光瀬 龍
紐育《ニユーヨーク》、宜候《ようそろ》
SF〈太平洋戦争〉
1――A
一九四二年六月三日。午前三時二十分。ミッドウエイ島では小さな地震《じしん》を感知した。
だが、この朝、ミッドウエイ島にあったすべての人々は、軍人であろうがそうでなかろうが、戦闘《せんとう》準備に忙殺《ぼうさつ》されていて、このかすかな地震を感ずることができた人は、ごく少数であった。
また、同島のアメリカ海軍気象台の地震計係の職員も、構内に高射機関銃陣地《こうしやきかんじゆうじんち》を設けた海兵隊に、地震計を設置してある建物のそばで大槌《おおづち》を使わぬように、苦情を言おうとして席を立った間のことだったので、地震計の針は、グラフ用紙の置かれていない台の上を、むなしく往復するばかりだった。
その地震は、オーストラリア大陸のクイーンズランド東部海岸、グレート・バリアー・リーフにのぞんだ小港マッカイでは、この地方では近来にないゆれをもたらした。といっても、被害《ひがい》らしい被害もなく、わずかに舟溜《ふなだま》りの防波堤《ぼうはてい》に立てられた標識灯《ひようしきとう》の三角形のやぐらが倒《たお》れただけであった。その標識灯も、日本の小型|潜水艇《せんすいてい》が湾内《わんない》に侵入《しんにゆう》するのを防ぐために、何か月も前から点灯されることなく、うち棄《す》てられていたものだった。
漁業組合書記のムリロ・ラウパホイホイは、標識灯がこわれたことだけを記録しておいた。
シベリア大陸を北流するエニセイ川の支流、ツングースカ川の広大な流域は、はげしい地震《じしん》にゆれ動いた。とくに、川の右岸の、ツングースカ河谷における木材集積の中心地ともいうべきツーラの町は、戸数六百のほとんどが倒壊《とうかい》した。同時に発生した山火事によって被害は激増《げきぞう》し、高熱の上昇《じようしよう》気流によって生じた巨大《きよだい》な積乱雲は、はるか四五〇キロメートルも離《はな》れたツルハンスクの町からも遠望することができた。
だが、ソビエト・ロシアは、この時期、ヨーロッパにおいて侵入《しんにゆう》してきたナチス・ドイツ軍と、はげしい戦いをくりひろげていた。この独ソ戦争の山ともいうべきスターリングラードの攻防戦《こうぼうせん》が、このひと月後におこなわれようとしていた。
その混乱の中で、ツングースカ地方の地震《じしん》の報告は、中央部の誰《だれ》によっても記憶《きおく》されることはなかった。
ただ、ヤクート自治共和国の首都ヤクーツクの気象台の記録には、その日は一九四二年六月四日と記されている。
南アメリカ・ペルーの、エクアドル国境に近いタララの町の郊外《こうがい》に、国籍《こくせき》不明の大型機が墜落《ついらく》し、爆発炎上《ばくはつえんじよう》したため、町の一部と隣接《りんせつ》する農場を焼失した。飛行機の残骸《ざんがい》からは十数個の黒焦《くろこ》げ死体が発見されたが、調査の結果、それらはいずれも小柄《こがら》な東洋人のものと断定された。
機体の残骸の一部から、銘板《めいばん》の破片が発見された。それには、あきらかに NAKAZIMA ≠ニ読み取れる刻印があった。
かけつけた警官の一人は、熱い灰の中から見馴《みな》れない小銃《しようじゆう》をひろい上げた。
海岸警備隊の隊長は小学校の校長でもあり、銃器《じゆうき》の研究家でもあった。彼は、警官によってもたらされたこの小銃を、丸一日かかって調べた末、おそらく、三八《さんぱち》式歩兵銃であろうと語った。
この事件は、その後ペルー当局によって厳秘《げんぴ》に付され、タララの町の人々も口にすることを極力避《さ》けた。
この日が一九四二年六月四日であったことを記した石碑《せきひ》が、聖《セント》・マリアンヌ尼《に》公館の裏庭に建てられている。
一九四二年の五月から六月にかけて、世界各地で極光《オーロラ》が観測された。
とくに六月三日の夜、カスピ海に面したソビエトのトルクメン共和国から、イラン、イラクにかけての、広大な地域で見られた極光《オーロラ》は、多彩《たさい》な美しさと奇怪《きかい》な光輝《こうき》とで、その地方に住む人々を戦慄《せんりつ》せしめた。鳥はめしいとなって壁《かべ》や塀《へい》にぶつかり、家畜《かちく》は暴走してとどまる所を知らなかった。
一九四二年六月三日。午後十一時過ぎ、|イギリス空軍《R・A・F》の戦闘機隊《せんとうきたい》司令官タウンディング将軍は彼の指揮する防空戦闘機隊のために、デハビランド・ドラゴン・ラピード機に乗って、高度五〇〇〇メートルの上空から、ロンドン市周辺に配置されたサーチライトの、連携《れんけい》照射の検閲《けんえつ》をおこなっていた。突然《とつぜん》、機長のプリマスロック大尉《たいい》が、おどろきのさけび声を発した。彼の指し示すままに、機体の窓から下界を見おろした将軍は驚愕《きようがく》した。眼下のロンドンの市街は、松明《たいまつ》のように燃えていた。その時刻、イギリス沿岸各地の対空|監視哨《かんししよう》は、英国本土に侵入《しんにゆう》中か、あるいは侵入しているいかなる種類のドイツ機の存在をも報じていなかった。急遽《きゆうきよ》、もよりの基地に着陸すべく、ラピード機は降下したが、二分後、大火災は消滅《しようめつ》し、ロンドン市は、もとの灯火管制下《とうかかんせいか》の暗闇《くらやみ》にもどった。
その後、タウンディング将軍は、この夜のできごとに関しては側近のごく少数の者にしか語らなかった。その一人、副官のシドニー・K・シェクスピア少佐《しようさ》は、彼の私的な勤務日誌の中に、タウンディング将軍の体験を書きとどめておいた。
一九四二年四月十九日。この前日、日本各地は、日本本土近海まで迫《せま》ったアメリカ航空|母艦《ぼかん》『ホーネット』から発進した十六機のノースアメリカンB25爆撃機《ばくげきき》の空襲《くうしゆう》を受けた。
十九日にも東京周辺の地域には警戒《けいかい》警報が発せられていた。
東京の郊外《こうがい》に住む中学生、千葉譲介《ちばじようすけ》は、この日午後二時半|頃《ごろ》、アメリカ海軍の艦載《かんさい》単発爆撃機、ブリュースターSBA―1あるいはカーチスSB2Cと思われる機体と日本陸軍の九七式戦闘機との空中戦を目撃《もくげき》した。
当時の戦況《せんきよう》から不審《ふしん》を感じた彼は、戦後、航空雑誌その他を通じて、目撃《もくげき》した情景の解明に役立つ証言ならびに参考意見を求めたが、寄せられた回答は皆無《かいむ》だった。
1――B
染めたような青い大海原《おおうなばら》はそのまま大空につらなり、水平線を見定めることは困難《こんなん》だった。
空と海との間には、かなり厚い団雲の層があり、編隊が雲の上をかすめると、新雪の肌《はだ》のような雲の表面を、ドーントレスの影《かげ》が矢のように走った。
≪|VB《ベネツト》―3《スリー》。|VB《ベネツト》―3《スリー》。左一五度。日本艦隊《ターキー・》主力《メイン・》部隊《ボデイ》。攻撃せよ《アタツク》!≫
どこか見えない所を旋回《せんかい》している戦場統制官《コンダクター》が、ようやく戦場に到着《とうちやく》したあら手の爆撃隊《ばくげきたい》を、声を枯《か》らして敵艦隊《てきかんたい》の上空へ誘導《ゆうどう》する。
空母ヨークタウン搭載《とうさい》の第三爆撃飛行中隊VB―3の、ダグラスSBD3ドーントレス艦上《かんじよう》 爆撃機三十三機は、渡《わた》り鳥のむれのように翼《つばさ》をかたむけて大きく旋回《せんかい》した。
≪バックギャモンより各小隊へ。前方の雲の切れ目から突《つ》っ込《こ》む。戦闘隊形《パターン》はカテゴリー3。グッド・ラック!≫
隊長のクラレンス・マクラスキー少佐《しようさ》の甲高《かんだか》い声が、イアホーンの中でひびいた。語尾がおさえようもなく震《ふる》えていた。
第三小隊編隊長のウイリアム・ハザウエイ中尉《ちゆうい》は、思いきって操縦席の風防をいっぱいにあけ放った。
風防を開いたまま急降下することは、ふだんはかたく禁止されていた。だが、これから、爆弾《ばくだん》をかかえて日本|艦隊《かんたい》に向って急降下してゆこうというとき、少しでも視界をひろくしておきたかった。それにまだ上って間もない太陽の、低い角度からの陽光が、風防ガラスに予期しない反射光を生み出すのではないかと思った。
ふしぎなことにおそろしい ZERO の姿《すがた》はどこにもなかった。
あくまでも青く澄《す》んだ空には高射砲弾《こうしやほうだん》の煙《けむり》ひとつ見えなかった。
――この雲の下で、ほんとうに戦いがおこなわれているのだろうか?
ハザウエイ中尉《ちゆうい》の胸《むね》に、ちらと疑惑《ぎわく》がわいた。
ほんとうに静かではないか。こんな静かな朝に、ほんとうに戦闘《せんとう》がおこなわれているのだろうか?
「中尉! 中尉! 遅《おく》れますぜ。どうせ、やられるなら早い方がいい」
後部座席のエイモリ兵曹《へいそう》がさけんだ。
ハザウエイ中尉は、はっとわれにかえった。二、三秒の間、虚脱《きよだつ》していたようだった。
「OK!」
ハザウエイはペダルを踏《ふ》み、操縦桿《ステイツク》を深くかたむけた。
同時に、急降下制動板《スポイラー》を兼《か》ねる穴あきフラップをおろし、プロペラの可変ピッチを浅くした。
機体は一瞬《いつしゆん》、逆立ちの姿勢《しせい》となった。
「タリホー!」
ハザウエイ中尉は、雲の切れ目をくぐって、弾丸《だんがん》のように突《つ》っ込《こ》んだ。
雲の下へ出ると、信じられない世界がひろがっていた。
海も、空も、どす黒く染っていた。
海面や空中でやたらにピカピカと何かが光っていた。
真下に、おそろしく大きな船があった。
船尾から純白の航跡《ウエーキ》がのび出し、右に、左に大きくくねって大蛇《だいじや》のように海原いっぱいに渦巻《うずま》いていた。モーターボートのようなスピードで突進《とつしん》しているらしい。
ハザウエイは、自分の機が、ねらわなくともその船に機首を向けているのに気がついた。
体を石のようにちぢめ、操縦桿《ステイツク》を握《にぎ》りしめた。
すさまじい音響《おんきよう》がハザウエイと彼の機体を押《お》しつつんでいた。
風防の縁《ふち》で、主翼《しゆよく》の前縁で、無線アンテナ柱で、切り裂《さ》かれる大気がごうごうとうなりを上げていた。
しぼったエンジン音。機体の震動音《しんどうおん》。さらに何とも知れぬ激《はげ》しい打撃音《だげきおん》。
それらがひとつになり、入り乱れて鳴りひびいた。
機体の上下左右を、長さ数十センチもある野球のバットのような細長い火の玉が、滝《たき》をさかさまにしたように、たえまなく噴《ふ》き上ってくる。
それは、下から射《う》ち上げてくる敵の機関砲弾《きかんほうだん》で、一発でも命中したら、ドーントレスなど瞬時《しゆんじ》にばらばらに分解してしまう。
命中しないのがふしぎだった。
五秒。十秒。十五秒……
ドーントレスは急降下を続けた。
とつぜん、眼下の大きな船から、真赤な閃光《せんこう》がほとばしった。
閃光のあとから、褐色《かつしよく》の煙《けむり》や純白の水柱が突《つ》き上ってきた。
ハザウエイのドーントレスは、その煙と水柱の頂点へ突っ込んでゆこうとしていた。
「中尉《ちゆうい》! 生きているか! 引き起せ!」
後部座席の兵曹《へいそう》が絶叫《ぜつきよう》した。
ハザウエイは力いっぱい操縦桿《ステイツク》を引いた。
右手の親指が反射的に操縦桿の爆弾《ばくだん》投下スイッチを押《お》していた。
一瞬《いつしゆん》、目の前が真暗になった。
ハザウエイは、おそろしい力で座席に押しつけられた。
頭が肩《かた》にめりこむ。
両腕《りよううで》が肩から抜《ぬ》け落ちたような気がする。
横隔膜《おうかくまく》が、押しつけられた内臓ではちきれそうにふくれ上った。
強烈《きようれつ》なGが、ハザウエイの肉体も、ドーントレスの機体をも、ひとつに押しつぶそうとする。
機体が今にもばらばらに分解してしまうかのように激《はげ》しく震動《しんどう》した。
ばらまいた砂を真向《まつこう》から浴びたように、機体に、重いなにかが多量にぶつかってくる。
十秒。二十秒。三十秒……
うっすらと周囲が見えはじめた。
だが夕闇《ゆうやみ》のように暗い。
おれは目をやられたんだ!
ハザウエイは恐怖《きようふ》で気が遠くなった。
背後から火線の雨が降ってきた。
機体を左へすべらせた。
火線は右へそれてゆき、同時に、頭上すれすれに一機の ZERO が飛び過ぎていった。
「エイモリ! 射《う》て。射て!」
ハザウエイはさけんだ。
だが、後部座席の機銃《きじゆう》は沈黙《ちんもく》したきりだった。
ハザウエイはむりに首をねじ曲げ、背後をふりかえった。
後部座席はからっぽだった。
エイモリだけではない。七・七ミリの二連装旋回機銃《にれんそうせんかいきじゆう》も消えていた。
銃架《じゆうか》にでも ZERO の直撃弾《ちよくげきだん》をくらい、むしり取られた機銃といっしょに、エイモリの体も空中へ持ってゆかれたのだ。
高度は一〇メートルぐらいだった。もはや高度計もきかない。
水と火と煙《けむり》と爆発《ばくはつ》をかいくぐってハザウエイのドーントレスは飛び続けた。
右にも左にも日本海軍の大型|艦《かん》がいて、両側からホースで水をあびせるような水平|弾幕《だんまく》をたたきつけてきた。
前方で彼らの大型空母が火柱を吹《ふ》き上げて傾《かたむ》いていた。
その向うにも沈《しず》みかかっている空母が一|隻《せき》いた。
そのどちらかが、自分がねらったものに違《ちが》いないが、急降下から引き起して離脱《りだつ》したはずなのに、そのねらった目標がどうして前方にいるのかふしぎだったが、今そんなことを考えているひまはなかった。
頭の上を黒い機影《きえい》がかすめた。
思わず首を引っ込めた。
デバーステーターが一機、火だるまになって海面に突《つ》っ込《こ》んでいった。
海面に触《ふ》れたとたんに、デバーステーターは陶器《とうき》のようにばらばらになって飛び散った。
エンタープライズ搭載《とうさい》の第六雷撃飛行中隊《VT6》の一機だった。
つづいてまた一機。もんどり打って海面に激突《げきとつ》した。グラマンF4Fだった。
VF―3と黄色い文字で胴体《どうたい》に書きこんだワイルドキャット艦上戦闘機《かんじようせんとうき》は、自分がまき散らしたガソリンの被膜《ひまく》の中で発火した。
人の形をしたほのおの塊《かたまり》が操縦席からころげ出し、主翼《しゆよく》の下の火の海へ落下し、すぐ見えなくなった。
前方の空母は艦尾《かんび》から沈《しず》みつつあった。
駆逐艦《くちくかん》が一|隻《せき》、沈んでゆく空母に横付けするように接近し、海面に浮《う》いている水兵の救助に当っていた。
その上を弾丸《だんがん》のように飛び越《こ》え、輪形陣《りんけいじん》の外へ出た。
まだ機銃《きじゆう》の弾丸が追いかけてきた。
逃《に》げた。逃げた。逃げた。
突《つ》っ込《こ》んでゆく時に前方からあびせかけられる敵弾《てきだん》は少しもおそろしくないが、攻撃《こうげき》が終って、背後から追いかけてくる弾丸はおそろしい。神に祈《いの》りながら、必死に逃《に》げるだけだ。逃げきるまでの間、つぎの瞬間《しゆんかん》に、敵の弾丸《だんがん》が機体の尾端《びたん》から飛びこんできて胴体《どうたい》の中を貫通《かんつう》し、搭乗員《とうじよういん》をくし刺《ざ》しにしてしまうような気がする。あるいはまた、真下から座席をつらぬき、尻《しり》の穴から脳天《のうてん》までつらぬいてゆくような気がする。
神さま! 助けてください!
日頃《ひごろ》、教会のとびらを押したこともないのに、ハザウエイは夢中《むちゆう》でさけんだ。
前方から ZERO が突進《とつしん》してきた。
両翼《りようよく》の前縁《ぜんえん》からさび色の閃光《せんこう》が噴出《ふんしゆつ》した。曳光弾《えいこうだん》が投網《とあみ》のようにハザウエイのドーントレスを押しつつんだ。
風防が吹《ふ》き飛んだ。
右翼《うよく》が音もなく後方へひるがえっていった。
片翼《かたよく》になったドーントレスは、高く高く水しぶきを上げながら海面を滑走《かつそう》した。
一九四一年十二月八日。日本海軍の、航空|打撃力《だげきりよく》をもっておこなわれたハワイの真珠湾《パール・ハーバー》攻撃《こうげき》は、それまでの、太平洋における日本・アメリカ両海軍の力のバランスをいっきにくつがえした。
アメリカの太平洋|艦隊《かんたい》主力は壊滅《かいめつ》し、同時におこなわれた日本軍の中部太平洋地域に対する全面的進出とともに、アメリカの太平洋方面に対する防衛線は極《きわ》めて稀薄《きはく》化し、無力化してしまった。
その頃《ころ》、大西洋ではUボートを主体とし、それに強力な通商|破壊艦《はかいかん》を配したナチス・ドイツ海軍が、アメリカからイギリスへ送られる厖大《ぼうだい》な量の軍需《ぐんじゆ》物資の流れを断つべく、猛威《もうい》をふるっていた。壊滅したアメリカ太平洋艦隊の穴埋《あなう》めに送られるべき艦隊はどこにもなかった。
連合国の首脳部は濃《こ》い憂色《ゆうしよく》につつまれた。
とくにアメリカは、日本軍の侵攻《しんこう》の前に、刻々と失《うしな》われつつあるマレー半島。フィリピン。オランダ領インドネシア。イギリス領ボルネオなどの防衛もさることながら、アメリカ本土の防衛戦略の再構成に必死の努力を傾注《けいちゆう》しなければならなくなった。
もともと、アメリカ陸軍には本土防衛戦略というものは全く存在しなかった。
東西に大洋をひかえ、陸地づたいに他国の脅威《きようい》というものを持たないアメリカでは、陸軍の任務は、せいぜいパナマ運河地帯を、南米諸国の生み出す反米ゲリラから守ることぐらいしかなかった。
第二次大戦が始まっても、なおアメリカの、ほとんど唯一《ゆいいつ》ともいうべき政治哲学であるモンロー主義が、アメリカの基本戦略に奇妙《きみよう》な、かつ、かなり重要な影響《えいきよう》を与《あた》えていたともいえる。
陸軍に期待しないアメリカ国民も、海軍には全面的に信頼《しんらい》を寄《よ》せ、国防の第一線として大きな期待を寄せていた。
アメリカ海軍にとって太平洋における国防の第一線は、ハワイ諸島とミッドウエイを結び、南はクリスマス島。北はアラスカのベーリング海峡《かいきよう》にのぞむアレウト列島を結んだ線と考えられていた。
この戦略防衛線は日付変更線の東側であり、アメリカ海軍はこの広大な海域を『アメリカの海』として認識していた。
アメリカの海軍戦略研究家であるマハン提督《ていとく》は、その著書の中で、≪日本海軍の主力|艦隊《かんたい》は、いつでも、好む時に日付変更線を越《こ》えてアメリカ海軍に決戦を挑《いど》むことができる≫と警告した。
ヨーロッパの戦乱が、アメリカ国民を焦慮《しようりよ》させ、一九二〇年代における両洋艦隊の思想をこの時期においてようやく曲りなりにも実現させたが、続々と進水させた新鋭《しんえい》の三万五〇〇〇トン級の戦艦《せんかん》も、どのような戦略構想のもとに使うべきものか、確たる思想は生れてもいなかった。
一方、石油、ゴムを始めとする戦略物資を求める日本の南進政策に恐怖《きようふ》を抱《いだ》いたイギリスやオランダは、ヨーロッパの戦いに追われて東洋に回す戦力のないことを理由に、アメリカにその対策を全面的にゆだねることになった。
それに応じて、アメリカはグワム島とフィリピンのルソン島に対日前進|拠点《きよてん》を置き、それより南方の、イギリス領、オランダ領などの資源地帯を、日本の矛先《ほこさき》から守る態勢を示した。
一九四一年という破局の年をむかえても、まだアメリカ海軍には、グワム・フィリピンのラインをどうやって守ればよいかの純粋《じゆんすい》な戦術すらなかった。
旧態のアメリカ東洋|艦隊《かんたい》や、マレー半島のシンガポールを中心として分散配置されたイギリス東洋艦隊の、せいぜい重巡洋艦《じゆうじゆんようかん》を主体とした第二級艦隊の砲戦《ほうせん》能力で、果して日本艦隊をくい止めることができるのかどうか、アメリカ海軍は深く困惑《こんわく》していた。楽観していたのはイギリスの首相のチャーチルだけだったというのは笑えぬ皮肉である。彼は、ヨーロッパ海域では無双《むそう》の戦力と考えられる二|隻《せき》の戦艦《せんかん》、一隻は就役《しゆうえき》したばかりの三万五〇〇〇トンの新鋭艦《しんえいかん》『プリンス・オブ・ウエールス』、もう一隻はやや旧式ではあるが実質的な性能は前者に勝るといわれた巡洋戦艦『レパルス』の二隻をシンガポールに送り、アメリカに意のあるところを示した。
この二隻の戦艦の東洋|派遣《はけん》は、日本に対する牽制《けんせい》ももちろんだが、それよりも重要なことは、一九四一年の末になっても、まだ日付|変更線《へんこうせん》の西に一|隻《せき》の戦艦《せんかん》も出動させていないアメリカに対するデモンストレーションであったことだ。
結局、それも無駄《むだ》になるべくして無駄になった。
一九四一年十二月八日からしばらくの間、日付変更線から西どころか、アメリカの海岸まで、連合国の戦艦は一隻も存在しなくなったのだった。
以後、提督山本五十六《ていとくやまもといそろく》のひきいる第一航空|艦隊《かんたい》は、西太平洋せましとあばれまわった。
この空母|搭載機《とうさいき》による航空|打撃力《だげきりよく》の効果は、それまでの海戦の理論を一変させた。
そもそも航空|母艦《ぼかん》を艦隊兵力の有力な一部として考えていたのは、世界中で日本とアメリカの海軍だけだった。ことによると、空母搭載機による爆撃《ばくげき》や雷撃《らいげき》は敵の主力艦隊を、砲戦《ほうせん》によらずに覆滅《ふくめつ》させることができるのではないか、と考えていた。イギリスの空母は艦隊決戦時の弾着《だんちやく》観測機のプラットホームか、船団護衛空母の性格から一歩も出なかった。
日本海軍のハワイ攻撃《こうげき》は、空母の性格をそれまでとは比較《ひかく》にならぬほど戦闘《せんとう》的なものにした。
空母による航空|打撃力《だげきりよく》の絶大な効果の証明は、以後、海戦の様相を全く変化させてしまった。
空母部隊の威力《いりよく》については、日本はすでに昭和十二年、日中戦争の初期の段階において体験し、開眼《かいげん》していた。
陸上航空兵力が進出できるようになるまでの間、海上にあった少数の空母から発した艦上機《かんじようき》は、同数あるいはそれ以上の数の敵機に対して十分に制圧効果をあらわし、ついに制空権を奪取《だつしゆ》して陸上戦闘の展開を強力にカバーすることができたのであった。
この戦列が、日本の海軍航空の中枢部《ちゆうすうぶ》を強く刺激《しげき》した。
日本の得た戦訓《せんくん》と新たな空母打撃部隊の編成に関して、アメリカ海軍は注意を払《はら》わなかった。
一九四一年をむかえても、アメリカはまだ空母の運用に関して、これといった理論も定見も持っていなかった。
アメリカは太平洋にあった主力|戦艦《せんかん》部隊を一挙《いつきよ》に失い、かわりに空母部隊の最近のハウ・ツーを得たのであった。
これだ! アメリカ海軍の首脳部は天啓《てんけい》のひらめきに膝《ひざ》をたたいたことであろう。
かれらは失った戦艦の代艦《だいかん》なぞには目もくれず、早速《さつそく》空母の大量建造に着手したのであった。
その結果、二年後には数十|隻《せき》の空母が海に浮《う》かぶことになり、それによって日本は名実ともに息の根を止められることになるのである。
だが、一九四二年初夏の段階では、それらの空母群はまだ造船台上にあり、アメリカの西海岸を守るのは、『ヨークタウン』、『エンタープライズ』、『ホーネット』、それに『レキシントン』のわずか四隻の空母であった。
アメリカ大陸沿岸とハワイ、ミッドウエイ両島を直接守るのは陸軍や海兵隊の陸上航空兵力であり、その数はあなどり難いものがあったが、神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の海上航空兵力をむかえ撃《う》つには、質的にも作戦的にもかなり劣《おと》っているものと考えられた。
この時期が、アメリカにとって、もっとも危機《きき》であった。
大量の空母ができ上るまで、なんとかして太平洋での時を稼《かせ》がなくてはならない。
この時期、日本は当面の東南アジアや西南太平洋の戦線の拡大や作戦計画の修正にいそがしく、とうていアメリカ大陸|侵攻軍《しんこうぐん》を、太平洋を越《こ》えてはるばる送り出す力などなかったから、さし迫《せま》った心配こそなかったが、万一、ハワイやミッドウエイを占領《せんりよう》されるようなことがあると、事態は別な方向に発展するおそれが十分にあった。
ハワイやミッドウエイを占領した日本軍は、占領地域の確保と経済開発を進めながら、アメリカ軍の反攻《はんこう》をくじくために、空母機動部隊による西海岸各地の空爆《くうばく》と戦艦隊《せんかんたい》による艦砲射撃《かんぽうしやげき》をくりかえすであろう。
これが建国以来、外敵に本土を侵《おか》されたことのないアメリカ国民に非常なショックを与《あた》えるであろう。加えてナチス・ドイツがヨーロッパを制し、Uボートでアメリカの東海岸をおびやかし、南アメリカのアルゼンチンかブラジルへでも上陸するようになれば、アメリカ国内は厭戦《えんせん》気分が横溢《おういつ》し、戦争|継続《けいぞく》は不可能となる。
そのとき、日本は欲する条件で講和会議を開くことができるであろう。
日本の大本営の構想は、実はアメリカ市民にとってはすこぶる現実的な恐怖《きようふ》であった。
日本の空母機動部隊の動きをいくらかでも牽制《けんせい》し、あわせて空母|艦隊《かんたい》の健在ぶりを宣伝して貴重な時を稼《かせ》ごうとするアメリカは、まめに幾《いく》つかの手を打った。
そのひとつに、一九四二年三月三日、ハルゼー提督《ていとく》の指揮する第十六|任務部隊《TF》は『エンタープライズ』と『ホーネット』の二|隻《せき》の空母をもって南鳥《マーカス》島を襲《おそ》った。戦略的には重要でないとはいえ、東京から一六〇〇キロメートルしか離《はな》れていないこの島に加えられた空襲《くうしゆう》は、日本の大本営を震撼《しんかん》させるに十分だった。
この空襲では、それまで使われていたアメリカ海軍の艦上戦闘機《かんじようせんとうき》『グラマンF4F3・ワイルドキャット』に変って、二〇〇〇馬力級の新型艦上戦闘機『グラマンF6F・ヘルキャット』が初登場した。
零戦――ゼロ戦の性能を信じきっていた首脳部は、敵のこの新型|艦戦《かんせん》の登場に動ずる色もなかったが、前線の航空隊指揮官や国内の軍用機設計者たちは、強い胸さわぎをおぼえたのであった。
アメリカはこのあと、さらに同じエンジンを積みいちだんと洗練されたヴォート・シコルスキーF4U艦戦をも送り出すのだが、日本海軍は最後までゼロ戦で戦わなければならないのだった。戦争末期にようやく『紫電改《しでんかい》』という高性能戦闘機を入手するのだが、その時には戦列にはすでに一|隻《せき》の空母もなかった。
マーカス島空襲で気をよくしたアメリカ海軍空母部隊は、次にもっと派手なことを計画した。直接、東京を爆撃《ばくげき》することだった。
マーカス島の場合と違《ちが》って、それはまさに虎《とら》の穴にもぐりこむことだった。
そのため、航続|距離《きより》の短い艦上機《かんじようき》の使用をやめ、陸軍の双発《そうはつ》爆撃機B25で決行することになった。
一九四二年四月十八日、特訓《とつくん》を重ねた十六機のB25は、日本本土から一一五〇キロメートルも離《はな》れた洋上にある空母『ホーネット』から発進した。
中型爆撃機十六機の単独爆撃が、戦術的には何の効果もあげえないことは明白である。だがこのミッションは、戦史にも例を見ないほどの、戦局|転換《てんかん》のエネルギーを秘《ひ》めていた。
たとえB25少数機による散発的|空襲《くうしゆう》であっても、大本営に与《あた》えた影響《えいきよう》ははかり知れないものがあった。
皇居の上空を敵機が飛ぶにまかせたという責任は、帝国海軍の首脳としては、建軍以来の屈辱《くつじよく》であった。
提督《ていとく》山本五十六は、この上は防衛線を東へ前進させる以外にないと判断した。
帝国の防衛の第一線は、今やハワイ、ミッドウエイの線まで押し進めることであり、同時にそれは、積極的に敵を攻《せ》めることでもあった。
まずミッドウエイを手中におさめることだ。
その作戦は『MI作戦』と呼ばれた。
緻密《ちみつ》な手順が練られ、厖大《ぼうだい》な物資が集積され、巨大《きよだい》な艦隊《かんたい》が編成された。
その艦隊は次のようなものであった。
機動部隊(司令官|南雲忠一《なぐもちゆういち》中将)
第一航空戦隊
空母 赤城《あかぎ》(旗艦《きかん》)・加賀《かが》
搭載機《とうさいき》
零《れい》式|艦上戦闘機《かんじようせんとうき》四十二機
九九式艦上|爆撃機《ばくげきき》四十二機
九七式艦上|攻撃機《こうげきき》五十一機
第二航空戦隊(司令官|山口多聞《やまぐちたもん》中将)
空母 飛竜《ひりゆう》(旗艦)・蒼竜《そうりゆう》
搭載機
零式艦上戦闘機四十二機
九九式艦上爆撃機四十二機
九七式艦上攻撃機四十二機
直衛部隊(司令官|阿部弘毅《あべひろたけ》少将)
戦艦《せんかん》 榛名《はるな》(旗艦《きかん》)・霧島《きりしま》
重巡《じゆうじゆん》 利根《とね》・筑摩《ちくま》
搭載機《とうさいき》
零《れい》式三座|水偵《すいてい》十三機
零式水上観測機六機
前進|警戒《けいかい》部隊
第一|水雷《すいらい》戦隊(司令官|木村進《きむらすすむ》少将)
軽巡《けいじゆん》 長良《ながら》(旗艦)
駆逐艦《くちくかん》 野分《のわけ》・嵐《あらし》・谷風《たにかぜ》・萩風《はぎかぜ》・舞風《まいかぜ》・風雲《かざぐも》・夕雲《ゆうぐも》・巻雲《まきぐも》・秋雲《あきぐも》・磯風《いそかぜ》・浦風《うらかぜ》・浜風《はまかぜ》
補給部隊(タンカー)
旭東《きよくとう》丸・国洋《こくよう》丸・日本《につぽん》丸・神国《しんこく》丸
攻撃《こうげき》に使用し得る搭載機合計|艦攻《かんこう》九十三機。艦爆《かんばく》八十四機。艦戦《かんせん》八十四機であり、艦攻の搭載量は重量八〇〇キログラムの魚雷《ぎよらい》一本。あるいは同量の爆弾《ばくだん》。したがって、九七式艦攻の打撃力《だげきりよく》を爆弾に換算《かんさん》すると、八〇〇キロ爆弾九十三個であり、これは相当に強烈《きようれつ》な火網《かもう》である。
九九式|艦爆《かんばく》は爆弾搭載量《ばくだんとうさいりよう》が二五〇キロだから八十四機で二万一〇〇〇キロ。これは急降下によるピン・ポイント爆撃《ばくげき》だが、空母の甲板《かんぱん》や重巡《じゆうじゆん》程度の装甲《そうこう》なら二五〇キロ爆弾で十分に効果的な破壊《はかい》を加えることができた。
一九四五年|頃《ごろ》には、連日のように日本列島各地に烈《はげ》しい空襲《くうしゆう》をかけてきたアメリカの第五八機動部隊は、空母十|隻《せき》―十二隻からなるグループ数個を持ち、それぞれが艦攻《かんこう》艦爆合わせて五百機。艦戦《かんせん》二百四十機ほどをつねに戦闘《せんとう》状態においていた。
しかし、一九四二年には、南雲|艦隊《かんたい》の航空兵力は世界最大最強の打撃力《だげきりよく》だったのである。
ミッドウエイ攻略《こうりやく》部隊(司令官|近藤信竹《こんどうのぶたけ》中将)
主力部隊
戦艦《せんかん》 金剛《こんごう》・比叡《ひえい》
重巡 愛宕《あたご》(旗艦《きかん》)・鳥海《ちようかい》・妙高《みようこう》・羽黒《はぐろ》
水雷《すいらい》戦隊
軽巡《けいじゆん》(旗艦《きかん》)
駆逐艦《くちくかん》 村雨《むらさめ》・春雨《はるさめ》・夕立《ゆうだち》・五月雨《さみだれ》・朝雲《あさぐも》・峯雲《みねぐも》・夏雲《なつぐも》・山月《さんげつ》
航空戦隊(直衛)
瑞鳳《ずいほう》
零戦十二機。九七式|艦攻《かんこう》十二機
補給部隊
タンカー 玄洋《げんよう》丸・健洋《けんよう》丸
輸送艦 佐多《さた》・鶴見《つるみ》
この航空部隊は直接上陸作戦を援護《えんご》する部隊であり、また機動部隊がうちもらした敵の航空部隊の空襲《くうしゆう》から、主力部隊を防衛する任務もおびていた。
索敵《さくてき》部隊(司令官|栗田健男《くりたたけお》少将)
重巡《じゆうじゆん》 熊野《くまの》(旗艦)・鈴谷《すずや》・三隈《みくま》・最上《もがみ》
駆逐艦 朝潮《あさしお》・荒潮《あらしお》
タンカー 日栄丸
搭載機《とうさいき》
零《れい》式三座|水偵《すいてい》十機
ミッドウエイ攻略《こうりやく》部隊(司令官|田中頼三《たなからいぞう》少将)
軽巡《けいじゆん》 神通(旗艦《きかん》)
駆逐艦《くちくかん》 黒潮《くろしお》・親潮《おやしお》・初風《はつかぜ》・雪風《ゆきかぜ》・天津風《あまつかぜ》・時津風《ときつかぜ》・霞《かすみ》・霰《あられ》・陽炎《かげろう》・不知火《しらぬい》
補給部隊
タンカー あけぼの丸
哨戒艇《しようかいてい》 第一・第二・第三・第四号
上陸部隊
呉《くれ》、横須賀《よこすか》、海軍第五特別陸戦隊。陸軍|一木《いちき》支隊。合計五千の歩兵部隊を中心に、建設作業班・飛行場大隊・気象班等
この部隊が、ミッドウエイ攻略の中心たる地上部隊つまり歩兵である。
五千というのは、上陸作戦に必要なギリギリの兵力であり、いったん橋頭堡《きようとうほ》を築《きず》いたらさらに一個師団二万を揚陸《ようりく》させる予定であった。
この攻略部隊を支援《しえん》し、同島を占領《せんりよう》後は常駐《じようちゆう》し、周辺海域|哨戒《しようかい》に当る水上機隊をともなった。
水上機|母艦《ぼかん》 千歳《ちとせ》(二式水上|戦闘機《せんとうき》十六機。零《れい》式三座|水偵《すいてい》を搭載《とうさい》)
駆逐艦《くちくかん》 早潮《はやせ》
第三五|哨戒艇《しようかいてい》
哨戒・索敵《さくてき》部隊
第六|艦隊《かんたい》(司令官|小松輝久《こまつてるひさ》中将)
軽巡《けいじゆん》 香取《かとり》(旗艦《きかん》)
第三|潜水《せんすい》戦隊
潜水艦 伊一六八・一七一・一七四・一七五号
第五潜水戦隊(司令官|醍醐忠重《だいごただしげ》少将)
潜水艦 伊一五六・一五七・一五八・一五九・一六二・一六四・一六五・一六六
第十三潜水戦隊(司令官|宮崎武治《みやざきたけはる》大佐)
潜水艦 伊一二一・一二二・一二三
連合|艦隊《かんたい》主力(司令長官山本五十六大将)
第一艦隊・第一戦隊
戦艦《せんかん》 大和《やまと》(連合艦隊|旗艦《きかん》)・長門《ながと》・陸奥《むつ》
第一|水雷《すいらい》戦隊
軽巡《けいじゆん》 川内《せんだい》(旗艦)
駆逐艦《くちくかん》 白雪《しらゆき》・初雪《はつゆき》・吹雪《ふぶき》・叢雲《むらくも》・白雲《しらくも》・磯波《いそなみ》・浦波《うらなみ》・敷波《しきなみ》・綾波《あやなみ》・天霧《あまぎり》・朝霧《あさぎり》・夕霧《ゆうぎり》
空母 鳳翔《ほうしよう》(九九式|艦爆《かんばく》八機|搭載《とうさい》)
水上機母艦 千代田《ちよだ》 日進《につしん》(魚雷艇《ぎよらいてい》二|隻《せき》・特殊潜航艇《とくしゆせんこうてい》六隻。各搭載)
ミッドウエイ島攻略《こうりやく》後、同島に進出する基地航空兵力。
航空部隊(司令官|塚原二四三《つかはらにしぞう》中将)
ミッドウエイ航空隊(司令|森田千里大佐《もりたせんりたいさ》)
零戦 三十六機(空母により搬送《はんそう》)
九六式陸上|攻撃機《こうげきき》 十機
九七式大型|飛行艇《ひこうてい》 六機
第二十四航空戦隊(司令官|前田稔《まえだみのる》少将)
千歳《ちとせ》航空隊(司令|大橋富士郎大佐《おおはしふじおたいさ》)
零戦 三十六機
一式|陸攻《りくこう》 三十六機
一航空隊(司令官|井上左馬二《いのうえさまじ》大佐)
零戦 三十六機
一式陸攻 三十六機
一四航空隊(司令官|中島第三中佐《なかじまていぞうちゆうさ》)
九七式大型飛行艇 十八機
帝国《ていこく》海軍にとって、まさに空前絶後の巨大《きよだい》な兵力集中である。
太平洋戦争も終り近くなって、アメリカがつぎからつぎへとくり出してきた大小の空母機動部隊の綜合《そうごう》編成が、これを上回るのは当り前として、これほどの強力な艦隊《かんたい》編成は、世界の海軍史でも例は多くない。
これに対して、アメリカ側はどうだったか?
空 母《キヤリヤー・》 打《ストライ》 撃《キング・》 部《フオ》 隊《ース》(司令官フランク・フレッチャー少将)
第十七任務部隊《タスク・フオース・17》
空母 ヨークタウン(C・V・G3)(第三航空群)
(搭載機《とうさいき》 グラマンF4Fワイルドキャット二十五機。ダグラスSBDドーントレス三十七機。ダグラスTBDデバーステーター十三機)
重巡《じゆうじゆん》 アストリア・ポートランド
駆逐艦《くちくかん》 ハマン・ヒューズ・ラッセル・グイン・モリス・アンダースン
第十六|任務部隊《TF》(司令官レイモンド・A・スプルーアンス少将)
空母 エンタープライズ(C・V・G6)(第六航空群)
(搭載機 グラマンF4Fワイルドキャット二十七機。ダグラスSBDドーントレス三十八機。ダグラスTBDデバーステーター十五機)
重巡《じゆうじゆん》 ミネアポリス・ペンサコラ・ニューオーリンズ
軽巡《けいじゆん》 アトランタ・ノーザンプトン・ビンセンス
駆逐艦《くちくかん》 モナハン・モーリ・ベナム・エレット・コリンガム・ポーク・エールウイン・ヘルプス・ワーデン
補給艦《ほきゆうかん》 シマロン・デューイ・モンサン・プラット
潜水艦《せんすいかん》 十九|隻《せき》
他にハワイ、ミッドウエイ在旧中の旧式軽巡、駆逐艦、哨戒艇《しようかいてい》、掃海艇《そうかいてい》、十数隻
飛行艇《ひこうてい》 コンソリデーテッド・カタリナ三十機
爆撃機《ばくげきき》 ボーイングB17フライング・フォートレス十四機。ノースアメリカンB25ミッチェル、マーチンB26マローダー三十機
雷撃機《らいげきき》 グラマンTBFアベンジャー七機
急降下爆撃機 ダグラスSBDドーントレス二十一機
戦闘機《せんとうき》 グラマンF4F、ワイルドキャット、ブリュースターF2Aバッファロー四十二機
日本|艦隊《かんたい》に比し、かなり劣勢《れつせい》ではあるが、補給能力の点から見れば比較《ひかく》にならず大きい。
この数字にあらわれてこないものに、ハワイ、ミッドウエイ両島を守る陸軍部隊および海兵隊の地上戦闘兵力がある。ミッドウエイに三千。ハワイに一万二千といわれた。それに対して、日本の上陸軍五千は、かなり苦しい戦いを迫《せま》られたのではないだろうか? 日本軍の侵攻《しんこう》近しといわれるようになってからのミッドウエイ島の防禦《ぼうぎよ》工事は急速に進み、上陸の可能な砂浜には、すべて高さ五メートル、幅《はば》一〇メートルの鉄条網《てつじようもう》が張りめぐらされ、その内側と外側に地雷原《じらいげん》。そして有機的に相互《そうご》をカバーすることができるトーチカ群で縦深陣地《じゆうしんじんち》が設けられ、さらにその間には戦車が配置されていた。
日本艦隊の第二の主力たる戦艦《せんかん》、巡洋艦《じゆんようかん》群は、実はこの防塞《ぼうさい》を艦砲射撃《かんぽうしやげき》によって撃破《げきは》し、上陸部隊の進撃路《しんげきろ》を開くためのものであった。
数的にも質的にも、絶対優勢な日本|艦隊《かんたい》だったが、アメリカ側には、そのハンディキャップを埋《う》め、十分に日本艦隊と太刀打《たちう》ちできるだけの切り札《ふだ》があった。
それは、アメリカは日本側の暗号を、すでに何か月も前から解読しているということだった。
したがって、アメリカ海軍は、日本海軍の≪MI作戦≫の全貌《ぜんぼう》とそれに使用される兵力のすべてについて知っていた。
作戦発動の日時や、艦隊の刻々の動静を把握《はあく》されているともしらず、日本は隠密裡《おんみつり》に事が運んでいると思っていた。
日本海軍が必死にその所在を探《さが》しつづけていたエンタープライズとヨークタウンの二|隻《せき》が戦闘《せんとう》準備を整えて待ちかまえているわなの中へ飛びこんでいったのだ。
もちろん、日本艦隊も、ミッドウエイ周辺にアメリカの空母部隊がいることは十分承知していた。ただ、先に相手を発見した方が勝ちという、絶対的にといってよい海戦の原則がなおざりにされ、姿の見えない敵に対して警戒《けいかい》が手落になるなどというベテラン海軍らしくない失策こそ、この大作戦が極秘《ごくひ》で進められているのだという自信と、さらに緒戦《しよせん》からの勝利におごった気持ちのゆるみのもたらしたものといわれるが、たとえそうでなかったとしても、暗号を読み取られていてはいかに百戦錬磨《ひやくせんれんま》の兵をもってしても、いかんともなし難《がた》かったであろう。
かくして、太平洋戦争における、唯一《ゆいいつ》の、日本の勝利の機会は永久に失われたのであった。
1――C
駆逐艦《くちくかん》モナハンに、カタリナ飛行艇《ひこうてい》が横付けされた。
モナハンの甲板《かんぱん》に集っていたパイロットたちが、つぎつぎとネットをつたって海面のゴムボートへおりていった。
全部で十七名。そのほとんどがワイルドキャットのパイロットだった。
「……コウ・ヘンリー少尉《しようい》……キム・カーペンター中尉《ちゆうい》……」
当直将校がパイロットの名を照合する。
「……ウイリアム・ハザウエイ中尉」
ハザウエイはゆれるネットに足をかけた。
海はかなり荒《あ》れていて、ゴムボートは、間断なく、三メートルも上下していた。
パイロットたちを乗せたゴムボートは、カタリナ飛行艇《ひこうてい》の胴体《どうたい》へと走行とも流されるともつかぬ動きで接近していった。
日本機の攻撃《こうげき》によって空母ヨークタウンが沈《しず》み、在空中の搭載機《とうさいき》のあるものはエンタープライズに緊急着艦《きんきゆうちやくかん》したが、大部分の機体は不時着水し、パイロットだけが直衛|駆逐艦《くちくかん》に救い上げられた。
「これだけやったんだ。もう休ませてくれたっていいじゃねえか」
「そうともよ。おれたちはみんなシルバー・クロスもんだぜ。この上、何をやらせようってんだい」
パイロットたちは不満のありったけをさらけ出していた。
司令官のフレッチャー少将は、救助されたパイロットは、空中勤務に支障のない程度の軽傷者もふくめて、すべてただちに原隊に復帰するように命令を発した。
空中勤務者は今、極端《きよくたん》に不足している。日本|艦隊《かんたい》に最後のとどめを刺《さ》すため、諸君は今すぐ戦列にもどれ!
口では不平不満をならべながらも、空にもどることができるのは、パイロットの何にもました願いである。しかも、ミッドウエイ防衛の名誉《めいよ》と機会が目の前に与《あた》えられていては勇躍《ゆうやく》しない者はない。
一時間後、ハザウエイ中尉《ちゆうい》は、ドーントレスを駆《か》ってふたたび空母エンタープライズを飛び出し戦場へ向った。
あらゆる戦いの局面を通じて、追撃戦《ついげきせん》ほど愉快《ゆかい》なものはない。
陸戦において騎兵《きへい》が存在していた時代には、騎兵こそが追撃戦の華《はな》であり、現代戦においてはそれが戦車に変り、空軍に変った。
ことに、敗走する艦隊《かんたい》を追う攻撃機隊《こうげききたい》は、傷ついた鯨《くじら》を追うサメよりも残忍《ざんにん》であり、その攻撃は軽《かろ》やかであり確実である。
「中尉《ちゆうい》。おれたちの取り分が残っているといいですね」
後部座席から、臨時のクルーになったキーン三等|兵曹《へいそう》のはずんだ声がとどいてきた。
そのけねんは濃《こ》かった。
せっかく飛び出してきたというのに、かかえている爆弾《ばくだん》を海に投げ棄《す》てて帰るのでは、はやる気持ちのはけ口がなかった。
ハザウエイ中尉も、つき上げてくる焦燥《しようそう》を深い吐息《といき》で押《お》し出した。
≪二番機《イエロー・ツー》。前へ出るな!≫
小隊長機から叱声《しつせい》が飛んできた。
≪三番機《イエロー・スリー》。うしろへさがれ!≫
早く獲物《えもの》を発見しようと思うから、どうしてもスロットルを引き過ぎたり、機首を突《つ》っこんだりしてしまう。
小隊長機の再三の警告にもかかわらず、今や編隊はばらばらになって、戦場の上空へ殺到《さつとう》した。
断雲をくぐり抜《ぬ》けると、一面に濃《こ》い絵具を流したような、青い海面がひろがった。
その海面に、数十条の純白の航跡《ウエーキ》がのびていた。それは、中央の四、五|隻《せき》の航空|母艦《ぼかん》を取り囲んだ大艦隊《だいかんたい》の作る巨大《きよだい》な輪形陣《りんけいじん》だった。
ハザウエイ中尉《ちゆうい》は、もっとよく見ようと、機体を傾《かたむ》け、のぞきこんだ。
「小隊長め。航法を間違《まちが》えたな!」
小隊長機を、手をのばしてうしろからなぐりつけてやりたかった。
「アメリカ艦隊の上に連れてきやがって! あのヘボ!」
寄せ集めの攻撃隊《こうげきたい》を指揮しているのは、海兵隊の少佐《しようさ》だった。トニーとかタナーとかいったが、むろん初対面だった。
「海兵隊じゃ、ろくな航法ができるわけがねえや」
空母乗組のベテランに共通しているのは、陸上を基地とする海兵隊航空隊へのいわれなき蔑視《べつし》だった。まして、陸軍航空隊なぞ、鼻もひっかけない。
「中尉《ちゆうい》! 中尉!」
とつぜん、後部座席のキーン兵曹《へいそう》がさけんだ。
間近で爆発《ばくはつ》が起り、閃光《せんこう》と爆煙《ばくえん》の中から、ドーントレスの見馴《みな》れた主翼《しゆよく》や後部|胴体《どうたい》が、空中に放り出された。瞬時《しゆんじ》にそれがばらばらになって飛散した。
中尉の機体に、何か小さなものがおそろしい衝撃《パワー》でぶつかってきた。
キーン兵曹が何かさけび、つづいて後部|銃座《じゆうざ》がけたたましくわめきはじめた。
中尉のドーントレスの頭上すれすれに、黒い影《かげ》が弾丸《だんがん》のように追い抜《ぬ》いていった。
三番機がほのおにつつまれてつんのめっていった。
右からも左からも、小型機が突《つ》っ込《こ》んでくる。
ハザウエイ中尉は、この一瞬《いつしゆん》に、何が起ったのかをさとった。
下にいるのは、日本海軍の機動部隊なのだ。
日本海軍は『アカギ』、『カガ』、『ソーリュー』、『ヒリュー』の四|隻《せき》のほかに、このような大機動部隊をかくしていたのだ。
四隻の空母をほうむって、日本|艦隊《かんたい》を撃滅《げきめつ》したと喜んだ司令部は、馬鹿《ばか》も馬鹿。大馬鹿だ!
「神よ。助けたまえ!」
ハザウエイ中尉は、かかえていた二二五キロ徹甲爆弾《てつこうばくだん》を投げ棄《す》てた。
そのまま、急降下に移った。
なんとかして ZERO をふり切らねばならなかった。
ハザウエイのドーントレスは石のように降下した。
海面すれすれで引き起し、プロペラで波頭をたたくばかりに低空で逃《に》げに逃げる。
右にも左にも日本の巡洋艦《じゆんようかん》や駆逐艦《くちくかん》が全速力で走っていた。
右から、左から、砂をつかんでたたきつけるような弾幕《だんまく》が押し寄せてきた。
目の前に、巨大《きよだい》な艦影《かんえい》が迫《せま》ってきた。
長大な甲板《かんぱん》に小さな艦橋《かんきよう》が、とってつけたように突出《とつしゆつ》している。
甲板の両側の、舷側《げんそく》に設けられたスポンソンから、三連装《さんれんそう》の二五ミリ機銃《きじゆう》が、野球のバットのような形の火の玉を、目にもとまらず吐《は》き続けた。
その空母のシルエットは、ハザウエイ中尉の頭にこびりついているものと同じだった。
それはまぎれもなく『アカギ』だった。
だが、たしか何時間か前、『アカギ』はドーントレスの急襲《きゆうしゆう》によって、のたうちまわりながら海のもくずとなったはずだった。
「そんな、ばかな!」
ハザウエイ中尉は、自分の目がどうにかなってしまったのであろうと思った。
無我夢中《むがむちゆう》で、『赤城《あかぎ》』の飛行|甲板《かんぱん》を、腹をこするように飛び越《こ》えると、さらに高度を落し、必死に逃《に》げ走った。
「キーン。射《う》て! 射て!」
後部|銃座《じゆうざ》の七・七ミリ機銃《きじゆう》でも、射ってさえいれば少しは役に立つだろう。
ハザウエイ中尉は、なまりのように重い首をむりやりねじ向けた。
後部座席には、キーン兵曹《へいそう》の姿はなかった。兵曹の体だけではない。二連装《にれんそう》の七・七ミリ旋回《せんかい》機銃が、銃座ごとすっぽりと失われていた。
これと全く同じことが、何分前だか、何時間前だか、あったような気がした。
急にエンジンが息をついた。
みるみる速力が落ちた。
右翼端《うよくたん》が波頭に突《つ》っ込《こ》むと、機体は大きく右にもんどり打った。
2――A
昨夜からの雨が、まだ濃《こ》い霧《きり》となって残っていた。
ドーバー海峡《かいきよう》に面したフォークストーン航空基地は、滑走路《かつそうろ》も掩堆壕《えんたいごう》も管制塔《かんせいとう》も、重い灰色の霧の粒《つぶ》にしっとりと濡《ぬ》れていた。
その霧の底を、燃料車《タンカー》やトレーラーの前照灯《ヘツドライト》が、怪獣《かいじゆう》の巨眼《きよがん》のように動き回っていた。
一年前の今頃《いまごろ》は、ヨーロッパ大陸|反攻《はんこう》作戦の重要な作戦発動基地のひとつとして、その後は補給基地のかなめとして、毎日、数百機の爆撃機《ばくげきき》や輸送機、戦闘機《せんとうき》などがひっきりなしに離着陸《りちやくりく》していたものだったが、今は戦線は大陸|奥《おく》深く移ってしまい、このフォークストーン基地には、哨戒《しようかい》任務も兼ねた技術訓練部隊と、十数機のスピットファイアから成る防空部隊が常駐《じようちゆう》しているだけだった。
英国空軍《R・A・F》第九|航空技術訓練部隊飛行管理官《A・T・AF・C・M》シドニー・クールヘル・シェクスピア少佐《しようさ》は、わずかな休憩《きゆうけい》時間に、基地内の将校クラブで、コーヒーを飲もうと思い、部隊本部を出ると自転車で誘導路《ゆうどうろ》を横切っていった。
風が北に変った。濃《こ》い霧《きり》は、みるみるドーバーの方角へ追いやられてゆく。
シェクスピア少佐《しようさ》が将校クラブの入口の前に着いたときには、頭上には青空さえのぞいていた。
急に四方が明るくなった。
新型レーダーをとりつけた双発《そうはつ》のロッキード・ヴェンチュラ爆撃機《ばくげきき》がフィンガーから滑走路《かつそうろ》へ這《は》い出てきた。
早速訓練を開始するのだろう。
訓練部隊のヴェンチュラやダグラスA20ハボック。旧式のアブロ・アンソンなどをおさめた格納庫の向うは、戦闘機隊《せんとうきたい》のラインで、これも数機のスピットファイアがエンジンの始動をはじめた。
シェクスピア少佐が、クラブのドアを開いた時、スピットファイアの爆音《ばくおん》を突《つ》き抜《ぬ》けて、別なエンジン音がたたきつけてきた。
さけび声が聞えた。
ふりあおいだ少佐《しようさ》の目に、一機のテンペストが急降下してくるのが映った。
無意識にあともどった。
英国空軍の最新型単座|戦闘機《せんとうき》、ホーカー・テンペストは、大馬力による搭載量《とうさいりよう》をかわれ、戦闘|爆撃機《ばくげきき》として、その部隊はすべてフランス領内に進出していた。
そのテンペストがなんで?
