く卵王子〉 カイルロソドの苦難E
悲しみは黄昏とともに
239
冴木 忍
写’・
富士見フア/タンノア文庫
3a11
口絵・本文イラスト 田中久仁彦
四 三 二
あ 章 章 章 章 目
と
晋 窺 雷 志 望 次
け ’ 手 世
の そ の 界
夢票 し 中 と
て に 心
到
来
232 173 110 62 5
悲しみは黄昏とともに
〓早 白と世界と心
きよだい
白く巨大な大山脈がそびえている。
それはタジエナと呼ばれ、「見える者にしか見えない」と言われた幻の山だった。
たお
そこにいるという、凄まじい魔力を持つ魔道士ムルトを倒すために、カイルロッド遠一
行はタジェナを登っていた。
・. ・ ・
吐く息は白く、風が吹きつけるたびに全身から体温が奪われ、手足の感覚が鈍くなって
はくへん
いく。時折、風の中に白く淡い薄片が混じり、それは鋭い切っ先を持つ無数のナイフとな
って、カイルロッド達を打った。
「寒いのは苦手なんだけどな…・」
腰まで積もっている雪をかきわけながら、カイルロッドは鼻を畷った。それなりの装備
こつかん
はしているのだが、とにかく寒い。まさに酷寒の地である。
「おまけにどこを歩いているのか、さっぱりわからないときてるもんな」
かみ あた
長い髪をおさえながら、カイルロッドは吹きつける風に目を細めた。辺り一面真っ白の
世界で、いくら歩いても風景がまったく変わらないのだ。時々、同じ場所をブルブル回っ
一のと
ているのではないかと危惧するが、それは気のせいだった。歩いた跡の残っている場所は
歩いていない。
ゆるやかな坂を上ったり下ったり、それの繰り返しである。せめてもの救いは、切り立
ぜつへき
った絶壁を登らずにすんでいるということだろう。
おれ こんりんぎい
「俺は金輪際、冬山登山なんてしないぞ」
カイルロッドがぼやくと、
「ここまできて、なに言ってんのよ」
息をきらしたミランシャが振り返った。男のカイルロッドでも辛い雪中行軍である。口
ひ.14う
に出してはなにも言わないが、ミランシャの顔には疲労が色濃く現われていた。
「おい、グリユウ。少し、休まないかフ」
カイルロッドは先頭にいるグリユウに声をかけた。
悲しみは黄昏とともに
「休む場所なんかない」
7・.
素っ気ない返事が戻ってきた。振り向きもしない。カイルロッドやミランシャが震えて
ようす
いるのに、グリユウだけは寒さも疲労もまったく関係ないという様子である。しかも、カ
き一nく
イルロッドとミランシャが着膨れしているのに、グリユウは夏服まがいの軽装なのだ。
「それでくしゃみひとつしないなんて。こいつ、感覚がないんじゃないかフ」
つぷや
などと心の中で呟きながら、
「俺じゃなくて、ミランシャを休ませてや。たいんだけど」
カイルロッドが言うと、グリユウは足を止めた。ミランシャは「あたしは平気よ」 と強
がったが、
「すぐに休める場所を探す」
えもの りようけん
グリユウは獲物を探し出す猟犬のごとく、雪の中を走っていった。積雪も凍える寒さも
ないに等しい動きだった。
「子供って元気だよな」
視界から遠ざかるグリユウを見送。ながら、カイルロッドはガチガチと歯を鳴らした。
「年寄。みたいなこと、言わないでよ」
横で、やは。ミランシャも歯を鳴らしている。
「でも、思ったより役にたってくれて、助かるな」
震えながら、カイルロッドは思った。グリユウが一行に加わってくれたのはありがたか
けんか
った。「あれで、喧嘩をうってこなければなぁ」、ミランシャに少し近づくだけで、番犬の
きば む
ようにいちいち牙を剥くのだ。独占しないと気がすまないのかもしれない。
「俺の子供の時って、あんなんだったのかなぁフ」
顔がそっくりなので、ついそんなことを考えてしまうカイルロッドだった。
1 1 −・く.
「それにしても、タジエナに登っているのに、まったく妖魔が襲ってこないな」
真っ白い息を吐きながら周りを見回し、カイルロッドは心の中で独自した。山登りを始
しゆうげき ゼいじやく
めて半日たつが、まだ一度も襲撃されていない。気味が苦いほどの静寂だが、その中でカ
イルロッドはあの視線を感じていた。
ルナンを出た時から幾度も感じていたあの視線だ。悪意に満ちた、刺すような視線だ。
不安がるだろうと思ってミランシャ達には言っていないが、タ、シエナに登り始めてから、
ずっとそれを感じていた。
「油断はできない」
めぐ
雪の中に立って、カイルロッドがあれこれと様々に考えを巡らせていると、
「ミランシャ、こっちー」
悲しみは貴昏とともに
グリユウの声がした。顔を向けると、遠くで両手を振っている姿があった。
「呼んでるよ、ミランシャ」
カイルロッドが苦笑すると、ミランシャは明るく笑い、
「行くわよ、王子」
雪をかきわけて歩き始めた。
どフくつ
二人が息をきらしてグリユウのところへ行くと、そこに洞窟があった。グリエウがミラ
ンシャのために見つけたのは、洞窟だった。
おそ
「遅い」
lまlま ふ′1
洞窟の前で、グリユウは不満そうに両頬を膨らませていた。二人が自分のように動けな
いのが不満らしい。それでもミランシャが、
「洞窟なんてよく見つけたわね」
と誉めたとたん、「うん」と満面の笑顔になった。
やつ
「単純な奴」
だま
そう思ったが、口にすると二人を敵に回しそうなので、カイルロッドは黙っていた。
「こっち、こっち」
きげん
すっか。機嫌をよくしたグリユウが、ミランシャの手を引いて洞窟の中に入った。雪を
払って、カイルロッドも続く。
どうくつ
洞窟の内部は思っていたよりも広かった。天井はかなり高く、大人が一〇人入っても余
ゆ、つ
裕がある広さだった。
「風が入ってこないから、温かいわね」
ミランシャがようやくひとここちついたという顔をした。ミランシャが気に入ったとい
フの
うので、グリユウは嬉しそうである。
「それにしても、ムルトつてどこにいるんだフ」
下に座り、カイルロッドが訊くと、
「ここ」
おおま一じめ
大真面目にグリユウが答えた。
「ここってフ この洞窟?」
「違う。ここはここ」
∵Iここ・11.
ふざけているのではなく、グリユウは本当にそれしかわからないのだと思いつつも、カ
イルロッドはしつこく「ここというのはどこだ?」と訊いた。タジエナまできてムルトの
あいまい
居場所が曖昧では困るのである。
悲しみは輩昏とともに
しばらく不毛の会話が続いた。見かねたミランシャが「いい加減にしなさいよ」とカイ
ルロッドを止めたが、その時は遅く、
「おまえなんか嫌いだー」
ひぴ
グリユウがわーっと声をたてて、泣きだした。泣き声が洞窟内に響き渡った。
「ちょっと、王子− どうしてグリユウをいじめるのよ!」
ナ一ヤど
泣いているブリユウを抱きしめ、ミランシャが鋭くカイルロッドを非難した。グリユウ
はしゃくりあげながら、ミランシャにしがみついている。
「いじめるって、どこがいじめているんだよけ もっとわか。やすく説明しろって言って
るだけじゃないか−」
ひぽう
いわれのない誹謡にカイルロッドは反論したが、ミランシャには通じなかった。
「いじめてるわよ!・一土子はお兄さんなんだから、少しは優しくしてあげたっていいじゃ
ない!」
「俺とグリユウはいつから兄弟になったんだけ」
じようだん どな だしじようパh
冗談じゃないとカイルロッドは怒鳴ったが、ミランシャは聞いていなかった。「大丈夫
・l
よ」と、泣いているグリユウを宥めている。
しか
「どうして俺ばっか。叱られなくちゃならないんだフ」
はじ がいぷん
恥も外聞もなく泣いているグリユウを横目で見、カイルロッドはため息をついた。
「王子が小さな子をいじめるからよ」
まゆね
すかさずミランシャ。小さな子と言われ、カイルロッドは眉根を寄せた。
「 俺と同じ身長の、小さな子フ ・そりゃ俺だって、ダリユウが本当に小さな子供だ
かわい
ったら、可愛いと思うよ。だけど、こいつは生意気で、しかも俺の顔さえ見れば嫌いって
わめ
喚くじやないか」
あき
力説すると、ミランシャは心底呆れたような表情になった。
けんか
「妹いって言われて、妹いと言い返すのって、子供同士の喧嘩よ。王子はお兄さんなんだ
から、そういう時は嫌いなんて言っちゃいけないのよ。好かれるよう、歩み寄っていかな
ぴんかん
くちゃ。自分が好かれているか、いないか、子供ってそういうことにすごく敏感なんだか
ら」
1II I こ∴
おとなげ じゆうめん
大人気ないと言われ、カイルロッドは渋面になった。たしかに反省しなくてはならない
なつとく
ところもあるが、「どうして俺だけ、下手に出なくちゃならないんだ7」、納得できないと
ころもある。
いつしよ
「とにかく。一緒に旅をしているんだから、仲良くしてほしいわ」
悲しみは輩昏とともに
と、ミランシャは言う。それはもっともだったので、カイルロッドは少し反省した。グ
リユウには色々と助けてもらったし、道案内もしてもらっている。
がまん
「聞き分けの悪い弟ができたと思って我慢するか」
そう自分に言い聞かせ、カイルロッドはグリユウを見た。泣きやんで、ミランシャに抱
きついてる。
「グリユウ」
けいかい あっわ
名前を呼んでみたが、グリユウは顔に警戒を露にして、ミランシャにいよいよきつくし
がみついた。またカイルロッドにいじめられると思っているらしく、それが態度と表情に
あ。ありと出ている。
「仲直。しよう」
ねこな
この野郎と思いつつ、カイルロッドは猫撫で声を出して、おいでおいでをした。が、グ
リユウの警戒は増すばか。だった。カイルロッドとグリユウの間に、緊張した空気が流れ
る。
「なんだか、野良猫を手なずけようとしているみたいね」
二人の間でミランシャは呆れていた。
「手なずけるなら、食べ物でもあればよかったのかもしれない」
カイルロッドがそんなことを思っていると、クリユウの表情を別の緊張がかすめた。
「きたT」
▼こうくつ たん
洞窟の入りロに顔を向け、グリユウが叫んだ。カイルロッドは立ち上がり、反射的に短
けん
剣を取り出した。
ゴウッ。
かたまlテ
唸るような音がして、冷気の塊が洞窟の中に入ってきた。カイルロッドの、グリユウと
かみ
ミランシャの髪が大きく紺れる。
けす
一呼吸おいて、刃物と化した雪が襲いかかってきた。空間に白い線を描き、岩を削り、
カイルロッド達めがけて飛んでくる。
「くそっ−」
ミランシャとグリユウの前に立ち、カイルロッドは片手を前にかざした。
手の平から白い光が弄る。
雪が瞬く間に蒸発した。洞窟内に蒸気がたちこめた。
が、蒸気はすぐに氷の破片となった。三センチはあるだろう氷の破片が、上から降り注
いでくる。
「キヤアァー」
悲しみは黄昏とともに
ミランシャが悲鳴をあげた。
「ミランシャをいじめるな−」
ほとばし
叫び、グリユウが両手を上にかざした。手から光が逆。、氷の破片は溶けた。だが、す
こお
ぐにまた氷になる。洞窟内の冷気が蒸気をすぐに凍らせてしまうのだろう。
「きりがないー 外へ出ろー」
かば
二人の上に落ちてくる氷の破片を叩き落とし、カイルロッドは指示した。二人を庇って
えいり
いるので、カイルロッド自身は傷だらけになっている。鋭利な刃物で切りつけられたよう
に。レ
に、衣服のあちこちが裂け、そこから血が渉んでいた。
「でも・」
とまど
血だらけのカイルロッドを見て、グリユウは戸惑った顔をしたが、
「早くー」
どな
怒鳴。つけられ、ミランシャを庇いながら外に出た。
「二度と冬山登山なんかしないぞ!」
のど
喉の奥で唸。、カイルロッドも外に飛び出した。
そして、声を失った。
ぱけもの かま
洞窟の外には、雪と氷の化物が待ち構えていたのである。
白い獅子、白い蛇。狼と鳥、虎もいる。
数十という数の化物が、カイルロッド達三人の前に並んでいる。
「あっちへ行け!」
′、ヂ
ブリユウが光を放っているが、洞窟内の氷と同じで、崩れてもすぐに元通りになってし
まう。ここではグリユウの力もまるで効果がない。
「ブリユウ、やめろ−」
、フげき
カイルロッドは攻撃するグリユウを止めた。むやみに攻撃し続けたら、いずれこちらが
力尽きるだけだ。
「二度と再生できないようにしなければ」
こつかん
しかし、ここは酷寒の地だ。冷気がある限り、この雪と水の化物はすぐに再生してしま
うに違いない。
「ここまできて、ムルトも倒さずに死にたくないわー」
青ざめながらもミランシャが叫んだ。
あわ
「ここで死んだら、今までのことは水の泡になってしまう」
つnや
呟き、カイルロッドは短剣を握りしめた。とたん、三頭の雪の狼が飛びかかってきた。
たたか
それらに対し、カイルロッドは力ではなく、短剣で闘ってみた。一頭の首を切断し、次
のど
は喉を刺し、最後に胸を刺した。が、手応えがまったくない。
「短剣も効果なしか」
うめ うば
雪の狼を睨みながら、カイルロッドは坤いた。傷口から流れる血が、体温と気力を奪っ
ていく。
だいじようぷ
「王子、大丈夫lフ」
「あまり大丈夫じゃないけど、負けるわけにはいかないからな」
ゆが
ミランシャの声に薄い笑みで応じ、カイルロッドは深呼吸した。グリユウは顔を歪めて、
化物遠を睨んでいる。
Lぬわ
「慌てたら負ける」
とつlぎこう
冷静になれば、どこかに必ず突破口が見つけ出せるはずだ。そう自分自身に言い聞かせ
ながら、カイルロッドは無意識のうちにゲオルディのくれた白い珠を取り出していた。
2
寒さで指先が思うように動かなかった。そのせいだろう、カイルロッドは取り出した白
い珠を下に落としてしまった。
「しまったー」
悲しみは舞踏とともに
19
雪の中に、白い珠が落ちた。
しゆんかん
拾いあげようとした瞬間、白い珠が真っ赤に変わった。炎よりも、血よ。も赤い色だ。
、つてき せんれつ
処女雪の上に一滴の血が落ちたような、そんな鮮烈な光景だった。
「どうしたんだけ」
これまで、色が変わることなどなかった。何事かと、カイルロッドが目をみひらいた時、
赤い珠を中心にして凄まじい蒸気が立ちのぼった。
視界が真っ白になった。
一瞬にして雪が溶けたらしい。
また蒸気が氷の破片になるのではないかと、カイルロッドは危惧した。しかし、蒸気の
しりぞ
ままだ。足元から熟が感じられる。タジェナの冷気を退けるほどの熱だった。
「こんな力があったなんて」
ぶどろ
ゲオルディのくれた珠の力に驚きながら、カイルロッドは連れ二人を探した。
「ミランシャ、グリユウー」
「こっちよ、王子−」
蒸気の向こうで、人影が動いている。カイルロッドはそこへ足を運んだ。
「この蒸気、雪が溶けたの? いったい、なにが起きたのフ」
ミランシャはのぼせそうな顔をしていた。氷点下から急に温度が上がったのだから、無
理もない。
「ゲオルディ様からもらった珠が急に赤くなって、そしたら雪が蒸発したんだ」
カイルロッドがミランシャに説明していると、
ぱけもの
「化物が消えた」
コきrrん まえがふ ぬ
グリユウの不機嫌な声がした。まとわりつくような蒸気で前髪が濡れていた。それが気
に入らないのか、前髪をいじくっている。
「珠を探さないと I 」
たちこめる蒸気の中を歩きながら、カイルロッドは白い珠を探したが、見当たらない。
いつしよ
雪と一緒に溶けてしまった1そんな感じだった。
「とにかく、ここじゃなにもわからないわ。どこかへ移動しましょう」
ミランシャに言われ、カイルロッド達三人は蒸気の中から抜け出した。どこをどう歩い
たのかわからないが、カイルロッド達は小高い場所に立っていた。
「くしゃみしないようにしないと」
のろし
急激な温度変化に、寒気がしてきた。晶をおさえながら、カイルロッドは狼煙のように
高くのぼっている蒸気を見つめた。
悲しみは黄昏とともに
21
すさ
凄まじい熟を物語るように、辺り一面から雪が消えている。しかし、黒々とした地面は
ぼちじよう
見えず、雪の下には氷があった。それが溶かされてす。鉢状になっていた。まさに雪と氷
でできた山だ。
「なるほど、これじゃ雪と氷でできた化物はひとたま。もないな」
わん
すり鉢は半径が五〇メートルもありそうだった。巨大な氷の椀のようなそれを見下ろし、
カイルロッドが感心していると、
のんき けが
「なにを呑気に。王子、怪我は平気なのフこ
まゆ つ
ミランシャが眉を吊り上げた。
「うわっ」
からだ じゆつめん
言われて、改めて自分の身体を見回し、カイルロッドは渋面になった。結構怪我をして
いる。
「応急処置でもしておくよ」
カイルロッドが自分で布を巻こうとしていると、むっつ。顔のグリユウがやってきて、
「こっちの方が早い」
かた ふ
言い捨て、カイルロッドの肩に触れた。なにをしているのだろうと思っていると、グリ
ユウの触れている一宿から熟が伝わってきた。身体が温かくなり、傷が癒えていく。
ちゆ
「治癒してくれたのっ」
− ・
ミランシャが喜び、カイルロッドは驚いて自分と同じ顔の青年を見た。動植物から生気
を吸い取るだけでなく、自分のそれをわけ与えることもできるらしい。
「ありがとう」
軽くなった腕を回しながらカイルロッドが礼を言うと、グリユウは怒った顔でブイッと
そっぽを向いてしまった。
「照れているのよ」
っれ
グリユウがカイルロッドを助けたので、ミランシャは嬉しそうだ。
「うん」
カイルロッドも少し、グリユウに好意を持った。聞き分けの悪い弟だと思えば、これか
らやっていけないこともない。「怒るのは一〇回に一回くらいにしよう」、まだ怒った顔の
グリユウを見ながら、カイルロッドはそんなことを思った。
「助かったのはいいんだけど、ゲオルディ様にもらった珠がなくなってしまったな」
それが心残りだった。
「行くぞ」
グリユウが出発を告げた。カイルロッド達は再び、歩き始めた。
23 悲しみは輩昏とともに
lよけもの おそ
「また雪と氷の化物が襲ってくるかもしれないわね。ムルトつてしっこいから」
雪の中を歩きながら、ミランシャは投げや。に言った。「そうかもね」と、カイルロッ
むじんぞう
ドはうんざりした口調で応じた。なにしろここには雪と氷は無尽蔵にある。
「寒いのがますます嫌いになりそうだ」
すペ
足を滑らせそうになったミランシャを、カイルロッドが片手で支えた。とたん、ムッと
一
した顔でグリユウが振。返った。背中に目があるのかもしれない。
さわ
「ミランシャに触るなっ−」
「触ったんじゃなくて、支えたの!」
どた
怒鳴。つけてから、カイルロッドは「一〇回に一回は無理かもしれない」と、自分の前
てつかい
言を撤回しかけた。
「やっぱりどう見ても兄弟よね」
聞いていたミランシャがふうっと息をつき、頭を左右に振った。
「それにしてもどこにいるんだよ、ムルトつて」
ようま しゆうげき ま ぴら
これ以上の妖魔の襲撃なんて真っ平だと思いながら、カイルロッドが雪の中を歩いてい
ると、
「あっ1」
rるど たんけん
グリユウが鋭い声をあげた。即座にカイルロッドが短剣を構える。
「あそこー」
ゆ
ミランシャがなだらかな雪の斜面を指差した。そこには薄青い布が揺れていた。否、薄
い青色の服を着た女の姿があった。
かみ フれ
裾の長い服を着た、雪のように白い髪と赤い目をした、どこか憂いを含んだ美女!。
「ヴァランチーヌー」
とらゆう
カイルロッドとミランシャの声が重なった。タジエナ山脈に向かう途中の街で出会った
美女で、その正体はわからなかったが、ここにいるということは、ムルトの手下とみて間
ちが
違いない。
さぴ
ヴァランナーヌは無言で、カイルロッド達を見つめている。どこか寂しげな、憂いを含
んだ表情だった。
「やはりムルトの手下だったんだな」
カイルロッドが睨むと、
「ここまできてしまったのね」
ヴァランチーヌは微笑んだ。どこか諦めたような、そんな微笑みだった。
「ムルトはどこだ−」
悲しみは黄昏とともに
25
カイルロッドが声を張り上げると、ヴァランチーヌは赤い目を細めた。
「そう どうしてもムルトを倒すというのね」
その声にあるのは敵意や殺意ではなく、深い悲しみだった。それを感じとり、カイルロ
ヒまど
ッドは戸戒心った。
たたか よこノま
「今まで闘った妖魔達とは違う」
これまでカイルロッド達に襲いかかってきた妖魔達には、敵意と殺意があった。そして
い ふ
ムルトへの絶対的な服従と、畏怖があった。しかしウァランチーヌからは、それらのどれ
も感じられない。
「あっちへ行けー」
かく はば
短気なグリユウがヴァランチーヌめがけて光を放った。が、光は白い壁に阻まれた。ヴ
ァランチーヌの前に雪の壁ができている。
あやつ
「雪を操っているんだわー」
ミランシャが叫んだ。「自分の周囲を、溶けない特殊な雪で防御しているんだ」、カイル
ロッドは奥歯を噛みしめた。
げけんの
「さっきの雪と氷の化物を…。いや、北の街で、雪に似た妖魔を操っていたのもあんた
だったんだな」
こ▼フてい くちぴる
それを肯定するように、ヴァランチーヌは形のよい唇の両端をかすかに上げた。
美しい、雪と氷の魔女 −。
こうげき きんちよう
攻撃に備えてカイルロッドは身構えた。ミランシャとブリユウも、全身を緊張させてい
る。
風が細い昔をたてて、通りすぎていく。
だが、いつまでたってもヴァランチーヌは攻撃をしかけてこなかった。ただ、悲しそう
な顔でカイルロッドを見ている。
「 − ?」
けげん
カイルロッドが怪訝な目を向けると、
「今すぐ、タジュナを去ってちょうだい」
きさや
ヴァランチーヌは歌うように囁いた。
「えり」
おどろ すペ
これには驚き、カイルロッドは危うく足を滑らせそうになった。ミランシャもグリユウ
も目をパテパテさせている。
「去れって 」
「ムルトを殺さないで」
悲しみは黄昏とともに
lII IIl.、
哀願され、カイルロッドは絶句した。明らかにヴァランナーヌは、今までの妖魔とは異
′.
なっている。人間に近い。「まさか人間なのかフ」、そう思ったが、雪を操るというのは人
まほうつか
間離れしている。「しかし、力の強い魔法使いならそれぐらい可能だ」、自問自答しながら、
カイルロッドの頭は混乱してきた。
かば
「ヴァランナーヌ いったい、あなたは何者なんだフ どうしてムルトを庇うフ」
だま
カイルロッドの問いに、ヴァランナーヌは黙って目を伏せた。答えたくないらしい。白
まつげ サる
い捷毛が震えている。
..し .ト
「あなたがどうしてムルトを庇うのか知らないけど、俺はムルトを倒さなくちゃならない
んだ」
にぎ だれ
カイルロッドは短剣を鰹。直した。誰にどう言われようと、ムルトを倒すことをやめる
わけにはいかない。ルナンを石から戻すために。
「ムルトを倒すために、俺はここまできたんだ」
カイルロッドが強い口調で言うと、ヴァランチーヌはゆっく。と顔を上げた。赤い目が
炎のように燃えていた。
たたか
「やは。、飼うしかないのね」
28
硬い声を合図にしたかのように、空から雪が降ってきた。
冷たい風が吹き、雪を刃物にした。
「クリユウー ミランシャをー」
かば わめ
カイルロッドが言うまでもなく、グリユウはミランシャを庇い、「嫌いだー」と喚きな
がら、刃物となった雪を光で溶かしている。
その様子を横目で見、カイルロッドはヴァランチーヌめがけて走った。刃物と化した雪
ビんけつ
で全身が傷だらけになり、鮮血が雪の上に散ったが、構わなかった。
「俺はムルトを例すんだっ−」
1。レやま
それを邪魔する者は、誰であろうと倒さねばならない。
いっしゆん
カイルロッドはヴァランチーヌの前で、短剣をかざした。一瞬、ヴァランナーヌの表情
きよっか かんじめ
が動いた。しかし、それは恐怖でも、驚きでもなかった。甘受の表情だった。
目前の死を受け入れようとしている女に、カイルロッドは動揺した。イルダーナフにさ
んざん指摘された「甘さ」だ。
「いつまでも甘いままでいられないんだー」
しった け
自らを叱咤し、カイルロッドはありったけの気力を振り絞って、それを払いのけた。
が、動揺は一呼吸分、動きを鈍らせた。
悲しみは黄昏とともに
しゆんかん
短剣がヴァランチーヌを刺すと見えた瞬間 −。
足元が大きく揺れた。
地震などという揺れ方ではない。大地が消え、大波になってしまったような、そんな揺
れ方である。
「ムルト=」
かみ ゆ
髪を振。乱し、ヴァランチーヌが叫んだ。
しわぎ
「ムルトの仕業かっー」
つら
さすがにカイルロッドも立っているのが辛くなった。見ると、ミランシャとグリユウは
下に手をついている。
「出てこい、ムルトー」
どな
カイルロッドが怒鳴ると、足元が溶け始めていた。
、 −
みめぎいく
雪や氷が溶けるのではなく、飴細工が溶けるように、形を変えていく。
ぐにゃ。、と、タジェナ山脈そのものが形を変えようとしている。
「どういうことだけ」
ひぎ
投げ出され、カイルロッドは下に膝をついた。どうなっているのか、さっぱりわからな
「なによ、これP」
ミランシャの悲鳴が聞こえた。
「ミランシャー」
顔を向けると、ミランシャとグリユウが白いアメーバーのようなものに飲み込まれると
ころだった。
「ミランシャ、グリユウ=」
助けに行こうと、立ち上がったカイルロッドの背後から、同じような白いアメーバーの
おお
ようなものが覆いかぷきった。
1 、
やみ
白い闇だ。
カイルロッドは白い闇の中にいた。
ビヨウビョウと、強い風が耳元を通っていく。
にぶ
両手が鈍く痛み、その痛みでカイルロッドは我にかえった。
「ここはこ 」
悲しみは黄昏とともに
つぷや さカだ ぜつへき
呟き、カイルロッドは全身の毛を逆立てた。気がつくと、カイルロッドは絶壁にしがみ
ついていた。
「どうなっているんだ? ミランシャとグリユウほっ ヴァランチーヌはフ」
疑問を口にしたところで、答えてくれる者はいない。カイルロッドは上を見上げた。が、
やみ
頂上らしきものは見えない。そして足の下には、真っ黒い闇がロを開けている。
「落ちたら終わ。じゃないか」
自分の言葉にゾツとしたカイルロッドだった。なんの装備もなく、素手で岩にしがみつ
いているため、手の平から血が流れていた。
ぎんぽつ くヂ
風が吹くたび、銀髪がバサバサと大きく揺れる。足をかけていた岩が崩れ、下の闇の中
に落ちていった。
わな
「ムルトの罠にはまったのかフ」
あれこれと考えながら、カイルロッドは絶壁を登。始めた。罠であろうと、ここから進
まなくてはならない。
「ミランシャとグリユウを探さなくちゃな」
つか すペ
血で岩を掴んだ手が滑。そうになった。手の平から痛みが腕に伝わる。カイルロッドは
歯をくいしはった。寒さで身体が思うように動かせない。
H
つり
(辛いなら、手を離してしまうがいい)
風の昔に混じって、突然、男の声が聞こえた。ひび割れた低い声は、初めて聞くものだ
った。
「ムルトかP」
手を休めず、カイルロッドは叫んだ。思いあたるのはムルトしかいない。
pワいん
(無数の封印で能力を封じられているおまえが、よくここまできたものだ。さすが、《あ
つ
の方》の力を継いでいるだけのことはあると、まずは誉めてやろう)
うれ
「やはりムルトだなー きさまなんかに誉められたって、嬉しくもなんともないー」
登りながら、カイルロッドは吐き捨てた。
うわさ いや くちぴるか ねずみ
「噂どおりの嫌な野郎だ」、カイルロットは紫色になった唇を噛んだ。猫が捕らえた鼠を
いたぶるように、ムルトはカイルロッドをいたぶっているのだ。
「負けてたまるか」
せつへき
肩で息をしながら、カイルロッドは絶壁を登っていった。耳元では、なおもムルトの声
が聞こえる。
(このタジエナは見える者にしか見えない。おまえには見えているのかっ)
いんしつ
陰湿な笑いを含んだ声だった。心理的に揺さぶりをかけているのだと、カイルロッドは
無視した。
− −・. .
