く卵王子〉 カイルロンドの苦難C
面影は幻の彼方
204
冴木 忍
S
霊士見ファノタンノア文庫
32−9
口絵・本文イラスト 田中久仁彦
四 三 二
あ 章 章 葦 章 目
と
晋・警 讐…翳苦 次
た の 達 か
つ 空 の た
影音 響亘 む
要言 け
ん て
225 163 189 52 5
面影は幻の彼方
一章 耳をかたむけて
ごうおん
轟音をたてて、次々と木々が薙ぎ倒されていく。枝や木月が飛び散り、地面や他の木に
突き刺さった。
せいじやく じひぴ
ほんの少し前まで静寂そのものだった森の中を、地響きや木々の倒れる音、岩の砕ける
とぎ
音などが途切れることなく響き、騒音に驚いた動物達が高い鳴き声をあげて、逃げまどっ
さわ
ていた。上空では鳥達がけたたましく騒いでいる。
「くそっー」
げんきよう
騒ぎの元凶であるカイルロッドは、森の中を全速力で走っていた。その後ろから土煙と
ばけもの
地響きをたてて、巨大な化物が追ってくる。
「しっこいな、本当に」
後ろを振り返り、カイルロッドは舌打ちした。
かた っろこ わにこ
追ってくるのは全身を深緑色の硬い鱗に包まれた、鰐によく似た化物だった。体長は一
1.. −・
〇メートル以上、細長く突き出した口には無数の牙が生えている。鰐と違うのは足が八本
お とげ
もあり、二本の尾に大きな楓が生えていることだろう。
その化物は前に大木があろうが岩があろうが、まるでお構いなしに、カイルロッドめが
とつしん けん
けて突進してくるのである。相当に硬い鱗で、大木や岩どころか、剣ですら傷つかないこ
とは実証済みだった。
「どうしてこう次から次へと、化物が現われるんだけ」
せん
後ろから飛んできた岩の破片を避けながら、カイルロッドはぼやいた。言っても詮ない
ことだが、Hにでも出さないことにはやってられない。
「まだか、イルダーナフー 追いつかれたらどうしてくれるんだよー」
かんか′、 せば
地響きが大きくなり、間隔が次第に狭まってくるのを感じながら、カイルロッドは「早
くしてくれ」と心の中で悲鳴をあげていた。
ヂうたい
足には自信があるのだが、大きな図体に似合わず化物も速い。だてに足が八本もあるわ
つか
けではないようだ。おまけに疲れ知らずときているからたまらない。追いかけっこが長引
くほど、カイルロッドの不利になる。
面影は幻の彼方
「おい、俺なんか喰っても不味いぞー」
どな ついせき あきり
後ろを見ながら怒鳴ってみたが、それで化物が追跡を諦めてくれるはずもなかった。カ
アッと大きな口を開き、いよいよむきになって追ってくる。
「・余計なことを言うんじゃなかった」
せま するどきぼ
迫。くる真っ赤な口と鋭い牙に、カイルロッドは顔をひきつらせた。
「一時間前はのんび。していたのに」
ひなた
日向ぼっこして、のんびりくつろいでいたのが遠い昔のように思えてきた。
みずうみ
カイルロッド、イルターナフ、ミランシャの三人は一休みしようと、湖のほとりで弁当
を広げていた。天気は上々、湖も風景も美しく、宿屋の主人が作ってくれた弁当は美味か
じようきげん
ったし、カイルロッドは上機嫌だった。
、カ ー
とつぜん よ.ノ あわだ
三人がほとりに座って休んでいると、突然、湖の中央が乱しく泡立った。
わに
何事かと思って見ていると、水の中から巨大な鰐に似た化物が出現したのである。似て
いちもくりようぜん
いるが鰐でなく、それが妖魔の類いであることは、陸にあがった姿を見れば一目瞭然だっ
た。
ぬ かた うろこ
イルダーナフが長剣を抜いて斬りかかったが、硬い鱗には歯がたたなかった。ミランシ
ヤの魔法もまったく効果がなかった。
すべ
なす術もなくカイルロッドが逃げ回っていると、
一..、 −
「こりゃ、罠でも作るしかねぇなぁ。王子、俺が合図するまで、森の中で追っかけっこし
もど
てこいや。合図したら、ここに戻ってこい、いいな」
と、イルダーナフに言われ、素直に森の中に逃げ込んだのだが、待てどもいっこうに合
図がない。
「本当に罠を作っているんだろうな」
いちまつ てQどゆぴJえ けび
一抹の不安を感じながらカイルロッドが走っていると、鋭い指笛が響いた。イルダーナ
ちが
フの合図に違いない。
やみ しほ
闇の中で一条の光を見つけたように、カイルロッドは全力をふり絞って走った。汗が飛
び散り、足の感覚がなくなってきたが、カイルロッドは走った。
ぬ
木々の間を抜けると、正面に陽光を反射してキラキラと眩く光っている湖が見えた。
「王子、こっちー」
ミランシャの声がして、左側で両手を振っている。イルダーナフの姿が見当たらないが、
せんさく よゆう
カイルロッドに詮索する余裕などなかった。
オ,きめ きみよっ
脇目もふらずにミランシャの方に走っていくと、後ろから奇妙な音がした。
重い物が木にぶつかるような音だ。
しゆんかん おぞ1.ノ つな
そして次の瞬間、厚い布を裂くような音と怖気のするような唸り声がした。
、・・・・・−・・1−∵、
ゆ つ
立ち止まり、息をきらしながらカイルロッドが振り返ると、大木の枝に吊り上げられて
ばけもの はら
腹を裂かれた化物と、長剣についた血を払っているイルダーナフの姿があった。
「よう、王子。いい運動だったようだな」
きや
目が合うと、イルターナフはニッと笑い、長剣を背中の蹄におさめた。
ひざ
カイルロッドはガタガクと笑いだした膝で、なんとか吊られている化物に近づいた。
「まるで首吊りみたいだ・・」
首に鎖の輪をかけられ、裂かれた腹を見せてぶら下っている化物を見上げ、カイルロッ
つかや かた、フろこ らが
ドは呟いた。異常に硬い鱗の生えている背中と違って、腹部は柔らかいらしい。
「こういう鱗の硬い生物てぇのは、腹が柔らかいもんだ。だが、これだけの巨体となると、
めんどう
引っ繰り返すのも面倒だからな」
まゆ
イルダーナフの説明を聞きながら、カイルロッドは眉をひそめた。裂かれた腹から内臓
あくしゆう
がはみだし、それが悪臭を放っている。赤黒い血が大地に滴り落ちていた。腹を裂かれて
お けいれん
もまだ生きているのか、八本の足や二本の尾が時々、痙攣する。
薗彫は幻の彼力
「しかし、よくこれだけの巨体を吊。上げたな」
つ
「簡単だぜ。輪を作って、王子が通った後にかけたら、てめえで首を突っ込みやがった。
てつさ
もっとも、この鉄鎖じゃなけりや、吊り上げられなかっただろうがな」
・.、.し
黒髪の大男は得意そうに笑った。どこで手に入れたか知らないが、気がついたらイルダ
ーナフは腰に鉄鎖を巻いていた。剣だけでなく、鉄鎖術の心得もあるそうだ。
おれ
「俺が森から出てきた時、姿が見えなかったわけだ」
なつとく ばけもの
カイルロッドは納得した。イルダーナフは木の枝の上にいたのだ。そして、化物が輪に
しゆんかん
首を突っ込んだ瞬間、下に飛び降。、その反動で化物を吊り上げたのだ。
「ちょっとー どうでもいいから、まずその化物をどうにかしてよー」
あノ1しゆう
腹を裂かれた化物など見て気分のいいものではないし、悪臭もあるので、決して近づこ
みヂうみ
うとしないミランシャが湖を背にして怒鳴った。
「はいよ」
黒髪の大男は苦笑し、木の幹に巻きつけてある鎖をほどいた。ドサッと重い音がして、
化物が地面の上に落ち、内臓と血が飛び散った。
「王子、とどめだ」
「えフ・・ああ」
っなが さや ぬ
促され、カイルロッドは持っている短剣を出して、稗から抜いた。そして、白い腹に突
き立てた。とたん、化物は塵となった。
すご
「凄いわね、その短剣」
やってきたミランシャが化物の形となって残った慶を見下ろし、さも感心したように息
だま
をついた。カイルロッドは黙って短剣を鞘におさめた。
「でも、これ、ムルトの差し向けたものかしらっ」
・
ミランシャが塵を踏みつけた。
「だろうな。それにしてもムルトの差し向けるヤツは皆、頭はよくねぇな」
鎖を拾いあげ、それをプンプンと回しながらイルダーナフが笑った。
わな
「それにしてもイルダーナフ。単純な罠に、いやに時間がかかったじゃないか。俺は一時
間も走っていたんだぞ」
全力で走ったせいだろう、足の筋肉が突っ張っている。しばらくまた筋肉痛に苦しむこ
とだろう。
ふる ひぎ
震えの止まらない膝をおさえながらカイルロッドが軋むと、
「運動不足解消に協力してやっただけだ。どうせなら、馬になって走ってりやよかったの
によ」
面形は幻の披方
などと、イルダーナフは澄ました顔で言い、「そ。やそうね」とミランシャが相づちを
うつ。カイルロッドは筋肉痛とは別の理由で顔をしかめた。
「あのな一。だから、馬だって楽じゃないんだって、何回も言ってるじゃないか▼」
連れを見上げたが、二人とも知らん顔していた。
「また、聞こえないふりをする」
しよせん
カイルロッドはため息をついた。所詮、馬になったことのない者に、馬がどれほど大変
かなどと説明したところで、理解してもらえるはずもない。
「いいよ、もう。勝手に言ってくれ」
あきら
カイルロッドは相互理解を諦めて、湖のはと。までよたよたと歩いて行った。
「みっともない格好。とても王子とは思えないわね」
背中からミランシャの冷たい声が聞こえた。カイルロッド本人は真っすぐに歩いている
つも。なのだが、足が言うことをきいてくれないのだ。
「ミランシャ、全速力で一時間走ってみろよ。俺みたいになるから」
振。向かずにそう言い、カイルロッドは湖のはと。に座って、ようやく一息ついた。
「まったくひどい目にあった」
ぼやいていると、
「だいぶ汗をかいたらしいなぁ、王子」
ふきつ おそ
真後ろからイルダーナフの声がして、カイルロッドが不吉なものを感じた時はすでに遅
お からだ かたむ こめん せま
かった。背中を押され、身体が前に傾き、光る湖面が迫っていた。
バシャーン。
派手な水音をたてて、カイルロッドは湖に落ちた。見た目より水深があるのか、足が立
たない。
「…・・イルダーナフ」
ぎんばつ
水面から顔だけ出し、カイルロッドはイルダーナフを睨んだ。長い銀髪が水面に広がっ
ていた。
かわ
「この髪、乾かすのが大変なんだぞー」
こーフぎ
両手で水面を叩いて抗議すると、
「汗を流せて気持ちいいだろうが」
イルダーナフはほとりに屈み、片手で水をすくってカイルロッドにかけている。
「くそっー」
くや
やられっぱなしでは悔しいので、.カイルロッドは両手でイルダーナフに水をかけてやっ
た。
面影は幻の彼方
「まるで子供の水遊びね」
あき
ミランシャの呆れたような声は、水音に消されてカイルロッドには聞こえなかった。
ぬ
「ずぶ滞れにしてやるー」
なぜ
カイルロッドはむきになって水をかけていたが、何故かイルダーナフは少しも濡れない。
いつてき
服にも髪にも一滴もかかっていないのだ。
「ずるい、どうしてだけ」
「手品さ」
くろかみ かく
ニッと笑い、イルダーナフは立ち上がった。この黒髪の大男には隠し芸だの手品だのが
えたい
やたらと多く、まったく得体が知れない。
「ずるいぞ−」
水がかからないのなら、湖の中に落としてやろうと、カイルロッドはイルダーナフの足
つか
を摘もうとしたが、
あめ
「甘えな、王子。俺を落とすなんざ、一〇年早えぜ」
ぎやくもビ
肩を蹴lとばされただけだった。大きな水音をたてて、カイルロッドは水の中に逆戻。し
た。なにをしてもイルダーナフにはかなわないらしい。
「う1」
唸りながら、水から顔を出すと、
わに
「王子、さっきの鰐−」
だしぬけにミランシャが湖の真ん中あたりを指して、叫んだ。
「まだいたのかlフ」
ぎようてん あわ
仰天したカイルロッドは慌てて水からあがった。
と、ミランシャは両手で口をおさえて、顔を真っ赤にして笑いをこらえている。その横
ふる
にいるイルダーナフも肩を震わせていた。かつがれたのだとわかり、カイルロッドは真っ
赤になった。最近、イルダーナフばかりか、ミランシャにまでからかわれるようになった。
「ミランシャ、ひどいじゃないかー」
全身から水を滴らせて文句を言うと、魔女見習いの少女は涙を流しながら、
「ごめんね。でも、王子って本当に一八歳なのフ あんまり素直なもんだから、ついから
マご カわい
かいたくなっちゃうの。だって、凄く可愛いんだもの」
苦しそうに言った。
「・可愛い・」
めいつばい
ミランシャの発言にカイルロッドは目一杯傷ついた。これぐらいの年頃にとって、異性
きず
に「可愛い」などと言われるほど傷つくことはない。
画影は幻の披方
はんのう
「ああ、わかるわかる。面白えくらい素直に反応するもんな」
そこへ追い打ちをかけるように、イルダーナフが大笑いしながら同意する。
「・俺、イルダーナフとミランシャのそういうところ、廉いだ」
H ..、
二人にいいようにからかわれ、カイルロッドはむっつりと濡れた髪をしぼっていた。
ル
すると風が吹き、滞れた身体が冷え −。
「まずいっー」
そう思って、ロを押さえようとした時はすでに遅かった。
− .
背く澄んだ空に、カイルロッドの大きなくしゃみが響き渡った。
2
ガラガラ・・こ。
h.ばしや かれん
軽い音をたてて、貯馬車が細い山道を進んで行く。道の左右に茂っている草木には可憐
な花が咲き、虫がその間を飛び回っていた。
「本当に助かりました。あなた方が通。かかってくれなかったら、俺、殺されてました」
こがら ぽくとつ
荷馬車の前に座っている小柄な青年が笑った。まだ二〇代前半ぐらいの、丸顔の朴荊な
め さま一だ かみ
青年だった。陽に灼けた肌は浅黒く、髪と目は茶色をしている。
「通りかかったついでだ」
とな たづな
と、その隣りで手綱をとっているイルダーナフが言い、
「別にたいしたことはしてないものね」
二人の後ろで、ミランシャが笑った。
「一番働いているのは俺だと思う…・⊥
三人の会議に、カイルロッドは荷馬車を引きながら心の中でため息をついた。
ぞ′、 おそ
青年の名前はタジと言った。山の中で賊に襲われているところを、通りかかったカイル
ロッド達が ー 正確にはイルダーナフとミランシャが ー 助けたのである。賊は簡単に追
はり ろは
い払えたが、荷馬車を引いていた駿馬が死んでしまい、馬になっていたカイルロッドが代
はめ
役を務める羽目となった。「他人様の役にたてて気分がいいだろう」とイルダーナフは笑
うが、それなら自分が荷馬車を引けと言ってやりたい。
「でも、大変ねぇ。そんな遠い所まで薬を売りに行くなんて」
「それで村を支えているんです」
はこ ははえ
ミランシャに言われ、タジは誇らしげに微笑んだ。旨からタジの村では薬を作って売り、
それで生計をたてているそうだ。女達は山で薬草を採り、男達がそれを薬にして売りにい
くのが仕事らしい。
面影は幻の彼方
きれし、 かわい;つ
「俺は助かるけど、こんな綺麗な馬に荷車を引かせるなんて可哀相だな。いい馬なんでし
ょうフ」
だば
「気にせんでくれや。こいつぁ、見てくれだけの駄馬だから」
タジの問いに明るくイルダーナフは言い、ミランシャが「それはちょっと可哀相じゃな
む
いフ」と苦笑した。見てくれだけの駄馬と言われ、カイルロッドは歯を割いた。すると、
タジが不思議そうに首をひねった。
「なんだか、俺達の言っていることがわかっているみたいですね」
「気のせいだろう」
しれっと言い、イルダーナフはカイルロッドの、馬の尻を蹴とばした。「痛いじゃない
かっー」、カイルロッドが唸ったが、イルダーナフは知らん顔している。
「早くこの魔法を解いてもらおう」
しの
ミランシャの忍び笑いを聞きながら、決意も新たに、カイルロッドは荷馬車を引いて山
道を進んだ。
山を三つ越え、なだらかな坂道を下っていくと、村が見えてきた。
おお
濃い緑に覆われた小さな村だ。平らな土地はほとんどなく、段々畑が見えた。周りを山
めぐ
に囲まれた村は、その山の恵みを受けて生活していた。
「あれが俺の村です」
タジは半分腰を浮かせ、村を指差した。一年ぶりの故郷にはしゃいでいるタジを見なが
ら、カイルロッドはルナンを思い出していた。車輪の音を聞きながら「いつ、帰れるんだ
ろうな」、ふとそんな思いが胸をよぎった。
村に入ると、外に出ていた村人が荷馬車を見つけて、口々に「タジが帰ってきた」と言
いながら、集まってきた。
「タジー」
母親らしい女性が走って来た。タジは子供の顔で荷馬車から飛び下りた。
「ただいま、母さんー」
「よく無事だったね」
再会を喜びあう親子を見ながら、イルダーナフとミランシャも下におりた。
人間が下りたので荷馬車が軽くなり、カイルロッドはホッとした。そして、にこやかに
あいさつ ひづめ
村人と挨拶をかわしているイルダーナフに、「早く馬車を外してくれー」と、蹄を鳴らし
うつた
て訴えた。筋肉痛に耐え、ここまで荷馬車を引いてきたのだ。早く人間に戻って休みたい。
「ああ、すっかり忘れてたぜ」
おもも だま
いかにも仕方なくという面持ちでイルダーナフがやって来た。黙っていたらそのまま、
而影は幻の彼方
放っておかれたかもしれない。
lネレやま
邪魔な物を外されて、やっと自由になったと喜んでいると、
「たいしたおもてなしはできませんが、二人とも俺の家に泊まってください。母と俺しか
いないから遠慮しないでくださいね」
タジとその母親が、イルダーナフとミランシャにそう申し出た。ミランシャは「助かる
わ」と無邪気に喜び、イルダーナフは「どうするっ」というような目をカイルロットに向
かたむ のじゆく
けた。すでに陽は傾いている。野宿から解放されるとあって、カイルロッドはプンフンと
首を縦に振った。
こうしてカイルロッド達一行は、その晩、タジの家に泊めてもらうことになった。
「野宿しないですむぞ」
喜んでいたカイルロッドだが、タジの家の前まで行ったところで、
「タジ、馬小屋はどこだっ」
たづな
イルダーナフに手綱を引っ張られ、有無を言わさず馬小屋に入れられてしまった。こん
hソJ“レん
な理不尽なことがあっていいものだろうか。
いや
「鳥小屋なんか嫌だ−」
あば こユぎ さやしり
カイルロッドは暴れて抗議したが、鞠尻で胸をどつかれただけだった。
か
「心配すんな、後で飼い禁と水を持ってきてやっからよ」
慰めにもならないことを言い、イルダーナフは知らん顔で小屋を出て行った。
「俺は人間として休みたいのにー」
いつこく
悲痛な叫びもいななきにしかならない。こうなったら一刻も早く人間に戻るしかない。
あせ
カイルロッドはくしゃみをしようとしたが、焦っている時に限ってなかなか出ない。四苦
はつヽ
八苦していると、
「王子、いるフ」
ふげん
声をかけられ、カイルロッドはいななきで応じた。さすがにカイルロッドを不憫と思っ
たのか、ミランシャがランプ片手に、服と靴を持って来た。
かわいそう
「イルダーナフは放っておけって言ったけど、やっぱりずっと馬小屋じゃ可哀相だから。
かわ
ここに服と靴を置くわね。服は乾いているから安心して」
カイルロッドの前に服とランプを置き、
「胡椒を貰ってきたから、かけるわよ」
はなづち
ミランシャはカイルロッドの鼻面に胡椒をまいた。そして、素早く後ろを向き、小尾の
外に走り出た。
がゆ
鼻がむず輝くなり、カイルロッドは大きくくしゃみした。身体が乱み、馬から人に戻っ
面影は幻の彼ノコ
23
ていく。二本の足で立った時、カイルロッドは大きく息をついた。
「あ1、やっと人間になれた。助かった。ありがとう、ミランシャ」
持ってきてくれた服を身につけながら、カイルロッドは小屋の外にいるミランシャに礼
を言った。
おピろ
「でも、どうするっ いきなり俺が現われたら、タジ達が驚くだろうフ」
靴を履きながらカイルロッドが訊くと、
だいじようぷ
「大丈夫よ。後から連れが来るって言っておいたから。それと馬は逃げちゃったというこ
とにすればいいんだし」
外から気楽な返事が戻ってきた。
「それならいいや」
なつとく
カイルロッドも簡単に納得し、ランプを拾って小屋を出た。
外は真っ暗で、タジの家の中から明かりが洩れている。
「ミランシャ、もう食事した7 億、腹が減って目が回。そうなんだけど」
うつた
腹に手をあててカイルロッドが空腹を訴えると、ミランシャは少し驚いた顔をした。
か ば
「だって、飼い葉を食べたんじゃないのフ」
「 ミランシャまでそういうことを言うのフ」
「だって、おじさんがそう言ったから。王子は飼い葉を腹いっぱい食べたからって」
かげん
「またいい加減なことを・」
みけん しわ
カイルロッドは眉間に駿を寄せて唸った。イルダーナフにはひどい目にあわされてばか
りいる。
すでにミランシャ達は食事を終えていると聞いて、カイルロッドはがっくりうなだれた。
朝まで空腹に耐えねばならないのだ。
たの
「え、えーと。タジに頼んで、なにか用意してもらいましょう。ねフ」
カイルロッドがあまりに情けない衷情でうつむいたせいだろうか、ミランシャは子供で
も宥める口調になっていた。
「・うん」
つなヂ
額きかけ、カイルロッドは顔を上げた。
ジジジジI・。
きみよっ やみ
奇妙な音だ。虫の羽音に似ている。その昔が闇の中を移動している。
「どうしたの、王子フ」
カイルロッドは答えず、周りを見回した。
「王子フ」
「いや、虫の羽音がしたみたいなんだ」
「虫ぐらいどこにでもいるわよ。神経質になりすぎじゃない?」
ミランシャはさっさと歩きだした。
「ミランシャの言うとおり、俺は神経質になっているのかな」
み.よよノ
だが、カイルロッドはその羽音が妙に気になっていた。
お7ヽ
遅れてきた連れということで、カイルロッドはタジの家に泊めてもらうことになった。
タジとその母親はカイルロッドを快くもてなしてくれた。
1一
事前にミランシャが作っておいた「遅れてきた理由」を、カイルロッドは後ろめたい気
持ちで口にしていた。嘘はつきたくなかったが、まさか馬でしたとも貰えないので、ひき
おもしろ なが
つった顔で話しているのを、イルダーナフがニヤニヤと面自そうに眺めている。
「まったく、このおっさんは・・」
心の中で舌打ちし、カイルロッドはイルダーナフを睨んだ。同行者になってからという
もの、助けられるより振り回されている方がはるかに多い気がする。
「夜道を大変だったでしょう」
さようしゆく
食事も出してもらい、カイルロッドは恐縮しながらテーブルについた。並べられた料理
・ r
は素朴だが、もてなしの温かみのこもったものだった。
「たいした物はないけど、たくさん食べてね。遠慮しなくていいのよ」
「あ、はい」
きル、フじ や
給仕してもらいながら、カイルロッドはタジの母親を見ていた。陽に灼けた顔は真っ黒
かみ
で、髪に白いものが混じっていた。笑った顔がタジとよく似ている。美女ではないが、い
かにもしっかりした働き者らしく、言動がきびきびとしている。
へ′ぱ なつ
てきぱきと給仕している姿が、カイルロッドに死んだ乳母を思い出させた。なんだか懐
かしくなって、不覚にもカイルロッドは涙ぐんでしまった。
「あら、どうしたのフ」
おどろ
驚いたようなタジの母親に、
ルげ
「すいません。湯気が目にしみて」
力 すす
碩 早口に言い、カイル。ッドはスープを畷った。それは懐かしい味がした。
閉
かろ わ
経 カイルロッドが食事をしている間、タジは風呂を沸かしに外に出て行き、ミランシャと
イルダーナフは別室でくつろいでいた。
27
「ねぇ、おじさん。王子がね、虫の羽音がするって言ったの。おじさんにも聞こえるフ」
窓の外を見ていたミランシャが、ふいに思い出したように剣の手入れをしているイルダ
ーナフに話しかけた。
「虫の羽音?」
うなナ
手を止め、イルダーナフ。ミランシャは「そう」と領いた。
「あたしもその時は、王子が神経質になっていると思ったんだけど ・。なんかひっかか
るのよね」
自分でもよくわからないけど、と口の中で呟き、ミランシャが首をひねった。
「いつの詔だフ」
「えフ ええと、王子を呼びに馬小屋に行った時よ」
きぴ くろカみ さや
厳しい声にミランシャが顔を向けると、黒髪の剣士は剣を鞘におさめ、立ち上がった。
おせ
「・・…もう遅えかもしれねぇな」
いんうつ つぷや
陰鬱な声で呟き、イルダーナフは窓の外に顔を向けた。
「 どういう意味フ」
こわね はだ あわ
イルダーナフの重く暗い声音に、ミランシャの肌は粟だった。
「つまりよ・・…こ
低い声でイルダーナフがなにか言いかけた時 −。
29 面影は幻の彼力
窓ガラスが割れた。
3
「なんだけ」
窓ガラスの割れる派手な音に、カイルロッドは食事のことも忘れ、反射的に席を立った。
へや
そして音のした方向、連れ二人のくつろいでいる部屋に飛び込み、信じられないものを見
・7..