そう思ったとき、テンペストが火を噴《ふ》いた。
機銃弾《きじゆうだん》の土ぼこりが、にわか雨のように通り過ぎていった。
テンペストのうしろから、それまで気がつかなかった、頭の大きな、角張った姿の小型機があらわれると、突風《とつぷう》を巻き起して将校クラブの屋根すれすれに飛び過ぎていった。
クラブの建物の背後の、ポプラの梢《こずえ》が大きくなびいた。
ドイツ空軍のフォッケウルフ190だった。
何を考えるひまも余裕《よゆう》もなく、少佐《しようさ》は走った。
あっけにとられ、ただうろたえている整備員たちを押しのけ、少佐はスピットファイアの座席に這《は》い上った。
軍帽《ぐんぼう》を放り棄《す》てると、整備員の一人が航空帽《こうくうぼう》をかぶせてくれた。パラシュートの縛帯《ばくたい》を締《し》めているうちに、フォッケウルフがつぎつぎと突《つ》っ込《こ》んできた。
黒煙《こくえん》を上げて燃えさかっているテンペストをかわして滑走路《かつそうろ》に乗り入れると、風向きをたしかめているひまもなく、ロールス・ロイス・マーリンのエンジンをふかした。
小型|爆弾《ばくだん》と機銃掃射《きじゆうそうしや》のあらしをくぐって離陸《りりく》し、そのまま超《ちよう》低空で飛行場を離《はな》れた。
ふりかえると、部隊本部も格納庫も将校クラブも、真赤なほのおにつつまれていた。
時速四六〇キロでまっしぐらに西へ飛び、タンブリッジウェルズふきんで高度を取った。
≪防空司令部。フォークストーン基地が|ドイツ戦闘機《ハンス》に襲《おそ》われている。情況《じようきよう》を知らせろ。こちら9A・T・A・F・C・M≫
シェクスピア少佐《しようさ》は、短波の平文《へいぶん》でさけんだ。
一|戦闘機《せんとうき》パイロットが、直接上級司令部へ問い合わせることではなかったが、目の前の情況は、建制上の手つづきなど、全く無視させるほどせっぱつまり、異状なものだった。
高度三〇〇〇メートルほどで、北からやってくる大型|爆撃機《ばくげきき》の大編隊とすれちがった。
長大なつばさに、ドイツ空軍のマークがあざやかだった。
ハインケル一七七A四発爆撃機は、たった一機のスピットファイアなど意に介《かい》する様子もなく、整然たる隊形を、ロンドンの方角へ押し進めていった。
シェクスピア少佐は、呆然《ぼうぜん》と、北方の空に消えてゆく爆撃機のむれを見送った。
かれは、自分が夢《ゆめ》を見ているのではないかと思った。
それは信じられない光景だった。
夢でないとすれば幻《まぼろし》だった。
気がついた時には、つぎの大編隊が頭上に迫《せま》っていた。
とつぜん、頭上を通過してゆく爆撃機《ばくげきき》の下腹から曳光弾《えいこうだん》の束《たば》が飛んできた。
夢《ゆめ》でも幻《まぼろし》でもなかった。
少佐《しようさ》は必死にロールをくりかえして、射程距離《しやていきより》の外に逃《のが》れた。
防空司令部も、戦闘機隊《せんとうきたい》司令部も、全く応答がなかった。
眼下に灰色の海面と、それを長く長く区切る白い崖《がけ》のつらなりが見えた。
いつの間にかドーバー海峡《かいきよう》の上空に出ていた。
また下界には霧《きり》が出はじめていた。それが視界を全くおおってしまわないうちに、基地にもどらなければならない。
だが、燃料がもつかどうか心もとなかった。妙《みよう》に戦いへの意欲が失われていた。
少佐は、ドーバーにのぞむ草原に不時着しようと思った。
スピットファイアで、草原への不時着はこれまでに二、三回経験があった。
脚《あし》を出し、フラップを下げた。
スロットル・レバーをしぼり、プロペラ・ピッチを変更した。
高度五〇メートルからいっきにすべりこむ。
そのとき、シェクスピア少佐《しようさ》は、自分のスピットファイアと平行に、草原を疾駆《しつく》する装甲車《そうこうしや》に気がついた。
スピットファイアはたちまち装甲車を追い抜《ぬ》き、はげしくゆれながら三〇〇メートルほど走って、ようやく止った。
少佐はキャノピーを開いて立ち上った。
見馴《みな》れぬ形の装甲車が、かれのスピットファイアを取り囲むように近づいてきた。
少佐は、座席から出るのも忘れ、近づいてくる装甲車や、兵士たちを見つめていた。
深い鉄帽《ヘルメツト》の下のするどい目と、手にした短機関銃《シユマイザー》が少佐の動作を奪《うば》っていた。
かれらはドイツ軍だった。
2――B
その日は、朝から気温が三〇度Cを越《こ》していた。いつもなら夜明けに、ほんの短い間降る雨も、その日は海からの風の変化があったのか、ぽつりとも降らずに、陽《ひ》は高くなった。
セント・ビンセント通りに続く路地に店を開いている雑貨屋のホセ・キノシタは、朝から妙《みよう》に胸騒《むなさわ》ぎがしてならなかった。
いつも朝降る雨が降らなかったということも、単調極まりないこの町の生活にとっては、めったにないめずらしいできごとであったが、キノシタの胸騒ぎは、もっと別なことだった。
かれは、いつものように、戸板を家の前へ持ち出すと、その上に手製のキュラソーの瓶《びん》をならべた。
オレンジの皮や丁子《ちようじ》、ういきょう、砂糖などをふんだんに使ってかもした酒は、火のように舌やのどを焼いたが、サトウキビ畑の労働者や漁師たちは、長年、かれの上顧客《じようこきやく》だった。
ペルーは、アメリカと条約を結び、連合軍の一員となっていたから、日本人のホセ・キノシタを敵国人と見なして、その行動をきびしく監視《かんし》し、制約を加えていた。
だが、あくまで陽気で楽天的なこの国の人々にとっては、遠い見知らぬ土地での戦争なぞ、どうでもよいことだった。ホセ・キノシタが、日系ペルー人ということで、危険分子とされ、政府の監視を受けている人物であるなどということは、町の誰《だれ》もが、とうに忘れてしまっていた。
キノシタの雑貨店は、タララの町の四分の一の面積内に住む人々にとっては、なくてはならない存在だった。
その日、キノシタは朝早く、港にある魚市場へ出かけると言って家を出た。キノシタは住込みのメキシコ人の老女中一人と、通いの店員一人を使っていた。五十|歳《さい》になるキノシタは十何年も前に妻を失い、家族は一人もいなかった。
海岸へ向うはずのキノシタは、海とは反対に、町の背後の山へ入る小道へジープを乗り入れた。何回か背後をふりかえった。あとをつけてくるような車は一台もなかった。
二時間ほど進むと、アンデス山脈につらなる前衛の山岳《さんがく》の、そのまた枝分《えだわか》れした山々の、尾根と尾根の間の谷間に分け入った。四方に迫《せま》った山々は切り立ったようにけわしく、見回す空はおどろくほどせまかった。
周囲は名も知れぬ鳥の声や蝉《せみ》の声で充満《じゆうまん》していた。
谷間を風が吹きわたっていった。その風は氷のようにつめたく、はるかかなたのアンデスの大氷河から吹《ふ》き渡《わた》ってくるのだろうと思われた。
右手の岩肌《いわはだ》に壮大《そうだい》な滝《たき》があらわれた。
車はそこまでだった。
ジープを木かげにかくし、キノシタは目の前の崖《がけ》をよじ上った。馴《な》れている場所だったが、藤《ふじ》づるだけをたよりに、這《は》い上るのはかなり苦しい作業だった。
崖《がけ》の上はせまい岩棚《いわだな》になっていて、そこに人、一人がやっともぐりこむことができるぐらいのほら穴が口を開いていた。
キノシタは慎重《しんちよう》にほら穴の周囲に視線をめぐらせた。ほんのわずかな異状も認められなかった。
二十分ぐらいたった時、あたりに満ちている鳥の声とは異った、高くするどい音が聞えた。
キノシタはズボンのうしろにさしていた拳銃《けんじゆう》を抜《ぬ》いた。安全|装置《そうち》をはずして、音の聞えたやぶのかげに目を凝《こ》らした。
人影《ひとかげ》があらわれた。
「|おれだよ《エソ・ヨ》!」
聞き馴《な》れた声がとどいてきた。
キノシタは拳銃をズボンのベルトへもどした。
ビール樽《だる》のように太った男が、がさがさとやぶの中からあらわれた。
「|大変だ《テンペラー・ド》!」
男の巨体《きよたい》は全身|汗《あせ》にまみれ、ふいごのような息を吐《は》いていた。
「どうしたんだ? ハリー」
男は急には話をすることもできないようだった。
「ハリー! しっかりしろよ」
「ああ。キノシタ。すぐ逃《に》げろ!」
「何を言っているんだ? どういうことだ。それは」
「キノシタ。間もなく日本軍が攻《せ》めこんでくる。エクアドルの軍警察もペルーの秘密警察も、それに備えて国内の徹底《てつてい》的なスパイ狩《が》りをはじめるそうだ。メキシコ政府からエクアドル政府あての秘密電報が解読されてわかった。今、むこうの組織は大騒《おおさわ》ぎだ」
大男のハリーは、落着きなく、周囲に目を走らせた。
「なんだって? 日本軍が上陸してくるって? 何のことかよくわからないな。もっとわかりやすく説明してくれ」
「だから、もうじき日本軍が上陸してくるんだよ。コロンビアじゃねえかっていってる」
「それはおかしいじゃないか。日本軍が、はるばるここまでやって来るのか。ヤマモトの艦隊《かんたい》がミッドウエイでやられたらしいというニュースはきのう、おまえから聞いたばかりじゃないか」
「キノシタ。それは何かの間違《まちが》いだろう。とにかく、この連絡《れんらく》場所は危険だ。何かの方法でおまえに新しい場所を教えるから、それまでは会わないようにしよう」
「ハリー。日本軍が来るというのはたしかなのか? もしそうだとしたら、その日からおれもおまえも、日本軍の重要な情報組織のメンバーになるわけだから、慎重《しんちよう》に行動してくれよ。日本軍にはおれが紹介《しようかい》するから」
「ありがとうよ。じゃ、おれはこれで帰る」
ハリーはあたふたとうしろのやぶにとびこんだ。
二、三回、木の繁《しげ》みがゆれ動くと、それきり、鳥と蝉《せみ》の声だけの深山にもどった。
キノシタはなおしばらくの間、その場にとどまっていた。
ハリーの言ったことがほんとうなら、それは日系の自分にとって、不利どころか、非常に有利な事態が生じるであろうことはあきらかだった。
キノシタは、自分が果していた日本側のスパイという仕事についてもう一度考えてみた。
日本とアメリカの間に戦争がはじまり、ペルー軍警察の手によって日系ペルー人が行動を束縛《そくばく》されるようになってから、見知らぬ人間からの接触《せつしよく》を受けた。
ある夜キノシタの家をひそかに訪れてきたメキシコ人は、キノシタに秘密の無線|中継局《ちゆうけいきよく》を設置してくれるようにと言った。
かれは驚愕《きようがく》した。無線技術など持ってもいなかったし、だいいち、そのようなスパイじみた活動などもし発覚しようものなら、銃殺《じゆうさつ》もまぬがれないようなことになる。
「とんでもない!」
手をふるかれに、そのメキシコ人は、中継局は山の中に設けるから、発見されるおそれは極めて少ないこと。タララの警察は極めて能力が低く、スパイ活動の阻止《そし》など、業務の中に入っていないし、また出動したとて、とてもその任に耐《た》え得るものではない。また、キノシタ自身は届けられた通信文をそのまま発信するだけで、その通信文の内容も、受信する相手のことも全く知らないのだから、たとえ捕《とら》えられるようなことがあっても、銃《じゆう》でおどかされてしかたなくやらされたことだと言えばよい。この国の法律では、強制されることにより、生命に危険を感じた結果、やむなく行った犯罪に関しては、非常に刑《けい》が軽い。
そのメキシコ人は執拗《しつよう》に迫《せま》った。
メキシコ人が示した報酬《ほうしゆう》は大きかった。キノシタの心が動揺《どうよう》したのを見てとったか、メキシコ人は、キノシタが日系として、日本人の果すべきつとめを強調した。キノシタにはそんなことなど深刻に考えたこともなかったが、言われるとそんなものかという気もした。結局、メキシコ人の熱意に負けたかたちで承諾《しようだく》した。
最初の仕事は、山中に無線局を設置することだった。これは何でもないことだった。そんな場所は幾《いく》らでもあった。
かれが見つけた場所に、無線機が運びこまれた。運んできたのは、白人もいれば黒人もいる、インディオもいるという数人の男たちだった。かれらはコロンビアからやって来たと言った。
その中の一人がキノシタに、無線機のあつかい方を教えた。
かれらは、やって来た時と同じように、ふたたび山中に消えていった。
それから四、五日たった朝、かれの店の帳場に、誰《だれ》が置いたとも知れぬ、分厚い一通の封書《ふうしよ》が置かれていた。
中には短い通信文と、一〇〇〇ドルの現金が入っていた。
かれは車で山へ入り、かれの秘密の通信局から、送られてきた通信文を発信した。
一週間に一回、そんなことがあった。
メキシコ人が言ったとおり、電文の内容も、受信する相手も、全くわからないということは、事実、危険感の極めて薄《うす》いものだった。
電文はいつも≪251。731。002。935。187。662……≫というような数字の羅列《られつ》だけだった。
キノシタは、これは話に聞いたことがある数字を使った暗号だろうと思った。
相手はおそらく、日本かドイツの潜水艦《せんすいかん》であろう。
発信はつねに一分以内に終った。そのように短い時間では、発信源をつきとめることは不可能だということだった。
何事もなく、半年が過ぎたのだった。キノシタは、無線機はほら穴の中に放置したまま、町へ下った。
あまり長い間、店をあけていては、いくら無能の警察でもあやしむであろう。
キノシタが自分の店へ入っていったとき、とつぜん、甲高《かんだか》い破裂音《はれつおん》が聞えてきた。
それはまるで謝肉祭の仕掛《しかけ》花火のように、町の空気をふるわせて鳴りひびいた。
人の騒《さわ》ぐ声が聞えてきた。
キノシタの店の店員が、不審《ふしん》そうに店の軒下《のきした》まで出ていって外のようすをうかがっていたが、急にキノシタをふりかえった。
踊《おど》るように手足を打ちふって屋外のどこかを指さした。
「だんな! だんな! あれを見て。早く。早く!」
それにつられてキノシタも走り出た。
町の上の、低い空を、数機の飛行機が飛んでいた。
それは、このあたりでもしばしば見かけるダグラスとは少し違《ちが》っていた。
その飛行機のむれの周囲に、濃《こ》い茶褐色《ちやかつしよく》の煙《けむり》の塊《かたまり》がつぎつぎにほうり出された。
飛行機のむれは、つぎつぎにやって来た。
「ドイツがやってきたぞ!」
「ヒトラーが攻《せ》めてきたぞ!」
さけび声が入り乱れた。
編隊の周囲に幾《いく》つもの団煙《だんえん》がはじけ、編隊の中から黒煙《こくえん》をひいて落伍《らくご》してゆく機体があった。
町は大混乱になった。猟銃《りようじゆう》を持ち出して浜《はま》へ走る者がいる。旧式《きゆうしき》な拳銃《けんじゆう》を手に、屋根に上る者がいる。
警察のトラックやオートバイが、海岸道路を走っていった。
「ドイツじゃないぞ。はねに赤い丸がついているぞ!」
表通りからかけもどってきた隣家《りんか》の老人が、顔中、口にしてさけんでいた。
「赤い丸? どこのだろう?」
「そんなの、聞いたことがねえな」
「どこでもいいや。攻めてきたんだろう? どうするんだ? 町長はどこへ行ったんだ?」
キノシタは、赤い丸のマークというのは、それは日本のマークではないかと思った。
ペルーも、このタララの町あたりでは、よほどの知識階級ででもなければ、航空知識や軍事知識を持っていなかったし、また、太平洋やヨーロッパの戦いに関心を持つ者もいなかった。
町役場の掲示板《けいじばん》には、一応、アメリカやイギリス、日本やドイツなどの飛行機の、シルエット風の三面図による識別ポスターも貼《は》られてはいたのだが、おそろしく印刷の不鮮明《ふせんめい》なそれは、立ち止って見る者もなく、風雨にさらされていよいよ判別し難くなっていた。
「爺《じい》さん。それはドイツじゃねえ。たぶん日本のだよ」
「日本? 日本ていやあ、あの、露西亜皇帝《ツアー》と戦った日本かい?」
「そうだ」
「その日本が、なんでこのタララへ攻《せ》めてくるんだよ。おれたちは東郷《トーゴー》にうらまれるような筋合《すじあ》いはねえ」
老人は息まいた。
キノシタは、山でメキシコ人が言ったことはこのことだったのだな、と思った。
事態によっては、恐怖《きようふ》にかられた軍警が、敵性国の血を持った者に対して、何を仕出かすかわからない。
キノシタは空を見上げている群集の間をぬって、海岸へ走った。
海上に、二、三|隻《せき》の小さな軍艦《ぐんかん》が浮《う》いていた。アメリカからでもゆずられたものだろうか、旧式なスタイルの駆逐艦《くちくかん》か哨戒艇《しようかいてい》だった。
甲板《かんぱん》にオレンジ色の閃光《せんこう》がはしると、しばらくたってから、のんびりした砲声《ほうせい》が海面をすべってきた。
どろどろうううん
どろおおん
編隊からかなり離れたところに、小さな黒煙《こくえん》の塊《かたまり》が、ぱっ、ぱっ、と生れた。
高角砲《こうかくほう》を射《う》っているようだった。
ペルー海軍がこんなところに来ていたということは全く知らなかった。おそらく町の者たちも、海軍の艦艇《かんてい》などはじめて見るのかもしれない。
沖《おき》から背後の町へ視線を回して、キノシタは思わず驚《おどろ》きのさけびを発した。
町の上空に、無数の白いパラシュートが開いていた。
そのパラシュートのひとつひとつに、落下傘兵《らつかさんへい》がとりついていた。
町を占領《せんりよう》するために、落下傘部隊が降りてきたらしい。
編隊は爆撃機《ばくげきき》ではなく、輸送機だったのだ。
そのとき、また一機が煙《けむり》を吐《は》き出し、編隊から離《はな》れた。
どんどん高度が下る。
その飛行機は、今、落下傘部隊が降下しつつある町の裏の草原へ不時着しようとするらしい。
脚《あし》を出し、高度五〇メートルほどで、町の上を飛び越《こ》した。
そこで視野から消えた。
キノシタは、落下傘部隊にわけを話して収容してもらおうと思った。
かれは店へはもどらず、石畳《いしだたみ》の街路を走った。
2――C
その日は、いかにも四月の中旬《ちゆうじゆん》らしい、風のないあたたかい日だった。
雑木林と麦畑がまだ十分に武蔵野《むさしの》を形造っている東京の西の郊外《こうがい》では、鮮黄色《せんこうしよく》の敷布《しきふ》を敷《し》きつめたような菜の花畑に、もんしろちょうやハナアブが、終日、まといついていた。
都市化が進み、東京は西へ西へとひろがってゆく、とはいっても、それは、省線のあくまで山手環状線《やまのてかんじようせん》の内側のことであり、せいぜい、渋谷《しぶや》、新宿《しんじゆく》、それに池袋《いけぶくろ》などから西へはみだしたせまい地域内でのことだった。
池袋から発して、西へのびる武蔵野鉄道で十分のその町も、おだやかな春の陽射《ひざ》しと、名も知れぬ野の鳥の囀《さえず》りに、眠《ねむ》り呆《ほう》けたように静まりかえっていた。
金文字で中原《なかはら》内科医院と書かれた玄関《げんかん》のガラス戸をしめ、赤い軒灯《けんとう》がとりつけられた軒下《のきした》を離《はな》れたとき、背後で窓が開く音がした。
「千葉《ちば》くん。千葉くん」
ふりかえると、中原医師の赤ら顔がのぞいていた。
「はい」
譲介《じようすけ》は窓の下へ歩み寄った。
「もう来なくていいよ。薬はなくなったらそれでおしまいにしてください」
中原医師はそれだけ言うと診察室《しんさつしつ》へ引っ込んだ。
譲介は全身が膨《ふく》れ上るような解放感に打たれた。
一日おきの通院が今日で終りだった。幼い時から病気がちで、一年のうちのほとんど三分の一を病床《びようしよう》で過してきたような譲介にとっては、もう通院しなくともよい、という医者の言葉は、これまで何回となく聞いてきたものだったが、そのたびに、体がちゅうに浮《う》いたような解放感を味うのだった。
譲介は中原医院の低いコンクリート階段を下りながら、低い呪詛《じゆそ》のうめきを発した。
誰《だれ》に向けられたものでもなかった。
せめて半月前なら、まだ、新一年への補欠生|募集《ぼしゆう》をおこなっている大学や専門学校があった。もとより、そのような学校は二流校や三流校などではないもっといいかげんな学校ではあったが、それでも、そのような学校の生徒でも、浪人《ろうにん》よりはどれだけよいかわからない。
四月の十八日では、もはやどうしようもない。
「ああ。あの日、風邪《かぜ》さえ引かなかったらなあ」
あの日というのは、二月五日。志望した大学へ入学願書を出しに行った日だった。
つめたいみぞれが終日降りつづいていた。
北風が吹《ふ》きつのり、頭から靴《くつ》の先までずぶ濡《ぬ》れになり、ちょっとでも立ち止っていると体のしんから凍《い》てついてくるようだった。
家に帰り着く頃《ころ》には、すでに高い熱が出ていた。
そのまま床《とこ》に着き、中学校の卒業式にも出られなかった。もっと大きな痛手はそのあとにやってきた。
中学校の教師が心配してやって来た。明日《あす》が大学の入学試験という日だった。
午後から熱が出て赤い顔をして寝《ね》ている譲介に、ふたこと、みこと、声をかけ、教師は茶の間へ移って、ちょうどその日、勤めを休んで家にいた譲介の父親と、三十分ほど話しこんで帰っていった。
譲介の浪人《ろうにん》は決定的となった。
当時、中学を卒業して進学するコースには大学と専門学校の二つがあった。専門学校といっても現在のそれとは異り、やがて大学に吸収されてしまったから、まあ大学の一種と思ってよい。有名専門学校は一流大学と同程度に難関だった。進学しない者はもちろん就職した。進学も就職もしないでいると徴用《ちようよう》といって政府が強制的に工員として工場へ送りこんだ。これは皆《みな》が非常にいやがり、そのためにも進学や就職に熱心になった。
軍国主義が巷《ちまた》にあふれていた時代であり、中学校では、国語や数学などの正規の授業課目に加え、軍事教練という課目が、週に二、三時間あった。それはかなりきびしいものとされていた。中学校の体育や軍事教練の授業を、ほとんど見学で通してきたひ弱な少年が、軍事教練に熱心な国立の大学へ進めるものでもなく、当然、私立の、それも体育や軍事教練を欠席してもあまりうるさくないような学校をえらぶしかなかった。
その機会をも失うとあっては、これはいやも応もなく浪人《ろうにん》として過さなければならなかった。
「おれ、中学校へ行ってくるよ」
譲介は、家の奥《おく》でいそがしそうに立ちはたらいている母親の背《せ》に、声を投げた。
「何しに?」
けげんそうに母親はふり向いた。
「補欠|募集《ぼしゆう》をやっている専門学校でもあったら教えてもらうんだ」
「あるかね? でも、すぐ帰っておいでよ。上の学校へも行かないで昼間うろうろしていると、近所で言われるからね。試験日に風邪《かぜ》引いたなんて、よその人は知らないんだからね。どこも落っこちてそうやっているんだと思うよ」
母親の言葉は胸に刺《さ》さった。
譲介は、暗い気持ちで家を出た。
中学校までは歩いて二十分ほどだった。
母親の言葉を思い出すまでもなく、譲介は体をちぢめて歩いた。
誰《だれ》かが自分を見つめているような気がする。
かつての同級生たちは、今頃《いまごろ》、進学した学校の制服に身を固め、新しい勉強にいそしんでいるだろう、また、就職した者たちは、すでに社会人としての一歩を踏《ふ》み出していると思うと、補欠|募集《ぼしゆう》の学校を探してもらいに中学校をおとずれようとしている自分がひどくみじめだった。
中学校は昼休みになっているようだった。
風にのって、校庭のざわめきが聞えてくる。
二、三か月前までは、自分もそのざわめきの中の一人であった。
今は、なかまですらなかった。上級生と下級生との関係でもない。
譲介《じようすけ》たちも、何かの用事でやって来た卒業生は全くおとなの一人に見えたものだった。何となく薄汚《うすぎた》なく、近づくとたばこの匂《にお》いがする青年が、自分たちと同じ中学校を卒業したのだとは思い難かった。
校門に立って、入ることをためらっている譲介の目に、ボールを追って走り寄ってくる少女が映った。
校門の向い側の、文房具店《ぶんぼうぐてん》の娘《むすめ》だった。その子は杉木美奈子《すぎきみなこ》といった。女学校の一年生で有名な児童劇団に入っているとかいう可憐《かれん》な顔立ちの、はでなしぐさが遠くからでも目立つその少女は、つねに中学生たちの強い注目をあびていた。
譲介は反射的にあともどった。
かの女が自分を見知っているはずがないことはほぼ確実だったが、今、ここで見られるのはいやだった。見られたら、プライドのすべてが砕《くだ》け去るだろうと思った。
白いボールが譲介を追い抜《ぬ》き、校門から道路に続く斜面《しやめん》をころげ落ちていった。つづいて、もっとも避《さ》けたいものが譲介を追い越《こ》していった。
かの女は、道路の向う側まで走って、そこの溝《みぞ》にはまりこんだボールをひろい上げ、ふたたびかけもどってきた。
白いセーターと、花模様《はなもよう》のスカートが目の前に迫《せま》り、すれ違《ちが》っていった。前髪《まえがみ》のよく似合《にあ》うかの女の、上気した花のような顔が、譲介には全く無関心に背後へ去っていった。
教師に会おうという気持ちは、譲介の胸から全く消えていた。
休み時間でなければ、教師には会えないのはわかっていたが、もはや、いったんくじけた気持ちは元にもどらなかった。
追われるように、中学校の校門の前を離れ、路地に入った。校庭の土堤《どてい》に沿《そ》った道路を歩いていると、いつ在校生から見おろされるかわからなかった。
胸の中が妙《みよう》にうつろで、ひたいやてのひらが熱かった。いつもの、熱が出る前の、予兆《よちよう》のような気がした。
誰《だれ》かをたずねようにも、この時間、友だちはすべて学校やつとめに行っていた。知っている顔のあれこれを思い浮《う》かべたが、かれらは友人の兄であったり、どこかで知りあったおとなであったりした。この時間にたずねて行ったとて、家に居るはずがない。
譲介は路地から路地を抜《ぬ》けて歩いた。
何か、とほうもないことでも起って、中学校も、大学も、教師も友だちも、みんな、どうにかなってしまえばよい。そうだ。あの杉木美奈子もだ!
ああ……
そのとき、とつぜん、すさまじい轟音《ごうおん》が大気を震《ふる》わせた。
家も、町も、震えた。たて続けに鳴りひびき、震え、譲介の耳を打ちのめした。
天頂から少し南へ下ったあたりの空に、黒いしみのように煙《けむり》の塊《かたまり》が浮いていた。それはあとからあとからわき出して、青い空を汚《よご》していった。
高射砲《こうしやほう》だ!
それは高射砲にちがいなかった。
砲声《ほうせい》はどこか、たいへん近い所から聞えていた。
砲声をおさえつけるように、サイレンが鳴りはじめた。
高々と吠《ほ》え立てて、ふつりと切れた。すぐまたうなりはじめ、ふたたびとだえた。
断続するサイレンのひびきは、譲介《じようすけ》の耳を奪《うば》った。
空襲《くうしゆう》警報だった。
これまで、防空訓練で何回か空襲警報が鳴るのを耳にしてきたが、本物が鳴りひびくのはこれがはじめてだった。
音は同じなのに、訓練ではなく、ほんとうの空襲警報なのだと思うと、それはたとえようもなく不気味に街々の空を震《ふる》わせた。
高射砲まで射《う》つからには、敵機は頭上の空の、どこかごく近いところにいるのであろう。
いっさいの事情がわからぬながら、とほうもなく緊迫《きんぱく》した情況《じようきよう》がひしひしと感じられた。
譲介は家へ飛んで帰った。
「どうしたんだろうね?」
母親は縁側《えんがわ》に立ってのんびりと空を見上げていた。
譲介は座敷《ざしき》へかけこむと、いそいでラジオのスイッチをひねった。
≪東部軍管区情報。関東地区|空襲《くうしゆう》警報発令。敵少数機。帝都《ていと》上空に侵入《しんにゆう》せり――≫
あわただしい声が流れ出た。
そのほかには何の知らせもなかった。
隣《となり》近所で人声が高く聞え出した。
隣組の組長をつとめる向いの家の小母《おば》さんが、一|軒《けん》一軒、声をかけて回っている。
「防火用水はいっぱいになっていますか! バケツや火たたきはそろっている? あら、モンペはかなければ駄目《だめ》じゃないの!」
男まさりで迫力《はくりよく》のある組長は、ようやく真の出番が回ってきたことに奮《ふる》い立っていた。
譲介は、家の前の道路へ出た。
東南の空を幅広《はばひろ》く黒煙《こくえん》が汚《よご》していた。
自転車でやって来た見知らぬ男が、大きな声で告げた。
「あの煙《けむり》は早稲田《わせだ》の鶴巻町《つるまきちよう》の岡崎《おかざき》病院が燃えているんだ。牛込《うしごめ》あたりでは小学校がやられたとよ」
どこにでも情報通はいるものだ。
それから通る人にたずねてみると、なんと三人に一人は実情を知っていた。
「新宿の三越《みつこし》あたりも焼けたそうだ」
「矢来町《やらいちよう》にも爆弾《ばくだん》が落ちたらしい」
「白い星のマークをつけた双発機《そうはつき》が屋根すれすれに飛んでいった」
その双発機がどこから飛んできたのか、首をひねる者も多かった。
日本の戦闘機《せんとうき》がひっきりなしに飛び回り、しだいに、空襲《くうしゆう》警報が鳴り出した時とはちがった雰囲気《ふんいき》で騒然《そうぜん》としてきた。
つとめ先が近い男たちが、早々と家へ帰り着いた。学校も授業を中止し、生徒を帰宅させた。どの家にも、一家のあるじや子供の声が回復し、活気が出てきた。子供たちはなんとなくお祭り気分になってはしゃぎはじめた。
外出していた人々が帰って来ると、いろいろなニュースが入りはじめた。
「墜落《ついらく》した敵機の操縦士が、うしろ手に縛《しば》られて連行されていった」
「敵機を射《う》った日本の高射砲《こうしやほう》の弾丸《たま》が落ちてきて何十人も死んだそうだ」
「敵機に信号を送っていたスパイを捕《とら》えたそうだ」
「東京だけではなく、横浜も、大阪も、神戸もやられたそうだ。名古屋は焼野原になった」
そのほとんどが、デマであったのだろうが、奇妙《きみよう》に、後日の日本の状態を暗示しているものだった。
勝ちいくさに酔《よ》う毎日だったが、これまで胸のどこかにわだかまっていた不安が、この日一日で、いっぺんに心の表面に浮かび上ってきたような気がした。
うわさはどれも暗いものだった。この巨大《きよだい》な戦争にローラーのように押《お》しつぶされ、自ら考えることを失ってしまった人々の心に残されていた翳《かげ》の部分の発想だったのかもしれない。
敵機はとうに去ったもののようだった。
すでに陽《ひ》は大きく傾《かたむ》いていた。家の中へ引っ込んでいることができず、表の道路や路地にたむろして、大声で話し合っていた人々が、散りはじめた。
誰《だれ》の胸にも、この空襲《くうしゆう》は一過性のもので、明日《あす》も明後日《あさつて》もくりかえされるものではないという確信があった。
それでも、明日からの生活は、ちょっぴり変るかもしれないと思った。
陽が落ちると、電灯には黒い布で作られたおおいがかけられた。敵機から東京を発見されないようにする灯下管制だった。
晩春《ばんしゆん》の重い夜気の中に、なにかの花の香《かお》りがただよっていた。
譲介は、明日はきっと中学校へ行って、教師に会ってこようと思った。
3――A
譲介《じようすけ》は、結局、翌日も中学校へ行くことはできなかった。
十九日も朝から警戒《けいかい》警報が発せられていた。
前日の醜態《しゆうたい》によほどこりたらしい。朝もまだ暗いうちから、東京の上空を多数の戦闘機《せんとうき》が飛びまわっていた。
家々の屋根すれすれに飛び過ぎてゆく編隊があるかと思うと、はるかな高空を銀色の豆粒《まめつぶ》のようにかがやいて飛んでゆく一隊がある。
そのほとんどが、脚《あし》の出ている旧式な九七式戦闘機だったが、時たま、その年の一月に公表された『隼《はやぶさ》』とよばれる新鋭《しんえい》戦闘機が、低空でやってきては、ふりあおぐ都民たちの頭の上で、派手に急旋回《きゆうせんかい》や横転をやって見せた。
そのたびに、見上げる人々は、ほう、という感嘆《かんたん》の吐息《といき》を発し、それからたのもしげにうなずき合うのだった。
引込脚《ひきこみあし》の、精悍《せいかん》な姿態《したい》を持ったその新型|戦闘機《せんとうき》は、武骨な九七式戦闘機を見馴《みな》れた人々の目には、まるでヨーロッパかアメリカの戦闘機のようにスマートで近代的に映った。
ひと月ほど前の三月十日。陸軍記念日の観兵式の当日、東京の上空を、三百機の爆撃機《ばくげきき》や戦闘機、偵察機《ていさつき》などの大編隊がデモンストレーション飛行をおこなったが、その中に、わずか二、三機の『隼《はやぶさ》』戦闘機が加わっていた以外には、ほとんど都民の目に触《ふ》れたことがなかったこの新鋭機《しんえいき》が、ことさらに顔見世のように飛び回るのも、昨日の失態をいくらかでも糊塗《こと》しようとする軍上層部の姑息《こそく》な意図のしからしむるところだったのであろう。
実際、この一式戦闘機『隼』は、太平洋戦争開戦時には、陸軍航空隊の飛行第六四戦隊と第五九戦隊の、二つの戦闘機隊にようやく配備されたのみであり、総数は両戦隊合して四十機ほどであった。昭和十七年の四月には、二つの戦隊はともに南方にあったから、四月十九日に東京の空で、その存在をおおいに宣伝してみせた『隼《はやぶさ》』は、実数は一、二機だったのであろう。
国民はそんなことは何も知らされていなかった。
都心の方角の空に、阻塞《そそく》気球が幾《いく》つも浮かんでいた。低空で襲《おそ》ってくる敵機には、それが非常な障害物になる。四月のあかるい空に、不格好なシルエットをきわだたせた阻塞気球の列は、いまわしい死魚が浮遊《ふゆう》しているように見えた。
「あれは皇居に敵機が近づかないように揚《あ》げているんだよ」
「右手のほうに見えるやつは、あれは青山|御所《ごしよ》の上に揚っているんだ」
人々は、そのような情報には、おそろしく精通していた。
「アメリカの航空|母艦《ぼかん》が日本の近海に来ているらしいよ」
前日、東京や横浜に奇襲《きしゆう》を加えたアメリカのノースアメリカンB25爆撃機《ばくげきき》が、空母『ホーネット』から発進したものであることを、陸海軍の上層部でさえ確認しえないでいるというのに、その翌日《よくじつ》にはもうそれを声高《こわだか》に話す者がいた。
軍や警察は防諜《ぼうちよう》に躍起《やつき》になっていたが、第一級の軍機密情報も、人々の間を、いつでも容易に右から左へと流れていった。もちろんそれを信ずる人ばかりではなかったが、戦いが終ってすべてがあきらかになってみると、戦争中にデマだの流言飛語だのといわれたことのほとんどすべては事実であった。
ミッドウエイ海戦での日本|艦隊《かんたい》の敗北のうわさを譲介《じようすけ》が耳にしたのは、その年の八月だった。二か月後のことである。
「日本の航空|母艦《ぼかん》の、あかぎとかがと、そうりゅうとひりゅうっていうのが沈《しず》んだんだってよ」
譲介にそう言ったのは、当時もう嫁《よめ》に行っていた譲介の姉であった。
そんなことがあるものか! 譲介は威丈高《いたけだか》にさえぎったが、その日一日中|不愉快《ふゆかい》だった。
「ラバウルにはもう日本の飛行機は一機も無《な》いんだそうだ」と言ったのは譲介の友人だった。
「インパールじゃ、日本軍がひでえ目にあっているんだとよ」と顔をしかめたのは、隣家《りんか》の農家のおやじさんだった。
「武蔵《むさし》が沈《しず》んだそうだ」なんとこれは中学の配属将校だった。
「大段《おおだん》博士《はかせ》が死んだのは、原子|爆弾《ばくだん》の実験をやっていたのだそうだ」これだけは事実と反していた。
闇《やみ》から闇に流れ、伝えられる情報のすべては、やりきれなく、重苦しいものばかりだった。誰《だれ》もが、戦争の前途《ぜんと》に絶望的なものを感じた。
それだけに、アメリカの空母が近くまで来ているそうだ、といううわさは衝撃《しようげき》的だった。
不安と動揺《どうよう》の中で、陽射《ひざ》しはゆっくりと移ろっていった。
午後二時を少し回った頃《ころ》だった。
とつぜん、北方の空の、ごく近い所から、甲高《かんだか》いエンジン音が聞えてきた。
それははげしい運動と加速のもたらす、機械《マシーン》の放つすさまじいうめきと咆哮《ほうこう》だった。
それは急速に近づいてきた。
譲介は北側の空が開けた裏庭へ走った。
ふいに隣家《りんか》の屋根すれすれに、一機の単発機が飛び出してきた。
ずんぐりした太い胴体《どうたい》。大きなスピンナー。中翼単葉|引込脚《ひきこみあし》の機体は、戦闘機《せんとうき》よりもエネルギッシュに突進《とつしん》した。
その機体のあとからおどり出してきたのは九七式戦闘機だった。
三機は編隊でも組んでいるかのように、三角形の隊形を形造ったまま、譲介の頭上を突風《とつぷう》のように通過していった。
そのとき、三機編隊の中の、後方の二機の九七式戦闘機の一機の機首から、橙色《だいだいいろ》の閃光《せんこう》が噴《ふ》き出した。曳光弾《えいこうだん》の描《えが》く白条が先頭の一機に吸いこまれた。それに応ずるように、先頭の機体からも、後方へ向って白条がのびた。
タタ……
……ドド
音色の異った機銃音《きじゆうおん》が交錯《こうさく》した。
あっというまに、三機は反対側の家の屋根にかくれこんでしまった。
もっとよく見ようと位置を変えたが、間に合うはずもなかった。
譲介はしばらくの間、それらの機体が消えた方角に、呆然《ぼうぜん》と視線を投げていた。
頭上で戦われた一瞬《いつしゆん》の空中戦は、あきらかに、アメリカ軍の艦載機《かんさいき》、おそらく急降下|爆撃機《ばくげきき》とそれをむかえうつ陸軍の戦闘機《せんとうき》との間の激闘《げきとう》だった。
艦載機だ! やはり空母が来ているのだ。
どこかで、はげしく高射砲《こうしやほう》が鳴り出した。
表道路の方からさけび声が聞えてきた。
譲介は門をくぐって道路へ出た。
ふいに周囲が夕方のように薄暗《うすぐら》くなった。
空が黒褐色《こつかつしよく》に汚《よご》れていた。
巨大《きよだい》な入道雲のようにせり上ってゆく厚い黒煙《こくえん》が目に入った。その煙《けむり》の雲の中に、赤銅色の太陽が、色褪《いろあ》せた円盤《えんばん》のようにかかっていた。
その煙をぬって、飛び交《か》う小型機のむれがあった。
爆発音《ばくはつおん》や地ひびきがたえまなく大地をゆり動かした。
そこから新しい煙が立ち昇《のぼ》ってきた。
譲介は、自分がおそろしい夢《ゆめ》を見ているのではないかと思った。
ほんの三十秒前、いや、十秒前には全く想像もつかない事態が、目の前でくりひろげられていた。
天も地も、波のようにゆらめいた。
はげしいめまいが襲《おそ》ってきた。
譲介はその場にうずくまり、めまいをやり過そうとした。
それは汐《しお》のひくように、徐々に譲介の頭蓋《ずがい》の中から遠のいていった。
それが完全に消えさるまでに、ずいぶん長い時間がかかったような気がしたが、実際には、ほんの一、二分だったのであろう。
さまざまな音響《おんきよう》と震動《しんどう》と、怒号《どごう》や絶叫《ぜつきよう》が周囲に充満《じゆうまん》していた。空気は刃物《はもの》のように張りつめていた。
譲介はいつまでもこうしていてはいけないと思った。
体の深奥《しんおう》から命令となって突《つ》き上げてくる力に押《お》され、立ち上って家へ向った。
何か、とほうもないことが起っているような気がした。
譲介は雲を踏《ふ》むような足取りで門を入った。
外で起っていることを、早く母親に知らせてやらなければいけないと思った。
譲介は茶の間に続く縁側《えんがわ》に歩み寄った。
あかるい夜を背に、のぞきこむ屋内は、穴蔵《あなぐら》のように暗黒だった。
目が馴《な》れて、ようやく室内が平常の明るさをとりもどした。
そのとき、譲介の視野の中に、いそぎ足に母親があらわれた。
母親の足がぴたりと止った。
母親の視線が譲介の姿をとらえ、凝結《ぎようけつ》した。
その顔から表情が消えた。吐《は》き出す息が、か細い笛《ふえ》のように、たえだえに震《ふる》えた。
母親は夢遊病者《むゆうびようしや》のように体を回すと、ふたたび屋内にもどっていった。
譲介は腹立たしくなった。
この危急事態に何をしているんだ?
譲介ははいていた編上靴《へんじようか》のひもを解くのがめんどうなので、両手と膝《ひざ》で座敷《ざしき》へ這《は》っていった。
隣《となり》の座敷に神棚《かみだな》と仏壇《ぶつだん》が祭られていた。
その神棚にも仏壇にも小さな灯明《とうみよう》がともされていた。
その前で、母親は両手をしっかりと合わせ、何事か一心不乱に祈念《きねん》していた。
「どうしたんだよ?」
母親にたずねようとしたとき、表の方からどやどやと人が入ってきた。
なんだろう?
譲介はまた四つん這《ば》いで縁側《えんがわ》へもどると、庭へ出た。
そこで、門から入ってきた人たちと、顔を突き合わせた。
「譲介くん! 帰ってきたの?」
「休暇が取れたの?」
「譲介ちゃんか? 譲介ちゃんじゃないだろ?」
「なんだ。譲介ちゃんによく似ているから、間違《まちが》えてしまったよ」
隣家《りんか》のあるじが、かぶっていた戦闘帽《せんとうぼう》を押し上げてひたいの汗《あせ》をぬぐった。
向いの家の、このあたりの警防団長をつとめているおやじが不審《ふしん》そうに首をかしげていた。
「千葉さんの奥《おく》さん。親戚《しんせき》の人が来ているよ」
おせっかいに、家の奥に向ってさけぶ者もいた。
母親がもつれるような足取りであらわれた。
その顔が、草の葉よりも青かった。
「うちの譲介です! うちの譲介ですよ!」
母親の、まっすぐのばした右手の先が、とめどなく震《ふる》えていた。
「え? だって。譲介ちゃんにしては、ちょっと違《ちが》うんじゃないの?」
「でも、顔は譲介ちゃんだよ」
「どうしたんだ? 譲介くん」
みなは口々にたずねた。
誰《だれ》の顔にも混乱の色が浮《う》かんでいた。
隣接《りんせつ》する農家の鈴木《すずき》の老婆《ろうば》が、人々を押《お》し分けるように顔をのぞかせた。
「譲介ちゃんかい? ちがうようだねえ。千葉さんの奥《おく》さん。どうなんだい? この人、ちがうだろう?」
つるのように首をのばした。
譲介はみなの視線の焦点《しようてん》に立って、息さえひそめていた。
「千葉さんの奥さん。何があってもおどろいちゃいけないよ。今は戦争しているんだからね。あっちこっちで息子《むすこ》や亭主《ていしゆ》たちが戦死しているんだからね」
老婆の声が、はげしく震えた。
急に周囲はしいんとなった。
「なむあみだぶつ。なむあみだぶつ」
だれかの口をついて出た念仏が、みなの心に吸いこまれた。
「なんまいだぶ、なんまいだぶ……」
何人かがそれに和した。
「いったいどうしたんだよ」
譲介は母親をふりかえった。
隣《となり》の農家の老婆《ろうば》が、左右に手をひろげて、譲介を追い立てるそぶりをした。
「さ、さ。もうわかったから、迷《まよ》わず成仏《じようぶつ》しておくれ。ナンマンダブ、ナンマンダブ……」
老婆の顔は死人のようだった。自分自身が今にも卒倒《そつとう》するかと思われるほど緊張《きんちよう》していた。
「おばあちゃん。こ、これ、譲介ちゃんの、ゆ、ゆ、……」
「これは、譲介ちゃんは、もしかしたら戦死か何か、したね」
そう言ってから、とってつけたように声をひそめた。
「知らせだよ。知らせ」
みなは水をあびたように体を硬《こわ》ばらせた。
小さな悲鳴《ひめい》を上げて、男たちのうしろにかくれる女たちがいた。
「知らせか! これが」
「譲介ちゃんのおかあさん。しっかりしておくれ!」
「これはたいへんだ! 千葉さんに知らせた方がいいぞ」
「譲介ちゃんのおとうさんは、会社に行ったのか。空襲《くうしゆう》なのに」
「譲介ちゃんのおかあさんを寝《ね》かせろ」
「医者、呼んでこよう」
みな夢《ゆめ》からさめたように大騒《おおさわ》ぎになった。
その間にも、譲介は隣家《りんか》の老婆《ろうば》によって追い立てられていった。
「さあ。もうわかったから、消えておくれよ。あとのことは、おれたちできちんとやるから」
老婆は気丈《きじよう》に、かの女がこの世のものでないと信じているものを必死に追い立てた。
譲介は何をどのようにたずね、理解したらよいかも考えるよゆうもなく、門の外へ押《お》し出された。
「おばあちゃん! 鈴木さんのおばあちゃん。どうしたんだよ。何があったんだよ?」
譲介は必死の面持《おもも》ちでつめよってくる老婆の剣幕《けんまく》に、気圧《けお》されて、あとじさりながらさけんだ。
老婆は自分の耳をふさぐようにして門内へかけこんだ。門のとびらを内側からぴたりと閉《とざ》した。
「譲介ちゃん。おまえさんは特別幹部候補生で出征《しゆつせい》したんだろ。御国《おくに》のためなんだ。迷ったりしちゃ、はずかしいよ」
息をひそめてようすをうかがっているらしく、声がとだえた。
道路を数人の男たちが走ってきた。
「千葉さんで何かあったらしいぜ」
「息子《むすこ》の幽霊《ゆうれい》が出たんだとよ」
「息子の幽霊? まさか」
「特幹で南方に行っている息子がいるんだ」
そんなやり取りが譲介の耳にとびこんできた。
かれらは譲介の顔は知らないらしく、立っている譲介には目もくれず、閉された門扉《もんぴ》をたたきはじめた。
譲介は、それ以上、そこにとどまっていてはならないものを感じた。
何かが、とりかえしのつかないことになるような気がした。
それは譲介の胸の中で、確信になった。
離《はな》れろ! 早くそこを離れるんだ!
なにものかが心の中でさけんだ。
譲介は、自分のものでないような足を動かし、その場を離れた。
何をしに、どこへ行ったらよいのか、全く見当もつかなかった。
横町を折れ、路地を曲り、譲介はどこまでも歩いた。やがて小走りになり、いつの間にか息を切らせて全力で走った。
私鉄の、見知らぬ駅で水を飲み、さらに足をいそがせた。
なにがどうなっているのか、見当もつかなかった。
だが、何事か、とほうもないできごとが起ったようだった。
雑木林と麦畑の中のせまい道がやがてまばらな人家の形造る集落に入り、それに続いて商店街になった。軒《のき》の低い、間口のせまい貧しい商店街を突《つ》き抜《ぬ》けたところに、私鉄の小さな駅があった。
古びた駅舎《えきしや》の入口の屋根に、≪大山駅≫と書かれた木製の看板《かんばん》がかかげられていた。
東武東上線の大山駅だった。
電車の姿はなく、数輛《すうりよう》の貨車をひいた旧式な蒸気《じようき》機関車が入れかえ作業をおこなっていた。
長い煙突《えんとつ》から、茶褐色《ちやかつしよく》のけむりがもうもうと立ち昇《のぼ》り、風にのって駅前広場へ流されてきた。周囲の風景がかすんだ。
ピョーッ。哀調《あいちよう》をおびた汽笛《きてき》が高鳴ると、ピストンで結ばれた二個の動輪が、ゆっくりと回り出した。
機関車の前端部《ぜんたんぶ》のデッキに、むぎわら帽《ぼう》で紺《こん》のどんぶり腹がけの入換手《いれかえしゆ》が、小粋《こいき》なしぐさでぶらさがり、緑色の信号手旗をふっていた。
どこかでウグイスが鳴いていた。
また、南の空で高射砲《こうしやほう》が鳴り出した。
機関車の入換手は、ちょっと空をあおいでから、ふたたび自分の作業に没頭《ぼつとう》しはじめた。
とつぜん、大空の一角から、のどを掻《か》っ切られた悪魔《あくま》の、断末魔《だんまつま》の悲鳴のような音響《おんきよう》が聞えてきた。
キイイイイイン、とも、ぎいいんとも、あるいはもっと別な音色とも聞えるすさまじいひびきが、急速に頭上に迫《せま》ってくると、おそろしく大きな、エネルギッシュな塊《かたまり》が家々の屋根をかすめた。
太い胴体《どうたい》に角張った主翼《しゆよく》。スカイ・ブルーとガル・グレイに染め分けられた機体が、ねじれるように反転すると、家々の間へ突《つ》っ込《こ》んでいった。
火焔《かえん》と黒煙《こくえん》がどっと渦巻《うずま》いて立ち上った。
白い星のマークを描《えが》いた主翼《しゆよく》が、くるくると回ってとなりの町まで飛んでいった。
撃墜《げきつい》されたアメリカのグラマンF4F艦上戦闘機《かんじようせんとうき》だった。
手押《てお》しの消防ポンプが、駅前広場を横切って、黒煙《こくえん》めざして走っていった。
そこに新しい混乱が起っているようだった。
譲介は、その騒《さわ》ぎを、ぼんやりと見つめていた。
耳の奥底《おくそこ》にこびりついた言葉が、しだいに心の表面に浮《う》き上ってきた。
その言葉が、すべての思念の中心にあった。
「譲介ちゃんは、特別幹部候補生で出征《しゆつせい》して……」
特別幹部候補生といえば、中学の四年生あるいは五年生から応募《おうぼ》できる陸軍の将校候補生だった。
もともと、中学卒業者は、徴兵《ちようへい》によって軍隊に入ってから、甲種幹部候補生と乙種幹部候補生を受験することができた。甲種の方は、士官になり、乙種の方は下士官になる。
特別幹部候補生は、戦争の拡大とともに、絶対的に不足してきた下級指揮官の不足に対処《たいしよ》するため、大急ぎで設けられた即席《そくせき》コースだった。
これらの候補生とは別に、中学から予科士官学校へ、さらに士官学校から陸軍の大学校へと進む、れっきとした幹部コースがあった。これは最後まで純粋《じゆんすい》にエリート・コースであり、戦場でたちまち消耗《しようもう》しつくすような急ごしらえの士官とは本質的に異っていた。
その特別幹部候補生に合格して、すでに南方に出征しているとすれば、自分よりも少なくとも、四、五歳、年上であろう。
「譲介ちゃんは、特別幹部候補生で出征《しゆつせい》して……」
そういう人物がいるのだ!
なぜだ?
もうひとつ、ひっかかる言葉があった。
「……御国《おくに》のためなんだから、迷ったりしては……」
どういう意味だ?
そうだ。幽霊《ゆうれい》が出た、とも言った。
「おれは、もっと年上で、特別幹部候補生に合格していて、少尉《しようい》かなにかで出征《しゆつせい》しているんだ」
だが、現実の自分はここにいる。
しかし、母親や、隣《となり》の農家の老婆《ろうば》は、譲介が南方に出征したことを固く信じていた。
いったいどちらが本当なのだろう?
南方に出征したという譲介が実在ならば、ここにいる自分はなんだろう?
また、ここにいる自分が実在ならば、この世界こそなんであろう?
この世界――言葉に出して、思わずはっとした。
この世界の自分は、ここにいる自分とは異ったもう一人の自分なのではないだろうか。
すると、この世界は、もう一人の自分の世界なのか。
ここにいる自分は?
「譲介ちゃんの幽霊《ゆうれい》が出た? まさか!」
おれを幽霊だと思ったみなは、何を考えていたのだろうか?
おれを幽霊だと思ったこの世界は、おれが生活していた世界とは全く異った世界なのかもしれない。
全身の筋肉《きんにく》が、握《にぎ》りしめたこぶしのように凝縮《ぎようしゆく》した。
強烈《きようれつ》な吐《は》き気が突《つ》き上げてきた。
譲介は、その場にうずくまって、こみ上げてきたものを地面に吐き出した。だが、何も出なかった。
譲介は、二度、三度、苦痛の声をふりしぼった。
「おい! こら!」
ふいに肩《かた》を荒々《あらあら》しく小突《こづ》かれた。思わず前へのめった。
ふりかえると、どろだらけの靴底《くつそこ》が、譲介のひたいに激突《げきとつ》した。
譲介は肩から地べたに落ちた。
ほおからこめかみのあたりを、大きくすりむいたらしい。なまあたたかいものがあごの先につたわってきた。
ようやく体を起すと、鉄兜《ヘルメツト》をかぶり、ゲートルを巻いた巡査《じゆんさ》が、仁王立《におうだ》ちになっていた。
「おい、こら! どこから来た? どこへ行くんじゃ?」
威丈高《いたけだか》にさけんだ。腰《こし》のサーベルがガチャガチャと鳴った。
「どこへって? うちから来たんだ」
「ここで何をしている?」
「休んでいたんだ」
巡査《じゆんさ》は譲介の頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで、目を何回も往復させた。
「ちょっと交番まで来い!」
「おれ、何もしていないよ」
「いいから来い! ほら」
巡査は譲介の腕《うで》をむずととらえた。
引きずられるように、交番へ連れこまれた。
奥《おく》のたたみ敷《じ》きの小部屋《こべや》へ押《お》しこまれた。
譲介が上りかまちへ腰《こし》をおろそうとすると、罵声《ばせい》が飛んできた。
「立っとれ! だれが座れと言ったか! ああん」
そして自分がそこへどっかと腰をおろした。青黒い、やせこけた顔に無精《ぶしよう》ひげがみにくかった。昨日に引き続いた空襲騒《くうしゆうさわ》ぎで、ろくに休んでもいなかったのだろう。濃《こ》い疲労《ひろう》が浮《う》かんだほおは、脂《あぶら》とほこりで、まだらになっていた。
血走った目には、殺意さえ感じられた。
「住所は?」
「板橋区|練馬南町《ねりまみなみちよう》一丁目三四一五番地」
「父親の名は?」
「千|葉喜造《よしぞう》」
「喜造の職業は?」
譲介はむっとした。警官であれなんであれ、赤の他人に自分の父親の名を呼びすてにされるいわれはない。
「さんをつけたらどうだ?」
「なに?」
「人の親を気やすく呼びすてにするなよ」
巡査《じゆんさ》は思いがけない逆襲《ぎやくしゆう》に、きょとんとしていた。
つぎの瞬間《しゆんかん》、化物のような顔になった。
気がつくと、譲介はすみの壁《かべ》の下にあおむけにひっくりかえっていた。
意識が近づいたり遠くなったりした。
ずるずる引きずり上げられたかと思うと、両ほおに強烈《きようれつ》な衝撃《しようげき》が襲《おそ》ってきた。それはたえまなくつづいた。
周囲が真暗になった。
「なんだ。こいつは」
「なまいきな。口ごたえしやがって」
「親を呼びつけて、しめ上げてやれ」
そんなことを言い合っている声が聞えた。
譲介は交番の裏の小部屋《こべや》に放りこまれたまま、うなりつづけていた。
体のあちこちが、あきらかに肉離《にくばな》れをおこしていた。身動きするたびに、全身が火のように熱くなった。
敵機は去ったらしい。外部の混乱もいくらか鎮静《ちんせい》してきたようだった。
陽《ひ》が落ち、交番の中は薄暗《うすぐら》くなってきた。
ただ、空が妙《みよう》に赤いのは夕焼けとはちがう。小窓《こまど》の外を時おり、火の粉が流れていった。
空襲《くうしゆう》によって発生した火災がまだ消えていないのであろう。
交番の中に、二、三人の新しい声が入ってきた。
譲介は引き出された。
何の説明もなく、腰《こし》に木綿《もめん》の細いが丈夫《じようぶ》そうなロープを回して結ばれた。長くのびた一端《いつたん》を、巡査《じゆんさ》の一人がにぎっていた。まるで猿回《さるまわ》しの猿だった。
「来い!」
「どこへ行くんだ?」
「本署《ほんしよ》へ連行する」
先ほど、譲介をさんざんになぐりつけた巡査が、こんどは足を上げて蹴《け》った。
「さっさと行け! このやろう!」
手錠《てじよう》こそかけられないが、腰縄《こしなわ》つきで町を歩かせられるのはたまらない。
町の人々の、侮蔑《ぶべつ》や興味に満ちた視線が、譲介の体に突《つ》き刺《さ》さってきた。
板橋警察署まで三十分近い道を追い立てられていった。
少年だからとか、罪状がどうだから、というような配慮《はいりよ》など全くない。
「ほら! さっさと歩け!」
「ぼやぼやするな!」
一分おきぐらいに背後から罵声《ばせい》があびせられる。その何回かに一回は、洋刀《サーベル》のさやでいやというほど小突《こづ》かれる。
若い読者には、まことに奇妙《きみよう》に思われるかもしれないが、わが国の警官は、昭和二十年八月十五日までは、腰《こし》に長いサーベルをつるしていた。
もちろん、刃《は》がついている。サーベルというものは、今日では日本刀以上に目にすることは難《むずか》しくなったが、これはカミソリと同じで鋼《はがね》の硬《かた》さを利用した薄刃《うすば》で切るものであり、洋式|鍛造法《たんぞうほう》により生れた軽い長剣《ちようけん》で、片手なぐりに切りつけることをもって第一の刀法とした。フェンシングの刀技がやや近い。
当時の巡査《じゆんさ》は、そのサーベルをよほどのことがないかぎり、抜《ぬ》いてはならぬものときめられていたが、警棒《けいぼう》も、まして拳銃《けんじゆう》も持っていない当時のことであり、相手が刃物《はもの》でもふり回していて、逆に切りつけてくるようなことでもあれば、巡査《じゆんさ》はいつでも抜刀《ばつとう》して犯人を切り棄《す》ててもよいとされていた。
なにしろ明治の西南戦争以来、東京警視庁は剣術《けんじゆつ》の名人達人がそろっていた。その伝統があってか、巡査のサーベル姿には迫力《はくりよく》があった。当今の、警棒を手に、腰《こし》に拳銃と無線電話機。時にはジュラルミンの楯《たて》に顔面防護マスクなどといういでたちからみると、身にサーベルしかおびぬ昔《むかし》の巡査は剛胆《ごうたん》なものだった。
それだけに、まさに民衆の上に君臨するといった態《てい》のものであった。
板橋警察署の内部はごったがえしていた。
空襲《くうしゆう》の直後のこととて、被害《ひがい》調査や治安の維持《いじ》に躍起《やつき》であった。
譲介は調室に押《お》し込《こ》まれると、長い間放置されていたが、やがて一人の私服|刑事《けいじ》があらわれた。狡猾《こうかつ》なつらつきのその刑事は、やつぎばやの質問を発しては、なにやら手帖《てちよう》に書きこんでいた。
「なに? 中学校を卒業したが、大学へ進むことができなかった? どこのことだ? それは。おまえ。うそを言うとためにならんぞ。今頃《いまごろ》、おまえのようなのが、そうやってうろついているというのが、まことにもって不埒《ふらち》千万なんだ。おまえ、医療《いりよう》証明を持っておるか?」
「医療証明? おれは今は医者に行っていないよ」
刑事《けいじ》は獲物《えもの》を発見したキツネのような目つきになった。
「今は国民|皆兵《かいへい》の時代じゃ。小学校を卒業した者は、男子ならば、ただちに国民軍に入隊して、新兵訓練を受ける。国民軍五年兵になった時点で正規軍初年兵に編入され、御国《おくに》を守る第一線に立つのじゃ」
おれは頭がおかしくなったのだろうか?
