く卵王子〉カイルロッドの苦難B
うれ
愁いは花園の中に
192
冴木 忍
S
富士見ファンタジア文庫
32−8
口絵・本文イラスト 田中久仁彦
目 次
一章 雨の夜に来るもの
二章 寝ても醒めても
かえ
三尊 夜に還る
四章 遠くにありて
五章 季節のめぐるたびごとに
あとがき
236 191146  96  53  5
愁いは花園の中に
〓早 雨の夜に来るもの
なまり
空には鉛色の雲が重くたちこめ、昼だというのに周囲は薄暗い。時々、強い風が吹きつ
けレゆユノたん
け、絨毯のように敷きつめられた草を揺らしていく。
今にも雨が降りだしそうな天気だが、集まっている人々はいたって陽気だった。歓声と
やじ                   とぎ                  にぎ
野次と指笛が飛びかい、地鳴りに似た音が途切れることなく続いている。そうした賑わい
の中で、カイルロッドは苦悩していた。
おれ
「・・どうして俺はここにいるんだろう?」
視界の左右を埋めつくしている人々の歓声を聞きながら、カイルロッドが首をひねって
いると、
「ちょっと、王子。すぐに出番なんだから、しつか。してよね」
上からミランシャの声が降ってきた。
ただばたら     igさ
「これで負けたら、あたしは二〇年間無料働き、王子は馬刺しにされるか、売りとばされ
るかよ」
「… ・」
わきぽら
背中に乗っているミランシャに脇腹を強く蹴られ、カイルロッドは茸を後ろに伏せた。
あまり強く脇腹を蹴るなとか、耳元で大声を出すなとか、言いたいことはあるのだが、馬
になってしまった以上、口から出るのはただのいななきでしかない。
「次のレースに出場の馬は並んでー」
係の男が走りながら、大声でふれまわっている。
「次が出番よ。しっかりね」
きしゆ
すっかり騎手になりきっているミランシャに首筋を叩かれ、仕方なくカイルロッドは決
められた場所まで歩いて行った。
「声をかけるだけで動いてくれるなんて、楽でいいわ」
うれ
背中で揺られているミランシャは楽しそうだ。あまりに嬉しそうな口調に、カイルロッ
ドは不安を感じた。そのうち「便利だから魔法が解けない方がいい」などと言われるかも
しれない。
愁いは花凋の中に
ロープを地面の上に張ったそこには、出番を次に控えた馬連が並んでいた。カイルロッ
あいず
ドを入れて一〇頭が横一列に並び、スタートの合図を待っている。
「生まれた時から馬をやっているのと、即席で馬になってる俺が競争して、勝てるんだろ
うか?」
カイルロッドは泣きたい気持ちで左右の馬を見、それから歓声をあげている見物人達の
む  うな
中から、頭一つ分も抜きん出ている大男の姿を見つけ、歯を剥いて唸った。
やつ
「イルダーナフの奴・」
けんのん
カイルロッドの剣呑な視線に気がついたのか、黒髪の剣士は明るく手を振りながら、
けんそ・フ
「負けるんじゃねぇぞ」 と言った。低いがよく通る芦は、喧騒の中でもはっき。と聞き取
れた。
のんき              だれ    くさけいk
「まったく、あのおじさんは・・。呑気というか、気楽というか・。誰のせいで草競馬
に出なくちゃならなくなったと思っているのかしら」
馬上からイルダーナフの姿を見つけたミランシャも、唸るようにぼやいた。若者二人に
げんさよう
睨まれても、イルターナフは満面の笑顔で手を振っている。すべての元凶が自分だという
自覚がないのか、あるいは開き直っているのか、まるっき。気楽な見物人だ。
「俺、イルダーナフのああいうところ、嫌いだ」
まね
カイルロッドにはとても真似できない。イルダーナフの言うところの「年の功」だろう
ひとご
が、それだけではない気がする。食えない剣士を睨んでいると、人撮みをかきわけて頭の
禿げかかった中年男がイルダーナフに近づいて来た。カイルロッド達三人が泊まっている
宿屋の主人で、これまたイルダーナフ同様、元凶の一人でもある。
「あの宿屋に泊まったのが失敗だった」
歓声を聞きながら、カイルロッドは心の中でぼやいた。
北への旅をしているカイルロッド達三人は数日前、牛や馬の放牧で生計をたてているの
むるい ばノ、ち
どかな村の一角に宿をとった。その宿屋の主人が問題だったのだ。無類の博打好きで、客
と見れば博打に誘う。そこでよせばいいのにイルダーナフが誘いにのり − 大負けしたの
ただばたら
である。二〇年間無料働きをしてやっと返済できる金額に、カイルロッドとミランシャは
青くなった。当然だろう。
おれ
「俺もミランシャも先を急いでいるんだ。二〇年間も無料働きするわけにはいかない」
強い調子で若者二人に責めたてられ、さすがに少しは罪悪感を感じたのか、イルダーナ
フは博打好きの主人に交渉した。
くさけレ.1ヱ      あた
それがこの草競馬だった。この辺りでは、年に一度、春の祭りとして草競馬が開催され
る。どこで聞き込んだのか、イルダーナフはその草競馬で、主人に賭けをもちかけた。
愁いは花園の中に
「俺にゃ持ち馬が一頭いる。そいつを草競馬に出場させるから、賭けねぇか7 億は自分
の馬が一着になる方に賭けるからよ。もし一着にならなかった時は、おまえさんに馬をく
れてやる。さらに、俺達はおまえさんの宿屋で二〇年間無料働きするぜ。ただし、俺が勝
ったら負けは帳消しだ。どうだ、こいつにのってみねぇか?」
博打好きの主人はとびつき、商談は成立した。が1その精けはカイルロッドやミラン
シャには知らされなかったのである。
lヰノさ
なにも知らないまま、今朝になって宿屋から草原に引っ張られ、二人はそこで初めて賭
けを知らされた。当日ぎりぎ。まで黙っていたのは、カイルロッドを逃がさないための用
心に違いない。
ばき      めん
「馬刺しなんかご免だー」
逃げようとしたカイルロッドだが、そんなことはすでに予測済みのイルダーナフに胡椒
たづな くら
を投げつけられた。くしゃみをして馬になるや、あっと言う間に手綱と鞍をつけられてし
まった。こうなっては逃げられない。
「王子、もしも負けたら、その時はこのまま走って逃げるわよ」
さきや                いや
スタート直前、ミランシャが固い声で囁いた。馬刺しも二〇年間無料働きも嫌なので、
うなず
カイルロッドは嶺いた。
あいず
スタートの合図と同時に、カイルロッドは飛び出した。地鳴りとともに、大きな歓声が
あがる。
カイルロッドは全速力で走った。
こさめ
歓声と熱狂が去るのとほぼ同時に、小雨が降り始めた。草競馬が終わった草原に天の恵
。しゆうたん
みが降り注ぐ。雨をうけて緑の絨毯が生き生きと輝いていた。
「やっぱり降ってきやがったな」
みき       すわ          つぷや
幹にもたれかかって座っているイルダーナフが呟いた。草競馬が終わって人々はそれぞ
たいばく
れに散り、無人となった草原の大木の下で三人は雨やどりしていた。
だいじようぷ
「王子、大丈夫フ」
声もなく地面に突っ伏したまま、ピクリとも動かないカイルロッドに、ミランシャが声
をかけた。
「・あんまり大丈夫じゃない」
一.・.、°
消えそうな声でカイルロッド。ほんの少し動くだけで、身体中の筋肉がギシギシと音を
にぷ                いわかん
たてて乳む。感覚が鈍くなり、自分の身体ではないような奇妙な違和感がつきまとう。
「無理ないわよね。本物の馬と競争して、勝ったんだものね」
いまだに信じられないというように、ミランシャが頭を振った。
のが
馬刺しと無料働きの暗い未来から逃れるため、カイルロッドは必死に走った。生まれて
かい
から一八年、これほど必死になって走ったのは初めてだろうという甲斐あって、ぎりぎり
じレごく
鼻の差で一着となり、負けは帳消しになった。それはよかったのだが、後に地獄の苦しみ
が待ち受けていたのである。
「身体がバラバラになりそうだ…こ」
か           うな
奥歯を噛みしめ、カイルロッドは唸った。くしゃみをすると馬になるという、とんでも
ひんばん       つど
ない魔法をかけられてからというもの、カイルロッドは頻繁に馬にされ、その都度、筋肉
痛に泣いているのだが、今回はこれまでの比ではない。なにしろ人間に戻って、服を着る
のにも大変な苦労をしたのである。
きた
「しかし、よく筋肉痛になるよなぁ。鍛え方がたりねぇんじゃねぇのかフ」
げんきよう
筋肉痛の元凶に苦笑され、さすがにカイルロッドもムッときて顔を上げた。首筋が痛ん
こうがん
だが、怒りの方が勝っていた。厚顔な物言いに抗議しようと口を閃くより早く、イルダー
さや
ナフの手が動き、鞠のついたままの剣尻がカイルロッドの左肩を突いた。腕の付け根から
しび
痺れるような痛みが全身をはしりぬけ、カイルロッドは声もなく地面に突っ伏した。
「やっぱり、たりねぇようだな」
愁いは花園の中に
のど     よノな
鼻先で笑われ、カイルロッドは喉の奥で低く唸った。「イルダーナフも一度馬になって
みればいいんだ」、そうすればこの痛みがわかるはずだ。
「ちょっと、おじさんー 王子はおじさんの負けを帳消しにしたのよ1 少しは感謝した
らどうなのn」
見かねたように、ミランシャが割って入った。強い調子で責められ、イルダーナフは心
外そうな表情で広い肩をすくめた。
「してるじゃねぇか。ただ、たかが馬と競争したぐらいで泣き言ぬかすんじゃねぇって言
ってるだけよ」
いたって気楽で勝手な発言に、カイルロッドは怒。を通りこし、呆れて声も出ない。
色々な意味でこの男にはとてもかなわないと痛感する。
「そうよね、おじさんって感謝はしても、絶対に反省はしないのよね」
みけん     じわ
眉間に深い縦敏を刻み、ミランシャは口を大きく曲げた。根暗く怒っている顔だ。
かけごと
「こうなったらはっき。言っておくわ。イルダーナフ、二度と賭事はしないでちょうだい。
へた
強いならともかく、弱いんだから。下手の横好きなんて、こっちがいい迷惑よ。いいわね、
賭事はやめてもらうわよ」
すわ                             はんがん
座っているイルダーナフの顔の前に指を突きつけ、ミランシャは半眼で宣告した。これ
にはさすがにイルダーナフもたじろいだ。
「おいおい、そりゃねぇよ。下手の横好きって言うけど、勝ち負けは時の運だぜ。次は勝
つからよぉ」
「あーら、毎回そう言って負けてるのよ。それも大負け」
ミランシャが冷たく言い放ち、形勢不利になったイルダーナフはポリポリと首筋を掻い
たつしや               にがて
た。口の達者なイルダーナフも、ミランシャは苦手のようだ。
「俺もミランシャと同じ意見だな」
えんご
苦労して顔を上げ、カイルロッドがミランシャの援護をした。若者二人に責められ、黒
髪の大男は渋い表情になった。
「そこまで言われちゃ、仕方ねぇな。博打は頭を使うから、ぼけ防止にいいんだけどよ。
めんどう
博打をやめたのが原因でぽけちまったら、二人で面倒みてくれよな」
本気だか冗談だかわからない畢言に、カイルロッドとミランシャが吹き出した。笑うと
全身の筋肉が突っ張り、カイルロッドは泣き笑いの顔になった。
あご  なか
「あー、顎とお腹が痛い」
涙を拭いているミランシャの横で、カイルロッドは笑いと痛みに息をきらしながら、う
あおむ             や       おお
つぶせから仰向けになった。いつの間にか雨は止んでいて、空を覆っていた雲が動いてい
愁いは花園の中に
15
る。
「雨が止んでる」
カイルロッドに言われ、イルダーナフとミランシャが「どれどれ」と顔を動かした。
「こりゃ、止んでいる間に隣。村まで行っちまった方がいいな」
言うが早いか、イルダーナフが立ち上がった。ミランシャも動いた。が、カイルロッド
は動けなかった。さっき大笑いしたものだから、筋肉痛がひどくなっていた。
「おい、またひっく。返った亀になってやがるのか」
剣尻で腹をつっ突かれ、カイルロッドがジタバタしていると、
「王子が動けないのはおじさんの責任ですからね。こうなったらおじさんに背負ってもら
うわ。うん、それがいいわね」
なつとく
見物していたミランシャが勝手に納得している。その少女を横目に、
いや
「男を背負うなんて嫌だぜ、俺は」
イルダーナフが本気で嫌な顔をし、カイルロッドも痛みをこらえて立ち上がった。
けが
「怪我をしているわけでもないのに、背負われるなんて、そんなみっともないのは嫌だ」
みえ
しかし、見栄をはって立ち上がったはいいが、すぐによろめいて、倒れそうになったと
ありさま
ころをイルダーナフに支えられるという有様だった。見ていたミランシャが「見栄をはる
むだ
だけ無駄みたいね」と笑った。
結局、不本意ながらイルダーナフに房を借りることになってしまった。なにしろ、歩き
始めたばかりの赤ん坊よりも頼りない足取りなのだ。が、ぬかるんだ道を進むカイルロッ
ごういん
ドの姿は肩を借りているというより、イルダーナフに強引に引きずられているという方が
正しい。
からだ きた
「王子、おまえさん、もうちっと身体を鍛えておけよな」
イルダーナフに鼻先で笑われたが、カイルロッドは黙っていた。
そんなふうに歩き、夜が近づいてきた頃になって、村が見えてきた。ポッポッと、家々
に明かりが灯り始めている。
のじゆく
「これで野宿しないですむわね」
よノれ
嬉しそうに言ったミランシャだが、すぐに表情を曇らせた。
「でも、宿代がなかったんだわ」
カイルロッドもすっかり忘れていたので、ガックリとしたが、
「あるぜ、路銀はよ」
よゆうしやくしやく                 ふところ
余裕綽々にイルダーナフが破顔した。また、人の懐からすりとったのではないかという
きぐ
カイルロッドの危惧に、
愁いは花園の中に
くさけいば
「なに言ってやがるんだ。こいつぁ、草競馬で王子が一等になった、その賞金よ」
イルダーナフは腰に下げている布袋を片手で叩いた。ジャラジャラと硬貨のぶつか。合
う音がした。
「どうして働いた俺でなく、イルダーナフが金を受け取っているんだ?」
おもしろ                       むじやき
カイルロッドは面白くなかったが、「宿屋に泊まれる」 とミランシャが無邪気に喜んで
いるので、黙っていた。
「野宿しないですむんだから、いいか」
つら
雨が降る中の野宿というのは、なかなか辛いものがある。
こうして三人は村の宿屋に入った。
その夜半から雨が強く降り出した。
2
雨は降り続いている。
、′  .・ll
宿屋の食堂で、カイルロッドはなにをするでなく、ぼんや。と椅子に座っていた。他に
おかみ
客もおらず、宿屋の女将は奥にひっこんだままで、静ま。返っている。
「いつになったら止むんだフ」
たた
窓を叩く激しい雨を見ながら、カイルロッドはため息をついた。
けはい
この村に入ってからすでに四日が過ぎているが、雨はいっこうに止む気配をみせない。
がけ′、ヂ
しかも、この激しい雨によって崖崩れが発生し、北へ向かう街道の一部が通行不能となり、
たちおうじよよノ
カイルロッド達は立往生していた。
「急いでいるっていうのに。四日も足止めをくらうなんて……」
とぎ        あまおと
途切れることのない雨音にうんざりしていると、
なお
「筋肉痛は治ったの?」
からかうような声がして、軽い足音とともに、ミランシャが階段を下りてきた。カイル
ロッドは顔を向け、苦笑した。
「なんとかね」
ふしぷし
まだ節々が痛むが、他人の肩を必要とするほどではない。「二度とイルダーナフの一屑な
んか借りるもんか」、荷物のように引きずられていた道中を思い出し、カイルロッドはグ
こぶし
ッと拳を握った。
「ところでイルダーナフの姿が見えないんだけど・・。どこかに行ったの、あのおじさ
ん?」
大男の姿が見当たらないので、ミランシャがキョロキョロと周りを見回した。
愁いは花園の中に
いつしよ
「ああ、イルダーナフは村の人達と一緒に、崖崩れの現場を見に行っている。宿屋でおと
なしくしているのに飽きたってさ」
ほおづえ
ミランシャに席をすすめ、カイルロッドはテーブルに頬杖をついた。
「おまけに、あたしや王子が目を光らせているから、お酒も飲めないんですものね」
かけごと
「精事もできないし」
「雨の中を散歩に出たくもなるわね」
カイルロッドの向かいに腰をおろし、ミランシャが明るい笑い声をたてた。つられてカ
イルロッドも声をたてて笑ったが、すぐに笑いをおさめた。
「どうしたの?」
まなぎ
不思議そうな眼差しを向けられ、
「いや。イルダーナフってさ、近くにいると心臓に悪いけど、姿が見えないと落ち着かな
やつかい
いんだよな。知らないところで、また厄介なことを引き起こしているんじゃないかって
・」
ぶぜん    われ     かいぎてき
カイルロッドは憮然と言った。我ながらひどく懐疑的になったものだと思ったが、幾度
となく「厄介なこと」 に巻き込まれているので、つい警戒心が働いてしまう。
「いくらなんでも、考えすぎじゃないフ」
そう言って笑ったミランシャだが、やはり日頃、苦労させられているだけあって、口元
がひきつっている。
「…・なにも起こさないで帰ってきてほしいわ」
「本当に」
ひたい
ミランシャが組んだ両手の上に額をのせ、カイルロッドは色違いの髪をいじくりながら、
陰気に言葉を交わした。
そのイルダーナフが宿屋に戻ってきたのは、それから一時間もたたないうちだった。
「まいった、まいった。すげぇ雨だぜ」
ぬ          とぴらあ
ずぶ濡れのイルダーナフが扉を開け、同じような姿をした村の男達数人が入ってきた。
ゆか
開いた扉から強い雨が吹きつけ、床を濡らした。
「こいつぁ、止みそうにねぇや」
濡れた髪を両手で掻き上げ、イルダーナフが大きな息を吐いた。髪の先や服の裾から雨
しずく      みずたま
の雫が落ち、床に水溜りをつくっている。全身ずぶ濡れの村人が大きく身震いした。春の
かちだ                         だんろ
雨は冷たく、身体が冷えてしまったようだ。それを見てカイルロッドは席を立ち、暖炉の
前へ行った。
「ご苦労さんだったね。これで曖まっとくれよ」
愁いは花回の中に
おかみ
扉の開閉する音と複数の声を聞きつけ、奥から女将が布と熱い飲み物を持って出て来た。
それらを受け取。、村人遠が一息ついた表情になる。
「それでどうだった?」
火をおこしながら、カイルロッドが訊くと、イルダーナフは布で髪を拭きながら、
どしや
「しばらく通れねぇな。あれじゃ、いつまた土砂崩れが起きても不思議じゃねぇよ。地解
あぷ    ふつきゆうきぎよう
がゆるんでやがる。危ねぇから復旧作業はしばらく無理だな」
にが つぶや
苦い呟きをもらした。つまり、いつ街道を通れるか、まるで見通しがたたないというの
とはよノ
だ。カイルロッドは途方にくれた。
「この雨、早く止んでもらいたいぜ」
「ああ、まったくだ」
村人が口々にうんざ。と呟く。
あきら
「それじゃ街道を諦めて、回り道しましょうよ」
いだ
ミランシャの提案に、カイルロッドは一筋の希望を抱いたが、イルダーナフが飲み物片
手に頭を左右に振った。
おれ      ようす
「俺もそう思って様子を見てきたんだがな、ありや通れねぇぜ」
はんらん
回り道をするには河を渡らなくてはならないのだが、河は雨で増水、氾濫していて、と
ても通れないと言う。
「それじゃ、どうするのよlフ」
「どうにもできねぇな」
カップをテーブルに置き、イルダーナフはおどけたように小さく両手を広げた。
「すると、雨が止むのを祈って、ただ待っているだけか」
Iまのお                   むじよよノ よノら
カイルロッドは炎を見つめながら、ため息をついた。天の無情が恨めしい。
かげん
「ほんっとに、いい加減に止んでくれないかしら」
うなず
窓に叩きつける雨を見ながら、ミランシャ。「まったくだ」と村人達が領き、「客が来な
くて商売あがったりだよ」、女将がぼやいた。カイルロッド達のみならず、村人にとって
さまぎま
も切実な願いだった。これ以上長雨が続けば、農作物を始めとして様々な被害が出てくる。
いす すわ
椅子に座って熱い飲み物を畷って事たイルダーナフだが、重苦しい空気を吹き払おうと
でもするように、「よしっ」 と気合いをいれて、立ち上がった。
つら
「こういう時はなぁ、明るく盛り上がらなくちゃいけねぇぜ。不景気な画をしていちゃ、
めい                   やつ
気が滅入るだけだ。気が滅入ると、人間って奴はろくなことを考えなくなっちまうもん
さ」
暗くなっている人々に声をかけ、
愁いは花園の中に
「滅入った時は騒ぐに限るってもんよ。なぁ、そう思うだろ、カイルロッド?」
黒髪の大男の目がニッと笑った。よからぬことを企んでいる笑みに、カイルロッドは顔
をしかめた。
「ちょっと待て、イルダーナフ。その、気が滅入るとろくなことを考えないっていうのは、
わかるんだが・ 」
かけごと
賭事はよくないと言う前に、
とばく
「賭博大会だー カードでもサイコロでもなんでも持ってこいやー」
底抜けに明るいイルダーナフの声が響き、その場にいる村人からやけくそのような歓声
があがった。
ばくち
「博打はよくないぞー」
「カイルロッドの稼いだお金を使う気ねl?▼ ちょっと、みんな、おじさんの口車にのらな
いでよー」
よノつノ1つ
カイルロッドとミランシャの制止の声など、誰も聞いていなかった。皆、鬱屈した気持
ちのはけ口を求めているらしい。
ひま やつ
「この宿屋を借。切るぜ、女将。暇な奴を集めろ、参加は自由だぜー」
というイルダーナフの言葉に、村人達は宿屋を出た。雨をものともせずに、村中にふれ
て回るに違いない。
「人間にゃ、娯楽が必要だぜ。景気づけにゃ、博打が一番だ」
かか                                    なお
頭を抱えている二人に、イルダーナフが笑いかけた。「この男の博打好きは死んでも治
ft・h
らないだろうな」、カイルロッドは怒りを通りこして、諦めた。だが、ミランシャは諦め
ていなかった。
「賭事はやめてって言ったのに…・懲りるって吉葉を知らないのね。どうせなにを言って
はじとよノふう
も馬耳東風でしょうけど、最初に断っておくわよ。おじさんが大負けしても、あたし達は
無関係ですからね」
「勝っても無関係かいフ」
もときん
「なに言ってるのよ。勝ったら三分の二はいただくわ、当然よ。元金はあたしとカイルロ
ッドが稼いだお金なんですからね」
厳密にはカイルロッド一人、というより一頭で稼いだ金だが、ミランシャは細かいこと
にこだわらない。カイルロッドもこだわらなかった。
「文句があるなら言ってみなさいよ」
なか
強気のミランシャに、イルダーナフは手で顔を半ば隠して「文句なんかねぇさ」と小さ
からだ
く答えた。大きな身体が小刻みに震えているところを見ると、笑っているらしい。カイル
愁いは花国の中に
ロッドはというと、感心していた。
「そうか、そういうてがあったのか。勉強になったな」
ちか             だんろ
今度からミランシャを見習おうと誓いながら、カイルロッドは暖炉の火に薪をくべた。
かしきり とばくじよう
その日、宿屋は貸切の賭博場となり、暇をもてあました村人がつめかけ、夜半まで盛。
上がったのだった。
雨の音と階下の騒ぎが耳について、カイルロッドはなかなか寝付けなかった。何回もベ
ッドで寝返。を打っているうちに、夜も更けていった。
「まったく、何時間もよく騒げるな」
なまあくぴ                 いつしよ
カイルロッドは生欠伸をもらした。少し前までミランシャと一緒にイルダーナフの監視
をしていたが、酒も賭事も好きではないので飽きてしまい、二階の都塵に戻ったのである。
ミランシャはというと、カイルロッドと適って婿事が嫌いではなかったらしく、下に残っ
てイルダーナフと一緒にカードをやっている。
「頼むから酒だけは飲んでくれるなよ」
その気がかりも眠れない原因のひとつだ。なにしろミランシャは酔うと脱ぎ出す、脱ぎ
ぐせ          さけぐせ              おもしろ     すす
癖の持ち主なのだ。その酒癖を知っているイルダーナフが、面白がって酒を勧めないとも
限らない。くれぐれも酒だけは飲むなと注意しておいたが、口のうまい大男に勧められた
ら、ミランシャは簡単に言いくるめられてしまうだろう。
「どうして俺がこんなことを心配しなくちゃならないんだろう」
Lgかばか                よノめ
情けないやら馬鹿馬鹿しいやらで、枕に顔を押しっけて坤いていると、奇妙な音が聞こ
えた。
かすかな、本当にかすかな音だ。低い地鳴りのように聞こえる。
「なんだフ」
枕から顔を上げ、カイルロッドは耳に全神経を集中させた。雨の音でも、階下からの昔
でもない。
お    まどぎわ
カイルロッドはベッドから下りて、窓際に立った。外は真っ暗でなにも見えず、雨が滝
のように窓ガラスを流れ落ちている。
「気のせいかな」
なぜ むなさわ
そう思いつつも、何故か胸騒ぎしてたまらない。とにかくイルダーナフには知らせてお
こうと、カイルロッドは部屋を出て、足早に階段を下りた。
にぎ
階下では大勢の村人達が集まり、賑やかに賭事をしている。
「あら、どうしたの?」
愁いは花園の中に
下りてきたカイルロッドを見つけ、ミランシャが驚いたように声をかけた。とっくに眠
っているとばか。思っていたのだろう。イルダーナフはカードの真っ最中で、カイルロッ
ドには気がついていないようだ。
「うるさくて寝付けないのフ一」
人をかきわけてミランシャがやってきた。
み、まう
「ミランシャ、妙な音が聞こえなかったかなフ 地鳴。に似ているような・・・」
「・…地鳴りフ」
まゆ      モらみみ              おだ
ミランシャが眉をしかめた。空耳にしても、地鳴りというのは穏やかではない。厳しい
顔でミランシャは耳をすましたが、しばらくして「なにも聞こえないわよ」と苦笑した。
ぼつとう
周。を見たが、皆賭事に没頭していて、妙な音など聞こえないようだ。
「でも、俺には聞こえるんだ  」
けんふう
喧騒の中てもカイルロッドにははっき。とあの音が聞こえるのだ。眉をひそめた時、ガ
ひ や  せいかん
タンと大きな音がして、だしぬけにイルダーナフが立ち上がった。陽に灼けた精悍な顔に、
ようす
厳しいものがある。ただならぬ様子に堵事をしていた人々が手を止め、イルダーナフを見
た。
「すぐに避難しろ〓 水が押し寄せてくるぞ〓」
せりふ             こお
イルダーナフの台詞に、その場にいた人々の顔が凍りついた。ミランシャが鋭く息をの
のど
み、カイルロッドは 「水か・」 と喉の奥で坤いた。
「水だとP」
だれ       ひめい             らいめい
誰かの半信半疑の悲鳴は、その昔にかき消された。雷鳴のような、地鳴りのようなその
昔は、誰の耳にもはっきりと聞こえるようになっていた。
.り1・、
「河の氾濫か‖」
ばか
「馬鹿なー・ここまでくるはずがないー」
てつぽうみず
「じゃあ、鉄砲水かけ」
ぶさみ                       おちい
不気味な音はいよいよ大きく鳴り響き、恐慌状態に陥った人々の鼓膜を打った。
ひなん
「とりあえず二階に避難しろー」
とほーフ
イルダーナフの鋭い声が、途方にくれていた人々を突き動かした。わっと階段に人々が
さつとよノ
殺到する。
「イルターナフー」
人々の流れに逆らってカイルロッドとミランシャが駆け寄ると、
「やれやれ。二階に逃げりやあいいのに」
あき                         とぴら
イルダーナフは呆れたように白い歯を見せ、宿屋の外に出た。開け放った扉から強い雨
愁いは花園の中に
が吹きこみ、カイルロッドとミランシャの髪がバサバサと揺れた。
たた
正面から叩きつける雨風にかまわずカイルロッドとミランシャが外へ出ると、十数名の
村人がいた。異変に気づき、様子を見に出たのだろう。
「高波だぁ〓」
きけ
誰かが叫んだ。
しっこ′1 やみ
漆黒の闇の中からなにかがせり上がっている。水だ。
つなみ
「・まるで津波だ」
Lrうぜん         つぷや            ひめい
呆然としたカイルロッドの呟きは、切れ切れにあがる人々の悲鳴と水音に消された。
黒い壁のように、水が押し寄せてきた。
3
ドドドッ  。
とどろ
地場。のような梅きが近づいてくる。
異変はわかっても、具体的になにが起きようとしているのか理解できずに立ちつくして
のぼ
いた人々も、押し寄せる水を見るや、それぞれにわっと散って行った。家の二階に駆け上
さいやく  のが
る者、家財道具をまとめて丘に向かう者、身ひとつで走って行く者と、突然の災厄から逃
れようとしている。
てつぽよノみず
鉄砲水なのだろうが、押し寄せるそれは津波としか表現のしょうがなかった。七、八メ
きぽ
ートルはある。大きい。とても二階や屋根の上でやりすごせる規模ではない。
逃げても呑み込まれるのは目に見えているので、カイルロッド達三人は動こうとしなか
った。
「このまま、水に呑み込まれるだけなのl?」
くや            つめ か
恐れているというより、悔しそうにミランシャが爪を噛んだ。
すペ
「自然災害じゃ、人間にはなす術がない」
つよや
圧倒的な力を前にして悲痛に呟いたカイルロッドの横で、大男の剣士は鼻先でせせら笑
った。
「こいつが自然災害なもんかよ」
思いがけないイルダーナフの言葉に、カイルロッドとミランシャが目を剥いた。これが
自然災害でないというのなら、なんだというのだろう。
「じゃあ、なんなんだフ」
おれ
「なぁ、お二人さん。俺の隠し芸を見たいとは思わねぇか〜」
とつぴようし
カイルロッドの質問を無視するように、イルダーナフが笑顔で突拍子もないことを口に
愁いは花園の車に
ぜつく
した。この非常時になにを言い出すのかと思えば、隠し芸ときた。絶句しているカイルロ
ッドの横から、
「あたし、見たい〓」
ミランシャが熱のこもった声で叫んだ。
ノ、ちよよノ まなぎ
イルダーナフなら水を止められるのではないか−1執心な口調と眼差しに、ミランシャ
のそんな期待が見てとれた。カイルロッドもまた、不敵に笑っているイルダーナフを見て
いだ     つごう
いるうちに、同じ期待を抱いていた。都合のいい甘い期待だが、イルダーナフという男に
は 「きっとこたえてくれる」 と思わせるものがある。
「俺も見たいー」
二人の、手品をせがむ子供のような熱心な口調に、イルダーナフは指を鳴らした。
「よし、お代に酒をおごれよ」
明るく言ってから、イルダーナフは表情をひきしめた。人なつこさや陽気さが影をひそ
いあつかん
め、かわ。に近寄りがたい威圧感と迫力が巨体からたちのぼる。
圧倒されながら、カイルロッドとミランシャが息をのんで見守った。イルダーナフの手
いん                 とな
が印を結び、低い声で不思議な言葉を唱え始める。
「うわっ−」
げん
ふいに耳鳴りがしてカイルロッドは両手で耳をおさえた。耳の奥で、無数の高い音の弦
ごうもん
をでたらめにかき鳴らされているようだ。不快どころか、すでに拷問である。
心配したミランシャが横でなにか言っているようだが、耳鳴りがひどくてはっきりと聞
き取れない。
が、幸いなことにその耳鳴りはすぐに止んだ。時間にして三〇秒程度だったろう。
「イルダーナフの言葉のせいなのか?」
長い息を吐きながらカイルロッドが顔を上げると、あの地鳴りも聞こえなくなっていた。
さらに驚いたことに、水が止まっている。
「えっけ」
自分の目を疑い、カイルロッドは数回まばたきをした。
瞬時に凍結したように、水は今にも村を呑み込もうとしたままで止まっていた。
せいじやく
逃げていた人々も突然の静寂に気づき、足を止めた。そしてためらいながら振り返り、
ぎようこ       あぜん
凝固している高波に唖然とした。
すご
「凄い隠し芸ね」
上気した顔で見上げたミランシャに、イルダーナフは「まだあるぜ」と、器用に片目を
