く卵王子〉カイルロッドの苦難G
やさしさは風の調べ
286
冴木 忍
S
窓士見ファンタジア文庫
32u15
口絵・本文イラスト 間中久仁彦
四  三  二
あ  章 章 葦 章   目
き 警 禁… 敷 空 次
の  紅く  よ  の
子  蓮莞 り  星
供         々
封3   192  12とi  (1(l J
やさしさは風の調べ
〓早 地上の星々
そうげん
聖地は騒然としていた。
てきごと
それは魔物や異常気象といった辛く苦しい出来事によるものではなく、希望と喜びをと
もなったものだった。
「神殿を出ていた大神宮が戻ってきた」
すみヂみ
それは会議の終了とともに神殿内部に広がり、朗報となって街の隅々まで駆けめぐった。
大神官が戻ってきたことは、その日のうちに人々の知るところとなった。
「イルダーナフが大神宮・・」
ぼうぜん
会議が終わった後も、カイルロッドは呆然としていた。神殿高位の者とは思っていたが、
まさか大神宮だったとは。
「道理でなんでも知っているわけだ」
フィリオリのこと、実父である《あの方》 のこと、どちらも神殿関係なのだから、大神
宮が知っているのは当然だろう。
「イルダーナフが大神宮だって、ミランシャが知ったらどう思っただろう」
ばくら
旅をしている時、「酒を飲むな、博打をするな」とイルダーナフによく説教していた少
女の姿を思い出し、カイルロンドは表情をやわらげた。
大神宮が神殿の移動を告げ、神官一同が従うことで会議は終了した。《粥二の神殿》 へ
向かうことに、フエルハーン大神殿を捨てることに異講を唱える者はなかった。あれだけ
やかましく反対していたゼノドロスですらとたんに無口になり、会議終了後は逃げるよう
にして会議場を出て行った。
「やっぱりイルダーナフは凄い」
つうかス
会議場を出て行く時の神官達の顔を思い出しながら、カイルロッドは痛感した。ロワジ
▼フヽひよュノ
ーが「能無し揃い」と酷評し、やる気も能力もなかった神官達の顔つきが変わっていたの
だ。この時のために大神宮とウルト・ヒケウが三〇年がかりで用意していたと聞き、神官
達は忘れていたなにかを思い出したのかもしれない。
たば
「わずかな時間で、イルダーナフは神官達を束ねてしまった」
やさしさは風の調べ
なみたいてい
並大抵の人間にできることではない。権力や金でできることではないのだ。「さすが大
すなお Lようきん
神宮だ」、カイルロッドは素直に称資した。同時に、そんな凄い人物と旅をしていたこと
のあ。がたさを改めて知った。
おやけレ
「ロワシ一様やウルト・ヒケウ様を攣っわけではないが、あの親父が大神宮と言われても、
まだ信じられんな」
かさた                こりよ
手持ち無沙汰に長い黒髪をいじく。ながら、メディーナが遠慮のない感想を日にした。
うたテ
同感だというように、メディーナのすく後ろの席にいるティファが大きく領いた。
こたノJん
熱気と興奮が去。、ガランとしている会議場にカイルロッド達は残り、前の方の席に集
まっていた。壁削列にロワジしオンサ老、ウルト・ヒケウ、その後ろの席にカイルロッ
ドとエル・トパック、メディーナ、一番後ろにティファが一人で座っている。
「請があるから残っていてくれ」
会議終了後、それだけ言ってイルダーナフはアクディス・レグィを連れてどこかへ行っ
てしまった。
「大神宮も娘にかかっては形なしだな」
ロワジーの楽しそうな笑い声が室内に響いた。
「あんな男を大神宮にするなど、反対意見が続出したのではありませんかっ」
.・.                        .1
容赦なしのメディーナの質問に、笑いすぎて目尻に涙をためたロワジ1が頒き、
「若い時から、型破りな男だったからな。大神宮に推挙する時も、もめにもめたそうです
こういん
な。それを当時の神官長であるディルワールが、強引に押し切ったとか。そうでしたな、
オンサ老フ」
目で隣りの席にいるオンサを示した。どうしてロワシーがオンサ著を見たのだろうと、
4しぎ
カイルロッドが不思議に思っていると、
「ディルワール神官長はイルダーナフ殿をかっておられた」
オンサ老は雛の多い顔に苦笑をはりつけ、若者達の座っている後ろの席を向いた。かつ
つと
てオンサ宅はディルワール神官長の繍住を務めていたという。同じく、その当時のイルダ
ーナフを知っているウルト・ヒケウの三人も後ろを向き、クスクス笑っている。
三人とオンサ老が言うには、力は群を抜いていたが、とかく素行がよくないという理由
のP
で、ディルワール神官長を除く当時の神殿上層部に毛嫌いされていたらしい。
「ディルワール神官長って、先々代のフ ええと、キアラの祖父とかいうフ」
思い出しながらカイルロッドが質問すると、「キアラの祖父の前の神官長だ」と、ロワ
ジーは頭を振った。
やさしさは風の調べ
「つま。、先々々代フ」
先代の神官長だの先々代だの、カイルロッドは頭が混乱してきた。
「整理するとディルワール様、キアラの祖父、ロワジ一様、そしてアクディス.レヴィに
なっているの」
混乱しているカイルロッドに、リリアがわかりやすく説明してくれた。
「でも、イルダーナフって、そんなに素行が悪かったんですか?」
いつもダヤン・イフエに「素行が悪い」と怒られていたせいか、カイルロッドはイルタ
ーナフに親近感を持った。「神殿を抜け出して食べ物屋に行った。、遊びに行っていたの
だろうか」、そんなことを考えながらカイルロッドが質問すると、
「悪いなんてもんじゃないー」
ロワジーとオンサ老が声を揃えた。
「神官のくせに飲む、打つ、撃つと三拍子揃っていた。なにかというと神殿を抜け出して
ぴた
は、街の酒場に入り浸っていたな。飲み比へをして負けた相手に酒代を払わせた。、流れ
Lみき  やつ
こんできたゴロツキを叩き伏せた。、まったく呆れた奴だった」
っら かいこ             やゆ
しかめっ面で回顧しているロワジーに、リリアが椰線するように言った。
いつしよ
「あらブ ロワジー様も一緒に行っていたじゃない」
「はて。そんなこともあったかな」
せき    一一ハ
一同の呆れたような視線を受けて、ロワジーはわざとらしく咳をした。「俺なんかより
ずっと素行が悪いな」、三〇年前のイルダーナフやロワジ1達の姿が見えるようだ。カイ
ルロッドがしのび笑いを洩らしていると、
「色々ともめたが結局、キアラの祖父は前任者であるディルワール紳官長の意志をついで、
イルダーナフ殿を大神宮に指名した」
ふっと、オンサ宅が遠い目をした。
lんたh
「イルダーナフを大神宮に推挙したディルワール神官長はフ 引退したんですかヱ
なにげ            いつしゆん
何気ないカイルロッドの疑問に、一瞬だが三つ子やロワジー、オンサ者達が表情を曇ら
せた。
−1    −・ .−
なにか悪いことでも訊いたのだろうか。カイルロッドが戸惑っていると、
「イルターナフ様を推挙した後すぐに、ディルワール神宮長は亡くなったの」
−1いゆ
か細い声でアリユセが言った。その口調と表情に暗いものを感じ、カイルロッドが眉を
ひそめると、
ぶおきわ
「大神宮になると決まったはいいが、その後の就任式が大騒ぎだった」
やさしさは風の調へ
おおイH.き
暗くなった気持ちを振り払うかのように、ロワジーが大袈裟な身振。でぼやいた。
就任式当日にイルダーナフの姿はなく、残っていたのは紙切れ一枚だった。
「悪いが大神宮はやめる」
そう書かれた紙切れを見て、神官達は恐慌状態に陥った。大神宮が失踪したなどと人々
りんい しつつい     めいよ
に知られては、神殿の権威は失墜する。神殿の名誉のために、この事実をなんとしても隙
やAい   きゆうせh
しとおさなくてはならない。結果、大神宮は病により急逝したと発表され、就任式は取。
止めとなった。
「しかも大神宮様だけでなく、立ち合い人であるウルト・ヒケウ様まで姿を消して至られ
たのだから」
ため息のようなオンサ老の言葉に、ウルト・ヒケウの三人がベロッと舌を出した。
ヵィルロッドは初めて知ったのだが、本来はウルト・ヒケウの立ち合いなしては、大神
宮に就任できないそうだ。そもそもウルト・ヒケウと大神宮は、対極にいる存在だという。
かんし
互いの地位の監視役であり、大事には力をあわせるというものらしいD
「あたし達はイルダーナフ様と相談して、神殿を出て行くことにしたの。その時はもうム
ルトがタジ工ナに根を張っていて、芸の方》を呼び覚まそうとしていたから」
ヵィルロッドの前まで飛んで移動し、リリアが笑った。
「本当はムルトをどうにかしようとも思ったんですけど。無理にムルトをタジエナから引
き剥がそうとすると、それだけで芸の方》を呼び覚ましてしまいかねなかったので、諦
めましたわ」
リリアの横にきて、アリユセがふうっとため息をついた。
丁 だから《第二の神殿》を探しに行ったの」
遅れて飛んできたセリが、空いているカイルロッドの左横の席にちょこんと座った。つ
まり、その時点ですでにイルターナフやウルト・ヒケウは、芸の方》が動くことを予測
していたことになる。
「ねぇ、セリ。《あの方》が動くってことを、他の神官達に言ったのフ だから神殿を出
るって言っていれば、就任式がつぶれるような騒ぎにならなかったんじゃない? という
より、就任式がすんでからでも動けたんじゃないのヱ
・−、
隣りに座ったセリを見つめ、カイルロッドは素朴な疑問を口にした。
なぜ
何故、就任式前にウルト・ヒケウとイルダーナフが神殿を出て行く必要があったのだろ
う。むしろ就任式を終え、大神宮となってから神官達に《あの方》が動くことを告げるべ
きだったのではないか。
「イルダーナフはどうして大神宮にならなかったんだ?.《あの方》が動くと、大神宮と
やさしさは夙の調ぺ
ゥルト・ヒケウが予測したと、そう聞けば他の神官達がおとなしくしているはずはないの
に。そうすれば、三〇年前から用意できていたはずだ。神殿をとおして、各国に用意を呼
びかけることだってできたじゃないか」
さんヰレよう
そうなっていれば、今日の惨状はなかった。少なくとも、飢えや混乱による死者の数は
減っていたはずだ。
「どうしてP」
ヵィルロッドは浮いているリリアとアリユセを、セリとロワジーを、そしてオンサ老を
見た。視線を受け、三〇年前から今日があることを知っていたごくわずかな人々は、顔を
ばれ
曇らせた。しかし、誰もカイルロッドの問いに答えようとしなかった。
「どうしてなんですけ・」
らんんく いらガ
沈黙に苛立ちをおぼえ、カイルロッドが声を大きくした時、
「俺にゃ大神宮たる資格がないと思ったからだよ」
苦笑混じりの声がして、イルダーナフが戻ってきた。お付きのようにアクディス,レヴ
ィもいて、両手に書類を持っている。
「イルダーナフ」
カイルロッドがイルダーナフを見ると、
「三〇年たったから、少しはましな人間になったが、当時の俺は二十歳かそこらの馬鹿な
nムりp’
若造だ。フェルハーン大神殿がずっと恐れていたものの復活を予測したが、それをてめぇ
一人で負えるほど強くなかった」
せいかん  にが かげ
精惇な顔に苦い翳が落ちていた。メディーナが少し複雑な視線を養父に向けた。
だれ
「だから、まったく誰にも言わなかったわけじゃねぇんだ。話のわかる数人に、就任式の
前に相談したよ。これからどうすればいいのかと」       宗
そこでイルダーナフは言葉を切った。ロワジーとオンサ老の顔が大きく歪む。三つ子は
口をきつく結んだ。
「そしたら、そいつらのほとんどは発狂したり、自殺しちまったのよ。タジェナに封じた
《あの方》が動く、その恐怖に耐えられずにな」
1 、・ 、、、、.
するビ
カイルロッドは息を詰まらせた。メディーナとティファが鋭く息を飲み、アクディス・
レウィは持っている書類を落としそうになった。エル・トパックは目を伏せた。
「ディルワールですら、神官長ですら耐えられなかった」
抑揚のない声で亭っイルダーナフは無表情だった。カイルロッドは声も出せなかった。
事実を知って人々を救うどころか、神官達がそのことに耐えられなかったとは。それほど、
神殿はタジェナに封じた《あの方》を、カイルロッドの実父を恐れていたのだ。
「芸の方》に対抗するだけの力が神殿にはない。そのことをl番よく知っているのが神
殿、神官長だからだ。知っていればこそ、耐えられなかったのだろう」
めがしら
ロワジーは東すぎるため息をつき、オンサ老が目頭を押さえた。イルダーナフの相談を
受けて、残ったのはこの二人だけだった。そしてロワジーはイルダーナフに協力したが、
オンサ老は今日まで口をつぐんでいたのだ。
「死にこそしなかったが、わしも耐えられない方の人間でした。謡を聞いても半信半疑、
いや、信じたくなかった」
オンサ老は目頭を押さえたまま、坤いた。彼がディルワールの補佐に選ばれたのは、力
おんこう
が強かったからではなく、温厚な性格ゆえだった。そのことを自分でも知っており、ゆえ
に《あの方》 への恐れも強かった。
「だから三〇年もの間、なにもせずにいた。ロワジーとも顔を合わせず、逃げ回っていた。
.そのことをロにするのも恐ろしかったのです。イルダーナフ殿やウルト・ヒケウ様が
生きて帰ってこようとは、思いもしなかったこ 許してくだされ」
ゆる
オンサ老はイルダーナフに深々と頭を下げた。その肩は激しく震えていた。
「死なれるのも、信じてもらえないのも辛いことですね」
やさしさは風の調べ
みエつ
かつて、未曾有の災害がくると人々に訴えたが、聞き入れてもらえなかったことを思い
ひつつ おもも  つ.や
出しているのか、エル・トパックは悲痛な面持ちで呟いた。アクディス・レウィは、どう
していいのかわからないという表情でイルダーナフとオンサ老を見比べている。
「人間は弱いものだ」
ヵィルロッドはそのことを忘れていた。いや、自分の周りにいる人々が強いので、すべ
さつかく
ての人間がそうなのだと錯覚していた。
どんなに重く辛い事実でも、それから逃げない者はいる。しかし、そんな人間ばかりで
はかい
はないのだ。耐えきれず目をそむけた。、自己を破壊してしまう者もいる。
「許してくだされ、大神官」
さいな           いた
自責の念に苛まれている老人に、イルダーナフは労わるような優しい目を向けた。
「頭をあげな、オンサ。どうして俺におまえさんを責められるんだヱ
ィルダーナフは小さく笑った。それからカイルロッドに視線を向け、
「あのまま大神宮になっていても、俺にゃ大勢の人を動かせなかっただろうよ。大神官と
なるべき身でありながら∵人で重荷を負えず、結果的に神官長達を死なせてしまったよう
一ヨいたい
な馬鹿にゃ、人は動かせねぇ。それでなくとも神殿が衰退した時代に、軍がて未曾有の
危機がくる』と大神宮が告げたところで、すんなりと信じる者は多くねぇ。そこへもって
カんゆしん
きて、肝心の大神宮が馬鹿となりや、なおさら信用されねぇやな」
じぎやくてき
口元に自虐的な笑みをうかべた。
「だから神殿に戻る時にゃ、少しはまLになっていようと、そう思っていた」
みが         −まルそン さまぎまかせき
自分を磨きながら、宗の方》へ対抗すべく奔走し、様々な布石を打っていた大男を見
まゆ
つめ、カイルロッドは眉をひそめていた。
「だから慎重だったんだ」
一刻も早く真実を知りたいと言うカイルロッドに、イルダーナフはよく「まだ早い」と
言った。もったいをつけているのだと、そう思っていた。だが、そうではなかったのだ。
こつかい
苦く辛い失敗があり、その後悔がイルターナフを慎重にさせていたのだ。
「まだなにも知らない時に事実をつきつけられていたら、俺もディルワール神官長のよう
になっていたかもしれない」
さむH
そう考え、カイルロッドは急激に寒気を感じた。そして、自分の両肩を抱いていると、
「さて、昔話はこの辺にしておこう」
澱みかけた空気を、イルダーナフのよく通る声が流した。重くやりきれない空気が一変
よど
する。
めんつ
「この面子を残したのは、昔話をするためじゃねぇ。これから移動の準備を始める。その
9 やさしさは風の調へ
ために力を借。てぇからだ」
あいデ
二同の表情が引き締まる。イルダーナフに目で合図され、アクディス・レヴィが持って
いた書類を各自に配った。
たたか
「これからは時間との闘いだ。食料の問題もある。俺としては、五日後に神殿を出て行く
っもりでいる」
おどろ
五日後と聞いて、一同の顔に緊張がはしる。カイルロッドも驚いた。
「急だが、できねぇはずはねぇ。おまえさん達にゃ、それだけの力がある」
イルダーナフは断言した。
おやじ
「人をおだてて動かすのが上手いな、親父」
書類を手にメディーナが屈託なく笑った。
「まったく、人使いが荒い」
いそが
ぼやきながらロワジーが肩をすくめ、エル・トパックは「忙しくなりますね」と、小さ
だれ
く笑った。しかし、証からも「無理だ」「できない」という意見はでない。無茶だと思い
っっ、イルダーナフに「できる」と断言されるとその気になってしまうのだ。
「でも、大変だなぁ」
などと思いながら、カイルロッドが目を皿のようにして書類を見ていると、
「おっと、王子はいい。おまえさんは他にやらなくちゃならねぇことがあるんだぜ」
イルダーナフが正面にやってきた。
「え?」
けl−ノん
なにがあるのだろうか。カイルロッドが怪訝な顔を上げると、イルダーナフは苦笑し、
「言ったじゃねぇか。会議が終わったら、特別の部屋に入ってもらうことになるってよ」
その部屋のある方角を親指で差した。
「 ・すっかり忘れていた」
うなヂ
カイルロッドが讃くと、
「しっかりね、王子」
「気をつけてくださいな」
浮いたまま書顆を見ていたリリアとアリユセが、上からカイルロッドに声をかけた。
「 I 王子」
なな
目を潤ませたセリが、斜め下からカイルロッドを見上げている。ウルト・ヒケウのいや
に心配そうな様子に、カイルロッドは部屋に入ることに恐怖を感じてきた。
こわ
「あの1、部歴に入ると、なにか恐いことでもあるのヱ
こめかみのあたりをひきつらせて訊くと、イルダーナフは神妙な顔でこう言った。
やさしさは風の調べ
1
「入れば嫌でもわかる」
「・・聞くんじゃなかった」
カイルロッドは肩を落とした。
2
神殿の奥に「特別の部屋」があるとイルダーナフは言った。そしてそこに入るために、
カイルロッドは神殿にやってきたのだ。
「わかっていても気が重い・・」
ろうか
セリに案内されながら、カイルロッドは足を引きずるようにして廊下を歩いていた。
けんてつ            くつおと
建物の奥に進むにつれて人影が減り、喧騒から遠ざかる。聞こえるのは二つの靴音だけ
だ。
五日後の出発に向けて、イルダーナフはユル・トパック達に指示をした。それぞれの役
きつそく          むだ
割を決められ、エル・トパックやメディーナ達は早速行動を開始した。「分二秒も無駄に
たたか
はできない。時間との闘いである。
そして彼らが動くことによって、聖地にいる人々も動き出していた。心に巣くっていた
絶望を忘れようとするかのように、人々は大神宮の指揮のもと、嘉二の神殿》を目指し
め ぎ
始めた。
「それなのに、俺は外れ者」
廊下を歩きながらカイルロッドは拗ねていた。これが自分の役割なのだとわかっている
お、もしろ
のだが、なんだか面白くない。
にぎ
「皆と賑やかにやっていたいのに」
イルダーナフが聞いたら「祭りの準備じゃねぇんだ」と怒るだろうが、カイルロッドに
してみればまさに祭りの準備から締め出された気分だった。
さげ
「・王子、寂しいのっ」
のぞ
セリが下からカイルロッドの顔を覗いた。
「少しね。俺のやらなきゃいけないことはいつも一人だからさ」
ノヽちぴ0
視線を下に向け、カイルロッドは唇を笑みの形にした。試練は常に自分自身と向かい合
うことばかりであり、誰とも共有することができない。それが時々寂しいと感じる。
しず       号っぱう
カイルロッドの言葉に、セリの顔が沈んだ。その水色の双降がかすかに潤んでいるのを
ふわ
見てとり、カイルロッドは慌てて言葉を付け足した。
「でも、それが俺の役割なんだよ。皆それぞれ、自分にできることをしているんだから」
おの
セリに言っているのだが、半分以上は己れに対して言い聞かせている言葉だった。
23 やさしさは風の調へ
「 圭子は∵人じゃないの。いつも、誰かが王子を見ているの。だから寂しいなんて言
だめ
っちゃ駄目」
すェ ▼hぎ
ヵィルロッドの服の裾を握り、セリは必死な様子で言った。
「うん、わかっている」
うなず
セリの目を見つめたまま、カイルロッドは音いた。寂しいと感じたことはあるが、孤独
だと思ったことはなかった。いつの時も】人ではなかったから。母国ルナンにいた時も、
旅をしている間も∵人ではなかった。近くに姿は見当たらなくとも、いつも誰かが見てい
てくれた。
「わかっている」
おだ
穏やかにカイルロッドは同じ言葉を繰。返した。それから顔を動かし、窓を見た。廊下
ゆうくれ
の小さな窓から弱々しい光が差し込んでいる。時刻的には夕藩だが、異常気象によって一
おお
日中厚い雲に覆われているので、空の明るさだけでは時間の判断ができない。
「セリ、例の部屋に急ごう。こっちも時間との闘いだろうヱ
うなが
促すと、セリは足早に歩きだした。が、なにぶんカイルロッドとはコンパスの長さが違
ぅ。本人は足早のつもりでも、すぐにカイルロッドに抜かされてしまう。それが面白くな
いのか、セリは宙に浮いた。こっちの方が歩くよ。ずっと速く進めるらしい。
「ところでセリ。セリはその部屋に入ったんだよね?・‖どんな部屋なのっ」
気のせいか、進むにつれて天井が高くなっている。横にいて、顔の高さに浮いているセ
リに、カイルロッドが質問すると、
「あの部犀にはすべての秘密が封じられているの。でもね、見える人と見えない人がいる
の。その人のその能力によって、見えるものが違うの」
そう言ってセリはスーツと先へ行き、廊下の角を曲がった。足を速めてカイルロッドも
角を曲がった。
えたh
すると、正面から得体の知れない衝撃がきて、カイルロッーミは思わず後追った。耳鳴り
あわド
がして、肌が粟立っている。
「なんだ膏 魔物け」
ナぱや
カイルロッドは素早く短剣を手にしたが、そこに魔物などいなかった。
吹き抜けのホールに出たように、天丼がいっきに高くなっていた。そしてそこには城門
とげら
ではないかと疑うような、黒い巨大な扉があった。
「なんて扉だ・」
カんたん
はるか頭上まである扉を見上げ、カイルロッドは感嘆の声をあげた。が、驚いたのはそ
もんよう う つ
の扉だけではなかった。黒光りする扉の周りの壁一画が、見たこともない文様で埋め尽く
25  やさしさは風の調べ
されている。
さフいん
「これは封印なの」
っつ
ふわ。と、上からセリが下りてきた。黒光りする扉の表面に、セリの姿が映る。
「封印フ」
きや           ほんすう
抜いた短剣を輪におさめてカイルロッドが反窮すると、セリは領いた。
「この部屋の中にあるのは、とっても重大なことだから、外に漏れ出ないように、人を近
づけないように、神殿は気の遠くなるような時間と力を使って、封印してきたの」
扉を見上げ、カイルロッドはただ感心していた。
「でも、この靡、開けられるのフ 重そうだけど」
「力がある人なら、押せば簡単に開けられるの」
「へぇ、そういうもんなのか」
あご
半信半疑で、カイルロッドは自分の顎に手をあてたまま、首をひねった。
「ところで、部屋の中では人によって見えるものが違うって一言ったよね。イルダーナフと
ゥルト・ヒケウは違うものを見たのっ なにを見たのっ」
ヵィルロッドの質問にセリは答えず、ただ哀しげな目をしていた。
「入ればわかる、か」
封印だという壁の文様を見ながら、カイルロッドは肩をすくめた。「とにかく入ってみ
るか」、カイルロッドはゆっくりと扉に近づき、表面に触れようとした。その時、セリの
するど
鋭い声がした。
「王子−」
いつもロの中でぼそぼそしゃべっているセリからは想像できないような声に、カイルロ
はじ
ッドは弾かれたように振り返った。
「どうしたの、セリ」
「 王子。本当はね、イルダーナフ様は王子をこの部屋に入れたくないの。イルダーナ
フ様だけでなく、あたし達もそう思っているの。ずっと、王子が生まれた鴫から、この日
がこないことを祈っていたの。皆、皆が本当に王子のこと、案じているの」
浮きながら、セリは必死な面持ちでそう言った。
きぴ
「イルダーナフ様が厳しいのも、王子のことを心配しているからなの。本当なの」
もっとうまく言いたいのに、言葉が出てこないというように、セリはもどかしそうに両
手を動かしながら「本当なの」と繰り返す。
「わかっているよ」
lまlまえ
カイルロッドは微笑んだ。
やさしさは風の調ペ
「俺が生き残れるように。負けないように。イルダーナフはそのための衝を教えてくれた
んだ」
されい
案じているからこそ、厳しいのだ。相手の求める綺麗な言葉を並べ、同情して一緒に泣
いてやることだけが優しさではない。ましてや汀やかすことではない。カイルロッドはそ
のことを知っていた。
そして他人の身を案じ、そのために憎まれることすらけ受できる人間に会えたことは、
幸運だとも知っている。
「でも、こんなことでもなかったら、そういう優しさがわからなかったかもな。俺はまだ
子供だから、きっとわからなかった」
つぷや
呟き、カイルロッドは苦笑した。厳しさはわかりにくい優しさだ。
だいじよ・ンl
「心配しないで、セリ。大丈夫だよ」
も旧
27
まったく不安がないと言えば嘘になるが、入る前から悲観しても仕方ないことだ。カイ
ロッドは努めて明るい口調で言い、両手で扉を押した。
セリの言ったとおり、巨大な扉がまるで重さを感じさせずに開こうとしていた。
同じ頃∵一d
Lつもしつ
アクディス・レウィは、落ち着きなく室内を歩き回っていた。袖官長の執務室ではなく
奥まった場所にある一室だ。ほとんど使われることがなかったため、咲っぽい。そこヘア
クディス・レグィが歩き回っているので、いよいよ挨がたつ。
「まさか付き人とは」
咳をしながら、アクティス・レヴィはぼやいた。アクディス・レウィに与えられた役割
は芙神官の付き人」だったeはっきり言うてしまえば、付き人とは雑用係のようなもの
である。だが、そんなことはどうでもいいことだった。
ののし
「こ 問題は大神宮様をつかまえて、ふざけた名前の男と罵ったことだ」
ひたh
立ち止まり、アクディス・レウィは自分の糠に手をあてた。曾祖父が神官長であり、神
殿育ちのアクティス・レウィにとって、大神宮は神聖な存在であった。幼少の頃からそう
いうふうに叩き込まれている。
ムり
その神聖であるべき大神宮に対する己れの数々の言動を思いおこし、アクディス・レウ
しよっどう
イはどこかへ逃げ出してしまいたい衝動に駆られていた。
「いくら知らなかったこととはいえ 」
かいこム つめ カ
悔恨に爪を噛みながら、部屋の端から端まで何往復もしていると、靴音が近づいて扉が
開いた。
29 やさしさは凧の調べ
「大神宮穣一」
反射的にアクティス・レグィは姿勢を正した。現われたイルダーナフは黒で統一した衣
かぴ てうしよく       いホう
服に、マントをつけていた。と。たてて華美な装飾はないが、それだけに威風をおぴてい
る。
かつこう
「大神宮ならそれらしい格好をしろと、ロワ、シーやメディーナがやかましいんでな。こん
あらた
な改まった服を着るのは、何年ぶりやら」
きゆうくつ
窮屈そうに襟をいじく。ながら、イルダーナフは苦笑した。
「ところで、しけた面してどうしたヱ
「は・ いえ」
まともに顔も見られず、アクディス・レグィが口ごもると、
えんnソよ
「そう畏まりなさんな、夜逃げした大神宮なんぞに遠慮するこたぁねぇよ。はった。が必
要だって亭っんで、大神宮を演じているだけなんだからな」
ィルダーナフはニヤッと笑った。アクティス・レヴィの心情など、お見通しらしい。ア
クディス・レウィは深く頭を下げた。
さんけいしや
「さぁて。そんじゃま、参詣者達の前で説教するか。集まっているかヱ
なぐ
これから殴。合いでもするかのように、イルターナフはバキバキと指を鳴らした。
30
「あ、はい、参詣者用の神殿に集まっていますが、入りきらない者もいるようです」
あわ               ぅ・芋
アクディス∴ヴィは慌てて報告した。イルダーナフは「そりゃ、紺構」と領き、
「行くぜ、アクディス・レウィ」
部屋の外に出た。アクディス・レヴィは後に従った。
五日後に聖地を捨て、恋弟二の神殿吋へ向かうことを告げるため、人々を集めて説得す
ることにした。大神宮はそうした役目にふさわしい存在だった。
「大神宮様だ」
「大神官様」
参詣者用の神殿に向かうイルダーナフの姿を見つけ、人々が頭を下げる。へつらいや形
だけの敬意ではなしに。
神殿という集団が、大神宮を中心にまとまっていく。それを目のあたりにしてアクディ
ス・レヴィは感動し、同時に自嘲した。
「まとめるどころか、俺は馬鹿にされるだけだったな」
・−
元々、自分は神官長の器ではないと、アクディス・レヴィは思っていた。が、
「血筋からいっても、おまえは神官長にふさわしいのよ、レヴィ」
じやまもの けいせき
母のキアラはそう言って、金をばらまき、邪魔者を排斥して、息子を神官長の座につけ
やさしさは風の調べ
ほこ
た。そこには祖父が神官長だったという誇。と、エル・トパックへの対抗意識があったの
だろう。
「血筋などで人は動かせないというのに」
アクディス・レヴィはそのことを身をもって知っている。
「人間の差だ」
つつかん
ィルダーナフの背中を見ながら、アクディス・レグィはそう痛感していた。イルダーナ
いぽけい一
フは亭っに及ばず、異母兄のエル・トパックとも大きな差がある。
「あんなこと、俺なら許せないのに」
ごういん
ェル・トパックの両親をキアラが強引に引き裂いたという事実を知った崎、アクディ
げきど
ス・レヴィですら激怒した。母のキアラを許せないと思った。それなのにエル・トパック
たんたん    lフ〃じん
は淡々と、数々の理不尽な仕打ちに耐えていたのだ。
「トパックは許しても、俺には許せない」
ぁれ以来、アクディス・レグィのキアラに対する感情は変わった。それまで「父に捨て
かわいそう             もうしゆう
られた可哀相な母」と同情していた。だからこそ、あの妄執じみた愛情にも耐えていた。
だがもう、同情はなくなった。
「父が母を疎んじたのもわかる。あの人は相手のすべてを独占していなければ気がすまな
いのだ。いつだってそうだった」
一ノわい          けつ
可愛がっていた犬や猫は「不潔だから」という理由で、キアラに捨てられた。なついて
いた優しかった侍女は、キアラの「気にいらない」の三号解雇された。
「俺はいつも独りだった」
ノ、ちぴる
歩きながら、アクディス・レグィは唇を噛んだ。街に出ることはもとより、神殿にいる
子供達とも遊べなかった。「あんな子達はおまえにふさわしくないわ」、キアラはそう言っ
て、アクディス・レグィを外に出そうとしなかった。
「すべておまえのためなのよ」
それがキアラのいつもの言葉だった。そしてその言葉のもとに、アクディス・レヴィを
束縛した。母である自分だけが理解者である緩ように思わせようとした。  さび
哀れと言えば、哀れだろう。熱愛した夫に顧みられることがなかったキアラは、その寂
しさのすべてを、息子を独占することで埋めようとしたのだ。
「だが、俺は母の人形じゃないんだー」
ま ぴら
もう真っ平だと思った。いくら親子だからといって、そこまで束縛される理由はない。
「俺は自分の足で立ちたい。そして強くなりたい」
異母兄のように、カイルロッドやイルダーナフのように。
やさしさは風の調べ
みす
「貴っすぐに自分を見据えている彼らのように、強くなりたい」
ァクディス・レヴィは顔をあげた。イルダーナフの背中越しに建物の出入口が見え、そ
こから冷たい風が吹き込んできた。イルダーナフのマントが風をはらんで揺れる。
「おやおや」
ァクディス・レヴィよ。一歩先に建物の外へ出たイルダーナフが、口笛を吹いた。
「なにか?」
ぜつく
ゎずかに遅れて外へ出たアクディス・レウィは絶句した。建物の外に、待ち構えていた
ようにキアラがいたのだ。
3
とうらい
夜の到来を告げるような冷たい風を受け、キアラがそこにいた。
かた ふとど
「何処へ行くのです、大神宮の名を騙る不届き者が」
ぅすやみ     そうぽ、つけんのん
薄闇の中でキアラの双鉾が剣呑な光を帯びて、光っている。
みぷる
吹きつける冷たい風が〓層冷たく感じられ、アクディス・レヴィは身震いした。大神宮
の登場、そして聖地からの移動と聞いて、あのキアラがおとなしくしているはずがなかっ
た。
「しかし、大神宮様に食ってかかるとは」
いくらなんでもそこまではしないだろうと、アクディス・レヴィは高をくくっていたの
だ。だが、それは楽観でしかなかった。
「母上…」   うめ         いちべつ
アクディス・レヴィが暗くように言うと、キアラは鋭い一瞥をイルダーナフに向けた。
「これが大神宮ですって?」
さげす           だよ
あからさまな蔑みの視線だった。イルダーナフは黙っているが、口元には皮肉めいたも
のがあった。
「聞けばこの男、就任式前にいなくなったとか。就任式もすませていない者を大神宮とし
て遇するとは、どういうことです?」
ふおん
不穏な空気を感じ取ったのか、建物から出てきた神官達を睨み、キアラは憎々しげに言
った。
「そのような男が大神宮であるなど、わたくLは絶対に認めませんよ。認めては神殿の体
面にかかわります。この百年、大神宮は出ていないのです」
早口に言い捨て、キアラは息子の上に視線を移動させた。
きぎし
「こんな詐欺師のような男にいいように使われ、自分が恥ずかしいとは思わないのですか、
レヴィ」
ひなん     しっと ひび
非難というより、嫉妬の響きが強いと感じたのは、アクディス・レヴィの気のせいだろ
うか。
「母上、やめてください」
周閲を見、アクディス・レヴィは舌打ちした。いつの間にか神官達ばかりでなく、街の
人々まで集まってきている。公衆の面前で、こんな馬鹿げた見せ物をしている場合ではな
いのだ。
しゆぎよう
「いいように使うねぇ。見習いにして、修業させてやってんじゃねぇか」
非難は心外とイルダーナフは言ったが、キアラの耳には入っていなかった。
だま
「お黙り、この詐欺師丁 神殿とレグィを騙すなど、許せることではありませんよ1」
元々気の長い方ではないので、キアラの発言にアクディス・レヴィは爆発した。
かげん
「いい加減にしてください、母上⊥            くず
公衆の面前で大神官を詐欺師に引きずりおろし、キアラは神殿の団結を崩すつもりなの
だ。「移動に向けて、皆がまとまりかけているというのに」、もはや体面などにかかずらっ
ている場合ではないのだ。
ぽうとく
「いくら母上でも、大神宮様を冒漕することは許しませんぞー」
やさしさは風の調ペ
「なにが大神宮なものですか一目をさましなさい、レグィ! あなたはこの詐欺師に騙
さぎし だ
されているのですー」
ののし
だが、キアラはイルダーナフを罵ることをやめようとしない。
「どうしてわからないんだト」
拳を振。上げかけたアクディス・レヴィを、イルダーナフが片手で制した。
なく             げんか
「よしな、女は殴っちゃいけねぇ。それにこんな場所で親子喧嘩もあるめぇ」
ぉどけたように片目をつぶ。、イルダーナフはキアラを見たD負けじとばかりに、キア
にら
ラがイルダーナフを睨みつけた。
たいじ              孟ようきんちよう
対疇するイルダーナフとキアラを見ている人々の間に、奇妙な緊張が生じていた。アク
のど かわ
ディス・レヴイも喉の渇きを覚えた。ある意味で大変に興味深い見せ物であることは否定
できない。
キアラが神殿の影の実力者であることを知らない者はない。先々代の神官長の孫という
血筋と人脈、そして金をばらまくことで、気にいらない神官達を徹底的に排斥して息子を
はいせき
ぎゆうじ
神官長に据え、弟をその補佐にして、神殿を牛耳っていた女だ。
もど
そこへ三〇年前に神殿を出た大神宮が戻ってきた。通常であれば、大神宮が神殿の最高
いげん  ひぎ
位に決まっている。神官達もその威厳の前に膝を折った。が、大神宮は就任式をすませて
おらず、公式に認められていない。それが泣き所だ。
「どちらが神殿の墾高位か」
いや
その直接対決なのだ。嫌でも緊張が高まるというものだろう。
「キアラだったな。確かに俺は就任式をすませていねぇ。だから大神宮と呼ばれるのは間
ちが
違いだ。おまえさんの言うことが正しい」