「 一 日」
カイルロッドは自分の呂を疑った。
どう はな
窓ガラスが割れ、破片が下に散らばっている。その上に血まみれの、首と胴が離れた死
体が転がっていた。
「 ・・どういうことだフ」
うめ
剣を持っているイルダーナフを見上げ、カイルロッドは低く坤いた。死体は子供、まだ
年端もいかない少年だ。あどけない顔に驚きの表情をうかぺ、ガラス玉のような目を開い
ている。
かしよ きんばつ
割れた箇所から夜風が吹き込み、カイルロッドの長い銀髪を大きく轡。した。
「この子がいきなり、窓ガラスを破って・・。ランプを壊そうとしたから取り上げて ・
すご ぎようそつおそ
そしたら、凄い形相で襲いかかってきたの。だから、イルダーナフが…ニ」
とちゆう
顔色を失いながらも、ミランシャが説明したのだが、それは途中でタジの母親の悲鳴に
かき消された。音を聞きつけ、やって来たのだ。
「パルマー どうしてこんなー」
前にいるカイルロッドを突きとばし、タジの母親は死んでいる少年に駆け寄ろうとした
さや さえぎ
が、イルダーナフの鞠に遮られた。
「近づくとあんたも喰われちまうぜ」
「あんたが殺したのねP どうしてけ」
はけ ふる
激しく身体を震わせ、イルダーナフを睨んで叩きつけるように叫ぶ。カイルロッドも説
明を求めて、イルダーナフを見上げた。
あこ
二人の視線を受け、イルダーナフは無言で少年の死体をタイッと顎で指した。
「・・・・・・・−・− 」
見ていると、切り口からどろりとした緑色の液体が流れだした。液体だけかと思ったが、
っごめ
その中でなにやら無数の白い物が轟いている。
ふにノ1
目をこらし、カイルロッドは絶句した。それは白い虫、姐のようだった。まるで腐肉に
面影は幻の彼方
のど
わいた姐のように、もぞもぞと液体の中で套いている。ミランシャが喉をならして、顔を
そむけた。
「・・これはっ」
さすがにタジの母親も顔色を失った。
ようちゆう.かj
「産みつけられた卵から、幼虫が酵ったんだろうぜ」
けんお あンわ
嫌悪を露に叶き捨て、イルダーナフはテーブルの上に置いてあったランプを手にとると、
死体の横に屈んだ。そして、ランプを蛙のようなそれに近づけた。すると、火を恐れたの
か激しく動きだし、死体の切。口に群がった。
「死体の中に戻ろうとしてやがる」
こム
イルダーナフの声を聞きながら、カイルロッドは凍。ついたように、びっし。と切り口
ぎようし
にたかって蕊いているそれらを凝視していた。
「産みつけられた卵フ」
どくはく
独白した時、あの羽音が聞こえ、カイルロッドは勢いよく顔を上げた。
「虫の羽音だ「」
ジジジジ ・・。
「あたしにも聞こえるわー」
ミランシャが叫んだ。
もうかすかな普ではなかった。この場にいる者すべてがはっきり聞きとれるほど、大き
かった。そしてカイルロッド達をあざ笑っているかのように、大きくなっていく。
「…・・ムルトの放った妖魔か」
カイルロッドは歯を喰いしはった。
あやつ
「虫に近い形態の、な。村人に卵を産みつけて、嫌っていやがる」
イルダーナフは無表情に剣先をガラスに向けた。窓の外に目をやり、カイルロッドは息
を飲んだ。
「キヤツー」
同じように窓の外を見て、ミランシャが短い悲鳴をあげた。
つ つ
窓の外は星が落ちたように、一画、丸い小さな光で埋め尽くされている。それが星など
りものたトワ
てなく、夜行性の獣達の目によく似たものだとカイルロッドが理解するのに、たいして時
間はかからなかった。
「獣かと思ったけど、あれは人だ」
やみ かげ まぎ
カイルロッドの声はかすれていた。闇より黒い影は二本の足で立っている。紛れもなく
人間だ。
3 両l影は幻の披ノ1
「まさか、村人lフ」
つなヂ
ミランシャのひきつった声に、イルダーナフは無言で領いた。カイルロッドは全身から
血がひいた。
「どうして、どうしてこんなことになったのけ どうして、あたしやあんた達だけは平気
なのH タジはけ タジはどうなったの。こ
ぽうぜん つか
それまで茫然としていたタジの母親が、我にかえってカイルロッドに掴みかかった。カ
イルロッドは答えられず、顔をそむけた。
「俺が知っている限。じゃ、こいつらの親玉である成虫はml一匹で、多くの人間に卵を産み
ぼち
つける。そうだな、女王蜂みてぇなもんだ。だから、卵から解った成虫は親玉の命令どお
りに動く。せめてもの慰めは、貯った奴らは卵を産めねぇってことだな」
つ
と、教師のような口調でイルダーナフが説明した。が、タジの母親はまなじ。を吊。上
げた。
・・・
「化物の説明なんかいらない一 夕ジはどうなったのよlフ」
「親玉の成虫が卵を産めるのは夜だけだ。つてぇことは、陽が落ちてから外に出ていた奴
ぁ、まず聞達いなくやられただろうぜ。タジは外に出ていた。おそらく、この家を取。巻
いている中に混じっているんじゃねぇかフ・」
れいこく
カイルロッドには言えなかった言葉を、イルダーナフは冷酷とも言えるほど静かな声で
告げた。タジの母親は張り裂けんはかりに日を見開いた。
「そんな・・‖」
おお みヂおち さやじり
両手で顔を覆って叫んだタジの母親の身体が急に前に折れた。鳩尾に斡尻が入っている。
たお
倒れる前にイルダーナフが片手で支えた。
「すまねぇが、しばらく眠っていてもらうぜ。その方がいいだろ」
かつ つ▼ヤや
失神したタジの母親を肩に担ぎ上げ、イルダーナフはため息のように呟いた。
「俺達の ・俺のせいなんだな」
なが のと うめ
家の外で、爛々と目を光らせている村人を眺め、カイルロッドは喉の奥で坤いた。
「俺についてきたなら・。俺がここに連れてきたんだ」
こめ・し にぎ
カイルロッドは拳をきつく握った。なんの関係もない人々を巻き込んだのだ。怒りがこ
みあげた。ムルトに、そして自分に怒りを感じずにはいられなかった。
「 ・ねぇ、イルダーナフ。王子を追ってきた成虫って、lud匹だけとは限らないわよね
・」
おこり れる
すがるようにイルダーナフを見上げたミランシャは癌のように震えていた。
「ああ。ま、親玉が一匹であることを祈るしかねぇな」
5 面影は幻の彼方
あかHソ ゆが
ランプの灯に照らされたイルダーナフの横顔が自嘲的に歪んだ。ミランシャは絶望的な
表情をうかべた。
「そんなものが何匹もいてたまるか・・」
やみ うめ
闇の中で光っている村人達の目を見ながら、カイルロッドは坤いた。心の奥底から不安
きようか
と恐怖がわきあがってきた。
だれ
「イルダーナフ、あそこにいる人達、もう誰も助けられないのフ⊥
「…・おそらくな。後は成虫になる前に殺すしかあるめぇ。何千何万の細けぇ虫に襲われ
かゆ
るなんざ、考えただけで全身が痺くならあ」
急いているそれを踏み潰し、イルダーナフは言い切った。ミランシャは泣きそうな顔に
なっている。
「村人全員というわけじゃないんだろっ 家の中にいた人は助かったかもしれないよな」
こむデか
カイルロッドの希望的観測に、イルダーナフは小難しい表情をした。
やつ
「どうだか。無事だった奴らは殺されたんじゃねぇかフ まぁ、何人かは生き残っている
かもしれねぇが」
いもノペつ
それから窓の外を一瞥し、
や
「王子、あいつらを灼き尽くせ」
「えっ」
いつしぬん
カイルロッドは一瞬、イルダーナフの言葉の意味がわからなかった。
や つ
「灼き尽くすって・ 」
「あれは火に弱そうだからよ。ランプを壊そうとしていたしな。今だってなかなか襲って
こわ
こねぇのは、火が恐いからじゃねぇか?」
はた一9げ
イルダーナフの指摘に、ミランシャが 「試してみる」と、弱々しい蛍火を作って外に放
ってみると、弱い火だというのに悲鳴をあげて逃げて行く。指摘どおりだ。
「さっさとやれ」
フなが
イルダーナフに促されたが、カイルロッドは動かなかった。動けなかった。これまでも
何回か力を使ったことはあるが、無事の人々に向けたことなどなかったのだ。
ト′ ・・.・
カイルロッドがためらっていると、火を恐れて離れた人々が遠巻きに家を取り困み、一
せ1.、
斉にロを大きく開いた。
シュウゥゥゥ・ 。
細い音がして、人々の口から白く光る糸のような物が出た。無数の糸が吐き出され、カ
おお
イルロッド達のいる家を覆いだした。
まゆ
「繭かP」
:37 面影は幻の彼方
「えっ、南の中に閉じ込められちゃうのけ」
あわ
慌てたミランシャが火で糸を焼こうとしたが、「魔法が使えない!」と悲鳴をあげた。
どうやらこの繭の中では、魔法が使えなくなるらしい。
シュウゥゥゥ 。
糸は家を覆い、カイルロッド達は巨大な繭の中に閉じ込められつつあった。カイルロッ
よlんちやくせい
ドは短剣で糸を切ろうとしたが、意外に固く、しかも粘着性が強くてなかなか切れない。
「くそっ」
カイルロッドが唸っていると、
「そんなことをやっていたら、この中で死んじまうだけだぜ。とっとと力を使え」
イルダーナフに短剣を取り上げられた。
「でも、イルダーナフ」
こりげき よね
「どうせおまえさんのこったから、村人を攻撃できねぇんだろう。だがな、こんな真似す
ーヱじむし いlこく
るのが人間なわけねぇだろうが、外にいるのはな、姐虫に身体を喰われた、ただの腐肉の
かたまHソ や おそ
塊にすぎねぇ。今のうちに灼かねぇと、成虫になって、もっと多くの人間が襲われるん
だぞ」
あら たんたん こわね
イルダーナフは声を荒げたわけではなく、むしろ淡々とした静かな声音だった。しかし、
するとしつせき
それは鋭く叱責されるよりもカイルロッドにはこたえた。
「I・わかった。灼くよ」
カイルロッドは大きく深呼吸した。
L・1−一
「魔法が効かないのに、大丈夫なの?」
横からミランシャが不安そうに言った。ミランシャの危惧はもっともだったが、
「王子のは魔法じゃねぇからな」
イルダーナフはわかるようなわからないようなことを言い、小さく笑った。
二人の会話を聞きながら、カイルロッドは神経を手の平に集中させていた。
繭は厚くなり、もうあの糸を吐く昔も聞こえなくなっていた。空気も遮断されたのか、
息苦しい。
手の平に熱が集まった。
カイルロッドは気合いをあげて前に手をかざした。
「はーつー」
せんーう
白銀の光が閃光となった。
まゆ つらぬ
光が繭を貫いた。と見えた時、目の前が白い闇に包まれた。その中でカイルロッドは多
くの悲鳴を聞いたような気がした。
面影は幻の彼方
ひとかげ
光が消え、カイルロッドが昌を開けた時、そこには繭も人影もなかった。風景も一変し
ていた。えぐられた大地から蒸気がたちのぼり、辺。の木々は消えていた。凄まじい熱に
いつしゆん
よって、一瞬にしてすべてが燃えたような、そんな光景だった。
「 凄い」
−る つ.いや
目をこす。ながら、ミランシャが震える声で呟いた。
「あ・」
ぽうぜん
カイルロッドは呆然として、自分の手の平を見つめた。まさかここまで凄まじいとは思
はけ
っていなかったのである。両手が震えていた。否、全身が激しく震えている。
「こんな・」
はかいりよく
エル・トパックに言われて使えるようになった力だが、使うほどに破壊力が増していく
ようで、カイルロッドは自分自身に、その力に恐怖を感じた。
「羽音が聞こえなくなったわ。王子、聞こえるフ」
ミランシャに声をかけられ、カイルロッドは我にかえった。「羽音フ」、カイルロッドは
耳を澄ました。羽音は聞こえない。代わりに足音が聞こえた。遠ざかっていくようだ。
「羽音でなく足音が聞こえるけど、遠ざかっていくみたいだ」
カイルロッドが言うと、イルダーナフが鋭く舌打ちした。
「人間の身体にもぐりこんで遂げやがったなー追うぞー」
かか
置いて行くのは危険と判断したのか、タジの母親を抱えたまま、イルダーナフは走り出
した。カイルロッドはなにがなんだかわからないまま、ついて行った。
「ちょっとー 夜の山道と妖魔、二重の意味で火がないと危ないんじゃないのけ」
ほたるげ
頼りない蛍火をいくつも作り、ミランシャがその後に続く。
ミランシャの作った火に周りを囲まれながら、三人は夜の山を歩いていた。先頭のイル
ダーナフは人を抱えているとは思えない速さで、山道を歩いて行く。
「火があれば安全だけど、逆に言えば居場所を知らせているんだよな」
ゼいhつぱい
ついて行くのが精一杯のカイルロッドが呼吸を乱しながら言うと、ほとんど走っている
ミランシャは息をきらしながら、それでも悪態をついた。
「いいじゃないの。見つける前に、相手から出てきてくれれば楽じゃない」
「それも一理あるな」
カイルロッドが苦笑した時、先頭のイルダーナフが立ち止まった。
「どうやら来てくれたみたいだぜ、ミランシャ」
「え?」
函影は幻の彼方
かげ
そう言われ、カイルロッドとミランシャは周。を見回した。黒い影になっている木々が
あるだけで、他にそれらしきものは見当たらない。
「どこにいるのフ」
ミランシャが訊くと、イルダーナフは正面の木を指した。
「えフ・」
はたるげ
若者二人が目をこらしていると、木の上からなにか大きな物が落ちた。蛍火がそれを浮
かび上がらせた。
「あいつが成虫だ。一匹だけでよかったな」
イルダーナフが言い、カイルロッドとミランシャは声を失った。
成虫は人間に寄生していた。
それはタジだった。
4
よスノま にら
カイルロッドはタジを、タジの姿をしている妖魔を睨んでいた。
つみ
「よくも… なんの罪もない村人を殺してくれたな」
つか ぇノな おか
短剣を掴んで喰ると、なにが可笑しいのか、タジの姿をしたそれがこタリと笑った。口
いや
が耳まで裂けた、嫌な笑い方だった。
「なにがおかしい−」
どな
カイルロッドが怒鳴ると、
「殺シタノバオマエダ、カイルロッド。オマユガ我々ヲ呼プノダ。オマエノ行ク先々ハ常
ぬリ
ニ妖魔達二狙ワレル。オマエガ死ヲ運プノダ」
どくや つりぬ や
その言葉は毒矢となって、カイルロッドの心臓を貫いた。もっとも気に病んでいること
を突かれ、カイルロッドは全身をわななかせた。
ざれごと ひま や
「王子、戯言を聞いている暇があったら、さっさとそいつを灼いちまえ」
後方にさがっているイルダーナフの声を聞きながら、カイルロッドは妖魔を倒そうとし
ぬ
た。だが、手や足が動かない。血を失ったように冷たくなり、力が抜けていく。
どっよう だめ
「王子、そんな言葉に動揺しちゃ駄目よー」
さけ
ミランシャも叫んだが、言葉の毒は確実にカイルロッドの体内に広がっていた。
「俺が死を運んでいるのか・」
のろ .け
カイルロッドの脳裏に、おまえは忌むべき存在だと、呪いの言葉を吐いた老人の顔がか
かなしば
すめた。金縛りにでもあったように、カイルロッドは動けなくなっていた。妖魔はカイル
ロッドのもっとも弱いところを突いたのだ。
面影は幻の彼方
あま ぽ・フ
「まったく、甘い坊やだぜ」
立ちつくしているカイルロッドの横を、黒い風のようにイルターナフが通。抜けた。
「イルダーナフーフこ
そうカイルロッドが叫び終える前に、イルダーナフの長剣がタジの身体を切断していた。
いちもんじ あぎ かか
縦に一文字、鮮やかに人体がふたつに割れた。タジの母親を抱えて、片手だけで骨ごと切
わんりよくけんぎ じんじよう
断するなど、腕力、剣技ともに尋常ではない。
やつ のが
「王子、奴を逃すなー」
ぼろふん するどしつせき
呆然としているカイルロッドに、鋭い叱責がとんだ。
.′い
見ると、切断面が泡だったように動いており、そこから蜘蛛に似た生物が現われた。体
ちが
長は一五センチほどで、蜘蛛と違うのは羽があ。、身体の割。に巨大な複眼があることだ
ろう。
ジジジジ1…こ。
あの羽音をたてて、それが飛び出した。
「逃がさないぞー」
もうカイルロッドはためらわなかった。
しlゎんけレ
カイルロッドの手の平から発せられた光は逃げる妖魔を追い、瞬間にして灼いた。
「これで、平気なのか?」
カイルロッドが振り返ると、
たお
「ああ。とりあえず、虫みてぇなのは倒した。次はなにが来るやら」
苦笑しながら、イルダーナフは抱えていたタジの母親を下におろした。カイルロッドに
は苦笑する気力もなかった。
「タジのお母さん、ここに置いていくの?」
身体をふたつに切断されて転がっているタジと見比べ、ミランシャがなんとも名状Lが
たい表情をした。
むすこ
「息子の死体の側に置いていくのは、残酷なんじゃないかフ」
えんきよ′、てきとが
カイルロッドの芦はかすれていた。若者二人に娩曲的に答められ、イルダーナフは口元
きぎ
に小さな笑みを刻んだ。
やつ
「すがりつく死体があるだけましじゃねぇかっ 死体がねぇとな、人間って奴あ、なかな
たやす
かその死を受け入れられねぇんだよ。タジの死体を消すぐれぇは容易いが、そうしたら、
このおっかさんは息子を探し回るぜ。息子は死んでねぇ、どっかで生きてるはずだって、
死ぬまで探し続けるだろうよ」
「・ ・」
5 面影は幻の彼方
ちんもく なげ
カイルロッドは沈黙していた。死を嘆き悲しむのと、死を受け入れないのと、どちらが
幸せなのか1カイルロッドにはわからなかった。
「さて、行くか」
きや
立ち上が。、イルダーナフは剣を鞠におさめた。いつの間にか空は明るくなりはじめ、
のlぎ まぷ
鳥達がねぐらから飛び立っていく。昇る朝日の眩しさにミランシャが目を細めた。カイル
ロッドはタジの死体を見つめていたが、
「・ ごめんよ、タジ」
つぷや
呟き、きつく目を閉じた。
「誰か来るわ」
ミランシャが言うよ。早く、カイルロッドとイルダーナフは目をやった。草を踏む音が
近づいてくる。
現われたのは数名の村人だった。身体を乗っ取られることなく、隠れていた人々だろう。
まひ
老人と女子供が多い。あらゆる感情が麻痺したように、無表情な顔でカイルロッド達を見
つめている。
「無事だった人もいたのねー」
まんめん
ミランシャは満面に笑みを浮かべて喜んだが、カイルロッドは村人達から目をそむけた。
まなぎ
村人の冷たい眼差しは無言の非難だった。生き残った人々はすべてを知っているのだ、す
げんきよう
べての元凶がカイルロッドだと。
や
無表情な人々の間から、腰の曲がった痩せた老人がカイルロッド達の前に出て、無感動
な視線を注いだ。
ぱけもの
「・・・わしらは隠れて見ていた。おまえ達が化物に身体を乗っ取られた村人を消すのを、
な。そして、その化物はおまえ達を追ってきたのだということもわかった。・・大勢の者
いつこく
が死んだ。だが、もうなにも言うまい。ただ一刻も早く、ここから立ち去ってくれ」
かわ
老人の声に抑揚はなく、ただ乾いた風のようだった。カイルロッドはいたたまれなかっ
せいじやく
た。この静寂は生き残った人々の心がいかに深く傷ついたかを雄弁に語っているのだ。
のしかかるような静寂にカイルロッドが息苦しさをおぼえた時、
「タジけ」
む1こ
気を失っていたタジの母親が目を開けた。そして周りを見回して息子の死体を見つける
かみ ル
や、髪を振り乱して駆け寄った。
「タジー どうしてこんな姿にー」
はへきよノウん
タジの母親は血まみれの息子にとりすがった。半狂乱になっている姿を見ながら、カイ
ルロッドは声もなく立ちつくしていた。一年ぶりに帰ってきた息子がこんな無残な骸にな
7 面影は幻の彼方
なげ
れば、母親の嘆きは当然だろう。
つ
「おまえ達が殺したのね!? これが礼を尽くした者への仕打ちか1 人殺し− あたしの
息子を返せ−」
だ
二つに切断された死体を抱きしめ、タジの母親はカイルロッド達を配みつけると、血を
おに ぎよ1ノ一Tつ
吐くように叫んだ。鬼の形相だった。
てんせル さぎたエ
タジの母親の怒りが村人に伝染したのか、無表情だった顔に感情が小波のようにたち、
む なげ いきどお
広がっていった。剥き出しの怒り、嘆き、憤。だ。
「人殺しー・あんた達が来なければ、うちの人は死ななくてすんだんだー」
「兄ちゃんを返せー」
むすめまご
「あたしの娘と孫を、返しておくれ」
ののし ひび
口々に罵る。その声がこだまとなって響きわたり、まるで何百人もに罵られているよう
おぴ とほツ ぼせい
だった。ミランシャは怯え、カイルロッドは途方にくれていた。罵声の中でイルダーナフ
だけがいつもと変わらない。
ねら
(オマエノ行ク先々ハ常二妖魔達二狙ワレル。オマエガ死ヲ運プノダ ー )
よみがえ
妖魔の言葉が嘲笑となって、カイルロッドの耳の底に敷る。
「行くぜ、二人とも」
−1.11
村人の語りなどものともせず、イルダーナフは大股に歩き出した。ミランシャが村人を
気にしながら、足早についていった。
「早く、どこかへ行っちまえー」
子供がカイルロッドめがけて石を投げつけた。避けられるのだが、カイルロッドは避け
なかった。石は額に当たり、そこから血が膠んだ。
「カイルロッド! ぐずぐずするな!」
イルダーナフに呼ばれ、カイルロッドはのろのろと歩き出した。
「人殺し= 息子を返せ〓」
狂ったような叫び声が、いつまでも聞こえた。
じゆうたんし かげ
なだらかな平地は緑の絨毯が敷きつめられていた。山々の影が遠くに見える。小さな川
こかげ
が流れ、水を求めて動物達がやってくるのを見ながら、カイルロッド達三人は木陰で休ん
でいた。
てつや
太陽は真上にあり、しかも三人は徹夜で、休みなしに歩いてきたのだから疲労していて
も無理はない。
「イルダーナフ、起きてるフ」
両影は幻の彼方
大木にもたれかかって目を閉じているイルダーナフに、そっと近づきミランシャが声を
かけた。
「ああ。なんだ?」
はな
目も閃けず、イルダーナフが返答すると、ミランシャは少し離れた木の下で、横になっ
ねむ
て眠っているカイルロッドを気にしながら、
「これからどうするのフ・」
声をおとした。
「どうって、北へ向かうんだろフ 見えない山を見つけるってよ」
「そうじゃなくてー 王子をこのままにしておいていいかってことよ」
「・・ああ」
うすめ
イルダーナフは薄目を開けた。ミランシャはテラッとカイルロッドを見、
「タジの村のことが、かな。こたえているみたい。もう、村や街には泊まらないなんて言
い出したぐらいだもの。ねぇ、イルダーナフ。あの妖魔が言っていたように、この先もず
っとああいうことが起こるのかしらっ」
つぷや
ため息のように呟いた。
てつや
眠っているカイルロッドの顔には疲労の色が漬かった。徹夜と力を使ったための疲労、
ののし
そして村人に罵られたことでかなりまいっているようだ。
「たぶんな」
組んでいた足を直しながら、イルダーナフはあっさりと言った。「簡単に言うわね」、イ
ルダーナフの前に座り、ミランシャは足元の草をむしった。
かわいそう ねり だいlんでん きよじめ
「王子が可哀相。妖魔に狙われて、フエルハーン大神殿に狙われて・・。生真面目な人だ
つぶ
から、なんでも自分で背負いこんじゃってる。死んだ人達の人生までね。そのうち潰れち
ゃうわよ」
カイルロッドを心配している少女の顔を、イルダーナフは少しの間、じっと見つめてい
た。黒い目に複雑な光があったが、ミランシャは気がつかなかった。
たまご つか
「確かに、卵王子は疲れているみてぇだな」
どくはく
イルダーナフは独自し、立ち上がった。ミランシャが不思議そうに見上げると、
「ちいっと寄り道するか」
の
大男は大きく伸びをした。
「寄り道ってフ」
かし
首を傾げるミランシャに、
「王子に気晴らしさせてやるのさ」
方
彼
の
幻
断
面
51
・
ニッと、イルダーナフはなにかを含んだ笑みで、片目をつぶった。
. .・..
二人の会話も知らず、カイルロッドは昏々と眠っている。
二章 魔女達の饗宴
l
かわ 4 ゐ
乾いた風が吹き抜けた。
けもの こうや
足の下には赤い大地が広がっている。緑は所々にあるだけ、人も獣の姿もない荒野だ。
空は高く、鮮やかな群青に染まっている。雲ひとつ見えない。
「おじさん。こんな場所まで連れてきて、どうするつもりなのフ」
1. ・1
崖の上から荒野を眺めていたミランシャが、うんざりとイルダーナフに顔を向けた。ま
さか荒野に行くとは思っていなかったのであろう。
「イルダーナフ、どこへ行くんだフ」
遠くを見つめながらカイルロッドも訊いてみたが、
「だから、寄り道さ」
イルダーナフは澄ましている。何度訊いてもこの返事だ。もったいをつけているのか、
53 両形は幻の彼方
ぶどろ
驚かす気でいるのか、どこへなんのために向かっているのか、カイルロッド達に教えてく
れないのである。
おれ
「俺、目的もわからない寄。道なんかしたくない。俺は急がなくちゃいけないんだ。一刻
たお
も早く、ムルトを倒さないといけないんだ」
思いきったように言い、カイルロッドは足を止めた。急がなくてはいけないのだ。ルナ
もど だれ
ンで石になっている人々を元に戻すために。二度と誰にも、タジの母親のような思いをさ
せないために。
おもしれ じようだん
「そいつぁ、画自え冗談だ」
ふ
前を歩いているイルダーナフが立ち止まり、ゆっくりと振。返った。その顔には皮肉そ
のものの笑みがあった。
やつ ようま しノ1はつく
「今の王子にゃ、ムルトなんざ倒せねぇ。奴の放った妖魔に四苦八苦してんだからよ。ま、
せき やま
返り討ちにあうのが関の山だろうぜ」
鼻先でせせら笑われ、カイルロッドは奥歯を噛みしめた。おそらくイルダーナフの言う
むすこ
とおりだろう。それはカイルロッドにもわかっている。だが、「息子を返せ」と叫んだタ
ぎようそう いか
ジの母親の形相が、石を投げた子供の顔が、人々の怒。と悲しみの表情が脳裏に焼きつい
て離れない。
「でも、俺はムルトを倒さなくちゃならないんだー それも一刻も早くー 俺のせいで大
勢の人が死んで、苦しんでるんだからー」
どな
そう怒鳴ってから、カイルロッドは自分の両手を握った。
たお
「それにもしかしたら・・あの力をうまく使えば、ムルトを倒せるかもしれないじゃない
か」
. −
あの凄まじい力なら、ムルトにも通用するのではないか。ためらいなく攻撃したのなら、
あるいは・・。
つかや しようげき
すがるような気持ちで呟いた時、カイルロッドは顔面に衝撃を感じ、そのまま後方に倒
れた。なにが起きたのか、とっさには理解できなかったが、駆け寄ってきたミランシャの
lまlま なぐ
「ひどいわ、イルダーナフ!」という声と、頬の痛みに、ようやく自分が殴られたことを
知った。
くちげるはし
上半身だけ起こすと頭がクラタラしていた。口の中に血の味が広がり、唇の端から生暖
かわ つぱ は
かいものが流れていた。乾いた土の上に唾を吐くと、それは真っ赤だった。
「いきなり殴ることはないじゃないのー」
顔を真っ赤にしてミランシャがかみついたが、イルダーナフは平然として、カイルロッ
ドを見下ろしている。
面影は幻の彼方
ぽラ ぎこ たお
「頭を冷やしな、坊や。あれぐらいの力でいい気になるんじゃねぇよ。雑魚は倒せても、
ムルトにゃ通用しねぇぜ」
「そんなこと、やってみなければわからないじゃないかー」
ゐぐ かつそう
乱暴に口元を拭い、カイルロッドが立ち上がると、イルダーナフの黒い目が物騒に光っ
た。
こうげき
「そうかい。それじゃ、やってみろ。俺をムルトだと思って、攻撃してみるんだな。ミラ
ンシャ、離れてな」
「えけ」
む ぬ
カイルロッドが目を剥いた時、イルダーナフはすでに背中の長剣を抜き放っていた。
せんこう えが
剣が閃光を措いてカイルロッドに襲いかかる。凄まじい速さだった。カイルロッドの体
はくじん
術をもってしても避けられるものではない。白刃が肩を裂き、血が類に飛んだ。
「やめろ、イルダーナフー」
けんめい たの ひらめ
カイルロッドは懸命にやめてくれと頼んだが、イルダーナフは聞いていない。長剣が閃
きりきず ヰかて
くたび、カイルロッドの顔や腕に切傷が増えていく。深手こそ負っていないものの、服は
ポロポロにな。、身体中傷だらけだった。
「おいおい、逃げてばか。じゃやられるぜ」
Jへもの
防戦一方で息をきちしているカイルロッドに、イルダーナフが笑いかけた。獲物を追う
にノヽしよくげレゆう
肉食獣のような笑みに、「本気で殺そうとしているのかけ」、カイルロッドは背筋が寒く
なった。
「やめてよ、二人とも1」
のど さけ こうげき
半分泣いた顔で、ミランシャが喉をからして叫んでいる。が、イルダーナフは攻撃を止
めなかった。
「どうした、王子− 遂げてばかりいねぇで、本気で攻撃しなー」
「くっ」
崖っ緑にまで追い詰められ、カイルロッドは突き出された剣を避けて、飛び下りた。五
メートル程度ならカイルロッドにとって、たいした高さではない。
音もたてず着地し、顔を上げた時、すでにイルダーナフが目の前にいた。いつ下り立っ
たのか、カイルロッドにはわからなかった。上からミランシャの悲鳴が聞こえた。
「 − =こ
目前に白刃があった。
避けられる距離ではない。
つ
危険に対して、とっさにカイルロッドは両手を突き出した。
はとげし の
両手から白い光が選り、イルターナフを飲み込んだ。
「イルターナフ〓」
ぜつきよう ようま や ちよくlナき
光を見ながら、我にかえったカイルロッドは絶叫した。妖魔を灼く光だ、直撃を受けて
1 1..ト
はイルダーナフとて無傷ではすむまい。
「イルダーナフ ー 〓・」
こお
カイルロッドの全身の血が凍った。
だが −
み.りん
光が消えた時、カイルロッドの眉間すれすれに剣先があった。その先には不敵な笑みを
うかべたイルダーナフがいた。
たお
「俺も倒せねぇんじゃ、ムルトは倒せねぇなぁ、王子」
ノ、ろかみ さや
傷ひとつ負っていない黒髪の剣士はからかうように言い、剣を鞠におさめた。
「・・・」
ひぎ あんど
カイルロッドはへナヘナと下に両膝をついた。イルダーナフの無事な姿を見て、安堵で
ぬ
全身から力が抜けてしまった。
「どうした、王子フ」
イルダーナフに声をかけられて、膝をついたままカイルロッドは片手で顔をおさえた。
面影は幻の彼方
「 ・よかった。無事でよかった 」
のと つめ の
光の弄った跡は、爪で深くえぐられたような線が伸びてお。、その先にあった巨大な岩
しようめつ はかいりよく なぜ
が消滅していた。それほどの破壊力ある力を正面から受けて、何故無傷でいられたのかと
いう疑問より、安堵の方がカイルロッドには大きかった。
たの
「・・イルダーナフ。頼むから、二度とあんなことはしないでくれ。俺はムルト以外に、
あんな力は使いたくないんだ。あんな力で人を傷っけたくない・」
うめ
カイルロッドが坤くように言うと、
「その力を制御できるようにしねぇと、王子にゃ勝ち目はねぇ。そのための寄。道だ」
明るい声が返ってきた。カイルロッドは手を離し、イルダーナフを見上げた。
きず
「・…・どうして最初からそう言ってくれないんだ? そうすれば、こんな傷だらけになら
ずにすんだのに……」
くちべた
「すまねぇな。どうも俺は口下手でよ」
カイルロッドの非難に、イルダーナフはしれっとした表情で言った。
「・ ・」
ひろう こわだか ののし
疲労と出血で声高に罵る気力もない。
つか
「そう疲れた顔するなって。扁を貸してやっからよ」
言うが早いか、イルダーナフはカイルロッドの腕を掴んで、強引に立たせた。イルダー
ナフの一層を借りれば乱暴に引きずられるだけとわかっていても、今のカイルロッドはとて
も一人で歩ける状態ではなかった。
「王子!」
がlタ はず
苦労して崖から下りたらしいミランシャが、息を弾ませてやってきた。そして、カイル
ロッドの様子に顔を曇らせた。
「出血がひどいみたいね」
きず
「でも、傷は浅いんだよ」
カイルロッドは小さく笑った。
「・・それにしても」
うわめづか
カイルロッドから視線を移し、ミランシャは腰に両手をあてて、イルダーナフを上目遣
いに睨んだ。
がんけレよう
「おじさんって、ほんっと頑丈ね。上から見ていたけど、てっきり死んだと思ったわよ。
あさ
そしたらかすり傷ひとつもないなんて、感心を通り戯して呆れたわ。ここまで頑丈だと、
かわいげ
可愛気ってもんがないわね」
「まったく、ミランシャにゃかなわねぇな」
面影は幻の彼力
61
ボンボンと毒づかれ、イルダーナフは苦笑したまま歩き出した。思ったとお。、カイル
ロッドは引きずられた。
「それで、どこへ行くんだフ はっき。言ってくれよ」
おこ
怒ったようにカイルロッドが訊いた。これでまた黙っていたら、耳元で大声でも出して
やろうと思ったのだが、さすがに今度は話す気になったらしい。イルダーナフは西の方角
を指差した。
ぱあ
「一時間も歩いたら、この先に小さなオアシスが見えてくらぁ。そこに知り合いの婆さん
がいる。その婆さんに用があるんだが、その前に王子を手当てしてやる必要があ。そうだ
な。仕方ねぇから先にまず俺の家に ・」
「イルダーナフの家っけ」
さえぎ
イルダーナフの声を、カイルロッドとミランシャの大声が遮った。
「おじさんに家なんかあったの。・」
「イルダーナフ、家があったのかけ」
ほよノろたノ
ミランシャは「信じられない」を連呼し、イルダーナフが放浪の剣士とばか。思いこん
おどろ
でいたカイルロッドは驚いた。
「おいおい、二人ともどうしてそんなに驚くんだ7 億に家があったら、そんなに変か
よっ」
わめ ろこつ
耳元でカイルロッドに喚かれ、ミランシャには貰骨に驚かれ、イルダーナフが顔をしか
めた。
「いや 変じゃないけど」
と言いつつ、「変かもしれない」とカイルロッドは心の中で思った。これほど家庭の似
めずら
合わない男も珍しいのではないか。
7 −
「でも、俺が行くと迷惑をかけるんじゃないかフ」
タジの村のことを思い出し、カイルロッドの口の中に苦い味が広がった。
やつ
「ああ、そいつは安心していいぜ。そんなにヤワな奴はいねぇからよ」
イルダーナフは楽しそうに笑った。
「ねぇねぇ。それじゃあ、ひょっとして奥さんいるの? どういう女性っ 子供はいる
の? 家族は何人フ」
こユノきしん こんげ やつ ぱや
好奇心の権化となったミランシャに矢継ぎ早に質問され、
「いや、まぁ ・」
しぷ
イルダーナフにしては歯切れが苦い。明らかに言い渋っている。
「まぁ、行けばわかるからよ」
面影は幻の彼力
rfじとうh、つ
執拗なミランシャの質問に、イルダーナフはそれだけ答え、後は馬耳東風となった。
「イルダーナフの家族かぁ」
きんちようかん
歩きながら、カイルロッドは妖魔と遭遇するような、異様な緊張感を感じていた。
こうや
荒野を一時間も歩いただろうか。イルダーナフの言ったとお。、小さなオアシスが見え
ぬ
てきた。赤い大地の中で、そこだけ緑に塗りかえられている。
「イルダーナフ、あそこね!」
とな
大木の隣りにあるレンガ造。の小さな家を指差し、ミランシャがはしゃいだ声をあげた。
、フれ
ミランシャはいやに嬉しそうだが、当のイルダーナフはうかない顔をしている。この男に
めずb
しては珍しいことだ。
「そんなに会いたくないんだろうか」
こわ
そんな顔を見ていると、なんとなくカイルロッドまでイルダーナフの家族に会うのが恐
くなってくる。
「早く行きましょう」
やたらと元気なミランシャを先頭に、カイルロッド達はオアシスに向かっていた。近づ
かわ しめ け にお
くにつれて乾いた風が湿り気を帯び、草の匂いが強くなった。
豊かな水をたたえる水面が反射し、木々の葉や草が風に揺れている。湧き出る水が草木
を育て、生命を支えている。
「ほっとする光景だな」
つかや はもの
呟いたカイルロッドの目の端に、光るものがひっかかった。刃物の光だった。それがカ
イルロッドの方にくる。しかし、身体が動かない。
あいさつ
「また、乱暴な挨拶だぜ」
はさ
イルダーナフの手がカイルロッドの前にあり、その人差し指と中指の間にナイフが挟ま
れていた。
「ナイフP」
ミランシャが驚いた声をあげ、カイルロッドは青くなった。イルダーナフがいなかった
とうてい
ら、到底避けられなかった。
「誰よー 出てきなさいよー」
かげ
ミランシャが声をはりあげると、木の陰から女が姿を現わした。
2
かわ したい
乾いた土を踏む音がして、背の高い美女が現われた。すらりとした肢体を男物の服に包
面影は幻の彼方
ととの やわ するど
んでいる。整った顔には女性らしい優しさや柔らかさのかわりに、張れソつめた鋭さがある。
くろかみ ひとみ
まっすぐな黒髪は腰まであり、黒い瞳には強い意志と知性の光があった。
けいかい
その瞳がまっすぐカイルロッド遠に向けられている。その美女から強い警戒を感じ、カ
まゆ
イルロッドが眉をひそめると、
「よぉ、久しぶりだな」
イルダーナフが片手を上げ、美女に陽気な声をかけた。
てあら
「元気そうで結構だが、あんまり手荒な挨拶をしてくれるなよ。連れが驚いてるじゃねぇ
か」
長い髪を揺らしながら、こちらへやってくる美女に、ナイフをもてあそびながらイルダ
ーナフが話しかけると、
「苦かったな。久しぶりすぎて、すっかり顔を忘れていたんだ。人相の悪い大男がいたか
ら、悪党に決まっていると思ってナイフを投げた」
美女は無表情のまま、ぶっきらぼうに言い捨てた。美女ではあるが、言動に色気という
ものがない。イルダーナフはこれみよがLに大きくため息をついた。
「おまえ、父親が帰ってきたってのに、そういう言い方はねぇだろフ」
もすめ
「イルダーナフの娘−つけ」
だま
それまで黙って二人を見ていたカイルロッドとミランシャが、同時に悲鳴のような声を
あげた。
「耳元ででけぇ芦を出すんじゃねぇ。俺に娘がいたからって、そんなに驚くことか」
はな
耳元で叫ばれたイルダーナフがむっつり顔で、カイルロッドから手を離した。肩を借り
とつぜん
てどうにか立っていたのに、突然手を離されて、カイルロッドは尻餅をついた。そして、
そのまま目を皿のようにして、イルダーナフと美女を見比べた。
「この美人がイルダーナフの娘・・・」
イルダーナフに家族がいるというだけで驚いたが、まさか娘がいるとは思いもしなかっ
た。あまり似ていない親子だなと思ったが、カイルロッドは口にしなかった。
しかし、この親子が似ていないと感じたのはカイルロッドだけでなく、同じように親子
つぷや
を見比べているミランシャが 「似てないわね」と呟いた。
すると、
・ .
