角川e文庫
復讐の道標
[#地から2字上げ]光瀬龍
大学の正門前から駅へ向う繁華街のにぎわいに背を向けて、|良介《りょうすけ》は見知らぬ裏通りへ曲った。それでもなお大学に合格したらしい一団が、入学者のしおりなどというパンフレットを開いて陽気な笑い声をまきちらしながら良介を追いぬいていった。
その笑い声に耳をふさぎたい思いで視線をそらせると、ショウウインドーのガラスにジャンパーのえりを立て、ひざのぬけたGパンに素足で|運《うん》|動《どう》|靴《ぐつ》をひっかけた見っともない自分の姿が写っていた。ふだんはあまり気にしたことのない自分の服装でさえ、今日は人に笑われているのではないかという気がした。いそぎ足に歩き出したかれを、こんどは三、四人の女子高校生が追いぬいていった。
「あなた、第二外国語、何とる? フランス語? それともスぺイン語?」
「スぺイン語。かれ、第二外国語スぺイン語とったんだって。そのときの教科書やノートくれるっていうのよ」
「いいわねえ。あたしにもそのノート貸してよ」
「ダメ!」
「ほら、おぼえてる? 受験の時あたしたちの十番ぐらい前にいたすてきな人。ヤッチンが休憩時間に辞書借りたじゃない。あの人、受かってたわね。チャンスありそうじゃない。なんだかわくわくしてきたゾ」
キャッキャッと笑い声がはずんだ。良介はたまらなくなってさらにせまい路地へ入った。
急にあたりが静かになり、良介の心におさえようのないさびしさがおそってきた。運ぶ足の一歩一歩が地面にのめりこむようだった。頭のしんにぽっかりと空白な部分があり、そこから|苦《にが》い苦い後悔とすべては終ったのだというやりきれない無力感があふれ出して全身にひろがっていった。実際、すべては終ったのだ。良介にとって頭のしんに生じた空白は、そのままかれ自身の空白の明日を意味してもいた。良介の歩む路地の両側は材木置場やモルタル造りの古いアパートがつらなり、それらの一様に単調で陰気な風景が良介の心をいよいよ滅入らせ、絶望に落しこんだ。
良介はおととし高校を卒業した。一流の私立大学とほかに一校を受けて一年間の浪人生活に入った。予備校へ通い、つぎの年もう一度|挑戦《ちょうせん》した。一年間の予定の浪人生活が二年目をむかえた。そして今年ぐっと目標を落して都心を離れた私鉄の沿線にある歴史の浅いある私立大学をねらった。さらに同程度の大学をもう一校。しかし結果はどれもみじめな失敗に終り、良介は三浪をむかえることになった。
だが三浪の生活はもう良介には与えられない。去年失敗した時も、父や父の仕事をてつだっている兄は良介がそれ以上浪人生活をつづけることには大反対だった。|商《あき》|人《んど》には学問はいらないという。良介の家は|金《かな》|物《もの》|屋《や》だった。金物屋は|釘《くぎ》からなべ、ヤカン、金属製の|脚《きゃ》|立《たつ》まで、あつかう品物は実に多い。品物はかさばるし、まとまるとかなり重くなるのでどうしても人手がいる。父親は良介に使い走りの店員の役目をやらせたくてしかたないようだった。そうなれば人件費が大幅に浮くというのが父親の計算だった。
良介にはそれはわからなくもなかったが、父親が経営し、やがては兄が引きつぐ店を手つだっていたところで将来どうなるものでもないという気もちがあった。へたをしたら兄に給料をもらって一生使われることになりかねない。そうでなくてさえ良介の家はかなり家長独裁の傾向が強い。良介の大学進学の希望をかげで助けてくれたのは母親だった。しかしそれも良介が二浪の生活に入るとだいぶ|稀《き》|薄《はく》になった。父や兄に|気《き》|兼《が》ねしたのだろう。
だから三浪ともなればこれはもう良介は孤立無援というほかはない。一時は家を出てもと思ったが、実際問題となると全く不可能だった。だから今度の受験は良介にとってまさに人生をかけたものだった。それに失敗したのだ。
良介の足は重く、心はその重さに|萎《な》えていた。
――あなた、第二外国語、何とる? フランス語? それともスぺイン語?
――ヤッチンが休憩時間に辞書借りたじゃない。あの人、受かってたわね。
「ちくしょう!」
良介はうめいた。あんなやつらが受かっているというのに!
ああ、おれはだめだ! おれは低能であほうでおっちょこちょいなんだ。もっと勉強するんだったなあ。受験雑誌にはあそこは四割五分できれば入れるだろうなんて書いてあったが、あのやさしい問題でさえ四割五分とれないんだからな。おれは問題を読みちがえたのかな? なんだか高校を卒業したての頃より学力が落ちてきているような気がする。こんどこそきっと! でも、もうだめだ。
良介の頭はとりとめもなく空転していた。何を考えてもさいごには受験もこれで終りなのだという強固な壁に突き当った。それから先は少しも考えが進まなかった。
裏道から裏道をたどって歩いているうちに、良介はふたたびにぎやかな商店街へ出た。あまり遠くない所で踏切の警報器が鳴り、駅のアナウンスが聞えてきた。どうやらひと駅歩いてしまったらしい。電車に乗って家へ帰るにはまだ気もちが落着いていなかった。
良介は一軒の小さなスナックに入った。町の青年たちのたまり場になっているらしく、入っていった良介にかれらの視線がよそ者を見るように集中した。
良介はすみのテーブルに身をちぢめ、コーヒーとハンバーグを注文した。壁には大きく引きのばしたグランプリレースの写真が飾ってあり、車体をこすり合うようにして疾走するマクラーレンの前頭部に客のいたずらか、マジックインキでハーケンクロイツが描かれていた。
よく見ると壁のあちこちに|相《あい》|合《あい》|傘《がさ》のしるしやきわどい落書がある。|床《ゆか》に散らばっている古い競馬新聞といい、たばこの焼け|焦《こ》げだらけのテーブルや|椅《い》|子《す》といい、客だねはあまりよくないらしい。運ばれてきたコーヒーやハンバーグもまずかった。途中でやめてたばこに火をつけた。はじめて静かな悲しみが水のように良介の心をぬらした。たばこのけむりはあるかないかの気流にのって壁を|這《は》い上り、マクラーレンにあわい影を落した。
そのとき、ふと良介は女の悲鳴を聞いたような気がした。しかしカウンターにならんでいる若者たちの笑い声がそれ以上の注意をさまたげた。耳のせいだろう。食器の触れ合う音や、のどからもれる笑い声が、時にそのように聞えることもある。良介は短くなったたばこを|灰《はい》|皿《ざら》におしつぶした。また聞えた。こんどははっきり切り裂くように良介の耳を打った。
どこだろう? 良介は思わず腰を上げた。しかしカウンターの若者たちや、調理場の白い上っぱりを着た男も少しも気がつかないようだった。
どうしよう? たしかにあれは悲鳴だったが。良介はかれらに知らせてやろうかと思った。この近所で女が助けを求めているのだとすれば、この土地の者であるかれらの方がずっと行動しやすいはずだった。テーブルを離れた良介にかれらの二、三人が顔を動かした。
――助けて! 助けてください!
そのとき、声をふりしぼった若い女の絶叫が良介の胸をつらぬいた。どこかすぐ近くだった。ことによったらこの建物の中かもしれない。良介はカウンターに走り寄った。
「女が助けてくれと言っている!」
良介はコックらしい男とカウンターの若者たちに半々に言った。
「女が?」
「助けてくれって?」
カウンターにならんだ若者たちはけげんそうに顔を見合わせた。
「どこでよ?」
「もしかしたらこの建物の中だ」
「おまえ。聞えたか? そんな声」
「いや」
調理場の男の顔がけわしくなった。
「お客さん。女の悲鳴だかなんだかしらねえが、妙な言いがかりはやめてくれよ。この建物の中かもしれねえとはいやなことを言うじゃねえか!」
男はカウンターのわきの低いスイングドアを押して出てきた。
「でも、たしかに聞えたんだ」
「女の悲鳴がか? おれには聞えなかったぜ。あんたたちは聞えたかい?」
男は若者たちをふりかえった。
「聞えなかったな」
「それみろ。おい! てめえ、この家の中に女でもかどわかしてかくしてあるとでも言いてえのかよ!」
「助けて、と言うのが聞えたんだ」
「いい耳持ってやがるな! 誰にも聞えねえものがてめえだけに聞えたってのかい。このやろう!」
男はいきなりうでをのばして良介のジャンパーのえりをつかんだ。
「なにをするんだよ!」
ふり切ろうとしたとたんに男の手が飛んできた。痛烈な打撃とともに眼球の内部に無数の火花が散った。姿勢を立て直す余裕もなくまた一撃をくらった。どんと突き放されて背後の壁にしたたかに体を打ちつけた。
「さあ。食ったもののかねを払ったらさっさと出てゆけ! このきちげえやろう!」
向うずねをいやというほど|蹴《け》|飛《と》ばされた。良介は何を考える気力もなく、ポケットから五百円札を引き出した。男はそれを良介の手からひったくると、調理服のポケットに突込んでそのまま調理場へもどっていった。
「おつり百円くれよ」
良介はくちびるの端から流れ出る血を手の甲でぬぐった。男はふり向きもしなかった。
「おつりをもらっていないぜ」
良介はカウンターに近づいた。男が若者たちにあごをしゃくった。
「百円つりをくれって言っているぜ。|誰《だれ》か払ってやってくれよ」
良介は一瞬あっけにとられた。客につりを払わせる店がどこにあるだろうか。だがそれは良介の人の好い思いちがいだった。
「よし。百円だな。おれが払ってやろう」
肩やそでに房のついた皮ジャンパーの青年が立ち上った。ジャンパーの下の胸もとで金属片をつらねた長いネックレスが濁った交響を発した。やせた顔に兇悪な|翳《かげ》が浮かんだ。若者らしくない落ちくぼんだ目がへびのように光った。
良介はとっさに身をひるがえすと出口へ向って走った。青年が何かさけび、良介がドアを開くと同時にドアの柱に細長いナイフが突き立った。歩道に走り出る時、店の中でどっと笑い声がわいた。
「良介。今日|斎《さい》|藤《とう》病院へおさめるヤカン二十個、よくみがいておけ」
「カスガイの三号と四号を三ダース店に出しておけ。それから花蝶から注文のあったくわがたじるしのジャー、八個。昼までにとどけておけよ。保証書忘れんな!」
良介は朝から休むひまもなかった。ついに入試に失敗したことについては父も兄も何も言わなかった。何も言わなかったかわりに、翌朝からもうそれが既定の事実であるとしてたたき起され、|小《こ》|島《じま》|藤《とう》|作《さく》商店とネームの入った作業衣を着せられ、裏の倉庫へ追い立てられた。
このへんでは今、さかんにたくさんの分譲住宅が建設されている。そのせいか朝早くから建築用の金物を買いにくる大工やとびなどがいる。現場に用意した品物の中に不足が出るらしい。だから午前七時頃にはおもてのシャッターの一部はあけておく。その早い客の相手をするのが店でいちばん若い使用人の役目だということだった。つまり良介がそれだった。
昼までの間に良介の体は古綿のように疲れ果ててしまった。裏の倉庫と店の間を往復するだけで腰が痛くなり、ひざから下がまるで石のように重くなった。
昨日までの生活がまるでうそのようであり、その昨日までの生活と今の自分との間には、もはや取りかえしのつかないはるかな距離があった。良介といっしょに高校を卒業してただちに就職した連中は、すでに背広も身についた一人前のビジネスマンになっていた。かれらの未来は安定していた。かれらと良介の間に生じた二年の差は、単に時間的なものだけではなかった。
良介と同じように二浪の生活をへてなお来年を目指す友人も二、三人いた。しかしかれらの場合はねらいはあくまでも東大や一橋であり、家庭の事情も良介の家とはだいぶ異っていた。これまでも同じ浪人どうしでありながらかれらの方で良介を相手にしないようなところがあった。あくまでも目的の学校をねらいつづける者と、大学の三年生になろうとする者と、そしてすでに社会にあってサラリーマン三年目をむかえようとする者と。
そのどれでもないところに良介はいた。結局、良介の得たものは小島藤作商店のネーム入り作業衣だけだった。
昼めし時になって父と兄は座敷へ上り、良介は店番を兼ねて店の奥に積み上げた電動工具のセットのボール箱の上にめしを運んでもらって食った。
「使用人だったらカツなんかつかないんだよ」
母親がめしを盛ったどんぶりをわたしながら言った。
「良介も少し修業しなければだめだ。カスガイのダース箱をかかえてひょろひょろしていやがる」
兄の声が聞えた。はしを持つとひじから先が奇妙にふるえた。カスガイのダース箱の重さの感覚がそのままうでに残っていた。
昨日の|今《いま》|頃《ごろ》はあの町をあてもなくさまよっていた頃だった。|嬉《うれ》しそうな合格者たちの群れ。それを避けてたどった日陰の路地。そしてあのスナック。
「そうだ。あそこで悲鳴を聞いたのだった。助けを求めている女の悲鳴を!」
良介は思わず立ち上った。あれはそら耳だったのだろうか? あの店の男やカウンターの若者たちは、そんな悲鳴は聞えないと言った。もしかれらがうそを言ったのだとしたら? あの店のどこかに女の子が閉じこめられていて、必死に助けを求めていたのだとしたら?
「おれのそら耳じゃない。たしかにおれは聞いたんだ」
悲鳴がほんものであったからこそ、あの男は暴力にうったえてでも聞えた悲鳴を否定し、おれをあの店から追い出そうとしたのだ。それにちがいない。
良介は手のはしを投げ出して自分の胸の疑いに思いをこらした。何かある。ぜったいに何かある! それは確信だった。
よし。行ってみよう! あの店へ。
良介が体を動かしかけたとき、
「良介! めしを食ったらいそいで|中《なか》|野《の》工務店まで行ってきてくれ!」
父親の声が店と座敷の境ののれんを割って飛んできた。その声に良介は現実に引きもどされた。今は自分勝手な外出もままならぬ小島商店の使い走りだった。良介の首は力なく垂れた。
翌日は雨だった。良介はプレハブの屋根をたたく雨の音を聞きながら、仕入れ商品の整理に追われていた。父は金物商の組合長の家の婚礼に招かれて行っていないし、口やかましい兄も、近くに建築中のマンションに大量に納入することになった台所用のステンレスの流し台のことで工務店へ出かけていった。
店の客は母にまかせて良介は父に言いつかった電動工具の照合にかかっていた。小型のモーターを中心に、円刃|鋸《のこぎり》やかんなや刃物用のグラインダーなど幾種類もの工具に変化する便利な工作機械だった。段ボール箱からひとつずつ取り出し、それぞれの部品を組み合わせて一セットにする。部品はばら売りもできるように別なボール箱にそろえてつめかえておく。セットにしておくのはショウウインドーに飾る見本もいれて二、三個あればよい。良介の手は|錆《さび》止めの油とパッキングの|発《はっ》|泡《ぽう》スチロールのくずでひどいありさまとなった。
作業がようやく終ったときには正午近くになっていた。腰をのばすと背中の筋肉が板のように突張って重苦しい鈍痛がはしった。腰に手を当てて体をひねると、あちこちの骨がクキ、クキと鳴った。
「あれ?」
しまった! 良介は小さく舌打ちした。もうひとつ、段ボールの箱が残っていた。いちだんらくしたつもりが裏切られた気もちでもう一度腰をおる。布テープをベリベリとはがす。内部には幾つかの小箱がきちんとおさめられていた。良介は|眉《まゆ》を寄せて内部の小箱を引き出した。電動工具とちがうようだった。
「おかしいな?」
段ボール箱の外側に|貼《は》られた届先のラベルには、たしかに小島藤作商店様となっている。発送者の欄は空白になっていた。伝票にはそれに該当する荷はなかった。
「なんだろう?」
小箱のひとつをあけてみると、透明なビニールで厳重につつまれた小さなコイルの束があらわれた。どうもわからない。もうひとつあけてみるとこんどは長さ十五センチメートル。直径が五センチメートルほどの金属の円筒がころがり出た。
こんな品物をあつかっているのだろうか?
良介はそれを手に取ってみたが、店にならんでいるたくさんの品物のどれも、それに似たものはなかった。三番目の箱からは、すでに完全に組立てられていると思われる精巧な電子装置の部品と思われるものが出てきた。それは毛髪のような細い銀色の針金で編んだ格子や、同じような銀色の何本かの小さな円筒、それにくるくると自由に回転する何枚かの|輪《リング》や豆粒ほどのカプセルに入った宝石のような石などで構成されていた。
「こいつは何か電気機械の部品だぜ。まちがって配達されたんだ」
どこかの電気屋へ送られる品物が、運送屋の手ちがいでここへおろされてしまったものにちがいない。良介は首をひねってもう一度段ボール箱の外側の配達ラベルを見た。届先はやはり小島藤作商店となっている。
「お?」
さっきは気づかなかったが、その下にまだ書いてある。目を寄せてみると、小島藤作商店方、小島良介様となっていた。
「おれ|宛《あ》てじゃねえか! でも、おれはこんなものどこにもたのんだおぼえはないぜ」
それでも自分あてになっている以上、これがいったい何なのかたしかめてみる必要があった。良介は幾つかの小箱を全部引き出して床にならべた。全く見当もつかないしろものだった。からになった箱を床のすみにほうり投げたとき、箱の中から薄いパンフレットのようなものがすべり落ちた。
ひろい上げてみると組立説明書だった。良介はすばやくぺージをめくった。それを読めばこの機械がいかなるものか、どのようなはたらきをするものなのかわかるだろうと思った。
しかし書かれていることは、組立てる順序や注意だけで、かんじんの用途に関しては何も|記《しる》されていなかった。良介は説明書の表紙から裏表紙までたんねんに調べた。だがメーカーの名前すらない。良介は小学生の頃から工作はあまりとくいではなかったし、まして電気工作となるとこれはもう興味や関心のらち外だった。だからこのようなものを注文するわけがない。
良介は何分かの間、ぼんやりとそれらの品々を見つめていた。きつねにつままれたとしか言いようのない気もちだった。そのうちになんとなく衝動がわいてきた。組立ててみようか! 配達の間ちがいであれなんであれ、受取人は一応自分なのだ。組立説明書を見ると、複雑な構造のわりには組立は簡単らしい。組立ててみれば案外これが何なのかわかるかもしれない。
そう思った良介は背後の|棚《たな》から売り物のドライバーを取り出した。ところが組立をはじめてみると、ドライバーなど全く必要がないことがわかった。どんな仕組みになっているのか、説明書の順序に合わせてゆくとすべて磁力で付着するようにぴたっぴたっと密着してゆくのだ。一度組み上ったところはもうどんなに引っぱっても離れなかった。それに注意しながら説明書にしたがってゆくと五分もかからずに説明書どおりの物体が完成した。
「なんだい、こりゃ?」
長さ十五センチメートルほどの円筒の先が浅く開いた、ちょうど懐中電灯のような形の奇妙な物体だった。握りの部分に一個のスイッチがついている。そのスイッチを押すと握った手にかすかな振動がつたわってきた。ますますわからなくなった。もう一度、説明書を見る。良介の目が一か所に|釘《くぎ》づけになった。今までただ組立説明書とだけ書かれてあった表紙に、数行の文字があらわれていた。
◆コレハ非物理的時空ヲ利用シタ瞬間移動装置デアル。タダシ作動範囲ハ現時点ノミニ限ラレ、過去オヨビ未来ニハオヨバナイ。
◆使用スル時ハ、スイッチヲ押シ、目的地ノ名称アルイハ風景ヲ思念シツツサラニスイッチヲ押スコト。
[#ここから2字下げ]
注意 コノ装置ヲ所持スル者ハコノ装置ニツイテ人ニ話シテハナラナイ。コノ装置ハ管制組織ニヨッテ監視サレテイル。
[#ここで字下げ終わり]
何回読みかえしても書かれていることは同じだった。良介はきっとこれは誰かのいたずらだと思った。いろいろな電気器具の部品を組み合わせてもったいぶったしかけを作り、それに何やら|謎《なぞ》めいた説明書などをつけて人をおどろかせようとする悪いいたずらだった。
良介は何人かの友達の顔を思い浮かべたが、ここまで念の入ったいたずらをする者となると思い当る人物はいなかった。ラベルに書かれた受取人の名前の文字を調べてみようと思った。
良介の体が石のように|硬《かた》くなった。あんぐりと開いた口から悲鳴ともつかない声がもれた。床に投げ出しておいた段ボール箱や幾つかの小箱がすべてけむりのように消えていた。
そんなばかな! 良介は倉庫の入口のわきのあき箱や、不用になったパッキングなどを積んでおく廃品置場へ走った。もちろんそこにもない。自分でもそこへ運んだおぼえはなかった。倉庫へ入ってきた者はいない。あのあき箱はいったいどこへ消えたのだろう?
妙に寒気がした。良介はなんだか悪い夢を見ているような気がした。
良介は手にした円筒をあらためて見つめた。しだいに、確実な手ごたえと金属のつめたい重厚な質感が、その物体がいたずらや単なるみせかけではなく、何かえたいの知れぬぶきみな力を秘めているものであることが実感されてきた。いったいなんのために、誰が送ってきたのだろう?
「瞬間移動装置と書いてあったな?」
説明書をもう一度読んでみようと思った。しかしそれもあき箱とともに消えてしまっていた。だが書かれていたことは良介の頭の中に焼きつけられていた。
良介ははっと思いついた。これを送ってきた者は、送った事実の|痕《こん》|跡《せき》を完全に消してしまったのだ。段ボール箱やその中におさめられていた幾つかの小箱は、小島藤作商店の倉庫に積まれていたり散乱している同じようなボール箱と見かけは同じようでも、それが何の箱か、なぜそこにあるのか気がつく者もいるはずだった。たとえば良介の父だった。
説明書はなおさらのことだ。送ってきた者はあき箱や説明書を良介以外の誰の目にもふれさせたくなかったのだ。それらは役目を終ったとたんに、瞬間的にどこかへふたたび送られたのだ。
瞬間移動装置という言葉の意味が良介の胸に焼印のようにくい入った。良介のひたいから汗がにじんだ。良介は円筒をかかえ、床に|尻《しり》を落して荒い息を吐いた。想像もつかない何かが自分の上におとずれようとしていた。良介はそんな円筒など投げ出して店に逃げもどりたい衝動にかられた。
店の方から母の呼ぶ声が聞えた。
「ごはんよ!」
良介はその声にはじかれたように立ち上った。ジャンパーのポケットに円筒を押しこんだ。
座敷の上に端に寄せて|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》が出してある。今日は父も兄もいないので座敷へ上ってめしが食える。
「どうしたの? 顔が|真《まっ》|青《さお》じゃないの。どこかぐあいでも悪いのかい?」
母が食器を運ぶ手を休めて良介の顔を見つめた。良介はおそらく自分は今ひどい顔をしているにちがいないと思った。腹はへっているのに胃が下から押し上げられているような気分で、食欲は全くなかった。
「おれ。あとで食うよ」
「どうしたんだい?」
「なんでもない。ちょっとつかれただけさ」
母はそれ以上食べろとは言わなかった。大学入試に失敗し、その上|馴《な》れない労働で神経をすりへらしている息子に対する無言の同情がその後姿にあふれていた。
良介は店の横へ回って水道|栓《せん》から水を飲むとまた倉庫へもどった。無意識に目でさがしたがやはりあの段ボール箱は影も形もなかった。円筒の入ったポケットはふくらんでいる。やはりあれは現実のできごとだったのだ。
良介は倉庫のすみに積まれた防水用のキャンバスの上にあお向けに寝そべった。昨日からのことが信じられない夢のつづきのような気がした。その夢は、大学の掲示板に貼り出された合格者名簿を見た時からはじまったのだ。あの名簿に自分の名前が出ていたら、今頃は四国のどこかにいるはずだった。合格したら四国から九州を回る旅をするつもりで父にも承諾を得ていた。昨夜新幹線で|発《た》ち、神戸のユースホステルで一泊、今日の昼までに四国へ渡る計画だった。
それも今はむなしい。そして自分の家とはいいながら金物屋のかけ出し店員となり、今日はあの奇妙な段ボール箱を受け取った。みじめでやりきれないスタートだった。
合格者名簿についに自分の名を発見できなかったときの、あの体が地面にのめりこんでゆくような気もちも、楽しそうな人影を避けて裏道から裏道をたどったときの裏ぶれた気もちも、今は思い出になろうとしていた。悲しい幕切れだった。あのスナックでのいさかいも心の傷を深くした。見知らぬ他人になぐられたくやしさはまだ消えていなかった。
――でも、聞えた悲鳴はうそじゃなかった。
そう思ったとき、良介は電光に打たれたようにはね起きた。ポケットの円筒を引きずり出す。何かが胸の中でひらめき、自分自身が今、深い謎の中に|埋《まい》|没《ぼつ》してそれに同化してゆくのを感じた。良介は円筒をにぎりしめた。
ああ。悪い夢なら今のうちにさめてくれ!
