TITLE : 小泉首相が注目した「米百俵」の精神
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小泉首相が注目した「米百俵」の精神《こころ》
「米百俵」の精神 目次
第1章小泉演説の波紋
――国民的キーワードになった「米百俵」
「米百俵精神」が小泉演説で国民的キーワードになった/長岡市発行の『米百俵』が即日完売。中村嘉葎雄主演のビデオも復活した
第2章「米百俵」ものがたり
――百俵の救援米で学校を立てた実話
国民的作家・山本有三が感動した実話「米百俵」/幕末の開明派・佐久間象山、その門下に「二虎」あり/江戸から長岡に戻った虎三郎は「興学私議」の執筆にかかった/北越戊辰戦争の熾烈な戦いで焦土と化した長岡の地/大参事・小林虎三郎といえども、邪魔をするなら切り捨てる/三根山藩からの救援米をなぜ食べてはならぬのか/この百俵をもとにして学校を立てたいのだ/国漢学校のスタートで将来を担う逸材が生まれた
「米百俵」ものしり事典
米百俵の重さは何キロあるの?/百俵の米はいくらで売れたの?/小林虎三郎は何人兄弟だったの?/小林虎三郎はどんな性格だったの?/いつから牧野家が長岡藩主になったの?/戯曲「米百俵」の初演はいつだったの?/長岡市って新潟県のどこにあるの?/「米百俵」にちなんだ長岡名物はあるの?/長岡市では「米百俵」精神をどう生かしているの?
第3章「米百俵」スクール
――平成に引き継がれた「米百俵の精神」
長岡の三尺玉花火よりもあとに残るものはないか /米百俵で立つ学校が実現したクリッシャーさんとの出会い /一口一万円の寄付を募り長岡の米を10キロ送る /私たちは屋根のある学校をつくった。次はカンボジアの人たちが考える番
第4章「米百俵」の教育対談
――きょうの満腹よりあすの教育を
櫻井よしこVSバーナード・クリッシャー
日本はほんとうの教育を忘れつつあるのではないか /私は今、日本がとても心配なんです /日本を築いた精神が東南アジアにシフトしている /二一世紀の価値観を、日本人は土台として持っているはず
あとがき
撮影/菊地和男(第4章)
第1章
小泉演説の波紋
――国民的キーワードになった「米百俵」
「米百俵精神」が小泉演説で
国民的キーワードになった
「新世紀維新、長岡藩米百俵の精神だ」
「今の痛みに耐えて明日を良くしよう」
これは日刊スポーツの社会面を飾った見出しである。
平成一三年五月七日、小泉純一郎首相の所信表明演説を受けて、新聞各紙の夕刊はその全文を掲載した。また、テレビのニュース番組でも「米百俵精神」をめぐる話題を紹介し、一夜にして「米百俵精神」は国民的キーワードになった。
これまでの歴代首相たちは、側近(官僚)が用意した作文を棒読みするのが通例となっていた。しかし、官僚政治・派閥政治の旧弊に真っ向から立ち向かい、国民から八〇パーセント以上の高支持率を得た小泉首相は、ここでも「恐れず、ひるまず、とらわれず」の信念を貫き、自分の言葉でその政治理念を熱く語ったのである。なかでも、次の「米百俵の精神」にふれた部分が最も注目を集めた。
明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として生かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。
翌日の朝刊各紙も、これまでの首相演説とは違った印象を伝えている。日ごろは辛口のマスコミも、「米百俵精神」の故事については好意的に扱っている。
「なかなかいいじゃないか。簡潔で改革をやろうという意欲が伝わってきたよ」。春秋子も所属する職場での「テレビ桟敷」。小泉首相の所信表明演説に対する評価は「まずは合格点」だった。職場のほぼ全員が最後まで首相演説を聞いたのは初めてだ。(日本経済新聞朝刊コラム「春秋」より)
小泉首相は、きのうの所信表明演説で諸改革を「新世紀維新」と名付け、「米百俵の精神」を訴えた。歴史小説を好む首相らしい言い方だが、「今の痛みに耐えて明日を良くしよう」との認識はその通りだろう。
(読売新聞朝刊コラム「編集手帳」より)
長岡市発行の『米百俵』が即日完売。
中村嘉葎雄主演のビデオも復活した
「米百俵」精神発祥の地、新潟県長岡市の(財)長岡市米百俵財団では、小泉首相の演説が終わると同時に電話が鳴りつづけ、その対応が大変だったそうだ。市民グループがまとめた『米百俵 小《こ》林《ばやし》虎《とら》三《ざぶ》郎《ろう》の思想』の在庫、四〇〇部が即日完売し、すぐに三〇〇〇部の増刷を二回したものの、全国から殺到する注文に応じきれない状態がつづいているという。また、平成五年、中村嘉葎雄主演で制作された映画『米百俵』のビデオが、八年ぶりに復活して大きな話題になっている。
ところで、「米百俵」の故事には、どのようないわれがあるのだろうか。前出の読売新聞朝刊コラム「編集手帳」が、そのあたりを簡潔にまとめている。
戊《ぼ》辰《しん》戦争で焦土と化した長岡藩は日々の糧《かて》に事欠く窮状に陥った。支藩から見舞いの米百俵が届いたとき、分配を求める藩士の声を制したのが藩の大《だい》参《さん》事《じ》を務めていた学者小林虎三郎だった。「国が興るのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある」と。結局、米百俵を売却し、それを資金に拡充された「国《こつ》漢《かん》学校」は長岡に近代教育の礎《いしずえ》を築き、多くの人材を輩出する。
これは明治初期にあったほんとうの話である。明治維新の直後、日々の糧にも事欠き、妻子も飢えていた長岡藩士たちは、支藩から届いた百俵の救援米に、「やれ、うれしや、これで食いつなげる」と安堵する。しかし、藩の大参事(家老格)小林虎三郎は「今食べるのではなく、将来の教育のため、学校建設資金にあてよう」と主張したのである。一時は抜刀してそれに反対したものの、今の百俵を食べずに、将来の千俵、万俵に託そうと小林虎三郎に道理を説かれ、それを涙ながらに受け入れた藩士たちのいさぎよさもまた、すばらしいものがある。
作家の山本有三が昭和一八年、雑誌『主婦之友』に連載した戯曲「米百俵」によって、当時の人々はこの故事の詳細を知り、教育のたいせつさを強く思った。
そして、小泉首相の演説で「米百俵」の灯が再びともった今、二一世紀の新しい「米百俵」の精神を考えるために、あらためて江戸末期から明治維新にかけての時代背景にもふれながら、次章の「米百俵ものがたり」を始めてみたい。
第2章
「米百俵」ものがたり
――百俵の救援米で学校を立てた実話
国民的作家・山本有三が
感動した実話「米百俵」
「米百俵」の故事を一躍有名にしたのは、昭和一八年『主婦之友』新年号、二月号に連載された山本有三の戯曲「米百俵」である。当時の『主婦之友』は一八〇万部を発行していて、家庭雑誌としての回し読みを考えると、ほとんどの国民が「米百俵」の由来を知っていたことになる。まさに、国民的な読み物であった。
ところで、『主婦之友』の連載につづけて、山本有三は次のような「あとがき」を添えている(原文は正漢字、漢字には総ルビがふってある)。
新篇「路傍の石」を中絶してから、まる二年半になります。それから一篇も、わたくしは作品を書いてをりません。しかし、もし、あたらしい創作ができた場合ひには、突然中絶をした手まへ、第一に、その原稿を本誌に送らなくては申しわけが立たないと、つねづね心に誓ってをりました。戯曲は、本誌のやうな雑誌には適当な読み物ではないと思ひますが、書きあがりましたまゝに、こゝに発表する次第です。(後略)
山本有三は昭和一三年から一五年にかけて、雑誌『主婦之友』に「新篇 路傍の石」という作品を連載していた。当時強化されつつあった検閲の干渉にあって、いったん中断していた朝日新聞の「路傍の石」という新聞小説を、主婦の友社創業社長・石川武美のすすめに応じて、新編としてあらためて稿を起こすという大作業にとりかかっていたのである。
しかしながら、その「新篇 路傍の石」もまた当局の執拗な検閲の前に、不幸にも昭和一五年七月号で再びペンを折ることになる。
山本有三の東京帝国大学の後輩で、その人柄に私淑したドイツ文学者・高橋健二は、『山本有三全集』の編集後記の中に、人間をつくるよりたいせつなことはないという考えをいだいていた山本有三が、「先王天下ヲオサムルヤ、急トスルトコロ人材ヨリ急ナルハナシ」という「米百俵の精神」を掲げた長岡藩大参事・小林虎三郎の簡潔な言葉に共鳴せずにはいられなかったのだろうと書いている。
それだけに、昭和一八年という、すでに戦争の敗色が濃厚になっていたころの日本だったからこそ、一度はペンを折らざるをえなかった雑誌『主婦之友』に、この戯曲「米百俵」を書こうと思い立ったのではないだろうか。
この作品を発表する二年ほど前から、山本有三は小林虎三郎の人物像と、米百俵分のお金を資金の一部にして開設された国漢学校の綿密な調査を行い、ラジオで講演したり、その講演の内容を雑誌『改造』に発表したりしている。
驚くべきことに、人間性尊重の考え方による「米百俵」が戦時下にあっては危険思想とされ、軍部からにらまれたとも、その後出版された単行本も自主回収を余儀なくされたとも伝えられている。北越戊辰戦争後の長岡藩で実際にあった「米百俵」の故事は、太平洋戦争のわずか七〇年前のでき事なのである。
山本有三の戯曲「米百俵」は、二場からなる芝居の脚本の形で書かれた文学作品であるが、雑誌『主婦之友』に発表された当時の原作、戦後になって新潮社『山本有三全集』第三巻に収録された作品(現代かなづかい)、各種の資料などを参考にしながら、その感動的なストーリーをたどってみることにしよう。
幕末の開明派・佐久間象山、
その門下に「二虎」あり
「米百俵」ものがたりの序章は、江戸時代末期の一八五〇年(嘉永三年)、当時数え年二三才、越後の国長岡藩士・小林虎三郎が藩命を受けて江戸に赴き、翌年(嘉永四年)、時代の先覚者・佐久間象《しよう》山《ざん》のもとで漢籍、蘭学、物理学、砲術などを学んだところから始まる。