「こんな得体の知れない男に似てたまるか」
するどは
聞いていた娘が鋭く吐き捨てた。他人ばかりか娘にまで得体が知れないと言われ、
つり
「理解されねぇってのは辛いもんだぜ」
じようだん
どこまでが本気で、どこまでが冗談かわからない表情でイルダーナフはぼやき、頭を掻
面影は幻の彼方
いた。
「しかしよ、メディーナ。おまえ、相変わらず色気のねぇ娘だなぁ。一九にもなったって
ぇのによ」
おやじ おときた
「大きなお世話だ、くそ親父。あんただって相変わらずだぞ。二年も音沙汰がないから、
・、一
てっき。どこかで野垂れ死んだものと思っていた」
たルたん
イルダーナフの娘、メディーナは淡々とした表情と声でや。返した。
久しぶ。に会ったという親子の会話を聞きながら、カイルロッドはなんとなくイルター
しぷ むすめにがて
ナフが帰るのを渋った理由がわかる気がした。さすがのイルダーナフも自分の娘は苦手ら
しい。
その娘が一九歳と聞いて、カイルロッドは少し驚いた。実際の年齢より大人びて見える
かつちようづら
のは、強い光を宿した目と仏頂面のせいだろうか。
「それに、顔はともかく、口の悪いところは父親によく似ている」
こわ だま
と、カイルロッドは思ったが、二人が恐いので黙っていた。イルダーナフ一人に軽口を
叩かれるだけで閉口しているのだ。このうえ娘の方にまで毒づかれたくはない。
けが
「ところで親父。この青年は怪我をしているようだが」
ひとみ
メディーナの黒い瞳がカイルロッドの上で止まった。娘に言われて、イルダーナフは
「ああ、忘れていた」と指を鳴らし、
・ 1...
「メディーナ、悪いんだが、こいつの怪我を頼むせ。俺は先にあのうるせぇ婆さんの所に
画を出してくるからよ」
言うことだけ言って、さっさとどこかへ行ってしまった。
「ちょっと、イルダーナフー」
ミランシャは怒鳴ったが、メディーナに「どうせ聞こえていない、放っておけ」と言わ
あきり
れ、それが事実だと知っているので、呼び止めるのを諦めた。
「イルダーナフって、すぐ聞こえないふりをするのよね」
「忘れたふりも得意だしな」
まがお かたひぎ
真顔で言ってから、メディーナはカイルロッドの横に片膝をつき、
きず
「剣の傷だな。深くはない」
しんだん きーlい
診断しながら、カイルロッドに両手をかざした。指が長く、綺麗な手だった。その手か
あふ いや
ら不思議な、温かい力が溢れ、みるみるうちに傷が癒されていく。
ちゆじゆつ
「治癒術ねー」
かんたん
感嘆の声をあげたのはミランシャで、カイルロッドはただ昌を丸くしていた。
「これでいいだろう」
9 面影は幻の披方
スッとメディーナが立ち上がった。カイルロッドのすぐ横で黒く長い髪が揺れ、甘い香
。がした。
すご
「へぇ、これが治癒術か。凄いなぁ」
カイルロッドも立ち上が。、パンパンと肩や腕を叩いた。傷はすっか。癒えていた。治
癒術という言葉を聞いたことはあったが、実際に目の前で見たのは初めてだった。
「ねっ、あなた、魔女なのフ」
こコノハん lまlま こうちよう
ミランシャが興晋に頬を紅潮させ、メディーナに訊いた。
みじゆく
「まだ未熟だがな」
わげ かわぷノ、ろ あいそつ
メディーナは木の陰に置いてあった大きな皮袋を取。、愛想のない声で言った。
「あたしも魔女なの。とはいっても、まだ見習いなんだけど。ねぇ、治癒術を教えてくれ
ないっ」
たの
魔女見習いのミランシャは、自分より能力が上の魔女にそう頼んだ。治癒術が使えなく
て、ミランシャが何回も悔しい思いをしたことを、カイルロッドは思い出した。
「俺からも頼むよ。教えてやってくれ」
ミランシャとカイルロッドの二人に頼まれ、メディーナは少し考えていたが、
おやじ
「わたしよ。、ゲオルディ様に教えてもらった方がいいと思う。わたしの師だが、親父が
70
あいさつ しようかい
挨拶に行っている。いずれ近いうちに紹介されるだろう」
かつ
素っ気なく言って皮袋を肩に担いだ。
つか
「どこから来たか知らないが、疲れただろうフ 家の中で休んでくれ」
レンガ造りの家を指差し、歩き出したメディーナの後を、カイルロッドとミランシャは
ついて行った。
せいけつ
簡素な家だった。必要最低限な家具しかないが、清潔できちんと整理されている。メデ
ィーナの性格をよく現わしているようだ。
むすめ
聞いたところではイルダーナフの家族は娘だけらしい。
「じゃ、あなたのお母さんは?」
ェぽく
ミランシャの素朴な質問に対して、メディーナは素っ気なく「ここにはいない」と答え
た。
まゆ
カイルロッドはかすかに眉を動かした。ここにいないということは、死別したか、ある
いは事情があって別々に暮らしているということだろうか。
「ミランシャ、根掘り葉掘り訊いては失礼だよ」
カイルロッドに注意され、ミランシャがすまなそうに肩をすくめると、
面影は幻の彼方
きづか
「気遣いは無用だ。ここにはいないが、どこかにいるかもしれない。あるいはもう、この
世にいないかもしれないが……。わたしは母親の顔も名前も知らないのだ」
二人を見ながら、メディーナは暗さのない声音で言った。その話を聞き、「もしかして、
イルダーナフは奥さんに逃げられたんだろうか?」、などと思いながら家の中を見ていた
すば
カイルロッドは、素晴らしい物を見つけた。
ぼんさい
「黒松の盆栽だー」
棚の上に置かれているそれを手に取り、カイルロッドは喜んだ。
「盆栽? それは盆栽というのかフ・」
お茶を持ってきたメディーナが不思議そうな顔で、カイルロッドを見た。お茶の香気が
へや じゆうまん
部屋に充満する。
「あーあ1、すっか。忘れていたけど、王子って盆栽好きだったのよね」
lまお
先にテーブルについていたミランシャが、呆れた顔で頼づえをついて言った。
「王子フ」
ゆげ lナげん たヂ
ミランシャの前に湯気のたつカップを置き、メディーナが怪訝そうに尋ねた。
かか
「そう。あそこで盆栽抱えて喜んでいるのは、ルナンの卵王子カイルロッド。あたしは魔
女見習いのミランシャ」
Lようかい
きっそくカップに口をつけ、ミランシャがそう紹介した。
つわさ
「これがルナンの卵王子か・。噂にはよく聞くが、見るのは初めてだ」
ちん。レゆう
まるで珍獣でも見るような目で、メディーナがカイルロッドを見た。
ぽんさい
向けられているふたつの視線にまったく気がつかず、カイルロッドは手にした盆栽をう
なが
っとりと眺めていた。こんな場所で素晴らしい盆栽に出会えるとは思いもよらなかっただ
けに、喜びもひとしおだった。
トとの
「この形といい、将来性のある枝ぶりといい、みごとなもんだ。ただ、もう少し、形を整
えた方がいいな」
tJち つぷや
鉢を手の中で回しながら、カイルロッドが呟くと、
「それは泊めてやった旅人が無理に置いていったんだ。どうしていいのかわからないので、
そのままにしておいたんだが 」
テーブルについたメディーナが説明し、
「盆栽なんて置いていかれたって、困るわよね。王子ならともかく」
ミランシャがロを曲げた。
「整えてあげるから、ハサミ貸してくれないか?」
ゆか
テーブルでなく床に腰をおろし、カイルロッドがそう言うと、メディーナはすぐにハサ
ミを渡してくれた。
ぽんきい
「盆栽の手入れなんて、久しぶりだ」
鼻歌混じりに刈り込みをしているカイルロッドを、テーブルについているミランシャと
メディーナが名状Lがたい顔で見ている。
「・…・王子というのは、皆ああいうものなのかフ」
「ルナンの卵王子だけじゃないの〜 あたしも最初はショックだったわよ。なんたって卵
しゆみ
王子で、趣味が盆栽でしょフ 今じゃ馬にもなるのよ」
「・・・…変わった王子だな」
女二人がボソボソとなにやら言っているが、カイルロッドは気にしなかった。
おやりレ やと
「ところで、親父は卵王子に雇われているのか?」
「そうなの。ルナンがね、ムルトに石にされちゃったのよ。それで、石にならなかった王
へた すごうで
子がムルトを倒しにいくことになったんだけど、剣が下手でねぇ。で、凄腕のイルダーナ
フを雇ったわけ」
すす
お茶を畷りながらミランシャが説明すると、メディーナは大きな音をたてて、持ってい
たカップをテーブルに置いた。
むぽう
「ムルトを倒すなど、無謀な ・」
面影は幻の彼方
きび
厳しい表情をしている。
「でも、俺はムルトを倒さなくてはならないんだ。どんなことをしてでも・⊥
刈。込みの手を止めず、カイルロッドは噛みしめるように言った。ルナンのためだけで
ぞ
なく、なんの関係もないのに巻き添えになって死んだ人々のためにも、ムルトを倒さなく
てはならない。
「俺はムルトを倒さなくちゃならないんだ」
しんけん
メディーナはなにか言いかけたようだったが、カイルロッドの真剣な様子にロをつぐん
だ。
「……そうか。それで親父はあんた達をここに連れてきたのか」
フなず
得心がいったというように額き、メディーナはお茶を一口畷った。
「どういう意味だ?」
カイルロッドが訊くと、
「いずれわかる」
メディーナは小さく笑った。その顔を見て「おや?」とカイルロッドは思った。近寄。
ちが
がたい美女だとばかnソ思っていたが、少し口元をほころばせただけで、まるで印象が違っ
きれい ぎようし
て見えた。「綺麗に笑う人だな」、カイルロッドが凝視していると、
「わたしは食事の用意をする」
いつちようつち
視線に気がついたのか、メティーナは笑みを消し、また元の仏頂面で奥に入ってしまっ
た。
「ねぇ、王子。ああいう言い方、イルダーナフにそっくりじゃないフ」
おこ
聞こえたらメディーナが怒るかもしれないので、ミランシャがこそっと小声で言い、
「やっぱり親子なんだなぁ」
うなず
黒松を刈り込みながら、カイルロッドは大きく額いた。
その夜、イルダーナフは家に帰ってこなかった。
3
はいきよ
廃墟が広がっていた。
そこにはかつて大きな街があり、多くの人間が住んでいた。とは言っても、何百年も昔
にぎ
の話ではなく、ほんの数日前までここは人の活気で賑わっていたのだ。
ほうかい
しかし、今や建物は崩壊し、人々は死に絶え、草木一本すら生えていない。生きとし生
けるものの姿はどこにも見当たらない。
7 面影は幻の彼方
こんせき
残ったものは人が生きていた痕跡だけだ。
めつぽう
完全な死、完全な滅亡 −。
かわ とげとげ
風さえ自然の力を失ったように、乾いていて刺々しい。
こうりようかん いんき
空には重く厚い雲がたれこめ、一層荒涼感を強めていた。その陰気な雲の下を白い線が
せんかい
旋回しているむ
白い秦だった。
かみ おだ でつぼう
廃墟を一人の青年が歩いていた。燃えるような赤い髪をした、穏やかな風貌の青年だ。
ながそで ゆ
時々強くなる風に、長袖の右腕が揺れる。
おそ
「遅かったか・・・…」
せきわん つ.かや ちせつ
隻腕の青年、エル・トパックは呟き、足元に落ちている石片を拾いあげた。稚拙な絵が
へい いたヂらこぞう
描かれている。子供の絵だ。これはどこかの家の塀で、その家の子供か、近所の悪戯小僧
ちくがき
が落書したのだろう。
ぎんがい がれき
しかし、現在、ここに家はない。ただ、家の残骸、山のような瓦礫が風雨にさらされて
いるだけだ。
「どうやら、カイルロッド王子に会わなくてはならないようだ……」
どくはく
エル・トパックは独自し、持っていた石片を下に落とした。
かわ
乾いた音をたてて、石片が割れた。
赤い大地は乾いてひび割れていた。
うば
照りつける太陽と風が身体から水分を奪っていく。
「イルダーナフ、そのゲオルディって人はどこにいるんだ?」
くちぴるな こつや けむの
乾いた唇を舐め、カイルロッドは訊いた。いかにも不毛の荒野らしく、足元には獣の骨
が散らばっていた。
ちゆじゆつ
「あたし、治癒術を教えてもらいたいわ」
ぬぐ うれ
汗を拭いながら、ミランシャが嬉しそうに言う。
「ふふん。うまくおだてりや、色々と教えてくれるぜ」
汗ひとつかいていないイルダーナフは口元に笑みをうかべた。
とぴち
イルダーナフが帰ってきたのは昼前で、家の扉を開けるなり、
ぱあ
「王子、ミランシャ、来い。婆さんに会わせてやっからよ」
ひま あた
質問する暇も与えず、カイルロッドとミランシャを追い立てた。
「イルダーナフ、そのゲオルディって人はどういう人なんだフ・」
ぎんばつ たヂ
長い銀髪をおさえながら、カイルロッドは尋ねた。メディーナの師であり、イルダーナ
面影は幻の披カ
ただもの
フが熱心に会わせたがっているのだから、とても只者とは思えない。
「会ってみてのお楽しみ」
かくご
イルダーナフは笑ったが、どこか意地の悪い笑みだった。「覚悟しておいた方がいいの
かもしれない」、イルダーナフの笑みを見て、カイルロッドはそう思った。
こうや
荒野を歩いていくと、切。立った岩山が見えてきた。赤い、草木のない岩山だ。
アル_アク まりレよ
「ここにゲオルディはいるのさ。彼女は赤い山の魔女と呼ばれている」
イルダーナフが赤い山を見上げた。
「赤い山の魔女 …」
つられてカイルロッドとミランシャも見上げた。赤い山 一 夕日を浴びたなら、血よ。
も赤く染まることだろう。
「有名な魔女なのかフ・」
ふ
カイルロッドはミランシャに聞いてみたが、ミランシャは「知らない」と首を左右に振
めじり しわ
った。そんな二人の様子に、イルダーナフが目尻の敏を深くした。
やつ いんとん ばあ
「ま、若え奴は知らねぇな。なにしろ、とっくの昔に隠遁しちまった級だらけの婆さんだ
からよ」
ばう
説明しながら、イルダーナフはひょいと頭をすくめた。その直後、太い棒のような物が
プンツと昔をたてて、イルダーナフの頭のあった空間を横ぎった。すくめていなかったら、
なぐ
殴られていただろう。
「なーに、人の暮口を言っとるか。この恩知らずのガキがっ」
ぬ
出し抜けに背後から聞いたことのないしゃがれ声がして、カイルロッドはギョッとして
か はじ
振り返った。、、〓フンシャも弾かれたように振り返り、イルダーナフだけが驚きもせず、ゆ
っくりと顔だけを動かした。
れいぎ
「まったく、いくつになっても礼儀知らずで困ったもんじゃ」
つえ
いつ現われたのか、カイルロッド達の後方に、老女が立っていた。右手に大きな杖を持
か中ゼ、ろ
ち、左手に大きな皮袋を引きずっていた。背はカイルロッドの半分ぐらいしかなく、黒い
かみ しわ きぎ こつれい
服を着ている。髪は真っ白で、顔には無数の奴が刻まれていた。まず、かなりの高齢であ
にご はいいろ
ろう。しかし、濁りのない灰色の員の燵めきや表情は、まるで少年のようにいきいきとし
ていた。
「問いとるのか、イルダーナフ」
ふ
杖を振り回している老女を見て、カイルロッドは「この人がゲオルディだ」と、確信し
た。しかし、やはり念のために、
「あの、ゲオルディ様ですかつ」
面影は幻の彼方
し’
きんちよう たす ね.・
緊張して尋ねてみたが、老女は答えず、下からジロジロと、まるで値踏みでもするよう
なが
に、カイルロッドを眺めている。
「はじめまして。俺、カイルロッドです。ルナンから来ました」
じこしようかい だま
自己紹介しても、老女は黙っている。
「あたし、ミランシャです」
ミランシャが自己紹介しても同じだ。三一[もしゃべってくれないので、カイルロッドも
これ以上なにを話していいのかわからず、黙っていると、
・.一ム
「なるほど。これがフィリオリの息子かい」
しばらくして、やっと老女が口を開いてくれた。
「母をご存じなんですかけ」
とつぜん おどろ
突然母の名が出たので、カイルロッドは驚いて真下を見るようにして訊くと、老女はニ
ッと笑った。
まご
「ああ、知っておるよ。フィリオリはわしの孫じゃからなl一
「え1つけ 母があなたの孫n」
ぎようてん きかい
カイルロッドが仰天すると、老女は「ケーケッケッケ」と奇怪な声をあげて笑いだした。
大きく開けた口の中には歯が数本しかなかった。
ぼうぜル のど
カイルロッドが呆然としていると、腕組みしているイルダーナフが喉の奥で笑い、ミラ
けルめい
ンシャは懸命に笑いを噛み殺していた。
じようだん
「ゲオルディ様の表情を見れば、冗談だってわかるわよ、王子」
「I ・」
みけん しわ
からかわれたと知り、カイルロッドは眉間に級を寄せた。「イルダーナフの知り合いだ
けのことはある」、そんな気持ちで、まだ笑いころげているゲオルディを見ていた。
めヂら
「ケケケ、こんなに素直な子も珍しいぞ」
つえ か
杖を振り回し、涙を流しながらゲオルディが笑っている。どうやら笑い上戸らしい。
じよフだん
「ゲオルディ、こいつをからかわんでください。冗談が通じない奴なんですから」
放っておいたらいつまででも笑っていそうな老女、ゲオルディに、広い扇を震わせなが
らイルダーナフが見かねたように言った。
「ねぇ、王子。イルダーナフが敬語を使ってるわよ」
ぽうじやくぶじん
ミランシャが目をみはり、言われてカイルロッドも驚いた。この傍若無人な男が敬語を
使ったところなど、ついぞ見たことがなかったからだ。
「初めてだな」
どんなに身分の高い者であろうと、金持ちであろうと、イルダーナフは敬語など便わな
面影は幻の彼方
うやま
い。この男の敬う基準が身分や金ではないからだ。
にがて
若者二人に全身で驚かれ、イルダーナフは「俺にも苦車はあるんだ」と言いたげに苦笑
した。
▼しノや
「なんか、荒野に来てからというもの、驚くことばかりだな」
つか
次から次へと驚くことばか。で、カイルロッドは驚き疲れてしまった。
「さて、カイルロッド。それじゃ、さっそく訓練を始めるとしようか?」
まじよ あいr つえ
ひとしき。笑って気がすんだのか、「赤い山の魔女」は合図のように、杖でカイルロッ
ーノね たた
ドの脛を叩いた。
「訓練フ」
はいいろ するど
脛の痛みに顔をしかめ、カイルロッドが訊き返すと、ゲオルディの灰色の目が鋭く光っ
た。
・ ‥・
「そのために来たんじゃろフ カを上手に使いたいんじゃろフ」
「はい、そうです。でも、その前に母のことをご存じでしたら、教えていただけません
か? 俺は母のことを知らないんです。俺が生まれてすぐに死んでしまったので」
カイルロッドはどんなわずかなことでもいいから、母のことを知りたかった。生きてい
た母のことを。
「お願いします」
たの
カイルロッドに熱心に頼まれ、ゲオルディは少しの間思案していたが、やがてしゃがれ
声で話してくれた。
「 けどなぁ、わしもおぬしの母に会ったのは、ほんの数回じゃよ。・…おぬしの母フ
だいしんでん みこ つ
ィリオリはな、フエルハーン大神殿の巫女じゃった。それも、近い将来大神宮を継ぐじや
ろうと言われていたはどに、力の強い巫女じゃった」
「フエルハーン大神殿の巫女・・け」
もう多少のことでは驚かないと思っていたカイルロッドだが、フィリオリがフェルハー
Lようけi
ン大神殿の巫女だったと聞いて、衝撃の強さによろめいた。それも大神宮を継ぐほど力が
強いとは。
「この百年、大神宮は出ていません。それにふさわしいだけの力と人格を持つ者がいなか
ったからです」
ルナンの神殿で、ダヤン・イフエはそう貰っていた。大神宮はフエルハーン大神殿の最
l,んい えいきようりよく ころ おうこう
高権威であり、その昔、まだ神殿が各国に強い影響力を及ぼしていた頃は、王侯貴族が大
すいたい
神宮の前に膝を折ったという。神殿が衰退した現在でも、大神宮は敬われる存在だ。
「知らなかった ・。父上もダヤン・イフエもなにも言わなかったから 」
5 面影は幻の彼方
どうよう
動揺しているカイルロッドに、ゲオルディは話を続ける。
とつぜん
「それがある日突然、姿を消したのじゃよ。正確には神殿を追われたのじゃが。そして、
ルナンにいる同じディウル教の神官ダヤン・イフ工を頼ったのじゃな」
つめ
カイルロッドは知らない間に、自分の左腕に爪をたてていた。ミランシャが心配そうに
カイルロッドを見ている。
みご
「・追われたのは、俺を身籠もったからなんですね ・…
神殿を追われた後のことは、カイルロッドも知っている。
「そうじゃ」
まぷた
カイルロッドの瞼に、肖像画のフイリオリの姿がうかぶ。まだ少女だった母は、将来を
しよノ、ぽう みこ
嘱望されていた巫女だった。若く美しく、才能に溢れていた少女の未来を、その生命まで
フば
も、カイルロッドと顔も知らない実父の一一人で奮ったのだ。
ゆヂ
「だから、フエルハーン大神殿は俺を目の敵にするんですか…・・母のことと、俺の父親譲
ねり
。の力を狙って」
口にしながら、カイルロッドは気がついた。そうした事情がありながら、一八年間もフ
いくど
エルハーン大神殿がカイルロッドを放っておいたはずはない。おそらく、神殿は幾度とな
らが みじん
くカイルロッドの引き渡しを要求したに違いない。だが、サイードはそんなことを、微塵
もカイルロッドに感じさせなかった。
「一八年、なにも知らずに、俺は・・・」
ちゆうしようひlぎう けん
なんと幸せに生活していたことか。神殿からの圧力、重臣達の中傷誹誘、他国からの牽
せい
制、向けられる諸々の昔意や敵意から、カイルロッドを守ってきていたのだ。いまさらの
めがしら むしよう
ようにサイードの愛情を感じて、目頭が熱くなった。カイルロッドは無性に養父に会いた
いと思った。
「それで、俺の実父のことはなにか聞いてませんかフ」
すす
鼻を畷りながら、カイルロッドが問うと、
「フィリオリは子供の父親についてはなにも言わんかった」
との答えだった。
「そうですか」
うなヂ
カイルロッドは領き、横目でイルダーナフを見た。どうやら、実父に関することを知っ
ているのは、今のところイルターナフだけらしいが、訊いたところで答えてくれるような
男ではないので、質問しなかった。
「そういう女性だったのか・こ
母の意外な一画を見た気がした。
87 面彩は幻の彼方
「ゲオルディ様、色々とありがとうございます」
頭を下げて礼を言うと、
「では、訓練に入るかね。いいかい、こいつを拾っておいで」
さっそく訓練に入り、ゲオルディがカイルロッドの前で手を開いて見せた。手の平には
しんlヶレゆ
白くて小さな、真珠のような物があった。
「なんですか、これフ」
.もくさっ
質問を黙殺し、ゲオルディは手の平を自分の頭上まで上げた。
すると、真珠のようなそれが白い線を描いて空に上がり、一度光って、どこかへ飛んで
いってしまった。カイルロッドはぼんや。とそれを見ていたが、
こうや
「あれは荒野のどこかに落ちとるはずじゃ。三日以内に拾ってくるんじゃぞ、いいな」
かわぷくろ
一方的に言い、老女は引きずっていた皮袋をカイルロッドの足元に置いた。
「これはフ・」
「この中に三日分の水と食料が入っとる。ほれ、さっさとお行き」
はら
そして、犬でも追い払うように、「シツシッ」と手を動かした。
「・・こんなだだっ広い荒野の中から、あんな小さな物を探し出すのか?」
かか
皮袋を抱え上げ、カイルロッドは気が遠くなりかけた。いきなりとんでもない訓練であ
る。
いや
「ちょっと、そんなの無茶苦茶だわー 訓練じゃなくて、ただの廉がらせよ,」
4んがい lクゆうげ さかだ
カイルロッドよりも憤慨したのはミランシャで、柳眉を逆立ててかみついたが、「赤い
山の魔女」 は聞こえないふりをしていた。
「ちょっとおじさん、なんとか言ってよー」
「俺は口出しできねぇな」
ぱうかんしや
イルダーナフは傍観者を決め込んでいる。
「そんなー」
「わかりました。見つけてきます」
こフぎ さえき だま
皮袋を肩にかけ、カイルロッドは強い口調でミランシャの抗議を遮った。黙ったものの、
ミランシャは納得できないという顔をしている。そのミランシャに、
「必ず見つけてくるよ」
カイルロッドは笑いかけた。正直なところ、この探し物にどんな意味があるのかわから
ない。しかし、なにもしないうちから無理だと言ってしまったら、ここに来た意味がなく
なってしまう。
たお
「俺はムルトを倒さなくてはならないんだ」
面影は幻の彼ブJ
7
そのためにはどんなことでもすると、カイルロッドは心に誓っているのだ。ゲオルディ
の謡を聞いて、いよいよそれを強くした。
「ええと、確か、東の方角に消えたよな」
あた。をつけて歩き出したカイルロッドの背中を、固い物がつっ突いた。ゲオルディの
フえ
杖だった。
「なにか?」
「なぁに。おぬしが若くて美男子じゃから、ちょいとひいきしてやろうと思ったまでじゃ
よ。いいか、目では探せんぞ」
振り返ったカイルロッドに、ゲオルディが茶目っ気たっぶ。に片目をつぶった。「目で
つなず
は探せないっ」、意味はよくわからなかったが、カイルロッドは「はい」と領いた。
「しっか。探せよ」
イルダーナフの気楽な励ましを聞きながら、カイルロッドは一度だけ手を振。、歩き出
した。
こうや
前には荒野が広がっている。
、
4
.1 1
カイルロッドの姿が遠ざかるのを眺めながら、ミランシャは尖った声で、ゲオルディに
質問してみた。
「もし探せなかった場合、王子はどうなるのよ」
かわいそつ のた ハじ
「それは見込みがないってことじゃな。その場合は可哀相じゃが、荒野で野垂れ死にする
しかないじゃろう」
つえ
杖で地面を軽く叩きながら、ゲオルディはあっさりとした口調で応じた。ミランシャは
顔をこわばらせた。
じようだん
「か、簡単に言わないでよー そんなの冗談じゃないわー あたし、王子を止めてくるか
らね!」
いくら音、有名な魔女だったからといって、そんな乱暴な訓練など、冗談ではない。
ぽうじやくぷじん
「イルダーナフもイルダーナフだわー」、あの傍若無人な男が、この老女の前だと借りてき
