで……」
「バカな、柔道でしめるのが気の毒とは、なんてえことだ」
こんなわけで、アッサリ負けちまう。戦争中にあれが、予科練に行きたいというから、
「お前みたいに、柔道の試合で人をしめるのが気の毒だといって、負けるような了簡《りようけん》じゃ、軍人なんぞになれるもんか。軍人てえものは、なにがなんでも勝ってみせるというような、気のつよい人間でなくちゃア、軍人になったところで、出世できるもんじゃねえ。軍人なんぞあきらめたほうがいいぞ」
と、いってやったが、友達がどんどん予科練なんぞへ行くのを送ってゆくでしょう。そうするてえと、自分もなりたくてしようがないんですよ。
「お前、やっぱり噺家《はなしか》になんなよ」
「いやだよ、噺家なんぞ。あたしのからだは、自分のからだであって自分のからだじゃない、天皇陛下のからだですぞッ」
そういわれちゃア、あたしも二の句がつげねえ。まア男子と生れたんだから、しようがねえとみんなが肚をきめていたんですよ。
ところが、鼻がちょっと工合がわるいんで手術をしたんです。それは治ったけれども、こんどは盲腸炎になっちまった。さっそく入院したんですが、すこし手おくれだったんで、だいぶん永いあいだ病院に入っていたもんだから、スッカリ疲れちまったんです。で、病院から出てくるてえと、人間がまるっきり変っちゃって、それ以来、予科練に行きたいなどと言わなくなったんですよ。
このからだじゃ、とても兵隊はダメということが自分でもわかったらしい。そんなわけで、なんとなくこの商売になったんですよ。あのとき、予科練にでも入っていてごらんなさいよ。今ごろは……。親だから言ってやったんですが、はじめはなかなか素直にいうことをきかなかったんですよ。
「天皇陛下のからだです。あたしは二十五までしか命はないんですッ」
てなことを大きな声でいうんで、あたしたちは、しようがねえから、
「そうか、そうか」
といってたんですがね。
あたしが戦争のときに、あっちこっちの工場なんぞへ慰問に行ってたんですが、どうも手がまわらなくなったんで、
「お前、噺を教えてやるから、わしの代りに行って、しゃべってこい」
てんで、いくつかの噺を教えてやると、ちゃんと向ういってしゃべっちゃって、おあし[#「おあし」に傍点]をもらって帰ってきて、あたしによこすんです。そんなことをしているうちに、あたしが満州へ行って二年も帰ってこなかったんで、あれはそんなことをしながら、あたしが帰ってくるまで、つないで[#「つないで」に傍点]いてくれたんですよ。芸は身を助けるとはこのことですね。
親が内地にいないんで、その代りにやっているんだというので、みんなが同情して、いろいろ目をかけてくれる。読売新聞社なんかでも、慰問があるてえと、あれを連れてってくれたりしていたんです。また本人も、あたしがいないんで真剣な気持があったんでしょう。あたしが満州から帰ってみると、どうやら噺家みたいになっていたんです。
あたしはあれに、噺を二つか三つかしか教えませんでしたが、あとは自分でやったんですよ。あたしがもし満州へ行かなかったとしたら、そんなにのびてはいなかったでしょうが、思えばいい修業だったと思いますよ。これで、あたしの満州行も無駄ではなかった。噺はやっぱしあたしに似てくるんですナ。噺もだいぶん知ってるには知ってるけれども、あれはまだ、自分でもってどうにかしてやろうてんで、あわてて考えていないんだから、のんびりしている。あたしゃそれでいいと思ってますよ。急がず、あせらず、だんだんとすすんでいけばそれでいい。
あれは、あたしの真似しているわけじゃなかろうけれども、若い時分から売り出すのはいやだといってますよ。それはその通りで、あんまり早くから人気が出て売り出すてえと、きっと早くくたびれちまうんですナ。みんな若い時分には威勢がよくて、はなばなしいが、年とってくるとじみ[#「じみ」に傍点]になって、ガタンと落ちてくるもんですからね。
年とってから人気があって、どうにかつとめたというのは、故人になった小勝《こかつ》つぁんぐらいなもんですよ。あんまりいませんね。たいていはいつとはなしに、ローソクの火みたいに消えてしまうんですナ。
もっともあたしなんざア、人間がハラの中から若いんだから、自分が年をとったなんてことはちっとも考えちゃいません、若いもんとおんなじような気分でいるんですよ。自分でもって、ああ、年をとったなアと思うようになっちゃアおしまいです。前にいった林家正蔵じいさんみたいに、百歳になっても、女のところへ這《は》っていく位の元気がなくちゃダメですよ。
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吉と菊の憶い出
あたしは歌舞伎の吉右衛門という人とは、ずいぶん長いつきあいなんでしたよ。あの人は人格者でしたね。家へもどってきて玄関へ入ると、仲働きの連中がズラーッとならんで出むかえている。そうしてお帰んなさいまし、お帰んなさいまし≠ニ挨拶《あいさつ》すると、吉右衛門はそれに対してハイ、ただいま、ただいま≠ニ一々言葉をかけて奥へ入って行く。
それを見ていてあたしは、この人はえらい人だなアとつくづく思いましたよ。言えないもんですよ、毎日のことなんだから……。自分の使っている者が、お帰んなさいまし≠ニいえば、たいがいの者なら、あア≠ニいうくらいなもんでしょう。それなのに、みんなに一々挨拶しながら入って行く。あの人はそういう人でしたよ。
あたしは吉右衛門に招かれて、何べんもあすこへ行って噺《はなし》をしたことがありましたがね。一席やると吉右衛門は、そこへ並んで噺をきいている大ぜいの弟子たちに、
「おい、みんな、いまの噺は、どうだ? おもしろかったろう。お前たちも舞台でやるんだから、よく気をとめて噺をきいておかなくちゃいけないよ。エッ、ウン、ナニ、もう一席ききたい……、師匠、どうも、しようのないやつらだ、もう一席ききたいとよ。こういうズウズウしいことをいうんだから困っちまうよ、ハハハハ……」
こういう工合にこられると、あたしゃアやらんわけにゃいかなくなる。しようがねえから、もう一席やるてえと、
「どうだおもしろかったなア。なんだと、エ、ウーン、もう一席だと……オイオイ、そりゃいけないよ……師匠、あれだ、まだ聞きたいとよ」
そのてをやられてあたしゃア、つい三席ぐらいやっちまう。三席もしゃべっちゃって、お礼の方は一席しかもらわない。そんなふうだったけれども、お互いに心の通じあうところがあったんで、ずいぶん長いことつきあって来ましたよ。あの人が亡くなったという知らせをうけたときには、すぐさまあたしは飛んで行きました。
「息をひきとるまで、わるくなってからは、枕もとにラジオをおいて、師匠の放送があるときには、ゼヒきかせてくれといっていたんですよ……」という。そんなにまであたしのことを思っていてくれたかと思うと、あたしはただもう涙がこぼれましてね。
音羽屋(六代目菊五郎)とも、あたしはしたしくしていました。あるときあたしに一席きかしてくれというんです。はじめあたしは、音羽屋という人は傲慢《ごうまん》で、ぶっきらぼうで何だかつきあいにくい人だときいていたから、行くのがあんまり気がすすまなかった。
とにかく、あたしだって、音羽屋になにかしてもらわねば食っていけないという訳じゃない。もしも気にくわんことがあったら、サッサと帰ってきちゃおうとハラをきめて、築地のやしきへ出かけていったんです。
するとそこに、さきごろ亡くなった三升《さんしよう》がいて、音羽屋と火鉢をかこんで何か話をしている。あたしがその部屋へスーッと入っていくてえと、
「いくつになったい?」
音羽屋はぶっつけにこう言った。その調子ったらないんです。たいていの人だったら、おたがいに一礼して、それから初対面のあいさつをして、年配だから「あなたはいくつになられました」とくるのが常識でしょう。それなのに座敷に入って行ってあたしが、坐るかすわらないうちにこうきくんですよ。文字にしてしまったんじゃわかんないでしょうけれど、その発音|間合《まあい》と調子がとてもうまくて、なんともいえぬ親しみがある。で、あたしがそれに答えると、
「そうかい。いつのまにかお互いに年をとったな、ハハハハ……」
といった調子なんです。あたしはそれがスッカリ気にいっちまいましてね。そのぶっきらぼうなことばの中にこもっているあたたかい親しみぶかい気持が、あたしの心をスーッとほぐしてくれたんです。あたしはうれしくなりましてね。
「おらア、なんだよ、おめえの師匠とは、ずいぶんいろんなことがあったよ」
といった話っぷり、まるで肩をたたいて話しあっているようで、まったく十年もつきあった友達に出くわしたような気持になったんですよ。もっとも相手にもよるんでしょうが、江戸ッ子のあたしには、そういうザックバランなたくま[#「たくま」に傍点]ない態度が、肌にあうんですよ。それで、いろんなことをしゃべったんですが、そのとき音羽屋が、
「おれのおやじがとても噺家《はなしか》が好きで、むかしの円喬《えんきよう》だの円朝だの噺をよくきかされていたもんだから、自然とおれも子供の時分から好きになっちまってね。だいいち噺家というものはおもしろいよ」
「どうしておもしろい?」
「どうしてって、噺家にはゼニがねえからサ。おれは噺家の貧乏がとても好きなんだ」
「貧乏が好き……ヘエー」
とにかくあの人は、お坊っちゃんで育ってきているんだから、噺家の貧乏ぶりというものが、おもしろくってしようがないらしい。いまはそうでもないけれども、むかしの噺家なんてものは寄席に出てお金をとるよりほかはない。こんにちでは放送だとか、映画だとか、寄席のほかにいろいろ仕事があるんで、活躍しだいでは相当な収入があるけれども、むかしは寄席の割り≠ナとっていただけですから、噺家てえものは貧乏のサンプルみたいなもんでしたよ。
めくらの噺家で「小せん」という人なんか、あたしがはじめて稽古にいったときは、からだがきかないでいたんですが、遊んでいるわけにゃいかないから、お神さんに負ぶさって寄席へ行くと前座のものが、かかえて高座へあげるんです。そうするとミスがスーッとあがる。小屋がわれるような拍手が鳴る。目こそみえないけれども、色が浅黒くて、いい男ぶり、建具屋のアンちゃんてえところ、そのすがたってないんです。大変な人気があったんですよ。
そのお神さんというのは、吉原でお職をはっていた花魁《おいらん》で、小せんがからだをわるくしたのは、吉原で遊んだたたり[#「たたり」に傍点]なんですが、それだけに廓《くるわ》噺にかけちゃ正に天下一品、あれだけ売った人は、あとにも先にもいないんですがね。
その小せんが、失明しちゃった時分、「都新聞」に、小せんの失明のいきさつが毎日のように出ていましたよ。白内障《そこひ》といって、眼はちゃんと開いているけども見えない。
その小せんが失明してから初めて、両国の立花家の高座にあがることになったのです。その時の出しものは五女郎買い――つまり遊びの話を五つやったんですが、そのプログラムを前もってお客さまに配ったんです。そのプロは、花魁の文《ふみ》のように、巻紙で天地が紅になっていて、
「あたしは長らく病気で、高座をひいて養生しておりましたが、やっと治りましたので、立花家に於て独演会をひらくことになりました。なにとぞおさそい合せの上お出でをねがいます。立花楼内、小せん――」
としてあったんです。そうして中入りのときは、吉原の吉丸という新内の仲居が、楽座で流して、くるわ情緒を出したんです。
話が変な方へそれちまいましたが、その「小せん」を音羽屋がひいきにしていて、彼が失明したときに、たれだったか文士をつれて音羽屋が、小せんの家へ行ったところ、小せんが、
「旦那、噺を一席やらして下さいな」
というんで、音羽屋が、
「ああ、やってくれよ」
すると小せんがお神さんに、酒を買ってこいといっている。
「お酒を買うたってお金はないよ」
と、お神さんがいう。そこで小せんは、
「旦那、すみませんが、この一席分のおあしを先に下さいな」
「よしよし……」
音羽屋が金を出してやると、それで小せんはお神さんに酒を買って来させ、それから噺をはじめた。そういう情緒や、なにごとでも、ていさいなどつくらず、ありのままをむき出しにする、音羽屋という人は好きでしてね。
だから、あたしと話をしたときなんぞでも音羽屋は、噺家のあたしを前において、いきなり噺家はゼニがねえから好きだとか、貧乏ぶりがおもしろいとか、アッサリ言っちまうんですよ。ごうまん[#「ごうまん」に傍点]だとかなんとかいわれる面もたしかにあったでしょうが、あんな風な江戸ッ子調の会話をする人間は音羽屋以後はあたしゃお目にかからないね……。
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空気草履
「こんど地所を買いましてね……」
と、いかにも得意そうにいうやつが、あたしの仲間にいた。
そもそも噺家《はなしか》てえものは、地所なんぞ買うという了簡《りようけん》がまちがっている。噺家は地所なんか買わないで、地所をもっている人の長屋にすまっているもんだ。音羽屋がいったように、噺家はゼニがなくておもしろいよ、というところから噺になるんですよ。
噺家が地所を買って長屋をたて、その長屋に人を住まわせたんじゃ、噺家てえものの味わいというものがなくなっちまう。ゼニのないところがおもしろい、ゼニがなくて貧乏しているというところに、おかしみというものが浮きでてくるんです。
それを、噺家が大家《おおや》さんになったんじゃ、おもしろい話なんぞ出来やしません。家に帰ったらどうだとか、こうだとかいうものの噺なんか、客もきいちゃいませんよ。ナニ言ってやがるんだい、ということになっちまう。ないからおもしろい、貧乏だから客が遊びにきたりする。家の中がガラーンとして、わけがわからなくなってるからこそ、客もよろこぶんですよ。
あたしの師の馬生という人も、やっぱり江戸ッ子でしてネ。もののよくわかる人で、酒が好きで、噺のおもしろいおつな人でしたよ。その師匠が、小唄なんぞを爪びきでやるのを聞いた日にゃ、ぼんやりしちまいますよ。あんまりいいんでねエ。
その師匠は、先々代の目っかちの今輔《いますけ》――三味線をもったら名人でした――のお弟子でした。噺もうまかったが、のどが実にいいんで、清元の太夫にしようというんで、師匠の今輔がしこんだけれども、噺があんまりうまいんで、とうとう噺家になっちゃったくらいだから、あたしの師匠の馬生という人は噺のたいそううまい人でした。
だが、道楽にかけちゃア、たいへんなもんでしたよ。飲む、買う、打つ……。だから、類は友をよぶというわけで、小せんとは大の仲よし、まるで兄弟みたいなもんでした。
その小せんは、明治、大正にかけて、ずいぶん名を売った人ですが、その小せんの家へ師匠があるとき、空気草履をはいて行ったんです。――その時分、空気草履というものが、東京でははやっていたんです。――それは、小せんが失明しちゃったんで見舞に行ったんですがね。そうしたら小せんのおかみさんが、師匠が帰ったあとで小せんに、
「いま勝ちゃん(馬生)が、空気草履をはいてきましたよ」
「ナニ、空気草履をはいてきたと……」
小せんはそれを聞いて、ちょっと眉をくもらせていたが、口述で弟子に手紙を書かせ、それを師匠のもとへとどけさせた。その手紙には、
「お前も江戸ッ子だし、おれも江戸ッ子なんだ。お前とはこうして若い時分からつきあってきたが、いま聞いたら、お前はうちへ空気草履をはいてきたという。江戸ッ子がそんなものをなぜはくんだ。江戸ッ子の面《つら》よごしだ。きょうかぎり絶交するからそう思え……」
と書いてある。これを読んで師匠はビックリして、なんとかいう文士を中へ立てて、小せんのところへおわびに行ったというんですよ。そして中に立った文士が、
「師匠、とにかくこの人も、わるい了簡で空気草履をはいていったわけじゃない。つい出来ごころではいたんだから、どうかこのたびのことは、かんべんしてやってもらいたい」
そういう話があるんです。
それから気ちがいになった先々代の弥太っぺの馬楽という人は、江戸時代にお刀御用をつとめたというレッキとした家柄に生れた人でしたが、「正宗」だとか何だとかの天下の名刀を質において遊んだりしたもんだから、ついに勘当されちまって、しかたがないもんだから噺家になった人なんですが、この人も江戸ッ子で、噺もうまかったが、特に句が上手でしてね。
そのあしたてんぷらを焼く日暮かな
古袷《ふるあわせ》秋刀魚《さんま》に合す顔がない
などという句がありますが、とにかくこの人は明治から大正にかけての俳人として、人に知られていたそうですよ。
吉井勇さんがよく、この馬楽のことを書いておりますがね。結局、あたしたちの商売というものは、そういうふうに下町のはしにも棒にもかからないような人間がなっているんです、たいがいはね。そうして、さんざ浮世の苦労をなめつくして、すいも甘いも知りぬいた人間が聞くべきものなんです。それが落語というものなんですよ。
噺てえものは、親の財産なんぞをたんまりもらって、ボーッとなんとなく育ってきたような人が聞いても、ほんとうの落語の面白好味というが、それがわかるもんじゃないんですよ。その意味からいえば、ほんのある一部の人が聞いて喜ぶべきものなんですね。世の中のウラのウラをえぐっていく芸なんですから……。
それがこんにちではスッカリ大衆化しちゃって、ラジオだの、レコードだの、テレビだのと、いろんなものがあらわれてきたんで、みんながしゃべる。すると、落語っておもしろいもんだナといって大衆が聞いてくれる。しかし、もともと落語てえものは、おもしろいというものじゃなくて、粋《すい》なもの、おつ[#「おつ」に傍点]なものなんですよ。
それが今では、落語てえものは、おもしろいもの、おかしいものということを人々がみんな頭においているんですが、元来そんなもんじゃないんですナ。
ところが今の新作落語なんてものは、なんです。カツを食ったり、コーヒーを飲んだり、キミボク……そんな上っすべりなもんじゃない。落語てえものは、江戸の名残りをとどめた愛すべきものなんです。だから、音羽屋や吉右衛門なんかが聞いて、よくあの味がわかるし、芝居のうえにも参考になるんですよ。羽左衛門だってそうです。そういう人とあたしたちの方とは、匂いが似ていますから、自然と近づきになったりするんです。
あたしは羽左とは死ぬまでつきあっていました。熱海で羽左がわずらってたとき、あたしが見舞にいったりしましたがね。
明治時代に文部大臣なんかした井上|馨《かおる》という人は、円朝さんや、むかしの延寿太夫や、五代目菊五郎なんか、とてもひいきにしていたんだが、大した人だったんですね。あの人なんざア土方にまでなった人で、からだじゅうがキズだらけでしたが、やっぱしこういう苦労の味を知っている人が落語の味もわかるんですね。
落語てえものは、聞いていて決して害になるもんじゃない。落語ぐらいためになるものはありませんよ。落語をきいていると、自然と人間のカドがとれて、やわらかになってくる。やわらかになってくれば、いうまでもなく人とのあたりがよくなって、ものごとが丸くおさまる。夫婦の仲だってよくなるし、家の中も明るくほがらかになる。このせちがらい世の中をたのしく生きぬくためには、もってこいのものなんですよ。
外交なんかにしても、気みじかで、怒りっぽい、むやみに人と衝突するような人間だったら、うまく成功したためしがない。あたしがよくいうんですが、あの浅野|内匠頭《たくみのかみ》という人が、自分の短慮のためにああいうことをやらかしてしまった。あの人が落語でも聞いていて、おつな人だったらあんなバカらしいことはしない。吉良《きら》上野介《こうずけすけ》というじいさんが何といおうが、ああそうですか、そうですか≠トな工合に、ほめたりおだてたりして、なんとかその場をゴマかしていれば、無事にすんだんじゃないでしょうか。
内匠頭はまだ若くて、きれいな奥さんもっている。たとえヨボヨボじいさんでも、殿中において斬りつけたりすれば、自分のいのちがなくなることはわかりきっている。あんなじいさんが何をいおうと、なにもそうむかっ腹をたてて、
「一国の城主にたいして無礼であろうぞ!」なんて、固いことをいわねえで、うまく相手をあしらっておけばよかった。それをカッとなってああいうことをしたために、若い身そらで腹を切らされ、美しい奥方を泣かせ、あとのさわぎはどうですか。五万三千石をつぶしてしまって、何十人という家来をムザムザ死なしちゃった。