つぶった。それから結んでいた印を解き、両手を前へ突き出すと、鋭い気合いをかけた。
愁いは花閲の中に
イルダーナフの手の問から光がほとばしり、凝固している高波に吸い込まれた。
と、見えた次の瞬間、水の壁が爆発した。
しぷき
爆発した丁−1そうとしか表現できなかった。高波は無数の飛沫となって、雨に混じって
広範囲に飛び散った。
ぽうぜん           あんど  きようたん
呆然と見ていた人々の間から、安堵とも驚嘆ともつかないどよめきが洩れ、カイルロッ
いつしよ かんたん
ドも一緒に感嘆の声をあげた。
「しかし、イルターナフって本当に何者なんだろうフ」
ひろう
これまで多様な特技を披露しているイルダーナフだが、ここまでくれば素人の域ではな
えたい                        まなざ
い。ますます得体の知れなくなった剣士に、カイルロッドが疑惑の眼差しを向けると、
みようみまぬ
「見様見真似ってやつよ」
しんげようせい
信憑性のまるでない返事が戻ってきた。
「見様見真似でそんなことができたら、世の中、魔法使いだらけになるぞ。イルダーナフ、
あんたは魔法を使えるんだろうけ」
′一
カイルロッドが問い詰めると、イルダーナフはすっとぼけた顔で顎のあたりを撫でまわ
しながら、
「魔法ねぇ。ふ1ん、それじゃ、おまえさんの魔法を解いてやろうかフ」
黒い目が意地慧く笑った。
かえるへぴ
「よしなさいよ、王子。どうなるかわかんないわ。蛙や蛇にされるかもしれないわよ」
聞いていたミランシャが本気で心配していた。また、イルダーナフもカイルロッドの不
あお
安を煽るように、「どうなるか楽しみだぜ」などと、ニヤこヤ笑っている。
「いい、ちゃんとした魔法使いに頼むよ」
′l
カイルロッドは慌てて頭を振った。期待に応えてくれる反面、思いもかけない失敗もす
おもしろ
るし、面白がってとんでもないことを平気でする男である。ここはミランシャの言うとお
り、よした方が身のためだろう。
「でも、被害が少なくてよかったわね」
つぶや
水びたしになっている村を見回し、ミランシャがホッとしたように呟いたが、カイルロ
ッドは複雑な気持ちだった。
ひぎ
水が膝まで上がっている。高波は避けられたが、水量そのものにあまり変化はなかった
ようだ。長雨やこの水によって、農作物にかなりの被害が出ているはずだ。村の全滅に比
べたらましかもしれない。だが、これから一年間、村人達は苦労するだろう。それを考え
ると、カイルロッドは手放しで喜べなかった。
「くよくよするのはよしなさいよ」
愁いは花園の中に
暗い気分になっているカイルロッドの背中を、ミランシャがバンと叩いた。
だいじようぷ                            たくま
「大丈夫、これぐらいでへこたれやしないわ。人間ってしぶとくて、遥しいんだから。な
んとかなっちゃうものよ」
咳き込んだカイルロッドに明るく言い、ミランシャは小降りになった雨の中で、さっそ
ふつきゆうきぎよう               いつしんふらん
く復旧作業にかかっている人々を指差した。∵心不乱に働いている人々の姿に、カイルロ
ッドはほんの少しだけ救われた気がした。
「と。あえず、これで終わったんだな」
さや
カイルロッドがそう呟くと、イルダーナフは苦笑をは。つけながら、背中の長剣を鞘こ
と抜いた。
りようけん
「そいつぁ、甘い了見だぜ。高波は消えたが、まだ終わっちゃいねぇんだからよ」
「まだなにかあるのlフ」
ひめい                にがむし
ミランシャが悲鳴のような声をあげ、カイルロッドは苦虫を口いっぱい押しこめられた
表情になった。そのカイルロッドの肩を、長剣がトンと叩いた。
わけ
「若えくせに物忘れが激しいんじゃねぇか、王子。俺は言ったはずだぜ。こいつは自然災
害なんかじゃねぇってよ」
ぎようし
真顔になったイルダーナフを凝視し、カイルロッドは低く囁いた。
「……自然災害じゃなければ、なんだっ」
せんぼう
「魔物達の  てんこもりの悪意と羨望の歓迎よ」
「魔物ですって…・?」
ゆううつ
魔物と聞いて、ミランシャが憂鬱な表情になった。「またからかっているんだろフ」、否
▼.・−
定しかけたカイルロッドだが、イルダーナフのどこか哀しげな表情に沈黙した。その表情
ともな                つらぬ
は千の言葉よりも強く、恐ろしいほどの真実味を伴って、カイルロッドの胸を刺し貫いた。
だいしんでん              ねら
「フェルハーン大神殿の次は魔物か。どうして俺が狙われるんだっ」
訊いても答えてくれないとわかっているが、カイルロッドにしてみれば、疑問を口にで
も出さないとやりきれなかった。
じっぷ
これもきっと、実父に関係しているのだろう。顔も名前も知らない父親に振り回されて
かbだ
いるのだと思うと、身体の奥底から怒りがこみ上げた。養父であるサイードのためなら、
けんお
どんなことでも耐えてみせよう。だが、この世でもっとも嫌悪している実父のせいで、神
がまん
殿と魔物に付け狙われるなど、カイルロッドには我慢できなかった。いや、自分が狙われ
ることよりも、関係のない人々に迷惑をかけていることの方が耐えられなかった。
「とりあえず、どこか人のいない場所まで行くかフ」
カイルロッドの考えていることなど手にとるようにわかっているイルダーナフが、バシ
愁いは花園の中に
なにげ  つぷや
ヤバシャと水音をたてて働いている人々の方に顔を向け、何気なく呟いた。
「ああ。俺は一刻も早く、ここから立ち去った方がいい」
くちびるか     わけ
目を伏せ、カイルロッドはきつく唇を噛んだ。申し訳なくて顔を上げられない。
「この水の中を歩いて行くの?」
渋っているミランシャに、
「俺といると巻き添えをくうだけだ。ここで別れた方がいい」
カイルロッドが別れの撞手を求めたが、パンツと勢いよく払いのけられただけだった。
いや
「今頃、なに言ってるのよ。巻き添えなんて、これまで嫌になるほどくってるわよ。魔物
こわ
が恐くて魔女なんかやってられますか」
あとずき
魔女見習いに勢いよくかみつかれ、カイルロッドは後退った。
うらや
「羨ましいねぇ、色男」
−づ
イルダーナフに斡尻で頭を小突かれ、カイルロッドはぶつぶつ文句を言いながら、水の
中を進んだ。後からイルダーナフとミランシャがついて来る。
やみ                はず      ひぎ
夜明けが近くなり、闇が一番濃くなる頃、カイルロッド達は村の外れに来ていた。膝ま
しだい
での水位が次第に上がり、歩きづらくなっている。
「やだ、このままじゃ進めなくなっちゃう」
ミランシャが顔をしかめた。それを聞いてカイルロッドは足を止めた。すっかり忘れて
いたが、カイルロッドにとって膝までの水位でも、ミランシャにはもっと上なのだ。
「そうか。女の子は腰を冷やしちゃいけなかったんだ」
せりふ          りゆうぴ つ
カイルロッドは本気で心配したのだが、その台詞を聞いたミランシャが柳眉を吊り上げ
た。
「このスケベー」
こぶし  なぐ
いきなり拳で顔を殴られたカイルロッドの後ろで、イルダーナフが大笑いした。カイル
ぼうぜん
ロッドには殴られる理由も、笑われる理由もわからない。しばらく呆然としていたが、殴
われ
られた痛みに我にかえり、
「どうして殴るんだよー」
抗議すると、ミランシャは顔を真っ赤にしたまま、無言でズンズンと先を歩いて行って
しまった。
「俺、なんか怒らせるようなことを言ったのか?」
とほう
途方にくれてイルダーナフに助けを求めると、黒髪の大男は笑顔のまま、カイルロッド
の肩に両手をおいた。
39 愁いは花園の中に
「おまえさんが婚約者に逃げられ続けた理由が、よ1つくわかったぜ」
カイルロッドには理解できないことを言い、また大笑いした。ミランシャが怒ったこと
と、婚約者に逃げられたことの関連性を兄いだせないまま、カイルロッドはミランシャを
いよう けはい
追った。追いついて「どうして怒るんだフ」と訊いた時、ふいに異様な気配を感じてカイ
ルロッドは身構えた。
「どうしたのっ⊥
けげん                      ぎようし
ミランシャが怪訝な顔をした。カイルロッドは答えず、水面を凝視していた。
水面が泡だち始めた。
ゴポゴボ。
沸騰した湯の表面のように、泡が広がっていく。
「そら、おいでなすった」
イルダーナフがニッと笑った。
とたん、ゴポリと大きく水が持ち上がり、揺れながら形を変えた。
人の顔だった。
水が人の顔になっている。
男か女か、わからない。表情もなく、さながらデスマスクのようだ。
すいよノ
「水妖だな」
イルダーナフの冷静な説明に、カイルロッドもミランシャも声が出なかった。
なにしろ、それがひとつならまだしも、泡すべてが人の顔になったのだから。
きみ
なんとも気味の悪い光景だ。
(見つけた)
いつせい
大小さまざまな大きさの顔が、一斉にこクリと笑った。こらえきれなくなったミランシ
さけ
ャが小さく叫び、カイルロットは背筋が寒くなった。神経の造りが違うのか、人生経験の
違いか、イルダーナフは平然としている。
(おまえだ。おまえを食ってしまえば恐いものはなくなる)
おれ
食うなどと言われ、カイルロッドは思わず「俺は食っても美味くなんかないぞー」と言
あき
い返し、ミランシャとイルダーナフの二人から呆れた視線を向けられた。
(おまえを食えば強くなれる)
無数の顔が水に戻り、すぐさまカイルロッドの目の前で大きく水柱がたった。水柱がカ
イルロッドを呑み込むより早く、黒い影が躍り出た。イルターナフだ。
あ′、じきやろう
「悪食野郎がー 卵王子なんぎぁ、食っても美味かねぇよ!」
ひらめ          なまなか
長剣が閃き、水柱を切断した。生半な腕ではない。が、いかに腕がたとうと、相手は水
愁いは花国の中に
だ。剣で切断できるものではない。できたとしても、一瞬だけのことである。
しまつ
「水妖ってのは始末が悪いぜ。逃げろ、王子−」
さけ
イルダーナフが叫んだ。
逃げろというのは簡単だが、腿のあたりまで水がきているのだ。走って逃げるのも一苦
うヂ
労である。水をかきわけて進んでいると、カイルロッドを中心に水が渦を巻き始めた。
4
水は渦を巻きながらせ。上がり、カイルロッドを水中に引きずりこんだ。
「王子−」
ミランシャとイルターナフが近づこうとしたが、水に足をとられ動けない。
「   一   日」
水中に引きず書こまれ、カイルロッドはもがいていた。泳ぎは得意だが、渦の中ではな
あらが      ほんろう
んの役にもたたない。抗いがたい力に潮弄されながら、カイルロッドは水かさが増してい
ることに気がついた。
しわぎ
「これも水妖の仕業かけ」
水かさが増すにつれ、いよいよ渦が大きくなる。呼吸が苦しくなり、カイルロッドは顔
ゆが           おぼ
を歪めた。早く浮上しないと、溺れ死ぬだけだ。
「なんとか逃げ出す方法はないのか」
もがきながら、カイルロッドは懸命に考えた。だが、水の中にいるということは、敵の
体内にいるということであり、簡単には逃げ出せないということだ。
「そうだ、魔除けの短剣だ。水妖にも、効果があるかも」
万に一つの期待にかけ、短剣を取り出そうとしたが、思うように手が動かせない。苦労
しよく、しゆ
して取り出した時、見えない触手にからめ取られてしまった。
「短剣がー」
つか
流れていく短剣を掴み取ろうと手を伸ばすが、とても取れなかった。
むだ
(無駄なことをしないで、わたしに食われてしまうがいい)
かね
カイルロッドの頭の中に、ひび割れた鐘のような声が聞こえた。水妖の声だ。
(それにしてもあの方にそっくりだ)
じっぷ
水妖の声には驚きがあった。おそらく、あの方というのは実父だろう。「どうして水妖
が俺の実父を知っているんだっ」、他にも疑問はあったが、息が苦しくなり、考えがまと
まらなくなってきた。
(おまえを食えば強くなれる)
愁いは花園の中に
からだ
歓喜の声と同時に、渦を巻いている水が刃物となって、カイルロッドの身体を切り裂い
た。全身に鋭い痛みがはしり、目の前が真っ赤に染まった。全身の無数の傷から血が流れ
出し、水を赤く染めているのだ。
(わたしが最強の妖魔になるのだ)
かんだか みみざわ
甲高く耳障りな笑い声を聞きながら、カイルロッドの手足は重くな。、身体が冷たくな
ってきた。
「…  ⊥
目の前を赤い泡が流れていった。無意識に口を開いて、なにか言ったらしい。しかし、
なにを口にしたのか、膵臓とした意識ではわからなかった。
赤い水の中で、カイルロッドは意識が遠くなるのを感じていた。
渦が赤く染まっていく。
「イルダーナ7、王子がー」
さけ
ミランシャが叫んだ。水面下でなにが起きているのか、それはわからない。しかし、渦
が赤く染まったのはカイルロッドの血が流れているからだと、ミランシャは直感した。
あぷ
「王子が危ないわ!」
ミランシャが再び叫んだが、イルダーナフは長剣を手にしたまま動かない。
「このままじゃ、王子が死んじゃうー」
ごミノ
動こうとしない剣士に業を煮やし、ミランシャは渦の中心に近づこうとしたが、流れこ
んでくる水の勢いに足をとられ、大きくよろめいた。
むげ
「動いても無駄だぜ、ミランシャ」
水の中に倒れそうになったミランシャを片手で支え、イルダーナフは聞き分けの悪い子
供をさとすように言った。
「でも、王子がー」
その手を乱暴に振りきり、渦に近づこうとしたミランシャの一層を、イルダーナフが呆れ
た顔で掴んで止めた。
「懲りねぇお嬢ちゃんだな。王子が危ないのはわかっているよ」
「わかっているなら、どうにかしてよ− おじさんならできるでしょうけ」
「まぁな」
み1.′ん
口調に変化はないが、眉間にかすかな苦悩がある。即断即決のイルダーナフらしくもな
ようす          くちぴるか
く、なにか迷っている様子だった。ミランシャは唇を噛んだ。
おお
こうしているうちにも刻々と水位が上がっている。地表を覆っていた水が一か所に集ま
愁いは花国の中に
。、渦を大きくしていく。
すペ
なす術もなく渦を見つめていたミランシャは、空が白みはじめたことに気がついた。
「夜が・I」
らいめい      とどろ   たつまき
明けたとミランシャが言い終える前に、雷鳴のような音が轟き、渦は竜巻となった。
赤い竜巻だ。
二〇メートルはある。それが水を巻き上げながら、移動していく。
ぼうぜん
突然、目の前に竜巻が現われ、呆然としているミランシャの鼓膜を、イルダーナフの声
が打った。
「夜明けになったんで、逃げるつもりだ!」
はつき
魔物は夜にこそ本領を発揮する。朝に弱いのだ。
「逃がしてたまるもんですかー」
気丈にもミランシャは竜巻を追って走った。不幸中の幸いとでもいうのだろうか。竜巻
は村の方に移動せず、森へと向かっているようだった。
竜巻によって巻き上げられ、ほとんど水はひいていたが、ぬかるんだ土の上を走るのは
すペ
大変だった。何回も足を滑らせそうにな。ながら、ミランシャは走った。竜巻を見失うま
どろみヂ
いとして、水潜。の泥水をはねあげながら、全速力で走っていると、
はえ
「速えな、ミランシャ」
ィルダーナフに追い抜かれた。どういう走り方をしているのか、後ろからは足音も聞こ
ぇなかった。追い抜きざま、「無理しねぇで休みな」と声をかけられたが、ミランシャは
走るのを止めなかった。
「おじさんのくせに足が速いわね」
ぐんぐんと広がっていく距離に、ミランシャが舌を巻いた。ミランシャも決して遅くな
じふ
い。いや、速い方だと自負している。それを苦もなく追い抜いて行った。しかもその足取
りは、とてもぬかるみを走っているとは思えないほど軽やかだった。「イルダ]ナフなら
馬と競争しても勝てるのじゃないかしら」、ミランシャは本気でそんなことを思った。
広い背中を追って走っているミランシャの耳に、「こいつの力を借りるか」という、イ
にが つぶや
ルダーナフの苦い呟きが夙にのって流れてきた。
「なにをするつもりかしらフ・」
ふところ
後ろ姿しか見えないミランシャが不思議に思っていると、イルダーナフは懐からなにか
を取り出し、走りながら、それを竜巻に投げつけた。
イルダーナフの投げた物が金色に光りながら、竜巻の中に消えた。
「王子の指輪1日」
ミランシャは大きく目をみひらいた。イルダーナフが投げたのは、カイルロッドの母の
かたみ
形見だった。どういうわけかカイルロッドが持てないので、イルダーナフに預けてある物
だ。
「なんてことをー」
たいせつ
ミランシャは絶句した。あの青年が母の形見である指輪をいかに大切にしているか、ミ
ランシャは知っていた。
げきど
「指輪を投げたなんて王子が知ったら、激怒するわよー」
立ち止まっているイルダーナフに、やっと追いついたミランシャが息も切れ切れに非難
すると、こともなげな返事が戻ってきた。
「死んじまうよりましだ。何事も生命あってこそだろフ」
「でも・・」
しようめつ
なおもミランシャがかみつこうとした時、竜巻が大量の蒸気をあげて消滅した。
すさ
凄まじいばかりの蒸気だった。
かたま
その蒸気の中から赤い塊りが飛び出したのを、ミランシャは見逃さなかった。
「王子を連れて逃げやがった」
塊りの飛んだ方向に顔を向け、イルダーナフが舌打ちした。
愁いは花園の中に
赤い塊。は森の中へ消えていた。
「追いかけるか」
イルダーナフが歩き出し、
「あたしも行くわ」
置いていかれてはたまらないとばか。に、ミランシャが横に並んだ。
雨雲が風に流され、薄日が射し込んでいる。雨に濡れた木々の葉が久しぶりの陽光を受
けて、輝いている。
全身ずぶ濡れのまま、イルターナフとミランシャは水妖の逃げた方向に向かっていた。
うつそエノ
鬱蒼とした森の中に分け入ったとたん、水妖の逃げた方角がわからなくな。、ミランシ
ろうばい
ャは狼狽したが、先を歩いているイルダーナフにはわかっているのか、迷いもなく進んで
行く。
「ねぇ、イルダーナフ。竜巻が消えたのは、あの指輪のせいなのね」
湿った土や草の上を歩きながらミランシャが質問すると、イルダーナフは枝から垂れて
つる        めんどう        うなず
いる蔓を払いのけながら、面倒そうに 「そうだ」と領いた。
「…・どうしてあの指輪にそんな力があるの?」
まるで手品でも見ているようだった。あれほどの水が、一瞬にして蒸発してしまったの
そぼく
だ。ミランシャの素朴な問いに、イルダーナフはしごく簡単に言った。
えら
「そいつぁ、王子のおっかさんが偉い女だったからさ」
「ねぇ、ひょっとして、王子のお母さんって魔女だったんじゃないフ」
ミランシャの期待のこもった質問に、イルダーナフの黒い目が優しくなった。
つえ
「女は…特に母親ってぇのは偉大だよなぁ。この世で一番強えと思うぜ。子供のためな
わ             いと         まね
らどんなことでもする、我が身と引き替えにすることも厭わねぇ。男にゃとても真似でき
ねぇな」
それがカイルロッドの母フィリオリを指しているのはわかったが、ミランシャの欲して
いる答えではなかった。
「答えになってないわ」
「なってるさ」
モ け
聞き分けのない子供でもあしらうように、イルダーナフは素っ気なく言い、
「よく考えりやな」
なぞなぞ
謎々を与えた本人は、答えも教えずに大股に歩き出した。
「イルターナフ、ちゃんとわかるように説明してよー」
愁いは花園の中に
リLな
その後ろ姿に怒鳴ってから、「どこまでもしらばっくれるつも。ね」、ミランシャは頬を
ふく
膨らませた。
るレつぷ
「王子の謎って、実父だけじゃなさそうね」
カイルロッドの顔を思いうかべ、ミランシャは少し同情した。おそらく、カイルロッド
のんき
自身が考えている以上に、カイルロッドの謎は多いのだろう。そう思うと、呑気でおっと
りしている王子が気の毒だった。あれほど平穏な日常を求めている青年もいないだろうに、
やつかい
好むと好まさるとに拘わらず、厄介なことに巻き込まれている。
「まったく、人生ってままならないわ」
カイルロッドと自分とを重ね合わせて、ミランシャは大きくひとつため息をつくと、歩
く速度をあげた。
森の奥へと進むにつれ、水音が聞こえてきた。視界がひらけ、ミランシャは河の前に出
かたひぎ
た。先についていたイルダーナフが、湿った地面に片膝をついていた。
まちが
「ここに逃げこんだことは間違いねぇ」
イルダーナフに指されて下を見ると、点々とした赤い染みが河に続いている。
「水妖なら、逃げ込むのは水に決まってるわね。でも、王子の姿が見えないわ」
ミランシャが周。を見回して言うと、イルダーナフは立ち上がって河の中央まで入って
行き、水の中からなにかを拾い上げた。それはカイルロッドの短剣だった。
「王子は流されたな」
河からあがり、イルダーナフは拾いあげた短剣をミランシャに渡した。
「指輪は?」
「そいつも流されちまっただろうぜ」
下流を見ながら、イルダーナフが腕組みした。
「じゃ、これから下流に向かうのね」
ぱくぜん
短剣を腰のベルトに差し込み、ミランシャ。手がかりもなく漠然としているが、カイル
ロッドを見つけ出さなくてはならない。「まったく世話のやける王子様なんだから」、ぶつ
ぶつと文句を並べていると、
たいくつ  ひま
「あの王子といると、退屈する暇もねぇや」
楽しくてたまらないというように、イルターナフが白い歯を見せた。
「本当ね。たまには退屈したいわ」
くちぴる
苦笑してから、ミランシャはキユツと唇を結んだ。
愁いは花詞の中に
二葦 寝ても醒めても
1
・.ェ
きつい消毒薬の匂いで、カイルロッドは目を覚ました。気がつくと、全身に包帯を巻か
れてベッドに横たわっていた。
「う… 」
まぷ
窓から射し込んでいる陽光の眩しきに、カイルロッドは目を細めた。頭が重く、意識が
ぼんやりしていた。
すいよれノ
「俺は水妖に・・そうだ、水妖はどうしたんだ‖ ミランシャけ イルダーナフけ」
よみがえ
記憶が憩。、カイルロッドは勢いよく上半身を起こした。そして全身の痛みをこらえな
がら、ゆっく。と周囲を見回した。簡素な部屋だ。必要最低限の家具だけが置かれている。
テーブルの上にはカイルロッドの服がたたんで置いてあった。
「ミランシャ、イルダーナ77」
連れ二人の名前を呼んでみたが、返事はない。
「いないのか・あれからどうなったんだ、何日たったんだフ」
どくはく           おぼ
長い髪をおさえ、カイルロッドは独白した。水妖に殺されかけ、溺れて意識を失ったこ
とまでは覚えている。が、その後のことはわからない。
「誰か助けてくれたんだろうけど」
包帯が巻いてあるということは、治療をうけたということだ。しかし、室内に人の姿は
ない。
「どうなっているんだろうフ」
消毒薬の匂いに顔をしかめ、カイルロッドはベッドから下りた。それからテーブルの上
なにげ
に置かれた服に袖をとおしながら、何気なく窓の前に立った。陽光に目を細めて、窓から
かんたん
顔を外に出し、カイルロッドは感嘆の声をあげた。
きれい
「うわぁ、綺麗だなぁ」
ひぎ
明るい春の陽射しをうけて、色とりどりの花々が今を盛りと咲き誇っている。
視界いっぱいの花々の見事さに、カイルロッドが窓にへばりついて感嘆の声をあげてい
とぴら
ると、背中の方から扉の開く音がした。
驚いて振り返ると、扉の横に少女が立っていた。雪のように白い肌と、綺麗な金髪に大
55 愁いは花園の中に
きな水色の目をした、歳のころは七、八歳ぐらいの少女だった。
「ずっと眠っていたから心配したんだよ」
ノヽつたく
カイルロッドを見上げ、少女がニッコリ笑った。人なつこく屈託のない笑顔に、カイル
ロッドもつられて微笑んだ。
「君が助けてくれたのフ」
少女の前に行き、屈んで視線を同じ高さに合わせて訊くと、
じい
「ううん。見つけたのはハムだけど、助けたのはお爺ちゃんなの。お爺ちゃんはお医者さ
んなんだよ」
にカ  なつとく
少女は誇らし気lに言った。助けてくれたのが医者だとすれば、この消毒薬の匂いも納得
できる。少女が言うには、「お爺ちゃん」 は街に診察に行っていて、明日にならないと帰
ってこないのだという。
るすばん
「へぇ、一人でお留守番か。偉いなぁ」
カイルロッドが笑うと、少女は少し恥じらったようにうつむいた。
「俺はカイルロッド、君はフ」
「パメラ。ハムでいいよ」
「じゃあ、ハム。改めて、お礼を言わせてもらうね。助けてくれてあ。がとう」
カイルロッドが差し出した手を、パメラは両手で握り、
「ねぇ、歩けるなら外に出ない? お花が咲いていて綺麗だよ」
満面の笑顔で扉の方にカイルロッドを引っ張った。傷が痛んだが、この少女の笑顔には
とても逆らえない。手を引っ張られて、カイルロッドは外へ出た。
家を一歩出ると、そこは一面の花 − 花畑だった。花畑の中に家が建ち、その奥には森
まちが
がある。人里離れていることは間違いない。
ひぎ
外の空気と明るい陽射しに、カイルロッドは大きく深呼吸した。
「綺麗でしょう」
むじやき
花の中で少女が手を振った。無邪気であどけないその姿に、カイルロッドは小さく手を
カ1よーつ一だい
振った。「妹の遊び相手をしている兄のようだな」、カイルロッドに兄弟はいないが、きっ
とこんな気持ちなのだろうと思った。
おれ
「ところで、俺は何日ぐらい眠っていたのかなフ」
遊び相手をしながら、カイルロッドはパメラに訊いてみた。
「うーんとね、二日」
すわ
花畑に腰をおろしたカイルロッドの横にちょこんと座り、熱心に手を動かしながらパメ
ラが教えてくれた。二日前、河に水汲みに行って、そこでカイルロッドを見つけたのだと
いう。
「最初は水死体かと思っちゃった。だってね、傷だらけだったんだよ。ハム、びっくりし
ちゃった」
どうして河を流れてきたのか、カイルロッドにはわからない。しかし、どうにか水妖か
らは逃げられたらしい。
「その時、近くに短剣が落ちてなかったかなフ 俺の物なんだけど」
「短剣フ なかったよ」
「……そうか。水妖に取られたままか ・」
たいせつ
大切な物をなくしてしまい、カイルロッドはため息をつきながら、視線をパメラの手元
に注いだ。さっきから熱心に手を動かしてなにをしているのかと思ったら、少女は花飾り
を編んでいた。
じようず
「上手だね」
のア
覗きこんで感心すると、少女がはにかんだ笑顔を向けた。
「できたら、カイルロッドにあげる」
つぷや
手を動かしながらパメラが小さく呟き、カイルロッドは目だけで笑った。
風が吹き、花々を揺らした。
愁いは花園の中に
けんモう
鳥のさえずり、風に揺れる草木のかすかな音、他にはなんの音も聞こえない。暗感から
かくhソ
隔離された空間は、時間が止まったようだった。
かな
カイルロッドはしばらく自然の奏でる音に耳を傾けていたが、花飾。を作っている少女
に話しかけた。
「ハムはずっとここに住んでいるのフ」
その質問に、手を休めずパメラが小さく頭を横に振った。二年前からこの家に住んでい
るのだという。それまではあちこちを転々としたそうだ。家族はと訊くと、両親は亡く、
祖父と二人だけだと言った。
いつしよ
「お爺ちゃんはお医者さんだから、買い出しとは別に街へ行くの。ハムも一緒に行きたい
だめ
んだけど、遊びじゃないから駄目って、連れて行ってもらえないの」
lぱほ 一く
パメラは不満そうに頬を膨らませた。
さぴ
「じゃあ、ずっとここにいるんだ。友達もいないんじゃ淋しいだろフ」
「・でも、お花が咲いているから平気」
一呼吸おいて、パメラは明るい声で一言った。それは決して本心ではなく、祖父に心配を
かけまいとしているのだと、カイルロッドにはわかった。
「本当だよ。ハム、少しも淋しくないんだから!」
つか
カイルロッドの心情を察したのだろう、パメラは幼いなりに気を遣い、強い口調になっ
ていた。むきになっている姿がいじらしくて、カイルロッドはパメラの風に揺れている金
髪を撫でた。
「ハムは優しいな」
くちぴるか
髪を撫でられ、パメラは泣きそうな顔で唇を噛んだ。しかし、すぐに笑顔でカイルロッ
ドを見上げた。
「本当は秘密なんだけど、ハムのお爺ちゃんはね、魔法使いなの。だから、ここは冬でも
お花が咲いているの。ハムが淋しくないようにって」
とつ.ぴよ・つし
突拍子もないことに、カイルロッドは目をパテパテさせた。子供のいうことなので、ど
こまで事実かわからない。が、少なくともパメラはそう信じている。
「お爺さんはいつ帰るのフ」
イルダーナフ達とはぐれてしまったが、街に行けば連絡をとる方法もあるだろう。バメ
あいきつ
ラの祖父に挨拶をして、それから街までの道程を教えてもらって、向かうつもnソだった。
「行っちゃうの?」
つか
パメラがカイルロッドの腕を掴んだ。置いてきぼりをくらった子犬のような目で見られ、
こんわく
カイルロッドは困惑した。
愁いは花双の中に
「・・いや。お爺さんに挨拶しなくちゃならないからね」
パメラはおとなしく手を離した。だが、いずれカイルロッドはここを出て行くのだ。そ
れはパメラもわかっている。
かわいそう                  すlばや
聞き分けがよすぎて可哀相な少女に声をかけようとして、カイルロッドは素早く立ち上
がった。
「カイルロッドけ」
さつき
「殺気がする」
強い殺気に全身を緊張させ、カイルロッドは注意深く周囲を見回した。
ヒユツ。
鋭く風を切る音がした。
「伏せろ、パムー」
すで  たた
カイルロッドは叫び、飛んできたそれを素手で叩き落とした。足元に落ちたのは、真ん
中で折れた矢だった。
「矢かー」
まゆ
カイルロッドが眉をしかめていると、第二、第三と、矢が連続して飛んできた。達射し
ている。
だいしんでん
「またフエルハーン大神殿の暗殺者か!」
ナフな
低く唸りながら、カイルロッドは矢を残らず叩き落とした。
とだ
矢が途絶え、足音が遠ざかっていく。矢がなくなったので、逃げるつもりだ。
「ハムは家の中に入っていろー」
言われたとおりに伏していたパメラにそう言い、カイルロッドは迷わず矢の飛んできた
方向に走り出した。森の方向だ。十中八九、敵は森の中に逃げ込んでいる。
しかく           かげん
「懲りもせず刺客を差し向けやがって。いい加減にしてくれ」
指名手配書を出している神官長アクディス・レヴィに会って、文句を言ってやりたかっ
た。
森の中を走っていると、木々の間から逃げて行く男の後ろ姿が見えた。手に弓を持って
1・ト、こ
いるから、この男が矢を射かけたことにまず間違いない。
「逃がすか!」
走りながら落ちている木の枝を拾い、男の足めがけて投げた。
「うわっ!」
枝に足をとられ、男が転倒した。その間にカイルロッドは追いつき、
愁いは花園の中に
・iコ
あぷ
「よくも矢なんか放ってくれたなー 危ないじゃないかー」
くや
転んだ男の前に立った。男は侮しそうに舌打ちし、顔を上げた。初めて見る顔だった。
ひ や    ひげ は
陽に灼けた顔に髭を生やしている。歳は三〇代後半、背は高くないががっし。している。
服装や持ち物から判断すると、どうやら猟師か、それを装っているらしい。
ねら
「フエルハーン大神殿からの刺客だな。狙うなら、俺だけを狙え。関係のない子供まで巻
き添えにするなー そう神官長に言っておけ−」
えりくび           どな              ゆが
乱暴に襟首を掴んで、カイルロッドが怒鳴。つけると、男は不快そうに顔を歪めた。
「なに言ってやがる。フェルハーン大神殿だとフ ヘっ、俺はそんなものとは関係ねぇ。
じやま
俺が狙ったのはおめぇじゃねえ、パメラだ。それを邪魔しやがって」
「パメラをけ」
驚いたカイルロッドは、襟首を掴んでいた手を放した。これまでもさんざんフェルハー
ン大神殿の刺客に狙われているので、殺気を感じた時、疑いもしなかった。
「神殿の刺客じゃないのか」
うつ  つぷや                      そまつ
カイルロッドは虚ろに呟いた。確かに大神殿の刺客にしては、手並みがお粗末すぎる。
「ふん、俺はただの猟師よ。けや、猟師だったと言うべきかな。まったく、あのジジイが
メ.・・.
