ぼくと、ぼくらの夏
〈底 本〉文春文庫 平成三年四月十日刊
(C) Yuusuke Higuchi 2002
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ぼくと、ぼくらの夏
1
あいつらは暑さに腹を立てている。わが身の悲運にヒステリーを起こしている。たかだか|雌《めす》の気を引くぐらいのことのために、恥ずかしいほど|むき《ヽヽ》になって鳴かなくてはならない。それも夏にだ。|蝉《せみ》だって涼しい季節に、露草の下かなにかで上品に鳴いてみたいだろう。うちの庭を|棲家《すみか》に決めた蝉は、蝉のくせに夏が嫌いなのだ。
蝉の声。日射しの強さ。それに自分自身の汗の量。半分眠っている頭でも、それぐらいのことはちゃんと意識できる。夏休みだからって特別いいことがあるわけではないが、ただ気が済むまで眠っていたりすると、もしかしたら生きていることは結構いいことなのかも知れないとか、ふと思ったりする。
九時ごろ、どうにも暑くて、小便でもしようとぼくはふらっと階段をおりて行った。
下ではダイニングに親父がいた。親父はぐったりと|椅子《いす》にもたれて、テーブルの上に両|脚《あし》を投げ出していた。ぼくは「やあ」とだけ|挨拶《あいさつ》をして、そのまま便所に行き、小便をしてからダイニングに戻っていった。
親父はさっきとまったく同じ|恰好《かつこう》で、両脚を投げ出したまま、口を半分ぐらい開けて目を閉じていた。息子のぼくから見てもそれほど不細工な男ではないが、折目の消えたねずみ色の替ズボンといい、ベージュ色だかラクダ色だかの開襟シャツといい、ぼさぼさな髪と|不精《ぶしよう》|髭《ひげ》といい、まるで自分の意志で|冴《さ》えない中年男になりきろうと努力でもしている感じだった。お袋が愛想をつかしたのも、全面的にお袋の責任とは言いきれない。
「いつ帰ってきたのさ」と、冷蔵庫から牛乳を出して、親父の前の椅子に座りながら、ぼくが|訊《き》いた。
「ちょっと前か、そのもうちょっと前だ」
腹話術師だって、もう少しちゃんと口は動かす。
「|風呂《ふろ》、沸いてるか?」
「昨夜は沸いてたよ」
「ひと寝入りする前に熱い風呂に入ったら、気持ちいいだろうな」
「シャワーでいいさ」
「シャワーなんてのは汗を流すだけだ。疲れきったからだと心を休めるには、熱い湯に首まで|浸《つ》かってな、|屁《へ》でもして『あんこ椿』を歌うのが一番なんだ」
仕方なくぼくは立っていって風呂のガスに火をつけ、ついでに親父の部屋のクーラーを入れ、居間の雨戸とガラス戸を開け放ってからまた親父のところへ戻っていった。
親父は缶ビールの|栓《せん》を抜いて、テーブルの上に新聞を広げていた。
「|春《シユン》、岩沢|訓子《のりこ》って女の子、知ってるか」と、親父が訊いた。
「新聞に出てるのかい?」
「まさか。お前と同じ高校の、二年生だそうだ」
「うちのクラスだよ」
「偶然だな」
「岩沢訓子がどうしたのさ」
「死んだ」
「へええ」
「驚かないのか?」
「驚いてるよ――父さん、腹はすいてるかい?」
「夜中に、ラーメンを食った」
「なにか食べる?」
「風呂のあとでいい」
「なんで死んだの?」
「|誰《だれ》が?」
「岩沢訓子さ」
「自殺だそうだ、まだよく解らんが。今朝早く多摩川に釣りに来た|おっつぁん《ヽヽヽヽヽ》が見つけた。|稲城《いなぎ》大橋の上から飛びおりたらしい。橋の上に靴と遺書があったというから、まず自殺に間違いないだろう」
「なんで自殺なんかしたのかな?」
「さあな」
「父さんの係かい?」
「いいや。お前、よく知ってる子か?」
「そうでもない。目立つ子じゃなかったから」
ぼくはパーコレータに水を入れ、ガス台にかけてから、二人分を計ってコーヒーの豆をひきはじめた。二階にいた蝉が一階にまでおりて来ていて、今日もくそ暑い一日になりそうだった。
親父を風呂に入れ、その間にぼくはありあわせの野菜でサラダを作って、トーストを焼いて一人で食べ始めた。岩沢訓子のことを考えようとしたが、ぼく自身たいした印象をもっていないことに、すぐに気がついた。顔立ち自体はけっこうきれいだった気はするが、とにかくおとなしい子だったし、勉強でも運動でも、なにか目立つものを一つでも持っている子ではなかった。あの岩沢訓子が、自殺か。今年の夏があまり暑いので、たぶん生きるのが面倒くさくなったかなにかしたのだろう。もし自殺なんかしなければ、高校を卒業したあとぼくが思い出すことも、ぜったいないような感じの女の子だったのに。
親父が風呂から出てきて、腰にバスタオルを巻いたまま、また元の椅子に座ってぼくが作ったサラダを|肴《さかな》に新しい缶ビールを飲みはじめた。お袋は親父のこういう癖をいやがったものだ。
「着たものは洗濯機に入れておいたかい」と、ぼくが訊いた。
「ああ」と、新聞を見ながら、親父が答えた。
「洗ったやつがタンスの二番目の引出に入ってる」
「ああ」
「パジャマも着がえておくれよ」
「ああ」
「ズボンのポケットのもの、みんな出したろうね?」
「ああ」
「茶色のズボンがクリーニングできてる」
「ああ」
「父さん」
「なんだ?」
「まだ見つからないの?」
「なにが?」
「女」
「泥棒を捕えるようなわけにはいかんさ、|俺《おれ》は理想が高い」
「それで母さんと一緒になったんだろう?」
「どうだかな」
「人間、つまらない理想はもっちゃいけないという教訓なわけだ?」
「トースト、俺にも焼いてくれ」
親父は缶ビールを飲みほし、トースト二枚と野菜サラダを食べて、いかにも眠そうな顔を見せながら自分の部屋に入っていった。自分に都合の悪い話は聞かなくて済む権利があるのだと、親父はかたくなに信じこんでいた。
ぼくは親父がいなくなったあと、ダイニングでゆっくりコーヒーを飲み、風呂場に行って洗濯機を回してから、また戻ってきて今使った食器のあと片づけを始めた。女房が見つからないのならせめてお手伝いさんぐらい見つけてくればいいのだ。親父の意見は、こうだ。「私的な生活のために他人を金で使うのは、植民地主義的な発想である」。ごもっともな意見ではあるが、意見だけでは汚れた食器はきれいにならないし、洗濯物だって乾かない。ぼくがいなくなったら、親父はどうやって暮していくつもりなんだろう。
洗濯をしているときに電話が鳴って、出てみるとお袋だった。親父にしてみればお袋は別れた女房ということになる。だがぼくの立場からして、別れた母親とか前のお袋とか、なにかそういった言い方でもあるのだろうか。
「今なにしてるの?」と、お袋が訊いた。
「洗濯」と、ぼくが答えた。
「あの人は?」
「寝てる」
「相変わらずなの?」
「相変わらずさ」
「また朝帰り?」
「そうらしいね」
「今日、なにか用がある?」
「別に」
「|昼食《おひる》でもどう?」
「いいよ」
「新宿まで出てこられる?」
「うん」
「それじゃ高野のパーラーで」
「うん」
「一時?」
「うん」
「じゃあね」
「うん」
ぼくは電話を切り、洗濯を終らせて、洗い終った洗濯物を庭の|物干《ものほ》し|竿《ざお》のところまで持っていった。まだ十一時だというのに、気温は間違いなく三十度を越えていた。もう一週間以上も雨がふっていない。地球が滅亡する日まで、たぶん雨なんかふることはないのだろう。
起きたら洗濯物を取り込むように親父に書き置きをして、ぼくは十二時前に家を出た。新宿に着いたのは十二時半だった。紀伊國屋でフレドリック・ブラウンの探偵小説を二冊買い、一時ちょうどに高野の二階に入っていった。
お袋のほうがぼくよりも先に着いていた。もうコーヒーも飲みおわっていたので、ぼくは席につかず、そのまま同じビルの四階だか五階だかにあるレストランにあがって行った。外は暑いし、新宿あたりのレストランはどこでも味は同じだから、というのがお袋がその店を選んだ理由だった。
「なにか変わったことでもあった?」と、料理をオーダーしてから、|煙草《たばこ》に火をつけて、お袋が訊いてきた。
「ないよ」とぼくが答えた。
「あの人も相変わらず?」
「そうみたいだね。母さんのほうはどう?」
「ずっと忙しかったわ」
「そうだろうね」
この前お袋と会ったのは、正月の十日ごろで、二人で鎌倉に|初詣《はつもうで》に行って以来だった。半年以上息子に会うのを忘れるぐらいだから、それはもちろん、相当に忙しかったのだろう。
「やっと仕事も軌道にのってきたの」
「良かった」
「今度新宿に支店を出すのよ」
「大変だな」
「最終的には工場もおさえて、メーカーにまでもっていくつもりだから」
「母さんならできるさ」
「自信はあるわ」
「そうだろうね」
だいたいお袋が家を出ていったのは、四十になる前に人生をやり直したいというのが理由で、その意味ではお袋のやり直しの人生はかなり成功しているようだった。三年前親父と別れてすぐ、お袋は青山にブティックを出したのだ。ぼくは一年になん度かお袋と会っていたが、お袋はそのたびにきれいになっていった。今あらためて眺めてみても、これが本当に自分の母親かと思うほどいい女だった。女がきれいになっていく人生が、その女にとって成功でないはずはない。逆に言えばお袋が親父と暮した十五年間が失敗ということになるのだが、その失敗の結果世の中に送り出されたぼくにしてみると、なにか複雑な思いがしなくもない。それは親父にしてみても同じことだろう。親父がいつまでも新しい女をつくらないのは、もしかしたらまだお袋に未練があるのかも知れなかった。
「今日は少し|春《シユン》の将来のことを話そうと思ったのよ」と、コンソメの皿にスプーンを入れながら、片方の|眉《まゆ》をあげて、お袋が言った。
「ふうん」と一応返事はしたものの、内心ぼくは笑っていた。『子供の将来』とかいう言葉がこのお袋ほど似合わない女を、他にちょっと思いつかなかったのだ。
もちろんそれは、親父にだってあてはまる、春に生まれたからというだけで子供に春一という名前をつけてしまったような両親が、子供の将来なんて考えても、どうせ|碌《ろく》な結論が出るはずはない。そういう自覚のまったくないところが、お袋や親父の|愛嬌《あいきよう》なのだ。
「あんただってそろそろ将来のことは考えるでしょう?」
「特別、まだ考えてないな」
「あの人みたいになったら困るじゃないの」
「父さんは困ってないみたいだよ」
「あの人には向上心がないのよ。そりゃあ、いくらお金に困らないからって、人間あんなふうに無気力に生きていいとは思わないわ。春はちょっとあの人に似たところがあるから、それでわたしは心配なの」
お袋の言っていることは、だいたいは正しい。そんなことはぼくにだって解っている。親父はたしかに、お袋の言う意味での向上心みたいなものは持っていない。ただそれはもしかしたら、人間が一人生きていくということに対する価値観が、ちょっとだけ違うだけのことなのかも知れない。最近なんとなくぼくはそう思いはじめている。
親父には先祖代々の財産がある。駅前ビルの賃貸料だって、毎月の給料の何倍かにはなる。学校も二流だか三流だかの私立大学を、ほとんど通わないで六年かかって卒業した。そのあとはまた、インドだかインドネシアだかを、一人で二年ほど|放《ほ》っつき歩いてきたらしい。日本に帰って来てもぶらぶらしていたが、その|頃《ころ》はまだ生きていた親父の親父が世間体を|憚《はばか》って、無理やり警察学校に押しこんだのだ。そのあと調布警察署に赴任させることに関しては、たいした手間はかからなかった。息のかかった市会議員に電話を一本入れただけだったという。|祖父《じい》さんも息子を犯罪者にするより、犯罪者を取り締まる側に置いたほうが、一応世間体がいいと判断したのだった。
それ以来親父は二十年間、なにが面白いのかは知らないが、文句も言わず黙々と警察署に通いつづけている。昇進試験を受けたという話も聞かないから、いまだに平刑事のままなのだろう。そういう親父とお袋の人生観がちがったところで、別に驚くにはあたらない。むしろその二人が十五年も一緒に暮した事実のほうが驚きだ。たぶん親父とお袋は、ぼくに人生の不可解さを教えるために、一緒になったり別れたりしてみせたのだ。
「自分が何になりたいとか、そういう話、一度も聞いたことなかったわね」と、料理を口に運ぶ合間をみて、またお袋が言った。
「まだ決めてないもの」
「理科系がいいとか文化系がいいとか、そのくらいの区別はあるんでしょう?」
「理科系とか文化系とかそういうことじゃなくて、人間ていうのはもっと総合的なもののような気がするな」
「あの人みたいなこと言わないでよ。本当に心配になってくるじゃないの」
「そのうち自然にどうにかなるさ。母さんが心配しなくてもいいさ」
「あのね、ちょっと思ったんだけど、あんた、わたしと一緒に暮す気なあい?」
なるほど、それが今日の用件か。忘れていたが、お袋はただ飯を食うためだけに人を呼び出すような性格ではなかったのだ。
「急に言われてもな――」
「それはそうだけど、あの人と二人で暮すことが春のためにいいことだとは思えないのよ」
「三年前は、そうは思わなかった」
「それは、話がちがうのよ」
「文句を言ってるわけじゃないんだ。ただ急に言われてもさ、ぼくだって困るもの」
「もちろん今すぐ決めろなんて言ってないわよ。ただね、そういうことも考えたっていいと思うの。わたしにしてみれば春はたった一人の子供だし、あんたにしたってわたしはただ一人の母親でしょう? 一緒に暮したってなにも不思議はないわ。むしろそのほうが自然なくらいだし」
本当なら勝手な母親だと腹を立ててもいいところだが、この人に関しては、どうもそういう気になれない。もちろん三年前は自分のことだけで精一杯で、ぼくのことなどかまっている暇はなかったのだろうし、それが三年たって仕事も軌道にのってきて、ふと息子のことが心配になった。それはそれでいいし、お袋にしてみても悪気があるわけではないのだ。ちょっとでも悪気があれば、問題はもう少し単純になってくれる。
「あとでゆっくり考えてみるよ」と、最後のコーヒーを飲み終って、ぼくが言った。
「そうね」とお袋も食事を終らせて、新しい煙草に火をつけた。「近いうちにまた電話するわ」
「うん」
「たまにはうちの店にでも遊びに来たら?」
「そのうちにね」
「困ったことがあったら母さんに相談するのよ。あの人は|あて《ヽヽ》にならないんだから」
「そうするよ、困ったことがあれば」
「小遣いはある?」
「うん」
「いくらかあげようか?」
「いいよ」
「さっきのこと、本当に考えるのよ」
「うん」
「これからどうするの?」
「映画でも|観《み》て帰る」
「わたしは外に出ないで、このビルの下から地下鉄に乗るわ、いい?」
「うん」
ぼくらは一緒に立ちあがり、お袋が勘定を払って、同じエレベータで下におりた。
「じゃあ」と、ぼくが言った。
「またね」と、お袋が手をふった。
ぼくだけが一階でおり、お袋はエレベータの中に残った。今のレストランは冷房がききすぎていたな、とぼくは思った。
ぼくは『コットンクラブ』でも観ようと、ぶらっと歌舞伎町のほうに歩きだした。同じ東京でも、新宿という街はなにか空気がねっとりしている。人の汗が水蒸気になって湿度が高くなるのかも知れない。それともぼく自身が場慣れしていなくて、緊張して汗をふだんより余計にかくせいか。
靖国通りを歌舞伎町側に渡り、コマ劇場のほうに歩きだしたとき、前から酒井|麻子《あさこ》が歩いてきた。酒井麻子は大学生みたいな、少し整いすぎた顔立ちの男の人と一緒だった。
向こうもぼくに気がついて、お互いになんとなく、ちょっと足を止めた。この春から同じクラスになったとはいえ、ぼくと酒井麻子はまだ一度も口をきいていなかった。ただこんな場所でばったり会って、知らん顔をして通り過ぎるのも|へん《ヽヽ》なものだろう。酒井麻子もそう思ったらしく、ぼくらは二歩ずつぐらい近づき合って、それぞれに「やあ」と口の中で挨拶をした。
「いい天気だな」
「ちょっと暑いわよ」
「洗濯するにはいいさ」
「それは、そうね」
「今朝洗濯して来たんだ」
「へええ」
ぼくもけっこう本気で考えたのだが、天気以外の話題は思いつかなかった。
「ええと――じゃあな」
「戸川くん?」
「うん?」
「元気だった?」
「まあまあ」
「一人なの?」
「うん」
「どこ行くの?」
大きなお世話だ。とは言うものの、やっぱり女の子っていうのは大したもんで、こんなときにちゃんと天気以外の話題をもってこられる。
「映画――君も、元気みたいだな」
「まあまあよ」
まあまあか。そいつは良かった。
酒井麻子に|頷《うなず》いて歩きかけ、ふとぼくは今朝のことを思い出した。
「君、岩沢訓子のこと、知ってる?」
「訓子のなあに?」
「死んだこと」
正直に言って、ぼくは酒井麻子がこれほど驚くとは、思ってもいなかった。もっともクラスメートが死んだと聞いて驚くのは礼儀かも知れないし、酒井麻子が、ぼくが思っていたよりも礼儀正しい女の子だったというだけのことかも知れなかった。
「それ、いつの話?」
「昨夜遅くか、今朝早く」
「誰に聞いたの?」
「うちの親父」
「ああ――」
ぼくが酒井麻子の親父さんの商売を知っているのと同じように、たぶん彼女もうちの親父の商売を知っているのだ。酒井麻子の親父さんは、府中にある酒井組というヤクザの親分だった。
「事故とか、病気とか?」と、鼻の頭の汗がはっきり見えるぐらいまで顔を近づけてきて、酒井麻子が訊いた。
「自殺」
「自殺?」
「そう」
「|嘘《うそ》!」
「夏休みに嘘なんか言わない」
酒井麻子がぼくの|台詞《せりふ》を無視して、目を見開いたまま、口の中で意味の解らないことを二言三言|呟《つぶや》いた。それからくるっと背中を向け、手持ち無沙汰な顔をしている連れの男の方に歩いていった。酒井麻子はそこで男になにか言い、怒ったような顔で、またすぐにぼくの前に戻ってきた。
男はいや味な目で一度ぼくの顔を|睨《にら》み、あとはわざと知らん顔をするような感じで、また道を一人でコマ劇場のほうに引き返していった。
「あの人、いいのかい?」と、ぼくが訊いた。
「さっき噴水の前でナンパされただけ」
なるほど、酒井麻子にしては趣味が悪いと思っていたが、そういうことか。
「訓子の話、詳しく聞かせてよ」
「詳しくなんか知らない」
「お父さんから聞いたでしょう?」
「今朝多摩川に釣りに来た人が見付けたんだって。稲城大橋の上に靴が脱いであって、遺書があったって。それだけ。遺書の内容は知らない」
酒井麻子は上目遣いにぼくの顔を|覗《のぞ》き、|頬《ほお》をふくらませて、ふーっと大きく息を吐いた。きれいな子なのだ。前からそうは思っていたが、近くで見ると目が少し斜視で、それが整った顔にいくらか愛嬌を与えている。こんな子と付きあうのは、たぶんひどく大変なんだろう。
「なんとなく、がっかりした感じ」と、素っ気なく笑って、酒井麻子が言った。
「君、岩沢訓子と親しかったんだ?」
「まあまあね」
「そうは見えなかった」
「いろいろあるし」
「いろいろ、な」
目を片方つり上げて、酒井麻子が鼻をぼくのほうに向けた。
「映画、なん時から?」
「なん時でもいい」
「なに観るの?」
「『コットンクラブ』」
「コーラでも飲まない?」
よくは|解《わか》らないが、ナンパされた相手を追い返したわけだから、ぼくにもコーラぐらいおごる責任があったのだろう。少なくとも酒井麻子はそう信じているらしかった。
ぼくらはぼくが渡ったばかりの靖国通りを、また駅側に渡りなおし、アルタの中にある喫茶店に入って、コーラを注文した。口で言う以上に、岩沢訓子の自殺が、酒井麻子の気持ちを暗いものにしている感じだった。
「本当はね、まだ信じられないの」と、ストローを指の先でいじくりながら、酒井麻子が言った。「戸川くんが冗談を言ってるんだと思いこもうとしてるの。そんなこと、あるはずないのにね」
岩沢訓子のことなんか言わなければ良かったかなと、ぼくはかなり|真面目《まじめ》に反省していた。やはり天気の話だけでやめておけば良かったのだ。親しかろうと親しくなかろうと、クラスの友達が自殺したということは大変な出来事なのだろう。ぼくだけが無神経で、それを感じないだけのことだったのだ。だからって、今さら深刻そうな顔をしてみても仕方はない。
「ひとつ教えてもらえるかな」
「なあに?」
「君みたいな子にナンパかけるの、どうすればいいんだ?」
生意気そうな鼻で、酒井麻子がふんと笑った。
「さっきは暇をもてあましていただけ」
「友達はたくさんいるだろう?」
「学校の中だけ。外では誰とも付きあわないの」
「悪い趣味じゃないと思うけどな」
「必要以上に付きあうと、相手が迷惑するでしょう? 親父が親父だから」
「君と親父さんは、関係ないさ」
今度は声に出して、くすっと酒井麻子が笑った。目は完全にぼくを馬鹿にしていた。たしかに今言ったぼくの台詞は、この一年間でぼくが表に出した言葉の中で、一番人道的かつ|卑猥《ひわい》なものだった。
「いいのよ」と、下を向いて、またストローをいじくりながら、酒井麻子が言った。「他に言い方なんて、ないものね」
本当ならここは一発、素直にあやまるべきところなのだ。ただあやまってしまうと、ぼくが酒井麻子の親父さんの商売を気にしていることを、自分自身で認めることになる。気にしてはいないと言葉に出してみたところで、それは同じことだ。
唇だけを|微笑《ほほえ》ませて、酒井麻子が言った。
「戸川くん、気がついてた? 四月に同じクラスになってから、わたしたちが口をきくの、今日が初めてよ」
「チャンスがなかった。気が弱くてさ」
「解ってるの。戸川くんのお父さん、刑事だしね」
ちらっとぼくの顔を見ただけで、酒井麻子がぼんやりとその視線を窓の外にもっていった。
「みんな本当は、ちゃんと気を使ってるのよ。それでいて気楽そうにやってるわけ。訓子は――あの子ね、家も近かったし、小学校からずっと一緒だったの。うちに遊びに来たのはあの子だけ。気にしないって言うの。わたしが考えすぎだって。でも現実ってそうはいかないもの。あの子の家は普通の会社員でしょう? それでわたしのほうから付きあわないようにしてたの。でも今まで友達って言えたの、訓子だけだった」
涙が出てくるかと思ったが、酒井麻子は目のまわりを少し赤くしただけで、泣きだしはしなかった。
「だけど、まだ信じられない。訓子っておとなしそうに見えたけど、|芯《しん》は気が強いの。自殺って言われてもぴんとこないのよね。もし本当に自殺だとしたら、よっぽどのことがあったんだわ」
「なにか思いあたる?」
「ううん」
顔を戻してきて、酒井麻子がグラスの中の氷を一つ、しゅっと口の中にすべりこませた。
「ここ一年くらい、ほとんど付きあっていなかったもの」
「自殺にしても動機はあるだろうしな」
「戸川くん、今日どうしても映画を観る?」
「べつに――」
「訓子の家に行ってみない? もっとちゃんと知りたいの。遺書があるならその遺書、わたし、見てみたいわ」
ぼくらは喫茶店を出て、ガード下を西口にまわり、京王線の特急で府中に戻った。府中駅に着いたのは四時半だった。そのときになってもまだ、なぜ自分が岩沢訓子の家に行かなくてはならないのか、ぼくにはまるで解っていなかった。たぶん今日があまり暑くて、お袋に面倒なことを言われて、それでもう少しだけ酒井麻子の顔を見ていたくなったのだろう。
岩沢訓子の家は大国魂神社の横の道を競馬場のほうに行った、わりあい新しい感じの住宅街の中にあった。三十坪ぐらいの敷地がブロック塀で区切ってあり、その敷地いっぱいに、白いモルタル塗りの二階家が建てられていた。ぼくには“普通の家”という概念がはっきりしなかったが、それは岩沢訓子の印象がそうであったように、見るからに普通の家という印象の家だった。
玄関に出てきたのは、岩沢訓子に顔の似た、二十歳ぐらいの女の人だった。ぼくの|祖父《じい》さんが死んだときには、死んだとたん|親戚《しんせき》やら葬儀屋やら近所の人やらが、まるで待ってましたとばかりに押しかけて来たものだった。それで岩沢訓子の家もそんなふうだろうと思っていたのだが、様子はかなり違っていた。家の中にも外にも、人の気配はおろか、話し声すら聞こえてはいなかった。
ぼくは初め、親父の勘ちがいか、それとも同姓同名の他校の生徒の身に起こったことなのかと思ったが、そうではなかった。出てきた女の人は酒井麻子と顔見知りらしく、黙ってうなずいて、そのまま居間らしい六畳の和室に案内してくれた。
居間にいたのは岩沢訓子の母親らしい女の人と、ぼくらのクラス担任の村岡先生の、二人だけだった。今日のこの状況なら、村岡先生が岩沢訓子の家にいることは、当然といえば当然だった。ただそのことを予定していなかった分だけ、なんとなくぼくは顔が赤くなる思いだった。
だいたいテレビの青春ドラマとか、学園マンガとかには、まるで嘘みたいに美人の先生が登場してしまう。ぼくは小学校と中学校の経験から、あの|類《たぐい》のドラマは、生徒にありもしない希望を持たせて無理やり学校に引きつけておこうという、教育委員会の陰謀なのだとかたくなに決めこんでいた。ところが今の高校に入ってすぐ、そのまるで嘘みたいな美人の先生も、まるで嘘みたいに存在することもあるのだと、決定的に認識を新たにした。村岡先生はぼくの狭い|料簡《りようけん》を改革すべく、深大寺学園高校で英語の教師に身をやつしていたのだ。
「あなたたち、誰に聞いて来たの?」と、ぼくと酒井麻子の組み合わせに、ちょっと意外そうな顔をして、村岡先生が訊いた。
「親父に」と、ぼくが答えた。
村岡先生が黙ってうなずき、ぼくと酒井麻子のために、庭に面して開け放った窓側に場所を空けてくれた。
岩沢訓子の姉さんらしい人が座布団をくれて、ぼくらはそこに並んで腰をおろした。
「訓子、どこ?」と、怒ったような声で、酒井麻子が岩沢訓子の母親に訊いた。
「それが、まだ――」
「警察ですって」と、村岡先生が返事を引きついだ。「今夜中には戻されるらしいの。わたしもたった今うかがって、そのお話を聞いていたところ」
「自殺って、本当なんですか?」
なにか答えようとして、岩沢訓子の母親が口を開きかけたが、言葉は声にならず、ハンカチを口に押しあてそのまま自分の|膝《ひざ》の中に泣きくずれた。
かわりに、村岡先生が答えた。
「遺書があったらしいの」
「見たんですか?」
「いいえ。それもまだ警察ですって」
「それじゃ訓子は、なんで死んだの?」
「お母様にも見当がつかないらしいわ。わたしも思いあたることはないし――あなたたちこそ、なにか知っていることはない?」
酒井麻子が首を横に振り、村岡先生に見つめられて、ぼくも首を横に振った。
気を取り直したように、岩沢訓子の母親がぼくらのほうに顔をあげ、それから背筋を伸ばして、座布団の上に座り直した。その仕草がふと、ぼくに岩沢訓子の暗い目を思い起こさせた。そういえば彼女、こんな目をした子だったっけ。
「親なんて、まったくなんのために生きているんだか――あの子が死ぬほど苦しんでいたというのに、わたし、気づきもしませんでした。しっかりした娘でしたから、まさかこんなことになるとは――」
一つため息をつき、目を閉じて、岩沢訓子の母親がつづけた。
「悩みがあったのなら、なぜあの子、うちあけてくれなかったんでしょう。わたしか、先生か、誰かにうちあけていてくれたらと思うと、残念で仕方ありません。昨日だって出かけるまで、なにも変わった様子はなかったんです。その、なんとか、チェッカーズとかなんとかいう歌手のコンサートに行くと言って家を出たんです。九時までには戻るはずでした。誰か友達と一緒に行くとも言っておりました」
「その友達の名前、お聞きになりました?」と、村岡先生が訊いた。
「いいえ。あの子には今まで一度も間違いはありませんでしたし、外泊したり夜遅くなったりということもありませんでした。ですから細かいことは訊かないようにしていたんです。なにしろ、その、母親の口から申すのもなんですが、しっかりした娘だったんです。それが昨日は九時を過ぎても帰らなくて、十二時を過ぎても――それで主人と二人で、駅前の交番にお願いにあがりました。交番では予定の時間をまだ三時間しか過ぎていないと言って、取りあってくれませんでした。でもわたし、なにか予感のようなものを感じました。わたしも主人も、昨夜は一晩中起きておりました。そこへ今朝の五時ごろ、警察から電話があって、その、多摩川で、訓子が、学生証が、その、訓子の――」
ハンカチを広げて、その中に岩沢訓子の母親が、ぐずっと顔をうずめこんだ。村岡先生も酒井麻子も岩沢訓子の姉さんも、それぞれが色のちがうハンカチを取り出し、一斉に声を殺して泣きはじめた。一人ぼくだけが途方に暮れていた。意地を張らないで泣いてしまえば良さそうなものだが、理不尽なもらい泣きは遠慮したかった。大国魂神社の森が近いせいか、ここでも|蜩《ひぐらし》の声がよく聞こえていた。
四人はそうやって、五分ほど泣きつづけた。あとはしばらくの間、|咳《せき》ばらいの音や鼻水をすする音がひっそりとつづいていた。
「訓子さんのお役に立てなくて、教師として責任を感じております」と、思いつめたような声で、村岡先生が言った。
「こちらこそ。先生や学校の方にご迷惑をおかけすることになりまして」と、ハンカチを目に当てたまま、岩沢訓子の母親が答えた。
村岡先生が、これから校長先生の家へ行くと言い、ぼくらも一緒に岩沢訓子の家を引きあげることにした。やって来たときと同じように、ぼくと酒井麻子と村岡先生は、岩沢訓子の姉さんに見送られてその家を出た。外はむし暑く、|飴色《あめいろ》の西日が長く電柱の影をアスファルトに引っぱっていた。
黙りこんだまま、三人で五分ほど府中駅の方向に歩いてから、ふと村岡先生が言った。
「あなたたちが|そういう《ヽヽヽヽ》関係だったなんて、気がつかなかったわ。こんな教師では岩沢さんに問題があったとしても、見抜けるはずなかったわね」
その口調には意識的に感情を押し殺した感じがあって、ぼくらをひやかしているのか、本心から教師としての能力を|自嘲《じちよう》しているのか、判断は難しかった。どっちみち村岡先生の能力では、ぼくらが今日たまたま新宿で行き合っただけだという関係は見抜けなかったろうが。
そのことをぼくが村岡先生に言ってやろうとしたとき、酒井麻子が先に言葉を出した。
「お葬式、いつなんですか?」
「今日中に遺体が警察から戻ってくれば、明日がお通夜で、明後日がお葬式だそうよ。言うのを忘れてたけど、あなたたち、今度のことをあまり大騒ぎしないでね。クラスのみんなにはわたしから連絡します。いいこと?」
なんとなく納得のいかない言われ方だが、とりあえずぼくがうなずいた。酒井麻子も鼻を鳴らすような感じで、それでも黙ってうなずいた。
「これから校長先生と相談してからだけど、お葬式にはクラスの代表の人だけ出てもらおうと思うの。事情が事情でしょう? 岩沢さんのお母様も内輪だけでやりたいとおっしゃってるし、わたしとしては学級委員の森くんと西岡さんだけでいいと思うけど――酒井さん、クラスで岩沢さんと仲の良かった人、誰か知ってる?」
「さあ」
「岩沢さんが付きあっていた男の子なんかは?」
「さあ」
「そうよねえ。あの人、遊んでいる様子はなかったものねえ」
「死んだのがわたしだったら、学校中の男の子が行列つくったでしょうけどね」
二人の間に挟まって歩きながら、思わず、ぼくは首をすくめた。二人とも岩沢訓子の死で気が立っているのだろう。酒井麻子は村岡先生をまるで女として意識してしまっているし、村岡先生にしても、酒井麻子が真先に岩沢訓子の家に駆けつけた気持ちを、知っていてわざと|逆《さか》|撫《な》でしているようなところがあった。この二人に友情を期待するのは、今のところ、困難なことらしかった。
府中の駅に着いて、酒井麻子が一人で線路を反対側に渡っていき、ぼくと村岡先生は一緒に改札を通って、ホームののぼり口のところで、ちょっと立ち止まった。
「戸川くん、いつから酒井さんと付きあってるの?」
理由は自分でも解らなかったが、そのときのぼくは、村岡先生のその質問に素直に答えてやる気分ではなくなっていた。
「先生には関係のないことです」
「あなたたちのクラス担任として、一応知っておきたいわ」
「一応知って、どうするんです? これは個人的なことです」
「岩沢さんのことも個人的なことだけど、問題が起こると個人的なことでは済まなくなるの」
「ぼくと酒井が、心中でもするわけですか?」
「それは解らないわ。問題なんて、起きたあとになってから解ることですものね。あなたたち、お|家《うち》の事情もあることだし――」
「下りですか?」
「え? ええ」
「反対のホームです」
「そうね」
「これから洗濯物を畳んで、夕食の仕度をします。そういうこともみんな個人的な問題です」
ぼくは黙って立っている村岡先生に手だけ振り、上り線の階段を駆けあがって、ちょうどやって来た新宿行きの各駅停車で、調布まで戻った。なんのために出かけたのかよく解らなくなっていたが、とりあえず今日は、疲れた日だ。
家に着いたときは夕方と夜の境目あたりで、当然親父はいなかった。ぼくは門と玄関とダイニングと居間と庭の電気をつけてまわり、居間のクーラーもつけて、そこのソファに腰をおろした。帰りがけにとってきた新聞の夕刊を開いてみたが、岩沢訓子の事件はどこにも載っていなかった。女子高校生が一人自殺したぐらいでは、新聞の記事にはならないのだろう。
ふと庭を見ると、うす暗い中に白っぽいものがだらんとぶらさがっていて、思わずちっとぼくは舌うちをした。親父は洗濯物を取り込んで行かなかったのだ。仕方なくぼくは立っていって洗濯物を取り込み、居間のソファの上でそれを畳みはじめた。
電話が鳴って、出てみると親父だった。
「今日は早く帰れる」
「ふうん」
「なにかうまいものが食べたいな」
「うん」
「じゃあな」
「うん」
まったく世話のやける親父だ。飯ぐらいどこかで勝手に食ってくればいいじゃないかと思うのだが、お袋が出て行ってからぼくがそういうふうに|躾《しつ》けてしまったのだから、今さら文句を言っても仕方はない。親父の言うところの『早く帰れる』は、手がけていた事件が思っていたより早く片がついたので、八時までには帰るという意味。『なにかうまいものが食いたい』は、帰ったときには風呂が沸いていて、、風呂のあとはイワシの丸干しかサンマの開きでビールを飲みながら、ゆっくりテレビでナイターを観たい、という意味なのだ。たった一言でこれだけの意味を表現できる人間も、そうは居ないだろう。
急げば間に合う時間だったので、ぼくは洗濯物を畳むのを途中でやめ、バイクで駅前のスーパーに食糧の買い出しにでかけた。そこで親父の酒の肴と、ついでに三日分ぐらいの食糧を仕入れて、また急いで戻ってきた。夏休みが終るまでにはぜったいに家政婦を雇わせてやるぞ、とぼくはかたく心に誓っていた。
風呂に火をつけ、夕飯の仕度にとりかかったとき、ガレージのほうでフォルクスワーゲンのぶんぶんいう音が聞こえて、親父が帰ってきた。
台所に立っているぼくのうしろまで歩いてきて、親父が言った。
「今朝やっと寝込んだと思ったら、電話で起こされてた」
「ふうん」
「因果な商売だ」
「そうだね」
「ジャイアンツは勝ってるか?」
「知らない。テレビつけてみなよ」
親父がテレビをつける気配がして、すぐに野球中継の音がとび出してきた。お袋がいたときは飯を食いながらテレビなんかぜったいに観せてくれなかったから、ダイニングにテレビを持ち込んだのは、もちろんお袋が出ていってから後のことだった。
「三対一だ」
その親父の言い方だけで、ぼくにはテレビなんか観なくてもどっちが勝っているかは、すぐ解る。ジャイアンツが負けているときは、まず「くだらない試合だ」から始まるのだ。最初から点数を言うときには、だから当然、ジャイアンツは勝っていることになる。
またぼくのうしろまで戻ってきて、ぼくの手元をのぞきこみながら、親父が訊いた。
「夕飯はなんだ?」
「イワシの丸干しと、イカと貝の刺身。それとハンバーグ」
「ふうん」
「風呂も沸いてるよ」
「よく気がつくな」
なにを今さら。
「入っておいでよ」
「そうか?」
「ちょうど夕飯もできてるから」
「そうだな。それじゃ、ちょっと入ってくるか」
親父はぼくが気がついているのも知らないで、にんまりと|微笑《ほほえ》み、そのまま知らん顔をして風呂場に歩いていった。あの様子だとたぶん、|覚醒剤《かくせいざい》の取り引き現場に現行犯で踏みこんだか、下着泥棒を|拷問《ごうもん》にかけて自白させたか、なにかそんなことでもやったのだろう。
親父は三十分ぐらいたっぷりと時間をかけて風呂に入り、例によって腰にバスタオルを巻いた恰好で戻ってきて、仕度のととのったテーブルの前の椅子に、よっと声を出して腰をおろした。
親父のコップにビールを|注《つ》いでやりながら、ぼくが訊いた。
「岩沢訓子のこと、なにか解ったかい?」
まだジャイアンツが勝っていたので、親父の頭はなかなかまわり出してくれなかった。
「岩沢訓子って?」
「うちのクラスの」
「お前のクラスの女の子のことなんか、どうして|俺《おれ》が知ってるんだ?」
「今朝父さんが自殺したと言った子だよ」
「ああ――」
親父は一杯目のビールを一息に|呷《あお》って、気持ち良さそうに、ふーっと息を長く吐いてみせた。
「妊娠してたそうだ」
「妊娠?」
「四カ月だとか言ってたな」
「岩沢訓子が、妊娠してたって言うの?」
「妊娠くらい、女なら誰だってできるさ」
「相手は?」
「なんの?」
「妊娠なんて一人じゃできないだろう?」
「そんなことまで警察が知るもんか。自殺だという結論が出てしまえば、事件はそれで終りだ」
ぼくは親父のコップにビールを注ぎ足してやり、自分ではハンバーグをフォークでつつき始めた。
「それで、やっぱり自殺だったのかい?」
「そうらしいな。遺書もあったし」
「遺書にはなんて書いてあったの?」
「春――お前、今朝はあまり興味はなさそうだったじゃないか」
「そうだけど、よく考えたら、やっぱりクラスメイトだしさ。それになんとなくおかしいって気もするし。友達も岩沢訓子の家の人も、自殺の理由がぜんぜん解らないって」
「妊娠してたことが解れば、理由も解るだろう」
「そうだろうね。それで遺書の内容は?」
「俺が知るかよ。直接の担当じゃないんだから」
ぼくはハンバーグの刺さったフォークを下に置き、親父のほうに少し身をのり出した。
「ねえ父さん。遺書の内容、誰かに訊いてくれないかな?」
「どうして?」
「知りたいんだよ」
「どうして?」
「ただ、なんとなく」
「今ジャイアンツがいいとこなんだ」
「岩沢訓子はさ、ねえ父さん、なんで遺書を自分の部屋に置かなかったんだろうね。自分の部屋の机の上とか、ノートの間とか」
「遺書なんて、どこに置いたって個人の勝手だ」
「だけど橋の上じゃ、なくなっちゃうかも知れないよ」
「なにが言いたいんだ?」
「少しおかしいなって思うだけさ。理由はないけどね。それに――靴のこともあるし」
親父がいくらか本気になったような顔で、ビールを口に運びながら、じろりとぼくの顔を眺めおろした。
「靴が、どうしたって?」
「遺書と一緒に靴が脱いであったと言ったろう?」
「それが、どうかしたか?」
「どうして岩沢訓子は、多摩川にとび込む前に靴なんか脱いだのさ」
親父は気が抜けたような顔で、ふんと鼻を鳴らし、テレビに視線を戻して、ぼくには見えない角度で一つ|欠伸《あくび》をした。
「それが自殺の作法さ」と、小学生を教える家庭教師のような言い方で、親父が言った。「自殺する者は昔から履物を脱いできちんと|揃《そろ》えておく。自分がとり乱していなかったってことを他人に解らせるためにな。だから靴が脱いであっても、どこもおかしくないんだ」
「父さんにはおかしくないだろうけど、ぼくにはおかしいな、やっぱり」
「どうして?」
「そりゃあテレビの時代劇とかではそうだし、父さんくらいの|歳《とし》の人だったら靴も脱ぐかも知れないけど、岩沢訓子は十七だよ。ただ歳が若いってだけじゃなくて、なんて言うかさ、そういうことって合わないんだよな、今の感覚に。かんたんに考えて、もしぼくが自殺するために川にとび込むんだったら、ぜったいに靴なんか脱がないと思うんだ。もちろんそんなこと、父さんたちの言う意味での証拠にはならないだろうけどね」
親父はビールを口に運んだり、|箸《はし》を使ったりしながら、ちらっちらっとテレビに視線をやっていたが、本当はぼくの言ったことを頭の中でけっこう本気でいじくりまわしていたのだ。親父は頑固ではあったが、決して|依怙地《いこじ》ではなかった。
やがて親父は椅子を立って、電話のところに歩いていき、そこでぼくには背中を向けたまま電話の相手と低い声で二、三分話をした。
元の椅子に戻ってきて、親父が言った。
「岩沢訓子の件は正式に自殺と決定したそうだ。少し前に父親が遺体を引きとっていった」
親父が空のコップを差し出したので、ぼくが冷蔵庫から新しいビールを出して、そのコップにビールを注ぎ足した。
「遺書の内容は『お父さん、お母さん、ごめんなさい』――それだけだ」
「それだけ?」
「そう。それだけ」
「それじゃそれが遺書かどうか、解らないじゃないか?」
「水死体が発見されて、そのそばにそういう内容の書かれた紙きれが置いてあった。書いたのが水死人本人ということであれば、通常それは遺書と見なす。名探偵の目から見ると、そういう警察の判断は間違ってるように見えるのか?」
「なんとも言えないね」
「急に探偵ごっこを始めたようだから、ついでに検死の結果を言ってやるとな、死亡推定時刻は五日の午前一時前後、つまり今朝の一時ごろってことだ。直接の死因は酸素欠之による脳および心臓機能の停止。からだ中に数カ所の打撲傷がみられるが、これは落下の際に生じたもので死亡原因とは関係なし。妊娠四カ月だったっていうのは、前に言ったとおりだ」
「水は飲んでなかったの?」
「酸欠というのは|溺死《できし》っていうことだ。水なんてただ飲むだけなら、バケツ一杯飲んだって死にはせんさ」
「やっぱり自殺なのかな?」
「そうだな」
「父さんはどう思う?」
親父は軽くふーんと|唸《うな》り、それからしばらく息をとめ、顔を|皺《しわ》だらけにしてなにやら考えこんでいた。
「ふつうに考えれば――」と、止めていた息を吐いて、親父が言った。「ばかな女子高校生が悪い男に遊ばれて、おまけに妊娠までさせられて捨てられた。悩んだあげく、誰にも相談できずに多摩川に身を投げた。よくあることと言えばよくあることだが、ただ一つ引っかかるのは、春の言ったとおり、その岩沢訓子って娘が川にとび込む前に靴を脱いだことだな。どこがどう引っかかるのか、俺にもよくは解らんが」
そのあとぼくらは、事件のことは|喋《しやべ》らず、野球が終るまで、飯を食いながら二人で黙ってテレビを観ていた。あいにくジャイアンツは最終回に点を入れられて、せっかく良かった親父の機嫌をまっさかさまに地獄につき落してくれた。親父が早く帰ってきたときぐらい、なんとかジャイアンツも勝てないものだろうか。
ぼくらは使った食器を流しに出し、それぞれの部屋に引きあげた。ぼくのほうは少しは勉強でもしようと参考書を広げたが、意識はなかなかそこに集中してくれなかった。それでもなんとか十二時ぐらいまで机の前にねばってから、ぼくは下におりて、戸じまりと洗いものをやり、かんたんにシャワーを浴びてベッドにもぐり込んだ。目をつぶっても、なんとなく寝つかれなかった。それはただ暑いから寝つけない、というだけではなさそうだった。
2
電話が鳴っていた。朝の早い電話は親父への用事に決まっているのだが、親父はぼくが家にいると解っているときは、決して自分では電話を受けようとはしなかった。
ぼくは半分眠ったままの頭で、腕を伸ばし、受話器を取って|顎《あご》の下に挟みこんだ。電話の相手は酒井麻子だった。麻子さんが親父に、どんな用があるというのだ。
「今電話をまわします」と、|寝呆《ねぼ》けて、ぼくが言った。
「まわすって、誰に?」
「え? ああ――今なん時?」
「七時半」
「ラジオ体操に行ってきたのか?」
「ふつうの人間は起きる時間よ」
「そういう意見も、あるかな」
「訓子のこと、なにか解った?」
「妊娠してたって」
「妊娠?」
「妊娠くらい女なら誰でもできるって」
「誰が言ったの」
「うちの親父」
麻子さんが言葉を切って、電話の中でなにか唸った。
「ごめん」と、ぼくが言った。「寝起きは機嫌が悪いんだ」
「そんなことはどうでもいいの。妊娠の話、本当?」
「君に嘘を言う勇気はない」
「戸川くん、まだ寝呆けてるの?」
「どうして?」
「言い方がなにかへんだわ」
「朝のせいさ」
「今、会える?」
「今?」
「相談があるの」
「ぼくはまだベッドから出てもいないよ」
「怒ってるの?」
「どうして?」
「起こしちゃったから」
「もう目は|醒《さ》めた」
「じゃあ出てきてよ」
「うん――|午《ひる》すぎに」
「午すぎ?」
「家の中を|掃除《そうじ》しなくちゃ」
「冗談なの?」
「本気」
「なんで戸川くんが掃除なんかするのよ」
「趣味なんだ」
「午すぎまで待てないわ」
「それじゃちょうど午でもいい」
「解ったわよ!」
また麻子さんが言葉を切って、なにか、かちかちと歯ぎしりみたいなことをやった。
「わたしがそっちに行くわよ。それなら文句はないでしょ?」
ぼくが返事をする前に、麻子さんが電話を切った。たしかにきれいな子だが、少しヒステリー体質なのだろう。それとも女はヒステリー気味のほうが可愛げがあるという真理を、自然のうちに悟ってでもいるのだろうか。お袋もそうだった。