あたしは、赤穂義士てえものはえらいと思うけれども、内匠頭という人は、えらくもなんともないと思うんですよ。
人間てえものは、くだらないところで、つまらん意地をはって、身をほろぼしちまうものが、どんなにたくさんいるかわかりゃしない。だから落語をよく聞きにくるような人はたいがい出世が早い。あたしが若竹という寄席に出ていた頃、そこへよく落語をききにきていた人が、それぞれりっぱな外交官になったり、大きな会社の社長になったり、みんな出世しているんですよ。
落語てえものは、ただ笑うだけじゃなく、笑っているうちに、いろんな世渡りのコツといったようなことが、しらずしらず自分の身についてくる。こんな安いものはないんですよ。世の中の万事がわかってくる。
早い話が、上野の広小路の松坂屋のところが、むかしはどうだったか、今の若いもんは知っちゃいないし、こんなことは学校の先生だって、知らんから教えるわけがない。あたしたちの噺を聞いているうちに、そういうことだってわかる。あたしたちは、そういうことも世の中の人に知らせたいと思ってしゃべっているんですよ。
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ワンマンが好き
あたしはこれまで、総理大臣から芸者にいたるまで、さまざまの人を相手にしてきましたが、映画のスターといわれる人にも、噺《はなし》のファンがずいぶんいるし、役者なんかたいがい噺が好きだというんですよ。えらい学者なんかでも落語の愛好家てえものは、案外多いんですよ、あの人がなアと思うような人が……。
なんで噺が好きかてえと、ひとつには、いつも洋食なんかばかり食っていると、たまにはタラコかなんかでお茶漬のようなものでも食ってみたいという気持――だから、グッと高級な人でも、われわれのしゃべることを喜んできいてくれる。だいたい人間てえものは、自分とおんなじ匂いのするものはいやなもんです。
なにか自分とはちがった匂いを嗅《か》いでみたいという気持がある。そんなわけで大臣だとか、大学の先生だとか、天下に名のとおったようなえらい人が聞いてくれる。どうして落語なんかが好きだろうと、首をかしげるような身分の人が喜ぶんですね。それはバカバカしい噺のそこに流れている変った人情だとか、下町の情緒なんぞというものがわかるからだと思うんですよ。
だから大向う受けのする新作なんてものは、こういっちゃ差しさわりがあるか知れないけど、あたしの考えじゃアほんとうの落語の味なんてありゃしないんですよ。
吉田さん(前首相)のところへも、あたしはよく招《よ》ばれて行きましたがね。吉田さんはちゃんとマグロの中とろに、赤貝のわさびかなんかで、日本のお椀《わん》で、いい酒をのましてくれますよ。あたしが酒好きだということをよく知っているらしいんですよ。そういうことまで、なんでも知っている人でなけりゃ、とてもできねえことなんですよ。
吉田さんという人は、だいぶん年をとっているというのに、実に若々しくて、はりきっていてニッコリ笑った顔なんてとても人なつこい。なんにしても、あれだけの人間になるてえと、上のことから下のことまで、何でもかんでも心得ていなければ、大ぜいのものを取り締ることはできないでしょうからね。
世間じゃ吉田さんのことを、ワンマンだとか白足袋だとかよくいったもんですけれども、ワンマンだからこそ、あんなに長いあいだ総理大臣がつとまったでしょう。一国の総理大臣ともなれば、白足袋だっていいじゃないですか。あたしは何べんか吉田さんに会ってみて、えらい人だと思いましたし、なんとなく好きになっちまいましたよ。
前に大蔵大臣をやっていた池田勇人さんという人は、築地あたりであたしが一席やって、帰ろうと思って車へ乗るてえと、
「これは、師匠に……」
といって、車のなかへ一升びんを入れてくれるんですよ。如才のない人ですね。そういうことは、あれだけの位置にある人には、ちょっと考えられないことですよ。そこまで気がつくんですから、恐れいってしまいます。その人が貧乏人は麦を食え……といったとかいうんで、大分さわがれましたナ。あたしゃあ、お世辞でいうんじゃないが、あれは本心じゃないと思った。言葉じりを取られたんじゃないだろうか。ほんとうの貧乏人は麦だってくえねえ、あたしなんざあ自慢じゃないが、大豆を一合で親子五人一日すごした日がざらなんですよ。誰がなんとかいったとかなんて憤慨してるひまはねえ、怒れる位の人はまだ貧乏にゆとりがあるというもんです。池田さんの肩をもつわけじゃないけどね。とにかくなんといっても、あの若さで大臣を何回もつとめたような人になると、敵も多いわけでしょう。池田さんが志ん生ぐらい人をくった噺家なら、麦を食え、麦がくいてえ……なんていうセリフは拍手|喝采《かつさい》だったんですがね。
いまのお相撲で、あたしは大関の若の花という人と友達みたいになっていますよ。あの若の花が、どうして好きだかというと、あの人はとても無口で、けっしてくだらないことをしゃべらない。あたしもふだんは、くだらんことをしゃべるのはきらいなんですよ。
築地の田川という家のお内儀《かみ》がたいへん若の花をひいきにしているんですが、あたしが田川にいる人を知っている関係で、よく遊びにいっているうちに、若の花と会ったのがはじめてですが、あの人はなかなか口をきかない。あたしもだまっていた。
あるとき、あたしが帰ってこようと思って玄関の方へ出ていったら、誰かがうしろからついてくるんですよ。おかしいナと思って、あたしがヒョイとうしろをふりむいてみると、大きな男が突ったっている、それが若の花だったんですよ。そして若の花は、あたしの帽子をもって、なんにも言わずにヌーと立っていて、うしろやそばの方には、とりてき[#「とりてき」に傍点]連中が大ぜいひかえているんですよ。
「師匠、帽子をわすれましたよ」
なんていわない。ただ、だまって、あたしに帽子を差し出したんです。あたしが、
「どうもありがとう」
といったら、「ウン」とかなんとかいって、ペコンとアタマを下げたんですよ。たれもはたにいなければ話は別だけれども、弟子もたくさんいるんだから、
「たれか、師匠に帽子を持ってってやれ」
と、いいそうなもんなのに、天下の大関ともあろうものが、自分がその帽子をもって、わざわざ出てくれたんですから、恐れいったんです。無口なだけに、その誠意があたしはむやみにうれしくなっちまいましてね。それから急に若の花が好きになってしまったんです。
若の花が大関になったてんで、あたしのところへ、帝国ホテルへきてくれという招待状がきたんです。あたしゃこの帝国ホテルなんてえところが、どうも性にあわないんですよ。どういうものか、ああいうところへ行って、飲んだり食ったりすることがきらいなんで、行ったこともないんですけど、せっかく彼から来てくれいうんだから、いかないわけにはいかんから、しかたなしに出かけていったんですよ。なかなか盛会でしたね。
そのときに、日本大学の呉さん(日大総長)という人も行ってたんですが、その人はあたしを見ると、
「あ、あんたは志ん生さんだ……」
「志ん生ですが、なんですか?」
「イヤ、あたしはあんたの若い時分からのファンでね。あんたに一度あいたくてしようがなかったが、これまでどうしてもその機会が得られなかった。すまないけれども、あんた、このあいだ雑誌へ出ておった写真をひとつ送ってくれませんか?」
ヤブから棒にこういうんですよ。
「ああようがす……」
と、承知して名刺までもらっておきながら、すっかりこのことをわすれてしまっていたところが、とうとう呉さんの方から使いのものをよこされたんで、その写真をあげたんです。
そうすると、このあいだ、その呉さんから、麹町《こうじまち》三丁目にあって、元禄時代からあるという有名な古いうなぎ屋へきてくれといってきたんで、あたしが出かけていって会ったんです。するてえと呉さんは、たいへん喜んじゃってね。
「あたしは、若の花の帝国ホテルの会のときには、どういうものか行きたくなかった。どうもああいうところへ行って、かたくなってめしなんぞ食うのはいやだったけれども、行かないのもわるいと思って、実はいやいやながら行ったんだけれども、そのおかげであんたに会えてうれしかったよ」
というんですよ。まるっきり、あたしのいいたいことを、いってくれたようなもんです。そんなふうだから呉さんとは、話がバカに合っちゃった。とても愉快でしたよ。呉さんはあれだけの人だけれども、やっぱり落語というものに対する興味はたいへんなもんです。じつに不思議なもんですね。
若の花が大関になってはじめての場所でもって、かたくなって負けやしないかと気が気ではなく、毎日毎日の取組みを一生けんめいでみていたんですが、あの好成績で、それからの場所でも横綱なんぞをおびやかして、どうどうたる大関ぶりを発揮しているんで、あたしは実にうれしいんですよ。
あたしが若さんの好きな理由が、もうひとつあるんですよ。それは彼が怪我というものをしないでしょう。ベタベタと膏薬《こうやく》をはりつけたり、手や足にホウタイしているすがたを見たことがない。いつだって無キズですよ。それはなぜかというと、若さんという人は、ものに無理をしない。かなわねえのに、どうかして勝とう勝とうとあせらない。全力をつくしてやるだけやって、こりゃかなわねえなと思うと、むちゃなことをやらない。だから怪我なんぞしないんです。
こういうといかにもねばりがなくて、勝負をアッサリ投げてしまうように聞えるかも知れないけれども、そうじゃない。ありったけの力をつくして、機をみるに敏とでもいうのが結局は強いということになるんです。
怪我をして休場をしたり、たとえその時は治ったとしても、これが何年か後にたたっちゃって、ふたたび土俵へ上がれなくなるようなことがチョイチョイあるんです。怪我をすると成績がさがってくる。三根山だってよく怪我をするもんだから、あんな工合でしょう。
若さんは、負けるときにスッと負けちまうけれども、勝つときには胸のすくようなあざやかな勝ちかたをする。相撲てえものは、勝つためにやるもんじゃないですよ。自分の手をみせて人を喜ばせるもんです。
こんなことをいうと、ヤリが出るか知れないけれども、相撲てえものはいわば裸踊りみたいもんです。こういうと相撲をけなすようだけれども、あたしは決してそういう気持でいってるんじゃない、相撲は大好きなんだから……。パーンと投げとばす格好をみて、客は手をたたいて喜ぶ。土俵の外へ押しだしたりするのは、あんまりおもしろいもんじゃない。寄身なんてえのは、相撲としちゃ大事なんだろうけれども、やっぱし勝つんなら、きれいな上手投げだとか、すくい投げだとか、やぐらだとかをやって、客をよろこばせなくちゃ、おもしろ味がないんですよ。
見ている人がやんやと手をたたいて喜んだり、りゅういん[#「りゅういん」に傍点]をさげたりするのは、やっぱり栃だとか、若だとかなんでしょう。自分が勝つためにばかりやるんじゃなく客をよろこばせるもんですよ。木戸銭をとってやるんですからね。
野球だってそうですからね。見ているもんに、ホームランをかっとばして喜ばせるもんですよ。てめえが喜ぼうとばかり思うから、無理にすべりこんで怪我をしたりする。みんな人を喜ばせるためにやるもんですよ。誰も人のいないところで、あんなことをやったってどうにもしようがねえ。
ああいうものはすべて娯楽ですからナ。それなのに、これに勝ちゃア給料がいくら上がるからとかなんとか、自分本位の野心をもったりするもんだから、つい無理をしちゃって、大怪我をしたり、とんでもない不幸をまねいたりするんですよ。
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三つ笑って楽しむべく候
相撲にしても野球にしても、人を喜ばせるものですが、落語だってそうですよ。ただもうお客さんを喜ばせて帰すことが、自分の責任だと考えておればいい。自分で楽しんではいけない。自分で楽しむんならおあしを出さなければならない。商売は楽しいもんじゃないんですよ。
お客は金を出してくるんだから、一にも二にもお客を満足させることを頭においてやる。そこを考えちがいしちゃア駄目ですね。お客は昼間いろいろなことで、おもしろくないことや、心配ごとなんかがあって、寄席にでもいってそのうさを晴らそうてえんでくるお客さんも多いから、その人たちの頭をほぐして、喜ばせてやるのが、あたしたちの大切な責任なんですよ。
うなぎ屋だって、この神田川≠フうなぎでもって、美味《うま》くめしを食おうというんで、お客さんがやってくる。それを美味く食べさせて喜んでもらうことが、この店の責任ですよ。それなのに、金さえもうかればいいというんで、うまくもないうなぎなんぞ食わされちゃ、お客だって喜ぶわけがないし、あいそをつかしてしまう。
あたしなんか、高座へ上がってお客の様子を見ると、今夜のお客さんは、どういう噺《はなし》を喜ぶだろうかということが大体わかりますよ。つまり、今夜の客は甘いものが好きなのか、辛いものが好きなのか、辛いものが好きな人に、大福餅やしるこなんぞを出したって喜ばないし、甘いものの好きな人にウイスキーや酒なんぞ出しても喜びはしない。やはりその人の好きなものをもっていかねばならぬ。好きなものなら少しくらい味はまずくても、がまんしてくれるんです。
これがあたしたちの頭を使うところです。それにはもっと突っこんで、客の相を知る必要がある。そのためには、はな[#「はな」に傍点]に何かいって、さぐりを入れてみる。それが落語でいう「まくら」なんですよ。この「まくら」で、なにを言っても感じないようなのは、こりゃア団体だナとか、はじめて聞く人だナというようなことがわかるから、そういう人に打ってつけの噺をパッともっていく。たいがい当りますよ。
その噺をぶってくすぐりを入れ、日本人とすれば、これで笑うべきもんだというものを即座に考えてパッとやる。それでもし笑わなければこうと、長いあいだの高座のカンですぐわかる。つまり客の脈をとるわけですよ。脈をとらなければ薬はもれませんよ。
医者だってそうでしょう。病人の家へ来て、まずその家の様子を見る。ハハア、この様子じゃ栄養不良かナ、これだけの生活をしていて、この病気だと、糖尿病じゃないかナ、この人は虫も殺さんような真面目《まじめ》くさった顔はしているが、奥さんにないしょで、ヒョッとするとあれがあって、あんまり無理したんじゃないかナ、てなことが名医となると大体見当がつく。
そうして、二、三日前からの様子をきき、おもむろに脈を見たり、アーンと口をあけさせて、ベロなんぞのぞいてみたりして、病気がわかるんですよ。つまり大体の見当をつけておいて診察をし、処方箋を書くんですよ。
そういうことが、あたしたちでいう「まくら」なんです。二百人の客が来ているとして、その中の百五十人が喜びそうな噺をすると、少ない方は多い方に引かされちまう。今夜はこういう客が多いなと思うと、多い方に向く噺をパッともっていく。それがなかなかむつかしいですよ。
ところで、落語てえものは、いつ頃からできたか、その起源はよく知りませんが、曾呂利《そろり》新左衛門という人が、太閤殿下のごきげんをとっていたあの奇智頓智《きちとんち》、あれがいってみれば落語みたいなもんですね。
落語が世の中に用いられてきたのは、天明年間(約百七十年前)というんです。徳川の末期で世の中が太平で、人々が遊惰にながれ、遊びにもあきちまって、あしたは何をして遊ぼうかというようなことを、みんな考えていたんですナ。
その頃には、隅田川に船宿が六百軒もあった。そこの船でツーと柳橋の方まで出て、とれた魚を料って酒をのむ。白魚という魚のよくとれた時分ですよ。芸者の爪びきかなんぞにあわして歌を唄ったり、飲んだり、ほんとに世の中のいい時分ですね。
夏の夜の川の上というものは涼しいもんですからね。それから山谷堀《さんやぼり》へいって、吉原へくりこむというしだい。そのころ俳句だとか川柳などがはやって、方々へ集まって会なんぞやったものですが、その連中の中である人が、小噺というものをこしらえてきて、
「こんなおかしな噺があるんだよ」
「どれどれ、ウン、そりゃおもしろいじゃねえか。あたしもひとつ考えてみよう」
てなことから、いろいろ面白い話をもちよって、みんなに披露するようになった。
「なるほど、これは面白い。もう少し長い噺をこしらえて、どっかで人をあつめて、やってみようじゃねえか」
てんで、向島の「武蔵屋権三」という貸席で、それをやることにして、江戸市中へビラをまいたんです。そのビラには、
「向島に昔噺ごんざります」
とだけ書いてあった。これでは向島のどこで、いつ昔噺があるのかサッパリわからない。
「昔噺ごんざりますって、変だなア……?」
いろいろ首をひねって考えてるうちに、このナゾをといた人があった。
「昔という字は廾一日と書くから、これは二十一日じゃねえか?」
「向島でごんざりますてえのは、『武蔵屋権三』の貸席でやるということにちがいない。ひとつ行ってみようじゃねえか……」
ということになった。そのころ「武蔵屋権三」という貸席は、たいていの人が知っていたからですね。このビラを書いて宣伝した人も、これくらいのことがわかんないようなこっちゃ、はなしを聞くだけの資格がねえ、というわけなんですよ。世の中がのんびりしていたんですね。
こういうこった[#「こった」に傍点]ビラをまいたにもかかわらず、それがかえって人気をよんで、かなりの人があつまった。その後これが大へんはやってきたというんです。
一方、この席へ出て噺をしてみようという人も、しだいにあらわれてきた。で、まっ先に出て噺をしたのは、櫛屋《くしや》の職人をしていた又さんという人で、
「三つ笑って楽しむべく候」
それをもじって、「三笑亭可楽」――この芸名でもって初出演したわけ。その可楽とともに、弟子の朝寝坊夢楽という人が、だんだん世の中へ出てきた。これがどうやら落語のはじめらしいんですネ。
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町内に寄席一軒
幕末の頃は、落語てえものがほとんどダメになっちゃったんですが、当時春風亭柳枝という人が落語界に君臨していたんです。その後三遊派というものが頭をもたげ、これを一番もりあげたのが三遊亭円朝、この人が明治の勃興期に生れ出たわけですね。
結局、落語界は明治に入って、時勢とともに発展していったわけで、その先頭をきったのが円朝なんです。この人ははじめ、人情噺をやった話術の名人としてではなく、芝居噺をやって人気をあつめ、老熟してから人情噺をやったんです。
この円朝に対抗するものとして燕枝《えんし》――柳派《やなぎは》ですね。そのとき三遊派と柳派というものができて、現在でもその糸を引いているわけです。
三遊派では円朝の弟子の四代目円生、橘家円喬《たちばなやえんきよう》、三遊亭円生、立花家橘之助(女)、円馬、小円朝、そういった後に名人といわれた人は、みんな円朝の門から出たわけです。
柳派の方は燕枝の門下で、蔵前の柳枝≠ニいわれた柳枝が出、それから三代目柳家小さん、オットセイ≠ニいわれた四代目柳亭左楽、そういった名人が出たんですが、どっちかというと柳派の方が小粋《こいき》な人が多かった。芸も小粋な芸をやりましたネ。
三遊派は、円遊みたいな例外もいるが、ほとんど「本格」といっちゃおかしいが、かたい噺が多かったんです。
それらが主流として今にのこっているけれども、いま大看板の人というのは、三遊派から文楽、金馬、志ん生、円歌。――柳派では今の柳橋《りゆうきよう》、この間亡くなった柳好です。が、大正の大震災後、三遊派、柳派のはっきりした区別がなくなって、ゴチャゴチャになっているけれども、主流というものは、今でものこっているわけです。
三遊派の噺はくさいといえばくさいかも知れないけれども、本格、柳派はそこへいくと、小粋といえば小粋、おかしみのある俗にいうこっけい[#「こっけい」に傍点]噺の方が主に発展していったわけですな。
これが大体、明治から現在までの落語界の系図とでもいえるでしょう。
明治から発展してきた寄席は、映画のためにどんどん押されちゃって、昭和四、五年頃から落語界はひでえ不景気にみまわれちゃって、二進《につち》も三進《さつち》もいかなくなった。それがために、方々の寄席はほとんどつぶれちゃって、東京で残った店が四、五軒、それが戦争景気でまたもりかえしてきた。なぜ盛りかえしたかというと、映画の方に軍国調とかお涙頂戴のものが多くなって、それが鼻についてきて、そのはけ口を寄席にもとめたわけですね。