腕組みをして、イルターナフが貰った。風にマントが大きく揺れ、バサバサと音をたて
る。
「物分かりのいいこと」        うめ
軽やかな声をたてて、キアラが笑う。人々から暗くような声が洩れ、アクディス・レヴ
うな
イは「そんなー」と腹の中で唸った。移動までの日数はぎりぎりのものだ。短い時間の中
で移動を実行させるためには、人々の団結が必要であり、そのためにも大神宮という存在
は不可欠なのだ。
みずか
「それを自ら否定するなどーなにを考えておられるのだ」
アクディス・レヴィは拳を震わせていた。
「ならば、さっさと神殿を出ておいき」
はこ
勝ち誇った笑みで、キアラ。イルダーナフは腕組みしたまま、
やさしさは風の制べ
「おいおい、他人の話は最後まで聞くもんだぜ。おまえさんの祖父は、そんなことも教え
て.さあい
なかったのかいフ いくら娘夫婦が早死にしちまったからって、孫の溺愛がすぎたみてぇ
だなぁ」
白い歯を見せた。すっと、キアラの顔から笑みが消えた。
めんどう
「就任式もすませてねぇから、俺は大神宮として動くつもりなんざなかった。面倒だし、
肩は凝るしな。神殿のていたらくぶ。をこの目で見るまで、知らん顔するつも。だったの
よ」
,れい
「なんという・・大神宮をなんだと思っている、無礼な⊥
そうはく
怒りでキアラが蒼白になった。目ばかりがギラギラと光っている。
「無礼はどっちだ」
ふいにイルダーナフの声が低くなった。
「キアラ。そもそも、そなたは何者か」
表情と口調を二変させ、イルダーナフが苦った。声そのものは決して大きくなかったが、
あつ▼C−フ
他を圧倒する強さがあった。その声と吹きつける風に押されたように、キアラがよろめい
た。
「わ、わたくLは先々代神官長の孫であ。、現神官長の母ですよ−」
きトーせい
虚勢をはるように、キアラは声をはりあげた。「母の負けだ」、アクディス・レグィは勝
敗を知った。明らかにキアラはイルダーナフに圧されている。
けつえん
「血縁、か」
いつしゆん
イルダーナフの口の片端があがる。が、それはほんの一瞬だった。
一てんけい
「血縁というだけの理由で人々の尊敬を受け、神殿内部に口出しできると思っているのな
りようけん   けなは
ら、了見違いも甚だしい。直接関係がなく、また協力をする気もない者など下がってお
れ1」
いっかつ
周りの空気まで震動するようなイルダーナフの一喝に、集まっていた人々は反射的に首
おこり
をすくめ、キアラはまるで癖のように震えた。
「この、このわたくLに対して−そのようなロを…ニ」 掌り
圧倒的な差を見せつけられながらも、キアラはまだ抵抗を諦めなかった。
こうかい
「そのようなロをきいたこと、後で後悔しますよ」
もんノ1
「文句は事がすんでから、ゆっくりと聞こう。だが、これだけは言っておく。人心が大神
宮を必要としているのだ。拠り所として。それゆえ、三〇年前に神殿を出たはずの俺がこ
こにいるのだと、そのことは覚えておくがいい」
朗々とした声で言い、イルダーナフは歩きだした。ほぼ同時に、命じたわけでもないの
やさしさは蝋の調べ
いつせい
に、周。にいる人々が〓斉に頭を下げた。アクディス・レヴィも敬礼した。神殿最高位が
だれ
誰であるか、今ここにはっきりと決まったのである。
そうした中でキアラは、ここから先は一歩たりとも通さないというように、イルダーナ
フの進む方向の前に立ちふさがっていた。人々から抗議に似た声があがる。アクディス,
レヴィも知らず、声を出していた。
「どきなさい、母上−」
が、キアラは動かない。
「わたくしほどきませんよ」
いど
挑みかかるように、正面で足を止めたイルダーナフを睨みつける。
「母上!」
はぎLし
挺子でも動かないという様子のキアラに、アクディス・レヴィは歯乱。した。「力ずく
かくご
でどかせるしかない」、斬。捨てることも辞さない覚悟でアクディス・レヴィが動きかけ
た時、
「道を開けるがいい」
静かな声が響き、イルダーナフがゆっくりと進んだ。しかし、キアラは動かない。一歩
一歩、イルダーナフとキアラとの距離が縮まる。
.・  ・.▼
空はすっかり暗くなっていたが、この場から去る者はなかった。息を殺し、この成り行
きを見守っている。
ゆうぜん
イルダーナフは悠然とした足取りで進み、キアラの正面で立ち止まった。二人の問は一
メートルと開いていない。
にせもの ぷんぎい   つら
「偽者の分際で大神宮面をするでないわー」
イルダーナフを睨みつけ、キアラが手を上げた。アクディス・レヴィは息を飲み、人々
ひめい
の間から悲鳴じみた声が洩れる。
「大神宮が引っぱたかれる」
誰もがそう思った。アクディス・レウィも思った。しかしー。
けいきよもうどr、ノ
「そなたの軽挙妄動は、俺だけでなく、先々代神官長と現神官長を愚弄するものぞ⊥
ずんっ、と腹の底まで響くような声に、キアラの手が止まった。手を振り上げたまま震
いぬ
えているキアラを、イルダーナフの黒い目が射抜いた。
「わかったら、道を開けるがいい」        ゆカ
強い光を放つ黒い目にねじ伏せられたように、キアラは顔を歪め、全身を震わせながら
あんど
イルダーナフに道を開けた。周囲にいた人々が安堵の声をあげる。
「やはり母のかなうような方ではない」
やさしさは風の調ぺ
何事もなかったかのように、悠々とキアラの横を通。過ぎるイルダーナフを見ながら、
かんたん
ァタデイス・レヴィは感嘆の息を吐いた。イルダーナフの自信と強さの前には、ヰアラの
てつペき はじ
言動など鉄壁に弾き返される矢のようなものだ。
「アクティス・レヴィ、下の神殿に行くぞ」
あわ
声をかけられ、アクディス・レグィは慌てて「はい」と返事をした。そして母の横を走
って通。過ぎた。
「レグィー」
背中からすがるような声でキアラに呼ばれたが、アクティス・レグィは振。返らなかっ
た。
ィルターナフを追って、曲がりくねった階段を下りて行くと、
はじ
「すまなかったな、おふくろさんに恥をかかせちまって」
階段の途中にイルダーナフがいた。口調がいつもの砕けたものに戻っている。
「いいえ」
ィルダーナフの横に行き、アクディス・レグィは頭を振った。公衆の面前でなければ、
たいじ
ィルダーナフはああいう対時をしなかったに違いない。誰の目にもはっきりと、大神宮が
叢高権威であると示す必要があったから、あんな対決をしたのだ。
「母のことは・・はっきりさせなくてはならなかったことです」
といき
階段上のざわめきを聞きながら、アクディス・レヴィは吐息をついた。あれは人々の興
ふん
奮の声だろう。それほどキアラは人々に、特に神殿の者に嫌われていたのだ。彼女の行動
を考えれば当然なのだが、キアラの支配から離れてみて、アクディス・レヴィはようやく
そうしたことを−おべっかやへつらいではない人々の心を見ることができた。
「本当なら、私が言わなくてはならなかったことです」
こわ
恐くて誰も言えないのなら、せめて息子である自分が亭っべきだったのだ。それを父に
捨てられたという同情で、母を甘やかしていたのだ。       きわ
「しかし、大神宮様。あの母が簡単に引き下がるとは思えないのですが。なにか騒ぎを起
こすかもしれません」
にわかにアクティス・レヴィは不安にかられた。権威に弱く、大神宮をゴロッキ呼ばわ
ぶぴ        ぉじ
りしたことに怯えてコソコソしている叔父のゼノドロスはともかく、実の母ながらキアラ
はなにをするかわからない。
アクティス・レヴィの不安に、イルダーナフはいともたやすく「その時はなんとかする
はがん
さ」と破顔し、
やさしさは風の調ぺ
「早く下に行こうぜ、神官長。大勢の人間が待っているんだからよ」
アクティス・レヴィの背中を叩いた。
「 …神官長フ」
強く叩かれ、アクディス・レヴィは咳き込みながら、目を丸くした。神官長とイルダー
ナフに呼ばれるのは初めてだった。
「でも私は、金で地位を買った 」
つぷや
口の中でもごもごと呟くと、イルダーナフは目を細めた。
りつぽ
「いいじゃねぇか、そんなことは。今のおまえさんは、三〇年前の俺よ。よっぽど立派だ
ぜ」
「   」
つら
「なんてぇ面だ。おまえさんは神官長だろうが。しっかりしろや」
ァクディス・レグィの肩を軽く叩き、イルダーナフは階段を下りて行った。
ぽフぜん
ァクディス・レグィは呆然として、下。て行くイルダーナフの後ろ姿を見ていた。実力
イ題5
のないお飾りだったアクディス・レヴィを、大神宮は神官長として認めてくれたのだ。
「認めてくれたから、俺をお付きにしたのだ。雑用なんかではなく、見習いとして」
めがしら
胸と目頭が瀾絞った。 三けいLや         ぁか
階段の下では灯が揺れている。参詣者用の神殿の前でさざめく波のように灯りが揺れて
いる。大神宮の謡を聞くために集まっている人々の灯だ。
「あの灯を消させはしない」              急
ぼやけて揺れる灯りを視界におさめながら、アクティス・レグィは心に誓った。それか
なみだ       ぬぐ
ら流れ落ちそうになった涙を手の甲で乱暴に拭い、アクティス・レグィはイルダーナフを
追って階段を駆け下りて行った。
4
ひむろ                 かペはんきよう
氷室にいるような寒さに、吐く息が白い。歩き回る音が壁に反響して、いやに大きく聞
こえる。
.・
「凌いですね」
つぷや
足を止め、メディーナは呟いた。
せ・ま
神殿の大広間ほどもある地下室に、食料の詰まった木箱や袋が所狭しと績まれている。
ちよぞうこ  おどろ
「この広さの地下貯蔵庫にも驚きましたが、食料不足というのによくこれだけ貯められた
ものですね」
やさしさは風の調ベ
積んである食料を見上げ、メディーナは感心した。その横でロワジーが「これほどとは
かんたん
思わんかった」と、感嘆の声をあげた。
「この異変の起こる前から、貯蔵してお。ましたので」
おだ
感心している二人にランプを持った初老の男、イグヨルが穏やかに言った。メディーナ
とロワジーがいるのは、イグヨルが所有している倉庫の地下だった。
「これだけの童があれば、その舎弟二の神殿》にたどりつくまで、充分に人々をまかなえ
るでしょう」
ほlまえ         こ・フ みつか
荷を見上げ、イグヨルは満足気に微笑んだ。元々イグヨルは杏を扱っている商人で、神
殿に出入りしているうちにロワジーと梶懇の間柄になったのだという。ロワジーはイグヨ
おとず みぞう
ルの人柄を見込んで、訪れる未曾有の危機を打ち明けた。そして「その時に備えて食料を
たくわ      たの
貯えてほしい」と頼んだ。その願いに、イグヨルは私財をなげうって応えてくれたのであ
る。倉庫にあった香をすべて余所へ売り、その資金で食料を買い求めたのだ。
「わしの言葉を信じて、よくぞここまで貯えてくれた。どれほど礼を言っても、言い足り
ない」
めつた                めじり
滅多なことでは他人に礼など言わないロワジーが、目尻に光るものを浮かべてイグヨル
に頭を下げた。
むさぼ         かんげん
「とんでもありません。ここにある物はそれまで私が貪った利益の、わずかばかりの還元
けず
にすぎません。皆様が身を削るようにしておられるのに、この程度のことしかできぬ我が
くちお
身が口惜しいです」                   ござ
静かに頭を振ったイグヨルを見て、メディーナはしみじみと「人間とは不思議なもの
だ」と思った。我が身のことしか考えない者もいれば、我が身より他人を案ずる者もいる。
メディーナはイブヨルの家にくる前に見た神殿の貯蔵庫を思い出した。毎年貯えられる
量が決まっているのだが、実際に貯蔵されていた量はそれよりかなり少なかった。
「横流しが行なわれていたらしい」
あき
会議前に調べたというエル・トパックも、管理のずさんさに呆れていた。
平時ならともかく、人々は刻々と聖地に流れこんでくるのだ。それを考えると実に心許
ぬす
ない量であった。しかも食料を盗み出そうとする者が後をたたず、ウルト・ヒケウに頼ん
けつかい
で人が近づけないよう貯蔵庫の周りに結界を張り巡らしてもらったのだ。
「極限におかれた時、人はその真価を問われるのだ」
メディーナがそのことを痛感していると、
「腰が冷えてかなわんな。そろそろ上に行かんかっ」     うなず
ロワジーが鼻を畷りながらぼやいた。イブヨルが「そうですね」と頚き、地下貯蔵庫か
やさしさは風の調べ
うなが
ら出るよう促した。
こうぽく
三人は階段を上が。、ガランとした倉庫に出た。かつて香木などの品がひしめいていた
から
であろう倉庫は、今は空だった。
「それでは」
かぎ
イグヨルが地下への入。口を閉じ、鍵をかけているのを見ながら、
「幸いの」
ロワジーがポッリと洩らした。
「外には飢えた人々がいる。神殿の貯えはみるみる減っていく。それを思うと、衝動的に
ここにある食料を出してしまいたくなる。できぬとわかっていても、思ってしまう」
とびら
同成首いうようにイグヨルが領いた。メディーナは閉じられた地下への扉を見つめてい
た。
飢えている人々のことを思うと、心が痛む。ロワジーと同じで、すぐにでも地下に貯え
てある食料を持って行ってや。たいと思う。しかし、そうすることはできない。わけ与え
てしまえば、《第二の神殿妙までの道中で飢えることになってしまうからだ。
「一時の情に流されるわけにはいかない」
けんめい               つらぬ
メディーナは懸命に耐えていた。常に大局的な見方をし、それを貫くことのなんと辛い
ことか。
おやけレ
「それが親父のやっていたことだ」
いまさらのようにメディーナは、イルダーナフに対して頭の下がる思いがした。
もビ
倉庫を出てイグヨルの家で一服し、それからすぐにメディーナとロワジーは神殿に戻る
ことにした。ほとんどとんぼ返りである。
いえふじ
外に出て驚いたのは、夜だというのに通りに人が溢れていることだ。神殿から家路をた
どる人々、そして神殿に向かう人々が街中に溢れている。ともしぴ
そうした人々のために、通りに面した多くの家の前には灯が置かれていた。神殿から街
あか
を見たら、地上に星が降ったように見えるかもしれない。夜を照らす灯りのおかげで、人
たいまつ
人はランプも松明も持つ必要がない。
「多いとは予想していたが」
周囲を見回し、メディーナは驚いていた。ざわめきと熱気が聖地を満たしている。
「大神宮様はこの聖地を捨てて、別の聖地に移動なさるそうだ」
「外には魔物がいるっていうのによ」
「でも、大神宮様がついていなさる。心配することはない」
やさしさは風の謂ペ
横を通。過ぎて行く人々が、大神宮のことを口にしている。説教を聞いて帰ってきた者
いだ
も、これから聞きに行く者も。不安を抱きながらも騒ぎにならないのは、大神宮の存在ゆ
えだろう。
「大神宮の説教は効果絶大だな。これなら移動も楽にすみそうだ」
ひ            ひげ
メディーナの横で、ロワジ1は陽なたぼっこしている猫のような顔で髭をいじくってい
る。すれ違う者が時々、「おやフ」という表情で、ロワジーを見る。前神官長なのだから、
ぐんしゆう
ロワジーの顔を知っている者も多いはずだが、群衆の中にいるとわか。にくいものらしい。
ひま
「しかし、こう大勢が押しかけては、休む暇なしで説教するしかないぞ。アクディス・レ
ヴィなどいいようにこき使われるな」
ぉもしろ           ゆが
それを面白がっているのか、ロワジーはロを歪めた。アクディス・レヴィと聞いて、メ
さまぎま
ディーナは目を細めた。様々な悪評を聞いていたが、雪の中を単身でやってきた青年を見
た時に、それは嘘だと思った。少なくとも、私利私欲で動くような人間ではないと。
「ロワジ1様も、もう以前のようにアクディス・レヴィを嫌ってはいないでしょうヱ
ぎよよノてん
付き人に指名されて仰天していた神官長の顔を思い出しながら、メディーナが訊くと、
ロワジーは片手を振。ながら、
「ああ、反省しとる。キアラとゼノドロス抜きで会ってみれば、ましな若者だった」
早口に言い捨てた。周りにいるキアラとゼノドロスが嫌いだったため、よく知らずにア
クディス・レヴィを嫌っていたらしい。
「問題はキアラだな。まったく、なんとかならんものかな」
つぷや
弱り果てたようなロワジーの呟きに、メディーナは小さく息をついた。アクディス・レ
いぽきようだい
ヴィとエル・トパックが異母兄弟であることも、その経緯も聞いている。それを聞けはあ
かノ、しつ
の兄弟の確執も、キアラの行動も理解できる。「だが、同情はできない」、子供を私物化す
ごうまん
るなど、母親の傲慢でしかないのだ。
すご
「それにしても、凄い人出ですね」
神殿に向かうにつれて、いよいよ人が増えていく。ロワジーなど「どこにこんなに人が
いたんだ」などと本気で不思議がっている。
「なかなか進めませんね」             号くれ
人いきれで息が詰ま。そうになったメディーナの耳に、ふいに夕碁に神殿の前で起こっ
てきごと          しょぅとつ
た出来事−イルダーナフとキアラの衝突の話しがとびこんだ。公衆の面前だったため、
伝わるのが早かったらしい。
「そこまでやったか」
聞いたロワジーは呆れたが、すぐにニンマリと底意地悪く笑った。
やさしさは風の調べ
53
こりつむえん
「これでキアラは孤立無援になった」
そむ       くつぶく
神官長である息子に背かれ、大神宮に屈伏したキアラに、もはやなんの力もない。とな
れば、これまでキアラにくっついて甘い汁を吸っていた連中が離れることは、火を見るよ
ふきよう
。も明らかだ。利用価値のない女に味方して、大神宮の不興を買いたい者などいないだろ
う。
だれ
結局キアラのしたことは、神殿の璽同実力者が誰であるかを、改めて人々に知らしめた
だけだった。
としゆくーフけん
「キアラも、徒手空拳で大神宮に立ち向かうほど馬鹿ではあるまい。キアラがおとなしく
ふたん
なれは、それだけで移動準備の負担が減る」
Lやくぜん
ロワジーは手放しで喜んでいるが、メティーナはどうも釈然としない。
・H ..1.
「なにもかもを失ったと、自暴自棄になるのではフ かえって厄介なことを引き起こすの
ではないだろうかフ」
しゆフちやノヽ
息子への執着がねじまがって、とんでもない方向へ向かうのではないか。メディーナが
とな
そんな危惧をしていると、隣りからロワジーが消えていた。
「ロワジ一様け」
あわ
慌てて周囲を見回すと、波にさらわれるようにして、ロワジ1が神殿と逆方向に運ばれ
ている。
「うわーっ」
おぼ
まるで溺れているように両手を動かしているロワジーを、メディーナは慌てて追った。
が、とにかく人が多くて身動きがとれない。そうこうしているうちに、ロワジーを見失っ
てしまった。
「文字通りの人波だ」
なんとか人波からはい出して、メディーナは細い路地に入って息をついた。髪はぐしゃ
しわ
ぐしゃ、服は紋だらけになっていた。
「ロワジ1様ではないが、どこにこれだけの人間がいたのやら」   葺h
手で髪を硫きながら、メディーナは集まっている人数に感心し、同時に恐怖を感じた。
「ここにいるすべての人々が、大神宮に助けを求めている」
そう思うと、背筋を冷たいものがはしる。何万もの人々のすがりつく手を、大神宮は一
人で引き受けるのだ。              ▼:く
「自殺したディルワール神宮長は筈の方》への恐怖の他に、この孤独と重圧に耐えられ
なかったのだ」
なまなか
メディーナは胸が苦しくなった。確かに生半なことで耐えられることではない。多くの
やさしさは風の調べ
おの
人間は、己れ一人をも持て余しながら生きているのだから。
「それを】人で引き受けるのか、親父。そしてカイルロッド王子は、これだけの人々の明
日を一人で背負うのか」
ふいにせつなくなった。苦しんでいるだろうに、黙々と自身に課した義務を果たそうと
している男達の姿がせつなく、悲しい。
めかしら
ぬく
目頭が熱くなり、冷たいものが類をつたった。メディーナは指先で涙を拭った。
「自分がこんなに涙脆いとは思わなかった」
つぷや
呟いていると、
「メディーナフ」
おどろ
いきな。背後から名前を呼ばれた。気配が感じられなかっただけに驚き、メディーナが
かみ  せきわん   うつ
勢いよく振り返ると、ぼやけた視界に赤い髪をした隻腕の青年が映った。
「・エル・トパック」
メディーナはまばたきした。移動に必要な物資の調達をしているはずのエル・トパック
が、どうしてここにいるのか、メディーナにはわからなかった。
「・なにかあったのですか・う」
泣いているメディーナに、エル・トパックは驚いたような、因ったような表情をした。
「いいえ。なんでもありません」
7
急いでメディーナが片手で目元を拭くと、
「よかったら、使ってください」
エル・トパックがハンカチを差し出した。
一 どうも」
受け取り、メディーナはハンカチに顔を押しっけた。顔が熱くなってくるのがわかる。
「この人にはいつも、こんなところを見られる」
どうしたわけか、泣きそうになったり、泣いているところをよく見られている。今まで
きは
気にもしなかったのだが、思い出すと気恥ずかし叛    ろば
「荷台の手配が済んだので、そちらはティファに任せて、私は馬や嘘馬を集めようと、つ
てのある家までの近道をしていたのですが、人の多さに押し出されて細い路地に入ってし
まい・。そこに見覚えのある後ろ姿があったので、声をかけてしまいました。すいませ
ん」
すまなそうな声に、メディーナはハンカチから顔を離した。するとエル・トパックは、
こんわノ、がお
声から想像できる、そしてその通りの困惑顔で、メディーナを見ていた。
せいじんくんしぜん
その顔を見て、メディーナはなんだかおかしくなった。日頃聖人君子然としているエ
1 やさしさは風の調べ
にぎ
ル・トパックからかけ離れているようで、ハンカチを撮りしめて笑いをこらえていると、
「そんなにおかしな顔をしていますかフ・」
少し拗ねたようにエル・トパックが言った。その口調や表情に、アクディス・レヴィが
おもどー
重なって見えた。面差しは似ていないが、確かに兄弟なのだ。
「笑った。してすいません。でも、あなたの困惑した顔なんて見たことがなかったので」
すなお
メディーナが素直に亨っと、エル・トパックは「私はそんなに澄ましていますか」と、
苦笑した。そんなエル・トパックが、メディーナには急に身近に感じられた。
いつしよ
「ところでロワジ一様はどちらです? 確か一緒のはずではヱ
問われ、メディーナはロワジーとはぐれたことを話した。
「でも、ロワジ一様も子供ではないのですから。ここで少し休んで、わたしは先に神殿に
戻ろうと思っています」
はほえ
メディーナが言うと、エル・トパックは「それがいいでしょう」と微笑んだ。
「こちらの手配は予想以上で助か。ましたが、そちらはいかがですヱ
メディーナが訊くと、エル・トパックは人々に視線を向け、
「荷台はともかく、馬や墟馬が問題です」
淡々とした口調で言った。
たくわ
神殿が貯えていた材木を出し、それで荷台は作れる。問題はそれを引く労力だ。神殿が
所有している馬や駿馬では、とても足りない。食料はもとより、女子供、老人や病人を乗
せるので、かなりの台数が必要になるからだ。そこで不足分の労力を調達しているのだが、
しなん わぎ
この状況で集めるのは至難の業といってもいい。これから移動が開始されるのだ。大金を
積まれようと、持っている馬を手放しはしないだろう。馬や碇馬がいれば、それだけ自分
や家族は楽ができるのだ。
「この際、取り上げてはどうですっ」
いや
嫌な方法だが、場合が場合だ。そうメディーナが提案すると、エル・トパックは頭を振
った。
りんい          ぇんこん          ゆヂ
「神殿の権威で無理に取り上げては、後々の怨恨となります。根気よく説得して、謀って
いただくしかありません」
エル・トパックは移動に必要な物資の調達、その交渉を一手に引き受けている。若いが
−・ ・・
温厚で街の人々にも人望あるこの隻腕の青年には、うってつけだった。
「それに、大神宮の説得を聞けば、きっと協力していただけると思いますよ」
しんらい                     ひらめ
イルダーナフに絶対の信頼をおいているのか、エル・トパックは自信ある笑みを閃かせ
うなず
た。メディーナはかすかに領いた。
59  やさしさは風の調べ
「ねぇ、遠くまでよく見えるよ」
ざわめきの中で、子供のはしゃぐ声が聞こえた。メディーナが顔を向けると、人波の中
に父親に肩車された子供の姿があった。神殿に向かっている親子連れだ。
すご
「凄いね、こんなにいっぱいの人がいる」
へいこう          おもしろ        むじやき
両親は人の多きに閉口しているだろうが、子供は面白くて仕方ないらしい。無邪気に喜
はつふつ
んでいるその姿が自分の幼い頃を彷彿とさせ、メディーナは口元をほころばせた。
「不安なこんな時も、子供はああして笑っています。だから私達は希望を持てる。あの笑
顔がなにもかもがうまくいくに違いない、そう信じさせてくれるんです」
まばゆ
眩い光であるかのように、エル・トパックは子供を見つめている。その横顔にメティー
ナは、イルダーナフやカイルロッドが孤独と重圧に耐えている理由と、その答えを見た気
がした。
二人は無言で、しばらくその子供を見ていた。まるで流れていくように、子供の姿が遠
ざかった頃、
「こんな時に言うのもどうかと思ったのですが 」
ためらいながら、エル・トパックが口を開いた。重大なことを告げようとしているのか、
けげん          きんかつしよく
青年の声にはかすかな緊張があった。怪邪に思って顔を向けると、金褐色の目がメディー
ナに向けられていた。その日にいつになく強い光を見つけ、メディーナが思わず目をそむ
けた時、
「初めてあった時から、あなたに惹かれていました」
静かな、だが力強い声が耳菜を打った。メディーナは無意識に息を飲んだ。
「本当は移動が終わり、蛋二の神殿》へついてから告げようと思っていました。しかし、
互いに明日のわからぬ身です。いつかと先にのばして、なにも言えないままだったら、そ
れこそ死んでも死にきれないほど後悔するでしょう」
けんそう
決して大きな声ではなかったが、いきなり喧騒が消えてしまったように、メディーナの
耳にはエル・トパックの声しか聞こえなかった。
あわ
「この慌ただしい日々の中、あなたのことを思うと心が安らぎました」
エル・トパックの告白に、メディーナは驚くばかりだった。「エル・トパックがわたし
とまど
を工、戸惑いながらメディーナは、いつもエル・トパックに影のようにつき従っている
女性のことを思いうかぺ、口ごもった。
「でも、あなたにはティファが  」
「私は彼女を愛していますが、それは肉親や家族への愛です。互いの母親が友人だったの
いつしよ
で、私達は物心つく前から一緒に遊んでいました。それからずっと、実の兄妹のように育
やさしさは風の詞ぺ
ちました。私がこうしているのも、すべて彼女のおかげです」
そう言い、エル・トパックは右肩を押さえた。
「彼女はかけがえのない家族ですが、あなたとは違うのです」
、.こ … 、
うんぬん
とても信じられず、メディーナは激しくまばたきした。ティファが云々ではなく、エ
いだ
ル・トパックに好意以上の気持ちを抱かれているということが、まだ信じられない。実を
言えば、初めて会った時から惹かれていたのは、メディーナも同じだった。エル・トパッ
ぉだ    よフばう   きようじん       ひとがら
クの穏やかで知的な容貌、そして強靭さと優しさが混在する人柄に惹かれていた。
かわい
「でも ▼。エル・トパックがわたしみたいな可愛げのない女に惹かれるなんて ⊥
・7
両手をきつく握。、メディーナは心の中で坤いた。
「あんな可愛げのない女はいないぜ。滅多に笑わないし、無口で無愛想だ。いくら美人で
も、あんな女は願い下げだね」
ォァシスの家に女一人で住み、盗賊や荒くれ者にも動じることのないメディーナに対し
かlヂノ′、ち
て、衝の若い男達はそんな陰口をたたいていた。それは街に買物にきていたメディーナに
声をかけても無視されたとか、誘ったのに断られたなどと、相手にされなかった恨みとひ
がみの産物なのだが、「可愛げのない女」という言葉はメディーナを深く傷つけた。
「わたしは異性に好かれないのだ」
以来、メディーナはそう信じこんでいた。心の傷は強い劣等感になっていた。
そこへエル・トパックに告白され、メディーナはどうしていいのかわからなかった。
なにも言えず、メディーナが無言で立ち尽くしていると、
「こんな時ですが、それだけは告げておきたかったのです」
おだ   はほえ
エル・トパックは穏やかに微笑んだ。
「なにか言わなくgは汁                あせ
そう思うのに、喉は渇くし、言葉が出てこない。「早く、なにか言わなくては」、焦る気
からまわ          だま
持ちばかりが空回りしている。メディーナが黙ってうつむくと、エル・トパックのやわら
かい声がした。
. .・
「あなたの負担になるようでしたら、忘れてください。移動に備えて、お互い、やれるだ
けのことはしましょう」
「・・−」
lまじ             みぎそ′
メディーナは弾かれたように顔をあげた。視界には右袖の揺れる後ろ姿があった。ゆっ
くりときた路地を戻って行き、後ろ姿が遠ざかる。
「待って、エル・トパックー」
しぽ
勇気を振り絞って、メディーナはエル・トパックを呼び止めた。
「蛋二の神殿》についたら、もう一度同じことを言ってくださいますかヱ
振り返ったエル・トパックに聞こえるよう、メディーナは大きな声で言った。自分でも
・・J
わかるほど、声が震えていた。
「この喧騒の中で、聞こえただろうか」
いぷか
メディーナは不安になったが、聞こえた証拠に、訝しむようだったエル・トパックの表
情に笑みが広がった。
「あなたが望むなら何度でも」
そしてすぐに、よく通る声で返事が戻ってきた。それからエル・トパックはメディーナ
えしやく
に軽く会釈して、再び歩きだした。
その後ろ姿を見ながら、メディーナはハンカチを盤りしめた。喧騒が耳に入らないほど、
胸が高鳴っていた。
後ろ姿が見えなくなっても、メディーナはそこにたたずんでいた。
「エル・トパック」
つぷや
青年の名前を呟いたメディーナの髪が、かすかな風に揺れた。
ゆめみごこら
それからメディーナは夢見心地が抜けないまま、人の波にまざれるようにして、神殿に
65  やさしさは胤の調べ
向かった。
やみ
夜の闇が深まっていくが、灯された街の灯は消えない。そしてまた、人々も減らない。
すがりつくものを求め、希望を求める人々は神殿へと向かっている。
だが、とメディーナは思う。
「そうした人々もまた希望なのだ」
力ある者−イルダーナフやカイルロッド、エル・トパック達にとって、ここにいる人
人こそが希望なのだ。
夜空に星のない日々は続くが、街を埋める無数の灯りと人々が、地上の塁々となって輝
かがや
いている。
しじま
二章 静寂より‥…
やみ
闇だった。
Lつこノ1
漆黒の闇の中をカイルロッドは歩いていた。すでに五分近くも歩いているのに、部屋の
すみ
隅にぶつかりもしない。
てフや
「本当に部屋なのか? 荒野より広いんじゃないのかフ」
ぷつぷつ言いながら、それでもカイルロットは足を動かしていた。どこをどう歩いてい
るのか、さっぱりわからない。しかも、どこまで行けばいいのかもわからない。
かペ
「壁もないんだもんな」
壁に手をついて進もうと、壁を探してみたが、それらしき物はない。あるのはただ闇ば
とぴり
かりだ。時々立ち止まって、後ろを振り返ってみるのだが、扉も見えない。
「ここから出られるんだろうか?」
J  やさしさは風の調べ
きよネノか
無限の闇を歩いているような、そんな恐怖が心の中にわきあがってくる。進むほどに闇
が深くなるような気がして、カイルロッドは足を止めた。
闇の中にいるーそれだけで人間の神経は磨耗するのだ。
「そのうち気が狂うかもしれないな」
そうなる前に外へ出たいと思いながら、カイルロッドが頭を掻いていると、少し離れた
おぽろ
場所に白い影が見えた。膵だが、人影に違いなかった。
lゥぅれい
「魔物か幽霊では・」
こフきしん
どちらもあまり会いたくないが、闇の中を歩き回って疲れていたのと持ち前の好奇心と
で、カイルロッドはその場から動かずに、ジッとその白い人影を見つめていた。
しだい                 しようげき
雁だった形が、次第にはっきりと見えてきた。それを見て、カイルロッドは二重の衝撃
を受けた。
一つはその人影が、カイルロッドと同じ顔の青年だったことだ。
「ブリユウけ」
いつしけん
一瞬、タジエナで死んだブリユウではないかと思ったカイルロッドだが、すぐに違うこ
とに気がついた。
「あれはフエルハーン大神殿の創立者n あの人、生きていたのかヱ
もう一つはその青年が椅子に縛りつけられているということだ。両手両足を鎖で椅子に
固定されているのだ。
「どうしてけ」
いったいどういうことなのか、カイルロッドにはわからない。わからないのだが、考え
かか
ずにはいられない。混乱した頭を抱えて立ちつくしていると、
なぜ われ
(何故、我をこのような場所へ閉じ込めるのか−)
ひび
青年の声が聞こえた。耳ではなく、直接頭の中へ響いてくる。
(我は李あの方》を追い払い、この世の人々を救ったーその我を何故⊥
縛りつけられている青年が怒りの形相で叫んだ。青年の前には数人の男達がいた。服装
からして、神官連のようだ。
(1様)
紫の布をつけた神官1神官長が青年の名前を呼んだ。名前を呼んだことはわかるのに、
なんと言っているのか、カイルロッドにはわからない。
「どうなっているんだフ」
カイルロッドはその方向に歩いて行った。そして、青年が縛りつけられている椅子の背
かんしよく
に触れようとして、ためらいながら手を伸ばした。が、なんの感触もなく、手は椅子を突
やさしさは凧の調べ
き抜けた。
まばろし
「幻け・」
とまど
他には考えられない。戸惑いながらも、カイルロッドは青年と神官達を見た。
( 一 様)
神官長が再度青年の名前を呼んだ。
っ      いだ
(あなた様には我ら=同、言葉では言い尽くせぬ感謝を抱いております。あなた様がおら
れたからこそ、この世は魔物に支配されずにすみ、人々は生きのびることができました。
まことあなた様は英雄、救世主であらせられます)
ふんぬ けのム     でTぽう
ぅやうやしく言う神官長を、青白い憤怒の炎を宿した青年の双鉾が見上げた。
(なにが英雄、救世主だ。《あの方》を追い払う時だけ我を利用し、用が済んだら邪魔者
じゃま もの
あつか
扱いか)
かノ、
(とんでもない。しかし、今は人の世です。魔物は闇の中へ隠れ、言いもの》は眠。に
っきました。これからは人の時代なのです。あなた様はあまりに人間離れしておられる。
人々が畏怖するほどに)
(我も人間ぞー少しばかりの力を持つが、聖剣さえ持たねば、ただの人間と変わらぬ⊥
青年は立ち上がろうとしたが、手足を縛る鎖がそれを許さない。ガシャガシャと金属の
ぶつかる音がするだけだ。
′”ぎま    あぎむ
(その証拠がこの無様な姿よ。欺かれて鎖に縛られるこの身が、人間でなくてなんなの
か)
じガーやくてき
青年は自虐的に笑った。しかし、神官達は無表情だった。おれ
カイルロッドは息苦しさを感じ、胸をおさえていた。「彼は俺だ」、鎖で縛りつけられた
青年の姿は、カイルロッド自身だ。誰かのために強くなりたいと願い、努力して強くなっ
た。だが強くなればなるほど、恐れられ、疎まれるのだ。力がある〜それだけで危険な
ものとして、疎まれねばならないのだ。
(我が目障りというのなら、我は神殿を去ろう。そして二度と、おぬしらの前には現われ
ぬ。だから、この鎖を解け)
青年は強い口調でそう言ったが、神官達は拒絶した。
おかた
(あなた様は生ける神に等しい御方。どこへ行かれようと、それは変わりません。たとえ
おぴや
神殿を去ろうとも、あなた様の存在そのものが我々を脅かすのです)
T 我が死なぬ限り、安心できぬのか)
青年の自嘲する声に、カイルロッドは顔をしかめた。耳をふさいで聞こえなくなるもの
なら、耳をふさぎたかった。これ以上、青年と神宮達の会話を聞きたくなかった。
やさしさは風の渕へ
「でも、これが俺の見なくてはならないものなんだろう」
ヵィルロッドが歯を食いしばっていると、神官達を睨みつけたまま、青年は薄く笑った。
酷静な笑みだった。
(おぬしらは恐れてばかりだ。我の力を恐れ、我の口から真実が洩れることを恐れている。
おおかた
大方、我を殺したい本当の理由はそれであろうが。我に力を貸したフエルハーン大神殿が、
あが.