良介は胸の中でさけんだ。
スイッチを押した。かすかな振動がてのひらに伝わってきた。
思い切って一昨日見たスナックを頭に思い浮かべた。|汚《よご》れたテーブルや椅子。壁に貼られたグランプリレースの写真。カウンター。白い調理服の男。飾りのついた皮ジャンパーを着た兇悪な|面《つら》がまえの若者。
良介は、いや。まて! 思わず声に出した。
二階だ。女の悲鳴が聞えてきた二階だ。その二階の、人目につかない物かげがいい。
いいか。行くぞ!
良介はスイッチに当てた指に力をこめた。
一瞬、すさまじい目まいがおそってきた。目の前がまっくらになった。
胸の奥底から強烈な吐き気がつき上げてきた。良介は口にあふれ出てきたものをくわっと|床《ゆか》に吐いたが、出てきたものは水ばかりだった。|汐《しお》のひくように目まいが去り、あとに軽い頭痛が残った。
ここはどこだろう?
そっと頭を持ち上げると夕暮のように薄暗かった。視線をめぐらせると厚いカーテンをたらした窓が目に入った。そのカーテンが部屋に入る光をさまたげているのだ。そこは六畳ほどの部屋で古い木箱やゆがんだ|戸《と》|棚《だな》、かびのはえたようなふとんなどが積み重なっていた。よどんで動かない空気の中にかすかにカレーライスの|匂《にお》いがただよっていた。良介はそろそろと物かげから|這《は》い出した。
そのとき、となりの部屋と思われる所からはげしくののしる男の声が聞えてきた。それに重なって何かを打ちたたく|鈍《にぶ》い音がした。声にならないうめきが断続した。なんだろう? 良介は息をこらした。ふたたび男の声が聞え、前よりも力のこもった音がひびいた。
ひっ! と悲鳴が聞えた。
そうだ。ここは……
良介はここがあのスナックの二階であることに気がついた。あの装置は説明書に書かれていたように一瞬のうちに良介をここへ運んできたのだ。その装置をおさめた円筒は良介の右手に握られていた。良介はそれをポケットに押しこんだ。
音がしないように床をふんでとなりの部屋との境の壁に近づいた。それはベニヤ板の壁で古びて大きくたわんでいたが、向う側をうかがえるようなすき間はなかった。となりの部屋に入るには、いったんこの部屋から出なければならないらしい。部屋のドアは一か所だった。そっとドアのノブを回す。手ごたえは固かった。もう一回力をこめてみたがやはり動かない。外からカギがかかっているのだ。
「しまった!」
人目につかない物かげがいいと思ったのだが、これでは自分が外へ出られない。良介はベニヤの板壁に耳を寄せた。
「さあ。言うんだ! ひとこと言いさえすれば楽になるんだよ」
男の声はいら立っていた。短い沈黙がきた。とつぜん|瀕《ひん》|死《し》のけものが発するような|苦《く》|悶《もん》のうめきが流れた。うめきは女のものだった。責められているらしい。
「わからねえやつだな。もう一度か!」
カチリとかすかな金属音が聞えた。くいしばった歯の間からもれる異様な吐息が、とぎれとぎれにつづいた。
良介はすばやく周囲を見回し、壁ぎわに倒れている木製の円椅子を手にした。
――となりの部屋! 男のうしろだ!
スイッチを押す。
良介ははげしい目まいに耐えて目を見開いた。目の前に男の幅広い背があった。男の右手から青いほのおがのびている。ガスライターだった。
そのほのおの先に上方に向って開いた二本の白い円柱があった。青いほのおの先はその基部をなめている。良介のまだ視線の定まらない目にもそれがさかさまにつるされた女の体であることがわかった。
良介のうでは円椅子を握ったまま風を切って大きく円弧をえがいた。それが男の後頭部に激突する直前、男は背後の気配にふり向いた。一瞬、その顔に円椅子がめりこんだ。骨の折れる音とともに歯が飛び散った。男の手からガスライターが流れ星のように飛んだ。男はぼろきれのように床に横たわって動かなくなった。
さかさまにつるされた女は床に髪をたらして失神していた。女の体をつるしているロープを切ろうとしたが刃物がない。良介は男の手から落ちたガスライターをひろってほのおをロープに当てた。
そのとき、すさまじい打撃が背後から襲ってきた。良介は頭から床に落ちこみ気が遠くなった。その良介の上に、つるされたロープを焼き切られた女の体が落ちてきた。それが薄れかかる良介の意識をよびもどした。
必死に手足を動かして女の体の下から這い出した。のばした手が起き上ろうとしてもがいている男の体のどこかをつかんだ。その新たな敵も良介と同時に床にはね倒されたらしい。男の片足は、落下した女の、両足を開いて固縛した竹棒の下になっていた。
良介はちゅうに|跳《と》んだ。足をそろえて男の顔の上に落ちる。二回目は正確に体重をかかとにかけた。三回目で男の頭は割れた|西《すい》|瓜《か》のようになった。
助けてくれ!
男は虫のようにひじとひざで逃れようとした。その背へ良介の足が飛んだ。
男のポケットをさぐるとナイフが出てきた。そのナイフでロープを断ち切る。女の|内《うち》|腿《もも》から下腹にかけてひどい|火傷《や け ど》がひろがっていた。ひふは赤黒く焼けただれ、|剥《はく》|落《らく》したひふの下からなかば炭化した筋肉が|漿液《しょうえき》と血にまみれてふくれ上っていた。陰毛のあった部分もその下のひだも、全く見わけがつかない。
良介は思わず目をそらした。吐き気がこみ上げてくるのをこらえて両うでを締め上げているロープを切る。女は体重を持たないもののように床に横たわった。かすかに呼吸をしている。このままでは間もなくその呼吸も止ってしまうだろう。
良介は救急車を呼ぼうかと思った。しかし、そんなことをしていては|誰《だれ》かがやってくるかもしれない。階下に人がいたらすでに乱闘の物音は耳にしているはずだった。だが、このひどい火傷を負っている女をかつぎ出せるだろうか? いったいどうしたらいい? 良介は惑乱する心を必死におさえた。
そのとき女がかすかに口を開いた。
「部屋のどこかに私のハンドバッグがあるはずです。取ってきてください」
口がきけるのか? 良介は反射的に立ち上って部屋の中を見回した。部屋のすみに女の衣服が散乱していた。茶色のハンドバッグが落ちている。それを手にして女のそばにかけ寄った。女は弱々しく手を動かしてバッグをあけ、中から小さなカプセルを取り出した。それを口にふくむと汗にまみれた白いのどが動いた。
「あちらへ行っていて」
「大丈夫か? すぐ医者へ連れていってやる。苦しいだろうが服を着てくれ。持ってきてやる。そのままでは外へも出られない」
「おねがい。あっちへ行っていて」
女は白い両うでを動かして良介に自分のそばから離れるようにというしぐさをした。良介はこんな姿を見られるのが恥ずかしいのだろうと思った。
「じゃ、すぐ着てくれよ」
良介はドアを開いてせまい廊下へ出た。
部屋の中でかすかに女の動き回る気配がした。あの傷ついた体に衣服をまとうのはずいぶんつらいだろうと思った。足を動かせばいやでも内腿の火傷が触れ合うことになる。良介は思わず体をちぢめた。とび上るほどの痛さがわが身のように感じられた。
一分ほどたってドアが開いた。一人の娘が立っていた。紺のGパンに白いスポーツシャツ。長い髪を無造作に頭の後でたばねて短い棒をかんざしのかわりにさしていた。年は十八か九だろうか。大きな目に長い|眉《まゆ》がけむったように美しかった。
「おまたせしました」
「き、きみは!」
「へんなかっこ見せちゃって。でも助かったわ。来てくれるのはわかっていたけれども、待っているのは長かったわ、どこかでミスがあったんじゃないかと思ってちょっと心配だった。ほんとうにありがとう」
良介は何か言おうとしたが、言葉にならずにただわくわくとあごが動いただけだった。娘は足早に良介に近づいてうでを取った。
「早く出ましょう」
良介はみちびかれるままに、自動人形のように足を動かし、廊下の突きあたりのせまい階段を降りた。階下は一昨日見たとおりのスナックだった。娘は良介の背を押して調理場のわきの裏口から外へ出た。建物と建物の間のせまい路地を、体を横にしてすりぬけるように通り、おもて通りへ出た。
「私、|谷《たに》ヒナ子です。よろしく」
娘は少しばかりあらたまって良介に頭を下げた。良介はたばこに火をつけようとしたが、手がふるえてうまくつかない。
「き、きみはな、なにものなんだ? どうしてあんな目にあわされたんだ?」
良介はたばこをあきらめてコーヒーのカップを取り上げた。かえって手のふるえが目立った。良介はカップを|皿《さら》の上にもどした。カップが皿に当ってカチカチと鳴った。ヒナ子と名のった娘の目に、ちらとひどくさめた色が浮かびたちまち消えた。
「私、あのスナックに入ったら、急に男の人が二人出てきて私を二階に引きずり上げたんです」
「スナックに入ったら?」
「ええ。のどがかわいたからジュースを飲もうと思って。そうしたらあんなひどいことになって。私、恥ずかしいわ」
「でもあの連中、きみから何か聞き出そうとしているようだったぜ」
「そんなことないわよ。あの人たち、私の身体がほしかったのよ。あの人たち気ちがいよ。ほら、女の人をいじめて喜ぶ変質者っているじゃない。あれよ」
良介は首をふった。
「おれあてにある装置が送られてきた。おれはそれを説明書どおりに組立て、スイッチを押してあの部屋へ行った。そしてきみを助け出した。あれは人間にとって全く未知のはたらきをする。これだ」
良介はポケットから円筒を取り出そうとした。だが、ポケットの中はからだった。
「しまった! どこかへ落してしまった。あの部屋かもしれない!」
良介はあわてて立ち上ろうとした。テーブルがかたむいてスプーンが床に落ちた。となりのテーブルのアベックがおどろいてこちらを見た。
「おすわりになって! 何かの装置だなんて、あなた、夢を見たのよ。そうよ。あなたは夢を見たのよ。あなたは偶然にあの店の前を通って私の悲鳴を聞いて助けに来てくれたのよ。ね、そうでしょう」
ヒナ子はじっと良介の目を見つめた。顔全体は花のように笑っていたが、目だけは少しも笑っていなかった。その目の奥で何かがゆらめいた。
「そうかなあ?」
「あなたは偶然にあの店の前を通りかかって私の悲鳴を聞き、階段をかけ上ってきた。そこで二人の男にうでを取られている私を見たの。あなたは強かったわ。私を助け出し、あなたは私をこの喫茶店で休ませてくれたの……」
ヒナ子の声は、低く低く、良介の心に水のようにしみこんできた。良介の心はしだいに沈静し変容していった。
「そうかなあ。ちょうどこれぐらいの大きさの円筒だったんだが……」
良介は両手で大きさを示した。
「だってあなた、そんな物持っていないじゃないの。おかしいわ。いつまでそんなことを言っているの」
霧のようなものが良介の心をおおっていった。
「ごめん。ごめん。そうだった! おれ、大学の合格発表を見に行った帰り、あのスナックの前を通ったんだったよ」
「そうでしょう。でも、よかったわ。あなたが通りかかってくれて」
「でも、おれ、ほんとうはこわかったんだぜ。あの房のついた皮ジャン着てたやつ。ナイフを使いやがるんだ」
「でも、あなたの方が強かったわよ。二人とも助けてくれ、なんて逃げてしまったわ。それであなた、大学どうだった?」
「だめだったよ。おれ、家の商売を手つだうんだ。おれの家、金物屋なんだよ」
「そう。じゃ、家へ早く帰って報告しなければね」
「ああ。でも、気がすすまねえなあ。親父も兄貴もほれ見ろなんて|面《つら》するだろうしよ」
「でも早く帰った方がいいわよ。いやなことは早くすました方が」
「ああ。そうしよう」
良介はうなずいてレシートをつかんだ。心のどこかに奇妙な違和感があったが、それが何なのか見当がつかなかった。
「明日になれば今のことは忘れているわよ」
ヒナ子が良介の目をのぞきこんでまた静かに言った。
ヒナ子は立ち上った。胸の前で手をひらひらさせると、
「じゃ、また。どこかで会えるといいわね。さよなら」
テーブルの上のレシートをつかむと、そのまま背を向けてカウンターの方へ歩み去った。良介はそのすらりとした後姿をぼんやりと見送っていた。
――早く帰らねえと親父や兄貴がうるせえや。倉庫の整理が残っているからな。
そう思ったとたんに、良介は電撃を受けたようにわれにかえった。
「ちがう! あれはおれの勘ちがいなんかじゃない!」
この席でヒナ子と交した会話のすべてが、急速に良介の胸によみがえってきた。
あの奇妙な装置のこと。さかさまにつるされていたヒナ子の姿。乱闘。そして、あっというまに傷のなおってしまったヒナ子。それに、大学の発表は一昨日のことで、今日はもうおれは親父の店の使用人なのだ。
あいつを救けたのは今日で、あれからまだ二時間もたっちゃいねえ!
良介ははじかれたように出口へ向って突進した。おどろいた店の客や、ウエイトレスたちの目が良介に集中した。
怒りで目がくらみそうだった。ちくしょう! 人をこけにしやがって。
「おれは見たんだ!」
良介はドアを押し開くと、おもての道路へ走り出、狂ったように左右をうかがった。
左の商店街につづくアーケードの人込みの間に、足早に遠ざかってゆくヒナ子の姿がちらりと見えた。良介は通行人を突き飛ばすようにして走り出した。自動車のゆき交う道路を横断する。けたたましく警笛が鳴り、タイヤが悲鳴を上げた。ようやくヒナ子の姿を見かけた所へたどり着いたが、ヒナ子の姿はもうどこにもない。
どこへ行ったのだろう? ここで見逃したら、もう二度と会えないのはわかっていた。そうなったらあの事件の|謎《なぞ》を解くこともできない。良介の心に絶望がわいた。
商店街は二つに分れ、一方は私鉄の駅へのび、一方は国鉄の駅に向っている。そのどちらかだ。
くそっ!
良介はくちびるをゆがめると、一軒の店の前にとめてあるバイクにまたがった。
「どろぼう!」
店の奥でさけび声が上った。良介はかまわず、力いっぱいキックした。二、三人の男が、バイクのすぐ後に追いついてきたがみるみる引き離した。
「一一○番だ! 一一〇番だ!」
さけぶ声もする。良介は必死に、両側の歩道に目をくばった。どこかの店に入っているのかもしれないが、今はそうでないことを祈った。三分ほど飛ばすと私鉄の駅だった。この道ではなかったようだ。歩いたのでは駅までは来られない。すると国鉄の駅へ向ったのだ。さっきの商店街のふた叉から、私鉄の駅と国鉄の駅とはちょうど正三角形の頂点の位置にある。
よし! 良介はバイクを向け直すと、国鉄の駅へ向って飛ばした。パトカーの音が聞えてきた。良介を追ってくるようすはない。せまい裏通りをだいたいの見当をつけて飛ばしてゆくと、思ったとおり国鉄の駅前広場へ出た。良介はスピードを落し、商店街を逆行しはじめた。
こちらは歩道がないので探しやすい。百メートルほど走ったとき、良介の心臓はおどり上った。
いた! 向うからやってくるのはヒナ子だった。Gパンに白いスポーツシャツ。喫茶店までは束ねていた髪を、いつの間にかほどいて長く背に垂らしている。美しい顔がやや|蒼《あお》みをおび、顔をうつむけるようにしていそいで来る。
良介は舌なめずりをするような気持ちでバイクを|棄《す》て、道路の端に立った。ヒナ子は気がつかない。目の前を通り過ぎてゆくとき、良介は手をのばしてヒナ子の腕をぐいとつかんだ。
声にならない悲鳴をもらしてヒナ子は立ちすくんだ。
「ごまかそうったって、そうはいかねえぞ。おれにはわけを聞く権利があるんだ!」
ヒナ子は、一瞬のおどろきからさめると、良介の手をふり放そうとした。
「逃げるな!」
「放してよ! 痛い!」
「来い!」
ヒナ子は意外に力が強かった。ヒナ子の腕をつかんだ良介の指をもぎ放そうとする。
「こいつう!」
良介の手がヒナ子のほおに痛烈に鳴った。もう一発。てのひらが痛くなるほど打ちのめした。ヒナ子が悲鳴を上げて身をよじった。
「なんだ、なんだ! 女をひっぱたいてやがら」
「道路の真中で何をやってやがんだ? おい。おめえ! 女がいやがってんじゃねえかよ。放してやれよ!」
「なんだ。このやろう! 痴漢か。とっつかめえろ!」
店の中から若い衆がとび出してきた。
「ちがうんだよ。こいつにちょっと聞きたいことがあるんだ」
良介は声を張り上げて、この場の事情を説明しようとしたが、もうだめだった。良介の肩や腕に太い手がのびてきた。向うずねをいやというほど|蹴《け》り上げられた。良介はヒナ子の腕をにぎったままよろめいた。
そのとき、とつぜん、良介の耳もとで空気が裂け、足もとのコンクリートに小さな穴があき、破片が粉のように散った。
ぴしゅっ! ぴしゅうん!