譲介は、よく動く刑事の口もとを見つめていた。
今頃になって、そんな不安が頭をもたげてきた。
「いや。ちがう! おれは頭はたしかだ」
それは確信だった。
「なに? 頭がどうかしたと?」
刑事《けいじ》は右手をのばすと、目にも止らぬ早さで、譲介の頭をはたいた。
そのとき、一人の巡査《じゆんさ》が入ってきて、何事か刑事に耳打ちした。
二人がしきりにささやき交《かわ》している。
刑事が顔をしかめた。
「やっぱりそうか。どうもおかしいと思っていたんだ。言うことがさっぱりすじが通らないものな。ふうん。そうか!」
刑事が、きょろりと視線を送ってよこした。
譲介はそっぽを向いた。
「東部一七四三九部隊。千葉見習士官の経歴|身上《しんじよう》を詐称《さしよう》したというのだな。本人だと言って千葉見習士官の家に上りこんだというのか。ふうん。千葉見習士官の両親もこのような人物は知らないというんだな。岡田《おかだ》くん。こりゃあ、なんだぜ。頭の方がかなりおかしいんじゃないかと思う。いっそ身柄《みがら》を東京憲兵隊の方へ渡《わた》してしまった方が面倒《めんどう》がないんじゃないか?」
「はあ。小官もそのように思います」
「じゃ、そうしよう。係長にはわしから言おう。憲兵隊には岡田くん、電話してくれるか。将校の身上を詐称《さしよう》したというところを強調してな。少年だということは言わん方がいい。むこうから引き取りに来るように仕向けろ。こんなものをこちらが送り届ける義務はないからな」
それから一時間ほどして、調室にどかどかとあらわれたのは、左腕《うで》に憲兵隊という腕章《わんしよう》を巻いた軍曹《ぐんそう》だった。憲兵上等兵がつき従っていた。
調室に入ってきた憲兵軍曹は、とまどったように譲介を見、それから背後の巡査《じゆんさ》をふりかえった。
「軍籍詐称《ぐんせきさしよう》の人物というのは……」
「その男です」
「少年じゃないか」
憲兵軍曹は、それらしい屈強《くつきよう》な若者でも想像していたらしい。
「ずいぶん大げさな連絡《れんらく》だったぜ。この少年が何をしたというのかね? われわれで扱《あつか》うような事件なのか?」
「とにかく憲兵隊に引きわたすように言われていますから」
巡査《じゆんさ》の言葉にその軍曹《ぐんそう》は苦い顔で部下に目で合図した。
くろがね四軌《よんき》とよばれた九五式|偵察車《たんさつしや》が、けたたましいエンジンの音をひびかせてやってきた。
「さあ、来い!」
二人の憲兵に追い立てられ、譲介は車へ向った。
3――B
深いヘルメットをまぶかにかぶった|ドイツ兵《ハンス》は、短機関銃《シユマイザー》の銃口《じゆうこう》をしゃくるように動かし、合図を送ってきた。
シェクスピア少佐《しようさ》は、あやつり人形のようなたどたどしいしぐさで主翼《しゆよく》の上に出て、それから地上へ跳《と》び下りた。
少佐はドイツ軍の下士官によって、広大な牧草地を埋《う》めている車輛《しやりよう》群の方へ連れてゆかれた。
長大な戦車砲《せんしやほう》を、角《つの》のように突《つ》き出した巨大《きよだい》な戦車や、六輪、八輪の装甲車《そうこうしや》が怪物《かいぶつ》のむれのようにうずくまっていた。
それらの車輛の砲塔《ほうとう》に白いペイントで描《えが》かれた鉄十字のマークが少佐の目を釘《くぎ》づけにした。
「これはおどろいた! ドイツ軍の上陸に備えて、ドイツ軍そっくりの部隊ができているとはな」
軍曹《ぐんそう》は鼻を鳴らした。
「まだ飛べるスピットファイアがあったとはな」
「あんたたち、ピカデリー・サーカスで主役がつとまるぜ」
「そうとも。こんどベルリン国立劇場へ来なさい。軍人割引で見せてやるから」
目の前に、数本のアンテナを林立させた大きな装甲車が停《とま》っていた。
その前に、十数名の、高級将校が立っていた。その中央に、黒い皮コートを、袖《そで》を通さずに肩《かた》からはおり、軍帽《ぐんぼう》の蛇腹《じやばら》に大きなゴーグルをはね上げた精悍《せいかん》な将校がいた。
シェクスピア少佐《しようさ》は、かれらの前へ押《お》し出された。
シェクスピア少佐は、呆然《ぼうぜん》と立っていた。
「階級|姓名《せいめい》を名乗りなさい」
一人の将校がうながした。
「英国空軍第九航空技術訓練部隊飛行管理官。空軍少佐。シドニー・クールヘル・シェクスピア」
ドイツ将校たちが顔を見合わせた。
「本土防衛司令部の飛行|連絡《れんらく》将校か?」
別な将校がたずねた。
「なんのことか?」
「君らの、つまり戦闘機《せんとうき》部隊隊員としての任務はすでに終っているのだから、事務処理は友好的におこないたい。異存はないだろう」
「よくわからない。何か誤解《ごかい》しているのではないか? 私は今日ドイツ機の邀撃《ようげき》戦闘に上って、ここへ不時着したのだ」
ドイツ将校たちの間から笑声がわいた。
「王立空軍《R・A・F》のユーモア精神にはいつものことながら感銘《かんめい》を受ける。なかんずく、貴下《きか》の敢闘《かんとう》精神には頭が下るというものだ。だが、シェクスピア少佐《しようさ》。われわれが直面している事態は、貴下のユーモアあふれる座談に耳を傾《かたむ》けていられるほど余裕《よゆう》に恵《めぐ》まれているものではない。シェクスピア少佐。われわれ、|ドイツ《D》・|ブリテン《B》・|コープス《K》は、イギリス本土防衛司令部のすみやかなる返答が得られぬ場合は、大進攻《だいしんこう》作戦をもって、一挙にイギリス本土を蹂躙《じゆうりん》することになる。その際、生起するやもしれぬ人的、物的損害に関するいっさいの責任は、イギリス本土防衛司令部にあるものと解されたい」
傲岸《ごうがん》に反《そ》りかえった。
「ちょっと待ってくれ。頭がすっかり混乱してしまって、なにがなんだかちっともわからない。私が三十分ほど前、ドイツ機の邀撃《ようげき》に出動したのはたしかなことだ。あなたたちはなんだ? この三十分の間に、わがイギリスはドイツ軍に占領《せんりよう》されたのか?」
「残念ながら三十分の間ではない。七十二時間前と訂正《ていせい》させてもらおう」
「七十二時間前?」
シェクスピア少佐《しようさ》は、笑い出した。どこか生理的に変調をきたしたような笑いだった。
少佐は体を二つに折って笑いつづけた。
一人のドイツ将校が大股《おおまた》に歩み寄ると、握《にぎ》っていた皮手袋《かわてぶくろ》で、少佐のほおをたてつづけに打ちのめした。
「もういい。大尉《たいい》。やめろ」
参謀肩章《さんぼうけんしよう》をつけた将校が一喝《いつかつ》した。
「将軍。いかがいたしましょうか?」
銀色のカシの葉の意匠《いしよう》の襟章《えりしよう》をつけた老将校が、中央の皮コートの将校にたずねた。
「将軍? だれだ? あんたは」
シェクスピア少佐は、ひとみを凝《こ》らした。
「D・B・K総司令官。ロンメル大将である」
ドイツ将校の一人が、おごそかな口調で言った。
シェクスピア少佐は、両方のかかとを引きつけ、てのひらを大きく外側へ向けた英国軍特有の挙手の礼をした。
ロンメル将軍はゆったりと礼をかえした。
「シェクスピア少佐《しようさ》。何か手違《てちが》いがあったようだ。余は、貴下《きか》をイギリス本土防衛司令部からの使者とは認めない。よってD・B・Kは、通告のとおりの行動に移る。きみはさがって規定の処遇《しよぐう》を受けたまえ」
ロンメル将軍は流暢《りゆうちよう》な英語で言うと、もうよい、というように、手をふった。
シェクスピア少佐は魂《たましい》を失った者のように、よろめきながら足を運び、ドイツ軍の縦列《じゆうれつ》の背後へ運ばれていった。
どこまでが幻覚《げんかく》で、どこからが現実なのか、見当もつかなかった。
「軍曹《ぐんそう》。私は頭に負傷《ふしよう》でもしたのかな?」
少佐は、自分を連行しているドイツ軍の下士官にたずねた。
「そうとも見えませんが、あとで軍医に見てもらうといい」
その下士官は親切そうな男だった。
「ついでにもうひとつたずねたい。ここはほんとうにイギリス本土なんだろうね」
「そうです」
「すると、わがイギリス本土は、ドイツ軍の上陸を許したというのかね」
「ごらんのとおりです」
「いつ上陸したのかね?」
「今日で十五日目になります」
「おどろいたな。どうも」
「なにがですか?」
「軍曹《ぐんそう》。私が基地を飛び出したのは、今から三十分前だ。うそでもいつわりでもない。これはいったいどうしたことなのだ?」
軍曹は答えず、あわれむように少佐《しようさ》の横顔をながめやった。
「軍曹。どんなに悪い夢《ゆめ》でも、私にこれほどのショックを与《あた》えないだろう」
「――死の眠《ねむ》りについた時、いかなる夢を見るか、それがわれわれをためらわせるのだ」
「今の私の体験を知ったら、私の先祖は、ハムレットなど書かなかったろうよ」
背後の中空に黒竜《こくりゆう》の信号|弾《だん》が打ち上げられた。
号笛《ごうてき》とさけび声がいっせいに起り、数百台の戦車が、いっせいに動き出した。
厚い雲が、灰色の海面に低く垂れこめ、その中へ融《と》けこみ、またあらわれてくる無数の船影《せんえい》を幻想《げんそう》のようにつつみこんでいた。
ダンケルクの海岸からのぞむドーバー海峡《かいきよう》は、垂れこめた雲と、時おり落ちてくる霧雨《きりさめ》のかげに、全く視界を閉していた。
そのむこうで何が起っているのか、想像することもできなかった。
耳をすますと、遠雷《えんらい》のようなとどろきが、海面を伝わってくる。
風のせいか時おり、はっきりと機銃《きじゆう》の発射音が聞えてくることもあった。
遠雷のようなひびきは、おそらく、ドイツ軍と、イギリス本土防衛軍の死闘《しとう》であろうか。無数の戦車や、おびただしい数の爆撃機《ばくげきき》、艦砲《かんぽう》などが撒《ま》き散らす鉄火と死の狂騒曲《きようそうきよく》であろう。
はまひるがおの群落が白い花をつけている砂丘《さきゆう》の斜面《しやめん》で、シェクスピア少佐《しようさ》は背を丸め、膝《ひざ》を抱《だ》いてうずくまっていた。
寒さは骨のずいまでしみこんできていた。
顔を上げてたしかめるまでもない。
周囲は、何千人もの、イギリス兵やオランダ兵。それにフランス兵や、カナダ兵だった。
かれらは、シェクスピア少佐と同じように、ひざをかかえ、そのひざの間に頭を入れて、石のようにおし黙《だま》っていた。
霧《きり》の中から上陸用|舟艇《しゆうてい》があらわれ、波打ちぎわにのし上げて船首が開くと、また二、三百人の新しい捕虜《ほりよ》が砂浜《すなはま》へ吐《は》き出された。
「艦隊《かんたい》は何をやっていたんだ。いくら急降下爆撃機《スツーカ》やUボートのバリケードがあったからといって、上陸船団を無傷で海峡《かいきよう》を渡《わた》らせる法があるものか!」
「沿岸防備隊は|ドイツ軍《ハンス》がやって来たと見たら、さっさと内陸へ後退したっていうじゃないか」
「空軍だって、だらしがないぜ。こんな霧《きり》ぐらいで攻撃《こうげき》できないのか!」
興奮した声が入り乱れた。
新来の連中は最初の何分間かは、あたりかまわず、不満のありったけを吐《は》き散らしていたが、やがて周囲の、悲惨《ひさん》な沈黙《ちんもく》に気づくと、たちまち、かれらのような沈黙の中に閉じこもってしまうのだった。
時たま、この長大な砂浜《すなはま》のどこかで、一、二発|乾《かわ》いた銃声《じゆうせい》がとどろいた。
ドイツ軍の監視兵《かんしへい》の命令に従わない連合軍の兵士に向けられた銃が発したものであろうことは、誰《だれ》の胸にもあきらかだった。
どうしようもないあきらめが、誰の胸にも重くよどんでいた。
ドイツ第四|帝国《ていこく》は、ついにヨーロッパ全土を手中に収めたのだ。
これからは、ナチの天下になるのか! うなだれた数千の捕虜《ほりよ》たちの思考を奪《うば》っているのは、ナチスがポーランドやフランスなどでおこなってきたユダヤ人や対独ゲリラに対する残虐《ざんぎやく》な仕打ちだった。
シェクスピア少佐《しようさ》は幸いだった。
そこまで考えるどころではなかった。
目の前に起っている事態を、どのように認識するか、しないか。すべてはおのれが発狂《はつきよう》したがゆえの、ありもしない現実ととらえるか、それとも、自分の思考力はいささかもそこなわれていないと自ら確信すべきなのか。
少佐の頭蓋《ずがい》の中に充満《じゆうまん》しているのは、そのことだけだった。
「立て!」
ラウドスピーカーがさけんだ。
捕虜たちはのろのろと立ち上った。
するどい声で、つぎつぎと命令が発せられた。
短機関銃《シユマイザー》の発射音が断続し、捕虜たちは、長い長い列を作って動きはじめた。
ハーケン・クロイツを描《えが》いたイギリス軍のランドクルーザーに乗ったドイツ軍の野戦憲兵がやってきた。
捕虜《ほりよ》の列の中から、一人、また一人、と抜《ぬ》き出す。
「おい。そこの飛行服の。おまえだ。こっちへ出ろ!」
シェクスピア少佐《しようさ》は、列の外へ引き出された。
ランドクルーザーのうしろに、ルノーのトラックがつづいていた。フランス軍の遺棄《いき》したものであろう。
少佐はトラックの荷台に押《お》し上げられた。十数人の、いずれも飛行服を着た将校や下士官が、側板の折りたたみベンチに居ならんでいた。
トラックは捕虜たちの列とすれちがうように進んでいった。
さらに何人もの飛行兵がトラックに乗せられた。
「おれたち、どうなるんだろう?」
沿岸航空隊の兵曹長《へいそうちよう》が、不安そうにささやいた。
少佐が黙《だま》っていると、反対側の、フランス空軍の中尉《ちゆうい》が、肩をすくめた。
「ドイツを爆撃《ばくげき》してドイツ人を殺したっていうんで銃殺《じゆうさつ》されるのさ」
それが冗談《じようだん》には思えなかった。
シェクスピア少佐《しようさ》たちが運ばれて行ったのは、ドーバー地区に幾《いく》つも設けられていたイギリス空軍の臨時飛行場のひとつ、ペンダリオン・フィールドだった。
ドイツ軍のドーバー海峡突破《かいきようとつぱ》に備え、急造された前進飛行場だったが、今、そこを埋《う》めているのは、ユンカースJU52型輸送機や、ハインケルHE111双発《そうはつ》爆撃機のむれだった。
飛行場の周辺には、捕虜《ほりよ》になったイギリス兵が真黒に集っていた。
かれらは、そこからたくさんのフェリーボートや内火艇《ランチ》で、海峡の対岸へ運ばれてゆくようだった。
すでにイギリス軍の抵抗《ていこう》は全く終っているらしく、上空を飛んでゆくドイツ機の動きも、また捕虜を監視《かんし》しているドイツ兵の表情も、のびやかなものだった。
「少佐殿《しようさどの》。われわれはいったいどうなるのでしょうか?」
カナダ国防軍の歩兵|伍長《ごちよう》の制服を身につけた青年が、不安をみなぎらせてたずねた。
「おれにもわからん。ナチスのことだ。どうせおれたちを強制労働にかり立てるんだろうよ」
「強制労働ですか?」
伍長の顔色は草の葉のようになった。
「やつらはポーランドでも、ロシアでも、ハンガリーでもそうだったんだ。こんどは誰《だれ》はばからずやるだろうさ」
「ああ。それではぼくはだめだ! 殺される」
伍長は泣き声を上げた。
「なんでそうかってにきめるんだ。しっかりしろ!」
「少佐殿。ぼくはユダヤ系なんです」
見張りのドイツ兵がゆっくりと近づいてきた。
「しっ! だまっていろ」
ドイツ兵は散歩でもするように、ぶらぶらと歩み去った。
「伍長《ごちよう》。そんなことは口にするな。誰《だれ》もきみがユダヤ系だなどということは知らないんだ。この騒《さわ》ぎで、おそらく兵籍簿《へいせきぼ》も何もめちゃめちゃになってしまっただろう。黙《だま》っていればわかりやせん。いいね」
「でも、少佐殿《しようさどの》。やつらは徹底《てつてい》的に調べるんだ。ユダヤ系は一人もこの世に残さないつもりなんだ。ドイツが勝ったんじゃ、もうだめだ。ぼくは生きてゆく場所がない」
青年は逆上しているようだった。
「しっかりしろ!」
「黙れ!」
「おまえがそんなことを言わなければわかりやしねえよ」
「うるせえぞ! 小僧《こぞう》」
周囲の者たちが、よってたかって伍長を黙らせようとした。
それがかえってよくない結果をもたらした。
「離《はな》せ! 離してくれ! ぼくはユダヤ人なんだ!」
「黙《だま》れったら」
「ぼくはもうがまんできない。ぼくは自分がユダヤ人であることを、かくし通せる自信はない」
見張りのドイツ兵がふり向いた。
もどって来た。
「静かにしろ! 何を騒《さわ》いでいるんだ」
ドイツ兵は、銃《じゆう》を肩《かた》にかけたまま、捕虜《ほりよ》たちを制した。
「いや。何でもない。ちょっと興奮しただけだ」
シェクスピア少佐《しようさ》は背中で伍長《ごちよう》をかばい、ドイツ兵に、もういい、と手をふった。
「もうじき食事が届く。少し待っていろ」
ドイツ兵はそんなことに騒ぎの原因があるとでも思ったのか、さとすように言うと、背を向けて歩み去ろうとした。
「おれはユダヤ人だ。ドイツ兵! おれはユダヤ人だぞ!」
「まて! 何を言うんだ!」
「こいつ! 黙《だま》れ、黙れ!」
「おさえろ!」
みなあわてて伍長《ごちよう》をおさえつけようとしたが、もう遅《おそ》かった。
ふり向いたドイツ兵と伍長は顔を突《つ》き合わせて立ちすくんだ。
「おれはユダヤ人だぞ! このドイツ野郎!」
伍長はおめきさけぶと、ドイツ兵につかみかかった。
引き分ける余裕《よゆう》もなかった。
ドイツ兵がかけつけてきた。上になり、下になりころげ回っている二人の間に拳銃《けんじゆう》を突き入れた。
銃声《じゆうせい》とともに伍長の体は跳《は》ね上った。もう一発。もう一発。
銃声が消えると、凍《こお》りついたような静寂《せいじやく》が周囲を支配した。
ドイツ兵たちは、伍長の死体の足をつかむと、ずるずる引きずって引上げていった。
イギリス兵の捕虜《ほりよ》たちの間に、絶望的な空気があふれた。
ここにいるイギリス兵の数は三千名か、あるいはもっといるかもしれない。しかし、直接、ドイツ軍と銃火《じゆうか》をまじえた結果、ドイツ軍に降《くだ》った者は数えるほどしかいないであろう。大部分は、ドイツ軍の電撃《でんげき》作戦の前に、ほとんど抵抗《ていこう》らしい抵抗をすることもなく、武器を投げ棄《す》てて投降《とうこう》したのであろう。
それだけに、イギリス軍敗戦の現実感は薄《うす》かったといえよう。
だが、一人のカナダ軍|伍長《ごちよう》の死の瞬間《しゆんかん》から、かれらイギリス兵は体も心も、捕虜に変化し終えたのだった。
「捕虜に通告する。これから、全員を幾《いく》つかの班に分ける。指示に従って行動するように。命令に従わない者は、ドイツ軍に対する抵抗と見なして処理する」
スピーカーがさけび出した。
イギリス兵たちは、あわれな家畜《かちく》のむれのように、のろのろと移動しはじめた。
時おり、あちこちで小銃《しようじゆう》や短機関銃《シユマイザー》の発射音が鳴りひびいた。その短く乾《かわ》いた音響《おんきよう》は、捕虜《ほりよ》となったイギリス兵たちの心を、やりきれなくえぐっていった。
シェクスピア少佐《しようさ》は二十人ほどのなかまとともに、ユンカースJU52型機に押《お》しこめられた。
三つの発動機をつけた『|小母さん《タンテ》』は、ヒースの草原を波打たせてドーバーの空に浮《う》かんだ。
あるときは爆撃《ばくげき》の跡《あと》もなまなましい荒《あ》れ果てた格納庫のすみで、またあるときは、野外に放置されたままのユンカース輸送機の主翼《しゆよく》の下で、仮寝《かりね》の夢《ゆめ》を結びながら、十日ほどついやして、少佐たちの一行は、エジプトのカイロへ着いた。
染めたような青い空と、灼《や》けつく砂のカイロの郊外《こうがい》には、ドイツ空軍の大きな基地が設けられていた。
キャンプにはすでに数百名のイギリスやカナダ、オーストラリアやフランス、オランダ、あるいは中立国などの捕虜《ほりよ》や抑留《よくりゆう》士官たちが集められていた。
シェクスピア少佐《しようさ》たちがかれらと合流した翌日、ビルケトカルン湖に近いシンヌーリスに送られた。
リビア砂漠《さばく》からわたってくる熱風が、広大な飛行場を、はげしい陽炎《かげろう》の下に埋没《まいぼつ》させていた。
目のくらむ陽光の下にサンド・イエローに塗《ぬ》りたくられたハインケル一七七A四発|爆撃機《ばくげきき》が長大な主翼《しゆよく》をつらねてならんでいた。
捕虜たちは、からっぽの格納庫の中へ追いこまれた。
暗い格納庫の内部は、ひんやりとしてたいへん心地よかったが、数百名もの捕虜をつめこまれ、たちまち地獄《じごく》の釜《かま》と化した。
風のよく通る入口に、台が運ばれてきた。
一人のドイツ軍高級将校が、俳優《はいゆう》のようなしぐさで台上に立った。台の下には、これもたくさんの勲章《くんしよう》を胸に飾《かざ》った将校たちが人垣《ひとがき》のようにいならんだ。
「私は大ドイツ国空軍|総監《そうかん》。ウエルナー・メルダース少将である」
よく透《とお》る声だった。かれは白い手袋《てぶくろ》をはめた手をうしろに組み、古武士のような精悍《せいかん》な顔を捕虜《ほりよ》たちに向けた。
「私は諸君らに、諸君らの生涯《しようがい》において、もっとも重要なる選択《せんたく》のチャンスを与《あた》えるものである。諸君らは、自らの手で栄光ある未来をつかむか、それとも、みじめな運命に甘《あま》んずるかの分れ道にある。諸君らの、現在、置かれている立場は、武人として、恥《は》ずかしいものではない。諸君らは、十分にそれぞれの胸に抱《いだ》いている祖国への忠実の度合いに従って戦い、戦い抜《ぬ》き、そして捕虜になった。わが大ドイツ国、すなわちドイツ第四帝国は、諸君らの持つその勇猛《ゆうもう》さと、すぐれた軍事技術に対して、大きな敬意を表するものである……」
ドイツ人らしい、持って回った荘重《そうちよう》な調子の言葉が機械的にならべられてゆく。
メルダース将軍の声は、静まりかえった格納庫の中にこだました。
シェクスピア少佐《しようさ》は、何か、とほうもなく悪いことが自分の身の上に起るのではないかと思った。いたたまれない不安が、少佐の胸をふさいだ。
「われわれは、諸君らを戦友としてむかえ入れたいと思う。われわれは勇気と献身《けんしん》に対しては無条件に脱帽《だつぼう》するものである。諸君らが、もし、われわれに対する協力を、心地良い条件の中で行ってくれるものならば、われわれは諸君らを、何のわけへだてもなく、われわれの陣営《じんえい》にむかえ入れるであろう。総統もそれを強く望んでおられる。総統は諸君らにおおいに期待しておられるのだ。諸君。われわれは諸君らに、五分間の考えるための時間を与《あた》えよう。五分が過ぎたら、誰《だれ》からでもよい、係の曹長《そうちよう》のところへ申し出てもらいたい。各人がどのような形で協力するか、してもらえるかは、あとで話し合いたい。協力を申し出る、申し出ないは各人が自由にきめることだ。だが、申し出なかった者に対するその後の待遇《たいぐう》に関しては、多少、変化があるかもしれないことは、この際、言わせておいてもらおう。以上だ」
メルダース将軍が言葉を切ると、捕虜《ほりよ》係の軍曹《ぐんそう》が、敬礼! とさけんだ。
だが、捕虜《ほりよ》たちの半分はそれに応じなかった。
シェクスピア少佐《しようさ》の考えはすでにきまっていた。
それでも、最初の一人として申し出るのはためらわれた。
だが、そのけねんも必要なかった。
ほとんど同時に、捕虜たちの半分は動いていた。
「とにかく、生きていなくてはうそだよ。生きてさえいれば、また情勢が変るということもある」
「そうともよ。なんだか知らねえが、やつらに協力をするふりして、おりを見て向うずねを掻《か》っ払《ぱら》ってやるぞ」
地味だが、忍耐強《にんたいづよ》いイギリス兵らしい考え方だった。
ドイツ将校たちははなはだ満足そうだった。
ただちに幾《いく》つもの班に分けられ、号令や点呼《てんこ》の声が入り乱れた。
もうその頃《ころ》には、捕虜の全員がドイツ軍への協力を表明していた。
シェクスピア少佐《しようさ》は十数名の空軍将校や下士官たちとともにシンヌーリス基地に残された。
他の捕虜《ほりよ》たちはどこかへ連れ去られた。
ドイツ軍に協力を申し出たといっても、捕虜であることにはかわりはないらしく、捕虜収容所での生活が続いた。
それだけではなく、連日、ナイル川の堤防《ていぼう》工事にかり出された。
「なんでえ! ドイツ軍に協力するなんて、こんなことかよ。これじゃ、強制労働とちっとも変らねえじゃねえか!」
ひげだるまのような海軍の兵曹長《へいそうちよう》が、監督《かんとく》のドイツ将校に喰《く》ってかかった。
「総統閣下は諸君らの協力をたいへん喜んでおられる。だからしっかり働きたまえ」
「なにが総統閣下だよ。そうか、わかったぞ。きさまら、捕虜をぎゃくたいすると、国際|輿論《よろん》がうるさいもので、ドイツ軍に協力しているという名目をつけて、人をこき使う気だな」
「そんなことはない。諸君らはわれわれの戦友だ」
「じゃあ、おまえもおれたちといっしょに作業をやりなよ」
兵曹長《へいそうちよう》はドイツ軍将校にスコップを押《お》しつけた。
「なにをする! 汚《よご》れるじゃないか」
ドイツ軍将校と捕虜《ほりよ》の兵曹長は激《はげ》しくもみ合った。
ドイツ兵がとんできた。ドイツ兵は銃《じゆう》の台尻《だいじり》で兵曹長をなぐりつけた。
大騒《おおさわ》ぎになった。
シェクスピア少佐《しようさ》は、騒ぎの渦《うず》の外へ外へと体を動かした。
ついにドイツ兵は銃の引金を引いた。
捕虜たちはスコップをふるって突撃《とつげき》した。
少佐に注意を払《はら》っている者などいなかった。
かれは身をひるがえすと、路地に走りこんだ。
アドービ煉瓦《れんが》の低い石塀《いしべい》に沿って走ると、居酒屋や雑貨屋につづいて古着屋があった。
少佐は垂幕《たれまく》のかげから店内をのぞきこんだ。
白髪《しらが》の老婆《ろうば》が背を丸めてうずくまっていた。
「婆《ばあ》さん。ばあさん」
少佐《しようさ》は声をしのばせた。
「ばあさん」
老婆《ろうば》は膝《ひざ》の間に伏《ふ》せていた顔を上げた。
深いしわに埋《うま》った目が、老獪《ろうかい》な狐《きつね》のように少佐をうかがった。
「この服と、そっちの服を取りかえてくれないか」
少佐は自分の着ているイギリス空軍の制服の胸を指でつまんでみせた。片手で、店の奥《おく》につるされているエジプト軍の歩兵の軍服を指さした。
「イギリス軍の服は売れないからね。このご時勢だもの」
「生地《きじ》は良いぜ。ボタンだってしんちゅうだ」
「ドイツ軍の制服なら高く買うよ」
老婆は自分の足もとに、ぺっとつばを吐《は》いた。
少佐は店を出ようとした。
「待ちなよ」
イギリス軍の制服だろうがドイツ軍の軍服だろうが、のどから手が出るほどほしいくせに、古狐《ふるぎつね》のかけひきだった。
「なんだね?」
「おまえさん。イギリス軍の将校だろう? 捕虜《ほりよ》になったのが逃《に》げ出したんだね。そんな格好でうろうろしていたら、一〇〇メートルも歩かないうちにつかまってしまうよ」
「よけいなおせわだ」
「その軍服。買ってやろうじゃないか」
「あれと交換《こうかん》だ」
「あれは高いんだよ」
「婆《ばあ》さん。こんどはもっと良い物を持って来てやるよ」
「おかねをださなければだめだね」
少佐《しようさ》は店を出た。
となりの雑貨屋に入ろうとしたとき、老婆《ろうば》が追いかけてきた。
手に、少佐が求めたエジプト軍の軍服をにぎっていた。
家と家の間のせまい路地で、少佐は上衣《うわぎ》を脱《ぬ》ぎ、ついでズボンも脱いだ。
エジプト歩兵の制服は汗《あせ》と脂《あぶら》で汚《よご》れ、噛《か》み煙草《たばこ》の匂《にお》いが浸《し》みついていた。階級章もボタンもついていない。よほど体の大きな男が着ていたものとみえ、大柄《おおがら》な少佐《しようさ》が着ても、コートのようにだぶついていた。
英国空軍の制帽《せいぼう》が老婆《ろうば》の手に移ったとき、さすがに心が痛んだ。
「これ、おまけしてやるよ」
老婆は、汚《よご》れたトルコ帽《ぼう》をさし出した。
エジプト軍歩兵の半ズボンに、汚れきった上衣《うわぎ》。トルコ帽という姿は、この北アフリカの海岸都市ならどこにでも見られる傭兵隊《ようへいたい》の脱走兵《だつそうへい》のスタイルだった。
少佐は居酒屋の、馬の尻尾《しつぽ》の毛で編んだのれんをくぐった。
あかるい外光の下から、入った屋内は暗黒だった。
目が馴《な》れるまでに、三十秒近くを要した。
ひんやりとした土間に、二、三台の木製のテーブルが置かれ、そのまわりに、金属の折りたたみ椅子《いす》や、古びた籐椅子《とういす》。ただの木の切株。低い脚立《きやたつ》などが乱雑に配置されていた。
その中のひとつに腰《こし》をおろすと、奥《おく》の調理場から、東洋人らしい小柄《こがら》な、目のするどい青年があらわれた。
「旦那《サー》。何を注文するかね?」
流暢《りゆうちよう》な英語でたずねた。
少佐《しようさ》はドキリとした。
「旦那? なぜ、おれが旦那なのかね?」
少佐は上体を起し、ことさらに、自分の汚《よご》れた軍服を青年の目にさらした。
青年はくちびるの端《はし》に笑みを浮《う》かべた。
「旦那はイギリス軍の将校でしょう。傭兵隊《ようへいたい》に、白人はいないわけではないが、かれらはもう軍服など着ていない」
「なぜだ?」
少佐は思わず白状した形になって、たずねた。
「傭兵隊に入っている白人兵を、ドイツ軍がきびしく探索《たんさく》しているからだ。なんでも、ゲリラがだいぶ流れこんでいるらしいからね」
少佐《しようさ》は首をすくめた。
「おれも、そう見えるかね」
「旦那は脱走兵《だつそうへい》だべ。心配すんなって。密告なぞしねえから」
「いや。まいったな。実はそうなんだ。ところで何か食わせてくれ。酒も」
青年はうなずいて調理場へもどっていった。
やがて調理場から、脂《あぶら》の焼けるいい匂《にお》いが流れてきた。
外の道路を、ドイツ軍の装甲車《そうこうしや》が通っていった。
シェクスピア少佐《しようさ》は思わず腰《こし》を浮《う》かせた。
いくらイギリス将校の制服は脱《ぬ》いだとはいえ、居酒屋の若者にさえ、簡単に見破られるほど、脱走|捕虜然《ほりよぜん》としている自分が、にわかに不安になってきた。
少佐は調理場をのぞきこんだ。
「おい。裏口はどこだ?」
石の竃《かまど》の上に浅い大鍋《おおなべ》を置き、何かジュウジュウといためていた人影《ひとかげ》がふり向いた。
「裏口はそっちだけど。注文したもの、できたわよ」
女の声がもどってきた。
「裏口は抜《ぬ》けられるのか?」
「抜けられるけど、ゴミ棄場《すてば》を通らないと通りへは出られないわよ。食べないで行くのなら、おかねだけ払《はら》ってゆきなさい」
「ドイツ軍が入ってこないかな」
「それが心配なのか。じゃ、こっちへ入っておいで」
少佐《しようさ》は大鍋《おおなべ》の下で盛大《せいだい》に燃え上る火を目標にそろそろと土間を進んだ。
調理場につづいて、物置とも家族の居間ともつかないせまい部屋《へや》があった。
石の壁《かべ》にうがたれた四角な窓から、堆《うずたか》くゴミが積まれた中庭らしい広場が見えた。
烈《はげ》しい陽光の下で、投げ棄《す》てられたゴミの山は灼《や》かれ、乾《かわ》き切り、無機物となって、陽炎《かげろう》の底でゆらめいていた。さしわたしが一メートルもあるような大きなヒマワリの花が、深黄色の花冠《かかん》に烈日《れつじつ》をはねかえし、ゴミの残骸《ざんがい》の上に君臨していた。
「座んなさいよ。ほら」
背後で声がした。
ふりかえると若い女が、皿《さら》や酒壺《さかつぼ》を手に立っていた。
浅黒い、彫《ほり》の深い、大きな黒目がちの容貌《ようぼう》は、ジプシーではないかと思われた。
皿《さら》の上の肉と豆《まめ》を混ぜていためた料理が、少佐《しようさ》にたまらぬ空腹感を与《あた》えた。
少佐はものも言わずに食った。
娘《むすめ》が注《つ》いでくれた酒を、息もつかずに飲み干した。
「ずいぶんおなかがすいていたんだね。いつから食べなかったのさ?」
「けさ食ったよ。食堂で、ちゃんと」
捕虜《ほりよ》収容所の食事は、そんなに粗末《そまつ》なものではなかった。
一応白いパンと、ミートと豆のシチュー。それにポテト・バターと牛乳。それが朝のきまった献立《こんだて》だった。
「そういえば、まだ昼食をとっていなかった。だが、それにしても、腹がへったものだ。たぶん、脱走《だつそう》のチャンスをうかがっていたから緊張《きんちよう》したんだろうな」
少佐《しようさ》にとって捕虜《ほりよ》収容所の食事よりも、まさっているのは今火を通したばかりというところだけかもしれない貧しいそのいため料理が、ロンドンの一流レストランのシェフの手になる特別料理に匹敵《ひつてき》する味を持っていると思えた。
酒も、口の中へ入れただけで、全身が火のように熱くなるすさまじいものだったが、いつもの夕食時、インド人の給仕によって注《つ》がれるかれの好みのジュブレイ・シャンベルタン・カゼティエよりも美酒に思えた。
「ずいぶん飢《う》えているのね?」
女はあきれたように見つめていた。
「これから、食えなくなるかもしれないから、今のうちに、うんと食っておくのさ」
つねならば、イギリス軍の高級将校としては、植民地のジプシー女などに、気軽に冗談《じようだん》を言うなどということは、考えられもしないのだが、今はおそろしく気弱になっていた。誰《だれ》かと話をしたくてたまらなかった。
料理はたちまち少佐《しようさ》の腹の中におさまった。
そのとき、家の表で車が止った。
女の顔に危懼《きく》の色が浮《う》かんだ。
「こっちへ!」
ふいに女が低くさけんだ。
立ち上って店の入口をのぞこうとした肩先《かたさき》を、いきなり強く打たれた。
女は手にしていた大きな木製の匙《さじ》を投げ出すと、窓を指し示した。
「早く!」
少佐は中庭へ跳《と》び下りた。
大きなハエやアブがわっと飛び立った。
少佐が走るにつれて、ハエのむれは視野《しや》をさまたげるほどになった。
何十万|匹《びき》ものハエが、うなりを発して渦巻《うずま》いた。
「さあ、ここへ!」
女が壁《かべ》の下のあげぶたを引き上げた。
ためらっているひまはなかった。
朽《く》ちかけたようなはしごにとりついて、二、三段、下ったとき、頭の上で、どうん、とふたがしまった。
真暗になった。
腐敗物《ふはいぶつ》や糞尿《ふんによう》の匂《にお》いが、おそろしく濃密《のうみつ》な質量で下からせり上ってきた。
呼吸が止った。
頭の上で人声が聞えた。
少佐《しようさ》はそれ以上、はしごを下っていいものかどうか、ためらった。
足の下、数センチのところに、汚物《おぶつ》の海があるような気がした。
とつぜん銃声《じゆうせい》が聞えた。
さけび声が交錯《こうさく》した。
あのジプシーの娘《むすめ》が射《う》たれたのではないだろうか?
少佐《しようさ》は地上へ出てみようと思った。
かの女を犠牲《ぎせい》にして、このまま逃《に》げ出すことはできない。
だが……少佐は暗黒の中で、はしごのふちを握《にぎ》りしめた。
今ここでドイツ軍に捕《とら》えられたら、悪くすれば銃殺《じゆうさつ》、良くいっても、捕虜《ほりよ》収容所できびしい監視《かんし》のもとで過さなければならなくなるであろう。
それでは、自分が現在体験しつつある奇妙《きみよう》なできごとが解明できなくなってしまう。
今は戦いどころではなかった。イギリスもドイツもない。ふしぎな歴史の喰《く》い違《ちが》いをあきらかにしなければ、自分の世界へ帰ることもできない。
たてつづけに銃声《じゆうせい》が鳴りひびいた。
あげぶたの上に、何か重い物体が倒《たお》れこんできた。
少佐は息を殺して頭上の気配をうかがった。
かすかに人声がし、それから静まりかえった。
少佐はあげぶたを押《お》した。びくとも動かなかった。
肩《かた》を当て、全身の力をこめた。
ふたは動かず、足元のはしごがミシリときしんだ。
閉じこめられたのか?
少佐《しようさ》の胸をつめたいものが流れた。
ふたをこぶしでたたいた。
だが、あお向いてたたくので力が入らない。
誰《だれ》かの耳に入ったとも思えなかった。
少佐はポケットをまさぐった。マッチが手に触《ふ》れた。
マッチをすると、オレンジ色の光の輪の中に、穴倉の内部がぼんやりと浮《う》き上った。
もとは何に使われていたものか、深さ三メートル、縦横《たてよこ》二メートルほどの掘《ほ》り抜《ぬ》きの土倉だった。
底には投げこまれたゴミが厚くたまっていた。
マッチのほのおが消えた。
少佐はぎょっとした。
酸素が不足しているのではないだろうか。
このままでは命を失うかもしれない。
少佐は靴《くつ》をぬぐと、必死にふたをたたいた。
「静かに!」
ふいにどこからか声が聞えた。
「静かに!」
もう一度聞えた。
耳のせいかと思った。
ふたを打つ手の動きを止めたとき、下方から懐中《かいちゆう》電灯の光が動いてきた。
「誰《だれ》だ!」
「静かにしてください。われわれはヘルモンティス委員会の者です」
「ヘルモンティス委員会? なんだ。それは?」
「聞いていないのですか?」
「ドイツ軍に追われていたんだ。居酒屋の女がここへ入れてくれた」
短い沈黙《ちんもく》が流れた。
「われわれのことは何も聞かなかったのですか?」
「ああ。何か知らぬが、ここへ入れられたのだ」
声が足もとに迫《せま》り、懐中電灯の光が真下から少佐《しようさ》を照し出した。
「われわれ、ヘルモンティス委員会は、捕虜《ほりよ》の連合国軍人を、ドイツの占領圏外《せんりようけんがい》に脱出《だつしゆつ》させるための組織なのです。あなたは、それと知らずに、ここへおいでになったようですが、ここを知られたからには、われわれに脱出を依頼《いらい》された捕虜とひとしく扱《あつか》います」
「つまり、私の望むようにはさせないというわけだな」
「そうです。それでは認識番号と捕虜番号。兵種階級。部隊名をどうぞ」
「認識番号、RAF七一三八〇二。捕虜番号、ZK〇〇一四六。王立空軍《R・A・F》、第九|航空技術訓練部隊飛行管理官《A・T・A・F・C・M》。シドニー・クールヘル・シェクスピア少佐《しようさ》だ」
「OK」
懐中《かいちゆう》電灯の光と声が消えた。
調べているのであろう。
一時間もたったかと思われる頃《ころ》、ふたたび懐中電灯がともった。
「シェクスピア少佐《しようさ》」
「なんだ?」
「確認した。それでは、そのはしごを下りてくれたまえ」
少佐は一段一段はしごを下った。
最後に汚物《おぶつ》の中へ足をつけた。
膝《ひざ》の下まで埋《うま》った。不快な柔軟感《じゆうなんかん》と粘滑感《ねんかつかん》が背筋を這《は》い上ってきた。
嗅感覚《きゆうかんかく》はとうに失われていた。
「こっちへ」
少佐は重い足を一歩一歩引き抜いて、懐中《かいちゆう》電灯の光に導かれていった。
むき出しの土の壁《かべ》に、木のとびらが開かれていた。
「入ってください」
くぐると、目の前に洋灯《ランプ》の光が影《かげ》を落していた。
「足を洗ってください」
暗い灯影《ほかげ》の下に、水をたたえた銅の水桶《みずおけ》があった。
粗末《そまつ》な粉石鹸《こなせつけん》が与《あた》えられ、少佐は足を洗った。靴《くつ》は棄《す》てなければならなかった。足を運ぶ時に飛沫《しぶき》が付着したらしいズボンは、強烈《きようれつ》な匂《にお》いを放っていたが、それはどうしようもなかった。
少佐《しようさ》は誰《だれ》かがさし出してくれた古いゴムのサンダルをつっかけて、せまいトンネルを進んだ。
せまい部屋《へや》へ出た。周囲や天井《てんじよう》に板が張ってあり、裸電球《はだかでんきゆう》がぶら下っていて、どうやら部屋のていさいになっている。
そこに三人の人物がいた。
「シェクスピア少佐ですね」
中央にすえられた古机《ふるづくえ》を前に座っているのはエジプト人の女性だった。全身をすっぽりおおった黒衣の間から、黒い大きな目がのぞいていた。
「そうだ」
「少佐。安全は保障します。その上で、少佐にお願いしたいことがあるのです」
うるんだ美しい声だった。
「どんなことだね?」
「少佐。もう一度、あの捕虜《ほりよ》収容所にもどっていただけませんか?」
「もどる? あそこへ? なぜ? いや、話によってはそれだってかまわないが」
捕虜《ほりよ》収容所を脱出《だつしゆつ》したとて、帰るべき軍隊などあるわけではなかった。
あの日以来、少佐《しようさ》の部隊がどうなってしまったのか、想像もつかなかった。
場合によっては、ドイツ軍の下で、生活を続けていたとて、少しもかまわない。
「少佐。ドイツは、何事か、極めて大規模な作戦を練っているようです。いろいろとその兆候があります。少佐が捕《とら》えられていたドイツ軍の機関も、その作戦とおおいに関係があるらしいのです。そこで少佐にお願いしたいことは、少佐はこのまま、その組織にとどまって、これからドイツ軍が何を計画しているのか、それを、われわれにくわしく報告していただきたいのです。どうでしょう。やってもらえますか?」
湖のような美しいひとみが、真直《まつすぐ》に少佐を見つめた。
「いやだと言ったら?」
などというのは小説の中でだけのことだ。
いやだと言ったとたんに、相手は当然のことで、こちらの口をふさぎにかかるにきまっている。
秘密を打ちあけられたからには、従うも従わぬもない。選択《せんたく》の余地など残っていないのだ。
「しかたがない。そうするよりほかに、おれの生きる道はないのだろうな」
女の目が笑った。
「よくおわかりですこと。それでは、これから、いったん上の店へおもどり願います。それから、店の者に、ドイツ軍へ電話をして引き取りに来てもらいます。ドイツ軍の内部にも組織が作られていますから、ひどい目に会うなどということはありません。そして収容所へもどったら、また連絡《れんらく》します。よろしいですね」
少佐《しようさ》はうなずくしかなかった。
少佐はまたもとの店にもどった。
今のできごとがうそのように思えた。
3――C
ジプシーの女が、酒を注《つ》いで少佐の前へ置いた。
「ドイツ軍へ電話するなら早くしてくれ。こうしているのも、気持ちのよいものじゃない」
少佐は酒をあおった。
収容所の内部にまで、ヘルモンティス委員会の手がのびているから、身は安全だといわれても、脱走《だつそう》将校に対し、ドイツ軍がどのような処遇《しよぐう》をするか、わかったものではない。
「今、内部《なか》の組織の連中と連絡《れんらく》を取っているところだから、少し待っていなさいよ」
女は店の奥《おく》をうかがった。
少佐はたばこの煙《けむり》ごしに、さりげなくたずねた。
「この戦いがはじまったのは何年だっけ?」
「あら。一九三九年じゃないの。どうしたの」
「ああ。そうだったな」
少佐《しようさ》は肩《かた》をすくめてみせた。
そうだ。一九三九年。それには間違《まちが》いはない。
一九三六年。七月。スペインに起った激《はげ》しい内乱は、第二次世界大戦の前哨戦《ぜんしようせん》だった。
三六年。スペインに人民戦線内閣ができると、それに対して右翼勢力と植民地軍をバックに戦いを挑《いど》んだフランコ将軍のひきいるナショナリスト軍は、それぞれヨーロッパ各国の支持を受け、スペイン全土を焦土《しようど》と化して激突《げきとつ》した。フランスとロシアは人民戦線側を、ドイツとイタリアはナショナリスト軍を応援《おうえん》し、多量の武器、弾薬《だんやく》、飛行機を送りこんだ。
ヒトラーのひきいるナチス・ドイツの、ナショナリスト軍に対する肩入《かたい》れは極めて積極的であり、メッサーシュミットBf109単座|戦闘機《せんとうき》や、ユンカースJU87急降下|爆撃機《ばくげきき》などの新鋭機《しんえいき》をぞくぞくと送りこみ、またロシアも|I《イー》16単座戦闘機を送りこむなど、スペインの空は、列強の空中実験場のありさまを呈《てい》した。
結果はナショナリスト軍が大勝し、スペインはフランコ将軍のひきいるファシスト国家となったのであった。
それに自信を得たドイツは一九三八年、チェコスロバキアを全土|併合《へいごう》し、またポーランドに対してダンチヒ地方の返還《へんかん》を要求した。
第一次大戦で手痛い敗北を喫《きつ》したドイツは、ヨーロッパ全体の経済的|疲弊《ひへい》に乗じて再軍備に最大限の努力を払《はら》い、次の戦いの機会をうかがっていた。
今度のドイツのねらいは、ヨーロッパ全土のドイツ化と、共産主義ロシアの抹殺《まつさつ》だった。
ヒトラーのさけぶ国家社会主義は、ナチス一党独裁のもとに、もっとも効率良く軍国主義を推進し、短期間に強力な軍備を建設することができた。
ヨーロッパのドイツ化は、過去におけるヨーロッパのローマ化に匹敵《ひつてき》する哲学《てつがく》的大事業であり、ゲルマン民族の中世的|誇《ほこ》りと夢《ゆめ》が、その可能性を夢見させ、それだけが、沈滞《ちんたい》と半永久的な凋落《ちようらく》化に苦しむヨーロッパを立ち直らせ得る方法であると断じさせたのであった。
一九三九年九月一日|早暁《そうぎよう》。ドイツは、この日のために整備を重ねていた二つの強力な軍団をもってポーランドへ侵入《しんにゆう》を開始した。
イギリスとフランスは、即日《そくじつ》、ドイツにポーランドからの撤兵《てつぺい》を要求し、なお、それに二日間の期限を与《あた》えた。
ドイツが受け入れるはずのない要求だった。
要求時限の切れた九月三日。イギリスとフランスは、ドイツに対して宣戦を布告した。
第二次大戦の幕は切って落されたのだった。
つづいてロシアがポーランドに侵入した。
九月二十八日。ワルシャワは陥落《かんらく》しポーランドの戦いは終った。
ドイツとロシアは、国境を接することになったのだった。
ドイツ軍の最終目標であり、最大の目標はイギリス本土である。
そのため、ドイツ軍は雄大な戦略を立てた。
ひとつはスカンジナビア半島を占領《せんりよう》し、ここに海軍と空軍の基地を設け、東はロシア本土をにらみ、西は北海を越《こ》えてイギリス本土に対する強固な包囲陣《ほういじん》の一環《いつかん》を形造ることだった。
もうひとつは主要戦略の一つでもあり、同時にイギリス本土上陸に対する直接の足がかりであるフランス全土の占領だった。
イギリス本土さえ占領してしまえば、広大なイギリス植民地は自《おのずか》らドイツの支配に屈《くつ》するであろう――そう思ったのはヒトラーとゲーリングだった。
たとえフランスが降伏《こうふく》し、イギリス本土を占領しても、イギリスはカナダかオーストラリヤに政府を移し、またフランスも亡命政府を立て、アメリカと手を握《にぎ》って最後まで抵抗《ていこう》するだろうと考えたのは、リッペントロップやヘスだった。ヘスは副総統である。
最後にはアメリカと戦わなければならないことは、考えられてはいたが、どれだけ真剣《しんけん》に検討したかはわからない。
連合国側の兵器廠《へいきしよう》であるアメリカの実力をほんとうに理解していたのかどうか疑わしい。
最終的にはアメリカ本土を占領《せんりよう》しなければ結着はつかないはずである。
この時代の戦略|概念《がいねん》では、まだ核兵器《かくへいき》などは登場していないから、陸上決戦以外に、相手国を降伏《こうふく》させ得る直接的手段はない。空軍の戦力は加速度的に増大していたが、爆撃《ばくげき》だけで相手国を屈伏《くつぷく》させることは不可能である。それは現代とて変りはないが、核兵器の登場によって心理的に、それが可能になったというわけである。
ドイツの総統大本営の構想は、東はイラク、イラン、アラビア半島までがドイツ軍の占領地域であり、その先のインドは日本にまかせるつもりだった。広くヨーロッパ全土とアフリカ、それにロシアを占領すれば、資源的にもアメリカを凌駕《りようが》することができるし、やや兵力不足気味のドイツ軍が、人的資源をも確保できると考えていた。
つまり、戦いながら国力を充実《じゆうじつ》させてゆく、というのがヒトラーの考え方だった。
この、獲《と》らぬ狸《たぬき》の皮算用が、立派なひとつの理論として通用し、誰《だれ》も疑いをさしはさまないところが、ドイツ軍の最高戦争指導者たちの不思議な点だった。
戦略構想はまことに雄大で立派なのだが、それを現実のものとするためには、実際のドイツ軍はあまりにも地方的小国的であった。
つまり、ヨーロッパというせまい地域の中では第一級の軍隊として力を発揮することができたが、それはあくまでも、戦術中心の作戦であり、装備《そうび》であった。
たとえば、それを、当時、ドイツが世界に誇《ほこ》り、また、ドイツを仮想敵国とみなす多くの国々にとって、悪夢《あくむ》的存在とされていた|ドイツ空軍《ルフト・ヴアツヘ》は、実は戦略的能力をほとんど持っていないただの戦術空軍にしか過ぎなかった。
世界一と称されたメッサーシュミットBf109単座|戦闘機《せんとうき》の航続|距離《きより》がわずかに七〇〇キロメートルしかなかったことをみても、その一端《いつたん》がわかる。
出現の時期は少し遅れるが、日本海軍の|0《レイ》式艦上|戦闘機《せんとうき》が増槽《ぞうそう》つきで三五〇〇キロメートル。アメリカのノースアメリカンP51ムスタング単座戦闘機が同じく三五〇〇キロメートルだったことを合わせ考えてみると、ドイツが考えていた戦場という舞台《ぶたい》のせまさがわかる。
航続|距離《きより》というものは、実用上は当然、半径で考えなければならない。それに、片道三五〇キロメートルを飛んだだけではだめなのであって、敵との交戦時間と、基地へ帰る時に、燃料に多少の余裕《よゆう》を見ておかなければならないから、実際の行動半径は三〇〇キロメートル程度になってしまうだろう。ムスタングが航続|半径《はんけい》が一七〇〇キロメートルであることとくらべると、とても勝負にならない。つまり、メッサーシュミット109は、ムスタングの基地へは攻撃《こうげき》をかけることができないのに、ムスタングの方では、いつでも好む時にメッサーシュミットの基地を襲《おそ》うことができるというわけである。実際の航空戦の図式はそれほど簡単ではないし、敵に遭遇《そうぐう》して戦う以上、航続|距離《きより》が長かろうが短かろうが、空戦時間は五分とないのだから、単機の性能としての航続距離は、たとえ短くとも、それは基地を前進させてゆくことで解決できる。というのが、ドイツ流の考え方だった。それゆえ、航空基地は、地上部隊の前進にともなって、戦線の背後に設けられ、つねに戦場の上空に多数の味方機を飛ばすことができた。
だが、それも、地上部隊が破竹の進撃《しんげき》を続けている間はよいが、いったん戦線が膠着《こうちやく》してしまうと、もはや相手の後方をたたくことは不可能になった。そして制空権が失われ、地上部隊はずるずると後退せざるをえなくなる。ルフト・ヴァッヘは、実にそのような存在だった。
一方、ドイツ海軍もまた、基本戦略として英国本土を孤立《こりつ》させ、経済的に破綻《はたん》させるために、通商|破壊戦《はかいせん》を第一とし、多数の潜水艦《Uボート》を建造した。これは、第一次大戦の時の経験が役立った。
ドイツUボートの活躍《かつやく》は目ざましく、イギリスは経済的に非常な危険におちいった。
だが、潜水艦《せんすいかん》対策は、海上航空の専門分化によってかなり解決することができた。現代のような核動力《かくどうりよく》 潜水艦《せんすいかん》相手では、第一級の対潜哨戒機《たいせんしようかいき》でさえ、大洋では有効な索敵攻撃《さくてきこうげき》はほとんど望みえないというのが、専門家の間での定説である。
第二次大戦の時代の潜水艦では、飛行機や護衛艦などによるレーダーやソーナーを使っての攻撃には手も足も出なかった。
結局、Uボートはイギリス本土の首根っ子をしめ上げることはできなかった。
だが、それもこれも、結果である。
一九三九年の秋には、ヒトラーの夢《ゆめ》はただただ、限りなくふくらんでいった。
第二次大戦の、最初の六か月間は、それまでの、いかなる戦史にも例のない奇妙《きみよう》な状態が続いた。
ドイツ側も連合国側も、全く戦闘《せんとう》の意志を持たないかのように、軍を動かそうとしなかった。
本来、戦争というものは、つねに相手の機先を制した方が七分の利があるとされる。いったん主導権を握《にぎ》られてしまったら、それを奪《うば》い取って攻勢《こうせい》に転ずるというのは至難のわざである。
それにもかかわらず、西部戦線は彼我《ひが》十数万の大軍もその旗を伏《ふ》せ、砲門《ほうもん》を閉しておよそ戦争らしからぬのどかな月日を送ったのだった。
だが、空の戦いの方は多少、活気をともなっていた。
とは言っても、西部戦線上空をドイツやフランス、イギリスの偵察機《ていさつき》がしきりに飛び回り、敵の地上部隊の動きを警戒《けいかい》していた。
その時期においてすら、すでに旧式化していたヘンシェルやポテーの高翼《こうよく》単葉の小型偵察機は、爆音《ばくおん》ものどかに、たがいに国境線をのりこえて、相手国内に入りこんだ。はじめのうちは、たがいにせいぜい高射砲《こうしやほう》を射《う》ち上げる程度だったが、功名心にはやる彼我の戦闘機隊《せんとうきたい》は、さっぱり進展しない戦況《せんきよう》に業《ごう》を煮《に》やしたか、こののどかな偵察機を鴨射《かもう》ちのつもりで襲《おそ》いはじめた。それをきっかけに、ドイツのメッサーシュミットBf109やフランスのカーチス75Aなどの間に連日のように激《はげ》しい空中戦が展開された。列強に比し、いちじるしく航空工業の劣《おと》っていたフランスが、大戦近しの気配にあわててアメリカから買入れたカーチス・ホーク75A単座|戦闘機《せんとうき》は、メッサーシュミットを相手に、よく戦った。
少数の爆撃機《ばくげきき》もさかんに出動した。
これもとても近代戦にはものの役にも立ちそうにもないと思われていたフランスのファルマンやブロックなどの旧式爆撃機も、|ドイツ空軍《ルフト・ヴアツヘ》の新鋭《しんえい》ドルニエDO17双発《そうはつ》爆撃機を向うに回してなかなかの奮闘《ふんとう》ぶりを示した。ただし、フランスの旧式爆撃機は、昼間は全く飛ばなかったが。
それに対して、ドイツのドルニエDO17は≪|垣 根 飛 び《ヘツケン・シユプリンガー》≫という仇名《あだな》のとおり、昼間の強行低空侵攻《しんこう》作戦には、連合国軍は手も足も出なかった。
一方ではイギリス空軍の、ドイツ本土、とくにキール軍港に対する爆撃も、戦闘機による援護《えんご》をともなわぬ――もっとも援護できるような足の長い戦闘機なぞイギリス空軍には存在していなかったが――幼稚《ようち》な作戦ではあったが、大きな損害を出しつつも、ドイツ軍に心痛を与《あた》えた。
この時期にあっては、空の戦いは、第一次大戦時代の、空の英雄物語を再現させるものだったし、両軍ともに、空の戦死者に対しては敵味方の別なく、厚い礼を払《はら》ったのだった。
いかに西部戦線上空の戦いが、はなばなしくも騎士《きし》的であり、連日、アルゲマイネ・ツァイツングやロンドン・タイムスの紙面を飾《かざ》ろうとも、それは世界の耳目にとって、Phoney War と呼ばれるべきものであった。
なぜ、ドイツ軍は動かないのか? なぜ連合軍は出撃《しゆつげき》しないのか?
人々は首をひねった。
この六か月の間、ヒトラーが何を考えていたのかは、今でははっきりしている。
チェコやオーストリア、ポーランドを屈服《くつぷく》させ、着々と版図《はんと》を広げつつあったナチス・ドイツは、ドイツに対して一応宣戦布告はしたものの、フランス防衛を唯一《ゆいいつ》の戦略としているだけのイギリス・フランス連合軍を、頭からなめていたといえよう。
イギリスはフランス国内に進攻軍《しんこうぐん》と称して、歩兵師団を中心とする地上部隊を送っていたが、二十万といわれるフランス陸軍の主力を合わせても、フランス国境を越《こ》えてドイツ国内へ進攻できる兵力でも装備《そうび》でもなかった。
イギリス軍やフランス軍が、ドイツ進攻作戦を全く考えていなかったのは無理もないことではあった。
北から南へ、えんえんとのびるドイツ・フランス国境に、フランスが十年の歳月《さいげつ》と厖大《ぼうだい》な予算を注ぎこんで建設した地下|要塞《ようさい》『マジノ・ライン』は、現代における万里の長城として、当時の人々で知らない者はいなかった。
国境の丘陵《きゆうりよう》地帯を利用して、地下何層にも設けられた兵舎や弾薬庫《だんやくこ》は、複雑に配置されたトーチカ群や機銃陣地《きじゆうじんち》、地下|砲台《ほうだい》とクモの巣《す》のような連絡《れんらく》トンネルによって結ばれ、また地上の谷間や丘《おか》の斜面《しやめん》に、何重にも設けられた地雷原や鉄条網《てつじようもう》とともに、まさにアリ一|匹《ぴき》はいりこむすき間もないほど、きびしく固められた地下大要塞《だいようさい》を形造っていた。
それは、当時の人々にとっては、SF的でさえあった。
筆者が小学生だった頃《ころ》、≪子供の科学≫などという雑誌にしばしばこの『マジノ・ライン』の断面図が色ずりの折込《おりこみ》などで紹介《しようかい》されていたものだった。
たいていの百科事典にも、マの項《こう》をひくとかならずこの『マジノ・ライン』が載《の》っていたものだ。
それほど有名な地下大要塞である。フランス軍が、その戦略の発想のすべてを、この『マジノ・ライン』の存在に依拠《いきよ》していたのも無理のないところであった。
したがって、フランス軍には、打って出るという作戦は考えられなかった。そうなれば、イギリス軍だけが、『マジノ・ライン』を越《こ》え、ライン川を渡《わた》ってドイツ国内に侵攻《しんこう》をくわだてる必要もないし意味もない。
≪奇妙《きみよう》な戦い≫は、連合軍側に関してだけは少なくとも、理由はあったといえる。
フランスの『マジノ・ライン』に対して、ドイツ側はやはり、えんえんと国境に沿ってのびる地下|要塞《ようさい》を建設した。それを『ジークフリート・ライン』とよぶ。
『ジークフリート・ライン』も、『マジノ・ライン』に劣《おと》らぬ強力|堅固《けんご》なものだった。
ドイツは、それが『マジノ・ライン』よりもあとに設計、建設されたものだけに、より近代的であり、内部の換気装置《かんきそうち》や毒ガス防護装置、病院などは最新式のものであると宣伝した。
フランスはかなり以前から『マジノ・ライン』の宣伝用写真を、不用意なほどばら撒《ま》き、発表していた。フランス人らしい陽気さと、政治的な国内宣伝の必要もあったのであろう。ドイツも『ジークフリート・ライン』の宣伝用写真を各種発表してはいるが、それは極めて限られた構図やアングルのものであり、いかにも重大な機密をのぞき見ているという感じのものであった。
『マジノ・ライン』対『ジークフリート・ライン』こそ、ヨーロッパの危機的|情況《じようきよう》をもっとも端的《たんてき》に象徴《しようちよう》していた。
世界の軍事評論家の話題は、もっぱら、このような地下式|大要塞《だいようさい》を突破《とつぱ》して敵国内に侵入《しんにゆう》するための攻撃《こうげき》方法に集中した。当時の大型夜間|爆撃機《ばくげきき》の運ぶ一トン爆弾《ばくだん》でも、また三六サンチ列車砲《れつしやほう》の巨弾《きよだん》でも破壊《はかい》することは不可能といわれ、戦車や歩兵の突撃《とつげき》などはトーチカに接近するはるか以前に地雷《じらい》や機銃陣地《きじゆうじんち》による火網《かもう》で阻止《そし》されてしまう。毒ガスもだめ、火焔放射機《かえんほうしやき》も役に立たないとあっては、もはや突破しようとする意図そのものが無意味である。
だからこそ第二次大戦がはじまっても、フランス国民はドイツ軍が国境を越《こ》えて進撃《しんげき》してくるだろうなどとは夢《ゆめ》にも考えなかったし、攻《せ》めあぐねたドイツが、やがて音を上げて自ら講和会議を提唱してくるであろうと思っていた。
ヒトラーが自ら講和会議を提唱するであろうという観測は、今日のわれわれから考えればまことに奇妙《きみよう》というしかない発想だが、当時ヨーロッパではかなり予想されていたらしい。
ヒトラー自身、それについて、なにほどかの現実的な意図を抱《いだ》いていたといわれる。それは歴史の上の謎《なぞ》ともいわれるものの、開戦後六か月間におよぶ『奇妙な戦争』の意味を考えるとき、ヒトラーのかくれた意志を思わないわけにはいかない。
その頃《ころ》、ヒトラーの右|腕《うで》ともいわれるナチス党副総統のヘスが、単身、イギリスへ脱出《だつしゆつ》し、パラシュートで降下してイギリスへ亡命した。
この事件は世界を震撼《しんかん》させた。
この事件の意味するところは、現在でも深い謎《なぞ》に包まれている。
イギリスでも、ドイツでも、ヘスは狂人《きようじん》として処理されてしまったが、当時でさえ、ヘスは、実はヒトラーがひそかにイギリスに送った密使《みつし》であるとささやかれていた。
密使というからには、そこになんらかの交渉《こうしよう》なり策謀《さくぼう》なりがあったはずである。
今日、外交筋や史家の間で、ほとんど事実として語り伝えられているのは、この時ヒトラーがヘスを通じてイギリスに提示したのは、ヨーロッパにおけるドイツの覇権《はけん》を認める、という内容だったといわれる。
だが、イギリスは今をおいては、ナチス・ドイツと戦って勝てる公算は急速に薄《うす》くなってゆくばかりであると判断した。今のうちにたたかわなければ、やがてイギリスはもっとも屈辱《くつじよく》的な形で戦争を終らなければならなくなるであろう。ヨーロッパ大陸におけるナチス・ドイツの覇権を、いったん認めたらさいご、七つの海に日没《にちぼつ》することなしというイギリスの信用と権威《けんい》は一朝にして失墜《しつつい》するであろう。
イギリスはヒトラーの虫の良い講和条件を敢然《かんぜん》として黙殺《もくさつ》し、一蹴《いつしゆう》した。
このヒトラーの講和提案説には、おそろしい説得力がある。
今日に至るも、ヘスの行動にイギリスの側からする決定版ともいうべき説明が何もなされていないということは、それを忌避《きひ》しなければならない、なにか大きな理由があるからではないだろうか。つまり、三十年たった今日でも、なお触《ふ》れてはならない、触れることのできないタブーのようなものがあるのではないか、と見る人は多い。つまり、受け皿《ざら》の問題である。ヒトラーは、全く成算のないところに、そのような重大な提案をおこなうはずがない。イギリスの政界の、トップクラスのあたりにヒトラーと意志を通じ合った、あるいはその可能性を持った人物が存在していたのではないかとも疑われる。
最大の第二次大戦秘史といわれるゆえんである。
リアリストのイギリス人は、夢想《むそう》ともいうべきヒトラーの野望を鉄の意志で拒絶《きよぜつ》した。
ヒトラーはヘスの行動を狂気《きようき》のなせるわざと声明を発した。
ドイツとイギリスは、ついに決定的な運命の対決をむかえたのであった。
イギリス・フランス連合軍は、ドイツ軍の陸上からする進撃《しんげき》は、『マジノ・ライン』によって十分に阻止《そし》し得ると考えたが、攻勢《こうせい》戦略となると、はなはだ自信がなかった。
イギリスは宣戦布告をおこなうと同時に、ドイツに対して全面的に海上|封鎖《ふうさ》をおこなった。
海外から送られてくる物資をストップさせ、ドイツを経済的に枯渇《こかつ》させ、民生を破壊《はかい》して戦意をくじこうというわけだ。
ドイツは石炭こそ豊富だが、他の戦略物資、ことに石油と鉄はほとんど必要量のすべてを海外に頼《たよ》っていた。
第二次大戦に備えて、ドイツは石油の不足に苦慮《くりよ》した。
ドイツはいったん開戦の暁《あかつき》には、海路からする石油の輸入はイギリス海軍によって妨害《ぼうがい》されるであろうことを予測し、石炭液化による人造石油によって、不足分をまかなおうとした。
石炭液化による人造石油の製造は、効率的には極めて悪い。
だが、ドイツは備蓄分《びちくぶん》を消費しつつ、一部は人造石油でおぎないながら、三年間はがんばることができると考えていた。
鉄に関しては実はドイツはもっとも有力な入手先を得ていた。
それはスカンジナビア半島だった。
とくにノルウェーの良質な鉄鉱石を満載《まんさい》した多数の鉱石|運搬船《うんぱんせん》はナルヴィクの港からドイツへ向ってベルトコンベアーのように動いていた。
それを断たぬかぎり、ドイツに対する北海の海上|封鎖《ふうさ》など、何の意味もない。
一九四〇年四月八日、イギリス海軍はナルヴィク港口におびただしい機雷《きらい》を敷設《ふせつ》した。
それを手はじめに、イギリスの海兵隊とフランスの山岳《さんがく》部隊はノルウェーに上陸した。かれらは合計しても一個師団に満たない兵力だった。
イギリス軍がノルウェーに侵攻《しんこう》するという情報は、かなり前からそれも詳細《しようさい》にヒトラーのもとに届いていたらしい。
イギリス軍のノルウェー侵攻に対するヒトラーの反応は早かった。
イギリス軍とほとんど同時にドイツ軍も動いた。
戦車や装甲車《そうこうしや》に守られた歩兵師団や、戦闘機《せんとうき》や爆撃機《ばくげきき》に守られたパラシュート部隊は、圧倒《あつとう》的な力でノルウェーに侵攻した。
少数のイギリス海兵隊やフランス山岳部隊は、命からがら、イギリスの駆逐艦《くちくかん》や哨戒艇《しようかいてい》で脱出《だつしゆつ》した。
ノルウェーの鉄鉱石は、今や何の心配もなく、ドイツに送られることになった。
ドイツ軍のノルウェー侵入《しんにゆう》を許したために、イギリスの政治的立場はますます苦しくなった。
もともと、イギリス軍のノルウェー侵攻には反対だったウィンストン・チャーチルは、イギリス軍が、求めてノルウェーにドイツ軍を誘《さそ》いこんだとして激怒《げきど》したという。つまり、それまではイギリス艦隊《かんたい》の目をかすめて、こそこそおこなわれていた鉄鉱石の運搬《うんぱん》が、これ以後、いわばおおっぴらにおこなわれるようになった、というわけである。
もっとも、その輸送路を切断すべく、イギリスの潜水艦《せんすいかん》は、ノルウェー沖《おき》に動員されたが、波|荒《あら》い北海では、鉱石運搬船を発見するだけでも容易ではなかった。加えて、ノルウェー海岸に進出した|ドイツ空軍《ルフト・ヴアツヘ》は、鉱石運搬船の航路を、戦闘機《せんとうき》の傘《かさ》でおおった。
この、ノルウェーにおける勝利が、ヒトラーの胸に、強い自信を植えつけたに違《ちが》いない。
一九四〇年五月十日。とつぜん、ヨーロッパの戦機は大きく動いたのだった。
世界中の耳目は震撼《しんかん》した。
世界中の通信社の電話や無線機は、これから先、何か月もの間、二十四時間、鳴りずくめに鳴ることになった。
それまで、全く鳴りをひそめていた西部戦線は、ドイツ軍の大攻勢《だいこうせい》の前にゆれ動き、わき返った。
この日、早朝。十個の戦車師団をふくむ七十一個師団のドイツ軍は、二つの集団に分れ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの国境を突破《とつぱ》、西方へ向って猛進撃《もうしんげき》を開始した。
ザールブリュッケン地方にも十九個師団からなる有力なC軍集団があり、一か月も前からしきりに陽動作戦をくりかえしていた。
そのふきんは『マジノ・ライン』がライン河に接近する北域であり、『マジノ・ライン』の突出《とつしゆつ》部でもあったから、築城的には脆弱点《ぜいじやくてん》と見られていた。したがって、活発な動きを見せるドイツ軍に、連合軍側は、あるいは、と思ったのも無理ではなかった。
イギリス空軍の偵察《ていさつ》部隊のブリストル・ブレニム爆撃機《ばくげきき》は、九日の深夜も、照明|弾《だん》を投下しつつ、何回もこの地区の上空を飛んだのだった。
何組ものフランス軍|斥候《せつこう》が、ライン河の河岸近くまで降りていった。
だが、ドイツ軍がライン河を渡河《とか》して『マジノ・ライン』の丘陵《きゆうりよう》のすそに取りついてくる可能性はほとんど認められなかった。
それでも、連合軍司令部は、この地区に対して、最も警戒《けいかい》の目をそそぎ、偵察《ていさつ》部隊に対して、十日の早朝に、手持ちの偵察機をすべて出動させるように命じた。
六機のブレニムと、七機のポテー63がエンジンの暖気運転を開始した頃《ころ》、ドイツのゲルト・フォン・ルントシュテット将軍ひきいるA軍集団は、四十五個師団からなる戦車、装甲車《そうこうしや》を中心とした機械化部隊をもって、いっきにルクセンブルグを突破《とつぱ》した。同時に北方ではフョードル・フォン・ボック将軍|麾下《きか》のB軍集団は四つの流れとなって、オランダとベルギーに進撃《しんげき》した。
ドイツのパラシュート部隊は、戦車部隊の進撃路にある重要な橋をつぎつぎと占領《せんりよう》していった。ユンカースJU52型輸送機に曳航《えいこう》されたグライダーの編隊は、必死に抵抗《ていこう》を続けるオランダ軍やベルギー軍の陣地《じんち》に、強行着陸をおこなった。
ユンカースJU87型急降下|爆撃機《ばくげきき》のむれは、金切声の爆音《ばくおん》を上げて、求める獲物《えもの》に垂直に急降下して襲《おそ》いかかった。
フランス軍やオランダ軍、イギリス軍の生き残った爆撃機や戦闘機《せんとうき》は、爆弾《ばくだん》をかき集めては、ドイツ軍の頭上にあらわれた。だが、かれらの姿は急速に消えていった。五月十四日までに、イギリス軍の飛行機四七四機のうち、二六八機もが失われた。残りもすべてが被弾《ひだん》したり故障したりしていた。
ドイツ軍の猛進撃《もうしんげき》の前に、ブーローニュは五月二十三日に陥落《かんらく》し、カレーは二十六日に失われた。ドイツ軍は全力をあげ、残されたダンケルク地区へ、突進《とつしん》を開始した。
ダンケルク地区にはイギリスのヨーロッパ派遣軍《はけんぐん》二十万と、十三万近いフランス軍の将兵が追いつめられ、ひしめいていた。
ドイツ軍の意図は明白だった。
連合軍の敗残兵を海へ追い落せ!