実は宗の方》を神として崇め奉っていたと。そしてその力を欲して芸の方》をこちら
へ呼んだのは神官達だと、その事実を知られることを恐れているのだろう)
そこまで聞いて、カイルロッドは心臓が止まるほどの衝撃を受けた。予想だにしなかっ
たことだ。フエルハーン大神殿が崇めていたのが芸の方妙であ。、そして呼んだのも神
のと      かわ
殿だったとは。カイルロッドの喉はカラカラに渇いていた。
そんけい
(我とともに《あの方》を封じたと、フエルハーン大神殿は人々の尊敬を受けている。神
トきゆう   か    おうこう     lまご
殿の教えは普及し、信者は増え、各国の王侯貴族によって厚く保護されている。もとは地
めいよ しんこう
方のごく小さな信仰が、いまや世界中に広が。つつある。名誉と信仰と尊敬、それらを失
うのが恐ろしいか)
しルちゆう
(!様、どうか我々の心中もお察しください。傘あの方妙を神として崇め奉。、こちら
へ呼んだのはフエルハーン大神殿だと、この大混乱を起こしたのが実は神殿であると知ら
れたら、我らは人々の誇りの的です。そして我々は、邪教の徒と罵られるでしょう。さな
がらフエルハーン大神殿は悪神を崇めていたように言われる。それが我々には耐えられな
いのです)                  ぎせい    いと
神宮長の目が異様に光っていた。それは目的のためにはなにを犠牲にすることも厭わぬ
者の、狂気の貫だ。カイルロッドも幾度となく見てきた目だ。
こわ
(幸い、かつてのフエルハーン大神殿は壊れ、芸の方》を崇め奉っていた証拠も消えま
した。真実を知る者もごくわずかしかおりません。新しくこの地に建てたフェルハーン大
神殿にて、我らは人々のために尽くしましょう。この世を救った英雄の下僕lとして)
神官長の言葉の途中で、カイルロッドは呼いた。神官達は人間を超えた青年の力を恐れ、
つごう
自分達にとって都合の悪い事実とともに抹殺しょうとしているのだ。
つり
(真実を抹殺し猛の誇りから逃げ、あくまで正義面をするのか)    ナさ
青年の口調が淡々としたものになった。それだけに、カイルロッドには青年の怒りの凄
まじきが感じられた。青年は目を閉じ、
(これが人間か。我と我の仲間が血を流し、傷つきながら守ろうとした人間とは、こうい
ぅ生きものだ悠のか)    つう彗      おび
喉の奥から絞りだすように坤いた。痛烈な皮肉に、神官達の間に怯えがはしった。しか
やさしさは風の調べ
ひる
し神宮長は怯まなかった。
(どうか我らフェルハーン大神殿のため、力なき善良な人々のため、死んでください。さ
みな たた
すれば我らはあなた様を最も偉大なる英雄、神殿創立者として御名を讃えましょう)
あがたてまつ
(神として崇め奉っていた《あの方》を、我とすり替えるのか)
青年はカッと目を見開いた。
(すり替えるなど、とんでもない。あなた様は突然現われた雷神を倒すために、我々の崇
めている善なる神が人間に資を変えられて、この地上に降隠されたもの。蕃神を封じると
いう役目を果たされ、善なる神は我々に神殿と教えを残し、再び天上へと戻られたので
す)
すじが
神官長は淡々とした口調で言った。すでに筋書きはできているのだ。
けしん
(突然現われた悪神に、崇めていた善神の化身とな。よくもそれだけ都合のいいことを並
べられるものだ)
青年の吐き捨てるような皮肉にも、神官長は動じなかった。
おぽ め
(すべて人々のためと思し召しを)
神官長と神官達が深々と頭を下げた。
っば   じゆ
(聖剣を奪われ、呪によって作られた鎖で縛られた我には、もはやなんの力もない。我は
おぬしらの望みどおり、ここで死ぬであろう)
くちぴるか
青年はギリリッと唇を噛んだ。よほどきつく噛んだのだろう、唇から糸のように細い血
が流れた。
(だが、我は忘れぬぞー死した後も忘れぬー神殿のやり方を、人の無情を。我は忘れ
ぬー覚えておくがいい、フェルハーン大神殿の者どもよ。我は魔王となりて、この世と
わぎわ  な
神殿に災いを成さん〓)
ききせま
唇と目から血を流し、青年は呪いを吐いた。鬼気迫るその様子に、神官達は逃げ去り、
神官長は腰を抜かした。
(我、魔王となりて、再びこの世と神殿に災いを成さん〓)
青年の狂ったような笑い声と扉の閉じる音が響き渡り、カイルロッドは固く目を閉じた。
・い・hh
閉じた目から冷たいものが流れ、頬を濡らしていた。
「俺と同じ顔の青年は殺されたんだ」
はいきよ
廃墟同然の神殿跡で見つけた黄金像、あれは殺された青年の姿だった。この世を救った
英雄、救世主と尊ばれながら、その力と真実が洩れることを恐れた神官達によって、不当
に抹殺されたのだ。
1 ・
青年の末路は、自分の末路ではないのか。どれほど力を尽くそうとも、人間でない力を
75  やさしさは風の調べ
はいせき
持つ者は、持たぬ大勢によって排斥される。
「これが、これが神殿の秘密なのか」
し だい                                          ふる
次第に小さくなっていく青年の笑い声を聞きながら、カイルロッドは学えていた。
あがたてまつ           おとしい   ひなん
神殿は《あの方》を神として崇め奉り、呼び寄せ、世の中を大混乱に陥れた。その非難
のが
から逃れるため、《あの方》と救世主である青年をす。替え、そして抹殺した。それがフ
ェルハーン大神殿の隠していた秘密だった。
「きっと俺は、過去を見ているんだ」
やみ
笑い声が消え、カイルロッドは目を開けた。青年も神官達も消え、闇だけが広がってい
る。
その間の中からひそひそと、複数の人の声が聞こえてきた。
りくらh
(なんと。落雷によって神官長が亡くなられたとは)
(神官長だけでなく、地方の神殿でも怪異が起きているそうな。一様の姿をとった像が
1−・1..
動いただの、呪いの言葉を吐いただのと大騒ぎだとか)
おかた                うわさ
(神として奉っている御方の像がかけ それでは信者の間からよからぬ噂も出よう)
おげ
(あのことを知る者は、一 様の呪いだと怯えてお。まする)
神官達なのか、そんな声が聞こえてくる。話の内容からしても、青年を殺した後の出来
事らしい。
(このままでは、あのことが人のロにのぼるやもしれぬ)
(いっそ、 − 様を奉ることをやめてはフ)
わぎわ
(魔王となりて災いを成すと言われた方だ。それを理由に、神の座から降ろされてはいか
がでしょう? 今なら我ら神殿の後ろには、各国の王がおります。− 様の名も業績も抹
殺することは可能です)
こわ               たたか
ゆっくりと闇が薄れ、そこにカイルロッドは壊されていくあの青年の像を見た。闘いに
おける青年の浮き彫lりを、絵巻を、伝承や名前をも抹殺する人々の姿を見た。なんとか真
実を守ろうとする人々もいたが、ほとんどの人々は容赦なく殺された。
ばんこう
蛮行と言ってもいいそれらの光景を、カイルロッドは見ているしかなかった。これは過
去の出来事であり、変えることのできない事実なのだ。
いせき
事実を見ながら、カイルロッドはホー・シュンのことを思った。彼が見つけた遺跡は、
真実を残そうとした人々の努力によって、なんとか守られた物だったのだろう。
へきが            かがや
「いつか壁画の文字を解読してやると目を輝かせていた青年が、この事実を知ったらどう
思うだろう」
むご いきどお                っぶや
酷いと憤るだろうか。それとも、それもまた人の歴史と呟くだろうか。
やさしさは風の調べ
かんふ             ゆいいつ
青年の存在は完膚なきまでに抹殺された。その中で唯一残ったのが、青年を閉じ込めた
い、え  l,つかい      きんき
部屋だった。崇りを恐れた神官達はその部屋に幾重にも結界を張。巡らし、禁忌の部屋と
なんげと
なして、何人の立ち入。も許さなかった。
「一 それがこの部屋なのか・ 」
ぬぐ                  しづ しg
学える手で濡れた頬を拭いながら、カイルロッドは周困を見回した。どこかに椅子に線
こわ
。つけられた青年の姿が見えそうで、あの呪いの吉葉が聞こえてきそうで恐かった。
闇の中に立ちながら、カイルロッドは自分の横を時間が流れていくのがわかった。
さか
時は流れ、神殿は栄えた。各国に神殿が建ち、神殿は巨大組織となった。それにともな
へんげう
ぅ神殿や人々の変貌を、カイルロッドは見つめていた。
やは。青年は忘れられたままだったが、長い間不在だった大神官の座についた男が、隠
された事実を知った。好奇心から禁忌の部屋へ入。、真実と先人達の罪を知ったのだった。
..        ・・÷−
彼は先人達の無情に憤り、不運な青年に涙したが、事実を公にはしなかった。公にすれ
スいきよ▼ノりよく
ば、混乱は神殿だけでおさまらない。神殿の影響力はあま。に大きく、世の中が混乱しか
ねないからだ。
しかし、隠しておくにはあまりに重い罪だった。以来、禁忌の部厘に入れるほど力ある
けいしよう
者−大神宮とウルト・ヒケウを継承する者のみが禁忌の部屋に入。、真実を知るべく義
務つけられた。
それから長い時間が過ぎた ー
過去から現在へと、カイルロッドは時間の河の中を移動していた。
(何故、皆はそれを無視するのです〓)
出し抜けに男の声がした。
(タジェナの奥には秘密があるのです。それは生命の秘密ではありませんか)
だれ
言葉の内容から誰が発言しているのか、カイルロッドにはすぐわかった。
「ムルトー」
叫ぶと、ムルトの姿が闇の中に浮かびあがった。タジェナで見た顔だ。本体をさらす前
なか
の、三〇代半ばぐらいの人のよさそうな男だった。くろかみ   しんぴ
そのムルトと一人の女性が向かい合っている。長い黒髪の、背の高い神秘的な美女だ。
ムルトはわかったが、その女性が誰であるか、カイルロッドにはわからない。
(タジェナは禁忌です。千年も前から、何人たりとも近づくことは許されていない。また、
近づくことはできない。諦めなさい)
いまし
女性が戒めたが、ムルトは諦めようとしない。
(何故、諦められるのですか。生命の秘密を知ることができれば、人間はより高い存在と
やさしさは風の調ペ
なれるはずです。そして、苦しむ多くの人々も救えるのですーそのために私は知りたい、
タジエナにあるものをー)
ぅった         ぎんぎやく  みじん   じゆんすい
必死に訴えるムルトの顔には、あの残虐さなど微塵もない。純粋な知的欲望、そして人
あふ                 へんご
を助けたいという願いに溢れていた。カイルロッドの知るムルトは、弁護の余地などない
非道な男だった。だが、最初からそうではなかったのだ。歳月と強い力は、よくも悪くも
人間を変えると、カイルロッドは知った。
りよういき
(おまえの願いはわかります。しかし、人間には人間の領域があ。ます。《あの方》のい
るタジェナは人間の領域ではない)
女性は淡々とさとすが、ムルトは激しく頭を振った。
(ゲオルディ様、人間の領域とはなんですり.そのようなものを決めていいのですかけ・
ゥルト・ヒケウであるあなたから見れば、力を持たない人間は無力な存在と思われるかも
しれませんが、私はそうは思いませんー)
ムルトの言葉に、カイルロッドは目を皿のようにして美女を見た。
「この美女がゲオルディ様け しかも、ウルト・ヒケウリ」
ぜつく
ゲオルディまでもが神殿関係者とあって、カイルロッドはもう絶句するしかなかった。
「だから俺の母親を知っていたのかな」
なつと′1
ゲオルディの魔力を考えれば、ウルト・ヒケウであったことも納得できる。しかし、カ
イルロッドがどうも納得できないのは、赤い山にいたゲオルディと、ここに見えるゲオル
ディの姿の落差だった。
「そりゃ、ゲオルディ様にだって、若い頃はあっただろうけど」
頭ではわかっていても、どうも納得できないものがある。ちょうど、三〇年前のイルダ
けたち
ーナフが二十歳そこそこと言われても、ピンとこないように。カイルロッドが「あー、う
1」とロの中で唸っていると、
(私は知りたいのですー)
ぜHリL
それを捨て台詞に、ムルトはゲオルディに背中を向けた。おそらく、この後でムルトは
タジェナに向かったのだ。
いんとん
「その後、いつだか知らないが ゲオルディ様は隠遁して、赤い山に行ったのか」
あこ     っ.ハや
顎に手をあてて呟いていると、また時間が流れた。カイルロッドの目の前で、次々と場
面が展開していく。
しYいたい
神殿の衰退、そしてそれを防ごうとする神官長が数十人も入れ代わり、一「三百年も過
ぎた頃1死んだものとして忘れ去られていたムルトが、文字どおりタジェナに根づいた。
いんたい                やぽう
とうに引退して赤い山にいたゲオルディが、ムルトの野望を知った。そして、一度タジ
やさしさは風の調へ
ェナに行ったが、ムルトをタジェナから引き紺がすことは空あの方》を呼び起こすことと
カんし
判断し、以来ずっと赤い山で監視をしていたことなどが、鮮明な映像となってカイルロッ
うつ
ドの目に映った。
すご
「ゲオルディ様って凄い長生きなんだ」
道理でああなったわけだと、納得しているカイルロッドの前で、神殿内部は権力抗争の
ぽつりやく
時代に入る。暗殺、謀略、さらに目まぐるしく入れ代わる神官長達を見ながら、「また一「
二百年ぐらい過ぎたのかな」とカイルロッドは呟いた。時間が流れているのはわかるのだ
が、どれぐらいかの見当がつかないのは不便だった。
ふいに視界が変化し、背の高い男の後ろ姿が見えた。
(どうすればいいっ どうすれば《あの方》の目覚めを止められる? もはや神殿にその
力はない。相談した連中は、ディルワールは自殺してしまった。俺はどうすればいいヱ
「イルダーナフけ」
思わずカイルロッドは叫んでいた。背中しか見えないが、その言葉の様子からしてイル
まちが
ダーナフに間違いない。
(このままでは、空あの方》が目覚めてしまう。しかし、俺にもウルト・ヒケウにも《あ
トウん、もく  はうち
の方》を止める力はない。ゲオルディ様ですら今日まで沈黙し、放置していたことを、俺
.1
達にできるはずはない)
力なくうなだれた後ろ姿を、カイルロッドは複雑な思いで見ていた。初めて見る姿だっ
た。若く、そして打ち拉がれたイルダーナフの背中がひどく悲しかった。
イルダーナフの後ろ姿が消え、ざわめきが聞こえる。
(大神宮候補が消えた)
ゆしよ、フじ
(なんという不祥事−)
せいじあく
それが波のように、近くなり遠くなり、やがて闇は静寂に包まれた。
「これが三〇年前か」
いっきに時間を下ったのだ。カイルロッドは言い知れぬ疲労を感じていた。
二八年前も見るんだろうか」
きっと見るだろうと、カイルロッドは確信していた。カイルロッドが生まれる前、いっ
7.・ ・−
たいどんなことがあったのか−−実父のことや、フィリオリの思惑が明らかになる。
「もしも、《あの方》に対抗するだけのために生まれたのなら こ」
ひぎ かる
そう思うと、膝が震えてくる。そんなはずはないのだと、そう信じているのに、不安が
きぎなみ      さわ
小波となって心を騒がせる。
「俺は信じている。母を信じている」
やさしさは風の調べ
こネノや
確かに愛してくれたのだ。夢だったが、あの荒野でそれを見たのだ。そして、フィリオ
らか
リを信じると誓ったのだ。
カんしよく
ヵィルロッドはポケットをまさぐった。指先に冷たい金属の感触があたる。フィリオリ
かたム
の形見の指輪だ。
「信じている」
にぎ
カイルロッドは指輪を握りしめた。
2
手の中で指輪が熱くなった。
1一・ト・.
驚いたカイルロッドが手を開くと、指輪が金色の光を放っていた。
石にされたルナンを出る時も、指輪は不思議な光を発したが、その時の光とは違う。灼
っ  きようれつ     やわ
き尽くす強烈な光ではなく、柔らかく包み込む光だ。
光がカイルロッドの周囲を照らした。照らされてもなにも見当たらなかったが、光があ
うれ
ること、それがひどく嬉しく感じられる。
なんぴと                                     おちい
(何人たりとも宗の方》の目覚めは止められぬ。この世は再び混乱に陥るであろう。ど
うする、次なる大神宮よ)
声がして、カイルロッドが顔を上げると、前方に巫女装束のフィリオリと青年がいた。
やみ ぬ
指輪から光は消え、周囲は再び闇に塗り潰された。
「あの人、死んでいなかったのかけ」
からだ す
青年を見てギョッとしたカイルロッドだったが、青年の身体が透けていることに気がつ
いた。
ゆうれこ
「ひょっと桟幽霊っ」             にがて
口の中で呟き、カイルロッドは腕をさすった。実体のないものはどうも苦手だった。
まぼろし
「そりゃ、幻も同じようなものだけどさ。幻でまで幽霊なんか見たくなかった」
青年を見ながら鳥肌のたった腕をさすっていたが、「この人、変わったな」とカイルロ
ッドは思った。青年からあの時の凄まじい憎悪が感じられない。
「歳月が洗い流したのだろうかっ」
駆け抜けた気が遠くなりそうな歳月を、カイルロッドが改めて振り返っていると、
たの
(虫がいいのは重々承知の上で、何度でもお頼み申し上げます。芸の方》を封じるため
に今一度、わたくし達にお力をお貸しください。据ら神殿はあまりに無知です。神殿で生
まれ育ち、次なる大神宮になるであろうわたくLにしても、ここに入るまで言の方》が
目覚めることすら知りませんでした。なにとぞ、お力をお貸しください)
ーんがん            すべ
死人のように青ざめながら、フィリオリが青年に懇願した。彼女にしてみれば、他に術
がないのだろう。対抗策を練りたくとも、正しく《あの方蝉のことを知る者はなく、封じ
る手がかりとなる記録も残っていない。なにより、芸の方》に対抗する力が神殿にはな
いことを、次なる大神宮ならよく知っているはずだ。
「しかし。神殿の人達は本当になにも知らなかったんだな」
..  .1、、
カイルロッドは半ば呆れた。神殿で生まれ育ったフィリオリですら、この部屋に入って
青年に会うまで筈の方》が目覚めることを知らなかった。大神宮候補ですらだ。他の神
官など論外であろう。
おそらく一八年前のこの時点で、神殿内部で筈の方》が目覚めると知っていた者はオ
ンサ考とロワジーだけだろう。
「オンサ老はともかく、ロワジー様が教えなかったのは、出ていったイルダーナフ達に口
止めされていたのと、母上では役不足と判断したからだろうな」
だがこうしてフィリオリを見ていると、それも無理はないと思った。イルダーナフです
きやしや
ら、芸の方》が目覚めるという重荷を負いきれなかったのだ。ましてや、こんなに筆者
な少女に負いきれるはずはない。持皆がそう判断するのはもっともだ。  ほろ
(我を呼び出したはいいが、とんだ了見違いよの。我に人間を助ける意志などないわ。滅
やさしさは風の調へ
びるがいい)
フィリオリをあざ笑うかのように、青年は冷たい声で言った。その声の冷たさにカイル
ロッドは身震いした。青年は憎しみを忘れたわけではなかったのだ。
(あなた様が神殿を憎まれるのはごもっともです。ですが、なにも知らない人々のために、
どうか。この身でできることなら、なんでもいたします。ですから、なにとぞ)
滅べと言われ、フィリオリは全身を震わせた。青年は小さく口の端をあげ、成す術はな
いと断言した。
うば   ゆくえ
(まず、聖剣がない。神官どもに奪われ、行方が知れぬDあれがなくば勝てぬし、また、
聖剣だけでも勝てぬ。聖剣を使える者、そして援護する者と多くの力が必要だ。だが、歳
たたか
月とともに人間はそうした力を失っている。我とともに関った書いもの》達は去。、あ
るいは眠っている。これではとても《あの方》を封じられぬ)
楽しそうに並べる理由を聞きながら、カイルロッドは空詣らぬもの》のことを思い出し
た。「《語らぬもの》もそんなことを言っていたっけ」、つい先日のことだったのに、ずい
ぶん以前のように感じられる。
(ですが、他にもなにか方法があるはずです。なにかあるはずです、きっと)
あさら
なおもフィリオリは青年に食い下がった。決して諦めまいとする娘の様子に、ふっと青
年の口元が動いた。
(そなた、なんでもすると申したな)
(目覚めた芸の方》を封じられるのでしたら、なんでもいたします)
こわね
決意した声音でフィリオリが言い、青年は意地の悪い目をした。
「この人、女の弱味につけこむ気じゃ・ 」
まゆ
カイルロッドは眉をひそめた。かつての英雄も、裏切りと絶望によって、性格がねじ曲
がったらしい。相手がフィリオリで、しかも青年が自分と同じ顔であるだけに、カイルロ
ッドが不快を感じていると、
(富の方》を封じられるかどうか、それはわからぬが、竃の万》に対抗できる力を持つ
者は作れるやもしれぬ)                     しようげき
口元に冷たい笑みをうかべたまま、青年は囁いた。カイルロッドは殴られたような衝撃
を受け、よろめいた。
「やは。対抗するために作gた…▼」  かくこ     へいせい
耳鳴りがして、頭の奥が鈍く痛んだ。ある程度覚悟していたとはいえ、平静ではいられ
ひぎ                 ナんめい
なかった。ガクガタと膝が震え、下についてしまいそうになるのを、カイルロッドは懸命
にこらえていた。
やさしさは風の調べ
かま       よぽろし
そんなカイルロッドなどお構いなしに、過去の幻は話を進めていく。
(作るとは、どういう意味でしょうか)
顔を曇らせたフィリオリに、青年は芸の方》に対抗できるのは、宗の方》のみだと
言った。それから、《あの方》の力の一部を取り込み、それを人とすればいい、と。
(そのようなこと、できるはずがl)
声を荒げたフィリオリに、青年はゆっくりと自分嫁指差した。
ほろ
(我にはできる。そなたも見たであろうが、我の肉体はこの部屋で滅んだ。だが、こうし
て意識として存在する。すなわち、我は《あの方》の一部なのだ)
するテ
青年は目を納めた。フィリオリが鋭く息を飲み、カイルロッドは下に膝をついた。事実
きようれつ
という強烈な攻撃に連打され、思考が錯綜してまとまらない。ここに至るまで、驚いたり
きわ
混乱することばか。だったが、これは極めつけかもしれない。
いちペつ
絶句しているフィリオリを一瞥し、青年は言葉を続けた。
(今の我は《あの方》の一部、《あの方》という大海を成す一滴の水のごときもの。ゆえ
に我が闘うことはできぬ。だが、他の一滴を外へ出すだけの力はある)
話が本題に入ってきた。カイルロッドは立ち上が。、膝を軽く払った。理解することは
後回しにして、まず青年の言葉を聞くことを優先した。
(では、その力をわたくLに)
フィリオリが言うと、青年は薄く笑った。
うつわ
(だが、これはそなたら肉体という器のある存在にとっては、危険極まりないことぞ。ま
ず芸の方》の力を、そなたはその身に受けとめきれるかどうか。以前ここにきて、そな
ため
たと同じように我を呼んだ女が試したことがある。だが、死んだ)
むさん
受けとめきれない場合、肉体は薯散すると青年は言った。そして、多くの人間はそうな
るであろうと。
(受けとめられたとしても、その後はさらに危険だ。《あの方》にとってはわずかな力で
たいない
も人間にとっては凄まじい力であり、それを胎内に宿すというのは、母体に想像を絶する
ふたん
負担がかかる。抜きんでた力を持つ女でない限り、宿った力を肉体という器におさめきれ
ぼし
ず、途中で母子ともに死亡するだろう)
ムど           こわ    あきら
青年の言葉は忠告というよりも、脅しじみていた。フィリオリを恐がらせて、諦めさせ
ようとしているのか、さもなくば憎い神殿の者としてなぶっているのか。カイルロッドに
はわからない。
(可能性があるのなら、賭けましょう。それだけの価値がございます)
青年の脅しにも、フィリオリは動じなかった。
やさしさは風の調べ
かたまり              たんじよう
(力の魂を人間の器におさめ、赤子として世に誕生させるために、そなたはもてるものす
べてを失うであろう。力も生命も。それでもよいのか)
.J
(子供を産む時、女は誰でも生命がけです。一つの生命をこの世に送り出せるなら、危険
など恐れません)
ぉだ                   まよ きようふ
穏やかに、しかし強い決意を秘めてフィリオリは言った。迷いも恐怖もなく言い切った
けお
フィリオリに、カイルロッドは気圧され、そして深い感動を抱いた。
(無事に子供を出産しても、力を使い果たしたそなたは死ぬ。そなたはそれで満足だろう
しゆんかん
が、子供はどうなるフ 生まれ落ちた瞬間から凄まじい力を持ち、その力ゆえに母を殺し
た子供は。やがて成長した子供はどう思うであろうなフ その力を、その生い立ちを知り、
−.・                .・
己れと己れの運命を呪いはしないだろうか? さすれば、そなたは魔王をこの世に誕生さ
せることになるのだぞ)
いらだ
青年の声にはかすかな苛立ちがあった。カイルロッドとは別の意味で、青年はフィリオ
リに気圧されているのだ。
(愛情を知れば、魔王などにな。ません)
はほえ       けんお ゆが
フィリオリは微笑み、青年の顔は嫌悪に歪んだ。
ばけもの   ののし
(裏切られればわかるまい。我のように、化物や魔物と罵られ、愛した者に裏切られたら
かたん           ぁぎむムとLい
どうだ。我の妻は、我を裏切った。神宮どもに加担して我から聖剣を奮い、我を欺き陥れ
た。人間など助けるのではなかった1)
ほのお
鋭く吐。き捨てた青年の目の奥には、炎が揺れていた。
(それでも、あなた様はまだ愛しておられるのでしょうヱ
(たわけたことをー)
青年はもう苛立ちを隠さなかった。裏切られ続けた青年には、フィリオリが信じられな
しへりい
いのだ。そして許せないのだろう。青年は愛も信頼も、人の持つ美しいものを否定したい
のだ。
「しかし、否定したいと思うこと自体が、信じたいと腐っている証拠なんだ」
カイルロッドはひどく冷静に、自分と同じ顔の青年を見ていた。
(我はなにも愛していない!)