ところが空襲のために、いい席は焼けちゃって、そのまま立たない席もあるけれども、これでダメかなアと思っていると、こんどは放送界が進出してきた。落語てえものは安直なんだから、頼みます≠ニ電話一本で三十分なり十五分なりの番組が組めるもんだから、その便利さを買われて、また復興してきましたがね。
だが、これはそういう方面が復興したわけで、落語界が復興したといいきれないばかりか、考えようによったら、落語界てえものは落ち目といえるかも知れないんです。
ラジオやテレビによって落語てえものが、一般世間によく聞かれるようになってきたことは事実だけれども、一つの行きづまった面もあるんですナ。
つまり、落語てえものは、あくまでも話術をきかせるものなんだけれども、今のような放送になってくると、向うの注文がおかしい噺≠ニあって、しかも、キッチリした短い時間にあてはめることになると、どうしても型にはまった噺になっちまう。いきおい新作≠トえものをこさえるけれども、こいつがとかく粗製濫造《そせいらんぞう》になっちゃって、ただおかしみだけを押しつける工合になっちゃう。これじゃいけないけれど、しようがねえ。
だからここ十年ぐらいの間に、ほんとうの落語てえものの使命というか、その畑がきまっちまうんじゃないかと思うんです。ここさえうまく切りぬければ、噺は相撲と同じように古くからあるもんですから、そうはペチャンコになりゃしませんよ。
このまま、まアいいわ≠ナやってゆくと、落語なんぞ、人がきいてくれないような時節がこないともかぎりませんよ。じゃ、どうしたらいいか、ここんところを、どう乗りきって行くかてえことになると、かいもく見通しがつかないんです。
古い噺てえものは、何べんきいても味があるけれど、そういう噺って、何万という噺の中から残った、本当の名作ばかり一つか二つかです。だから、そういう噺には捨てがたい味がある。それをあたしたちがやってるわけだけれども、世の中が移りかわっていくうちに、だんだん噺の内容がわからなくなってくる噺もある。早い話が、くるわ[#「くるわ」に傍点]噺だとか、江戸時代の人間の気質なんてものは、だんだん理解されなくなってくる。それじゃ新作はどうかてえと、これがまた、むかしの噺てえものは欲でこさえたものじゃなく、こういうおつな噺があるってんで自然にできあがったものなのに、いまの噺てえものは、何でもいいから客を笑わせるつもりで、でっち上げるもんだから、鼻もちならんようなものも出てくる。
つまりチャチなくすぐりが多くなって、自然のおもしろみやおかしみじゃなくて、とってつけたようなおかしみになってくる。だからあたしらとしても、これから先、どういう風にしていくかとなると、ぜんぜん見当がつかなくなってくるんですよ。
ただあたしが考えるのは、なにかしらもっと世間がおちついてくると、そういったごく古いものを噛《か》みしめて味わってくれる人がまたふえるんじゃないか。それが証拠にいま、六大学落語リーグ戦なんてものをやっている。この間もセガレの馬生が早稲田の研究会へ行ったけれども、古い噺を聞いて、やっぱり味わっているというんですよ。
ところで明治二十年ごろから大正の初期にかけて、東京には大体寄席は五、六十軒あったんです。明治の末から大正のはじめにかけて寄席は全盛期で端席《はせき》をまぜると百軒ぢかくあったんですが、それが今の映画館にかわったわけです。
つまり当時は、芝居と寄席以外には娯楽てえものはなかった。芝居は夕方にすむから夜になっての娯楽としては寄席しかなかったんです。そんなわけで、夜になって娯楽をもとめるとすると寄席に行くよりほかはない。だから当時、夜分明りがついているのは寄席だけだったんですよ。
で、結局、映画というものが出来ちゃって、しだいしだいに発展して、徐々にあたしたちの領域へ食いこんできたわけです。食われる理由はもちろんいろいろあろうけれども、それはそれとして、つまり現在の映画館が、むかしの寄席だと思やアまちがいないんです。ちょっとした集会場所ですぐ落語をやったので、町内にたいがい一軒ずつくらいあったんですからね。
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寄席の今昔
むかしのはなし[#「はなし」に傍点]のものを調べて見るてえと、よく人情噺と出ていますがね、人情噺ができないと、真打《しんうち》にはなれなかったというぐらいでした。これは三遊だけで、柳の方はそういうかたいことはいわない。これは噺家《はなしか》としては、いちばん重きをおいたもんですよ。
長い噺をしゃべるんで、講談とはちがうんですが、あくまでも対話を主としてしゃべる。たとえば講談ですと、
「――路地に入って突きあたりに、あらい格子があります。こいつへ手をかけてガラガラッと開けて、足を中へ入れながら、『エ、ごめん下さいまし』と、奥から出てきたのは、年のころ四十五、六と見えますでっぷりとふとっていい男でありまして、『ああ、いらっしゃいまし』……」
というふうなのが講談なんです。これを人情噺ですと、
「オ、路地だな」――こうしをあけるかたちをして――「ごめん下せえまし」「だれだい、オ!」……。
こんな工合なんですよ。つまり説明しないで、雰囲気でしゃべっていくのが人情噺なんですよ。
それから、ほんとうの落語てえものは誰だって知っているように「さげ」があって、ひとつの筋をもった噺なんですよ。
それから地噺《じばなし》、これは自分の地だけでしゃべっていく噺――たとえば源平≠セとか、お血脈≠ニかいって、自分の地でやって、くすぐっていく噺なんです。
芝居噺のほんとうのものは、引抜《ひきぬき》の衣しょうをつけて、うしろに幕をさげ、つまり背景をかえて、芝居のとおりにやるんです。ラジオでやっている芝居噺というのは、ほんとうの芝居噺じゃないんです。ほんとうの芝居噺てえのは、自分が引抜の衣しょうをつけて、幕をつかってやるんですよ。
それから音曲噺――これは三味線を入れ、唄を入れるんです。
落語てえものは、だいたいそういうふうになっているわけなんですよ。
噺家にも階級があるんですよ、階級がね。噺家になるてえと、いちばん最初が見習い――これは先《ま》ず着物だとかはかまのたたみ方、お茶の出し方というようなことを習って、噺家の雰囲気てえものを知るわけなんです。
それから前座になって、はじめて噺のけいこをし、太鼓をけいこし、お行儀だとか、口のききかた、態度など、噺家として必要なあらゆることを教わって、ここで噺家としてのもとをきずいて、もういいな≠ニいうことになって、はじめて二つ目になるわけです。
二つ目になると初めてかけもち≠ニいうものができて、紋付も着られるわけです。また楽屋でも羽織を着ていられる――前座のうちは楽屋で羽織を着ちゃいけないんです――ようになるんですね。
それからこんどは中入り≠ニいうものがある。この中入り≠ニいうのは、つまり深いところへでも行かれるようになる。これは、二つ目でも古くなって、高座度胸もでき、どこへ出しても一応はお客を納得させることができる、つまり真打の予備役とでもいうところで、たいがいここで一つ名前をかえる。こうなって初めて大幹部(大看板)が推せんして真打になるわけですよ。
真打になって初めて、取《とり》をとるようになって、前座から「師匠」といわれるようになるんです。それから先はまたキリはありませんけれども……。
二つ目は前座からは「前座さん」「兄《あに》さん」といわれます。「真打」にならないうちは、いくら古くても「兄さん」ですし、寄席の楽屋あたりで芸人を扱う人たちもだいたい心得ていますよ。
大看板てえのは、真打になって何年か経って人気が出てきて、その人の力だけでもって、たとい二十人でも三十人でもお客をよべるようになって、はじめて大看板ということになるんです。つまり「あいつの噺を聞きに行こう」といって、お客がくるようになれば大看板です。
こんにちは、いわしのめざし[#「めざし」に傍点]みたいに看板に、噺家の名前がズラリと出ていますけれども、むかしはあんなに大ぜい出やしません。三人しか看板に出ない。真打が左のはじ、スケでもいちばん看板の多い人は右のはじ、その次の人がまん中、こういうわけなんです。ところがまん中に書かれて、つきあげ[#「つきあげ」に傍点]といって一段高くなっているのがあり、下に「大入り」としてある。これは別看板なんです。
むかしは、看板に大ぜい書かないで、かりに常磐津《ときわず》連中みたいな人が寄席へ出ると――むかしは出たのです――「下げビラ」といって、その三人の下へさげるんです。だから、駈出しのときは名前は出ないんです。それ以前には、高座のわきの「めくり」、あれにも名前が出なかった。もちろん今みたいに、三味線が入って高座に上がるなんてことはなかった。「かたしゃっぎり」、つまり太鼓だけで、スッと高座へ上がっていってお辞儀して下がっていく。
あの三味線が入るのは、大阪からきたんです。関東大震災後に東西会――東京と大阪――というものを、東西の芸人が合同してつくって、大阪のいいところを東京で取りいれたわけです。そうするとにぎやかでいい、これにかぎるてえんで取りいれたんです。
それから出囃というのが、東京でつかわれるようになった。それまで東京には出囃というのはなかった。あのドンドンドンてえのは太鼓です。太鼓を打ちおわってから高座へ上がっていったんです。シーンとした中へ上がっていって座ぶとんへ坐り、そこに青銅《からかね》の火鉢があって湯呑《ゆの》みがある。その湯呑みへお湯をつぎ、それを飲んで、それをおいて、それから初めてお辞儀をして、しゃべりはじめたもんなんですよ。
そのあいだお客はシーンとして、その芸人のしぐさを見ていたわけです。いまはもうパッと上がっていって、すぐしゃべっちゃいますけれどもね。時間がないからです。むかしのお客というものは、そういう雰囲気から楽しみに来たわけなんですよ。だからチャチな芸人なんか上がっていくと、お茶をのんでいる間《ま》がもたないんですナ。
噺家てえものは、頓智《とんち》、機智といったものが生命ともいえるんですけれども、その下地というものは、もちろんその人その人が持って生れた天性もありますけれども、結局は楽屋の中なんかでもまれているうちに、見よう見まねでだんだんとおぼえていくわけなんです。こういうことは教えようたって教えられるもんじゃない。だから楽屋なんかで地獄耳でもって、人の言ってること、してることを、なんでもかんでも聞いたり見たりして、それを自分の身につけていくよりしようがないんですよ。
高座へ上がっちゃって、羽織をぬいでポンとうしろの方へなんかほうるでしょう。あれはなぜかというと、別にあついからじゃない。つまり、むかしは芸人が少なかったんで、うしろを見ないで、あとに上がる人が楽屋に来ているかどうかを知るためなんです。ウッカリ高座から下りていっちゃって、あとに上がる人がいなかったら大へんなんで、穴をあけることになる。穴をあけるのを芸人の恥としておりましたから、投げた羽織がスーッと引けたら、あとが来たんだナ、あとのしたくができたんだナということを悟って、はじめて下りていくわけなんです。
弥太っぺの馬楽≠ニいわれた馬楽(この人は気狂いになった)という人は、人形町の末広という寄席に出たとき、すげ笠をかぶって高座へ上がっちゃった。お客さんがビックリして、どうしたんだろうと見ていると、しゃべりながらそのすげ笠をとって、ポーンとうしろへ放《ほう》った。これは羽織のかわりに笠をかぶってきたわけなんです、ちょっと面白い思いつきですね。夏なんで羽織を着なかった。そういうかわった人もいましたけれども、つまるところ、あとを知るためなんですよ。
この羽織を引くてえのが、なかなかむずかしいもんで、へんなところで引かれると、噺がそらされちゃうんですよ。ワアッ! とお客さんが笑ったところだとか、噺家が息をついたところだとかでスーッとわからないように引くんですね。これはまだ見習いじゃむずかしいんです。
だから、噺家になりたいなんてきても、はじめはスッカリおどろいちゃう。こんなにむずかしいものとは思っていないんで、ビックリしちまうんですよ。
まして、今の人は羽織のたたみかたはともかくとして、はかま[#「はかま」に傍点]のたたみかたなんて知っている人はめったにないし、たいへんなことですからね。エヘン≠ニいえばハイ≠ニいう機転がきかなくちゃならない。いろいろと無理なことを言いつけることがあるけどそれを何とかやりこなすだけの機転が必要なんですよ。
機転てえものは、どんな商売だって必要なことなんだけれども、あたしたちの商売ではそれが大切なもとでなんですよ。ふだんのそうしたことが、高座で即座にあらわれてくる。噺てえものは書いたものを、そのまま読むようなことじゃしようがねえ。その時その時で自由自在に、おもしろい話が口からとび出すようにならなきゃダメですよ。
だから、ふだんの修業が大切ですよ、ふだんの心がけが高座でものをいうわけですからね。噺だけおぼえたらラジオやスタジオに出られるというような安直な考えで、噺家になろうなんて志願するものがあるけれども、さてこの道へ入ってきて、みんな驚いちゃうんですがね。
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名人かたぎ
円喬[#「円喬」はゴシック体]――この人が、両国の立花家という寄席で、ズーッと続きものをやっていたときの話ですが、本所の方から毎晩その噺《はなし》をききにくる熱心な円喬ファンがいたんです。
あるひどい暴風雨《あらし》の晩、その人は、今夜は止そうかと思ったけど、どうしても聞きたくてしようがねえんで、それでも聞きに行こうと思って、両国橋――その時分は電車もなにもなかった――を渡っていくと、ひどい暴風雨で前にすすむことができなくなっちまった。どうにもしようがねえから、あきらめて引きかえそうとしたけれども、あとへもどることもできなくなっちまった。いまでいう台風なんですよ。その人は両国橋のランカンへつかまって、
「ああ、この円喬てえ野郎がいるために、おれはこんなつらい目をみるんだ。アンチキショウ! にくい野郎だ!」
てえ話があるんですよ。そんなひどい晩でも、じっと家にいられないほど、この人のつづきものをききはじめるとたまらなかったというんです。そりゃア名人でしたからね。この人があたしの師匠だったんですよ。
円喬てえ人は何をやってもうまかったんです。この人のやるもんでまずいものはなかった。この人の得意中の得意のものには、「かじかざわ」「茶金《ちやきん》」なんかありますけれど――このあいだもあたしが放送でこの噺をやりました。いま噺家で茶金なんかやるものは、あたしだけなんです。あたしはこの師匠のをおぼえたんです。
円朝[#「円朝」はゴシック体]――この人のやるもんでは、「塩原太助」「安中草三《あんなかそうざ》」なんぞですが、実にいいもんでしたよ。よっぽど前(明治時代)に亡くなった先代の訥子《とつし》が、この「安中草三」を舞台でやったんですが、そのとき円朝のもんだから、やっぱりいちど筋を聞いてみようてんで、円朝さんに来てもらって、この「安中草三」をきいたんです。それを聞いた上、狂言を組みたてようというつもりだったんです。噺を終ってから円朝が、
「筋がわかりましたか?」というと、訥子は、
「わかりません」
というんです。それは訥子ばかりではなく、みんながボーッとなっちゃって、わからなかったんですね。それでまたやりなおしたという話もありました。「安中草三」に登場する人物はこうで、その装束はこうで、柄はこういう柄というふうに、噺の中にもりこんで、微に入り細にわたってやるんです。とりわけ牢やぶりのところなんか、そのようすがありありと眼の前にほうふつするようでした。あんまり噺がうまいもんだから、聞いているものは、スッカリそれに気をとられてしまってボーッとなり、筋もなにもわからなくなっちまうというんですから、やっぱり大した名人でしたよ。
円馬[#「円馬」はゴシック体]――この人は円朝さんの弟子でして、円喬と向いあった人なんです。円喬という人は「おげんさん」というおかみさんがしっかりしていたんで、そのために円馬という人は、すこし押され気味だったんです。芸の点ではどっちこっちといえないくらいだったんですね。この円馬という人はとうとう東京を追われて大阪へいって、いわゆる孤児になったんですよ。円朝さんのいちばんはじめの弟子ですからね。円朝さんが十九の時、まだ女房も所帯も持たなかった時分に、はじめて円馬という人がその弟子になっちゃって、浅草の安倍川町《あべかわちよう》に住んでいたんです(円馬がまだ円遊といった時分のこと)。
ある日、円朝さんが円馬に、
「おい、浅草橋の通りのところに道具屋があるだろう。あすこに幽霊の掛軸があるのをみたから、お前いってそれを買ってきてくれんか。あたしはそれがほしくてたまらねえから、すぐ行ってくれ……」
というんです。
その掛軸てえのは、そのころ七十五銭だったそうですが、円朝さんの家のなかには道具らしい道具は何ひとつないのに、道具なんぞ買わずに、その掛軸をみて、やたらにほしくなっちゃって、何がなんでも買ってきてくれというわけなんです。それを買ってきてジーッとながめながら噺を研究したというんです。それだけにあの人の怪談噺は大したものでしたよ。やっぱり名人といわれる人は、はな[#「はな」に傍点]から人とちがったところがありますね。
その絵は、円山応瑞(円山応挙の弟子十哲の一人)の掛軸で、あたしは見て知ってますけれども、サムライの生首へ、竹槍が突っさされている、ゾッとするような物すごい絵柄で、実にみごとな軸でしたね。そういうりっぱな画家の絵なんですから、その当時でさえ七十五銭もしたのでしょう。
円馬という人の弟に「まどか」という人がおりました。この人は吉之助という人と一しょに、京都で洪水《みず》が出て死んだんですがね。そのとき、その幽霊の絵は流されてしまったそうです。円朝という人は、国吉《くによし》という画家の弟子になって修業したんで、絵の方も相当なところまでいったんですね。
円右[#「円右」はゴシック体]――この人も円朝さんの弟子で、かなり売れた人なんだけれども、その時分にゃアやっぱり貧乏だったんですね。あっちこっちの金貸しから、金を借りていたけれども、どうしても返せない。いくらさいそくしても返してくれないんで、金貸しの方がみんなあつまって相談し、
「どんなにさいそくしても返してくれない。こりゃぜったい取れっこないよ。こうなっちゃ、たれが取って、たれが取らないというんじゃ不公平になるから、このさい、みんなあきらめようじゃねえか?」
「そうだ、そうだ。そうしよう」
てんで、貸した金を一切、のしをつけてやっちまうということになり、その記念として、うしろ幕をつけてやっちまったらしいんですよ。いかにも江戸っ子らしい、胸がスーッとするような話じゃありませんか。むかしの人は、そういうふうな粋《すい》なところがあったもんですね。いまの金貸しだったら、決してそんな垢《あか》ぬけのしたことはしませんよ。世の中がすべてせち辛くなってきましたからね。
円左[#「円左」はゴシック体]――この人は陰気な人で、どういうものか人気のない人でしたけれども、噺はうまい人でしたよ。研究会かなんかでみとめられた人ですが、ちっとかわった人で、自分が寄席の前まできてみて、お客さんの下駄やなんか一ぱいあるてえと、にがい顔をしてタメイキをついている。なぜかというと、下駄なんかが多いと、客が多いから噺がやりにくいというわけです。だから客が少ないとよろこんじゃって、客が多いととてもいやな顔をしていたんです。たいがいの人だったら、客が多いとよろこぶにきまってますが、この人はまったく逆で、客は少なくても自分でやりいい方が好きだったんですね。つまり変人なんですよ。そんな工合だったんで、人気が出なかったし、売れなかったし、お客のとれない人だったんですよ。自分でどうにかやっていればいいんで、ちっと売りだしてやろうとか、大いにかせいでゼニを残そうなんという了簡《りようけん》は、ぜんぜんなかった人なんですよ。
小円朝[#「小円朝」はゴシック体]――この人もやっぱり円朝さんの弟子なんですけれども、噺をよくおぼえていて数を知っている点でこれだけの人はかつてなかったんです。けれども、この人もどういうわけか人気のあまりなかった人でしたね。噺はよく知っているし、その噺も決してまずい人じゃなかったんですけれども、人気がない。やっぱし人徳というか、それがなかったんでしょうね。そのかわり人はいいもんで、三遊の頭取《とうどり》をつとめていた人なんです。