太平洋戦争では、日本軍は、救援《きゆうえん》の可能性の全くない絶海の孤島《ことう》などで、全滅《ぜんめつ》するまで激闘《げきとう》を続けた。アメリカ軍も、その島が戦略上どうしても必要な場所であったり、あるいは日本軍の航空部隊に利用されるおそれのある所以外は、犠牲《ぎせい》を恐《おそ》れて手をつけなかった。窮鼠猫《きゆうそねこ》を噛《か》むというが、包囲されて退路を断たれた兵士の反撃《はんげき》ほど恐ろしいものはない。
しかし、ダンケルクに追いつめられた三十数万の連合軍敗残兵は傷つき、武器もなく、そのままでは全員、捕虜《ほりよ》になることは明らかだった。
第二次大戦もまだ始まったばかりであり、後年の凄惨《せいさん》な戦闘《せんとう》の様相はまだあらわれてはいなかった。
イギリス軍は、この事態にあってなお選択《せんたく》したのは面子《メンツ》だった。
ここで三十万におよぶヨーロッパ派遣軍《はけんぐん》の将兵を見殺しにしては、以後の戦争|継続《けいぞく》に重大なさしつかえが生ずると判断した。
イギリス参謀《さんぼう》本部は、海軍、空軍の全力をあげて、ダンケルク地区に追いつめられている三十余万の連合軍の救出作戦にとりかかった。
イギリス艦隊《かんたい》に両側を守られた細い航路がイギリスのドーバー地区からダンケルク地区へ向ってのびた。その上空には、イギリス中からかき集められたハリケーン戦闘機《せんとうき》が厚い援護《えんご》の屋根を張った。
ドイツ軍の急降下爆撃機《スツーカ》のむれは、海峡《かいきよう》を往復する何百|隻《せき》もの貨物船や漁船、モーターボート、ヨットなどに対して、死の焔《ほのお》と鉄をぶちまけた。
ダンケルクのせまい三角地区の最外縁《さいがいえん》では、ドイツ軍の万力のような締《し》め付けをなんとかしてくい止めようと、イギリス軍の数個部隊が必死にがんばり続けていた。
海上からのイギリス艦隊の援護|射撃《しやげき》も、味方を射《う》つ恐《おそ》れがあるから、ある程度以上、弾着《だんちやく》を戦線に近づけることはできない。同じことはドイツ軍の砲兵隊や急降下爆撃機《スツーカ》についてもいえる。そこで戦いはどうしても肉弾《にくだん》相うつ白兵戦となる。
イギリス兵の必死の抵抗《ていこう》にもかかわらず、包囲網《ほういもう》はじりじりとせばめられていった。
その間にも、多数の兵士がダンケルクの海岸を離《はな》れ、イギリス本土へ運ばれていった。
数十時間におよぶ血戦の果に、ようやく殿軍《でんぐん》をつとめた部隊が白旗を掲《かか》げたときには、二十万のイギリス兵と、十二万のフランス兵が英本土の土を踏《ふ》んでいた。
もちろん、かれらは身ひとつであり、連合軍のおびただしい数の火砲《かほう》や機関銃《きかんじゆう》、ライフル、それに戦車や装甲車《そうこうしや》、トラックなどがそっくりドイツ軍の手に渡《わた》ったのだった。
この時点で、本土にあるイギリス陸軍はその戦力の七〇パーセントを失っていた。
イギリスはフランス本土を守ることが、直接的にイギリス本土を防衛することだという戦略思想を持っていたから、持てる兵力と装備《そうび》のほとんどを大陸に注ぎこんでいたのだった。
この事態に、カナダ連邦軍《れんぽうぐん》やインド軍、ニュージーランド軍などは、取るものも取りあえず、数個師団を引き抜《ぬ》いて本土へ送った。アメリカから送られる武器もまだ十分ではなかった。アメリカ政府は事態の急激《きゆうげき》な変動に驚愕《きようがく》しながらも、イギリスに対する援助《えんじよ》に円滑《えんかつ》を欠いていた。
この時点でもまだヨーロッパの戦いを対岸の火災視する政府高官も多かった。
ダンケルクから命からがら引き上げてゆく連合軍の敗残部隊にきびすを接して、ドイツ軍もドーバー海峡《かいきよう》を渡《わた》っていたら、戦局はさらに大きく転換《てんかん》していたはずだ、と説く戦史家は多い。
だが、自信に満ち満ちているはずのヒトラーは、なぜかそれをしなかった。ためらったのではなく、最初から彼の念頭にはそれはなかったのだ。
おそらく――
大英|帝国《ていこく》海軍とは比べるべくもない三流ドイツ艦隊《かんたい》の実力では、せまいドーバー海峡の制海権さえ確保することが難しいであろうことを、ヒトラーは承知していたのであろう。
結果的にはそれでよかったのかもしれない。
ドーバーのせまい水路を、押《お》し合いへし合い三十万の敗残兵が逃《に》げ渡《わた》るのを、ドイツ艦隊《かんたい》も|ドイツ空軍《ルフト・ヴアツヘ》も、全く阻止《そし》することができなかったのだから。
ヒトラーにとって、これは最大の屈辱《くつじよく》だった。
この時、ヒトラーはあらためて制空権の帰趨《きすう》が全戦局におよぼす絶大な影響《えいきよう》というものを身に沁《し》みて感じ取ったのだった。
彼は、イギリス本土上空の制空権を奪取《だつしゆ》することが、英本土上陸作戦には何よりも不可欠であることを悟《さと》った。
こうして≪|イギリスの戦い《バトル・オブ・ブリテン》≫が始まったのだった。
4――A
赤坂山王《あかさかさんのう》の東京憲兵隊司令部の調査課長|桑島誠四郎少佐《くわじませいしろうしようさ》は、苦虫《にがむし》の千|匹《びき》も噛《か》みつぶしたような顔で、窓の外の新緑をにらみつけていた。
あけ放された窓から、さわやかな風が吹《ふ》きこんでくる。
間もなく昼の休憩《きゆうけい》時間になるが、これではとても休むどころではなかった。
少佐《しようさ》は強い舌打ちとともに、自分の机のむこうに、立ちつくしている四人の部下に、視線を移した。
「人事調査班長。その少年を狂人《きようじん》として地方の病院へ収容させたとしても、そこでも千葉見習士官の身上を詐称《さしよう》主張せんとは限らんじゃろう。そうなると問題はまたここへもどってくるぞ。ここでの調査はどうなっておったかということになる」
「しかし、課長。ここはどうしても少年を狂人としてあつかわんことには処置が難《むずか》しいと思いますが」
中年の大尉《たいい》はしきりにひたいの汗《あせ》をぬぐった。
「副官はどう思う?」
「これはどうも千葉見習士官が出現したとしか思えませんが、いや、どうも、なんと言ったらよいか。しかし、少佐殿。果して狂人として処置してそれで通せますかな」
副官の大尉はしどろもどろだった。
「同じ人物がこの世に二人いるなどといっても誰《だれ》が信用するものか。ここはあの少年の存在を抹殺《まつさつ》する以外にあるまいよ」
「その方法です」
「だからこうしてたずねておる!」
少佐《しようさ》はいら立って机をたたいた。
副官は机の上の分厚い書類を手で押《おさ》えた。
「課長。この精神|鑑定書《かんていしよ》には陸軍|軍医監今井《ぐんいかんいまい》中将|閣下《かつか》の御署名御捺印《ごしよめいごなついん》があります。この鑑定書には、少年は常人であり、精神病理学的ないかなる症状《しようじよう》も呈《てい》せず、とあります。それを無視して少年を精神病院に送るとなると、陸軍軍医部との間が極《きわ》めて難しいことになると思われますが」
「この鑑定書によれば少年は精神的に病者でないのだから、厳《きび》しく罰《ばつ》することができると解することはできるが、それではどんな罰を与《あた》えたらよいのか。陸軍|刑法《けいほう》にはどうなっているか?」
「かなり難しいですな」
さっきから黙《だま》っていた法務大尉《ほうむたいい》が首をひねった。
「連絡《れんらく》班長はどう思うか?」
ここではもっとも若い中尉《ちゆうい》が、顔中に困惑《こんわく》をみなぎらせて口ごもった。
「ち、ち、地方へおろしたらどうでしょうか?」
地方というのは、軍隊用語で民間のことである。
「地方というと、警察か?」
「感化院などへは送れませんかな」
感化院というのは、今の少年院のことである。
「やがて出てくるだろう」
法務大尉《ほうむたいい》が切り出した。
「課長。少年がまた出てこないようにすればよろしいのではありませんかな」
「どうやってやるんだ?」
「いや。軍隊内部に閉《と》じこめておけばよいのでしょう。逆に、地方に出さんことです」
「なるほど」
「兵役で縛《しば》ればよろしい。内部におるかぎり、少年に、これにあるような話はいっさいさせません」
法務大尉は鑑定書《かんていしよ》を指さした。
「それもいい方法だ。だが、どこかうまい隊があるか?」
「一般《いつぱん》の連隊では連隊長には説明しておかなければならぬでしょうな」
「人事係|曹長《そうちよう》の耳には入るだろう。当然」
「それに区役所の兵籍簿《へいせきぼ》の方も何とかしなければいけませんな」
「大事だな。兵役係がからんでくると」
「千葉見習士官がもう一人出現したなどと、言えたものではありませんからな」
「この精神|鑑定書《かんていしよ》はおかしいよ。今、副官が言ったことが現実に起ったということだろう。この鑑定書を認める限り、そうなるぜ。そんなことがこの世にあると思うか。落し話でもあるまいし」
少佐《しようさ》は吠《ほ》えた。
人事調査部の大尉《たいい》が体をのり出した。
「課長。連隊区と関係ない学生あるいは生徒にしてしまったらどうでしょうか。千葉少年に関する戸籍謄本《こせきとうほん》のたぐいはこちらで作って部外秘として原隊にも渡《わた》さなければよいでしょう。見習士官になったらすぐ野戦に出してしまえば、あとは自然に解決がつくと思います」
「そいつは妙案《みようあん》だ」
少佐《しようさ》は大きくうなずいた。
歩兵連隊でも騎兵《きへい》連隊でも、徴兵《ちようへい》による入営者の出身|地域《ちいき》はきまっていてその地域を連隊区という。その地の役場や区役所にある戸籍《こせき》には、入営した者のいっさいの記録が記されていて、連隊と地域は密接したつながりを持っていた。これから徴兵検査を受ける者についてもそうだった。
ところが陸軍の学校へ放りこんでしまえば、そこは全国から青年が集っているのだから、連隊のように、何かがきっかけとなって地元からこんな者はいないなどと言い出される心配はない。
野戦に出すというのは戦場へ送ることであり、自然に解決がつくというのは、やがて戦死してしまうから、それでいっさいは空になって一件落着となってしまうという意味だった。
「よし。そうしよう。どこへ送る?」
「特別幹部候補生はいかがでしょうか? もちろん隊に送ることなく、特別教育実施中という名目で使役でもさせましょう。われわれの目の届く所に置けば、事故はないと思います」
少佐《しようさ》はうなずいた。
「こうなってはどうもいたしかたない。それがいちばんよかろう。人事調査班長。適当に書類を作ってくれ」
「かしこまりました」
「皆《みな》もいいな。この件に関しては軍秘扱《ぐんぴあつか》いだ」
四人はしかたなさそうに承諾《しようだく》した。
「少佐|殿《どの》。この件は非常に不可思議なる部分が多過ぎます。この陸軍病院の報告書が間違《まちが》いないものとすれば、あの少年は一体|誰《だれ》なのか? 何者であるのか? という疑念は、私たちとしてはとうてい見過すことのできない問題であります、少佐殿。もし、これが敵の謀略《ぼうりやく》ででもあったら、大変なことになります。私が一存の形でなおつづけて調査いたしてみたいと思いますが、御許《おゆる》しいただけませんか」
中尉《ちゆうい》が思いつめたように言った。
少佐《しようさ》は、他《ほか》の三人に視線をめぐらせた。
「わしもそれは考えないでもなかった。どうかな?」
副官が慎重《しんちよう》に言葉をえらびながら答えた。
「中尉の一存ということなら、よいと思います」
少佐はもうそれですべてが終ったかのように、顔の前で手をふるとがっくりと椅子《いす》に体を沈《しず》めた。
四人が退室してゆくと、少佐は立っていって窓の外の空気を思いきり吸いこんだ。
胸の中まで緑色に染《そま》るような気がした。
「この昭和の大御代《おおみよ》に、化物《ばけもの》など、なんだ!」
窓の外へ、ぺっとつばを吐《は》いた。
4――B
東京の北の郊外《こうがい》、赤羽《あかばね》の、荒川《あらかわ》に面した丘陵《きゆうりよう》上には、近衛工兵連隊をはじめとし、他の工兵連隊や野戦重砲《やせんじゆうほう》、材料廠《ざいりようしよう》、被服廠《ひふくしよう》など多数の部隊や軍施設が兵舎《へいしや》や工場のいらかをつらねていた。
広大な軍用地はコンクリート柵《さく》や鉄条網《てつじようもう》で囲まれ、丘《おか》の斜面《しやめん》に鬱蒼《うつそう》と生《お》い茂《しげ》る樹木にさえぎられて、赤羽の町に住む人々は、ほとんど何もうかがい見ることはできなかった。
その丘の上の西の片すみに、木造平屋の、馬小屋か消防器具置場かと思われる古い小屋があった。
南側は野戦重砲隊の大きな火砲《かほう》格納庫が何棟《なんとう》もそびえ、空の半分近くをおおっていた。
東側は被服廠の高いレンガ塀《べい》がどこまでも続いていた。被服廠には何千人もの工員が働いていたし、その半分近くが若い女性ということもあり、塀の向う側はたいへん活気があり、機械音とともに人声が絶えることがなかった。
北側と西側は深い雑木林だった。林の北は材料廠であり、西側は雑草の原であり、こわれた馬車やまっかに錆《さ》びた軽便鉄道用の小型機関車などが雑然と放置されていた。
陽《ひ》もろくに当らない古小屋はガラスの割れた窓にベニヤ板を打ちつけ、入り口の板戸にはトタン板を貼《は》りつけ、どうやら倒壊《とうかい》をまぬがれているといったありさまだった。
その入口のトタン板に、じかに黒のペンキで、仮一〇〇一、と書かれていた。
夕日がはるか西方の秩父《ちちぶ》連山にかかると、その日の作業や訓練の終った部隊や兵士たちがそれぞれの兵舎《へいしや》へもどってゆく。
夕食までの間、独特の騒然《そうぜん》とした雰囲気《ふんいき》が広大な赤羽台上をおおう。
被服廠《ひふくしよう》の方は二十四時間態勢だから、そちらもそれなりに勤務交代やでき上った被服や布製品の搬出《はんしゆつ》などでごった返す。引込線《ひきこみせん》を機関車に曳《ひ》かれた長い軍用貨車がゆっくりと出入りする。
その頃《ころ》活気と解放感にいきいきとゆれ動く兵士のむれや兵舎のつらなりに背を向けて、黙々《もくもく》と歩む十数名の短い隊列があった。
「一、二、一、二……元気がない! 足を高く上げて! なんだ、貴様《きさま》。あごを引け!」
バシッ! と肉体を打ちたたく音がひびいた。
列の横を歩む伍長《ごちよう》が、手にした竹刀《しない》で、隊列のしんがりを進む一人の兵士を思いきり打ちすえた。
「なんだ。この野郎。そのつらは! 班長《はんちよう》どのの御注意が不服なのか!」
列を両側からはさむように反対側を歩いていた兵長が、血相を変えて竹刀で打たれた兵士に襲《おそ》いかかった。
十数発の鉄拳《てつけん》が飛んだ。その兵士は泥人形《どろにんぎよう》のように道に倒《たお》れた。
「それ! イチ! ニイ! イチ! ニイ!」
伍長の号令はいよいよ激《はげ》しく、とがった。
道路の両側にたむろしているたくさんの兵士たちは、面白そうにこの一隊をむかえ見送っていた。
兵舎《へいしや》の窓にも、鈴生《すずな》りの顔があった。
毎日、雨が降ろうが、風が吹《ふ》こうが、同じ時間にくり返される光景だった。
「あいつら、どこの連中だ?」
「襟章《えりしよう》つけていないじゃねえか? 軍属とも違《ちが》うようだが」
軍属というのは、軍にやとわれている民間人である。
「またなぐられていやがら。たるんでるな。あの歩き方はなんだよ」
「ああ、ああ。ひっくりかえっちまったぜ。ほら、伍長《ごちよう》になぐられてら。なんだい。あいつら」
気の毒には思うが、他の者から見ればこれほど面白い見世物はない。
帝国《ていこく》陸海軍では、上官の部下に対する制裁はきびしく禁止されていたが、それはあくまでも建前だけであり、軍隊内部における制裁は凄惨《せいさん》な限りであった。
一つの分隊や班の中では一人の失敗は連帯責任で全員の罪になるから、制裁も集団的になる。帝国軍隊の兵士の間では、星の数よりもメンコの数という。
星の数とは階級のことであり、メンコというのは飯を盛《も》るアルミの椀《わん》のことで、ここでは軍隊生活の長さのことを指す。つまり、伍長《ごちよう》だ上等兵だと威張《いば》っていても、彼らよりも何年も長く軍隊生活を送っている一等兵の方がえらいのだという気風があった。刑務所《けいむしよ》と同じである。
したがって古兵――先輩《せんぱい》兵士は新兵にとって恐怖《きようふ》以外の対象ではなかった。
夕食が終り、就寝《しゆうしん》までのわずかな自由の時間は、新兵連中にとっては地獄《じごく》の時間だった。
「二等兵集れ!」
一年前に入営している古兵たちは、しめし合わせて新兵たちをならばせ、その日の、彼らのわずかばかりの失敗に事寄《ことよ》せ、針小棒大《しんしようぼうだい》に言い立ててチクチク責めはじめる。さんざん罵倒《ばとう》したあげくが、
「体を前に支え!」
などとくる。床《ゆか》で腕立《うでた》て伏《ふ》せである。際限もなくやらせる。最初につぶれた者には、鉄拳《てつけん》の大盤《おおばん》ぶるまいが待っているから皆《みな》必死でがんばる。なさけないやらつらいやらで、床は汗《あせ》となみだでびちょびちょになる。
「自転車漕《じてんしやこ》ぎ、用意!」
ときたら、二つ平行してならべられた机の間に入って両手で体を支える。
「はじめ!」
で両足を床《ゆか》から離《はな》し、自転車のペダルを踏《ふ》む要領で動かすのだ。
「それ! そろそろ坂になってきたぞ」
と言われたら、両足を動かす。
「坂はますます急になった。頂上はまだまだ先だ!」
必死に両足を動かすが、両手で体重を支えているのだから、何分もしないうちに両肩《りようかた》が激痛《げきつう》で耐《た》えられなくなってくる。しぜん、足の動きが鈍《にぶ》くなる。
「この野郎! なまけるんじゃねえ!」
必死になってがんばっている背中へ、竹刀《しない》や丸太ン棒が飛んでくる。
ウグイスの谷渡《たにわた》りというのがあって、ならべられた寝台《しんだい》の間を、くぐったり上ったり、ひとつおきにくりかえしながら、寝台に上った時に、大きな声で「ホー、ホケキョ」とさけぶのだ。
その間に、声が小さいとか、動作がおそいとか、さんざんになぐられ、小突《こづ》かれる。
こっけいとも悲惨《ひさん》とも言いようがない。
それが中学生や高校生のような少年ならともかく、やる方もやられる方も二十代の、当時としてはもう十分に分別のついた連中だから、正視に耐《た》えない愚劣《ぐれつ》で陰惨《いんさん》な雰囲気《ふんいき》である。
人権もへちまもあったものではない。そのような兵舎《へいしや》内の状態を、正そうとする上官もいなかったし、徹底《てつてい》して根絶しようとする軍幹部もいなかった。
むしろ放置することによって、兵士の思考力を奪《うば》い、軍の組織の中へ封《ふう》じこめておこうとする政治的意図があったとしか思えない。
一方では、兵は貧農の二、三男の救護策ともいわれ、一生を長兄の下で牛馬のようにこき使われて送らなければならない二、三男たちにとって軍隊はこの上ない就職口だったから、何をされても、ただで飯を食い、着せてくれる軍隊に対して、不満のあるはずもなかったのである。
そして、なぐられた者は翌年《よくねん》、自分がなぐる側に回って、こんどはおおいに鉄拳《てつけん》をふるうのだった。
憫笑《びんしよう》と侮蔑《ぶべつ》の中を、その一隊は黙々《もくもく》と行進した。
兵舎《へいしや》群を抜《ぬ》けると、道は深い雑木林に入った。
もう兵士たちの姿もない。
引率する伍長《ごちよう》も上等兵も、見物がいなくなったのでにわかにやる気を失ったらしく、竹刀《しない》を肩《かた》に、自堕落《じだらく》な姿で歩き出した。たばこをくわえると、鼻唄《はなうた》をうなりはじめた。
それでも隊列は歩調も正しく、大きく手をふって進んだ。
やがて小屋が見えてきた。
隊列の先頭の兵士がさけんだ。
「全体。止れ」
上等兵がくわえていたたばこを投げ棄《す》てて怒鳴《どな》った。
「声が小さい! やり直せ」
「全体。とまれえ!」
「ばかやろう! もう止っているじゃねえか。おれはやり直せと言ったんだ」
竹刀《しない》が炸裂《さくれつ》した。
「もとい! 前へ進め!」
隊列はまた進みはじめた。
前へ進めといっても、小屋の前で止めたのだ。そこからあらためて進みはじめると、先頭は雑木林の中へ踏《ふ》みこむことになる。
悪いことに、そこは湿地《しつち》に続く小さな沼《ぬま》のほとりだった。
先頭の兵士は、止れ! の号令をかける間もなく、ずるずると斜面《しやめん》をすべり落ちた。
水音がした。
「どうした。どうした。早く止れの号令をかけんと、みな水の中だぞ」
上等兵が歯をむき出して笑った。
その時には、もうすべての者が、そこが水面であることを知っていながら、ためらうことも許されずに転落していった。
「さっさと止れ! このおたんこなすども!」
伍長《ごちよう》も上等兵も、腹をかかえて笑いころげた。
兵士たちは濡《ぬ》れねずみになってはい上った。
何人かが激《はげ》しくむせ返り、体を折って咳《せき》をつづけた。
「早く整列して、もう一度やり直すんだ。まだ解散とは言っていないぞ!」
上等兵が悪鬼《あつき》のような形相で竹刀《しない》をふり回した。
「おい。おまえら。早くおれを休ませてくれよ。おれだってくたくたなんだぜ」
伍長が石に腰《こし》をおろし、たばこをくわえた。
皆《みな》の体からたれる滴《しずく》で、土間は水びたしになった。
土間には、四、五人がならんで腰かけることができる木製の粗末《そまつ》なベンチが四つと、頑丈《がんじよう》な木製のテーブルがひとつ置かれていた。
「かけてよし」
上等兵の声で、兵士たちはベンチに腰をおろした。
「手は膝《ひざ》。背筋《せすじ》をしゃんとのばせ! 黙想《もくそう》! 反省五分」
もう呼吸を続けているのがやっとの体を、必死で立て直し、気力で支えて黙想《もくそう》の形を取る。上体が自然にゆれ出すのを押《おさ》えつけるのがやっとだった。
譲介《じようすけ》はそっと薄目《うすめ》を開けた。
土間にたったひとつつるされた裸電球《はだかでんきゆう》が、赤黒い弱い光を、皆《みな》の上に投げかけていた。
ここにいる者たちは、いったい何者なのだろうか?
どこの兵営にも営倉《えいそう》というものがあり、軍規を乱した者は、その程度によって何日かそこへほうりこまれる。一種の留置場だった。
もっと重大な罪を犯《おか》したものは、陸軍|刑務所《けいむしよ》へ収容される。
こんな所で人夫代りにこき使われている罪人などというものはいないはずだった。
ここにいる限り、軍人なのであろう。だが皆、軍服は着せられてはいるが、階級章をつけている者は一人もいなかった。帯剣《たいけん》も与《あた》えられていなければ、もちろん小銃《しようじゆう》もない。
はきかえも着がえも全くなしの巻脚絆《まききやはん》に靴下《くつした》。軍靴《ぐんか》一足。それに、かろうじて星章がついている戦闘帽《せんとうぼう》だけがすべてだった。手帖《てちよう》一冊、鉛筆《えんぴつ》一本持つことを許されなかった。
しかも、二十四時間を通して、なかまとはいっさい、口をきくことは厳禁《げんきん》されていた。
「貴様《きさま》! 上体がゆれているぞ!」
すさまじい衝撃《しようげき》が襲《おそ》ってきた。
誰《だれ》がやられたのかもわからず、ひとつのベンチにかけていた四人は、土間にたたき落された。
翌朝、一人がつめたくなっていた。
口元からあふれ出した血が、土間に吸《す》い取られ、褐色《かつしよく》の大きなしみを作っていた。うつろに開かれた目から、ほおへ、流れたなみだの跡《あと》が乾《かわ》いた条《すじ》を残していた。
上等兵が死体の両足をつかんで、どこかへずるずると引きずっていった。
「全員。舎前《しやぜん》に整列!」
伍長《ごちよう》が仁王立《におうだ》ちになってさけんだ。
みな、われ勝ちに外へ走り出て一列横隊にならんだ。
こんな時に人より遅《おく》れたらどんなことになるか、考えるだけでもおそろしかった。
だが、十数名の中では、物理的にいっても遅速《ちそく》があらわれるのはいたしかたないところだった。
だが、軍隊というところはそのような解釈はしないところだ。
「よし! 遅れたやつ。一歩前!」
二人が進み出た。
「このやろう!」
伍長の鉄拳《てつけん》が顔面に炸裂《さくれつ》した。二人は二メートルも吹《ふ》っ飛ばされ、あお向けに地に落ちた。
一人の頭部がいやな音を立てた。
もう一人は反射的に起き上り、その場で不動の姿勢をとった。上体が大きくゆらいだ。
誰《だれ》も顔も動かさない。視線を動かすことさえ絶対に許されない。
「どうした! 貴様《きさま》。上体がふらふらしておる! たるんでいるぞ!」
ふたたび伍長《ごちよう》の鉄拳《てつけん》が飛んだ。
「ここでの矯正《きようせい》訓練に音を上げ、自ら命をちぢめるなどというのは、ひきょう者の極みである。それは敵前|逃亡《とうぼう》と同じだ。皇軍の恥《はじ》さらしだ。そんなやつがいたらいつでも自分で申し出ろ! おれがあの世へ送ってやる。帝国《ていこく》陸軍は、そのような者は必要ない!」
譲介《じようすけ》の内部に、暗く、納得したものがあった。
あの血を吐《は》いて土間に横たわっていた兵士は自殺をしたのだ――そうだったのか、やはり。
もうひとつ、今はじめて耳にする言葉が胸《むね》に焼きついた。
矯正訓練だって?
すると、ここにいる連中は、何らかの理由で罪を清算するために重労働についているのか?
「本日はのちほど、部隊本部より新しい命令がある。それまで反省をこめてこれまで通りの作業をおこなう。作業計画は昨日までの倍にした。ただちに出発する」
朝食抜《ちようしよくぬ》きだった。
みなの顔には、何の反応もあらわれなかった。
いつものように、二列|縦隊《じゆうたい》の早駆《はやが》けだった。
一〇メートルも走らぬうちにたちまち息が切れ、膝《ひざ》が上らなくなった。目がくらんで、周囲の風景が左右に大きくゆれ動いた。真直《まつすぐ》走っているつもりが、いつの間にか、右か左へそれてゆく。直そうとするのだが、腰《こし》から下のコントロールが全くきかなかった。何回かつんのめりそうになった。
それでも列の最後尾《さいこうび》を走る譲介はまだ楽だった。
ふいに先頭を走っていた兵士が、その場へ崩《くず》れ折れた。
列は停止した。
「このやろう! さぼりやがって」
伍長《ごちよう》が竹刀《しない》をふりかぶって飛んでいった。
竹刀が肉体を打ちたたく音が、切れ目もなしに二十回も三十回もつづいた。
その間、他の者たちは、ほっとして立ち止っているのだった。
たたかれている者は気の毒だったが、他の者は、それがもっともっとつづけばよいと思っていた。
監督《かんとく》しているのは、伍長《ごちよう》だけだったから、彼が竹刀《しない》を振《ふ》るっている間は、列を進めるわけにはいかなかった。
助手の兵長や上等兵がその場にいないのは、神の助けとしか言いようがなかった。
だが、このあと、全員にどんな制裁がやってくるか、みなは十分承知していた。それでも、足を止め、体から力を抜《ぬ》いているという解放感の誘惑《ゆうわく》には耐《た》えられない。それはすばらしい休息だった。
それが実際には二、三分に過ぎなかったのだが、みなには一時間にも二時間にも感じられた。
「班長《はんちよう》どの? お手数をおかけしました」
胴間声《どうまごえ》とともに、ドタドタと足音が入り乱れた。
兵長と上等兵が追いついてきた。
「事故三名。五号。七号。八号。内、死亡、五号。負傷、七号。八号。すべて部隊本部特別軍医部に引き継《つ》ぎ、事務完了しました。報告終り」
兵長が報告した。
「よし。ご苦労」
伍長《ごちよう》は竹刀《しない》を振《ふ》るう手を止め、汗《あせ》をぬぐった。
兵長が靴の先で、倒《たお》れ伏《ふ》している兵士の頭を小突《こづ》いた。
「三号ですな。こいつは実にずるがしこいやつで、ゆだんもすきもありません。この際、徹底《てつてい》的に指導する必要があります。班長どの。わしらにまかせてください」
兵長はてのひらに、ぺっとつばを吐《は》いた。
「じゃ、おれはこいつらを作業場に連れてゆくからな」
伍長は竹刀をふりかぶった。
「早駆《はやが》け! 早駆け! 何をもさっとしておるんか!」
みな、反射的に走り出した。伍長も走りながら、一人一人の背中や肩《かた》に、思いきり竹刀を振《ふ》りおろした。
竹刀《しない》はささらのようになった。破砕《はさい》した白いくずが、ちゅうに舞《ま》った。
赤羽の台地の北側は荒川《あらかわ》へ向って急崖《きゆうがい》をなしている。
その急崖を大きく切り開き、荒川の河川敷《かせんしき》へ向って、幅広《はばひろ》い道路がのび出していた。
一部分はすでに舗装《ほそう》も終り、トラックやダンプカーがゆききしていたが、先端部《せんたんぶ》や、周辺の部分ではまだなまなましく赤土が露出《ろしゆつ》し、おびただしい数の兵士や、民間の作業員がモッコや二輪車で、掘《ほ》り起した土を運んでいた。
譲介たちは先端部の、これより先には道路予定地としての形すらない所に貼《は》りついていた。
高台から下りてきた道路は荒川沿いに、東西にのびた町を切り割って河へのびてゆく。町を横切る部分は、何軒《なんげん》もの町屋を取りこわし、引きくずして空地になっていた。
その取りこわされた家の柱をかつぎ出し、砕《くだ》けた瓦《かわら》を掘《ほ》り起して運ぶ。
コンクリートの土台は、つるはしで打ち砕き、リヤカーに積み上げてトラックまで運ぶ。
掘り起すのも、打ちこわすのも、すべて手仕事だから遅々《ちち》としてはかどらなかった。
班長《はんちよう》と助手のほかに、ここでは何人もの監督《かんとく》がついた。彼らは手に手に木刀や折れた弓を持ち、口汚《くちぎた》なくののしっては譲介たちを打ちたたいて回った。
一人|倒《たお》れた。倒れた兵士が、どこからか持ってきた戸板にのせられて運ばれてゆくと、その分だけ、残されたみなの仕事の量はふえた。
もう一人倒れた。
その頃《ころ》になって、ようやく昼食の休憩《きゆうけい》となった。
アルミのメンコに平らに盛《も》られた麦飯の上に、たくあんが二切。それだけの昼食を、息もつかずに掻《か》きこんだ。
班長や助手たちは、少し離《はな》れた土堤《どてい》の上で飯盒《はんごう》を開いていた。かたわらの石油鑵《せきゆかん》で火が焚《た》かれ、干魚をあぶっていた。その匂《にお》いが、風にのって流れてくる。アルミのメンコにくらいついている譲介たちには、目のくらむような刺激《しげき》だった。
とつぜん、譲介のかたわらに腰《こし》をおろしていた兵士が立ち上った。
のどから声をふりしぼると、干魚がのせられている石油鑵《せきゆかん》へ向って突進《とつしん》した。
誰《だれ》もが、何を考えるひまもなかった。石油鑵がひっくりかえり、たきぎの古材が火の粉をまき散らして飛んだ。干魚を焼いていた上等兵が火の粉をふり払《はら》いながら跳《と》びのいた。かけよった兵士は、地面にころがった干魚をつかみ上げると、その場でほお張りはじめた。
身じろぎする者も言葉を発する者もいなかった。
班長《はんちよう》も手に飯盒《はんごう》を支えたまま、蒼《あお》ざめてその兵士を見つめていた。
異変に対して最初に動いたのは、三〇メートルほど離《はな》れた場所で休憩《きゆうけい》していた工兵隊の下士官だった。
彼は立ち上ったが、すぐ事態をさとったようだった。
小石を蹴《け》って駆《か》けよりざま、兵士の口元から干魚をたたき落した。
「伍長《ごちよう》! 何をしているか! 早くこの兵隊を向うへ連れてゆけ!」
すさまじい声で怒鳴《どな》りつけた。
下士官は軍曹《ぐんそう》だった。
「伍長。こんなざまを見せては士気にかかわる」
広大な作業現場には、兵隊たちばかりでなく、多数の民間の土木作業員も入りこんでいた。発狂《はつきよう》した兵士の姿など見られたくないというところなのだろう。
軍曹の一喝《いつかつ》でわれにかえった班長《はんちよう》や上等兵たちは、あわれな兵士を手取り足取り、どこかへ引きずっていった。
午後五時を過ぎても譲介たちの作業は終らなかった。
作業場からは兵士たちの姿はぞくぞくと消えていった。
あとには荒涼《こうりよう》たる赤土の傾斜地《けいしやち》と瓦礫《がれき》の原が広がっていった。
軍曹《ぐんそう》の竹刀《しない》は休みなくふり回され、たえずびゅうびゅうと鳴っていた。
譲介も何回か赤土の上に打ち倒《たお》された。一回は意識が薄《うす》れかけた。
今日は異状だぞ。
今日は妙《みよう》だぞ。
誰《だれ》もがいつもと異るえたいの知れぬ恐怖《きようふ》を抱《いだ》いていた。
それが今朝軍曹が口にした新しい命令とかかわりがあるのではないかと思われた。
日の長い六月でも、午後七時ともなると手元は定かでない。
スコップをふるう腕《うで》は苦痛を通り過ぎとうに感覚を失っていたが、機械的に動きつづけていた。
汗《あせ》は足元の土を粘土《ねんど》に変えていた。
新しい命令というのがいったい何なのか、どんなことであれ、状態がこれ以上悪くなることはない。だからどんなことであれ、新しい変化はないよりもいい。
周囲が完全に闇《やみ》に閉された頃《ころ》、一台のトラックが下の街道へ止った。
数人の兵隊が降り立った。
「作業止め! 整列」
軍曹《ぐんそう》の声で、いよいよ新しい事態が到来《とうらい》したことを知った。
「番号!」
いち、にい、さん……じゅういち、じゅうに。
「仮一〇〇一部隊所属特別|矯正《きようせい》訓練班。総員十二名。引き渡《わた》します」
整列した兵士たちの前に立った一人の下士官に、軍曹は硬《かた》い声で報告した。
報告を受けているのはおそらく曹長《そうちよう》であろう。
軍曹よりも上位の下士官は曹長しかいない。その上は准尉《じゆんい》であり、これは軍装《ぐんそう》は将校と同じだった。
「よし。特別矯正訓練班は以後、航空総軍司令部の指揮下《しきか》に入る。ただ今から、貴様《きさま》たちの指揮はこの松島《まつしま》がとる。これより上等兵の誘導《ゆうどう》に従い、トラックに乗用する。終り」
「気をつけ! 頭《かしら》ァ、中!」
いつの間にか列の端《はし》についていた上等兵が怪鳥《けちよう》のようにさけんだ。
曹長《そうちよう》がトラックの方へ引き揚《あ》げてゆくと、上等兵は列に体を向けた。
「休め! 五分間|休憩《きゆうけい》。小便をしておけ。長丁場を走るからな。トラック前に集合しろ」
上等兵はいがいにやさしい男だった。
それだけ言うと、たばこをくわえて火をつけ、トラックの方へもどっていった。
残された十二人は、休憩と言われても、どうしたらよいのかわからず、そこへ立ったままでいた。これまで、このような命令が出たことなどはなかった。うっかり体を動かしたがさいご、いやというほど鉄拳《てつけん》をくらうのではないかという警戒心《けいかいしん》だけが膨《ふく》れ上っていた。
上等兵の姿が闇《やみ》の中に消えてしまうと、列の中の二、三人がそろそろと動きはじめた。
一人、二人、小便をしに行く者もいた。
別に怒声《どせい》も罵声《ばせい》も飛んでこないとわかった時、はじめて心の底からほっと吐息《といき》がわき上ってきた。
背後の、かなり離《はな》れた所から風にのって談笑の声が届いてきた。
「あああ、今日からオモチャがなくなるな。楽でいい仕事だったが」
その声は、先程《さきほど》までの班長《はんちよう》だった軍曹《ぐんそう》と助手の上等兵のものだった。
彼らは、工事場の斜面《しやめん》を上って高台へ帰ってゆくようだった。
譲介は走り出した。
闇《やみ》の中で、斜面はいがいに近かった。
足にふれた鉄パイプをひろった。
高台の端《はし》に達していた軍曹たちは自分たちの斜面をかけ上って来る者の息づかいと足音に気がついた。
足を止めて、眼下の暗闇《くらやみ》をのぞきこんだ。
譲介の目に高台の無数の灯を背景に彼らのシルエットが浮《う》かび上った。
譲介は斜面《しやめん》に片膝《かたひざ》をつき、鉄パイプで下から軍曹《ぐんそう》の影《かげ》を薙《な》ぎ払《はら》った。
絶叫《ぜつきよう》とともに軍曹の体はもんどりうって斜面をころげ落ちた。
譲介はそのあとを追って斜面をかけ下りた。
腰《こし》をおさえて立ち上ろうとする軍曹の頭へ、鉄パイプがふりおろされた。それははずれて、肩《かた》を打ちすえた。軍曹は地べたに這《は》い、はじめて悲鳴を上げた。
上等兵たちが逃《に》げてゆく足音が、短い間、頭上の台地で聞えた。
肘《ひじ》と膝《ひざ》で、必死に這い回る軍曹の体へ、鉄パイプが何回も打ちおろされたが、当ったのは一回か二回だった。
「助けてくれ! 悪かった! あやまる」
軍曹は泣声を上げながらも的確に鉄パイプの下をくぐり抜《ぬ》け、鉄パイプの攻撃圏外《こうげきけんがい》にすっくと立ち上った。
「このやろう! たたっ殺してやるぞ!」
軍曹《ぐんそう》が吠《ほ》えた。
金属の鈍《にぶ》い音が聞えた。
軍曹は帯剣《たいけん》を引き抜《ぬ》いた。
譲介は鉄パイプをふり回して突進《とつしん》した。
気持ちは完全に上ずってしまい、息も上って、突進したつもりが上体だけ前へ出て、闇《やみ》の底の赤土の上にたたきつけられた。
「おうりゃあああ!」
軍曹が跳躍《ちようやく》した。
両手でさか手に握《にぎ》った銃剣《じゆうけん》ごと譲介の背中の上に落下してきた。
それを避《さ》けるつもりでなく、起き上った目の前へ、軍曹の体がどさりと落ちた。
軍曹の体重で、握った銃剣は柄元《つかもと》まで地中にめりこんだ。
握りしめた拳《こぶし》まで、そのまま深く地に入った。
譲介は立ち上ると、こんどは正確に、軍曹の肩《かた》や背に鉄パイプを打ちおろした。打ちおろすたびに、骨の砕《くだ》ける音がした。
「助けて!……助けて。女房《にようぼう》や子供がいるんだ。かんべんしてくれ。これでかんべんしてくれ……」
軍曹《ぐんそう》は細い声で泣きながら、のたうち回った。
その声もしだいにとぎれとぎれになった。
もう一発。譲介は鉄パイプをふりかぶった。
「まて」
ふいに耳元で声がした。
譲介は手を止めた。
「もうそのぐらいでいいだろう。放してやれ」
背後に黒い影《かげ》が立っていた。
いつ近寄ってきたのだろう? 全く足音も気配もしなかった。
譲介は鉄パイプを握《にぎ》り直すと、その影に向って身構えた。
軍曹の味方か、少なくとも警備の兵隊だろうと思った。
そのとき、号笛《ホイツスル》の音がひびいた。
「集合!」
トラックの止っているあたりで、懐中《かいちゆう》電灯の光が回された。
譲介は周囲を見回した。そこに立っているのは自分しかいなかった。軍曹《ぐんそう》は二、三メートル先に横たわっていた。
譲介を制止した人物の姿《すがた》はどこにもなかった。
深い夜の闇《やみ》が周囲を閉しているとはいえ、切り開かれた工事場には人一人が姿をかくすことができる草むらもかん木もなかった。
錯覚《さつかく》だったのだろうか? 譲介はもう一度、周囲に視線を回《めぐ》らせた。何ものの影《かげ》もなかった。
「早く集れ!」
譲介は鉄パイプを投げ棄《す》てると、懐中電灯の光に向って走った。
トラックは夜の街道を驀進《ばくしん》した。
どこを走っているのか、まるでわからなかった。途中《とちゆう》で私鉄の線路を横切った。
トラックの荷台の上では、監督《かんとく》の上等兵はたばこを吸ったり居眠《いねむ》りをしたりで、譲介たちにはほとんど関心を払《はら》わなかった。作業場や仮小屋とは全く雰囲気《ふんいき》が異っていたが、みなは心まで解くことはできず、押《お》し黙《だま》ったままトラックの震動《しんどう》に体をゆだねていた。
午後九時近く、大きな町に入った。
商店街はほとんど店を閉していたが、街路をひっきりなしに軍用トラックがゆき交《か》っていた。
家々の屋根の向うの空が異様に明るかった。
とつぜん、その方角の、極めて低い位置から、重々しい爆音《ばくおん》が聞えてきた。夜の街はビリビリと震《ふる》えた。
飛行場らしいぞ。所沢《ところざわ》かな? いや立川《たちかわ》かな?
譲介の期待は夜空へ向ってのび上った。
爆音がひときわ高くなると、頭上の夜空を赤と緑の翼端灯《よくたんとう》が横切っていった。
また一機|離陸《りりく》した。地上の照明を反射して、一瞬《いつしゆん》、巨大《きよだい》な機影《きえい》が夜空に浮《う》かび上ってまた闇《やみ》に呑《の》まれていった。
青白い排気焔《はいきえん》が、投げられた花冠《かかん》のように頭上をすべっていった。数えるともなくそれを数えると五個あった。
排気焔の花冠ひとつがエンジン一個だとすると、五個というのは合点《がてん》がゆかなかった。
ボーイングB17や、コンソリデーテッドB24でさえ四発である。
譲介は日本に四発|爆撃機《ばくげきき》があるということは知らなかった。
陸軍の九七式|重爆撃機《じゆうばくげきき》や、『呑竜《どんりゆう》』と呼ばれた一式重爆撃機は、内陸の空でしばしば見ることができたし、海岸へ出ると、海軍の九六式陸上|攻撃機《こうげきき》や一式陸上攻撃機の姿を目にすることができた。時たま、南方で陸軍が捕獲《ほかく》したアメリカのボーイングB17四発爆撃機が、主翼《しゆよく》に日の丸を描《えが》いて飛ぶことがあった。譲介の知っている四発爆撃機といえば、そのボーイングB17だけだった。
昭和十四年の秋。東京の北西部の郊外《こうがい》に住んでいた人々は、ある日、それまで見たことも聞いたこともない巨人機《きよじんき》が空を圧して飛ぶのを目にして肝《きも》をつぶした。ある人はエンジンが四つあったと言い、ある者は、いや六つだったと言い張った。
現在と違《ちが》い、人々の目に触《ふ》れる飛行機の九割までが民間航空機という時代ではなく、とくにその民間航空機の発達が遅《おく》れていたわが国だったから、そんな巨人機は、軍用機にきまっていた。
たちまち、陸軍は世界一大きな超重爆撃機《ちようじゆうばくげきき》を持っているという噂《うわさ》がひろまった。それはたいへん心強い噂だった。
翌年、昭和十五年の三月十日。陸軍記念日の観兵式には、例年の如《ごと》く、二百機近い陸軍機が東京上空でデモンストレーションをしたが、その先頭を切って飛んだのが、三機のこの超重爆撃機だった。
東京の市民は、はじめて見る巨人爆撃機の全容に、感嘆《かんたん》の声を放った。
同時に、この超重爆撃機が九二式であることも発表された。
この機体は一九三〇年にドイツのユンカース社が作ったG38という大型旅客機を爆撃機《ばくげきき》に改造したものの製造権を日本の三菱《みつびし》航空機が買い、国産化したものを陸軍が制式採用したものだった。八〇〇馬力エンジン四個。翼面積《よくめんせき》はのちのボーイングB29の二倍に達していた。だが当時のこととて、性能は最大速度が二〇〇キロ時。航続|距離《きより》二〇〇〇キロメートル。爆弾《ばくだん》二トンと、巨体《きよたい》のわりには現代の攻撃《こうげき》ヘリコプターなみだったのはしかたがない。
それでも、そのようなことが公表されたのは太平洋戦争を終ってからのことであり、昭和十四、五年|頃《ごろ》にあっては、国民はただ感激《かんげき》するばかりであった。
四発爆撃機といえばその九二式|超《ちよう》重爆撃機しか知らなかった譲介だったが、昭和十七年という今、十年も前のその機体がまだ使われているとは思いたくなかった。なにしろ、最新鋭《さいしんえい》の『呑竜《どんりゆう》』は一式である。
陸軍でも海軍でも、すべての制式兵器には、当時の、わが国独特の暦法《れきほう》である紀元年数の末尾二ケタを取って、制式採用年が二五九七年(昭和十二年)なら九七式。二六〇〇年(昭和十五年)なら|〇《レイ》式と呼んだ。ほんとうは〇〇式だが、これ以後は末尾一ケタを取った。一式は昭和十六年採用ということである。採用は十六年でも、実際にそれが戦力化され、部隊となって出現するまでには早くても一年かかるから、その頃《ころ》の一式|重爆《じゆうばく》は、まさに最新鋭《さいしんえい》であった。
トラックが進むにつれ、夜空は急速に真昼のように照り輝《かがや》いた。
ヘッドライトに桜並木《さくらなみき》が浮《う》かび上り、行手に煉瓦《れんが》の柱のいかめしい大きな門が迫《せま》ってきた。
右の柱には『陸軍所沢飛行学校』。左の柱には『航空軍第一師団司令部』という門標が照し出され、トラックは建ちならぶ兵舎《へいしや》の間へ走りこんだ。
譲介《じようすけ》たちは兵舎のひとつに入った。
上等兵が、内務班の一角にみなを案内した。
間もなく、松島|曹長《そうちよう》がやって来た。
「みな。ご苦労。くわしいことは明日話す。今夜はゆっくり休息するように。これからの予定については上等兵が説明する」
代って上等兵が進み出た。
「今、二十一時だ。これから食事を取る。食事当番は他の班から出ているが、終った食器は各自洗って食鑵《しよくかん》に入れるように。二十一時三十分、食事止め。二十一時四十分、入浴を許す。二十二時、消灯|就寝《しゆうしん》。不寝番《ふしんばん》はなし。以上」
曹長《そうちよう》が去ると、二、三人の兵士が食鑵や食器を運んできた。
まっ黒な麦飯にふろふき大根の厚切一切。キャベツのみそ汁《しる》。たくあん漬《づけ》。それだけの夕食だったが、世の中にこんなにうまいものがあったのかと思われるほど美味だった。それに、ここには、すきがあればとねらっている軍曹も上等兵もいなかった。何を食ってもうまいのも当然だった。
食い終ると、寝台《しんだい》へもぐりこんだ。
まるで夢《ゆめ》のようだった。
何かの瞬間《しゆんかん》に、この状態が元にもどり、薄暗《うすぐら》い小屋の中で、軍曹《ぐんそう》になぐり飛ばされている状態にもどるのではないだろうか。誰《だれ》の胸にも、その恐《おそ》れがわだかまっていた。
「さあ、寝《ね》よう。目がさめんならさめんでもええ」
年輩《ねんぱい》の男が居直った勢いで寝台《しんだい》にあお向けに倒《たお》れた。
譲介が、矯正《きようせい》訓練班に投げこまれて以来、はじめて耳にした人間らしい言葉だった。
それに誘《さそ》われて、一人、二人と寝台に這《は》い上り、やがて全員が寝台に体を横たえた。
名乗り合ったり、矯正訓練班に送られた理由などを、ぼそぼそと話し合っている者もいたが、それも二分とは続かなかった。
圧倒《あつとう》的な眠《ねむ》りが、彼らを呑《の》みこんだ。
翌朝、食事が終ると曹長《そうちよう》がやってきた。
また全員トラックへ乗せられた。
だが、こんどは門から出ることなく、つらなる建物の間を、構内の奥《おく》へ進んだ。
何十|棟《とう》もつづく兵舎《へいしや》群の間から、広大な飛行場の一部が見えた。
戦闘機《せんとうき》らしい小型機が銀翼《ぎんよく》を張ってならんでいた。
カモフラージュをほどこした九七式輸送機がエンジン・ナセルをはずして整備を受けていた。
兵舎と兵舎の間の中庭に、全体を緑色に塗《ぬ》られたソビエトの|I《イー》16単座戦闘機が一機、飾《かざ》られているのがめずらしかった。
飛行場は活気に満ちていたが、それきり、もう目に入ってこなかった。
トラックは古い格納庫の前へ停《とま》った。
「入れ!」
上等兵の指図で、みなは格納庫へ入った。
その格納庫は、それが建てられた頃《ころ》は、直接、飛行場のフィールドに面していたのだろうが、今は前方に幾棟《いくとう》もの近代的な巨大《きよだい》な格納庫が建ちならんだために、そこは講堂か、自動車やトラクターなどの格納に使われているようだった。
譲介たちは、整然とはしているが、薄暗《うすぐら》く、油とほこりの混じった匂《にお》いがただよっている庫内を、奥《おく》の片すみに連れてゆかれた。
そこに奇妙《きみよう》な物体が置かれていた。
その前に木のベンチがあり、十二人はそこにかけさせられた。
曹長《そうちよう》が進み出た。
「これが何だかわかるか?」
曹長は手にした細い竹棒で背後の物体を指し示した。
それは複雑な形の基台に、細長い黒光りのする二本の銃身《じゆうしん》が二組重ねられてとりつけられたものだった。銃身の束《たば》のうしろに、小さな椅子《いす》が設けられていた。
格納庫の屋根すれすれに、飛行機の爆音《ばくおん》が通り過ぎていった。格納庫はビリビリと震動《しんどう》した。
「……である」
曹長の説明が完全にかき消された。
一人の作業服姿の伍長《ごちよう》が呼ばれ、銃身のうしろの椅子に腰《こし》をおろした。
彼の両手、両足が奇妙《きみよう》な機械のように動くと、基台もろとも、四本の銃身《じゆうしん》は音もなく軽々と回転した。
基台が回転するにつれ、四本の銃身は上へ、下へ、自由自在に指向した。
「いいか。これは爆撃機《ばくげきき》の尾部|銃座《じゆうざ》だ」
曹長《そうちよう》は声を張り上げた。
「見たとおり、人力で操作するものではない。電動式の動力|銃塔《じゆうとう》だ。二〇ミリ機関砲《きかんほう》の四連装《よんれんそう》である。爆撃機にとって、これは非常に強力かつ有効な防禦《ぼうぎよ》火器である。おまえたちは、専任特技兵として、この操作に熟達《じゆくたつ》してもらう。本日より、訓練を開始する」
曹長が引っ込むと、銃塔を操作して見せた伍長《ごちよう》が直接の教官らしく、早速《さつそく》、講習がはじまった。
最初に構造の説明があったが、何が何やら全く頭にも入らぬうちに、一人ずつ引き出された椅子《いす》に押《お》しこまれ、操作の手ほどきがはじまった。
器用な者とそうでない者とが、はっきり区別された。
譲介《じようすけ》はずば抜《ぬ》けて運動神経がすぐれている方ではなかったが、左右の手足をフルに使ってそれぞれ別な作業をおこなうことに、それほど苦痛は感じなかった。
どうやら砲架《ほうか》を回転させながら銃身《じゆうしん》を上下させることができた。
それができない者にとって、この訓練はひどくつらいものになりそうだった。
七名が及第点に達し、休憩《きゆうけい》が与《あた》えられたが、五名はその間も、伍長《ごちよう》の叱声《しつせい》を浴びながらつづけなければならなかった。
昼食のあとで新しい作業服が支給された。
曹長《そうちよう》があらわれ、全員が二等兵になったことを告げた。
二等兵というのは最下級の兵士である。
午後は夕方まで、同じ訓練がつづけられた。
兵舎《へいしや》にもどった時は、全員、口もきけないほど疲《つか》れていた。
昨日までとは全く異った種類の疲労《ひろう》だった。
「何だか、いやな予感がするぜ」
夕食が終って、寝台に寝《ね》そべっていた男が、吐息《といき》まじりにつぶやいた。彼の作業服の胸の白い名札《なふだ》には、梅島《うめじま》と書かれていた。
「何のことかね? 梅島さん」
ようやく、たがいに名を呼び合うことができるようになったなかまの一人がたずねた。
「空中勤務に二等兵ってのはいないんだぜ。射撃《しやげき》専科ってのはこの頃《ごろ》できたけどよ、それでも扱《あつか》いは偵察《ていさつ》の必修課目ぐらいだよな。部隊じゃ伍長《ごちよう》だぜ」
「おれたちもこれから進級するんじゃねえか?」
山田という男が首をのばした。
「軍隊というところが、そんなものじゃねえということぐらい、誰《だれ》だって知ってらあな。おれたちが空中勤務だということは、今日一日ではっきりしたわな。それで二等兵なんだぜ」
「降等されたんだから、しようがねえだろう」
誰かが捨鉢《すてばち》な口調でまぜかえした。
そうか。ここにいる者はみな、以前は将校や下士官だったのだな。何か罪を犯して降等され、集められていたのだ。これは罪人部隊だったのだ。
譲介はひそかにうなずいた。
「そんなこと言ってんじゃねえや! おれはこうなる前、航空部隊にいたからわかっているんだが、爆撃機《ばくげきき》の尾部銃座《びぶじゆうざ》ってのは、地獄《じごく》の一丁目って言われているんだぜ」
「どうして?」
「みんな死んじまうのよ」
「死んじまうって……撃墜《げきつい》されるのか?」
「撃墜されなくともな。いいか。敵の戦闘機《せんとうき》はうしろからくいついてくるんだ。空中戦じゃ、敵も焦《あせ》っているから、よくねらったつもりでも機銃《きじゆう》の弾丸《だんがん》はどうしても後落する。つまり、爆撃機の機体の後半分に当るようになるんだ。尾部銃座はばっちりよ。ねらう時も、落着いてまず尾部銃座に照準を合わせ、引金を引いておいて機首をやや上向ける。そうすると弾丸は機尾《きび》から機首まで走るんだ。だからいつだって尾部銃座は的《まと》になるってわけだ」
みな顔を見合わせて沈黙《ちんもく》した。
梅島はさらに言葉をつないだ。
「それだけじゃねえんだ。おれの知るかぎり、尾部に二〇ミリの四連装銃塔《よんれんそうじゆうとう》をつけた爆撃機《ばくげきき》なんて、これまで日本にはなかったぜ。これはきっと、こんど新しくできたんだ。そいつにおれたちを乗せる気だ。となると、おれたちは消耗品《しようもうひん》だぜ。やられるのは覚悟《かくご》の、どえらい作戦におれたちはかり出されるんだ。ま、罪人部隊にはうってつけかもしれねえけどな」
重苦しい沈黙《ちんもく》がやってきた。
「どうも話がうま過ぎると思ったよ。地獄《じごく》から極楽《ごくらく》へ、いっぺんにとび上ったような気がしていたが、やっぱりそうだったのか」
「うまくできていやがら!」
「でも、あの小屋であいつらに責め殺されるよりはよっぽどましだぜ。それに、かならずやられるとはきまったもんじゃないだろうからな」
「そうさ。それに、ほんとうにあぶないとわかったら逃《に》げ出せばいいさ。あの小屋とは違《ちが》うんだ。いざとなればいつでも逃《に》げ出せるぜ」
「そうさ。何も悪い方へ悪い方へとばかり考えたってしようがねえだろう。この間までのこと、忘れてはいないだろう」
これから先、何があろうとここは極楽に違《ちが》いなかった。
それきり、先のことを心配する者はなくなった。
一週間ほどたつと、一人一人の腕前《うでまえ》はかなり異っていたが、それでも全員どうやら四連装銃塔《よんれんそうじゆうとう》を自由に操作できるようになった。
ある日、格納庫へ、多量の鉄骨や丸太、トタン板などが運びこまれた。
翌日、工兵がやってきて丸一日がかりで、大がかりな屋台《やたい》を組み立てた。それができ上ったところで、電気技術の特技所有者の袖章《そでしよう》をつけた下士官のグループがやってきてその屋台に複雑な配線をほどこし、さらにさまざまな箱《はこ》や円筒《えんとう》や球を取りつけて帰った。
翌日、見知らぬ中尉《ちゆうい》がやって来た。
彼が、その大屋台の裏に設けられた机の前に座《すわ》り、机の上にならんだ無数のダイヤルやスイッチを動かした。
みなは思わず息を呑《の》んだ。
とつぜん、目の前に大空が開けた。
断雲の間から、数機の小型機があらわれた。主翼《しゆよく》をひるがえすと、正面から突《つ》っ込《こ》んできた。
主翼の前縁《ぜんえん》に、真赤《まつか》な閃光《せんこう》がほとばしった。
白条を曳《ひ》いた曳光弾《えいこうだん》が右に左に乱れ飛んだ。
みなは床《ゆか》に身を投げた。
何がどうなったのか、全く見当もつかなかった。
逃《に》げようとして身を起すと弾丸《だんがん》が耳元をかすめた。
小型機は反転し、視野の外へ消え去った。
ふいに周囲はもとの格納庫の内部にかえった。
みなは荒《あら》い息を吐《は》きながら、座りこんだ。
腰《こし》に力が入らず、立ち上ることができなかった。
笑声が爆発《ばくはつ》した。屋台のうしろから、中尉《ちゆうい》があらわれた。
「おどろいたか。これは世界中のどこの国にもない、わが国の発明になる極秘の、射撃《しやげき》練習|装置《そうち》だ。おまえたちが今、目にしたものは、すべて電気的映像である。おまえたちは、四連装銃塔《よんれんそうじゆうとう》の操作を修得したが、次には、この射撃《しやげき》練習|装置《そうち》が作り出した映像を目標として、実際となんら変るところのない射撃訓練をおこなう」
みなは完全に魂《たましい》を奪《うば》われ、中尉《ちゆうい》の顔を見つめていた。
その日から、射撃訓練装置を使った猛訓練《もうくんれん》がはじまった。それはこれまでの操作訓練とは全く異ったものだった。
敵機はどの方向から出現するのか予測もつかない。
「千葉二等兵! 敵機は射程距離内《しやていきよりない》に入っているぞ! 一番機は見送るんだ! 二番機が突《つ》っこんでくる! どうした、どうした! おまえの機は被弾《ひだん》したぞ! だめだ。落第!」
射撃ペダルを踏《ふ》むひまも何もなかった。突っこんで来る敵機に銃身《じゆうしん》を向けるのがやっとだった。
「梅島二等兵! 照準もしないうちに発射してどうするんだ! その二〇ミリ機関砲《きかんほう》は一分間に千発発射するんだ。弾丸《だんがん》は各銃《かくじゆう》八百発。それを考えて、射撃《しやげき》のタイミングを計るんだ。ばかもの!」
「こら! どこをねらっているんだ。敵機はどこにいる?」
中尉《ちゆうい》の罵声《ばせい》が飛ぶ。焦《あせ》れば焦るほど、自分が何をしているのか、わからなくなる。
たった半日の訓練でみな、口もきけないほど疲《つか》れきっていた。
「どうだ? 機上射撃というものは難しいものだろう? よし、午後は銃塔《じゆうとう》の整備。夕食後、夜間射撃訓練をおこなう」
訓練作業は眠《ねむ》る時間をも縮《ちぢ》めて昼夜ぶっとおしでおこなわれた。
どうやら航空軍は訓練の日程をおそろしくいそがせているようだった。
「作戦実施の日が迫《せま》っているんだぜ」
みな、ささやき合った。
だが、外出も許されず、とくに夜は兵舎《へいしや》の外へ出ることをきびしく禁じられている譲介《じようすけ》たちは、ラジオを聞くことはもちろん新聞を読むことも許されていないから、戦況《せんきよう》がどうなっているのか、知ることもできなかった。
だが、作戦は計画通りに進んでいるらしい。
「ヨーロッパではドイツが英国本土を占領《せんりよう》し、ロシヤへ攻《せ》めこんだそうだ。すでにモスクワを陥《おと》し、ウラル山脈の西のふもとまでたどり着いたらしいぞ」
どこから聞いてきたのか、梅島がこっそりささやいた。
「日本軍の方はどうなっているの?」
譲介はたずねた。
「うん。ミッドウエイもハワイも占領した。オーストラリアは降伏《こうふく》。日本の陸戦隊はアラスカ全土を占領したとよ」
「インドは?」
「インドは独立宣言をして、イギリス連邦《れんぽう》から抜《ぬ》けた。日本・インド同盟軍はイランに進攻《しんこう》作戦をかけている」
「梅島さんはどうしてそんなことを知っているの?」
「ほんとうのことを教えてやろうか? 東第三|厠《かわや》へ行ってみろ。あそこは下士官集会所が近いから、よく新聞が持ちこまれているんだ。それをゆっくり読んでくるというわけさ」
そうか! その新聞を見れば、この世界のことがいろいろわかるかもしれない。
譲介はひそかに胸を躍《おど》らせた。
夜になるのが待ち遠しかった。
点呼《てんこ》が終ると、みなベッドへ入る。電灯がつぎつぎと消され、毛布を引き上げると、もの悲しい消灯ラッパが鳴りわたる。
ものの三分もすると周囲はいびきの洪水《こうずい》となった。
譲介はそっと起き上った。
寝台《しんだい》から下りて軍袴《ズボン》に足を入れ、営内靴《スリツパ》ははかずに手に持って廊下《ろうか》へ出た。
廊下には常夜灯の赤茶けた光が、おぼろな影《かげ》を落していた。
兵舎《へいしや》の一階には、内務班が八個入ることができるようになっていたが、実際には三個しか使っていなかった。一階の北の端《はし》と南の端に、飛行場大隊に属する歩兵の一個分隊ずつが入っていた。譲介たちの分隊は中央だった。
二つの分隊が、譲介たちの班の動きを監視《かんし》し、出入りを見張っているとも考えられる。
譲介は南の端へ向った。
第三独立飛行場大隊第二中隊第一小隊第一班というのが、南の端の昇降口《しようこうぐち》をおさえている内務班だった。
静まりかえった兵舎《へいしや》の内部には、寝息《ねいき》のほかに聞えるものはなかった。
昇降口に不寝番《ふしんばん》の姿があった。
譲介は廊下《ろうか》のドアを開いて中庭へ出た。
中庭の物干場《ぶつかんば》には、青い月光が満ちていた。
兵舎の影《かげ》に沿《そ》って中庭の向う端にたどり着き、東兵舎の昇降口へ入った。
そこを抜《ぬ》けると東第三|厠《かわや》と呼ばれている便所がならんでいる。
梅島が言ったように、ここは下士官集会所が近いので、東第三|厠《かわや》は一等兵や二等兵は近づかない。
譲介はそっとすべりこんだ。
下士官専用のような場所になっているだけに、兵士たちが使う兵舎《へいしや》内のものと違《ちが》い、床《ゆか》の石だたみも、石本来のつやを出している。新兵の二等兵たちが、日夜、這《は》いつくばってふいたりみがいたりしているのだろう。
譲介はひとつひとつとびらを開いていった。
五燭《しよく》の電球がようやく光と影《かげ》を区別していた。
どこにも新聞など残されていなかった。
だめかな?