一八三九年(天保一〇年)に江戸の神田お玉が池に開かれ、のちに木《こ》挽《びき》町に移った「象山書院(塾)」には、江戸城無血開城をなしとげる勝《かつ》海《かい》舟《しゆう》をはじめ、各藩からの秀才英才たちがおおぜい集まっていた。なかでものちに松下村塾を開いた長州の吉田松《しよう》陰《いん》(寅《とら》次《じ》郎《ろう》)、長岡の小林虎三郎の二人は特にすぐれた逸材として、どちらの名前にも「とら」がつくことから、佐久間象山門下の「二《に》虎《こ》」と並び称せられるほどであった。
師匠である象山は「虎三郎の学識、寅次郎の胆《たん》略《りやく》というものは、当今、得がたい材である。ただし、事を天下になすものは吉田子なるべく、わが子の教育を頼むものは小林子だけである」と言って、一子・格二郎の教育を後年、小林虎三郎に託したほどの信頼を寄せている。早くから虎三郎の教育者としての資質を見抜いていたのである。
それまで長い間、鎖国政策をつづけてきた徳川幕府は、アメリカやロシアなどから貿易のための開港を迫られ、諸外国への門戸開放を主張する開国派と、あくまでも外国艦隊の撃退をはかる攘夷派とが、その対応策をめぐってはげしい内部抗争を繰り返していた。一方、国の内部の問題では、天皇への大政奉還を唱える勤皇派と、あくまでも幕藩体制を守ろうとする佐幕派があった。京都・三条に集まっていた勤皇派の志士たちが幕吏に急襲され、斬殺された「池田屋事件」は有名な話である。
一八五四年(安政元年)、前年に浦賀に来航したアメリカのペリー提督は、新たに使者をよこして幕府に開港を迫った。対応に苦慮した幕府は、江戸から少しでも遠い伊豆下田をと考えた。しかし、象山は「下田を開くくらいならば、横浜を開くほうがいい」と建言した。同時に、門下の虎三郎をして、その藩主で当時海防掛月番の老中という幕府の要職にあった牧野忠《ただ》雅《まさ》に対して、これを積極的に説かせてもいる。
軍事上も経済面からもこの策が最上とかたく信じていた虎三郎は、自分の殿様ばかりか、ときの筆頭家老である阿部正《まさ》弘《ひろ》の側近にもこのことを説いて回った。これが阿部の耳に入り、その逆《げき》鱗《りん》にふれた虎三郎の処置に困った藩主・牧野忠雅は、虎三郎を国元に送り返して謹慎させることにしたのである。
おりしも、象山門下の吉田松陰が海外密航を企てたが、未遂に終わった。連座して一時投獄された象山もまた、藩主である真田《さなだ》幸《ゆき》貫《つら》によって国元の信州松《まつ》代《しろ》藩(現在の長野市松代町)に戻され、四四才からの九年間、蟄《ちつ》居《きよ》を命ぜられた。
環《かん》海《かい》何ぞ茫《ぼう》々《ぼう》たる 五州自ら隣を為《な》す 周《しゆう》流《りゆう》形勢を究《きわ》めよ 一見は百聞に超ゆ 智者は機を投ずるを貴ぶ 帰《き》来《らい》須《すべか》らく辰《しん》に及ぶべし 非常の功を立てずんば 身《しん》後《ご》誰か能く賓《ひん》せん
これは象山が弟子の密航に際して贈った詩である。その目を世界に向けよという開《かい》明《めい》派の象山らしい見識と、松陰の壮挙に対する熱い思いが行間にあふれている。また、この件で入牢した象山は、その持論を『省《せい》《けん》録《ろく》』に次のように書き留めている。
昔から忠義を尽くさんとしながら罪を受けた者は、数えきれないほどいる。だから、私は忠義を為すことによって、たとえ罪を受けても恨もうとは思わない。だが、忠義を行うべきときに行わないで手をこまねいていると、国の危機は救いがたいところまで進んでしまう。これこそが憂うべきことなのだ。
その後、松代で蟄居中の象山を、奇兵隊で有名な長州・高杉晋《しん》作《さく》をはじめ、久《く》坂《さか》玄《げん》瑞《ずい》、中岡慎太郎らが訪れて、時世について激論を交わすなど、憂国の志士たちへの影響力は少しも衰えることはなかった。
一八六四年(元治元年)、謹慎を許された象山は幕命により京都に上がり、公武合体・開国論を将軍家、皇族に説いていたが、尊皇攘夷派の凶刃により非業の最期をとげる。象山、五四才。明治維新まであと四年に迫った夏のことであった。
長岡の俊英、小林虎三郎が全身で感じた幕末という「夜明け前」は、体のどの部分を切っても、熱き血潮が勢いよくほとばしり出るような時代であった。
江戸から長岡に戻った虎三郎は
「興学私議」の執筆にかかった
小林又兵衛の三男として、一八二八年(文政一一年)に生まれた虎三郎は、幼いころにかかった疱《ほう》瘡《そう》(天然痘)であばたができ、左の目もつぶれてしまった。しかし、学問のうえでは抜きん出た才能を発揮して、一七才のときには藩の学校の助教にあげられるなど、若いころからその頭角を現していた。父・又兵衛は新潟の町奉行を務めたほどの人物で、一八三八年(天保九年)に新潟を訪れた佐久間象山に会い、大いに意気投合したというから、その一三年後、虎三郎が象山門下に入ったというのも、このような父子二代の縁によるものであろう。
さて、一八五五年(安政二年)、江戸から国元に帰藩した虎三郎は、隠居同然の生活を余儀なくされていたが、翌年、風《ふう》湿《しつ》(リウマチ)という難病にとりつかれてしまう。虎三郎、数え年二八才のときである。以後、一八七七年(明治一〇年)に東京・向島で没するまでの間、寝たり起きたりの生活を送ることになる。
晩年にはみずからを「病《へい》翁《おう》」と称し、病気がちの肉体に苦しみながらも、本と筆だけはかたときも離さなかった。帰藩後間もない一八五八年(安政五年)には、『興《こう》学《がく》私《し》議《ぎ》』の執筆を精力的に開始している。
欧米の列強諸国が新たな植民地をねらって、次々と日本に襲いかかる激動の時代に、虎三郎が一気に書き上げたこの『興学私議』の中に、「人材教育こそ急務であり、そのためにはまず小学教育から始めなければならない。文字を習わせ、儒教の教書を教えて倫理を習得させ、あわせて外国についての知識を教授して、児童を啓発するようにしなければならない」という意味のことを書いている。
一八五八年(安政五年)四月に、井伊直《なお》弼《すけ》が大老になると、六月には勅許を待たずに日米修好通商条約が結ばれ、七月には第一三代将軍徳川家《いえ》定《さだ》の死去により第一四代将軍徳川家《いえ》茂《もち》が登場する。
虎三郎が『興学私議』を書き進めていた一八五九年(安政六年)には、大老となった井伊直弼が尊皇攘夷派の人々を次々に捕らえ、投獄し、世にいう「安政の大《たい》獄《ごく》」が起こった。かつて象山門下の「二虎」と並び称された、長州の寅・吉田松陰が処刑された年でもある。そのほかにも、橋本左《さ》内《ない》、頼《らい》三《み》樹《き》三《さぶ》郎《ろう》らが処刑されている。山本有三はこのような歴史の悲しい逆行を、次のように嘆いている。
一方では、人材を作らなければいけないと言っておるのに、一方では、大根でも切るように、立派な人物をざくざく切っております。人材を切った幕府は、そののち、どうなったでありましょうか。皆さまも御承知のように、それから、なん年もたたぬうちに、つぶれてしまっております。
(『隠れたる先覚者 小林虎三郎』)
ところで、当時の長岡藩には家老上席の河《かわ》井《い》継《つぐ》之《の》助《すけ》がいて、財政立て直しに手腕をふるっていた。しかし、学者肌の虎三郎とはだいぶその意見を異にしていたようだ。この河井継之助は、のちの北越戊辰戦争において、長岡藩の執政(総大将)として新政府軍を迎え撃つことになる。そして、この戦いに敗れた長岡の地は焦土と化し、人々は窮状にあえぐことになるのだが……。
敗軍の将・河井継之助に対する郷土長岡人の評価は、毀《き》誉《よ》褒《ほう》貶《へん》相半ばしている。長岡に侵攻してきた新政府軍に対して、小《お》千《ぢ》谷《や》会談に臨んだ河井継之助は、あくまで中立を保ちつつ、奥羽越列藩同盟を説得する時間を要求した。しかし、それが全く聞き入れられず、やむなく北越戊辰戦争が始まったという面もあった。日本近代史に転換点をもたらした戊辰戦争が、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉を生み、明治維新を「ご一新」と呼んだように、いつの世でも勝ち組、負け組によって、大きく歴史の評価が変わるものなのである。
ここで、戊辰戦争にはどのような時代背景があったのか、新政府軍と旧幕府軍との戦い、その後の改革の様子などを、簡単におさらいしてみよう。
戊辰戦争とは、十《じつ》干《かん》十《じゆう》二《に》支《し》でいう戊《つちのえ》辰《たつ》の年、つまり一八六八年(慶応四年)一月に勃発した鳥羽・伏見(京都南部)の戦い、五月の彰《しよう》義《ぎ》隊《たい》の戦い(江戸)、五〜七月の長岡城の戦い(北越戊辰戦争)、白《びやつ》虎《こ》隊《たい》で有名な会《あい》津《づ》の戦いまで、新政府軍(薩長軍)と旧幕府軍との戦争がその主なものである。同年九月には、元号が慶応(四年)から明治(元年)へと改元される。
その翌年(明治二年)の五月、旧幕府軍の榎本武《たけ》揚《あき》・土《ひじ》方《かた》歳《とし》三《ぞう》らが、北海道・箱館で最後の抵抗を示した五《ご》稜《りよう》郭《かく》の戦いをもって、一年あまりつづいた戊辰戦争は実質的な終結を迎えるのである。
一八六八年(明治元年)九月、新政府は江戸を東京と改め、旧幕府の直轄都市には府を、旗本領や天領(徳川将軍家の直轄領)には県を設置して、府には知府事、県には知県事、その他の藩には諸侯をおいた。これが府藩県の三治制(九府二二県二七四藩)である。さらに、明治二年の版籍奉還(諸侯は知藩事となる)、明治四年には廃藩置県を実施、同年末には一使(蝦《え》夷《ぞ》地《ち》=北海道)三府七二県(府知事、県令)となる。
ちなみに明治天皇の即位は、戊辰戦争前年の一八六七年(慶応三年)のことであった。
もう一度、ここで戊辰戦争に話を戻そう。
一八六八年(慶応四年)一月三日、前年の大政奉還、王政復古の大号令以降の政治的混乱がおさまらず、鳥羽・伏見において新政府の薩長軍と旧幕府軍とが激突した。戦いの結果は三倍の兵力を擁する旧幕府軍のほうが敗色濃厚となった。