二度、三度、つづけざまに空気がはじけ、良介の肩をとらえていた男がのけぞった。もう一人が足をおさえてうずくまった。背後のショウウインドーに同心円のひび割れがはしり、ついでこなごなに|砕《くだ》け落ちた。
「血だ! 血だ!」
「人殺しだ!」
わっとさけび声が上り、|人《ひと》|垣《がき》がくずれた。倒れた男の背から血があふれ出して歩道にひろがりはじめた。
思考を失った良介の目に、|蒼白《そうはく》な顔を引きつらせたヒナ子がGパンの尻ポケットから、黒い小さな物体を引き出すのが映った。ポケット型の計算機をあやつるように、ヒナ子の指が物体の上にならんだキーをすばやくたたいた。
「待て!」
良介は反射的にヒナ子におどりかかった。
一瞬視野が崩れ、あらゆる物の形象が失われた。良介は薄れてゆく意識の中で、ヒナ子の体のどこかをつかんだ手に必死に力をこめた。
最初に目にとびこんできたのは、三面鏡だった。その前にならんでいるたくさんの化粧品のびん。そしてカバーをかけたストール、無意識に首を回すと、ふいに三人の男たちの姿が映った。体を動かすと、良介の背後にヒナ子がいた。ヒナ子は氷のような目で良介をみつめた。男たちの目が刺すようにするどく光り、すさまじい緊張が良介の心をわしづかみにした。
「こ、ここはどこなんだ」
良介はヒナ子と三人の男たちに視線をくばりながらさけんだ。おそろしい危険が|渦《うず》巻いていた。その良介を無視して、男の一人があごをしゃくった。
「H I N A K O. きみが無事だったことはうれしいが、これはめんどうなことになった」
「かれが追ってきてね、トラブルが起きたわ。そのとき、|狙《そ》|撃《げき》されました。ジャンプして脱出したんだけれど、かれが私の腕をつかんでいたので、かれもここへ来てしまったというわけ」
ヒナ子がひややかに事態を説明した。
男はうなずいた。
「どう始末する?」
もう一人の男が言った。
良介の全身がかっと熱くなった。
全身の血が音をたてた。
「てめえら! どこのどいつだかしらねえが、このおれをどう始末するだと! ふざけるな! おい。ヒナ子だかキナコだかしらねえが、ようく説明してもらおうじゃねえか。おれをつまらねえ事件に巻きこみやがって、ろくなあいさつもしねえでとんずらこきやがってよ。こんどはてめえたちにつごうがいいように始末しようってのか! ようし! やってもらおうじゃねえか!」
良介は腕っぷしには自信はなかったが、かっとなるとめくらめっぽうの勇気が出た。腰を低く落して身がまえると、追いつめられたけもののような目つきになった。
男たちは当惑したように、たがいにちらと目を見交した。
「さあ、来い! なにをぐずぐずしていやがるんだ!」
その声の終らぬうちに、良介はふいに体を丸めてダッシュした。いちばん左側の男のふところにおどりこみ、右のこぶしを強烈にみぞおちにたたきこむ。あおむけにひっくりかえる男を見向きもせずに右に|跳《と》ぶ。距離をあやまって体ごとぶつかり、良介は相手ともつれ合って床にころがった。良介の動きは完全に男たちの機先を制した。良介ははね起きると、両手をついて起き上ろうとする男のあごを蹴り上げた。|靴《くつ》|先《さき》がそれて耳をはげしくこすり上げた。男の耳から血が吹いた。
真中の男は機敏に後退すると、ポケットから黒い武器をとり出した。短い銃身がぴたりと良介の頭に向けられた。
「くそ!」
良介はうめいた。
「やめて!」
そのとき、ヒナ子がさけんだ。
ヒナ子は男と良介の間の空間を割るように立ちふさがった。
「みんな手を引いて! あなたも」
「わけを話します! あぶないところを|救《たす》けてもらったのだし、私の不注意からとはいえ、ここへ来てしまったのだから、事情を説明しなければもうおさまりがつかないでしょう」
「だが、大丈夫か? そんなことをして」
「いや。それはよせ。この場はきりぬけても、あとでめんどうになる」
男たちは、きびしい表情を見せてヒナ子の言葉をさえぎった。
「それに、ぐずぐずしていては時間がなくなるわ。私が責任をとります」
ヒナ子は良介に顔を向けた。
「これからお話しすることは、誰にも黙っていてもらいたいの。絶対によ」
「もったいぶっていねえでさっさと説明しろ」
「ある組織が、あなたのところへある装置を送りました。私を救出するためです。私を救出するにはたいへんな制約があって、組織の人間を動かすことができなかったので、あなたに白羽の矢を立てたのです」
ヒナ子は“白羽の矢を立てた”などと妙に古風なことを言った。
「私は別なある組織に捕えられていたのです。重大な秘密をしゃべらせようとしてね。それはあなたの見たとおりです。組織の計画どおり、あなたは私を救出するのに成功した。そして、かれらはあなたの出現にとまどい、あなたが何者なのか、今でも見当がつかないでいるでしょう。というのは、私達の組織のメンバーは、みな相手方に知られているからなのです」
良介はいらいらしてきた。
「ちっとも説明になっていないじゃねえか! ある組織だの、相手方だの、いったいそれはなんだ」
「H I N A K O. もうよせ。それ以上説明する必要はない」
「危険だ。われわれの存在をあかすことはわれわれには許されていない」
男たちの顔に、不安と恐怖が影のようにはしった。ヒナ子の声はますます冷静になった。
「良介さん。あなたが見たり聞いたりしたことを誰にも話さないと約束できますか?」
ヒナ子の美しい目が、とぎすまされた|刃《やいば》のように良介の胸をつらぬいた。良介はいわれもなくそのひとみにはげしい屈辱を感じた。
「おれは……おれは女みたいにおしゃべりじゃない」
「けっこうよ。約束を守ってもらえないと、私たちみんなが、たいへん不幸な結果になります」
こうなった事態の責任がことごとく良介にあるような言い方だった。良介は、ヒナ子が口を開くごとに一歩、一歩、退却してゆくような、みじめな心境におちいった。
「わかったよ。だが……条件がある!」
このへんでなんとかしてこの場の主導権を取りたい! このままでは、さまにならない。良介は肩をそびやかした。
「条件? どんなことかしら?」
ヒナ子はかすかにほほ笑んだ。おそろしいほどの自信がその笑いのかげに秘められていた。いざとなれば、いつでも好む時に良介を|抹《まっ》|殺《さつ》できるという自信であろう。良介はあえいだ。
「おまえとやらせろ」
それまで考えてもいなかった言葉がふいに口をついて出た。
ヒナ子にはとっさにその言葉がわからなかったらしい。
「…………?」
かすかに|眉《まゆ》|根《ね》が寄った。
その言葉の意味をさとったとき、ヒナ子の顔がゆがんだ。
「さあ、どうなんだ!」
良介もやぶれかぶれだった。もうこれで生きてこの部屋から出られないかもしれないと思った。
良介はヒナ子を後向きにして床に手とひざをつかせ、Gパンもろともパンティを引きおろした。|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》の光の中に、白い形のよい尻がむき出しになった。その尻を左右に押し開いておいて見すえながら、良介は自分の怒張しきったものをねじこんだ。
ヒナ子はのどの奥でうめいた。
「突き抜いてやるぞ!」
良介は|吠《ほ》えた。良介はヒナ子の腰骨の上をとらえた両手に力をこめた。ヒナ子の腰は細くくびれて、良介の左右の手の指頭が触れ合うばかりになった。良介がはげしく動くと、ヒナ子は奥歯をキリキリとかんで両手を大きくひろげ、そのまま床にくずおれた。長い髪がうねった。良介はさらに動きを強めた。ヒナ子のほおがはげしく床をこすり、投げ出された手が、何かを求めるようにむなしく宙をつかんだ。
ヒナ子のその部分が、何回目かの強烈な収縮を起し、ついに良介は放出した。
しびれるような甘い虚脱状態が過ぎると、良介はヒナ子の体を放して立ち上った。背後から拘束されていた力を失って、ヒナ子は足をひろげて床の上へのめった。
「ざまみやがれ」
良介はズボンをたくし上げてうそぶいた。
「まだ説明を聞いていないぜ」
女の体を奪ったとたんに、男は|横《おう》|柄《へい》になる。
いったん姿を消したヒナ子は、しばらくしてもどってきたが、良介の顔は見ないようにしている。そのくせ、いやにはなやいで浮々している。
「説明しただけではわかりにくいでしょうから、これからあることをお見せします」
「ほう。どんなことだ?」
「あたしといっしょに来て」
部屋には、いつの間にか先程の男たちがいた。
ヒナ子が目くばせすると、男の一人が良介のうでを取った。
「こっちへ来るんだ」
「痛えな。放せよ」
良介は男にみちびかれるままに、となりの部屋へ入った。壁に大きな鏡がはめこんであり、鏡の前の|棚《たな》にはさまざまな化粧品や、くし、ヘアピンなどがならべられている。まるで美容院のようだ。
「すわれ」
良介は鏡の前にすわらされた。別な男が、ロッカーを開いて、かつらを取り出した。
良介の頭にかつらがのせられた。
「何をするんだ?」
「いいから黙っていろ」
良介の周囲で男たちがいそがしく動いた。
「立て」
良介がためらうひまもなく、スポーツシャツをはがされ、Gパンを脱がされ、パンツまで取られた。
「おい! よせよ!」
うろたえる良介の顔に、白いさらしの布がとんできた。
「締めろよ!」
真新しいふんどしだった。
「おれ、ふんどしなんて、締めたことがないんだ」
良介はすっかり気を|呑《の》まれて、うろうろした。
男たちは小さく舌打ちすると、それを良介の腰にしっかりと締めこんだ。その上から、黒っぽい木綿の着物が着せかけられた。その上から帯を締め、布地のくたびれたあまり上等でないはかまをはかせられる。
「これをさして」
男の一人が長い刀を持ってきた。それを左の腰にさす。短いのも一本。
「よかろう」
二人の男が、前から後から、たしかめてうなずき合った。
鏡の中に写っているのは、一人の若侍だった。
「もうちょっと胸を張って。そうそう」
「歩く時は、左の肩が刀の重みでさがりぎみになるが、ごく自然に肩を落せ。それから、人のいる所では口をきくなよ」
「かならずH I N A K O の言うとおりに行動しろよ。決して勝手なことはするな。おまえの安全のためだ」
男たちはきびしい口調で言った。
そのとき、部屋のドアが開いた。
入ってきたのは、美しい町娘の姿をしたヒナ子だった。良介は思わず目を見張った。ヒナ子は良介の姿に満足したようだった。
「ああら。似合うわねえ」
「おいおい。これはいったいなんのまねだよ。どこかの仮装行列にでもゆくのかい?」
良介は鏡に写っている自分の姿に顔をしかめた。
ヒナ子も男たちもそれには答えず、良介はもとの部屋へ連れもどされた。
Gパン姿のヒナ子も美しかったが、町娘の姿になったヒナ子は画に描いたようにあでやかだった。これがさっきまで、床でのたうち回っていたヒナ子だとは思えない。
――すましていやがる! 気にしてるくせによ。
良介は胸の中で舌を出した。その目が、ふと、部屋のすみの床に飛散っている白い粘液にとまった。そこは、さっきヒナ子に奉仕させた位置だった。飛散っている液体はあきらかに良介の体から噴射したものだった。
――おかしいな? おれは|洩《も》らしたりはしなかったが……。
良介は自分の肉の棒の先端の、もっとも鋭敏な部分が、ヒナ子のものに何回も強く締めつけられたのを思い出した。良介のものがまた固くなり出した。
強く締めたふんどしがやけに邪魔だった。
妙な腰つきをしている良介にはかまわず、ヒナ子は良介によりそうように身を寄せた。その手に、小さな物体が握られていた。
「いいわね」
ヒナ子の目が細まった。
一瞬、|奈《な》|落《らく》の底に落ちるようなすさまじい落下感が襲ってきた。良介は絶叫した。その体をヒナ子が支えた。ヒナ子の腕のやわらかな力感が良介をわずかに混迷から救っていた。
10
暗い空のどこかに月があるらしく、建ちならんだ家々の屋根が夜空に黒々と浮き出していた。どこかでしきりに犬が|吠《ほ》えていた。
ひと気のない静かな夜ふけの気配が、死の町のようにひろがっている。
良介はそっと体を起した。何かがつかえてそれ以上、体を動かすことができない。良介はとたんに、自分が刀をさしていたことに気がついた。立ち上ろうとすると、その腰をひきもどされた。
「静かに!」
かたわらにヒナ子がうずくまっていた。
「ど、どうしたんだよ?」
甘い吐息が良介の横顔に触れた。ヒナ子が良介の耳に口を寄せてきた。
「向い側の大きな家の二階に、今、|坂本竜馬《さかもとりょうま》と|中《なか》|岡《おか》|慎《しん》|太《た》|郎《ろう》がひそんでいるのよ。間もなく、見廻組が切り込むわ。坂本竜馬と中岡慎太郎は今夜、暗殺されるんです」
「なんだって?」
「あの家は|近江《お う み》屋という|醤油《しょうゆ》屋なの。あの二階が二人のアジトなのよ」
「まってくれ! ここはどこなんだ? 坂本竜馬だの中岡慎太郎だのってさ」
「ここは京都、河原町三条下ル、|蛸《たこ》|薬《やく》|師《し》|角《かど》よ。今は|慶《けい》|応《おう》三年十一月十五日」
「げっ!」
――すると、おれたちは幕末の京都にいるわけか? そんな、ばかな!
そのとき、寝静まった町の、暗い軒下につたうように、いそぎ足で近づいてくる一団があった。
「来たわ! 京都見廻組よ。先頭にいるのが、隊長の|佐《さ》|々《さ》|木《き》|只《ただ》|三《さぶ》|郎《ろう》だわ」
ヒナ子が声をしのばせた。人影は七個。足ごしらえも厳重に、たすきがけ、|鉢《はち》|巻《まき》をしめ、長い刀をぶちこんでいる。
とつぜん、かれらの足が止った。大きな|天《てん》|水《すい》|桶《おけ》のかげから、月光の中にばらばらととび出した三つの人影があった。
「なにやつ!」
「うぬ! さとられたか」
見廻組の一隊はおしころした声でさけぶと、いっせいに刀をぬき放った。見廻組をさえぎった人影のうち、一人だけが刀をぬいたようだった。ところがぜんぜん剣術はだめらしい。見廻組もちょっとあっけにとられたようだった。
ところがあとの二人はおそろしい存在だった。武士の姿こそしていたものの、手にしているのは|拳銃《けんじゅう》に似た形の武器だった。
一瞬、|閃《せん》|光《こう》がひらめいた。見廻組の一人がほのおの|塊《かたまり》になった。つづいてまた一人。見廻組は棒立ちになった。
「GO!」
ヒナ子が低くさけんだ。
良介とヒナ子がひそんでいる場所から、数メートル離れた物かげに、音もなく二つの人影がわいた。月光をあびて、手にした小さな物体がキラリと光った。
ふいに空気が振動し、かすかなうなりが良介の鼓膜をつらぬいた。
「いたたた!」
良介は耳をおさえて悲鳴を上げた。
「超音波銃よ」
ヒナ子がささやいたが、良介の耳には入らなかった。
見廻組を襲った三人の武士は、声もなくのけぞり、がっくりとひざをおった。見廻組の中でも一人、倒れた者がいた。
「さ、近江屋へ向われよ! ここは、われわれがお引き受けいたす」
こちら側の二人が、低い声でさけんだ。
それでいったんはくじけた見廻組の士気も、ふたたび高まったようだった。
「どなたかしらぬが、かたじけない! それでは、ごめん!」
隊長の佐々木只三郎は|会釈《えしゃく》すると、部下をひきいて近江屋に殺到した。
やがて近江屋の屋内で、人のさけび声や物のこわれる音がひびき、絶叫が尾をひいた。
「行きましょう」
ヒナ子が良介の背を押した。
良介はひざががくがくして、立上れず、ふたたびぺたりと地面に|尻《しり》を落してしまった。
「しっかりしてよ!」
ヒナ子に着物のえりをつかまれ、良介はずるずると立上った。なんだか妙に全身から力がぬけ、まるで雲を踏んで歩いているようだ。
どこをどう歩いたのかわからず、良介はただヒナ子の後からついていった。
「おう。ちょっと待ちいな」
ふいに|暗《くら》|闇《やみ》から声がした。
ぬっと男があらわれた。うしろにしたがっていた男が身動きすると、ぱっ、とちょうちんの光が周囲を照し出した。御用、と書いてある。今まで|半《はん》|纏《てん》か何かでかくしていたらしい。
男の手には十手が握られていた。
「あら。親分さん。おお、びっくりした」
ヒナ子は大げさに胸に手を当てた。
ちょうちんが上って、良介の顔を浮き上らせた。
「おっ。おさむらいさんでっか。せっかくの道行きのところを、とんだおじゃまさんどしたな。このあたりはしごくぶっそうですさかいに、こうして張ってまんのや。役目がら、不粋なのはわかっとるんやが、お名前をうかがわせてもらいまっさ」
さむらい姿の良介を見て、腰は低くなったが、目のするどさだけは変らない。
良介はへどもどした。
「名前を言って」
ヒナ子がささやいた。
「小島良介だ」
「小島はんでんな。ご浪人さんやろか?」
|目《め》|明《あか》しの男はそれとなくさぐりを入れる。
「浪人? 二浪でだめだったよ」
「は?」
「今は小島藤作商店の使い走りよ」
「ふざけたらあきまへん! 使い走りだなんて、そんな。おさむらいさんはお|店《たな》|者《もの》とはちがいまっしゃろ」
目明しの言葉のかげに疑惑が動いた。
「親分さん。小島藤作商店というのは、ほら、|公《く》|方《ぼう》さまや会津の|松平《まつだいら》さまに|釘《くぎ》やボルトをおさめている江戸の大きなお店よ」
ヒナ子が横から助け舟を出した。
「ほう。そうでっか。釘やボルトをね。ボルトちゅうのはなんどす?」
「西洋のお酒をいれるとっくりのことよ」
「へえ、ボルトいうのんか」
目明しは良介からヒナ子の上に視線を移した。
「|嬢《とう》はんの名前も聞いとこうか」
「わたいの|父《とう》さんはその小島藤作商店の、京都の出店をあずかってます。わたいの名はヒナ子」
しゃあしゃあと言う。
「そいじゃ通ってよろし。おさむらいさんがいっしょだが、気いつけて行かし」
ヒナ子は、良介の腕にぶらさがるようなかっこうで良介の体を押し、その場を離れた。町角を曲ると、ヒナ子は体をしゃんと立て直し、ケタケタと笑った。
11
その家へ入ると、二人の男が良介とヒナ子を待っていた。その二人は、近江屋の前で、見廻組を襲った三人を倒した男たちだった。二人とも町人の姿をしている。一人は良介にかつらをかぶせてくれた男だった。
「見廻組の死者はそのままにしておいたが、時間密行者たちの死体は、|誰《だれ》にもわからぬよう始末した」
男の一人が、ヒナ子に言った。
良介はたたみの上に体を投げ出し、荒い息を吐いていた。ひどく疲れていた。
「な、なにがどうなっているのか、さっぱりわからん。たのむ。おしえてくれ」
悪い夢を見ているような気がした。
「あなたは、誰にも言わないという約束を守るでしょうから、お話しするわ」
ヒナ子が向き直った。
「私たちは遠い未来に設けられている〈時間|監《かん》|視《し》局〉の局員なんです」
良介にはそれがなんであるのか、見当もつかなかった。
「紀元三千年頃、タイム・マシンが完成しました。ところが、タイム・マシンができると、それを使って、勝手に過去の時代に飛び、いろいろ事件を起す人が出てきたんです」
「タイム・マシンだって? そいつはすげえじゃねえか!」
「でも、江戸時代に懐中電灯を忘れてきたり、平安時代に時計を置いてきたりしたら、どうなると思って? 文明の発達の経過がまるで狂ってしまうおそれがあるわ」
「…………」
「もっとおそろしいのは、タイム・マシンで過去の時代へ入りこんだ人が、誰かを殺したとするでしょう。そうすると、その殺された人の子孫たちはどうなると思う? 祖先がいなくなるんだから、子孫たちもみな消えてしまうのよ。この世に存在しなくなるのよ」
「…………」
「もし、時間密行者が、あなたの遠い祖先を殺したとしてごらんなさい。あなたのおとうさんもおにいさんも、おとうさんの兄弟も、いっぺんにこの世から消えてしまうのよ」
「ほんとうか? そんなこと」
「あなたも聞いたことがあるでしょう? 蒸発なんていう人がたくさんいるじゃない。行方不明になって消えてしまう人。あの半分は、過去の時代にもぐりこんでいる時間密行者のせいだといわれているの」
良介は声も出なかった。頭の奥底がしびれてしまったような気がする。
「そのため、〈時間監視局〉が設けられ、タイム・マシンで密行する者をきびしく取締ることになったのよ」
「そ、それで、きみたちは……」
「〈時間監視局〉では、時代を幾つにも分けて、それぞれ支局を設け、何人もの監視員を配置して見張りをつづけているんです。この家は江戸時代の監視ステーションなんです」
町人姿の男が、やっこだこのように、自分のそでをひろげてみせた。
「こういうかっこうをしていれば、わからないだろう」
「それではきみたちは、タイム・マシンを使っているのか?」
「そうだよ」
男はうなずいた。
「さっきのあれは、どうしたんだ?」
ヒナ子の顔が|翳《かげ》った。
「この頃、〈時間監視局〉はたいへん難しい問題をかかえているの。それは、過去を変えることによって、未来を変えようとする狂信的な団体があらわれて、工作員を密行させて来ているの。たとえば、坂本竜馬が殺されないで、生きのびてたとしたら、明治時代はずいぶん変ったものになっていただろうといわれているわ。どんなふうに変るか、その狂信団体は実験を始めているのよ。その団体は〈歴史改革同盟〉などとよばれているわ。でも、過去の歴史を変えるなんて、とんでもないことよ」
「そういうものかな」
「過去を変えることで未来をよくしようなんて、ずうずうしいわよ。未来は自分たちで作るものでしょう。それに、変えられてしまった時代に生きていた人たちはどうするの? だまって消されてしまうの?」
「そいつはごめんだな」
「そうでしょう。そういうことは絶対にやめさせなければ」
良介にもようやくわかりかけてきた。
「きみはいつの時代の人間なんだ」
「私は、ほんとうは一九八五年に生まれているのよ。でも二十歳の時に監視員にスカウトされたのよ」
男がうなずいた。
「監視員になった者は、もう年齢などなくなるんだよ。おれは一八九九年に佐渡ヵ島で生まれた」
その男は三十歳の後半ぐらいだ。
「年齢がなくなる? どうしてだ?」
「医学的な処置を受けるわけだが、タイム・マシンでいろいろな時代を行ったり来たりしていると、もう自分の年齢などわからなくなっちまうのさ」
男は肩をゆすって笑った。
「きみも見たはずだぞ」
見たはずだと言われても、良介には、それが何のことかわからなかった。
「わたしがリンチを受けて、ひどい傷を受けたでしょう。でも、すぐ、もとの体になったわ。簡単なことなのよ。時間的にまだ傷を受けていない状態の体にもどればいいんだから」
そうだったのか! 信じられないことだが、自分の目で見たことだった。
「きみはなぜ、リンチを受けていたんだ? あいつらは何者だ?」
「時間密行者たちよ。あたしをつかまえてこちらの対策を聞き出そうとしていたの」
「おれにあの妙な装置を送ってきたのはなぜだ?」
男の一人が引き取った。
「おれたちは、他のある重要な任務についているため、どうしてもH I N A K O を|救《たす》けに行くことができなかった。そこであの装置をきみに送り、救けに行かせたのだ」
「救けに行かせるといったって、おれがあのボール箱を見つけるとはかぎらなかったぜ。おれが大学を受からなかったからいいけれどもよ」
「きみが大学を受からないということは、われわれは知っていた」
「ちぇっ、くさるなあ」
「それから、あのスナックの前を通ることもな。そしてきみはあの装置を組立て、歴史の必然にしたがって、あそこへ行って H I N A K O を救けるわけだ」
非情としか言いようのない時間監視員の言葉だった。
「ああ負けたよ! おれはなんだか頭がへんになりそうだ」
良介は頭にかぶっていたかつらを、すっぽりぬいでそこにほうり出し、あお向けに打ち倒れた。
「どうにでもしてくれ!」
「ところでな。われわれはこれからある任務で、遠い遠いむかしへ行く。どうだ? いっしょに来るか?」
男は目に笑いを浮かべながら言った。
「いっしょに? おれが?」
「行くか?」
「行ってもいいが。どこへだ?」
「二億年前! 中生代だ」
良介はぎょっとしてはね起きた。
ヒナ子がまるでピクニックにでも行くような調子で言った。
「恐竜がいるわよ。すごいのが」
「つかまえるのか?」
「何百頭もの恐竜を、一九七四年の東京に放したらどうなるか実験しようとしているばかなやつがいるのよ。そいつを逮捕するの」
「ようし、行くぞ! おれも」
良介は目をかがやかせた。
急に、とほうもない世界が、目の前にひろがった。親父の店の使い走りをしているよりも、よっぽどいいだろうと思った。
「おい。最初からこうなるように仕組んでいたんじゃねえのか?」
良介はなんとなく、わなにはめられたような気がした。
男はにやにや笑って答えなかった。
「ほんとうのことを言うと、あなたは適性テストに合格したのよ」
「適性テスト?」
「あなたの体力や血液テスト、脳波の検査や心電図、イデン形質まで全部、〈時間局〉のテスト・センターでテストしたのよ」
「いつ?」
「あなたからテストに必要な量の精子はいただいたわ」
良介は心臓が止ったような気がした。
「あの時!」
「あれが、でしょ」
良介は頭をかかえてうずくまった。
「あなたはスカウトされたわ」
ヒナ子の声が、いやに遠くの方から聞えた。
12
陽が沈む。
真赤な夕日が、とろとろと燃えるように、遠い地平線の果に沈んでゆく。その地平線の一部が、針のように銀色にかがやいているのは湖でもあるのだろうか? 大地はゆるく傾斜して、その遠い平原の果につらなっていた。そこまで、いったいどれほどの距離があるのだろうか? 一軒の家も、道路もなく、ただ、平原のわずかな起伏が、雲のようなかげりを引いているばかりだった。
良介の耳もとで、かすかに風がうなった。その風が絶えると、もはや、何の物音も聞えてこなかった。心にしみるような静けさが良介をおしつつんだ。
どこだろう? ここは?
良介は、これまで目にしたことのある風景を、あれこれと思い返したが、今、目にしている広大な平原と、物音ひとつ聞えない静かな夕暮れの風景は、そのどれとも結びつかないものだった。
どうして、おれはこんな所にいるのだろう?
良介は心の中でつぶやいた。なにか、全部わかっているような気がするのだが、頭の奥の方が、じいんとしびれていて、思い出すことができないのだ。
首を回してみると、背後は深い林だった。良介のいる所で、その林は終り、そこから先は、見わたすかぎり、さえぎるものもない草原となっていた。
ひどくのどがかわいていた。地平線の果に光るのが湖だったとしても、そこまで行き着かぬうちに夜が来てしまうだろう。それよりも、林の中をさがせば、たぶん小川か泉が見つかるだろう。
良介は林の中に分け入った。林は松によく似た大木が枝葉をのばし、夕焼けの空をおおいかくして、もう夜が迫ったかのように薄暗かった。
ふいに、下草のしげみががさがさと動き、|甲《かん》|高《だか》い動物の鳴声が聞え、また静かになった。
林はどこまでもつづいていた。
のどのかわきばかりでなく、しだいに空腹も耐え難くなってきた。もう林の中はすっかり暗くなった。
良介の胸に、濃い不安が雲のようにわき上ってきた。
――おれはなぜこんなことをしているのだろう?
良介は自分が悪い夢でも見ているのではないかと思った。記憶のすべてに、厚いベールがかかり、どうしても呼び起すことができない。良介はもどかしさにけもののようにうめいた。
そのとき、ふいに林が切れ、目の前に水面がひろがった。左右に三百メートルほど、幅は百メートル近くある。まだ空の一部に残る夕焼けが、水面を暗赤色に染めていた。良介は水ぎわにかけ寄り、犬のように四つんばいになって水面に口をつけた。そこから、大きな波紋が、さざ波ひとつない水面にひろがっていった。
たらふく水をのんだ良介は、ほっとして体を起した。
静かだった。
その異様な静けさが、良介の心にふとかすかな異状を告げた。
鳥の声すら聞えなかった。水をのみに近づく小さな動物の気配すらない。
この静けさは危険だった。
良介はなにか、えたいの知れぬものが、どこからかじっと、自分を見つめているような気がした。
こんなひらけた水ぎわで、いつまでも姿をさらしていることは危険だった。
良介は林にもどろうとした。
そして見つけた。
水ぎわに、直径三メートルもある巨大な足跡がつづいていた。
13
ふと、良介は目覚めた。いつの間にか、眠りこんでいたらしい。良介は、もぐりこんでいた下草のしげみの中から体を起した。
良介は耳をすませた。
深い眠りの中で、なにか物音を聞いたような気がしたのだ。
なんだろう?
どこかに月が出ているとみえ、目の前の水面が鏡のように銀色にかがやいていた。
聞えた!
なんだろう? あれは?
かすかな、かすかな物音が、夜の静寂の中を、どこからともなくつたわってきた。
また聞えた!