(見えているのかフ すべて幻かもしれないぞフ)
「きさま こ
うす
いい加減にしろと言いかけ、カイルロッドは言葉を失った。ふいに絶壁が薄く1−透明
になっていくではないか。
ばか
「馬鹿なー」
カイルロッドの顔から血の気が引いた。手をかけている岩が、足元の岩場が透けていく。
消えていくのだ。
(幻かもしれないぞフ)
こぷ
ムルトの声がカイルロッドの背筋を凍らせた。強かった風もなくなっていた。
カイルロッドは白い空間に浮いていた。
幻の山、タジエナ。
「本当に幻かもしれない ー つ・」
馬鹿なと否定しっつ、心は大きく揺れていた。現に岩は消えてしまったのである。
(山が幻なら、落ちるかもしれないなフ)
底意地の悪い笑いを含んだ声がした。
5 悲しみは黄昏とともに
かたまり のどもと つ
悲鳴が塊となって、カイルロッドの喉元まで突き上げてきた。
幻なら、落ちるだけだ。
身体が落下していくような気がした。
「落ちる 一 日」
幻なら、あ。もしない山なら、落ちて当然だ。そう思ったカイルロッドの横で「違う
だれ さけ
っ〓」、誰かが大声で叫んだ。
「タジエナはあるんだー ハムが言ったんだ、タジェナはあるって一 億は自分を信じる
より、あの子を信じるー」
叫んでいたのはカイルロッド自身だった。自分の叫び声で、カイルロッドは正気を取り
戻した。
「ひっかかってたまるかー」
唸ると、消えた岩が現われた。風の音も聞こえた。代わりにムルトの声が聞こえなくな
った。
「・危なかったな」
ささや まど
カイルロッドは頭を振った。あの噴きには、人の心を惑わす魔力があったのかもしれな
ツわさ いルけん
「それにしても、噂どおり陰険な性格をしてるよな」
つ▼ふや つめ
口の中で呟き、カイルロッドは顔をしかめた。爪がはがれ、血が流れた。
けんめい
息をきらし、手を血だらけにして懸命に登っているのだが、いつまでたっても頂上が見
えない。筋肉痛で腕も足もガタガタと震えだした。
「馬になった時よりしんどいな」
ころあl :りき
頃合を見計らったように、風に雪が混じり始め、あっと言う間に吹雪になった。
ほか
上も下も見えず、風の喰りの他にはなにも聞こえない。
「I・本当に頂上があるのかな」
ふとそんな弱気が頭をもたげた。完全な孤独と疲労が、カイルロッドに「手を離してし
ささや
まえ」と優しく囁く。
つり
手を離してしまえば楽になるのだ。顔も知らない親の因果を背負わされて、辛い思いを
たたか
しなくてすむ。もう妖魔などと闘わなくてすむ。そうすれば、誰も死なない。二度と「人
ののし
殺し」と屠られないですむだろう。重い荷をおろしてしまえるのだ。
. .り い
それは甘美な誘惑だった。
これ以上、苦しい思いをしなくてすむ。人が死ぬのを見ないですめば、どれほど楽だろ
うか。
悲しみは輩昏とともに
「でも、そういうわけにはいかない」
つか
岩を掴んだ手に、カイルロッドはグッと力をこめた。たとえ上が見えなくとも、進まね
ばならない。立ち止まるわけにはいかない。
「どんなに重くても、俺が背負わなくてはならないものなんだから」
ここで放。出したら、タジェナにくるまでに出会った人々のことや、泣いたり悲しんだ
むだ
りしたことが無駄になってしまうではないか。
「ルナンが石にされた時、俺は自分の進むべき道を決めたんだ」
つホや
強制されたのではない、自分で選んだのだ。手足を動かしながら、カイルロッドは呟い
た。
レしらゆスノ
決意したこととはいえ、登っている途中でもう動きたくないと、何回も身体が悲鳴をあ
げた。それでも勤かしていられるのは、イルダーナフのおかげだと思った。
「鍛えてもらったからな」
のうり おか
今までにあった色々な出来事が脳裏をよぎ。、カイルロッドはなんだか可笑しくなった。
むしよう ごうかい
「どこでどうしているんだろう」、こんな時は無性にあの豪快な大男に会いたくなる。「し
っか。しろや、王子」と、太く通る声で背中を押してほしかった。
だめ あま
「駄目だな。俺はすぐ他人に甘える」
それもイルダーナフに見限られた理由の一つだろうと、カイルロッドは思った。
か
吹雪はいっこうに弱まらない。それどころかますます強くなって、叩きつける。
もくもく ぜつペき
長い、気が遠くなるほどの時間、カイルロッドはただ黙々と絶壁を登っていた。手足の
感覚はなくなり、思考も麻痺していた。それでも、登り続けていた。
やがて、伸ばした手が岩でなく、平らな面に触れた。
「頂上かP」
おどろ
驚き、同時に喜びがわきあがった。カイルロッドはそこに両手をかけ、身体を持ち上げ
た。
「ああっけ・」
目に飛びこんだ風景に、思わずカイルロッドは声をあげた。
・、.
そこには氷の平原が広がっていた。空は青く、磨かれた鏡のような表面がその青を映し
取っている。青い氷原は果てがないような広さだった。
「山の頂上じゃないぞ」
坤いたカイルロッドの姿が、氷の表面に映っている。気がつくと、いつの間にか吹雪も
や
止んでいた。
「どうなっているんだフ」
悲しみは資昏とともに
カイルロッドには、タジェナという山がわからなくなった。
「 本当に山なんだろうか?」
山というのは呼び名だけで、実態はムルトのきまぐれひとつで、どうにでも形を変える
とうとつ ぜつへき なつとく
ものなのではないか。だとすれば、唐突な氷原も、消えた絶壁もすべて納得できる。
おそらくタジエナというのは、単純にムルトがいる場所ではなく、「ムルトの世界」を
指しているのだ。なだらかだった山道も、絶壁も、この氷原もすべてムルトが作った物な
のだ。
おれ
「俺をいいようにいたぶっていたんだな」
麻痺していたはずの感情が、怒りの方向に動き始めた。タジェナに登。始めた時から、
かんし
ずっとカイルロッド達を監視していたに違いない。
「出てこい、ムルトー」
怒。を含んだカイルロッドの声がこだました。
そのこだまが消えかけた暗、
「初めまして、カイルロッド王子」
人をくったような声がして、カイルロッドの正面に男が立っていた。いつ現われたのか、
カイルロッドはまるで気がつかなかった。
「・ムルトフ」
「ええ、そうです」
ぎようし
その声には聞き覚えがあった。カイルロッドは正面にいる男を凝視した。どう見ても三
なか こがら や かみ
〇代半ばぐらいの、小柄で痩せぎすな男だった。髪と目の色は黒っぼく、黒いロープを羽
織っている。
「なんか、考えていたのと違うな」
こんじよう
というのが、カイルロッドの正直な感想だった。なにしろ、根性の悪さは少し前に思い
あやつ
知らされたばかりだし、妖魔を手足のごとく操っている魔道士だから、人相も凶悪極まり
ないと思いこんでいたのである。
「でも、外見じゃわからないからな」
いまし
そう自分を戒めたカイルロッドに、
「お会いできて光栄です」
人の好さそうな笑顔でムルトが言った。
「なにがお会いできて光栄だ」
カイルロッドはこめかみに青筋をうかべた。白々しいのも、ここまでくれは見上げたも
くせもの
のだ。今のところ殺意も敵意も感じられないが、それがまた曲者なのだろう。カイルロッ
悲しみは韓昏とともに
けいかい
ドは警戒を強めた。
「俺の連れはどこにいる?」
「ああ。あの二人ですか。元気ですよ」
やはりムルトに捕らえられているらしい。「人質か」、カイルロッドは吉打ちしたい気分
だった。
「用があるのは俺だけのはずだ一 二人を解放しろー」
カイルロッドがかみつくと、ムルトは「まぁまぁ」と、聞手を動かした。
あわ
「そう慌てずとも、あの二人は解放しますよ。ただその前に、私はあなたと色々と話した
いことがあるのです。私はね、あなたがここにきてくれるのを、一日千秋の思いで待って
いたのですよ」
「よく言うよ。妖魔を放って、俺を殺そうとしたくせに」
「親愛のしるLです」
ぬけぬけとした言い種にカイルロッドは心底うんざ。し、胸がムカムカしてきた。イル
ダーナフなども口がうまくて、カイルロッドはいつもやりこめられていたが、こんな不快
せnリL
感を感じたことはなかった。同じような台詞を口にしても、まったく違って聞こえるのは
性格の違いのせいだろう。
「とにかく、俺にはきさまなんぞと話すことはないし、話したいとも思わないー 俺は一
刻も早くきさまを倒して、ルナンを元通りにするだけだー」
言い包められる前にさっさと倒してしまおうと、カイルロッドが手の平に力を集中させ
ると、
「後悔しますよ、カイルロッド王子」
ふつぼう
ふいにムルトの双絆が刃物の光を帯びた。
「どういう意味だっ」
か、
「あなたは自分のことを知りたいと思わないのですかフ 皆がひた隠しにしているあなた
だいしん一しん
の実父のことや、フエルハーン大神殿との関わりを知りたくないのですかフ」
じゆうぶん
ムルトの言葉は、カイルロッドの心を動揺させるに充分だった。手の平の力が急速に弱
まってきた。
「きさまは知っているっていうのか ・」
カイルロッドが言うと、ムルトはこンマリと笑い、
「知っているからこそ、こうしてタジエナにいるのですよ」
・ .
低く、呟いた。
悲しみは黄昏とともに
4
ぬ
凍えるような風が吹き抜けた。
こうげき や
うまくのせられた気がしないでもないが、と。あえずカイルロッドは攻撃を止めた。
「素直で結構なことです」
ムルトはニッと笑った。
.・一 .ト
「それで、俺の実父というのは誰なんだ? フェルハーン大神殿との関わりというのはな
んだ?」
いりいり
苛々とカイルロッドが訊くと、ムルトはスッと自分の頭上を指差した。
「あなたの実父というのはね、タジェナの奥にいる方ですよ」
「なんだ、それはフ」
カイルロッドにはよくわからない答えだった。タジェナ山脈の奥にいるというのはどう
いう意味なのか。しかし、ムルトはカイルロッドの疑問を無視して、話を続ける。
「カイルロッド王子。私はかつてフェルハーン大神殿にいた者です。神官でした」
「またかー」
カイルロッドは唸った。ザーダックといい、亡母のフィリオリといい、よくも次から次
せきわん
へと、フエルハーン大神殿の関係者が出てくるものだ。隻腕の青年エル・トパックも、神
かんしやく
殿の監視役といっていた。
めいわく
「フエルハーン大神殿の関係者が、どうしてこんな場所にいて、人々に迷惑をかけている
んだ−」
一度フエルハーン大神殿に行って、最高責任者に文句を言ってやりたいと、
ドは本気で思った。
「迷惑とは心外です。私はただ、秘密を知りたかっただけなのですよ」
「秘密フ」
「そう。この世の秘密を」
カイルロッ
にこやかに言うムルトを見て、カイルロッドは何回もまばたきした。
「この世の秘密なんて、人間にはわかるはずもないじゃないか」
あき は Pペつ
呆れて言うと、ムルトは口の端に侮蔑を刻んだ。
あきら
「無知な者はすぐに諦める。しかし、私は諦められなかった。その欲求にとりつかれ、あ
らゆることに手を出しました。神殿が禁じていることにもね」
「一ザーダックのようにか・・・」
あいそん たましいあくま lまだ あわ
愛孫のために、魂を悪魔に売った老人を思い出し、カイルロッドの肌は粟だった。
悲しみは鵡昏とともに
「ザーダックフ ああ、あの男は高い知識と強い力を持ちながら、それを活かそうとしな
I.1.・
かった愚か者ですよ。しかし、私は違う」
にじ
ムルトの温厚だった顔にどす黒い狂気が珍み出し、広がっていった。この狂気こそがム
ほんし、まう
ルトの本性なのだと、カイルロッドは顔をしかめた。
おれ
「どう違うって言うんだフ 俺に言わせれば、きさまはザーダックなんかよりも始末が悪
いぜ」
カイルロッドが悪態をつくと、ムルトの顔から笑みが消えた。
「愚かなのはザーダックだけではない。フエルハーン大神殿そのものが、くだらない存在
あ
だ。重大な秘密と力を秘めながら、そのことを忘れ、飽きもせずにつまらない権力闘争を
く。返している。神殿も、そこにいる者達もすべて愚かだ。この世の真理を求め、それを
いたんあつカl はず ののし
得ようとしている私を異端扱いし、人の道に外れると罵ったのだから」
「 ・」
ぎせい
「真理を追究するためには、多少の犠牲はやむをえないことだ。それを理解しない馬鹿者
どもめがー」
ふつ号つ っ
ムルトの目がギラリと物騒に光った。ムルトは「この世の秘密」などというものに憑か
れ、そのために多くの犠牲を出したに違いない。それでフエルハーン大神殿を追われたの
だろう。
lまか あ
自分の追究するもの、目的のためには他のなにを犠牲にしてもいいという思考の在り方、
その狂気に、カイルロッドは声も出せなくなった。
「真理を求めて、私はタジェナ山脈にきたのですよ」
「タジエナに、きさまの知りたい答えがあるのかフ」
そぼく あぎけ
カイルロッドの素朴な疑問に、ムルトは薄く笑った。無知を嘲る笑いだった。
「タジエナは特別な山なのですよ」
笑いをおさめ、ムルトは言葉を続ける。
だいしんでん
「この私がタジェナにいると知りながら、何故、フエルハーン大神殿の者は倒しにこない
イしぎ
のか。不思議に思ったことはありませんか、カイルロッド王子」
「それは でも、あんたの力が強大だからだろうフ」
はじ
そうカイルロッドが答えると、ムルトは弾けたような大声で笑った。
くず
「本当になにも知らないのだな。タジェナが崩れた時、《あの方》が現われる。それを恐
れているのだ。私を倒すことでタジェナが崩れる ー それを恐れて、誰もこられなかった
のだ」
おどろ
意外なことを聞き、カイルロッドは驚いた。フエルハーン大神殿がムルト本人ではなく、
7 悲しみは黄昏とともに
ムルトの後ろにあるタジェナ山脈を、そしてそこにいるという《あの方妙を恐れていたと
は。
「だが、もうすぐ《あの方》よ。、この私を恐れるようになるのだ」
かくしlやつささや
ムルトの声が熟を帯びる。復讐の囁きに似ていた。
「私はここで神になる。そのためには絶対の力が必要なのだ。あなたの力が必要だ」
きれつ
ビシッ、と昔がして、カイルロッドとムルトの間の氷原に亀裂がはしった。
はり つ
空気までも凍てつく凄まじい殺意に、カイルロッドは全身を針で突かれているような痛
みを感じた。
「ムルト、どんなに力が強くても、人間は神になんかなれないー」
なれはしない、そしてなってはいけないのだ。人間は人間であるべきだ。
「私は神になるー 《あの方》を超える! そのためには《あの方》の力を持つ、あなた
が必要なのだー」
カイルロッドの芦など、ムルトは聞いていなかった。声と目が氷よりも冷たくなってい
る。
「私は誰よ。も強くな。たいのだー」
「《あの方》というのは、俺の実父は何者なんだけ タジェナの奥にいるというのは、ど
ういう意味だ膏」
さけ しゆんかん きみよう
叫んだ瞬間、カイルロッドは奇妙な落下感覚を覚えた。
きれつ
と、亀裂を境にして、カイルロッドとムルトの立っている場所に段差ができた。
ゴゴゴッ。
地鳴りとともに氷原の表面が割れ、次々と段差が生じ、硬い表面の氷を割って、氷の柱
つ
が突き上げてきた。
「逃げるのか!」
上にいるムルトめがけ、よろめきながらカイルロッドは力を放った。
光を受けて、ムルトの姿が消し飛んだ。
「倒したのかけ」
っか ま みみぎわ ふる
カイルロッドの喜びも束の間、ムルトの耳障りな笑い声が大気を震わせた。
こわ
(そんな人形を壊しただけでいい気になるなよ。私の力はもっと強大だ)
いや
「ほんっとに嫌な性格だな!」
かたまhリ うな
上から落ちてきた巨大な氷の塊を避け、カイルロッドは唸った。今まで話していたのは、
ムルトの人形だというのだ。
「ベラベラとしゃべっていたが、ひとつも俺の質問に答えてないぞ、ムルトー」
悲しみは黄昏とともに
どな
姿のないムルトに向かって怒鳴ったが、返事はなかった。その代わりというように氷の
柱が次々と現われ、カイルロッドはそれらを避けていった。
せいじやく もど
やがて、地場。も消え、氷原は静寂を取り戻した。ただし、その姿は変わっていた。
「また消えたのか」
あせぬぐ ほんろう
額の汗を拭い、カイルロッドは長い息を吐。いた。まったくムルトにいいように翻弄され
ている。
おり
「これじゃ檻の中じゃないか」
1−・・1I
カイルロッドは周りを見回し、鋭く舌打ちした。氷の柱に囲まれてお。、見えるのは空
だけだ。
取り囲まれた柱の外に出ようとした時、前にあった氷の柱が吹き飛んだ。
カイルロッドはとっさに手をかざし、氷の破片を溶かした。しかし、別の柱や足元には
砕けた氷の破片が突き刺さっていた。
「証だP」
すいか
誰何の声をかけると、立ちこめた蒸気の中にカイルロッドそっくりな青年、ブリユウが
立っていた。
「グリユウか。ミランシャはどうしたフ どこにいるんだ?」
ぁへど きん
安堵してグリユウに話しかけたカイルロッドだが、即座に異変を嗅ぎとって全身を緊
張させた。
「ブリユウけ・」
グリユウには違いないのだが、カイルロッドの知っている青年ではない。全身から殺意
ただよ ほか
や敵意を漂わせていた。まるで他の感情を抜かれたような、そんな表情でカイルロッドを
にら
睨んでいる。
ぎんばつ ゆ
ふわりと、グリユウの銀髪が揺れた。
せつな
剃那、カイルロッドめがけて、長身が飛んだ。
「グリユウ、やめろー」
真上からの鋭い断りを両腕で防ぎ、カイルロッドは後方に回転した。
こうげりき
が、グリユウは素早く次の攻撃に移った。
シュッと風をきる音がして、ブリユウの手が突き出されてくる。それは文字どおりの手
刀で、氷の柱をも切断した。
やつ
「なんて奴だ・…・」
なまつぼ ほほ
カイルロッドは生唾を飲み込んだ。手刀をかわしたはずの頬や腕に切傷ができていた。
(どうした、カイルロッド。逃げ回っていては、殺されるぞフ)
悲しみは黄昏とともに
ムルトの声が聞こえた。明らかにこの光景を楽しんでいる声だ。
「きさま、ブリユウになにをしたー」
どな
グリユウの素早い攻撃を避けながら、カイルロッドは怒鳴った。
(なにも。これは私の造ったものだ。創造主に従うのは当然だろうフ)
「創造主P.」
一ガのが
驚いたカイルロッドに隙が生じた。それをグリユウは見逃さなかった。
両手を突き出し、カイルロッドめがけて光を放った。
「くっー」
カイルロッドも手をかざし、グリユウの攻撃を弾いた。
弾かれた光が柱を溶かした。
「創造主というのはどういう意味だ、ムルトー」
ぎーバし
(私の造った生命体だよ。あなたの血をもらって、造り出した擬似生命だ)
カイルロッドはグリユウを凝視した。グリユウは感情の欠落した顔で、次々と攻撃して
くる。
「ダリユウ、やめろー・」
それを防ぐだけで、カイルロッドは攻撃できなかった。
(反撃しないと、やられるだけだぞフ)
のど
クックックと、喉の奥で実っているような声が聞こえた。神になると言い出すだけあっ
て、ムルトの力は強いのだろう。擬似生命を造り出すほどだ。しかし、そんなことが許さ
れていいはずはない。
「造り出した生命だからって、きさまのものじゃないーブリユウをもとに戻せー」
いきどお
憤りのあまり、カイルロッドの目に涙が渉んできた。生命をもてあそんでいるムルトを
許せないと、生まれて初めて、ためらいなく他人を憎んだ。
「きさまなんか消えるがいいー」
さけ しやくねつ
叫んだカイルロッドの全身が灼熟し、目の前が真っ白になった。
5
しんどう
空気が震動した。
...・.・
異変を感じ取り、ミランシャは鋭く息を飲んだ。
「王子n」
さけ あわ
叫んでから我にかえり、慌ててミランシャは周りを見回した。透明な氷の柱が立ち、足
ゆか
元も氷らしい。ミランシャの姿が柱や床に映っている。
悲しみは黄昏とともに
ろうごく
「氷の牢獄なのP」
かみ
口にしてから、ミランシャは自分の髪をかきあげた。どうして自分がこんな場所にいる
のか、さっぱりわからない。白いアメーバ一に飲み込まれるまでの記憶はあるのだが、そ
ぬ
れ以後が抜けているのだ。
「あれからどれほどの時間が過ぎたのかしら。王子とグリエウの姿が見えないし。三人と
も、別々の場所に閉じこめられちゃったのかしら?」
つぷや
ぶつぶつと呟きながら、ミランシャは出口を求めて歩き回った。しかし、行けども行け
ども、氷の柱ばか。だ。
「本当に牢獄みたいね」
ミランシャはため息をつき、
「あたしの火で溶かせるかしら?」
自信はまったくないが、試しに火を出して、氷の柱にぶつけてみた。結果は予想どおり、
表面を溶かすことすらできなかった。
むぽう
「…こムルトと比べること自体が無謀なんだろうけど、それにしたって 」
きぬず
魔女見習いが自信を喪失していると、衣擦れの音がした。
その方向にミランシャが身体ごと向くと、薄い青色の服を着た女、ヴァランチーヌがい
た。
「ヴァランナーヌー 王子とグリユウはどこけ あたしをこんなところに閉じこめて、ど
うするつもりよー」
つか
恐れを知らずにミランシャは、ヴァランチーヌに掴みかかろうとした。ムルトの手下で
あるこの女には、言ってやりたいことがある。
あとヂさ
が、掴みかかる前に氷の飛礫を受けて、後退りした。
「痛いじゃないー」
まゆ つ ルビー
顔と腕に飛礫を受け、ミランシャが眉を吊り上げた。ヴァランチーヌは無言で、紅玉の
ような目をミランシャに向けている。
よそお
「なんとか苦ったらどうなのP だいたい、あんたって陰険だわ▼ 北の街で親切を装っ
てあたし達を殺そうとしたり、ムルトを殺さないでなんて、泣き落とししたりしてl 妖
む
魔なら妖魔らしく、敵意剥き出しで攻撃してきなさいよー」
しんどう
ミランシャの声に氷の柱が振動した。
「あたしは妖魔じゃないわ」
ポッリとヴァランチーヌが言った。ミランシャは目をパテパテさせた。
「でも、もう人間ではなくなってしまった。ムルト同様に」
いつしゆん
赤い目に深い悲しみがあり、ミランシャはほんの一瞬だが、口こもってしまった。
「ど、どういう意味なのP そもそも、あなた、ムルトのなにけ」
かみ
カイルロッドも口にしていた疑問を、ミランシャもぶつけてみたが、白い髪の女はただ
ふ
目を伏せるばかりだった。
「どうしても言いたくないなら、いいわよ− その代わり、王子とグリユウの居所を教え
てちょうだいー 少し前に、なにかあったでしょうn あれは王子やダリユウになにかあ
ったからじゃないのけ」
いらいり は
ミランシャは苛々と吐き捨てた。実際、二人になにかあったとしても、そこにミランシ
だま
ャが行ったところで、なんの役にも立たないことは自覚している。しかし、黙って閉じ込
められているより、ましだと思った。
「王子とグリユウはどこけ」
たたか
「・闘っているわ」
それを聞いて、ミランシャは絶句した。
「王子とグリユウがけ ムルトとではなくてP.どうしてけ」
うなず
ヴァランチーヌが額いた。
ふ・フいん と
「カイルロッド王子の力の封印を解くために、グリユウは闘わされているの。グリユウは
J 悲しみは葵俸とともに
あやつ
ムルトに操られているのよ」
「………」
ミランシャは総毛だった。すっかり忘れかけていたが、ブリユウはムルトの手下だった
のだ。
やつ
「なんて奴なの、ムルトつて」
うわさ
ミランシャは心底怒。をおぼえた。噂には聞いていたが、ここまでひどい性格をしてい
ようとは。
「あんな奴を助けたがっているあんたの気持ち、あたしには理解できないわー」
どな
八つ当たりのようだと思いつつ、ミランシャはヴァランチーヌを怒鳴りつけた。
「 ・」
まじよ きげ lまほl
怒るかと思われたが、雪と氷を操る魔女は淋しそうに微笑んだだけだった。
「とにかく、ここから出してトで−」
足を踏み鳴らし、ミランシャ。一刻も早く、二人のところへ行きたかった。そんなミラ
ンシャを、ヴァランチーヌはなにか言いたげな表情で見つめていたが、
「あなたはカイルロッド王子のことが好きなの?」
すペ
出し抜けに、思いもかけない質問をされ、ミランシャは氷に足を滑らせそうになった。
「どうだっていいでしょう、そんなことー」
さけ
叫びつつ、顔に血がのぼっていくのを止められなかった。
「そう、好きなのね」
つぶや はほえ
呟き、ヴァランナーヌは微笑んだ。初めて見る、優しい笑みだった。北の街で家に泊め
てもらった時ですら、見たことがない。
「あなたがカイルロッド王子を好きなように、あたしはムルトを愛している。世界中の人
人がムルトを非難し、憎んでも・・。あたしだけは、彼を見捨ててはいけないのよ」
遠いものを見るように、ヴァランナーヌの視線が宙に浮いた。ミランシャはどうしてい
いのかわからず、そんなウァランチーヌの横顔を見つめていた。
「この人、ムルトの恋人なのかしら?」
ほか
そんな馬鹿なと思いつつ、他には思いつかなかった。
「もし、王子がムルトみたいなひどい奴になってしまったら・・それでも、あたし、きっ
と・…」
きっと、ヴァランチーヌと同じことを言うだろう、とミランシャは思った。
「あなた、ここにいた方がいいわ。ここはあたしの結界だから、ムルトも簡単にはあなた
を見つけられない。ここにいれば安全よ」
悲しみは黄昏とともに
まゆ
ふいにヴァランチーヌがそんなことを言い出し、ミランシャは軽く眉をひそめた。
「どうしてそんなことを言うのフ・」
「…こカイルロッド王子のところへ行けば・・あなたは辛い思いをすることになるわ」
きぴ
ヴァランチーヌの声と表情が厳しくなった。ミランシャを引き止めようとしている。
ミランシャはヴァランチ1⊥メを見た。敵か味方か、わからない女だ。しかし、今、ミラ
ンシャを引き止めようとしているのは悪意からではなく、むしろミランシャのことを案じ
ているようだった。
そば
「あたし、どんなに辛くても、王子を見ていたいの。ブリユウの側にいてあげたい」
ゆっく。と、噛みしめるようにミランシャは呟いた。
「あたしにできることは、見ていることだけなの。[日をそらさずに、王子を見ていること
だけ」
げはう
初めて会った時から、心惹かれていた。王子という身分や美貌とは関係なく、カイルロ
ッドに惹かれていたのだ。
これまで、何人かに 「カイルロッドが好きなんだろうつ」と言われたが、ミランシャは
いこじ
意固地になって否定してきた。そして今、ようやくミランシャはそのことを認めた。
「あたし、王子が好きなの。ずっと、否定してきたけど。あたし、そのことを認めるのが
恐かった。だって、相手は王子様だもの。あたしは魔女見習いで、どう考えたって身分違
いだもの。だからね、一度だけ別れちゃったことがあるわ。その後、王子が追いかけてき
てくれて・…。あたしのことを心配してじゃなかったけど、嬉しかった」
一息ついて、ミランシャは笑った。
「王子に初めて会った時ね、あたし、運命だと思ったの。ずっと前から知っていて、会い
たくて仕方なかった人に、やっと会えたんだって」
ひ
どうしてこんなに惹かれるのか、ミランシャにはわからない。しかし、だから今までず
っと旅をしてきたのだ。辛くて悲しくて、逃げてしまいたいことが幾度もあったのに。
「笑ってもいいわよ。あたしの勝手な思い込みだって」
おどろ
嘲笑されているだろうと思って顔を向けたミランシャは、驚いた。
かた ふる ぬ
ヴァランチーヌは泣いていた。肩を震わせ、涙で顔を濡らしていた。その悲しそうな顔
で、ミランシャを見つめている。
「ヴァランチーヌー▼」
彼女が何故泣くのか、ミランシャにはわからなかった。そして、なにをそんなに悲しん
でいるのかも、わからなかった。
「わかったわ、ここから出してあげる」
悲しみは黄昏とともに
涙を拭きながら、ヴァランチーヌは貰える声でそう言った。
青い空を裂くように、タジェナ山脈から光の柱がのぼった。
しようげき
光の柱を青い氷原が映していた。不毛の大地が、衝撃に震えている。
くろかみ ゼいかん ゆが
そこに立ち、黒髪の大男イルダーナフは精惇な顔を歪めて、光の柱を見ていた。あらゆ
こご こつかん
るものを凍えさせる酷寒の地だというのに、イルダーナフは呆れるような軽装で、平然と
していた。
「・・やってやがるな」
つぷや
呟きながら、右手でフィリオリの指輪をいじっている。
′しこわ
「王子、ムルトなんぞに負けるんじゃねぇ。おまえの本当の敵は、実父はもっと手強いん
だぜ」
イルダーナフの呟きは風に消された。
二葦 その手の中に=
ま
「
光が消え、気がつくと、青と白で構成されていた氷原が色彩を変えていた。
一面の赤だった。
雪と水が赤く塗り番えられ、空までも焼けた鉄のような色に変わっていた。
なにが起きたのか、わからない。
しかし、氷原は赤く染まっていた。
あわ
カイルロッドは自分の手を見た。淡い赤の影が落ちている。光の反射で、全身が赤く染
っていた。[疋元の影さえも赤い。
夕碁の赤でなく、血の赤だ。
おそけ
怖気のするような光景だった。
…・ううっ」
悲しみは黄昏とともに
63
うめ
苦しげな坤き声に、カイルロッドは視線を動かした。見ると、少し離れた場所にグリユ
たお
ウが倒れていた。
「グリユウt」
グリユウの姿を見て、カイルロッドはくぐもった声をあげた。
かた
うつぶせに倒れているグリユクの、右半身がない。肩から足まで、木を縦に裂いたよう
ぎんぽつ ぬ
になくなっていた。長い銀髪の半分以上が、血で濡れている。
「グリユウ・・・」
グリユウの酷い姿に、カイルロッドの口の中は乾いていた。カイルロッドの力が、ブリ
ュウの右半身を吹き飛ばしたのだ。
「痛いよ 」
ゆカ けつじよ
氷の上で、グリユウが顔を歪めて泣いている。感情の欠如した人形ではなく、カイルロ
ッドの知っているグリユウになっていた。
「…・痛いよ、痛いよぉ。ミランシャ、助けて」
泣きながらミランシャを呼んでいる。
おれ
「俺が・…」
カイルロッドが咋いた時、どこからともなくムルトの声がした。
でついん
(力を出してこの程度とはな。それともまだ封印が強いのか 。正直言ってがっかりし
たぞ、カイルロッド)
それを聞いて、カイルロッドの頭に血がのぼった。自分自身への奴心りだった。
「どうしてムルトを倒せないんだけ・」
グリユウを傷っけてしまいながら、ムルトにはまるで歯がたたないというのか。さっき
こツげき
の攻撃は加減などしなかった、本気でムルトへ殺意を向けたのだ。
「そんな 」
にぎ
拳をきつく握り、カイルロッドは低く唸った。
「俺にはムルトを倒せないのかけ」
がくぜん
愕然としていると、
「ミランシャ、ミランシャー」
傷っいた子供が母親を求めて泣くように、グリユウがミランシャを呼んでいる声が耳に
入った。右半身を失い、片手で這いながらミランシャを探している。
「ムルト、ミランシャはどこだけ」
カイルロッドは叫んだ。グリユウはもう助からない。せめてミランシャに会わせてやり
たかった。
5 悲しみは黄昏とともに
(ミランシャ?・.さあ、どこにいるかな? 探してみてはどうだフ)
もど しよせん き
しかし、底意地の悪い声が戻ってきただけだった。所詮、訊いたところで、まともな返
事を返すような男ではない。
「ブリユウ、ミランシャに会わせてやるぞ」
カイルロッドはミランシャを探して、赤い氷原を走った。グリユウにミランシャを会わ
つぐな
せてやるのが、せめてもの償いだった。
しかし、どこまで行っても氷原には果てがない。正しくは同じ場所に戻ってしまうのだ。
グルグルと同じ場所を走っているということになる。
きたな
「汚いぞ、ムルトー」
立ち止まってカイルロッドは叫んだが、含み笑いが戻ってきただけだった。
「くそっー」
おの
グリユウの泣き声を聞きながら、カイルロッドが己れの無力さにギリギリと奥歯を噛み
しめていると、
ぎふじ
(ふん。擬似生命でも、痛みはあるのか。生意気な)
あぎlブ ひげ
ムルトの嘲りが響いた。
「きさま=−」
痛みにのたうつグリユウを見ながら、それを嘲るムルトに、カイルロッドは目も眩むよ
うな怒りを覚えた。
たお
「どうして俺はムルトを倒せないんだけこ
きユノお
これほど強い怒りと憎悪を感じているというのに。それとも無意識にムルトを倒すこと
けかい
を1タジェナを破壊することを恐れているのだろうか。
ムルトのいう《あの方》を、実父を恐れているのだろうか。
「・わからない」
いらだ
カイルロッドは自分が苛立たしかった。
「、ミフンシャ、どこフ」
うめ
死相の出ているグリユウが坤いた。
やつ
(うるさい奴だ。余計な知恵をつけないために中身を幼児にしたが、失敗だったな。カイ
Tういん まヂ
ルロッドの封印された力を引き出すのに役だつと思って造ったが、まったくの期待外れだ
ったらしい)
の
ムルトの憎々しい声を押し退けるように、ミランシャの悲鳴が聞こえた。
か、っだ
身体ごとその方向を見ると、ウァランチーヌに連れられたミランシャが、真っ青な顔で
立っている。
67 悲しみは典昏とともに
「ミランシャ! でも、どうしてヴァランナーヌがけ」
1J−′.