・ノ                               .    ・..・′
(では何故、《あの方》の一部となりながら、お言葉どおりに魔王となって人々に災いを
成さなかったのですフ 《あの方》のわずかばかりの力を外に出せるのなら、憎しみを植
えつけて放つこともできたでしょうに。それなのに何故、このような場所におられたので
す? 出ることもできたでしょうに)
ぞうお
フィリオリの指摘に青年は沈黙した。あれほどの憎悪を見せながら、青年が魔王となら
やさしさは凰の,凋へ
なかったのは何故なのか − カイルロッドにはその答えがわかった。
(あなた様は信じたかったのです。人を信じたかった。だからこそ長い歳月を、ここで待
っておられたのではありませんか)
青年は無言のまま、きつく目を閉じた。愛情が強いほど、憎しみも強い。愛情と憎しみ
ひよンりいったい                                 かつとう
は表裏一体だ。人殺し、魔物と罵られたことのあるカイルロッドには、青年の葛藤がよく
わかる。
(再び《あの方》が目覚めた時のために、どうぞ、お力をお貸しください。 一 様)
フィリオリは頭を下げた。
時間が流れた。どれほどかわからないが、カイルロッドにはひどく長く感じられた。
(  手の平を上にして、両手を出すのだ)
青年が口を開いた。フィリオリは素直に従った。
(受けとめきれねば、ここでそなたは死ぬであろう)
(生きとし生けるもの、すべてがいつかは死にます。ならばなにもせずに死ぬよりは、可
能性にかけて死にとうございます)
臆することなく微笑んだフィリオリの手の上に、青年が手を重ねる。青年は意識のみの
存在なのだから、実際には触れていないはずだが、そういう問題ではないのだろう。
これからなにが起こるのか、カイルロッドは緊張に息を止めてフィリオリを見守ってい
ると − 。
っくろい
落雷のような音とともに、空間から無数の青銀色の光が狩った。それらはフィリオリを
直撃した。
「1日」
カイルロッドはフィリオリに駆け寄りそうになるのを、必死でこらえた。
ひめい       しようげさ    きや
光に取り巻かれたフィリオリの口から切れ切れの悲鳴があがる。その衝撃を物語って華
Lや  から    りいれん
著な身体が痙攣する。
つら
カイルロッドは奥歯を噛みしめながら、その光景を見つめていた。幸いが、闘っている
フィリオリから目をそらしてはいけない。
やがて、フィリオリを取り巻いていた光が、華容な身体に吸収されるようにして消えて
いった。
すべての光が消えた時、フィリオリの身体がくずおれた。気を失ったのだろう。
「母上−」
カイルロッドは思わず、フィリオリに駆け寄った。が、すぐにフィリオリの姿は消えた。
青年も消えていた。
5  やさしさは胤の調べ
静寂と闇が訪れた。
「 2 母上・」
この部屋を出てからのフィリオリの行動は、カイルロッドも知っていた。弱々しくはか
みlデカカこ、
なげにすら見える少女が、自ら苛酷な生き方を選んだのだ。外見からは信じられないほど
きようじん              ユし  けへお    おの
の強靭な意志をもって、神殿にいる人々の誘。や嫌悪と戦い、己れのすべてと引き替えに
して、カイルロッドという人間をこの世に送。出したのだ。
「それが愛でなく、なんだというのだろう」
っぷや                    い9
カイルロッドが呟くと、闇がかすかに薄くなった。そして、正面に椅子が見え − そこ
′ヽさnリしほ
には鎖で縛。つけられたミイラがあった。
3
まちが
そのミイラは青年に間違いなかった。幻で見た時のままの服装をしている。
(来たのだな、カイルロッド)
とまど
青年の声に親しみのようなものを感じ、カイルロッドは少し戸惑った。
(我と同じ顔をしているとはな。声は違うようだが、フィリオリは我の姿を写し取ったら
しいな)
ひぐノ
ミイラなので表情はわからないが、頭の中に響く声には笑いが含まれていた。苦笑だろ
う0
(魔王にもならず、《あの方》を封じるためにきたのか)
かすかにミイラの一層が揺れた。
「色々ありましたが、ここまでたどりつきました」
言い尽くせぬ思いが胸に押し寄せ、カイルロッドは声をつまらせた。ここにくるまでに、
さまぎま         ミノれ
様々なことがあった。嬉しいことも悲しいこともあった。様々な人々と出会い、そして別
れた。
「・・・とても長い道程だった気がする」
つ′lや       にぎ              もど
呟き、カイルロッドは握りしめていた指輪をポケットの中に戻した。
lまろ  よっす       わら
(我は見たかった。そなたが魔王となり、この世を滅ぼす様子を。そして、噛ってやりた
しよせん
かった。所詮、人間などこんなものだと。だが、魔王は生まれなかった)
「俺は大勢の人に愛情を注がれて育ちましたから」
はほえ
カイルロットは微笑んだ。サイードやダヤン・イフ工、乳母やソルカンがいなかったら、
のろ
魔王になっていたかもしれない。青年がフィリオリに警告したように、自分とこの世を呪
ったに違いない。
やさしさは風の.洞へ
きせき
( ・奇跡だな。そなたが今ここにいることは、奇跡に等しい)
カんか                なみだ
ミイラの眼寓の奥で小さく光るものがあった。「涙だろうか?」、カイルロッドは目を細
あんど
めた。青年がどんな思いで、成長したカイルロッドを見ているのか。喜びや安堵というよ
うヂま
ぅな、単純なものではあるまい。他人には決してわからない複雑な感情が渦巻いているこ
とだろう。
「質問してもいいですかフ」
ためらいながらカイルロッドは話しかけた。
(なんだ?)
「《あの方妙の力の大きさはわか。ました。しかし、《あの方》とはなんですヱ
なタ                  いま
次々と謎が明かされているのに、《あの方》に関しては未だわからないことが多い。強
あいまい
大な力を持ち、神とすら呼ばれている。しかし、曖味なことはかりだ。
「あなたが《あの方》の一部だというのなら、《あの方》のことをよく知っているはずで
しょうフ」
かたまhソ
(《あの方》は意志を持つ巨大な力の塊だ。その意志は人とはかけ離れていて、とても理
つな
解はできぬ。だが、生きもののすべては、根底で《あの方》と繋がっている。我は肉体を
失ってからそのことを知った)
・                            ・   、   、   ・
よけい
カイルロッドは口をつぐんだ。話を聞いたら、余計わからなくなってきた。「聞かない
こフかい
方がよかったのでは・」、後悔が頭をかすめたが、青年は続ける。
そうと自覚し、そしてそれなりの力を持っならば、生きものすべてが《あの方》の力を
利用できると。
(我がタジエナに封じたのは、《あの方》の一部でしかない。《あの方》は空に海に、空気
の中に溶け込んでいるのだ。わかるかっ)
「わかるような、わからないような・。でも、《あの方》の大半は周りにあるのに、タ
ジェナに封じた一部だけを恐れるとはフ 何故、全体の方を放っておくんですフ」
そつらレトく
カイルロッドが率直に質問したが、
(いずれわかることだ)
青年は笑ったようだった。
(そなたはもう行くがいい。我は消える。そなたという奇跡を見た今、もはや我が在るべ
き理由はない。我は完全に《あの方》の一部となる)
くヂ
カイルロッドの見ている前で、ゆっくりとミイラが頭部から崩れだした。サラサラと、
砂が崩れるような音がする。
やさしさは風の調べ
けつにく
(《あの方》の力を持ち、フィリオリの血肉を分け与えられ、多くの人々によって心も育
まれた者よ。ここを出て、成すべきことを成せ)
さいご
それを最期の言葉として、ミイラは崩れた。椅子と鎖が残ったが、一息遅れて灰となっ
て消えた。
…・こ・・I一
やみ
闇の中にカイルロッドは一人で立っていた。もうこの部屋には誰もおらず、なにもない
のだと、カイルロッドは感じた。
青年は消え、禁忌の部屋も消えたのだ。
「出なくちゃな」
つ・や
呟くと、カイルロッドは闇の中をゆっくりと歩きだした。外で待っている人々がいるの
だ。戻らなくてはならない。
誰かがカイルロッドを呼んでいた。なにも見えないのに、呼んでいる方向はわかる。そ
の方向へカイルロッドは進んでいた。
とげら
開いた扉から、眩けばかりの光が押し寄せた。長いこと闇の中にいたせいか、光がひど
まぷ
く眩しく感じられ、カイルロッドは昌を開けられなかった。
「眩しいな」
顔の前に手をかざしていると、
「王子−」
近くでセリの声がした。
「セリっ」
薄冒を開けると、セリはすぐ前にいた。そして、大きな日でカイルロッドを見上げてい
た。
「ずっと扉の前で待っていてくれたのフ それとも、俺が出てくるのがわかったの?」
訊くと、セリはか細い声で「出てくるのがわかったから」と答えた。
「 I どうだったフ」
おずおずとセリが質問した。カイルロッドは少し笑い、かざしていた手をおろした。や
っと目がなれてきた。目も開けられないほど眩しく感じた光だが、なれてみればいつもの
弱々しい陽光でしかなかった。
「うん、色々なものを見たよ。神殿の歴史とか、俺と同じ顔の青年とか」
えたい
言いながら、カイルロッドは巨大な黒い扉を見上げた。入る前に感じた得体の知れない
しようげき
衝撃はもう感じない。
だれ
「もうここには誰もいない。なにもない。ただの部屋だよ」
うなず
カイルロッドが言うまでもなく、そのことはわかっていただろうが、セリは小さく領い
きんき              かペ   でついん もんよぅ
た。禁忌だった部屋はただの部屋となり、壁一面の封印の文様もこの扉も、用のない物と
なった。
ぽひよう
「ここは青年の墓標だ」
あかし        まぽろし
名前も存在も抹殺された青年が、ここにいたという証だ。同じ顔をしていた幻の姿とミ
イラの二つを思いうかべながら、カイルロッドは壁の文様にそっと指先で触れ ー ふいに
あることを思い出した。
かみ はだ
「俺はあの青年の姿を写し取ったと言っていた。顔も同じだったし、髪も肌の色も同じだ。
それなのに、どうして青年には色違いの前髪がなくて、俺にはあるんだ?」
色違いの前髪がないのは青年だけではない。グリユウもそうだった。カイルロッドの血
から造られたはずのグリユウにも、色違いの前髪はなかった。
「なにか意味があるんだろうかっ・」
これまで深く考えもしなかったが、この色違いの髪にはなにかあるのではないか。赤い
前髪をつまんで考えていると、セリと目が合った。下からジッとカイルロッドを見上げて
いる。
やさしさは風の諏ぺ
「そうだ、セリはウルト・ヒケウだから、塑剣のことは知っているよね。それがあると、
たたか
《あの方》と闘うのにいいらしいんだけど・。完閤らぬもの》も青年も、聖剣はないって
いうんだけど、本当にないの?」
ゆくえ
どういう意味でないのか − 聖剣そのものが失われたのか、単に行方が知れないだけな
のか。もし後者なら、探し出せるのではないか。そんな期待をこめてカイルロッドが尋ね
ると、
「・・わからない。聖剣のことは知っているけど 。と。あげられた後でどうなったか、
それはわからない」
セリは頭を左右に振った。
「そうか」
あわ
やは。淡い期待でしかなかったらしい。「そうそうは、うまい具合にはいかないもんだ
な」、カイルロッドは大きく息を吐き、
「セリ。ところで、俺はどれぐらいこの中にいたの?」
色違いの髪を引っ張。ながら訊くと、「三日間」との答えだった。
「三日間け」
..   −・1.・
カイルロッドは目を剥き、驚きのあまり自分で色違いの髪を数本むしってしまった。
「三日間もいたなんて」
、つしゆん
むしった痛みに、カイルロッドは目に涙を診ませた。一瞬、セリにかつがれたのではな
いかと思ったが、セリはリリアやアリユセと違って、そういうことはしない。
「今日は四日目で、明日には移動するの。王子も早く支度した方がいい」
「うん」
ぷぜん             ゆか
カイルロッドは憮然としながら、指にからんだ髪を床に捨てた。あの中にいたせいか、
時間の感覚が狂っている。
あわ
「一日で支度か。荷物なんてないけど、気分的に慌ただしいよな」
ぼやいていると、「早く」とセリに手を引っ張られた。
「待って。その前にイルダーナフに会うよ」
てきごと
やはりあの室内での出来事は、イルダーナフに報告しておくべきだろう。カイルロッド
がイルダーナフに会うと言うと、
「案内するね」
セリは先を歩きだした。
ろうか
廊下を歩きながら、カイルロッドはセリから三日間の出来事を聞いていた。
イルダーナフが大神宮として、人々に移動を呼びかけ、大勢の人々がつめかけたこと。
5 やさしさは風の諷ぺ
ユル・トパックやロワジ一連によって、順調に移動の準備が進んでいることなど。しかし、
カイルロッドが一番驚いたのは、キアラとイルダーナフの対決だった。
「ふぇ1d よくそんなことができたなぁ」
どきよう               こわ
カイルロッドはキアラの度胸に驚くばかりだった。「俺だったら恐くて、とてもそんな
まね           てつへき               かた
真似はできない」、誰が好んであんな鉄壁のような男を敵に回したいものか。厚いわ硬い
つめ
わで、歯も爪もたたないに決まっている。ひっかき傷の一つも負わせられずに、こちらが
血まみれになるだけだ。
「でも、それも今だからこそなんだよな」
闇の中で見た若いイルダーナフの背中が、脳裏に焼きついて離れない。
「でも、アクディス・レヴィとエル・トパックがうまくいっているみたいでよかった」
しず                     つと
沈みがちになった気持ちを振り払うように、カイルロッドは努めて明るい声を出した。
移動の準備といい、エル・トパック達兄弟のことといい、と。あえずいい方向に向かって
いるようだ。
「安心したよ」
ど′,はく
独白のようにカイルロッドがt亨っと、
「王子、いい顔してる」
セリがニコッと笑った。
「そうかな」
セリを見下ろし、カイルロッドも笑った。移動のことやエル・トパック達のこともそう
だが、自分白身の根本にあった不安が解消されたからだろう。
「あの部屋に入れてよかった」
カイルロッドの笑みに、セリは満足気だった。
イルダーナフがいるという部屋に向かって、二人が廊下を歩いて行くと、前方がにわか
きわ               ぁた             りはい
に騒がしくなった。廊下を曲がった向こう側辺りだろうか。ガヤガヤと大勢の人の気配と
声がする。
「なにかあったのかな?」
カイルロッドが言うと、セリが浮いた。いつも急ぐ場合は飛んでいくらしい。
「…・見てくるフ」
うなヂ
そう言われて、カイルロッドが領くより早く、
「あら、カイルロッド王子」
「まぁ、出てこられましたの?」
声と気配のする方向から、リリアとアリユセが飛んできた。
7 やさしさは風の調ぺ
「騒がしいようですが、どうしたんです?」
顔の高さにいる二人を見て問うと、
いや                     つか
「まったく、馬鹿みたいな話で嫌になるわ。街を火の海にしようと企んだ馬鹿達が捕まっ
たのよ」
やってられないというように、リリアが吐き捨てた。
「放火ですかフ」
まゆ                      あご
カイルロッドが眉をひそめると、アリユセがため息をついて自分の顎に手をあてた。
いつせい
「そうなんですの。今夜、街の数ヶ所に一斉に火をつけようと計画したそうですわ。困っ
た方達ですわね」
めぐ
幸いと言うか、それとも当然というか、イルダーナフ達の張り巡らした情報網のおかげ
ろけん     みぜん
で、討画は露見し、放火は未然に防がれたらしい。
「聖地を捨てるのは許さないんですって。自分が残るのは勝手だけど、他人を巻き添えに
するのはやめてほしいわね」
かんまん
憤憑やるかたないというようにリリア。
「そういう人もいるんだなぁ」
にがにが  つぷや      メよノい
カイルロッドは苦々しく呟いた。価値観の相違とでもいうのか、世の中には自分とはま
ったく違う考えの人間がいるものだ。それを否定するつもりはない。だからこそ世の中は
成り立っているし、異なった意見は必要だ。全員が同じ方向を向くような、統一された思
考というのは恐ろしい。
めいわ7ヽ
「でも、どう客観的に見ても、他人を巻き添えにするのは迷惑だよな」
リリアではないが、自分達だけで残ればいいのだ。他人に強制することではない。
「それで全員が捕まったんですかフ」
大きくなっていくざわめきを気にしながらカイルロッドが言うと、
かん
「一応ね。でも、あたしの勘じゃ、黒幕がいるわね」
きんばつ                くちぴるゆが
自分の金髪を指にからめ、リリアが皮肉っぼく唇を歪めた。
「黒幕ってフ」
「それはイルダーナフ様が見つけますわ。イルダーナフ様にかかったら、捕まった方達な
んて簡単に口を割ると思いますわ」
アリユセがにっこりと笑う。
「とにかく、王子もきなさいよ。イルダーナフ様に会うんでしょうフ」
はは dく
リリアが手招きすると、それまでずっと無言だったセリがプウッと頬を膨らませた。
「・…セリが案内するの」
9  やさしさは胤の調べ
「わかったわよ」
舌打ちでもしそうな表情でリリアが言い、セリは二人の前に移動して「こっち」とカイ
てまね
ルロッドに手招きした。
4
とぴち                 と1クつぎ たの
セリに案内されたのは、広間だった。扉の前には警備の者がl一人立っていた。取次を頼
.1 ・.1
もうとカイルロッドが口を開く前に、警備の二人は素早く扉を開けてくれた。
広間には大勢の人間がいた。会議の時に見た、神殿の主立った顔触れが揃っている。
えつけん ま
以前は謁見の間だったのだろうか。扉を開けた正面には一段高い席が置かれており、そ
・ ′−
こにイルダーナフが座っていた。すぐ横にはお付きとしてアクディス・レヴィが立ってい
・.1
しば
イルダーナフの席の前に、後ろ手に縛られた八人の男女がいた。カイルロッドは後ろ姿
みすいはん
しか見えないが、例の放火未遂犯達だろう。
その八人を両横から見るように、イルターナフの席を中心にして、左右に神官達が立っ
ていた。エル・トパック、ロワジー、オンサ、そしてメディーナやティファの顔があった。
そうした人々の視線が、扉を開けて室内に入ってきたカイルロッドとウルト・ヒケウの
上に注がれた。
「出てきたか、王子」
あし                              だま  フなず
脚を組み直しながら、イルダーナフが笑った。カイルロッドは黙って領いた。それから、
.こな
右に並んでいる人々の隣りに行こうとしたが 「王子はこっち」と、浮いているセリに髪を
引っ張られて、イルダーナフの横に連れて行かれた。
..   ・・−
椅子を挟んで反対側にいるアクディス・レヴィが、カイルロッドに目だけで笑いかけた。
カイルロッドは軽く会釈した。三日前のアクディス・レヴィより、落ち着いた感じがする。
「さて、王子。そこのかしましい三人に間いたとは思うが、こいつらは放火を企んだ連中
だ」
イルダーナフの言葉に、リリアとアリユセが「かしましいですって」「失礼ですわ」と
文句を言ったが、カイルロッドは「確かにかしましいかもしれない」と思った。
「・主つ子も放火未遂犯達も」
カイルロッドはため息をついた。
「飛んでる、人間がっー」
「本当かより」
「仕掛けがあるに決まっている!」
やさしさは凧の調ぺ
ウルト・ヒケウを信じていなかったらしく、八人は「人が空を飛んでいる」と騒ぎ出し、
おもしろ
それが面白いのか、三つ子は「ほーら、ほーら」と縛られている八人の頭の上を飛び回っ
lこぎ
ているのだ。計一一人で騒いでいるのだから、賑やかなことこの上ない。
しかも、どう見ても笑ってしまいたくなる光景だ。だが、声に出して笑っている者はな
かった。おそらくは笑いたいのだろうが、放火未遂犯はともかく、「魔術において偉大な
る者」ウルト・ヒケウである。神殿関係者として笑うわけにはいかないと、必死で笑いを
こらえているのが、正面にいるカイルロッドにはよく見えるのだ。
おか
もっとも、ロワジーなどは顔をくしゃくしゃにして笑っている。ただ、可笑しすぎて笑
い声も出せないようだ。
きまじめ
イルダーナフは頬に苦笑をはりつけ、生真面目なアクティス・レウィなどは、どういう
反応をしたらいいのか困っているようだ。
T  でもセリ達、蠣みたいだな」
そつちよく             はばふ
飛び回っている三つ子への、カイルロッドの率直な感想だが、さすがに口にするのは憧
られた。
tlそが     よけい    ゆ
「このくそ忙しい最中に、余計な仕事を増やしてくれた連中だ。これ以上、手間隙をかけ
るわけにゃいかねぇから、さっさと殺すか」
こわ
笑いながらイルダーナフが言い、八人の顔が強ばった。集まった人々の間からも「乱暴
てつかい
だ」という意見が出た。が、イルダーナフは撤回しなかった。
やつ
「未遂とはいえ、街を火の海にしようとした奴らだ。それくらい当然だろう」
にb       いくどンムん  たの
正面からイルダーナフが睨むと、八人は異口同音に「頼まれたのだ」「金をもらっただ
わめ
けだ」などと、先を争って喚き始めた。なんとか罪を軽くしてもらおうと必死になってい
る八人に、
だれ
「では、誰に按まれた」
じんもん      どな           こわ
イルダーナフは静かに尋問した。それが怒鳴ったりするよりもよほど恐いことは、カイ
ルロッドもよく知っている。
ヤる         しゆぽつしや
たちまち八人は震えあがり、簡単に首謀者、黒幕の名をロにした。
さまぎま
その名を聞いた人々の反応は様々だった。イルダーナフや三つ子などは予想済みだった
じゆフめん          けんお む
のか「やはり」という顔をし、ロワジーとオンサ老は渋面になった。ティファは嫌悪を剥
き出しにし、メディーナは顔をしかめている。他の多くの人々には嫌悪と不快、そして動
揺があった。
一、1、、1・、
きみよう
カイルロッドは奇妙な息苦しさを感じながら、アクディス・レヴィとエル・トパックを
やさしさは風の調べ
日.
見た。
「そんな・ 」
ほノめ
絶望に全身を震わせ、アクディス・レヴィは坤いた。ことさら感情を表に出さないよう
にしているのか、エル・トパックはまったくの無表情だった。
だいしきゆう
「大至急、キアラとゼノドロスを連れてこい。見張。からの報告がないから、逃げちゃい
ねぇはずだ」
イルダーナフの声が響いた。命令を受けて一人の神官が部尿を出た。それを見送りなが
ら、
ろHん
「もっとも、計画が貫見したところで、自尊心の強いあの女が逃げるとも思えねぇが」
独白のようにイルダーナフ。
「初めから、キアラがなにかするとふんでいたのか」
かルたん
そして、それとなく見張。をつけていたのだろう。感嘆し、カイルロッドは抜け目のな
い大男を見下ろした。
街を灰にするという計画の首謀者が、よ。によって現神官長の母親ということで、広間
は異様なまでに静ま。かえっていた。
「いくらなんでも、母上がそこまで・」
つめ
耐えかねたように、アクディス・レヴィが苦しげに時いた。カイルロッドが横目でアク
▼hぎ    こぷし
ディス・レグィを見ると、今にも倒れてしまいそうに青ざめ、握りしめた拳を震わせてい
た。
むこ
「無事の人々まで巻き添えにしようなどと、信じられない。こ 信じたくない」
「それをはっきりさせるために連れてくるんだ」
イルダーナフがぴしゃりと言い、アクディス・レヴィはうつむいた。彼の中では、否定
こつてい
したい気持ちと肯定してし蔓つ気持ちの二つが、激しくせめぎ合っているに違いない。ひ
どいことができる親と知っていても、やはり実の親だ。アクディス・レヴィが信じたいと
思うのは、当然だろう。
「俺がアクディス・レグィだったら、やはり信じたいと思う」
カイルロッドはポケットの中に手を入れ、指輪に触れていると、
「とにかく、話したんですから助けてくださいよ」
しびれをきらしたように、八人の中の一人が口を開いた。このまま忘れられてたまるか
.い1・.