いなくて、絶好の機会だったのによ」
にら
男は立ち上がり、絶句しているカイルロッドを憎々しげに睨んだ。その日に激しい怒り
が燃えていた。
「どうしてパメラを狙うんだ?」
震える声でカイルロッドが質問すると、男は鋭い目をした。
「人殺しだからよ」
ぞうお
短い吉葉の中にはあらんかぎりの憎悪があった。
「そんな  」
だま
「見かけに騙されているくちだな、若いの。あのガキとジジイはな、人殺しなんだ! 俺
の女房と子供を殺したんだー」
持っていた弓をカイルロッドにぶつけ、男は森の奥に走って行った。
さいし かたき
「あの二人に言っておきな、ラスティは妻子の仇を必ずとるってなー」
ぜりふ            ぽうぜん                 なぜ
捨て台詞が響く中、カイルロッドは呆然としていた。追うつもりだったのに、何故か足
が動かなかった。
lまか
「あの子が人殺しだってフ そんなはずはない、馬鹿げているー」
自分が狙われた方がはるかにましだ、そんなことを胸の中で呟きながら、カイルロッド
は落ちている弓を踏みつけた。
愁いは花園の中に
2
とつて           とぴら
花畑へ戻り、家の中に入ろうとして把手に手を伸ばしかけると、扉が開いてパメラが飛
び出してきた。
lナが
「怪我はり」
しんし まなぎ
パメラの真撃な眼差しに、カイルロッドはあの男の言葉を否定した。「あの男はなにか
思い違いをしているんだ」、この少女に人殺しなどできるはずがないではないか。
だいじようぷ
「怪我はないよ、大丈夫」
「カイルロッド。矢を射たのは、ラスティさんだった?」
確信しているパメラの問いに、カイルロッドが答えられずにいると、
「やっぱ。」
あふ                     ねら
ふいに少女の目から涙が溢れた。パメラは自分がラスティという男に狙われていると知
っているのだ。
あぷ
「ごめんね、カイルロッド。ハムのせいで危ない目にあわせて」
ポロポロと涙をこぼすパメラに、
「ハムの知っていることだけでいいから、俺に話してくれないかつ」
よノなが             うなず
カイルロッドは優しく促した。少女は目をこすりながら領いた。
「ラスティさんは、ハムがジュディを殺したって言うの」
「ジュディというのは、ラスティの娘?」
「うん」
パメラが言うには、この家に来てから仲良しになったのだという。だが、半年前にジュ
やまレ.                        かい
ディは病にかかり、パメラの祖父が治療したのだが、その甲斐もなく死んでしまった。
「それで殺したなんて言ってるのかけ とんだ言いがかりだT」
ふんがい
話を聞いてカイルロッドが憤慨していると、ジュディが死んだ時のことを思い出したの
か、パメラが声をあげて泣き出した。
「あああ、泣かないでくれ」
なが              ろうぼい
どうやって宥めたものか、カイルロッドは狼狽した。
外はそろそろ陽が傾きかけていた。
だんろ    ひぎ かか
カイルロッドは暖炉の前で膝を抱え、毛布にくるまっていた。
こ やみ                   けものとカlど  ふくろう
窓の外は濃い闇が広がり、明かりは見えない。森の中から獣の遠吠えや桑の鳴き声が響
いてくる。他に聞こえるのは、薪のはじける音だけだ。
愁いは花園の中に
「こんな場所で一人で留守番は辛いな」
大人でも辛いと思うのに、まして子供ではなおのことだろう。別室で眠っているパメラ
まぷた
のことを考え、カイルロッドは重い槍をこすった。
「またラスティが来るかもしれない」
てつや
それを警戒して、カイルロッドは徹夜の見張りをすることにした。パメラが安心して眠
れるのなら、徹夜の一晩や二晩はどうということはなかった。
あの後、泣いていたパメラを宥めて食事をとってから、ついさっきまで二人は暖炉の前
にいた。
「なんかお話して」
うば
そうねだるパメラに、カイルロッドは子供の頃、乳母から聞いた話をしてやった。パメ
ラは目をキラキラさせて、カイルロッドの話を聞いていたが、夜が更けるにつれ睡魔が襲
ってきて、寝入ってしまった。あどけない顔で眠る少女をベッドまで運び、カイルロッド
はまた暖炉のある部屋へ戻った。
「さて」
ほのぶ
暖炉の炎に手をかざし、カイルロッドは二人の連れのことを考えた。数日離れただけだ
というのに、ずいぶん長い間会っていないような気がする。
「良くも悪くも、二人とも印象が強いからなぁ」
どくぜつ              むしよう
ミランシャの毒舌やイルダーナフの豪快な笑い声を無性に恋しく感じるのは、ここが静
かすぎるからだろうか。
さが
「俺のこと、探してくれてるかな」
いちまつ                         ごうりゆう
一抹の不安を覚えながらも、カイルロッドは早く街へ行って、二人と合流できる方法を
考えていた。
いつの問に寝入ってしまったのか ー
カイルロッドは馬のいななきで目を覚ました。ラスティが押しかけて来たのかと、飛び
起きたカイルロッドは、窓の外が明るくなっていることに気がついた。
「朝になっていたのか」
さむけ
寒気がして、あやうくくしゃみが出そうになるのを必死でこらえた。見ると、暖炉の火
あわ
は消える寸前だった。カイルロッドは慌てて火の中に薪を入れた。春とはいえ、朝はまだ
冷え込むのだ。
ひづめ
火の前で手をこすりあわせていると、車輪の昔と馬の蹄の音が近づいて来る。ラスティ
ではない。あの男ならそんな物を使ってここに来る必要はないのだ。
「ハムのお爺さんが帰ってきたのかなフ」
愁いは花園の中に
カイルロッドが腰を浮かせると、それらの音が止まった。
くつ        とぴちたた         かんぬきはヂ
少しして、靴音が近づいて来て扉を叩いた。カイルロッドは閂を外し、扉を開けた。
あさもや
朝霧の中に老人が立っていた。
ひげ は      や
パメラの祖父だろう。白い髭を生やし、小柄で痩せているが、背筋がピンと伸びている。
けんじや
深い緑色の目には強い意志と知性があり、賢者らしい風格がある。
「ほう、もう動けるのかね」
しわ
カイルロッドを見るな。、老人は驚いたように顔の奴を深くした。
「はい、おかげさまで」
「若いから回復も早いのぉ」
せんぼう     つぶや も
家の中に入。、老人は羨望のこもった呟きを洩らした。
おれ
「あの、助けてくれてあ。がとうこざいました。俺は」
「ルナンのカイルロッド王子じゃな」
カイルロッドが名乗る前に、老人に言いあてられた。驚いたカイルロッドに、老人が笑
顔を向けた。
ようぽう
「ルナンの王子は有名じゃからな。一目でわかる容貌だしのぉ」
あっさ。と言われ、カイルロッドは黙って頭を掻いた。
「わしはハムの祖父でザーダック。ハムから聞いておるじゃろうが、医者じゃ」
「魔法使いとも聞いてますけど」
ゆが
冗談混じりにカイルロッドが言うと、ザーダックはかすかに口の端を歪めた。老人の、
肯定とも否定ともとれない不思議な表情が、強く印象に残った。
よノわき
「魔法と言えば、ルナンは魔法をかけられて石にされたという噂じゃが、本当かね?」
「ええ」
lこが   うなず
石になってしまった人々を思い出し、カイルロッドは苦い顔で領いた。早くムルトを倒
さなくてはならない。
「ああ、そうだ。ハムのことなんですけど」
じやま
邪魔な長い髪を後ろに流し、カイルロッドは昨日のことをかいつまんで報告した。それ
を聞くと、ザーダックは顔を歪めた。
「ラスティか」
いす        すわ
またか、と言いたげな声と表情で呟き、老人は椅子を引っ張って座り、深いため息をつ
いた。
るす
「わしの留守中は決して外に出ないようにと、あれほど言っておいたのにI 。これまで
も色々とあったが、矢まで射かけたのは初めてじゃ」
愁いは花園の中に
71
さいし かたi
「妻子の仇をとるって言ってました」
やまい
「… あの男の妻と娘は病にかか。、二人とも死んでしもうた。わしはできるだけの力は
なつとく
尽くしたつも。じゃが、ラスティは納得してくれん。・・よほど哀しみが深かったのじゃ
ろう」
ひざ          はのお   ひと    つぷや
膝の上で手を組み、ザーダックは炎を見つめて独。言のように呟いた。
かわいそう
「でも、このままじゃハムが可哀相です」
ののし  ねち
妻子を失ったラスティも気の毒だが、関係ないのに人殺しと罵られて狙われるパメラの
きぐ
方が可哀相だ。そのうち、ラスティに殺されるのではないかと、カイルロッドは危惧して
いた。ラスティの狂気をはらんだ目を思い出し、あの男ならや。かねないと思った。
「この家から離れて、他の街に行った方がいいと思います」
「そうじゃな」
熱心なカイルロッドの声に比べ、ザーダックはまるで気のない返事だった。
「ところで、おまえさまはどうなさる?」
さが
「あ、あの、連れとはぐれてしまったので、探したいと思ってます。それで、街まで行き
たいんですが、道程を教えていただけないでしょうか?」
こよノニーフや
突然話を向けられ、カイルロッドが口ごもりながら答えると、ザーダックは好々爺の顔
になった。
「連れがいなすったのか。それはさぞ心配していることじやろう。ちょっと待ってくださ
れ」
いす
そう言って椅子から立ち、奥の部屋へ行った。少しして、地図を持って出て来た。
「ここから一番近い街がマセッサじゃが、歩くと半日はかかるでな。馬を貸してさしあげ
よう」
テーブルに地図を広げ、ザーダックはカイルロッドにマセッサまでの道程を説明した。
さぴ
それを聞きながら、カイルロッドはパメラの淋しそうな顔を恩いうかペ、心が痛んだ。
「ハムが淋しがるだろうな」
そんなことを思っていると、奥から軽い足音がやってきた。ハムに違いない。
「カイルロッド、もう行っちゃうのフ」
部屋に入ってきたパメラが、悲しそうにカイルロッドを見た。
「ハム、わがままを言って困らせるもんじゃない。この人はな、やらなくてはならないこ
とがあるんじゃ」
しか              すそつか
祖父に叱られたパメラが、カイルロッドの服の裾を摘んだ。
「だって、ハム、まだカイルロッドに花飾りを作ってないもん」
愁いは花園の中に
なだ
目に涙をためたまま、パメラは裾を掴んだまま離そうとしなかった。叱っても宥めても、
決して離そうとしない。これにはカイルロッドもザーダックもほとほと弱り果てた。
「じゃあ、もう半日、ここにいる。それでいいかい?」
うなず
カイルロッドが言うと、少女は領いた。イルダーナフがいたら「甘いもんだ」と鼻で笑
われそうだが、カイルロッドにはすがる少女を突き放せなかった。
「あ。がとう」
老人がすまなそうに頭を下げた。
3
しめ け
風が適度な湿。気をおびている。
イルダーナフとミランシャは、河沿いに旅をしていた。下流に行くにしたがって河幅が
ゆる
広くなり、流れも緩やかになってくるが、今は上流の長雨の影響で流れが速くなり、水量
も増えている。
ぷつし
河沿いにある荷はマセッサといった。人々の生活は河に頼ったもので、船を使った物資
うんぽん
の運搬や、船員の食料補給地として、街は栄えていた。大きな船着場がいくつもあり、い
にぎ
つもどこかしらで船の出入りがあって、賑わっている。
「王子ったら、どこまで流されちゃったのかしら」
ミランシャがぼやくと、イルダーナフが真っ白い歯を見せて笑った。
「海まで行っちまってたりしてな」
もくず
「海の藻屑になっているってフ」
えさ
「魚の餌かもしれねぇ」
カイルロッドが聞いていないものだから、二人揃って言いたい放題である。
河沿いにあるだけあって緑の多い街を、二人はのんびりと歩いていた。
「今のところ、河を流れてきた青年を助けたって話は聞かないわね」
笑い事でなく、本当に魚の餌になっているのではないか、ミランシャはにわかに不安を
感じた。が、イルダーナフの方はまったく心配しておらず、すました顔で片手に持った果
物にかぶりついている。
あせ  きんもつ
「ま、焦りは禁物だぜ。こういうのは根気だからな」
などと言いながら、イルダーナフの視線はもっぱら着飾っている安達に向けられ、とて
さが
もカイルロッドを探しているようには見えない。
「まったく」
あき
呆れていると、にわかに街の空気がざわつき始め、通りの向こうから泣き叫ぶ声が間こ
愁いは花園の中に
いちよろノ
えてきた。それを耳にして、道を行く人々は足を止めると、一様に顔を曇らせた。
「何事かしら?」
ミランシャが顔を向けると、荷馬車とそれにすが。つくようにして男が歩いている。
「エドだ」
「じゃ、殺されたのは娘のアリスか」
荷馬車と、エドという名前らしい男が通りすぎて行くのを見守りながら、人々が声をお
とした。
「アリス、どうしてだー どうしておまえが死ななくちゃならないんだイ」
いたい、
荷台にある布に包まれた物 − おそらく娘の遺体だろう。それにしがみつくようにして、
エドは「アリス、アリス」と、娘の名を叫んでいる。
かわいそう
「可哀相ね・・」
「ああ」
つぷや
ミランシャとイルダーナフが気の毒そうに呟いていると、
「殺されたんだよ」
いまいま
ミランシャのすぐ近くにいた中年男が、忌々しそうに吐き捨てた。
「殺された?」
おだ
穏やかでない言葉に、ミランシャが目をみひらくと、中年男は地面につばを吐いた。
あた
「あんた達、旅人だね。だったら気をつけることだ。この辺りじゃ、若い娘が何人も殺さ
れているんだ」
きんぞく
「殺されるって ・ひょっとして、山賊でも出るんですかフ」
たいじ          ばけもの
「ハッ、山賊ならまだましだ。退治もできるからな。だが、化物じゃどうすることもでき
ない」
「化物フ・」
「生き残った娘が苦ったんだよ。山みたいにでっかくて、けむくじゃらの化物に襲われた
って」
「けむくじゃらの化物ですってフ」
ノ1わ
ミランシャはもっと詳しく知りたかったのだが、中年男はどこかへ行ってしまった。
「化物ねぇ」
おもも    あご な
イルダーナフは半信半疑という面持ちで、顎を撫でている。
「エドは父一人、子一人だったんだよ」
「ああ、恐ろしいねぇ」
「いったい、どうなっているんだろうね」
愁いは花園の中に
ささや か
店や家の前に集まって、人々が不安そうに噴きを交わしていた。河沿いの明るい街の上
に不安という名の雲がたちこめ、人々の心に濃い影を落としている。
あちこちで不安と恐怖が囁かれる街を歩きながら、ミランシャは顔を暗くした。
いや
「嫌な所に来ちゃったわね」
えたい
得体の知れない化物に若い娘が次々と殺されていると聞かされ、どうも落ち着かないの
だが、それは当然だろう。
「ま、化物が襲ってきやがった時は、俺が助けてやるから安心してな」
化物と聞いてもまるで動じないイルダーナフが、笑顔でミランシャの肩を叩いた。不思
だいじよよノぶ
議なことにこの笑顔を見ると、どんなことがあっても大丈夫だと思えてくるのだ。
「あてにしてるわよ」
ミランシャは笑顔で片目をつぶった。
きゆうけい
「さぁて。ずっと歩きずくめで疲れたな。少し休憩しようぜ」
言うが早いか、ミランシャを置いて、イルダーナフは歩いて行ってしまった。
「ちょっと、イルダーナフー 昼前から酒場になんか入らないでよー」
あわ
ミランシャが慌てて追いかけた。イルダーナフの休憩場所など、ひとつしかない。なに
をおいてもまずは酒という人間なのだ。疲れたなどというのは、酒場に入るための口実に
決まっている。
すばや
が、ミランシャの声など聞いていないイルダーナフは、実に素早く酒場に入ってしまっ
けもの
た。巣穴に逃げ込んだ獣同様、こうなっては手出しできない。イルダーナフが腰を上げる
まで、気長に待つだけである。「出遅れたのが敗因だわ」、げんなりしながら、ミランシャ
も酒場に入った。
酒場はガラガラ、無人だった。それも道理で、まだ昼前である。普通に働いている人間
なら、まずこんな時間から酒場に入りびたったりしない。
かしきhソ
「貸切みてぇだな。まぁ、広くていい。うるせぇのがいないから、ミランシャも一杯どう
だ?」
じようきげん
さっさと酒を注文し、イルダーナフは上機嫌である。ミランシャはイルダーナフの向か
いに席をとり、ため息をついた。
まじめ     きが
「おじさん、真面目に王子を探す気があるの?」
しだい     むだ
「あるけど、てあたり次第に歩いても無駄だろうからよ」
「あら、さっきは根気とか言わなかった?」
「俺は過ぎ去ったことにゃ興味がねぇ」
愁いは花園の中に
ぐ4−
ニッと笑われ、ミランシャは扇をすくめた。ぬけぬけとした言い種に、もう腹もたたな
潜が運ばれると、イルダーナフはさっそく水でも飲む調子で、杯を重ね出した。ミラン
はお
シャはつまらなそうに頼づえをついて、イルダーナフを見ていた。とても昼間から飲む気
にはなれない。
「あ1あ、なにか食べようかな」
たいくつ    ぶさた
空腹というよ。、退屈で手持ち無沙汰なのだ。なにを注文しょうかと考えながら店内を
見回し、ミランシャはぴっく。した。自分達の他に客はいないとばか。思っていたのに、
すみ
隅の席に客が一人いる。最初からいたのか、それとも後から入って来たのか、まるで気が
つかなかった。
ひたい                  まぎ
額に赤いバンダナをしめ、動きやすい男物の服を着ているが、紛れもなく女性だ。黒い
しっーしく           けもの
肌、漆黒の髪と目をしている。美しい獣のようにしたたかでしなやかな、そしてどこか危
..t
険な匂いがする。
「ねっ、イルダーナフ。他にも客がいたわよ。それも美人だわ」
ぬす           ひじ
気がつかれないように盗み見しながら、ミランシャは肘でイルダーナフの手を突っつい
た。
「ふふん、奥の席だろっ」
杯に口をつけ、イルダーナフは笑った。ミランシャに教えられるまでもなく、女性の存
在に気づいていたらしい。
「どうしてわかるのフ」
信じられないというように、ミランシャがまはたきした。イルダーナフの席からでは、
女性の席は死角になっているのだ。剣の達人とは、背中に日でもついているのかもしれな
い。ミランシャが首をひねっていると、
「せっかく美人がいるんだ、ぜひともお近づきになりてぇやな」
イルダーナフは杯を手に持ったまま立ち上がり、女の席に足を向けた。
「おじさんっ−よしなさいよ、連れがいたらどうするのよ−まったく、美人と見ると
みさかい
見境がないんだから・」
あき       つぶや
呆れるミランシャの呟きを背中に、イルターナフは黒い肌の美女に近づいた。
「よっ、お久しぶりじゃねぇか」
ひとみ
旧知の友に会ったような、親しみのこもった声に女が顔を上げた。強い光を放つ瞳に警
戒の色が広がっている。
その女に顔を近づけ、
愁いは花園の中に
こわ                あいだがら             けが
「そう恐い顔をしなさんな。まんざら知らねぇ間柄じゃあるめぇしよ。あの晩の腕の怪我、
なお
もう治ったかいフ」
人をくった笑みで、イルダーナフが声をかけた。
せつな             せんこう
刺那、イルダーナフめがけて閃光が斜めにはしった。鋭利な刃物の光だ。
かんだか
次の瞬間、甲高い金属音が響きわたった。
「イルダーナフー」
なにが起きたのかわからないまま、ミランシャが大男の名前を呼ぶと、
「心配しなさんなって」
明るい返事が戻ってきた。見ると、イルダーナフは斬。かかってきた剣先を、鞠と剣で
防いでいた。
「いきなり斬。つけるこたぁないんじゃねぇか?」
117..1
すっとぼけた声に、女は全身の毛を逆立てた猫のようになった。剣をひき、次の攻撃に
転じようとしているのだが、イルダーナフの帯と剣に挟まれ、動かせない。攻撃をかわさ
れたはかりか、動きを封じられていた。
「むっ」
のど     うな
喉の奥で鋭く唸り、女はイルダーナフの方へテーブルを蹴。上げた。イルダーナフがテ
すき
ープルを避けた隙に、女は自分の剣を抜き取った。
J..
そして、息もつかせぬ速さで斬りかかった。女の剣をイルダーナフが稗で弾き返し、攻
ひらめ
撃に転じて剣を閃かせる。
それら一連の動きがあまりに速いため、ミランシャにはなにをしているのか、まるで見
えなかった。
剣と剣のぶつかり合う音が響き、火花が散る。
突き出した女の剣を払い、イルダーナフの剣が水平にはしり、空間に光る線を描いた。
かbだ                   ゆカ、       むだ
その上に女の身体が浮き、後方に音もなく着地するや、足が床を蹴っている。無駄のない、
さながら猪科の大型獣のような身のこなしだった。
「懲りねぇな、おまえさんも」
まゆ     つ
振りおろされた剣を止め、イルダーナフが苦笑した。女は眉をギッと吊り上げたが、声
は出さなかった。かわりに、いよいよ剣の鋭さが増していく。
「どうしたの、イルダーナフー 押されてるじゃないー」
さけ   たんれん おこた     みとが
手に汗をかきながらミランシャが叫ぶと、鍛練を怠っているのを見合められた少年のよ
うに、イルダーナフは肩をすくめた。
まじめ
「真面目にやりやいいんだろ」
面倒そうな呟きを洩らすと、イルダーナフは長剣を握り直した。とたん、動きが変わっ
た。相手の剣の鋭さに押されていたのに、あっという間に、女を壁にまで追い詰めた。
「くっー」
追い詰められ、女が苦しまざれに剣を突き出した。
「イルダーナフー」
ミランシャが鋭く息をのむと同時に、ひときわ高い昔がした。
「俺にゃ、こういう芸当もあるんだぜ」
とくいげ                   ひじたた
イルダーナフが得意気に笑った。突き出された女の剣をかわし、それを肘で叩き折った
のだ。折れた剣の先が、床に突き刺さっている。
どういう表情をしていいのかわからず、ミランシャはただ目ばかり大きく開いていた。
「きさま…・⊥
のどもと            うめ
喉元に剣を突きつけられ、女が岬いた。ミランシャも驚いたが、女も驚いたのだろう。
指先がかすかに震えている。
「ところでイルダーナフ、この女を知っているのフ」
この展開を理解できないミランシャが訊くと、イルダーナフの黒い目が細まった。
ペつぴん       やみう
「知ってるもなにも、この別妹さんは以前、俺を闇討ちしやがったのよ。失敗したがな。
愁いは花園の中に
せきひ
ミランシャ、覚えているかつ ユーリンの石碑が割られていたって話を。そいつぁ、この
別棟がやったのよ」
に.レ
女の喉元に突きつけた剣に、わずかだが力が入る。女の喉にうっすらと血が渉んだが、
イルダーナフは気にしない。剣を向けられた以上、女だろうが子供だろうが、敵である。
「ユーリンの石碑を・…」
一.1..
ミランシャの声は震えていた。ユーリン1来ない男を待ち続けた哀れな女。その魂を
こわ よみがえ
封じていた石碑を壊し、詰らせたばかりに、大勢の人間が死んだのだ。ミランシャはその
事件に深く関わっていたのである。
「イルダーナフの言うことが本当なら、許せない」
さまぎま               くや
ミランシャは奥歯を噛みしめた。あの時の様々な感情が直ってきた。無力さと悔しさ、
悲しさをどうして忘れられるだろう。
「どうしてあんなことをしたのよー そのおかげで、どれだけの人が死んだと思っている
の!」
・.−・.
激情に身体を震わせて叫んだミランシャの耳に、靴音が聞こえた。イルダーナフが口を
きようがく
曲げ、女は驚愕に顔色を変えた。
「彼女を離してもらえませんか?」
とぴらあ
酒場の扉を開けて、一人の青年が入って来た。中肉中背、年齢は二〇代後半ぐらいだろ
ふんいき
う。燃えるような赤い髪と浅黒い肌をした、落ち着いた雰園気の青年だ。オレンジがかっ
きんかつしよく
た金褐色の目には強い意志と知性がある。
「彼女は、ティファはわたしの部下です」
おだ
穏やかに青年が言った。開けた扉から酒場に風が入り、青年の長袖の右腕が大きく揺れ
せきわん
ている。隻腕だ。
「おまえさん、エル・トパックだな」
うなヂ
イルダーナフの問いに、青年は頒いた。
4
けげん まなぎ
突然現われた青年に、ミランシャは怪訝な眼差しを向けた。前にカイルロッドが話して
いた赤い髪の隻腕の青年とは、エル・トパックのことだろう。
「害意があって、王子に近づいたのね」
ミランシャの問いに、エル・トパックは無言で首を振った。が、とても信じる気にはな
つめ か
れない。「まったく、人は外見だけではわからないわ」、ミランシャは爪を噛んだ。一見温
ぶつそう
厚そのものの青年が、こんな物騒な人間を手下にしているというのだから。
愁いは花圃の中に
「手下の危機を助けに来るとは、見上げた大将だな」
なが             ゆが
その青年を値踏みするようにしげしげと眺め、イルダーナフがロを大きく歪めた。
やつ            っごう
「けどなぁ、剣を振り回して襲いかかってきた奴をただで離せたぁ、ちいっと都合が艮す
ぎるんじゃねぇかフ」
のど
そう言いながら、女 − ティファに突きつけた剣を横に動かした。喉に赤い線ができ、
まゆ           よノめ
そこから血が糸のように流れたが、ティファは眉をひそめただけで、坤き声ひとつあげな
かった。
「おっしゃることはごもっともです」
しんみようおもも
エル・トパックは神妙な面持ちで同意し、左手を動かした。前に出された芋の人差し指
と親指の間に、光る小さな物がある。
「トパック様− それは・−」
ティファが叫び、身をの。だした。喉元の剣など気にもしない行動に、イルターナフは
口をへの字にして、わずかだが剣を引いた。
「おい、せっかく助けが来たのに首を落としちまっちゃ、もったいねぇじゃねぇか」
おど                           くちようあき
脅すというより、本気で「もったいない」と思っているイルダーナフの口調に呆れなが
ぎようし
ら、ミランシャは隻腕の青年が持っている物を凝視した。
それは、見覚えのある金色の指輪だった。
「どうして王子の指輪が・」
くちぴる
ミランシャは唇を噛んだ。逃げようとした水妖にイルダーナフが投げつけ、そのまま見
なぜ
っからなくなった指輪を、何故、この隻腕の青年が持っているのだろう。
す.・・.