良介は全身の神経を耳に集中した。
たしかに聞える。
良介は体を伏せると、草をかきわけて地面に耳を押しつけた。
こんどは、はっきり聞えた。
ずしん……ずしん……ずしん
それは、おそろしく重い物が、地面を打ちたたく物音だった。
良介の顔が引きつった。
ずしん……ずしん……ずしん
地面に腹ばいになった良介の体に、やがてはっきりと地ひびきがつたわってきた。
こちらへ近づいてくる。
なんだろう?
このまま、ここにいていいだろうか?
はげしい不安が、良介の胸を締めつけた。だが、逃げようにも背後は水面だ。水ぎわに沿って走っても、それがかえって地ひびきをたてて近づいてくるものの、正面へとび出してゆくことになるかもしれない。
ずしいん、ずしん!
足もとの地面は、今やぐらぐらとゆれはじめた。頭上の木の枝がざわざわと鳴った。
良介は下草のしげみにとびこんだ。恐怖で口の中がからからだった。
今や地ひびきは数十メートルの距離にまで迫った。良介の体はそのたびにびくん! びくん! とはね上った。
めりめりと大木が折れ、太い木の枝があらしのようにゆらいで落ちてきた。その一本が良介の上に降ってきた。
頭の上からおおいかぶさってきた枝を、必死にはらいのけ、くぐりぬけたとき、とつぜん、良介の眼の前に、小山のような巨大なものが、姿をあらわした。
14
形だけはトカゲのようだが、後足で立ち上った高さは二十メートルもあるだろう。太い胴体、長大な尾。巨大な頭に、大きく裂けた口は、人間などらくに|丸《まる》|呑《の》みにできるだろう。
|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ちすくむ良介の目の前に、それは暴風のように突進してきた。真赤な二つの目が燐光のようにかがやいた。
なま|臭《ぐさ》い|匂《にお》いが、むっと吹きつけてきた。
一瞬、良介はわれにかえった。夢中で横へ逃げた。木の枝に足をとられ、頭から地面に落ちた。意識が薄れかかったが、手足だけは動いて、良介の体は、水ぎわへ向う斜面をころがり落ちた。
すさまじいさけび声がとどろいた。大地は大波のようにゆれ、沼の水面が|煮《に》えたぎるように波立つと、白い水煙が舞い上った。
ぐおう! ぐおおおう!
ぎえっ、きええええ!
良介は耳をおさえた。すさまじいさけび声は空気を震わせ、強烈な衝撃波となって良介の鼓膜に突き刺さってきた。
水ぎわに横たわった良介の目の前で、巨大な二匹の動物が、たがいにそのするどい|牙《きば》を相手の体に深く突き立て、からみ合い、のたうち回っていた。体の大きさも、形も少しちがっているようだったが、どちらも、おそろしい戦闘力を持っていた。吹き出す血が、水ぎわの砂をみるみるどす黒く染め、ばりばりと骨をかみくだかれる音が聞えても、どちらも、少しもおとろえるようすがなかった。
ふいに、直径二メートルもある太い尾の先端が、風をまいて飛んできた。良介は反射的に砂の中に顔を埋めた。尾は良介の背中をすれすれにかすめて、数メートル先の水面をはげしく打ちたたいた。水しぶきが滝のように良介の上に落ちてきた。良介ははね起きると、必死に走った。水にぬれた砂は、足を吸いつけて走りにくい。だが戦うのに夢中な動物は、水ぎわを走る小さな人影など全く目に入らないようだった。
良介は林の中に体を投げ出し、火のようにあえいだ。
おそらく、あの沼は、巨大な動物どもの水呑み場にちがいない。そこで出くわしたものどうしの間で、いつもあのような|凄《せい》|惨《さん》な戦いがくりひろげられているのだろう。
それにしてもあの動物は?
あんなものが、今、地球上に|棲《せい》|息《そく》しているのだろうか?
まるで恐竜ではないか!
恐竜……そうだ。恐竜だ!
すると……
良介ははじかれたように立ち上った。
恐竜がこんな所にいるなんて。
恐竜は中生代に栄えていた動物だ。中生代は今から二億万年前から、六千万年前までつづいた。
高校の地学で習った知識の断片が、良介の胸によみがえってきた。
中生代!
そうだ!
ヒナ子のやつが何と言った?
これから中生代へ行くのだと、たしかに言った。
「ヒナ子!」
良介は絶叫した。
「どこにいるんだ!」
こんな所にいつまでも一人で置かれてはたまらないと思った。
「ヒナ子!」
がさがさと背後のしげみが動いた。
ヒナ子か? どこにいたんだ?
良介はふり向いて、思わず声を呑んだ。
全身の血が足もとへすっと引いた。
身長はほぼ良介と同じぐらい。後足で立ち、後にしなやかな細長い尾を引きずっている。するどい|爪《つめ》を持った前足を胸に引きつけ、青白く光る二つの目がまたたきもせず良介を見つめていた。
形は恐竜によく似ていたが、これははるかに小さく、全体にほっそりして見るからに|精《せい》|悍《かん》そうだった。体には厚いうろこもないらしいが、全身にすばらしい躍動感をみなぎらせている。
良介はじりじりと後退した。
小型の恐竜はゆっくりと上体を左右にふりはじめた。
良介はおそろしい危険を感じた。
下草のしげみが二つにわれ、引き千切られた葉やくきが宙に舞い上ると、良介の頭上から、鉄の|熊《くま》|手《で》のような爪が、雷光のように降ってきた。良介はまりのようにころがった。小型の恐竜はつづいて跳躍した。ころがる良介のうしろ、二、三十センチメートルの所へ、長い爪がぶす! ぶす! と突きささってくる。そいつはカンガルーのように両足をそろえてとびかかってくるのだ。もう一度、もう一度、その攻撃がわずかにゆるんだすきに、良介ははね起きて走った。
どすどすと砂をけたてる足音が迫ってきた。小型の恐竜は、|駝鳥《だちょう》のように、とぶような|大《おお》|股《また》で突進してくる。とても逃げきれない。
良介は落ちていた太い木の枝をつかむと、向きなおった。その目の前に、へびのようにくねくねとうねる長い首がのびてきた。
「くそ!」
良介は手にした木の枝を、力いっぱいふりおろした。長い首は、風を切ってふりおろされた木の枝をたくみにかいくぐった。頭と首だけ見ていると、巨大な|毒《どく》|蛇《じゃ》のようだった。その歯は、大きく湾曲して内側を向いている。一度、かみつかれたら、とうてい引きはがすことはできないだろう。それに、いつ足の爪がとんでくるかわからない。
良介は必死に、その粗末な武器を打ちふった。だが、敵は右へ左へ、電光のように|跳《と》びちがえ、まるで重さを持たないもののように身をひるがえしては肉薄してくる。腕がなまりのように重くなってきた。汗が目に流れこむ。だが、少しでも戦うのをやめたらさいご、たちまちするどい歯が、爪が、肉を破ってくるだろう。
「ちくしょう! ああ、だめだ!」
良介はうめいた。
さいごの一撃に、残った力をふりしぼった。
がつん! 手ごたえがきた。
歯の浮くようなけたたましいさけび声が空気をふるわせた。
良介はふたたび木の枝をふりかざして突撃した。二度目は|空《くう》を打ったが、三度目は力点の中心に強烈な手ごたえがきた。骨の折れる音がした。
良介は身をひるがえして十数メートル走った。そいつは、折れた長い首を、だらりとひきずりながら、めくらめっぽうにあばれ回っていた。首を折られたというのに、おそるべきエネルギーだった。体の動きは少しもおとろえていない。だが、目が見えなくなったせいか、もはや良介を追うことはできない。そいつは両足をそろえると、見事な跳びげりをおこなった。
ところが、そこは水面だった。高く水しぶきが上った。そのとき、銀色の水面を破って、ふいに巨大な動物の頭が出現した。潜水艦のように、水面をざざっと二つに割ると、水の中でのたうち回っている手負いの小型の恐竜を、ぱっくりとくわえ、ふたたび水中に没した。あとには、ただ大きな波紋だけが残った。
良介はあとも見ずに逃げ出した。どこになにものがひそんでいるのか、わからなかった。周囲はことごとく、おそろしい動物たちで占められていた。
15
良介はひと晩中、眠れなかった。林の中の大木のかげに、じっと息を殺してひそんだまま、一夜を送った。あの、すさまじい地ひびきが、二回ほど、かなり離れた所を通り過ぎていった。また、それよりずっと小さな動物のものらしい足音が、これはごく近い所を通っていった。鼻息のような音も聞えた。頭上の枝を、なにかおそろしく長いものが、ずるずると|這《は》ってくる物音もした。
長い長い夜があけ、ようやく周囲が明るくなってきた。良介は疲労と空腹で目がくらみそうだった。のどのかわきもひどかったが、あの沼へもどるのはいやだった。
良介は足をひきずり、あてもなく林の中を進んだ。
夕日の方向が草原だったことを思い出した。太陽の位置から、西の方向をきめ、良介は下草を押し分けて進んだ。
途中、食えそうな葉をみつけては口に入れてみたが、どれものどを通るようなしろものではなかった。
太陽が真上近くなった頃、ついに林は終った。昨日の夕方、目にした風景が、ふたたび目の前にひらけていた。やはり、遠い地平線に、針のようなきらめきがあった。湖か、海か? そこまで行けば、今以上のことが何かわかるかもしれないと思った。もしかしたら人が住んでいるかもしれない。そう思うと、新しい勇気がわいた。
だが、まてよ?
良介は、とつぜん、忘れていたことに気がついた。
今いるここは、中生代だった。二億万年前から、六千万年前の太古なのだ。
地球上に人類が発生するのは、まだまだ、気の遠くなるほど先のことなのだ。
――地球上にいる人間は、おれ一人なんだ!
どこをさがしても、地球上を一生さがしつづけたとしても、一人の人間に出会うこともないのだ。
良介の胸に、耐え難い孤独がつき上げてきた。
もしかしたら、このまま、二度とあの現代にもどることができないのではないだろうか? ヒナ子はこれから中生代へ行くのだと、言った。だが、そのヒナ子の姿はどこにもない。なにか手違いが起きたのではないだろうか? それとも、何かの理由で、おれだけを送りこんだまま、計画を中止してしまったのではないだろうか? もともとおれはタイム・パトロールマンではない。おれのことなど、なんとも思っていやしないんだ! やつらは遠い未来の人間だと言った。やつらからみれば、おれ一人の生命ぐらい、どうなろうと、全く問題じゃないんだ。そうだ! それにちがいない!
良介は歯をくいしばった。
人間が一人もいない恐竜の時代に、たった一人でほうり出されてしまった恐怖と、孤独に、良介はつめたい汗を流した。わめきたいのを必死にこらえた。わめいたらさいご、そのまま気が狂ってしまうのではないかと思った。
自分の家の、あの薄暗い倉庫がたまらなく懐しかった。ヤカンやなべ、くぎやのこぎりなどの商品を、うず高く積み上げた店先が、この上ない安らかな場所に思えた。もう、あそこへ帰ることはできないのだ。
おれは、この二億年もむかしの、どこともしれぬ野っ原で死ぬんだ。きっと恐竜に食われてしまうんだろう。誰もそれを知らないんだ。そう思ったとたんに、良介の目から涙があふれた。自分がかわいそうでたまらなかった。
良介は、はじめてほんとうの孤独を知った。これまで、友達とのことや、受験の失敗や家族などのことで、自分は孤独なんだ、と思ったことが何度もあったが、今の状態は、そんな甘美な孤独とは全く異質なものだった。深いつながりのある人間の中で感ずる孤独などではない。ここでは物理的に、完全に孤独なのだ。どうあがいたとて、絶対にぬけ出すことができない地獄の孤独だった。
ここからぬけ出すには、〈死〉しかない。だが、それとて、絶対的な孤独の中でむかえなければならないのだ。死んだことすら人に知られることのない死というものが、どんなものか、良介にははげしい苦痛とともに理解された。
「ああ! ちくしょう!」
良介はすべてを忘れようとして、頭を打ちふった。思念をふり切って草原へ足をふみ出した。
焼けつくような陽射しが、良介の体をとらえた。
そのまま歩きつづけていたら、地平線の果の水面までたどり着かないうちに、体中の水分を失って死んでしまうかもしれない。
良介は、それならそれでもかまわないと思った。
16
林をあとに、二百メートルほど歩いたとき、ふいに陽がかげった。
思わず見上げた良介の目に、大きな黒い物体が、良介めがけてななめに突込んでくるのが見えた。
とっさに地面に身を投げた。良介の顔面を突風がはらった。幅の広い、しなやかなものが宙をひるがえり、突込んできたときと同じスピードで空へかけ上ってゆく。
良介は、はじめ、それは巨大なコウモリだと思った。
しかし、それはコウモリではなかった。
マントのようにひるがえる|翼《つばさ》が端から端まで、七、八メートルはあるだろう。そして、翼からはするどい|爪《つめ》が突き出し、とがったあごからはナイフのような歯がのぞいていた。
良介の顔は土気色になった。
|翼竜《よくりゅう》だった。
翼竜は、良介もこれまで、何度も絵を見たことがあり、よく知っていた。ランフォリンクスという。大きなコウモリという感じだが、これも恐竜と同じ、|爬虫類《はちゅうるい》で、おそろしい肉食動物だった。なにしろでかい。
周囲は、身をかくす場所もない草原だった。頭上からの襲撃には手のほどこしようがない。
翼竜は三十メートルぐらいの高さを、ゆっくりと旋回している。
良介は林へ向って走った。
それを見た翼竜は、ひらりとつばさをひるがえすと、弾丸のように急降下してきた。
良介は首をねじ向けて、頭上をうかがいながら、息を切らせて走った。
十五メートル。十メートル。五メートル。
良介の頭に、するどい爪が打ちこまれる直前、良介はふいに直角に走る方向を変えた。
翼竜の、なめし皮のような翼端が、はげしく空気をたたき、突風にあおられるように良介は前にのめった。
大きな翼竜は、急に飛ぶ方向を変えるということはできないようだった。ねらいをはずされると、ぶざまなかっこうで、いったんよたよたと舞い上り、高度をとって、つぎの襲撃のチャンスをねらわなければならない。
良介はその間に、ふたたび林へ向って走った。その目の前に、もうひとつの黒い影が降ってきた。避けるひまもなく、良介の右の肩にするどい爪がくいこんだ。激痛に目がくらんだ。
翼竜は一頭だけではなかったのだ。
「しまった!」
良介の肩をつかんだ翼竜は、そのまま舞い上ろうとする。巣へ持ち帰ってゆっくり食おうというのだろう。
だが、良介の体重は、翼竜には少し重過ぎたようだ。翼竜は良介を引きずりながら、飛行機が地上滑走をするように、ばさばさと飛びはじめた。引きずられる良介のかかとが、草原に土煙をひいた。
「ちくしょう! ちくしょう!」
良介は自由な左手を必死にふり回した。右の肩はもう感覚がない。流れ出る血が、肩から胸をつたい、足の先まで真赤に|濡《ぬ》らした。
ふり回した手が、右肩をつかんでいる翼竜の足をにぎった。良介はうろこでおおわれている足をひねり上げた。空を飛ぶものだけに、恐竜の一種とはいいながら、うろこもあまり厚くない。良介の反撃に翼竜は、歯の浮くようなさけび声を上げると、くちばしのようにとがった口で、良介の頭をつつきにかかった。二、三度それをかわした末、良介は、その下あごをとらえた。鉄棒の逆上りの要領で両足を翼竜の頭にかける。
肩の傷口が裂け、つかんでいた爪が離れた。良介と翼竜はもつれ合って地上にころがった。
つばさのさしわたしは七、八メートルもあるが、胴体の長さは三メートルぐらいだ。体重もあまりない。地上での格闘となると五分五分だった。右手は全くつかえないが、翼竜も前足がつばさになっているから、それをやたらにばさばさやるだけで格闘の武器にはならない。良介は左うでを翼竜の首に回し、その上に自分の体重をあずけて思いきり締め上げた。翼竜は全身をふるわせ、やがて動かなくなった。
良介の視野が、すうっと薄暗くなった。全身が地面に吸いこまれてゆく。
「ここで気を失ったらたいへんだ」
良介は薄れてゆく意識をかき立ててなまりのように重い体を、虫のように運んだ。
いつの間にか、草原の上空を、無数の翼竜が乱舞していた。けたたましく鳴きさけびながら、高く低く旋回する。どこかで休息していた翼竜のむれが、今の格闘で、すっかり興奮して飛び出してきたのだ。
良介はけたたましいさけび声に追われるように林に逃げこんだ。大木の下に体を投げ出すと、何を考える気力もなかった。肩の傷からあふれ出る血は、みるみる周囲の下草を染めていった。
寒い!
暗い。
「ああ、眠いな……」
痛みも感じられなかった。
良介の頭は、がっくりと落ちた。
17
ひどく寒かった。
右半身が凍りついたように動かない。
体を動かすと、全身に、焼け火ばしを突き通されたような痛みがはしった。
ゆっくりと体を起した。
雨が降っていた。
雨滴をふくんで重くたれさがった葉の先端から、水滴がたえ間なくしたたり落ちる。良介はその葉を口にふくんで、水をすすった。
つめたい水が、体中にしみ通ってゆくようだった。
何日も失神していたような気がする。肩の傷口はふさがり、厚く大きなかさぶたが盛り上っていた。その一部が、少し黄色く|膿《う》んでいるようだったが、どうやら、それは失神している間に化膿部分がなおって縮小したものらしかった。その傷のようすから、一週間以上、失神していたのではないか、と思った。うでを動かしてみると、まだ、|鈍《どん》|痛《つう》が残っていたが、骨にも筋肉にも、重大な損傷は残っていないようだった。熱もなかった。
良介はよろよろと立ち上った。全身から力がぬけていた。手首や足首が妙に細くなったようだ。足を運ぶごとに目まいが襲ってきた。深い傷との戦いで、相当、体力を消耗したらしい。
何か食わなくては!
良介は林のふちに出て、雨にけむる草原に視線をはせた。
五十メートルほどむこうに、ぼろきれのようなものが落ちていた。良介がたおした翼竜の死体の|残《ざん》|骸《がい》だった。さんざんに食い荒され、骨と、天幕のようなつばさの断片しか残っていなかった。それも雨にきれいに洗われ、生物の遺骸とも思えないほど|変《へん》|貌《ぼう》してしまっている。そうなるのは良介自身だったかもしれない。
良介は身ぶるいした。
食えそうな植物は見当らなかったし、それに見知らぬ植物を口にするのは危険だった。
「そうだ! 動物の肉なら大丈夫だろう。トカゲやヘビを食って、あたって死んだという話は聞いていねえからな」
良介は林の中にとってかえした。
一刻もがまんがならないほど、腹がへっていた。このままでは、間もなく飢え死してしまうだろう。
食いたい! なんでもいいから食いたい!
良介の頭の中は、それだけでいっぱいだった。
えものはさがすまでもなかった。
数メートル先の大木のみきを、体長五十センチメートルほどの、トカゲのような爬虫類がのそのそとのぼってゆく。
良介が近づいてゆくと、気配を察して、みきのむこう側へ、くるりと回った。手をのばして長い尾をとらえ、みきから引きはがして二、三回、地面にたたきつけた。動かなくなったやつを、両足をつかんで、びりびりと引き裂いた。内臓があふれ出たが、体は肉が薄く、あまり食うところがない。わずかに、足のつけ根に白い肉があった。良介は足を引き千切り、口へ入れて肉をむしった。いがいに肉はやわらかく、|臭《くさ》|味《み》は全くなかった。にわとりの肉の白い部分をかんでいる感じだった。
「こいつはいけるぜ!」
とうとう、骨だけを残して、四本の足の肉を全部、食ってしまった。塩があったら、こたえられないだろうと思う。
口の中が|脂《あぶら》でべとべとなのが気持ち悪かったが、どうにもならない。くちびるのまわりだけは葉を千切ってたんねんにぬぐった。
足だけは、十分、食用になるとわかったが、血にまみれた内臓だけは、手を触れる気にもならない。焼くか煮るかすれば、ごちそうなのだろうが……この雨の中では、火を起すこともできない。
食物を腹におさめたせいか、急に力がよみがえってきたような気がした。
体力さえ回復すれば、いつまでもここにとどまっている必要はなかった。
良介は木の枝を折り取って|手《て》|頃《ごろ》なつえにすると、林のふちに沿って歩き出した
18
しばらく歩いていると、枯れてくきだけになったつる草が目についた。その、つる草から、|茶褐色《ちゃかっしょく》の大きな果実がいくつもぶら下っている。近寄ってみると、ひょうたんのような植物で、果実の外側がかたく、中身はとうに腐ってなくなってしまっても、果実の|殻《から》だけ残っているのだった。
よし! うまいぞ。
良介はその果実の殻の中から、二、三個えらび、中を雨水で洗い流し、その中に葉をつたわってくる雨滴を受けた。やがて、急ごしらえの水筒は水でいっぱいになった。口を短く切った小枝でふさぎ、つる草でしばると腰にぶらさげた。
水筒を身につけたということが、良介の心にふしぎな自信と勇気をもたらした。
これなら、たとえ雨が上っても、二、三日の間は飲み水にも困らない。
「そうだ。武器も作ろう」
丈夫そうな木の枝を折り、先端にとがった石片をつる草でしっかり結びつけた。それで二メートルもの長さの|槍《やり》ができた。さらに短いものを一本。
長短二本の槍は、良介をすっかり元気づけた。
良介は、それから、三時間ほど歩きつづけた。さすがに疲れた。良介は大トカゲを一匹殺し、水を飲んで、雨のあたらぬ下草のしげみにもぐりこんだ。たちまち、良介は深い眠りに落ちこんだ。
翌日はすばらしい天気だった。陽が高くなると、ぐんぐん気温が上昇した。昨日と同じように歩きつづけた。草原の上空では、昨日は見られなかった、おびただしい翼竜のむれが、さかんに鳴き交しながら、トビのように高く低く旋回していた。
草原に沿って、林のふちを歩きつづける良介の目に、草原に横たわっている一頭の小さな恐竜の|遺《い》|骸《がい》が映った。それは、最近、そこで死んだものらしく、翼竜につつかれてあちこち傷ついていたが、腐敗して崩壊せずに、なぜか、こちこちに固まっているのだった。
しばらく、それを見つめていた良介の目がにわかにかがやいた。
良介は腰の水筒をそこへおろすと、林の中へ分け入った。一時間ほどの間に、十数匹の大トカゲをとらえた。それを引き裂き、肉をはぎ取ると、薄くのばした肉を、陽に照されて熱くなっている岩の表面に一面に|貼《は》りつけた。焼けつくような陽射しの下では、肉に集る|昆虫《こんちゅう》さえやってこない。
良介は夕方までに、二日や三日では食べきれないほどの干肉をこしらえた。
何匹もの大トカゲの皮をはがして|乾《かわ》かしておき、それをつづり合わせて、大きなバッグを作った。つるを通して肩からさげる。それに干肉を入れた。良介はごきげんだった。
その夜はそこで泊った。夜の行動は危険だったし、今のうちにできるだけ、体力を回復しておく必要があった。
翌日、良介は火を作った。
立枯れの木を押したおして、陽の当る所へ運び、そのくぼんだ所へ、木の皮をこまかくきざんで盛った。別に、三十センチメートルほどの短い棒を作り、木の皮を盛り上げた台木の中へもみこんだ。それからが忍耐のいる作業だった。両の、てのひらの間に棒をはさみ、五分も、もみこんでいると、てのひらががまんできないほど熱くなってくる。そのてのひらを水筒の水で冷やしながら、もみつづける。やがて手に豆ができた。歯をくいしばってがまんする。
三十分ぐらいつづけていると、木の皮から薄いけむりが立ちのぼってきた。良介はつばをのみこんだ。いよいよ力をこめる。けむりが出はじめて十分ほどたった頃、木の皮に、ぽっ、と火がついた。
ようし! うまいぞ!