カイルロッドが驚いて見つめていると、
「ブリユウ 一 日」
か
半分泣き顔になったミランシャが、グリユウに駆け寄った。
「ミランシャー」
ミランシャの姿を認め、グリユウの顔に喜びの色が広がった。
「ブリユウー」
.・1
ミランシャは伸ばされたグリユウの血だらけの左手を捉。、
だいじよよノぷ
「グリユウ、あたしがいるわ。大丈夫、恐くないのよ 」
優しく声をかけ、涙を流していた。
「… 二三フンシャ」
あんど
ミランシャがきてくれて安堵したのか、グリユウの表情がやわらいだ。後からきたカイ
ルロッドは、声もなく二人の横に立ち尽くした。
(ヴァランチーヌー 何故、ミランシャを連れてきたー・私を裏切るつも。かヱ
ふる
ムルトの怒。が大気を震わせた。カイルロッドがヴァランチーヌを見ると、
「いいえ。でも、もうやめてください、ムルト」
さか
手下であるはずの女は、硬い声と表情でムルトに逆らった。
(なんだと?)
「あなたはカイルロッド王子に勝てない」
しんたく おごそ
紅玉のような目を光らせ、ヴァランチーヌは神託のように厳かに告げた。
(ヴァランチーヌ ・)
「どんなに強い魔力を得ようと、妖魔を手足のように使おうと、あなたは決してカイルロ
ッド王子には勝てないのよ。それは力以前の問題だわー」
(黙れっ〓)
・.1一−
空に向かって叫んだヴァランチーヌめがけ、稲妻が落ちた。
「キヤアァ=」
しょうげき げきとつ
ヴァランナーヌの身体が衝撃で吹き飛ばされ、赤い氷の柱に激突した。
(勝てないだとフ 私がカイルロッドに負けるだと? この私が⊥
怒りに満ちたムルトの声を聞きながらカイルロッドは、柱に激突して動けなくなったヴ
ぎようし
ァランチーヌを凝視していた。
「この女はなんなんだっ」
ムルトに意見し、そしてムルトは怒りつつも彼女を殺そうとはしない。ムルトにとって
悲しみは爵昏とともに
特別な存在なのだろうか。
「・あなたは勝てない……」
くちぴる ゆが
唇の端から血が流れ、ヴァランナーヌは激痛に美しい顔を歪めている。
(黙れ、ヴァランチーヌ! 私が負けるはずはないー たとえ、《あの方》の力を持つカ
イルロッドであろうとー)
らくらい
落雷のようなムルトの声に、氷原にあった水の柱すべてが砕け散った。
赤い破片が降り注ぐ。
りようが
(私はカイルロッドの力を取。込み、《あの方》を凌駕するー 神になるー 本当の力を
見せてみろ、カイルロッド!)
ばけもの つぱさ
砕け散り、上から降り注ぐ氷の破片が化物に変わった。翼の生えた、鳥と猿を足したよ
うな赤い化物だ。
みみぎわ おそ
それらがギィギィと耳障。な声をあげて、カイルロッドに襲いかかった。
「きさまなぞに負けてたまるか−」
たんけん ひbめ
カイルロッドは短剣を閃かせ、それらを切り捨てた。が、とにかく数が多いので、苦戦
した。力を使えばいいのかもしれないが、ミランシャとグリユウを巻き込んでしまうだろ
う0
ちゆうちよ
力を使うことを躊躇していると、カイルロッドの胤に足に、身体中に赤い化物がびっし
りと群がった。
「気持ち悪いなー」
引き剣。がそうとしたが、腕が思うように動かなかった。手から短剣が落ちた。
−−・・ − .し
ひぎ ぬ
ふいにガクッと膝が折れた。全身から力が抜けていく。いや、群がった化物遠に吸い取
られているのだ。
「王子−」
ミランシャの声が聞こえたが、カイルロッドはそれに答えられなくなっていた。身体が
鉛のように重くなり、支えていられなくなった。手足の先から冷たくなっていく。
しだい
ギィギィと、耳元で笑っている化物の声が次第に遠くなっていく。
「ギャッ1」
するど もど
短く鋭い悲鳴がカイルロッドの意識を引き戻した。
気がつくと、群がっていた化物遠が剥がれ落ちたように、足元に転がっている。なにか
の力が化物を落としたのだと、カイルロッドにはわかった。
「ブリユウフ」
恋しみは蓑昏とともに
ミランシャにそんな力はない。とすれば、考えられるのはブリユウだけだ。グリユウを
ゆが こうてい
見ると、口元を歪めていた。ミランシャがカイルロッドの考えを肯定するように、力強く
うなず
領いた。
「やはりそうか」
たたか ふ しぼ
グリユウは苦痛と闘いながら、力を振。絞ってカイルロッドを助けてくれたのだ。
「グリユウ、あ。がとう」
短剣を拾いあげてカイルロッドが礼を言うと、グリユウはニコツと笑った。
あどけない笑顔だった。
それがカイルロッドに向けられた初めての、そして最後の笑顔だった。
ぎじ こぎか まね
(たかが擬似生命の分際で! 小賢しい真似をー」
もと か
明らかな殺意に、カイルロッドはグリユウの許へ駆けていた。
「グリユウがムルトに没されるー」
シ
71
カイルロッドと同じ顔をした、けれど精神は幼い子供の青年を、せめて大好きなミラン
・、.
ヤに看取られて死なせてやりたかった。
一刀1一一】
にぎ くず ちり
ミランシャの握っていた左手が砂のように崩れ、グリユウの身体は塵のように消えた。
レのつJノ
それを死と呼ぶなら、あまりに呆気ない、そして静かな死だった。
赤い氷の上に、人の形をした塵が積もっていた。
、 こ .こ
ぽうぜん
カイルロッドは呆然とした。ミランシャは手の中に残った塵を見つめ、放心している。
「 グリユウ」
カイルロッドは消えてしまった青年の名前を呼んだ。
(なにがブリユウだ。あんな物に名前などない。造り物だ)
あんな物とムルトは言った。
生きていたものをあんな物だと、造り物だと。
「きさま 」
にぷ
怒りのせいか、頭の奥が鈍く痛みだした。しばらくなかった頭痛だ。
つ
(あんな造り物に情をかけるとはー それでも《あの方杉の力を継いでいるのか”こ
いた かんがい
グリユウの死を悼むカイルロッドに対し、ムルトは憤慨しているようだった。
「あんた、何様よー」
にぎ し さけ
放心していたミランシャが、塵を握り締めて叫んだ。
ぎじ
「なんてひどいことをするのよー たかが擬似生命ですってけ ブリユウはね、生きてい
73 悲しみは黄昏とともに
たのよ、人間だったのよ− それをー 許せないI」
きゆうだん
怒。と悲しみに全身を震わせ、ムルトを糾弾する。カイルロッドよ。も、ミランシャの
方がそれらは強かったに違いない。ブリユウはミランシャになついていたし、ミランシャ
かわしl
もグリユウを可愛がっていたのだから。
「ヴァランチーヌには悪いけど、あたし、やっぱりムルトを許せないー どんなに力があ
トでつま ァ一よノヽ
ったって、妖魔を下僚に使ったって、あんたなんかクズよ▼ なにが神になるよ、なれっ
こないわー あんたなんか、タジェナと一緒に滅んでしまえばいいんだ〓 あたし、あん
たを許さない〓」
血を吐くようにミランシャが叫んだ。
「いけない、ミランシャー」
ト ・
ヴァランチーヌが制止した時、なにが可笑しいのか、ムルトが笑った。
(許さない? この私を?)
ぎんこく ひぴ おかん
残酷な響きを感じとり、カイルロッドの背筋を悪寒がはしり抜けた。
(おまえが私を許さないとは。造。物の分際でー)
その声は冷たい風となって、カイルロッドとミランシャを打った。
2
カイルロッドは自分の耳を疑った。
「造り物・…フ」
張り裂けんばかりに目をみひらき、
(そうだ。ミランシャ、おまえはグリ
とっておきの切札を見せるように、
うつ つふや
ミランシャが虚ろに呟く。
やつ
ユウと呼んでいた奴と同じ造り物だ)
ムルトの声は得意気だった。
「ムルト、やめてー」
さけ
叫んだヴァランチーヌに、氷の破片が襲いかかった。
(聞こえなかったのか、ミランシャフ おまえは造り物だ)
「嘘っ・…・・」
短く叫んだミランシャは死人よりも青ざめていた。
「ミランシャが擬似生命だなんて」
カイルロッドは絶句していた。ミランシャがグリユウと同じように、ムルトの造った生
命だなどと、どうして信じられるだろう。しかし、「もしかしたら」という疑問が頭から
離れないのも事実だった。
悲しみは黄昏とともに
人の生気を糧にしていたグリユウが、何故、ミランシャだけは食わなかったのか。
何故、ああもなついたのか。
ロにこそ出さなかったが、カイルロッドはずっと疑問に思っていた。もしムルトの言う
ことが事実なら、それらの疑問は解ける。食わなかったのも、無条件になついていたのも
「仲間」だったからだ。
「ムルトの言っていることは本当なんですか・ 」
かみ
答えを求めてカイルロッドが目をやると、氷の破片で傷ついた白い髪と赤い目の美女は
フなず
表情を曇らせながら、はっきりと額いた。
「でたらめを言わないでよー あたしは人間だわー」
ふる しようげき
ミランシャは震える声で言った。カイルロッドも動揺したが、それ以上に衝撃を受けた
のはミランシャだ。
「だって、あたしには生まれてからの記憶があるものー そうよ、あたしは西のある小さ
な村で生まれて、それから・・・それから、探す物があって、それを探して旅に出て、ルナ
ンで王子と会って……」
つトや
呟くミランシャは、自分自身の動揺を静めようとしているようだった。
(探し物があるフ ほう、それはなんだ?)
からかうようなムルトの問いに、ミランシャは勢いこんで「それは」と、なにかを言い
かけたが、すぐに吉葉を失った。
「ミランシャ ・」
死人よりも青ざめたミランシャの顔を見ながら、カイルロッドは「早く答えてくれ」と
いの
心の中で祈っていた。ミランシャが造り物だと否定したいのに、このままでは認めざるを
得なくなってしまう。
「あるのよ、あるんだからー」
ミランシャが叩きつけるように叫んだ。確かに知っているのに、どうしてもそれを思い
いりど は
出せない。そんな苛立ちと怒りを、言葉にして吐き出したようだった。
(だから、それはなんだ?)
ムルトの声が笑いを含んだ。
「うっ、うるさいわねー すぐに思い出すわよー ちょっと思い出せないだけなんだか
らー」
ミランシャの声はしゃがれていた。
「・すぐに 。すぐに思い出せるわよ・」
ムる
冷たい雨にうたれているように全身を震わせているミランシャから、カイルロッドは目
悲しみは黄昏とともに
こしつ
をそむけた。あれほど固執していた探し物を思い出せないなど、あ。うるのだろうか。
「 ミランシャ」
うめ ぎじ
カイルロッドは坤いた。言い知れぬ悲しみがこみあげてきた。ミランシャが擬似生命だ
あわ
ったことが悲しいのではない。それを知ってしまったミランシャの心情を思うと、憐れで
ならなかった。
「思い出すわよ。…あたしは人間よ。あんたなんかに造られた物じゃないわ…・・・−・」
きつく目を閉じ、ミランシャは食いしばった歯の間から、苦しそうな声を押し出した。
(人間だと言い張るなら、早く思い出したらどうだ、ミランシャ。まだ思い出せないの
か? ふふっ、当然だ。最初からそんな物はなかったのだからな)
やんわ。とした声に、ピタッとミランシャの肩が動いた。自身の存在を根底から否定さ
ど・つよTノ
れ、動揺しない人間がいるだろうか。
(探し物など、最初からなかったのだ)
「やめろ、ムルトー」
どな かま
たま。かね、カイルロッドが怒鳴った。が、ムルトは構わずに続ける。
(探し物などなかったのだ。ただ、おまえが旅をする動機が必要だったから、探し物をし
ていると、そう植え付けただけだ。ありもしない物を、それがなにかもわからないまま、
こつけい
ただ私が植え付けたとおりに探していたのだ、おまえは。滑稽よなぁ、そうは思わないか、
カイルロッドフ)
カイルロッドは答えられなかった。怒りのあまり、言葉が出てこなかった。
「あたしがあんたに造られたって言うなら、じゃあ、あたしが覚えていることはなんなの
よ− 両親や友達や、好きだった人のことはー」
あきり
打ちのめされつつ、それでもまだミランシャは抵抗を諦めなかった。蜘蛛の糸ほどの細
−ヱ ・
い希望にしがみつこうとしているミランシャが憐れで、カイルロッドは胸が潰れそうだっ
た。
lこせ
(カイルロッドと同行している間、疑われないようにわざわざ偽の記憶をすり込んでおい
たのだ。ミランシャ、おまえの覚えていることは、すべて嘘だ。動機の探し物と同じだ。
しかし、カイルロッドばかりか、おまえ自身もそれを信じて疑わなかったとはな。私の計
画は成功したようだ)
くだ しようげき
だが、嬉々としたムルトの声が、ミランシャの希望を砕いた。衝撃にミランシャは全身
おこり ヤる
を癖のように震わせている。
「あたしの…・あたしの感情はなんなのよ。泣いたり笑ったり、これもあんたが植えつけ
たものだって言うのり」
悲しみは黄昏とともに
(感情だとフ 造。物にそんなものはない。ミランシャ、おまえを造った理由を教えてや
かんし
ろうかフ おまえはカイルロッドの監視役だった。言うなれば私の『目』だ)
ついに、耐えきれなくなったミランシャが悲鳴をあげた。彼女の内部でなにかが砕けた
のだろう。
「監視役け」
きようがく ぎじ かくご
カイルロッドもまた、驚愕に目をみひらいた。擬似生命は覚悟していたが、まさか監視
役だったとは。
「・…そんな」
うめ
坤きながら、カイルロッドは乱暴に前髪をかきあげていた。
「それじゃ、あの視線は…・・こ
ルナンを出てから、ずっとつきまとっていた悪意に満ちた視線 − あれはミランシャの
ものだったのだ。
ミランシャの目を通した、ムルトの視線だったのだ。
おれ
「 − 俺は道中ずっと、ムルトに見張られていたのか」
つぷや あわ ちきようだい
口の中で小さく呟きながら、カイルロッドは肌を粟だてていた。乳兄弟であるソルカン
の店でミランシャと初めて会った時から、カイルロッドはムルトに監視されていたという
ことになる。
仲間の中にムルトの手下がいるなど考えたこともなく、またミランシャだなどとは夢に
も思わなかった。
よネノま おそ
これまでに、妖魔に襲われて生命を落とした人々の顔が、カイルロッドの脳裏をよぎっ
た。旅の間、いつも嫌になるほど正確に妖魔達が襲ってきたのは、ミランシャの存在その
ものが目印となって、居場所を教えてきたからなのだろう。
「あたしは人間よー 造られた物でも、王子の監視役でもないわー あたしにはちゃんと
感情があるもの! だってあたし、王子のこと…・・」
ミランシャがすがるような目をカイルロッドに向けた。とたん、弾けたようなムルトの
ひげ
笑い声が響き渡った。
(カイルロッドをタジェナまで案内し、監視するだけの造り物が感情だとけ・監視のため
に、カイルロッドから離れられないよう暗示をかけておいたが、まさか、それを恋だとで
きつかく おろ
も錯覚したのかフ 愚か者め−)
ぎんこく
ムルトの残酷な高笑いに、ヴァランナーヌが辛そうに歪めた顔をそむけた。ミランシャ
1 ・.
はしゃがみこみ、両手で口元を押さえ、悲鳴と鳴咽をこらえている。
「・・・ミランシャ」
悲しみは輩昏とともに
カイルロッドはただ名前を呼んでいた。他になにか言わなくてはいけないことがあるの
に、口から出るのはミランシャの名前だけだった。
「王子、そんな目で見ないでー」
たた
悲鳴のようなミランシャの声に、カイルロッドは横面を叩かれたような気がした。まる
で知らない未知の生物を前にしたような目で、ミランシャを見ていたのだろう。
「あたしは裏切。者だけど、そんな目で見ないでー あたし、王子にだけはそんな目で見
られたくないー」
泣きながら、ミランシャが叫んだ。その悲痛な声に、カイルロッドの全身は恥ずかしさ
で熱くなった。
「ミランシャはミランシャではないか」
おの
一瞬とはいえ、ミランシャに嫌悪めいた感情を抱いた己れが恥ずかしかった。ムルトに
ぎl“レ
造られた擬似生命であろうと、監視役だったとしても、ミランシャはミランシャだ。一緒
に旅をしてきた仲間なのだ。
「ムルトがなにを言おうと、ミランシャは俺の仲間だ」
そう自分自身に言いながら、カイルロッドは打ちのめされたミランシャに近づいた。
あぎむ
(仲間だと思っていたら、実は私の手先だったとはな。どうだ、カイルロッド。欺かれた
感想はフ)
ぎんこく でる
残酷な声に、ミランシャがビクッと身体を震わせた。傷だらけになっているミランシャ
に、カイルロッドは小さく笑ってみせた。
1や
「どんな答えを期待しているんだ、ムルト。欺かれて悔しい、傷ついたとでも言えばいい
のかフ だったら残念だな」
一息つき、カイルロッドは視線をミランシャから離し、声を張り上げた。
しようね くさ lァす
「きさまほど性根の腐った下衆野郎は見たことがないぜー ミランシャが擬似生命でも監
視役でも、そんなことは関係ないー 俺はずっとミランシャに助けられていたんだー ミ
ランシャがいてくれて感謝しているんだー」
ミランシャの明るさと強さに、どれだけ助けられただろう。もし、ミランシャがいなか
とちゆう ぎせつ
ったら、カイルロッドは旅の途中で挫折していたかもしれない。
「 王子」
大きな目をさらに大きくして、ミランシャがカイルロッドを見上げている。
(助けられた? 感謝しているフ 負け惜しみにしても馬鹿げている)
ひび
吐き捨てるような響きだった。馬鹿にしているというより、カイルロッドの思考が理解
ノヽちよう
できないと言わんばかりの口調に、
3 悲しみは黄昏とともに
「きさまなんかにはわからないだろう」
カイルロッドは強い口調で言い返した。
人間でなくなったものにはわかるまい。
心弱くなった時、たった;一口で救われることがあるのだと。
ひ.こわん
たった一椀のスープがどれほど心を温かくするか、思いもかけない他人の親切がどんな
にあ。がたいか、ムルトにはわからないだろう。
(ふん、ならばついでに教えてやろう。ミランシャのやっていたことは監視だけではない。
まりよく ばいたい
私の魔力の媒体だったのだ。それでも感謝できるのか?)
かた みぷる
囁くようにムルトが言い、ミランシャは自分の両肩を抱いて、身貰いした。カイルロッ
だま
ドは黙っていた。
しゆこう
(くしゃみをすると馬になるという魔法をかけたのも私だ。くだらない魔法だが、趣向は
面白かったろうフ どこかで、炎の馬を出したこともあったな)
.′H .H
楽しそうなムルトの声に、カイルロッドは下に唾を吐き捨てた。
あノ1しゆみ
「きさまの悪趣味にはうんざ。だ」
それから再び、うずくまっているミランシャへ歩み寄った。
「ミランシャ、本当に感謝している」
「王子 ⊥
ぬ
ミランシャが涙で濡れた顔を上げる。その泣き顔を見て、カイルロッドは初めてミラン
シャを「仲間」ではなく、「女の子」として意識した。
おろ
(愚かな・・これほど愚かだったとは。まるで、ただの人間ではないかー)
いらだ まゆ
その声には苛立ちがあった。カイルロッドは眉をしかめた。
「ただの人間で何が悪い! 俺はただの人間だー」
つ
(信じられない! なんという愚かさだー 《あの方》の力を継いでいながら、つまらな
い虫けらのように生きるのがいいというのかn くだらない、それではなんのために力を
持っているのだ!)
せんばう しつと おの かつぽう
それには羨望と嫉妬があった。己れが渇望しているものを持つ相手に対する、激しい嫉
妬があった。
やつ
(おまえのような奴に、何故力を与えたのだけ)
ムルトの激情を表わすように、四方から強い風が吹きつけてきた。
オォォォ。
つめ
坤き声のような、唸り声のような風の音に顔をしかめながら、カイルロッドとミランシ
ャは、氷の上にあった人の形をした塵が流されるのを見つめていた。
「・・…・グリユウ」
ま.ナた
あどけない笑顔がカイルロッドの瞼に焼きついている。
慶が完全に消えてしまうのを見届けてから、カイルロッドはミランシャの前に手を差し
とまど
伸べた。ミランシャは戸惑いながらも、カイルロッドの手を借りて立ち上がった。
じやま
「ごめんなさい、王子。あたし、ずっと王子の邪魔をしていたんだわ」
「そんなことはないよ」
かみ ほほえ
凧でバサバサとなびく髪を押さえながらカイルロッドが微笑むと、
「あたしのことを知っていたから、ヴァランチーヌは王子とグリユウのところに行かない
あわ
方がいいって・。だから、泣いていたんだわ。あたしのことを憐れんで」
ミランシャは無理に明るく笑おうとして苦戦していた。辛いだろうに、心配をかけまい
としている姿が憐れだった。
「ミランシャだって、グリユウだって造り物なんかじゃないよ。人間だよ、感情だってム
ルトに植えつけられたものじゃない。ミランシャ自身のものだ」
カイルロッドがそう言うと、たちまち、ミランシャの顔がくしゃくしゃになる。
いや
「嫌だ、もう。こんな こんな顔、見られたくないのに」
泣きながら、ミランシャが両手で顔を覆った。そんなミランシャを、カイルロッドは
悲しみは黄昏とともに
かわい
可愛いと思った。
せいじやく
ふいに、赤い氷原が静寂に包まれた。
や
あれほどうるさかったムルトが沈黙し、強い風も止んだ。
「どうしたんだフ」
きかな
耳の奥が痛くなるような、張。つめた静寂がカイルロッドの神経を逆撫でした。
「急に静かになって」
おぴ
ミランシャもなにかを感じるらしく、怯えている。
「ムルトがなにかを仕掛けてくる」
呼吸を整え、カイルロッドが全身の神経を張りつめた時、
「カイルロッド王子−」
ヴァランチーヌの細い声が静寂を破った。
「ウァランチーヌけ」
かみ
カイルロッドとミランシャが顔を向けると、髪を乱したヴァランチーヌがやってくるで
はないか。
「この人は俺の敵なのか、味方なのかフ」
ムルトの下にいることは確からしいが、どうも敵らしくない。カイルロッドが困ったよ
うに見ていると、
「逃げて! ミランシャをつれて早く逃げなさい、カイルロッド王子− ムルトは王子を
・」
とぎ
そこでヴァランチーヌの言葉は途切れた。
(お遊びはここまでだ、カイルロッドー)
再び、強い風が吹きつけた。
つJ
ぎんほつ
銀髪が大きく波打った。
吹き飛ばされそうな強風に、ミランシャがよろめく。
「ミランシャー」
飛ばされそうになったミランシャの腕を、カイルロッドが掴んだ。
(おまえなどに力は不要だ。私がその力をいただくー)
吠えるようなムルトの芦が風に乗り、カイルロッドを叩いた。
こしつ
「力にばかり固執しやがってー」
「カイルロッド王子、気をつけてー ムルトは王子を怒らせようとしているのよ− 王子
悲しみは黄昏とともに
の力をすべて開放させようとしているの1」
氷の柱にしがみつき、ヴァランチーヌが叫んだ。
おれ
「俺の力をすべて開放させるけ」
はんすう おどろ こつげき
反舞し、カイルロッドは驚いた。「どういう意味だフ」、一度ムルトを攻撃したが、あれ
が全力だったはずだ。
(さあ、本当の力を見せるがいい! 《あの方》から継いだ力のすべてを!)
大気が震え、足元の氷が割れ始めた。
氷の柱が砕け、ヴァランチーヌはどこかに飛ばされてしまった。
「ウァランチーヌー」
「王子− 下−」
たんけん
ミランシャに言われるよ。早く、カイルロッドは殺気を感知していた。持っていた短剣
の
を口にくわえると、カイルロッドはミランシャを抱きかかえ、その場から飛び退いた。
ごうぶん
轟音をたてて氷の大地が割れた。
ぱけもの
割れた氷の下から、化物が現われた。
きよだい ねんえきしつ
それは巨大ななめくじに似ていた。光る粘液質の身体は、全長二〇メートルはあるだろ
しよくしゆ つる
う。手足の代わ。に無数の触手が生え、風にそよぐ蔓のように線れている。
しかし、カイルロッドを動揺させたのは、その巨大さではなかった。
ぬらぬらと光っている化物の身体の表面や、触手の間に無数の人の顔がはめこまれてい
るのだ。
「デスマスクなの け」
ひぎ
下におりたミランシャの膝が震えていた。カイルロッドはくわえていた短剣を手に持ち、
ぎようし
化物を凝視した。氷原の赤を反射させ、巨体が赤く光っていた。
むぼう いど
(それは無謀にもタジエナに、この私に挑んだ馬鹿者達の成れの果てだ− 死ぬこともで
きず、私の下僚となった者どもよ!)
まはう
ムルトを倒そうとして、返り討ちにあった勇者、魔法使い達だという。
「なんてひどい・−」
のと つめ
ムルトの高笑いに、ミランシャが喉の奥で坤いた。
おの おろ
(己れの力を過信した愚か者どもよ。これは見せしめだ)
強い風を受けた化物の身体の表面で、人の顔が動く。
(助ケテクレ)
(セメテ死ナセテクレ)
(救ッテタレ、コノ苦痛カラ)
悲しみは黄昏とともに
ゆが
苦痛に、悲しみに、顔を歪め、口々に救いを求めている。意識を持ったまま、化物にさ
あやつ はずかし なげ
れたのだ。ムルトに挑みながら敗北し、その後も操られ、辱められている嘆きや怒りは、
いかばか。だろうか。
「ムルト、きさまは…・こ〓」
かみ さかだ しいた
怒りでカイルロッドの髪は逆立っていた。どこまで他人を虐げれば気がすむのだろうか。
それとも、そうすることが人間を超越した証拠だとでも思っているのか。
みにく
「俺はただの人間だが、きさまはそれ以下だー ムルト、きさまは人間の醜い面ばかりで
形成された化物だイ」
しよくしゆへび
化物の触手が蛇のように動き、カイルロッドに襲いかかった。
「ミランシャ、逃げろ!」
むち たんけん
鞭のようにしな。、唸りをあげる触手を、カイルロッドの短剣が切断した。
なまぐさ にお
生臭い匂いと、薄いオレンジ色の体液をまき散らかし、切断された触手が氷の上に落ち
た。しかし、切断されてもすぐにまた生えてくる。
(それは再生力が強くてな。なかなかしぶといのだ。さあ、どうする、カイルロッド)
とうけい
闘鶏や闘犬を見ているように、ムルトはカイルロッドと化物の闘いを楽しそうに見物し
ているに違いない。
あ′ヽしけみ やつ
「悪趣味な奴だー」
きよがこ
しなる触手を避け、カイルロッドは化物の表面に飛び乗った。巨大であるがゆえにか、
動きが鈍いようだ。
「王子!」
化物の上に乗ったカイルロッドを見上げ、ミランシャが叫んだ。
「危ないから近づくなー」
一グペ ゆか
叫んだ拍子に、カイルロッドは足を滑らせそうになった。まるで油を撒いた床に立って
いるような感じだった。
「くそっ」
足を滑らせそうになったカイルロッドはとっさに、ぬらぬらと光っている表面に短剣を
突き立てた。
ウオァァ!
いっせい 1もん
すべての顔が、一斉に苦悶の声をあげた。
「 − 〓」
いつしゆふ
悲痛な声と表情に、カイルロッドは一瞬、戦意を失った。
瞬間、数十本の触手が唸りをあげた。
悲しみは輩昏とこもに
避けるには拒雛が近く、また触手の数が多かった。
l・.1..
数本は切断したが、一本に足を払われた。前につんのめったところを、横からの一撃が
胸部に入った。
しようげき
息が止まるような衝撃だった。鈍い、骨の砕ける音が、カイルロッドにははっきりと聞
あばら
こえた。肋が折れたに違いない。
ひようかいげきとつ
様なぐ。の一撃を受け、そのままカイルロッドは吹っとばされ、氷塊に激突した。
「 一 日」
受け身がとれず、背中をしたたかに叩きつけ、カイルロッドは息ができなかった。
ゆが
背骨が乳む痛みに顔を歪めていると、周囲に影が落ちた。視線を動かすと、上に化物の
巨体があった。
「王子−」
ミランシャの声を聞きながら、カイルロッドは身体を動かした。呼吸をするだけで全身
ゆ しぽ
に激痛がはしる。が、カイルロッドは気力を振。絞って、化物の影から逃げた。
お
(逃げ回るばか。か。力の出し惜しみをするのか!)
