く卵王子〉カイルロッドの苦難(彰
旅立ちは突然に
147
冴木 忍
S
富士見ファンタジア文庫
32−3
口絵・本文イラスト 田中久仁彦
目 次
プロローグ
一章 春宵一刻
二章 屋の数はどの…‥
三尊 空に嵐の気配
四章 夢より遠く
五章 来訪者
旅立ちは突然に
プロローグ
春のやわらかな日射Lがバルコニーに射しこむ。広いバルコニーには様々な鉢が所狭し
と並べられ、緑が生い茂。、ちょっとした植物国のようだ。日射Lを受けて新緑が美しく
輝いている。
「いい天気だ」
手摺。から身を乗り出し、青年が目を細めた。バルコニーからは周囲の風景が展望でき
る。白く反射している城壁、その彼方には連なる岩山と青い空、反対側には荒野、そして
眼下には豊かな水量をたたえ、この都の人々の生活を支えている湖がある。
いつもと変わらぬ風景があった。
微笑んだ青年の髪が、春の匂いを運んだ風に揺れた。衿と袖に金糸の刺繍の施された黒
い短衣とズボンを身につけた長身の青年で、歳は一八、九。肌は褐色、瞳の色は青。それ
だけでも人目をひくには充分だが、腰まである長い髪は白銀色で、こめかみに色違いの赤
い髪が一房混じっている。整った顔立ちは美貌と言っていい。一目見ればまず忘れられな
い容貌の持ち主だ。
微笑みをうかべたまま、青年 − カイルロッドは大小様々な鉢植えの間を歩き、
「少し刈りこんでおくか」
黒松の鉢を取って、そのまま部屋に入った。広い部屋はサンルームになっていて、そこ
にもやはり植物の鉢が並んでいる。ただ、バルコニーにある生い茂った植物と遠い、ここ
にあるのはどれも形よく刈りこまれ、こぢんまりとしている。
カイルロッドは床に座りこみ、ハサミを取り出した。そして、バルコニーから持ってき
た果松を少しずつ刈って形を整えていく。
「盆栽は心が和むなぁ」
天気のいい目にサンルームでのんびり盆栽の手入れをする、それがカイルロッドの楽し
みだった。
鼻歌とパチンパチンというハサミの音が響く中、扉が開き、人影が滑りこんだ。人影は
しばらく青年の後ろ姿を眺めていたが、
「我が息子ながら、なんてじじむさい奴」
大きなため息をついた。カイルロッドは一瞬、ハサミを止めたが、すぐに作業を開始し
旅立ちは突然に。
「いい若者の趣味が盆栽いじ。なんて。ああ、じじむさい」
ため息混じ。のわざとらしい声に、ムッとしてカイルロッドは振り向きかけたが、自制
してやめた。「ここで構うと、つけあがるだけだ」と自分に言いきかせ、聞こえないふり
をして盆栽の刈。こみを続けていると、
「これ、息子や」
扉の前にいる中年の小男が猫撫で声を出した。カイルロッドは知らん顔している。
「父が呼んでいるのに返事もしてくれないのか。重大な謡があるのに」
「…」
憐れっぽい声に、カイルロッドは渋面になった。
「ああ、男手ひとつで苦労してl八歳まで育てて、こんな意地悪な男に育ってしまったとは。
亡き秦に申し訳がたたない。忘れもしない一八年前、妻は私にくれぐれも子供を頼む
と言い残し、天に召されてしまったのだ。ああ、フィリオリ、愛する妻よ。ふがいない夫
を許しておくれ。私の教育が悪いばかりに、息子がこんな冷たい人間に育ってしまった。
息子には私の愛情が通じ・・」
「やかましいっ」
ここまでがカイルロッドの限界だった。
「四〇過ぎのおっさんの泣き言なんか聞きたくありません! さっさと用件を言って下さ
いー」
眉間に紋を寄せて怒鳴ると、
「フィリオリ、息子が私をいじめる!」
大袈裟によろめいて、泣きだした。勿論、泣き真似なのだが、これがまた延々と続くの
である。
「これが一国の王か  」
閉め出された猫みたいに、いじけて扉をカリカリとひっかいている父を見ながら、カイ
ルロッドは岬いた。
嘘泣きしている男はサイード。カイルロッドの父親で、城壁都市ルナンの王である。l
見すると風采のあがらない小男だ。黒っぽい髪と濃紺色の昌をした瓢々とした中年で、歳
よりやや老けて見えるが、四〇歳を少し出たばかりだった。王者の威厳だの風格といった
ものは微塵も感じられない。しかし、人間は外見ではないという言葉の生きた見本で、な
めてかかった国内外の野心家達は、ことごとく煮え湯を飲まされた。
「ルナンの曲者」
旅立ちは突然に
そう畏怖されるサイード王だが、息子の目から見ると、泣き真似している父と「ルナン
の曲者」 が同一人物とは思えないのである。
飽きることなく泣き真似している父親を見下ろし、カイルロッドはため息をついた。こ
ういう場合、カイルロッドが根負けするのが常だった。
「わか。ました、俺が震うございました。で、父上、重大な用とはなんです?」
「うん。暇なんでチェスの相手をしてくれ」
ケロッとして顔を上げたサイードに、カイルロッドはこめかみに青筋をたてた。
「父上は暇かもしれませんが、俺は暇じゃありませんっー」
「盆栽いじくってるだけじゃないか」
「盆栽は芸術ですー」
非難がましい口調のサイードに、きっば。とカイルロッドは言った。
「む、息子が遊んでくれない。父は悲しい・。フィリオリ、カイルロッドが私に冷たい
のだよ」
「俺の盆栽に話しかけないで下さいっtL
サイードの手からナナカマドの盆栽をひったくって、カイルロッドが唸った。
「とにかく、俺は盆栽の手入れをしているんですから、邪魔しないで下さい」
「フィリオリ、息子がいじめる・」
「俺の楓に、母上の名前をつけないで下さいよーそんなに寂しいなら再婚でもしたらど
うですか」
楓の鉢を奪い取り、カイルロッドは低く吐き捨てた。サイードの妻フィリオリは一八年
前、カイルロッドを出産した際に死亡している。サイードは一八歳の若さでこの世を去っ
た妻を忘れられず、周囲がどれほどすすめても再婚しょうとしなかった。
息子の発言にサイードは少し真顔になり、「再婚か」と呟いた。それからボンとひとつ
手を打ち、
「おまえが無事に結婚できたら、私も再婚を考えよう」
満面の笑みで言った。カイルロッドの頬が一瞬ひきつった。
「王子で美男子で、背も高くて、性格も温厚なのに、どうして女の子にもてないんだろう
ね、おまえは。やっぱり生い立ちが問題なのかなぁ。まぁ、盆栽が趣味というのも敬遠さ
れる原因だろうけど」
しみじみとした口調で言われ、カイルロッドは返す言葉を失った。この若い王子は派手
な外見と、尋常でない生い立ちで、国内外を問わず有名であった。過去にあった縁談のこ
とごとくが、「尋常でない生い立ち」 ゆえに破談になっている。
旅立ちは突然に
「来年、俺は結婚します1 そしたら、父上も再婚を考えて下さいよー」
やっと決まった婚約者のアナベルの顔を思いうかべ、カイルロッドは葺言した。来年の
春に結婚の予定である。美人ではないが、知的でおとなしい娘だ。嫌な顔もせず盆栽の謡
を聞いてくれた唯一の娘で、カイルロッドはこの話に乗。気である。
「そうだ。後でアナベルのところへ行ってみよう」
カイルロッドが機嫌よく自慢のケヤキにハサミを入れていると、廊下から地場。と獣の
鴫噂のような音が聞こえた。
「あれはダヤン・イフェだな」
サイードが片方の眉だけを動かした。よく聞くと地場。は靴音、獣の鳴噂は人の声であ
った。それが次第に近づいて来る。
「どうも嫌な予感がするな」
カイルロッドは陰鬱な顔で、手を止めた。ああいう地鳴りのような音をたててダヤン・
イフエが城にの。こんで来る場合、大抵がろくでもない場合なのだ。
「王−」
扉が開いて、大男が飛びこんできた。剃。上がった頭、精悼な顔にはいくつもの刀傷が
、それまでの生き方を証明しているようだ。大男は部屋の中に二人を見つけると、一
度大きく深呼吸した。
「王子、大変ですぞー」
「もう少し小さい声でしゃべってくれ」
片耳をおさえ、カイルロッドは顔をしかめた。とにかく声が大きい。いや、声だけでは
なく、身体も態度も大きいときている。
この筋骨蓮しい大男はカイルロッドの教育係で、ダヤン・イフェという。今年で五五歳
になるが、言動やたるみのない肉体からも一〇歳は若く見える。剣や体術にかけては右に
出る者なしという男なのだが、本職は神官、聖職者なのだ。しかし、神殿で説教する姿を
見た者はなく、街中で喧嘩の仲裁や乱暴者をこらしめている姿ばかり目撃されているので、
市民はダヤン・イフ工を「闘う神官」と呼んでいる。
「で、なにが大変なのだ?」
サイードが真上を見るようにして、ダヤン・イフェを見上げた。並みはずれた巨漢と小
男である。「会話すると互いに首が痛いな」、サイードが苦笑した。
「まことに申しあげにくいのですが」
巨体をすくめ、ダヤン・イフェがチラリとカイルロッドを横目で見た。ダヤン・イフエ
の様子に、サイードが口をへの字にした。
「それは俺に関係あることなのか」
不吉な予感をおぼえながらカイルロッドが問うと、ダヤン・イフエは大きく肯いた。
「カイルロッド王子の婚約者であるアナベル様が昨夜、下男と駈け落ちしたそうです」
「あーらら」
サイードが片手で顔をおさえ、天井を仰いだ。
バッチン。
なにか問い物を切り落とすハサミの音が、いやに大きく室内に響いた。
「俺のケヤキが」
一呼吸おいて、カイルロッドの悲鳴が城内に響きわたった。
春宵一刻
青く晴れわたっていた空に燃える色の雲がたなびき、ゆっくりと夜が腕を広げ始める頃
ー カイルロッドは二重の苦悩に押し潰され、自室のベッドに倒れこんでいた。
「一度に婚約者と盆栽を失うとは・・」
駈け落ちされたと聞いて、動揺したカイルロッドは大切にしているケヤキの枝を切り落
としてしまったのである。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
「他に好きな男がいるなら、愚初から言ってくれればよかったのに ・」
逃げた婚約者の顔を思い浮かべながら、カイルロッドはぼやいた。
昼過ぎ、サイードの呼び出しで、死人のような顔色をしたアナベルの両親が城にやって
来た。しばらくは娘の駈け落ちを隠しておくつもりだったらしいが、呼び出されてすっか
り観念した様子だった。
旅立ちは突然に
額を床にこす。つけて謝罪する夫婦に、答める口調ではなく、サイードが原因について
尋ねると、駈け落ちした二人は以前から相思相愛だったことが判明した。さらに、そのこ
とを知。つつ、身分違いを理由に二人を引き裂き、娘の意志などお構いなしで王子との婚
約を成立させてしまったという告白に、カイルロッドは軽い目眩を感じ、ダヤン・イフ工
は烈火のごとく怒った。
「それでは駈け落ちして当然だー」
闘う神官が説教を始めた。城内にいるすべての人間に聞こえそうな大声に、サイードは
耳をふさいでいたが、
「どうするね、息子や。二人を連れ戻すかねフ」
思い出したように、カイルロッドに問いかけた。カイルロッドは一瞬口ごもった。が、
すぐに頭を横に振った。
「そんなことは無意味です」
アナベルを気に入っていただけに、駈け落ちされてショックだったが、相思相愛だった
のなら無理もない。そんな二人を探し出して無理やり連れ戻すなど、賛成できなかった。
「息子もいいと言っている。二人のことは放っておきなさい」
サイードは夫婦にそう言い、答めなかった。夫婦はその後も延々とダヤン・イフ工に説
教され、カイルロッドは重い足取りで自室に戻った。かくして、カイルロッドの結婚式と
サイードの再婚は、塵気横のようにたち消えてしまったのである。
「このままじゃ、一生独身だ」
それでも少しは立ち直ったのか、のそりと顔を上げ、カイルロッドはベッドの上で仰向
けになった。天蓋もない、ごくありふれたベッドである。父のサイードがそうであるよう
に、カイルロッドも華美豪著を好むタイプではなく、身のまわりの物もきわめて質素だ。
カイルロッドは天井の模様を眺めながら、
「最初はノイローゼ、次は自殺未遂、三人目は駈け落ち・ 」
指折り数え、ひどく虚しい気分になった。これまで三人の娘と婚約したが、いずれも破
棄された原因はすべてカイルロッドの生い立ちにある。
こればかりは俺のせいじゃないのに、胸中でそう呟き、カイルロッドは起き上がった。
「腹減ったな」
悩んでいても腹は減る。昼前に軽くつまんだだけで、何も食べていない。カイルロッド
はベッドから下りて、窓に歩み寄った。
夕碁の街から人々の声が風に運ばれ、夕飯の支度であがる白い煙がたなびいて見えた。
平凡でありふれた、そして人の温もりを感じさせる風景だ。
旅立ちは突然に
「ソルカンの店に行って、食事してこよう」
久しぶりに乳兄弟の顔でも見に行こうと、ベッドの下からロープをひっば。出し、窓の
近くの柱にかたく結ぶ。カイルロッドはこの方法で、頻繁に城を抜け出していた。
サイードは息子が城を抜け出すことを黙認しているようだが、ダヤン・イフエがロやか
ましいのだ。
「一人でふらふらと街中を歩き回るなど、王子としての自覚が足りない」
などと言う教育係の目を盗んで、週に二、三日は城を抜け出していた。
ロープをつたって部屋を抜け出し、裏庭に降りた。そして茂みに隠してある包みを取。
出した。変装道具だがたいした物はなく、髪を隠すためのターバン、薄手のマント、護身
用の短剣とナイフ、その程度である。
「こんな長い髪、早く切っちまいたいぜ」
ターバンを巻きながら、カイルロッドがぼやいた。好きで伸ばしているのではない。そ
ういうしきたりなのである。どこの王家にも古いしきた。があるように、ルナンでは王子
は成人するまで髪を伸ばすことを義務づけられていた。二〇歳になると髪を切り落とし、
ようやく一人前として扱われるのだ。
いっそ髪を染めてやろうかとも思うが、長いので面倒だし、「母上譲。の髪を染めると
は、なんという親不孝者」、などと口うるさい神官に説教されるのも嫌だった。それでタ
ーバンで隠してしまうことにした。いくら夕碁であろうと、カイルロッドの容貌は冒立ち
すぎる。長い髪が見えないだけでもずいぶん印象が変わるはずだ。
「さて、これでよし。完璧な変装だ」
マントをつけると、カイルロッドは裏庭を横切った。この先に秘密の抜け穴があり、そ
こは街外れにつながっていた。
夕薯の中に溶けていくカイルロッドの姿を、城の窓から二人の男が眺めていた。画王サ
イードと神官ダヤン・イフエである。
「また夜遊びですぞ」
窓にへばりついて眉をひそめるダヤン・イフエに、
「若いうちは遊びも必要だ」
サイードは呑気に言い、椅子にゆったりと掛けた。
「私もあれぐらいの歳には、城を抜け出して遊んでいた」
「城の食事が不満で、外に食べに行っていたという噂ですな」
呆れたように腕組みする神官を、サイードが叱られた子供のような顔で見上げた。
旅立ちは突然に
「考えてもみてくれ、ダヤン・イフ工。毎日毎日、毒見されてすっか。冷めきった食事を
食べていたら、誰だって嫌になるだろう?」
噂を肯定し、サイードは「私だってたまには外に食べに行きたいんだ。カイルロッドの
奴、父を誘ってくれたっていいのに」と、子供のようなことを言い、ダヤン・イフエに冷
たい目で見られた。
「王は王子に首すぎます」
大きなため息をつかれ、サイードは目を細めた。
「だって可愛い一人息子だもの」
「王……」
ふいにダヤン・イフェが刀傷だらけのいかつい顔を歪めた。
「そのお言葉を亡きフィリオリ殿が聞いたら、どれほど喜びますことか」
巨体を震わせる神官を、サイードは弱った顔で見ていた。「闘う神官」などと呼ばれて
いる大男だが、実はひどく情にもろく、感激しやすいのだ。
なんとも居心地雇そうに、ダヤン・イフエを眺めていたサイードが顔を動かした。窓か
ら春の甘い香。を運んだ風が流れ、カーテンを揺らした。
「フィリオリに会ったのも、こんな季節だったな。あれから一八年も過ぎたのか」
椅子の背にもたれかかり、サイードは目を閉じた。春の宵には過ぎ去った日々の、忘れ
かけた思いを呼び覚ます魔力があるのかもしれない。
「まるで昨日のことのように思い出せるのになぁ」
一八年前 − 当時二五歳のサイードは、ダヤン・イフエの下に身を寄せていた他国者の
娘に一目惚れした。それがフィリオリだった。サイードはその場で求婚し、ダヤン・イフ
エと重臣達を恐慌状態に陥れた。
「あの頃のことを思い出すと、今でも胃が痛くなります」
胃のあたりをおさえ、ダヤン・イフエがしみじみとした口調になった。
いのちが
「私は思いこんだら命懸けなんだよ」
理由あって故国を捨て、ダヤン・イフェを頼って来たと、フィリオリはサイードにそう
みご
告げた後、すでに身籠もっていることも打ち明け、求婚を断った。しかし、若かったサイ
かんなんしん′1
−ドは周囲の猛反対にも求婚拒絶にも屈せず、難難辛苦を乗り越えてフィリオリを妻にし
た。
「カイルロッドが生まれた時……私は不安だった。フィリオリには、おまえの子供なら愛
せると偉そうに言ったものの、自分の血をひいていない子供を愛せるかどうか、本当は不
安だった」
旅立ちは突然に
ノ、せもの
曲者と呼ばれる国王の口元に、ほろ苦い笑みがうかぶ。
.・げ         ∵・
「何故、そんな不安を抱いたのか、今思うと不思議だ」
「それは私も同じです、王」
しや                                 つぶや
薄青い紗のかかってきた室内に明かりを灯しながら、ダヤン・イフエが低く呟いた。
「フィリオリ殿から生まれるのがただの子供でないと知らされた時、私は彼女にその子供
を殺せと言ったのです・・。生まれないほうがその子供の幸せだと……」
ひ                        ゆが
明か。の灯が揺れ、サイードとダヤン・イフエの影がいびつに歪んだ。
がノ、ね
しばしの沈黙が訪れた。どこからともなく優雅な楽の音が聴こえた。
だいしんでん
「 I・王。実は先日、フエルハーン大神殿から使者が来ました」
沈黙を破って、ダヤン・イフエがさ。げなく切。出した話に、サイードは目を細めた。
えいり
目の奥に鋭利な刃物の光がある。
「用件はカイルロッドのことかフ」
「はい」
・、・・・
「フェルハーン大神殿には一〇年前、二度とカイルロッドに妙なちょっかい出さないよう、
警告しておいたはずだ」
「神官長が代がわ。し、方針が変わったそうです。大神殿は王子を渡せと言ってきました。
これ以上放っておいては、いずれ人に害をなすだろうと」
おさ
事務的であろうと感情を抑えているが、ダヤン・イフエの声には怒りがこもっている。
「神殿め。各回に影響を及ぼしていたのは大昔だというのに、いつまでもその時の気分で
.もうじゆう
いる。まともに返事などする必要はない。息子を猛獣扱いされてたまるか。生い立ちや血
筋がどうであれ、カイルロッドは私の息子だ。ごく普通の人間だ」
いまいま           する一ど
サイードが忌々しげに舌打ちした。鋭く厳しい衷情には、昼間、「息子が遊んでくれな
−.−.L−・
い」 といじけていた男の面影は見当たらない。
「王子も一八歳です。本当のことを打ち明けてもいい頃ではないでしょうか」
くじゆスノ
ダヤン・イフ工のいかつい顔には苦渋があり、それを聞いたサイートの表情も重くなっ
た。
・・ノ
「・・・そうだな、いずれは知ることだ。自分が何者であるか、何故、フエルハーン大神殿
かたき
から目の仇にされるのか。いずれは …」
、こぎ
サイードの声が途切れた。
も1さ
「カイルロッドは普通の青年だ。心の優しい、いい青年なのに ・」
おお
声を詰まらせ、サイードは両手で顔を覆った。
旅立ちは突然に
2
ただよ             はな
甘やかな花の香。が漂い、行き交う人々の顔にも華やいだものがある。店や家々に灯が
にぎ
とも。、街に夜の賑わいが広がっていく。
か                 ぎみ
カイルロッドは久しぶ。の外出に駈け落ち騒ぎの痛手も忘れ、うかれ気味に通りを歩い
ていた。時々、すれ違う人々が 「おやつ」 という表情で振。返るが、薄暗いので王子その
人とはわからないようだ。
小国ながら、昔から人と物の交流の多い土地柄で、多様な人種が街を歩いている。南か
ら来た黒い肌の人々、ターバンを巻いた少女、白い肌をした人々、黄色い肌の商人連が、
なんの抵抗もなくこの小さな国の中で生活していた。
のき
飲み屋が軒をつらねる通りを進み、「月の西亭」 という看板のある店でカイルロッドは
とぴら
足を止めた。扉を開けて見ると、まだ夕食の時間には少し早いので、店の中は比較的空い
ていた。
すわ                   うば
カイルロッドは奥のテーブルに座った。この 「月の西亭」 はカイルロッドの乳母の実家
ちきようだい
で、今は乳兄弟であるソルカンが切り盛りしている。カイルロットとソルカンは実の兄弟
のように仲が良く、二年前に乳母が亡くなってからも、交流は続いていた。カイルロッド
は城を抜け出すと必ず「月の西亭」 に立ち寄っていた。
「いらっしゃい」
ちゆうばう
厨房から少女が注文を取りに出て来た。
「ご注文はフ」
ほほえ             ぷしっけ
にっこりと微笑んだ少女を、カイルロッドは不躾なぐらいまじまじと見つめた。ソルカ
やと
ンが新しく雇ったのだろう。カイルロッドの初めて見る顔だ。ふわふわした明るい茶色の
ひとみ
髪、同じ色の瞳をした一六、七歳ぐらいの娘だ。
「あたしの顔になにかついてますか?」
けげん             あわ
少女が怪訝な顔をした。カイルロッドは慌てて 「失礼」 と言い、
「主人のソルカンはいるかなフ」
るす
尋ねると、「今は店を留守にしています」という返事だった。「帰るまで待つか」と口の
.′ぐ
中で呟き、料理と酒を注文した。
注文を取って厨房に戻る少女の後ろ姿を見ながら、カイルロッドは口元をほころばせた。
決して美少女ではないが、驚くほど表情が豊かな娘だ。つい目が離せなくなってしまう。
そして小柄だが、きびきびとした動作が印象的だった。
食事が来るまでの間、カイルロッドはぼんやりと、聞くともなしに他の客の話し声を聞
いていた。城にいてはわからないようなことや、他国の情勢や珍しい話などが、こうした
店に多く転がっているものだ。カイルロッドはそうした話を聞くのが好きだった。城にい
H
て貴族達のみえすいたお世辞を並べられるより、街角に落ちているような謡のほうがずっ
と楽しい。
かご        ばか
「今日は市場で鳥の入った龍をひっくり返した馬鹿がいてよぉ」
商人らしい男が連れと笑っている。カイルロッドもつられて顔をほころばせた。
と − 。
「ところで、例の王子。また、婚約者に逃げられたんだってな」
向かいのテーブルにいる男がジョッキを振り回し、大笑いしながら言った。それを耳に
,r    、.ノ
して、カイルロッドは危うく椅子ごとひっくり返りそうになった。
「駈け落ちしたんだって? そのお姫様は」
「いくら美青年でも、やっぱりねぇ」
仲間らしい数名の男達がドッと笑い、カイルロッドはテーブルにつっ伏した。
ぺノわさ
「どこから噂が流れるんだ ・」
カイルロッドが婚約者に逃げられたという謡は、半日で国中に広がっていた。サイード
もダヤン・イフエもそういうことを周囲に口止めしない。人の口に戸は立てられぬと承知
旅立ちは突然に
しているからだ。
あとと
「跡取。がこれじゃ、サイード国王も頭の痛いことだな」
たたかしんかん は
「闘う神官が吠えているんじゃないか?」
言いたい放題だが、カイルロッドは黙っていた。まったく療なことに、客の言っている
ことは事実である。
うかれ気分が音をたててしぼみ、カイルロッドは食欲を失った。
「あの、お客さん?」
あわ
上から声が降ってきた。さっきの少女である。食事と酒を持って来たのだろう。慌てて
カイルロッドは顔を上げた。
にぶ            はで
ゴンツ、という鈍い音がして、食器の割れる派手な薯が店内に響きわたった。
「あちっtl一
顔を上げた瞬間、少女の持っていた盆に頭をぶつけ、カイルロッドは頭から熱いスープ
と酒をかぶってしまった。
だいじようぶ
「お客さん、大丈夫ですかけ」
心配した少女がターバンを外そうとし、カイルロッドは慌てて頭をおさえた。ここで正
はヶレ
体がばれてはたまらない。恥の上塗りではないか。
「ターバンを外しなさいー」
少女が怒った顔でターバンを引っ張り、カイルロッドは両手で頭をおさえたまま、席を
立った。
やけど
「火傷していたらどうするのよ!」
「平気だから、やめてくれ!」
さけ
叫んで、逃げようとしたが、少女はターバンの靖をしっかり捉って離さなかった。
む だ
ターバンがほどけ、長い銀色の髪が剥き出しになった。
▼Jお     かつしよく     ひとみ
たちまち、店内にいた客の顔が凍りついた。褐色の肌に青い瞳、長い銀色の髪といえば、
がいとう
彼らの知る限り、該当する人物は一人しかいない。
「カイルロッド王子l?」
さかな           いちもくさん
ついさっきまで王子を酒の肴に、笑っていた男達が、一目散に店から逃げ出した。まさ
か王子本人が聞いていようとは、思いもしなかっただろう。他の客もただ居合わせたとい
すばや
うだけで、身に覚えのないとばっちりをうけたくなかったらしく、実に素早く逃げた。
ほんのわずかな時間のうちに、「月の西亭」 は空席だらけになり、カイルロッドと少女
だけが取り残されていた。
かんべき
「くそっ、完璧な変装だったのに」
旅立ちは突然に
うつとう                 ぷつちようづら
乱れた髪を鬱陶しそうに後ろに流し、カイルロッドは仏頂面になった。これで別の変装
を考えなくてはならなくなってしまった。
「あの、カイルロッド王子様なんですかフ」
ターバンを握りしめたまま、少女。
「そうだ」
とぴち
すっかりやさぐれた気分になり、ソルカンに会わずに城に帰ろうと、カイルロッドが扉
のほうに足を向けると、
「あなたがあの有名な卵王子なんですかー」
す とんきよミノ
背中から素っ頓狂な声。思わずよろめいたカイルロッドに、少女が追い打ちをかけた。
うわさ
「卵を産んでしまったショックで、母親が死んでしまったって噂の・ 」
のぼ
一番言って欲しくないことを間近で言われ、頭に血の上ったカイルロッドは勢いよく振
ひようし Vlす lヰノつまず      ゆか
。向いた拍子に椅子に蹴置き、そのまま床に倒れた。
だいじようぷ
「大丈夫ですか〜」
∴1・…ここ・一
どうけし
口をきく気力もない。「まるっき。道化師じゃないか」、恥ずかしくて顔も上げられなか
った。
しっしん
「どうしよう、失神しちゃったのかしら」
動揺した少女が「どうしよう」を連呼しながら、カイルロッドの周りをグルグル回って
いる。
「早くどこかへ行ってくれないだろうか」
とぴら
そうカイルロッドが願っていると、扉が開いて、童顔の青年がのそりと入って来た。
「ご主人−」
ちきようだい
少女の声に、カイルロッドは顔だけ上げた。乳兄弟で、「月の西亭」 の主人ソルカンは
ゆか
つまらなそうに、床にへばりついている王子を見下ろしていた。
「いらっしゃい、カイルロッド王子」
「…・・久しぶりだな、ソルカン」
倒れたまま、カイルロッドは言った。
おれ
「どうせ俺は卵王子だよ」
じぎやくてき
中央のテーブルでソルカンの作ってくれた定食を食べながら、カイルロッドは自虐的に
独白した。
「ルナンの卵王子」
旅立ちは突然に
苦笑と好奇心をこめ、人々はカイルロッドをそう呼んでいる。
カイルロッドは卵で生まれた。難産の末に産まれたのが卵だったため、母のフィリオリ
し1rう                とほう
はそのショックで死亡。妻を失い、残された卵の前でサイードが途方にくれていると、卵
・.−ノ1
が割れ、中から男の子が現われた ー というのが有名なカイルロッドの「尋常ではない生
い立ち」 で、サイードもそれを否定していない。
以来、カイルロッドは 「卵から生まれた王子」と言われて育ち、今では「ルナンの卵王
きんりん
子」と言えば、近隣に知らぬ者はないほど有名になってしまった。おかげで一八歳になっ
たというのに、まだ婚約者が決まらない。
「もしも、子供が卵で産まれたらと思うと、恐ろしくて」
最初の婚約者は泣きながらそう害った。他の娘も似たようなものだ。美男子の王子と結
婚できる喜びより、卵を産むかもしれないという生理的な恐怖のほうが強いらしい。
「卵を産みたくなかったら、養子をとるとか、他にも色々と後継ぎをつくる方法はあるじ
ゃないか。そうだろ、ソルカン」
「知らん。食べるかしゃべるか、どっちかにしてくれ」
とし ちきようだい そ け
カイルロッドが同意を求めたが、同じ歳の乳兄弟は素っ気ない。これからが稼ぎ時だと
いうのに、さっさと店仕舞いをしてしまい、カイルロッドの向かいに腰を下ろし、ソルカ
くせ
ンは自分の店の酒を飲んでいる。癖のある金茶色の髪と灰色の日をした青年で、いつ見て
も眠そうな顔をしている。が、別に眠いわけではなく、そういう顔なのだ。
「それにしても、サイード様といい、おまえといい、よく食事のために城を抜け出してい
まず
るらしいが、そんなに城の食事は不味いのかフ」
「不味い−・スープは冷めてる、昧つけは薄いし、量は少ないLI 城の食事なんて最低
だー」
スプーンを握りしめ、城の食事がいかに不味いものであるか、熱弁をふるいだしたカイ
なが                    っぷや  あき   さかすき
ルロッドを眺めながら、「よく似た親子だ」、ソルカンはぼそりと呟いた。呆れた顔で杯に
酒を注ぎ、
「卵王子がまた婚約者に逃げられたって、明日には他国にも広がっているだろう。有名人
は大変だな」
「おまえな、真顔で言うなよ」
.▼・ピ.
スープで顔を洗いかけ、カイルロッドはむせかえった。「無口なくせに毒舌なんだから
な」、口元をおさえて顔をそむけると、柱の影に隠れるようにして立っている少女の姿が
見えた。ターバンをむしり取った少女だ。
やと
「おい。あの娘、新しく雇ったのかフ」
旅立ちは突然に
「ああ。まだ、紹介していないな。ミランシャだ。三日前から働いてもらっている」
ソルカンが手招きすると、ミランシャは申し訳なさそうな顔でおずおずとやって来た。
そして、カイルロッドの横に来て、
「あの・・失礼なことばかり言ってしまって、ごめんなさい!」
深々と頭を下げた。この少女にはあれこれと気にしていることを言われたが、カイルロ
とが
ッドに各める気はない。「卵王子」 と言われるたびに答めていてはきりがないのだ。
「いいよ、もう慣れっこだから。それに陰でこそこそ言われるよ。、正面から言われたほ
うがずっといい」
きよネノしゆく
恐縮している少女に笑いかけ、
すわ
「立ってないで座りなよ」
横に座らせた。並んで座ると、少女はいよいよ緊張したのか、身体を固くしてうつむい
たきり、口をきかない。
おれ
「それじゃ、俺は外に飲みに行くから」
ひま
カイルロッドにもの言う暇も与えず、ソルカンはさっさと店を出て行ってしまった。あ
つか
まりに見えすいていたので、「それで気を遣ったつも。かよ」と、カイルロッドは心の中
うな                  にがて                 な
で唸った。自慢ではないが、女の扱いは苦手なのだ。産まれたばかりで母親を亡くし、男
うば
まさりの乳母と父サイード、ダヤン・イフエに育てられたのだから、無理もない。
「俺がまったくもてないのは、生い立ちのせいだけでなく、女の扱いを知らないせいかも
しれない」
なンりく
自覚があるだけに、考えると奈落に落ちてしまうカイルロッドであった。
二人きりにされ、しばらく気まずい沈黙が店を支配した。
「でも、驚きました」
.ナ 1、ト.