それにしてもやはりふつうの人間なら起きだす時間だったので、仕方なくぼくはベッドを出て、パジャマのまま下におりていった。ちょうど親父も部屋から出てきて、欠伸をしながら新聞を取りに玄関へ歩いていった。今日も暑い一日になりそうだ。
ぼくは台所に行ってといだ米を電気|釜《がま》にセットし、朝飯の仕度にとりかかった。|味噌汁《みそしる》の具は玉ネギとワカメと豆腐でいい。
新聞を取ってきて、親父がダイニングの椅子に座りこんだ。
「あと三十分は寝てられたのにな」
親父は電話のことを言っているのだ。
「ふつうの人間は起きる時間さ」と、ぼくが答えた。
「こんな時間に電話なんかかけてくる|奴《やつ》の、顔が見たいもんだ」
「文句ならジャイアンツに言ってくれよ」
ジャイアンツが勝った次の日なら、親父はばかみたいに早く起きだして、そのジャイアンツが勝ったという記事を時間をかけて三回でも四回でも読みなおすのだ。
「昨夜あれからちょっと気になったんだが――」と、わざと音をたてて新聞を開きながら、親父が言った。「岩沢訓子って女の子の相手、まさか春だったんじゃあるまいな?」
吹き出しそうになったが、どうにかぼくは我慢した。
「どうしてさ」
「お前がなんだか、急に興味をもったみたいだから」
「ぼくだったら四カ月なんかになる前に、始末してる」
「そりゃあまあ、そうだな」
「味噌汁に卵入れるかい?」
「いや――だけどな、本当は妊娠なんかさせる前に、ちゃんと気をつけなくちゃいけないんだぞ」
「解ってるよ」
「一応念のためだ、女性に対する礼儀だからな」
我慢できなくなって、ついにぼくが笑いだした。親父は『女性に対する礼儀』なんて言葉を、いったいどこで覚えてきたのだろう。親父がそんな高級なものを知っている人間だったら、お袋も出ていかなかったし、新しい女だってもうとっくにできているはずではないか。それともぼくに言わないだけで、どこかに新戸川夫人の心あたりでもできたのだろうか。
米が炊きあがり、ぼくがテーブルに納豆だのあつ揚げの煮物だのを並べ始めたとき、玄関でチャイムが鳴った。まさかとは思ったが、なんとなくぼくはいやな予感がした。
「父さん、出てみてよ」
「まだパジャマのままだ」
「ぼくだってそうだよ」
「お前のパジャマのほうが似合ってるじゃないか」
まったく、パジャマが似合ってるかどうかなんて、いったい誰が決めるのだ。
「解ったよ。今度父さんの新しいパジャマを買っておくさ」
ぼくはテーブルを離れて玄関に歩き、サンダルを突っかけて、ドアを外側に押し開けた。いやな予感は当っていた。立っていたのは麻子さんだった。電話があってから一時間もたっていないから、あのあとすぐに家を出てきたのだ。たぶんバイクを飛ばしてきたのだろう。ポニーテールに結った髪の前が|可笑《おか》しいぐらい乱れている。
「早すぎた?」と、ぼくの風体を上目遣いに値ぶみして、麻子さんが言った。
「ちょうど良かった」と、ぼくが答えた。「まだ飯も食っていないから」
その言い方が少しいや味だったことに気がついて、ぼくが言い直した。
「この家、よく解ったな」
「誰でも知ってるわ」
「幽霊は出ないんだ」
「小学校のとき写生に来た。こういう家にはどんな人が住んでるのかなって、その|頃《ころ》から興味をもっていたわ」
「現実が人間をおとなにするわけか」
客間に通そうかとも思ったが、なんとなくそういう雰囲気ではなかったので、ぼくは麻子さんにあがってもらって、そのままダイニングに連れていった。親父も戸惑ったろうが、麻子さんのほうは|呆然《ぼうぜん》としていた。家政婦が十人も立ち働いているわけではなく、実際はだだっ広いダイニングルームのまん中に置かれたテーブルに、冴えない中年男がパジャマのまま新聞を広げて座っているだけなのだ。現実というのは、こういうものだ。
なんのつもりか、新聞を持ったまま立ちあがって、親父がばかていねいに挨拶をした。
「親父だよ」と、ぼくが二人を紹介した。「クラスの酒井さん」
二人は初めましてとか、お世話になりますとかへんな挨拶をし合って、それでも二人して茫然とつっ立ったまま、どちらも腰をかけようとはしなかった。
「朝飯は食べたの?」と、ぼくが麻子さんに訊いた。
「え? ああ――いえ」
「朝食は食べたほうがからだにいいんだ。座りなよ、父さんもさ」
二人がやっと我に返ったという感じで、もぞもぞと椅子に座りこんだ。ぼくは麻子さんの分も朝飯の仕度をして、台所とテーブルの間を行ったり来たりした。
「なにか、クラスの人が自殺したとかで――」と、柄にもなくかた苦しい言い方で、親父が麻子さんに話しかけていた。
「はい。それで戸川くんに用事がありました」と、かしこまって、麻子さんが答えた。
「最近の若い人はなにを考えてるんだか――」
「はい」
「ジャイアンツも弱いし」
「はい」
親父も少しは頑張ったのだろうが、二人の会話はそれ以上つづかなかった。案の定親父は咳ばらいみたいなことをやって、なにくわぬ顔で自分の部屋のほうに歩いていった。そして戻ってきたときには、なにを思ったのか、ちゃんと着がえを済ませていた。麻子さんをぼくと張り合う気にでもなったのだろう。
仕度が終って、ぼくらは三人で朝飯を食べはじめた。親父はテレビをつけたものかどうか迷っていたが、けっきょくは立ちあがらなかった。それどころか椅子に|胡座《あぐら》を組んで座ることもなく、まるで自分がお見合いでもしているように、背筋をまっすぐに伸ばして毅然とした顔をつくっていた。
「今日の味噌汁は、うまい」と、熱でも出たのか、突然断固とした口調で、親父が言った。
ぼくと麻子さんが返事をしなかったので、親父は鼻白んで、また一人で黙々と食事にとりかかった。
すると今度は麻子さんのほうが箸を置いて、親父に負けないくらい断固とした声で、親父に言った。
「わたし、府中の酒井組の娘です」
少なくともぼくの見た感じでは、親父は驚いたりはしなかった。ただ自分はけっして驚いてはいないぞ、という決意みたいなもので、首のところが少しばかり緊張していた。
「ああ、そうですか」と、落ちついた声を出して、親父が麻子さんにうなずいた。
「でも家は昔からのテキ屋で、暴力団とはちがいます」
「なるほど」
「覚醒剤とか売春とか、ああいうものはやっていません」
「あれはやらないほうがいいです」
「でもヤクザはヤクザなんです」
「そりゃまあ、そうですな」
「でも――」
「はい?」
「まともなヤクザなんです」
「なるほど――」
二人の会話はそこで途切れ、食事が終るまで、もうどちらも相手に話しかけようとはしなかった。ぼくは一人で、笑いをこらえるのに精一杯だった。
「あのあつ揚げの煮物、ちょっとしょっぱかったわね」と、親父が出かけていったあと、やっと肩の荷がおりた、という感じで麻子さんが言った。
ぼくはテーブルの食器を片づけ、コーヒーの豆をひいて、パーコレータを火にかけていた。
「|だし《ヽヽ》が足らなかったんじゃないの?」
「そうかな」
「お砂糖は入れた?」
「入れたよ」
「お酒は?」
「入れてない」
「煮物にはお酒を少し入れるといいの」
そこでやっと情況に気がついたのか、麻子さんの声が急に|怪訝《けげん》そうな調子になった。
「だけど、どうして戸川くんが食事の仕度なんかしてるのよ」
「お袋に捨てられたんだ、二人とも」
「二人とも?」
「親父とぼく」
「真面目な話?」
「真面目な話」
「いつのことよ」
「三年前」
「それじゃ三年間、ずっと戸川くんが食事を作っているの?」
「洗濯したり、掃除したり」
「嘘みたい」
「まったくさ」
「ぜんぜん知らなかった」
「言いふらすのもへんだ」
「今日掃除があるって言ったのも、本当だったのね」
「そう言ったよ」
「わたし、戸川くんが冗談を言ったんだと思った。それで頭にきて、わざと早く来たの」
「そうだろうと思った。玄関を開けたとき、君、こわい顔してたから」
コーヒーが沸いて、パーコレータとコーヒーカップを、ぼくがテーブルのところへ持っていった。
「砂糖入れる?」
「入れない」
ぼくも砂糖は使わなかったので、二つのカップにコーヒーを注ぎ、ぼくが麻子さんの向かいの椅子に座りこんだ。しばらく忘れていたが、家の中に女の人がいるというのは、やはりいい感じだった。それも家政婦なんかではなく、親父の新しい女房とか、まあ、ぼくの好きな女の人とか。
コーヒーをひとすすりして、ふと麻子さんが顔をあげた。
「忘れていたわ。なんで急いでやって来たのかってこと」
「いつ思い出すのかと思ってた」
「訓子の妊娠の話、本当に本当?」
「本当に本当――四カ月だって。それで警察も自殺と断定したんだ」
「相手は?」
「解らない。警察も調べる気はないらしい」
「訓子が妊娠だなんて、信じられる?」
「さあ」
「だいいち四カ月なら、もうおろすのにも間に合わないじゃない。あの子そんなにうっかりした子じゃなかったわ」
「その子供を産みたいと思ってたら、話は別さ」
「産みたいって?」
「相手の男に|惚《ほ》れていれば、そういうこともなくはない」
麻子さんが考えこんで、椅子の中で少し背中をずらした。
「だけどもしそんな相手がいたとして、家の人も友達も誰も気がつかなかったなんて、そっちのほうがおかしいわね」
「よっぽど注意してたんだ、他人に知られないように」
「なぜ?」
「知られちゃ具合が悪かった」
「なぜ?」
「なぜ――なぜ岩沢訓子は遺書にもその理由を書かなかったのか」
「遺書の内容も解ったの?」
「『お父さん、お母さん、ごめんなさい』」
「それだけ?」
「そう」
「それがどうして遺書になるの?」
「状況のつみかさねさ。君――君がもし自殺をするために川にとび込もうとするよな、そのときは、靴を脱ぐかい?」
「なんの話?」
「いいから考えなよ、靴を脱ぐかどうか」
「脱ぐわけないじゃない」
「そうだよな。だけど岩沢訓子は脱いでいた」
「どういうこと?」
「どういうことかな。それが解れば、問題はぜんぶ解決しちゃう気もするけど」
それからぼくたちはしばらく、それぞれの頭の中を整理しながら、黙ってコーヒーを飲んでいた。日もすっかりあがりきって、そろそろ本格的な暑さがやって来ようとしていた。
「やっぱりおかしいわ、なんとなく、ね」と、静かに首を横にかしげて、麻子さんが言った。
「なんとなく、な」と、ぼくが答えた。
「ひとつだけはっきりしているのは、訓子の相手は決してマイケル・ジャクソンとかチェッカーズのフミヤとかじゃなくて、わたしたちが探そうと思えば探せる範囲の人間ということだわ。そうでしょう?」
「たぶん――」
「探してみたいわね」
「そうだな」
「手伝ってくれる?」
「君がシャーロック・ホームズで、ぼくがワトソンだ」
「逆でもいいわよ」
「いいや。ぼくは家政夫をやりながらの探偵だからね、どうせたいした役には立たないさ」
ぼくが探偵を手伝うかわり、麻子さんが家の掃除を手伝ってくれることになって、ぼくは二階に行ってパジャマをジョギングパンツとTシャツに着がえてきた。家中の窓という窓をぜんぶ開け放ち、ぼくらは手分けしてこの古いばかでかい家の掃除にとりかかった。お袋がいたころは『掃除だけで半日はつぶれてしまう』と、よく文句を言っていたものだ。自分でやりはじめて、ぼくはお袋の言っていたことが嘘でなかったことを知ったが、ぼくのほうはせいぜい一週間に一度ぐらいしか掃除はやらなかった。『|埃《ほこり》なんかじゃ死にはせんさ』という親父の意見を取り入れたのだった。
ダイニングと居間は麻子さんに任せて、とりあえずぼくは親父の部屋を片づけ、それから今は使っていない、以前はお袋の仕事部屋だった部屋の掃除にとりかかった。|祖父《じい》さんが生きていたころは祖父さんの部屋だったものを、お袋が机だの作業台だのを持ちこんで仕事部屋にしていたのだ。
仕事部屋といっても、お袋はそこでなにか金になるような、特別な仕事をしていたわけではなかった。七宝焼きに凝っていたときは七宝焼きの釜だの絵の具だのが散らばり、鎌倉彫りのときはその道具で|溢《あふ》れ、ドイツ|刺繍《ししゆう》のときは糸だの布だのが山積みになるといったような、要するにお袋が自分の世界に閉じこもるための部屋だった。お袋はその部屋に閉じこもりながら、逆にその部屋からの出口を探していたのだ。この古い家の中で、ただじっと歳を取るのを待つだけの人生を、お袋がどんなに|怖《おそ》れていたことか。なにもしないでただ生きているだけの人生にも、もしかしたらそれなりの意味があるのかも知れないという発想が、お袋には最後まで理解できなかった。これからもたぶん、死ぬまで理解しようとはしないだろう。
|はたき《ヽヽヽ》を振りまわしたり掃除機をかけたり、その部屋の掃除が一段落したとき、居間のほうから麻子さんがぼくを呼びにきた。この部屋の受話器は外してあったので、かかってきた電話を麻子さんが受けてくれたのだ。ぼくは居間に歩いて、外してあった受話器を取りあげた。
相手は朝倉洋子だった。なんで朝倉洋子が電話なんかしてくるのだ。ぼくは背中に水道のホースを突っ込まれたような気分になった。
「今電話に出た女の人、だあれ?」と、無理やり作ったような明るい声で、朝倉洋子が訊いた。
「親父が新しい女房をもらったんだ」と、ぼくが答えた。
「ずいぶん若い声じゃないの?」
「親父はロリコンなのさ」
「そうだったの」
「そうさ」
「今、なにしてる?」
「掃除」
「会える?」
「会えない」
「夜は?」
「夜も」
「明日――」
「明日も用がある」
「この間のこと、冗談だったのよ」
「もういいさ」
「本気じゃなかったの」
「もういいって言ったろう?」
「もう一度会って、ちゃんと話したいのよ」
「話はしたよ」
「だけどあのときは、二人とも頭に血がのぼってたじゃない?」
「今はのぼってないさ」
「それじゃ本当に、このまま終りにしたいわけ?」
「それもこの前言った」
「後悔するわよ」
「怖くはないさ」
「そういう人だったの?」
「そう」
「ねえ――もう一度会えない?」
「同じことはくり返したくないよ」
「本当に、後悔しない?」
「しないように努力してる。君も努力したほうがいいさ、子供じゃないし」
「そう――」
朝倉洋子が言葉を切って、しばらく電話の向こうで黙っていた。
それから気を取り直したような声で、またつづけた。
「新しいお母さんて、いい人?」
「うん」
「きれい?」
「うん」
「会ってみたかったわ」
「うん」
「それじゃその、新しいお母さんによろしくね」
「うん」
ちょっと間があってから、電話が切れた。ぼくも受話器を戻し、Tシャツの|裾《すそ》で顔の汗を|拭《ぬぐ》った。
振り返ると、そこのソファに、麻子さんが胡座をかいて座っていた。今の電話をしっかり聞いていたらしかった。気まずい雰囲気ではあったが、言い訳をする必要もなかったので、ぼくはそのままお袋の仕事部屋に戻ろうとした。
「戸川くんて、そういう人だったの」と、座っているくせに立っているぼくを見下すような目で、麻子さんが言った。
「他人の電話を聞いたって、面白くもなんともないだろうに」
麻子さんはGパンのポケットから煙草と紙マッチを取り出し、一本をくわえて、しゅっと火をつけた。
「朝倉さんて、三年生の朝倉洋子さんじゃない?」
「君には関係ないよ」
「あんな言い方、しなくてもいいのに」
「あんな、なんだよ」
「あんな冷たい言い方よ。まるで押し売りでも追い払うような言い方だったじゃない」
「そんな言い方はしてない」
「そうなの?」
「そうさ」
「それじゃ心が冷たいんだわ。相手の気持ちも考えなさいよ」
「大きなお世話だ」
「向こうが会いたいって言うんなら、会えばいいじゃないの。戸川くんてそんなに偉かったの?」
「君に言われる覚えはないし、ぼくも君にいちいち説明する必要はない」
「朝倉洋子さんのどこが悪いのよ。男の子ならみんなあの人と付きあいたがるじゃないの」
「それじゃ彼女に君からそう言ってやれよ」
「女の子の気持ち、解らないの?」
「解らないな」
「無神経だわ」
「よく言われる」
「|卑怯《ひきよう》よ」
「無神経だものな」
「あんたみたいに無神経で|傲慢《ごうまん》で冷たい人、初めて見たわ」
気圧の具合か体調の加減か、そこで麻子さんは煙草を灰皿の中でめちゃくちゃに押しつぶして、声を出して一気に泣きはじめた。デパートの中で子供が駄々をこねて泣くような、あんな感じの泣き方だった。ぼくは|呆気《あつけ》にとられて、首を振りながら泣きつづける麻子さんの様子を、|茫然《ぼうぜん》と眺めていた。昨日岩沢訓子が死んだと聞かされたときでさえ泣かなかった酒井麻子が、今はまるで子供みたいに、目一杯大声を出して泣いている。それもぼくと朝倉洋子が別れた、という理由でだ。いったいこの子は、どういう体質をしてるんだろう。
ぼくにだってタオルを渡してやるとか、コーラを持ってきてやるとかぐらいのことは思いついた。ただ暑かったし、|うんざり《ヽヽヽヽ》もしていた。ぼくはそこに立って、ぼんやりと麻子さんの泣く様子を眺めていた。麻子さんは頭の先から顎の下まで、汗と涙でもうぐちゃぐちゃだった。もしこれが化粧をする女の人だったら、正月の福笑いみたいな顔になっているところだ。
そうやって麻子さんは、飽きもせずに十分ぐらい泣きつづけていた。やがて泣きだしたときと同じように急に泣くのをやめ、ぼくのほうに顔をあげて、ふーっと一つ息を吐いた。
「ああ、さっぱりした」と、まるで嘘みたいにけろっとした声で、麻子さんが言った。「やっぱり戸川くんて冷たいじゃないの?」
「そうかな――」
「『泣くなよ』とか『ぼくが悪かった』とか、声ぐらいかけてくれてもいいじゃない? そこでただ立ってるだけじゃ、泣きやむきっかけが解らないわよ」
「それじゃ、そう言えば良かったんだ」
「そんなの男の子のほうの礼儀だわ」
「ああ――まあ、悪かったよ」
麻子さんがぐちゃぐちゃの顔で、にっと笑って、なんだか知らないが、なんとなくぼくも|可笑《おか》しくなった。昨日新宿で会ったとき『こういう子と付きあうのは大変だろうな』と思ったぼくの感想は、だいたい当たっていたようだ。ただどういうわけか、男っていうのは、わざと大変な女を選んで惚れようとするらしい。ぼくの親父でさえそうだったんだから。
「そっちのほうは片づいたの?」と、シャツの裾で顔を|拭《ふ》きながら、麻子さんが訊いた。
「だいたいね」と、ぼくが答えた。
「シャワー貸してくれる?」
「いいよ」
「なんだか知らないけど、からだ中がべとべとになっちゃった」
ぼくは麻子さんを連れて風呂場まで行き、シャワーの使い方を教えて、それから洗ってあるTシャツとバスタオルを貸してやってから、自分では便所の掃除にとりかかった。
それを終らせ、あっちこっちの窓を閉め、居間とダイニングにクーラーを入れたとき、麻子さんが風呂場から戻ってきた。さっき泣いていたときとは人がちがうかと思うほど、さっぱりとして落ちついた顔をしていた。たったこれだけの時間で、この子はかんたんに人格を入れかえられるのだ。ただ貸してやったTシャツだけは、もう少し色の濃いもののほうが良かったかも知れなかった。白地に小さいワンポイントが入っているだけのやつでは、下にブラジャーをつけていないことがはっきりと解ってしまう。もちろん解ったところで、それほどたいした胸ではなかったが。
麻子さんがダイニングの椅子に腰かけたので、ぼくは冷蔵庫からコーラを二本出してきて、自分も麻子さんの向かい側に腰をおろした。まだ午にはなっていなかったが、外は金紙を|貼《は》りつけたような、とんでもなく暑そうな色になっていた。
「台所もぼくがやるよりはきれいになってる」と、それは本心で、ぼくが言った。
「女の子を褒めるなんて、初めてでしょう?」と、目だけで笑って、麻子さんが訊いた。
「なん回かは褒めたことはあるさ」
「自分の部屋は片づけたの?」
「あそこは、たまにはやってる」
「二階?」
「うん」
「どんな部屋?」
「つまらない部屋さ」
「見てみたいな」
「人には見せないんだ」
「ポルノの写真があるんでしょう?」
「あるよ」
「本当に?」
「どうして?」
「ああいうのって不潔だわよ」
「たまには使うもの」
「そんなもの使うんなら、朝倉さんと別れなければいいじゃない?」
「それとこれとは話が別だ――その話、まだしたいのか?」
「はずみでね、言ってみただけ」
麻子さんは視線を落として、コーラを一口なめ、|掌《てのひら》で口のまわりをくしゃくしゃとこすった。
「わたし、思ったんだけど――」と、額に太い皺をつくって、麻子さんが言った。「訓子に女の子の友達が一人もいないってこと、なかったと思うの。女の子って一人や二人は、秘密をうちあけるような友達がいるものなのよ。うちのクラスにいなくても、どこか他に」
「君は?」
「今言ってるのは一般論、特殊なケースは考えなくてもいいの」
ぼくの返事を待たないで、麻子さんがつづけた。
「中学のときは、わたしと訓子と、体操部で二組の雨宮君枝と、あと都立に行ったもう一人の女の子と、その四人が仲が良かったの。君枝は一年のときも訓子と同じクラスだったから、もしかしたらずっと付きあってたんじゃないかと思って、昨夜電話してみたの。君枝もびっくりしてたわ、訓子が死んだって聞いて。誰からも連絡はいかなかったのね。でも訓子のことはやっぱり知らないって。君枝は体操が忙しくて、友達と遊んでる暇はないんだって」
「彼女、国体に出るんだよな」
「そう。朝から晩まで、ずっと練習らしいの。それで一年のとき訓子と親しくしていた子も思いあたらないって言うのよ」
「もう一人の子は?」
「伊藤寛子っていって、都立の東高に行ったの。昨夜電話してみたけど、いなかったわ」
「その子の電話番号、今、解る?」
「ええ」
「男のほうは警戒していた感じがあるしな、最終的には男を探すにしても、とりあえずは女の子のほうから探してみるか」
「わたしもそう思う」
麻子さんがダイニングの電話に歩いていって、尻ポケットから小さなアドレス帳を出し、その伊藤寛子とかいう女の子のところへ電話をかけはじめた。
女の子の電話っていうのはたいていそうらしいが、麻子さんたちもまず近況報告をやり合い、次に天気だとか体調だとかの話をして、それからやっと本題に入り、ウソーッだとかエーッだとかの合の手を頻繁に混ぜながら、長々と五分ばかり喋りあっていた。
やっと戻ってきて、麻子さんが言った。
「寛子もびっくりしてたわ。昨日はデートで帰りが遅かったんだって」
「その子は死刑にするべきだ」
「ちっとも知らなかった」
「なにが?」
「今寛子が付きあってる男の子、うちの学校の子なの。五組に高沢康男っているじゃない? 背が高くて、パーマかけてて」
「君の友達、男に特殊な趣味があるのか?」
「寛子は背が高い子が好きなの」
「それで――」
「訓子のこと話したら、とにかくびっくりしちゃってね、会って詳しく聞きたいって言うの。それでわたし、これから行くと言っちゃった。一緒に行くでしょう?」
「助手には命令するだけでいいさ。『来たまえ、ワトソン君』」
麻子さんが口を開けて笑い、立ったままコーラのビンを|掴《つか》んで、残りの半分を一気に|咽喉《のど》に流しこんだ。
「もう一つね、思い出したことがあるの」と、舌の先で唇をなめてから、麻子さんが言った。「|一昨日《おととい》訓子はチェッカーズを見に行くと言って家を出たのよね。だけどあの晩テレビでヒットテンをやってて、わたしもそれを見たの。チェッカーズも出てたけど、でもそれはスタジオじゃなくて、岡山だか広島だかからの中継だったわ。だから一昨日訓子がチェッカーズのコンサートなんか、見に行けるはずはなかったのよ」
「つまり、それは?」
「つまり――」
「岩沢訓子はぼくが思っていたような、おとなしくてただ目立たないだけの女の子じゃなく、家の人が思っていたような、なんの間違いもないしっかりした娘でもなく、他人に知られたくない秘密、それも死ななくてはならないほどの秘密をもった、君が中学のとき仲の良かった岩沢訓子とはぜんぜん別な女の子だった――つまり、そういうことさ」
麻子さんの乗ってきたバイクは、白いスクータータイプの50ccだった。色がちがうだけで、かたちはぼくのバイクもほとんど同じようなものだった。ぼくらはバイクを連ねて京王線を北側に渡り、旧甲州街道を抜けて府中側に出た。
伊藤寛子という女の子の家は、調布から府中に入ったすぐのところにある、市営だか都営だかの集合住宅の中にあった。四階建ての四角いアパートがいくつも並び、ぼくらは二度ばかり、その団地の中をバイクでぐるぐると走りまわった。中学のときに一度来ただけで、麻子さんも場所をはっきりと覚えていなかったのだ。
同じかたちの建て物の中に、やっとその家の入っている棟をみつけ、ぼくらは並んで階段を三階まであがっていった。ドアを開けてくれたのは丸顔の、額にニキビの目立つ、太った感じの女の子だった。
ドアを開けるなりその女の子は、ぼくの顔を見て、まずひゃーっと叫んだ。ぼくは顔を見られて叫ばれたのは、そのときが生まれて初めてだった。
「麻子、彼氏と一緒だなんて言わなかったじゃない? 言ってくれればもっと片づけといたのにさ」
そうは言いながらも伊藤寛子は、ぼくたちをすぐ中に入れてくれて、流しのそばに小さいテーブルと椅子の四脚ついた、狭い部屋に連れていった。他にも六畳ぐらいの部屋が二つあったが、そのどちらにも、まったく感心するほどぎっしりと家財道具が詰めこまれていた。高い所のものを取るときは足ぶみをするだけでいいように、わざとそういう工夫がしてあるのかも知れなかった。
「電話で聞いてさあ、びっくりしちゃったわよ」と、椅子に座ったまま、冷蔵庫から麦茶の容器を取り出して、伊藤寛子が言った。「今こうやって麻子の顔を見たって、まだ信じられないくらいだわよ。ねえ、自殺だなんてさあ」
「それがね、自殺の原因が解らないの」と、伊藤寛子の半分ぐらいの声の大きさで、麻子さんが言った。
「だって遺書があったんでしょう?」
「遺書には理由は書いてなかったらしいわ。ただ『お父さん、お母さん、ごめんなさい』って、それだけ」
「それだけ? へええ、訓子らしくないわよねえ」
「昨夜君枝にも電話で訊いたんだけど、思い当らないって。あの子体操が忙しくて、最近訓子と付きあっていなかったらしいの」
「麻子はどうなの? 訓子と同じクラスだったんでしょう?」
「わたしもね、なんとなく付きあっていなかったの。寛子、なにか知らない?」
「知らないわよ、だって――いつだったか、訓子とばったり行き会ったことがあるけど」
「いつごろの話?」
「六月ごろだったかしらね、府中の駅のそばでばったり会ったのよ。学校の帰りだったと思うわ。わたしのほうはなにか用があって急いでたんだけど、訓子がお茶でも飲もうって言うんで、それでほら、靴屋の二階に『モン』ていうパーラーがあるでしょ? あそこでチョコレートパフェを食べたわ。訓子がおごってくれたの。自分が誘ったんだからってさ」
「それで、どんなこと話した?」
「別に――学校のこととか、中学のときの友達のこととか。そのとき二年になって麻子と同じクラスになったって聞いたのよ。そういえば言ってたわ、中学のときみたいには親しくないって」
「どんな友達の話が出た?」
「そりゃあ麻子だとか君枝だとかの話よ。君枝、国体に出るんだってね」
「最近親しくしてる|娘《こ》のこと、聞いた?」
「聞かなかったと思うけど」
「男の子のことは?」
「そう? やっぱり」
「やっぱりって?」
「それがさ、ほら、どうしたってそういう話になるじゃない――麦茶飲みなさいよ。それでさ、わたしのほうは高沢くんのことをべらべら喋っちゃったわけ。それで訓子はって訊いたら、いるわけないなんて言うのよ。だけどわたし、ああいるなって思ったわ。そのくらい解るじゃない、ねえ?」
「その話のとき、訓子はどんなふうだったの?」
「どんなふうって?」
「|嬉《うれ》しそうだったとか、なにか困ったことがある感じだったとか」
「そうねえ――そのこと、訓子の自殺と関係あるの?」
麻子さんがちらっとぼくの顔を見たので、伊藤寛子には気づかれないように、ぼくも目で合図を送りかえした。妊娠のことまで知らせる必要はない。
「自殺だっていうんなら、とにかくその理由くらいは知りたいのよ」と、麻子さんが言った。「男の子の話が出たときのこと、思い出せない?」
「だからねえ、誰かいるなっていうのは感じたんだけど、どうだったかしらねえ――そのときわたし、クラスの子だとか同じ学校の子じゃないんだなって思ったのよ。だってそういう相手だったら別に隠す必要ないわけでしょう? 訓子の言い方もね、本当は喋っちゃいたいんだけど、喋っちゃいけないんだっていうような――解るでしょ? そういう感じ。だからこっちもあまりしつこくは訊かなかったの。訓子が誰と付きあってたって関係ないものね、高沢くんじゃなければさ」
ちょっと言葉が途切れ、ぼくらは三人で黙って、麦茶のコップを口にもっていった。
「だけど――」と、いくらかぼくのほうを気にしながら、伊藤寛子が言った。「訓子が生きてればこんなこと、麻子には言わなかったんだけどね。あの子、本当はだいぶ無理をしてたんじゃないかと思うの、学校のことやなにか――」
「学校のこと?」
「中学三年のときね、本当はわたしと訓子、よくそのことを話したのよ。わたしは最初から深大寺学園なんかに行くつもりはなかったからさ、だって、ねえ、あんたたちの学校ってお坊っちゃん学校じゃない? 入学金だって私立の大学並だしさ。わたしは訓子に、無理することなんかないって言ったのよ。だけど君枝と麻子は深大寺学園って最初から決めちゃったでしょう? 四人の中でどっちかって言えば、訓子は麻子と一番仲が良かったんだしさ。それであの子、どうしても深大寺学園に行きたかったんじゃないかしら。だけど、ねえ、訓子の家ってふつうの会社員でしょう? あの家だって二十年のローンで、まだ返しおわってなかったし――高校に入るときの入学金なんか、訓子のお母さんの実家から借りたって言ってたわ」
「そんなこと、なにも聞いてなかった」
「だからこれはわたしと訓子だけの話なのよ。訓子が麻子や君枝に言うわけないじゃない。別にわたしだって言うつもりはなかったけどさ。だけど麻子だって、ちょっとぐらいは解ってやっても良かったんじゃない?」
麻子さんの目が一瞬つりあがったような気がしたが、それはたぶん、台所の小さい窓を雀かなにかが横切った、影のせいだった。団地の北側に植わった高い|欅《けやき》の方向から、暑苦しい油蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「お葬式はいつ?」と、ニキビの目立つ額に皺を寄せて、伊藤寛子が訊いた。
「明日じゃないかしら、今夜がお通夜で」
「今夜は用があるのよね。お葬式も家でやるの?」
「聞いてない。でも訓子の家ではあまり人を呼びたくないらしい。事情が事情だし」
「けっきょくこの前会ったのが最後になっちゃったわけか。解らないわよねえ、人間なんてさ。訓子が死んだなんて、今でも信じられないわよ」
それから麻子さんが、五分ばかり伊藤寛子とあたり障りのないことを話し、会話の切れ目を見はからって、ぼくたちは一緒に腰をあげた。「今度はもっと片づけておくから」と、伊藤寛子がぼくに言った。
蝉の声も相変わらずだったし、それに京王線の電車が走る音が、びっくりするぐらい近くに聞こえていた。建て物のどこかからは子供の泣く声が聞こえていた。テレビの音やピアノの音も、まるでこの暑さに張り合ってでもいるように、わんわん響いていた。灰色のはずのコンクリートが、ま上からの光でオレンジ色に光って見える。
二人でバイクを停めたところに戻ってから、麻子さんが言った。
「今日はずっと付きあってくれる?」
「命令か?」
「命令よ。このまま一人になると、なんとなく落ちこみそうな気がするの」
バイクに|跨《また》がって、尻をつねられたような顔で、麻子さんがにっと笑った。
「泳ぎに行かない?」
「いいよ」
「読売ランド?」
「そうだな」
「家に帰って水着をとってくる」
「うん」
「一時間で戸川くんのところへ迎えに行く」
「うん」
「待っていたまえ、ワトソン君」
エンジンをかけ、団地の敷地から旧甲州街道に出て、そこでぼくたちは右と左に別れた。この天気はたしかに、探偵ごっこなんかに|相応《ふさわ》しいものではなかった。|午睡《ひるね》をするか泳ぐか、どちらかだ。
麻子さんはきっかり一時間でやって来た。ぼくらはまた二台のバイクを連ねて、多摩川原橋を渡り、稲城を抜け、矢ノ口側から読売ランドに出た。そのころが一日のうちでも一番暑い時間で、プールは五メートルとはまっすぐに歩けない混みようだった。
足洗い場のところで麻子さんが更衣室から出てくるのを待って、ぼくらは地下道をくぐり、円周プールの内側に出た。そこでコンクリートの上に空いている場所を見つけ、タオルを敷いて並んで腰をおろした。麻子さんの水着は青い平凡なワンピースだった。あまり日に|灼《や》けていないところを見ると、今年はまだ海には行っていないのだろう。
考えてみれば、ぼくもこのプールに来るのは久しぶりだった。中学のころまでは夏になると毎日のように通ったものだったが、いつの間にか来なくなって、もう二年になる。あのころからはしゃぎまわることをやめたのだ。
麻子さんがそっと立ちあがり、ゆっくりプールサイドに歩いていった。ぼくも軽い準備体操をやりながら、そのあとについて行った。
日に灼けていないわりには、麻子さんの泳ぎは完璧で、平泳ぎも女の子がよくやる犬かきまがいのものではなく、頭から水に突っこんでいく、基本どおりのものだった。麻子さんはその平泳ぎとクロールをまぜ、プールのまん中で、|脚《あし》のはえた人魚のように泳いでいた。ぼくのほうはプールの横をクロールで一度往復しただけで、さっさとタオルの置いてある場所に引きあげた。親父に言われるまでもなく、ぼくは少し煙草の吸いすぎのようだった。
いくらか寝不足だったせいか、横になって目を閉じると、ぼくの意識にふんわりと|霞《かすみ》がかかってきた。子供たちの喚声が一つのまとまったぼわーんというような音になって、頭の上を軽く通りすぎて行く。音がしているかと思うほど、強い日射しがてらてらと背中を|焙《あぶ》っている。あまり面倒なことは考えたくない。なにもなければ、今日は本当は、とっても気持ちのいい日だ。
麻子さんが戻ってきて、|飛沫《しぶき》をとばしながら、勢いよくぼくのとなりに座りこんできた。肩で息をしている横顔は、実際の歳よりも幼く見える。それとも長い手脚に丸みが不十分なせいか。
「どうして泳がないの?」と、ま上からぼくの顔をのぞきこんで、麻子さんが訊いた。
「|動悸《どうき》と息切れがひどいんだ」と、ぼくが答えた。
「でも泳ぎは上手じゃない?」
「君のほうがうまいさ。ぼくは自分よりうまい子と泳ぐのがいやなんだ」
「そのわりには日に灼けてる」
「庭の草むしりのせいさ」
本当は夏休みに入ってすぐ、朝倉洋子と|湘南《しようなん》に行ってきたのだが、そのことは言わなかった。
麻子さんが黄色いビニールバッグから水筒とマクドナルドの袋を取り出して、起きあがったぼくの手に紙コップを渡してくれた。水筒の中味はカルピスだった。
ぼくらは麻子さんが買ってきたハンバーガーを一個ずつ食べ、カルピスを飲んで、一本ずつ煙草を吸った。
「海に行きたいな」と、プールのほうに目をやったまま、麻子さんが言った。「本当はお盆に社員旅行があるの。おかしいでしょ? ヤクザの社員旅行なんて」
たしかにおかしかったが、どこがおかしいのかは、ぼくにはよく解らなかった。
「戸川くん、テキ屋って知ってる?」
「さあ」
「大国魂神社とか深大寺とかで、お祭りがあるじゃない? あのとき小さい屋台がいっぱい出るでしょう? ああいうのをテキ屋っていって、全国の縁日を渡り歩くの。うちの親父はこの辺のもとじめなのね。だってそういう人がいなくちゃ、誰がどこに店を出すか収拾がつかないのよ。法律的にはどうか知らないけど、必要悪みたいなものかしらね」
「税金を取って昼寝をしてる連中より、ずっと高級だ」
「それにふだんは|鳶《とび》なの。鳶っていうのも知らないでしょう?」
「火消しでないことは、知ってる」
「建築現場で足場を組んだり、鉄骨を組み立てたりするの。だからうちだって表向きは建設業なの。それで社員がいるわけ。荒っぽい仕事だからたしかに気は荒くなるし、若い子なんか暴走族と一緒に遊びまわったり、酔っぱらって|喧嘩《けんか》をしたりするけど、だけど暴力団とはちがうのよ。そういうことって、説明しても解りにくいでしょう?」
「そうでも、ない」
「わたしね、いちいち説明するのがいやなの。それに一般の人には、ヤクザと暴力団が同じでもちがっても、あまり関係ないものね。弁解してみたって堅気じゃないことはたしかだし――今だけね、ちょっとだけ弁解してみたの」
麻子さんはポニーテールに結っていた髪の輪ゴムを外し、一度髪をばらばらにしてから、指でまたていねいにまとめ直して、そこにくるっと輪ゴムを巻きつけた。|脇《わき》の下はきれいに手入れがしてあった。
「さっき寛子の話を聞いたとき――」と、投げ出した自分の膝小僧のあたりに目をやりながら、麻子さんが言った。「もしかしたらわたし、自分がこだわりすぎてるかなって思ったの。わたしは訓子のことを考えて、訓子の迷惑にならないように距離を置いていたのに、逆に、それが、訓子を傷つけたのかも知れない。もしわたしが、もっとふつうに訓子と付きあっていたら、もしかしたら、その、こんなことにはならなかったかも知れない」
麻子さんの両方の目から、涙が静かに|湧《わ》きだして、それが一粒ずつ金色に光りながら膝の上に落ちていった。ぼくが指の先で、その涙を拭き取った。
麻子さんが無理やり、少し笑った。肩が触れて、二人してはっとなって、あとはそのまま五分ぐらい、黙って目の前のコンクリートを眺めていた。プールのコンクリートなんて、一人で眺めても、ぜったいに面白いものではないはずだった。
どこからか言葉を見つけてきて、ぼくが言った。
「君がこんなによく泣く子だなんて、思わなかったな」
「どんなふうに思ってた?」
「派手好きで、いつもお|伴《とも》を連れていて、気の強そうな生意気な子だと思ってた」
「わたしは戸川くんのこと、クラスのみんなとは口もきかないし、傲慢でいや味な奴だなって思ってたわ」
「当ってるさ」
「戸川くん、どうして友達をつくらないの?」
「喋るのが、たぶん、面倒なんだ」
「どうして?」
「喋っても結局はなにも通じないような気がする」
「懐疑論者みたい」
「そういうことじゃなくて、ただ人間ていうのは、へんに憎みあったり、へんに愛しあったり、へんに喜んだりへんに悲しんだり、そういうことをしなくても生きていけるような気がする――うまく説明できないけど」
「そういうのを懐疑論者っていうの。それともただの自分勝手とか」
「昨日新宿で会ったとき、君が『みんな本当はちゃんと気を使っていて、それでもけっこう気楽そうにやってるんだ』って言ったろう。あの台詞を聞いて反省してしまった。ああ、そうかも知れないなって。この酒井麻子でさえ解っていることを、ぼくは考えたこともなかったなって」
「『この酒井麻子でさえ』っていうの、なんか、へんね」
「本当を言うとぼくは、岩沢訓子のことなんか気にもとめたことはなかった。おとなしいつまらない子だな、くらいにしか思っていなかった。こういうことがなければ、あとになって思い出すこともなかったかも知れない。だけど二日間君と一緒に彼女の跡を追ってるうち、岩沢訓子には岩沢訓子の人生があったことに気がついた。当り前のことだけど、その当り前のこと、ついうっかり忘れてしまっていた。生まれつき傲慢に出来てるんだ」
麻子さんが|肘《ひじ》でぼくの腕を突いて、それから、くすっと笑った。久しぶりに本音で喋ると、自分が奇妙に子供になったような気分になる。
「中学のとき君が知ってた岩沢訓子、どういう子だった?」
「頼りがいがあって、優しくて、どっちかっていえば向こうのほうが姉貴分みたいな感じだった」
「イメージがちがうな」
「成績も良かったし、ずっと学級委員もやっていたし、男の子にも人気があったわ」
「その岩沢訓子が高校に入ったとたん、目立たない普通の女の子になってしまった。彼女のせいじゃない。まわりがみんな派手なんだ。その割りにはみんな勉強もできるし、君は自立してしまうし――だけどあの学校には、そういう女の子がどのくらい居るんだろう。ほとんどの子がそうかも知れないけど、だいたいは無自覚に解決してるんだろうな。岩沢訓子はそうじゃなかった。なんとなくそんな気がする。無自覚ではなかったし、それに、解決もできなかった」
「さっき寛子の話を聞いていて、わたしも訓子になにかがあったのは、間違いないと思う」
「男のことだろう?」
「それもあるけど。寛子が訓子にチョコレートパフェをおごってもらったと言ったでしょう? そういうことって、あり得ないもの。べつに訓子が|吝嗇《けち》だったとか、お金がなかったとかいうことじゃないの。いくら自分が誘ったからってね、女の子同士で喫茶店に入ってどっちかがおごるなんてこと、あり得ないのよ。女の子ってたとえ十円の貸し借りでも、しっかり手帳につけておいてぜったいに忘れないの。だから訓子の場合は、そのとき特別な事情があったんだと思うわ」
「たとえば?」
「もちろん男の人のこと。寛子が自分のことを嬉しそうに喋るのを聞けば、訓子だって当然喋りたくなるわ。中学のときは訓子のほうがずっと男の子に人気があったしね。だけどなにか事情があって喋ることができない。それに訓子が学校のことで無理をしていたのを知っているのは寛子だけだったから、無意識のうちに、今自分はお金に困っていないことを寛子に伝えようとした。見栄っていえば見栄だけど、訓子にしてみればぎりぎりの見栄だったんじゃないかしら」
「そして現実に、岩沢訓子は金を持っていた――」
「たぶんね」
「つまり家の人以外に、誰か岩沢訓子に小遣いを渡すような人間がいた、それは――手帳はどうしたんだろう」
「手帳?」
「今君が言った手帳さ。女の子ってああいうのが好きなんだろう? セサミストリートの漫画かなにか描いてあるやつ。手帳とかアドレス帳とか、たいていの女の子は持ってるんじゃないかな」
「ちゃんと観察してるじゃないの?」
「岩沢訓子だって持っていた、たぶんな。その手帳を見れば、あんな遺書なんかより詳しいことが解るかも知れないし、アドレス帳があれば付きあっていた人間の名前も解る――探偵としたら基本的なことを忘れていたわけだ」
「助手とすればけっこう優秀よ」
「君の推理のほうが上だ。チョコレートパフェの推理なんか、恐いくらいさ」
「お通夜に行ってみる?」
「手がかりを求めて、な」
「それにわたし、やっぱり訓子に会っておきたい。村岡先生はわたしが邪魔みたいだけど――」
それからぼくたちはもう一度プールに入って、三十分ほど泳ぎ、あとは日が|翳《かげ》るまで、コンクリートの上で黙って寝そべっていた。麻子さんはほんの少しだけ眠ったようだった。ぼくと同じに、昨夜はよく眠れなかったのだろう。
岩沢訓子の家に着いたのは、完全に暗くなるにはまだ少し間があるという、夕方のあいまいな時間だった。
家の前の様子は昨日とはちがって、門と玄関の間から直接庭にまわるように白黒の幕が渡され、ブロック塀にも葬式用の花輪が三本立てかけられていた。ぼくらはバイクをとなりの家の前に置き、幕が渡されているとおり、玄関からではなく直接その狭い庭にまわっていった。
集まっていたのは、ぜんぶで十五人ぐらいだった。昨日ぼくらが通された部屋と、それにつづく庭に面した部屋のガラス戸が取り払われ、集まった人たちはその二つの部屋に分かれて座っていた。居間だった部屋には岩沢訓子がセーラー服で映っている写真が飾られた祭壇と、その下に花束で囲まれた、白い|棺桶《かんおけ》が置かれていた。岩沢訓子の遺体はもう棺桶に納まっているらしかった。水死という死に方が、そのまま人目には|晒《さら》せない状態にしてしまったのだろう。
ぼくらに気がついて、部屋からとび出してきたのは、雨宮君枝だった。背はあまり高くなかったが、短く刈りこんだ髪や目の動きに好奇心の強い少年のような雰囲気があって、それなりに魅力のある女の子だった。
「明日のお葬式には、試合があって行けないの」と、庭のすみのぼくらのところまでやって来て、雨宮君枝が言った。「いったいどういうことになってるの?」
「それを君枝に訊こうと思って、昨夜電話したのよ」と、麻子さんが言った。
「さっき訓子の姉さんにも訊いたけど、自殺の理由を教えてくれないの」
「知らないのかも知れない」
「そんなことないわよ」
「どうして?」
「だって、言葉を濁すみたいな感じだった」
岩沢訓子の家族は、岩沢訓子の自殺は妊娠が理由だったと思いこんで、なるべくそれを他人に知らせまいとしているのだ。これが本当に自殺で、そしてその理由が本当に妊娠にあるのだとしたら、家族が隠したがるのは当然かも知れなかった。
「麻子は、なにか知ってるんでしょう?」と、妹を叱りつけるような口調で、雨宮君枝が言った。
言いよどんでぼくの顔に向けた麻子さんの視線を、雨宮君枝は見逃さなかった。
「戸川くんよね?」
「うん」
「なにを知ってるの?」
「なにも」
「嘘を言わないでよ」
「嘘じゃないさ」
「それならどうして戸川くんと麻子が一緒にいるの?」
「今、そこで行き会った」