「ううん、きっと偽物に違いないわ」
手下を助けたいがために、偽物を出したに違いない。
まちが
「これは間違いなく、カイルロッド王子の指輪です」
っぶや           きんかつしよく
ミランシャの呟きを聞き、工ル・トパックが金褐色の目を細めた。
「この指輪と彼女を交換していただけませんかフ」
まね
「いけません、トパック様−すべては勝手な行動をした私自身が招いたことですーせ
っかく手に入れた指輪を、私ごときと交換などしてはなりませんー」
たんたん                     さえぎ
淡々としたエル・トパックの言葉を、ティファの声が遮った。どうやら、エル・トパッ
クの命令もなしに勝手に行動を起こしたらしい。
「交換しょう」
しようだく
取り乱した女の喉を切らないよう注意しながら、イルダーナフは即座に承諾した。
「ちょっと、確かめもしないで信用しちゃっていいのけ.偽物だったらどうするのよー
愁いは花園の中に
だいたい、おかしいわよー 王子の指輪をどうしてこの人が持っているのけ そもそも、
何者なのよー」
すんな。と交換を受け入れたイルダーナフに、ミランシャがかみつくと、
「まあ、心配しなさんな。指輪は本物だ。俺にゃわかる」
ひらめ
珍しくイルダーナフが真顔になった。が、すぐに底意地の悪い笑みを閃かせて、隻腕の
青年に向けた。
「この兄ちゃんにゃ、王子の指輪を探しだすなんて簡単なことさ。なにしろ、フエルハー
だいしんでん
ン大神殿の命令で、大勢の手下を使って卵王子を監視してらっしやるんだぜ。空から見張
やみう
っているわ、闇討ちはさせるわ。いや、ご苦労なこった」
「フエルハーン大神殿のまわし者で、王子を監視しているけ」
ぎようてん
仰天したミランシャが隻腕の青年を見ると、青年は顔に薄い笑みをは。つけていた。
いや
さきい し.たヂら みとが      いごこち
さや陰湿さはない。些細な悪戯を見答められ、少し居心地が悪い、そんな笑みだった。嫌
1
味を言われた当人より、かえって部下の方が顔色を変えて怒りだした。
「きさまt」
「おいおい、少し静かにしなよ」
ニッと笑い、イルダーナフの指がティファの首筋を軽く突いた。とたん、ガタンとティ
かろだ              すわ
ファの身体から力が抜け、そのまま下に座りこんでしまった。
「く……」
赤いバンダナを巻いた美女は立ち上がろうとあがいているようだが、身体を動かせない
らしく、汗が類を流れている。
「・  −」
エル・トパックの顔を動揺がかすめた。しかし、ミランシャは驚かなかった。以前にも、
これと似たような光景を見たことがある。
「このおじさんには特技や隠し芸が多すぎるわ」
ミランシャは心の中でぼやいた。
「ま、少しすりや、動けるようになるさ」
さようがく
自分の身になにが起きたのか理解できず、驚愕に目を開いているティファに笑いかけ、
さや
イルダーナフは長剣を鞠におさめた。
「そんじゃま、その指輪をこっちに投げてもらおうか」
うなが
促され、エル・トパックが指輪を放った。指輪は光を反射し、金色の弧を描いた。それ
つか
を空中で掴むと、
「これで取り引きは終わりだな。行くぜ、ミランシャ」
愁いは花調の中に
す                        ぁわ
イルダーナフは用が済んだとばかりに足早に扉に向かった。ミランシャが慌ててついて
行く。
ゆ′ヽえ
「イルダーナ7、もうひとつ、取り引きする気はありませんか。カイルロッド王子の行方
と」
横を通。過ぎようとしたイルダーナフを、エル・トパックが呼び止めた。イルダーナフ
は足を止め、ミランシャが勢いよく振り返った。
「王子の行方を知っているのけ」
「兄ちゃん、王子の行方となにを交換するんだフ」
めんどう
面倒そうに振。返ったイルダーナフが皮肉っぼく笑うと、エル・トパックは厳しい表情
になった。
「あなた方の踪力が欲しいのです」
青年の思いがけない発言に、思わずミランシャは向かい合っている二人を見比べた。厳
そうごう くヂ     やつかい
しい表情のエル・トパックと対照的に、大男の剣士は相好を崩している。厄介なことが大
好きな男なのだ。
くわ
「いいだろう。詳しく話しな、兄ちゃん」
しい.す すわ          うなが
椅子に座り、イルダーナフが話を促した。
「では」
きんかつしよく
エル・トパックの金褐色の目が笑った。
日が傾くと同時に、風が出てきた。
けもの
強い風をうけ、木々の細い枝がしなり、葉が鳴っている。こんな時は鳥の声も獣の声も
聞こえてこない。
ガタガタと音をたて、荷馬車は細い道をマセッサの街に向かっていた。車輪が軋み、道
わだち
に轍が残る。
「本当に夜までに街に入れるんだろうか?」
どくはく
風に長い銀髪を揺らしながら、カイルロッドは独白した。歩いて行っては時間がかかる
からと、ザーダックに馬を借りたはいいが、老鳥で進みが遅い。
おまけに、「街に行くついで」ということで、ザーダックが買い忘れた物 − ジャガイ
モ一袋とか、樽に入った果物だとか、大荷物を買ってくるよう頼まれ、止むなく荷台を引
く羽目になり、なお遅くなっていた。
荷物を積んだ後、荷馬車は薬問屋のログスという男に預けることになっている。後でロ
ブスが、ザーダックの家まで荷馬車を届けてくれるらしい。
愁いは花蘭の中に
「でも、この進み方じゃ、夜中になるんじゃないだろうか・・」
あや             あお
ザーダックは夜までに入れると言ったが、どうも怪しい。カイルロッドは空を仰いだ。
ぐんじよう
薄紫の雲がたなびき、淡い紺色が刻々と濃い群青へと塗り変わっていく。
「ハム、どうしているかな」
首にかけたままの花飾りに触れ、カイルロッドは年下の友人の顔を思いうかべた。パメ
ラとの約束どおり、カイルロッドは半日あの家にいたのだ。
作った花飾りをカイルロッドの首にかけ、それでと。あえず満足、あるいは諦めたのか、
パメラは引き止めようとはしなかった。
「でも、見送。に出てくれなかったからな」
つぷや
カイルロッドはポッリと呟いた。
つら
「別れが辛くて、家の中にいるんじゃろう」
ザーダックの言葉に、カイルロッドは心が痛んだ。
「ハム、悲しんでいるだろうな」
みよう
呟いた時、後ろの荷台から妙な音が聞こえた。驚いて振。返ると、積んである袋の中か
ら坤き声のようなものが聞こえる。
「まさかりこ
いや                                あ
嫌な予感がした。カイルロッドは馬車を止めて荷台に飛び乗り、その袋の口を開けてみ
た。
「パムー」
袋の中にパメラがいた。カイルロッドに見つかると、きまり悪そうに小さくベロッと舌
を出し、
「ごめんなさい」
しおらしく頭を下げた。が、表情には少しもすまなそうな色はない。
じい
「姿が見えないLL思ったら、こんな所に隠れていたのか− お爺さんが心配しているだろ
うt」
いつしよ
「明日になったらちゃんと帰る! ログスさんと一緒に帰るもん。だから、街に連れて行
ってー でないとハム、ここから出ないー」
袋のロを両手でギュッと握り、ハムはカイルロッドを見上げた。どうやら挺子でも動き
そうにない。
「聞き分けはいいと思っていたのに…こ」
カイルロッドはため息をついた。しかし、ここで無理に下ろして、家までの夜道を一人
で歩かせるわけにもいかないし、かといって連れて帰ったら、また引き止められそうな気
95  愁いは花閲の中に
がする。
「本当に、明日にはちゃんと帰るな」
「うん」
「絶対だぞ」
いちまつ    かか
約束させたものの、あてになるのかという一抹の不安を抱えながら、カイルロッドは馬
われ         とな すわ      うれ
車を走らせた。まったく甘いと、我ながら思った。けれど、隣りに座っているハムの嬉し
そうな顔を見ていると、どうしても街に連れていけないとは言えなかった。ハムの孤独と
さび
淋しさを知っているからだ。
荷馬車は二人を乗せて、マセッサの街に向かっていた。
かえ
三章 夜に還る
カイルロッド連がマセッサの街に入ったのは、予想どおり夜中近くだった。
月は雲に隠れている。
「  どうしよう」
ゆううつ
寝静まった街の中に荷馬車を進ませ、カイルロッドは憂鬱になった。こんな時間に店な
ど開いているはずもなく、これでは頼まれていた買物はできない。
「朝までどうしよう」
ロブスの家に行けばいいのかもしれないが、夜中にいきなり押しかけるというのは気が
とが       つぷ
答める。朝まで時間潰しをするとしても、開いているのは酒場ぐらいだ。とても子供連れ
で入る場所ではない。
「どうしようか」
愁いは花園の中に
97
うな
カイルロッドが唸っている横では、パメラが気持ちよさそうに寝息をたてている。子供
の起きている時間ではない。
「一晩中、街の中を歩き回るわけにもいかないしなぁ」
とほう                いつセい         じんじよう
途方にくれていると、突然、街のあちこちから一斉に、犬や猫の、家畜達の尋常でない
鳴き声があがった。
「なにが起きたんだけ」
まさに狂ったような動物達の鳴き声に、反射的にカイルロッドは腰を浮かせ、驚いた老
馬が暴れ出した。荷馬車がガタガタと激しく揺れる。
「静かにしてくれ」
眠っているパメラが落ちないよう支えながら老馬を静めていると、鳴き声とは別に、お
かしな昔が聞こえた。
ダダグッ ・。
小さな地場。のような音だ。
ふしん
不審に思って周囲を見回してみると、路地や屋根の上を大小無数の影が走っている。
−‥、一
ねずみ               けもの
よく見ればそれは犬や猫、鼠達だった。さながら山火事から逃げる獣達のように、街か
かんだか
ら逃げ出して行く。また、夜だというのに鳥が甲高く鋭い鳴き声をあげ、激しい羽音をた
てて飛んで行った。
どう見てもただごとではない。
ようす                            ぁば
様子を見に行こうとして、カイルロッドが荷馬車から下りた。と、それまで暴れていた
老馬が口から大量の泡を吹き、重い音をたてて地面に倒れ、動かなくなった。
しようl′ノき
ガタンと大きく荷馬車が揺れ、その衝撃でパメラが目を覚ました。
「… どうしたの?」
「どうもしないよ」
かけていた花飾りをはずして老馬の上に置き、カイルロッドは眠そうに目をこすってい
る少女を抱き下ろした。
「ハムはなにも心配しなくていいんだよ」
おだ   lまlまえ
カイルロッドは穏やかに微笑んだが、その胸には冷たい予感があった。
ぬら
「まさかとは思うが・俺を狙って、また魔物が現われたんじゃないだろうな」
こんきよ                            ひたい
根拠のない発想ではない。すでに水妖に襲われているのだ。カイルロッドの額に汗が浮
かんだ。
こわ
「カイルロッド、街が変だよ。恐いよ」
愁いは花鼠の中に
99
ぴんかん         おぴ               つか
敏感に異変を感じと。、怯えたパメラがカイルロッドの手を掴んだ。
いよう            えたい
少女の言うとお。、街は異様な空気に包まれていた。得体の知れない不安が押し寄せて
いるのを、カイルロッドは感じていた。
「何事だ」
「どうなっているんだ」
異常に気がついた人々が、手にランプや棒、剣などを持って、家の外に出て来た。口々
つぷや
に不安を呟きながら、周回を見回している。
こわ
「カイルロッド、ハム、恐いよ」
だいじようぶ
今にも泣き出しそうになっている少女を抱き上げ、カイルロッドは「大丈夫だよ」と呟
あわ
いたが、肌が粟だっていた。
なまぐさ
街の人々が不安に神経をささくれだてさせていると、どこからともなく生臭い風が吹き
つけてきた。
にお
魚の腐ったような臭いが街に広がる。
まゆ
その悪臭の中に血の臭いを嗅ぎとり、カイルロッドは眉をしかめた。
「なにかが来るみたい」
パメラの小さな手がカイルロッドの肩を強く摘んだ。
ウオォォアア    ー
ほーフこう  おたけ
ふいに、鳴曙とも雄叫びともつかない声が響き渡り、空気がどリビリと震動した。
「おいっー」
「なんだ、ありや!」
ひめい ぜっきよう
人々の間から悲鳴と絶叫があがる。
やみ
闇の中に、それよりも濃い巨大な影が見えた。
カイルロッドも目をこらしたが、山のように大きいということ以外はよくわからない。
突然現われた巨大な影に人々が動揺していると、風に雲が流され、月が出た。冷たい白
銀色の光が地上を照らす。
そして−−−j
しょうたい                   ゆが
月の光の下に巨大な影の正体を見、人々は息を飲み、絶望と恐怖に顔を歪めた。
ぱけもの
「化物だ・−」
手に持っていた剣を投げ捨て、若い男が走りだすと、
「魔物だー」
「逃げろ、殺されるぞー」
じゆばく と            いつせい
呪縛が解けたように、他の人聞達も一斉に棒や剣を捨て、逃げ出した。砂糖にたかって
愁いは花園の中に
あnソ                 よよノす
いた蟻が踏み散らされ、わっと逃げ去る様子によく似ていた。
「カイルロッドは逃げないの?」
ただ一人、通。の真ん中に残ったカイルロッドをパメラが見上げた。
あば
「逃げるさ。あの化物が暴れる前に、街から逃げ出さないとな」
そう言い、カイルロッドは走った。
毛むくじゃらの化物だった。
全身を鉛色の獣毛に覆われている。一〇メートルはあり、二本足で立っている姿は猿に
似ている。顔も猿を凶暴にした感じで、耳まで裂けた口から鋭い犬歯がのぞいていた。赤
へいげい
く燃える目が街を脾睨していた。
グオォォアー
ひときわ大きな鴫埠をあげ、その化物が動いた。
ぴんしよう
恐ろしく敏捷な動きだった。
くず
積み上げてある積み木を崩すように、次々と建物を破壊し、逃げまどう人々を掴んでは、
つぷ
放り投げ、踏み潰す。
だんまつま さけ  とぎ
耳をふさぎたくなる悲鳴や、断末魔の叫びが途切れることなくあが。、カイルロッドは
吐き気がこみあげてきた。
巨大な化物はそれらの行為を楽しんでいるように、高い晦噂をあげる。
がれき
降り注ぐ瓦礫や岩、崩れる建物の間を、悲鳴をあげながら人々が逃げ惑う。崩れた建物
の下敷きになった家族を助けようと戻って、雨のように降り注ぐ岩に潰された者、子供を
かば
庇ってそのまま踏み潰された母子。
じごく
マセッサの街は地獄と化していた。
セいさん
繰り広げられる凄惨な光景に顔をしかめながら、カイルロッドはパメラを抱えて混乱の
中を走った。
「パメラだけは守らなくては」
あの化物の目的がなんなのか、カイルロッドにはわからないが、どんなことがあっても
パメラを守らなくてはならない。
ひめい
瓦礫と化していく街を走っていると、すぐ近くで女の悲鳴が聞こえた。見て見ぬふりの
できないカイルロッドは声のした方へ足を向けた。角を曲がると、女が誰かに首を絞めら
れていた。
「やめろー」
どな
カイルロッドが怒鳴ると、首を絞めている方の人間が動きを止め、振り返った。
振り返った顔は人間ではなかった。
103  愁いは花国の中に
「他にも化物がいたのか」
じゆうもろ
女の首を絞めているのは、全身を獣毛に包まれた化物だった。てっきり、混乱による人
しきんきより
間同士の争いだと思いこんでいたカイルロッドは、思いがけず至近距離で化物と向かい合
い、全身を緊張させた。
「他にもいるよ」
パメラが離れた場所を指差した。なるほど、よくよく注意して見てみると、逃げ惑う
さつりく
人々の中に同じような化物が混じっている。そして、それが無力な人間を殺致していた。
「人殺しを楽しむなんて  」
はらわた
カイルロッドは歯を食いしばった。怒りで腸が煮えく。かえっていた。
ポキッ・。
太い枝が折れるような音がして、化物の手の中で女の首が背中の方に垂れた。
「きさま…・」
うな      からだ
カイルロッドは喰。、パメラが身体を固くした。
化物は首の折れた女を投げ捨て、次の標的であるカイルロッドに襲いかかってきた。
「むっ!」
かみひとえ
片手でパメラを抱えたまま、カイルロッドは化物の攻撃を紙一重でかわしていた。「せ
めて短剣でもあれば」、カイルロッドは舌打ちした。
ナワようやく
奇声をあげて、化物が跳躍した。
真上からの蹴りを片腕でブロックし、カイルロッドは飛びのいた。蹴りをうけた腕がど
しび
リビリと痺れた。
「カイルロッド、ハムを下ろして! ハムがいたら負けちゃうt」
「逆だよ。ハムがいないと負けちゃうんだ」
心配している少女に、カイルロッドは笑いかけた。パメラ自身が言ったように、子供を
たたか                         にぶ
抱えて闘うなど、自らの首を絞めているようなものだ。どうしても動きが鈍くなるし、第
一両手が使えない。圧倒的に不利だ。
しかし、不利とわかっていても、カイルロッドはパメラを別の場所に置いて闘う気には
はいかい         みにく
なれなかった。こんな化物どもが俳欄し、人間同士でも醜い争いが起きているような場所
だ。一瞬でも一人にしたら、どんなことになるかわかったものではない。
つめ は
化物が長く黒い爪の生えた手を、目にも止まらぬ速さで突き出す。それを手、腕、脚な
はじ
どでうまく弾き返しながら、カイルロッドは化物の手に信じられない物を見た。
化物の手首に腕輪があるのだ。
′、.
「そんな馬鹿な 三」
たぐ      にがて
カイルロッドは自分の目を疑った。魔物などの類いは金属類が苦手なのだ。腕輪をつけ
るなどありえない。しかも、化物がつけているのは金とラピスラズリでできた、女物の高
価な腕輪である。よほどの金持ちか高い身分の婦人しか身につけられない物だ。
「まさか・…人間フ・」
たいじ
カイルロッドは心の中で唸った。今対略している化物が、衝のあちらこちらで殺教を繰
り広げている化物遠が、人間だというのだろうか。
二本足で立っているが、とても人間には見えない。しかし、似ていないわけでもない。
じゆうもう       いぴつ
強いて言うなら、人間の全身に獣毛を生やし、身体を歪にしたような感じだ。
人間なのか、化物なのか1混乱したカイルロッドは、相手の攻撃をかわしながら、よ
ふく
くよく注意して見てみた。すると、獣毛の間から胸の膨らみが見えた。
「1日」
しようげき                           すき ねら
受けた衝撃の強さと、足元の石のせいで、カイルロッドがよろめいた。その隙を狙って、
ひらめ
黒く長い爪が閃いた。
やみ
爪がカイルロッドの身体に突き刺さるより遠く、闇すら切断するのではないかと思える
閃光が水平に閃いた。
「ぼけっとするんじゃねぇよ、そんなに死にてぇのか」
愁いは花園の中に
おお
聞いたことのある太い声がして、獣毛に覆われた身体がグラリと揺れ、首から上がずれ
て落ちた。
「イルダーナフ」
重い音をたてて地面に倒れた死体の後ろに、長剣を持ったイルダーナフとミランシャが
立っていた。
「ミランシャもいたのか」
なつ
「そんな懐かしそうな声を出さないでよ、気持ち悪い」
あくたい
悪態をつき、ミランシャはカイルロッドに短剣を差し出した。
「落とし物よ」
短剣を受け取り、カイルロッドはパメラを下ろした。イルダーナフやミランシャがいれ
ば、化物が来ようと安心だ。
「しかし、おまえさん、いつから子持ちになったんだフ」
せいさん
目を覆うばか。に凄惨な光景の中にいても、この黒髪の剣士の表情は明るい。絶望や不
安など無縁という表情だ。
「ハムは恩人なんだ」
「ほう、カイルロッドの恩人か」
イルダーナフは笑顔のままで、人みしりしてカイルロッドの後ろに隠れてしまったパメ
ひたい
ラに近づくと、軽く額に触れた。
かか
パメラは目を閉じ、身体が傾いた。それを抱え上げ、カイルロッドは顔色を変えた。
「ハムになにをしたんだー」
「しばらく眠っていてもらうだけだ。この先は、子供にゃ刺激が強いからな。毅致なんざ、
子供に見せるもんじゃねぇ」
うむ
有無を言わせぬ強い口調で、イルターナフはカイルロッドの手からパメラを取り、片手
さつぱつ
で抱いた。殺伐たる光景にパメラは傷つくだろうし、連れていてはカイルロッドも苦戦す
る。イルダーナフの配慮に、カイルロッドは素直に従うことにした。
「ところで、イルターナフ。この毛むくじゃらの化物だが …人間かもしれないんだ」
カイルロッドの力ない声に、ミランシャはロを結び、イルダーナフは「知っている」と
だけ答えた。
「どうして人間が化物になるんだ?」
カイルロッドの質問を、イルダーナフは片手を上げて刺した。
「再会を喜び合うのも、質問も後だ。まずは生き残ることが先決だ。そうだろ?」
「 そうだな」
愁いは花園の中に
うなヂ
カイルロッドは領いた。
ほうこう ひめい       せいじやく   とどろ
砲曙と悲鳴、破壊音が夜の静寂を破って轟いていた。
2
ごうりゆう                       むぎん がれき       むぞう
合流した三人は破壊された街の中を走っていた。街並は無残な瓦礫と化し、死体が無造
作に転がっている。河沿いの美しい街マセッサは死者の街になろうとしている。
ばけもの
「イルダーナフ、化物がこの街からよそに出た。したら、大変なことになるぞ」
むこ たみ
考えただけでカイルロッドはゾツとした。被害は広が。、無事の民が殺されるだろう。
セきわん      けつかい
「ごもっともだな。だが、あいつらは出られねぇってよ。あの隻腕の兄ちゃんが結界を張
っていやがるんだとさ」
のうhソ
無責任な調子で、イルダーナフ。隻腕の青年と聞いて、カイルロッドの脳裏に、赤い髪
おだ
をした穏やかな青年エル・トパックの顔がうかんだ。
「隻腕の青年ってフ」
むだぐち
「エル・トパックよ。おじさん− 無駄口なんか叩いてないで、ちゃんと言われたとお。
にしてちょうだいー」
・・J一
ミランシャに怒鳴られ、イルダーナフが「はいはい」と返事した。二人がすでにエル・
トパックと会っていると知って、カイルロッドは顔を上げた。
「ミランシャ、あの人といつ会ったんだ?」
めんどよノ                     なま
「つい最近、協定を結んだのよ。面倒だから説明は後回し。ほら、おじさん! 怠けてな
いで、働きなさいよ!」
別行動をしている間に、カイルロッドにはわからないことだらけになってしまった。と
さぴ
り残されたような、なんだか淋しい気持ちで二人を見ていると、
こえ
「ミランシャは恐えなぁ」
かか
怒鳴られたイルダーナフは、パメラを抱え直しながら苦笑した。
「誰が恐いで・・・あー」
文句を言いかけたミランシャが息を飲み、カイルロッドは短剣に手を伸ばした。
じゆうもうおお
イルダーナフの背後から、獣毛に覆われた複数の化物が1かつて人間だったものが、
音もなく躍りかかった。
「イルダーナフー」
カイルロッドが踏み出すより早く、複数の化物すべてが胴から真っ二つに割れ、そのま
ま地面に転がった。
「ほ1ら、ちゃんと働いているじゃねぇか」
愁いは花閲の中に
パメラを抱え直し、イルダーナフは破顔した。襲いかかった化物をどうやって倒したの
か、カイルロッドにはわからなかった。イルダーナフは背中の剣を抜いていなかった。い
や、あるいは抜いたのかもしれないが、カイルロッドやミランシャの目には映らなかった。
「どっちが化物かわかんないわね」
つぷや
ミランシャの呟きは、そのままカイルロッドの感想でもあった。
おれ
「質問は後だと言われそうだが、この騒ぎは俺が原因なのか? いつかの水妖のように」
短剣を抜きながらイルダーナフに訊くと、
「半分はな」
短い返事が戻って来た。
「半分?」
カイルロッドは首をひねった。その疑問にイルダーナフは無言で応じた。「いずれわか
ゆが
るさ」、そう言いたげに口を歪め、
「さぁて。こいつらはどうにでもなるが、問題はあのでけぇ化物だな」
まるで違うことを言った。それから破壊に熱中している化物を見上げ、つまらなそうに
鼻を鳴らすと、
「ま、エル・トパックが倒すまで、のんびり待っていようや」
ふところ
ゴソゴソと懐からなにやら取り出した。カードぐらいの大きさと薄さの金属板で、表面
もんよミノ
に不思議な紋様が打たれている。それがなにか、カイルロッドは知っていた。
しんかん   ごふ
「それはディウル教の神官が使う護符だ」
以前、ディウル教の神官であるダヤン・イフエに見せてもらったことがある。
「おまえさんも少しは知っているんだな。エル・トパックはこいつを街中に置いて、結界
てつだ
を強化するんだとよ。俺達はその手伝いで、街中を走り回っているのさ。こいつが最後の
一枚でな」
イルダーナフは自分の足元に護符を置き、
はいけん
「では、エル・トパックのお手並み拝見といこうか」
どこか人のわるい笑顔になった。
だいしんでん
「エル・トパックはディウル教の、フェルハーン大神殿の関係者なのか」
つぷや
下に置かれた護符を見ながら、カイルロッドは低く呟いた。一度しか会っておらず、ろ
いが
くに話もしていないが、エル・トパックという青年に好感を抱いていただけに、ディウル
教、すなわちフエルハーン大神殿の関係者と聞いて、ひどく悲しかった。
しかく
「あの人も刺客なんだろうか」
おだ   ふうぽう
エル・トパックの穏やかな風貌を思い出しながら、カイルロッドはため息をついた。こ
愁いは花閲の中に
のままでは、会う人すべてが刺客に見えてきそうだ。
カイルロッド達は街から脱出しようと、足早に進んでいたが、途中、化物に襲われた。、
襲われている人々を助けた。していたので、なかなか外に出られない。
予想外に化物の数が多かったのだ。
「ハムを眠らせておいたのは正解だったな」
イルダーナフの腕の中で眠っているパメラを見て、カイルロッドは思った。理由はどう
であれ、殺し合いなど子供には見せたくない。イルダーナフの配慮に感謝しながら、同時
かか        たたか
にハムを抱えながらも楽々と闘っている姿に、カイルロッドは苗をまいた。
「くっ−」
じゆうも、フ
襲いかかってきた獣毛の化物を短剣で刺し、カイルロッドは奥歯を噛みしめた。
「王子、疲れているんじゃない?」
ひたい
カイルロッドの苦戦ぶりを心配したミランシャが声をかけた。カイルロッドは無言で額
ぬぐ
の汗を拭った。疲れているが、苦戦するのは疲労のせいではない。
さつりく
襲ってくるのは、殺敦を楽しむ化物だ。しかし、かつて人間だったものだ。そう思うと
にぶ
どうしても太刀先が鈍ってしまう。
「甘いねぇ、おまえさんは」
やゆ
背中からの椰輸するような声に、カイルロッドが振り返ると、目の前に血のついた剣が
あった。
すき
「おまけに隙だらけときてやがる」
イルダーナフに剣を突きつけられ、カイルロッドは絶句した。見ていたミランシャが
きけ
「悪ふざけはやめなさいよ」と叫んだが、イルダーナフは剣をひかなかった。
いつも人なつこい顔から陽気さが消え、黒い目が冷たく光っている。悪ふざけや冗談と
いう顔ではない。
「どうしたフ 短剣を構えねぇのかつ」
微動もしない剣先とかすかに低くなったイルダーナフの声に、カイルロッドは総毛だっ
た。明らかな殺意が感じられる。しかし、手が動かなかった。
「イルダーナフ …どうしてだフ」
呟いた声がかすれ、震えていた。死への恐怖より、驚きの方がはるかに強かった。イル
ダーナフに剣を向けられるなど、考えたこともなかった。
さつき     せいかん
ヵィルロッドが立ちすくんでいると、ふいにイルダーナフから殺気が消え、精悍な顔に
笑みが戻った。
愁いは花園の中に
ようしや
「まったく、困った王子だ。何回も言っているが、襲ってきた敵に容赦するんじゃねぇ。
化物だろうと人間だろうと、ためらうな。俺だろうとミランシャだろうと、容赦するんじ
ゃねぇ」
きや
プンツと剣を振り、イルダーナフは血を払った剣を背中の鞠におさめた。ミランシャが
ホーツと長い息を吐き出し、カイルロッドは全身の毛穴から汗がどっと吹き出した。
「驚かさないでくれ」
口元をおさえていると、カイルロッドの視界の片隅でなにかが動いた。
_l、
顔を動かして見ると死体が、死んだ街の人々が起き上がっているではないか。
よみがえ
「死者が整ったけ・」
カイルロッドは目を剥いた。
起き上がった死者達が、カイルロッド達の所へ集まりだしている。
「な、なによ、これけ」
できごと
思いもかけない出来事に、ミランシャがガチガチと歯を鳴らした。さすがにイルダーナ
フも舌打ちした。
「こいつぁ、予想外だ」
ひらめ
驚きつつもイルダーナフの剣が動き、カイルロッドの短剣が閃く。だが、どう斬ろうと、
何回斬っても、死者は立ち上がり、ついに周りをとり囲まれてしまった。
「おじさん、どうにかしてよ!」
けつかい こわ
「してもいいけど、エル・トパックの結界を壊しちまうからなぁ」
っぇ    しあん
ぼやき、イルダーナフは剣を杖にして、思案顔になった。闘っている最中にすることで
はない。イルダーナフが考えこんでいる間にも、死者達は休みなく襲いかかってくる。
いそが
「忙しい時にのんびり長考しないでくれ!」
はめ          ひめい
一人で闘う羽目になったカイルロッドが悲鳴をあげながら顔を向けると、イルダーナフ
は鼻歌混じりに地面にわけのわからない紋様を描いている。円陣だ。
「よし、この円陣の中に入れー」
一番にミランシャが飛びこんだ。続いてイルダーナフが入る。死体に追いかけられなが
すべ           てぜま
ら、カイルロッドも滑りこんだ。円陣は三人が入ると手狭になった。
「狭いわね」
しんさよ                    ずうたい
新居にけちをつける主婦のような口調で、ミランシャ。言外に「でかい図体が二人もい
るから」という含みがあるような気もしたが、カイルロッドはあえて無視した。
「二人ともここから動くなよ。そうすりや、やつらは手出しできねぇ」
愁いは花園の中に
117
J..