手持ち無沙汰で仕方なく潜を飲んでいるカイルロッドに、身体を固くしながらミランシ
ャが思いきったように口を開いた。
「なにがフ」
きかヂき
杯を下に置き、カイルロッドはミランシャを見た。
「だって、王子様の横に座って、こんなに気やすく口をきけるなんて」
ほ一はえ
はにかんだように微笑むミランシャに、カイルロッドは新鮮な感動を覚えた。「卵王子」
めつた
と笑われることはあっても、緊張してもらえるなんて滅多にあることではない。
「まともに王子扱いされた」
なげ
カイルロッドは感動を噛みしめた。ダヤン・イフエが聞いたら「なんて情けない」と嘆
せりふ
きそうな台詞だ。
旅立ちは突然に
おれ
「ここは俺のおご。だから、どんどん飲んでくれ」
じようきげん
すっかり上機嫌になったカイルロッドは別の杯に酒を入れ、ミランシャの前に差し出し
た。ミランシャが少し困った顔になる。
「あの、あたし、お酒を飲んだことがないんです」
「ああ。それじゃあ、飲みやすい果実酒を持って来てあげるよ」
ちゆよノぽよノ
うるさいソルカンもいないので、厨房に入って一番上等の果実酒をくすね、カイルロッ
ドはうきうきと店に戻り − 硬直した。
「暑いよぉ。ど1してこんなに暑いのぉ?」
わめ
上気した顔のミランシャが、ろれつの回らない苗で喚き、テーブルの上に乗って服を脱
ゆか  から
いでいるではないか。床には空の杯が転がっている。
さけぐせ
「どういう酒癖だー」
せきめん                        はヂ       あらわ
赤面したカイルロッドがテーブルに飛び乗った。マントを外して、上半身が露になった
ミランシャにかける。
「やだぁ、暑いー」
がまん
「暑くても我慢しろー」
マントを取ろうとするミランシャを、カイルロッドはおきえつけた。
数分後1マントにくるまれたミランシャが床の上で安らかな寝息をたて、その横でカ
ひぎ かか
イルロッドは膝を抱えていた。
「酒癖ってのは人それぞれだけど、脱ぎ癖ってのはな・」
はほ
ひっかかれた頬の傷に触れ、カイルロッドはため息をついた。
3
とぴらすきま
扉の隙間から射し込む目刺しに、カイルロッドは目を覚ました。
「昨夜はさんざんだったな」
あ′、び
欠伸しながら起き上がり、隣りで転がっているミランシャを見た。
「人の苦労も知らずに、よく眠っているぜ」
たば
長い髪を乱暴に束ね、カイルロッドは大きく伸びをした。
.h
あの後、酔い潰れたミランシャを家まで連れて行こうと思ったのだが、呼んでも揺すっ
じゆくす、、
てもピクリともせず熟睡している。そのまま店に転がしておこうかとも思ったが、女一人
あぶ                         やと
を残していくのも危ないので、仕方なくソルカンの帰りを待つことにした。雇い主ならミ
ランシャの家を知っているだろうから、道を聞いて届けに行くつもりだったのだ。しかし、
ソルカンは帰らず、カイルロッドは柱に寄りかかったまま眠ってしまい、そのまま朝を迎
旅立ちは突然に
えてしまった。
「店主が店を空けっぱなしにするなよ」
帰ってこないソルカンに文句を言いながら、子猫のように丸くなって、マントにくるま
っているミランシャの寝顔を見下ろし、カイルロッドは肩をすくめた。時々、女という生
あき    ずぶと
物がわからなくなる。ひどく神経質なところがあるかと思うと、呆れるほど図太い。
おれ       やつ
「おい、こら。そんなに安心しきった顔で寝ているな。俺が女狂いの悪い奴だったら、ど
うするんだよ」
かが
横に屈み、床の上に広がっている明るい茶色の髪を一筋、軽くひっぼってみたが、ミラ
ンシャは目を覚まさない。
かわい
「可愛い顔して、いきな。脱ぎ出すんだからなぁ」
な                  あわ
苦笑混じ。に、乱れたミランシャの前髪を撫でつけようとして、カイルロッドは慌てて
伸ばした手をひっこめた。下心はないのだが、眠っていて無防備な状態の女の子に触れる
のは、罪悪感めいたものを感じてしまう。
とうとつ                                       はで
唐突に昨夜のミランシャの姿を思い出し、カイルロッドは慌てて頭を横に振った。派手
な外見に反比例した性格もまた、女性にもてない原因かもしれない。
「このまま放っておいて帰るのもなぁ」
じゆうめん
渋面でカイルロッドは立ち上がり、ようやく異変に気がついた。
街が静かすぎる1。
あた
鳥のさえずりも聞こえず、人の声もしないのだ。この辺りは夜が商売の中心で、朝は比
にぎ
較的静かだ。しかし、表の大通りは早朝から賑わう。そういった物音すら聞こえない。
いよユノ
異様な静けさだ。
胸騒ぎをおぼえ、カイルロッドは外へ飛び出した。
「   −   〓」
11−.
なにかを叫んだつもりだったが、実際には声にならなかった。
とぴら
扉のすぐ横にソルカンが立っていた。今にも扉を開けようとした姿で立っている。
「ソルカンー」
つか         てぎわ          ぬノ、   やわ
叫んで肩を掴むと、固く冷たい手触りだった。血の通う温もりも柔らかさもない。石に
なってしまったようだ。
カイルロッドはソルカンの横を抜け、通りに出た。
「なんてことだ」
石になってしまったのは、ソルカンだけではなかった。若い男女や近所の店の主人が、
今にも動き出しそうな姿のまま、石になっている。このぶんでは、街の人という人が石に
旅立ちは突然に
なっているのではないか1そう考え、カイルロッドはゾツとした。
「まさか…・・」
はじ
カイルロッドは弾かれたように振。返り、店に入った。目を離した隙にミランシャも石
になってしまうのではないか、そんな不安にかられたのだが、幸せそうな寝顔と寝息に、
ホッとした。
「とにかく、帰らなくては」
なにが起きたのかさっぱりわからないが、ただごとではない。城にいるサイードやダヤ
ン・イフェの顔を思いうかべ、カイルロッドの表情が沈んだ。城へ帰ろうと、外へ一歩踏
ひめい
み出したカイルロッドの背中から、網を裂く悲鳴があがった。
「どうしたけ」
振り向くと、マントで胸のあた。をおさえたミランシャが、真っ赤な顔で震えている。
「石にでもなったのかけ」
まゆ   つ
ソルカンや街の人が石になってしまった衝撃に気をとられ、ミランシャの眉と目が吊。
上がっていることに、カイルロッドは気がつかなかった。
「この卵王子‖」
こぶし  なぐ
近づくな。、挙で顔を殴られた。
「いきなり殴ることはないだろうがー」
ぽうぜん                           きけ
茫然としているカイルロッドに、拳と声を震わせたミランシャが叫んだ。
「・・・あたし、王子から見れば平民のあたしなんて、たいしたものじゃないだろうけど、
それでもこんなのは許せないー」
ひとみ                             なつと′、
大きな瞳に涙をうかべたミランシャを見て、ようやくカイルロッドは納得した。どうや
らミランシャは、昨夜のことはなにも覚えていないようだ。
「ミランシャ、それは誤解だ」
ほほ
赤く腫れてきた頻をおさえ、
「俺はなにもしていないよ。信じられないかもしれないけど、岩は酔った勢いで  」
脱いだと言いかけ、ぐっとこらえた。そんなことを言ったら、ミランシャが傷つくだろ
くせ
う。第二 「君は酔うと脱ぐ癖がある」 と言って、すんなり信じてくれるとは思えない。
「その、君は昨夜のことを覚えていないみたいだけど…その、昨夜、君は・▼ 」
とっさにうまい言葉が出なくて、口ごもっていると、ミランシャの顔から血がひいてい
った。
「・言われてみれば、あたし、なにも覚えていないわ。王子の出してくれたお酒を少し
飲んでみたんだけど、いきなり顔が熱くなって、それからどうなったのか。もしかして、
旅立ちは突然に
酔って暴れたとか・」
いす
ひっく。返ったテーブルや椅子を見て、ミランシャが泣きだしそうな顔になった。
「   」
つまきき
カイルロッドは弱。はて、自分の爪先を見ていた。暴れたには暴れたが、少し適う。ど
う言ったものか、カイルロッドがしどろもどろになっていると、
めいわく
「酔って暴れて、迷惑かけてしまって。ごめんなさい」
昨夜の行動を「酔って暴れた」と結論づけたミランシャが、頭を下げた。
「だから服をつけていないんだわ」
酔って暴れて、どうして服が脱げるのだろうと、カイルロッドは疑問を感じたが、あえ
て無視することにした。酔うと脱ぎ出すより、暴れるほうが少しはましかもしれないし、
なにより本人がそう思っているのだから、そのままにしておくべきだ。
せきばち
カイルロッドはひとつ咳払いし、
さけぐせ
「そう。君は酔うと暴れるんだ。ほっき。言って酒癖が悪い。自分のためにも、他人に迷
惑をかけないためにも、これから二度と酒を飲んじゃいけないよ。いいね、ミランシャ」
真剣に言った。
「はい」
消えいりそうな小声で返事し、ミランシャは恥ずかしそうにうつむいた。
「服をつけたら外に出てくれ。服は手前のテーブルの上に置いておいたから」
そう言い、カイルロッドは店の外へ出た。
かいほう
「介抱してやって殴られてちゃ、割りにあわないよなぁ」
みお
赤くなった頬をさすり、カイルロッドは空を仰いで、ため息をついた。
さっきよりも陽が高くなっていたが、やはり人々は石のままだ。
「なぁ、昨夜のうちになにがあったんだ〜」
石になったソルカンに尋ねても、答えてくれるはずもない。
「なによ、これけ」
服を着て、店の外に出たミランシャが石になったソルカンを見、絶句した。
づか
「石になっているじゃない! どうして、こんな・・・あ、いけない、言葉遣いが」
口をおさえたミランシャに、
「ああ、いいよ。言葉遣いなんか気にしないでくれ」
カイルロッドの青い目が笑う。
「でも、王子様に・」
よノぱ                       にがて
「俺は街の乳母の家にいることが多かったから、堅苦しいことは苦手なんだ。敬語なんか
旅立ちは突然に
使わず、普通に話してくれ」
カイルロッドは格式ぼったことが嫌いだった。それは生い立ちの次に有名なことで、城
だれ
を抜け出しては商人と立ち話をしていたり、子供と遊んでいた。と、託に対しても気さく
だった。相手の身分で態度を使い分けるようなことをしない。だからこそ人々は、カイル
しぼう         えたい
ロッドが卵で産まれ、母親はそのショックで死亡したという、暗く得体の知れない生い立
ちであるにも関わらず、恐れた。気味悪がった。せず、苦笑と好奇心と親しみをこめ「卵
王子」と呼んでいるのだ。
みずか
王子自ら「敬語など使わず、普通に話してくれ」と言われ、ミランシャは戸惑っていた
しよよノだノ、
が、すぐに 「それじゃ、そうするわ」 と、承諾した。
「ところで、王子。ご主人や街の人が石になってしまったのは、魔法のせいよ。強大な魔
けはい
力を使った気配がするわ」
周囲を見回し、ミランシャが厳しい顔になった。
「魔法なんて、わかるのかフ」
意外そうなカイルロッドに、
「あたし、これでも魔女なのよ」
しぐさ
得意気にミランシャが胸をはった。そんな仕草はいかにも少女じみていて、とても魔女
には見えない。
「魔女なら、石になった人達をもとに戻してくれないか?」
かすかな希望にすがるような気持ちで訊いてみたのだが、
「それは無理だわ。だって、この魔力は強大で、あたしなんかじゃ歯がたたない」
くや   くちぴるか
ミランシャは悔しそうに唇を噛んだ。
「無理を言ってすまない」
わ                 そぽノ、
そう詫びながら、カイルロッドの脳裏を素朴な疑問がかすめた。
「どうして魔女が酒場で働いているんだろう?」
しかし、今はそんなことよりも、城にいるサイードのことが心配だった。
「俺は城へ帰るが、君はどうするフ」
「あたしも行く。少しは役にたつかもしれないでしょ?」
こうして卵王子と魔女は、城へと向かった。
城へ向かう途中、カイルロッドもミランシャも目を皿にして、動いているものを探した
が、なにひとつなかった。
こお
時間が凍りついていた。
人が、犬が、植物が、ありとあらゆるものが石になっていた。
ひま
まるで気がつく暇もなく、瞬時にして石になったのか、立ち話をしている女達や遊んで
いる子供達を見て、カイルロッドは奥底から怒りがこみあげるのを感じた。
噛みつくように歩いていると、横にいたミランシャの姿が見えなくなったことに気づき、
カイルロッドは立ち止まった。後ろから小走りにミランシャが追って来る。足の長さが違
うので、走らないと追いつけないのだ。
めぐ
歩く速度を少女に合わせながら、カイルロッドはあれこれ考えを巡らせていた。
なぜ
何故、街が石になったのか。ミランシャは魔法のせいだと言うが、だとしたらいったい
だれ
誰が、どんな理由があってそんな魔法をかけたのか。そして、あらゆる物が石になってし
まったというのに何故、自分とミランシャは石にならなかったのか・・・
いくら考えても、カイルロッドにはわからない。
城が近づくにつれ、歩く速度が早くなるのを抑えられなかった。ミランシャはもう走っ
ていた。
4
石になった門番兵の横を通り抜け、城内へ入るカイルロッドの耳に、自分の心臓の音が
いやに大きく聞こえた。
旅立ちは突然に
47
せいじやく                            ろうか
城内も静寂に包まれていた。石になったのは衝の人々だけではなかった。廊下を歩いて
めしつか  かげん かか   だれ
いる召使い達、花瓶を抱えた女、誰もがなんの異変も感じないまま、石にされたのだ。
「誰か、石にならなかった者はいないかー」
きけ
カイルロッドは大声で叫びながら、城を奥へと進んだ。
「父上− ダヤン・イフェー 誰か一 石になっていない者はいないのかー」
むな
返事はなく、カイルロッドの声だけが虚しく反響する。
カイルロッドはまず、サイードの自室に行ってみたが、そこに父王の姿はなかった。
「父上・・・」
石になるよ。もっとひどいことがサイードの身に降りかかったのではないか、カイルロ
ッドの全身から血がひいた。
「王子、ちょっと来てー」
立ちすくんだカイルロッドの腕を、息をさらしたミランシャが引っ張った。
「どうしたフ」
「奥の部屋から人の声がするのー」
とぴら
ミランシャが廊下のつきあた。、中庭に画した部屋の扉を指さした。一瞬、カイルロッ
まゆ
ドは眉をしかめた。
「あの部屋は使われていない部屋なんだ」
「あかずの部屋なの?」
じゆうめん
使われていない部屋から人の声が聞こえたというので、ミランシャが渋面になった。
おれ
「俺の死んだ母の使っていた部屋だ。母が死んでからは部屋は閉ざされ、使われていない
らしい」
つぷや
靴音をたてずに歩きながら、カイルロッドは小さく呟いた。
カイルロッドは母を知らない。サイードが画家に描かせた、肖像画でしか知らなかった。
づみれ  ひとみ       はかお
絵の中の母は、銀髪に喜色の瞳をした少女で、伊げに微笑している。
「誰かいるのかー 返事をしてくれ−・」
たた            どな                     うめ
扉を叩きながら、カイルロッドが怒鳴ると、部屋の中からかすかな人の声がした。坤き
声のようだ。カイルロッドとミランシャが顔を見合わせた。
「やっぱり、他にも石になっていない人がいるのよー」
「さがっていろ、ミランシャ」
こんしん
ミランシャをさがらせ、カイルロッドは扉に体当たりした。渾身の力をこめて数回体当
こわ
たりすると、扉が壊れた。
T」
旅立ちは突然に
陽光の射し込む明るい部屋に踏み込んだカイルロッドの見たものは、石になったサイー
ドと、右半身だけ石になったダヤン・イフ工だった。
「ダヤン・イフェー」
カイルロッドの声に、
「……王子。どうやら問にあった…1」
ゆが
ダヤン・イフエの左半分の顔が歪んだ。笑ったのか、泣いているのか、わからない。
「これはどういうことだー いったい、なにがあった!」
いす
椅子にかけたまま石になったサイードの前で、カイルロッドが肩を震わせた。
まどうし     しわぎ
「魔道士ムルトの仕業です」
かな。苦労して、ダヤン・イフェが言葉を吐き出した。
「魔道士ムルト?」
するど
繰。返したカイルロッドの後ろで、鋭く息を飲む音がした。ミランシャだ。
なぜ
「そいつが何故、国中の者を石になんかしたんだフ」
「王子を・…」
なまみ
言葉の途中でダヤン・イフェがいかつい顔を歪めた。生身の身体が少しずつ、石に変わ
っていく。
「これを、王子」
握りしめていた左手を開き、カイルロッドの前に突き出した。大きな手の平に小さな金
の指輪があった。
「女物じゃないかフ」
けげん
それを手に取り、カイルロッドは怪訝な顔をした。女用の細い指輪だ。表面に細かな模
なが
様が彫りこまれている。しげしげと眺めているカイルロッドに、
かたみ
「フィリオリ殿の、あなたの母上の形見の品です。これを持って行きなさい。ルナンが石
にされた理由も、あなたの本当の父親のこともわかるはず…こ
たたかしんかん
闘う神官はかすれた声でそう言った。
「石にされたことと、本当の父親がどうしてつながるんだけ」
つか
カッとしてダヤン・イフエの左襟を掴んだ。「本当の父親」、カイルロッドの一番嫌いな
話だった。
おれ
「俺の父親はサイードだー」
おさ                       なだ
激した感情を懸命に抑えながら、カイルロッドは襟から手を放した。それから自分を宥
めるよう、大きく息を吸い、
「ダヤン・イフエ、俺は本当の父親のことなんかどうだっていいんだ」
旅立ちは突然に
吉葉を息とともに吐き出した。
「私の力ではもうこれ以上はもたない……」
聞き取れないぐらいのかすれ声を残し、カイルロッドの目の前で、ダヤン・イフエは石
になった。
「ダヤン・イフエーー」
指輪を握。しめ、カイルロッドは叫んだ。しかし、もうダヤン・イフェは答えてくれな
かった。
「・…・みんなが石にされたのは、俺のせいなのか?」
手の中の指輪を見、カイルロッドは奥歯を噛みしめた。
「・…王子、どうするの?」
それまで黙っていたミランシャが、ためらいがちに声をかけた。
やつ
「決まっている。俺はこれから旅に出て、魔道士ムルトつて奴を探し出し、石になった
たたかはめ
人々を元通りにしてもらう。話し合いだけですむか、闘う羽目になるか、それはわからな
いがね」
つか
指輪を頭上まで放。上げ、落下の途中に片手で掴み、むっつりと吐き捨てたカイルロッ
ドを、ミランシャがなんとも名状Lがたい表情で見ている。カイルロッドの旅に賛成しか
ねるという感じだ。
「ミランシャフ」
てごわ
「ムルトは手強いわ」
「君、魔道士ムルトつて奴のこと、知っているんだろフ・そいつについて知っていること
は、すべて教えてくれ」
「でも、たいして知らないのよ」
口ごもりながらミランシャが教えてくれたことは、魔道士ムルトは知名度に対し、実体
いつさい
についてはほとんど知られていないということだった。性別、年令、容姿に至るまで一切
ビこ
不明で、何処にいるかもわからないらしい。
だれ
「ムルトを探すのは大変よ。なにしろ、誰も顔を知らないんだから。そのくせ、魔力の凄
さと性格の雇さは伝説みたいになっているのよ。同業者だって、ムルトと争おうって人は
いないと思うわ。それを魔法も使えない王子が闘うなんて、自殺しに行くようなものよ」
きぬ                     ひる
歯に衣を着せぬミランシャの物言いに、カイルロッドは怯んだ。
「確かに、魔法使いでもない俺が魔道士と闘って、勝てるはずはない。これといった特殊
能力はないし、特殊なのは生い立ちだけだ」
だからといって引き下がるわけにはいかない。石になったサイードやダヤン・イフエを
旅立ちは突然に
あご
見ながら、カイルロッドは顎に手を当て、考えた。考えた末、金品で腕に自信のある魔道
やと
士や戦士などを雇うことにした。
へた
「どうせ俺は剣も下手だからな。そのほうがずっと確かだ」
指輪をズボンのポケットにしまい、カイルロッドは足早に部屋を出た。そうと決まれば
・.・1.1
旅に出る準備が必要だ。まず路銀と、旅に必要な道具一式を揃えなくてはならない。
「王子−」
背中から軽い足音と声が追って来る。
はiノもつこ
無人と化した城の中を、カイルロッドは宝物庫に向かって噛みつくように歩いていた。
まったくこんなふざけた話があっていいものだろうか。魔道士だか魔法使いだか知らな
いが、カイルロッド一人のために、人々を石にすることが許せなかった。さらに許せない
のは、石にされたことと「本当の父親のこと」が関連していることだ。
「なにが本当の父親だ1 億は一生、そんな男に会いたくない−」
あくたい
聞いている者がいないという安心感からか、カイルロッドは大声で悪態をついた。サイ
ードが実の父親でないことは、薄々知っていた。サイードはなにも言わなかったが、おし
うわさ
ゃべ。女連の噂や陰口は自然と耳に入るものだ。
いや
また、仮にそうした噂がなかったとしても、カイルロッドは鏡を見るたびに、嫌でも顔
じっぷ
も名前も知らない実父のことを考えさせられる。母のフィリオリに似ているのは髪の色だ
ようげう
けで、肌や目の色、容貌はまるで似ていない。おそらく、実父に似ているのだろう。
「もし、実父とやらに会ったら、一八年分の養育費を請求してやるからなー」
lヰノやぶ
とても王子とは思えないような発言をして、八つ当たりで宝物庫の扉を蹴破り、カイル
めまい
ロッドは一瞬目眩を感じた。
「歩くの、早す、ざる。追いつ、けな、い」
ぼよノぜん
やっと追いついたミランシャが、茫然としているカイルロッドを見上げ、不思議そうに
首をひねった。
「どうしたの、王子?」
「宝が・・」
こぷし      のぞ       ぜつく
壁にもたれかかり、カイルロッドは握り拳を震わせた。中を覗いたミランシャも絶句し
た。
ぞうげ
宝物庫にある宝のすべてが石になっていた。王冠、宝石、象牙や金貨に至るまで、すべ
て石に変わっている。これでは魔道士や戦士を雇うどころか、旅の路銀にも困るではない
か。
「宝まで石になっていようとはこ・・・」
55  旅立ちは突然に
うめ                         たいせつ
叩いたカイルロッドの脳裏に、今まですっかり忘れていた大切な物がうかんだ。
ぼんさい
「まさか、俺の盆栽まで!」
しっぷう    ろうか
次の瞬間、カイルロッドは疾風のように廊下を走っていた。
ゆか
サンルームに飛びこみ、カイルロッドは息切れと動悸で、床にへた。こんでしまった。
「あああ……」
所狭しと並んでいる盆栽が、ひとつ残らず石に変わ。果てているではないか。
たんせい        かえで いちよう
「円精こめた俺の松が、楓が、銀杏がぁー」
かか
石になった楓と松の鉢を抱え、カイルロッドは魔道士ムルトを心の底から憎んだ。この
あくごうひどう
悪業非道をどうして許せようか。
どんなことをしてもムルトを倒し、人々と盆栽を石から解放しょうと、カイルロッドは
ちか
心に誓った。
「許さないぞ、魔道土ムルトー」
−、−.
盆栽を抱えて叫んでいる王子の後ろ姿に、ミランシャは深く大きなため息をついた。
二章 星の数ほどの…・
じようへき
城壁都市ルナンは、わずか一夜にして石と化した。人と言わず、あらゆる物が石にされ、
みやこいよう せいじやく
都は異様な静寂に支配された。
やつ              なつとく
「ムルトつて奴、本当に性格が悪いんだな。納得した」
はが      まどうし            こん
門の前に立ち、カイルロッドは歯噛みしながら、「魔道士なんていう人種は、陰険で根
し1・.
