く卵王子〉カイルロッドの苦難H
思い出はいつまでも
306
S
富士見ファ/夕/ア文庫
32−16
日 次
一章 新たなる刻
二章 風の吹く場所
やみ
三葦 深い闇の底から…‥
ささや    いの
四章 囁くように、祈るように
エピローグ
あとがき
253  238 186 114  55  5
思い出はいつまでも
二革 新たなる刻
青い空が見えた。
吸い込まれそうな青だ。
じようへき
その空の下、遠く連なる岩山が見えた。手前には白く光る城壁、眼下には満々と水を湛
えた湖があり、陽光に水面が度めいている。
なつ
懐かしい風景だった。
城の植物を置いてあるバルコニーから、いつも見ていた風景だ。
「ああ、ルナンへ帰ってきたんだ」
あんど    つ.ホや
安堵とともに呟き − そこでカイルロッドは目が覚めた。
てんじよう
目を開けると、そこにはあの懐かしい風景はなく、青いタイルをはめ;」まれた天井があ
った。
「・・夢か」
ため息とともに吐き出し、カイルロッドはベッドから上半身を起こした。それから改め
て、部屋の内部を見た。
ごうか        よすみ       かペ    せんきい
豪華な部屋だった。部屋の四隅に大理石の柱があり、壁のほぼ全面に繊細優美な彫刻が
はどこ
施されている。他にも室内の至る場所に、造った人々の洗練された美意識を見ることがで
きる。
おれ
「ルナンの俺の部屋より豪華だなぁ」
かたひぎ じじ
立てた片膝に肘をつき、カイルロッドは苦笑した。
「さてと。ミランシャの顔を見てこよう」
いす
かけていた毛布をどかし、カイルロッドはベッドから下りた。そして椅子の背にかけて
いろあぎ     えが  かれいもんようゆか とぴり
あった上着を取ると、色鮮やかなタイルで描かれた華麗な文様の床を、扉に向かって歩い
て行った。
ろうか
部犀の外の廊下は無人のように静まりかえっていた。無論、無人ではない。少なくとも、
この建物の中には百人がいる。
「皆、ゆっくり休んでくれ。いままで、本当に大変だったんだから」
思い出はいつまても
廊下を歩きながら、カイルロッドは辛く苦しかった旅を思い出していた。
だいしんかんひき        しんでん
大神宮率いる一行が《第二の神殿》 へついてから、丸五日がたっていた。
フエルハーン大神殿の数倍の規模を持つ巨大な街であり、古代の力が結集されていると
ノヽでん
口伝にあった《第二の神殿》−−それは地中深くに建設された巨大な地下都市であった。
「ここが出入口よ」
こうや
案内役のウルト・ヒケウがそう言って指したのは、荒野にポッンとある岩山だった。た
おか
いした高さではなく、子供でも五分たらずで山頂へ登れるだろう。山というより、丘とい
う感じだ。
かつてこの辺り一帯は、人を寄せつけぬ深い森だったが、異常気象によって森は消え、
ウルト・ヒケウの結界に護られた岩山だけが残った。
さて、岩山が出入口と言われ、ほとんどの人々は戸惑っていた。どこにも出入口らしき
物が見当たらないのである。それを見ることができたのは、イルダーナフやカイルロッド、
メディーナやエル・トパックなど、少数の力ある者達だけだった。
《第二の神殿》への出入ロ ー それは岩山にはめこまれたような巨大な扉だった。
まわ
扉を見上げ、カイルロッドは総毛だった。頭上を越える巨大きや、扉の周りの岩壁が文
きんき
様で埋め尽くされていることといい、フエルハーン大神殿にあった禁忌の部屋 − カイル
とぴら
ロッドと同じ顔の青年を閉じ込めた部犀の扉にそっくりだった。
ちが                     りんこう
違うことがあるとすれば、あの扉は黒かったが、出入口の扉は銀色の燐光を放っている
ことだろう。
「黒い扉には神殿の罪を、銀色の扉には希望を閉じ込めたか」
つ.かや
そう呟いたのは大神宮、イルダーナフだった。扉を見つめる目と口元には、皮肉な笑み
が漂っていた。
ど、フよう             じゆもん とな
出入口が見えないと人々が動揺する前に、ウルト・ヒケウが呪文を唱えて、結界を解い
ネつう
た。そしてようやく、普通の人々にも扉が見えるようになった。
「大神宮様、この扉のすぐ向こうに《第二の神殿》があるのですね」
人々の中からそんな声があがったが、イルダーナフは首を左右に振った。
「《第二の神殿》は地下にある」
ここで初めて、カイルロッドを含めた多くの人々は、《第二の神殿》が地下都市である
ことを知ったのだった。
いしだたみ             みちはけ
扉の中には石畳の立派な通路があった。天井が高く、道幅が広い。大人の身長の倍ほど
ほろ
もある大型の幌馬車が、横に三台並んでも楽に通れるほどだ。
「この通路だけで、当時の建築、建設技術の高さがうかがえる」
思川l旧いつまでも
などと、カイルロッドはしきりに感心していたが、当時の技術の高さはそれだけではな
かった。
たいまつ
どんな仕掛けになっているのか、ランプや松明もないのに、人が進むと通路の先が明る
きようがく
くなるのである。これは人々を驚愕させた。
やがて通路はゆるやかな下り坂となり、出し抜けに視界が開け−人々の目に巨大な街
が飛び込んだ。
地中にぽっかりと巨大な滑があり、そこに円形をした都市がすっぽりと入っている。中
ととの ・きち
心の高台には立派な建物がそびえ、そこに向かって道が放射状に作られていた。整った街
並みがあり、所々に緑も見える。とても地下にあるとは思えない街だ。
「でも、どこかで見たような・ 」
見覚えのある街並みだとカイルロッドは思い、すぐに思い出した。
それは上空から見たフエルハーン大神殿の街並みだった。
えんじレよう
さしずめ中央にある建物は神殿だろうが、炎上した聖地の建物とは異なっている。これ
があの建物にそっくりだったなら、すぐに気がついただろう。
ふたご
「規模はこちらの方がはるかに大きいが、フエルハーン大神殿と《第二の神殿》は、双子
の都市なんだ」
つPや        あんど
呟き、カイルロッドは安堵で全身から力が抜けた。
けが やま、
荒涼たる大地を旅すること三カ月、出発前の怪我や病の悪化によるものとはいえ十数人
1 ・・
の死者を出し、寒さや魔物に苦しめられながらも、やっと目的地へついたのだ。
「ここが《第二の神殿》なのか」
「おおっ」
すす             かんき
人々の問から畷り泣きが洩れ、かと思えば、歓喜の声があがったりもした。子供達は
h9ご
「凄い」を連呼してはしゃぎ回った。
「ともかく、これで助かるのだ」
さまぎま
表現は様々だが、それが人々の共通した思いだったに違いない。
が、そうした人々の安堵とは逆に、いよいよ気を引き締めねばならないのが、イルダー
ナフ達神殿関係者だった。目的地に到着したからといって、大神宮や神宮長の仕事が終わ
ったわけではない。むしろ、これから本格的に始まるといってもいい。
なにしろ、《第二の神殿》にたどりついた時、一行の人数は神殿を出た時の倍近く、二
万人以上にも増えていた。魔物や寒さ、混乱に痛めつけられながらも、生き延びた人々が
ゲオルディの白い鳥に導かれ、続々と一行に加わったからだ。
「この地下都市は五、六万人は軽く収容できるし、用意してある食料や燃料の不安もねぇ。
思い出はいつまでも
たば               ちつじよ
だが、大勢の人間を束ねるにゃ、それだけじゃたりねぇ。社会秩序と規則が早速に必要だ。
そこをおさえておかねぇと、混乱が生じる原図となる」
イルダーナフの意見に従い、この四日間、ウルト・ヒケウやロワジー、エル・トパック
にアクディス・レヴィなどの神殿関係者は総出で動き回っていた。
まず正しい人数の確認から始まり、家族構成によってそれぞれの家を割り当てた。さら
に街をいくつかの地区に分け、責任者をたてて自治団体を作らせた。そうすれば、各地区
の生活の安定や治安が守れるし、困った時にどこへ行けばいいのか、人々にもわかり易く
なる。
当然、カイルロッドもそれらの手伝いに使われたのだが、言われたことをやっていただ
けであるから、単純な肉体疲労ですんだ。だが、他の人間はそれだけではないのだ。
「人の上に立つって本当に大変だ」
いまごろ    どろ
やっと仕事から解放されて、今頃は自室で泥のように眠りこけているであろう人々の姿
を想像し、カイルロッドは頭を掻いた。自分も人の上に立つ王子なのだが、そんなことは
かたすみ
頭の片隅にもなかった。
にぎ
遠くから賑やかな芦が聞こえ、カイルロッドは立ち止まって、廊下の窓から外を見た。
カイルロッドやイルダーナフ達は街の中心の建物で寝起きしていた。建物は高台にあるの
で、街並みが一望できるのだ。
いそが
上から見た街の様子は混乱もなく、活気にあふれていた。大通りを忙しく行き交う人々
まめつ.が          にぎ
が、まるで豆粒のように見える。聞こえた賑やかな声は、街を走り回っている子供達のも
のだろう。
「エル・トパック達のおかげで、混乱はまったくないみたいだ」
カイルロッドは目を細めた。
かんきようなじ
人間とは達しいもので、人々は五日間ですっかりこの環境に馴染み、フエルハーン大神
いわかん てい
殿の街にいた時のように生活を始めた。街の造りが同じということが、人々の違和感と抵
抗を少なくしたのだろう。
「人間って、もしかしたら魔物なんかよりしぶといのかもしれないな」
新しい街での、新しい生活を始めている人々の姿に、悪い意味ではなくカイルロッドは
そう思った。
にじ     おそ                    いとな
戦火に踏み躍られ、魔物に襲われ、なにもかもを失いながらも、残された人々は営みを
続けていく。
絶望と混乱の中で、それでも生きようとする人間の姿を、カイルロッドはこれまでに数
多く見てきた。
思い出はいつまでも
「人間とは弱く、けれど強いものだ」
うれ           はほえ        はな
したたかなまでの強さが嬉しく思え、カイルロッドは微笑んだ。それから窓を離れ、再
び廊下を歩きだした。
あか ぼう
上の階にあがると、奥の方から大きな泣き声が聞こえた。赤ん坊の声、ミランシャだ。
カイルロッドは足早に奥の部屋へ向かった。
「ミランシャ」
ノックするのも忘れ、カイルロッドは扉を開けた。
明るく広々とした部屋で、中央には数人の女達がいた。一人の中年女性が泣いているミ
ランシャを抱いており、その周りに女達が集まっている。
「あら、カイルロッド」
「ほら、ミランシャ。お兄ちゃんがきてくれたわよ」
室内に入ったカイルロッドに、女達が声をかけた。ここにいるのは混乱によって我が子
めんP・フ
を亡くした女達で、彼女達がミランシャの面倒をみてくれていた。
ひだ
ミランシャの母親のジュディは、産後の肥立ちが悪く、《第二の神殿》にたどりつく前
たの         つ
に死んだ。カイルロッドにくれぐれもミランシャを頼むと言い残し、力尽きたように息を
ひきとった。
「ミランシャ、元気かい?」
のク
カイルロッドは中年女性の横に行き、ミランシャの顔を覗きこんだ。すると、それまで
大声で泣いていたミランシャが、ピタリと泣き止んだ。
「あら、泣き止んだ。カイルロッドがわかるのかしらねぇ」
ゆる
などと言われ、カイルロッドの顔の筋肉はだらしなく弛んだ。気分はほとんど父親だっ
た。
「ほら、笑ってる」
かわい
「可愛いわねぇ」
のぞ
女達がミランシャを覗き込んだ。
あどけなく笑っている赤ん坊を見つめながら、カイルロッドは決意した。
「もう、行かなくちゃな」
どこへ行くのか、カイルロッドにはわからない。だが、いつまでも《第二の神殿》にい
てはいけないことは、わかっている。
「それに、俺がここにいる理由はもうない」
わずかばかりの死者を出したが、ほとんどの人々は無事に《第二の神殿》 へ入った。ア
じようデ
クディス・レヴィ達神殿関係者は、上手に人々を導いていくだろう。人々は《第二の神
思い出はいつまでも
殿》で立派に生活していけるはずだ。
「ミランシャも平気だよな。皆に可愛がってもらえるはずだ」
.・
ミランシャの曇りのない澄んだ目に、カイルロッドの姿が映っている。
「これから俺は、成すべきことを成さなくてはならない」
かみ
カイルロッドは昌を閉じてうつむいた。と、いきなり髪を引っ張られた。
「痛っ−」
ぎんばつ ひとふさ       つか
日を開けると、うつむいて下に流れた長い銀髪の一房を、ミランシャが摘んでいた。な
おもしろ                            がまん
にが面白いのか、引っ張って喜んでいる。それだけならカイルロッドも我慢したが、赤ん
坊はなんでもロの中にいれる。髪も例外ではない。
「うわーっ、ミランシャー」
あわ
慌ててミランシャの手を聞かせたが、カイルロッドの髪はよだれでベトベトになってい
1...、、
た。楽しく遊んでいた物を取り上げられ、抗議するようにミランシャが泣き出した。
「あらあら」
女達が泣いているミランシャをあやしている中、カイルロッドは世にも情けない顔でベ
トベトになった髪の上の方をつまんでいた。
「…Iつうっ・・…」
じゆうめん       とぴら
しゃぶられた髪と泣き声に渋面になっていると、扉が開いてセリが入ってきた。
「  王子」
ゆか                       あわ
床から七〇センチほど浮いているセリに、安達が慌てて頭を下げた。
「セリ、なにか用フ」
髪をつまんだまま、扉に視線を移動させると、
「・あのね、イルダーナフ様が王子を呼んでこいって」
もじもじしながら、セリが言った。こんな姿だけ見ていると、とても「魔術において偉
だい
大なる者」ウルト・ヒケウには見えない。
「イルダーナフが …。ちょうどいい、俺もイルダーナフに話があるんだ」
カイルロッドは小さく笑い、ミランシャの泣き声を背中で聞きながら、扉に向かった。
2
おどろ
カイルロッド達が《第二の神殿》に到着して五日たつが、この地下都市にはまだまだ驚
かされることが多い。
その一つが水の豊富さだ。
いど                 ふんすい
河も井戸もないのに、街のあちこちにある噴水の水は絶えない。生活用水については、
思い出はいつまでも
一〇世帯に一つの割合で、給水場という物が設置されていた。それはイルカの形をした六
〇センチほどの銀色の像で、高さ一メートルの台座の上に置かれており、人がその像に触
れると、口から自然に水が出るという仕掛けになっている。
衛では家の外にある給水場だが、カイルロッド達のいる建物では室内にあり、しかも各
階に設置されていた。部屋を出たカイルロッドは、そこでミランシャにしゃぶられた髪を
洗っていた。
「給水場があって助かった」
かわ        ふ
カイルロッドは長い息を吐いて、セリが渡してくれた乾いた布で顔と髪を拭いた。セリ
は横にいて、カイルロッドの肩の高さに浮いている。
すご
「それにしても、この地下都市は凄いなぁ。まさに古代の力が結集された都市だ」
布をセリに返し、カイルロッドはしげしげと目の前の像を見た。いったい、どういう仕
掛けになっているのか、まったく見当がつかない。
「水は豊富だし、地下なのにちゃんと朝と夜があるし」
水もそうだが、カイルロッドが一番驚いたのは、地下に朝と夜があるということだろう。
こうげん
光源がどこか、またなにによって造られた光なのかわからないが、ちゃんと朝と夜がくる
のだ。地上の生活となんら変わらない。
「これらって、ウルト・ヒケウや大神宮の力が造り出しているのっ」
カイルロッドが質問すると、セリは頭を振った。
・ ▼
「違う。見つけた時からずっと、この街はこうだったの。たぶん、造られた時からずっと
…。あたし達にはこの街の仕掛けがわからないけれど、このままだと思う」
人がいようといまいとに関わらず、朝がきて夜がきて、半永久的に街として機能するの
だという。
ひなん
「なにかあった時は、いつでも避難できるようになっていたの」
セリの小声を聞きながら、カイルロッドは少し皮肉っぽい気持ちになった。
「そういう準備をしていたってことは、この櫛を造った先人達は、現在の状況を予測して
いたのかな」
∵・かもしれない。もっと先代の大神宮やウルト・ヒケウは力が強かったから・…未来
が見えた人がいたかも」
セリは少し悲しそうな衷情をした。カイルロッドの脳裏に、禁忌の部屋の中で見たフエ
ルハーン大神殿の歴史の一部がよぎった。
すご
「こんな凄い街を造った人達や、昔の大神宮達ですら、《あの方》に勝てなかったのか」
せいいつぱい                   ぅゎまわ
遂げ場を造ることが精一杯だったのだ。そして、ゲオルディやイルダーナフをも上回る
思い出はいつまでも
力を持った先人も勝てなかった相手に、カイルロッドは勝たなくてはならない。
きぴ
「なかなか厳しいな」
すいてき ゆか
洗った髪の先から水滴が床にしたたり落ちるのを見ながら、カイルロッドが苦笑すると、
突然耳元でしゃくりあげる声がした。
「セリフ」
驚いて視線を向けると、セリは浮いたまま、大きくしゃくりあげていた。
きわ
「ど、どうしたの、セリけ どこか痛いのけ・それとも、俺がなにか気に障るようなこと
を言ったのけ」
「・あたし達がもっと強かったら、もっと王子の力になれたのに・・…・」
ふ     つ
頭を左右に振り、声を詰まらせながらセリが言った。
おそ
「… ウルト・ヒケウなんて呼ばれても、年をとるのが遅いだけで、王子を助けられるほ
ど強くない」
泣いているセリの姿に、錐で刺されたようにカイルロッドの胸は痛んだ。力のなさに歯
噛みしていたのは、自分だけではなかった。ウルト・ヒケウですら、力がないと泣いてい
る。
じゆうぷん
「セリ、泣かないで。俺は充分すぎるほど、セリ達に助けてもらったんだから」
カイルロッドが声をかけたが、セリは「そんなの嘘」と、握った両手で目をこすりなが
ら、泣くばかりだ。
「本当だよ、セリ」
「……嘘」
「本当だってば。セリ達がこの《第二の神殿》を見つけて、護っていてくれたからこそ、
こうして皆が助かったんだ。おかげで俺も助かったんだよ。皆が助かったことで、俺も助
かったんだ」
カイルロッドは言葉に軌をこめた。大勢の人が助かったことで、そしてわずかばかりで
も力になれたことで、カイルロッドの心も救われたのだ。
「ウルト・ヒケウのおかげだよ」
カイルロッドが言うと、セリはテラッと片目だけ見せ、
「 2本当にそう思うフ」
かし
小さく首を傾げた。
「思う、思っている」
うなず               すす
カイルロッドが大きく普くと、セリは両手を下ろし、鼻を畷った。仕草も表情も子供そ
のもので、とても年上とは思えない。
21 思い出はしーっまでも
「それにね、《あの方》に勝つのは厳しいとは思うけど、不思議と絶望はないんだ。根が
楽天的なせいかもしれないけど、絶望はしていないんだよ。俺は《あの方》に勝ちたい、
勝たなくちゃいけない。美しい世界を見せてあげると、ミランシャに約束したからね」
ほ−まえ
ミランシャのいる部屋の方角に顔を向け、カイルロッドは微笑んだ。
美しい世界を見せてあげたい ー
フィリオリがかつて、同じことを言っていた。生まれてくるカイルロッドに美しい世界
を見せてあげたいと。そしてカイルロッドもまた、新しい生命に対して、実母と同じこと
を願っている。
「ミランシャのために勝ちたいんだ」
おび               きいな
この先、ミランシャが魔物に怯えることのないように、寒さや飢えに苛まれることなく
生きていけるように。大勢の人のためでなく、たった一人のために勝ちたかった。
「・・行こう、王子。イルダーナフ様が待っているから」
持っていた布をイルカの頭の上に乗せ、セリは目元をこすりながら、浮いたまま廊下を
進んだ。
セリに案内され、カイルロッドはイルダーナフのいる部屋へ向かっていた。大神宮の部
屋は最上階にあり、出入りする者は限られている。
つ                  ひとかげ
階段を上り、廊下の突き当たりにその部屋はあるのだが、扉の前に人影らしきものは見
当たらない。大神宮の部屋だというのに、警備が一人もいないのだ。
「形だけでも警備を立てておけばいいのに。大神宮なんだから、大神官らしくさ」
つ一かや      おか
カイルロッドが呟くと、なにが可笑しいのかセリがクスクスと笑った。
「俺、なにか変なことを言ったフ」
「ううん。王子が、アクディス・レヴィと同じことを言ったから」
セリは思い出し笑いをしているらしい。なんでも、格式にこだわるアクティス・レヴィ
じや
が形だけでも警備を立てるべきだと主張したそうだが、イルダーナフの「そんなもん、邪
魔だ」の二言で却下されたそうだ。仮に何事かあった場合、警備などいたらかえって足手
まといになると言うのだ。
「イルダーナフらしいな」
つ.みゃ
扉の中にいる大男に聞こえないよう、極力声をひそめて呟いた時、カイルロッドは目の
にぷ
奥に鈍い痛みを感じた。
「1−−わ・」
からだ
とたん、身体が動かなくなった。
「セリ‖」
2、う  思い用はいつまでも
かなしば
カイルロッドはセリを呼ぼうとしたが、声が出ない。指先すら動かせず、まるで金縛り
にあったようだ。
「セリ、待ってくれー」
心の中で叫んだが、セリはカイルロッドの異変に気がつかないのか、扉へ向かって行っ
てしまう。
「どうなっているんだけ」
セリの後ろ姿を見ながら、必死で身体を動かそうとしていたカイルロッドの背中を冷た
い汗が流れた。
こうげき
「まさか、魔物の心理攻撃じゃ  」
とーソは一だ
自分の考えにカイルロッドは鳥肌をたてた。魔物の心理攻撃に何回もひっかかっている
だけに、ゾツとするものがある。
しんにゆう
「いや、ウルト・ヒケウや大神宮が護っている蛋二の神殿》に、侵入できる魔物などい
るはずはない」
そう思う反面、「いないとも限らない」とも思う。
7・ J
「まだ遭遇していないだけで、恐ろしく強い魔物がいるのかも」
神経を研ぎ澄ましたが、どこからも悪意や不快さは感じられない。
ふいに −
ひぴ
はじけるような明るい笑い声が廊下に響き、カイルロッドの正面、扉の方から子供達が
やってきた。
「えっけ」
ぎようてん
カイルロッドは仰天した。この建物の中に子供はいないし、ましてやイルダーナフのい
る部屋から出てくるはずはない。
混乱しているカイルロッドをよそに、数人の子供達ははしゃぎながら、真っすぐこちら
きい             し、つしよ
へ走ってくる。どの子供もせいぜい五、六歳程度で、まだ男女の差もなく、一緒になって
転げ回っている頃だ。
「あっけ」
かつしよくはだ ぎんばつ
その中に見たことのある顔を見つけ、カイルロッドは我が目を疑った。褐色の肌に銀髪
いろちが  まえがみ
と青い目をした男の子で、色違いの前髪こそないが、カイルロッドの子供の頃にそっくり
だった。
「俺なのかけ それとも、グリユウ? いや、どうなっているんだPこ
ろうばい
狼狽していると、子供達がすぐ近くまできた。ぶつかると思われたが、子供達はカイル
ロッドの身体を擦り抜けてしまった。
25  想い出はいつまでも
「   −  =H」
. しぼ
カイルロッドは全力を振り絞って、後ろを振り返った。しかし、廊下のどこにも子供達
の姿はなかった。
「今のはなんだフ」
つぶや             かなしば
口の中で呟き、カイルロッドはいつの間にか金縛りが解けていることに気がついた。
「王子、どうしたのフ」
・ ・.
前方からセリの怪訝そうな声がした。顔を向けると、セリが不思議そうに、カイルロッ
ドを見ている。
「ああ、セリ。今、その部屋の方から子供が現われて」
のど
そう言いかけ、カイルロッドは吉葉を喉で止めた。ウルト・ヒケウであるセリがなんの
しわぎ
反応もしていないのだから、どうやら魔物の仕業ではないらしい。
「…・こいきなり立ち止まって、なにかあったのフ」
「いや。なんでもないよ」
セリの質問に、カイルロッドはゆっくりと頭を振った。
まぽろし
あの子供達がなんだったのか ー 夢か幻か、カイルロッドにはわからない。セリに訊け
ば、詳しいことがわかったかもしれない。だがカイルロッドには、知りたいという気持ち
よりも、そっとしておきたいという気持ちの方が強かった。
「あの子供が誰であろうと・グリユウであろうと、あの青年であろうと、あるいはまっ
たく知らない子であったとしても、友達と一緒に明るく笑っていたんだ。それだけで充分
じゃないか」
孤独ではなかった。友達と一緒に遊んでいたのだから。
「・・王子、なにか隠してるでしょ」
セリに疑わしそうな目を向けられ、カイルロッドは「隠してない」と頭を左右に振り、
lhノまい
「ちょっと目眩がして、立ち止まったんだ。旅の疲れが出たのかもしれない」
あわ
慌てて、そんな言い訳を口にした。
「  ふーん」
ついきゆう
それ以上の追及はしなかったものの、セリの顔には疑う表情がある。
「ほら、イルダーナフが待ちくたびれているよ。急ごう、セリ」
話題を変えて、カイルロッドが足早に歩きだすと、セリは風船のようについてきた。
「セリ、ごめんね」
あやま
歩きながらカイルロッドは、心の中でセリに謝っていた。
「俺、自分と同じ顔をしたあの子は幸せなんだと、そう思っていたいんだ」
思い出はいつまでも
セリに訊いたら、そうでないことまで知ることになるかもしれない。勝手な感傷かもし
れないが、そんなことは知りたくなかった。自分と同じ顔をした子供が幸せであると、そ
う安心していたかった。
「イルダーナ7、カイルロッドだ」
イルダーナフのいる部屋の前で止まり、カイルロッドは扉を叩いた。
「入りな」
室内からよく通る低い声が戻ってきた。
3
しゆんかん
扉を開けた瞬間、カイルロッドは絶句してしまった。
そこは最上階全室をぶちぬいたのではないかと思うほど、広い那犀だった。だが、カイ
おとろ
ルロッドが驚かされたのは部屋の広さにではなく、そこにある書物の量にだった。
かペ   てんじよう  たな              なり    ほか
窓をのぞく壁の全面が天井までの棚になっており、ぎっしりと書物が並んでいた。他に
も壁の前にやや低めの棚が幾十も並べられ、同じように書物が入っている。が、それでも
ゆか
収容しきれないらしく、床のあちこちに書物がうずたかく積まれていた。
「ここは図書館なのかフ」
一面の書物を前に、カイルロッドがため息のように呟くと、
「おい。入り口に突っ立ってねぇで、こっちへ来いよ」
郷の奥からイルダーナフの声がした。林立する棚と書物の山で、イルダーナフの姿が見
えない。
「まさか書物の中に埋もれているんじゃないだろうな」
などと想像していると、セリが 「王子、こっちよ」と手招きをした。
いr
書物の中を進んで行くと、奥の一角に大きな机と椅子が置かれており、イルダーナフは
.1三.−
そこにいた。椅子に座り、机に足を投げ出している。とても行儀がいいとはいえない。
「よく休んだか、王子」
頭の後ろで両手を組み、イルダーナフが笑った。
「おかげさまで。イルダーナフこそ、休んでなくていいのかフ」
ひろう
そう言いかけ、カイルロッドは後半の言葉をロの中で消した。おそらく、心身共に疲労
みじん
の度合いが一番激しいだろうに、イルダーナフからは疲労など微塵もうかがえない。
ちが
「俺とは基礎体力が遠うんだろうな」
いまさらのように感心していると、
「さて。おまえさんを呼んだのは、ちょいと話があってな」
29  思い出はいつまでも
み.が             すす
イルダーナフが身振りで、机の前にある長椅子を勧めた。カイルロッドが長椅子を見る
と、いつの間に座ったのか、ちょこんとセリがいた。
「俺もイルダーナフに話があるんだ」
カイルロッドはセリの隣りに腰かけた。
「よかろう。先におまえさんの語を聞こうじゃねぇか」
腕組みし、イルダーナフは目を閉じた。セリはどこか不安そうな表情で、カイルロッド
を見上げている。
「たぷんイルダーナフは、俺のことを一番よく知っているはずだ。俺は、自分自身のこと
を知っておきたいんだ。だから、それがどんな事実であったとしても、慢さず正直に答え
てほしい」
カイルロッドは真っすぐにイルダーナフを見た。真実を告げることに、イルダーナフは
常に慎重だった。カイルロッドに背負えると判断したことしか教えてくれなかったのは、
みじゆく                            なぞ
未熟な青年の心の負担を少しでも軽くするためであった。カイルロッドに関係する謎は、
それほど重いものだった。
「俺はもう平気だから」
きんき                   つら
フエルハーン大神殿の禁忌の部屋で、多くの事実を見たのだ。あの中には辛くやりきれ
.1               ・、1、
ない「真実」が封じられていた。青年の嘆きと怒り、代々の大神宮達の苦悩、フィリオリ
いの              ひぎ
の祈りを思い出し、カイルロッドは腰の上で両手の指をきつく組んだ。
「すべてを知っておきたいんだ」
この《第二の神殿》を出て行く前に、《あの方》と闘う前に。
.・..−1
カイルロッドの決意に対して、イルダーナフは少しの間、沈黙していた。その顔から感
情は読み取れなかったが、
「わかった」
ややあって、イルダーナフは目を開けた。嘘も方便とばかりに、平気で口からでまかせ
を言うような男だが、「今は信用してもいい」とカイルロッドは思った。
「それで、なにが知りたい?」
「まず最初の疑問なんだけど・・どうして俺は卵で生まれたんだフ」
うなカ                        ぱくしよう
促され、カイルロッドは思いきって質問した。とたん、イルダーナフに大爆笑された。
ごうかい        ひび
豪快な笑い声が室内に響き渡る中、カイルロッドは長椅子から腰を上げた。
「そんなに笑うことはないじゃないかー 卵で生まれたことは仕方ないけど、その原因を
こんやくしや
知りたいと思ってなにが悪いー物心ついた時から皆に卵王子って笑われて、婚約者には
逃lげられて、結構苦労したんだからなー」
机を両手で叩き、顔を真っ赤にして怒鳴ると、
「悪い、悪い。いや、おまえさんが生まれた時のことを思い出しちまって」
イルダーナフはとりあえず笑いをおさめた。が、黒い目は明らかに笑っている。
「どうせ俺は那生まれの、卵王子だよ」
机に両手をついたまま、カイルロッドがふてくされていると、
「そうふてくされなさんな。おまえさんは卵から生まれたわけじゃねぇんだからよ」
.H
あっさりと苦い、イルダーナフはカイルロッドの両腕を足で払った。
「卵じゃないけ じゃ、じゃあ、どうして卵から生まれたなんてことになったんだよけ」
支えを払われたことと、イルダーナフの言葉とで、カイルロッドは危うく額を机にぶつ
けそうになった。
「た、たっ、卵から、生まれたわけじゃないのに、卵王子なんて、よ、呼ばれるのは、へ、
変じゃ ・−」
れつとうかん
物心ついた時から「卵王子」と呼ばれ、それは成長とともに強い劣等感となった。だが
ちが
「事実だから仕方ない」と耐えていたのに、実は違っていたと言われ、カイルロッドは腹
だたしさで言葉が出てこない。
「イルターナフが、俺、言いふらして、卵からの王子なんて……−」
3  思い出はいつまでも
「おい、言葉になってねぇぞ、落ち着けよ。断っておくが、俺がでたらめを言いふらした
わけじゃねぇんだぜ。いつの間にかな、そういうことになっちまったんだよ」
つぷや
ひどく無責任に呟き、イルダーナフは当時のことを話してくれた。それによると、カイ
ルロッドは生まれた時、薄く光る厳のようなものに包まれていたというのだ。
「光の膜というべきか。・…フィリオリが、生まれたばかりの子供の力を制御するために、
あか ぽミノ
最後の力を振り綴ったんだろうな。意識も自我もない赤ん坊の時点で、その強大な力を放
出させないように」
「母上が… 」
カイルロッドは禁忌の部屋にいた青年の言葉を思い出した。生まれる子供は、生まれ落
しゆんカん ツさ
ちた瞬間から凄まじい力を持つと、青年はそうフィリオリに言った。
おー′
「一番恐ろしいのは、無意識の力の暴走だ。自我がないだけに始末が悪い。フィリオリは
たいない
胎内で赤ん坊の本来の力をかなり封じていたみてぇだが、完全には封じきれたわけじゃね
ぇからな」
あわ
イルダーナフの声にはかすかな憐れみがあった。それは若くして死んだフィリオリと、
にな                      れんげん
担いがたい重荷を背負って生まれたカイルロッドへの憐憫だったのかもしれない。
「それで・ その膜って、どうなったんだフ」
やっと落ち着きを取り戻したカイルロッドが質問すると、イルダーナフはなんとも言い
にくそうな顔をした。
「すぐに消えた。消えたんだが…」
その場に居合わせた手伝いの侍女達が、恐慌状態となった。サイードは一応口止めをし
むだ
たのだが、それは無駄だった。
「人から人に伝わっているうちにわけがわからなくなって、最終的に王子は卵から生まれ、
−−111
フィリオリはそれでショック死した、ということで落ち着いたらしくてな。城下じゃ大騒
ぎだった。いやー、それを聞いた時は笑っちまったぜ、俺はよ」
イルダーナフに大真面目な顔で言われ、カイルロッドは長椅子に勢いよく腰を下ろした。
あまりに勢いがよかったせいか、セリが二センチほど宙に浮いた。
てしいせい
「笑う前に訂正してくれればいいじゃないか!」
カイルロッドが唸ると、イルダーナフは笑いをこらえるように口を大きく曲げた。
めんどう
「サイードが放っておけって苦ったんだ。いちいち説明するのは面倒だし、膜も卵も大差
ないだろうってな」
「… ・」
にぎ  こぷしふる
いかにもサイードの言いそうなことだと、カイルロッドは握った拳を震わせた。「どう
思い出はいつまでも
したら光りの膜が、卵になるんだけ」、人から人へと伝わる話には、必ずといっていいほ
おひれ
ど尾鰭背鰭がつくと知っていたが、これはあんまりだと思った。カイルロッドが改めて人
うわさおそ    か し
の噂の恐ろしさを噛み締めていると、
「それで、次の質問はなんだ、王子7▼」
ふく         せ              ひじかけ
笑いを含んだイルダーナフの声に急かされた。カイルロッドは長椅子の肘掛に片肘をつ
うわめづか
き、上目遣いにイルダーナフを見た。
「話を聞いていると俺が生まれた時、イルダーナフはその場にいたみたいだけど・・どう
して?」
iJあ              しゆつぱん
「ゲオルディの婆さんにな、フエルハーン大神殿を出奔した女がいるから、力になってや
たの
ってくれと頼まれてな。で、ルナンへ行ったわけだ」
「ゲオルディ様にフ」
カイルロッドは年をとった方のゲオルディを思いうかべた。
かんし
「本当はゲオルディ様がルナンに行きたかったそうだけど、ムルトの監視があるから、動
けなかったんだって」
と、セリが説明してくれた。
ルナンに行ったイルダーナフはフィリオリと会い、これから生まれる子供のことを相談
されたそうだ。
しゆうにんしヌ1
「でも、イルダーナフって、大神宮の就任式前に急死したってことになっていたんだろっ
じゆんすい
純粋な神殿育ちの母上は、そう教えられていたはずだ。死んだはずの大神宮が顔を出して、
よくすんなり信用されたね」
三〇年前はどうだか知らないが、一八年前のイルダーナフは、今とさして変わっていな
うさんノヽさ
いだろう。死んだはずの、しかもどこから見ても思いっきり胡散臭い男が大神宮として現
われて、すんなりと信じられるものだろうか。
きみよう
不思議に思って訊くと、イルターナフは「証人がいたんでな」と奇妙な表情をした。
「証人ってフ」
「ダヤン・イフェだよ。野郎はな、三〇年前、俺の付き人だった」
「えーっPこ
カイルロッドは長椅子から落っこちた。セリが横から心配そうに見ている。
「あいつは俺が死んだと信じてなかったんだってよ。俺が簡単に死ぬはずはねぇってな。
つち
城に画を出したら、生きていると信じてましたと大泣きしやがった」
いや                    しごしか
思い出すのも妹だといわんばかりの顔と声で、イルダーナフは渋々、昔話をしてくれた。
いげん れいぎ
それによると、ダヤン・イフェは三〇年前から変わっていないらしい。威厳だ礼儀だと、
37  思い出はいつまでも
年寄り連中よりもロやかましかっただとか、すぐに泣き落としを始めるだとか、聞いてい
..一..