イルダーナフの言うとお。、見えない壁でもたっているのか、死者は弾きとばされてい
なが
る。安全とわかっていても、あま。気持ちのいい眺めではない。
「でも、どうして化物はいないんだ?」
みよう
死者の中に化物がいないことが、カイルロッドには妙にひっかかった。死んだ者が生き
返ったというのなら、化物だって生き返っていいはずだ。
あお       つぶや
円陣の中でおとなしくしていると、イルダーナフが上を仰ぎ、楽しそうに呟いた。
「さて、そろそろかな」
カイルロッドがその意味を理解するのに、わずかな時間が必要だった。「ああ、エル・
トパックの動きか」、あの青年がこれからなにをするのか、カイルロッドにも興味があっ
た。
らくらい
どこかで落雷の音がした。
空が光った。
いなずま
「稲妻け」
カイルロッドは目を細めた。違う、稲妻ではない。下から上に向かって光がはしってい
る。
光の柱が立っている。
「護符を置いた場所からだぜ。なかなかやるじゃねぇか、あの兄ちゃん」
よノれ
イルダーナフは嬉しそうだった。
街のあちこちから光の柱が立った。
上空から見ていたならば、マセッサの街が光の柱に囲まれているのがわかっただろう。
おお
照らし出された街は昼間よりも明るくなり、光を浴びて死者達が倒れ、獣毛に覆われて
・1−
いる化物達はドロドロに崩れだした。
あぜん
生きている人間達にはなんの変化もない。ただ唖然としている。
オォォォォー
さけ   とどろ
上空から苦しそうな叫び声が轟いた。
おnソ        もよノじゆう
巨大な化物の声だった。光の柱に周囲を囲まれ、まるで檻に閉じこめられた猛獣のよう
に、そこから逃げ出そうとして体当たりしている。しかし、光の柱は消えることもなく、
のど か           あば
化物は苦しいのか、胸や喉を掻きむしりながらでたらめに暴れている。
・.一、
だが、それもわずかな時間のことで、化物は口から濁ったオレンジ色の泡を吹きながら、
がれき
瓦礫と化した衝の上に倒れこんだ。
ドオォォォンー
つちぽこり
音と震動で地面が揺れ、瓦礫は細かくなって飛び散り、土壌がもうもうとたった。
愁いは花園の中に
「やった!」
土壌に咳き込みながら、ミランシャが歓声をあげた。
3
しだい
光の柱が次第に光を弱めていくのを見ながら、カイルロッドは全身で息をついた。
「なんとか、助かったな」
ばけもの
わけがわからないが、とにかく助かったらしい。倒れた化物に視線を向けるが、ピクリ
とも動かない。
すご
「エル・トパックって凄いわね」
こうちiミノ
ランプ代わ。に火をつく。、魔女見習いのミランシャは輿著で顔を紅潮させている。カ
くわ
イルロッドは魔法について詳しく知らないが、確かに凄い力の持ち主なのだろう。
ごーフりゆよノ
「一段落ついたところで、その凄い力の兄ちゃんと約束の場所で合流しょうぜ」
「へぇ、細かく打ち合わせしてあるんだ」
カイルロッドが感心すると、イルダーナフは「作戦ってのはそういうもんだ」、当然と
いう顔で歩き出した。
「でも、どうして彼と協定なんか結んだんだ、ミランシャ?」
歩きながら、カイルロッドは先送りされていた質問を開始した。
ゆくえふめい
「王子が行方不明になっちゃったからよ」
はいきよ
さながら廃墟のような街を歩きながら、ミランシャが説明してくれた。
だいしんでん
エル・トパックはフエルハーン大神殿の命令で、カイルロッドを監視していた。おそら
くルナンを出たあたりから、ずっと見張られていたのだろう。水妖に襲われて行方不明に
きが
なったカイルロッドを、エル・トパックが捜し出した。
「それでね、王子の居場所を教えるかわりに、化物を倒す手助けをして欲しいって。そう
いう取り引きをしたの」
ヵィルロッドはむっつりと黙った。ずっと監視されていたと聞いては、とても愉快な気
分にはなれない。
「監視か。それじゃ、時々感じていた視線がそうだな」
不快に吐き捨てると、
「人間ばかりか鳥や獣まで使って王子を監視していたんだとよ。気の毒なこった」
おもしろ
イルダーナフが笑った。他人ごとみたいに、面白がっている。
「あの人までまわし者だったなんて」
ねこな
がっかりしていると、ミランシャが猫撫で声を出した。
愁いは花園の中に
「王子も色々と大変ね」
じひ
善意と慈悲の笑顔になにやら不吉なものを感じ、カイルロッドが身構えると、
「でも、あたし達も大変だったのよね。結局、探しに行く前に再会したんだから、こっち
ただばたら
は無料働きだわ。ね、イルダーナフフ」
「まったくだな。これは貸しにしとくぜ、王子」
うなず
ミランシャとイルダーナフが額き合った。
「か、貸し?」
つまさき      おかん                ひんばん
カイルロッドの爪先から脳天まで悪寒が走。抜けた。貸しなど作ったら、頻繁に馬にさ
れて、いいようにこき使われるのが目に見えている。
「ああ、早く馬をやめたい」
じんじよう  お       はで
ただでさえ尋常でない生い立ちだの、派手な外見だので苦労しているのに、くしゃみを
したら馬になるなんて知られたら、ますます結婚が遠ざかってしまうではないか。
はじ
「エル・トパックがそんなに凄い力の持ち主なら、いっそ恥をしのんで、この魔法を解い
てくれと頼もうか」
そんなことを考えながら歩いていたカイルロッドは、いつの間にか街を出ていることに
気がついた。
「イルダーナフ、どこに行くんだフ」
うっそ・フ
気のせいか、鬱蒼とした森の中に入って行っているように思える。
「森の中だ」
じゆ▼つめん
素っ気ないイルダーナフの返答に、カイルロッドは渋面で周りを見た。ミランシャのつ
きみ
くった火があるとはいえ、夜の森というのは気味の悪いものだ。人間がまだ火をもたず、
やみ
闇を恐れていた原始の記憶が残っているのかもしれない。
「どうしてこの森にフ なにか理由でもあるのかフ」
ミランシャに訊いてみると、
「あたしもよくわからないんだけど。そう指定されたのよ」
との返事だった。なんだかカイルロッドは胸騒ぎがしてきた。エル・トパックが神殿の
まわし者と知ったせいかもしれない。しかし、カイルロッドの不安などお構いなしに、イ
ルダーナフは森の奥へと進んで行く。
「うっフ」
いしゆう
歩きながら、カイルロッドは顔をしかめた。森の奥から異臭が流れてくる。
「なんだ7」
「なに、この臭い。なにかが腐った臭いみたい」
愁いは花園の中に
123
あた
カイルロッドとミランシャが顔をしかめ、片手で鼻と口の辺りを押さえた。が、イルダ
ーナフは無言のまま、ただひたすら奥へと入って行く。
ぴこう
奥に進むにつれ、臭いがきつくなった。鼻孔から入る臭いに、カイルロッドは気分が悪
つら     ゆが
くなってきた。ミランシャも辛そうに顔を歪めている。
「ついたぜ」
イルダーナフの声に顔を上げると、木々の間からポッンと、青い火が見えた。熱のない、
りん
燐が燃えている火だ。その横に人影が二つ、見える。
「終わったようですね」
やわ
人影が動き、柔らかい声がした。
「エル・トパックフ」
「お久しぶりです、王子」
かたわ
カイルロッドが目をこらすと、エル・トパックが立っていた。傍らに女がいる。ティフ
アだが、カイルロッドは初対面で名前も知らない。
だいしんでん
「あんたはフェルハーン大神殿のまわし者なのか?」
こわね    せきわん   よノなヂ
念をおすように、カイルロッドが重い声音で問うと、隻腕の青年は額いた。
lすりっこよノ
「そう思ってくれて結構です。わたしの役目はあなたの動きを監視し、報告することです
から」
おれ ねら
「どうして神殿は俺を狙うフ」
いきなり核心に突っこむと、エル・トパックは苦笑して首を振った。
「さぁ。わたしごときの預かり知らぬことです」
ぅまく逃げられ、カイルロッドは奥歯を食いしばった。優しげな顔をしているが、食え
ない男だ。
「それらは、この旅の中であなたが知ることでしょう。それよりも、監視者であるわたし
が姿を現わして協力を求めた、そのことに興味はありませんか?」
エル・トパックの目が微笑んだ。カイルロッドは口ごもった。注意と関心をそらされて
いるとわかっていながら、確かに興味のあることだ。本来ならば決して姿を見せない立場
しようたい
の者が、わざわざ自分から正体を現わすなど、どう考えてもただごとではない。
「これをご覧下さい」
のぽ
エル・トパックの横に浮いていた燐光が上に昇り、光が強くなった。
「〓」
なぐ      しようげき
光に照らし出された光景に、カイルロッドは横面を思いきり殴られたような衝撃を受け
た。ミランシャが口元をおさえて、顔をそむけた。
「これは」
きれつ       じゆうもうおお  ばけもの は
森を裂くように大地に大きな亀裂が入り、そこから獣毛に覆われた化物遠が這い出そう
のぞ
として、死んでいた。四、五〇はいる。が、亀裂の奥を覗いたなら、地上に出ようとして、
そのまま死んださらに多くの化物遠を見つけ出せるだろう。
ふらん
しかもどの死体も腐乱し、悪臭を放っている。臭いの正体はこれだったのだ。
「これはかつて人だったものです。地の底に封じられていたのを、誰かが放ったのでしょ
う」
つまさき け
隻腕の青年は淡々とした表情で、亀裂の前にある丸い金属片を爪先で蹴った。それはエ
ごふ
ル・トパックの使った護符に似ていた。
あや
「怪しげな護符ですが、効果はあったようですね」
きんかつしよく
顔も声も淡々としているが、金褐色の日が底光りしていた。
「かつて人間だったものが、どうして化物になったんだ?」
「なったのではなく、されたのです。ある一人の男によって。その男はフエルハーン大神
せいれん
殿にいた神官でした。清廉な人柄と力の強さで、大神宮の地位にもっとも近いと言われて
いた・…」
ほのお
静かに語りながら、エル・トパックは手の上に透き通った白い炎をつくり、それを死体
愁いは花園の中に
に投げた。白い炎が化物を焼いた。
かえ
「死者は闇に還るべきでしょう」
あいせき
骨も残さず消えていくのを見つめているエル・トパックの横顔には限。ない哀惜があっ
た。
たましい                  ばつ
「ですが、その男は魂を魔物に売。渡しました・・神殿は彼を罰しようとしたのですが、
やつさ     さが
逃げられました。今から五年ほど前のことです。神殿は躍起になって探しましたが、なか
なか見つかりませんでした。だが、わたしがその男を見つけました。あなたを探していて、
偶然にも見つけたのです」
のど
正面から金褐色の目を向けられ、カイルロッドは喉を大きく動かした。ある人物がカイ
のうり                             かまくぴ
ルロッドの脳裏にうかんでいた。「違う、あの人じゃない」、否定しながらも不安が鎌首を
もたげてくる。
「その男とは、誰だフ・」
どうかその男ではないことを祈りながら、カイルロッドは質問した。
「ザーダック」
おごそ                         ひとこと
厳かといっていい声で、工ル・トパックが答えた。たった二言が、恐ろしく冷酷な響き
を伴って、カイルロッドの胸を突き刺した。
「・・あの人が」
なまつば
カイルロッドは生唾を飲みこんだ。
ザーダック。
カイルロッドを助けてくれた小柄な老人。
「・ 信じられないー あの人がそんな人だなんてー こんなひどいことをするなんて
1 − L
あわ
全身を震わせて否定するカイルロッドを、エル・トパックが憐れむように見ている。イ
ルダーナフもミランシャも沈黙し、二人のやりとりを見つめていた。
「・・…人をこんな化物にしてしまうなんて」
一1
カイルロッドは両手で顔を覆った。街で見た光景が網膜に焼きついていた。化物にされ
た人の中にも、襲われて死んだ人々にも、あんな死に方をしなくてはならないほどの悪人
はいなかったはずだ。
「ザーダックは魂を魔物に売り渡しました。愛する者のために」
なげ
エル・トパックの金褐色の目が、嘆いているカイルロッドから移動し、イルダーナフヘ
移動した。正確にはイルダーナフの抱いている少女に。
「ハム?」
愁いは花朕の中に
少女はなにも知らず、あどけない顔で眠っている。
モつちよ′1
「率直に言いましょう。その少女は一度死んだのです。それをザーダックが禁断の魔術で
よみがえ
赴らせたのです。数えきれない人の血と肉を使って」
ぎようし
安らかな寝顔のパメラを凝視し、カイルロッドは打ちのめされていた。
「ザーダックは孫娘を失い、その悲しみのあまり狂いました。生き返らせたい、その思い
が禁断の魔術に手をつけさせ、ザーダックは神殿から追われる身となったのです」
エル・トパックはパメラを見つめたまま、言葉を続ける。
われわれ
「その少女が生きていくためには、血と肉が必要なのですよ。我々が食事をするように、
か.こわ
その少女は人肉と血を食らっているのです。ザーダックは街へ行き、娘や旅人を拐かして
は、孫に食わせていたのですよ」
ひぎ
全身から力が抜け、膝が震えていた。パメラが死人であること、人間を食っていたこと、
それらはカイルロッドにとって衝撃が強すぎる事実だった。
「あなたのいう毛むくじゃらの化物は、そのためにザーダックに殺され、あるいは魔法の
実験台に使われた人々のなれの果てです。街を襲った巨大な化物も同様。ザーダックは狂
っているのです」
ひめい
森の上では鳥が狂ったように鳴いている。殺された人々の悲鳴のように。
さいし
カイルロッドはラスティを思い出した。妻子を殺されたあの男だけが、ザーダックとパ
しようたーー
メラの正体に気づいていたのか。
「放っておけば、ザーダックは人を殺し続けるでしょう」
エル・トパックの固い声に、カイルロッドは鋭く息を飲んだ。
「ハムは、ハムをどうするつもりだ‖」
やみ かえ
「死者は闇に還るべきです」
イルダーナフヘ歩み寄り、エル・トパックはパメラを受け取ろうとした。
「渡すな、イルダーナフ‖」
きけ
カイルロッドが叫んだ。
瞬間、イルダーナフとエル・トパックの間に白銀の光がスパークし、二人ははね飛ばさ
れた。ミランシャとティファも巻き込まれた。ティファはともかく、ミランシャなどした
たた
たかに地面に叩きつけられ、唸っている。
「カイルロッド王子−」
はね飛ばされながらも、見事な体術で地面に下りたエル・トパックが低く叫んだ。イル
あお
ターナフはパメラを落としもせず、やはり着地したが、二人の対決を煽るように、どちら
からも離れた場所に移動していた。
愁いは花園の中に
131
「ハムは生きている!一生懸命に生きているじゃないかー」
イルダーナフの抱えている少女を指差して叫んだカイルロッドに、エル・トパックは大
きく頭を振った。
「生きてはいません。死んだのです。その少女が存在しているがために、大勢の人が死な
ねばならないのです」
にら
動こうとするティファを目で制し、エル・トパック。その青年としばらく睨み合ってい
たが、カイルロッドは決意した。
なつとく
「ザーダックに話を聞かなくては、.納得できない。あんたはフエルハーンの手先だ、信用
できない」
カイルロッドの強い声にエル・トパックは沈黙している。
「一番いいのは、自分で確かめるこった」
それまでずっと沈黙していたイルダーナフが明るく言い、抱えていたパメラをカイルロ
ッドに向かって放り投げた。まるで荷物でも投げ渡すような乱暴さに、受けとめたカイル
ロッドが抗議した。
「子供を放。投げるなー」
「この森を東に走んな。ザーダックの家に出る近道だぜ」
イルダーナフがその方向を指差した。カイルロッドは「ありがとう」と礼を言って、落
とさないようにパメラをしっかりと抱きしめ、走り出した。
「逃がすものかー・」
ティファが追って動く。が、その前に剣を抜いたイルダーナフが立ちふさがった。
けが
「やめときな。今度は腕に怪我ぐらいじゃすまねぇぜ」
「きさま・」
よノな
唸るティファの後ろから、エル・トパックの声がした。
じやま
「邪魔をするのですか」
やと
「なにしろ俺はあの王子に雇われている立場だからな。たまにゃ、雇い主にごまをすって
おかんとな」
人を食った物言いにエル・トパックはため息をつき、ティファに剣をおさめるよう命じ
た。血の気の多い美女は無念そうに従った。
エル・トパックはカイルロッドの走って行った方向に顔を向け、ため息をついた。
つら
「王子が辛い思いをするだけですよ」
「仕方ねぇことだ」
「厳しいですね」
133  愁いは花園の中に
おおあま
「自分じゃ大廿だと思っているんだがね」
ちやちや
聞いていたミランシャが「嘘ぽっかり」 と茶々を入れた。
「それに、ザーダックを捕らえる前に、あれを片付けねぇとな」
つぶや     けげん
イルダーナフの呟きに、全員が怪訝な顔をした。
と、木々を薙ぎ倒し、なにか巨大なものがやってくる。
ばけもの  きモう
「化物にも帰巣本能があるのかな」
イルダーナフが笑った。
バキパキと木々が倒れ、その奥から巨大な黒い影が現われた。
「まだ生きてたのー」
さけ
ミランシャが叫んだ。
それは街を破壊していた、倒れたはずの巨大な化物だった。半身が焼けただれているが、
動いている。
「しぶといですね」
「化物だって簡単に死にたかねぇよ。エル・トパック、どうにかしてくれな」
まゆ                    のんき くちよう
眉をひそめたエル・トパックに、いたって呑気な口調でイルダーナフが言った。
はiノニミノ
巨大な化物が鳴埠をあげた。
4
森の中は茅が出ていた。
白い視界を、イルダーナフに言われたとおり、カイルロッドは東に走っていた。「どう
してイルターナフがザーダックの家を知っているんだろう〜」、そんな疑問がかすめたが、
なぞ
イルダーナフに対していちいち疑問をもっていては、とても身がもたない。なにしろ、謎
と隠し芸だらけの男だ。
lまんすう       ばけもの
森を突っ切りながら、カイルロッドはエル・トパックの話を反窮していた。あの化物の
だいしんでん
こと、ザーダックがフエルハーン大神殿から追われていること、そしてパメラが一度死ん
でいるということ。
「ハムが死人だなんて」
からだ  ぬく
カイルロッドには信じられなかった。抱えている小さな身体には温もりがあるというの
に。
考のたちこめる中を走っていると、森がひらけた。ぼんやりと建物の影が見える。足元
の感触も変わっていた。花畑に踏みこんだのだろう。
「ううっ・・」
愁いは花詞の中に
よノめ                                あた
下から苦しげな坤き声がした。カイルロッドが目をこらして見ると、花畑の真ん中辺り
に人が倒れていた。
「ラスティけ」
あた
駆け寄って見ると、胸の辺。を赤く染めたラスティが坤いていた。
「どうしたんだ、しつか。しろ−」
ひぎ
カイルロッドが横に片膝をつくと、ラスティが薄く目を開いた。
「あん時の若造か」
苦しい息の下でラスティが坤いた。血の計を失い、土色に変わっている顔には死相が現
われていた。
「どうしたんだ?」
おれ やつ                  あば
「・・あのジジイにやられた。俺が奴の秘密を……死体の隠し場所を見つけて、暴いてや
ったから…・・」
きれつ
死体の隠し場所と聞いて、カイルロッドは森の中の亀裂を思い出した。ラスティは街か
ご ふ
かで護符を手に入れ、それで封じられていた化物を解放したのだ。
135
「あんたが化物を解放したのか」
「ああ…・・護符を置いただけだけどよ。俺はずっと離れた場所で……見ていた。まさか、
あんなに大勢が、殺されているなんて。街へ行くなんて・・・」
声がかすれ、笛のような呼吸音が洩れる。もう昌も見えていないに違いない。
さが       おれ
「ずっと、探していたんだ。俺の、女房と娘を−墓の中から消えちまった二人を、ずっ
と探していたんだ・ 二人は化物になって、封じられていた。化物にされていたんだ
「・…エフスティ」
「・・立田生、あのジジイを殺してやりたかったのに……畜生・」
つか
血で汚れたラスティの手が、カイルロッドの腕を掴んだ。
やつ
「……頼む。ジジイを、あのジジイを殺してくれ、頼む。でないと、俺みたいな奴がふえ
る、殺される人間が・頼む」
さいご                            からだ   けいれん
最期の力を振り絞って、カイルロッドに繰り返し頼むと、ラスティの身体が激しく痙攣
し、動かなくなった。
「ラスティ・・…こ
..′
腕を掴んでいるラスティの手をはずそうとして、カイルロッドはそこに鈍い痛みを感じ
っめ                        しゆうねん
た。見るとラスティの爪が食いこみ、血が渉んでいた。無念のまま死んだ男の執念を見た
思いがした。
愁いは花園の中に
「あんたの言うことが事実なら、その頼みを引き受けるよ」
くもん
指をはずし、苦悶の表情を刻んだまま動かなくなった男の目を閉じさせ、カイルロッド
は立ち上がった。
おろ
「愚かな男じゃ」
後方からしゃがれ声がした。厳しい表情でカイルロッドが振。返ると、流されていく霧
の中にザーダックの姿があった。
「……ザーダック」
うな                     れいしよよノ
カイルロッドの唸り声に、ザーダックはほんの少し笑った。冷笑である。
さくちん             みヂか
「ラスティめが。妻子の死に錯乱して墓など暴いたばか。に、自らも若死することになっ
たのじゃよ」
む′、ろ
カイルロッドは反射的にラスティの骸を見、すぐに顔をはね上げた。
「その死体をどうしたんだけ」
「わしの研究に使わせてもらった。実験体は多いほどいいからな。妻子同様、ラスティの
身体も使わせてもらおうか」
あつき         おんこう
ニッと笑った顔は悪鬼そのものだった。温厚な顔の下に隠された狂気を見て、カイルロ
のど
ッドは喉を大きく動かした。
いのち
「・…I俺は、あんたとハムは生命の恩人だと思っていた」
「わしは人も助ける」
「その一方で殺しているなんて」
よノめ
カイルロッドの坤きは、もう声にならなかった。医者として人を救いながら、
孫のため
すき
に人を殺していた老人 − 小柄な身体のどこに、そんな凄まじいものがあるのか。
だいしんでん しんかん
「あんた、元はフエルハーン大神殿の神官だったそうだな」
「ほう、誰に聞いたのじゃフ」
ほほ
思いもかけないことを言われ、ザーダックの頬がかすかにひきつった。
けフにく
「誰だっていいだろう。あんたは死んだハムを生き返らせたんだな・…。ハムが人の血肉
を食いながら生きているっていうのは、本当なんだな」
答えは間くまでもない。すでにザーダックの言動が答えになっている。エル・トパック
いちる
やラスティの吉葉は真実だ。しかし、わかっていながらも、カイルロッドは一輝の望みを
捨てきれずにいた。
「事実じゃよ」
わるげ  ようす
悪怯れる様子もなく、ザーダックは肯定した。一線の望みを打ち砕かれ、カイルロッド
愁いは花園の中に
さいご
の全身から血が引いた。ラスティの最期の言葉が、耳の底でこだました。
「……ハムを血肉を食う化物にし、そのために無数の人を殺し、それでも飽き足らず、人
体実験までしているのかー よくもそんなことができるなー」
「すべてパメラのためじゃ。パメラが生き続けるための実験じゃよ」
ザーダックの顔に、薄い刃物の笑みがうかんだ。エル・トパックの言ったとお。、この
たましい
老人は孫のために魔物に魂を売ったのだ。
「あんたは狂っている」
おか        しわ
カイルロッドが鋭く吐き捨てると、老人はさも可笑しそうに顔中の紋を深くし、クック
のど
ッと喉の奥で笑った。
げどう
「狂っておるか。そうじゃな、そうじゃともよ。大神宮の候補とまでなった男が、外道に
堕ちたのじゃからな」
じぎやくてさ              うつ     ひ
自虐的な笑い声が、明るくなってきた空に虚ろに響いた。陽が昇ると同時に、霧がはれ
ていく。
こうかい
「パメラを生き返らせたために、わしはフエルハーン大神殿を追われた。後悔などしてお
らん。生き返ったパメラに人の血肉が必要だというなら、それを与えるだけじゃ。そのた
めに人を殺すのは仕方ない」
麦でも刈り取るようなザーダックの口調に、カイルロッドは怒りに全身を震わせた。
「ハムは・ハムはそのことを知っているのか」
「知らぬよ。自分が毎日口にしているものが、人の血肉とはな。ハムはなにも知らないの
じゃ。自分が死んだことも、生き返ったことも」
カイルロッドの腕の中にいる孫娘を見やり、ザーダックは目を伏せた。さすがにそれら
のことを、ハムに告げる気にはならないらしい。
ちようど
「パメラをこちらに渡しなされ。パメラは昨日から血肉を食べておらんのじゃ。丁度いい
から、ラスティの血肉を食べさせよう」
ザーダックがパメラを渡すように言ったが、カイルロッドは後ろに下がり、頭を左右に
振った。
「渡せない。これ以上、ハムに人は食わせない。それに、俺はラスティに頼まれた。あん
たを殺してくれと」
「おまえさまがわしを殺す、か」
カイルロッドに向けられたザーダックの顔が、ひどく優しい笑みをうかべていた。
やまい   けが
「死について、おまえさまは考えたことがあるかね7 人はいつか死ぬ。病、戦争、怪我
− 死に直面した時、祈りも涙もなんの役にもたたぬのじゃ。パメラが死んだ時、わしは
愁いは花園の中に
それを強く感じた。心優しく善良で、幼くとも、死なねばならない。祈。など役にたたな
いとな」
せりふ   いきどお
元神官の台詞だけに、憤りと絶望の深さがうかがえた。孫娘が死んだ時、この老人は全
かな              むくろ
身全霊をかけて祈ったのだろう。けれど祈。は叶えられず、残ったものは小さな骸と、悲
しみや憤。、そして、絶望だけだったのだ。
「外道に堕ちても、わしはパメラを生き返らせたかった。そして、この先も生きていてほ
しいのじゃよ。ずっとずっと」
つ            はほ“え
狂気に憑かれた元神官が優しく微笑んだ。
「不死であってほしいと思っておるのじゃ」
「不死P.」
む         まぷ
カイルロッドが目を剥くと、ザーダックは眩しそうに花畑を見渡した。
「この花は枯れぬのじゃ。わしの研究の成果じゃよ」
薯が消え、朝の光を浴びて花々が輝いている。かつて、その美しきにカイルロッドが心
奪われた光景だ。
「……不死の研究のために、人を殺しているのか」
「花では成功するのじゃが、やはり人間ではなかなか、な。生きている者もすでに死んだ
者も試してみたが、何故か皆、化物に変わってしまう」
けんめい
簡単な実験の失敗でも告げるようにザーダック。カイルロッドは懸命に吐き気をこらえ
ていた。真相を知った今、咲き誇る花々は少しも美しく見えなかった。この花畑は狂気の
しゆうあくきわ
産物、醜悪極まりないものだ。枯れない花、死なない生命など、ただグロテスクなだけで
はないか。
じゆうもよノおお
「化物とは・獣毛に覆われたやつか」
ひけ
ややあってカイルロッドが質問すると、ザーダックは白い髭を引っ張りながら、目だけ
で笑った。
「そうじゃ。その化物はいわば失敗作品じゃが、困ったことになかなか死ななくてな。仕
ふよノいん
方なく地の底に封じておいたのじゃ。それをラスティが封印を破ってくれたおかげで、街
ありさま
はひどい有様のようじゃな」
できごと
どこか遠い異国の出来事でも語るような、自分とはまるで無関係と言わんばかりの声を
聞き、カイルロッドの脳裏には昨夜の街の光景と、無念の涙を流して死んだラスティの顔
よみがえ
とが鮮明に経っていた。
孫を失ったザーダックの悲しみはわかる。生き返らせたい、死なないようにしたい、そ
ぎせい
う願う気持ちもわかる。しかし、そのためになんの罪もない人々を犠牲にしていいはずは
愁いは花閲の中に
ない。許されていいことではない。
「どうしてわからないんだけ あんたがパメラの死を悲しんだように、他の人だって身内
を失えば悲しいんだ! それを平気で殺して、果ては毛むくじゃらの化物にするなんてー
しかも、死体まで動かした。・あんたのやっていることはひどすぎる1⊥
「死体フ」
「とぼけるなー 化物に殺された街の人達だ「 それが動いて、襲ってきたんだ!」
どな             ゆが
カイルロッドが怒鳴ると、ザーダックは口を大きく歪めて笑った。
おか
「なにが可笑しいんだけ」
「残念じゃが、わしは昨夜の騒ぎには一切関与しておらぬのじゃよ。化物に殺された人間
おもしろ
が動き出したのか。フッフッフ、これは面白いの」
ザーダックの顔に、薄い刃物の笑みがうかんだ。
やつ
「おそらく、化物となった奴らの体液が原因じゃな。それには、他の死体を匙らせる力が
秘められていたらしい。動いたのは化物の体液に触れた死体じゃろう。これはいいことを