性がねじ曲がっているんだ」、魔道士が聞いたら怒るようなことを、あれこれと並べたて
た。完全な偏見だが、魔道士ムルトに関しては正しいかもしれない。
路銀もなく旅の準備もできないまま、仕方なく都を出て行こうとしたカイルロッドとミ
ランシャの二人は、思いがけない事態にぶつかった。
都の外へ出られないのである。
門は開いているのに通れないのだ。透明な壁でもあるのか、進もうとすると弾力のある
旅立ちは突然に
のぼ
感触に押し戻されてしまう。それだけではない。壁を上って外へ出ようとしたところ、火
はじ
花が散って、弾きとばされた。
けつかい
「結界が張ってあるのよ」
弾きとばされて、腰をしたたかに打ったカイルロッドに、ミランシャがそう説明した。
つま。、ルナン全体がムルトの結界に包まれ、外から入れず、中から出られない状態にお
かれているというのである。
「俺はこういう性格の人間とは、絶対知り合いにな。たくない」
カイルロッドは、顔も知らない魔道士がますます嫌いになった。
すでに太陽は真昼の位置に来ている。一一人が城を出てから数時間が経過していた。
「なぁ、ミランシャ。どうにかならないのか?」
壁にそってうろうろと歩きまわ。ながら、カイルロッドが助けを求めると、魔女ミラン
シャは困った顔で、いかにも仕方なくというように門の前へ行き、
「無理だと思うけど、一応やってみるわ」
じゆもん とな
両手をかざし、目を閉じてなにやら呪文を唱えた。かすかな期待を胸に、カイルロッド
ささい   みのが     ぎようし                    とぴら
は些細な変化も見逃すまいと門を凝視していた。が、門にも壁にも変化はない。試しに扉
に近づいたが、やは。通れなかった。
「やっぱり見習いじゃ、魔道士ムルトの魔法は破れないわ」
ささや
肩をおとしたカイルロッドの耳に、投げやりなミランシャの囁き声が聞こえた。
「・こ見習いだって?」
自然と声が低くなった。強ばった顔でカイルロッドが振り返ると、「あっ−」と小さく
あわ
叫び、ミランシャは慌てて口を両手でおさえた。
だれ
「見習いだってフ 誰かさんは魔女だって言わなかったかな?」
かし
小首を傾げ、カイルロッドは冷たい笑みをはりつけて、ミランシャに近づいた。「魔女」
と 「魔女見習い」 では大違いだ。
「え、えーと」
ミランシャは後ろ向きに逃げていたが、壁まで追い詰められると、
「ごめんなさいー あたしに出来るのは火をおこすことと、鳥寄せだけなのー」
11
両手で顔を覆って白状した。それを聞いてカイルロッドは目の前が真っ暗になった。正
直なところ、カイルロッドはミランシャをあてにしていたのだ。いかにムルトが強大な魔
力の持ち主で、ミランシャでは歯がたたなくとも魔女なのだから、それ以外のことでは役
にたってくれるだろうと、楽観していたのだ。それだけに衝撃も強かった。
「火をおこすことと、鳥寄せだけだってフ」
旅立ちは突然に
いらだ
カイルロッドは苛立たしげに、ミランシャの横の壁に両手をついた。少女の肩がピタッ
と動いた。
一..・.・
「そうか、それで納得したぞ。どうして魔女が酒場で働いているか、疑問を感じていたん
だ。魔女見習いじゃ、魔法で金稼ぎできないもんな」
「だってー」
いつしよ
「だってじゃない一 億は君の言うことを信じて、魔女が一緒なら心強いと喜んでいたん
だぞー」
一気にカイルロッドがまくしたてると、それまでしおらしかったミランシャがムッとし
たように顔を上げ、かみついてきた。
「墟ついたのは悪かったけど、そんなに責めることないでしょうー 迷惑かけたわけでも
ないのに、なによ、その言い方はー そういう言い方するような男だから、婚約者に逃げ
られるのよ!」
「うこ こ
ミランシャのほうがよっぽどひどい言い方だと思ったが、まだ新しい傷口を突かれ、カ
イルロッドはおし黙った。やは。口で女の子には勝てない。
相手の沈獣州に勢いづいたのか、主フンシャはさらに声を張り上げた。
たたか
「それに誤解のないように断っておくけど、あたしはムルトなんかと闘う気はありません
いつしよ            みやこ
からねー あたしが王子と一緒に行動するのは、この都を出るまでよ! わかったら、早
おお
くどいてちょうだい。いつまで人の上に覆いかぶさっているのよ」
「誰が覆いかぷさっているんだ、人聞きの悪い」
にが
口の中でぶつくさ言い、それから思い出したように、苦い口調になる。
「ミランシャ、君、ソルカンの店で会った時は、猫かぶっていたんだろ」
ぱか
あの時、ミランシャの態度に感動した自分が馬鹿に思えてきた。ミランシャはくしゃく
ほほ ふく
しゃになった髪を手ぐLで直しながら、不服そうにぶうっと類を膨らませた。
「猫なんかかぶっていないわ。あたしは王子様と話せるから、緊張していたのよ。王子様
ってもっとスマートで、高貴で、近寄りがたい方だと思っていたもの。それがどうフ あ
ひようきん  ぽんさいかか  わめ
なたときたら、剰軽だし、盆栽抱えて喚くし。あなたを見ていたら、あたしの理想が音を
くヂ     おとめ
たてて崩れたわー 乙女の夢をどうしてくれるのよ−」
「あのな1」
真顔で非難され、カイルロッドは首筋まで真っ赤にした。どうしてこう女の子というの
かじよう    いだ      どな
は、王子というものに過剰な期待を抱くのだろう。怒鳴りつけてやりたいのをこらえ、努
ほお
力して笑みをうかべようとしたが、頬の筋肉がひきつっただけだった。
旅立ちは突然に
「まあ、お互いに言いたいこともあるだろうが、石にならずにすんだのは俺達二人だけだ。
二人しかいないのに、いがみあっているのは不毛だ。だからここはお互い、都を出るまで
協力しよう」
したて
カイルロッドが下手に出たので、ミランシャも曲げたへそを戻した。
「そうね。そうしましょう」
結局、ルナンで石になっていない人間はカイルロッドとミランシャの二人き。で、一人
よりは二人のほうがましという結論に達したのである。
晴れわたった夜空には、宝石箱をひっくり返したように星が瞬いている。
7ヽしんさんたん
あれから半日、都の外へ出ようと苦心惨憺したが、どうすることもできないまま、カイ
ルロッド達は夜を迎えてしまった。
「半日、門にへば。ついていただけか」
大通りの真ん中で、ミランシャがおこしてくれた火にあた。、カイルロッドは一肩をすく
めた。
「このままじゃ、俺達は飢え死にだ」
食物も水までも石に変わっている。二人とも昨夜から丸一日、なにも口にしていない。
なにか携帯用食料でもないかと、服のポケットをさぐってみたが、所持していたのは一
〇本のナイフと短剣二本、そしてダヤン・イフエから渡された指輪だけだった。
「こんな物、とても食えないぜ」
金の指輪を手の上で転がすと、
きれい
「綺麗な指輪ね」
ひぎ かか
火をはさんで向き合っているミランシャが膝を抱え、宝物を見る子供の顔をした。
「そんな綺麗な指輪が似合うんだから、王子のお母さんって、とても綺麗な女性だったん
でしょうね」
「まだ少女だったよ」
素っ気なく言い、カイルロッドは武器と指輪をしまった。
若くして母が死んだ理由を知った時、カイルロッドは悲しかった。自分が母を殺したの
だと、産まれなければよかったのだと、子供心にも自分を責めた。
「おまえの母は、産まれる前からおまえのことを愛していた。忘れないでくれ、カイルロ
ッド。他人がどう言おうと、おまえは望まれて産まれてきたのだよ」
部屋に籠もり、食事もとらなくなったカイルロッドに、サイードがそう言った。幼い息
じゆもん
子を抱きしめ、呪文のように何回も繰り返した。その肩が震えていたこと、父が泣いてい
節・立ちは突然に
たことを、カイルロッドは今も鮮明に覚えている。
まどうし                    どこ
「俺は魔道士ムルトを探すけど、君はルナンを出たら、何処へ行くつも。なんだ?」
石にされたサイードの姿を思いうかべながら、何気なくミランシャに訊いてみると、
さが
「捜し物をしているの」
えんきよ′ヽ
腕曲な答えが返ってきた。
「そうか。見つかるといいな」
「うん。ありがとう」
ほlまえ             さび
微笑んだミランシャは、どこか寂しそうだった。何処へなんの目的で行くのか、ミラン
シャは教えてくれなかったが、カイルロッドもなにも訊かなかった。言いたくないから獣州
っているのだろう。言いたくないことを細…理に聞き出すほど、カイルロッドは世間知らず
ではなかった。
カイルロッドとミランシャは、それぞれの想いにひたりながら、揺れる火を見つめてい
せいじやく
た。火が揺れ、二人の影も揺れる。世界中から人が消えてしまったような静寂。
「あのね、王子。あたし… 」
′、ちぴる
なにかとても重大なことでも告白するように、ミランシャがかすかに唇を震わせた時、
「動くな、ミランシャー」
するど
カイルロッドが鋭く言い放ち、ナイフを三本取り出すと、ミランシャに向けて投げた。
lまほ                     やみ
、三フンシャの右頼すれすれを、ナイフが三本の銀色の筋を描いて闇の中に吸いこまれた。
うめ
坤き声があがり、ミランシャの背後でドオッと、なにか重い物が倒れる音がした。
「なにけ」
そぼ
「火の側を離れるなー」
ほのお
ミランシャが後ろを振り向くより早く、カイルロッドの長身が炎とミランシャの頭上を
軽々と飛びこえた。振り向いたミランシャの前に、両手に短剣を持ったカイルロッドの背
中があった。
ひそ
「闇の中になにかが潜んでいる」
つぶや
呟いたカイルロッドの全身を、緊張が走り抜けた。闇の中で息を殺し、何者かがこちら
ようす
の様子をうかがっているのがわかる。
「待って、火をつくるから!」
とな
呪文を唱えると、赤い火の玉が次々と空に浮き、周囲を照らした。
「キヤツー」
ひめい
ミランシャがくぐもった悲鳴をあげた。すぐ足元にナイフを三本、胸に刺したそれが倒
れていた。
旅立ちは突然に
ぱナもの
「化物に囲まれていたか」
毛むくじゃらの、人とも猿ともつかないl一本足の生物が、カイルロッド達の周囲を取り
囲んで立っていた。顔は熊によく似ている。背丈は長身のカイルロッドよ。、頭ふたつ分
も高い。しかし、四本脚の動物を無理に立たせたような、安定感のない立ち姿だ。
「見たことないが、これはルナン産の化物だろうか・・」
「緊張感のないこと言わないでよー」
きぽ む だ
ミランシャの金切。声を聞きながら、カイルロッドは化物を観察していた。牙を剥き出
するどつめ
し、時々鋭い爪のついた腕を動かしているが、一向に近寄ってこないところをみると、ど
うやら火を恐れているようだ。
ほのお
「こいつらは火を恐れている。ミランシャ、こいつらを一度に焼き尽くせるような炎はつ
くれないか?」
だめ
「駄目。ごめんなさい」
あっさり言われ、カイルロッドはよろめきかけたが、どうにかこらえた。
す             よだれた
腹を空かせているのか、大量の瀕を垂らしながら化物達が、カイルロッド達の周囲をグ
にご      けいけい        うな
ルブル回。出した。濁った赤い目を胴々と光らせ、低い唸。声をもらしながら周囲を回る
化物に、ミランシャが悲鳴をあげた。
「キャー、どうにかしてー」
たたか                おれ
「どうにかって言われても、短剣とナイフだけで闘える相手じゃないな。相手の数と俺の
技量に問題がある」
困ったものだ、とぼやくと、下からミランシャがカイルロッドをねめつけた。
あわ
「どうしてそう冷静なのよー 少しは慌てなさいよー」
「・・」
にぎ
賑やかな声に顔をしかめたカイルロッドの耳に、低いがよく通る男の声が聞こえた。
「おやおや、俺の他にも石になっていない人間がいたとは。これは驚いた」
どこか人をくったような声は上から聞こえた。反射的に顔を上げると、黒い物体が落ち
て来て、カイルロッドの足元に転がった。
.1 1
悲鳴を飲み込んだミランシャが、カイルロッドの腕にしがみつく。転がっているのは、
化物の首だった。それもひとつやふたつではない。
「手助けしてやろうか?」
笑いを含んだ声がして、黒い人影が音もなくカイルロッドの前に舞い降りた。
旅立ちは突然に
2
カイルロッド達の前に姿を現わしたのは、黒い髪の大男だった。がっし。とした体格は、
ダヤン・イフエと並んでも見劣りしないだろう。黒い短衣とズボン、腰には長剣と短剣を
一本ずつ刺し、背中にも一本背負っている。
ほうこう   ばけもの  いつせい おそ
下に降。た大男に、鴫噂をあげ化物遠が一斉に襲いかかった。ぎこちない立ち姿とうっ
ぴんしよう                 つめ きば ひらめ
て変わった敏捷な動きで、大男を八つ裂きにせんと、爪と牙を閃かせる。
すっと大男の腰が落ちた。次の瞬間、血を撒き散らし、化物の首が飛んだ。いつ剣を抜
すごーフて
いたのか、カイルロッドにもミランシャにもわからなかった。凄腕だ。
にい
「長剣が必要なら貸してやるぜ、兄ちゃん」
持っている剣をカイルロッドに放り、男は背中の剣を抜いた。異国風の反。のある刀身
すペ
を、白い光が滑。抜ける。
おれ    にがて
「俺、長剣は苦手なんだ」
いやいや                    ちせつ
短剣をしまい、カイルロッドは嫌々長剣を構えた。短剣はともかく、長剣の稚拙さはダ
おりがみ
ヤン・イフエの折紙つきだ。
「しっかりしなさいよ、卵王子−」
護身用の短剣を閃かせ、ミランシャ。
まじめ    けいこ
「こんなことなら、もっと真面目に剣の稽古をしておくんだったな」
かぽ
後悔先にたたずである。カイルロッドはミランシャを庇いながら、襲いかかってくる化
せじ
物を斬った。お世辞にも見事とは言えない剣さばきだが、なんとか倒している。
「しっかりやりなよ、兄ちゃん! 自分と女ぐらい守れないようじゃ、男やってる価値は
ねえぜー」
ほよノこAノ うめ
噛噂と呼き声をぬって、大男の底抜けに明るい声がした。
「簡単に言わんでくれ」
破壊力を秘めた化物の一撃をかわし、カイルロッドは長剣を握りなおした。視界に大男
の姿が入った。疲れも見せず、次々と化物を斬り捨てている。カイルロッドが一匹を倒す
間に、大男は少なくとも一〇匹は倒しているだろう。
「も1、やめた! あたしは魔女で、剣士じゃないんだからー」
たたか
短剣を振り回しているものの、まるで役にたっていないので、ついに武器で闘うことを
はうき
放棄し、ミランシャは小さな火をつくった。
しっこく
夜空の星に負けないほど多くの火が、漆黒の空間にうかぶ。
ほたる
「蛍みてぇだな」
ちゆよノ            つぶや
宙を見る余裕のある大男が呟いたが、カイルロッドは目の前の化物と闘うのに精一杯で、
とてもよそ見する余裕はない。
大男が評したように、魔女見習いのつくった火はとても弱々しいものだったが、意外に
も効果があった。
「グアァァァー」
蛍のような火に触れてしまった化物が、たちまち炎に包まれた。表面の毛が池っぽいた
め、かすかな火でも即座に燃え広がるのだ。
たいまつ    ぜつきよう
巨大な人型の松明となり、絶叫をあげ、それが苦しがって別の仲間にしがみつき、火が
広がっていく。どうやら知能はさほど高くないようだ。飛んで来る火と、火だるまになっ
おちい               どうしふノち
た仲間に、恐慌状態に陥った化物は敵味方の区別を失い、同士討を始めた。
り.タ
「倒す手間が省けたぜ」
むだ                        ようす
男が不敵に笑った。無駄のない動きで、短時間に次々と斬り捨てていく様子は、達人の
とよノてい             にがて    ふんせん
ものだ。カイルロッドはというと、到底達人のようにはいかないが、苦手の長剣で普戦し
た。
最後のl匹が胴を切断され、大きな音をたてて地面に転がると、緊張の糸が切れたのか、
すわ
ミランシャが下に座りこんだ。
旅立ちは突然に
だいじようぷ
「大丈夫か?」
うなず  こわ
カイルロッドが声をかけると、ミランシャは額き、「恐かった……」 と消えそうな声で
もらした。
おれ
「俺も恐かった」
おもも
ミランシャに手を貸し、カイルロッドは沈んだ面持ちで周。を見回した。
るいるい  しがい
斬。捨てられたもの、黒焦げになったもの、化物達の累々たる死骸が通りを埋め尽くし
ていた。
まゆね                つぶや
それらを見てカイルロッドは眉根を寄せ、死者のための悔やみを呟いた。
「王子?」
見上げるミランシャと目が合った。
おそ              のざら        カlわいそう
「襲ってきた化物とはいえ、ただ野晒しにされるのは可哀欄だと思って」
「人が好いんだ、王子って」
ひぎ
立ち上が。、膝をはたきながら、ミランシャが微笑した。その口調と微笑は一〇歳も年
上の女性のようで、カイルロッドは年上の女性を前にした少年のような気恥ずかしさを感
じた。
「いや、他にも石になっていない人間がいたとは、感激だ。よく無事だったなぁ」
さや
剣を背中の鞠におさめ、大男が近づいて来た。歳は四〇代後半から五〇代前半、陽に灼
セいかん
けた顔は精博で、一見すると重厚で近寄りがたい。しかし、少し口元をほころばせただけ
みよう
で、妙に人なつこい顔になる。
うれ
「こっちも嬉しいですが・・あなた、今までどうしていたんですフ」
ぬぐ
剣を返し、カイルロッドは顔に飛んだ血を乱暴に拭った。男は返り血ひとつ浴びていな
い。
「そうよね。あたし達は昼間、石になっていない人を探して、街の中を歩き回っていたの
よ。ひょっとして、おじさんは外から来たのフ」
みやこ
「いやいや、俺は昨日から都にいたよ。その、ついさっきまで寝ていたんだ。昨夜、飲み
すぎちまってな」
.1II II、
あき            ぷしよう       あご な
カイルロッドとミランシャの呆れたような視線に、男は不精ひげでざらつく顎を撫で回
し、苦笑した。
「こみいった事情の前にさ、お嬢ちゃん。その、おじさんって呼ぶのはやめてくれよ。ま
あ、お嬢ちゃんから見れば、おじさんだけどさ。俺にはイルダーナフという名前があるん
だぜ」
旅立ちは突然に
「あたしにもミランシャって名前があるわ」
きれい
「ほう、ミランシャ。綺麗な名前だ」
憎めない笑顔をそのままカイルロッドに向け、
「こっちの兄ちゃん、おっと、失礼。こちらが有名なルナンの王子様ですな」
しばい     おおげき えしやく
芝居のように大袈裟な会釈をした。人を食った男である。しかし、どうも憎めない。
けつこよノ
「俺が有名な卵王子ですよ。しかし、口調を改めなくて結構です」
そ け
カイルロッドは素っ気なく言い捨てた。この男に敬語なんか使われると、どうも背中が
むずむずする。
「そうかい。そんじゃま、そうさせてもらおう」
とんちやく                         むくろ
身分に頓着する人間ではないらしく、そう言うと転がっている骸をどかし、イルダーナ
すわ
フは火の前にどっか。座。こんだ。
「まあ、あんたらも座りなよ。詔はそれからだ」
おいでおいでをしているイルダーナフを見ながら、カイルロッドは意味もなく首筋を掻
いた。他にも石になっていない人間がいたのはいいが、なかなか食えない男のようだ。
なりわい    とうぞくたいじ
「俺はあてもなく諸国を旅している。生業は剣士。盗賊退治や用心棒、金を積まれ。や、
たいがいのことは引き受ける」
長剣の手入れをしながら、そんな風にイルダーナフが話をきりだした。
盗賊退治の仕事を終えた足で、ルナンに入ったのが昨日の夕方。そのまま酒場で夜中ま
たかいぴき
で飲み、あとは宿屋のベッドで異変に気づくことなく高射をかいていたそうだ。目が覚め
ると夕碁で、街が静まりかえっていることに不審をおぼえ、部屋の外へ出てみると、宿の
人間が石になっていたという。
やつ              ぱけもの
「で、そのまま街に出て、石になっていない奴を探していたら、突然、あの化物に襲われ
たんだ。ま、あんな連中、俺の敵じゃないがな」
さや
長剣を韓におさめ、イルダーナフが鼻で笑った。「あんな連中」相手に、かなり苦戦し
たカイルロッドは沈黙している。
まどうし              みやこけつかい
「あの化物− あれは絶対、魔道士ムルトの手下だわ。ルナンの都に結界を張ったうえ、
こんじようわる
化物を残すなんて、なんて根性悪なのかしら!」
地面を叩き、ミランシャが吐き捨てた。
「魔道士ムルトフ・あのフ」
おもしろ     ゆが
イルダーナフは軽く目をみはり、それから面白そうに口を歪めた。
「知ってるのフ」
旅立ちは突然に
うわき                       むちやくちや
「ああ、噂だけだが。正体不明の魔道士で、性格と魔力が無茶苦茶だって聞いたぜ」
「そう、そのムルトが都に結界を張っちゃったのよ! ここから出られないの!」
たた                                か
パンパンと地面を叩くミランシャの横で、イルダーナフが「そいつは困った」と頭を掻
いたが、表情はまったく囲っていない。
おの  ぜんとたなん か
ミランシャとイルダーナフの会話を聞きながら、カイルロッドは己れの前途多難を噛み
たたか
しめていた。性格と魔力が伝説化するようなとんでもない魔道士相手に、どうやって闘っ
ちセつ
たらいいものか。特殊能力はない、剣は稚拙、これで勝てるはずがない。
rllヽ
「盆栽づくりなら負けない自信はあるんだが。石にならなかったのがダヤン・イフェとか、
武人や魔法使いだったらよかったのに」
なぜ
何故、自分が残ったのか、恨めしい気分になった。腕に自信がない以上、金にあかせて
ほうもつこ        かりいlまよノ
人をかき集めるというのが最善の策だが、そのもくろみは宝物庫を開けた瞬間、水泡に帰
した。
ほうぴ
「ムルトを倒したあかつきには、なんでも望みの褒美をとらす。うーん、でもこれで引き
やつ
受けてくれる奴はまずいないだろうなぁ」
ぐち
無意識のうちにカイルロッドの口から愚痴がこぼれた。それを聞いたイルダーナフの黒
ぶつそう
い目が物騒に光った。
おもしろ
「ムルトを倒したら褒美は望むままだってフ そいつは画白そうだ。どうだ、卵王子。こ
やと
のイルダーナフを雇わないか」
「え?」
カイルロッドは自分の耳を疑った。
「俺を雇わないかと言ってるんだよ。若いくせに耳がとおいのか、おまえさん」
バンと背中を叩かれ、カイルロッドは咳きこんだ。
..ノ.Lパ
「ちょっと待ってくれ。ムルトを倒すのは大変なんだろフ 文字通り命懸けになるかもし
ぴんlぎうこく
れない。それに、その、褒美は望むままと言っても、ルナンは貧乏国なんだ。命懸けの仕
事に見合った褒美を出せるかどうか ・」
黙っていればいいようなことを、咳きこみながら正直にしゃべっているカイルロッドを
ばか
見、ミランシャは 「馬鹿正直ね」 と呆れ、イルターナフはこヤこヤ笑いをはりつけ、
「王族や貴族なんていう連中は、他人が自分のために働くのは当然と思っていやがる。馬
いば
鹿のくせに威張ってるもんだ。ルナンの卵王子は生い立ちだけでなく、性格も変わってる
んだなあ」
すご
大きな身体を揺すり、豪快に笑った。陰湿さのない明るい笑いだった。剣の腕は凄いが、
えたい
どこか得体の知れない大男を、カイルロッドは頭から信用してはいない。にも関わらず、
旅立ちは突然に
この笑顔を見ると、つい気をゆるしてしまうのだ。
「物好きとしか言いようがないな。そのかわ。後になって褒美が少ないなんて、文句つけ
ないでくれよ」
くぎ
カイルロッドが釘を刺すと、凄腕の剣士は伏し目がちに微笑した。
もちろん
「褒美が昌的じゃないんだよ、王子。勿論、お宝は欲しいさ。だが、それ以上に欲しいも
んがあるんだ。わかるかいフ」
「というと〜」
はちんばんじよう
「波瀾万丈ってやつさ」
器用に片目をつぶ。、イルダーナフは破顔した。
「な一、そう思わないか、ミランシャ」
「さぁ、どうかしらね。少なくともあたしはごめんだけど。いくら宝を積まれても、あた
しならムルトを倒すなんて、遠慮するわ」
火に手をかざし、ミランシャはしれっとしている。
「おやおや」
やと
残念そうな表情を若い雇い主に向け、イルダーナフはおどけた仕草で肩をすくめた。
「野郎だけの旅ってのは味気ないもんだぜ。なぁ、王子」
「ま1、そうだな」
あいまい
カイルロッドは曖昧に笑った。複雑な気持ちだった。いなければいないで寂しいが、い
こわ
ればいるでうるさいような気がする。ミランシャが恐いので、ロにはしなかった。
みやこ
「しかしな、何事もここを出てからの話だ。まずはこの都から脱出しなくちゃ、話になり
ゃしねぇわな」
か,ごみ ただよ
凄味の漂う笑いを口元にはりつけ、イルダーナフが立ち上がった。何事かとカイルロッ
ド達が見上げていると、イルダーナフが腰の長剣を抜き、
やみ
「出て来なよ、そこの野郎。闇に隠れてこそこそと、他人様の様子をうかがっているんじ
ゃねぇ」
夜空の、赤く巨大な月を指した。
つか
カイルロッドがナイフを取り出し、ミランシャが短剣の柄に手をのはす。
なまぐき
生臭い風が吹きつけた。カイルロッドの髪とミランシャの髪が大きくなびいた。
いや         げす
「我が主人を卑しめる暴言を吐く、下衆な人間ども」
どこ          おお
乾き、かすれた声がして、何処からともなく、空を覆うほどの煽幅が飛んで来た。
しだい
それが月の前に集まり、黒い影が次第に別の形を作りあげる。
「まさか、吸血鬼け」
旅立ちは突然に
ミランシャが大きく目を見開いた。
「吸血鬼け」
するどlよんすう                    ぎようし
鋭く反賽し、カイルロッドは月の前に現われたそれを凝視した。
かわい   げぼく
「可愛い私の下僕を殺害し、主人を卑しめたきさまらを生かしてはおけぬ」
ちゆよノ
赤い月を背に、マントをひるがえした男が宙に浮いていた。
3
やみ
「我が名はレクスォール。永遠の闇に年きる者」
闇と同じ髪と目をした若い男 − 少なくとも外見上はカイルロッドと同じ歳ぐらいの男
が、底冷えのする笑みをはりつけたまま、ふわ。と屋根の上に降りた。
「吸血鬼などと、下品な呼び名をつけられるのは迷惑だ」
ごう.まん
傲慢で尊大な物言いに、「下品もなにも、そのとお。じゃないか」 と、カイルロッドは
思ったが、こういう性格の相手と議論する気もなかったので、黙っていた。
せいじやく
「私は我が主人ムルトの命によ。、ルナンの夜を護る者。夜の静寂を破る下等動物達には、
この世から消えていただこう」
やき
カイルロッド達を見下ろし、レタスォールが優しいとさえ言える笑みで、うやうやしく
胸に片手を当てた。
「勝手なことを  」
吐き捨てたカイルロッドの横から、
ぱけもの
「吸血鬼なんて、あたしの手にはあまる化物よー」
かか
早々とミランシャが白旗を掲げた。頼みの魔女見習いがこれでは、なんの特技もないカ
とはう
イルロッドは途方にくれるしかない。
「化物?」
そうぼよノ
レタスォールの双畔が赤く光った。
ぶんぎい
「下等動物の分際で、このレクスォールを化物呼ばわりするとは」
赤く燃える目に射すくめられ、死人のような顔色になったミランシャを背中に回し、カ
イルロッドはレクスォールを睨みつけた。
どこ
「ムルトは何処にいる」
む一だ
「我が主人を倒すつもりなら無駄なことだ、カイルロッド。たとえ、きさまでもな」
「? どういう意味だ?」
「知らぬがきさまのためよ」
あわ
ほんのl瞬だが、レタスォールの顔を憐れみがかすめた。
旅立ちは突然に
よーフす
その様子にひっかかるものを感じたが、カイルロッドは不安を奥へとおしやった。
どこ
「俺はムルトを倒さねばならない。ムルトは何処にいるー」
カイルロッドがナイフを取。出そうとすると、
「よしな、王子。相手はとびき。の化物だ。ナイフぐらいじゃ歯がたちゃしねぇ」
さや             とど
イルダーナフが鴇のついたままの長剣で、押し止めた。
「しかし・…⊥
ガれ まか
「ま、ここは俺に任せな」
とまど
戸惑う若い二人に、大男が軽く片目をつぶって見せた。それから上を見上げ、人なつこ
く笑った。
かげん
「おい、偉そうな態度の吸血鬼野郎。いい加減、こっちに隆。て来たらどうだフ なんと
かと煙は高い所が好きって言うが、おまえさん、そのくちか?」
ぱか
衷情と正反対の、あからさまに相手を馬鹿にした口調に、ミランシャが髪を逆立てた。
「あー、怒らせるようなことをー ちょっと王子、おじさんを止めてー」
つか
カイルロッドの脱を掴んで、「早く止めてよ!」とせっつくが、カイルロッドは黙って
いた。イルダーナフはわざと相手を怒らせようとしている。この吸血鬼は自尊心が強い。
そこを突けば、形勢逆転の糸口が見つかるかもしれない。
いと
が、レクスォールも馬鹿ではない。イルダーナフの意図することなどお見通しらしノ\
ノ、ず
微笑を崩さない。
「私を怒らせて、時間稼ぎでもするつもりか。少しでも生命を延ばしたいか。あさましい
ものだな」
けつこネノ                         じゆみよう
「あさましくて結構。こっちとら、てめえみたいな化物と違って、寿命短いんだ。生命は
惜しいさ。こんな気持ちは化物にゃ理解できねぇだろうぜ。なぁ、化物の兄ちゃん」
さや
イルダーナフも笑みをうかべ、鞘つきの剣で肩を叩いている。
やみ
「ま、こんな闇の中でしか生きていられない化物にゃ、人間の気持ちなどわかちんだろう
よ。けどな、あさましく生命にしがみついてるのは、てめえのほうじゃねぇのかい〜」
よど        とげ                  つど         こわ
澄みのない声で毒の蹄が生えた言葉をつらつらと並べる。その度、ミランシャが顔を強
つめ
ばらせ、無意識だろうが、カイルロッドの腕に爪をたてる。痛みをこらえながら、カイル
ロッドは剣士と吸血鬼を見ていた。
こわ
「なまじ長生きしちまったもんだから、死ぬのが恐くて仕方ねぇか。他人の死にざまを見
すぎたからなぁ。てめえが殺した人間のな」
ギラリとイルダーナフの目が光った。いつの間にか、レクスォールの顔から笑みが消え
ていた。
旅立ちは突然に
いや
「ふふん。どうしたい、顔がひきつっているぜ。化物と呼ばれるのが嫌なのか? 化物が
嫌だったら、犬っころとでも呼んでやろうか? なにが永遠の闇に生きるだ。永遠にムル
し ぼ
トの顔色をうかがって、尻っ尾振ってるだけじゃねぇか」
丁・・犬だとフ」
老人のようにしゃがれた声が、レクスォールの口から洩れた。
「このレタスォールを、犬よばわりするとはー」
すさ
カッと赤い目が見開かれ、凄まじい光が発せられた。
TP.」
かなしば
カイルロッドは声にならない声をあげた。金縛。にあったように、身体が動かない。苦
労してイルダーナフを見ると、背中の長剣に手を伸ばしたままの姿で、同じように動けな
くなっている。
じゆばく
吸血鬼の呪縛にかけられた。
「いいざまだな。きさまらはすぐに殺してやるから安心しろ」
のど
喉の奥で低く笑い、
かわい おとめ
「こちらにおいで、可愛い乙女」
やさ    ささや
両手を広げてレタスォールが、優しい声で囁いた。その囁きに誘われるように、ミラン
あやつ
シャが歩いて行く。顔に表情がなく、人形のようだった。レクスカールに操られているの
だ。
「行くな、ミランシャー 目を覚ませー」
さけ            あいにく
そう叫んだつもりだったが、生憎と声も出せない。動けないカイルロッドとイルダーナ
フの前を、ミランシャが雲の上を歩くような足取りで、レクスヵールのほうへ歩いて行く。
ほは
冷たい汗がカイルロッドの頬をつたい、滴り落ちた。
くや
「悔しいか。もっと悔しがるがいい」
ちゆう
ミランシャの身体が宙に浮かび、レクスォールの腕の中におさまった。ミランシャの身
するどきば
体を抱え、闇の住人がニッと笑った。真っ赤なロが耳まで裂け、ゾロリとした鋭い牙が見
えた。
ぴみ
「乙女の血は美味だ。きさまらが死ぬのを見物しながら、私はゆっくりと食事させてもら
おう」
つぱさ                ぶきみ うごめ
手が動き、マントが翼のように広がった。風もないのに揺れ、不気味に漉いた。と、そ
へぴ                      おそ
れが黒い蛇となり、カイルロッド達めがけて真っ赤な口を開け、襲いかかった。
ここで死ぬのだろうか・・フ
金縛りになったままの状態で、カイルロッドは思った。
きよiノふ
死への恐怖より、罪悪感めいた感情のほうが強かった。人々が石にされた理由には、カ
から          まぎわ
イルロッドが絡んでいると、石になる間際、ダヤン・イフ工がほのめかしたではないか。
それが事実なら、石にされた人々を解放するまで、死ぬわけにはいかないではないか。
俺はまだ死ねない。
サイードの顔がうかんだ。
ダヤン・イフエ、ソルカンや街の人々の顔が次々とうかぶ。
頭の奥が熱くなった。
その時、カイルロッドは自分の内部でなにかが砕ける音を聞いた気がした。
ぜつきよう
絶叫が夜空に響きわたった。
切断された黒い蛇がイルダーナフの足元落ち、すぐ塵に変わった。
「なんだとり」
ごうまん                    さよよノがくゆが
ほんの数秒前まで、傲慢な冷笑をはりつけていたレクスォールの顔が驚愕に歪んだ。
にい    じゆばく
「残念だな、吸血鬼の兄ちゃん。呪縛は解けちまったぜ」
あお
塵を踏みつけ、長剣を手にしたイルダーナフが、レタスォールを仰ぎ見た。
「そんな……」
旅立ちは突然に
みにノー
レクスォールの顔が醜くひき歪み、身体が大きく揺れた。左胸に短剣が深々と突き刺さ
り、そこから信じられないほど大量の血が噴き出して、屋根の上を流れ落ちている。
「俺はここから生きて出なくちゃならないんだ」
ぴれい
カイルロッドは美麗な顔をしかめながら、もう一本の短剣を手にしていた。頭が割れる
ように痛む。
のぽ
なにが起きたのか、カイルロッドにはわからなかった。ただ、カッと頭に血が上ったと
思ったら、急に身体が軽くなったのだ。その後は考えるよ。先に身体が動き、レタスヵー
ルめがけて短剣を投げていた。
「私の力が流れていく・…・」
かたひぎ
片膝をついたレクスォールの腕から、ミランシャの身体が落ちた。
「王子う」
するど                            すペ
イルダーナフの鋭い声がとんだ。が、それより早くカイルロッドは動いていた。滑。込
んでミランシャを受け止める。気を失っているのか、腕の中の少女はぐった。していた。
「ミランシャー」
頻を軽く叩きながら名前を呼ぶと、ミランシャがゆっく。目を開けた。
けが
「怪我はないか?」
だいじようぷ
「ええ、大丈夫。怪我もしていないから、下に降ろして」
照れているのか、怒ったような口調のミランシャを下に降ろし、
あんど
カイルロッドは安堵に
顔をほころばせた。
「もう少し抱いていてもらえばいいのに」
「ふざけないでよ」
イルダーナフに冷やかされ、ミランシャが耳まで赤くなった。
げす
「下衆な・ 下衆どもに、この私が・ 」
めじhソ       つ      あつき
レクスォールの目尻がギリギリと吊り上がり、悪鬼そのものの顔になる。
「死んでたまるか・ 」
ひめしl
胸の短剣を引き抜こうとして、レタスォールが悲鳴をあげた。
「抜けないP.この短剣はなんだl? ただの短剣ではないなー」
流れる血はまだ止まらない。
まものよ                 しんかん
「俺の短剣には魔物除けの力があるそうだ。そう教育係の神官が言っていた。吸血鬼に効
果があるとは知らなかったが」
レクスォールの射抜くような視線を正面から受け止め、カイルロッドは静かに言った。
「魔物除け・…I」
旅立ちは突然に
つぶや        じぎやく        ゆが
呟き、レタスォールが自虐的にロ元を大きく歪めた。
「私は負けぬ」
短剣を刺したまま、レクスォールの姿が嫡幅に変化した。
「逃がすかー」
さけ
叫んだカイルロッドが、残った短剣を煽臆に投げつけたが、
まれた。
やみ
一息違いで闇の中に溶けこ
「くそっ」
「まあ、落ち着けよ」
あご           あと
舌幻ちしたカイルロッドの肩を叩き、イルダーナフが下を顎で差した。点々と血の跡が
続いている。
やつ ふかで
「見ろよ、奴は深手を負っている。血の跡をたどればいい。そして、魔物除けの短剣とや
らで、とどめをさせばいいだけだ」
ミランシャが短剣を拾って来て、カイルロッドに差し出した。
「ありがとう」
短剣を受け取ったカイルロッドに、イルダーナフがしみじみとした口調で一言った。
しんかん
「おまえさんの教育係ってのは、たいした神官だったようだなぁ」
「だが、ムルトにはかなわなかった」
さや               にが    つぶや
短剣を鞠におさめながら、カイルロッドは苦い笑みで呟き、
「夜はあいつの領分だ。簡単にはいかないだろうな」
なが
赤い月を眺め、目を細めた。
4
血の跡をたどり、三人がたどりついたのは神殿だった。
ぷんぎい     ねじろ
「吸血鬼の分際で、神殿を根城にしているとは。ダヤン・イフエが知ったら怒り狂うぞ」
とぎ  ちガま                       たたか
神殿で途切れた血溜りの前にたたずみ、カイルロッドはこの場に 「闘う神官」がいない
ことを心から感謝した。たとえ、神殿で説教している姿を見たことがなくとも、ダヤン・
なまみ
イフエは熱血神官なのだ。「もし、無事にダヤン・イフェが生身に戻れても、このことは
ちか
黙っていよう」、しつこい頭痛に顔をしかめながら、カイルロッドは心に誓った。
「朝がくればこっちが有利なんだけど」
夜明けまでもうわずかの空を恨めしげに見て、ミランシャがため息をついた。
「ま、それまで生きてられりやいいけどな」
黒髪の大男は、恐ろしいことをさらりと言ってのける。関りでミランシャが「そういう
旅立ちは突然に
こと一亨うの、やめてよ」と、泣きだしそうな表情にな。、「悪かったよ」、本気でそう思っ
ているか、はなはだ疑わしい顔のイルダーナフが、ミランシャの頭をくLやと撫でた。
「子供扱いしないでよ、おじさん」
あぷ
「おじさんから見ればお嬢ちゃんなんか、危なっかしい子供だぜ」
まか
「あたしが危なっかしいなら、おじさんは頼。ないじゃない。俺に任せておけなんて言っ
ておきながら、悪口並べたてていただけで、吸血鬼を倒せなかったじゃない。嘘つき」
「これは手厳しいな」
イルダーナフが肩をすくめた。
「だがな、ミランシャ。俺は嘘つきじゃないせ。俺が思っていたよ。も野郎が強かっただ
けだ」
ちやめ
茶目っ気たっぷりに笑われ、ミランシャもそれ以上は言えなくなってしまった。
りH .