てカイルロッドなど「確かに全然変わっていない」と領いてしまった。
めいわく
「口うるさいのも、泣き落としも迷惑だったが、俺が一番迷惑したのは野郎の大声だ」
11
遊びに行くため神殿を抜け出したイルダーナフを探して、ダヤン・イフエはイルダーナ
フの名前を呼びながら街中を駆け回ったそうである。それも一度や二度ではなく、イルダ
ひんlズん さわ
ーナフがいなくなるたびだった。あまり頻繁に騒ぐものだから、イルダーナフの行きつけ
の酒屋や女達が付き人に同情してしまったらしい。
かわいそう
「すっかり野郎に同情しちまって、街の連中は俺の面を見りや、付き人が可哀相だから神
殿に帰ってやれとぬかす始末だ」
.Pつちようつb
思い出すと腹がたつのか、イルダーナフは仏頂面になった。
「なんか、光景が目にうかぶ」
おか           にじ
カイルロッドは笑いながら、長椅子に座った。あまりに可笑しかったので、目に涙が藩
んでいた。セリはカイルロッドの笑い顔と、イルダーナフの仏頂面を見比べている。
ぱあ         にがて
「俺は昔から、ゲオルディの婆さんとあいつだけは苦手だ」
じゅうめんめずb                ヤる
イルダーナフの渋面が珍しく、また可笑しくてカイルロッドが一屑を震わせて笑っている
と、
「いつまでも笑ってるんじゃねぇよ」
おか                        こわ
ジロッと睨まれた。可笑しいものは可笑しいと言いたかったが、イルダーナフが恐いの
で、カイルロッドは口をつぐんだ。
「ダヤン・イフェのことはいいとして。それでだ」
イルダーナフは机の上に投げ出した足を組み替えた。
たの            ぞっいん
「フィリオリに頼まれて、俺は赤ん坊の力を封印した。いずれ解けることは目に見えてい
たが、少なくとも持っている力を使いこなせるようになるまでは、なんとか俺の力で封印
できるとふんでな」
そして、生まれたばかりのカイルロッドを引き取ろうとした。その時に備えて、心身と
もに鍛えておく必要があると。しかしそれは「短い時間でも、人並みの生活をさせてやり
こんがん
たい」というサイードとダヤン・イフエの懇願によって、中止せざるを得なくなった。
「父上とダヤン・イフェが…・・・」
しようだく
「大の男が二人揃って泣き落としだぜ。うんざりして、つい承諾しちまったが、そのこと
こうかい
をずっと後悔していた。あの日、ルナンへ行くまでな」
イルダーナフはカイルロッドに向けている目を細めた。
「ルナンが石にされた日か」
39  思ヨい出はいつまでも
つ.トや
呟きながら、カイルロッドはそれがひどく遠い昔の出来事のように思えた。
めつた
「おまえさんを見て、サイード達は正しかったと知った。俺は滅多に他人を営める男じゃ
やつ
ねぇが、本気で奴らはたいしたものだと思うぜ」
′、ちぴるか     つなず
深味のあるイルダーナフの声に、カイルロッドは唇を噛んで何回も額いていた。
生い立ちと課せられた重荷、それを知ってもカイルロッドが魔王にならなかったのは、
愛情を知っていたからだ。
「母も、生まれる前から俺を愛してくれた」
カイルロッドはポケットから指輪を出し、
「この指輪は光を放ったり、熱くなったりした。ただの指輪じゃないんだろフ」
人差し指と親指の間に挟んだ。旅に出る前、落とした指輪を拾おうとして、指輪が光を
きトーフれつ         や つ
発したことがある。強烈な、あらゆるものを灼き尽くす凄まじい光だった。
「その指輪にゃ、フィリオリの力が宿っている。触れたものが邪なら、灼き尽くす力があ
すいよう
るみてぇだな。以前、水妖を消したことがある」
イルダーナフの説明に、カイルロッドは全身から血の気が引いた。
「じゃあ、俺は…・こ
魔物に近かったのかと言いかけると、イルダーナフが目でカイルロッドを刺した。
せいしや
「人間は皆、その内に正邪を持っている。おまえさんは人よりそれが強え。指輪が光った
り熱くなったりしたのは、そのためだ。それと放出した力に反応したからだろう」
「・・・・」
指輪を手の平にのせて見つめていると、ふいに上から小さな手が出て、指輪を取られて
しまった。
「セリけこ
見上げると、カイルロッドの頭上に逆さになったセリがいて、つまんだ指輪をじっと見
ている。
しHソp
「…・この指輪、女の人の念がこもってる。この指輪が邪を退けるように、少しでもカイ
ルロッドの助けになれるようにって、そう言ってる」
ささや                       フめ      や
セリの囁くような言葉を聞きながら、カイルロッドは「ああ」と坤いた。強い光に灼か
れそうになったこともあったが、助けられたこともあったのだ。
「はい、王子」
指輪をカイルロッドに渡し、セリは長椅子に座った。逆さになっていたため、頭に血が
のぽったらしく、ぐったりしている。
「大切に持っているこったな」
41 思い出はいつまでも
フなず
カイルロッドは肯き、指輪をポケットの中にしまった。イルダーナフに言われるまでも
たにル たく            あわ
ない。これには生まれたばかりの我が子を他人に託すしかない母親の、悲しく憐れで、そ
おも
れでいて強い想いが宿っているのだ。
「さて。そろそろ、話をしてもいいか?」
カイルロッドの感傷を中断させるようなタイミングで、イルダーナフが口を開いた。
「あ、ああ。それで、イルダーナフの詰って?」
ひぎ
膝の上に両手を置き、カイルロッドは姿勢を正した。なんとなく身構えてしまうのは、
相手がイルダーナフだからだろう。
とつげよっL
「どんな突拍子もないことを言い出すか、わかったもんじゃない」
心の準備をしていると、ゆっくりとイルダーナフが口を開いた。
4
はら
どこからともなく金色の明かりが生じ、ゆっくりと洞いっぱいに広がっていく。
地下都市に朝がきた。
にせもの
それは太陽の光ではなく、人間の手によって造られた偽物の光であったが、街の人々は
ていこう
抵抗なく受け入れていた。眠っていた人々が目を覚まし、家々の窓が開く。今日もまた、
一日が始まるのだ。
えんたノヽ
早朝の明るい光の差し込む一室で、大きな円卓を因んで座っている人々がいる。そのほ
ひろよノ lきげル こんわく あき  にじ
とんどの顔には疲労と不機嫌、困惑と呆れが渉んでいた。
「・やられたな。すっかり油断しておったわい」
ノ1らよう は
先に口を開いたのはロワジーで、口調は吐き出さんばかりだった。隣りにいるティファ
は黙っているが、なんとも複雑な表情をしている。
まね         おやじ
「どうしてこういう真似をするんだ、あの親父は ・」
ゐけん  しわ           うめ
眉間に深い紋を寄せ、メディーナが低く坤いた。
だま
「セリもセリよー どうして黙っていたのよ!」
「そうですわ、セリにも責任があhソます」
さわ
椅子の上で身体を繍こめているセリの頭上を飛び回りながら、リリアとアリユセが騒い
でいる。
「だって・・・。イルダーナフ様に口止めされてたから…1一
今にも泣きそうな声でセリが言うと、
「なによ、ちゃっかり自分だけ、二人の見送りしてーずるいじゃないー まったく、イ
ルダーナフ様ったら、黙って王子とここを出て行っちゃうなんてー どうしてあの方は一
思い出はいつまでも
ヶ所に落ち着いてくだきらないのかしらー」
リようほお かく
りリアは両頬を膨らませた。
「だって こ」
セリは貫を潤ませている。
ロワジーやエル・トパック、アクディス・レヴィにリリアやアリユセ達が、員の回るよ
いそが
うな忙しさから解放され、休息をとっている間に、カイルロッドとイルダーナフは《第二
の神殿》から消えていたのである。
リリアやアリユセ、エル・トパックですら、二人が地下都市から出て行ったことに気が
ひろごつ
つかなかった。それほど疲労していたのである。
おやじ
「親父め。いい歳をして、夜逃げはないだろうが」
二人が黙っていなくなったことに怒っているメディーナの横で、オンサが頭を振った。
「言えば引き止められると知っていたからでしょう。あの方らしいというべきか。それに
しても、あの方にはいつも麓かされる。三〇年前の就任式といい、今といい」
しわ      こんわく あき
すでに悟りの境地らしく、敵の多い顔には困惑も呆れもなかった。
つb
対照的にロワジーはしかめっ面で、ぶつぶつと文句を並べている。
ひろうごんばい
「てっきりイルダーナフも、疲労困億で動けなくなっているものとばかり思っておったの
に。三〇年前ならともかく、五〇過ぎたおっさんのくせに元気すぎるぞ。まったくなんて
やつ
奴だ」
ようつlフ                     けかノ、
腰痛に苦しみ、寄る年波には勝てずにいる我が身と比較して、イルダーナフの底無しの
ねた
体力が嫉ましいのだろう。
さわ              ぽうぜん
そうした騒ぎの中で、アクディス・レヴィは呆然としていた。頼るべき大神宮がいなく
とつぜん たいにん とほう
なってしまったことに、そして突然の大任に途方にくれていた。
「どうして俺が・」
心の中で唸っていると、
もど
「ともかく、どう騒いだところで大神宮をつれ戻すことはできないのですから、後はご命
令どおり、残された者達で《第二の神殿》を護っていきましょう」
ひぴ
エル・トパックの落ち着いた声が室内に響いた。正論とその冷静な声に、ロワジーやメ
じゆうめんうなヂ                     か
ディーナは渋面で領いた。とりあえず怒りをおさめ、気持ちを切り替えたらしい。ティプ
やわ                    つー・や
アは表情を和らげ、オンサは「そのとおりだ」と満足気に呟いた。
騒いでいたリリアやアリユセも、
「もうっ、仕方ないわね」
「仕方ないですわ」
思い出はいつまでも
はさ
などとぼやきながら、セリを挟んでそれぞれの席についた。
「では、そういうことでよろしいですね。神官長」
きんかつしよく                        いぽけい
確認をとるように金褐色の目を向けられたが、アクディス・レヴィは答えず、異母兄か
ようひし         ゆが
ら視線をそらした。そして、円卓の中央に置いてある一枚の羊皮紙を見、大きく層を歪め
た。
あず
その羊皮紙はイルダーナフがセリに預けた物で、カイルロッドをつれて《第二の神殿》
たの                             めまい
を出て行くので、後は頼むと書かれていた。それだけでもアクディス・レヴィなど目眩が
ゆだ
したのに、あろうことか 「大神官の不在中は全権を神官長に委ねる」などと書いてあった
のだ。
「俺に、俺などに大神宮様の代わりが勤まるはずはないではないか」
羊皮紙を見つめたまま、アクディス・レヴィは額に触れた。夜明けとともにセリに起こ
ろうばい
され、何事かと思ったら羊皮紙を見せられ、狼狽のあまりベッドから落ち、額を打ってし
まった。
「弱気なことを言われますね。あなたらしくもない」
拗ねた少年をさとすようなエル・トパックの口調に、カッとアクディス・レヴィの頭に
血がのぼった。
「弱気になってなにが悪い〓 あんただってわかっているはずだ、俺に大神宮様の代わり
が勤まるはずはないとー ここにいる方々は、そのことを知っているはずではないかー」
どな                   こぷしたた
エル・トパックに向かって怒鳴り、アクディス・レグィは円卓に両手の拳を叩きつけた。
まゆ
エル・トパックが温厚な顔に戸惑いをうかべ、セリやリリアは大きな音に眉をしかめた。
「今はまだ皆が新しい生活に慣れるのに一生懸命だが、生活と気持ちが安定してくれば、
次なる不安が生まれてくるだろう。いつまでこの地下で暮らすのかという不安だ。そうす
もど
れば、地上に戻りたいと言い出す者も現われる。その時、大神宮様の代理として俺はどう
すればいいP それだけではない、他にもなにかあった時、俺はどうすればいいんだl?.
俺には《第二の神殿》にいる人々を統率する力などないのに!」
かか
叫び、アクディス・レウィは両手で頭を抱えた。できることなら、この場から逃げ出し
てしまいたかった。アクディス・レヴィにとって、大神宮の代理はあまりに重荷だった。
まぢか                まね
イルダーナフの指導力、統率力を間近で見てきただけに、自分にはとても真似できないと
わかってしまう。
「どうして大神宮様は、我々を残して行ってしまわれたんだ」
アクディス・レグィは心細さで泣きたくなった。その質問に対して二人を見送ったセリ
は、
思い出はいつまでも
「イルダーナフ様には、まだやらなくちゃならないことがあるの。それに《第二の神殿》
まか   だいじようか
は皆に任せても大丈夫だって」
なつとく
そう答えた。しかし、アクディス・レヴィには納得できない。見捨てられたのではない
きようエ
か、そんな恐怖が心にわきあがってくる。
ゆだ
「しかも、俺に全権を委ねるなどと。俺がいかに無知で無力か、ご存じのはずなのに」
ぜつペき
大神宮の代理をしなくてはならないのだと、そう考えただけで、絶壁に押し出されたよ
うに足がすくむ。
「俺にできるはずがない。俺はあの方のようにはなれない……」
頭を抱えたまま坤いていると、
「ああ、うるさい。これ以上、子供のつまらん泣き言を聞かされるのはごめんだ」
冷たく突き放す声がした。アクティス・レヴィは顔を上げ、声のした方向を見ると、テ
ィファが席を立ったところだった。
だま
「黙って聞いていれば、口から出るのは泣皇一己ばかり。こんな男を代理に指名するとは、
.・11
大神宮は人選を誤ったらしい」
ちようしよう
嘲笑するティファの無い目が細くなった。
「 …あんたになにがわかる」
アクディス・レヴィがくぐもった声を出すと、ティファは胸の前で腕組みし、唇の両端
を上げた。
「フエルハーン大神殿を出る前あたりから、アクディス・レヴィも神官長らしくなってき
たと見直したが、どうやら買い被りだったらしい。大神宮の代理を命じられただけで、泣
しよせん            わかぞう
き言を並べ立てるとは。所詮きさまは、金で地位を買った若造だ」
「なんだと・・…」
あぎけ     するど                    のど
嘲りというには鋭すぎるティファの言葉に、アクディス・レグィは喉の奥で唸った。
「おまえなどに俺の気持ちがわかるかー」
怒りと屈辱に震えていると、ティファは強い光のような視線をアクディス・レヴィのし」
で止めた。
つぬぽ             ゆだ
「そもそも、きさまは自惚れがすぎる。大神宮は全権を委ねると言われたが、きさま一人
で判断し、実行せよと言っているわけではないではないか。考えてもみるがいい。ここに
みじゆくしや
経験と知識の豊かな方々がおられるというのに、なにが悲しくてきさまのような未熟者一
人に、すべてを託さねばならんのだ」
いささか楓はあるものの、ティファの指摘に、アクディス・レグィは目から鱗が落ちた
ような気持ちになった。
思い出はいつまでも
「それは・俺に協力してくれるという意味なのかフ」
何回もまばたきしていると、
「当たり前でしょ。頭が悪いわね、アクディス・レヴィ。ここにいる者達はね、大神宮様
に従っているわ。その大神宮様が神官長に全権を委ねられたのなら、当然、神官長に従う
わ。位が上のウルト・ヒケウも然り」
きんはつ   かり        つや   はほえ
自分の金髪を指に絡めながら、リリアが艶っぽく微笑んだ。
・ ・ 、 ・ 、               、 T
えんたく      かおぶ
アクディス・レヴィは半ば放心しながら、円卓についている顔触れを見回した。ロワジ
ー、オンサ、ウルト・ヒケウ、エル・トパックにメディーナ、そしてティファと、皆がア
クディス・レヴィより上の人間達だ。地位や力において、人間性において。
そうした人々が、未熟な自分の配下についてくれるというのだ。
ふいにアクディス・レヴィは恥ずかしくなった。自分一人で大神宮の代理をする気にな
っていたのだから。「俺一人でなどできるはずがないのに」、ここにいる人々の力と知恵を
借りずに、なにができるというのか。
「あのね、イルダーナフ様が言っていたんだけど、アクディス・レヴィには経験と自信が
必要なんだって」
椅子から浮き、セリがアクディス・レグィに近づいた。
「経験と自信フ」
はんすう           っなず
真横にきたセリを見ながら、アクディス・レヴィは反窮した。セリがコクッと領く。
まlルレめ
イルダーナフが言ったところによると、アクディス・レヴィは真面目で熱心だが、神官
ふ  ま
長としての自信と振る舞いが欠けている。それは、神官長として扱われたことがないから
だと。
「人間というものは周囲にそう扱われることで、いつの間にかそれらしくなるものだから
な」
オンサの言葉に、ロワジーが少し意地悪く片目をつぶった。
「まぁ、最初は張り子でも、そのうちにらしくなってくるもんさ」
言い方はひどいが、確かにそんなものかもしれないとアクディス・レヴィは思った。
「俺には常に金で地位を買ったという引け目があった」
そして、それゆえに周囲の人々に軽んじられ、形だけの神官長として扱われていたこと
おのれ           けいべつ
も知っている。己自身の引け目と周囲の軽蔑ゆえに、アクディス・レヴィは今日まで神官
長であるという自信を持てずにいた。
「イルダーナフ様はアクディス・レヴィを神宮長として、代理として認めているの。だか
思い出はいつまで
らあたしに、アクディス・レヴィに一番最初に手紙を見せるようにって言ったの」
ホ   ろぅばい
やや舌ったらずのセリの言葉を聞きながら、アクディス・レグィは額に触れた。狼狽の
あまり、言われるまで一番最初に手紙を渡されたことに気がつかなかった。
「・・・・気を遣ってくださったのだ」
よっひし      かんがいぶか
羊皮紙を手に取り、感慨深く見つめていると、
「それでどうするんだ、アクティス・レヴィ。大神宮の代理、引き受けるのかヱ
LYlす
椅子の背に片手をつき、ティファがからかうような口調で言った。
そのティファを見、アクディス・レグィは「おや?」と思った。こんな場合、以前のテ
どな
ィファなら怒鳴りつけるか、剣を抜くかして急かしていただろうに、そうしたとげとげし
さが消えていた。
アクディス・レヴィは羊皮紙をたたみながら、決意した。
「代理を引き受けます」
イルダーナフは機会をくれたのだ。それを蹴lるようなら、神官長たる資格はない。
いやいや
「おかしなものだ。最初は母のために嫌々、神官長をやっていたのに」
自分には向いていないと思ったこともあるが、今は他のことは考えられなかった。少し
でもましな人間になり、ましな神官長になりたいと、切実に思っている。
円卓にいる人々の見守る中、アクディス・レヴィは席を立ち、
「私はなにもできない名ばかりの神官長です。人間としても未熟者です。ですが、これを
機に少しでもましな人間になるよう、そして神官長として大神宮様の代理が勤まりますよ
う、よろしくご指導ください」
生まれて初めて、教えと協力を乞うて他人に頭を下げた。しかし、それは少しも屈辱で
はなかった。
まか                      かわい
「任せてちょうだい。イルダーナフ様の分も、うーんと可愛がってあげるから」
「楽しみですわ」
リリアとアリユセが飛んできて、上からアクディス・レヴィの頭を撫で回した。長めの
かみ
髪がぐしゃぐしゃになった。
1 −
「・・そういう真似はやめていただけないでしょうか」
顔を上げて言ったが、リリアもアリユセも聞いていなかった。
「三つ編みには短いわ」
しば
「リボンで縛りましょうか」
わいわい言いながら、アクディス・レヴィの髪を引っ張る。
「… エル・トパック」
いばけい
アクディス・レヴィは助けを求めて異母兄を見たが、笑顔で無視されてしまった。ティ
まがお
ファは大声で笑っているし、ロワジーとメディーナは真顔で「アクディス・レヴィには何
色のリボンが似合うか」などと議論している。オンサは知らん顔である。皆、アクディ
ス・レヴィを助けて、代わりに三人娘に遊ばれたくないらしい。
はくじよよノもの
「エル・トパックの薄情者め」
あくたい
アクディス・レグィが胸の中で慈態をついていると、
「・…・髪に登化を差したら面白そう」
リリア、アリユセに続いて、セリも加わってしまった。
「 仕方ない。相手はウルト・ヒケウ様だ。きっとこれは神官長としての試練だろう。
そうだ、試練だ。耐えるんだ、アクディス・レヴィ」
さわ
頭の上で騒がれ、髪をいじくられながら、アクディス・レヴィはひたすら耐えていた。
かべ        まぷ
窓から差し込む光が円卓についた人々を照らし、壁に反射する。室内は眩しいはどの光
で満たされていた。
思い出はいつまでも
二章 風の吹く場所
びょうびょうと風が吹く。
やいば
射てついた大地を、刃のような風が渡っていく。
ぬ            こうや    かげ
風が吹き抜ける不毛の大地、見渡す限りの荒野を二つの影が動いていた。
「風の音がまるで悲鳴のようだ」
かみ
なびく髪を片手で押さえ、カイルロッドは立ち止まった。
・・イ
二つの影 − カイルロッドとイルダーナフは西へと向かっていた。何故酉なのか、カイ
じしやノヽ
ルロッドにはよくわからない。だが、心の中の磁石が西をさしているのだ。
「西へ〜」
こんきよ      きみよう
進んでいけば、なにかがある。それは根拠のない、だが奇妙な確信だった。
「 …なにもないな」
71.                      −.ヱ
一本の草木もない地上を見回し、カイルロッドは空を仰いだ。重く厚い雲に覆われ、空
つ.ト         きえぎ     こど
は鉛色に塗り潰されている。陽光は雲に遮られ、大地に届かない。
「この地上に、生きているものがいるんだろうか7 人も動植物も、なにもかもが死に絶
えたんじゃないだろうかこ 」
つズや       み.4る             っぱ
呟き、カイルロッドは身震いした。吐く息は白く、風が体温を奪っていく。
「おい、急に立ち止まってどうした」
お  の
風の音を押し退けるような声がして、先を歩いていたイルダーナフが立ち止まった。
「うん・・もう地上には、生きているものがいないように思えて」
カイルロッドの不安を、イルターナフはl笑に付した。
「生物はそれほど弱かねぇよ」
しんでん
「でも、《第二の神殿》を出てから、人どころか、犬一匹も見ていないじゃないか」
およそ生きている物を見ていないのである。カイルロッドでなくとも、不安にかられる
だろう。だが、イルダーナフは平然としている。
「ま、そのうちに会うだろうさ」
いとも気楽な口調で言い、大神宮は再び歩き出した。カイルロッドの不安など、まとも
に取り合う気もないらしい。
思い出はいつまでも
「気楽に言うけど、丸一口a生き物に会ってないんだぞ」
立ち止まったまま、ロの中でぶつくさ言っていると、
「さっさとこい」
こ.がし
正面から人の拳ほどの石が飛んできた。
「石なんか投げるなよー」
こつぎ              もくきつ
飛んできた石を避け、カイルロッドは抗議したが、イルダーナフに背中で黙殺された。
「まったく。これじゃ、俺の方が連れじゃないか」
′、ちぴる
早足でイルダーナフを追いながら、カイルロッドは唇をへの字にした。
地上へ出て一日がたち、すでに《第二の神殿》の入り口である岩山は見えなくなってい
た。
おどろ
「俺ばかりかイルダーナフまでいなくなっちゃって、皆、さぞや驚いただろうなぁ」
−・
凍りついて囲い大地を踏みしめながら、カイルロッドは残された人々の顔を思いうかべ
ちが
た。二人がいなくなったことを知っていたセリは、きっとリリア遠から責められたに違い
ない。
「おまけに夜逃げだもんな・ 」
あいさつ
カイルロッドは歩きながら、肩をすくめた。《第二の神殿》を出て行く時は、皆に挨拶
をして出て行くつもりだった。夜逃げする気などなく、また必要もなかったのだ。それが、
イルダーナフが同行することによって、夜逃げする羽目になってしまったのである。
だいしルかん
「大神宮が出て行くと言ったら、止められるに決まっているからという、イルダーナフの
言い分もわかるけど・」
そもそも、どうしてイルダーナフが《第二の神殿》を出て行く必要があるのだろう。
イルダーナフ日く、
「そりゃあ、おまえさんが危なっかしいからに決まってるじゃねぇか」
にな
とのことだが、それを言うなら、大神宮が消えた後の重責を担わされるアクディス・レ
グィはどうなのか。
セリに許したイルダーナフの手紙の内容を思い出し、カイルロッドは軽く頭を振った。
リリアやロワジー達も驚くだろうが、一番驚くのは当のアクディス・レヴィだろう。
とほう
「途方にくれているアクディス・レグィの顔が見えるようだ」
は                  つぷや
白い息を吐きながら、カイルロッドが心の中で呟くと、
「アクディス・レヴィなら心配いらねぇよ」
とな      か1
隣りで笑いを含んだ声がした。
「どうして俺の考えていることが ー」
思い出はいつまでも
みす                  ろうばい
心の中を見透かされたのではと、カイルロッドが狼狙して横の大男を見上げると、
「おまえさんはすぐ顔に出るかちな。わかりやすくて助かるぜ」
イルダーナフは片目を閉じ、明るい笑い声をたてた。
「…・・そんなに顔に出るのかな」
あご
自分ではよくわからない。顎に手をあてて、首をひねっていると、
やつ
「《第二の神殿》のことや、アクディス・レヴィのことは心配いらねぇよ。奴にゃ、ロワ
すけ と
ジーやエル・トパック達がいる。因っても助っ人がいるんだ」
断言し、イルダーナフは小さく笑った。確かにロワジーやウルト・ヒケウが従ってくれ
れば、それだけで周閲のアクディス・レヴィへの評価も変わるだろう。少なくとも「金で
わかぞう  ペつし
地位を買った若造」と蔑視されることはなくなるはずだ。
「でも、なにかあった時…・大神宮が必要なはどの大事件が起きたら、どうするんだ?」
カイルロッドは再び足を止めた。イルダーナフも立ち止まった。
「《第二の神殿》にたどりついて、皆は落ち着いた。けれど、そうなったらすぐに不満が
出るはずだ。地上へ戻りたいとか、いつになれば出られるのかとか。その時、大神官なし
しず
でどうやって人々を鎮めるんだ?」
かげ
それは《第二の神殿》を出てから、影のようにずっとつきまとっていた不安だ。カイル
きぎ      いたん
ロッドの脳裏には、道中での人々の態度が忘れがたいものとして刻まれている。異端であ
ののし                    ぷそ
るカイルロッドに人々は石を投げ、化物と罵った。恨んではいないが、その集団心理が恐
ろしいと思う。
きようた1 ぎんこく
石にされたルナンを旅立った時から、至る土地で集団の狂気、残酷さを見てきた。脆く
ぎんにん
優しいはずの人間が群れをなしたとたん、かくも残忍になれることを知っている。
.   1・
「戻ってくれ、イルダーナフ。俺は大丈夫だ。このまま、一人で西へ向かう。だから、
《第二の神殿》 へ戻ってくれ」
ね                                 じゆフhソん
吹き抜ける風の音が、カイルロッドには悲鳴に聞こえた。集団の狂気に牒潤された無数
じげ
の人々の悲鳴に。それは、《第二の神殿》に響き渡るかもしれないものだ。
「ミランシャのいる《第二の神殿》だけは平和であってほしいんだ。だから」
こんがん
カイルロッドの必死の懇願に、イルターナフは口元に苦笑をうかべた。
かたまり
「なぁ、王子。人間ってぇのは、不平不満の塊なのよ。ゼノドロスのように、すぐにそれ
ば′、はつ              きわ
を爆発させる奴がいるし、便乗して騒ぎ立てる奴らもいる。人間が集まれば、それだけで
騒ぎが起きるもんさ」
かつ     かくろ
言いながら、イルダーナフは肩に担いでいた袋を下に置いた。中には旅に必要な食料な
どが入っている。
思い出はいつまでも
「この先、《第二の神殿》でなにが起ころうと、アクディス・レヴィ達がどうにかすらあ
な。あいつらは能無しじゃねぇんだぜ」
「でも・…」
てぎわ
カイルロッドは口ごもった。能無しとは思っていないが、大神宮ほど手際がいいとも思
えない。
「困難だった移動の問はともかく、これからは大神宮なんざ不要だ。いりやあ、人々がす
ノ1
がってくる。困れば助けてくれると、どうにかしてくれると甘える。なんでも、大神宮が
だめ
解決してくれると思っちまう。それじゃ駄目だ。アクティス・レヴィ達も、街の連中もな。
自分達で考えて対処するということを、忘れちゃいけねぇんだよ」
おく
言い終えぬうちに、イルダーナフは背中の長剣を抜いた。一呼吸遅れて、カイルロッド
は地鳴りを聞いた。
「この地鳴りはなんだけ・」
答えるようにスッとイルダーナフの長剣が動き、カイルロッドの左側を差した。カイル
かりだ                       すご
ロッドが身体ごと向くと、剣の先に無数の点のようなものがあった。それが凄い速さでこ
ちらへ近づいてくる。
「なんだけこ
「よかったな、王子。生きているものに会えて」
抜いた長剣を軽く振りながら、イルダーナフが皮肉っぼく笑った。
「魔物なのかけ」
「まぁ、同じだろうな」
よく意味がわからなかったが、カイルロッドが身構えていると、点だったそれの形の識
別ができるようになった。
人間だった。
やnソ
馬に乗った二〇人ほどの集団だ。手に剣や槍を持って、こちらへ向かってくる。
やから
「いるんだよな、こういう輩が。世の中が混乱すると生き生きしてくる奴らが。おおかた
おエ        ごうだつ
人間とみりや、襲って金品や食料を強奪してんだろうぜ」
みるみる距離を縮めてくる集因を正面に、地鳴りにも消されない声でイルターナフが言
うれ
った。その声と表情がいやに嬉しそうだ。
しゆうげき
「なんて元気な連中だー 大多数が寒さや飢え、魔物の襲撃で弱りきっているっていうの
に!」
.1.1.J
徒党を組んで、弱い者を食い物にしている連中に、カイルロッドが憤っていると、
あくしゆみ
「おまけに悪趣味ときてやがる」
思い出はいつまでも
づ7るど
イルターナフの鋭い視線が、先頭の男が持っている槍に向けられた。見ると、槍の先に
ちぢ
なにか刺さっている。最初はよくわからなかったが、距離が縮まって、ようやくそれがな
にかわかった。女の首だった。
「・  〓」
カイルロッドは怒りで、血液が逆流しそうになった。どんな時代でも、どこの世界でも、
ひどう
世の中の混乱に乗じて非道なことをする者はいる。
「魔物と同じだ「」
さけ            ふくろ
叫んだカイルロッドめがけて、袋が飛んできた。イルダーナフが下に置いた袋だ。カイ
ルロッドが袋を抱きとめると、
「腕がなまりそうになっていたところだ。ちょうどいい」
lこくしよくじゆう
笑いながら、イルダーナフが駆けて行った。久しぶりに見る肉食獣の笑みだった。
星も月も見えない夜だった。
おも
夜空は相変わらず雲に覆われていたが、一時的に風が止み、静かだった。
パチパチ。
はじ          ひび
周囲が静かなだけに、枝の弾ける昔がいやに大きく響く。
たきぴ
カイルロッドとイルダーナフは焚火を前に座っていた。前には肉を刺した枝があり、ぐ
るりと焚火を囲むようにして地面に刺さっている。
えんりよ
「おい、食わねぇのか? 遠慮しねぇで食えよ、たくさんあるんだからよ」
あご
焚火をはさんで向かいに座っているイルダーナフが、火の前にある肉を顎で差した。火
にあぶられているそれを、カイルロッドは複雑な顔で見た。
「それとも、腹が減ってねぇのかフ」
「… いや、食べたいんだけど」
つぱ          ぉい   にお げこう
カイルロッドは唾を飲み込んだ。肉の焼ける美味しそうな匂いが鼻孔から入り、食欲と
しげき
胃を刺激する。
「馬は、ちょっと ⊥
みりん しわ
カイルロッドは眉間に雛を寄せた。焼いているのは、強盗達の乗っていた馬の一頭だ。
乗っていくにしても、二〇頭は多いので、乗る二頭を残してほとんどは放してしまい、一
頭は食料になった。
「だって俺、馬になってたんだぞ」
ムルトにかけられた魔法で、くしゃみをすると馬になっていた。それだけに、カイルロ
みよう    いだ
ッドは馬には妙な親近感を抱いているのである。
5  思い出はいつまでも
ともぐい
「共食いするみたいで」
ぷつせい           ぎいあくかん   カつとう
旺盛な食欲と、共食いに近い罪悪感の問で葛藤していると、
けもあ
「つまらねぇことを考えるんじゃねぇよ。鳥や他の獣の肉は平気で食うくせに、馬が食え
ないなんて、そりゃあ、勝手すぎねぇかいフ 同じ生命なんだぜ。姿が可愛いから食っち
かしこ       ひど
やいけねぇとか、賢いから食うのは離いってぇのは、人間の身勝手な意見でしかねぇ。違
うかいフ」
イルダーナフに言われ、カイルロッドは答えられずうつむいた。
「なぁ、王子。世の中にゃ、生き物を殺して食うのは残酷だと言う奴がいる。mにのって
りや平気で食うくせに、殺すところを見て可哀相だと騒ぐ。殺生が嫌だから、菜食主義者
って奴もいる。だが、俺はそんな奴は信用しねぇ。植物だって生きているんだ。人間はな、
なにも殺さずには生きちゃいけねぇんだ。食わずに生きちゃいられねぇんだからな。いい
れいぎ
か、この馬は食うために殺したんだ。だから食うんだ。それが、殺した生命に対する礼儀
ってもんだ」
焼けた肉を手に、イルダーナフが淡々とした口調で言った。殺した生命に対する礼儀と
いう言葉にうたれ、カイルロッドは焼けた肉に手をのばした。
「いただきます」
一口食べてしまえば、食欲がためらいに勝る。空腹も手伝って、カイルロッドが次々と
焼けた肉にかぶりついていると、
かて
「馬は生きてりや、荷を運べるし、乗れもする。死ねばこうして糧になる。だけどよ、あ
あいうのは生きていても死んでも役にたたねぇもんだな」