聞いた」
しわぎ
てっきりザーダックの仕業だと思いこんでいたカイルロッドは顔色を変えた。「言わな
くていいことを言った」、激しく後悔したが、後の祭。である。
「さぁ、長話はこれで終わりじゃ。カイルロッド王子、パメラを渡しなされ。食事の時間
じゃ」
刃物の笑みのまま、ザーダックがカイルロッドの方へ近づいて来る。パメラをきつく抱
あとずさ
きしめ、カイルロッドは後退りした。
「なにが食事だー人を食って生きているなんて知ったら、ハムが悲しむだけだ! どう
して死んだままにしてやらなかったんだ−」
ラスティの娘の死を、パメラは悲しんでいた。その原因が自分にあると知れば、どう思
うだろう。心優しい少女だ、傷つき絶望するに違いない。
「不死がなんだ! 人里から隠れて暮らし、友達もなく、枯れない花だけに囲まれて過ご
すだけの人生に、いったいなんの意味があるんだー」
「パメラを渡しなされ」
表情が消え、底光りする目でザーダックが近づいて来る。一歩近づくと、カイルロッド
が一歩引く。
「パメラを渡すのじゃ」
、こ・・I…I.一
いらだ
カイルロッドが沈黙していると、ザーダックの声が苛立った。
145 愁いは花園の中に
「早く渡しなされー 早く食事をしなければ、パメラは死んでしまうのじゃー」
「もう死んでいる、死んでいるんだ一一度死んだなら、ゆっく。眠らせてやるべきなん
だーこ
どな                        あ
カイルロッドが怒鳴。返した時、腕の中で眠っていたパメラが目を開けた。
四章 遠くにありて
けつらく
目覚めたパメラの顔は無懸情だった。感情のすべてが欠落したように、人形のような目
で空を見つめている。
「ハム?」
ようす
少女の様子を心配して、カイルロッドが名前を呼んだが、返事はない。くるくるとよく
かつたつ
動く表情も闊達さもなく、ただ沈黙している。なにも見えず、なにも聞こえないような
ー−1まるで精神をどこかに置き忘れてしまったようだ。
「どうしたんだ?」
のぞ            つぷや     じゆもん     とな
パメラを正面から覗きこみ、カイルロッドが呟くと、低い呪文が流れた。唱えているの
はザーダックだ。
「ぐつ!」
愁いは花園の中に
からだ
身体が金縛。にあったように動かない。
「動けないようじゃな」
勝ち誇った笑みでやって来ると、ザーダックはカイルロッドの腕からパメラを取った。
いと      な
そして、愛しそうに髪を撫でる。パメラはおとなしく、されるがままになっている。
いのち
「パメラはわしの生命じゃ。誰にも渡さない、決して死なせんぞ」
にら   なまはんか
憎しみのこもった目でカイルロッドを睨んだ。生半可な憎しみではない。パメラを連れ
去ろうとしている「死」 そのものでも見ているような目だ。
ぱけもの
「あんたの勝手で、多くの人が苦しんでいるんだぞ。ハムだって、化物になってまで生き
ていたいとは願っていないだろうさ」
金縛れソにされたまま、もがきながらカイルロッドはパメラを見た。相変わらず、人形の
ように表情がない。
「どんな姿になろうと、生きているのが一番いいことじゃ」
サーダックは微笑した。
「遠うー」
かたま
胸につかえている塊。を吐き出すように、カイルロッドは叫んだ。
きつりく
「感情も理性もなくなって、殺教を続けるだけの姿は、生きているなんて言わない!」
カイルロッドの激しい非難に、すっとザーダックの目が細くなった。その日の奥で暗い
ほのお       ぞうお
炎が揺れている。憎悪と殺意の炎だ。
「まだ言うのか。パメラの頼みとフィリオリの子供ということで、仕方なく助けたのじゃ
が・…つまらぬ情けをかけたものじゃ。殺すことはできずとも、おまえさまなど放ってお
くべきじゃった」
「母を知っているのかけ」
とうとつ
唐突にフィリオリの名前が出て、カイルロッドは驚きを隠せなかった。
「知っておるとも。おまえさま一人のために、何人の人間が運命を狂わされたことかー・
化物となった人々の存在が許せないと言うのなら、まずおまえさまがその身を消しなさ
れー」
「なっ……」
よよノしや
刃のような声で斬りつけられ、カイルロッドは絶句した。ザーダックは容赦なく言葉を
続ける。
のろ
「おまえさまは化物、魔物などより、呪われた忌むべき存在なのじゃ!」
「どういう意味だ − け」
うな
カイルロッドが問う前に、大気が唸りを上げた。
愁いは花園の中に
すき
正面から凄まじい風が吹きつけた。爆発したように花びらが散り、木々の枝が弓のよう
に大きくしなった。
からだ
カイルロッドの身体は吹き飛ばされ、大木に激突した。金縛。にされていたので、とて
も受け身がとれない。
「ううっ」
そのまま地面に叩きつけられた。背骨が折れたような衝撃に、息ができなくなった。
じやま
「わしの邪魔はさせん」
ザーダックの声が聞こえ、カイルロッドは顔を上げた。低くなった視点から、パメラを
かか
抱えているザーダックの後ろ姿が見えた。ラスティの骸の前に立ち、無表情なパメラに向
かってなにやら話しかけている。ラスティを食べろとでも言っているのだろう。
「・やめろ」
カイルロッドは懸命に叫んだつもりだったが、声はかすれていた。呼吸するだけで、全
身が軋む。
やめろ、やめてくれ。
声にならない声で、カイルロッドは叫び続けていた。パメラがラスティの骸を食うとこ
ろなど、見たくない。これ以上、パメラを化物にしてはいけないのだ。
「ハム…」
目がかすみ、意識が遠ざかっていく。
「ギャアァァァ〓」
やみ   たたか            すさ  ぜつきよう
押し寄せる闇と懸命に闘っているカイルロッドの耳に、凄まじい絶叫がとびこんだ。そ
れがカイルロッドの意識を引き戻した。
「   −   〓」
はじ                            いな
絶叫に弾かれて顔を上げると、ザーダックの姿が見えなくなっていた。否、花畑に倒れ
ている。そして、その横に小さな影があった。パメラだ。
ピチャピチャ …。
あわ               な
耳慣れぬ音に、カイルロッドの肌が粟だった。それは、子猫がミルクを舐めているよう
な音だった。
ごういん
続いて、厚い布を強引に引き裂くような音がして、ザーダックの絶叫がした。
たやす
なにが起きているのか、それらの音で容易く判断できた。
「ザーダック、ハム」
なまMソ
激痛をこらえながら、カイルロッドは立ち上がった。背骨が乱み、手足が鉛のように重
く、思うように身体が動かない。それでも、カイルロッドは必死になって進んだ。
愁いは花園の中に
カイルロッドが二人のいる場所にたど。つくまでの間、それらの音は続いた。
「ハム!」
名前を呼ばれ、うずくまっていた小さな影が動きを止め、ゆっくりと振り返った。パメ
にノ、か.Y、
ラの無表情な顔は血でぺっと。汚れていた。手には肉塊を振っている。
「…・・ハム」
よノめ
カイルロッドが絶望的な坤き声を出すと、パメラが動いた。
肉塊を持ったまま、カイルロッドの上を飛び越え、森の中に入って行った。あの化物遠
びんしよう
のような敏捷さだった。
「待ってくれ、パムー」
つか
逃げたパメラを追いかけようとしたカイルロッドの足首を、ザーダックの手が掴んでい
た。
「…・パメラを」
見下ろすと、倒れているザーダックが消えそうな声で言った。老人の姿に、思わずカイ
むご
ルロッドは顔をそむけた。腹が裂かれ、臓器がはみ出ている。なんとも酷い姿だが、もっ
と酷いのは、ザーダックをそんな姿にしたのがパメラだということだ。
「‥・・いつか、こんなことになるとわかっておった」
lまlまえ          まゆ
紙のように白い顔で、ザーダックは微笑んだ。カイルロッドは眉をひそめた。
飢えたパメラは祖父に襲いかかったのだ。ザーダックは魔法を使えなかった。血肉に飢
い・..J
えた化物とわかっていても、殺されて貪り食われるとわかっていても、パメラを傷つける
ことはできなかったのだ。
じごうじとく
「そんな表情をするでない。わしのこの姿は自業自得じゃよ」
おだ   ささや
死を自前にした老人は、ひどく穏やかに囁いた。
やみ
「人の心の中には闇がある。どんな聖者であっても、な。気をつけることじゃ、特におま
えさまは、な」
摘んでいた手を離し、ザーダックは不思議な笑みを見せた。以前、死にゆく吸血鬼が見
あわ
せた笑みと同じ、憐れみと嘲笑の混在する笑みだ。
しよよノたい
だが、今のカイルロッドには自分の正体よりも、姿を消したパメラの方が気になってい
た。
「ザーダック、ハムはどうなるんだけ どうすれば眠らせてやれるんだけ」
「・ パメラを頼む」
カイルロッドの質問に答えず、短くそれだけ言うと、ザーダックはこときれた。
「どうすればハムを救えるんだー 教えてくれ、ザーダックー」
にお
むせかえるような血の臭いの中、カイルロッドはたたずんでいた。
血の臭いを運ぶ風に花が揺れている。
「短剣なら」
ふところ                         はいかい
懐にしまってある短剣に触れ、カイルロッドは独白した。街を俳御した毛むくじゃらの
ガいじようぷ
化物は、この短剣で倒せたのだから、おそらく大丈夫だろう。
きや            すペ
カイルロッドは短剣を出して、報から抜いた。刃の上を光が滑り抜ける。カイルロッド
は少しの間、それを見ていたが、
「俺がやるしかないよな」
自分自身に言いきかせると、短剣を鞠におさめ、森の中に歩きだした。
風が血の臭いを運んでくる。
採れる花々の中に死体が二つ、転がっている。ザーダックとラスティだ。
せいさん
「凄惨なものですね」
つぶや
ザーダックの死体を見下ろし、エル・トパックが呟いた。横にいるティファの顔にはな
んの表情もない。
じごうじとく     あb
「どうやら孫に食われたらしいな。自業自得とはいえ、憐れなもんだ」
愁いは花圃の中に
死体から目を離し、イルダーナフがつまらなそうに鼻を鳴らした。ザーダックの死体を
見ないように、ミランシャは顔をそむけたままだ。死体に慣れていない者には、ザーダッ
む′1ろ
クの骸は正視Lがたい。
「・…・・子供の頃、わたしはザーダックに教えを受けたことがあります」
上着を脱ぐと、エル・トパックはザーダックの骸にかけた。
「善き師でした  」
きんかつしよく    いた
オレンジがかった金褐色の目には悼む色があった。
「ところで王子はフ 姿が見えないわよ」
死体から早々と離れ、ミランシャは不安そうに周。を見回している。
「どこかにカイルロッドが死体で転がっているんじゃないでしょうね」
「ザーダックの孫の姿も見えねぇな」
いつしよ
ミランシャと一緒になって、イルダーナフも花畑を見ている。
ばけもの
ミランシャ、イルダーナフ、エル・トパックとティファの四人が巨大な化物を倒し1
正しくは、倒したのはエル・トパックとティファの二人で、イルダーナフとミランシャは
見物人を決め込んでいたのだが ー ザーダックの家に来たのは、カイルロッドがパメラを
迫って森の中に入ってから、一時間もたってからだ。
けつこん
四人が目にしたのは、二つの死体と血痕だけだった。
「どう思う、兄ちゃん」
だしぬけにイルダーナフに疑問を投げつけられ、エル・トパックは顔を向けた。横にい
るティファが「兄ちゃん、兄ちゃんと呼ぶな」と、かみつかんばかりに抗議したが、そん
な声がイルダーナフの耳に入るはずもない。
「俺は王子もガキも生きていると思っているがねぇ」
「わたしも同感です。おそらく、森の中に入ったのではないかと。血痕が続いていますか
ら」
エル・トパックの左手が森を指した。
けが
「王子が怪我でもけ」
血痕と聞いて、顔色を変えたミランシャに、イルダーナフが「それはわからねぇよ」と、
明るく声をかけた。
「だからよ、ここでおとなしく王子を待っていようや」
「…三つん」
しぷしぷ         うなず
渋々だが、ミランシャは額いた。
「いい子だ」
愁いは花固の中に
イルダーナフは優しく笑い、それからエル・トパックを見た。
「さて兄ちゃん、この家をどうするフ なにかあるかもしれねぇぜ」
しよネノきよ
「消去しましょう」
即答し、エル・トパックは全員に花畑から出るように言った。ミランシャもイルダーナ
フも言われたとおり、花畑から離れた。ティファは「トパック様を兄ちゃんと呼ぶな」と、
イルダーナフヘの文句をぷつぷつ言いながら、命令にしたがった。残っているのは二つの
骸だけだ。
「すべてを燃やします」
おごそ
エル・トパックは厳かに告げ、それから家の方に片手をかざした。どうなるのかと、ミ
きようみしんしん
ランシャが興味津々の目で見ている。
家が燃えあがった。
ほのお
金色の炎だった。それは家を飲み込むと、生き物のように動いて花畑に広がった。
金色の炎が花畑を焼き、骸を焼く。
口をきく者はなく、四人は黙ってその光景を見つめていた。
157
2
あかへた
まだ地面に熱が残り、灰がほのかに温かかった。
ほのお                       なが
金色の炎が家と花畑を焼き尽くし、焼け野原となった場所を眺めながら、イルダーナフ
は立っていた。
少し離れた所にある木の根元では、ミランシャが寄りかかって眠っている。カイルロッ
ドを待つ間、少し休むつもりだったのだろうが、昨夜からの疲れが出て、眠ってしまった
のだろう。
めじhソ しわ
安心しきった寝顔を見て、イルダーナフが目尻の紋を深くした。それから、その近くで
せきわん
木にもたれかかっている隻腕の青年に声をかけた。
「俺達はここで王子を待っているが、なにも付き合ってくれなくていいんだぜ、兄ちゃん。
いそが
忙しい身なんだろ?」
いやみ            せりふ
嫌味とも皮肉ともつかない台詞に、エル・トパックはにっこり笑い、
「そうでもありません。それに、わたしの仕事はカイルロッド王子の監視ですから」
どこかすっとぼけた返事をし、少し表情を引き締めた。
「それに ー 万が一、王子がパメラを殺せなかった時は、わたしがやらなくてはなりませ
愁いは花園の中に
ん」
木から離れ、エル・トパックは焼け野原の方にやって来た。影のようにつき従っている
はやばや
ティファはいない。この青年になにやら命令されて、早々とこの場からいなくなった。
「考えられることだ。なにしろ、あの卵王子は甘いからなぁ」
いや
嫌になると言わんばかりに、イルダーナフが手を振った。その様に立ち、エル・トパッ
かげ
クは頭を振った。知的な顔に翳。がおちている。
「カイルロッド王子は優しい人です。生い立ちのことでさぞや苦労しただろうに、少しも
いびつ            おだ                 にあ
そんな歪なところがない。善良で、穏やかで優しい。平和で幸せな暮らしの似合う人です。
やつ
・・わたしは時々、彼がどうしようもなく嫌な奴だったらよかったのにと思いますよ。王
だいしんでん
子を敵視しているフエルハーン大神殿の関係者として……」
一息つき、
「そんな彼を見ていると、どれほど愛されて育ったかがわか。ます。お会いしたことはあ
しんかん  うわさたが
。ませんが、ルナンのサイード王やダヤン・イフエ神官は、噂に達わぬたいした人物なの
でしょうね」
せきわん
隻腕の青年の言葉に、イルダーナフはなにか言いたげな笑いを口にうかべたが、なにも
言わなかった。
「たいした奴と言えば、おまえさんも相当なもんじゃねぇか」
「わたしがフ」
「フエルハーン大神殿の神官長、アクディス・レグィより食わせ者ってぇ話だが?」
「誰に聞いたかは知りませんが、それはかいかぶりというものです。わたしはただの監視
者にすぎません」
灰を踏み、伏し目がちにエル・トパックが言った。その青年を見下ろし、イルダーナフ
は腕組みした。
「そうかい。それじゃ、そういうことにしておいてやろう」
ひ や  せいかん
陽に灼けた精悍な顔に、からかうような色があった。
一画の白い灰が風に流されていく。
イルダーナフは昌を細め、エル・トパックは静かにそれを見つめている。
せいじeく
昨夜からの騒ぎが嘘のような静寂。
こかげ
木陰ではミランシャが眠っている。
時間がゆるやかに流れていった。
.u、,ぜ
「…・・何故、ザーダックがカイルロッド王子を助けたのか・…。わたしはずっと考えてい
ました」
愁いは花園の中に
どれほどたってからか、エル・トパックがポッリとそんなことを洩らした。赤い髪が揺
ほのお
れて炎のように見える。
「助けた後、ザーダックはカイルロッド王子をパメラに食わせることもなく、魔法の実験
なつとノ、
台にすることもなかった。・・ですが、わたしには納得できないのです。カイルロッド王
しよーつたい
子の正体を知っているザーダックが、王子をそのままにしておくはずはないと思いますが
意見を求めるように、エル・トパックはイルダーナフを見上げるが、大男はまったくの
無表情だった。エル・トパックは視線を焼け野原に移し、話を続ける。
ぱけもの
「そこであの巨大な化物がひっかかったのです。他の化物や動き出した死体はわかるとし
て、あれだけが異質でした。何故、あれだけが巨大だったのか。ザーダックには化物を巨
大化する理由などなかったはずです」
「つま。」
さえぎ
エル・トパックの声を達。、イルダーナフはチラッと横目でミランシャを見た。魔女見
習いの少女は変わらず眠っている。
「兄ちゃんが言いたいのは、あの化物にゃカイルロッドの血でも与えられたんじゃねえか
〜つま。そういうこったな」
「他には考えられません」
ゆが
この青年にしては珍しく断定的な言い方だった。口を少し歪めただけで、イルダーナフ
は黙っている。
「ザーダックには、いくらでもそうする機会があったのですから」
ザーダックはカイルロッドを実験体にするにあたって、まず試したのではないか。カイ
けつにく
ルロッドの血肉が他の者にどう影響するか、と。化物を使って試したところ、巨大化・凶
ぼよノ
暴化してしまった。しかも、他の化物のように簡単には死なず、手に余ったザーダックは
いっしょ
他の化物と一緒に封じた。それを、誰かに解かれたのではないか ー
そういったことを語り、エル・トパックは揺れている右腕の長袖をおさえた。
「しかし、これらはあくまで、わたしの推測に過ぎません。真相はザーダックだけが知っ
ていることです」
「真相を聞き出せなくて残念だな」
むくろ
からかうようにイルダーナフ。ザーダックとラスティの骸は、骨も残さず燃えてしまっ
た。
いつきよいちどう
「しかしよ、フェルハーン大神殿もご苦労なこったな。卵王子の一挙一動に目くじらたて
l一dか             りつぱ たてまえ             しかく
て、馬鹿みてぇに騒ぎたててやがる。ご立派な建前をかざして、監視はつけるわ、刺客を
愁いは花園の中に
送りこむわ。挙げ句は賞金をつけて指名手配するわ。なにを企んでいるか知らねぇが、ま
ったく迷惑だぜ」
せきわん
組んでいた腕をほどき、両手をこす。合わせながら、イルダーナフは黒い目を隻腕の青
そうぽう
年に向けた。双時に厳しいものがある。
やと
「俺は卵王子に雇われているが、それを差し引いてもフエルハーン大神殿のや。方は気に
やみ                       きわ
人らねぇな。闇の中でこそこそ動き回るようなや。方が、気に障る。こんなやり方をして
すいたい
いるから神殿は衰退するんだぜ。そう、神官長のアクディス・レヴィとやらに言っておき
な」
「…・I伝えておきましょう」
おだ
穏やかに応じ、青年が顔を上げた。
ふくろう
バサバサと羽音がして、頭上から大きな影が急降下してきた。鳥 − 真っ白い最だ。そ
れがエル・トパックの腕に止まった。イルダーナフが口笛を吹く。
「なるほどな、その桑が、兄ちゃんの『目』か。いつも上から監視していたのはそいつだ
ったか」
「やれやれ。あなたにはなにもかもお見通しですね」
苦笑し、エル・トパックは白い最に顔を近づけた。その顔に緊張がはしる。
「なにかあったのかフ・」
「河の水位が上がっているそうです。上流と下流の両方から水が押し寄せていると…・・。
こうすい
このままでは洪水になり、この辺りの街や村に大きな被害がでるでしょう」
めんどう
水が押し寄せていると聞いても、イルダーナフは驚きもしない。ただ、面倒そうに「ま
おおまた
た水か」とぼやき、大股でミランシャの所へ行くと、肩をゆきぶった。
「ミランシャ、起きろ。水妖が来るぜ」
「え・・・ええっ、またlフ」
ねむけ
勢いよくミランシャは立ち上がった。水妖と聞いて、眠気が吹き飛んだらしい。
「だって、水妖は倒したんでしょけ ね、イルダーナフ、そうでしょけ」
「別の水妖か、あるいはこのあいだの奴が復活したんじゃねぇか」
つか
ミランシャに胸ぐらを掴まれ、イルダーナフはケロッと言った。ガックリとミランシャ
がうなだれた。
「少しはゆっくり休ませてよ、もうー」
おもしれ
「お嬢ちゃん、世の中ってのは思いどおりにゃいかねぇもんなんだ。ま、だから面白えん
だけどよ」
まじめ                               うれ
真面目くさって言い、イルターナフは指を鳴らした。こんな時、この男は本当に嬉しそ
愁いは花園の中に
うな顔をする。
なぜ
「イルダーナ7、それが何故水妖とわかるのですかフ」
横から白い長里眉に止めたエル・トパックが訊くと、黒髪の大男は自信たっぷりに白い
歯を見せた。
「俺にゃわかる。来るのは水妖だ」
こんきよ
理屈も根拠も見せないのに、この男が言うと恐ろしいほどの説得力を感じる。エル・ト
パックもミランシャも、それ以上の説明を求めなかった。
ひ                    どきよ・フ
「しかし、陽も落ちねぇうちから来るたぁ、いい度胸してやがるぜ」
あお
イルダーナフが上を仰ぐ。陽はまだ高く、日没まではまだかな。の時間がある。常識で
考えると、魔物達の動き出すような時刻ではない。
「そうだ、王子はけり.干子は帰って来たl?」
いそが
忙しく周りを見、カイルロッドが帰って来ていないと知ると、ミランシャは真っ青にな
った。
ねら
「どうするのよ、イルダーナフー 水妖なら、また王子を狙うはずだわ。襲われたら、ひ
できしたい
とたま。もないわよ一一回死にかけているんだからー あたし、王子の溺死体なんか見
たくないわよー」
しよせん
「落ち着けよ、ミランシャ。水妖ぐらいで死んじまうなら、所詮カイルロッドはその程度
やつ
の奴だ」
動揺しているミランシャに、イルダーナフは突き放すような声で言い放った。
「ずいぶんと冷たいのね」
ミランシャが泣きそうな顔になった。
「厳しい方だ」
つぶや
呟き、エル・トパックが集を空に放った。
「カイルロッド王子を見つけるんだ」
桑は上空を一回転し、どこへともなく飛んでいった。
「さぁて、こっちは避難するか」
のんき
呑気にイルダーナフが言った時、ミランシャが顔をしかめた。
「水音よ! この音は聞いたことがあるわ」
ミランシャは胸の前で手を組み、叫んだ。
とどろ
地鳴りが轟く。
この音は、あの村で高波が押し寄せた時と同じ音だ。
「とりあえず剣でも抜いて水妖をお出迎えするか」
愁いは花瀾の中に
イルダーナフが背中の長剣を抜き、エル・トパックは厳しい顔になって、水妖を待ち構
えた。
3
けつこん
転々と血痕が続いている。
それを追って、カイルロッドは森の奥へと進んでいた。この血はパメラのものではない。
パメラが持っていったザーダックの肉片から落ちたものだ。
「パムー」
けつにく
パメラは血肉を食べて、正気になっているかもしれない。そう思って、カイルロッドは
さが
名前を呼びながら、昼なお薄暗い森の中を探し回っていた。片手に短剣を握りしめて。
「ハム、俺だ。カイルロッドだー」
探しながら、カイルロッドはどこか心の片隅でパメラに会わないことを限っていた。
重い気分と足取。で歩いていると、どこかから泣き声が聞こえた。子供の泣き声だ。
「ハム1」
がまん
パメラに違いない。カイルロッドは反対側に逃げ出したいのを我慢して、声の聞こえる
方向に走った。
背の高い草の間に金髪を見つけ、カイルロッドはパメラの名前を呼んだ。
「カイルロッドー」
カイルロッドの声に、草をかきわけてパメラが転がり出て来た。涙で顔をくしゃくしゃ
にしたパメラが、ためらいもなくカイルロッドにしがみついた。
こわ
「どうしてハムはこんな所にいるのけ ハム、とっても恐かったの1」
小さな手がカイルロッドの服をきつく握りしめる。
「だって、手が血で汚れているんだもんー どうして‖」
いつさい      われ
正気を取り戻したパメラには、それまでの記憶が一切ないらしい。我にかえった時、手
ぎようてん
や顔が血で汚れていれば大人でも仰天する。
「来るのが遅くなってごめんね」
カイルロッドはパメラの金髪を撫でた。その指先が震えていた。
「あのね、恐い夢を見たの」
泣きじゃくりながら、パメラがそんなことを言い出した。カイルロッドは黙って、パメ
ラの頭を撫でている。
l
「ハムがお爺ちゃんを殺しちゃうの」
「こ‥・ここ、
愁いは花園の中に
カイルロッドは手を止めた。まったく記憶がないと思っていたが、そうでもないらしい。
ぱくぜん
漠然としているので、夢としか思わないのだろう。
「それは夢じゃないんだ」
くだ
そう言いかけ、カイルロッドは吉葉を飲み下した。どうして言えるだろう、人を殺して
むさぼ
血肉を貪ったなどと。
「とっても恐かった。どうしてあんな夢を見たんだろう。ハム、お爺ちゃんのこと大好き
なのに」
「・・お爺ちゃんもハムのことが大好きだよ。とってもね・・」
lこが                       おきな
カイルロッドの声に苦いものが含まれていると気づくには、パメラは幼すぎる。
「俺もハムが大好きだよ。……お爺ちゃんが心配しているから、早くお家に帰ろう」
泣きじゃくっている少女を見下ろしながら、カイルロッドは短剣を握。しめた。早く抜
かなくてはと思うのに、凍。ついたように手が動かない。
「俺の甘さだ」
イルダーナフなら、相手に恐怖も痛みも与えることなく、即座に殺せるだろう。しかし、
カイルロッドはそれができない。「シャオロン…I」、自分を自分で殺させてしまった青年
ようぽう
の穏やかな容貌を思い出し、カイルロッドは顔を歪めた。あの時の後悔に今でも息がつま
りそうになる。
「俺が殺してやるべきだった」
おの  ふがい
二度とあんな後悔はすまいと思っているのに、今またためらっている己れが腑甲斐なく、
くちぴる
カイルロッドはきつく唇を噛んだ。
「カイルロッド、どうしたのフ」
のぞ
カイルロッドの様子に、目をこすりながらパメラが心配そうに下から覗きこんでいる。
”レやき
邪気のない顔だ。
「なんでもないよ。さぁ、お家に帰ろう」
うれ    よノなず  みじん
懸命の努力でそう言うと、パメラが「うん」と嬉しそうに領いた。微塵もカイルロッド
を疑っていない。
小さな手を引きながら、カイルロッドは緊張していた。自分の心臓の鼓動が大きく聞こ
える。
やみ かえ
あの家につくまでに、パメラを闇に還さなくてはならない。
わかっているのに手が動かない。
しった
一歩進むたび、「次は、必ず次は」と、自分自身を叱咤した。
しかし、そうしているうちにも、どんどんあの家に近づいて行く。
愁いは花圃の中に
「カイルロッド、どうかしたの?」
「いや。どうしてフ」
まともにパメラの顔が見られなくて、カイルロ∴ソドは目を伏せた。
「カイルロッド、苦しそう」
ひじ
小さな手が伸びて、カイルロットの肘のあた。をそっと掴んだ。
「   一   日」
つか
カイルロッドはきつく目を閉じ、短剣の柄に芋を伸ばした。
その時1。
地鳴りがした。
木々が揺れ、動物達が鋭い鳴き声をあげている。
おぴ                           まゆ
怯えたパメラがカイルロッドにしがみついた。カイルロッドは眉をひそめた。
「地場。け」
さけ
そう叫んでから、カイルロッドは 「違う」と否定した。これは地鳴。ではない、聞いた
ことがある音だ。
「洪水−」
村の宿に宿泊していた晩に耳にしたものと同じだ。間もなく水が押し寄せて来るに違い
ない。
「逃げるぞ、パムー」
震えている少女を抱き上げ、カイルロッドは走っていた。高い場所を探しながら走って
いると、
「カイルロッド、後ろから水が追って来るよー」
ひめい
パメラの悲鳴に、カイルロッドは振り向いた。
木々を薙ぎ倒し、呑み込み、水が高波となって押し寄せて来る。ありえない増水量だっ
た。堤でもきれたように、水が高波となって襲いかかる。
「あの時と同じだ」
かたま
押し寄せる水の中に赤い塊りを見つけ、カイルロッドはハッとした。
「あれは水妖ではけ」
ひらめ        かぬ