という口調だった。連鎖反応のように、残る七人も「助けてくれ」と騒ぎだす。
「ああ、すっかり忘れていたぜ」
言われてやっと思い出したというように、イルダーナフは手を打ち、
やさしさは風の調べ
‖5
「エル・トパック、アクディス・レヴィ。こいつらを、牢にぶちこんでおけ」
ヱくざ
二人に指示した。エル・トパックは即座に「はい」と返事したが、アクディス・レヴィ
は強い不満を表わした。間もなくキアラとゼノドロスはここに連れてこられるだろう。ア
Lんぎ
クディス・レグィとしては残って、自分の目と耳ではっき。と真偽を確かめたいのだ。
「だけど、イルダーナフは、キアラが首謀者であると確信している」
カイルロッドはそう感じた。口では「はっきりさせる」などと言っているが、イルダー
ナフはキアラが首謀者と確信している。それゆえに、連れてこられるキアラを見せまいと
はいーソよ
いう配慮なのだろう。
「ちょっと、大神宮の命令よ。突っ立ってないで行きなさいよ」
「そのとおりですわ」
「  早く」
頭の上からウルト・ヒケウに急かされ、アクディス・レヴィは渋々と動いた。そしてエ
ル・トパックとアクディス・レグィは八人を連れて、広間を出て行った。
めんどう
「面倒ってぇのは、次から次へとわいてくるもんだな」
いす
やれやれという口調で、イルダーナフは椅子の背にもたれかかった。それから横に立っ
ているカイルロッドを見ししげ、
「あの中で色々と見たらしいな」
黒い目を細めた。
「長い夢のようだったよ」
目の前を駆け抜けた事実の数々を、一つ一つ思いおこしながら答えると、イルダーナフ
▼.J
は「そうか」と額いただけで、
「移動は予定どおり明日だ。おまえさんもそのつもりでいてくれ」
別のことを口にした。あれこれと訊かれるかと思っていたが、イルダーナフはなにも訊
かなかった。訊くまでもなくわかっているのか、必要がないと思ったのか −
がんば
「でも、本当に五日間で準備するんだから、皆が頑張ったんだね」
居並ぶ人々を見ながら、カイルロッドは胸が熱くなった。イルダーナフという巨大な存
在があったとしても、彼らの努力と協力がなければ、五日間での準備など不可能だろう。
「王子もご苦労だったな。後のために、少し休んだ方がいいぞ」
ロワジーがそう言ってくれた。今の段階で、カイルロッドにできることはなにもない。
ちあん         かんかつ          しゆうらい
街の治安はイルダーナフ達の管轄だし、どうやら魔物の襲来もないらしい。
「俺が忙しくなるのは、この聖地を出てからだ」
その時のためにも、休めるうちに休めとロワジーは言うのだ。カイルロッドももっとも
やさしさは風の調べ
だと思うし、部屋で休もうかとも思うのだが、なんとなく立ち去。がたい。
−フれ
「あの人達に会うのはあんまり嬉しくないけど。どうして放火なんかしようとしたのか、
知。たいし」
キアラとゼノドロスが気になる。
そうこうしているうちに、部屋の外が騒がしくなった。「なんで私まで1」、情けない悲
めい
鳴のような声が聞こえ、広間にいる人々はキアラとゼノドロスが連れてこられたことを知
った。
とぴら
扉が開き、二人が入ってきた。途中で抵抗したからだろう。ゼノドロスは手を縛られて
いる。
おうぽう
「横暴だぞ、大神宮− 私は関係ないじゃないかー」
わめ                            くつか、
喚くゼノドロスと対照的に、キアラは無言だった。ただ、屈伏すまいとしているかのよ
うに目を光らせて、正面の大神宮を睨んでいたが、
いつしよ
「神殿を裏切った者達も一緒ですか」
1 ′一い
素早く居並ぶ神官遠を見て、そこに息子がいないと知。、キアラは少し安心したようだ
きじよ・つ
った。いかに気丈なキアラでも、息子にはこんな姿は見せたくないだろう。
あつか
「まるで罪人扱いですね。証拠もない者を無理に連れてくるなど」
するア▼.とパ
鋭く怨めるキアラの声に、イルターナフは苦笑した。
「悪いね。なにぶん、時間がなくて忙しいもんで、つい乱暴になっちまう。実はさっき、
つわ
放火をもくろんだ馬鹿をとっ捕まえたら、そいつらの口からあんたの名前が出たのよ。そ
れでおいでいただいたわけだ」
「とんだ言いがかりだわ」
きぜん
キアラは眉も動かさない。自分は無実という態度があまりに毅然としているので、カイ
ルロッドなど「もしかして、キアラは関係ないんじゃないかフ」、にわかに不安を感じて
きたが、
「時間があれば調べてもいいんだが、さっきも言ったように時間がねぇのよ。だから、お
は一ら
互いに白々しい言動は省こうぜ」
まど
イルダーナフはキアラの態度に惑わされなかった。キアラは無表情だったが、イルダー
ナフはかまわずに続ける。
だま
「まぁ、おまえさんのことだから、あのまま黙っているとは思わなかったが。おまえさん
あま
のやるこたぁ、甘亡に余っていけねぇや。おまえさんがなにをしようとそれは勝手だが、移
じやま
動の邪魔だけはしないでくれ」
きよよノはくふく
言葉の最後には脅迫が含まれていた。今度邪魔をしたらただではすまないぞと、イルダ
やさしさは風の調ペ
1ナフの声と目がそう言っている。が、効果があったのはキアラではなく、ゼノドロスの
方だった。
「邪魔など、私は邪魔などしていない−」
ゼノドロスは泣きださんばかりに叫んだ。
「またうるさくなるのか」
カイルロッドは片手で耳をおさえた。
ほろ
「私は生きたいんだ。滅びる聖地なんかに残って死ぬのはごめんだー 姉上の勝手の巻き
添えで死にたくないlL
「ゼノドロス! それが神官たる者の一言葉ですか1」
「私は神官になんかな。たくなかったんだー それを姉上が勝手にしたんじゃないかー」
すご
叫んでいるうちに感情が高ぶったのか、ゼノドロスはもの凄い勢いで、キアラに対する
長年の不満を吐lき出し始めた。
げんか
「姉弟喧嘩になっちゃったわ」
あき
ふわ。とカイルロッドの横におり、呆れたようにリリアが言った。アリユセとセリもお
。てきた。
そうぜつ
「姉弟喧嘩って壮絶だなぁ」
キアラにロをはさむ余地も与えず、ゼノドロスはベラベラとしゃべり続ける。どこで息
っぎをしているのかわからないほどの早口に、カイルロッドはただ目を丸くしていた。神
へいこう
官達も閉口しているようだが、イルダーナフは薄い笑みを口元にうかべていた。いつもな
いつかつ                         ちんもく
ら即座に「うるさい」と一喝でゼノドロスを黙らせるイルダーナフが、今日に限って沈黙
している。
「なにか企みがあって、ゼノドロスも連れてきたのかフ」
カイルロッドのその疑問はすぐに解けた。
「あんたはなんでも自分の思いどおりにしようとする− 気にいったものが自分の手に入
はかい
らないと、誰の手にも入らないように破壊する。それが人間だったら、殺してでも自分だ
けのものにしようとするんだー コルネーリアのようにー」
ザワッ。
せんりつ                       おぴ  おどろ
神官達の間に戦慄じみたものがはしったのを、カイルロッドは見た。怯えと驚きの表情
の中で、ティファの目が怒りに凄まじく光っている。
われ
神官達の反応に我にかえったのか、ゼノドロスは露骨にしまったという表情をした。キ
そうふく
アラは蒼白になっている。
「コルネーリアフ⊥
やさしさは風の調べ
121
聞いたことがある。カイルロッドは記憶の中からその名前を探し当てた。それはエル・
トパックとアクディス・レヴィの父親の名前だった。
「殺したとはどういう意味だフ コルネーリアは一〇年前に病死したはずだ」
返答しだいでは考えがあるぞという表情で、ロワジーが前へ出た。
きよぜつ          くちぴるか
返答を拒絶するように、ゼノドロスは唇を噛んだ。横ではキアラがゼノドロスを附んで
いる。
「言っちまいな。でないと、俺はおまえさんを大神官しか知らねぇ部屋に閉じ込めて、移
がし
動にゃ加わらせない。運がよけ。や誰かに見つけてもらえるが、たいていは餓死だ。入っ
てみるか? 中にゃ死体が転がってるぜフ」
からかうように言ってから、イルダーナフが口調を改めた。
かくご           はかば
「それでも黙っているだけの覚悟はあるのか。その秘密を墓場まで持っていけるのかフ」
「ううっ …・」
えいり    のどもと
鋭利な刃物を喉元に突きつけられたように、ゼノドロスが大きく喉を動かした。それか
ら口を開き、かすれ声を押し出した。
「…・コルネーリアは病死じゃない。毒を盛られたんだ・。姉上に」
しゆんじ       こお                 いっせし1
瞬時にして広間の空気が凍。ついた。カイルロッドをはじめ、人々の視線が一斉にキア
ラに集中した。
「 なにを言うの、ゼノドロス」
目ばかりを光らせ、キアラが弟を睨めつけた。
「毒殺だとフ・」
「なんと  」
神官達がざわめきだした。
「いいから続けな」
つなが
イルダーナフがゼノドロスを促す。
「コルネーリアは孤児で、老いた神官夫妻が育ての親だった。姉上は一字つことをきかない
一dと
と、その夫妻を遠い地へ派遣すると脅して、コルネーリアと結婚したんだ」
きようは、        ごつしいん
それを聞いて、カイルロッドは絶句した。キアラが脅迫まがいの手段で、強引にコルネ
ーリアと結婚したのは知っていたが、そんなことをしていたとは。
ひたい       ぬぐ
キアラの顔は死人のように青ざめていた。額に浮かんだ汗を拭い、ゼノドロスは話を続
ける。
老いた育ての親を盾にとられ、コルネーリアは従うしかなかった。そして不本意な結婚
生活を強いられた。が、一〇年前にその老夫婦が亡くなり、コルネーリアはキアラに離婚
123  やさしさは風の調べ
を求めた。
「息子のエル・トパックをつれて神殿を出て行くと、コルネーリアはそう言った。それを
づなお                きかヂき
姉上は、あんたは素直に受け入れるかにみせて、毒殺したんだ。最後の杯だからと言って
飲ませてー」
にぎ
そしてかかりつけの医師に金を握らせて、毒殺されたコルネーリアを病死と診断させた
と、ゼノドロスは一貰った。
「なんという・・・」
フめ
ロワジ1が坤いた。イルダーナフは冷ややかな視線をキアラとゼノドロスの姉弟に向け
ていた。
むか
「私は姉上の命令で、その医師の送り迎えをやらされて…。それで共犯にされて」
とぴら
震える声でゼノドロスが言った時、扉が開いて、アクディス・レヴィとエル・トパック
もど
が戻ってきた。
けんてんぐれん
三章 兼天紅蓮
だれ するど                  ひげ
誰かが鋭く息を飲み込み、その昔が異様に大きく広間に響き渡った。
「もう戻ってきやがったのか」
にがにが  つ.dや
エル・トパックとアクディス・レヴィの兄弟を見て、イルダーナフが苦々しく呟いた。
しよぎよう
おそらく二人が戻ってくる前に、これまでのキアラの所業を白状させるつもりだったの
わめ
だろう。だが、ゼノドロスが喚いている時間が予想以上に長く、二人は広間に戻ってきて
しまった。
外にいたのでゼノドロスが話していたことは聞こえていないはずだが、室内の異様な空
気を感じ取ったのか、エル・トパックとアクディス・レグィの顔には張り詰めたものがあ
る。
「どうするんだけ」
やさしさは風の調べ
125
カイルロッドは動転した。キアラがコルネーリアを毒殺したなど、とても二人には聞か
せられない。しかし、これだけの人間に知られてしまった以上、隠してもおけない。カイ
ルロッドがオロオロしていると、
「話を中断させてしまったようで、申し訳あ。ません。どうぞお続けください」
うなが
有無を言わせぬ口調でエル・トパックがゼノドロスを促した。しかし、この二人を前に
だま
してコルネーリアの死の真相を告げるには抵抗があるらしく、ゼノドロスが黙っていると、
アクディス・レウィの目が光った。
「俺達がきたからといって黙。こむことはないだろう、叔父貴」
今にも斬。つけかねない鋭い口調だった。殺気めいたものがある。このままゼノドロス
ちんもく
が沈黙を続けたら、アクディス・レヴィは本当に斬。かか。かねない。
「二人ともそう殺気だちなさんな」
ただよ
イルダーナフは漂う殺気を軽く流し、ゼノドロスの言っていたことをかいつまんで説明
した。それを聞いてもエル・トパックは動揺らしいものを見せなかったが、アクディス・
そえノはノー
レヴィは蒼白になった。
「  父上を毒殺したというのは本当ですか、母上」
叔父から母へと視線を移動させ、アクティス・レヴィは激情を押し殺した声で問うた。
その蒼白な顔はひどく傷ついた少年のようだった。
「本当のことを言ってください」
こんわく
居並ぶ人々が困惑した顔で見つめる中、アクディス・レヴィは裏っすぐキアラの元へ阿
かった。やや遅れてエル・トパックが続く。
「嘘です、ゼノドロスの言っていることはすべて嘘です=大神宮に取り入りたい一心で、
嘘をついているのです!」
ひめい
キアラは悲鳴のような声で否定し、激しく頭を振った。必死に否定している姿は、大神
ひなん
宮や弟への非難の時とはまるで違う。相手によって態度を変えるキアラの器用さに、カイ
ルロッドが目をしぼたたかせていると、
「嘘なものかっ!」
しば
手を縛られたまま、ゼノドロスがキアラに食ってかかった。それをエル・トパックが左
腕で押し止めた。
「およしなさい、ゼノドロス神官」
おだ
エル・トパックが穏やかな声で言うと、ゼノドロスは縛られた両手を振り回し、
かば
「こんな女、庇う価値はないーエル・トパック、特におまえにはな。おまえの母親と弟
を殺したのもこの女なんだぞ!」
やさしさは風の調べ
つぼ
唾を飛ばして叫んだ。
しんかん
広間は震撼した。
キアラはコルネーリアだけでなく、エル・トパックの母親と弟も殺していた −
ごうとう おそ
「強盗に襲われて死んだんじゃないのかけ」
カイルロッドは思わず声をあげていた。イルダーナフに聞いた謡では、エル・トパック
の母親と弟は強盗に襲われて死んだはずだ。
「事実なのかフ」
「そんな…」
神官達の間からそんな声があがり、ざわめきが大きくなっていく。アクディス・レヴィ
こわ
の顔が強ば。、エル・トパックの顔を鋭い光がかすめた。
「違う− わたくLはエル・トパックの母親と弟など殺していない!」
・り′つた
アクディス・レヴィに向かって、大きな声で無実を訴えるキアラに、
くだ                        やと
「直接手は下していないが、殺したのはあんただー ならず者達を雇い、強盗に見せかけ
て、エル・トパックの母親と弟を殺したんだー」
さらに大きな芦でゼノドロスが否定した。その声は単に大きいだけでなく、キアラが威
あつ
圧されるほど強いものだった。
28
「議を続けな」
しようきい
イルダーナフのよく通る声に押されるように、ゼノドロスは詳細を語り出した。
「最初は私に謡をもちかけてきたんだ」
たの            ことわ
キアラに「エル・トパック母子を殺せ」と頼まれたが、ゼノドロスは断った。彼は別に
ぎんぎやく
エル・トパック母子を憎んでいたわけではないし、理由もなしに女子供を殺せるほど残虐
ではなかった。
弟に断られたキアラは金でならず者達を雇い、強盗に見せかけてエル・トパックの母と
弟を殺害した。
ぐうぜん
「母親と幼い子供は死んだが、エル・トパックは生きていた。それは偶然じゃない。そう
しろと、エル・トパックだけは殺すなと、姉がならず者達に命令したんだ」
ぬが
目にするだけで吐き軒がするというように、ゼノドロスは大きく顔を歪めた。
じひ
「それは慈悲なんかじゃない。エル・トパックが憎いあの女に似ているから、そしてコル
できあい
ネーリアが溺愛している息子だからだ。生かしておいて苦しめて、レヴィに従わせること
であの女に勝ったと思いたかったんだ、あんたは〓」
そしてキアラに向かって、叩きつけるように叫んだ。
なぜ                        ゆす
ゼノドロスが何故、そんなことを知っているのかというと、ならず者の一人に強請られ
9 やさしさは風の調ぺ
たのだという。金を貰って街を出て行ったものの、すぐに金を使い果たして舞い戻ってき
た。キアラは無理だが、その弟なら金を出すかもしれないとふんで、ゼノドロスを強請っ
たのだ。だが、男は秘密が洩れることを恐れたゼノドロスに殺され、庭に埋められた。
こわ
「それ以来、エル・トパックを見るのが恐かった。あの女と子供に責められているみたい
で  あの女に似ているエル・トパックに消えてほしかった」
luか ヶわ        カか  すナプ                つフ
ゼノドロスは床に座。こむと、頭を抱えて畷。泣きだした。エル・トパックに辛くあた
ぬた・くね
ったり殺そうとしたのは、妬み嫉みの他に、そういう理由があったらしい。
ざん
説明が終わっても、言葉を発する者はいなかった。一様に顔色を失い、ただただその残
せんりつ
酷さに戦慄するのみだった。キアラはもう「ゼノドロスの言っていることは嘘だ」と言わ
なかった。
・  1    1    1       ・  1
ぜつ1
カイルロッドは絶句していた。キアラが恐ろしかった。コルネーリアという男を独占す
るために、キアラは手段を選ばなかった。「これが愛だというのかフ」、自問し、カイルロ
ッドは 「愛ではない」と否定した。こんな自分勝手なものが愛であるはずはない。
「……母上、あなたという人は ・」
くちげる
沈黙を破って、アクディス・レヴィが口を開いた。その唇からは細い糸のような血が流
れていた。きつく唇を噛みすぎたのだろう。
「どうしてそんなひどいことができるんですかPH どうして  」
たて続けに明かされた事実に打ちのめされ、アクディス・レヴィは泣いていた。
さまじめ
「生真面目なだけに辛いだろうな」
アクティス・レヴィの心情を思うと、カイルロッドはやhソきれない。
「どうして・ 二
「すべてあなたのためです、わたくしのレウィ」
なr           こうこつ
嘆き悲しんでいる息子を恍惚とした目で見上げ、キアラはそう言った。その声と態度に
こうかい
は、迷いも後悔もなかった。信念があるとでもいうのか。たいていの場合においてそれは
りつぱ
立沢な態度だが、場合によっては吐き気がするほどおぞましいものになるのだ。カイルロ
ットはそれを目のあたりにした。
「  俺のため?」
つ.コや
抑揚なく呟いたアクディス・レウィの顔にかすかな怒りが見えた。嘆きや悲しみが怒り
へと変化している。
「そうですとも、あなたのためです。あなたが神殿最高位につくために。心乱れることな
く日々が送れるように、そのためにわたくLは  」
やさしさは風の調べ
「なにが俺のためだ=」
ついにアクディス・レヴィは爆発した。
「エル・トパックの母親と弟を殺すのが、俺のためなのかけ一エル・トパックの弟は、俺
にとっても弟なのにーエル・トパックの右腕を切断したのも、父を殺したのも俺のため
だというのかけこ
「レヴィー」
しっと
「なにが俺のためだ。自分の嫉妬をす。替えて、もっともらしく正当化するな! なんで
もかんでも俺のためにするな=」
「待って、レヴィ。わたくしの諸を」
すがるようにす。寄ってきたキアラを、アクディス・レヴィは片手で振。払った。よろ
めいたキアラは信じられないというような表情で、アクディス・レウィを見上げている。
「・・レグィ」
「近寄るな。吐き気がする」
どな    なノ、
キアラを見下ろし、アクティス・レヴィは冷たく吐き捨てた。それは怒鳴ったり殴った
きよぜつ                        むらさき
りするよりも、激しく強い拒絶だった。よほどの衝撃だったのだろう、キアラの唇が紫
いろ
色になった。
「エル・トパック、なにか苦ったらどうだ。言いたいことは山のようにあるはずだろう」
ろうばい
狼狽している母親から目をそらし、アクディス・レヴィがつっけんとんに言うと、エ
ル・トパックは右肩を押さえた。
「こ 私も父も、薄々は知っていました。強盗に見せかけて、母と弟を殺したのは誰なの
か。しかし、証拠がなかった」
並んでいる神官達の中からティファが出て、エル・トパックの横にきた。
にギ つ1
「もっとも、証拠があってもあんたの祖父が握り潰しただろうがな。コルネーリア様が亡
あや                      そうぎ
くなったと聞いた時も、怪しいと思った。遺体も見せてもらえず、葬儀にも立ち合わせて
くれなかったしな」
ティファの黒い目がキアラを階んだ。
「私が神殿にいたのは、真相を明らかにするためでした。  あなたの口から言って欲し
かったのですが、代わりにゼノドロス神官が真相を告白してくれました。後は一言でいい
から、私の母と弟、そして父に詫びてください」
なつと′、               ネくが
人々の間から、納得したような声が洩れた。不当に迫害されながらもエル・トパックが
神殿を離れなかったのは、そのためだったのだと、人々はようやく納得した。
「一言、すまなかったと詫びてください、キアラ」
ユ33  やさしさは凪の調べ
えんこん                       なにゆえ
それで怨恨を忘れるとエル・トパックは言っている。何故そうも簡単に許せるのか ー
カイルロッドにはどうも納得できなかった。しかし、自分の場合と比べてみて、なんとな
く理解できた気がした。
「俺がムルトのようにな。たくないように、エル・トパックはキアラのようにな。たくな
かったんだ」
憎しみでためらいなく相手を殺すような、そんな人間になりたくなかったのだろう。キ
アラが憎く、許せないからこそ、同じようにな。たくなかったのだ。
だが、頭ではわかっていても、感情はなかなかそれについていかないものだ。カイルロ
よご、こけごと
ッドが夜毎日毎、ミランシャを助けられなかった悪夢に苛まれたように、エル・トパック
は母と弟が殺される惨状に苛まれていたに違いない。そして犯人を知。ながらも、証拠が
ノヽや
ないために、悔しい思いをしていた。
「毎日が地獄だったんじゃないだろうか」
自分にはとても耐えられないとカイルロッドは思った。だが、エル・トパックは耐えた
みが
のだ。そして、苦しみの果てに、深く強く心を磨かれた青年となった。
「だから、皆がこの人に惹かれる」
しんらい
若さに似合わず人望があるのも、信頼されるのも、そのためだ。
「早く詫びたらどうです、母上」
いつまでたっても詫びない母親に業を煮やし、アクディス・レグィが促すと、
どろばうねこ
「詫びろですってけ どうしてこのわたくLが、泥棒猫の息子に詫びなくてはならない
のけ」
ぎようそう           つか
それまでうなだれていたキアラが鬼のような形相で、エル・トパックに掴みかかった。
つば
「泥棒猫の息子は、やはり泥棒猫だわー おまえはレヴィをそそのかし、わたくLから奪
うつもりなのねー なんて親子なのt わたくLから夫を奪っただけでは飽き足らず、息
子まで奪うなんて!」
胸ぐらを掴み、髪をふり乱して激しくなじった。エル・トパックは黙ってされるがまま
になっていたが、ティファや神官達が飛び出し、キアラをエル・トパックから引き剥がし
た。
どくぼう
「キアラとゼノドロスを独房にいれておけ」
すわ
取り押さえられながらも暴れているキアラと、座りこんだまま泣いているゼノドロスを
いちべつ
一瞥し、イルダーナフが命令した。
「どうして私までlフこ
なみだ
引っ立てられ、涙で顔をくしゃくしゃにしたゼノドロスが情けない声をあげた。
やさしさは風の調べ
135
「まぁ、ついでということだ。心配するな。明日、出発前にはちゃんと出してやるから」
気楽に言い、イルダーナフは片手をヒラヒラさせた。ゼノドロスはすっか。観念してお
となしく連れられて行ったが、キアラは抵抗した。
「レヴィ、助けてー わたくLを見捨てるのけ 母親のわたくLを捨てるのけ すべてあ
なたのためだったのに、あなたのためにわたくLは・こ 」
連れて行かれる間中、キアラは叫んでいた。しかし、アクディス・レヴィは動かなかっ
ぎよユノし
た。正面を凝視したまま、振。向こうとしなかった。
「息子を恋人だとでも思っているのかしら」
「コルネーリアの代わ。にしてるんですわ。子供がいい迷惑ですわ」
「 ・変なの」
ささや
三つ子達の噴きを聞きながら、カイルロッドはアクディス・レウィを見ていた。すぐに
しようどミノ
でもこの場から逃げ去。たいだろうに、その衝動をこらえているようだ。
とげら                                    あんタこ
扉が閉ま。、キアラとゼノドロスが出て行くと、広間に残った人々は安堵の息を吐いた。
さながら嵐が去ったような気持ちだろう。
「さて」
ゆる
指を鳴らし、イルダーナフが立ち上がった。とたん、援みかけていた人々の気持ちが引
き締まった。
「皆、ご苦労だった。今日までに我々はできうる限りのことをした。後は明日を待つのみ
である。夜が明けるまでのわずかな時間ではあるが、それぞれ休息をとるように」
おだ
穏やかな表情で一同を労い、イルダーナフは解散を命じた。
2
開いた扉から人々が吐き出された時、外はすっかり暗くなっていた。
イルダーナフとウルト・ヒケウ、そしてオンサ老とロワジーは残り、他の人々は広間を
出て行った。
「残っても役にたたん」
というロワジーの意見で、カイルロッドも外に出されてしまった。
「休ませてやろうという親切だとしても、もう少し違う言い方があるはずだ」
閉じられた扉を見ながら、カイルロッドは小声でぼやいた。気分は締め出しをくった猫
である。
そんなカイルロッドの横を、アクディス・レヴィが足早に通りすぎた。声をかけようと
ろうか                   しようすい
思ったが、廊下に置かれている蝋燭の火に照らされた憮博した横顔を見ては、とても声な
やさしさは風の調べ
どかけられなかった。
むだ
「他人がなにを言っても無駄だな」
なぐさ
カイルロッドではなく、たとえエル・トパックが慰めの言葉をかけたとしても、今のア
クディス・レヴィには無意味に違いない。それまで知らなかった事実によって彼の心は傷
あふ          つら
だらけになり、そこから血が溢れているのだろう。辛いであろうが、自分の傷は自分で治
すしかないのだ。
「エル・トパックとアクディス・レグィの間がこんなに複雑だとは思わなかったな」
だーl
家族の許へ、自分の部屋へと、人々はそれぞれに散り、もう誰もいなくなった薄暗い廊
つぷや
下でカイルロッドが呟いていると、
「トパック様がどうしたって?」
7・.・・
後ろから肩を叩かれた。カイルロッドは飛び上がらんばかりに籠き、振り返った。する
はだ
と真後ろに、赤いバンダナをした黒い肌の美女、ティファがいた。
「相変わらず隙だらけだな」
ほlま      か
苦笑したティファの頬に細い引っ旛き傷のようなものを見つけ、カイルロッドが指差す
と、
「これか。キアラに引っ掻かれた」
じゆうめん
傷に触れ、ティファは渋面になった。取り押さえた時に引っ掻かれたのだろう。「痛そ
うだなぁ」 とカイルロッドが思っていると、
「結局、あの女は詫びなかった」
くじゆう
呟くティファの声は苦渋に満ちていた。エル・トパックに言われ、アクディス・レヴィ
つなが
に促されても、キアラは詫びなかった。
「悪いことをしたとは思ってないんじゃないかな」
カイルロッドが呟くと、ティファは肩をすくめた。
ひとこと        はいぽく
「そうだろうな。それと、一言でも詫びれば、敗北すると思っているのだろう。まったく、
愚かしいことだ」
きみよう
冷たい風が流れてきて、蝋燭の火を揺らした。カイルロッドとティファの影が奇妙に揺
れる。
..
「だが、私もキアラを愚かと噛えない」
じぎやノ、
ふっと、ティファの顔に自虐がうかぶ。それがどういう意味なのかわからず、カイルロ
まゆぬ
ッドが眉根を寄せると、
「王子に詫びなければならないことがある」
かた                           せきひ
ティファが硬い声で言った。なにを言い出すかと思っていたら、「ユーリンの石碑を覚
えているかつ」と切り出された。
「ユーリンの・・」
てきごと
ロの中で呟き、カイルロッドはそれがひどく遠い出来事のように思われた。
そうぐう                    たましい
石にされたルナンを出て、すぐに遭遇した事件だった。来ない男を待ち続けた女の魂を、
こわ              よみがえ
石に封じている村があった。その石碑が壊され、封じていたユーリンが起り、そのために
大勢の村人が死んだ。
「覚えているよ」
ミランシャの記憶とともに、カイルロッドはその時のことを思い出した。
「その石碑を壊したのは私だ」
うめ               はんきよう         だま
坤くようなティファの声が、廊下に反響した。カイルロッドが黙っていると、ティファ
はゆっくりと話を続けた。
当時、神官長アクティス・レヴィの命令ということで、エル・トパックはカイルロッド
かんし
の監視をしていた。実際はゼノドロスの命令であり、もっと突き詰めればキアラになるの
かもしれない。
カイルロッドは神殿にとって、正確にはアクディス・レヴィにとって、危険な存在とな
Jつさつ
るかもしれない。そう考え、危険ならば抹殺、使えるなら取り込む ー そうもくろんで、
やさしさは風の調ベ
「生死を問わずに神殿に引き渡すように」という手配書を作ったのだろうと、ティファは
言った。
「命令はどうであれ、トパック様はこちらから仕掛けることはしなかった。ただ、監視し
ているだけ。それがトパック様の姿勢だったのだが − 」
いつしゆん
ティファは一瞬貰いにくそうに口をつぐんだが、すぐに続けた。
「私は王子の力を知らず、しかも無知だった。私がl一番恐れたのは、王子が神官長アクデ
イス・レヴィに味方することだ。だから、その前に王子を抹殺してしまえばと思い  」
エル・トパックの命令もないのに、独断で動いたのだという。
ろブそく しん
ジジジッと、娘燭の芯の燃える音が聞こえた。カイルロッドは一つ息をつき、
「黙っていればわからなかったのに」
なぜ
今まで黙っていたのに、何故急に詫びるのかという質問に、ティファは「キアラを見て、
ゾツとしたから」と答えた。ティファが言うには、自分とキアラが重なって見えたという。
「キアラがアクディス・レヴィのためにといって、とんでもないことをしているように、
ぎせい
わたしはトパック様のために、どんな犠牲を払ってもいいと思っていた。しかし、それが
必ずしも、トパック様のためになるとは限らない。重荷となり、苦しめる時もあると…・
キアラを見て、思い知らされた」
のうり
カイルロッドの脳裏に、打ちのめされたアクディス・レヴィの横顔がうかんだ。
「許してくれとは言わない」
づuや
ティファは腰の長剣を鞘ごと抜き、カイルロッドの前へ出した。カイルロッドは目を丸
くした。
「これって」
「斬ってくれていい」
ティファは真剣だった。
「斬るって…・」
カイルロッドは困惑した。ユーリンのことは後味の悪い出来事だった。石碑を壊した奴
が許せないとも思ったし、許せることではない。しかしだからといって、ここでティファ
を斬り殺してなんになるのだろうか。
きまじめ
「この人も生真面目なんだよなあ」
カイルロッドは困りながら、なんとかいい言い訳はないかと考え、
「でも、あなたが死んだらエル・トパックが困るじゃないですか。恋人がいなくなるなん
て」
我ながらいい言い訳を思いついたと思ったカイルロッドだが、ティファに「恋人などで
やさしさは風の調べ
1‘13
はない」と否定されてしまった。
「え、違うんですかフ」
てっきりそうだと思いこんでいたので驚いたカイルロッドに、ティファはさらに驚くよ
うなことを教えてくれた。エル・トパックの恋人がメディーナだという。
「いつの間に1PL
「三日前ぐらいかな。トパック様が話してくれた」
、、t・
めまい         いそが
カイルロッドは軽い目眩を感じていた。この忙しい最中、そして寝る間もなく忙しいは
よゆーう′
ずのエル・トパックに、どうしてメディーナを口説く時間と余裕があったのか。
らろこいざた
「俺なんか、自分のことだけで手いっぱいで、色恋沙汰どころじゃないのに。それとも単
に俺が不器用なだけなんだろうか」
うんぬん
もしかするとユーリンの石碑云々より、この謡の方がカイルロッドにはショックだった
かもしれない。
うらや
「うー、なんて羨ましい」
つめ か                          さび
爪を噛んで唸っていると、ティファは「似合いの二人だと思う」と少し淋しそうに笑っ
た。
1
「まさか、それで自棄になって斬れなんて言っているんじゃ  」
かんく
カイルロッドがそう勘繰ると、「だからって自棄になっているのではないぞ」と、ティ
ファに笑われた。考えていることがすく顔に出るのである。
「それとこれは別だ。私とトパック様は兄妹のようなものだ。母親同士が友人だったので、
いつしよ
一緒に育った。私に父はおらず、母が病弱だったので、コルネーリア様にもずいぶんお世
.  1
話になった。トパック様の家族は、私にとっても家族同然だった。だから、仇を討ちたか
った」
持っている長剣をいじくり、ティファは淡々と言った。仇を討つために、強くなったの
だろう。そしてエル・トパックに従い、その力となり続けた。真相が人々の前に明かされ、
エル・トパックに愛する女性もできた現在、ティファは自分の役目が終わったと思ってい
るのかもしれない。
カイルロッドは無言で、ティファの手から長剣を取った。ティファが目を閉じる。
へた   しなん                  rじがね
「俺、長剣が下手なんだ。指南してくれたダヤン・イフェが匙を投げるような、筋金入り
の下手なんだ。だから、この剣は貰っておくよ。あんたほどの達人が使っていた剣なら、
俺みたいな下手でも、少しは上手く使えるかもしれないからさ」
カイルロッドが言うと、ティファは驚いたように且を見開いた。
5  やさしさは風の調べ
「私を許すとっ」
「許すとか許さないとかじゃなくて 。すまないと思ってくれたなら、それでいいんだ
よ。それにティファは、これからはエル・トパックのためでなく、自分のために生きるべ
きじゃないのか〜」
さや
稗ごと剣を軽く振りながらカイルロッドが言うと、ティファは泣き笑いの顔になった。
どうしてティファがそんな表情をしたのか、カイルロッドはすぐにはわからなかった。だ
が、ティファの複雑な表情を見ているうちに、なんとなく理解できた。
とほう
「ティファは途方にくれているのだ」
積年の願いは果たされ、エル・トパックに愛する者ができた。そのことをティファが喜
さげ
んでいるのは本当だろう。しかし、喜びと同時に、言い知れぬ寂しさを抱いたのではない
だろうか。
かたき・つ
仇を討つこと、エル・トパックの力となって生きること − それがティファにとってす
べてだったのだ。それらが果たされた今、心が空っぽになっているのではないだろうか。
「まるで人生が終わったようにここ1」
きまじめ いらず                   きよむかん おちい
生真面目で一途な人間であるほど、目的を果たした後に虚無感に陥りやすいものだ。
カイルロッドは剣を振る手を止め、ティファを見た。カイルロッドの知るティファは、
.        H
野生の獣のように強くしなやかで、自信と誇りに浴れていた。そのティファが今、牙と爪
を失い、駆ける大地をも失って、途方にくれている。
せnソこ
こんな時、イルダーナフなら気の利いた台詞で相手を力づけるだろう。しかし、カイル
ロッドはそういうのは苦手だった。それでもティファを力づけたくて、苦手なりに懸命に
考えた。
「うまく言えないけど ・。一つの目標が果たされたなら、次の目標を見つければいいん
じゃないかフ」
「  次の目標…・」
反袈し、ティファが目を細めた。
「少し休んで、それからまた冒的を見つけて、歩いていけばいい。俺、ティファの次の目
標は、ティファ自身のものであってほしいと思っている。誰かのために生きるのもいいけ
と、自分のために生きるのも大切だよ」
二言二言を区切るようにカイルロッドは言った。ティファには自分のために生きてはし
かった。そして、幸せになってほしかった。
「・・…ありがとう、カイルロッド王子」
ほはえ                    さわ
ややあって、ティファが微笑んだ。なにかをふっきったような、爽やかな笑顔だった。
やさしさは風の調べ
‖7
そこでティファと別れ、カイルロッドはロワジ1の家に戻る前に、神殿内部を歩いてい
た。
あわ
明日の移動に向けて慌ただしく人が動いているかと思われたが、意外なほど静かだった。
きんちよう
ただ、すれ遣ったり、見かける人々からはさすがに緊張した空気が漂っている。
明日、神殿の歴史が幕を閉じるのだ ー
さまぎま
薄暗い廊下を歩きながら、カイルロッドはあの部屋の中で見た様々な光景を思い出して
いた。
長い時間の中を、無数の人々が過ぎ去った。泣き、笑い、血を流した人々の影が、建物
のあちこちに見えるような気がした。
「母上はここで生まれ育ったと言っていたっけ」
こうして今歩いている廊下を、フィリオリも歩いていたのだろうか。そんなことを思う
と、くすぐったいような気がする。
カイルロッドは建物の外に出た。凍えるような風が強く吹きつけ、髪と服の裾が大きく
なびく。
Pちばう
それから、街を見下ろした。神殿は高台にあるので、そこから街が一望できる。上から
見る街は、神殿内部同様にひどく静かだった。明かりも所々、少ししか灯っていない。
かんきん
明日、あの青年を監禁して殺した時から始まったフェルハーン大神殿が終わりの時を迎
える。その長い歳月を、街の人々は神殿とともに過ごしてきた。
しゆうえん
「終焉を星別に、神殿とともに生きてきた人々の気持ちはどんなものだろうか」
つーや
白い息を吐きながら、カイルロッドは呟いた。答えてくれる者はないが、わからなくて
もいいことのように思えた。
おお
風は冷たく、空はやはり重い雲に覆われ、星も見えない。
1 1
そうぜん
街は騒然としていた。
せいじやくうそ
前夜の静寂が嘘のように、夜明けと同時に街は喧騒に包まれた。うねりにも似た人々の
ひび
声、馬のいななき、荷台の軋む昔が、垂れこめた灰色の雲の下で響いている。
あー        とうししや
街は人で溢れている。毎日凍死者が出るほどの気温なのに、今日に限って街中は人いき
あせ
れで汗ばむほどだ。
あわ    だいじよう.ふ
「慌てるな、大丈夫。ゆっくり進めー」
のど     さけ
街の出入口に立っている神官が汗だくになりながら、喉をからして叫んでいた。混乱が
やさしさは風の調べ
さしず        かLl
起きないよう、要所要所に神官達が立ち、人々に指図していた。その甲斐あってか、今の
ところ混乱はない。
「この街ともお別れだね」
「新しい街へ行くのさ」
−ごり お  さきや わ
名残を惜しむ囁きも交わされているが、人々は持てる限。の家財道具を持って、順序よ
く街を出て行く。
《第二の神殿》 へ −。
街の人間のほぼすべてが、大神官の指し示した《第二の神殿》 へと向かっていた。もっ
きよゼつ
とも中には「《第一一の神殿》なんてものを信じられるかー」と、行くことを拒絶する者も
いたが、イルダーナフはそういった者達を無視した。
「ついて来るのも自由だが、残るのも自由だ。残。たい奴を無理に連れて行っても、どう
せろくなことはない」
冷たいようだが、総指揮をとる立場上、切。捨てることも必要なのだろう。
あらた
「しかし、こうして改めて見ると大人数だ」
えんえん つな
遠くに見える街から、延々と繋がっている列に、カイルロッドはいまさらのように感心
していた。
移動を開始してから二時間、列はまだ途切れず、人の後ろからは食料を積んだ荷台が続
く予定だ。
「しっかり歩けよ」
「手を離すんじゃないよ。はぐれるからね」
いた
家族や他人を労わりながら、不毛の大地を一歩一歩進んで行く人々の姿に、カイルロッ
ドは目を細めた。
救いを求めて、人々は街から荒涼たる外へ出て行く。かつて街の外には、緑の大地が広
しげ             じんか
がっていた。草木が繁り、畑があった。少ないが人家もあったのだ。しかし、うち続く天
候異変によって木々は枯れ、人家は朽ち、不毛の地へと変わっていた。
みやこ   こうはい
だがそれは、なにも神殿の周りだけではない。どこの都も街も荒廃し、いまなお混乱は
ばつこ                うべ             さいな
続いている。抜鹿する魔物に対して、人間達になす術はない。恐怖と飢えと寒さに苛まれ
ながら、細々と生きているのだ。
そうした外の状況については、街にいた人々は流れこんで来た人々から聞いている。
じゆうまん
《第二の神殿》 へと向かう人々は、神殿の外には危険と不安が充満していると知り.つつ、
さらなる不毛の地を進まねばならない。
「だから、大神官とウルト・ヒケウが必要なんだ」
なにが起きるのかわからないこの道中を乗り切るために、人々には信仰が必要なのだ。
たいじよう.ロ      いつこフ
大神官とウルト・ヒケウがいる以上、なにがあっても大丈夫だと1この一行にとって、
それが信仰になっている。
「凄まじい重圧だな」
つぷや                はる
呟き、カイルロッドは街とは反対側、遥か先にいる先頭の方へ顔を向けた。先頭には病
人を乗せた荷台がかたまっており、メディーナとロワジー、オンサ老がいる。そしてイル
ダーナフがいて、指揮をとっている。
人々の期待と願い、不安と恐怖を一身に引き受けながら、イルダーナフは平然としてい
あふ
る。内心はどうであれ、表面は自信に溢れている。
「この時のために、イルターナフは神殿を出たのだろう」
二度と重圧に漬されぬように、立ち向かえるだけの強さを得るために。カイルロッドは
まlぼろし
幻で見たイルダーナフの背中を思い出し、
「俺も重圧に負けないよう、努力するよ」
Fじ
心の中で呟いた。人々が無事《第二の神殿》 へたどりつけるように、そのためにはどん
なことにでも耐えよう。
「俺は負けない。だから、アクディス・レヴィも負けないでくれ」
153  やさしさは風の調べ
ノヽちぴる
祈るような思いで、カイルロッドは唇を引き結んだ。
移動開始前に神官達は神殿に集められ、最後の打ち合わせをした。そこにアクディス・
しよっ.rい        じれつけつ
レヴィもいたのだが、ひどく憾憧していた。Rを充血させ、頬に影があ。、一目で眠って
いないとわかる顔だ。
し、つばんぎ きまじめ
一本気で生真面目な青年が、たて続けに明かされた事実に打ちのめされたままだとわか
なぐさ
っていても、カイルロッドに慰める言葉はなかった。ただ黙って、与えられた仕事を果た
しに外へ出て行くアクディス・レヴィを見送るしかなかった。
そんな回想をしていると、ふいに上から声が降ってきた。
「暇そうね、王子」
あお
カイルロッドが空を仰ぐと、灰色の雲を背にリリアが浮いていた。
ようつ  かんし
れぞれに、上空から移動の様子を監視している。
すご
「上空から見ると、凄い列よ。王子も上から見てみないフ・」
「飛べないよ、俺」
ひきつった顔でカイルロッドが片手を振ると、
「あんな凄い力を持っていながら、飛べないなんてことはないのに」
おか
心底可笑しそうにリリアは笑った。
ウルト・ヒケウはそ
Lゆうげき
「今のところ、心配した混乱も魔物の襲撃もないみたいだね」
あた
カイルロッドは魔物の襲撃に備えて、列の真ん中辺りをウロウロしているのだが、今の
けはい
ところ魔物の気配はない。
あいず
「そうね。街の上空にいるアリユセからも、先頭にいるセリからも合図はないから、なん
の異常もないみたいよ」
「できることなら、このまま暇でいたいな」
まJノお つなす
苦笑混じりにカイルロッドが言うと、「こっちもそう願いたいわ」と真顔で額き、リリ
アは列の前方へ飛んで行った。
「本当にそうあってほしいね」
飛んで行くリリアを見ながら、カイルロッドは唇をきつく結んだ。できることならこの
まま何事もなく、一人の脱落者もなく、全員無事に《第二の神殿》 へたどりつけるように
と、そう祈らずにはいられなかった。
列はまだ続いている。
時間の経過とともに、街の中から人の数が減っていた。
「朝方の喧騒が嘘のようだな」
やさしさは風の調べ
Iまいきよ
廃墟のようになった街を歩きながら、アクディス・レグィは思った。イルダーナフは放
っておけと言ったが、アクディス・レヴィは、街に残ったもののやは。同行したがってい
る者がいないかどうかを探していた。
ゆうjこう
アクディス・レヴィとエル・トパックは街の中で神官達を指揮し、人々を誘導している。
.  1・I.