カイルロッドは荒い息で立っていた。
よゆう
「出し惜しみする余裕なんかあるかー」
悪態をついたが、胸部の痛みは焼けつくようだった。
(助ケテクレ)
(セメテ死ナセテクレ)
(救ッテクレ)
だれ
(誰カ、助ケテクレ)
うごめ
化物が意き、
にぎ
フなず
短剣を握り直し、カイルロッドはミランシャに手で「離れていろ」と合図した。頚きな
がら、ミランシャがカイルロッドから遠ざかる。
カイルロッドは、化物めがけて走った。
しよくしゆおそ
触手が襲いかかる。
らようやく
それらを目にも止まらぬ速さで切断し、カイルロッドは化物の上に跳躍した。
上に飛んだカイルロッドを追うように、化物の身体が半分、持ち上がる。
カイルロッドは短剣を頭上に振り上げ、化物めがけて落下した。
つ
短剣は化物の腹側に突き刺さった。
「わあぁぁー」
そのまま落下速度を利用して、カイルロッドは短剣で化物の腹を一直線に裂いた。
その表面で無数の顔が泣いていた。血の涙を流している。
悲しみは黄昏とともに
すべ
滑り落ちるようにして下に降りたカイルロッドは、痛む胸部をおさえながら化物から離
れた。
裂かれた腹から、なめくじの身体が割れ − 切断面を見せながら、化物は二つに切断さ
れた。
しようげきおん
ドッと、重い衝撃音をたてて、化物は右と左に分かれて氷の上に倒れた。
「やったわー」
つめ
ミランシャの喜びの声は、すぐに絶望の坤きに変わった。
「なんてやつだ!」
カイルロッドは噂いた。
つか ま
倒したと思ったのも束の間、左右に割れた身体が磁石のように呼び合い、元どお。にく
っつき始めたのである。
(しぶといと言ったはずだがフ)
はぎし はんげき かい
笑いを含んだムルトの声に、カイルロッドは歯軋。した。どう反撃するべきなのか、皆
目見当がつかない。しかも、痛みで思考が散漫になってくる。
「どうすればいいんだフ」
よわね
思わず弱音が口をついて出た時、
「王子− 王子はムルトに勝っんでしょうけ だったら、これぐらいの相手は倒せるはず
あきら
よ− 諦めたら負けるのよー」
しった
ミランシャの叱咤がとんできた。
「王子はムルトになんか負けないわー」
りんめい
恐いだろうに、懸命にカイルロッドを励ましているミランシャを見、カイルロッドは口
を引き結んだ。
「再生させなければいいんだ」
ばけもの しょくしゆ
カイルロッドは化物の真っ正面に走りこんだ。正面には顔も触手もなかった。
たたか
今、締っているのは敵ではない。そして、倒すのではない。
彼らを苦痛から解放するのだ。
彼らは同志だ。ムルトを倒すという目的を持った同志なのだ。
たんけん
顔も触手もないそこをめがけ、カイルロッドは短剣を投げた。
ぬらぬらと光っている表面に、短剣が深々と突き刺さる。
おどろ
化物の動きが止まった。驚きが刻まれている無数の顔に、
「後は俺に任せてくれ−」
カイルロッドは精一杯の思いをこめて、両手を突き出した。
悲しみは黄昏とともに
97
その手の平から光が弄り、短剣にからみつく。
短剣が光を放った。
み
赤い氷原が透明な金色の光に充たされた。
ろうにんぎよう
短剣の刺さった箇所から、化物が溶け始めた。熟にあぶられた蝋人形のように、ゆっく
。と溶け、それは氷の上に広がっていく。
(アア)
(終ワル、長イ苦シミガ)
溶けていく人々の顔には安らぎがあった。
立っているカイルロッドの足元に、溶けたそれが広がった。が、氷に染み込むようにし
て、すぐに消えた。
化物は消え、その後に短剣が落ちていた。赤い光が刃に反射していた。
だいじようぶ
「王子、大丈夫フ」
か
ミランシャが駆け寄ってきた。その姿を見て安心したのか、カイルロッドの全身からど
あせ
っと汗が噴き出した。
「 なんとかなったのかな」
へた。こみそうになるのをこらえながら、カイルロッドは足を引きずって短剣を拾いに
行った。
とたん、足元から水が噴き出した。数本の水柱がたち、それがカイルロッドを包んだ。
「IP」
液体に包まれ、カイルロッドはもがいた。外から見ると、水でできた球体に閉じこめら
れているようだった。
「王子−」
..・・.1
ミランシャの鋭い声が聞こえた。カイルロッドは水の中から出ようと、懸命にもがいた。
てごた うつわ こわ むヂか
短剣を振り回してみたが、手応えはない。器のない液体を内側から壊すというのは難しい。
. ・1
「水妖の時と同じだっー」
あわ
息が苦しくなった。目の前を泡が流れた。「このままでは溺死してしまう」、カイルロッ
ドが水の中でもがいていると、
じようか
(それはしぶといと言っただろうフ 愚か者達を浄化したからといって、倒したと思うの
は早計だな)
Uび
ムルトの冷笑が響いた。
ゆが
もがきながら、カイルロッドは顔を歪めた。とらわれていた人々となめくじの外形は消
えたが、存在そのものは消えていなかったのである。
悲しみは黄昏とともに
「ムルトの野郎っ」
苦しい息でなおももがいていると、
(そうそう、出し惜しみなどせず、本当の力を出してみろ、カイルロッド。怒るほど、力
が強くなっていくぞ)
楽しそうなムルトの声が水の中に伝わってきた。
「まだそんなことを言っているのかt」
か
駆け寄ってきて、水の球体を叩いているミランシャを視界にとらえながら、カイルロッ
うめ
ドは心の中で坤いた。
「俺の力なんて、これが限界なんだ− 勝手に出し惜しみなんて決めつけるなー」
どな
声が出せたら、そう怒鳴りつけてやりたかった。実父がどれほどの力を持っているか知
つ
らないが、それをそのまま息子が継いでいるとは限らないではないか。
「王子、王子−」
球体の外ではミランシャが半泣き顔で、水を叩いている。
(ふん。どうしても出し惜しみするなら、私が引き出してやろう)
「 − P.」
しゆんかん
カイルロッドが違和感を感じた瞬間、水の球体は凍っていた。
4
こおりづ
カイルロッドは氷漬けになっていた。
まんしんそうい
ギシギシと身体が圧迫され、胸部と背中に激痛がはしった、文字どおり満身創痍である。
よっしや
そこを容赦なく氷に押し包まれ、カイルロッドの身体中が悲鳴をあげた。
「ううっ」
激痛に気が遠くなりかけていた。
「ひどいー」
まほう
ミランシャが火を出して水を溶かそうとしたが、魔法は使えなかった。
かんざい
(馬鹿が。擬似生命の分際で創造主に対して魔法を使えると思っているのか)
顔色を変えたミランシャを、ムルトがあざ笑う。
バキッ。
氷に圧迫され、カイルロッドの右腕が折れた。カイルロッドは悲鳴をあげたが、声にな
フば
らなかった。激痛と氷の冷たさに、全身から力が奪われていく。
せいぎよ ヱついん
(何故だ、カイルロッド。これでもまだ、自分の力を制御するのは何故だフ 封印でがん
じがらめにされているとはいえ、そんなもの、おまえなら簡単に破れるはずだ。私の放っ
悲しみは黄昏とともに
た妖魔と闘ってきたのだから、すでに半分ぐらいの封印は破れているだろうヱ
歯のなる音と耳鳴りで、カイルロッドにはムルトの声はほとんど聞こえなかった。だが、
「封印」という言葉は聞き取ることができた。
封印 − ムルトが幾度となく口にしている言葉だ。本来の力を封印しているとムルトは
言っているようだが、カイルロッドにはそんなことをした覚えはないし、封印されたなん
て聞いたこともない。
「封印なんて、知らない 」
Lん lこd のンり ひらめ
身体が芯から冷え、痛みの感覚さえも鈍くなっていく。死という言葉が脳裏に閃いた。
死、すなわち敗北だ。
おれ
「・俺はムルトに勝てないのか フ」
このままではムルトに負ける。もし、本来の力とやらが封印されているというのなら、
それを解いてしまいたいと、カイルロッドは願った。
「どうすれば解けるんだフ どうすれば・イルダーナフがいてくれたら」
いつしよ
あの大男なら、きっと知っているに違いない。こんなことになるのなら、一緒に旅をし
つ
ている間に、色々なことを問い詰めておけばよかったと、カイルロッドは後悔した。
lナが
苦しさと怪我の病みに意識が薄れ、諦めがカイルロッドの胸中をよぎった時、
(ニ・つまらないな。本当の力を見せてもらわないと、な)
ムルトの声と、それをかき消すミランシャの悲鳴が聞こえた。
「ミランシャーl」
薄れた意識が呼び戻された。カイルロッドが大きく目をみひらくと、ミランシャは氷の
かたまり さか つ
塊の前から引き離され、見えない手によって逆さ吊りにされていた。
「ミランシャ‖」
(ほう、力が強くなった。人間のくだらないところだな。自分より他人が傷つけられるこ
とが耐えられないというのは)
のが あば
ミランシャは見えない手から逃れようと、暴れている。が、どうすることもできない。
「ミランシャになにをするんだー」
カイルロッドの声は震えていた。ムルトはミランシャをどうするつもりなのか。塵とな
きようか づか
って消えてしまったグリユウを思い出し、カイルロッドは恐怖に心臓をわし掴みされた気
がした。
(怒るほど力が強くなっていくな。では、これでどうだフ)
くヂ はうかい
ミランシャの指先が塵になり、崩れていく。ゆっくりと指先から手へと、崩壊が拡がっ
ていく。
悲しみは黄昏とともに
「いやあぁー」
恐怖に顔をひきつらせ、ミランシャが悲鳴をあげた。
「 一 日こ
つ
ミランシャの悲鳴が、カイルロッドの心臓を針のように突いた。ミランシャはグリユウ
1 .
と同じ、擬似生命だ。ムルトに遣られたものだ。ゆえに、ムルトに簡単に消されてしまう
のだ。
ピろぎいく
(痛みがないのに非心嶋をあげるのか。泥細工の人形にも劣る、擬似生命が)
あり ハいこく
道端の蟻でも見ているような、取るに足らないと言わんはか。の冷酷な声だった。
えノや rナじ
そうしている間にもミランシャの腕は、肘まで崩れていた。たとえ痛みがなくとも、自
ごうもん
分の身体が崩れていくのを見なくてはならないというのは、まざれもない拷問である。
(早くしないと塵となって消えるぞ)
とぎ
途切れることのないミランシャの悲鳴とムルトの冷笑に、カイルロッドはなにかを叫ん
ほっこう
でいた。ミランシャの名前だったかもしれないし、喧嘩だったかもしれない。
氷が蒸発した。
カイルロッドはミランシャの許へ走った。痛みも苦しみも忘れていた。だが、手足が思
うように動かない。
「ミランシャー」
走っているのに、少しもミランシャに近づけないもどかしさに、カイルロッドは泣きた
くなった。時間が恐ろしく長く感じられた。
だめ
「死んじゃ駄目だ、ミランシャー」
かんし ばいたい
ムルトの造った擬似生命でもいい。監視役でも、媒体でも構わない。
「死なないでくれー」
祈るように叫びながら走ってくるカイルロッドの姿を、両腕のなくなっているミランシ
ャの目が映していた。
りしゆんきようしや
それは恐ろしいほど澄んだ、殉教者の目だった。
これから自分の身に起こることを、受け入れた目だ。
あいせつ まなぎ くちげる
哀切に満ちた眼差しをカイルロッドに向けたまま、ミランシャの唇が動いた。
「さようなら」
そう言い終えた時、ミランシャの身体は塵となった。
氷の上に積もった塵が、サラサラと流されていく。
、. I.−
あやつ ひざ
全身から血の気が引いた。カイルロッドは糸の切れた操り人形のように、塵の前に両膝
5 悲しみは黄昏とともに
をついた。
ミランシャは塵となって消えてしまった。そして、それをカイルロッドは防ぐことがで
きなかった。
「ミランシャだけはどんなことをしても守ろうと 」
ちか
タジエナにたど。つく前、そう自分に誓ったというのに、目の前でミランシャが消える
のを、塵になっていくのを見ているだけだった。
ふる
氷の上に手をつき、カイルロッドは全身を震わせた。
「ミランシャ I」
つぷや
さようならと呟いた少女の顔が忘れられない。悲しみで胸が張。裂けそうなのに、声が
出ない。
こぷし
カイルロッドは拳を振り上げ、氷の上に叩きつけた。叫ぶことのできない代わりに、何
ひ J
回も力まかせに拳を叩きつけた。皮膚が破れ、血が流れた。しかし、そんなものは心の痛
みの比ではない。
きようふ
「ミランシャの味わった恐怖と悲しみは、こんなものではないはずだ」
や
カイルロッドは両手を血まみれにし、それでもまだ止めなかった。
ぎ“レ
(なにを悲しむのだフ 擬似生命はどうせ、長く生きていけないのだ。ミランシャもあと、
一カ月ともたなかっただろうよ)
ぞうお
ムルトの声が、カイルロッドの深い悲しみを憎悪に変えた。
自分の内部のどこか奥深いところで、なにかどす黒いものが噴き出したのを、カイルロ
ッドは感じた。
「ムルト ー =」
頭が割れるように痛んだ。耳鳴りと吐き気、そして全身の痛みと怒りが、カイルロッド
まひ
の理性を麻痺させた。
「きさまだけは許さないぞ、ムルト=」
つ
凄まじい怒りが身体の奥から突き上げた。かつて、これほどまでに誰かを憎んだことは
なかった。明快な殺意を抱いたことなどなかった。
たたか たお
敵であっても、闘うこと、倒すことにためらいがあった。だが、今のカイルロッドには
ためらいも戸惑いもなかった。
「きさまは俺の手で倒してやる=」
許さない。
カイルロッドは叫んでいた。
ムルトを許さない。
ふういん
たかだかカイルロッドの力が欲しいというだけでルナンを石にし、封印を解くために多
くの妖魔を放ち、無事の人々を死に至らしめた。
のみならず、生命をもてあそび、グリユウとミランシャを苦しめたのだ。
7、...
グリユウのあどけない笑顔が、ミランシャの悲しい目が瞼に焼きついて、離れない。
「なにが神になるだー きさまなど永遠に地の底を這いずり回るがいいー」
.り
カイルロッドが呪いの言葉を吐いた時、
グワッ ・。
しんどっ
大気が震動し、大地が紆れた。
はのお
カイルロッドの足元から、青銀色の煩が噴き上げた。
焔は天を裂き、雪と氷を蒸発させた。
(おおっ〜)
くず ごうおん
ムルトの歓喜の声は、雪と氷の蒸発する音と、崩れ始めた大地の轟音に消された。
氷原が崩れ始め、タジェナが形を変えようとしていた。
雪と氷で形成されていた世界が − ムルトの世界が崩れようとしている。
か めぐ
噴き上げた煩が生物のように空を駆け巡った。赤い空が色紙のように燃え、その下から
青銀色の空が現われた。
悲しみは黄昏とともに
蒸発した雪と氷の下から、透き通った青い光が噴き出した。
しんどう
カイルロッドの怒。で満ちた大気が、どリビリと震動していた。
もはやタジュナは山ではなく、青と銀の入。混じった空間となっていた。
それはこの世の光景ではなかった。
きび
恐ろしいほど美しく、冷たく厳しい光景は人間の手の届かないものだ。
い8ずま じゆうおうむじん はし
空を金色の稲妾が縦横無尽に弄る。
つど
その都度、青と銀の世界を金色の光が照らす。
かみ
金色の稲妻を背負って、カイルロッドは青い光の上に立っていた。風もないのに、髪が
大きく揺れている。
「どうしたムルト、急におとなしくなって。なんとか言ったらどうだ」
や ちんもく
冷たく灼けた声でカイルロッドは言ったが、ムルトは沈黙している。
「出てこないなら、引きずり出してやるー」
そフぱっ
カイルロッドの双降が火を噴いた。
出:ア・コ・ィ、ムルト ー 〓
ぜつきよう
なにかが裂ける音と絶叫が、カイルロッドの耳にはっき。と聞こえた。
青い空間が裂け、カイルロッドの正面にムルトが現われた。
三章 終曲、そして到来
まりよく れいこく
あらゆる人々から、その強大な魔力と冷酷な性格を恐れられた魔道士ムルト ー 遂に姿
を現わした敵を、カイルロッドは無言で見つめていた。
セrよたい き
目の前に巨大な樹がそびえている。
天にとどきそうな巨大な一本の樹、それがムルトの正体だった。
みき
大人一〇人が手をつないだぐらいの太い幹の中央に、人間の顔があった。中年男の顔、
あた
ムルトの顔だ。その下辺りに、腕なのか、二本の太い枝があった。他に枝葉はない。
「……樹になっていたのか」
.1..−
はるか頭上にあるムルトの顔を見上げ、カイルロッドは独白した。上空では金色の稲妻
が光っている。
おどろ
(驚いたようだな)
しゆうあく
こヤリと、ムルトの顔が笑う。稲妻に照らされた顔は醜悪と言っていい。目鼻立ちでは
ざへきやく みにく ひそ
なく、にじみ出た残虐さと冷酷さがムルトの顔を醜くしていた。人間の奥底に潜むあらゆ
ぎようしゆく
る醜いものが、その顔に凝縮されているようだった。
「たいした姿ではないな」
カイルロッドがつまらなそうに言うと、
めく
(そうかなフ 私の根はタジェナ中に張り巡らされている。そうすることによってタジエ
ナを支配し、その力を吸い上げているのだ。そしてタジェナにいながら、妖魔を動かして
いるのだぞ)
ムルトは誇らし気に答えた。タジエナはムルトの「世界」ではなく、「ムルトそのもの」
だったのだ。だから、どこにムルトがいるのかというカイルロッドの問いに対して、グリ
ユウは「ここ」としか答えられなかったのだ。
つ かい ふういん
(ずっと待っていたのだ。《あの方》の力を継ぐ者を。待った甲斐があった。やっと封印
のほとんどが解けたのだからな)
っれ
目だけを動かしてカイルロッドを見、ムルトは嬉しそうに笑った。
一.こ.こ、、
カイルロッドは無言だった。封印が解けたと言われても、よくわからない。しかし、
悲しみは弗昏とともに
かbだ フで
身体中の痛みが消えており、折れたはずの腕も動く。「封印が解けたせいかな」、カイルロ
ッドは腕を動かしながら、
「これできさまを倒せるな」
小さく笑った。もし、ここにミランシャやイルダーナフがいて、カイルロッドの笑みを
まゆ
見ていたら、眉をひそめたかもしれない。
こ′、ほく せいきん
酷薄で、凄惨さの漂う笑みだった。
封印が解けたことで変化が起きているのだが、カイルロッド本人だけでなく、ムルトも
そのことに気がつかなかった。
(やっと、おまえを取。込む時がきた。素晴らしい力だ。それが私のものとなった時、私
おろ
は《あの方》を超えるのだ。愚かな人間どもを支配するのだ!)
嬉々としているムルトの顔を見上げ、カイルロッドは顔に冷笑をうかべた。
おか
(なにが可笑しいけ)
「きさまがあんま。馬鹿なので、それが可笑しいのさ。なにが愚かな人間ども、だ。きさ
まの言っていること自体が、愚かな人間の考えだとわからないのだからな。人を見下し、
支配するなんて、愚か者の発想だ」
カイルロッドの指摘に、ムルトの顔から表情が消えた。
(この私を愚か者と言うのか)
「事実だからな」
つ”や
ぼそっと呟くと、ムルトの、大樹がわなないた。怒りだろう。他人はすべて愚かでも、
きわ
自分だけは違うと思っているのだ。「それこそ愚かの極みだ」、カイルロッドは心の中で独
自した。
(後悔させてやるぞ、その言葉を〓)
金切り声と同時に、なにかを破るような音がした。青銀色の空間を破るようにしてあち
しよくしゆ
らこちらから無数の触手が・F1−1樹の根が伸びてきた。
丸太ほどもあろうかという太い根だ。それが生物のように動いて、カイルロッドに巻き
ついた。
「やれるものなら、やってみろ」
締めつけられながら、カイルロッドは小声で呟いた。氷原の風のような、刺すように冷
たい声だった。「ひどく冷静な声だ」と、カイルロッド自身も思った。怒りが激しすぎて、
こお
心が凍りついてしまったようだった。
(ほざけ、小僧!)
根がギリギリと締めつけ、全身の骨が軋んだ。しかし、カイルロッドは抵抗しなかった。
5 悲しみは黄昏とともに
無抵抗のカイルロッドに次々と根が巻きつく
(タジェナは私の世界、私そのものだー おまえがどれほどの力を持とうと、私の内部で
じゆうぷん くだ
充分に発揮できるはずはないのだー このまま骨を砕かれ、もがき苦しみながら私に吸収
されるがいいー)
おの
がんじがらめにされ、姿の見えなくなったカイルロッドに対し、ムルトは高らかに己れ
の勝利を告げた。
うめ
しかし、それはすぐに失望の坤き声に変わった。
カイルロッドに巻きついていた根が真っ黒に炭火したのである。
「こんな物で俺を取。込む?」
ふ
炭火し、ポロポロと下に落ちた根を踏みつけ、カイルロッドは薄く笑った。
(ううっ )
ゆが
幹にあるムルトの顔が歪んだ。少し前までの自信もどこへやら、明らかにカイルロッド
に恐怖を感じている。
「どうした、ムルト。俺を取り込むんじゃなかったのかフ」
カイルロッドはゆっく。と、ムルトに歩み寄った。
ナるど やり
シュツと鋭い音がして、カイルロッドめがけて二本の枝が槍のように伸びた。と、見え
た時はすでに見えない刃物−−風に切断されていた。
かペ
切断面から赤い液体が噴き出し、カイルロッドの上に降り注いだ。が、透明な壁に防が
いつてき
れ、一滴もかかることはなかった。飛び散った箇所から白い煙が上がる。液体は強い酸の
ようだ。
「残念だな、ムルト」
つ さ
切断された枝は孤を措いて、カイルロッドのはるか後方の地面に突き刺さった。
(むうっー)
うめ くちびるか
ムルトの坤き声を聞きながら、カイルロッドはきつく唇を噛んだ。
「こんな・・こんな弱い奴に、俺は歯がたたなかったのか。そのためにミランシャやグリ
ュゥを死なせてしまったのか こ 」
唇から血が流れた。ムルトへの憎悪とともに、腑甲斐なかった自分への怒りがこみあげ
てきた。
「最初からこの力を発揮していれば、ミランシャ達を苦しめずにすんだー 死なせずにす
んだー」
こお
ムルトへの、そして自分白身への怒りが、凍りついていた心を爆発させた。
ミノな
大気が唸りをあげた。
悲しみは黄昏とともに
凄まじい突風が起こ。、大樹となったムルトを揺らした。
(くそぉっー)
ムルトが坤いた。
たお
風はいよいよ荒れ狂い、大樹を根こそぎなぎ倒そうとしている。
「簡単には殺してやらないぞ、ムルト」
凄まじい風の中、カイルロッドは腕組みしたままで、ムルトを睨んでいた。大樹を揺ら
かみ
すほどの風の中で、髪の毛一筋も揺れていない。
しだい
強風は大樹を押し、次第に根元が持ち上がってきた。
(取り込んでやる〓)
悲鳴じみた声が風の音の中に混じった。すると、持ち上げられた根元から、周囲のあら
.1ト
ゆるところから、鞭のようにしな。ながら根が現われた。
えもの おそ へぴ ねら
風に押されつつも、それは獲物に襲いかかる蛇のように、カイルロッドを狙った。
だが、それが限界だった。カイルロッドに触れる前に、すべて刃物と化した風に切断さ
れ、糸くずのように飛ばされた。
「どうした、ムルト。さんざん大口を叩いて、きさまの力はそれだけかフ」
カイルロッドが冷笑する。
ー ・・−−
じゆうおうむじん はし いなずよ
空を縦横無尽に弄っていた稲妻が、大樹めがけて矢のように落ちてきた。
青銀色の空間に、金色の線がいく筋も描かれた。
(グアァァァッ〓)
ぜつきようとどろ
ムルトの絶叫が轟いた。
稲妻は大樹を縦に裂いた。
みき いく
さすがに根元までとはいかなかったが、幹の上半分が幾つもに裂け、ムルトの顔は左右
に割れていた。
(ううっ、なんということだ・こんな、こんなはずでは )
くちぴるうら
右と左に分かれた唇が恨みの言葉を吐いた。
「グリユウやミランシャの苦痛は、こんなものじゃなかっただろう」
一よゆ つ
落ちてくる木片を片手で払いながら、カイルロッドは眉を吊り上げた。
げす
「きさまのような下衆は、もっと苦しむがいいー」
ようしや
稲妻が容赦なく落ちてきた。
もはや矢ではなく、雨となってムルトの上に降り注ぐ。
その度に大樹が細かく裂け、飛び散った木片は風に飛ばされた。
悲しみは黄昏とともに
(やめろ、やめてくれー)
右半分だけになった顔で、ムルトが悲鳴をあげた。左半分は粉々になっていた。
(私が悪かった、殺さないでくれ−)
ムルトの哀願に対し、カイルロッドの表情は毛ほども動かなかった。
いなヂま
降り注ぐ稲妻によって、大樹に火がついた。火は風に煽られ、みるみるうちに大樹を包
んだ。
(焼かれる1− 助けてくれー)
きよだい たいまっ
透明な赤い炎に包まれ、ムルトは一本の巨大な松明となった。
赤々と燃える松明を、カイルロッドは冷ややかに見つめていた。
たお ぜつきよう ごうおん しんどう
やがて大樹が倒れ、絶叫が尾をひいた。轟音とともに策動が足元から伝わった。
倒れた大樹はすぐに白い灰とな。 − しかし、それで終わりではなかった。
「
けこ
異様な気配に、カイルロッドは表情を引きしめた。
しゆんかん げん ひも
瞬間、巻き上げすぎた弦が切れたように、緑色をした細い紐のような物が灰の下から飛
び出した。
つる き め
紐か蔓のように見えたが、灰の下から現われたのは樹の芽だった。
「・ ムルトか」
あつけ すさ
呆気にとられているカイルロッドの前で、芽は凄まじい勢いで成長し、またたくうちに
大樹となった。
(ワーバッハッバー 倒したと思ったかフ一だったら残念だな。その程度ではやられん
ぞー)
再びそびえる大樹となって再生したムルトが高笑いし、カイルロッドの周囲を根が取り
囲んだ。
へた しぼム
「下手な芝居しやがって。手下達もしぶとかったが、親玉もしぶといな。だが、簡単に死
つれ
なないとは嬉しいぜ」
いムノペつ
ぐるりと周りを取り囲んだ根を一瞥し、カイルロッドは白い菌を見せた。
(いくら焼いたところで、私は何度でも再生するぞ)
へび
風は止んだのに、根が蛇のように甜れている。カイルロッドは軽く指を鳴らし、
「根がなくなってもかフ」
つPや
低く呟いた。
(根がなくなるなど、ありえんな)
自信たっぷりにムルトが言う。
21 悲しみは黄昏とともに
「やってみようか」
どれほどの魔力があろうと、樹は樹だ。根さえなければ、ムルトは倒れるはずだ。「問
−・.こ.・
題はすべての根を一気に消せるかだ」、桁外れの再生力を持っている相手である。一度に
まちが
消さない限り、何度でも再生することは間違いない。
「一度に焼いてやる」
こフげき
カイルロッドは手の平に神経を集中させ、地の底へ攻撃しょうとした。
しかし、それよ。一呼吸早く、カイルロッドとムルトの間に火柱が噴き上がった。
「なんだけ」
おどろ
カイルロッドは驚いた。
おれ
「俺はなにもしてないぞ」
−1んさ
カイルロッドはまだなんの攻撃もしていない。それなのに、一本、二本、次々と連鎖反
応のように火柱があがる。
(なんだ膏)
ムルトが身をよじった。
「なにが起きたんだフ」
理解できずに火柱を見つめていると、一番高く吹き上がっている火柱の中に、一つの強
い光があった。
「ゲオルディ様からもらった珠だ!」
反射的に手を伸ばすと、珠はカイルロッドの手の中に飛んできた。芋に戻った珠は赤く、
燃えているようだ。
「それじゃ、この火は… 」
つ.かや にぎ
呟き、カイルロッドは珠を振りしめた。なくしたとばかり思っていた珠は、あのまま地
中深くに潜り、地下に張り巡らされたムルトの根を焼いていたのだろうか。
ぱば
(これはゲオルディの婆あかっlI)
ゆが む
憎々しげに顔を歪め、歯を剥き出し、ムルトが喰った。
(まだ生きていやがるのか、くたばりぞこないの婆あめが−)
「根が焼かれて苦しそうだな、ムルト」
ののし
口汚くゲオルディを罵っているムルトを兄上け、カイルロッドが嘲笑すると、
(苦しい? 根を焼かれたフ・この程度の炎でけ・)
・り ・.
噴き上げていた炎が、一斉に鎮火した。
たお
(この程度の炎で、このムルトを倒そうなどとは片腹痛いわー)
ムルトの根元から黒い霧が噴き出し−−−−またたくうちに、無数の妖魔に変わった。
123 悲しみは黄昏とともに
「動かすだけでなく、生み出せるのか」
のど
カイルロッドは喉の奥で唸った。
(そうだ。造り出せるのは人間もどきばか。ではない)
だれ ふる
人間もどき − その言葉が誰を指しているのか。怒。でカイルロッドの全身に震えがは
しった。
どろにんぎよう
(ほう、まだ怒りを感じるのか。よく、あんな泥人形達のためにそこまでむきになれるも
あき
のだな。感心をこえて、もはや呆れたぞ)
いや
「泥人形だとけ・まだ、ミランシャ達を卑しめるのか日.」
血が逆流した。
ぬ つぷ
青銀色の空間を黒く塗り潰すほどの妖魔達が、カイルロッドめがけて襲いかかった。
2
ぱノ、はつ
光が爆発した。
せんこうほとばし
カイルロッドを中心にして、銀色の閃光が迷った。
するど むきん
冷たく鋭い光に焼かれるように、無数の妖魔達が薯散した。
「いまさら、こんな物が俺の敵になると思っているのか! ききまは許さないぞ、ムル
ト〓」
ちんか いつせし
カイルロッドの声に同調し、鎮火したと思われた火柱が一斉に噴き上げた。
きよだい
それらは集まり、一本の巨大な火柱となった。
かりゆう
巨大な火竜のようだった。
青銀色の空間を朱に染め、巨大な火竜はムルトに巻きついた。幹の中央にあるムルトの
ゆが
顔が引き歪む。
(この火を消せー 身体が焼ける、焼けてしまうー)
炎が樹を飲み込もうとしていた。
「さっきまでの余裕はどうした、ムルトフ 再生すればいいじゃないか。きさまの力なら
いくらでも再生可能なんだろう?」
わめ
見苦しく喚くムルトに、意地悪くカイルロッドは言った。ムルトの様子からすると、こ
の炎は再生能力を封じているらしい。
(ググッ)
火あぶりになっているようなムルトを見つめながら、
「どうした、ムルト。しぶといのがおまえの取り柄だろうフ 再生してみせろよ」
珠を手の中で転がし、カイルロッドは薄く笑った。
25 悲しみは黄昏とともに
きみよう
炎が高くなり、完全にムルトを飲み込んだ。透明な赤い炎の中で、黒い大樹の影が奇妙
うこめ
に塞いている。
とろにんぎよう たきぎ
「ミランシャ達が泥人形なら、きさまは薪だな」
くちぴる
ありったけの悪意をこめて、カイルロッドは唇を大きく歪めた。
ゆ
炎に焼かれながら、大樹の影が苦悶するように揺れている。
「きさまなど燃えてなくなれ」
(あああっー ヴァランナーヌー 助けてくれー)
かみ
たま。かねたように、ムルトが白い髪と赤い目の女に助けを求めた。しかし、ヴァラン
チーヌは現われなかった。
「どうやら見捨てられたようだな」
カイルロッドは冷笑した。もはや、ムルトに加担するものはいない。
(ヴァランナーヌー 助けてくれー 私を見捨てないでくれ一つ!)