カイルロッドの血を吸った水妖ではないのか。そんな考えが閃いた時、ひび割れた鐘の
ような声が聞こえた。
(今度こそ逃がさないぞ)
「やはりあの時の水妖だな」
みみざわ                           いな
耳障りな声に顔をしかめ、カイルロッドは走った。その後ろを高波、否、水妖が追って
愁いは花園の中に
来る。
「今頃になって現われるなよ一 夜でもないっていうのに! まったくしつこいな」
しゆうげき
まさか日中に魔物に襲撃されようとは、まったくの予想外だった。息をきちしながらカ
イルロッドが文句を言うと、しやがれた笑い声が戻ってきた。
よみがえ
(ムルトの力で延ったのだ)
「ムルトだとP」
思いがけない名前にカイルロッドは動揺した。
(ムルトは我が主人)
水妖の声が揺れる。
りまきら
今更のようにカイルロッドはムルトの力を見せつけられた気がした。水妖を起らせ、下
ぼく
僕とする。底知れぬ力の持ち主だ。
(今度こそ逃がさない)
うず
水が動いた。カイルロッドの周。にわずかな空間を残して渦を巻き始めた。
「くっ」
ヂ             たたか      かか
短剣では歯がたたないことは経験済みだ。どうやって水妖と関ったものか。抱えている
からだ                     ひたLYl
パメラの身体が恐怖でこわばっている。カイルロッドの額に汗が渉んだ。
(前は指輪にやられたが、今度はそうはいかんぞ)
渦の中から赤い塊りが突出し、人の顔になった。男とも女ともつかないデスマスクに、
パメラがロの中で短い叫び声をあげた。
「指輪?」
かたみ
おそらく母の形見の指輪だろう。
「それでどうにか助かったのか」
イルダーナフが水妖に投げつけたのだが、意識を失っていたので、カイルロッドは知ら
なかった。
(ムルトの命令により、きさまを殺す)
赤いデスマスクがこタッと笑い、渦の回転が遠くなった。薙ぎ倒されて渦に巻きこまれ
こまぎ
た大木が、あっという間に裂かれた。人間など細切れだ。
「くそっ」
せば              うめ
じりじりと狭まってくる渦にカイルロッドは坤いた。パメラがさつくしがみつく。
「俺に魔物を倒すだけの力があれば」
切実にカイルロッドは思った。せめて、イルダーナフほどの剣技があれば、魔法のひと
つも使えることができれば ー と。
愁いは花園の中に
われ
そう思った時、ふいに幼い頃のことを思い出した。切迫しているというのに、我ながら
のんき          なぜ
呑気なものだと思ったが、何故か鮮明に思い出してしまう。
「魔法など使えなくていいのです」
しんかん
ダヤン・イフエは幼かったカイルロッドにそう言った。「闘う神官」として名高いダヤ
ン・イフェは、カイルロッドの教育係として、あらゆることを教えてくれた。特に剣技や
たぐ
体術に熱心だった。しかし、魔法の類いは教えてくれなかった。カイルロッドがいくら熱
心に頼んでも、
「王子たる者に、魔法など必要ありません」
そう言って、ダヤン・イフ工は決して教えてくれなかった。ダヤン・イフエばかりでな
く、父サイードも同じだった。「なにごとも知っておくべきだ」という方針のサイードが、
カイルロッドに魔法だけは教えようとしなかった。
「魔法には才能や適性が必要だからね」
よノんぬん
というのがサイードの言い分だが、思い返してみれば、才能や適性云々という以前に、
二人ともカイルロッドを魔法に近づけまいとしていたようだった。
「将来、こんなことになると知っていれば、無理をしてでも教えてもらっておくべきだっ
たな」
せば
狭まる水を見ながら、カイルロッドは舌打ちした。水が触れてもいないのに、回転の風
lはほ
圧で頬や腕に傷ができている。
だめ
もう駄目だときつく目を閉じた時、激しい水音をぬって別の音が聞こえた。羽音のよう
だ。逃げ遅れた鳥だろうか。目も開けずにそんなことを考えていると、
「呼吸ヲ整エ、ユックリト神経ヲ手ノ平二集中シナサイ。水ヲ消スト念ジナガラ」
水妖とは別の、どこかぎこちない声がした。人間でないものが無理してしゃべっている
ような不自然さだった。
「早クシナサイ。コンナ所デ死二タイノデスカ、カイルロッド王子」
しった                       ふくろう
叱咤の声は上からだった。[日を開けて見上げると、白い桑がいる。
「水妖ナドアナタノ敵デハナイ」
声を発しているのは桑だった。
「水を消すと念じながら」
1r
わけがわからなかったが、苦し紛れというやつで、カイルロッドは言われたとおりにし
た。
カイルロッドの銀髪がパサバサと大きく揺れる。
手の平が熱くなった。
愁いは花園の中に
4
カイルロッドの手の中で白銀の光が膨れあがった。
(きさまー)
よノず
水妖が叫び、カイルロッドを包みこもうと、渦が一気に縮まる。
ほとんど同時に、手の中で光が爆発した。
はじ
渦が閃光によって弾けた。内部に多すぎる水を入れた樽のように、膨らませすぎた風船
のように。
.L測_関り・・∵
渦は消え、水が広がった。足首まで水につかっている。
「どうなったの?」
なにが起きたのかわからず:ハメラが昌をパチパチさせている。カイルロッドにもどう
なっているのか、さっば。わからない。言われたとお。に、水妖を倒すことを念じながら、
手の平に神経を集中させていると、熟を感じ、そこに光の球体ができた。それだけだ。
「俺がやったのかな」
自分でも驚きながら手の平を見ていると、
「油断スルナ」
桑が鋭く警告を発した。
・.ざノ.ふ
ざわざわと水面に小波がたった。
(こんなことで勝てると思うなよ)
すさ
水妖の声がして、水は凄まじいばかりの勢いで地面に吸い込まれた。
せいじやく
森は静寂を取り戻した。水がひいた後には小さな水溜りひとつ残らなかった。
しかし、それは嵐の前の静けさにすぎないと、カイルロッドにはわかっている。
「水妖め、なにをするつもりだフ」
されつ
用心しながらカイルロッドが唸っていると、足元に亀裂が入った。
「〓」
やり
白い槍のように、水が噴き出した。
顔をひき、すれすれで避けたが、かすった服の袖が裂けた。鋭利な刃物で切りつけられ
たようだった。水の槍、剣かもしれない。
地面から次々と水が噴きあげる。
かみひとえ
紙一重でかわしているものの、かわした水はすぐに大地に染み込み、再び噴き出すのだ。
くしぎ
きりがない。やがてカイルロッドが疲れて、串刺しになるだけだろう。
愁いは花園の中に
「どうすればいいんだ」
たたか
地下に逃げこんだ水妖相手にどう関っていいのか。助言を求めるように上空にいる桑を
見上げたが、轟はなにも言わない。これ以上は助けてくれそうにない。
「自分で考えろということか」
厳しいなと苦笑しながら、カイルロッドは次々と突き上げてくる水を避けていた。
(逃げきれるものか)
レワようしよう
水妖の嘲笑を聞きながら、カイルロッドは再び、手の平に神経を集中させていたDなん
とかのひとつ覚えのようだが、カイルロッドが水妖と闘える武器は、今のところこれしか
ないのである。
「神経を集中して、手に力を」
つぷや
呟きながら、カイルロッドは再び手の平に神経を集中した。血が熱くな。、溶岩のよう
かちだ   めぐ
に身体中を駆け巡る。
(死ねっー)
いつせい
カイルロッドめがけて、一斉に無数の水の槍が突き上がった。
「はあぁ−」
カイルロッドは手の平を地面にかざした。
その手が光を放った。
無数の水の槍が光に押されたように、途中から下に曲がった。
ぼうちよう                    っらぬ
膨張していた光が急速に細くなり、一本の光の線となって、大地を貫いた。
地の底でなにかが砕けるような音がした。
きれつ
カイルロッドの足元、大地に一本の亀裂がはしる。
じゆう亭つむじん    どしや  の
またたくうちに、そこから亀裂が縦横無尽に広がり、土砂を押し退けて大量の蒸気が吹
き出した。
おお
土砂から守るため、カイルロッドはパメラに覆いかぷさった。土や石が雨のように降っ
てきた。
蒸気は地上から十数メートルまでたちのぼり、顔を上げたカイルロッドの視界は真っ白
になっていた。
「蒸し暑いよ」
カイルロッドの身体の下からパメラが這。い出し、泣きそうな顔をした。
「ごめん」
すばや
素早く立ち上がり、カイルロッドは蒸気の向こうに赤い物を見つけた。
ぱか
(こんな、こんな馬鹿な・…)
愁いは花園の中に
近寄って見ると、直径三〇センチぐらいの、赤いゼリー状の物体だった。それが震えて
いる。
「…・水妖か」
ヵィルロッドは呟いた。水がすべて蒸発してしまい、かろうじてそれだけが残ったのだ
あわ
ろう。それにしても、憐れとしかいいようのない姿である。
(ムルトは、カイルロッドにこんな力はまだないと、そう言っていたのに)
かたま
赤い塊。がブルブルと揺れている。それを見ていたパメラが「イチゴゼリーみたい」と
むじやき
無邪気な感想を述べ、カイルロッドを苦笑させた。
(水がないと死んでしきつ、水のある所へ連れて行ってくれ)
「調子のいいことを亭っんだな。人は平気で殺そうとするくせに」
にら
虫のいい頼みに、カイルロッドは水妖を睨みつけた。
(せめて太陽のあたらない場所へ)
哀願しているのか、赤い塊。が激しく震えた。見ていてあま。気分のいいものではない。
じゆうめん
カイルロッドは渋面になった。
「俺の質問に答えたら、水のある場所まで運んでやる。ムルトはどこにいる? どうして
ねら
ムルトは俺を狙うんだフ・」
おど
脅すために手をかざしてカイルロッドが問うと、水妖はブルブルと震えた。
「ムルトはどこだっ」
(・ …)
いらだ
水妖は答えない。苛立ったカイルロッドの手がほのかに光り始めた。
「ムルトはどこにいるんだー」
(北の、タジエナ山脈の…)
それだけ亭っと、水妖は溶けた。水のない場所では長く生きていられないのだろう。赤
い粘液だけが残った。
「タジエナ山脈?」
初めて聞く山脈の名前だ。「そんなの聞いたことないな」、カイルロッドが首をひねって
いると、
−レい
「知ってるーハム、知ってるよ。お爺ちゃんから闇いたの。見える人にしか見えない、
不思議な山なんだって」
とくいげ
パメラが得意気に言った。
「見える人にしか見えないフ」
なぞなぞ          あお
さっぱり意味がわからない。まるで謎々だ。考えながら上を仰ぐと、いつの間にか白い
183 愁いは花園の中に
桑はいなくなっていた。
むずか
「難しい謎々だな」
考えこんでいると、急に目の前が暗くなった。全身から冷たい汗が吹き出し、立ってい
ひぎ
られない。こらえきれず、カイルロッドは地面に両膝をついた。
「カイルロッド、どうしたのフ」
パメラの声が、うねるように聞こえる。身体が揺れ、カイルロッドは両手をついた。
ドクン、ドクン。
やみ
血の流れる音が聞こえた。視界は闇に閉ざされている。
「カイルロッドー」
きけ
少女の叫び声が遠ざかっていく。
遠く離れた木々の間から、白い煙のようなものがたちのぼったのが見えた。
木の枝に登っているミランシャがそれを見つけ、指差して叫んだ。
「ずっと遠くで煙がたちのぼっているわよ」
「煙?」
下にいるイルダーナフがその声に上を向き、エル・トパックも見上げて、
「それは煙でなく、蒸気です。水が蒸発したのですよ」
説明した。ミランシャは「へぇ」と感心していたが、
「ちょっと、あんまり上を見ないでよー」
どな
下に向かって怒鳴りつけた。
「あ、これは失礼を」
あわ
エル・トパックは慌てて下を向いたが、イルターナフはまるで気にせず、
「それじゃ、もう水妖は来ないみてぇだから、早く下りたらどうだフ」
上を向いたまま、、三フンシャに声をかけた。押し寄せて来るかもしれない水妖に備え、
ミランシャを木の上に登らせたのである。
「言われなくたってそうするわよ」
言い返し、急いで木から下りようとして、ミランシャは空を横切る白い影を見つけた。
ふノ1ろぺノ
「呉が帰ってきたわよ」
桑はミランシャの真ん前を過ぎて、まっすぐ主人の肩に止まった。
「それで王子はけ」
あぷ
危なげなく地面に下り、ミランシャはエル・トパックの方に走り寄った。
エル・トパックは桑に「ご苦労だったね」とねぎらいの言葉をかけると、まずミランシ
ヤに顔を向けた。
「ご安心下さい。王子は無事です」
それからイルダーナフに顔を向けた。
けいがん  かんぷく
「あなたの慧眼には感服しました。おっしゃるとおり、水妖でした。そして、カイルロッ
ド王子は水妖を倒しました」
やつ
「あの蒸気か。しかし、どうやって王子は奴を倒した?」
きや
長剣を背中の韓におさめ、イルダーナフが静かに訊いた。
「王子の力で」
せきわん
翼を休めている桑を見ながら、隻腕の青年も静かに答えた。
けげん
イルダーナフの横に来たミランシャが「王子の力ってフ」と怪訝な顔をしたが、二人は
沈黙していた。
「引き出すようなことを教えたんじゃねぇのか、兄ちゃん」
「いつまでも封じておけるものではないでしょう」
きんかつしよく
黒い巨と金褐色の目がぶつかった。どちらにも強い光がある。
にら
黒髪の剣士と隻腕の青年はしばらくの間、睨み合っていた。剣こそ抜いていないが、殺
ふんいき
し合いにでもなりそうな雰囲気に、ミランシャはどうしていいのかわからず、遠巻きに二
愁いは花園の中に
人を見ていた。
「水妖はムルトの手下になっていました」
ややあって、エル・トパックが表情をやわらげた。二人の問にあった冷たく鋭い空気が
ひようかい
氷解し、ミランシャはホーツと長い息を吐いた。
「ふん。ムルトの力を借りて復活したか。まったく、みみっちいったらあ。やしねぇ」
セhソふ
いつもの陽気な顔になったイルダーナフが鼻先でせせら笑う。が、その台詞を聞いて、
またもミランシャの顔はひきつった。
ねら
「ちょっと。それじゃ、ムルトに狙われているってわけヱ
はけもの   ふ
「まあ、そういうこったな。別にどうってことじゃねぇよ。襲ってくる化物が一匹増えた
だけじゃねぇか」
かか  うめ
気楽かつ簡単に言われ、ミランシャは頭を抱えて坤いた。世間広Lといえど、ムルトに
狙われていると聞いて「どうってことない」と言うような人間は、イルダーナフぐらいな
ものだ。
「ああ、気が重いわ・ 」
いんうつ つぶや
ミランシャの陰鬱な呟きを、イルダーナフは無視した。
「ところで、例のガキはどうなったフ」
「それが、まだです」
エル・トパックの表情が曇る。
よよノす
「この様子では、わたしが行ったほうがいいかもしれません」
「行く必要はねぇ」
動きかけた青年を、イルダーナフの強い声が制した。
「しかし」
「カイルロッドがやるだろうぜ。手出しは無用だ」         さゆ
言い捨てると、イルダーナフはどっかりと下に腰をおろした。そして背中の剣を常ごと
取り、手入れを始めた。
「王子が甘いと言ったのは、あなたですが・」
ばか
「ああ。だが、馬鹿とは言ってねぇ」
「確かに」
困ったように首をすくめたエル・トパックに、イルダーナフが手入れ途中の剣を突きつ
けた。一瞬だが、エル・トパックの顔色が変わった。
「だから、待っているさ。ここでな」
同意を求めるように、黒い目がミランシャを見る。ミランシャは反射的に首を縦に振っ
愁いは花園の中に
た。
「兄ちゃんはてめぇの仕事に戻。な」
そう言い、剣を引いた。ミランシャが「そうやってすぐ人に剣を突きつけるの、やめて
よ」と金切。声で注意したが、例によってイルダーナフは聞いていない。
とっとと帰れと言われ、エル・トパックは苦笑した。
まか
「わか。ました。あなたがそこまで言われるのなら、お任せいたします。では、わたしは
これで失礼します」
軽く一礼し、エル・トパックはイルダーナフとミランシャに背中を向けた。その後ろ姿
を見送。ながら、ミランシャがどうも納得できないという面持ちになった。
だいしんでん
「あの人、本当にフエルハーン大神殿の人間なのかしら。フエルハーン大神殿の人間なら、
王子を助けた。しないはずでしょフ」
「物好きなんだろ」
イルダーナフはにべもなく言い、
のじゆノ、
「ここで野宿になるかもしれねぇ。薪を取って来ようぜ」
立ち上がった。
うなず
ミランシャは黙って領いた。
間もなく陽が暮れようとしていた。
愁いは花園の中に
五章 季節のめぐるたびごとに
l
パメラの声が聞こえる。
遠ざかる意識の中で、カイルロッドは懸命にもがいていた。ここで気を失うわけにはい
かない。
「カイルロッドー」
からだ
小さな手が身体を揺さぶっている。
まぷた
あ。ったけの努力で重い瞼を開くと、そこにはパメラの泣き顔があった。大粒の涙をこ
ぼしながら、カイルロッドを呼んでいる。
「…こハム」
カイルロッドは気力を振り絞って、身体を起こそうとしたが、せいぜい寝返。をうつぐ
らいしかできなかった。手足が自分のものではないように、思うように動かせない。
じい
「気分が悪いのフ ハム、お爺ちゃんを呼んで来る」
つか
立ち上がった少女の腕を、カイルロッドは掴んだ。パメラがびっくりした顔で、倒れて
いるカイルロッドを見た。
だいじようぷ          なお
「大丈夫、休んでいればすぐに治るから」
荒い息で言い、カイルロッドは無理に笑ってみせた。家に帰っても、ザーダックはいな
むくろ
いのだ。帰ったパメラの見るものは、ザーダックとラスティの骸だけだ。
「大丈夫だから」
すわ
カイルロッドが強く言うと、パメラは小さく領いて、下に座った。
あおむ
仰向けになったカイルロッドは空を見た。紫とオレンジ、青と赤の色が刻々とその比重
ゆよノぐれ
を変えていく。不思議で美しい、人の心を動かす夕葦の空だ。
きれい
「ああ、空が綺麗だ」
つぶや                      むじやき
カイルロッドが呟くと、パメラも上を見て、「本当だ」と笑った。無邪気な笑顔と空の
美しさが胸にしみた。
「ね、星が見えるよ」
うれ
濃紺に変わっていく空を指差し、パメラが嬉しそうな声をあげる。こんな年頃はなにを
見ても目を輝かすものなのかもしれない。
愁いほ花園の中に
「あれが三角魚星、あれが… 」
知っている星を指して、歌のようにその名前を並べる。楽しく遊んでいるパメラを見な
ふところ
がら、カイルロッドはそろ。と、懐にしまってある短剣に触れた。苦痛もだいぶおさまっ
てきている。
「ねぇ、カイルロッド、死んだら人はどうなるの?」
ま じ め                                       み す
ふいに真面目な顔になり、パメラがそんなことを訊いた。考えていることを見透かされ
たようで、カイルロッドは一瞬、呼吸が止まりそうになった。
「どうして、そんなことを… 」
あわ
慌てて手をひっこめて、訊き返すと、パメラは少し悲しそうにうつむいた。
かわいそう
「だって…街でいっぱい人が死んじゃったから。可衷相だもん。ハムのお母さんとお父
Nレい
さんも、ハムがうんと小さい時に死んじゃったって、お爺ちゃんが言ってた。死んじゃっ
た人はどこに行っちゃうのかなぁ」
..一..こ
幼い顔に大人びた表情がかすめる。カイルロッドは上半身を起こした。
「そうだな。遠い理想郷に行くとか、また生まれかわるとか、色々言われているけど、ど
れが本当かはわからないな」
「ハムだったら、どこにも行きたくない」
「どうしてフ ハムはどうしたいのっ」
カイルロッドが質問すると、パメラは真剣な顔を向けた。
「好きな人のところにいるの。そしてね、ずっと守ってあげるの。ずっとずっと」
ほほ
頬を染め、目を輝かせる。
「春も夏も、ずっといるの」
かか
まだ人を好きになったこともなく、夢と希望だけを両手に抱えた少女を見ているうちに、
カイルロッドの身体の奥底から、たぎるように熱いものが突き上げていた。
いきどお
怒りでも、憎しみでもない。悲しみより強い、憤りだった。
幼くして死んでしまったパメラの人生に、悲しみで狂ったザーダックへの。そして、ど
うすることもできない無力な、決意しながらもためらっている自分自身への憤りだった。
「そうだ、ねぇ、カイルロッドの国ってどんな国?」
「ルナンは小さいけど美しい国だ」
ハムが目を輝かせた。
「どんな国なの」
せがまれるままに、カイルロッドはルナンのことを話してやった。緑と水の多い国で、
音から他国との交流が多く、色々な人々が生活している、などと。少女は見知らぬ異国へ
愁いは花園の中に
あこが
の憧れに顔を輝かせていた。
「行ってみたい」
「行ってごらん。大人になったらね」
口にしながら、カイルロッドの気持ちは沈んだ。パメラは大人にならない。仮にこのま
ま生きたとしても、一度死んだ者は成長しない。
いつしよ
「お爺ちゃんも一緒に行けたらいいなぁ」
はしゃぐパメラを見ながら、カイルロッドは懐の短剣に触れていた。これ以上は延ばせ
からだ
ない。決意し、懐から短剣を抜く寸前、それまで笑っていたパメラの身体が硬直した。
「ハム?」
すわ
呼んでみるが反応がない。無表情に、まるで人形のように座っている。
のよノり
ヵィルロッドは息をのんだ。脳裏に、ザーダックが殺される前の、血肉に飢えたものに
ようす ひらめ
なる前のパメラの様子が閃いた。
このままにしておけば、血肉を欲して狂うだろう。
カイルロッドは短剣を抜いた。
ハムの無感動なガラス玉のような目にカイルロッドの姿が映っていた。
あふ
短剣はパメラの胸に、吸いこまれるように深く刺さった。そこから血が溢れ、少女の服
を濡らしていく。
「・・ハム」
カイルロッドは短剣から手を離し、少女の名前を呼んだ。胸を真っ赤に染めたパメラの
目に光が戻ってきた。
驚いたように、水色の大きな目をみひらき、自分の胸に刺さっている物とカイルロッド
を見比べた。
「…・・カイルロッド」
パメラがカイルロッドを呼んだ。しかし、カイルロッドは答えられなかった。声が出な
かった。
「そうかぁ。あれは夢じゃなかったんだ」
つか      lま1iえ  ひとみ
胸に刺さっている短剣の柄にそっと触れ、微笑んだ。瞳にはなにもかもを悟った色があ
そふ
る。知ったのだ、自分が人の血肉を食い、祖父を殺したことも。
「こ・\ハムね。カイルロッドのこと大好きだよ」
あどけない笑顔だった。胸から流れる血は信じられないほど多く、服を赤く染めあげ、
ちだま
地面に血溜りをつくっていた。
小さな身体が大きく括れ、カイルロッドが抱きとめる。
「俺もハムのことが大好きだよ」
小さな身体を抱きしめ、カイルロッドは言った。が、その吉葉は、はっきりとした声に
ーつめ
ならず、坤き声にしかならなかった。
「うん、大好き」
よノれ
キュッとカイルロッドの背中を握って、嬉しそうにパメラが笑った。
腕の中で小さな身体がゆっくりと冷たくなっていく。
カイルロッドの全身も冷えていく。
ゆっくりとパメラの身体が冷たくなり1やがて、手や脚の末端部分から溶け始めた。
まるでこの少女は最初から存在しなかったのだとでも言いたげに、溶けていく。
骨すら残らなかった。
パメラの身体は消えて、カイルロッドの腕の中には血まみれの服だけが残った。そして、
足元には大量の血溜りができ、短剣が落ちていた。
「パム ー 〓」
さけ
血溜りに両手をつき、カイルロッドは叫んだ。悲しいのに、胸が引き裂かれるほど悲し
いのに、涙も出てこなかった。
「パムーー」
愁いは花園の中に
いくら叫んでも、返事は返ってこない。
カイルロッドの声ばか。が夜空に吸いこまれていった。
枝がはじけ、火の粉が飛ぶ。焼け野原の真ん中で、ミランシャとイルダーナフの二人は
たきび
焚火を因んでいた。
エル・トパックは去。、カイルロッドはまだ戻って来ない。
カ.げん      さが
「イルダーナフ、本当に待っているの? いい加減にこっちから探しに行ったほうがいい
んじゃない?」
ひぎ かか            ほのム
膝を抱えながらミランシャは、揺れる炎を見つめていた。焚火の側で寝そべっているイ
ルターナフは目を閉じたまま、黙っている。
「待っているのはいいけど、帰って来なかったらどうするの? そもそも、いくら死人だ
からって、あんな小さな子を殺すなんて・…・あの王子にできるわけないじゃない」
初めにエル・トパックから一連の事実を知らされてお。、パメラとさして関わ。をもっ
やみ かえ          とまど
ていないミランシャでも、「闇に還せ」と言われたら、戸惑い悩むだろう。まして、カイ
かわい
ルロッドはパメラを妹のように可愛がっていた。そのカイルロッドが、果たしてパメラを
けねん
闇に還せるのか。ミランシャの懸念はもっともだった。
「あの子を連れて逃げたかも」
つめ か
ミランシャは親指の爪を噛んだ。カイルロッドが帰って来ないということは、パメラを
闇に還せなかったということになる。
しまつ           おおみえ
「かもしれねぇな。ま、そん時は俺が追いかけて始末する。あの兄ちゃんに大見得をきっ
た手前、仕方ねぇ」
めんどう   つぷや
イルダーナフが面倒そうに呟く。
「あの兄ちゃんって、エル・トパックよね。どうせなら、あの子のこと、エル・トパック
に頼んじゃえばよかったのに」
ほとんど投げるように言うと、
いや
「嫌なことは他人に押しっけろか? できりや、そうした方がいいかもしれねぇがな。け
どな、可愛がっていたからこそ、やらなくちゃならねぇんだよ」
イルダーナフが薄く目を開け、ミランシャを見た。黒い目の奥に闇があるようで、一瞬
ミランシャはゾツとした。
しよせん        あわ
「泣いてやるだけでなんになる。所詮、無力なてめぇを憐れんでいるだけだ。本当に誰か
よご           お
を助けたいと思うなら、てめぇの手を汚し、同じところまで堕ちてやれ」
はのお
イルダーナフほ手を伸ばし、小枝を炎の中に放りこむ。小枝はすぐに炎に包まれた。
愁いは花囲の中に
「それでも・理解され、感謝されるわけじゃねぇ。むしろ、憎まれるもんさ」
じぎやくてき
呟き、炎に照らされたイルダーナフの顔にはどこか自虐的な笑みがあった。
いや
「人助けってぇのは、そんだけ割。にあわねぇことさ。それが嫌なら、最初っからどうこ
うしようなんて思うもんじゃねぇや」
黒髪の大男の手厳しい意見に、ミランシャは返す言葉がない。なにを言っても、この男
の前では薄っぺらになってしまいそうで、黙っていた。
「…‥で、もしも。もしもよ、王子が帰って来なかったら、どうするの?」
しまつ
「パメラは始末するとして、王子の方はそのままにしておく」
イルダーナフの即答にミランシャは目を丸くした。
「そのままってフ」
いや         やろう
「手を汚すことが嫌で、逃げ出すような野郎は捨てるってことよ」
「え……。それじゃ、ムルトは? 石になったルナンはどうするのヱ
やと
「知らねぇな。俺はただの雇われ剣士だぜ。雇い主が放。捨てたことを肩代わ。する義理
はねぇな」
目を閉じたイルダーナフを、ミランシャは囲った顔で見た。この男のことである、本当
にそうするだろう。
「イルダーナフって厳しい」
いた
炎に手をかざし、ミランシャはわざとらしく大きなため息をついた。それからすぐに悪
ヂち
戯っぽい笑みをうかべ、
「でも、色々言いながら、イルダーナフってカイルロッドのこと、信じてるでしょ? こ
うやって待っているんだもの」
からかうように言った。イルダーナフは答えず、口元に笑みをうかべた。
夜空を星がひとつ、流れた。
2
1まいきよ
廃墟が広がっている。
lこぎ                 がれき
かつて人で賑わったマセッサの街は消え、残っているのは瓦礫と片付けられない死体、
そして家を失った人々だけだ。
にご
街に恵みをもたらした河は濁り、緑はほとんど失われている。
そんな場所をカイルロッドは歩いていた。
どこをどうやって歩いたのか、一晩かけてマセッサに来ていた。
ふつこよノ
日の出とともに、行く所も帰る所もなく路上に眠っていた人々が起き出し、街の復興に
愁いは花園の中に
動きだす。
大きな岩の上に腰かけ、カイルロッドはぼんやりと人々を見ていた。
まひ
感情が麻痺していた。
やみ かえ      こうかい
パメラを闇に還したことを、後悔はしていない。
むな
ただ悲しく、虚しい。
きよむかん
胸にぽっかりと穴があいたような、虚無感ばか。がある。
かたひざ
立てた片膝に顔を押しっけていると、
「ほら、食えよ」
すぐ近くで子供の声がした。
わん
なんだろうと思って顔を上げると、正面に小さな椀を持った見知らぬ少年が、真っ白い
息を吐きながら立っていた。服はポロポロに破け、顔がまっ黒に汚れている。一〇歳ぐら
いだろうか。
「どうしたの?」
カイルロッドが少年に訊くと、
「どうしたじゃない。あんたこそ、しっかりしろよ。家や家族を失ったのは、みんな同じ
なんだからさ」
突き離すような口調で、椀を突き出す。無理やり渡され、カイルロッドは少し笑った。
..ト・.