彼らは民間人や荷物が街を出た時点で、引き上げる手筈になっている。いわばしんが。だ。
「そろそろ荷台が出るだろう。そうしたら、すぐに街にいる神官達を外に出して・・。そ
れから・・」
わき たば か
細い路地に入。、アクディス・レグィは腰に下げてある鍵の束に触れた。神殿の牢の鍵
はうかみづいはん              どくばう
だ。放火未遂犯達の閉じ込めてある地下牢と、独房二つの鍵†一d
めんどう
「これ以上、面倒を起こされちゃ困るんでな。おまえさん達が引き上げる時に、そいつら
を牢から出してやってくれ」
イルダーナフはそう言って、アクディス・レグィに鍵を渡した。
おじき
「放火未遂犯と叔父貴はともかく・ 母は外に出さない方がいいのでは」
のたノり
そんな考えが脳裏をよぎる。
昨夜のゼノドロスの告白によって、アクディス・レウィはキアラのしてきたことを知っ
ごういん               しようげき                   ごうとう
た。強引に結婚したということだけでも衝撃だったのに、エル・トパックの母と弟を強盗
にみせかけて殺し、エル・トパックの右腕を切断させた。そして離縁を申し出た父までも
毒殺したのだ。
「人間として許されることじゃない!」
こうい
アクディス・レグィはきつく目を閉じた。キアラは人間として許されざる行為をしたの
だ。それがたとえ変ゆえだとしても、アクディス・レウィには許せない。
「神官長」
出し抜けに呼ばれ、アクディス・レヴィは目を開けた。と、前方にエル・トパックがい
た。
「声がしたのでこちらかと」
おだ
穏やかにエル・トパックが言った。
「どうかしたのかっ」
「やっと荷台が出て行くようになりました。我々もそろそろ、引き上げる用意をしなくて
はなりませんが」
きんかつしよく
エル・トパックの金褐色の目が、アクディス・レウィの腰にある鍵の束に向けられた。
「その前に、閉じ込められている者達を牢から出してやらなくては」
いや
「嫌だ。あんたが出してやれ」
やさしさは風の調べ
はず
投げやりに言い、アクディス・レヴィは下げてある鍵の束を外し、エル・トパックに放
きげん                     なぐ
った。寝不足も手伝って、機嫌が悪いのだ。そんな時にキアラの顔を見たら、殴ってしま
いそうだった。
投げられたそれをエル・トパックは器用に左手で受けとめたが、
しんろい
「鍵を預かったのは私ではなく、神官長です。大神宮は神官長を信頼して、鍵を渡したの
ですよ。その信頼を裏切るのですか」
すぐに鍵の束を差し出した。大神宮の信頼を裏切るのかと言われては、アクディス・レ
ヴィも「嫌だ」とは一亨えない。
「くそ1、口じゃかなわんな」
心の中でぶつくさ言いながら、アクディス・レヴィは鍵の束を受け取った。
「閉じ込められていた連中を外に出すが、その前に衛にいる神宮達を外に出した方がいい
だろう」
「そこにティファがいますので、街の外に出るよう伝えてもらいましょう」
もビ
言うが早いか、エル・トパックは路地を歩いて行った。そして、ものの数分とせずに戻
ってきた。
じんそく
「何事にも迅速な男だな」
ノルぎつしよノ        じようみT
アクディス・レウィが感心すると、エル・トパックは「貧乏性でして」と笑った。冗談
なのか本気なのか、よくわからないが、
「冗談だとしたら、エル・トパックの冗談はあまり笑えんな」
アクディス・レヴィはしみじみと思った。そういうアクディス・レヴィの冗談も、エ
ル・トパックとは別の意味で笑えないのだが、本人はそのことにまったく気づいていない。
「とにかく、神殿に行こう」
大通りに出ようとしたアクティス・レヴィを、エル・トパックが止めた。何事かと思っ
たが、
「こちらの方が近道です」
エル・トパックは先にたって、入り組んだ路地の案内を始めた。まるで迷路のような路
′ヽわ
地裏を案内されながら、「詳しいな」とアクディス・レウィが感心すると、エル・トパッ
クは「私は街育ちですから」と楽しそうに笑った。
「子供の時から友達と街中を駆け回っていますからね。この街なら、どんな細い道でも頭
の中に入っていますよ」
それから話のついでというように、エル・トパックは自分の子供時代のことを話してく
いつしよ                   しか
れた。近所の子供達を引き連れて一緒に粟さしたり、旅芸人の後をついて回って叱られた
59 やさしさは風の調ぺ
ことなどを聞いて、アクディス・レヴィは目を丸くした。
「あんたでも悪さなんかしたのか」
「悪ガキでしたね。いつも母に叱られていました」
当時を思い出したのか、エル・トパックはクスクス笑っている。そんな異母兄が、アク
フらや
ディス・レヴィは羨ましかった。
・ ・ノ
悪さをして叱られたことなど、誰の子供時代にも一度や二度は覚えのあることだ。しか
し、アクディス・レヴィには無縁だった。子供時代は孤独だった。いつも遊んでいる子供
達を見ているだけだった。
「俺も友達と遊びたかったな」
つぶも
路地を歩きながら、アクティス・レヴィは呟いた。聞こえなかったのか、聞こえないふ
りをしたのか、エル・トパックはなにも言わなかった。
細い路地を抜けると、神殿の正面に出る大通りがあった。さすがに人影はなく、ガラン
としている。
その通りを進んで神殿の前に行き、巨大な建物を見たとたん、アクディス・レヴィは唐
とつ しゆうえん
突に終焉を感じた。
「神殿の歴史は幕を閉じたのだ」
誰もがそう口にし、アクディス・レヴィも苦っていた。しかし、去っていく人々を見て
も、無人の街を見ても、まだ実感として感じられなかった。
だが、こうしてうち捨てられた巨大な建物の前に立ち、アクディス・レヴィは初めてそ
のことを実感した。
「俺は最後の神宮長だ」
神殿の終焉を看取るためにいるのだと、アクディス・レウィは思った。
歴史の幕を閉じ、うち捨てられた建物や街は、やがて風化していくだろう。建物だけで
はなく、人々の記憶からも消えていく。そうして形ある物も、形のないものも時の流れの
中に埋もれていき − 神殿は完全に消えるのだ。
「だが、俺は忘れないだろう」
生きている限り忘れないだろう。忘れないように、アクティス・レヴィが建物を見つめ
ていると、
「行きましょう、神官長」
うなが
エル・トパックに促された。
「・・・ああ」
やや重い気持ちで、アクディス・レウィは歩きだした。
やさしさは風の調べ
4
どくばう         かペ
重い気持ちのまま、アクディス・レヴィは独房に向かっていた。壁にあった膿燭を取。、
みすいはん            ちかろう
それに火をつけて先に本殿の地下 − 放火未遂犯達の閉じ込められている地下牢へ行き、
八人を解放しておいた。
「ここか」
っ.Pや      はんきよう               とぴり
呟きが周。の壁に反響し、磯燭の火が並んでいる独房の扉に反射した。
いく
独房は幾つか並んでいるが、隣りあわせた二つの部屋の扉の把手に布が結ばれていた。
それが使用されている目印だった。
「おい、誰か! 誰かいるんだろうり 早くここから出してくれ−」
くつムと                      さけ
靴音を聞きつけたのか、ゼノドロスが扉を叩いて叫んでいる。
「どこにいてもやかましい人だ」
おじ
反響するだけに、ますますやかましく感じられる。アクディス・レグィは叔父に声もか
かぎ
けず、さっさと鍵を開けた。鍵が開くと同時に、ゼノドロスが転がり出てきた。
ひなん
「どうなったんだ、もう避難したのかけ」
ぎよヱノそヱノ
形相を変えているゼノドロスに、磯燭を持ったエル・トパックが「だいたいの避難は終
.Lつと
わりました」と告げた。とたん、ゼノドロスは脱兎のことく走り去った。逃げ遅れてたま
るかといわんばかりの態度だった。
「おい、礼ぐらい言ったらどうだー 放火未遂犯達だって礼を言ったんだぞー」
アクディス・レグィは怒ったが、慣れっこのエル・トパックは平然としていた。
「まったく」
いまさらのようだが、ああいう身内を持った不運に舌打ちし、アクディス・レヴィはも
う一つの独房の前に立った。不運といえば、やかましい叔父よりも、恐ろしい母を持った
ことの方が大きな不運かもしれない。
「母上」
ナHはし
アクディス・レヴィが呼びかけたが、返事はない。気配がするから、いるのは確かなの
だが、キアラには返事をするつもりがないらしい。
「それならそれでいいさ」
づyるど
鍵を開けようとすると、中からキアラの鋭い声がした。
「開ける必要はありませんー 開けても、わたくLはここから出ませんよ。神殿を拾てる
など、許されることではありません。わたくLは、この神殿とともに滅びます」
キアラの言葉にエル・トパックが 「どうか出てきてください」と言ったが、
63 やさしさは風の調ペ
「では、勝手にしてください。しかし、私は大神宮様から牢の鍵を開けるよう命じられて
ますから、鍵だけは開けておきます」
さっさと鍵を開け、アクディス・レヴィはキアラのいる独房の前から去った。エル・ト
パックが 「神宮長」と呼び止めたが、アクディス・レグィは無視した。
「いいのですか? あのままにしておいて」
追ってきたエル・トパックが心配そうに言ったが、アクディス・レヴィははね退けた。
「放っておけ。本人が出たくないと言っているんだ」
出たくないものを、無理に引きず。出すことはないのだ。「どうせ甘えているんだ」、こ
きげん
ちらから機嫌をとるのを待っているのだ。
「いつもそうだ」
靴音を反響させながら、アクディス・レヴィは階段をのぼっていた。キアラは絶対に自
分が悪いとは思わないのだ。いつだって自分は被害者で、悪いのは相手だと決めつけてい
る。
どろぽうねこ
「エル・トパックの母親を泥棒猫だとっ どっちがだー」
鋭く吐き捨てたアクディス・レヴィを、ユル・トパックは複雑な表情で見つめていたが、
なにも言わなかった。
地下を出て、二人は無人の本殿を見回った。どの部屋も家具や調度品がそのまま残され
しっむしっ
ていた。足早に内部を見回り、最後にアクディス・レウィは神官長の執務室へ入った。
「久しぶりに入った気がするな」
室内を見回してアクディス・レウィが言うと、
「こうして見ると、やはり去りがたいものがありますね」
かヱてひい
使いこまれた机や椅子の背に触れながら、エル・トパックが感慨深げに呟いた。
「あんたにとっては神殿など、なんの愛着もないんじゃないかフ あの女とやかましい男
にこき使われるだけだったんだから」
アクディス・レウィが皮肉を発すると、エル・トパックは「そうでもありませんよ」と
いうように、小さく首を傾げた。
「私は私なりに、神殿に愛着がありますよ。建物にも、そこにいた人々にも」
せきわん                   hと
隻腕の青年は室内にある一つ一つの物を、愛しそうに見つめていた。そんな異母兄に、
いらだ
アクティス・レヴィは苛立ちを覚えた。
「あんた、俺を憎まないのかフ」
なぜ
「憎むフ 何故ですフ」
あどろ
エル・トパックは少し驚いた顔をした。
5 やさしさは風の調ペ
「何故とはこっちが訊きたいぐらいだー」
こぷし
アクディス・レヴィは拳で壁を叩いた。パンツという大きな音と震動に、壁にかけてあ
がく
る額が揺れた。
いらいっ
「あんたを見ていると苛々するI キアラを外に出さなくていいのかと訊いた。、神殿に
すず
愛着があると言った。。何故、そんなに涼しい顔をしているP キアラを殺してやりたい
おの
とは思わないのか。一馬鹿な女の嫉妬によって、母と弟と己れの右腕を失ったんだぞ−
おだ
父親を毒殺されたんだー それなのに、何故あんたは穏やかでいられるんだけ 俺なら耐
えられないぞー」
JHんきよ,ツ
もし自分がそんな目にあったら、元凶であるキアラもゼノドロスも、その息子だって許
さないだろう。キアラはそれだけのことをしたのだ。
「なのに、何故復讐しないけ 移勤までは協力すると言っていたが、それもほぼ終わりだ。
もう俺を殺してもいいはずだー」
しえい                                   たやデ
周。に護衛もいないアクディス・レヴィを殺すなど、エル・トパックにとっては容易い
ことだ。それなのに、エル・トパックはなにもしようとしない。
「何故、キアラや俺を殺そうとしないけ▼」
理解できずにアクディス・レヴィがエル・トパックを睨みつけると、
「・・憎み続けて生きるなど、自分が惨めではありませんか」
きんかつしよく                       lガぎそで
金褐色の目に哀しげな光を浮かべ、エル・トパックは右袖を押さえた。
きれいごと
「綺麗事を貰うなー」
「綺麗事ではありません。私はキアラのようにはなりたくなかっただけです」
「   −   〓」
ひとこと
アクディス・レグィはよろめいた。万の憎悪よりも、その一言が胸をえぐった。同時に
はいば′、かん                            や     ほのおおき
敗北感が広がった。「俺はエル・トパックには勝てない」、身を灼く暗色の炎を抑えること
なみたいてい
は並大抵ではない。だが、エル・トパックは踏み止まったのだ。
みる
アクディス・レグィが敗北感に拳を震わせていると、エル・トパックは金褐色の目を伏
せ、
「そうは思っても、憎しみで眠れない夜もありました。死んだ母と弟の顔が忘れられず、
さけぴた                        のろ
酒浸りになって泣く父の姿がたまらず、なにもかもを呪った日もありました。そんな時は、
母がよく歌っていた歌を思い出しました」
たんたん
淡々と言った。
「歌フ」
はろ
「ずっと昔に滅んだ小さな国の歌だそうです。母の先祖の回だとか」
やさしさは風の調べ
その歌を思い出すと、母と弟の優しい笑みを思い出すとエル・トパックは言った。悲し
みも苦しみもなくなることはないが、思い出すことで優しい気持ちになれる。そういう自
いや
分の思いで自分を癒し、安らぐことができるのだ、と。
エル・トパックの穏やかな横顔を見ながら、アクディス・レヴィは力なく壁にもたれか
かった。
「・・俺は異母兄にかなわない。人間としての度量が違う」
だーl   しん
いつも、この異母兄に勝ちたいと思っていた。たいして歳も違わないのに、誰からも信
らい       ねた
頼される異母兄が嫉ましかった。
「かなうわけがない」
つうかん
そうアクディス・レヴィは痛感していると、外から細い笛のような音が聞こえた。
「ティファの指笛です。そろそろ行きましょう、神官長」
うなが
窓の方を見てから、エル・トパックは穏やかに促した。
するど    ひぴ
もう一度、細く鋭い指笛が響いた。
本殿の外に出ると正面から冷たい風が吹きつけ、アクディス・レヴィは身震いした。
「お待ちしておりました」
本殿の外にはティファがいて、アクティス・レヴィとエル・トパックに、街にいた神官
達すべてが避難したことを告げた。それから神官達にやや遅れて、放火未遂犯達とゼノド
ロスも避難したことを付け加えた。
「それと街の上空におられたアリユセ様ですが  」
ティファは少し言いにくそうだったが、黙っているわけにもいかないと判断したのか、
報告を続けた。
いフニミノ              おそ           さわ
「ゼノドロス…・・殿が、一行に合流するまでの間に魔物に襲われるかもしれないと騒ぐの
いつレよ
で、一緒に行ってしまわれました」
「・  」
ヂうずう
おおかた、みっともないほど大騒ぎしたに違いないが、図々しいことこの上ない。「い
あく一りい
っそ魔物に食われてしまえばいいのに」、アクディス・レヴィは腹の中で悪態をついてい
た。
「とりあえず、以上です」
ティファはアクディス・レウィに頭を下げた。エル・トパックにしか頭を下げないよう
な女にうやうやしい態度をとられ、アクディス・レヴィはどうも落ち着かない。
にがて        けんお
正直なところ、アクディス・レグィはティファが苦手だった。いつも嫌粟と敵意を含ん
やさしさは風の調べ
だ鋭い目を向けられていた。
「あんな事情があれば、憎まれて当然だが」
つやま
だが最近、ティファの態度が変わってきた。ぎこちないが、神官長として敬ってくれて
いるのがわかる。
「大神宮が認めてくれたように、ティファも俺を認めてくれたのだろうか」
めば
そんな希望がアクディス・レヴィの内部に芽生えていた。
「ところで、神官長。もう一人の方は?」
けげん
キアラの姿が見えないことに、ティファが怪訝な顔をした。
どく一はフ
「独房から出たくないそうだ」
言い捨て、アクディス・レグィは階段を下。ていった。エル・トパックとティファは困
わ′1
惑気味に、神官長に従った。
こうや
ほぼ無人の街を抜け、三人は出入口から外へ出た。眼前には荒野が広がっており、大地
わだち
には無数の足跡や轍がある。それを追って行けば、一行に追いつけるはずだ。
街を背にして、アクディス・レグィは歩き始めた。そして歩きながら、独房に残ったキ
がし
アラのことを考えた。すでに神殿に食料はない。放っておけば餓死だ。言葉どおり、神殿
1・.
とともに滅ぶだろう。
「 I 勝手にすればいいんだ」
アクディス・レヴィは奥歯を噛みしめた。いつだってキアラは自分勝手に生きてきたの
だ、死ぬ時も勝手にすればいい。
はる
三人は黙々と歩いていた。衝から遠ざかり、遥か前方に土煙が見えた。荷台によるもの
だろう。このまま進めばすぐに合流できる。
「・ ・」
合流を前にして、アクディス・レヴィは立ち止まった。エル・トパックとティファも足
を止めた。
「・・どうしてあんな女が俺の母親なんだ」
のど          つちばこり
街を背にしたまま、アクディス・レヴィは喉の奥で坤いた。風が土壌を運んでくる。
「母親でなければ、見捨てていけるのに」
めい
無理に連れ出しても恨まれるだけだ。それに、《第二の神殿》 へ向かっている一行に迷
わく                        わがまま
惑をかけることも明白だ。「それでも ・」、勝手で我債な母親でも、誰もいない神殿で餓
死させるのはしのびなかった。
「戻りましょう」
エル・トパックの手が、アクディス・レヴィの肩を叩いた。
やさしさは風の調べ
「  うん」
うなア
小さな子供のように、アクディス・レグィは領いた。
ティファには先に一行と合流するように言い、アクディス・レヴィとエル・トパックは、
再び無人の衝へ入った。
「おかしいですね……」
歩きながら、エル・トパックが表情を曇らせた。そして、周関に視線を向けていた。
「どうした?」
いわかん
「なにか遵和感を感じるのです」
けいかい      ごふ
エル・トパックは啓威し、いつでも護符を取り出せるようにした。それだけでエル・ト
パックの言う違和感がどういうものなのか、アクディス・レヴィにもわかった。
「魔物、か」
へんぽう
街に残った者が変貌するのか、外から魔物が入ってくるのか − どちらにしろ聖地を守
けつかい
っている結界はかなり弱まっているということだ。
「そうなると、母上が心配だ」
アクディス・レヴィが足を速めたとたん、どこからともなく、黒く大きな影が二人の前
に飛び出した。
さつそヽ
「早速出たかー」
まだらもぶう
アクディス・レヴィは舌打ちした。二言でいうならそれは、黒と赤の斑模様の晰賜が後
1.・
ろ足で立ったような姿をしていた。ただし、晰賜と異なっているところは、剣のような牙
かぎづめ
と鋭い鈎爪を持っていることと、立ち上がった熊ほどもある大きさだろうか。
づばや
エル・トパックは素早く護符を取り出し晰賜めがけて放った。
ジュッ。
あんと
強い火に虫が焼かれたような音がして、晰賜は黒焦げになって倒れた。「やった」、安堵
したアクディス・レヴィだったが、晰賜は一匹だけではなかった。
ヒタヒタと、濡れたような足音をたてて、街のあちらこちらから集まってくる。そして、
アクディス・レグィとエル・トパックの周りを取り囲んだ。
「アリユセ様がいなくなると同時にこうですか。結界の効力もあとわずかのようですね」
ほほ こわ
次の護符を取り出し、エル・トパックは苦笑し − ふいに類を強ばらせた。
「神官長、神殿から煙が出ています」
言われ、アクディス・レヴィは晰賜を気にしながら神殿の方向に顔を向けた。神殿は高
台にあるので、街のどこからでも見ることができるのだ。
やさしさは風の調べ
「火事かP・」
神殿からいく筋もの煙がのぼっている。それを見ながら、アクディス・レヴィは蝋燭の
そくぎ
火の不始末だろうかと考え、即座に否定した。「いや、エル・トパックはちゃんと火を消
していた」、とすれば考えられることは、ただ一つ −。
まか
「神宮長、ここは私に任せて神殿へ。これを持っていれば、なんとかなります」
言うが甲いか、エル・トパックは持っていた護符の一つを、アクディス・レヴィに渡し
た。
「おい、エル・トパック」
「早くお行きなさいー」
うむ                            にぎ
有無を言わせぬ強い声に、アクディス・レグィは渡された護符を握りしめた。そして剣
を抜きざま、晰暢達に斬りかかった。
もがむちゆう
アクティス・レヴィは護符をかざしながら、無我夢中で走っていた。
−・ノ
護符のおかげか、襲いかかってくる晰腸の数は思ったよりも少なかった。だが、晰賜を
..
切り捨てる度に緑色の体液が飛び散り、神殿の前まできた時はアクディス・レヴィの顔や
服は緑色に汚れていた。
ほろ
「共に滅びるとはこういう意味だったのか」
この火のまわりの速さからすると、油をまいたうえで火をつけたに違いない。アクディ
とく一まう
ス・レグィ達が去ってから、キアラは独房を出て、建物に池をまいて火をつけたのだ。
がし
「くそっ、おとなしく餓死するような女ではなかったー」
すでに炎に包まれた本殿に向かい、アクディス・レヴィは階段を駆けあがった。
本殿内部は火の海だった。
はだ                のど
肌がチリチリと焼け、呼吸するだけで喉の中が焼けてしまいそうだった。せめてもの救
いは、魔物がいないということだ。火には魔を浄化する力があると言われているせいか、
建物の近くにも魔物の姿はなかった。
「母上= 母上− どこにいるんですかー」
煙に咳き込みながら、アクディス・レヴィはキアラを探して、炎に包まれた本殿内部を
走っていた。
「ここにいるはずだ!」
かペ きlhmつ
アクディス・レグィの後ろで、炎にまかれた柱が崩れ出した。壁の亀裂から炎が出て、
細い舌のようにチラテラと動いている。
「ぐずぐずしていると、建物が崩れる」
肌を熱にあぶられながら、アクディス・レヴィが走っていると、目の端に動くものが引
75  やさしさは風の調べ
っかかった。
5
勢いよく顔を向けると、目の前に剣があった。アクディス・レグィめがけて突き出され
たのだ。
「くっー」
ひぴ
アクディス・レヴィは突き出された剣を、持っている剣で弾き返した。金属音が響く。
「  母上、あなたは」
はダFし
剣を構えたまま、アクディス・レヴィは歯乱。した。正面にいるのはキアラだった。結
かみ
いあげていた髪がほどけ、いつもよ。若く見えた。どこから持ち出したのか知らないが、
右手に剣を握っている。
もど
「やは。戻ってきてくれたのね、レヴィ」
くーフぴる             こうこつ
キアラの唇が笑みの形になる。目には恍惚とした光があった。
「戻ってくると信じていたわ。あなたはわたくLを捨てないわねフ あなたのお父様のよ
そば
うに、わたくLを捨てた。しないわよね? ずっとずっと、わたくしの側にいてくれるわ
ね、レヴィ」
ほほえ
微笑みをうかへ、キアラが一歩踏み出した。アクディス・レウィが一歩退く。
Hだか
「どうしたの、レウィっ 逃げることはないのよ。この世で一番気高い場所である神殿で、
いっしょ はろ
一緒に滅びましょう」
くれル         ゼいぼ                      しおく
紅蓮の炎の中でキアラは聖母のように微笑んだ。まるで、ここで滅ぶことが至福である
かのように。
「俺は神殿とともになど滅びないー」
りゆうぴ さかだ
アクディス・レヴィは叫んだ。とたんにキアラの顔から微笑みが消えた。柳眉が逆立ち、
めじり つ
目尻が吊り上がる。
「わたくLに逆らうと言うのフ 母であるこのわたくLに。なんて子なの、レヴィー」
キアラがアクディス・レヴィに斬りかかった。
「やめてください、母上−」
こんがん
キアラの攻撃を防ぎながら、アクディス・レヴィはかすれ声で懇願した。まったく剣を
あつか       ごLん
つかえないならともかく、始末の悪いことにキアラはそこそこ剣を扱えるのである。護身
のために習っていたらしい。
いや
「わたくLと一緒に滅ぶのが嫌だと言うのね、レヴィ。それは、わたくLを捨てようとい
めいよ
うことね。あの人もそうだった。名誉も地位も与えてあげたのに、わたくLを捨てようと
やさしさは周の調ぺ
した。そんなことは許さないー」
はじ
キアラの鋭い突きを弾き、アクディス・レヴィは奥歯を噛みしめていた。相手が剣士や
にぷ
魔物なら、迷わず反撃できる。しかし、斬。かかってくるのが母親では、切っ先が錬る。
アクディス・レヴィは防戦一方を強いられていた。
「こんなことをしている場合じゃないのに」
うめ                   くず            いっしゆん
岬いたアクディス・レグィの横で、壁の一部が崩れた。そちらに気をとられた一瞬、ア
クディス・レヴィの剣が弾き飛ばされた。
「しまった−」
Jノ...