その火を消さないように、そっと息を吹きかけ、少しずつ枯葉などを加えてゆく。急にめらめらと燃え上った。
もう大丈夫だ!
台木が赤いほのおを上げ、けむりが|渦《うず》巻いて立ち上った。そこへどんどん枯れ枝を投げこむ。パチパチと火の粉が舞い、黒いけむりが高く高く上って、林から草原へと流れた。
良介は、けむりにおどろいてとび出してきた大トカゲをとらえ、引き裂いて火の中に投げこんだ。香ばしい|匂《にお》いがあたりに立ちこめた。良介の腹はしきりに鳴った。良介は完全に焼き上るのが待ちきれずに、とうとう火の中から引き出した。
その味を、おそらく良介は一生忘れないだろう。良介は足肉だけでなく、こんがりと焼けた|肝《かん》|臓《ぞう》や|腸《ちょう》までぺろりと平らげた。焼鳥と全く変らない味だった。これでたれがあったらどんなにうまいだろう。
「まあいいや。そのうち、なんとかして塩を手に入れてやる」
良介はたら腹食い終ると、火が消えないようにしておいて、つる草の乾いたくきを集めた。その皮をはがし、中のせんいだけをつぎたして長いロープを作った。
それを輪に巻き、先端に火をつけた。火なわができた。これで火を持ったまま、どこへでも移動できる。三食とも、焼肉にありつける。干肉は予備の食料に回すことにした。
出発準備はととのった。
良介はたき火を踏み消した。まだ、白いけむりのただよっている林の中を、良介は元気いっぱい歩き出した。
19
その日の夕方まで歩きつづけた。
林はどこまでつづいているのか、切れ目なくどこまでもひろがっている。遠い草原を移動してゆく小山のような恐竜の姿を、何回か目にした。林の奥から、聞えてくる奇怪なさけび声も何度となく耳にした。しかし、林と草原の境であるそこへは、恐竜たちも近づかないようだった。どうやら草原は翼竜たちの支配する所であり、林の中は恐竜たちの生存競争の場であるらしかった。
夜に入って、良介は大木の下草の間にもぐりこんだ。火をたくことは、なんとなくためらわれた。火なわが消えないように、|火《ほ》|口《くち》を、からになった水筒の中にさしこんでおいた。
夜がふけるにしたがって風が出てきた。
大木のこずえがごうごうと鳴り、木の枝の折れる音が、ひっきりなしに聞えた。
目をつぶったが、周囲の物音が気になって容易に寝つかれない。風はしだいにはげしくなった。林全体が大波のようにゆれ動く。下草のしげみにもぐりこんでいても、時おり息がつまるほどの烈風が吹きぬけてゆく。
それでも、いつの間にか良介は眠りこんでしまった。
とつぜん、良介はおそろしい危険を感じてとび起きた。
目の前が真赤だった。
ごうっ、とうなって熱風が吹きつけてきた。
火事だ!
山火事だ!
真赤な火の壁がすぐそこまで迫っている。
燃えさかるほのおのひびき。ごうごうとうなる風。そして身の毛もよだつような動物の|咆《ほう》|哮《こう》が良介の鼓膜をふるわせた。
良介はいそいで水筒を腰につるし、火なわをたしかめ、干肉の入ったバッグを肩に、二本の槍を手にすると、まだ、ほのおにつつまれていない林の一角めざして走った。
良介は、踏み消してきたはずの、たき火が燃えひろがったのにちがいないと思った。
草原へ逃れるんだ!
草原には、火に追われたたくさんの恐竜たちも逃れ出てくるだろう。危険だ。しかし、火に巻かれて焼け死ぬよりはいいだろう。
良介は下草をくぐって走った。その前へ前へと火が飛んだ。良介の髪にも火がついた。良介は水筒の水を頭からかぶった。
その良介の前へ、とつぜん、二つの黒い影が立ちふさがった。
けもののような軽い身のこなしで、良介の左右からおどりかかってきた。真赤な火光をあびた人影は、奇妙な服に体をつつんだたくましい男たちだった。
20
良介は何を考えているひまもなかった。手にした手製の|槍《やり》を力いっぱいふり回した。
びゅう!
空気が鳴り、とがった石をくくりつけた穂先が大きく半円をえがき、二個の人影は一瞬、左右にわかれて地を|蹴《け》った。その|爪《つま》|先《さき》が電光のように良介の顔面をねらってくる。良介は体を丸めてその下をかいくぐった。二個の人影は足音もたてずに地面に降り立つと、機械のような正確さで、ふたたび良介にじりじりと迫ってきた。全くすきがない。おそろしい敵だった。
良介は手槍を構えたまま、二歩、三歩、と後退した。二人の敵は三メートルほどの間隔をとって横に開いている。良介が右の敵へ向って手槍を突き出したら、瞬間、左の敵がとびかかってくるだろう。左の敵へ向ったら右の敵がすかさず襲ってくるにちがいない。つめたい汗が良介のこめかみをつたい、あごの先に小さな|滴《したたり》を作った。
「ちくしょう! だれだ。きさまたちは?」
良介はけもののように息をはずませながらさけんだ。
「…………!」
「…………!」
二人が何かさけんだ。英語ともフランス語ともつかない奇妙な言葉だった。
「なに? なんだかちっともわからねえや。もう一度言ってみろ!」
良介はぺっとつばを吐いた。
とたんに二人の敵は疾風のようにおどりこんできた。良介は夢中で手槍をふり回した。槍の|柄《つか》が敵の体に当り、二つに折れた。良介は折れた槍の柄をめちゃめちゃにふり回した。二、三度、敵の打撃が良介をダウン寸前に追いこんだ。目がくらみ、呼吸が止った。そのまま、その場へ崩れ落ちそうになる体を必死にこらえて、折れた槍の柄をふり上げ、ふりおろしつづけた。
そうしていると、また呼吸ができるようになり、目まいがおさまった。何がどうなっているのかもわからなかった。やたらに手足を動かしているうちに、良介はふと、自分が頭から手の先まで、真赤な液体に染っているのに気がついた。ひどく|生《なま》|臭《ぐさ》かった。良介の頭から、|汐《しお》がひくように興奮がひいていった。
目の前の地上に、二個の人体が手足をひろげて横たわっていた。そのうちの一個は、頭が割れて、血が吹き出していた。
やっつけたぞ!
そう思ったとたんに、良介の腰から急に力がぬけ、そこへべったりと|尻《しり》もちをついてしまった。
だが、のんびりしてはいられない。良介は両手とひざを使って、血だらけになって倒れている人物に|這《は》い寄った。良介の槍の柄でたたき割られた頭からは、血にまみれた|脳漿《のうしょう》がはみ出している。良介の頭からすうっと血がひいた。重いかたまりが胸の奥底からつき上げてきた。良介はそれをくわっと吐き出した。食った物をぜんぶ吐き出すと、つぶれた頭も気もちが悪くなくなった。
死体は男だった。顔は死の|翳《かげ》におおわれ、苦痛にゆがんではいるが、目も鼻も口も異常に小さい。|眉《まゆ》も全くない。おそらく、生きていた時も、固有の表情など持たなかったのではないかと思われるほどあいまいな顔だった。
着ている服が妙なしろものだった。形はツナギだが、顔の部分だけ丸く開いている。あとは頭のてっぺんから、爪先まで一体になっていて、体にぴったりしている。繊維ともゴムともつかないしなやかな材質で、光線の反射によって濃いグリーンやコバルト、パールホワイトなど、いろいろな色と光沢をあらわした。
腰に大きなポケットがついている。中をさぐってみると、押しボタンやダイヤルのならんだ小さな黒い箱があらわれた。小形のトランジスターラジオのようなそれを、良介はひと目見て、タイム・マシンであろうと判断した。
それを肩のバッグにおさめ、さらにポケットの中をさぐったが、かれの正体を知ることができるような手がかりはなにもない。もうひとつのポケットからは、|拳銃《けんじゅう》のような形をした小型の武器が出てきた。拳銃にしては、銃口に当る部分に穴がなく、放射状に細い|隙間《スリット》があいているだけだ。良介はそれもバッグに移した。
もう一人の方の調査に移った。
うつ伏せになっているのを、ごろりとひっくりかえすと、良介は息をのんだ。
女だった。
21
胸は薄いが、そのふくらみは男ではない。腰や尻も、青年のように引き締ってはいるが、その曲線はあきらかに女のものだった。頭を割られてのびているやつと同じように、眉はなく、目も鼻も口も、アンバランスで小さく、陶器の人形のように個性がなかったが、それがかえって良介の目には異様な“女の顔”を感じさせた。
良介はいそいでポケットをさぐった。
タイム・マシンと小型の武器。それと、あきらかに小さなスピーカーと思われる|環《リング》を埋めこんだマッチ箱ほどの物体が出てきた。
「よし! これで帰れるぞ!」
良介の胸はおどった。
そのとき、女が低くうめいて目を開いた。
良介はぎょっとしてとびさがった。
女の灰色のひとみがおどおどと動くと、やがて良介の顔にぴたりと止った。女の顔ににわかに表情が動いた。
「…………!」
なにかさけんだ。
「動くな!」
良介はバッグの中から分捕ったばかりの武器を取り出して女に突きつけた。
「…………!」
「どこから来た?」
「…………!」
「言え! どこから来たんだ?」
「…………!」
女のさけび声には、はげしい憎しみがこめられていた。
「このやろう! ぶっ殺すぞ!」
「…………!」
女の全身からは憎悪が噴き出した。
だが、これではどうしようもない。まるで言葉が通じないのだ。女の使っている言葉は未来の言葉なのだ。遠い未来では、英語でも日本語でもフランス語でもない、世界共通語のような言葉が使われているのだろう。
「勝手にしやがれ!」
良介は女をそこへ残して、このおそろしい太古の世界から飛び去ろうとした。タイム・マシンは今やわが手にある!
だが……まてよ……
良介はとつぜん、足もとがくずれ落ちたような気がした。
タイム・マシンはいったい、どうやって動かすのだ?
うっかりまちがえたら、こんどこそとりかえしのつかぬことになる。
これが、生きて現実の世界に帰ることのできる最後のチャンスなのかもしれないではないか!
22
良介は女のそばに歩み寄った。女の顔に恐怖の色が浮かんだ。
良介はぐっと声を落した。
「おい。いっしょにつれて行ってやろう」
女は全身を|強《こわ》|張《ば》らせ、目に憎悪をみなぎらせて良介をにらみつけている。無言だ。
「な、こんな世界におまえ一人、残してゆくんじゃかわいそうだものな」
そっと、手をさしのべた。
女は良介の手をさっと払った。
「いててて! なにをしやがんだ!」
良介がひるんだすきに、女はすばやく立ち上った。尻のポケットに手を突込んで、一瞬、顔をゆがめた。
「ざまあみやがれ! もうこっちへいただいてあるんだ」
女は身をひるがえして逃げようとした。
反射的に良介が動いた。もうそうなると、タイム・マシンの使い方を聞き出すもなにもない。足ヘタックルして女を引き倒すと、めちゃめちゃになぐりつけた。
「くそ! どうするか見ていろ!」
良介は女の着ているものを、ベリベリと引き|剥《は》がしにかかった。顔を丸く|縁《ふち》取っている部分に両手をかけて思いきり力をこめる。
女が悲鳴を上げた。材質がしなやかでどこまでものびる。首が締めつけられて呼吸ができなくなったようだ。女の顔が土気色になった。良介は縁取りの部分を歯でかみ千切った。かみ千切った部分から、しゅっと裂けた。
女の頭があらわれ、緑色の髪がはらりと開いた。細い首があらわれ、裸の肩がむき出しになった。青白い|肌《はだ》、固い乳房。小さな乳首。腹、腰。なんとなく未成熟で、まるで十二、三歳の女の子のようだ。だが、全体から受ける感じは完成した女なのだ。良介はそのアンバランスにとまどいながらも、手を動かしつづけた。
「ありゃ!」
良介の目は女の下腹に|釘《くぎ》づけになった。
女の下腹は、すべすべした青白い皮膚がつづき、左右の|太《ふと》|腿《もも》のつけ根の形造る三角形の下端から肉色の切れこみがわずかにのぞいていた。
良介も話には聞いていた。予備校の友人がそんな女とやった話を面白おかしく良介に聞かせたことがある。知識としては知っていても、現実に目の前に見せられると当惑してしまう。それが良介を冷静にした。
「おまえ、おとなか? 子供か? ここへ来ているのは死んだ仲間と二人だけなのか?」
良介は裸の女のかたわらにしゃがみこんでたずねた。思わぬ油断がそこにあった。
良介はあおむけに二メートルもはねとばされ、地面に頭を打ちつけた。気が遠くなった。その良介の上に女の体がおおいかぶさってきた。
女の両手が良介ののどにかかるとぐいぐい締めつけた。
「あっ……くくくく!」
良介の体の中で怒りが爆発した。腰をバネのようにはね上げた。女は前へのめって良介の頭の上をとびこえ、一回転して地面に頭から落ちた。
「このやろう!」
良介の腕の下で、女の裸の足はむなしく宙を蹴った。
「…………!」
女は必死に逃れようとして火のようにあえいだ。なにか叫ぶたびに、女の口の中で小さな赤い舌がひらめいた。それを目にしたとき、ふいに、良介の体の中に、憎しみや闘争の意欲とは全く別のものが|炸《さく》|裂《れつ》した。
良介は身につけているものをすばやく|脱《ぬ》ぎすてた。バッグの中のものが地面に散乱した。だが、そんなことにかまっていられない。
良介は女の両方の足首を握ると、思いきり頭の方へ押し上げた。両腿のつけ根の間もせまく、子供のもののように未発達なものが、浅いひだの間に、小さく開口した。良介は自分のものの先端をそこへ押し当てておいて、体重をかけてねじこんだ。
女はおそろしい苦痛の悲鳴を上げた。良介は女のほおをばしばしとたたきつけた。
「こいつめ! こいつめ!」
やけにきつくて、うまく入らない。腰の動きに力を加えると、女の体は良介の動きにつれてがくがくと上下にゆれた。その部分に触れてみると、意外にすっぽりおさまっている。もどした手の指先が真赤に染っていた。
「おまえ、バージンか!」
だが……二人の密着した部分から、鮮血がほとばしっていた。
いくらなんでも……良介は体をひいた。引きぬいたあとから、血が吹き出した。その部分は見るも無惨に|変《へん》|貌《ぼう》していた。
女は苦痛にうめきながら、虫のように這った。その手が、良介のバッグからこぼれて落ちた彼女の所持品のひとつに触れた。彼女はそれを握りしめた。
23
良介はあわてて女の手にとびついた。
しまった!
武器を握られたらおしまいだ!
もみ合ううちに、カチリとスイッチの入る音がした。
「放せ! くそっ、放せったら!」
とつぜん、女の口から絶叫が流れ出た。
『…………!』
「な、なんだって!」
『ワタシハマケタワ。ハナシヲサセテ!』
良介は手を放してとびのいた。
『イタイ……ワタシハマモナクシヌデショウ。ダカラ、モウ、ワタシヲアイテニタタカウコトハヤメテ……』
苦痛のうめきとともにもれてきたのは、日本語だった。
「おまえ、日本語がしゃべれるのか?」
『コ、コレハ、ツウヤクソウチデス。ド、ドンナクニヤ、ジダイノコトバデモ、ジユウニツウヤクデキマス』
すばらしい通訳装置だった。それを良介の方にさし出すと、女はぐったりと顔を伏せた。
「おい! しっかりしろ! なにか薬は持っていないのか!」
『クスリハモッテイマス。デモダメデショウ』
だめでもなんでもよい。良介は、さっき奪ったものをもう一度、おおいそぎでしらべた。さっきは気がつかなかったが、妙なカプセルがあった。
「これか?」
『エエ』
カプセルの上半部がすき通っていて、内部に細い銀色の針が見える。注射器らしい。良介はカプセルの上半部をもぎ取ると、針を女の腕に刺した。
出血はまだつづいている。良介は女の着ていたものをその部分に押し当て、腿を密着させてつる草で縛った。
「おまえたちは、セックスなんて知らないのか?」
良介は、さっきから胸の底にわだかまっている疑惑を口にした。
この女はバージンにちがいない。しかし、それはこの女の体のことだけではなく、もっと根本的な、たとえば女としての体の構造の問題であるような気がしていたのだった。
『ワタシタチハ、セックスナド、オコナイマセン。セックスノタメノキカンナドハタイカシテイマス』
「器官が退化している? そいつはつまらねえ話だよな。だいいち、どうやって人口をふやすんだよ?」
女は口をつぐんだまま、奇妙な顔で良介を見た。
そうか! やつらは人工受精かなにかで子供をつくっているんだ。セックスなどしないで、エクスタシーを感じることをやっているにちがいない。
だから乳房も発達しないし、腰も足も小さく、あの部分もまるで子供のように未成熟なのだ。
「おまえたちは、みんな、あそこに毛がねえのか?」
それにも女は答えなかった。理解できない質問だったようだ。
青白い皮膚も、失った陰毛も、すべて野性とは縁遠くなった未来人の特質のひとつなのかもしれない。
むりやりにつらぬき通されることの恐怖と苦痛とは、彼女にとっては死に直結するほどの打撃なのだろう。なによりも、そこには血への恐怖があった。そんなことは、野蛮な行為以外のなにものでもないのだろう。
「あわれなやつらだ! たかが股が裂けたぐらいでだめだの死ぬだのさわぎやがってよ!」
良介は腹の底から笑った。
24
チン、チン、チン、チン……
数十メートル離れた踏切の警報器が鳴りはじめると、それから何秒もしないうちに、電車の音がごうごうと近づいてくる。やがて窓の外をあらしのように通り過ぎてゆく。部屋全体がぐらぐらとゆれ、洗面器やコップなどが、たえ間なく、チリチリと鳴りつづけた。天井から落ちてきた|塵《ちり》が、部屋の中をふわふわとただよっていた。
通勤電車はひっきりなしに通る。そのたびにこれだからたまったものではない。
「すこし、うるせえが、がまんしろ。ここなら|誰《だれ》にも見つかる心配はない」
裸の女は、部屋のすみで身をすくめていた。
この部屋は、良介の予備校での友人、|佐《さ》|伯《えき》の下宿しているアパートだった。佐伯は体をこわして、今、郷里へ帰っている。この部屋へは何回も訪れてよく知っているが、管理人はここにはいない。月一回、回ってくるだけだ。両どなりは、どこかの安キャバレーのホステスかなにかで、二日にいっぺんぐらいしか帰ってこない。ひどいぼろアパートだけに、入居者の出入りもはげしく、|見《み》|馴《な》れぬ顔にも気にする者はいない。絶好のかくれ場所だった。
女は|汚《よご》れた壁やたたみに、不潔そうに|眉《まゆ》をひそめていた。出血は止っていたし、苦痛も消えたらしい。〇・一CCにも満たない注射薬が、良介には想像もつかない威力を示していた。
「おまえ、名前は何というんだ?」
『ナマエ? コールサインノコト? ソレナラ、シャナ、イチナナナナヨ』
コールサイン? シャナ一七七?
「それが名前か? 一七七というと一連番号なのか」
彼女にはその意味がよくわからなかったようだ。おそらく個人的な名前という概念がないのかもしれない。
良介はたばこに火をつけた。疲れた頭に、たばこはうまかった。
これからどうしたらよいだろう?
あの恐竜のあばれ狂う太古の草原から、女をともなってこの部屋へ逃れてきたものの、これから先、どうしたらよいのか、見当もつかなかった。
良介には、もともと時間密行者などどうでもよかった。タイム・マシンのひとつを女にかえして、彼女を自由にしてやってもよかった。だが、ヒナ子がもし、それを知ったら何と言うだろう? 裏切ったと思われるのもしゃくだった。それに、ヒナ子の肉体の魅力も忘れ難い。
「やつらは、いったいどうなっちまったんだろう? 何の連絡もないのが気になるぜ」
良介は押入れをひっかき回し、佐伯のズボンやシャツをひっぱり出した。
それを女に着せ、自分も身につけた。
「シャナ。この部屋から一歩も出るな。何か食物を持ってきてやるからな」
良介は余分なタイム・マシンや小型の武器などを、佐伯のバッグに投げこむと、それをかかえて部屋から消えた。
良介は小島藤作商店の二階にある自分の部屋にあらわれた。階下からは親父の声が聞えてくる。良介はすばやくスポーツシャツとGパンにはきかえ、机のひき出しから、こづかいの残りを取り出すとポケットに突込んだ。
「そうだ!」
良介はとなりが洋品店だったことを思い出した。良介の家の商売の金物屋などとは異なり、となりでは二階に商品をストックしている。良介はほくそ笑んでとなりの二階に移った。
重ねてある箱の中から、シャナに似合ったTシャツと色もののGパン、それとワンピースをとり出した。
〈おっさん、かねはあとで払うからな、ちょっと貸しておいてくれ〉
良介は階下の店にいるにちがいないこの家の|主人《あ る じ》にちょっと頭をさげ、肩をすくめた。
手もちのかねは少ない。今へらしたくない。
それから、ふだんから|人《ひと》|気《け》のない路地を思い浮かべ、そこへ移った。
良介はTシャツやGパンを入れた紙袋をかかえて、混雑するおもて通りへ出た。
人込みをぬいながら、良介は何か夢でも見ているような気がした。ヒナ子のことも、タイム・マシンのことも、恐竜のことも、そしてシャナと名のる未来人の女のことも、なぜかすべて自分の頭脳が勝手に作り出した空想のような気がしてならなかった。
だが、ポケットに触れてみると、タイム・マシンはたしかにそこにあった。夢ではなかった。
25
良介はパンやハム、バターなどを買いこむと佐伯のアパートへもどった。アパートの廊下には魚を焼くけむりや、|煮《に》|物《もの》の|匂《にお》いが立ちこめていた。廊下には所せましと物が置かれ、その間を三輪車に乗った子供が走る。べちゃべちゃと女の話し声が聞える。その中を、タイム・マシンをポケットにして歩いている自分が、良介にはまるでうそのように思えた。
女は先程の位置から少しも動かずにすわっていた。
良介はかかえてきたきものをそこへ投げ出した。
シャナに着がえさせると、目立って女らしくなった。花模様のワンピースがよく似合う。それに、目も鼻も口も小さくちんまりとまとまっている顔は、それに合った化粧をすれば、これは京人形のような美人になるだろう。
こいつはひろい物だぞ!
良介はすっかりうれしくなった。
だが、これから先、どうするのだ?
日本語も話せない、この時代の生活を全く知らない、女として不完全な肉体の持ち主であるこのシャナを、いったい、どうすればよいのだろう? 未来へ帰してやらないとすれば、良介が養わなければならないが、それは先ず不可能だった。
良介はゆううつだった。
シャナは何を考えているのか、バターをつけたパンを黙々と食べている。ハムも口に合ったようだった。
食い終ったところで良介は決心して立ち上った。
「おれといっしょに来い!」
『ドコヘデスカ?』
「だまってついて来い」
シャナの腕を握ると、良介はすでに使いおぼえたタイム・マシンを、片手で握ってスイッチを入れた。
見おぼえのある部屋だった。
外はもう薄暗く、窓の外のネオンで室内はほの白く照し出されていた。
良介は壁のスイッチを押して電灯をつけた。
室内は荒れ果てていた。長く使われていないようだった。紙くずやこわれた|椅《い》|子《す》などがほこりだらけに散乱している。
たしかに、この部屋だった。ヒナ子たち、タイム・パトロールマンがステーションとして使っていた部屋は、たしかにこの部屋だった。だが、この部屋のようすは、それらの|痕《こん》|跡《せき》を全くとどめていなかった。
良介は、メーキャップ室をのぞいた。そこもごみとくもの巣だらけだった。
いったい、かれらはどうしたのだろう? この部屋の状態からすると、二、三日前まで人が使っていたものとは思えない。少なくとも一年や二年は放置されていたとしか考えられない。
「やつらは、おれに幻覚でも見せたのだろうか?」
幕末の京都を見せ、信じさせておいて、中生代の恐竜時代へ送りこんだのだろうか? 自分たちの秘密を守るためには、どんな手段でも使うというのだろうか?