どうやら、マセッサの人間と間違えられているようだ。
「もう大人なんだから、いつまでも泣いてるんじゃないよ」
とが             がまん
少年はUを尖らせた。「おれだって泣きたいのを我慢しているんだぞ」、少年の表情がそ
う語っている。あの騒ぎで家と家族を失ったのだろう。
うれ
「嬉しいんだけど、これを食べてしまったら、君が困るだろうフ」
カイルロッドが椀を返そうとすると、
「いいんだ。おれはまたもらってくるからさ。それはあんたが食べなよ」
怒ったように言い捨て、少年は走って行ってしまった。
「君−」
カイルロッドは立ち上がったが、少年の姿はすぐに見えなくなってしまった。両手で椀
を持ったまま、カイルロッドはしばらく立ちつくしていた。
あの少年がどうして食物をくれたのか、カイルロッドにはわからない。他人に与えるほ
どの食料があるとは思えないのに。あまりに無気力な姿に同情したのか、ほんの気まぐれ
か。
カイルロッドは岩の上に腰をおろした。
愁いは花園の中に
あたた
椀の中はあ。ふれたスープだ。それでも持っている椀は温かい。
ゆげ    な
湯気が顔を撫でた。
涙が出てきた。
あふ
とめどもなく涙が溢れた。
まひ
カイルロッドは泣きながらスープを食べた。麻痺していた心が動き出した。
「帰らなくては」
カイルロッドはイルダーナフとミランシャの顔を思いうかべた。あの二人はきっと待っ
ている、ザーダックの家でカイルロッドの帰。を待っているはずだ。
「帰らなくちゃ」
カイルロッドは立ち上がった。まだ旅の途中なのだ。ムルトを倒し、石にされたルナン
の人々を元通りにしなくてはならない。
すわ          しつた           こわ
疲れて座。こみそうになる自分を叱咤しながら、カイルロッドは壊れた街を歩いた。
がれき
一面の瓦礫。
はいきよ
廃墟の中を人が影のように動いている。どこからか子供の泣き声がして、カイルロッド
は耳をふさいだ。
足早に瓦礫の中を歩いていると、大勢の人々がゾロゾロと列を作っていた。
「なにかあるのかフ」
にお
その先に目を向けると、人だかりができていた。好奇心で足を向けると、美味そうな匂
びこう                       にお
いが鼻孔をくすぐった。さっき、少年からもらったスープの匂いだ。
人々は廃墟の一角に群がっていた。
あわ                  1.ノがにん
そこには荷馬車が並び、慌ただしく人が行き来している。よく見ると怪我人を収容し、
ひま
治療しているらしい。医者とおぼしき人間が数人、休む暇なく手当てしている。
なべ
少し離れた場所には大きな鍋がいくつも火にかけられ、集まった人々にスープを配って
いた。家を失った人々への配給だ。
そうした人々の中に、カイルロッドは見知った顔を見つけた。
「あれは」
いつしよ
スープを配っている女 −エル・トパックと一緒にいた黒い肌の美女、ティファだ。が、
カイルロッドは彼女の名前を知らない。
「どうしてここで、人々に食物をわけ与えているんだ?」
けげん    ぎようし
怪訝に思って凝視していると、ティファと目が合ってしまった。ティファはすぐにカイ
ルロッドに気がついた。そしてつかつかとやって来て、
愁いは花園の中に
207
ち.JTフど
「丁度いい。人手が足。なくて困っているのだ」
つか   ごういん
カイルロッドの腕を掴むと、強引に鍋の前に引っ張って行った。
「あの、俺…⊥
「やかましい! 口を動かす前に手を動かせー」
「・…はい」
てつだ
ティファの迫力に負け、カイルロッドは言われるまま配給の手伝いをしていた。
むら
着のみ着のままの人々が群がる。一椀のスープに生命をつなごうと、手を伸ばす。
いそが                     すわ
目が回るような忙しい時間が過ぎ、やっと一段落したカイルロッドが下に座。こんで休
んでいると、ティファがやって来た。
「ご苦労だったな」
上から見下ろし、微笑する。
「あの、エル・トパックと一緒にいた…ニ」
人使いの荒さと口調がイルダーナフを連想させる女性だと思いながら、カイルロッドは
ティファを見上げた。
「ティファだ」
愛想というものが欠落している声で名乗った。
「どうしてあんたがここにいるんだ?」
「それはこっちも訊きたい。連れはどうしたフ・」
ごうhソゆミノ
「これから合流するつもりなんだ」
「なるほど。・・ところで、あの子供はどうした?」
出し抜けに訊かれ、カイルロッドは一瞬だが口ごもった。
やみ かえ
「…・・俺が闇に還した」
くず
ティファは崩れかけた壁に手をつき、
「・…Iそうか。好きな人に殺してもらえたなら、幸せだろう」
優しい目をした。
「そういうものなのかな」
つぷや                  はほえ
よくわからないと呟くと、ティファは子供でも見るように、微笑んでカイルロッドを見
下ろした。
「子供でも女だからな」
つや
カイルロッドにはよくわからなかったが、年上の女性の艶っぽい笑みに気恥ずかしさを
感じて黙った。
「しかし、いいのかな。敵と話しこんで」
愁いは花園の中に
ぶつちよよノづち       ぷあいそう
顔をそむけてカイルロッドが一亨っと、もう仏頂面に戻ったティファが無愛想に答えた。
たたか
「もっともな意見だが、今は休戦中だ。ここで闘う気になれるか?」
人々に視線を向けながら、ティファが言う。なるほど、とカイルロッドは患った。
衝は破壊され、瓦礫しかない。しかし、その中で人々は働いている。生きるために。街
を再建し、再び生活するために。
人の歴史の中で、幾度となく操。返されてきた光景ではないか。
災害や戦争で踏みにじられても、人々はその中から立ち上がる。また壊されても、また
立ち上がる。
生命とはそういうものかもしれない。
よヽつす
一時しのぎだが、雨風をしのぐ小屋を建てている様子を見ながら、カイルロッドはティ
ファに視線を戻した。
だいしんでん
「これらはフエルハーン大神殿からの援助物資なのか?」
「表向きはな。しかし、これはトパック様の個人的なつてと金で集めた物だ。わたしはト
ちようたつ
パック様の命令で、近くの街に食料などの調達に行っていた」
たんたん
カイルロッドの質問に、ティファは淡々と答えた。ザーダックの家を焼いた後、エル・
l°ノさ
トパックはティファに、近くの街や神殿に援助を求めてくるよう命じた。そして今朝、救
援物資を持って来たのだと言う。
二晩でよく調達できたな」
積んである物資を横目で見ながらカイルロッドが感心すると、
あつ
「あの方は顔が広く、信頼も篤いのでな」
ティファは誇らし気だった。個人が一晩でこれだけの物を調達するのだ、財力と信用は
相当なものである。どうやらエル・トバックという青年は、単純な監視者ではなく、神殿
の内外に顔の利く人物らしい。
「でも、そんなふうには見えない。あの人は不思議な人だな」
か                 せきわん
前髪を掻き上げ、カイルロッドは苦笑した。隻腕の青年がフェルハーン大神殿の人間で、
くせもの        なぜ
しかもかなり曲者らしいと知っても、何故か敵意を感じない。
「ここにいるのフ」
たぼう
「おられぬ。多忙な方ゆえ、この地を離れられたことだろう」
いないと聞いて、カイルロッドは少し残念だった。いずれエル・トパックとゆっくりと
謡をしてみたいと思った。
「俺もあまりゆっくりしていられないんだ。連れが待っている」
はこり
境を払って立ち上がったカイルロッドに、
愁いは花国の中に
かノ、ご
「次に会う時は休戦中ではないぞ、カイルロッド王子。覚悟しておけ。それと連れの男、
イルダーナフに言っておけ。いつか必ずきさまを倒してやるとな」
さつそよノ
ティファが鋭い口調で言い、そのまま背中を見せて去って行った。諷爽という言葉がよ
にあ
く似合う。
「帰らなくちゃな。きっと、二人が待っている」
ティファとは反対側に、カイルロッドは足を踏み出した。
ほいきよ
廃墟を去って行くカイルロッドを、エル・トパックは山積みされた荷物の陰から見てい
た。
「トパック様、いらっしゃったのですか」
ティファが青年を見つけ、驚いた顔をした。カイルロッドにも言ったように、エル・ト
パックはいないものと思っていたのである。
「カイルロッド王子のことが気になったものでね」
エル・トパックは小さく笑い、一層をすくめた。
「パメラのことでしたら、あの王子が」
「そのようだね」
きんかつしよノ、
金褐色の目が、遠ざかるカイルロッドの後ろ姿を映していた。
ばか
「甘いが馬鹿ではない、か」
呟いた声に、楽しそうな響きを聞きとり、ティファは不思議そうにエル・トパックを見
た。
「ティファ、ご苦労だが、すぐにフエルハーン大神殿まで行ってもらえないかフ」
カイルロッドの姿が見えなくなると、エル・トパックはゆっくり振り返った。ティファ
おだ            さぎなみ
に向けられた穏やかな顔に、複雑な感情が小波のようにたった。
「わかりました」
「神官長に、カイルロッド王子は自分の力に目覚めました、そう伝えて下さい」
ゆが
伝言を聞いて、ティファが美しい顔を歪めた。
「……伝えてよろしいのですか」
「仕事だからね」
「またアクティス・レヴィが狂喜しますね」
吐き捨てるようにティファ。神官長を喜ばせたくないというのが、顔と声にありありと
出ている。
そんな部下を苦笑混じりに見やり、
愁いは花園の中に
「これからが問題だ。カイルロッド王子は自分の力を、ほんの一部にすぎないが……。使
えると知ってしまったからね」
どくはく
揺れる右袖をおさえ、エル・トパックは独白した。
3
焼け野原だった。
家も花畑もなくなっている。
めんどう
「ザーダックの研究が残っていると面倒なことになるので、すべて燃やした」
さぴ
そうティファに聞いていたとはいえ、カイルロッドは少し淋しい気がした。
家も花畑もなく、ザーダックやパメラの死体もない。なにもないのだ。初めからなかっ
たとでも言うように。
まぽろし
ザーダックもパメラも、幻だったのではないか ー カイルロッドは自分の両手を見た。
からだ
幻などではない、確かにいたのだ。この腕の中でパメラの小さな身体が冷たくなっていき、
溶けてしまったことを覚えている。
「忘れないよ、ハム」
記憶をその手に掟。しめるように、カイルロッドは両手を握った。
焼け野原に近づいて行くと、
おゼ
「遅えじゃねぇか、王子。待ちくたびれちまったぜ」
ずじよう
カイルロッドの頭上から明るい声がした。驚いて見上げると、木の枝の上にイルダーナ
みき
フがいた。幹にもたれかかって、枝の上に足を伸ばしてくつろいでいるのだが、その姿は
にノ、しよノ、じ0よノ
猫科の大型肉食獣が昼寝でもしているようだった。
「イルダーナフー」
うれ      ぷつそう
久しぶりに会うような気がして、カイルロッドは嬉しくなった。物騒で油断のならない
もヂか
男だが、脾いになるのはひどく難しい。
「やっぱり、ここにいたんだ」
「昨夜からな」
たいく lこあ
枝を蹴り、イルダーナフは音もなくカイルロッドの前に着地した。その体躯に似合わぬ
身軽さである。
しまつ
「その様子だと、始末をつけたようだな」
「ああ」
よノなヂ
カイルロッドは領いた。
「そうか」
愁いは花園の中に
215
つぶや
黒髪の大男は両手の境をはたきながら短く呟き、それ以上はパメラのことに触れようと
しなかった。
「まあ、おまえさんにゃ、色々と訊きたいこしLがあるんでな。あそこで聞かせてもらおう
か」
たた          あご さ      たきぴ あと
カイルロッドの肩を叩き、焼け野原の中心を顎で指した。そこに焚火の跡がある。
「ずっと待っていてくれたんだな」
嬉しくなった反面、戻って来るのが遅くなって、すまない気持ちになった。カイルロッ
ドはイルダーナフになにか言いたかったが、言葉にならなかった。
にぎ
焚火のあった場所の前に座。、カイルロッドは賑やかな少女の姿がないことに気がつい
た。
「ミランシャはフ」
ノ、わ
「森の中で木の実を採っている。詳しいからな」
カイルロッドの向かいに、どっかりとイルダーナフが腰をおろす。
「話したくないことは話さなくていいが、あれからどうした?」
うなが                できごと     すいよう
さっそく促され、カイルロッドは昨夜からの出来事を話した。水妖に襲われ、それを倒
やみ かえ
したこと、パメラを闇に還したこと、それからマセッサの街に行き、ティファに会ったこ
となど。
イルダーナフに話しながら、カイルロッドは改めて色々なことがあったと思った。
「そうだ。ムルトの居場所がわかったんだ。水妖が言っていたんだけど、タジエナ山脈の
どこかにいるらしい」
重要なことを思い出し、報告すると、
「タジェナ山脈フ」
かし
聞いたことがないという表情で、イルダーナフが首を傾げた。
「知らないのかフ」
「聞いたことがねぇな。本当にそんな山はあるのか?」
逆に質問され、カイルロッドは言葉を失った。水妖が言ったのは確かだが、それが事実
かどうかになると、自信を持って断定できない。
「わからない」
ひらめ
そう言いかけ、カイルロッドはロをつぐんだ。パメラの言葉が閃いた。「知っている」、
パメラは確かにそう言ったのだ。
「あるはずだ。いや、必ずある。そこにムルトはいる」
ひぎ
膝の上で両手を固く組み、カイルロッドは断言した。
愁いは花回の中に
「わかった。そのタジェナ山脈に行こうぜ」
たな           こんきよ
いつもなら自分のことは棚に上げ、「その自信の根拠はなんだ?」と問い詰めるイルダ
ーナフが、すんなりと同意したのは、カイルロッドが思いつめた顔をしていたせいかもし
れない。
カイルロッドの話をイルダーナフはおとなしく聞いていたが、
「どうやって水妖を倒したフ」
とえノとつ
唐突に質問された。
ふノ1ろぺノ
「えーと、白い桑が」
やつ
「ああ。そりゃ、エル・トパックの桑だ。奴の『目』だ」
「『目』フ」
「ああ。奴はその桑で、俺達を監視してやがったんだぜ」
「監視・・・」
あご
カイルロッドは顎に手をあてた。では、時折感じていた視線、
ものだったのだろうか。
「でも、もっと悪意を感じたんだけどな」
つぶや
ぶつぶつ口の中で呟いていると、
一通。話がすむと、
あれはエル・トパックの
「で、白い桑、エル・トパックはなんて言ったっ」
せ          めヂら
よほどそのことに興味があるのか、イルターナフが急かす。この男にしては珍しいこと
だと思いながら、
「ええと、呼吸を整えて、手の平に神経を集中させろって。水妖を倒すと念じながら」
カイルロッドは白い桑に言われたままのことを口にした。すると、イルダーナフはひど
むヂか
く難しい表情になり、なにか考えこむように腕組みした。
「俺……なにかまずいことを言ったのだろうかフ」
みよべノ
イルダーナフに難しい表情をされると、妙に不安をかきたてられる。声をかけたくとも、
Jんいき
とてもそんな雰囲気ではない。日常のイルダーナフは陽気で人なつこいが、むっつり黙り
こわ                         しか
こまれると、恐くて近寄れなくなってしまう。「どうしたんだろうフ」、叱られた子供が親
うかが                    ようす
の顔色を窺うように、カイルロッドがイルダーナフの様子を窺っていると、
やろう
「やっぱりエル・トパックって野郎にゃ、用心が必要だな」
ボソッともらした。
きゆうえんぷつし
「どうしてフ 悪い人じゃないと思うけど。あの人、街に救援物資まで送っているんだ」
カイルロッドが弁護すると、イルターナフは困ったように頭を掻いた。
「雇い人ならいいんだがな」
愁いは花園の中に
じゆうめん
カイルロッドは渋面になった。時々、イルダーナフの言うことがよくわからないことが
ある。
「意味がよくわからないんだけど」
ひめい
解説を求めたカイルロッドの声は、絹を裂くような悲鳴に消された。
「キヤアァァァ!」
女の、ミランシャの悲鳴だった。
森の中から聞こえる。
「すげぇ悲鳴だな。元気なお嬢ちゃんだ」
「なにがあったんだ〜」
すばや
素早くカイルロッドとイルダーナフが立ち上が。、悲鳴のした方向に走った。
すご
すると、正面からもの凄い速さで走って来るミランシャを見つけた。馬と競争しても勝
てるのではないかという走りっぷ。だ。全速力で逃げて来たらしい。
「ミランシャー」
さけ
立ち止まってカイルロッドが叫ぶと、
ぱけもの
「あの化物、まだ生きてるのよ!」
その横を通。抜け、ミランシャはイルダーナフの背中を避難場所にして、逃げこんだ。
「化物フ」
けlァぺ                おもしろ
カイルロッドは怪訝な顔をし、イルダーナフはなにが面白いのかー一ヤこヤ笑っている。
な                  いつしよ
三人が立ち止まっていると、木々を薙ぎ倒すような音がした。それと一緒に重い物が移
動する音が近づいて来る。
「来たわー」
ひきつった声をあげ、ミランシャがイルダーナフの腕にしがみついた。
一瞬、山が動いたのではないかと思った。それほど巨大な影が、木々を押し退けて現わ
れたのだ。
「あの時の‖」
カイルロッドは総毛だった。
街を破壊した、あの化物だった。しかも、首から上がなく、右半身が溶けているのに、
動いている。
「こいつぁ、驚いた。見上げたしぶとさだ」
感心したイルダーナフが口笛を吹いた。
「感心しないでよー てっきりエル・トパックがやっつけたと思ったのにー」
かなき
イルダーナフの背中に隠れたミランシャが金切り声で叫ぶ。一度ならず二度までも復活
愁いは花園の中に
221
おちい
されたとあっては、パニックに陥っても無理はない。
つぶ
化物の腕が動き、三人の上に手の形をした影が落ちた。虫でも潰すように、手の平で三
人を潰そうとしている。
「逃げるんだ!」
カイルロッドはミランシャの手を引いて走った。二人が動くよ。一呼吸早く、イルダー
ナフが動いた。
ちようやく
跳躍し、抜いた長剣で落ちてきた巨大な手を、手首から切断した。恐ろしい力の持ち主
である。
.じゆ▼つ一uよノおお
獣毛に覆われた手が地鳴。をたてて、地面に落ちた。その手の上にイルダーナフが着地
する。
−まうこう                    あば
化物の咤埠に大気が振動した。激痛に身をよじらせ、化物が暴れ出した。
きようぽう
「ますます凶暴になっちゃったじゃないー」
「エル・トパックが倒せなかった化物を、どうやって倒すんだ−フ」
どな              お
逃げまわ。ながら、ミランシャとカイルロッドが怒鳴っていると、化物の手から下りた
さや
イルダーナフは、ふと楽しいことでも思いついたようにニンマリと笑い、長剣を鞠におさ
めた。
「なんだフ」
その様子を目の端にひっかけ、カイルロッドはなんとも不吉な予感をおぼえた。黒髪の
剣士があんな笑い方をする時は、決まってろくでもないことを考えている時だ。
いや
「妹な予感がする」
こわ
カイルロッドには目の前の化物より、イルダーナフの方が恐かった。
たけ             つぷ
猛り狂って暴れる化物に踏み潰されそうになり、カイルロッドが回転して足の下から逃
げた時、
ちようど                   わぎ ひろう
「丁度いい、王子。ここで、水妖を倒したってぇ技を披露してもらおうか」
よノれ
嬉しそうな声がして、反対側にいたイルダーナフに背中をドカッと蹴られた。逃げたは
ずが、カイルロッドは化物が今にも足を下ろそうとしている場所の、真下に転がってしま
った。
「ちょっと、いくらなんでもあんまりじゃないー」
非常識に対する驚きで声も出なくなったカイルロッドの代弁のように、ミランシャが悲
めい どせい
鳴と怒声の中間といった声で叫ぶ。
カイルロッドの上に、巨大な足の裏が落ちてくる。
「わーっ!」
愁いは花園の中に
両手を突き出し、カイルロッドは目を閉じた。
手の平から白銀の光がほとばしった。
それは爆発したように広がり、化物を呑み込んだ。
すさ
凄まじい光だった。
まぷた       がんか
瞼を閉じたのに光は眼謡の奥まで突き刺さり、カイルロッドの視界は白くなった。
それからどれほどの時間がたったか。
強い光が消え、カイルロッドはそっと目を開いた。
光は消え、化物も消えていた。影も形もない。
「  ・・」
ぽうぜん
呆然としているカイルロッドの耳に、拍手がとびこんだ。
すげ
「こ。や凄え」
拍手しているのはイルダーナフだ。
「こんな力があるなんて、知らなかったわ」
顔を紅潮させ、ミランシャが駆け寄って来た。イルダーナフヘの怒。など忘れて、カイ
ルロッドの力に驚いている。
へた   だいじようぷ
「これなら剣がF手でも、大丈夫じゃない。魔法使い並みの力よ」
からだ
「悪いけど、手を貸してくれ。身体が動かないんだ」
のぞ
上から覗きこんでいるミランシャに、地面に転がったまま、カイルロッドが頼んだ。
「イルダーナフだけかと思ったら、王子にも意外な隠し芸があったのね。イルダーナフの
隠し芸より驚いたわ」
じよよノきげん
ミランシャは上機妹で、カイルロッドに手を貸してくれた。
「どうなってるんだフ・」
頭を振りながら立ち上がったとたん、カイルロッドの全身からスーツと血がひいた。貧
血のようだ。
「おっと」
おもしろ
よろめいたカイルロッドを、イルダーナフが支えた。さも両白そうに笑っているが、黒
い目が醒めている。
「たいした力だな。人間ひとつぐらい取り柄があるもんだな。けどよ、あれは体力消耗が
激しいんだぜ。あんまり便わねぇ方がいいんじゃねぇかフ」
「あんたな…使わせておいてその言い種はないだろ」
ひぎ
ぬけぬけと言われ、カイルロッドは反論したが、膝が笑い出してそれどころではなくな
.1 7=
愁いは花園の中に
「肩を貸してやっからよ。まったく情けねぇな」
「…………」
なにも言うまいとカイルロッドは思った。言ったところで、ロでは負けるのだ。
「これも貸しにしとくぜ」
楽しげに言われ、カイルロッドはがっくりうなだれた。
.4
ひばり
雲雀の声が聞こえる。
空は青く、雲ひとつない快晴だ。風もなく、のどかな春の午後だった。
あぜみち
荷馬車がかろうじて通れるぐらいの細い畔道を、カイルロッド達三人は歩いていた。道
じゆうたん
の左右には緑の絨毯が広がっている。
「いい天気ね」
ミランシャが歩きながとlT大きく深呼吸した。
おもしろ
「男に肩を貸すなんて、面白くもなんともねぇや」
イルダーナフがぼやき、肩を借。ているカイルロッドは「俺だって同じだよ」と腹の中
うな
で唸った。おまけに肩を借。ているとは形ばか。で、実際には引きずられているのだ、荷
物のように。
「人間扱いしてくれよ」
みけん しわ
文句と注文は山ほどあるが、カイルロッドは眉間に敏を寄せ、黙って耐えていた。
一行はマセッサを北に向かっていた。
「ムルトはタジェナ山脈のどこかにいる」
・1・一′
カイルロッドの言葉に二人ともとりあえず額いてくれたが、聞いたこともない山脈に不
い一だ
安めいたものを抱いているのは確かだ。
「ところで、王子」
前を歩いているミランシャがクルッと後ろを向き、やや真顔になった。なにを言うかと
カイルロッドが少し緊張すると、
「ああいう力は、あまり使わない方がいいと思うわ。使うたびに貧血起こされちゃかなわ
ないもの」
弟にでも注意するような口調だった。
「だいたい、ああいうのは一流の魔法使いにしかできないことなのに。王子って、ひょっ
として魔法使いの素質があるんじゃないフ 隠れた才能ってやっかもよ、きっと。どんな
人間でもなにかしら取り柄があるって本当だったのねぇ。絶体絶命の時は助けてもらうわ
愁いは花園の中に
227
よ」
そのまま、後ろ向きで歩いている。
「身の危険でも起きない限。、絶対に使うもんか」
つごう
やたらと都合のいいことばかりを並べられ、カイルロッドは口を思いっき。ひん曲げた。
使った後にツケが回ってくるような力、誰が好きで使うというのだろう。
おれ
「でも、あんなことができるなんて、俺も今まで知らなかった。少しは自分の身を守れる
だろう。エル・トパックのおかげかな」
あんど
疎ましいと思う反面、身を守る武器ができたとあって、カイルロッドは少し安堵してい
Lrけもの      たやす
た。この力のことを知っていれば、襲ってきた化物を倒すことも容易かっただろう。
「もっと早く知っていれば、マセッサは少しは変わっていただろうな」
マセッサばか。ではない。ルナンも、これまでにあった人々の未来も、いくぷんは変わ
っていたかもしれない。
つぶや     ひじてつ
しみじみとカイルロッドが呟くと、横から肘鉄がきた。
ねぼ             Lfかやろう かげん
「なぁに寝呆けたことをぬかしてやがる。この馬鹿野郎が。加減もできねぇくせに、偉そ
うなことをぬかすんじゃねぇ。いい気になってあんなもん、むやみに使ってみろ。そのう
ち死んじまうのがオチだぜ」
「だからってなにもどつかなくたって」
イルダーナフの肘鉄をまともにうけ、カイルロッドは目に涙を浮かべていた。加減して
いるのだろうが、これがまた痛いのだ。
むじやき                      だいしん
「王子、おまえさん、無邪気に喜んているようだがな。その力とやらをフエルハーン大神
でん   かたき
殿は目の敵にしてやがるんだぜ。見せびらかして、刺激するんじゃねぇ」
うな      うむ
カイルロッドが痛みに唸っていると、有無を言わせぬ厳しい声で注意された。見上げる
ただよ
と、イルダーナフの横顔は厳しいものを漂わせていた。
カイルロッドは自分の手を見つめながら、
「そんなに使わないようにする」
イルダーナフにというより、自分自身に約束した。イルダーナフは黙っていた。
黙って、三人は畔道を歩いていた。
「この力って、父親譲りなんだろうな」
じゆうたんなが        あきら
緑の絨毯を眺めながら、ふと諦めに似た気持ちでカイルロッドは思った。おそらく、ダ
ヤン・イフエとサイードはカイルロッドの力を知っていたのではないか。だから、あれほ
た.ぐ
どまでに魔法の類いに近付けないようにしていたのだ。
じんじよ・フ
生い立ちだけでも尋常でないのに、こんな力まであるとなっては、笑いごとではすまな
愁し−は花園の中に
くなる。化物と恐れられるよ。、卵王子と笑われている方がはるかにましだと、そう判断
したのではないか。
「イルダーナフ、俺のこの力は諸刃の剣なのかな」
「だろうな。強い力は、周。に強い影響を与えるからな。良くも悪くもな」
ひぎ
降り注ぐ陽射しを片手で防ぎながら、イルダーナフは意味あ。げなことを言った。
「気をつけるこったな」
つぷや
イルダーナフの呟きが、カイルロッドの胸の中にしこりのように残った。
「あ、避けて。後ろから荷馬車が来るわ」
後ろ向きで歩いているミランシャが、カイルロッドとイルダーナフに注意した。後ろか
らガタガタと車輪の音が追ってきた。
わら
振。返って薬を積んでいる荷馬車を見、イルダーナフが「こいつぁ、ついてるぜ。乗せ
てもらおう」と、カイルロッドを捨てて、交渉に行ってしまった。
「くそっ、人を荷物みたいに投げ出すなー」
すわ            どな
畔道に座。こんで、カイルロッドは怒鳴った。横に立ったミランシャが矧に手をあて、
おうこうきぞく
「これが王子の姿なのかしら。ああ、エル・トパックの方がよっぽど王侯貴族に見えるわ。
かんろく
気品はあるし、それとなく人の上にたつ貫禄もあるものね」
わざとらしいため息をついた。
おとめ       こわ
「乙女の夢とやらを壊して悪かったね」
「漂いわよ」
つよき
強気に出たカイルロッドだが、ミランシャの方がもっと強気だった。言い返す言葉が見
つからず黙っていると、
「おーい、二人ともこっちに来い。乗せてくれるってよ」
交渉を成立させたイルダーナフが手招きした。
ガタガタと荷台が括れている。
カイルロッド達は途中まで荷馬車に乗せてもらうことになった。
「これでもう少し揺れなければいいのに」
と、ミランシャ。
ぜいたく
「贅沢はいけねぇよ、お嬢ちゃん」
前に座っているイルダーナフが笑う。
「藁が気持ちいいな。眠くなってきた」
寄りかかってカイルロッドが笑うと、横のミランシャが意外そうな目をした。
愁いは花園の中に
231
「馬になった時、薬で寝てるんでしょフ 人間になってまで粟が恋しいのヱ
「いいじゃないか、別にー」
からだ           どな
身体を起こしてカイルロッドが怒鳴ると、前から笑い声がした。や。と。を聞いていた
イルダーナフが大声で笑っている。
「勝手に笑ってろ」
ひ       にお
ふてくされて、カイルロッドは藁に勢いよく寄。かかった。たっぶ。陽をすった藁の匂
いを嗅ぎながら、カイルロッドはと。とめのないことを考えていた。
別行動をしていた問のことは、ほとんど隠さずイルダーナフに話していたが、黙ってい
たことがある。
のろ
「おまえは化物、魔物などよ。呪われた、忌むべき存在だ」
ザーダックに投げつけられたあの言葉、そして、彼が母フィリオリを知っていたという
こと。
だー、しんでん
「母はフエルハーン大神殿に関係があったのではないか」
しんかん            ばくぜん
ザーダックが元神官だったと聞いたせいだろうか、漠然とだが、カイルロッドはそんな
ふうに思い始めていた。
つい
もしも、フィリオリがフエルハーン大神殿に関係していたとすれば、神殿のしっこい追
せき              すいそく
跡もわかる。もっとも、すべては推測であり、真実はまだわからない。
なぞ
なにもかもが謎に包まれている。
1、′−−
真実の自分の姿を探せ ー。
あぎ  よみがえ
石になったルナンを出る夜、吸血鬼に言われた言葉が鮮やかに造った。
ガタガタ。
荷馬車は揺れながら、畔道を進んで行く。
じゆうたん
カイルロッドはぼんやりと道の横を見ていた。ふいに緑の絨毯から、金色へと変わり、
ミランシャが身を乗り出した。
きれい
「綺麗な花畑ね」
カイルロッドも起きて、花畑を見た。
黄色い花が一面に咲き、それが陽の光を浴びて金色に輝いている。
「ハムの髪の色だ」
つぷや
まばゆさに目を細めながら、カイルロッドは呟いた。ミランシャは聞こえないふりをし
ていた。
あの家は花畑の真ん中に建っていた。そこには花の好きな少女がいた。
めぐ
もう家も花もなくなり、少女もいなくなってしまったけれど、季節が巡り春がきて、大
地に花が咲くたびにカイルロッドは思い出すだろう。
わずか数日だけの友人だった少女を。
そば
死んだら、好きな人の俳にいて守ってあげると笑った少女。
「イルダーナフ。言い忘れていたんだが、タジエナ山脈っていうのは、見える人にしか見
えないそうだ」
花畑を見つめながら言うと、
さが   やつかい
「そいつぁ、いよいよ探すのが厄介だ」
ひたい
厄介が待ち遠しいという声が戻ってきた。槙のミランシャは額に指をたて、頭を振って
い・..d
「俺は見つけるよ、必ず」
カイルロッドは破顔した。
ゼんと たなん
フエルハーン大神殿、そして少しずつ動き出したムルトと魔物達 − 前途は多難だ。
「しかし、この先、どんなことがあろうと俺は耐えられるだろう」、カイルロッドは自分の
両手を見た。
ぬく
少女の小さな手の温もりを。
わん
名も知らぬ少年の与えてくれた椀の温かさを。
235 愁いは花園の中に
限。ない優しさをこの手が覚えている。
「忘れないよ」
両手を握。しめ、カイルロッドは空を見上げた。
ひばり
青い空を雲雀が横切って飛んで行った。
あとがき
ど,フも。
卵王子の三巻です。(う1ん、順調すぎて恐い・ )
さて − 。
他社からの物も含めて、この本は私にとって一〇冊日の本になります。(と、妹に言わ
れ、数えてみたらそのとおりだった)
「気がついたら短期間にドカドカと本が出ていて、どれが何冊目だかわからなくなっちゃ
ったんだよね」
と言ったら、
「自分の本の冊数もわからないのフ」
あき                            ふたけた
妹に呆れられてしまいました。(返す言葉がない ・。しかし二桁とはめでたい、めで
たい)
ありがたいことに、最近、いただく手紙が増えました。同人誌も来ます。(全部読んで
ます)
よノれ
感想の手紙は嬉しいんですが ー 色紙や文庫カバー等は送らないでください。(来た時
は驚いたなぁ)
サインぐらい簡単にできると思うでしょうが、一人を許したら、他の人もやらなくちゃ
不公平になってしまうので。(気持ちはわかるんだけどね・・)
近況ですが。(珍しく書いているのは、話題があるからだった)
かよ
仕事場を借りました。自宅から徒歩で一〇分とかからない近所なので、散歩がてらに通
ってます。
ワンルームの純然たる 「仕事場」 ですが、その話を友人Kにしたところ、
すご                      ひぴ
「凄い、凄い、凄いー いいなぁー その仕事場って響きがいいt」
などと言っていました。(そういうもんだろうか。でもね、仕事場っていうのは、別名
ろうごく
「牢獄」 とも言うのだよ・・。締切前はきっと、おこもりしていることだろう)
「仕事場に」
と、近所の方に立派なユッカエレファンティペス (青年の樹ともいう) をいただきまし
た。(私が観葉植物を好きだというのでくださったのである)
で、それを仕事場に持っていきました。
この仕事場、陽当たりがいいんです。植物を置くにはいい環境・・。ああ、誘惑の声が
聞こえてくる 。
おそらく近いうちに、この部犀は本と植物で埋まることでしょう。(どっちも好きなん
です)
最後になりましたが1
イラストを描いていただいている田中久仁彦氏に御礼申し上げます。(本になったイラ
ストを見るのが楽しみなんですよ、私)
というわけで次巻もよろしく!
冴木 忍 拝
S
富士見ファンタジア文庫
く卵王子〉カイルロッドの苦難B
うれ  はなぞの なか
愁いは花園の中に
平成5年4月門口 初版発行
著者−芳美憲
発行者−佐藤吉之輔
発行所−富士見書房
〒102東京都千代田区富士見1
電話 V(3261)m(代表)
振替 東京7−86044
印刷所−旭印刷
製本所−多摩文庫
落丁乱丁本はおとりかえいたします
定価はカバーに明記してあります
19男Fujmishob,Pmted hJapan
ISBN4−8291−2492−]CO193
◎1993Shinobu Saekh Kunihko Tanaka