感冒で大坂城に伏せっていた第一五代将軍・徳川慶《よし》喜《のぶ》は、元京都守護職・松平容《たか》保《もり》(会津藩主)、元京都所司代・松平定《さだ》敬《のり》(桑名藩主)、老中・板倉勝《かつ》静《きよ》(備中松山藩主)などほんの数名を従えて大坂城を抜け出し、幕府の軍艦開陽丸で海路江戸に脱出した。大坂城にはおおぜいの幕府軍将兵が置き去りにされた。文字どおりの敗走であった。
江戸に帰った慶喜は江戸城西の丸に入り、静《せい》寛《かん》院《いんの》宮《みや》(第一四代将軍・徳川家茂夫人、孝明天皇の妹。「和《かずの》宮《みや》降《こう》嫁《か》」として有名になった。家茂の没後、剃髪して静寛院宮となる)を通じて、朝廷に恭順謹慎の意向を示した。それから間もなく、江戸城を出た慶喜は上野寛永寺大慈院に移り、さらに謹慎をつづけるのだが、この時点で徳川将軍家としては、実質的に新政府への協力を約束したことになる。
その後は、もっぱら旧幕府陸軍総裁の勝海舟が新政府とのネゴシエーター(交渉役)を務めることになり、最終的には西郷隆盛とのトップ会談をへて江戸城の無血開城にいたる。
一方、旧幕臣の旗本や浪士たちは彰義隊を結成し、自主的に市中警護にあたっていたが、江戸に進駐してきた新政府軍との間でいざこざが絶えなかった。徳川家に累が及ぶことを恐れた勝海舟らは、彼らに解散命令を出したが、聞き入れないばかりか態度をいっそう硬化させ、上野寛永寺に立てこもった。
五月一五日、上野の山を戦場にして、大村益《ます》次《じ》郎《ろう》が率いる二〇〇〇人を擁する新政府軍との戦いが起こった。一時はその数三〇〇〇人ともいわれた彰義隊であったが、総攻撃を受けると、わずか一日で制圧されてしまった。この戦いで寛永寺境内にあった多くの建物が焼失したが、江戸の町は戦火を免れることができた。
北越戊辰戦争の熾烈な戦いで
焦土と化した長岡の地
江戸を制圧して勢いに乗る新政府軍の新たな矛《ほこ》先《さき》は、長岡藩兵を中心に会津・桑名藩兵などによる旧幕府軍の本拠地・長岡に向けられた。長岡藩執政・河井継之助は、当時の日本にまだ三門しかなかった新式のガトリング砲を二門購入したほか、多数の銃器を買い求めて、新政府軍との戦いに備えた。
とはいえ、長岡藩は初めから主戦論だったわけではない。旧幕府軍として戦う佐幕派か、新政府の要求を受け入れる恭順派か、藩の意見は大きく分かれた。最終的に長岡藩のイニシアチブをとった継之助は、会津藩などの奥羽越列藩同盟に加盟して、新政府軍と戦うことになった。
この北越戊辰戦争において、最初から戦うことに反対だった虎三郎は、いかなる行動をとったのだろう。山本有三は、そのあたりを次のように書いている。
彼は、このたびの戦いには賛成ではありませんでしたけれども、それだからといって、他の河井反対派のように、途中から姿をくらますというような、卑劣なまねはいたしません。病中にもかかわらず、最後まで藩主のそばを離れないで、彼は彼なりのご奉公をいたしました。それで、五月に城が落ちましてからは、彼は母を伴って、藩主のあとに従い、会津から、仙台のほうに落ちのびております。しかし、やがて、長岡も破れ、会津も落城することになりましたので、藩主は悔悟謝罪の文を総督府に奉って、帰順を願い出たのであります。その謝罪の文というのは、小林先生が書いたものだそうで、じつに読むもののはらわたをしぼるような、悲痛な文章であったということであります。これがお聞き届けになりまして、明治元年の十二月、長岡藩の牧野家は、特別のおぼしめしをもって、お取りつぶしの厄をまぬがれたのであります。しかし、ろく(禄)高のほうは、官軍に歯向かったことでありますから、七万四千石《ごく》のところが、二万四千石、三分の一に減らされました。そして、今までの藩主は責めを負って退き、その弟があとを継いで、長岡藩の知事に任命されました。それとともに、藩の組織が今までとは変りまして、家老という職がなくなり、あらたに大参事というものができまして、これが藩を動かしてゆくようになったのであります。
(『隠れたる先覚者 小林虎三郎』)
一八六八年(慶応四年)五月から七月まで、二カ月余にわたる新政府軍とのはげしい攻防戦の末、継之助率いる奥羽越列藩同盟軍は敗退し、長岡城下も三度にわたる兵火によって焼け野原となってしまった。総大将の継之助は敵弾を受けて負傷し、八十里越を越えて会津にのがれたものの、同年八月、会津の戦いのただ中、塩沢の地でその四二才の生涯を閉じた。
八十里 こしぬけ武士の越す峠
重傷の体をかごに揺られながら、八十里越を会津に抜けるとき、継之助が詠んだ句である。「こしぬけ」は、武士として恥ずべき「腰抜け」の意か、あるいは峠を「越し」会津に「抜け」る意か、いかにも苦渋に満ちた敗走であった。
さて、北越戊辰戦争は新政府軍の一方的な勝利に終わった。三度の兵火に見舞われ、無残な廃墟と化した長岡の町は極度に窮迫し、一般民衆はもとより藩士の中でも食うや食わずの生活を送る者が多くあった。
このような窮状を目《ま》のあたりにした虎三郎は、新しい藩主(知藩事)から「たって」のお言葉をちょうだいし、家《か》中《ちゆう》からも推す声も高かったので、病身を押して文武総督に就任した。ついで大参事という要職を、かつて同じ象山門下に学び、志を同じくする三島億《おく》二《じ》郎《ろう》とともに引き受けることとなった。
しかし、事はそう簡単ではない。新政府に反抗したために扶《ふ》持《ち》米《まい》は以前の禄高の三分の一に減らされてしまった。今の時代の経営者なら大幅な人員削減のリストラ策をはかるかもしれないが、これまでまじめに藩主に仕えてきた藩士たちを急に減らすわけにはいかない。先の戦いで亡くなった遺族のめんどうも見なくてはならない。負傷した藩士もそのままほうってはおけない。焼け野原となった長岡の町の困窮ぶりは想像以上であった。
藩士の家族などは三度のかゆすら満足にすすれないありさまであったが、新政府軍に負けた身としては、じっと飢えに耐えるしかなかった。
このような長岡藩の窮状を見かねた三《み》根《ね》山《やま》藩が、北越戊辰戦争の二年後、一八七〇年(明治三年)五月に、百俵の米を救援米として送ってきたのである。三根山藩は長岡藩の分かれ(支藩)で、現在の新潟県西蒲原郡巻町のあたりにあった藩である。
まさに、これこそ「地獄で仏」「干《かん》天《てん》の慈雨」「天の恵み」である。
これで、しばらくは飢えをしのげる、いくらか息をつける。それにしても、この百俵の米はどのように配分するのだろうか。家族の頭数だろうか、おしなべて一軒ごとにだろうか、それとも禄高に応じて米が配られるのだろうか……。
暗く打ちひしがれていた長岡藩士たちに、久しぶりの笑顔が戻った。
大参事・小林虎三郎といえども、
邪魔をするなら切り捨てる
ところで、戯曲「米百俵」は、雑誌『主婦之友』に発表された一九四三年(昭和一八年)六月、井上正夫一座によって東京劇場で初演されている。
第一場は長岡藩士・伊東喜平太の家。息子の誠太郎が、内職の扇折りをする母の横にすわって「日本外史」を素読している。「こんな時勢に、本なんか読んだって、なんになる」と毒づく喜平太。梅雨でもないのに、天井から雨漏りがひどい。
そこへ、柳だるの酒を持った藩士・伊賀善内が訪ねてくる。卵焼きに見立てたたくあんをさかなに、茶わん酒をくみ交わす二人。ひとしきり、先の戦での武勇伝に花が咲く。しかし、少しも酔ったけはいのない喜平太は、後ろで内職に精を出す細君に当たり散らす。
見かねた善内は、「くよくよするな。三根山藩からわれわれへの見まいの米が百俵も参っておるというではないか」と明るい話題に転じようとするが、「まあ、安心しているがいい。虫がついて、食えなくなった時分に、おおかた分けてくれるだろうよ」と斜に構えて、とりつく島がない。
そのうち、こんどは善内が酒を飲みながら泣き出した。驚いた喜平太がそのわけを尋ねると、これは自分の娘が町人に恥をかかされた詫びの酒だという。
なんでも、娘が湯(風呂)をもらいにいった呉服屋で、湯殿におき忘れたべっ甲のくしがなくなった犯人としての嫌疑をかけられ、人前で帯を解かされたのだとか。結局、娘の疑いは晴れたものの、善内は腰のもの(刀)をとって、その呉服屋にどなり込んだ。謝っている町人を切ったところで刀のけがれと、その場はひとまず引き揚げた。
翌日、そこの主人が謝りにやってきて、おいていったのがこの二升だるだった。突っ返そうとしたが、つい口をつけてしまった。それからあとは止まらない。むしゃくしゃするので、気晴らしにやってきたというわけだ。
「町人のやつら、ご一新(明治維新)になってから、急にのさばりだしやがって」
くやしがる善内をなだめながら、こんどは喜平太が藩政批判を始めるのだった。
悪いのは町人だけではない。これも藩の政治のとり方がよくないせいだ。自分たち武士が昔のとおりであったなら、今回のような無礼を町人が働くわけがない。一〇〇石、二〇〇石とっていた武士も、いまでは戦争前の中《ちゆう》間《げん》・小《こ》者《もの》にも劣る暮らしになってしまった。一日二合や三合のあてがい扶持では、とうてい武士の体面を保つことはできない。
そこへ、「頼もう」と案内を請う声がする。急いで戸をあけると、そこには藩士の森専八郎が立っていた。火急に、喜平太や善内たちと談合したいという。それは三根山藩から届いた百俵の米が、一粒も藩士たちに分けられないというのだ。
彼らのいきどおりと困惑ぶりを、戯曲の中から一部紹介してみよう。
善内  いったい、だ、だれが、そんな途方もないことを言いだしたのだ。
専八郎 小林大参事だ。
喜平太 ふん。あのくされ学者か。そして、その米を分けないで、どうしようというのだ。
専八郎 百俵の米を売り払って、それで学校を立てるというのだ。
喜平太 なに、学校。今どき、そんなものを立ててどうするのだ。一藩の者が、みんな食えないで困っているさ中に、なんというたわけたことだ。
善内  死にそこないの、老いぼれ学者め。あいつは家《か》中《ちゆう》一《いつ》統《とう》の、この困惑がわからないのか。そ、そんなものを立てくさって、おれたちを干ぼしにしようというのか。
専八郎 だから、われわれの一大事だと言うのだ。しかし、今のうちなら、まだ手だてのないこともないと思うから、一統の力で、その案をもみつぶそうというのだ。
善内  もみつぶすとは?