手を伸ばしたが、弾き飛ばされた剣は炎の中に落ちてしまった。
かわい
「可愛いわたくしのレヴィ」
「…・I母上・・・」
のどもと
アクディス・レヴィの喉元には、キアラの剣が突きつけられていた。
「あなたが悪いのよ。わたくLを捨てようとするから。あんなに愛してあげたのに。あな
たを殺したら、わたくLもすぐに後からいくわ」
キアラは優しく微笑んだ。喉に触れている剣に、わずかだが力がこめられた時、
「おやめなさい、キアラ=」
ごうおん
炎や物の崩れる轟音の中で、その声ははっきりと聞き取れた。それはエル・トパックの
芦だった。
「エル・トパックP」
のが
キアラの注意がそちらに向いた瞬間を逃さず、アクディス・レヴィはキアラの手から剣
を叩き落とした。喉に〓肋の傷ができたが、それぐらいどうでもいいことだ。
「ああっ−」
剣を拾おうとキアラが手を伸ばしたが、それより早くアクディス・レヴィが剣を炎の中
へ蹴とはした。
「おのれっ−」
・・
叩かれた手首を押さえ、キアラが獣じみた唸りを発した。息子への怒りなのか、エル・
そうぼつ   ぞうお
トパックに対するものなのか、わからない。ただその双鉾から、憎悪の炎が噴きこぼれて
いた。
せんたく し
「いくら親でも、子供の生死の選択を強いることはできないのですよ」
強い口調で言うエル・トパックを睨み、
せきわん
「お黙り、この隻腕の魔物− おまえなど許さないー」
キアラはこともあろうに、炎の中に落ちた剣を拾いあげ、それを工ル・トパックに投げ
79  やさしさは凧の調べ
た。
真っ赤に焼けた剣がエル・トパックの左肩に突き刺さった。
「エル・トパック 一 日」
ひめい
アクディス・レヴィは悲鳴をあげた。予想外の行動とはいえ、通常であればエル・トパ
たやナノ よ
ックなら容易く避けているはずだ。しかし、この炎で視界は悪く、さらに運の悪いことに
横から柱が倒れこんだのである。柱の下敷きにはならなかったが、剣を避けることはでき
なかった。
だいじようか
「私は大丈夫です」
ひたいあポりあゼにじ
剣を引き抜き、エル・トパックはそう言ったが、額に脂汗が渉んでいる。焼けた剣が突
き刺さっては、しばらくは、左腕を動かすことはできないだろう。それは隻腕のエル・ト
パックにとって辛いことだ。
「ホホホッ、いい気味だこと」
焼けただれた手の痛みなど感じていないのか、キアラが高らかに笑った。たとえ自分の
手が焼けただれようとも、エル・トパックを傷つけることができれば、キアラはそれで満
足なのだ。
「どうしてそこまで ・」
キアラの姿がアクティス・レウィにはやりきれなかった。どうしてそこまで人を憎める
のか。そうまでして傷つけることに、なんの意味があるのか。ただ自身をおとしめるだけ
ではないか。
「あんたは狂っているー」
ぎよっそう
アクディス・レヴィが吐き捨てると、キアラの形相が変わった。
「レウィ、あなたはわたくLよりエル・トパックに味方するのフ わたくし達を苦しめた
あの女の息子に!」
キアラは鬼女の形相になっていた。
「レグィー 早く逃げなさいー」
「わたくLを捨てるなど許さない=」
と  の
キアラが手を伸ばし、アクディス・レグィは大きく後ろへ跳び退いた。
その瞬間 −
キアラの服に火がついた。建物にまいた油が服に飛んでいたのか、その火は瞬く間にキ
アラを飲み込んだ。
「   −  =」
ぜつきよう
これが人の声なのかと思うような、凄まじい絶叫があがる。
やさしさは風の調べ
1   こ・こ 、
にお  おうと
肉の焼ける匂いに嘔吐しそうにな。ながらも、アクディス・レヴィはそれを見ていた。
目をそむけたいのに、そむけられないのだ。
「I…レヴィ」
たいまつ
しゃがれ声とともに、それが近づいてくる。人型をした松明がゆっくりとこちらへ動い
てくる。
「どこへも…・・行かせ…・ない」
脱に抱こうとするように、ゆっく。と両手を広げて近づいてくる。
まるで悪い夢を見ているようで、アクディス・レヴィは動けなかった。早く逃げなけれ
かちだ                       あせ
ばと思っているのに、身体が動かない。アクディス・レグィの頬を冷たい汗が流れ落ちた。
ビシッ。
いやに大きな音が鼓膜を打った。
せきかしl
ほぼ同時に、上から石塊が落ちてきた。
てんじよう    くヂ
天井の一部が崩れたのだと、アクディス・レヴィはひどく冷静に理解した。そして、崩
れた天井の一部が自分とキアラの上に落ちてくることも。
「ここで母と死んでやろうか…う」
あわ
惨めで憐れな女だ。自分が愛した以上に、相手に愛することを強いた愚かな女だ。そし
、・
て結局、誰からも愛されなかった淋しい女なのだ。
そう思い、アクディス・レヴィはこれから自分の身に起こることを受け入れたが、
「レヴィ ー=」
エル・トパックに腕を引っ張られ、石塊の影の下から出た。
ゆか
直後、ドーンという震動が足の裏から伝わった。落ちてきた石塊は床も突き破り、そこ
から炎が噴きあげた。
「・・」
炎が噴きだした足元の穴を、アクティス・レヴィが無感動に見つめていると、
「早く外へ出るんですー」
再度エル・トパックに腕を引っ張られた。
「しかし こ
炎から目を離せずにいると、
いっしよ
「キアラは死にました。一緒に死にたいんですかPL
つか                      つら
腕を摘んでいる手に力が加わる。指を動かすことも辛いだろうに、よくこんな力が出せ
ゆが
るものだと、アクディス・レヴィは顔を歪めてエル・トパックを見、息を飲んだ。
やさしさは胤の調ベ
「私はキアラを恨んでいない。しかし、ここであなたが彼女と一緒に死ぬというのなら、
私は彼女を憎みますー」
ちんちやく   いlぎけい
常に沈着冷静な異母兄が泣いていた。それを見て、アクディス・レヴィは「生きなくて
は」と思った。どんなことがあっても生きなくてはならない、と。
かたまり
いよいよ炎は激しくなり、次々と天井から石の塊が落ちてくる。柱は崩れ、床が落ちて
しく
その中を二人は走っていた。
街のある方角の空が燃えていた。
なまりいろ
鉛色の雲を焼こうとするように、炎らしきものが高くあがっている。
「街が燃えているけ」
カイルロッドは員を剥いた。
「エル・トパックやアクディス・レグィ達はどうしたんだけ」
ほう
エル・トパックとアクディス・レヴィ、ティファがまだ帰ってきていない。神官達や放
かみすしlはん
火未遂犯、そしてゼノドロスはとっくに戻ってきているというのに。
たの
「街になにが起きているのか、セリに頼んで見てきてもらおう」
燃えているらしいということだけで、真相はわからない。わからないだけに、なおさら
ノー
不安を煽られる。カイルロッドが行けばいいのだが、飛べないので時間がかかってしまう
のである。「意識すると飛べないんだもんな」、自由にならない力というのも、もどかしい
ものだ。
「セリ、いないかっ」
名前を呼びながら、カイルロッドが歩いていると、
「なに、ウロウロしてるんだ、王子」
イルダーナフに声をかけられた。先頭にいるとばかり思っていたが、後ろまで移動して
きたらしい。
「イルダーナフ、街の様子を見てきた方がいいんじゃないかフ」
「エル・トパック達が気になるのか?」
「そりゃあ」
甘いと言われることを覚悟したが、イルダーナフは苦笑し、
「メディーナもな、しきりに気にしてやがるのよ。あんまりうるせぇんで、さっき、リリ
アとセリに様子を見に行かせた」
赤く染まっている空を見た。すでに先手は打ってあったらしい。「でも、セリ達の姿な
5  やさしさは風の調べ
ろフぱい
んて見なかったけどな」、狼狽して動き回っていたから、見過ごしたのかもしれない。
「あの様子だと、衛が燃えているよねフ」
うなす
カイルロッドの質問に、イルダーナフは頒いた。
しようしつ
「神殿もろとも街は焼失しただろうな」
つコや
呟くイルダーナフはひどく冷静だった。気がつくと、歩いていたはずの人々も立ち止ま
。、赤い空を見つめている。
どうして衝が燃えているのかわからないが、それらを見つめている人々は静かだった。
ゼいじやくpしぎ
カイルロッドには人々の静寂が不思議だった。捨てたとはいえ、故郷が燃えているのだ。
J
住んでいた家が、街が燃えているというのに、泣き喚く者はいない。
なげ
「普通はもっと嘆き悲しむんじゃないかフ」
もし故郷のルナンが燃えたら、自分なら嘆き悲しむだろうと思った。故郷が燃えるとい
うことは、思い出が燃えるということだ。それほど悲しいことはない。
くれない
そんなことをあれこれと考えながら、カイルロッドが紅と灰色の混じった空を見ている
かなた
と、彼方に黒い点が二つ見えた。
「もしやけ」
それがみるみるうちに近づいてくる。点はセリとりリアであ。、二人はエル・トパック
達三人を連れていた。
「連れてきたわよ!」
見上げているカイルロッドとイルダーナフの前に、リリアが降りてきた。手をつなぐこ
こわ
とで一緒に飛んでいたアクディス・レヴィも下に立ったが、顔が強ばっていた。空を飛ん
だことが信じられないのだろう。
− .▼
「…・治療してね」
みぎふで
少し遅れて、セリが降りてきた。右手でティファの手を、左手でエル・トパックの右袖
▼hr
を擦っている。
「エル・トパック様−」
「神官長−」
飛んできたりリア達を見つけた人々が、わらわらと集まってきた。
「なにがあった?」
イルダーナフが問うと、エル・トパックは一度大きく息を吸った。下に降りたエル・ト
パックは苦しそうな顔をしていた。ティファとアクディス・レヴィに支えられ、やっと立
っているという様子だ。なにかあったのか、左肩の辺りにひどい傷を負っていた。
「神殿に火がかけられました」
やさしさは風の調べ
かんけつ      てきごと
そう言い、エル・トパックは簡潔に街の中での出来事を説明した。
魔物が現われたこと。
キアラが神殿に火をかけたこと。
その脱出の途中で、セリとリリアに助けられたこと。
「キアラが火をフ」
ほ一は
カイルロッドは頬を強ばらせたが、イルダーナフは表情を動かさなかった。
「そこで母は死にました」
ぎま
アクディス・レヴィが短く告げた。どんな死に様だったかカイルロッドにはわからない
が、アクディス・レグィの顔を見ていると、追及してはいけない気がした。
せんさく
そしてまた、イルダーナフも細かいことを詮索しなかった。
「ご苦労だったな。今日はもう移動しねぇから、ゆっく。休んでくれ」
ねぎら
三人に労いの言葉をかけ、イルダーナフはまた列の前の方へ行ってしまった。リリアが
ついて行く。
「イルダーナフはこうなることをある程度、予測していたんだろうか」
カイルロッドにはそう思えてならない。どんな形でかはともかく、キアラが神殿に終止
符を打つと、ふんでいたのではないか。
一じ一じいろ ガ
カイルロッドが視線をあげると、燃える空の周回では、灰色の雲が滑った紅や桃色に塗
.・   ・ −.
り変えられていた。時々、紅蓮の炎が大きく上がる。
イルダーナフとすれ違いに、人々をかきわけてメディーナがやってきた。
「エル・トパック!」
りが         まゆ
メディーナはエル・トパックの前へ行き、怪我している左肩を見て眉をひそめた。
「ひどい傷」
「そうでもありませんよ」
無理に笑ってみせたエル・トパックの左腕を、メディーナが軽く叩いた。
つ4や
エル・トパックは顔をしかめただけだったが、見ているカイルロッドが「痛い」と呟い
てしまった。
「トパック様、メディーナの前でまで強がるのはやめた方がいいですね」
からかうように旨い、ティファがエル・トパックから手を離した。アクディス・レウィ
も「おとなしく治療してもらうんだな」と、手を離す。支え手を失い、エル・トパックは
ひぎ
下に膝をついた。
「二人ともひどいですよ」
にかわb
苦笑いしたエル・トパックの左肩に、メティーナが手をあて、
「私の前でまで無理はしないで」
うなヂ
押し殺した声で言った。エル・トパックは黙って頴いた。
じやま
「邪魔者は退散する」
lまlまえ
ティファは微笑みをうかべて、どこかへ行ってしまった。
「長い一日だった・ 」
一瞬だけカイルロッドと目を合わせ、アクディス・レヴィがため息のように呟いた。そ
して、足を引きずるようにして歩いて行った。エル・トパックもカイルロッドも、アクテ
なぐき きよぜつ
ィス・レヴィを呼び止めなかった。青年の後ろ姿には、他人の慰めを拒絶するものがあっ
l,もの                                  いや
た。傷ついた獣が自分で傷を舐めて治すように、アクディス・レヴィは一人で自分を癒す
だれ
のだ。誰もいない場所で。
すそ
ぼんやりとアクディス・レヴィを見送っていると、セリに「王子、邪魔」と服の裾を引
っ張られ、カイルロッドは渋々、場所を移動した。
「似合いだよね、あの二人」
.1・.
エル・トパックとメディーナを横目で見ながら、カイルロッド。聞いた時は驚いたが、
こうして見ると納得できる。
「  王子に恋人いないのフ・」
やさしさは風の調べ
「・情けないけど、いない」
情けないのは自覚しているが、自分で口に出すと一層情けなく思えてくる。そこへ、下
から見上げているセリが 「  情けない」と追い打ちをかけた。
.・ ‥、・I
とどめを刺され、立ち止まったカイルロッドは、いつの間にか視界が暗くなっているこ
とに気がついた。
しあ
灰色の空に夜の紗がかかっている。それが一層、炎を目立たせていた。
人々はまだ静かに街を見つめていた。
み.         そフごん  dちど
炎を見据える人々の表情は荘厳さに縁取られていた。
せいじやく
そんな人々の顔を見つめているうちに、カイルロッドは彼らの静寂を理解した。
1レゆ、ヘノえん
人々は神殿の終焉を看取っているのだ。
歴史を、その存在の終焉を。
そこで生きた人々であるだけに、悲しみよりも強いものがあるのだ。
カイルロッドも燃える空を見つめた。
ぐれん
紅蓮の炎が天を焦がしている。
四章 明日の子供達
l
草木も見えない不毛の大地を、冷たい風が渡っていく。時折その風が雨と雪を運び、地
上の生き物を凍えさせる。
生き物の影すら見えない大地を、人々は白い息を吐きながら黙々と歩いていた。
.. 1.
《第二の神殿》を目指して。
「どのくらい歩くんだろうな」
わだち                  つぷや
ぬかるんだ地面の上に残る無数の足跡と轍を見ながら、カイルロッドは心の中で呟いた。
えんじよう    いつこう
神殿炎上の翌日、一行は再び出発した。が、多くの人々は歩きながら、何回も後ろを振
はのぷ
り返っていた。炎は翌日になっても消えていなかった。本殿から出た火は街へと広がった
らしく、すべてを焼き尽くすまで消えないだろうと、イルダーナフは言っていた。
やがて街は焼き尽くされ、荒地となる。まるで最初からなにもなかったような荒地 −
3  やさしさは風の調べ
.h...・h.・
その地下に眠っている宗RRらぬもの》だけが、かつてそこにあった華々しく、血なまぐさ
い歴史を証明するものとなるのだろう。
かんしよういだ
カイルロッドはまだそんな感傷を抱くが、三日たった現在、後ろを振。返る者はいない。
だれ
遠い後方にかすかな煙が見えるが、誰一人として見ようとはしない。
過去よりも未来へ ー 感傷や動揺が内心にあろうとも、人々は前だけを見つめている。
ありさま
「しかし、神殿の外は思ったよ。もひどい有様だったな」
さいこうげ
列の最後尾を歩きながら、カイルロッドはこれまでに通り過ぎた道々の様子を思い出し
ながら呟いた。
「  うん」
カイルロッドの横、肩の辺りに浮いているセリが少し顔を曇らせた。
つぶ
三日の間にいくつかの街や村を通り過ぎたが、ほとんどが雪の重みで潰され、あるいは
しゆうげき   lまいきよ
混乱と魔物の襲撃によって廃墟となっていた。
「ルナンはどうなっているんだろうフ」
廃墟と化していないだろうか。サイードやダヤン・イフエ達は無事だろうか。心配で、
だいじようぷ             こんきよ
ついこぼすと、横にいるセリが「ルナンは大丈夫」と断言した。その自信の根拠を聞いて、
ぎようてん
カイルロッドは仰天した。
「だって、ルナンにはゲオルディ様がいるはずだもの」
三つ子は神殿に来る前に赤い山に寄って、そのことを聞いたらしい。すぐに行くかどう
かはわからないが、いずれ近いうちに動くと、そうゲオルディは言っていたそうだ。
「どうしてゲオルディ様がルナンへーフ」
「  王子の故郷だからじゃないのフ」
「それだけの理由っ 他になにか言ってなかったっ」
「・ 聞いてない」
セリは頭を左右に振った。「どうしてゲオルディ様がルナンへっ」、カイルロッドにはさ
っぱりわからない。わからないが、そう聞いて少し安心した。ゲオルディがいれば、少な
ばつこ
くとも放屁する魔物達の脅威は薄れるはずだ。
つん
カイルロッドは赤い山で杖を振り回していた老婆と、あの部屋の中で見た美女の姿を交
互に思い出しながら、
.・1
「部屋で見た幻にゲオルディ様がいたんだ。ゲオルティ様って、ウルト・ヒケウだったん
だよね」
「 ・そう」
うなず
セリが領く。
5 やさしさは風の調ぺ
「でも、神殿の誰もそのことを言わなかったよ。というより、知らなかったみたいだけ
どフ」
いんきよ
いくら隠居したとはいえ、ゲオルディがかつてのウルト・ヒケウだと知っていれば、異
常事態が発生した時点で、神殿の誰かが泣きついたに違いない。カイルロッドがそう指摘
とが
すると、セリは自分の前髪を引っ張。ながら、日を尖らせた。
「 ふ心れられちゃったの。ゲオルディ様の後のウルト・ヒケウも大神宮も、皆、力が弱
かったから」
セリが言うには、ゲオルディが隠居し、三つ子がその座につくまでの長い間、本物のウ
ルト・ヒケウと大神宮は出なかったのだという。どれも形ばか。で、少なくともゲオルデ
ようせい
ィに協力を要請するに値する力の持ち主はいなかった。だから、ゲオルディは誰にも会わ
なかった。そのせいで、ゲオルディがかつてのウルト・ヒケウであったことは忘れられ、
ただ凄まじい力を持つ魔女としてだけ、神殿の人々に記憶されることになったらしい。
「そうすると、イルダーナフとセリ達は、認められるほど強いってことになるのか」
はる
遥か前方にいるイルダーナフ達を見るように、カイルロッドが目を細めると、
「兄ちゃんー」
はす
前から突然、六、七歳ぐらいの少年が息を弾ませて走ってきた。
「どうしたのっ」
カイルロッドが声をかけると、
「兄ちゃん、凄く強いって本当け ねっ、ねっー 強いところ、見せてよー」
カがや           ぎんばつ
カイルロッドを見上げ、少年は呂を輝かせた。最後尾についている銀髪の青年は強い力
を持っていると、誰かに聞いてやってきたのだろう。子供は単純に強い者に惹かれるらし
い。
「そう言われても  」
カイルロッドはひきつった口元を人差し指で掻いた。
幸いなことに、神殿を出てからの三日間、一度も魔物の襲撃を受けていない。ウルト・
けつかい
ヒケウの強力な結界が一行を覆い、さらに凄まじい力を持つ者達が護衛についているのだ
から、力の弱い魔物などそれだけで一行に近づくことすらできないのだ。
「大神官様より強いって聞いたんだよー ねぇ、それを見せてよー」
「いや、見せろって言われても」
にがて
困ったカイルロッドが横に浮いているセリに助けを求めると、「子供は苦手」とどこか
へ飛んで行ってしまった。
「  ずるい」
やさしさは風の調ペ
力を見せろと少年にせがまれながら、カイルロッドは風に流される風船のように飛んで
行くセリを恨めしげに睨んでいた。
「早く見せてよ」
「あのね、力は見せ物じゃないの」
なだ
少年を宥めようとカイルロッドが必死になっていると、前方から少年の名前を呼ぶ声が
して、母親とおぼしき女性が血相を変えてやってきた。
「あ、母ちゃん」
「列を離れてなにをしているのー こっちへいらっしゃいー」
母親は少年の手を掴むと、引きずるようにして列に連れて行こうとした。まるで猛獣の
前にいる我が子を、一刻も早くそこから避難させようとしているようだった。
いや
「妹だ、おれはこの兄ちゃんに力を見せてもらうんだー」
騒いで暴れて、子供は必死に抵抗していたが、結局は連れて行かれた。列の中に入って
わめ
姿が見えなくなったのに、喚く声はしばらく聞こえていた。
「元気な子だなぁ」
さきや
感心していると列の後ろ、カイルロッドのすぐ前方辺りからひそひそと、囁きあう声が
ぬす
聞こえた。そして時々、まるで盗み見るようにチラリと後ろを、カイルロッドを見る者も
いる。
∵こ …・I.
カイルロッドは自分に向けられるそうした声や視線を、なるへく気にしないようにして
いた。さっきの少年の母親だけに限ったことでなく、一行の人々のほとんどが、まるで野
放しの猛獣でも見るような目でカイルロッドを見ているのだ。
街を出る前、そして出た直後は、自分のことだけで手いっぱいだった人々も、三日もた
ては少しは落ち着き、周りが見えてくる。そうなると目につくのが、カイルロッドだ。
すじiう
大神宮、ウルト・ヒケウ、アクディス・レヴィやエル・トパックなどは、その素性や地
位がはっきりしている。しかし、カイルロッドはなんなのか。
ルナンの王子であることはわかる。大神宮やウルト・ヒケウは、カイルロッドを強力な
護衛とも言っている。だが、ある程度の事情を知っている人々は納得できない。
はかい  ばけもゐ
「街や村を破壊した化物だ」
「かつて神殿に指名手配されたと聞いたよ」
神殿支配下の街にいた人々であるから、見方がどうしても神殿寄りになるのは止むを得
ごかい
ないとしても、誤解はあまりに大きい。グリユウとカイルロッドはいまだ混同されており、
指名手配についても、その本当の理由は知られていない。
やさしさは風の調べ
じこペノ3−
だからといって、カイルロッドがどう自己弁護しょうと、大神宮やウルト・ヒケウが事
実を述べようと、おそらく人々はすんな。とは受け入れないだろう。どこにも証拠はない
のだ。ムルトの命令で衝や村を破壊したグリユウは亡く、指名手配書についてゼノドロス
が白状するはずもない。
むだ
証拠がない以上、なにを言っても無駄、または逆効果になる。そう判断してか、イルダ
ーナフもウルト・ヒケウもカイルロッドについてはなんの弁護もしない。人々の反応と、
カイルロッドの反応の両方を、あえて無視している。
lまんしよう
「おとなしい顔をしているが、いつ本性を現わすかわからないよ」
聞くまいとしているのだが、そんな囁きがカイルロッドの耳に入ってくる。人々の畏怖
はり
の視線が針のように感じられる。
「仕方ないことなのかもしれないけど」
かくご
覚悟はしていたが、実際にそういう態度をとられると、なんともやりきれないものがあ
まつさつ          なげ
る。人々を救ったというのに、その力を恐れられて抹殺された青年の怒。と嘆きが、我が
身に重なる。
「《あの方》の力を継いでいても、俺は人間なんだー 魔物でも猛獣でもないんだ「 そ
んな目で見ないでくれー」
時々、人々に向かってそう叫びたい衝動にかられる。口にしたところでなにも変わらな
いとわかっていても、大声で叫びたくなる。
「俺は人間なんだ」
つら
少しばかり他人と違うことの辛さ、悲しさ、孤独が身にしみる。
表面上は無視しているイルダーナフ達だが、そこら辺りのカイルロッドの気持ちは汲ん
いそカ
でくれているようで、忙しい最中をぬって、エル・トパックやロワジーなどがやってきて
は、励ましてくれる。そうしたごく少数の人々の存在が、カイルロッドを孤独から救って
くれていた。
「…・・どうして王子を悪く言うの」
上からセリの怒った声が聞こえると、人々の囁きがピタリと止んだ。
いや
「・・そういうの、嫌」
カイルロッドのいる最後尾に戻ってきたセリは上から人々を見回し、頬を膨らませた。
「いいんだよ、セリ」
頭上のセリを見上げ、カイルロッドが小さく笑うと、
「・・だって」
セリは泣きそうな顔になった。
やさしさは凰の調ぺ
「いいんだ。きっといつか、わかってくれるから」
つかや
人々の背中を見ながら、カイルロッドは呟いた。それはセリにではなく、自分自身に言
いきかせている言葉だった。
まゆ
列の後方がなにやらざわついているのを感じ、メディーナは眉をひそめた。
いだ
列の最後尾にはカイルロッドがおり、どうやら人々は彼にいい印象を抱いていないこと
を、メディーナも感じ取っていた。それだけにざわめきが気にかかる。
「放っておいていいのだろうかっ」
しどうしや
指導者である養父に訊いてみようとしたが、イルダーナフは荷台に横たわっている病人
なだ
を宥めている最中だったので、メディーナは口をつぐんだ。
「カイルロッドが気にかかるか?」
すばや
声をかけてきたのは、ロワジーだった。素早くメディーナの心情を読み取ったらしい。
いd
「王子が畏怖の対象にされているようで」
くちご                  うなず
メディーナが口龍もると、ロワジーは「そうさな」と額いた。
ぴんかん いたん か
「集団とはそういうものだ。敏感に異端を嗅ぎつける。それは動物も人間も同じだ。そし
て自分達と違う者や弱い者を、はじき出そうとする」
へいおん
病人を乗せた荷台をチラリと横目で見、ロワジーは両手をこすった。平穏な日常の中で
も弱い者ははじき出されるのだ。本来なら一番安全なのは列の真ん中なのだが、前方に病
はいnソよ
人や老人などを集めたのは、弱者をはじき出さないための配慮だった。彼らが前方にいれ
なん
ば、それがそのまま一行の進む速さとなる。病人が進む遠さなら、女子供でも難なくつい
とど
ていける。そして、先頭なら常にイルダーナフの目が届く。
「弱者なら、こうやって守ってやることもできる。人には慈悲や労わりの心もあるしな。
しかし、カイルロッド王子は別だ」
言いながら、ロワジーは両手をこすった。その言葉の意味はメディーナにもわかる。彼
は弱者ではなく、異端なのだ。
「王子については、わしらにはなにもしてやれんよ。上からどうこうしろと言ったところ
で、どうにもならんからな。受け入れてもらうには、カイルロッド王子が自分でどうにか
しなくてはならない」
1..1フ
メディーナは厳かに言うロワジーの横顔を、そしてイルダーナフを見た。それがカイル
ロッドに関しての、彼らの出した結論なのだろう。
きぴ
「厳しいですね」
見込みがあるからこそ厳しいのだとわかっていても、メディーナは少しカイルロッドに
203  やさしさは風の調べ
同情してしまう。
さまぎま おも1.,く                  めぎ
そこにいる人々の様々な思惑とともに、一行は《第二の神殿吋を目指していた。
2
みまちが
最初は見間違えかと思った。雪に半分埋もれた木のうろから出てきたそれを、カイルロ
ッドは熊だと思った。が、現われたのはまざれもなく人間だった。
「俺も一行に加えてくれ」
その男はそう言って、列に加わった。
「これで何人目だろう?」
正確に数えているわけではないが、軽く六、七〇人は増えているだろう。街を出発して
から一週間、進むにつれて少しずつ、列に人が加わっていた。行く先々で人影を見かける
つと
ようになった。一行に加わるために、どこからともなく人々が集ってきているのだ。
ンpしぎ
不思議なことだが、人々はこの一行のことを知っていた。どこへ向かっているかも。加
わった一人に、どうして知っているのかと訊いたところ、
「白い鳥が教えてくれたの。あっちへ行けば、人がいるって。そして、そのままついてい
けば生きられるからって」
のっり
との答えだった。白い鳥と聞いてカイルロッドの脳裏にうかんだのは、ゲオルディだっ
こよノや                   21′もの
た。荒野で特訓された時に現われたのが、白い獣達だったせいだろうか。だが、そう思っ
たのはカイルロッドだけではなかった。
ぱあ
「宣伝してやがるぜ、婆さん」
イルダーナフなどは、ゲオルディと確信している。
ともあれ、その烏の知らせによって、細々と生きていた人々は人の列を目指し始めた。
まUレりろん Jじ
勿論、無事にたどりつけるとは限らないのだが、このままじっとしていてもいずれは死ぬ
だけだ。それならいっそ、わずかばかりでも可能性のある方に賭けてみようと、生き残っ
ている人々が集まってきていた。
そんな理由で、一行の人数は増える一方だった。時々、人間に化けた魔物が寄ってくる
iナつかしlj
が、ウルト・ヒケウの結界に触れて黒焦げになるだけだった。
だいじようぶ
「こんなに人数が増えて、食料は大丈夫なんだろうか7」
今後はさらに増えるであろう。人が増えれば、その分だけ食料は減る。それでなくとも
ナノご
進みが遅く、《第二の神殿》 へつくまでの日数がかかるのだ。積んだ荷が凄い勢いで減っ
ていくのを見て、カイルロッドは不安になった。
だが ー イルダーナフ達に抜かりはなかった。《第二の神殿》 へ向かう途中の至る場所
やさしさは胤の調ぺ
に、食料を貯蔵しているのだ。ウルト・ヒケウが結界を作って地中に埋めてあるそうだ。
その総合童はかなりのものらしい。
「道理で人が増えようと、進みがゆっくりだろうと、イルダーナフが平然としているわけ
だ」
さきほど
つい先程、ウルト・ヒケウが運んできたという食料の山を見ながら、カイルロッドはし
みじみと感心していた。ちなみにウルト・ヒケウだが、触れていれば、どんなに重い荷物
でも楽々と持ち運びできるらしい。
「空は飛べるし、荷物は運べるし。便利だよなぁ。俺にもああいうことができれば、少し
は化物なんて言われなくてすむかな」
夕食をとり、その夜の見張りに立ったカイルロッドはそんなことを思っていた。
結界が張られていて安全なのだが、念のために毎晩数人の見張hソが立っている。それは
自主的に協力してくれる若者達で形成され、三時間交代で見張りをしている。そしてその
中には、非常時に備えて、必ず一人は力のある者がいるようになっていた。
この夜、カイルロッドは夜中から明け方までの見張りだった。
こーつぐん
昼間の行軍の疲れで、人々の寝付きはいい。横になると同時に寝息をたて始める。
しゆうげき
「一週間も、魔物の襲撃らしい襲撃はない」
ランプを腰に下げ、カイルロッドは腕組みした。せいぜいが人間に化けて、一行に潜り
込もうとしている雑魚である。「なりをひそめているんだろうかっ」、出発直後は魔物の襲
ひルはん                            ハきみ
撃が頻繁であることを予想していたが、こうも静かだとかえって不気味だった。
「どうなっているのかな」
魔物達がなにを考えているのか、カイルロッドにはさっぱりわからない。あれこれと考
えをめぐらせながら、寝息をたてている人々を起こさないように、周囲を歩き回っている
と、
「カイルロッド」
名前を呼ばれた。呼ばれて顔を向けると、アクディス・レヴィがいて、
「ご苦労だな。寒いだろうから、これを着ていろ」
上着を貸してくれた。カイルロッドが礼を言って受け取ると、アクディス・レウィはそ
のまま黙って行ってしまった。
「……元気になったのかな」
えんじよう
カイルロッドは上着に袖を通した。神殿の炎上の日から、アクディス・レグィが時々う
なされているのを、カイルロッドは知っていた。
・. ・                   ・.・
どんな夢が彼を苛むのか、子供のように身体を丸めて、必死に助けを求めている。見張
やさしさは風の調べ
たぴ
りをしながら、何度もそんなアクディス・レグィを見て、カイルロッドはその度に起こそ
うと思い、そしてやめた。
きまじめ
一本気で生真面目なアクディス・レグィのことだ。うなされていることを他人に知られ、
つか
気を遣われることをよしとはしないだろう。そう考え、カイルロッドは気がつかないふ。
をしている。
つら
「なにがあったか知らないけど、辛いことがあったんだろうな」
ひま
カイルロッドは真っ白い息を吐いた。起きている間、アクディス・レヴィは休む暇もな
・1 −1
く働いている。動いていれば、余計なことを考えずにすむというように。
そんなアクティス・レヴィを、カイルロッドもエル・トパックも、黙って見ているしか
けんめい
なかった。アクディス・レグィは懸命に自分自身と戦っているのだ。だから、自分で勝た
ねばなんの意味もない。
カイルロッドは腰にランプを下げたまま、眠っている人々の中を歩いて行った。すると、
少し離れた場所から苦しそうに咳き込む音がした。
だいじよう.ぷ
「大丈夫ですかフ」
そちらに足を向けてみると、少女がいた。人間は群れたがる動物で、眠る時も何人かで
かたまっているのだが、少女は外れた場所に一人でいた。
「大丈夫ですかつ」
つなヂ
もう一度声をかけると、少女はか細い声で「はい」と頴いた。カイルロッドは下げてい
ひぎ
たランプを下へ置き、少女の前で片膝をついた。
なか     にんぷ
そして、ランプに照らされた少女の姿に少し動揺した。お腹が大きい。妊婦だ。しかし、
ここへ来るまでに相当に無理をしたのだろう、ひどく痩せている。それだけに一層お腹だ
けが大きく目立ち、カイルロッドは痛々しさを感じた。
「あの」
おずおずと、少女が声をかけてきた。
「よろしかったら、少しお話ししていただけませんかっ ・・あの、あたし、ずっと一人
で・ 」
一人でここまで来たが、周りが知らない人間ばかりで不安だったらしい。
「でも、俺でいいのっ」
おび
怯えるのではないかと思ったが、少女は笑顔でこう言った。
「あたし、いい人はわかるんです」
花がこぼれるような笑顔だった。
おさな
茶色の髪と目をした少女の名前はジュディと言い、まだ一六歳だった。一年前に幼なじ
209 やさしさは風の調ぺ
みで五つ年上の青年と結婚したが、三ケ月前に魔物に襲われて死んでしまった。
「村もめちゃくちゃになってしまって。夫ばか。か、両親も兄弟も死んでしまった。あた
し、悲しくて、どうしたらいいのかわからなくなっちゃって。このまま、死んでしまおう
かと思ったけど I」
なにもかもを失って、生きる気力を失っていたが、その時、お腹の中で子供が動いたの
だという。
おどろ
「あたし、驚いて。そしたら、いつの間にか死ぬ気が失せていたの。一人じゃないんだっ
て、そう知ったから」
それから必死に生きてきた。そして白い烏の声を聞き、ここまで来たそうだ。
「でも、まだ遠いみたいだから、大変だよ」
.h・..