つ.dや        なな        たきぴ    はな
やれやれというように呟き、イルダーナフは斜め後ろを見やった。焚火からやや離れた
ごうとう                 すき
場所に、二〇近い死体が転がっている。それは強盗達だった。あの後、イルダーナフは凄
・  ・
まじい剣技を披露し、強盗達をわずかの時間で斬り捨てた。
「しかも、ああいう手合いに限って、どんなことがあってもしぶとく生き残るときてやが
る」
「だろうね。でも、大神官が人殺しなんかしていいのっ」
あぢりな          フわめづか
手についた脂を舐め、カイルロッドが上目遣いにイルダーナフを見ると、
ぬ  やつ          ようしや
「いいんだよ。剣を抜いた奴あ、すべて敵だ。敵に容赦はいらねぇのさ」
ちやめ                                 ちんもく
茶目っけたっぷりの笑みを向けられた。言葉と笑みの落差にカイルロッドが沈黙してい
ると、
・h.−
「俺としちゃあ、また馬鹿達が襲撃してくることを期待してるんだがね。運動不足が解消
できるし、食料や荷物も手に入れられるしよ。一石二鳥ってもんだろフ」
思い出はいつまでも
かたひじ           はがん
横にある荷物の山に片肘をつき、イルダーナフは破顔した。それは強盗達が持っていた
荷物なのだが「死人にゃ無用の物だ」と、かき集めたのである。
「神聖な存在たる大神宮のくせに、人は殺すし、果ては平然と死体から荷物をはぎ取るし
・」
ほお
カイルロッドは肉を頬ぼりながら、苦笑していた。イルダーナフにはためらいなく人を
こわ          むじゆん
殺す恐さと、優しさがある。矛盾したものをいとも自然にその内に持っているのだ。それ
は人間の大きさというものだろう。
感心しながら、肉にかぶりついたカイルロッドは、ふと魔物のことを考えた。
「人間が他の動物を食うように、魔物は人間を食わないと生きていけないのだろうかフ」
カイルロッドはその疑問をイルダーナフにぶつけてみた。するとイルダーナフは真顔で
うなず
額き、
「魔物ってぇのは、人間の肉と精神を食って生きている。そして人間は魔物とみりや、邪
悪なものだと言って殺そうとする。もうずっと長いこと、この世が始まった時からそれが
続いている」
そんなことを言った。
「そんな・↓それじゃ、人間は一方的に魔物の餌じゃないか。魔物を殺すなど、人間にで
きるわけがないんだから」
しやくぜん
カイルロッドは声を尖らせた。まるで魔物に食われるために人間がいるようで、釈然と
しないものを感じる。
「ところがそうでもねぇんだな、これが」
かす
火の中に小枝を放り込み、イルダーナフは微かな苦みを加えて笑った。
イルダーナフが言うには、ほとんどの魔物は、火や刃物で簡単に撃退できる程度にすぎ
なかった。今はど強く、また狂暴なものはそう多くなかったらしい。子供などが魔物に食
われることもままあったが、大人の被害は少なかった。一方人間達も魔物を狩ったり、捕
らえて売ったりしていたという。
さつりく
「じゃあ・ どちらかによる一方的な殺教はなかったとっ」
狂暴な魔物ばかり見てきたせいか、カイルロッドにはまだなんとなく信じがたいが、イ
ルダーナフは「ああ」と大きく讃いた。
「人間と魔物は、ある意味では共存していたってぇことになる。だが、タジェナに封じて
いた奴が出てきたおかげで、魔物は活性化するわ、強くなっちまうわ。人間と魔物の数と
きんこう
力の均衡が大きく崩れちまった」
炎に両手をかざし、イルダーナフはぼやくように言った。それを聞いて、カイルロッド
想い出はいつまでも
は少し考えてしまった。
「イルダーナフは、均衡さえ保っていれば魔物がいてもいいと思っているのっ」
そもそも人間と魔物が共存しているという言葉にも抵抗を感じる。やや非難がましい視
線でイルダーナフを見ると、
「魔物と人間は切り離せねぇのさ」
大神宮は白い歯を見せて笑った。古い友人の詣でもするかのような、そんな親しみのこ
まゆ
もった声に、カイルロッドは眉をひそめた。
「人間がいる限り、魔物は滅びねぇ。だが、人間がいなくなれば、魔物もいなくなる。わ
かるか、王子。人間の業や欲が魔物を生むんだ。魔物は人間の鏡であり、影であるってこ
とよ」
だから切り離せないのだと、イルダーナフは苦笑した。たとえ《あの方軸の一部を倒し
たとしても、魔物自体が滅ぶことはありえないのだと。
「人間が魔物を生むなら、人間そのものが悪だっていうことになるのかなフ」
な                めい
手についた脂を舐めながら、カイルロッドは気分が滅入ってきた。魔物が消えないとい
うことは、人間からそういうもの−−政や業が消えないということだ。
「欲とか業って、なくならないのかな。それって、生まれた時から持っているんだろう
かフ ・俺さ、人間がよくわからない時があるんだ」
焼けた肉に手をのはし、カイルロッドはため息とともに吉葉を吐き出した。人間がよく
▼...・h.・
わからないと思うのは、その矛盾さだ。
ののし
化物と罵ってカイルロッドには石を投げたのに、魔物と化してしまった者のために涙を
流した者が一行にいた。《第二の神殿》までの道中では、人を殺して奪った食料を、他の
人のために配っている者に会った。
「人間って矛盾している。悪いことも善いことも、どちらも当然のようにできるんだから。
人間は生まれた時から悪だと言う人がいたり、善だと言う人もいた。俺は、どっちが正し
いのかわからないけど・・」
ほお
肉を頬ぼりながら、カイルロッドが独白していると、
「ふん、生まれながらの悪も善もあってたまるかよ。環境と経験が人間をつくるんだ」
イルダーナフは明快に言い切った。
「人間ってやつは、単純に善悪に分けられるもんじゃねぇ。純粋な悪人、純粋な善人なん
おもしれ
てぇのは、まずいねぇ。善悪ごちゃ混ぜよ。だから、面白えのき。神殿は世の中を純粋な
善人ばかりにしたがっていたが、考えてもみろや、王子。もし、この世が善人だらけだと
したら  さぞや、つまらねぇ世の中だろうぜ。俺なんざ、一日といられねぇやな」
思い出はいつまでも
考えただけで嫌になるというように、イルダーナフは渋面で頭を振った。それを聞いて、
のど
カイルロッドは喉に肉を詰まらせてしまった。とても大神官の発言とは思えない。いや、
神殿関係者にあるまじき発言である。
「素行の悪さだけでなく、こういうことを言っていたから、イルダーナフは神殿上層部に
妹われていたんだ」
そしてイルダーナフがこういう人間だったから、神殿上層部は次の大神宮候補であるフ
ィリオリを、純粋培養したのではないだろうか。
「大いにありうる話だ」
などと思いながら、カイルロッドは胸の辺りを拳で叩いていた。早く飲み込まないと、
・. .                            .・
窒息してしまう。「うー」と唸りながら、胸を叩いていると、
「光も闇も、どちらもなくては、この世は成りたたねぇ。どちらかしか知らねぇのは、半
分しか知らねぇのと同じだ。おまえさんはどっちも知っている。それが強さになる」
くだ
朗々とした声が聞こえた。カイルロッドは引っかかっていた肉をなんとか飲み下し、大
うれ
きく息を吐いた。そして改めてイルダーナフを見ると、炎に照らされた顔には深い憂いが
あった。
「タジェナに封じていた野郎は、光と闇の均衡を崩そうとしていやがる。そうなったら、
みに          こんとん
世界は滅びるだけだ。俺はな、美しいものと醜くいものの混在する、混沌としたこの世界
が愛しいのき。光だけの世界も、閤だけの世界もごめんだ」
つイ
呟やき、イルダーナフは目を閉じた。
「光も闇も愛するかー1。やはり、大きな人なんだな」
たきぴ
カイルロッドがしみじみとしていると、焚火の火が揺れた。
かみ
カイルロッドの髪も大きく揺れる。
止んでいた風が吹き始めたのだ。
悲鳴に似た音をたてて、風は暗い大地をかけ抜けていく。
2
西へ ー
カイルロッドとイルダーナフは、西へと進んでいた。
「代わり映えのしない風景だ」
つpや
馬上から周囲を見回し、カイルロッドは呟いた。
こお
重苦しい雲がたちこめ、視界いっぱいに荒涼たる風景が広がっている。凍りついた大地
ひづめあと    すペ
にはなにもない。あるものといえば、カイルロッド達が乗っている馬の蹄の跡だけだ。滑
思い出はいつまでも
り止めなのか、蹄に楓のようなものがあり、それで跡がはっきりと残る。
ごうとう
《第二の神殿》を出て二日目、イルダーナフが楽しみにしている強盗達と会うこともなく、
ねすみ
生けるものは鼠一匹も見ていない。
めい
「強盗なんかとは会いたくないけど、こんな場所を一人で進んでいたら、滅入ってくるだ
ろうな」
カイルロッドは前方にいるイルダーナフの背中を見た。三〇年前の打ち拉がれた背中で
はない。先頭を駆ける者の背中だ。そこには孤独も弱さも、なにもかもを引き受けた者の
強さがある。
「そしてイルダーナフは、俺の背負った荷の半分を引き受けてくれたんだ」
今だから、カイルロッドにはそれがわかる。イルダーナフは一八年の問ずっと、カイル
ロッドの重荷の半分を引き受けていてくれたのだ。
そして、《あの方》と闘うカイルロッドのために、こうしてついてきてくれた。孤独に
負けぬよう、わずかでも助けになれるようにと。
「イルダーナフ」
呼ぶと、イルダーナフが馬首をめぐらせ、振り向いた。
「なんだ?」
「色々とありがとう。イルターナフはずっと、俺の荷物を半分引き受けてくれていたんだ
ろうフ やっとそれがわかってきたんだ」
せいかん   かげ
カイルロッドが素直に礼を言うと、イルダーナフの精悍な顔に翳りが落ちた。
「−−俺に礼など言う必要はねぇんだよ、王子」
「イルダーナフ7」
じぎやく  ひぴ
どこか自虐的な響きを帯びた言葉に、カイルロッドが戸惑っていると、
だれ  にく
「もしも 。もしも、おまえさんがなにかを、誰かを憎みたくなったら……。そうせず
にはいられなくなったら、俺を憎め。他の叢でなく、俺だけを憎め」
抑揚のない声でイルダーナフは言った。だが、その声には深い哀しみがあった。かすか
まlも                           ただよ
に眉をひそめて、カイルロッドを見つめるその顔には悲痛さすら漂っている。
「・Iイルダーナフ」
か′、
イルダーナフのいつにない様子とその言葉に、カイルロッドは戸惑いを隠せなかった。
なぜ                            とつぜん
何故、イルダーナフを憎まなくてはならないのか。そして、何故突然にそんなことを言
い出したのか。
「どうして、そんなことを言うんだフ」
きわだ    おかん
疑問を口にしかけた時、ザワッとカイルロッドの全身の毛が逆立った。悪寒に近い。
75  思い出はいつまでも
「なんだ、これはー」
のど   うな                               おぞけ
喉の奥で唸り、カイルロッドは風の吹いてくる方向を睨んだ。風に混じって、怖気のす
る不快なものが吹きつけてくる。
「あれは …」
・つめ
それを見つけ、カイルロッドは咋いた。
こうや     かげろう
遥か遠く、見渡せる限りの荒野の果てに腸炎がたっている。
とど                            ぞうお
天に届くほど巨大な、赤黒くまがまがしい陽炎1それはたちのぼる憎悪、怒り、どす
黒い欲望に他ならなかった。
「イルダーナフ、あの陽炎の下にはきっと魔物達がいるー」
1.′げん
カイルロッドが陽炎を指すと、視線を向けたイルダーナフは怪訝な顔をした。
「陽炎だとフ・」
イルダーナフには見えていないらしい。だが、カイルロッドの目には、陽炎の下の光景
までも映っていた。
おそ
「やはり魔物達だ。魔物達に大勢の人間が襲われている」
とかげ   けブもの
蛇と晰賜、鳥や獣に似た無数の魔物達が、二、三百人もいる人間達を襲っている。人間
たたか
達は戦士だろうか。皆が手に武器を持って関っている。しかし、相手は魔物だ。わずかば
やhソ
かりの傷を負わせることはできても、とどめをさすまでには至らない。今の魔物は剣や槍
・.
で簡単に倒せるようなものではないのだ。
きば つめ               むさば
悲鳴があがり、血が飛び散る。魔物達の牙と爪に身体を引きちぎられ、頭から貪り食わ
あつとう  れつせい
れ、次々と人間達が倒れていく。その力においても、数の上でも、人間達は圧倒的に劣勢
だった。
「勝てるはずがないのに・−」
吐き気のするような光景に、カイルロッドは馬の腹を紛った。今から駆けつけたところ
で、なにができるとも思えないが、じっとしていられなかった。
「よせ、行くんじゃねぇー」
後ろからイルダーナフの制止の声が聞こえたが、カイルロッドはそれを振り切って馬を
走らせた。
にら す
風上に向かって馬を走らせながら、カイルロッドは正面のその光景を睨み据えていた。
かげろう
陽炎の下で一方的な殺数が繰り広げられている。その中で、カイルロッドは見知った顔
ノ、りいろ かみ
を見つけた。男ばかりの中で、長い栗色の髪をした長身の美女が、魔物相手に剣を振り回
している。
「レイプン ー ‖」
思い出はいつまでも
馬上でカイルロッドは叫んでいた。
まちが
「レイブンだ、間違いない。どうしてレイブンが・…」
まばたきも忘れて、カイルロッドは「どうして」と口の中で繰り返していた。
かせ  なりわい
レイブンは賞金稼ぎを生業としている。カイルロッドがフエルハーン大神殿から指名手
ころ ねら
配されていた頃、狙われたことがあった。
ごうかh
しかしその後〜数日にすぎなかったが ー 行動を共にしたこともある仲間だ。豪快で
かせ
陽気な女怪で、カイルロッドはレイブンという賞金稼ぎが好きだった。
「レイブン、死なないでくれー」
必死に馬を走らせるが、いっこうに陽炎に近づかない。見えたということで近くだと感
じたのかもしれないが、実際はかなり遠方での出来事なのだろう。
だめ
「馬じゃ駄目だT」
しゆんかん
カッと頭に血がのぼった瞬間、耳元で風をきる音がした。そしてカイルロッドの身体は
雷に浮いていた。足の下に乗っていた馬が見え、その後方から追ってくるイルダーナフが
見えた。
「早く行かなくてはー」
かみ                  かげろミノ
強い向かい風に髪をなびかせながら、カイルロッドは陽炎を目指して飛んでいた。
早く、少しでも早く −。
それだけを念じていた。
どれほどの速さで飛んでいるのか、カイルロッドにはわからなかったが、ぐんぐんと腸
炎に近づいていく。
すご
(凄イカガ近ヅイテキタ)
(凄イカダー)
カイルロッドに気づき、魔物達がぎわめきだした。
(アレヲ食エバ、モット強クナレルゾー)
(食ッテシマエー)
(食ウノパオレター)
さつりく          いつせい
それまで人間達を殺致していた魔物達が、一斉にカイルロッドめがけて襲いかかってき
た。
ひりめ
上から、正面から、下から、カイルロッドめがけて、牙と爪を閃かせた魔物がやってく
る。
つ       やひ
無数の魔物達がカイルロッドの視界を埋め尽くし、羽音や野卑な笑い声が鼓膜をつんざ
いた。
思い出はいつまでも
だが、カイルロッドは速度を落とさなかった。魔物達めがけて飛びながら、怒りをこめ
て叫んだ。
じやま
「邪魔だ、どけーつtI」
せつな
剃郡、光が爆発した。
はとげし
カイルロッドを中心にして青銀色の光が遣り、空と大地を引き裂いた。
空を裂き、一本の巨大な光の柱が立った。
青銀色の光の柱だ。
しんどう             きれつ
大気が農勤し、凍りついた大地に無数の亀裂がはしる。そこから蒸気が噴きあがり、熱
量の凄まじさを物語った。
やいば   とつぷっ             ちぢ
また刃のような突風が起き、たちこめる厚い雲を千々に散らした。陽炎は引きちぎられ
Lゆルじ   むきん
るようにして消え、魔物達は瞬時にして霧散した。
ひま
頭上に久しぶりの青空が広がった。だが、カイルロッドに感動している暇はなかった。
「レイブンを探さないと」
るいるい
カイルロッドは地上を見下ろした。たちのぼる蒸気でよく見えなかったが、累々たる
しかばね          lこぎ         ひとかげたお
屍の中、両手に折れた長剣を振りしめたレイプンらしき人影が倒れていた。
「レイプン!」
急降下し、カイルロッドはレイブンの身体を抱き起こした。かすかだが息がある。
「レイプン=」
レイブンの上半身は血に染まっていた。左肩から胸にかけて、ぞっとするような五本の
するど
傷がある。鋭い爪によるものだろう。
「レイブン、レイブンー」
うす
大声で名前を呼ぶと、レイブンの目が薄く開いた。
「レイブン、俺だよ。カイルロッドだよー」
「 好や」
くちげえ
血の気を失った紫色の層が開き、かすれた声が洩れた。
「ああ、変だね。周りが暖かく感じるなんてさ」
「蒸気が噴き出しているんだよ」
あら
カイルロッドが言うと、レイブンは荒い息で 「そうかい」とだけ言った。
むすめ
「どうして、ここに坊やがいるんだいフ ムルトは倒したのかいフ あの娘、なんていっ
たっけ・。ミ、ミランシャ 。そう、ミランシャは元気かいつ・」
「ムルトはね、倒したんだ。ミランシャはここにはいないけど、元気だよ」
カイルロッドは嘘をついた。苦しい息の下で、カイルロッドのことを気にかけてくれる
レイブンを悲しませたくなかった。
「それよりもどうしてこんな場所にいるんだ、レイプンっ」
ゆが
カイルロッドが問うと、レイブンは唇を歪めた。
まものが     いらい
「  魔物狩りをね、依頼されたんだよ。元はどっかの国の貴族だか、王族だかっていう
お偉い人にさ。こんなご時勢になっちまって、あたし達は商売あがったりだからね。それ
で同業者達が組んで、賞金首のかわりに魔物を狩ることになったんだけど…なかなか、
ね」
すごうで
「馬鹿なー いくら凄腕でも、魔物には太刀打ちできないよー」
ふる
カイルロッドの声は震えていた。どうしてレイブン達が魔物狩りなど引き受けたのか、
カイルロッドにはわからない。
「どうしてそんな無茶な仕事を引き受けたんだ。わざわざ、自分から死にに行くようなも
のじゃないか」
カイルロッドが唇を噛むと、レイブンは小さく笑った。
「  それでも、これしかできないんだから、仕方ないさ」
大きく息を吸い込み、
だま
「黙って指をくわえているだけっていうのは、あたしの性に合わないのき。 勝てなく
ても、なにかしたいんだよ。自分にできることをね」
苦しそうに言葉と息を吐lき出した。
「レイプン …」
「あたしは、あたしにできる限りのことをしたかった。そして、した。少なくともしたつ
こうかい
もりだよ。・たとえ、結果はこうであったとしてもね。後悔なんかしていない」
ともしぴ          はた
レイブンの上半身から下半身へと血が広がっていく。生命の灯が弱まっていくのが、傍
目にもわかる。
ぽう
「ねぇ、坊や。人間はね、自分にできることをするしかないんだよ」
真っすぐにカイルロッドを見るレイブンの目には強い光があった。とても死にかけた人
間のものとは思えないほど、強い光だった。
「自分にできることを」
ひヴめ
反袈していると、蹄の音が聞こえた。イルダーナフの乗った馬だろう。
「イルダーナフ、早く− レイブンがいるんだー」
.・1.−
大声で呼ぶと、蒸気の向こうから人影がやってきた。イルダーナフだ。馬の背から飛び
降り、芦のした方へ走ってきたのだろう。
「レイブン、イルダーナフだよ」
カイルロッドが声をかけると、レイブンの表情が明るくなった。
「イルダーナフだってフ」
「ああ、久しぶりだな。レイプン」
かたひぎ
やってきたイルダーナフが、レイブンの前に片膝をついた。
「イルダーナフ。あたしのこと、覚えていてくれたのかいフ」
イルダーナフを見上げ、レイブンははにかんだ少女の顔をした。「ああ」と、イルダー
うなヂ
ナフは優しい目で額いた。
「覚えているとも。俺は住い女は決して忘れねぇ」
ブれ
「嬉しいことを言ってくれるねぇ」
笑ったレイブンは本当に嬉しそうだった。
さいご
「あたしゃ幸せ者だ。最期をこんないい男達に看取ってもらえるなんて、あたしより幸せ
な女はどこにもいやしない」
そう言いながら、レイブンは目を閉じた。カイルロッドとイルダーナフが見守る中、レ
あb                    かせ
イブンの荒かった呼吸回数がゆっくりと減り ー 女賞金稼ぎは二度と目を開かなかった。
「… ・」
ぬ          かみ
カイルロッドはレイブンの身体を、下に横たえた。蒸気で濡れたカイルロッドの髪から
思い出はいつまでも
しヂく
雫が落ち、レイブンの顔の上に落ちた。
「 変だな。俺、レイブンが死んだのに、悲しくないんだ」
おだ
眠っているように穏やかなレイブンの死に顔を見つめ、カイルロッドは独自した。イル
.・      ・
ダーナフは沈黙している。
こつかい
「レイブンは自分にできることをしたって、だから後悔していないって言っていた。だか
らかな」
穏やかなその顔は、生きている間にできる限りのことをした者の顔だ。結果はどうであ
せいいつぽい
れ、精一杯生きた者の顔だ。
「弔ってやろう」
おく
短く言い、イルダーナフは立ち上がった。遅れてカイルロッドも立ち上がった。
lまのお
金色の炎が広がっていく。
じ0もん とな                   お の
イルダーナフが呪文を唱えると金色の炎が現われ、たちこめる蒸気を押し退け、多くの
むくろ
骸を包み込んでいく。レイブンもまた炎に包まれた。
「さようなら、レイブン」
おごそ
厳かな気持ちでレイブンを見つめ、心の中で別れを告げていると、いきなりイルダーナ
まえがん
フがカイルロッドの前髪を引っ張った。
「引っ張るなよ、痛いじゃないかー」
こうぎ               しゆんかん
目に涙をためて抗議したカイルロッドだが、次の瞬間、息を飲んだ。
「髪の色が・ 」
イルターナフの持っている髪が赤くない。一房だけ色違いだった前髪から、赤い色が消
えている。それを見て、出し抜けにカイルロッドは理解した。
dエノいん
「ひょっとして、色違いの髪も封印だったのかけ」
答えを求めて、カイルロッドが勢いよくイルダーナフを見上げると、
「ついに解けちまったな」
はな
苦い笑みで、イルダーナフは髪を離した。
赤い髪は封印だったのだ。
さんき
生まれた後からつけられたものだった。だから、禁忌の部屋にいた青年にも、グリユウ
にもなかったのだ。
「じゃあ、さっきの力は封印が解けたからなのかフ」
カイルロッドの問いに、イルダーナフは「ああ」とだけ答えた。
「そうか」
思い出はいつまでも
ため息とともに言葉を吐き出し、カイルロッドはかつて赤かった前髪に触れた。自分を
ばノ、はつ
中心にして光が爆発した時、カイルロッドは確かな変化を感じた。練られていた見えない
鎖が切れたような、そんな解放感があった。
いういん
「これで俺のかけた封印のほとんどは解けちまった。できることなら、ぎりぎりまで封印
しておきたかったが  」
はのお                  あいかん
炎に照らされたイルダーナフの横顔には哀感があった。カイルロッドは言葉なく、イル
ダーナフの横で金色の炎を見つめていた。
金色の炎の中、二人は無言で立っていた。
のべおく
野辺送りの炎はまだ弱まらない。
3
しルとう
大気が震動し、地鳴りが沸いた。
はる かなた  すき  しようげきとつぞつ        こぶ         つるどっめあと
遥か彼方から凄まじい衝撃が突風のように奔り抜け、凍りついた大地に無数の鋭い爪痕
を残した。
ものすご
「物凄い力だ・…」
っぷや                          しび
呟き、メディーナは両手で自分の肩を抱いた。凄まじい衝撃に全身が痺れていた。
「魔物ではないようです」
−                                               ・1 ・.
メディーナの横にいる赤い髪の青年エル・トパックが、大地に残された升物のような傷
を見つめ、大きく息を吐いた。
「魔物でないとすれば・…?」
メディーナが震える声で言うと、
まちが
「十中八九、カイルロッド王子の力とみて、間違いないでしょう。二人がそちらへ移動し
た気配も残っていますし」
エル・トパックは厳しい表情を、衝撃の伝わってきた方角に向けた。メディーナも顔を
向けた。風をはらんでエル・トパックのマントが大きく甜れ、メディーナの長い黒髪が波
打つ。
その衝撃は、風の吹いてくる方向からきていた。
メディーナとエル・トパックは、カイルロッド達に一日遅れて《第二の神殿》を出た。
みとど
あの後 − アクディス・レヴィが大神宮の後任を引き受けたのを見届け、メディーナも
《第二の神殿》を出ると告げた。
いつしよ
イルダーナフに先を越されたが、実はメディーナもカイルロッドと一緒に地上へ行くつ
もりでいたのだ。
「《第二の神殿》を出たいので、結界の一部を開けてください」
たの
その席でメディーナが頼むと、
「あんたが行ったところで、なんになるんだ膏」
アクディス・レヴィに反対された。ロワジーやウルト・ヒケウもいい顔をしなかった。
まか
カイルロッドにはイルダーナフがついているのだから、任せておけばいいと言いたげだっ
た。メディーナにも、アクディス・レグィ達の意見が正しいことはわかっていた。
おやじ
「それでも ー。わたしは行かなくてはならないのだ。王子に親父がついていようと、い
まいと。ミランシャの代わりにカイルロッド王子を見ていなければならない」
ミランシャがどう思っていたか知らないが、メディーナにとって彼女は数少ない友達だ
いちr             そば
ったのだ。そのミランシャは一途にカイルロッドを想っていた。傍で見ていても、いじら
しいほどに。
「だから、せめてもの代わりに、カイルロッド王子を見ていたいのです」
そうメディーナがアクディス・レヴィやウルト・ヒケウを説得していると、
「いかに力があるとはいえ、女性一人では危険です。私も同行させてください」
エル・トパックが同行を申し出た。
これには神殿関係者がこぞって反対した。貴重な人材をこれ以上減らしてなるものかと
ばかりの、猛反対だった。アクディス・レヴィなど「俺を見捨てるのかー」と、泣きださ
んばかりだった。
「エル・トパック、あなたは《第二の神殿》になくてはならない人なのだから」
がん
メディーナもまた、エル・トパックの同行に反対したが、エル・トパックは頑として意
見を曲げなかった。優しげな容姿に似ず、なかなかの頑固者らしい。
「俺に協力すると言ったのは嘘なのか、エル・トパックー 俺にはおまえの協力が必要な
んだー」
いほてい
引き止める異母弟を、
「自信をお持ちなさい、レヴィ。あなたは立派な神官長ですよ。困った時は、ウルト・ヒ
ケウ様やロワジ1様達を頼りなさい。あなたには大勢の方々がついているのです。ですが、
メティーナには私しかいないのです」
エル・トパックはそうさとした。
揉めた末、アクディス・レグィ以下、神殿関係者達は不承不承引き下がった。エル・ト
パックの説得もあったが、最終的には「二人を行かせてあげて」というセリの二戸があっ
たからだ。
「だが、わたしは地上に出てくるべきではなかったのかもしれない」
思い出はいつまでも
心の中で呟き、メディーナが風の吹いてくる方向を見つめていると、
もど
「今から《第二の神殿妙 へ戻りますか、メディーナフ」
左手ではためくマントをおさえ、エル・トパックがメディーナに視線を移動させた。
「・・…・わからない…・」
きんかつしよく
メディーナは、金褐色の目から顔をそむけた。
天地を揺lるがしたカイルロッドのカーそれを感じた時、メディーナは《第二の神殿》
こミノかい
を出たことを後悔した。
いや
「カイルロッド王子は、見られることを嫌がるかもしれないのに」
この力は、もはや人間の力ではない。なにがあったのか知らないが、《第二の神殿》を
出る前とは比べものにならなくなっている。
たたか
だが、カイルロッドは人間であり続けたいと思っている。《あの方》と闘えるだけの力
おの
を持っていても、自分は人間だと信じている。それゆえに人間を超えている己れを、その
だれ
闘いを誰にも見られたくないと思っているかもしれない ー
メディーナは目を閉じた。
「…・初めて会った時、わたしは王子を魔物だと思った」
だま
そして風に消されそうな弱々しい声で、語り始めた。エル・トパックは黙って聞いてい
る。
おき
「親父がオアシスの家に王子とミランシャをつれてきた時・。抑えられていたが、あま
ばな
りに人間離れした気配の持ち主だった」
1.ノいかい
二人を家に通した後も、メディーナはカイルロッドを警戒していた。だが、家に入った
ぽんさい      むじやき
カイルロッドは、旅人が無理に置いていった盆栽を見つめて、無邪気に喜んでいた。
っjt
「嬉しそうに、子供の顔で盆栽をいじくっていた。どう見てもただの人間だった。それな
のに力だけがずば抜けている。ムルトを倒すために、親父は王子をつれてきた。ゲオルテ
ィ様に会わせて、力を強くするために。だが、本当の敵はムルトではなかった。そう知っ
あわ
た時、わたしは王子が憐れでたまらなかった・…。そして、そんな王子を見ている親父が
かわいそう
可哀相で ・」
少しでも二人の力になりたかった。力になれないのなら、せめてミランシャの代わりに
見つめていたかった。しかし1。
「この先、わたしが見るのは人間を遥かに超えた王子だ。誰よりも人間でありたいと思っ
ているカイルロッド王子の、人間でない姿を見てしまうなんて ・。見たくないし、見て
はいけないのではないだろうか」
..・  1.・.し
閉じた目から涙が溢れ、頬を濡らした。
93  思い出はいつまでも
「ミランシャなら・彼女ならカイルロッド王子を見続けるでしょうね。どんなことがあ
っても」
おだ                           かみほのお
穏やかな声に目を開けると、エル・トパックが正面にいた。逆風に赤い髪が炎のように
揺れる。
「見続けるということは、信じ続けるということです。カイルロッド王子が人間であると
いうことを。力が人間を超えようと、たとえ姿が変わろうと、カイルロッド王子の心は人
間のはずです」
きんかつしよく
エル・トパックの左手が、メディーナの頬に触れた。金褐色の目にはメディーナが映っ
ている。
「私もカイルロッド王子を見続けます。あなたがミランシャの代わりに王子を見ていると
いうのなら、私は王子に同母の弟を重ねているのです。彼が生きていたら  ちょうど、
カイルロッド王子と同じくらいの年齢なんですよ」
かな           こわね  うれ
金褐色の目には哀しげな光があり、表情と声音には憂いがあった。
つら
「一人で見ているのが辛いなら、二人でカイルロッド王子を見続けましょう」
「…‥冬え」
うなヂ
額き、メディーナは類にあるエル・トパックの手に触れた。この手は力強く、優しい。
「…・主ル・トパック」
.一.   ..  .11
メディーナの目から、また涙が溢れた。誰かが側にいてくれることがこんなにも心強く、
うれ
また嬉しいものだと、メディーナは初めて知った。
「ずっと、わたしの側にいて。わたしが負けないように」
1
エル・トパックは黙っていたが、強くメディーナの手を慮った。
そして二人は、風の吹いてくる方角へと歩きだした。
風は大地を渡っていく。
はる
遥か遠くの土地へ、血の匂いと不気味な緊張を運んでいく。
ザザッ。
はちつ     ゆ
吹きつけた風に、バルコニーにある多くの鉢植えの業が揺れた。
らど
「そろそろ、鉢植えを室内に戻した方がいいかもしれんな」
つふや
並んだ鉢植えの中で水差しを持った大男、ダヤン・イフェが呟いた。カイルロッドの教
育係で、剣や体術にかけてはルナンで右に出る者なしと言われている。本職は神官なのだ
が、剃りあがった頭や顔の無数の刀傷からは、とても聖職者には見えない。
しか
「一鉢でも枯らしたら、王子に叱られてしまう。王子がお帰りになるまでは、私が責任を
95  思い出はいつまで
はちう
持ってこの鉢植えを護らなければ」
せんりよっ       なが
義務感に燃え、ダヤン・イフ工はバルコニーを占領している鉢植えを眺めた。鉢植えは
もど
カイルロッドが大切に育てていたもので、石から元に戻った後は、ダヤン・イフエが世話
めヂら うすぴ
をしている。いつもは室内に置いているのだが、珍しく薄日が射していたので、バルコニ
ーに出したのだ。
枯らしては一大事と、ダヤン・イフエが鉢植えを持ってバルコニーと室内を往復してい
ると、
「まるで植物閲じゃな」
おどろ
ふいにバルコニーからしゃがれ声が聞こえた。驚いたダヤン・イフエが出てみると、い
かげ  つえ    ろうば
っの間にか背の高い鉢植えの陰に、杖を持った老婆が立っていた。
「これはゲオルディ様」
つやうや
大男であるダヤン・イフエの、半分以下の身長の老婆に恭しく頭を下げると、
「ま1つたく、顔を見るたびにいちいち頭を下げるのはよさんか」
ゲオルディは酸っぱい物を口に入れたような顔をした。
「お言葉ですが、そういうわけにはまいりません」
空しそ                の
厳かに言い、ダヤン・イフェは背筋をピンと伸ばした。ゲオルディは名高い「赤い山の
魔女」であり、ダヤン・イフェが見習い時代に付き人をしていた、大神宮候補イルダーナ
.しルう・んつやま
フの師でもある。それだけで充分に敬うべき人物であるのに、この高名な魔女はルナンを
救いにきてくれたのだ。
「ゲオルディ様がルナンにいらしてくださったおかげで、城下にいた魔物達は残らず消え、
人心も落ち着きを取り戻しました。わが主人サイード国王ともども、ゲオルディ様には言
葉では言い尽せぬ感謝の念を抱いております」
「ほんに堅苦しい男じゃのぉ」
やれやれというように、ゲオルディがぼやいた。ふいにダヤン・イフェの耳の奥底に、
・・                    .T・..