専八郎 つまり、小林大参事に迫って、このくわだてを思いとどまらせるのだ。
これは大変なことになった。みんなで虎三郎の家に押しかけていって、百俵の米の配分について強《こわ》談《だん》判《ぱん》しようというのだ。もともとが藩のやり方に批判的な喜平太などは、言うことを聞かなければ、虎三郎をたたっ切ると息巻く始末。
一触即発、ピンと張り詰めた不穏な空気が、長岡の町の片隅で動き始めた。
三根山藩からの救援米を
なぜ食べてはならぬのか
戯曲の第二場は、虎三郎が身を寄せていた唐《から》物《もの》商・岸宇吉の家の離れである。床の間の刀掛けには大小がおかれていて、壁には佐久間象山の筆になる大きな軸がかかっている。虎三郎は座敷のまん中に延べてある布団の上で、薄暗いあんどんの明かりを頼りに、何かしきりに書きものをしている様子。
そこへ、宇吉があわてて飛び込んできて、「先生、大変です。はやくお逃げなすって」とせきたてる。藩士たちがおおぜいでやってくるという。しかし、虎三郎は悠然と羽織を着ると、座敷に正座して藩士たちを待ち受ける。
どやどやと押しかけた藩士たち。そのうちの一人、喜平太が虎三郎の前に進み、いきなり抜刀して、刀を畳にプツリと突き立てる。
代表格の泉三左衛門が、「このたび、三根山藩から当藩の藩士一同に見まいとして送られた米を、大参事は藩士に配分しない意向と伺ったが、それはほんとうのことか」と虎三郎に返答を迫った。
善内もまた、「これは藩の存亡にかかわる一大事だ、大参事にはその日の暮らしにも困っている家中の実情がわからないのか、この苦しみをよそに見て、学校を立てるなどというなら覚悟がある」と迫った。
すると、虎三郎は「貴公たちは食えないと言って騒いでおるではないか。みんなが食えないと言うから、おれは学校を立てようと思うのだ」と言って、こんどは藩士たちに議論を持ちかけるのだった。
自分たちは今、食えないからこそ、ひもじい思いをしているからこそ、百俵の米を分けてほしいのに、「食えないと言うから、学校を立てようと思う」とは、いったい大参事は何を言おうとしているのか。目の前に飢えた妻子をかかえた藩士の生活がある。百俵の米を分けてくれさえすれば解決するのに……。
しかし、虎三郎は「貴公らは欲がないのう」と言う。
百俵の米といっても、家中の者で分けたところで、たかが知れている。当藩は軒別にすれば一七〇〇軒、人数にして八五〇〇人に上る。これらに百俵の米を分けるとすると、一軒のもらい分は二升そこそこ、一人あたりなら四合か五合にしかならない。それくらいの米は一日か二日で食いつぶしてしまう。それで、あとに何が残るというのか。
そもそも、日本人同士が、鉄砲の打ち合いをしたことがまちがいのもとであった。やれ薩摩の、長州の、長岡のなどと、つまらぬいがみ合いをして、民衆を塗《と》炭《たん》の苦しみにおとしいれた。このような失敗を繰り返さないためにも、これからの世の中ではつくづく「人物」を養成したいと思う。国が興るのも、滅びるのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。
それでも、藩士たちはなお、百俵の米を分けるべきだと、虎三郎に迫る。
専八郎 大参事。おまえ様には、今日の、この差し迫ったありさまが目にはいらないのか。即刻、この場の急を救わぬ限り、家中の不平はおさまりませぬぞ。
藩士一 第一、あの百俵の米は、大参事ひとりに送ってきた米ではない。いくら藩の重役だからといって、じままな振るまいはゆるしませんぞ。
藩士二 そうだ。そうだ。あれはわれわれ一同に送ってきたものだ。
他の藩士ら (声をそろえて)われわれ一同に送ってきたものだ。
虎三郎 ふムム、おまえたちは、あくまでも米を分けろと言うのか。しからば尋ねるが、ここで百俵の米を配分したら、お前たちの言う通り、確かに武士の体面がたもてるのか。さきざきまで妻子を養ってゆくことができるのか。みなの衆、ここはしっかり考えてもらわなければなりませんぞ。
これが、平時であれば、虎三郎の言葉は受け入れられたはずである。しかし、今は食えるか食えないか、ぎりぎりまで追い詰められた状態では、おいそれと首を縦に振るわけにはいかないのだ。
この百俵をもとにして
学校を立てたいのだ
宇吉に命じて象山の軸をはずし、「常《じよう》在《ざい》戦《せん》場《じよう》」と大書された新しい軸とかけかえる。虎三郎がうやうやしく一礼したそれは、常に戦場にある心で、いかなる困苦欠乏にも耐えよという意味の言葉である。長岡藩の初代藩主・牧野忠《ただ》成《なり》は三河の国牛《うし》久《く》保《ぼ》の出身で、常に隣国からの侵略の脅威にさらされていたために「常在戦場」という家風が生まれたという。これが藩主・牧野家に代々受け継がれ、質実剛健・好《こう》学《がく》尚《しよう》武《ぶ》を尊ぶ、いまの長岡藩の気風を支える四文字となっていた。
いきり立っていた藩士たちは頭をたれ、虎三郎の言葉を神妙に聞いている。喜平太がくずれるように腰を下ろし、流れる涙をこぶしでふいている。
虎三郎 (中略)まず第一は、大本を定めることだ。それを定めて、土台からきずきあげてゆくことだ。その土台をきずきあげるあいだは、そりゃぁ、みんな、つらいだろう。苦しいだろう。(中略)ここが辛抱のしどころだ。常に戦場にありとは、ここのところを申されたのだ。――なるほど、そこもとたちの言う通り、三根山藩から来た米は、家中の者への見まいの品にはちがいない。しかし、三根山藩の、その深い心づくしの米を、おれはただ食いつぶしてしまいたくないのだ。見まいの品が来たからといって、気がゆるんではならない。見まいの米など、ひと粒も来なかったものと思って、一層奮発してもらいたいのだ。なあに、はじめから来なかったものと思えば、なんでもないではないか。――もとより、食うことは大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはゆけない。けれども、自分の食うことばかりを考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。だからおれは、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ。演武場を起こしたいのだ。学校を立て、道場を設けて、子どもをしたてあげてゆきたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれない。あたらしい日本はうまれないぞ。
泉三左衛門はじめ、ほかの藩士たちも居ずまいを正し、虎三郎が諄々と説く「米百俵」に込められた、人づくりの崇高な精神を、ただ無言でうなずきながら聞いている。
ふと気がつくと、はや夜が明け始めている。雨戸をあけると、さわやかな朝の光がさし込んできた。
きょうは、いい天気になりそうだ。
国漢学校のスタートで
将来を担う逸材が生まれた
大参事・虎三郎の懸命の説得によって、三根山藩から送られた救援米は、お金にかえられて、新しい国漢学校の資金の一部にあてられることになった。明治初年当時、米の値段は一斗七、八升が一両、百俵でおよそ二七〇両であった。
国漢学校という名前は一八六九年(明治二年)、北越戊辰戦争で焼け残っていた昌福寺という寺の本堂を借りて、仮校舎として用いていたころ、すでにつけられていた。しかし、寺の本堂での授業では十分な教育ができなかったので、翌年、国漢学校は昌福寺から坂之上町に立てられた本式の新校舎に移された。
正式に国漢学校がスタートしたのは、三根山藩から百俵の救援米が届いたすぐあと、一八七〇年(明治三年)六月のことである。新しい国漢学校には、さらに洋学局、医学局が開設された。
後年、長岡市阪之上尋常小学校より出された「創立六〇周年記念号」の資料に、国漢学校の平面図があり、よく見ると六つの教室と大きな演武場があったことがわかる。また、国漢学校では藩士(武士)の子弟だけでなく、農民や商人の子弟にも等しく教育の機会を与えた。
この学校には平民教育、普通教育に眼目をおいた部分(現在の阪之上小学校)、科学精神を学ぶことを強調した部分(洋学局、のちの旧制長岡中学、現在の県立長岡高校)、医学を考える部分(医学局、明治六年開設の長岡病院、現在の長岡赤十字病院)などがあった。
一八七○年(明治三年)一〇月、長岡藩は翌年実施される廃藩置県を先行して行い、全国にさきがけて柏崎県の管理下におかれることになった。これによって、国漢学校も廃止される運命であったのだが、虎三郎らの努力によって長岡分《ぶん》黌《こう》として存続することになった。その建学の精神は、阪之上小学校、のちの旧制長岡中学(現県立長岡高校)をはじめ、郷土を愛する長岡の人々の心に、いまも脈々と受け継がれている。
長岡の人々が郷土の先輩として敬愛してやまない山本五十六《いそろく》は、この国漢学校の流れをくむ旧制長岡中学の出身である。山本五十六は、北越戊辰戦争を河井継之助とともに戦った、名門・山本帯《たて》刀《わき》家の跡を継いでいる。
一九四一年(昭和一六年)一二月八日、ハワイの真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争で、帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六は、心ならずも戦闘の指揮をとることになった。
それまでも日米開戦の気運が高まる中、日本の物量不足を冷静に分析し、非戦の立場をとっていた山本五十六であったが、ひとたび開戦が決まるや、「戦えと言われれば、一年二年は存分にあばれてごらんにいれましょう。しかし、その後はまったく保証をいたしかねる」と言って、開戦後、早い時期での講和を言外ににおわせた。そして、山本五十六自身は南方戦線において搭乗機が撃墜され、先の予言どおり、その命を南《なん》冥《めい》の空に散らしてしまったのである。
太平洋戦争前、駐米大使・斎藤博は、当時駐英大使であった吉田茂らとともにパリ条約国際会議に出席するなど、日米両国の武力衝突を避けようと懸命の努力をつづけていたが、一九三九年(昭和一四年)米国ワシントンで客死した。この斎藤博の祖父・斎藤幸《こう》哉《や》は戊辰戦争に参加し、父・斎藤祥三郎は国漢学校(洋学校)から札幌農学校へ進んだ関係で、斎藤博は「郷里は父祖の地、長岡」の心を終生持ちつづけたという。
一九四五年(昭和二〇年)八月一日。長岡市はアメリカ軍のB29爆撃機の大規模な空襲を受け、集中的な焼夷弾投下により市内の八〇パーセントが壊滅し、一四六〇余名の市民が犠牲となった。当時、人口わずか七万四五○八人であった長岡市に投下されたおびただしい数の爆弾は、世界史上でも類を見ないほどの量であった。
長岡の市街地は、かつての北越戊辰戦争のときのように、見るも無残に焼き払われてしまった。しかし、「米百俵の精神」にはぐくまれた長岡の人々は、血のにじむような努力の末、みごとな復興をとげることができたのである。
現在の長岡市の市章には、旧長岡藩の骨太な気風と不《ふ》撓《とう》不《ふ》屈《くつ》の精神を象徴するフェニックス(不死鳥)がデザインされている。
「痛みに耐えて、よくがんばった。感激した。おめでとう!」
平成一三年、夏場所の千秋楽。前日の取り組みで全治二カ月のけが(右ひざ亜脱臼)をしたにもかかわらず、堂々と優勝決定戦に勝利した貴乃花に内閣総理大臣杯を渡しながら、小泉首相は思わず大きな声で叫んだ。
今回の貴乃花のけがをおしての壮挙もまた、たとえその発現の形は違っていようとも、「米百俵の精神」に相通ずるものがあるような気がしてならない。
いまから一三〇年前、長岡藩の大参事・小林虎三郎が、抜刀して米の引き渡しを迫る藩士たちを諭した言葉が、生き生きとよみがえってくる。
――だからおれは、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ。演武場を起こしたいのだ。学校を立て、道場を設けて、子どもをしたてあげてゆきたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。――
山本有三が戯曲にあらわした小林虎三郎の「米百俵の精神」は、物質文明が行き詰まり、精神の荒廃が叫ばれる、いかにも危ういこの二一世紀にこそ再び求められるべきものではないだろうか。
「米百俵」ものしり事典
米百俵の重さは何キロあるの?