頬を脹らませたミランシャと、笑っているイルダーナフを見て、「まるで親子みたいだ
な」と思いながら、カイルロッドはゆるんだ口元を手で隠した。口に出したら両力から反
発されるに違いない。
笑いを噛みころしながら、カイルロッドは神殿の門を開けた。
じさゆうせん         まちが
「俺も死にたくはないが、このまま持久戦にもちこまれたら、間違いなく俺達は負ける。
深手を負っていても時間がたては回復に向かうだろうし、俺達は飲まず食わずだ」
けつこん わな
「長引くほどこちらが不利になるってわけだ。たとえこの血痕が罠でも進むしかねぇな。
。しごく
地獄の一丁目に出発だ」
言葉だけ聞いていると悲観的なのだが、口調と表情が明るいので、まったく逆の意味に
聞こえる。
「この男にはかなわないなぁ」
しみじみとカイルロッドは思った。タイプは違うが、どこかサイードに似ている。
「それじゃ、入るぞ」
神殿の内部を熟知しているカイルロッドが先頭に立ち、続いてミランシャ、最後にイル
ダーナフという順番で進む。
内部は真っ暗だった。ミランシャのつくったわずかな火だけを頼りに進んで行く。
入り口をまっすぐ進み、ホールに入ると、
.、 7 ・
「早速のお出迎えだ」
めんど・フ
待ってましたとばかりに、イルダーナフが背中の長剣を抜いた。カイルロッドも面倒そ
うに短剣を抜いた。
やみ        おにび
闇の中に無数の赤い鬼火が燃えている。
旅立ちは突然に
けもの
それは魔物の目だった。柱の影や物陰から、数十体の黒い獣が現われた。
いろいろ げぽく
「あの吸血鬼、色々と下僕がいるのね」
ミランシャが心細い声を出した。
「こいつらぐらい、俺一人でなんとかなる」
大男は不敵に言い捨て、身構えているカイルロッドに顔だけ向けた。
「王子、おまえさんは吸血鬼野郎を探し出して、とどめをさしてきな」
「俺が?」
ろこつ いや
カイルロッドが露骨に嫌な顔をすると、
がいじようぶ
「野郎は必ずここにいる。その短剣を持っているんだ、大丈夫だ」
たた き
さっさと行かないと叩っ斬るぞ、と言わんばか。の日ぶ。だった。嫌だと言ったら、本
やと
当に斬。かかられるかもしれない。「雇った剣士に殺されるなんて冗談じゃない」、仕方な
くカイルロッドは動き、それに反応して黒い獣数休が飛びかかった。
せんこう
カイルロッドが短剣を勤かすより早く、イルダーナフの長剣が閃光となった。身体をま
ひめい
っぶたつに切断された獣達は、悲鳴もなく塵となって消えた。
「おじさん、すごいー」
「言っただろ? こいつらぐらい、俺一人でなんとかなるって」
すなぶ しょうさん とくいげ
少女の索直な賞賛に、得意気にイルダーナフが胸をはった。
がんば
「俺も頑張ってみるよ」
いつしよ
この顔ぶれとl一緒にいると気持ちが楽観的になってくるのか、器用に手の中で短剣を回
しながら、カイルロッドは笑った。
すけだち                   かんペん
「へっ。助太刀に行ったら、死体になっていた、なんてのは勘弁してくれよな」
せりJ
手厳しい台詞を肩ごLに聞きながら、
かたき・フ
「そうなっていたら、敵討ちを頼むよ」
けつこん
後向きに手を振り、カイルロッドは血痕を追ってホールを後にした。
血痕は最上階のテラスに続いていた。
外は強い風が吹いていて、カイルロッドの長い髪が乱れた。
手摺りにもたれかかるように立っている黒い影を見つけ、カイルロッドは目を細めた。
注意しながら、ゆっくりと歩み寄る。
「…・本当にいるとは思わなかったよ」
「血痕が罠だと思っていたのか」
黒い影が動いた。
95  旅立ちは突然に
「そう思っていた」
カイルロッドの感情のない声に、わずかの間にやつれ、別人のように変わり果てたレク
ー、1
スォールが、目だけで冷たく笑った。足元に血漕。ができている。
「私はじきに死ぬ。きさまらを道連れにしてやろうかとも思ったが ・」
あふ
途中で言葉を区切り、レクスォールは胸の短剣にそろ。と触れた。血は乾くことなく溢
れ続けている。
さいご
「私も最期ぐらい、ムルトを見返してや。たいのでな」
けんお
レクスォールのかすれた声には、怒りと嫌悪が含まれていた。
「だが、私がムルトを裏切ったからといって、安心するのは早いぞ。私が死んだところで、
けつかい
ムルトの結界が解けるわけではない」
意地の悪い笑みを向けられ、カイルロッドはうんざりした。もしかしたら、この吸血鬼
こわ                       つぷ
を倒せば結界も壊せるのではないかと、淡い期待をしていたのだが、見事に潰された。
「レクスヵール、ムルトはそんなに強いのかフ」
ぐもん                    まじめ   うなず
愚問だと思いつつ、カイルロッドが訊くと、レタスォールは真面目な表情で領いた。
「強い。人間を吸血鬼にし、それを支配しているぐらいだからな」
それはおまえのことかと言いかけ、カイルロッドは質問を飲み下した。
おれ
「そうか。だがそれでも、俺はムルトを倒さなければならない」
さや
短剣を鞘におさめ、カイルロッドは静かに、だが決意のこもった声で言った。ふっと、
レクスォールの顔がやわらぐ。
「そうだな。きさまならムルトを倒せるかもしれない。・こささまならば」
いらだ
なにかを含んでいる物言いに、カイルロッドが苛」吏たしげに舌打ちした。
さわ
「いちいち気に障る言い方だな。なにが言いたいんだ。俺ならとはどういう意味だフ」
吸血鬼は答えのかわりに不思議な笑みをうかべた。嘲笑と同情の混在する笑み。その笑
みが雄弁に語っていた。「知らないほうがきさまのため」と。
「 どういう意味なんだフ」
′l
返事はない。カイルロッドの肌が粟だったのは、夜風のせいだけではなかった。
吹きつける風に、レクスォールのマントがはためき、カイルロッドの銀髪が波打った。
「  もしも」
しばらくの沈黙のあと、レクスォールがゆっくりと腕を上げ、
みやこ
「もしも、この都から出られた時は、北へ行くがいい。ムルトは北にいる。信じるかどう
かは、おまえの自由だ」
じぎやくてき               ちだま
北の方角を指して、自虐的に笑った。カイルロッドの足元にまで、血溜りが広がってい
97  旅立ちは突然に
た。
「…‥教えてくれ。あんたはなにを知っているんだ?」
思いきったように再び尋ねると、レタスォールは頭を左右に振った。
「私が知っていることは、ごくわずかにすぎん。自分で見つけるがいい、真実の自分の姿
をな・∴
レタスォールの言葉は、カイルロッドの胸を錐のように刺した。「真実の自分の姿」と
じっぶ
はどういう意味なのか。生い立ちや実父も関係しているのだろうか。
「真実の自分の姿とは、どういう意味だけ」
ちだま
力尽きたのか、レタスォールは問いに答えないまま、血漕。の中に倒れた。短剣の先が
背中を突き抜けた。
空がしらみはじめていた。夜明けだ。夜のベールを溶かし、光が広がっていく。
「…やっと、長い夜が明けた」
つぷや
老人の顔で呟いたレクスォールを、陽光が照らした。
「やっと……」
吸血鬼は灰になった。
地平線から太陽が現われ、黄金色の矢が世界を照らした。まばゆい朝の光を受け、カイ
ぼうぜん
ルロッドは茫然と立ちつくしていた。
「1億は何者なんだ?」
問いに答えてくれる者はなく、灰の中で短剣が冷たく光っているだけだった。
ダヤン・イフェの言葉が、レクスヵールの笑みが、頭の中でグルグル回っていた。自分
自身について、あまりになにも知らなかったことを痛感した。しかし、それに気がついた
今、答えてくれる者はいない。
世界にたった一人で取り残された子供のような心細さに、カイルロッドは両手で顔を覆
った。
背中から足音が二つ、駆け上がって来るのが聞こえた。
5
ぱけものしかばねむさん  みやこ
日の出とともに、通りを埋め尽くしていた化物の屍も霧散し、都はなにもなかったよう
なたたずまいを見せていた。
「夢が覚めたみたいね。悪夢だったけど」
むノヽろ
骸の消えた大通りを歩きながら、ミランシャがそう評し、「違えねぇ」とイルダーナフ
が苦笑した。
旅立ちは突然に
けつかい
「問題は結界だな」
つぶや
頭をおさえたまま、冴えない顔色でカイルロッドが弱々しく呟くと、心配してミランシ
ャが顔をのぞきこんだ。目と目が合った。
「どうしたの、王子。顔色が悪いわよ」
ひとみ
明るい茶色の瞳が不安そうだった。
「…・・少し、疲れただけだよ」
頭痛はおさまらず、時間とともに痛みがひどくなっていた。
「熱でもあるんじゃない?」
H...1
カイルロッドの額に手をのばしかけた時、
.・′
「ちっ、駄目か」
あわ
吐き捨てる声がして、ハッとしたミランシャが慌てて手をひっこめた。
むだ
「無駄だと言っただろう、イルダーナフ」
目を閉じ、ため息とともにカイルロッドが呟いた。
門の外に出ようと、体当た。した。、長剣で斬りつけた。と、あれこれと試していたイ
かlげんあきら
ルダーナフも、いい加減諦めたとみえて二人に向きなおった。
そろ  ひぽ
「どうする、お二人さん。吸血鬼は消えたが、このままじゃ三人揃って干乾しだぜ」
ぶつちようづら            ようす           おもしろ
仏頂面だが、事態に絶望している様子はなく、むしろ黒い目は面白そうに笑っている。
結界の外に出られる自信があるのか、投げやりになっているのか1
しかし、今のカイルロッドには、他人を観察する余裕などなかった。激しい頭痛にとも
なって吐き気がこみあげ、不快な冷たい汗が全身から吹き出していた。
「王子、顔が真っ青よ」
せいいつぱい
ミランシャの顔がかすんで見えた。立っているだけで精一杯だ。
「おい、卵王子。おまえさんの短剣を使ってみたらどうだ? 吸血鬼に効果があったんだ、
ムルトの結界を破ることもできるんじゃねぇのかつ」
じゆよノめん
門の前でイルダーナフが指を鳴らした。その音が頭に響き、カイルロッドは渋面になっ
た。
カイルロッドが返事するより先に、ミランシャが口を開いた。
「やってみる価値はありそうだけど、王子のかわりにイルダーナフがやってよ。気分が悪
いんだから」
おれ
「いや、俺がやるよ。俺の短剣だからな」
かなり苦労してカイルロッドは顔を上げ、
「心配してくれてありがとう」
旅立ちは突然に
痛みをこらえて笑いかけると、止めるミランシャを片手で横にどかせた。
門の前に行こうとした時、突然力が抜け、カイルロッドはよろめいた。そのはずみで、
ズボンのポケットから、指輪が地面に落ちて転がった。
「今までよく落とさなかったな」
かみなり
自分で感心しながら、指輪を拾おうとして指先が触れた瞬間、カイルロッドは雷にうた
れたような衝撃をうけた。
丁目」
頭の中でなにかがスパークし、全身の血が音をたてて逆流した。
指輪から光がほとばしった。
すご
と、同時に、正面からもの凄い力を受け、カイルロッドは後方に吹きとばされた。
「なんだ、こりゃけ」
まぷ
「眩しいっ!」
視界を染め上げる黄金の光の中、イルダーナフとミランシャの驚いた声が聞こえた。
眩しさと、下に叩きつけられた痛みで目を開けていられず、カイルロッドは固く目を閉
まぶた                       や    すさ
じたが、瞼を通して光が入。こんでくる。強烈な、あらゆるものを灼き尽くす凄まじい黄
金の光だ。
まひ
光と痛みがあまりに強烈すぎて、感覚が麻痺したのだろうか。五感を失って、黄金色の
やみ   ただよ
闇の中に漂っているような気分だった。痛みも苦しみもない。
はよノき
このまま、すべてを放棄して眠ってしまえたら……。
かんげ
甘美な誘惑に負けそうになった時、なにも見えない光の空間にポッンと、針で突いたよ
うな穴が見えた。あるいは、見えたような気がしただけかもしれない。
「出口だイ」
だれ
誰かが耳元で叫んだ。その芦がカイルロッドを正気に戻した。
「結界に穴が開いた、走れ! 門に向かって走れ!」
セつば                         めざ
切羽詰まった男の声を聞きながら、カイルロッドは光の中、出口を目指して走っていた。
息をするたび、身体が乳む。呼吸が苦しくなり、走りながら意識が薄れていくのを感じた。
「王子− どうしたのlフ しっかりしてー」
髪を振り乱したミランシャが、倒れているカイルロッドに駆け寄った。
みやこ                 けつかい
三人は都の外に脱出した。すなわち、ムルトの結界から脱出したのだ。だが、どうして
脱出できたのか、それはミランシャにはわからなかった。光が満ちた後、なにが起きたの
か理解できないまま、「出口だ−」というカイルロッドの声がした。どっちに向かって走
旅立ちは突然に
むが
ったらいいのかわからないでいると、イルダーナフに腕を引っ張られ、ミランシャは無我
ト.ベ・.
夢中で走っていた。
気がつくと、あの光は消えていた。そして三人は門をくぐ。抜け、都の外に出ていたの
である。
「王子、出口って ・」
ヤ.11
ミランシャはわけがわからず、カイルロッドに説明を求めたが、肝心の王子は外に出る
な。倒れてしまった。
「王子を心配する気持ちはわかるが、ここはゆっく。と休ませてやりなよ、ミランシャ」
起こそうとしているミランシャの肩に手を置き、イルダーナフが真顔で言った。死人の
こんこん                          あわ
ような顔色で、昏々と眠っているカイルロッドを見下ろす黒い日には、憐れむような光が
あった。
「イルダーナフ・…⊥
やつかいごと ぼけもの
「卵王子はな、この先、星の数ほどの厄介事と化物の歓迎を受ける身だ。休めるうちに休
ませておいてやろうや」
なだ                     かつ
心配しているミランシャをそう宥め、イルダーナフはカイルロッドを楽々と肩に担ぎ上
げた。
「待って、王子が右手になにか持ってる」
こぷし
固く握りしめた拳を開かせようとすると、
「それは指輪だ、放っておきな」
イルダーナフに止められた。気を失いながら、カイルロッドは指輪を握りしめていた。
幼児が母親の服の裾を握りしめて離さないように。
「長い旅になりそうだぜ」
ゼれ
誰にともなく呟いて、イルダーナフは一度だけ都を振り返り、後は一刻でも早く離れよ
うとしているのか、足早に歩き出した。
ミランシャが黙ってその後ろ姿を追った。
旅立ちは突然に
けはい
三章 空に嵐の気配
みよう
頭が割れるように痛み、時々吐き気がこみあげる。身体が妙に重く、寝返りをうつこと
おつくう
すら億劫だった。
「…・最初からこんな調子で、ムルトを倒せるんだろうか」
てんやレよれノ
しみだらけの天井を見ながら、カイルロッドは情けなさそうに独白した。
ルナンから脱出したカイルロッド、ミランシャ、イルダーナフの三人は街道を北に進み、
こんすい
小さな街に宿をとった。もっともカイルロッドはずっと昏睡状態だったので、ルナンを出
てから宿に泊まるまでの過程を知らない。
なぜ
「何故、北に進路をとったんだ?」
そうカイルロッドが問うと、
「だって、王子がうわごとで、北にムルトがいるって言っていたから」
にぶ
ミランシャはクスクス笑った。他にもなにか笑われるようなことを口走ったらしい、鈍
いカイルロッドにもわかった。
ゆか きし          とぴら        にお
床の乳む音が近づいて来て、扉が開いた。旨そうな匂いが部屋に流れこみ、盆を持った
ミランシャが入って来た。
「お待たせ。シチューをもらってきたわよ」
「ありがとう」
固いベッドから身体を起こし、カイルロッドは盆を受け取った。
ルナンを出たら別行動すると公言していたミランシャだが、突然倒れたカイルロッドが
気になったのか、知らん顔して行くのも後味が悪いと思ったのか、とりあえずここまでは
いつしよ                    めんどう
一緒について来た。世話好きなのか、あれこれと面倒をみてくれるので、カイルロッドは
大助かりだった。
うれ
嬉しそうにシチューを食べているカイルロッドを見ながら、
「そうだ、忘れるところだったわ」
ミランシャがごそごそとなにかを取り出し、カイルロッドに見せた。
「余計なことかもしれないけど、こうしておけば落としたりしないでしょうフ」
かわひも
それは指輪だった。長い皮紐に通してあり、首にかけられるようになっている。
旅立ちは突然に
「探しても見つからないから、てっき。無くしたかと思っていた」
ちゆうナワよ
食事の手を止め、指輪を受け取ろうとしてカイルロッドは一瞬、躊躇した。ルナンを脱
かみなり
出する前、落とした指輪を拾おうと触れたとたん、雷に打たれたような衝撃を受けた。そ
のことを思い出し、つい手を止めてしまったのだが、ミランシャはカイルロッドが気を悪
くしたと思ったらしく、
「やっぱ。余計なことだったフ」
心細そうに、まばたきをした。
「いや、違うんだ。その、また光りだしそうな気がして」
あわ                    うなず
慌てて弁明すると、同意したミランシャが大きく領いた。
「本当にあの時は驚いた。ねぇ、王子。この指輪には、なにか仕掛けがあるんじゃない
のフ」
指輪を受け取って首から下げ、カイルロッドはなんとも複雑な表情をした。
「……ダヤン・イフエはなにも言ってなかったけどな」
指輪を見つめる青い目が曇る。
ト..・、
「もっとも、父は形見があるとも言わなかったが……」
おそらく、この指輪にはなにかが隠されているのだろう。生い立ちや死んだ母に関する
ことか、顔も名前も知らない実父に関わることか、それはわからない。しかし、カイルロ
まちが
ッドに深く関わりのあることに間違いはない。だからこそ、サイードもダヤン・イフェも、
今までカイルロッドに形見のことを黙っていたのだろう。
「ところで、イルダーナフは?」
指輪を服の下にしまい、カイルロッドは話題を変えた。いくら考えたところで答えは出
ないのだ。吸血鬼レタスォールの言葉ではないが、自分で見つけるしかないのである。
「真実の自分の姿」 とやらを。
おれ
「目を覚ましてから半日、俺はまだ一度もイルダーナフを見ていない」
ろぎん
「それがね、路鍍稼ぎに行くって宿を出たまま、帰って来ないの」
ミランシャがため息混じりに言った。
「路銀稼ぎねぇ・ニところで、ここの宿代はどうなっているんだフ」
にわかに不安を感じ、恐る恐るミランシャに訊くと、
もかりろん
「勿論、後払い。だから、おじさんが路銀を稼いでこないと、とっても困るのよね」
さきや
さらに小声で囁かれ、カイルロッドはこめかみをおさえた。「これでイルダーナフが逃
lまめ
げていたり、路銀を稼いでこなかったら、俺は宿屋で皿洗いする羽目になるんだろうな」、
きんけつぴょうぜんとたなん
金欠病が前途多難に拍車をかけている。
旅立ちは突然に
「ま、あの男なら金をかき集めて来るだろうさ」
ひきつった笑いをはりつけたまま、カイルロッドはシチューを食べる作業を開始した。
空腹だとろくなことを考えなくなるものだ。
ミランシャは少しの間、カイルロッドを見ていたが、
「…・王子も元気になったようだから、あたし、ここでお別れするわ」
つぶや
伏し目がちに呟いた。カイルロッドが顔を上げた。
「あたしは南に行く用があるから」
「・…・反対方向だな」
じきに別れるとわかっていたのに、改めて言われてカイルロッドは動揺した。たった数
日だが、共に苦難を切。抜けたことで仲間意識が生じていたのかもしれない。が、そうし
た感情をおもてに現わさず、
いろいろ
「…・今まで色々とありがとう。ずいぶん世話になってしまった」
カイルロッドは笑顔で、ミランシャの前に手を差し出した。
「元気でね。・ 応援してるから」
ミランシャがカイルロッドの手を握った。少女の手は小さく、少し冷たかった。カイル
ロッドはほんの少し、提る手に力をこめた。
「また、どこかで逢えたらいいわね」
さげ
少し寂しげに、ミランシャが手を離した。
「君も元気でこ・」
きやしや
ふわふわした髪を揺らした華脅な後ろ姿が扉の外に消えた。床の軋みが遠ざかり、ゆっ
くつおと
くりと階段を降りて行く靴音を、カイルロッドは目を閉じて聞いていた。
「う……」
寝苦しさにカイルロッドは目を開けた。
食事を終えてから、ベッドに横になったのだが、いつの間にか寝入っていたようだ。
「西側にベッドなんか置くなよ」
ベッドの横の窓から、ギラギラとした夕日が射しこんでいる。これでは寝苦しくて当然
だろう。暑さに耐えきれず、カイルロッドはベッドから下りた。
だれ
そして、何気なく部屋を見回した。誰もいない。ミランシャは戻って来ず、イルダーナ
ようす
フが帰って来た様子はない。
「このままでは皿洗いかもしれんな」
位置をずらそうと、ベッドを引っ張った時、寒気がした。汗をかいたせいかもしれない。
旅立ちは突然に
くしゃみが出た。
一一・一 .、1
おかん                けいれん
ゾクッと悪寒が背筋を買いた。次の瞬間、身体が痙攣し、カイルロッドは立っていられ
ひぎ
なくなった。床に両手両膝をつく。身体がギシギシと音をたてて乳み、痙攣と乱みが交互
お一で
に襲ってくる。
「なんだ、これは−」
きけ
叫んだつもりだったが、声が出なかった。
時間にすれば、その苦痛は数十秒程度だった。痙攣と乱みがおさまり、やれやれと立ち
上がろうとした。が、立てない。
1・11・、・・・・・」
カイルロッドは恐怖を感じた。なにかが違うのだ。まず、視点が違う。ずいぶんと高く
なったような気がする。いや、気のせいではなく、明らかに高くなっている。
いわかん                    なが
違和感に、恐る恐る首を動かし、周囲と自分の姿を眺めて見た。
すぐ下に衣服が脱ぎ散らかされている。
かつしよノ、      あし
その横に褐色の長い四本の脚。
後方で揺れている白銀色の長い毛。
∴..ここここ.