遊左[#「遊左」はゴシック体]――この人は、北海道でもって検事かなんかをしておった人で、近所のタバコ屋の後家さんが、なにか検事さんを必要とするような事件かなんか起きたために、この検事さんと知り合った。このおかみさんに魅力があったんでしょう、その後ちょいちょいタバコを買いに行くようになった。タバコ屋の娘てえものは、むかしからいいのがいて、よく小説の材料なんぞになっているけれども、これは後家さんですけれども、やっぱり若くってなんとなくエエ女だったんでしょうよ、そうして秋波てえやつを送ったんでしょう。でないと、検事ともあろうものがタバコを買うのに給仕にもたのまないで、自分でもって行くわけがないでしょう。
まあ、そんなことはどうでもいいですよ、べつにあたしは事件をとりしらべているわけじゃないんだから……とにかく、その人は、お尻からケムリが出るほど、無理をしてタバコをすってはヒンパンにタバコを買いに行き、よく観察するためになるたけツリを出させるように千円札……そのころは千円札はなかったから十円札なんか出しちゃって、口をきくチャンスをつくったんでしょうよ、きっと。
そうこうしているうちに、遠くて近いは男女の仲、お互いににくからず思うようになって、とうとうできちゃった。三十後家は通せないというでしょう。その後家さんをあたしは知らんけれども、おそらく三十後家くらいで四十にも五十にもなった更年期をすぎた後家さんではなかったにきまっていますよ。だから、渡りに舟でボーッともえあがっちゃった。中年女の恋なんてものはモウレツなもんですからね。女がそうなるてえと、検事さんの方だって、もともと好きな女だし、それがために無理にタバコをすって、相当に資本をいれてるんだから、それをムダにしたくはない。
「お前とこうなっちゃ、わしの今の立場として工合がわるい、世間に対しても、仲間に対しても……だから……」
てんで、とうとう検事の職をやめちまって、東京まで逃げてきたんです。女の力なんて大したもんですね。「タバコ屋の後家と検事の恋の逃避行」なんて、新聞のネタにはもってこいの事件ですよ。それはともかく、東京に来るには来たけれども、おいそれと適当な職もない。そこで噺家にでもなってみようてんで、この世界に入ったんです。めずらしい変りダネですよ。なんでもこの人の先祖は、「コジマナガシゲ」とかいう、かなり身分の高いサムライだったというんです。「疝気《せんき》の虫」「御前じるこ」なんていう、サムライがしようがなくなって、しるこ屋をはじめる噺――そういう噺をさせると、じつにうまい噺家だったんですよ、噺がかるくって、調子がよくってね。
小さん[#「小さん」はゴシック体]――この人はにくらしいほど落ちついていて、ズバぬけたそそっかしやで、人の外套《がいとう》でも三枚くらい着こんで帰っちまう。
つまり、高座からおりて外套を着る。そいつを着て何か人と話をしているうちに、「じゃア」とかなんとかいって、そこにかかってる外套をひっかけて、つづけて話をして、また帰りがけにもう一つ外套を着てかえっちまうというわけですよ。あとのものが外套がないもんだから、大さわぎ……
「どうしたんだろう?」
「わかった。三代目(小さんのこと)じゃねえか、さっき帰っていったから……」
というわけで、そそっかしいのは有名だったんですよ。家にかえると、
「ありゃッ、こんなに外套をどこから着てきたんだろう?」
自分で首をかしげている。また、かけもちの時分に、どっかで羽織をひろったといって交番へとどけたんですが、よく見たらそれは自分の羽織だった――という、落語を地でいったような、とてつもないそそっかしやだったんですけれども、噺はうまかったんですよ。そそっかしそうな早口でしたが、やっぱり名人のひとりでしたね。
この小さんという人の噺は、ほかの噺家とちがって高座に上がるてえと客をズーッとしずめちまう。どうしてしずめるかというと、なにをいっているのか分らんようなことを、口の中でブツブツ言っていると、客の方では耳をかしげて聞くんだが、少しも意味はわかんないけど、ふしぎにスーッと場内はしずまっちまう。
そうしておいて、だんだんに噺をすすめていくというやりかたなんですよ。それで噺がおかしいもんだから、お客はクスクスと笑ってくる。はなからお客を「ワアッ」と笑わせたりはしないんですよ。そこが人とはちがうんです。なにか叱言《こごと》でもいってるようにブツブツ言ってるてえと、噺のわけはわかんないけれども、なんかなしにおかしくなってくるような噺っぷりをする人でした。この人の「碁泥《ごどろ》」――碁をうっているところへ、泥棒が入ってきて助言をしたりなんかする――なんかの噺がなかなかうまいもんでしたよ。まったく真にせまっていましてね。
円喬という人も「碁泥」の噺をやったんですが、研究会のときに小さんの碁泥の噺をきいて、
「おれは小さんの碁泥のようには、どうしてもできないから、この噺はもうやめた」
といって、そのとき以来この噺はぜったいにやらなかったんです。
これはひとり円喬でなくっても、そういうもんですよ。たとえ自分が現在さかんにやっている噺にしても、ほかの人のそれと同じ噺を聞いて、もし自分の噺よりいいということになると、なんとなく気がひけて、やれるもんじゃありませんよ。
(自分の噺よりたしかにすぐれている)と思いながら、シャーシャーと涼しい顔でやるようなやつは、やっぱし何にもない人間にちがいありませんナ。
あたしだって、自分でやってみて、自分よりたしかにうまい、その人のようには出来ないことをさとったら、いさぎよくその噺はすてちまう。それがわからないようなこっちゃダメですよ。
だいたい噺てえものは、人の噺をきいてみて、「こいつは自分よりまずいナ」と思うと、それは自分と同じくらいの芸なんですよ。やっぱし人間てえものには、多かれ少なかれうぬぼれてえものがあるんですからね。それから「こいつは自分と同じくらいだナ」と思うくらいだと、自分より向うの方が上なんですよ。だから、「こいつは自分よりたしかにうめえ」と思った日にゃ、格段のひらきがあるもんです。
芦洲[#「芦洲」はゴシック体]――この人は講談なんです。あたしはこの人の弟子になったことがあるんです。噺の方でしくじってしまって、芦洲に相談したら、
「よし、じゃ、おれが引きうけてやるから、一年ほど辛棒しな。そうすればかならず真打にしてやるから……」
と、いってくれたんで出たんですがね。それで円朝の「塩原」や、「安中草三」なんかをやっていたんですけれども、こっちは人情噺で、向うは講談なんですから、講談と人情噺の差てえものがあるんです。講談てえものは、ことわってしゃべっていくんだが、人情噺の方は、ことわらないで人物を出してゆくんです。
だから、人情噺はむずかしいんです。講談は、それをしゃべるんです。前にもいいましたけど、たとえば女を出すんだってそうです。「年のころ二十一、二とみえる、色の白い品のいい……」というところを、人情噺ですと、「どなたでございましょうか?」という口をきくだけで、これは二十一、二のきれいな女だナと思わせるんです。
講談はどうしてそういうふうにことわっていくかというと、年をとって目のかすんだ人だとか、耳の遠い人なんか聞きにきています。寝ころんだりしてきいている人もいる。そういういろんな関係上、ちゃんとことわらなければならない。つまりお客を満足させるためなんですよ。だから人情噺なぞを講談へはいってやっているとやりにくいんです。
この芦洲という人は、あんまり酒をのんだために、脳溢血でたおれちまった。この人に死なれてあたしはまた落語界へもどってきたんですよ。
あたしなんぞまだ若い時分に、「甚五郎」なんかという噺家がいました。この人にはずいぶん可愛がられましたがね。この人も酒が好きで、朝おきるとからチビチビやってた人なんです。で、あたしはこの人が好きだったんです。この人が真打でとり[#「とり」に傍点]でもって、あたしも一しょにやったことがあるんです。
こういうことがありました。あるとき初日にこの人が二席やる。で、「お富与三郎」で、お富がゆわえられて、繻子《しゆす》の帯がとけて逃げていくやつを、与三郎が木更津の浜まで追っていって、お富が海へとびこむ。そのへんの形容のうまさなんてえのは、だれだってボーッとなっちゃって、われにかえらずでしたよ。恍惚《こうこつ》として……。木更津の海の波の音がきこえて、月がさえわたって、お富がにげるというところを与三郎がつかまえようとするところで、噺を切っちまったんですよ。そのために翌る晩になるてえと、評判がいいもんだから、お客がギッチリ来たんですよ。
典山[#「典山」はゴシック体]――この人は講談で名人でした。「百人斬り」やなんかは、いいもんでしたね。調子のひくい人だったけれども、そのほそい声が、ピーンと通ってきたんです。
馬琴[#「馬琴」はゴシック体]――この人も講談でいくさの噺のうまい人で、「宮本武蔵」なんかよかったですね。ちっこいおじいさんでしたが、そういうむかしの武士の出陣のはなしで、旗差物がどうだとか、ヨロイがどうで、カブトがどうだとか、なかなか調子がよかったですよ。むかしのいくさというものは半分は、その国の城主のいろいろな道楽でやったもんらしいですね。いくさに行くんだから、すがたなんぞどうだってよさそうなもんなのに、金の鎌形《かまがた》のカブトでもって、ひおどしのヨロイで、きれいなようすを見せる。そうするもんだから、向うもまけてはいない。サア、おれの格好をみてくれというわけで、相手に負けないようないでたちでいくさに出かけるんですね。
いまのように、ただ敵をやっつけちまえばいいてえもんじゃない。名乗りを名乗って、大将が一人一人たたかいあって、勝負がつかないてえと、持っているえもの[#「えもの」に傍点]をポイと投げちゃって、組打ちてえことになる。それで負けた方が首をちょんぎられちまう。だからむかしのいくさには味があったんですね。
旗差物なんぞには、幽霊の絵をかいたり、南無妙法蓮華経と書いたり、いろんなものがあった。で、あの旗差物はどこの大将のもんだというわけで……いくさの半分は、なんかなし楽しみがあったんですね。何がなんでも敵を殺しちまえばいいというんじゃない。
どこそこの城主で、何万石、その家来でどこをかためているのは何のなにがし、栗毛の馬に金ぷくりんの鞍《くら》おいて……ズーッとこういうようにやるのが、馬琴てえ人は実にうまいもんでしたよ。
桂文吾[#「桂文吾」はゴシック体]――この人は大阪では名人で、「らくだ」「碁泥」なんぞよくやりました。その碁泥を、前にいった小さんが大阪へいって、コッソリ取ってきたんです。この人の碁泥なんてえのは、碁をうっているまねをして、三十分くらい口をきかないんですからね。それをお客はシーンとしてだまって見ている。こうやって客が見ているところへ、泥棒が出てくるんです。その雰囲気をつくるためですね。だから、この人が一ばんしまいに高座へ上がって、
「噺をはじめてからお客さんに帰られると噺がしにくいから、御用のある方は今のうちに帰っていただいて、お聞きになる人だけ残っていただきたい。あたしでおしまいですから……」
といって、高座でタバコをすったりして、しばらく知らん顔をしているんですよ。ずいぶん人を食ったような話ですがね。そうして、帰っていく人がみんな帰っちまうと、残った人たちにいいですか≠トなことをいって、そろそろ噺にかかるというあんばいなんです。この人は一風かわった名人でしたよ。
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税金は払うもの
うちの嬶《かか》アが、よく税金のことをいうもんだから、あたしは、
「――税金のことなんぞいうのは止してくれ、聞くのがいやになっちまう。めしがまずくなっちゃう。あたしは何もないつもりでやっているんだから、これから税金のことなんかグズグズいうと承知しねえぞ――」
といって、そんな話をあたしのまえではさせないことにしているんですよ。税務署の方には内しょですがね――。
どういう風の吹きまわしか、あたしみたいなもんが、大分おさめさせられるらしい。自分じゃ計算出来ないから仕方がないけれど、仲間のうちでは一番多いらしいんです。むかしのあたしのことを思うと夢のようですがね……。
それによく、みんな税金をとられる……といいますね、とられる……というなアいやな言葉ですよ。とられるということは何をとられたって腹のたつことでしょう。ひとのものをとりやがって……というくらいだから、税金というもんはとられるんじゃなくって払うもんなんでしょう、払う義務のあるもんなんでしょう。とられるのはいやだが払うべきもんは、生かして働いてもらわしているんだから払わなくっちゃならねえ……。
あたしのところへ税務署の役人が来たときに、あたしはよくいうんですよ。
「決してあたしは、逃げもかくれもしません。むろん税金を負けてくれなんて言やしない。いくらでもそちらのいうだけは納めるよ。日本はいくさに負けて、びんぼうになっているんだからこそ税金もおさめるんだから、税務署の方でいうだけ納めてあげるよ。税金をおさめて、食うて、飲んで、死んじまうんだから、おさめられるだけは、文句をいわんでおさめるよ……」
とね。こっちからこういうんです。世の中には税金をおさめないひともいますよ。一文もおさめないで涼しい顔をしているひともおりますがね。それは税務署の方でみとめているんです。
「この人は税金がはらえない人だ」てんで、取りたてないんです。この人は払える人だナと、税務署の方でみているから、これだけ納めてくれといってくるわけです。だから、あたしは、自分のかせぎ高なんぞをかくしたりなんぞすることは、あたしのもって生れた性分としていやなんだし、そういう器用なことはとても出来やしないんです。
あたしの酒代てえものは、一月では相当な高になるんです。あたしは朝、床のなかで二合、おきて顔を洗いさっぱりしたところで二合から三合、夕食のときに三合ぐらい、そうして時としちゃ、夜中に二、三合ぐらいはやるんです。
だから、嬶アが、
「これだけ酒屋に払わなければならないんですよ、これだけ……」
てなことをいって、遠まわしにあたしの反省をもとめるようなことをいうことがあるんですよ。嬶アの立場としちゃ、いってみたいこともあるでしょうし、それはあたしにだってわからんことはないんです。
「いいじゃねえか、事実飲んだんだから払えばいいだろう。飲まんのだったらなにも払う必要はねえけれども……」
こういうのは、ちゃんときれいに払っちゃって、人にめいわくをかけるようなことをせず、その日その日がいい気持で暮らしていけりゃ、それでおんの字ですよ。グズグズ愚痴なんかこぼしたり、不平をいったりすることがあたしは大きらいですヨ。どんなに愚痴をこぼしたって、愚にもつかんことですから……。
払えなくなったら払えないんだから、払えるうちは払うんですよ。税金にしても、税務署の方で勘定をまちがえて、ありもしない収入へかけてきたんなら別問題だけれども、向うでいうだけ、こっちはとっているんだから、どうにもしようがないんです。
放送局やなんかであたしたちに払った受取りは、ちゃんと税務署の方にまわっているんだから、向うでソロバンをして見りゃすぐにわかっちまう。それ以外にあたしが築地あたりに行ったり、あっちこっちの仕事をやるてえと、そういうような収入なんかも、どこから嗅《か》ぎ出すのか手落ちなくソロバンにいれてくるんですよ。
なかなか抜け目はありませんナ。かくそうたってかくしようがない。向うも商売商売で、ああいうことやって、オマンマ食っているんだから、どうもしようがないんですよ。
「あたしは、こんなものはとってもおさめられません」
てんで、税務署へ行ってダンパンする人がたくさんあるらしい。そうすりゃちっとは税金も少なくなるか知れんけれども、そういうことはあたしにゃ、めんどうくさくて出来やしないから、あたしはもう税金はしようがねえと思って、向うのいうだけおさめることにしているんです。そういうふうにするてえと、向うでもちゃんとしてくるんですね。
税務署の連中が、目黒の雅叙園なんぞに、えれえ人を招《よ》んで、なんかの会なんぞをひらいたとき、あたしがそこで一席やったことがあるんです。そうするてえと、そのあくる日には、ちゃんと謝礼のお金をもって、あたしの家へやって来ましたよ。向うとしちゃ、あたしから税金をとれるだけとっているんだから、あたしをタダで使ったりはできない。そんなことをしたら大変だとでも思うんでしょう。そりゃキチンともって来まさア。
だけれども、その謝礼てえのが、ほかのところの額にくらべてめっぽう安いんですよ。
「あんたの方じゃ、ずいぶん値ぎるじゃねえか。あたしは税金をこれまで値ぎったことは一度だってねえのに……」
と、いってやったら、向うじゃアタマをかきかき、
「エエ、ソロバンがとれませんので、少ないですけど、どうかそれでごかんべん願います」
なんていやがる。だから、うちの嬶アが、
「やれやれ、この税金さえなければねエ」
といって、なげいている。
「そんなことを言ったって、どうにもならん話じゃないか。おかゆもすすれなくなってくりゃ、税務署だってはらえとはいわなくなるし、こっちも払わねえよ。いや払えねえよ。どうやらこうして飯を食って、酒をのんで、なに不自由なく暮らしているんだから、しようがねえじゃねえか」
といって嬶アをなだめているんです。
あたしがこの商売に入った時分は、税金なんぞ払うほどもらわなかったし、払う義務があるほどの身分じゃなかったんです。それからズーッとあとに二円五十銭の税金がかかってきたんですけれども、あたしはそれがどうしても払えねえ。それを払わねえと、鑑札というやつにハンコを押してくれないんです。
その鑑札にハンコがねえと、高座にあがることができねえんですからね。地方なんぞへ行ったときなんか、その鑑札にハンコが押してなかった日にゃ、興行をゆるしてくれないんです。
だから、地方へ行くてえと、そこの警察からかならず、その鑑札をしらべに来るんで、ぜったいにゴマカシなんかききませんよ。
むかし、年に二円五十銭の税金が払えなかったのは、あたしの半生を通していちばん貧乏はなやかなりし、業平町《なりひらちよう》のなめくじ長屋時代だったんですよ。
その頃は、税金どころのさわぎじゃない。それこそ食うや食わずで、あしたの米代はおろか芋を買うゼニにさえ困ったという、どん底生活にあえいでいた時分のことでした。
そのころ本所の横網町に区役所があったんですが、そこへ行って、なんとかして税金を延ばしてもらおうというので、よく行ったものです。
「税金をなんとか延ばしていただけませんか、いまのところどうにもなりませんが……」
「あんたは、なにをやってんだ。自分の商売の税金が払えねえのか?」
「ヘエ、どうしても払えねえんです」
「ちっとも払えねえのか?」
「ちっとも払えねえんです」
「ちっとぐらい払えそうなもんだが?」
「ちっともそっとも払えませんよ」
いくら問答したってキリがない。払えねえから払えねえというのに、これでもかこれでもかと、しつっこくいうんであたしは腹が立っちまった。
ところが、その横網町のところに、郵便局と税務署がならんであったときのこと、あたしがそこへ行って、
「どうもすみません、おそくなっちゃって……なにしろ家内がわずらってしまいましたし、寄席へはてんでお客がやってこねえし……」
半分ほど言いかけるてえと、
「ダメだよ、きみ、ききあきたよ……」
「ああ、そうですか。どうもすみません、まことにハヤ……」
ヒョイとみると、そこは郵便局――。
「そんなこと聞きあきたよ」
というもんですから、
「ああ、そうですか、そうですか……」
といって、ペコペコペコペコ米つきバッタみたいにアタマを下げちゃって、こっちは大へんですよ。あたしは税務署だと思って、そういうことをいったんですが、それが意外にも郵便局だったんで、馬鹿馬鹿しいのなんのって……。
局員のやつちょっと好《い》い気持で、そんなこと聞きあきたなんて税務署員みたいな顔つきをしてあたしの方を見てクスクス笑っていやがる。あたしゃバツがわるいんで、顔をまっかにして、コソコソ退散したんですよ。
あたしはのべつ、そんないいわけのつらい思いもしたもんだから、それがスッカリ身にしみてしまいましてね。今、払えるうちは払おうと思っているんですよ。その内、また、落語がすたれてむかしのようになったら今度は大きな顔をしてあの時ちゃんと払ったんだから、負けておくんなさい……というつもりですがね……。