ぎトでつユう
ムルトは必死の形相で、ヴァランチーヌを呼んでいた。な。ふ。構わず、取り乱して助
かさ
けを求めるムルトの姿が、ミランシャを探して泣いていたグリユウと重なって見え、カイ
あお
ルロッドの怒。を煽った。
ようしや
「そうやって、助けを求めて泣き叫んでいた者を、きさまは容赦なく殺したんだー」
いなヂま ぜつきようひげ
上空の稲妾がムルトの上に落ちる。ムルトの絶叫が響き渡った。
「きさまは ー」
や
泣いていたダリユウの顔が、悲しそうなミランシャの目が忘れられない。ムルトなど八
ぎ
つ裂きにしても飽き足らなかった。
(カイルロッド、私は知りたかっただけだ「 この世の秘密をー 生命の秘密をー それ
ゆめ
が私の夢だったー)
あわ
炎の中のムルトが、憐れっぽい声でそう叫んだ。
「・夢だとフ」
一Jゆ さかだ
ギリッとカイルロッドの眉が逆立つ。
きせい
(そうだ、夢だっー一生をかけた夢だー その夢のために、他人を犠牲にすることのな
だれ
にが悪いt 註もがやっていることではないか!)
かじよう ぬ
悲鳴をあげながら、炎の中で大樹の影が崩れ始めた。過剰に塗り立てた装飾が剥がれ落
ちるように、ポロポロと崩れ落ちていく。
かな
(自分の夢を叶えようとして、なにが悪いっー)
こうF′き むだ
焼け落ちた破片が妖魔に変わった。ムルトはまだ攻撃を止めない。無駄なあがきという
いちペつ
のか。数で押そうとしている妖魔を一瞥し、
127 悲しみは黄昏とともに
「こんな物は敵にもならないと言ったはずだー」
カイルロッドが叫ぶと、妖魔達は元の黒い破片に戻った。
うば
(くそぉぉぉー こんな、こんなことでやられてたまるかぁっー 私の夢を奪われてたま
るかっー)
ムルトが吠える。
「さっきから黙って聞いていれば、夢だなんだと、自分勝手なことばか。ぬかしやがって
⊥
かみ らいこう
揺れるカイルロッドの髪に青白い雷光がはしる。
しいた
「なにが夢だ! きさまは楽しんでいただけだー 殺教を、他人を虐げることを!.上目分
は偉いのだと、弱い者を踏みつけることで自分の力に酔って、満足していたかっただけ
だ−」
炎にまかれたムルトに向かって、カイルロッドは叫んだ。
「妖魔によって、どれだけの人間が殺されたか! どれだけの人間が苦しんだか、知って
いるのかー」
はかい
破壊された街や村。
とはよノ うつ まなぎ
廃墟と化したそこにたたずむ人々の途方にくれた、虚ろな眼差し。
妖魔によって家族を奪われた人々の嘆きの声。
とちゆつ いや
旅の途中、カイルロッドはそれらを嫌というほど目にしてきた。
「そして、死神にされた俺の気持ちがわかるかー」
めいわく ののし
親切にしてくれた人々に迷惑をかけ、罵られ、なじられたことを思い出し、カイルロッ
にじ
ドの目に涙が渉んでいた。
4ういん と
「おまけに俺の封印を解くという名目で、きさまはグリユウとミランシャを殺したー き
さまのしてきたことは、夢のためなんかじゃない−」
カイルロッドの全身から青い燐光がのぼった。
ドオーンと、大気が鳴った。
「きさまなど消えてなくなれ ー 〓」
きれつ
ナイフで画布を裂いたように、カイルロッドの足元から亀裂が真っすぐに延びた。
ごフおん たいlつ
轟音とともに、松明のようになっている大樹も二つに割れた。
・・ − 1 1・・−、
たお しゆんかん つ きよだい
ムルトを倒したと思った瞬間、カイルロッドは地の底から突き上げてくる巨大な力を感
じた。
ぞうお きようJ うずま
殺意、憎悪、恐怖、怒り。そういったものが力となって渦巻いている。
悲しみは黄昏とともに
暗くて熱い感情だ。
それが亀裂の間から、黒いマグマのように噴き出した。
「亀裂の間から、なにかがせり上がってくる・ 」
はだ
チリチリと肌があぶられているようだった。これまでのムルトの力よ。も、数倍も強い
力を感じ、カイルロッドは身構えた。
亀裂の問から、なにかが現われた。
赤い球体が浮かびあがってきた。
直径が一メートルもある、半透明の球体。
それがなにか、とっさにはわからなかったが、よく見ると表面に血管のようなものが浮
かんでいて、規則正しく波打っている。
そして − 中には人間とおぼしき姿があり、手足をまるめている。
たいじ
「胎児こ…」
つ.ふや
頭上に浮いている球体を見、カイルロッドは呟いた。
えな
それはまざれもなく胎児であ。、球体は胎児を包んでいる胞衣だった。力を取。込むた
めのものだろう、球体の下の部分に無数の樹の根がつながっている。
(よもやこの姿で出ようとはなぁ。仮の姿のままで力を取り込めると思っていたが。どう
やらきさまをみくびっていたようだ)
胎児の口元がかすかに動いた。笑ったらしい。
「それがきさまの本体か、ムルト」
、フな
カイルロッドは低く唸った。大樹が本体だとばかり思っていたが、胎児だったとは・
lぎよノだい まりよく
大樹の取り込んだ膨大な魔力を吸収しながら、成長していたのだ。
(いくらすべての力を開放したところで、きさまは私に勝てん。私はきさまより強いのだ
からな。このままおとなしく私に取り込まれるがいい)
「やれるものならやってみろー 根を切断してやるー」
もしかしたら大樹が再生するかもしれない。それを恐れた。カイルロッドは手に力を集
中させる。
手の上に銀色の光が浮かび、カイルロッドはそれを赤い球体めがけて投げつけた。
あぎ あと
鮮やかな銀色の跡を残すそれは、刃物のようだった。
えいり
鋭利な刃物となった光は、赤い胞衣につながっているすべての根を切断した。
「やった!」
カイルロッドが口に出すと、
悲しみは黄昏とともに
(馬鹿めー)
丸くなっている胎児が − ムルトが目を開けた。胞衣の中からカイルロッドを見ている。
ぎんこく
身体は胎児でも、その日には大人の知性があった。そして、残酷さがあった。
(根などなくなっても、養分は吸収できるわー)
むく しゆうあくゆが
無垢であるはずの赤子の顔は欲望にまみれ、醜悪に歪んでいた。
(きさまの力を取。込んで、私は《あの方》を超えるのだ⊥
ゴウッと大気がうねり、竜巻となってカイルロッドを飲み込んだ。
が、カイルロッドを飲み込むと同時に、内側に回転していた竜巻が逆回転を始めた。カ
うず
イルロッドを渦の中心にして、外へと広がっていく。
おうじようぎわ やつ
「往生際の悪い奴−」
あ
カイルロッドが舌打ちし、風は刃物となって荒れ狂った。
きれつ
亀裂を広げ、ムルトのいる球体に迫った。
まさつ しんく
力がぶつか。あう摩擦によって、球体の表面に深紅の火花が散る。
(こんなものでやられるかっ−)
たいじ
胎児の目がカッと開き、荒れ狂っていた風が止んだ。
「きさまを成長させない」
カイルロッドは球体に向かって、歩き始めた。どんなことをしてでも、ムルトを成長さ
せてはならない。
.′ こ・・
一歩一歩、進んでいくカイルロッドの足跡が、くっきりと下に残っている。バターの
かたまhソ
塊の上に焼きごてを押したようだった。高熱によってそこだけが溶かされ、足跡となっ
て残っている。
「きさまだけは許さないぞ、ムルト」
(ほざけー おとなしく私に取り込まれてしまうがいいー)
赤い球体の表面の一部がモゾモゾと動いて膨らみ、それは目になった。
つ
球体から人の顔ほどもある目玉が突き出し、それがカイルロッドを見ている。
rJ′もの
人の目ではなく、獣の目だった。
こヱノきい
虹彩が縦長だった。
ぎようし めまい
その日に凝視され、カイルロッドは目眩を感じて、よろめいた。
「…・2吸い込まれるlつ.」
うば
大きな獣の目に、力が奪われていくようだった。目をそらしているのに、吸い取られて
いくのがわかる。
「まだこんな力があったのか!」
悲しみは黄昏とともに
よろめきながら、カイルロッドは奥歯を噛みしめた。
きよだい はり
巨大な獣の目の虹彩が、針のように細くなった。
(根などなくとも吸収できると言っただろう− 完全に成長するには、どうしてもきさま
が必要なのだ。きさまを養分にして、私は完全に成長するのだー バッハッハ! 素晴ら
しい力だ1 見ろ、どんどん成長していくぞー)
高笑いとともに、球体の中で胎児が成長を始めた。その中だけ時間が加速しているよう
に、刻々と凄い速さで成長していく。
ぷぎま
(私が成長した時、おまえは死ぬのだー カを吸い取られ、みじめに、無様に、私に殺さ
れるのだー)
「くっ−」
にり フめ しび
成長していくムルトを睨みながら、カイルロッドは坤いた。力を吸い取られ、全身が痺
れてきた。
「成長させてたまるかー」
はな
銀色の光をつくり、ムルトのいる赤い胞衣めがけて放った。
(むうっ−)
獣の目が動き、カイルロッドの放った光を吸収しょうとした。
が、光は生き物のように動いて、球体の表面に浮き出ている血管を切断した。
プツ、と、太い物が切れる音がして血管の一本が切れた。真っ赤な液体が噴き出し、球
体の上を流れ落ちる。
(カイルロッド ー 〓)
めじり つ
獣の唸りに似ていた。ギラギラと光るムルトの目を睨み返し、カイルロッドは目尻を吊
り上げた。
だれ
「誰がきさまなんかに殺されてやるか・…・きさまなんか、生かしておくものか〓」
さけ じゆばく
カイルロッドは叫んだ。獣の目の呪縛が解けたのか、身体が軽くなった。
ようしや
銀色の光は容赦なく血管を切断していく。
ふんすし、 ひた
切断面から噴水のように赤い液体が噴き出し、流れ落ち、カイルロッドの足元を浸した。
あかし
無数の人々から吸い取った証のように、おびただしい量のそれが広がっていく。
.
さらに銀色の光は獣の目を潰した。潰された獣の目は苦悶するようにプルプルと震え、
もど
溶けるように元の赤い球体の中に戻っていく。
(おのれぇ〓)
ムルトの目は血走っていた。すでに胎児ではなく、カイルロッドより少し上程度の青年
になっていた。
悲しみは黄昏とともに
「・…・・成長する前に消してやる」
身体は軽くなったがまだふらつく身体をおして、カイルロッドは珠を持っていない手を
ふく
上に突き上げた。その上で光が膨らみはじめた。
「今度こそ消し去ってやる‖・」
力をためて、それをムルトにぶつけてやるつも。だった。
血管をすべて切断すると刃物となっていた光が、役目を終えたように消えた。
「消えるがいい、ムルト‖」
広が。続ける真っ赤な液体の上でカイルロッドが叫ぶと同時に、
(死んでたまるかっー)
ほiノニフ
咄噂をあげ、ムルトの手が球体を突き破った。
−1..
ぬ えな
母親の腹を裂いて出てくるように、赤い液体に全身を渚らしたムルトが、胞衣を破って
出てきた。
(私は生きる、永遠に生きるのだー)
あつき ぎようそう すき しゆうちやく
悪鬼の形相をした血まみれのムルトが走ってくる。凄まじい生への執着だった。
(死んでたまるかー)
執念の塊と化したムルトを睨みつけながら、カイルロッドは大きく息を吸いこんだ。
ぽうちよう ぎようしゆく しぼ とつしん
手の上で膨張していた光が急激に凝縮し、点になる。「力を一点に絞って、突進してく
いつしゆんちゆうちよ
るムルトにぶつけてやる」、ムルトに叩きつけようとしたカイルロッドだが一瞬、籍躇し
すみ
た。視界の隅でなにかが動いた。
「ヴァランチーヌーフ」
いつ現われたのか、カイルロッドとムルトから離れたところに、ヴァランナーヌが立っ
ていた。
薄青い服の裾が揺れ、赤い目が悲しそうにムルトとカイルロッドを見ている。
「この女は・・」
なぞ
何者なのか、わからない。なにもかもが謎めいている。
(うおぉぉぉ!)
おたけ
ぼんやりしていたカイルロッドは、ムルトの雄叫びで我にかえった。そして、ムルトめ
こうげき
がけて攻撃しょうとした。
しかし − 。
カイルロッドから三メートルと離れていない位置で、ふいにムルトが動きを止めた。ま
37 悲しみは戴昏とともに
.こしつとつ
るで凍りついたような、唐突さだった。
(そんな・)
きようがくきよこノふ
ムルトの顔に驚愕と恐怖が波紋となって広が。1身体が溶け始めていた。
「・・ こ・」
まつたん
カイルロッドの目の前で、ムルトの手の先、足の先が、末端から溶けていく。
おどろ
だが、変化はそればか。でなかった。驚きと恐怖に、自分の肉体を見つめているムルト
しわ
の顔に敏が増えていくではないか。
「…・成長しきっていないからだ」
ひようし
加速するように老いて、そして溶けていくムルトを見ながら、カイルロッドはやや拍子
抜けした気分だった。
なにlメノ
完全に成長していない段階で胞衣から出たため身体が腐。、溶け始めたのだ。何気なく
球体だった物に視線を向けると、根と血管のすべてを切断されたそれはしぼみ、カラカラ
かんヱう
に乾燥していた。
きいご
「溶けて死ぬのか 。きさまにふさわしい最期だな、ムルト」
つ一わや
呟き、カイルロッドは光を消した。もう、力など必要はない。黙っていても、ムルトは
死ぬのだ。
(死んでたまるかー)
レぎ
膝まで溶け、立っていられなくなったムルトが、液体の中に倒れた。赤い液体と溶けて
ふlこく いしゆ・つ
いく身体が混じり合い、腐肉のような異臭を放った。
(助けてくれ、死にたくないっ)
老人になって溶けていくムルトが、涙を流して助けを乞う。が、カイルロッドは無表情
だった。
(力をくれ。今ならまだ間に合うー 私を見殺しにしないでくれー)
つごう たの
もがきながら、都合のいいことを頼むムルトに、
おれ
「どうして俺がきさまを助けなくちゃならないんだフ 理由がひとつでもあったら言って
みろよ」
かみ
手持ち無沙汰というように、自分の髪を一房いじくりながら、カイルロッドは穏やかに
応じた。
つり
「じわじわと死んでいくのは、辛いものだよな。でも、ミランシャはそうして死んだんだ。
きさまに殺されたんだ」
ささや
カイルロッドは優しい声で囁いた。
「きさまもそうやって死ぬんだ」
139 悲しみは輩昏とともに
(ひいいっ‖)
ムルトはもがいているが、すでに半身が溶けている。
(ヴァランチーヌ、助けてくれ!)
しわ まゆ
ムルトは無数の敏が刻まれた顔を女に向けたが、ヴァランチーヌは眉を寄せたまま、ゆ
・
っくりと頭を左右に振った。白い顔には深い苦悩と悲しみがあった。その衷情に、ヴァラ
ンナーヌがムルトと同じ苦痛を受けているように見え、カイルロッドは顔をしかめた。
つた
と、赤い蔦のようなものが、カイルロッドめがけて動いた。
しよくしゆ しぽ こうげき
ムルトの周りの液体から、触手が伸びている。最後の力を振り絞った攻撃だ。
(力をよこせぎ)
「まだあがいているのか」
あき つぷや
髪をいじくっていた手を止め、呆れたようにカイルロッドは呟いた。溶けた身体を触手
から
にして、それでカイルロッドに絡みついて、力を吸収しょうとしたのだろう。
ふ
しかし、赤い触手はカイルロッドに触れることなく、蒸発した。
「力が取れなくて残念だな」
ほうかい
(わ、私が死ねば、タジェナが崩壊するのだぞ− そうなれば、《あの方吋が出てくるの
だー それでもいいのか!)
っわめづか うかがひくつ まなぎ
ムルトが上目遣いにカイルロッドを見た。相手の顔色を窺う卑屈な眼差しは、小動物に
似ていた。
「だから、どうした? それで取り引きでもしているつもりか?」
ムルトの最後の、とっておきの切札を、カイルロッドは鼻先でせせら笑った。
せhリL
「きさまらしくもない台詞じゃないか。《あの方》を超えるんだろうフ 俺を取り込むん
じゃないのか?」
くや む
老人の顔になったムルトが悔しそうに歯を剥いた。結局ムルトは《あの方》とやらを盾
だれ
にしていただけなのだ。《あの方》が後ろにいるからこそ、誰もタジェナに手出しできず、
あくぎよう
ムルトは悪行の限りを尽くしていられたのだ。
とり い きつね
「虎の威をかる狐とは、きさまのことだ」
かた するとは
表情を硬くし、カイルロッドは鋭く吐き捨てた。
ごうまん へ
弱い者には限りなく倣慢になり、強い者には媚びへつらうムルトに、カイルロッドは反
吐が出そうになった。
(おまえは《あの方》を知らないのだー・《あの方》が出てくれば、この世の終わりがく
でついん
る。それでも私を殺すのか! タジエナは《あの方》の封印なのだぞー 私はタジェナそ
のものだぞー)
悲しみは黄昏とともに
のど
喉になにかがひっかかったような声で、ムルトは必死になって自分の必要性を売り込ん
だ。その声をカイルロッドは無視した。
この世の終わ。がこようと、どうなろうと、そんなことはどうでもよかった。今のカイ
かたき
ルロッドは、ミランシャとグリユウの仇をとることしか頭になかった。その思いだけがカ
イルロッドを支配していた。
(助けてくれ、死にたくないっ。私は死にたくない〓)
わめ
もう頭部しか残っていない姿で、ムルトが喚いた。死を目前にした人間の悲痛な声だっ
とりは一だ
た。耳の奥底に残って、思い出すたびに鳥肌がたってしまうような、そんな声だ。タジェ
ろうばい むだ
ナに登る前のカイルロッドなら狼狽し、敵であっても、結果的に無駄なことでしかないと
わかっていても助けようと動いていただろう。
「よくそんな声が出るな、ムルト」
フす
しかし、今のカイルロッドは平然と、それどころか薄い笑いをうかべて、ムルトを見て
いた。
ゆが
ヴァランチーヌは美しい顔を苦痛に歪めながら、ムルトを見つめている。[日をそらすま
1・
いと、己れに言い聞かせているようだった。
みじ ホぎま
「きさまなど惨めに、無様にもがいて死ねばいいー」
青い目が底光りした。
あわだ
ゴポッと、液体が欝え立ったように泡立ち、ムルトの頭部が溶けた。
いや
(嫌だ、死にたくない1日)
だんまつま さけ
断末魔の叫びだった。
さいご
恐れられ、忌まれた魔道士ムルトの最期だった。
− 骨も残っていなかった。
えな ちり ひた
なにもかもが溶けた。胞衣も塵となり、残ったものは足元を浸す赤い液体だけだった。
「ムルトを倒したのか・ 」
だれ つ.dや くつ ぬ
誰にともなく呟き、カイルロッドは足元を見た。赤い液体が靴を濡らしていた。
ムルトを倒したのだ。
ルナンは石から解放される。
かたきう
ミランシャ達の仇も討った。
きよむかん
それなのに、喜びが沸き上がってこない。ただ、言い知れぬ虚無感が胸の中を、冷たい
風となって通りすぎていくばかりだ。カイルロッドはこの場に座りこんでしまいたいよう
だつりよく
な脱力感を感じていた。
悲しみは黄昏とともに
「ムルトを倒したのに 」
もど むな
ムルトを倒してもミランシャ達は、失われた生命は戻ってこない。そのことが虚しく、
悲しかった。
片手で顔を押さえ、泣きたいような気持ちで立っていると、
ノ、ず
「もうすぐタジエナは崩れるわ」
カイルロッドの後方から、ヴァランチーヌの声がした。
「 ヴァランチーヌ」
かふ ぬ
白い髪と赤い日の女は、カイルロッドの横を風のように通。抜け、ムルトが溶けた場所
ひぎ
に両膝をついた。
「・ムルト」
.−・
悲しそうな顔で、そこに触れる。赤い液体が白い指先を濡らした。ヴァランナーヌはム
ルトの死を悲しんでいた。おそらく世界中で唯一人、ヴァランナーヌだけがムルトの死を
悲しんでいるのだろう。
「あなたはムルトのなんですフ」
カイルロッドがずっと疑問に思っていたことを訊くと、
「あたしはこの人の要」
うつむいたままで、ヴァランチーヌが答えた。
「妻P」
おどろ かく うなす
カイルロッドは驚きを隠せなかった。ヴァランチーヌはかすかに領き、
だいしんでん
「あたしもフエルハーン大神殿の神官の一人だったわ。そこでムルトと知り合い、結婚し
いつしよ
たの。もう、昔のことだけどこ・それからずっと、ムルトと一緒にいたわ」
ただよ
ゆっくりと顔を上げた。悲痛なものを漂わせた美しい白い顔 − その顔をカイルロッド
は見たことがあった。
「ミランシャ 」
うめ さいご
カイルロッドは坤いた。あの少女が最期に見せた表情と同じだった。
「ムルトは優しい人だった 魔力にのめり込み、人間であることをやめてしまうまでは。
ゆめ
善良で優しい人だった …どうして男の人は夢だとか、野望なんてものだけを追って生き
ていけるの7 人の一生が夢のようなものなのに 」
きさや
歌うように、ヴァランナーヌが囁いた。
「ヴァランチーヌ・」
へんぼう
「あたしは夫を止めることも、殺すこともできなかった。変貌した夫を見つめているだけ
だった……。カイルロッド王子、あたしはあなたにムルトを殺してほしくなかった。でも、
5 悲しみは黄昏とともに
これは仕方のないことなのね」
つぷや ほかあんど
呟いたヴァランチーヌの言葉から、悲しみの他に安堵が感じられた。
ざんぎやくひどう
残虐非道になってしまった夫でも見捨てることができず、見つめ続けた女は、夫の死で
ようやく長い苦しみから解放されようとしているのだろうか。
「ムルト …。やっと、あたしのところに帰ってきてくれたのね」
あふ
両手をついたヴァランチーヌの目から、とめどもなく涙が溢れていた。
カイルロッドは言葉もなく、立ちつくしていた。
かみ ゆ
風が吹き、カイルロッドとヴァランナーヌの髪を揺らした。
「早く行きなさい、カイルロッド王子。願わくば、あなたはムルトのようにはならないで
ちょうだい」
両手をついてうつむいたまま、ヴァランチ1∴メが言った。
.L
「ムルトけ どうしてP 俺はムルトのようにはならないー」
思いもかけない忠告に、カイルロッドは声をうわずらせた。イルダーナフに力まかせに
なく しようげき
殴られた時のような、あるいはそれ以上の衝撃だった。「よりによって、ムルトだなん
おどろ くちぴる
てー」、怒。と驚きに唇をわななかせていると、
「どうかしら? 今のあなたはムルトと同じよ」
赤い目が真っすぐにカイルロッドを射た。
今ノアナタハムルトト同ジヨ ・▼。
くさぴ
ヴァランチ上メの言葉は、楔となってカイルロッドの胸に打ち込まれた。
かたきう
「俺とムルトが−フ 違う、俺はミランシャ達の仇を討つために、力を使ったんだー」
泣きそうな声で、カイルロッドは否定した。そんなカイルロッドを、赤い目が悲しそう
に見つめている。
「でも、あなたはすぐにムルトを殺さなかったわ。力がありながら殺さなかったのは、ム
ぷぎま みじ あいがん
ルトを苦しめたかったからでしょうフ 無様に、惨めに哀願するムルトを見て、あなたは
笑っていたわ」
たんたん つか
ヴァランナーヌの淡々とした声に、カイルロッドは息苦しさをおぼえ、服の胸元を潤ん
だ。頭の奥が鈍く痛む。
「俺はムルトとは違う 違うんだ」
ゆが つ.ふや ーようげきつ
息苦しさと頭痛に顔を歪めて呟いた時、足元から衝撃が突き上げた。
きれつ
反射的に周囲を見ると、空に亀裂が入っていた。そこだけでなく、青銀色の空間に亀裂
がはしり、おかしな具合に歪み始めている。
はうかい
崩壊の時が近づいていた。
きみよぺノ
147 耳をつんざく都音が途切れることなく続き、時々、奇妙な笑い声と羽音のようなものが
混じる。だが、笑い声と羽音の正体をカイルロッドは確かめることはできなかった。
悲しみは黄昏とともに
「お行きなさい、カイルロッド王子」
ヴァランチーヌに言われ、カイルロッドは逃げるようにその場を去った。
頭の中でヴァランチーヌの言葉がグルグル回っている。
「ヴァランナーヌ 」
ふ
しばらくしてから思い出し、振り返ってみた。しかし、立ち上る白い煙と降り注ぐ白い
かたまりさえぎ
雪と氷の塊に遮られ、ヴァランチ上メの姿は見えなかった。
1
ノ1す ごスノおん
どこかで地鳴りと、なにかが崩れる菰音が聞こえた。
「タジエナが崩壊している」
うつ つぶや
カイルロッドは虚ろに呟いた。
ムルトの死によって、タジェナ山脈が崩壊し始めたのだ。
いつしよ かたまり
冷たい風と生暖かい風が一緒に吹きつけ、上から雪と氷の塊が降り注いでくる。
ゆ じゆうお・つむヶレん きれつ
足元は大きく揺れ、縦横無尽に亀裂が生じていた。
と ぎ
ひぎ
白い霧がたちこめ、周りの光景など見えない。歩いている自分の足元、膝から下すら見
えないのだ。
やみ
白い闇だ。
むゆうぴよう
純白の濃い闇の中を、カイルロッドは夢遊病者のように歩いていた。
カイルロッドにとって、自分を取り巻いているすべてが虚ろに感じられた。白い闇も、
ガ一フつ
崩壊していくタジェナの様子すら、曇り硝子越しに見ている別世界のようだった。
ごよノおん はだ さ わたげ
轟音も笑い声も遥かに遠く聞こえ、降り注ぐ氷が肌を裂いても、綿毛がかすったほどに
しか感じられない。雲の上を歩いているように、足元さえはっきりとしないのである。
「俺とムルトが同じだなんて」
あえ
カイルロッドは喘いだ。鈍い頭痛は割れるような痛みに変わり、息苦しさは増すばかり
だった。
「俺はムルトとは違う」
すみ こ・つてい
そう否定する心の隅で、「同じだ」と肯定する声が聞こえる。
「ヴァランチーヌの指摘どおりだ」
ささや
醒めて、冷たい声が囁く。
ムルトを傷つけてやりたかった、殺したことを後悔していない。それほど憎かった。
悲しみは黄昏とともに
みぶる
だが、ムルトと闘っていた時の自分自身を冷静に思い出し、カイルロッドは身震いした。
ゆが
苦痛に歪んだムルトの顔を見て、少しも心が痛まなかった。それどころか、暗く激しい怒
りが増しただけだ。
一・、、・111..