「|汚《きた》ねえ! 人の気持ちをもてあそびやがって。汚ねえ。許せねえぞ!」
良介はくちびるをかみしめた。
――どんな複雑な理由があり、困難な状態にあったにせよ、ヒナ子をおそろしい拷問から救ってやったのは自分ではないか。それがかれらの組織を救うことになり、かれらの行動に大きな力となったはずだ。そして、タイム・パトロールマンに加えてやるなどと言って、良介をあのおそろしい森林に送りこんだのだ。
良介はこわれた椅子をつかむと、壁にたたきつけた。ひどい音とともに、椅子はばらばらにくだけた。
「シャナ」
良介はポケットから、彼女から奪ったタイム・マシンを取り出した。
「これ、かえすよ。どこへでも行け。それから、これもな」
彼女の武器もそえて、彼女の手にわたした。
良介はドアを開いて、あとをも見ずに廊下へ出た。ひどくむなしかった。一歩、一歩が地にめりこむような気がした。
26
家へ帰ると、親父にさんざんしかられた。それが終って、こんどは兄貴にうんざりするほどねちねちやられ、めしぬきのまま二階の自分の部屋へ追い上げられたときは、もう午後十一時を過ぎていた。
良介は寝床を敷く元気もなく、床にうち倒れると、泥のように眠った。
良介は夢を見た。
おそろしい恐竜に追われて、必死に逃げようとするのだが、足が石になったように重く、走ることができないのだ。恐竜の足音は早くも背後に迫り、|生《なま》|臭《ぐさ》い熱い吐息がむっと吹きつけてきた。もうだめだ! 助けてくれ!
叫んだとたんに、良介は組み伏せられた。二本の手が良介ののどにくいこむ。呼吸ができない。苦しい! 良介は必死にもがいた。
もがいているうちに意識がよみがえってきた。全身がつめたい汗にまみれていた。
ああ、よかった!
深く息を吐いた。壁の時計は午前三時を示していた。ふと室内で人の気配が動いた。
首を回してみると、部屋のすみにシャナが立っていた。
「どうしたんだ?」
良介は、一瞬、シャナが自分の命を奪いにきたのかと思った。彼女もヒナ子たちと同じように、自分たちの秘密を守らなければならぬだろうし、そのためには、良介の口をふさぐのが手っ取り早いはずだ。
「しまった!」
良介はあわててズボンのポケットをさぐった。あわてているのでなかなか取り出せない。
その間に、シャナは着ているものを脱ぎ|棄《す》てると、全裸の姿を良介のかたわらに横たえた。
「おい! ど、どうしたんだよ!」
良介はうろたえて、シャナの裸身から身をひいた。
「気に入らない? 私のこと」
シャナはかすかに顔を曇らせた。
「だって……おまえ……」
良介は、これはまだ夢のつづきではないかと思った。
もり上った乳房、たくましい腰。陽に|灼《や》けた浅黒い|肌《はだ》。そして下腹のしげみ。それらは良介の知っているシャナの肉体とは全く異なるものだった。
「私たちは自由に体を改造することができるんです。でも、こう直すのに一年ぐらいかかったんですよ。それから、これ、かえします。私たちの使っているものとはちがうから」
シャナは白い歯を見せて笑った。良介がかの女に与えたタイム・マシンを机の上にそっと置いた。
「一年? さっき別れてからまだ七、八時間しかたっていないんだぜ」
「私たちは、時間が自由になるわ」
「日本語が話せるのか?」
「こんなことは、睡眠学習で五分もかからないでおぼえられるわ」
シャナはそっと良介の肩に腕を回した。娘のあたたかい体温が、良介の全身につたわってきた。
――なにかの|罠《わな》かもしれない。
ふと、心の奥底で警戒心が動いたが、もうすべてめんどうだった。
良介はシャナの肩を抱くと、引き寄せた。
豊かな乳房は、すばらしい量感があり、ひだの間には良介を衝動的にかりたてるたしかな構造があった。
良介はシャナのくちびるを吸った。彼女は戸惑ったように、顔をそらせようとしたが、すぐ良介の行為にしたがった。
良介の欲望は火のついたようにふくれ上り、シャナの腹で圧迫された良介のものは、垂直に近い角度をとろうとして|灼熱《しゃくねつ》の痛みを発した。
良介はシャナを押し倒し、埋没させた。おびただしい液体がシャナを濡らし、床に浸みた。シャナはたえず、叫びつづけ、ほとんど休みなしに体がバネのようにそりかえった。放出しおえた良介は、水から引き揚げられた魚のように|床《ゆか》に手足を投げ出した。
シャナが良介の腕をとり、小さなカプセルを押しつけた。痛みは全く感じなかったが、その一点から、熱いものが全身にひろがってゆくのが感じられた。
それから一分とたたぬうちに、良介はふたたびシャナの体にいどんだ。シャナはどのような体位にも応じた。髪をふり乱し、自在に腰をふって良介のはげしい攻めにこたえた。
27
「さあ。しっかりやれよ! もう、おまえは学生じゃねえんだからな。甘えてちゃだめだぞ!」
親父が|吠《ほ》えた。
「身を入れて仕事をおぼえろよ。おまえは人より二年も遅れているんだからな」
兄貴が|鹿《しか》|爪《つめ》らしい顔であごをしゃくった。
また朝から倉庫の整理だった。
いったい、あのできごとは、おれにとって何だったのだろう? 良介は泣きたくなった。まるで、うそで固まったような何十時間だった。
二、三日はあっというまに過ぎていった。
シャナもあれきり、姿をあらわさなかった。ヒナ子たちも、あれからどうなったのか、何の|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もない。
良介にとっていよいよ単調な人生が始まろうとしていた。
「良介。おとうさんと|啓《けい》|介《すけ》はどこへ行ったんだろうね? 知らないかい?」
朝から倉庫で整理のつづきをやっていた良介のところへ、母親が不審そうな顔でやって来た。
「知らねえよ、おれ。二人とも店にいたんじゃないのかい」
良介は親父や兄貴には、朝めしの時に顔を合わせただけだった。
「それが、お店にいたんだけれどもね、九時頃、啓介が二階へ上っていって、それからおとうさんを呼びに来たんだよ。なんだか、ひどくあわててねえ。おとうさんも二階へ上って行って、それきり姿を見ないんだけれども……」
間もなく正午になる。九時といえば、もう三時間以上になる。
「二階にいないのかい?」
「いないんだよ。降りてきたはずはないんだけれどもねえ」
「降りて来たはずがないって!」
良介の胸に、不吉な予感が湧いた。
良介は母親をそこへ残して二階へかけ上った。
「あっ」
良介の部屋の机は、ひき出しが開け放たれ、内部が乱雑にかき回されていた。状差しがはずされ、友人たちから来た手紙が散乱している。
押入れの中もかき回されている。
「たいへんだ!」
押入れの中の、積み重ねたふとんの間にかくしておいたタイム・マシンがなくなっていた。拳銃型の武器は押入れの前にくずれ落ちた毛布の下から出てきた。
「えらいことになったぞ!」
――兄貴は、たぶん、おれのようすをあやしんで、おれのノートや持ち物をしらべようとしたんだ。そして、おれがふとんの間にかくしておいたタイム・マシンを見つけ出したのだ。兄貴は、きっとそれをおれがどこからか盗んできたかなにかしたものだと思って、親父を呼んだにちがいない。それに、あのピストル型の武器だ。親父と兄貴は、おどろいてあのタイム・マシンをいじっているうちに、スイッチが入って、二人とも、どこかへ行ってしまったんだ。
そうにちがいない。
良介は頭をかかえた。たいへんなことになった。タイム・マシンで消えてしまったとなると、これはもう|探《さが》しようがない。
良介はもう一個のタイム・マシンを思い出した。昨日まではいていたズボンのポケットに突込んだままだ。壁につるしたズボンをさぐってみると、
「あったぞ!」
親父も兄貴も、ここまでは気がつかなかったらしい。
良介は階下へもどった。
「二人とも、急いでどこかへ出かけたようだよ。急ぎの注文でもきたんだろう。心配ないよ」
「そうかね。それならいいけれども」
母親は安心したように言い、店へ出ていった。
「帰ってくるまで店の方たのむぜ。おれ、倉庫の方、やっちまうからよ!」
母親に声をかけておいて、そっと二階へ上った。
作業服を着なれたGパンとスポーツシャツに着がえたが、どこをさがしたらよいのか、全く見当もつかない。はるかな未来へ行ってしまったのか、それとも遠い過去の時代へ飛ばされてしまったのか……無限の過去と未来の中から、一点の時間の中に投げ出された親父と兄貴をさがし出すことなど、絶対に不可能だった。
「ひとの持ち物なんぞ、ひっかき回すからそんな目にあうんだよ。ばちが当ったんだぜ」
だが、かれらの上に今、おそろしい危険が迫っているかもしれない。一刻も早く救出しなければならない。良介の心は不安と|焦燥《しょうそう》で波のようにさわいだ。
「どこへ行ったんだろう?」
タイム・マシンは、自分の行きたい所を考え、スイッチを押すと、作動するしかけになっている。
親父か兄貴のどちらかが、スイッチに指をかけたとき、たまたまどこかの場所を頭に思い浮かべていたにちがいない。
「親父だとしたら、そのとき、何を考えていただろうか? 兄貴だとしたら?」
良介は必死に考えた。
ふと思いたって階段を降り、店に出ていった。
「かあさん。親父、いそいで出かけるところ、なかったかい?」
「そうだねえ。東小学校へ今日中にステンレスの|棚《たな》をおさめるんだと言ってたがねえ」
「兄貴は?」
「啓介の方は別にないんじゃないかね」
東小学校は歩いて十数分の所にある。何があったとしても、とうに家へ帰ってきているだろう。
「この頃、親父のやつ、何か考えていたことはあるかい?」
母親はけわしい顔になった。
「そりゃ、あるさ。おまえが|尻《しり》が落ちつかないってこぼしていたよ」
「そのほかには?」
「あるものかね。今朝だって、ご先祖さまにすまないなんて言っていたよ」
ご先祖さま! 良介の家は金物屋として代々、つづいてきた。明治になってから金物屋になったそうだが、それ以前は刀や|鎧《よろい》などをあつかっていたのだそうだ。
「うちじゃ、代々、変な子供は出たことがないんだなんて言っていたよ。おまえ、しっかりしなければいけないよ」
また|叱《こ》|言《ごと》になりそうだった。良介は急いでその場を離れた。
――そうだ。きっと、おれがどろぼうでもやったのかと疑い、親父のやつ、ご先祖さまにすまねえことになった、と思ったんじゃないだろうか?
良介の頭にくわっと血が上ってきた。
――ご先祖さまを考えたとき、親父の頭の中には何が浮かんでいただろうか? |祖《じ》|父《い》さんか? ひい|祖《じ》|父《い》さんか? そして場所はどこだろう?
良介の頭の中に、刀や|槍《やり》で追い回されている親父や兄貴の姿が、まぼろしのように浮かんできた。
ぐずぐずしてはいられなかった。
28
先祖といったところで、小島家がいったい何代つづいているものかもわからない。先の先までたどっていったら神話時代までゆきつくのかもしれないし、人類学的に言ったら、サルやトカゲやもっと原始的な動物までたどりつくかもしれない。
だが……ご先祖さまにすまない、と親父が考えたときのご先祖さま、まさかサルやトカゲではあるまい。いったい、いつの頃の人物だろう? 感覚的に、そう古い人物ではないだろう。
そのとき、良介の胸にはっとひらめいた遠い記憶があった。
――そうだ! |故郷《い な か》の別願寺の|和尚《おしょう》さんが、小島家の先祖には、江戸時代に|鍋《なべ》|七《しち》という|大《おお》|商《あき》|人《んど》が居た、と言っていたっけ。
まだ小学生だった良介には、それは少しばかり物足りなく思えたものだった。なあんだ。えらいさむらいじゃなかったのか……そんな気もちだった。だが親父はそうではなかろう。和尚の話に出るほどの大商人なら、小島藤作商店の|主人《あ る じ》にとっては偉大な先祖であるにちがいない。それに、時代もそう遠くはない。
「きっとそうだ」
良介はひとりうなずいた。ねらいがついた。
仏壇のひきだしの奥に、寺の過去帳の写しが入っていることを良介は知っていた。それをそっととり出し、二階の自分の部屋へ持って上った。
半紙を折ってとじた薄い帳面のようなものを開くと、銀色の小さな|紙《し》|魚《み》がちょろちょろと|這《は》い出してきた。ふっと吹き飛ばしておいて目を寄せる。難しくくずした漢字がならんでいる。順々に追ってゆくと、やがて鍋七という名前が目についた。簡単な記事がついている。
『|寛《かん》|政《せい》二年、|越《えち》|後《ご》新津、杉ノ庄に生る。母、倉橋氏。若年にして江戸に出、米|商《あきない》を習得したるのち|神《かん》|田《だ》松住町に店を構える。のち札差も兼ね、諸侯に出入する。明治十三年歿』
良介はいそいで年表をとり出してきた。
寛政二年は一七九〇年。明治十三年は一八八〇年。
「これだ、これだ! これなら先祖の中での成功者として、親父も尊敬しているにちがいない」
三十秒後にはもう部屋から良介の姿は消えていた。
29
神田須田町のあたりは、米屋や炭屋、酒屋などの問屋が多く、間口の広い豪勢な店がのきをつらねていた。白壁の倉が|幾《いく》|棟《むね》も立ち並び、その倉の前には何台もの大八車が止って荷物を積んだりおろしたりしている。道をいそがしそうに歩いている人々も、みな紺の前垂れをかけた番頭スタイルの男や、どんぶり腹がけの人足、鼻垂れの|丁《でっ》|稚《ち》小僧だ。
時々、羽織はかまに大小を差したりっぱなさむらいが、二、三人の供を連れて通る。このへんの札差にかねを借りにゆく、地方の藩の、江戸在勤の高級武士だろう。札差というのは、米をかたに、かねを貸すかね貸し業だ。経済的に苦しい地方の大名たちは、その年の米を、まだ刈入れも終らぬうちから抵当に入れてかねを借りているのだ。また、給料を米でもらう旗本のさむらいたちも、この札差に米を売ってかねにかえるのだ。この札差にはしばしば悪いやつがいた。
「さあ、引き出す|前《めえ》にめしにしよう。石! 湯もらって|来《こ》う!」
「喜助は俵がくずれねえように、しっかり縄をかけておけよ」
「内藤主膳様の下屋敷から来た荷はどれだあ!」
「番頭さん! そえ役の七兵衛さんが呼んでなすったよ」
店の前はたいへんなさわぎだ。めしを食い終って、米だわらを山のように積み上げた大八車を引き出す一団がある。どこからか米だわらを運んできた人足たちがある。これからめしにかかるもの、汗をぬぐっている者、荷配りに走り回る番頭たち、活気があふれている。
そのありさまを、少し離れた|天《てん》|水《すい》|桶《おけ》のかげから、そっとうかがっているうさん臭い男があった。季節はずれのゆかたに、へこ帯をぐるぐると巻きつけ、手ぬぐいを頭からかぶって、両端をくわえている。顔を見られたくないのだろう。気づいた通行人が、時おり、不審そうな視線を投げかけてゆく。
そこへやって来たのが、奉行所の|定回《じょうまわ》り同心だった。定回り同心というのは、現代の外勤巡査にあたる。受持ち区域を、見回って歩く。奉行所同心独特の、腰までしかない短い羽織に着流し。腰の刀とは別に、朱房の十手を帯の前に差してぶらりぶらりとやってきた。
かれの目が、常夜灯のかげの男をとらえた。急に足を早めて近寄った。
「おい! そこで何をやっているんだ?」
同心の声と同時に、同心につき従っていた御用聞とかれの子分が、左右から男につめ寄った。
「なにって、別に」
男は顔をそむけて、その場を離れようとした。
「やい! |手《て》|前《めえ》、どこへ行こうってんだ!」
御用聞がわめいた。同心の朱房の十手にくらべると、ぐっと見劣りのする粗末な十手が、ぐっと男の胸元にさしつけられた。
「名前は? 住いは? どうせ、野良犬だろう! 面を見せろ!」
御用聞が、腕をのばして男がかぶっていた手ぬぐいをはねのけようとした。男はそれを避けて二、三歩しりぞいた。
「この野郎! 手むかいする気か!」
「手むかいするわけじゃないよ。言やあいいんだろう。言うよ。小島良介だ」
「小島屋の良介だと? |店《たな》持ちかよ? そのなりでか! 住いはどこだ? なにを|商《あきな》っていやがるんだ?」
「|金《かな》|物《もの》だよ」
「住いは?」
「代田だ」
「……だいた?」
御用聞は代田という地名は思い浮かばなかったらしい。同心をふりかえった。
「代田ってのは|淀《よど》|橋《ばし》の先よ。|十二社権現《じゅうにそうごんげん》の先の火伏地のそばだあな」
同心は、良介をにらみすえた視線を動かさずに言った。
「その代田から何をしに来やがった?」
良介は自分で、かぶっていた手ぬぐいを払い取った。
「や! なんだ。その頭は?」
「この間、|内藤新宿《ないとうしんじゅく》のめし屋で、越後屋の人足だという男に、けんかを売られてな。おれは負けたよ。ひきょうな手口でやりやがって。動けねえでいるおれをおさえつけて、髪、切りやがったんだ」
われながら|上手《じょうず》なうそだった。御用聞はやや顔つきをゆるめた。
「そいつを見つけて、なんとか仕返しをしてやりたいと思って、こうして見張っていたというわけさ」
良介はくやしそうにうなだれてみせた。
「|旦《だん》|那《な》。どうしやす?」
御用聞が同心にたずねた。
「まあ、あやしい奴でもなさそうだ。放免してやれ。おい! 若いの。こんな所でうろうろしていないでさっさと行っちまいな。かかわり合いになるぞ」
同心は頭ごなしにきめつけると、良介に大きな背中を見せて歩きはじめた。
「親分。かかわり合いになるって、なにかこのへんであったんで?」
良介はそっと御用聞にたずねた。
「今日の昼前、越後屋の店先に妙なやつがやって来た。とりおさえようとしたら、あばれてけが人が出た。また来るかもしれねえからこうして張っているのよ。おめえも、こんな所にいちゃいけねえ。早く行きな」
御用聞は、早く行け! というように良介に向って大きく手をふると、歩み去った同心のあとを追っていった。
良介は手ぬぐいをかぶりなおし、立ち去ると見せて、そっと越後屋の裏へ回った。
少し目星がついてきたようだ。
30
しばらく待っていると、越後屋の裏木戸から下女らしい女が出てきた。
良介は呼び止めた。
「こわかったよ。あれ、なんだろうね。へんなかっこうをした二人組よ。わけのわからないことをべらべらしゃべってさ。頭がおかしいんだろうね」
下女はおそろしそうに首をすくめた。
「その二人組はどんな顔をしていた。なにね、おれの村にも、そんなことがあったもんだから」
「そうかい。あんたの村にも出たのかい? 顔はね、一人は、はげてるんだ。もう一人は、法界坊みたいな頭してさ。それにね、そいつは、目の回りになにか輪っかみたいなものをふたつくっつけていやがるんだ。あとで、番頭さんが、あれはめがねというものだっておしえてくれたけどね」
親父と兄貴だ! やはり、ここへやって来たのだ!
良介はねらいが正しかったことに、胸に突き上ってくる喜びをおぼえた。
「それで、どこへ行ったんだ! そいつら」
「店の板敷んところへいきなり出てきたっていうんだけどねえ。昼間っから化物が出るかね。とにかく大さわぎになって、店中の者が集ってとりおさえようとしたんだが、あばれて手がつけられないんだ。とうとう、横の木戸口から外へ逃げ出しちまったよ」
すると親父や兄貴は、無事に逃げ出したらしい。まだ、この江戸のどこかにかくれひそんでいるのだろう。先祖の鍋七をたよって、またやって来るかもしれない。
「ありがとうよ」
良介は越後屋の裏を離れた。
それから夕方まで、ずっと越後屋を見張っていたが、親父や兄貴はとうとう姿をあらわさなかった。
弱ったことに、腹がへってきた。だが、良介は、この時代のかねは全く持っていない。食物を買うこともできない。
良介はすきっ腹をかかえて、越後屋から二、三百メートル離れたところにある小さな|社《やしろ》にもぐりこんだ。
夜になった。やしろの中からようすをうかがうと、越後屋の店の前では、幾つも|提灯《ちょうちん》が動いている。その灯に照されて、人足たちが店から出たり入ったりしているのが見える。別に仕事をしているようでもない。
「そうか! あの人足たちは、昼間から、ずっと越後屋を警備しているのだ。あんなに警戒が厳重なところをみると、親父や兄貴が今夜にでもまたあらわれるのかもしれないぞ」
昼間追われて逃げるとき、そのようなことを口にしたのかもしれない。そうだ。きっとそうだ。
良介は格子戸に顔を押しつけて、異変を待った。
電気もない時代のことだから、夜になるとたちまち人通りもなくなるし寝静まるのも早い。午後八時頃になると、まるで夜ふけの町のようにしいんとなってしまった。江戸時代には、町と町の境には木戸とよばれる門があって陽が暮れると同時に、その門をしめてしまう。その門のかたわらには、番小屋とよばれる小屋があって木戸番とか番太郎とか呼ばれる番人がすんでいる。声をかければ門はあけてくれるのだが、江戸の町人の生活習慣として、この木戸がしまってからは町外へは出ないのだ。江戸も末期になれば、この習慣もだいぶくずれるが、それでも夜、木戸をくぐるのは人目を避けるのがふつうだった。どろぼうなどでも、いったんこの木戸を固められると、屋根から屋根をつたって逃げる以外に町の外へは出られなかった。
31
良介は、はっと目をさました。思わず眠ってしまったらしい。
そのとき、格子戸が、ギ、ギギイと鳴った。目をさました原因はそれだったのだ!