さいごのとびらを開いたとき、便器の前に、置き棄《す》てられている新聞紙が目に入った。
これだな!
それをつかんで厠から出た。
あかるい電灯のついている所は、昇降口《しようこうぐち》しかなかった。
厠への渡《わた》り廊下《ろうか》や階段の下などには常夜灯がついているが、新聞の文字を読みとることができるようなあかるさではなかった。
どうしよう?
場所は昇降口《しようこうぐち》しかなかった。
そうだ! 昇降口の天井《てんじよう》にともっている電灯の光は、窓からもれ出て外の粗末《そまつ》な花壇《かだん》を照していた。
譲介は兵舎《へいしや》の外へ出て、貧弱な鳳仙花《ほうせんか》の間へかがみこんだ。
いそいで新聞を開いた。大きく開くわけにいかないから折りたたんだまま、見出しだけにいそいで目を当てた。
≪ドイツ軍。イラン全土を制圧。一部はインド西パキスタン地方に進出。日独作戦協定|違反《いはん》か≫
≪ドイツ軍アフリカ全土における戦火の終結を宣言≫
大きな文字が目に飛びこんできた。
日本はどうなっているのだろう?
いそいで折り返した。
≪わが軍、アンカレッジを占領《せんりよう》。海軍陸戦隊は陸軍|船舶《せんぱく》工兵隊と協力、太平洋岸の都市ジュノー、シトカを占領《せんりよう》。カナダ領海岸地帯に進出した≫
≪ハドソン湾《わん》に海軍水上機隊進出か。外電の伝えるところによると、ハドソン湾に、日本海軍の秘密水上基地が設けられているという≫
≪パナマ運河は日系ゲリラの制圧下にあると伝えられる≫
紙面は目ざましい記事で埋《う》められていた。
雪におおわれた山々を背景に、荒磯《あらいそ》を進んでゆく日本の水陸両用戦車の写真が目を奪《うば》った。
戦局は大きく日本に有利に展開しているらしい。
譲介の知っている昭和十七年四月の情況《じようきよう》とは、全く異っていた。
新聞の日付は、昭和十七年十月二日だった。
わずか六か月の間に生ずる変化にしては、あまりに異っていた。
この世界には、十七年十月にすでにこのような戦局の転換《てんかん》を生むような要素が存在しているのだ。
とつぜん、するどい銃声《じゆうせい》が夜気を震わせた。
おそろしくエネルギーを持った小さな物体が、譲介のかたわらの羽目板に、ぶち当り、白い木くずを飛散させた。
5――A
もう一発。もう一発。羽目板に黒い穴があき、夜気に硝煙《しようえん》の匂《にお》いが充満《じゆうまん》した。
譲介《じようすけ》は新聞を投げ棄《す》て、兵舎《へいしや》に沿って走った。
また銃声《じゆうせい》が鳴りひびき、さけび声が聞えた。
兵舎の中が騒《さわ》がしくなった。あちこちで窓が開いた。
譲介は必死に走った。
また弾丸《だんがん》が飛んできた。
真黒な後悔《こうかい》が衝《つ》き上ってきた。
せっかく住み心地の良い所へ移されたというのに、自分からもとの地獄《じごく》へもどってゆくような愚《おろ》かなまねをしでかしたことが腹立たしかった。
あんな新聞なんか、読まなくたって!
譲介はけもののようにうめきながら走った。
自分たちの兵舎《へいしや》にもどることはできなかった。
背を丸めて物干場を走り抜けると、裏の汚《よご》れた小屋へもぐりこんだ。
石炭とほこりの匂《にお》いが鼻を衝《つ》いた。
積み上げられた石炭の、わずかな窪《くぼ》みに身を伏《ふ》せ、投げ棄《す》てられているドンゴロスを頭からかぶった。
ひそかな足音が近づいてきた。
立ち止まった。石炭小屋の中をうかがっているようだ。
もうひとつ、足音が近づいてきた。
石炭小屋の羽目板の間から、懐中《かいちゆう》電灯の光がチラチラともれた。
「この付近にかくれているはずです」
「外へ逃《に》がすとやっかいなことになるぞ」
ささやきがつたわってきた。
「この騒《さわ》ぎについては何と説明するのですか?」
「スパイが潜入《せんにゆう》していたということにしよう」
「中尉《ちゆうい》どの。千葉少年は射殺してもよろしいのでありますか?」
「できれば生かしたまま捕《とら》えたい。こんな事件はめったにあるものではない。おれは自分の手で調べてみたい。だが、皇軍の名誉《めいよ》を不祥事《ふしようじ》から守るために抹殺《まつさつ》せよという憲兵司令部の命令は無視はできん」
「捕えましょう、中尉《ちゆうい》どの。自分もその少年におおいに興味を持っております」
「もう、二、三発射《う》て。ただし、当てるなよ。司令部へは、射殺したと報告するから、辻褄《つじつま》を合わせねばならん。うむ? 何の音だ? 今のは」
石炭小屋の中で、譲介は体を硬《かた》くした。かぶっていたドンゴロスが、ずり落ちそれにつれて何個かの石炭がころげ落ちたのだった。
「この中らしいです」
「おっ。飛行場大隊の衛兵がやって来たぞ。おい! 近寄るな。おれは東京憲兵隊司令部の特別|捜査班《そうさはん》の木下中尉だ。今、特命捜査活動中だ。われわれにまかせてくれ。飛行場司令の方へは、おれからあとで連絡《れんらく》する」
憲兵隊の特命|捜査《そうさ》活動中だなどと言われて、飛行場大隊の警備の兵士は、さわらぬ神にたたりなしとばかりに、さっさと回れ右してしまった。
だが、兵舎《へいしや》の窓には、時ならぬ拳銃《けんじゆう》の発射音に眠《ねむ》りをさまされた兵士の顔が鈴生《すずな》りだった。
「よし。桜田伍長《さくらだごちよう》。注意して踏《ふ》み込《こ》め」
「踏み込みます!」
懐中《かいちゆう》電灯のまぶしい光が、せまい石炭小屋の内部に躍《おど》った。
大きな拳銃《けんじゆう》を手にした軍服姿の伍長が、入口に立ちはだかった。
その背後に、白い開襟《かいきん》シャツの上に背広を重ねた私服姿の男が立っていた。木下中尉《きのしたちゆうい》であろう。
「出てこい!」
譲介はドンゴロスをはねのけて立ち上った。
あきらめが、重く鈍《にぶ》い爪《つめ》で譲介の心をわしづかみにしていた。
譲介は石炭のほこりを払《はら》って、彼らの前へ足を進めた。
ふと、そのとき、譲介は、自分の背後にもう一人、誰《だれ》かいるのを感じた。
これまで嗅《か》いだこともない佳《よ》い香《かお》りが、自分をつつんでいた。
ほこり臭《くさ》い空気が、ほのかな光輝《こうき》を発しているような気がした。
「さ、歩いて」
うるんだやさしい声が耳もとでささやいた。
譲介は完全にどうてんしていた。
もう自分は射《う》たれて死んでいるのに違《ちが》いないと思った。
子供の頃《ころ》、祖母に聞かされた極楽だの地獄《じごく》だのの話が、何の脈絡《みやくらく》もなしに胸に浮《う》かんできた。
譲介は、やわらかな力で背を押《お》されているのを感じた。
押されるままに、一歩、一歩、進んだ。
二人の憲兵はひどく真剣《しんけん》な顔で、石炭小屋の奥《おく》をうかがっていた。
何をしているのだろう? ここには自分しかいないのに。
譲介は胸の中でつぶやいた。
奇妙《きみよう》なことに、二人とも譲介に全く視線を向けなかった。
伍長《ごちよう》は拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》った腕《うで》を突《つ》き出してさけんだ。
「出て来い! そこにいることはわかっているんだ」
「おとなしく出て来れば、あとの扱《あつか》いようが違《ちが》ってくるぞ」
二人は低い声でさけんだ。
そのかたわらを、譲介は通り過ぎた。
石炭小屋から出ると、譲介は背を押《お》されながら物干場《ぶつかんば》を通り、譲介たちの分隊が入っている兵舎《へいしや》に向った。
渡《わた》り廊下《ろうか》から舎内《しやない》へ入った。
廊下には、兵士たちが窓に折り重って、中庭をのぞきこんでいた。
「アメリカのスパイがもぐりこんでいたんだとよ!」
「ふてえやろうだ。つかまえたのか? まだ? 何をしてやがるんだ。あの憲兵」
「あのピストルの音は、スパイが射《う》ったんだとよ。憲兵のやろう、びくびくしていやがんの」
眠気《ねむけ》もふっとんでしまって、言いたい放題のことを言っている。
そのうしろを、譲介は歩いた。
誰《だれ》も、ふりかえらない。注意を向ける者もいない。
射撃《しやげき》訓練班の内務班までたどり着いた。
さすがになかまたちは、他の兵士たちのように窓に走るということはしていなかった。
それでも、不安そうに、寝台《しんだい》の上に起き直っていた。
「中庭の方で騒《さわ》いでいるな」
「脱走兵《だつそうへい》でもあったんじゃないか?」
「でも、さっきのは射撃音だろう? 脱走兵に射つかな?」
ボソボソと語り合っていた。
譲介は内務班へ入った。
そこでも、誰《だれ》も譲介に視線を向けた者はいなかった。
譲介は、みなの寝台《しんだい》の前を影《かげ》のように通り、自分の寝台の前に立った。
「さ、寝台に入って。今夜のことは誰にも言ってはいけません」
耳もとでささやかれ、背を押《お》されて寝台へ上った。
みなと同じ姿勢になり、それから背後をふりかえった。
美しい女が立っていた。
無雑作《むぞうさ》に掻《か》き上げた髪《かみ》を、頭のうしろで丸くまとめ、銀色のかんざしで留めていた。
譲介には想像もつかない豪華《ごうか》な和服の、銀とねずみ色のあやなす微妙《びみよう》な光の交錯《こうさく》が、目を奪《うば》った。
女は湖のような目で、室内を見回し、それからほほ笑みをふくんだまなざしを譲介の上に移した。
「あなたは新聞など読みに行かなかったのですよ」
ふくめるように言うと、譲介のかたわらを離《はな》れた。
そのまま、室内を横切り、内務班から出てゆく。
譲介は息を止めてその後姿を見送った。
夢《ゆめ》を見ているのではないかと思った。
班内の誰《だれ》もが、その女性に気がついていなかった。
「さあ、寝《ね》よう、寝よう。おれたちには関係ないことだ」
誰かが言い、そうだ、そうだと皆《みな》がまた体を横たえた。
灯が消され、ふたたび闇《やみ》と静寂《せいじやく》が班内を占《し》めた。
譲介は眠《ねむ》るどころではなかった。
遠くの物音が、いやにはっきりと聞えてくる。
石炭小屋のようすがどうなったか、知りたくて心がうずいた。二人の憲兵がここまで乗りこんでこないか心配でならなかった。
号笛《ホイツスル》の音が二回ほど聞え、やがて物音はとだえた。
いつの間にか眠ってしまったらしく、起床《きしよう》ラッパの鳴ったのも気がつかなかった。
隣《となり》のなかまにたたき起された。
秒で追われる一日がはじまった。
「ゆうべ、憲兵が二人、営内に倒《たお》れていたそうだ。スパイに返り討ちにされたらしいぜ」
「なさけねえやつらだ。で、スパイの方はどうなったんだ?」
「どうなったのかな。その憲兵のやつらは、頭がおかしくなっちまったらしくて、なんだか、一人が二人になったとか、なんとか少尉《しようい》が若返って出てきたとか、とりとめのねえことを口走っていやがるんだと」
「そりゃ、おおかた、スパイを逃《に》がしたりしたもんで、責任のがれに気が違《ちが》ったふりをしていやがるんだぜ」
「ふん! 憲兵なんて、ふだんいばりちらしていやがっても、いざとなりゃそんなもんよ。からだらしねえやつらだ」
それで話は終りになってしまった。
兵士たちにとって、憲兵は軍制の絶対性と懲罰《ちようばつ》の恐怖《きようふ》の具現化以外の何ものでもないが、自分たちだけになってしまえば、これはもう揶揄《やゆ》の対象以外の他の何ものでもなかった。
翌朝、一日の日課がはじまる頃《ころ》になっても、譲介の不安は去らなかった。
何者かに見張られているのではないかといううたがいがぎりぎりと胸をしめつけた。
赤羽の赤土の崖下《がけした》で、軍曹《ぐんそう》を鉄パイプでなぐりつけていた時、何者ともしれぬ声が、譲介を押《お》しとどめた。あと一、二|撃《げき》で、軍曹の生命が断たれてしまうのを知っていて押しとどめたかのようなあらわれかたであり、おさえかただった。
その人物と、昨夜あらわれた女性とは、どこかで重大な関係があるのではないかと思われた。
二人に共通していることは、現実の人間とは思い難いところだった。
いないはずの所へふいに出現したり、その存在がそこにいる誰《だれ》の目にも映《うつ》らないというのは、まぼろしかもののけでもあろうか。
譲介には、彼らがまぼろしやもののけとはとうてい思えなかった。
だがこの奇妙《きみよう》な世界の中で、どこまでが現実で、どこからが幻想《げんそう》なのか、判別し難かった。
ことによったら――
してはならないことをした時にあらわれるのではないだろうか?
彼らにとって、おれがしてはならないこととは何だろう? 見当もつかなかったが、何ものかによってきびしく見張られているという確信は動かし難いものに固まっていった。
5――B
二十一機のユンカース52型三発輸送機≪タンテ≫は、高度三〇〇〇メートルでイラン高原を越《こ》え、月明のカラチに着陸した。途中《とちゆう》一機を失っていたが、給油もそこそこにふたたび離陸《りりく》し、ベンガル湾《わん》を眼下に、ビルマのラングーンに着いた。ただちに給油して離陸。シンガポールまで一気に飛び、給油ののち、スラバヤ、チモールを経由し、ようやく、たどり着いた所はニューギニアの東。ニューブリテン島のラバウルだった。
ラバウルには、日本軍が建設した三つの大きな飛行場があった。
ニューブリテン島は火山島で、日本軍の兵士たちが花咲山《はなさきやま》と名づけた活火山が、つねにゆるやかな煙《けむり》を吐《は》き続けていた。
ニューブリテン島をおおう火山灰は、軽くやわらかく、飛行機が離陸《りりく》するたびに黄灰色の火山灰が煙幕《えんまく》のように舞《ま》い上った。
ユンカース輸送機からおびただしい貨物と、数十名のドイツ軍人が吐き出された。
彼らはただちにトラックで飛行場の外の兵舎《へいしや》に運ばれた。
数名のドイツ軍高級将校は、飛行場の一角の屋上高く日本海軍の軍艦旗《ぐんかんき》をひるがえした建物へと入っていった。
数機のゼロ戦が椰子林《やしばやし》すれすれに旋回《せんかい》し、そこからは見えない別の飛行場の方角へ沈《しず》みこんでいった。
その方角に、新しい砂塵《さじん》が入道雲のように空をおおって立ち上った。
中天の太陽は飛行機も椰子林《やしばやし》も急造の格納庫も今にも灼《や》きつくしてしまうかのようにギラギラとかがやいていたが、物かげに入ると、まるで別世界のようにひんやりとした冷気が体をつつんだ。
兵舎《へいしや》の内部は、目が馴《な》れるまでは物の形もとらえることができなかった。
ようやく、なかまの顔形が識別されるようになってくると、こんどはその薄暗《うすぐら》がりがたいへん心地よいものになった。
スピーカーがおそろしく下手くそな英語で何かがなり立てた。
何をどうしたらよいのかもわからず、立ったり座ったりしてざわめいていた兵隊たちは、やがてそのスピーカーにかわって、肉声が何事かを伝えはじめたのに気がついた。そこで彼らは勝手な会話を中止し、みないちように声のする方へのび上った。
一人の小柄《こがら》な日本軍の将校が、手にメモを持ち、指図をしていた。
「南、12のAか」
シェクスピア少佐《しようさ》は、自分の名のつぎに読み上げられたナンバーを口に、バッグをさげて兵舎《へいしや》の外へ出た。
たちまち烈日《れつじつ》が少佐をわしづかみにした。
兵舎12のAはすぐにわかった。
粗末《そまつ》な木造の兵舎は、ドイツ軍の捕虜《ほりよ》収容所よりもひどかった。だが、ここには鉄条網《てつじようもう》も監視塔《かんしとう》もなく、軍用犬もいなかった。それだけでも天国と地獄《じごく》の差があった。
シェクスピア少佐は大の犬嫌《いぬぎら》いだった。特にドイツ軍用犬のドーベルマンは、悪魔《あくま》の使いだった。
シェクスピア少佐は、掘立《ほつたて》小屋の兵舎から出たり入ったりして解放感を味わった。
日本海軍の兵曹《へいそう》がやって来て、これからの一連のセレモニーと明日からの作業の概略《がいりやく》について説明した。
それからシャワーと食事になった。
おどろいたことに、食事はドイツ軍が用意したものよりも、はるかに良かった。質の良い紅茶がイギリス兵を喜ばせた。
これまでドイツ軍は、日本軍の捕虜《ほりよ》に対する処遇《しよぐう》についてほとんど悪口雑言《あつこうぞうごん》に近い言葉で説明してきたが、実状ははなはだしく違《ちが》うのではないかと思われた。
なかまのカナダ人が、不安な面持ちで、兵舎《へいしや》群のむこうにわき立つ砂けむりをながめやった。
「少佐《しようさ》。おれたちはこれからどうなるんだ? 飛行場で土木作業をやらされるんじゃないかな?」
「そうではあるまい。それなら、ドイツ軍がおれたちに、操縦や航法の技術の練度が下らないように訓練させていた意味がないじゃないか。おれは、みんなが何か特別な飛行任務につけさせられるのだと思うね」
「特別な飛行任務ってなんだ?」
「さあ。それはわからない。ただ、やつらは人手がいるんだ。ベテランの搭乗員《とうじよういん》が必要なのだと思うね」
「でも、それは少しおかしいぜ。少佐《しようさ》。ベテランの搭乗員《とうじよういん》なら、日本軍にだってドイツ軍にだって大勢いるだろうよ。なにもおれたちまでかり出す必要はないじゃないか」
集合を告げる号笛《ホイツスル》が鳴った。
二人の会話はそこで中断したが、シェクスピア少佐は、奇妙《きみよう》な胸騒《むなさわ》ぎを感じた。
ドイツ軍が、シェクスピア少佐らに要求したのは、ドイツ軍に対する協力と、捕虜《ほりよ》の連合軍航空兵たちに、自らの技量を低下させないように訓練を続けること、という二つだった。前者はともかく、後者に関して否《いな》を言う者はいなかった。
ドイツ軍の軍用機を使っての訓練がつづけられた。そして、とつぜん、ある日捕虜たちの中の、何十名かは目的地の説明もなく輸送機へ乗せられた。
誰《だれ》言うとなく、目的地は東洋だという噂《うわさ》が流れた。
彼ら、ベテラン搭乗員たちを必要としていたのは、実はドイツ軍ではなく、日本軍だったのだ。
なんのために?
シェクスピア少佐《しようさ》は、暗い疑念が、頭蓋《ずがい》の中に充填《じゆうてん》するのを感じた。
翌日。南12―Aに収容された連合軍空軍士官たちは、ラバウル航空基地群の中の、ある建物に連れてゆかれた。
日本海軍の士官が通訳をともなってあらわれた。
「諸君らは、ドイツ空軍将校である」
彼の第一声に、シェクスピア少佐らはぎょうてんした。
一人のオランダ人|大尉《たいい》が激《はげ》しい勢いで立ち上った。
「ライジング・サンのキャプテンに言いたい」
「なにか?」
「われわれはドイツ軍に降伏《こうふく》した連合軍|捕虜《ほりよ》である。断じてドイツ軍人ではない!」
顔を真赤にしてさけんだ。
「違《ちが》う。諸君らは|ドイツ空軍《ルフト・ヴアツヘ》を構成する外人義勇軍として、ドイツ空軍太平洋|派遣《はけん》部隊の一員となって帝国《ていこく》海軍航空隊の指揮下に入ったものである」
みなは騒然《そうぜん》となった。
シェクスピア少佐《しようさ》は、この中での最高の階級だったので、やむなく立ち上った。
「キャプテン。われわれは何も説明を受けていない。また、説明を受けたところで、そのような要求なり命令なりに従う者は一人としていない。われわれはドイツ空軍の一員になるよりも、光栄ある捕虜《ほりよ》をえらぶであろう。キャプテン。したがってわれわれは、ここで日本海軍航空隊のメンバーとして指揮命令を受けるいわれなどない」
日本海軍の士官は、困惑《こんわく》し、通訳にも何かたずねていたが、すぐ部屋《へや》の外へ出ていった。
すぐ一人の少佐をともなって、もどってきた。
少佐は鷲《わし》のようなするどい顔に、わずかに笑みを浮《う》かべて口を開いた。
「諸君らは誤解《ごかい》しているようだ。諸君らの母国は降伏《こうふく》し、同盟軍の占領下《せんりようか》にある。捕虜である諸君らは当然、母国に送還《そうかん》される。それはすでに始まっている。諸君らに説明があったはずだ。母国に送還《そうかん》を望むか、それとも、同盟軍の義勇外人部隊としてとどまるか、好きな方をえらぶ権利があるとな。そして諸君らはとどまる方をえらんだ。そうではないのか? 光栄ある捕虜《ほりよ》と言ったが、そんなものは、諸君らに関する限り、もう存在していないのだ。だから義勇外人部隊としてとどまりたくない者は、ただちに母国へ送還する。それだけだ」
みな、しんとなった。誰《だれ》でも、それは十分に承知していることだった。
敗戦で打ちひしがれた母国に帰っても、就職口などあるはずもなかった。それに、ここにいるパイロットの多くは職業軍人だったから、母国に帰っても、一からやりはじめなければならない。大層《たいそう》つらい話だった。
もうひとつ、痛切《つうせつ》な願いがあった。それは彼らは、飛ぶことが三度の飯よりも好きな連中だった。敗戦下の母国に帰ったとしても、また飛行機に乗ることなど、何十年先のことかわからない。
「どうする? 帰るか? それとも、ここへとどまるか?」
少佐《しようさ》は一同を見回した。
それで勝負はついた。
シェクスピア少佐は、十二人のなかまとともに、格納庫の内部に設けられた高い台に上った。
台の上には、あきらかに爆撃機《ばくげきき》の機首と思われるものの模型がすえつけられていた。
教官の中尉《ちゆうい》が、シェクスピア少佐に、機首の中に入るように言った。
木と竹とアルミ板で作られた大円筒《だいえんとう》の中に、金属パイプで作られた椅子《いす》があった。
それに腰《こし》をおろした。
目の前に、金属の箱《はこ》があり、無数のメーターとパイロット・ランプがならんでいた。
「その箱は、電気式自動計算機であり、自動操縦|装置《そうち》とリンクしている。ただし、それはダミーである。実物は初歩の訓練が終ってから見せる。いいかね。まず、このメーターだが……」
この装置《そうち》がはたらき出すと、飛行機はパイロットの手を離れ、この装置が命ずるままに飛行するようになる。この装置は非常に高価なものであり、大型の戦略|爆撃機《ばくげきき》でも、たった一人で飛行することも、攻撃《こうげき》も防禦《ぼうぎよ》も、自由にできる……
中尉《ちゆうい》の説明が、シェクスピア少佐《しようさ》には十分に理解できかねた。
日本はおそろしいものを発明していたものだ。
少佐は舌を巻《ま》いた。
超高速|電気計算機《コンピユーター》というものが、アメリカで研究されていると聞いてはいたが、それは小さな家ぐらいもあるもので、何万本という真空管を必要とするので、実用化の道は極めて遠いといわれていた。
それが、このように小型化され、飛行機に搭載《とうさい》できるようになっているとは、連合軍側の誰《だれ》もが思ってもみなかったことである。
「このパイロット・ランプがついたら、きみはただちに、このレバーを引く。いいね。そしてオレンジ色のランプはついたままを確認しつつワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ! で今のレバーをもどす。同時に機体は急上昇《きゆうじようしよう》に移る。いいか? この急上昇が少しでも遅《おく》れると、きみはもう二度と基地へ帰ってくることはできない。ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ! レバー! 急上昇だ。よし。やってみろ」
なんだ。そんなこと! シェクスピア少佐《しようさ》は鼻白んで、目の前の装置《そうち》に正対した。
レバーをぐっと押《お》した。
とたんに頭の上から、叱声《しつせい》が降《ふ》ってきた。
「だめだめ! パイロット・ランプがついてから」
あれ? どのランプだったろう?
少佐はうろたえた。
「そのオレンジ色。わかるか?」
「OK!」
パイロット・ランプが赤から緑に変り、また赤にもどった。
一瞬、オレンジ色のランプがついた。
よし! ぐいとレバーを押《お》したとたんに、ランプは赤になっていた。
「だめ! つぎ」
少佐《しようさ》のつぎに進み出たカナダ人の大尉《たいい》は、一発で合格した。
中には全くオレンジ色のランプのつかない者もいた。
「フォーでもどすやつがあるか!」
「思いきり引くんだ!」
簡単な作業だと思っていたが、やってみるとまるでうまくできない。
機上作業のすべてに通暁《つうぎよう》しているという自信のあるみなだったが、ここでは全く初級練習者と同じだった。
二日、三日はキリキリ舞《ま》いで終った。
「教官。これはいったい何の訓練だね? 教えてもらえれば、訓練する方も身が入るというものだが」
シェクスピア少佐は中尉《ちゆうい》にたずねた。
「くわしいことはまだ説明できないが、ざっと言えば、これは、ある特殊《とくしゆ》な爆弾《ばくだん》の投下訓練だと思ってよろしい。みなも、もう何となく分ってはいるだろうが、爆弾を投下してから高速で離脱《りだつ》する要領をマスターしてほしいわけだ」
「急降下|爆撃《ばくげき》ではないようだが」
急降下爆撃ならば、爆弾をかかえて、高度三〇〇〇メートルあたりから、目標めがけて、まっさかさまに突《つ》っ込《こ》む。そして高度五〇〇メートルあたりで爆弾を投下し、ただちに急上昇《きゆうじようしよう》して逃げる。そのまま突っ込んでいったら大地に撃突《げきとつ》するし、ゆるやかに高度を上げていると、自分の落した爆弾の爆風《ばくふう》で、自分自身がやられてしまう。
シェクスピア少佐《しようさ》たちが行っている訓練では、急降下の部分がなかった。
「跳躍爆撃《トス・ボンビング》ではないのか?」
他の者がたずねた。
平たい石を河面に水平に近く投げると、石は水面に当ってはねかえり、そのまま水面を跳躍《ちようやく》をくりかえしながら飛んでゆく。高速で、海面をすれすれに飛ぶ飛行機から爆弾《ばくだん》を落すと、爆弾は海面をぴょんぴょんと跳《は》ね飛びながら目標物へ突進《とつしん》してゆく。
急降下|爆撃《ばくげき》も、跳躍爆撃《トス・ボンビング》も、ともに第二次大戦中におおいに使われ、強固な陣地《じんち》や艦船攻撃《かんせんこうげき》に絶大な威力《いりよく》を発揮《はつき》した。
「そうか! トス・ボンビングか」
みなはうなずいた。
とくにイギリス空軍は、ランカスター四発爆撃機を使って、トス・ボンビングでドイツのダムを破壊《はかい》した実績を持っているだけに、シェクスピア少佐《しようさ》には、この訓練が自分たちにぴったりしたものに感じられてきた。
教官の中尉《ちゆうい》は口をつぐんでしまった。
みながどうやら初歩訓練を終えたと思われる頃《ころ》、爆撃用電気計算機の実物が持ちこまれてきた。
日本軍でも極秘あつかいとかで、その警備は厳重を極めていた。もちろん、内部構造の説明などはない。訓練が終ると、ただちに鋼鉄製《こうてつせい》のカバーがかけられ、施錠《せじよう》された。そして、銃剣《じゆうけん》を構えた衛兵が見張っていた。
訓練は順調に進んだ。実物に直接、手を触《ふ》れての訓練の方が進むのが早かった。
一九四三年八月。アメリカ合衆国は、それまでの戦略方針をかなぐり棄《す》てた。
東方ではロシアをふくめたヨーロッパ大陸全域とアフリカを失い、西方ではアジア全域と西太平洋から全面的に撤退《てつたい》し、さらにハワイ諸島からアラスカとカナダの一部にまで侵攻《しんこう》を受けているアメリカ合衆国は、今や本土が完全な二方面からの大攻勢《だいこうせい》を受けることになった。
アメリカ海軍はその空母勢力の九割を失い、空軍も本土防空兵力を残すだけになった。消耗《しようもう》に消耗を重ねる航空兵力をバランスよく補充《ほじゆう》することはもはや不可能となった。さし当って局地|戦闘《せんとう》能力を維持《いじ》するために、単座戦闘機の生産に追われていた。爆撃機《ばくげきき》や攻撃機《こうげきき》はほとんどかえりみられなくなった。そうなると坂道をころげ落ちるようなもので、もはやアメリカ空軍には、戦略的|攻撃《こうげき》能力は形もなくなってしまった。
急速に、ヨーロッパ大陸|進攻《しんこう》の夢《ゆめ》も、西太平洋の制海権を奪《うば》い返すという計画も、もはや非現実的な幻想《げんそう》になった。
残された勝利の手段は何か?
アメリカ合衆国に残された手段は、もはやなみの戦略や、飛行機、艦船《かんせん》の増産ではなかった。
その頃《ころ》から、外電を通じて、不気味な噂《うわさ》が聞えてくるようになった。
アメリカのネバダ州の砂漠《さばく》で、全く新しいタイプの爆弾《ばくだん》の実験がおこなわれたと、その噂は伝えていた。
また別な噂によると、その実験では、爆発《ばくはつ》の閃光《せんこう》が、二〇〇キロメートルも離れた土地で望見されたという。
その爆弾の実験には、亡命したユダヤ系の物理学者や、ナチス・ドイツやファシスト・イタリアを追われた多くの科学者が参加しているとも伝えられていた。
南アメリカからもたらされた情報では、その爆弾《ばくだん》は、従来の、火薬を使ったものではなく、もっと、革命的な方法を使っているとされた。
ひそかに流れてくる情報の中で、もっとも空想的なものでは、その爆弾は、マッチ箱《ばこ》ひとつぐらいの大きさで、東京全体を吹《ふ》き飛ばしてしまえるほどの力を持っているというものだった。
日本軍の司令部|偵察機《ていさつき》は、カナダの急造飛行場を発し、高度一万五〇〇〇メートルでネバダの上空を飛んだ。
また日本やドイツの情報機関は、ひそかにネバダに集中した。
たしかに、何事か、大きな異常がそこにあった。
5――C
森のむこうから激《はげ》しい銃声《じゆうせい》が聞えてきた。
輸送機のむれも、落下傘《らつかさん》部隊の白いパラシュートももう見えなかった。
海上からの砲声《ほうせい》はまだ続いていた。
町から、女の悲鳴《ひめい》や男のさけび声などが断続して聞えてくる。
キノシタは街路に乗り棄《す》ててある自転車に飛び乗った。怒声《どせい》が追ってきたが、必死にペダルを踏《ふ》んだ。
石畳《いしだたみ》の街路が切れると、砂利道《じやりみち》になった。
自転車のタイヤが躍《おど》った。
とつぜん、耳元を弾丸《だんがん》がかすめた。
ヒュッ、ヒュッ!
短く、乾《かわ》いた音が、首筋《くびすじ》のあたりをたたいていった。
背を丸めて、全身の力をペダルに集めた。
石塀《いしべい》の角を曲ると、弾丸が来なくなった。
小さな装甲車《そうこうしや》が一台、そっぽを向いたような角度で停車していた。
開かれたままのドアから内部をのぞきこんだ。内部に人影《ひとかげ》はなかった。逃《に》げたらしい。
地上に短機関銃《たんきかんじゆう》が落ちていた。それをひろい上げて、背負いベルトを肩《かた》にかけた。せまい車内の壁《かべ》に、短機関銃のものらしい長方形の弾倉《だんそう》が数個かけられていた。キノシタはそれをポケットにねじこんだ。
銃声《じゆうせい》が下火になった。
キノシタはふと気がついて、ポケットから白いハンカチをひっぱり出し、それを葉をむしり取った長い木の枝《えだ》の先端《せんたん》に結びつけた。それを高くかざして自転車でふたたび走り出した。
崩《くず》れた低い石垣《いしがき》や鉄のとびらをとりつけた石の門柱のかげから小柄《こがら》で、陽《ひ》に灼《や》けた男たちが、自転車を飛ばすキノシタを見つめていた。たくさんの機関銃や小銃の銃口《じゆうこう》がキノシタの体に正確に向けられていた。
キノシタは、彼らの作る散兵線の中へ走りこんだ。
たちまち、彼はペルー警察軍の兵士によって囲まれた。
「どこへ行く?」
「敵の主力はどこにいるのか?」
「この白旗は、いかなる意味か?」
さまざまな質問がぶつかってきた。どうやらこの連中は、実戦の経験など皆無《かいむ》なのだろう。
この町に、装甲車《そうこうしや》を持ったペルー警察軍が駐留《ちゆうりゆう》していたとは知らなかった。そんな話を聞いたこともなかった。
だが、考えているひまもない。
「この先には敵がかくれているぞ。どこへ行くつもりだ?」
下士官がうさん臭《くさ》そうにキノシタを見つめた。
「お前、名前は?」
キノシタは一瞬《いつしゆん》、ほっとした。
どうやらこの下士官は、日系ペルー人のキノシタを知らないらしい。
この町で、キノシタを知らない者はいないし、彼が日系であることを知らない者もいない。
「おれの家はこの先なんでがす」
キノシタはとっさにうそをついた。
「おれの女房《にようぼう》は子供が生れそうなんだてば。たぶん今日生れるだ。おれは知らせを受けて、隣《となり》の町からいそいで帰ってきたところなんでがすてば」
下士官はひげ面の上等兵とひそひそと話しこんでいる。時々、キノシタに向ける視線が薄気味《うすきみ》悪かった。
「お前、ちょっと聞くが」
「へえ。なんでも聞いてくだせえ」
「なんで白旗をかかげているんだ?」
「はえ?」
「なんで白旗をかかげているんだ、とたずねている」
キノシタはわざと間のびした顔を作ってみせた。
「なぜって、町の旦那《だんな》に聞いただよ。旦那が教えてくれただ。白い旗を高く上げていれば射《う》たれねえって。その旦那は、えれえお人で、この前の欧州《おうしゆう》大戦では、なんとかつう要塞《ようさい》に攻《せ》めこんで、銀の勲章《くんしよう》もらったんだとよ。その旦那《だんな》に教えてもらったんだ。はあ」
下士官は舌打ちした。
「おまえの家はどのへんだ?」
キノシタはのび上った。
「ほれ、あの森のかげだ」
五〇〇メートルほど前方の森のかげに、古い伐採《ばつさい》小屋があるのをおぼえていた。
「よし。行かせてやろう。だが、ひとつ条件がある。お前、家へ行って女房《にようぼう》のようすを見たら、いったんここへもどってこい」
「へえ」
「そして、お前が見たことを話すのだ」
「女房のお産のことでやすか」
「ばか。お前の女房のお産の話など聞いてどうする」
「でも、なんと言うか。女つうものは、自分がお産しているところなぞ、人には見せたくねえものでがしょうなあ」
「お前なあ、こっちはそんなことを言ってんじゃねえんだ」
「はえ?」
「お前が家へ帰る。お前の家のまわりには、敵がうようよいるはずだ」
「敵? カイゼルだか?」
「ちがう! 日本軍に味方しているメキシコのゲリラだ」
「へえ!」
「やつらの様子をもどってきて報告しろ」
「へ、へえ」
「もどってこなかったら、お前もゲリラの一員とみなして、家族もろとも射《う》ち殺すぞ」
「へえ。わかりやした」
上等兵の目がキラリと光った。
「お前、ゲリラってなんだか知っているのか?」
「ゲリラでやすか?」
「そうだ」
上等兵の右手が、ゆっくりと腰《こし》のピストルの皮サックへとのびた。
「メキシコ人でやしょう」
「だから、ゲリラとは何か?」
「なにかって……名前でやしょう。メキシコ人の。メキシコ人の名前ってのは、おれたちとよく似ているんだが、ペルーにはゲリラって名前はねえなあ」
「行け!」
上等兵はまだするどい目でキノシタをにらんでいたが、それ以上は追及《ついきゆう》しなかった。
ふたたびキノシタは自転車にまたがり、白旗をかかげて走り出した。
森かげに、十数名の落下傘《らつかさん》部隊の兵士がひそんでいた。緑色の戦闘服《せんとうふく》に身を固めた兵士たちは、みな東洋人と思われた。
「誰《だれ》だ?」
短機関銃《サブ・マシンガン》をかかえた兵士が、するどくさけんだ。
「タララの町の雑貨屋のあるじ、ホセ・キノシタだ」
「どこへ行く?」
「隊長はいるかね?」
「何の用だ?」
「隊長に会って言う」
東洋人の兵士は、寸秒の間もキノシタから目を離《はな》さず、後向きに歩いて、灌木《かんぼく》の繁《しげ》みのかたわらまで退《さが》ると、どこか、近い所へ手を振《ふ》った。
迷彩服《めいさいふく》に身を固めたたくましい男があらわれた。
「何者だ? こいつは」
「町の雑貨屋のおやじだと言っています」
「何しに来たんだ?」
二人はキノシタをねめつけた。
「ホセ・キノシタだ」
「何しに来たんだ? 答えろ!」
最初の兵士が怒鳴《どな》った。
「まて!」
隊長の表情が変った。
「ホセ・キノシタか?」
「そうだ」
隊長はポケットから手帖《てちよう》を取り出した。
それを開いて、たずねた。
「きみのコール・サインは?」
「〇九〇九HKだ」
「きみの連絡員《れんらくいん》の名は?」
「ハリーだ」
「よろしい。本官はきみをホセ・キノシタと認定する」
急にそり返った。なあに、おまえが認定しようとしまいと、おれはおれだあな!
ホセ・キノシタは鼻柱にしわを寄せたが、黙《だま》ってうなずいた。
「本官は同盟軍。南太平洋軍第五|艦隊《かんたい》第五八任務部隊九一八独立情報中隊、中隊長、陸軍|大尉《たいい》、久留米三郎太《くるめさぶろうた》である。本官は一個小隊をひきいてタララ地区に降下。在地|諜者《ちようじや》ホセ・キノシタを収容すべく行動中であった」
「ほう。おれを。なんで?」
「理由は知らんでよろしい。本官も聞いていないのだからな。ところで、キノシタ。お前はただちに、わしらと行動することはできるのだな?」
「まあ」
「われわれがここへやって来るというのがわかっていたのか? なかなか連絡《れんらく》がゆき届いているな」
「いや。町はドイツ軍の落下傘《らつかさん》部隊が降下したと大混乱なのだ。おれは日系だし、このような事態になると、日系はただではすむまいと思い、早いうちにと思って、町を脱《ぬ》け出し、合流するつもりでやって来たのだ」
「それはよかった。われわれもこれでお前を探《さが》す手間がはぶけたというわけだ」
「よし。それでは、次の命令を受けよう」
久留米大尉は部下を呼び集めた。
二十人ほどの兵士が集った。
「三個分隊で来たのだが、一個分隊は輸送機が撃墜《げきつい》され、全滅《ぜんめつ》した。もう一個分隊は、落下傘で着地した所に、ペルー駆逐艦《くちくかん》の一二サンチ砲弾《ほうだん》が落下して半数がやられた。ここにいるのは残った者、全部だ」
大尉《たいい》は、部下が背負《せお》っている無線機で、どこかと通信をしはじめた。その顔が急速に硬張《こわば》った。やがて全身が誰《だれ》の目にもわかるように震《ふる》えはじめた。
「はい……はい……ただちに向います!」
大尉はしゃっちょこ張って答えると、通話器をもどした。
その顔は紙のように白くなっていた。
「これから、われわれは南に向って行動を起す。無用な戦闘《せんとう》は避《さ》け、極力、目的地へ急ぐ。軍曹《ぐんそう》。出発だ」
久留米大尉のあとを受けて、一人の軍曹が進み出、みなを整列させると、右向け右、前へ進め! を下令した。
歩きはじめると、すぐ道をそれて藪《やぶ》の中へ入った。先頭の二人が、蛮刀《ばんとう》をふるって藪を切り開く。わずかに枝葉《えだは》の落ちた所へ、強引に体を押《お》しこんでゆく。
キノシタは大急ぎで倒《たお》れている兵士の戦闘服を剥《は》ぎ取ると、身につけているシャツやズボンの上から着こんだ。ブッシュの中へ入りこんでゆくのは大変だった。自分の靴《くつ》は紐《ひも》を縛《しば》って首からかけ、分厚い皮の戦闘靴《せんとうぐつ》をはいた。テンガロンハットはふところへ突《つ》っこみ、ヘルメットをかぶった。銃《じゆう》など重い物は無用だった。水筒《すいとう》とナイフだけ腰《こし》へつるし、武器は、自分のブローニングだけにした。
ようやく身仕度ができると、キノシタは一行を追いかけた。
連中が通って行ったあとはよくわかった。踏《ふ》みしだかれた下草や、押《お》し開かれたブッシュが、彼らの進んだ方向をはっきりと示していた。
急速に高度が上り、ブッシュの間から紺碧《こんぺき》の海が見えた。
足元にあるタララの町は、ほとんどブッシュにかくれていたが、町からそう遠くない沖合《おきあい》に、数|隻《せき》の軍艦《ぐんかん》が停泊《ていはく》していた。
見ていると、一番手前の軍艦の艦首《かんしゆ》に近い甲板《かんぱん》で、小さくピカッと光った。一瞬遅《いつしゆんおく》れて、濃《こ》い茶色の煙《けむり》の太い円筒《えんとう》がもうっと海面にのび出した。
だいぶ遅《おく》れて、どろうん! と鈍《にぶ》い砲声《ほうせい》がつたわってきた。
その頃《ころ》には、カシャカシャカシャカシャという音が頭上に迫《せま》ってきた。
キノシタは地面に身を伏《ふ》せた。
ずしいん!
大地がゆれた。ブッシュがざわめいた。
山腹のだいぶ上の方へ弾着《だんちやく》したようだった。
旧式な駆逐艦《くちくかん》でも、積んでいる砲《ほう》はなかなか威力《いりよく》がある。人力操作の一二・七サンチ砲でも、一万三、四〇〇〇メートルは飛ぶ。弾丸《だんがん》が大きいから爆裂《ばくれつ》効果も大きい。
どろうん!
また来た!
カシャ、カシャ、カシャ……
ずしいん!
こんどはずっと低い。
ごおおう、と爆風《ばくふう》が山腹を走って行った。
キノシタは起き上ると、必死に山腹を這《は》い上った。
最初は高く、つぎに低く、ねらいを定めて、三発目は正確に目標に命中するだろう。
駆逐艦《くちくかん》は、山腹を移動してゆく久留米|大尉《たいい》の一行の位置をとらえているようだった。
キノシタは前方をうかがった。
かなり離《はな》れた所で、木の枝《えだ》を打ちたたく音が聞えた。
ふりかえると、あかるい海はいよいよ大きくひろがっていた。
数|隻《せき》の軍艦《ぐんかん》は、白い水尾《みお》を曳《ひ》いていた。低速で動いているらしい。
全部の軍艦の甲板《かんぱん》で、ピカピカと閃光《せんこう》がひらめいた。汚《よご》れた砲煙《ほうえん》が、青い海をおおった。
いっせい射撃《しやげき》だった。
カシャカシャカシャ……
カシャカシャ……
……カシャカシャ……
つぎからつぎへと弾丸《だんがん》が飛んできた。
キノシタはブッシュの底に体を投げ、頭をかかえた。
大地が大波のようにゆれ、大木が折れ、大きな岩塊《がんかい》が山肌《やまはだ》を転落してきた。
硝煙《しようえん》の匂《にお》いがのどを刺し、爆煙《ばくえん》が視野をおおった。
引き裂《さ》かれた大木が、ブッシュの繁《しげ》みにのしかかってきた。キノシタは必死に這《は》い出した。
周囲で激《はげ》しい山火事が起っていた。
このままでは、次のいっせい射撃《しやげき》でやられなくとも、山火事に巻かれて焼き殺されてしまうだろう。
脱出《だつしゆつ》しなければ! だが、もうあとにもどることはできなかった。
キノシタは前方へ向って走った。
またもや弾丸《だんがん》の雨が降ってきた。
山は崩《くず》れてしまうのではないかと思った。
山腹を急ぐ久留米|大尉《たいい》のひきいる一行は、眼下の海に浮《う》かぶ軍艦《ぐんかん》から見られているのだ。おそらく、哨戒《しようかい》用の大型望遠鏡が、そのレンズの中に、一列になって移動してゆくものを、的確にとらえているのだろう。ブッシュの動きを追っているだけでわかるはずだ。
山火事を避《さ》けながら、三〇〇メートルほど進むと、山肌《やまはだ》が崩《くず》れ、森林が吹《ふ》き飛ばされ、赤土や岩石がむき出しになった巨大《きよだい》な窪地《くぼち》ができていた。
ばらばらになった手足が散乱していた。
一人の生存者もいないようだった。
キノシタは途方《とほう》にくれた。
そのとき、ごく近い所でうめき声が聞えた。
数メートル離《はな》れた所に黒焦《くろこ》げの大木が倒《たお》れていた。その下から足がのぞいていた。
どろだらけの体を引き出し、顔の部分のどろをかき落すと、あらわれたのは、ようやくそれと判別できる程度の、久留米|大尉《たいい》の顔だった。
「しっかりしろ! 大尉」
大尉は弱々しくうめいた。
「すぐ警察軍がやって来るだろう。やつらは大尉を病院へ収容するか、それともここで射殺するか、どちらをえらぶかわからないが、少しの間のしんぼうだ。どっちにしろ、楽になる。おれは行くぜ。おれはやつらに捕《とら》えられたら、この場で射殺などという有難いことではすまないんだ。おれはこの身に加えられる痛さや、惨酷《ざんこく》な仕打ちのことを考えると、とても三十秒も耐《た》えられそうにない。だから、おれは行くぜ」
キノシタは立ち上った。
久留米|大尉《たいい》はうめいて、片手をのばした。
「大尉。わかってくれよ。ここに居てやりたいんだが、そうはいかねえんだ」
キノシタはふり切るように、歩み出そうとした。
「キ・ノ・シ・タ」
大尉のくちびるが動いた。
「なんだ?」
「わ、わしのポケットを……」
戦闘服《せんとうふく》の胸のポケットをさぐると、二つに折った封筒《ふうとう》があった。
「これか?」
「そうだ。読んでみろ」
久留米|大尉《たいい》はあえいだ。
キノシタは腰《こし》のナイフを抜《ぬ》いて、固く糊付《のりづ》けされた封筒《ふうとう》を開いた。
「これを読むのか……」
中に、二、三枚の折りたたんだ紙が入っていた。
血とどろで汚《よご》れた紙をひろげると、タイプで打たれた文字が目に飛びこんできた。
「読んでくれ」
「……ええ、と。情報小隊は、つぎの都市へ潜入《せんにゆう》。命令を待て……その次は汚れていてよく見えないが……八月六日までに占位《せんい》を完了《かんりよう》せよ……以上だ」
大尉は声をふりしぼった。
「キノシタ。お前はニューヨークへ潜入しろ」
「ニューヨークへ? 何をするんだ?」
「キノシタ。いいか。おれたちはアメリカ本土へ潜入する計画だった。タララをえらんだのは、警備が手薄《てうす》という情報があったからだ。そのタララでお前に接触《せつしよく》するように命令を受けた。国境を越《こ》える時に、お前の知識が役に立つといわれた。キノシタ。おれたちはおそらく全滅《ぜんめつ》だろう。もはや、任務を果すことはできなくなった。だが、お前は無事らしい。任務の一部を、お前に托《たく》すことはできそうだ。やってくれ。キノシタ」
「弱ったな。おれはニューヨークなんて行ったことがないんだ」
「行ってくれ。たのむ。ニューヨークで、電話をかけるんだ。その番号は……」
キノシタはあわててさえぎった。
「大尉《たいい》。気持ちはよくわかるが、おれはただの無線通信員で、そんな工作員じゃないんだ。だめだよ。そんなこと」
「キノシタ。おまえ、ペルー国籍《こくせき》とはいえ、日系だ。日本|帝国《ていこく》の臣民の心を失ってはいないだろう。今、日本帝国は、連合国を相手に……」
大尉は激《はげ》しくせきこんだ。
「口をきかない方がいい。とにかく、おれは目をつけられているんだ。そんなおれが、何をできるってよ。作戦だかなんだかしらんが、もう一回練り直すんだな」
「キノシタ!」
「やめてくれ!」
久留米|大尉《たいい》は、濃《こ》く死相の浮《う》かんだ顔を上げ、キノシタを見つめた。
その目に、
「たのむ。キノシタ。御国《おくに》のためだ。な、電話をかけるんだ。番号は……」
声が途絶《とだ》えた。
「しっかりしろ!」
「ああ。キノシタ。電話番号は、七月六日の、ニューヨーク・タイムスの告知欄《こくちらん》に出るのだ」
大尉ののどが鳴り、どろ人形のような体は前にのめった。全身から力が抜《ぬ》け、くたっと平らになった。
キノシタは命令書を封筒《ふうとう》にもどし、近くの下草の下を掘《ほ》って埋《う》めた。
すでに艦砲射撃《かんぽうしやげき》は止《や》んでいた。完全に撃滅《げきめつ》したと思っているのだろう。ぐずぐずしていると警察軍が調査の為《ため》に、大挙してやってくるだろう。そうなったら脱出《だつしゆつ》も難しくなる。
キノシタは尾根《おね》へ向ってぐんぐん登っていった。
尾根づたいに北へ向った。
頭上を、陸軍航空隊の小型偵察機《グラスホツパー》が旋回《せんかい》していた。
キノシタは尾根に上らず、谷を横切って進んだ。
一〇〇メートル進むのに一時間もかかるような悪コースだった。
尾根へ出たら空中からの目にさらされるし、高度を下げたら、捜索隊《そうさくたい》に見つかってしまう。
尾根は高さ八〇〇メートルぐらい。その尾根でつながっている山の頂きが一〇〇〇メートルから一二○○メートルぐらいある。山そのものの高さはさしたることもないが、なにしろ、アンデス山脈のふもとである。東の空を区切るのは、六〇〇〇メートル級の、一年中雪をいただく高峯《こうほう》のつらなりだった。
夜になるのを待って、キノシタはタララの町の北のパリニヤス岬《みさき》へ下りた。
岬の先端《せんたん》に、幾《いく》つかの小さな漁村があった。
岬の突端《とつたん》近いチャパラル村の居酒屋の親父《おやじ》のコラコラはキノシタの釣仲間《つりなかま》だった。
「どうした? キノシタの旦那《だんな》。そのかっこうは!」
コラコラは引き裂《さ》けた戦闘服《せんとうふく》に身を包み、血みどろで見るかげもないキノシタの姿に目を丸くした。
「何か食わしてくれ。説明はそれからだ」
キノシタは着ていたものを脱《ぬ》ぎ棄《す》てると、コラコラの古いズボンとシャツを借りて着がえた。
ふかしパンといもと干魚《ひざかな》と、火のつくような地酒で食事をすませると、ようやく人心地がもどってきた。
「いったい何があったんだ? タララの町では、ドイツ軍のゲリラが上陸して、軍隊と射ち合いをしたというじゃないか」
「大騒《おおさわ》ぎだった」
「キノシタの旦那は逃《に》げてきたのか?」
「おれは日系《ジパング》だ。それはおまえも知っているな。警察はゲリラが侵入《しんにゆう》したのは、おれが手引きしたからだと難くせをつけ、おれをつかまえようとしたんだ。だから逃げ出してきた」
コラコラは片目をつぶってみせた。
「そんなことなら、わしにまかせなさい。このコラコラ、警察への恨《うら》み、死んでも忘れない」
彼は左足を少し引きずっていた。若い頃《ころ》、密輸団に加わっていて警官隊に襲《おそ》われ、棍棒《こんぼう》でなぐられて骨折し、もとにもどらなかったものだという。
「コラコラよ。おれは、アメリカ本土へ渡《わた》りたいのだが」
「キノシタの旦那《だんな》。アメリカへ行くのか」
「まずパナマかコスタリカあたりまで行って、本土までの舟便《ふなびん》を探す。コラコラ。舟が欲しい。発動機船の安いやつが手に入らんかな」
「無いこともないが……かねは有るのか?」
「有るさ。ただで頼《たの》むわけはねえ」
「三ドルぐらい出せるか?」
「ああ。油もつけてくれるな」
「よし。交渉《こうしよう》してみる。待っていろ。必ずうまくいくと思う」
コラコラは店から出て行った。
三十分ほどすると、もどって来た。
キノシタは飛び上った。
コラコラの背後に、カーキ色の制服を着た軍警が立っていた。
「コラコラ! 売りやがったな」
キノシタはズボンの尻《しり》ポケットからブローニングを抜《ぬ》いた。
「まてまて! キノシタ。取引相手に何をする!」
コラコラがさけんだ。
「え?」
「舟《ふね》はこの人の持ち物なんだ。うまく話をつけてきてやったのに、何てことするんだ」
「そいつは悪かった。すまねえ。コラコラ。それから、そのお巡《まわ》りさんも」
軍警は帽子《ぼうし》を脱《ぬ》いでひたいの汗《あせ》をぬぐった。
「キノシタ。三ドルにもう一ドル乗せてくれないか。このお巡りさんの息子《むすこ》が、来週、結婚《けつこん》するんだ。教会に二ドル寄付《きふ》して、残りの二ドルで新しいシャツを買いたいそうだ」
「OK。四ドルに、この腕時計《うでどけい》を、その息子《むすこ》さんにプレゼントしようじゃないか」
キノシタは、腕の古いオメガをはずした。
警官の顔がかがやいた。四ドルといっしょに腕時計を渡《わた》すと、彼は早速、キノシタを浜《はま》へひっぱって行った。
石油発動機つきの古い漁船だった。舟《ふな》べりにも舟底にも、魚の鱗《うろこ》がたくさんこびりついていた。
バッテリーをつなぎ、はずみ車を回すと、順調に回りはじめた。
警官が帰ったあとで、キノシタはコラコラに三日分の食料と水を頼《たの》んだ。
「ほんとうに行くのか? こんな舟で」
「ああ。ここにいたら、やがてつかまる。つかまったら最後、銃殺《じゆうさつ》だ。とにかく逃《に》げ出すぜ」
「いつ?」
「今夜」
その日、夕暮《ゆうぐ》れになるのを待って、キノシタは沖《おき》へ乗り出した。
パリニヤス岬《みさき》をあとにして、海岸沿いに北へ向うこと五日にしてエクアドル国境に達する。国境などないにひとしく、キノシタの小舟《こぶね》はいつとはなしにエクアドルの領海深く入っていた。見知らぬ漁港で石油を買い、入江《いりえ》の奥《おく》に舟を繋《つな》いで眠《ねむ》った。翌日も海の上だった。海岸から二〇〇メートルぐらい沖合《おきあい》を、海岸に沿って進んだ。海上警察も、海軍|哨戒部隊《しようかいぶたい》も、この小さなボロ漁船には何の注意も払《はら》わなかった。
キノシタは家を出て来る時持ってきた二〇ドルがどこまでもつかわからなかったが、行ける所まで行ってみようと思った。どうせ、タララにはもどれないのだし、ペルー国内は危険だった。アメリカ国内にもぐりこんでしまえばかえって安全かもしれない。
キノシタはコロンビアのブエナベンツラで、カリブ海に面したサバナラルガへ行くキャラバンをつかまえた。木棉《もめん》を輸送するトラック隊だった。キノシタは舟を三ドルで売り、キャラバンに運転手としてやとわれた。
ブエナベンツラでニカラグア行の密航船に乗った。コスタリカのニカラグア国境に近いサン・ファン・デル・ノルテの町で中国人のビザを買った。一〇ドル払《はら》って自分の写真もつけてもらった。キャラバンから報酬《ほうしゆう》として受け取った一〇ドルはそれで消えた。
キノシタは空港で強盗《ごうとう》をはたらき二〇ドルを手にした。その二〇ドルでふたたび密航船に乗った。
三か月後、キノシタがニューヨークにあらわれたときは、仏領インドシナ在住中国人の身分証明書とアメリカ軍放出の戦闘服《せんとうふく》上下に布靴《ぬのぐつ》。六〇ドルのかねを持っていた。それらは三回の強盗《ごうとう》と二回の置引《おきびき》によって獲《え》たものだった。
アメリカ本土はごった返していた。
アラスカへ上陸し、カナダへ侵入《しんにゆう》した日本軍は、大陸の西海岸を急速に南下しつつあったし、新たに大部隊がサンフランシスコ付近に上陸するのではないかと噂《うわさ》されていた。もう上陸しているというニュースもあった。
一方、東海岸では、ドイツ軍がカナダのハドソン湾《わん》の沿岸、二、三か所に小規模な上陸作戦をおこなったという、これは公式の軍発表があった。
厭戦《えんせん》気分はみなぎっていたし、実際に、街角などには、毎夜のように政府に降伏《こうふく》をうながすビラが貼《は》られた。
だが合衆国政府の戦争|継続《けいぞく》への意志は強固だった。海軍の艦艇《かんてい》と、国外に派遣《はけん》していた空軍と陸軍のすべては失ったけれども、本土には、百万の精鋭《せいえい》と五千輛《りよう》の戦車。それに加えて千二百機の爆撃機《ばくげきき》と戦闘機《せんとうき》が待機している。来たるべき決戦で、合衆国は必ず究極《きゆうきよく》の勝利をつかむであろう。そんなラジオ放送が昼も夜も流されていた。
百万の陸軍はたしかに存在したであろうが、装備《そうび》の大部分は、アジアやヨーロッパの戦場で失ってしまっていた。戦車も重砲《じゆうほう》も、ほとんど残っていないはずだった。本土内の兵器工場では、兵器の急速生産がおこなわれているということだったが、兵器工場の近くに住む人々は、それらの工場には、とうに電気が送られていないことを知っていた。
千二百機の飛行機など、どこにかくされているのか、誰《だれ》も爆音《ばくおん》すら聞いたことがなかった。
それにもかかわらず、なぜアメリカ合衆国政府は手を上げないのだろうか?