当時の一俵の米の容積量は、およそ四斗三〜四升(八〇リットル弱)。運ぶ途中でこぼれる分の名目で、少し割増されていた。重さは約六〇キログラム、大人の男性がかつげる上限の重さ。三根山藩から届いた百俵の米約六トンを運ぶのには、二人がかりで押し引きする荷車で六俵ずつ、計算上は一七台の荷車が必要だった。
百俵の米はいくらで売れたの?
三根山藩から米が届いた五月は田植えどきで、米の端境期だった。新米が出回る秋口は供給が上回るが、在庫が払《ふつ》底《てい》するこの時期は強気の売りどきで、おそらく米問屋に二五〇〜二七〇両で売れたはずである。
小林虎三郎は何人兄弟だったの?
父・小林又兵衛は、その妻・久との間に七男二女をもうけた。上の男児二人は夭《よう》折《せつ》し、家督を継いだ三男・虎三郎は一八二八年(文政一一年)生まれとされる。ところがこの年は庚《かのえ》子《ね》、つまり子《ね》年である。佐久間象山門下で「二虎」とうたわれた吉田松陰は一八三〇年(天保元年)、庚《かのえ》寅《とら》生まれの寅次郎。象山は二人が同い年だと言っている。夭折した二才上の、兄の生年を虎三郎が使ったものらしい。
小林虎三郎はどんな性格だったの?
「性格は忠直にして、清《せい》峻《しゆん》」と書かれている。虎三郎の家が焼失し、河井継之助が衣類や日用品を持って見舞いに来たとき、そのお礼にと藩政への痛論を吹きかけた。一八五五年(安政二年)に国元に戻され、一室に幽閉されていた虎三郎は、ひげも月《さか》代《やき》もそらず、頭髪がボサボサであったが、筆と書物は離さず、師・象山の写真をながめては涙する、まじめが着物を着ているような人物であった。
小林虎三郎の肖像画
いつから牧野家が長岡藩主になったの?
三河の国牛久保に生まれた牧野忠《ただ》成《なり》は、上野《こうずけ》国大《おお》胡《ご》城主、越後国長峰城主をへて、一六三〇年(寛永七年)長岡城に入り、初代藩主となる。それ以降、代々「牧野家」が長岡藩主として君臨することになる。後年、長岡藩に百俵の救援米を送る三根山藩は、忠成の四男・牧野定《さだ》成《なり》が分知した「本家に対する分家」にあたる。戊辰戦争時の藩主は牧野忠《ただ》訓《くに》(一二代)は版籍奉還を期に引退し、弟の牧野忠《ただ》毅《かつ》(一三代)が一八七〇年(明治三年)一〇月の廃藩まで知藩事を務める。現在の当主・牧野忠昌(一七代)さんは、海洋開発の仕事にたずさわるクジラの専門家。
戯曲「米百俵」の初演はいつだったの?
一九四三年(昭和一八年)、山本有三は雑誌『主婦之友』新年号、二月号に発表した戯曲「米百俵」のあとがきで、初演を井上正夫に約している。その六月に、井上正夫一座によって東京劇場で上演されたものが、公式の初演である。
実はその二カ月前、山本有三の長女・朋子(現在は永野朋子)さんたちが東京女子大学在学中の四月に、新入生歓迎のための演劇として「米百俵」を上演している。二場の戯曲は登場人物が男性のみで、それを演ずるにわか役者はみんな女子大生、娘役のいない宝塚(歌劇)のようだったとか。朋子さんはもっぱら裏方を担当し、掛け軸作りや原作者(父・有三)への質問をとり継ぐ仕事に追われた。上演当日は、招待された朋子さんの母と妹が観劇に訪れたそうである。
長岡市って新潟県のどこにあるの?
新潟県(越後の国)には、京都に近いほうから上《じよう》越《えつ》、中《ちゆう》越《えつ》、下《か》越《えつ》、そして佐渡地方があるが、長岡市は古くから交通の要《よう》衝《しよう》にあり、中越地方の中心的な商業都市である。東京からは上越新幹線で約一時間半、関越自動車道なら東京から車で約三時間の距離にある。市の中央を二分するように信濃川が流れ、その両側に肥沃な沖積平野が広がっている。典型的な日本海型気候で、冬の豪雪、夏の炎暑、豊富な年間降雨量が、コシヒカリに代表されるおいしい米を生み出している。
「米百俵」にちなんだ長岡名物はあるの?
●越後銘菓「米百俵」
越後米を原料とした香ばしい焼き味《み》甚《じん》粉《こ》(焼いたもちを粉にしたもの)、上品な甘さの四国産の和《わ》三《さん》盆《ぼん》糖《とう》を使って、米俵のデザインに型打ちした落《らく》雁《がん》菓子。茶席の菓子として、ほんのりした甘みと口どけのよさが好評を博している。
最近売り出したどら焼き「二《に》虎《こ》」も、虎《とら》縞《じま》の焼き模様がかわいいと話題になった。
問い合わせは、米百俵本舗(〒九四〇―〇〇六二 長岡市大手通一―三―二 電話〇二五八―三二―〇九四八)
越後銘菓「米百俵」
●越後銘酒「米百俵」
栃倉恒栄さん(長岡高校昭和三四年卒)は、栃倉酒造の社長。創業者の祖父が石碑に刻んだ言葉「土と心を耕せ」を、これは商売をやりつつ心を磨けという意味だと、真摯に受け止めた三代目である。
昭和四五年から発奮して作り始めた本物の酒「米百俵」(純米吟醸酒、純米酒ほか)を、この蔵元の代表銘柄に育て上げた。
問い合わせは、栃倉酒造(〒九四〇―二一四六 長岡市大積町一丁目乙の二七四―三 電話〇二五八―四六―二二〇五)
越後銘酒「米百俵」
長岡市では「米百俵」精神をどう生かしているの?
●『米百俵・小林虎三郎の思想』の発行
一九七五年(昭和五〇年)、戯曲「米百俵」と小林虎三郎の資料とその解説を収録した『米百俵・小林虎三郎の思想』を長岡市が出版し、現在までに累計で約六万部を販売している。五月七日の小泉首相「米百俵」演説時には、四〇〇部の在庫が払底し、すぐに三〇〇〇部ずつ二回増刷をしたという。
さらに一九九八年(平成一〇年)、ドナルド・キーン英訳の『One Hundred Sacks of Rice(米百俵)』が出され、これまでに約四〇〇〇部を売っている。
本の注文および問い合わせは、長岡市役所庶務課(電話〇二五八―三九―二二〇三)まで。
●「長岡の人材教育」がスタートした
子どもたちの情操を高め、才能を伸ばすために、一九九五年(平成七年)、「長岡の人材教育」がスタート。普通教育に才能特化(才能系列)の要素を加えた。「米百俵の教育理念は、立派な校舎を立てるというハコモノ発想ではありません。市内の小・中学校をいくつかの群に分けて、それぞれ体育系、芸術系、言語系の拠点校をつくり、そこに専門家の指導者や教育資材を集中させました。小学校は高学年、中学校は全員を対象(希望制)に、若木を育ててゆくのです」(笠輪春彦教育長)
●米百俵財団の発足と「米百俵デー」の制定
一九八七年(昭和六二年)に(財)長岡市人材育成基金が設立されたが、さらに海外高校留学生の派遣、米百俵賞の創設などの事業拡大をはかるため、一九九五年(平成七年)、(財)長岡市米百俵財団に改称されている。ことしで第五回を迎える「米百俵デー」市民の集いは、国漢学校が一八七〇年(明治三年)に開校した日である六月一五日に開催された。第五回の米百俵賞(賞金一〇〇万円)は、故郷ガーナのプアルグ村への文房具寄贈、小学校建設資金を募った、長岡造形大学講師のオーガスティン・アゾチマン・アウニさん(四五才)が受賞した。
第3章
「米百俵」スクール
――平成に引き継がれた「米百俵の精神」
長岡の三尺玉花火よりも
あとに残るものはないか
新潟県立長岡高校(旧制長岡中学)といえば、過去何回か高校野球で甲子園出場を果たし、しかも県内でも有数の進学校として優秀な人材を輩出する名門校である。同校の前身は「米百俵」をその資金の一部として、一八七〇年(明治三年)に開設された国漢学校(洋学校)に、その源をたどることができる。
平成一三年、長岡高校は創立一三〇年を迎えたのだが、同校の一九六九年(昭和四四年)卒業のOBが、卒業年度の四《し》四《し》にちなんで「孜《し》孜《し》の会」を結成し、のちに東京在住の同期生も独自に「東京孜孜の会」を名乗るようになった。孜孜とは、努め励むさま、倦《う》まず努めるさまを表す言葉で、元首相の羽田孜氏など、男子の名前には、この孜《つとむ》がよく使われている。
東京孜孜の会幹事の一人、中村克夫さんによれば、県立長岡高校というところは昔からバンカラな校風で、中村さんたちが入学した一九六六年(昭和四一年)当時は、応援団が幅をきかせていた時代であったようだ。
「全校生徒に第一校歌、第二校歌はもちろん、さらに十いくつある応援歌もすべて歌えるようになるまで、放課後も残して暗くなるまで練習させられました。他校との試合に勝てば凱《がい》旋《せん》歌《か》、負ければ閉戦歌など、ほとんど強制的に歌わされたものです。詰めえりに白線二本、げたばき姿で長岡市内を闊《かつ》歩《ぽ》していました。長高生としてのプライドをかなり意識していました」
さて、長岡市といえば、夏の「長岡の花火」が有名である。
毎年八月初旬、信濃川河畔をメイン会場に、二万発あまりの三尺玉が真夏の夜空に打ち上げられる。このみごとな美の競演とドドーンと地を揺るがす轟音は、地元・長岡市民の心意気を表す風物詩でもあり、旧盆の帰省を兼ねて長岡出身者がおおぜい戻ってくる。
花火大会では大きな尺玉を一発打ち上げるごとに、花火のスポンサー名をマイクで紹介する。長岡高校OBは卒業後何年目かの区切りの年に、「長岡高校○○年度卒業生」と放送される花火のスポンサーになることが、半ば習慣化していた。
一〇年ほど前、昭和四四年度卒業生の間でも、そろそろ先輩たちの慣例に従って、自分たちも花火大会のスポンサーになる番ではないか、という話題が出た。
ところが、それには何人もの口から異論が出た。
「ぼくたちは花火をやめて、もっとほかのことをやろう」
「何か、あとに残るものはないだろうか」
などという意見が出されたのである。
このころの長岡高校は、バンカラな校風がしだいにすたれ、やがて校歌や応援歌の強制的な練習が廃止されることになった。このままにしておくと、長岡高校の伝統が忘れ去られてしまう。集まったメンバーから、その懸念が表明された。
みんなでいろいろ知恵をしぼった末、ここはひとつ、これまで連綿と歌い継がれてきた「校歌・応援歌のCD」を出そうということになった。
米百俵で立つ学校が実現した
クリッシャーさんとの出会い
孜孜の会の発足は、「花火ではなく、校歌と応援歌のCDを作る」ことを考えた数年前にさかのぼる。最初は地元長岡組OBの「自分たちは昭和四四年度の卒業だから、ししの会を名乗ろう」という発案で、名前に「孜孜の会」という字をあてて活動することになったことは前にも述べた。このときはまだ、東京孜孜の会という発想はなかった。
地元・長岡では毎年八月に県立長岡高校の同窓会総会が開かれている。また、東京では旧制長岡中学の卒業生である山本五十六元帥の命日、四月一八日の前後に同窓会東京支部総会が開催されている。毎年、その年に満五〇才を迎える年度の卒業生が、東京支部総会の運営を担当するならわしになっていた。
東京在住の孜孜の会メンバーが、四七才になった平成一〇年のことである。
「五〇才になったときの幹事年度に向けて、そろそろ準備が必要だ」
みんなで相談を重ねるうちに、東京支部の自分たちは東京孜孜の会と名乗ろうということになった。最初のメンバーはたったの八人だったが、手分けして声をかけると六〇人がすぐに集まってきた。
そういえば、自分たちの期が運営を担当する西暦二〇〇〇年四月の東京支部総会は、ちょうど二〇世紀最後の年にあたる。その節目のミレニアム(千年紀)にふさわしい、しかも後世に残る記念行事をと論議するうちに、「米百俵の故事にまつわる事業をやりたい。米百俵で立てられる学校はないか」という意見が出て、「米百俵プロジェクト」を発足させることになった。
さっそく、東京孜孜の会中心メンバーの小林芳男さん夫妻(同級生結婚の由)と遠山正則さんが、各方面にアタックを開始した。まず、外務省を通じて「山本五十六元帥が亡くなった南洋諸島」に話を持ちかけたが、答えは「ノー」であった。