た猫のようになっている。
荒野に向かって歩き出そうとしたミランシャの腕を、借りてきた猫 − イルダーナフが
跳んだ。
面影は幻の彼力
「なによー」
「まぁ、待ちなって。いいかい、王子は行くと言ったんだぜ。それをどうしてお嬢ちゃん
に止められるんだっ・」
はな
「離してよー」
ほら
ミランシャは乱暴に手を振り払った。頭ではイルダーナフの言っていることが正しいと
だま
わかっているが、感情はそうではない。まるでカイルロッドが死にに行くのを黙って見て
いるようで、気分が悪い。
ちが
「王子はおじさんとは違うのよー 見つけられっこないのに、黙って行かせられないじゃ
ない!」
どな
八つ当た。気味に怒鳴ったミランシャに、イルダーナフは「そ。や、困った」と、例に
つぶや いらいら
よって少しも囲っていない顔で呟いた。苛々している時にこういう態度をとられると、ま
あお
すます苛立ってくる。「知っていてやってるんだわ」、わかっていても煽られてしまう。
いや
「だいたい、あんな探し物にどんな意味があるのよ。まるで嫌がらせだわー」
むきになってカイルロッドを追いかけて行こうとしたミランシャの背中から、イルダー
ふく
ナフの笑いを含んだ声がした。
「ミランシャ、俺は王子が見つけて帰ってくる方に賭けるぜ」
「 − 〓」
その言葉を間いたとたん、ミランシャの顔にカアッと血がのぼった。
必ず見つけてくるよと、笑ったカイルロッドの顔がうかんだ。
「あたし・」
「だから、待っててやんな」
・
さとすような声に、ミランシャは勢いよく振り返った。
「イルダーナフの馬鹿=こ
どな
怒鳴りつけ、ミランシャはイルダーナフとゲオルディに背中を向けて、走り出した。足
元から細かい砂が舞い上がる。
ちゆじゆつ
「おい、ミランシャ。治癒術を教えてもらうんじゃなかったのかっ」
「結構よー」
振り返らずに怒鳴り返し、ミランシャはカイルロッドの向かった方向とは逆、イルダー
ナフの家があるオアシスの方に走って行った。
「やれやれ、嫌われたみてぇだな」
遠ざかっていく少女の姿を見ながら、イルダーナフは頭を療いた。
むすめ
「あの娘、カイルロッド王子を好いておるようじゃな」
面影は幻の彼方
つえ
杖を回しながら、ゲオルディ。
「そのようですな」
うなず
イルダーナフはミランシャの姿を員で追いながら、額いた。
「ああいう情けないのがいいんですかねぇ」
む
どうも理解しがたいというようにイルダーナフが言うと、ゲオルディは歯を剥いて笑っ
た。
かわい
「いい歳をしてひがんでおるのか。おぬしみたいな食えない男よ。、あっちの方が可愛い
じゃろうよ」
ねぎら
「少しは俺の苦労も労ってもらえませんかね。あの王子とkたら頼りないわ、情けないわ。
あま さんびようしヱろ
おまけに甘いと三拍子揃っているんですからね。それを闘えるようにするとは、いやはや
」
上を仰いでイルダーナフがぼやくと、それまで笑っていたゲオルディの顔がふいに塵。、
しわ
雛が深くなった。
むすこ み.ぴん むすめ
「 フィリオリの息子も不憫じゃが、あの娘も不憫よの」
「 わかっていても、どうしてやることもできません。ただ、その時まで見ていてやる
だけです」
つ4や
呟き、イルダーナフは目を閉じた。
かわ
乾いた風が砂を運んで、赤い山に吹きつけた。
ぐんじよう ぬ こうや くや か
空の群青と大地の赤、二色に塗りわけられた荒野を、悔しさを噛みしめながらミランシ
ャは歩いていた。
カげ
他に動く物は見当たらず、ミランシャは自分の影だけを連れて、オアシスに向かってい
た。赤い大地に落ちる影が、少しずつ長くなっていく。
「・…・・あたしだって、王子が帰ってくるって信じてるわよ。でも、危険だから」
のど かわ
口の中で呟きながら、ミランシャは片手で目元を拭った。口の中や喉がカラカラに渇き
きっているのに、涙だけは出るのが不思議だった。
ばか
「王子の馬鹿T イルダーナフの馬鹿!」
せりL ′、や
イルダーナフの台詞を聞いた時、自分が情けなくて悔しくて、たまらなかった。
「あたしは王子を信じてなかった」
そう思い知らされ、ミランシャは恥ずかしかった。
「必ず見つけてくるよ」
カイルロッドはミランシャにそう言った。ならば、その言葉を信じていなければならな
5 而影は幻の彼方
かったのだ。イルダーナフは信じている。そして、信じながら、「死んだらそれだけ」と、
割。切っている。
まね
「あたしには真似できない」
みす こわ
人の心の中までも見透かすような、なにもかもを知っているようなあの黒い目が恐くて、
ミランシャは逃げるように赤い山を後にしたのだ。
本当はカイルロッドを迫うつも。だったのだが、足手まといになってしまうことを考え
て、思いとどまった。
「王子もおじさんも、二人とも女の気持ちなんか、全然わかってないんだから」
男になりたかったと、歩きながらミランシャは思った。そうすれば、あの連帯感が理解
きようはんしや
できただろう。女には理解できない馬鹿げたものだ。「男同士」という、一種共犯者めい
つな フ、つや
た繋が。だ。しかし、どこか羨ましいと思えるのだ。言わなくても通じる、そんなものが
カイルロッドとイルダーナフにはある。けれど、ミランシャにはない。
「男にな。たかった……」
つか
気を遣われることなく、自然にカイルロッドの横にいたかった。
「…・・女なんかつまらない」
泣きながら家に帰る子供のように、ミランシャはオアシスに向かっていた。
しばらくすると、ポッンと緑色が見えてきた。オアシスに近づきながら、ミランシャは
こつかい ちゆじゆつ
少し後悔していた。「治癒術だけは教えてもらうんだった」、と。
しかし、そんなことを言ったら、「だから言ったのに」とイルダーナフに笑われそうな
たの
ので、ミランシャは「ゲオルディには頼みにくいから、メディーナに頼んで治癒術を教え
むすめ
てもらおう」と、考えた。イルダーナフの娘とは思えないほど、あるいはそのせいなのか、
.か.あい一一う
とにかく無愛想な娘であるが、意地栗ではないから、頼めばきっと教えてくれるだろう。
ふ
そんなことを思いながら、オアシスに足を踏み入れ、ミランシャは長い息をついた。赤
い大地から緑に変わって、水音を聞いたりすると、やはりホッとするものがある。
「身体中の水が涙になって出ちゃったわ」
hリようひぎ のと かわ いや
泉のほとりに両膝をついて、湧き出る水を手ですくい、喉の渇きを癒していると、水面
かげ
に黒い影が映った。
.−・・・ I H
・
驚いて振り返ると、旅人風の男が五人ほど立っていた。
「なによ、あんた達−」
ミランシャは全身を緊張させた。旅人を装っているが、男達の目の配り方、身のこなし、
面影は幻の彼方
ただよ
そしてなにより漂う殺気はただの旅人のものではない。
ねら
「こいつら、王子を狙ってきた刺客だ」
へきえき
ミランシャはそう直感した。そして、こんな場所まで追いかけてくる執拗さに、辟易し
た。
5
「カイルロッドはどこにいるー」
えhソくげ つか
一人の男がそう叫んで、ミランシャの襟首を掴んだ。思ったとお。、刺客だ。
「あんた達、フエルハーン大神殿の刺客ね」
ねが つぷめ
顔を歪めてミランシャが呟いたが、
「カイルロッドはどこだ「」
こつてい
その一点張りである。しかし、肯定しているも同然だ。
いそが ねら
まったくカイルロッドも忙しい男だ、とミランシャは思った。ムルトに狙われ、フエル
こうげき
ハーン大神殿に狙われ、どちらかに常に攻撃されているのだから。
「残念だけど、ここに王子はいないわよ」
〃 しゆHソようか, や
男の手を振。ほどこうと、もがきながらミランシャが一亨っと、首領格らしい痩せた男が
細い目を光らせた。
「では、どこにいるフ」
こフや
「荒野のどっかよ」
いんき あいまい
陰気な声だと思いながら、ミランシャは投げやりに答えた。事実だが、これだけ曖昧な
ら簡単には見つけられないはずだ。
かせ
「見えすいた嘘をつきおって−時間稼ぎして、カイルロッドを逃がすつもりだなー」
.. −1・
しかし、ミランシャの襟首を掴んでいる男は信用しなかったらしく、短剣を抜いてミラ
のど つ
ンシャの喉に突きつけた。
「正直に言わないと、死ぬぞ」
−・・ H・▼
使い古された脅しに、ミランシャはロを歪めた。
「なに言ってるのよ。言ったって殺すんでしょ。あんた達は目的のためには、関係のない
人だって平気で毅すんだから。人殺しが大好きなんでしょう?」
へた ちようはつ
ミランシャは強気だった。イルダーナフもいないのだから、下手に銚発しては危険だと
わかっているのだが、腹がたって仕方なかった。ムルトといい、フェルハーン大神殿の刺
かく きず
客といい、こいつらのせいでどれほどカイルロッドが傷つき、苦しんでいるかを思えば、
いやみ
嫌味や皮肉も言ってやりたくなる。
面影は幻の彼方
99
「けど、もしここに王子がいても、あんた達なんかに殺せるわけないじゃない。これまで
で証明済みだもの」
こつかい
鼻で嘲笑してやると、短剣が動いた。調子にの。すぎたとミランシャは後悔した。
一刀 −
のど さ どろぎいく
短剣はミランシャの喉を裂くことなく、男の手の中で泥細工のように崩れてしまった。
「うっけ」
どうよう つ
刺客達の間に動揺がはしる。ミランシャは隙をついて男を突きとばし、走った。
「待て!」
そう言われて待つ馬鹿はいない。オアシスから出るつもりで走っていると、
「荒野に行って、どうするんだ?」
ふいにミランシャの正面に、メディーナが現われた。どこかへ行っていたらしく、背中
ろば
に荷をくくりつけた塩馬を引いている。
きわ たまご
「帰ってきてみれば、ずいぶん騒がしいな。うるさいからどっかへ行け。ここに卵王子は
いないぞ」
いずみ
男達には目もくれず、メディーナは塩馬を泉に引いて行こうとした。
こむすめ かば
「小娘− きさまもカイルロッドを庇いだてするのかー・」
「別に庇ってはいない。事実を述べているだけだ。ミランシャ、今晩、なにか食べたい物
はあるかフ」
7 ・
数人の男に取り囲まれても、メディーナには臆したという様子はない。それどころか、
ほとんど不安を感じていないようだ。
むすめ
「さすがイルダーナフの娘」
などと、ミランシャはおかしな感心をしながら、メディーナの横に行った。
「邪魔だ。殺せ」
しゆりようかノ、 いつせい
首領格の男が抑揚のない声で命じ、他の男達が一斉にミランシャとメディーナに襲いか
かった。ミランシャは聞く目をつぶった。
「女に乱暴するのは許せんな」
たお しろめ
メディーナの声に目を開けると、首領格の男を除いた全員が地面に倒れていた。白目を
剥いている。
いっしゆん
「一瞬で 。なにをしたのフ」
たす
ミランシャが尋ねたが、メディーデは答えてくれなかった。刺客の一人から象ったのだ
ろう、長剣を構え、
「こいつらは殺していないから、連れてさっさと帰れ。さもなくば、斬り捨てる」
面影は幻の披方
残った一人に警告した。ミランシャはメディーナの構えた型がイルダーナフのそれによ
1.・
く似ていることに気がついた。おそらく、イルダーナフが仕込んだに違いない。「もしか
のんき
して、王子より強いんじゃないかしら」、などと呑気なことを考えて見ていると、
こむすめ
「ちっ、小娘だと思って油断したか」
残った男は舌打ちし、
りしゆソよく
「カイルロッドでなく、こんな小娘達に呪力を使うとはな」
呪文を唱え始めた。
とつめい
男の周。に透明なものが現われた。それは人の形をしていた。
れいつか
「霊使いー」
..‥ ・1
操る能力はなくとも、かろうじて視ることのできるミランシャが口の中で叫んだ。
じゆそ すい
男は霊使いだ。霊使いは呪唄を専門にしている。霊を操って相手の精気を吸い取。、衰
じゃく はつきよう ふつう
弱、もしくは発狂させるのだ。当然のことだが、普通の人々はもとより、魔法使い達から
も忌まれている。
はら
「どうしよう、あたしには霊を追い払えないわ」
うめ ろば おぴ
ミランシャが坤いていると、霊は一一人を囲んだ。墟馬が怯えて暴れだした。
いん1.′ん じゆつ
「陰険な術だな。好かん」
なだ
碇馬を宥めながら、むっつりとメディーナは言った。
「どうにかできるのフ」
ふつちようづら じゆもん とな
ミランシャがすがるような視線を向けると、メディーナは仏頂面で、早口に呪文を唱え
た。
−し ぁやつ おそ
すると、それまでメディーナとミランシャを囲んでいた霊が、操っていた男に襲いかか
った。
の じゆHノよく なまはんか
ミランシャは息を飲んだ。メディーナは相手の呪力をはねかえしたのだ。これは生半可
な力ではない。
「うわっ、これはどうしたことだP」
男は切れ切れの悲鳴をあげて逃げ回ったが、霊が追いすがるようについていく。必死で
はら
追い払おうとしているのだが、うまくいかない。
こつや こつけい
ついに男は悲鳴をあげながら、荒野に走って行った。滑稽な光景だった。
のた “レ
「荒野で野垂れ死にしたって同情なんかしないわよ」
男の走って行った方向に舌を出し、それからミランシャは長身の美女を見上げた。
すご
「あなたって凄い魔女なのねぇ」
しよっさん そ け
ミランシャの素直な称賛に、メディーナは「別にそうでもない」と、実に素っ気ない。
面影は幻の彼方
けんヱん いや
謙遜しているのではなく、真実そう思っているのだろう。決して嫌な人間ではないが、こ
一あいきっ
う無愛想でとりつくしまがないと、ミランシャはどうしていいのかわからなくなってしま
う0
「もうちょっと愛想があれはいいのに」
そんなことを思っていると、
ねら
「ミランシャ。あの王子は、ああいう連中に狙われているのかっ」
ろ。ば
駿馬を引いていたメディーナが、思い出したように口を開いた。
れいつか
「え? ええ、他にも色々ね。霊使いは初めてだけど」
しかく lでけもの くじゆち
これまで襲ってきた刺客や化物を思い出し、ミランシャは苦渋の色をうかべた。
おやじ たいくつ
「大変だな。王子もだが、一緒にいる者も。もっとも、親父なら退屈しなくていいとか言
って、喜んでいるだろうがな」
そのとおりなので、ミランシャはつい笑ってしまった。「やっぱり親子なのね」、そう笑
うと、メディーナは目だけで笑った。
かたむ
陽が傾き、赤い大地は一層赤く染まっていた。
しん′ヽ
赤い山が深紅に染まった。
世界そのものが灼けているのではないかと思えるような、壮歴な日没を眺めていたゲオ
ルディが目を細めた。
「おやっ」
「どうしましたフ」
座りこんで剣の手入れをしていたイルダーナフが、顔を上げてゲオルディを見た。刀身
に夕日が映える。
「メディーナが魔法を使ったようじゃ。誰かオアシスに来たようじゃな」
「ああ」
あこ な
予想はつくというように、イルダーナフは顎を撫でた。
「おおかた、フエルハーン大神殿の回し者の馬鹿どもが、カイルロッドを追いかけてきた
んでしょう。王子がいなくて、メディーナがいたってぇのが連中の不運ですな」
さや
剣を鴇におさめ、ゆっくりと立ち上がる。
「しかし、メディーナがあんなに強くなるたぁ、予想もしませんでしたがね」
かんがい.,カ ひぴ
イルダーナフの声には感慨深い響きがあった。
「素質があるから、拾って育てたんじゃないのかえフ」
「とんでもない。俺が拾ったんじゃなくて、あいつがついてきたんですよ」
漸影は幻の彼方
イルターナフはさもおかしそうに、大きな身体を揺らして笑った。
「ふてぶてしいガキで・。泣きもしないで、俺を睨んでいたっけ」
っぷや てつさ の
呟きながら、イルダーナフは腰に巻いてある鉄鎖に手を伸ばし、
ぬす しゆみ
「盗み聞きってぇのはいい趣味じゃねぇな。エル・トパック」
せんたん
言い終えないうちに鉄鎖がうなりをあげ、先端が大きな岩を砕いた。岩の破片が飛び散
つらけむりま
り、土煙が舞い上がった。
きんとソよたノ
「失礼しました。ゲオルディ様のお姿を拝見し、緊張のあまりなかなか声をかけられなか
ったもので」
..・ .・−
悪怯れた様子もなく、燃えるような赤い髪をした隻腕の青年、エル・トパックが現われ
た。フエルハーン大神殿からさし向けられたカイルロッドの見張り役だ。
「おやおや、こ。やまたいい男じゃな」
現われた赤い髪の青年に、ゲオルディが目を細め、「ケケケケ」と笑った。
「あ。がとうございます。わたしはフエルハーン大神殿の者で、エル・トパックと申しま
す。大魔法使いゲオルディ様にお会いすることができ、光栄です」
へた いやみ
倍 胸に手をあて、エル・トパックはうやうやしく一礼した。下手をすれば嫌味になりかね
ひとがり
ない仕草も、この青年がするとひどくさまになって見える。人柄というものだろうか。
「若いのに、よくわしのことを知っておったのぉ」
「ゲオルディ様の魔力の数々は伝説になっておりますので。けれど、失礼ながら、わたし
あなた
が貴女様に魅かれるのは、そのお人柄でございます」
「どうじゃ、聞いたか、イルダーナフ。わしもまんざらではないじゃろうが」
つえ ふ
得意そうに杖を振り回しているゲオルディに、
わががつ せじ
「こんな若造の世辞に、なに舞い上がっているんですか」
ぼそりと言い、イルダーナフはエル・トパックに向き直った。
にい まぬ しかく
「それで、兄ちゃん。なんの用だフ おまえさんのところの間抜けな刺客は、王子のいね
ぇ場所に行って、そこにいた魔女にやられちまったぜ」
あやつ
鉄鎖を生き物のように操って手の中におさめ、イルダーナフがせせら笑った。
「まったく、神殿も質が低下していく一方じゃな。じゃが、おぬしはその間抜けな刺客と
ちが
は違うようじゃが?」
ゲオルディが杖をいじくりながら、エル・トパックを見上げた。
かんしやく
「恐れ入ります。ですが、わたしは間抜けな刺客ではなく、間抜けな監視役ですので」
きんかつしよく かげ
エル・トパックのオレンジがかった金褐色の目が翳ったのを、イルダーナフは見逃さな
かった。
「なにかあったな」
、ちよう うなが
強い口調で促すと、エル・トパックは一息つき、
「正直なところ、わたしは途方にくれています。あなたのご判断を仰ぎたいのです。カイ
はかい さつりく
ルロッド王子が、いや、王子にそっくりな者が街や村を破壊し、人々を殺教しているので
す」
固い声で言った。
くわ
「兄ちゃん。詳しく話してもらおうか」
ナノるど
イルダーナフとゲオルディの表情が鋭くなった。
面影は幻の披力
かなた
三章 彼方の空
とばり
荒野に夜の帳がお。た。
・
空には蝮々と月が輝き、荒野を照らしている。
「見つからないな」
あぶ かげ
立ち止まり、カイルロッドは夜空を仰いだ。夜だというのに明るく、足元には影が落ち
あお さつかく
ている。赤い大地が今は蒼く、カイルロッドは自分が深い海の底にいるような錯覚を覚え
た。
「これで訓練じゃなければ、いい夜なんだけどなぁ」
不毛の荒野でも美しい風景はある。いや、自然すべてが美しいのだ。
「こんな夜は月見がいいな」
つぶや だれ
呟いてから、カイルロッドは小さく宿をすくめた。誰もいないのに、つい話してしまう。
こんな場所にいると、世界中に自分しかいないような錯覚を覚え、考えていることが独り
言になって出てしまうらしい。
「けど、目で探すな、か。俺にできるのかなぁ」
いわかr′′ かわ
ゲオルディの忠告を思い出し、カイルロッドは小さく笑った。そして岩陰に座り、皮
ぶくろ
袋の口を開けてゴソゴソと中をまさぐった。水と食料の他に、毛布が入っていたので取り
にちぼつ
出し、くるまった。日没と同時に気温が下がり始め、吐く息が白いほどだ。火を起こそう
にも、道具も燃やせる物もない。
「凍死なんてことはないだろうな」
白い息とともにそんな呟きを洩らし、カイルロッドは昼間の出来事を回想していた。
こうや
とは言っても、赤い山から荒野に出る前までのことに限られている。オアシスにフェル
だいしんでん 1レかノ、
ハーン大神殿の刺客が現われたり、エル・トパックがやってきたことなど、カイルロッド
にせもの
が知るはずもない。そして、自分の偽者が現われたことも。
こ こ ・ J・
「母上・」
しようぞうが
カイルロッドは肖像画の母を思いうかべた。ゲオルディから話を聞き、カイルロッドは
みこ しよくぼう
不思議だった。巫女の地位を追われ、嘱望された未来を捨て、生命をかけてまで子供を産
もうとしたのは何故なのだろうか、と。
蔀影は幻の披方
「 ・慢まなかったのだろうか。俺や父を。そんなに愛していたんだろうかフ」
それまでの人生すべてと引き替えにしてもいいと思うほど、愛していたのだろうか。
昔、子供だったカイルロッドにサイードはいつも言っていた。
「おまえの母は、生まれる前からおまえのことを愛していたよ」、と。
肖像画の、線の細いはかなげな少女のどこにそんな激しさがあったのか。
ふいに、カイルロッドはタジの母親を思い出した。
もlたい
「母親というのは偉大だな・・・」
あの激しさに、強さに、かなう者がいるだろうか。
「・母上」
ひぎ かか お
カイルロッドは膝を抱え、額を押しっけた。冴えた月明かりがカイルロッドの上に降。
注いでいる。
それからどれぐらいの時間が過ぎただろうか。
ねむ こうや
知らないうちに眠っていたのか、カイルロッドが我にかえった時、荒野は静ま。かえっ
ていた。
せいじやく
完全な静寂。
.−・ −1・・
世界が凍りついたような、恐ろしいほどの静寂だった。かつてこれほどの静寂をカイル
ロッドは知らない。
「おかしいぞ・こ
きみよう いわかル
カイルロッドは奇妙な違和感を覚え、周りを見回した。月は冴えわたり、荒野を照らし
ちが はだ さ
ている。風景はなにひとつ変わっていない。しかし、空気が違う。ピリピリと肌を刺すよ
つ
うに、異様に張り詰めている。
しかノヽ
「ムルトの妖魔か、フェルハーン大神殿の刺客のお出ましかっ」
けいかい
警戒しているカイルロッドの耳に、
(・・だ)
(でも、そんなことはわかりませんわ )
ねればいしや
ポソポソと、人の声が聞こえた。ひとつは男の、それもおそらく年配者、もうひとつは
若い女の声だ。
こうや
カイルロッドは耳を澄まし、目をこらして荒野を見た。
・ − 7こ .
やや離れた場所に人影が見え ー カイルロッドは鋭く息を飲んだ。
「母上P」
みこしよフヱノヽ
そこには巫女装束のフィリオリと、白いロープをまとった老人がいた。そして、その老
人もカイルロッドは知っていた。
面影は幻の披力
「…・・ザーダックー」
あくま たましい
愛孫のために、悪魔に魂を売。渡した男だ。死んだ時よ。も若いようだが、サーダック
まちが
に間違いなかった。
「どうしてザーダックと母上がn」
そう声に出しかけ、カイルロッドは思い出した。確かザーダックはフェルハーン大神殿
の神官だったと、エル・トパックは言っていた。同じ神殿の神官と巫女なら、顔見知りの
はずだ。
「それにしても、これはどういうことだ け」
ザーダックもフィリオリも死んでいるのだ。それなのに二人はカイルロッドの目の前で
lどよノぜ ぎよユノし
口論している。呆然としながら、カイルロッドは二人を凝視していた。そして気がついた。
かlJ′
フィリオリと老人には影がない。カイルロッドにはあるのに。
まぽろし
「幻なのかフ」
では、目の前にいるのは実体のない影なのだろうか。カイルロッドはゆっく。と近づき、
の ゆ ぬ
フィリオリに手を伸ばしてみた。肩に触れようとしたが、通り抜けてしまう。
「 やはり幻だ」
しかく わな けいかし、
これもまた、フエルハーン大神殿の刺客が見せている罠なのだろうか。警戒心がカイル
しようぞうが
ロッドの中で動いた。だが、それでもいいから、フィリオリを見ていたかった。肖像画で
はなく、動いている母を見ていたかった。
きやしや
「こんなに小さくて、筆書な人だったのか」
おどろ だ
フィリオリを見下ろし、カイルロッドは驚いた。カイルロッドの肩までもなく、抱きし
からだ
めたら折れてしまいそうに細く、筆者な身体をしている。
みこ みご
(巫女であるあなたが、子供を身龍もるなどとは…・。あなたは自分の立場を忘れている
のか)
ザーダックがフィリオリを非難している。どうやらこれは過去の、カイルロッドが生ま
まぼろし うなヂ
れる前の幻らしい。ザーダックが若いのも、フィリオリが肖像画どおりなのも領ける。
みよう かんがい
「自分が生まれる前を見るなんて、妙な気分だな」、そんな感慨を抱きながら、カイルロッ
ドは二人を見ていた。
お せま
さらにザーダックはさとすような口調で、フィリオリに子供を堕ろせと迫った。しかし、
フィリオリは動じなかった。
(いいえ。わたくし、この子のおかげで初めて愛というものを知りました。愛を説く巫女
でありながら、わたくLは愛を知らなかったのです)
(あなたはそれでいいかもしれない。しかし、生まれてくる子供が果たしてそれを喜ぶだ
面影は幻の彼方
のろ
ろうかフ 父親が誰かを知れば、きっと苦しむに違いない。そして我と我が身を呪い、あ
なたを憎むことだろう。その子はただの子供ではない。もしも、憎しみに心を支配された
けろ
のなら、世界はその子によって滅ぼされることだろう。それだけの計まわしい力を持って
ちが
いるに違いないのだ)
じゆうめん
ザーダックの言葉を聞きながら、カイルロッドは渋面になった。同じようなことを言わ
れたことを思い出した。忌むべき存在だと、ザーダックは言った。やは。、カイルロッド
の父親を知っていたのだ。
なぜ
(何故、そう言いきれます? 何故、苦しみや憎しみよ。も多くの喜びを得るとは考えて
はいただけませんの?)