「二人とも髪が|濡《ぬ》れてるじゃない?」
「百メートル手前までは夕立ちだった」
「どうしても教えないつもり?」
「教えない」
「なぜ?」
「はっきりしたことが解っていないから。あいまいなことで岩沢訓子の人格を傷つけるわけには、いかない」
「人格?」
「そう」
雨宮君枝が、深呼吸をしながらぼくの顔を見つめ、それから白い歯を見せて、にやっと笑った。
「いいわ、あんたたちに任せる。どっちみちわたしは練習が忙しいもの」
「やっぱり訓子のこと、なにか思い出さない?」と、麻子さんが訊いた。
「そうなのよね」と、雨宮君枝が麻子さんを振りかえった。「昨夜麻子から電話があったあと、考えてみたんだけど、やっぱりなにも思い出さないの。クラスで特別親しかった子も思いあたらないし。訓子ね、なんていうのかな、高校に入ったでしょう? そしたら急に霞んじゃった感じなの。そういう子意外と多いけどね」
雨宮君枝の注意をひいてから、ぼくが訊いた。
「あそこにいるの、うちの学校の理事長だろう?」
「そうらしいわね」
「理事長がわざわざ生徒の通夜になんか、やって来るかな」
「都議会議員だからじゃない。ああいう連中ってどこかの家で猫が子供を産んでも顔を出すわよ」
「となりの、風見先生は?」
「一年のときわたしたちの担任だった。どうして?」
「学年主任でもないし、ただの体育教師がどうして来てるのかと思ってさ」
「あいつは学校中の女生徒、ぜんぶ自分のファンだと思ってるの。ばかじゃないかしら」
「ファンの子だっているだろう?」
「世の中にはマッチやトシちゃんのファンになる子だっているものね」
「岩沢訓子は、どうだったのかな」
「なにが?」
「風見先生のファンだったのかな」
「どうかしら。よっぽど|やけ《ヽヽ》を起こしてたら、チョコレートくらいはプレゼントしたかも知れないわね。訓子は|やけ《ヽヽ》を起こすタイプでは、なかった気はするけど」
ぼくはうなずいて、もう一度、その棺桶の置いてあるほうとは別の部屋に首を伸ばしてみた。村岡先生以外、知っている人間は一人もいなかった。
「だけど麻子――」と、麻子さんのほうに身を寄せるようにして、雨宮君枝が言った。「あんたたち、いつから|そう《ヽヽ》なのよ? よく今まで|噂《うわさ》にならなかったわね」
「君枝が言いふらさなければ、これからだって噂にはならないわ」と、片方の頬だけで笑って、麻子さんが答えた。
「それじゃ駄目だ。わたし今減量中でね、口をきかないでいるといらいらしてくるの。明日中にはぜったい町中に広まるわ」
育ちのいい猫みたいな目で、ぼくと麻子さんに一度ずつウインクをしてから、ふと雨宮君枝がため息をついた。
「もう少し訓子のそばに居てやりたいけど、わたし帰るわ。今日だって五時まで練習で、本当は立ってるだけでやっとなの」
「はっきりしたことが解ったら、連絡する」
「お願いね。中学のときはあんなに仲が良かったんだし、やっぱり気になるもの」
一度だけ棺桶のある部屋を振り返って、あとはぼくらに「じゃあ」と言っただけで、雨宮君枝はまっすぐ門のほうに歩いていった。そのうしろ姿が一瞬に消えたかと思うほど、日は完全に暮れきっていた。
ぼくは麻子さんに目くばせをして歩き出し、近寄ってきた岩沢訓子の姉さんに挨拶をして、棺桶の置いてあるその部屋にあがりこんだ。部屋にいたのは岩沢訓子の父親らしい男の人と、弟らしい中学生ぐらいの男の子と、それに親戚かなにかの女の人が二人と、その四人だけだった。あとの人はとなりの部屋で、酒とかビールとかを飲みながら声をひそめて話をしていた。
ぼくと麻子さんはつづけて線香に火をつけ、手を合わせてから、少し|蓋《ふた》の開いている棺桶に近寄って、同時に中をのぞきこんだ。岩沢訓子は鼻の下まで、すっぽり白い布をかけられていた。外に出ているのは目と、鼻のまわりのほんのわずかな部分だけだった。柄にもない怒りみたいなものが、不意にぼくの背中を|這《は》いあがって、頭の中でぱちんと音をたてた。
麻子さんが声を出さずに、棺桶の端に手をかけて、ひっそりと泣きはじめた。ぼくはその場を離れ、縁側のところに戻って、そこに腰をおろした。岩沢訓子の姉さんがコップに入れた麦茶を持ってきてくれた。その姉さんと入れかわりに、となりの部屋から村岡先生がやって来た。村岡先生はぼくと並んで、庭のほうを向き、少し離れた場所に腰をおろした。
「昨夜の七時ごろ、警察から遺体が戻されたそうよ」と、ハンカチで涙だか汗だかをおさえながら、村岡先生が言った。
「なにか解ったんですか?」と、ぼくが訊いた。
「検死解剖で自殺と断定されたらしいの。ご家族の方がそうおっしゃっていたわ」
「クラスの連中には?」
「連絡しました。でも校長先生とご家族の方と相談して、お葬式はやっぱり内輪だけでということになったの。クラスからは森くんと西岡さんに出席してもらいます。みんなには岩沢さんと親しかった人だけ来るようにと言っておいたわ」
「誰も来ないでしょうね」
「どうして?」
「そんな気がしただけです」
「あなたはどうなの? あなた、岩沢さんと特別に親しかったとは思えないけど」
「ぼくはただの|おつれ《ヽヽヽ》です」
「酒井さんの?」
「はい」
「酒井さんは岩沢さんと親しかったの?」
「彼女は中学まで親友だったそうです」
「そうなの――」
「知らなかったんですか?」
「教師だってそこまで目は届かないわ。本当はそのくらい、知らなくてはいけなかったんでしょうね」
「先生の責任では、ありません」
「そう思いたいけど、なかなかね――」
「問題があるんですか?」
「学校というところは大変なの。戸川くんに|愚痴《ぐち》を言っても、仕方はないけど」
「岩沢訓子、なにか先生に相談しませんでしたか?」
「どうして?」
「親に言えなければ友達、友達に言えなければ先生」
「なにか、知っているの?」
「いいえ」
「知ってるんでしょう?」
「ぼくはただの|おつれ《ヽヽヽ》です」
「あなたのお父様は警察官だったわよね。今度の事件のこと、なにか聞いてるんでしょう?」
「親父は仕事のことを家では言いません」
「なにか解ったら先生に連絡してくれる? 教え子が自殺して、担任の教師がその理由をまったく知らないなんていうと、職員会議でつるしあげられるわ。それに緊急の理事会も開かれるというし――生徒から見ると、わたしは、やっぱり頼りない教師だったんでしょうね」
村岡先生のうすい唇が、ちょっと歪んで、首が前のほうにがっくりと折れ曲った。庭につけられた臨時の照明灯が、陰影の大きい村岡先生の顔を青白く浮きあがらせた。いつも学校で見せる、いくらか生徒を見下したような自信に溢れた表情とは、今ははっきりとちがっていた。村岡先生が初めて見せた弱さのようなものが、不思議にぼくの胸をつまらせた。今となりで肩を落としている村岡先生を、女として意識している自分に、ふとぼくはうしろめたさを感じた。こんなきれいな女の人が、なぜ教師なんかやっているんだろう。
「葬式は明日ですか?」と、わざとぶっきらぼうな声を出して、ぼくが訊いた。
「ええ」と、顔をあげ、星でも探すような目で、村岡先生が答えた。「府中市の葬儀場で午後の一時から――暑くなるわね。戸川くんも来る?」
「探偵長次第です」
「なんのこと?」
「こっちの話」
そのとき、探偵長が奥からやって来て、いやな目で、ちらっとぼくと村岡先生の顔を見くらべた。
「戸川くん、ビールを飲みに行きましょう?」
呆気にとられて、ぼくが顔をあげたときには、麻子さんはもう庭を横切って門のほうに歩きだしていた。ぼくもあわててスニーカーに足を突っこみ、いい加減に|紐《ひも》を結んで、麻子さんのあとを追いはじめた。うしろでは村岡先生が、ハンカチで口をおさえて、やはり呆気にとられた顔で黙ってぼくらを見送っていた。
それからしばらく、なんのつもりでか、麻子さんはぼくに口をきいてくれなかった。勝手にバイクに|跨《また》がり、勝手にエンジンを吹かして、住宅街の細い路地を曲乗りのようなスピードで繁華街の方向に疾走していった。駅の近くの踏切りで一時停止するまで、ぼくのバイクは三十メートルと麻子さんには近づけなかった。
踏切りを越え、シャッターのおりた銀行の前でバイクを止め、それでもやはり麻子さんは口にかけた|鍵《かぎ》を開けようとはしなかった。
ぼくはバイクに跨がったまま、エンジンを止めないで、勝手に歩いていく麻子さんのうしろ姿をぼんやりと眺めていた。ヒステリーなのは解っていたが、なにも一日に二回もそんな病気を起こさなくてもいいじゃないか。
麻子さんがひょいと路地に消え、まだぼくが迷ったまま待っていると、しばらくして、またひょいと姿を現わした。|玩具《おもちや》をねだる子供が親を無理やりデパートに引っぱって行こうとしている、そんな顔だった。
ぼくは仕方なくバイクをおり、エンジンのキーを抜いて、麻子さんの立っているところに歩いて行った。麻子さんはぼくより五メートルほど先で、からだの向きをかえ、路地を歩いて、ピンク色のよごれた電気看板の出ている地下の店へ、どんどん階段をおりていった。ぼくがついていったのはただの好奇心と、麻子さんのヒステリーを心配してのことだった。
中に入って驚いたのは、まずその雰囲気だった。広さは外から受ける印象よりもだいぶ広かったが、店のあちこちの壁にピンボールやドライブマシーンのゲーム機が乱雑に押しつけられ、煙草の煙の充満する中に、六〇年代のロックンロールががんがんと響いていた。たむろしている連中の風体も、このくそ暑いのに黒い革ジャンを着ていたり、髪を黄色とピンク色に染めて黒メガネをかけていたり、生きているだけでなにかの犯罪になるのではないか、と思うような連中ばかりだった。そいつらがまた、入っていったぼくと麻子さんを、店のあちこちからじろりじろりと値ぶみしてくるのだ。ぼくが考えたのはたった一つ、今日このまま無事に家に帰れるだろうかという、それだけだった。
麻子さんが顎を前に突きだすような感じで、カウンターに歩き、そこの椅子に腰をおろした。ぼくも神経に蓋をして、思いきってそのとおりにした。幸いそこまでは誰も襲いかかってはこなかった。
「オレンジジュース」と、低い声で、麻子さんがカウンターの中に注文した。
「ビールを飲むんじゃなかったのか?」
麻子さんがぼくの質問を無視し、仕方なく、ぼくもオレンジジュースを注文した。
「村岡先生となにを話していたのよ?」
「え?」
「親しそうに話してたじゃない?」
「明日の葬式のことさ」
「お葬式のことを話すのに、戸川くんは、いちいちああいう目つきをするわけ?」
「ああいう、どういう目つきさ」
「二人して見つめあって、結婚式の相談でもしてるみたいだったわよ」
「君は岩沢訓子の顔を見て、気が立ってる」
「それじゃ戸川くんは、村岡先生のことをなんとも思ってないの?」
「なんとも思ってないさ」
「きれいだとも思ってないの?」
「きれいだとは、思うさ」
「やっぱり思ってるじゃないのよ」
それは完全に|言いがかり《ヽヽヽヽヽ》だったが、言いがかりをつけるほうはそうとは思っていないわけだから、つけられた側としては、なんとも対処の仕様がない。
「ぼくは学校に行けば毎日十人くらいはきれいだと思うし、町を歩けば五人くらいはきれいだと思うし、テレビを見てれば一時間に十人くらいはきれいだと思う。でもそのたびにいちいち君に謝ってたら、ぼくは一生米つきバッタみたいに頭を下げつづけなくちゃならない」
麻子さんが返事をしないで、いつまでも棚の酒ビンを睨んでいるつもりらしかったので、うんざりして、ぼくが立ちあがった。
麻子さんが座ったまま、腕だけ伸ばしてきて、ぼくのシャツを引っぱった。
「ごめん」と、椅子にかけ直したぼくに、麻子さんが言った。「自分がへんなことを言ってるのは、解ってる。わたしね、明日あたりたぶん、|あれ《ヽヽ》が始まるんだと思うの」
「|あれ《ヽヽ》?」
「女の子に毎月くる、|あれ《ヽヽ》」
「ああ――|あれ《ヽヽ》か」
「|あれ《ヽヽ》が始まる前になると、へんにいらいらしたり、へんに陽気になったりへんに憂うつになったり。解ってるんだけど、おさえられなくなるの。だから今のことは無かったことにするわ」
オレンジジュースが来て、なぜかぼくたちは、ちょっと乾杯した。それにしても女の子の|あれ《ヽヽ》というのは、面倒なものだ。
冷たいグラスの感触で麻子さんが落ちついたようだったので、ぼくが話を元に戻した。
「手帳のこと、誰かに訊いてみたか?」
「それが、ないんですって」
「ない――アドレス帳も?」
「家の人も探してみたって、学校のノートだとか教科書なんかも、ぜんぶ。でも自殺の手がかりになるようなもの、なにも見つからなかったらしい」
「アドレス帳もないのは、ちょっと――」
「川に流されたんじゃないかって、そう言ってたけど」
「学生証はちゃんと残っていた」
「やっぱり、おかしい?」
「まるで岩沢訓子は、自分の足跡を消して歩いていたみたいだ。彼女が自分でやったのでないとすると――」
麻子さんの肩が、ぴくっと震えて、頭がぼくの顎の下におしつけられた。
「殺された?」
「君だってそう思ってる」
「だけどはっきり言葉にすると、なんだか、怖い。訓子が殺された――」
「親父の|尻《しり》をひっぱたくにしても、証拠はなにもない」
「それなら、わたしが見つけてみせる」
「男、か?」
「とりあえずは、そういうことよね」
「君は理事長のこと、なにか知ってる?」
「理事長?」
「さっきの通夜に来ていた」
「三鷹で建設会社をやってるわ」
「どんな会社?」
「大手とまではいかないけど、かなり大きいと思う。うちも下請けに入ってる。三枝建設」
「花輪が三本来ていた。一本はたぶん岩沢訓子の親父さんの会社からだ。あとの二本のうち、一本はうちの学校から、もう一本は三枝建設だった。理事長が個人的に岩沢訓子を知ってたとは、思えないな」
「君枝が言ったとおり、都議会議員だからじゃないの。仕事はかなり強引だという噂よ」
「強引って?」
「知らないけど、うちの誰かが言ってた気がする。理事長がなにか関係してると思う?」
「念のためさ。男はみんな疑うほうが無難だ。風見先生は、女の子の間ではどんな評判がある?」
「のぼせてる子は、多いと思う」
「君は?」
「わたしは戸川くんが村岡先生を見るような目つきでは、見たことないわ」
ぼくは注ぎ足したオレンジジュースのグラスを口に運びながら、一つ咳ばらいをした。また|あれ《ヽヽ》の影響がでてこないうちに、話を事件に引き戻さなくてはならない。
「風見先生が女子生徒に手を出したとかっていう噂は、ないかな」
「聞かないみたいね。ちょっと前に一度、村岡先生と噂にはなったけど」
「村岡先生と――か」
「ただの噂よ」
「どうして?」
「たしかに風見先生はハンサムで、スポーツマンで女の子に優しいけど、村岡先生とはつりあわないわ。男と女には格みたいなものがあるじゃない? 村岡先生のほうが相手にしないと思う」
「常識的に考えて、一年のときに受けもった生徒が二年になって死んだとき、教師がその生徒の通夜に来たりするものかな」
「さあ――」
「岩沢訓子が妊娠四カ月だったということは、一年の終りごろにはもう|そういうこと《ヽヽヽヽヽヽ》があったわけだ。村岡先生には相談しなくても、風見先生には相談していたかも知れない」
「風見先生がなにか、知ってるってこと?」
「可能性の問題さ」
「だけど女の子って、そういうことを男の先生に相談するかしら」
「君だったら?」
「わたしなら誰にも相談なんかしない。そのくらい自分でなんとかしちゃうわ」
「可愛くないよな」
「今は誰もそんなことぐずぐず言わないわよ。訓子だって――」
麻子さんが、ジュースを口に含み、ゆっくり咽喉をしめらせてから、唇を|尖《とが》らせてちっと舌打ちをした。
「いったい訓子、なにをしてたのかしら。どうしてこんなになにも解らないの? わたしと戸川くんだって二日一緒にいただけで、夏休みが終るころにはもう学校中で噂になってるわ。たとえなにもなくてもよ、だって、ねえ、なにもないじゃない? だけど噂ってそういうものなのよ。訓子みたいにまるっきりないっていうの、かえって不自然だと思うわ」
麻子さんがカウンターに片肘をかけ、からだを大きくひねって、耳を澄ますような顔で店の中を眺めまわし始めた。古いロックの音は相変わらずで、その中にゲーム機のがちゃがちゃいう不謹慎な音が混っている。
ふと麻子さんが立ちあがり、そしてポニーテールを横にかたむけながら、ゲーム機の奥のテーブルにたむろしている五、六人のグループのほうへ、すたすたと歩きだした。ぼくは一瞬呆然としたが、それでも男のプライドで、あわてて麻子さんのあとを追いかけた。
麻子さんを連れ戻そうとしたが、そのときはもう間にあわなかった。
「あんたたちに訊きたいことがあるの」と、サングラスやらリーゼントやらの男たちを見おろして、麻子さんが言った。
男たちが仲間同士で、顔を見あわせ、次の瞬間には、なにが面白かったのか、その五、六人が一斉に下品な笑い声をあげはじめた。
「このお嬢さん、俺たちに今夜暇かって訊くつもりだぜ?」と、グリスをべったりなすって鼻の下に|髭《ひげ》をはやした男が、笑いながら仲間の顔を見まわした。やわらかいゼリーをぐちゃっと捻りつぶすような、なんとなく不気味な口調だった。
「俺たちの誰とやりてんだい? はずかしがらずに言っちまいな」と、髪を金色に染めた太った男が、煙草をくわえた歯を、にっとむきだした。
「それとも全員でお相手するとかな」
男たちがまた一斉に|哄笑《こうしよう》したが、麻子さんは|怯《ひる》みも、泣きだしもしなかった。
最初の口髭の男に、また麻子さんが言った。
「あんたこの辺の暴走族の|親分《あたま》でしょ? 名前は知らないけど」
「おい、俺たちのことを暴走族だとよ。そんなに有名なのかい?」
「ただの不良っていう意見もあるわね」
「インネンつけてるぜ。え? こいつぁたまげた」
「あんたと冗談を言いに来たわけじゃないの、ちょっと訊きたいことがあるだけ」
「偉そうな口きくじゃねえか。本当に一発かわいがってやってもいいんだぜ? そっちの坊やと一緒によう」
「彼は調布署の戸川刑事の息子、わたしは酒井組の酒井麻子よ」
男たちのにやにや笑いが、黒板拭きで消されたようにぴたりと止まり、レコードの音までが、その瞬間宙に浮いたままどこかで凍りついたような感じだった。もちろん男たちを恐れ入らせたのは、調布署ではなく、酒井組だった。ぼく一人だったら逆に袋だたきにあっていたところだ。
「訊いてもいい?」と、氷を熱湯で解かすような声で、麻子さんが言った。
髭の男がうなずき、他の仲間にも、おとなしくしろというように目で合図をした。
「深大寺学園の女の子で、誰か遊んでる子の心あたりはない?」
「心あたりって言ってもなあ。俺たち、あそこのお嬢さんとはあんましお付きあいいただいてねえしなあ」
「遊んでる子が一人もいないわけ、じゃないでしょう?」
「そりゃあ、なあ?」
「青木知子とか深沢宏江とか、そんなとこかな」
「三年の?」
「ああ。あと二年で――なんて言ったかな」
「鈴木三枝子」
「そう、そんなところじゃねえかな」
「岩沢訓子という名前、聞いたことない?」と、また麻子さんが訊いた。
「岩沢訓子――なあ」
髭の男が全員を見まわし、首をひねって、ぼくと麻子さんに向きなおった。
「聞いたことねえけど――」
「その子、もしかして、髪が長くて目の下にほくろのある子じゃねえかい?」と、中では一番まともな感じの、パンチパーマをかけた男が言った。
思わず、ぼくと麻子さんは顔を見あわせた。
「知ってるんですか?」と、ぼくが訊いた。
「知ってるっていや知ってるんだけどよう。べつにあの子、遊んでるって感じでもなかったしなあ」
「どこかで見かけたとか?」
「それがよう、新宿のピンク・キャットで五、六回会っただけなんだけどよう」
自分で行ったことはなかったが、それが三丁目にあるディスコだということぐらいは、ぼくにも解っていた。
「去年の秋ぐれえからかな、よく見かけるようになってよう。俺が声かけてやってさあ、そいで一緒に踊ったり、ビールなんかおごってやったりしてよう。訊いたら深大寺学園で府中に住んでるっつうんじゃねえの。そいでちょっと話なんか合ったりしちゃったわけ。だけどよう、この辺で遊んでるっつう話は聞かねえよなあ」
「去年の秋から、五、六回ですか?」
「ああ。だけどそれは俺が会っただけの回数だからよ。あの子たちがどのくれえ通ってたかは知らねえよ」
「あの子たちって?」
「いつももう一人の女の子と一緒だったからよう」
「その子も、深大寺学園の子?」
「そう言ってたぜ」
「名前は解りますか?」
「新井――じゃなかったかな」
もう一度ぼくと麻子さんは、顔を見あわせ、今度は麻子さんのほうが質問者になった。
「新井、なんて言うの?」
「なんつったかなあ、なんか平凡な名前だったと思うぜ」
「髪の毛の色がちょっとうすくて、鼻の頭にそばかすのある子?」
「そう、その子」
「新井恵子じゃない?」
「恵子だ、そうだ、新井恵子っつう子だ。その子といつも一緒だった。それで話が合ってよ、今夜はどっちかと|しけこめる《ヽヽヽヽヽ》かなって思ってると、いつも九時ぐれえんなると二人して帰っちまうんだ。まるで堅いんでやんのよう」
「一番最近会ったのはいつごろ?」
「もうけっこう前だぜ。五月か六月か、そのへんかな」
「そのときなにか話していなかった? 困ったことがあるようなこと」
「俺たちゃべつに、ディスコに人生相談しに行くわけじゃねえからな」
「男の人と一緒だったことは、ない?」
「いつも二人だけさ。そりゃ店でナンパぐれえはされたろうけどよ、ナンパされたって九時には帰っちまうんだ。深大寺学園のお嬢さんなんての、なに考えてるんだか解ったもんじゃねえよ」
緊張していた神経に、酸素が補充されて、ぼくはふーっとため息をついた。消えていると思っていた足跡も、探す場所さえ間違わなければ、ちゃんと見つかるものなのだ。
「それでその岩沢なんとかって子、どうかしたのかい?」と、髭の男が麻子さんに訊いた。
「死んだの」
「へええ? 事故かなにか?」
「自殺。一応ね、警察ではそう思ってるらしい」
「警察なんてあてにならねえものな。あんたらは自殺じゃねえと思ってるんだろ?」
「そんなところ。またなにか解ったら連絡してくれる? うちの若いもんに言ってくれてもいいし、直接わたしに言ってくれてもいいわ。家は知っているでしょう?」
全員が同時に、一本の糸で引っぱられたように、こっくんとうなずいた。一応日本語は通じたものの、あらためて眺めてみても、やはり不気味な連中であることには変わりなかった。
「ありがとう、助かったわ」と、それだけ言い、やって来たときと同じように、麻子さんがまたすたすたとカウンターのほうに歩きだした。
ぼくはぽかんとしているその連中におじぎをして、麻子さんのあとを追ってカウンターに戻った。気がつくと、けっこう冷房はきいているというのに、ぼくはどっぷりと汗をかいていた。麻子さんと付きあっているかぎり、今みたいにからだに良くないこともあとなん度かは経験するのだろう。
「君が探偵長で、正解だった」と、コップに残っていたジュースを飲みほしてから、ぼくが言った。
「訓子が、ピンク・キャットにねえ」と、両方の腕を|頬杖《ほおづえ》にして、麻子さんが呟いた。
「それ自体はどうってことないさ」
「そりゃあ、それ自体はね」
「ディスコくらいは誰だって行く」
「これがわたしなら誰も驚かない。九時には帰るなんていったら、逆に褒められるわ」
「ぼくはそっちのほうがいやだな」
「どっち?」
「決まって九時には帰るっていうほう」
「訓子らしい気は、するけど」
「でもそのせいで、岩沢訓子が遊んでることに誰も気がつかなかった。真面目だったとか節度があったとか、たぶんそうかも知れないけど、逆にもっと大きいなにかを隠そうとしていたような気がする」
「もっと大きい、なに?」
「さあな」
「だいいち訓子と新井恵子がそんな関係だったこと、信じられる?」
「さあ」
「わたしだって注意して見てたわけじゃないけど、あの二人は席だって離れてるし、教室で一緒のところを見たこともないわ。女の子って意外にそういうところは細かいの。誰と誰が親しいとか、誰と誰が仲が悪いとか。訓子と新井恵子がそういう関係なら、一緒のクラスにいてわたしが気づかないはずないと思う」
「今の男が嘘を言うはずはないし」
「嘘を言えるような頭じゃないわよ」
「だけど大したもんだ、君の勘」
「ただの思いつきだったの。クラスや学校になにも無いとしたら、そこからちょっと離れたところはどうかなって、そう思っただけ」
「それでまたちゃんとクラスに戻ってきた。新井恵子の名前が出てきたというのは、もしかしたらとんでもないことかも知れない。名前の出てき方が、ちょっと普通じゃない気がする」
「電話してみようか?」
「誰に?」
「新井恵子に」
「そんなことしたら警戒されちゃう。一度警戒されたら、もう二度と穴から出てきてくれないかも知れない。相手はぼくらが考えているより、とんでもなく用心深いやつだ」
「相手って、新井恵子?」
「それだけでは、ないだろうな」
「新井恵子以外の、誰よ」
「それを探すんだろう? 村岡先生はみんなに連絡したと言った。新井恵子も明日の葬式には来るだろうし、まず彼女の顔を見てからだな。君の言ったことは正しかった。『訓子の相手は、わたしたちが探そうと思えば探せる範囲の人間だ』って。ぼくはそれを『犯人は』って置きかえてもいいと思う」
麻子さんがまた例の、頬をふくらませる感じで、じっとぼくの顔をのぞきこんだ。ぼくらは秘密を分けあった者同士の合図のように、目だけでそっとうなずき合った。夏休みの宿題にしては、この探偵ごっこはかなり骨の折れる仕事になりそうだ。
「戸川くん、お腹すかない?」と、煙草の煙に顔をしかめて、麻子さんが訊いた。
「すいた」と、ぼくが答えた。
「なにか食べに行こうよ。最初はこの店でビールをがぶ飲みしてやろうと思ってたけど、気が変わっちゃった。やっぱりここ、戸川くんの雰囲気じゃないもんね」
ぼくは親父のことがちょっと気になったが、まあ子供でもないし、夕飯ぐらいはなんとかするだろうと思って、麻子さんに付きあうことにした。手帳につけられたらかなわないので、店の勘定はぼくが払った。外はまだいい加減むし暑かったが、空気は店の中よりは気持ち良かった。さっきの連中はたぶん、あと一時間で肺が腐って死んでしまうにちがいない。
ぼくらは肩を並べて路地を戻り、今度は大通りを駅側に渡って、前よりはいくらか人通りのある路地の中の、小さい|鮨屋《すしや》に入っていった。この|界隈《かいわい》は麻子さんの縄張りということで、もちろんぼくに一言の相談があったわけではなかった。それにどういう根拠で鮨屋がぼくの雰囲気なのか、そのへんの説明もしてはくれなかった。ぼくとしては、|あれ《ヽヽ》の近い女の子にはぜったいに逆らうまいと、安直に心に誓っていただけのことだった。
その店はカウンターにテーブルが二つだけの、狭くて適当に明るくて、いかにもうまそうな店だった。テーブルの一つで三人の男の人がビールを飲んでおり、あとはカウンターの一番奥で、一重の印ばんてんを着た年寄りが一人で酒を飲んでいるだけだった。
麻子さんはカウンターの中に「やあ」とかなんとか声をかけ、店の中をちょっと見まわしてから、小さい唸り声を出してそのまま奥の年寄りのところまで歩いていった。年寄りが麻子さんの気配で顔をあげたが、その目は酔っぱらっているのか、|耄碌《もうろく》しているのか、焦点が定まっているようには見えなかった。
「いつから飲んでるの?」と、その年寄りにではなく、カウンターの中の主人らしい五十ぐらいの男の人に、麻子さんが訊いた。
「まだ二時間くらいかね、秀さんも弱くなったもんさ」と、苦笑いみたいな笑い方をして、主人らしい男の人が答えた。
麻子さんは秀さんと呼ばれた年寄りのとなりに腰をおろし、ぼくには目で、自分のとなりに座れと命令してきた。
|あがり《ヽヽヽ》とおしぼりが出てきたあと、注文した|ねた《ヽヽ》をガラスケースの中で選びながら、男の人が麻子さんに言った。
「麻子ちゃんが彼氏と一緒だなんて、初めてじゃなかったかねえ」
「彼氏なんかじゃないの」と、ぼくのほうは見ずに、麻子さんが答えた。「怒られるわよ、ちゃんとした|素人《カタギ》の家の子なんだから」
「今どきそんなこと気にする奴がいるもんかね、ねえ?」
その「ねえ?」はぼくに向けられたものだったが、ぼくにはなんとも答えようがなく、下を向いて、黙っておしぼりを使っていた。
「そんなことつべこべ言う奴は、麻子ちゃんのほうで振っちまえばいいんだよ」
「そんな男とは最初から付きあわないもの」
「てえことは、やっぱり彼氏だってことだ。こうしてちゃんと付きあってるわけだから」
どうもぼくは自分が玩具にされているような気がしたが、とにかくここは麻子さんの縄張りなわけで、文句を言っても仕方はない。
「おじちゃん、ビールちょうだいよ」
「いいのかい?」
「わたしは顔に出ないもの」
「親方に見つかったら殺されちまうよ」
「親父は手は出さないわ、口はうるさいけど」
「そうじゃなくて、こっちが殺されちまうって意味さ」
それでもその主人らしい人は、苦笑いをしながら店の女の人にビールを持ってくるように言い、運ばれてきたビールを、ぼくらはお互いそれぞれのコップに注ぎあって飲みはじめた。プールで汗をしぼったからだに、ビールは気持ちいいほどかんたんに吸いこまれていった。親父に似て、ぼくもいい加減|酒のみ《ヽヽヽ》になるのかも知れなかった。
「お葬式のこと、聞いた?」と、出てきた鮨に手を伸ばしながら、麻子さんが言った。
「府中の葬儀場で、一時だ」と、ぼくが答えた。
「行くでしょう?」
「どんな連中が来るか、顔を見たいものな」
「さっき手帳のこと訊いたときにね、訓子の姉さんに念をおされたの。妊娠のことは誰にも言わないようにって。わたしが知っていたんで、向こうのほうがびっくりしていたわ」
「村岡先生にも言ってないのかな」
「たぶん、そうじゃないかしら」
「いつまで隠しておけるか――」
「戸川くん、もしかしてよ、訓子の家族がこのことは忘れたいと思ってるとしたら、どうする? たとえばわたしたちが訓子の相手だった男とか、犯人とかを探しあてたとするじゃない? でもそのことは逆に、訓子が隠そうとしていたことが解ってしまうことになるわ。今までそのことは考えてもみなかったけど、今ふと思ったの、訓子の家族は、それを知りたがるかどうかって」
ぼくも正直、そこまで考えてはいなかった。親父のように商売なら、死んだ本人とか残った家族との思惑に関係なく、犯人をつきとめるまで機械的に捜査をすすめればいい。それが社会正義であるかも知れないし、社会秩序の問題であるのかも知れない。ただぼくたちの場合は、客観的にいって、ただの趣味でしかない。岩沢訓子がこうまでして隠そうとしていた秘密を、いったいぼくたちにあばきたてる権利があるものなのか。
「また反省してしまった」と、ぼくが言った。「ぼくは今度のことを、少しゲーム的に考えすぎていた。ゲームじゃ人間は死なないものな」
「わたし、今晩ゆっくり考えてみる。また寝られないかも知れないけど」
「ぼくは君の命令に従うだけだ。探偵事務所を開いたのは君だし」
「でもとりあえず、捜査は続行中よ」
「とりあえず、な」
「わたし君枝に電話してくるわ。もしかしたら新井恵子、一年のときも訓子と同級だったかも知れないから」
麻子さんが席を立ち、尻ポケットに手を突っ込みながら、入り口の近くにあるピンク電話のほうに歩いていった。ぼくはちょっと手もちぶさたになって、麻子さんのいなくなった席の向こう側の、秀さんと呼ばれた年寄りを眺めてみた。一見七十ぐらいに見えたが、本当はそれよりも十以上は若いのかも知れなかった。|脂気《あぶらけ》のない日灼けした顔には、太い皺が縦横に走り、短く|刈《か》った髪も半分以上は白くなっていた。胸の前で腕を組んで、その組んだ肘でカウンターにからだを支えている。居眠りをしているようでもあるが、たまに頭を揺らしていて、それは口の中で歌でもうたっているような感じだった。
麻子さんが戻ってきて、口笛を吹くように唇を丸めながら、また元の椅子に座りこんだ。
「やっぱりよ。新井恵子、一年のときも訓子と同じクラスだったって。わたしがなんでそんなことを訊くのか、君枝のほうが不思議がっていたわ」
「付きあっていた様子はなかったんだろう? 当然」
「当然ね」
「なんだ、お嬢じゃねえか」
麻子さんの反対側で声がして、それまでうつむいていた秀さんという人が、むっくりと頭をあげてきた。目の焦点は相変わらず不確かだったが、今度はなんとか麻子さんの顔を認めているようだった。
「どうもどっかで聞いた声がすると思ってた」
「今ごろなに言ってるのよ」と、子供を|叱《しか》るような声で、麻子さんが言った。「そろそろ切りあげてお帰りなさいな」
「|帰《ケエ》ったって|かかあ《ヽヽヽ》が待ってるわけでもねえやね」
「愛子さんが心配してるわよ」
「あんなやつあ、今ごろどこの馬の骨とも解んねえ野郎と遊びまわってまさあ。わっしのことなんざ気にもとめてねえ」
「|先日《こないだ》うちのお袋に、秀さんにあまり飲まないように言ってくれと電話してきたわ」
「お嬢に言っても始まらねえや。愛子のやつあその野郎と一緒んなって、フィリピンだかインドネシアだかに行くとかぬかしやがる。その男がダムを作りに行くんですとよ、え? なんで日本人がそんなとこまでわざわざダムなんぞこせえに行かなきゃなんねんですい? ダムなんざ日本でよ、どっかその辺で好きなだけこせえりゃいいじゃねえかってんだ」
麻子さんが口の中で笑って、仕方がないわね、という目で鼻の頭に皺を作ってみせた。
「うちにずっと昔からいる人。会社でいえばまあ、専務っていう感じね」
秀さんという人が首を伸ばして、麻子さんの頭の上からぼくの顔をのぞきこんできた。
「へええ? こいつあたまげた。どうも雨がふらねえと思ったら、お嬢のせいだったんか」
秀さんはそれからもう一度首を伸ばし、また「へええ」と唸ってから、空になっていたコップをことんとカウンターの上に差し出した。
「もうやめた方がいいんじゃないのかい?」と、主人らしい人が言った。
「てやんでえ、男嫌えのお嬢が宗旨がえなすったてえのに、飲むなって法があるもんかえ」
秀さんはコップを握ったまま主人に催促し、主人は麻子さんに目で了解を求めてから、そのコップに一升びんの日本酒を注ぎ足した。
満足そうに下唇で酒を一すすりしてから、秀さんが言った。
「死んだ|かかあ《ヽヽヽ》にいい|土産《みやげ》話ができたってえもんだ。やつも心配してましたっけ、お嬢もおかみさんに似て、縁遠いかも知んねえって」
「年寄りだから言うことが|大袈裟《おおげさ》なのよ」と、きまり悪そうに首をすくめて、麻子さんがぼくに言った。
「君が男嫌いだっていう意見、一般的なのか?」
「みんなが勝手に決めつけているの。十六で結婚する女の子、いくらでもいる世界だから」
「今の時代のはなし?」
「そのくらいのお嫁さんをもらった子、うちの組に二、三人はいるわ」
「なんだか、酔っぱらってきたみたいだ」
秀さんが今度は、麻子さんの顔の前からぼくのほうに首を突きだした。
「それでなんですかい? そちらの坊っちゃんは、やっぱし|素人《カタギ》の衆の|倅《せがれ》さんですかい?」
「学校の同級生よ」
「学校の? へええ」
「調布の戸川さんちの子」
「調布の――」
あいまいだった秀さんの目が、急に焦点をむすび、ゆれていた酒のコップが顔の前でぴたりと静止した。秀さんがヤクザの専務なら、刑事の親父を知っていてもおかしくはない。そしてその二人になにか関係があるとしたら、決して友好的なものではないだろう。ぼくは秀さんが荒れだしたらすぐ逃げ出せるように、椅子の上で重心をすこし、出口の側にかたむけた。
「お嬢、まさかわっしをからかってるんじゃねえでしょう?」
「なんのことよ」
「調布の戸川って、まさか調布署の戸川のだんなのこっちゃねんでやしょう?」
「戸川くんのお父さん、知ってるの?」
「知ってるって、そりゃあ――」
秀さんの顔の皺が、また深くなり、手に持ったコップがぶるぶると震えだした。いくらヤクザと刑事の仲が悪いとしても、ちょっと大袈裟ではないか。
「てえへんだ、こいつあてえへんだ」
秀さんは自分の気を鎮めるように、コップの酒を一気に呷り、空になったコップを|威《おど》すような目でカウンターに突き出した。ただ幸い、ぼくに襲いかかってくる気だけはなさそうだった。
「てえへんなことになっちまった。死んだ|かかあ《ヽヽヽ》になんて言ってやったもんだか」
なんだかよくは解らないが、それはもう半分以上は独り言になっていた。
「大変て、なにが大変なのよ」
「お嬢が戸川んちの倅さんと恋仲になっちまった。こいつあてえへんだ」
「いい加減にしないと怒るわよ!」
ぼくも二日間付きあって解ってきたが、その声は麻子さんが本当に怒りだしたときの声だった。残念ながら秀さんには、麻子さんに|あれ《ヽヽ》が近い、ということが解っていないのだ。
「お嬢だってまさか、例のことはおかみさんから聞いてなさるんでやしょう?」
「例のことって?」
「例のことっていや、例のことに決まってまさあ」
「だから例のなによ」
「例の、あの――」
「例の?」
「聞いてねんですかい?」
「なんの話よ?」
「本当に聞いてねんですかい?」
「わたしを怒らせる気!」
てえへんだ、こいつあてえへんだ。
「やあ、そりゃあ――」と、わざとらしくコップの酒をなめて、しゅっと秀さんが鼻水をすすった。「おかみさんがお嬢に話してねえのを、わっしの口から言うわけにゃいかねえ。それにしてもこいつあ、てえへんなことになっちまった」
麻子さんの上唇がめくれて、目が一瞬、たてに並んだ。ビールのビンでも振りあげるかと思ったが、そこまではやらなかった。そのかわり目の前のイカの鮨を|抓《つま》みあげて、秀さんの握りしめているコップの中へ、ぴしゃっと|叩《たた》きこんだ。もう一度ぼくは確信した。こういう子と付きあっていくのは、ぜったいに大変なのだ。
「酔っぱらったんならさっさと帰りなさいな!」
「わっしゃあ別に、酔っぱらったってわけじゃあねえ」
「戸川くんに失礼じゃないのよ」
「そりゃまあ、そうでやんすけんど、あんましてえへんだったもんで――」
「だから言えばいいじゃないのよ」
「おかみさんが言ってねえものを、わっしの口からは言えねえ」
「秀さん!」
麻子さんが頬を引きつらせて、椅子の中に深く座り直した。それから腕を組んで、横目で秀さんの顔を睨みつけた。
「あんた、本当は言いたいんでしょう?」
「いやあ、わっしの口からは言えねえ」
「言いたいんでしょう?」
「おかみさんが言ってねえものを、わっしがお嬢に言うってえわけにゃあ――」
「言いたいのよね?」
「わっしが言ったなんて知れたら、おかみさんに殺されちまいまさあ」
まったく、そんなによく麻子さんの両親は人を殺すのだろうか。
「わたしは秀さんに聞いたなんて、誰にも言わない。それならいいじゃない?」
「そりゃあ、まあ」
「秀さんだって本当は言ってみたいんでしょう?」
「そりゃあ、まあ」
カウンターの中に、麻子さんが言った。
「おじちゃん、秀さんに新しいお酒をやってちょうだい」
主人が別のコップに酒を注いで、ちょっと心配そうな顔で、それを秀さんの前に差し出した。
「言っちゃいなさいよ、ねえ?」
どこで人格を入れかえたのか、それはぼくでも初めて聞くような、寒けがするほど優しい声だった。
「親方にも言わねえって、約束しますかい?」と、新しいコップを自分の前に引き寄せて、秀さんが訊いた。
「約束するわ」
「組の他の奴らにも、ぜったいですぜ?」
「ぜったいよ」
「わっしとお嬢だけの秘密ですぜ?」
「わたしと秀さんだけの秘密よ」
観念したのか、ただのせられただけなのか、酒を口にふくんで一呼吸してから、秀さんが言った。
「実は――おかみさんと戸川のだんなは、女学校で同級だったんでやす」
肩に力を入れて身をのり出していたぼくも、思わずうーんと唸っていた。確かなことは知らないが、親父はたぶん、女学校には行っていないはずだった。
秀さんに向いていた麻子さんの顔が、ぼくのほうにまわってきて、戸惑いの目がぼくの顔の上を不審そうに漂った。親父の名誉のために、ぼくは断固首を横に振った。
「冗談だったの?」と、また秀さんのほうを向いて、麻子さんが訊いた。
「なにがですい?」
「戸川くんのお父さんが、どうして女学校なんかに行ってたのよ。だいいちお袋が行ったの、わたしと同じ深大寺学園よ」
「だから女学校でやしょう?」
「女学校っていうのは女の子だけの学校なの」
「へええ、そうでやすか」
「要するに秀さんは、うちのお袋と戸川くんのお父さんが高校で同級だったって、そう言ってるわけ?」
「最初からそう言ったじゃねえですか」
「もういいわよ、まったく」
麻子さんがビールのコップを握って、がぶんと飲みほした。
「たしかに偶然だけど、そんなことのどこが大変なのよ」
「だから、そのくれえはちっともてえへんじゃねえでさあ」
「それじゃなにが大変なのよ」
「てえへんだったのはそのあとだ。おかみさんと戸川のだんなが、恋仲になっちまったんでやす」
あんまりなん回も唸っても仕方はなかったが、やっぱりぼくは唸ってしまって、今度は頭の中で、思わずウッソーッと叫んでいた。
「この話はもちろん親方が婿に|入《ヘエ》る|前《メエ》のことでやす」と、すっかり淡々とした口調になって、秀さんがつづけた。「あんときゃあてえへんな騒ぎになっちまったもんだ。女学校をおえると、おかみさんと戸川のだんなが一緒んなるって言い出しやしてね。ところがそうは問屋は|卸《おろ》さねえ。おかみさんは酒井組の一人娘、あちらさんにしたってれっきとしたご大身だ。大事な一人息子をヤクザの婿にするわけにゃいかねえってのが世の道理でやす。すったもんだしてるうちに、このお二人が駆け落ちなすっちまった。さあてえへん、戸川んちは戸川んちで警察にねじこむわ、うちの先代はうちの先代で同業の衆に廻状をまわすわ、お二人の居どころがめっかったのは三カ月もしてからでやす。あんときゃあわっしも先代のお供をして、お二人が隠れてなすった北海道の牧場まで駆けつけたでやす。戸川んちも先代やらご親戚の方やらが駆けつけて、とにかくお二人を東京に連れ戻し、あとは別々に監禁って感じで、無理やり仲をひき裂いてしめえやした。気のどくだとは思いやしたが、こいつばっかしはどうなるもんでもねえ。わっしはちょうどそのころ|かかあ《ヽヽヽ》と一緒んなったばかしのときで、|かかあ《ヽヽヽ》に連れられてなんとかって西洋映画を観に行きやしたけど、その話がまるでおかみさんと戸川のだんなの話みてえで、|かかあ《ヽヽヽ》と二人して泣いちまったもんでやす。知ってますかい? その映画」
「ロミオと――ジュリエット?」
「そうでやす。『ロミオとジュリエット』。わっしが映画を観て泣いたなんざ、高倉健の『唐獅子牡丹』と、あとにも先にもこの二回きりでやす。おかみさんはそれから十年がとこ、ぴたりと男を寄せつけやせんでした。先代の具合がいよいよいけなくなって、そんときんなってやっと今の親方と一緒んなることを承知なすった、そんなわけでやす」
麻子さんが呆気にとられたような顔でぼくのほうを向き、目を見開いて、ふーっと深いため息をついた。
「信じられる? 今の話」
「さあ――」
「聞いたことは?」
「ぜんぜん」
「まるで時代劇みたい」
「まるで作り話みたいだ」
「作り話であるもんですかい」と、秀さんが話に割りこんだ。「わっしがてえへんだって言った意味がお解りでやしょう? 因縁てなあ|怖《こえ》えもんだ、ねえ? あれから三十年がとこしたら、今度はおかみさんの娘のお嬢と、戸川のだんなの倅さんとがまた恋仲になっちまった、こいつあやっぱし因縁てやつでさあ」
「その恋仲っていうの、やめてくれない?」
「なぜでやす?」
「わたしたちがなにか、悪いことしてるみたいじゃないの」
「お嬢がそっちの坊っちゃんに惚れてて、坊っちゃんがお嬢に惚れてなさる、こいつを恋仲って言わねえでなんて言やいいですい」
「ただ一緒に、お鮨を食べてるだけじゃないのよ」
「一緒に鮨を食うだけで、お嬢はいちいち赤くなるんですかい?」
「そんなの、ビールを飲んだから」
「麻子ちゃん、顔には出ないんじゃなかったっけねえ」と、主人が横やりを入れた。
「ようがす。この一件、わっしに任せてくんなせえ」
秀さんがしゃきっとした顔で言いきり、背筋を伸ばして、一気にコップの酒を呷った。
「お二人がそこまで惚れあってなさるんなら、このわっしがなんとかしようじゃありやせんか。あんときゃあわっしも|かけ出し《ヽヽヽヽ》で、先代に逆らうわけにもいきやせんでしたが、今度ばっかしはお嬢に悲しい目え見せるわけにゃいかねえ。この山田秀松、|冥土《めいど》の|かかあ《ヽヽヽ》への土産話に、一発死に花を咲かせてご覧に入れやしょう」
「わたしと戸川くんが食事をしただけで死んでたら、秀さんの命なんていくつあっても足りないわよ」
それから麻子さんはぼくに向き直って、あきらめきったような顔で、肩を落としながら静かに首を横に振った。
「解るでしょう? わたしが家に友達を連れて来ない理由」
「誰か連れて来るときは、相手を選んだほうがいい」
「こんな連中ばっかりなの」
「うちの親父も、似たようなもんだけどな」
「だけど今の話、本当だったらおっかしいと思わない?」
「今年聞いたニュースの中じゃ、一番の傑作だな」