だれかがやしろの中に入ってくる。
良介は体を丸めて、すみの暗がりに|這《は》いこんだ。
やしろに入ってきたのは女だった。手ぬぐいをかぶり、巻いたむしろをかかえている。女のあとから入ってきたのは、若い男だった。女はやしろの|床《ゆか》にむしろをのばし、そこへ体を横たえた。男は突立ったきり動かない。男の荒々しい吐息が良介の耳にまで聞えてくる。
「さあ。おいでよ。おまえさん、初めてなのかい。どうも、さっきからようすがへんだと思っていたよ」
女は声をしのばせて言った。ふくみ笑いのあとで、やさしく手をのべた。男は引かれるように女のかたわらへ倒れこんだ。女は自分で着物のすそを開き、男の手をみちびいた。
「……そんなにしちゃ痛いじゃないか。もそっとやわらかく、ねえ。ここへあんたのものを入れるんだよ。ほら、来てごらん。あせらないで、あせらないで……あ、なんだ、終っちまったじゃないか。いいよ。みんな吐き出しちまいな。そうそう」
若い男が断続的にうめいた。聞いているうちに良介はたまらなくなってきた。これまでにないほど硬直している。達しそうになるのを必死にこらえる。
女の体の上から立ち上った若い男は腰がふらついている。女が男のものをぬぐってやり、着くずれた男の着物の前をきちんと合わせてやり、帯を締め直してやった。
男がもぞもぞとかねを取り出した。
「いいよ。おあしは。初物は縁起もんだよ。ご祝儀だ。しまっておきなよ」
女は男の背を押して、やしろの格子戸を押し開いて外へ送り出してやった。
格子戸を|後手《うしろで》にしめると、女はふいに良介のひそんでいるすみの暗がりに顔を向けた。
「こっちへ出てきなよ。そんな所で息張っていちゃ、体に毒だよ」
女はふたたび、むしろの上に座を占めた。
「びくびくしなくたっていい。|夜《よ》|鷹《たか》のお紋ていう姐さんだよ。よかったら遊びな」
良介はたまらず這い出した。
女の肩をつかんで、むしろの上に押し倒した。
「あらあら、いやに|猛《たけ》っているねえ。今夜はいやに妙ちきりんなのに出会うじゃないのさ」
女は良介の手の動きのままに、胸を開き、すそを割った。良介は女の|腿《もも》をかかえて押し入れ、動きはじめた。
「今度の人は|馴《な》れているよ」
女は良介の気もちをあおり立てるように言い、巧みに良介の動きに合わせはじめた。ベテランらしく、男の器官の急所をよく心得ている。良介はたまらなくなってきた。
発射寸前、女は良介の股の間を下からしっかりと押えた。危機が遠のく、また始める。女もだんだんよくなってきたらしい。思わず商売を離れた声を上げ、ついで指をかんで声を殺してもだえはじめた。とうとう女は自分から帯をほどき、着物を脱ぎ棄て、腰巻も取りさってむしゃぶりついてきた。良介も夢中になった。体のしんから、量感のあるものがほとばしり出てゆく。良介はくたくたになるまで放ちつづけた。
「おまえさん。ただ乗りはひどいねえ。でも、わたいも久しぶりにいい思いをしたんだから、まあいいや。で、一文なしかね。あしたからどうするのさ?」
女は真剣にたずねた。良介も仕方なく、一度使った作り話を聞かせた。
「へえ。髪を切られた。そいつはくやしかったろうねえ。でもね、けがなんかしちゃつまらないよ。そんなけんかのことは忘れて、淀橋へ帰りな。ね。おあし、ちょっとばかりだけれども、わたいがあげるからさ」
女は自分の兄弟にでも言うように良介をさとした。
親切な女だった。夜鷹などをして、人生の暗い部分だけを歩いてきたその苦労が、こうした見ず知らずの人間に対する親切を生むのだろう。
良介はうれしかった。暗くて、顔は見えないが、その心のように、きっと顔もきれいだろうと思った。そう思うだけで良介は満足だった。
女は何枚かの銭を良介に握らせ、また丸めたむしろをかかえて、やしろを出ていった。
「さよなら、元気でな」
その後姿に、良介は口の中でつぶやいた。
32
かねはできたが、|今《いま》|頃《ごろ》、開いている店もないだろう。良介は明日までがまんすることにした。じっとしていると、また、うとうとしてくる。
良介は眠いのを必死にこらえた。
そのとき、何か人声が聞えた。
良介は耳をすませた。
また聞えた。
良介は格子戸にとびついた。
越後屋の前で、提灯の灯があわただしくゆれ動いている。良介はやしろを飛び出した。大戸をしめた店の軒下を、良介は影のように走った。
「おもてを固めろ!」
「外へ逃すんじゃねえぞ!」
さけび声が入り乱れた。
店の前を男たちが固めているが、顔はみな店の中を見ている。良介は越後屋の長い板べいについて走った。板べいの上から、枝ぶりのよい松がのぞいている。
よし!
良介ははずみをつけて松の枝にとびついた。|逆《さか》|上《あが》り一転。へいを足がかりに、ひらりとへいの内側にとびおりた。
そこは土蔵が立ちならんだ一画だった。土蔵の間をぬけると、低い|竹《たけ》|垣《がき》のむこうに|母《おも》|屋《や》がそびえていた。
手のとどく高さに出窓がある。良介はそこから家の中へ入った。
大きな家だった。
暗い廊下を何回も曲ると、家の奥から人のさけび声や、物の壊れる音がひびいてきた。
奉公人らしい男たちが、棒きれや折竹などを手にして奥へ走ってゆく。
「|旦《だん》|那《な》さまがあぶねえ!」
「お嬢さまもだ!」
「|内儀《お か み》さまは人質になっているとよ!」
てんでにわあわあ言っている。良介は暗がりからとび出して一団に加わった。
「だ、だれか、こ、この男をつかまえてくれ!」
「おとなしくしろ! おとなしくすればおまえたちの話を聞いてやる」
店の|主人《あ る じ》の鍋七らしい、|恰《かっ》|幅《ぷく》のよい初老の男が、ふるえながらさけんでいる。番頭も声を合わせる。
良介はかれらの背後からのぞきこんだ。
いた! やはり、ここへ来ていたのだ。
親父と兄貴は、狂人のように目を血走らせ、くちびるをふるわせて鍋七や番頭をにらみつけていた。二人の着ている小島藤作商店のネーム入りの薄茶のジャンパーは、あちこちが引き裂け、どろだらけになっている。
親父がさけんだ。
「おれは小島藤作だ。この家の|主人《あ る じ》は小島鍋七だと言ったな。おれの先祖だ。先祖に会えるというのは、どういうことだ?」
「とうさん! しっかりしてくれ! これはなにかの間違いだ」
「啓介! ごまかされるなよ! これは何かのたくらみだ。出て来い! 鍋七!」
親父は、取り|鎮《しず》めようとして近寄ってきた番頭の腹を、いやというほど|蹴《け》り上げた。番頭は悲鳴を上げて隣室へしりぞいた。
やれやれ……良介はうんざりしてしまった。
ふだん家でいばりかえっている親父とは別人のようだし、いつも親父の言いなりになっている兄貴が意外に冷静だった。しかし、二人にとって、目の前の事態は全く見当もつかないできごとなのだ。
現代から、とつぜん江戸時代に投げこまれたら、頭がおかしくなるのも当り前だ。二度と現代へ帰ることができないのではないか、という恐怖だけでも、生きる希望を失わせてしまうだろう。
良介はそっと、ふるえながら立っている下男らしい男の背中をつついた。
「あいつら、どこから入って来たんだ?」
「いきなり、この部屋にあらわれたんだそうだ。どこから入って来たのか、わからないんだと」
「昼間はどこから入って来たんだ?」
「わからねえ。店の帳場のところへ出たんだと。こうして見ると、なみの人間とかわらねえようだが、なんだ、ありゃ? 化物ともちがうようだし」
そのとき、部屋の入口を固めていた|人《ひと》|垣《がき》の一方がどっと崩れた。
「どけどけ!」
「定回りさまだ」
姿をあらわしたのは、良介が昼間とがめられた定回り同心と、かれに従っている御用聞だった。
「しずまれ! しずまれい!」
御用聞が、良介の親父と兄貴に向って十手をかまえてにじり寄った。
「北町奉行定回り同心、加賀谷さまだ。神妙にしろ!」
良介の親父が|吠《ほ》えた。
「芝居がかったまねはもうたくさんだ。これはいったいどういうわけだ? 映画のロケか? それとも何かのセットか? わけを言え!」
「御用だ! おいらは|土地《と こ ろ》の御用をあずかる松次郎ってものだ」
十手をひらめかせてとびかかった。
「あぶない!」
兄貴が横からおどりこんで松次郎を突きとばした。
「おのれ! 狂人とてゆるさぬぞ!」
同心の加賀谷が帯に差した朱房の十手を引きぬいて、ずい、と前へ出た。
「この野郎!」
親父の怒りは頂点に達した。
身をひるがえして同心に襲いかかった。兄貴が引きとめようとしたが、間に合わなかった。親父と同心はつかみ合ったまま床にころがった。それがきっかけになった。親父と兄貴の上に人々がおおいかぶさった。
33
「放せ! 放せ! ちくしょう!」
「これはいったいどうしたわけなんですか? 説明してくださいよ!」
親父と兄貴が、必死にうったえる声が聞える。
自身番の小屋だった。これは現代の交番のようなもので、捕えられた者は、いったんここへ連行される。下調べののち、伝馬町の|牢《ろう》|屋《や》|敷《しき》内にある、|溜《たまり》と呼ばれる未決囚を収容する牢へ移されるのだ。
良介がそっとのぞいて見ると、小屋の奥の太い柱に、親父と兄貴がぐるぐると縛りつけられている。
良介は二人を|救《すく》い出す機会をうかがったが、同心の加賀谷や御用聞の松次郎ががんばっていて、どうにも手が出ない。|下《へ》|手《た》をすると、助け出す前に、二人が傷つけられるおそれがある。
翌朝、二人は伝馬町へ引き立てられていった。
良介は、昨夜、夜鷹からめぐまれた銭で、たらふくめしを食った。それから、堀につながれたとま舟にもぐりこんでぐっすりと眠った。
目がさめた時は、すでに濃い|夕《ゆう》|闇《やみ》が須田町をつつんでいた。
良介は伝馬町へ向っていそいだ。途中で大福を買って、歩きながら腹につめこんだ。
伝馬町の牢屋敷は、想像していたよりも、はるかに規模の大きな建物だった。へいも高く、のり越えることは不可能だった。
良介はふところからタイム・マシンをとり出した。
一分後の、牢屋敷の中にいる自分を考えながらスイッチを押した。
木造建の、倉庫のような建物が何棟もならんでいる。あちらこちらに常夜灯がともっているが、暗い所をつたってゆけば、見張りの番士たちの目にはとまらない。牢屋敷の敷地内というせいか、番士によるパトロールも、案外ゆだんがあるようだ。
良介は建物のひとつにしのびこんだ。縦貫する広い通路があり、その両側に、戸口がならんで牢や調ベ室のある区画がつづいているようだった。
幾つかの建物を調べたが、親父や兄貴の姿はどこにもない。
良介はしだいに不安になってきた。
――まさか、もう首をちょん切られたんじゃねえだろうな?
いくらふだん口やかましい親父や兄貴でも、こんな所で打首にされたりしてはかなわない。それに良介にも責任が半分以上ある。
――残っているのはこの建物だけだぞ。
良介は足音をしのばせてすべりこんだ。
とたんに、はげしいどなり声や、悲鳴が良介の耳を打った。
「な、なにごとだ?」
あちらの部屋でも、こちらの部屋でも聞える。
幸い、廊下に見張りはいなかった。分厚い板戸をそっと押して、部屋の内部をうかがった。
後手に縛られた一人の男が、ぎざぎざのついた板の上にすわらせられ、ひざの上に大きな石をのせられていた。
「さあ! 白状しろ! もっと痛い目に会いてえのか!」
係りの同心が男の肩を、手にした|竹刀《し な い》で力いっぱい打ちすえた。小者と呼ばれる下っ端の牢役人が、両側から、男のひざの上に石をゆさゆさとゆり動かす。男の口から、すさまじい悲鳴がほとばしった。
良介はあわてて板戸のかげから離れた。
つぎの部屋では、目つきの悪い男が|水《みず》|桶《おけ》に顔を突込まれていた。役人が男のまげをつかんで、顔を水から出したり入れたりする。男は息も絶え絶えだった。
「どうだ。いいかげんにかねのかくし場所を吐け!」
ふたたび、ざぶりとつけられる。
良介は、自分が水につけられているような息苦しさを感じて、あわてて逃げ出した。
となりの部屋では、素裸にされた若い女が木馬にかけられていた。
木馬というのは、もっとも恐れられた拷問道具で、断面が三角形をした材木を水平に支え、囚人をまたがせる。ただまたがせるだけではなく、両方の足首には、人間の頭ほどもある重い石をぶら下げる。上体が倒れないように、囚人の体を天井から縄で|吊《つ》るしてあるが、この縄はややたるむようになっているので、男なら玉がつぶれるし、女ならばもっとも敏感な部分が稜上に当るようになっている。長い時間、乗せられていると、実際に|股《また》が裂けてくる。
「ひでえことをするなあ!」
良介は顔をしかめた。
木馬にすえられた女は、白い顔をあお向けて、なかば失神しているようだった。木馬のめりこんだ部分から、赤い血がたらたらと流れ出し、床にしたたっている。役人たちはそれでも責めをやめなかった。
「言え! 女! あのやしろで寝た男は、どこの、何というやつだ!」
|腿《もも》や|尻《しり》を、青竹でめちゃめちゃにたたきつけた。その苦痛が、薄れかかっていた女の意識をよみがえらせた。女はけもののようにうめいた。
「女! 見た者があるんだ。おまえはあのやしろで、ゆかたを着た妙な若い男と寝たろう。あの男はたいへんな兇状持ちだ。おまえと寝たあと、男はどこへ行った? 白状しろ! 下手にかくし立てすると、もっともっと痛い目に合わせるぞ!」
「おまえのそこへ溶けた鉛の熱湯を流しこむぞ」
役人たちは、目をギラギラかがやかせて、ほんとうにやりそうな気配を見せた。
良介は全身を|強《こわ》|張《ば》らせた。
役人が女から聞き出そうとしているのは、どうやら自分のことらしい。
――だが、おれは役人につけねらわれるようなことは何もしちゃいないぜ!
良介は昨日からの行動を思い起してみた。
全く心当りがない。
良介の心に、はげしい疑惑がわいた。
「言え! 女! まだ言わぬか!」
役人は女の足首につるされた石を、より大きなものにとりかえた。女の両足は硬直しきって真直にのびた。深くえぐれた腿の筋肉が痛々しい。女は苦痛に声をふりしぼった。その口に気付薬がねじこまれ、さらに舌をかまぬように手ぬぐいをくわえさせ、頭の後で結んだ。
良介は、あの夜鷹の顔は目におさめていなかった。暗がりにぼんやりと浮かんだ体の輪郭しか見ていない。しかし、役人の言葉から、拷問されている女は、まさしくあの夜鷹にちがいなかった。
なぜ? なぜあの女が責められているのだろう?
事態の全容はうかがうことはできなかったが、目の前で、あの親切だった、心のやさしい夜鷹が生命を落そうとしていた。
だが、まて! 親父と兄貴はどうする? あの女を助け出し、それから親父と兄貴の救出にかかることは不可能だ。また、親父と兄貴の方を先にしたら、この女を救い出すことはできなくなる。
良介は思い惑った。
女の体に、新しい責苦が加えられようとしていた。
見殺しにしてよいだろうか?
良介はくちびるをかみしめた。
方法はひとつしかなかった。
良介は廊下にともっている常夜灯をそっとはずした。鉄網をはずすと、油の入った小さな油壺があらわれた。炎をひらめかせているそれを、良介は力いっぱい、拷問室の床へたたきつけた。
34
油がとび散り、火が走った。
良介はその火をおどりこえて、室内に突撃した。小者の手から六尺棒を奪い取り、右に左になぎ払った。
「やや! ろうぜき者だぞ!」
「おのれ!」
「囚人を奪われるな! 押しつつんで打ちとれ!」
良介は棒をふるって同心の一人を打ち倒し、腰の刀を奪った。向ってきた小者の腕から血が吹き出した。良介はめくらめっぽうに刀をふり回した。
けむりがたちこめ、赤い炎が板壁をなめてみるみる天井へとどいた。
「火事だぞう!」
「出会え! 出会え! くせ者だ」
「火事だ! 火事だ!」
良介もさけんだ。かけつけて来る者と、室外へ逃れ出ようとする者が、せまい入口でもみ合った。
むうっと熱風が襲ってきた。怒号が入り乱れた。
かけつけて来た者は、火にばかり気をとられ、ろうぜき者をとりおさえるなどということはどうでもよくなってしまった。
良介は女に走り寄った。刀で縛られた縄を断ち切った。足首につるされた石を結んでいる縄を切りはずすと、良介は女を背負った。
「しっかりしろ!」
その姿を目にした同心たちが、十手を棄てて刀をぬき放った。良介はタイム・マシンをにぎりしめた。
佐伯のアパートヘ飛ぶ。
女をそこへ残すと、良介はふたたび伝馬町の牢屋敷へとってかえした。
すでに炎は幾つもの建物に燃え移っていた。
「五番牢と六番牢は解き放て! 八番牢と東溜は北の庭へ移せ!」
与力と思われるさむらいが声をからしている。風下の牢は、|鍵《かぎ》がはずされ、収容されていた囚人は|一《いっ》|時《とき》、自由な身になり、難を避けるのだ。
まだ火に|呑《の》まれてない建物のかげに身をしのばせていた良介の目の前を、数十人の囚人が腰縄を打たれて、ぞろぞろと移動してゆく。かれらは風上の庭へ避難するのだ。
「あっ!」
その囚人たちの行列の中に、良介は親父と兄貴の姿を発見した。二人は、死人のようにうなだれ、後の者にせかされながら、よろめきよろめき、いそいでゆく。
「よし、今だ!」
この混乱の中で、二人を救い出すのは容易だった。
良介はかけよりざま、二人をつないでいる腰縄をたたき切った。周囲の囚人たちが騒ぎはじめた。
良介はすばやく二人に当身をくわせた。声もなく|崩《くず》れ落ちる二人の体を抱きとめ、タイム・マシンのスイッチをひねった。
「おれの家の、裏の倉庫だ!」
良介は二人の体を、段ボール箱の間に横たえた。溜で着せられた獄衣を脱がせ、そっと部屋から親父と兄貴のシャツやズボンなどをとり出してきて着せかえた。
やっかいな作業が終ると、良介はひとつ深呼吸をしてから、横たわっている親父を抱き起した。
「とうさん! とうさん! どうしたんだよ? しっかりしろよ!」
強くゆり動かすと、親父は低くうめいて目を開いた。つづいて兄貴をゆり起した。
「二人とも、こんな所で何をしているんだよ! ひとにだけはたらかせておいて、自分たちは昼寝かい!」
良介は気もちよくどなった。
倉庫の奥の、積み上げられた木箱のかげに、一個の人影が立って、じっとようすをうかがっているのを、良介は全く気がつかなかった。
35
意識をとりもどした父と兄は、しばらくの間、ぼんやりと良介の顔を見つめていた。やがて、父の顔が泣き出すようにゆがむと、猛烈な勢いで何かを言い出そうとした。その父の腕を兄がとらえる。
「まあまあ、父さん。むこうで休んだら」
兄は父の上体に腕を回し、立ち上らせると、抱きかかえるようにして連れ去った。
「昼間から酔っぱらって、ぶっ倒れているようじゃだめだぜ!」
良介は二人の背に向ってさけんだ。
父親がふりかえってまた何か言いかけたが、そのまま、兄貴に背をおされて歩み去った。ここで良介を怒鳴りちらしたらまずいと思ったのだろう。なにしろ、二人とも倉庫でのびていたことになっているのだから。
良介は二人を見送って、ふき出してしまった。これで当分、大きな顔ができるだろう。
良介は、こんどは堂々とおもてから出た。茶の間から、まだ青い顔をしている兄貴がのぞいたが、何も言わなかった。
佐伯のアパートヘ行き、部屋のドアをあけると、部屋の真中にうずくまっていた|夜《よ》|鷹《たか》の娘が起き直った。明るい部屋で見ると、白い|肌《はだ》とふくよかな体の線がたまらない。拷問で受けた傷がなまなましく口を開いている。
「大丈夫か? 今、手当をしてやるからな」
勝手を知った佐伯の部屋だった。|棚《たな》から傷薬をとりおろし、娘に近寄ったとき、娘の体が、急に霧につつまれたように薄れた。娘の体を通して、|汚《よご》れたたたみが見えていた。
良介は棒立ちになった。
氷が溶けるように娘の体が消えてゆくと、かわってそこに、全く別な一人の若い女の姿がぼんやりとあらわれた。
良介の目の前で、みるみるうちにそれは良介の見おぼえのある姿になった。
「シャナ!」
「すみません。おどろかせて」
シャナは白い歯を見せて笑った。
「あの夜鷹は、おまえだったのか!」
「そうです。顔形を変えるのがたいへんでしたが」
そういえば、あの夜鷹とシャナはまるで似ていない。夜鷹を抱いたときも、シャナを犯したときも、夢中だったから体つきはおぼえていない。
「けがはどうした? おまえ、ひどい拷問にあっていたじゃないか?」
シャナは首をふった。
「けがをしない前の体にもどることができるんだって、ヒナ子という人が言ったでしょう」
その言葉に良介は|眉《まゆ》を寄せた。
「おまえ、ヒナ子を知っているのか?」
「それについて、ぜひ、お話したいことがあります」
シャナの顔から微笑が消えた。現代の風俗に合わせたのだろう。デニムのロングスカートのひざをそろえてすわり直した。顔にかすかに血が上り、目がキラキラと光った。
「話? 話ってなんだい」
良介はその場に突っ立ったまま、何となく気おされて肩をすくめた。
「あなたは、間もなく死にます」
シャナは明快な口調で言った。
良介は一瞬、ぽかんとしてシャナの口もとを見つめた。
「わたくしたちの言い方で言えば、あなたの存在は否定されたのです」
良介には、その意味がさっぱりわからなかった。だが、なにか自分にとって、極めて重大なことであるらしいことは感じられた。
「おいおい! はっきり言ってくれよ。存在を否定されるだの、間もなく死ぬのだの。それはいったい、どういうことなんだ?」
良介はだんだん腹が立ってきた。
「あなたの存在が、これから先の文明の進歩にたいへん大きな影響を与えるんです。その影響というのが、実はやがて人類を滅亡に追いこむほど深刻なものなんです。だから、〈時間局〉は長い間、検討した結果、結局、あなたを|抹《まっ》|殺《さつ》することに決定したんです」
「冗談じゃないぜ! 何が何だかさっぱりわからないが……どういうことなんだ? だいいちおまえは何者なんだ? タイム・パトロールマンに追われている時間密行者じゃないのか?」
「そうです。あたしは時間密行者です。タイム・パトロールに追われているおたずね者。いいこと。あなたにすべてを説明して理解してもらうためには、二十分や三十分の話では終らないの。あなたの生命は、あと五分もないかもしれない。あたしとすぐここを出ましょう!」
シャナの目にはげしいいら立ちの色が浮かんだ。
良介の顔に、どす黒い怒りがみなぎった。
「いやだ! おれはどこへも行かないぞ。おまえの言うことだって、ほんとうかどうかわからん。ヒナ子もタイム・パトロールの連中も、おれを仲間に加えるなどと言っておきながら、あれ以来、全く姿も見せないし、何の連絡もない。おれをさんざんひどい目に会わせておきながらだ。その上、おれの存在を抹殺するとは、なんという言い草だよ。おれは、あいつらも、おまえも信用できない。タイム・マシンを使うやつらは、みんな、過去の人間たちのことなどは、どうでもいいと思っていやがるんだろう?」
シャナの顔に当惑の色が|渦《うず》巻き、良介に納得させるきっかけをつかもうとして、しきりに何か言いかけようとしては、口を閉じていた。
「あなたの怒るのも当り前だけれども……」
「おまえはなにものだ? 言え!」
シャナはもどかしそうにくちびるを動かした。
「〈時間局〉のやり方に反対する組織の者です」
36
「紀元三二二〇年、〈時間局〉は歴史調整会議中央委員会の命令による者以外に、タイム・マシンの使用を禁止しました。つまり、タイム・パトロールマン以外は時間旅行をしてはいけないことになりました。〈時間局〉はたいへんな権力を持っていますから、自分たちの組織以外の人間がタイム・マシンを持つことをとても|嫌《きら》ったんです」
「そんなことはどうでもいい。おまえがおれに近づいてきた理由は何なんだ?」
「未来世界に悪影響をおよぼす過去の存在を、すべて歴史の中から|抹《まっ》|殺《さつ》しようとする〈時間局〉のやり方は間違っています。過去の歴史にはすべて、重大な意味と内容があります」
「当り|前《めえ》だ! 未来世界の都合とやらで、勝手に抹殺されてたまるかってんだ!」
「ですから、わたくしといっしょにここを出てください! 早く!」
シャナは立ち上った。
「いや。だめだ! おまえたちの言うことは信用できないと言ったろう」
「タイム・パトロールマンたちは、あなたの存在を抹殺するために、いろいろな計画を立て、手を打ちました。存在を抹殺するといっても、〈時間局〉が直接、手を下して殺してしまうわけにはいかないんです。それをやると、結果に無理が出てきて、未来に混乱がおきてしまうんです。だからあなたが避けることができない事故だとか、のがれることができない事件にまきこまれるとか、あなたが、きわめて自然に、必然的に生命を失うような状況に追いこまなければだめなんです」
「そうだったのか!」
良介の胸に、あの大学の合格発表の日から、つぎつぎと起ったいろいろなできごとが、テレビの画面でも見るように、鮮明に浮かび上ってきた。
あのスナックで、良介にナイフを投げつけてきた青年。二階での乱闘。商店街で襲ってきた男たち。今思えば、危ういことの連続だった。もともと、けんかの経験にもとぼしい良介が、なんとか危機をのりこえられたのも、ただ、スポーツ好きの、持って生れた運動神経のするどさのおかげだけであった。
「でも、あいつらはおれととてもうちとけたようすで、タイム・パトロールに入れ、と言ったんだが……」
「あなたを過去の世界に投げこんで、そこで恐竜に食べられるようにしむけたのよ。過去の世界へあなたをほうりこむためには、あなたが、その世界を見ても、おどろかないように納得させておかなければだめなんです。そうでないと、その死がとても不自然なものになってしまうからなんです」
「くそ!」
「あなたはあの翌日の夕方、恐竜に踏み殺されたはずです。わたしたちはあなたを救い出しに行きました」
「でも、おれに襲いかかってきたじゃねえか!」
「あなたは、自分がタイム・パトロールマンでわたくしたちが時間密行者だと思いこんでいるから、最初から抵抗するだろうし、取りおさえて運び出そうとしたんです」
良介にも、しだいにかれらの巧妙な計画がわかってきた。
「あれで結局、わたくしの動きは、タイム・パトロールマンにさとられてしまいました。かれらはあなたのおとうさんとお兄さんが江戸時代へやってくるようにしむけ、奉行所の同心に捕えさせたのです。その同心はタイム・パトロールマンなのです。わたくしは、あなたが必ず現われると思って見張っていたんです。そうしたらあなたが現われました。あのあとで、わたくしはタイム・パトロールマンに捕えられ、|牢《ろう》へ投げこまれてしまいました。牢へ忍びこんだあなたは、そのタイム・パトロールマンの同僚に切られることになっていたんです。ところが、あなたはおとうさんやお兄さん、それにわたくしを救い出しました。とうとうかれらは最後の手段に訴えることにしたんです」
「なんだ? その最後の手段というのは?」
「ね、もう時間がありません。出ましょう! ここから。ここにいたら必ず、死にます」
「まあ、待て。人間、死ぬ時はどこにいたって死ぬんだ。それより、その、最後の手段というのを話してみろ」
「逃げましょう! 逃げれば死ななくともすむんです。何も強情を張ることないでしょう! さ、行きましょう」
「うるせえな!」
良介は、シャナのさしのべた手を|邪《じゃ》|慳《けん》に払いのけた。
「わたくし、どうしても連れてゆきます。それがわたくしが組織から受けてきた指令です」
シャナの手が動くと、小さな黒い武器が、ぴたりと良介に向けられた。
「このやろう!」
良介の脳天に怒りが衝き上った。
「ふざけるな! おまえたちはいつまでもそれじゃねえか! 邪魔になるやつはいつも暴力によってかたをつけようってわけだ。〈時間局〉が悪いも、タイム・パトロールマンが悪いもあったもんじゃねえや!」
「そうじゃないわ!」
「勝手に過去の時代を荒し回り、人を抹殺するの、助けるのと、きいたふうなことをぬかしやがって!」
「出るのよ! 外ヘ!」
「出せるものなら出してみろ!」
良介の全身に怒りが燃え上った。
タイム・マシンという、おそるべき道具を武器にして、人類の世界を、地球の歴史を、自由に作りかえ、|鋳《い》なおそうとするかれら未来人に、良介は煮えたぎるような怒りを感じた。かれらには、過去の世界に住み、生活している個々の人間の生命などどうでもよいのだ。
「逃げたければ、自分だけで行け! おれのことはかまうな!」
良介はさけんだ。
武器を握るシャナの指に力がこもった。
37
そのときだった。
ゴオーウ!