懐かしい声が建った。
「まったく堅苦しい男だね、あんたは」
つわき
イルターナフと呼ばれ、大神宮候補と噂されていた青年が、ダヤン・イフエによくそう
しの
言って苦笑したものだ。当時が思い出され、ダヤン・イフェが忍び笑いをしていると、
みよう
「なんじゃ、急に妙な笑いをしおって」
ひょいと飛んだゲオルディに杖で頭を殴られた。
「これは申し訳ありません。先程のゲオルディ様のお言葉が、昔、イルダーナフ様によく
言われていた言葉だったもので、つい」
思い出はいつまでも
かしよ
殴られた箇所をさすりながら、大きな身体を縮めて言い訳すると、
・・・
「あれでなくとも、おぬしは堅苦しいと言うであろうよ。じゃが、あれには少しぐらい堅
くなってもらいたいぐらいじゃ。いつまでたっても、若者気分が抜けぬでな」
?え                               さま なげ
杖を回しながら、ゲオルディはしみじみとこぼした。老いた親が、我が子の様を嘆くの
とよく似ている。
「しかし、あれとおぬしは正反対じゃのう。それでよくまぁ、あれの付き人などやってい
られたものじゃな」
ダヤン・イフエを見上げるゲオルディは、本気で不思議がっているようだった。
かがや
「私の若い日々は、イルダーナフ様のおかげで輝いていました」
そう口にしながら、ダヤン・イフエは軽い立ちくらみを感じた。時間が逆に流れ出した
あざ     よみが一ん
ように、鮮やかに昔が建ってくる。
そびえる神殿には風格があった。すでに住む人間が少なくなっていたけれど、街にはま
にぎ       ひんばん
だ賑わいがあった。頻繁に神殿を抜け出していたイルダーナフを探して、ダヤン・イフェ
は街中を駆け回った。
街の人々の笑顔や、神殿の仲間達一人一人の顔がはっきりと思い出せる。
せんめい
三〇年も昔の光景なのに、そこにいたのはたった数年だったのに、様々なことが鮮明に
思い出される。
なにもかもが輝いていた。
若さがあった。希望に満ちていた。そしてなにより、イルダーナフがいた。
素行の悪さで神殿上層部に嫌われていたが、他の神官や見習い達、街の人々には愛され
こうたん
ていた。豪胆で陽気な、そしてすべての言動に鮮やかな印象を残す年下の青年に、ダヤ
ン・イフエも惹かれずにはいられなかった。
「私はずっと、イルダーナフ様が死んだことを信じませんでした。しかし、まさか、この
ルナンで再会しょうとは」
冷たい風にさらされながら、ダヤン・イフェは苦く笑った。
大神宮の就任式直前にイルターナフの急死を告げられたが、ダヤン・イフエは信じなか
った。死に顔を見せてもらえなかったせいもあるが、あの青年が死んだとはとても思えな
しようげき
かった。だが、衝撃は大きかった。
そうぎ
葬儀の翌日、ダヤン・イフエはフヱルハーン大神殿を出た。遠方の神殿で見習いを必要
4にん
としていると聞いて、赴任を申し出たのだ。イルダーナフのいなくなった場所にとどまっ
ているのは辛かった。
「再会し、そこで私はやっと、イルダーナフ様の背負った重荷を知ったのです。フィリオ
思い出はいつまでも
リ様のことも、生まれてくる王子のことも」
つ・や           めじり
呟いたダヤン・イフエは、目尻に涙がたまっていることに気がついた。
三〇年ぶりに会ったイルダーナフは、ダヤン・イフエとサイードになにもかもを話して
やつき           hノ.j
くれた。フエルハーン大神殿が躍起になって隠していた恥部を、過去の歴史のすべてを話
してくれた。そして、生まれてくるフィリオリの子供の行く末についても。
「けれど、私などさしたる役にもたたず・・こ。我らに王子を託されたフィリオリ様や、イ
ルダーナフ様やサイード国王に申し訳なく  」
お    うめ
ダヤン・イフエが目元を押さえて坤くと、ゲオルディが大きなため息をついた。
「それは皆が同じじゃろうよ。あれもな  イルダーナフもな、自分がもっと強ければ、
カイルロッド王子にこんな重荷を負わせることはなかったと、今でも悔やんでおる。あれ
いだ
なりに、カイルロッド王子に負い目を抱いているのじゃよ」
「そのようなことは!」
ダヤン・イフェは大きく頭を左右に振った。千年以上の歴史の中で、フェルハーン大神
殿の誰一人として《あの方》に勝てるほどの力を持てなかったのだ。イルダーナフが勝て
ないからといって、誰に責められるのだろうか。
「誰も勝てないからこそ …。だからこそ、フィリオリ様も王子を産む決意をなされたの
ではありませんか。今日の状況に責任があるとしたら、責めを負うべきは神殿、過去の神
官長遠ではありませんか」
こdしにぎ
ダヤン・イフェは拳を握りしめた。非難と誇りを受けながら、フィリオリは己れのすべ
てと引き替えに子供を産み、その子に未来を賭けた。イルダーナフは三〇年の歳月をかけ
はめつ たいこヱソ
て、きたるべき破滅に対抗しようとした。
「イルダーナフ様が負い目を抱くようなことなど、なにもないはずですー」
はいいろ   きみよう
強く言いきると、ゲオルディは灰色の冒に奇妙な色を浮かべた。
「おぬし、あれの本名を知っておるかえ?」
とうとつ             とまど
唐突な質問に、ダヤン・イフエは戸惑いながら首を振った。
「いいえ。私がフエルハーン大神殿に入った時、すでにイルダーナフと呼ばれておりまし
たので」
ずっと、それが本名だと思っていた。後になってあだ名と知り、本名を訊いたが答えて
くれなかった。
「周りの人々に訊いても、皆が知らないと言っていました。神殿の人々も、街の人々も。
イルダーナフ様の本名を知る人など、いなかったのではないでしょうか」
イルダーナフとよくつるんでいたロワジ1すら、知らないと言っていたぐらいである。
思い出はいつまでも
うわさ
「噂では、故ディルワール神官長がそのあだ名をつけたそうですから。彼ならご存じだっ
たかもしれません。ですが・・・それで本名がなにかフ」
ダヤン・イフユはゲオルディを見た。その言葉から判断すると、イルダーナフの本名に
はなにかあるらしい。身構えていると、
「あれの本名はな、カイルロッドというんじゃよ」
ゆっくりとゲオルディは言った。ダヤン・イフ工は身体を固くした。
.4
強く、身を切るような冷たい風が吹きつけてきた。ダヤン・イフェの耳元で風がうなっ
ていた。
「イルダーナフ様の本名が、カイルロッドニ・」
「フエルハーン大神殿にいた頃、あれが本名を言わなかったのは『なんでもできる男』な
じかい
どと呼ばれ、いい気になっておったからじやろう。神殿を出てから使わなかったのは自戒
ゆえ…・・。そして王子にくれてしまったゆえじゃ・…ニ」
れんげん ふく
かすかな憐憫を含んだしゃがれ声を聞きながら、ダヤン・イフエは混乱していた。
生まれた王子に名前をつけたのはイルダーナフだった。フィリオリとサイードが是非に
たの
と頼んで、つけてもらったのだ。だが、まさかその名前が、イルダーナフの本名だったと
は思いもしなかった。
「自分の名前を誰かにつけるなど、よくあることだ。しかし…二
あかご
大神官候補だった男が、宿業を背負った赤子へ渡すものにしては、なにか意味ありげだ。
せんりよ
「よくあること」ではすまされないものを感じる。まして、イルダーナフは浅慮な男では
ない。
「・・イルダーナフ様がご自分の名前を王子につけられたことと、王子に負い目を抱いて
おられることが、どのように関係するのですか?」
言い知れぬ不安を抱えて、ダヤン・イフェが問うと、
たたか
「・わしはな、あれを《あの方》と闘わせるために拾い、育てたのじゃ」
押し殺した低い声でゲオルディ。その声と言葉は、ダヤン・イフェの胸に矢のように突
き刺さった。
ザザザッ。
風を受けて、木々の葉が揺れる。
波の音にも聞こえるそれを聞きながら、ダヤン・イフエはわなないていた。様々な感情
が一度に噴き出したようで、言いたいことが言葉にならない。
思い出はいつまでも
「あれにどこまで力があるか。わしはそれを試すために、あれをフエルハーン大神殿に入
れたのじゃ。……もしもイルダーナフが《あの方》に勝てたのなら、カイルロッド王子は
生まれなかったじゃろう。生まれる必要がなかったのじゃ」
わなないている大男を見やり、まったく感情のない声でゲオルディは告げた。ただ事実
ぎんこく ひび
のみを並べている。それだけに一層、ダヤン・イフェの耳には残酷な響きを帯びて聞こえ
た。
「なんという…2」
のど     しぼ              か し
喉の奥から声を絞りだし、ダヤン・イフエは奥歯を噛み締めた。
イルダーナフがフィリオリの子供に自分の本名をつけたのは、その子供がもう一人の自
たぶ
分だと知っていたからだ。《あの方》を倒さなければならない役目を背負った人間である
と。
「それが、それがイルダーナフ様のカイルロッド王子への負い目なのですか……」
カイルロッドが生まれた日のことを思い出し、ダヤン・イフエはうつむいた。
明るい朝に生まれた子供だった。その子にカイルロッドと名前を付け、イルダーナフは
かな  はiEえ                      れんぴん
少し哀しげに微笑んだ。それは、生まれながらに重荷を背負った子供への憐憫だと思って
いた。だが、単純にそれだけではなかったのだと、一八年たってようやくダヤン・イフヱ
は理解した。
その子供を見ながら、イルダーナフは己れの無力さを噛み締めていたのではないか。そ
して、これからこの子供にふりかかる苦難を思い、行く末を案じ、心を痛めていたのでは
ないだろうか。
たたか
「わしはそのことをあれに言わなかった。《あの方》と闘わせるために拾って、育てたと
は言わんかった。じゃが、あれにはわかっていたかもしれんな・…・。神殿の禁忌の部屋に
入った時、あれはなにもかもを知ったやもしれん」
かわ    つぶや
ゲオルディは乾いた声で呟き、
カぜ
「おお、寒い。いつまでも外にいては、風邪をひいてしまいそうじゃ」
みぷる
思い出したように身震いしてから、室内に入ってしまった。
風は少しも弱まらない。
しようげき        まひ
だが、受けた衝撃の大きさで感覚が麻痺しているのか、ダヤン・イフェは寒さを感じな
いきどお
かった。憤りがあった。しかし、誰に憤ればいいのかわからなかった。どうすればよかっ
たのか、それもわからない。
ぬく              あわ
ダヤン・イフエはこぼれそうになった涙を手の甲で拭った。憤りと同じぐらいに、憐れ
も感じていた。カイルロッドが、イルダーナフが、そしてゲオルディが憐れであった。
思い出はいつまでも
・I・
丁.鉢植えを室内に入れなくては」
わぐ     にじ
拭っても涙の渉んでくる目を鉢植えに向け、ダヤン・イフエは数回まばたきをした。バ
ルコニーに出ていた鉢植えが残らず消えている。
驚いて室内を見ると、鉢植えがすべて移動していた。ダヤン・イフエの視線に気づき、
なら               いたずらこそう
並べられた緑の中でゲオルディがニッと悪戯小僧のように笑った。その笑い方がイルダー
はつふつ
ナフを彷彿とさせた。
「やはり師弟なのだな」
まどわく
ダヤン・イフ工は室内に入り、窓を閉めた。風の音は小さくなったが、ガタガタと窓枠
が揺れる。
「・・王子」
はいいろ   おお
窓の外、灰色の雲で覆われた空を見ながら、ダヤン・イフエはカイルロッドの身を案じ
いまごろ
ていた。「今頃、どこでなにをしておいでだろうか」、イルダーナフがついているだろうか
ら、心配することはないかもしれない。しかし、案じずにはいられなかった。
カイルロッドが元気でルナンへ帰ってくるように ー
ダヤン・イフェもサイードも、それだけを祈っている。
「灸あの方軸に勝てずともいい。元気で帰ってきてくれるなら、それでいい」
フェルハーン大神殿の神官にあるまじき考えかもしれない。この世を守るために必死に
なっているゲオルディやイルダーナフに申し訳ないとも思う。だが、それがダヤン・イフ
工の本心だった。
ダヤン・イフェが窓の前から動かずにいると、
「さぁてと。サイードを呼んできてくれぬかえフ」
つえ
ゲオルディに固い物で背中を叩かれた。杖だろう。振り返るとゲオルディが真下から、
ダヤン・イブェを見上げている。いきなりサイードを呼んでこいと言われ、ダヤン・イフ
工が「はっフ」と訊き返すと、
「その歳でもう耳が遠くなったのか1 それとも、この年寄りを動かすつもりかーわし
はサイードに話があるんじゃ−わかったらすぐにサイードを呼んでこんかい、図体ぽっ
ぱげぼうヂ
かりでかいつるっ禿坊主が−」
プンブンと杖を振り回された。
「はい、ただいまー」
いだい
ダヤン・イフェは逃げるようにして部屋を飛び出した。偉大な魔女であり、ルナンの救
い主でもあるゲオルディを、ダヤン・イフエは心から尊敬している。が、ロの悪さにだけ
は閉口させられる。
「もっとも、イルダーナフ様が頭の上がらない人に、私がかなうはずもない」
108 苦笑し、ダヤン・イフエは廊下を走って行った。
ろうか
すみ
地鳴りのような足音が遠ざかるのを聞きながら、ゲオルディは部屋の隅に置いてある勝
せい いす
製の椅子に座った。
「まったくやかましい男じゃ。ああでも言って追い払わんことには、うるさくてかなわ
ん」
くちぴるつ                                はいいろ
唇を突き出してぼやいてから、ゲオルディは窓の外を見やった。見えるのは灰色の雲ば
かりだ。
のろし
「どうやら狼煙があがったようじゃな」
7
大きな杖を持ちなおしながら、ゲオルディは窓に向けた灰色の目を光らせた。
かなた                     かつう
彼方からあがった育銀色をした光の柱。それは、普通の人々には見えない、力ある者だ
けに見える狼煙だ。
かみ でっいん
「イルダーナフのかけた赤い髪の封印が解けたか……」
つぷや
ため息とともにゲオルディは呟いた。カイルロッドの色違いの赤い髪は、イルダーナフ
が何重にもかけた封印の一つであり、かなり強いものであった。
「これでもう、隠しきれなくなったわけじゃ。やがて・・《あの方》が現われる」
よどわノ、
椅子の背にもたれかかり、ゲオルディは目を閉じた。ガタガタと、風で窓枠が鳴る。
いな
カイルロッドの力は強い光に似ている。否、《あの方》の一部であるカイルロッドの存
きようれつ        や
在そのものが力であり、光なのだ。直視できないほど強烈な光で、近寄れば灼かれてしま
う。
まがまが
だが、それゆえに、遠くにいる禍々しいものを引き寄せてしまうのだ。ちょうど、夜の
やみ う  あか  カ
闇に浮かぶ灯りに蛾が集まってくるように。
イルダーナフはカイルロッドを封印という名のベールで包み、その光を弱めていた。魔
物を呼び寄せぬよう、強いては角あの方》を呼ばぬように。
「だが、封印が解けた以上、《あの方》はやってくる」
カイルロッドという強い光を放つ自分の分身を、自分の一部を目指して、《あの方》と
lまろ
呼ばれる滅びがやってくるのだ。
「・わたしには滅びを防ぐことはできんかった」
できたことはわずかだ。《あの方》が現われる前はカイルロッドの力を引き出す手伝い
をした。封印を解かない状態のままで、できる限りの力を使えるように。その後は白い鳥
を飛ばして、生き残った人々を《第二の神殿》に向かう一行に導いた。
「これが赤い山の魔女の力じゃ」
.しギーや′ヽ             フす
自虐的に笑い、ゲオルディは薄く目を開けた。すると、部屋いっぱいにある鉢植えの葉
かがや
の上でなにかが輝いていた。
すいてき
ハッとしたが、よくよく見ればただの水滴だった。鉢植えにダヤン・イフェが水やりを
していたのだ。
葉の上に残った水滴が弱々しい陽射しに反射しながら、落ちていく。まるで、自分の重
さに耐えかねたように。
それらを見ていたゲオルディの脳裏に、彼女が生きてきた年月が走馬灯のように流れて
いった。長い、気が遠くなるほど長い時間をゲオルディは生きた。
フエルハーン大神殿に入る前のことは、ほとんど覚えていなかった。あまりに遠い昔で
思い出せない。
きんき
力を認められ、ウルト・ヒケウとして禁忌の部屋に入り、《あの方》の存在を知った。
かノヽ
ゲオルディはフエルハーン大神殿の隠していた過去を見、そして《あの方》がタジエナ
から出てくることを予感した。
な すペ
だが、そうと知りつつも、ゲオルディを始めとする神官達には成す術はなかった。再び
・                    ・ −
封じる方法も、倒す方法も兄いだせぬまま、時間が流れ − フエルハーン大神殿にムルト
思い出はいつまでも
という神官が現われた。たいした力はないが、探求心の強い男だった。
「人間には領域などないはずだ」
ムルトはそう害い捨て、妻のヴァランチーヌをつれて、神殿を去った。その後、タジエ
ナへ行ったムルトは魔物となり、ヴァランチーヌもまた人間ではなくなった。魔物の力を
取り込み、老いを止めていた。
その当時ゲオルディは、ヴァランチーヌに目をかけていた。大神宮やウルト・ヒケウは
無理だが、いずれ神官長にと思っていた。だが、ヴァランチーヌは地位も神官としての未
来も捨て、ムルトについて行った。そして非道になっていく夫に心を痛めながらも、ヴァ
さいこ       そば はな
ランチーヌは最期までムルトの側を離れなかった。
「ヴァランナーヌ……それでも、おまえは幸せだったのかフ」
問うてみたところで、答えてくれるヴァランナーヌはもういない。それでもゲオルディ
は、自分と反対の生き方をした女に、そう問うてみたいと思った。
たい▼でっ
《あの方》 への対抗手段を探し求め続け、ゲオルディは流離った。愛した男もいたが、捨
へいぽん
て去った。平凡な生活を望む平凡な男で、ゲオルディと共に生きていけるような男ではな
かったからだ。
「結局、長く生きただけで、わしはなにもできんかったのじゃな」
しわ
敏だらけの顔を涙が流れ落ちた。
力の強い者を育てることで、《あの方》 へ対抗しょうとした。フィリオリがカイルロッ
ドを産むまで、ゲオルディは何百人となく才能ある者を育てた。しかし、《あの方》を封
じられる力を持つ者は一人もいなかった。
「カイルロッド王子・…I」
むけレやき
抹殺された英雄の姿を映し取った青年の、無邪気な笑顔を思い浮かべながら、ゲオルデ
イは大きく呼吸した。
まつたん
身体の末端から冷たくなり、それが広がっていくのがわかる。視界がぼやけだし、風の
音も遠ざかっていく。
「わしも逝く時がきたようじゃ」
おそ         なみ    ちようじゆ
ゲオルディに死を恐れる心はなかった。並はずれて長寿とはいえ、いつかは死ぬのだ。
どんな生物も生まれた以上、必ず死ぬ。
二つの気配が近づいてくるのを感じながら、ゲオルディは大きく呼吸をしていた。ダヤ
ン・イフェがサイードをつれてやってきたのだろう。
「……カイルロッド。おまえの未来を見ないですむわしは幸せかもしれん・…こ」
つえ はな  かわ
独白し終えると、ゲオルディは再び目を閉じた。その手から杖が離れ、乾いた音をたて
113  思い出はいつまでも
ゆか たお
て床に倒れた。
まどわく          ひび
人の気配の消えた室内に、ガタガタと窓枠が風に鳴る音だけが響いていた。
やみ
三章 深い闇の底から…=
けだ き    せしPじやく
肌を刺すような静寂が広がっていた。
あれほど強かった風が止んだまま、間もなく夜をむかえようとしていた。
とうらい                                 こお
夜の到来とともに気温が下がっていた。噴き出していた蒸気は冷え、地面を凍らせてい
る。
のペおく  ほのム
金色のカーテンのようだった野辺送りの炎だが、それもずいぶん小さくなった。今はチ
ヘぴ      ゆ         じゆうでん
ロチロと蛇の舌のように揺れているだけだが、充分明かりにはなる。
きれい
「綺欝になにもなくなったな」
あと  しがい
カイルロッドはほのかな温かさの残る場所に立っていた。炎の跡には死骸の一つもない。
むくろ
金色の炎は骨も残さずに、骸を焼き尽くしたのだ。
「・…・レイプン」
かせ                ほのム
死んだ女賞金稼ぎを思いながら、カイルロッドが弱々しい炎を見つめていると、
「おい、王子」
ふいに、後ろにいるイルダーナフに呼ばれた。なんだろうと振り返ると、
おそ
「遅くなっちまったが、こいつを渡しておくぜ」
イルダーナフがなにか小さな物を、カイルロッドに放った。カイルロッドはそれを両手
で受け取った。手の平の中に落ちたのは白い珠だった。
「・三」れって、ひょっとしてゲオルディ様のくれた珠フ」
つなず
カイルロッドが訊くと、イルダーナフは「ああ」と肯いた。
おれ
「よかった。俺、なくしてしまったとばかり思っていたんだ。ありがとう」
たたか
カイルロッドは手の上の白い珠を見た。ムルトと関った時に落としたと気がついたのは、
J・、
それからずいぶん後だった。探そうにもタジエナは崩壊してしまい、ゲオルディに申し訳
あきら
ないと思いつつ、それきりカイルロッドは珠のことは諦めていた。
「でも、なくした時は赤くなっていたけど…・・白くなっている」
顔の高さに指でつまみあげると、
じようか
「ムルトだの妖魔だのの毒気にまみれていたんでな。拾って、浄化しておいたのよ。おか
ばあ     けつしよう
げで時間をくっちまったが。王子、そいつぁ、婆さんの力の結晶だからな。もう落とさん
でくれよ」
イルダーナフはわずかに目を細め、念をおすように言った。
すこ
「……凄い物を落としちゃったんだな」
ゲオルディの力の結晶と聞いて、カイルロッドは落としたことを深く反省した。こうし
あわ
て芋に持っていると落としそうな気がして、慌ててズボンのポケットにしまうと、
「大切に持っていろよ。なくしたら、婆さんが悲しむからな」
イルダーナフがそう言った。
「・ イルダーナフ?」
カイルロッドは探るように、イルダーナフを見上げた。どこがどうとはっきり言えない
ちが
が、イルダーナフの様子がいつもと少し違うような気がした。
カイルロッドの視線を受けて、イルダーナフは真っ白い歯を見せた。
「王子がその珠をなくしてみろ。悲しんだ婆さんが、俺に八つ当たりするに決まってるじ
ゃねぇか」
からかうような、いつもと変わらぬ笑みだった。「気のせいか」、カイルロッドはホッと
した。
「そういえば、ゲオルディ様はルナンにいるってセリから聞いたんだけど。どうしてまた、
思い出はいつまでも
赤い山からルナンへ行ったんだろうフ」
理由がわからず、カイルロッドが首をひねると、
ぱあ                  ひし・き
「さてねぇ。あの婆さんはきまぐれだからな。理由があるとすりや、品層にしているおま
えさんの故郷を心配してやった。おおかた、そんなところじゃねぇのかね」
かつ    で、ろ
ぞんざいな口調で言い、イルダーナフは肩に担いでいた袋を下ろした。
「まぁ、理由はどうでもいいけど。ゲオルディ様、ずっとルナンにいてくれないかな。そ
れが無理なら、俺が帰るまででいいからルナンにいて欲しいなぁ」
うれ
「あんな口の悪い婆さんがいて、嬉しいのかねぇ。ルナンの連中なんざ、婆さんの毒舌に
辟易してんじゃねぇのか」
袋の中を探りながら、イルダーナフは意地悪く笑った。
「口が悪いのは、イルダーナフだって同じじゃないか。俺はゲオルディ様に会って、ちゃ
んとお礼を言いたいんだ」
カイルロッドは腰に下げてある短剣に触れた。この短剣といい、白い珠といい、ゲオル
いく.こ
ディには幾度となく助けてもらった。
「お礼を言うためにも、俺は《あの方哲に勝たなくちゃいけないんだ」
ほのぶ
自分に言い聞かせながら、カイルロッドはくすぶっている炎を見た。
「レイブンも弔ったし・・。イルダーナ7、そろそろ西へ行こう」
よノなが
カイルロッドは出発を促した。が、イルダーナフは袋の中から取り出したパンを片手に、
「その必要はない」と言った。
「必要はないって、それはどういう意味なんだけ」
あら
知らず、カイルロッドは芦を荒げた。動かなくては《あの方》と会うこともできないで
はないか。
たたか
「俺は《あの方》と闘わなくちゃいけないんだぞけ・」
わめ                  だま
「うるせぇな、喚くんじゃねぇよ。行く必要がねぇってのはな、黙っていても向こうから
やってくるってことなんだからよ」
イルダーナフは断言し、持っていたパンをカイルロッドに放り投げた。
「それで腹ごしらえしておくんだな」
「なんだこのパンはー石みたいじゃないか− いや、そんなことよりも、どうして向こ
うからやってくるって断言できるんだけ」
にぎ
カチカチのパンを握りしめ、カイルロッドがその自信の根拠を訊くと、
ふういん
「おまえさんにかけた封印のほとんどが解けちまったからさ」
きかぴん
イルダーナフはあっさりと言い、今度は袋から酒瓶を取り出した。酒がイルターナフの
思い出はいつまでも
腹ごしらえらしい。
「封印と《あの方》がくるのと、どういう関係があるんだヱ
パンは固いわ、イルダーナフの言っていることはよくわからないわ、カイルロッドが顔
をしかめると、
「封印はな、なにもおまえさんを魔王にするのを防ぐためだけのものじゃねぇんだよ」
酒瓶の封を切り、イルダーナフは口を大きく曲げた。
「…他にも意味があったのか?」
カイルロッドが大きく息を吸うと、イルダーナフは潜を一口飲み、笑った。
「あるとも、おおありだ」
おお               あか
イルダーナフがいうには、封印は覆いだそうだ。カイルロッドの力は強い灯りで、それ
に封印という覆いをかけていたのだと。覆いが取れたら、当然灯りが見える。その灯りを
目指して、蛾が飛んでくる。
「その蛾が《あの方の一部》ってぇ野郎だ」
「ちょっと待ってくれ、イルダーナフー」
さえぎ     けげん
カイルロッドはイルダーナフの言葉を遮った。そして怪訝な顔をしたイルダーナフを鋭
く見やり、
「イルダーナフは知っていたのかフ タジェナに封じられていたのは《あの方》ではなく、
その一部だってことを」
カイルロッドは強い口調で言った。しらばっくれるようなら、しつこく問い詰めてやる
つもりだった。「なんとしても答えてもらおう」、そんなふうに気負っていたのだが、イル
ダーナフはあっさりと「知っていた」と認め、
「おまえさんこそ、誰からそのことを聞いたフ」
反対に質問されてしまった。
「禁忌の部屋にいた、俺と同じ顔の青年に」
ぴん
カイルロッドが隠さずに言うと、イルダーナフは酒瓶を軽く振りながら、納得したよう
に笑った。三〇年前、イルダーナフもあの部屋の中で、そのことを知ったそうだ。
「もっとも、俺はその青年にゃ会わなかったがね」
呟くとイルダーナフは酒を一口飲み、
ばあ
「本体のことは、ゲオルディの婆さんも三つ子も知らねぇようだぜ。あの後、俺も誰にも
言わなかったしな」
そう付け加えた。つまり、カイルロッドとイルダーナフだけが、あの部屋の中でそのこ
とを知ったのだ。入った者の力によって見るものが違うと、カイルロッドはセリからそう
思い出はいつまでも
聞いている。
「…・イルダーナフはなにを見たんだろうかつ」
訊いてみようか、とカイルロッドは思った。しかし、あの部屋の中で見た若いイルダー
ひし
ナフの打ち拉がれた背中が、カイルロッドを止めた。三〇年前、イルダーナフがあの部屋
ぎせつ
の中で見たものは、彼にとって大きな挫折を意味したものではなかったのか。
訊いてしまったら、イルダーナフを傷つけるような気がして、カイルロッドはその疑問
を口にするのはやめた。
「 − イルダーナフは、どうしてそのことを誰にも言わなかったんだ?」
固いパンをもてあましながら、カイルロッドが視線を向けると、イルダーナフはおどけ
たように広い肩をすくめた。
「あのなぁ、一部でも大騒ぎしているんだぜ? これで本体が別だと言ったら、収拾のつ
かねぇ大騒ぎになっちまうじゃねえか。本体はどうなっているんだ、本体が出てきたらど
うするんがT−−そう騒ぐに決まってるじゃねぇか。本体のことは、闘う奴だけが知ってい
ればいいことだ」
だま
無用の騒ぎを回避するために黙っていたらしい。イルダーナフらしいというべきか。
「だから、タジエナに封じられていたのが俺の実父だ、とか言っていたわけフ 実父が本
体だと言うと、混乱するからフ」
さんざんそう言われていたことを思い出し、カイルロッドはため息をついた。他の人聞
達にはそれでいいかもしれないが、カイルロッドには最初から真実を明かしてくれていた
ってよさそうなものではないか。
「そう怒りなさんな。どっちが実父でも同じようなもんじゃねぇか」
空にした酒瓶を投げ捨て、イルダーナフはいとも気楽に言った。「全然違う」と思った
が、カイルロッドはとりあえず黙っていた。どう言ったところで、最終的にはイルダーナ
フに言い包められてしまうだろう。口でかなわないことは、過去の経験でも実証済みだ。
「青年にも質問したんだけど、何故、《あの方》の一部だけが敵なんだフ 本体はどうな
っているんだフ そもそも、《あの方》 ってなんなんだフ」
いずれわかるだろうと青年は言った。だが、カイルロッドは一刻も早く知りたかった。
すいそく
「俺もな、《あの方》本体について詳しく知っているわけじゃねぇんだよ。俺にゃ、推測
しかできねぇ」
「推測だけでもいいー 教えてくれ!」
カイルロッドがせがむと、イルダーナフは新しい酒瓶を取り出しながら、
「おそらく、《あの方》本体にゃ負の力なんかねぇ。そして敵でも味方でもねぇ。何故っ
3  思い出はいつまでも
つら
て面をしているな、王子。簡単なことだ。《神》 ってぇのは、人間にゃ無関心と相場が決
まっているもんよ」
またも大神宮らしからぬ発言をし、
かたまり
「でっかい力の塊、もしくは意識の集合体、それが《あの方》だと俺は思っている。でま
ぁ、どうした理由でか、その一部が切り離され、人間の敵になっちまった。とまぁ、これ
が俺の推測だ」
そう締め括った。
一l《あの方軸について、青年も同じようなことを言っていた。意志を持つ巨大な力の塊だ
と。でも、その意志は人間とはかけ離れていて、とても理解できないって」
あご
顎に手をあてながら、カイルロッドは青年の言葉を思い出していた。聞いていたイルダ
ーナフが、
「だから《神》なんだ」
重々しく呟いた。
「大音、フエルハーン大神殿の神官達が崇めていた《あの方彩を呼び寄せようとして、一
部だけがこの世にきたらしいけど…・・dどうして、その一都が人間の敵になるんだフ」
カイルロッドにはわからなかった。おそらく、イルダーナフにもわからないだろう。そ
の原因を知れば、解決法も見つかるのかもしれないというのに。
「どうして・…・」
「考えても答えは出ねぇよ」
突き放すようにイルダーナフは言い、それから鋭い目でカイルロッドを見た。
「いいか、王子。本体の方など気にするな。おまえさんの敵はタジェナに封じた一部のみ、
《あの方の一部》 って野郎だ。今まで野郎がおまえさんの前に現われなかったのは、おま
えさんという灯りが見えなかったからだ。だが、もう覆いはない。野郎は必ずやってくる。
強い光を目指して、近いうちにやってくる」
ほのも
金色の炎に照らされたイルダーナフの顔を、厳しい光がかすめた。
「… 近いうちって」
やみ
「閣とともにこ 今晩にでもくるかもしれねぇな」
口調こそさらりとしているが、イルダーナフの声には確信めいたものがあった。
「今晩…・」
のビ
カイルロッドは大きく喉を動かした。
《あの方の一部》がくる。
追い続けていたものが、今晩向こうからやってくるのだという。
思い出はいつまでも
「・・阜うか、今晩くるのか  」
ふる
カイルロッドの手からパンが落ちた。手に力が入らない。全身が震えていた。
か′、ご
「変だな…覚悟はできているはずなのに。それなのに身体が琴えてくる・。もっと先
のことだと思っていたから・・・だから・…・」
《あの方の一部》と甲っ覚悟はできているつもりだった。だが、あまりにも急すぎる。
「  急すぎる」
えたい
カイルロッドは震える手で口元をおさえた。《あの方の一部》という得体の知れない巨
たたカ
大な敵と甲っことよりも、「俺が負けたら、おしまいなんだ」、そのことが恐しかった。自
ぎせい
分という存在が多くの犠牲の上にあることを、カイルロッドは知っている。負けるという
ことは、その犠牲を無駄にするということだ。そして、人間の未来が断たれるということ
だ。
「もう少し、もう少し時間が欲しい」
せめて明日とカイルロッドは思った。明日になれば、闘う心構えもできるはずだ。
「だって俺は、絶対に負けられないんだ −」
つぷ
巨大な敵と、背負ったものの重さに潰されかけていると、
「恐えか、王子」
たんたん                    ぅなで      にじ
淡々としたイルダーナフの声がした。カイルロッドは無言で領いた。目には涙が渉んで
いた。恐かった。《あの方の一部》に負けられないことが、恐かった。
「そうか1・。俺も恐えよ」
酒瓶をあおり、イルダーナフはため息のように吐き出した。
「2・イルダーナフでもフ」
ぎようし
驚いて凝視すると、イルダーナフは苦笑したようだった。
「ああ、恐え。だからな、どっかへ逃げちまいたい気もするんだが、そうなると寝覚めが
h  とど
良くねぇ。で、仕方なく踏み止まっているわけよ。何事もそんなもんさ。俺なんざ、その
調子で三〇年だぜ」
じぎやノ、
自虐とおどけの混じった表情で片目をつぶり、
「なぁ、誰かのためになんて気負うこたぁねぇんだよ。気楽にいこうや、気楽によ。心構
えなんていらねぇ。てめぇにできること以上をしようなんて、そんなこたぁしなくていい
しよせん
んだ。どう無理したところで所詮、てめぇはてめぇにできる限りのことしかできねぇんだ
からよ」
イルダーナフは明るい口調でそう言い、空になった二本目の酒瓶を遠くに投げた。酒瓶
ほのお
は炎の中に落ち、澄んだ音をたてて割れた。
127  思い出はいつまでも
「自分にできる限りのこと、か」
カイルロッドはレイブンの言葉を思い出していた。
(人間はね、自分にできることをするしかないんだよ)
そう言って、カイルロッドを某っすぐに見たレイブンの目には強い光があった。こうし
たむ
て思い起こしてみると、あれはカイルロッドへの手向けの言葉だったのかもしれない。
「・・…そうだな。俺は俺にできることをするだけだ。それが今日であろうと、明日であろ
うと」
今日も明日も、もはや大差はない。いつかはくることだ、そして避けられないことなの
だ。
「その時に全力を尽くせばいい」
心の中の波が次第に凪いでいく。
ふる
全身から学えが止まっていた。カイルロッドは顔を上げ ー。
「あれ〜」
はげ
激しくまばたきした。イルダーナフの背中越しに、なにかが見えた。
「どうしたフ」
カイルロッドの視線を追って、イルダーナフが振り返る。
やみ
闇の奥でなにかが動いている。気のせいか、こちらへ近づいてくるようだ。
「魔物じゃないみたいだけど」
殺意や妖気は感じられない。しかし、強い力を感じる。「人間だろうかこ、カイルロッ
ドが見つめていると、
「あいつら!」
するど
いきなりイルダーナフが鋭く舌打ちした。
「あいつらP」
ひとかげ
カイルロッドがよくよく目をこらすと、闇を切り取ったように人影が近づいてくる。人
影は二人の男女1メディーナとエル・トパックだった。
「どうして二人がP」
ぎようてん
《第二の神殿》にいるはずの二人が、どうして地上にいるのか。仰天してイルダーナフに
那くと、
「知るかー俺より、当人達に訊け」
きげん
イルダーナフは吐き捨てた。いきなり機嫌が苦くなってしまったようだ。
「しかし、どうしてメディーナとエル・トパックが・…」
かみ
はっきりとわかるほどの距離にきた二人を見つめ、カイルロッドは片手で髪をかき上げ
29  思い出はいつまでも
た。
2
まさかメディーナとエル・トパックの二人が追ってこようとは予想もしなかった。思い
とまど
がけない客に、カイルロッドは戸惑っていた。が ー
「どうしてこんな場所にきやがったんだ、おまえは」
おやじ
「歳で耳が遠くなったようだな、親父。王子のことが気になったんだと、何回も言ってい
るだろう」
「メディーナよ、おまえが王子を心配したところで、なんになるんだ?」
むすめ
イルダーナフは、やってきた娘と「帰れ」「煽らない」 の言い争いをしている。
「メディーナ、俺はおまえのために言ってるんだぜフ 悪いこたぁ言わねぇから、とっと
と帰れ」
イルダーナフにしてみれば、娘の身を案じているのだろうが、メディーナはそれぐらい
で引き下がるような娘ではない。
「ここまで来た以上、意地でも帰らん」
断固抵抗の構えである。
..