のぼ
全身から血が引き、よろめいたカイルロッドの耳に、階段を上って来る足音が飛びこん
ろうばい
だ。この姿を見つかっては困る。しかし、隠れる場所もない。狼狽したカイルロッドは無
ゆか
意味に室内を歩きまわった。ドカドカと重い音が響き、床がミシミシと鳴る。
「お客さん、皿を下げに来ました。入りますよ」
とぴら
返事などしていないのに、宿屋の主人が勝手に扉を開けた。
「それとね、お客さん。少し静かにしてもらわ・・」
ふきげん
不機嫌な顔で部屋に入りこんだ主人は、正面にいるカイルロッドを見て、目と口をまん
丸にした。
「・…・どうしてここに馬がいるんだけ」
ぜつきよう            しようめつ
主人の絶叫に、カイルロッドの理性は消滅した。
馬 − 〓
さっかく
やはり目の錯覚ではなかったのだ。自分は馬になってしまった1
どうしていいかわからず、とりあえずこの場から逃げたい∵心で、カイルロッドは窓を
けやぶ                      たやす
蹴破った。幸い、部屋は二階だから、飛び降りるなど容易い。
だれ
「暴れ馬だー 誰か止めてくれ!」
宿屋の前の細い路地に立ったカイルロッドの上から、主人の金切り声が降って来た。
「どうして俺が馬にならなくちゃいけないんだけ」
と、叫んだつもりだったが、人の言葉にはならず、馬のいななきでしかなかった。
原因はさっぱりわからないが、馬になってしまったことは否足しがたい事実だ。カイル
おちい
ロッドは恐慌状態に陥っていた。とにかく、人の目につかないようにしなくてはならない。
どこか隠れ場所はないかと探しているのだが、
「暴れ馬だぁー」
「キヤアァ1」
ひめい                      たづな    きしゆ
悲鳴があっちこっちであがる。無理もない。街の通りを手綱もつけず、騎手もいない馬
すご
が凄い速さで駆けているのだ。どう見ても暴れ馬である。街の人々から見れば、とんでも
できごと
ない出来事だ。
夢なら早く覚めてくれと、泣きたい気分で走っていると、
「誰か止めてくれー」
なわ                        つか
騒ぎを聞きつけ、棒や縄を持った男達が次々と現われた。しかし、ここで捕まるわけに
はいかない。
「こうなりや、走れる場所まで走ってやる」
旅立ちは突然に
じぼうじき          ひづめ            ばくしん
自暴自棄になって、それでも人を蹄にひっかけないよう注意しながら菜進していると、
さえガー
カイルロッドの行く手を遮るように、ふらりと人影が現われた。背中に長剣を背負った黒
髪の大男、イルダーナフだった。手に縄を持っている。
じやま
「どうしてこういう時に限って、邪魔Lに現われるんだけ・」
カイルロッドは目を剥いた。
あせ
蹴り殺すわけにもいかないし、かといって捕まるわけにもいかない。焦って方向転換し
ょうとしたカイルロッドの前脚と竃に、イルダーナフの投げた縄がかかった。普通なら人
間が馬に引きずられるところだが、相手が悪い。
ぽかぢから
「なんて馬鹿力の男だー」
すご      あらが             じな
イルダーナフにもの凄い力で引かれ、抗うこともできず、カイルロッドは地場。をたて
て転倒した。
む′り
わっと人が群がる。
「すげぇや、あんたー」
「この暴れ馬はどうする?」
「おーい。暴れ馬はおさえたぜー」
よぺノす
倒れたカイルロッドと、倒したイルダーナフを因んで、人々が興奮した様子で講してい
る。
カイルロッドは必死に、イルダーナフに「俺はカイルロッドだ−」と訴えてみたが、徒
労に終わった。やはり馬と人間では、簡単に会議が成りたたないものだと、カイルロッド
は痛感した。
「その馬を私にくれないかフ」
群衆の中から、初老の紳士が進み出た。見るからに街の名士という感じだ。
かつしよく                   すば
「褐色の毛色に白銀のたてがみ、実に珍しい、そして素晴らしい馬だ。ぜひともこの馬が
欲しい」
おれ
「この馬は俺のものじゃない。暴れているのをおさえただけでね。他に持ち主がいるんじ
ゃねぇですかい?」
だれ
ぐるりと人々を見回し、イルダーナフは持ち主の名乗りを待っていたが、誰もいなかっ
た。「いてたまるかー」と、カイルロッドは心の中で吐き捨てた。
けつこう     だんな
「いないんなら、結構。この馬を旦那に売りましょう」
めまい                    なわしば
カイルロッドは怒りと目眩で、声も出せなかった。暴れてやりたくとも前脚を縄で縛ら
−まぎし                      ふところ
れ、動けないのだ。歯乱りしているカイルロッドの目の前で、初老の男は懐から金貨を取
り出し、イルダーナフに渡した。
旅立ちは突然に
117
「おやフ・首になにかかけているな」
うれ    なが
嬉しそうに眺めていた男が、カイルロッドの首にかかっている指輪に手を伸ばした。
かたみ  さわ
「母の形見だ、触るなー」
む                      とど
カイルロッドが歯を剥くと同時に、イルダーナフの長剣が初老の男を押し止めた。
のろ
「そういう物に手を触れちゃいけませんぜ。呪いがかかるかもしれねぇ」
文句を言いかけた初老の男の先を制して、イルダーナフが迫力のある低い声で言った。
こんきよ
根拠のない口からでまかせとわかっていても、イルダーナフに真顔と重々しい口調で雪Rわ
・、・・1
れると、妙に真実味をおぴて聞こえる。
「う、うむ。そういうことなら、やめておこう」
あいまい
曖昧な顔で男が手をひっこめると、イルダーナフが破顔した。
「さすが街の名士だけあって、物分か。がよろしいこって。旦那、長生きしますぜ」
ぬけぬけと言い、
「じゃ、こいつは旦那のものだ」
ふところ
受け取った金貨を懐にしまい、イルダーナフは前脚の縄をほどいて、カイルロッドを立
たせた。
やと
「雇い主を売。やがってー」
ひめい
腹がたったので、カイルロッドは後脚で立ち上がった。周りから悲鳴があがった。イル
きやじり
ダーナフを蹴ってやろうとしたのだが、それより早く胸を長剣の斡尻で突かれ、またも転
倒しただけだった。
「ま、おとなしくしてなよ」
息を詰まらせたカイルロッドに、イルダーナフが片目をつぶった。まるで、馬がカイル
ロッドだと知っているような口振りに聞こえた。
おれ
「イルダーナフー 俺だって知っているんじゃないかけ」
けんめい
懸命にイルダーナフを呼んでみるが、当然、理解してもらえるはずもない。
「そんじゃ、俺はこれで。楢で連れが待っているもんでね」
いなないているカイルロッドなど見向きもせず、イルダーナフはすたすたと歩いて行っ
てしまった。
絶望のどん底に落とされたカイルロッドは、街の名士風の男に引きずられるようにして、
連れて行かれた。
2
のろ          おんねん
いったい、これはどういうことだろう・…。ムルトの呪いか、レタスォールの怨念か
旅立ちは突然に
などと、売りとばされた先の馬小屋で、カイルロッドは苦悩していた。
すでに夜になり、世間ではこれから酒飲み遠が騒ぎ出す頃だ。
「馬小屋につながれるなんて、二度と経験したくないな」
一時の恐慌状態から抜け出し、少しは冷静さを取。戻したカイルロッドは、まず、馬に
かいも′、
なった原因について考えてみたが、皆目見当がつかなかった。
強いてあげるなら、知らないうちにムルトやレクスォールの魔力にかけられたという可
能性だが、そうだという証拠も、適うという証拠もない。
「卵から生まれただけで苦労しているのに、このうえ馬にまでなるなんて…こ」
人生の無情を噛みしめながら、カイルロッドは小屋を見回した。小屋には馬が五、六頭
っながれていた。道中で小耳にはさんだところによると、小屋の持ち主は馬狂いで、名馬
に目がないらしい。
かんていがん
「しかし俺を名馬だと思っているんだから、鑑定眼はあやしいよな」
小屋から逃げだそうと思えば、簡単に逃げだせるのだが、それでは夕方の二の舞だ。
「暴れ馬なんて冗談じゃない」、そう自分に言い聞かせ、しばらくおとなしくしていること
にしたのだが・・
「けれど、一生このままだったらどうしよう…・」
もっとも恐ろしいことを想像してしまい、カイルロッドはげんなりした。馬のままで一
生を終えるなんて、真っ平だった。なんとしても人間に戻る方法を突き止めねばならない。
だが、原因もわからないのに、解決法を見つけるというのは困難をきわめる。
「確か、くしゃみしたら馬に変わったんだよなぁ」
みみぎわ
手がかりといったら、その程度だった。がっかりしてうなだれていると、頭上から耳障
りな羽音がした。羽虫だ。「うるさいな」と思いながら、耳を動かしてみると、虫はカイ
はなづら         がゆ
ルロッドの鼻面に止まった。鼻がむず痔くなった。
「1日」
けいれん ぎし  おモ
大きなくしゃみが出た。同時に、あの時と同じ痙攣と軋みが襲った。
ぴんかん か
小屋の中の、正確にはカイルロッドの異変を敏感に嗅ぎつけ、他の馬連が騒ぎ出した。
きゆうセんぽう          そよノぞよノ
興奮して、馬房の壁を蹴ったり、厩栓棒にぶつかったり、馬小屋は騒々しくなった。
ただなかちようはんにん              lぎうぜん
その騒ぎの只中、張本人であるカイルロッドは情けない姿で、茫然と立っていた。
「いきなり人間に戻るとは」
鳥になった時、衣服は脱げている。したがって当然、人間に戻ったちなにも身につけて
とほよノ
いない。昼間の大通りでないだけましかもしれないが、このままでは宿に戻れない。途方
旅立ちは突然に
にくれていると、
「どうしたんだ、騒がしいな」
あわ      すみ      わら
人の声が小屋に近づいて来る。カイルロッドは慌てて、小屋の隅に積んである藁の中に
隠れた。
どろぼう
やって来たのは馬小屋の番人だった。突然馬連が騒ぎ出したので、馬泥棒でも入ったの
かと、すっとんで来たらしい。
これはカイルロッドにとって幸運だった。
ランプで小屋の中を照らし、異常はないかと点検している番人の後ろに回。込み、首筋
に手刀を一発。番人は声もなく倒れた。
かんペん
「すまん、勘弁してくれ」
一のやま
謝。ながら、カイルロッドは番人の服を剥ぎ取った。
それから宿に帰るまで、カイルロッドは大変な苦労をした。サイズの合わない服を無理
に着こみ、ランプがあったとはいえ、うろ覚えの道を街まで歩き、やっとの思いで宿にた
ど。つくと、もう真夜中だった。
這うようにして階段を上がり、部屋の前まで行くと、
「こりゃまた、ずいぶんと遅いお帰りで」
さかぴん   とびら
音を聞きつけたイルダーナフが、酒瓶片手に扉を開けた。
「イルダーナフ・」
じよよノぎlJ′ん                      なわ
酔って上機嫌なイルダーナフを見ていたら、馬だった時に縄をかけられて引き倒された
はんがん
とか、翰尻で突かれたとか、そういうことを次から次に思い出し、カイルロッドは半眼に
なった。
「よくも人を引き倒したり、どついたり、果ては金貨で売りとばしてくれたな……」
だれ
「引き倒して、どついて、売りとばした? 誰が?」
カイルロッドの恨み言に、イルターナフは驚いたように目を見開いた。すっとぼけてい
るのか、本当に知らなかったのか、表情だけでは判断しがたい。
つか
部屋の中に入り、乱暴に扉を閉め、カイルロッドはイルダーナフの胸ぐらを囲んだ。
おれ
「イルダーナ7、俺は馬になったんだ。理由なんか訊くなよ、俺が知りたいぐらいなんだ
からな」
「馬フ」
「そう、馬だ」
手を離し、カイルロッドは左手に握りしめていた物をイルダーナフに投げつけ、そのま
旅立ちは突然に
ま飛び退いた。
こしよjノ
「下の調理場から失敬してきた胡椒だ」
すばや
素早くベッドのシーツを剥がして口と鼻をおさえながら、カイルロッドが言った。
「ひでぇな、いきな。」
まともに胡椒を食らったイルダーナフが、何回も大きなくしゃみしながら、苦しそうに
文句を言った。
「あんたは平気のようだな」
ぷぜん
憮然として、カイルロッドはベッドに腰を下ろした。
「なんのことだ?」
鼻をこす。ながら、イルダーナフ。
「どうして俺だけ馬になるんだよ、不公平じゃないか」
できごと
口の中でぶつぶつと文句を言った後、カイルロッドは早口に夕方の出来事を説明した。
くしゃみをしたとたん、馬になったこと。暴れ馬にされて、そこでイルダーナフに捕らえ
られたこと。売られた先でくしゃみしたら、また人間に戻ったこと。などと、簡単に一通
り話し終えると、それまで黙って聞いていたイルダーナフが、「ああ、そういえば」 と、
手を打った。
「なにかを訴えるような目で俺を見ていたっ骨なぁ、あの馬」
「俺は必死で訴えていたんだー」
「会話がなくとも、人間と馬ても気持ちが通じるもんらしい」
「そういう問題じゃないー」
どな
怒鳴ったら息防れがしたので、カイルロッドは口をつぐんだ。ただでさえ疲れているの
つか
に、こんな掴みどころのない男を相手にしていると、疲労が増すだけだ。
「しかしなぁ、王子。おまえさんが馬になってくれたおかげで、こうして路銀も稼げたん
だから、悪いほうにばかり考えることはないんじゃねぇか?」
さゆうくつ   いす すわ
窮屈そうに椅子に座り、イルダーナフは酒瓶をカイルロッドに放った。
「路銀って・。もしかして、俺を売った代金だけか」
かねもう
「うまい金儲け話なんて、そうそう転がってるもんじゃないからな。その金のおかげで、
けやぶ    べんしよう
王子が蹴破った窓も弁償できたし、宿代も払えるし、悪いことばかりじゃあるめぇ?」
警口いくるめられ、カイルロッドは受け取った酒を一気に流しこんだ。まったく、この男
できごと
にかかると、どんな出来事でもたいしたことじゃなくなるのだ。
「いい飲みっぷりじゃねぇか」
イルダーナフが感心した口調になった。
旅立ちは突然に
「俺は底なしでね。酔ったことがない」
から
水でも飲むように酒を飲みはし、空の酒瓶を下に置きながら、カイルロッドはふと別れ
た少女の顔を思いうかべた。
「そう言えば、ミランシャはグラス一杯で酔ったよ」
ほーまえ             ひらめ
微笑んだカイルロッドの脳裏に、閃くものがあった。
「まさか・・⊥
カイルロッドは立ち上がった。青年の様子に、イルダーナフは高々と組んでいた脚をな
おし、身体を乗。出した。
「おい、どうしたフ」
「ミランシャだー ミランシャが俺に魔法をかけたんだ「」
「おいおい、あのお嬢ちゃんは見習いだぜ。鳥寄せと弱い火をつくること、できるのはそ
れだけだと言っていたがな」
「一度だけ、違う魔法を使ったことがある」
するど                  じやま
鋭く言い、カイルロッドは前に流れ落ちた髪を邪魔そうにかきあげた。
あれはイルダーナフと会う前、石にならなかったのは二人だけだと思っていた頃だ。ミ
けつかい
ランシャが魔女の見習いと知らずに、ムルトの結界で通れない門を開けてくれと、カイル
Hレゆもん とな
ロッドは頼んだ。その時、ミランシャはなにやら呪文を唱えたのだ。
「だが、門にはなんの変化も起きなかった。だから、それっきり忘れていたんだ」
「ははぁ、見習いがなまじ高度な魔法を使おうとしたもんだから、おかしな具合にかかっ
てしまったんじゃないか。そう、王子は考えているわけだ」
「そのとおり」
渋い顔で空の酒瓶を軽く脱とばし、
「さっきまで、馬になったのはムルトの魔力のせいだと思っていた。だが、ムルトの魔力
なら、石にならなかった三人に影響があるはずだ。だが、あんたは馬にならなかった。レ
クスォールかもしれないと思ったが、あいつは吸血鬼で、人を馬に変えるような魔力はな
い。俺の身近で魔力のある人間は一人、ミランシャだ」
すみ
酒瓶が部屋の隅まで転がった。
「で、どうするんだフ」
いすノ
反対の脚を組み、イルダーナフは椅子の背にもたれかかった。
「追いかけて、この魔法を解いてもらう。ミランシャは南に行くと言っていた。ミランシ
ャがこの街を出てから、まだ半日だ。すぐに追いつく」
話しながら、カイルロッドは服を着替えていた。馬小屋の番人の服は丈がたりない。
旅立ちは突然に
「それなら早いにこしたことはない」
大男がのそりと立ち上がった。
そして、靴をはいているカイルロッドの足元に短剣二本とナイフ、金貨の入った皮袋を
投げた。
「大事な短剣とナイフを忘れちゃいけねぇな。これらさえ持っていけば、後は必要なもの
なんぎねぇ。この街を出るなら、早いほうがいいぜ」
ごうまん
礼儀にうるさい者や、徴慢な王族であれば、イルダーナフのぞんざいな態度と口調に腹
つか
をたてるだろうが、カイルロッドは別に気にならない。掴みどころがなく、油断できない
むずか
男だが、嫌いになるのはひどく難しい。
「急ぐ理由でもあるのか?」
窓の前に立った大男に質問すると、
「まだ平気だが、そのうち人がやって来る。金貨五枚で買った馬がいなくなったとなりや、
なぐ
真っ先に疑われるのは俺だからな。おまけにおまえさん、番人を殴。倒しているんだ。俺
が金だけ貰って、馬も奪ったと思われちまう。その前に逃げるに限る」
「そういう問題もあったな」
短剣とナイフを身につけ、カイルロッドは苦笑した。もう笑うしかないという気分だっ
た。
128 こうして、カイルロッドとイルダーナフは、夜逃げも同然に街を出たのだった。
3
ミルク色の浪い霧がたちこめていた。
「すごい霧だな。前が見えない」
カイルロッドは白い息を吐いた。南に向かって夜通し歩き、明け方をむかえたのだが、
よネノす
霧のせいで周囲の様子がわからない。しかも、この季節にしてはひどく冷え込む。
まちが
「村も街も見えてこないな。途中で道を間違えたんじゃないかフ」
ターバンを巻き直しながらカイルロッドが言うと、
「一本道で間違えられるのか、王子は。器用なもんだ」
あいにく
イルダーナフに鼻先で笑われた。ここでなにかうまく切り返せればいいのだが、生憎と
そんな気の利いたことはできない。仕方なく、別の話題を持ち出す。
「イルダーナフ、前から言おうと思っていたんだが、その、王子と呼ぶのはやめてくれ。
いろいろ めんどう
これから旅をするのに、王子なんて呼ばれては、色々と面倒だ。それでなくたって、目立
つんだから」
旅立ちは突然に
「ああ。それじゃ、卵王子と呼ぼう」
「もっと悪いー」
「冗談だ。それじゃ、カイルロッドと呼ぶぜ。それでいいんだろ。本当におまえさん、か
らかいやすいな」
あっさ。と言われ、カイルロッドは沈黙した。
ねいろ
イルダーナフの後を黙々と歩いていると、霧の中からかすかな音色が聴こえてきた。
鈴の竜のようだ。澄んだ透明な音色がいくつも重なりあい、響く。
きれい
「綺麗な鈴の音がするな」
バ・ぐ
不思議そうに呟くと、ふいに前を歩いていたイルダーナフが立ち止まった。
「どうしたんだフ」
バH
「王子、俺がいいと言うまで、決して口をきくな。誰とすれ違っても決して声をかけちゃ
ならねぇ。また、なにを話しかけられても答えちゃいけねぇよ」
−フむ
背中を向けられたままなので、表情はわからないが、イルターナフの有無を言わせぬ強
い調子に、カイルロッドは「わかった」と約束した。どうやらただごとではないらしいが、
これからなにが起きるのか、カイルロッドには想像もできない。
かか
緊張と不安を抱えながら歩いていると、前方に人影が見えた。一人、二人ではない。数
十人が列をつくっていた。「どこかで葬式でもあったのだろうか」、カイルロッドはとっさ
にそんなことを考えた。しかし、こんな早朝から葬式をするとも思えない。
えたい           まゆ
得体の知れない異質さに、眉をひそめていると、鈴の音が大きくなった。
けはい
影のように、靴音も気配もなく、それが霧の中を近づいて来る。
こわ             いつこう             あや
恐いもの見たきで、影のようなd行を見ていたカイルロッドは、危うく声をあげそうに
なった。
サイードがいた。
ダヤン・イフェが、ソルカンが、ルナンの国民がいた。
そうした人々が、親しげにカイルロッドを呼ぶ。
「カイルロッド、こっちへおいで」と。
言い知れぬ恐怖に全身の毛が逆立った。サイードもダヤン・イフェも、ルナンで石にな
まぽろし
っているのだ。ここにいるのは幻だ。
カイルロッドは冷たい汗をかきながら、早くこの一行とすれ違ってしまうことを願って
∵−.
次々と横を通り過ぎて行く人々の中に、その顔を見つけ、カイルロッドは息を飲んだ。
列の最後に母がいた。
ひとみ
肖像画で見た若い母。一八歳の、若く美しい母が瞳に涙を浮かべて、カイルロッドを見
ている。
幻だと頭では理解していても、胸に熱いものが広がった。
「母上!」
さけ
そう叫んで、呼び止めてしまいたかった。
のど
喉まで出かかった言葉をこらえ、カイルロッドは母とすれ違った。
ム...イ
少女の面影を残した若い母が、悲しそうな瞳で横を通り過ぎて行く。
影のような一行は霧の中に消えた。
鈴の音が遠ざかり、やがて、なにも聞こえなくなった。
「あれは死霊の列だ」
しだい
次第に薄れていく常の中を歩きながら、イルダーナフはそんなふうに切りだした。
きげ        やつ
「死にきれなかった者、寂しい者、そんな奴らが霧の中をさまよっているんだとさ。すれ
違う人間を仲間に引き込もうと、親しい者の姿になって呼ぶんだそうだ」
「あんたは物知りだな」
後ろ髪をひかれる思いを振り切るように、カイルロッドはイルダーナフと肩を並べた。
はうろう
「あっちこっちを放浪していると、色々な話が耳に入るもんさ」
旅立ちは突然に
みれん
白い歯を見せたイルダーナフには、動揺や未練といったものは見当たらない。この男と
比べると、自分はまだまだ未熟なのだと痛感する。
薯がはれ、人家が見えてきた。小さな桐が丘の下にあった。
「ミランシャが南に向かっているなら、まずこの村で宿をとったはずだ。女の足ならこれ
よ。先には行ってないだろうぜ」
と、イルダーナフが言い、カイルロッドは村を見下ろした。
「静かすぎるな」
せいじやくみよう         さわ
これといって異常はないのだが、この静寂が妙にカイルロッドの気に障る。
「ま、とにかく行ってみようぜ」
そノ、だんそつけつ
即断即決のイルダーナフは、渋っているカイルロッドを置いて、歩調を速めた。
するど
村に入ったあた。から、カイルロッドは視線を感じていた。刺すような、冷たく鋭い視
線だ。
か.らく
注意して周囲を見てみるが、人どころか家畜の一匹もいない。そのくせ、視線はぴった
かんし
。とカイルロッドについて来るのだ。監視されているようだった。
「どうしたい、カイルロッド?」
やたらと周りを気にしているカイルロッドに、イルダーナフが声をかけた。
いや
「嫌な視線を感じるんだ」
吐き捨てると、
お.もしろ
「ほう。そりゃ、面白い」
イルダーナフは子供の顔になった。吉葉どおり、本気で面白がっている。
ぱけもの
「また化物でも出るのかなフ」
つまさき なが
出てほしいと言わんばかりの口調に、カイルロッドはがっくりうなだれ、靴の爪先を眺
めた。
「心配するな、化物が出たらぶった斬ってやるぜ」
・フれ
嬉しそうな声を聞きながら、カイルロッドは爪先で地面にのの字を書いていた。
はらんばんじよう
「俺は波瀾万丈なんか欲しくないんだ  」
ぼんきい            なつ
のんびりと、盆栽いじりをしていた日々が懐かしい。ルナンを出てから何日も過ぎてい
ないのに、ずいぶん月日が経過したような気がする。
重い足を引きずるようにして、カイルロッドは看板の出ている宿屋の前に行った。この
村で宿屋はこの一軒だけのようだ。
「朝早くからすいません」
旅立ちは突然に
とぴらたた     だれ
声をかけ、カイルロッドが扉を叩いてみるが誰も出てこない。
けはい
「人の気配がしねぇな」
けげん
大男は怪訝な顔をした。
「イルダーナフ。やは。、この村はおかしいぞ。陽が昇ったというのに、誰も起きて動き
出さない」
宿の周囲の人家を見ながら、カイルロッドはいつでも短剣を取り出せるよう、身構えた。
そのままで、警戒しながら村の中を歩いてみると、人どころか家畜すらいなかった。完全
に無人の村だ。
「どうなってるんだフ」
やとう                     ようづ
野盗に襲われたとか、村人が村を捨てて逃げたという様子ではない。宿屋の前に戻。、
じゅうめん                         こわ
渋面で独白したカイルロッドの横で、イルダーナフは宿屋の扉を壊し、
「ミランシャがいるかどうか、確かめる必要がある」
ごういん    あき
ずかずかと宿屋の中に踏み込んだ。「正論だが強引だな」、呆れながら、カイルロッドも
中に入った。
ちゆうぼう なペ
中は荒らされておらず、家財道具もそのままだ。ただ、厨房には鍋がかけっぱなしで、
テーブルには皿が並んでいる。少し前まで人がいて、朝食の用意をしていた途中、なにご
とかがあったという感じだ。
「ただごとじゃねぇな」
ずうずう
緊張感のまるでないイルダーナフが、図々しく鍋のシチューを皿に盛り、それをカイル
ロッドに突き出した。
「・・いいのか、他人の食事を」
「腹が減ったままじゃ、この先もたねぇぜ。それに放っておけば蕪焦げになるだけだ」
「それもそうだ」
つごよソ  ナ1し0つとく
二人は自分達に都合よく納得し、厨房で立ち食いを始めた。夜通し歩いて空腹だったの
で、カイルロッドはおかわりまでした。
「本当にミランシャはこの村に泊まったんだろうかフ」
食べながら、あれこれと考えてみる。まだそうと決まったわけではないが、ミランシャ
がこの村に泊まっていたとすれば、なにごとか事件に巻きこまれた可能性は大だ。
ぼんやりしていると、
だれ  とげらすきま  のぞ
「誰かが扉の隙間から覗いているぜ」
つぶや         すばや
扉に背中を向けているイルダーナフが低く呟いた。カイルロッドは素早くナイフを取り
出し、扉の隙間に投げつけた。
137  旅立ちは突然に
「わっ!」
ひめい
悲鳴があがる。皿を持ったまま、イルダーナフが動き、扉を開けた。
「なんだ、子供じゃねぇか」
拍子抜けしたような声に、カイルロッドが扉の外を見ると、服の袖をナイフで壁に縫い
とめられた少年がいた。
「な、なんだよ、おまえ達は−」
せいいつぱい    いかく           ひ
うわずった声で、それでも少年が精一杯強い口調で威嚇した。そばかすだらけの顔は陽
に灼け、いかにも利かん気そうな少年だ。黒っぽい巻き毛と快活そうな緑色の目をしてい
る。年令は一二、三歳ぐらいだろう。
ぼうず
「おまえ、宿犀の坊主かっ」
「坊主じゃねぇやい−エリオスって名前があるんだー」
どな
大声でエリオスが怒鳴。、イルダーナフが耳をおさえた。
「エリオス、この椙にミランシャって娘が泊まらなかったか?」
ぺノきんくき
ナイフを引き抜き、カイルロッドが訊くと、少年は厨散臭いものを見る目になった。
「どうしてそんなことを訊くんだよ」
「俺は・・」
ミランシャに用があるんだ、と言いかけ、カイルロッドは言葉を失った。
にい                けんか
「この兄ちゃんは、ミランシャの恋人なんだ。喧嘩して逃げられてなぁ。それをわざわざ
追って来たんだぜ。なぁ、涙ぐましいじゃねぇか。知っていたら教えてやってくれよ」
どな
イルダーナフがいけしゃあしゃあと嘘を並べた。「でたらめを亨っなー」、そう怒鳴りた
かかと
かったが、足の上にイルダーナフの踵が乗っていて、声が出せない。
「なっさけない男だなぁ」
lぎか
二一、三歳ぐらいの子供に馬鹿にされては、カイルロッドも身の置き所がない。
「ミランシャって、昨日、うちに泊まった客だよ」
「やっぱりな」
から                     やと
イルダーナフが目を細め、空の皿をカイルロッドに押しっけた。これではどちらが雇い
あわ
主かわからない。踵がどいたので、カイルロッドは慌てて足を引いた。思いっきり踏みつ
けてくれたらしく、指がじんじんする。
「ところで、村の人間はどうしたんだフ ミランシャはどうしている?」
皿をテーブルの上に置き、カイルロッドが顔だけエリオスに向けると、
「みんな、連れて行かれたんだ」
くちぴるか
泣いたような怒ったような表情で、少年は唇を噛みしめた。
旅立ちは突然に
だれ
「連れて行かれたって、誰にだいフ」
「ユーリンだ。ユーリンがみんなを連れて行ったんだ」
「ユーリン?」
カイルロッドとイルダーナフが顔を見合わせた。
4
LJ..J
「明け方、寝苦しくておれは巨を覚ました。そして何気なく、窓から外を見たんだ。そし
たら・⊥
そんな風に少年は話し始めた。カイルロッドとイルダーナフは、自分達で勝手にお茶を
すす
いれ、それを畷。ながら少年の話に耳を傾けていた。
「濃い霧の中を赤い光が飛びまわっていたんだ。それだけじゃなくて、いつの間にか村の
人が集まっていて、赤い光に誘導されるように、ふらふらとついて行くんだ」
ろうか
その中に両親を見つけ、部屋を飛び出したエリオスは廊下でミランシャとぶつかった。
ミランシャはエリオスが正気だと知ると、
「村の人は魔法にかけられているのよ」
そう言って、少年に小さな金属片を握らせた。
ごふ
「これ、護符だから持っていれば安全よ。それから、部屋から出ないでね。あたしはこれ
げんきよう
から、この騒ぎの元凶をつきとめてくる」
一方的に指示をして、ミランシャは赤い光を追うべく外へ出て行った。自分とたいして
歳の違わない客の身を案じ、エリオスは宿から出てみたが、霧はいよいよ深くたちこめ、
人影も赤い光も見えなくなっていた。
「ミランシャがけ・」
うなず
そこまで聞いて、カイルロッドはお茶を吹き出しそうになった。少年はこくっと領き、
だれ
「おれ、それから他にも残った人はいないか、村中を探したんだ。でも、誰もいなかった
・」
′1や
侮しそうに窓の外を睨みすえた。
やつかいごと
「 どうして自分から厄介事に首を突っこむんだ、あの娘はー」
カップを持つカイルロッドの手がわなわなと震えていた。気が強いのも、好奇心が強い
のも、それはそれで結構だが、ミランシャは自分が「魔女の見習い」であることを、自覚
していないのではないか。
やつ
「村人が消えた事情はわかった。けどな、坊主。どうしてそれが、ユーリンとかいう奴の
しわぎ
仕業だと思うんだ?」
旅立ちは突然に
おうへい
テーブルに足を投げ出し、イルダーナフが横柄な態度になる。こんな話を聞かされても、
よノちや
いつもと少しも変わらない。カイルロッドから見ると、まったく羨ましい神経の持ち主だ。
せきひ
「だって、あの赤い光は湖の方向に消えたんだ。湖にはユーリンを封じ込めた石碑がある
ふノヽしゆう
から、村人は誰も近づかない。ユーリンは村人に復讐するつもりなんだー」
けが
口にするのも汚らわしいと言わんばか。に、エリオスが吐き捨てた。テーブルの上で、
・・
握りしめていた拳が震えている。
「そのユーリンっていうのはフ」
おガ
お茶をいれてやり、少年の前にカップを置いてカイルロッドが穏やかに尋ねた。
「言い伝えなんだ」
カップを両手で包みこみ、エリオスは暗い衷情になった。
かつしよく     すば       はヂ
一〇〇年前、褐色の肌と黒髪の素晴らしい美女が桐外れに住みついた。美女はユーリン
という名前以外、自分のことをなにもしゃべらなかった。「なにか事情があるらしい」と、
村人はユーリンに、親切だった。
あいず
が、ユーリンが村に住みついてから間もなく、村長が変死した。それを合図にしたよう
に、次々と人々が変死した。
のろ                        やと
なにかの呪いではないか、不安になった村人達は道士を雇い、原因を突き止めてもらう
ことにした。
「ここには魔物がいる。このままでは村中の人間が魔物に殺される」
村に来た道士はそう、村人達に告げた。
「その魔物がユーリンだった、と」
はんがん                       づす
イルダーナフが眠そうな半眼になった。カイルロッドは黙って、二杯目のお茶を畷って
いた。
「それで、遺士がユーリンのところへ行ったら、魔物の正体を現わしたんだ。だから、村
たいじ
人と道土で退治したんだ。けど・…・」
エリオスの表情が沈む。
まぎわ    よみがえ ふ′、しゆよノ
「死ぬ間際に、『必ず起って復讐してやる』、そうユーリンは言い残したんだ」
昼なお薄暗い森の中を、カイルロッドとイルダーナフが奥へと進んでいた。
かんだか             ヂじよう
甲高い烏の泣き声が響きわたり、頭上をバサバサといくつもの羽音が横切る。
「ユーリンを封じた石碑のある湖っていうのは、まだ遠いのかなっ」
たけ                                     おれ
丈の高い革をナイフで切り、カイルロッドは道をつくっていた。「どうして俺だけ労働
しているんだろう」、イルダーナフなどその後を歩いているだけだ。
旅立ちは突然に
「森を抜けると湖があり、そこに石碑があると、坊主が言ってたぜ」
坊主という呼び名に、カイルロッドは後味の悪いことを思い出してしまった。
「・…イルターナフ、あれはちょっとひどいんじゃないかフ」
「ああでもしなきゃ、ついて来ちまうじゃねぇか。子供は足手まといだ」
さいな
罪悪感に苛まれているカイルロッドと対照的に、イルダーナフは「当然のことをしたま
こ1ト.1、
でだ」と、自信たっぶ。だった。即断即決のこの男は、自分のとった行動を後悔するとい
うことがないらしい。
なぐ  しつしん
「それにしても、殴って失神させて、気がついても追ってこないように柱に縛りつけるっ
ていうのは…・」
かしやく
柱に縛りつけられた子供のあどけない寝顔を思いうかぺ、カイルロッドは良心の呵責を
感じた。なにしろ、説明させるだけさせたら用済みとばか。の扱いである。イルターナフ
、.rl・・
がエリオスの鳩尾に一発くらわせ、失神したところを柱に縛。つけてきたのだ。エリオス
れつか
が日を覚ましたら烈火のごとく怒ることだろう。「俺だってそんなことされたら怒る」、し
かし一方では、イルダーナフの判断ももっともだと思う。
ひらあやま
無事に帰ったら、平謝りするしかない。そう心に決め、足早になったカイルロッドの視
界が、急に開けた。
こめん
森を抜けたらしい。正面に小さな湖があり、湖面が光に反射して輝いている。
澄んだ水とそのきらめき、降り注ぐ陽光。空はぬけるように青く、雲ひとつない。
森の中とうってかわった明るい風景に、ほっと一息ついたカイルロッドだが、次の瞬間、
激しい水音と湖の真ん中に人影を見つけ、青ざめた。
みずしぷき
水飛沫をあげ、もがいているのは、まざれもなくミランシャだった。
「ミランシャ〓」
さけ
カイルロッドは走り、湖に飛びこんだ。背後でイルダーナフがなにか叫んだようだが、
はっきりと聞き取ることはできなかった。
...バ
泳ぎは得意だが、水が冷たく、身体が思うように動かない。それでも溺れているミラン
シャのところへ行き、
「ミランシャ、しっかりしろ−」
つか
腕を摘んで顔を上げさせると、ミランシャが苦しそうに涙を流し、カイルロッドにしが
つめ
みついた。子猫のように爪をたてて、きつくしがみつくミランシャの身体が激しく震えて
いた。
「王子、下に気をつけてー」
咳きこみながらそう叫んだミランシャが、なにかに引きずりこまれるように、カイルロ
旅立ちは突然に
ッドの目の前で沈んだ。
「ミランシャー」
む ゼ
沈んだ少女を迫って、カイルロッドが潜った。ターバンがほどけ、髪が剥き出しになり、
水の中で広がった。
水中に潜ったカイルロッドは、その光景に自分の目を疑った。湖の中に、上から見た美
しさからは想像もできない光景があった。
湖底に人々が沈んでいた。村人だろう。
くもん ゆが           りふじん
透明度が高いので、湖底に沈んだ人々の苦悶に歪んだ表情まで見てとれた。理不尽な死
へ抗議するように、あるいは救いを求めるように、手足を硬直させ、顔を歪め、折。重な
るようにして沈んでいる。
しん  こご
見る者を芯まで凍えさせる光景に、カイルロッドの肌はそそけ立った。
ひも
その、墓場と化した湖底に、ミランシャが引きずりこまれようとしていた。足に細い紐
のような物が絡みついている。それがこうやって、村人を湖底に引きず。こんだのだ。
短剣を口にくわえ、カイルロッドはミランシャに追いつくと、足に絡みついているそれ
ふじよう
を切断した。そして、目で「早く逃げろ」と合図した。ミランシャが必死に浮上し、それ
を見守。ながらカイルロッドも水面に出ようとした。
と  − 。
かいそう
死体の間から、海藻のように黒く細長い物が生物のように伸び、カイルロッドの足首に
絡みついた。
「   −   ‖こ
それは紐でも、海藻でもなかった。髪だった。黒くて長い馨T−d
「ユーリンなのかけ」
考えがうっかり声に出てしまい、息がごぼごぼと泡になった。
カイルロッドの声に答えるように、湖底で長い髪が揺れた。
旅立ちは突然に
四章 夢より遠く
どうやって湖を泳ぎ、岸までたど。ついたのか、ミランシャは覚えていなかった。ただ、
むがむちゆう
無我夢中で両手足を動かしていたら、待ち構えていたように、イルダーナフが引き上げて
くれた。
ガいじようぷ
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
よく通る低い声を聞きながら、ミランシャは咳きこみ、苦しさに涙を流していた。
「王子が・⊥
あえ                せいじやく
喘ぎながら湖を振り返ったが、水面は静寂を取。戻していた。しかし、その下には村人
が沈んでお。、カイルロッドも引きこまれようとしている。
ミランシャはほんの少し前の悪夢を思い出し、胃の中のものを吐いた。
じごノ、
さながら地獄のようだった。
魔接にかけられた人々は、赤い光に誘われるまま、湖へと入って行った。そして、水の
つペ                     ひめい
冷たさで正気に戻ったものの、なす術もなく湖底に引きずりこまれていった。人々の悲鳴
ぜつきよう
と絶叫、助けを求める言葉、激しい水音、そういったものが目に、耳に、こびりついて消
えない。
だれ
「誰も助けられなかった・ 」
きようちゆよノ      うめ      あやつ      げんきよう
胸中でミランシャは坤いた。村人を操る魔力を感じ、元凶をつきとめようと、操られた
ふりをして湖まで来たのだが、魔女の見習いの手に負える相手ではなかった。
「イルダーナフ、王子を助けて・・」
かたひぎ                          さけ
横で片膝をついているイルダーナフを見上げ、ミランシャはかすれ声で叫んだ。髪の先
や服から水が滴り落ち、土に吸いこまれていく。イルダーナフは無表情に、ずぶ濡れの少
女を見ている。
「あたし…・助けてもらえるなんて、思わなかったの、だから・…」
しめ   つめ         のど                  あふ
湿った土に爪をたて、ミランシャは喉の奥で坤いた。苦しさとは別の、熱い涙が溢れ、
手の上に落ちた。
われ
ミランシャは魔法にかからず、湖に入らなかったが、突然目の前が暗くなり、我にかえ
った時、水の中でもがいていたのだ。
旅立ちは突然に
意識を取り戻した瞬間、ミランシャは死を覚博した。このまま湖底に引きず。こまれる
だれ
と疑わなかった。誰かが助けに来るなどと、そんな甘い期待はしなかった。それだけに、
おぽ            つか
溺れている自分の腕を誰かが掴んだ時、本当に驚いたのだ。まして、それが半日前に街で
別れたカイルロッドだったのだから、なおさらだった。
「お願い……−」
しlま    さけ            ひ や  せLY.かん   やさ   こ′、l、ふノ,
全身を引き絞るように叫ぶ。そのミランシャを、陽に灼けた精惇な顔に優しさと酷薄さ
ただよ          ぎようし
の混在する不思議な表情を漂わせ、イルダーナフが凝視していた。
おれ
「けどな、ミランシャ。俺が水の中に入っても仕方ねぇ」
なだ                        ひたい
子供を宥める口調でイルダーナフは言い、哀願する少女の級を人差し指で軽くつっつき、
片目をつぶった。
「だからよ、こっちはこっちのできることをするまでよ」
ひちめ
肉食獣のような笑みを閃かせ、大男は立ち上がった。
ゆらゆらと湖底に黒い髪が揺れている。
149 引きこまれながら、カイルロッドは短剣で足に絡みついている髪を切った。そして、全
速で浮上した。
むさぼ                           さけ
空気を貪り、ふと岸を見ると、無事に泳ぎついたミランシャがなにか叫んでいた。近く
に大きな石があり、その前で腕組みしたイルダーナフが、こちらを見物している。助ける
ために飛びこもうなんて気は、さらさらないようだ。
「あの石は……」
泳ぎながらカイルロッドは目をこらした。イルダーナフが前に立っている石〜−あれが、
せきひ
ユーリンを封じ込めている石碑ではないだろうか。
「王子、早く上がってー」
ミランシャの声が風に運ばれて来た。言われるまでもなく、カイルロッドはありったけ
の力で泳いでいる。
しかし、いくら水をかいても進まない。
「どうしたんだけ」
不安が胸をかすめた時、カイルロッドの前方がふいに泡立ち、大きな水柱が上がった。
いな
否、ただの水柱ではない。
ちようぞう
それは人の姿をしていた。水の彫像のような、透明な美しい女がそこにいた。
「・ユーリン?」
まぷ
湖面の反射と、光を通す水の彫像の眩しさに、カイルロッドは顔の前に手をかざした。
旅立ちは突然に
どこ
(アノ人ハ何処?)