ぼくは自然に、今朝麻子さんの顔を見たときの、親父のあの不自然な様子を思い出していた。そういえば、そうなのだ。麻子さんがいくら美人でも、たかだか息子の同級生なわけで、ふつうなら親父があそこまであわてる必要はなかったのだ。おさえようと思っても、もうこみあげてくる|可笑《おか》しさを我慢することはできなかった。どうやって親父を攻めてやろうかと考えただけで、ぼくは鳥肌が立つほど嬉しくなっていた。
秀さんはまだぶつぶつ言っていたが、ぼくらは鮨も食べおわったので、秀さんのことは放ったらかして、店を出ることにした。勘定は|つけ《ヽヽ》でいいのだと言って、麻子さんはぼくに払わせてはくれなかった。麻子さんは手帳はもっていないのだと、ぼくは勝手に判断した。
バイクの置いてある場所まで戻ってきて、ぼくがハンドルに手を伸ばそうとしたとき、麻子さんがうしろからぼくのシャツを引っぱった。
「怒った?」
「なにを?」
「怒ってるんでしょう?」
「だから、なにを?」
「怒ったんなら怒ったって言いなさいよ」
「君の尋問のやり方は、さっき見た。その手にはのらないさ」
「でもちょっとは気を悪くしたでしょう?」
「君のお袋さん、君に似てるんだろうな」
「よく似てるって言われるけど」
「うちの親父は、ぜったい君のお袋さんに惚れていた」
「聞いてないって言ったじゃない?」
「聞いていなくても解る。お袋が心配してたっけ、ぼくは親父に似たところがあるってさ」
ぼくはバイクに跨がり、スタータをキックして、エンジンを二度空吹かしさせた。麻子さんはバイクには手をかけないで、黙ってぼくの顔を眺めていた。麻子さんの口の結び方は、ちょっと怒っているときのそれだった。その唇にキスをするには、ぼくにあとほんの少しだけ、心の準備が必要だった。ぼくの唇には、まだかすかに朝倉洋子の唇の感触が残っていた。
家に戻ってみると、やっぱり親父も帰っていて、親父はダイニングの椅子にふんぞりかえって肴なしでビールを飲んでいた。野球は八回の裏まで終っていた。ジャイアンツは七対一で負けていて、延長中継されたナイターも、もう少しで終ろうとしている時間だった。
「逆転できそうかい?」と、ぼくが訊いた。
「可能性が、なくはない」と、煮えくり返りそうな腹の内を、下手におさえて、親父が答えた。「小松も疲れてきたし、九回の裏の巨人は篠塚からだ」
どういう心理かは知らないが、なぜか親父は今自分で言ったような可能性を、本気で信じているようなところがあった。王と長嶋が現役だったころ、そういう試合を一度見たことがあるというのが、親父がその可能性を信じている根拠だった。
「なにか食べたかい?」
「いや――」
「その辺で食べてくれば良かったじゃないか」
「ナイターが終ったら行こうと思ってたんだが、面倒くさくてなあ、お前は?」
「食べた」
「ふうん」
「ピラフでも作ろうか?」
「これから作らせても、悪いしなあ」
「ぼくはかまわないさ。今朝のご飯が残ってる」
「いいのか?」
「いいさ」
「それじゃ――そうするか」
どうせ親父は、最初からそうすることに決めていたのだ。ぼくは手を洗って親父のピラフの仕度にとりかかった。こっちはあれだけ楽しい思いをしてきたのだから、まあ文句は言えないだろう。
「父さん――」と、親父の気配をうかがいながら、精一杯厳粛な口調で、ぼくが言った。「今朝うちに来た女の子、どう思う?」
「朝飯を食いに来た娘か?」と、椅子の中で不安そうに尻を動かして、親父が訊いた。
「べつに朝飯を食べに来たわけじゃないよ。掃除を手伝ってくれた。きれいになってるだろう?」
「そう言や、そうかな」
「どう思う?」
「どう思うって?」
「意味はないけど、父さんがどう思うか訊きたいんだ」
「|春《シユン》の同級生じゃないか」
「同級生なら他にだっているよ。いちいち父さんに感想なんか訊かないさ。ねえ、どう思う?」
「そりゃまあ――感じは良かったな」
「酒井組の娘だよ」
「人間はみんな誰かの子供だ」
「それじゃ、いいかい?」
「なにが?」
「ぼくたち結婚したいんだ」
親父が、はっきり音が聞こえるほど、ばたっと椅子の中でとびあがった。
「なんだと?」
「結婚したいんだよ」
「だって――」
「感じのいい娘だって言ったじゃないか」
「あ――」
「父さんさえ良ければ、明日から一緒に暮したいんだ。この家にだって女の人は必要だしさ」
「あ――」
「もちろん籍を入れるのはぼくが十八になってからだけど、もう二人とも、来年までは待てないんだ」
「だってお前――四、五日前まで他の娘と付きあってたじゃないか?」
「あっちは話がついた」
「急にそんな、なにも――」
「ヤクザの娘じゃ、だめかい?」
「そうは言わんが、だって、なあ?」
「だって、なに?」
「こういうことは、もっと、慎重に考えんとなあ」
「父さんがどうしてもだめだと言うなら、ぼくたち、駆け落ちするしかないんだ」
「お前なあ、今ジャイアンツが負けてるんだぞ?」
「それどころじゃないだろう?」
「それどころじゃないな。たしかに、それどころじゃない」
親父が椅子にへたりこんで、口だけをぱくぱく、二、三度動かした。
「はっきり返事してくれよ」
「急に、その、言われてもなあ――」
「明日彼女のお袋さんに会ってくれないかな」
「明日?」
「早いほうがいいんだ」
「俺に春代さんに会えだと?」
「彼女のお袋さん、春代っていうの? なんで父さんが知ってるのさ?」
親父は口を開けたまま、肩で息をするだけで、どうしても声を出そうとはしなかった。ぼくの我慢も、それが限界だった。次の瞬間には包丁を放り出して、あとはもう自然に笑いがおさまってくれるのを待つだけだった。こんな可笑しいことは、もう死ぬまでないだろう。
「まさかお前、今の冗談だったのか?」と、ぼくの笑いがおさまって、涙を拭きはじめたのを見ながら、親父が言った。
「決まってるじゃないか」
「あんな冗談、聞いたことがないぞ」
「だからおかしいんだよ」
親父にもう一本ビールを出してやって、まだこみあげてくる笑いをおさえながら、ぼくはピラフのつづきにとりかかった。残念ながらナイターは終っていたが、どっちみちジャイアンツが逆転できるはずはないのだ。
「今日秀さんていう人に会った。酒井組に昔からいる人。知ってるだろう?」
「まあな」
「聞いたよ、昔のこと」
「そんなところだろうな」
「どうして今まで言わなかったのさ」
「いちいち言えるか、そんなこと――」
「言っても良かったのに」
「昔のことだ」
「今でも彼女のお袋さん、好きなのかい?」
「どうだかな」
「母さんは知ってた?」
「どうだか――」
「女ってそういうところ、勘が働くんだ」
「そんなもんかな」
「早く忘れなくちゃ、今度父さんと一緒になる人に悪いんじゃないかな」
「人間には忘れられることと、忘れられんことがあるさ」
「忘れた振りくらいはしなくちゃね、礼儀でさ」
できあがったピラフと卵スープをもって、ぼくがテーブルに運び、親父が鼻白んだ顔でそれを食べはじめた。親父の顔をじっくり見るのも久しぶりだったが、あらためて眺めてみても、やっぱりそれほど悪い男ではない。中年男の渋味みたいなものだって、まあ、なくもない。もう少し風体に気を使えば間違って若い女が惚れてくれないとも限らないのに。
「真面目な話だけどさ」と、親父の手元をのぞきこみながら、ぼくが言った。「もう三年になるし、本気で次を考えてもいいんじゃないのかな」
「考えるくらい、いつだって考えてる」
「父さんは考えていないと思ってた」
「考えただけじゃ、どうにもならん」
「母さんがぼくに、一緒に暮さないかって言ってきたよ」
親父のスプーンを動かす手が止まって、眉が少しつりあがった。
「それで?」
「それだけさ」
「どう返事したんだ?」
「返事なんかしてないよ」
「しかし、そのうち返事はしなきゃならんだろう?」
「ぼくはこのままでいいんだ。だけど父さんが新しい嫁さんをもらってくれないと、ぼく一人が遊んでるみたいで、気がひけるんだ」
「お前が女となにかするのに、口を出した覚えはない」
「ぼくの気持ちの問題さ」
「お前の女遊びのために、俺に結婚しろって言うのか?」
「そうじゃないけどね。今朝あの子と三人で飯を食べたろう? いいなって思ったんだよ。やっぱり家に女の人がいるのはいいなって」
「それはこっちの都合だ。都合で一緒になるのと相手に幸せになってもらうのとは、別の問題だ。都合で一緒になっても結果は、たかが知れてる」
親父がスプーンを置いて、真面目な顔でぼくの顔を見つめてきた。
「真知子のときだってな、そりゃあ惚れてなかったとは言わんけど、それよりもあのときは家の都合が大きかった。親戚は騒ぐし、親父やお袋は弱くなってたし、俺も面倒くさくなって、ああいいやって気になっちまった。その結果がこういうことだ。真知子には今でも済まなかったと思ってる」
「父さん、もしかしたら母さんと暮していたとき、ずっと済まないって思いつづけていたわけ?」
「当然だ」
「そういうことって、女の人は耐えられないよ。もっと無神経で良かったんだよ」
「今さら言っても始まるか。どっちみち、どうもな、どうも俺には、女の人を幸せにする能力が欠けている気がする」
「考えすぎだよ。たとえばあの子のお袋さんだって、父さんと別れたあと、十年間一人も男の人を寄せつけなかったってさ。先代の親分て人が死ぬときになって、組を継ぐために今の親分と一緒になって、要するにそれも都合だろうけど、それでもけっこううまくいってるらしいよ。都合で結婚したからって、みんな父さんたちみたいになるわけじゃないさ。父さんと母さんの場合は、ちょっと運が悪かったんだ。だからってこの次も運が悪いとは限らないさ」
「しかし、ある程度歳になってからの失敗はな、お前みたいにかんたんに立ち直るわけにはいかんのさ。お前の場合は、まあ、立ち直るのが早すぎる気もせんではないけど」
「ぼくが言ってるのはさ、今度父さんに、ちょっといいなって思う人ができたら、あんまりつべこべ言わずに付きあってみろってことさ。それでその人と父さんとぼくと、三人で暮せそうだったら、面倒なこと言わずに一緒になっちまうのさ。つまりエイッて感じでさ」
「エイッて感じでなあ」
「そうさ。エイッて感じでさ」
「それじゃまあ、そういうことにしておくか――エイッと」
親父が置いていたスプーンを取りあげ、苦笑いをうかべながら、またピラフをつ突きはじめた。それを見て、ぼくのほうは風呂場に歩いていった。自分でも今日はシャワーでなく、熱めの湯にどっぷりとつかってみたい気分だった。
|浴槽《よくそう》に水をはって、火をつけてからダイニングに戻ってみると、親父は食べおわったピラフの皿を押しのけて、そこに新聞を広げて煙草に火をつけていた。
「コーヒーでも飲むかい?」と、ぼくが訊いた。
「番茶がいいな」と、煙草をくわえたままの口で、親父が答えた。
ぼくは番茶のためのヤカンと、コーヒーのためのパーコレータを火にかけて、台所から声をかけた。
「明日は洗濯するから、服をみんな出しておきなよ」
「ああ」
「銀行から入金の通知が来てたっけ」
「ああ」
「そろそろクルマでも変えてみたら?」
「まだちゃんと動く」
「気分転換にさ」
「気分なんか、べつに変えたいとは思わんな」
「でも音がひどいよ」
「あの音を聞くとな、エンジンがちゃんと動いてるって実感が|湧《わ》くんだ」
親父はもう十年も同じフォルクスワーゲンに乗っていて、そのことには文句はないが、なにしろ色がオレンジ色なのだ。あんなクルマで誘われて、誰か親父と一緒にドライブに出かける気をおこす女の人がいるものだろうか。そのうちあれもなんとかしなくちゃなるまい。
お湯とコーヒーが沸いて、ぼくは親父の分の番茶と、コーヒーのカップを持ってダイニングのテーブルまで運んでいった。
「父さん」と、親父の前の椅子に腰かけながら、ぼくが言った。「真面目な話なんだけどね――」
「もう解った」と、|湯呑《ゆのみ》を取りあげながら、親父が答えた。「エイッとな」
「別な話だよ」
「前の女に俺から話をつけろなんていうのは、だめだぞ」
「そんなこと、一度も言ったことないじゃないか」
「なあ春、俺が今日なん軒聞き込みをして歩いたか、知ってるか? 五十軒だぞ。それもケチな下着泥棒のためにだ」
「本当に真面目な話なんだ」
「真面目な話でもなんでも、俺はかんたんな話が好きだな」
「たとえば父さんが殺人犯人を追いかけてるとするよね。そのとき、いったいなんのためにこんなことをするのか、考えたこと、あるかな」
「それがかんたんな話か?」
「ぼくはかんたんな話だなんて言ってないさ。ねえ、どうなのさ」
「刑事が人殺しを追いかけるのに、なにを考える必要があるんだ?」
「殺されたほうに問題があっても?」
「殺人事件のほとんどは、殺される側にも問題はある」
「そういうことじゃなくて、つまり、殺されたほうも人に知られたくないなにかをやっていて、そのことを友達も家族も知らなくて、もしそのことを知ったら家族なんかがひどく傷つくような場合、ねえ、父さんならどう思う?」
「なんの話だ?」
「たとえばの話さ。犯人を探してるうちには、どうしたって殺された人間が隠そうとしていたことも解ってきちゃう。家族の人は、たとえばさ、その殺されたのが自分の子供で、殺されたんじゃなく自殺かなにかだと信じていたとして、それが殺されたんだと解って、殺される理由が自分の子供のほうにもあったなんていうことになったら、親としたら大変じゃないかな。犯人なんか解らなくてもよかったと思うかも知れないだろう?」
「ずいぶん長いたとえ話だな。それ――昨日死んだお前の同級生と、なにか関係があるのか?」
「今のところは、ただのたとえ話だよ」
「それならまあ、そうしておくが――だからって犯人をつかまえんわけにはいかんだろう?」
「商売だからかい?」
「社会秩序の問題だ」
「今は社会秩序のことを言ってるんじゃないよ」
「社会秩序のどこが悪い? ないよりはあったほうがいいんだ」
「そういうことじゃなくて――」
「そういうことさ。誰も犯人をつかまえる者がいなくて、人殺しでも泥棒でも、やりたい者が好きなことをできる世の中になったら、そういう好きなことができる人間は数が限られてくる。暴力的にも権力的にも、力だけが優先されるんだものな。現にそういう時代はあったし、今でもそういう国はあるけども、どんなもんかな。どっちにしろ人間の価値観の問題で、どんな価値観をもってどんな社会をつくろうとも、その人間の勝手は勝手なんだろうが――だから、まあ俺の気分の問題だ。俺はどっちかっていえば、弱い奴も強い奴にいじめられないで、両方とものんびり生きていける社会が好きだ。そういう社会が嫌いな奴もいるが、俺としては、そういう奴にはちょっと我慢してもらいたい。みんながちょっとずつ我慢する。暴力的な奴には暴力を振うのを我慢してもらう。権力のある奴には権力の無理おしを我慢してもらう。お前のたとえ話なら、その子供の両親に、つらいだろうがそのつらさを我慢してもらう。社会秩序の問題でもあるし、俺の気分の問題でもある」
親父が湯呑に口をつけて、番茶をひとすすりした。
「それに気分のことを言うなら、殺された人間の気分の問題もある」と親父がつづけた。「殺された人間は死にたいと思っていたのかどうか、なあ? その殺された人間が身近であればあるほど、たとえばお前が殺されたとしたら、俺はお前の『死にたくなかった』という意志を代弁してやりたい。それがもし不当に殺されたんだとしたら、なおさらそう思う。難しい理屈でもなんでもないんだ」
親父はそれで終りだと言わんばかりに、一つうなずいて、番茶の残りをずずっとすすりあげた。ぼくは親父の演説を頬杖をついて聞いていたが、とりあえずはまともな意見だな、とけっこう本気で感心した。親父も二十年間、ぼんやりと警官をやっていたわけではないのだ。
「父さんがなぜ刑事をやっているのか、今までよく解らなかったけど、なんとなく解ったような気がする」
「もちろんちがう意見の奴はいるさ、警官にも泥棒にもな」
「それだけ解ってるのに、なぜ女心は解らないんだろうね」
「世の中は分業するようにできてるんだ。女心はお前に任せるさ」
新聞を畳んで、親父が立ちあがった。
「さて、風呂にでも入ってくるか」
風呂場のほうに歩きかけて、そこでまた親父が立ちどまった。
「春、あの酒井組の娘なあ――」
「うん」
「名前は?」
「麻子」
「あまり、無茶はするなよ」
「ヤクザの娘だからかい?」
「そういう意味じゃない。そんなことは、どうでもいいんだが――」
「解ってるよ。親が心配するほど息子は|もて《ヽヽ》やしないさ」
親父はあまり納得したふうもなく、ふんと鼻を鳴らして、そのまま風呂場に歩いていった。ぼくはテーブルに残って、コーヒーを飲み、親父の煙草を一本もらって、それに火をつけた。麻子さんが一晩考えてどういう結論を出すかは知らないが、少なくともぼくの結論だけは出ているような気がしていた。かんたんなことなのだ。たとえ自殺であったとしても、岩沢訓子は、本心から死にたいと思っていたわけではないのだ。
ぼくは煙草を吸いおわるまで椅子に座っていてから、洗いものを片づけ、明日の分の米をといで、それから親父が出てくるのを待って、入れかわりに風呂に入った。湯舟につかると、肩にひりっと陽焼けの痛みが走って、ぼくはちょっと麻子さんのことを考えた。同時に親父の言葉が思いだされて、なんとなく苦笑した。無茶ではない男と女の関係って、いったいどんな関係なんだろう。
3
前の晩は自分でも意外なほど寝つきがよく、ぼくはかなり健康的な気分で目を醒ました。やはりいやらしいほど天気は良かったが、葬式に出かけるとなれば、雨ふりよりは都合がいいかも知れない。
ぼくは例によって親父に朝飯を食べさせ、仕事に送り出したあと、二日分の洗濯にとりかかった。親父は放っておけば幾日でも服を取りかえようとしない人だったが、ぼくにはそれだけは真似ができなかった。ぼくのほうの習慣は、お袋から受けついだのだ。
洗濯と洗いものを片づけ、|午《ひる》までの時間は英語の問題集に費やした。ぼくの英語の成績があがったのは、完全に村岡先生のせいだった。美人教師が男子生徒の学力向上にどれほど寄与するかは、もしかしたら本気で研究してみる価値のある問題かも知れなかった。教科ごとにぜんぶミス・ユニバースを並べてみれば、男子生徒の学力は、きっと飛躍的に向上するにちがいない。もちろんそれは男子校に限っての話で、それにぼく個人に関しては、たぶん成績も今の半分以下に落ちてしまうだろう。各教科の先生がぜんぶミス・ユニバースだったら、頭が混乱して、勉強なんか手につかないに決まっているのだ。
午になって、トーストとコーヒーで昼食を済ませ、ぼくは学校の制服に着がえてバイクで家を出た。府中市の葬儀場は多磨霊園の近くで、バイクなら十五分もあれば行ってしまう距離だった。
炎天下という言葉がぴったりの日射しの中で、まっ黒いなん百人という人たちが、広い葬儀場の敷地内のわずかばかりの日影を求めて、建て物の端のあちこちに散らばっていた。しかしそれは岩沢訓子の葬式にやって来た人たちではなく、同じ時間におこなわれる、別の葬式に出る人たちだった。
岩沢訓子のために来ていたのは、ざっと数えても三十人を上まわっていなかった。ぼくが知っていたのは、上田校長、三枝理事長、学年主任の増田先生、風見先生、村岡先生、伊藤寛子、学級委員の森常夫と西岡和江。麻子さんを別にすれば、その八人だけだった。森常夫と西岡和江はお義理だろうから、同級生で来ているのは、ぼくと麻子さんの二人だけということになる。べつに親父の正義感が伝わったわけではないけれど、やっぱりぼくは、なんとなく腹立たしい気分だった。岩沢訓子が自分のこの葬式の光景を見たら、どう思うだろう。あんなへんな死に方でなかったら、クラスの全員が出席していたはずだ。数なんて多ければいいってものではないが、それでもこんなに少ない葬式なんて、内輪だけで目立たないようにという家族の配慮が逆効果ではないか。出席者が少なすぎると、葬式というのはかえって目立ってしまう。
式が始まるのを待つまでの時間、ぼくと麻子さんは、一度も二人だけでは話ができなかった。ふだん|碌《ろく》に口をきいたことはなくても、状況が状況だから森常夫や西岡和江がぼくのそばに寄ってくる。麻子さんには伊藤寛子がぴったりくっついている。そしてぼくと麻子さんがくっついているから、けっきょくはいつも五人がくっついていることになる。
ぼくはトイレを口実に、四人から離れ、待合室の前の村岡先生のところまで、ぶらぶらと歩いていった。村岡先生は増田先生と風見先生のまん中で、日射しの強さに当惑したような、ぼんやりした顔で立っていた。増田先生は学年主任だから当然としても、風見先生が葬式にまで顔を出すのは、ちょっとばかり大袈裟だな、とぼくは思った。たぶん風見先生の本命は、死んだ岩沢訓子ではなく、生きている村岡由起子なのだろう。
ぼくは増田先生と風見先生に一応の挨拶をして、目の合図で村岡先生を|庇《ひさし》の下から連れ出した。
「今日もまた|おつれ《ヽヽヽ》なわけ?」と、皮肉っぽい言い方で、村岡先生が言った。こんな暑い日にまっ黒いスーツを着せられて外に引っぱり出されれば、誰だって皮肉の一つぐらいは言いたくなる。
「連絡は全員にしたんですか?」と、ぼくが訊いた。
「クラスの人には全員ね」
「新井恵子は?」
「なあに?」
「彼女のところにも、連絡はしたんですか?」
「本人はいなかったけど、お家の方には伝えておいたわ――どうして?」
「ただ、なんとなく」
「新井さんと岩沢さんは、親しかったの?」
「さあ」
「なにか知っているのね?」
「なにも」
「なにも知らないのに、あなたがそんなこと訊くわけないでしょう?」
「昨日ちょっと、新井恵子の夢をみたんです。それだけです」
村岡先生はハンカチで顎の下をおさえ、目を大きくして、一つため息をついた。
「いいわ。そのことはあとでゆっくり話しましょう。それにしても――本当に誰も来なかったわね、わたしの言い方が悪かったのかしら」
「夏のせいです」
「え?」
「こんな暑いときに、死ぬことはなかった」
村岡先生が首筋の髪の毛を、軽く指でかきあげた。ぼくの人格に関してはすっかり|諦《あきら》めたような顔だった。
「あなたたち、昨夜あれから本当にビールを飲みに行ったの?」
「冗談です」
「べつにそのくらいかまわないけど、目の前であんなこと言われると、こっちが困ってしまうわ」
「彼女は先生に対抗意識をもってるんです」
「酒井さんがどうして、わたしに対抗意識をもつの?」
「どっちがきれいなのか、自分でも解らないからでしょう」
「場所柄をわきまえなさい、そんな、ばかなこと――」
その口調が、意外にきつかったので、一瞬ぼくも緊張した。だが村岡先生の表情は怒っているというよりも、困っているときのものに近かった。村岡先生にはやはりぼくの人格は理解できなかったのだ。
ぼくはそこで話を終らせ、会釈をして、他の四人が立っている場所に戻っていった。麻子さんはぼくのほうを見ていなかったが、口は例の、あの怒ったときの結び方だった。元々感情を隠すのが下手な子なのか、それともわざと見せつけているのか、たぶん両方なのだろう。
岩沢訓子の葬式は、一時ちょうどに始まった。それを一般的な意味での葬式と呼べるかどうか、ぼくには判断できなかった。友人代表ということで西岡和江がかなり無理のある弔辞を読み、岩沢訓子の父親が意味の通らない答辞を言って、あとは焼香に移るだけだった。ぼくの|祖父《じい》さんが死んだときは、坊さんのお経が終ったあとも、まだ長々と焼香の列がつづいていたものだ。この葬式では、全員の焼香が終ったときでも、まだ坊さんは経を読みはじめたばかりだった。
読経の終りと同時に葬儀も終り、あとは岩沢訓子を焼いて、骨にするだけだった。そっちのほうは家族と親戚の人たちだけでやるというので、ぼくたちはそこで用済みになった。事件の手がかりという意味では、新井恵子が連絡を受けていながら来なかったという事実が一つあっただけの、他にはなんの内容もない葬式だった。テレビドラマや推理小説の中では、よく葬式の出席者の内に犯人がいたりするものだが、ああいうのはやっぱり作りものの世界なのだろう。犯人がみんな葬式に顔を出すのであれば、警察の仕事はもっと楽になる。
森常夫と西岡和江は二人でさっさと引きあげたが、伊藤寛子だけはぼくたちと一緒に、いつまでも葬儀場の敷地に残っていた。二人だけで相談しなくてはならないことがあるというぼくの気持ちは、麻子さんには伝わっていたが、伊藤寛子には伝わってくれなかった。
「あっけなかったわよねえ」と、麻子さんの向こう側から、首をかしげて伊藤寛子がぼくたちに話しかけてきた。「なんか嘘みたい。お葬式ってさ、もっとぱっと派手にやらなくちゃ、死んだ訓子がかわいそうだわよねえ」
ぼくと麻子さんも気持ちは同じだったが、伊藤寛子の口から言われると、なんとなくどこかが、少しちがうようでもあった。
「ねえ、二人とも家に寄っていかない? 近いしさ、それでビールかなんか飲んで、ぱっと派手にやり直そうよ」
「これから用があるの」と、頭の上の煙突に、ぼんやりと目をやりながら、麻子さんが言った。
煙突からはまだ煙は出ていなかった。
「それじゃさ、戸川くんだっけ? あんただけでも寄っていかない?」
「君の彼氏に悪いじゃないか」
「平気よ、あいつ海に行っちゃったの。勝手だと思わない?」
「ぼくも用があるんだ」
「あら、そうなの?」
「二人で用があるの」
その麻子さんの声は、|苛立《いらだ》ちを精一杯我慢してのものだったが、『わたしは苛立ちを精一杯我慢している』という意志がじゅうぶん相手に伝わる程度には凄味のあるものだった。ぼくが麻子さんにこんな声を出されたのなら、完全に|萎縮《いしゆく》したところだが、伊藤寛子は案外にけろっとしたものだった。
「なあんだ、それなら最初っから言えばいいじゃないの。邪魔者は消えろってさ。だけどさあ、今度本当に集まらない? 君枝と三人でさあ」
「そのうちね」
「ねえ? 三人でぱっとさあ、訓子のお葬式をやり直そうよ。このままじゃわたし、ぜんぜん訓子が死んだって実感が湧いてこないんだもの」
伊藤寛子はぼくと麻子さんに、一度ずつ手を握り、「じゃあ」と言って、そのまま門のほうに|大股《おおまた》に歩いていった。別に悪い子ではないが、場ちがいな場所で会うと、たしかになんとなく苛々させられる。
少し伊藤寛子のうしろ姿を見送ったあと、バイクを置いた場所に向かって歩きだしたとき、麻子さんが言った。
「やっぱり、訓子がかわいそう」
葬式の最中でも泣かなかった麻子さんの目から、涙が出てきて、それがセーラー服の胸にぽとぽとと伝わった。
「だって、誰も解ってないじゃない? 怒っていいのか、悲しんでいいのか、あきらめていいのか、今日来た人たち、誰も解っていないわ。わたしにだって解らない。そんなことってある? 訓子だってなにか言いたかったはずなのに。このままじゃやっぱり、訓子がかわいそうだわ」
「そういう結論が、出たわけだ?」と、麻子さんにハンカチを渡しながら、ぼくが訊いた。
「昨夜はね、本当いうと、寝ちゃったの。なにも考えたくなかったし、考えられそうな気分でもなかったの。でもお葬式の間ずっと考えていたわ。やっぱり許せないなって。訓子だってくやしいだろうなって、訓子にこんなひどいことをした人、やっぱり見つけてやらなくちゃって――戸川くんは?」
「ぼくはなにも考えなかった。たぶん君は、そういう結論を出すだろうと思ってた」
麻子さんが立ちどまって、静かに煙突のほうを振りかえった。いくらか濁った色の空に突き出た煙突の口から、ちょうど最初の白い煙が、ぼっと吐き出されてくるところだった。
「始まるわね」
「うん」
「熱いだろうな」
「うん」
「わたしだったら叫んじゃうだろうな、熱いようって」
ぼくが麻子さんをうながし、また、バイクのほうに歩きだした。
「使ってもいいんだ」
「なにを?」
「ハンカチ。鼻水が出てる」
麻子さんが向こう向いて、ぼくのハンカチで鼻をかみ、それを小さく畳んで自分のスカートのポケットに仕舞いこんだ。
「頭にくるわよ」
「そうだろな」
「戸川くんて感情みたいなもの、ないんじゃない?」
「あるような気はするけど」
「女の子が泣いてるときに、いちいち鼻水のことまで見ないでちょうだいよ」
バイクのところまで戻り、ぼくは自分のバイクを引き出したが、麻子さんはぼくのやることを眺めているだけで、自分ではバイクを取りに行こうともしなかった。近くを見まわしても、麻子さんが昨日乗っていた白いバイクは見あたらなかった。
「バイクじゃないんだ?」と、ぼくが訊いた。
「電車」
「どうして?」
「来ちゃったの」
「なにが?」
「|あれ《ヽヽ》」
「免許停止?」
「ばか――」
「ああ――|あれ《ヽヽ》か」
ぼくがバイクを押して歩きだし、麻子さんもとなりに来て、二人して多磨霊園駅の方向に向かい始めた。頭では解っているのだが、実感として自分のからだで感じられない|あれ《ヽヽ》については、ついうっかり忘れてしまう。
「けっきょく誰も来なかったな」と、しばらく黙って歩いてから、ぼくが言った。「新井恵子も来なかった」
「それはわたしも思ってた。もしかしたら、来なかった意味のほうが大きいかなって」
「連絡は間違いなくいってる。村岡先生にたしかめた。やっぱり、新井恵子の顔は見てくるべきだろうな」
「今日、行く?」
「うん」
「わたしも行くわ」
「からだは?」
「平気よ。病気ってわけじゃないし、わたし軽いほうだから」
「新井恵子の家、解るかな」
「家に行けば名簿がある。電話番号ものってる。どっちにしろ一度家に帰って、着がえてこなくちゃね」
「ぼくも一度家に帰る」
「電話するわ」
「うん」
「新井さんの家にも電話して、居るかどうかたしかめようか?」
「彼女、今日は家にいるさ」
「どうして?」
「岩沢訓子の葬式の日だから。もし居なかったら、それはそのときに考える。うちの事務所は|儲《もう》けはないけど、時間だけはたっぷり使えるからな」
ぼくが家に着くと、なん分もしないうちにもう麻子さんから電話が入って、その報告によると新井恵子の家は深大寺の近くだということだった。ぼくたちは三十分後に、調布駅の北口で待ちあわせることにした。
ぼくはガレージから400ccのツーリング用バイクを引き出して、それで出かけることにした。麻子さんの|あれ《ヽヽ》がどの程度のものかは解らなかったが、バスやタクシーでは小まわりがきかないし、もし麻子さんがバイクのうしろにも乗れないというのなら、それはそのときのことだ。
駅にはぼくのほうが先に着いた。ぼくは改札口から五十メートルほど離れた喫茶店の前にバイクを止め、そのバイクに腰かけて麻子さんを待っていた。麻子さんもすぐにやって来て、改札口を出たところで辺りを見まわしたが、ぼくには気がつかなかった。あとで知られたらまた怒られるのだろうが、ぼくは二、三分、そのまま麻子さんを観察させてもらった。一時間前の制服を着ていたときの印象と、あまりにも差が大きすぎたのだ。
麻子さんの着ていた服は、うすいピンク色のプリントシャツに、腰のまわりが楽そうな丈の短い水色の綿パン、それに赤いパンプスだった。形も色も特別目立つように工夫されているとも思えないのに、そばを通る男たちがみな、ちらっと麻子さんの顔を目の端にとめていく。もちろん一年のときからぼくだって酒井麻子のことは知っていて、ずいぶんきれいな子がいるなとは思っていたが、そのわりにあまり強い印象をもたなかったのは、つまりこのせいだったのだ。魅力でもエネルギーでもなんでもいいのだが、制服では麻子さんそのものが中にとじこめられて、妙に狭苦しい雰囲気にしてしまう。制服の中に麻子さん自体がおさまりきっていないのだ。そして制服のときはその違和感がへんなふうに麻子さんを目立たせるし、枠組みを外されると、今度は匂いみたいなものまで魅力的になって、やっぱり酒井麻子を目立たせてしまう。こういう女の子と、岩沢訓子や新井恵子のような、きれいなくせになんとなく目立たない女の子と、どこがどうちがうのだろう。このちがいが、今度の事件のどこかで、なにか関係しているような気がしてならなかった。
ぼくがバイクをおりて歩いていくと、五メートルぐらいのところで麻子さんも気がつき、二、三歩、ゆっくりこちら側に近づいてきた。
「あのバイク、だいじょうぶかな」と、振りかえって、ぼくが訊いた。
「あの白い線の入ってるやつ?」
「自分で入れたわけじゃない」
「戸川くん、あんなバイクに乗るの?」
「たまにさ」
「しっかり不良してるじゃない?」
「タクシーにしようか?」
「平気よ、病気じゃないんだもの。わたしね、あんな大きいバイクって、初めて」
二人してバイクのところまで歩き、麻子さんの持ってきた地図で新井恵子の家の見当をつけてから、赤いヘルメットを|被《かぶ》せてやって、ぼくらはバイクを走らせはじめた。麻子さんが、大きいバイクに乗るのは初めてだと言ったのは、嘘ではなさそうだった。ぼくがエンジンを吹かすたびにひーっとかうーっとか叫んで、その上うしろでもぞもぞ尻を動かすもんだから、バイクの重心はなかなか安定してくれなかった。これでうしろから脇の下でもくすぐられたら、ぼくらは二人してクリーニング屋かなにかにつっ込まなくてはならない。麻子さんをうしろに乗せるときは、その前にあまり|昂奮《こうふん》させないほうが良さそうだった。
深大寺の近くで、鶴川街道から西に細い道に入ると、そのあたりも岩沢訓子の家のある付近に似た、建て売り住宅の並ぶ住宅街になっていた。バイクのスピードを最低に落として、五分ぐらい走りまわっただけで、新井恵子の家はかんたんに見つかった。岩沢訓子の家よりもいくらか大きい感じではあったが、ブロック塀をはさんで、やはり両どなりから同じようなかたちの家に攻めたてられていた。ぼくは方位なんか気にする体質ではないが、その並びの家は、みな玄関が北に向かっていた。
麻子さんを先に立てて、呼び鈴を押すと、新井恵子の母親らしい気の強そうな女の人がドアを開けてくれ、その人と入れかわりに新井恵子もすぐ玄関に姿をあらわした。ぼくの推理があたったのか、それともただの偶然だったのか、やはり新井恵子は出かけていなかった。
ぼくたちの顔を見たときの新井恵子の表情は、葬儀場で森常夫や西岡和江が浮かべた表情や、昨夜雨宮君枝が岩沢訓子の家で見せた表情と、だいたいは同じものだった。ぼくと麻子さんの組みあわせは意外といえば意外で、当然といえば当然なのだが、なぜ自分がそう思うのかが解らないという表情だ。だいいち新井恵子にしてみれば、ふだん碌に口をきいたこともないぼくらが急に訪ねていったことの理由さえ、見当もつかなかったろう。
戸惑った顔の新井恵子に、麻子さんが言った。
「ちょっと前に、訓子のお葬式が終ったの」
「え? ああ――」
「村岡先生から連絡がこなかった?」
「母が受けたようだけど。岩沢さん、自殺したんだって?」
「昨夜がお通夜で、今日がお葬式だったわ」
「そうだってね、聞いてはいたけど」
「君に聞きたいことがあるんだ」と、麻子さんの肩ごしに、ぼくが言った。
「わたしに? ええと――」
「岩沢訓子のこと」
「ええと、だって――」
新井恵子はそれから、小さく家の中を振りかえり、無理やり決心させられたような顔で、色のうすい髪を|両掌《りようて》で頭の上にかきあげた。
「あがってもらいたいけど、|家《うち》、狭くて――深大寺の入り口に『リラ』っていう喫茶店があるの。そこで待っててもらえない? わたしもすぐ行くから」
ぼくらは新井恵子の表情を観察しながら、一緒にうなずいて、玄関を出てまたバイクに跨がった。ぼくが岩沢訓子の名前を出したときの、新井恵子の表情を見ただけで、今日の用件は半分以上終ったようなものだった。電話ではやはり、あの顔は見られない。だいいち新井恵子がぼくらを家に通さなかったのは、ぼくらが家の者に聞かれたら都合の悪い話をしに来たのだということを瞬間的に悟ったわけだし、ぼくらを先に喫茶店にやったのは、もう一度顔を合わせる前にいくらかでも頭の中を整理するための時間をかせごうと判断してのものだ。要は新井恵子に、そんな面倒なことをしなくてはならない理由がある、ということなのだ。
新井恵子に言われた喫茶店を見つけ、窓ぎわの席に麻子さんと並んで、アイスコーヒーを飲みながら、ぼくは新井恵子のことを思い出していた。ぼくが知っていて、そして思い出す気にもならなかったことは、ぼくと新井恵子は中学でも同級になったことがある、ということだった。三年のときではなかったから、二年か一年のときだ。そのころから背が高く、色白でほっそりした女の子だった。男子の中にはなん人か新井恵子にのぼせていた奴もいたはずだった。それが高校に入り、二年になってまた同じクラスになったときも、ぼくはそのことを思い出しもしなかった。ぼくだけの勝手な好みの問題という可能性もあるが、たぶんそうではないだろう。新井恵子は沈んでしまった花なのだ、そして岩沢訓子も。
十分ほど遅れて、新井恵子は黄色い自転車に乗ってやって来た。赤いタンクトップに白いGパンというせいもあったろうが、学校にいるときよりは、幾分華やいだ感じだった。口紅もつけていたし、爪にはうすいピンク色のマニキュアも塗られていた。
ぼくと麻子さんの前の席に座って、クリームソーダを注文してから、新井恵子が言った。
「お葬式はどこでやったの?」
その切り出し方は、かなり肩の力が抜けたもので、ここまで来る間に幾度か頭の中で練習してきたものらしかった。
「府中の葬儀場、一時からだったわ」と、麻子さんが答えた。
「君とは中学でも同級になったことがある。一年のときだっけ?」と、ぼくが訊いた。
「二年のとき。竹内先生の担任で。覚えてないかと思ってたわ」
「今まで話す機会がなかっただけさ。岡宮悟も一緒だったかな?」
「一緒だったわ」
「あいつどこに行ったろう。仲が良かったんだ」
「杉並の商業じゃなかったかしら。誰かに聞いたわ」
「クラス会なんて、やらないのかな」
「二年のときじゃね。三年のクラス会だったらやるけど」
「ぼくには一度も話がない」
「三年のとき、戸川くん一組だったでしょう? 一組はクラス会やってないんじゃないかしら。誰かに聞いたわ」
「君って、いろんなことを誰かに聞くんだな」
「だって、そういうことって自然に耳に入るわよ」
「岩沢訓子が付きあっていた男、誰?」
「え?」
「岩沢訓子が付きあっていた男さ」
「だって、どうして――」
「誰かに聞いてるかと思って」
「あの人が、男の人と付きあってたの? そんなことちっとも知らなかった」
もぞもぞと動いて、新井恵子がGパンのポケットから、煙草と使い捨てのライターを取り出した。そしてぼくらの顔は見ず、一本くわえ、しゅっと火をつけた。
「君が知らないんじゃ、他には誰も知らないだろうな」
「なんのこと? 言ってる意味が、解らないけど――」
「岩沢訓子のことさ」
「どうしてわたしが岩沢さんのこと、知らなくちゃいけないの? 特別に親しかったわけでもないのに」
「特別に親しければ、彼女が誰と付きあっていたか、知ってるわけだ」
「それはそうでしょう? よくは、解らないけど」
「ぼくは君と岩沢訓子は特別に親しいのかと思っていた」
「どうして? へんなこと言わないでよ。そんなことを言うためにわざわざやって来たの?」
「そうさ。それで、わざわざやって来たんだ」
新井恵子の目がきつくなり、その目でじっとぼくの顔を|睨《にら》みつけてきた。いったいこの子のどこからこんな迫力が出てくるのだろう。見かけほど気の弱い子ではないのだ。
ぼくも目をそらさずに、少し、新井恵子のほうに身をのりだした。
「君と岩沢訓子が親しかったと言ったのが、そんなにへんなことか?」
「だって――」
煙草の灰が|膝《ひざ》にこぼれて、それを新井恵子が、唇をなめながらさっと床に払い落とした。
「だって、急にそんなこと言われたら、やっぱりへんだと思うじゃない? 本当にわたしたち、親しかったわけでもないんだから」
「五月ごろ、君たちをピンク・キャットで見かけた。ぼくがいたことには気がつかなかったろう?」
「ええ、だって――」
「わざとそばに行かなかったんだ。君たち男の人と一緒だったから。パンチパーマをかけた、|痩《や》せた感じの人」
「ああ――」
新井恵子が、また唇をしめらせ、煙草の火を灰皿でつぶしてから、それが癖なのか、両掌で顔の横にかかった髪の毛を頭の上にかきあげた。その仕草で脇の下がぼくに見えることを、もしかしたら意識しているのかも知れなかった。
「さっきから戸川くん、あのことを言ってたの? 最初から言ってくれれば、わたしだって思い出していたのに」
「君が忘れているとは、思わなかった」
「だって、ねえ? あれ、ほんの偶然だったのよ。わたしが新宿に映画を観に行こうと思って電車に乗ったら、たまたま岩沢さんと一緒になったの。同じクラスでしょう? いくら親しくなくても、口をきかないわけにもいかないし。そしたら岩沢さんもわたしと同じ映画を観に行くところだったの。『ゴースト・バスターズ』だったと思うけど。それで一緒に映画館まで行ったら、混んでて立ち見なのよ。立ち見なんていやじゃない? だけどせっかく新宿まで出たんだからって、あのときはたしか、岩沢さんから誘われたのよ。戸川くんあそこにいたの? ぜんぜん気がつかなかった」
「君はさっき、岩沢訓子が付きあっていた相手に心あたりはないと言ったけど、もしかしたらピンク・キャットで一緒だった男、そうなんじゃないのか?」
「そう――そう言えば、岩沢さんは知ってるみたいだったわ。だからもしかしたら、そうだったかも知れないわね」
「さっきはそう言わなかった」
「忘れてたのよ。だって、あそこに岩沢さんと行ったことさえ忘れていたんだもの。だけど――どうして岩沢さんの相手にこだわるの?」
「岩沢訓子が妊娠していたからさ」
「妊娠って、だって、どうして戸川くんがそんなことを知ってるのよ?」
「どうしてぼくが知らないと思うんだ?」
「だって――」
「だって、なに?」
「だって、岩沢さん、そんなふうに見えなかったもの」
「君はたいして親しくもないのに、岩沢訓子のことをよく観察していたらしいな」
「なにが言いたいのよ? はっきり言ってよ」
また新井恵子が髪の毛をかきあげ、肩で、大きく息をついた。
「今日のお葬式、わたしたちと学級委員の二人以外、誰も来なかったわ」と、静かな声で、麻子さんが言った。
「それがどうしたの?」と、麻子さんのほうに|脚《あし》を組んで、新井恵子が訊きかえした。
「訓子はあなたに来てもらいたかったでしょうに」
「わたしは来なくていいって言われたのよ」
「来なくていいって?」
「だって、親しい者だけでいいって、そういう意味じゃない?」
「最近訓子と一番親しかったのは、あなたでしょう?」
「だからさっきから言ってるじゃない? わたしは親しくもなかったし、相手の男の人も知らないって。なん度言えば解るのよ。一度一緒にディスコに行ったぐらいで、なんでわたしが岩沢さんのことをぜんぶ知らなくちゃいけないのよ」
「それが一度じゃないからさ」と、ぼくが言った。
新井恵子がぼくのほうに首をまわし、組んでいた脚をほどいて、新しい煙草をゆっくり口にもっていった。
「残念ながら、君たちが一緒のところを、なん度か見ている」
新井恵子は煙草に火をつけ、その煙をふーっと、テーブルの上に長く吹きつけた。
「それがなんなのよ。わたしたちがディスコに行っちゃ悪いわけ?」
「かまわないさ。ただ、岩沢訓子のことを|喋《しやべ》ってくれれば」
「いい加減にしてちょうだいよ! なによさっきから。ディスコぐらい行ったわよ。だからなんだっていうのよ」
「そろそろ、喋っていいんじゃないのか?」
「だから――」
「ぼくは本当は、君たちのしてることを知ってるんだ」
煙草の灰がまた膝の上に落ちたが、新井恵子は、今度はそれを払おうともしなかった。顔から赤味が消え、そばかすが青い色に変わった。
「|嘘《うそ》よ!」
「残念だけど――」
「嘘に決まってるわよ、そんなこと」
「君が隠したがる気持ちは、解る」
「嘘よ! 嘘!」
煙草を指に挟んだまま、|椅子《いす》の音を響かせ、新井恵子がすっと立ちあがった。
「なによあんたたち! なんの権利があってわたしにそんなこと言うのよ。わたしがなにをしたっていうのよ」
「訓子は殺されたのよ」と、新井恵子に負けないぐらいの声で、麻子さんが叫んだ。
「嘘よ!」
「嘘じゃないわよ。あなたがよく知ってるじゃないの。知ってることを話しなさいよ」
「知らない、わたしはなにも知らない! あの子は自殺したのよ。ばかだからあんなことになったのよ。だいいちあんたはなに? わたしがなんであんたにそんなこと言われなくちゃいけないのよ。お嬢さんみたいな顔してたって、あんたなんかヤクザの娘じゃないの。へんなこと言ってわたしからお金でも取るつもり? いい加減にしてちょうだいよ。あんたの顔なんて見たくもない。口もききたくない。家にも二度と来ないでちょうだい!」
強くテーブルの角に膝をぶつけ、そしてそのまま、新井恵子が走るように喫茶店をとび出していった。他の客がぼくらのほうをものずきな顔で眺めていたが、新井恵子が出て行ったあとも、その客たちはぼくらから視線を外すことを忘れていた。店の中の者はみな、呼吸をすることも忘れているようだった。有線放送から流れ出る中森明菜の『ミ・アモーレ』だけが、終りのない歌のように、いつまでもぼくらの頭の上で響きつづけていた。