親子暗嘩している二人からやや離れた場所で、カイルロッドとエル・トパックは手持ち
ぷさた
無沙汰に突っ立っていた。
「いつまでやってるんだろう」
のべおく lまのお
宙に浮いている青白い光を見ながら、カイルロッドはげんなりしていた。野辺送りの炎
はほとんど消えており、明かり用にとエル・トパックが光を飛ばしていた。それがカイル
ロッド達の周囲に五つ六つ、浮いている。
「そろそろやめてくれないかな ・」
・トー
ロの達者な親子なのだ。口論がいつまで続くか、わかったものではない。
「エル・トパック、止めてくれませんか?」
エル・トパックにすがったが、
「王子には止められますかっ」
にっこり笑顔で断られてしまった。カイルロッドは親子をテラッと横目で見、ため息を
うかつ
ついた。なるほど迂闊に口でもはさもうものなら、両方からかみつかれるだろう。
だま
「黙っているしかなさそうだ」
こわ
イルダーナフとメディーナにかみつかれるのが恐いので、口論に関してはカイルロッド
も沈黙を決め込むことにした。
「それにしても、二人ともよく《第二の神殿》を出られましたね。皆に引き止められたで
しょうっ」
..・Tlト
カイルロッドはともかく、イルダーナフがいなくなっただけでも大騒ぎだっただろうに、
ろうばい
メディーナとエル・トパックまで出て行くとあっては、神殿関係者はさぞや狼狽したこと
だろう。
「アクディス・レヴィなんか猛反対したんじゃないですかフ」
大神宮だけでなく、心強い味方が一度に二人も減るのだ。「俺だったら泣いてでも、引
ひかく
き止めるぞ」、などとカイルロッドが我が身と比較していると、
「最初は反対されましたが、話をしたらわかってくれましたので」
はほえ
エル・トパックは穏やかに微笑んだ。
「なるほど」
わめ
カイルロッドは苦笑した。この青年にかかれば、誰がどう泣こうと喚こうと、最終的に
は説得されてしまうだろう。穏やかに粘り強く、決して感情的にならず、理路整然とした
ハいたん
話し方をする。だからといって、冷淡でとりつくしまがないというのではない。
「でも、どうしてですか? アクディス・レヴィ達の制止を振り切ってまで、どうして
《第二の神殿杉を出ようと思ったんですフ」
思い出はいつまでも
まだ続いているイルダーナフとメディーナの口論を聞くともなしに聞きながら、カイル
ロッドは質問した。
「メディーナはミランシャの代わりに、王子を見ていなくてはならないと言いました」
「・ミランシャの」
なつ
懐かしい少女の名前に、カイルロッドは口元をほころばせた。
そは
「私はそんなメディーナの側にいてやりたいと思い、また、彼女同様にあなたを見ていた
いとも思いました。あなたがどこまで行くのか、どうするのか、私も見ていたいのです」
きんかつしよく
金褐色の目が、カイルロッドを正視した。エル・トパックの目には強い光があった。死
おも
にゆくレイブンがカイルロッドに向けたように、言葉にならない強い想いを宿した目だ。
カんこ
「まったく、どうしてこう頑固なんだ、おまえは」
とぎ
投げやりなイルダーナフの声がして、続いていた口論が途切れた。カイルロッドとエ
ル・トパックがそちらを向くと、イルダーナフが文字どおりお手上げになっていた。
「ガキの頃から、言い出したら絶刺に引かねぇんだからな」
「親を見習ったからな」
かみ な
メディーナは澄ました顔で、乱れた髪を撫でつけた。イルダーナフは「やれやれ」とぼ
やきながら、頭の後ろで腕を組んだ。さすがのイルダーナフも、娘相手では分が悪いよう
だ。
「イルダーナフもメディーナには勝てないんだな」
カイルロッドとエル・トパックが笑っていると、
「なに笑ってやがるんガ。エル・トパック、それもこれも、てめぇがしっかりしてねぇか
らだぜ。メディーナが《第二の神殿》を出ると言い出した時に、てめぇが引き止めてくれ
りやいいのに、一緒になって出てきやがって。情けねぇぞ。今から女の尻に敷かれてどう
する」
言い負かされた腹いせか、イルダーナフが八つ当たりした。
「イルターナフ、八つ当たりはみっともないんじゃないか?」
ここぞとばかりにカイルロッドは言ってやったが、エル・トパックは少し困ったように
笑っただけだった。
おやじ
「親父、エル・トパックに八つ当たりすることはないだろう!」
メディーナがイルダーナフに食ってかかると、
いや
「あー、嫌だ嫌だ。男ができると女ってやつは、とたんに変わりやがる」
まず
イルダーナフはとびきり不味い物を食べさせられたような顔をした。
わかぞう                 かん
「初対面からどうも気にくわねぇ若造だと思っていたが、娘を取られる父親の勘ってやつ
5  思い出はいつまでも
だったらしいな」
まがぶ
「親父− 真顔で馬鹿げたことを言うなー」
どな
顔を赤くしたメティーナに怒鳴られ、イルダーナフは「わかった、わかった」と、どこ
まで本当にわかっているのか知らないが、そう言った。
「言いたいことを言い合っているけど、仲がいいんだろうな」
ほバはえ
カイルロッドが微笑ましい気分でイルダーナフとメディーナを見ていると、
「さてと、それで、《第二の神殿秘の様子はどうだフ」
大神宮の顔で、イルダーナフがエル・トパックに質問した。
「アクディス・レヴィがなんとかしてます」
アクディス・レグィがウルト・ヒケウやロワジー達に頭を下げ、教えを乞うていると聞
いて、イルダーナフは小さく笑った。
「あの好やが、他人に頭を下げたのか。どうやら、すぐに神官長らしくなりそうじゃねぇ
か」
「私もそう思います」
うなず         うれ
肯いたエル・トパックは嬉しそうだった。
「よかった」
カイルロッドも安心した。イルダーナフもエル・トパックもいなくなって、アクディ
とはう
ス・レグィが途方にくれているのではないかと危惧していたのだ。
せいいつigい
「皆、自分にできることを、精一杯しているんだ。俺も自分の成すべきことを成さなくて
は」
カイルロッドは目を閉じた。
迷うまい。臆するまい。
ただ自分にできることをするだけだ。
カイルロッドは目を開け、
「イルダーナフ。これが最後の質問だ。俺にかけた封印をすべて解くには、どうすればい
いんだフ」
真っすぐイルダーナフを見た。
ほとんどの封印が解けたと、イルダーナフは言っていた。つまり、まだすべてが解けた
わけではないのだ。
すべてが解けたらどうなるのか ー
いつしゆん             どうよう
間接的なカイルロッドの問いに、ほんの一瞬だが、イルダーナフの黒い目に動揺が浮か
んだ。それを見て、カイルロッドはすべてを悟った。
思い出はいつまでも
「封印をすべて解くフ」
けげん               だま     さや ぬ
怪訝な顔をするメディーナの横で、イルダーナフは黙って背中の長剣を斡ごと抜き、カ
イルロッドの前に突き出した。
つか
「剣の柄に文字が彫ってある。それを口に出せばいい。言葉には力がある。それを言葉に
した時、おまえさんにかかっている最後の封印が解ける」
長剣を受け取り、カイルロッドは柄に彫られてある文字を見た。短い文字だった。
「わかった」
つぷや
それをロに出さず心の中で呟き、カイルロッドは長剣をイルダーナフに返した。
「親父、最後の封印とはなんだ? それを解いたら、どうなるんだフ」
ただならぬものを感じるのか、いつも冷静なメディーナに落ち着きがない。エル・トパ
ックも表情を曇らせているが、疑問を口に出す様子はない。
「親父−」
いりだ                    だま
苛立ったメディーナの声にも、イルダーナフは答えなかった。黙って、背中に長剣を戻
した。
カイルロッドもまた、イルダーナフに問わなかった。
その文字にどんな意味があるのか。
最後の封印とはなんなのか。
そして、解いたらどうなるのか。
カイルロッドはその答えを知った。
「そうか。そういうことなのか」
コ           .・イ.
心の中で独自し、カイルロッドはなんだか可笑しくなってきた。何故、今まで気がつか
なかったのか。「あんなに多くのヒントが転がっていたのに」、気がつかなかったのが不思
議なくらいだった。
「俺もあんまり頭がよくないからなぁ」
片手で顔をおさえて苦笑していると ー。
しようげきはし
凄まじい衝撃が弄った。
かみなり                             っ,Iぬ
真っ正面から、雷のような強い衝撃が弄り、カイルロッドの全身を貫いた。
「来たー1日こ
そう叫び、カイルロッドは正面を睨んだ。
「空が〓」
するど
メディーナが鋭い声を上げた。
しんく ぬ つ..                   かげ
暗かった空が、深紅に塗り潰されている。地上も、そこに落ちるカイルロッド達の影す
思い出はいつまでも
らも赤い。
「 ・」
のど   うな
カイルロッドは喉の奥で唸り声をたてた。
正面から凄まじいなにかが押し寄せてくるのがわかる。
力なのか、思念なのか。
つなみ
巨大な、息苦しいほどのなにかが、津波のように押し寄せてくる。そしてその奥から、
カイルロッドを呼ぶ声がする。
「ほぉ、ついにお出ましかい」
つぷや
イルダーナフが低く呟いた。その額には汗が浮かんでいた。
するどきんかつしよく       でうはく
エル・トパックは鋭く金褐色の目を光らせ、蒼白になって震えているメディーナの肩を
抱いていた。
「・・《あの方の一部》か」
かわ                    あつとう      ひぎ
カイルロッドの口の中は乾き、声はかすれていた。押し寄せてくる圧倒的なそれに、膝
ふる
がガクガタと震えている。
すご
「ずいぶんと凄い相手だったんだな。少し、楽観していたよ。ここまでこられたら、イル
めいわ′、
ダーナフ達が迷惑する。ここからは俺一人で行く」
、.                         ・  .
萎えそうになる気持ちを鼓舞しながら、カイルロッドは三一三言をはっきりと言った。
きんちよっ
イルターナフ、メディーナ、エル・トパックの顔に緊張がはしる。
「それじゃ」
あくしゆ
カイルロッドはイルダーナフの前に手を差し出した。別れの担手だった。
さかも
「帰ってきたら、酒盛りしようや。ルナン王城の酒蔵を空にするぐれぇな」
にぎ
人なつこく笑い、イルダーナフはカイルロッドの手を握った。大きな手だった。
「この手がいつも助けてくれた」
たたか
魔物と闘っていた時も、ミランシャを失って挫けそうになった時も、いつもこの事が支
えてくれていた。一八年、この手に守られてきたのだ。
「 − イルダーナフ。今まで、色々ありがとう」
、1                 1・・
大きな手を一度きつく握り、カイルロッドは手を離した。これから先は、この手なしで
たたか
闘わなくてはならない。どんなに苦しくとも、誰の助けもないのだ。
「さようなら」
えしやく
メディーナとエル・トパックに小さく会釈して、カイルロッドは大地を蹴った。
「王子−」
ふ        一じしやく
背中からメディーナの声がした。だが、カイルロッドは振り向かず、心の磁石が指し示
想い出はいつまでも
す方向へ走って行った。
ぎルばつ                           やみ
替れる長い銀髪は赤く、まるで全身に血を浴びたように見えた。赤い闇に飲み込まれる
ように、カイルロッドの後ろ姿が遠ざかって行く。
おやじ
「親父、王子を一人で行かせてしまっていいのかけ」
7
黙って見送っているイルダーナフに、メディーナは食ってかかった。
「親父なら、王子の力になれるはずだろうに。どうして一人で行かせてしまうんだけ」
だま
メディーナは声を張り上げたが、イルダーナフは黙っている。身じろぎもせず、カイル
ロッドの走って行った方向を見つめている。すでにカイルロッドの姿は見えなくなってい
たが、イルダーナフは動かない。
「親父が行かないのなら、代わりにわたしが行く。わずかでも王子の力になってみせる」
さえぎ
早口に言い捨て、メディーナは足を踏み出した。が、イルダーナフの長剣に行く手を遮
られた。刀身がギラリと赤い光を弾く。
「行くんじゃねぇ。おまえが行ったところで、王子の足手まといになるだけだ。メディー
だま
ナ、俺達にできるこたぁ、黙って見ていることだけだ。・もう、それしかできねぇんだ
よ」
イルダーナフの芦には、やりきれないものがあった。
「もう、俺にゃ、なにもしてやれることがねぇんだ…I」
せいかん             ちんうつ かげり
陽に焼けた精悼な顔には、いつか家で見た沈鬱な翳があった。それを見たとたん、メデ
ィーナは胸が締め付けられた。
「親父、王子は……」
そこまでしか声にならなかった。
王子は帰ってくるだろう ー フ
だいじようぷ
そう言いたいのに、声が出ない。「大丈夫、必ず帰ってくる」、そうイルダーナフの答え
が欲しいのに、声に出せない。
「・メディーナ。王子を見ていましょう。辛くとも二人で見ていると、そう約束したで
しょう?」
ふる                                          せきわん
震えているメディーナの肩を、エル・トパックが軽く叩いた。顔を向けると、隻腕の青
うなヂ
年が小さく頴いた。無理に笑みを見せているが、目には悲しみの色がある。
「エル・トパックも2…」
ぬぐ                                いち
メディーナ同様、拭いきれない不安を抱いているのだろう。そして見ているしかない苛
だ  11んめい おさ
立ちを懸命に抑えているのだ。
3  思い出はいつまでも
「そうだ。わたしはミランシャの代わりに、どんなことがあっても王子を見ていると」
うなヂ
イルダーナフ達と会う前のことを思い出し、メディーナは小さく領いた。
「惚れた男の言うことだけは、素直にきくんだな」
イルダーナフのからかうような声がした。
「大きなお世話だー」
こお
メディーナが身体ごと向くと、イルダーナフが剣で凍りついた地面になにやら描いてい
る。複雑な文様だ。
「結界ですね」
・・r
文様を見下ろし、エル・トパックが呟くと、イルダーナフは剣を鞠におさめた。
「見物席が必要だろうからな」
そして、メディーナとエル・トパックに中に入るよう仕草で合図した。メディーナが言
われたとおり結界の中に入ると、
1                                      7・J′
「王子にゃ黙っていたが、おまえには言っておかねぇといけねぇな。ゲオルディの婆さん
が死んだ」
結界の外で、イルダーナフがあっさりと言った。まるで天気の話でもするような調子だ
しんとう
ったので、しばらくの間、メディーナにはその意味が浸透しなかった。
「赤い山のゲオルディ様がお亡くなりにフ」
たルせh
結界の中で、エル・トパックも端正な顔に驚きを現わした。
「どうしてそんなことが親父にわかる」
サる
やっとその意味を理解し、メディーナは震える芦で言った。信じられなかった。あのゲ
オルディが死ぬなど、とても信じられない。
娘の呑めるような言葉に、イルダーナフは苦い笑みを見せた。
めんどう
「どんなに離れていようと、俺にゃわかるのさ。まったくひでぇ婆さんだぜ。後の面倒を
全部俺に押しっけていきやがった」
さすがに悪態も冴えない。言動には出ないが、イルターナフがその死を悼んでいるのは
確かだ。
「ゲオルディ様が  」
かわい
イルダーナフの養女ということもあるだろうが、メディーナはゲオルディに可愛がって
もらっていた。魔法や治癒術を教えてくれたのもゲオルディだった。
「死に目にあえないなんて」
うめ
それが無念で、メディーナが咋くと、
ぱあ                           まい一一こツ
「婆さんの死に顔が見たけりや、ルナンへ行け。早く行かねぇと埋葬されちまうぜ」
5  思い出はいつまでも
イルダーナフは素っ気なく言った。心は揺れたが、メディーナは頭を左右に振った。
「決めたことを投げ出して行ったところで、ゲオルディ様は喜ぶまい。見るべきものを見
とど
届けたら、ルナンへ行く」
こわ
「情の強い娘だぜ。まったく、託に似たのやら」
イルダーナフは苦笑し、
「それじゃ、これからおまえ達に事実を教えてやる。最初からすべてな。王子のことも、
フエルハーン大神殿のことも、なにもかもをだ」
表情を引き締めた。メディーナとエル・トパックは大きく息を吸い込んだ。
もはや赤いのは空だけではなかった。
この世のすべてが赤く染まっている。
じゆうおうもじんかみなりはし
その空の向こう、カイルロッドの走って行った方向では、縦横無尽に雷が弄っていた。
3
しんく やみ
深紅の闇の奥から、呼ぶ声がする。
わ がね
カイルロッドにだけ聞こえる思念だ。性別も抑揚もない、それが頭の中で割れ鐘のよう
に鳴っている。
(来よ、我が力)
《あの方の一部杉が、同じ一部であるカイルロッドを呼んでいる。
その思念に呼ばれるまま、カイルロッドは赤く染められた世界を走っていた。
たたか             げんか
「闘うといっても、ほとんど兄弟喧嘩みたいなものかもしれないな」
おか
そう考えるとなんだか可笑しくて、カイルロッドは走りながら小さく笑った。
タジェナに封じた《あの方の一部》に対抗するには、《あの方の一部》しかない。
それがフィリオリの、人間達のたどりついた結論だったのだ。そしてカイルロッドとい
う、もう一つの《あの方の一部》がこの世に生まれた。
なげ
そのことをT−−この世に生まれたことも理由についても、嘆くつもりはない。カイルロ
ッドは自分の存在の意味も、成すべきことも知っている。
「俺は、俺にできることをするだけだ」
イルダーナフ達に別れを告げてからずっと、カイルロッドは胸の中でその言葉を繰り返
していた。不思議なほど、心は静かだった。
「長いような、短いような旅だった」
つぷや
呟き、カイルロッドは一八年の人生を回想していた。人生は旅だと言う。石にされたル
ナンを出てからの旅は、カイルロッドにとってまさに人生そのものだったように思える。
思Ll出はいつまでも
「苦しいことも多かったけれど、楽しいこともたくさんあった」
なつ        かがや
イルダーナフとミランシャがいた頃の旅が懐かしく、そして輝いていたような気がする
のは、ミランシャの笑顔があったからだろう。
「思えば、あの頃が旅の間で一番幸せだったのかもしれないな」
.・ニ.−      、,・・
稲妻を視界の片隅に映しながら、カイルロッドはミランシャの笑顔を思い出していた。
怒ったり、拗ねたり、表情のよく動く娘だった。ミランシャはどんな時でも明るく、強か
った。
「いつも助けてもらっていたのに、俺はミランシャを助けられなかった。だから…・俺は
こうふい        あか ぼう
その後悔を、負い目を、赤ん坊のミランシャを幸せにすることで埋めようとしたのかもし
れない」
同じ名前の子供を幸せにすることで、少しでも心の負担を軽くしようとしているのかも
しれない。
「でも…・負い目であろうと、なんであろうと、あの子が幸せになるなら、俺はなんでも
する」
−・
なんでもするだろう。そのためなら失って惜しいものはなにもない。
「・ミランシャ」
むしやさ
セリに抱かれて、無邪気な笑顔で見送ってくれたミランシャのことを思い、カイルロッ
ドは泣いていた。
・−
何故涙が出るのか、わからなかった。悲しいのか、嬉しいのか、わからない。ただ、涙
が止まらない。
泣きながら、カイルロッドは走っていた。
じLやく
呼ばれるままに、心の磁石が指すままに。
せいじや′、
恐ろしいほどの静寂の中、聞こえるのは自分の足音と呼吸音、そして心臓の音だけだっ
た。
「生まれた時から、俺はずっと走り続けてきたのかもしれない」
もう一つの自分と闘うために。
そして勝っために −
「メディーナ、エル・トパック、俺を見ていてくれ。俺が弱くならないように、負けない
しか
ように。イルダーナフ、俺が逃げそうになったら叱ってくれ」
別れを告げたイルダーナフ達三人に心の中で話しかけていると、
ワァァン  。
しんどう
ふいに大気が震動した。カイルロッドは魔物の気配を感じ、立ち止まった。
思い出はいつまでも
ぽうちよう
と、正面にポッンと黒い点が現われ、それがみるみるうちに膨張し ー。
(カダー)
(オレノカニスルンダー)
ばくはつ      いつせい       お
爆発でもしたように、一斉に真っ黒な魔物達が押し出された。《あの方の一部》に群が
っている妖魔達が、カイルロッドという強い光をめがけてやってくる。さながら黒い霧の
ようだった。
「また魔物か」
まゆ
カイルロッドは眉をひそめながら、押し寄せてくる魔物達に向かって歩いて行った。
(オレガ食ウンダー)
(オレダー)
っめひらめ               おもかげ
牙と爪を閃かせた魔物達の中には、人間だった頃の面影を残しているものも多くいた。
すがたかたち
そればかりか、人の姿とほとんど変わっていないものもいる。が、姿形はどうであれ、も
はや人間ではない。
人間の心の中には魔物がいるl−1し
ごう
そして、人間の業や欲が魔物を生む。魔物は人間の鏡であり、影である1。
よみがえ
ザーダックの、そしてイルダーナフの言葉が耳の底に直る。
やみ
「己れの中の魔物に負けた者だ。 心の闇に負けないことの、なんと難しいことか」
深い悲しみを抱いて、カイルロッドは魔物達を見つめていた。
ジュツ。
〓正の距離に近づいたところで、魔物達が燃えた。まるで火に近づきすぎた羽虫のよう
に、次々と燃えていく。
ほのお
魔物達にとって、カイルロッドは強すぎる炎なのだ。食うことも、その力を吸収するこ
ともできない。
だがそれでも、魔物達はカイルロッドに近づこうとするのをやめない。その力に、光の
強さに目が眩んでいるのだ。
、こここ I L
黒焦げになっていく魔物達を、カイルロッドはいたましいと思った。やめろと言っても
むだ        むくろ         じゅぅたん
無駄だろう。おびただしい骸が、カイルロッドの前に黒い絨毯となって延びていく。
(ヨリ強イカヲ得ルタメニ)
(モット、モット強ク)
カイルロッドの強いカに引き寄せられ、魔物の数は増えるばかりだった。正面ばかりで
なく、後ろからも左右からも、四方八方から魔物達がなだれ込んでくる。そしてことごと
思い接はいつまでも
く、燃えていく。
もはやどれほどの数であろうと、魔物達はカイルロッドの敵ではない。
「もう止めろー おまえ達に俺は食えないんだー」
どな
たまらなくなって、カイルロッドは怒鳴った。魔物であろうとも、無意味に死ぬ姿を見
がまん
るのに我慢できなかった。
「近づけば死ぬだけなんだぞ、無意味なことをするな−」
っか                 つ
叫んだカイルロッドの足首を、なにかが掴んだ。視線を下に落とすと、地面から突き出
つか
た人の手が、カイルロッドの足首を掴んでいた。
(助けて)
(苦しい)
(死ねない。苦しい)
こが
紺く頼りない声が、木枯らしのように赤い大地の上を吹き抜けていく。
そしてその大地から、次々と人の腕が生えてくる。焼けただれた手、骨の剥き出しにな
..