きやしや
フィリオリがきっぱりと答えた。カイルロッドは驚いて、母を見つめた。筆者な少女が
ひどく大きく、強く見えた。
(わたくLはこの子に世界を見せてあげたいのです。美しい世界を)
あま みにく
(あなたは甘い、フィリオリ。美しいだけの世界などあ。はしない。人の世は醜く、苦し
あふ
みばかりが溢れている)
苦い表情でザーダックが言った。
(その中にかけがえのない宝石が落ちているのだと、わたくLは思っています。だからこ
そ美しいのだ、と)
か
フィリオリの手がそっと自分の腹部に触れた。
(この子は生まれながらに多くの苦しみを持つことになります。けれど、この世に苦しみ
なげ
のない人間がいるでしょうか7 誰もが自身の苦しみと嘆きを引きずりながら生きている
のではありませんか。この子も同じです。そして、わたくLはこの子がそれらに負けない
人間になると、信じています)
lヱニ あ・
にっこりと微笑んだフィリオリを、カイルロッドは初めて見た。誇らしげな、自信に溢
れた明るい笑みだ。迷いもなく信じている笑顔だ。どんな理屈も、この笑顔の前には通用
しないだろう。
(わたくLは信じています)
フィリオリがゆっくりと身体の向きを変えた。カイルロッドと向き合う形になり、そし
まなぎ
て、静かな優しい眼差しでカイルロッドを見上げた。まるでカイルロッドが見えているよ
うに。
の
向かい合い、カイルロッドは手を伸ばして、フィリオリの手をとった。触れられなかっ
たが、気持ちは確かに白くて小さな手をとっていた。
「・…ありがとう、母上。俺を産んでくれて、ありがとう」
7 砲l彫は幻の彼力
自身の存在の意義を求めてあがいていたことがある。隙み、苦しんだこともある。だが、
まぼろし ゆめ
もうなにも憎むまいとカイルロッドは思った。幻でも夢でもいい、一番聞きたかった言葉
を、母のロから開けたのだから。
「俺は生きます」
ほはてえ
カイルロッドは強く言った。フィリオリが微笑んだように見えた。
くんじよういろ
陽射しの強さに、カイルロッドは目を開けた。陽は高く、空は群青色に染めぬかれ、赤
こうや
い荒野が広がっている。焼けつくような陽射しの中、カイルロッドは毛布にくるまったま
ま、岩にもたれかかっていた。
「あ 」
周りを見回しても、フィリオリとザーダックの姿はなかった。
「・・やっぱり夢か」
・、1
呟き、カイルロッドは毛布をはねのけた。昨夜の光景は夢だったのだ。死んだはずの二
人が、それも過去の姿が見えるはずなどないのだから。あれはカイルロッドの不安と願望
が見せた夢だったのだろう。
「でも、いい夢だったな」
立ち上がり、カイルロッドは大きく息をついた。夢でもよかったとカイルロッドは思っ
ほこ あふ まぷた
た。誇らしげに、自信に溢れたフィリオリの笑顔が瞼に焼きついている。「俺は望まれて
生まれたのだから」、長い間のしこりが消えたように、心は軽かった。
「さて、早く探さないとな」
の
毛布をしまって水を一口だけ飲むと、カイルロッドは歩き出した。
あしあと
赤い荒野に足跡が残ったが、すぐに風に消された。
2
こうや
探すと一口に言っても、荒野は広かった。
カイルロッドは黙々と、そして、足元に気をつけて、あたりをつけた東の方向に歩いて
しんじゆ
いた。しかし、例の真珠のような白い珠は見当たらない。
目では探せないとゲオルディは忠告してくれたが、どうすれば目に頼らずに探せるのか、
・ 、−
カイルロッドには皆目わからない。
いわかげ
陽射しを避けて岩陰に座り、精神統一をしてみたり、思いつく限りのことをしてみたが、
やはりわからないままだった。
そして、徒労のうちに二日目は終わりかけていた。
面彫は幻の披方
「どうすればいいんだろう。どうすれば見つけられるんだ?」
ゆうくれ ね
夕碁が近くなり、空に金色とオレンジ色の雲が流れ、いよいよ赤くな。かけた大地に寝
転がって、カイルロッドはため息をついた。
「見つけられるかどうか、不安になってきたな・・」
つdや や
自虐的に呟き、カイルロッドは目を閉じた。強い陽射しに灼かれていた地面はまだ熟か
ひろう
ったが、心身ともに疲労しているカイルロッドには心地よく感じられた。
風の音、砂の流れる音が聞こえる。
かなた しヂ
ゆっくりと地平線の彼方に陽が沈んでいくのがわかる。
しっけ ふノ わ1ん
背中から伝わる熟と、かすかな湿気を含んで流れていく風が、カイルロッドの疲労と緊
張をといていった。
「皆、どうしているのかな」
目を閉じたまま、カイルロッドは口元をほころばせた。ミランシャやイルダーナフ、ゲ
いまごろ
オルディ、そしてメディーナは今頃なにをしているだろうか。
「変だな」
さが もの
そんなことを考えた自分がおかしかった。困難な捜し物をしているというのに、何故こ
うも落ち着いているのだろう。
静かだった。
荒野も、カイルロッドの心も、ひどく静かだった。
しL−フめい
身体も心も透明になっていくようだった。大地と大気の中に溶けていくような、そんな
たいない
不思議な感官T−−生まれる以前の、母親の胎内にいるような安心感が広がった。
あせ
焦りが消えていた。
ひろう
疲労が消え、不安が消えた。
てんめつ
ふいに、カイルロッドの頭の隅で光が点滅した。東の方角、そう遠くない場所になにか
ひらめ
ある。脳裏に閃いたのは白い珠だった。
「もしかして、これかけ・」
かわ.−くろつか にちぽつ きよっ▼てう
カイルロッドは紺ね起きた。そして横に置いてあった皮袋を掴み、日没と競争するよう
に白い珠を求めて走った。
赤い大地の中に、白い光があった。
「あったー」
見つけるなり大声をあげ、カイルロッドはそれに飛びついた。それはゲオルディの物に
まちが
間違いなかった。
「これで帰れるぞ」
面影は幻の彼方
しんじゆ うごめ
喜んで拾いあげようとした時、真珠のようだったそれが、ふいに意いた。
驚いたカイルロッドが飛びすさると、それはまるで生き物のように羞きながら、次第に
膨れあがっていく。
ぎしようし
気味悪くなって、カイルロッドは手も出せず、凝視していると、それはある形をと。は
じめた。
巨大な白い虎がいた。
きrfひbめ いちげき かんはう
虎は牙を閃かせ、カイルロッドに襲いかかった。一撃をどうにかかわすと、間髪いれず
こうげタ しす えいり つめ さ
に虎は攻撃してきた。カイルロッドは身体を沈め、横からの鋭利な爪を避けた。
「どうなっているんだP」
叫んでみたところで、答えてくれる者はいない。わけがわからないが、攻撃されている
たお
以上、この虎を倒さなくてはならない。
ぬ
カイルロッドは短剣を抜いた。そして、虎に向かって走って行った。
虎が立ち上がった。
ぜつみよぅ のど つ
絶妙のタイミングでカイルロッドはその間合いに入。、短剣を虎の喉に突きたて、後方
に跳んだ。
ドオッと重い音と土煙をたてて、白い虎は転がった。
「ただの珠じゃないのか ・」
..
額の汗を拭いながら、カイルロッドは唸った。単純に珠を探してくればいいと思ってい
ト..・
たが、とんだ甘い考えだったのだ。
「これも訓練か。まったく、イルダーナフが敬語を使うだけのことはあるな」
たお
妙な感心をしていると、倒れていた虎が形を変えた。
虎だったものが、鳥へと姿を変えた。
やはり白い、巨大な鳥だった。
ひび
空に響き渡るような鳴き声をあげ、鳥がはばたいた。強風がまきおこり、砂や石が舞い
かみ
上がる。カイルロッドの髪がバサバサと波打った。
「くっー」
か とど
強風にとばされないよう、カイルロッドは踏み正まった。
白い鳥は星の見えはじめた空に上昇した。それから光のような速さで、カイルロッドめ
がけて落下してきた。
するどくちばしっめ さ れつ
鋭い境と爪を避け、カイルロッドは大地に転がった。が、完全には避けきれず、肩に裂
傷を負った。
きぴ
「まったく、厳しい訓練だな」
きヂくち
傷口をおさえ、カイルロッドは苦笑した。これでは妖魔に襲われているのと、なんらか
ちが
わりがない。ただひとつ違うのは、ここにはカイルロッドの他には誰もいないこと、他人
を巻き添えにしないですむということだけだろう。
にら
急降下してくる鳥を睨み、カイルロッドは片手を前に出した。
「はぁっ!」
つりぬ
気合いをあげ、手に神経を集中させた。光が弄り、鳥を貫いた。
へげ
鳥は落下しながら、また形を変えていた。そして、白い蛇が大地におりたった。
「俺は生きて帰る」
カイルロッドは手の中で短剣を回した。
長い時間が過ぎた。
あるいは短かったかもしれない。
カイルロッドの意識は膵臓として、身体はくたびれ果てていた。
「・不死身か、こいつは」
はげ
肩で激しく呼吸しながら、カイルロッドは目の前にいるそれ ー 三つの頭を持った巨大
な犬を睨んだ。
25 両J影は幻の彼方
へぺぽう
これでいくつめの変貌なのか、どれだけの数を倒したのか、もはやカイルロッドには数
えられなくなっていた。倒しても倒しても、たちまち姿を変えて、カイルロッドに襲いか
かってくるのだ。きりがない。短剣と力を使っているのだが、まるで効果がないのだ。
「妖魔は倒せたのに」
はぎし
カイルロッドは歯乱りした。イルダーナフに言われたとお。、これではムルトには歯も
たたないだろう。
ちが
夜空には満天の星が輝いている。昨夜と違って、月明かりがほとんどないが、星の光が
こフや
荒野を照らしていた。
カイルロッドは三つの頭の犬と向かい合っていた。六つの目が赤く燃えている。
「このままでは殺されるな」
疲労で感情が麻痺しているのか、ひどく冷静にカイルロッドは独自した。力を便いたく
▼でへ′かい
とも、疲労でとても使えない。もっと制御して使っていればよかったと後悔したが、もう
おそ
遅い。
たたか
今のカイルロッドは立っているのがやっとだった。短剣すらひどく重く感じられる。闘
いの激しさを物語るように、短剣はポロポロに升こぼれしていた。
「どこまでもつかな」
ポロポロの短剣と自分の身を笑った時、大地を蹴って三つの頭の犬が飛びかかってきた。
とっさにカイルロッドは短剣を前にかざした。それをひとつの頭がロでとめ、そのまま噛
み砕いた。
金属の砕ける高い音が、カイルロッドの意識を叩いた。
「 − 〓」
カイ心ロッドに武器はない。
犬の六つの目がカイルロッドを射ている。力で消してやりたくとも、芋が動かせない。
はな
犬の足が大地から離れた。
「消えろ」
つぷや
ほぼ同時に、カイルロッドは小声でそう呟いた。
消∵エ:テ・シ・マ・工。
きようふかん
怒りでも憎しみでもなく、そして我を忘れるほどの恐怖感からでもなく、意識的にカイ
ルロッドはそう思った。
犬は消えた。
・1
カイルロッドに飛びかかる直前、砂のように崩れてしまった。カイルロッドの足元に白
い砂の山ができていた。
面影は幻の彼方
127
「なにも起きなかったのに」
ひよんノしぬ
カイルロッドはいささか拍子抜けした気分だった。手から光も出ず、なんの変化もなか
ったのに、犬は消えてしまった。それがどういう意味なのか、カイルロッドにはわからな
かった。
ノ、ず
白い砂山は風に崩された。
流されながら一カ所に集まり、ある姿に変わっていく。
「今度はなんだ」
いい加減にしてくれという気分で、カイルロッドは舌打ちした。
hソ0よノ ぺノ
夜空に竜が浮いていた。
はのお へいげい
全身が真っ白だが、目だけが炎のように赤い。その日がカイルロッドを輝睨している。
「ヨクココマデキタジャナイカ。マズハ誉メテヤルヨ」
やゆ
竜のロから椰撤するようなゲオルディの声が流れた。意外というよ。、「やっぱり」と
いう気分が強かったので、カイルロッドは白い歯を見せた。
さぴ
「ずいぶんと厳しい訓練ですね」
ととの
息を整えながら、カイルロッドが言うと、竜の目がスッと細くなった。笑ったようだ。
「コレデ昔ヲ上ゲルヨウジャ、ムルトノイル場所マデタドリツケナイジャロウヨ」
「俺はムルトに勝ちたいんです」
カイルロッドは竜を見上げた。
「どんなことをしてでも」
「今スグトイウワケニハイカナイジャロウ。何事こそ順序ガアルモンジャ。オヌシバ強ク
たお
ナッティク。強クナリタイトイウ気持チガアル限リナ。アトハコレヲ倒シテミルガイィ。
コレデ最後ジャカラナ」
言い終えると同時にゆらりと竜が動いた。
敵意を感じ、カイルロッドは構えた。
「俺は負けないー」
さIナ きーlつ
叫んだカイルロッドを中心にして、赤い大地に放射状に亀裂がはしった。
はのおは
竜は大きくロを開き、カイルロッドめがけて青白い炎を吐き出した。
しんどミノ か
夜気が震動し、カイルロッドの足元から、銀色の風が吹き上げる。風はカイルロッドを
巻いた。
しゆんかん
竜の吐いた炎はその風に巻き込まれ、次の瞬間には一転、竜めがけて生き物のようにか
らみついた。
つた しょぅめつ
全身に炎が蔦のようにからみつき、瞬時にして竜が消滅した。
29 両l影は幻の彼方
その一呼吸後、白く光る小さな物が、空からゆっくりと落ちてきた。
足を引きず。ながら、カイルロッドが行ってみると、ひび割れた大地の上に白い珠が落
ちていた。
「白い珠に戻っている」
りよフひぎ の かみなり
カイルロッドは両膝をついた。拾おうとして手を伸ばしたが、雷にうたれたように引っ
込めた。
「また変形するんじゃないだろうな」
確かめるように数回、珠を指先でつっ突き、変わらないと確信してから、カイルロッド
はそれをつまみあげた。
「これで帰れるぞ」
はがん
手の中で転がしながら、カイルロッドは破顔した。
「きつかったなぁ」
・
白い珠を手の中に握ったまま、カイルロッドは前に倒れた。安心して気が抜けたため、
ひろう
急に疲労がのしかか。、身体が言うことをきかなくなっていた。
「少しぐらい、休んでもいいよな」
つぷや
誰にともなく呟き、カイルロッドは伏したまま、目だけを動かした。
空は白みはじめていた。
いつしゆん こうや
地平線からいく筋もの光が矢のように現われた。夜明けの一瞬、赤い荒野は黄金の大地
となる。
きれい
「綺贋だな。・世界は綺麗だ」
かたすみ
それを視界の片隅におさめ、カイルロッドは目を閉じた。
やみ
意識が深い闇の底に落ちていった。
3
ネノすぐb とうくう
夜明けの光が薄暗い洞窟の中にも差し込んだ。赤い山にある洞窟で、ゲオルディの住み
かである。
「ほうほう、こりゃ、たいしたものじゃ」
つつわ のク
器に水をはり、それを水鏡にして覗いていたゲオルディの驚嘆の声が、洞窟いっぱいに
H′
響き渡った。
「正直なところ、まさかここまでやるとは思わんかった」
おどろ いつしよ なが
ゲオルディは「驚いた」を連呼するが、一緒に水鏡を眺めていたイルダーナフは、わざ
とらしいためいきをついた。
面彫は幻の披方
「最初からあんなしぶといやつをあてて、カイルロッドが死んだらどうするつもりだった
んですか」
あご たたか
水鏡に映っているカイルロッドを顎で指し、イルダーナフ。二人はカイルロッドの聞い
ぶりの一部始終を見ていたのである。
「俺は見ながら冷汗をかいてましたよ」
む
そう言いつつ、黒い目は笑っていた。ゲオルディは「ケケケ」と少ない歯を剥き出して
笑い、
ぽうず
「なにをほざくか。あの坊主が死ぬなんて思ってもいなかったくせに」
はもん
杖で水面を叩いた。波紋が広がってカイルロッドの姿は消え、水面はなにも映さなくな
った。
おこ
「じゃが、これで身に危険が迫った時と怒った時以外にも、力を使えるようにはなったよ
うじゃな」
どよノノ、つ
ゲオルディは洞窟から外に出た。イルダーナフがお供するようについていく。
こうや す つゆ
朝日を浴びた荒野が黄金に染まっていた。空気は冷たく澄み、根付いている草の薬に露
が光っている。
「一応は、というところですか。楽観はできませんがね。なにしろ甘い坊やですから」
ま.J
朝日の眩しさに、イルターナフは目を細めた。
「サイードとダヤン・イフェが、相当に甘やかして育てたらしくて。俺はダヤン・イフ工
に、王子をきちんと鍛えておけと言ったんですがね」
ぼやいたイルターナフを、ゲオルディが見上げた。
「どうせなら、赤ん坊の時におぬしが引き取って、育てていればよかったものを」
「そうしたかったんですが、サイードとダヤン・イフェに泣きつかれたもので…・。短い
ひとな
時間でも人並みの生活をさせてやりたい、そう野郎二人で泣き落としするんですよ。うっ
とおしいったらありやしねぇ」
思い出すのも嫌だというように、イルダーナフが顔をしかめると、ゲオルディは満面を
しわ
艇だらけにして笑った。
「おぬしみたいな男でも、情に負けることもあるんじゃな。意外な一面というところじゃ
な」
「なぁに。あなたはどじやありませんよ」
ニヤッとイルダーナフが笑いかえす。
「なんのことじゃ?」
ゆめ
「カイルロッドにいい夢を見せてやったじゃありませんか」
33 面影は幻の彼方
ぱば
「ふん、悪いか。あんだけ素直で、美男子とくれは、この婆でもひいきしてやりたくなる
もんじゃ。それに、あれは都合のいい夢じゃないぞ。事実じゃ」
かヽ
照れ臭そうにゲオルディがそっぽを向いた。イルダーナフはゆるんでいる口元を手で隠
していた。
「ま、支えがあるのはいいことです。この先のことを考えれば 」
こうや きび
荒野を見つめるイルダーナフの顔が厳しくなった。
「おお、そうじゃ。ところで、あの神殿の若者はどうしたっ」
思い出したように、ゲオルディが杖で自分の頭を軽く叩いた。
lこセもの かんし
「帰りました。例の偽者の監視に行くみたいですな。まったく、ご苦労なこって」
と言いつつ、イルダーナフの口調も表情も少しも同情していない。
ぱふり
「あれもなかなかにしたたかな青年じゃな。ふん、神殿も馬鹿ばかりではないらしい」
いやみ せりふ うす
皮肉とも嫌味ともつかないゲオルディの台詞に、イルダーナフは薄い笑みをは。つけた
まま、黙っていた。
むか
「さて、ともかく合格したようじゃから、ご褒美にメディーナを迎えに行かせるか。つい
ちゆ
でに治癒させればいいしな」
うなdP どうくつ もど
自分の意見に満足そうに領き、ゲオルディは洞窟に戻った。
イルダーナフは残り、しばらくの間、そこにたたずんでいた。
, − ・−.
甘い香りがした。
からだ ひろう
カイルロッドは身体から疲労が消えていくのを感じていた。
「… …こ?」
うす くろかみ ゆ
不思議に思って薄く目を開けると、すぐ横で長い黒髪が揺れていた。
「 …メディーナ?」
ひぎ ろば
顔だけ動かして見ると、カイルロッドの横に膝をついたメディーナがいた。近くに放鳥
がいる。
むか
「迎えにきた」
はた
メディーナは無表情に言い、白い手をカイルロッドの上から離した。疲労が消えたのは
ちゆじゆつ きず
治癒術のおかげだと知り、カイルロッドはゆっくりと身体を起こした。傷も消え、疲労も
嘘のように消えていた。
「あ・・…・」
にぎ
白い珠を思い出し、握りしめていた手を開いた。確かに白い珠があり、カイルロッドは
ホッとした。
35 面影は幻の彼方
「助かった、ありがとう」
そ け
立ち上がってカイルロッドが礼を言うと、メディーナは素っ気なく、「ゲオルディ様に
むすめ
言われて、来ただけだ」と言った。事実だろうが、礼も言わせてくれない娘に、カイルロ
ほlま か
ッドが困ったように人差し指で類を掻いていると、
「もう歩けるな。家まで半日だ、夕方までにはつく」
ろば たづな
事務的なことだけを述べ、メディーナは駿馬の手綱を引いて、先を歩き出した。
赤い大地を、二人と一頭は黙々と歩いていた。
「あの、メディーナ…I L
「しゃべると体力を消耗するぞ」
.・・、・・・・、.、
数日ぶ。に他人と話せるとあって、カイルロッドは喜んでいたのだが、そう言われては
だま さび
黙るしかない。なんだか一人でいるよりも淋しい気持ちを引きずって、カイルロッドは
黙々と足を動かしていた。
「大変だったようだな」
ぷあいそよノ
あま。にしょげた表情をしていたのだろうか、メディーナが無愛想に話しかけてきた。
「え? ああ、きつかったよ」
つか
気を遣ってもらっているのだと知り、カイルロッドは嬉しくなった。無愛想だが、冷た
むすめ
い娘ではない。
きぴ
「そうか。しかし、ゲオルディ様は見込みのある者にしか厳しくしない。王子には見込み
があるのだろう」
うぬぼ
「 どうなのかな。俺は、心のどこかで自分の力に少し自惚れていた。自分ではムルト
を倒せるぐらい強くなったつもりでいたんだ。でも、そうじゃなかった。それを思い知ら
されたよ」
正直にカイルロッドは答えると、メディーナの衷情が優しくなった。
みけレゆく
「自分の未熟を知る者は強くなれる。ゲオルティ様も親父もそう言っているから、きっと
王子は強くなれるだろう」
慰めてくれているのだ。カイルロッドは礼を言おうとしてメディーナを見たが、その硬
しっ 〃.〃せノ
質の美貌から優しいものは消えていた。
「そうだ。一昨日、エル・トパックとかいう男がきたぞ」
とつぜん
突然話題が変わった。エル・トパックと聞いて、カイルロッドは驚いた。
せきわん
「隻腕のフ」
「ああ。その日のうちにすぐに出て行ったが、その前に親父となにやら話しこんでいたよ
37 面影は幻の彼方
うだ。なにを詣していたのかはわからない。ミランシャもひどく気にしているんだが」
ヱ1.1・.
エル・トパックの登場に、カイルロッドは胸騒ぎを感じた。人間的にエル・トパックに
ひんししや
は好意を持っているが、なにしろ神殿の監視者なのだ。
「−なにかあったのかな」
カイルロッドの胸中に、暗雲にも似た不安が広がっていた。
らんもく おこで
ふいに沈黙が訪れた。メディーナは関心がないのか、あるいは深く関わらないように自
制しているのか、カイルロッドを問いつめた。しなかった。これがミランシャなら、好奇
やつ ばや
心剥き出しに、矢継ぎ早に質問を浴びせることだろう。そして、カイルロッドはそういう
はんのう とまご ろうばい
ミランシャの力の反応に慣れていたので、メディーナの沈黙に戸惑い、狼狽した。
すご
「え、えーと。俺、イルダーナフに娘がいるなんて、凄く驚いたんだ」
あわ
なにか話さなくてはと、慌てて話題をふると、メディーナはテラッとカイルロッドを横
目で見て、
「本当の父親ではないがな」
しルとう
あっさりと言った。あまりにさら。と言われたせいか、その意味が浸透するまで少しの
時間が必要だった。
一実の父親じゃないの?」
「多分な」
きおく
それから、メディーナが話してくれたのは、物心ついてからの一番古い記憶だった。子
たお
供のメディーナは、血を流して倒れている男にすがりついていた。その様に血の滴り落ち
ている剣を持った大男が立っていたという。
おやじ
「立っていたのが親父だろう。思うに、倒れていたのがわたしの実父か、あるいは身内と
いうところだな」
ろば
駿馬を引きながら、淡々と言う。カイルロッドはメディーナの横顔を見ていた。
「憎んでいないのフ」
なぜ
「何故? あんな親父に殺されるようなら、どうせろくでなしに決まっている」
一息で吐き出してから、
えたい
「それに、あんな得体の知れない男でも、今まで育ててくれたんだ。潜む理由はない」
ささや そくぎ
小声で囁いた。「ずいぶんと物分かりがいいんだな」と思ったが、即座にカイルロッド
かつとう
はその考えを否定した。そんなふうに思えるようになるまで、メディーナは葛藤したので
はないだろうか。葛藤の果てに、そこにたどりついたのではないか。
だからこそ、蕃態をつきあいながらも、イルダーナフとメディーナの間には温かいもの
が通っているのではないか。
面影は幻の彼方
「なんだか、急にあなたやイルダーナフに親近感がわいてきたな。俺も実父を知らないん
だ」
めずら
明るいカイルロッドの声に、珍しくメディーナが表情を動かした。
「サイード国王は?」
・.・・ 7
「養父だよ。でも、俺は本当の父親だと思っている。あなたがイルダーナフをそう思って
いるようにね」
「・・」
ぷつちようづら
カイルロッドが笑いかけると、ふいにメディーナほ仏頂面にな。、歩き方が遠くなった。
おこ
怒ったのではなく、解れているのだろう。
「結構、子供っぽいところもあるんだな」
しんせん
カイルロッドは新鮮な驚きで、メディーナを見た。ずっと年上のように思えていたが、
ヱノれ
存外そうでもないと知。、なんとなくカイルロッドは嬉しかった。
二人と一頭は黙々とオアシスを目指して歩いた。
4
ゲオルディの訓練に合格し、オアシスにたど。ついたカイルロッドを待ち受けていたの
にせもの
は、エル・トパックの持ってきた「カイルロッドの偽者」の話だった。
「俺の偽老け なんだ、それけ」
いす
椅子から半分腰をうかせ、カイルロッドは正面にいるイルダーナフにくってかかった。
「なにって偽者だろフ ここに本物がいるんだからよ」
つ お
イルダーナフの人差し指が、カイルロッドの額を突いた。押され、カイルロッドは椅子
の上に座った。
「どうして俺の偽者なんか 」
まえがみ うめ
予想だにしなかった事態に、カイルロッドは前髪をかきあげて坤いた。エル・トパック
むなさわ てきちふう
が現われたと聞いて、感じた胸騒ぎは的中していた。
やつかい
「まったく、どうしてこう次から次へと厄介なことぽっかり起きるのよ」
イルダーナフの隣りに座っているミランシャが、両手で頭を抱えている。
lこい
「つまり、エル・トパックの兄ちゃんが言うには、カイルロッドと名乗る野郎が、手当た
おふ
り次第に街や村を襲っているんだとよ」
テーブルをコツコツと叩きながら、イルダーナフはつまらなそうに言った。
おやlネレ
「親父、そのエル・トパックが嘘をついているという可能性はないのかフ」
さかぴん
ドンと、イルダーナフの前に酒瓶を置き、メディーナが訊いた。イルダーナフは素早く
面影は幻の彼方
酒瓶に手を伸ばし、
わかぞう ばあ
「ねぇな。第一、そんなこと無理じゃねぇか。あの若造もなかなかの実力者だが、婆さん
...