不審《ふしん》に思う人々は多かった。
日本でも、連合|艦隊《かんたい》や、太平洋総軍の上層部では、不審は不安に変りつつあった。何かあるぞ。そんな気配だった。
ニューヨークは毎夜、厳重な灯火管制が敷《し》かれていた。
灯火管制というのは、戸外に、わずかな灯火ももれないように、注意し、窓や入口も厚いカーテンなどでおおってしまうのだ。
これで全くの暗夜となる。月もなかったり、曇《くも》りの夜などでは、一メートル前に立っている人間も見えなくなる。東京で暮《くら》している人には、田舎《いなか》の夜は恐怖《きようふ》的でさえある。いっさいの灯が消え、かくされてしまうと、人間は完全に方向感覚を失う。つぎに自分自身の姿勢や体の傾《かたむ》きがわからなくなる。そして足を踏《ふ》み出すのが怖《こわ》くなり一歩も進めなくなる。
上空からは、ひとつの市街が完全に所在をくらましてしまうことになる。
のちにレーダーが発達すると、地形を判別し、地図と照合して暗闇《くらやみ》の市街を爆撃《ばくげき》することができるようになったが、レーダーが完成しないうちは、正確な航法と照明|弾《だん》だけが頼《たの》みの綱《つな》だった。
実際には、海岸に沿ってひろがり、横たわるニューヨークの巨大《きよだい》な市街などは、よほどぼんやりした偵察員《ていさついん》でもない限り、容易に発見は可能である。
ニューヨークばかりでなく、東海岸地方の、ちょっとした町でもすべてが灯火管制をおこなっている。
半年ほど前、ドイツ軍の長距離偵察機《ちようきよりていさつき》ユンカース88Rが、長い飛行雲を背後に曳《ひ》いて市の上空を飛び過ぎて以来、東海岸ではつねに灯火管制が敷《し》かれた。ドイツの偵察機は、ニューヨークの上空をゆうゆうと飛び回った。
潜水艦《せんすいかん》から発射されたものと思われる大型ロケット弾《だん》が、三番街に落下、多数の死者を出した。
長距離爆撃隊《ちようきよりばくげきたい》を持たない|ドイツ空軍《ルフト・ヴアツヘ》は、アメリカの残存工業力の主力地帯である東海岸に、いまだ有効な打撃《だげき》を与《あた》えられずにいた。
ニューヨークは西海岸や、ロッキー山脈の東側|山麓《さんろく》地方から避難《ひなん》してきた人々もふくめ、人口は六百万に達しようとしていた。
アメリカ人にしてみれば、得体の知れぬ東洋人よりも、同じキリスト教徒であり、白人であるドイツ人の方が、自分の運命をゆだねるにはふさわしい相手であると思っているようだった。たとえ、ナチス・ドイツでも、ヨーロッパの一国である。アメリカ合衆国とは親戚《しんせき》のようなものだ、とする考えが、いざとなったら、ドイツにすがろうとする気持ちになり変っていた。
アメリカとヨーロッパ。アメリカとアジア。ヨーロッパとアジア。これらの関係を考える時、いつでも、どこかで考えておかなければならないのは、キリスト教を信ずる白人同士という、歴史的な血盟《けつめい》感覚である。ことに国際的な利害がからむ時は、なおさらである。この、アジアをアフリカに変えてもよい、意味するところは全く同じである。文化と文明というものは、見えない所で、人間を鉄の鎖《くさり》のように縛《しば》りつけている。その単純な図式の中に、二千年の歴史が息づいている。
一九四五年七月六日。キノシタは街路に新聞売りが姿をあらわすのを待ちかねて、外へ出た。
外へ出て、三十分ほどぶらぶらしていると、新聞売りの老人が姿をあらわした。
ニューヨーク・タイムスは、タブロイド判八ページになっていた。
いそいで目を走らせた。
「電話番号が載《の》っていると言ったっけな」
すみからすみまで目を通した。
広告|欄《らん》を探す。電話番号らしいものの告知はどこにもなかった。
久留米|大尉《たいい》の言葉が間違《まちが》っていたのだろうか。
それとも、彼らの機関が忘れてしまったのだろうか。
そんなことはあるまい。キノシタは、自分の体験からも、諜報《ちようほう》機関では、どんな場合でも忘れる、という生理現象は許されないし、有り得ない。してみると、これは知らせることができない何か他の理由があったのだろう。
キノシタはセントラル・パークで、浮浪者《ふろうしや》をよそおって一日を過した。
夜はひどく冷えた。キノシタは他の浮浪者たちと一緒《いつしよ》に、公園のたき火を囲んで過した。
翌朝、またニューヨーク・タイムスを買った。
昨日《きのう》と同じように、今日も連絡《れんらく》らしいものはない。
キノシタは憂鬱《ゆううつ》になった。
だまされたような気がした。
タララの町にはいられないにしても、何もはるばるとニューヨークまで来ることはなかった。
もう一度、ニューヨーク・タイムスをすみからすみまで目を通した。
ふと、キノシタの目が細くなった。するどい視線が紙面にそそがれた。
二面の下の欄外《らんがい》に、鉛筆《えんぴつ》で数字が書きこまれていた。
誰《だれ》かが、馬券のナンバーでも忘れないようにメモしたのだろうか? いや。けた数が多い。
DCX三九二〇八三〇
自動車のナンバーでもない。
「そうだ! これは電話番号だ」
久留米|大尉《たいい》が言ったことは、このことなのだろうか?
キノシタはそっと周囲を見回した。
公園内にはたくさんの人がいたが、キノシタに目を向けている人間はいなかった。
あの新聞売りの老人だ!
キノシタはいそいで公園の入口へもどった。
新聞売りはそこにいたが、老人ではなく、少年に変っていた。
キノシタは少年にたずねた。
「ここで、さっきまで新聞を売っていたおじいさんは、どこに住んでいるの?」
「おじいさん? 知らないよ。ここはおれの場所だよ。おれのほかに、ここで新聞を売るやつなんて、いねえよ」
新聞売子には、きまった縄張《なわば》りがあるらしい。
キノシタはその場を離《はな》れた。
おそらく、あの老人も諜報《ちようほう》機関の一人なのであろう。そうだとすれば、住所だの姓名《せいめい》だのわかるはずもないし、そんなことを探ろうとするのは危険だった。
キノシタは公衆電話ボックスへ入り、新聞紙の片すみに走り書された数字を回した。
電話機の奥《おく》で、かすかに、カチ……カチ……とリレーしてゆく音が聞えた。
息を呑《の》んでようすをうかがっているキノシタの耳に、やさしい女性の声が流れこんできた。
「こちらはセント・アンドリュー牧師館でございます。あなたのために御祈《おいの》りいたします」
「ありがとうございます。私はタララからやって来ました。有難い御言葉《おことば》を聞きたいと思いましてね」
電話機の向う側の声には、何の反応もあらわれなかった。
「それは御苦労《ごくろう》さまでした。ちょっとお待ちください。今、牧師さまにうかがってまいりますから」
待つほどもなく、声が流れ出た。
「牧師さまの御言葉を御つたえいたしましょう。あなたはリンデンの十一番街と十二番街との交叉点《こうさてん》にあるホテル、プリンシパル・プラザに宿泊《しゆくはく》してください。明日あたり、あなたにプレゼントが届くでしょう。そのプレゼントにはカードがついています。そのカードをよく読むこと。神の祝福がありますように」
電話は切れた。
キノシタはバスでリンデン地区へ向った。
ホテルはすぐに見つかった。ホテルというよりも、アメリカの都市にはふつうに見られる食事付の下宿屋的ホテルのようだった。
受付の窓口で申し込むと、身分証明書も見ずに、奥《おく》の一|部屋《へや》へ案内してくれた。すでに一週間分の料金は前払《まえばら》いされているという。
このホテルも、スパイ組織の一環《いつかん》なのか、それとも、ただ舞台《ぶたい》に使われているだけなのか、キノシタにはわからなかった。
夜の食堂では四人の宿泊客《しゆくはくきやく》が顔を合わせた。
東洋人が三人と白人が一人だった。
白人はラテン系の軍人だった。アメリカ海兵隊の制服を着てはいるが、階級章はつけていない。武官ではないのかもしれない。キノシタはこの男に注意することにした。
翌日、キノシタが昼食を取りに外へ出て、部屋へもどって来ると、荷物が届いていた。
一メートル四方ほどの段ボール箱《ばこ》を開き、パッキングの古新聞紙の束《たば》を取りのぞくと、中から、えたいの知れぬ金属製の物体があらわれた。縦も横も三、四〇センチほどの、何に使うものか想像もつかない物体だった。オートバイのエンジンにパイプオルガンの模型を糊付《のりづ》けし、それを管《パイプ》でぐるぐる巻きにしたような物体だった。
≪一、この装置《そうち》の一方の半月型|突起《とつき》の下に黒い円型の押《お》しボタンがある。
二、電話の特別な指示により、あなたはそのボタンを押す。
あなたの任務はそれだけだ。なお、この物体は爆発物《ばくはつぶつ》ではないから、落着いて確実に、操作すること。なお、これ以後、あなたはこのホテルから出てはいけない≫
白いカードにはそう記されていた。
6――A・B
一九四五年。昭和二十年八月五日。ハワイ諸島は、日本|帝国《ていこく》海軍の大艦隊《だいかんたい》によって厳戒《げんかい》体制が敷《し》かれていた。
第一航空|艦隊《かんたい》。第二航空艦隊の二つの機動部隊を中心とする連合艦隊は、世界第一の巨艦《きよかん》である戦艦《せんかん》大和《やまと》、武蔵《むさし》、紀伊《きい》、尾張《おわり》まで総動員して空母部隊を援護《えんご》し、その耳目をはるかにアメリカ本土に集中していた。
魚雷《ぎよらい》や砲熕兵装《ほうこうへいそう》をおろし、そのかわりにすぐれたレーダーを搭載《とうさい》したレーダー・ピケット潜水艦《せんすいかん》のむれは、すでにアラスカからパナマ運河にいたるアメリカ大陸西海岸全域の沖合《おきあい》まで進出、展開を終っていた。
ハワイ諸島の東端《とうたん》、ハワイ島は、その厳しい緊張《きんちよう》の焦点《しようてん》になっていた。
ハワイ島には、南に、海抜《かいばつ》四一七一メートルのマウナロア。北に、海抜四二〇二メートルのマウナケアという二つの大火山がそびえている。さらにその東には、現在でも激《はげ》しく活動しているキラウエア火山がある。キラウエアの方は、高さこそ一二四七メートルと、前者の二つの火山にくらべてかなり低いが、現在、世界各地で活動中の幾《いく》つかの火山の中で、もっともエネルギッシュに噴火《ふんか》活動をおこなっている。その火の大河ともいうべき華麗《かれい》かつ不気味な熔岩流《ようがんりゆう》は、テレビのニュースなどでもわが国にはしばしば報道されている。
ハワイ島は、四国の半分ほどの大きさしかないが、その島の内部に四〇〇〇メートルという高山を二つも収めているということで、世界でも類がない壮大《そうだい》な景観を持っている。
マウナロアにしろ、マウナケアにしろ、現地へ行って、そんな高山とも思えないのは、山頂から海岸へ向ってゆるやかにのびた雄大な裾野《すその》のせいである。四〇〇〇メートルの高山というと、ヨーロッパ・アルプスや、ヒマラヤ山脈の前衛の山々のような、きびしく削《そ》ぎ落したようなけわしい山容を思い浮《う》かべるのがふつうだが、ハワイ諸島のような海底火山によって生じた島々では、流れ出した熔岩の性質で、内陸性の山々とはまるで山容の異った高山が出現するのである。これらの火山は、噴《ふ》き出す熔岩《ようがん》が極めて粘性《ねんせい》にとぼしく、水のように流れるから、そこにひろびろとした熔岩台地ができ上る。
そのマウナケアとマウナロアの二つの火山の作る広大な谷間が、西へ向ってひろがる熔岩台地、アレヌイハハ高原に、一本の長大な滑走路《かつそうろ》がのびていた。
海からの風は、つねに風速七、八メートル。時に一〇メートルでアレヌイハハ高原を吹《ふ》き上げてゆく。
染めたような青い空を、純白の飛行雲が四本、白線を描いてゆく。爆音《ばくおん》は全く聞えない。高度一万メートル以上であろう。
警戒《けいかい》の戦闘機隊《せんとうきたい》である。
正午を少し過ぎた頃《ころ》、それまで静まりかえっていた滑走路の周辺がにわかに騒然《そうぜん》となった。たくさんの人影《ひとかげ》と多数の車輛《しやりよう》が走り回り、合図の号笛《ホイツスル》が交錯した。
谷間の奥《おく》の、裾野《すその》の一部としか思えなかったブッシュの一角が大きく開かれた。
鉄柱と|偽 装 網《カモフラージユ・ネツト》で作られたハンガーから、巨大《きよだい》な航空機の機体の一部がのぞいた。
数台の大型トラクターが近づいていった。
偽装網《ぎそうもう》がさらに巻き上げられ、トラクターからのばされたワイヤーが、機体のどこかに結びつけられた。
トラクターのエンジンが咆哮《ほうこう》すると、巨大な航空機は、少しずつ、滑走路《かつそうろ》上に引き出されてきた。
黄色に塗《ぬ》られた四式回|転翼機《かいてんよくき》が、低空を旋回《せんかい》しながら作業を指揮していた。
いったん滑走路《かつそうろ》上に引き出したものを、次には、滑走路の後端《こうたん》まで押《お》し下げる。
滑走路を端《はし》から端まで、いっぱいに使うためだった。
やがて、それはハワイの風を受け、はるかにかがやく太平洋の水平線をにらんで、雄大な双翼《そうよく》を張ったのであった。
はじめてそれを目にする者も、すでに何回か目にした者も、ひとしく息を呑《の》み、魂《たましい》を奪《うば》われて見つめつづけるのだった。
あまり長い間、あお向いていたので首すじが痛くなってくる。
ようやくわれにかえって自分で首すじをたたく。
それからようやく深い感嘆《かんたん》の声が上るのだった。
それは巨大《きよだい》な恐竜《きようりゆう》のように人々の上にそびえ立ち、鎌首《かまくび》をもたげ、圧倒《あつとう》的に君臨していた。
「これが≪富嶽《ふがく》≫か!」
「アメリカ大陸|爆撃機《ばくげきき》だな」
「世界一の巨人機《きよじんき》だな」
人々の口から、いっせいに同じ言葉がもれた。
超《ちよう》 重爆撃機《じゆうばくげきき》≪富嶽≫。
中島飛行機会社の創立者、中島知久平《なかじまちくへい》氏は、昭和十七年末、『必勝防空計画』なる極めて独創的な案を立て、自ら計画委員長となって陸海軍大臣をふくむ広範囲《こうはんい》な委員会を組織した。
その目指すところは、アメリカ本土を自由に爆撃することができる六発の巨人爆撃機の建造と戦力化だった。
中島知久平氏は、日本陸海軍の爆撃機《ばくげきき》設計方針に当初から深い疑念を抱《いだ》いていた。
それは日本陸軍の航空隊では、陸軍全体の基本戦略ともいうべき対ソ戦構想にのっとって、爆撃機は満ソ国境での敵地上部隊に対する攻撃《こうげき》と、戦線後方の飛行場爆撃、そして情況《じようきよう》によってはシベリヤ鉄道の破壊《はかい》をその任務とされた。この要求をかなえる爆撃機は、高速の戦術爆撃機である。
一〇〇〇馬力エンジン双発《そうはつ》。翼《よく》面積七〇平方メートルクラス。全備重量一〇トン程度の双発爆撃機だと、アメリカにはマーチンB26、ノース・アメリカンB25。イギリスにはブリストル・ブレニム。ハンドレーページ・ハンプデン。ドイツにはユンカースJU88、ドルニエDO217などの、軽快な戦術爆撃機がそろっていた。当時、これらは中型爆撃機と呼ばれ、低、中高度からの戦場爆撃を任務としていた。それに対して、大量の爆弾《ばくだん》を積み長距離《ちようきより》を進攻《しんこう》する大型の爆撃機が存在した。これはあくまで戦略的目標の攻撃《こうげき》を任務とし、大空中|艦隊《かんたい》を構成する。アメリカのボーイングB29をその代表格に、同じくボーイングB17。コンソリデーテッドB24。イギリスのアブロ・ランカスター。ハンドレーページ・ハリファックスなど、まさに戦略|爆撃機《ばくげきき》の名にふさわしいものであった。
世界的にヘビィ・ボンバーとよばれるいわゆる重爆撃機とはこのクラスである。
日本は、先にあげた中型戦術爆撃機のカテゴリーに入る九七式、一式『呑竜《どんりゆう》』、四式『飛竜《ひりゆう》』などの爆撃機を、重爆撃機と呼び、爆撃戦力として整備していた。
また海軍の陸上攻撃機は、日中戦争の初期に、東シナ海を飛びこえて、中国大陸に対していわゆる渡洋《とよう》爆撃をおこなったがこれも戦略爆撃とよべるようなものではなく、そもそも、この海軍の陸攻《りつこう》は魚雷《ぎよらい》をかかえて敵の艦船《かんせん》を襲撃《しゆうげき》する雷撃機《らいげきき》であり、その意味では純粋《じゆんすい》の戦術機であった。
アメリカやイギリスの空軍戦略と整備方針を見るにつけても、わが国の方針に憂慮《ゆうりよ》する関係者は多かった。特に一九三〇年代も半ばを過ぎる頃《ころ》から有力な爆撃隊《ばくげきたい》を中心とする大空軍は、理想論というよりも現実的希求として列強の間でその建設が論議され、具現がいそがれていた。
たとえそれがわかっていたとしても、経済的に極めて貧困だった当時のわが国に、本格的な爆撃隊を建設することができたとは思えない。
このようないきさつを心配した中島知久平氏は、敵国の心臓部《しんぞうぶ》に決定的な痛撃《つうげき》を与《あた》え得る超重爆撃機こそ、一国の戦力の中核《ちゆうかく》を形成するものだという信念を、現実に形にすべく、自らの計画を軍部に提示したのだった。
その計画は、≪Z計画≫ともよばれた。アルファベットの最後の文字を当てることによって、これ以上の案はないという自信の程《ほど》を見せたものだった。
設計図に盛《も》りこまれた内容は、
主翼《しゆよく》の全幅《ぜんぷく》、五五メートル。全長、三六メートル。主翼面積二四〇平方メートル。全備重量一四五トン。
この巨体《きよたい》を支えるエンジンがすごい。
離昇《りしよう》出力二五〇〇馬力を串型《くしがた》に結合した≪八―四四≫五〇〇〇馬力を六基。合計馬力、三万馬力。
それによって、高度六六〇〇メートルで最大速力、七二〇キロ時。爆弾《ばくだん》二〇トンを搭載《とうさい》して航続|距離《きより》一万三七〇〇キロメートル。爆弾なしで一万八三〇〇キロメートル。
これをアメリカのB29戦略|爆撃機《ばくげきき》と比較《ひかく》すると、爆弾搭載量は五倍。航続距離は三倍。主翼《しゆよく》面積が二倍強であり、まさに夢《ゆめ》の爆撃機である。SF的とでもいおうか。太平洋戦争前に書かれた海野十三《うんのじゆうざ》や平田晋策《ひらたしんさく》の空想未来戦小説に登場してくる巨人《きよじん》爆撃機そのものであった。
中島知久平氏のこの計画に、最初のうちはむしろ迷惑顔《めいわくがお》だった陸海軍も、やがて本気になってこの計画に参加するようになった。
帝国《ていこく》陸海軍の上層部が、戦略爆撃機の有用性に気がついた時には、わが国の直面する戦況《せんきよう》は決定的に破局へ向っていた。連日連夜、大編隊をもってわが本土上空をわがもの顔に飛び回るB29爆撃機《ばくげきき》や、鉄道、港湾施設《こうわんしせつ》、市街地などをシラミつぶしに爆撃してまわる機動部隊艦載機《かんさいき》などを迎撃《げいげき》するために、わが国は、とるものもとりあえず、戦闘機《せんとうき》を大量生産することになり、というよりも、しなければならない状態になり、合わせて、アルミニウム、ゴム、錫《すず》などをはじめとする戦略物資の欠乏《けつぼう》、さらには石油燃料の絶望的|枯渇《こかつ》などによって、まぼろしの超《ちよう》重爆撃はついにまぼろしのままに終ったのであった。
その、まぼろしの超重爆撃機が、ここに登場した。
譲介《じようすけ》もシェクスピア少佐《しようさ》も、他の多くの兵士たちも、声もなく、この巨人《きよじん》爆撃機を見上げ、うめくばかりだった。
極秘中の極秘だったはずの、この≪Z計画≫も、戦艦《せんかん》≪大和《やまと》≫や≪武蔵《むさし》≫の例にもれず、当時、国民の間に、かなりの確度でもれていたようだった。
譲介の小学校の同級生で、軍事科学に造詣《ぞうけい》の深い少年がいた。ある時、譲介が彼から借りた雑誌に、画用紙に描《えが》かれた飛行機の三面図がはさまれていた。
それは、譲介の全く知らないシルエットを持った機体だった。それは主翼《しゆよく》の前縁《ぜんえん》に、左右それぞれ三基のエンジンがならび、機体のあちこちに銃塔《じゆうとう》を配備した美しい巨人機《きよじんき》だった。
雑誌を返す時、譲介はその三面図が、どこの国の、なんという機体であるのかをたずねた。
「ああ。これは今日本が極秘で作っている超重爆《ちようじゆうばく》だ。≪|Z《ゼツト》≫というんだ」
友人はとくいそうに言った。
譲介はしばらくの間言葉も忘れて、その三面図を見つめた。
未知の知識に触《ふ》れた興奮とともに、そのような機密を知ることができる彼に、強烈なしっとを感じたのだった。
その六発の超重爆撃機が、現実に目の前に、その長大な翼《つばさ》を張っていた。
「搭乗員《とうじよういん》集合! 第一|待機所《ビスト》」
号笛《ホイツスル》が鳴りひびき、スピーカーがさけんだ。
谷間に設けられた仮設キャンプの中の第一|待機所《ビスト》は、たちまち搭乗員《とうじよういん》でいっぱいになった。
点呼《てんこ》の声が交錯《こうさく》した。
「気をつけ! 休め! 気をつけ! これより第一航空兵団長|西条《さいじよう》閣下より訓辞を賜《たま》わる」
飛行隊長の緊張《きんちよう》しきった声が、ハワイの乾《かわ》いて澄《す》みきった空に融《と》けこんでいった。
つるのようにやせた初老の中将が壇上《だんじよう》に登った。
「頭《かしら》アアア、中《なか》アッ!」
素頓狂《すつとんきよう》な声が突《つ》っ走る。
ひどく疲《つか》れた感じの中将は、防暑帽《ぼうしよぼう》のつばに右手先を軽くあて、居ならんだ兵士の上に視線をめぐらせた。
「ウオッホン。ホン!」
中将はまずから咳《せき》をくれた。
「諸氏よ。戦況《せんきよう》は今や最後の段階に立ち至った……」
女のような声で、キイキイとさけぶ。
だが誰《だれ》も笑わなかった。
「畏《おそ》れ多くもわが大君の御稜威《みいつ》あまねきところ、皇国の勝利は既《すで》に定まったるところとは言いながら、なおまつろわぬ者どもの無駄《むだ》な抗《あらが》いも、執拗《しつよう》を極めておる。もはや、これ以上に宸襟《しんきん》をなやましたてまつることはわれら防人《さきもり》として、とうてい黙過《もつか》し難いところである。ゆえに、われわれはここに断々乎《だんだんこ》として彼らに膺懲《ようちよう》の大鉄槌《だいてつつい》を下すことになった……」
将軍はおのれの言葉に酔《よ》ったか、悲壮《ひそう》な声を張り上げて絶句し、両眼からなみだをほとばしらせた。
「だからなんだってんだよ」
「さっさと用件を言いなよ。用件を」
戦場往来の古兵《こへい》たちは、肩《かた》をすくめて、ささやき合った。
ところが大鉄槌を下すところで話は終ってしまった。
ふたたび、
「頭《かしら》アアアアッ中《なか》アアアアッ!」
に送られて壇《だん》から下りた。
つづいて毎日顔を見ている大尉《たいい》が壇上《だんじよう》に立った。
「これより、≪富嶽《ふがく》≫をもってアメリカ本土を爆撃《ばくげき》する」
室内の空気は、凍《こお》りついた。
わかっていたような気もするし、夢《ゆめ》のようでもあった。
「搭乗割《とうじようわり》を発表する。機長兼|操縦《そうじゆう》はシドニー・クールヘル・シェクスピア少佐《しようさ》。本任務に就《つ》くに当り、特に元の階級にもどす。機上|射撃《しやげき》。二等兵千葉|譲介《じようすけ》。他の者は待機。以上」
譲介は耳を疑った。
それは自分がえらばれたということはともかく、この人類始って以来の超巨人爆撃機《ちようきよじんばくげきき》を、たった二人で飛ばすことができるのだろうか?
いや。おそらく、他の乗組員は別な基地で任命されているのだろうと思った。
シェクスピア少佐と譲介の二人だけをそこへ残して、他の者たちは解散した。解散したといっても、これまでのように、急ににぎやかな話し声や笑い声が爆発《ばくはつ》するということもなく、ただちに、はげしい訓練が与《あた》えられ、幾《いく》つもの集団に分れてどこかへ走り去った。
待機所の内部はしいんと静まり返った。
「やあ。おめでとう。きみの名誉《めいよ》は歴史に残るだろう」
大尉《たいい》はおもねるように言った。
「何か質問は?」
シェクスピア少佐《しようさ》が首をかしげた。
「われわれ二人だけか?」
「そうだ」
「それはナンセンスだ。このモンスターを二人であやつることは不可能だ。他の乗組員《クルー》はどうしたか?」
「少佐。質問はもっともだ。さすが、英国王立飛行隊《ローヤル・エア・フオース》出身である。だが、その心配は全く無用だ。これは軍最高機密だが、この≪富嶽《ふがく》≫は、極めて精巧《せいこう》な自動操縦装置《そうじゆうそうち》が装備《そうび》されている。これは、もっとも優秀《ゆうしゆう》なる電気計算機の、さらに数層倍もの性能を持つ計算機だ。電子計算機とでもいったらよいだろうか。その機械が、操縦の一部を分担する。一定コースを巡航《じゆんこう》するような場合だったら、操縦士は操縦桿《ステツク》には全く手を触《ふ》れる必要はない。少佐は無線はあつかえるな。操縦と通信は少佐の分担だ。千葉二等兵は射撃《しやげき》に専念しろ。いいな。この任務は絶対に成功させねばならん。防禦《ぼうぎよ》兵器は特に重要だぞ」
「防禦兵装は、尾部銃座《びぶじゆうざ》だけでありますか?」
譲介はたずねた。
「うむ。今度の任務は、高度一万一〇〇〇メートルで進攻《しんこう》する。アメリカには、この高度で迎撃戦闘《げいげきせんとう》をおこない得る防空戦闘機は存在しない。たとえ、一機か二機が上昇《じようしよう》してきたとしても、後方からヨタヨタとついてくるだけだ。これは尾部銃座にとっては絶好の餌食《えじき》であろうが」
シェクスピア少佐《しようさ》は眉《まゆ》をひそめた。
「他の乗組員《クルー》はいつ乗るのか? 私の質問にはまだ答えていない」
「他の乗組員など、来ない!」
「すると、ぼくらは二人でこの任務《フライト》に当るのか?」
「そうだ。自動操縦装置《そうじゆうそうち》の説明は聞いていなかったのか」
「乱暴だ。二人で何ができる。いや、一機でアメリカまで飛んでいって、何程の効果があるのか」
シェクスピア少佐《しようさ》の顔に血の気が上った。
「その説明はのちにするつもりだったが、実はこの爆撃行《ばくげきこう》は、空前絶後のものだ。戦闘機《せんとうき》の援護《えんご》もなく、敵防空陣《ぼうくうじん》の作る槍《やり》ぶすまが懐《なつか》しい。シェクスピア少佐、ただ一機で、と言ったな。だが、この一機が搭載《とうさい》してゆく爆弾《ばくだん》のおそろしさこそ、まさに地獄《じごく》的である……」
軍人特有の美辞麗句《びじれいく》、大言壮語《たいげんそうご》のたぐいであろうと思っていたが、その次の言葉が、譲介を震《ふる》え上らせた。
「この爆弾は、マッチ箱《ばこ》の大きさで、大都会ひとつを吹《ふ》っ飛ばす、という、例の爆弾である!」
譲介は耳を疑った。そっと隣《となり》のシェクスピア少佐の顔をうかがうと、近頃《ちかごろ》ようやく日本語が達者になってきた少佐《しようさ》の顔は、土気色《つちけいろ》になっていた。
≪そうか! ついに、世界に先がけて日本がやったのか!≫
ドス黒い興奮がわき上ってきた。
シェクスピア少佐は、譲介とは全く異った種類の不安で胸を押《お》しつぶされていたに違《ちが》いない。
その爆弾《ばくだん》の出現によって、イギリスもアメリカも、完全に同盟国それも日本の足下に、永久にひれ伏《ふ》さなければならなくなったのだ。
「ゴッド……」
シェクスピア少佐《しようさ》は、そうつぶやいて目を閉じた。
「出動準備が完了《かんりよう》次第、発進するが、搭乗員《とうじよういん》はただちに機内に入れ。他の者は解散!」
単機行動だから、編隊どうしや、各個機の間での打ち合わせも何も必要ない。
「飛行隊長! 無理じゃありませんか! いきなり、これまでに触《さわ》ったこともない機体をあてがわれて、さあ、爆撃《ばくげき》だ進攻《しんこう》だなどと言われても、操縦できませんよ。これは技術の問題だ」
シェクスピア少佐《しようさ》の、甲高《かんだか》い怒声《どせい》が聞えた。
少佐の言葉は当然だった。
しかも、それが世界一の六発|巨人爆撃機《きよじんばくげきき》で、それを二人で、実質的には一人で操縦桿《ステツク》を握《にぎ》り、とほうもない爆撃作戦をやらせるというのだ。
「シェクスピア少佐。実はこの≪富嶽《ふがく》≫の存在は極秘中の極秘だった。どこに敵のスパイの目が光っているかわからない。いや、うわさはうわさをよんで、連合国側のスパイは、かなり多数、わが国内や戦線内に入りこんできている。そのため、≪富嶽≫はシベリアの奥地《おくち》でテスト飛行をおこなわなければならなかった。残念ながら、きみたちに一回の演習飛行さえ体験させることなしに、この作戦を命じなければならぬことになった。まことにすまん。だが、先程も言ったように、この巨人機は、非常にくせがよい。単独飛行が許されたばかりの少年航空兵ですら、練習機を操縦するよりも楽に飛ばせることができるのだ。いいな。その点をわかってほしい」
「それでは一回だけでも、離着陸《りちやくりく》のトレーニングをさせてください」
「いや、少佐《しようさ》。それがそういうわけにもいかんのだ。≪富嶽《ふがく》≫の降着|装置《そうち》は見たとおりの三車輪式で、タイヤはダブルになっているが、いったん飛び上ったら、三つの車輪のどれもが、タイヤをひとつずつ落し、身軽になって上昇《じようしよう》するのだ。今、ここに至って離着陸の訓練は、許すことはできない」
「一回ぐらいいいだろう」
「少佐。代りの車輪をとりつけるのに、六時間はかかる。それに、着陸するためには搭載《とうさい》している燃料をすべて抜《ぬ》かなければならぬ。もはや、その時間的|余裕《よゆう》はない。なにしろ、これは特攻《とつこう》作戦なのだ」
「特攻作戦?」
「うむ。特別攻撃隊による作戦。すなわち特攻作戦である」
「なんだ? その特攻作戦とは?」
「わが生命をもって敵と刺《さ》しちがえ、わが肉体を爆弾《ばくだん》となして敵にぶつけることだ。これぞ、攻撃《こうげき》精神の神髄《しんずい》だ」
「攻撃精神はいいが、それでは自殺部隊ではないか」
「いや、単なる自殺部隊ではない。一死報国、たとえ一命はそこで終っても、魂《たましい》は永遠に生きるのだ」
シェクスピア少佐《しようさ》は肩《かた》をすくめた。両手を開いて顔をしかめた。
「飛行隊長。はっきりしてくれ。これは自殺|攻撃《こうげき》なのか?」
「そうではない。特攻《とつこう》だ」
「飛行隊長。あんたはわかっていないようだな。これは言葉の問題ではないのだ。わしら二人は生還《せいかん》できないのか? 物理的に」
「生還できるとも! だが、生還するつもりでは、完全な攻撃はできない」
「そんなことはわしら二人の心の中のことで、あんたに強制される筋合いのものではないさ。完全な成果を得て、かつ還《かえ》って来れば文句はなかろう」
「少佐。とにかく成功を祈《いの》っているぞ」
それ以上の議論を避《さ》けたか飛行隊長はそそくさと立ち去った。
「妙《みよう》だな」
シェクスピア少佐《しようさ》はつぶやいた。
「え? なにが?」
「ジョースケ。この作戦には何か裏がありそうだ。気をつけた方がいいぞ」
シェクスピア少佐《しようさ》は、青い目に不安の色をたたえ、飛行隊長の去った方向を見つめていた。
午前五時。
ハワイの空は完全に明け放たれ、染めたような青い空に、海の雄大な積乱雲がそびえ立っていた。
巨人爆撃機《きよじんばくげきき》≪富嶽《ふがく》≫の下腹は大きく開かれ、今、トラクターに曳《ひ》かれた大きな爆弾《ばくだん》が一個、運ばれてきた。
その爆弾は長さの割合におそろしく太く、直径は二メートルを越《こ》すかと思われた。
爆撃機の爆弾倉《ばくだんそう》からクレーンが下ってきて、そのずんぐりした爆弾を引き上げた。
「ずいぶん重そうだな」
「これ一発で約五トンだとよ」
「この爆弾《ばくだん》は、ラジウム爆弾というんだそうだ」
「ラジウム? へえ。すると、温泉なんかにあるだろ。ラジウム温泉ていうの。あれと同じなのかな?」
「さあな。そのラジウムとかいうものが、いっぱいつまっているらしいや。それがドカンと爆発《ばくはつ》すると、東京ぐらい一発で吹《ふ》っ飛んじまうんだと」
「マッチ箱《ばこ》ぐらいの大きさで、というのはうそだったんだな」
ラジウム爆弾《ばくだん》だ!
ラジウム爆弾だ!
基地の中には、たちまちその名称がひろがった。
ラジウムとは何なのか、マッチ箱ほどの大きさの爆弾でひとつの都会が吹き飛ぶということがどういうことなのか、何もわかってはいないし、またそれを考えることができるだけの予備知識があるわけでもなかった。
ラジウム爆弾だ!
ラジウム爆弾だ!
その声の中で、≪富嶽《ふがく》≫はいよいよスタート・ラインに進んだ。
五〇〇〇馬力エンジン六基。正確には二五〇〇馬力エンジン十二基。
そのエンジンを二基一組のナセルにおさめ、左右反対方向へ回るそれぞれ四翅《し》のプロペラを、傲然《ごうぜん》と回転させ、ゆっくりとすべり出した。
パン! パン、パン!
排気《はいき》タービンから真紅《しんく》のほのおが噴《ふ》き出した。
「チョークよし! ブースト。よし! フル・ア・ヘッド・ゴー・オン!」
シェクスピア少佐《しようさ》は、重い操縦桿《ステツク》をゆっくりと引き、エンジンの回転数を上げていった。
飛行機とは思えない、まるで海峡《ドーバー・》連絡船《フエリー》の上|甲板《かんぱん》としか思えない広大な主翼《しゆよく》や胴体《どうたい》は、地上を走っているというよりも、海面を押《お》し渡《わた》ってゆく感じだった。
時おり、足元から伝ってくるゴト、ゴトという車輪の振動《しんどう》は、列車のようだった。
機尾《きび》の銃座《じゆうざ》に着いている譲介は気が気ではなかった。
機尾の、二〇ミリ機関砲《きかんほう》の四連装砲塔《よんれんそうほうとう》からの眺望《ちようぼう》は素晴《すば》らしかった。
そこから見ていると、周囲の風景はどんどん後へ流れてゆく。地面までの高さは全く変っていないのに、視野の左右に青い海が入りはじめた。
機尾から見てそうなのだから、機首の操縦席から見たら、前方は全く海だけであろう。
一瞬《いつしゆん》、譲介の胸を恐怖《きようふ》がはしった。
今なら間に合うだろう。
いそいで座席ベルトをはずそうとした。
座席のかたわらのレバーを引けば、座席ごと機体から落ちるようになっていた。ベルトがなかなかはずれない。
ようやく留金《とめがね》をはずして、レバーに手をかけたとたんに、眼下を青い海面が流れた。
高度は一〇メートルぐらいだった。
そのまま海面へ突《つ》っ込むのか、それとも、上昇《じようしよう》しはじめるのか、心臓の止るような何秒間かが過ぎた。
だが、海面はゆっくりと低くなっていった。
手の届く所にあった海面が、急速に青一色のカーペットになり、同時にハワイ島全体が目に入ってきた。
浮《う》いたぞ!
離陸《りりく》成功だ!
譲介はインターフォンのスイッチを押《お》してさけんだ。
「やった! 少佐《しようさ》。うまいぞ!」
インターフォンから太い吐息《といき》がもれてきた。
「いやあ、まいった。もうだめかと思ったよ。滑走路《かつそうろ》の長さが、もう五〇〇メートルはほしい。一〇〇〇メートルあれば、絶対|大丈夫《だいじようぶ》だが」
「たのんだよ」
「そっちもな」
機体はゆっくりと上昇をつづける。
「こっちへ来られるといいんだが」
シェクスピア少佐の、やや緊張《きんちよう》を解いた声が聞えた。
≪富嶽《ふがく》≫の太い胴体《どうたい》は、機首から機尾《きび》まで、自由に通行することができた。
だが、この機体は操縦席と機尾|銃座《じゆうざ》は完全に遮断《しやだん》され、二人は別々に封《ふう》じこめられていた。
気密構造が十分でなかったとかで、いったんドアを開くと、もとのような気密をたもてないということだった。
もちろん、電熱|装置《そうち》つきの航空服で、エア・マスクを着ければ、高度一万五〇〇〇メートルでの飛行を、何時間でもつづけることができるのだが、それは当然のことながら、大きな疲労《ひろう》をともなった。
薄《うす》いシャツで、自由に動き回ることができる与圧装置《よあつそうち》つきの気密室で過す時間の方が楽にきまっている。
「しかたがない。ま、必要のある時まで、シーリングは破らずにおこうや」
少佐《しようさ》の口笛《くちぶえ》がインターフォンからもれてきた。
一時間後、高度一万メートルに達した。
さらに一時間をついやして、高度一万五〇〇〇メートルに上昇《じようしよう》した。
「自動《オート・》操縦装置《パイロツト》に入る」
シェクスピア少佐《しようさ》の合図があった。
≪富嶽《ふがく》≫は、巡航《じゆんこう》速度、五五〇キロメートルで、一路アメリカ本土を目指した。
強い偏西風《へんせいふう》に乗り、巡航速度で七五〇キロメートルに達する高速で、四時間後、早くもアメリカ大陸西岸を指呼《しこ》の間に望む地点に達した。
≪富嶽≫がハワイ島を離陸《りりく》した時点で、アメリカ側はなんらかの手段でそれを知ったらしい。おそらく、島の沖合に張りついていた哨戒《しようかい》の潜水艦《せんすいかん》であろう。
その頃《ころ》から、アメリカ全土の通信用電波が完全な管制下に置かれた。そのため、有線通信の使用が激増し、二時間後にはすべての有線通信も閉鎖《へいさ》された。
≪富嶽≫はメキシコ領のバハカリフォルニア半島を、サンルカス岬《みさき》の北方で横断し、西シエラマドレ山脈の上空へと侵入《しんにゆう》して行った。
高度一万五〇〇〇メートルでリオグランデ河上空を越《こ》え、国境をはるか眼下に見て、一時間後には早くもダラス上空を通過、アーカンソーへ入った。コースはテネシー州のナッシュビル、さらにアパラチア山脈に沿って東北方へ向い、ハンチントン、アルツーナからウイルクスバレーへ出て、東へ変針し、一気にニューヨークを衝《つ》くコースだった。
とつぜん、警急《スクランブル》ブザーが鳴った。
同時にインターフォンからシェクスピア少佐《しようさ》の声が流れ出た。
「レーダーに上昇《じようしよう》してくる目標が映っているぞ。右下方。二時の方向だ」
譲介《じようすけ》は銃座《じゆうざ》の脇《わき》の小窓から下方をのぞき見たが、もちろん何も見ることはできなかった。
下方は、高度五〇〇〇メートル付近に積雲の大きな塊《かたまり》が幾《いく》つも浮遊《ふゆう》していた。そしてその下方二〇〇〇メートル付近は、厚い雨雲《あまぐも》でおおわれていた。その雲海には、隙間《すきま》がなかった。
右舷《うげん》はるかに、積雲の塊《かたまり》と見まごう白銀の起伏《きふく》がつづいていた。アパラチア山脈であろう。
頭上の空は青藍色《せいらんしよく》に冴《さ》えわたり、西の空低く、大きな月がかかっていた。
「目標は三個。なお上昇《じようしよう》している。ジョースケ。これはどうやら敵の防空|戦闘機《せんとうき》らしいぞ。ゆだんするな」
シェクスピア少佐《しようさ》の声には緊張《きんちよう》がみなぎっていた。
「試射をする」
「OK」
譲介は動力|銃塔《じゆうとう》のモーターにスイッチを入れた。安全|装置《そうち》を解くと、フット・バーに乗せた足に力をこめた。
モーターが低くうなり、四連装《よんれんそう》の二〇ミリ機関砲《きかんほう》の重大な砲身《ほうしん》は、軽々と動いた。
発射ペダルを踏《ふ》むと、はずむような震動《しんどう》が銃座全体をゆり動かした。
二〇ミリ砲弾《ほうだん》を連ねた弾帯《だんたい》が、生き物のように躍《おど》った。
虚空《こくう》にオレンジ色の火の玉が、大きな放物線を描《えが》いた。
「さあ来い! いつでもいいぞ。少佐《しようさ》。敵機はどうしている?」
「高度一万三五〇〇。今、わが機の真下にいる」
譲介は座席からのり出し、床《ゆか》の窓をのぞきこんだ。
銀色にかがやく雲海の上を目で探した。
「あ、あれだ!」
二〇〇〇メートルほど下方を、反航してゆく二機の小型機が見えた。
「ジョースケ。P47だ」
当時、アメリカでもっとも高性能な単座|戦闘機《せんとうき》で、高空性能がすぐれていた。
ノースアメリカンP51は、日本やドイツの戦闘機と互角《ごかく》に渡《わた》り合い、時には圧倒《あつとう》できるほどの優秀《ゆうしゆう》な戦闘機だったが、これは中高度用だった。
それに対して、排気《はいき》タービンつきの二〇〇〇馬力エンジンを備えた高空用|戦闘機《せんとうき》として、レパブリックP47サンダーボルト。少し古いが双発双胴《そうはつそうどう》のロッキードP38ライトニングの二つがあった。
P47サンダーボルトは大馬力エンジンにものをいわせ、防弾装甲《ぼうだんそうこう》に身を固め、一二・七ミリ機銃《きじゆう》八丁を持ち、高度九〇〇〇メートルにおいて最大速度六七〇キロを出すことができた。
こんなものに喰《く》いつかれたらえらいことになる。
≪富嶽《ふがく》≫と二機のP47は、二〇〇〇メートルの高度差ですれ違《ちが》った。
「ここまでは上ってはこられないだろう」
「ジョースケ。前方から同高度で接近してくる敵機があるぞ」
「一万五〇〇〇メートルまで上れる戦闘機があったのか?」
「P47のストリップ型だろう」
「どんなやつだ? それは」
「P47を軽量化したものだ。装甲板《そうこうばん》を全部はずして、一二・七ミリ機銃も三門に減らした。燃料を三分の一にすると一万五〇〇〇メートルで編隊飛行ができるというんだ。来たぞ!」
譲介は照準器に目を当て、敵機の出現を待った。
「射《う》ってきたぞ!」
真紅《しんく》の、かがやく物体が、機体すれすれに飛び過ぎていった。
三万馬力の爆音《ばくおん》にかき消されて、敵機の機銃《きじゆう》の発射音も聞えない。
一瞬《いつしゆん》、機体の真下を、銀色の小型機がすべっていった。
譲介はフット・バーを蹴《け》り、両手でコントローラーをあやつった。
発射ペダルを踏《ふ》む。
四門の機関砲《きかんほう》が咆哮《ほうこう》したときには、もうP47の姿は消えていた。
それで終りだった。
ハワイに進出してきた≪富嶽《ふがく》≫に切迫《せつぱく》した不安を感じたアメリカ軍は、焦燥《しようそう》にかられて、急ぎP47五機とP38三機をストリップ型に改造し、西海岸とニューヨーク近郊《きんこう》に配した。だが、いくら高々度性能が良くなったとはいえ、わずかな数の防空|戦闘機《せんとうき》ではどうしようもない。
「ナッシュビル上空を通過」
シェクスピア少佐《しようさ》の声がとどいた。
そのとき、無線電話のスピーカーからノイズがもれ出した。それが声に変った。
≪富嶽《ふがく》一号のシドニー・クールヘル・シェクスピア少佐および千葉譲介二等兵に告ぐ。このたびの戦功第一を賞して全軍に布告し、二名を二階級特進せしめた。すなわち、ただ今より、シェクスピア少佐は大佐《たいさ》に、千葉二等兵は上等兵に進級する。本作戦は特攻《とつこう》作戦であり、二名の名は戦史に永遠に記録されるであろう。間もなく目標ニューヨーク上空だ。がんばってくれ≫
「まて!」
シェクスピア少佐がさけんだ。
「そのあいさつのニュアンスは、どうやらわれわれには生還《せいかん》の機会が与《あた》えられていないような気がするが」
≪士気にかかわることであり、それは極秘に付されていた。今はあきらかにできる。この作戦は特攻《とつこう》作戦であり、二名の生還は不可能だ。搭載《とうさい》している原子|爆弾《ばくだん》は、遠隔《えんかく》操作によって爆発《ばくはつ》させる。原子爆弾とともに、機体の機密もまた消滅《しようめつ》する。二名とも、最後まで武人らしく、勇気と沈着《ちんちやく》さをもって行動してほしい。以上だ≫
「冗談《じようだん》じゃないぜ!」
譲介はさけんだ。
銃座《じゆうざ》を離《はな》れ、機内通路を前部へ向って走った。
エア・パイプのソケットからチューブを引き抜《ぬ》いたために、胴体《どうたい》の中央部あたりまで走って呼吸が止り、目がくらんできた。
譲介は必死に走った。
操縦室のラッタルをよじ上り、ハッチを押《お》し開いて操縦室へころげこんだ。
「どうした? ジョースケ」
「少佐《しようさ》。今の通信を聞いたか」
「聞いた。おそろしいことだ」
「やつらが、おれたちをいったん解放し、また集めたのは、こんな作戦に使うためだったんだ。少佐。特攻《とつこう》作戦なんて、ぼくはまっぴらだぜ」
シェクスピア少佐は、くちびるをゆがめた。
「ジョースケ。われわれにはパラシュートの用意もないのだ。機体から飛び出すことはできないぞ」
「不時着できないか」
「この巨人機《きよじんき》を無事に着陸させることができるような広く、固い空地があるかな。それに原子|爆弾《ばくだん》を抱《だ》いたままで降りるのだぞ」
「棄《す》てることはできないかな。爆発する前に」
「だめだ。爆弾倉《ばくだんそう》のとびらは、作戦本部の無線指令によって開くのだ。ここからは開くことは不可能だ。ジョースケ。ニューヨークまであと十分だ」
二人は血走った目を見交《みかわ》した。
高度一万五〇〇〇メートル。
ゆくてに、壮大《そうだい》なニューヨークの市街が迫ってきた。
6――C
けたたましい物音が、体中で鳴りつづけていた。
いったいどうしたのだろう?
誰《だれ》も起しに来てくれないのだろうか?
非常ベルだろうか?
早く目をさまさなければ、
早く目を……
夢《ゆめ》の中のことではなかった。
ベッドの枕《まくら》もとで、旧式な、洗面器ほどもある目覚《めざま》し時計が……
鳴っていなかった。
音がふっつりと断たれた。
一瞬《いつしゆん》、死のような静寂《せいじやく》がおとずれた。
そうか! 今のは電話機のベルだったのだ。
そう思った時、ふたたび電話機が鳴り出した。
キノシタの手がのびた。
≪キノシタ。重要な指令を伝える。一、ロッカーの中から、送付したセットを取り出せ。今すぐだ≫
電話の主が何者なのかを問う余裕《よゆう》もなかった。極めて切迫《せつぱく》した空気が、受話器の奥《おく》に感じられた。
キノシタは命じられるままに、それを運んできて電話機に近いテーブルの上に置いた。
≪二、右の側面に三個のスイッチがある。真中《まんなか》のスイッチを押《お》せ。今すぐだ≫
キノシタは言われるままに動いた。
≪三、左のスイッチを押せ≫
≪四、右のスイッチを押せ≫
赤いパイロット・ランプがともった。
≪五、真中のスイッチを押せ。それで終りだ。キノシタ。任務から解放する。グッド・ラック≫
電話は切れた。
「任務から解放する、はいいとして、これから先どうすればいいんだよ。いつまでもこんな所にはいられないぜ」
諜者《ちようじや》などという者は、世界中のどこへ行ったとて安心して暮《くら》せる場所などないことはよくわかっていたが、こんな所でほうり出されるとなると、これは脱出《だつしゆつ》することさえ容易なことではなくなる。
テーブルの上の、えたいの知れない装置《そうち》は、つめたく静まりかえっていた。
耳を押《お》し当てると、かすかな震動《しんどう》が伝わってきた。
赤いパイロット・ランプは、またたきもせず内部のメカニズムが作動しつづけていることを示していた。
「なんだろう? これは」
キノシタの胸に、かすかな疑惑《ぎわく》が生れた。それは急速に拡大し、彼の思念を膨張《ぼうちよう》させた。
ニューヨークの下町へ潜入《せんにゆう》し、ひそかに送られてきたえたいの知れぬ機械のスイッチを入れる――この任務の意味するものは何だろう?
時限|爆弾《ばくだん》だろうか? キノシタはあわてて装置《そうち》をなでさすり、持ち上げ、のぞきこんだ。だが、それは爆弾とは違《ちが》うようだった。
三個のスイッチに指を当て、おそるおそる押してみた。だが三個のスイッチは完全に機能を失っていた。どちらへでも自由に動いた。
この装置《そうち》は、もはや作動を止めることができないのだ。
だがこれ自体には危険はないような気がした。
キノシタは管理人の部屋《へや》からドライバーを借りてきた。
三十分ほどいじっているうちに、外側のケースを開くことができた。
「通信機かな」
精巧《せいこう》なラジオに似ていた。
何年か前、ドイツ軍の通商|破壊艦《はかいかん》を誘導《ゆうどう》するための電波発信機というものを組み立てさせられ、運んだことがあった。それとは比較《ひかく》にならず複雑で大きなものだったが、キノシタはなんとなくこれは誘導装置ではないかと思った。
この装置は、何ものかをこのニューヨークの上空に、それはたぶん上空であろう、にみちびくために、電波を放射しつづけているのであろう。
すると、それは間もなく頭上へあらわれるのだ。
それがニューヨークにとってためにならないものであろうことは考えてみるまでもないことだった。
ニューヨークにとって、ためにならないということは、すなわち、キノシタにとってもそれは当然、極めて危険なものであるはずだった。
これほどの手間をかけて誘導《ゆうどう》するということは、確実な進攻《しんこう》を期待していることなのだし、それは用意された個数が少ないことと、決定的な破壊《はかい》を示唆《しさ》している。
それはどうでもよいが、もしかしたら、それに自分の肉体まで巻きこまれてしまうのではないだろうか。
とつぜん、その恐怖《きようふ》がキノシタの内臓を突《つ》き上げた。
「どうも妙《みよう》だぞ」
これまで不自然に思われていたことが、いっきょに巨大《きよだい》な疑惑《ぎわく》となってせり上ってきた。
いつからだろう?
日本軍がタララの町に上陸してきたあの日からだ。たぶん。
日本軍がタララに上陸してくるような戦況《せんきよう》があったのだろうか?
日本軍は南西太平洋を広く占領《せんりよう》し、オーストラリアとインドをねらっていたが、直接、米州大陸に手をのばすことができるほど、まだ決定的な勝利を得てはいなかった。
それに、日本海軍はどうやらミッドウエイ島の攻略《こうりやく》に失敗し、その機動部隊の一角に大きな傷を受けていた。もちろんそれで日本軍の攻勢《こうせい》戦力が失われてしまったわけではなく、戦いの帰趨《きすう》はあくまでもこれからだった。
タララに日本軍が上陸しただけではなかった。
このニューヨークに潜入《せんにゆう》するまでの途中《とちゆう》で、何回か手にした新聞は、どれもアメリカ軍の全面敗退を報じていた。
キノシタは階段をかけ下りた。管理人室のドアをたたいた。
「今日の新聞を貸してくれ」
「ドライバーは持ってきたか」
管理人の老人は、じろりとキノシタの手元に視線を走らせた。
「あ、今持ってくる。まだ使っているんだ」
「使ったら持ってこいよ。新聞は汚《よご》さないようにしてくれよ。ほら」
管理人は、タブロイド判の、おそろしく紙質の悪い新聞をさし出した。
キノシタはいそいで部屋《へや》へとって返すと、暗い電灯の下でひろげた。
≪日本軍、カリフォルニア半島に上陸≫
≪サンタバーバラに日本海軍陸戦隊上陸≫
≪カナダ国境を突破《とつぱ》した日本軍は南下を続けている≫
≪大規模なドイツ輸送船団がラプラタ河の河口に集結している。上陸地点はニューヨーク周辺と考えられている≫
≪パナマ運河地区で、日本海軍機シデンカイ、ゼロセンおよび攻撃機《こうげきき》など二十機を撃墜《げきつい》。わが方の損害七機≫
≪わが方の新型○○≠「よいよ実戦配備へ。これによって戦局は大転換《だいてんかん》か≫
≪ドイツ潜水艦《せんすいかん》。わが方の病院船を撃沈《げきちん》≫
ほとんど見出しだけがならんでいた。詳細《しようさい》な内容も入らないのであろうか。
それらの記事の中でキノシタの目を引きつけたのは、
≪わが方の新型○○。いよいよ実戦配備へ。これによって戦局は大転換か≫
という一行だった。
新型○○とはなんだろう? 戦車や空母、大砲《たいほう》などでないことはあきらかだった。
これによって戦局大転換か、という以上、よほど強力な兵器なのであろう。
爆弾《ばくだん》。毒ガス。熱線などであろうか。しかし、こうも戦局が押《お》しつまっている今、のんびりと毒ガスでもないだろう。熱線というのも理解し難い。
「爆弾《ばくだん》だな。これは」
戦局|大転換《だいてんかん》という以上、ふつうの爆弾ではないだろう。一〇トン爆弾か、二〇トン爆弾か、あるいはロケットか、一発で相手国に大きな痛手《いたで》を与《あた》え得るようなものであろう。
記事の選択《せんたく》も何もない、ザラ紙にただそこにあるだけの記事をすりこんだというだけの新聞だったが、その記事の羅列《られつ》の奥《おく》にほの見える奇妙《きみよう》な楽天的な気分はなんだろうか?