った手、血だらけの手が、虚しく空を掻いている。
「死者達か」
ゆらゆらと、−風に紆れる枝にも似た無数の腕を見ていると、
(負の力が強は)
うご
(強すぎて、死者の安息までも撃う)
どしや お の
土砂を押し退けて、ぞくぞくと死者達が甘狙い出してきた。女も子供も、老人もいた。魔
がし            せいさん     もうじや
物に殺された者、餓死した者、正視に耐えない凄惨な姿をした亡者達が、ぞくぞくと地下
から這い出してくる。
カイルロッドの足首を掴んでいるのはまだ幼い少年で、頭の半分が吹き飛んでいた。
(せめて死なせてくれ)
(我らに安息を)
亡者達の姿に、カイルロッドは奥歯を噛んだ。《あの方の一部》は、その負の力で死者
の眠りをも妨げている。
はな
「手を離してくれないかフ すぐに楽にしてあげるから・…・」
つか
足首を掴んでいる少年に声をかけたが、手を離してくれなかった。
「仕方ないか」
苦笑し、カイルロッドはズボンのポケットから白い珠を出した。
じようか
「これで浄化ってできるのかな」
かがや
手の平の上に乗せると、白い珠が銀色に輝き始めた。カイルロッドは目を細めた。
53  思い出はいつまでも
やみ お の
光は強くなり、赤い闇を押し退けて周囲を照らした。
(ああ、楽になれる)
(ゆっくり眠れる)
光を浴びて、亡者達が消えていく。少年も消えた。亡者ばかりでなく、群がる魔物遠も
いつしゆん         もど
消えていく。消える直前、かつて人間だった魔物の顔に、一瞬だが人間の表情が戻った。
それを見て、カイルロッドもまた救われた気がした。魔物になった人間でも、人間に戻
れることもあるのだと、わずかだが光明を見た気がした。
− やがて、魔物も亡者も消えた。まるで初めからなにもなかったように、足元の黒い
むくろ
骸もなくなっていた。弱くなっているが、珠はまだ光っている。
「さすがゲオルディ様だ」
くだ
しきりに感心していると、手の平の上で音もなく珠が砕け散った。
「えっlフ」
ぎんくさhリ            くだ
驚いたカイルロッドの身体を、細かな銀鎖のように光が取り巻いた。「砕けた珠の破片
かけ」、そう思ったが、光はまばたき一つの時間で、消えてしまった。
「…ゲオルディ様フ」
こぶしにぎ       うめ                 けつしよう
拳を握り、カイルロッドは坤いた。イルダーナフは、この珠はゲオルディの力の結晶だ
と言っていた。それが砕け散ったのだ。
「ゲオルディ様になにかあったのではフ」
そんな不安が足元から温い上がってくる。
.んめ
「駄目だ、今はそんなことを考えちゃいけない」
カイルロッドは頭を振った。仮になにかあったとしても、カイルロッドが気にすること
を、ゲオルディも喜ばないだろう。
「ゲオルティ様のことは、ルナンに帰ればわかることだ」
つら
辛かったが、カイルロッドはその不安を無理やり振り切った。
せいじやくもど
魔物も亡者も消え、再び静寂が戻った。そして、またあの思念が聞こえてくる。
(来よ、来よ)
やみ        てまね
闇の中からなにかに手招きされているような、そんな気味の悪さを覚えながらもカイル
ロッドは赤い大地を歩いていた。
「このまま、真っすぐだ」
真っすぐに進めばいい。そこに《あの方の一部》がいる。
じしやく
磁石に吸い寄せられる鉄砂のように進んでいくと、
「   −   Pこ
ふいにカイルロッドは視線を感じた。魔物の視線ではない。敵意や悪意といった、明快
ねんえきしつ
な意識をのせた視線ではない。もっと粘液質で、冷たい視線だ。
「どこから見ているけ・」
立ち止まり、カイルロッドは周囲を探った。しかし、どこから視線がきているのか、わ
はな
からなかった。そうしている間も、その視線はカイルロッドから離れない。
「俺が探してもわからないなんて」
こきぎ  ふる       たい
カイルロッドはゾツとした。指先が冷たくなり、全身が小刻みに震えている。魔物と対
略した時ですら、こんなことはなかった。
「 こ見られているだけなのに、身体が震えてくる」
おそ
離れない冷たい視線に、カイルロッドは恐怖を感じていた。その視線を何故恐れるのか、
りノ1つ
よくわからない。理屈ではなく、本能的に感じるのだ。
「こんな馬鹿な」
カイルロッドは歯を食いしばった。自分が信じられなかった。
たたか             ぷ つぷ
「闘う以前に、対峠する前から恐怖で押し潰されそうになるなんて」
けんめい
懸命にこらえているのに、心の奥底からわきあがってくるのだ。それは誰に植え付けら
れたものでなく、人間が生まれながらに持っている原始的な恐怖だった。
「負けてたまるか」
息苦しさを感じながら、カイルロッドは歯を食いしばって、心の中でそれを呼んだ。
出・て:」・い −
1ナものほっこう
カイルロッドの声に応えるように、大気が鳴った。強い風が吹きつけ、獣の晦噂に似た
h・
音が響き渡った。
地鳴りがして、足元の大地が割れた。
きれつ
亀裂が大きく広がり、平地だった場所に段差がついていく。
「来る〓」
つ                     きんちよう
突き上がっていく岩の上で、カイルロッドは全身を緊張させた。
底知れぬ力がやってくる。
Jきつ      かたまnり
恐怖と絶望をつれて、不吉で巨大な力の塊がやってくる1。
カッ。
いくすじ  いなヂま    はし   いっしゆんしんく
降り注ぐ雨のように、幾筋もの稲妻が下へと葬った。一瞬、深紅の世界が白く照らされ
た。
「・  〓」
しようげき                  っりぬ
衝撃が電流のように、カイルロッドの身体の中を貫いた。
57  思い出はいつまでも
いわだな                      かわ
ご悠棚の上で、カイル。ッドは張り裂けんばかりに目を見開いた。口の中が乾き、全身が
震えて声が出ない。
稲妻の消えた空は、前より赤味を増していた。血の色より赤い夜空に、それが浮かんで
いる。
どノヽろ
黒銀色をした巨大な三面の腐骨。
もうきん   けもの
正面に人間の、右に猛禽、左に獣の閣僚のついたそれが、深紅の夜空に月のように浮か
ぎようし
び、カイルロッドを正面から凝視している。
「あの視線だ…・」
カイルロッドの背中を冷たい汗が流れ落ちた。
7
「ムルトなどとは力の格が違う」
たいH
ガチガチと、歯の鳴る音が聞こえる。それはカイルロッドのものだった。対時している
すき
だけで、その力の凄まじさが伝わってくる。その力に大気が、大地が、わなないている。
「ううっ… 」
あつとqノ
正面の巨大な解像に、《あの方の一部》に、カイルロッドは圧倒されていた。
ほろ         かたまり
かつて世界を滅ぼしかけた負の力の塊は、さらに巨大な存在となって現われたのだ。
たたか
「闘わなくては一
がんか
心はそう命令しているのに、身体が動かない。濁襟の眼寓に射すくめられたように、指
一本も動かせない。
くlぎ がんか            やみ
落ち窪んだ眼寓の奥にあるものは、底知れぬ闇だった。人間の心の闇、狂気と絶望の闇
だった。
ゆが
カイルロッドは息苦しさに顔を歪めた。向かい合っているだけで息苦しく、全身が締め
お           きようふは
付けられるようだった。このまま狂気と絶望の中に堕ちるのではないか、そんな恐怖が這
い上がってくるのだ。
「・・なんてことだ−」
にじ          ぬ
カイルロッドの全身に冷たい汗が渉んでいた。少しでも気を抜けば、精神と身体が引き
たちフ
ちぎられてしまうかもしれない。ゲオルディが、イルダーナフが、神殿関係者達が太刀打
なつとく
ちできなかったのも納得できる。
きよぺノふ
《あの方の一部》とは、恐怖と絶望そのものだった。
「くそっ …」
かなしば
かつてない巨大な敵を前に、カイルロッドは恐怖に金縛りにされていた。
4
(待っていた、我が力よ)
す         ひぴ         うヂ
錆びた鉄を擦りあわせたような思念が響き、カイルロッドは奥歯が軽くような不快感を
よど
覚えた。露骨な敵意や悪意は感じられないが、暗いものを奥底に淀ませた思念だ。
「俺は勝てるのだろうか…こ」
どくろ                  しんしよく
黒銀色をした巨大な覇懐を前に、そんな不安がカイルロッドを侵食していく。
「これほど巨大な力に、恐怖と絶望と闘って・・」
ひぎ           りんめい
カイルロッドは下に膝をつきそうになるのを、懸命にこらえていた。ここで膝をついて
しまったら、二度と立ち上がれなくなるだろう。闘わずして白旗を掲げることになるのだ。
いや
それだけは嫌だった。
「だが、一人で闘って勝てるのか?」
カイルロッドは自問した。
きんき                      でノ
禁忌の部屋にいた青年は、人間の身でこの巨大な敵をタジエナに封じ込めた。しかし、
青年には聖剣があり、《古いもの》達といった多くの手助けがあったのだ。
だが、カイルロッドには誰の手助けもない。ゲオルディやイルダーナフもかなわない相
思い出はいつまでも
手に、ただ一人で立ち向かわなくてはならないのだ。
「負けられないのに。大勢の人々のために、ミランシャや子供達の未来のために負けられ
ないのに」
号つナん             ムえ
一人で立ち向かうことの絶望が、双肩に重くのしかかり、カイルロッドは喘いだ。
「・・息が」
ぁっはくかん                 きようは1
筒牌の圧迫感と、一人で闘って勝たなくてはならないという己れへの強迫観念で、カイ
お つ.−
ルロッドは押し潰されそうになっていた。
冷たくねっとりとした汗が全身にまとわりついていた。頭の奥が鈍く痛み、息苦しさで
視界がかすれてきた。
(我が力よ。これほど強い力が地上にあったことに、私は驚いている)
しょぅげきは              しんどう
憫健の思念が弱い衝撃波となって広がり、かすかだが大地の表面が震動した。カイルロ
しオ′な みぶる
ッドの立っている岩棚も身震いしたように震え、それが足の裏に伝わってきた。
ぜいじや、
(だがその力は、脆弱な精神しか持たない人間の身には不相応と言わねばなるまい)
たんたん
その思念は淡々としており、単にありのままを述べているという感じだった。が、左右
けものもフきん ど′、ろ
にある獣と猛禽の爾健の口が動き、カイルロッドには鳴ったように見えた。
ぜいじやく
「脆弱な精神だと・」
つか         ぅめ          たたか
苦しさに胸元を掴みながら、カイルロッドは岬いた。蘭健は鳴っているのだ。闘うどこ
あつとう
ろか、圧倒されて手も足も出ないカイルロッドを瞳っているのだ。
「負けてたまるかー」
身体の奥底から怒りが噴き上げた。それは濁贋に対するものでなく、自分自身に対する
怒りだった。
「闘う前から圧されて弱気になっているなんて、俺にすべてを賭けた人々に申し訳ないじ
ゃないか」
はめつ
カイルロッドという存在をこの世に送り出すために、きたるべき破滅を防ぐために、フ
イリオリは持てるものすべてを失った。
轡っことを宿命づけちれた子供のために、サイードやダヤン・イフェはどれほど心を痛
めたことだろう。そして、巨大な敵の前までカイルロッドを導き、見送らねばならなかっ
たイルダーナフの心情は、いかばかりだったか。
「俺は負けない。俺は一人なんかじゃないんだ」
ここにはいなくとも、心の中に大勢の人々がいるのだ。
あつとlノ
「濁健に圧倒されて、そんなことまで忘れていたなんて」
カイルロッドをがんじがらめにしていた恐怖と絶望が消えた。
思い出はいつまでも
ととの
カイルロッドはゆっくりと呼吸を整え、正面の閣僚を附みつけた。
し−ぎよう
異形の月のように浮かぶ礪健。
おそ                   しんえん         きようか
やはりまだ恐ろしいと思う。向かい合っただけで、深淵を前にしたような恐怖を覚える。
ぬぐ
それは拭いきれない本能的な恐怖だ。
「だが、それに負けるわけにはいかない」
しった
カイルロッドは己れを叱咤しながら、閣僚に向かって声を張り上げた。
あが
「大昔、フエルハーン大神殿の神官達が崇めていた《あの方》の一部を、おまえをこの世
がわ
へ呼び寄せたと聞く。おとなしく、あちら側へ去ってくれないか」
この期に及んで甘いことをと、イルダーナフにはせせら笑われるだろうが、カイルロッ
ドはどんな敵であっても、問答無用で斬りかかっていける人間ではなかった。
「俺の力がほしいと言うのなら、くれてやる。それで去ってくれるなら、俺はどうなって
もいい。だから」
−フつた
去ってくれと、カイルロッドは必死に訴えた。だが、閻倭は無言だった。もしかしたら
聞いていないのかもしれないと思いつつ、カイルロッドは言葉に力を入れた。
えいきよう               ほろ
「おまえの負の力の影響で人間達は、いや生物すべてが滅びかけている。俺は生物に滅ん
でほしくない、死んでほしくないんだ。俺は生物が、人間が好きなんだ。だから、これ以
上人間を苦しめないでくれI」
こんがん          とつぜん とくろ
カイルロッドの懇願がこだました。と、突然、蘭贋に変化が起きた。
ほのお
閣僚が青白い炎に包まれたのだ。
同時に、カイルロッドの全身の毛が逆立ち、血が逆流した。
ゴゴゴッ。
きれつ                    くだ     かたまり
大地が大きく揺れ、亀裂はさらに広がっていった。風が荒れ狂い、砕けた岩や土の塊
を舞い上げ、吹き飛ばしていく。
つ1て
飛礫のように飛んでくる石や岩の破片を払いながら、カイルロッドは青白い炎に包まれ
ぜーよ,つし           かみ
た慣健を凝視していた。強い風に髪や衣服がバサバサと揺れる。
「なんて憎悪だ・・…」
憫健を包んでいる炎は憎悪だった。あまりにも強く、あまりにも軌しい憎悪だ。
みじん
「少し前まで、微塵もそんなものを感じさせなかったのに」
それがどうだろう、この凄まじいばかりの憎悪は。「よく今まで押し殺していられたも
ゆが
のだ」、カイルロッドは顔を歪めた。気を抜いたとたん、心も身体も引き裂かれそうだっ
た。それほど強い思念、憎悪だ。
「  引き裂かれそうだ」
5  思い出はいつまでも
カイルロッドが必死に歯を食いしばっていると、
(この世界から去るわけにはいかない)
こお          ひび
背筋を凍らせるような濁健の思念が響き渡った。
(私は憎悪であり、滅びである。すべての生物に滅びを送るものである)
強い風の音を裂いて、閣僚の思念が大気を打った。
なぜ
「何故だn なにをそんなに憎むんだlフ」
ヵィルロッドは倒健に向かって、あらん限りの声で叫んだ。これほどの憎悪はどこから
くるのか、なにをそんなに憎むのか。自分と同じ宗の方の一部》のことを、カイルロッ
ドは知りたかった。
「何故…I〓‥」
とちゆう                       はし         しようけさは
言葉の途中で、カイルロッドめがけて濁倭からなにか弄ったのが見えた。衝撃波だろう。
本来は目に見えないものが、今のカイルロッドにははっきりと見える。
「くつ!」
えいり はもの
鋭利な刃物にも似たそれを避け、カイルロッドは上に飛んだ。
いわだな ば′、lよつ
衝撃波を受け、カイルロッドの立っていた岩棚が爆発したように砕けた。そのまま弄っ
つめあと
た衝撃波は大地を深くえぐり、深い爪痕を残した。
「なんて力だ」
足の下の大地の様子に、宙に浮いたままカイルロッドは舌打ちした。衝撃波をまともに
くらっていたらと考えると、いまさらのように寒気がした。
はめつ
(私が望むものはすべての破滅。欲するは強い力。我が力よ。私の一部となり、私の望み
かな
を叶えよ)
錆びた金属を擦り合わせたような思念を、カイルロッドは大声で払いのけた。
..・
「おまえの望みなど叶えさせてたまるかー」
それから両手に意識を集中させた。《あの方の一部》である薗健は、破滅と滅びそのも
のなのだ。
「話し合いになどならない相手だ。一刻も早く倒すしかない」
放っておけば、破滅が広がっていくだけだ。カイルロッドの両手が銀色に光り始めた。
(おとなしく私の一部とな指がいい)            かたま。
闇倭の正面では、大気が渦を巻き始めた。赤黒い渦だ。舞い上がっていた岩や石の塊が、
吸いこまれていく。
渦はみるみるうちに大きくなり、儲健の下半分を憶した。吸い寄せられそうになりなが
ら、カイルロッドは飛んで渦の正面に移動した。あれほど苦手だった「飛ぶこと」が、今
思い出はいつまでも
は走るよりも自然にできる。
「生物を、人間を滅ぼすわけにはいかないんだ」
カイルロッドは渦の中心に向かって、思いっきり両手を突き出した。
やみ        がんか
赤黒い渦の中心には闇があった。憫健の眼官にも似た闇、虚空がぽっかりと口を開けて
いる。
「消えろ ー 〓」
せんこう はし        お 11   きようれつ
叫ぶと同時に、両手から銀色の閃光が弄った。赤い闇すらも押し退ける、強烈な閃光だ
った。
つらぬ
閃光は渦の中心を貫き、その後ろにいる閣僚を直撃した。
「やったー」
いつしゆん
カイルロッドは思わず叫んだ。が、それは一瞬の喜びでしかなかった。カイルロッドの
放った光を受けても、閣僚に変わりはなかった。
「くそっ」
どうよう                                 こんしん    ふ  しは
動揺したが、カイルロッドはすぐさま立ち直った。そして渾身の力を振り絞って、再び
光を放った。
lで卜.一、.             ・..            ..
赤い闇を切り裂き、青銀色の光が渦の中心に突き刺さる。力の強さを物語るように渦が
消え、育銀色の光は矢となって儲懐に刺さった。
「今度こそはー」
こかしにぎ
カイルロッドは両の拳を握りしめた。いくら《あの方の一部》でも、無傷ではいられな
いはずだ。「本気で力を放ったんだから」、カイルロッドには自信があった。
だが −
憐贋には傷の一つもなく、消えた渦もまたすぐに現われた。
「まったく効かないのかけ」
がくぜん
愕然としたカイルロッドだが、さらに恐ろしいことに気がついた。
黒銀色だった閣僚が、ゆっくりと銀色に変わっていくではないか。
「  どうい_つことだ」
うめ
咋いたカイルロッドに、
(たいした力だ。私をいよいよ強くしてくれる)
わり                    そっお    しんく
礪懐の喋いを含んだ思念が聞こえた。冷たく冴えた銀色の儲健が、憎悪をまとって深紅
の空間に浮かんでいる。
「力を吸収されているんだ」
うかつ
カイルロッドは全身をわななかせた。迂閥だった。儲億が欲しているのはカイルロッド、
9  思い班はいつまでも
こうげき     どくろ   あた
すなわち力だ。力を使って攻撃することは、倒健に力を与えるだけなのだ。
ほめつ
(そして私はこの世に破滅を与えるだろう)
おお かく
渦はゆっくりと大きくなっていき、閣僚全体を覆い隠した。
やみぽうらよう              ぬ か
渦の広がりとともに、中心の闇が膨張していく。深紅の空間が次第に、闇に塗り替えら
れていく。
「飲み込まれたらおしまいだ」
カイルロッドは逃げていた。しかし、カイルロッドを追うように、渦は広がっていく。
むだ
(逃げても無駄だ。渦は広がり続け、やがて世界を飲み尽くすだろう)
渦に隠されて見えなくなった燭健が口を開けて喋っているようで、そんな姿を連想して
カイルロッドは気分が悪くなった。
おれ
「俺をからかっている」
カイルロッドを飲み込むつもりなら、もっと強い力で吸い込めばいい。もっと早く渦を
広げればいい。それなのに、吸い込む力は弱く、渦の広がりもゆっくりしたものだ。
つか       あくしゆみ
「逃げられるだけ逃がして、ゆっくりと捕まえるつもりか。悪趣味な」
ねずみ
猫が鼠をいたぶるように、儲健はカイルロッドをいたぶっているのだ。
うず
「逃げていても、いずれは飲み込まれる。それに、これ以上、渦を広げるわけにはいかな
い。だが、力を使わずに、どうやって倒せばいい?」
ほは  あご       ぬ′、           あわ
頬から顎までつたった汗を拭いもせず、カイルロッドは慌ただしく考えをめぐらせてい
た。
「こうなったら」
さや     いの
カイルロッドは短剣を鞠から抜き、祈りをこめて渦の真ん中に投げつけた。所持してい
る物で力があるのは、短剣と指輪だけだ。
たの
「頼む、あの渦をどうにかしてくれー」
いだい
すがる思いで、カイルロッドは渦に向かう短剣を見ていた。かつて「魔術において偉大
なる者」ウルト・ヒケウだったゲオルディからもらった短剣なのだ。
「まったく効果がないということはないはずだ」
むな                 くだ
しかし、カイルロッドの期待も虚しく、短剣は渦の中心に刺さる寸前で、砕け散ってし
まった。
「……短剣が」
悲しげな金属音を聞きながら、カイルロッドの全身から血の気が引いた。ゲオルディの
短剣すら役にたたない。
(弱い力だ。吸収するに値しない)
71 思い出はいつまでも
渦はさらに広がる。
「どうすればいいんだフ・」
ぽうぜん
カイルロッドは呆然としていた。力は吸収されてしまうので使えず、ゲオルディの短剣
すペ
は砕け散った。もうなす術がなかった。
はぎし
歯軋りしているカイルロッドの前で、渦は広がっていく。
5
しょぅげき               きれつ
衝撃が空を貰わせ、地平線から無数の亀裂が生物のように大地を奔り抜けていく。
ぞつお
憎栗が衝撃となって伝わってきた。
「凄まじい憎悪だ」
とりlまだ                  ゆいいつ  こんせき
結界の中でメディーナは鳥肌をたてていた。亀裂だらけの大地の上で、唯一その痕跡の
ないのが、メディーナ達のいる結界だった。
おやAじ
「親父の結界の中にいなかったら、わたしなど衝撃波で引き裂かれていたに違いない」
きようれつ
切り裂かれた画布のような大地を見、メディーナはゾツとした。それほど強烈な憎悪で
あり、想像を絶する力なのだ。
おそ
「フエルハーン大神殿の関係者達が恐れたのも無理はありませんね。これほどの力だった
とは」
ゆ        つか         くちぴるか
揺れる右袖をきつく掴み、エル・トパックは唇を噛んだ。
たたか
「どうやら関っているみてえだが」
きぴ     しようげき
そこで言葉を止め、イルダーナフは厳しい表情を衝撃のきた方向に向けた。
「・・王子」
メディーナもその方向を見つめた。
空も大地も赤く塗り込められ、深紅の世界が広がっている。ただただ赤く、他にはなに
も見えない。
が、それは常人の目に映る光景であって、メディーナ達のような「力ある者」 の目に映
る光景は、やや異なっている。
か           ほのぶ  まわ
深紅の世界を縦に割るように噴き上がっている青白い炎、その周りで時折弄る青銀色の
せんこう
閃光 − カイルロッドと敵の闘いの一部をとらえていた。
「あの下で、カイルロッド王子は闘っているのだ。底知れぬ憎悪と恐怖を相手に、たった
一人で……」
メディーナは片手で口元をおさえた。メディーナもエル・トパックも、イルダーナフか
ら「真実」を教えてもらっていた。
思い出はいつまでも
抹殺された英雄のこと、タジエナに封じられていたのは《あの方》本体でなく、その一
部であること、神殿関係者達の苦悩もフィリオリのことも知っている。
「何故《あの方》本体を放っておくのだフ」
本体を放っておいて、一部だけに目くじらをたてるのは何故なのか。メディーナの質問
に、
「王子にも言ったことだが、おそらく、本体には負の力などない。そして、本体は敵でも
味方でもない。一部のみが負の力を持つ敵だ」
イルダーナフはそう答えた。その意味をメディーナは問わなかった。敵が《あの方》本
体であろうが、その一部であろうが、もはやメディーナには大差ない。
「呼び名が変わっただけで、その強大さは変わらないのだから。 なんでもできる男と
おやじ
呼ばれ、大神宮候補であった親父ですら、重責に負けた。……ガから、カイルロッド王子
が生まれたのだ」
かく
メディーナは養父の横顔を見た。イルダーナフは自身のことも隠さずに語ってくれた。
本名がカイルロッドであり、《あの方の一部》を倒すために、ゲオルディに育てられたこ
とも。
たんじよう
「親父やフィリオリは、どんな思いでカイルロッド王子の誕生を迎えたのだろう」
・1 1   −
イルダーナフはどんな思いで、自分の本名をフィリオリの息子に与えたのだろう。そし
て、その子供を残して逝lかねばならなかったフィリオリは、なにを思ったのか。
「…・わたしにはわからない。わたしは親父のような重責を負ったこともなく、また、フ
イリオリのようになにかを得るために、己れのすべてと引き替えにしたこともない」
せんたノ、
真実を知るがゆえに、イルダーナフとフィリオリは非情の選択をするしかなかった。メ
ディーナはそんな両者を気の毒だと思う。
「しかし、一番気の毒なのはカイルロッド王子だ。いかに愛されて育ったとはいえ、結局
たたか
カイルロッド王子は《あの方の一部》と轡っために、そのためだけに生まれてきたのでは
ないか」
人々のために、世界のためにと、どう言葉を連ねてみたところで、結局カイルロッドは
いきどお
道具にされただけだ。だが、今のメディーナにはそうした憤りよりも、カイルロッドへの
れんぴん
憐憫の方が強かった。
別れを告げた時のカイルロッドの笑みを思い出し、メディーナはきつく唇を噛んだ。あ
れはなにもかもを知り、それを受け入れた笑みだった。
でついル
「最後の封印を解いたらどうなるか、王子は知っている。にもかかわらず、王子は自ら最
後の封印を解くだろう」
75  思い出はいつまても
メディーナは確信していた。言葉には出さないが、イルダーナフもそう確信しているは
ずだ。
たお
《あの方の一部》を倒すために、カイルロッドはためらいなく封印を解く言葉を ー 正し
くは名前をロにするだろう。かつての英雄、カイルロッドと同じ顔の青年の名前を。
「親父、エル・トパック。もし王子が最後の封印を解いたら・・。その時、わたしに力を
貸してくれないか7」
・・
決意し、メディーナは二人に頼んだ。
「なにをするつもりだフ」
いつしゆんまゆ              りげん
イルダーナフは一瞬、眉をひそめた。エル・トパックも怪訝な顔をした。
「わたしも、わたしにできることをしまうと思って」
そんな二人にメディーナは微笑みかけた。イjダーナフは苦笑しながら、なにも追及せ
うなヂ
ずに「わかった」と言ってくれた。エル・トパックも領いてくれた。
「わたしの、一生に一度の賭けだ」
っぷや       するど     ほのお
心の中で呟き、メディーナは鋭い目を青白い炎に向けた。
しょうげきとつぷう
再び、衝撃が突風となって吹きつけ、石や岩の柵かな破片を吹き飛ばした。
しへどマノ
衝撃は大気と地表のみならず、地下をも震動させた。
さながら、上からなにか巨大なものが落ちたような衝撃だった。地中にぽっかりと開い
1・
た巨大な洞がドーンと大きな音をたてて揺れ、それはそのまま洞の中にある円形の都市に
伝わった。
「地震かP」
アクディス・レヴィは勢いよく書物から顔を上げた。街の中心にある建物の一室で、ウ
ルト・ヒケウやロワジー達から、神官長として必要なことを教わっている最中だった。
「衝撃がきたのは上からだな。地震にしては妙だが」
のんき つぶや
長机をはさんでアクティス・レグィの向かいの席にいるロワジーが、呑気に呟いた。
「まだ揺れているようだが」
いす                           ゆか
椅子から立ち上がり、アクディス・レヴィは室内を見回した。床の上には調度品や、長
机の上に積んであった書物が落ちている。
「 ここれは地震じゃない」
てルじよう
天井付近に浮いているセリが、か細い声で言った。
たたか
「・I王子が関っているの」
セリの呟きに、長机の端に腰かけているリリアとアリユセが表情を曇らせた。
「カイルロッドが・・・」
まゆ
アクディス・レヴィは眉をひそめた。ロワジーやウルト・ヒケウに教えられ、今ではア
たんじよう
クディス,レヴィも、ある程度はカイルロッドのことを知っている。カイルロッドの誕生
するまでのことや、課せられた重荷を。
ふう
「地上でカイルロッドは、タジェナに封じられていた《あの方杉と関っているのか」
すべ
地上でどんなことがおきているのか、地下にいる身には知る術もない。また知ったとこ
ろで手助けすることもできない。アクディス・レヴィは力を持たない者だ。
「俺にできることはこの地下都市を守る努力をするだけだ」
ドーン。
二度目の衝撃が《第二の神殿》を大きく揺らした。
立っていたアクディス・レヴィはよろけ、リリアとアリユセが机の上から数センチ浮い
た。
つぷ
「おいおい、このまま《第二の神殿》が潰れるなんてことはないんじゃろうな」
長机の上に積んである書物をおさえながら、やや不安げにロワジーが浮いているセリを
見上げた。
「そんなこと、ない」
セリが首を左右に振り、
「ウルト・ヒケウの結界はこの程度では破れませんー」
そろ  どな
リリアとアリユセが声を揃えて怒鳴った。
「はい、わしが悪うございました」
しか
孫に叱られた老人のように、ロワジーが身体を小さくした。
ドーン、ドーン。
たてつづけに衝撃がきた。
「街の人々が心配だ・ 」
はし っか               つぷや
机の端を掴みながら、アクディス・レヴィは呟いた。結界が破れる心配はないとはいえ、
きようふ         じゆう.一ん
この衝撃は人々の不安と恐怖をかきたてるには充分すぎるものだ。
「神官長、注意した方がいいわよ」
ろ、フか        ひげ   あわ
リリアが厳しい表情をした時、廊下から複数の足音が響いた。慌ただしい足音は非常時
であることを語っていた。
とぴら
アクディス・レヴィが扉に顔を向けると、
「神官長−」
複数の神官達とティファが息せき切って、室内に駆け込んできた。
「何事だー」
アクディス・レヴィが問うと、
さわ         きみよう Lんどう
「街の人々が騒ぎ始めました。この奇妙な震動は何事かと、どうなっているのかと」
うつた
まだ若い神官が泣きそうな声で訴えた。
「やはりきたか」
ロワジーはうんざりした顔でぼやき、窓の方へ向かった。建物の外から人の声が聞こえ
てくる。不安にかられた人々が、大神宮に説明と救いを求めてやってきたのだ。
「  人々を宥めなくては」
大神宮のいない今、その代理を勤めるのは神官長の役目だ。アクディス・レウィは部屋
ふる
の外へ出ようとした。が、足が震えて動かない。
「だが、俺が大神宮様の代理として出て、人々が言うことを聞いてくれるだろうか  」
なにごとも経験だと言うが、アクディス・レヴィにはとても自信がない。なにを言った
しよせん         わかぞフ  わン
ところで 「所詮は金で地位を買った若造」と噛われるだけではないのか。
「俺には大神宮様の代理など勤まらない」
・.1 ...
アクディス・レグィは付き人として、フェルハーン大神殿でイルダーナフの説教を間近
こわね
で見聞きしていた。人を引き込まずにはいられない声音、話し方、その言葉の奥深さは、
思い出はいつまでも
ま1、‘
とてもアクディス・レゲイには真似のできないものだ。
「俺はどうすればいいんだ?」
かつとフ
アクディス・レウィが葛藤していると、
「あー、先頭にいつものやかましい人がいる」
やついつの間にか窓にはりついたセリが、外を指差した。窓の前にいたロワジーは「あんな
奴は見たくない」と、クルリと窓に背を向けた。聞いていたリリアとアリユセ、ティファ
いや
おけレ
が心底嫌な表情をした。やかましい人とは、言わずと知れたアクディス・レヴィの叔父、
ゼノドロスである。
せんどう           さわ   やつ
「またあの男が扇動したのか。まったく、どこででも騒ぎを起こす奴だな」
吐き捨てるようなティファの声を聞きながら、アクディス・レヴィは無言でこめかみを
引きつらせていた。
「ところで、神官長。この騒ぎをどうするつもりかなっ・」
はな
窓から離れ、ロワジーが少し意地の悪い目でアクディス・レゲイを見た。問われ、アク
ディス・レヴィは名案を思いついた。
なだ    たの
「そうだ、ウルト・ヒケウ様に人々を宥めてくれと頼もう。その方が人々も安心するはず
だ」
その名案を口に出しかけ、アクディス・レヴィは我にかえった。
「俺は こ大神宮様の代理を勤めると、そのために協力してくださいと、俺はそう言った
んじゃないか」
いくら弱気になっているからとはいえ、もう少しで大神宮の、そしてウルト・ヒケウや
ロワジー、ティファや神官達を裏切るところだったのだ。
「俺はなんと情けない人間なのだろう。こんなことで弱気になってどうする。カイルロッ
ドに比べたら、俺のすることなど簡単ではないか」
底知れぬ化物と闘うのではない、人々に説明するだけなのだ。大神宮のようにできなく
.ル一ざiれ
ば、自分なりに努力すればいい。みっともなくても、どんなに不様であっても、わかって
もらえるように説明すればいい。
「大神宮様の代理として俺が人々の前に出て、事情を説明します」
アクディス・レウィは強い芦で言った。
「そうか」                      かつとう
ロワジーは笑った。三つ子も笑った。彼らはアクディス・レヴィの心の葛藤などお見通
しだったろう。しかし、口を出すことなく、静かに決定を待っていてくれたのだ。
「大至急、集まった人々を建物前の広場に集めてくれ。そこで説明する」
思い出はLlつまでも
とげら         ふる
若い神官にそう命じ、アクディス・レヴィは扉へ歩きだした。だが、足の学えはまだ止
まらない。
「我ながらみっともないことだ」
じちよう
出て行く若い神官の姿を見送り、アクディス・レヴィは自嘲しながら、開いた扉の横に
立っているティファに近づいた。
たの
「ティファ、頼みがあるんだが」
「なんですフ」
けげん
ティファが少し怪訝な顔をした。アクディス・レグィはティファの前で止まり、
「正直なところ、俺は大神宮様の代理として人々の前に出るのが、恐くてたまらないのだ。
この部屋を出て、俺が逃げ出してしまわないように、あの時のように励ましてくれない
か?」
けんめい
成功したかどうかわからないが、懸命の努力で笑みを作った。
「あの時、とはフ・」
「大神宮様が出て行って、俺が代理をすると決意した時だ」
「.ああ」
ティファは少し意外そうだった。だが、あの時にティファの言葉がなければ、アクディ
ス・レグィは責任を放り出して逃げていただろう。
かる
「なんだ、この野郎、俺にだってできるんだ、そう気持ちが奮い立つようなことを頼む」
rはヂ
アクディス・レヴィは誰かに背中をおしてもらいたかった。歩き出す前に弾みが必要だ
ったのだ。
「わかった」
ティファはニッと笑い、
「悩むより行動しろ−最初から見事に人々をまとめようなどと思うな−」
ひび
廊下まで響き渡る芦に、アクディス・レヴィは肩をすくめた。ロワジーとセリは両手で
耳をふさぎ、リリアとアリユセは「凄い声」と渋面になった。
「なにも気負うことはない。誰にだって最初はあったんだ。あの大神官だって、最初から
大神宮だったわけじゃない」
ティファは口調をやわらげた。気のせいかもしれないが、その中に労わりが感じられ、
うれ
アクディス・レヴィは嬉しかった。
「ありがとう、元気が出た」
アクディス・レヴィが礼を言うと、「どういたしまして」と、ティファは少しおどけた
ははえ
ように微笑んだ。
185  思い出はいつまでも
「それじゃ、行くわよ」
「早くしないといけませんわ」
かみ
髪を引っ張られ、アクディス・レヴィが頭上を見上げると、リリアとアリユセが浮いて
とぴら           てまね
いた。扉の外にはセリがいて「早く」と手招きしている。
アクディス・レヴィが廊下に出ると、三つ子が先導するように飛んで行った。
ひそう                     たいてし1
「そう悲壮な顔をすることはない。わしの経験から言わせてもらうなら、大抵はなんとか
なるもんさ」
ロワジーがカラカラと笑いながら、アクディス・レヴィの横にきた。後ろにはティファ
がいる。
サる
「足の震えはおさまりそうにないが、もう逃げようなどという気はおきないだろう」
にぎ し
廊下を歩きながら、アクディス・レヴィは両手をきつく撞り締めた。
進むにつれて、人々の声が大きくなってきた。集まった人々が説明を求めているのだD
アクディス・レウィは真っすぐに顔を上げ、落ち着いた足取りで進んで行った。
ささや     いの
四章 囁くように、祈るように
やみ ばうちよう
闇が膨張していく。
つず
周りの渦をも飲み込んで、闇は広がり続ける。
「くそっー」
カイルロッドは舌打ちした。
「力は使えない。力を使えば、筒健を喜ばせるだけだ」
とあみ                ほぎし
投網のように広がっていく闇に、カイルロッドは歯乳りした。力は使えず、闇を消すこ
ともできない。今のカイルロッドにできることは、飲み込まれないように逃lげることだけ
だった。
おれ  わら        ちが
「逃げ回るだけの俺を、暗いながら見ているに違いない」
膨張する闇に隠されて簡懐は見えなくなっていたが、その視線は変わらずつきまとって
思い出はいつまでも
くや
いる。悔しさと情けなさで、目に涙が渉んできた。
「どうにかしなくては、どうにか」
く かえ
飛びながら、カイルロッドは「どうにかしなくては」と心の中で繰り返していた。だが、
せば
そうしているうちにも赤い世界は狭まっていき、漆黒が広がっていく。
「それにしても、なんて闇だ」
視界の大半を占める闇の、なんと濃いことか。光すらも、あの中では吸収されてしまう
に違いない。
「闇に飲み込まれるというのは、どんな気分なんだろう」
のフMソ
ふと、カイルロッドの脳裏をそんな考えがよぎった時 −。
(苦しい。どうして私はこんなところにいるんだ)
闇の中から、畷り泣きにも似た思念が聞こえた。
おれ うらぎ
(あいつらが俺を裏切って…・・憎い、憎い)
(どうしてこんなことに。わたしはなにもしていないのに)
さぴ         つり
(淋しい、一人でいるのは辛い)
どくろ
複数の思念だった。儲健のものではない。
「人間の思念り・どういうことだけ」
おどろ
驚きのあまり、カイルロッドの飛ぶ速さが落ちた。
そのとたん、爆発でもしたように、四方の闇から凄まじい思念が噴き出した。
「   −   〓」
とうめい
カイルロッドは悲鳴をあげそうになった。無数の思念、それも負の感情が透明な矢とな
つ  さ
って、全身に突き刺さったのだ。
「ううっ・」
かりだ
苦痛に耐えきれず、カイルロッドの身体は落下を始めた。
隙しみ、悲しみ、怒り、絶望 − そうした矢が「生き物」に変わり、突き刺さった所か
ら内部に入り込んでくる。
(憎い、憎い〓)
(どうして私がこんな目にあうの日.)