次に、神戸にあるNGO(非政府組織)「セーブ・ザ・チルドレン」に相談してみると、こちらは学校を建設するハードの寄付と違って、物資やサービス提供(当時はネパールが対象だった)などのソフトのみで、具体的には必要な品物を購入して送るか、送金しているとのことだった。寄付は喜んで受け付けると言われたものの、これでは「米百俵(分の資金)で立てられる学校(校舎)を贈りたい」という主旨とはかけ離れてしまう。
その後も、手分けしていくつかの団体を尋ね歩いた末に、最終的にはカンボジアで子どもたちのための学校建設や無料診療病院の開設事業を、昭子夫人とともに推進するNGO「ジャパン・リリーフ・フォー・カンボジア」の主宰者・バーナード・クリッシャーさんと出会うことができた。
一九三二年(昭和七年)、ドイツに生まれたクリッシャーさんは、ナチスのユダヤ人迫害をのがれ、六才のとき両親とともに米国に移住した。強制収容所で死んだ親族も多い。一九六二年(昭和三七年)、米紙ニューズウイーク特派員として来日し、それ以降は東京に活動の拠点を構え、アジア取材を中心に展開してきた。
昭和天皇の単独会見を実現するなど、ジャーナリストとしての手腕は高く評価されていた。これらの取材を通じて、カンボジアのシアヌーク国王の知遇を得たことが、後年カンボジアでのNGO活動につながっていくことになる。
先の内戦で約二〇〇万人が犠牲となったカンボジアでは、ポル・ポト派支配が終結した今もなお、地雷を踏んで手足を吹き飛ばされる、いたましい事故があとを断たない。かつてナチ迫害の原体験を持つクリッシャーさんは、昭子夫人との結婚で幸せな現在を感謝しながら、「いい人生だったけど、(これまでは)与えられるばかりだった。今度はお返しをする番」と新聞各紙の取材に答えている。
戦禍から立ち直りつつある現在のカンボジアが、北越戊辰戦争で焦土と化したころの長岡と似ていたことも、東京孜孜の会メンバーの心を大きく動かした。
ようやく、カンボジアに「米百俵」スクール建設のめどが立ったのである。
一口一万円の寄付を募り
長岡の米を一〇キロ送る
ところで、「米百俵」の値段はいくらになるのだろうか。
一俵分の米は約六〇キログラムに相当する。市販の米一〇キログラムの値段を五〇〇〇円で計算すると、一俵では三万円、その一〇〇倍の一〇〇俵では三〇〇万円となる。日本ではどんなに安く見積もっても、三〇〇万円で学校は立たない。
この点、カンボジアにおける三〇〇万円の価値は、きちんとした校舎が立てられる金額なのである。さらに幸いなことに、クリッシャーさんのNGOは、世界銀行と組んだユニークなプロジェクトでもあった。
たとえば学校建設資金に三万ドルかかると仮定して、その半分の一万五〇〇〇ドルを寄付すると、それに対して世界銀行からも同額の一万五〇〇〇ドルが補助(拠出)され、寄付した個人や団体の名前が校名に冠せられる。
つまり、一〇〇俵分の米の値段、三〇〇万円を寄付することで、二校分の校舎の建設が可能となったわけである。これは、米百俵プロジェクトにとって、実にうれしい誤算であった。
同プロジェクトでは、当初からお金だけで寄付を仰ぐのではなく、あくまでも米百俵にこだわろうと考えた。初めは、米一〇キログラム・五〇〇〇円相当を二倍の値段の一万円で購入してもらい、差額の五〇〇〇円を寄付とする計画だった。
ところが、それでは食糧管理法に抵触することがわかった。ここで法律違反をおかすわけにはいかない。そこで、一口一万円の寄付に対して米一〇キログラム(五〇〇〇円相当)を送ることとし、米の代金との差額、五〇〇〇円を純粋な寄付金額としようと計画を変更することになった。
寄付してくれた人にお礼として送る一〇〇俵分の米は、孜孜の会同期生の兄・坂井三四作さんが作る低農薬・有機栽培のコシヒカリを、平成一一年春にこのプロジェクト用に一〇〇俵分、特別に栽培してもらうこととした。まん中に「寿米」と刷り込んだ米袋が、一〇〇枚分特別に用意された。
今回、米作りの裏方を担当した坂井さんは、同プロジェクト活動報告の小冊子「米百俵」に、次の一文(一部省略)を寄せている。
私は小さいころから米作りに携わっておりました。昔の米作りはとても手間のかかるものでした。一家総出で米作りの生活を行い、収穫のときにはみんなで喜びながら収穫したものを味わったものでした。しかし、現在ではそんな豊かさの反面、大きな問題が明らかになってきています。食料自体の危険性(環境ホルモン、遺伝子組み替え食品)、青少年の犯罪、これらは食環境の変化によってもたらされた今の日本の食卓とは無関係とだれも否定することはできないのではないでしょうか。
私は本プロジェクトに参加することによって、カンボジアの貧困からの救済と教育環境の整備に協力できるだけでなく、私たちの国の問題についても考えるよい機会をもつことができました
同窓会東京支部では、当初、東京孜孜の会が言い出した「米百俵プロジェクト」に危惧をいだく先輩が多く、実際の船出までには難所がいくつもあったようだ。
「いったい、カンボジアに学校をつくるというが、あとのめんどうはだれが見るのか」
そのほとんどが、学校をつくったあとのフォローまで責任を持てるのか、それは寄付金目標の三〇〇万円では足りなくなるのではないかという心配であった。
しかし、東京孜孜の会メンバーの熱意は、いつしか先輩たちの心をとかし、「おまえたちのやり方が最良だとは思わん。だが、いいことをやっとることだけは確かだ」と、頼もしい応援団になってくれたのである。
とうとう、同窓会東京支部、長岡の同窓会本部の応援を得て、平成一一年一二月初旬には目標とした六〇〇口(実質三〇〇万円)の寄付を、早々と達成することができた(最終的には七〇〇口、三五〇万円になった)。
二〇〇〇年(平成一二年)四月二一日、平成一二年度の長岡中学・長岡高校同窓会東京支部総会が開催された。第一部は、同校出身のジャーナリスト・櫻井よしこさんによる特別講演「米百俵と二十一世紀の教育」があり、第二部の東京支部総会もとどこおりなく進められた。同窓会幹事当番の大役を無事に果たした東京孜孜の会は、これで一息つくことができたのである。
同年六月刊の雑誌『ソトコト』七月号には、櫻井よしこさんとバーナード・クリッシャーさんの対談「満腹より教育を」が掲載され、各方面から注目を集めた。誌上で展開された「二一世紀の米百俵」教育論は、同窓会での特別講演の内容をさらにくわしく述べたものになっている。
お二人のご好意により、この対談を本書の第4章、「米百俵」の教育対談として再録(一部加筆)し、「米百俵」スクールの精神をより深く理解する一助として、ご紹介できることになった。
私たちは屋根のある学校をつくった。
次はカンボジアの人たちが考える番
ここで、東京支部の同窓会が開催される二週間前に、少し話がさかのぼる。
二〇〇〇年(平成一二年)四月七日、カンボジアの首都プノンペンから車で一時間半ほど離れたカンポンチャム州タンベォン村で、「米百俵」スクールの開校式がとり行われた。開校式には、一六人の長岡高校OBが参加した。
日本から持参したピアニカ(鍵盤ハーモニカ)でカンボジア国歌を演奏したり、式のあとはプラスチック製のバットとボールで子どもたちと遊ぶなど、型にはまらない心の交流はカンボジアの人々に、大きな感銘を与えたのであった。
平成12年4月、カンボジアの「米百俵」スクール開校式であいさつするクリッシャーさん。右の2人がピアニカでカンボジア国歌を演奏して喝采を浴びた。
このタンベォン村もポル・ポト政権時代の一九七五年(昭和五〇年)からの三年間に、大きな犠牲を払わされている。村の各家庭では平均二〜三人が近くの小高い丘の上に連れていかれて、ポル・ポト派の兵士に殺されたのだ。
現在、カンボジアの総人口一一〇〇万人のうち、一五才未満が半数を占めるという数字が、その過酷さを表している。ポル・ポト派は、自分たちに銃を向ける可能性があるという理由で、一五才以上の男性をすべて殺したといわれている。
屈強な青年以外に、インテリ層もその標的にされたので、子どもたちを教える男性教師の数が極端に不足している。
この村では一四年前に村人が共同して 立てた学校があったが、寄せ集めの材木でできた校舎は、わずか五年でボロボロになった。これまでは、しかたなく小学一年生は村内の寺のお堂を借りた仮授業、二年生以上は二キロメートルも離れた隣村の学校に通っていた。学校への道は平坦とはいえず、雨期になるとドロドロになって、とても歩いて通える状態ではなかったという。
今回、東京孜孜の会の寄付によって、コンクリート造りの平屋建て、五つの教室を持つ新しい校舎が完成した。校舎の壁には「米百俵」の故事を英文で記したレリーフが飾られた。いつか、ここで学ぶ子どもたちが英語をマスターし、この学校が建設されたいわれを理解する日が来ることを期待しよう。
黒板に長机、長イスが並べられただけの教室だが、そこで学ぶ児童は五〇〇人あまり。午前と午後の二部授業で、それぞれ一日四時間、国語や算数などを学ぶ。
村にはまだ、電気、ガス、水道がない。そこで、まず最初は、校舎の前に井戸を掘った。灼熱の太陽が肌に痛いこの国で、冷たい井戸水はなによりのごちそうだ。次に、新しい校舎に太陽光発電と風力発電の設備を造った。そのおかげで、一台のパソコンを自前の発電で稼動できるようになった。今後はインターネットで世界の子どもたちと交流することも可能になった。IT(情報技術)革命が、カンボジアの片隅で小さな花を開かせた。
それから一年後、二〇〇一年(平成一三年)夏、間もなくカンボジアのシアヌークビルというところに、もう一校の「米百俵」スクールが開校する。
学校の前庭に掘られた井戸の水を、気持ちよさそうに浴びる子ども。外の気温はすでに摂氏37度だが、南国の日ざしは貴重な太陽発電をもたらしている。
当初、寄付で集まった七〇〇口、三五〇万円の半分で一校建設できたので、残りの資金は設備の充実や教育資材の調達にあてようという議論もなされた。
しかし、この校舎はカンボジアの人たちの自立を助けるためのものである。学校を立てたあとは、カンボジアの人たちが望むように運営してもらおう。このプロジェクトはもう一校学校を立てて終わりにしようということになったのである。
「今回の事業は長岡の花火のようなものです。自分たちにできることにはおのずから限界があります。それが花火なのか、学校なのかの違いはあっても、学校を寄付するほうをわれわれは選んだ、ということでしかない。
また、それが米百俵の精神に沿っていると考えたからこそ、これだけのことができたのだと思います。そういう意味で、学校をつくりっぱなしでは無責任だという批判があるかもしれない。しかし、私たちは屋根のある学校をつくるお手伝いをした。あとはカンボジアの人たち自身が考えてゆくべき問題だと思います。
幸いなことに、今回クリッシャーさんというベストな人の知遇を得たことで、現地でのフォローの問題点を一気に解決することができました。だから、もう一校、カンボジアに学校をつくって、エンドマークなのです」(中村克夫さん)
さわやかな笑顔を見せる「米百俵」の末裔たちは、どこまでもいさぎよい。
第4章
「米百俵」の教育対談
――きょうの満腹よりあすの教育を
櫻井よしこvsバーナード・クリッシャー
日本はほんとうの教育を
忘れつつあるのではないか
櫻井 クリッシャーさんとは二五年以上のおつきあいになりますね。二人とも会員になっている外国人特派員協会でよくお会いしていたわけですが、その後どうしてカンボジアにかかわることになったのか、お話しいただけますか?