ふる
震える手で、カイルロッドは口元を押さえた。吐。き気がこみあげてきた。
「ミランシャやブリユウをいたぶっていたムルトと同じだ」
カイルロッドの中の冷たい芦が嘲笑した。
「それはー それはムルトがミランシャ達を殺したからだー 理由があったんだー」
.... ・ H
嫌悪を振り払うように叫んだカイルロッドの耳の奥底で、ヴァランチーヌの言葉がこだ
まする。
のど
耳鳴。がした。息が苦しくな。、カイルロッドは喉を押さえた。
「俺はムルトとは違う!」
だれ
歩きながら、カイルロッドは叫んでいた。誰かに 「おまえはムルトとは違う」と言って
はしかった。
「俺はムルトのようにはならない、絶対にならないー」
ぬぐ
決してムルトのようにはならないと患っているのに、心の奥底から湧いてくる拭いがた
い不安はなんなのか。
やみ
(人ノ心ノ中こハ闇ガアル。オマエバ特二気ヲツケルコトダ1−−)
ザーダックに言われた言葉が、心臓を締めつけた。
つ
(《あの方》 の力を継いでいるというのに、虫けらのように生きるのか)
げんちよう
ムルトの高笑いが聞こえてきた。幻聴だとわかっているのに、カイルロッドの全身を冷
あせ
たい汗が流れる。
「《あの方》とは何者なんだー どうして俺は特に気をつけなくちゃならないんだー」
叫んでも、答えはない。
やつ
「俺の実父が、ムルトも恐れた奴だからー カが強いがゆえに、俺はその力に振り回され
ると言うのかn」
あふ ぬ
涙が溢れ、カイルロッドは頬を濡らしていた。
みじ
ムルトに勝ち、目的を果たしたというのに、この惨めさと悲しさはなんなのだろう。死
ぶざま あわ
にたくないと叫んでいたムルトより、勝った自分が惨めで無様で、憐れにすら思えるのは
何奴なのか。
「誰か教えてくれ。俺の旅はなんだったんだ…」
ぬぐ うめ
流れる涙を拭いもせず、カイルロッドは坤いた。
51 悲しみは黄昏とともに
ルナンを出てからの旅はなんだったのか。
あの悲しみは、苦しみはなんだったのか。
「こんな結末のために、俺は今まで旅をしてきたのかけ ムルトと同じだと言われるため
に、力を使えるように努力したのかP」
強い力に振り回され、ムルトのようになってしまうと言うのか。
善良で優しい人間だったムルトが、あんなふうになってしまったように。
「誰か、答えてくれ……」
手の中からゲオルディにもらった珠が落ちた。しかし、カイルロッドはそのことに気が
つかないまま、歩いていた。
ひようへきくず とどろ
すぐ後ろで氷壁の崩れる音が轟いた。
(オオ、アノ方ダ)
(索晴ラシイカ)
ごうおん
轟音とは別に、甲高い声が聞こえた。そして、なにか小さな物がカイルロッドの周。を
飛んでいる。言葉さえ話さなければ羽虫のようだが、おそらく妖魔の類いだろう。見なく
ても、気配でそれがわかる。
どこ
(何処へ行カレルノデスカ)
52
耳元で言われ、カイルロッドは片手を振って、それを追い払おうとした。「ムルトは死
んだのに、何故フ」、しかも敵意がない。
「どうして俺のところにフ」
あわ はじ
疑問を感じたが、すぐに泡のように弾けてしまった。妖魔も疑問も、どうでもいいよう
さわ
な気になってしまった。ただ、声と羽音が気に障って仕方なかった。
「あっちへ行け」
はえ
追い払おうとしているのに、それは蝿よりもうるさくまとわりついてくる。
(コテラへ)
(我々ノ許へ)
(コテラへイラシテクダサイ)
しっこく言われ、カイルロッドの頭にカッと血がのぼった。
「うるさいっ=」
どな
怒鳴りつけると、ジュッと焼ける音がして、まとわりついていた羽音と甲高い声が消え
た。
「・ ・」
神経がささくれだっていた。妖魔とはいえ、怒りで無意味に殺したことをカイルロッド
悲しみは紫昏とともに
は後悔し、自分の力が恐いと思った。
・
「すでに自分の力に振。回されているんじゃないかフ」
それが恐ろしかった。
「・・…こ、、ランシャ、イルダーナフ。助けてくれ……」
無性に二人に会いたかった。ルナンにいるサイードに、ダヤン・イフエに、知り合った
優しい人々に会いたかった。
「ミランシャ、グリユウ…・」
ごま
捨て駒のように消された二人を思い出し、カイルロッドは上を見上げた。
いなヂま あ
白い闇の奥で、稲妻が荒れ狂っていた。
「・ミランシャ」
明るい目の少女に会いたかった。ミランシャはどんな時でも強くて明るかった。
lまうかい はつこつ
崩壊するタジェナを、カイルロッドは泣きながら彷裡していた。
それは迷路だった。
出口の見えない心の迷路を、カイルロッドは彷担っていた。
最初、それは小さな点でしかなかった。青い空にぽつんと浮かんだ黒い点。
目ざとい人々が気がつき、「あれはなんだろう」と指差し、後から気がついた人々も首
かし
を傾げて見上げた。
まえぷ だーl
多くの人々がそれを見ていた。しかし、まだそれが異変の前触れであるとは、誰一人と
して気がつかなかった。
ふノ1
人々の見ている前で点はゆっくりと膨らみ、黒い穴へと広がった。
どよめきが起きる。
すみ しっこく
ほぼ同時に、黒い穴から黒い雲がわきだした。墨のような、漆黒の雲だ。それはまたた
おお
くうちに天空を覆った。
異変はそれだけでなかった。
月が欠けていくように太陽が消えた。日食だ。
ほこ みぷる
季節外れの冷たい北風が吹きつけ、咲き誇る花々が身震いするように膠れた。
おとず やみ おちい
昼間だというのに夜が訪れたようになり、闇の到来に人々は恐慌状態に陥った。
さけ
子供は泣き叫び、犬達が狂ったように吠。えたてた。
花が散り、木々の新緑が枯草色となって落ちていく。
世界を覆った暗黒の中で、タジエナ山脈だけが白く光っていた。
なにかの光を浴びて光っているのではなく、タジエナそのものが光を発していた。
55 悲しみは黄昏とともに
遠くの土地に住む者達にも、光るタジェナ山脈が見えた。見える者にしか見えなかった
山が、誰にでも見えたのである。
まれ
その山がタジエナだとわかった者はごく稀だったが、多くの人々はわからずとも、光る
山に不害なものを感じていた。
はし
タジェナの上にかかる黒雲の間を、赤黒い光が奔る。
いなずま くヂ
稲妻がいく筋もタジェナに落ち、そこから細い光が吹き上がり、山を崩した。
砕かれ、飛び散る山の破片が、肉眼で見えた。
らくらい
落雷とは別に、地の底から地鳴りが轟き、そのたびに大地が揺れる。
しんどう ふる
震動はタジェナと、その周辺の氷原を震わせた。厚い氷にひびが入。、細かく割れてい
かなた
その震動はタジェナ近辺ばかりでなく、遠く離れた大地をも貰わせ、彼方の湖や河の表
さぎなみ
面に小波をたてた。
闇の中に白く浮かんでいる巨大なタジェナ山脈が、ゆっくりと、しかし確実に崩れよう
としていた。
崩れかけた山脈から、赤く光る小さな物が飛び出した。それは、氷原に立っている男の
手の中に入った。
「おやおや」
手の中に飛び込んだ赤い物 − ゲオルディの珠を見、イルダーナフはおどけたように黒
い目を大きくみひらいた。
「落としたな、あの馬鹿王子」
あき
赤い珠を手の平の上で転がし、イルダーナフは呆れたように肩をすくめた。それから仕
するど
方ないというように、珠をズボンのポケットにしまい、鋭い顔を上げた。
「 ついに崩れるか」
つ〃や
割れた氷の上に立ち、イルダーナフが低い声で呟いた。
正面に見えるタジェナ山脈は、クッキーのようにポロポロと崩れていく。その様子を見
つめながら、イルダーナフは昌を約めた。
「カイルロッドは勝ったが……ミランシャは死んだか・・…」
あいせつ
呟いたイルダーナフの声には哀切があり、その顔にはミランシャの死を悼む表情があっ
た。
「いい娘だったのに 」
ゆが
口元を歪め、
「ムルトの馬鹿め。おとなしく神官をやってりやよかったのに」
57 悲しみは黄昏とともに
イルダーナフは吐き捨てた。陽に灼けたその顔には、複雑な表情があった。
いかヂちくだ しんどう くヂ
雷に砕かれ、震動で崩れ、タジエナ山脈はすでに元の形を失っていた。
「タジエナが崩れたとな。や、あの野郎が出てくるな」
つみや
感傷を振り払うように呟き、イルダーナフはタジェナ山脈へと足を向けた。割れた氷の
上を飛び移。ながら、
「その前に、卵王子を拾ってこねぇとなぁ」
きんちようかん
大男は緊張感のまるでない声で呟いた。
もしも、世界が崩れる音があるとすれば、それはタジェナがその姿を消した時のものに
違いない。
なまやさ はだ しようげふ
音などという生易しいものでなく、人々の肌に、心に、その衝撃は伝わった。
つ.か さじん
そびえる大山脈が潰れるようにして消え、津々たる煙が舞い上がった。砂塵、雪と氷の
破片などが舞い上げられた。
はりかい
タジェナの崩壊、ムルトの死は、やがて人々の口にのぼるだろう。
タジェナ崩壊 −。
それは暗黒の到来を告げるものだった。
rhJ
つつ一Tフ お
鬱蒼と生い繁る木々が震えた。
小さな家の周りを取り囲む緑がかすかに買えている。だが、風によるものではない。
すさ
北から押し寄せてくる凄まじい妖気が、木々をも震わせているのだ。
くヂ
「タジエナが崩れたのか」
家の外で、空を覆っていた漂い雲が流されていくのを見ていた美女が、くっきりした眉
を寄せた。
強い魔力を持つ黒髪の魔女メディーナには、タジエナの崩壊を感じることができた。そ
きよだい
して、なにか得体の知れない巨大な影が、人々の上に広がり始めたことも。
「カイルロッド王子はムルトを倒したらしいが 一。ムルトを倒して、タジエナが崩壊し
ただけで、何故、こんな妖気がフ」
つぷや
呟き、黒髪の美女メディーナは、そこからやや離れて見えるフエルハーン大神殿の、巨
大な建物に視線を移動させた。
か
建物への階段を駆け上っていく人影がある。黒雲がわきだした頃から、神殿に向かう
うつた
人々の姿が増えた。神殿関係者達であり、また不安を訴える人々であろう。そのうち、こ
59 悲しみは黄昏とともに
すいたい
の異変についての説明を求めて、各国にいる神官達や人々がやってくるに違いない。衰退
したとはいえ、神殿というのはこういう事態になると頼られるものだ。
「さて、神殿は人々にどう説明するつも。だろう。もっとも、説明する前に、神官達が恐
おちい
慌状態に陥っていなければいいのだが」
呟き、メディーナは黒い目を細めた。
・ト
闇の中に光って浮かんでいた山が姿を消し、雲も消えようとしている。
欠けていた太陽も元に戻ろうとしている。
「・カイルロッド王子はどうなったんだ」
いかに力を秘めていようと、ムルト相手に無傷でいられるはずはない。
lどんさい むじやき ひび
盆栽を持って無邪気に笑っていたカイルロッドの姿と、苦い響きを含んだイルダーナフ
あわ
の言葉を思い出し、メティーナはカイルロッドに憐れを感じた。
「力があろうと、ただの人間なのに、な」
うつそう いらペつ
呟いてから、メディーナは鬱蒼と繁っている庭を一瞥した。それから仕方なさそうにそ
こへ足を向けた。
「ロワジ一様」
どこの山奥だと言いたくなる庭の中を、メディーナは老人を探して歩いた。
「同じ植物いじりでも、これならカイルロッド王子の盆栽の方がましだな」
まか
ロワジーは手入れらしきことをしないのである。「自然が一番」と言って、繁るに任せ
ているのだが、今日に限って珍しく昼前から手入れなどをしていた。
「ロワジー様、どこにおられます?」
メディーナが声を大きくして呼ぶと、
「ここだ、ここ」
むぎわらぽうし 一7んい
生い繁る緑の中から、麦藁帽子をかぶった老人が顔を出した。どこかすっとぼけた雰囲
ひげ かつ。かく かふ
気の、白い髭を生やした恰幅のいい老人である。髪も髭も白いので、緑の中にいると目立
つ。
きれい あわ
「おお、メディーナ。今日も綺麗だね。で、慌ててどうしたフ」
つぽあ 一しいしん
ふくらんだ花の蕾を手に、老人 − ロワジーが、のんびりと言った。フェルハーン大神
殿の前神官長で、今は神殿内の離れにある小さな家で、気楽な隠居生活を送っている。
イルダーナフの知り合いということで、メディーナはロワジーの世話をしているのだが、
「やはり親父の知り合いだけのことはある」
と思ってしまうような、実に食えない老人なのである。
くず
「わたしでなくとも慌てます。ロワジ1様、タジェナが崩れました。そのことを知らない
おび
人々ですら、この異変に怯えております」
カlた かく
メディーナは硬い声で言った。黒雲がわきだし、太陽が隠れ、さらに北から妖気が吹き
つけているというのに、平然としているのはロワジーぐらいなものだろう。
「ふーん、タジエナがね」
のんき むぎわらぽうし
呑気にロワジーは言い、麦藁帽子をかぶりなおすと、再び庭の手入れを始めた。
「見ていますと、神殿の建物に人々の出入りが激しくなりました」
手入れしている老人に、メディーナは見たままを告げた。ロワジーは聞いているのかい
ないのか、それすらもわからない表情であれこれと草木をいじくっていたが、
「タジェナが崩れたってことは、カイルロッド王子がムルトを倒したんだろうな。とすれ
ば、そのうち、エル・トパックがカイルロッド王子をここにつれてくるだろう」
世間話でもする調子で言った。
「え?」
おどろ あせ ぬぐ
メディーナが少し驚いた顔をすると、ロワジーは土のついた手で顔の汗を拭い、
「おや、知らなかったのかフ エル・トパックはおまえさんの親父に呼ばれて、王子を迎
えに行っとるよ」
こうこうや
好々爺の笑みをうかべた。
悲しみは黄昏とともに
「大至急、タジエナにこいって、使い魔がきたんだと。一週間ぐらい前かな。それでとん
で行ったよ」
「・ああ。それでこのところ、顔を見なかったのか」
つぷや せきわん
メディーナはロの中で呟いた。日参していた隻腕の青年の姿が見えなくなって、気には
していたのだが、あえて訊こうとは思わなかったのである。なにしろ、多忙な青年なので
ある。
「親父のことだ。ろくな説明もせず、急がせたんだろうな」
もど
ふうっと息をつき、メディーナはロワジーに視線を戻した。ロワジ1は鼻歌混じりに花
の具合を見ている。
「失礼を承知でお尋ねしたいのですが」
「うん、なんだねフ わしはおまえさんが気に入ってるから、たいていのことは許すぞ」
きむずか
気難しく扱いにくいと評判の老人が、メディーナの前ではニコこコしている。メディー
ナは軽く頭を下げ、
おどろ
「あ。がとうございます。では。ロワジ1様がなにがあっても驚かれないのは、親父同様、
なにもかもを知っておられるからですか」
答えを期待せずに訊いた。これまでもイルターナフのことだの、フエルハーン大神殿が
かたき
カイルロッドを冒の仇にしている理由だの、あれこれと質問してみたのだが、ろくな返事
が返ってこなかった。
おおぼら
「親父は大法螺吹きだが、この方はのらりくらりとはぐらかす」
−ソくつ
どうせまた妙な理屈を並べたてるものと思っていたメディーナに、
しゆうちやく
「わしはなにもかもを知っているわけではないぞ。わしが驚かないのはな、執着しておら
んからだ」
ほlけえ
花を見つめながら、ロワジーが微笑んだ。世捨て人の顔だった。
ゆめまぼろし
「なにもかもが夢幻よ。そう思っているからだ。ま、わしにはイルダーナフのような強さ
はないからな。奴のように重荷を背負い続ける強さはない」
「重荷フ」
「事実を知っているという、重荷だ」
ロワ、シーの声が少し低くなった。
∵1I l、こ
ちんもく
メディーナは沈黙していた。あの夜の、苦い顔で酒を飲んでいたイルダーナフの顔が思
い出され、なにも言えなかった。
しんでん
「事実を知るがゆえに、逃げることもできないのだ。辛いものだよな。神殿を出て三〇年
悲しみは黄昏とともに
近くもの間、イルダーナフはずっと重荷を背負い続けてきたんだからなぁ」
「神殿を出てフ」
するどき っぷや
メディーナが鋭く訊き返すと、ロワジ1は「口がすべった」と呟いて、舌を出した。
「すると親父は、神殿の人間だったんですか?」
「う1ん、あんま。しゃべると怒られるからなぁ。後は本人から直接聞いてくれ」
むだ
メディーナの追及を、ロワジーはする。とかわした。こうなるといくら追及しても無駄
1.1.・
である。泥鰭のような老人だと、メディーナは心の中で舌打ちした。
「しかし、あの親父が神殿関係者とは・・」
神殿でなにをしていたのか知らないが、聖職者の姿をしたイルダーナフなど想像もつか
ない。「育ての親ながら、わけのわからん男だ」、メディーナが目眩を感じた時、階段を駆
け上がってくる複数の靴音が聞こえた。
「うるさいな。なんだフ」
「こちらへくるようですが…・・」
ロワジ1とメディーナが顔を見合わせていると、
「ロワジ一様っー」
繁る草木をかきわけて、神官服を着た三人の男がやってきた。年齢はまちまちだが、一
様に血相を変えている。
あつか
「なんだ、おまえ達はー 草木を乱暴に扱うなー」
メディーナと話している時は温厚だったロワジーが、
どな
達を怒鳴りつけた。
「申し訳ございませんー 無礼をお許しくださいー」
年配の男が頭を垂れ、残る二人も深々と頭を下げた。
「許さん。だから、とっとと出て行け」
ロワジーは三人に背を向けた。
一転、気難しい顔になって、神官
「そのようなことをおっしゃらず、どうぞ、本堂へいらしてください− ただ今、神殿は
しゆうしゆう さわ
収拾のつかない騒ぎになっており、ロワジー様のお力が必要なのですー」
うつた
必死になって訴える男に、
いや
「嫌なこった」
ロワジーはとりつくしまもない。ただごとではない三人の様子に、見かねてメディーナ
が助け舟を出した。
「ロワジー様。まずは話だけでも聞いてみませんか。断わるにしても、話を聞いてからで
も遅くないと思いますが」
悲しみは黄昏とともに
「……仕方ない。メディーナがそう貰うなら、話だけは聞いてやろう」
お気に入りのメディーナの口添えとあって、不承不承ロワジーは話を聞くことにした。
ほ・つかい
「実は、タジェナが崩壊したと、北の神殿からの報告がきました」
年配の神官はそう、話を切。出した。
「そんなことはとっくに知っとる。力の強い神官なら、報告なんぞ受ける前に気がつくわ。
神官の力も年々低下していくようだな」
だま
つまらなそうにロワジーが言った。メディーナは黙って、神官達の話を聞いていた。
71 −
「まったく仰せのとおりで……。ともかく、その報告を受け、神殿に神官全員が呼び出さ
れました。神官一同、タジエナは神殿の手出しできぬ、いえ、してはならないものと教え
ふういん
られてきました。タジェナが封印であり、そこに封じられているものをこの世に出きぬた
あくぎよう
め、ムルトの悪行を知。つつ、神殿は見て見ぬふ。をしてまいりました。そのタジェナが
くヂ とはう
崩れ、神官一同、途方にくれてお。ます」
「あっそ」
・
悲痛な顔をした神官に、ロワジ1は冷たかった。あからさまに「勝手に途方にくれて
ろ」という態度である。
「ロワジ一様、お願いです!」
どげぎ
悲鳴のように叫び、神官達は地面に土下座した。
「タジェナになにが封印されているか、我々ごときの知らぬこと。なれど、封印が解け、
たやす
これから恐ろしいことが起こるのは、この前兆と妖気からも容易く想像がつきますー 人
わぎわ
の世に災いが降りかかるに違いありません! それを防ぐ手立てを、助けを求めてやって
くる人々をどうすればよいのか、神殿としてなすべきことをご指示くださいー」
ただよ たの
三人の神官は額を地面にこすりつけた。悲愴さを漂わせて頼む神官を見下ろし、
「嫌だよ」
ロワジーはあっさりと断わった。
「わしは引退した身だからな。もう神殿のことは関係ない」
「しかし!」
あノ、び
顔をはね上げた神官に、ロワジーは欠伸混じりの声で答えた。
いんきよじい
「そういうことは神官長アクディス・レヴィ殿に言われるのが筋だろう。隠居爺さんに言
うことではない」
若い神官がなにか言いかけたが、年配の神官に止められた。
「わかりました。今日はこれで失礼させていただきますが、何度でもお頼みに参ります」
むだあし
「無駄足だな」
悲しみは黄昏とともに
・I
にべもないロワジ1の声に、年配の神官は「それでも参。ます」と思いつめた顔で呟き、
立ち上がった。そして一礼し、二人の神官をつれて去って行った。
追い払われて帰っていく三人の神官の後ろ姿を見送。ながら、
ふういん
「タジェナが封印で、それゆえにフエルハーン大神殿が手出ししなかったとは、初めて知
。ました」
ひげ
メディーナが冷ややかに言うと、ロワジ1は困ったように髭をひっぼった。
「まぁ、そういうことになってるな」
あお
メディーナは木々の間から見える、まだ欠けている太陽を仰ぎ、異変と吹きつけてくる
凄まじい妖気の理由も理解した。
「それで、タジェナにはなにが封印されていたのですか?」
「わからん」
ロワジーはあっさりと言ってから、大きく息を吐き出した。
「だが、人間ではない。しかし、妖魔でもない。途方もない力を秘めた・強いて一亨っな
ら、神かもしれんな。人間にとって、あ。がたくない神だ」
「……神…・こ」
くちぴる みぞう
繰り返したメディーナの唇が乾いていた。エル・トパックがイルダーナフに「未曾有の
危機がくる」と言われたそうだが、このことを指していたのだろう。
「で、それがフエルハーン大神殿の宿敵であり、カイルロッド王子の実父ということにな
る」
か つぷ
苦虫を噛み潰したような顔でロワジーは言い、さすがのメディーナも顔をしかめた。
「・神がですか」
「とりあえずそう呼んでいるがな。しかし、本当のところなんなのか、わかっていない。
つ
だから、その力を継いでいる王子についても、困っている」
「親父も、カイルロッド王子が何者かわからないと言っていましたが」
ぼネノし
考えこむようにメディーナが言うと、ロワジーは苦笑しながら帽子を取り、
・
「それでも、王子だけがその神と闘えることはわかっている。その力を継いでいる、王子
だけがな」
かみ
くしゃくしゃと、自分の髪をかき回した。
「 ・」
まゆ あご
眉を寄せ、メディーナは顎に手をあてていた。強大な力を持ちながら、それを使いこな
せないカイルロッドを、イルダーナフは鍛えていた。ムルトを倒すという名目で。しかし、
ロワジーの話では、最初からイルダーナフはムルトなど眼中になかったように聞こえる。
71悲しみは資昏とともに
「まさか。親父は最初から、王子とその父親を闘わせるつもりだったのか」
のと ふう
喉の奥でメディーナは坤いた。イルダーナフが神殿にいたというのなら、タジエナが封
いル
印ということも知っていたはずだ。ムルトを倒せば封印が解けると知っていた。
「なんてことを・」
ざんこく いきどお こ.かしぶる やわ
なんと残酷なことをもくろむのか。メディーナが憤。に拳を震わせていると、なにか柔
ふ
らかいものが拳に触れた。見ると、白い花だった。
「なぁ、メディーナ。事実を知るがゆえに、辛いこともあるのだよ。そして、理屈では正
しいとわかっていても、感情がついていかないこともある。それを実行するのは、身を切
られるように辛いものだ。わしがイルダーナフだったら、誰かに押しっけてしまうだろう
な」
たお まなぎ
ロワジーは手折った白い花をメディーナに差し出した。向けられた老人の深い眼差しと、
さぎなみ な
染みるような純白の花に、心にたっていた小波が凪いだ。
「 親父でも辛いのでしょうか」
白い花を受け取り、メディーナは独白した。「きっと辛いはずだ」、辛いからこそ、あん
な飲み方をしていたのではないか。養父は投げ出してしまいたいほど辛いことを、自分の
中にだけ秘めて行動している。泣き言もなにも言わない。
「そういう人間だ。いつも独りで・。娘にだってなにも言ってくれない」
白い花に顔を近づけ、メディーナはきつく目を閉じた。
太陽が完全に姿を現わし、上から明るい光が落ちてくる。空気まで淡く緑色に染まった
おだ
ような空間 − 不思議と心が穏やかになってくる。
くず さわ はかい ふう
「しかし、タジエナが崩れてあの騒ぎではな。タジエナを破壊し、封じていたものの力を
つ
継いでいるカイルロッド王子をエル・トパックがつれてきたら、神官達は集団発狂するか
もしれんな」
ふちど
帽子をかぶりなおし、ロワジーは楽しそうに笑った。先程の悲愴に縁取られた神官達と
は対照的だった。
「ロワジー様。そのようなことは、あまり公言なさらない方がよろしいかと」
つられて笑いそうになりながら、メディーナはいかめしい顔をつくった。
「お互い、大騒ぎに巻き込まれる覚悟をしておいた方がいいな」
おどけたようにロワジーは片目をつぶり、
「これから、神殿はその真価を問われることになるだろうよ」
明るく言い、また草木の手入れを始めた。
白い花を手に、メディーナは緑の中に立っていた。
悲しみは発昏とともに
ゆめ
四章 夜明けの夢
朝から雨が降っている。
かべ
冷たい雨が建物を叩き、屋根や壁を銀色の光のように流れ落ちていた。
しんでん
雨の降る中を、不安におののく人々が救いを求めて、神殿へと向かっている。その人数
lまうかい おぴ
はタジェナ崩壊の時から、増える一方だった。近隣各国から信者達や、不安に怯える者達
あふ
がやってきて、神殿がすたれると同時に人口も激減した街が、再び人で溢れようとしてい
た。
すしlたい いこう
衰退したものの、神殿の威光はまだ残っているらしい。しかしなによりも、困った時は
かみだの
神頼みと相場が決まっているものだ。
「なにが起きたのですか?」
「いったい、なにが起きようとしているのでしょうか?」
、フつた
口々に不安を訴える人々が多く、それに対して神殿関係者はほぼ総出で対処しなければ
ならなかった。しかし、「なにが起きたのか」、この問いに答えられる者はいなかった。
だいじよっぷ
ただなんとかの一つ覚えのように「大丈夫です、安心なさい」と繰り返すのみだった。
なだ
宥められる方も、宥める方も、その言葉が気休めだとわかっていた。だが、それでもす
おぼ わら
がろうとしていた。それは、溺れる者が藁にでもすがろうとしているのと同じ姿だったに
違いない。
うすぐら ひび
雨の音が薄暗い広間に響いていた。
おも一だ
中央にテーブルがあり、そこには神官長を始めとして主立った神官達が席についている
のだが、皆、空模様と同じ暗い表情をしている。
みアう
「これがエル・トパックの言っていた未曾有の危機とはな」
するど いらいら
中央の席にいる鋭い顔立ちをした青年、神官長アクディス・レヴィが、苛々とテーブル
かおぷ いちペつ
の表面を指で叩きながら、並んでいる顔触れを一瞥した。
たお ふういん
「ルナンの卵王子カイルロッドがムルトを倒すと、封印が破られる。その時から未曾有の
危機が起こるのだと、そう言っていたな。確か、ここにいる二間は、エル・トパックから
おれ
その説明を聞いたはずだ。その時俺は、それぞれの判断でなんらかの対処をしろと言った
悲しみは蔓昏とともに
はずだ。なにか対処した者はいるのか7」
みぞ
神宮長の質問に対し、「はい」と答える者はいなかった。皆、エル・トパックに「未曾
有の危機」を告げられて危機感は抱いたのだが、どんな事態が起きるのかわからない。
ぱくぜん
「未曾有の危機」というだけで、あまりに漠然としている。そのために対処もとれず、な
ゆうりよ
にかしなくてはと考えているうちに、この憂慮すべき事態をむかえてしまったのである。
エル・トパックの忠告も、まるで役に立たなかったということだ。
「エル・トパック殿が、もっとはっき。と、危機について言ってくだきっていれば、こち
らも対処のしょうがあったのですが」
くちひげ
弁解がましいことを言った口髭の神官を、アクディス・レグィが怒鳴。つけた。
おの たし、まん
「なにが起こるか最初からわかっていれば、未曾有の危機などとは言わん一 己れの怠慢
を他人のせいにするなー」
どせい かめ
神官長の怒声に、居並ぶ神官達が亀のように首をすくめた。
「ところでエル・トパック殿はフ・危機の話を持って帰ってこられてから、ずっとここに
おられたようですがフ」
ふしん
この場にエル・トパックの姿がないのを不審に思ったのか、そう若い神官が訊くと、
「あんな神官でもない者が、このような場にいるはずはなかろうー」
したけだか おじ
居丈高な声がして、アクディス・レヴィの叔父であるゼノドロス神宮がテーブルを叩い
た。
lまうかい あと
「エル・トパックは、タジエナの崩壊した跡でも見に行ったのだろう。そのうち、カイル
つれ
ロッド王子の死亡報告でも持って、帰ってくるだろうよ。それより、憂うべきはこの事態
だ」
もっとエル・トパックの悪口を吉いたそうな叔父を黙らせ、アクディス・レグィは横に
置いてある紙の束を叩いた。
「これを見ろ。タジェナが崩壊したと思われる目から約一〇日、各地から異常事態の報告
がない日はないのだぞー」
−、1・
鋭い顔をいよいよ鋭くし、アクディス・レグィは吐き捨てた。
かく
黒雲がたちこめ、太陽が隠れた日から、各国で異常事態が発生していた。
ひあ まもの
作物が一夜にして枯れ、湖が干上がったという異常気象もあれば、魔物が増えたという
ものもある。
やみ ぉそ
これまで闇の中で息をひそめていた魔物達が急に力を持ち、人や家畜を襲い始めた。以
とつぜん
前はムルトのいる北の大地だけだった、人が突然魔物と化してしまうというようなことが、
ひんばん
各国で頻繁に起きるようになった。
悲しみは黄昏とともに
きようふ
突然人が魔物になってしまうという恐怖で、街や村で様々な混乱が生じているという。
どこぞの国では「魔物狩。」と称して、王と貴族達が国民を無差別に処刑しているとの報
告もある。程度の差こそあれ、似たようなことが起こっているらしい。隣人がいつ化物に
ゆ
変わるかもしれないという恐怖は、社会生活そのものを揺るがし始めていた。
がししや ぜんだい
異常気象や「魔物狩り」 によって、わずか一〇日の間に出た死傷者、餓死者の数は前代
みもん
未聞のものだった。
「魔物がやってきたんだ」
ささや
人々はそう囁き、救いを求めて神殿にやってくる。各国の王が、神官達が救いを求めて
くるのだが、神殿にも対処できなかった。
ほうかい さわ
明らかにタジェナの崩壊が原因とわかっているのだが、世の中をこれほど騒がしている
でフいん
ものがなんなのか、どうすれば再び封印できるか ー フェルハーン大神殿関係者でさえ答
えられる者がいないという、ていたらくぶりである。
しかた
「この事態を予測できなかったのは仕方ないとしても、これからどうするか、それを答え
られる者はいないのかt オンサ老、最年長者としてなにか知恵はないか」
とうとつ や かた
唐突に指名され、痩せた老人が肩をすくめた。
.J
「知恵と言われましても・。タジエナが崩れ、神殿の封印が解かれるなど、初めてのこ
とですので」
「一度は封じたのだろうが?」
こ.かし
ドンツ、とアクディス・レヴィの拳がテーブルを叩いた。
「タジェナが崩れた、封印が解かれた− それはもう仕方ないことだー 問題は、だから
どうするかということだ「 外を見てみろ! この雨の中、不安にかられた人々が助けを
のぞ
求めて、神殿にやってきている。我々は彼らの不安を取り除いてやらねばならない。その
ためには一刻も早くタジェナが封印していたものを見つけだし、再び封印するしかないの
だ」
アクディス・レヴィの鋭い青紫の目が窓を見、すぐに神官達の上に移動した。
「そもそも、タジエナに封印されていたものとはなんだけ 再び封印する方法はないの
かけ」
「こ・神官長。恐れながら、申し上げます。タジェナのことは神殿でも最高機密です。封
くでん つ
印されていたもの、封印の方法などは代々の神官長に口伝として受け継がれているものと、
うかがっておりますが・・・・」
うかが
小太りの神官がアクディス・レヴィの顔色を窺いながら、そう意見した。並んだ神宮達
の複雑な視線が、中央の年若い神官長に注がれた。
悲しみは黄昏とともに
「・初耳だな。俺は、前神官長のロワジーからなにも聞いていないぞ」
じぎやくてき
アクディス・レヴィが口の端を上げた。自虐的な笑みだった。
ぷじよく
「神官長を侮辱なさるのか?」
ゼノドロス神官が勢いよく立ち上がった。
だれ
「神官長がご存じないのは、前任者の手落ちですぞ! 誰か、今すぐここにロワジー殿を
呼んでこい一 口ワジー前神官長にこの事態の説明を厭いたいー」
おりレき りレい
「無理を言われるな、叔父貴。爺さんが俺に重大なことを教えなかったのは、俺を神官長
と認めていないからだ」
つぼ とな だま
唾を飛ばして怒鳴っているゼノドロスを黙らせ、アクディス・レグィは薄く笑った。こ
、つわき
の年若い神官長は、「実力もないのに、その地位を金で買った」と噂されてお。、おそら
く事実であろうと誰もが思っている。
「なるほど、ロワジ1ならタジェナの封印に関して、なにか知っているということだな。
だからか、何人もの神官や見習い達が爺さんのいる離れに行っていたのは。助けを求めに
行っているということらしいな」
ひじ あご
テーブルに両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せて、アクディス・レヴィはテーブルに
ついている神宮達を見やった。数人が顔をこわばらせたが、神官長は目で笑っただけで、
なにも言わなかった。
みクう
「この未曾有の危機に対処するためにその口伝とやらが必要とあらば、俺が直接ロワジ1
前神官長のところへ行って、聞いてくるとしよう」
席を立ったアクディス・レヴィを、ゼノドロスが止めようとした。
みずか
「神官長自ら足を運ぶなどー ロワジーを呼びつければいいのですー」
じい
「呼びつけて、やってくるような爺さんではない。体面にかかずらっている場合ではない
のだ、叔父貴」
とぴら
ぴしゃりとアクディス・レヴィが言った時、広間の扉の外から「神官長殿!」と、切迫
した声が聞こえた。
「また妖魔の出現や人死にが出たという報告か」
つふや
うんざりとした面持ちでアクディス・レヴィが呟くと、勢いよく扉が開き、神官見習い
が飛び込んできた。
「静かにせんか−」
どな
ゼノドロスが怒鳴りつける。見習いは身体を固くしながら、アクディス・レグィに報告
した。
「申し上げます。一昨日の晩から、エル・トパック様がお戻りになっておられるそうで
悲しみは黄昏とともに
す」
「エル・トパックが帰ってきたのが、そんなに珍しいのかーそれぐらいでいちいち、報
告するなっー」
エル・トパックの名前を聞くのも腹だたしいというように、ゼノドロスが顔を真っ赤に
どな
した。頭ごなしに怒鳴られ、見習いも負けていなかった。思いき。声を張。上げた。
「しかしーエル・トパック様はカイルロッド王子とおぼしき人物をつれて帰られたそう
ですー」
ひぴ こお
見習いの声が響き渡。、アクディス・レヴィを筆頭に、神宮達の顔が凍りつく。
「カイルロッドだとP それは本当かけこ
たたか
「生きているのかP ムルトと闘ってnL
「なんと・…」
いふ
畏怖にも似た動揺が広間に広がった。
ムルトと闘った以上、生きているはずはないと、誰もが頭からそう信じていたのである。
だいしんでん
なにより、フエルハーン大神殿としては、カイルロッドに生きていられては困るのであ
ト、お
る。ムルトを倒すような力を持つ者など、害にしかならないのだ。
「…・本当にカイルロッドなのか?」
アクディス・レヴィの冷たい声に、見習いは少し頬をこわばらせながら、
かつしよくはだ ぎんrぎつ まえがみ ひとふさ
「報告によりますと長身の青年で、褐色の肌に銀髪、前髪が〓屠だけ赤いと」
その特徴をあげた。
lまか ようぼう
「他にはいない容貌だな」
「カイルロッド王子に違いない」
神官達がざわめいた。
「本当にカイルロッド王子なら、大変ですぞ。各国を敵に回しかねません」
にセもの かげ かいめつ
かつて、カイルロッドの偽者が1《影》グリユウだが − 多くの街や村を壊滅させた。
しかし、偽者と知る者はほとんどいない。特徴のありすぎる容貌から、ルナンの卵王子と
信じて疑っていないだろう。
さつりく だま
一国の王子に理由もなく一方的な殺教をされたとあれば、黙っている国はない。今頃、
しよぎよう
石から解放されたルナンなどは、カイルロッドの所業について、周囲の国々から抗議され
ていることだろう。
だいしんでん
そしてまた、そんな者をかくまっていると知られたら、フェルハーン大神殿は非難の的
である。
jたごころ
「そんな者をつれてくるとは! しかも、報告しないとは、エル・トパックに二心ありと
悲しみは貴昏とともに
疑われても文句の言えない行為だト」
ゼノドロスが嬉々として、エル・トパックを非難した。
「・…・エル・トパックとカイルロッドはどこにいる?」
はお つぷや ぎようし
頬づえをつき、アクディス・レグィが呟いた。よく光る目に凝視され、見習いは顔をし
かめた。
「あの、ロワジ1前神官長のおられる、離れに ・」
さわ
もごもごと口の中でそう言うと、広間は収拾のつかない騒ぎになった。
カイルロッドが生きていた。つれて帰ったというのに、エル・トパックはそのことを黙
っている。そして、博すようにしてロワジ1の元においているのだ。
「エル・トパック殿はなにを考えておられるのか」
「それを言うなら、ロワジ1様も同じではないか」
ざわめきで、もう雨の音など聞こえなくなっていた。
が。
おどろ
パンツ、とテーブルを叩く大きな音が、ざわめきを消した。集まった神官達が驚いて顔
を向けると、アクディス・レヴィが片手をテーブルについて立っていた。
「誰でもいいー 誰かエル・トパックとカイルロッドを、俺の前につれてこい一 口ワジ
ーもだー 今すぐ俺の前に三人をつれてこい−」
青紫の目が燃えているようだった。
ひび
強い雨の音が広間に響いていた。
2
夕方になって、雨足が強くなったようだ。
ぬ
縫い物をしていた手を止め、メディーナは奥の部屋へ目をやった。
とぴり とな
木の扉の向こうの部屋には、カイルロッドとエル・トパックが眠っていた。その隣り、
どろ
メディーナの使っている部屋ではティファが眠っている。三人とも一昨日から、泥のよう
に眠り続けている。
つか
「よほど疲れているのだろう」
エル・トパックとティファがカイルロッドをつれてきた夜のことを思い出し、メディー
ナはため息をついた。
とつぜん
真夜中に突然、扉を叩かれ、ロワジーとメディーナが出ると、そこにエル・トパックと
ティファがいた。
「真夜中に申し訳ありません」
悲しみは黄昏とともに
.hJ ..