を出し抜けるほどじやねぇ」
グラスにも注がず、そのまま飲みだした。
.・ ・
「他人の名前を騙って、ひどいことしやがってー そんな奴、絶対に許さない−」
しわ はりわたlこ
カイルロッドは怒。で腸が煮えく。かえっていた。奥歯を噛みしめて唸ると、酒瓶片手
なだ
にイルダーナフが「どうどう」と、暴れ馬でも宥めるような仕草をした。
「おい、イルダーナフー 俺は馬じゃないんだぞー」
にせもの
「まぁ、落ち着けよ。その偽者がどこにいるかはっきりしたら、エル・トパックから知ら
せがくるからよ」
怒。で口もきけないカイルロッドと対照的に、イルダーナフは冷静だった。先に話を聞
ひとこと
いていたせいもあるのだろうが、とにかく落ち着き払っている。「他人事だと思って」、カ
イルロッドは心の中で舌打ちした。
「でも、どうしてエル・トパックがわざわざ知らせてくれたのかしらフ」
しんでん いr
「神殿の手にあまるからじゃねぇか? なんでも、数人がその偽者に挑んだが、あっさり
と返。討ちにされたんだってよ」
にせもの
首をひねったミランシャに、イルダーナフがそう説明した。エル・トパックはその偽者
が自分達の手にあまると判断し、そして「カイルロッドの偽者」とあれば、イルダーナフ
も知らん顔しないとふんで、やってきたのだろう。
「敵なんだか味方なんだか、わからない人だな」
せきわん おだ ようぽう
隻腕の青年の穏やかな容貌を思いうかペ、カイルロッドは音のないため息をついた。
「ねぇ、じゃあ、返り討ちにされたってことは、その偽者は強いってことよね〜…・ひょ
っとして、王子みたいな不思議な力があったりするのフ」
おそ
ミランシャが恐る恐る、イルダーナフを見上げた。
「らしいぜ」
さかぴん うなず いや
もう酒瓶を空にしたイルダーナフが重々しく肯き、ミランシャは「もう嫌っ」と短く叫
つ ぷ
んでテーブルに突っ伏した。
「それに、もしかすると、王子より上かもしれねぇやな。おい、メディーナ、もう一本く
れ」
さいそノ、 むすめ ふ
イルダーナフは次を催促したが、娘が無言で空の酒瓶を取り上げ、頭上に振り上げたの
しぷしぷ あきら
で、渋々と諦めた。
の
「酒ぐらい飲ましてくれたっていいじゃねぇか」
面影は幻の彼方
未練たらしく空の酒瓶を見ているイルダーナフに、
やつ
「そんな奴がどうして……。でも、なんの目的でフ」
とりはだ
鳥肌をたてて、カイルロッドが訊いた。「俺よ。強いかもしれない」、そう言われ、冷水
を浴びたようにゾツとした。
「王子をおびき寄せる。あるいは、敵を増やす。まぁ、そんなところだろうな」
たんたん
イルダーナフは淡々としている。
「おびき寄せるはわかるけど、敵を増やすっていうのは?」
かた そうぽう
カイルロッドが身体を乗り出すと、イルダーナフの表情が硬くなった。黒い双畔が冷や
なまつば の
やかに光っている。知らず、カイルロッドは生唾を飲んでいた。カイルロッドだけでなく、
きんちよう
この場にいるミランシャ、メディーナまでが全身を緊張させて、イルダーナフの次の言葉
を待っていた。
にせもの きつりく
「いいか、こいつを肝に命じておけ。王子、偽者ってぇ野郎が殺教をしている以上、おま
ねb だいしんでん
えさんをつけ狙うのは、ムルトやフエルハーン大神殿だけじゃねぇ。各国の王が、街や村
の人間が、おまえさんの敵になる」
するど なまり
イルダーナフの言葉は鋭く、そして鉛のように重かった。カイルロッドは背中に冷たい
はかい
汗をかいていた。ムルトやフェルハーン大神殿だけでなく、偽者に破壊された村や街の
ぞうお
人々の憎票が向けられると聞いては、カイルロッドでなくとも青ざめるだろう。
rfか にせもの
「そんな馬鹿なー だって、それは王子じゃないのよ、偽者なのにー」
テーブルを叩いて、ミランシャが立ち上がった。
わぎわ かつしよ′、はだ ぎんばつ
「目立つ外見が災いしてんだよ。褐色の肌に銀髪、青い目なんて、ざらにゃいねぇやな。
わめ
いくら偽者だと喚きたてても、誰が信じてくれるやら」
そこでイルダーナフは一息つき、真っすぐにカイルロッドを見た。
たまご ちが
「しかも、ルナンの王子は卵王子だ。今まで笑っていたが、これからは違う。卵から生ま
えたい ばけもの まら はかい
れた得体の知れねぇ、つまり化物ということにされちまう。化物なら、村や街を破壊する
ぐらいは簡単だ、とな。エル・トパックは困っているようだが、神殿の上層部にゃ、偽者
やつ
の登場を喜んでいる奴がいるはずだ。そいつらなら、ここぞとばかりにそうやって人々を
煽るだろうよ」
カイルロッドの視界は真っ暗になっていた。こんな話があっていいのだろうか。
すべてが敵になるのだ。
ムルトの妖魔、フエルハーン大神殿、そして群衆、それがすべてカイルロッドの敵とな
る。
「そんな 」
面影は幻の彼方
l・.
どうしようもないぐらい身体が震えていた。歯がガチガチと鳴っている。
さつりく
「…・喜んなことになったら、ルナンはどうなるんだフ 偽者だけど、俺が殺戟している
だま
となれば、各国が黙っていないだろう」
ひがい
戦争になるかもしれない。そうなればサイードやダヤン・イフエ、ルナン国民が被害を
こうむるではないか。
せ むだ
「幸か不幸か、ルナンはムルトの魔力で石になっている。攻めたところでまぁ、無駄だな。
ムルトに守られているようなもんだ。それは安心していい」
・
滑稽で、皮肉な話だ。しかし、カイルロッドは笑う気になれなかった。
「ひどい話だが、いったい、その偽者の正体はなんだ?」
メディーナは冷静だった。怒りで顔を真っ赤にしているミランシャと、対照的ですらあ
る。
ぱあ
「俺達、つまり俺と婆さんとエル・トパックの意見は一致してる。ムルトしか考えられね
くわだ
ぇや。妖魔が姿を変えているのか、他になにか企てやがったか、そこまではまだわからね
ぇがな」
とらゆう とげら
イルダーナフの言葉の途中で、カイルロッドは席を立って、扉の方に足を向けた。ミラ
ンシャが呼び止めようとしたが、イルダーナフに片手で制止された。
「放っておいてやんな」
ほお さカぴん
頼づえをついて、イルダーナフ。メディーナは奥に入って、酒瓶と人数分のグラスを持
ってきた。
カイルロッドは外に出た。
うで つか
夜空は晴れ渡り、多くの星が瞬いている。カイルロッドは自分の腕を掴みながら、空を
.′−
仰いでいた。
にせ.もの
「・俺の偽者か」
つぶや
カイルロッドはロの中で呟いた。イルダーナフ達はそれはムルトがらみだと言う。
こうげき
「事実なら、ムルトも次から次へと、よくも攻撃してくるものだ」
カイルロッドにはムルトがなにを考えているのか、目的がなんなのか、さっぱりわから
.H.、
ない。今わかることは、こうしているうちにも、その偽者とやらがどこぞの街や村を破壊
さつりく
し、毅教をしているということだけだ。
ねら よフま あ
「俺を狙って妖魔を放つだけでは飽き足らず、偽者を使って、殺戟しているとは・。偽
・ 7.
者もムルトも、必ず倒してやるぞ」
どくはく ふ っぇ
独自したカイルロッドの耳に、砂を踏む音がした。顔だけ向けると、杖を持った老女が
面影は幻の彼方
】47
いた。
「ゲオルディ様」
「どうしたい、こんなところで」
「ああ、そうだ。あの、これ」
忘れないうちにと、カイルロッドはポケットをまさぐって、拾ってきた白い珠を差し出
いちべつ
した。ゲオルディはそれを一瞥し、
「それはおぬしにやろう。いつか、役にたつ時がくるかもしれない」
にっこ。と実った。
「・・」
いちまつ
持っているうちに変形するのではないか −一抹の不安があったが、カイルロッドはゲ
オルディの好意を受け取ることにした。
「ありがとうございます」
白い珠をポケットにしまうと、
「おお、そうじゃ、忘れるところじゃった。これを渡そうと思っていたんじゃ」
わしも歳かの、そう呟きながら、ゲオルディは短剣を取り出した。
くだ
「おぬしの剣は砕いてしまったからな。これも魔除けじゃ」。
つか は
前のものより少し大きい、しかし美しい短剣だった。柄と刃に不思議な紋様が入ってい
ゆいいつ
る。カイルロッドは素直に受け取った。短剣は使える唯一の武器で、ないと困るのは目に
見えていたからだ。その短剣は見た目よりはるかに軽く、何故か手にしっくりとくる。
「使いやすそうだ」
礼を言って手に取り、使い具合を調べていると、
lこせもの
「うかない顔してるじゃないか。偽者のことかい」
みす うなヂ
見透かされ、カイルロッドは無言で額いた。手は意味もなく短剣をいじっている。
かた 7ヽや
「名前を騙られて悔しいか」
ゲオルディの杖がカイルロッドの肩を軽く叩いた。カイルロッドは手を止め、ゲオルデ
ィを見下ろした。
お.こしい
「 王子である俺の名を騙るのは、俺だけでなくルナンも陥れるのと同じですから。ど
ねち
うして俺だけを狙ってくれないんでしょう。俺だけでいいのに、どうして関係のない人ま
で巻き込むんでしょう」
それが悔しく、やりきれない。
いっこく たお
「一刻も早く、その偽者を倒さないと」
ぎよっし
口にしながら、カイルロッドはゲオルディを凝視した。エル・トパックの報告を待つま
画影は幻の彼方
でもなく、この老女なら簡単に偽者を探せるのではないか。そんな期待を抱いたのだが、
やつ
「わしが力を使うとな、ムルトに知られてしまうのじゃよ。そうなると、さらに事態が厄
かい
介なことになってしまうのじゃ」
かんば
あっさりと看破され、そんなことを言われた。がっか。したカイルロッドは、知らずに
肩を落としていた。
「強すぎる力も不便ですね」
「そういうことじゃ。力などない方が幸せじゃろうな」
そつちよく カったつ はいいろ かげ
率直なカイルロッドの意見に、老女の闊達な灰色の目をかすかな翳がかすめた。口に出
さないが、この老女もその力ゆえに辛苦を舐めたことがあるのだろうか。
「なければ欲しが。、あれば疎ましい。人間などそんなもんじゃ。ないものねだりばかり
しておる」
じぎやく のど
どこか自虐的に、ゲオルディは喉の奥で低く笑った。「おやフ▼」と、カイルロッドは思
った。イルダーナフもよく、そんな笑い方をする。自分と他人と、あるいは世の中すべて
かわ まなぎ わら
を乾いた皮肉の眼差しで見つめ、そんなふうに暖っている。
ぬ
「あの、今頃訊くのも間が抜けてると思うんですけど、ゲオルディ様とイルダーナフって、
どういう知。合いなんですかフ」
何気なく訊いてみると、
「見てわからんかっ 親子じゃ」
まがお
真顔でゲオルディ。
「お、親子おり」
じよう一だん してい
「というのは冗談で、師弟じゃよ。おぬし、よくひっかかるのぉ。ひょっとしなくとも、
イルダーナフにいいようにからかわれとるじゃろフ」
.ここここ…」
きみよう いや
ケケケケと、あの奇妙な声で笑われ、「雛なところの似ている師弟だ」と、カイルロッ
でし
ドがうつむいた。なるほど、ゲオルディの弟子だというのなら、イルダーナフが魔法を使
えるわけだ。
カノ、 1.ノい
「隠し芸だの、ちょっとかじっただけだの、口からでまかせぽっかり言っていたんだな」
様々なことを思い出して、カイルロッドがため息をつくと、
「おぬし、あれが敵か味方か、わからんと思うことがあるじゃろうフ」
笑いをおさめ、ゲオルディが話しかけた。
「それは…こ」
くサワご
よく思っているので、カイルロッドは口籠もった。ゲオルディは「よいよい、当然じ
面影は幻の彼方
151
や」と笑った。
「あれはな、おぬしが今のままなら、味方じゃ。じゃが…・・・もしもの時は、敵になるじゃ
ろ」
「もしもの時とはフ」
どういう意味なのかわからず、「赤い山の魔女」 に訊いたが、答えてくれなかった。ゲ
かんじん つぐ
オルディもイルダーナフも、肝心なところになると口を喋んでしまう。それでもカイルロ
いきどお いちだ ▼ところづか
ッドが憤りや苛立ちを感じないのは、二人の心遣いを感じるからだ。
「俺、また、ここへ来てもいいですか? すべてが終わってから、ですけれど」
しわ うなず
短剣をしまい、カイルロッドが言うと、ゲオルディは雛を深くして源いた。
「ああ、かまわんとも」
「また母の話を聞かせてください」
「ああ」
つえ
ゲオルディの杖が、トンとカイルロッドの胸を叩いた。
みやげ
「わしは土産話を楽しみに、おぬしが来るのを待っておることにしよう」
「はい」
カイルロッドは力強く領いた。
こJ
胸のつかえがおりたような気持ちで、カイルロッドは家に戻った。中でお茶でもと、ゲ
オルディを誘ったのだが、「もう用はすんだから」と、山に帰ってしまった。
「ただいま1。あのさ、俺、ゲオルディ様に短剣をもらっ 」
じょうさE.ノハ レLぴJ ほほ
上機嫌で扉を開けて、中に入ったカイルロッドは頬をこわばらせた。
あつ
「あー、暑いよぉ」
ろれつの回らない声と、視界に飛び込んだミランシャの姿に、カイルロッドはもらった
短剣を下に落としてしまった。
「また飲ませたな、イルダーナフ=」
ぬ の
テーブルのLLでミランシャが脱いでいるのを、酒を飲みながらイルダーナフとメディー
ナが見物している。
、つはい
「グラス一杯だけだったんだけどなぁ」
つ▼,や
トに落ちているミランシャの衣服を拾い、イルダーナフがしらじらしく呟いた。
「あんたって人はー」
すき
まったく油断も隙もあったものではない。カイルロッドはイルダーナフの手から衣服を
ひったくり、それをミランシャにかけ、テーブルの上から抱え下ろした。
「メディーナ、ミランシャに服を着せてやってくれー」
あば たの
暑いと暴れるミランシャをおさえながら頼むと、メディーナは席を立った。
ぬ ぐせ めダら
「脱ぎ癖とは珍しいな」
あきら
「どうしてそんなに落ち着いているんだー イルダーナフはもう諦めたが、せめてあなた
ぐらい、脱ぎだしたら止めるとか、どうにかしてくれたっていいじゃないかー」
前にきたメディーナにかみつくと、
じやま
「本人が気持ちよさそうに脱いでいたので、邪魔するのも悪いと思って」
じようだん しんけん くちよう
冗談を言っているとは思えない真剣な口調に、カイルロッドは額に指をたてた。イルダ
ーナフと似たようなことを言う。
「血はつながらなくとも、やっぱり親子だ」
ねむ
カイルロッドが唸っていると、ふいにミランシャがおとなしくなった。眠ってしまった
らしい。
「王子、ミランシャをベッドまで運んでくれ。そうしたら、わたしが服を着せておく」
まか
言われたとおり、カイルロッドはミランシャをベッドまで運び、後はメディーナに任せ
へや
て部屋を出た。
面彫は幻の披方
「まったく….。せっかくいい気分だったのに」
カイルロッドがため息をつくと、
「いい物をもらったな、王子」
ぬぷ
落ちていた短剣を拾い、それを値踏みしながらイルダーナフがニッと笑った。
「見た目より軽くて、使いやすいんだ」
ぽあ
「あの婆さんがこんな物をくれるってぇんだから、おまえさんをよほど気にいったんだろ
うぜ」
つ
短剣をカイルロッドの前に差し出し、イルダーナフはグラスに酒を注いだ。
「短剣だけじゃなくて、白い珠ももらったんだ」
ポケットから珠を出して見せると、イルダーナフが目を細めた。
「ほう」
「でも、俺、返すものがないんだ」
ゲオルディにはしてもらうばか。で、カイルロッドはなにも返すものがない。それが少
にぎ つぷや
し、心苦しかった。短剣を握。しめて呟いたカイルロッドを見て、イルダーナフがグラス
片手に笑った。
つら
「そんなもん、いらねぇよ。また、面を見せてやりやいいのさ。すべてが終わって…・。
じゆう.かん
そうだな。王子が嫁をもらって、子供でもできたら、婆さんに見せてやれや。それで充分
だ」
「…▼・うん」
.、4ト
すべてが終わったら、無事な顔を見せればいい。それ以LLの礼はないのだ。土産話を待
lまがん
っていると、笑ったゲオルディの顔を思い出し、カイルロッドは破顔した。
「そうするよ」
だよ はほ一ヘ
イルダーナフは黙って微笑み、グラスを口元に運んだ。
.
夜が更けていた。
カイルロッドは早々とベッドに入った。ミランシャも眠っている。メディーナもベッド
とぴbすきま
に横になっていたが、どうしても眠れなくて、居間に行ってみた。扉の隙間から細い光が
洩れていた。
ぶでじ
「親父フ」
ソツと扉を開けてみると、居間て一人、イルダーナフが酒を飲んでいた。明かりに照ら
ちんーフつ
されたイルダーナフの横顔は、どこか沈鬱だった。
「なんだ、起きていたのか」
57 両形は幻の彼力
ちが
はない。養父のいつもと違う様子に、
いちべつ
入ってきたメディーナを一瞥し、イルダーナフは口の端をあげた。笑っているが陽気さ
だま
メディーナは黙って向かいの席に座った。
「楽しい洒じゃなさそうだな、親父」
「ふん。わかるかつ」
「ああ」
「そうか」
グラスに酒を注ぎ、イルダーナフ。
「あの王子のことだな」
へや
メディーナは奥の部屋を横白で見、声を低くした。イルダーナフは答えず、グラスを空
にした。
「親父、あの王子は何者だフ」
たず
思いきったようにメディーナは尋ねた。初対面の時から、ずっと気にしていたのである。
むすめ
しかし、イルダーナフはつまらなそうに、娘に一瞥を投げつけただけだった。メディーナ
は勢いこんで吉葉を続けた。
まぞく
「親父、あの王子は人間なのかフ わたしには魔族のように感じられるのだ」
けレ.かい こうげき やど
メティーナの目に警戒と攻撃の色が宿る。それを聞いて、イルダーナフが苦笑した。
ねら むすめ
「それで初対面の時、王子を狙いやがったんだな。この娘はよ」
そつちよく
「率直なところ、どうなんだっ⊥
はぐらかされそうになり、メディーナは切りつけるような呼吸で問いかけた。イルダー
いんうつ
ナフは陰鬱な半眼で血のつながらない娘を見やった。
ぱあ
「・・わからん。あの王子が何者なのか、俺にも婆さんにもわからねぇ」
「そんな−」
あら 一あわ
声を荒げ、メディーナは慌てて口元をおさえた。輿にはカイルロッド達が眠っているの
だ。
「ゲオルディ様にもわからないなんて、そんなことがあるものか」
lま り め1。レり つ
またイルダーナフ得意の法螺話だと思い、目尻を吊り上げたメディーナだが、
「本当のことでな。あの王子が何者か、母親のフィリオリにもわかっちゃいなかった」
じゆうめん いっしよ
イルダーナフは早口に言い、渋面で二気にグラスを空にした。まるで酒と一緒に、苦い
・
ものを飲み込むように。
おやじ
「…・親父」
メディーナは美しい顔を曇らせた。イルダーナフのこんな様子を見るのは初めてだった。
「わかっているのは、化けるってことだけよ。どう化けるか、それはわからねぇ」
面影は幻の彼方
159
はじ
イルダーナフは空のグラスを、指で弾いた。張。詰めた音がした。
「・ 」
わく
「そして、どう化けようと、人間の枠にゃおさまらねぇのさ。ふん、皮肉なもんじゃねぇ
Lつう こどく にがて
か。中身はまるっきり普通の人間だってぇのによ。争いが嫌いで、孤独が苦手で、一八に
こんやくしや ぽんさい
なっても婚約者が決まらねぇと悩んで 。盆栽いじ。が好きで、物を食うのが好きで
−・.
・。単純で善良な、まるっきり普通の人間なのさ。そこが哀れでなぁ」
盆栽と言われ、メディーナは窓の緑に視線を移動させた。形よく刈り込まれた盆栽が置
うれ
いてある。嬉しそうにそれをいじっていたカイルロッドの資を思い出しながら、
「確かにただの人間みたいだな」
つドや しっや いつしよ
メディーナは呟いた。荒野を一緒に歩いていた時にも感じたことだ。凄まじい力を秘め
ていながら、自覚のない、まるっき。人間の顔をしていた。
「メディーナ、この先、おまえの力を借りなくちゃならねぇことがあるかもしれねぇ。そ
たの
ん時は、頼まれてくれるかフ」
けぴ 〃、
どこか暗い響きを含んだイルダーナフの声に、メディーナは視線を元に戻した。イルダ
かげ
ーナフの顔には名状Lがたい翳があった。それほど、これから先には困難が待ちうけてい
るということだろう。
おやじ
「親父らしくもない言い方だ。気味が悪いな。明日は大雨だ」
さかびへ の
メディーナは薄く微笑み、酒瓶に手を伸ばすと、イルダーナフの手の中にある空のグラ
スに酒を注いでやった。
しやく
「娘の酌ってぇのもいいもんだな」
いつしゆん
一瞬、驚いたイルダーナフだが、すぐに表情が明るくなる。メディーナは目だけで笑っ
た。
「感謝しろ」
「おい、何回も言うけどよ、もうちっと色気のある話し方はできねぇのかフ それじゃ、
男が寄ってこねぇんじゃねぇかっ」
「そんな見る目のない男など、こちらで願い下げだ」
..、 7
真面目にメディーナが答えると、イルダーナフはなにがおかしいのか、グラスの中身を
ゆ
揺らして笑っている。
「なにがおかしいんだフ」
つ、ン おが
「いや、その見る目のある野郎の面を拝んでみてぇもんだと思ってよ。どうせまだいねぇ
んだろ?」
「そんな簡単にいるか」
メディーナの返事に、イルダーナフは真っ白い歯を見せた。
「ごもっともだ」
「そういうことだ」
美味そうに酒を飲む父親を見ながら、娘は口元に笑みを作った。
両影は幻の彼方
かげ
四寒 風にたつ影
こうや
カイルロッド達三人が赤い荒野をあとにしたのは、それから三日後だった。
白い臭がエル・トパックからの知らせを持ってきたのだ。それはカイルロッドにとって、
不快なものだったが。
Lせもの たら はかい
《影》は〜エル・トパックはカイルロッドの偽者をそう呼んでいる ー 酉の街を破壊し
たたか
ていた。駆けつけたエル・トパック以下、神殿の者達は六人がか。で《影》と闘った。し
ゆしよっ
とめられなかったものの、負傷させたらしい。その場は逃lげられてしまったが、かな。の
ぶかで けが lノつかい
深傷を負わせたはずだという。その怪我とエル・トパック達の張った結界により、《影》
は遠くに逃げられないはずだ。
「倒すなら今しかありません。ぜひ、あなた方の力を倍。たいのです」
そう、エル・トパックは知らせを結んでいた。
「負傷させたなんて、いい迷惑だぜ。手負いの獣ほど始末の悪いものはないってのによ」
知らせを受け、イルダーナフはぼやいた。
「その偽者、《影》を釘づけにしてくれているのは助かるんじゃないかっ 少なくとも、
lヶがい
他の街や村に被害が広がらずにすむんだから」
カイルロッドはいい方に考えたが、イルダーナフはそうではない。日く、
「エル・トパックは一番面倒なところを俺達に押しっけやがった。そしてあわよくば、王
あいフ ねら
子とその偽者の相討ちを狙ってやがる」
・ ・−
とのことだ。イルダーナフはエル・トパックを警戒している。この男にしては珍しいこ
r....
とだが、それだけあの隻腕の青年が切れ者ということだろう。「そんな腹黒い人には思え
ないけど」と、カイルロッドは思ったが、反論がくるだろうから黙っていた。
エル・トパックの真意はともかく、無視できないことなので、知らせを受けてすぐに三
人はオアシスを出た。
西へと歩きながら、カイルロットは頭に夕1バンを巻いていた。道中、カイルロッドだ
と知られたら、面倒は避けられないだろう。フエルハーン大神殿のばらまいた手配書もあ
かノヽ
ることだし、カイルロットはこれから正体を隠さなくてはならない。
「非常時なんだから、切ってやる」
5 簡影は幻しり彼力
そうも考えたのだが、聞こえるはずのないダヤン・イフェの嘆く声が耳元で聞こえ、カ
・ り・.
イルロッドは断髪を断念した。「切ったら、夢の中で責められそうな気がする」、想像する
おふ カみ
だに恐ろしい。とりあえず、印象を変えるために、長い髪をターバンに押し込むことにし
た。
「よいしょ」
かわぷくろ
夕1バンを巻いてから、カイルロッドは荷物を肩にかけ直した。大きな皮袋で、中には
ゲオルディのくれた物がいっぱい詰まっている。
「ゲオルディ様やメディーナには、色々と世話になっちゃったな」
別れ際の一一人を思い出し、カイルロッドは小さく笑った。
出発する際、ゲオルディはわざわざ見送。に山をお。てきて、「役にたつよ」と、イル
つれ
ターナフやミランシャが呆れるほど多くの荷物をくれたのである。好意は嬉しかったが、
ていらようことわ
それをすべて持っていくとなると軽く馬車二台はいるので、カイルロッドは丁重に断り、
イルダーナフが「よし」と首を縦に振った物だけもらってきた。薬やナイフといった、旅
に必要な物だ。
メディーナはずっと無言で、カイルロッド達が支度しているのを見ていただけだが、
ぼんさい か
「また、来いよ。盆栽の刈り込みをしてもらわんと回るからな」
ー 1.
出発前に真顔でそんなことを言った。これまで周囲に、メディーナのようなタイプがい
ひとがつ
なかったので、カイルロッドはなにかと戸惑っていたが、今では味わいぶかい人柄だと思
おとな みよっ
うようになった。大人びているかと思うと、妙に子供っぽいのだ。
おもしろ
「面白い人だよな」
カイルロッドがクスクスと思い出し笑いしていると、
「なに、笑ってるのよ。気持ち悪いわね」
とげ
横を歩いているミランシャが林の生えた言葉を投げつけてきた。カイルロッドが顔を向
けると、ミランシャはむっつりしている。理由はわからないが、オアシスを出る前あたり
dきげん
からずっと不機嫌なのである。
おこ
「ミランシャ、なんで怒っているんだっ」
「怒ってなんかいないわよー」
怒鳴りつけられ、カイルロッドは首をすくめた。
「怒ってるじゃないか」
1
「うるさいわねー 王子は美人の手を振っていたことでも思い出して、ニヤこヤしてなさ
いよー」
はさ
カイルロッドを挟んで、ミランシャの反対側にいるイルダーナフが口元をひきつらせて
両彩は幻の彼力
いた。笑いをこらえているようだ。
あくしゆ
「美人の手って…。ひょっとして、メディーナのことフ あれは別れの握手をしていた
だけだよ」
りゆうぴ
キョトンとして、カイルロッドは事実を述べたのだが、ミランシャは柳眉を逆立てて、
ブイッと顔をそむけてしまった。
「ミランシャっ」
何回も呼んでみるが、ミランシャは返事をしてくれない。
「どうして怒るんだろうフ」
途方にくれてイルダーナフに質問してみたが、「さあな」とニヤニヤ笑いですっとぼけ
られた。
「わかんないなぁ」
いろちが まえがみ
落ちてきた色違いの前髪をターバンに押し込め、カイルロッドはため息とともに言葉を
は
吐き出したが、
「しまった〓」
りげん
大声を出して、立ち止まった。イルダーナフとミランシャが怪訝な顔をした。
「いきな。でけぇ声出して、どうしたいフ」
「俺、ゲオルディ様に、馬になる魔法を解いてもらうつもりだったのに・・忘れた」
あわ
途中までは覚えていたのだ。しかし、出発の慌ただしさですっかり忘れてしまった。
「せっかくの機会だったのにt」
えんりよ
カイルロッドが叫ぶと、ミランシャの遠慮のない笑い声がはじけた。
つられたようにイ
ルダーナフまで大声で笑いだした。
のんき
「香気な野郎だぜ。まったく」
「いっそ、ずっと馬でいたらっ」
二人の大笑いを聞きながら、カイルロッドは「うー」と唸っていた。
「あ、でも、イルダーナフにだって解けるだろっ 解いてくれよ」
でし たの
ゲオルディの弟子に頼んでみると、
「よーし、いいんだなっ 本当にいいんだなっ どうなるかわかんねぇけど、それでもい
いんだなフ」
.1 .−. 1. . J.