麻子さんをうながして、ぼくらは店を出た。クルマが通りすぎて、|埃《ほこり》っぽい熱気がまいあがった。麻子さんのからだは上から下まで|強張《こわば》っていて、歩き方さえ忘れてしまったようだった。このままバイクに乗せたら、どこかでぽきんと二つに折れてしまうかも知れない。
ぼくは麻子さんの背中を支えて、道路を反対側に渡り、深大寺の山門につづく散歩道のベンチまで連れていって、そこに腰をかけさせた。寒いはずはないのに、麻子さんは震えていた。腕には鳥肌が立って、まるで長い時間プールに入っていたときのように、歯をかちかちと鳴らしていた。麻子さんには、自分で自分のからだから力を抜く方法が解らなくなっていたのだ。
ぼくは麻子さんの肩に腕をまわし、もう一方の手で、鳥肌の立っている麻子さんの二の腕をさすりはじめた。指で両膝を強く握りしめているせいか、麻子さんの腕の筋肉もけいれんを起こしそうなほど強張っていた。気のりのしない女の子に男が無理やり関係を迫っている、客観的には、まさにそういう光景だった。
十分ぐらい、ぼくは同じリズムで麻子さんの腕をさすりつづけていた。麻子さんの顔にいくらか血の気が戻ってきて、鳥肌も消えて、からだからも力が抜けはじめた。それでもまだ麻子さんは両膝を強く握りしめていた。ぼくがその膝から指を|剥《は》ぎ取り、自分の掌で包んで、ゆっくりと揉みほぐしはじめた。麻子さんの額にも汗がうかびはじめて、呼吸の音も静かなものに変わっていった。
「|蝉《せみ》が、鳴いてる」と、自分で自分の意識に教えるような声で、麻子さんが|呟《つぶや》いた。
麻子さんの言うとおり、たしかにやかましいほど蝉が鳴いていた。ただ、ぼくにもそのことに気づくだけの余裕はもてていなかった。ぼくにはもう握っている麻子さんの手を離していいのかどうかも解らなかった。麻子さんが引っこめなかったので、そのままにしておいただけのことだった。
「なんか、疲れちゃった」と、大きなため息をついてから、麻子さんが言った。「わたしね、自分があんなにショックを受けるなんて、思ってもいなかった。自分からヤクザの娘だと言うときにはなんでもないの――ちがうかな、やっぱりいくらか緊張するな。でも慣れたし、気にしないようにしてるし、わたしは気にしないんだなって思ってたの。だから人から言われても気にしないだろうって、ずっとそう思ってた。それがさっきね、あんなふうに面と向かって言われたら、目の前がまっ白になって、なにも見えなくなった。本当になにも聞こえなかった。ああ、戸川くんがいるなって、解ってたのはそれだけ――意外とだらしなかったな」
「一緒に来ないほうが、良かったかも知れない」
「それはいいの。これからもあることだし、慣れなくちゃいけないの」
麻子さんが額をぼくの肩におしつけて、また小さくため息をついた。
「でも本当に、わたしに慣れるなんてこと、できるのかしら」
「慣れなくてもいいさ」
「どうして?」
「君がショックを受けるときは、ぼくがいつも一緒にいる」
麻子さんが顔をあげて、ぼくたちはキスをした。遠くになん人か人が歩いていたが、ぼくたちは一分ぐらい、そのままじっと唇を合わせていた。その間は蝉もまた鳴くのを休んでいた。
「少し、歩こうか?」と、唇を離して、ぼくが言った。
うなずいて、麻子さんが立ちあがった。ぼくたちは深大寺の裏手の森に向かって歩きはじめた。いつの間にか蝉の声も戻っていた。
それから三十分ぐらい、ぼくたちは一言も口をきかず、日陰の道を選んでただぶらぶらと歩いていた。今日ぼくたちがここへなにをしにきたのか、ぼくはほとんど思い出しもしなかった。
植物園の裏門の前まで来て、そこの茶店の椅子に腰かけたとき、急に笑い出しながら麻子さんが言った。
「中学生のデートみたいだわよね」
「いつか、デートをしてもらいたいな」
「考えてもいいけど、今のところ申しこみが多すぎるわ」
「電話番号を教えてくれ」
「だめ。気が向いたら、こっちから電話する」
「いつごろ気が向くんだろうな」
「さあね。一週間先までは予約がいっぱいなの」
「それじゃとりあえず、トコロテンでも食うか」
ぼくがトコロテンを買ってきて、また二人並んで、それを|一本箸《いつぽんばし》ですすりはじめた。
「深大寺のダルマ市、来たことある?」と、酢の強さに顔をしかめながら、麻子さんが|訊《き》いた。
「昔――」と、ぼくが答えた。「祖父さんが生きてたころ」
「わたしも子供のころ、よく親父のあとについてまわったわ。屋台がいっぱい出るでしょう? 親父と一緒に行くとね、べっこう|飴《あめ》でもタコ焼でも綿菓子でも、みんなただでくれるの。ああ、わたしのお父さんて偉い人なんだなって、そのころはとっても嬉しかった」
「いい人なんだろうな、たぶん」
「たぶんね」
「うちの親父に似てるかい?」
「似てない、ぜんぜん。戸川くんのお母さんて、どういう人?」
「どういう人か、今でもよく解らない。もしかしたら本気でお袋のことを理解しようと思ったことがないのかも知れない。なんていうか、一人で放っておいてもだいじょうぶって、そういう感じの人。本当はそんなことないんだろうけどな。君のお袋さん、春代っていうんだって?」
「うん」
「親父が君のこと、そっくりだってさ。三十年前うちの親父と君のお袋さんも、こんなふうにトコロテンを食ったかな。|可笑《おか》しいな。なんだか知らないけど、ぜったい可笑しい。君の親父さん、そのことを知ってるの?」
「知ってるでしょうね。でもそういうこと、言わない人だから」
「言っても仕方のないことは、言っても仕方はない。たぶんそう決めてるんだ」
しばらく黙って、紙皿の中のトコロテンを箸でかきまわしたあと、ちょっと改まった口調で、麻子さんが言った。
「さっき新井さんに戸川くんが『君たちのしていることは知ってる』って言ったの、どういう意味?」
「特別な意味はなかった。うっかり口をすべらせてくれたらと思っただけ」
「本物の刑事みたいだった」
「うちの親父は本物の刑事だけど、本物の刑事みたいじゃないな」
「新井さんは、なにを隠してたと思う?」
「さあ」
「これから、どうする?」
「君を家に送る」
「事件のことよ」
「君は二、三日ゆっくり休むさ」
「戸川くんは?」
「明日もう一度新井恵子に会ってみる。今日は失敗だった」
新井恵子が逆上したのは、たぶん事の核心に直接触れてしまったことだけが原因ではない。もっと基本的なミスだった。麻子さんと新井恵子では勝負づけが済んでいるとはいえ、新井恵子の心の一番奥に、やはり麻子さんに対抗しようという無意識の意思がはたらいている。ふだん押し殺しているその無意識の意思が、ああいう状況では一気に爆発してしまう。一日時間をおけば、いくらか新井恵子の頭も冷めるだろうし、ぼくが一人で時間をかけて説得すれば新井恵子の口もこちらが知りたい情報を吐き出してくれるかも知れない。とりあえずの突破口は、新井恵子なのだ。
「君のほうは、クラスの女の子から岩沢訓子や新井恵子の情報を集める。それから三枝理事長の|噂《うわさ》なんかも。それでもしなにか新しいことが解ったらお互いに連絡をとりあう、そんなところかな」
バイクを置いたところまで戻り、夕方で混みはじめた甲州街道を通って麻子さんを家に送り、ぼくはそのまま自分の家に引き返した。たまにはゆっくり部屋でも片づけよう。
玄関を開けると、家の中で電話が鳴っていた。相手は雨宮君枝だった。雨宮と言われても、とっさには誰のことかぼくには思いあたらなかった。だいいちなんだって雨宮君枝が電話なんかしてくるのだ。
「今、調布に来てるの」と、妙に親しげな声で、雨宮君枝が言った。「ちょっと思い出したこともあるのよ。会える?」
「思い出したことって、岩沢訓子のこと?」
「ええ」
「電話では言えないのか?」
「言えるわよ」
「じゃあ、言ってくれよ」
「会ってから言うわ」
「どうして?」
「戸川くんに興味があるの。出ていらっしゃいな? 麻子には内緒にしておくから。戸川くんが来ないんなら、わたしも思い出したことは教えてあげないわ」
昨日岩沢訓子の家で会ったとき、変わった魅力のある子だなとは思ったが、もしこの子と付きあっても、ぼくにはぜったいに面倒な関係にはならないだろうという直感みたいなものがあった。「行く」と返事をして、ぼくは電話を切った。
うす暗くなった調布駅の南口で、雨宮君枝は噴水の前のベンチに腰かけていた。試合の帰りなのか、うすい水色のジャージに白いトレーナーを着て、膝には黄色い大きなスポーツバッグをのせていた。勤め帰りの人たちが暑苦しそうな顔で空を見あげては、噴水前の広場から市役所の方向に足を早めていく。
「本当はもう三回電話したの。さっきの電話で出なかったら、今日は帰ろうと思ってたの」と、駅のホームの明かりを大きい目に反射させて、雨宮君枝が言った。
「連絡なら酒井さんにすれば良かった」
「麻子に言ったってつまらないもの」
「ぼくに話したって、たいして面白くないさ」
「そんなことはわたしが決めるの」
「飯を食うけど、付きあうか?」と、ぼくが訊いた。
「野菜サラダだけね」
雨宮君枝が立ちあがって、スポーツバッグを重そうに肩にひっかけた。
ぼくたちはそこから東急ストアのほうに歩き、歩道に面した小さいレストランに入って、窓側に席を取った。小柄な雨宮君枝は一見中学生ぐらいにしか見えなかったが、顔の表情は豊かで、なにかを一人で勝手に面白がっているような目をしていた。
「思い出したことって、なに?」と、一人で勝手にコーラを飲みながら、ぼくが訊いた。
「その前に確かめておきたいの」と、テーブルに肘をついて、雨宮君枝がぼくのほうに身をのり出した。「あなたたち――戸川くんと麻子は、訓子は自殺じゃないと思ってるんでしょう? なぜそう思うのか、理由を聞かせてほしいの」
「君には関係ないと思うけどな」
「わたしに関係なければ、戸川くんや麻子にも関係ないわよ。わたしだって訓子のことは気にしてるわ。訓子の死が本当にただの自殺なら、麻子があんなに訓子の男関係にこだわるはずないと思うの。だいいち訓子が自殺するなんて、最初から考えられないものね」
「昨日はぼくたちに任せると言った」
「もちろん任せるわよ。ただわたしの気が向いたときだけ、ちょっと首をつっ込ませてもらいたいの」
「そういう問題じゃないんだ」
「解ってる。でもわたしにだって気分転換は必要なの。迷惑はかけないわ。それに今度みたいに大事なことを思い出すことだってあるだろうし。本当はね、昨日戸川くんと麻子が一緒に訓子の家にやって来たとき、かなりショックだったの、やられたなって。だけど相手が麻子じゃ仕方ないものね。わたしのほうはこのとおり、朝から晩まで体操ばっかり。なんでこんなことしてるのか、自分でも解らなくなるときがあるわ。だから都合がいいとき、こうやってデートの真似ごとをやってみたいのよ。もちろん麻子には内緒でね」
「思い出したことがあると言ったの、嘘だったのか?」
「そこまで図々しくはないわ。ちゃんと話してあげる。だからあなたたちが知っていることを、とりあえず、聞かせてちょうだい?」
運ばれてきた野菜サラダを、フォークで口に運び、口をもぐもぐさせながら、見開いた目で雨宮君枝がじっとぼくの顔をのぞき込んだ。見かけよりはまともに話が通じる女の子のようだった。
「警察では自殺で片づけてるんだ」と、自分の食事にとりかかりながら、ぼくが言った。「検死でも|溺死《できし》であることは間違いないし、一応遺書みたいなものもあった。自殺だと言われればそうじゃないとは言いきれないけど、それにしても動機がまるで解らない。岩沢訓子は発作的にそういうことをするタイプでもなかったようだし――君、今、酒井さんの家に電話ができる?」
「できるわよ」
「電話番号を覚えている?」
「覚えてはいないけど、アドレス帳を持ってるもの」
「岩沢訓子のアドレス帳は見つからなかった。彼女だけそういうものを持っていなかったとは思えない」
「遺書には、なんて書いてあったの?」
「両親に、ただごめんなさいって、ただそれだけ」
「男の人はどういうふうに関係してるわけ?」
「岩沢訓子は妊娠していたんだ」
雨宮君枝の唇の動きが止まって、口笛でも吹きそうに、しゅっとすぼまった。
「四カ月だった」
「四カ月?」
「そのくせ相手の男の名前が浮かんでこない。一生けんめい隠そうとしていたらしい」
「訓子の妊娠の話、ここだけのこと?」
「知ってるのは家の人と、酒井さんとぼくと、君だけ」
「わたし、意外と口はかたいわよ」
「解ってる」
「昨夜麻子が新井恵子のことを電話で訊いてきたけど、あれは、どういう意味?」
「新井恵子がなにかを知ってることは間違いないんだけど、それが何なのか、まだはっきりしないんだ」
「だいたいそんなところ?」
「そんなところ」
「でも訓子は、なんで四カ月になんかなるまで放っておいたの?」
「たぶん――」
「産む気だった?」
「解らないけど。君から見て、岩沢訓子ってどういう女の子だった?」
「そう――」
雨宮君枝が、フォークを下に置き、椅子の背もたれにからだをあずけて、ぼくの頭の上に表情のある視線を漂わせた。
「だいたい見たとおりかな」と、横目でぼくの顔を見おろして、雨宮君枝が言った。「ただ意外とプライドは高かったし、ちょっと|むき《ヽヽ》になるところもあったわね、頭が良かったからうまくごまかしていたけど。わたし一度驚いたことがあるの。中学のときクラス対抗でバスケットの試合があったのよ。そのとき訓子が選手になってね、相手のチームの子とボールの取り合いになったの。ふだんの訓子からは信じられないけど、一瞬ヒステリーを起こしたみたいに|むき《ヽヽ》になったわ。訓子にもこういうところがあるんだなって、わたしびっくりした覚えがある。訓子って自分の性格を自分で知っていて、いつも頭でバランスをとっていたんじゃないかしら。でも頭でとるバランスなんて、ねえ? いざというときにはなんの役にもたたないわよ」
「彼女が高校に入るとき、経済的に無理をしたのは、知っていた?」
「なんとなくはね。直接訓子の口から聞いたことはなかったけど――麻子と同じ高校に来たかったのよね」
「酒井さんは酒井さんなりの理由で、わざと岩沢訓子から距離をおいていたんだ」
「家のことね」
「もし中学のときと同じように付きあっていれば、岩沢訓子も今度みたいなことにならなかったかも知れないって」
「麻子ってあれでけっこうロマンチストだからね。でもわたしに言わせれば考えすぎだな。中学のときいくら仲が良くたって、いつまでもべったりくっついているわけにはいかないもの。訓子は訓子の生き方をして、訓子の死に方で死んだのよ。麻子のせいじゃないわ」
「岩沢訓子が死んだのは、自分のせいだということ?」
「そういう意味じゃないの。ただね、他人の人生には誰も責任なんかとれないっていうこと」
一瞬目を伏せ、意志の強そうに口を結んでから、ぼくの顔を見あげて、雨宮君枝がにやっと笑った。男だったら気の合ういい友達になれただろうに。
「そろそろ君の情報を聞かせてもらいたいな」と、残ったコーラを飲んでから、ぼくが言った。
雨宮君枝がよく光る目をぐるっとまわし、唇を湿らせて、またぼくのほうに身をのり出した。
「戸川くんの話を聞くまでは、これがどのくらい大事なことか解らなかった。でも今はとっても重大なことだと思えてきたわ」
ぼくの反応を確かめてから、雨宮君枝がつづけた。
「訓子が付きあっていた相手のこと。麻子に訊かれたときは学校の子や中学の同級生のことばっかり考えていたから、思い出さなかったの。昨日戸川くんが訓子の家で風見先生のことを訊いたでしょう? 訓子がファンだったかって、あのときもまだ思い出さなかった。それが家へ帰ってからお風呂に入っていたとき、急に思い出したのよ。いつだったかわたし、訓子が風見先生のクルマに乗っているのを見たことがあるの」
パズルがあまりにもうまく|嵌《はま》りすぎて、とっさにぼくの口からは言葉が出てこなかった。
「今年の二月か三月か、たぶんそのくらいのとき。八王子の体育館で多摩地区の大会があったのよ。三時ごろ試合が終って、体育館から八王子の駅まで歩いていたの。それで甲州街道を渡ろうと信号を待っていたら、目の前をクルマが通って、そのクルマが風見先生のクルマだったの。助手席に女の子が乗っていたわ。横顔が一瞬見えただけだから百パーセント訓子だったとは言いきれないけど、でも確率でどうかって言われれば、完全に五分以上は訓子だったと思う」
煙草が吸いたくなったが、あいにくこのときは持って来ていなかった。
「そのクルマは、どっちの方向に向かっていた?」
「高尾山のほうから府中のほうへ」
「だけどもしそのクルマに乗っていたのが、本当に岩沢訓子だったとしても、彼女の相手が風見先生だという証拠にはならない。なにかの偶然だったということもありえる」
「日曜日だったわ。学校の帰りになにかの用事で出かけたということは、ないでしょう?」
「風見先生には、そういう噂はないんだろう?」
「そんなの、やり方次第よ」
「たしかに相手が風見先生なら、いろんな|辻褄《つじつま》は合うんだけど――」
ぼくは頭の中の考えを、口に出すのをやめて、コップの水で唇を湿らせた。やっと糸口を|掴《つか》んだことの満足感と、その糸の先になにが結びついているのかが解らないことの不安が、いくらかぼくの気分を苛立たせていた。
「貴重な情報だったんじゃない?」と、ぼくの頭の中を探るような目で、雨宮君枝が言った。
「たぶんな」と、わざとそっけなく、ぼくが答えた。
「どんな結果が出るか、楽しみにしてるわ」
「面倒な結果さ、たぶん」
「わたしのほうはただの野次馬だもの、気楽なものよ」
今日の用はこれで終りという表情で、背筋を伸ばして、雨宮君枝が立ちあがった。一人で考えたいというぼくの気分を感じとってくれたらしかった。
勘定を払って、雨宮君枝のスポーツバッグをぼくが持ち、白い街灯の下を駅の方向に歩きはじめた。スーパーマーケットが閉まったせいか、人通りも来たときほどではなくなっていた。
「重いでしょう? そのバッグ」と、ジャージのポケットに両手をつっ込んで、ゆっくり歩きながら、雨宮君枝が言った。
「君、本当に、あんなものしか食べなくてだいじょうぶなのか?」
「国体までにあと五キロ減量するの。ボクシングの選手と同じよ。人間のからだって、限界まで|贅肉《ぜいにく》を落としたときが一番いい動きをするの。わたしね、本当はオリンピックが目標なの。ぜったい出てみせるわ。ソウルまで見に来る?」
「行くさ」
「麻子と一緒にね」
「たぶんな」
駅前の噴水を通りすぎ、改札口に通じる地下道の入り口で、ぼくがスポーツバッグを雨宮君枝の肩にかけさせた。バッグの重さが、小柄な雨宮君枝の肩に強くくい込んでいった。
「今夜は、ありがとう」と、雨宮君枝が言った。
口の中だけで、ぼくが「うん」と返事をした。
「相手が麻子じゃなければ、ぜったい勝つ自信があるんだけどね」
かすかに笑って、雨宮君枝が二、三歩あとずさった。
「気が向いたら、またそのうち電話するわ」
「うん」
「じゃあね」
「うん」
「今夜は本当に、ありがとう」
大きなスポーツバッグを引きずるようにかついで、雨宮君枝が駅の急な階段をおりていった。ぼくが見ていても、雨宮君枝は一度も振り向かなかった。ぼくは通路の中に雨宮君枝の姿が消えるまで待って、駅前の広場を自分の家に引き返した。
勉強をする気にもならず、部屋を片づける気にもならず、ぼくは居間のソファにひっくりかえって、ぼんやりとテレビを観ていた。将棋の駒を並べかえるように、事件のことをあれこれ頭の中でひねくりまわしてみるのだが、なかなかすっきりとした結論は出てこなかった。仮りに岩沢訓子の相手が、本当に風見先生だったとしても、それを証明するにはどうしたらいいのか。風見先生ならたしかに岩沢訓子が隠そうとしていた心理も解るし、通夜や葬式に風見先生が顔をみせた理由も納得がいく。だが逆に風見先生の立場に立ってみれば、自分の火遊びの相手にわざわざ岩沢訓子を選ぶ必要があったろうか。だいいちぼくと麻子さんが考えているように、岩沢訓子の死が殺人であったとすれば、風見先生が犯人ということになる。岩沢訓子が妊娠して、どうしても子供を産むと言い張れば、教員としての風見先生の立場は具合が悪くなるだろう。しかしそれがはたして、殺人の動機にまでなるものかどうか。もしかしたらこれは殺人ではなく、風見先生との仲を苦にした、やはりただの自殺だったのではないのか。もし殺人だったとして、風見先生と岩沢訓子の関係を証明できたとしても、風見先生に自殺だったと押しきられればそれまでではないのか。だいいち岩沢訓子が新井恵子と人知れず遊びまわっていたことの事実は、風見先生とのことにどういう関係があるのか。それともそれら一つひとつの事実はバラバラに存在していて、岩沢訓子の死で偶然に結びついているように見えるだけなのだろうか――ふと、喫茶店での新井恵子の言葉が思い出されてきた。「あの子はばかだからこんなことになった」。あれはいったい、どういう意味だったのだろう。ぼくなんかが予想しているよりも、新井恵子はもっと多くの事実を知っているということなのだろうか。警察にあとを任せるにしても、やはりまだ材料が少なすぎる。明日もう一度新井恵子に会って、事実関係を整理してからでなくては先には進めないということか。解ってきたようで、けっきょくはまだなにも解っていないのだ。推理することと解るということは、決定的にちがうのだ。
親父が帰ってきたのは、十一時をすぎて、テレビでプロ野球ニュースが始まろうとしている時間だった。親父はめずらしくくたびれたような顔で、ダイニングの椅子に座りこみ、なんのつもりでか、じろりとぼくの顔を眺め渡してきた。
「夕飯は?」と、親父の前に腰かけながら、ぼくが訊いた。
「食う暇がなかった」と、ズボンのベルトをゆるめながら、親父が答えた。
「なにか食べるかい?」
「風呂のあとでビールをやればいい。ジャイアンツはどうした?」
「観てなかった」
「テレビをつけてくれ」
ぼくはダイニングのテレビをつけ、居間のテレビを切って、またテーブルのところに戻ってきた。
「風呂は入れるよ」
「ああ」
「ビールの用意はしておく」
「ああ――なあ春、お前のクラスで、なにかあるのか?」
「なにかって?」
「なにかって――解らんから訊いてるんだ。なにか変わったことがあるのかどうか」
親父がテーブルに投げ出した煙草の箱から一本もらって、それに火をつけてから、ぼくが言った。
「言ってることの意味が、解らないな」
親父も煙草に火をつけて、ちっと舌うちをした。
「実はな、お前のクラスの子が、今日また一人死んだ」
呆気にとられて、ぼくは持っていた煙草をあぶなく下に落とすところだった。
「昨日のお返しに、ぼくを|かつぐ《ヽヽヽ》つもりかい?」
「俺は人間の死を冗談には使わんさ」
「死んだって、いったい誰が?」
「新井恵子っていう子だ」
「新井――」
「クルマにはねられた」
「クルマに?」
「今夜の八時ごろだ」
新井恵子がクルマに|轢《ひ》かれて、死んだって。「まさか」と声に出して言おうとしたが、たしかに親父はこんなことで冗談を言う人間ではない。だいいち親父が新井恵子の名前を知っているはずがないのだ。
「父さん、本当に、本当の話かい?」
「本当に本当だ」
「いったいどこで?」
「自宅の近く。深大寺の南側の、あまり人通りの多くない道だ」
「相手のクルマは?」
「まだ解らん」
「轢き逃げ?」
「そういうことだ」
「それはその、つまり――」
「故意の轢き逃げか、偶然の事故かっていうことか?」
「そう」
「それもまだ解らん。現場検証は明日の朝だ。今のところ目撃者も見つかっていない。最初は俺もただの事故だと思ったんだが、調べてみたら被害者が深大寺学園の生徒だっていうじゃないか。それもお前のクラスだ。一昨日一人自殺して、今日もまた一人轢き逃げされた。もちろんただの偶然で、向こうは自殺、こっちは交通事故。そういう可能性だってじゅうぶんあり得る。ただなあ、偶然にしちゃちょっとつづきすぎるんだよなあ。確率的に、そういう偶然っていうのがどのくらいあるものか――被害者の母親の話によると、今日の午後被害者の同級生っていうのが二人訪ねて行ったらしいんだが、人相を訊いてみるとな、それがどうも俺の知っている奴らしいんだ。これがもし故意の轢き逃げだとすると、その二人が重要参考人になる可能性がある」
やっぱり親父は、昨日ぼくが麻子さんの母親のことでからかったことを、いくらかは根にもっているのだ。
「思うんだけど、その二人にはクルマの運転はできないんじゃないかな」
「なぜお前に解る? 心あたりでもあるのか?」
「父さんと同じくらいにね」
「なあ春、これは探偵ごっことはわけがちがうんだぞ。いったいどういうことだ?」
「岩沢訓子と新井恵子は、友達だったのさ」
「一昨日自殺した娘と、今日轢き逃げされた娘がか?」
「そう」
「友達って、ただの同級生以上に?」
「そう。二人してかなり遊び歩いていたらしい。おかしいのは二人がそういう関係だってことを、二人とも隠そうとしていたことなんだ」
「つまりお前と酒井組の娘は、一昨日の件は自殺じゃないと思ってるわけだな?」
「二人が内緒でなにをやっていたか、岩沢訓子を妊娠させた相手が誰なのか、それを新井恵子に訊きに行ったんだよ」
「喋ったか?」
「ぜんぜん。明日もう一度会って訊くつもりだった」
「お前は、新井恵子は知っているという感触をもったんだな?」
「間違いなくね」
「明日会えば訊き出せたと思うか?」
「確信はないけど、もしかしたら」
「つまり――もちろんこの二つの事件がどこかで関係しているとすれば、先を越されたっていうわけだな」
親父が煙草を灰皿でつぶし、ぼさぼさの頭に指をつっ込んで、二、三度大きく髪の毛をかきまわした。目はぼくのうしろの壁のあたりを睨んでいて、プロ野球ニュースのほうは観ていなかった。どっちみちジャイアンツは負けたのだが。
「轢き逃げは父さんの係になるのかい?」と、ぼくが訊いた。
「たぶんな」と、半分うわの空で、親父が答えた。
「新井恵子の母親は、なにか言ってた?」
「お前らと会ったあと、どこかに電話してたらしい。それでちょっと友達のところへ行くと言って家を出たってことだ」
「自転車で?」
「自転車はなかった」
「服装は?」
「赤いランニングシャツみたいなやつに、白いGパンだった」
「ぼくが会ったときと同じだよ。つまり自転車で行けるほど近いところではなかったけど、わざわざ着がえて行くほど改まったところでもなかった」
「まだ探偵ごっこをつづけるつもりか?」
「ただの参考意見さ」
「いいか? これがもし殺人で、前の件もそうだとしたら、お前らが遊び半分で首をつっ込むこととはわけが違うんだぞ。もちろんただの事故の可能性もあるが、だからって必要以上に首をつっ込むのはやめておけ。捜査は警察に任せればいい。お前がやるのは健全な男女交際だけでいいんだ」
親父がため息をつきながら、立ちあがり、ぼくに|一瞥《いちべつ》をくれて、そのまま風呂場に歩いていった。ぼくはしばらくぼんやりしていてから、親父のためのビールと肴を用意して、またダイニングの椅子に座りこんだ。本当だとは解っていても、まだ新井恵子が死んだことの実感は湧きあがってこなかった。
新井恵子の死――いったいこれは、どういうことなのだろう。ぼくが新井恵子に会ったのが今日の四時ごろ。それから四時間後に、新井恵子はなに者かの車に轢き逃げされた。八時といえばちょうどぼくが雨宮君枝を調布の駅に送って行ったころだ。あの時間に、新井恵子が死んだのだ。偶然の事故なのか、故意の轢き逃げなのか。まだ結果は出ていないとはいえ、偶然と考えるには少し無理がありすぎる。新井恵子が死んでしまったことによって、岩沢訓子の件に関する糸口が消えてしまったのだ。これは完全に殺人だ。親父の|科白《せりふ》じゃないが、犯人に先を越されたのだ。先を越された? 誰が? このぼくだ。岩沢訓子の事件では警察は動いていなかったのだから、犯人が先を越した相手は、このぼくと酒井麻子なのだ。ぼんやりしていた新井恵子の死が、急に実感をともなって強烈にぼくの目の前に迫ってきた。新井恵子はぼくに対する口ふうじのためにだけ殺された、たったそれだけの理由で、そしてそれがすべての理由で。ぼくは頭をうしろから誰かに思いきり殴りつけられたような、絶望的な気分になった。たしかに新井恵子は岩沢訓子の死の真相を知っていたかも知れない。岩沢訓子と遊びまわっていたかも知れない。しかし、だからどうだというのだ。そんなことぐらいで人間が一人殺されなくてはならないのだろうか。だいいちぼくへの口ふうじで殺されたのだとしたら、新井恵子の死は、直接ぼくの責任ということになる。ぼくがつまらない正義感をもち出したばかりに、新井恵子は殺されるはめになってしまった。殺されるだけの理由があったからって、殺されてもかまわないという理屈にはならない。ぎりぎりのところで、やはりぼくはこの事件をゲームとしか見ていなかったのだ。新井恵子を一人の人間としてあつかってやれなかった。ゆさぶりをかければ自分の欲しい証言を吐き出す、自動販売機かなにかのようにしか考えていなかった。ぼくさえもう少し慎重に動いていたら、新井恵子も死ぬまでのことはなかったのではないか。酒井麻子と新井恵子を比較して、勝手に沈んでしまった花などと決めつけ、本当に新井恵子の身になって考えてやることができなかったのだ。いったいこのぼくは、なにをやっていたんだろう。親父の言うとおり、こんなことは警察に任せておけば良かったのだ。新井恵子の死で岩沢訓子の死もただの自殺でなかったことがはっきりした以上、もうぼくたちの出番はない。あとは警察がやってくれる。犯人だって趣味で二人を殺したのでないかぎり、相当死にもの狂いになっているはずだ。これ以上ぼくらが首をつっ込みつづければ、次にやられるのはぼくか、麻子さんということになる。ぼくか、麻子さん――ぼくだって死にたくはないし、酒井麻子のほうはもっと死なせるわけにはいかない。要するにぼくと麻子さんに関しては、この事件はもう終ったということなのだ。
ぼくの頭の中で、一応の結論が出かかったころ、親父が例によってバスタオルを腰に巻いてのっそりと風呂場から戻ってきた。熱い湯に長くつかりすぎたせいか、からだ中が蒸気だらけになっている。
「春、お前、隠してたことがあったな?」と、椅子に座ってコップをぼくの目の前に突き出しながら、親父が言った。
親父のコップにビールを注いでから、ぼくが答えた。
「父さんに隠してることなんて、いくらだってあるさ」
「世の中には隠していいことと、悪いことがある」
親父は無表情にビールを|呷《あお》り、頬をふくらませて、ふーっと大きく息を吐いた。
「なんの話さ?」
「担任の先生について、なぜ今まで隠していた?」
「なんのことか解らないな」
「お前の担任がどういう先生になったかぐらい、一応父親に報告しても良かったんじゃないのか」
「言ったよ。女の先生で、英語を教えてるって」
「俺の言ってるのはつまり、顔とか、姿とか――」
「村岡先生に会ったのかい?」
「まあ――一応、念のためにな。クラスの生徒がつづけて二人も死んだわけだし」
親父がわざと無表情なのは、内心の動揺をおさえているせいなのだ。顔が赤くなっているのは風呂あがりのせいだけではないらしい。
「お前が一言言っておいてくれれば、恥をかかずにすんだんだ」
「どうして村岡先生に会って、父さんが恥をかいたのさ」
「どうしてか知らんが、なんとなく恥をかいた」
「父さんが勝手に恥ずかしがっただけだろう? 要するにびっくりしたんだ、村岡先生があんまりきれいだったんで」
親父はビンごとビールをひったくり、コップの大きさの倍ぐらいもビールを注いで、それを一気に喉に流しこんだ。
「ジャイアンツはどうした?」
「負けたよ」
「原は打ったか?」
「原が打たないから負けたのさ」
だいたい担任の先生の顔のかたちまで、親に報告する息子がいるものか。
「先生は、どんな様子だった?」
「そりゃあ――びっくりしていた。話を訊くのが気の毒だったな。三日の間に教え子が二人も死んだんだから、無理はないだろうが、あの先生のためにも早いとこ事件の片をつけにゃならん」
どうも言ってることの辻褄がおかしい。
「それで父さんは、ぼくの親父だってこと、先生に言ったのかい?」
「言わんわけにはいかんだろう? お前が一言言っておいてくれれば、もうちょっと――」
「もうちょっと、なにさ?」
「その――床屋ぐらいは行っておいたんだ」
こいつは大変だ。親父は村岡先生に|一目惚《ひとめぼ》れしたのだ。親父の気持ちも解らなくもないが、問題は向こうがどう思うかだ。だいいち村岡先生はまだ二十七か八で、親父のほうは四十七だから、歳だけを計算したって親父には分が悪い。
「それで――」と、観てもいないくせにテレビのほうを向いたまま、親父が言った。「あの先生、独身なのか?」
「そうだと思うよ」
「一人住まいのようだったから、そうかなとは思ったんだが――まだ三十にはなっていないだろう?」
「二十七か八」
「決まった相手でも、いそうか?」
「そんなことまで知らないよ」
「なかなか、その、センスのいい人だ」
本当なら笑い出すところだが、親父がへんに真剣なので、ぼくも神妙な顔をしていなくてはならなかった。
「今どきの若い女にしちゃ、めずらしくしっかりした感じだしな。部屋も落ちついた雰囲気だった」
「父さんは新井恵子のことで行ったんだろう?」
「そりゃそうだが、商売がら、いろんなことを観察する」
「先生はどこに住んでるのさ」
「吉祥寺だ。お前、自分の担任のことをなにも知らんのか?」
「ふつうは家まで知らないよ」
「吉祥寺の、ちょうど井の頭公園を見おろせるマンションに住んでる。『パーク・ビュー』って名前のマンションだ。公園通りに面してはいるが、クルマの音もほとんど聞こえんしな」
いったい親父は、どこまで本気なんだろう。|風邪《かぜ》だって年寄りはなおりにくいというではないか。
「事件のことなんだけどね」と、冷蔵庫から新しいビールを出してきて、ぼくが言った。「岩沢訓子のほうのさ」
「まだ参考意見があったのか?」
「これが最後だよ。岩沢訓子は妊娠していたろう? だけど相手が見つからないんだ。男とお茶を飲んだ形跡もない。それがうちの学校の風見という先生のクルマに乗っているのを、見た子がいるんだ。その先生は一年のとき、岩沢訓子や新井恵子の担任だった。岩沢訓子の通夜と葬式にも来ていた。もちろん男の先生で」
「いくら岩沢訓子が器用でも、クルマに乗っただけじゃ妊娠はせん」
「だからただの参考意見だよ、そういうことがあったっていうさ。捜査はもう父さんに任せるよ」
「是非そう願いたいな。お前や酒井組の娘にもしものことがあったら、目もあてられん。とくに酒井組の娘、これ以上事件に首をつっ込ませるなよ。思いつめて独走するタイプらしいし」
「きっと母親に似たんだよ」
「なんだと?」
「解ってるよ。もう探偵事務所は店じまいさ」
空になった親父のコップに、ゆっくりと、ぼくがビールを注ぎ足した。
「それからもう一つ――」
「まだあるのか?」
「岩沢訓子の遺書、あれ、正式な筆跡鑑定はやったのかい?」
「両親が娘のものだと確認してる」
「正式の鑑定はやってないんだ?」
「必要とは、認められなかった」
「やり直しはできるんだろう?」
「必要とあれば――」
「やってみちゃどうかな」
「そう思うか?」
「なんとなくね」
「一応は検討してみる。それだけか?」
「それだけ」
「ところで春、俺の黄色いポロシャツ、どこにある?」
「黄色いポロシャツ?」
「前によく着てたやつさ」
「五年くらい前の話かい?」
「そんなにはならん」
「なるさ。ぼくが小学校のときだよ」
「それならそれでいいが、あれはどこにある?」
「捨てたに決まってるじゃないか。あんなもの、今じゃ五木ひろしだって着ないよ」
「気に入ってたんだがな」
「去年買ったサマーセーターはどうしたのさ」
「署の若い奴にやっちまった。ちょっと派手なような気がして」
「似合ってたのに」
「そうだったか?」
「新しい服が欲しいのかい?」
「まあ、な」
「どんな感じの?」
「どんな感じってことはないが――」
聞かなくても、本当は解っている。親父が欲しいのは、今度村岡先生に会ったとき恥ずかしい思いをしなくて済む服、なのだ。そしてできれば、村岡先生がなにか勘ちがいをして親父と付きあってみる気をおこしそうな服、でもある。しかしいったいそんな都合のいい服が、世の中にあってくれるものだろうか。
「要するに、わりあい今の|流行《はやり》で、それでいて父さんぐらいの歳の人にも着られそうな服ってことだね」
「かんたんに言えば、そういうことだ」
「明日買っておこうか?」
「そうしてくれるか」
「ズボンのサイズは変わらないかい?」
「ああ」
「吉祥寺のデパートにでも行ってくる」
「ああ」
「クルマも買ってこようか?」
「なんのことだ?」
「ポルシェかBMWか、ああいうのがいいよ」
「クルマはまだいい。今のが気に入ってるんだ」
「思うんだけど、ねえ父さん。村岡先生にはBMWなんか、似合うんじゃないのかな」
4
親父は親父の理由で、ぼくはぼくの理由で、前の晩は酔いつぶれるより他に眠りこむ方法が見つからなかった。際限なくビールを飲みながらジャイアンツのふがいなさを愚痴りつづける親父に、最後まで付きあったが、それから先のことはよく覚えていなかった。
気がついたときには、もう窓に日が射していて、起きだしてみるとひどい頭痛だった。おまけに吐き気までして、今日中に雨が降ってくれなければ、明日にはたぶん、ぼくは死んでいる。
ダイニングのテーブルには、ビールの空ビンが十本、一列にきれいに並んでいた。ビールの空ビンにも腹が立ったし、それが並んでいることにも腹が立った。親父は酔っぱらうと、飲んだビールのビンをていねいに並べる癖があるのだ。
親父が部屋から出てきて、ぼくの顔を見ても口をきかず、妙にむっつりした顔で新聞を取りに玄関に歩いていった。宿酔をぼくに気づかれまいと、親父なりには努力をしているつもりらしかった。
ぼくは|味噌汁《みそしる》だけ作って、親父に飲ませ、仕事に送り出したあと、自分では頭痛薬を飲んでしばらく居間のソファにひっくり返っていた。クーラーをつけているわけでもないのに寒気がするし、自分が起きているのか眠っているのかも、あまりはっきりとしなかった。
一時間もそうやっているうちに、頭痛薬が効いてきたらしく、心臓の音さえ響いていた頭の痛みがうすらいできて、ぼくはダイニングに新聞を取りにいった。そこの椅子に腰かけて新聞を開いてみると、三多摩版の一番下に、新井恵子の記事が十行ほど載っていた。親父の言っていたとおり、名前と学校名と、時間と場所だけの内容だった。こんなあつかいでは、まだ麻子さんも読んでいないにちがいなかった。
ぼくは今日は麻子さんには電話をしないことに決めていた。勝手に探偵事務所を閉めてしまった理由が、うまく説明できそうもなかったし、やはり新井恵子のことが頭にひっかかってもいた。今日一日くらいは、一人でぼんやりしていたい気分だった。三日前お袋に呼び出されて以来、ぼくの生活のリズムとしては少し忙しすぎたのだ。今日は一日中居間でぼんやりテレビを観ていてもいいし、自分の部屋でレコードを聞いていてもいい。もともとぼくは無理やり用事を見つけて、無理やりなにかをするというのが苦手な性分だった。家の中の片づけも、あと四、五日はやらなくて済むだろう。
ふと、それでもぼくは今日なにか用事があったような気がして、コーヒーの豆をひきながらダイニングの中を眺めまわしてみた。酒屋にビールを届けてもらうこと、食糧の買い出しに行くこと。急に思い出して、思わずぼくは一人でほくそ笑んだ。親父の服を買いに行かなくてはならないのだ、それも村岡先生に気に入られそうなやつを。いくらか冷静になった頭で考えると、それはどう考えても非現実的な発想だった。村岡先生みたいな女の人が、四十七にもなった|こぶ《ヽヽ》つきの男やもめに惚れてくれるというのは、あまりにもこちらにだけ都合のいい話だ。
「まあいいや」と、パーコレータを火にかけながら、声に出して、ぼくは独り言を言った。散歩がてら吉祥寺をぶらぶらしてくるのもいいし、この前観そびれた『コットンクラブ』を観てきてもいい。今日みたいなぼんやりした頭の日は、すれちがう女の子がみんなきれいに見えて、もしかしたら意味もなく幸せな気分になれるかも知れない。
ぼくは沸いたコーヒーを時間をかけて飲み、酒屋に電話をしてから、風呂場に行って熱い湯にどっぷりとつかりこんだ。頭痛自体はおさまっているのに、それでいて頭はまだぼんやりしているし、からだには力は入らないし、妙だが、それほど悪い気分ではなかった。
洗濯を済ませ、一時ごろぼくは家を出た。乗ったのはバイクではなく、調布駅の南口から出る吉祥寺行きのバスだった。|祖父《じい》さんが生きていたころは、このバスでよく深大寺の植物園や井の頭公園に連れていってくれたものだった。ぼくが小学校にあがった年に、祖父さんが死んで、それからはぼくは一人で吉祥寺まで映画を観に出かけた。そのころの吉祥寺は駅前のアーケードや、デパートもなく、|闇市《やみいち》のような小さい商店のかたまりと、映画館が三軒ぐらいあるだけの静かな町だった。日曜日など、ぼくはその三軒の映画館を|はしご《ヽヽヽ》してまわったこともあった。小学生のぼくが十時すぎに家に帰っても、お袋はその日一日ぼくが家を空けていたことに気づきさえしなかった。
バスが玉川上水をすぎ、公園通りに入っていったとき、ぼくは昨夜親父が言った村岡先生のマンションのことを思い出した。『井の頭公園を見おろせて、公園通りに面している』と親父は言ったはずだ。だとすれば今バスが走っている、ちょうどこのあたりだ。ぼくはバスの窓から、それとなく道の両側を眺めまわしてみた。マンションらしい建て物はいくつもあったが、村岡先生がベランダに出て手を振っているはずのものでもなかった。やがてバスが停留所に入るためにスピードを落としたとき、左側の歩道ぞいに『パーク・ビュー』という文字が入っている建て物が目に入り、終点より一つ手前の停留所ではあったが、反射的にぼくはそこでバスを降りてしまった。暇にまかせて、村岡先生が住んでいるというマンションを見物する気にでもなったのだろう。
その『パーク・ビュー』というマンションは、それほど大きい建て物ではなかったが、白い地にうすいレンガ色を配色した落ちついた雰囲気で、一階にも商店は入ってなく、地下には駐車場がついているらしかった。ぼくはバス停のそばの自動販売機でコーラを一本買い、通りを反対に渡って、公園のベンチに腰をおろした。|欅《けやき》がいい具合に日陰をつくっていたし、マンション見物にも手ごろな角度だった。
下から数えてみると、その建て物は八階建てで、どの窓にもレンガ色のベランダに白い鉄の柵が渡されていた。親父も部屋の番号までは言わなかったので、どの階のどの窓が村岡先生の部屋なのか、見当もつかなかった。ぼくは自分の担任教師である村岡先生について、なにを知っているだろうかと、頭痛薬の効いている頭でぼんやり考えていた。村岡先生のほうは、たとえばぼくや麻子さんの家族構成や、生年月日から小学校での成績まで、およそ必要とも思われないことのほとんどを知っている。逆にぼくは村岡先生がどこの出身で、どこの学校を出て、兄弟がなん人いるのかも知ってはいない。結婚だってしているという噂を聞かないから、たぶんまだ|独身《ひとり》なのだろうと思っているだけのことだ。教師と生徒の関係なんて、そんなものだろうと言ってしまえばそれまでだが、考えてみれば、これはおかしなことだ。毎日顔を合わせていて、しかも一人の女としてまんざら無関心でもないくせに、その相手の身上は一切知らないというのだから。
頭の中に思い描いた村岡先生の顔に、親父の顔が重なってきて、ついぼくは本気で考えていた。親父が村岡先生に一目惚れしてしまったことは、まず間違いはない。親父が初めて会った女の人にあれほどのぼせあがるというのも、そうめったにあることではない。それどころか親父の歳を考えれば、女に惚れること自体、死ぬまでもう二度とないかも知れないではないか。こいつは冗談では済まないぞ、とぼくはますます本気になって頭をひねり始めた。早く新しい女を見つけろと毎日親父をせっ突いているのは、このぼくではないか。それはそうなのだ、たしかに、それはそうなのだが。
村岡先生の男の好みというのは、いったいどんなものだろう。生まれとか育ちとかになにか欠陥があって、髪もとかさない、ネズミ色のかえズボンにろくに|髭《ひげ》も|剃《そ》らない、自分より二十も歳上の男しか愛せないという性格をしていてくれるだろうか。いくらなんでも、それでは冗談がきつい。逆に親父のほうがもう少しなんとかなれば、いくらかでも可能性らしきものが出てくるのだろうか。齢の差は、これはなんとも仕方がない。村岡先生だって今の歳まで|独身《ひとり》でいるのだから、もしかしたら若い男では頼りないと思っているのかも知れない。きれいすぎる女には、案外そういう傾向があるという。親父がもう少し風体をととのえて、それでベンツかBMWででもこのマンションに乗りつけたら、いったい村岡先生はドライブでもしてくれる気になるだろうか。難しい問題のような気もするが、最初からあきらめたら話にはならない。とりあえず、やってみることだ。村岡先生だってなにか勘ちがいして、一度ぐらいデートをする気にならないとも限らないし、その日の体調の具合で親父のことを気に入らないとも限らない。そしてうまく間違って、結婚ということだって、まあ、まったく完全に、ぜったいにあり得ないということもないではないか。もしそうなったら――もしそうなったら、村岡先生がぼくのお袋になるのだ。理屈からいえばどうしたってそういうことになってしまう。村岡先生がぼくのお袋だって? 村岡先生がぼくに飯を作ってくれたり、洗濯をしてくれたり、掃除をしてくれたりするというのか。親父と三人で朝飯を食べ、親父は警察へ、ぼくと村岡先生は一緒に学校に出かける。夕飯だって今までみたいに魚かなにかを焼くだけではなく、村岡先生のことだ、きっと料理の本にでも出てくるような新しいものを食べさせてくれるだろう。親父だって毎日早く帰ってきて、三人で、あの一家だんらんとかいう気恥ずかしい時間をすごすのだ。そしてぼくは受験勉強のために自分の部屋にあがり、親父と村岡先生は親父の部屋に入って――そうだ、まさか二人して、一晩中将棋をさしているというわけではないのだ。毎晩下でそんなことをされて、ぼくには勉強しろと言われても無理な話だ。こっちは親子で向こうは夫婦なんだから、それぐらいの不公平は認めるとしても、ぼくの神経のほうが我慢してくれないだろう。ここは一発親父のために涙をのんで、ぼくがどこかにアパートでも借りるか。それともお袋のところへ行くか。