それにしても、郵便局へいって税金のあやまりをしたなんてトンマな真似をしたのは、恐らくあたしぐらいなもんでしょナ、まるで作ったはなしみたいでしょう。全くネ。あんたが税金はどの位なんていうもんだから、ついつい昔のことを思い出したんですが、これは、ほんとうのはなしなんですよ。
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口にかかる税金
世間には税務署てえものを、むやみにこわがったり、けむたがったり、毛虫のようにいやがったりする人がずいぶんあるんですナ。
そりゃア誰だって、税金をよけいとられてうれしいことはない、汗水たらしてはたらいてとった金を、スーッともっていかれりゃ痛いんですよ。税金さえなけりゃナといって、うちの女房なんぞも、のべつなげいているんですよ。
だが、考えてみりゃ、こりゃアどうもしようがないんですナ。日本はむかしから貧乏な国ですし、しかも大戦争をやって負けたんだから、なおさら貧乏になっちまったんだし、国家再建てえんで金がかかる、その金をどこから出すかといえば、あたしたち国民が分に応じて出す以外にゃないんですからね。
また、税務署の役人だって、国民から余計税金を出させて、人をいじめるつもりでやってるんじゃないんですよ。そういうことを趣味でやってるわけじゃない。あれが商売なんだから、あんまり毛ぎらいしちゃ気の毒だと思うこともある。ああいうことをやって月給をもらい、それで一家をやしなったり、自分でめしを食ってるんだからしようがない。
だから、あたしは、向うのいうだけおさめてますよ。いちどだってこりゃ高すぎるからまけてくれといったことはない。
こういうと、志ん生のやつは税務署のまわし者じゃないかナ、あんまり税務署のかたをもちやがるからなんて思う人があるかも知れないけれども、とんでもない、あたしゃ何も税務署にかかりあいはないんですよ。
ところが、新聞なんぞによく出てますな、脱税てえのが、大きな会社でもって、何億円、何千万円てえのが。ああいうのを読んでみると腹が立つ。ハイハイって向うのいうとおり税金をおさめてる自分が、バカじゃなかろうかと思ったりしますよ。
それから税務署の若いのなんかが、大金をゴマカシて、その金でもって、美人なんぞをつれて温泉なんかへいっちゃって、ゼニを湯水のように使ったりする不届きなやつがいるかと思うと、税務署の役人で、税金を少なくするために骨を折ってやってそのお礼てんでそいつからゼニをもらう。つまり収賄てえのをやらかして、りっぱな家なんぞ建てたり、二号なんかをかこって、ゼイタクなまねをするようなやつがちょいちょい居る。
あたしらみたいに、馬鹿正直に税金をおさめているものにとっちゃア、そういうけしからんやつは、八つ裂きにしてやりたいような義憤を感じますよ。
国民にすなおに税金をおさめさせようとするには、そういうような脱税だとか、収賄なんて事をさせないように取りしまることが第一なんですよ。そういうような不正事件があるてえと、正直におさめている人間の心がにぶっちまって、税務署の役人が来りゃ、義理にも税金をまけてくれといいたくなっちまうんです。
あたしは、戦争が大詰めになるまえに満州へ行って、二年も帰ることができなくなり、敗戦のときはやっぱし向うで、ひどい目にあって、死ぬか生きるかのさかい目までいっちゃって、いのちからがら帰ってきた。このことはあとでくわしく話しますがね。
その時に向うで、いくさに負けるてえと、こんなにもみじめなもんかということを、しみじみとこの目で見、この耳できいてきたんですよ。いくさに負けるてえことは、ひどいもんですよ。ネコやイヌよりもひどい扱いをうけたんですから……。
それをよく見て知っているから、税金もできるだけおさめて、一日もはやく日本をよくしてもらいたい、よその国からバカにされない国に建てなおしてもらいたいという、あたしは気持なんですよ。
ところが世の中には、口に税金がかからないと思って、ペチャクチャペチャクチャ、やたらに余計なことをしゃべる人がありますが、あたしなんぞは、口に税金がかかっている。しゃべるのが商売なんだから……。口だけがあたしの身上《しんしよう》ですよ。この口のおかげで今日までいのちをつないできたんですからね。
若い時分にゃ、電気ブランなんて、ぶっそうな酒なんぞ飲んじゃって、あくる日にゃ、ベロがこう真っつぐにつっぱっちゃったこともたびたびあったんですが、今にして思えばあぶない橋をわたってきたもんですよ。
あたしの口にゃ税金がかかっていますよ。だけど、そりゃア商売の時だけの話で、ふだんしゃべる分にゃ差支えないんですよ。だが、あたしは税金はかからんけれども、いらんことはめったにしゃべらない、あたしの性分でしゃべりたくないからしようがない。
近所の人なんかと顔を合わせても、ペコンとおじぎをするくらいで、天気がどうのこうのなんて話はしない。天気なんてものは、人間がどうしようたって、どうにもなるもんじゃない。日曜日を天気にして、どっかへ行こうなんてできるもんじゃない。だからあたしは雨が降ろうが、風が吹こうがダマっている。
志ん生は、ふだんああやって、しゃべりたいだけしゃべっているんで、しゃべりくたびれて、アゴがだるいから、あんなに無口なんだろうと、思う人があるかも知れないけれども、決してそういうわけじゃないんです。
あたしの趣味といえば、今のところ将棋と釣りくらいのものですが、なぜ釣りがすきかといえば、魚てえものはダマっているからなんですよ。鮒《ふな》なんぞ釣りあげるでしょう。こうピンピンはねるけれども、なんともいやアしない。あれが気に入ってますよ。
釣りといえば、映画スターの京マチ子――この人は口数が少なくて、他人のことをとやかくいうようなこともなく、新聞や雑誌の人たちも、あんまりかの女がだまってるんで手こずっているそうです。これも生れつきでしょうが、強いていえばこの人の趣味てえのは魚釣りぐらいのもので、時々釣りに出かけるそうだが、なぜ釣りが好きかといえば、釣りをするには話相手がいらないからというんですよ。
この人はよその家を訪問した時でも、必要なことだけいってしまうと、持っていった編物なんぞやりだす。半日ぐらいやっちゃって、左様ならって帰ってくるというんですよ。
あたしは前からこの人の芸には感心しておった。どんな役だろうと、りっぱにこなしていますよ、からだの均斉てえものがとれておって、なんともいわれぬ色気があって、芸にすべてを打ちこんでいるのがわかる。あたしはああいうふうに、ふだんはだまっていて、芸に向うと、人がかわったかのように真剣になることのできる人が好きなんです。
かの女が売りだしたのは、古いことじゃないけれども、グングンのしちゃって、今じゃ押しもおされもせぬ大スターになっちまって、えらいもんですナ。
この前かの女は世界一周の旅をして帰りしなに、三十年も前にわかれたお父さんと、アメリカで会ってる写真が新聞に出ておったが、そういうお父さんを恨むようなこともなく、別れしなには、さすがに親子の情でホロリとしたとありましたね。あたしはそういう真実のある人に好感がもてるんです。
ところであたしは、向うの映画てえものはよく分りませんけれども、ダニー・ケイ、ああいう人はやっぱし好きですよ。ああいうユーモアのある人はね。「アニーよ銃をとれ」のベティー・ハットン、あの人もあたしは好きなんです。
誰にだって、好ききらいというもんはありますが、あたしは一風かわっている人間が好きなんですよ、あたしも変っている方ですからね。
いつか、写真の方をやっている土門拳《どもんけん》さん、あの人がニッポン放送から、あたしのところへ写真をとりに来ましたけれども、あの人はとても気むずかしくて、気に入らねえと、写真をとらねえ人だそうですね。
あたしもそうなんですよ。気に入らなければとらせねえんだからね。あたしはなにも無理にとってもらいたくはねえ、気に入らなかったらとってもらうまいと思っていると、そこへやってきやがった。あたしはどういう人間か、まだいちども会ったことはねえが、一口二口ものをいったら、あたしが気に入ったといやがるんでさア。
遊びのことやいろんな話をしたんだが、あの人はおもしろい人なんでさア、呑み助で、ずぼらで、あたしと話がピッタリ合っちまう。いつまでもしゃべっていましたがね。
あたしは、向うが口をきかなけりゃ、こっちもきかない。向うがなにかいえば、こっちもなにかいう。こういう工合だから、あたしてえものは、はじめは誰でもつきあいにくい人間のようにみえるかも知れませんが、別に、いばっているのでも、気どっているのでもない。こういうタチなんだから、しようありませんや。
若いときから、もっと如才がよくて、うまく立ちまわっていたら、あんな貧乏もしなくてすんだでしょうし、もっと出世していたか知れませんが、心にもないお世辞をいったり、ゴマをすったりすることは、どうにもあたしの性にあわんからしようがない。でも、あたしは後悔なんぞしておりませんよ。ですから私は、お天気やだとか気分屋だとか言われます。別に自分では気むずかしくするつもりはないけど、誰だって嫌《いや》な時には嫌なんだし、嫌なことを好きといえったって腹の虫は承知しませんや。まあ、人間無口に限りますよ。
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満州行
満州へ行ったときのことですか、ええもうそれはえらい目にあいましたね。もっともあたしひとりじゃない、あちらへ行ってたもんはみんな同じでしたが、なにしろ二年も帰れなくなっちまいましたからね。ほんとに苦労しに行ったようなもんでした。
ルーズヴェルトという人が脳溢血かなんかで倒れたあの晩は、東京がものすごい空襲で、四時間もつづいたでしょう。あの大空襲でもって、あたしの家はスッカリ焼けっちまったし、東京にいたってしようがねえなアと思ったんです。
それに、前からいちど満州へ慰問に行ってもらいたいといわれていたもんですから、その頃は軍のことだからこっちもいやというわけにもいかないんで、そのうちに……と一寸のばしになまくら返事をしておいたんで、このさい思いきって行って来ようと決心して、引き受けてしまったんです。
さて、引受けはしたものの、関釜《かんぷ》連絡船がダメなんですよ。で、新潟からなら船が出るという話だから、すぐさま新潟へ行ってみると、「船は出ません」という。
新潟までやって来て、船が出ないからといって、そのまま東京へ引き返すのもバカバカしい。どうしたもんかナと思案していたところが、何日目かに、白山丸という船が一そう出るという情報が入りました。今考えりゃそんとき東京に戻ってしまえばよかったんですが、その時分は何しろ思いたったんだから何としても行きたい、やれやれてえんで、あたしはその船に勇んで乗りこんでしまったんです、それが不幸の初めですというわけ……そして朝鮮の羅津《らしん》てえところへ上陸したんです。
理屈はいろいろつけようもあるが、あたしが満州へ行く気になったほんとうの気持は向うへ行くてえと酒がいっぱいあるという話なんで、こっちは御承知のように呑み助ですから助平根性をおこしたわけですよ。全く東京は酒が不自由でしたからね。
それともう一つは、近いうちに東京へ敵前上陸があるから、竹槍でもってそいつに立ち向うんだというウワサがあったんですよ。
そんなバカなことをしたって、しようがねえだろうと思っていると、それは単なるウワサじゃなく、ソロソロとなり組あたりで、その準備をすすめるような話があったんで、うちのセガレが、
「そういう場合に、おやじが酔っぱらって、オモテの方をウロウロされたんじゃア、邪魔っけで思うようにはたらくことが出来ないし、それに第一、近所の人たちに対しても見っともない。おそかれ早かれ、どうせ死ぬからだなんだから、いまのうちに向うへ行ってくれ……」
と、心ぼそいことをいやがる。なんだか親に対して、じゃけんなことをいうように聞えるかも知れないが、そのころは悲壮な毎日でしたから、決して無理な言い分じゃなかったんですよ。
というのは、あたしが酔っぱらって家へ帰ってくるてえと、たいがいセガレが神明町の車庫の前へ立っている。
空襲なんかになると、防護団の連中が鉄カブトのアゴヒモもかけて、みんないかめしい顔をして突ったっている。ゲートルのヒモがほどけているくらいなことでも、おどかされちゃう場合なんですからね。
そこんところへ、あたしが酔っぱらって帰ると、見っともねえもんだから、あたしが電車からおりかけると、いきなり引っかかえて、どんどん家へはこんで行く、……という仕組みになっていたんです。
「どっちみちあたしらは、竹槍を持って死んじまうんだから、おやじさんも向うへ行ったほうがましだよ。こうなっちゃ日本もしようがねえ。いくさはいよいよはげしくなるばかりだから……」
こういう。セガレは親不孝でいっているんじゃなく、あたしの身の上を思っていってくれるのだということが、あたしにもよくわかってるから、
「じゃ、そうしよう。あたしも向うへ行けば、万一の時はうちのものが別れ別れに死ぬだけの話じゃ。向うには酒があるというから、冥途《めいど》のみやげにたらふく飲んで死んじまおう。このぶんじゃ日本にいたって、そうそう美味《うめ》え酒なんぞ飲めそうもないからな」
てなわけでしたが、セガレは自分がどうせ死ぬことを覚悟しているから、そういうことをいうけれども、嬶《かか》アや娘なんかは、あたしがひとりで向うへ行くのを、とても心配してくれましたが、あたしはちゃんと決心をしたんだから、引っこまない。
そこで新潟から船にのって朝鮮の羅津へ向ったわけなんですよ。
ところが、これから羅津まで五十時間という日本海の真っ只中までいったときに、ものすごい大暴風雨です。
そうするてえと、「ダーン」という大きな音がしたと思うと、どえらい声でもって「撃沈だッ!」と、どなるやつがいる。つづいて「ガガガガーッ!」とすさまじい音!
サア大変!
船に乗ったときに、浮袋やなんかのつけ方を教えてくれたんだけれども、あたしは、それをおぼえちゃいない。
あたりはもう、引っくりかえるような大さわぎになった。たいへんなんです。
ワアワア泣きだすやつがいるし、そうなると顔なんぞ青いというじゃないですね、赤うるしみたいな色をしている。
あたしはもうダメだと思ったんです。第一、こんな日本海のまん中で船が撃沈された日にゃ、うきなんぞからだにくっつけて、海の中へとびこんだところでどうなる。近くに島でもありゃ、泳いでいくというて[#「て」に傍点]もあるけれども、うしろを見ても前をみても、波と空ばかり、しかもその波は山のような大波なんですよ。
羅津まで五十時間もかかるんだから、あわを食って海へとびこんだところで、おそかれ早かれ、フカかサメのえじきなんかになるのが関の山なんだから、うきなぞつけたってしようがねえから、このまま船の中で死んじまおうと、あたしはハラをきめたんです。
ハラはきめてはいるものの、そうなるてえと、心の中はおだやかじゃありませんよ。家族のものの顔が目のまえに、サアッ、サアッとつぎつぎにうかんできましてね。あたしが家を出るときに娘たちが、
「――お父さん、そんな遠いところへ行って大じょうぶなの? ずいぶん船が撃沈されているらしいじゃない。もしもそんなことにでもなったら、どうしますか?」
「しんぱいするなよ。そうなりゃ、どっかへ泳いでいっちまうから……」
なんて、呑気《のんき》なことをいったりしたが、そのときの娘たちの顔がありありと目の前にちらついてきて、その声が耳にきこえてくるんですよ。
これがこの世の最期だ!
と、あたしは目をつむって、かんねんしていたんです。まったく悲壮なもんですよ。
ところが、どうでしょう。あっちこっちから人の笑い声が聞えてきた。変だなと思ってきいてみると、
「――撃沈でもなんでもないんですよ」
という。何ちうことか、暴風のため、甲板の上につるしてあるボートの綱が切れちまって、それが風にあふられて、船の胴体へぶつかってきたんだというんですよ。それが魚形水雷でも命中したと同じような音がしたわけですナ。撃沈される、撃沈されるということをよく聞いているから、みんな撃沈神経衰弱症になっている時だから神経がたかぶっている。そこんところへ、「ダダァーン!」ときたから、思わず「撃沈だ!」という声がとびだしちゃったんですよ。
いったい、その「撃沈だ!」と、いちばん先に誰がいったかというと、それがあんた、乗客じゃなくて、その船の事務長さんなんですよ。恐れ入っちゃった。
あとで聞いたところによると、その事務長は、台湾のどこかで撃沈をくった経験者だったので、そのときの音と、同じだったもんだから、撃沈だッ! ということばが、思わずとたんに口をついて出てきたんでしょうね。バカバカしいような話なんですけれど、そのときのせっぱつまった気持なんてものは、とうてい体験者でなくちゃわかるもんじゃありませんよ。
そういう悲喜劇があってから、間もなく、めざす羅津へ船が着いて、さっそく上陸したんですよ。そんなことがあっただけに、いのち拾いをしたような気持がして、おかの土をふんだときのうれしさったらありませんでしたよ。
この羅津で、宿へついたけれども、かんじんの酒がないんです。
「なんだ、おれは酒があるというからそれを楽しみにこんなところまでやってきたのに……」
あたしゃガッカリして宿の女中に聞いてみると、支那人の飲み屋があるという。こいつは有難いと思って、すぐにそこへ飛んでいって、飲ましてもらったんですが、その酒はうまかったですよ。なにしろ日本酒でもって、ああいうことがあったあげくなんですから、ほんとうに生きかえったような気持がしました。
羅津で一晩とまって、あくる日奉天へ行ったんです。奉天はよかったですナ。空襲なんぞないうえに、酒があってタップリ飲める。こんな有難いことはないと思いましたよ。
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森繁久弥
そのころ奉天にはふんだんに酒はあるし、空襲なんてないんですから、寝巻をきてゆっくりいられたんですよ。こんなありがたいことはないと思いましたねエ。牡丹江《ぼたんこう》の方まで歩いて慰問にいったんですよ。
あたしたちの一行は、口では死んで帰れないかも知れないなどといいながらも、実際の予定では一月ばかり慰問して、日本へ帰るということになっていたんですが、もうどこからも船が出なくなっちまったんです。あたしたちが乗ってきた白山丸が最後の船だったわけです。しようがねえ、船が出ないんじゃ、泳いで帰るわけにはいかない。
こうなっちゃ、一座をくんでいたってどうにもならんから、解散しようじゃないかということになったんです。
そのとき、新京の放送局の放送部長が、
「それじゃ、わたしのところへ来てください。放送してもらいますから……」
と、いってくれたんで、さっそく新京へ行っちゃって、放送したりして、放送局の指定してくれた宿屋へとまっていたんです。
そのとき、新京放送局の下廻りかなんかでほうぼうを駈けまわり、いろいろごきげんをとったりして、はたらいていた若い男がいたんです。その男てえのが、いま日本の映画界でものすごく売りだしている森繁君(久弥)だったんです。
その頃はまだ、日本軍のいきおいがあったころだったんで、あたしはよく酒をのんではいい気になっていたんですが、あたしが酔ってトラになっちゃって、宿へかえられねえと森繁君がいろいろと親切にめんどうをみてくれたうえ、しまいにはあたしを負ぶって宿までつれてきてくれるんですよ。
あるとき、あたしが、一席やっちゃって、あとでみんなが会食をしたときに、森繁君がいろいろと余興をやったんです。これを見てあたしはなんという器用な人だろうと、内心ホトホト感心してしまった。
「きみ、きみは、こんなところでマゴマゴしている人間じゃないよ。東京へきて、寄席にでも出たら、きっといい売りもんになるよ。どうだね?」
「ものになりますかね?」
「なるとも、なるとも。大じょうぶだ、あたしが太鼓判をおすよ」
と、ほめそやしたんですよ。じつに器用で、なんでもやる。そのやることが素人ばなれがしている。それに男前はキリッとしていいし、いい声の持主だし、なんといったって、大学まで出ているんで教養も高い。歌を唄いながら、世界各国のことばを入れて、順々に方々の話をする。
その調子がよくってあざやかなことったらない。あたしは内心じつはびっくりしてしまいましてね、(この男は、どの方面へいったって食いっぱぐれはないばかりか、きっといまに売り出すにちがいない!)