真顔で恐怖感を煽るようなことを言われ、カイルロッドは要求を引き下げた。
「考えてみれば、あたし達、馬がいないと困るのよね」
ろきんかせ
「そうそう。重要な労働力だ。いざとなりや、売って路銀稼ぎもできるしよ」
無責任に明るい会話をしながら、イルダーナフとミランシャが、立っているカイルロッ
169 面影は幻の彼方
こーしサる
ドの横を通。過ぎた。「なんて意地悪なんだ」、カイルロッドは拳を震わせていた。
緑の山間から、細く黒い煙がいく筋もたなびいている。
西へと向かっているカイルロッド達一行の日にそれが映ったのは、赤い大地が黒く変わ
った頃だった。
「あれはフ・」
カイルロッドはその煙を見つめた。訊くまでもなくわかっていたが、口に出してしまい
たかった。
「破壊された街だな」
イルダーナフが断言した。
たなびく煙の間を、数えきれないほどの黒い鳥が飛び回っている。青いはずの空が、黒
はいいろ くも
煙で灰色に曇ったように見えた。
「一人で街を破壊しちゃうなんて 」
ゆが
ミランシャが顔を歪めた。
ぬ
黒煙と黒い鳥の間を縫うように、白い鳥がこちらへ向かってきた。白い臭、エル
し.もベ
クの下僕だ。
トパ
「オ待チシテマシタ。ドゥゾコナラへ」
さ′〃かい
白桑はカイルロッド達の頭上で旋回し、再び飛んでいった。
やつ
「道案内か。ごますりのうまい奴だぜ」
自暴を見ながら、イルダーナフがふんと鼻を鳴らした。
「ともかく、行くんでしょっ」
ミランシャが歩き出し、カイルロッドも桑を追った。イルダーナフはほとんど仕方なく
−.・..−
という面持ちで、若者二人についていった。
「イルダーナフは、エル・トパックが排いなのかフ」
桑を追いながら、カイルロッドが訊くと、
つさんくせ
「胡散臭えからな」
自分のことは棚にあげた答えが返ってきた。聞いていたミランシャが「他人のこと、言
あき
えるのっ」 と呆れた。
そうこうしながら、三人はエル・トパックの案内に従って歩いていた。桑が上空で停止
おか はいきよ
したそこは、丘だった。のぼってみると、眼下に廃墟が見えた。
「・I ひどいな」
カイルロッドは顔をしかめた。
面影は幻の披末
はかい
まさに廃墟としかいいようがない。建物という建物は破壊され、動いているものはなに
ひとつとして見当たらない。かといって、死体が転がっているというのでもなく、廃墟な
のだ。もしも、黒煙がたちのぼっていなければ、百年前の廃墟のように思えたかもしれな
「どうやったらこんなに破壊できるのかしら」
はlず かんがい ぎよフlし
ミランシャの声には激しい憤慨があった。カイルロッドは声もなく、その廃墟を凝視し
ていた。
にせもの かげ しわぎ
「これが、カイルロッド王子の偽者の、《影》 の仕業です」
ゆっく。とした足取りで、反対側からエル・トパックがやってきた。上空にいた白巣が、
エル・トパックの肩に止まる。
かいめつ
「すでに三つの衝、七つの村が壊滅させられました」
おだ きぴ
エル・トパックの穏やかな顔を、厳しいものがかすめた。カイルロッドはエル・トパッ
ノCんじよノ
クから視線を外し、廃墟を凝視していた。この惨状を目に焼きつけておこうと思った。
「死体が見えないけれど、それはどうしてです?」
廃墟を凝視したまま訊くと、
すいそく
「わか。ません。 ・いえ、推測の域を出ていないので、まだ申しあげられません」
1.1▼
エル・トパックから苦い声が洩れた、イルダーナフがかすかに眉を動かしたが、声に出
してはなにも言わなかった。
しよ1ノかh
「ともかく、どうぞこちらへ。わたしの部下を、もう一人しか残っていませんが、紹介し
ます」
うやうやしく頭を下げ、カイルロッドに歩み寄ろうとしたエル・トパックを、イルダ1
きや
ナフが斡つきの長剣で制した。驚いたのか、エル・トパックの肩に止まっていた集が飛び
たった。
「待ちな、兄ちゃん。まさか、おまえさん達と組んで、その偽者を倒すという筋書きなん
じゃねえだろうな」
「わたしはそれが一番手っ取りはやい方法だと思っていますが?」
さルかつしよヽ
イルダーナフの黒いRと、エル・トパックの金褐色の目がぶつかった。
めん Lんでん カ
「俺はご免だぜ。神殿に飼われている犬なんぞと、手を組みたかねぇな」
強い口調に、エル・トパックはひとつ息をつき、
「では、どうでしょう。カイルロッド王子に決めていただくというのは。王子はあなたの
やと ぬし かげ たお
雇い主であり、《影》は彼の偽者だ。どうやって《影》を倒すか、カイルロッド王子に決
める権利があると思いますが」
面影は幻の彼方
「よかろう」
青年の提案にイルダーナフが同意した。
「どうする、王子フ」
イルダーナフ、エル・トパック、ミランシャの決断を待つ視線を一身に受けたが、カイ
ルロッドは迷わなかった。落ちてきた奥の羽根を拾い、
ひんよJ
「この際、その偽者を早く倒すことが肝要だ。たとえ、一時的なものでも、手が組めるな
ら組むべきだ。その方が《影》を倒せて、俺達が生き残る確率が高いと思う」
手の中で回しながら、意見を述べた。体面にかかずらっている場合ではない。敵を倒し、
自分が生き残ること − そのためには、あらゆるものを利用するしかない。
「では、そういうことで。異存はありませんねフ」
エル・トパックは少しホッとしたように言い、イルダーナフは 「わかった」と長剣をし
まった。その顔に失望や残念さはなく、「その答えを待っていた」とでも言いたげな、満
足気な笑みがあった。「色々と試されているんだな」、いまさらだが、カイルロッドはその
ことに気がついた。イルダーナフはカイルロッドを鍛えているのだ、心身ともに。
「では、こちらへ」
エル・トパックが先にたち、カイルロッド達は続いた。
黒煙はまだたなびいている。
2
はいきよ
ユル・トパックが三人を案内したのは、廃墟からさほど遠くない山の中だった。ここで
はげ たたか たお やまはだ ろしlやつ かしよ
激しく闘ったのか、木々がなぎ倒され、山肌が露出している箇所もある。
かァ けつかい
「わたし達は《影》をこの山まで追い詰め、結界で閉じ込めました。残念ながら、それが
せいいつぱい
精一杯でした」
つまり、《影》がいつ、どこから現われても不思議ではないということだ。山の中を歩
きながら、カイルロッドは《影》と出くわさないことを祈っていた。
てお
「手負いの猛獣なんでしょフ」
さんじトトユノ おげ
あの惨状を見た後だけに、ミランシャなど怯えている。表情には出さないが、エル・ト
パックとて平静ではないはずだ。
「いつ出くわせるか、いやー、楽しみだぜ」
ゆいいつ まなぎ
唯一の例外がイルダーナフで、心底楽しそうだ。ミランシャの非難めいた眼差しと、エ
あき
ル・トパックの苦笑、そしてカイルロッドの呆れたような視線に、
「早く出てこねぇかな」
5 面影は幻の彼方
すごみ
待ちどおしいと吉わんばか。に、一一ヤッと笑った。したたかな、凄味ある笑みだ。《影》
が手負いの猛獣なら、イルダーナフは空腹の猛獣だろう。
トかつそう
「えらく物騒な連れだよな」
Hにしたら、ミランシャに「なにをいまさら」と言われるだろうが、カイルロッドはし
みじみと痛感した。
そんなふうに歩いていると、
きよてん
「とりあえず、わたし達はここを拠点にしています」
あと
エル・トパックが立ち止まった。木々の間に野営の跡が見えた。
げんじゆつ
「ほう。こりゃまた、厳重なもんだな」
まほうじん
イルダーナフが感心したのは、地面に描かれた魔法陣を見たせいだろう。
「ここに入っていれば安全みたいね」
あんど かし
ミランシャの安堵の声に、エル・トパックは「どうでしょうか」と小首を傾げた。
「《影》もまた強いのです。いつ、破られるかわか。ません」
つぷや てつさ
エル・トパックが呟いた時、イルダーナフの鉄鎖がうなりをあげた。鉄鎖はカイルロッ
けな ぬ
ド達のいる場所から四メートルほど離れた場所の、大木の幹を通。抜けた。
「ギャッー」
感
悲鳴があがった。幹の後ろに隠れていた者がいて、鉄鎖はその者に当たったのだ。
「ううっ」
苦しげな坤き声をあげながら、木の除から額をおさえた男が転がり出た。手が真っ赤に
濡れている。額を割られたようだ。
「エドナー!」
エル・トパックがその男の名を呼び、駆け寄った。
「 エル・トパックの部下フ」
カイルロッドとミランシャはなんとも気まずそうに顔を見合わせた。協力して《影》を
たお
倒す前に、仲間になる者を倒してしまったのだ。
「 イルダーナ71・。ちょっと、乱暴じゃないかフ」
っぶや 一ル.けん しわ
ちょっとどころじゃないが、と心の中で呟きながら、カイルロッドは眉間に深い駿を寄
せてイルダーナフを睨んだ。
「おじさん、反省してないでしょフ」
ミランシャも睨んだ。しかし、イルダーナフは涼しい顔で、
っかカ
「反省する理由なんざねぇな。俺は悪かねぇよ。こそこそとこっちを窺いながら、殺気を
Egか かげん
放っている馬鹿が悪いんだ。それに、加減はしてやったんだぜ」
面彫は幻の披方
手を軽く自分の方に動かした。風を切るような音がして、鉄鎖がイルダーナフの手の中
なめ あやつ
に戻ってきた。まるで生き物のような、滑らかな動きだった。重く長い鉄鎖を、軽々と操
じんけしよ ノ
るのは尋常ではない。
はいけん
「拝見するのは二度目ですが、素晴らしいですね」
しトでフさん けが
部下の様子を診ていたエル・トパックが称賛した。その態度はどう見ても、怪我をした
めrり
部下を本気で心配しているものではなかった。「部下思いのこの人にしては珍しいな」と
思いながら、カイルロッドはじっとエル・トパックを見ていたが、
「うぐあ…1つうっ」
うめ
額を割られた男の苦しそうな坤き声にハッとして、探るように訊いてみた。
「あの一、その人の具合はどうです?」
「 戦力になnソませんね」
あわ
エル・トパックは淡々とした声と表情で言い、眉を支えて部下を立たせた。慌てて、カ
イルロッドが怪我人の反対の肩を支えた。
「あの一、他には部下はいないんでしたっけフ」
「他の者は皆、《影》 に殺されてしまいました。エドナ1が最後の一人でした」
、1 、・1
カイルロッドは口元がひきつった。戦力を失い、荷物が増えたのだ。
かつ
「・ちょっと、おじさんが担ぐべきじゃないのフ」
つわめ・ペエ
ミランシャが上目遣いに睨んだが、「嫌なこった」とイルダーナフは平然としている。
まはうじん
カイルロッドはエル・トパックを手伝い、怪我をしたエドナーを魔法陣の中に横たわら
・、 −
せ、傷の手当てをした。
.・・
「わたしに治癒能力でもあればいいんですが 」
エル・トパックほどの者でも、治癒能力がないと聞いて、カイルロッドは意外な気がし
た。誰でも治癒能力を身につけられるものとばかり思っていたが、どうやらそういうもの
ではないらしい。
−・
坤いているエドナーを見ながら、カイルロッドまで廟が痛くなってきそうだった。
カfん
「これのどこが加滅したんだよ」
ゆが
顔を歪めながら、カイルロッド。イルダーナフは「手加減」というものを知らないに違
いない。手当ての手伝いをしながらカイルロッドがぼやいていると、
ね一へ いせし
「ところでよ、あの姐ちゃんはいねぇのかっ はら、赤いバンダナを巻いてる威勢のいい
姐ちゃんだ」
手伝う気などさらさらないイルダーナフが、近くの木にもたれかかりながら、そんなこ
7 画彩は幻の披方
とを言い出した。
「ティファですか? 彼女は別の仕事がありますので」
手を休めずにエル・トパックが答えると、
「ふーん。そいつぁ、残念。今、おまえさんが手当てしている、味方のくせに敵みてぇな
やつ
奴より、あの姐ちゃんの方が役にたっただろうによ」
イルダーナフは皮肉たっぷりの笑みをうかへた。
「味方のくせに敵ってフ」
言葉の意味がわからず、カイルロッドは額を割られた男とイルダーナフを見比べた。エ
ル・トパックが顔を上げ、「さすがですね」と苦笑した。
「どういうことっ」
・J...
カイルロッド同様、意味のわからないミランシャが眉根をひそめた。
しんろい
「つま。、このエドナーはわたしにとって、信頼できない部下ということです。わたしは
神殿の上層部に、正しくは神官長に憎まれていますのでねむ部下の中には暗殺者もいるん
ですよ」
慣れているのか、エル・トパックはこともなげに言ったが、血だらけのエドナーを凝視
し、カイルロッドは絶句していた。ミランシャは不快そのものという顔をしている。
「暗殺者はエドナーだけでなく、死んだ他の部下の中にもいたことでしょう」
「やっぱりそうか。気の休まる暇もねぇたぁ、気の毒に」
う′はら っぷや
言葉と裏腹に「ざまあみろ」と舌を出しそうな表情で、イルダーナフが呟いた。
いんけん
「なんて陰険な・」
力なく呟いたカイルロッドに、
H・Mlわたしはエドナーを憎んでいません。…・・命令されれば、下は従わなくてはなりません
からね。ただ、そういう神殿のやり方が許せないのですよ」
きんかつしよく
固い声でエル・トパックが言い、いつも温厚な光をたたえている金褐色の目には激しい
ゆ
感情が揺れてた。
せきわん くわ
どうしてこの隻腕の青年が憎まれるのか、カイルロッドは詳しい事情を知らない。が、
ねら
常に生命を狙われているというエル・トパックと、ムルトや神殿に狙われている自分の姿
が重なって見えた。
「この人も生命の危険と背中あわせなのか」
きみよう
奇妙な親近感でエル・トパックを見ていると、
「おい。それでこいつはどうするんだ?」
はふじ
すぐ横からイルダーナフの声がした。弾かれたようにカイルロッドが顔を向けると、ま
面影は幻の彼方
ぬ けがにん つ
ったく気配も感じさせずにイルダーナフは木から離れて、抜いた長剣を怪我人に突きつけ
ていた。
「ィ、イルダーナフー 怪我人だぞー」
くろカみ せいかん えいり はもの
カイルロッドがうわずった声で叫ぶと、黒髪の大男は精悍な顔に、鋭利な刃物のような
笑みをうかべた。
しか
「だからどうしたってフ むこうから仕掛けてくるのを待つにしろ、こっちから探し出し
たお
て倒すにしろ、この怪我人はただの足手まといだぜ」
「でも、エル・トパックは助けたんだから。足手まといでも、殺すのはよくないよ」
いあつ
イルダーナフのよく光る黒い目に威圧されながら、カイルロッドはなんとかそれだけ言
った。イルダーナフは無表情にカイルロッドを見ていたが、
やと
「…・俺は王子に雇われている身だからな」
ゆが
口を歪めながら、剣をおさめた。カイルロッドはホーツと長い息をついた。口をはさめ
ずに見ていたミランシャも、胸を撫でおろしていた。
けカにん
l 結局、仲間に加わったのはエル・トパックだけで、しかもカイルロッド達は怪我人をか
はめ
かえる羽目となった。
せ1ヌ くる にがて
「俺は狭っ苦しい場所は苦手だぜ」
ま一せっじル
魔法陣の中に入っていたイルダーナフが、頭を掻きながら出てきた。その魔法陣はかな
り大きいものだが、なにしろ五人も入っているのだ。とりわけ巨躯のイルダーナフには辛
いだろう。
「俺も」
カイルロッドも狭い場所は苦手なので、魔法陣から出た。気がつくと、魔法陣の中にい
るのはミランシャと怪我人だけで、カイルロッドとイルダーナフ、そしてエル・トパック
の三人は外に出ていた。
「静かだな」
か1,,くろ けつかい
皮袋の中からナイフを取り出し、カイルロッドは周囲を見回した。結界のせいなのか、
かげ たたか
エル・トパック達と《影》の闘いのせいなのか、山の中は異様に静まりかえっていた。鳥
あらし めい
の声ひとつ聞こえてこない。嵐の前の静けさという言葉を思い出した。「滅入りそうだ」、
ゆ
不安を振り捨てるように頭を左右に振り、カイルロッドはためらいがちにエル・トパック
に声をかけた。
「あの …なにをしているんですかフ」
せきわん まはうじん ざ めい号つ
隻腕の青年は魔法陣から出ると、やおら下に座して目を閉じ、なにやら瞑想し始めたの
183 【酎影は幻の彼方
である。
ルくろつ かげ
「わたしの舎畠が、桑が空からあ影》を探しています」
目を閉じたままエル・トパックは答えた。
「へぇ、便利ですね」
感心しながら、エル・トパックが神官長に憎まれるのは力が強いせいかもしれない、と
カイルロッドは思った。
「ところで、その《影轡は王子そっく。なんでしょ?▼、もし出会ったら、見分けがつくの
かしらフ」
魔法陣の中からミランシャが言うと、エル・トパックは小さく口の両端を上げた。
いろちが まえがみ
「《影》 には色違いの前髪がないんです。それで見分けがつくと思いますよ」
「色違いの髪か」
そう言われ、カイルロッドはターバンに触れた。
「他にゃねぇのかい〜」
うす
イルダーナフの問いに、エル・トパックは薄く目を開けた。
「・・謡してみれば、すぐにわかります」
「 − ?」
おわA つらぬ
カイルロッドが首をひねっていると、ふいに悪寒が全身を貫いた。
危険、危険 −=
カイルロッドの内部で、狂ったように危険を告げる声がする。
つ さ ぞうお
突き刺すような殺意、憎悪。それがカイルロッドに集中している。
「どこからだけ」
.1
無意識に短剣を握りしめ、周囲を見回そうとしたカイルロッドの頭上から、敵意が感じ
られた。これが《影》のものかどうか、それはわからない。しかし、この殺意は尋常では
ない。
「上だー」
きけ カールだか
叫んだカイルロッドの覇に、甲高い鳥の声と、なにかを引き裂く富がとびこんだ。
「ぐつ〓」
ゆカ
エル・トパックの表情が苦しげに歪み、カイルロッドの叫び声が消えないうちに、イル
ダーナフの剣が大木の幹を一刀で切断していた。
ズッ 。
幹がずれ、ゆっくりと傾いた。
「キヤアァー」
面影は幻の披力
まほよノじん
魔法陣の中でミランシャが悲鳴をあげた。
たお
「動くんじゃねぇぞー 反対側に倒れるからなー」
イルダーナフの声は倒れる大木の、近くの木々と擦れる音に消されつつあったが、その
うなヂ
表情から言っていることは伝わったらしく、ミランシャが硬い表情で領いた。
大木はカイルロッド達を避けるようにして、魔法陣の反対側に周。の木を巻き込んで倒
ご・1′おん しんどう つちけむhソ
れた。轟音と震動、そして土煙がたつ中、上から白い物が舞うように落ちてきた。
「・…・雪フ」
つ.一や しゆんかん
カイルロッドは呟いたが、次の瞬間、それが鳥の羽根だと理解し、エル・トパックを見
た。青ざめ、左手で右肩をおさえている。
にせもの
「おいでなすったぜ、偽者がよ」
うれ こわね
嬉しそうなイルダーナフの声音にカイルロッドが目をこらすと、もうもうとした土煙の
ひとかげ
向こうに人影があった。
3
かげ
まさに 《影》だった。
カイルロッドにそっく。な《影》がそこにいた。全身を血に染め、ふたつに引き裂いた
ホくろう
白い桑を持った《影》が。
「こいつが、俺の偽者か・…・」
ぬ カつしよくはだ ぎんばつ
カイルロッドは短剣を抜いた。鏡を見ているようだった。褐色の肌に青い目、長い銀髪。
いろらが まえがみ
色違いの前髪があれば、瓜ふたつだ。
かた
「どうして俺の名前を騙るんだー 目的はけ 誰の命令だP」
質問してみたが、返事はない。ただ、ギラギラとした目でカイルロッドを睨んでいるだ
けだ。
のbLVlぬ
「まるで腹をへらした野良犬みてぇな野郎だな」
長剣を構えながら、イルダーナフが《影妙をそう評した。外見はカイルロッドそっくり
するど ただよ
だが、よく見れば目つきや顔っきが鋭く、すさんだものを全身から漂わせている。
「おまえは何者だ膏」
再度、質問してみると、
「・ 俺はカイルロッドだ」
かくろうしがい
《影》はニッと笑い、カイルロッドめがけて手にしていた桑の死骸を投げつけた。
「カイルロッドは俺だ−」
rで たナハ
死骸を避けながら、カイルロッドはナイフを数本投げた。しかし、すべて素手で叩き落
とされた。
「逃がすんじゃねぇー」
てつさ お・一 びんしよう ちよくげき
うなりをあげた鉄鎖を、《影》がかわした。恐ろしく敏捷な動きだった。かわりに直撃
を受けた細い木が折れた。「ちっ」、イルダーナフが鋭く舌打ちした。
かんはつ ごふ
間髪いれず、エル・トパックが金属性の護符を取り出して投げたが、見えない力によっ
て粉々にされた。
光を反射して護符の破片が飛び散る。
その中を《影》はあざ笑うような笑みをはりつけたまま、奥へと走り出した。
やつ
「なんて奴だ… 」
ばな ぴんしJぅ ぼつぜん
人間離れしている敏捷さに、カイルロッドが呆然としていると、
「ちょっと、なにしてるのよー ぼんやりしてる暇があったら、早く《影》を追いかけな
さいよー」
しっせき
ミランシャの叱責がとんできた。その声にカイルロッドはもとより、イルダーナフや、
ふくろうしがい ふ
桑の死骸にそっと手を触れていたエル・トパックが顔を向けた。
「だって、ミランシャ 」
けがにん
追いかけたらミランシャと怪我人を残すことになる。カイルロッドはそれが不安でたま
面影は幻の彼方
らない。
み
「あたし、ここにいるから。ここで怪我人を看てるわ。この魔法陣の中にいれば安全よ。
だから王子達は《影》を追って1 早くー」
ノ1ちLそフ
カイルロッドの言いたいことを読み取。、ミランシャが強い口調でそう言った。
「でも」
一
なおも危険だと言いかけたカイルロッドの背中を、イルダーナフが押した。
「行くぜ、王子」
つなが うなず
エル・トパックも立ち上が。、促すように領いた。
「・わかった」
いつこく
不安がないと言えば嘘だったが、ミランシャの決意は固く、また一刻も早く、《影》を
たお あせ
倒さなくてはという焦。もあったので、カイルロッドは走。出した。
「気をつけてね」
背中から、ミランシャの優しい声が聞こえた。
せいじやく
189 票影》を追って、カイルロッドは走っていた。静寂の中で聞こえるのは、自分の足音と心
こ.こよノ
臓の鼓動だけだった。
「逃がさない。逃がさないぞ」
じゆもん
象る草をかきわけながら、カイルロッドは心の中で呪文のように繰り返していた。
「まるで《影》 の姿が見えているような走り方ですね」
カイルロッドの後方にいるエル・トパックが、わずかに前を走っているイルダーナフに
話しかけた。
「見えているんだろうぜ」
にこりともせず、イルダーナフは答えた。
まさにそのとおりで、カイルロッドの目には《影》の移動した跡が、空間に残された絵
のようにはっきりと見えていた。いつもならそんな自分に疑問を持つところだが、今のカ
イルロッドにはただ《影》を倒すという一念しかなかった。
「あいつを倒すんだ」
・ 7・ .−. − ・ .
同じ顔の男に対し、カイルロッドは棟署と憎悪しか抱いていない。街や村を破壊した者
が自分と同じ顔で、名前を騙っているのだから、憎悪も嫌薯もひとしおだ。もしかすると、
顔も知らないムルトよりも許せないと思っているかもしれない。
「早く倒して、ミランシャを安心させてやるんだ」
けがにん
不安だろうに、怪我人と残ってくれたあの少女のためにも、《影》を早く倒さなくては
面影は幻の波力
ならないのだ。
「・・ ニー」
ぷノヽ
だしぬけにあの殺意を感知し、カイルロッドは足を止めた。一呼吸遅れて、イルターナ
はんのう
フとエル・トパックが反応した。
「危ないー」
カイルロッドは後方に跳んだ。イルダーナフもエル・トパックも跳んだ。
どこから飛んできたのか、三人が立っていた場所に光の玉が落ちた。
しんどう はくおん ととろ
凄まじい震動と爆音が沸いた。
木々が根こそぎ吹きとはされ、大地はえぐられていた。岩の破片が雨のように降ってき
た。
「相変わらず、無茶をする」
つちけもHソゼ
土煙に咳き込みながら、エル・トパックが吐き捨てた。イルダーナフは「やれやれ」と
のんき
呑気にぼやいて、肩や頭に積もった境を払っている。
「《影》め・こ
しようけき
衝撃でポロポロになったターバンをむしり取り、カイルロッドは低く唸った。そして一
くちげるか まち はいきよ ーくえん
変した風景にきつく唇を噛んだ。この力が街を廃墟にしたのだ。たなびく黒煙の下にあっ
さんじよう せんめし、 よみがえ
た、あの惨状が貫の奥に鮮明に整った。
「出てこいー 姿を見せろー」
・ ・
姿を見せない 《影》に対して、カイルロッドは怒鳴った。声がこだまする。
出てこい。
姿を見せろ。
しんどう J
大気が震動し、強い風が吹きつけた。
ゆ せいじや′、
木々が揺れ、葉ずれが山の静寂を破った。
「王子n」
そで
エル・トパックが風で大きく揺れる右袖をおさえた。イルダーナフは腕組みして、カイ
ルロッドを見ている。
かみ
カイルロッドは強い風を受けて立っていた。髪と服の裾がバサバサと音をたてて、揺れ
ている。
出・テ・コ・イ・《影¥11=。
声に出さず叫んだ時、カイルロッドはなにかが裂ける音を聞いた。あるいは聞こえたよ
うな気がしただけかもしれない。
「うわっ!」
面影は幻の彼ノプ
短い声をあげて、カイルロッドの前に《影》が現われた。
「《影》−」
..・・ 1
エル・トパックは素早く構えたが、イルターナフは興味がないのか、腕組みをほどこう
としない。
「・…どうしてフ」
きようがく
《影》は片膝をつき、驚愕に眼を見開いている。現われたというよ。、なにかに無理や。
引きずり出されたという方が正しいかもしれない。そして、そのままでカイルロッドを見
へぴ にり かえる
上げていた。まるで蛇に睨まれた蛙のように、動こうとしない。
「許さないぞ」
つぷや
低く呟き、カイルロッドは《影》 の前に手をかざした。これから起こることを理解した
の
のか、《影》は鋭く息を飲み、自分の前に両手を突き出した。
.
カイルロッドの手から放たれた光は、《影》の両手に弾き返された。
丁目」
弾かれた光は空にのぼった。
みが どうよユノ さよミノカノ、
ゲオルディに研かれた力が《影》 に通用しないとあって、カイルロッドの動揺は驚愕に
きよ、つ′ふ こお
変わった。「これほど強いとは思っていなかった」、恐怖に背筋が凍。ついた。
「王子の力がはねかえされるとはー」
動揺したのはカイルロッドだけでなく、エル・トパックも顔色を変えた。
「死ね!」
カイルロッドの動揺をついて、《影》が手から光を放った。
「くっー」
正面からのそれを顔を軌かして避けた時、《影》はもう離れた場所にいた。動きが実に
素早い。
えぐられた地面から現われた巨大な岩の上にl1.一光ち、長い髪を風になびかせながら、カイ
ルロッドを畔睨している。
「こいつぁ、手強いぜ」
あこ な つムや
顎を撫でながら、イルダーナフがしみじみと呟いた。
「わかりきったことを改まって言わないでくれ!」
どな
カイルロッドが怒鳴ると、
「俺がカイルロッドだ。おまえは邪魔だ」
岩の上から《影》がそう言い、手を頭上に上げた。
.1 .・・
「気をつけてください! 《影》は魔物を動かせるんですI」
厄健栂幻の彼ブコ
拍5
エル・トパックのかすれた声を、聞き慣れない音が消した。
コポゴボ・。
ようがん
寮えたぎった溶岩のような膏がした。
「足元が−」
下を見て、カイルロッドは賓いた。地面はなく、一面真っ黒になっていた。熱は感じな
のわだ
いが、そこが泡立っている。そして、その泡のひとつがはじけるたび、ひとつの魔物が生
まれ出るのだ。
あくしゆみ
「悪趣味な野郎だぜ。本物といい勝負かもしれねぇな」
次々と生まれ出る魔物を見ながら、イルダーナフは澄まして悪態をついているが、カイ
ルロッドは顔をこわばらせていた。
「俺はこんな悪趣味じゃないー」
ぬま しr
魔物が生まれ出るだけでなく、底無し沼にでもはまったように、どんどん身体が沈んで
ひぎ
いくのだ。身動きもかなわないまま、カイルロッドはすでに膝まで沈んでいた。
「困りましたね」
同様のエル・トパックが鳳をひそめた。
「ど、どうすればいいんだけ」
沈んでいくとあって、カイルロッドはいささか恐慌状態に陥っていた。イルダーナフは
もがきもせず、
「消しゃあいいじゃねぇか」
ここノげき しか
攻撃こそ仕掛けてこないが、周りを飛びかっている魔物に、蝿でも追い払うように手を
動かしている。
「簡単に言わないでくれー 方法がわからないんだー」
つカ わめ
イルダーナフの服を摘んで半分泣き声で喚くと、今までカイルロッド達の様子を笑いな
がら見物していた《影》が、
「おまえなんか嫌いだー いなくなればいいんだ−」
きようみ おもちや よっじ
急に岩の上から叫んだ。その表情と口調は、興味をなくした玩具を捨てる幼児のようだ
った。
「こいつP」
ぎよ,フし
カイルロッドは《影》を凝視した。話し方が幼い ー まるで幼児ではないか。「話して
みればわかると言ったのはこれかっ」、カイルロッドがエル・トパックを見ると、「ええ」
..′r
と韻いた。姿は一八歳の青年でも、中身は違うらしい。肉体と精神がアンバランスなのだ。
「・ ・」
7 画影は幻の被方
カイルロッドは声が出せなかった。不気味さと憐れさと、そんな感情がごちゃごちゃに
なっていた。
「おまえなんか消えろー」
嫌いな食物を皿から放り出すような口調で、《影》はカイルロッドを指差した。
はし
指先から光が一条、カイルロッドめがけて弄った。
さえぎ
が、それはカイルロッドに当たる前に、遮られてしまった。イルダーナフの長剣が光を
弾き返したのである。はねかえった光は《影》の立っている岩を砕いた。
いたずら
「悪戯がすぎるぜ、坊や」
よゆうしやくしやく
腰まで沈んでいるのに、イルダーナフは余裕綽々だった。この自信がどこからでてくる
か
のか知らないが、「今までイルダーナフの根拠のない自信にどれだけ振り回されたことか」、
色々と思い出し、カイルロッドは素直に信用しないことにした。
「…・・おまえが一番嫌いだ」
おもちや ーわ
着地し、《影》は顔を真っ赤にしていた。お気にい。の玩具を壊された表情だ。
ばあ
「王子、婆さんからもらった短剣を下に落とせ」
「大嫌いだー」
イルダーナフが早口に言い、カイルロッドはそのとおりにした。短剣が下に落ちたのと、
《影》が両手をかざしたのと、ほぼ同時だった。
せつな まもの
刹那、短剣が光り、黒い地面は音もなく蒸発した。周囲を飛んでいた魔物達がキーキ1
と声をあげて、でたらめに飛び回った。
「この短剣…・」
拾いあげ、カイルロッドがしげしげと短剣を見ていると、
けつかい
「しまったー 結界が破られるー」
あお
エル・トパックが勢いよく空を仰いだ。
おお
カイルロッドが見上げると、空に雲がわきだしていた。青い空と、雲に覆われたところ
らいこ▼ブ じゆうおうむU′ル
とが見事にふたつにわかれている。その境目で雷光が縦横無尽にはしっていた。強い力の
ぶつかりあいが、結界を内部から破ろうとしているのだ。
おそ
そのせいなのか、ただ意味もなく飛び回っていた魔物達が、カイルロッド達三人に襲い
かかってきた。
ぎ
「雑魚がー」
むぞうさ き じゆもん むさん
イルダーナフの長剣が魔物達を無造作に斬り捨て、エル・トパックの呪文の前に霧散し
ていく。しかし、とにかく数が多い。
まか
「王子、ここはわたし達に任せて、あなたは《影》を追ってくださいー」
姻 面影は幻の彼方
「えけ」
エル・トパックに言われ、やっとカイルロッドは《影》がいなくなっていることに気が
ついた。
「なんて素早いー」
大量の魔物を動かし、そのままどこかへ姿を消してしまったらしい。
「結界が破られる前にー」
カイルロッドは二人を残して、《影》を追った。
4
せいじやノ、
少し前まで静寂に包まれていた山の中が、にわかにざわめきだした。
さわ かんだか
異変を感じとった山の生き物連が騒ぎだした。鳥は狂ったように鳴き、動物の甲高い声
けぴ
が響いている。
落ち着かない空気に、ミランシャはしきりに周。を気にしていた。なにが起きているの
たたか
か、ミランシャにはわからない。しかし、このざわめきはカイルロッド達と《影》の碗い
のせいだと、それだけはわかる。
だいじようど
「王子遠、大丈夫かしら」
まほうじん つ.や Hかしル わむ
魔法陣の中でミランシャは呟き、横たわっている怪我人を見た。エトナーは眠り続けて
つらけいろ
いる。顔は土気色、呼吸はか細い。生きているのが不思議なぐらいである。
「早く帰ってきてくれないかしら一
かノ, ど′、は、 こわ
心細さを隠しきれず、ミランシャは独白した。恐くないと言えば嘘になる。カイルロッ
ドもイルダーナフもおらず、怪我人と二人で残されているのだから、当然だ。
「あたしがもっと強い力の魔女だったらな」
ぢすめ
ミランシャはイルダーナフの娘、メティーナを思いうかべ、ため息をついた。
るすはん
メディーナほどの力があれば、こんな場所で留守番などしないですむだろうに。足手ま
といにもならず一緒に聞えて、カイルロッドを助けられるのだ。
きれい
「あれだけ綺麗で、魔力も強いなんて」
不公平だ、ミランシャは心の中で呟いた。
てんぷ
魔法には努力だけではどうにもならないものがある。天賦、才能だ。いくらミランシャ
が努力しても、天賦を持った者には到底かなわない。そのことを知っているからこそ、や
りきれなかった。
「そろそろ王子達と別れて、自分の捜し物に専念しようかな」
最初は仕方なく同行者となり、次第にカイルロッドの力になってやりたいと思うように
面影は幻の彼方
201
ちゆフとほんは
なったのだが、実際、ミランシャ自身が思っていたほど役にたっていない。恥途半端な魔
rこうや
力の魔女などより、凄腕の剣士の方がよほど役にたっている。
mMlそれに、あのおじさん、あたしなんかよ。魔力が強いじゃないの。今まで知らん顔して
さ。まったく、いいように騙されてたわ」
ぶつぶつと、イルダーナフが近くにいないものだから、そんなことを呟いていたミラン
かたすみ ゆ ぎんほつ
シャの目の片隅に、揺れる長い銀髪が引っかかった。
「王子け」
r ・トJ ・
無事に戻ってきたのかと、ミランシャが弾むような声をかけると、木の陰からカイルロ
ッドが現われた。
カ ー
しルんじ Vお
目の前に現われたカイルロッドを見、ミランシャの笑みは瞬時にして凍りついた。
「王子じゃない−」
いろらが hせもの りけ
色違いの赤い髪がない。これは偽者、《影秘だ。
まはつじん
《影》はゆっくりとした足取。で、魔法陣に近づいてくる。
ミランシャは恐怖で舌の根がこわば。、声も出せなくなっていた。カイルロッドと同じ
青い目に射すくめられたようだった。
かペ まノー
《影妙は魔法陣の中に入ろうとしたが、見えない壁に阻まれ立ち止まった。「お餅い、も
202 つて」、ミランシャはすがる思いで祈ったが、《影》が手をかざすと簡単に魔法陣は消滅し
いの しようめつ
てしまった。エル・トパックが言ったとおり、強い力の持ち主だ。
「逃げなくちゃー」
そう思いながらも、身体が動かない。
かる
震えているミランシャに、《影》が近づいてきた。
かくご
声にならない悲鳴をあげて、ミランシャは固く目をつぶった。ここで死ぬのだと、覚悟
した。
しかし。
けがにん
《影》はミランシャなど眼中にないとでもいうように通りすぎ、怪我人の横に屈んだ。
・・・.−
静かなのでミランシャが片目だけを開けて見ると、《影》は怪我人に触れていた。なに
をするのかと見ていると、怪我人の姿が溶けて消えた。溶けたというより、才のように消
えたという方が適切かもしれない。
ほほえ 1.ノもの
《影》は自分の手を見て、満足気に微笑んでいる。丁度、空腹の満たされた獣のような、
そんな表情だ。
画彩は幻の彼方
かて
ミランシャは絶句し、ただ目を大きく見開いていた。《影》は人の生命を糧にできるの
だ。
「だから、街に死体がなかったんだわ」
つpや
口の中で呟いたミランシャは、青い目が自分に向けられていると知り、その場に座りこ
おぴ
んでしまった。逃げたくとも動けない。「次はあたしが食われるんだ」、ただ怯えているミ
ランシャの前に、《影》が屈んだ。
頬に冷たい手が触れた。
「ひっー」
ビクツと、ミランシャは身体を硬直させた。しかし、痛みや苦しみはなく、身体は霧の
ように消えなかった。「生きている?」、ミランシャは不思議に思って、正面にいる《影》
を真っすぐ見つめた。
カイルロッドと同じ顔。
ちが
だが、どこか違う。
.1・、.1、、
ぎようし
どこが違うのかと、ミランシャはじっと《影》を凝視した。そして気がついた。目が違
きれい みずうみ
うのだ。なんと澄んだ目をしているのだろうか。綺麗な水をたたえる湖の青と同じ色の目
は、澄んでいる。
. .