ふと、あまりにも空想がすすみすぎていることに気がついて、思わずぼくは赤面した。やはり頭の調子が本当ではないのだ。頭の|芯《しん》の部分がゆるんでいて、空想にブレーキが効いてくれない。これはこれで悪い気分ではないが、現実と非現実の境目が、自分の意志力では掴みきれなくなっている。頭痛薬の量を間違えたのか、それとも新井恵子が殺されたというショックがまだ頭から抜けきっていないのか。
ぼくはコーラを飲みほし、空カンを捨てるために、近くのゴミ|籠《かご》のほうに歩いていった。『パーク・ビュー』の出入口から男の人が一人出てきて、公園通りに停めてあった白いクルマに向かって歩きだした。相手がこちらに注意をはらっているわけでもないのに、とっさにぼくは欅の陰に身を隠した。自分とは関係のない人間を、関係のある場所で三日もつづけて見かけるという偶然が、眠っていたぼくの注意力を一気に呼び醒ました。三枝理事長が、なんだって村岡先生の住んでいるマンションから出て来なくてはならないのだ。三枝理事長も同じマンションに住んでいるのか。三鷹で、大手とまではいかないがかなり大きな建設会社をやっているというなら、まさかこれぐらいのマンションを住所にしているということはないだろう。だいいちここが住所なら、クルマなんか道に停めないで地下の駐車場に置けばいい。理事長はやはり、村岡先生を訪ねてきたのか。私立高校の理事長と教師、関係があると言えば関係はあるのだろうが、夏休みにわざわざ理事長のほうから教師を訪ねて来るほどのどんな関係があるというのか。それともこれはただの偶然で、三枝理事長はこのマンションに住む誰か別の人間を訪ねて来ただけなのか。
ぼくは三枝理事長の白いクルマが走り去ったあとも、欅の木にもたれかかって、三十分ほどぼんやりとマンションを眺めていた。公園通りを走るクルマは、排気ガスと埃を舞いあげ、森の奥では子供が|疳《かん》だかい声で|喚《わめ》いていた。もし理事長と村岡先生との間に、男と女の関係ができてしまっているとしたら、親父の恋は、いったいどうなってしまうのだ。
自分が今日、本当はなにをしに吉祥寺にやってきたのかを思い出して、ぼくが繁華街の方向に歩きだしたとき、マンションの出入口から村岡先生があらわれて、そこでまたぼくは立ちどまった。村岡先生は日に|灼《や》けていないからだに、白いショートパンツと|生成《きな》りの木綿のシャツを着て、足には|踵《かかと》の低い赤いサンダルをつっかけていた。肩には大きい布袋をさげていたが、どこか遠くに出かける様子には見えなかった。
村岡先生が繁華街の方向に歩きだし、ぼくも釣られて、道の反対側を、ゆっくりと歩きだした。少しうしろめたい気分を感じながらも、五十メートルほどの間隔をとって、ぼくは村岡先生のあとをじっと|尾行《つけ》ていった。村岡先生は交差点を渡って、まずステーションビルに入り、二階から三階へと、小さい店々の間をあてもなさそうにぶらぶらと歩いていた。たぶんなにも用はなく、散歩を兼ねた買い物かなにかなのだろう。
ぼくにとってこれは生まれて初めての尾行だったが、やってみると意外にかんたんなものだった。だいいち相手が警戒していない。それに人混みというのは、注意さえおこたらなければ、こっちも人混みの中に紛れることができる。これが住宅街での尾行だったらこうはいかなかったろうが、ぼくは村岡先生がランジェリーショップで下着を買ったり、本屋の棚の間を一巡りしたりするあとを、怪しまれることもなく楽についてまわった。村岡先生のショートパンツから伸びた二本の脚が、完全に目の奥に焼きついて、たぶん今夜あたり夢に見るだろうな、とぼくは思った。
村岡先生がステーションビルを北口に出て、アーケードのほうに歩きだしたのを確かめ、ぼくは急いで西友側にその道を先まわりした。いい加減尾行ごっこにも飽きてきたのだ。伊勢丹側からぼくがアーケードのほうにまわりこむと、村岡先生はまだ露店の花屋の前を、その花を眺めながらのんびりとこちらに向かって歩いているところだった。
あと七、八メートルのところで、村岡先生がぼくに気がつき、一瞬足をとめてから、またゆっくりとぼくの立っているところに歩いてきた。ぼくも声をかけることまでは決めていたが、その言葉をどういうものにするかまでは決めていなかった。
「こんにちは」と、とりあえず、ぼくが言った。
「夏休みにしちゃ、よく行き会うわね」と、視線をぴたりとぼくの顔に据えて、低い声で村岡先生が言った。「今日は、一人?」
「はい」
「めずらしいわね」
「これがふつうです」
「どこかに行ってきたの?」
「『コットンクラブ』でも観ようと思って。ここまで来たら駅から先生が出てくるのが見えました」
村岡先生が一度駅のほうをふり返り、また視線を戻して、にやっと笑った。もちろんこの場所で駅から出てくる人間なんか、見きわめられるはずはないのだ。
「戸川くん、いつもそうやって女の子に声をかけるの?」
「いえ、いつも、は『もしもし』って言うんです。それでいつも、逃げられます」
笑いかけた村岡先生の顔が、一瞬緊張し、心もち眉の端が上に|吊《つ》りあがった。
「あなた、新井恵子さんのこと、お父様からお聞きになった?」
「親父が昨夜、先生のところにお邪魔したと言ってました」
「お父様が直接伝えに来て下さったの。いったいどうなっているのか、わたしには解らなくなってしまったわ」
「昨夜のは交通事故です」
「でも岩沢さんのことがあったばかりでしょう? 自分のクラスの子がつづけて二人も死ぬなんて、いくら偶然でも、ねえ――どうしちゃったのかしら、今年の夏は」
「先生、今、時間がありますか?」
「あるけど?」
「買い物に付きあってもらえます?」
「買い物?」
「親父の服を買うんです」
「そう」
「選んで下さい」
「でも――」
「昨夜会ったでしょう?」
「でも、昨夜はどんな方か拝見してる余裕はなかったし、わたしが選んで、お気に召すかしら?」
「お気に召しますよ、ぜったい。先生が選んだものなら、親父はふんどし一つでだって町を歩きます」
村岡先生がその気になって、ぼくらは肩を並べて、東急のほうに歩きだした。今日の村岡先生は化粧をしてなく、唇にうすい色の口紅が塗られているだけだった。だいいちショートパンツにサンダル履きの村岡先生というのも、学校ではぜったいに見られない風景だ。いつもは紺かグレーのタイトスカートに白いブラウス、季節によってはその上にジャケットを着こむだけという、婦人警官といくらも変わらない服装なのだ。それが今日は、まるで十代の女の子のような恰好をしている。どっちがいいとも言えないのは、どっちもいいからだ。自分のとなりを歩いている女の人が、クラス担任の先生だということをつい忘れそうになって、ぼくはズボンのポケットにつっこんだ手で、太ももをいやというほど|抓《つね》ってやった。そうでなくても、この人は親父が一目惚れをした女の人なのだ。
公園通りを渡って東急に入り、エスカレータで紳士洋品売場にあがって、そこでぼくらは親父の服を選びはじめた。だいたいはぼくが選んで、村岡先生がうなずくだけだったが、親父にとってはこの『村岡先生がうなずいた』という事実が肝心なのだ。このことを言ってやったら、親父は感激して涙を流すにちがいない。
ぼくらはサマーセーターを二枚に、白い綿のブルゾンを一枚、それに上に合うようなうすい色の綿パンを二枚買って、またエスカレータで一階に戻ってきた。この服装で黒い革靴を履かせるわけにもいかないので、そこでグレーのゴム底のタウンシューズも買い足した。買い物をしている間は、村岡先生もいくらかは気が紛れたらしく、ぼくに向かって意味もなくにっこり笑ってくれたりもした。こんなふうに毎日|微笑《ほほえ》みかけられるとしたら、やっぱりぼくはアパートを借りて出ていくしかないだろう。
「お茶でもおごります、お礼に」と、東急を出て、公園通りを伊勢丹側に渡ったとき、ぼくが言った。
本当はデパートに入る前に、一時間以上ステーションビルの中をほっつき歩いていたわけだから、ぼくもくたびれていたし、村岡先生のほうはもっとくたびれているはずだった。
「ばかなことを言わないでよ。教師と教え子がデートの真似ごとみたいに、喫茶店なんかに入れるわけないでしょう?」
言われてみれば、一理はある。誰かに見られて教育委員会に告げ口をされないとも限らない。
「まあ、そうですね」
「冗談よ」
「なんですか?」
「おごるならわたしがおごります。一応は立場がありますからね」
微笑みかけて、また途中でやめ、少し間をおいてから、村岡先生が言った。
「よかったら、わたしの家に寄っていかない? すぐ近くに小さい部屋を借りてるの。お父様からお聞きにならなかった?」
「そこまでは――」
「コーヒーなら喫茶店よりもおいしいのを飲ませてあげるわ」
「はい――」
「本当はね、今日戸川くんに会えて、わたしのほうが助かったの。この前言ったけど、あなたとゆっくり話したいことがあるの。わたしも買い物に付きあったんだから、あなたもそのくらいは付きあいなさい。いいこと?」
「まあ――」
「今日もバイク?」
「いえ」
「帰りはわたしがクルマで送ってあげるわ。その荷物を持ってバスに乗る恰好なんて、あまり戸川くんに似合うとは思えないものね」
村岡先生の部屋は、四階にあったが、部屋番号は五〇六号になっていた。部屋の位置は建て物の一番北端、つまりぼくが外で見物していた場所からは、もっとも離れた位置だった。中は六畳の部屋が二つで、一つは寝室に、一つは居間に使われているらしかった。家具だとかカーテンだとかはすべてグリーンの濃淡で配色され、居間のほうには観葉植物の大きな鉢が二つ置かれていた。親父が『居心地のいい雰囲気』と感じた理由は、たぶんその部屋の整理の仕方が原因だった。埃一つ見えないように片づけられているのではなく、そのくせテーブルの上にも台所の棚にも、不必要なものはなにも置かれていないのだ。ベランダに洗濯物すら干されていなかった。ぼくは部屋の中に男の人の気配を探してみたが、特別そういうものも見あたらないようだった。
村岡先生が小さい台所でコーヒーをいれてくれている間、ぼくは濃いグリーンの|絨毯《じゆうたん》の上に置かれたうす緑色の座布団に座って、感心しながら部屋の中を眺めていた。同世代の女の子の部屋とは、やはり雰囲気がちがう。壁に映画俳優や歌手のポスターが|貼《は》ってあるわけでもなく、ベッドの上に間抜けな顔のばかでかいぬいぐるみが置いてあるわけでもなかった。おとなの女の人の部屋というのは、こういうものなのか。
「アイスコーヒーにする?」と、おとし終ったコーヒーのポットをぼくに見せながら、村岡先生が訊いてきた。
「ホットで」と、ぼくが答えた。
村岡先生は台所でコーヒーを二つのカップに注ぎ、円いステンレスの盆にのせて、それをぼくの前のテーブルのところまで運んできた。テーブルは昔の円いちゃぶ台だったが、それもきれいに緑色に塗られていた。
「お砂糖は?」
「いえ」
「ミルクは?」
「いえ」
「生意気なのね」
村岡先生がぼくの前に膝をくずして座り、コーヒーカップを渡して、ふっと一つため息をついた。
「すぐクーラーが効いてくるわ」
「はい」
「お飲みなさいな」
「はい」
そのコーヒーはペーパーフィルターでおとしたやつで、ぼくがいれるパーコレータのやつよりは、舌ざわりはずっと上品だった。
「キリマンジャロをベースにして、アイスコーヒー用の豆を三分の一入れてあるの。少しにがい?」
「いえ。ちょうどいいです」
「遠まわしに言っても仕方ないから、率直に言うけど、わたし戸川くんに協力して欲しいの」
「みんなにもっと勉強するように言えとか?」
「冗談を聞くために、あなたを連れてきたんじゃないのよ」
「はい」
「わたしのクラスでなにが起こっているか、教えて欲しいの。学校の中で、今わたしの立場が微妙になっているの、今度のことで特に」
「先生の責任じゃ、ないと思うけど」
「でも中にはわたしに責任をとらせたがってる人もいるの、わかる? 教師だってただの人間だもの、人の好き嫌いもあるし、派閥だってあるわ。わたしのことを快く思っていない人たちにとっては、今度のことは絶好の機会なの。特に岩沢訓子の件では、担任が自殺の原因すら知らないんですものね。ふつうの生徒にはこんな話はできないけど、あなたなら解ってくれるでしょう?」
村岡先生の目が、ぼくの顔の上で動かなくなったので、ぼくのほうが視線を外した。だいたいぼくはもう探偵事務所を閉めてしまったわけだし、村岡先生に隠しておく理由は、なにもないのだ。ぼくの知っていることを話してやって、逆に村岡先生から情報をもらったほうが、親父の捜査をすすめさせる上で都合がいいのかも知れなかった。
「先生を快く思っていない人たちって、誰のことですか?」と、ぼくが訊いた。
「一番は今井先生でしょうね。それに岩田先生。いろんなことを校長先生に吹きこんでるらしいわ」
「いろんなことって?」
「訊くのはわたしのほうでしょう?」
「お互いに、信頼関係は必要です」
「戸川くんはわたしのこと、信頼していないわけね?」
「最初は自己紹介から始めるものです。ぼくが先生のことで知ってるのは、名前だけですから」
村岡先生が座りなおし、下を向いて、くすっと笑った。
「たしかに信頼関係は必要よね。それに協力して欲しいのは、わたしのほうなんだし」
村岡先生の太ももが気になって仕方がなかったが、ぼくはなるべく、そっちは見ないようにしていた。
「その、『いろんなこと』ですけど――」
「よくあるやつよ。わたしの私生活がどうだとか、男関係がどうだとか」
「風見先生との噂なんかで?」
「知ってたの?」
「最近聞きました。専門家の意見では、ただの噂ということです」
「お茶くらいは飲んだわ。なん度かね」
「岩田先生とも、お茶を飲んだんですか?」
「そう。そしたら結婚してくれと言われたわ」
「もちろん断った――」
「申しこまれる毎にいちいち結婚していたら、からだがいくつあっても足りないものね」
「先生はなぜ、結婚しないんですか?」
「しなくちゃいけない?」
「独身主義だとか?」
「そんなことはないわ。今はただ仕事が面白いだけ。わたし父が早く死んで、アルバイトをしながら大学を出たの。三枝さんが父の古い友人だったもので、そのお世話でこの学校に勤めるようになったわけ。今がわたしの人生で一番落ちついたときかしら。この仕事も、この学校も好きなの。一度問題を起こして|辞《や》めさせられた教師なんて、かんたんに使ってくれる学校もないでしょうしね。お世話になった三枝さんのためにも、わたしがへんなふうに責任をとって辞めるわけにはいかないのよ。ただ三枝さんがわたしの側に立ってくださるのが、校長先生には面白くないのかも知れないけど」
なるほど、そういうことだったのか。三枝理事長と村岡先生がそういう関係なら、まだ親父に登場のチャンスがないわけではない。それに村岡先生がお父さんを早くなくしたということであれば、父性愛とかいうやつに飢えているとも考えられる。これはひょっとすると、本当にひょっとするのか。
「なに?」と、ぼくの顔をのぞきこんで、村岡先生が訊いた。
「はい?」
「今、笑わなかった?」
「いえ――その、風見先生のことですけど、やっぱり先生に結婚を申しこんでいるんですか?」
「それは、まだ」
「そのうちには?」
「たぶんね」
「答えは?」
「ノー」
「タイプじゃないわけですね?」
「専門家が言ったの?」
「はい」
「酒井さんでしょう?」
「女の子っていうのは、みんな噂評論家みたいです」
「それでだいたいは当っているわけね」
コーヒーを一すすりしてから、ぼくが訊いた。
「風見先生は、女生徒と問題を起こしたようなこと、ありましたか?」
「今度のことと関係あるの?」
「もしかしたら」
村岡先生もコーヒーを口に含み、値ぶみするように、ぼくの顔をちらっと横目でうかがった。
「あまり職員同士のことは言いたくないけど――」
「あるんですか?」
「三年ほど前に一度、あったらしいわ。あまり大きな問題にはならなかったけど。風見先生は校長先生の遠縁にあたるらしいのね」
「最近の噂は?」
「聞かないようね。でも誘惑はあるんじゃないかしら」
そろそろぼくのほうが事件の説明を始める番だ。ぼくの話で村岡先生が教師としての自信を無くしたとしても、それは村岡先生の問題だろう。
「先生は岩沢訓子が妊娠していたこと、知ってましたか?」
「なんのこと?」
「妊娠です、ふつうの意味の」
案の定村岡先生の顔色が変わり、うすく口紅を塗った唇が、一瞬内側にめくれこんだ。
「だってそんなこと、お家の方もおっしゃらなかったわ」
「言いふらすことじゃないでしょうからね。四カ月だったそうです」
「あんな真面目な子が?」
「女なら妊娠くらい誰でもできるそうです、親父の意見ですけど」
「自殺の原因は、それだったの――」
「それが、もしかしたら自殺じゃないかも知れません」
「だって、警察で――」
「最初は警察も自殺で片づけていたけど、新井恵子のことで、たぶん岩沢訓子の事件もやり直すと思います」
「やっぱり新井さんのことは、関係あったの?」
「と言うより、岩沢訓子と新井恵子に関係があったんです」
「あの二人に、関係?」
「二人は秘密の遊び友達でした」
「秘密の? 遊び友達って?」
「先生だってクラスの中で、誰と誰が仲が良くて、誰と誰が仲が悪いとか、そのくらいの見当はつくでしょう?」
「それは、だいたいは――」
「岩沢訓子と新井恵子が、二人してディスコ通いをしていたなんて、考えられますか?」
「二人して――」
「クラスの他の女の子さえ気がつかなかったんです。つまり岩沢訓子も新井恵子も、先生やクラスのみんなが思っていたような、ただ真面目でおとなしいだけの生徒じゃなかった。もう一つ誰にも解らないのは、岩沢訓子を妊娠させた相手の男です。新井恵子だけは知っていたんです。だから、殺された」
「殺された?」
「親父はその線で捜査をするはずです」
「つまり、岩沢さんも?」
「たぶん」
村岡先生のからだが、うしろに崩れ、濃いグリーンの絨毯の上に白い腕と脚が大きく投げ出された。とっさにぼくも腰をうかせたが、村岡先生のからだが倒れきるのには間に合わなかった。
ぼくが村岡先生の頭の下に手を入れて、抱きおこすと、村岡先生は|肘《ひじ》で自分のからだを支え、だいじょうぶだ、というようにぼくの手の中で強く首を振ってみせた。
「信じられる? 教え子が二人も、自殺や事故ではなくて、殺されたなんて――」
それは完全に、ぼくにではなく、自分の部屋の壁に向かって呟いた言葉だった。ぼくは村岡先生の背中から手を離し、立て膝をついて、横からしばらく村岡先生の顔を眺めていた。目が大きく見開かれているのは、怒りや悲しみのせいではなく、困惑と恐怖からのものらしかった。
五分ほど黙って、大きく息をしていてから、ぼくのほうを向いて、かすれた声で村岡先生が言った。
「戸川くん、お水、くれる?」
ぼくが台所から水を持ってきてやると、村岡先生は目をつぶってそれを一息に飲みほし、からだをまっすぐに立てなおして、胸の奥から一つ、大きなため息をついた。ぼくも元の場所に戻って、カップの底に残っていたコーヒーの残りを、ちょっと口に含んだ。
「そんなことって、本当にあるものなの?」と、いつもの教室での顔に戻って、村岡先生が言った。
「そのうち、証拠も見つかります」
「あなたよく平気な顔していられるわね、感情がないみたい」
「死んだ祖父さんがそういうふうに|躾《しつ》けたんです。飯を食うとき、音をたてちゃいけないって」
「さっき風見先生のことを訊いたのは?」
「風見先生のクルマに、岩沢訓子が乗っているのを見た子がいるんです。岩沢訓子だって一人じゃ妊娠はできない」
「まさか――」
「風見先生以外に、岩沢訓子の周囲から男の名前が出てこないんです。もちろんただの偶然だった可能性も、ありますけど」
「だけどあなたの言うことを聞いていると、岩沢さんを妊娠させた男が岩沢さんを殺し、その発覚を恐れて新井さんも殺したように聞こえるわ。それでもし――」
「可能性の問題を言っただけです、というより、第一案ていうやつかな。どっちにしてもこれは親父の仕事ですから。先生も親父に協力してやって下さい。岩沢訓子や、新井恵子のためにも」
「お父様には、なんとしても犯人を捕えてもらわなくては――それにしてもそんな探偵小説みたいな話が、実際にわたしのクラスで起こっていたなんて」
村岡先生が台所に立ち、布袋の中から煙草の箱を出して、ガラスの灰皿と一緒にそれを持って戻ってきた。
煙草に火をつけ、|自嘲《じちよう》っぽく微笑みながら、村岡先生が言った。
「戸川くん、本当はわたしのこと、軽蔑していたんでしょう? 自分のクラスで起こっていることも知らないで、この女はよく教師でございますなんていう顔をしていられるなって。仕事が面白いとか好きだとか、責任をとりたくないだとか――いったいわたし、なにを考えていたのかしら。これじゃ生徒に軽蔑されても、仕方のない教師だわよね」
「煙草、もらえますか?」
村岡先生がテーブルの上に煙草の箱を押し出し、一瞬その手を止めて、くすっと笑った。それからまた少しぼくのほうに押し直し、今度は首を小さく振って、諦めたようなしかめっ面をつくってみせた。
「岩沢さんも新井さんも、なぜわたしに相談してくれなかったのかしら。やっぱり、わたしでは頼りなかったんでしょうね。自分のことしか考えていないような、こんな教師では――」
ぼくにだってそのとき、「先生の責任ではない」とか、「悪いのは犯人だ」とかいうぐらいの|台詞《せりふ》は思いついたが、それを言葉に出しても意味もないことは解っていた。ぼくは煙草を一本もらって、村岡先生のライターで火をつけ、天井に向かって、ふーっと煙を吐き出した。クーラーの風に流されて、煙がものすごいスピードで部屋の中に紛れていく。
「こんなことはみんな忘れて、海にでも行ってしまいたいわ」と、自分の煙草の先を見つめながら、村岡先生が言った。「そんなふうに思うこと自体、教師として未熟な証拠かも知れないけど」
村岡先生も、たぶんぼくの返事を期待したわけではなかった。ぼくはなにも答えず、煙草を一本吸いおわるまで、黙って天井を眺めていた。親父の言ったとおり、公園通りを走るクルマの音もほとんど聞こえなかった。
「帰ります」と、煙草を灰皿でつぶして、ぼくが言った。
「送って行くわ」と、村岡先生がぼくのほうに顔をあげた。
「一人で帰れます」
「一人で帰れるのは解っているわ。でも送って行きたいの。わたしもこのまま一人で部屋にいたら、気が|滅入《めい》ってしまうもの」
村岡先生が立ちあがり、寝室に歩いて、居間との境にある緑色の|襖《ふすま》を、ぴったりと閉めきった。自分の脚がぼくの精神衛生に悪い影響をあたえることに、やっと気がついたらしかった。
村岡先生がショートパンツを白いスリムのGパンに|穿《は》きかえ、コーヒーカップを流しに出し、クーラーを切って、ぼくらは一緒に部屋を出た。繁華街の|喧噪《けんそう》が四階の踊り場まで、どよめきのように押し寄せていた。今日買った服を親父が着て、村岡先生の部屋のドアの前に立った光景が頭にうかんで、なんとなくぼくは恥ずかしいような気分になった。事件は事件、これはこれ。そう思ったって、たぶん、いいのだろう。
地下の駐車場に置いてあった村岡先生のクルマは、白いホンダのシティで、夏休み前まではカローラに乗っていたはずだから、夏のボーナスで買いかえるかなにかしたのだろう。村岡先生でさえ新車を買えるというのに、親父が十年もフォルクスワーゲンのポンコツに乗っているというのは、やはり親父にとっては減点材料になる。いくら村岡先生が『今どきの若い女にしてはしっかりしている』といっても、ポンコツよりは新車が好きに決まっている。親父のクルマについては、思っていたよりもずっと緊急な案件かも知れなかった。
調布駅までの道は村岡先生が知っていたので、ぼくは助手席で、親父の恋の|行方《ゆくえ》についてとりとめもなく思いをめぐらせていた。クルマが京王線の踏切りを渡り、市役所の前をすぎて、左と右に一度ずつ曲がると、もうぼくの家が見えだしてくる。ぼくがもの心ついた頃は付近にまだ畑が残っていた気もするが、今では住宅しか建っていない。その住宅街の中で、ぼくの家が建っている部分だけ小さい森のように見える。こんな古いばかでかい家に男が二人だけで住んでいるわけだから、近所ではたぶん、変わり者の親子だと思っているだろう。幽霊屋敷だという噂がたたないだけありがたいようなものだった。
クルマのまま門を入り、クルマまわしの途中で村岡先生がクルマをとめたとき、庭のすみでは奇妙な光景が展開中だった。ホースで親父が水を|撒《ま》いていたのだ。それもステテコに長靴というスタイルで。親父がこんな時間に家にいること自体めずらしいのに、おまけに今日は水まで撒いている。それだけならたんにめずらしい現象というだけで済ませてもいいが、ステテコというのは、どんなものだろう。ステテコなんか穿いた男に恋をする資格が、あるものか、どうか。
ぼくは三つの紙袋をさげて、直接庭の親父のほうに歩いていった。ぼくのうしろに女の人がついて来ているのは知っていただろうが、どうせまた女子大生かなにかを引っぱり込んだぐらいに思って、親父はこちらを振り向きもしなかった。
「ずいぶん早いね」と、ホースの先を気持ち良さそうに振りまわしている親父に、ぼくが声をかけた。
「しばらく休みもとってないしな」と、まだ村岡先生には気づかずに、親父が答えた。「聞きこみは若い連中にやらせてる」
「酒屋からビールが届いてたろう?」
「冷蔵庫に入れておいた」
「父さんが?」
「他に誰がいる?」
「誰もいないからさ、訊いたんじゃないか」
振りかえった拍子に、親父の目がやっと村岡先生に届き、開いたままのかたちで親父の口の動きが、ぴたりと止まってしまった。ホースを下に落とさなかったという事実だけが、かろうじて親父の人生経験の豊かさを物語るものだった。
「昨夜はお世話になりました。なにもおかまいできなくて――」と、ちゃんとおとなに対する喋り方で、村岡先生が言った。
親父のほうはただ一声、「あーっ」と叫んだだけだった。
「吉祥寺で行き会ったんだよ。父さんの服も先生に選んでもらった」
「ああ――」
「どこか、具合が悪いのかい?」
「ああ、どうして?」
「こんなに早く帰ってきてさ」
「具合が悪けりゃ、水なんぞ撒かん。早く先生に中に入ってもらえ。こんな所に立たせておいたら、日本脳炎になっちまう」
親父の顔からはホースで水をかぶったように汗が流れていたが、それは暑さとはあまり関係ないようだった。親父が村岡先生にしつこく中に入るようにすすめ、村岡先生も承知して、ぼくと村岡先生は玄関から、親父は居間のほうから、それぞれ家の中に引きあげた。親父が今日に限って早く帰ってきていたのは、恋をした人間特有の、霊感のようなものが働いたせいかも知れなかった。
居間のソファの上には、親父が取り込んだ洗濯物が投げ出してあったが、とりあえずぼくはそれをお袋が使っていた部屋につっ込み、村岡先生にはそのソファに座ってもらった。
自分の部屋に消えていたはずの親父が、急に顔を出して、ぼくに言った。
「お前がつくる、あのなんとかっていうレモン水な。先生にはあれがいいんじゃないのか?」
「解ってるよ」
「レモンはあるのか?」
「あるよ」
「俺は番茶でいい」
「解ってるから、早く着がえておいでよ」
親父がうんとうなずいて、自分の部屋に戻っていき、ぼくのほうは台所にまわって、レモンスカッシュを二つ作って村岡先生のところに戻っていった。
村岡先生はクーラーの効いた居間のソファに、浅く座り、呆れたような顔で部屋の中を見まわしていた。天井の高さだけでも今の家とつくりがちがうから、初めての人にはそれだけでもめずらしいのだろう。
親父もすぐにやって来て、軽い|咳《せき》ばらいのようなものをやりながら、村岡先生の向かい側に腰をおろした。親父が着てきたのは、紺の|浴衣《ゆかた》だった。これでもぎりぎりの決断なのだ。浴衣なんて一度も着ない夏は、いくらでもあるのだから。
「昨夜は突然にお邪魔をして、失礼をいたしました」と、着るものを着て落ちついたのか、改まった口調で、親父が言った。
「失礼は私のほうでした」と、村岡先生もまた|挨拶《あいさつ》をやり直した。「お茶を差しあげるのも忘れてしまって。昨夜は、混乱していたものですから」
ぼくは村岡先生にレモンスカッシュをすすめ、番茶をいれるために台所に引きあげた。どうせしばらくは挨拶合戦をやっているのだ。
ぼくが番茶をもって居間に戻ってみると、案の定親父は、雨がふらないので芝生が枯れかかっているというようなことを、真面目くさった顔でくどくどと喋っていた。村岡先生も|相槌《あいづち》をうっていたが、特別天気に関心があるわけではなさそうだった。
「昨夜のことで、なにか解った?」と、親父の側に座って、ぼくが訊いた。村岡先生だって天気よりはその話に関心があるに決まっている。
「現場の目撃者が現われん」と、番茶を一すすりして、親父が言った。「たぶん出てこんだろうな。意外に人通りの少ない道だし」
「新井恵子はなぜそんな道を歩いていたんだろうね」
それが解れば苦労はないという目で、ちらっとぼくの顔を眺め、また親父が、しゅっと番茶をすすった。
「昨日の五時ごろ、被害者が家の近くのバス停から三鷹行きのバスに乗ったのを目撃した者がいる。今若い奴に足どりを追わせているが――」
「中央線に乗ったのかも知れない」
「まあな、足どりのほうからは、なにも出てこないかも知れんな」
「現場検証はどうだった?」
「手がかりは、無くはなかった」
「ただの事故では、なかったということですか」と、少し、村岡先生が肩を前にのり出した。
親父がその村岡先生とぼくの顔を見くらべ、判断をしかねているように、ちょっと眉をもちあげた。
「ある意味では、今度のことでは先生が一番の被害者だよ」と、ぼくが言った。「それに父さんには、一番の協力者かも知れないし」
あとのほうの台詞が功を奏したのか、しばらく間をおいてから、親父が口を開いた。
「通常、人を|轢《ひ》いた場合の運転者というのは、その場で急ブレーキをかけて一度クルマを止め、そこで事後処理を考える。救急車を呼ぶなり、被害者を病院に運ぶなり、あるいはそのまま逃げ去るなり。急ブレーキをかけるからこそ、アスファルトでもタイヤ|痕《あと》が残るわけだ。ところが昨夜の現場には運転者がブレーキを踏んだ|痕跡《こんせき》がみとめられない。つまり運転者が極度の|酩酊《めいてい》状態か薬物の中毒症状かなにかで、人を轢いたことにまったく気がつかなかったか、あるいは――」
「最初からブレーキを踏む意志が、無かった」
「そういうことだ」
「父さんはどっちだと思う?」
「一応は、後者だがな。ただ検死の結果では、死因は|脳挫傷《のうざしよう》でほとんど即死だったろうということだ。まともな人間が|しらふ《ヽヽヽ》で、そこまで故意になんのためらいもなく人一人を轢き殺せるものか――まあ、クルマを見つけてみれば解ることだろうが。ウインカーの破片が遺体のそばで見つかったし、そのほうでなんとかなると思う」
「ウインカーの破片だけで、クルマを見つけられるものですの?」と、頼りなさそうな声で、村岡先生が訊いた。
「時間はかかりますが、だいたいはなんとかなるものです」と、きっぱりと親父が言い切った。「かならず発見してみせます。ご安心下さい」
親父と村岡先生が見つめあって、二人が同時に、そっとうなずいた。親父の男らしさがいくらかは村岡先生にも伝わったかも知れないが、ステテコのイメージが、これでどれぐらい割り引きになってくれるか。
ここは一つ、親子の義理で親父の|掩護《えんご》射撃といこう。
「先生、今日は夕飯を食べていって下さい」
「え?」
「そうだ。それがいい。そうだそうだ」
「帰っても気が滅入るだけですよ」
「そうだそうだ」
「喋ってるうちに事件の手がかりになるようなこと、思い出すかも知れないし」
「そうだそうだ」
「父さん」
「なんだ?」
「『そうだそうだ』以外の言葉も喋れるだろう?」
「そうだ――そうだな、登喜和鮨でも取るか?」
「あそこは調布で一番まずいって言ったの、父さんだよ」
「そうだ、な――これから渋谷にでも出かけるか?」
「先生はそんな気分じゃないよ」
「それもそうだ」
「ぼくがなにか作るさ」
「またハンバーグか?」
「父さんだって好きじゃないか」
「そりゃあ、そうだ」
「あのう――」と、村岡先生が話に入ってきた。「さっきから気になっていたんですけど、お手伝いさん、お休みを取ってらっしゃるわけですか?」
「そういうのは、おらないんです」と、親父が答えた。
「いないって?」
「要するに、つまり、いないわけですな」
「だって、奥様はたしか――」
「そうなんですが」
「それでお手伝いさんも置いていないということは、まさか、このお|邸《やしき》にお二人で?」
「そういうことになります」
村岡先生が、呆気にとられた目で、まじまじとぼくと親父の顔を見くらべてきた。やっぱり他人には変わり者の親子に見えるのだ。
「それじゃあの、ふだんの料理だとか、洗濯だとかは――」
「二人でまあ、なんとかやっております」
二人でだって? よく平気でそんなことが言えるものだ。
「そのう――」と、親父が一つ咳ばらいをした。「春のやつに、少し気むずかしいところがありまして、わたしが家政婦を雇うと言っても、なんといいますか、わけの解らん他人を家に置くのをいやがるもんですから、つまり、ご覧のようなあり様なわけです」
刑事のくせに、嘘つきは泥棒の始まりじゃないか、と怒ってみても仕方はない。だいいち親父もぼくの顔を見ようともしないから、内心ではけっこう心苦しく思っているのだ。
村岡先生がソファに深くからだを沈め、下を向いて、くすくすと笑いだした。こんなふうに本当におかしそうに笑う村岡先生は、学校でもあまり見たことはなかった。
「笑ったりして、ご免なさい。でも最初からなにかおかしいような気はしていましたの。お父さまがご自分で水を撒いていたり、戸川くんがお茶を運んできたり。まさか本当にお二人だけでお暮しだなんて、信じられませんわ」
「親父はけっこう家事が得意なんです」と、ぼくが言った。「掃除や片づけや洗濯なんか。ねえ父さん?」
「うん――まあ、そういうことだ」
「でもやっぱり、ご不自由じゃございません?」
「今のところはなんとか。わたしとしては、|倅《せがれ》と気の合う女性だったら、まあ、家に入ってもらってもかまわんと思っておるのですが。なあ春?」
「いつもそう言ってたっけね」
「そうだ。いつもそう言ってる」
「戸川くんとしては、お父様が再婚なさることに反対なの?」
「とんでもない――親父はたぶん、ぼくがひがまないかと思って心配してるんです。ちがうかい父さん?」
「そんなところだな」
「そんなところだそうです」
村岡先生がまた笑って、今度は微笑みの残った目で、ゆっくりとぼくと親父の顔を見くらべてきた。
「わたくし、夕飯をご|馳走《ちそう》になって参りますわ。かまいません?」
同時に、ぼくと親父が勢いこんでうなずいた。
「それにもしかまわなければ、わたくしがなにかお作りしますわ。これでも一応は女ですから」
今度も同時に、ぼくと親父は前よりももっと勢いこんでうなずいた。ぼくに文句があるはずはないし、親父のほうは感激で今にも泣きだしそうな顔だった。
それにしても、なんという話の展開だろう。順調すぎて恐いぐらいだ。こうなったらもう冗談で済まされる話ではなくなってくる。村岡先生だっていくら一人で部屋に帰りたくないといっても、この家や親父のことがまるっきり気に入らなければ、夕飯を食べていく気になるはずはないし、まして自分で作ってぼくたちに食べさせようなどと、思うはずもない。女の人が男に料理を作る気になるのは、相手のことがかなり気に入った証拠ではないのか。
買い物は村岡先生が行ってくれることになり、ぼくは渋る親父を説きふせて、無理やり村岡先生にくっつけて二人を送り出した。親父はお袋がいたときでさえスーパーの食品売場なんて行ったことはないのだから、たまにはこういう経験をさせる必要があった。ぼくが今まで好きで家事をやっていたわけではないということが、きっとこれで解ってくれるだろう。
ぼくは二人が出かけたあと、家の中と外の電気をつけてまわり、洗濯物をたたんでそれぞれの場所に配ってから、風呂の仕度をして、台所も少し片づけた。途中一度電話が鳴ったが、居留守をつかわせてもらった。誰からのものか、だいたいの見当はつく。
二人が並んで帰ってきたときの光景は、まったく、記念写真にでも撮って残しておきたいようなものだった。浴衣を着て、両手にスーパーマーケットのビニール袋をぶらさげている親父の姿を見たら、お袋ならきっと気絶していたところだ。髪の毛が|濡《ぬ》れるぐらい頭から汗を流していたが、それはビニール袋の重さとは無関係だろう。家事が得意な親父としては、まさか生まれて初めてスーパーの食品売場に行ったことなど、口が裂けても村岡先生に言うわけにはいかなかったのだ。
親父を風呂場に送りこみ、ぼくと村岡先生で食事の仕度にとりかかった。ぼくのほうは食器を出したり調味料のある場所を教えたり、ただ村岡先生のまわりをうろうろしていただけだったが、村岡先生の料理の腕は、幸か不幸か、英語を教えることよりは上だった。
出来あがった料理はヒラメのバター焼きと、中華風に味つけをした牛肉のステーキ、それに実に色どりの見事なサーモンサラダだった。一緒に食品売場をまわりながら、村岡先生に訊かれて、親父が『ヒラメのムニエルは好物だ』と答えたというのだから、これはもうどうにも仕方がない。食べ物の好みなんてそのうちゆっくり覚えてもらえばいいわけだし、だいいちもし本当に村岡先生が結婚してくれるということにでもなれば、好みなんか親父のほうが変えればいいのだ。どうしてもイワシの丸干しが食べたいのなら、女になんか惚れなければいい。
買い物の中にはなぜかワインも含まれていて、親父がぎこちない手つきでグラスに注いでまわり、なんとなくぼくらは乾杯した。テレビかなにかで見て、親父も一度そういう真似をしてみたかったのだろう、村岡先生はグラスに口をつけただけだったが、親父はやはり昂奮していて、一本の白ワインなどものの十分とはもたなかった。
ぼくの|嗜好《しこう》からいって、村岡先生の味つけは、ほとんど|完璧《かんぺき》だった。塩加減のわりに|こく《ヽヽ》があり、|胡椒《こしよう》とにんにくの効き具合がちょうどいい。こんな料理を毎日食べられるというのに、アパートを借りなくてはならないというのも、残念なことだ。親父についても、たぶん味は解っていないのだろうが、この|晩餐《ばんさん》に関しては大いに満足そうだった。ナイターを観る気にもならないというのは、よっぽどのことなのだ。村岡先生も村岡先生で、自分が行ったアメリカの話などを聞かせてくれて、昼間よりはずっと屈託のない表情になっていた。今日の一回だけでなく、『毎日こんなふうに食事をするのもいいかも知れないな』と村岡先生が思ってくれれば、もうこっちのものだ。
食事が一段落し、ぼくがいれてやったコーヒーを三人で飲みはじめたとき、また電話が鳴った。
二回コールを聞いてから、ぼくが言った。
「父さん、出てみてよ」
「どうして?」
「どうしてもさ。今日だけでいいから、頼むよ」
親父が渋々腰をあげ、電話のほうに歩きかけた。
「ぼくにだったら居ないって、今日は帰って来ないって」
受話器をとりあげた親父が、ぼくが言ったとおりの台詞を喋ったところをみると、相手はやはり麻子さんらしかった。話し始めれば長くなるし、まだぼくは麻子さんと長話をする気分にはならなかった。
席に戻ってきて、ぼくらの様子を興味深そうな顔で見くらべている村岡先生の目を気にしながら、親父が言った。
「なにか、用がありそうな感じだったな。なんで自分で出ない?」
「都合があってさ」
「都合って?」
「いろいろさ」
「まさか、お前――」
「だいじょうぶだよ」
「だいじょうぶ? なにが?」
「父さんの考えてるようなことは、まだなにもしていないってことさ」
村岡先生がいなければ、親父の攻撃はまだつづいていたにちがいないが、その場はとにかくもの解りのいい父親像を演じてみせてくれた。女は優しい男に|魅《ひ》かれるという、女子大生のアンケートかなにかを思い出したのだろう。
「わたし、大変なことを忘れていたわ」と、急に、村岡先生が言った。「今日は新井さんのお通夜じゃないかしら?」
「通夜は明日です」と、別の話題が出てきたことに、ほっとしたような顔で、親父が答えた。「明日の葬式では日が悪いとかで、一日ずつくりさげるそうです」
「よかった――教え子のお通夜も思い出さないなんて、ずいぶんいい加減な教師ですわね」
「少しは忘れたほうがいいですな」
「忘れていたんです。ほんのさっきまでは」
村岡先生が笑って、頬に陰ができたが、それはせっかく忘れていたものをまた思い出してしまったという、自嘲気味の笑いだった。
「コーヒー、もう一杯飲みますか?」と、ぼくが訊いた。
「もう沢山。おいしかったわ。豆はなに?」
「UCCのブレンド」
「そう――でもどうしてかしら。わたしがいれるよりおいしいみたい」
それからぼくたちは事件のことには一切触れず、三十分ばかりぼくと村岡先生で、親父の唯一の趣味である歴史の講釈をありがたく拝聴した。それによるとこの辺一帯は、昔朝鮮からの渡来人が住みついて開拓した土地だというのだが、果たしてどんなものだろうか。
村岡先生が帰ったのは、十時をだいぶ過ぎてからのことだった。親父の講釈が終ったあと、村岡先生は食器の片づけを手伝ってくれ、おまけに今日買ってきた、親父のズボンの裾あげまでやってくれたのだ。親父が眠る気になれないのも、まったく無理のないことだった。
村岡先生が帰っていったあと、二人ともどうにも落ちつかず、けっきょく親父は寝酒のウイスキーをダイニングに持ち出してきて、一人でちびちび飲みはじめた。テレビではもうプロ野球ニュースが始まっていた。いいことのある日は重なるもので、この日は原がホームランを打って巨人が勝っていたが、親父はそのニュースにもほとんど関心を示さなかった。たぶん生まれて初めて風邪をひいた小学生みたいな気分なのだろう。熱があるのは解っているが、その熱にどういう意味があるのか、自分自身見当もつかないのだ。
プロ野球ニュースが終って、自分の部屋に歩きかけた親父が、ふとぼくのほうを振りかえった。
「なあ春、今夜食った魚、ありゃあいったい、なんだったのかなあ?」
5
朝早く電話で起こされることほど、腹の立つものはない。まして前の晩にいい気分でべッドに入り、次の日は可能なかぎり朝寝をしてやろうと決めていたときには、なおさらのことだ。五回コールを聞いたあとも、六回目はかならず止まると信じて、ぼくはひたすら無視を決めこもうとした。しかしNTTの陰謀で、電話機というのは相手が受話器を置かないかぎり、六回でも七回でも無際限にコールサインを発しつづける構造になっていた。
ぼくは親父と電話会社と電話の相手に頭の中で悪態をつきながら、目を閉じたまま枕元に腕を伸ばした。忘れていて、しかも忘れてはいけなかったことは、麻子さんには朝早くぼくのところへ電話をかける病気があったということだ。
「今、ラジオ体操から帰ってきたところなのよ」と、はっきりそれと解るほど不機嫌な声で、麻子さんが言った。
「ぼくは多摩川に|鮭《さけ》を呼び戻すのに反対する会に入ってるんだ」と、ぼくもはっきりと不機嫌なことが解る声で言い返した。
「なんのことよ?」
「鮭の迷惑も考えろってことさ」
ちょっと間があってから、麻子さんが言った。
「いつ帰ってきたのよ?」
「なにが?」
「昨夜は帰らなかったんでしょう?」
「ああ――」
「どこに行ってたの?」
「映画の、オールナイト」
「嘘!」
「どうして?」
「昨夜戸川くんのお父さんと話したとき、うしろで音がしたわよ」
「顔だけじゃなくて、耳もいいのか」
「どうして嘘なんかつくの?」
「いろいろあるんだ」
「いろいろって?」
「だから――」
「|卑怯《ひきよう》だわよ」
「朝食は食べたのか?」
「まだよ」
「朝飯を食べてから、もう一度電話してくれないかな」
「どうして居留守なんかつかったのよ」
「あとで説明するよ」
「新井さんのこと、知っていたんでしょう?」
「知ってた」