と、思ったんですよ。
あたしだって、長いことこの世界で苦労してきたんだから、一目みたら、この人間の芸はどうだ、伸びる人か、伸びない人かというくらいなことはすぐわかるんです。これまであたしは落語界ばかりでなく、ほかの芸界の人でもずいぶん予言してきたもんだが、めったにはずれたことはないんです。自画自賛ですみませんがね。
「きみは、どうも惜しいなア、こういうところにいるのは……東京へ来て舞台に上がったら、三亀松《みきまつ》どころじゃないと思うがなア。ひとつ乗り出す気にならんかね?」
「いやア……」
といって、森繁君はアタマなんかをかいていたんですがね。
そのうちに、日本はとうとういくさに敗けちまったでしょう。そうなると向うでは暴動がおこったり、まるで蜂の巣でもつついたようなさわぎになっちゃって、とうとうみんな別れわかれになって、だれがどこへ行ったかわかりゃアしない。あたしは大連の方まで逃げちまった。
ああいうことになるてえと、みんな死ぬか生きるかの境目だから、一軒の家に住んでた親子でさえ、ちりちりばらばらになっちまう。自分がいのちからがらだから、況《ま》して他人のことなんぞにはなかなか手のまわるもんじゃないんですよ。
それから何年かたってからのことだったが、あたしと小唄勝太郎さんとの座談会があったんですよ。あれはどこだったかナ、とにかくその会のときに、あたしのそばへやってきた男がある。
「師匠、しばらく……」
あたしは、その人をちょっと思い出せなかった。
「あんた、どなたですか?」
「ぼく、森繁ですよ。新京で戦争中あなたと会った……」
「あッ、あんた、森繁さん。これは、これは、よくたずねてくれましたネ」
「――師匠、お元気で何よりですな。あのころはよく酔っぱらったあんたを負ぶって宿へかえったもんですがね」
「いや、まったく面目ないしだいで、あんたにはえらいお世話になっちまって!……」
あたしは厚くお礼をいったんですがね。
どうです! あたしが見こんだとおり、こんにちの日本映画界を代表する人気者森繁久弥になっちまったんですからね。あたしは自分の目にくるいがなかったことが嬉しいんですよ。それにしても、
「ぼくは森繁です、新京にいたときは……」
と向うからわざわざ来て挨拶《あいさつ》するなんて、なかなか出来るもんじゃないですよ。自分があれだけになっちまいますとね。自分の下積み時代のことなんぞ知っている人間にはなるべく顔を会わしたくないのが普通でしょう。これが軽っぽい人間だったら、自分の人気に自分で酔っちまって、肩で風を切って歩くのが関の山ですよ。やっぱり人間は、苦労をつまなきゃ、ほんとうにえらくなれるもんじゃないと、しみじみ感じたわけですよ。
映画俳優にしても、大学なぞ出るとすぐ、顔がよかったりして入って来たものにくらべて、森繁君のようにあの年まで、いろいろと方々で苦労をなめて入った方が、何といっても値うちがちがいますからね。
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敗戦とデマ
終戦になったということをあたしらが聞いたのは、大連だったのです。
日本はとうとういくさに負けて、無条件降伏をしたそうだというけれども、あたしは、それはきっとデマだろうと思って、ほんとうにはしませんでしたよ。あたしだけじゃない、みんなそう思っていたんですよ。そりゃ日本人としてあたりまえですがね。
その前に広島と長崎にへんなもんが落っこっちゃって、その落っこちたもんの正体がなんであるかわからないけれども、広島も長崎も全滅して、大へんなさわぎをしているというウワサも聞いていたんですけれども、それだってデマにちがいないと思ってましたよ。というのは、そういうようなウワサは、それまでにもいろいろ聞いていましたからね。
けれども、近ごろ日本の旗色が特にかんばしくない、海軍だって目ぼしい軍艦はつぎつぎと撃沈されちゃって全滅したとか、このいくさに日本はきっと負ける、もう勝ちめはない、敗戦の一歩手前まできているんだというようなウワサがひんぴんと耳に入ってくるんです。そして、どのウワサも日本が落ち目になってきたという悲観的なものばかり、特にあっちにいると余計に聞かされていましたよ。
しかし、あたしなんぞ、そんなことをほんとにはしなかった。
(なにを言っていやがるんだい、日本がそんなにやすやすと負けてたまるもんかい!)
と、たかをくくっていたんです。
そりゃそうでしょう。日本てえ国は開びゃく以来、いまだかつて、いくさをやって負けたことがない。日清戦争でも日露戦争でも、あんな大国を向うにまわして戦争をしても、ぜったい勝ち目はないと危ぶまれていたけれども、実際にやってみりゃ、なんのことはない、どうどう大勝利をあげているんじゃないか。たとえ今は苦戦をしておっても、しまいにはきっと伊勢の大神宮様から神風かなんか吹いちゃって、敵をコテンコテンにやっつけちゃって日本が勝つにきまっている。むかし元寇《げんこう》のいくさの時だって神風が吹いちゃって、三千五百隻という敵の船がひっくりかえり、十万人の敵を全滅させたくらいだから……。
日本人としちゃ誰でも、しまいはかならず勝つにきまっていると思っていましたよ。また、そういうふうな神風教育てえのをされてきているんですからね。
あたしたちが東京を発《た》つときには、もし敵のやつが上陸でもしてきたら、竹槍でもって、一人のこらず突きころして、ぜったいに寄せつけないと、たいへんないきおいだったんだから、まさかそんなにアッサリ手をあげて降参しようなどとは、まったく思いもよらぬことでした。
あたしは、あくまでも、日本が負けたとか、降伏なんてことは信じたくなかった。そんなバカなことがあってたまるもんかと誰がなんといおうと半信半疑でいたんですけれども、敗戦の事実はしだいに明白となってきたんです。
いよいよ日本が負けた、無条件降伏をしたということがハッキリわかったときの驚き、くやしさ、なさけなさというものは、腹わたがにえくりかえるようで、ことばにもなんにもあらわすことは出来やしませんでしたよ。しまいには、ただモウぼうっとしちゃって、なんか夢でもみてるような心もちになっちまって、仕事もなんにも手につきゃアしない。
それまでは、どんなに苦しいことがあっても、おれは日本人だというホコリてえものがあって、恐ろしいものはなかったけれども、日本がいよいよ負けたとなると、深い深い谷底へでも突きおとされたような気持になっちゃって、急におそろしくなってきましたよ、なにしろ敵地にいるんですからね。
支那人はいばり出す、朝鮮のものもいばり出す、それはまるで手のひらをかえしたようにね、まったく現金なもんですよ。シャクにさわって、くやしくてたまんねえけど、どうするにもしようがねえ、歯を食いしばってガマンするよりほかはない。
今までみんな日本のものだった建物も、道路も、草も、木も、すべてもはや日本のものじゃなくなった。そればかりか、あたしたちを生かそうと殺そうと、向うの考えひとつというなさけない立場に追いつめられてしまった。泣こうにも泣けない、淋しい様な、恐ろしい様な、地獄のどん底へけり落された様な、なんともいいようのない複雑な気持になっちまいました。
しかし、冷静になって考えてみると、これから先の自分のいのちはどうなるのか、このままやられてしまうのか、それとも、監獄へでもぶちこまれてしまうのか、かいもく見当がつかない。
むろん、日本へ帰るめあてなんぞありゃしないし、そうかといって食わないではいられねえし、ただいつまでもボンヤリしていたら、アゴが乾あがっちまう。そこであたしは気をとりなおして円生と相談して「二人会」をつくり、大連から満州へ入ってかせごうということにしたんです。それはちょうど、ソ連の兵隊が進駐してくるという前の晩のことなんです。
さて、満州へいってみると向うじゃ、女は青酸カリをのんで自殺する、男は出刃包丁かなんかで死んじまおうという、おだやかならん話で、みんな目の色をかえて大さわぎをしている。あたしらは、まさかそんなことになっていようなどとは露しらず、そのドタン場へ乗りこんでいったわけです。
こんなさわぎじゃ、興行どころじゃあるまいと思っていると、どうも日をきめて興行することにいろいろ手はずができているんだから、今さら取りやめるというわけにはいかないと、こういうんで、さっそくその晩やったところが、意外にも八十人ばかりやってきましたよ。あたしゃこのさわぎじゃとても来やしまいと思っていたのに、来る人も呑気なもんですよ。
「あんた方は、あしたソ連の兵隊がやってきたら、みんな死んじまおうというのに、よくもまあ落語なんぞ聞きにくる気になりましたね……」
というと、
「イヤ、どうせ死んじまうんですから、笑って死にたいと思いましてね」
と案外おちついているんですよ。
人間てえものは、いよいよ自分は助からん、あしたは死んじまうということになると、欲も得もなくなるもんですね。
いままでは、どうにかして生きていようと思えばこそ、食いたいものも食わないで、ケチケチして、ごしょう大事にのこしておいたんですが、それをみんな出しちゃって、食って、飲んで死んでゆこうという気持になるんですよ。
向うではアパートみたいな大きな家にたくさんの世帯があって、その中に住んでいるんで、いよいよあした死ぬんだとなると、それまでトラの子みたいに大切にしていた砂糖とか小豆だとかを、めいめいに持ちよって、それでもって汁粉をこさえたり、かくしておいたウイスキーやウォツカなんぞをおしげもなく持ち出してきて、みんなでやろうじゃないか……ということになったんです。
「師匠、あなたもわざわざこんな遠いところまで来て、こういう災難に出くわすとは不運でしたな。ほんとにお気の毒ですよ」
「イヤ、内地を発つ時にみんな止めてくれたんですが、こうなりゃ、東京にいたってロクなことはないですよ。これもみんな前世からの約束ごとで……」
「われわれはみんな覚悟をしているんです。めいどのおみやげに、ひとつ噺《はなし》をきかして下さいな……せめて死ぬ前に思いきり笑ってみたいから……」
これは人ごとじゃなく、あたしたちにしたってどうせのがれっこはない。同じ日本人だもの生かしておくはずはない。こんな気持だから、落語なんかしゃべるのはいやだし、こうなりゃゼニなんぞもらったところで何にもなりゃしないけれども、みんなからゼヒやってくれという、たっての頼みなんだから、こっちの気持だけでことわるわけにもいかないんです。
そこにはもう年寄りも子供もみんなあつまって、あたしたちの噺のはじまるのを、今か今かと待っているようす。この有様を見ちゃ、この場に及んで引っこむわけにもいかないんですよ。
会場には、天皇陛下の大きな写真がかかげてあって、みんなうやうやしいおじぎをし、
「――陛下に対して、申しわけないことになりました。どうかおゆるし下さい……」。ワアーと、みんな泣きだしちゃった。
「師匠、一席ねがいます」てんでしょう。やれっこないんですよ、お通夜みたいなところで。……でも、しようがねえから、まず円生が高座へ上がったが、とたんに、「エーエ、ワアーッ」と泣きだしちまう……だが、少し間をおいて、またやりはじめたが、「ワーッ」とくるんです。笑わせる話をするのに、泣かれたんじゃネ。とうとう何もやらずに帰って来ましたよ。どこも、こんなさわぎで、あたしたちも、どうせ殺されるか、監獄へぶちこまれちまうんだと、すっかり覚悟をしたんです。そういえば、あの頃の内地のウワサ話を思いだしますよ。たいへんなデマ話をね……。
「天皇陛下が切腹されたそうだ、いや自殺されたそうだ」
「マックァーサーが宮城へ入って、天皇陛下は横浜へ行かれたそうだ」
「皇太子は二十五年間の人質で、汽船へ乗っけられアメリカへ連れていかれたそうだ」
「東京では、若い娘なんぞアメリカ兵におかされて、処女はいなくなったそうだ」
というようなウワサがみだれとんで、あたしたちをハラハラさせたもんです。
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しらみで死ぬ
あくる日になった――。
きょうはいよいよソ連の兵隊が進駐してくるんです。その日、向うの文部大臣というような立場の人だったと思いますがラジオでもって、
「諸君は決して心得ちがいをしちゃいけない。ソ連軍に対して手向いしたり、さからったりなんかするてえと、とんでもないことになる。もう日本はいくさに負けてしまったんだから、ソ連軍が進駐したら、その命令にしたがって、すなおにしておりなさい。あわてて自殺したりなんかする人間は卑怯《ひきよう》である。自分の苦労を死んでわすれちまおうてえのは、もっとも卑怯きわまる行いであるゾ。もし凶器なんぞを持っているものは、どこそこまで持ってくるように……」というようなことを放送したんです。
そうするてえとみんな、それまでかくしておった銃だとか、刀だとか、切れるものといったら包丁のたぐいまで出しちまったんです。それでほんとうの丸腰になっちゃったわけですよ。こうなっちゃ手も足も出ませんや、どんなに大和魂をもっていても、丸はだかにされたんじゃしようがねえ。
(やれやれ、ひでえことになったもんだ、なさけねえ話じゃな)
みんなそういって溜息《ためいき》をついていたところへ、ドヤドヤと進駐して来たんですよ。タンクだったか、トラックだったか、なにかそういうものへ乗ってきやがったんですよ。
どいつもこいつも、仁王様のイトコみたいなでっかいやつで、そのなりてえものが、きたねえのなんのって、ただ申しわけに服を着ているというだけで、いま監獄から脱走してきました……というような格好をしていやがる。その人相てえものも似たりよったりで、海賊そっくりなやつばかり……。
ところが、あたしらの目にくるいはなかったんですよ。というのは、監獄にそれまで入っていた囚人をよこしたんですからね、探りに……。
奴らはオリの中から飛びだした猛獣みたいなもんですよ。くすりにするほどの血も涙もねえやつらだから、手あたりしだいに男はハダカにしてしまい、若い女とみりゃ、さんざもてあそんだうえ、淫売《いんばい》なんぞに売っちゃって、売られた女は密航船に乗っけて、どっかわけのわからん遠くの方へ連れてってしまうんだから、しまつがわるい。
そのとき、あたしがよせばよいのに、
「火事場どろぼう……」
といったんですよ、これが大失敗!
すると、そばにいたヒゲだらけの丹下左膳《たんげさぜん》みたいなやつが、こわい顔をしてジーッと、あたしをにらみつけていやがる。あたしはゾーッとしちゃいましたよ。
あたしは、まさか日本語なんぞわかるやつはいやアしまいと思って言ったんだけれども、どうやらそいつはいくらか日本のことばのわかるやつらしい。
さあ、しまった!
と思ったけれども、あとのまつりです。そいつは、あたしの顔を穴のあくほどにらみつけて、銃剣でもってあたしを、突っ殺すような格好をしてやがるんですよ。
弱ったなア、こんなところでこんな奴に殺されるなんて、なさけないことになったもんだと思ったけれども、こうなってしまっちゃアどうすることも出来やしない。
(どうせ生きて日本へは帰れない、ノタレ死にして犬に食われている日本人の死ガイも見た。おそかれ早かれ殺されちまう運命なんだ。エーッ、おれも日本人のはしくれだ、この場におよんでビクビクしちゃア、日本人の面よごしだ、いさぎよく死んじまえ)
と、とっさに覚悟のホゾをきめちゃって、スーッと立ちあがり、ここを突けといわんばかりに自分の胸を指さしたときもとき、奴らになんか急用でもできたんでしょう、仲間の奴がアワをくって呼びに来たんです。
危機一髪! とはこのことですよ。あたしはやっぱし生き運があったんでしょう、それとも、志ん生は長いこと貧乏したからこれから少し楽をさせてやろうという神様の思召《おぼしめ》しか、いずれにしても、あたしゃホッとしましたよ、まったくきわどいところで命びろいしたんです。この時のことを思いだすと今だって冷汗もんですね。
ところで、なぜ囚人なんぞをよこしたかてえと、荒っぽい囚人をよこして乱暴させる。どうして乱暴させるかてえと、誰かが、銀行にあずけてあるお金は早くおろしなさいという放送をした。銀行へ金をおくてえと、銀行へ進駐されたときに持っていかれちまうから、早くおろしなさいというわけですよ。
その放送を聞いたもんだから、みんなわれもわれもとあわてて、方々の銀行へかけつけて金をおろしてかくしていたんです。
それじゃ、向うの都合がわるいから、囚人をよこして、むやみに方々を荒らさせて金をとらせたんです。
(これではしようがねえ、金なんぞ持っていたら危ねえから)てんで、せっかくおろした金をまたもや銀行へすっかりあずけちゃったんです。
そこで、みんながたいがい銀行へ預けちゃった時分を見はからって、向うは銀行という銀行をサーッと押えちまって、その金をゴッソリ没収して、汽車なんかへ積みこんで、どっかへはこんで行っちまったわけです。なかなかうまい計略ですよ。そいつへみんな引っかかっちゃって、すっかりカラケツになっちまったんです。
そうしておいて今度は、向うから軍票てえのを出したんです。この軍票でもって鼻をかんで死んじゃった人もたくさんあったんですよ、くやしまぎれにね。
そういうわけで、持っているものは根こそぎとられてしまったんです。じだんだふんでくやしがったけれども、どこへも訴えていくところはなし、泣き寝入りするよりほかなかったんです。勝てば官軍で、いくさに勝つと何でもかんでも無理をきかして、したいほうだいのことをするけれども、負けたとなるとみじめなもんですよ。
もうそうなっちゃ、理くつなんぞいったってはじまらない。つまらん理くつをいったりしていると、たちまち首をチョン切られるくらいが落ちなんだから、ごむりごもっともでちぢかんでいなけりゃならぬ。
なにしろこっちゃ丸腰なんだが、向うにゃ武器という武器がそろっているんだから、赤子の手をねじるようなもんですからね。腹の中じゃ「チキショウめッ」って歯ぎしりをしていても、うわべは借りてきたネコみたいに神妙にしていなければならない。あたしは生れつき気性がつよい方だから、腹が立って腹が立って、向うズネへ喰いついてやりたいくらいだけれども、心の中で泣いてガマンするほかはなかったんです。
そのうちに文なしになっちゃって、仕方がねえから、自分のもっているものを持っちゃって往来に立って満州人なんぞに立売りをするんですが、その連中は何でも買うんですよ。紋付なんぞ買った奴が、それをズボンなんかにしてはいている、だから、紋がちょうどケツのところへくっついていたりして、こっけいでしたよ。
こっちは食うものがないから、そのために何でもかんでも売っちまう。せっぱつまって売るんだから、値段なんぞにあんまりこだわりゃしない。だから向うじゃ何でも買うんですよ。
ところで、あたしは大連のある豆腐屋に泊っていたんですが、ある真夜中のことです。そとの方で何やら変な音がしたんで、パッと目をさまして聞き耳をたてると、どうもおかしい。
(こいつはテッキリ向うの兵隊の奴がおそってきたんだな!)
と思ったから、すぐさまはね起きて、便所の中へとびこんで、中から戸をしめて息をこらして、そとのようすをうかがっているてえと、トントンと足音がきこえてきた。いよいよ来やがったなと思ったから、一生けんめい戸をおさえていると、その足音が便所の前でピタリととまり、コツコツと戸をたたいては引っぱるんですよ。
(このあいだあたしが、「火事場どろぼう」といったんで、あたしを捕まえに来たに相違ないと思うから、どんなに引っぱったって、コンリンザイ開けさせてたまるものか)と、しっかりおさえていると、トントンと向うへいっちまった。
(やれやれ、これで助かったかナ)
と、一安心をしたものの、まだ出る勇気はない。だが、臭いし、長時間立ちっぱなしだから足がつかれてたまらないんで、出ようとしたとたんに、また前と同じように、トントンと足音がして、コツコツとたたいて、さかんに引っぱりやがる。
(ハハア、こりゃほかの方をさがしたが居ないんで、ここだというんで来やがったな!)