ほかのページを開いてみた。
≪新型○○。激甚《げきじん》な威力《いりよく》。中都市は完全に消滅《しようめつ》。爆発《ばくはつ》に際して発する○○線により、爆発区域には千年も草木がはえない≫
≪新型○○。今ぞ日軍の頭上へ! 勝利は近い! がんばろう≫
≪新型○○。ドイツでは実験に失敗。計画|放棄《ほうき》。日本では目下初歩実験中。完成まであと十年と報じられている≫
≪ホワイトハウスでは、早くも戦後処理の諸問題について検討中と伝えられている≫
≪極秘情報によれば、新型○○は、すでに四発が完成し、なお二発が組立中といわれる≫
これだ! このことと、自分の任務がどこかで結びついているような気がした。
キノシタはたばこに火をつけた。
日本軍はニューヨークに大きな攻撃《こうげき》を加えようとしている。
電波発信機と思われるこの装置《そうち》で誘導《ゆうどう》されてくるものは、飛行機なのだろうか、ロケットなのだろうか。アメリカ側が伝えるように、ここまで押《お》しつまった戦局を大転換《だいてんかん》できるほどの強力な新兵器が完成した以上、日本軍としてものんびりしてはいられないであろう。
何か手を打つに違《ちが》いない。
その作戦の一部が、この誘導装置の搬入《はんにゆう》かもしれない。
これから何が始まるのかわからないが、おそろしい危険が迫《せま》っているのが、痛いほど感じられた。
「こうしてはいられねえぞ」
キノシタはにわかにそわそわと立ち上った。
ドライバーと新聞を返すとホテルの外へ出た。
一刻も早くニューヨークから出なければ。
キノシタは街路を走った。
ギーイッ ギーイッ。
トラックが車体を震《ふる》わせ、飛び出してきたキノシタを避《さ》けた。
「ガッデム!」
キノシタは路地へ走りこんだ。
警笛《けいてき》がひびいた。警官が追ってくる。キノシタは地下室へかけこんだ。
「待て!」
警官の声がひびいた。
地下の廊下《ろうか》は行き止りになっていた。
「止れ!」
警官は腰《こし》のレボルバーを引き抜《ぬ》いた。
キノシタは廊下にならんだとびらのひとつに飛びついた。
「止れ!」
とびらは開かなかった。キノシタは反対側のとびらに走った。
ノブを回すととびらが開いた。
警官は引金をしぼった。
横浜港|大桟橋《だいさんばし》。イギリスの太平洋クルーズの豪華《ごうか》客船が横づけされている。
純白の巨体《きよたい》に、ひるがえる|真紅の船旗《レツド・エンスン》があざやかだった。
その大桟橋をはさんで、接岸しているのはこれもイギリスの豪華客船に劣《おと》らぬイタリアと西ドイツのアジア・クルーズ船である。
大桟橋は色とりどりの衣服の人々が織るようにゆき交《か》っていた。
沖《おき》がかりする何十|隻《せき》ものフェリーや貨物船に初夏の陽射《ひざ》しが映えていた。
それらの外航船のむれに混《ま》じって、小柄《こがら》な引き締《しま》ったシルエットを浮《う》かべている小型の内航船があった。だが、それらとて一〇〇〇トンはあるだろう。そして港内艇《ランチ》や|交 通 船《タクシー・ボート》。曳船《タグ・ボート》。作業艇《さぎようてい》などの、水すましのような航跡《ウエーキ》。
遠くには海上自衛隊や海上保安庁の艦艇《かんてい》のダーク・シー・グレイやスワン・ホワイトの姿も望まれる。
世界の港。ヨコハマは活気に満ちていた。
客船専門の大桟橋《だいさんばし》を中心に、貨物船が巨体《きよたい》をならべる新港|埠頭《ふとう》や高島埠頭、瑞穂《みずほ》埠頭、山下埠頭などを横浜港の表玄関《げんかん》とすれば、それらの桟橋の背後に、おそろしく複雑に入り組んで入りこんだ運河や掘割《ほりわり》とその両側の舟着場は、横浜港の裏口であろう。
両岸には高層ビルと見まごう巨大《きよだい》な倉庫がならび、大小のクレーンが建設中の鉄橋のように運河の中ほどまで突《つ》き出している。
運河や掘割は団平船《だんべいぶね》や海上トラックと呼ばれる小型貨物船の独壇場《どくだんじよう》である。両岸はほとんど私設の繋船岩壁《けいせんがんぺき》で、そこにはまたおびただしいトラックがならんで荷役をしている。
倉庫の屋根に、白いウミネコがならんで止っている。
時おり、水面に大きな影《かげ》を落してトビが旋回《せんかい》してゆくが、ウミネコは動かない。
曳船《ひきふね》に曳《ひ》かれた団平船《だんべいぶね》の行列が通り過ぎてゆくと、両岸の石垣《いしがき》を、ザブ、ザブと波が洗った。
高島|埠頭《ふとう》と棉花町《めんかちよう》を結ぶ貨物線の鉄橋の下をくぐって、一|隻《せき》の小さな和船があらわれた。
新田間川の河口なのだが、水が流れているとも見えないよどんだ水面に短い航跡《ウエーキ》を残して、停泊《ていはく》している貨物船を右にさけ、左にかわし、倉庫と倉庫の間のせまい運河へ入った。
両岸の崩《くず》れかけた岩壁《がんぺき》に草が生いしげっている。繋《つな》がれたまま水舟となって半ば水没《すいぼつ》しているはしけに、トンボがじっといつまでも動かず止っていた。
運河は行き止りで、奥《おく》はどぶ川と変らない。厚い油紋《ゆもん》がギラギラと光り、木箱《きばこ》や発泡《はつぽう》スチロールの通箱、ビニールのサンダル、プラスチックの容器、牛乳のキャップ、それに何とも知れぬものまで、おびただしいゴミが浮遊《ふゆう》していた。
「あの右側の奥《おく》の桟橋《さんばし》へ着けて」
小舟《こぶね》の舳《へさき》近くに腰《こし》をおろして、水面を渡《わた》る風に髪《かみ》をなぶらせていた女が、艫《とも》で舵《かじ》を握《にぎ》っている若い女をふりかえった。
「汚《きた》ない水だなあ。おねえさん。しずくがつかないようにしないとしみになるわよ」
おねえさんと呼ばれた女性は、紺《こん》のジーンズにクリーム色のブラウス。共布《ともぎれ》のネッカチーフで多過ぎるほどの髪《かみ》をつつんでいた。
彫《ほり》の深い顔立ちと濃《こ》い翳《かげ》をふくんだ大きな目とは、どこかに異国の血を感じさせた。指の石がキラリとかがやいた。
若い女は舷外機《げんがいき》を逆転させて舟の行足を止めると、ゆっくりと桟橋へ近づけていった。
鉄柱と鉄板で作られた桟橋は真赤に錆《さ》びていた。
「笙子《しようこ》おねえさん。大丈夫《だいじようぶ》? それ、朽《く》ち果てているみたいよ」
鉄柱に小舟《こぶね》がぶつかった。
桟橋《さんばし》はきしんで震《ふる》えた。
笙子《しようこ》はひらりと桟橋へ跳《と》び移った。
若い娘《むすめ》は舫綱《もやいづな》で小舟を桟橋に繋《つな》ぐと、笙子のあとを追った。
桟橋は古びた倉庫の入口につながっていた。
軒下《のきした》に、これも錆《さび》と汚《よご》れで塗色《ぬりいろ》もさだかでない古い貨車が一台放置されていた。そのレールも錆《さび》ついて雑草に埋《うま》っていた。
輸送の主力がトラックに移ってしまってから、この倉庫も使われなくなってしまったのであろう。
笙子は半分開いたままになっているとびらをくぐって倉庫へ入った。
「かもめちゃん。足元に気をつけなさいね。いろいろな物が落ちているから」
その声が終らぬうちに、かもめと呼《よ》ばれた娘は何かにつまずいてのめった。
「ああ。痛い!」
「言ってるうちに!」
二人の声が、がらんとした倉庫の内部にこだました。
高い天井《てんじよう》のどこからか、太陽の光が幾筋《いくすじ》もの太い縞《しま》となって落ちてくる。その光の滝《たき》を横切って二人は奥《おく》へ進んだ。
倉庫の片すみに、四、五人の浮浪者《ふろうしや》が車座になってサイコロを振《ふ》っていた。アルマイトの食器の中で、サイコロのころがる音が、時おりせわしく聞えた。
思いがけない闖入者《ちんにゆうしや》に、彼らは遊びの手を止め、それから石のようになって二人の女を見つめた。
倉庫の奥の壁《かべ》には、二、三のガラス窓と、木製のドアがはめこまれていた。事務室だったのであろう。
つややかな笑い声が、その中へ吸《す》いこまれてゆくと、ドアが安物の金具の音をひびかせて閉《と》じられた。
倉庫の内部に静寂《せいじやく》がよみがえった。
ジーゼル機関車の警笛《けいてき》の音が聞えてきた。
五分ほどたった頃《ころ》、浮浪者たちが動いた。
その事務室はほかに出口がないことは彼らはよく知っていた。
ここは街路《がいろ》からは遠く、ことに構内に入ってくる者は全くといってよいほどいなかった。倉庫の奥《おく》のさけび声など、外部にとどくはずもないし、またとどく範囲内《はんいない》に、自分たちのほかに誰《だれ》もいないことも知っていた。
こんな所に女が、それも二人も入ってくるなど、夢《ゆめ》のようなできごとだった。
彼らは走り出した。けもののようにわめいて突進《とつしん》した。
事務室のとびらを押《お》しあけるのももどかしく折り重なるように飛びこんだ。
誰もいなかった。
十|畳《じよう》ほどの広さの事務室は、がらんとして、こわれた机と椅子《いす》がひとつずつ、ほこりにまみれていた。
一人が壁《かべ》をたたいて回った。
一人が事務室の外へ走り出た。倉庫の中を血走った目で見回した。
「たしかに、ここへ入ったよな」
「どこへ行きやがったんだ」
「探《さが》せ!」
「地下室でもあるんじゃねえか」
床《ゆか》を踏《ふ》みしめて回り、かくされているかもしれぬとびらを探して、夢中《むちゆう》になって這《は》いずった。
そのどれもが無駄《むだ》に終った。
二人の女は、この事務室から、けむりのように消え失せたのだ。
「たしかにここへ入ったよな。な、見たろう。おまえも」
「見たさ。ぜったいいる。どこかにいるぞ!」
彼らはまたわっと散ると夢中になって探しはじめた。
だが、目を皿《さら》のようにして探し回っても、女の髪《かみ》の毛一本落ちてはいなかった。
「へんだなあ。どこへ消えちまったんだ」
「キツネにだまされたみてえだよ」
「よし。こうなればしかたがねえ。あいつらの乗ってきた舟《ふね》をいただいちまおうじゃねえか。エンジンもついているしよ」
彼らは首をかしげかしげ、倉庫の入口へ出てきた。
「あの舟《ふね》だ」
「運んでいって売っ飛ばしちまえ」
彼らの足が止り、口の動きが止った。
桟橋《さんばし》の端《はし》に繋《つな》がれていた小舟が、妙《みよう》に色褪《いろあ》せ、輪郭《りんかく》がぼやけて見えた。
皆《みな》の見つめる中で小舟を通して汚《よご》れた水面が見えてきた。
その水面に浮《う》かんでいるさまざまなゴミの方が、小舟よりもはっきりしてきた。
誰《だれ》も身動きしなかった。
小舟はまぼろしのように水面に浮いていた。
ウミネコが水面すれすれにひるがえると、いつの間にか小舟の影《かげ》は消えていた。
浮浪者《ふろうしや》たちは、われ先に逃《に》げて走った。
あとにはただ目のくらむような夏の陽射《ひざ》しが照りつけているばかりだった。
事務室のとびらを閉めると、壮麗《そうれい》な回廊《かいろう》がのびていた。
天井《てんじよう》や床《ゆか》や両側の壁《かべ》から、目に見える光線や見えない光線がつづけざまに浴びせられた。それらのセンサーが、もし与《あた》えられているデーターとほんのわずかでも異っている数値を感受したら、その瞬間《しゆんかん》に、二人は永遠に抹殺《まつさつ》されるだろう。
さすがに薄気味《うすきみ》の悪い数秒間が過ぎた。
何事もなく次のとびらに達した。合格ともOKとも、サインが出ないのは、通行を拒否《きよひ》された者は即座《そくざ》にその場で処分されてしまうから、無事通行できた者は、そのこと自体が許可証をつけていることと同じである。
回廊をたくさんの人影《ひとかげ》がいそがしそうにゆききしていた。
時々、笙子《しようこ》に目礼したり、軽く手を上げたりしてすれちがってゆく者がいた。
それらの人々の中に、時代調豊かな服装《ふくそう》の中世のイギリスの貴族やあるいはローマの剣闘士《けんとうし》。カーキー色の軍服に身を固めた日本陸軍の兵士の姿なども混じっていた。
回廊《かいろう》の両側にたくさんのとびらがならんでいた。
「かもめちゃん。あなた、ここで待っていて」
「はい」
そこから先は極めて限られた者しか入ることができない区画だった。
喧騒《けんそう》も人の往来も消え、水底のような静寂《せいじやく》が重くよどんでいた。
薄明《はくめい》だけが漠々《ばくばく》とひろがっていた。
ここにどれほどの人数が集っているのか、この場所がどれだけの規模《きぼ》とひろがりを持っているのか、誰《だれ》にも、全く見当もつかなかった。
笙子《しようこ》は薄明の中に身を沈《しず》めた。
これまでに、ここへ入ったことは二回しかなかった。今が三回目。これまでの二回は、直接、自分には関係のないできごとだった。発言する必要もなかったし、配布されるデーターもおそらくもっとも少なかったに違《ちが》いない。
だが、今度は何から何まで自分の担当だった。
≪37―24―45座標|変換《へんかん》ニ関シテ、原座標系カラ三名ノ人物ガ変換座標系ニ混在シタ≫
笙子《しようこ》の頭蓋《ずがい》の奥《おく》深い所で言葉が生れた。
「質問してよろしいか?」
笙子は声に出して言った。だが、声になって出たかどうかはわからなかった。
≪質問セヨ≫
「変換座標系は『時間管理局』が関与《かんよ》しているものか?」
≪『時間管理局』ハ全ク関係シテイナイ。37―24―45座標変換ハ極メテ危険ナ事態ニ立チイタッテイル。スミヤカニ処理シナケレバナラナイガ混在シテイル原座標系ノ三名ノ人物ヲ摘出《てきしゆつ》シナケレバ、ナラナイ。コノママ放置スルトキハ以後、座標系ハ崩壊《ほうかい》スルデアロウ≫
「質問してよろしいか?」
≪質問セヨ≫
「変換《へんかん》座標系はなにものが造り出したのか?」
≪『時間管理局』ハ、ソノ質問ニコタエルベク、全支局長ニ集合シテモラッタ。原座標系一九四五年アメリカ合衆国ニオイテ、タイム・マシンガ作ラレタ≫
原座標系とは、この現実の歴史的世界、変換座標系とは異次元ともよぶべき異った世界を指す。
イギリスの作家H・G・ウエルズが、彼の作品『タイム・マシン』の中で、タイム・マシンなるものを具体的に描《えが》いてみせたのが、そもそもSF界におけるタイム・マシンの最初の登場であった。
以後、タイム・マシンはSF世界の中で、もっとも人気のある小道具として、時には主役にさえなり、縦横《じゆうおう》の活躍《かつやく》をとげてきた。
この時代、タイム・マシンが現実のものとなる可能性についてなど、ほとんど考えるものもいなかった。
二〇〇〇年代に入ると、特殊《とくしゆ》相対性原理について、幾《いく》つかの矛盾《むじゆん》と大きな修正が必要であると考えられはじめた。
アインシュタインの説く相対性原理によれば、この世界においては、どのような方法をもってしても、光の速さ以上の速力を出すことはできない。
推力を上げることによって、理論的には光の速さ、すなわち一秒間に約三〇万キロメートルもの距離《きより》を走る光の速さに、限りなく近づいてゆくことは可能である。しかし、ある乗物、ここでは宇宙船《うちゆうせん》だが、そのスピードが光の速さに近づけば近づくほど、船内を流れる時間はしだいにゆっくりと経過するようになる。つまり、時のたつのが遅《おそ》くなってゆくのだ。そしてその宇宙船の速さが光の速さに達した時、船内の時間はついに止ってしまう。光速に達したところで時間が停止するものならば、宇宙船の速力がもっと増したら、こんどは時間はどうなるのか。おそらく、宇宙船の内部の時間は、逆に流れはじめるのではないかと考えられている。時間が逆に流れるということは、すべての現象が、結果が先にあって原因があとから来るということだ。
それを不自然と考え、組立ての順序が逆だからそんな世界は成り立たないと考えるのは早計で、その世界に完全に埋没《まいぼつ》している人物にとっては、その組立ては、他のそうでないものと比較《ひかく》のしようがないのだから不自然に思うはずがない。その世界から見たら、現実のわれわれの世界の、原因が先にあって結果があとから来るという成り立ちは、おそろしく奇妙《きみよう》なものと映るであろう。
また、この原因の次に結果が来るという世界を裏から見たら、やはり結果が先で原因はあとと見えるだろう。
このように、現象の時間的経過というものは、時間軸《じかんじく》をどう取るかによって、全く異ったものになってしまうのだ。現に、この世界では、同じ時間的経過というものは二つとは有り得ない。なぜなら、すでに実験で証明されているように、すべての物体はその進行の方向にほんのわずか縮《ちぢ》んでいる。それは人間の目などではとうてい認めることもできないほど微《かす》かなものだが、厳密《げんみつ》な計測では確実にあらわれてくる。前述の光速に近づく宇宙船の例でも、その宇宙船は進行方向に、決定的に縮《ちぢ》んでゆく。縮んでゆく物体の内部では、その縮みに比して経過する時間は遅《おそ》くなる。
したがって、歩いている人よりも走っている人の方が、時間はゆっくりとたっていることになる。走っている電車の中では、もっとゆっくりたっているし、飛行機の内部では、さらに遅くなっている。
地球は一秒間に約二八キロメートルの速さで西の方へ向って回転している。その地球の公転速度は? 太陽系全体の移動速度は? 太陽系をふくむ銀河系の回転速度は? その銀河系の宇宙内での移動速度は? さらに大宇宙全体の膨張《ぼうちよう》速度は? このように考えてゆくと、時間というものはおそろしく複雑なものであり、どれが標準というようなものは全くないということがわかる。つまり、今、ここに十人の人間がいれば、その個々の所有する時間は、全く異るということだ。
この時間というのは、言いかえれば、物理的世界における変化の速さのことだ。
言いかえれば、時間と時刻とは異る。時刻はある約束《やくそく》のもとで一年を一日を、合理的に区分けして生活の便に供するものだ。実際には、その時計の動きにすら、前述の差異はあらわれているのだが、生活の上では無視して全くさしつかえはないのはもちろんだ。
時間というもののさまざまなすがたがわかってくるにつれ、相対性原理では説明つかない問題がいろいろとあらわれてきた。
光速以上のスピードの存在が新たな問題になってきた。
宇宙空間に光速以上のスピードで飛んでいる粒子《りゆうし》が発見されたなどというニュースが、時おり人をおどろかせた。
そのことごとくが虚報《きよほう》だった。実際、この世界で、どうやって光速以上のスピードを測ることができるのか? すべての物質を構成している原子中の、原子|核《かく》を形造っている電子の、核の回りを回っている速さが、光の速さよりやや遅《おそ》いぐらいのスピードである。
時間がひとつの系として考えられたとき、新しい転換《てんかん》が生れた。
一九八〇年代の終り、世界中で少なくとも二つの国が閉鎖系内《へいさけいない》における時間経過の変化について実験をおこなった。
二〇〇〇年代に入って間もない頃《ころ》、宇宙空間における人工衛星を使った研究の結果、光速以上のエネルギーを持った粒子《りゆうし》が存在していることが知られた。
このあと、時間の本質に迫《せま》る実験は、重力場《じゆうりよくば》推進が実現するまではほとんど停滞《ていたい》していた。
二三〇〇年代に入って、重力場推進システムが宇宙船の、それまでのさまざまな形式のエンジンにとって替《かわ》った。
宇宙空間においてすべての物体は、たがいに引き合う。質量に比例した力で引き合うのだ。万有引力の法則がそれを説明している。
だから巨大《きよだい》な質量を持った物体と、微小《びしよう》な質量を持った物体は、それぞれ引き合うが、現実には小さな質量の物体が、巨大な質量を持った物体を引き寄せた方は測ることはできない。
宇宙船の前方に、巨大な質量の物体を置いたら、その宇宙船はその物体に向って引かれてゆくだろう。この関係は馬の鼻面《はなづら》の前につるされたニンジンを思わせる。
巨大な質量は巨大な重力を生む。その重力の場《フイールド》を電気的に作り出すことは可能だ。
この重力場《じゆうりよくば》推進による小さな実験|装置《そうち》を、太陽系外のはるかかなたへ飛ばすことに成功したのが、人類にとって、この地球上に発生したこと以来の、大きな事件となった。
実験装置は、その重力場推進システムが、周囲の空間をもゆがめ、引きつけてしまっていることを記録していた。
巨大《きよだい》な質量は、周囲の空間をもゆがめてしまっていることは、それまでの幾《いく》つもの、太陽観測の実験データーによっても知られていた。
重力場《じゆうりよくば》はそれをふくむ空間をもゆがめ、引きつけるということがあきらかになると、それは推進|装置《そうち》よりも、もっと重大な面での応用が考えられるに至った。
一枚の紙の両端《りようたん》は、その紙を筒《つつ》のように丸めることによって同一平面になる。空間と時間は同一のものである以上、紙片の両端、つまり一方を過去、一方を未来とすると、紙片を丸めた時、過去と未来はひとつになる。空間を操作することによって時間を自由にコントロールすることが可能であるということが実験的に証明されたのは二四〇〇年代の終りだった。
試行錯誤《しこうさくご》と無惨《むざん》な失敗をくりかえしつつとにもかくにも実用的なタイム・マシンが完成したのは二六〇〇年代のはじめ頃《ごろ》だったといわれる。奇妙《きみよう》なことに、最初にタイム・マシンを完成した者の名も、その正確な年月日も伝わっていない。発明者はその栄光よりもトラブルを避《さ》ける方を賢明《けんめい》にもえらんだのであろう。
タイム・マシンの完成は、軍事上、法律上、産業上、またあらゆる面で社会に重大な影響《えいきよう》をおよぼすことになった。
あきらかにタイム・マシンによる事故と思われるできごとが頻発《ひんぱつ》し、また深刻な犯罪が生じた。
世界中のタイム・マシンが三十基を越《こ》えたと思われる頃《ころ》、ついに当局は個人によるタイム・マシンの所有を禁じた。
タイム・マシンの持つ魔力《まりよく》ともいうべき魅力《みりよく》は、もはや良識の力をはるかに上回るものだったといえよう。
タイム・マシンの当局による管理は、タイム・マシンを利用することによって飛躍《ひやく》的に推進される多くの分野の研究を、全く屏息《へいそく》させる結果となった。
それでも、人類の存在に対する不断の脅威《きようい》をまぬがれ得たとしてこの決断は史家によって高く評価された。
タイム・マシンをほしいままにあやつっての時間旅行者の行動は、人類がこれまで何千年にもわたってつちかってきた文明を崩壊《ほうかい》させる危険をもたらした。
最初のうちは、時間旅行者はひそかに過去の美術品を現代に運んできたり、一種の観光旅行に夢中《むちゆう》になったりしていた。
一部の歴史学者が時間密行者に加わった時、事態は急変した。
彼らにとって、暗殺された政治家が、もしその時暗殺されなかったら、以後の歴史はどう変っていたか、また、ある戦いで負けた国がもしその時勝っていたら、その後の世界史はどう変っているか、などという命題を、自らの手で明らかにできるという機会は、何ものにもかえ難《がた》いものであった。この誘惑《ゆうわく》に耐《た》えてそれに背をそむけることができる学問的良心は、ほとんどかえりみられなかった。
歴史はかんぷなきまでに破壊《はかい》の危機に立たされていた。
アダムとイブを抹殺《まつさつ》したら、その後の人類の発展はどうなるか? という思考実験が、実行に移される危険が迫《せま》ってきた。
実際、進化の系統上ある種の動物から別なある種の動物が発生するその途上《とじよう》で、きっかけになった個体あるいは個体群を抹殺してしまったら、発生するはずの新しい種類は、あらわれてこないであろう。そのあらわれてくるはずの種類の未来にもし人類がいたとしたら、過去にさかのぼってその種類を抹殺したとたんに、この地球上からすべての人間は姿を消してしまうのではあるまいか。ほんとうにそのようなSF的造り変えが可能なのかどうか。愚《おろ》かにも実験に手を染《そ》めようとする者もあらわれた。
事態は破局一歩手前だった。
『時間管理局』の設立にかかわるエピソードを記すだけで数千ページを必要とするであろう。それは人類が体験したもっとも劇的な事件だったといえるであろう。
『時間管理局』の創設は、すべてのタイム・マシンの破壊《はかい》と設計図の焼却《しようきやく》とが、果して完全に行い得たのかどうか確信が持てなかったことから生じた。もし、一台でもタイム・マシンが残っていたら、人類に明日はない。真に悪魔《あくま》の発明というべきはタイム・マシンの発明だった。
『時間管理局』は、地球だけでなく、太陽系やひろくは銀河系、全宇宙の、すべての時代に監視《かんし》の目を光らせなければならなくなった。
時間密行者の宇宙船が、発生して間もない頃《ころ》の地球に、起るはずのない変化を与《あた》えてしまうかもしれなかったし、遠い原始の宇宙に、ゴムやプラスチックを持ちこむかもしれなかった。地表に発生したばかりのアメーバを、彼の靴《くつ》が踏《ふ》みにじってしまうかもしれなかった。
『時間管理局』の監視員《かんしいん》たちは、古生代の昼なお暗いシダ類の林の中に、新生代の大氷河のほとりに、監視所を構え、チューダ王朝の騎士団《きしだん》に混じり、フビライ汗《かん》の幕僚《ばくりよう》になり、ひそかな監視を続けるのだった。完全にその時代の人間になりきって生活し、死んでいった。だが、その死も仮の姿で、ただちに生き返らされた監視員《かんしいん》は、ふたたび他の時代へ送りこまれるのだった。
いつあらわれてくるかわからない時間密行者を待ち受けて。
あの激動《げきどう》の時代の終焉《しゆうえん》にタイム・マシンがほんとうに一台ももれなく供出され、『時間管理局』の所有するもの以外に存在していないとすれば、時間密行者は、永遠にあらわれてくることはないであろう。
だが、もし、一台でも残っていれば、設計図が一枚でも残っていたならば、ことによったら、それを作ってみようと思うものがあらわれないともかぎらない。彼のひそかな足音が、シダ類の林の奥《おく》から聞えてこないか、騎士団《きしだん》の中に立ち混じってくることはないか、あくことなく待ち続けるのだった。
待つことだけが任務の『時間監視員』だった。
薄明《はくめい》の中に、重い沈黙《ちんもく》が流れた。
笙子《しようこ》には、その沈黙が百年も千年も続いたような気がした。
事態がゆっくりと、だが明確に心の中に形を取ってきた。
「質問してよろしいか?」
≪質問セヨ≫
「原座標系から三名の人物が変換《へんかん》座標系に混入したということは、同時に、変換座標系から原座標系にも、当該《とうがい》する三名が混入してきたと理解してよろしいか」
≪ソノトオリダ≫
沈黙の薄明《はくめい》がかすかに動揺《どうよう》した。
強烈《きようれつ》な打撃《だげき》に萎《な》えかかる心を支えて、笙子は必死に思考の輪をひろげた。
「質問してよろしいか?」
≪質問セヨ≫
「変換座標系は原座標系の四次元位相|転換《てんかん》と理解してよろしいか」
≪ソノトオリダ≫
沈黙の薄明《はくめい》は、ふたたび動揺《どうよう》した。それは深い地鳴りのように、広大な空間をどよもした。
タイム・パトロールマンの誰《だれ》もが予期してもいなかった、しかしいつか起るかもしれないできごとが、ついに今起った驚愕《きようがく》と不安に、全組織は震撼《しんかん》した。
事態は急速な座標系の崩壊《ほうかい》を告げていた。
それは時空間のバランスが失われることにより、ものごとの因果関係が消滅《しようめつ》してしまうことを意味していた。
≪『時間管理局』ハ全組織ヲ挙《あ》ゲ、ツギノ二ツノ作戦ヲ推進サセル。
A:転換《てんかん》座標系ニ混入シタ三名ノ人物ヲ、スミヤカニ救出、収容スル。コノ作戦ハ、転換座標系カラ原座標系へ混入シ来タッタ三名ノ人物ニ対スル転換座標系内『時間管理局』ノ、救出、収容作業トノ緊密《きんみつ》ナ連携《れんけい》ヲ必要トスル。
B:原座標系、一九四五年、日本ニオイテ製作サレタ〈タイム・マシン〉ヲ発見シ、収容モシクハ破壊《はかい》スルコト。
当作戦正面ハ『37―24―45支局』ガ担当スル。
以上デアル》
笙子《しようこ》の心に、それは遠雷《えんらい》のようなひびきを残して消えた。
銀座七丁目の裏通り。高名なフランス料理店と、江戸時代から続いているという和装《わそう》小物の老舗《しにせ》とにはさまれて≪龍堂《せいりゆうどう》古美術店≫があった。
この界隈《かいわい》は、太平洋戦争の末期の大空襲《だいくうしゆう》によって一面の焼野原となるまでは、いかにも老舗らしい豪壮《ごうそう》な結構を持った商店がならんでいた。それらの大店《おおだな》は、店の土間を貫《つらぬ》くひとかかえもあるような太い大黒柱や、黒光りする分厚い屋根瓦《やねがわら》の一枚一枚に、時代の年輪を刻みつけていたものだった。
戦後の混乱期のバラック建築が、復興期のビルに成り変り、やがて日本経済の大発展を象徴《しようちよう》する未来的な高層ビルに生れ変った。
今では≪龍堂《せいりゆうどう》古美術店≫も、その両隣《りようどなり》のフランス料理店や和装《わそう》小物の老舗《しにせ》も、それらのビルのひとつにおさまっているのだった。
≪龍堂古美術店≫といえば、古美術研究家や愛好家の間では昔《むかし》からよく知られた店だった。とくに、古美術品に対する鑑定《かんてい》の確かさは、専門の大学や研究所でさえ、一目も二目も置いているといわれた。
その店の主人《あるじ》が、美しい女性であることも、その店の鑑定の確かさや美術品に対する見識の高さで知られる以上によく知られていた。外国のあるグラフ雑誌が、その表紙に彼女の肖像画《しようぞうが》を使ったからだった。
その画の中で、彼女は古風な染《そめ》の和服に身を包み、幻想《げんそう》的にほほ笑んでいた。それは、今なお残る東洋のアルカイックスマイルとして、アメリカやヨーロッパの読者の心を魅了《みりよう》した。
それが逆に日本へもたらされたとき、彼女の迷惑《めいわく》はこの上ないものとなった。
その典雅《てんが》な美貌《びぼう》は、今、苦渋《くじゆう》に満ちていた。
だが、どんなにほおがひきつっていようと目が血走っていようと、美人というものはとくなもので、それはそれで凄艶《せいぜつ》な鬼女《きじよ》や美しい夜叉《やしや》に見えて人の心をとりこにする。
「おねえさん。きれい」
かもめがうっとりした声を放った。
同じことを考えていた元《はじめ》は、うろたえて笙子《しようこ》の顔から目をそらした。それを空咳《からぜき》でごまかした。
「かもめ!」
笙子《しようこ》の双眸《そうぼう》が急に人の目になって釣《つ》り上った。
「うわ、こわ!」
「あなた……」
「聞いてるわよ。聞いてるじゃない」
元はそっと首をすくめた。
「一九四五年に、日本でタイム・マシンが造られたというのは、ほんとうなのですか? 信じられないな。もし、ほんとうだとしたら、これはたいへんなことですよ」
元は腕《うで》をこまねいてつぶやいた。
「≪時間局≫でもわからなかったのかしら? おねえさんは知らなかったの? どうして?」
どうして、と迫《せま》られて、笙子《しようこ》は言葉を失った。
咲山《さきやま》老人が空咳《からぜき》をもらした。
「そう支局長を責めてはいけません。私もここにいながら、全然、気がつかなかったんですから。それにしても、うまくしてやられましたな。四十年間というもの、全然、気がつかせないというのは、まことに天晴《あつぱ》れなものです」
咲山老人は、椅子《いす》から離《はな》れ、かたわらのテーブルの上のジャーを手にした。
彼専用の古びた急須《きゆうす》に湯を受ける。
香《こう》ばしい緑茶の注《つ》がれた茶碗《ちやわん》をみなにくばった。
「こんどのことがなかったら、これから先、何年も気がつかなかったかもしれません。四十年間も、何に使っていたんでしょうな」
老人は屈託《くつたく》なさそうに笑った。
「咲山さん。そんなことを言っている場合じゃないでしょう。どうするんですか。これから」
元は咲山老人が歯の抜《ぬ》けた口を大きく開いて笑っているのが、むしょうに腹立たしくなってきた。
まことに天晴《あつぱ》れもへちまもないものだ!
「いや、元さん。事の意外な展開に私もどうてんしておるのですよ。これは、もうこれ以上|失敗《しくじ》ったら、私ら、みな、お払《はら》い箱《ばこ》ですよ。支局長も元さんもかもめちゃんも、かく言う私なんか真先だ。なにせ、六百九十年も前からここにいてこの始末なんですからな。そういう次第で私なんぞは他に何の仕事もできない。≪管理局≫をくびになったら、そらもう、その日のうちに行き倒《だお》れですわ」
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろうって言ってるんだよ」
咲山老人は耳のないような顔で、音を立てて茶をすすった。
透明《とうめい》なガラスの壁《かべ》の向うの、森閑《しんかん》とした広い店内には、古代中国の大きな青銅の壺《つぼ》や、大理石の獅子《しし》の置物、日本の戦国時代のいかめしい甲冑《かつちゆう》などが整然とならんでいた。
たそがれが迫《せま》り、店の前の街路にも灯《ひ》がともった。
急に薄暗《うすぐら》く、海の底のように陰翳《いんえい》を失った店内では、屹立《きつりつ》する彫像《ちようぞう》のむれが、奇怪《きかい》な形象に生れ変った。
ここは≪龍堂《せいりゆうどう》古美術店≫の店の奥《おく》にある事務室《オフイス》だった。
事務机が数脚《すうきやく》と、一角を占《し》めるソファとテーブル。昼間は、ここは≪龍堂古美術店≫の本来の社員である三、四人の男女によって占められる。その中で、営業部主任ともいえる立場にあるのが咲山老人であった。
二階堂《にかいどう》元と稲村《いなむら》かもめは≪龍堂古美術店≫の人間ではない。
二階堂元は、練馬の羽沢《はざわ》で小さな古書店を開いていた。
駅や商店街からも遠く、一日中、ほとんど客もいない。通りすがりの者が店の中をのぞきこむと、薄暗《うすぐら》く、カビ臭《くさ》い店の奥《おく》に、いつも元が座っているのが見えた。
稲村かもめは、女子大生ともOLともつかないごくふつうの娘《むすめ》だった。よく見れば愛くるしい顔立ちをしているが、それがかえってどこにでもいるという印象を人に与《あた》えていた。
かれらは笙子《しようこ》の手足として、極めて有能なタイム・パトロールマンだった。そしてその存在は誰《だれ》も知らなかった。かれらは、海のような世間に、その気配もあらわすことなく溶《と》けこんでいた。
今、かれらはこれまで体験したこともない苦しい立場に立たされていた。
「一九四五年に日本でタイム・マシンが造られたという証拠《しようこ》があるの? 見た人でもいるの?」
かもめの声がかすれた。
「それはね……」
笙子《しようこ》が顔を上げた。
「こんど接触《せつしよく》したような異次元世界は、この、今私たちのいる世界を鏡に映したように位相が反転していると考えられるの。だから、この世界と向うの世界とでは、時間の進行が並行《へいこう》しているといわれているんです。委員会では一九四五年に、向うの世界でタイム・マシンが造られたとすると、当然、こちらの世界でもタイム・マシンが造られているはずだ、と結論づけたのです」
「その推論だけで確信できるのですか?」
元の声は深い疑惑《ぎわく》にみちていた。
「この世界の人間が、次元を越《こ》えて向う側の世界に吸いこまれてしまうような、時間的空間的な乱れは、局地的な、極めてミクロなブラックホールが瞬間《しゆんかん》的に発生したと考えられるのです。これは次元を異にする同一地点で、二台のタイム・マシンが同時に作動した結果と思われます。向うの世界の一台だけではこのような現象は発生しないといわれています」
「すると、あの三人はその巻きぞえ、というわけですね」
「支局長。この咲山が心配しとるのは、この世界から三人が向うの世界へ飛ばされた。すると、向うの世界からこの世界へ、同じように三人の人物が飛ばされてきておるのではないですかな。どうもそう思えますがな」
咲山老人は老眼鏡を小指の先でおし上げた。
「そうなのです。委員会もそのように判断しました。そして、それを探し出して自分たちの世界に連れもどすために、向うの世界の≪時間管理局≫も必死に活動しているはずです」
「おねえさん。向うにも≪時間管理局≫があるの?」
「かもめちゃん。今、さっき、私が、この世界と向う側の世界とでは、時間の進行が並行《へいこう》している、と言ったのを、あなた、聞いていなかったの」
「ハイ」
「支局長……」
元が口ごもった。
「……すると、向うの≪時間管理局≫の、≪37―24―45支局≫には、おれそっくりのやつやかもめちゃんと同じ顔のやつ、それに支局長と瓜二《うりふた》つの支局長がいて、今、こうやって何か相談しているんですか?」
「たぶん、そうでしょうね」
元は首をすくめた。
「おねえさん。いっそのこと、向うの世界の≪時間管理局≫のメンバーに会って相談したらいいんじゃないかしら?」
かもめが声をはずませた。
元が大きくうなずいた。
「支局長。ぼくもそう思うんですよ。これはぼくらだけじゃ、しようがないんじゃありませんか?」
笙子《しようこ》が強い口調でさえぎった。
「私たちが、その異次元世界と直接、接触《せつしよく》するのはきびしく禁じられています。相互《そうご》の影響《えいきよう》がよくわからないからなのです。現在、向うの世界に引き込まれた三人には、≪時間局≫から派遣《はけん》された工作員が、ずっと追尾《ついび》していますが、その工作員たちを、こちらへ引きもどすのがたいへんめんどうなのだそうです。一人の工作員は、交代の時、失敗して行方不明になったそうです。もっと違《ちが》う次元に行ってしまったのではないかということでした。私も一度、行きましたけれども、≪局≫の援護《えんご》は、それは大規模で組織的なものでしたよ。それに、その時の私の行動に、わずか二分間ほどなのだけれども、プログラムされていない動きがあったのね、それで委員会は、青くなったらしいの。私が帰れなくなったと思って」
「それじゃ、向うへ行ってしまった三人を、助け出すのも、できるかどうかわからないじゃないの!」
かもめは悲鳴《ひめい》を上げた。
「それは、向う側の世界からこちらの世界へ飛ばされてきている三人を同時に帰してやらなければならないの。そうでないと質量のバランスが取れないのです」
みなは彫像《ちようぞう》のように凝結《ぎようけつ》した。
笙子《しようこ》の声は沈痛《ちんつう》に翳《かげ》った。
「向う側の世界の第二次大戦では、アメリカがタイム・マシンを使って歴史の進行を変えようとし、日本を中心とした勢力は原子|爆弾《ばくだん》でアメリカをたたこうとしました。こちら側ではその反対だったのね。アメリカが日本に原爆|攻撃《こうげき》を加えたけれど、日本のタイム・マシンは、そのうわさ話も残されていないわ。実際には造られなかったのでしょうか? でも、委員会は確信を持っているのです。私たちの世界でも、一九四五年に、日本のどこかでタイム・マシンが発明され、実験の段階にこぎつけていたって。それが、戦争には役に立たず、その後、そのタイム・マシンはどうなってしまったのか、タイム・パトロールマンのアンテナにもひっかかってきていないのです。今でもどこかにかくされているのか、それとも、すでにどこか遠い過去か未来へでも逃《に》げてしまったのか。それをはっきりさせなければならないでしょう。さあ、かかりましょう。どこから手をつけたらよいのかわからないほど難しいけれども」
「咲山さん。あなたの出番だわ」
「ハイ。ようやく回ってまいりましたな」
咲山老人は、ならんだ事務机の、もっとも奥《おく》のひとつに向った。
腰《こし》の曲《まが》りかけた、少しよぼよぼした感じの咲山老人が、ふいに岩のような体つきの男性に変ったような気がした。
「一九四五年に、この日本で、タイム・マシンの実験があったとして、それは日本内地のどこかしら?」
咲山老人はうなずいて、自分の向っているデスクのどこかに手を当てた。
何の変哲《へんてつ》もない、古びたスチールの事務机は、その一瞬《いつしゆん》に奇妙《きみよう》なコンソールに変化した。
咲山老人の両手は、その上をめまぐるしく動いた。コンソールの表面に無数の微小《びしよう》な灯がともり、消え、動き、すべった。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。やがて五分がたった。
「妙《みよう》だな」
咲山老人が両の手の動きを止め、あごを胸に引きつけた。短い間、動かなかったが、ふたたび作業にもどった。
五分後に同じ言葉をつぶやいた。
元とかもめは顔を見合わせた。
咲山老人は、姿勢《しせい》をあらためると、コンソールにおおいかぶさるように、体をのり出した。慎重《しんちよう》な作業が続いた。
やがて咲山老人は、太い息を吐《は》いた。
「支局長。一九四五年の日本列島では、タイム・マシンの作動によると考えられるような、いかなるタイプの地球物理学的変化も起っていませんな」
咲山老人は手に持った鉛筆《えんぴつ》の尻《しり》で、ひたいをこつこつたたいた。
「どういうこと? それ。咲山さん」
「かもめちゃん。それはこういうことなのだ。いいかね。初期のタイム・マシンは、作動する時に生ずる局地的だが非常に激《はげ》しい地磁気の変動や、爆発的ともいえる気圧の変化、それに気温や日照量の変化などの微気象《びきしよう》におよぼす影響《えいきよう》を消去することができなかったんだ。だから、タイム・マシンがはたらけばすぐにわかる。それがどうも……」
かもめも沈黙《ちんもく》した。
「咲山さんはどう思いますか?」
笙子《しようこ》が静かな声音《こわね》でたずねた。
「委員会の判断どおり一九四五年ということには間違《まちが》いないと思いますが、≪局≫の保管しているその年の全部の記録に当ってみましたが、≪局≫の記録には、ありませんな。念のために、プラスマイナス二年のデーターも洗ってもらいましたが、だめです。支局長。これは、もしかしたら、日本ではないのかもしれませんな」
「でも、委員会では、日本と言っていたわ」
「ふうむ……支局長。日本国内で完成したとしても、実験は他の場所でやったということはありませんかな」
笙子の目に光がこもった。
「考えられるわ。発明した人間たちが、タイム・マシンが周囲に与《あた》える影響《えいきよう》に気がつかないはずはない。そのタイム・マシンが、持ち運びができるほど小さなものだったら、安全な場所へ運び出しているわね。とくにあの世界では一九四五年の八月の五、六日|頃《ごろ》など日本国内は完全に混乱しているでしょう。タイム・マシンの実験など、とても危険だったと思う。そこでどこか安全な所へ運び出したのだと思います」
「そうですね。一九四五年というと、縦深《じゆうしん》パトロールと同時間内パトロールが交叉《こうさ》する所でしょう。タイム・マシンの実験はちょっと無理ですね」
縦深パトロールというのは、過去や未来の方向、つまり時間の流れの方向を警戒監視《けいかいかんし》することだ。それに対して、何年何月何日、時には何時何分という一定の時間におけるその時の世界中のようすを監視するのを、同時間内パトロールという。
この相互《そうご》に直角に交わる二方向のパトロールの交叉点《こうさてん》は、誰《だれ》の目にも見てとれるスポット・ライトである。
そんな場所で、タイム・マシンが実験できるとは思えない。
ふと、かもめが口を開いた。
「その実験、なにかの事件にまぎれてやったんじゃないかしら」
「なにか事件にまぎれてというと?」
「地震《じしん》とか火山の爆発《ばくはつ》とか」
「そうね。考えられるわね。咲山さん。どうかしら?」
笙子《しようこ》の言葉に、咲山老人はうなった。
「支局長、地震とか火山の爆発などの天変地異を利用するといっても、あらかじめそれを知っていてそれに合わせてタイム・マシンの実験をおこなうというのは、その一九四五年当時としてはちと困難でしょうなあ。まして、そこへ機材を運んでとなると、どんなもんですかな……」
「そういえばそうねえ。咲山さん、大きな爆発なら原子|爆弾《ばくだん》の爆発があるわ」
「うむ。原爆《げんばく》の爆発《ばくはつ》なら、たしかに顕著《けんちよ》な地電流の変化や、かなり広範《こうはん》な地域にわたって気圧の変動や微震《びしん》を誘発《ゆうはつ》しますな。その規模とパターンはほとんどタイム・マシンのおよぼすショックと同じですな。ただし、支局長。一九四五年のタイム・マシンの製作者は、その時点においては、まだ広島に加えられた原爆|攻撃《こうげき》は知らないのですから、理論的に、広島の事件を利用することは不可能です」
咲山老人は、そう言ってから、急に目をすえてちゅうを見た。
「まてよ……原爆の爆発を利用することはできなくても、大きな空襲《くうしゆう》なら利用できるかもしれんぞ。ことに、昭和二十年の三月の東京大空襲のような大爆撃《だいばくげき》では、地電流や気圧の変化はかなり顕著《けんちよ》に起っているはずだ。これは、機材をどこかへ運んで実験するなどというのよりも、よほど確実だぞ。支局長。これは調査してみる必要がありますな」
「そうしましょう」
「それから、そのタイム・マシンを造った連中ですが、私はどうも、陸軍か海軍、あるいはその合同した機関だと思います。大学の研究室や民間の研究家たちの手のおよぶものではありません。だいいち、資金面ですぐ行きづまってしまうでしょう。タイム・マシンを造っていた場所は、おそらく東京、あるいはその周辺の地区だと思います。とくにタイム・マシンは最新の科学と、莫大《ばくだい》な予算を湯水のように飲み干《ほ》すしろ物ですから、組み立てられた場所は東京でしょうな。それに観測|装置《そうち》や態勢も整えやすい」
老人はふたたびコンソールへ向った。
重々しいサイレンのうなりが、晩春《ばんしゆん》の大気の中へ吸い取られていった。
「空襲《くうしゆう》警報解除!」
「くうしゅうけいほうかいじょ!」
「くうしゅうけいほおお、かあいじょおおお!」
警防団や隣組《となりぐみ》のメガホンがいっせいにさけび出した。
オレンジ色の夕焼雲を背に、固定脚《こていきやく》の九七式|戦闘機《せんとうき》が数機、低馬力ののどかな爆音《ばくおん》を残して遠ざかっていった。
低空を、高速で侵入《しんにゆう》してきたアメリカのノースアメリカンB25爆撃機《ばくげきき》を捕捉《ほそく》することができなかった旧式な戦闘機だった。
空襲《くうしゆう》警報は解かれたものの、警戒《けいかい》警報はいぜんとして続いている。
新宿や早稲田《わせだ》方面の火災はようやく消えたようだが、その方角の空は、なお幅広《はばひろ》く汚《よご》れていた。
「灯火管制の用意はできていますか?」
「防火用水を点検してください」
「組長から連絡《れんらく》があります。組長さんの家に集ってください」
「夕食は早目に終るように。火の用心は念入りにおこなってください!」
さまざまな声が入り乱れて聞えた。
灯火管制というのは、夜、家の外へ灯火がもれ出ないように、窓を厚いカーテンでおおったり、電灯を特別に作った深い傘《かさ》などでおおうことだった。
誰《だれ》にとっても、はじめて経験する空襲騒《くうしゆうさわ》ぎだったが、戦争も押《お》しつまった昭和二十年の大空襲とは異って、昭和十七年といえば日本全体も、また東京都民も、まだまだ余裕《よゆう》のある時代だった。
騒然《そうぜん》とした町々の雰囲気《ふんいき》にも、どことなく、おまつり騒《さわ》ぎめいたところもあった。とくにこんな騒ぎの大好きな子供たちは、路地にあふれて浮《う》かれていた。
そんな子供たちが何人も、笙子《しようこ》の腰《こし》や腕《うで》にぶつかり、押《お》しのけるように走り過ぎていった。
薄暗《うすぐら》くなりはじめた空を、双《そう》の翼端《よくたん》に赤灯と緑灯をきらめかせた飛行機が一機、低空を飛び去った。
それにおどろいたか、コウモリが一羽、地表によどむ夕闇《ゆうやみ》の中から残照の中へ舞《ま》い上った。
とつぜん、裏通りから人影《ひとかげ》が走り出てきた。
荒々《あらあら》しく靴音《くつおと》がひびき、家と家との間の路地へかけこんでいった。
そのあとから、どやどやと足音とさけび声がつづいた。
ガチャガチャとサーベルの音がした。警官も混じっている。警防団の男たちや、モンペ姿のおかみさんたちもいっしょだった。
「どっちへ行った?」
「あっちへ逃《に》げたぞ!」
「そのへんにかくれているんじゃないか」
「軍刀を持っているから気をつけろ!」
口々にさけび交す。
かれらは道ばたのゴミ箱《ばこ》のかげをのぞき、木立の下草をたたき回り、よその家の裏庭へまで入りこんでゆく。
「どうしたんですか?」
笙子《しようこ》はおかみさんの一人にたずねた。
「ここのおかしくなった将校が千葉さんの家に上りこんできたんですよ」
かの女は自分の耳の上で人さし指をくるくる回してみせた。
「ああら。こわい。全然、知らない家へ上ってきたんですか?」
笙子《しようこ》は何も知らぬふりをしてたずねた。
おかみさんは、自分の知っていることを誰《だれ》かに告げたくてうずうずしていたらしく、捜索《そうさく》の一隊はそっちのけにして、口を動かしはじめた。
「この先の千葉さんの家に譲介《じようすけ》くんという息子《むすこ》がいるんですがね、その将校が、自分がその譲介だと言って上ってきたんだって。千葉さんのうちの譲介くんは、まだ軍人じゃないのよ。あたしも知ってるんだもの、譲介くん。それでもって大騒《おおさわ》ぎになってね。おまわりさんもとんでくるし。みんなでつかまえようとしたら、逃《に》げたのよ。かわいそうにね。頭がおかしくなっちゃったんだわ。戦地で負傷《ふしよう》したようにも見えなかったけどね……」
騒ぎは大きくなりつつ急速に遠ざかっていった。
まだ話したりないようにしていたおかみさんも、みなを追って走っていった。
「おねえさん」
笙子《しようこ》のうしろにつき従っていたかもめが、おびえた声を発した。
二人とも、着物を仕立て直した地味な上着に国防色とよばれるカーキー色のモンペ。背中に防空ずきんを背負《しよ》っている。足は粗末《そまつ》な運動靴《ぐつ》という、この頃《ごろ》、しごく一般《いつぱん》的な女性の服装《ふくそう》だった。なにしろ≪ぜいたくは敵だ≫というスローガンの下で、国防婦人会のおばさんたちが、銀座へのり出して、道行く和服の女性をとらえ、そのたもとをハサミで断《た》ち切ったという時代である。パーマをかけた女性には、≪電髪《でんぱつ》はやめよう≫と書かれた紙を手わたした。電髪とは、その頃、パーマネント・ウェーブをそう呼んだのだ。
笙子《しようこ》は豊かな黒髪《くろかみ》をひっつめ髪にして後頭部に丸めていた。かもめはふだんの長い髪をお下げに結んで戦闘帽《せんとうぼう》をかぶっていた。
どこから見ても、そのへんの家から出てきたとしか見えない。
白地に赤で≪憲兵≫と書かれた小旗をひるがえしてサイドカーが走ってきた。
「おい!」
二人のかたわらで止ったサイドカーの上から、横柄《おうへい》な声が飛んできた。
「おまえたち、このへんで不審《ふしん》な兵隊を見なかったか?」
たずねるというよりも、どなりつける。
「さあ。見ませんでしたよ」
笙子がおどおどしたようすで答えた。
「そうか。このへんをうろうろするなよ! 早く家へ帰れ!」
いばりくさって行ってしまった。
「ふん! なにさ!」
かもめが舌を出した。
家並《いえなみ》が切れると、麦畑になった。
麦畑の端《はし》の灌木《かんぼく》のかげに、ちら、と人影《ひとかげ》が動いた。
若い兵士が一人、麦畑の中に走りこむのが見えた。腰《こし》に軍刀をつるしていた。
千葉見習士官であろう。
しかも、彼は、向うの世界から、この世界に巻きこまれ、憲兵や警官に追われて、これから逃《に》げ回らなければならないのだ。向うの世界から、救出グループが派遣《はけん》されて来るだろうが、救出されるまで、本人は恐怖《きようふ》と戦いながら、一人、苦しまなければならないのだ。
「がんばるのよ!」
かもめが小さい声でさけんだ。
「かもめちゃん。よしなさい」
笙子《しようこ》がさえぎった。
「事態を知っている私たちが接触《せつしよく》してはいけません」
二人は足早にその場を離《はな》れた。
「これで、こちら側の三人と同じように、向う側の世界からも、巻きこまれているということがわかったわ。同じことが、イギリスのシェクスピア少佐《しようさ》やペルーのホセ・キノシタにも起っているのでしょう。さあ。行きましょう」
二人の姿《すがた》は消えた。
宵《よい》から吹《ふ》き出した北風は、夜半に近くなって強風となり大木の枝《えだ》をゆり動かし、暗い虚空《こくう》に甲高《かんだか》いさけび声を上げていた。
三月に入って、さすがに寒気はゆるんでいたものの、この風で気温はぐんぐん下り、路地の防火用水には厚い氷が張っていた。
灯の消えた町には、黒い人影《ひとかげ》があわただしく動いていた。
「防火用水の水を割っておいてください」
「門をあけてください」
「この家はまだ寝《ね》ているのかな。起きてください。警戒《けいかい》警報が出ていますよ」
「こう、昼も夜もやられちゃ、たまらねえな。眠《ねむ》くて昼間、仕事にならねえよ」
警防団の連中が、暗い路地から路地を見回っている。
灯の全くない暗黒の街だが、どの家の内部からも、ひっそりと物音がもれてくる。
男たちが言うように、今年に入ってからは、アメリカのB29は、昼も、夜も、大編隊で東京の上空にあらわれていた。
ことに三月に入ってからは、一日、三日、六日と、たてつづけに百機以上の大編隊で夜間|空襲《くうしゆう》をおこなっていた。数万発の焼夷弾《しよういだん》は火の雨となって東京の街々に降りそそいだ。そのつど、新宿でも、中野でも、品川でも、水道橋でも、何百戸という家が焼失した。ぎせい者も激増《げきぞう》していった。
日本の防空|戦闘機隊《せんとうきたい》もおおいに奮戦《ふんせん》して、空襲のたびにB29を数機ずつ撃墜《げきつい》し、高射砲隊《こうしやほうたい》も、一、二機ずつほうむってはいたが、なにしろ相手は大群である。十分の一ぐらいのぎせいを出しても、ほとんど影響《えいきよう》を与《あた》えてはいないようだった。
空襲があるたびに、都内には確実に焼跡《やけあと》がひろがっていった。
最初のうちこそ、たかをくくってのんびり構えていた都民たちも、昭和十九年もおしつまった頃《ころ》から、急速に激《はげ》しくなってきた空襲《くうしゆう》に、にわかに緊張《きんちよう》し、あわてはじめた。
三月に入ってから、わずか十日ほどの間に、百機、百二十機、百五十機と、数をふやしつつ、頻繁《ひんぱん》にくりかえされる夜間空襲には、もはや枕《まくら》を高くして眠《ねむ》ることなど、全くできなくなっていた。
≪東部軍管区情報。東部軍管区情報。敵数目標、南方洋上を北上中。関東地区、警戒《けいかい》警報発令≫
警戒警報のサイレンが北風の吹《ふ》き荒《あ》れる夜空に鳴りひびいたのは、午後十時五十五分とも午後十一時五分ともいう。
サイレンの音にめざめた人々は、反射的にラジオのスイッチに手をのばす。
≪東部軍管区情報……≫
すでに誰《だれ》もが聞き馴《な》れた特有のアクセントで、アナウンサーが警報をさけんでいる。
今夜は来るぞ!
誰の胸《むね》にも、ぶきみな思いが頭をもたげた。
敵数目標というのは、わが軍のレーダーがマリアナ方面の基地を発進したB29の数個編隊をとらえているということだ。
B29が一機や二機の場合は、東部軍管区情報はこう変る。
≪敵|一機《ひとき》、伊豆《いず》半島上空を北進中≫
あるいは、
≪敵少数機、関東地区に進入しつつあり≫
という。
情報の流し方も、どことなくのんびりしている。
三月になってからも、実は、大空襲のなかった二日、四日の夜も、B29は一、二機で東京上空にあらわれている。
そのような時には、門も戸もあけず、家の者は寝床《ねどこ》にもぐりこんだまま誰《だれ》も起き出してこない家も少なくなかった。
軍需《ぐんじゆ》工場での勤務に追われているとわかっている家などには、警防団もあまりきびしいことは言わなかった。
だが、多数機による大爆撃《だいばくげき》の兆候《ちようこう》となるとこうはいかなかった。
三月九日の夜は、東部軍管区情報は、敵数目標が南方洋上を北上中であることを伝えたきり、ずっと沈黙《ちんもく》していた。
南方洋上を北上中の敵編隊が、そのまま、つねに東京や横浜へやって来るとはかぎらない。伊豆諸島のはるか南方で針路《しんろ》を西に変え、名古屋や大阪へ向うことも多かった。
今夜もそれではなかろうか。
そう思いはじめた者もいた。
警戒《けいかい》警報が出されてから、すでに一時間近くたっていた。
いったんは起き出して衣服をつけ、足にはゲートルを巻き、腰《こし》のベルトを締《し》めつけて武者《むしや》ぶるいしていた連中も、しだいに寒さは骨身にしみてくるし、昼の疲《つか》れで、まぶたは重くなるしで、家へ入ってごろ寝《ね》をはじめた。そのいびきもようやく高くなろうとする頃《ころ》だった。
午後十一時五分だったともいうし、いや、それよりももっと前だったともいう。そうではなくて、すでに十日に入った午前|零時《れいじ》十分|頃《ごろ》だという人もいる。
とつぜん、東京の西北方、田無《たなし》か保谷《ほうや》あたりで、激《はげ》しい高射砲《こうしやほう》の射撃音《しやげきおん》がとどろいた。
たてつづけに地ひびきが伝わってきた。
「敵機だ!」
「退避《たいひ》!」
「空襲《くうしゆう》警報はどうした?」
さまざまなさけび声が入り乱れた。
防空壕《ぼうくうごう》へかけこむ者や、寝《ね》ぼけまなこで家の中から走り出てくる者が闇《やみ》の中でぶつかり合い、おめき合った。
それから先のことは、誰《だれ》もはっきりとおぼえていない。
とくにこの夜、爆撃《ばくげき》の集中した江東《こうとう》区、台東《たいとう》区などの地域では、実際の情況《じようきよう》は今日でも伝えられていない。
B29が巨大《きよだい》な爆弾倉《ばくだんそう》いっぱいにかかえこんでくる焼夷弾《しよういだん》は一個が一五〇キロぐらいで、その内部に、一本が五キロから七キロぐらいの小さな焼夷弾が三十本ぐらいひとまとめになって入っている。それが外殻《がいかく》にとりつけられた風車の回転によって弾体《だんたい》が開くと、内部の小さな焼夷弾が傘《かさ》が開いたようにばら撒《ま》かれる。B29は一機が七・五トンもの焼夷弾を積んできたから、それが三百五十機となると、厖大《ぼうだい》な数の小型焼夷弾が降ってくる勘定《かんじよう》になる。
B29は、約三十機が一|梯団《ていだん》となって行動するから、一隊、また一隊とやってくるB29の波状|攻撃《こうげき》はすさまじい数の火災を発生させた。無数の火点と火点がつらなり、みるみるひとつの火になり、つなみのように町々をのみこんでゆく。
この夜、B29の先導機が東京の下町のあちこちに目標の火災を起させると、つづいてのりこんできた大編隊が多量の焼夷弾をいっせいに投下する。
その先導機が侵入《しんにゆう》してきてから、下町全体が火につつまれるまでに、三分もかかっていない。
筆者の目撃《もくげき》でも、最初のB29が出現し、防空壕《ぼうくうごう》にかけこみ、ついで「火事だぞ!」のさけび声に、わが家が火事なのかとあわてて飛び出してみると、火事はわが家にあらず、東の夜空、それはまさに東京の下町の方角だが、その夜空は中天まで真紅《しんく》にかがやき、真夏の入道雲を左右に幾《いく》つもならべたよりもさらに質量感のある巨大《きよだい》な積乱雲がむくむくとそびえ立っているのだった。その積乱雲も、表現に苦しむような異様なドス黒い赤い色をしていた。
その積乱雲は、あとでわかったことだが、地上の大火災による高熱によって生じたはげしい上昇気流が造り出した入道雲だったのだ。
そのときは、そのような理由も知らず、なおたえ間なく頭上を超《ちよう》低空で飛び過ぎてゆくB29のむれをも忘れてただ、ただ、その不気味な光景に肝《きも》をつぶし、目を奪《うば》われていた。
筆者の記憶《きおく》では、防空壕に入っていたのはせいぜい二、三分である。
東京はその、二、三分の間に焦土《しようど》と化したのだった。
10
≪シドニー・クールヘル・シェクスピアより愛する従妹《いとこ》のメアリー・バリナー・ジョイスへ。
元気とのこと、何より嬉《うれ》しい知らせでした。
今、キプロス島の空軍病院のベッドで、この手紙を書いています。
私は頭部に負傷し、三年間にわたって、いっさいの記憶《きおく》を失い、その間、幻想《げんそう》的ともいうべき妄想《もうそう》の世界にただよっていたようです。
だが心配しないでください。今はすっかり健康体になっています。私は記憶を失っていた間、三年間、日本軍に捕《とら》われ、日本軍の戦争の手伝いをさせられていました。おかしいでしょう。私の幻想の世界では、ドイツと日本が第二次世界大戦の勝者なのです。思い出すのでさえ、背すじがつめたくなるようです。
私は日本軍の大型|爆撃機《ばくげきき》に乗って、ニューヨークを爆撃に行くのです。その爆撃は、例のカミカゼ攻撃《こうげき》なのです。あと一分ほどで、ニューヨークへ突《つ》っ込《こ》むというところで、ふと意識がもどったのです。気がついた時、私はこの病院のベッドに横たえられていました。
カミカゼの爆撃機《ばくげきき》の中から、私だけが運び出されここへ投げこまれでもしたかのようです。
私が記憶《きおく》を失ったのは、≪バトル・オブ・ブリテン≫の真最中でした。ドイツ機に追われ、ドーバーの基地に不時着同然に滑《すべ》りこんだのです。
その時、頭を打ったのかもしれません。
なにしろ私がキャノピーをあけると、愛機の翼《つばさ》の下にかけ寄ってきたのは、なんとドイツ軍だったのですから。
メアリーよ。どうやら私は戦いの神から、奇妙《きみよう》な贈《おく》り物をもらったようです。
話したいことが山程《やまほど》あります。
手紙ではもどかしくて、十分に伝えることができません。
けさ、病室のスピーカーで、アメリカの爆撃機が、日本本土に原子|爆弾《ばくだん》を投下したというニュースがありました。
間もなく戦争も終るでしょう。
今は、あなたに会いたいという気持ちでいっぱいです。
また書きます》
ペルー国司法省、トルヒヨ特別収容所|刑務《けいむ》医官報告書。
N0‐B〇五八一。
姓名:ホセ・キノシタ(日系)
収容理由:反国家活動容疑。
刑務医官|取扱《とりあつかい》理由:内因性|記憶喪失症《きおくそうしつしよう》。
彼は一九四二年、本収容所に収容されたが、間もなく、とつぜん錯乱《さくらん》状態となり、わけのわからぬことを口走ったり、さけんだりするようになった。また、狂暴性《きようぼうせい》があらわれるにいたったので、他の収容者に対する安全や全体的保安の面から、エル・アゲイラ県の隔離施設《かくりしせつ》へ移し、同所で治療監視《ちりようかんし》に当ってきた。
ところが、一九四五年八月。彼はふたたび、発作《ほつさ》を起した。短時間の失神ののち、彼は錯乱《さくらん》状態になる以前の彼自身にもどった。
激《はげ》しい驚愕《きようがく》状態を示し、二時間ほど、放心の態だったが、その後、落着きを取りもどした。ただし、その発言内容から、従前に比し、病状はかえって悪化しているのではないかと考えられる。すなわち、彼は「私は第二次世界大戦でニホンやドイツが勝った世界を見てきた」と主張している。そして「私は、ニホンの原爆搭載機《げんばくとうさいき》をニューヨーク上空へ誘導《ゆうどう》する任務を与《あた》えられていた」とも言っている。
奇妙《きみよう》なことに、その妄想《もうそう》は(あえて妄想と断ずるものであるが)微《び》に入り、細にわたってくわしく、かつ極めて現実的なることである。ある監視《かんし》係は、ことによったら、彼の魂《たましい》は実際に、異次元世界に行ってきたのではないだろうか、などと言っているほどだ。
新しい変化が起ったら、また報告書を提出する。
刑務《けいむ》医官。アルベルト・ヒアス
天地が波のように揺《ゆ》れていた。
真青な空に浮《う》かんだ白い夏雲が、限りなく傾《かたむ》いてゆくと、濃《こ》い緑色の松林がせり上ってきた。
松林が深く傾き、視界の一方に落ちこんでゆくと代って一方から夏の空がひろがってきた。
「…………!」
「…………!」
さけび声がおり重なった。
ひんやりした土が、火のような体に心地よかった。
ゆっくりと意識がよみがえってきた。
「譲介《じようすけ》が倒《たお》れたぞ!」
「貧血を起したんだべ」
「日かげに運んでやれ」
「いや、動かさねえ方がいがべ」
「班長《はんちよう》! 千葉が倒《たお》れました」
さまざまな声が降り注いできた。
つめたい手ぬぐいが、ひたいやほおに触《ふ》れた。気持ち悪いあぶら汗《あせ》がぬぐい取られ、その部分のひふが、風に触れ、急速にさわやかになった。
「ああ。おれ、どうしたんだろう?」
譲介は上体を起そうとした。
「まだ寝《ね》てろ。寝てろ! 動いてはいかんね」
「硅石掘《けいせきほり》など、東京の学生には無理だべど」
「ここさ寝せておけ。譲介の分は、みんなで手分けして掘《ほ》るべし」
「んだ」
「な、譲介よ。ここさ寝てろよ。おらだ、作業さもどっからな。案配《あんべえ》悪がっだら、呼べ」
気のいい親切な連中だった。
足音が散った。譲介はそっと頭をもたげた。
真夏の強烈《きようれつ》な陽射《ひざ》しと、濃《こ》い緑が目に飛びこんできた。
聞き馴《な》れないセミの声が渦巻《うずま》いていた。
そのセミの鳴き声が、急速に譲介の意識を現実に引きもどした。
「あれはエゾゼミじゃないか?」
シャワ、シャワ、シャワ、シャワ……
アブラゼミともニイニイゼミとも異る乾《かわ》いたひびきは、譲介の知識をよびさました。
「ここはどこだろう?」
あのセミは東北地方から北海道にしかいないはずだ。
もしかしたら? 譲介の耳に、さっきまで自分を取り囲んで聞えていた青年たちの言葉が、鮮明《せんめい》によみがえり、強烈《きようれつ》な衝撃《しようげき》で譲介の体内をかけぬけた。
その訛《なまり》は聞き馴《な》れていた。譲介の父母の間の会話は常時、その訛の言葉で交されていた。
ここは郷里《いなか》ではないか?
そうだとしたら、なぜこんな所にいるのだろう?
樹木《じゆもく》のかげから掘《ほ》り崩《くず》された崖《がけ》の、灰白色《かいはくしよく》の斜面《しやめん》が見えた。その斜面で、何十人もの青年たちがつるはしを振《ふ》るい、スコップを動かしていた。
気がつくと、そちらから、石塊《せつかい》をすくったり、投げたりするカラカラという音がたえ間なく聞えてきた。
「何をしているのだろう? なぜ、おれはこんな所にいるのだろう?」
上体を起すと、はげしいめまいが襲《おそ》ってきたが、それに耐《た》えて、青年たちの動きを見つめた。
「どうした? 千葉。よくなったのか」
ふいに後から声が聞えた。ふり向くと、汗《あせ》だらけの汚《よご》れたシャツにカーキー色のズボン。ゲートルを巻いて戦闘帽《せんとうぼう》をかぶった鉄ぶち眼鏡《めがね》の中年の男が近寄ってきた。
「なじょした? ぼんやりしてハア。東京の学生は混飯《かてめし》ばり食ってるから、ひもじくてこんな力仕事はできねかべもんな」
意地の悪そうな口調でねちねちと言った。
なんのことだろう?