クリッシャー 一九六二年にニューズウイークの東京支局員として、初めて日本に来ましてからすでに四〇年近くがたつわけですが、その間、新潮社を通じてフォーチュン日本版のコレスポンデント(通信員)をやったり、また例のフォーカスの発刊も手伝いました。(笑)
櫻井 そうでしたね。
クリッシャー 日本ではよい家庭にも恵まれ、幸せな人生だったと思います。そして一〇年ほど前ですか、何か私もそろそろ世間にお返しをしなければいけないと思いまして、そうしたときに、私の目が向いたのがカンボジアでした。ご存じのように、私はナチの迫害からなんとか生き延びたユダヤ人で、カンボジアの状況が人ごととは思えなかったのがひとつの理由。それに小さい国ですから、私のような個人でも何かできることがあるのではないかと思ったんです。それで、八年前ですか、現地で新聞を発行したのが始まりです。
櫻井 ポル・ポトのホロコースト(大虐殺)は、ナチ政権の虐殺と同じく、大変ひどいものでしたよね。今回私の卒業した長岡高校のOBが、向こうに学校をつくることに関して、ささやかなお手伝いをしたのですけれども、こうした民間による努力の積み重ねで、カンボジアのような国が着実に可能性を広げていくのを実感します。その意味で、クリッシャーさんたちがなさっているようなことが、もっと日本でも知られ、もっと多くの人が同じように力を貸してくださるといいな、というふうに思います。
クリッシャー 新聞にのった「ジャパン・リリーフ・フォー・カンボジア」の記事を読んで、「米百俵」プロジェクト委員のかたがわざわざ電話をかけてきてくださったように、日本は最近アジア諸国の、特に教育問題に対する意識が大変高いですね。
櫻井 そうですね。カンボジアに学校をつくったりなど、アジアの国に対する教育面での民間の援助はすばらしいものがありますね。ただ、目線を国内に向けますと、実は、私は日本の教育について非常に心配しています。日本では形のうえでの教育システムは非常にととのっています。しかし、学校に行くということと、学ぶということがつながっていないと感じています。教育のほんとうの意味を、私の国が忘れつつあると、とても心配しております。この日本国内の教育については、バーニーさん、いえ、クリッシャーさんはどうお考えですか?
クリッシャー バーニーのほうがいいね。(笑)
櫻井 じゃあ、バーニーさん。(笑)
クリッシャー まずよく言われる話では、入学したときはそれほど優秀とはいえないが、卒業したときには優秀になっているアメリカの学生にくらべると、日本の学生は受験勉強のおかげで入学時は非常に優秀だが、卒業するときにはそれほどでもない……。
私は今、日本が
とても心配なんです
櫻井 あの、実は私は、そういった日本の教育の状況は、とっくに終わったと思っているんです。たとえば、日本の大学進学率四八パーセントといいますけれども、少子化がつづいていますから、あと八年もするとすべての学生が試験なしで大学に行けるようになってしまいます。だから、大学入試はもう学生を落とすのではなくて、いかにして入れるかという試験になってしまっていて、基本的な学力がないような学生たちが、東大や京大にも入学してしまう。信じられないことに、小学校で習う分数や小数の計算ができない大学生が、全体の一割以上いるのです。そのうえ大学に入ったら入ったで、日本の大学生って全然勉強しませんよね。そして何も学ばないうちに大学を卒業してしまう。だから今、日本人の学力はすごく落ちているんです。ですから、私はカンボジアに学校をつくるということはカンボジアにとってすばらしいし、そのお手伝いは全力をあげて日本もしたほうがいいとは思いますが、それと同時に、私は今、日本がとても心配なんです。
クリッシャー うーん、たしかに、電車の中などで今の若い人たちを見ていると、暗《あん》澹《たん》たる気持ちになることがときどきありますね。
櫻井 たとえて言えば、何かコンクリートの厚い壁に、何も持たずに立ち向かうような気分になってしまうんです。
クリッシャー 日本の明治維新を思い出してみれば、当時の日本はすべてをつくったわけですよね。人々を再教育し、海外から日本に合った制度を取捨選択しながらとり入れ、国家を整備した。これは今考えてみれば、すばらしい試みだったわけです。同じことが今、東南アジアで起きていて、それには若い世代のモチベーション(動機づけ)というものが原動力としてあるわけです。カンボジアの子どもたちにしても、一所懸命勉強していい仕事を得て、自分や家族の暮らしをよくしたいという気持ちが強くある。問題は、日本の若い世代にそういった動機づけがないことです。親が全部めんどうを見て、なんでも買い与えてしまう。親が子どもをスポイルしているんです。親が子どもを甘やかすのは六才までで、その後は厳しくすべきですよ。
櫻井 全くそのとおりです。日本の戦後の親たちは、子どもにだめと言えない親になってしまいました。
もう一つは、さっき明治維新のすばらしさっておっしゃいました。なぜ明治維新があんなにすばらしく開花したのかというと、やはり江戸時代の日本人が、非常によく勉強していたと思うんですね。すばらしい技術を持った職人、非常にすぐれた学者、活発な商人などがたくさんいました。たとえば日本の江戸時代の数学研究のレベルは非常に高かった。円の面積や球体の容積の計算の仕方を円《えん》理《り》といいますよね。これはとてもむずかしい数学なんですけれども、一七世紀における数学は、江戸時代の関《せき》孝《たか》和《かず》という数学者か、または西洋の微分積分の考え方か、どちらが早かったのかという論争があったほどです。
また、米相場、今でいうデリバティブ(金融派生商品)みたいなものですが、それこそ五〇〇年も前から私たちの国にはあったわけですね。すばらしい教育が行き渡っていたのが江戸時代の日本で、もしそれがなくて、教育が低い水準にとどまっていたら、明治維新は成功しなかっただろうと思います。長岡藩も教育の重要さを理解していたからこそ、米百俵で学校をつくりました。かつての日本は、教育を非常に大事に思っていた。その精神が今、バーニーさんが言っているように、タイやカンボジア、フィリピンのほうにシフトしている。逆に、日本が教育的にがらんどうになっているような、そういう心もとなさを、アジアの国々を見たときに私は感じます。
日本を築いた精神が
東南アジアにシフトしている
クリッシャー 日本の子どもたちが、もっとほかのアジアの国々の状況に興味を持つといいんですがね。そして労働のたいせつさを知るということかな。アメリカでも子どもたちは働いていますよ。新聞配達をしたり、ほかのアルバイトをしたり。日本の子どもは明らかにそういった面でのトレーニングが欠けていますね。だいたい子どもだって家庭にお金を入れるべきなんです。高校生くらいからだって、自分でかせいだお金の中からなにがしかを、自分がめんどうを見てもらっている代金として親に払い始めるべきです。日本の教育ママは、子どものめんどうは全部見てあげるのがいいと思っている。そして子どもはとにかく勉強すべきだと。これはまちがっていますよ。子どもを外に出して、何かの仕事をさせる。これはとても大事なことです。それと、話はそれますが、漢字の勉強、あれは非常にいいメンタル・トレーニングだ。
櫻井 このごろはね、みんな漢字を習わないの。ワープロがあるから習わなくても、打ててしまうのです。
クリッシャー それはテクノロジーが弊害になっているいい例ですね。計算機やワープロは、入力してしまえば自動的に漢字が出てくるし、計算も自分の頭の中でやる必要がない。算《そろ》盤《ばん》さえもう使いませんね。
櫻井 そうですね。
クリッシャー もう一度、マニュアルということのたいせつさも思い出さなければいけない。世の中そんなにすべてオートマティックがよいというわけではない。でも責任の一端は家庭にもあるんですよ。テレビばかり見せていないで、そのような訓練を家庭でもやるべきです。
櫻井 家庭はとても大事ですね。東南アジアには、いわゆる親戚も全部含めた、一家眷《けん》属《ぞく》のつながりというのが強くある。日本は田舎のほうに行けば残っているにしても、全般的にはそれが目に見えなくなりつつあります。だからアジアやアフリカの人が、自分の生まれたところに根を生やして家族と一緒に暮らしているのを見ると、その人間の結びつきをとても懐かしいものに感じるのかなと思うんです。ある意味でノスタルジックな世界が、まだアジアにはあるんですね。
クリッシャー そういえば一〇年前にカンボジアを訪れたとき、一緒のグループのかたが、やはり戦後の日本を思い出すと。そのころの日本でもここと同じように自転車がとても貴重だったというんですね。それで思いつきまして、キャンペーンを始めて三〇〇〇台の自転車を日本から贈ったこともありましたねえ。
櫻井 日本には、放置されている自転車が多いですからね。
クリッシャー 実際、カンボジアに贈った自転車はほとんど路上に放置されていたものでした。そのとき、二五もの市町村が協力してくれたのですが、神戸市や大阪市は、制度上の問題でわれわれにそうした自転車を寄付できず、全部スクラップにしてしまった。日本ではときどき法律が障害になる場合がありますね。もったいないという言葉が、日本語にあるのに……。お米なんて、古米がたくさん余っていても、貧しい国に持っていくことができなかったりする。
二一世紀の価値観を、
日本人は土台として持っているはず
櫻井 日本はいろいろな力があります。その力を発揮することができるような法律改正をすればよいのです。たとえば先日のニュースで、オレンジ共済事件の友部議員が、一〇年の実刑判決を受けました。それでも議員を辞めさせることができなくて、国会議員の給料を三年間も税金から払いつづけているんです。官房長官も総理大臣も「遺憾なことだ」と言います。遺憾だと思うなら、国会で論議して、悪い政治家に国民の税金からお給料を払う必要はないんだということをちゃんと言えばいい。憲法で国会議員の身分が認められているからといって、憲法を補足する法律をつくれないはずがないのです。現実をどういうふうに変えて、問題を解決していくべきかという気概がないのです。こんなところでも、教育の根本が抜けているような気がするんです。
クリッシャー 私はロッキード事件まで、日本には汚職が存在しないと思っていた。もちろん一部には、あの岐阜に新幹線の駅をつくってしまった政治家、なんて言いましたっけね……。
櫻井 大野伴睦?