そう言ったエル・トパックの頬には濃い陰があった。不眠不休で馬をとばしてきたのだ
ひろう
ろう、エル・トパックとティファの顔には疲労の色があった。
そして、二人に支えられるようにしてカイルロッドが立っていた。そのカイルロッドの
おどろ
顔を見てメディーナは驚いた。
しょぅすい うつ どっくつ
別人のように惟俸した顔は無表情で、青い目は虚ろだった。光の射し込まない洞窟のよ
うに暗い目だった。
「カイルロッド王子」
かがや
メディーナが名前を呼んだが、カイルロッドは反応しなかった。輝きを失った青い目は
虚空を見つめているだけだった。
タジェナでなにがあったのか −
しんしっ
そう質問したいのをこらえ、メディーナは素早く寝室の用意を調え、三人を休ませるこ
くわ
とにした。詳しい話を聞くのは、エル・トパックの疲れがとれてからでいいと思ったから
だ。ロワジーも同意見だった。
それが一昨日の夜のことだった。
「よほどのことがあったのだろう…・」
しようすい
カイルロッドの惟摩した顔を思い出し、メディーナは言い知れぬ不安を感じた。「しか
いつしよ
し、何故、親父とミランシャがいないフ」カイルロッドと一緒に旅をしていた二人の姿が
ない。てっきりエル・トパックと一緒にくるとばかり思っていただけに、二人の不在が一
層強く不安をかきたてた。
「後からくるのであればいいが・」
いす なペ
椅子から腰を上げ、メディーナは火にかけてある鍋の前に行き、かき回した。三人がい
つ起きてきてもいいように、食事の用意だけはしてある。
「眠っているエル・トパック達はともかく、ロワジ1様はなにをしているのか」
しよさい
鍋をかき回しながら、メディーナは書斎の方を見た。ロワジーは昼前から書斎に籠もり
きりで、l度も食堂に顔を出さない。
とぴら がし いや
「扉を開けてみたら餓死していた、なんていうのは嫌だな。様子を見てきた方がいいのか
な」
つぷや も かみ
そんな呟きを洩らすと、扉が開閉する音がして、赤い髪の青年が部屋から出てきた。食
堂にいるメディーナに気がついたのか、笑顔をうかペてやってくる。
「起きていいのですか?」
せきわん
やってきた隻腕の青年に、おたま片手にメディーナが訊くと、
「ええ、充分に休ませていただきましたから。それよりすいませんでした。いきなり押し
かけてしまって」
おだ
青年は穏やかな表情で言った。メディーナは深皿を取り出し、それにスープをよそって
テーブルに置いた。
「ありがとう」
エル・トパックがテーブルについた。
「親父に呼び出されてタジェナに行ったそうですね。なにがあったのですか?」
そつちよくき
スプーンを差し出し、メディーナは率直に訊いた。スプーンを受け取り、隻腕の青年は
顔を曇らせた。
Jl ..・
「…ムルトは滅び、タジェナ山脈は崩れました…・・」
すす
一口スープを畷り、エル・トパックは噛みしめるように言った。
「それはわかっています。わたしは、カイルロッド王子の様子が気になるのです。ムルト
うつ たましい
を倒したというのに、虚ろで……まるで魂が抜けてしまったようではありませんか」
するど
向かいの席に座り、メディーナは鋭くエル・トパックを見やった。湯気の向こうでエ
ゆが
ル・トパックの顔が苦しげに歪んだ。
「カイルロッド王子は心に深い傷を負いました。ミランシャが 死んだそうです」
「…・−」
悲しみは黄昏とともに
まゆ
明るい目をしていた少女を思い出し、メディーナは眉をひそめた。
「ムルトに殺されたのですか?」
低い声で言うと、エル・トパックは複雑な表情をした。
「ええ、そうな。ます。ただ ・私も気がつきませんでしたが、ミランシャはムルトに造
かんし
られたものだったそうです。あなたの父上が言われるには、ミランシャは王子の監視役と
まlまう ぼいたい
して、ムルトの魔法の媒体として造られたのだと・」
「造られたけ」
うなず
メディーナが声を大きくすると、エル・トパックは頴き、
「短い生命の、擬似生命体だと 。ムルトが殺さなくても、いずれ塵になってしまう運
命だったそうですが・・・。助けてや。たくともどうすることもできなかったと、イルダー
ナフはそう言っておられました」
悲しみを含んだ声で言った。そして、おそらくミランシャは、カイルロッドの力を開放
させるために殺されたのだろうと、付け加えた。
「なんということを!」
トる おどろ
メディーナは片手で額をおさえた。指先が買え、怒。と驚きで声も出せなかった。ムル
トのや。方が許せなかった。
怒りで口もきけないメディーナに、
つら
「ミランシャのことだけでなく、王子にはきっと、他にも色々と辛いことがあったと患い
ます。今はまだ、なにも訊けませんが 」
せきわん すす
湯気を見つめたまま、隻腕の青年は独白のように言い、それからスープを畷った。
けつじよ くちぴるか
感情の欠如したカイルロッドの顔を思い出し、メディーナが唇を噛んでいると、
「王子も辛かったでしょうし、ミランシャもきっと辛かったでしょう。けれど、一番辛か
ったのはすべてを知っているイルダーナフではないかと、私は思うのですよ」
きんかつしよ′、
青年はロワジーと同じことを言った。顔を向けると、金褐色の目があった。知性の光を
する▼こ
宿し、時には優しく、時には鋭い目が、今は深い悲しみをたたえている。
「事実を知りながら、イルダーナフは何故そのことを隠しているのか。私はずっと、それ
が不満でした。けれど、こういう事態になって初めて、イルダーナフが沈黙を続けていた
理由がわかりました」
・‥I ll.
だれ
「いくら声を張り上げてみたところで、実際にそのことが起こるまで、誰も信じないので
すね。そのことが重大であれば、あるほど」
じぎやく
エル・トパックの声にはいくぷんかの自虐がこもっているようだった。カイルロッドを
悲しみは黄昏とともに
だいしんてん
っれて帰るタジエナからフエルハーン大神殿までの道中、エル・トパックは様々な「異
変」を見てきたに違いない。
みぞう
未曾有の危機がくるとイルダーナフに告げられてから、エル・トパックはそれをどうく
きくご フつた
い止めるか試行錯誤していた。神殿の上層部に訴え、各地の神殿に警告をしたことを、メ
ディーナは知っている。
「だが、道中で警告が無意味だったと、この人は目のあた。にしたのだ」
警告を受けながら、神殿上層部も、各国にある神殿もなにもしていなかった。総本山に
すが。つくようにしてやってくる各地の神官達や、日々増える救いを求める人々を見れば、
明々白々である。異常事熊が起きた現在ですら、総本山はなんの手もうっていない有様だ。
「事前に知れば防げるかもしれないと思ったのは、私の甘い考えでした」
うつせき
強く建物を叩く雨音を聞くように、エル・トパックは日を閉じた。それから鬱積してい
・
るものを振。切るように日を開け、話を続けた。
くヂ あと こんすい かか
タジエナの崩れた跡に行ってみると、昏睡しているカイルロッドを抱えたイルダーナフ
みがら
がいた。そして駆けつけたエル・トパックに、イルターナフはカイルロッドの身柄を預け
た。
ゆいいつ
「フエルハーン大神殿は、王子を保護できる唯一の場所だ」
イルターナフはそう言ったという。
かげ かいめつ にせもの
以前王子の《影》が、多くの街や村を壊滅させた。それが偽者と知る者はほとんどいな
まもの
いから、カイルロッドは恨まれている。さらに魔物が動きだした原因がタジェナにあり、
lまかい
それを破壊したのがカイルロッドだと、いずれ人々は知ることになるだろう。どう隠した
うわき そつお ひつじよう
ところで、噂は流れる。そして、カイルロッドにあらゆる憎悪が向けられるのは必定だ。
そうなったら、母国ルナンをもってしても、カイルロッドを守ることはできない。
しかし、フエルハーン大神殿は違う。建前上ではあるが現世の法が効力を持たず、政治
はい1ソよ
的配慮の及ばない場所だ。
.7・
「ま、おまえさんなら口先ひとつで、上層部と各国を煙に巻くことも可能だろうぜ。とに
たの
かく俺が行くまで、王子を頼まぁ」
それだけ言うと、イルダーナフはどこかへ行ってしまったそうだ。
「親父はここにくるのですか」
「王子の様子を見にこられると思います」
「だからわたしにフエルハーン大神殿に行ってくれと言ったのかこ・・」
あご
顎に手をあて、メディーナは苦笑した。いずれカイルロッドがフエルハーン大神殿に行
くとふんで、手をうったのだろう。
悲しみは戴昏とともに
「相変わらずよく頭の回る男だ」
後からイルダーナフもやってくるというのなら、その時にでも色々と問いただしてやろ
ぅとメディーナは思った。「少しは事実を知らないと、こちらだって協力できないぞ」、な
どとあれこれ考えていると、
「フエルハーン大神殿に王子を保護させるというのは、いい案だと思いますよ」
いりレ
エル・トパックが意地の悪い笑みを閃かせた。「確かに」と、メディーナも少し意地悪
まつきつ
く笑った。先頭に立って抹殺命令を出していた神殿が、各国の非難からカイルロッドをか
くまうことになるのである。意地悪く笑いたくもなろう。
「後は私の口先ひとつですね」
いたずら とぴらたた
悪戯をする少年のように、エル・トパックが楽しそうに呟いた時、乱暴に扉を叩く音が
した。
ドンドンドン。
力まかせに扉を叩いているようだ。
さつそく
「早速、神殿からきたかフ」
メディーナが立ち上がろうとするのを、エル・トパックが「私が出ます」と立ち上がっ
て制し、扉の方に歩きだした。メディーナも様子を見に行くと、
「エル・トパック殿。貴殿がカイルロッドをかくまっているのはわかっているのだ。ただ
ちにカイルロッド共々、神殿に出頭するように。なお、ロワジ1前神官長も同行するよう、
アクディス・レヴィ神官長の命令だ」
いたけメニ
エル・トパックの前で、神殿からの使いが居丈高な態度で言っていた。一人かと思った
ら、一個小隊分の人数を引きつれていた。
「物々しいことだ」
後方でメティーナが顔をしかめて見ていると、
「お断わりします」
おだ
使いの者に対し、穏やかな口調でエル・トパックは応じた。
「なにPL
「報告をしなかったのは、私の手落ちです。しかし、私もカイルロッド王子も不眠不休で
ひろヮ、んぽい
鳥をとばし、疲労困傭こておりました。休みをとってから、神宮長に報告するつもりだっ
よ一て
たのです。遅くなりましたが、私がこれから神官長に報告に行きましょう」
どな
エル・トパックがそう言うと、使者は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「貴殿一人では意味がないのだーカイルロッドとロワジーも同行してもらわないとー
こうなったら、力ずくでも神殿にきていただくー」
悲しみは黄昏とともに
家の中に入ろうとしたその使者と、後からなだれこもうとした男達を、エル・トパック
いつかつ
が一喝した。
「そちらが力ずくなら、こちらも力で抵抗しましょう! それでもよろしいかー」
ビクッと、便者達が立ち止まる。エル・トパックが神殿でも有数の実力者であることは、
おど ふ
周陸の知るところである。そのエル・トパックに「力で抵抗する」と脅され、それを振。
切ってでも任務を遂行しょうとする者はいなかった。
「カイルロッド王子は動かせるような状態ではあ。ません。ロワジ一様とて、もう引退な
ごういん
され、神殿とは無関係のはず。それを呼びつけるのは、強引ではあ。ませんかフ」
もうきん きんかつしよく いすく のど
猛禽類を連想させる金褐色の目に射殊められ、使者は喉を大きく動かした。
もど
「あなた方にも立場があるでしょうが、ここはひとまずお引き取り願いたい。そして、戻
ゆ・フよ
って神官長にお伝えください。七日、いや、五日の猶予をください、と。五日後にはカイ
ルロッド王子共々、エル・トパックは神殿に参上いたします」
「しかし−こ
「私一人では意味がないのでしょうフ ならば、お待ちくださいとお伝えください。ご心
配なく、私は逃げも隠れもいたしません。では」
おだ とぴら あきら
穏やかに笑い、エル・トパックは扉を閉めた。諦めたのか、エル・トパックに脅されて
ふる
震えあがったのか、もう扉を叩く音はしなかった。
「上手に追い払ったものだ」
メディーナが感心していると、
「エル・トパック。おまえさんが他人を脅すとは珍しいな。イルダーナフがくるまでの、
かせ
時間稼ぎかな?」
しよさい
背後からロワジーの芦がした。書斎から出てきて、エル・トパックと使者のやりとりを
聞いていたようだ。
「ええ。ですが、王子が動かせないのも事実ですし」
エル・トパックが苦笑した。
しんてん やつ
「しかし、神殿の奴らはしっこいぞ」
にお カ さいそく
くんくんとスープの匂いを嗅ぎながら、ロワジーが言った。無言で催促され、メディー
ナは食堂に戻った。深皿にスープを盛っていると、ロワジーとエル・トパックがやってき
た。
おいし
「おお、美味そうだな。調べものに没頭していて、食事をとることをすっかり忘れとった
わ」
うオL
嬉しそうにロワジーが席に座る。エル・トパックが元の席につき、メディーナが冷めた
悲しみは黄昏とともに
皿を下げようとした時、奥の部屋から悲鳴が聞こえた。
「王子け」
エル・トパックが立ち上がり、部屋へ向かった。メディーナとロワジーが「何事だろ
う」 と後を追って部犀に入ると、
「ミランシャがー ミランシャがムルトに殺されるー 助けにいかなくちゃー」
さけ あば
叫んで暴れているカイルロッドを、エル・トパックとティファが二人がかりで押さえて
いた。ティファは隣。の部屋で眠っていたが、カイルロッドの悲鳴で目を覚まし、飛び出
してきたのだろう。
「王子、もうムルトはいませんー ムルトは死んだんですー」
エル・トパックが必死になって叫ぶが、カイルロッドは「ミランシャを助けにいく」と
暴れている。
メディーナは声も出せず、その様子を見つめていた。ミランシャを死なせてしまったこ
とでカイルロッドが深い傷を負ったと、すでに聞いている。しかし、それを目のあた。に
がくぜん
して、愕然とした。
「ミランシャが助けを求めているんだ「」
「王子− ミランシャは死んだんですー」
なだ あわ
叫ぶカイルロッドが、そして宥めるエル・トパックがあまりに憐れだった。
「 なんてことだ」
ゆが
メディーナの横で、ロワジーが辛そうに顔を歪めた。
「ミランシャが助けを求めているんだー」
夜になるまで、カイルロッドはそう叫び続けていた。
さらに雨足が強くなっていた。
3
おど き きむヂか
エル・トパックの脅しが効いたのか、神殿からの催促のないまま日々が過ぎ − 気難し
く人が寄り付かないロワジーの家に、メディーナ、エル・トパック、ティファ、カイルロ
いそうろう
ッドが居候していた。
しよさい lタいこ たん
家の主は書斎に籠もって調べもの、ティファは剣の稽古に励んでいた。メディーナは淡
たん つか
淡と家事をこなし、気を遣ったエル・トパックが読書の合間にその手伝いをしていた。
きんこう
表面的には平和な共同生活だが、それは危うい均衡の上に成り立っているものだった。
それぞれの生活をしながらも、皆が息をひそめてカイルロッドの一挙一動を見守っていた
のである。
悲しみは黄昏とともに
「王子は日毎に惟俸していく」
せんたくもの つぷや
庭で洗濯物を干しながら、メディーナは心の中で呟いた。
目を覚ましてからのカイルロッドは、メディーナの知っていたカイルロッドとは別人の
ようだった。
言われたことに反応するし、飲み食いもする。しかし、口数が極端に少なくな。、表情
うつ
がない。虚ろで、まるで本体を失った影が動いているようだった。
・
「ミランシャの死が、よほど辛かったのだろうが・」
あせ ぬぐ
降。注ぐ陽光に目を細め、メディーナは額にうっすらと浮かんだ汗を拭った。
「ミランシャは死んだのだ」
いくらそう言っても、カイルロッドは信じない。その事実を受け入れるのが辛すぎるた
きよぜつ
め、拒絶しているのだ。それなのに、後悔と悲しみだけは残っている。
さけ
毎晩のように悲鳴をあげ、「ミランシャが助けを求めている」と叫んで暴れるカイルロ
なだ
ッドを、エル・トパックとティファ、メディーナの三人がか。で押さえ、宥めているのだ。
よごと あくむ むしば
夜毎、メディーナ達の知らないその光景が悪夢となって訪れ、カイルロッドの心を蝕ん
でいるのだろう。
そして昼は昼で、「ミランシャがいないんだ」と、亡き少女の姿を探して、庭を歩き回
のが
っている。悪夢と悲しみから逃れるため、カイルロッドはこの世にいないミランシャを探
しているのだ。
きいな
夜毎日毎、悪夢と悲しみに苛まれ、カイルロッドはゆっくりと狂っていくようだった。
「いっそ、すべてを忘れさせてやりたい」
しようすい ぽうきやくまほう
カイルロッドが惟博していく姿に耐えきれず、メディーナは忘却の魔法を使ってみたが、
・...
効かなかった。エル・トパックもやってみたが、結果は同じだった。封印のほとんどが解
けたカイルロッドに、魔法など効かない。
すべ こわ
メディーナもエル・トパックも、なす術もないまま、ゆっくりと壊れていくカイルロッ
ドを見ているだけだった。
「なんという無力さだろう」
こぶしにき
メディーナは拳を撮りしめた。ただ見ているしかない、この無力さ。そして、見続ける
ことの苦しさ、やりきれなさで胸が張り裂けそうになる。
「親父。親父もこんな苦しさを抱えて、王子やミランシャを見ていたのかフ」
ふる っめ
震える拳を胸に押しっけて坤くと、
「メディーナ」
出し抜けに名前を呼ばれた。顔を向けると、木々の間からカイルロッドがこちらを見て
悲しみは黄昏とともに
いた。
「・2 王子」
「ミランシャを知らないかっ 採しているのに、どこにもいないんだ」
とほう
カイルロッドが途方にくれたように言った。メディーナは言葉を失った。
おれ
「どこにいるんだろう。俺は、ミランシャに言わなくちゃならないことがあるのに」
つぷや
うつむき、カイルロッドが細く呟く。
「王子。ミランシャは死んだんだ」
かた まゆ
硬い声でメディーナが言うと、カイルロッドは少しだけ眉を動かし、「死んでなんかい
ない」と呟き、庭の奥に行ってしまった。
今にも緑の中に溶けてしまいそうに頼りない後ろ姿に、メディーナはなにか声をかけよ
うとしたが、声が出なかった。
ミランシャを見つけてなにを言おうとしているのか、メディーナにはわからない。ただ、
「見つけて」「その言葉を言う」まで、カイルロッドは自分の心を切。刻んでいくのだ。後
悔と悲しみというナイフで。
メディーナは屈みこみ、自分の頭を両手で抱えた。見ているのが辛かった。なにもでき
ないことが辛かった。
「 …親父、早くきてくれ。カイルロッド王子を助けてやってくれ」
うめ
メディーナは坤いた。カイルロッドを救えるのは、もうイルダーナフしかいない。
せんたくもの
パサバサと音をたて、風に洗濯物がはためいている。
じゆばく
「・ムルトの呪縛から解き放ってくれ」
ほろ
滅んでなお、ムルトはカイルロッドを苦しめることをやめない。どうすればその呪縛が
解けるのか、メディーナにはわからない。
ひざ
途方にくれて陽射しの中で屈みこんでいると、上からふわりとなにかが落ちてきた。薄
おどろ
手の布だった。驚いて顔を上げると、すぐ横にエル・トパックが立っていた。
「陽射しが強いですよ」
おだ ひろう せきわん
穏やかな笑顔だった。おそらく、カイルロッド同様に疲労しているだろうに、この隻腕
の青年はそれを見せない。見せないよう努力している。
「 」
布を手に、メディーナは立ち上がった。エル・トパックがいつきたのか、まるで気がつ
かなかった。
「さっき、私も王子に、ミランシャはどこにいるのかと訊かれました」
庭の奥に行ってしまったカイルロッドを見るように、エル・トパックは少し遠い目をし
悲しみは興昏とともに
た。
「・圭子にとって彼女は、家族同然だったのでしょう」
ゆ ながそで
風に揺れる右の長袖をおさえ、エル・トパックは低い声で言った。その顔と声から、こ
の青年も大切だった人を失ったことがあるのだと、メディーナは思った。しかし、口に出
してはなにも訊かなかった。
「私達にできることは見ていること、祈ることだけです」
ゆが
エル・トパックは端正な顔を歪めた。
カイルロッドの受けた心の傷の深さに、メディーナもエル・トパックも、ただ黙って見
ているしかなかった。
こヂえさわ
木々の梢が騒ぎ、高い鳥の声が聞こえた。
なまりいろ
朝から重い鉛色の雲がたちこめている。
ぎやくもど
数日前の初夏の陽気を患わせる暖かな気温が、また冬に逆戻りしてしまったようだ。
はださむ ふる
時々、雲の間から薄日が射していたが、肌寒さに人々は震えていた。
さんけいしや
参詣者の中に混じって、エル・トパックは冷たい石の階段をゆっくりとのぼっていた。
しんでん
約束の五日目 −エル・トパックは単身で神殿に向かっていた。カイルロッドもロワジ
ーもつれず、「一人では危険です」と言うティファも残してきた。
J.