「連絡しあう約束だったじゃない?」
「昨日は、君には電話したくなかった」
「どういう意味よ?」
「一口じゃ言えない」
「はっきり言いなさいよ」
「まだ頭が眠ってるんだ」
「今言った言葉、ちゃんと説明しなさいよ」
「あとで話すから」
「今言ってよ」
「なん時だと思ってるんだ?」
「なん時でもかまわないわ。ちゃんと説明して。わたしには訊く権利があるわ」
「時間によりけりだ」
「早く言いなさいよ」
「とりあえず切る」
「卑怯者!」
「いい加減にしろよ。一度キスしたくらいで」
言ってから「しまった」と思ったが、もう遅かった。この責任はぜんぶNTTにある。
「解ったわ」と、気味の悪いほど落ちついた声で、麻子さんが言った。「ゆっくり寝かせてあげるわ。好きなだけ眠りなさいよ。ずーっとずーっと眠って、あんたなんかもう死ぬまで目を醒まさなくてもかまわないわよ」
電話が切れたあと、麻子さんの好意に甘えて、あとぜったいに一時間は寝てやるぞ、とぼくは意地になってタオルケットを顔の上に引きあげた。そうやってまたあの安逸な平和が戻ってくるのを待っていたが、中途半端に目醒めてしまった神経は、もう二度とぼくに眠りを運んではこなかった。
それでも一時間ぐらいベッドの中で頑張ってから、八時半になって、とんでもなく不機嫌な気分でぼくは下におりていった。親父はもう起きていて、ダイニングのテレビをつけて新聞を開いていた。ぼくの気分とは逆に、親父のほうは上機嫌だった。自分で湯を沸かしてお茶を飲んでいただけでなく、昨日買ってきた服まで、もうしっかりと着こんでいたのだ。
「コーヒー、いれてくれるか?」と、ぼくの顔を見て、親父が言った。
「お茶を飲んでるじゃないか?」
「ちょっと、コーヒーも飲みたいんだ」
「トーストでも食べるかい?」
「ああ」
ぼくは頭の中でため息をつきながら、台所に立ってコーヒーの豆をひいたり、カップを出したりトースターに食パンを放りこんだり、トイレに行ったり居間のガラス戸を開けたりして動きまわった。親父もなぜか家の中をうろうろしていたが、そっちのほうは特別意味のあることをしていたわけではなかった。
コーヒーが沸き、パンに|苺《いちご》ジャムをぬってぼくがダイニングのテーブルに持っていってやると、親父も居間から戻ってきて、立ったままジャムトーストの皿に手をのばしてきた。そして今度はトーストを抓んだままテレビのところへ行って、チャンネルをきり換え、またテーブルに戻ってきて、やはり立ったまま新聞のページを繰りはじめた。
「父さん」と、コーヒーを一すすりして、ぼくが訊いた。「なんで立ってるんだい?」
「ああ?」
「座って食べなよ。新聞もさ」
「ああ」
親父はまたテレビの前へ行ってチャンネルをきり換え、戻ってきて、今度は立ったままコーヒーのカップを取りあげた。
「どうだ?」
「なにが?」
「服さ」
「ああ――」
なるほど、そういうことか。
「ちょっと、派手じゃないか?」
「よく似合ってるよ」
「俺もそう思う」
「ズボンの丈はどうだい?」
「ぴったりだ」
「靴は履いてみた?」
「さっきな」
「靴下を買うの、忘れちゃった」
「これじゃまずいか?」
「綿のやつがいいんだ。ぼくのを貸そうか?」
「今日は、これでいい」
「刑事には見えないね」
「なんに見える?」
「写真家とか、テレビのディレクターとか」
「碌な商売には見えんな」
そう言いながらも、内心はけっこう満足らしく、やっと親父も椅子に座って、テレビのほうを向いてコーヒーを飲みはじめた。頬の筋肉がゆるんでいるのを、ぼくに見られたくなかったのだ。
「昨日訊くのを忘れたけど」と、ぼくが言った。「岩沢訓子の遺書、どうなった?」
「科研にまわした。今日あたり結果が出るだろう」
「また村岡先生の家に行くのかい?」
「用があればな。どっちみち被害者の通夜や葬式で顔をあわせる」
「今度の事件が終ったら、先生をドライブにでも誘ってみちゃどうかな」
「俺がか?」
「他に、誰がいるのさ?」
「そういうのはお前のほうが得意だろう」
「父さんの問題だよ。今なら先生も落ちこんでるし、チャンスだと思うけどね」
「弱味につけこむようで、気がすすまんな」
「それはそれ、これはこれさ。だいいち本当にいやだったら、落ちこんでいても誘いにはのらないよ。昨日の感じなら、たぶんOKじゃないかな」
「しかし、たとえばだな――」と、真顔で親父が振りかえった。「ドライブに行くとしたって、どこに行ったらいい?」
「好きなところへ行くさ、海でも山でも」
「二人だけで、なにを喋るんだ?」
「知らないよ、そんなこと」
「四人で行くというのはどうだ? 俺と村岡先生と、お前と酒井組の娘」
呆れかえって、思わずぼくが首を振った。
「ねえ父さん。四人でグループ交際をして、どうするのさ」
「自然な雰囲気でいいじゃないか。わざとらしくなくて」
「そっちのほうがずっとわざとらしいよ」
「そんなもんかな」
「解ってるのかい?」
「なにが?」
「村岡先生を逃がしたら、もう二度とあんな人には会えないかも知れないんだよ」
「そりゃあ――まあな」
「歳のことだってあるし、べつに父さんに有利なわけじゃないんだから」
「そりゃそうだ」
「本気で頑張る気、あるのかい?」
「ある」
「それじゃ男らしくしなよ」
「解ってる」
「もう時間だよ」
「ああ」
コーヒーを飲みほして、親父が立ちあがった。
「ハンカチは持った?」
「持った」
「手帳とか財布とかは?」
「持った」
親父が玄関に歩き、ぼくもついて行って、靴が服に合うのをたしかめてから、ドアを開けて親父を仕事に送り出した。しばらくしてフォルクスワーゲンのエンジン音が響きだし、その音がクルマまわしを通って、門の外に消えていった。いくら親父でも、あのクルマで村岡先生をドライブに誘うつもりではないだろう。今日にでも新しいクルマを見てくるか。
親父の張りきりようとは逆に、ぼくの調子はもう一息だった。なぜ麻子さんと|喧嘩《けんか》をしてしまったのか、解っているようで解らない。みんなに当然と思われることに、気持ちのどこかが反発でもしているのだろうか。
ぼくは使った食器の始末をし、昨日親父が放り出しておいた水撒きのホースを片づけてから、風呂場に行って冷たいシャワーを浴びた。それから自分の部屋に戻り、南向きの窓枠に腰かけて、煙草に火をつけた。慣れているはずの退屈も、あまり突然にやってくると扱い方に戸惑ってしまう。
煙草を一本吸いおわるまで、ぼんやりしていてから、とりあえずぼくは勉強机の前に座りこんだ。一昨日英語の参考書をほんの少し開いただけで、このところまとまった勉強らしいことはなにもしていなかった。たまには高校生らしく、一日勉強机の前に座っているのもいいかも知れない。夕方にでもなって気が向いたら、甲州街道ぞいにあるクルマ屋をのぞきに行ってもいい。麻子さんへの電話は、麻子さんのヒステリーが鎮まるまで待つしかないだろう。
ぼくは『ジェームズ・サーバー』の原書を取り出し、辞書と参考書をとなりに置いて、『空の縁石』という題の短編を訳しはじめた。前に翻訳で読んでいるからだいたいのストーリーは頭に入ってはいるが、試験問題の答案になるように訳すとなると、一ページ訳すのに最低でも三十分は必要だった。ぼくはかなり意識的に、その短編の翻訳に熱中した。
三ページほど訳し終ったとき、玄関のチャイムが鳴って、ぼくはついでにコーラでも持ってこようと下におりていった。
ドアの外に立っていたのは、健康食品のセールスマンでもなく、新聞の拡張員でもNHKの集金人でもなかった。
ドアのノブに手をかけたまま、ぽかんとしていたぼくの胸に、麻子さんが黙って白い紙袋を押しつけてきた。
「なに?」と、無表情に口を結んでいる麻子さんに、ぼくが訊いた。
「借りていたTシャツとハンカチ」と、顔と同じくらい無表情な声で、麻子さんが答えた。
「入りなよ」
「ここでいいわ」
「コーラでも飲まないか?」
「それを返しに来ただけだもの」
麻子さんが本気で怒っている証拠は、口を怒っているかたちに結んでいないことだった。動かない目を異様に光らせて、じっとぼくの顔を見あげている。こちらから口をきかないかぎり、自分ではぜったいに口を開くまいと決心をしているのだ。
迫力に押されて、ぼくが言った。
「今日のシャツ、よく似合ってるよ」
「新宿で会った日にも着てたわ」
「そうだったかな」
「他に言うこと、ないの?」
「髪型もいい」
「電話で言ったこと、もう一度言いなさいな」
「|寝呆《ねぼ》けてたんだ」
「寝呆けて、つい本当のことを言っちゃったわけね」
「病気なんだよ。寝呆けると小説の中の台詞が無意識に口から出てしまう」
「わたしは男の子とキスなんかしたの、初めてだったのよ」
「ぼくはまだ男の子とキスなんかしたことはない」
麻子さんの目が、きらっと光って、そのとたん右の掌がぼくの頬を狙ってぶーんと飛んできた。避けなかったのは完全にぼくの計算ミスだった。それはスナップショットではなく、腰を入れて、自分の背中からまわしてきた強烈な平手打ちだった。この次こういうことがあったら、避けたほうがいいなとぼくは心に刻みつけた。
「戸川くんが考えていること、ようく解ったわ」
麻子さんが外側のノブに手をかけ、平手打ちのショックから醒めきっていないぼくの鼻先に、ドアの内面を思いきり|叩《たた》きつけた。外の景色も、麻子さんの姿も、マホガニーのドアが|框《かまち》にはまる大太鼓のような音とともに、ぱっとぼくの視界から消え去った。冗談を言ってはいけないタイミングというのは、たしかにあるものだ。
ぼくはドアの内側に、額を一つこつんと打ちつけ、そのままうしろに下がって、白い紙袋を抱えたまま上り口の床にへたりこんだ。解っていながら、麻子さんの顔を見るとついからかってみたくなる、幼児性のなごりなのだ。好きな女の子にわざと|悪戯《いたずら》をしかける小学生のようなものではないか。いったいぼくはなにを考えていたのだろう。麻子さんもたしかによく怒る人ではあるが、あれだけ怒らせたからには、三日や四日で頭から血がひいてくれるとは限らない。それどころかもう二度とぼくの言い訳なんか聞いてくれない可能性だってある。大変なことではないか。いつの間にか酒井麻子を自分の恋人だと思いこんでしまっていたが、ぼくが腹立ちまぎれに言ってしまったとおり、本当にたった一度キスをしただけなのだ。そしてあれが最後のキスになることだって、じゅうぶんにあり得る。誤解をしたまま別れなくてはならない男と女の例なんか、アメリカ映画にいくらだってある。反省をしたって遅すぎることなんか、この人生にはいくらだってある。
上り口の床に座りこんだまま、目を天井に向けて、ぼくはぶつぶつと独り言を言っていた。そのうちふと気がついたのは、あれから十分もたっているのに、ぼくの耳はバイクの音を聞いていなかったということだった。クルマまわしの端に、たしかに麻子さんの白いバイクが停まっていたはずなのだ。
ぼくは半信半疑で、立ちあがり、ドアに近寄って、それをそっと外側に開いてみた。目の前に見えたのは麻子さんのシャツの背中と、ポニーテールを止めてある黄色い輪ゴムだった。ぼくは|唾《つば》を飲みこむのに夢中で、なにか言葉が必要だなどとは思いもしなかった。麻子さんもぼくがドアを開けたのは知ってるくせに、自分から振り向く気にはなってくれなかった。ぼくは恐る恐る手を伸ばし、ポニーテールの先を抓んで、一度ちょんと引っぱってみた。首を振っただけで麻子さんがまだ振り向かなかったので、今度は三度、ちょっと強めに引っぱった。まるでこわれた玩具みたいに、麻子さんがゆっくりと、からだごと顔をぼくのほうにまわしてきた。半分だけ頬をふくらませて唇を結んでいる口のかたちは、いつものあの、麻子さんが|怒っているとき《ヽヽヽヽヽヽヽ》のかたちだった。
ほっとして、ぼくが言った。
「ぼくが悪かった」
ぼくの顔を睨んで、見開いていた麻子さんの目に涙がたまってきて、それが一気に|溢《あふ》れだした。口のかたちも崩れて、そこからは弱いサイレンのような音も聞こえだした。
「泣くなよ」
「わたしの勝手よ」
「暑いじゃないか」
「わたしの勝手よ」
「入れよ」
「いや」
「郵便屋がくる時間だ」
「いやよ」
「それじゃ泣きやめよ」
「いや」
ぼくは麻子さんのからだを|掬《すく》いあげ、玄関からまっすぐ居間に運んで、そこのソファの上に放り出した。麻子さんはもう足をばたつかせて泣き始めていた。こうなったら二十分でも三十分でも、平気で泣きつづけるのだ。
「ぼくが悪かったって言ったじゃないか」
いやいやをしただけで、やはり麻子さんは、泣きやんでくれなかった。
「今の言葉が泣きやむきっかけのはずだろう?」
もちろん情況がちがうと泣きやむきっかけにも別のものが必要なのか、そんな言葉でごまかされる酒井麻子ではなかった。ぼくは諦めてとなりに座りこみ、反抗する麻子さんを膝に抱きあげて、背中のまん中をゆっくりさすりはじめた。子供をあやしてるようなものだったが、子供よりは重かったし、もちろん汗の匂いにも女の人の甘ずっぱさが混っていた。
都合よく|あやし《ヽヽヽ》が効いてくれたらしく、五分ほどで、麻子さんも泣きやんでくれた。放っておいたらあと二十分はぜったいに泣きつづけていただろう。
「くやしいったらないわ、まったく」と、汗と涙をぼくのシャツで好きなように拭きながら、鼻声で、麻子さんが言った。
ぼくは麻子さんを抱えたまま立ちあがり、ダイニングに歩いて、そこのテーブルの上に脚を組ませて座りこませた。その|拗《す》ねた顔はまるで、売れ残ったことに腹を立てている|雛《ひな》人形のかたわれのようだった。
コーラの栓を抜いて、持っていってやったぼくに、麻子さんが言った。
「ティッシュも取ってよ」
ぼくがティッシュの箱をテーブルにのせてやると、麻子さんはそれで|洟《はな》をかみ、使った紙を丸めてぼくに投げつけてよこした。このまま機嫌をなおしてしまうには、少しばかり天気が良すぎるのかも知れなかった。
「君みたいに怒ったり泣いたりできたら、気持ちがいいだろうな」
「戸川くんが悪いのよ」と、コーラを含んだ口で、麻子さんが言い返した。
「最初からそう言ったさ」
「あんなことで済むと思うの?」
「済まないのは、解ってる」
「当然よ」
コーラをきれいに飲みほして、麻子さんがテーブルの上で尻を動かした。
「ゆっくり言い訳を聞いてあげるわ」
「最初に言ったよ、ゆっくり話すって」
ぼくは台所とダイニングとの境の柱に寄りかかって、手の中のコーラのビンを眺めながら、ちょっとの間なにから話そうかと考えをめぐらせた。だいいちどこで、ぼくのほうが一方的に言い訳をしなくてはならない立場になってしまったのか。
「君は新井恵子のことを、どこで知ったんだ?」と、とりあえず、ぼくが訊いた。
「新聞で」と、怒った口のまま、麻子さんが答えた。「自分では気がつかなかったの。小さい記事だったし。そしたらお袋が午すぎになって、また深大寺学園の子が死んだって教えてくれて、すぐ戸川くんに電話したけど、出なかったわ。それからだってなん回も電話したのに」
「ぼくは前の日に親父から聞いた」
「どうして連絡しなかったの?」
「君だってただの交通事故だとは思わなかったろう?」
「それを聞きたかったんじゃないの」
コーラを一口飲んでから、ぼくがつづけた。
「親父から聞いたときにはぼくだって信じられなかった。そのなん時間か前に二人で会ったばかりだものな。ぼくは新井恵子があんなことになるなんて、考えてもいなかった。もちろんただの事故なんかじゃない。彼女が殺されたのは岩沢訓子の秘密を知っていたからだ。ぼくらがそれを聞きだそうとしたから、犯人は新井恵子を殺さなくてはならなかった。逆に言えばぼくらがあんなことをしなかったら、あるいはもう少し慎重に行動していたら、新井恵子は死なずに済んだかも知れなかった。どっちにしろはっきりしたのは、岩沢訓子もやはり同じ犯人に殺されたということだ。ぼくらはかんたんに探偵ごっこをやりすぎてたんだ。だからぼくは勝手に、探偵事務所は店じまいすることにした。警察も岩沢訓子の事件から洗いなおしているし、もうぼくらの出る幕はないんだ――そのことをうまく君に説明できそうになかった」
一息いれて、麻子さんの顔をうかがったが、麻子さんはテーブルの上に胡座をかいて座ったまま、顎をひいてじっとぼくの顔を睨んでいるだけだった。
「それにぼくは、ほんの少しだけ、自己嫌悪にもおちいった。新井恵子と会ったとき、なんであんな問いつめ方をしてしまったんだろうって。新井恵子の立場や人間性を、まるで無視してしまった。たぶん人間だとも思っていなかったのかも知れない。なんとか自分の知りたいことを聞きだそうと、それしか考えていなかった。だけどもし、新井恵子と君と立場が逆だったらどうだろう。ぼくはあんなふうに接したか――そんなことはなかったと思う。逆に君をかばっていただろう。ぼくなんかせいぜいそのくらいの人間でしかないってことだ。昨日電話で君の声を聞いたり、君に会ったりしたら、ああ、そんなもんだって思ったに決ってるんだ。ぼくにとって女の子は君しかいないんだから、新井恵子のことまで考える必要はないんだって、たぶんそんなふうに思ったろう。だけどそういうことは、ぼくは、あまり好きな考え方じゃない。昨日もそうだったし、今日もまだそうだけど、自分で頭の中が整理できていないんだ。それが、昨日君の電話に出なかったことの言い訳。もう一つは――」
「いいわよ」と、麻子さんがつづきをさえぎった。「もう一つのほうは、言い訳をしてくれなくてもいいわ」
「無罪放免か?」
「どうせわたしが電話で起こしたんで、頭にきただけでしょう?」
「解ってて、よくあんなふうに泣けるな」
「一度怒りはじめると自分じゃ止まらないんだもの」
麻子さんがもぞもぞとテーブルをおりてきて、柱に寄りかかっているぼくのところまで、忍び足のような歩き方で近寄ってきた。そして呼吸の音がはっきり聞こえるところまで近づき、視線を落として、額をぼくの顎の下にこすりつけてきた。ぼくは両腕ですっぽりと麻子さんのからだを包みこみ、少しそのままにしていてから、髪の毛と額にゆっくりと唇をもっていった。汗だか涙だかがまだ乾いていなくて、麻子さんの顔はどこもしょっぱかった。
五分ぐらいじっとしていてから、ぼくが言った。
「シャワーを浴びてこいよ、びっしょりだ」
返事のかわりに、麻子さんが額でぼくの胸を叩き、くるっと向こうを向いて、テーブルの横を風呂場のほうに歩きはじめた。
「バスタオルは一番上の棚」
「解ってる」
「コーヒーをいれておくよ」
「そのくらい、当然だわよ」
パーコレータを火にかけ、自分の部屋に行って煙草を持ってきてから、ぼくはダイニングの椅子に座りこんで、その煙草に火をつけた。今まで歳上の女の人が多かったせいか、女の子と付きあうことがこんなに疲れるものだとは、ぼくは思ってもいなかった。最初に予感した以上に、なんだかわけの解らないかたちで麻子さんはぼくを疲れさせてくれる。要はそれが我慢できるかどうかなのだろう。我慢できるか、どうか――。
煙草を吸いおわり、ガスの火を止めに台所に入っていったとき、遠くのほうで麻子さんが呼びかけた。麻子さんはダイニングの入口に立ったまま、それ以上は中に入ってこようとしなかった。胸にバスタオルを巻いただけの恰好は、いくらなんでも、ちょっとぼくを混乱させた。
「戸川くん、|あれ《ヽヽ》持ってる?」
「|あれ《ヽヽ》って?」
「かわり持ってこなかったの」
「なんの?」
「ナプキン。持ってない?」
たぶん、親父とならこの子はいい勝負をするだろう。
「持ってるわけないだろう?」
「そうよねえ」
「買ってこようか?」
「いやよ」
「どうして?」
「恥ずかしいじゃないの」
間違いなく麻子さんは、ぼくなんかにはぜったいに理解できない感性をもっている。本気で神経をきたえないと、そのうちぼくは病気になってしまうかも知れない。
「ガーゼかなにか、ある?」
「包帯ならあるけど」
「それでいい。貸して?」
ぼくは台所の薬箱から新しい包帯を出し、包みを破いて、それを麻子さんの待っているダイニングの入り口まで持っていった。手脚の出ている部分は水着のときと変わらないのに、バスタオルというのはなんとなく感じがちがう。だいいち麻子さんには、バスタオルがよく似合っている。
「他になにかいる?」
「これでいい。持ってきたTシャツ、また貸してね」
麻子さんが走るように廊下に消えてゆき、ぼくは台所に戻って、コーヒーをカップに注いでダイニングのテーブルに運び、一人で飲みはじめた。いくらもしないうちに麻子さんも風呂場から戻ってきた。ぼくの白いTシャツを着て、髪もきれいに結びなおしていた。改めて感心するのもへんなものだが、やっぱりぼくは改めて感心した。本当にきれいな子なのだ。
椅子に座ってぼくからコーヒーカップを受け取りながら、麻子さんが訊いた。
「さっきの話、けっきょくどうなれば戸川くんは気が済むわけ?」
「なにが?」と、ぼくが訊きかえした。
「新井さんのことをわたしと同じに考えたいのか、それともわたしを新井さんと同じに考えたいのか」
「それを、考えてる」
「シャワーを浴びながら思ったけど、そういうことって、ばかばかしくない?」
「けっこう真剣だけどな」
「神様みたいに人類をすべて愛したいわけ?」
「そんなに暇じゃないさ。ぼくが言ってるのは、たとえば関心の質はちがったとしても、重量としては同じレベルでとらえたいってことだ」
「感情は?」
「感情は、ちょっと横に置いておく」
「わたしの立場で言えばかんたんよ。たとえば二人でそのへんを歩くとするじゃない? そのとき女の人とすれちがって、ああ、戸川くんは今の人とわたしを同じ重量でとらえたんだな、なんて思ったら、腹が立つわよ。それで横のほうを探してみなくちゃ感情がどこにあるのかも解らないんじゃ、疲れちゃって散歩もできないわ、ねえ?」
「疲れたら、おぶってやるさ」
「言ってることがおかしい?」
「おかしくはないけど、そのとおりだって拍手するわけにもいかない」
「わたしはただ、わたしを誰ともくらべて欲しくないって言っただけ」
麻子さんがコーヒーカップの縁から、ぼくの顔をのぞき、鼻を曲げてにやっと笑った。この話はここまで、という合図なのだ。ぼくにしても今の話題を中止することに、異存があるはずはなかった。ぼくは麻子さんと同じ合図をやり返した。
「それで、昨日は一日中どこに行ってたのよ?」と、ぼくの煙草に手を伸ばしながら、麻子さんが言った。
「吉祥寺。親父の服を買いに――村岡先生に会った」
くわえ煙草の先を上に向けて、麻子さんが顎を突き出した。
「偶然さ」
「そんなこと、なにも訊いてないわよ」
「君は村岡先生のこと、どう思う?」
「どうって?」
「感じがさ」
「あんなきれいな人が、どうして先生なんかしてるのかなって思うわ」
「好きとか、嫌いとかは?」
「考えたことない」
「好きなようには見えないけどな」
「しっくりこないだけ」
「どうして?」
「なんとなく、よく知らないせいじゃないかしら」
「それが親父は、どうも|しっくり《ヽヽヽヽ》きちゃったらしいんだ。新井恵子が死んだとき親父が村岡先生に話を訊きに行って、それで一目惚れさ」
呆れながら納得したような顔で、麻子さんがふーっと長く煙を吐き出した。
「かわいそうなくらいさ。急に服装のことを気にしだしたりして。親父があんなふうに女の人を好きになったのは、たぶん君のお袋さん以来じゃないのかな」
「戸川くんは、どうなの?」
「ぼくだっていつまでも親父の面倒をみてるわけにはいかないもの。客観的に見て、どう思う? あの二人」
「村岡先生なら、文句はないんじゃない?」
「向こうに文句があることが心配なんだ」
麻子さんが煙草の火を灰皿でつぶして、天井の上のほうに視線を一めぐりさせた。
「だけど戸川くんのお父さんの、あのぼーっとした感じ、歳のわりにはかわいいわ」
「真面目な意見か?」
「女の人なら解るわよ。村岡先生にだって解るんじゃないかしら」
「歳が二十はちがう」
「関係ないわよ」
「再婚だし」
「関係ないって」
「いや味な息子が一人いるんだ」
「ああ――」
ゆっくりと頬杖をついて、麻子さんが、じろっとぼくの顔を眺めてきた。
「それさえなければ、完璧かも知れないわね」
ぼくらは目を見つめあって、一度ずつうなずきあい、それから一度ずつ、にっと笑いあった。麻子さんの男を見る目を信用すると仮定すれば、親父の結婚にはかなりの現実性がでてくる。あとは親父がどれぐらい押せるかだが、これはぼくが尻をひっぱたけばいい。
壁の時計を振りかえってから、ぼくが言った。
「ハンバーガーでも食べに行こうか?」
頬杖をついたまま、麻子さんもちらっと時計に目をやった。
「一時に人に会う約束をしちゃったの。一緒に行くでしょう?」
「誰?」
「訓子のお通夜の日、最初に行ったスナックで会った暴走族の|親分《あたま》」
まさかぼくに、例の暴走族に入会しろというわけではあるまい。
「なにをたくらんでるんだ?」
「なにも。昨夜向こうから電話してきたのよ。妙なことを聞きこんだって。もしかしたら今度のことに関係があるかも知れないって」
「妙なことって?」
「言わなかったけど、そのことを知っている人に会わせるって言うの」
上目づかいに、唇をすぼめて、わざとじろじろとぼくは麻子さんの顔を眺めてやった。効果のないことは解ってはいるが、一応の|牽制《けんせい》ぐらいはやってもいいだろう。
「連絡しなかったほうが悪いのよ」
「最初から喧嘩をやりなおすか?」
「探偵事務所を閉めても、残務整理っていうのがあるじゃない? 本当に事件に関係あるかどうかも解らないし」
「君のことが心配なんだ」
「話を聞くだけ。それならいいでしょう? 自分ではぜったいになにもやらない。話を聞いてみて事件に関係ありそうだったら、警察にでもなんでも教えてやればいいわ。あの連中が自分から警察に話すなんてこと、ぜったいにないもの。もし重要な情報だったら今度は戸川くんの責任で捜査を遅らせることになるわ。それでもいい?」
まるで脅迫だが、麻子さんの理屈にも、一理はある。本当に重要な情報だったら、それを親父に話してやればいいわけだ。どっちにしろ事件が早く解決するに越したことはない。それだけ村岡先生に対する親父の立場も有利になるではないか。
「だいいちね」と、とぼけたように眉をあげて、麻子さんが言った。「もう会う約束はしちゃったの。この世界では義理を欠くことは許されないのよ」
色を見ただけで脱水症状を起こしそうな日射しの中を、ぼくらはまたバイクを連ねて府中の方向に向かいはじめた。自分でバイクに乗れるぐらいだから、麻子さんの|あれ《ヽヽ》も大したことはないのだろう。
髭の男と待ちあわせしていた場所は、東府中の駅に近いレストラン風のスナックだった。一番奥にはカラオケ用のステージがあり、夜にはその方面が専門になるような店のつくりだった。ちょうど勤め人の昼食時間が終ったばかりらしく、あちこちのテーブルには片づけきれない食器が幾組も残っていて、疲れた顔の女の人が一人、フロアと|厨房《ちゆうぼう》の間を無愛想に行き来していた。客はテーブルに二人と、カウンターに白い|つなぎ《ヽヽヽ》を着た、例の髭の男が座っているだけだった。
「あんた、昼間はちゃんと働いてるの?」と、カウンターの男のとなりに座りながら、麻子さんが話しかけた。
「バイクをころがしてるだけじゃ、飯は食えねえよ」と、きまり悪そうに笑いながら、髭の男が答えた。
|つなぎ《ヽヽヽ》についた油のしみや、爪のよごれからして、近くの工場でクルマの整備工かなにかをやっているらしかった。この前地下の店で見たときよりも、顔つきもそれほど無気味には感じられなかった。
「やっぱし坊やも一緒か。まあどっちでもいいや。俺あんまし時間がねえんだ」
髭の男が厨房の中に向かって呼びかけると、四十ぐらいの髪を光らせた男がタオルで手を拭きながらあらわれて、うんざりした表情でぼくらが座っているカウンターの向こう側に立ち止まった。
「マスター、こないだの話、もう一度この二人にしてやってくんねえか?」
「そりゃないよケンちゃん。ここだけの話だったんだから」と、低い声で言って、マスターがちらっとぼくらの顔を見くらべた。
「だからもう一度、ここだけで話しゃいいじゃねえか?」
「あたしの名前が出ちゃまずいよ。友達なんだから」
「名前まで教えるこたあねえさ」
「そりゃそうだけどね」
「俺の顔はどうするんだい? わざわざ呼んで来てもらったんだぜ。それに女の子のほうはこんな顔してて、酒井組の組長の娘なんだ。マスターだってまるっきり義理がねえわけじゃねえだろう?」
マスターがカウンターの向こうから麻子さんの顔を眺め、煙草を取り出して、|やけ《ヽヽ》気味な顔でしゅっと火をつけた。
「あたしが喋ったってこと、内緒にしてくれるかね?」と、たいして期待もなさそうな顔で、マスターが訊いた。
ぼくと麻子さんが同時に、こっくんとうなずいた。
「実は高校んときの友達が三鷹の市役所に行っててね。そいつ競馬に凝ってて、府中でやるときはいつも店に顔を出すんだよ。あたしも競馬はやるしさ。それでたまには二人で飲み歩いたりもするわけ。あっちは役人だからいろんな店に顔はきくし、たまにはまあ、|つけ《ヽヽ》を業者にまわすなんてこともできるしね。それがいつだったか、奴が酔っぱらって、ちょっと口をすべらせたんだよ」
マスターは煙草をくわえたまま冷蔵庫からビールをとり出し、コップに注いで一気に呷ると、また煙草をくわえなおして、ふんと鼻で息を吐いた。
「今年の四月ごろかね。三鷹市で文化会館をつくるっていうんで、その入札があったらしいんだよ。けっきょく三枝建設がやることになったんだけど、ああいうのってさ、裏はあるんだよやっぱり。あたしの友達っていうのは建設課の係長だから、それなりのものは三枝建設からもらったわけさ。それが――金だけじゃなかったっていうんだけどね。奴も酔いがさめてっからあわててたっけ。こんなことがばれたら命とりだもんねえ」
「俺、時間がねんだよ。昼休みは終ってるんだから」と、髭の男がカウンターの中をうながした。
「それがさ」と、またビールを呷って、マスターがつづけた。「女の子を世話されたっていうんだ。それも商売女じゃなく、れっきとした高校生をね。高校生ったってそのへんで遊んでるような娘じゃなくて、深大寺学園のさ、まったくのお嬢さんだったっていうんだから――この話、本当に内緒にしておいてもらいたいんだけどねえ」
「女の子の名前、聞きましたか?」と、ぼくが訊いた。
「そこまではねえ。奴だって聞かなかったろうし。それに三枝建設がそういうふうに使ってる子は、一人や二人じゃないらしいよ。それくらいのことをしなくちゃ、ああいう商売はやっていけないのかも知れないけどね」
「あなたの友達の名前は?」
「建設課の栗林。だけど――」
「あなたには会ったことはありませんよ。そうでしょう?」
「そう。お互い会ったことも聞いたこともないってのが一番いいね。なにか飲むかい?」
「いえ」
「それじゃあたし、ちょっと片づけがあるからさ。知ってることは今のでぜんぶだよ」
マスターが逃げるように厨房の中に戻っていき、ぼくと麻子さんと髭の男と、一度ずつ顔を見あわせた。
「あんたらが知りたがってることと、関係ありそうかい?」と、脂のういた額を|つなぎ《ヽヽヽ》の袖で拭きながら、髭の男が言った。「俺だってそこらのズベ公がからだ売ってるなんて話じゃ、驚きもしねえけどよ。深大寺学園の子がそんなことやってるなんて、噂にだって聞いたことなかったしよ。もしかしたら役に立つかなと思ってさ」
ぼくと麻子さんで顔を見あわせてから、ぼくが言った。
「助かりました。とても」
「そうかい。俺本当に時間がねえから、もう行くわ。まあそのうちこっちも世話んなることがあるかも知れねえしよ。気が向いたら一緒にバイクでも飛ばそうぜ」
髭の男は麻子さんとぼくの肩を一度ずつ叩き、へっと大きく笑って、からだをゆすりながら店を出ていった。残ったぼくたちはしばらくため息をつくだけで、二人ともなにかを喋る気にはならなかった。
午をとっくにすぎていることを思い出して、ぼくが訊いた。
「なにか、食べる?」
「ええ。でもこの店じゃいや」
ぼくたちは疲れた顔の女の人の視線に見送られながら、席を立って店を出、歩道の上をバイクを押して線路を反対側に渡った。道に面して中が明るく見える小さいレストランがあって、ぼくが立ちどまり、麻子さんもうなずいて、ぼくらはそこにバイクを置いてレストランに入っていった。中は冷房の加減がちょうどよく、かための椅子も座り心地が良さそうだった。ぼくらは通りに面した席に、窓側に並んで腰かけ、それぞれにサンドイッチとオレンジジュースを注文した。
最初にやってきたジュースで唇をしめらせてから、ため息と一緒に、麻子さんが言った。
「大変なことになっちゃったわね」
「まだ決まったわけじゃないさ。岩沢訓子や新井恵子が――」
その言葉の無意味さに気がついて、ぼくもそれ以上は言う気にならなかった。少なくとも岩沢訓子に関しては、行動のすべての意味がそのことを暗示しているではないか。だからこそふだんの素行については、慎重すぎるほど気をつかっていたのだ。そしてそれは、たぶん新井恵子にしても同じ理屈だったのだろう。
「そんな噂、聞いたことあったか?」と、テーブルの灰皿をじっと見つめている麻子さんに、ぼくが訊いた。
「最近はよくある話だけど、うちの学校では聞いたことないわ」
「そういうことに一番縁のなさそうな子たちが、選ばれてたのかも知れない」
「でも、訓子が、どうして?」
「解るような気はするけど――たぶん本当の理由は、本人以外には解らないんだろうな」
「もしもよ。もし本当に訓子がそんなことをしていたとして、それで妊娠しちゃったとしたら、どうして四カ月になるまで放っておいたの? そんなにばかな子じゃなかったと思うけど」
「それも本人以外には解らないさ。知ってる奴がいるとすれば、あとは犯人だけだ」
麻子さんが下唇をかんで、横からぼくの顔を見あげてきた。
「これからどうする?」
「君は、家に帰ってじっとしている」
「戸川くんは?」
「栗林っていう男の顔が見たくなった」
「一緒に行くわ」
「君はいいんだ」
「どういう意味よ?」
「君にうろうろされると、邪魔だから」
麻子さんがまた下唇をかんで、今度は鼻の穴を、ぴくっとふくらませた。
「へんなこと言うじゃない? 勝手に探偵事務所を閉めたり開けたり、しないでよ」
「新井恵子のことは、ぼくに責任がある」
「わたしだって同しだわ」
「犯人はもう二人も殺してる。三人でも四人でも、同しだと思うかも知れない」
「それじゃ警察に任せればいいじゃない? 事件から手をひくって言ったの、戸川くんよ」
「もちろん警察には任せるさ。その前にちょっと、栗林の顔を見てくるだけだ」
「それならわたしも一緒に行くわ」
「最初に言ったことが聞こえなかったようだから、もう一度言う。君は家に帰って、じっとしている」
「邪魔なわけね?」
「そうだ」
「いいわよ。それならわたしはわたしで、勝手にやるわよ」
ぼくが伸ばした手を、麻子さんが振り払った。
「君にまだ、言ってなかったことがあるんだ」と、麻子さんの手首を掴んで、ぼくが言った。「一度しか言わないから、そのつもりで聞けよな」
「勝手よ、そんなの」
「ぼくは君が好きだ」
「え?」
「だから、そういうことさ」
「そういうことって、なによ」
「一度しか言わないって言ったろう?」
「だって――聞こえなかったもの」
「聞こえなかったのは君のせいだ。いいか? 君にもしものことがあったら、ぼくは捕鯨船にでも乗って一生を海の上で暮すしかなくなる。ぼくにそんなこと、させたいのか?」
麻子さんの腕の力が、すーっと抜けて、言葉の出ない唇が、二、三度軽く閉じたり開いたりした。
「もちろん危険なことはしないよ。ぼくにはそんな勇気はない。ただ警察に任せるにしても、事実関係をもう少しはっきりさせておきたいんだ。マスターの言うとおりだとすれば、岩沢訓子や新井恵子と同じことをやってる子が、まだなん人かいるはずだし、事件が長びけばその子たちだって危くなるかも知れない。今度のことはとにかくぼくと親父に任せて、事件の片がつくまで君は家でじっとしている。泣いても|喚《わめ》いてもいいから、これだけは約束してくれ」
麻子さんがはっきりと解るほど、いくつも大きく呼吸をし、そして最後の息は例の怒ったかたちの口の中で止めて、椅子の背もたれにがっくりと寄りかかった。
「面白くないわ、ちっとも」と、ぼくの指を自分の掌の中でいじくりながら、ふてくされた声で、麻子さんが言った。「けっきょくいつも、最後は戸川くんのいうことをきいちゃうんだもの。くやしいったらないわよ」
「今朝思いきりぶって、気が済んだろうに」
「あんなこと覚えてたの?」
「まだ耳の中がおかしい」
「本当に?」
「本当」
「人をぶったのなんて、初めてだったのよ」
「初めてであれだけ殴れれば、大したもんだ。この次はよけてみせるさ」
麻子さんがふんと鼻で笑い、グラスからつき出ているストローに、目を見開いて|噛《か》みついた。ぼくらは同時にジュースを飲みほした。窓の外を通りかかった背広を着た男の人が足をとめて、なんのつもりでか、麻子さんを振りかえった。麻子さんが歯をむき出すと、男の人はあわてて顔をそむけ、足早に歩道を東府中のほうへ歩いていった。麻子さんはたぶん、自分の歯ならびの良さでも自慢してみたくなったのだ。
サンドイッチを片づけ、店を出て、ぼくらはまたバイクを押して歩道の上を甲州街道の方向に歩きはじめた。空気自体に光の匂いがしみついているような、座りこんでしまいたいほどの暑さだった。事件が片づいたら、とにかく海にでも出かけよう。
旧甲州街道との|交叉点《こうさてん》まで、バイクを押していったころには、麻子さんはもう、額と鼻の頭にたっぷりと汗をにじませていた。
脚をまっすぐに伸ばしてバイクに跨がり、エンジンをかけてから、麻子さんが言った。
「うろうろなんかしないわよ、犬じゃあるまいしね。だから夜はかならず電話をすること、解った?」
「解った」
「毎晩よ」
「毎晩な」
「それからね。わたしだって捕鯨船に乗って、一生を海の上でなんか暮したくないんだからね――」
エンジンを吹かし、フラッシャーをたいて、クルマの切れめに麻子さんが白いバイクを割りこませていった。ぼくは頭のうしろでなびく麻子さんのポニーテールを、ちょっとだけ見送り、自分もバイクにエンジンをかけて、旧甲州街道を麻子さんとは反対の方角に走りはじめた。埃と排気ガスと路面の反射が、ぼくのいやな予感をいっそう|煽《あお》りたててくるようだった。
前庭の広い、コンクリートの威圧的な建て物の中は、その混雑のわりには奇妙なほど人声は少なかった。ロビーには椅子に座りきれないほどの人が溢れ、戸籍関係の窓口では行列までつくられていた。ぼくは入り口を入ったすぐのところにある案内板で、建設課の場所をたしかめ、正面の階段で三階まで上がっていった。
途中通ってきた二階のフロアもそうだったが、建設課の入っている三階も、フロア自体に仕切りはなく、イメージだけならたしかに利用者に開放された構造になっていた。オフィスを長いカウンターがぐるっととり囲み、中で働く人たちをどこからでも眺められるようになっている。
ぼくはカウンターに沿って建設課の標示が出ているところまで進み、一番近い席に座っていた、青っぽい制服を着た意地の悪そうなおばさんに声をかけた。
「栗林さんという方に、会いたいんです」
おばさんが席から腰を浮かせ、腹立たしそうな顔でその場所から訊いてきた。
「ご用件は?」
「文化会館のことで」
「お名前は?」
「山田です」
どう見ても|二十歳《はたち》すぎには見えなかったろうが、それでも顔に面会を断る理由までは書いてなかったらしく、おばさんは歯ぎしりをするような顔で、自分の席からは一番遠い窓際のほうに歩いていった。そこには灰色のデスクが一列に並び、座っている人たちはみな下を向いて、見たところではなにか仕事でもしているようだった。
おばさんが一つのデスクの前で立ちどまり、一言か二言話をして、その席に座っていた男の人と一緒に、ぼくが待っているカウンターのところまで戻ってきた。やってきた男は四十ぐらいで、髪が少しうすく、痩せた顔に銀縁の眼鏡をかけていた。ベージュ色の上っぱりの胸には、『栗林』と書かれたプラスチックの名札がピンでとめてあった。
「栗林ですが、文化会館のどんなご用件でしょう?」と、不審そうにぼくの顔を値ぶみしながら、栗林が訊いてきた。
そのままではおばさんに声が聞こえそうだったので、ぼくは二歩からだを横にずらし、栗林に目で合図をして、カウンターの上に半分ぐらい身をのり出した。
「文化会館の入札に関して、あなたが三枝建設にはかった便宜についての話なんです」
ぼくのほうに身をかがめていた栗林の腰が、ゆっくりと伸びていき、まるで牛乳ビンでも飲みこんだような顔で、五秒ぐらい銀縁の眼鏡がじっとぼくの顔を見つめてきた。この瞬間誰かにうしろから頭を殴られても、きっと栗林は気がつきもしなかったろう。
そのうちぼくが言った言葉の意味が理解できたらしく、手で小さくぼくに待つように合図をして、栗林がデスクの列に緊張した足どりで戻っていった。そしてそこで自分のとなりの机の男に声をかけ、フロアの端を大まわりにまわって、壁際のカウンターの切れめから小さくぼくにうなずいてきた。ぼくは三十メートルぐらいのその距離を、わざとゆっくり栗林のほうに歩いていった。
ぼくが近づくのを、無表情に待ってから、栗林が先に階段を上がりはじめた。ぼくもそのあとをついて行った。
四階には広いフロアはなく、廊下に沿っていくつものドアが並び、そのそれぞれからは役職名の入った札が横に大きく突き出していた。栗林が第三応接室と札の出ているドアの前で立ちどまり、柱のカードを『使用中』にかけかえて、自分から先にその部屋に入ってうしろ手にドアを閉めた。中は四畳半ぐらいの広さの、装飾のいっさい無い真四角な部屋だった。安っぽいテーブルをはさんで小さいソファが二つ置いてあったが、それはその上で居眠りをする気すら起こさせないものだった。
あとからソファに座ったぼくに、事務的な口調で、栗林が言った。
「なんのことか解らないんだが、話を聞くだけは聞こうじゃないか」
「ずいぶん暇なんですね」と、目だけで部屋の中を見まわしながら、ぼくが言った。「役所が暇なところだとは聞いていましたけど」
「どういう意味かね」
「わけの解らないことを言いに来た人間に、いちいちこんなふうに相手ができるんでしょう?」
「要点を言いたまえ」
「さっき言いましたよ。一般的にはなんて言うんですか? |収賄《しゆうわい》? 汚職?」
「くだらんことを――どこでそんな話を聞きこんできたんだ?」
「どこにだって口をすべらす人間はいるもんです。このことだって、最初に口をすべらせたのはあなたです。そうじゃなかったらぼくの耳に入るわけはありませんよ」
「はっきり言って、なにを知ってると言うんだ?」
「あなたが文化会館の入札に関して、三枝建設に便宜をはかり、金を受けとったということ」
「証拠は?」
「ありません」
栗林がにやりと笑い、尖った指先で眼鏡を上に押しあげた。
「まだずいぶん若いようだが、そういうのを名誉|毀損《きそん》ていうんだぞ。それとも恐喝か?」
「収賄の証拠なんて、あるわけはないんです」
「だったら、くだらんいいがかりはつけないでもらおうか。これ以上妙なことを言うと、警察を呼ぶぞ?」
「あなたがわざわざ警察を呼ぶ必要はありませんよ」
栗林の顔を見ながら、ゆっくりとぼくが立ちあがった。
「ぼくも警察に行こうかここに来ようか、迷ったんですがね。あなたの意見を尊重して、やっぱり警察に行くことにします。証拠はなくても証人はいますから」
ドアのノブに手をかけたぼくを、うしろから栗林が呼びとめた。
「待て――その、とにかくもう一度座りたまえ」
「あまり座り心地のいいソファじゃないけど」
「それは、まあ」
「冷房が効いているのだけは、助かります」
ぼくは元のソファに座り、栗林のほうから口を開くのを、ただ黙って待っていた。栗林が上着のポケットから煙草を取り出して、テーブルの上を睨んだまま、その煙草に使い捨てのライターで火をつけた。
「その話はいったい、誰に聞いたんだ?」と、半分諦めがまざったような声で、栗林が訊いた。
「言えません」
「しかし君がその名前を言わないかぎり、君の言ってることが本当かどうか、わたしには判断のしようがないじゃないか」
「ぼくが知っていること自体、この話が本当だという証拠でしょう? だいいちぼくはその人の名前は出さないと約束したんです。それでもぼくがその名前を喋っちゃう人間なら、あなたのことだってどこかで喋るに決ってると思いませんか。ぼくはまだ、誰にもあなたのことは喋っていません」
「いくらだ?」
「なにがです?」
「いくら欲しいんだ?」
「金のことなんか言っていません」
「まさか市役所を見学に来たわけじゃあるまい?」
「いくらなら出すんですか?」
「そんなには出せん。だいいち――」
「金はいいんです。女の子を紹介してもらいたいだけですから」
栗林の煙草をはさんだ指が、灰皿の中でせわしなく動き、痩せた頬にぴくっと緊張が走った。
「ばかなことを――わたしがなんで」
「あなたが三枝建設の社長から世話をされた、深大寺学園の女の子のことですよ。一人まわしてくれればいいんです」
「知らん。そんなことは知らん」
「今金を払うと言ったでしょう? そこまで認めれば同じことじゃないですか」
「しかし――」
「一度だけでいいんです」
「一度といっても――」