譲介は男の口元を見つめた。
「何見てる? 敬礼するんだ。敬礼を」
耳ではとらえていても、その意味が結ばれなかった。
とたんに、男の平手が飛んできた。
ぱあん! と顔全体が鳴った。
譲介は砂の中に顔を突《つ》っこんでいた。
「あああ。チュウコ。東京の学生をはたいてけつかる」
「おらだをやれねえもんでよ。体の工合《ぐあい》の悪い者をたたいていやがる」
東京の学生?
譲介はのろのろと起き上った。
「おめえ。チュウコに敬礼しねえとぶんなぐられるんだ。もう宿へ帰っていろ」
チュウコと呼ばれた班長《はんちよう》が去ったあとで、譲介の周囲に集ってきた青年たちが、口々にそう言った。
自分が置かれている情況《じようきよう》が把握《はあく》できるまでに三日かかった。
思っていたとおり、そこは譲介の両親の出身地である岩手だった。
譲介は、三流の工業専門学校へ入学していた。
入学したといっても、時は昭和二十年の七月であり、授業など一日もあるわけではなく、ただちに勤労動員に送り出された。
そこは岩手県南の硅石《けいせき》鉱山で硅石を掘《ほ》っていた。硅石はセメントの原料である。
多くの働き手を戦場に送った日本は、軍需《ぐんじゆ》生産をはじめとして、あらゆる生産の場で、極端《きよくたん》な労働力不足におちいっていた。その手薄《てうす》になった労働力を埋《う》めるために、総動員されたのが、大学生、専門学校生をはじめ、中学生や女学生、それに青年学校などの生徒たちだった。戦争末期には日本の軍需生産の六〇パーセントは彼らの手に負っていた。
「馴《な》れねえ兵隊屋敷《へえてえやしき》の生活でだいぶこたえたのだべよ。ここは空襲《くうしゆう》もねえ、まんつ、休めや。そのうちに気持ちも落着くべから」
祖母はそう言ってくれた。
――ニューヨークの上空にいた爆撃機《ばくげきき》に、おれは乗っていた。たしかに乗っていた。そのおれが、なぜ、ここにいるんだ?
――おふくろと一緒《いつしよ》に、東京からこの岩手へ疎開《そかい》してきたやつがいたんだ。周囲の誰《だれ》もが、そいつをおれだと思っていた。そいつは誰なんだ?
――おれの妄想《もうそう》でも何でもない。おれが体験してきたことは事実だ。ニューヨーク爆撃隊だって、この世界ではまるで空想でしかないが、あの世界では現実のことだった。ニューヨークに原爆攻撃《げんばくこうげき》を加えることができる戦況《せんきよう》と歴史的事実があった。おれはあの世界へまぎれこみ、あの世界でのおれの役目を果した。おそらく、この世界では、あの世界の何者かが、そいつはおれそっくりのはずだが、そいつがおれの代りに、おれの生活をおこなってきたのだ。それには、他の誰もが気がついていない!
譲介《じようすけ》はうめいた。
誰《だれ》にも言ってはいけない。
本能的な恐怖《きようふ》が心の底からそう命じていた。
話したところで、信じてくれる者がいるはずはなかった。それどころではない。悪くすれば病院へ収容されてしまうだろう。
だが、それを誰に語ることもできず、ひとり、胸にしまいこんでおくことの方が、はるかに恐《おそ》ろしい作業だった。自制心がいつ狂気《きようき》を招《まね》くかわからない。それは自分自身との凄惨《せいさん》な戦いだった。
昭和二十年五月。譲介の父親は、昭和十七年の春|頃《ごろ》から、神経を病んで除隊させられた譲介を、母をつきそいにして郷里の岩手へ疎開《そかい》させたのだという。
その昭和十七年の春のある日、譲介の父親は、とつぜん、東京の憲兵隊司令部へ呼び出された。
不安にさいなまれながら出頭した父親は、取調室で、手錠《てじよう》をかけられた姿で暴れている譲介を目にしてぎょうてんした。
「おれは船舶《せんぱく》工兵第一教導連隊、特別幹部候補生千葉譲介だ! おれが何をしたというのだ! この手錠《てじよう》をはずせ!」
さらに驚《おどろ》いたことに、譲介は、ちゃんと特別幹部候補生の制服を身につけていることだった。
憲兵司令部の中尉《ちゆうい》は親切な男で、譲介の父親に、陸軍病院への入院をすすめてくれた。軍籍詐称《ぐんせきさしよう》は、錯乱《さくらん》ということで不問に付すということであり、譲介の父親は、中尉の提言に感謝して応じた。
三か月ほどたつと、譲介は憲兵隊での騒《さわ》ぎはうそのように正気になって退院してきた。
非常に無口になり、毎日、長いことかけて、新聞をすみからすみまで読んでいた。
父母や姉たちには全く関心がないようだった。
母親は、どうも息子《むすこ》が別人なのではないかと思うと父親にもらした。父親は取り合わなかった。
譲介は目ばかり光らせ、他人が話していることに耳をとがらせていたという。
のちになって、そうしたことを周囲の人々から聞き出すことができた譲介は、自分と同じように、元の世界からさまよいこんできたもう一人の自分に、深く同情した。
「おれと入れかえに、あそこへもどって行ったそいつは、原爆と一緒《いつしよ》に吹《ふ》っ飛んだんだ!」
八月六日。広島の上空でアメリカの原爆《げんばく》が爆発《ばくはつ》した。
11
同じ、八月六日。
それは太陽よりもあかるかった。
中心にかがやく緑色の部分があり、全体は複雑なピンク色をしていた。
火の玉はぐんぐん上昇《じようしよう》し、急速に膨《ふく》れ上った。
火の玉の表面は虹《にじ》のように多彩《たさい》な光輝《こうき》を発し、内部から外側へ、外側から内部へと、おそろしい早さで環流《かんりゆう》していた。
やがて、その直径は五〇〇メートルに達した。
それは地上近くに生れた巨大《きよだい》な太陽だった。
はるか下界で、ニューヨーク市全体は、ほこりとも土煙《つちけむり》ともつかぬもので厚くおおわれ、輪郭《りんかく》を失って影《かげ》のように平たくなっていた。
火の玉は二〇〇〇メートルほどの高さに達し、急速にかがやきを失い、形の崩《くず》れた団雲と化しつつあった。その頃《ころ》すでにニューヨーク市は、地上から消えていた。
12
見わたすかぎりの焼野原となった東京は、風が吹《ふ》くと、もうもうと舞《ま》い上る灰かぐらで、目も口も開いていられなくなった。ちょっと雨が降ると、灰は道路へ流れ出て、どこもかしこも泥田《どろた》となった。
表通りからバラック建てが建ちならんでいった。商品もないのに、形ばかりの商店街が出現していった。
露天《ろてん》の闇市《やみいち》よりもややましな、商店には、古着や欠皿《かけざら》や、脚《あし》の取れた卓袱台《ちやぶだい》などがならべられた。それらはたちまち客の手に渡《わた》っていった。
目玉が映っているといわれる薄《うす》い雑炊《ぞうすい》に客がむらがり、進駐軍《しんちゆうぐん》から流れ出たハーシーのチョコレートや、ハッピーストライクが、豪華《ごうか》な商品として人目を引いていた。
焼跡《やけあと》の広場を埋《う》める闇市《やみいち》と、バラック建ての商店街を埋めているのは、軍服姿の復員兵や、アメリカ兵相手のパンパンとよばれる街娼《がいしよう》だった。
特攻隊崩《とつこうたいくず》れと恐《おそ》れられたピストル強盗《ごうとう》が、昼夜を問わず横行した。
復員してきた子分どもを中心に、ばくち打ちも新興やくざもいっせいに旗上げした。
進駐軍《しんちゆうぐん》、DDT、パンパンとならべるか、ジープ、ナイロン、キャメルとならべるか、それとも、マッカーサー、輪タク、スケソウダラとならべるかは、人、それぞれの戦後の印象である。
朝鮮《ちようせん》戦争とともにやって来る神武《じんむ》景気からはまだ遠く、日本全体が敗戦による痛手と、底をついた貧乏《びんぼう》に苦しみながらも、いきいきと、大きく動きはじめていた。
国電山手線|新大久保《しんおおくぼ》駅を出ると、もう目の前には≪戸山が原≫と呼ばれる広大な草原がひろがっている。
現在、何十|棟《とう》もの都営住宅が建ちならんでいる所を中心に、範囲《はんい》は高田馬場《たかだのばば》駅から西は中央線大久保駅、東中野近くまでおよんでいた。
その広大な草原の大部分は、陸軍の練兵場になっていて、山手線の電車に乗って高田馬場駅を過ぎると、たちまち車窓近く、匍匐《ほふく》前進している兵士や、動いたり止ったりしている小さな戦車などが見えてきたものだった。
線路の左の、今はやはり鉄筋《てつきん》アパートが建ちならんでいるあたりに、≪三角山≫と呼ばれる長大な丘《おか》があった。北は高田馬場駅に近く、南は海城中学、保善商業という二つの学校のそばまでのびていた頂上の平らなその丘は、夕方など、その頂上で遊んでいる子供たちの姿が、夕焼の空を背景に、くっきりと浮《う》かび上って見えたものだった。列島改造などといわれる頃《ころ》、国か東京都かしらないが、この≪三角山≫をきれいに削《けず》り取って平地にしてしまったのだった。
≪戸山が原≫が消え、≪三角山≫が姿を消すと、このあたりは、もはや往年の風景をとどめるものは何ひとつなくなった。
その≪戸山が原≫も、中央線大久保駅寄りの一角には、木造やコンクリートの建物が屋根をつらねていた。
陸軍科学研究所や陸軍|参謀《さんぼう》本部陸地測量部、陸軍技術研究所などをはじめ、何を仕事としているのかはっきりしないような施設《しせつ》がそこを占《し》めていた。
だが、アメリカ軍も、それはよく承知していたとみえ、たび重なる爆撃《ばくげき》に、それらの建造物はことごとく焼け落ち、真黒な鉄骨やコンクリート壁をさらしていた。
それらの周囲は高い支柱に張り渡《わた》された有刺鉄線《ゆうしてつせん》で厳重に守られていた。アメリカ軍が占領《せんりよう》した日本軍の施設《しせつ》だからだ。だが警備の兵が常駐《じようちゆう》しているわけではなく、時おり、憲兵《MP》のジープが巡回《じゆんかい》してくるだけだった。
高架線《こうかせん》を走る中央線の電車が、夕焼空を背景に黒いシルエットとなって流れてゆく頃《ころ》、その鉄条網《てつじようもう》をくぐった三個の人影《ひとかげ》があった。
格納庫のような巨大な建物が、鉄骨だけになってそびえていた。そのねじれ曲った梁《はり》の間をコウモリが舞《ま》っていた。
床《ゆか》は、崩《くず》れ落ちた屋根や、焼けただれた機械類の残骸《ざんがい》で埋《うま》っていた。
「支局長。こんな所に何か手がかりがあるのですか?」
復員兵とも浮浪者《ふろうしや》ともつかない汚れた男は元だった。
これも男物の作業ズボンを縫《ぬ》い直したものに、木綿の兵隊シャツを着て、頭髪《とうはつ》を手ぬぐいで包んだ、どう見てもかつぎ屋のおばさんとしか思えないのは笙子《しようこ》だった。その二人につき従っているかもめは、こそ泥《どろ》か、かっ払《ぱら》い常習の宿無し娘《むすめ》としか見えない。
「この科学研究所では殺人光線の研究などをやっていたのね。殺人光線といっても、原始的なレーザー光線で、三十分ぐらいかかってようやっとネズミ一|匹《ぴき》を殺せる程度だったらしいけれど」
「それなのに、どうしてここを探すんですか?」
かもめが不審《ふしん》そうに周囲を見回した。
「ここ三、四年のことなんだけれども、陸軍の科学研究所の方角で、毎夜のようにものすごい閃光《せんこう》が見えたというの。小滝橋《おたきばし》や新宿あたりからもよく見えたんだそうよ。それを見た人たちは、軍が秘密兵器の実験をやっているんだとうわさし合ったんだって」
「支局長。それを裏づけるような記録は残っているんですか?」
「放電によって飛行機や戦車のエンジンを止めてしまうとか、敵機の爆弾《ばくだん》を爆発《ばくはつ》させて敵機を撃墜《げきつい》する方法とか、実現困難なテーマに取り組んでいたようね。でも、タイム・マシンの実験をやっていたという記録は全くないの」
「なあんだ」
「でもね、その閃光《せんこう》が見えたという話ね、こういうおまけがついているのよ」
「どんな?」
「そのとき、ラジオが聞えなくなるし、電灯は消える、走っている自動車のエンジンは止るというようなことがあったんだって」
元とかもめが口をつぐんだ。
「調べているうちに、妙《みよう》な話にぶつかったわ。大久保の駅に近いある家で、その光が見えたあとで、時々、もう食べてしまったはずのサツマイモが戸棚《とだな》の中にあったり、割れたので棄《す》てたお皿《さら》がちゃんと元のままで食卓《しよくたく》の上にあったりしたんだって」
元とかもめの顔が引き締《しま》った。
「それから、新大久保駅に近い百人町《ひやくにんちよう》で、ひと月も前に空襲《くうしゆう》で焼けてしまった家が、焼けない状態で建っているのを見た人がいたんだって」
「支局長! そいつはあやしいぞ」
「おねえさん!」
「そうなの。あたしもピンときたんだ」
「よし。探しましょう。何か手がかりがあるはずだ」
三人は廃墟《はいきよ》の中へ踏《ふ》み込《こ》んだ。
もつれた電線が融《と》け、巨大《きよだい》なクモの巣《す》のように垂れ下っていた。鉄塊《てつかい》と化したモーターや変圧機。カニの死体のようにつぶれたガントリー・クレーンなどが、三人の行手をはばんだ。
木造の研究室は完全に灰になっていた。
コンクリートの建物は、内部に灰が五〇センチも積り、わずかな震動《しんどう》で、黄塵《こうじん》のように舞《ま》い上った。
「これを見て」
直径一〇センチもある太い電線が、数十本ものたうち回り、八方にのびていた。
高圧電線の束《たば》は、床《ゆか》に開いたマンホールからのび出し、広大な室内を、籠《かご》のように包んでいた。
「強力な磁場《じば》を作り出そうとしていたようですね」
三人の足もとから黒焦《くろこ》げになった電線の、炭化した被覆《ひふく》が飛び散った。
地下へ下りる階段があった。
地下室は灰とコンクリートの破片で、ほとんど埋《うま》っていた。
爆破《ばくは》したらしい。
真黒に焼けただれた天井《てんじよう》が、いつ落下してくるかわからない。
うず高く盛《も》り上った破片の山をのりこえ、灰かぐらにむせながら足を運んだ。
ねじれた鉄扉《てつぴ》をくぐりぬけた。
三人の手にした懐中《かいちゆう》電灯の円い光の輪が、右に左に飛び交った。
その中に体育館のように広大な空間があらわれた。
コンクリートの天井が、大きく下へ湾曲《わんきよく》している。真上の屋内で爆弾《ばくだん》が炸裂《さくれつ》したのかもしれない。
剥離《はくり》し、落下してきた天井の破片で床《ゆか》はおおわれていたが、その空間を奇妙《きみよう》な物体が占《し》めていた。
それはさまざまな太さの針金で編まれた巨大《きよだい》な球体だった。その球体の内部にも同じような、直径がやや小さい球体があり、さらにその内部にも、またその内部にも球体がおさめられていた。
それらは全部で三十個ほどもあった。
笙子《しようこ》はその球体に手をのばし、力をこめた。
熱によって融合《ゆうごう》した球体はびくりとも動かず、笙子の指の先で、銀の細い細いゲージが音もなく折れ曲った。
それらの球体の表面には、さまざまの部品や付属品が取りつけられていたらしい。反りかえり、はじけた金属片や、融《と》け流れた跡《あと》が無数にこびりついていた。
「これは何ですかね?」
元が巨大な球体をあおいだ。
「四次元座標系のモデルじゃないかしら。つまり、時計よ。タイム・マシン用の位相時計とでも言ったらいいかな。初期のタイム・マシンでは、なにをどれだけ動かせばどこへ行くことができるのか、全然、見当もつかなかったの。それに、タイム・マシンが置かれている場所で作動すると、その場所での昨日やおととい、来年やさらいねんへは行くことができるけれども、横方向つまり水平移動というのは全くできなかったの。だから、ここではたらかせると、江戸時代の百人町や奈良《なら》時代の百人町……というのはおかしいけれども、奈良時代のこの場所へ行くことはできるし、来年のこの場所、十年後のこの場所へ行くこともできるの。だけども、過去にしろ未来にしろアメリカへ行くことはできないの。それは過去や未来へ移動しながら、同時に地理的に移動するという二つの全く異質なモーメントを操作することがほとんど不可能だったのよ。今だったら、コンピューターがあるから何でもないけれど。コンピューターがない時代には、大がかりな電気計算機と、このような位相時計が絶対に必要だったの」
「すると、やはりここではタイム・マシンの実験がおこなわれていたんですね」
「完成していたんじゃないかな」
「この天球儀《てんきゆうぎ》のばけものみたいな、こんな時計と連動したタイム・マシンがですか? これごと移動するんですか? そいつは。それに電気計算機というやつも、全部真空管を使うんでしょう? それも二千本とか三千本とか。それが全部そろって移動するんじゃ、たまらねえな。まるでお祭りの山車《だし》だね。支局長、これは役に立ちませんよ。実用性ゼロだ」
「元さん。これ自体はたしかにそうでしょう。でも、最初に完成したタイム・マシンというのは、唯《ただ》一回だけ、はたらけばいいんじゃないの? そう思わない?」
「どういうことかな?」
「だめね。元さん。咲山さんの下で事務やってもらうわよ」
「そいつはねえよ!」
「考えてごらんなさい」
「かもめちゃんはどう?」
「あたしわかってるもん」
元は顔をくしゃくしゃにした。
「唯一回だけはたらけばいいっていうのはなぜだろうな……すぐ二台目を作るからかな」
「元さん」
「降参《こうさん》です。支局長」
「かもめちゃん。答えてごらんよ」
「第一号のタイム・マシンで未来へ行って、タイム・マシンの技術を調べてくればいいのよ。未来のタイム・マシンを一台、持ってこられればなおいいわね」
「そうか! 支局長。すると、ここでもそれがなされたと見るのですか?」
「そう考えた方がよさそうね」
「未来へ行って、タイム・マシンを盗《ぬす》んできたんだろうか?」
「咲山さんに調べてもらったところでは、タイム・マシンが盗まれたとか、行方不明になったとかいう記録はないんだって。規制ができて登録される以前のことはわからないんだけどね。あたしは、データーを盗み出した方が自然だと思うの。それだと、全く気づかれないかもしれないし。タイム・マシンを盗《ぬす》み出したりしては、徹底《てつてい》的に調査されるでしょう。ここの技術では逃《に》げおおせることは無理ね」
「すると、ここから持ち出されたタイム・マシンは、われわれのものと同じような、コンパクトなものなんですね」
「でも、技術を盗むことはできても、それを製品にする技術がともなわなかったでしょうから、かなりかさばるものだと思うわ」
「どのぐらいの大きさだろう?」
「さあ。テレビぐらいの大きさかな。いや、もう少し大きいかもしれないな。軽自動車ぐらいあるかな」
「それに、どのような形をしていたのか、それもわからないわ」
「どこを探したらいいんですか?」
「当日のその現場へ行ってみればいちばん手取《てつと》り早いんだけれども、彼らのタイム・マシンが時間の流れの中に残した軌跡《きせき》を消してしまう恐《おそ》れがあるのよ」
犯罪の現場に残された犯人の指紋《しもん》を消し去ってしまうようなものだ。
三人は地上へもどった。
初秋の風が、廃墟《はいきよ》にかすかな笛《ふえ》の音のように鳴っていた。
空には無数の星が輝《かがや》いていた。
戦争が終って、まだひと月しかたっていない東京の夜空は、美しく澄《す》み渡《わた》っていた。
都心の方角の夜空はまだ灯の色に染ってもいなかった。
高架線《こうかせん》の上を、中央線電車の窓の黄色い灯が帯のように流れていった。
夜風が笙子《しようこ》のひっつめた髪《かみ》をなぶって吹《ふ》き過ぎていった。
「行ってみよう」
笙子はつぶやいた。
「どこへですか?」
笙子は背後の廃墟を見上げた。
「ここが空襲《くうしゆう》で燃えた夜へ」
「やっぱり行くんですね」
「見つけ出して破壊《はかい》する。それがあたしに与《あた》えられた任務だわ」
静かな夜気を震《ふる》わせてMPのジープのサイレンの音が、新宿の町の方角から聞えてきた。
13
昭和二十年五月二十五日。
≪敵大型機|数梯団《すうていだん》、南方洋上ヲ北上中。ナオ後続数目標アリ。関東地区、厳重ナ警戒《けいかい》ヲ要ス≫
その警戒警報が出たのは午後十時半だった。
≪敵数目標、阪神《はんしん》地方ニ向ウ。後続数目標イゼントシテ南方洋上ヲ北上中。別ニ伊豆《いず》半島上空ヲ旋回《せんかい》中ノ敵少数機アリ≫
≪伊豆半島上空ノ敵少数機ハ帝都《ていと》西北方ニ侵入《しんにゆう》セリ。南方洋上ノ数目標ハ伊豆半島ニ達シタリ≫
≪関東地区、空襲《くうしゆう》警報≫
今夜は大事になりそうだった。
三月十日に続いて、四月十五日。四月二十九日と東京を襲《おそ》ったB29の大群は、ほぼひと月おいた五月二十五日。最後の仕上げをなすべく、マリアナの基地群にあるB29の総力を上げて東京を襲った。
あとでわかったことだが、実はこの夜以後、東京に大規模な空襲《くうしゆう》はなかった。
それだけに、この夜の空襲は、念入りな偵察と準備がなされていた。
二十四日午後十時|頃《ごろ》から伊豆半島上空で旋回《せんかい》待機していた十数機のB29爆撃機《ばくげきき》は、富士山上空で変針し、午前|零時《れいじ》少し前|頃《ごろ》からつぎつぎに帝都《ていと》上空に侵入《しんにゆう》してきた。
そのB29は爆撃誘導機《パス・フアインダー》だった。
パス・ファインダーが最初に使われたのは三月十日の大空襲だったが、五月ともなると、すでに都心部はあらかた焼野原になり、新宿や渋谷《しぶや》、板橋、中野など、西北部地域から郊外《こうがい》に残る爆撃目標は、よほどたんねんな目標指示をおこなわなければ、爆撃効果はゼロになる恐《おそ》れがあった。
日本軍の夜間|戦闘機《せんとうき》の能力は極度に落ちこんでいたので、この時期のB29は尾部《びぶ》の一二・七ミリ機銃《きじゆう》二門だけを残して、すべての機銃を取りはずしていた。軽くなった分だけ、多くの焼夷弾《しよういだん》を積みこんだ。
パス・ファインダーは爆弾《ばくだん》や焼夷弾の代りに、多数の照明弾と、若干の焼夷弾を搭載《とうさい》していた。
二十五日、午前|零時《れいじ》五分。高田馬場、中野、新宿、渋谷、目黒方面に火の手が上った。
家の外へ飛び出した人々は、東京の西の空に、提灯《ちようちん》をつるしたように無数の光球がかがやいているのを目にしてぎょうてんした。
地上から射《う》ち出す高射砲《こうしやほう》の砲弾《ほうだん》の、炸裂《さくれつ》する火花が、その間で明滅《めいめつ》していた。
思わず歓声がわくほどの美しさだった。
だが、その照明弾を頭上にあおぎ見る地域では、パニック状態になっていた。
地上は、家も林も道路も、この世のものとも思えぬ青い光につつまれていた。
「来るぞ! 今夜はいよいよここだぞ!」
「いいか! 焼夷弾《しよういだん》を消そうなどと思うなよ。火事になったらすぐ逃《に》げるんだ」
「人のことなどかまうなよ。自分だけが助かるつもりで逃げるんだ。そうすればみんな助かるんだ」
人々は口々にいましめ合った。
もうこのころには、焼夷弾を消そうだの、家を守ろうなどと思ったら、まず確実に死ぬということはみなよくわかっていた。
いくら軍や警察や警防団が力みかえり、声を枯《か》らして督励《とくれい》しても、もはや防火活動に民衆をかり立てることは不可能になっていた。
東も西も、北も南も真赤だった。
夜空は火災の濃《こ》い煙《けむり》におおわれていた。この夜も、猛火《もうか》による激《はげ》しい上昇《じようしよう》 気流は烈風《れつぷう》となってほのおをあおった。
焼けたトタン板が紙のように舞《ま》い、火のついた板べいが家々の間をころげ回った。
十数機のB29が、厚い煙《けむり》の下に貼《は》りつくようにして代田《だいた》の方角からやって来た。地上の火光を受け、長大な主翼《しゆよく》も、流麗《りゆうれい》な線に包まれた胴体《どうたい》も、真紅にかがやいていた。
大きく開いた爆弾倉《ばくだんそう》の中に、あかるい電灯がともっているのが見えた。
ごうごうたる爆音《ばくおん》の中から、とつぜん、焼夷弾《しよういだん》の落下音が聞えてきた。
ザザザザザ……
カシャカシャカシャカシャ……
それが中空で爆発《ばくはつ》し、無数の小型焼夷弾に分れた。そのひとつひとつがすでに火を吹《ふ》いている。
すさまじい火の雨だった。
たちまち周囲は火の海になった。
防火も避難《ひなん》もあったものではなかった。
陸軍科学研究所も、陸地測量部もみるみるほのおにつつまれた。
何も建物のない戸山が原にも無数の焼夷弾が落ち、ほのおの草原になっていた。
「第三研究|棟《とう》出火!」
「動力室|破壊《はかい》!」
「第四研究棟出火!」
悲痛なさけびが入り乱れた。
「待避《たいひ》しろ! 非常持出は持ったか」
「早稲田《わせだ》方面に逃《に》げろ。焼跡《やけあと》へ逃げれば大丈夫《だいじようぶ》だ」
「所長! T装置《そうち》の予備実験装置はどうしますか?」
「焼跡に火が入ると面倒《めんどう》なことになるかもしれない。ガソリンをかけて焼け」
あとからあとから焼夷弾《しよういだん》が降ってくる。
その火の海の中を、必死に走る一団があった。
大久保百人町の表通りは、火に追われて逃げる人でごった返していた。
昭和二十年も五月ともなると、もう人々は焼夷弾|攻撃《こうげき》のおそろしさは骨身にしみてわかっており、あちこちに焼夷弾が落ちはじめ、火の手が上ると、まだ燃えてもいないわが家を棄《す》てて、われがちに逃《に》げ出してしまった。
あの三月十日の夜の大空襲《だいくうしゆう》の、悲惨《ひさん》な結果が強い教訓になって、誰《だれ》の胸にも焼きついていた。
町を守ろうだの、工場を守ろうだの、そんなかけ声はもはや全く通用しなくなっていた。
家財道具など持ち出すな。
体ひとつで逃げろ。
人々は合言葉のように、それだけをいましめ合った。
警防団も警官も逃げた。都内のあちこちに駐屯《ちゆうとん》していた多数の陸軍の兵士たちも逃げた。
逃げないかぎり、かならず焼け死ぬのだから、踏《ふ》み止まって消火活動をこころみるなどということは、最初からナンセンスであり、勇気ある行為《こうい》でもなんでもなかった。
五月二十五日の夜は、宵《よい》から風速五、六メートル程度の南風が吹《ふ》いていた。
火の海がひろがるにつれ、いつものように強い上昇《じようしよう》気流が生じ、風速二五メートル以上の烈風《れつぷう》となって、ほのおをあおり立てた。
すさまじい旋風《せんぷう》が、燃えている街も燃えていない街も、ひとつにして吹《ふ》き飛ばしていった。
火の粉は吹雪《ふぶき》のように視界をおおった。
火に包まれた家が吹き倒《たお》され、消防自動車が二〇メートルもの高さまで舞《ま》い上った。
火に追われ、風に追われ、人々は百人町の通りを、西へ西へと走った。
南からは渋谷や代々木、柏木《かしわぎ》あたりからの火が急速に迫《せま》ってきた。
ゆくての東中野や中野、高円寺の方角の空も、ことごとく真赤だった。
ふりかえると、新宿や東大久保あたりは、猛火《もうか》の中にあって、家並《いえなみ》やビル街のシルエットを望むこともできなくなっていた。
頭上を、手をのばせば届くかと思われるほどの超《ちよう》低空を、一機また一機とB29が飛び過ぎてゆく。火の海の中に火柱が立ち、ほのおの壁《かべ》の高さは一〇〇メートルにも達した。
陸軍科学研究所から走り出てきた数人の男たちは、一団になってその火の中を突《つ》っ走った。
「見ろ! 東中野と落合の間に燃えていない所があるぞ」
「あそこを通ろう」
「南側の火の手は大丈夫《だいじようぶ》か? うしろを断たれると火に囲まれてしまうぞ」
「今なら大丈夫だ!」
国電大久保駅の北側から望むと、そこから数百メートルかなた、東中野の北のはずれから、下落合にかけて、ほんの短い距離《きより》の間が火の手を上げていなかった。あとは東西南北、ぐるりと真赤だった。もっとも近いのが、風上の代々木上原《よよぎうえはら》方面からのびてきた火の手で、三〇〇メートルぐらいまで迫《せま》っていた。あとは五〇〇メートルから風下の小滝橋《おたきばし》方向だと一キロメートルぐらいある。だが、風下の方向へ逃《に》げるわけにはいかない。火の先を、ななめに、ななめに、風とは直角の方向へ走るのだ。
男たちは、すすと灰と汗《あせ》で汚《よご》れた顔を手でぬぐって走った。
「川だ!」
「妙正寺《みようしようじ》川だぞ!」
「橋はどこだ?」
一団の前を、川幅《はば》数メートルの流れがさえぎっていた。
橋を探すまでもなかった。一団は腰《こし》ほどしかない深さの流れを、水しぶきを立てて渡《わた》った。
そのとき、頭上に無数の火の玉が開いた。
焼夷弾《しよういだん》が落下してくるけたたましい風切音が、一団の上からのしかかってきた。
14
「ここまではわかったの。これから先が、どうしてもわからないの」
「焼夷弾の直撃《ちよくげき》を受けたか、あるいは焼けてぶっこわれてしまったかするんじゃないですかね」
「現場へ行ってもだめだとなると、こいつは弱ったな」
東中野の駅にほど近い妙正寺川のほとりだった。
妙正寺川の土手には、焼けたトタン板や木片を寄せ集めて作った掘立《ほつたて》小屋がずらりとならんでいた。
空襲《くうしゆう》で家を焼かれた人々が住みついているのだった。
その掘立小屋の周囲も、枯《か》れた水流の築《きず》いたゴミの堆積《たいせき》の上にも、カボチャやトウモロコシのつるや葉がのびている。きびしい食料不足を、少しでもしのごうとして、住人が植えたものだった。
だが、手入れをするひまもなく、ろくな肥料も与《あた》えないから、みな白ちゃけて枯れかかっていた。
笙子《しようこ》が紙片をひろげた。
「これがタイム・マシンを背負って避難《ひなん》した連中の名前なの。
陸軍|中尉《ちゆうい》 島田雄一郎《しまだゆういちろう》
陸軍技師 遠藤仁《えんどうひとし》
同   門田秋夫《かどたあきお》
陸軍技手 小野岩二郎《おのいわじろう》
同   大川敏郎《おおかわとしろう》
同   中原真太郎《なかはらしんたろう》
この中の誰《だれ》かがタイム・マシンを背負っていたのね。
元さん。かもめちゃん。今、あたしたちが立っているこの場所で、島田|中尉《ちゆうい》と大川技手の二人は煙《けむり》に巻かれて死んだのよ。でも、残る四人は、まだひとかたまりになって逃《に》げているの」
「それじゃ、タイム・マシンはその四人の中の一人が持っているんだ」
三人は妙正寺川の流れに沿って進んだ。
川をはさんで、右が新宿区北新宿四丁目、左が中野区東中野五丁目である。
「ここで技手の中原真太郎さんが、焼夷弾《しよういだん》の直撃《ちよくげき》を受けて死んだわ」
あの夜から四か月たっている。
復興とはいえないまでも、焼跡《やけあと》のあとかたづけははじまり、あちこちに形ばかりだが家も建ちはじめていた。しかし、おい繁《しげ》る夏草の間に白骨がころがっているのもめずらしくなかった。
人々は道端《みちばた》に穴を掘《ほ》ってそれを埋《う》め、棒杭《ぼうくい》を立てたり、漬物石《つけものいし》をすえたりして目印にしていたが、すぐそれは倒《たお》れたり雑草の下になったりしてわからなくなってしまった。
三人は小滝橋へ出た。
風が出てきた。灰かぐらで目もあけていられない。
川っぷちに焼けただれたバスの残骸《ざんがい》がならんでいた。
「ここで技師の遠藤さんが、飛んできた瓦《かわら》が頭に当って川へ落ちて、それきりだった」
「門田技師と技手の小野さんの二人が残ったわけだ」
「小滝橋《おたきばし》まで来たものの、高田馬場から戸塚《とつか》にかけてものすごい火の海で、もう進めない。そこで二人は西へ向って進んだのよ。進んで行く方向の、上高田や西落合にかけても一面の火の手だったけれども、今と違《ちが》って、その頃《ころ》は上高田も西落合も畑や雑木林が多かったから、そこを抜《ぬ》けてゆけば、練馬《ねりま》の方へ出られると思ったんでしょうね。そして西武鉄道の中井の駅までたどり着いたところで、私の追跡《ついせき》は失敗に終ったの」
「どうしてですか?」
「現場を見てください」
「かまいませんか。われわれがタイム・マシンを作動させても」
「大丈夫《だいじようぶ》よ。行きましょう」
三人は四か月前の夜へもどった。
大気は灼《や》け、鼻の奥《おく》やのどが火傷《やけど》したようにヒリヒリと痛んだ。目はほとんどあいていられない。
烈風《れつぷう》に渦巻《うずま》く火の粉と灰が、視界をおおった。
何時|頃《ごろ》なのか全く見当もつかなかった。
だが、周囲は火焔《かえん》に照らされ、真昼のようにあかるかった。あかるいといっても、それはただ赤一色だった。黒も黄も緑も、全くない。すべて、陰惨《いんさん》な赤に塗《ぬ》りこめられていた。
西武電車の中井の駅は、駅舎《えきしや》とプラットホームの屋根がなくなっていた。燃えたまま、どこかへ飛んでいったのだ。
そのプラットホームに、二つの人影《ひとかげ》が這《は》い上ってきた。
「大丈夫《だいじようぶ》か。しっかりしろよ」
「これから、どっちの方へ逃《に》げたらいいですかな?」
「門田さん。しばらくここでようすを見るとしよう。このあたりにはB29も来ないようだし、もうすぐ夜もあけるだろう。ひと休みしようや」
二人はプラットホームに体を投げ出した。
五〇メートルほど離《はな》れた所で、町工場が真赤な火柱を吹《ふ》き上げていたが、二人はもはや気にもしなかった。
それに中井駅の北側は、一時間ぐらい前に火が通っていったものとみえ、広大な焼野原になっていた。
二人はものも言わず、ふいごのような息を吐《は》いていた。
やがて門田さんと呼びかけた方が、背負っていた大きなバッグをおろした。そして体を長くのばした。
周囲を見回すと、プラットホームの下の線路の上や、焼け落ちた駅舎《えきしや》のかげなどに、何人もの人たちがうずくまったり横たわったりしていた。
みな新宿や高田馬場の方から逃《に》げてきたのであろう。荷物ひとつ持たず、なかまや身内らしい連れもなく、痴呆《ちほう》のように、うつろな目でなお天を焦《こが》す夜空を見つめていた。
「水!……水をくれ!」
灰かぐらの中から、男が一人、あらわれた。よろめきながら線路を横切ってゆく。
火焔《かえん》であぶられ、灰とどろと血にまみれ、容貌《ようぼう》もまるでわからない。衣服をつけているのか、それとも裸《はだか》なのかもわからない。
男は枕木《まくらぎ》が焼けて、レールだけが大きくうねっているのを目にして足を止めた。
男はふいに笑い出した。いつまでも笑いつづけた。笑いを止めたと思うと、
「たあかあさあごおやあああ――」
荘重《そうちよう》にうたい出した。
ごうごうとうなる烈風《れつぷう》と、たえ間なく爆《は》ぜる火焔《かえん》のどよめきの中で、男の声が切れ切れに三人の耳に届いてきた。
誰《だれ》も顔も向けなかった。ここまでたどり着くことができたということだけでも奇跡《きせき》に近かった。これから先、果してどれだけの時間、生命を永らえていることができるのか。自分のことさえ考えることができないのに、他人のことを考えることなど、全く不可能だった。
男は、高砂《たかさご》やを唄《うた》い終ると、プラットホームの割れた石だたみの上に端座《たんざ》し、朗々《ろうろう》と婚礼《こんれい》の祝賀のあいさつをはじめた。
そのとき、一機のB29が超《ちよう》低空で中井の町にのしかかってきた。
大きく開いた爆弾倉《ばくだんそう》から、無数の焼夷弾《しよういだん》が吐《は》き出された。
みな、それを見ていた。
ふりあおいだ目に、刻々と大きくなってくる火の塊《かたまり》が映っていた。
身動きする者もいなかった。
数秒後に、確実に襲《おそ》って来る死を見つめていた。
それは確実にやってきた。弾体《だんたい》の内部に七十二発の小型焼夷弾を収めた焼夷爆弾《しよういばくだん》は、どこかが故障したものか、弾子《だんし》をまき散らすことなく、ひと組のまま落下してきた。弾頭《だんとう》の部分は、二二七キロ爆弾《ばくだん》になっていた。
すさまじい地ひびきとともに、弾体は大地にめりこんだ。
長さ二メートル以上もある弾体は、すっぽりと地面に入りこみ、それからおそろしい勢いで跳《は》ね返ってきた。
二二七キロの炸薬《さくやく》をつめた弾頭部分は、爆発《ばくはつ》しなかった。不発だった。だが、その激突《げきとつ》の衝撃《しようげき》で、故障していたバネがはずれた。
弾体を形造っている外被《がいひ》が開くと、七十二個の焼夷弾が飛散し、同時に発火した。
高さ二メートル。直径五〇メートル。八〇〇度Cの、灼熱《しやくねつ》のほのおの扁平《へんぺい》なドームが出現した。レールは融《と》け、コンクリートも石も砕《くだ》けた。
それはほぼ三分間つづいた。弾体《だんたい》に充填《じゆうてん》されていた油脂《ゆし》が燃えつきると、七十二発の焼夷弾《しよういだん》が造り出したほのおのドームは、急速に力を弱め、かがやきを失っていった。
飴《あめ》のようにうねったレールと、突《つ》き崩《くず》されたプラットホームの残骸《ざんがい》だけが残された。
「支局長! 誰《だれ》も生き残っていません!」
「あの二人は焼け死んでしまったわ。タイム・マシンも焼けただれてしまったのでしょう」
元とかもめはガチガチと鳴る歯をくいしばった。
ふかふかと厚く積った灰と焼土が、ほんのわずかな動きで足元からもうっと舞《ま》い上った。
笙子《しようこ》は手にした棒切れで足元の灰を払《はら》った。
真黒な塊《かたまり》があらわれた。もう一個出てきた。
「あの二人よ」
笙子は、とても人体とは思えぬ真黒な、ちぢんだ物体をのぞきこんだ。
その周囲の灰をかき分けた。
「タイム・マシンがないのよ」
「どこかへ吹《ふ》っ飛んだんじゃないかな」
「燃えてなくなってしまったんでしょう?」
笙子《しようこ》は首をふった。
「焼夷弾《しよういだん》が火を吹いただけで、爆弾《ばくだん》が破裂《はれつ》したんじゃないのよ。それに、いくら高熱で焼かれたからって、全部蒸発するとは考えられないでしょう。核爆発《かくばくはつ》じゃないんだから」
「融《と》けてもなんでも、塊《かたまり》になって残っているはずだというわけか」
「そのとおり」
「でも、無いとなると……」
「焼夷弾が発火した時には、ここにはなかった……」
「まさか! この二人のどちらかが、ここまで背負ってきたんじゃなかったの?」
笙子の眉《まゆ》がかげった。
「焼夷弾が落下する直前に、誰《だれ》かが持ち出したのでしょうね」
「誰が?」
「…………」
「支局長。爆発《ばくはつ》の直前を調べてみたらどうでしょうか?」
「元さん。私たちタイム・パトロールマンは、ここでこうやっていても、未来からやって来ているわけなのだから、ほんとうは、どんなことがあっても、この中井駅で死ぬわけはないわ。ここで今死んだら、未来から来ている自分というものが存在しなくなってしまうものね。でも、だからと言って、生命を守らなくてよいわけではないのよ。過去の時間の中で、死んだりけがをしたりしないように注意して行動することによって、未来の存在が保障されているのですよ。焼夷弾《しよういだん》がいっせいに発火する瞬間《しゆんかん》に、ここに立っていることは、たとえタイム・パトロールマンでも不可能よ」
その時間にして十数秒の間に、タイム・マシンはけむりのように消えてしまったのだった。
「元さん。焼夷弾《しよういだん》が落ちてくる前までは、このプラットホームの上や下で休んでいた人は、全部で三十四人だった。それが、死体は三十三体。一人いないのよ」
「誰《だれ》ですか? それは、陸軍の科学研究所から逃《に》げ出してきた者たちでしょう?」
「ちがうの」
「ちがう?」
「どこの誰だがわからないわ。プラットホームの上で……」
「高砂《たかさご》やを唄《うた》っていた人物ですか?」
「その位置に死体がないの」
爆風《ばくふう》でどこかへ吹《ふ》き飛ばされるはずもないし、また骨まで燃えつきてしまったとも考えられない。
「でも、なぜあの人物がタイム・マシンを盗《ぬす》んで逃《に》げたのでしょうか?」
「盗むという気持ちがあったかどうか。それに、他の人たちのように、あそこであきらめるということもなく、とっさに逃《に》げ出したのかもしれないわ。手近な所にあった荷物を持ってね」
「どこへ行ったんだろう?」
「陸軍の科学研究所の連中を探すよりも難しくなったわね」
すでに全弾《ぜんだん》を投下しつくしたのか、弾倉扉《だんそうひ》を閉じたB29爆撃機《ばくげきき》が、巨体《きよたい》を真紅にかがやかせて頭上を飛び過ぎていった。
15
西武新宿線の六|輛《りよう》 連結の電車が、風を巻いて通過してゆく。エンジとシェルホワイトの、ツートンカラーの車体がネオンのかがやきを断ち切って視野をかすめる。川越《かわごえ》行の急行だった。
プラットホームの上を渡《わた》る環状《かんじよう》道路七号線をゆく車の騒音《そうおん》が、たえ間なく、潮騒《しおさい》のように聞えてくる。
あの夜から二十年たっていた。
西武新宿線の中井駅は、周辺とともに、当時とは全く別な国の町のように変貌《へんぼう》していた。
線路の両側に林立する高層マンションやビルの間からのぞく夜空は、星もなく、そこが夜空とは思えないほどせまく、汚《よご》れている。
笙子《しようこ》は急行電車が走り去った方角へ、放心したように視線を投げつづけていた。
真紅の尾灯《びとう》が視野から失せると、遠い信号灯が緑から赤に変り、四本のレールが赤い糸のようにのびた。
あれから五日に一度、一週間に一度、笙子はこの場所に立った。
ある日は、昭和二十年の当夜の時もあったし、ある日は翌年のその夜、ある日は十年後のその夜のこともあった。
事件の起ったその場所を、徹底《てつてい》的に探索《たんさく》すれば、かならず何か手がかりはつかめるはずだ、という信念と衝動《しようどう》が、笙子をこの場所に運んでくるのだった。
どこかに、何か手がかりがあるはずだ――笙子はこころよい初夏の夜風にほおをなぶらせながら、乗降客の姿もあわただしいプラットホームに立っていた。
白っぽい和服に、こまかい染模様の浮《う》いた橄欖色《かんらんいろ》の帯も渋《しぶ》く、すっきりと立った笙子《しようこ》の姿に、無遠慮《ぶえんりよ》な視線を注いでゆく男たちも多かった。
何本かの急行電車が通過して行った。その間には、それ以上の本数の各駅停車も入ってくる。
「ねえちゃん。おい。ねえちゃん」
酒の匂《にお》いをまき散らしながら、会社員風の初老の男が声をかけてきた。
笙子はわれにかえった。
「ねえちゃん。いい人と待ち合わせかい」
男は大きなおくびを発してよろめいた。
周囲の好奇《こうき》な視線が集中していた。
笙子《しようこ》はさりげなく身をかわし、歩を移した。
「ねえちゃん。そんな来ねえのなんか待っていたってしようがないよ。それより、おれと飲みに行こう。なんか食うかい。おごるよ。かねはあるぞ。ほら。見てみろ」
男は上衣《うわぎ》の内ポケットから札入れを取り出して、両手で開いて見せた。一、二枚の一万円札と数枚の千円札がのぞいていた。
笙子は足早に改札口《かいさつぐち》へ向った。
男が追いすがってきた。こんな場合、周囲の興味は、事態がもっと深刻になればよいという一点にかかっている。それに、また時間的に言って女が決定的な被害者《ひがいしや》にはならないであろうという気持ちもある。
「まてよ。おい! まてったら!」
男は怒気《どき》を発して追ってきた。
改札口を出た所で、ひどい音を立てて転倒《てんとう》した。
それでいよいよ頭に血が昇《のぼ》ったらしい。
「まてといったらまてよ! この女《あま》!」
男が背後からつかみかかってきた。
「どうしたね。よしなよ。社長さん」
ふいにどら声が飛んできた。
酔《よ》いどれの体の動きが止った。
「なんだ。カバン屋じゃないか。社長はよせよ。もう社長なんかじゃねえんだ。おれはしがない安サラリーマンだ」
「ま、いいから。いいから。なあ、きみも苦労人じゃないか。酔《よ》っぱらって他人に迷惑《めいわく》をかけたりしちゃいけないよ」
胸に、スリー・スター、ファッション・バッグと縫《ぬ》い取りのあるグレイのユニフォームをはおった太った男は、社長と呼ばれた酔いどれの肩《かた》をたたいた。酔いどれはうなだれた。
「すまない。ねえちゃん」
笙子《しようこ》はファッション・バッグの男にたずねた。あいさつの受けようもない。
「お友だちですか?」
「いや。この近所で、最近まで鉄工場をやっていた人なんだけれどもね、わけがあって、今はつとめているんだ。加藤《かとう》さんだよ」
「ありがとうございました。どうなることかと思いました」
「いや、なに、ね。気のいい人なんだよ」
ファッション・バッグは、まぶしそうに笙子《しようこ》の顔から目をそらした。
「あああ。おれってだめなやつだなあ。社長だなんだって言われていたってよ。あっさり工場はつぶれちまうし、酔《よ》っぱらって、よその奥《おく》さんにからんだり、自分で自分がいやになるぜ」
元鉄工場の社長はなさけない声をふりしぼった。
「それでは、ごめんください」
笙子《しようこ》は会釈《えしやく》するとその場を離《はな》れた。
「なあ、カバン屋よ。おれがあんな物さえひろってこなかったら、あんなことにはならなかったんだ。なんのうらみかなあ、ひとにたたりやがって!」
「もうそんなことは忘れてしまえよ。さあ、帰ろう。送っていってやるよ」
「ちくしょう! 死んだばばあが出てきやがったり、戦災で燃えちまったはずの家が建っていたりよ、あんなばかなことってあるもんじゃねえ」
「もう言うなよ。加藤さん、なんか勘違《かんちが》いしたんだよ。言いたいやつには言わせておくさ。あんたはいい人だよ。そんな、おばあさんにうらまれるようなこと、していねえじゃねえか。あんた、よく、面倒《めんどう》見たぜ」
笙子の足が止った。
笙子は二人を近所の寿司屋《すしや》に誘《さそ》った。
「いや。すまないなあ。こっちがかえって一席設けておわびしなければいけないところなのに」
二人はひどく恐縮《きようしゆく》していた。
「いいんですよ。今、ちらとうかがったところでは、なにか、とんでもない目におあいになったとか。お気の毒でしたわね。いえね。私の親戚《しんせき》にも、同じようなことで苦労した者がいるものですから、妙《みよう》にひとごととも思えなくて、お誘《さそ》いしたんですのよ」
笙子の注《つ》ぐ酒に、二人は舌なめずりした。
「板さん。お二人になんでも見つくろって上げてくださいな」
「すみませんね」
カバン屋も元鉄工場も、人の好さを丸出しにして、笙子の酌《しやく》に陶然《とうぜん》としていた。
「……燃えたはずの家が、ちゃんと建っていたなんて、ふしぎな話ですわね。でも、あなたのまわりの人たちは、その話、誰《だれ》も信じなかったんでしょう?」
「そ、そうなんですよ。その家ってのは、私の女房《にようぼう》の実家でしてね。ここから三〇〇メートルぐらいしか離《はな》れていないんですが、昭和二十年の五月に空襲《くうしゆう》で焼けてしまったんですよ。それが、ええと、今から十年前だから、昭和三十年か。私が夜、たばこを買いに出たら、目の前にその家が建っているじゃありませんか! たまげたねえ。私は家へ飛んで帰って、女房を引っぱってきたんですが、そん時にはもう消えていましたよ」
「その時、その土地には何が建っていたんですか?」
「だから、女房の実家なんですよ。そうそう、鉄筋のアパートね。四階建ての。このへんは、規制されてるから、四階建てがぎりぎりなの。それが、そこに戦災で焼ける前の、木造の二階屋が建っているんだものねえ」
「おばあさんがあらわれたっていうのは?」
「女房《にようぼう》の母親なんだが、十年ほど前、八十|歳《さい》で死んだんだがね、そのばあさんが、おととし、いや、その前のとしだ。この前の通りを、すたすた歩いているのを、わし、見ちまったんだよ。六十歳ぐらいだったね。幽霊《ゆうれい》だね。あれは。でも、なんだって出てきやがったんだ。ほかにも、そんなことが二、三回あってね。たたりだなあ。それ以来、どうもおれはついていないんだ」
「どうしてそんなことになったのかしら」
カバン屋がのり出した。
「昭和二十年五月二十五日に大空襲《だいくうしゆう》があってね。その頃《ころ》のこと、あんた知っているかどうかわからないけれども、新宿、渋谷からこのあたり一帯、焼野原になってしまったんだ。その次の朝だったが、加藤さんの家の前に倒《たお》れていた男がいた。あちこち火傷《やけど》もしていたが、この男、かわいそうに気が狂《くる》っていてね。むりもねえや。あのものすげえ空襲だ。正気でいる方がおかしいや。この加藤さんは親切に、その男を介抱《かいほう》してやっただけでなく、五、六年、家族同様に面倒《めんどう》見てやったんだよ。えらいもんだ。ところが、そんなことがあってから、加藤さんの家にいろいろふしぎなことがおこったってわけさ」
笙子《しようこ》はそれとなくたずねた。
「その人、荷物も何も持っていなかったんですか?」
「そのことよ」
カバン屋が話したくてならなかったのは、どうやら、その部分らしかった。
「その男、黒いカバンみたいなものを、しっかりかかえているんだ。寝《ね》る時も離《はな》さないんだ。いったいそれは何なんだってきいてみたら、これは仏壇《ぶつだん》だってんだ。だけどなあ、大きさや形からいって、仏壇とも思えないんだ。それで、そいつが眠《ねむ》っている時、そっとカバンをあけてみた」
「なんでした?」
「なにかねえ? あれは。タイプライターか、レジスターみたいな機械なんだよ。仏壇《ぶつだん》でも何でもありゃしねえ。おれはこう思った。この人はたぶん、避難《ひなん》する時に、自分の家の仏壇をかつぎ出したんだなあと。だが、それも、あの火の海の中を逃《に》げる時、どこかで手放してしまい、そのかわりに、道路に落ちていたカバンをひろって、それを仏壇だと思って持ち歩いていたんだろうね」
当時、そのような話はめずらしくなく、火に追われて逃げる母親が、すでに神経を狂《くる》わせていて救出されてからも持っている下駄《げた》を、これは自分の子供だと言って離《はな》そうとしなかったり、金庫をかかえて避難したらしい商家の番頭が、折れた土管を抱《だ》いて、人を寄せつけまいとしてたけり狂っていたり、悲惨《ひさん》な話は多かった。
「その人、その後、どうしたんですか?」
鉄工場がてのひらで顔をぬぐった。
「親戚《しんせき》がわかってね。引き取ってもらった」
「親戚? どこだったんですか?」
「大岡山《おおおかやま》。大田《おおた》区の」
「よくわかりましたね」
「男の持っていた手帖《てちよう》に書いてあったんですわ」
「その荷物、どうしました?」
「持っていってもらったよ。えんぎでもねえ。やつがどこかへおっぱなしてきた仏壇《ぶつだん》のたたりだよ。ひでえ目にあった。その親戚《しんせき》というのがやって来た時、おれはばっちり言ってやったよ」
「その親戚、大岡山のどこでした?」
「え?」
「私の親戚も大岡山にいるものだから。さ、さ、もう一杯《いつぱい》」
「どうも、どうも。大岡山の駅の近くの電気屋だってよ。スパルタ電気とか言っていたな」
笙子《しようこ》は、急に気がついたように腕《うで》の時計をのぞいた。
「あらあら、こんな時間。すみません、すっかり御迷惑《ごめいわく》をかけてしまったわ」
お勘定《かんじよう》……笙子は板前に合図した。
16
大岡山のメインストリートともいうべき商店街は、北から南へ真直《まつすぐ》にのびている。東急電鉄|目蒲線《めかません》の踏切《ふみきり》を越《こ》えると、東京工大の広大なキャンパスがひろがっている。
大岡山の駅は大田区だが、大岡山の街は目黒区である。その街路も、右側が大田区で左側が目黒区などという複雑な区境がつづいている。
「電話番号帳にはスパルタ電気などという店は無いのよ。もう無くなってしまったのか、それとも、加藤さんの記憶違《きおくちが》いでしょうね」
商店街の中の喫茶店《きつさてん》だった。
テーブルの上に、元は商店街のパンフレットをひろげた。折込の地図には商店街のすべての店が記入されている。
「名前が似ているのではスバル電機というのと、ツルタ電機、パルス商会というのがありますよ。それから、スパルタじゃなくて、アテネ電工社というのがありますね」
「そのおっさんが引き取られる前からあった店を探せばすむことじゃないの」
かもめが地図をのぞきこんだ。
「調べてみた。ツルタ電機とパルス商会は最近店開きしたんだから除外していい。その当時あった店で、今は無くなった店で、スパルタ堂という運動具店があった。それからアテネという喫茶店《きつさてん》。つるた質店というのがあったが、これは関係なさそうだ」
「スバル電機とアテネ電工社が問題だね」
笙子《しようこ》が深い息を吐《は》いた。
「元さんはスバル電機。かもめちゃんはアテネ電工社を調べてちょうだい。昭和二十年五月二十五日の東京大空襲で被災した人で、しばらくの間、行方不明になっていた人を引き取らなかったかどうか。また引き取ったとき、機械の入った黒いカバンを持っていなかったかどうか。この二点にしぼってね」
二人はうなずいて出ていった。
笙子は店内の片すみに置かれた赤電話に歩み寄った。
咲山老人の声が受話器から流れ出た。
「咲山です。支局長。地磁気の局地的変化を調べていたのですが、観測器材の故障か、それともデーターの読み取りの間違《まちが》いなのか、はっきりしませんが、一九六五年、昭和四十年に、大岡山を中心としたごくせまい地域で、磁力のかなりはっきりした変化が短時間、発生していますね」
笙子のほおが固くなった。
「ここには東京工大があるわ。何か実験をしたのではない?」
「いや。そうではないようですな。極めて、指向性の強い重力場《じゆうりよくば》が発生したと思われる干渉抵抗《かんしようていこう》の結果と思われますが……」
「何かが通っていった……そうね」
「はい。行ったり来たりしている、とでも申しましょうか」
「タイム・マシン」
「と、いうのが妥当《だとう》でしょうな」
「……でも、どうして時間|監視局《かんしきよく》の監視センターでキャッチできなかったのかしら」
「支局長。初期のタイム・マシンは時間軸《じかんじく》に直角な方向には操作性がないので、スキャナーにはあらわれにくいのです」
「そうだったわね」
置かれたその場所で、位置を変えずに、過去や未来だけへ移動するというのは、周囲に対して影響《えいきよう》が極めて少ない。だが、異った未来位置に行くとなると、その位置関係のずれが大きな影響をあらわしてくる。
「咲山さん。陸軍科学研究所が試作したタイム・マシンが、すでに誰《だれ》かの手によって使われているというのね」
「わかりません。その可能性はありますな。他に、この時代のこの場所で、フリー・ドライブしたタイム・マシンはありませんから」
「一番|恐《おそ》れていた事態になったわ」
笙子《しようこ》は受話器を耳に当てたまま、うなった。
「電話、まだですか?」
ふいに背後で若い女の声がした。
ふりかえると、けわしい視線が飛びついてきた。
「あら。すみません」
笙子は電話を切った。
テーブルへもどったが、いても立ってもいられない気持ちだった。
陸軍科学研究所が、アメリカの原爆《ばくだん》に対抗《たいこう》する目的で、ひそかに研究、試作したタイム・マシンが、戦後二十年をへた今、どこかで、誰《だれ》かの手によってあやつられているのだ。
センターが探知できなかったのだから、支局としては責任がないようなものの、自分の担当している時間域の中でのできごとだけに、笙子としては強烈《きようれつ》な屈辱《くつじよく》を感じた。
しかも、そのタイム・マシンは、見つけ出して破壊《はかい》せよという命令を受けたものだった。
コーヒーのおかわりを重ねて、時間を過していると、ようやく、入口から元が入ってきた。
「どうだった?」
元は椅子《いす》に尻《しり》を落して首をふった。
「支局長。だめだ。スバル電機店には、該当者《がいとうしや》はいないですよ。もともと、武蔵小山《むさしこやま》、目蒲《めかま》線で大岡山から目黒へ向って三つ目の駅ですがね、そこの人たちなんだって。都心には親戚《しんせき》どころか、知り合いもいないってんですよ。終戦後、親戚を引き取ったということもないそうです」
「ごくろうさん」
笙子は咲山老人の報告を元に告げた。元の顔から血の気が引いた。
「支局長。それは、われわれが追っていることを知って、逃《に》げたんじゃないでしょうか?」
「咲山さんの話では、往復しているらしいわ」
「早くつかまえないと、やっかいなことになりますね」
「ゆううつだわ」
ドアが開いてかもめがもどってきた。
「ただ今。アテネ電工社へ行ってきたわ。おねえさん。アテネ電工社って、経営者が代っているんですよ。たしかに太平洋戦争前から店は開いているんだけれども、十年ぐらい前に、前の経営者が死んで、その時の従業員が、店を買ってそのまま営業を続けてきたんだって」
「それで、どうなの? 問題の一件は?」
「行ってきたわよ。先代のアテネ電工社の経営者未亡人の所へ」
大岡山の北のはずれで、アパートを経営していたという。
「その死んだ元経営者の弟だったんだって。東大久保で戦災に会い、そのまま五年間ほど行方不明になっていたそうよ」
「あの人に間違《まちが》いないわね」
「黒いカバンに入った機械を持ってきたって」
「やっぱり!」
「アテネ電工社ってね、古い電気器具や故障した電気器具を修理して、再生品として特価品専門店や古道具屋なんかへ売るんだって」
「機械のこと、何かおぼえていなかった?」
「頭のおかしくなった親戚《しんせき》の人は、その後、なおって元居た所へかえったんだって。その時、その機械は、カバンごと置いていったんだって。棄《す》てるって言うから、古鉄屋に売っても幾《いく》らかになるからと言って置いてゆかせたんだって」
「しみったれてやがるな」
「で、店のすみに置いておいたんだけれども、結局、再生品の冷蔵庫や電熱器といっしょに、エジソン堂という古道具屋に売ってしまったんだって」
昭和四十年|頃《ころ》には、すでにテレビや冷蔵庫をはじめ、すべての電気器具は激《はげ》しい過当競争におちいり、驚異《きようい》的な値下販売《ねさげはんばい》が始まっていた。再生品の電気器具など、ふり向いて見る人もいないであろう。
「エジソン堂ってどこ?」
「大岡山の駅のそばの踏切《ふみきり》から二〇〇メートルぐらい行った所」
三人は立ち上った。
踏切を渡《わた》り、工大の正門を右に見て進むと、ならんだ商店の間に、みすぼらしい古道具屋があった。
せまい店先に、塗装《とそう》が剥《は》げた古い冷蔵庫や、まるでエジソン博士が使っていたのではないかと思われるような古色蒼然《こしよくそうぜん》とした扇風機《せんぷうき》、針金を曲げて作ったような見るからに危険な電熱器などが、足の踏《ふ》み場もないほど積み上げられ、ならべられていた。
店の奥《おく》のせまい帳場に、うずくまって新聞を読んでいるのが、この店の主人らしい。
「あの……」
笙子《しようこ》の声に主人は顔を上げた。
「こちらでアテネ電工社から、黒いカバンに入った、タイプライターのような機械を買われたでしょう。あれ、古いタイプライターなんですけれど、あれ、売っていただけません?」
笙子は精いっぱい魅力《みりよく》的な笑顔を作ってみせた。こんな場合、それが最も効果的な方法であることは十分承知していた。
エジソン堂の主人は甘酒《あまざけ》に酔《よ》い痴《し》れた上戸《じようご》のように骨なしになって笙子《しようこ》の全身を見上げ、見下した。
「ね。お願いしたいわ」
「そ、それは……」
「言い値でいただきます。私、古いタイプライターのコレクションをしているんですの」
店の主人は気の毒そうにしぼんだ。
「あれ、もう売れてしまったよ」
「売れた? 買った人、わかりますか?」
笙子は今、自分がおそろしい顔をしているだろうと思った。
「ああ。わかっているよ。うちへ時々、ガラクタをかき回しにくる少年だ。ええ、と、大岡山中学の生徒でな、砂塚茂《すなづかしげる》という子だよ。住所は……」
「売ったのはいつですか?」
「一週間ぐらい前だな」
かもめが口を出した。
「いくらで売ったの?」
「五百円」
「さ、元さん、かもめちゃん。来て。その子に会わなければ」
「その子、何をしているのかな?」
一難去ってまた一難だった。
すでに夕闇《ゆうやみ》の迫《せま》ってきた大岡山の街路に立って、笙子《しようこ》はやや、とほうにくれていた。
この作品は昭和五十九年九月にカドカワノベルズとして刊行されました。
角川文庫『紐育、宜候』昭和62年7月10日初版発行