目の前に水の彫像があるにもかかわらず、その細い女の声は、水の中から響いているよ
うに聞こえた。
「あの人フ」
目を細め、カイルロッドが尋ねた。
いと
(ワタシノ愛シイ人)
湖面にきざ波がたった。
(ワタシバアノ人ノ生マレタコノ村デ、スットアノ人ヲ待ッティタ。アノ人ト蓬エルコト
ヲ信ジテ、待チ続ケティタ)
「魔物が人間を?」
さわ
驚きがそのまま言葉になってしまった。意外そうなカイルロッドの言葉が気に障ったの
いや
か、湖面がにわかに荒くなった。高くなった波をかぶって、雛というほど水を飲んでしま
い、カイルロッドは咳きこんだ。
(魔物ダトフ ワタシヲ魔物こシタノバ誰ダー ワタシヲ殺シタ村人速ト、不実ナ男デハ
ナイカー・)
うず
波がおさま。、かわ。にユーリンを中心に渦を巻き始めた。
「ユーリン、それはどういう意味だlフ」
エリオス少年から聞いた「言い伝え」と違うではないか。答えを拒否するように水の彫
像は溶け、渦はいよいよ大きくなった。
木の葉のように、渦の中に巻き込まれながら、カイルロッドはもがいていた。魔除けの
いりよく
威力がある短剣で、水を切ってみたが、圧倒的な力に対してなんの効果もなかった。
そうしているうちに息苦しくなり、視界が暗くなりかけた。
すさ      ひめい
と、水中に凄まじい女の悲鳴が響きわたった。
同時に渦が消えた。そして、水が身体にまとわりつくような感じも消えていた。
しぽ
渦が消えた理由はわからないが、カイルロッドは気力を振り絞って、水面に浮上した。
それから岸まで夢中で泳いだ。振り返る余裕などなかった。
「王子−」
岸に上がると、泣き顔でミランシャが駆け寄って来た。
「半日ぶりの再会だな」
苦しい息で、カイルロッドは笑った。
「北に向かったんじゃなかったのフ どうして南に?」
「君に用があってね」
旅立ちは突然に
「コ
「あたしにフ」
「ああ。それは後で話すよ」
この状況で、くしゃみをしたら馬になったなんて話をしたら、ミランシャは恐慌状態に
おちい                  なだ
陥ってしまうだろう。そうなったミランシャを宥めるのも大変だろうと思ったので、と。
あえずその話は後回しにすることにした。
−....
「ところで王子、平気? どこか怪我してない?」
心配しているミランシャの肩を軽く叩き、カイルロッドはイルダーナフの方に足を向け
た。
「よぉ、水も滴る色男」
冗談だか本気だかわからない顔で、イルダーナフが片手を上げた。濡れてバサバサにな
った髪を片手でおさえながら、カイルロッドはイルダーナフの横に立ち、
せきひ
「それがユーリンを封じたという石碑かフ」
ちよよノど
二つに割れた石を見た。丁度真ん中あたりから割れているが、元は三メートル近い高さ
つぷや
の石碑だろう。イルダーナフは「だろうな」と呟き、石の断面を指差した。
なめ        えいり
「見てみろ、カイルロッド。この滑らかな断面は、鋭利な物で切断しなけ。やできないも
くず
んだ。自然に崩れたもんじゃねぇ。おまけに新しい。つま。、こいつはごく最近、誰かに
こわ              ふくしゆう           つじっま
壊された。だからユーリンが村人に復讐に現われた。そうすりや、辻襟があう」
「鋭利な物って、剣で切断されたとかフ」
なつとく    ももも
納得しかねる面持ちのミランシャに、
「少なくとも俺なら、刃こぼれなどせずに切断できるがね」
すごうで
凄腕の剣士はさらりと言ってのけた。
だれ
「誰が、なんの目的で壊したんだ?」
せんりがん
「知るか、そんなこと。俺は千里眼じゃねぇんだ。だが、村人じゃないことは確かだ」
「そうだな」
水を含んで重くなった袖を絞りながら、カイルロッドは苦笑した。
「しかし、やっと解放されたユーリンが、どうして急に消えたんだ?」
すっかり静かになった湖を振り返り、カイルロッドは独白した。すると、それを聞きつ
けたミランシャが、
けつかい
「イルダーナフが、石碑の周りに結界を張ったんですって」
石碑の下を指した。細い指の先を目で追うと、なるほど二つに割れた石碑の周りに、赤
い色砂で文様が描かれていた。
「意外だなぁ」
旅立ちは突然に
まじな
「なぁに。旅の途中で呪い師から聞きかじったもんで、たいしたものじゃない。効果があ
ってめっけものだ」
達者な幾何学模様にどういう意味があるのか、カイルロッドにはわからないが、聞きか
じ。とは思えない見事なものだ。
しかばね
「効果がなかったら、俺も湖底の屍になっていたのか。考えただけで寒気がする」
「もう一度、引きこまれたら諦めろ。その時は墓をたててやるからな、卵王子の蓋って書
いてよ」
真顔でぬけぬけと言われ、カイルロッドは二の句を失った。これも人生経験の差だろう
みよネノ
か。「今にみていろ。必ず言い負かしてやるぞ」、妙な闘争心を燃やしていると、
「俺は冗談を言っているんじゃないんだぜ、カイルロッド。封じたといったって、完全に
じゃない。一時的なものだ。おそらく、ユーリンは夜になったら復活するぜ。夜は魔物の
時間だ」
ぶきみ
イルダーナフに断言され、カイルロッドとミランシャは青ざめた顔で、不気味に静まり
かえった湖を見つめた。
155
2
たた                ふういん
おそらくユーリンの死体は湖に捨てられ、崇りを恐れた村人は、湖のほとりに封印のた
めの石碑を建てたのだろう。
足首に一筋だけ絡みついていた黒髪を取り、カイルロッドは湖底のおぞましい光景を思
い出していた。
いと
水の中でユーリンの肉体は朽ちた。けれど、愛しい男を待つ想いと、憎しみは朽ちなか
ただよ
った。一〇〇年 − 肉体は朽ちても想いは残った。愛と憎しみは水に漂い、水に溶け、ユ
ーリンは待ち続けていた。
愛した男を、永遠に来ない男を。
一〇〇年もたてば人は死ぬのだ。ユーリンの待つ男は永遠に来ることはない。
「それでも、これからもずっと待つのだろうか − 」
岸に火をおこし、濡れた服や髪を乾かしながら、カイルロッドはそんなことを考えてい
ひざ かか
た。隣りには腰を抱えたミランシャがいて、イルダーナフは森から小枝を拾ってきて、
時々火にくべている。
あわ
来ない男を待ち続けている憐れな女のことを考えていると、「言い伝え」とユーリンの
旅立ちは突然に
しやくぜん
言ったことの違いに、カイルロッドはなおさら釈然としないものを感じるのだ。
もちろん
どちらが正しいのか、勿論カイルロッドにはわからない。だが、エリオスもユーリンも
嘘をついているようには見えなかった。
その話を連れの二人にすると、
つごう
「伝説や言い伝えは、たいがい事実が基本になっているものだが、伝える側にとって都合
よくねじ曲げられた。することも多いもんだ」
あいまい
イルダーナフはなにやら含んだ曖昧な物言いをして、
「それじゃ、言い伝えは必ずしもその通りじゃないってことフ・じゃあ、ユーリンって最
初から魔物だったんじゃなくて、男に裏切られてから魔物になったのフ」
ミランシャは同性の立場上なのか、ユーリンにやや同情的だった。
「でも、どっちにしろ、ユーリンが村人を憎んでいたことに違いはないんでしょう? だ
あぶ
ったら、夜になって復活したら、生き残ったエリオスが危ないんじゃない?」
髪を乾かしながら、ミランシャが言った。
ごふ           ねら
「あたし、護符をあげたけど。本気で狙われたらちょっと不安だわ。護符だけで防げるか
しら」
ぼうず
「あの坊主か。どうするかな」
みよう
火に小枝をくべながら、イルダーナフが妙な表情をした。
「どうしたの、イルダーナフ。珍しく困ったような辞して」
珍しさにミランシャが声のトーン上げ、カイルロッドは顔をそむけて笑っていた。イル
なぐ    しば
ダーナフがエリオスを殴って柱に縛りつけてきたことを、ミランシャは知らないのだ。そ
んなことをしてきたイルターナフとしては、エリオスを連れて来いとは切りだしにくいら
しい。
「あんたにも人並みの神経があったんだ」
ここぞとばかりに言って、カイルロッドは火の前から離れた。
おれ
「俺達が
わいそ・フ
いたから、どうなるってもんじゃないだろうけど、村に一人で残しておくのも可
哀相だからな。俺が連れて来るよ」
「……村人が死んだこと、言わなくちゃいけないのかしら…」
ミランシャの言葉の語尾は消えそうだった。この湖に村人が沈んでしまったと、そう告
げるのは気が重かったが、黙っていられることではない。
「…こ誰かが言わなくちゃならないことだからな」
カイルロッドは旗をくくった。
「文句をたらたら並べるぜ、あの坊主は」
旅立ちは突然に
考えただけでうんざ。すると言わんばかりに、イルダーナフは太い枝を折った。
もケウろん
「勿論、それを聞くのはあんただぜ。俺はなにもしていないんだからな」
軽く笑って、カイルロッドは森に走った。
「なにもしなくたって黙って見てりや、共犯だ」、イルダーナフの大きな声におされるよ
うに、カイルロッドは肩をすくめて村への道を急いだ。
とぴちこわ
村に戻。、扉の壊れた宿屋に入ると、
ばかやろう     なわ
「馬鹿野郎っ! この縄をほどけー⊥
ゆか け
元気な声と床を蹴る音がした。これは相当怒っている。カイルロッドはその部屋に入る
ばとよノ
前、何回か深呼吸した。罵倒される心の準備をしてから、
「やぁ、気がついた?」
きげん うかが                ばりぞうごん
少年のご機嫌を伺うように部屋に入ると、きっそく、罵胃雑言を浴びせられた。子供と
とぎ            あくたい
思っていたら、言うわ言うわ、途切れることなく次から次へと悪態をつくその様子に、腹
がたつより感心してしまった。
「だから、悪いと思ったから、こうして戻って来たんじゃないか」
igせい                         ねこな
エリオスの罵声が一息ついた頃、揉み手せんばかりに、カイルロッドが猫撫で声を出し
おとめ
た。子供の機嫌をとっている王子を見たら、ミランシャなど「また乙女の夢を砕いたわ
ね」 と怒るかもしれない。
遠慮なく罵言雑言を浴びせたことで、少しは気がすんだのか、
「よし、許してやるから早く縄をほどけ」
いば             げなん
エリオスが威張った。「はいはい」、まるで下男にでもなった気持ちで、カイルロッドは
はず
少年の縄を外した。
「それで他の村人はどうしたフ」
手首をさすりながら、キョロキョロしている少年を見ながら、カイルロッドは乾いた
くちぴるな
唇を舐め、
「みんな、湖の底にいる」
せりふ
あらかじめ考えておいた台詞を棒読みした。エリオスは一瞬、言葉の意味が理解できな
い表情をしたが、その意味が浸透するにしたがって、いかにも気の強そうな顔が少しずつ
こわ
強ばっていく。
「…・嘘だろフ」
つぷや
ややあって、エリオスが弱々しく呟いた。
「そんなの嘘だろ? なぁ、嘘だよなー」
161旅立ちは突然に
すがるような目をする少年に、カイルロッドはゆっく。と、そして大きく頭を振った。
「ユーリンがみんなを殺したのかけ そうだろ!」
ふく                つか
顔を真っ赤に脹らませたエリオスが、カイルロッドに掴みかか。、
「どうしてだよ、みんな、なにも悪いことをしていないのに!」
こぷしたた
大粒の涙を流しながら「どうして」と繰。返し、カイルロッドの胸や腕を拳で叩く。カ
イルロッドはされるがままになっていた。
「父ちゃんや母ちゃんが、なにをしたっていうんだ! どうして魔物なんかに殺されなく
ちゃいけないんだ!」
「…ユーリンはこの村で、好きな男を待っていたそうだ。そうしているうちに村人に殺
されたらしい」
ふんぬ
静かにカイルロッドがt言うと、エリオスの目が憤怒に燃え上がった。
かば
「あんたもマナバンのように、ユーリンを庇うのかよー」
カイルロッドを突き飛ばし、部屋の外に飛び出した。
「エリオスー」
「おれがユーリンを倒してやるー」
きけ
そう叫んだエリオスを外でつかまえ、
かば
「マナバンという人がなんだって? ユーリンを庇った人がいたのかフ その人の家はど
こだフ」
少年の肩を揺さぶり、カイルロッドは強く言った。魔物と言い伝えられるユーリンを、
庇う者がいたとは。その者なら、なにかを知っていたはずだ。
「マナバンという人の家はどこだフ そこになにか手がかりがあるかもしれないんだ」
熱意をこめてカイルロッドは説得したが、エリオスは口を閉ざし、無言で、全身で拒絶
なぐ どな                       っか
している。殴るか怒鳴るかしたい衝動をこらえ、カイルロッドはエリオスの肩を掴む手に
力をこめた。
「いいか、エリオス。このままユーリンを放っておけば、この村の人間だけでなく、他の
人間まで襲うかもしれない。憎しみには際限がないんだ。今のユーリンは確かに魔物だ。
だが、最初から魔物だったわけじゃない。俺は魔物になる前の、ユーリンの本当の姿を知
りたい。そうすれば、倒す手がかりが見つかるかもしれないんだ」
かたく
カイルロッドの必死の声にも、エリオスは頑なだった。
「エリオス、自分と同じ思いをする子供が増えてもいいのか」
するど
カイルロッドの声は高くも低くもなかったが、胸をつかれたようにエリオスは鋭く息を
・い一,t
飲んだ。少年が悲しみと理性の狭間でもがいているのを感じながら、口を開いてくれるの
旅立ちは突然に
しんぽう
をカイルロッドは辛抱強く待った。
長い沈黙の後、エリオスは震える芋でむかいの小さな家を指差した。
「あ。がとう」
ぶつちようづら              きぴす
仏頂面の少年に礼を述べ、カイルロッドが踵を返すと、
「本当だねP.本当にユーリンを倒してくれるんだねけこ
エリオスの涙声がした。カイルロッドは振り向かず、その家に飛びこんだ。
パチパチと音をたてて枝が燃え、火の粉が舞う。空は夕碁に赤く燃え、たなびく雲はオ
やみ ちんでん
レンジ色に染まり、その下には闇が沈殿していた。
とばhり
やがて夜の帳が降。る。
まなぎ
ミランシャは沈痛な眼差しで、空を映して赤く染まった湖の表面を見ていた。村人を助
けられなかったミランシャには、その色が血に思え、風に揺れる木々のざわめきは人々の
7ヽ.もん
苦悶の声に聞こえる。
「自分を責めるのはよすんだな」
つぷや    そば
ふいにイルダーナフが呟いた。火の側で横になって寝息をたてていたので、てっき。眠
っているとばかり思っていた男に、いきな。心情を読み取ったようなことを言われ、ミラ
ンシャは驚いて手から小枝を落とした。
「眠っていたんじゃなかった?」
ミランシャの非難する声に、イルダーナフは目を閉じたまま微笑した。
「半分は寝ていたが、半分は起きていた」
「こ ・・」
器用な男だと心の中で悪態をつくと、
だれ
「責めたところで誰が生き返るわけでなし。疲れるだけだぜ」
今度は鼻先で笑われた。
「イルダーナフって玲たいのね」
ぷいっとミランシャは顔をそむけた。
「やれやれ、嫌われたか」
寝そべったまま頭を掻き、
「けどなぁ、ミランシャ。自分をかいかぶると辛いもんだぜ。自分は誰かのためになにか
をしてやれるはずだ、そんな風に思いこむもんじゃねぇよ。自分以外の人間を救ってやろ
うなんて、力んじゃいけねぇ。人間てのは、自分自身を救うことにも苦労しているんだか
らな」
5 旅立ちは突然に
イルダーナフほよく光る黒い目をミランシャに向けた。とっさにミランシャが目をそら
こわ
した。この黒い目には、なにもかもを見透かされてしまいそうで、恐かった。
「あたしは、自分で自分のことを救っているわよ」
L,lちペつ
突っぱねるように言い放ったミランシャを、イルダーナフはかすかな微笑で一瞥し、
「さて、おいでなすったようだ」
つか
長剣を掴んで、のそりと立ち上がった。
湖が泡立った。
3
カイルロッドが森を抜けると、湖が泡立ち、水柱がたっていた。
「ユーリンー」
そば         はじ
カイルロッドの声に、火の側にいたミランシャが弾かれたように顔を向け、「王子−」
と声を張り上げた。イルダーナフはチラリと一瞥しただけで、長剣を構え直した。
ぽうちよう
水柱が消えると、暗い湖の底に一点、光が生じた。それが膨張し、湖の全体が白く輝き
始めた。
かつしよく
すうっと、白い光の中から人影が現われた。褐色の肌に黒い髪の美しい女が、鏡のよう
な湖面に立っていた。幻影だが、生前のユーリンの姿だろう。
「あれがユーリンなのかー」
いつしよ             かんかr
一緒に来たエリオスが思わず感嘆の声をあげるほど、ユーリンは美しかった。
(オマエバ・ )
ユーリンが、ゆっくりとカイルロッドの方に顔を向けた。
ふ′1しゆよノ
「ユーリン、復讐は終わりだ」
湖に向かって歩きながら、カイルロッドは錆びてポロポロになった、三〇センチほどの
けげん
金属片を取り出した。ミランシャは怪訝な顔をしたが、イルダーナフはこヤッと笑い、剣
きや
を鞠におさめた。
「ユーリン、これに見覚えはないか」
たきび
二人がいる焚火の方へ、エリオスの背を押し、
「これは剣だ」
カイルロッドは金属片を、高くかかげた。
(剣?)
光る湖面が揺れた。
「おまえが待っていた男の物だ」
旅立ちは突然に
幻影のユーリンが目を大きくみはり、食い入るように金属片を見ている。
「なに?・一どういうことフ」
いそが
口元をおさえ、湖上の幻影とカイルロッドを忙しく見比べているミランシャに、
そふ
「あれはマナバンが持っていたんだ。マナバンの祖父が爾し持っていた」
足を引きずるようにして、火の側に来たエリオスが暗い表情で言った。
「マナパンフ」
つえ
長剣を杖のようにして立っているイルダーナフが、火の側に来た。二種類の視線を受け
て、エリオスはうつむき、肩を震わせていたが、
「村でただ一人、ユーリンを魔物じゃないって苦っていた人だ! おれ、知らなかったん
めんどう
だーユーリンがどっかの国の王女で、逃げて来たなんてー それを知った村人が、面倒
になるのを恐れて殺したなんて、なんにも知らなかったんだー」
さけ
感情を二気に爆発させ、叫んだ。
「言い伝えが嘘なんて、知らなかったー」
l こI I I I I l
あし−せっ ただよ
ユーリンの美しい顔に哀切が漂った。
どうこく         するど
少年の働笑と、ミランシャの鋭く短い声を聞きながら、カイルロッドは日を閉じた。
「村でただ一人、マナバンだけが一〇〇年前の真相を知っていた。マナバンの祖父にあた
る人物が、それを記述して残していたんだ。ユーリン、もう許してやってくれ」
ふところ             つぷや      ようひし たば
懐に手を当て、カイルロッドは呟いた。ここには羊皮紙の束がある。マナバンの家に、
だれ                       くじゆうこうかい つづ
誰にも見つからないように隈してあったものだ。羊皮紙には、苦渋と後悔に綴られた告白
があった。
ようへい
ユーリンは遠い南の国の王女だった。彼女は、異国の若い傭兵と恋に落ちた。けれど、
。レよぺノじゆ
その恋は祖国では決して成就できない。ユーリンは恋のためにすべてを捨て、男と逃げた。
王女の駈け落ちを知った王は、すぐに追っ手を出した。追われ、逃げる途中で、二人はや
むをえず別行動をすることになった。
おれ こきよう あ
「俺の故郷で逢おう」
その言葉を信じて、ユーリンは男の故郷に行った。そして、そこで必ずむかえに来ると
約束した男を待っていた。村人は事情を知らずにユーリンを受け入れた。が、その後、追
っ手が村に来たのだ。そこで村人は初めてユーリンが何者であるかを知った。
かくま              わぎわ
「匿ってやればよかったのに、村に災いがふりかかるのを恐れて、村人みんなで殺したん
だ−」
さけ
エリオスが叫んだ。
旅立ちは突然に
いきどお      くちぴる          はんがん        さや
憤りにミランシャが唇をわななかせ、眠そうな半眼のイルダーナフは、鞘のついた長剣
たた
で肩を叩いている。
(私ハ村人二殺サレタ。セメテアノ人二一日蓮ウマデト、ソウスレパ死ンデモイイカラト
泣イテ頼ンダ。ケレド、私ハ殺サレタ。ソシテ、私ノ身体ハコノ冷タイ湖ノ中二捨テラレ
タ)
自分の両肩を抱き、ユーリンがむせび泣いた。
きたな
「そうだよ、みんな、汚い一 日分のことしか考えていないんだ丁」
バシャバシャと水音をたてて、湖の中に入って行こうとするエリオスを、ミランシャが
ひぎ         つ
止めようとして、膝のあたりまで水に浸か。ながら揉み合う。
「エリオス、やめてー」
「けど、おまえだって同じだー おまえだって汚いんだ! おまえを殺したのは一〇〇年
前の村人で、湖底に沈んでいる村人はなにもしていないじゃないかー それなのに、どう
して殺したんだよ! 父ちゃんや母ちゃんを返せー 友達を返せー」
「イルダーナフ、エリオスを止めてー」
暴れる少年をおさえきれず、ミランシャが助けを求めると、イルダーナフが動いた。水
の中に入hソ、
「うるせぇからしばらく寝ていろ」
みぞおち                    ひぎ
一亨うが早いか、鞘尻がエリオスの鳩尾に入った。声をあげる間もなく、エリオスの膝が
折れ、そのまま前へつんのめる。水の中に倒れるのを片手で止め、イルダーナフはエリオ
つか               そば
スの襟首を摘んで水から引きずり出し、火の側に転がした。「乱暴ね」、ミランシャが抗議
したが、イルダーナフは聞き流した。
(私ハ魔物ニナッテシマッタ)
1L.