「それで今度のことがぜんぶ無かったことになれば、金を払うよりは安いと思いますけどね」
|禿《は》げかかった栗林の額に、うっすらと汗がにじんできて、それが窓からの日射しで、てらっと光った。栗林は腕を組んで、そのまま一分ほど黙りこんでいた。
「もし君のいうことをきくとして――」と、組んでいた腕をといて、また煙草に火をつけながら、栗林が言った。「君のことが信用できるという保証は、どこにあるんだ?」
「保証はありません。もともとこんなことに、保証なんかないんです」
「わたしの名前が出ては、困る」
「そのためにはどうしたらいいかを、今相談してるわけですよ」
「三枝にはどう言ったらいい?」
「あなたが自分でまた欲しくなったとか、仕事でどうしても必要になったとか、そんなことはあなたに任せます」
「しかし君は、見たところまだ高校生くらいの歳じゃないか。なにもこんなことをしなくても――」
「深大寺学園の子は別です。あそこの女の子とはかんたんには友達にはなれませんから。チャンスがあったから、乗ってみただけです」
「本当に、一度でいいんだな?」
「約束します。あなたが信じるかどうかは別として」
「他の人間に喋ってもらっても困る」
「誰かに喋るようだったら、ここには来ません。それに一度あなたから紹介してもらえば、ぼくも同罪になるわけです。喋りたくても喋れなくなりますよ」
いくらも吸っていない煙草を、また灰皿でつぶして、栗林が手の甲でそっと額の汗を拭った。
完全に観念しきった声で、ぼそっと栗林が言った。
「なんとかする」
「なんとかするしか、ないでしょうね」
「どこに連絡すればいい?」
「連絡はこちらからします。今日中に都合はつきますか?」
「それは無理だ。三枝と連絡がつくかどうかも解らんし、女の子たちだってまったくの素人なんだから」
「それじゃ、明日」
「明日なら、なんとかなると思う」
「十二時に」
「十二時?」
「早いほうがいいんです。気が変わらないうちにね。面倒なことはしないで、やっぱり素直に警察に行こうかと思うかも知れませんよ。明日の九時に電話をします。名刺をいただけますか?」
栗林が胸のポケットから革の名刺入れを取り出し、一枚を渋々ぼくに渡してよこした。
「直通のほうにたのむ」
「解ってます」
名刺をGパンの尻ポケットにつっ込みながら、ゆっくりとぼくが立ちあがった。
「あなたが世話された女の子、どんな子でしたか?」
「どうして?」
「ただの興味です」
「自分で会えば解るさ」
「それもそうですね。名前は?」
「知るもんか。いちいち本名なんか言わん」
「あなたもどうせ、一度や二度じゃなかったでしょうしね」
栗林が窓のほうを向いて、眼鏡をきらっと光らせた。
「出口は解ってます」と、ドアを開けながら、ぼくが言った。「あなたは一休みしてから仕事に戻ってください。もし、仕事があれば――」
ぼくはうしろ手に部屋のドアを閉め、階段を一階までおりて、少し|目眩《めまい》を感じながら市役所の建て物を出た。日はすっかりかたむいていたが、涼しくなるまでにはまだまだ長い時間がかかりそうだった。
親父が帰ってきたのは八時前だったが、残念ながら今日はナイターをやっていなかった。それでも親父はテレビに苦情も言わず、ダイニングの椅子に座りこんで、台所のぼくに機嫌よく声をかけてきた。
「今夜はなにが食えるんだ?」
「メカジキを煮てみた。他になにか食べたいかい?」
「あま|海老《えび》の刺身なんかもいいな」
「買ってあるよ」
「ワカメの三杯酢があればなおいい」
「風呂に入ってる間に作っておく」
うんと返事をしたが、親父はなかなか椅子から腰をあげようとしなかった。
「なんかあったのかい?」
「ちょっとな」
「服の評判は?」
「いいさ」
少し間をおいてから、親父が言った。
「春、犯人を逮捕したぞ」
あま海老の入ったパックをまな板の上に置いて、思わず、ぼくが振りかえった。
「逮捕?」
「そうだ」
「誰を?」
「犯人さ」
「だから、誰?」
「風見光一」
「風見――」
「お前の学校の体育教師だ」
にんまりと笑って、親父が脱いだ上着のポケットから煙草の箱を取り出した。
「お前が奴の名前を言ったときから、|秘《ひそ》かに身辺調査をやっていたんだ。思ってた以上にぴったり|嵌《はま》ってしまった。一時に緊急逮捕だった」
親父が煙草に火をつけ、ぼくも夕飯の仕度のつづきに戻った。
「決め手はなんだったの?」と、ぼくが訊いた。
「例のウインカーの破片だ。奴のクルマのものと一致した。ボンネットにもへこみがあった」
「間違い、ないんだろうね?」
「そんな初歩的なことで間違いはせんさ」
「風見先生は、その、ぜんぶ自白したわけ?」
「岩沢訓子と関係があったことだけは認めた。本格的な取り調べは明日からだ」
「認めたのは岩沢訓子のことだけかい?」
「今のところはな。そう一度にぜんぶは吐かんさ。調べてみたら奴は前にも一度女子生徒と問題を起こしている。校長の縁つづきとかで、そのときはおもて|沙汰《ざた》にならずに済んだが、二度目となればそうはいかん。岩沢訓子を殺す動機はじゅうぶんだ。それに遺書もうまく出来ていたが、やっぱり偽筆だった。教師だったら生徒の字を真似るくらい、どうにでもなったろうからな」
「新井恵子のほうは?」
「口ふうじさ。二件とも風見に事件当夜のアリバイはない。岩沢訓子のときは家で寝ていたというし、新井恵子のときは、男の声の電話で新宿の東口に呼び出されたとか言ってる、どうせ嘘に決まってるさ」
「このこと、村岡先生には言ったのかい?」
「帰りに新井恵子の通夜に顔を出してきた――さて、風呂でも入ってくるか」
「父さん」
立ちあがったところで、親父が台所のほうに向きなおった。
「本当に、風見先生が犯人だと思うかい?」
「どうして?」
「理由はないけどさ」
「証拠も動機もあって、逆にアリバイはない。送検すれば検察は間違いなく起訴するし、起訴されれば間違いなく有罪になる。他になにが必要だ?」
「あの先生にそんな度胸は、ない気がするけど」
「見かけで犯人が解れば警察はいらんさ」
またにんまりと笑って、親父が風呂場に歩きはじめた。
「父さん」
「なんだよ」
「明日は一日署にいるかい?」
「風見の取り調べがあるからな」
「電話をするかも知れない」
「どうして?」
「息子が父親に電話したって、おかしくはないだろう?」
「おかしくはないが――」
一歩、親父がダイニングの中に戻ってきた。
「まだなにかたくらんでるのか?」
「べつに――」
「今度の事件は、片づいたんだぞ?」
「本当にそうなら文句はないよ」
「どういう意味だ?」
「ウインカーの破片、指紋は調べてみた?」
「指紋? どうしてそんなところに指紋なんかつくんだ? 人を轢いたとき割れたクルマのウインカーに、指紋なんかつくわけないだろう?」
「ついてたら、おかしいね」
「ついてたら――そりゃあな」
「世の中にはおかしいことだってたまにはあるよ。おかしくて、いやなことだってさ」
返事をしかけて、しかし言葉は出さず、|怪訝《けげん》そうにぼくの顔を眺めてから、大きくため息をついて親父が風呂場に消えていった。まだ八時だというのに、ナイターもなくて、今日は長い夜になる。
6
前の晩はほとんど眠っていなかったが、それでもぼくは早めに起きだし、親父のために飯をたいて、日本旅館風な朝食を用意した。天気は相変わらずで、テレビでは水不足がニュースになり始めていた。
親父を送りだすと、すぐ九時になり、ぼくは自分の部屋に戻って栗林のところへ電話を入れた。受話器は栗林が直接自分で取りあげた。
「連絡はとれた。十二時でいい」と、無理につくったと解る抑揚のない声で、栗林が言った。
「場所は?」
「東京天文台の近くに『古城』というモテルがある。近くに行けば看板が出ている。十二時に中村という名前でチェックインしてくれ。相手は少し遅れて着く」
「これで同罪ですか?」
「そうだ。君の顔は二度と見たくないもんだ」
「お互いにね。それじゃ」
電話を切り、ぼくはベッドにひっくりかえって、軽く目を閉じた。その気になれば一眠りできそうな感じだったが、眠れないことは解りきっていた。
ぼくは中森明菜の『バリエーション』をステレオにセットして、机の前に座って引出の整理にとりかかった。中はみな使いかけのノートや、小学校や中学校の卒業記念アルバムや、読みかけてやめた探偵小説の文庫本ばかりだった。ぼくはそれらを一まとめにして|紐《ひも》でしばり、手紙の束も紙袋に放りこんで、ベッドのシーツや枕カバーと一緒に下に持っていった。それからまた部屋に戻り、ちょっと迷ってから、壁に一枚だけ貼ってあったジェームス・ディーンのポスターも|剥《は》がし、小さく折りたたんでくず|籠《かご》に捨て、あとは窓枠に腰かけて時間までぼんやりとレコードを聞いていた。もし万に一つこれが|罠《わな》だったら、ぼくが二度と自分の部屋に戻らない可能性も、なくはない。
十一時になってから下におり、ダイニングでコーヒーを一杯だけ飲んで、ぼくはツーリング用のバイクで家を出た。もっと風通しのいいヘルメットというのを、誰か発明してくれてもよさそうなものなのに。
調布飛行場の東の道をまっすぐ北にのぼると、武蔵境の駅に行きつく。東京天文台のある場所は、距離的にはちょうど武蔵境と調布の中間ぐらいになる。この道はバス路線にはなっているが、クルマの交通量は少なく、道の両側の丘陵には住宅に混ってまだ林も多く残っている。
指定されたモテルのあった場所は、調布側から東京天文台を少し過ぎたところの脇道を左に曲がって、五百メートルほど進んだ道のつきあたりにあった。まわり中をぐるっと化粧ブロックの塀が取り囲み、外から見ただけでは中の広さは解らなかった。紫色の電気看板の出ている門にバイクを乗り入れると、道が建て物をとりまくように裏側につづいていて、ぼくはその道に沿って建て物をまわりこんだ。つきあたりが駐車場で、そこには五台のクルマが停まっていた。建て物自体は名前ほどけばけばしいものではなく、山小屋を真似て作ったレストランと自動車の整備工場かなにかを、足して二で割ったような感じだった。
ぼくは駐車場の端にバイクを停め、入り口の自動ドアを通って、狭いフロアの正面にあるカウンターに歩いていった。そこには三十ぐらいの化粧をしていない女の人が一人いて、ぼくはその人に中村と名前を言い、部屋の鍵を受けとって、フロントの横の階段から二階にあがって行った。部屋を見つけて中に入りきる間、廊下では誰ともすれちがわなかった。
部屋の中は思っていたよりも広く、それにカーテンやベッドカバーもピンク色とかの変な色ではなく、全体がベージュ色で統一された、かなり居心地の良さそうな部屋だった。栗林がこのモテルを指定したということは、栗林自身がここを使っていたということで、裏づけ捜査が必要になったときにはなにかの役に立つ材料かも知れなかった。ここまできて名前を隠しておくことなど、不可能に決まっているではないか。
ぼくは万一の場合を考え、窓から地面までの高さを確かめ、それからベッドにひっくりかえって、煙草に火をつけた。誰がやってくるにせよ深大寺学園の子なら顔ぐらいは見たことがあるはずで、その子にはかわいそうだが、事件の事実関係を確認するにはこれが一番てっとり早い手段だったのだ。
十分ほどして、ついうっかり眠りこみそうになったとき、ドアに軽いノックの音が響いた。ぼくはベッドからはね起きて、ドアの前に歩いていった。そして顔を見られないように、からだを内側に向け、ノブを掴んで、ゆっくりとドアを手前に引き開けた。一瞬|石鹸《せつけん》の匂いがして、女の子の頭がぼくの鼻の下を通りすぎた。
ぼくがドアを閉め、相手が振りかえり、同時にぼくらは口の中で、あっと叫び声をあげた。それから十秒ぐらい、お互いに目を覗きあったまま、ぼくらはお互いの目の中に「なぜ?」という問いを発しつづけていた。
黄色いスポーツバッグが肩からすべり落ち、その拍子に我にかえって、雨宮君枝がぱっとドアにとびついた。ぼくもその瞬間に情況を思い出し、雨宮君枝をうしろからはがいじめにした。そしてそのまま中に引きずりこみ、小柄な雨宮君枝のからだをベッドの上に放り出した。雨宮君枝は諦めず、ベッドからすぐにからだを起こして、またドアのほうに走ろうとした。ぼくが立ち|塞《ふさ》がると、今度は両方の|拳《こぶし》を振りあげて、猛烈な勢いでぼくの顎のあたりを殴りつけてきた。ぼくはその両方の手首をおさえつけ、ベッドに押したおして、その上に馬のりになった。それでも雨宮君枝は脚でぼくを退けようともがき、ぼくのほうはより一層強く雨宮君枝の手首をベッドの上に押しつけた。そうやって五分ぐらい、ぼくらは一言も声を出さずに、じっと力くらべをつづけていた。
やがて急に、もがいていた手足が止まり、雨宮君枝がぐったりとぼくの下で動かなくなった。その目から流れ出る涙を、シーツがどんどん吸いこんでいく。
ぼくはしばらくそのままの恰好で呼吸をととのえてから、ベッドをおり、化粧台の前まで歩いて、向きなおってそこの椅子に腰をおろした。雨宮君枝の腕はぼくが押えつけたかたちのまま、頭の上に投げ出され、むき出しの脚も片方はベッドから落ちて、白いパンティーも半分まで脱げかかっていた。
ぼくは冷蔵庫からコーラを出して、一口飲み、それからバスルームに行ってタオルを水でしめらせ、それを持って雨宮君枝の枕元まで戻っていった。雨宮君枝はスカートだけはなおしていたが、まだ横になったままで、向こうを向いて涙を流しつづけていた。
「君を抱きに来たわけじゃないんだ、解ってるだろうけど」
唇を噛んで、雨宮君枝が小さくうなずいた。
ぼくは雨宮君枝の額にタオルをのせ、また椅子に戻って、コーラを飲んでから煙草に火をつけた。いろいろな思いが台風のようにやって来たが、ぼくはいっさい考えないことにした。
雨宮君枝が、ゆっくりとベッドの上にからだを起こし、しばらくタオルの中に顔をうずめてから、そのタオルで自分の額や首筋をていねいに拭きはじめた。ぼくが掴んでいた手首の部分が、はっきり解るほど赤くなっていた。
顔を拭きおわって、ぼくのほうに向きなおり、雨宮君枝が一つ肩で大きく息をした。ぼくは歩いていってタオルを受けとり、それをバスルームに戻して、ついでに自分でも顔を洗った。
「そのバッグ、とってくれる?」と、バスルームから出ていったぼくに、雨宮君枝が言った。
ぼくはドアの前でバッグを拾い、雨宮君枝のところへ持っていって、自分もベッドの端に腰をおろした。雨宮君枝はバッグの中からピンク色のヘアブラシと、小さい鏡をとり出し、鏡をのぞきながら、男の子のように短く刈った髪にぼんやりした顔でブラシを入れはじめた。
「君の顔を見たとき、なにか間違えたんじゃないかと思った」
「間違いなら、よかったのにね」と、鏡の中の自分の顔に言いきかせるように、雨宮君枝が言った。「いつかはこんな日がくるような気はしてたけど、でも、まさかね」
「どこか、痛むか?」
「だいじょうぶ――もうみんな解ってるの?」
「だいたいは。警察はおとり捜査はできないから、ぼくがやってみた。余計なことだった」
「わたしも戸川くんの顔を見たとき、最初は意味が解らなかった。でも、すぐに気がついた」
「なぜこんなことをしたんだ?」
「戸川くんには関係ない」
「金か?」
「お金なんか――」
「じゃあ、なぜ?」
「万引きをして捕まったの」
雨宮君枝がブラシと鏡をバッグに戻し、鼻水をすすって、唇に力を入れた。
「今年の春休み。わたしね、減量中は一週間くらい、ほとんどなにも食べられないの。そんなときになんとなく、自分で自分のしてることが解らなくなることがあるの。そのときも気がついたら、バッグの中に下着が入ってた。お店の人にわたしが取ったって言われて、それでやっと気がついたの――わたしにもコーラをくれる?」
ぼくは冷蔵庫にいってコーラを出し、栓を抜いて、ビンごと雨宮君枝に手渡した。
「でも春休みだったから、連絡されたのは家と校長のところだけだった。そしたら、次の日理事長に呼び出されたの」
コーラを三分の一ほど飲んで、また雨宮君枝が鼻水をすすった。
「理事長は助けてくれると言った。万引きのことは誰にも解らないように処理してくれるって――交換条件つきで」
「それが、これ?」
黙って、雨宮君枝がうなずいた。
「万引きくらいで、ここまでする必要はなかったのに」
「わたしは国体に出ることも決まっていた。オリンピックの強化選手にも選ばれている。万引きで甲子園に出られなかった子たちのこと、知ってるでしょう? わたしも同し。一生体操はできなくなるの。だからどうしようもなかった。理事長の言うことをきくか、体操を捨てるか。体操は捨てられなかった――こうなったら同しことだったのにね」
「岩沢訓子や新井恵子も、やっぱりこれをやっていたんだろう?」
「そうだと思うわ。少し前までは、知らなかったけど」
「いつごろ解った?」
「それは、この前調布で戸川君とあった日」
「君!」
思わず、ぼくは雨宮君枝の顔を振りかえった。
「君があの日ぼくを呼び出したのは、もしかしたら――」
「理事長に言われたの。戸川くんに風見先生と訓子のことを言えって。それで解ったわ、訓子のこと」
「岩沢訓子がこれをやっていた理由は?」
「解らない。高校に入ってから訓子とは付きあいがなかったし、それにこんなこと、誰か他の子もやってるなんて、思ってもみなかった」
「新井恵子が死んだことは、知ってるよな」
「麻子が電話してきたわ」
「おかしいと思わなかったのか?」
「思ったって、だって、どうしたらよかったの。わたしがそんなこと誰かに言えば――」
コーラを持った雨宮君枝の手が、|痙攣《けいれん》ぎみにぶるぶると震えだした。ぼくはその手からビンを取りあげ、背中に腕をまわして、雨宮君枝の肩を自分のほうに引き寄せた。
「わたしだって怖かった。こんなことだってしたくなかった。いつもびくびくしてた、もし今度の相手が知ってる人だったら、どうしようって。いつも、いつも、いつも」
「言うな。終りだ」
雨宮君枝が声をあげて泣きだし、ぼくの膝の上に顔をつっ伏した。ぼくは肉のついていない雨宮君枝の背中に、掌をおき、雨宮君枝が泣きやむまで、ずっと背中をさすりつづけていた。
顔を伏せたままなん度も深呼吸をしてから、ゆっくりからだを起こして、雨宮君枝が訊いた。
「本当に、終り?」
「終りさ」
「わたしも、終りね?」
空虚な言葉と解っていて、言わないよりはましなことだってある。
「君は、これからさ」
「本当に?」
「本当に」
「体操ができなくても?」
「できなくても」
「オリンピックに出られなくても?」
「出られなくても」
「学校もやめなくちゃならない。麻子や戸川くんにも会えない。それでもわたしの人生、これから?」
雨宮君枝が片方の頬だけで笑い、小さく首を振って、こわれかけた人形のようによろっと立ちあがった。
「今日は泣きすぎた。もう泣かない。今顔を洗ったら、あとは一生死ぬまで泣かないわ」
雨宮君枝がバスルームに歩いていき、ぼくのほうは雨宮君枝が飲み残したコーラを一口口に含んで、それを噛みしめながら|咽喉《のど》の奥に送りこんだ。ちょっと針でつ突かれれば、おさえている感情が爆発して、持っているコーラのビンを窓にでも叩きつけてしまいそうな感じだった。
バスルームから出てきた雨宮君枝に、その大きな黄色いスポーツバッグをかつぎあげながら、ぼくが言った。
「近いうち、たぶん、警察から連絡がある」
「解ってる」
「重いな、このバッグ」
「わたしのぜんぶが入ってるもの」
「君の――」
言いかけたが、ぼくの言葉はそれ以上つづかなかった。雨宮君枝のすべて――体操着が入っているに決まってるじゃないか。
「戸川くん、この前の夜のこと、怒ってる?」
「怒ってないさ」
「ちょっとだけ、もう一度デートしてくれる?」
「ちょっとだけな」
「ハンバーガー、おごってくれる?」
「いいさ」
「わたしね、ハンバーガー、お腹いっぱい食べてみたい」
二人でその部屋を出て、駐車場まで戻り、ぼくは雨宮君枝をうしろに乗せて調布にバイクを走らせた。風でスカートがめくれても、雨宮君枝は気にもしなかった。ぼくの腰にしっかり腕を巻きつけて、最後にマクドナルドの前でバイクを止めたときまで、雨宮君枝は身動き一つしなかった。まるでその間、呼吸すらしていないようだった。
ハンバーガーを食べている間も、雨宮君枝は一言も喋らなかった。スタンドのカウンターに肘をつき、マックシェイクの紙カップを目の前に置いて、通りを眺めながら黙々とハンバーガーを頬張っていた。見ているぼくのほうが涙が出そうで、ぼくはハンカチで汗と一緒に、幾度か目の上をこすらなくてはならなかった。
マックシェイクを飲みおわり、大きく息を吐いて、雨宮君枝がにっこりと微笑んだ。
「もっと食べられると思ったのに、二コしか食べられなかった」
「帰るかい?」
「ええ」
「なにかあったら――」
「だいじょうぶ」
また雨宮君枝のバッグを、ぼくがかつぎ、バイクは店の前に置いて、スーパーマーケットの前を調布駅の方向へ歩きはじめた。なにもかも光の色で、なにもかも埃っぽく、なにもかもぐったりしていた。夕方の買い物時間でもない北口の駅前は、立っている人もほとんどなく、改札口を出入りする人も少なかった。
ぼくがズボンのポケットに手を入れて、百円玉を探し、自動券売機のほうに歩きかけたとき、雨宮君枝がくるっとぼくの前にまわりこんできた。
「いいの」と、真剣な目でぼくの顔を見つめて、雨宮君枝が言った。「ハンバーガーはおごってもらったけど、キップは自分で買うわ。どの電車に乗って、どこへ行ってどこへ帰るかくらい、わたしの責任だもの」
雨宮君枝が券売機に振り向き、百円玉を放りこんで、九十円区間のボタンを押した。キップとつり銭の十円玉が出てきて、それを取って、雨宮君枝がまたぼくを振りかえった。
「バッグ、ありがとう」
ぼくがバッグを肩にかけてやり、二人で少しだけ、改札口のほうへ移動した。
雨宮君枝が急にぼくの手をとって、掌の中になにか固いものを押しこんだ。
「あげるわ」
それはたった今券売機から出てきた、つり銭の十円玉だった。
「ハンバーガーのお礼に、それ、あげる。でもその十円玉、わたしから貰ったこと、麻子にはぜったい秘密なんだから」
雨宮君枝は走るように改札口を通り抜け、階段をおりて行くときも、もう二度とぼくのほうは振りむかなかった。新宿行きの特急が、暑苦しい音をたててホームにすべり込んでいった。
ぼくは売店の赤電話まで歩き、掌の十円玉はシャツのポケットにしまって、別の十円玉で親父の仕事場に電話を入れた。どこでもいいから一人になって、思いきり泣いてみたい気分だった。
7
「味噌汁は?」
「もういらん」
「いつも二杯飲むじゃないか?」
「今日はもういい」
「近いうち休みはとれるんだろう?」
「とれば、とれるさ」
「ジャイアンツ戦のキップ、買っておこうか?」
「あんなもの――」
やはり朝からねっとりするような日は射していたが、それでも今日の光の色にはどこか|翳《かげ》があって、庭の芝生にもなんとなくくすんだ露っぽい感じがあった。湿度が高く、座っているだけでじっと汗がにじんでくるような天気だった。
「でも、ジャイアンツも追いあげてるよ」と、|煎茶《せんちや》を入れた|湯呑《ゆのみ》を親父のほうに差し出しながら、ぼくが言った。
「今で限度さ」と、寝不足の赤い目をこすりながら、親父が答えた。「ジャイアンツもくだらんな。戦力的には抜けてるはずなのに」
「原だってそのうち調子を出すよ」
「原が調子を出したって、王が監督やってる間は優勝なんかできんさ」
「父さん、王のファンだったじゃないか?」
「俺は長嶋のファンだ。どうせ優勝できんのなら、長嶋に監督をやらせりゃいいんだ」
親父が帰ってきたのは今朝の三時ごろだった。それから風呂に入り、ビールを一本飲んで八時まで自分の部屋に入っていたが、一睡もできていないことは、その目にはっきりとあらわれていた。
「野球がいやなら海だっていいよ。ハワイなんかどうだい?」
「あんな俗っぽいところ、行けるか」
「グアムとか?」
「子供じゃあるまいし」
「スリランカでもモルディブでもいいじゃないか」
「気が向けばな」
「行ってみればなにか面白いこともあるさ」
「俺みたいな年寄りに、面白いことなんぞ、あるもんか」
「あるさ。そのうちさ、どこかで」
「お前のほうはどうした?」
「なにが?」
「酒井組の娘」
「まあまあだよ」
「無茶はしちゃいかんぞ」
「しないよ」
「来年あたり、結婚したらどうだ?」
「疲れてるんだよ、父さん」
「二度と会えん女ってのはいる、若かろうが、年寄りだろうがな」
親父はまた目をこすり、湯呑をテーブルに戻して、長い息を吐きながら息苦しそうに立ちあがった。服は元のネズミ色のかえズボンと、なに色ともいえない綿の開襟シャツに戻っていた。
「だいじょうぶかい、父さん?」
親父がうなずいただけで、玄関に歩いていき、しばらくしてあのフォルクスワーゲンの、低い咳こむような音がぶーんと建て物の横を通りすぎていった。エンジンの音を聞いただけでも、今日の湿度はかなり高いようだった。
ぼくはクルマの音が完全に聞こえなくなってから、使った食器を片づけ、風呂場に行って洗濯にとりかかった。親父やぼくの分のシーツや枕カバー、それにズボンやシャツやタオル類が山積みになっていて、洗濯機は三回もまわさなくてはならなかった。
洗濯のあと、本当なら家の中の掃除もしなくてはならないところだったが、そこまでする気にはならなかった。かわりにぼくは庭に出て、門のまわりと、玄関のまわりだけ草をむしることにした。草むしりなんか本気で始めれば幾日かけても終るはずはなかったが、今日の場合はただの時間つぶしだった。からだを動かしているほうが、テレビを観たりレコードを聞いたりしているよりも、いくらかは気がまぎれる。
十二時きっかりで仕事をやめ、シャワーを浴び、着がえと戸じまりをして、ぼくは家を出た。乗って出たのは昨日と同じ、大きいほうのバイクだった。
真冬でも、井の頭公園は日だまりで年寄りが将棋を差している。それ以外の季節は林の中で中学生がコーラスの練習をしていたり、アベックが池にボートを浮かべていたり、繁華街のほうから散歩に流れこんできたり、人の気配は絶えることがない。ぼくが子供のころは井の頭池で釣りもできたが、どうせ今は魚釣りは禁止になっているのだろう。
ぼくは『パーク・ビュー』の前の歩道にバイクを停め、エレベータで四階まであがって、五〇六号室のインターホンのチャイムに指をかけた。名前を言うとすぐにドアが開き、チェーンを外して、村岡先生がぼくを中に入れてくれた。村岡先生は絨毯の色と同じぐらい濃い、緑色のバスローブ姿だった。
「あまり生徒に見せていい恰好じゃないわね」と、目だけで微笑みながら、村岡先生が言った。「今お風呂から出たところなの。昨日新井さんのお葬式が終って、ほっとしたのかしら。今日はお午まで寝てしまったわ」
ぼくを前と同じテーブルの前に座らせ、自分では台所に立って、ちょっと村岡先生が顎をしゃくった。
「どうしたの? 目が赤いじゃないの」
「ただの寝不足です」
「そう。今ちょうどコーヒーを入れたところ。飲むでしょう?」
ポットのコーヒーを二つのカップに分け、それをテーブルまで持ってきて、村岡先生がぼくの前に座りこんだ。
「戸川くん、担任の教師に悩みごとの相談があるような顔をしてるわよ。たぶんちがうでしょうけどね」
「この前親父の靴下を買うのを忘れちゃって――綿のほうがいいから」
「でも似合ってらしたわよ。新井さんのお通夜に来て下さったの。聞いたでしょう?」
「はい」
「当然風見先生のこともね?」
「はい」
「まさかとは思ったけど――でも犯人だったら仕方はないものね。夏休みが終ったら学校が大騒ぎだわ。どんなことになるのか。今度は校長先生のほうに責任問題がでてくるでしょうね。戸川くんのお父様には、感謝してるわ」
「警察が犯人をつかまえるのは、当りまえです」
「でもこんなに早く事件が片づくなんて、ねえ? 思ってもみなかったわ。一時はどうなることかと思った」
「当りまえのことを当りまえにやっただけで、とんでもない結果になることもあります」
「なんのこと?」
「事件のこと」
「コーヒーをお飲みなさいな。からだの具合、悪いんじゃないの?」
「いえ」
ちらっと、ぼくが壁の時計に目をやった。
「ちょうど一時です」
村岡先生も眉をあげて、時計のほうを振りかえった。
「もう少しこのままの恰好にさせておいて。まだ汗がひかないの。それとも、気になる?」
「一時なんです」
「解ってるけど――」
「三枝理事長の逮捕の時間。今日の一時です」
村岡先生の白い顔の輪郭が、ぼんやり歪んで、「なぜ?」という目が、じっとぼくの顔をのぞきこんできた。
「三枝さんが、だって――」
「容疑は新井恵子の殺害と、未成年者に対する強制売春。とりあえず、そういうことらしいです」
「だって、風見先生がもうつかまってるじゃないの?」
「間違えたんです。もちろん間違えるようにし向けられたわけです」
「急に言われても、よく理解できないわ」
村岡先生がコーヒーを一口飲み、濡れた髪を大きく振って、挑むような目でぼくの顔を見すえてきた。
「新井恵子が轢き逃げされた現場に、ウインカーの破片が落ちていたといったでしょう? あれに三枝理事長の指紋がついていたんです。指紋なんかつくはずのない場所なんです。つくはずのない場所に理事長の指紋がついていた。それも風見先生のクルマの。誰だってそんなところに指紋がつくとは思わないし、警察で調べるとも思わなかったから、理事長もうっかりしたんでしょう。それに修理に出ていた理事長自身のクルマからは、ウインカーとヘッドライトをガムテープで止めたあとが見つかったそうです。つまり、自分のクルマで新井恵子を轢き殺しておいて、現場にはあらかじめ用意しておいた、風見先生のクルマのウインカーの破片を捨ててきた、そういうことです。売春のほうは雨宮君枝が喋りました。岩沢訓子も新井恵子も、同しように理事長の仕事の道具として売春をさせられていたんです。今日中にはみんな自白するはずです。岩沢訓子殺しも」
村岡先生の視線が、ぼくの顔から部屋の空間の中に漂いだし、下唇が上唇から離れて、小さい咽喉仏が白い首の中を、ゆっくり上下した。
「あの三枝さんが、いくらなんでも――信じられないわ」
「ぼくにも――信じられない」
「戸川くん、まさか、わたしをからかってるわけ?」
「人をからかうために徹夜するほど、ぼくも親父も暇じゃありません」
「三枝さんがもし本当にそんなことをしていたのなら、結局わたしだって学校をやめなくちゃならないわ。この学校にお世話下さったのも三枝さんだし、これまでもずっとわたしのうしろ盾になっていて下さったんですもの。みんなでわたしを追い出しにかかるに決まっているわ。なんてことかしら、いったい」
「先生が学校をやめるだけで済むんだったら、なにも問題はないんです」
「どういう意味?」
「理事長は自白するんですよ、ぜんぶ」
「ぜんぶ?」
「誰だって罪を一人でしょいこみたくはないでしょう?」
村岡先生の眉があがって、皮肉っぽい視線が、またぼくの顔にまわってきた。
「ずいぶん変な言い方をするわね。わたしはそんな言い方、生徒に教えた覚えはないわよ」
「親父はばかだから、先生が学生のころやっていたアルバイト先まで、自分で訊きこみに行きました。『藍子』ってクラブのママさん、先生によろしく言ってたそうです。三枝理事長はお父さんの古い友人ではなく、その店の客だったんです。先生と理事長が知りあってから、先生はすぐ店をやめたということでした。それから先は、もうアルバイトはしなくてよかったんでしょう?」
途中で止めたような笑い方で、くっと、村岡先生が笑った。
「警察って、なんでも調べてくるのね。他人に知られたくないことでも、なんでも」
「ずっと理事長の世話になっていた先生が、なにも知らないと言っても、誰も信じてはくれません。ぼくでさえ信じません」
「だけど、それがどうしたの? たしかに世話にはなったわよ。あなただって子供じゃないからそのくらいは解るでしょう? 女が男に世話になるということは、ただお金を貰うということではないわ。こちらからもあげたわよ。だけどそれがなんなの? あなたがそんな目をしてわたしを見るほど悪いこと? ご覧なさいこの部屋。あなたの家の食堂より狭いじゃない。こんな部屋で家賃がいくらすると思う? 二十万よ。解る? わたしのお給料がいくらだか知ってるの? 手取りで十八万。笑っちゃうでしょう? これが現実よ。軽蔑したければ好きなだけ軽蔑すればいいわ。あなたなんかに軽蔑されたって、わたしのほうは痛くも|痒《かゆ》くもないのよ」
「軽蔑したいけど、親父もぼくもばかだし。ただ――」
コーヒーのカップを取りあげ、結局は飲む気にならなくて、仕方なくぼくはまたそれを受け皿の上に押し戻した。
「ただ、岩沢訓子や新井恵子や雨宮君枝に、先生があんなことまでする権利があったのかどうか、もしあるっていうんなら、それが聞いてみたかった」
「関係ないって言ってるでしょう? 三枝がなんと言おうと、殺人とか売春とかはわたしとは関係ないわよ」
「常識で考えれば解ります。雨宮君枝はたまたま万引きの件を利用して引きこめたとしても、あとの女の子たちを、理事長が一人でどうやって集めたんですか。彼女たちのことをよく見ていて、使えそうな子を理事長に提供した人間がいるに決まってます」
「それが、わたしだって言うの?」
「先生以外にいますか?」
「あなたのただの推理だわ」
「理事長は雨宮君枝に、風見先生と岩沢訓子の関係をぼくに伝えろと命令したそうです。理事長がなぜぼくのことを知ってるんですか。ぼくが岩沢訓子の自殺を怪しんでいたことなんて、理事長が知ってるはずはないんです。でも先生は知っていた。岩沢訓子の件が自殺で片づきそうもないので、岩沢訓子と関係のあった風見先生を犯人に仕立てようとしたんです。途中までは、のせられたけど」
「それもただの推理よ」
「理事長が喋ります」
「喋ったって――」
「ぼくは最初、新井恵子はぼくが岩沢訓子のことを訊きにいったから殺されたんだと思っていた。もちろんそれもあったでしょう。でも本当はもっと前に、先生は新井恵子を殺すことに決めていた。そうでしょう? 岩沢訓子の葬式のとき、ぼくは新井恵子にも連絡をしたかと先生に訊いてしまった。ぼくが新井恵子に目をつけたことは、先生にはあの時点で解っていた。そして殺すこともあの時点で決めていた。そうでなかったら、電話で風見先生を新宿に呼び出したり、その間にウインカーの破片を手に入れたり、そんな細工ができるはずはなかった。だから逆に、ぼくと会ったときぜんぶ喋っていれば、新井恵子は先生たちに殺されずに済んだんだ。あの日新井恵子をどこに呼び出したんですか? このマンションですか? そうでしょう? 彼女はぼくがあまり自分たちのことに詳しいのでびっくりした。岩沢訓子のことでも先生を疑っていた。先生は一応新井恵子をなだめて、クルマで送っていった。誰かに見られないようにわざと人通りのない場所で新井恵子をおろし、そこで風見先生のクルマのウインカーの破片を用意して待っていた理事長が新井恵子を轢き殺した。そうだったんでしょう?」
「でたらめよ。作りごとだわ。刑事とその息子が暇つぶしに、わたしを罠に嵌めようと思って考えた作り話だわ。いったいあなた、わたしになんの恨みがあるの? わたしがなにかあなたに悪いことをした? もしかしたらあなた、わたしと寝たいんじゃない? そうなの? それでそんな変な話を思いついたんでしょう? それなら最初からはっきり言えばよかったのよ。最初から言ってくれれば寝てあげたわよ。あんなヤクザの娘とかかわってないで、素直に言えばよかったのよ」
「それ以上言ったら、本当に先生を軽蔑します」
「勝手にしなさいな。たしかにわたしは三枝の世話になっていた。あなたの言うとおり女の子を選んで三枝の仕事もさせていた。好きなだけ軽蔑するといいわ。あなたみたいなお坊っちゃんになにが解るの? なにも解っていないじゃない。解る必要のない人間が余計なことまで解る必要はないのよ。寝たいんなら寝てあげるから、あなたがそれ以上余計なことを考える必要はないの」
「まだ解らないんですか? もう先生がなにを言っても無駄なんです。理事長が自白すれば、すぐ警察がここにやって来るんです」
「それがなに? 警察が来たからってなんだっていうの? 三枝からお金を貰っていた。三枝に女の子を見つけてやった。それだけだわ。岩沢訓子のことも新井恵子のことも、わたしはなにも知らない。わたしとはなんの関係もないことよ」
「それじゃなぜあの日、先生が岩沢訓子の家にいたんですか?」
「あの日?」
「あの日です。岩沢訓子が死んだ、あの日」
村岡先生の口が、半開きのまま止まって、目が大きくぼくのほうに見開かれた。ただもちろん、そこにはぼくの顔は映っていなかった。
「ぼくも昨日までは気がつきませんでした。自分の教え子が死んで、担任の教師がその家にいるのは当りまえだと思っていました。ふつうなら、やっぱりそれは当りまえのことなんです。でもあのときはちがっていた。遺体が検死から帰ってきてもいなかった。岩沢訓子が死んだことを知っていたのは、警察と岩沢訓子の家族だけだった。岩沢訓子の家族にたしかめてみました。誰も先生には連絡していないんです。みんな警察から連絡が行ったと思ってたんです。警察にも確認しました。警察からも、やはり先生のところに連絡はいっていません。その先生がなぜあの日、あのとき、岩沢訓子の家にいたのか――」
「それ以上は、言わなくてもいいわ」
「先生は誰よりも早く岩沢訓子の死を知っていた。遺書も先生が書いた。住所録も先生が取った」
「言わなくていいって言ってるじゃない!」
「岩沢訓子は先生が殺した」
村岡先生が、コーヒーカップを掴み、片膝を立てて、それをぼくめがけて投げつけてよこした。カップはぼくの顔の横を飛んで、うしろの壁にぶつかり、それでも割れないで、絨毯の上を台所のほうに少し転がった。村岡先生の重心がぐらっとゆれて、肘から先に上半身がテーブルの上に倒れこんだ。バスローブの合わせめが大きく割れ、反射的に、ぼくはそこから目を外した。
「先生も自分の失敗に気がついていた」と、顔にかかったコーヒーを、ハンカチで拭きながら、ぼくが言った。「あの日ぼくと酒井麻子に会いさえしなければ、先生もそれほど心配せずに済んだ。だけどぼくらに会ってしまって、いつそのことに気づかれるかと不安で仕方がなかった。だからぼくに近づいたんでしょう? ぼくや親父に近づいて、捜査の進み具合を知ろうとしたんでしょう? これが結果です。先生が知りたがっていた捜査は、こういうふうに進んだんです」
村岡先生はテーブルについた肘の間に顔をうめこみ、静かに息をしながら、黙ってぼくの話を聞いていた。バスローブの裾はめくれたままだったが、ぼくは二度とそのほうは見なかった。
息を吸いこむたびに大きく動く村岡先生のバスローブの背中を、しばらく、ぼくは黙って眺めていた。そのうち村岡先生がゆっくりとからだを起こし、立ちあがって、寝室から煙草と灰皿を持って戻ってきた。そして今度はバスローブの裾をぴったりと閉じて、背筋を伸ばして元の場所に座りなおした。
「コーヒー、かかってしまった?」と、最初の煙を吐き出してから、困ったように眉をあげて、村岡先生が言った。
「少しだけ」
「ごめんなさいね。シャツにしみが残ってしまうわね」
「みんな|羨《うらやま》しがります。誰にも見せる気はないけど」
煙草をくわえたままの村岡先生の口が、ちょっと微笑んだ。
「あなたがわたしのクラスに入ってきたときね、本当はいやな予感がしたの。この子、危いなって。そのとおりになってしまったわ」
「なんで、こんなことを?」
「もちろん、お金」
「それだけじゃないでしょう?」
「憎かったの、生徒たちが」
ぼくの反応をたしかめるように、村岡先生の目が、ちらっとぼくの顔をうかがった。
「わたしは、中学のとき父親が借金を残して死んで、高校は夜間部に通ったわ。どのくらいみじめだったか、思い出す気にもならない。働いて、お金をためて、大学に入って、それでもやっぱり夜は働いて、もう働くのがいやになったころ三枝と知りあって、三枝のお金で大学を出て、三枝の力で今の学校に入れてもらって。それでも最初は、わたしだっていい教師になりたいと思ったわ。張りきってもいたし、努力だってした。でも毎日生徒たちと顔を合わせているうちに、どうにも我慢ができなくなったの。この子たちはどうしてこんなにめぐまれてるんだろうって。悩むことといったらせいぜい両親の仲が悪いことくらい。そのくせ文句だけは一人前。自分の成績が悪いのは教え方が悪いんですって――ふとね、一人でもいいから地獄を見せてやろうかなんて、そんなふうに思ったわけ。女の子を集めるのはかんたんだったわ。もっと聞きたい?」
黙って、ぼくがうなずいた。
灰皿の中で楽しむように煙草をつぶして、村岡先生がつづけた。
「みんな風見が提供してくれたわ。もちろん本人は知らなかったでしょうけど。わたし、あの男ともなん回か寝たのよ。頭では軽蔑していても、からだがその気になってしまう日っていうのがあるの。そのたびにあの男、今度はなん組の誰をものにしたなんて、自慢げに喋ってくれたわ。でもあれでそれほどばかじゃないから、口の軽そうな女の子は避けていたのね。それが逆にこっちには都合がよかった。もう解ったでしょう?」
村岡先生の煙草を、黙ってもらって、黙ってぼくが火をつけた。耳の中で蝉が鳴いているような感じだった。
「でも岩沢訓子だけが本気で風見に惚れてしまって、なにもかも風見にうちあけて子供を産むと言い出したの。脅したり説得したりしたけど、効果はなかった。だから殺したのよ。新井恵子のほうはあなたの言ったとおり。これでぜんぶ。事件のこともわたしのことも、ぜんぶ喋ってしまったわ。聞いててどんな気分だった?」
二、三度首を横に振るのが、ぼくにできた精いっぱいの努力だった。
「楽しかったでしょう? 一人の女を丸裸にして」
また、ぼくは首を横に振った。
「わたしのほうはあなたに口から手をつっ込まれて、子宮と腸を無理やり引き出されたような気分だわ。楽しいんでしょう? あなたはそういうのを見るのが、好きなんでしょう?」
火のついたまま煙草を、灰皿に放って、ぼくが立ちあがった。
「お待ちなさい。まだ言うことがあるんだから」
下からじっと、痛いような目で村岡先生がぼくの顔を見あげてきた。
「わたしは二度と、もう誰にも口の中に手なんか入れさせないわよ。もう誰にも、わたしのからだにも心にも、指一本触れさせないわ、警察でもなんでもよ。警察でどんな取り調べを受けても、三枝がなにを言っても、やったのはあの男。わたしはお金でただ手伝っただけ。あなたが証人で出てきても同じことよ。あなたになんかなにも喋った覚えはないわ。裁判くらいどんなことがあっても、ぜったい頑張りきってみせる。いいこと? よく覚えておくのよ」
返事をしないで、そのまま玄関まで歩き、スニーカーの向きをなおして、ぼくはその中に足をつっ込んだ。
「戸川くん――」
しばらく待ったが、村岡先生のほうからは喋り出さなかった。
首だけを、少しぼくが部屋の中に振り向けた。
「この前の夜、楽しかったわ」と、向こうを向いたまま、村岡先生が言った。「ふとばかなことを考えてしまった。こんなふうに毎日暮すのも、けっこう楽しいだろうなって。学校も、誰かを憎むことも自分を傷つけることもみんなやめてしまって、朝はあなたとお父様にお弁当を作って送り出して、わたしは一日中洗濯をしたり掃除をしたり、庭に水を撒いたり、夜になったら、ご馳走をたくさん作って、三人で食事をして、そのあとはまた、寝るまでお父様から歴史のお話を聞くの――ばかだと思うでしょう? そんなこと、できるはずなかったのにね」
スニーカーの紐を結んで、ぼくが立ちあがった。
「親父に会ったら、先生から言ってもらえますか? 新しい服のほうが似合うって。親父のやつ、また前の冴えない服を着ていっちゃったから」
「警察は、いつごろ来るの?」
「理事長次第です」
「わたしがもう一度お風呂に入って、髪を乾かしてお化粧をして服を着がえるまで、あの男に頑張りきれるかしらね」
「さあ――」
「わたしが服を着おわるまでに警察が来なかったら、わたしのほうからお父様にお目にかかりに行くわ。そのとき、服のことも言ってあげる」
ぼくがうなずいたのを、村岡先生も気配で感じたらしかった。ぼくは黙ってドアを開け、コンクリートの廊下に出て、音をたてないように、そっとドアを閉めた。
外に出てみると、ほんのわずか、細かい雨がふりはじめていた。ぼくはバイクに跨がって、エンジンをかけ、ヘルメットをかぶって一つ深呼吸をした。
繁華街に向かってバイクを走らせはじめたとき、ふと、洗濯物のことが思いだされた。だがぼくはそのまま、繁華街に向かってバイクを走らせつづけた。今日は家を出るときから、今まで二度も観そびれた『コットンクラブ』を観て帰ろう、と決めていたのだ。
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単行本
昭和六十三年七月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
ぼくと、ぼくらの夏
二〇〇二年七月二十日 第一版
著 者 口有介
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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