と思ったから、死にものぐるいで戸をおさえていると、案外アッサリ向うへ行っちまった。そんなわけで夜が明けるまで便所の中でがんばっていたんです。
夜がすっかり明けたんで、ソーッと戸をあけ外へ出るてえと、そこの主人が、
「あんたは便所の中にいたんですか。あたしは少しお腹をこわしてるんで、二へんほど便所へきたけれども、どういうものか戸があかない。そんなはずはないと思って、どう引っぱっても開きゃしない。道理で、ハハハハ……」
そこで、あたしはそのわけを話したところが大笑いですよ。だが、その時は笑いごとじゃなかったんです。あたしにしてみりゃ生死のせとぎわと思ったからこそ、臭いのに長いことガンバッたんですからね。
それで結局、いちばん金のない人間から先に内地に還すということになったんですが、ウッカリしていると、帰りの船が来るまでつながれ[#「つながれ」に傍点]なくなっちまう。というのは物を売るたって、旅の空だから持っているわけがない。それに物価が高いんでたまったものじゃないんですよ。
ところであたしたちは、帰る前のお正月に、着ているシャツがしらみ[#「しらみ」に傍点]だらけで、もうどうすることもできなくなっちまった。なにしろ二年も風呂てえものに入らないで、着たきりなんですからね、しらみのわくのも道理ですよ。
風呂なんて、金っけのついているものは、みんな持っていかれちまったんですからね。電車だって、いい電車はみんな持っていかれたくらいだから、風呂をわかすなんて、のんびりしたことは出来やしませんよ。
だから、しらみ[#「しらみ」に傍点]はわきほうだい、五匹や十匹というような生やさしいしらみじゃない。肌へ手をつっこんでみるてえと、みんなしらみなんです。あたしが二年ぶりにシャツをぬいでみたところが、一匹ずつしらみをとるなんてことは出来ない。ホーキではいたんですよ。ウソみたいな話だけれども、正真正銘のことなんですよ。
新聞紙をズーッとしいておいて、その上でホーキではくと、バラバラバラバラ落っこちる。それをはきあつめては燃やしたんです。一匹一匹しらみをとっていたら、朝から晩までとったって取りきれませんよ。内地なんぞではしらみのたかっているシャツなんぞを、煮え湯の中につけると、たいがい全滅するけれども、そんなことをしたってだめなんだから、ほんとうにおどろいちまうんです。
このしらみのために発疹《はつしん》チフスが流行していましてね、大へんなもんでした。ある知人のおった家ですが、そこに二十五人すんでいて二十五人かかってしまったんです。そして大人が三人、子供が四人も死にました。ほんとうに恐ろしいんですよ。たかがシラミじゃねえかといってしまえば簡単な話ですけど、あの時のシラミは向うにいた人間をどの位死なせたか知れません。無事に内地に帰っていられたら随分国のためになる人だったでしょう、シラミのために犬死にしてしまったんですからね。この話はあちらにいたひとならあたしの話がウソでねえことを知ってるはずです。
またまた酒の話になりましたが、向うに「パイチュウ」という酒があるんですよ。それはつよい酒で、あたしは初めそれを一ぱいずつ飲んでいましたが、しまいにはそいつをコップで三ばいくらい飲むようになっちゃいました。
なにしろあたしは、暑い時分に向うへ行ったんですが、冬の用意に毛糸のシャツとモモシキを持っていたんで、寒くなってもそれを着てしのいでいたんです。着るものはそれで大助かりでしたけれども、酒がのみたくてたまらねえ。
どっか酒はないかと思っていた矢先、向うのやつが酒をもって来やがった。あたしはうれしかったですよ。ところが、それを買おうと思うと、金じゃ売らない、品物と交換なら売ってやるというんですが、交換するたってそんな品物なんぞありゃしない。
そいで仕方がねえから、毛糸のシャツとモモシキを、酒二升ととっかえちまった。酒が飲みたい飲みたいと思っていたところへやってきたもんだから、ウッカリそんなことをしてしまった。酒はたちまち飲んじまったが、さあ、そのうちに雪がどんどん降ってくる、寒いのなんのって、その寒さはひどいもんです。それなのに普通のシャツにゆかた一枚、それにあわせのネマキを着ているだけだから、寒くてたまらない。毛糸のシャツとモモシキがあったらなアと後悔したけれども、今さら取りかえしはつかねえ。
酒でも飲まなかった日にゃ、寒くてからだがもたないんですよ。けれども金がねえから酒どころじゃねえ。酒はあきらめるとしても、食うものがなくなってきた。いよいよ餓え死に寸前というなさけないことに立ちいたった訳ですよ。
(ああ、早く死ぬことはできねえかな!)
あたしはつくづくそう思いましたよ。それはあたしだけじゃなく、おそらく誰もがそう思ったでしょう。
往来なんぞ歩いていると、目をつむって、肩をおとし、うえて、疲れはてて、餓鬼みたいな顔をして、トボトボと歩いている人がいる。そこにも、ここにも……。まったくあわれなすがたですよ。それは敗戦国の国民のみに見られる、餓死寸前のすがたといえるでしょう。
「どうしたんだ?」
「なんにも食べないんで、腹がへって、腹がへって……」
その声は蚊の啼《な》くようなひくい、力のない声なんですよ。
「あたしが今パンをもってくるから、すこし食べてみなよ」
「イイヤ、いま食ったって、どのみちあとがつづかんのだから、このまま何とか早く行くところへ行きたい。ありがたいけれども、とめないでくれ……」
そういう変ったのがいたんですよ。もっともその時パンを食ったくらいじゃどうにもならないほど、衰弱しきって、誰の目にも余命いくばくもないことは明らかに見えていましたが……ところが、パンをやろうとしたあたしも、そろそろその型になっていたんです。
「船が来るまでがんばり抜こう、どんなに苦しいことがあろうとも……」
こういって、たがいにはげましあい、なぐさめあってはいるものの、食べるものが尽きちゃった日にゃ、どうにも処置ないですからね。どんなにがんばり抜く意力はあっても、それは時間の問題ですからね。
また、船が内地からむかえに来るたって、はたしていつくるんだか、ちっともわかんないんでしょう。だから、ホトホト弱りきっちゃったんですが、死ぬって、あたしは自殺なんぞするのはいやだし、いやというより出来ねえから、なんとかして船が来るまでつないでいなくちゃならない。往来でみんな会うてえと、
「生きていてくださいよ、がんばりましょうよ、船が来るまで……」
これがきまり言葉なんですが、誰もかれもやせこけてヒゲぼうぼう……疲れきった形相をしてわけのわからんなりをしているんですよ。中にはどうみたって影のうすい、船の来るまで保ちそうもない人もいるんですよ。
そうこうしているうちに、あたしはいよいよつまってきた。人にパンをやるどころじゃない。自分の身があぶなくなってきたんで、しようがねえから、二十円でもってタバコを買い、それをばらばらにして、一本いくらてんで売って、いくらかサヤをかせいで、パンでも買おうと思って売りに行ったんですけれども、みなゼニがねえもんだから、買ってくれねえんで、おがみたおして無理やり買ってもらって、それでなにか買っては食べちゃいたんですが、いよいよモウ二進《につち》も三進《さつち》もいかなくなっちまったんです。
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地獄で仏
ところで、大連の浪花町というところに、大きなデパートがあるんです。そのデパートのなかにあたしの知っている人がおりましたんで、その人にタバコを買ってもらおうと思って出かけて行ったんです。
いってみると、いいあんばいにその人がいましたので、せっぱつまった事情を話してから、ゼヒ買って下さいというと、
「師匠、あんたのいわれることはよくわかる。買ってあげたいのは山々なんだけれども、ここんところあたしの方も、いよいよまいっちまって、タバコを買うどころのさわぎじゃない。ウカウカしていたら、あたしもどうなるか分ったもんじゃない。ほんとうに悪いけれども、どうかかんべんして下さい」
話を聞いて見ると、その人も意外に、弱りきっているらしい。そういわれたんじゃ、その上ねだるわけにゃいかないんですよ。
その時のあたしの格好ったら、乞食に毛の生えたようなもんでしたがね、そのしょげきったあたしの姿を、さっきからしげしげと見ていた人があったんです。その人てえのは、このデパートへ委託販売のことかなんかの用件できていた人なんですがね……。
その人があたしに話しかけた。あたしはビックリしましたよ。
「志ん生さん。お前さん、ちょいと家へきて下さらんか。あんたが引揚げのときに、ぜひ内地へ持っていってもらいたい物があるんですがね、あんた何か日本へもってかえる荷物でもありますかね?」
「いや、なんにもありゃしませんよ。ごらんのような有様でして、まあ荷物っていえばこのからだだけです。このからだが荷厄介の始末でして……」
といったんです。そしたらその人が、
「そうですか。すみませんが、わたしの家へちょっとお寄り下さい。よかったら今日いま来てくれますかね?」
「まいりましょう。あたしは何にも用事なんかないんですから……」
「じゃ、わたしといっしょに来て下さい」
てんで、あたしがその人についていくと、道ばたでパンを売っている。その人がパンを買ってくれましてね、
「志ん生さん、うちに行ってめしを食べていただきたいのですが、それまでのつなぎにこれでも食べていて下さい」
といってくれた。おそらく、あたしのその時の様子から察して、ものを食べていないことを見抜いたんですよ。あたしはうれしくてうれしくて……。
(ああ、この人はえらい人だなア!)
とつくづく思いましたね。実際のところ、自分の生きるのが大変で、他人のことなんぞかまっていられないのが実情なんでしたからね……。そして又その人は、
「師匠、わたしが肉を買うけれども、家へかえったら女房に、あんたがそれを買ったようにわたしがいいますから、あんたがこれを手土産にしたつもりでいて下さいよ」
という。そうして豚肉を五百目ぐらい買って家へ帰りました。そして奥さんに向って、
「いまね、この志ん生さんに偶然あったんだよ。そしたら、これを買ってもらっちゃったんだよ。こういうことをして貰っちゃ気の毒なんだけれども、せっかくのご好意なんだからいただくことにして、その代り夕食を一しょに食べてもらうことにしたんだ。さア、早く飯をたいておくれ、いただいた肉でもってめしを食べることにしようよ……」
「まあ、まあ、こんな結構なものを沢山いただいて、ほんとうにおそれいります。よくお出で下さいました。さあ、どうぞこちらへ……」
てんで、一間へ案内して下すった。
あたしは何だか、くすぐったいような、へんてこな気持だったけれども、その人のせっかくの好意を無にしちゃ済まん、その人の仕組んだ芝居を筋書通りにやらなきゃならんと、なるたけおうようにかまえて、ボロを出さんようにつとめてはいるものの、ともすると、うれしくて、有難くて、涙がこぼれおちそうになってくる。
そのうちに、ご飯の用意が出来て、その人とともに食卓についたんだが、美味《うま》そうな肉のにおいがプンプン鼻をつくと、腹の虫がクウクウと啼くんですよ、クウクウとね。その啼き声なんぞ聞えるきづかいはないけれど、奥さんに聞えやしまいかと、余計な心配なんかしましたよ。
腹の虫だって啼くわけですよ、久しいあいだ豚肉なんぞへありついたことはねえんだから……。そうするてえとその人は、とっておきのウイスキーよりもっとつよい火酒《ウオツカ》てえのを取りだしましてね、あたしのグラスに注ぎながら、
「志ん生さん、あんたはお酒が好物だときいている。こいつはもの[#「もの」に傍点]はいいんですよ。さあ、遠慮なく、どんどんやって下さいよ……」
と、すすめてくれるし、奥さんはまたニコニコと笑顔をつくって、
「さあさあ、どうぞ、どっさり召しあがって下さいましよ、お肉の方も……ひとつお酌をさせていただきましょう……」
と、下にもおかんもてなしぶり……奥さんにしてみりゃ、あくまでもその肉はあたしの手土産と思いこんでいるんだから、しきりにすすめてくれるんです。
肉のうまさ、酒の味ッたらなかったですよ。なにしろそういう酒には、永らくお目にかからなかったんですから、そいつが五臓ロップへしみこんじゃって、いい気持のなんのって……あたしはふだん、ちょっとやそっとでは酔わないんだけれども、久しぶりに強い酒をのんだんでききめも早かったわけです。
その人はあまり飲まないで、それをあたしに飲め飲めとやたらにすすめてくれる。ながいこと好きな酒も飲むことができなくて、しょぼしょぼしていたところへ、それを飲ましてくれた上に、そのご馳走《ちそう》……地獄で仏とは正にこのことです。
その頃はなにしろ、ちっぽけなサツマイモが一個五十円もしたんですから、そのご馳走はたいへんなもんですよ。
グラスを重ねているうちに、あたしはスッカリ酔ってしまった。ほんとに天国にでもきたような気持になっちまったんです。あたしはむやみに嬉しくなってきた。はじめて会った人にこんなにまでしてもらうとは夢にも思わなかったのに……。
あたしの肩身をひろくしてやろう、奥さんの前で恥をかかせまい、遠慮なくめしを食わせてやろうという考えから、奥さんの前をとりつくろってくれたその思いやりのある気持! そのなさけ深い好意!
その真情を思うと、感謝のなみだがこみあげてきて、どうすることも出来なくなっちまったんです。あたしはその涙を奥さんに見られたくないと思ったんで、わざと奥さんから顔をそらして、天井の方を見上げたりなんかして、うまいしぐさで涙をかくしたりしたんですよ。肉を五百目も買っていったあたしが、その肉を食っちゃって泣いたんじゃアおかしいし、芝居の筋がくるっちまいますからね。あくまでもゆうゆうたる態度をみせなくちゃならんので、その演技はなかなかむずかしかったですよ。
ところで、人間の運命ってふしぎなもんですね。あたしがそのデパートを訪ねた時に、階段を上がって、右へまがって行ったときにその人に出くわしたんですが、左へまがって行ったら、その人とは恐らく永遠に会うことはできなかったでしょう。
そしてこの人に会わなかったら、きっとあたしは今ごろ生きてはいなかったでしょう。というのは、あたしがそのデパートを訪ねる途中、すぐ目のまえで精根つきはてた人間が、ヨロヨロと歩いていくのを、この目でちゃんと見ているんですから、あたしもやがてその仲間入りをしたことでしょう。まったくひどいものでしたからね。
「――志ん生さん、あんたも近いうちに内地に帰ることが出来ようが、今のところにいないと、引揚げの知らせがきたとき困るからそこにいて、朝おきたら家にきて、遠慮なくご飯をたべにおいでなさい」
といってくれる。そして、
「あんたに持って帰ってもらいたいのはこれですよ……」
と出されたものは、ふとんと洋服、それに衿《えり》に毛皮のついたりっぱな外套《がいとう》――。
「あんたが持っていって下されば安心ですよ。あたしが内地へ帰ったらもらいに行くから、それまでこれを着ていらっしゃい」
なにからなにまで思いやりがあって、あたたかい真心がこもっているんです。
そればかりではない。その人は、
「志ん生さん、これ、さっきの肉のお礼に家内が……」
といって、千円の金を小遣にしなさいといってあたしにくれるんです。まったく恐れいってしまいましたよ。受け取るべきかどうかと、ちょっと思案したんですが、せっかくここまで筋書どおりにいったのに、最後にヘマをやったんじゃまずいと思ったんで、
「いや、これは却って御迷惑をかけまして、恐縮ですな……」
てなことをいって、これまたおうように受け取ったわけなんですが、さすがのあたしもこの一役には冷汗をかきましたよ。
そういうわけで、あくる日からは、ケツをストーブにあてていて焼けこがし、大きな穴のあいている服をぬぎ、その人からあずかった服を着て、それに毛皮の外套というシャンとしたすがたに早変りしたんですよ。そうして、その日からあたしは、向う様の親切にあまえてズーッと厄介になり、けっこうその日その日をすごしていたわけなんです。
西をみても東をみても、知る人もない異郷の満州で、しかも身に火の粉がかかっちゃって、きょう死ぬか、あす死ぬか、それさえ知れぬどんづまりの時に、このような温かいもてなしを受けるうれしさなんてものは、実際その場に立った人でなけりゃ、分りっこはないんです。
一時は死んだ方がましだ、早く死にたいとまで思いつめたあたしでしたが、よくもまあ生きていたもんだ、生きていてよかったと、しみじみうれしく思いました。
それにしても、ちょっと知っている程度のあたしをこんなにしてくれるのはおかしい、あまりにも至れり尽せりのとりなしをしてくれるんで、この人だっておそかれ早かれ内地へ引き揚げるんだ、そうなると、余計なものを持って帰るわけにゃいかない、そのためによく金持ちなんかが、大事なものをコッソリ内地に運ぶために、人を買収して頼んだりする、そういうことはよく聞いている、ひょっとしたら、この人は……と、初めは疑ってもみたんです。
だが、その人には、そういう自分本位の考えなんぞみじんもなく、ただモウ困っている人を救ってやろう、喜ばせてやろうという、持って生れた慈悲ぶかい心からであることが、ハッキリとあたしにも分ったんですよ。あたしは一時的にしろ、そういう風にその人を疑いの目でみたことを只々すまなかった、申しわけなかったと恥かしく思っているんです。
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サケタノム
そうしていると一月十二日――
日本向けの船が出るという知らせがきたんですよ。あたしたちをのせて帰る船が来たというしらせです。うれしかったの何のって、たれもかれも躍りあがって喜びましたよ。その時分は話といえば、いつ自分たちの順番が来るかてえ、帰るはなしばかりですからね。どんなによぼよぼしている老人でも、また重病人でも、死ぬんなら内地の土地を踏んでから死にてえというのが念願でしてね、寝てもさめても帰国ばなしばかりでした。初めのころのことですが、待ちきれないもんが、御承知のように密航船、あれに随分だまされました。小さな船には乗せるには乗せるのですが、途中で妙なことになっちゃうのが多いらしい、お金だけとられてね。あたしなどもある時すすめられましてね、どうしようかと随分考えましたが、どうにも思案にあまった時は昔のあたしのくせで丁と半できめるのですが、その時も丁半でやって見たんです。丁と出たら帰る、半と出たら乗らねえ、半と出てあたしは密航船にのらなかったんです。もし乗っていたら日本の土はふめなかったでしょうよ。
その位、生命をかけても帰りたいのですから正式に帰して貰える喜びは格別です。それでこのことをお互いに知らせるのは、リレー式で順々に伝達する。つまりあたしのところへ知らせが来たら、こんどはあたしが次の家へ知らせるというあんばいなんです。
まあ、天にものぼる心持ちてえのはこのことでしょう。だから、そのさわぎったら、いやモウ大へんなもんでしたよ。
「船が出ますよッ、どうぞッ、次へ知らせて下さいよッ……」
てんで、たれもかれも気狂いにでもなったんじゃないかと思われるくらい……みんな声がうわずっちゃって、目を血走らせているんですよ。
とにかくいいことを知らせるんだから、知らせてやったらさぞ喜ぶだろう、早く知らせてやろうという一心なんですから、胸がドキドキはずんじゃって、足も地につかないように宙をとんで駈けつける。
あたしの知らせた人は、きたねえ二階に寝ころんでいましたが、どっか体の工合でもわるいのか、石のように寝たきりでうごかない。
「船が出ますよッ、十二日ッ、次へ知らせて下さいッ!」
「エエッ、フ、フ、船がッ……デ、デ、出ますって!……」
ムクムクっと起きあがったと思うと、ヨロヨロと危なかしい足どりでもって、二階からころがるようにおりていった。そりゃまるで精神力だけが歩いてるみたいでしたよ。
そのうちにいよいよ乗船の日がやって来た。夢にまでみた汽船のすがたを目の前にした人々の顔には、よろこびの色がみちあふれちゃって、こぼれおちそうなんですよ。どの顔も、どの顔も……ネ。
うれしいはずですよ。なにしろ永いあいだ死線をさまよいつづけて、幸運にも生きながらえ、待ちくたびれた船がきて、やっと祖国日本へ帰れる! 女房や子供があきらめたり、それでも若《も》しやと、首を長くして待ちわびている日本へ帰れることになったんだ!
あたしはうれしくて、うれしくてモウ……手の舞い足のふむことを知らずてえのは、このことでしょうな、家族の者の顔がありありと目にうかんじゃって、ジッとしていられないような気持なんでした。
あたしは早速お世話になった例の家へかけつけて、お別れのあいさつをするてえと非常に喜んでくれましてね、
「志ん生さん、これをどうぞ。あなたのお口にむかないかも知れませんが……」
といって、つけ焼にしたモチをどっさり持たせて下すった。よく気のつくやさしい奥さんですからね。
そうして輸送船に乗ってみると、デッキの上にむしろがしいてあるだけですよ。それじゃとっても寒くてやりきれねえんで、わるいようだがおあずかりしている布団を出して、その上にドッカリ坐って楽々と帰ってきましたよ。
船の中じゃ食事やらいろんな用事を当番でやるんですが、あたしはなに一つしやしませんでしたよ。しないつもりじゃないけれども、はた[#「はた」に傍点]の人たちがさせてくれないんです。そのかわり時々|噺《はなし》をやってくれってえんです。これもまあ芸は身を助ける≠トえもんでしょうよ。
こういうと、ごくすんなりと帰ってきたようにみえますけれども、どういたしまして、船へ乗るには乗っても、何かの都合で、ちょいと待った! とこないともかぎらないんですからね。
特にあたしなんか、火事場どろぼう≠ネんて、悪口をたたいてにらまれたことがあるもんだから……。そればかりでなく、日本人が日本人同士で自分が助かりたい一念から、あの人は元軍人だったとか、警察のもんだったとか告げ口したりして、そのために行かないでもすんだソ連に随分連れてゆかれたりしたんですから、誰も信じられなくなるんですよ。
「この船に志ん生てえのが乗っていたら、すぐおりろ、打ち首にするんだから……」
なんて、やってくるんじゃねえかと、船がいごき出すまでのもどかしさったらなかったんですよ。みんながみんなそれぞれにそういう不安な思いにおそわれていたんですよ。ですから、船が動き出したときなんか、みんな万歳を叫んだんですよ。これでやっと日本人ばかりの生活になったんでね、もうどんな悪口いったって聞えやしないものねえ。
あたしたちが満州へ来るときにゃ、いつどこでドカーンと撃沈されるか分ったもんじゃないんで、センセンキョウキョウだったんですが、帰りにはその心配だけはなかったんで、船の中はなごやかなもんでした。気掛りといえば家のものがみんな無事かどうかだけですから……。
「オーイ、日本が見えたぞーッ」
と、誰やらが大きな声でさけんだんです。
「ナニ、日本が見えたって、ドレドレ……」
われ先にと甲板にとびだしていく。
「あれだ! あれが九州なんだよ!」
なるほど、青黒い陸地のかげが、はるかかなたにウッスラと浮んで見える。まぎれもないなつかしい日本のすがたなんです。
だが、それから港へ着くまでの時間の長いこと、みんないらいらしちまいましてね。
「この船おそいなア、前へすすんでいるんかい? グズグズしやがって……」
「どうせ、ボロ船だからしようがねえよ……」
一分も早く内地の土をふみたい! その思いはみんな同じなんですから……。
いよいよ、船が港へ着いた――。
あたしは早速、東京の家へ電報を打ったんですよ。
「〇〇ヒカエル、サケタノム」
とね。そういう電報はすべて引揚船の世話係が取りまとめて、打ってくれるわけですが、その人があたしの電文を見て、
「電報でもって酒をたのむとはなにごとですか、ケシカラン……」
というわけで大目玉!