クリッシャー そう、大野伴睦。政治家が、政治に圧力をかけて、ああいった意味もない駅をつくってしまうようなことがあるのは知っていましたが、それはごく一部の話で、政治家といえば立派な人という認識だった。ところがロッキード事件をはじめとして、その後も大物政治家の名前が常にあげられるにつれ、今では政治家というと腐敗というのがあたりまえのようになってしまった。これもたしかに教育の荒廃によるものでしょう。カンボジアでも、なぜ私が学校を大事にするかというと、とにかく現在のカンボジア政府やリーダーたちが、あまり感心できる人々ではない。カンボジアがよくなるためには、今の子どもたちの中から、立派な人間が出てくるしかないわけです。一国の状態がよくなるのも、立派なリーダーが出てくるにも、とにかく教育が一番たいせつなのです。
櫻井 二一世紀の国際社会の動きを見ると、二〇世紀と二一世紀、大きく変わってくることがあると思うんですね。二〇世紀はひと言で言えば、国の世紀だった。国と国との関係であらかたのことが終わっていた時代だったのに対して、二一世紀というのは国と国との関係に加えて、その国の中で特定の民族がどういうふうにとり扱われているかとか、自由がどれだけ保障されているかとかいう、国をマネージするノウハウ、ソフトウエア、その国を統治する価値観がとても大事になる時代だと思うんですね。二一世紀の国際社会が追い求めていくこういった価値観は、日本には土台としてもともとあったと思うんです。ですから日本はもう一度この価値観をとり戻すためにも、真の教育というものを今考え直すべきなのです。
クリッシャー それは西洋的な意味だけでない、民主化という言葉につながるんだと思いますが、最近では世界じゅうの人々が、自分たちの安全は自分たちで確保したいし、自分たちによる自分たちなりの生活を送りたいと思っている。民主主義は完全ではないですが、人々がそれぞれポテンシャル(潜在能力)を生かせるという意味では、最良の方法だと思います。たしかに日本人の精神的土台に、そういった価値観があるというのはいえるかもしれませんねえ。今回の長岡の米百俵プロジェクトなどは、その発《はつ》露《ろ》でしょうし、まちがいなく日本のよい面を代表していると思いますよ。
櫻井 ありがとうございます。長岡は私にとっても故郷ですから、そう言っていただくのは大変うれしいです。いまだに明治時代の気骨が残った頑固者の土地柄で、自然も美しいところなんですよ。
クリッシャー そうですか。一度、「米百俵」スクールのお礼にも伺わなければなりませんし、もし櫻井さんがお帰りになるときがありましたら、ぜひご一緒させてくださいませんか。お願いします。
(月刊「ソトコト」2000年7月号初出)
櫻井よしこ
(ジャーナリスト)
ベトナム生まれ。新潟県立長岡高校卒。ハワイ州立大学歴史学部卒業後、「クリスチャン・サイエンス・モニター」東京支局員、「アジア新聞財団」東京支局長、日本テレビ・ニュースキャスターをへて、現在はフリージャーナリストとして活躍中。著書『エイズ犯罪・血友病患者の悲劇』(中央公論新社)で第26回大宅壮一ノンフィクション賞を、『日本の危機』(新潮社)で第46回菊池寛賞を受賞。最新刊『日本の病 正常な国への処方箋』(和田秀樹氏との共著・PHP研究所)が、小泉改革への提言となっている。
バーナード・クリッシャー
(元ニューズウイーク東京支局長)
1932年ドイツ生まれ。ナチスの迫害をのがれ、アメリカに移住。コロンビア大学卒。1962年、ニューズウイーク東京支局長として来日し、その後フォーチュン日本版、フォーカスなどの発刊にかかわる。現在は昭子夫人とともに、カンボジアで「ザ・カンボジア・デイリー」を発行しつつ、NGO(非政府組織)団体「ジャパン・リリーフ・フォー・カンボジア」(電話03−3486−4337)を主宰している。カンボジア内戦で荒廃した同国の復興のために、孤児院や病院の開設をはじめ、学校の建設などに力を注いでいる。
あとがき
戯曲「米百俵」の原作、関連資料の調査、長岡市への取材を進めるうちに、山本有三が書こうとしたのは、「百俵の救援米を食べずにがまんして、将来のために学校を立てた」という単なる美談ではなかったことが、だんだんわかってきた。
たとえば、山本有三は小林虎三郎に次のようなことを言わせている。
そもそも、日本人同士が鉄砲の撃ち合いをしたことが間違いのもとであった。やれ薩摩の、長州の、長岡のなどと、つまらぬいがみ合いをして、民衆を塗炭の苦しみにおとしいれた。このような失敗を繰り返さないためにも、これからの世の中ではつくづく「人物」を養成したいと思う。
この作品が発表された昭和一八年は、太平洋戦争のただ中にあって、「撃ちてし止まむ」「欲しがりません、勝つまでは」という標語が掲げられた時代であった。検閲当局は、初め「米百俵」の故事にある「食べたい気持ち、ひもじさを、今は耐えて……」という部分を、銃後の耐乏生活を肯定する内容と考えたに違いない。しかし、虎三郎のせりふが、「今次の戦争を起こしたことが、まちがいのもとであった」とも読めることに、おそらくは気がついたはずである。
一度ならず、ペンを折ることを余儀なくされた作家・山本有三が、ひとつまちがえば危険思想と糾弾されかねない戯曲を、この時期に書いた憂国の心情と、それを雑誌に掲載した出版社社長・石川武美の勇気とは、当時の戦時下にあってはともに命がけの決断であった。
山本有三が虎三郎に言わせた「日本人同士が鉄砲の撃ち合いをしたことがまちがいのもとであった」という言葉は、もともと長岡藩が新政府軍と戦争しないですむような政策がとれなかったのは、それ(交渉)ができる有為の人材が長岡藩にいなかったせいだ、だからその人材を育てるために「米百俵」を生かそうではないかという提案であった。これは私見であるが、「太平洋戦争を起こしたことが、まちがいのもとであった」という言葉の矛先は、この戦争を敗北に導いた日本の政界・軍部だけにとどまらず、米英ソなど戦勝国となった国々の指導者にも向けられるはずのものである。まさに「人間同士が鉄砲の撃ち合いをしたことが、まちがいのもと」であったという認識をこそ、戦争のあとにくる焦土と化した世界ではお互いに持ち合うべきであると、山本有三は考えていたのではないだろうか。
今回、私は目に見えない力に押されるようにして、本書を書くことになった。
まず、私が現在奉職している(財)石川文化事業財団では山本有三記念路傍の石文学賞ならびに郷土文化賞という顕彰事業を運営している。昨秋、郷土文化賞候補にノミネートされた「米百俵」スクールの基礎調査で、東京孜孜の会を取材することができた。結果としては惜しくも受賞をのがしたが、このとき私は、小林虎三郎の業績について学ぶ機会を与えられたのである。
もう一つ、私は一九四六年(昭和二一年)一月四日、疎開先の長野県埴《はに》科《しな》郡松代町殿町で生まれている。たった九カ月で東京に戻るのだが、なぜか松代という土地に愛着を感じた私は、小学生のころに「維新の先覚者・佐久間象山」という偉人伝を読みふけっていた。小林虎三郎の資料をひもときながら、あらためて佐久間象山の大きさにふれることができた。胸の奥底が熱くなってくる。
森民夫・長岡市長は、これからは依存から自立への挑戦だと語ってくれた。
「北越戊辰戦争に敗れた長岡藩は、当然、新政府を頼るわけにはいかない。そこで、新政府の援助をあてにせず、たとえ苦しくとも自力で乗り切るのだという自立の気風が生まれた。安易な依存から真の自立へ、これこそが米百俵の精神です」
たとえ時代は移ろうとも、虎三郎がまいた「米百俵」の種子は、世代を超えて着実に芽を出し、ときどきに直面する難局には収穫の秋をもたらしてくれている。
本書を書き上げるまでには、米百俵の精神を愛するたくさんのかたがたのご尽力をいただいた。また、すばらしい教育対談の再録を快諾してくださった櫻井よしこさん、バーナード・クリッシャーさんにも、心から感謝を申し上げたい。
平成一三年六月
原山建郎
●編著者略歴
原山建郎(はらやま・たつろう)
1946年、長野県松代町生まれ。早稲田大学第一商学部卒。1968年、(株)主婦の友社に入社。『主婦の友』『わたしの健康』など編集記者としてのキャリアを積む。
現在は同社常勤監査役、(財)石川文化事業財団事業部長。著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社)、『からだ革命』(日本教文社)がある。日本文藝家協会会員。故遠藤周作氏提唱の「心あたたかな病院運動」をすすめる遠藤ボランティア・グループ顧問。
小泉首相が注目した
「米《こめ》百俵《ひやつぴよう》」の精神
原《はら》山《やま》 建《たつ》郎《ろう》
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平成13年8月10日 発行
発行者  松村邦彦
発行所  株式会社 主婦の友社
〒101-8911 東京都千代田区神田駿河台2-9
Tatsuro Harayama 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
主婦の友社『小泉首相が注目した「米百俵」の精神』平成13年8月1日初版刊行