剥き出しの無数の思念が、カイルロッドの内部を遭い回り、暴れる。さながらそれは、
かんしよく
小さな虫達に生きたまま内部を食われているような感触だろう。
「ううっ  」
きよっふ
落下しながら、カイルロッドは嘔吐しそうになった。おぞましさと恐怖に、なにもかも
ほつき
を放り出してしまいたかった。自我さえも放棄してしまいたかった。
恕い出はいつまでも
(負の思念に同調してしまえば、こんなおぞましさから解放される)
どくろ            ききや
ヵィルロッド自身のものなのか、それとも儲健のものなのかわからないが、優しい囁き
が聞こえた。
(楽になれる。もう苦しまなくていいのだ)
かんぴ ゆうわく やみ
甘美な誘惑は闇となって、落ちていくカイルロッドの下で、その時を待ち受けている。
「…・逃げなくては」
意識はそう命じているのに、落下は止まらない。心も身体も、まるで他人のものになっ
いわかん
てしまったような違和感に、カイルロッドはもがいていた。
「こんな、こんな負け方をするわけにはいかない」
ぁみ          えもの
もがくカイルロッドの下では、ゆっくりと闇が網のように広がっていた。まるで獲物を
待ち受ける蜘蛛の巣のように。
すべ
だが、カイルロッドの身体はなす術もなく闇の中へ落ちー下から闇が噴き出し、カイ
つつ
ルロッドを包んだ。
「闇につかまったー」
かくご
視界が真っ黒になり、カイルロッドは敗北を覚悟した。
やみらぎ   えも、り はもの
が、=呼吸後、カイルロッドを包み込んだはずの闇が千切れた。鋭利な刃物で切り裂い
から
たように、絡み付いていた闇が剥がれ落ちていく。
「1ヱ   か。だ           ぎんさ  せい誓
見ると、カイルロッドの身体の周囲を紐かな光が取り巻いていた。銀鎖のような清例な
はくぎん
白銀の光、それが闇を引き裂いたのだ。
カイルロッドは急いで、上昇した。また闇にとらわれるわけにはいかない。光は消えて
いたが、身体は思うとおりに動くようになっていた。
「ゲオルディ様だ」
闇から遠ざかりながら、カイルロッドはゲオルディのことを思った。あの光はゲオルデ
たまくだ             まちが
イからもらった珠が砕けた時と同じ光だった。ゲオルディの力に間違いない。
おれ
「俺を守ってくれていたんですね」
負の思念、「生き物」に食い散らかされていたカイルロッドの心に、暖かいものが満ち
てきた。
(苦しい、苦しい)
(どうして、こんなに苦しまなくてはならないの)
(助けて)
カイルロッドを追うように、世界を飲み込むように広がり続ける闇の中から、畷り泣く
思い出はいつまでも
ような思念が聞こえてくる。
「そうか・・これが闇に飲み込まれるということか」
くちぴるか
カイルロッドは唇を噛んだ。
闇に飲み込まれた者には「本当の死」すら与えられないのだ。
むご しり′
「あまりに酷い仕打ちだ」
とくろ たいじ    あんそくフf  もうじや          まゆ
閣僚と対疇する前の、安息を奮われた亡者達を思い出し、カイルロッドは眉をひそめた。
じようか
できることなら、あの時のように浄化してやりたい。
「しかし、どうすれば」
っ.ヤや                       かん
呟きながら、カイルロッドはズボンのポケットの中をまさぐっていた。冷たい金属の感
触があった。すでに短剣はなく。残っているのは指輪だけだ。
「これなら浄化できるかもしれない」
効果があるかどうかわからないが、使ってみる価値はあるだろう。指輪を取り出しかけ、
いつしゆんちゆうちよ
カイルロッドは一瞬、蹟躇した。
「  母上」
この指輪にはフィリオリの念が込められていると、セリは苦った。我が子のために、少
おも
しでもカイルロッドを守れるようにという、フィリオリの想いが込められているのだと。
ルる
「でも、大勢の人のために使うなら、許してくれますよね」
1                                    ・
一度強く擦りしめてから、カイルロッドは指輪を取り出した。そして振り向きざま、指
輪を闇に向かって投げつけた。
しっこく
指輪は漆黒の闇の中に消え ー。
らくりい   ごうおん   およノごん
同時に、落雷のような灘晋とともに黄金の光が爆発した。
光が闇を吹き飛ばした。
るとかた
闇は跡形もなく消え、再び視界には赤い世界が映った。
しんヽ
深紅の世界−そこにぽっかりと、銀色の儲贋が浮かんでいる。
一こ1・1 二
あぜん
カイルロッドは唖然としていた。あの無数の思念も消えていた。まさかこれほどの効果
があろうとは、予想もしなかった。
「それで、指輪はどうなったのだろう」
そんなことを思っていると、
ドタン、ドクン。
きみよう             しどう
奇妙な昔が聞こえた。規則正しい、まるで鼓動のような音だ。
「なんだろうっ」
思い出はいつまでも
けげん
怪訝に思っていると、
(あの闇が消されるとはな)
どくろ     くや           たんたん
閣僚の思念がした。悔しがるでなく、怒るでなく、閣僚は淡々としている。闇を消され
ろうばい
たぐらいでは狼狼しないようだ。
「俺が持っていたものは、憎しみよりずっと強いものだ。おまえにはわからないだろうが
ねこ・」
はめつ
ヵィルロッドは小さく笑った。髄健にはわかるまい。憎しみと破滅のみを求める者に、
フィリオリの気持ちなど理解できるはずもない。そして、カイルロッドが持っている、人
人の期待や希望なども。
どうよう
「それにしても、少しは動揺してくれないかな」
たたか
正面の解像を睨みつけながら、カイルロッドは大きく息を吐いた。闘いづらい敵とは、
冷静さを失わない相手だ。そういう相手には付け入る隙がない。かつて強敵と思ったムル
たお              じめつ
トだが、思えばカイルロッドが倒したというより、感情的になって自滅したようなものだ。
「…やはり、ムルトとは違うな」
ぬ  まえがみ            ゆが
汗で濡れた前髪をかきあげ、カイルロッドは顔を歪めた。少しは慣れたとはいえ、閣僚
きよっふ           がんか
の発する恐怖と絶望はやはり息苦しい。眼題の奥にある底知れぬ闇が恐ろしい。
「剥き出しの憎悪の方がはるかにましだ」
l一′お
カイルロッドは喘いだ。慣儀に気圧されていることを否定できない。向かい合っている
ひたいにじ
だけで呼吸が乱れ、冷たい汗が額に渉んでくる。
「気を抜いたり、目をそらしたら最後だ」
ゆる  すき
わずかな気の緩み、隙など見せようものなら、そのまま敗北に直結するであろう。
「さて、どうしたものか」
こえノげき
脳裡を意識したまま、カイルロッドは考えていた。すでに短剣も指輪もない。どう攻撃
こどネノ
すればいいものかと、考えあくねているカイルロッドの耳に、またあの鼓動が聞こえてき
た。
ドクン、ドクン。
気のせいだろうか。さっきより大きく聞こえる。
「これはどこから聞こえてくるんだ?」
どうも気になる音だった。カイルロッドは用心しながら、音の聞こえてくる方角を探っ
てみたが、さっぱりわからない。
「気にしなければいいんだ」
そう自分に言い聞かせてみたが、どうしても耳につく。気にしてはいけないと思うほど、
5  思い出はいつまでも
気になる。
「どうしてこんなに気になるんだフ」
自分でもよくわからなかった。
ドクン、ドクン。
ひげ   かくらん             どうよう
鼓動が大きく響き、それに撹乱されているのか思考がまとまらない。動揺が呼吸を乱し、
あせ
焦りを強める。
「落ち着け、落ち着くんだ。焦ったら負ける、落ち着け」
っヵ                  ととの
胸の辺りを掴み、カイルロッドは深呼吸した。少しずつだが呼吸が整い、気持ちも落ち
着いてきた。
「よし。目や耳に頼らずに探せばいいんだ。そうゲオルディ様に教えてもらったじゃない
か」
こうや
ヵィルロッドは荒野での訓練を思い出した。あの時、広い荒野に落ちた小さな珠を探せ
と言われた。それは目では探せないと。心を研ぎ澄ませば、見えないものが見えるのだ、
そう学んだのだ。
「心を研ぎ澄ませ」
自分に言い聞かせながら、カイルロッドは大きく息を吸った。そしてゆっくりと呼吸を
整えた。
あせ              とうめい
一呼吸ごとに焦りと恐怖が薄れていき、心と身体が透明になるような気がした。
しんく
深紅の世界に同化したような感覚の中で、カイルロッドは光るものをとらえた。
チカッ、と、なにかが赤く光った。
「−−−−−−h」
カイルロッドは意識を集中して、その光を見つけ出した。
光は儲健の額にあった。
銀色の閣僚の額に、一点の赤い光がある。
なぜ
「何故、儲贋の額にけ」
こどう
心の中で叫んだカイルロッドの耳に、規則正しい鼓動がいやに大きく聞こえてきた。
ドクン、ドタン。
それを開きながら、カイルロッドは決意した。
「閤懐の中に入り込んでやる・」
カイルロッドは蘭懐の正面へ向かった。光が見えたのは一瞬で、もう脳髄の額にはなに
もない。しかし、あそこになにかあるのは確かだ。そして、この鼓動も爛健と関係あるに
違いない。
思い出はいつまでも
もぽう
短剣も指輪も失い、力を使うこともできず、その身一つで突っ込んでいくなど無謀でし
かないかもしれない。攻撃されたら、それまでだ。だが、カイルロッドは入り込めると確
信していた。
なぜ   やつ
「儲健は攻撃してこない。何故なら、奴は俺の力を欲しているからだ。そこへ飛び込んで
いけば、喜んで受け入れるだろう。そうしたら 」
ヵィルロッドは目を細めた。外側からの攻撃が効かないのなら、内側から攻撃すればい
いのだ。
ぐんぐんと距離を縮めるカイルロッドの正面で、巨大な耶確の口がかすかに動いた。
(我が力よ、私の一部となるがいい)
がんか     おにぴ とも
いつの間には眼寓の奥に赤い鬼火が灯っていた。
2
せま
銀色の閣僚が眼前間近に迫った。
げきとつ
「激突するー」
みがま
身構え、カイルロッドは全身を緊張させた。だが、カイルロッドは髄健に激突しなかっ
た。
「   ∴王
しゆんかん            もや おお
ぶつかったと思った瞬間、カイルロッドの視界が銀色の霧に覆われた。一面の等さな
がら雲の中に飛び込んだような感じだ。
だが、ただの雲ではなかった。
「ぐあっ〓」
はもの つ        げきつうおかんおェ
雲の中に入ったとたん、全身に刃物を突き立てられたような激痛と悪寒に襲われ、カイ
くもん                    ぁっりよく
ルロッドは苦悶の声をあげた。激痛だけでなく、上下左右から凄まじい圧力がかかった。
「これが蘭倭の正体だったのか・ ‖」
全身の骨が乳むのを感じながら、カイルロッドは筒懐を形成していたものの正体を知っ
た。
ぞうお
それは巨大な憎悪だった。
雲のように見えたのは純粋な憎悪の思念であり、詞健はその集合体といってもいい。
号つぞフ                かた
想像もしていなかったことだ。形と色から硬いもので出来ているに違いないと、先入観
を抱いていた。
「まるで世界中の憎悪を集めたようだ」
ゆが     たいじ            ふる
カイルロッドは大きく顔を歪めた。蘭啓と対略しただけで恐怖を感じるのも、震えが止
思い出はいつまでも
かわい
まらないのも当然だ。これに比べたら、さっきの闇の中の思念など可愛いものだろう。わ
ずかだが、人間らしさがあったのだから。
「ううっ・ 」
おかん
痛みと悪寒、圧迫してくる憎悪に歯を食いしばっていると、銀色の光がカイルロッドの
か一りだ
身体を取り巻いた。だが、その光は引きちぎられた鎖のように消えてしまった。
「・・・・ゲオルディ様の力もこの憎悪には勝てないのか。だが…閣僚が憎悪の集合体なら、
あの赤い光はなんなんだフ」
この憎悪の中に、もしくは奥になにか別のものがあるというのだろうか。この憎悪より
はげ
も強く、激しいなにかが ー ?
思考しようとしても、激痛と悪寒、そして憎悪に邪魔されてまとまらない。それに思考
お つぷ
に集中しては、上下左右からの圧迫に押し漬されてし蔓つだろう。
「とにかく、ここから出なくては」
もがいていると、小枝の折れるような音がした。
「左手の小指の骨が折れた」
いしき うす
痛みにカイルロッドは顔をしかめた。と、スッと目の前が暗くなった。同時に意識が薄
らいでいく。
「力が・・全身から力が抜けていくけ」
カノ1ぜん
カイルロッドは愕然とした。力を吸い取られているのだ。この銀色の雲のような憎悪に。
せぽね きし       ひぎ
ギシッと、背骨が軋んだ。力が抜け、膝が折れそうになった。意識が遠ざかるにつれ、
あつぱく ていこう
圧迫に抵抗できなくなっていく。
お つぷ
「このままでは、身体がぐしゃぐしゃに押し潰されてしまう」
くちげるか
遠ざかる意識を手放すまいと、カイルロッドはきつく唇を噛んだ。血が潜んだが、それ
どころではない。
「俺は負けるわけにはいかないんだ」            つ・l
唇から生暖かいものが流れるのを感じながら、カイルロッドは心の中で呟いた。
消・エ・テ・シ・マ・工。             こうか
憫倭の外側からの攻撃は吸収されるだけだったが、内側からなら少しは効果があるかも
しれない。それを期待して、カイルロッドは力を使った。
おそ
しかし、一面の票のような周囲にも、カイルロッドに襲いかかる憎悪や圧迫にも、なん
の変化もなかった。
「くそっ、やはり吸い取られるだけか」
うめ
カイルロッドは坤いた。その声は遠く、他人のもののように聞こえた。声だけではなく、
201 思い出はいつまでも
意識すらも遠く感じられてきた。
うば
力を奪われて重くなっていく身体と心が、憎悪に潰されていく。すでに激痛も悪寒もな
こくう ただよ
く、五感のすべてがなくなって、意識だけが虚空に漂っているようだった。
「死かフ これがフ」
うす
薄れる意識の中でカイルロッドはそんなことを思った。
死は常に身近にあった。
大勢の人々の死を見た。親しい人々の死に立ち合った。魔物を殺し、人を殺したことも
ある。
自身の死を目前にして、カイルロッドに恐怖はなかった。ただ、孤独と悲しみばかりが
大きくなっていく。
「死んだら、どこへいくんだろうフ」
死んだら、好きな人の側にいる。そう言ったのは小さな少女だった。死して宗の方》
の一部となると、あの青年は言った。
「そこに行けば、ミランシャや母上に会えるんだろうかヱ
つb
辛い別れをした人々に会えるのだろうか。
そう思ったとたん、サイードやダヤン・イフェ、ソルカンの顔が脳裏に浮かんだ。イル
ダーナフにメディーナ、アクディス・レヴィにエル・トパック、三つ子達、そして小さな
ミランシャの顔が、次々と浮かんでくる。
みんな
「皆が幸せになるように。・幸せになった皆を見たかった」
h.. .
そう呟いた時、この世のものとは思えないほど美しい音が響き渡った。
リンツ・・・。
すいしよう  げ                 かくせい
金と水晶の破片が触れ合ったような美しい音が、カイルロッドの意識を覚醒させた。五
すさ
感が戻り、同時に激痛や悪寒、凄まじい圧迫も戻ったが、カイルロッドはそれをはねのけ
た。
「この音は《語らぬもの》のー」
かな
フェルハーン大神殿の地下で、カイルロッドの願いを叶えてくれるといった時の音だ。
何故、その時の音が聞こえたのか。
けげん                  ふ
怪訝に思っていると、地の底からとてつもない力が噴き上げてくるのを感じた。
墓相らぬもの》の力だ。
みいじん か
灰値と化したフェルハーン大神殿の地下で眠っているものとばかり思っていた《語らぬ
もの》が、カイルロッドの助勢にきてくれたのだ。
「そうか、あの時の言葉か・−」
思い出はいつまでも
ヵィルロッドは理解した。地の底で嘉らぬもの》に願いを言えと言われ、カイルロッ
ドは「皆が幸せになるように」と言った。そして、さっきも同じ言葉を口にした。その言
葉が完P。らぬもの》を動かしたのだろう。
「だが、どうして・…」
どう考えても無理な、そしてとりとめのない願いに対して動いてくれたのか。カイルロ
ッドが困惑していると、
完語らぬもの》だとフ)
ふいに、錆びた鉄を擦りあわせた思念が聞こえた。あの思念だ。最初は閣僚が宗の方
ぬし
の一部》であり、この思念の主だと思っていた。
「だが、思念の主は別にいる。集合体である閣僚には憎悪しかないのだから。そしてそれ
は、赤い光に関係しているはずだ」
ヵィルロッドは確信していた。こうなれば、なんとしても赤い光を見つけださなくては
ならない。
(《古いもの》がまだ残っていたのか)
どうよう    にがて
驚いたことに、その思念には動揺があった。苦手意識というべきか。いかに巨大な力を
持つ《あの方の一部》でも、筈いもの》の力は無視できないものらしい。
赤い大地を割って、地の底から無数の光の矢が上がってきた。七色の美しい光が地上か
nソゆつせい
らの流星のように、赤い世界を裂いて上昇してくる。
その不思議な光景が、カイルロッドには見えていた。
たたか
以前、フェムトという魔物と闘った時もそうだった。地上にいながら上空にいるフェム
・・・・
トの姿を、その遥か上から見ていた。
「心の昌で見ていたんだ」
そして今、心の目で七色の光を見ている。
つらぬ
地下から放たれた光の矢が、銀色の憫健を貫いた。
こんしん
カイルロッドの渾身の力ですら吸収されてしまったというのに、《語らぬもの》の力は
簡健に打撃を与えたの皆ゆん   さ号 41もの   しょうめつ
さらに凄いことに、一瞬ではあるが、左右にある獣と鳥の髄儀が消滅したのだ。
すご
「凄いー」
そうお
思わず叫んだカイルロッドの足元が七色に照らされー無数の光の矢が、憎悪の雲を突
き破った。
しようげき             とつゆう    かたまり
衝撃が風となって、憎悪を散らした。まるで突風を受けた煙の塊のように、憎悪の思念
が散っていく。
思い出はいつまでも
きしlな     あつばく      なつ
同時にカイルロッドを苛んでいた苦痛と圧迫が消え、頭の中に懐かしい声が聞こえた。
(この間に進むがいい、王子)
「ありがとう、蓋らぬもの》。でも、どうして俺を助けてくれるんだフ」
飛びながら訊くと、
はうふつ
(王子の姿は遠い昔の青年を彷彿させる。それで少しばかり、協力したくなったのだ)
《譜らぬもの》の声には苦笑めいた響きがあった。
「ともかく、助かったよ」
かちだ
礼を言いながら、カイルロッドは飛んだ。身体がだるく、手足が鉛のように重かったが、
そんなことは言っていられない。
「あの光を探すんだー」
思念の主を探すのだ。
燭啓が、憎悪の集合体が芸の方》の力の一部であったとしても、それは思念の主を守
よろh
るための鎧にすぎない。
たお
「力を使っているものを、本当の敵を探して倒さないと意味がないんだ」
ぱくぜん
漠然とだが、カイルロッドには敵の正体がわかってきた。
「とにかく、光を探すんだ「」
意識を集中すると、ちぎれた憎悪の間に赤く光るものが見えた。儲健の額に浮かんだ光
− ・
に聞達いない。
「あそこだー」
ドクン、ドクン。
こど、ノ
光の見える方向から、はっきりとあの戟動が聞こえてくる。
「赤い光と篭は関連があるらしい」 すみ    ▼羞
赤い光を目指したカイルロッドの目の隅で、ちぎれていた憎悪が集まっていくのが見え
た。散らしていた光の矢は消えている。
「=」   つず           莞たま できこと に ひま
集まった憎悪が滑となり、カイルロッドは巻き込まれた。瞬く間の出来事で、逃げる暇
などなかった。
「俺を進ませまいとしている」
ぽんろう
銀色の渦に翻弄されながら、カイルロッドはもがいていた。圧迫で身体が動かせず、さ
らに回転は遠く強く、とても抜け出せない。
渦の中に赤いものが見える。カイルロッドの流している血だ。渦の回転で服が裂け、手
足や顔が切傷だらけになっていた。
207 思い出はいつまでも
きぎ
「切り刻まれてたまるかー」
ぺノな
ヵィルロッドが唸っていると、釜らぬもの》の思念が聞こえてきた。
(加勢しよう。手を伸ばすがいい)
フなが       けんめい
促され、カイルロッドは懸命に右手を伸ばした。渦の外側から、カイルロッドの手の平
に光が集まってきた。
「消えていた光が…−」
ヵィルロッドは息を飲んだ。集まった光が、七色に輝く長剣へと変わったのだ。
(受け取るがいい。我が力のすべてを。聖剣ほどの力はないが、おまえの役にはたつだろ
う)
1いしようぎいく          つか
水晶細工のような長剣を、カイルロッドは掴んだ。長剣は苦手だが、何故かこの剣は手
にしっくりくる。長い間、使いこんでいたように。
「きっそく使わせてもらうよ」
かた1ヌり
長剣に形を変える前は、憎悪の塊を散らしたのだ。「渦にも効果はあるはずだ」、カイル
ふ しば
ロッドは力を振り絞って、渦の中で長剣を横に動かした。
あと
剣の動いた跡が七色の光となった。光は長く伸び、渦を真ん中から切断した。
銀色の渦が割れた。
「さすがー」
カ、んたん
割れたところから飛び出し、カイルロッドは感嘆した。
うデ
が、割れた渦はすぐにまた元通りになり、逃げたはずのカイルロッドを飲み込んだ。
11・1
「こっちもしぶといな。だが、もう木の葉のように翻弄されたりしないぞ」
憎悪の渦の中を、カイルロッドは真っすぐに赤い光の見えた方向に進んでいた。凄まじ
でうお
あつばく
いばか。瑠迫は同じだが、もう渦に巻きほれる。とはなかった。  なお
長剣を掴んだ手の平から力が流れこみ、身体中に力がみなぎってくる。折れた指も治り、
切傷も消えていた。
「すべて《語らぬもの》のおかげだ。ありがとう」
憎悪の渦を裂くように飛びながら、カイルロッドが言うと、
いの
(《新しいもの》よ。わたしはおまえの成功を祈る)
剣から完閤らぬもの》の思念が流れこみ、そして消えてしまった。
「完描らぬもの》・・〓」
きけ
長剣に向かって、カイルロッドは叫んだ。だが、返事はない。釜らぬもの彰と呼ばれ
あた
た、筈いもの》が消えたことをカイルロッドは知った。力のすべてをカイルロッドに与
え、この世から消えたのだ。
「… 宗RRらぬもの空
涙が出てきそうだったが、歯を食いしばってこらえた。
「俺は勝っよ」
カイルロッドは赤い光を目指して飛んだ。
3
と・フヒつ
唐突に ー
しよ、つげき おき
正面から強い衝撃が襲った。
とつjう             からだ    くず
突風にも似たそれを受け、カイルロッドは身体のバランスを崩し、そのまま後方に押し
戻された。
「これぐらいで  」
ととの      しょうげき
すぐさま体勢を整えたが、再度、衝撃がきた。それも一度ではなく、二度、三度と波状
ひま
に衝撃が押し寄せる。これでは体勢を整える暇もない。
「くっー」
とつさ        すいしよう
咄嗟にカイルロッドは水晶の剣を顔の前にかざした。苦しまざれだったが、意外な効果
があった。押し寄せる衝撃が弱まったのだ。長剣は盾となり、カイルロッドを衝撃から守
思いとljはいつまでも
った。
かんしや
釜らぬもの秘に感謝しながら、カイルロッドは素早く体勢を撃是。そして剣を前にか
ざしたまま、赤い光を目指して進んだ。
「おやフ」
うノr
進むにつれ、渦が弱まっていくのだ。押し寄せる衝撃に弱められたのか、カイルロッド
いりよく
の持つ剣の威力か。ともあれ、巨大な憎悪の渦が弱まっているD
回転がゆるくなり、渦の外側から銀色の煙のようなものが四方に流れていく。編まれた
服の裾の糸くずを引っ張って、次第に服が解けていくように、渦がほどけていく。
渦から流れた煙のようなそれは、空間に広がり、集まり、やがてカイルロッドの周囲は
雲の中のようになっていた。
よフす  もど
「最初の様子に戻っている」
荒れる嵐の海が急に凪いだような、そんな変わり方だった。だが、カイルロッドはかざ
している剣を下ろさなかった。
こうげき
「どんな攻撃をしてくるのか、わかったものじゃないからな」
けいかい        せいじやく おそ
渦から解放されても、安心などできない。むしろ警戒しなくてはならない。静寂ほど恐
ろしいものはないのだ。
そうお
と、赤い光が見え、同時に凄まじい憎悪がカイルロッドに叩きつけられた。まるで横面
を張り倒されたように、目の奥で火花が散った。
「なんて憎悪だ」
d
頭を左右に振。、カイル持悠赤い光を見た。 ほのお
直径三〇センチはどの、楕円形をした赤い光1それは炎の色をしている。消えること
のない憎悪の炎だ。
・.
「これが憎悪の核を成しているものだ。倒さなくてはならない」
規則正しい鼓動もそこから聞こえていた。距離を縮めながら、カイルロッドは長剣を両
にぎ
手で握り直した。そして、赤い光を斬りつけようと、剣を振り上げた。
が、その手を振り下ろせなかった。
「kな日工    楚あわだ         か亘
焦りと動揺で、カイルロッドの肌が粟立った。「身体が動かないなんて」、金縛りにあっ
たように、指一本も動かせないのだ。そればかりか、動かそうとすればするほど息が詰ま
り、締めつけられるように心臓が病む。
こお
赤い光の前で、カイルロッドは剣を振り上げたまま、凍りついていた。
きんちよう
カイルロッドは全身を緊張させながら、銀色の雲の中を飛んだ。
思い出はいつまでも
きようが    お
「赤い光から発せられる恐怖や憎悪に圧されているのか・ヱ
のど  うめ          しば
ヵィルロッドは喉の奥で呼いた。が、カイルロッドを縛っているのは、赤い光ではなか
った。
「攻撃するな、してはいけない」
身体の奥深いところから、制止の声がするのだ。あたかも、そうすることが同族殺し、
きんき
血族殺しの禁忌だというように。
思いもよらない敵が、カイルロッド自身の内部にいたのだ。
「同じ宗の方》の力の一部でも、俺と赤い光は違うー俺は憎しみだけの化物じゃな
いー」
内部の敵を追い払うように、カイルロッドはことさら大きな声で叫んだ。凄まじい憎悪
そうお     はめつ
を放ち、無数の憎悪を集めて破滅を引き起こそうとしているようなものと、同じであるは
ずはない。
たお
「おまえを倒すために、俺はここまで来たんだ−」
剣を振り上げたまま、カイルロッドは赤い光の上に飛んだ。
「すべて、おまえを倒すためだー」
るいるい しかばわつら      ペつり
そのために長い道程をやってきたのだ。累々たる屍、辛いことや悲しい別離の数々を乗
り越えてきたのだ。
「そのために俺は・!」
こんしん     しぽ
カイルロッドは渾身の力を振り絞って、剣を赤い光の上に打ちおろした。
すいしよう      ふ
水晶の剣が赤い光に触れた。
せつな                 っらぬ
刺郡、そこから思念が光となって、カイルロッドの全身を貫いた。
きようふ
死への恐怖。
あた
死を与えようとする者達への憎しみ。
それが赤い光の思念だった。
シャーン。
悲しいほど澄んだ昔がして、水晶の剣が砕けた。
「《語らぬもの》の・・‖」
カイルロッドの目の前で、砕けた破片は七色に燵めきながら消えた。《古いもの》の力
もここまでだった。
きれつ
一呼吸遅れて、赤い光に〓肋の亀裂が入り、こちらも砕け散った。
がらす
赤い硝子のような破片が飛び散り、中からなにかが現われた。
「これは1日」
5  思い出はいつまでも
どうようらくらい       はし     いつしゆん
動揺が落雷となって、身体の中を奔り抜けた。ほんの一瞬だが、カイルロッドの注意が
砕けた光の破片からそれた。
うつ
目の端に赤い線が映った。
「IP」
しようげき
左肩に焼けつく痛みと衝撃を感じ、カイルロッドはよろめいた。視線を移動させると、
せんけつ あゆ
肩の付け根から鮮血が溢れ、切断された左腕が雲の中に落ちていくのが見えた。
くちぴるか             やいぼ
ヵィルロッドは唇を噛んだ。隙を見せた瞬間、砕けた赤い光が刃となって左腕を切断し
たのだ。
ルだん
「本当に油断のならない奴だな」
にら
右腕で左肩をおさえ、カイルロッドは赤い光の中から現われた物を睨んだ。
ドクン、ドクン。
ひから
ヵィルロッドの目の前で、それ−千滴びた人間の心臓が脈打っている。
たたか
あやま
「俺が闘っていたのは、魔物達ではない。芸の方》と呼ばれる空曹》でもない。誤って
ちようぜつ
超絶的な力を手にしてしまった一人の人間だったんだ」
干澗びた心臓。
ぎせい
それは《神妙を呼ぶために、犠牲にされた人間のものだった。
かいま
思念が流れ込んだ時、カイルロッドは垣間見たのだ。
遠い音の光景を。               しんこつ
遥か昔、まだフェルハーン大神殿もなく、ディウル教が地方の一信仰に過ぎなかった頃
の出来事を −。
あが           ばんぷつ   やど
彼らの崇める盈仲》は天にあり、地にあり、万物のすべてに宿る力そのものだった。姿
がなく、また善でもなく、悪でもなかった。
こっりル
その大いなる力を欲して、神官達は《神》を降臨させようとした。
いの       ぎせい ささ
祈りと人間の心臓を犠牲に捧げ、《神》を呼んだ。犠牲にされたのが何者なのか、カイ
ルロッドにもそこまではわからなかった。同じ神官だったのか、それとも信者の一人だっ
たのか。
ともあれ、《神》は現われた。それは《神》の力の一部でしかなかったが、神官達はそ
のことを知らなかった。                    喜
善でも悪でもなかった力は、神官達の野望よりも強い憎しみ−1醸げられた心臓に刻ま
ぞうお かたまHソ
れた憎しみと恐怖に吸収され、憎悪の塊となったのだ。
そして神官達を殺し、世界に広がって無数の憎悪を呼び寄せた。呼び寄せられた憎悪は
はめつdち   つ  ぇいゆう       ふう
魔物を活性化させ、この世を破滅の淵へと追い詰めた。英雄によって、タジェナに封じ込
思い出はいつまでも
められるまで。
《あの方の一部》−−それは人間の憎悪だったのだ。
おヱ
「・…人間とは恐ろしいものだな」
ゆが
左肩をおさえたまま、カイルロッドは大きくロを歪めた。麻痔していた痛みが広がり、
せんけつ   ぬ    あふ
温かい鮮血が手を濡らして、溢れていく。
ほろ
「たった一人の憎悪が、世界を滅ぼそうとしたんだからな」
ゆが                  しんかん
痛みに顔を歪めながら、カイルロッドは千滴びた心臓を見た。世界を震撼させ、歴代の
神殿関係者達、ゲオルディやイルダーナフをもってしても勝てなかった敵の正体は、一人
の人間の憎悪だった。滑稽であり、憐れであり、恐ろしかった。
ドクン、ドタン。
鼓動とともに、理不尽に踏みにじられた者の、声にならない叫びが伝わってくるD
怒り、憎悪、恐怖 −。
ヵィルロッドもよく知っている感情だ。多くの人々に愛されていたとはいえ、カイルロ
ッドもそれらと無縁ではなかった。
卵から生まれ、そのために母親を殺したと言われ、深く傷ついた子供時代。ムルトの放
った魔物に襲われ、巻き込んでしまった人々からは石を投げられた。異端視され、化物と
ののし
罵られ、唇を噛んだ日々。
くや
悔しかった。辛かった。たまらなく悲しく、やりきれなかった。
「・おまえは、もう一人の俺だ」
この干潤びた心臓は、魔王になったカイルロッドなのだ。
.てうお     ほろ
(私は憎悪であり、滅びである。すべての生物に滅びを送るものである。我が力よ、私に
力を与えるがいい)
吐き気のするような思念を聞きながら、
「おまえに力を与えるわけにはいかない」
カイルロッドは鋭く言い放った。
「おまえは踏みにじられる悔しさ、辛さを知りながら、他人にそれを強いている。さらに
ぼうとく
死者をも冒漕した。そんな奴に与える力などない」
カイルロッドは干澗びた心臓を睨んだ。「奴は俺を恐れている」、かすかだが、そうした
ものが伝わってくる。同じ力を恐れ、力のすへてで敵対されることを恐れている。だから
こそ、力をよこせといっているのだ。
Iよめつ
「おまえがすべての生物を破滅させるというのなら、俺はそれを阻止する」
ひとこと       せんせんふこく
干潤びた心臓に向かって、カイルロッドは妄三言に力をこめ、宣戦布告をした。干潤
思い出はいつまでも
けいれん
びた心臓の表面がビクビクと痙攣した。
いの
「おまえが憎悪によって存在するのなら、俺は祈りによって存在する。同じ空あの方の一
はろ          きぼう
部》であるおまえが滅びだというのなら、俺は希望になる」
にお  まゆ
血の匂いに盾をひそめながら、カイルロッドが言うと ー。
ヒエツ。
1、
風をきる音がして、カイルロッドは背中に突き刺さる殺気を感じた。あの破片だろう。
ヵィルロッドは背中を向けたまま、それを避けようとして動いた。が、左腕を失った身体
くヂ
はバランスを崩し・…。
しょよノープノき        とが
右胸と腹部に衝撃がきた。そこから、尖った破片が突き出している。
「 ・くそっ・・」
はぎし                 あふ
ヵィルロッドは歯軋りした。突き刺さった破片から、力が吸い取られていく。溢れる血
とともに、生命そのものが流れていくのがわかる。
ぜいじやく
(肉体が滅べば、おまえの脆弱な意識と強い力は、私に吸収されるだろう)
感情のない思念を聞きながら、
うつわ
「……なるほど。俺は筈の方》の力を、肉体という器に押し込めた存在だからな。器が
ねら
なくなれば、その力が溢れる。おまえはそれを狙っているようだが・・」
のど
落下しそうになるのをこらえていると、喉の奥から温かいものが突き上げた。咳き込む
しん′,
と大量の血が溢れ、銀色の雲の上に深紅の花を咲かせた。
「果たして、そううまくいくかな7 人間をなめるなよ」
ぬぐ             はげ
口元を乱暴に拭い、カイルロッドは顔を上げた。激しい出血と力を吸い取られているせ
つら
いで、それすらも辛い。息が苦しく、身体が重い。手足の先から冷たくなり、それが全身
に広がっていく。
おかん               ふてりいん
はい上がってくる悪寒に震えながら、カイルロッドは最後の封印を解くことにした。
h.