両手で顔を覆ったユーリンから目をそらし、カイルロッドはその剣を湖の中に入れた。
ひんし
「おまえが死んでから、男は帰って来た。けれど、その時はもう瀕死の状態だったそう
だ」
せノベ
剣は水の中に沈まず、すーっと湖上を滑るように動き、ユーリンの手におさまった。
′.ト.1
「先におまえが死んだことを知らないから、もし女が来たらこの剣を形見に渡してくれと、
友人に託したそうだ」
いと    な
ユーリンは手の中の剣を、幾度も愛しそうに撫でた。
「他の村人の監視の目があって、これを湖に入れられないまま、時間が過ぎてしまったん
だろう。それでも、ずっと持っていたんだ」
(信ジティタ。必ズ東テクレルト、私ハ信ジティタ)
ほおヂ
はらはらと涙を流し、ユーリンが剣に頼摺りする。
(ヤット、ヤット蓬ユタ。アナタ、モウ離サナイ)
ほほえ
ユーリンは少女のように微笑んだ。そのまま、ユーリンの姿が薄れ、消えた。
、・」
ユーリンが消えると同時に湖面は輝きを増し、光は白銀から黄金へと変わった。やがて、
光の柱が天に向かって立ち上った。
かえ
「空に還ったのかしら」
真上を見上げ、ミランシャが独自した。
あんど
カイルロッドは安堵の表情をうかぺ、光の柱を見つめていた。やっとユーリンは死ねた
のだ。そして湖底の村人も空へ還れた。
カイルロッドの目から涙が一筋流れた。
やみ
光の柱は消え、夜の闇が戻った。
ふくろう                 たきぴ
どこからともなく、桑の鳴く声が聞こえてきた。冷たい風に焚火が括れた。
かわいそよノ
「可哀相に」
かが               だれ
横たわっているエリオスの横に屈み、ミランシャがポッリと言った。誰が、とは言わな
旅立ちは突然に
いが、きっと「みんながそれぞれに」という言葉が上につくのだろう。
うれ      みようおさな
炎に照らされた横顔に、大人の女性の憂いがあった。妙に幼いかと思えば、次の瞬間に
は大人の表情になる。まったく女はわからないと、つくづくカイルロッドは思う。
ぽうで
「この坊主はどうするね、カイルロッド」
イルダーナフが顎でエリオスを指した。
しんせき
「どこかに親戚でもいれば、そこまで届けてやろうかと思うんだが」
ふところ            ようひし たぽ
懐から古い、ポロポロになった羊皮紙の束を出し、カイルロッドはそれを火の中に投げ
込んだ。
「そうね。それがいいと思うわ」
真っ先にミランシャが賛成した。
「親切なこって」
ゆが   あき
イルダーナフはロを大きく歪めた。呆れて笑っているようだ。
「ところで王子。なにを燃やしたの?」
「マナバンの祖父が書き残したやつ」
つぷや
燃える羊皮紙の束を見つめながら、カイルロッドは呟き、ミランシャはすぐにそれへの
関心を失った。
「これは知らなくていいことだ」
あどけない少年の寝顔を見、カイルロッドは心の中で独白した。
この羊皮紙には、エリオスにもユーリンにも教えなかった「事実」が書いてあった。
ユーリンの待っていた男のこと − 彼もまた村人に殺されていたのだ。傷っき、やっと
の思いで故郷に帰って来た男を、幼なじみであるマナバンの祖父が山の中で見つけた。彼
rll
は気の優しい男だったが、村のため、家族のためと自分に言い聞かせ、幼なじみをその場
およノきつ
で殴殺した。理由はユーリンのときと同じだ。死体を森の中に埋め、ずっと口をつぐんで
いた。
かしやく さいな  ぎんげ
しかし、幼なじみを殺した良心の呵責に苛まれ、慨魔の意味で羊皮紙に書きとめ、隠し
持っていた。カイルロッドがユーリンに渡した剣は、男から預かったのではなく、殺した
際に奪った物だった。いずれほとぼりがさめたら、街で売るつもりで、そのまま忘れてい
た。それが真相だ。
だが、そのことをエリオスに告げる気はない。
一方的な「悪役」だと思っていたユーリンが、実は被害者であり、村人は嘘の「言い伝
え」を残し、自己弁護していた。
つら               ざんこく
これだけでもエリオスにとっては辛い事実だったろう。そこへさらに残酷な事実を突き
旅立ちは突然に
だれ
つける必要はないのではないか。そうしたところで、誰も救われないのだ。ユーリンもや
っと楽になれたのだから、それでいいではないか。
このことはミランシャにもイルダーナフにも言わず、自分の胸だけにしまっておこうと、
ちか
カイルロッドは誓った。
ぽけもの       うれ
「しかし、行く先々で化物に歓迎されて、嬉しいだろ、カイルロッド」
めんどう               かか
面倒そうに、眠っているエリオスを抱え上げ、イルダーナフが真顔になった。が、黒い
目が笑っている。
「嬉しいわけがないだろうがっー」
どな
灰になった羊皮紙を踏みつけ、カイルロッドは怒鳴。返した。
空には白銀の月が輝いている。
静かな夜だった。
4
「うー、寒い」
だんろ
暖炉の前を陣取り、頭から毛布をかぶったカイルロッドは鼻をすすっていた。あれから、
カイルロッド遠は無人の村に戻り、エリオスの家である宿歴で一息ついていた。
かぜ
「まったく、育ちのいい坊っちゃんには困っちまうぜ。水浴びしたぐらいで風邪なんかひ
いてよ」
「おとなしく寝ていればいいのに、どうして起きているのよ」
カイルロッドの斜め後ろで、テーブルについているイルダーナフとミランシャが、口々
に言いたいことを言っている。
おれ
「どうして俺だけ風邪なんかひくんだ」
ほのお
炎に手をかざしながら、カイルロッド。ミランシャを助けるために湖に飛びこんだ後、
髪も服もろくに乾かないうちに、動き回ったのが悪かったらしい。湖に入っていないイル
ダーナフやエリオスはともかく、同じようにずぶ濡れになったミランシャなど、平気な顔
をしている。
「そうだ、エリオスはどうしたんだフ」
思い出したようにカイルロッドが訊くと、
「薬が効いて、二階で眠っている」
さかぴん
酒瓶片手に、イルターナフが苦笑した。
「あの坊主を眠らせるのは大変だったぜ。張り倒してやろうかと思ったのに、ミランシャ
に止められちまった」
旅立ちは突然に
「当た。前でしょー」
にら
ミランシャがイルダーナフを睨んだ。
村へ戻る途中、イルダーナフに背負われていたエリオスが日を覚まし、「ユーリンはど
かたき        さけ
こだ。おれが倒して、村人の仇をとるんだ」と泣き叫んだ。ユーリンはもういないのだと、
いくらそう説明しても少年は聞き入れなかった。宿屋についてもエリオスは休もうとせず、
ぬす
カイルロッド達の目を盗んで湖に行こうとした。湖にユーリンはいないというのに。少年
の身体を案じたミランシャは、眠り薬を調合して飲み物に混ぜ、それを飲ませてようやく
静かになったのである。
「目が覚めたらすべて夢だった1そうだったらよかったのにな」
ほのお        くじゆふノ                   たたか
炎を見つめる青い目に苦渋がある。この先、あの少年は厳しい現実と闘わなくてはなら
ない。親戚がいるかどうかを尋ねると、どこにもいないという返事だった。つまり、エリ
オスは頼る者もないまま、一二、三歳で、世間に放り出されるのだ。
ぼうず
「あの坊主が目を覚ましてからどうするかなんて、それは俺達の気にする問題じゃねぇよ。
のた
坊主がどうにかすることだ。野垂れ死ぬも、生き残って這lい上がるも、それは坊主の人生
だ」
きかげん ふ               かんしよう
空の酒瓶を増やしている大男の目は覚めていた。感傷に流されない強さが、カイルロッ
うらや
ドには羨ましかった。他人の人生に責任を持てる者などいないのだ。
「・・そうだな」
自分の甘さを反省していると、ふいにイルダーナフが破顔し、
「他人の身を案じる前に、自分の身を案じたほうがいいぜ」
あご                                       すす
顎でミランシャを指した。男二人の視線を受け、ミランシャは知らん顔でお茶を畷って
いる。
「あー、ミランシャ」
意味もなく手を擦りながら、
「おとなしく寝るから、その前に俺をもとの身体に戻してくれよ。な、ミランシャ」
だんろ
カイルロッドが哀願するが、ミランシャは無言で、つんと、顔を暖炉の反対側に向けて
しまった。
「どうしてそんなに怒っているんだよー」
反対側を向いている魔女見習いを恨めしげに見、カイルロッドはうわずった少年のよう
な声を出した。
ちわげんか
「まるで痴話喧嘩」
すご
イルダーナフはニヤこヤ笑ったが、ミランシャに凄い目で睨まれ、広い肩をすくめた。
旅立ちは突然に
あやま
「俺が悪かったなら謝るから。ミランシャ、なんとか言ってくれよ」
必死の訴えにもミランシャは応じず、黙って舌を出した。カイルロッドにはミランシャ
ふきげん
の不機嫌の理由がさっぱりわからない。少なくとも、ユーリンが消えた後、村へ戻る途中
まではミランシャはいつもと変わらなかったのだ。
無人の村へ戻る途中、ミランシャがはにかんだ笑顔で、カイルロッドに話しかけた。
「助けてくれてありがとう。王子が来てくれるなんて思わなかった」
かわい
可愛い笑顔につられ、
「いや、助けたのは成り行きなんだ。実は、君を迫って来たのにはわけがあって」
くしゃみをしたら馬になってしまうこと、おそらくミランシャの魔法のせいじゃないか
ということ、などを説明したのだが、話が進むにつれ、ミランシャの顔から笑みが消え、
日は吊nソ上がっていた。
へんぼう
あまりに急な変貌に、カイルロッドはびっく。して、恐る恐る「どうかしたのかフ」と
訊いてみたら、
「うるさいわねー」
どな
と、怒鳴られ、それきり口もきいてくれなくなった。そのまま、現在に至っている。
「…でも、王子が馬になってしまうのは、本当にあたしのせいなのフ」
腹をたてていても、魔法がらみは気になるのか、魔女見習いがためらいがちに暖炉に視
線を向けた。
目と目が合い、先にミランシャが目をそらした。
「他に思い当たる節がない」
がゆ
断言したカイルロッドの鼻が、ふいにむず障くなり1。
大きなくしゃみが室内に響いた。
「・…・・また馬になったの?」
「これで四回目だな」
シーツをかぶった馬1−カイルロッドをつまらなそうに見るミランシャと、冷静に回数
まで数えている剣士に、
「ひどいじゃないか、二人ともー」
わめ
と、いくら喚いてみたところで、二人には馬の泣き声にしか聞こえないのである。
最初は「人が馬に? それもあたしの魔法が原因でフ」と、まったく信じていなかった
ぎようてん
ミランシャだが、目の前で馬に変わられ、仰天していた。が、それも一回、二国だけのこ
とで、四回目ともなると驚く気にもなれないようだ。
「卵王子の他に、馬王子なんてあだ名がついたらどうしてくれるんだー」
旅立ちは突然に
ゆか
床を踏みならし、喚いてみるが、ミランシャもイルダーナフも耳をふさいでいた。
「…・薄情者」
おかん
ぼやきかけた時、背筋に窓寒がはし。、小さなくしゃみが出た。瞬間的にミランシャが
顔をそむけた。
かげん
「女性の前なんだから、いい加減にしてよ」
おれ
「俺だっていい加減にしたい」
あわ
カイルロッドが慌てて毛布をかぶる。
いそが
くしゃみをするたびに馬になった。、人間に戻ったりと、やたら忙しいカイルロッドは、
めんどう    すはだか
面倒のあまり素裸の上に毛布をかぶっていた。変わるたびに脱げた。、着た。ではたまら
ない。
ろしゆつきよういつしよ
「だったら、二階の部屋に韓もって寝てなさいよー たまんないわよ1 露出狂と一緒に
いるようなものなんですからねー」
「あのなー」
しぼ
露出狂はどっちだと言いかけ、カイルロッドは自制心を振。絞った。いくら頭にきても、
女の子にそんなことを一言ってはいけない。
「女性には親切に」
サイードとダヤン・イフェ、そして亡き乳母から、徹底的にそう教育されていた。
いや              いや
「病気の時に一人で寝ているのは嫌なんだよ。…・露出狂と一緒が嫌なら、早く元通りに
してくれ。そうすればお互いに不快な思いをしないですむんだから」
カイルロッドの力説に、ミランシャの顔が曇った。
「……よ」
「は? よく聞こえなかった、もう一度言ってくれないかフ」
聞き返され、ミランシャは覚悟を決めたように固く目を閉じ、大きく深呼吸して、
「あたしには元に戻せません」
息と一緒に吐き出した言葉に、カイルロッドは自分の耳を疑い、イルダーナフの手の中
きかぴん
で酒瓶が割れた。
「…・なに?」
自分の声がいやに遠くから聞こえた。
「だから、あたしは見習いであって、そういう高度な魔法は使えないのー」
開き直ったミランシャの声に、カイルロッドの上体は傾いた。
「じゃ、どうしろと言うんだー」
「やっぱり、魔力の強い魔法使いか道士に頼んで、魔法を解いてもらうしかないんじゃな
183  旅立ちは突然に
いかしら。うん、それがいいわ」
なつとく
自分で言ったことに自分で納得しているミランシャ。
「どっちが先だい、卵王子。ムルトを探してから、魔法を解くか。魔法を解いてからムル
トを探すか」
実っているイルダーナフとミランシャの声は、耳鳴。のせいでよく聞きとれなかった。
視界もぼやけてきた。張。つめていたものが切れたのか、身体から力が抜け、カイルロッ
だんろ
ドは暖炉の前で倒れた。
「王子1」
くつおと
薄れる意識の中で、二つの靴音が近づいてくるのが聞こえた。
カイルロッドは熱を出し、それから二日間、寝込んでいた。
「その歳で知恵熱とはなあ」
「旅は体力なのよ。こんな調子じゃ、先が思いやられるわね」
寝ている間中、連れ二人に枕元で騒がれたのは言うまでもない。
五章 来訪者
l
晴れわたった牢の下、一行は再び北へと進路をとっていた。
「ムルトを先に探すか、先に魔法を解くか」
そうイルダーナフに言われ、カイルロッドはムルトを探す方を優先した。一刻も早く石
ぼんさい
になった人々と盆栽を助けたかったし、うまくいけばその道中で魔法使いに会えるかもし
れないではないか。えらく楽観的な発想だが、悲観的になるよりはましだと、カイルロッ
ドは開き直った。
「国を出てから、ますます楽観的な性格になってきたな」
同行者の影響だと思うが、二人は否定するだろう。
きれい
「ねぇ、見て見て。綺贋に咲いてる」
同行者の一人、先を歩いているミランシャが振り返り、手を振った。
旅立ちは突然に
南に用があると言っていた少女だが、
「あたしの魔法のせいで馬になったなんて貰われちゃ、知らん顔もできないじゃないフ
王子が元の姿になったのを見届けるまで、同行させてもらうわ。でないと、気になって仕
方ないもの」
そう言って、カイルロッドについて来た。別れが少し先に延びて、カイルロッドはなん
うれ
となく嬉しかった。
「まるっき。子供みてぇだな」
もう1人の同行者は肩や荷物に積もった花びらを落とし、笑っている。村を出る時に
いろいろ
色々と旅に必要な道具を貰い、イルダーナフはそれらを抱えていた。
「すごいわね」
ミランシャが顔を紅潮させた。
はなふぶき
花吹雪だった。
いつせい
街道の両脇に木々が生い茂。、それらが一斉に淡い紅色の花を咲かせ、空間まで薄紅に
染めていた。満開の花のアーチの中を歩きながら、カイルロッドは大きく伸びをした。
「部屋で寝ているより、外のはうがいいな」
むじやき
頭の上に積もった花びらを払いながら、カイルロッドも無邪気に笑った。
風に散らされた花びらが舞う。その中を歩きながら、、、〓フンシャが子供のようにはしゃ
いでいる。
その子供のように無邪気な顔が、湖のある村の少年と重なって見えた。
「いつか、あの少年もこんな風に笑えるようになるだろうか」
エリオスはあの村に残っている。街へ出て働く気があるのなら、近くの街まで連れて行
かたき
ってやるという誘いを断り、村に残った。ユーリンを倒すのだと、村人の仇をとるのだと、
ほのお
暗い炎の宿った目で、旅立つカイルロッド達に告げた。
あお             ほほえ
薄紅に染まった空間を仰ぎながら、カイルロッドは微笑んだ。それもいいのかもしれな
ふ′1しゆう
い。気がすむまで湖に行き、憎み続ければいい。やがていつか知るのだ、復讐するべき相
つら                    いきどお
手がいないことに。その時から少年の辛く厳しい現実が始まる。憎む相手のいない憤りと
くや
悔しさに、夜も眠れずのたうちまわることだろう。
カイルロッドにも覚えがある。実父のことを考え、しかし名も顔も知らないもどかしさ
に憤り憎み、眠れぬ夜があった。
負けるな。現実をしっかり見据えて歩いていけ。どんなに苦しくても、それは自分で決
着をつけねばならないことだ。もがき苦しみ、それでも自分の足で立って歩いて行くしか
ないのだ。負けるな、決して自分に負けるな、カイルロッドは心から祈った。
旅立ちは突然に
さまぎま    いが
様々な思いを抱いて花吹雪の長い道を歩いていると、背中に突き刺さる視線を感じ、カ
イルロッドは振り返った。
「l?こ
けはい
しかし、どこにも人影は見当たらない。気配も感じられない。
「どうしたい」
イルダーナフが足を止めた。
「いや、またあの視線を感じて」
村に入った時に感じた冷たく刺すような視線だった。あれ以来、感じなかったので、ず
っと気のせいだと思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。
ガれ
「別に誰もいないようだがね」
「  ・・」
あご
のんび。とイルダーナフに言われ、カイルロッドは顎に手を当てて、沈黙した。だが、
こうしていても、首筋が針でつつかれているように、妙に痛むのだ。
「病み上がりで神経質になっているんじゃないのフ・」
ミランシャがやって来た。
「……そうかもな」
けはい
影も気配もないのに、敵意だけがびんびんと伝わってくる。攻撃してくるでなし、ただ
しっよう             いや
執拗に監視されているようで、嫌な気分だった。
やつ
「姿も見えない奴相手に、神経質になっても仕方ない。こっちがまいるだけだ」
心の中で独自し、首筋に手を当て、カイルロッドはミランシャと並んで歩き出した。
あお
若い二人の後ろについていたイルダーナフは何気なく上を仰ぎ、ふっと口元をほころば
せた。そして、すぐに歩き出した。
強い風が吹き、花びらを流した。
その日、一行は少し無理をして、カイルロッドが馬になって大騒ぎした街を急いで通り
過ぎることにした。夜逃げした街を再び通るというのも気の重いことだが、街道沿いに北
に向かうには、どうしてもそうなってしまうのだ。
「ねぇ、数日前に比べて、人が多くないフ」
すれ違う人々を目で追いながら、ミランシャが目をパテパテさせた。色とりどりの服を
着た異国の人々が往来を行き来し、小さな街がにわかに活気づいている。
「大きな市でも立ってんじゃねぇか」
イルダーナフにそう言われ、人の流れて行く方向を見てみると、天幕や風にひるがえる
旅立ちは突然に
鮮やかな旗が見えた。
うわさ
「しかし、噂が広がるのは早いものだ」
ルナンの王子だと知られないようにターバンをつけたカイルロッドが、ため息混じ。に
・.ムー
呟いた。街のあちこちで、石になってしまったルナンのことが人の口にのぼっている。
「ルナンが石になっているんだって」
「人もかい?」
じよよノヘき
「そうらしいよ。もっとも、城壁の中には誰も入れなかったそうだけどね」
いや     のろ
「妹だねぇ、呪いでもかけられてるんじゃないのかい」
.J
口さがない街の女達の会話を、カイルロッドは苦い気分で聞いていた。
「早くムルトを探し出さないとな」
みやこ
都を脱出して何日も過ぎているのに、まだこんな近くにいるのだ。しつか。しろと自分
しった
を叱咤しながら通りを歩いていると、
どろぼう
「見つけたぞ、この馬泥棒−」
さけ
通りの反対側で、初老の男がこちらを指さし、叫んだ。見覚えのある顔に、サーッとカ
イルロッドの顔から血の気がひいた。あの馬狂いの男だ。この街で一泊せず、早足に通り
過ぎようとしたのは、こういう展開を避けたかったからだ。
「だから顔を隠せって苦ったのに!」
馬以外の姿を見られていないカイルロッドや、その場にいなかったミランシャは知らん
顔できるのだが、イルダーナフはそうもいかない。馬狂いの男に見つからないよう、イル
きやつか
ダーナフにフードを深くかぶれと忠告したのだが、「暑苦しい」 の一言で却下された。
「馬泥棒−」 を連呼しながら、男が顔を真っ赤にして走って来る。
「ちょっと、なんなのけこ
ミランシャがカイルロッドを見上げた。馬になった後、イルダーナフに売りとばされた
かしよ
箇所は、ミランシャに黙っていたのである。
「逃げろ、イルダーナフー」
カイルロッドが腕を引っ張ったが、イルダーナフは口元に薄い笑みを浮かべたまま、動
こうとしない。
つか       ばん
そうこうしているうちに馬狂いの男がやって来て、イルダーナフに掴みかかった。「万
おお
事休す」、カイルロッドは顔を覆った。
どきよよノ
「この馬泥棒− またこの街に顔を出すとはいい度胸だー 金を返すか馬を渡せ! そう
かんべん
すれば役人に突き出すのは勘弁してやるー」
さがし.し
馬狂いの男は、イルダーナフを詐欺師と決めつけていた。高値で馬を売りつけておきな
旅立ちは突然に
がら、まんまと馬を奪い、金と馬を持ってそのまま逃げたと思っているらしい。
下から指をつきつけ、早口でまくしたてる男を、イルダーナフは穏やかな表情で見守っ
ていたがおもむろに、
「失礼ですが、どちらさまでしょうか?」
ひる
口調と態度をガラリと変え、穏やかな声で問い質した。一瞬、怯んだ男に、イルダーナ
フが因った顔を向けた。
「馬泥棒とおっしゃられましたが、それは私と同じ顔をした男のことですか?」
ぜつく
そして、男が絶句すると、
ふたご
「それは私の双子の弟でしょう。困った弟だ。実は、私は弟の酒息を追って、この街へま
い。ました」
おおまじめ うそはつぴやく
などと、大真面目に嘘八百を並べたて始めたではないか。自分はさる国の貴族だが、跡
めそうぞく
目相続で兄弟がもめた末、弟は国を飛び出してしまった。そのせいで老いた母が床に伏せ
るようにな。、最近しき。に弟に会いたがる。すでに余命いくぱくもないと診断された母
かな
の願いを叶えてやりたい、そのために弟を探しているのだ。
そういった内容の身の上話を、よく通る低い声で朗々と語るイルダーナフを見ていて、
あご はず
カイルロッドは顎が外れそうになった。まったく見事な詔術だった。相手の呼吸を読み、
うまく自分の呼吸に同調させる。そして、決して相手の関心を外させない。
ご′、あくにん
「この男が裁判で弁護人を務めたら、どんな極悪人でも無罪になるのではないか」
自分でもそれと気がつかないうちに、うまくまるめこまれている馬狂いの男や、集まっ
やじうま                          ぇたい
た野次馬達を見ながら、カイルロッドは改めてイルターナフという男に得体の知れないも
のを感じた。
「別人みたいね」
しようさい                        っぶや
詳細は知らなくとも、薄々事情を察したミランシャが、そっと呟いた。無言でカイルロ
うなず
ッドは領いた。話術はともかく、高い教育を受けた者の歯切れのよい弁舌と、仕草や言葉
の中に見える気品と風格は、つけ焼刃で身につくものではない。
「俺なんかよりずっと王侯貴族らしいな」
かか
サイードとダヤン・イフェが聞いたら頭を抱えそうな呟きをもらした。
ふしよよノ
「不肖の弟があなたさまにそのようなご迷惑をかけていようとは。まったく申し訳ない。
失礼かと思いますが、お詫びをかねてあなたを食事に招待したいのですが、よろしいです
かなフ」
「え、ああ。いや・・その、光栄です」
馬狂いの男は、完全にイルダーナフのペースにはまっていた。
旅立ちは突然に
「少し失礼します。そこに連れがいるものですから」
うむ                                      あき
有無を一言わせぬ笑みを向けてから、イルダーナフはカイルロッド達の所へ来た。呆れて
いる二人に片目をつぶり、
「そういうわけだから、勝手にどっかに宿をとってくれ。話がすんだら行くからよ」
いつものぞんざいな口調で言うと、カイルロッドに持っていた荷物と金貨一枚を渡し、
「では、まい。ましょう」
コロッと口調と態度を変え、イルダーナフは馬狂いの男を連れて行ってしまった。野次
馬達もそれぞれに散って行った。
「I・イルダーナフって何者だろうな」
JeJぎし
「詐欺師みたいね」
ささや
人混みの中に消えて行く大きな背中を見送。ながら、カイルロッドとミランシャは囁き
を交わし合った。
2
193 三年ぶりに大きな市が開かれているということで、街の宿屋はどこも満員だった。足を
棒にして探しまわった結果、一部屋だけ空いている宿を見つけ、カイルロッドとミランシ
はず
ヤはそこに泊まることにした。通りから少し外れているが、まずまずの宿だ。
きゆネノ7ヽつ
「この部屋に三人か。窮屈だなぁ」
いす
部屋に入って内部を見回し、カイルロッドは苦笑した。簡素な部屋で、ベッドと椅子と
テーブルがひとつずつ置いてあるだけだ。
ゆか
「ベッドはひとつしかないから、当然ミランシャのものだ。俺とイルダーナフは床に寝る
から」
イルターナフに押しっけられた荷物を下に置くと、
かぜ
「でも床でなんか寝て、王子がまた風邪でもひいたら」
いそが
ミランシャが渋った。風邪でもひかれて、また忙しく馬と人の変身を繰り返されるので
はと、危惧しているようだ。
「俺はそんなにやわじゃない。あの時はずぶ濡れで走りまわったからだ。床で寝たぐらい
だいじようぶ
じゃ風邪なんかひかない、大丈夫だよ」
ほこり                なが
手についた嬢を払い、カイルロッドは窓の外を眺めた。この方向にルナンがある。石に
じゆばく
なったサイードが、ダヤン・イフェが、そして多くの人々が呪縛の解ける時を待っている
のだ。
「急がなくちゃな」
旅立ちは突然に
つぷや
ミランシャに聞き取れないぐらいの小声で呟き、
「そうだ。せっかく市が立っているんだから、明日、市でなにか仕入れてこようか」
つと
振。返って、努めて明るい声を出した。
「わー、賛成」
うれ      たた
ミランシャが嬉しそうに手を叩いた。
のき        にぎ
街は眠っていた。酒場が軒を並べる通。は賑やかだが、それ以外の場所と人々は寝静ま
っている時刻だ。
「なにをしているんだか、あの男」
なまあくぴ
カイルロッドは生欠伸した。つられてミランシャも欠伸をもらし、眠い目をこすった。
部屋をとってから数時間が過ぎ、真夜中になってもイルダーナフは来なかった。宿がわ
からず迷っているんじゃないかと、ミランシャが心配したが、主人に頼んで店の其前に目
印を置いてもらったのだから、わからないはずはない。
「きっと、どっかで酒飲んで、盛り上がってるんだな」
その可能性が一番高い。
「明日も歩くんだから、俺達は早く休もう」
てつや
朝帰りになるかもしれない者を待って、徹夜するつもりなどないので、カイルロッドは
さっさと寝ることにした。
「でも、二人とも寝ちゃったら、イルターナフが帰って来た時に困らない?」
いレごよノじとく
「困ろうと苦労しようと、それは自業自得。歩きづめで疲れているんだから、早くベッド
に入りなよ」
ミランシャをベッドへ追い立て、カイルロッドは床の上に毛布をひいた。そして、ラン
プの火を消し、「おやすみ」と言って横になると、ミランシャの規則正しい寝息が聞こえ
てきた。横になってすぐに寝入ってしまったようだ。無理もない。女の足でカイルロッド
つら         よわh
やイルダーナフにあわせるのは相当に辛いものだろうに、弱音も吐かずよくついて来る。
「・…・・ゆっくり歩けなくてごめんな」
つぶや        まぷた
呟き、カイルロッドも験を閉じた。疲れているのか、すぐ眠りに落ちた。
夢を見た。
青白く光る銀河の海が広がっていた。
ひまつ
波が寄せ、返し、また寄せる。その飛沫が砕けた水晶のように輝く。美しい、けれど泣
きたいほど悲しい風景の中に、母がいた。
おもかげ
少女の面影を残した美しい母フィリオリが、浜辺を歩いていた。悲しそうな苦しそうな
旅立ちは突然に
ひと
表情で、独。歩いている。
胸がしめつけられた。
「母上−」
きけ
そう叫んだところで日が覚めた。
目覚めと同時に、首筋に針を刺されたような痛みを感じ、カイルロッドははね起きた。
とぴら
音もなく扉が開き、黒い影が三つ、飛びこんだ。夜目のきくカイルロッドには、侵入者
達の黒ずくめの姿と手にしている剣が見えた。
「ミランシャ、起きろー」
やみ
カイルロッドの手からナイフがはし。、銀色の光が闇を裂く。が、高い金属音がして、
は。レ
弾き返されたナイフが壁に突き刺さった。
「寝込みを襲うなんて最低!」
いす
飛び起きたミランシャが、近くにあった椅子を振り上げ、投げつけた。しかし、カイル
ねぽ                 だれ
ロッドほど夜目のきかないせいか、まだ寝呆けているのか、椅子はまるっきり誰もいない
方向に飛んでいった。
「動くな、ミランシャー」
く・フ き するビ
厳しい声でカイルロッドが叫んだ。空を斬る鋭い音とともに、白刃が闇に光る線を描い
あぷ
た。侵入者も夜目がきくらしい。危なげのない足取りで、次々と剣を繰りだす。襲いかか
る剣を、カイルロッドは短剣で弾き返す。青白い火花が散った。
「イルダーナフがいればー」
だれ                     すベ
カイルロッドは舌打ちした。どこの誰が、どんな理由で襲撃してきたかなど知る術もな
やと              かんじん
いが、こういう時のためにイルダーナフを雇っているのだ。それなのに、肝心な時に限っ
て不在ときている。
「夜中に人の部屋に忍びこむなんて、礼儀知らずもいいとこよ!」
はし                           てんじよう           じゆ
端に隠れていたミランシャがシーツを剥ぎとり、それを天井に放った。そして早口に呪
もん.とな
文を唱える。と、いっぱいに広がったシーツに火がつき、それが侵入者達を頭からすっぽ
おお
りと覆った。
ほのお                          すき みのが
炎をかぶり、侵入者達の動きに乱れが生じた。そのわずかな隙を見逃さず、カイルロッ
ドはミランシャを横抱きにし、窓の外に飛び出した。
「逃がすな1・」
侵入者達が次々と窓から飛び出し、カイルロッドを迫って闇の中に消えた。
けつこーフ
「結構、単純な手にひっかかるもんだな」
かか
せりだした窓枠の下て、カイルロッドが小さく笑った。片手でミランシャを抱え、窓枠
旅立ちは突然に
にぶら下っていたのである。
′1き にお
這い上が。、部屋に戻ると、焦げ臭い匂いが充満していた。燃え残ったシーツに、まだ
かすかな火がくすぶっていた。
「なんなの、あいつらー」
ふんがい
焦げた匂いに顔をしかめ、眠。を妨害されたミランシャは憤慨した。
だれ     ねら
「ミランシャ、君、誰かに生命を狙われる覚えはフ」
「ないわよ、そんなものー あるとしたら、あたしよ。も王子じゃないのフ」
「俺?」
「だって王子でしょフ 王族っていうだけで生命の危険があるんじゃないの?」
「・ ⊥
世間一般の認識とはそういうものかと、感慨深く思いながら、他の物に燃えうつらない
うちに火を消そうとして、カイルロッドがシーツに近づく。と、くすぶっていた残。火が、
突然、燃えLがった。
「1日」
てん1。レよよノ
天井近くまで燃え上がった炎によって、部屋の中が真昼より明るくなった。
「なにごとり.」
あぜん
唖然としている二人の見ている前で炎が揺れ、それは馬になった。
赤い炎をまとった巨大な馬が出現した。
「炎の馬け」
おれ    いや
「俺に対する嫌がらせか・・」
「考えすぎじゃ……」
ミランシャが息を詰まらせた。炎の熱量で呼吸が苦しく、肌はじりじりと焼けそうにな
っていた。
いそが
カイルロッドは忙しく逃げ道を探したが、先手をうつように、ポッと音をたて、窓枠や
とぴら          いす
扉に火がついた。続いて椅子やベッドが燃え上がる。退路が炎によってたたれた。
「火事よー」
あえ   すさ
大声で叫ぼうとして、ミランシャが喘いだ。凄吏じい熱量の中で汗が吹きだし、まとも
くヂ                あわ
に呼吸ができない。ミランシャの身体が崩れ落ちそうになり、カイルロッドは慌てて支え
た。石造りの床や壁が赤く焼け始めていた。このままでは蒸し焼きになるしかない。
のが
「この場を逃れなくては」
しかし、退路はなく、どうしたらいいのかわからない。懸命に考えようとしても、熱さ
まひ
で思考力が麻痔していた。
ぎよよノし
炎の鳥は動かず、じっとカイルロッドを凝視している。
ぞうお
赤い目に憎悪があった。
「俺を焼肉にしたいらしいな」
流れる汗が目の中に入った。
ねら
「俺を殺したいなら、俺だけを狙えー 他の誰も巻き込むなー」
支えているミランシャが苦しそうに喘いでいた。苦しいという言葉を飲み込んで、熱に
耐えている。
許さない。
怒りがこみあげた。
我が身に感じる苦痛より、腕の中にいる少女の震えが、ミランシャを巻き添えにしたこ
とが、カイルロッドの全身を熱くさせた。
「許さんぞ−」
血が逆流した。
はくひよう                           たた
薄氷が割れるような音がした。どこからともなく冷気が叩きつけ、カイルロッドの髪が
大きくなびいた。
旅立ちは突然に
つぶ                            きかずさ
酔い潰れた男の向かいで、まったく酔っていない黒髪の大男が一瞬、杯を持っている手
を止めた。
「なにかあったらしいな」
大男、イルダーナフが独自した。
通りで馬狂いの男に見つかり、それを口先ひとつで丸めこんだ後、話しているうちに意
きとうごよノ
気投合し、酒場をはしごして、車後に 「海亀亭」と看板のある店に入ったのである。海亀
は′、せい
亭はその名のとお。、店の壁に大きな海亀の剥製が飾ってある。こぢんま。とした造。で、
店の内部もたいして広くない。
「外が騒がしいようだが」
つぶ
他に客もいないし、連れは酔い潰れているので、店の主人に話しかけると、主人は「そ
うですかフ」 と眉をひねった。
「ああ」
さかぴん     たる
のそ。とイルダーナフが席を立った。その足元には酒瓶どころか、樽まで転がっていた。
から
馬狂いの男とイルダーナフの二人で空にしたものだ。といっても、ほとんどはイルダーナ
フが空にしたもので、男は酒瓶二本空けた段階で、幸せな眠りに入ってしまった。
「おおい、大変だぜ!」
にぎ               とびら
賑やかな声がして男が数名、酒場の扉を開けた。顔馴染みのようだ。
「どうしたいフ」
みが
グラスを磨きながら主人が尋ねると、
おやじ
「ほら、ダン親爺の宿屋。あれが氷漬けになっちまったんだってよ」
「あ17 なんだってフ」
「だから、氷漬けだよ。建物の外も中もガチガチ、もうダン親爺なんかみっともないくら
・.