考えてみりゃあたしが悪かったんですよ。時が時なんで不心得なやつだと叱られたってグウの音もでなかったんです。尤《もつと》もあたしにすりゃあ、家へかえった気安さから、まず何をおいても酒だと思ったし、家のやつらはしかつめらしい電報なんてうったことはないんだから、あたしの酒というのが一番しっくりするんですがね……。というわけでこの電報によって係の人の心証を害してしまったんです。後で判《わか》ったんですが、そのために、あたしの電報を勝手に、
「〇〇日、サッポロに着く」
と直しやがったもんだから、ひでえことになっちゃったんです。なにしろゴッタ返していた時分だし、おもしろ半分に直したんでしょうけれども、こっちは大めいわくでしたよ。志ん生が心証を害したなんて、とんだシャレですがね。
あたしの乗った汽車が東京駅に着いた――。
さすがにうれしかったですよ。やれやれ、これで助かったという気持でホッとしましたよ。ところが、汽車から降りてみるてえと、家の者はひとりも迎えに来ちゃいない。電報まで打ったんだから、そんなはずはないのにと、ウの目タカの目さがしてみたんですが、やっぱし誰も来ていないんですよ。
その時、あたしの頭の中をスーッとかすめたものは、あちらにいたときの不吉な夢だったんです。それは家が爆弾かなんかにやられてしまった夢なんです。
(一人も迎えに来ないところをみると、ひょっとしたらあの夢は正夢だったかな?)
と思った。さあ、そうなるてえと、心中おだやかじゃないんです。東京へ着いてやれやれと安心したのも束の間、またも心配ごとが勃発したわけです。
そこであたしは、胸をドキドキさせながらあわてて家へ帰ってみると、家の者はビックリ仰天したんです。
というのは、あたしは向うで死んだそうだというウワサがもっぱらだったそうです。どういう間違いか知れないが、事実そういうウワサがあったので、半ばあきらめていたところへ、
「〇〇日、サッポロに着く」
という電報が突然とびこんだので二度ビックリ。札幌に船が着くとは変だ? とは思いながら、家の方じゃ、すぐさま新聞社にたのんで札幌支局でしらべてもらったのですが、そんなはずはないというんで、みんなキツネにつままれたような顔をしているところへ、あたしが突然かえったんでおどろいたんですよ。これでやっと東京駅へ迎いに来なかった理由がハッキリしたわけですが、それにしても、その電報のいたずらがとんでもない結果になっちまったわけです。
とにかくあたしが、何度も申したように若い時分から苦しい目にはなれっこになって来ましたが、満州へ行って帰ってくるまでの二年間の苦しみというものは、いろんな意味で終生わすれることはできないでしょう。
だから、あちらにいた人で、困ってあたしのところへくる人には、一度はきっと何かしてやりますよ。自分がさんざん困って、人の世話になったんですから、その埋め合せに何か人にしてやりたい、それがあたしの念願なんです。
それがためには、あたしは一生けんめい働いて、取るものをとらなければならないんです。あたしが稼ぐのはそのためなんです。
のべつ金をもらいにくる名前も知らぬルンペンみたいな男がいるんですがね。よく師匠、師匠≠ニいってくる。いくらかやると、それで焼酎かなんか飲んで喜んでいる。
(ああ、いい心持ちだな、あの師匠にもらったんだ)
と、その男に思われるだけでも、なにかあたしにいいむくいがありますよ。その人にやらなくたって、その金が残るわけじゃないが、もらった方じゃ、その金が酒にもなれば米にもなって喜んでいるんですよ。
そのかわりあたしは、一度に余計はやらない。たびたびたずねてくるんですからね。あたしが寄席から帰ろうとすると、師匠≠ニいって、あとはなんにもいわないで、なにか意味ありげな顔をして突っ立っている。
あたしは、ハハーンと思って、どんなに急いでいる時でもアイ≠ニいって、百円でも二百円でも上げちまう。
その男がある時、あたしに勲章をもってきましたよ。自分の弟が兵隊で戦死したんで貰ったという、いちばん安っぽい勲章なんですよ。
「弟が国のために戦死したんですから、師匠、これを預かって下さい。わたしのようなものが持っていてもどうしようのないものですから……」
というわけです。
預かってくれというのは、つまり買ってくれというわけでしょう。仕方がないから千円かなんかやって家に持って来てありますよ。家内がそんなものを持ってきて……というから、
「しようがねえじゃねえか。向うの人だってお国のために戦死したんだから、あまり粗末にしちゃいかんぞ」
というんで、家の仏さまの抽出しにおさめてありますけれども、それがはたしてその男の弟のものやら、どっかから持ってきたものやら、その点はハッキリわかりませんけれども、勲章にまちがいないんだし、そういわれてみれば仕方がないんですよ。
あたしのところへなんか、いろんな人がよく来ますが、少しぐらい人にやったって、こっちはどうにかなるんだから、あればやっておけばいいじゃないかというんです。
やるいわれがない、筋の通らぬ金は一文だってやるわけにゃいかん、という人があるけれども、人に頭を下げてくるんだから、ほんとうに困っているとわかったら、多少にかかわらずやってもいいじゃないかと思うんです。情は人のためならずというじゃないですか。
だが、人にものをやるということも、またむつかしいもんですよ。まるで犬にエサでもやるように、ポイとなげてやったりする人がありますが、あれじゃ、せっかく人にものをくれてやって、かえって反感を買う結果ともなりかねないんです。やるならやるで、向うがよろこぶようにやりたいもんですね。
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恩は返せない
内地へ帰ってから間もなく、あたしが大連でお世話になった例の人から、
「わたしのセガレは軍隊へいって、戦争で行方不明になってしまいました。どうせ沖繩へでもいって、助かっちゃいないだろうと半ばあきらめてはおりますが、わたしの身寄りの者が横浜のこういうところにいますから、ひょっとすると手がかりが得られるかも知れません。万一その消息がわかりましたら、お手数ながらお知らせ下さい。母親は寝てもさめてもセガレのことばかり言って仕方がないんです……」
と、ながながと書いた手紙が来たんです。
そこであたしが、さっそく横浜へ出かけていって、その家をさがしあて、しらべてみますと、なんとその息子さんは無事で、ちゃんと横浜にいたんです。その息子さんは息子さんでもって親御さんの消息をけんめいに探していたんです。
あたしはすぐその息子さんに会って、
「実はあんたの御両親は大連のこういうところに居られます。いずれ引き揚げて来られるでしょう。あたしは死にそうになってるところを、あんたのお父さんに助けてもらって、そのうえ言うに言われぬお世話になりました。だから、なんかあったら是非あたしのところへ相談に来て下さい……」
といって、その頃のはなしをして親御さんの健在のことをお知らせしたわけですが、それから間もなくそのお父さんたちが大連から引き揚げて来たんですが、家が見つからない。
ですから、あたしも心配して探した結果、やっとのことで家が見つかり、その人はその家に入りましたけれども、布団がない。
こんどは逆になっちゃったわけで、あたしのところにある毛布なんぞを用立てたんです。その時分はあたしのところだってロクなものはなかったんですが、出来るだけのことをして上げたわけなんです。
その人とは今だに文通だけはしておりますけれども、その人は、とても英語のたっしゃな、六十がらみの紳士なんですよ。
あたしは、どうにかしてこの人にご恩を返さなければならないと思っていますけれども、まだまだほんとうのご恩なんて返せないんですよ。だからあたしは、
「この人のことだけは、たとえあたしが亡くなってからでも、いろいろよくしてあげなければいけないよ。この人のためにこうやって生きてこられたんだから……」
と、いつも家のものにいっているんです。
ほんとうに、その人がいなかったら、あたしはどうなっていたかわかったものじゃないんです。まったくあたしのためにゃ大恩人なんです。
ところが、その人はその人で、たいへんあたしを恩に着ていてくれるんです。それというのは、その人が内地に引き揚げてきてから、あたしが少しばかりしてあげたことを、ひどく感謝しているわけなんですよ。
あたしのしてあげたことなんか、あたしが向うでうけたご恩の万分の一にもあたらないほんの微々たることなんですけれども、それを恩に感じていてくれるんです。
まったく世の中てえものはおかしなもんだと思いますよ。あたしと向うでチョッピリ口をきいたくらいの何でもない人が、その時のことをきっかけにしちゃって、
「お銭《あし》を貸してくれ」
なんて、ちょいちょい来る人がある。そうかと思うと、こっちが何とかして恩返しをしなければならないとやきもきしているかんじんの人は、来ちゃくれない。妙なもんですよ。
あたしが思うのに、やっぱり人にそういう善根をほどこすような人は、人から恩返しなんぞをしてもらわんでもいいようにちゃんと出来ているもんですよ。そういう人にはかならずどこからかよいむくいがあるんでしょう。善因善果なんですからね。
きっと今ごろは、息子さんによいお嫁さんでももらって、けっこうなくらしをしていられるだろうと、かげながら想像していたんですよ。そうなるのが当りまえですからね。
ところが、あたしがこのあいだ、横浜のあるところへ三日間ばかり仕事にいきましたら、あたしの想像したとおり、その息子さんによいお嫁さんがみえて、そのお嫁さんの妹さんという人が来ていられ、
「あしたはお父さんが、横浜へ来られるはずですが……」
というんです。あたしは、久しぶりに会えるぞと思って、楽しみに待っていたんですが、とうとうやって来ないんですよ、あたしはガッカリしましてね。あたしの嬶《かか》アだって、娘だって、その人が見えたら、こうもしよう、ああもしようというんで、待っているんですけれども、一向来てくれないで、しようがないんですよ。
「ゼヒあたしのところへ来てもらいたい。どんなことがあっても、あたしに出来るだけのことはさせてもらいますから……」
こういってやりますと、向うでは、
「とんでもないことです。あたしは内地に引き揚げてから、あなたには大へんなお世話になりました。どうしてそのご恩返しをしたらよいかと思っているくらいです……」
という返事がくるんです。これじゃ恩返しの「水掛け論」になっちまいますよ。
そういうわけで、ご恩返しをしようにも、することができないんです。
その人があたしにしてくれたことというものは、ああした死ぬか生きるかというドタン場でしょう。自分のいのちがどうなるか分らないという大混乱のさなか、自分のことが手いっぱいで、他人の身の上なんぞにかかりあっちゃいられない場合ですから、よほど世の中の苦労をつんで、人のなさけを知る人でなけりゃ、とうてい出来ないことなんですよ。そういう危急存亡の場合に助けてもらっただけに、その慈悲ぶかい思いやりを忘れることが出来ないです。
だから、あたしが内地へ帰ってしてあげたこととは意味がちがう。その人から受けたご恩なんぞと、くらべもんにはなりませんよ。月とスッポンほどのちがいですからね。
この人は、あたしが大連でもって、独演会なんぞしている時に、奥さんと一しょに噺《はなし》を聞きに来てくれたんだそうですよ。そんなわけで向うでも、
「――あんたがこうやっていま全盛になってきているんで、あたしたちはかげながら喜んでいます。とてもうれしいですよ……」
といってくれるんです。
――その人の名は、石田紋次郎さん――という方です。
早いもんで、あれから十年――
あの時分のことを思やあ、今どきの苦労なんて屁《へ》のカッパなんですが、そこはそれ、「のどもとすぎれば熱さを忘れる」で、今じゃあたしもゼイタクなことばっかりいってますよ。
こんなこたアあたしなんぞの言うがら[#「がら」に傍点]じゃねえけれども、過ぎ去ったことなんざアサラリと忘れちゃって、前の方だけまっつぐに見て進んでいきゃ、それでケッコウ。愚にもつかん昔のことなんぞアッサリ忘れちまえと、あたしゃア思ってるんです。
が、ただ、あたしは、これまで人さまからうけた恩だけは、いつまでも忘れたくねえ。それを忘れちまうようじゃ、ろくな噺家にはなれねえと、こう思うんですよ。
めんどうくさがりのなまけもんのあたしが、すすめられて、この本を出して貰う気になったのも、ひとつには、たとえ人さまの一刻のなさけでも、末ながくあたしの心のまもりにしまっておきてえという一念からなんです。
たいへん長ばなしになりました。「噺」は商売なんで仕方がねえんですけれども、「話」はにが手でして、だぶったり、手前ミソになったりで、とんだ志ん生の恥さらしになっちまいましたが、記憶ちがいや、お耳ざわりの点は、どうか大目に見て下さい。じゃあこのへんで、ごたいくつさま。
[#地付き](おわり)
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五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵)年譜
西暦 ・ 年号 ・年齢
一八九〇・明治二三・0
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 6・28 東京府神田区亀住町(現・千代田区外神田五丁目)にて父美濃部戍行、母志うの五男として生まれる。父は巡査だった。
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 浅草区永住町一二七(現・台東区元浅草二丁目)へ転居(年月不詳)。
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 下谷区北稲荷町五一(現・台東区東上野五丁目)へ転居(年月不詳)。
一八九七・明治三〇・7
下谷尋常小学校入学(四年生のとき中退)。
一八九八・明治三一・8
3・5 祖母たか没。
一九〇三・明治三六・13
12・30 養祖父釖四郎没。
[#この行天付き、折り返して2字下げ] (実祖父平四郎は嘉永四年一〇月二七日没。養祖父釖四郎の父内藤甚左衛門は徳川家斉の代より幕府に仕え、大番、先手鉄砲頭、布衣、寄合などを歴任したのち隠居、剃髪して如童と号したが、美濃部平四郎とは兄弟、もしくは義兄弟の関係であったと推定される)
一九〇四・明治三七・14
3・25 浅草区新畑町四(現・台東区浅草一丁目)へ転居。
一九〇五・明治三八・15
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 家を出る。以後帰宅せず、無頼の生活をおくるうち落語家を志すようになる。
一九一〇・明治四三・20
三遊亭小円朝(二代目)に入門、三遊亭朝太の芸名をもらう。
一九一一・明治四四・21
7・5 母志う没、56歳。
一九一四・大正 三・24
12・3 父戍行没、69歳。
一九一六・大正 五・26
三遊亭円菊と改名して二つ目に昇進。
一九一八・大正 七・28
金原亭馬生(六代目)門へ移り金原亭馬太郎と改名。
一九一九・大正 八・29
吉原朝馬と改名。
一九二〇・大正 九・30
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 全亭武生と改名。下谷区谷中清水町(現・台東区池之端四丁目)に下宿。
一九二一・大正一〇・31
9 金原亭馬きんと改名し真打に昇進。
一九二二・大正一一・32
11 清水りんと結婚(届は翌年10月)。
一九二三・大正一二・33
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 7 北豊島郡滝野川町大字田端一八五(現・北区田端一丁目)へ転居。
古今亭志ん馬と改名。
一九二四・大正一三・34
1・12 美津子(長女)出生。
小金井蘆州の門へ入り小金井蘆風と改名。講釈師になる。
一九二五・大正一四・35
10・7 喜美子(次女)出生。
一九二六・昭和 元・36
4 古今亭馬生と改名して落語界に復帰する。
古今亭ぎん馬と改名。
豊多摩郡代々幡町大字笹塚(現・渋谷区笹塚)へ転居。
柳家三語楼の門に入り、柳家東三楼と改名。
一九二七・昭和 二・37
豊多摩郡代々幡町大字幡ケ谷(現・渋谷区幡ケ谷)へ転居。
柳家甚語楼と改名。
一九二七・昭和 二・37
もとの笹塚の家へ転居。
和田堀町方南七一(現・杉並区方南)へ転居。
一九二八・昭和 三・38
1・5 清(長男)出生。
4 本所区業平橋一丁目一二(現・墨田区業平一丁目)へ転居。
一九三〇・昭和 五・40
8 隅田川馬石と改名。間もなく柳家甚語楼に戻る。
一九三二・昭和 七・42
3 古今亭志ん馬(二度目)と改名。
一九三四・昭和 九・44
9 金原亭馬生(七代目)を襲名。
一九三六・昭和一一・46
2・26 浅草区永住町(現・台東区元浅草)へ転居。
一九三七・昭和一二・47
8 本郷区駒込神明町三三八(現・文京区本駒込)へ転居。
一九三八・昭和一三・48
3・10 強次(次男)出生(戸籍上は11日出生)。
一九三九・昭和一四・49
3 古今亭志ん生(五代目)を襲名。
一九四一・昭和一六・51
二月より神田花月にて毎月独演会をやる。
一九四三・昭和一八・53
8 清、入門(むかし家今松で初高座)。
一九四五・昭和二〇・55
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 4・13 戦災、本郷区駒込動坂町三二七(現・文京区千駄木)へ転居。
5・6 満州へ慰問興行、敗戦のため帰国不能となる。
一九四七・昭和二二・57
1・12 帰国。1・27 帰宅。
一九四九・昭和二四・59
10 清、金原亭馬生(十代目)を襲名して真打に昇進。
一九五一・昭和二六・61
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 11 荒川区日暮里町九丁目一、一一四(現・西日暮里三丁目)へ転居。
一九五三・昭和二八・63
7 ラジオ東京(現・TBS)の専属となる。
10・16 清、結婚。
一九五四・昭和二九・64
7 ニッポン放送専属となる。
一九五六・昭和三一・66
6 自伝「なめくじ艦隊」刊。
12 「お直し」で芸術祭賞受賞。
一九五七・昭和三二・67
2 落語協会会長に就任。
4 強次、入門(古今亭朝太で初高座)。
一九五九・昭和三四・69
朝太、二つ目に昇進。
一九六一・昭和三六・71
12・15 巨人軍優勝祝賀会の高座で脳出血のため倒れ、入院。
一九六二・昭和三七・72
3・1 退院(11・11より高座へ復帰)。
3・10 強次、古今亭志ん朝(二代目)を襲名して真打に昇進。
一九六三・昭和三八・73
7 落語協会会長を辞任。
一九六四・昭和三九・74
4 自伝「びんぼう自慢」刊。
11 紫綬褒章を受ける。
一九六七・昭和四二・77
9・4 りん、脳出血のため臥す。
11・3 勲四等瑞宝章を受ける。
一九六八・昭和四三・78
上野鈴本の初席に出演、以後寄席に出演せず。
10・9 「精選落語会」に出演、最後の高座となる。
一九六九・昭和四四・79
3・10 強次、結婚。
9 自伝「びんぼう自慢」(改訂版)刊。
一九七〇・昭和四五・80
10 コロムビアよりLP十枚組「古今亭志ん生集」出る。
一九七一・昭和四六・81
12・9 りん没、74歳。
一九七三・昭和四八・83
9・21 臨終。
[#この行天付き、折り返して2字下げ] 文京区小日向、還国寺に眠る(戒名、松風院孝誉彩雲志ん生居士)。
[#地付き](結城昌治編)
古今亭志ん生(ここんてい・しんしょう)
一八九〇、東京神田に生まれる。本名美濃部孝蔵。一九三九年、五代目志ん生を襲名。落語協会会長をつとめ、紫綬褒章、訓四等瑞宝章受章。一九七三年歿。放蕩無頼の暮らしから養った鋭い美意識、洒脱・軽妙な独特の語り口で昭和落語を代表する。著書に『びんぼう自慢』など多数。レコードなど録音物も多い。
本作品は一九五六年、朋文社より刊行され、一九八一年一〇月、「日本人の自伝21」(平凡社)に収録された後、一九九一年一二月、ちくま文庫に収録された。