最後の封印を解く1それは肉体という器を壊し、力のすべてを解放することだ。
力を解放しても、敵の方が強いかもしれない。そうであれば、吸収される。だがー
やつ タうお  おね
「奴の憎悪に、俺の想いは勝つ。俺という存在にこめられた多くの想いは必ず勝つ。勝っ
ユフさい
て奴の力を中和、もしくは相殺するんだ」
むねん      くのフ     せんたく
裏切られた英雄の無念、神殿関係者達の苦悩、フィリオリの選択−そうした人々の想
いが集まって、カイルロッドという存在を作ったのだ。カイルロッドだけでなく、そうし
いの
た大勢の人々の祈りと願いが、骨しみに負けるはずはない。
「俺を人間にしてくれたその想いが、憎悪に負けるはずはない」
愛してくれた多くの人々がいなければ、カイルロッドは魔王になっていた。この心臓の
思い出はいつまでも
のろ   ちが
主よりも激しい憎悪をまとい、この世を呪ったに違いない。
つす
身体が冷たくなり、視界が暗くなっていく。薄れていく痛みと意識の中で、カイルロッ
あらが
ドは抗った。まだ意識を手放すわけにはいかなかった。
「成すべきことを…・」
成さねばならない。封印を解く言葉を言わねばならない。だが、呼吸が乱れて、声が出
ないのだ。
「早く、早く封印を解かねば」
あえ
苦しさに喘ぎながら、カイルロッドはレイブンのことを思った。ジュディやパメラ、シ
ャォロンのことを思った。彼らは死を前にして笑っていた。
こんなにも苦しい思いをしたのだろうか。それなのに笑っていたのだろうか。
「彼らが耐えた苦しみに、俺が耐えられないはずはない」
けルめい   ととの
血と冷たい汗が全身を流れていく。力と気力が失われていく。懸命に息を整えながら、
カイルロッドは地上にいる人々のことを考えていた。
みんな
「皆、どうしているだろう」
ィルダーナフにはもっと、色々なことを言いたかったのだ。しかし、いざ別れの時にな
ったら、なにも言えなかった。
かげ
メディーナは泣きそうな顔をしていた。表情に翳りを落としながらも、エル・トパック
lまほえ
は微笑んでいた。
セリとミランシャにしか別れを言わなかったが、アクディス・レヴィやロワジー達はど
うしているだろう。
「どうか皆、幸せになってくれ」
すきまかぜ               −ま−まえ
隙間風のような細い音を聞きながら、カイルロッドは微笑んだ。それはカイルロッドの
呼吸の音だった。
「・・皆に会えてよかった。皆と同じ時代に生まれ、そして出会えたことに心から感謝し
ている」                       みにく
魔王になることなく、人間として生きられた。そして人間の美しさと醜さを見、絶望を
兄いか希望を見た。           はげ
抱えきれないほどの楽しい思い出をもらった。大勢の人々に励まされた。
「本当に、ありがとう…・」
lぎんかん            っぷや
万感の想いをこめ、カイルロッドは心の中で呟いた。
うれ
ありがとう。皆に会えて本当に嬉しかったよ −。
ドクン、ドクン。
思い出はいつまでも
こ けしう
ひから
ぁの鼓動がいやに大きく聞こえた。もう員は見えなくなっていたが、心の昌が干潤びた
・フつ
心臓を映していた。
隙間風のような呼吸音が弱まっていく。死が腕を広げて、抱きとめようとしているのが
わかった。
「その前にできる限りのことを・」
意識を鼓動のする方向に向け、カイルロッドは大きく息を吸った。
ぎんばつ
どこからか青銀色の風が吹きつけ、長い銀髪が大きくなびいた。
ゆ しぽ  ふういん と
風を全身に受け、カイルロッドは最後の力を振り絞って封印を解く吉葉を、かつての英
雄の名を口にした。
4
ひりめ
強い光が閃いた。
しんく           またた  ぼうちよう
深紅の世界に一点の金色の光が生じ−瞬くうちに膨張し、深紅の世界を飲み込んだ。
こがねいろそ      まばゆかがや
赤い空と大地が、大気までもが黄金色に染まったような、眩い輝きの世界。
視界一面の黄金色に、メディーナは目を細めた。
「まさにあの名前どおりだ」
レフ・アルイ1真昼のような夜。
きんき
それが禁忌の部屋に閉じ込められていた英雄の名前であり、カイルロッドにかけられた
かぎ
最後の封印を解く鍵であった。
ノ・ヨ
「 1 憎悪が消えているな」
けつかい
抑揚のない声に顔を向けると、結界を出たイルダーナフが黄金色の空を見上げていた。
その顔にはなんの表情もなかった。とりたててカイルロッドの死を悲しんでいるような様
あんど
子はなかったが、世界が救われて安堵している風でもない。
「…親父でもやりきれないのか・。割り切ったかに見えても…・・。カイルロッド王子
がそのことを受け入れても  」
やみ
メディーナも結界を出た。術者達には、光を受けて地上の闇に巣食っていた魔物達が消
滅していくのがわかるロ魔物が滅びることはないが、その力が弱まったことは確かだ。も
はや、結界は必要ない。
きうきい
カイルロッドは敵の力を相殺した。
敵とは憎悪だった。
深紅の世界が黄金色の光に飲み込まれた瞬間、メディーナ達術者は見たのだ。
砕け散る干潤びた心臓を。
思い出はいつまでも
そして、それの断末魔の思念を聞き、すべてを知った。たった一人の憎悪が力を得、世
・.
界を破滅の淵へ追いやろうとしていたのだと。
力を持った憎悪に、カイルロッドは勝った。だが、カイルロッドであった肉体と力、意
識は光となって散った。それが世界を包み、照らしている。
「親父、エル・トパック。約束だ、わたしに力を貸してくれ。カイルロッド王子だった意
識を集め、人間としてこの世に戻すために、力を貸してくれ」
黄金色の空を見つめたまま、メディーナは決意をこめた口調で言った。
カイルロッドを再び、この世に戻す。
それがメディーナの、一生に一度の賭けだった。
− . 1
「ですが、あなたの身が危険ではありませんか、メディーナヱ
たんせい       ゆが
近づいてきたエル・トパックが端正な顔をかすかに歪めた。
「それはないと思う」
せきわん         はlまえ
隻腕の青年にメディーナは微笑みかけた。
「フィリオリが死んだのは、カイルロッド王子に《あの方》の力を残そうとしたからだ。
やと
わたしは力を宿そうとしているわけではないからな」
力など必要ない。カイルロッドであった心、それさえあればいい。
かんたん
「だがな、おまえがしようとしていることは、言うほど簡単なことじゃねぇんだぜフ」
念をおすようなイルダーナフの声に、メディーナは「わかっている」と領いた。
おと
「わたしの力は彼女に劣るかもしれない。だが、魔力のすべてを使えば・・そしてエル・
トパックや親父の助力があれば、カイルロッド王子を人間にしてやれるはずだ」
メディーナはきつく両手の指を組んだ。
へい
「わたしはカイルロッド王子をもうl度、ただの人間としてこの匹に戻してやりたい。平
ぽん                    ぅしな
凡な人生を歩ませてやりたい。それができるのなら、魔力など失っても構わない。いくら
・           ・・
では肉を分け与えよう」    もじゃき      歪 よ曇
盆栽を持って喜んでいたカイルロッドの無邪気な笑顔が、メディーナの瞼の裏に放る。
ぎせい
大勢を救うために、カイルロッドの犠牲は仕方がなかった1そんな言葉を素直に受け
入れるわけにはいかない。
なつとく
「わたしは、王子を道具のままにしたくない。そんなこと、納得できない」
くちげるか
メディーナがキュッと唇を噛むと、
「納得できないのは、私も同じですよ」
とな          ね、な  ほ−けえ    はな
隣りにきたエル・トパックが哀しげに微笑んだ。少し離れた所にいるイルダーナフを見
ると、「同感だ」とは言わなかったが、表情が雄弁に語っていた。
7  思い出はいつまでも
じゆもん とな
メディーナは細い声で呪文を唱えた。そこにエル・トパックのよく通る声と、朗々とし
た太い声が加わる。
こがねいろ   ひび
三人の声が黄金色の世界に響いた。
かえ
還ってこい、王子。
呪文を唱えながら、メディーナはカイルロッドに語りかけていた。
還ってこい。
再び、生きるために。
人間として、幸せに生きるために。
にぎ
メディーナは呂を閉じ、胸の前で両手の指をきつく握った。
「エル・トパックも親父も、カイルロッド王子が戻ってくることを祈っている。本当に
宗の方妙がいるのなら・…大気に、大地に溶けているのなら、わたし達の声が聞こえて
るはずだ。聞こえているなら、力を貸してくれ」
いの         いの
生まれて初めて、メディーナは《神》に祈った。全身全霊をかけて祈っていた。
呪文が祈りをのせて、広がっていく。
やがて−−−し
かすかな大気の揺lれを感じ、メディーナは目を開けた。すると、チラテラと空からなに
かが降ってきていた。
「金色の雪フ」
つぷや
呟き、メディーナはそっと手を出した。手の平にそれが落ちた。重さもなく、冷たさも
ない。落ちてくるのは雪ではなかった。
「光が降ってくる・・・」
つ・かや            ぁヵ
エル・トパックの呟きを聞きながら、メディーナは空を仰いだ。
黄金色の空から、同じ色をした光が降ってくる。
やさ    あ
優しい光が荒れ果てた大地に、地上にあるすべてのものの上に降り注く。
カイルロッドの心が降り注ぐ −
「・王子」                       あぶ
メディーナの頬を熱いものが伝った。イルターナフが、エル・トパックが空を仰いでい
とぎ
る。呪文は途切れていたが、気にする者はなかった。
いや
降り注ぐこの光は大地を、生物達を癒すだろう。生きとし生けるものを救うだろう。
「カイルロッド王子」
空に向かって、メディーナは大きく両腕を広げた。降り注ぐ光のすべてを抱きとめるよ
うに。
思い出はいつまでも
かえ
「還ってこい。再び、生きるために」
両腕を広げたまま、メディーナは空に向かって呼びかけた。
光がメディーナの上に降り注ぐ。
かたまhリ
両腕の中に光が集まり、ゆっくりと小さな一つの塊になっていく。
こわ                                             あぎ
壊れ物を扱うように、メディーナは両手でそっと左右からそれを包んだ。光の塊は、鮮
やかな青銀色の光の珠になっていた。手の内側から温かいものが伝わってくる。
「もう一度、生きよう。今度は誰のためでなく、自分のために生きてくれ。そして、幸せ
になってくれ」
ささや
囁きながら、メディーナは光の珠を胸に抱いた。生命を抱き締め、受け入れた。
光の珠がゆっくりと溶けた。
そして、吸い込まれるようにして消え−メディーナは自分の中に生命が宿ったことを
知った。
「王子・」
とつきとおか
メディーナはそっと、自分の腹部に手をあてた。十月十日後に、元気な男の子が生まれ
かつしよく  ぎんばつ
ることだろう。褐色の肌に銀髪、青い目をした男の子だ。その子は食べることが大好きで、
ぼんさい         のんき
盆栽をいじくつて喜ぶような、呑気で優しい青年に育つだろう。
す′ノ
「まったく。フィリオリといい、メディーナといい、女ってやつは、凄えことを平気です
るもんだな」
あき
呆れたような声に顔を向けると、腕組みしたイルダーナフが苦笑していた。口調は呆れ
ていたが、黒い目は優しく笑っていた。
「やれやれ、これで俺は爺さんになっちまったわけか。いきなり老けこんだ気がするぜ」
「いつまで若い気でいるつもりだ」
メディーナが養父を呆れ顔で見ていると、エル・トパックに名前を呼ばれ、
「メディーナ、子供には父親が必要だと思うのですが。私を子供の父親にしてくれません
か?」
顔を向けたとたん、そんなことをにこやかに言われた。思いもかけない言葉に、メディ
そだ
ーナは数回まばたきをした。子供は一人で育てるつもりでいたのである。
つな
「で、でも、血の繋がりもないのに  」
おどろ
故習で、しどろもどろになったメディーナに、エル・トパックは「そんなものは関係あ
りません」と、はっきりと言った。
「あなたと父上もそうでしょうフ カイルロッド王子とサイード国王も。血の繋がりなど
関係ないと思います。私を生まれてくる子供の父親に、あなたの夫にしてくれますかヱ
ヒまピ         っなず
エル・トパックの熱のこもった視線に戸惑いながらも、メディーナは頒いた。矧が熱く
きゆうこん    うれ
232 なってきた。あまりに急で、いきなりの求婚であったが、嬉しかった。
むサノこ
「あーあ、こいつが義理の息子になるのか」
イルダーナフがぼやき、わざとらしいため息をついた。
「よろしくお願いします、お義父さん」
いやふ
嫌味にも動じず、エル・トパックはにっこりと笑った。イルダーナフは広い肩をすくめ
た。
「それはいいとして。これからどうする、メディーナヱ
「地下都市へ、彙二の神殿》へ戻る」    か昌
問われ、メディーナは盈弟二の神殿》のある方向に身体を向けた。
「まず、ちゃんと産んでやらないと」     掌わ にんハ
本当はルナンへ行きたかったのだが、現状を考えると難しい。妊婦に長旅はきついし、
ルナンとてこれ以上の受け入れは苦しいはずだ。舎弟二の神殿》に行けば、食料も水もあ
たいない
る。安心して胎内の子供を育てられる。
「地下都市へ戻って、そこで王子を産んで。動かせるようになったら、ルナンへ行こうと
思う。サイード様に報告しなくてはならないからな」
233  思い出はいつまでも
ヵィルロッドの養父であったサイードにこのことを報告するのは、当然の義務だろう。
そしてルナンには、ゲオルディも眠っているのだ。
「ところで、親父。生まれる子にはカイルロッド王子としての記憶はあるのだろうかヱ
ふとそんな疑問がよぎり、メディーナは答えを求めて、イルダーナフを見上げた。
「ねぇだろうな。王子ではあるが、まったく新しい生命だからな。ねぇ方がいいのさ」
たんたん         あんど
嘉二の神殿》のある方へ視線を移動し、イルダーナフは淡々と貰った。その顔には安堵
さぴ
と、少しばかりの寂しさが混ざりあっていた。
「いいことも悪いことも、忘れていいのさ。新しい人間なんだからな。忘れて、新しい生
き方をすればいい。そして、いいことや悪いことを知ればいい。それが新しく生きるって
ぇことだ」
おこそ
厳かといっていい口調で言ってから、イルダーナフは少し意地の悪い目をメディーナ達
に向けた。
「とりあえずカイルロッド王子は憎悪を相殺したが、憎悪ってやつは人の世が終わるまで
滅びはしねぇ。またいつか、誰かが芸の方》の力を悪用する時がくるだろうぜ」
大神宮の不吉な予言に、メディーナとエル・トパックは顔をしかめた。確かに、ありえ
ないことではないだろう。
「いつの世の、どんな時代でも、人の中から憎悪や欲望はなくならないでしょうね」
いんうつ
やや陰鬱な面持ちで、エル・トパック。
「またあんなのが現われるかもしれないということか。それは困るな」
つぷや
深刻にメディーナが呟くと、イルダーナフは明るい笑い声をたてた。
「よせよせ、深刻になっても仕方ねぇ。どうせ、俺達はその時まで生きちゃいねぇ。もし
まか
その時がきたら、その時の奴らに任せりやいいのさ」
いとも気楽な調子で笑いとばすイルダーナフを、メディーナは軽く睨んだ。「娘をから
かいおって」、とんでもないことを言って他人を不安にさせ、その様子を見てからからと
′ ..、
笑うのだ。人が悪いといえばそれまでだが、これは養父の悪癖の三だとメディーナは思
っている。
「これでよく他人に恨まれないものだ」
人格なのか、得な性格と言うべきか。なんだか不公平なものを感じる。メディーナが心
の中でぶつくさ言っていると、
「その時がくるか、こないか、私達にはわかりませんが…・。ですが、こないことを祈り
たいものです」
金褐色の目に悲しげな光を浮かべ、エル・トパックは周囲を見回した。光は満ちている
思い出はいつまでも
が、なにもない荒野だ。二度とこんな光景を見たくない、エル・トパックはそう言いたい
のだろう。
「わたしも見たくない」
メディーナも呟いた。二度とカイルロッドのような者を出したくない。生まれながらに
重荷を背負わされた者など、いてはいけないのだ。
ぎせい
「親父やフィリオリのように、人生を犠牲にする者もいてはいけない……」
メディーナは養父を見た。おそらく一番の重荷を背負っていたのは、イルダーナフだろ
,つ。
のろ
「親父はなにも憎まなかったのだろうか? ゲオルディ様や、課せられた重荷を呪わなか
ったのだろうかフ」
問うてみたい気もしたが、メディーナは黙っていたDどう思っていたにせよ、イルダー
ナフは自身に謀せられた重荷を放り出すことはなかった。それが答えではないか。
「親父は強い人間なのだ」
娘の視線に気がついたのか、イルダーナフは白い歯を見せると、
「そんじゃま、地下都市へ戻るか」
大きく伸びをしながら、歩きだした。
いつしよ
「王子と一緒に酒を酌み交わせるようになるまでは、くたばれねぇな」
つぷや          ほほえ
ひどく楽しそうなイルダ÷フの呟きが聞こえ、メディーナは微笑んだ。けんめい
「酒を酌み交わせるようになったら、私は語ってやりたいと思っています。懸命に生きた
きおく
一人の王子の物語を。王子に記憶はなくとも、私達は知っているのですから」
すっかり父親の顔になったエル・トパックが笑う。メディーナは腹部をそっと撫でた。
「わたしも語ってやろう」
卵から生まれたと言われた王子のことを。
まわ
その周りにいて、王子を助けた大勢の人々のことを。
王子の見たもの、感じたものの一部たりとでも、生まれてくる子に伝えてやろう。
きせき
「その奇跡のような生き方を」
魔王にもなれるほどの力を持ちながら、人間のままであり続けた。傷つき、血を流しな
のろ
がら、なにを呪うこともなく、短い人生を駆け抜けた一人の青年のことを語ってやろう。
とぎばなし
お伽噺のように。
「いつか、きっと…・・・」
メディーナとエル・トパックは寄り添って歩きだした。
おお
いつの間にか降り注ぐ光は消えていた。しかし、空はまだ黄金色の光に覆われており、
237 思い出はいつまでも
降ってきた光は大地に積もっていた。
じゅぅたん      ホ
光の絨毯のような大地を踏みしめ、メディーナ達は歩いていた。
やさ   み
世界は優しい光に充たされていた。
エピローグ
いつべん     かわ   こうや
空は群青といっていいほど青く、∵斤の雲もない。熱く乾いた風が荒野を渡り、ルナン
の街を竣抜けていく。   かべ    せいてん  がいろじゆ
強い陽射しが照りつけ、街の家々の壁に反射していた。晴天続きに、街路樹はやや元気
をなくしているが、街を行き交う人々は元気そのものだった。
じようさい        さか
城塞都市ルナンは、夏の盛りをむかえていた。
せいきよHノ
「なかなか盛況のよ誓すね」    おだ よ手    芸ん
風に運ばれてくる賑やかな様子に、知的で穏やかな容貌をほころばせ、隻腕の青年が窓
に顔を向けた。
あふ
午前中だというのに、街の大通りには人が溢れている。というのも、久しぶりに大きな
雪いち             か ひ   .享っ号 きようせい      ひび
朝市がたったからだ。物売。の声、駆け引きの声や女房達の婿芦などが、街中に響き渡っ
ている。
「市が開けるほど、物品が増えてきたか。ふ1、これで少しは安心できるな」
239  思い出はいつまでも
向かいの席にいる中年の男、サイードがしみじみとした口調で言った。
「本当に」
かんがい   うなヂ
隻腕の青年、エル・トパックも感慨深げに領いた。
ェル・トパックとサイードはルナン王城の一室にいた。長机について、昼からの会議の
打ち合せをしているところだ。
あつ
「しかし、今日も暑くなりそうだ」
にがて         フちわ
暑いのが苦手というサイードが、書類を団扇代わりにしている。まだ午前中だというの
はだ     しつけ    さいわ
に、じっとしているだけで肌が汗ばんでくる。湿気がないのは幸いだが、とにかく夏のル
ナンは暑い。
たんじよっぴ いわ
「この暑い最中、カイルロッドの誕生日を祝うためにとはいえ、神官長達がわざわざお越
しくださるとは、ありがたいことだ」
あお
ふと思い出したように、サイードが扇ぐ手を止めた。エル・トパックは手元の書類を揃
えながら、小さく笑った。
「アクディス・レヴィ神官長など、今年こそはどうしてもカイルロッドの誕生日を祝いた
だれ  るrぱん
いと言っておられましたから・。誰かに留守番を押しっけてでも、来られるでしょう」
かわ   にお
開いた窓から風が流れてくる。乾いた砂の匂いのする風だ。
「早いものですね。カイルロッドはもう五歳です」  う手
工ル・トパックは目を納めた。サイードが無言で何回も領く。
めつぽう         きいりっ
世界が滅亡から救われてから、六年の歳月が流れていた。     よくわん
舎弟二の神殿》でメディーナは男の子を産み、カイルロッドと名付けた。その翌年、エ
ル・トパック達はーエル・トパックとイルダーナ7、そしてメディーナとカイルロッド
はルナンへ行った。
.まつこ
異常気象と蚊底する魔物達、混乱と飢えによって多数の死者を出し、ほとんどの都市が
.りいめつ    じょツさい
壊滅した中で、城塞都市ルナンはほぼ無傷に近い状態で残った。ゲオルディの魔力と、貯
ねんりよう
蔵していた食料と燃料のおかげである。
エル・トパック連は王城でサイードと対面し、事情を説明した。サイードも大男の神官
わくご
も、カイルロッドの死を覚悟していただけに、生まれ変わったと聞いて大喜びし−。
ぜひ
「是非ともその子供を養子にくだされ」      蓋つ
などと言い出したのである。当然のように、メディーナは拒絶した。
じようだん
「この子はカイルロッド王子だが、わたしの子でもある。養子など冗談ではない」
がん
頑として拒絶するメディーナに対して、サイードとダヤン・イフェは「そこをなんと
おが
か」と、拝みたおさんばかりだった。
2題1 思し、出はいつまでも
どちらの気持ちもわかるので、エル・トパックが口を出せずにいると、
「エル・トパックを養子にすりやいい。こいつは結構、使えるぜ」
ひとこと
イルダーナフの二一百で難題は解決した。なんでもイルターナフは、放っておいたらサイ
いや
ードとダヤン・イフエが泣き落としを始めそうなので、それが嫌でさっさと決着を付けて
しまいたかったそうだ。
「確かに、嫌かもしれない  」
城にきて五年の間に、何回か二人がかりで泣き落としされたことがあるので、エル・ト
パックにはイルダーナフの気持ちがよくわかる。
ともあれ、メディーナもサイード達も、異議を唱えなかった。息子ではなく、孫になっ
かま
てしまうが、サイードにはどちらでも構わなかったらしい。
「まさか私が国王の養子になろうとは・ 」
長机に伏して、暑さに喘ぐ猫のようになっているサイードを見ながら、エル・トパック
ヘいぽん              なみなみ  しlゎわんはつ
は苦笑した。日常においては平凡で気さくな男だが、政治に関しては並々ならぬ手腕を発
揮する。
けんおう しよう         あとと
「賢王と称されるサイード様の跡取りとは、荷の重いことだ」
エル・トパックはまだ戸惑っているが、サイードは五年の間に養子の能力を高く評価し、
「エル・トパックを次期国王にする」と内外に通達していた。現在、エル・トパックはサ
イードの片腕として働いている。
へいか そば
「陛下の側で、もっと多くのことを学ばなくてはな」
ととの
などと考えながら、エル・トパックが整えた書類に目を通していると、目の端に細い線
が映った。見ると、窓の外に何本かの細い煙がたなびいている。昼食の準備を始めた街の
食堂のものだろう。
「食堂か」
ちきよよノだい
カイルロッドの乳兄弟だったソルカンのことが、ふと脳裏をよぎった。サイードがソル
カンにありのままを話した。その時ソルカンはなにも言わなかったが、小さいカイルロッ
かわい
ドが遊びに行くと、可愛がってくれる。
「しかし、なんだねぇ」
伏したまま、サイードは顔を窓へ向け、
みようえん
「改めて思い返すと、わしとフェルハーン大神殿の間には、妙な縁があったのだな。フィ
にな
リオリに出会った時から、わしも大きな役割を担うことになった」
おもしろ                          かな
さも面白そうに笑った。だが、遠い昔を見つめているように、その日は哀しげだった。
「きっと、人にはそれぞれ、役目があるのでしょう」
思い出はいつまでも
とど いぼてい        はんすう
独自し、エル・トパックは数日前に届いた異母弟からの手紙を胸の中で反動していたロ
「五年ぶりに会う彼は、変わっていることだろう。あの時のように」
・・.                                       −・
あの時−懐妊したメディーナをつれて、エル・トパック達が《第二の神殿》に戻った
でむか
時、出迎えてくれたアクディス・レヴィは変わっていた。神官長らしい自信と責任が感じ
さわ
られた。なんでもエル・トパック達が不在の間に騒ぎが起き、アクディス・レヴィは自力
でそれを収拾したのだという。以来、ロワジーやウルト・ヒケウの協力を得ながら、アク
ティス・レヴィは神官長らしくなっていた。
まちづく  まア
「人々は街造りに励んでおり、神殿関係者達も皆元気でいる。建設中だったフエルハーン
せま
大神殿は、完成間近に迫った」
手紙にはそんな近況が記されていた。
ふうさ
二年前に《第二の神殿》は封鎖され、人々は地上に出た。地下にいれば不自由はないが、
それに頼っていては自分の足で立つことができなくなる。アクディス・レグィ以下、神殿
ムそ
関係者達はそのことを恐れたのだ。
よ どころ
「エル・トパック。人々は内に切実なものを抱え、拠り所を求めてやってくる。そのため
おれ
の神殿であり、神官だと痛感する。俺はかわらず無力ではあるが、世の人の幸福にわずか
でも役立ちたいと、そう思っている」
アクディス・レヴィからの長い手紙は、そう締め揺られていた。この一文からも、アク
ディス・レヴィの成長がみてとれる。
こつはい             きいげつ     はかいいつしゆん
荒廃から人々が完全に立ち直るには、六年の歳月では短かすぎる。破壊は一瞬ですむが、
とほう
再建は途方もなく長い月日を必要とするのだ。そんな中で、少しずつ、人々は以前の生活
を取り戻そうとしている。
よ どころ              たお
「迷い苦しむ人々の拠り所となってください、レグィ。魔物を倒す力など、もはや必要は
おの  nソがい
ないのです。己れの利害を捨てて人のために尽くす、無心無欲こそが、これからの世を作
るのです」
いぽてい
エル・トパックは心の中で異母弟に語りかけた。再会が楽しみだった。以前は話せなか
ったことも、今なら笑って話せるだろう。
「ティファとはどうなっているのか、そう訊いたらなんと答えるか」
ほさ
ティファは神官長補佐を勤めているらしい。アクディス・レヴィからの手紙には、何故
かティファの名前が多く出ていた。
色々な意味で、エル・トパックが異母弟との再会を今から楽しみにしていると、
「カイルロッドの誕生日に、イルダーナフ殿も来てくれぬものかな」
ポッリとサイードが洩らした。
5  思い出はいつまでも
いまごろ
「今頃、どこでどうしておられるのやら」
つかや
サイードの呟きは、ユル・トパックの気持ちでもあった。
だれ
ィルターナフがどこにいるのか、誰も知らない。エル・トパックがサイードの養子にな
ってすぐ、イルダーナフはルナンから姿を消した。《第二の都市》にも戻らなかったロ
しようぷん
「一ヶ所に落ち着けない性分なのだ。なに、親父のことだ。生きていれば、そのうちひょ
っこり現われるだろう」
..7、
メディーナは諦めたように実っていた。
エル・トパックは、別れ際のイルダーナフの言葉を思い出していた。
「なぁ、エル・トパック。こう考えたことはねぇか7 億達のいるこの世ってやつは、も
しかしたら、誰かの見ている夢なのかもしれねぇって」
そう言って、イルダーナフは笑った。誰かとは《あの方》のことなのかと、エル・トパ
ックが質問すると、
「さてねぇ。だが、もし《あの方》って奴が夢を見ているなら・・。そして、宗の方妙
が人間の意識を含む巨大な集合体だというのならば、夢を見ているのは皆ということにな
るがね」
楽しげに言ってから、イルダーナフはふと遠い目をした。
うたかた
「過ぎてしまえば、なにもかもが夢みてぇなもんさ。人の一生も、時代の流れも、泡沫の
夢さ2…」
はうろう
脆くはかない人の世をーこの空の下、広い大地をイルダーナフは放浪しているのだろ
こどく
うD流れる雲のように、風のように、とどまることなく旅を続けるのだろう。孤独と風を
道連れに。
lよ      ろうか
どこかにいる大男に思いを馳せていると、廊下からドドドッと、地鳴りのような音が聞
こえてきた。エル・トパックは一瞬、ギョッとした。城にいると、目に何回もこの音を聞
く。ルナン名物の一つなのだが、エル・トパックはいまだ慣れない。
「ダヤン・イフェがこちらへ走ってくるな。では、用意してと」
近づいてくる足音に、サイードは伏したまま両耳をおさえた。ダヤン・イフエは身体だ
けでなく、声もとびきり大きいのである。
「何かあったのでしょうか?」
けげん   とぴら
エル・トパックが怪訝な顔を扉に向けると、勢いよく扉が開き、ダヤン・イフェでなく
かつしよくはだ ぎんいろ かみ
少年が飛び込んできた。褐色の肌に銀色の髪、青い目をした五歳の少年だ。
. 、
「父上っ、お阻父様っー」
「おお、カイルロッドー」
247  思い出はいつまでも
は。レ
サイードが弾かれたように顔を上げた。カイルロッドは今にも泣きそうな顔で、エル・
トパックの横に逃lげ込んだ。
「どうしたんです。カイルロッド」
・..J .
そうエル・トパックが息子に問う前に、
「王子っ!」
じlもうめん
地鳴りとともに大男ダヤン・イフエが飛び込んできた。サイードが渋面になる。
そ,フりてう
「相変わらず騒々しい男だなぁ」
もっ わけ
「申し訳ありません、王。しかし、王子が」
ダヤン・イフエがジツと、カイルロッドを見た。その視線を追って、エル・トパックも
かく
横に懸れている息子を見ると、
「だって、立っているだけでつまんないんだもんー」
すそにぎ         ほほ
ェル・トパックの服の裾を握りしめ、カイルロッドが頬を大きく膨らませた。
たんじよフぴ              かりぬ
事情を聞くと、誕生日のために服を新調するのだが、カイルロッドは仮縫いを嫌がって
逃げてしまったのだという。
「うーん。それは、つまらんだろうなぁ」
実感のこもったサイードの相づちに、
「ほら、お祖父様だって、ぼくと同じこと言ってる!」
′T、いげ
カイルロッドが得意気に笑った。ダヤン・イフェはジロリとサイードを睨み、それから
カイルロッドを見た。
「王子は兄上になられたのですぞ。兄上がいつまでもわがままを言ってはいけません。そ
れでもまだわがままを言うなら、母上に叱ってもらいますぞ」
「母上に …?」
たちまち、カイルロッドは泣きそうな顔になった。この少年は、母親であるメディーナ
こわ
が一番恐いのである。
おこ
「うーん。母上は怒ると恐いからな。お視父ちゃんでも恐い」
味方のサイードにまでそんなことを言われ、カイルロッドは半ペソの顔で「うー」と唸
った。エル・トパックは苦笑するしかない。今年の春に二人目の子供を産んでから、メデ
かんろく
ィーナには貫禄すら感じる。おそらく、ルナン城内一、家庭内一の実力者だろう。
「さあ、カイルロッド、お部屋に戻りなさい。ダヤン・イフェを困らせてはいけません」
エル・トパックは席を立ち、カイルロッドと日の高さを同じにするために屈んだ。
「だって、父上」
こうぎ
なおも抗議する息子に、
思い出はいつまでも
「おまえの誕生日のために服を縫ってくれているのだよ。つまらないなんて言って、母上
やダヤン・イフェを悲しませてはいけないよ。お針子の皆もがっかりしてしまう」
エル・トパックはやわらかく注意した。カイルロッドは少し考えていたが、やはり不満
くちぴるとが
らしく唇を尖らせた。
おじ
「カイルロッド、誕生日にはレヴィ叔父さんやミランシャ達が来てくれるのだよ。いい子
にしていなければ、皆に笑われてしまうよ」
とたん、少年の顔が明るくなった。
「ミランシャ達が来るのフ ええと、ロワジー様やセリお姉ちゃんもフ」
うな“T
笑顔でエル・トバックが領くと、カイルロッドは嬉しそうに笑い、
「じゃぁ、ぼく、いい子にしてる。あのね、父上。セリお姉ちゃんはね、空を飛べるんだ
いつしよ
よ。前に来た時、ぼくとミランシャも一緒に空を飛んだの」
いつしよ1′けんめい
身振り手振りで、一生懸命に話す。ジュディの子供のミランシャは、神殿で育てられて
いる。一年前にセリ達三つ子とロワジーがルナンに来た時、ミランシャを同行してきたの
だ。
「じゃあ、お部屋に戻ろう」
エル・トパックはカイルロッドを抱え上げた。
「父上。ぼくね、ミランシャが好き。セリお姉ちゃんも好きだし、ロワジー様も。それか
ら、お祖父様も父上も母上も、ダヤン・イフェも。それから、それからね。えーと、えー
手で頭をおさえた。が、素暗lらしいことを思いついたように顔を上げ、
「ぼく、皆大好きだよ」
エル・トパックの首にしがみついた。
セきわん
エル・トパックは胸の熱くなる思いで、小さなカイルロッドを見た。隻腕であることが
くや            いと  だ し
悔しかった。ぬくもりとその言葉が愛しく、抱き締めてやりたかった。
マす        めじり
ダヤン・イフェが鼻を畷った。サイードの目尻も光っていた。
「ダヤン・イフエとお祖父様、どうしたのフ どうしたの、父上?」
のそ
キョトンとした顔でカイルロッドが、エル・トパックの顔を覗いた。
「なんでもないよ。そうか、カイルロッドは皆が大好きか。父上も母上も、お祖父様もダ
ヤン・イフェも……皆もカイルロッドが好きだよ」
lまlまえ      とぴら
エル・トパックは微笑み、ゆっくりと扉に向かって歩きだした。ダヤン・イフエとサイ
ードが鼻を畷りながらついてきた。
一生懸命考えていたが、わからなくなってしまったのか、カイルロッドは唸りながら両
す lg
「忘れないでおくれ。その気持ちを、皆がおまえを愛していることを」
. .11.
エル・トパックは歩きながら、無邪気に笑っている息子に語りかけた。
はる カなた
空は青く、風は大地を渡り、遥か彼方へと吹いていく。
物語を運んで、吹いていく ー
(完)
あとがき
どうも。
卵王子九巻、完結です。
完結という響きにホッとし、同時にまた寂しさを感じています。長い物語が終わる時と
いうのは、作者にとっても複雑な気分のようです。
それにしても全九巻 −。
h 飽きっぽい私が、よくこの冊数を書けたものだと感心し、また書ける機会をいただいた
…幸運を噛み締めてます。
ZDJ 私も作家になるまでよく知らなかったわけですが・…
「自分の書きたい話」を、「書きたい時期」に、「書きたいだけ書ける」ということは、な
かなか難しいことなのです。
そうした意味で、このシリーズは大変幸運でした。これも、読者の方々の応援あってこ
そです。
カイルロッドを読んでくれた方々。
手紙や手作りの人形をくださった方々。
早速、古切手や使用済みテレホンカードを送ってくださった大勢の方々(たくさん送ら
れてきて、私自身驚いています)。
この場を借りて、お礼申し上げます。
そしてイラストの田中久仁彦氏に。九冊、ありがとうございました。
長い話を書くのは大変でしたが、とても楽しかったです。今後、機会があれば、もっと
長い話を書いてみたいと思っています。
1
それでは、またお会いしましょう。
冴木 忍 拝