救いを求める人々で溢れている横を通りすぎ、エル・トパックは神殿の奥へと足を向け
た。
「これはエル・トパック様1 少しお待ちくださいー」
あわ
神殿の前にいる見張りがエル・トパックを見つけ、一人が慌てて奥へと走って行った。
「物々しいことだ」
エル・トパックは苦笑し、おとなしく迎えを待っていた。ややあって、奥から武装した
者が六人やってきた。そして、まるでやっと捕えた犯人を逃がすまいとでもしているよう
に、エル・トパックの周りを囲んで奥へとつれていった。
はんぎいしや あつか
連行されていく犯罪者のような扱いを受けているエル・トパックの姿を見つけ、神殿で
おどろ
働く人々は一様に不快と驚きの顔をし、
「エル・トパック様」
「いったい、何事ですかっ」
′、どよノおん
異口同音に質問を投げつけたが、武装した者達は無言だった。エル・トパックも黙って
lまlまえ
いたが、そのかわり「なんでもない」というように、微笑んだ。
きんりいしや きわ
参詣者用の神殿の騒ぎも届かない奥へ案内され、エル・トパックは大広間に通された。
悲しみは黄昏とともに
柱の並ぶ、寒々とした広間に大きなテーブルがあ。、そこには神官長アクディス・レヴ
おもだ かぶぷ せいぞろ きぴ
ィの他、神殿の主立った顔触れが勢揃いしていた。一様に厳しい表情をしている。
「ただいま、参りました」
えしやく
居並ぶ人々にエル・トパックが軽く会釈をすると、
「エル・トパック。カイルロッドとロワジーはどうした?」
するど
開口一番、アクディス・レウィが切りつけるような鋭さで、言葉を投げかけた。
「はい。カイルロッド王子は心身ともに具合がおもわしくなく、ロワジ一様は持病のため、
同行が無理とな。ました」
おだ
エル・トパックが穏やかに応じると、
けぴよう
「仮病に決まっている−」
どせい ひび
早速ゼノドロスがかみついてきた。怒声が室内に響き渡る。
「仮病とは心外です。私は事実のみを述べているだけですが」
「空々しい一 二人をつれてこぬには、別の理由があるのだろうがー」
「別の理由と申されますとフ」
かば
「神殿の人間であ。ながら、神殿の敵であるカイルロッドを庇っている理由だーカイル
ふっいん わぎわ
ロッドはタジェナの封印を解き、世の中に災いをまいた元凶ぞーそのような者を庇うと
しんでん つか
は、神殿に仕える者としてあるまじき行為ではないかー」
おおげさ きゆうだん
大袈裟な身振りで糾弾するゼノドロスを、エル・トパックは静かに見つめていたが、た
め息をついた。
「では、カイルロッド王子をどうなさるおつもりですか?」
もちろん しよばつ
「勿論、処罰するー」
さんかつしよく
エル・トパックに訊かれ、ゼノドロスが勢いよく答えた。エル・トパックは金褐色の目
を細めた。
ほかい
「タジェナを破壊するほどの力を持つ者を、どうやって処罰なさるおつもりですかフ 果
たしてそれほどの力を持つ者が、神殿にいますかフ」
「むっー」
おじ おもしろ
痛いところを突かれ、ゼノドロスは唸った。叔父の様子を面自そうに見やり、
「あんたならどうする、エル・トパック」
アクティス・レヴィがロを開いた。
かんし
「このまま、神殿で保護、もとい監視するがよいかと」
エル・トパックの意見に、他の神官達が目を白黒させた。
「とんでもない、そんな危険な者をおいておけないー」
悲しみは黄昏とともに
「各国の非難の的になろうぞ」
かわい
我が身可愛さの発言が飛び出している中、エル・トパックは声を大きくした。
「危険だからこそ、神殿が引き受けるのではありませんか。元々、タジエナはフエルハー
かんかつ すさ
ン大神殿の管轄、カイルロッド王子はその中心にいる人物です。凄まじい力を持つカイル
しだん
ロッド王子を放っておいて、何事かあった時、世の指弾はフェルハーン大神殿に集中しま
みがら
しょぅ。このようなことを考慮すれば、カイルロッド王子の身柄を神殿が引き受けるのは、
当然のことかと思われます」
かおぷ いちペつ
これには神官一同、沈黙するしかなかった。エル・トパックは並んだ顔触れを一瞥し、
「確かに封印を解かれたのは困りました。が、カイルロッド王子には、タジエナを破壊し
なくてはならない理由があ。ました。その後に起きるであろうことについて、私はすでに
フつた みぞう
皆様に訴えたはずです。未曾有の危機がくると、その対策をお考えください、と。しかし、
私の見てきた限りでは、なにもなされていない様子」
するど
鋭く意見した。神官達は目をそらし、アクディス・レヴィの顔が不快そうに動いた。
かんし
「あんたの言いたいことはわかった。監視のため、カイルロッドの身柄を神殿が預かるこ
207 とに異議はない。だから、そのカイルロッドを何故、つれてこない」
ジロリと青紫の目が動き、エル・トパックの上で止まった。神官というよりも剣士のよ
うな、鋭く油断のない視線だった。
たたか
「申し上げましたとおり、カイルロッド王子はムルトとの闘いにおいて心身ともに深手を
負い、それがまだ癒えておりません」
がまん ゆうよ
「俺はできぬ我慢をして、そちらの要求どおり、五日の猶予を与えたのだ▼ 少しぐらい
じい
の無理をしてでも、つれてこい− ロワジ1の爺さんもなー」
どな
テーブルを叩き、アクディス・レグィが怒鳴った。しかし、エル・トパックは引ききが
らなかった。
「できません。カイルロッド王子は傷っいています。大切な人を失った心の痛みが、あな
たにはおわかりにならないのですか」
「感情論をかわしている猪では掩い▼」 とびら
アクディス・レヴィが神殿中に響き渡りそうな大声を張り上げた暗、にわかに扉の外が
ざわつき始めた。
「なんだフ」
ろうか さわ
「廊下が騒がしいぞ」
神官達が口々に「どうしたフ・」と言っている。
「−1−⊥γ
の くつおと
外からは悲鳴と「どこへいくんだ」という声がして、それを押し退けるようにして靴音
が響いてくる。
とぴら
大きな音をたてて扉が開き、背中に長剣を背負った男が現われた。
4
その男の登場によって重く息苦しい空気が払われたように感じられ、エル・トパックは
我知らず息をついていた。
強い風のような男だった。
「よぉ、エル・トパック」
・. .
現われた黒髪の大男、イルダーナフが真っ白い歯を見せた。
「なんだ、この男はー」
「ここをどこだと思っている、つまみだせ! 護衛の者はなにをしているー」
さわ だれ
神官達が騒いだが、誰もやってこない。そんな光景をイルダーナフは楽しそうに見、
1 .・・.
「護衛らしき奴らは皆、床の上で眠っているぜ。おとなしく通しゃ、痛い目を見ねぇです
んだのによ」
ごういん
言っていることは乱暴だが、言葉の響きが明るい。制止をふりきって、強引にここまで
悲しみは黄昏とともに
り..
入ってきた光景が目にうかぶようで、エル・トパックは口元を緩めた。
「きさま、何者だ! なんの目的でここへきたT」
するどきり
席を立ち、アクディス・レヴィが鋭く叫んだ。
「そういきりたつこたぁねぇだろフ 別に用はねぇんだが。せっかくここまできたから、
あいさっ
挨拶ぐらいしておこうと思っただけよ。すぐに帰るから心配しなさんなって」
じよっだん
本気か冗談かわからない表情で、イルダーナフが応じた。それからアクディス・レヴィ
しんてん
のつけている、神殿畢局位を示す紫の一層布に目をや。、口笛を吹いた。
おどろ
「こりゃあ、驚いた。おまえさんが神官長か。若えな」
ごうかい いんしつ
腕を組み、豪快に笑う。明るく陰湿さのない笑い声が響き、薄暗いはずの室内が明るく
なったようだった。
いつの間にか、大広間は静かになっていた。誰もイルダーナフを追い出せとは騒がなく
あつとミノ みnソよ、ノ
なっていた。居並ぶ神官達がイルダーナフという人物に圧倒され、魅了されているのが、
エル・トパックにはわかった。
ようぼう ひ
容貌、身分、年齢、そんなものに関係なく、立っているだけで他人を惹きつけることの
できる人間がいる。イルダーナフがそれだ。
「あんま。若えんで、驚いちまったぜ。カイルロッドに暗殺者を差し向けるなんてぇ姑息
まぬ
な真似をする奴だから、てっきり爺さんだとばかり思っていたのによ」
212 ひとしきり笑ってから、イルダーナフはよく光る里.い目を年若い神官長に向けた。
「…・暗殺者だとフ なんだ、それは。俺はそんなこと、知らんぞ」
するどおもぎ
くぐもった声でアクディス・レグィが言った。鋭い面差しに血の気がないのは、怒りの
ためだろう。
ないしよ
「へぇ、そうかい。そんじゃ、神官長に内緒で、カイルロッドを指名手配して人相書きを
しわざ
ばらまいていたのは、この中にいる他の誰かの仕業かねぇフ」
ゆが
イルダーナフは皮肉っぼく口を歪めた。強い光を放つ黒い目が、ゆっくりとテーdフルに
・・
ついている神官達の上を通り過ぎる。神官達は不快そうに鼻に級を寄せたり、「暗殺者な
1レよ・フだん
どと冗談ではないぞ」とぶつぶつ文句を言っている。
その中で、イルターナフの視線に対してわずかに身体を固くした人物がいた。それはゼ
ノドロスだった。
「なるほど」
なつとく ぉい
納得し、エル・トパックはアクディス・レヴィに同情した。甥の権力を利用して、勝手
なことばかりやっているのは知っているが、内密で画策までしていたとは。
「下がなにをしているか知らねぇってのは、ちと問題だなぁ。歳は若くても長なんだから
悲しみは鋸斉とともに
よ。なめられちゃあ、終わりだぜ、坊や」
大股でアクディス・レグィの前まで行き、イルダーナフが鼻先で笑った。
「きさまー」
正面でせせら笑われ、アクディス・レヴィは顔色を変えて、護身用に持っている短剣に
芋を伸ばした。それを見て、エル・トパックが「おやめなさい、神官長一」と叫んだ時、
すでにアクディス・レグィの手から短剣がはねとはされていた。
「よしなって。おまえさんじゃ、俺にゃ勝てっこねぇよ」
とんだ短剣を片手におさめ、イルダーナフは楽しそうに片目をつぶった。アクディス・
レヴィが信じられないという面持ちで自分の手と、イルダーナフの手にある短剣に視線を
往復させた。
さエ、 ぬ
背中にある長剣を鞘ごと抜き、それで短剣をはねとばしたのだろうが、その動作は誰の
はやわぎ
目にも映らなかった。エル・トパックにすらわからなかった。あま。の早業で、なにが起
あはうヴウ
きたのか埋解できない神官達は、口を開けた阿呆面になっている。
あいカーつ
「さて、挨拶もしたしな。そろそろ、帰るとするか」
ささくれだった空気の中、イルダーナフは平然としている。
「ああ、俺はロワジーの爺さんとこにいるからな。なにかあったら、そこへきな。おい、
エル・トパックの兄ちゃん、行くぜ」
「あ、はい」
つなが
促され、エル・トパックはためらいながら返事をした。しかし、誰もエル・トパックの
とが だま
退出を怨めようとしない。あのゼノドロスですら黙っている。皆、イルダーナフの登場に
毒気を抜かれ、エル・トパックの吊し上げなど忘れてしまったらしい。
「待てー 名前ぐらい名乗っていけ!」
・ 1
外に出ようとしたイルダーナフに、アクディス・レヴィがそう怒鳴りつけた。
「イルダーナフだ」
イルダーナフは振り向きもせず名乗ると、そのまま持っていた短剣を投げ返した。短剣
は正確に神官長の手の中に落ちた。
「後ろに目がついているのではないか」
エル・トパックは感心しながら、外に出たイルダーナフの後ろについて行った。
む たお ろうか
護衛達が白目を剥いて倒れている廊下を歩きながら、エル・トパックは苦笑した。イル
ダーナフにかかっては、護衛など束になっても勝てないだろう。
「さぁて、兄ちゃん。詳しい話は道々きくが、カイルロッドの様子はどうだフ」
イルダーナフに問われ、エル・トパックは首を振った。
5 悲しみは戴昏とともに
「よくあ。ません」
それから手短に様子を説明すると、
「まいったね、そいつぁ」
よわね は
さすがに陽気な男も顔を曇らせ、珍しく弱音を吐いた。エル・トパックは無言で、右一眉
を押さえた。
こお
イルダーナフとエル・トパックが去った後、大広間は凍。ついたような空気に支配され
ぁゎ あっ
ていた。あまりに慌ただしく、まるで風のように現われて去っていった男に、神官達は呆
気にとられていたのである。
イ ル ダー ナ フ
「なにが『なんでもできる男』だー ふざけた名前をつけやがってー」
ゆかたた あらわ
返された短剣を床に叩きつけ、アクディス・レウィが怒りを露にした。「なめられちゃ
終わ。」と忠告しておきながら、満座で「坊や」と呼ばれたのである。しかも、恐ろしい
はやわざ
早業まで見せつけられ、アクディス・レグィの怒。はもっともだろう。
ぼうぜん
ただ呆然としていた神官達も、神官長の怒。に刺激され、我を取り戻した。
「どうなさいます、神官長。エル・トパックにまで逃げられましたぞ」
あいまい
「このままでは、ことが曖昧にされます」
などと、口々に言いたてる。周囲から寄ってたかって「どうするのだ」と責められ、ア
・
クディス・レウィはギリギリと目尻を吊り上げた。
やつ
「うるさいっーエル・トパックもあのふざけた男も、ロワジーのところにいるー奴ら
だま
はいずれ、厳しく問いただしてやる▼ その前に、俺に黙って暗殺者なんぞを送った馬鹿
てつてい
を、神官長を無視して動いている者達を徹底的に調べあげてやるぞー」
イルダーナフに言われたことが相当にこたえたらしい。アクディス・レウィの声に神官
めんじゆっーくrJいやかち
達 − 特にゼノドロス ー は青くなった。面従腹背の輩が多いということである。
ゆうれい
ざわつく神官達の中で、ただ一人、叢年長者のオンサ老は、まるで白昼に幽霊でも見た
ような表情で震えていた。
「イルダーナフI 生きておられたとは」
つぷや
かぼそく呟いたが、オンサ老のその声は誰にも聞こえなかった。
一はださむ
吐く息がうっすらと白い。こんな肌寒い日だというのに、カイルロッドは朝からずっと
庭を歩き回っている。
わぜ
「風邪でもひかれては」
食堂でメディーナが心配して呟くと、
217 悲しみは放題とともに
がんじよう
「あの王子は頑丈だ。心配するなら王子よ。、トパック様の方にしてもらいたいものだ。
しんでん
今頃、神殿の上層部の連中に寄ってたかっていびられているのだぞ」
ゆか ”きげん
床に座。こんで剣の手入れをしているティファが、ひどく不機嫌そうに鼻を鳴らした。
りいこ
エル・トパックを案じて、剣の稽古にも身が入らないらしく、手入ればかりしている。
ロワジーはこの寒さで神経痛がぶりかえし、ベッドから動けなくなっていた。
「エル・トパックなら心配はいらないと思うが…」
いやみ
神殿の上層部に嫌味を言われたぐらいで、あの青年が動揺するとも思えない。首を傾げ
さや
てメディーナがそう言うと、ティファは大きな音をたてて、剣を柵におさめた。
「あなたは神殿のや。方を知らないから、そんなに澄ましていられるのだ一敗らには常
みぎうで
識など通用しないートパック様の右腕だって 1−」
「右腕フ」
セきわん lゥ
エル・トパックの隻腕を、揺れる右の袖を思い出し、メディーナが訊くと、
「ともかく、私は神殿に行って、様子だけでも見てくる−」
けつこノ かろ
激昂しかけたティファは辛うじてそれを押さえ、立ち上がって食隻を出ようとした。
とげら
バタンと、扉の開閉する音が聞こえた。
くつおと
ティファが「トパック様⊥と飛び出し、メディーナも席を立った。靴音が二種類聞こ
えたので「もしやけ・」という期待があったのである。
扉の前に行くと、思ったとおり、エル・トパックとイルダーナフがいた。二人が外の冷
気をまとっているのか、室内温度が下がった。
「トパック様だけでなく、きさままで…」
ろこつ いや
ティファは露骨に嫌な顔をしているが、イルダーナフは平然たるものだ。
おやじ
「親父」
メディーナが声をかけると、イルダーナフは人なつっこく笑った。
「よぉ。元気か、メディーナ」
つ
その笑顔を見たら、メディーナは張り詰めていた気持ちが切れてしまった。「親父がき
だいじよよノぷ
たからもう大丈夫だ」、そんな安心感からだろう、涙がこぼれた。
あくむ さいな
「これでカイルロッド王子も、悪夢に苛まれずにすむ」
あふ
そう思うと、涙が溢れてとまらなかった。
こんわくがお
突然泣き出したメディーナに、エル・トパックとティファは困惑顔になったが、イルダ
ーナフは優しい顔で近づき、
つら
「すまねぇな。辛い思いをさせちまって」
はは
大きな手で娘の頬に触れた。見上げると優しい黒い目があった。
悲しみは黄昏とともに
おれ まか
「カイルロッドのこたぁ、俺に任せておけ」
だま うなヂ
力強い声に、メディーナは黙って領いた。親子の対面を見ていたエル・トパックが、ほ
セきわん
っとしたように口元に微笑をうかべた。隻腕の青年はメディーナ同様、いやそれ以上にイ
あんど
ルダーナフの登場に安堵したに違いない。
ねえ
「ところで、姐ちゃん。カイルロッドはどこにいるフ・」
はは
メディーナの頬から手を放し、イルダーナフがティファに向き直った。
「ティファだー 王子は庭にいるー」
りゆうぴ どな
柳眉を逆立て、ティファが怒鳴る。
つら おが
「そうかい。そんじゃま、ロワジー爺さんへの挨拶は後にして、まず王子の面を拝んでく
ることにしよう」
ほんの少し、イルダーナフの顔が厳しくなった。
5
こんなに探しているのに、どうしてミランシャを見つけられないのか。
カイルロッドには理解できなかった。
そば
いつも伽にいてくれたのに、こんなに呼んでいるのに、どうしてミランシャは現われて
くれないのだろう。
220 「ミランシャ」
けざ
吐く息がうっすらと白い。弱々しい陽射しに、木々が震えている。
「ミランシャはブリユウと二人で、どこかへ行ってしまったのだろうか」
緑の淡い庭を歩きながら、カイルロッドはぼんやりとそんなことを考えていた。
「ミランシャ、どこにいるんだフ」
歩いていくと、ふいに太い声に呼び止められた。
「カイルロッド、どこへ行くんだ?」
さかぴん
聞き覚えのある声に顔を向けると、イルダーナフがいた。片手に酒瓶、片手にグラスを
三っ持っている。
一 イルダーナフ」
ヽろかみ
カイルロッドは数回まばたきし、黒髪の大男を見上げた。
「そういえば、イルダーナフはどこにいたんだろう?」
ずいぶん、久しぶりに会う気がする。しかし、関心はなかった。カイルロッドの中で関
心のあることは、ミランシャを探すことだけだった。
「イルダーナ7、ミランシャを知らないかっ 探しているのに、どこにもいないんだ」
221 悲しみは黄昏とともに
うつた
そう訴えると、イルダーナフは強い光を放つ黒い目を、カイルロッドに向けた。
ゆめ
「いつまで夢の中にいやがるんだ、おめぇは。ミランシャはな、死んだんだ。ムルトに殺
されたんだ。どこを採してもいやしねぇんだよ」
ほほ
かすかに頬をこわばらせ、イルダーナフが強い口調で言った。しかし、その言葉はカイ
ルロッドには理解できなかった。ぼんやりしていると、イルダーナフが言葉を続けた。
「ミランシャは死んだ。そろそろ、目を醒ませ、王子」
「 嘘だ」
一呼吸おいて、カイルロッドはろれつの回らない吾で、イルダーナフの雷葉を否定した。
「ミランシャは死んでいない」、何故イルダーナフは嘘をつくのだろう。カイルロッドは小
さな怒。を感じた。
「ミランシャが死ぬはずない」
「王子、ミランシャは死んだ。おそらく、おまえさんの目の前で死んだはずだ。ミランシ
ぎじ
ャはムルトに造られた擬似生命体だった、そうじゃねぇかヱ
みけんしわ け
眉間に雛を寄せ、イルダーナフはため息とともに言葉を吐き出した。
ムルト二造ラレタ擬似生命体 −。
ズキンとカイルロッドの頭の奥が痛んだ。
22
ふいに〜
のうり
塵となって消えていくミランシャの姿が、脳裏にうかんだ。
くちげる っも
を見ている。その唇が動き、なにか言葉を紡ぎだしているこ・
さようなら、と。
「嘘だ。そんなこと、信じないー」
脳裏にうかんだ光景と、イルダーナフの言葉を強く否定し、
.・こ. . .∵、
冷たい風に身震いした。刺すように冷たい風が肌の上を通りすぎる。
「 寒い」
身体の内側から凍ってしまいそうな寒さに、カイルロッドが歯を鳴らしていると、
どろにんぎよう
「ミランシャは人間じゃねぇ。ムルトの造った泥人形だ」
ようしや
イルダーナフが容赦のない言葉をカイルロッドにぶつけた。
かんだか
耳鳴りがして、甲高い笑い声がした。
痛いと泣いているグリユウの声が、ミランシャの声が聞こえた。
「嘘だ。ミランシャはいるんだ、死んでなんかいないームルトなんか知らない!」
今、近くにいないだけで、ミランシャはいるのだ。もうすぐ見つけられるのだ。カイル
ロッドは自分にそう言い聞かせた。
哀しげな顔でカイルロッド
カイルロッドは吹きつける
23 悲しみは黄昏とともに
・..
「泥人形が壊れたぐらいで、いちいち悲しむんじゃねぇや」
ちようしよっ
イルダーナフが嘲笑した。
1ト、1・.・
その声と、耳障。だった、男の甲高い笑い声が重なった。
かんし
(監視のための泥人形ニ )
きれつ 写
凍りついていた感情に亀裂が入った。そして−亀裂の入った場所から、奥底に封じこ
めていたものが吹き出した。
ブリユウの死。
ミランシャの死。
そうかつ
ムルトの嘲笑、壮絶な闘い。ヴァランナーヌの忠告。
それらが嵐となって、カイルロッドの中で荒れ狂った。
「ミランシャは泥人形なんかじゃない=俺はムルトのようにはならないっ=」
突き上げる激情のままに、カイルロッドは叫んだ。
とつ4フ ゆ
突風が吹きつけ、木々が大きく揺れた。風に押されイルダーナフが一歩、よろめいた。
・.
「ミランシャもグリユウも、人間だ=泥人形でも、ムルトの造った擬似生命体でもない
んだ〓」
どな
寒さも頭痛も忘れ、カイルロッドは怒鳴っていた。
「…・そうだ。そのことを一番よく知っているのは、おまえさんじゃねぇか」
おだ
イルダーナフが穏やかな声で言った。
「イルターナフ 」
にせレ
さっきの風で切れたのだろうか。頬に一筋の傷があり、血が渉んでいた。愛想を尽かさ
れて去られてから、もうずいぶんと日々が過ぎたような気がした。
「やっと巨が醒めたみてぇだな」
せいかん
ニッと笑うイルダーナフの精悍な顔には、労りの色があった。
おれ
「・俺・ 」
つけーや
口の中で呟き、カイルロッドは周りを見回した。一面の緑だった。「ここはどこだろう」、
ゆっくりと記憶をたぐりよせ、カイルロッドはようやく今、自分のいる場所がどこかを理
解した。
ほうかい
「タジェナが崩壊して・それから、俺はあんたに助けられて。エル・トパックにつれら
だいしんでん
れてフェルハーン大神殿にきたんだ」
カイルロッドは頭を振った。ようやく、長い夢から醒めたような気がした。
「イルダーナフ、俺・・」
言わなくてはいけないことが山のようにある。あれから、色々なことがあった。それな
5 悲しみは黄昏とともに
のに口にしようとすると、なにから話していいのかわからない。
とほう
カイルロッドが途方にくれていると、
すわ
「まあ、廃れや。せっかく、酒とグラスを持ってきたんだ。飲むのに付き合え」
あぐlっ
そう苦って、イルダーナフはどっかりと地面の上に胡坐をかいた。それからグラスを一
っヵィルロッドに渡し、一つを自分の前に、最後の一つを二人の横に置いた。
「ミランシャの分だ」
つ
カイルロッドが訊くよ。早く、イルダーナフはミランシャのグラスに酒を注ぎながら言
った。
「 あんたはなにもかもを知っているんだな。俺達と別行動していたのに。 ミラン
シャのことも、知っていたんだろうフ いつから、知っていたんだ?」
訊きながら、カイルロッドはイルダーナフの前に座った。
いつしよ
「最初はわからなかった。まぁ、一緒に旅をしている間に、な」
カイルロッドのグラスに酒を注ぎ、イルターナフは口元をかすかに上げた。この口調で
はだいぶ前から知っていたに違いない。
だま
「知っていて、どうして黙っていたんだり どうして、教えてくれなかったんだヱ
しようげき
グラスを下に置き、カイルロッドは声を荒げた。知っていれば、あれほど衝撃を受けず
にすんだのだ。
つか
「知っていたら、おまえさん、なにかしてやれたのかフ 同情して、気を遣って。どうせ、
おまえさんにできるのは、その程度じゃねぇか」
手厳しいことをさらりと言われ、カイルロッドは口ごもった。
つれ
「ミランシャだって、同情で優しくされたって嬉しくねぇだろうよ。それに自分が造り物
なんて知ったら、たまんねぇやな」
カイルロッドには目もくれず、イルダーナフは〓息にグラスを空にして、そこに酒を注
いだ。
いっしようけんめい
「俺も、あの娘のことが好きだった・。いつも一生懸命で、明るくて。見ているしかで
きねぇ自分が、はがゆかったさ」
らんうつ
酒の入ったグラスを手にしたイルダーナフの顔は、沈鬱な色に縁取られていた。事実を
ごうかい っり
知りながら、ただ黙って見つめていた日々は、陽気で豪快なこの男にとっても辛いものだ
ったのだ。その心情を思うと、カイルロッドはなにも言えなくなった。
「……あの娘は、おまえさんのことを好きだった。自分のことよりも、おまえさんのこと
を心配していた。ムルトの造った物だったとしても、それは最初のうちだけだ。旅をして
いっしよ
いる間に、人間になっていたんだからよ。そのことは一緒に旅をしていた俺達が、おまえ
悲しみは黄昏とともに
さんがよく知っているはずじゃねぇか」
∴こ…11こ」
ぬ
ヵィルロッドは自分の前にあるグラスを見つめていたが、それを手に取った。酔うと脱
さけくせ なつ
ぎだすミランシャの酒癖すら、今となっては懐かしい。
「・・おまえさんのことだから、こんな結末になるぐらいなら旅なんかしなけ。やよかっ
た、なんの意味がある、そんなふうに考えているんだろうけどよ。おまえさんが無意味だ
と恩っちまったら、ミランシャの存在も無意味になっちまうじゃねぇか」
みす からだ
心を見透かされた言葉に、カイルロッドは身体を硬くした。イルダーナフが「やは。
な」と言いたげに、小さく笑った。それから空を仰ぎ、
つれ
「旅の間にゃ、辛えこともあったが、楽しいこともあったよなぁ。なぁ、そのことを思い
出してやろうや。あの娘のことを思い出してやろうぜ。いいことをたくさん、な。俺やお
おlま どろにんぎよう
まえさんが覚えている限。、ミランシャは泥人形なんかじゃねぇんだ。人間だったんだ」
朗々とした、よくとおる声で言った。
ゆ
グラスの中の酒が掃れた。カイルロッドは震えていた。
どうして忘れられるだろう。
ぁんなにも身近にいて、いつも助けてくれた少女のことを、どうして忘れられるのか。
りん2
ちきよっだlら おどろ
初めて会ったのは、ルナンだった。乳兄弟のやっている店で働いていたミランシャは驚
くほど表情が豊かで、きびきびした動作が印象的だった。
「忘れないよ、決して」
し−つしよ
生まれたこと、出会ったこと。一緒に生きてたこと、旅をしたこと。
そして、それを覚えていること。
忘れないことーそれがミランシャに対して、カイルロッドのしてやれることだ。
「ミランシャ ・」
カイルロッドは、地面に置かれたグラスを見つめた。
ミランシャがここにいるのだ。
カイルロッドはやっと、ミランシャを見つけた。
「ミランシャ、ごめんね。守ってあげられなくて…。そして、今までありがとう」
ぼんかん おLJ
万感の想いをこめて、カイルロッドは言った。告げたかったのはその言葉だった。
イルダーナフは一度グラスを顔の前に上げ、黙藤してそれを空にした。
カイルロッドもイルダーナフにならった。飲み干した酒は苦かった。
「俺は憎しみで力を使って、ムルトを倒したんだ。それもムルトをすぐに殺さず、いたぶ
って・・。それをヴァランチーヌが…・ムルトの妻が、ムルトと同じだって」
舌に苦味が残り、カイルロッドが顔をしかめると、
「同じと言われて、傷ついたんだろうフ そして、ああなりたかねぇと思ったんだろうフ
だったら、平気じゃねぇか。ミランシャのことを、これまでに会った色々な人々のことを
忘れねぇ限り、おまえさんはムルトみてぇにゃならねぇ。不安なら、俺が断言してやら
あ」
イルダーナフが笑った。その言葉で、カイルロッドの心は軽くなったようだった。
出会うことの喜び、別れることの悲しみを、人であるがゆえの苦しみと悲しみを忘れな
い限り、ムルトのようにはならない。そうイルダーナフは言ってくれた。
「明日から、おまえさんの考えなくちゃならねぇことが山積みだ。ルナンのこと、自分の
こと、色々ある。だが、今日は考えるな。今日はミランシャのことだけを考えてやれ」
こわね
カイルロッドのグラスに酒を注ぎ、イルダーナフがひどく優しい声音で言った。カイル
にぎ かた ふる
ロッドはグラスを握りしめたまま、肩を、全身を震わせた。
「泣きたい時は泣いていいんだぜ」
泣けないイルダーナフがそう言った。
「ううっ・・」
おえつ も
鳴咽が洩れ、涙が溢れた。ずっと泣きたくても泣けなかった。やっと、なにかから解放
悲しみは黄昏とともに
せき
され、カイルロッドは堰をきったように涙を流していた。
どうこく
鳴咽は大きくなり、働英に変わった。
だま さかずき
見て見ぬふりをするように、イルダーナフは黙って杯を重ねていた。ただ、カイルロッ
ドの前に座っていた。
ミランシャの名前を呼び、グリユウの名を、これまでに出会った人々の名前を呼びなが
ら、カイルロッドは大声で泣いた。
ふ
その頭上の木々が、夕碁の風で触れ合い、音をたてていた。
あくむ
迷路のようだった悪夢は消え−そして今、カイルロッドにとって;の季節が終わり
を告げた。
32
あとがき
どうも。
卵王子の六巻です。
フな
いつもは「あとがきのネタがない」と喰っていますが、今回はありますー
生まれて初めてのサイン会1
これをネタにしないテはないっー
てなわけでー1−j
ファンタジア文庫五周年記念のサイン会、その中にいれていただきました。(卵王子の
五巻の発売の時です)
のうり
サイン会が決まって、真っ先に私の脳裏にうかんだこと1「人がこなかったらどうし
よう」でした。
きー
が
と
あ
いた
しかし、その日が近づくにつれ、「考えても仕方ない」に変わり、当日に至っては「人
がこなかったら、早く帰れるだろう」、などと、ふとどきなことを考えておりました。
.り.−−・
実際は早く帰れるどころではなかったんですねー。人が多くて、びっくり 。
一瞬、「なんかあるのかヱと、すごく間の抜けたことを考えてから、「サイン会に来て
きせき
くれた人なんだ」、感動しました。(とにかく人が多くて、時間どおり終わったのが奇跡の
ようだった)
おどろ
他に驚いたのは、写真攻撃です。シャッター音は途切れないし、日の端にはフラッシュ
の光が。ほとんど気分は珍獣・・。
きlゎつけい
一時間半、ただひたすらサインをしてました。(途中で休憩をとったが、おしぼりで手
を拭いて、麦茶を二口飲んで終わり。文字どおり二思ついただけだった)
なぜ
翌日は何故か全身筋肉痛で、「サイン会は体力だ」ということを知りました・。(ちな
みに、私の横にいて本を開いていた担当Y氏は無理な中腰が崇って、翌日腰痛で苦しんで
いたそうだ1 )
はちう
ぁとがきに観葉植物やサボテンのことを書いているせいでしょう。花束や鉢植えをいた
さきい
だきました。鉢植えは仕事場に置いてあります。(部屋が狭くなるなど、些細なことだ)
m サイン会に来てくれた皆様、あ。がとうございました。
卵王子も残すところ、あと三冊となりました。(全九巻の予定です)どうぞ、景後まで
お付き合いください。
最後になりましたが、イラストの田中久仁彦氏に御礼申し上げます。
では、次巻もよろしく ー
冴木 忍 拝