カイルロッドが労わると、ジュディは微笑んだ。
「ここまできたんだもの、もう少しよ。あたし、この子をちゃんと産んであげたいの」
大きなお腹に触れ、ジュディは母親の顔で微笑んだ。
つか
以来、カイルロッドはなにかとジュディに気を遣っていた。
「おそらく俺は、彼女の上に母を重ねているのだろう」
まばろし
幻のフィリオリの顔と、ジュディの顔が重なって見えるのは、どちらにも無欲の愛があ
るからだ。
大きなお腹をいとおしそうに撫で、優しい声でまだ生まれていない子供に話しかけてい
るジュディを見ながら、カイルロッドはフィリオリもこんなふうだったのだろうかと、そ
う思わずにはいられなかった。
たん
生まれたカイルロッドとすれ違うようにして、フィリオリはこの世を去った。子供の誕
じよよノおの
生が己れの死であると知っていたフィリオリは、生まれる前のカイルロッドに多くのこと
を語りかけていたに違いない。
「母上は俺にどんなことを話しかけていたのだろう」
おぽ
生まれる前のカイルロッドが覚えているはずはないし、死人に訊くことはできない。カ
イルロッドが少しせつない気持ちになっていると、
「あっ、また動いた」
つJや
お腹に手をあてたまま、ジュディが呟いた。表情には輝くような喜びがある。
「この中に子供が入っているんだよなぁ」
わかっているのだが、どうも今ひとつピンとこない。「出てくるまで信じられないな」、
大きなお腹を不思議そうに見ていると、
211 やさしさは風の調べ
「カイルロッドも触ってみる?」
ジュディに言われ、カイルロッドは「えっけ」と後ろへのけぞった。正直に言えば、本
当に子供が動いているのかどうか、触って確かめてみたい好奇心はある。
「でっ、でも、父親でもない男が触るっていうのは・」
ちかん
痴漢か恥知らずの助平のようで、カイルロッドが顔を赤くして、もごもごと呟いている
と、
「いいの、カイルロッドは特別よ。ね、今だけでいいから、この子のお父さんの代わりに
なって、触ってみて」
しんし まなぎ
カイルロッドに真撃な眼差しを向け、ジュディはそう言った。
「じゃあ、父親の代理で・」
真筆さに負けて、カイルロッドは父親の代わりをすることになった。しかし、妊婦であ
ろうと、若い女性の腹部に触れるということが、カイルロッドにとって勇気のいる行為で
あることには違いなかった。
「よ、よし」
深呼吸を数回してから、カイルロッドは手をのはした。そして、ためらいながら、そっ
とジュディの腹部に触れた。
すると、手の平から震動が伝わった。
212 「動いているー」
カイルロッドはびっくりして、手を離しかけた。
「ほら、また動いた」
ぽフぜん
母親の誇らしげな声を聞きながら、カイルロッドは手の平に伝わる震動に呆然としてい
た。
「…・生きているんだ」
手の平に伝わる震動が、カイルロッドにかつてないほど強烈に生を感じさせた。
.        1.1                                        −
母親の胎内で子供が懸命に生きているということが、カイルロッドの心を震わせた。そ
しよヱノけき
れは感動であり、衝撃でもあった。
「  凄いな」
まだこの世に生まれ出でぬ小さな生命の主張に対して、カイルロッドは他に言葉を見つ
けられなかった。
「こんなに動くんだもの。きっと、元気な子よ」
つれ
ジュディは嬉しそうに笑った。カイルロッドは領き、ジュディの腹部から手を離した。
そして、自分の手の平を見つめた。
やさしさは胤の調ぺ
手を離しても、あの震動が残っている。
「一生、忘れないだろう」
強烈な生の感動とともに、一生忘れないだろう。カイルロッドは拳を握った。
「無事に産んであげなくちゃ」
母親の顔でジュディが囁いた。
ただ心配なのは、ジュディの栄養状態だった。ここにきてから食料は口にできるように
なったが、それまでの状態がとにかく悪いのだ。カイルロッドは自分の分をわけた。した
が、あまり効果はないように思えた。
「まるで亭主みてぇだな」
などと、イルダーナフにからかわれるぐらい、カイルロッドは親身になって世話をして
いた。
さわ
混乱もなく、魔物の襲撃もないまま、二週間が過ぎた頃 − 突然、騒ぎが起きた。
ぱけもの いっしよ
「化物と一緒に旅をするのはごめんだっー」
きゆうけい
騒ぎの口火を切ったのは、ゼノドロスだった。一行が昼の休憩を取っている時、いきな
ほうかみすいはん           きげん
り騒ぎだしたのだ。放火未遂犯達などイルダーナフのご機嫌と。に必死になって、先頭で
重い荷台を引いているのに、この男はちゃっか。と列の真ん中、一番安全な場所に逃げ込
んでいた。
がまん                      ほんしよラ
「私にはとても我慢できん。今はおとなしいが、そのうちきっと本性を現わすに決まって
いるー一行の中には化物、いつになっても《第二の神殿》は見えてこないー もう、こ
んな旅はごめんだー」
カイルロッドのことなどただの方便で、単にそれは「渡れたから休ませろ」と騒ぐ子供
きばくぎい
と同じヒステリーにすぎなかったのだが、ゼノドロスの発言は起爆剤となって、人々の恐
怖と不安を爆発させた。
「そうだ、化物は出て行け!」
「出て行けー」
たちまち大騒ぎとなった。
どせい             こわ
それぞれに休んでいる人々の間から、怒声があがる。カイルロッドが恐いので、とりあ
1 ・
えず遠くから騒いでいるだけだが、大勢が怒鳴っているので、大気が震動しているようだ
った。
「なんなの、この騒ぎ」
おぴ          とlまう
轟く人の声にジュディは怯え、カイルロッドは途方にくれていた。
「まいるな、本当に」
やさしさは風の調ペ
もう怒る気にもならない。怒ったところで無意味だし、なにを言っても聞かないに決ま
しようサレhC
っている。「勝手に騒いでいろ」というのが、カイルロッドの正直な気持ちだった。
カイルロッドに自分でどうにかしろと言っているのか、イルダーナフもウルト・ヒケウ
ぽうかん
も人々を止めようとしない。傍観を決めこんでいるようだ。
「出て行け1」
「化物と一緒の旅はごめんだー」
ののし
カイルロッドを罵る声はいよいよ大きくなり、どこからともなく石が飛んできた。飛ん
できた小石を片手で払い、カイルロッドは顔をしかめた。
「ジュディ、離れて」
カイルロッドはジュディに鋭く言った。石を投げる者達は、カイルロッド以外にも当た
ることなど考えてもいないのだ。
しまつ
もしかすると魔物よ。も始末の悪い敵に周囲を取り囲まれたのかもしれない。カイルロ
ッドが困っていると、
きたな
「汚いぞ−」
「大勢でよってたかって、一人をいじめるなー」
おさな                          かば
複数の幼い声がして、大人達の間から子供達が出てきた。そして、庇おうとするように、
カイルロッドと大人達の間に立った。その中にはカイルロッドに「力を見せて」とせがん
だ少年もいた。
にり
子供達は周りの大人達を睨みつけると、
「化物、化物って、この人はなんにもしてないじゃないかー」
ののし
「一生懸命、見張りしてくれているのに、それを罵るなんてひどいよー」
ひ一’ん   としほ
口々に非難した。年端もゆかぬ子供達に意見され、大人達も少しは頭が冷えたのだろう
ばせい
か。罵声と飛んでくる石が減っていく。
「子供がわかったふうな口をきくんじゃないー」
もっとも、中にはかえってむきになる大人もいたが、
「じゃあ、あんたはなにがわかっているんだよー」
子供達にやりこめられてしまった。
「なんにもしてない人を罵るのは、最低の人間だって、おれの死んだ父ちゃんが言ってた
ぞー」
「差別はいけないって言うくせに、ロと態度が違うじゃないの。石まで投げるなんて、ひ
どいわ」
きゆぇノガん
大人達を糾弾している子供の姿を、カイルロッドは深い感動をもって見つめていた。そ
やさしさは風の謂ぺ
れはとるにたらない、そして子供時代にだけある、ささやかな正義感かもしれない。重ね
じゆんすい
ていく歳月と現実との間で、おそらくほとんどの人々が忘れていく純粋さだ。
「けれど、それは今ここにあるのだ」
おの
子供達は怒っていた。打算でなく、ましてや己れのためでもなく、カイルロッドに向け
り かじん
られた理不尽に抗議している。
いさどお
当たり前として口にされていることが、当た。前ではないことに憤っている。誰もが一
度は、そんな真っすぐな思いで理不尽に憤ったはずだ。
やがて、潮が引くように罵声が消えた。大人達はばつの悪そうな衷情で、そそくさと休
もど
んでいた場所に戻った。騒ぎの口火をきったゼノドロスなど自分はまったく無関係という
ような顔で、真っ先に戻っていた。
「よかった、どうなることかと思った」
ゆる
ジ三ディが貰えながら言った。カイルロッドは頴き、それから前にいる子供達を見た。
はこ
どの子の顔にも、正しいことをしたのだという自信と誇りがあった。事実そうだ。
そんな子供達の顔を一人一人見つめながら、カイルロッドはありったけの感謝をこめて、
「あ。がとう」と礼を言った。
こどく
子供達はカイルロッドを助けてくれた。大人達の非難から、そして孤独と絶望から。
「ありがとう」
カイルロッドが子供達に深々と頭を下げた時、
「魔物だー」
ひめい
複数の悲鳴があがった。
3
・.   1
空が真っ赤に塗り潰されたようだった。
燃えるような赤ではない。毒々しい、血の赤だ。
おお         うんか
灰色の雲が広がる空を覆いながら、まるで雲霞のように、血の色をした大量の魔物が一
行めがけて押し寄せてきた。近づくにつれて、凄まじいばかりの羽音が響き渡る。
いなご
「蛙かlフ」
ぎようし
それを凝視したまま、カイルロッドは短剣を取り出した。
押し寄せてくるそれは、一見すると蛙の大群だった。しかし、よくよく見れば、ただの
蛙でないことがわかる。
(ヒモジイ)
(腹ガ滅ッチタマラナイ)
やさしさは風の調べ
(食物ヲ)
(食べタイ、食べタイ)
羽音とは別に、そんな声が聞こえる。体長三〇センチ位の娘の腹には人の顔があ。、そ
フつた
れが飢えを訴えているのだ。
がき
「餓鬼け」
おんねん
「飢えて死んだ人々の怨念だ−」
人々が悲鳴をあげた。カイルロッドの横でジュディが悲鳴をあげ、頭を抱えてうずくま
った。
「ジュディ!」
こわ   いや
「恐いー 嫌、あんなのー」
ジュディは激しく全身を買わせた。たしかにたまらないだろう。無数と言ってもいい数
の旭が、飢えて死んだ人々の欲をのせて、生きている者達へと襲いかかってくるのだ。
(ヒモジイ)
(ナニモカモヲ食イ尽クシテヤル)
ぜつきよう
蛙は一行の周目IIを取り囲んだ。あちらこちらから子供の泣き声、悲鳴、絶叫があがる。
けつかい
結界に守られて安全だとわかっていても、視界全面を真っ赤な鰻に覆われれば、誰だって
いい気持ちはしない。
「塔ぐなI」
おちい
混乱に陥りかけた人々の耳に、イルダーナフの声が飛び込んだ。先頭にいても、イルタ
21JILl
ーナフの声は列の隅々にまで通るのだ。カイルロッドはなにか術でも使っているのではな
いかと思うが、イルダーナフに言わせると「気合いにのって響き渡る」らしい。
「大神宮様だ「」
大神宮の声に、人々は我にかえった。震えていたジュディも顔をあげた。
「蛙などにこの結界は破られぬ。落ち着け」
自信にみちた言葉によって騒ぎが静まっていくのを感じながら、カイルロッドは結界の
おど
外へと躍り出た。
「ここにいる人々を食わせるわけにはいかないんだー」
この時のために自分はいるのだ。カイルロッドは短剣を抜いた。
(食物ダー)
(食イ尽クシテシマエー)
結界から出たカイルロッドめがけて、赤い娘が襲いかかってきた。
−・・・ト
素早く短剣で姓を切り捨てると、真っ赤な体液が吹き出した。それをまともにかぶるま
やさしさは風の渕ペ
いとして、カイルロッドは反射的に避けた。と、わずかだが体液のかかった上着の裾がポ
ロポロになった。
「酸だー」
魔物の体液は強力な酸だった。カイルロッドはゾツとした。浴びたらとんでもないこと
になる。
するど
そうしている間にも、蛭達はカイルロッドの脱に、足に、鋭い歯をたててくる。
「これは一度にまとめて消さないと」
蛙を払いながら、カイルロッドは唸った。とても短剣では歯がたたない。
「飛べるといいんだが」
なにしろ相手は蛙だ。地上を逃げ回ったところで、追いつかれてしまう。
「飛ぶのだ」
カイルロッドは心からそう念じた。
飛ぶのだ、高く。
足元から風が起こった。
カイルロッドに群がっていた蛙達が、風によって引き針がされた。
からだ
身体が軽くなり、耳元で風を切る音がした。バサバサと髪がなびき、カイルロッドは空
に浮いていた。足の下に豆粒のような人々が見える。
”…「餌はこっちだ▼ こっちへこいー」
かすよ
叫ぶと、岨達は赤い霞となってカイルロッドの方へ押し寄せてきた。
カイルロッドは短剣を持っていない方の手の平に意識を集中させた。
灼き尽くせ − 〓
いなずま liし
手の平から青銀色の稲妻が奔った。
青銀色の光が、赤い霞を飲み込んだ。
やがて空には灰色の雲が現われ、蛙はかき消えていた。後には羽根の一枚も、死骸の一
つも残っていなかった。
「ふうっ」
ひたい    ぬぐ
額を片手で拭い、カイルロッドは息をついた。気を抜いたとたんに落下しそうだったの
じゆもん    つ一や
で、カイルロッドは「落ちないように」と口の中で呪文のように呟きながら、そっと下へ
降りた。
かた     かんしよく    あんど
足の裏に堅い地面の感触を感じて安堵していると、子供達が駆け寄ってきた。
「凄いや、兄ちゃんー」
「やっぱり強いんだ−」
カイルロッドの周りを囲み、口々に「凄い」を連発する。カイルロッドと魔物の戦いを
昌のあたりにし、子供達はまるで英雄を前にしたかのようだった。
「どうしたら、ああいうことができるのっ」
「おれも兄ちゃんみたいに強くなれる?」
ヽちご
質問攻めにされ、カイルロッドが 「えーと」とロ籠もっていると、
「ご苦労だったな、王子」
いつの間にかやってきたイルダーナフに、肩を咄かれた。顔を向けると、
は真っ白い歯を見せて笑っていた。
「もう少し早くやっつけると思ったけど」
イルダーナフ
「ちょっと、手間がかかりすぎですわ」
から
少し遅れてきた三つ子の、リリアとアリユセの評価はやや辛かった。
「  そんなことないと思う」
セリはポソポソ言いながら、カイルロッドの頭の近ノ、に飛んできた。
「イルダーナフ。あの蛙は魔物だったんだろうかっ 飢えた人々のようだったけれど」
フなで
カイルロッドが問うと、イルダーナフは「魔物さ」と頴き、
がし     たましい
「餓死した人々の魂と欲が、ああいう形の魔物となったんだろうよ。人間と魔物は別物と
やさしさは風の調べ
225
ごわい
思っている者もいるだろうが、それは誤解だ。誰もが心の中に魔物を飼っている。だから
こそ、突然魔物に変わる。また、姿形は変わらずとも魔物となる。そのことは覚えておい
た方がいい」
周囲に向かって、朗々とした声で告げた。大神宮の言葉に子供達は大きく額き、大人達
は複雑な表情をした。
「ザーダックもそんなことを言っていたな」
カイルロッドはザーダックを思い出した。
やみ
人の心の中には闇がある −。
そして誰もが魔物になることができると、ザーダックやムルトが教えてくれた。
「さて。魔物は倒したけど、この服をどうしよう」
酸を浴びてポロポロになった服を見ながら、カイルロッドが困っていると、
「これ、息子のだけど」
老婆が前へきて、死んだ息子の物だと言って服を差し出してくれた。
ネで             かたみ
「袖を通す前に死んでしまって。形見にして持っていたけど、やは。使ってもらった方が
いいだろうからね」
たいせつ
「そんな大切な物をいいんですかフ」
1...
困惑したが、イルダーナフに「ありがたく受け取っておけや」と言われ、カイルロッド
は老婆から服を受け取った。
「ありがとう」
、′れ
礼を言うと、老婆は嬉しそうに何回も領いた。他にも何人かがおずおずと出てきて、
「さっきはすまなかった」と詫びていった。
「あー、やっと風向きが変わったわね」
こうなることを待っていたというように、リリアが笑った。それを見て、カイルロッド
はなんとなく理解した。
.・・                                          1
「俺でなくても蛙は倒せた。イルダーナフやウルト・ヒケウが黙っていて、俺に蝮を倒さ
せようとしたのは、このためだったんだ」
カイルロッドは異端だ。そのことは人々も知っている。大神宮やウルト・ヒケウがいく
ら受け入れろと命令したところで、人々が簡単に言うことをきくはずはない。カイルロッ
ドを受け入れさせるためには、異端ではあるが味方だと、そのことをはっきりと人々に見
せるしかなかったのだ。
「11−−もしかして、魔物がくるのを待っていたのかなフ」
リリア達などはくるのが遅いとか言って、足踏みしていたのではないだろうか。そんな
227 やさしさは風の調ペ
光景を想像して、もらった服を手にカイルロッドがしのび笑いをしていると、
「兄ちゃん、大変だよー あのお姉ちゃんがー」
子供が騒ぎだした。
「 − ジュディー一一一け」
カイルロッドはジュディの許へ走った。
ジュディが倒れた。
しゆうげき
これまでの疲労と、魔物の襲撃によるショックによるものだろう。
その場から動かすのは危険ということで、メディーナと医師が駆けつけた。
「メディーナ、ジュディはけ」
むでか
カイルロッドが訊くと、メディーナは難しい顔をした。
「わからない。母体が弱っているんだ」
そう言って暗い顔をした。
み一レゆくじ
「しかも、早産らしい。子供は未熟児だろう・」
ぽし   あぶ
そこでメディーナは言葉をきった。カイルロッドは直感で、母子ともに危ないことを知
った。
「助けてくれ、メディーナ。治癒ができるんだろうP」
いらだ     まゆ
すがるようにカイルロッドが言うと、メディーナは苛立たしげに眉を動かした。
「誤解しないでくれ。わたしにできることは、その者の持っている治癒能力を引き出すこ
とだけだ」
きせき             ばんのう
できぬ者には奇跡のように見える治癒能力も、万能ではないのだと言われ、カイルロッ
トでつす
ドはうなだれた。そんな様子に同情したのか、メディーナは優しい声で、できる限りのこ
とはすると約束してくれた。
「  助けてくれ」
やさ
生まれる前の子供に語りかけていたジュディの優しい顔や、触れた腹部から手の平に伝
わった震動を思い出しながら、カイルロッドは坤いた。
たの
「ジュディも子供も助けてくれ、頼む  」
カイルロッドには祈るしかなかった。魔物と闘うことはできても、死にかけた少女とそ
の子供を救うことはできない。大神宮でも然りだ。「力など、こんなものなんだ」、我が身
の無力が苛立たしい。
「王子がここにいても仕方ない。冷たいようだが、王子には他にもやらなくてはならない
ことがあるはずだ」
やさしさは風の調べ
くちぴるか       こえい
メディーナにそう言われ、カイルロッドは唇を噛んだ。一行の護衛である以上、ずっと
ジュディについているわけにはいかない。それは指導する立場にいるイルダーナフやウル
ト・ヒケウも同じだ。ジュディの様子を気にしつつ、イルダーナフは先頭へ戻。、ウル
ト・ヒケウは結界の強化をしている。
まか
「王子。ジュディのことはメディーナ達に任せておいてください」
たきぴ    なべ
焚火にかけた鍋の前にいるエル・トパックがそう言った。湯が必要ということで、積も
き1.れい
った綺叢な雪を集めて鍋に入れ、湯にしているのだ。
ここには医師やメディーナの他にも、役にたちそうな人々 − 子供をとりあげたことが
あるとか、医師の手伝いをしていたとか、そういう人々が集まっている。
「  わか。ました」
うなヂ
カイルロッドは語いた。
去る前にジュディの様子を見たが、苦しそうな荒い息をしていた。顔に血の気lはなく、
まるで死人のような顔色だった。
「ジュディ」
カイルロッドが芦をかけたが、ジュディには聞こえていないようだった。苦しそうに顔
ゆが
を歪め、
「赤ちゃん  助けて、赤ちゃんだけは」
それだけをうわごとのように繰り返している。
「あたしの赤ちゃん・」
かんご         だいじよう″”
周りで看護している女達が「大丈夫、しっかりして」と励ましている。
おとヂ
FF−−もうすぐ夜が訪れようとしていた。
4
とばり                    きみよう
夜の帳すら、厚い雲を覆うことはできず、夜空は奇妙に明るい。
つめ   とぎ
真夜中になっても、ジュディの苦しげな坤き声は途切れなかった。
「大丈夫だろうか」
ひめい
見張しながらも、カイルロッドは気がかりで仕方ない。苦しそうな声が時々、悲鳴にな
る。それを聞くと、心臓が止まりそうになる。
「大丈夫なんだろうか」
つnや
心配で、そちらの方を見ながら呟いていると、
「本当に亭主のようだな」
あき  dく
背中からやや呆れを含んだ声がした。顔を見るまでもなく、その声の主はアクディス・
やさしさは風の調べ
レグィだとわかった。
「休んだんじゃないんですかフ・」
振。向かずにカイルロッドが言うと、
、一J
「誰かが同じ場所ばか。歩いているので、うるさくて眠れない」
アクティス・レヴィが槙にきた。なるべく近くにいようと、カイルロッドは同じ場所を
グルブル回っているのである。
「すいません」
あんみんぽうがい                からだ ちぢ     ムやま
安眠妨害をしていたと言われ、カイルロッドは身体を締こめて小声で謝った。と、アク
ディス・レグィはニッと笑い、
「それに、俺はもう平気だと、おまえには言っておこうと思ってな。ずいぶんと心配して
くれていたようだからな」
「えフ・」
「見張。をしながら、よく様子を見にきていただろうフ」
ひようし
楽しそうに言われ、カイルロッドはなんだか拍子抜けした気分だった。気がついていな
いとばかり思っていたのに、しつか。知られていた。
「さらに、亭主でもないのに俺もジュディが気になって、どうも寝付けない」
ほのお
アクディス・レグィはジュディのいる焚火の方に視線を向けた。炎は見えないが、周囲
が明るい。カイルロッドとアクディス・レヴィはその方角を見つめていた。
ふじ
「無事に生まれるといいな。無事に生まれるようにと、誰かが祈っていたぞ」
アクディス・レヴィが呟いた。
ジュディを気にしているのは自分だけでないことに、カイルロッドは気づいた。横にな
って休みながら、大勢の人々がジュディを気にしている。
トしぎ
「不思議だな。皆が祈っている。たった一人の少女と、その子供の無事を」
かんがい
アクディス・レグィは感慨深げだった。
たきぎ
大量の薪と布を消費し、移動の妨げとなっているのに、誰も文句を言わない。黙って、
息をひそめて、見守っている。
やつ
「もっとも、どこにでも自分のことしか考えない、やかましい奴はいるものだが」
「あっ」
せりふ
その台詞でカイルロッドが思い浮かべたのは、一行きってのやかましい男、ゼノドロス
だった。
「その人、どうしてますフ」
またなにか騒ぎを起こすのではないかと、カイルロッドが危惧して訊くと、
3ノi  やさしさは風の調べ
1
「殴って黙らせておいた。朝まで静かだろうよ」
アクディス・レグィは明るい笑い声をたてた。悪いと思いつつ、カイルロッドも笑って
しまった。
「ところで、知っているかフ 半日苦しんでも安産なんだそうだ」
笑いをおさめ、アクディス・レグィが突然そんなことを口にした。
「半日も苦しんで、安産け」
カイルロッドがびっくりすると、アクディス・レヴィは「メディーナが数えてくれた」
と言った。
「子供を産むというのは大変なことだな」
「…・うん」
つめ
男二人でしみじみとしていると、ジュディの坤き声が聞こえた。
「俺は、自分の母親が許せないが 今、苦しんでいるあの少女を見ていると、母親とい
う存在には頭が下がる」
「…・ええ」
まぽろし              うなア
カイルロッドは幻で見たフィリオリを思い出し、頒いた。
「母のやったことは許せないし、許すつも。はない。だが・ あれも愛だったと、今はそ
う思う」
視線を宙に浮かせ、アクディス・レグィは呟いた。
「・ 愛、ですかっ」
みけん し1,                 はかい    しっと
カイルロッドは眉間に紋を寄せた。夫婦を引き裂き、平和な家庭を破壊し、果ては嫉妬
で人を殺すのが、愛だというのだろうか。
なつとく
「納得できないみたいだな」
けげん
そうと知らずに怪訝な声を出していたらしく、アクディス・レヴィが苦笑した。「はい」
ちんもノ1
とも「いいえ」とも言えず、カイルロッドが沈黙していると、
一ルにく        えんじよう
「・もっとも美しいものは、もっとも醜いものでもある。炎上する街を逃げながら、エ
ル・トパックがそう言っていた。その言葉の意味が、ようやく少しだけわかった」
アクディス・レヴィは手探りで言葉を探すかのように、話し続ける。
「愛は美しいだけではない。醜いものでもある。母はその醜い面を見せてくれた。だから
俺は、美しい面を追ってみたいと思う」
キアラのようにはならないという決意をこめ、アクディス・レグィは言った。神殿が炎
上した日からずっと考え続け、その結論に達したのだろう。
「この人も変わったんだな」
やさしさは胤の調べ
くず
タジエナが崩れ、世界が混乱し、神殿がその真価を問われた日から今日までは、決して
とはう
長い時間ではない。しかし、アクディス・レグィにとっては途方もなく長く、そして激動
の日々でもあったのだろう。
するどおも
その激動の日々をアクディス・レグィは自力で切り抜け、成長したのだ。青年の鋭い面
ふあんげ いらだ
差しに、以前の不安気な苛立ちはなかった。代わ。に、自分の足で立っている自信と強さ
があった。
「でも、愛は美しいだけじゃない、か」
まだなんとなく納得できないのは、カイルロッドが美しい面しか知らないせいかもしれ
プば
ない。サイードやダヤン・イフエ、乳母もカイルロッドを愛してくれたが、それはキアラ
のような変し方ではなかった。相手のすべてを支配するような愛ではなかった。
「美しい面と醜い面か」
カイルロッドには納得できなくても、現実にそれはある。愛ゆえに、愛のために、人を
傷つけ、傷つけられる。それもまた、事実なのだから。
「物事は一面だけでは真実ではないのか」
ひらめ
そう呟いたカイルロッドの中で、なにかが閃いた。
「なんだフ」
たいせつ
なにかが引っかかった。だが、それがなんなのか ー とても大切なことなのに、どうし
ても思い出せない。
「なにか、なにか引っかかったんだ」
とても重大なことなのだ。思い出さなくてはならない。
「美しい面と醜い面 ・」
のどもと
喉元まで出かかっているのに、出てこない。カイルロッドが考えこんでいると、ひとき
うましえ
わ大きなジュディの悲鳴が聞こえ1わずかに遅れて、大きな産声があがった。
「生まれたー」
かんせい
わぁっと、四方から歓声があがった。見ると、眠っているはずの人々が起き上がってい
た。
「見てくるー」
とりあえず思い出すのは後回しにして、カイルロッドは走って行った。
行くと、メディーナが「待っていた」と言い、周りにいた人々がどいてくれた。
ひぎ
カイルロッドは少女の前に膝をついた。
「ジュディ」
はだ
名前を呼ぶと、ジュディが薄く目を開けた。頬の肉が削げ、目の下には隈がある。肌が
7  やさしさは風の調べ
かわ
かさかさに渇き、濃い疲労があった。
「・カイルロッド」
くちぴる
赤味を失った唇がかすかに開いた。
「よかった、無事で」
うれ
カイルロッドが言うと、、シュディは嬉しそうに微笑んだ。
おどろ
「驚いた子だ。普通なら助からないところなのに。ほら、こんなに元気な女の子だよ」
横から中年女性が、カイルロッドに赤ん坊を見せてくれた。布に包まれ、大切そうに抱
かれた赤ん坊は大きな声で泣いていた。
「わーっ」
カイルロッドは目を真ん丸にして、赤ん坊を見た。生まれたばか。の赤ん坊を見るのは
初めてだった。
「うわー、小さい」
しわ
触れたいのだが、そうしたとたんに壊れてしまいそうで手が出せない。カイルロッドが
ものめヂら
物珍しそうに赤ん坊を見ていると、
「・名前、付けてくれる?」
たの
か細いジュディの声がした。思いもかけないことを頼まれ、カイルロッドは目をパチパ
23
チさせた。
「俺でいいのっ 大神宮とか、ウルト・ヒケウとかの方がいいんじゃないフ」
「ううん。  あなたに付けてほしいの」
どうしてもと言われ、カイルロッドは女の子の名前を考えた。が、なかなか出てこない。
正確には一つしか思い浮かばないのだ。色々と名前は知っているはずなのに、思い浮かぶ
名前は一つしかなかった。
きれい
「じゃあ。俺が知っている名前の中で、一番綺麗な名前を」
そば
そう前置きし、カイルロッドはかつて側にいてくれた少女の名前を口にした。
「ミランシャ」
「ミランシャ・・綺麗な名前」
なみだ
ジュディは嬉しそうに笑った。何気なく横を見ると、メディーナがうっすらと目に涙を
ためていた。
「ほう、ミランシャか」
よく通る声がして、イルダーナフが顔を出した。そして女性の抱いている赤ん坊を見、
すご
「こいつぁ、将来、凄い美人になるぜ」
そんなことを言った。周囲から明るい笑い声があがる。
やさしさは凧の調べ
239
それからイルダーナフは赤ん坊を抱いた。布に包んだ小さな赤ん坊が、イルダーナフの
手の中ではさらに小さく見える。
「子供のことは心配するな。ゆっく。休め」
イルダーナフはジュディに優しく言った。ジュディは安心したように目を閉じた。
「イルダーナフ、落とさないでくれよ」
すっか。父親のような気分で、カイルロッドが心配すると、「そんなへまをするか」、イ
きゆ・つ
ルダーナフは片目をつぶった。たしかにカイルロッドの心配は柁憂で、イルダーナフに抱
かれている赤ん坊は、いつの間にか泣き止んでいた。
「いやに手慣れているな、親父」
皮肉っぼくメディーナが言うと、
「安心して子供を産んでいいぞ。子守りぐらいはしてやるからよ」
イルダーナフは少し意地の苦い目で娘を見た。みるみるうちに、メディーナの顔が赤く
たきぴ              しんわく
なった。焚火の前にいるエル・トパックは困惑顔だ。
フわて
「やは。まだ父親の方が一枚上手だったな」
親子対決を見て感心していると、
「おい、名付け親。抱いてや。な」
ろうばい
いきなり赤ん坊を渡された。カイルロッドが狼狽していると、赤ん坊が大声で泣きだし
た。
「うわーっ」
いつしよ
どうしていいかわからず、一緒に泣きたくなったが、カイルロッドは全身を緊張させて
赤ん坊を抱いていた。
「よく泣くなぁ」
へいこう
閉口しっつ、カイルロッドはその声の大きさに感心していた。
りんめい
弱々しい存在でありながら、赤ん坊は懸命に泣いている。ここにいるのだと、生きてい
るのだと訴えている。
生命そのものだった。
こたノはい                        、んとA
荒涼たる大地に、荒廃する人々。絶望と恐怖の、明日もわからない混沌とした性界。
そんな中ですら、生命は生まれるのだ。
のア
カイルロッドは赤ん坊を − いつの間にか泣き止んだミランシャの顔を覗きこみ、その
小さな手を見た。
つめ
「凄いなぁ。こんなに小さいのに、ちゃんと爪もそろっている」
そんな当たり前のことすらも嬉しくて、カイルロッドがミランシャの手に触れた。と、
にぎ
熱い小さな手が、カイルロッドの指をキユツと擾った。
そのとたん、カイルロッドの胸に熱いものがこみあげた。単純な喜びとは違う、もっと
せつ
切なく優しいものだ。
「ミランシャ」
カイルロッドは赤ん坊の名前を呼んだ。
「世界は美しいんだよ」
この新しい生命に美しい世界を見せてあげたいと思った。緑あふれる美しい大地、青い
空を。
「君の目が見える頃には、世界はとても美しくなっている。約束するよ」
カイルロッドは赤ん坊を胸に抱いた。
しっこく
奇妙に明るかった空が漆黒に変わっていた。しかし、誰も不安に思わなかった。夜明け
やみ
前の闇が一番濃いのだ。
24
あとがき
どうも。
卵王子の八巻です。
つか
実は − この本のゲラをチェックしていた最中に、過労でダウンしました。四年分の疲
れが出たということですが、ちょっとショックです。思ったよりも重傷で、あっちこっち
めいわく
に迷惑をかけ、年内の予定が大狂い・
がよ
それで医者通いしているわけですが ー。なんと担当医が、富士見の担当Y氏に似てい
る・。顔も声も、ついでにしゃべり方からギャグのとはし方まで、似ている 。
・毎日Y氏と顔を会わせているようで、心は休まらない・・ (悪夢のようだ)。
さて ー 。
ここでお願いです。
実は私、五、六年ぐらい前から、ボランティアで古切手を集めているんです。自分で集
ほ一一ぼユ
めたり、そのことを知っている友人知人に協力してもらって、細々とやっていたわけです
、カ「】]】
、1..
「幸いにも私は作家だ。紙面を使って、全国に呼びかけられるのだ。これを使わないテは
ないではないかー」
ばしゆつ
というわけで、編集部にも快く承諾していただき、古切手の募集を始めます。
★使用済み古切手★
封筒や私製ハガキに貯ってある使用済み切手を鮒がきずに、周囲5ミリ位を残して切り
やぷ
取ってください。(破れていないものに限る。外国切手も可)
★使用済みテレホンカード★
傷のない物をお願いします。
〒一〇二
東京都千代田区富士晃一−十二−十四
富士見書房 ファンタジア文庫編集部気付
冴木 忍 (宛)
けつこユノ
一枚でも結構ですから、右記までお送りください。特に期限はありません。常時募集し
ています。
皆様のご協力をお待ちしています。
最後になりましたが、イラストの田中久仁彦氏にお礼申し上げます。
では、卵王子の最終巻でお会いしましょう −。
冴木 忍 拝