いうろたえちまって。呪いだとか、なんとか大騒ぎだぜ」
主人と客の会話を聞きながら、
「後で構わんが、この男を家まで送り届けてやってくれ。手間をかけてすまんな」
ふところ
酔い潰れている男の懐から金をいただき、テーブルの上に酒代と、その倍以上の手間賃
を置いて、イルダーナフは酒場を出た。
そして、騒ぎの中心へと歩いて行った。
やみ
飲み屋通りを過ぎると明かりはほとんどなく、闇が濃くなる。月も星もない夜ならなお
つまさき          ゆうゆう
さらのことだ。爪先も見えない闇の中を悠々と歩きながら、
よノつとぺノ
「いつまで人の後ろをついて来るんだ、ええフ 鬱陶しくてたまんねぇんだよ。他人に用
つら
がある時はな、面出して頭下げるのが礼儀ってもんだぜ」
旅立ちは突然に
イルダーナフが明るい声を出した。
せつな
刺那、闇の中から剣が繰。出された。ふわ。とイルダーナフの巨体が後方に跳ぶ。
「気にいらねぇなぁ。そういうや。方はよ」
ひモ
目にも止まらぬ速さで背中の長剣を抜き、闇の中に潜んでいる相手に斬りかかった。衣
てごた
服を裂いたぐらいの、かすかな手応えがあった。
「ふふん、やるじゃねぇか」
はし
大きく口の端を上げ、足場を移動した。
「てめぇか、さもなくばその仲間だな。しつこくカイルロッド王子を監視してやがるの
は」
答えはない。
ぷあいそう やつ
「人が質問してるんだぜ、少しは答えろよ。まったく無愛想な奴だぜ」
かれつ ざんIマノき
返事のかわ。に、イルダーナフめがけて、息もつかせぬ苛烈な斬撃が襲いかかった。二
ひらめ
ヤリと笑い、イルダーナフの長剣が閃いた。金属音が鳴り響き、闇の中に火花が散る。
せきひ
「おまえさん達もご苦労なこった。監視はするわ、ユーリンという女を封じていた石碑を
こわ
壊して王子を襲わせるわ、今度はなにをしでかしやがったつ」
ぴんしよう    しつこく              はじ  な
その巨体に似合わぬ敏捷な動きで、漆黒の空間から突き出される長剣を弾き、薙ぎ払う。
せいかん
精悍な顔にはふとい笑みがある。
やみ   ひそ
闇の中に潜む黒い影めがけ、イルダーナフが長剣を振り降ろした。すっと影が避ける。
が、剣が振り降ろした時と同じ速さではね上がった。驚異的な腕力だった。確実な手応え
にお
があった。血の匂いが鼻をつく。
かんlぎつ            からぷ    きつき きれい
間髪いれず薙ぎ払うが、今度は空振りした。殺気が綺麗に消えていた。
「逃げたか。腕を一本いただくつもりだったが、まぁいいか」
さや
苦笑して、イルダーナフは剣を稗におさめ、そして何事もなかったようにゆっくりと歩
き出した。
3
氷漬けになった宿屋を正面に見ながら、壁にもたれかかりカイルロッドは頭をおさえて
いた。頭痛がする。
だいじようぶ
「王子、大丈夫フ」
ミランシャが水を持って来てくれた。
おれ
「いったいなにが起きたのか、俺にはさっぱりわからない」
いんうつ
水を受け取り、陰鬱な顔でカイルロッドは呟いた。
腺立ちは突然に
「あたしにもわからないわ」
ミランシャがなんとも複雑な表情で、氷漬けになった宿屋を見上げる。真夜中だという
のに、宿屋の騒ぎに気づいた街の人々が集まっていた。
いったい、なにが起きたのか・・
ほのお
怒。で血が逆流した瞬間、冷たい風が吹きつけた。それが炎を消し、いや、凍らせたの
もうか                す
だ。瞬時にして猛火は凍。つき、凍結した炎の馬が澄んだ高い音をたて、砕け散った。カ
lぎうぜん         いちぷしじゆう
イルロッドは茫然としながらも、その一部始終を見ていた。
あんど
と。あえず助かったのだ、そう安堵した瞬間、だしぬけに頭痛が襲った。この前よ。ひ
ゆが
どい痛みだった。頭痛に顔を歪めながら、カイルロッドはミランシャを連れて部屋の外に
1.、・▼1
出た。そこで初めて宿全体が氷漬けになったことを知った。幸い怪我人や死人は出ていな
いが、大勢の人間が宿を失い、途方にくれた顔で通。にたむろしている。
ねら
「…・生命を狙われる覚えなんてないんだけどなぁ」
たた
宿を失い、「金返せ」とか「なにかの崇。だ」などと、やかましく騒ぎたてている客達
の大きな声に、カイルロッドは顔をしかめた。
「連中の狙いは俺らしい」
ののし
頭痛と罵。合う声に耐えながら、カイルロッドは侵入者達と炎の馬のことを思い出して
いた。認めたくないが、どちらにも殺意があった。「俺がムルトのところへ着くと困るの
か、それとも他に理由があるのか」、考えこんでいると、
「王子、どうする? これじゃ今夜は泊まれないわよ」
さえぎ
怒ったような困ったようなミランシャの声が思考を遮った。
「うーん。他の宿産は全部ふさがっているからなぁ。街のどこかで野宿かな」
「でも、それでイルダーナフと合流できるかしらフ」
かんじん      やつ
「・・・とことん、肝心な時にいない奴だ」
やじレよノま
頭痛とは別に頭が痛い。途方にくれていると、宿の前にいる野次馬がざわめいていた。
好奇心の強いカイルロッドとミランシャが目を向けると、左右に割れた野次馬の間から男
が一人、現われた。
「クレスウィツクさんだ」
「え、あのフ」
さきや
そんな噴きが野次馬達からあがる。
クレスウィックと呼ばれたのは、濃い金茶色の髪とくちひげをたくわえた四〇代半ばの
だて
伊達男だった。野次馬達の囁きと様子からすると、街の実力者か金持ちか、そんなところ
だろう。
旅立ちは突然に
「これはこれは、クレスウィックさん」
泣いてすがらんばかりに宿屋の主人が駆け寄。、この夜、自分の身に降。かかった災難
うなず
について身振り手振りで説明した。それを聞き、クレスウィックは重々しく額き、
「ただならぬ騒ぎに来てみれば、皆さんが大変にお困りの様子。一夜の宿でよければ、私
やしきあ
の邸の空いている部産を提供したいと思うが、いかがかなフ」
宿を失い、途方にくれている人々にそう申し出た。客はふたつ返事でその申し出に飛び
みよう
ついたが、宿屋の主人は妙に渋った末、覚悟を決めたように首を縦に振った。
「助かったわね− これで野宿しないですむわ1」
ミランシャが指を鳴らして喜んだ。
「うん・」
目立ちすぎる銀髪をターバンがわ。の布の中に押し込みながら、カイルロッドは浮かな
い顔で返事した。妙な胸騒ぎがするのだが、喜んでいるミランシャを見ていると、とても
言い出せなかった。
こうして、カイルロッド達はクレスウィックの邸に一夜の宿をとることになった。
ほヂ
クレスウィックの邸は街の外れにあった。案内された邸の前で、カイルロッドやミラン
シャ、他の客と主人の総勢十数名はため息をついた。
「あるところにはあるんだな、金って」
だれ  つぷや           うなヂ      そうごんかれい
客の誰かが呟き、思わずカイルロッドも額いてしまった。荘厳華麗な邸だった。
りつぱ
「ルナンの王城より立派かもしれない」
とぴら
門から邸の扉までの長い道を歩きながら、カイルロッドは思った。しかし、邸の内部を
見て、考えを改めた。いかにも「金にあかせてかき集めた」というのがぴったりくる調度
品が雑然と居並び、絵画の数々がこれみよがLに飾ってある。
「成金とはこういうものかな」
どこがいいのかさっぱりわからない絵画の前で足を止め、カイルロッドとミランシャが
かし
首を傾げていると、クレスウィックがやって来て「若いのに目の利く人達だ」などと、頼
みもしないのに説明を始めた。親切の押し売りである。おまけにその説明というのが、入
手のためにいくら金を使ったとか、いかに高額な絵画であり調度品だったかに限られ、カ
イルロッドは聞いていて頭痛がひどくなった。泊めてもらえるのはありがたいのだが、宿
主がこういう人間かと思うと、素直に喜べない気持ちになってしまう。
他の客も次々とクレスウィックにつかまり、自慢話をたらたらと聞かされ、ようやく宿
屋の主人が来るのを渋った理由を知った。
旅立ちは突然に
「この絵一枚で、小さな街が買えてしまうんですぞ。いや、本当に高かった。私だから買
えたんですな」
ふってわいた災難に、宿から着の身着のままで放り出され、疲労している人々への配慮
などなしに、クレスウィックは自慢し続け … カイルロッド達がやっと解放されたのは、
邸に来て二時間も過ぎてからだった。
わけのわからない疲労感をひきず。ながら、人々はそれぞれ割り当てられた部屋に通さ
れた。カイルロッドとミランシャは別棟の続き部屋に案内された。
「ふかふかのベッドだわ」
ミランシャがベッドに倒れこんだ。カイルロッドは頭痛がおさまらず、ふらつく足でベ
ッドの端に腰かけた。
「それじゃ、あたしは寝るから」
クレスウィッグの自慢話ですっか。疲れたのか、少女はさっさとベッドに入ってしまっ
た。
「俺も寝る」
一.ノ
カイルロッドも自分のベッドへ潜りこんだ。何故、二人だけが別棟に通されたのか ー
めんどう
そんな疑問もあったが、頭痛と疲労で、考えるのが面倒になっていた。
疲れているのに眠りは浅かった。
身体は疲れているのに、神経だけが張りつめ、ささくれだっていた。そのためだろうか、
カイルロッドはすぐに異変に気がついた。
ようす
ゆらりと室内の空気が揺れ、なにかが室内に入りこんだ。薄目を開けて周囲の様子をう
かがい、カイルロッドは冷汗をかいた。
くろしようぞく
ベッドの周りを黒い人影に潤まれているではないか。宿屋で襲ってきた黒装束の連中の
ふ                     いっせい
ようだが、あの時より人数が増えている。ざっと見ても一〇人はいる。それらが一斉に剣
を抜いた。
カイルロッドはそのままで下に落ち、片手と足でベッドをひっくり返すと、跳び退いた
連中めがけてナイフを投げた。
「寝込みぽっかり襲いやがって−」
ひたいのど                      ゆか
額や喉にナィフを刺した黒装束達が、ドオッと重い音をたてて床に倒れる。
おれ ねら
「なんの目的があって、俺を狙う!」
両手に短剣を持ち、立ち上がったカイルロッドが黒装束達を睨んだ。
「王子−」
こわ
続き部屋から、ミランシャのかすれ声が聞こえた。カイルロッドの顔が強ばった。
旅立ちは突然に
「きさまら こ 」
続き部屋の方に顔を向けると、
「おっと、動かないでくれ。私は女の子の顔に傷なんかつけたくないのだよ」
クレスウィックの声がした。そして予想どおり、ミランシャの喉に短剣を突きつけたク
レスウィックが現われた。
あやつ                   やと
「なるほど、あんたがこいつらを操っているんだな。得意の金にあかせて、雇ったという
ことか。宿屋にこいつらを差し向けたのも、あんただな」
だて                  じぎやくてき
伊達男が白い歯を見せた。カイルロッドは自虐的に扇をすくめた。二人だけ別棟に通さ
れた時に、気がついているべきことだったのかもしれない。
「最初はまんまと逃げられたが、今度はそうはいかない。断っておくが、大声を出しても
む一だ
無駄だ。私は贅艮な男だからな。関係のない人々に迷惑をかけないよう、あなた達をわざ
わざ別棟に案内したのだからね。さて、短剣を捨てていただこうか」
「 IIIこ・
カイルロッドは無言で二本の短剣を床に放った。金属音が室内に響きわたった。
けつこう              およノじようぎわ      lまうぴ
「素直で結構。さすが一国の王子だけあって、往生際がよろしい。ご褒美にこの娘を返し
てあげよう」
すみ け
近寄るとクレスウィックは短剣を部屋の隅に蹴り、ミランシャをカイルロッドの方に突
きとばした。
「ミランシャー」
カイルロッドはよろめいたミランシャを抱きとめた。「ごめん、王子」、ミランシャが
くちぴるか
唇を噛んだ。
「あんたは俺のことを知っているんだな」
もナワろん
「勿論だとも。カイルロッド王子」
部屋の明かりをつけながら、クレスウィツクが微笑した。明かりの中に、黒装束の男達
が影のように立っている。
なぜ
「何故、俺を狙う?」
「あなたは知らないだろうが、あなたの首には大金がかかっているのだよ」
「俺にフ」
カイルロッドは日を丸くした。
だれ
「誰よ、
あさ
そんなふざけたことするのはー・」
呆れてロもきけないカイルロッドのかわりに、ミランシャが噛みついた。
「死んでいくあなたには関係ない」
旅立ちは突然に
じだんだ
しかし、クレスウィックは賞金をかけた者の名前を明かさず、地団駄踏んでいるカイル
おもしろ  なが                        くだ
ロッドを面白そうに眺めている。いつでも殺せるという余裕からか、すぐに手を下す気は
ねヂみ
ないようだ。絶対的な有利を確信しているからだろう。猫が鼠をさんざんいたぶってから
殺すように、じわじわとカイルロッド達を殺すつもりらしい。
「黄金がかかっているのは俺だろう。関係のないミランシャまで巻きこむな」
道理など通じる男ではないとわかっていたが、言わずにはいられなかった。
あきら
「同行しているのなら、まったく無関係でもないだろう? ま、運が悪かったと諦めてく
れ」
伊達男がしれっとした顔で言った。
ぜったいぜつめい            いそが
絶体絶命を感じながら、カイルロッドは忙しく頭を回転させていた。とにかく少しでも
つか
時間を稼いで、生き残る機会を掴まなくてはならない。
「あんた、王子の首なんか必要ないぐらいお金持ちなんでしょうフ お金持ちのくせに賞
金稼ぎすることはないじゃない!」
強気でミランシャが非難すると、クレスウィックは真顔で「それは違う」と言った。
「金は多いほどいい。あって困るものではない。それに金なんてものは、地道に働いてい
てはたまらないものだ。地道に働いていては、いつまでたっても金はたまらない。世の中
はそういう風に出来ているのだよ。金をためたかったらあらゆるものを利用し、こういう
すば      のが         かねもう  ひけつ
素晴らしい機会を逃さないことだ。それが金儲けする秘訣というものだ」
「たいした秘訣だ」
つぱ
カイルロッドは床に唾を吐き捨てた。この男がどうやってここまで成り上がったのか、
だま おとしLYl きたな
容易に想像できる発言た、胸がむかついた。他人を騙し、陥れ、汚い手段を使いながら音
を築いたのだろう。
たいせつ
「あんたには金より大切なものなんて、この世にはないんだろうな」
「金さえあれば、この世で手に入らないものはない」
いやみ                 ほlまえ
カイルロッドの嫌味に、クレスウィックは幸福そうに微笑んだ。骨の髄まで拝金主義の
男に、カイルロッドはなにも言うまいと思った。こういう人間とは永久に噛みあわない。
「さて、長話しすぎたようだ。観念して死んでいただこう」
拝金主義の伊達男が黒装束達に命令した。
のど     きけ
ざっと黒装束達が動く。喉の奥で低く叫び、ミランシャが身体を固くした。カイルロッ
ドは青く燃える目で拝金主義者を睨みつけながら、ミランシャの細い肩を抱いていた。短
剣もない今、カイルロッドにできることはそれぐらいしかなかった。
さいご                  おの
しかし∵諦めたわけではなかった。最期まで決して諦めない、カイルロッドは己れに言
旅立ちは突然に
い聞かせ、クレスウィックと黒装束遠を睨んでいた。
その時 −
はで
派手な音がして、窓ガラスが割れた。
4
ゆか
割れたガラスの破片が明かりに反射して、砕けた光のように床に飛び散った。
それを踏みつけ、黒い旋風が躍。こんだ。まばたきみっつの時間のうちに、一〇人いた
黒装束達は剣も抜けぬまま、鮮血を撒き散らして床に転がった。
う−やわざ       ぽうぜん
あま。の早業にカイルロッドは茫然として声も出せなかったが、飛び込んで来た男の顔
を見て、ミランシャが叫んだ。
「遅いじゃない、イルダーナフー」
「助けて文句言われちゃたまらねぇな」
長剣を一振。して、イルダーナフが笑った。血が床の上に飛び散った。
「な、何者だー」
圧倒的優位を一瞬のうちにひっくり返され、逃げ腰になったクレスウィツタが金切り声
セーけ
で叫んだ。
「ただの剣士だよ」
ぶつモふノ
イルダーナフがこヤリと笑う。その笑いは、カイルロッドの目から見ても物騒なもので、
したな
クレスウィツクには飢えた大型肉食獣の舌舐めずりのように見えたことだろう。うろたえ
て逃げようとしたが、黒装束の死体につまずいて転んだ。
「うわ、うわっー」
わめ
服や手にべっとりついた血に腰を抜かし、意味のない言葉で喚いている。つい数秒前ま
ろうばい
での尊大な態度も何処へやら、伊達男は死体とイルダーナフにすっかり狼狽していた。
その情けない男に近づき、
ひま
「心配するな。苦痛を感じる暇も与えず、あの世に送ってやるからよ」
イルダーナフがこれ見よがしに、血のついた剣の切っ先を目の真前に突きつけた。
「ひいいい」
ゆか すわ
床に座りこんだクレスウィックが、泣きそうな声を出した。半分泣いていたかもしれな
「助かったよ、イルダーナフ」
ひたい  ぬぐ
カイルロッドは全身で息をしながら、手の甲で顔の汗を拭った。
「もっと早く来てほしかったけどな」
「助けてもらって文句言うなよ」
やと
イルダーナフは鼻先で笑った。雇い主より雇われているほうが態度が大きい。
「助けてくれー 生命と金の他ならなんでもやるから、助けてくれ!」
あき       つごう      いのちご
クレスウィックが、呆れるほど自分に都合のいい条件で命乞いした。この条件で助けて
やろうと思う者はあまりいないだろう。
「どこまでもがめついのね。人は平気で殺そうとするくせに」
腰に手を当て、ミランシャが隊とばしてやろうかという目で、哀願する男を睨んだ。イ
ルダーナフはというと 「さぁて。どこから斬り刻んでやろうかな。鼻を削ぐか、耳を削ぐ
おもしろ   おど
か」などと、面白がって脅している。顔が真剣なので、クレスウィックはなにか言われる
ひめい
たびに悲鳴をあげているが、大男の目は明らかに笑っていた。
いや
「自分がされて嫌なことは、他人だって嫌なのよ、わかってるのけ」
はのお
「そうそう。それと確実に俺を殺したかったら、こんな暗殺者達より、炎の馬のほうが確
実だったぜ」
あいづち        たば
ミランシャの説教に相槌を打ち、長い髪を束ねながら、カイルロッドが皮肉を投げつけ
ると、
「炎の馬フ」
旅立ちは突然に
不思議そうに、クレスウィックが顔を上げた。初めて聞いたような、まるで身に覚えが
ないとでも言いたげな顔だ。カイルロッドはにわかに不安を感じた。
「宿屋で炎の馬に俺達を襲わせたのは、あんたじゃないのか?」
やと
「そんな魔法が使えたら、暗殺者など雇わんよ」
まゆね                               うなず
眉根を寄せ、クレスウィックは吐き捨てた。「それもそうだ」、イルダーナフが領いてい
る。
クレスウィツクの言葉に、カイルロッドはうんざ。した。黒装束と炎の馬を差し向けた
のは同一人物とばか。思っていたのだ。そこへ別口と言われ、急に肩が重くなった。つま
ぬら
。、クレスウィックとは別口で、カイルロッドを狙っている者がいるということだ。
きぎ        ぎ
「さてどうする、カイルロッド。この気障な野郎をぶった斬るかどうか、雇い主の判断に
まか
任せるぜ」
ゆだ
剣士が判断をカイルロッドに委ねると、拝金主義者は身体ごと向き直。、「助けてくれ」
ゆか ひたいす
と哀願しながら、床に額を擦りつけた。こういう姿を見ていると、カイルロッドはあま。
強いことができなくなる。人が好いと言ってしまえばそれまでだ。
「わかった。それじゃ、俺の質問に答えてもらおう」
横から「甘いこった」というぼやきが聞こえたが、カイルロッドは無視した。
だれ
「俺の首に賞金をかけたのは誰だ」
「… ・」
伊達男のこめかみがピクッと動いた。が、口を開こうとはしない。
「誰が俺に賃金をかけたんだ!」
いらだ                       っか
苛立ったカイルロッドが、クレスウィックの襟首を乱暴に掴んだ。しかし、クレスウィ
ックは貝のようにロを閉ざしている。
「まぁまぁ、王子。ここは冷静にいきましょうや。暴力はいけませんぜ」
カイルロッドをどかし、にっこり笑ったイルダーナフの長剣がすっと横に動いた。クレ
のど                にじ
スウィックの喉に赤い線が一筋でき、そこから血が渉んだ。
ごうじよう
「強情はるのは利口じゃねぇな。生命あってのお宝じゃねぇのか」
ほほ たた                 なまつぱ
それからヒタヒタと頬を叩く。クレスウィックの喉が大きく動き、生唾を飲みこんだの
がわかった。
しんでん
「し、神殿だ」
最大の禁句をロにしたように、クレスウィックはガタガタと震えていた。
「神殿?」
けげん
怪訝な顔のカイルロッドの後ろで、ミランシャが青ざめ、イルダーナフは口元を大きく
旅立ちは突然に
ゆが
歪めた。
「フエルハーン大神・・」
伊達男は最後まで吉葉を言えなかった。突然、クレスウィックが油をかけられた木像の
たいまつ
ように燃え上がった。まるで人の形をした松明のようだった。
「キヤアァァー」
ひめい           こぶし   おお          ぜつきよう
悲鳴をあげ、ミランシャは両の拳で口元を覆った。その悲鳴を上回る絶叫をあげながら、
ひだるま
火達磨になったクレスウィツクが苦しさに暴れる。舌打ちしたイルダーナフの剣が迷いな
く動き、クレスウィックの心臓を正確に突き刺した。剣を抜くと、暴れていたそれが動き
ゆか くず
を止め、床に崩れ落ちた。
やつ しわぎ
「・I・きっと炎の馬を俺達に差し向けた奴の仕業だ」
つぷや
黒焦げになったクレスウィックを見下ろし、カイルロッドは呟いた。他に思い当たる節
いや にお  ぴこう
はない。肉の焦げる嫌な匂いが鼻孔から肺に流れこみ、胃のあた。がむかついた。
「口封じか」
つまらなそうにイルダーナフが長剣をおさめた。
「フエルハーン大神殿のフ」
まちが
「クレスウィックが嘘をついていなければ、多分間違いない……」
ねら
「どうして王子がフエルハーン大神殿から狙われなくちゃいけないのーフ」
「知りたいのは俺のほうだよ、ミランシャ」
ナフめ
片手で顔をおさえ、カイルロッドは坤いた。自分の声が見知らぬ他人の声に聞こえた。
5
空は青く、風に流されて雲が形を変えていくのを、カイルロッドは草の上に寝そべって
にぎ
見ていた。少し離れた場所に立っている市からは、賑やかな音楽と人の話し声、そして熱
気が伝わってくる。
「しっこい頭痛だ」
じゆうめん
昨夜からの頭痛がまだおさまらず、カイルロッドは渋面になった。
やしき
昨夜、カイルロッド達はクレスウィックの邸からさっさと逃げだした。焼死した主人の
えたい
クレスウィックや、得体の知れない黒装束の男達が転がっている那犀に泊まっていたと知
めんどう                          まちが
れたら、面倒に巻きこまれることは明白だ。まず犯人扱いされることは間違いない。先を
急いでいる身で、面倒な取り調べを受けるのはごめんだった。そしてなにより困るのは、
身元を知られることだ。ルナンの王子と知られたら、もっとややっこしくなる。
案の定、朝から衝は大騒ぎになった。しかし、クレスウィックの死を悲しんでいる者は
旅立ちは突然に
しよぎようむく
おらず、むしろ喜ばれているのは、生前の所業の報いというものだろう。
いつしよ
そういう理由で、カイルロッドとミランシャは仕方なく変装した。一緒に邸に泊まった
客達が、若い二人連れの顔を覚えていたのだ。カイルロッドはフードをかぶり、ミランシ
かつこう
ャは男の子のような格好をしたが、身軽になって喜んでいるようだ。
まちなか
人目を避けながら、こそこそと街中を通りすぎた時、
たぴじたく
「俺達はなにも旅支度してねぇんだな」
つぶや
イルダーナフが思い出したように呟き、
「そうだ、市が立っているから、そこで必要な物を買い揃えましょう」
ミランシャがそう提案した。なにしろ荷物は全部氷漬けの宿の中で取り出せない。小耳
うわさ               けはい
にはさんだ噂では、夜が明けても氷の溶ける気配がないらしい。
まね
「俺にはイルダーナフの真似はできないな」
草をむし。ながら、カイルロッドはしみじみと思った。二人が買物に行くと言い出した
時、「そんな金がどこにあるんだ」と危惧したのだが、なんとイルダーナフが大金を持っ
かす
ていた。呆れたことに、黒髪の大男はクレスウィックの邸から逃げだす際、調度品を掠め
取ってきていたのである。それをカイルロッドの知らない間に金にかえていたらしい。
「人生経験の違いだ」
とノ、いげ
得意気にイルダーナフは破顔した。カイルロッドにはとても真似できない。
きづか
そして、頭痛のおさまらないカイルロッドを気遣って残し、二人で市に買物に行った。
「それにしても遅いぞ」
かげん
すでに二時間が過ぎたが、まだ帰って来ない。カイルロッドもいい加減、待ちくたびれ
ていた。
だいしんでん
「フエルハーン大神殿か」
カイルロッドは上体を起こした。とんでもない名前が出てきたというのが、正直な感想
だった。
フエルハーン大神殿−1ディウル教の総本山であり、かつて大陸全土に大きな影響力を
たぴ                かくちよう
持っていたが、度重なる神殿内部の勢力争いと、王権拡張をはかる諸国の王達との権力抗
−・、71
争に破れて以来、衰退している。
なぜ  ねら
「その大神殿が、何故俺を狙うんだフ・」
たたかしんかん
ダヤン・イフエがいればと、カイルロッドは切実に思った。「闘う神官」はフエルハー
ヘんきよう     ふにん
ン大神殿で学び、志願して辺境のルナンに赴任したという話を聞いたことがある。
「わからないことばかりだ」
つ    くちぴる
摘んだ草を唇に当て、カイルロッドは目を閉じた。草笛の細い音が、風のように流れて
旅立ちは突然に
227
いく。
自分は何者なのか。
なぜ
何故、生命を狙われるのか。
ふく                 くちやみ
不安ばかりが内部で膨れていく。なにも知らぬまま、暗闇の中に放り出されたように心
細かった。
かな      まぶた
石になったサイード達の姿が、夢の中の母の哀しげな顔が、瞼の奥にうかんだ。レクス
ォールの残した言葉が、クレスウィックの声が、耳の底にこびりついている。
じっぶ だれ    なぜ
実父が誰なのか、何故卵で生まれたのか。
一八年、目をそむけてきた事柄の真相を、自分で見つけなくてはならない。
自分は何者なのか。
それさえわかれば、カイルロッドをがんじがらめにしていた糸がすべてほどけるのだ。
一   ・・
思考の中に埋没していたカイルロッドは、草を踏む音にハッとして目を開けた。
「ああ、失礼。驚かせてしまいましたか」
少し距離をおいて、正面に旅姿の男が立っていた。中肉中背、まだ若く二〇代後半ぐら
やわ
いだろう。燃えるような赤い髪と浅黒い肌の青年で、おちついた物腰と柔らかな物一貰いに
知性と教養が見てとれた。
なつ              ぷしっけ
「懐かしい音楽が聞こえたので、不躾とは思いながら、つい足を運んでしまいました」
はこはえ   いやみ
青年が微笑んだ。嫌味のない、好感の持てる笑顔に、カイルロッドも警戒心を解いて、
顔をほころばせた。
「俺はこの曲をよく知らないんですが、あなたはご存じなんですね」
ほろ
「はい。その曲はずっと苦に滅んでしまった、小さな国の唄です。今はもう、知っている
者もごくわずかでしょう」
さんかつしよく     さび
青年のオレンジがかった金褐色の目が、少し寂しそうに笑った。カイルロッドは再び、
その曲を吹いた。教わったのでなく、サイードが口ずさんでいるのを聞きながら、自然に
覚えたのだ。
あお  せつ
青年は空を仰ぎ、切なく穏やかな表情で、草笛を聞いていた。時々吹く強い風に赤い髪
せきわん
がなびき、長袖の右腕が大きく揺れた。この青年は隻腕だった。
カイルロッドは久しぶりに穏やかな気持ちになった。草笛を吹く − たったそれだけの
行為が、心の迷いや苦しみを洗い流してくれた。
短くて長い時間が過ぎた。
曲が終わると青年は小さなため息をつき、
旅立ちは突然に
229
なつ
「あ。がとう。久しぶ。に懐かしいものを聴くことができました」
左手をカイルロッドの前に差し出した。
「いえ」
あんのん
立ち上が。、カイルロッドは青年の手を握った。その手は働く者の芋だった。安穏とし
た人生を歩いて来た人間の手ではない。
「あなたの旅の安全を祈っています」
「ありがとう」
ほほえ
芋を離し、青年が微笑んだ。
「わたしもあなた達の旅が無事であるように祈っています、カイルロッド王子」
「l?H」
まゆ
眉をしかめたカイルロッドに、
「わたしはエル・トパック。また、お逢いすることもあるでしょう」
青年 − エル・トパックが微笑んだ。
「おい、あんたは何者だ「」
きけ
そうカイルロッドが叫びかけた時、突風が吹きつけた。かぶっていたフードが取れ、銀
む だ        つちぼこり
髪が剥き出しになった。風と土壌にカイルロッドはきつく目を閉じた。
風はすぐにおさまった。カイルロッドが日を開けると、そこに青年の姿はなかった。
できごと
白昼夢のような出来事だった。
手にあの青年の芋のぬくもりが残っていなければ、夢だと思ったかもしれない。
「エル・トパック」
ほのお
ロの中で青年の名前を呼んでみる。炎のような髪をした隻腕の青年は、カイルロッドに
あぎ
鮮やかな印象を残して去った。
強い風に雲がたなびいていた。
ミランシャとイルダーナフが帰って来たのは、それから間もなくだった。二人とも聞手
あき           かか
に、カイルロッドが呆れるような大荷物を抱えていた。
「あーん、疲れた」
ミランシャが荷物を下へ置き、腕をぐるぐるまわした。
おれ   かげん
「だから言ったじゃねぇか。俺はいい加減にしろって言ったのに、あれもこれもって買い
込んじまってよ」
イルダーナフはミランシャの三倍の荷物を持っていた。
「すごい荷物だな」
旅立ちは突然に
なが
二人が下に置いた荷物を眺め、カイルロッドは目を丸くした。それから少し考えたが、
さ。げなく二人にエル・トパックを見かけなかったか、尋ねてみた。
「二人とも、男を見かけなかったかっ 赤い髪の、隻腕の青年なんだ」
「知らねぇな。ミランシャはどうだ?」
「あたしも知らない。でも、その人がどうかしたの」
はノ、ちゆうむ
好奇心たっぶ。の二種類の視線を受け、カイルロッドは白昼夢のような出来事を話して
聞かせた。
「どうってわけじゃないんだけど。なんか気になってね」
印象的な青年だし、言ったことが気になる。またどこかで逢うと、暗にほのめかしていた。
「逢ってから考えりやいいんじゃねぇか。ここで考えたって、名前の他はなにもわかんね
ぇんだしよ」
いんうつ
カイルロッドの陰鬱を、イルダーナフがばっさりと斬って捨てた。
「今から神経を擦り減らしてちゃ、この先が大変だぜ」
荷物を整理しながら、イルダーナフ。
「そうよ。くよくよしたって仕方ないわ」
やしき
ミランシャは明るい。クレスウィックの邸でひどい目にあったというのに、この少女は
いつしよ
同行を強く望んだ。「俺と一緒にいると、この先も危険な目にあうから」、カイルロッドは
はず
ミランシャを一行から外そうとしたのだが、「馬じゃなくなるまで付き合うわ」、ミランシ
ャは笑ってそう言ってくれた。
「そうだな」
やはり楽観的になっていると苦笑しながら、カイルロッドは二人の同行者に感謝した。
この二人がいなかったら、さぞ陰鬱な旅になっただろう。「ありがとう」と言いかけたが、
口にするのが気恥ずかしく、
「これを三人で分担して持つわけか」
かが
二人に背を向けて、荷物の前に屈んだ。
「いや、これは馬の背中にくくりつける」
まじめ     こわね
イルダーナフの真面白くさった声音に、瞬間的にカイルロッドはその意味を理解したが、
遅かった。
逃げようと立ち上がったところに、胡椒を投げつけられた。
「いつぞや、俺に胡椒を投げてくれたからな。そのささやかな礼だ」
イルダーナフの声を聞きながら、カイルロッドは大きなくしゃみをした。
カイルロッドは背中に荷物と不条理を乗せ、四本脚で歩いていた。
「荷物持ちさせるために、休ませておいてやったんじゃないか」
横を歩いている大男を睨むと、そんなことを言った。「道理で親切だと思ったら、最初
′、わだ
から企てていたんだな」、少しでも親切だと思った自分が口惜しい。
だいじよよノぶ
「王子、大丈夫?」
カイルロッドの服を持っているミランシャが、後ろから声をかけた。カイルロッドは黙
しっぽ
って尻尾を振った。
「ミランシャ、疲れたらカイルロッドの背中に乗せてやるぜ」
すっかり馬主になりきっているイルダーナフが勝手なことを言う。後脚で立ち上がって
抗議してやろうかと思ったが、やめた。またどつかれるに決まっているからだ。馬になっ
たとたん、扱い方まで馬相手になる。
「俺は人間だぞー」
と叫んでみても、イルダーナフやミランシャには属のいななきにしか聞こえない。
ため息をついて、カイルロッドはおとなしく街道を歩いていた。
ルナン王子カイルロッドの旅は、まだ始まったばかりだった。
あとがき
前シリーズをご存じの皆さん、お久しぶりです。
初めて私の本を手にした皆さん、どうもはじめまして。
三冊日の本です。で、また新シリーズです。(これでシリーズとしては四作目・…・・)
いや
前シリーズをご存じの方々の中には、きっと、「また新シリーズ?」と、嫌な顔をする
方もいらっしゃるでしょうから、最初に少々弁解させていただきます。
すでに色々な方々から、
「メルヴィ&カシムの続編はいつですか。早く書いて下さい」
「リジィオはどうしたんですか」
まじめ
「真面目に書いているんですか」
「前シリーズが終わってもいないのに、どうして新シリーズぽっかり増やすんですか?」
一さいそく
…などなど、前二作の続刊について、胃の痛くなるような催促が来ているんですが、
心待ちにしているファンの皆さんゴメンナサイ。単行本はもうちょっとかかりそうです。
というのも、イラストレーターさんが多忙を極める方々ですので、どうしてもスケジュ
2361ルの調整が難しいようです。どうやら年二冊のペースにな。そうなので、前二作につい
ては、気長にお待ち下さい。(としか吉いようがありません  )
さて、このシリーズですが、(比較的早いペースで出る予定です)
生れたきっかけは実に単純でした。
いつしよ こたつ
ある冬の夜中、自称(天使のような)妹と一緒に炬燵でお茶を飲んでいたら、
「ねえ、これこれ」
と、妹が新聞を広げて指さしたのが、
「王子に玉子」
という広告。一瞬、私の目は点になり、次の瞬間、二人で爆笑。
「王子が玉子とか」
「玉子の王子だ」
「きっと玉子から生れたんだね」
馬鹿話をしているうちに、「卵から生れた王子」になってしまい、丁度、そのすぐ後、
新シリーズの話がもちあがったものだから、「卵王子」の謡が展開し・。そして、この
シリーズが来ました。
新聞の広告が、カイルロッドを生んだのでした。
世の中、なにが幸いするかわかりませ  ん。
たまもの
ヵィルロッドが偶然から生れたとすれば、イルダーナフは計算違いの賜物です。
設定当     かもく 初は「寡黙でクール、沈着冷静、渋くてひたすら格好いい剣士」だったんですが、気がつ  けばあーゆー人 こ。
はヂ
他にも「こんな苦じゃなかったんだけど」というキャラクターが多々いますが、それは  今後、更に増えることでしょう。
何事も予定どおりには進まない ・
新しいシリーズとともに増える楽しみ、それは挿し給です。
このシリーズは田中久仁彦き 氏にお願いすることになりました。
どんなイラストを描いて下さるか、期待しています。
ぁ  というわけで、次巻もよろしく。
23
冴木 忍 拝
_______________________________一二==二
611
S
富士見ファンタジア文庫
く卵王子〉カイルロッドの苦難@
たぴだ  とつぜん
旅立ちは突然に
平成4年7月2班 初版発行
平成6年9月2(旧 十大版発行
さえき しのぶ
著者−〜一冴木 忍
発行額−佐藤吾之輌
発行所−富士見書房
〒102東京都千代町区富士見1−12−14
電話
常葉那 03(3261)5375
編集部 0、l(3222)1545
振替 東京7−86桐4
印刷所−旭印刷
製本所−本間製本
落丁乱丁本はおとりかえいたしまウ
定価他力ノ、一に明記してめりま4
1992FLlJlmlShobo,PrHl短日年毎脚1
ISBN4−8291−2447−4CO193
◎1992ShlnObu Saelくh KullllllkO Tallaka