T」れが大勢を殺戟し、街や村を破壊した人間の目かしらっ」
そんなことをするのだから、さぞやギスギスとした殺気を放出させている者に違いない
と、ミランシャはイメ1∴シしていた。しかし、目の前にいる殺戟者は無垢な子供の日をし
ている。
はさ
《影》は両手で、ミランシャの顔を挟んだ。不思議そうに、好奇心いっぱいの表情をして
カみ じやき
いる。そして、ミランシャの髪をいじくりながら、笑った。邪気のない笑顔だ。
「・・子供フ」
カイルロッドも子供っぽいところがあるが、《影》の表情や仕草は子供そのものだ。恐
怖よりも驚きの方がはるかに大きかった。
「あんた、何者なのフ どうして王子の名前を騙って人を殺すのっ」
Cる
震える声でミランシャが問うと、
「 ?」
《影》は無言で首を傾げた。ミランシャの質問に悩んでいるというふうでなく、質問の意
味自体が理解できないという様子だった。
「そうよ。あんたが生きるために、人の生命が必要なのはわかったけど
ぜんめつ
。街を全滅さ
205 面影は幻の披プJ
つみ
せるほど必要じゃないはずよ。それを罪もない人達を大勢殺して。そのうえ、王子まで殺
そうとしているじゃないLW
ミランシャが強い調子で言うと、
「でも…ニムルトがそうしろって言った。一言うことをきかないと、ムルトが怒る」
しか
叱られた子供のように、《影》が口をへの字にした。そしてミランシャは確信した。
−・一.J、
《影》はまるで幼いのだということを。
「本当に子供なんだわ」
どうしてだが理由は知らないが、大きなな。をしているだけの子供なのだ。そう思った
4ぴん
時、ミランシャはふいにこの《影》が不憫に思えてきた。ムルトに命じられたまま、事の
7ろ.・.
善悪もわからずに動いている幼子なのだ。
「じゃあ、どうしてあたしを殺さないのっ ムルトに怒られるんでしょフ」
わが
少し意地の悪い気持ちでミランシャが訊くと、《影》の顔が歪んできた。大声で泣きだ
す寸前の子供の顔だ。
「こめんね、意地零して。いいのよ、答えなくて」
...− 7. .
ミランシャは慌てて手を伸ばし、《影》の髪に触れた。困難な質問から解放されて、
きげん りれ
《影》はすぐに機嫌をなおした。髪を撫でられるのが嬉しいのか、にこにこしている。
「あのね、人を殺すのはいけないことなのよ、わかるフ」
銀髪を撫でながら、ミランシャは子供に話しかけるように語りかけた。
「わからない」
《影》が頭を振った。そのあどけないと言っていい表情に、ミランシャは胸が詰まった。
しPきどお
ムルトは子供に人殺しをさせているのだ。怒りと憤りと、不憫さに、ミランシャは涙を流
していた。
「どうして泣くのフ」
ぎようし
《影》は不思議そうに、ミランシャを凝視していたが、つられたのか、グスグスと鼻を鳴
びんかん
らしはじめた。姿は青年でも心は敏感な子供なのだ。殺意には殺意を、自分に向けられた
感情をそのまま相手に返してしまうのだ。恐怖には恐怖をかきたてられ、だから街や村を
破壊したのだろう。
、・
「泣いちゃ妹だ」
ふえ
ミランシャにしがみつき、《影》が泣いた。恥じらいも見栄もない、幼児の泣き方だ。
カイルロッドと同じ顔をした青年にしがみつかれ、ミランシャは顔に血がのぼったが
「これは子供なんだから」と自分を落ち着かせた。
たもの
おかしな気分だった。今、自分にすがりついているのは、人を殺し、人を喰う魔物だ。
面影は幻の披方
2析
それなのに、少しも恐怖を感じない。
「あったかい」
お あま
ミランシャの胸に顔を押しっけ、泣きやんだ《影》が母親に甘える子供の顔で言った。
ミランシャはどうしようか迷ったが、《影》の頭を撫でていた。《影〉は安心しきっている
ようだった。
静かだった。
烏の声はさえずりに変わ。、木々の葉ずれが優しい子守歌に聞こえる。時間が止まった
はな
ように、そこだけが切。耕された別世界のようだった。
《影》 のあどけない顔を見つめながら、ミランシャはいまだかつて感じたことのない安ら
ぎを感じていた。
「ねえ、名前はないのぅ」
ぎんはつ な
銀髪を撫でながらミランシャが訊くと、
「カイルロッド」
《影》がにこっと笑った。
「違うの。本当の名前はっ」
「本当の名前フ」
キョトンとしている《影》に、ミランシャは小さく息をついた。
「名前はっ」
《影》に訊き返され、ミランシャは「あたしはミランシャよ」と答えた。
「ミランシャ」
つゎや
数回ミランシャの名前を呟き、
「ミランシャ、好き」
はがん
《影》が破顔した。幸せそうな、嬉しそうな笑顔だった。「だめ、あたしはこういう笑顔
に弱いのよ」、ミランシャはもう完全に《影》を甘めなくなっていた。
「ムルトも好きフ」
何気なく問うと、《影》は顔をこわばらせて首を振った。
「嫌い。だって、すぐに怒る。ちっともあたたかくない」
「ね、 l ムルトつてあなたにとってなんなのっ」
みけれ しわ
ミランシャが問うと、《影》は眉間に深い雛を寄せた。どうやら質問の意味がわかって
いないようだ。ミランシャは「もう、いいわ」とため息をついてから、
かわいそつ
「そうだ、いつまでも《影》じゃ可哀相だものね。カイルロッドは王子の名前だから、な
にか他の名前を・…・。ね、ブリユウっていうのはどうっ」
2日9 面影は幻の彼方
「グリユウっこ
「あたしの好きだった人の名前。死んでしまったけど」
おっむがえ
醜鵡返しする《影》 に説明していたミランシャが、ふいに片手で顔をおさえた。《影》
のぞ
… ミランシャに名前をもらった青年は、不思議そうにミランシャの顔を覗きこんだ。
「どうしてまた泣くっ」
「思い出したら悲しくなったの」
「悲しいフ」
死も悲しみも、青年には理解できないらしい。ミランシャは鼻を畷り、
「死ぬってね、冷たくなって、動かなくなっちゃうの」
きさや
小声で囁いた。
.
むりか けんめい
《影》−1グリユウは難しい顔をして黙りこんだ。理解しようと、この青年な。に懸命に
考えているようだ。しばらくしてグリユウは顔を上げた。
「よくわからない。でも、ミランシャが冷たくなったら、悲しい」
ぎやくさつ
たどたどしい言葉を連ねる青年の姿は、とても大勢の人間を虐殺した者とは思えない。
いや、子供だから疑問もためらいもなく、言われたままにできるのだ。
「みんな、そうなの。好きな人が死んでしまったら、みんな悲しいのよ。だから、やめて。
人を殺さないで」
うめ
青年を抱きしめ、ミランシャは岬いた。このままでは、カイルロットがこの青年を殺す
だろう。
「・・でも、ムルトが怒る」
つぷや
青年はどうしていいのかわからないというように、呟いた。
その時、足音が近づいてきた。
5
まはうじん
《影》は魔法陣のある方向に走っていた。追いながら、カイルロッドはミランシャの身を
案じていた。
「ミランシャ、無事でいてくれよー」
し。け
生い茂る緑をかきわけて、カイルロッドは走っていた。
やがて、魔法陣のある場所につき1視界にとびこんだ光景に、カイルロッドの全身か
ら血の気が引いた。
「ミランシャー」
211 面影は幻の彼プJ
けがにん
魔法陣と怪我人が消えてお。、ミランシャが《影》に捕らえられているではないか。事
実はかなり異なっているのだが、カイルロッドの目にはそうとしか映らなかった。まさか
敵である《影》とミランシャが「仲良し」 になっていようなどとは、カイルロッドにはと
ても想像できなかった。
「ミランシャを離せー」
・ ・
カイルロッドは短剣を抜き、《影》の前に飛び出した。カイルロッドの殺気に反応して、
そlノお カじり つ
《影》 の青い目が憎悪に燃え、ギリギリと目尻が吊nソLLがる。
「おまえ、嫌いだー」
「お互い様だー」
カイルロッドも怒鳴り返した。
やつ カまん
「自分と同じ顔している奴が、人殺ししているなんて、我慢できないからなー おまけに
1.H
子供だと思っていたら、人質をとるなんて真似をしやがってー」
あいう のが
もう許すものかとカイルロッドは思った。相討ちになろうが、この場から逃さないつも
ととの
。で、カイルロッドは力を放出させるために呼吸を整えていた。
「うっ」
ぴんかん か おぴ
カイルロッドの殺気が高まっていくのを、敏感に嗅ぎ取った《影》の顔に怯えがはしっ
た。
212 「王子、やめて!」
その《影》の前に、ミランシャが両手を広げて立った。
「ミランシャけ」
いつしゆん はあ′、 かば
一瞬、カイルロッドは事態が把握できなかった。どう見てもミランシャは《影》を庇っ
ている。
あやつ
「どうしたんだ、ミランシャリ 操られているのかlフ」
とっさに思いつくのはその程度だった。
「操られてなんかいないわー」
はっきりと否定され、カイルロッドは頭が混乱していた。ミランシャは《影》を庇って
いる ー 何故、ミランシャが《影吋を庇うのか、カイルロッドには理解できなかった。
「あいつ嫌いだー 殺してやるー」
だだ
駄々っ子のように叫んでいる《影妙を宥めながら、ミランシャは必死の眼差しをカイル
ロッドに向けていた。
「ね、わかるでしょうけ 《影》は子供なのよー 自分がなにをしているか、それさえも
・ノ
わからない、物心つくかつかないかの幼児なの。だから、お願い。王子、この子を見逃し
面影は幻の彼力
てー」
カイルロッドはまず自分の耳を疑い、次にミランシャの正気を疑った。
「…こミランシャI・」
、h
木の葉が揺れて音をたてた。
つ
カイルロッドは長い時間、立ち尽くしていた。あるいは長く感じられただけかもしれな
「 ・ミランシャ、自分の言っていることがわかっているのかっ 確かにそいつは子供か
まち はかい ひがい
もしれないが、人を殺して街を破壊しているんだ。放っておいたら、また被害が増えるだ
けなんだぞー」
まyノ ′、ちよう
カイルロッドが激しい口調で言うと、ミランシャの顔が曇った。カイルロッドの一軍っこ
はぎま かつとう
とと、《影》 への気持ちの狭間で葛藤しているのだろう。
「ミランシャ、どうしたのっ あいつがいじめたの?」
《影》が横からミランシャの顔を見ている。カイルロッドへ叩きつけた殺気が嘘のように、
心細げで弱々しい表情でミランシャを見ている。その様子は母親の様子を心配している幼
児そのもので、カイルロッドは胸をつかれたような気がした。
子供の頃の自分がそこにいる 一。
「ううっ・」
そんなはずはないのだと思いながらも、カイルロッドはよろめいた。
《影》だ。
あそこにいるのは自分の《影》なのだ。
「ミランシャ、どうしたのっ」
《影》を見ながら、カイルロッドの短剣を持つ手が無様に雷えていた。
一ルのカ
「王子、お願い。一度だけー一度だけ見逃してあげてー」
さけ
ミランシャが叫んだ。
「お願いー」
l,んめい あいがん
懸命に哀願するミランシャの、タジの母親と、生命がけで子供を産むと言ったフィリオ
リが重なって見えた。女達の、我が身をかえりみずになにかを守ろうとする強さ、激しさ
はどこからくるのだろう。
「ミランシャをいじめるなー」
か′,
いじめっ子から庇うように、ミランシャを庇おうとしている《影》の姿に、
丁 おまえは、本当に俺の《影》なんだな・・・」
つ,や あんど
カイルロッドは力なく呟き、短剣を韓におさめた。ミランシャの顔に安堵の表情が広が
面影は幻の披力
る。
「王子、ありがとう」
目に涙をうかべているミランシャから目をそらし、「甘いもんだ」と、カイルロッドは
ばとう おろ
自嘲した。イルダーナフがいたら、罵倒されるだろう。それほど、愚かなことをしたのだ
と、自分でもわかっている。
「早く行きなさいー」
ミランシャに言われ、《影》はためらいながら走っていった。
「もう人を殺さないでー」
しいの
祈るようなミランシャの声に、《影》は何回も後ろを振。向いた。
「・…俺は負けたんだ」
自分の後ろ姿を見ながら、カイルロッドは呟いた。負けたのだ、《影》 にではなく、子
かば こんがん
供を庇おうとする母親のような、ミランシャの必死の懇願に。
みのが
「けど、見逃すのはこれっきりだ。次はないからな」
ミランシャに、そして自分自身にカイルロッドは言い聞かせた。もう次はない。次はミ
ランシャが止めようと、《影》を殺さなくてはならない。
せいじやくもど
足音は消え、静寂が戻った。その中でカイルロッドとミランシャは、それぞれの思いを
胸に立ち尽くしていた。
「 ごめんね、王子。でも、あたし、彼を殺したくないの」
ポッリと、ミランシャ。うつむいた顔には光る筋があった。
カイルロッドは苦い顔で、《影》の去っていった方向を見つめていた。
しっこ′、 ね つー はのお
夜の山は漆黒に塗り潰される。その一角に、炎の明かりがあった。
たきぴ ゆ
焚火が揺れていた。
その周りを囲んでカイルロッド、ミランシャ、戻ってきたイルダーナフとエル・トパッ
クが座っている。
かて
「やはり、《影》は人の生命を糧にしていましたか」
たんたん
カイルロッドとミランシャの報告を受け、エル・トパックは炎を見つめながら、淡々と
言った。
「あの強大な力は、そのせいかもしれませんね」
しカい はユきLハ きんかつしよ、 するど
死骸も残っていない廃墟を思い出しているのか、金褐色の目は鋭かった。
りっかい
「・結界は破れてしまいましたから、《影》は山から無事に逃げたでしょうね」
つぷや めん ののし
そう呟かれ、カイルロッドとミランシャは身体を小さくした。面と向かって罵られるよ
7 面影は幻の彼方
。も、はるかにこたえる。
「ごめんなさい」
消え入。そうな声でミランシャが言うと、イルダーナフが無言で拾った枝を折った。そ
の昔に、カイルロッドとミランシャはビクッと肩をすくめた。
どな なく カくご
二人とも、エル・トパックとイルダーナフに怒鳴られ、殴られることを覚悟していたの
だが、《影》を意図的に逃がしたという話をしてから、イルダーナフはずっと沈黙を守っ
たままだ。
ちんもノ1 こわ
「・ この沈黙が恐い」
カイルロッドはイルダーナフと目を合わせられなかった。もはや針の定である。いっそ、
おこ
どつかれ、殴られたカがましだと心から思った。この様子では、イルダーナフは本気で怒
Lソが
っているに違いない。
「さて、わたしはこれで失礼します」
エル・トパックが立ち上がった。
「あ、帰るんですかフ」
カイルロッドが見上げると、
「はい。神殿に帰ります。色々と報合しなくてはなりませんから」
おだ
穏やかにエル・トパック。神殿に戻って報告すれば、「何故、《影》を逃がした」とか
みのし
「部下を全員死なせたのか」などと、現場の苦労を知らない上層部に、さんざん罵られる
あま
ことだろう。それも、カイルロッド達の甘さゆえに。
「この人もイルダーナフに負けないぐらい、怒っているんだろうな」
せきわん
それが当然だとカイルロッドは思った。しかし、この隻腕の青年はカイルロッド達を罵
け.レん
りもせず、内心の怒りなど、微塵も表に出さない。「かなわないな」、カイルロッドはつく
づくと感じた。
ねら
「エル・トパック、あなたはどうして神殿にいるんですか? 生命を狙われているんでし
ょうっ」
いっそ、同行者にでもなってくれないものかと思ってカイルロットが訊くと、
たたか
「王子がムルトと闘っているように、わたしは神殿と関っているのです。王子はムルトに
勝つために闘っている。ですが、わたしは神殿に負けぬために耐っているのです」
と、優しげだが、決して弱くない笑みでエル・トパックは言った。それから目を細め、
「誰もが闘っているのですよ。時代と権力と、そして敵や自分と。今日は負けても、明日
は負けてはいけません」
えしやノ、 やみ
やんわりと忠告し、エル・トパックは小さく会釈して、闇の中に消えた。
2I9 面影は幻の彼方
「妙に迫力のある人よね」
−レゆうめん
エル・トパックの忠告に、ミランシャは渋面になっていた。
「耳が痛いな」
ほのお
炎を見つめ、カイルロッドは長い息を吐いた。
みじゆく してき
未熟を指摘された二人がため息をついていると、
「じゃ、俺も行くかな」
むそネノさ
小枝を炎に放。こみ、無造作にイルダーナフが立ち上がった。
「イルダーナ7日 行くって、どこへ行くんだけ」
弾かれたようにカイルロッドが見上げると、イルダーナフは無表情に見下ろした。
「どこへ行こうと、俺の勝手じゃねぇか」
ひび
突き放すような声の響きに、カイルロッドはゾツとした。イルダーナフに見捨てられよ
うとしているのだ。
やと
「勝手な事をされてたまるか、あんたは俺に雇われているんだぞー」
き ふ′
とっておきの切。札だったが、イルダーナフに鼻先で笑われた。
けいや′、しはん
「ああ、そいつぁ、もう終わ。だ。どうせ料金はもらってねぇんだ。契約違反にゃなるめ
ぇフ・」
「おじさんl おじさんがいなくなったら、あたし達、どうすればいいのよけ」
「好きにすりやいい」
すがるようなミランシャに、イルダーナフはぴしゃりと言った。
ごえい しんJこあさ
「俺はもうやめた。やってらんねぇ。護衛をおりた。俺はな、今度のことにゃ、心底呆れ
た。怒る気にもなりやしねぇぐらい、呆れたんだよ」
らんもノ1
こう言われては、カイルロッドもミランシャも沈黙するしかない。イルダーナフは続け
る。
ようしや
「俺は何回も言ってるはずだぜ。たとえ女子供でも、敵にゃ容赦するなってよ。それを逃
かげハ
がしただとおフ 次があるだぁフ 甘い考えもいい加減にしやがれ」
どな
怒鳴っているわけでもないのに、イルターナフの低いがよく通る声は、落雷のようにカ
イルロッドの鼓膜と心をうった。
みのカ 一への
「イルダーナフー 悪いのはあたしなのぎ あたしが王子に、見逃してあげてって頼んだ
のー」
かば
カイルロッドを庇ったミランシャに、イルダーナフは冷笑を向けた。
やつカい
「過程はどうだっていいんだよ、お嬢ちゃん。要は結果で、この王子はみすみす厄介な敵
を助けたってことさ」
面影は幻の披方
..1
そこで一息つき、
ぼあ がんば
「ま、婆さんにしごかれて、少しは強くなったはずだからな。後はてめぇで頑張るこった
な。ああ、特別に今まで俺が働いた分はチャラにしてやっからよ。短い付き合いだったが、
じゃあな。おとなしくムルトに殺されてこいや」
・.▼・・1
言いたいことだけを言って、イルダーナフは大股に歩き出してしまった。
「イルダーナフ、待ってくれ−」
カイルロッドは悲鳴をあげて、イルダーナフを追った。
「イルダーナフー」
やみ
夜の山の中をカイルロッドは、イルダーナフを追って走った。が、この闇の中をいった
いどういう歩き力をしているのか、イルダーナフの姿はすぐに見えなくなってしまった。
「 ・行ってしまった」
つぷや
背の高い草が群生している中で立ち止まり、カイルロッドは呟いた。
風が強くなり、闇は深く、星も見えない。
ふいに闇の中に立っていることが心細くなった。これから、ゆくてを照らすものもなく、
ただ闇の中を歩いて行くのだ。
ムルトを倒す ー それだけを道標にして。
サu
「見限られても仕方ないな」
あき
イルダーナフが呆れるのも無理はない。わかっていても、あの大男がいなくなったのは
りんぎ
辛い。剣技や魔力もそうだが、それ以上に、精神的な画でカイルロッドはイルダーナフに
助けられていた。からかわれたり、ひどい日にもあわされたが、いると安心できた。あの
男にずいぶんと頼っていたんだと、いなくなって初めてカイルロッドは痛感した。
「今の俺は、《影》と同じだな」
鏡に映したら、置いていかれた子供の顔をしているに違いない。
′、きび
重い足と気分を引きずって焚火に帰ると、ミランシャが待っていた。
「 …その様了だと、追いつけなかったみたいね」
「うん」
焚火の前に腰をおろし、カイルロッドは全身で息をついた。
「ごめんね、王子。あたしが王子に殺さないでって言ったぽっかりに」
「イルダーナフが言ったろフ 過程じゃなくて、結果だって」
カイルロッドは残っている小枝を折った。
「俺、寝るよ」
小枝を火の中に放りこみ、カイルロッドはミランシャに背中を向けて寝そへった。置い
ていかれた子供みたいな表情を見られたくなかった。
かか
ミランシャは火の前で両膝を抱えている。
風が強くなり、木々の枝がしなっている。菓ずれが波のようにうねっていた。
ま1よヱノふかん
夜の海に放り出されたような、絶望的な恐怖感がのしかかってくる。限りない不安を奥
歯で噛みしめながら、カイルロッドは心の中で同じことを繰り返していた。
「なんとかなる、なんとかするさ」 − と。
しっこく たきぴ ゆ
漆黒の闇の中で、焚火は揺れている。
き
が
と
あ
あとがき
どうも。
卵王子の四巻です。(もう四巻・・。このシリーズ、予定どおりに本が出ているもんな
あ。柏手)
みけん しわ つな
いつもは眉間に紋を寄せて、唸りながらあとがきを書いている私ですが、現在は鼻歌混
じりにワープロを叩いています。
♪花が咲いた〜
♪花が咲いた〜
♪サボテンの白い花が咲いた〜♪
きげん
そう、今年もまたサボテンが純白の花を咲かせたので、とても機嫌がよいのでした。
(苦手のあとがきすら、楽しく書いてしまうほど)
で11−d
うれ こうわい
嬉しさのあまり、鉢を抱えて家族に見せてまわり(花が咲くと恒例)、その後、サボテ
ンの前で「なんて美しい」とうっとりしていたら、
にしおぎ
「西荻さんみたい」
と言われてしまった・。(知っている人は知っている、冴木キャラである)
さて−−−し
むか
このあとがさを書きながら、テビユ11三年目を迎えました。(本になる頃は過ぎてます
が)
本人はすっかり忘れていたんですが、「おめでとう」という葉書をいただいたり(あり
がとうございます)、妹に言われたりして、やっと思い出したのでした。( もの忘れが
はげしくてね)
き
が
トし
あ
楓
むがむちゆう
デビュー三年目 − 本人の実感としては、わけもわからずただ無我夢中に走って、気が
ついたら三年が過ぎていたという感じです。(そう言えば、デビュー間もない頃だったか、
もらった手紙で、「冴木忍という作家が、三年後も生き残っていることを祈っています」
なんていうのがあったっけ・。もの忘れがはげしいくせに、こういうことはしっかり覚
えている)
で、三年一区切りということで振り返ってみると、いいことも悪いこともありました。
きっとこれからも色々あるでしょうが、特にこの三年間にあったことは、一生忘れられな
いでしょうね。(ホント、勉強になりました)
− てなわけで、五年、一〇年後にも残っていられるように、「これからも頑張るぞ」
と、決意をあらたにしたのでした。(これからは今まで以Lに大変だ)
このシリーズも順調に進み、そろそろターニング・ポイント。ラストを目指して頑張り
ますので、それまでカイルロッド達とお付き合いください。
最後に −
みこた
いつも見応えのあるイラストを描いてくださる田中久仁彦氏に御礼申しLLげます。(本
当に評判がよくて、私も嬉しい)
では、次巻もよろしく。
冴木 忍 拝
S
富士見ファンタジア文庫
く卵王子〉カイルロッドの苦難C
ぶもかけまばろしかなた
面影は幻の彼方
平成5年7月器日 掛版発行
平成7年4月1〔岨 十四版発行
.濱121、 ̄ ̄亘 ご_.・ ̄
発行者−〜佐藤君之輔
発行所−富士見書房
〒102東京都千代田区富士見112−14
電話
営業部 03(58期)2m1
編集部 は(m)1545
振替 0017(卜5−860舶
印刷所−旭印刷
製本所−大谷製本
落丁乱丁本はおとりかえいたします
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ISBN4−829ト2504−7CO193
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