とつぜん、ぶきみな地鳴りが、建物の|床《ゆか》から良介の足に伝わってきた。
ゴ、ゴ、ゴオウ! ゴオー!
アパート全体が大波のようにゆれ動いた。
つぎの瞬間、良介の体は投げ出され、立ち上るひまもなく右に左にころがった。いつの間にか床が頭上にあり、そこから古だたみが爆煙のようなほこりとともにどさどさと落ちてきた。つぎの一瞬、良介は降ってきたたたみとともにこんどは、たたみが一枚もなくなった床板の上にほうり出された。つぎつぎと落下するたたみの重みで床板が裂け、良介は床下まで落ちこんだ。
メリメリとアパートが傾きはじめた。柱や壁やガラスが無数の破片となって砕け散った。
悲鳴や絶叫がはしり、物のくずれるひびきが山つなみのようにまきおこった。
良介は、はじめ近所で爆弾でも爆発したのかと思った。だが、すさまじい衝撃は、あとからあとから押し寄せ、大地もろとも、町々を押しひしいだ。
また、ゆれはじめた。
大地震だった。
大地はごうごうとゆれ、一秒間も立っていることはできなかった。
良介は必死に這った。
頭上から、材木や壁土がたえ間なく落下してくる。
ドカーン!
グワーン!
目の前に、真赤な|閃《せん》|光《こう》がひらめいた。
アパートのプロパンガスボンベが爆発した。たちまち周囲は火の海になった。
|火炎《ほ の お》が押し寄せてきた。
良介は追いつめられたけもののように舌をたらしてあえいだ。
またもや激震が襲ってきた。
天井の|梁《はり》がどっと落下してきた。その中の一本が良介の頭に激突した。良介の頭から血が噴き出し、良介はのめった。その体の上に、アパートの二階が、どっとくずれ落ちてきた。
良介は死んだ。
38
直径十キロメートル。高さ三キロメートルの透明な大ドーム。その内部に、何百層もある階層式の都市がおさめられていた。太陽はあかるい陽射しを、都市のすみずみまで投げかけ、また一定に保たれた気温と湿度は、この巨大なドーム都市を、一年中、この上ない快適なものにしていた。ここでは雨も雪もない。ドームの外が長雨の季節には、ドームの頂きの部分に設けられた人工太陽が、ほんものの太陽と同じような光を投げかけた。
この都市で生れ、この都市でその人生を終る人々は、体を|濡《ぬ》らすつめたい雨も知らないし、|頬《ほお》をなぶる風も知らない。ただ、都市のあちこちに設けられた人工緑地帯では、送風機から送り出されてくる人工のそよ風や、シャワーから|撒《ま》かれる人工の雨を味わうことはできる。だが、この都市の人々は、今ではそれさえのぞまなかった。それらの装置が使われなくなって、もう長いことたつ。
必要な食料や生活に必要なさまざまな物質が、どこでどんなふうにして作られるのか、知っている者はほとんどいない。だが、知っている者はいなくとも、あらゆる品物は豊富に、確実に、欲しいだけ手に入った。そもそも、ドームの中に満ちている空気や、都市で消費されている多量の水が、どこで作られ、どこに|貯《たくわ》えられているのか、それを知っている最後の人間が死んでからもう百年以上にもなる。
それらの装置が、もし故障でもしたら……それを考えたら、一日でもじっとしていられないだろうが、そんなことを心配する者は|誰《だれ》もいなかったし、事実、それらの装置は巨大な電子頭脳によってたえず監視され、わずかの故障でも、ただちに、自動的に修理することができた。それらの自動補償装置は、修理に必要な部品はすべて自分で作り出し、また修理する方法を自分で案出することができた。
このようなダメジ・コントロールシステムはほとんど永久に、与えられた機能を保ってゆくことができる。
食物や水や酸素を作り出し、それを分配、放出し、気温や湿度を一定にし、下水や|汚《よご》れた空気を分解、再生し、またエネルギー源の原子力発電所をあやつり、そして市民一人一人の健康をつねにきびしくチェックして、もしその健康状態に異常があれば、ただちに病院へ送りこみ、医療用の電子頭脳にあやつられるさまざまな医療器具が人体を取り囲む。
それら、何十万、何百万種類の機械や装置それ自体がみずからの故障を発見し、修理することができるのだから、都市そのものの能力はほとんど半永久的ともいえる。
こうした巨大なメカニズムを、〈マザー・マシン〉と呼ぶ。その力は、偉大な母親のように、また神のように、人々をすっぽりと包みこんでいる。
その中で、人々はただ豊かな、楽しい生活をつづけてゆけばよいのだった。
都市をつつむドームの外が、草木の一本もはえていない荒廃した土地になっていようが、大気が、一酸化炭素や硫化水素の濃密なガス流に変ろうとも、ドームの中で生活する人々にとって、それはもはやどうでもよいことだった。
人類は地球に在りながら、地球を全く|見《み》|棄《す》てたと同様だった。
その壮麗な都市のあちこちに、古代のローマの円形劇場を思わせる巨大なホールがあった。すり鉢型のホールには、一度に一万人を収容できる座席が、幾十層もの同心円を描いてならべられ、はるかな眼下のすり鉢の底には、奇妙な機械が据えられていた。
このホールは二十四時間の間、閉じられたことがない。誰でもが、思う時に利用することができた。人々は絶えずホールに吸いこまれ、そして吐き出されてくる。座席についた者は短くて一時間、長ければほとんど一日をそこで費した。
男も女も、顔をかがやかせて席につく。期待と興奮が、かれらを子供のように浮々させている。それもそのはずで、この都市で、かれらが真剣になって|愉《たの》しみ、自ら求めることのできるたったひとつのものであったからだ。
人間の体重が加わると、座席の背後からせり出してきた透明なカプセルが、座席全体をすっぽりとおおう。これだけでよい。あとは座席に組込まれた電子頭脳が、カプセルに包まれた人物の、好みや体力を自動的に計測し、どのような刺激にもっとも反応するかを正確にとらえて、すり鉢の底の装置にデータを送る。
すり鉢の底の装置は、ゆっくり回転しながら、ホールの座席を埋める人々の一人一人に、求める刺激を送りはじめる。
男たちの頭の中では、女の白い肉体が、考え得るあらゆる姿態をとってうごめいていた。髪をふり乱し、身をよじり、絶叫し、泣く。それは、かれの肉体がそうさせているのだった。座席についている女たちの頭の中には、自分にのしかかり、押えつけ、裂けるほど押し開き、内臓まで激突してくる男の攻撃があった。
また、中には、つるされ、引きずられ、刃物でえぐられることによって絶頂感を味わっている男や女もあった。
卵型のカプセルの中で、人々はバネのように屈伸し、さなぎのように丸くなり、うめき、絶叫した。汗と吐息で、透明なカプセルは曇り、男はあるだけのものを噴出し、女は|渇《か》れきるまで流しつづけた。
やがて、すべてが終ると、人々は夢からさめたように座席から立ち上る。カプセルは音もなく座席の背後に|呑《の》みこまれ、人々は夢遊病者のようによろめきながら座席を離れるのだった。
それは夢よりもはかない作業だった。大脳皮質に加えられた高周波が、一人一人の人間の神経を微妙に刺激し、求められるがままの想念を作り出し、悦楽の極致に導いてゆく。もはや人々は、現実の世界での性交を必要とせず、いかなる意味でも、異性との接触を求めなかった。ホールはそれに数倍、数十倍する悦楽を無限に供給してくれるのだ。幻想は限りない。くりひろげられるイメージは無限だった。人々の求めるまま、装置だけは絶え間なく、自分自身を改造し、能力をエスカレートさせていった。
地球上に存在するすべてのドーム都市で、そのような事態が進行し、やがてそこから人類の運命を決定する重大な問題が頭をもたげてきた。
ある時、地球の都市群を総括する政治機構は〈時間局〉に命じて、紀元五百年前の過去の時代から、大量の人間を移入させ、人口を補給しようとした。これは無惨な失敗に終り、それらの人々はすべて殺された。この頃、都市の平均年齢はすでに百五十歳に達していた。医療機関は総力をあげて人口の増加に|挑戦《ちょうせん》したが、人体の精巣と卵巣はほとんどその機能を失っていた。精子と卵子の人工結合さえ不可能ということになれば、あとは人工生命を造るしかない。この時代にそれは可能だった。だが、問題は別なところにあった。
平均年齢百五十歳に達し、間もなくこの世界から消えてゆこうとする人々にとって、自分たちの存在しない後の人工生命に、いったい何の意味があるのか? 人工生命はもはや自分たちの子孫ではない。姿、形は同じでも、それは全く別な種類の生物だった。人工生命を作り出そうとする作業に対する熱意は急速に失われ、やがて完全に|停《とま》った。
人類は|終焉《しゅうえん》の時を待つだけになった。
それに対して、〈時間局〉は、すべての人類を人生の過去のある時代へ移送すること、つまり若返りを提案したが、それに賛成する者は少なかった。若くなるのはいいが、今あるものを棄てるのはいやだというわけだ。第二の提案は、
〈ドームの装置の存在しない世界――それが発明されなかった世界[#「発明されなかった世界」に傍点]に作りなおす〉
ということだった。
それにはみなが賛成だった。
かくて〈時間局〉は、ドームが発明されず、みなが健全な性交能力を持っている世界に作りなおす作業を開始した。装置の存在しない世界とは、その装置を破壊してしまうことではない。過去にさかのぼって、それがこの世にあらわれる必然性をも消し去ってしまうことなのだ。発明者を消してしまうだけではだめだ。それだけでは、いつか別な人間が発明するかもしれない。重要なことは、その発明者の祖先の祖先までさかのぼって、かれを消すことにある。
〈時間局〉の命を受けた多数のタイム・パトロールマンたちは、つぎつぎと過去へ向かって出発していった。
そして発見した!
39
良介の頭の上に、暗く赤い空がどこまでもひろがっていた。それは時々、明るくなったり、黒ずんだりした。|北極光《オーロラ》のように、新しいかがやきがはためくこともあった。
ああ、おれは死んでしまったんだ……。
良介は口に出してつぶやいたが、声にはならなかった。
赤く燃えた夜空を、無数の火の粉が、幾千万羽の鳥のように|渦《うず》をまいて飛んでいた。
「ああ。とうとうおれは死んじまったんだなあ」
もう一度、口を動かすと、こんどは自分の声がはっきりと聞えた。それに力を得て体を動かすと、意外に容易に体が動いた。
良介は上体を起した。
それまで気がつかなかったが、高い|土《ど》|堤《て》のような所に、あお向けに横になっていたらしい。
「あれ!」
良介の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。あんぐりと開いたあごが、だらしなく垂れさがった。
目の前は、一面の火の海だった。すさまじい火炎が、つなみのように高いビル街をのみ、家々を押しつつんでゆく。時々、太い火柱が立ち、そのたびに火勢は強くなってゆく。ガソリンスタンドの地下タンクか、プロパンガスのボンベでも爆発したのだろう。火炎につつまれた街路には、すでに逃げ走る人々の姿もなかった。
「そうだ……たしか、おれは」
急速に記憶がよみがえってきた。
かたむくアパート。ごうごうとどよめく地鳴り、くずれ落ちてくる二階。そして材木、壁、ガラス……おそろしい大地震の、なまなましい記憶が、みるみる良介を現実に引きもどした。
目の前の光景は、決して死後の世界のものでもなければ、恐怖に満ちた最期の瞬間の幻影でもなかった。
「おれは……おれはまだ生きている!」
良介は立ち上った。少し足もとがふらつくような気がしたが、それはもしかしたら余震のせいかもしれなかった。実際、足もとの大地は、まだゆさゆさとゆれていた。
あの、おそろしい瞬間から、まだ、どれほどもたっていないようだった。
「だめ! まだ起きては!」
声とともに、女のやわらかい手が、よろめく良介の背を支えた。
ふり向くとシャナの顔があった。
「おれはいったいどうしたんだ?」
周囲の事情がつかめないのがたまらなくもどかしかった。
「おれは死んだんじゃなかったのか?」
シャナはかすかにうなずいた。その横顔に、街々を焼きつくす火炎が赤く映えていた。
「あなたは死んだのよ。ほんとうに死んでしまったの。材木の下敷になって」
「へえ! でも、そのおれがどうしてこうやっているんだ?」
「わたくしが、あのアパートで、ここから出ましょうって言ったのをおぼえているでしょう? だから、いったんは死んでしまったあなたを、死ぬ一分前の状態にもどしておいて、ここへ連れ出したんです」
良介の記憶には全く無いことだった。
「それはおぼえていないはずです。あそこで死んでいるのは、もう一人のあなたなのよ」
「するとおれはいったん死んで、生きかえったというわけか?」
「生きかえったというのとは違うわね。あなたは、死ななかった方のあなたなのよ。人間は誰でも、その瞬間、瞬間で、いろいろな可能性があるわけでしょう。今のあなたは、その死ななかった方の道をとったあなたなのよ」
良介の心は、ふたたび生を得たという喜びよりも、自分の生命がなんでそう他人にいじり回されなければならないのか、という怒りでいっぱいだった。
「よしてくれ! おれはたくさんだ。おれの生命はおれのものなんだ。かまわないでくれ!」
シャナの目は深い湖のように静かな光をたたえた。
「良介さん。なぜ、あなたが〈時間局〉に生命をねらわれているのか、もうおわかりになったはずよ。遠い未来世界の悲劇を、あなたは見たはずよ」
良介の体は石のように硬直した。
40
「あれは! あれは、夢ではなかったのか!」
人間が最期の一瞬に見るというまぼろしかと思っていた。死の瞬間の恐怖が生み出した幻影かとばかり思っていた。だが、シャナは遠い未来世界をのぞき見たはずだと言う!
「あなたの大脳に投影して見せたんです。なぜ、あなたがこのようにタイム・パトロールマンに追い回され、あなたの前につぎつぎとわなが設けられるのか、おわかりになるように」
良介は声もなくうめいた。
だから……だからと言って……
「教えてくれ。おれが生きているかぎり人類の未来は必ずあのようになるのだろう。だが、おまえはおれを生きかえらせた。おれはどうしたらいいんだ?」
シャナはかすかにほほ笑んだ。
「未来人は未来人で、自分たちのやったことに責任をとらなければいけないわ。自分たちのやった失敗の原因を、先祖のせいにするなんて責任のがれです。人類はやり直さなければいけないんです」
「やり直しか! でも。あのありさまではもう遅いだろう。それに、現実におれがこうして居るんじゃないか。おれの遠い子孫が、あの妙な装置を発明するんだろう」
良介はたまらなくやりきれなかった。
「必ずしもそうとはかぎらないんです。あのような装置を発明することなく、人類を健全な方向に発展させるような偉大な頭脳の持ち主が出てくるはずなんです」
「わかるもんか! そんなこと」
「いいえ! わかったんです。わたくしたちは何年も何年もの間、何百台もの電子計算機を使って計算しました。その結果、確実な答えがひとつだけ出ました」
「どんなことだ? それは?」
シャナは一瞬、息を引いた。
「わたくしがあなたの子供を生むことなんです」
良介はゲラゲラ笑い出した。
「おれの子供を生む? おまえが? 冗談じゃねえや。おれはまだ親父になんかなりたくねえや」
目の前のシャナは、申し分なくきれいだったし、もだえ、のたうつ体の味も最高だった。シャナ以上の女の子は、この世にそういないだろう。
だが……
子供を生む、というのは勝手だが、親父としての責任を取らされたのではかなわない。
その良介の心の中を読みとったかのように、シャナはつけ加えた。
「あなたの子供が、どう育てられ、どのように子孫をふやしてゆくかは、あなたの全く知らなくていいことなのよ。それに、わたくしも、あなたに教えてはいけないとかたく禁じられています」
「やるだけでいいのか?」
良介はわざと露骨な言い方をした。
シャナはかすかに|眉《まゆ》をひそめたが、しかたなくうなずいた。
「よし! その点だけは承知した。さあ、やろうじゃねえか!」
良介は悪魔的な気もちになった。なんだか破れかぶれだった。
そのとき、地に引き込まれるように、良介の頭から、血の気が失せた。目の前が、もやがかかったように薄暗くなった。
うずくまろうとする良介を、シャナがしっかりとかかえた。
「まだ体力が完全にもとにもどっていないんです。さ、わたくしにつかまって!」
なさけないことになった。もう、やるどころではない。
シャナは良介に肩を貸し、そろそろと移動をはじめた。
41
火の海はどこまでもつづいているようだった。空は真赤に焼けただれ、熱風がごうごうと吹き荒れていた。引き裂かれた看板や、はぎ取られた自動車のボンネットフードなどがたえ間なく飛んでくる。
「東京は全滅です。横浜も、千葉も、浦和も。関東地方はひどいありさまですよ。死者は十万をくだらないでしょう」
「そんなひどい地震だったのか?」
「マグニチュード九ぐらいでしょう。震源地は東京の西北方です」
それではひとたまりもない。
「シャナ。この地震は、おれの|生命《い の ち》をねらったやつのしわざなのか?」
「そうです。かれらは非常手段に出たんです」
「ちくしょう! なんというやつらだ」
良介一人の生命をねらうために、かれらは十万の人間の生命を犠牲にしたのだ。
「おれの親父やおふくろはどうなったろう?」
良介の胸に、とつぜん両親の顔が浮き上ってきた。
シャナは口ごもった。
「どうした? おれの親父やおふくろは?」
シャナの声は聞きとれぬほど低かった。
「亡くなりました。お兄さんも」
「死んだ!」
良介の体は、とめどもなく震えた。
「そんな! ばかな!」
「ほんとうです。かれらは、あなたのお兄さんの子孫にも、わずかばかり危険を感じていました。だから、あなたのお兄さんも、江戸時代へ飛ばせて捕えたでしょう。あれは、あなたをおびき寄せるだけの目的ではなかったのです」
「ああ、兄貴……」
良介の目から涙があふれた。|真《ま》|面《じ》|目《め》だけが取柄だった兄貴。親父の言うことをよく守って、働くことだけしか知らなかった兄貴。かわいそうな兄貴。
そして親父やおふくろ。
おれのようなやつを生んだばっかりに!
良介の胸は、鉄の万力で締めつけられるようだった。
「おれは、きっと親父やおふくろや兄貴のかたきをうつぞ!」
良介はさけんだ。
地震によって発生した大火も、三日目にはようやく消えた。消防隊の必死の活動というよりも、燃える物が何もなくなったからだった。
新宿の西口の中央公園の片すみに、|石《いし》|垣《がき》をつらぬいた大きなマンホールがあった。街々をなめつくした火炎も、その付近だけは取りこぼしていったらしい。ところどころ赤茶けたまだらを残していたが、木々は十分な緑をつけていた。周囲は避難民でいっぱいだった。負傷者、子供、老人、それに見失った家族をさがす男や女で大混雑をしていた。自衛隊の|炊《たき》|出《だ》し班が回ってきた。
良介とシャナは、小さなにぎりめしを|汚《よご》れた手で、手づかみで食べた。
「はい。水」
シャナは水の入ったブリキ|鑵《かん》をさし出した。
「明日、そっとどこかの時代へ行って何か食べ物を取ってくるから、それまでがまんしていてね。まだ連中、きびしく監視していると思うの。今、タイム・マシンを使うとわたくしの居場所が探知されてしまうわ」
シャナはほこりとすすで汚れた顔に、すまなそうな色を浮かべた。
良介はふと、そんなシャナがたまらなくいじらしくなった。
「来いよ!」
良介はふいにシャナを引き寄せた。
「あ、人が見るわ」
「|誰《だれ》も他人のことなんか、気にしちゃいないさ」
実際、他人が何をしようが、気にするどころではなかった。それに、二人の居るマンホールは、低木のしげみにかくされて、人の目にはふれにくい。
二人は固く抱き合った。
良介は、はじめて、せつないいとしさをこめて、シャナを抱いた。
42
最初のうちは、良介の頭の中の片すみに、これはシャナの体内に、遠い未来の時代へ送るための生命をつぎこむ作業なのだ、という考えがかすかにちらついていたが、すがりついてくるシャナの細い腕や、必死に押しつけてくるやわらかい腹やあたたかい|太《ふと》|腿《もも》などの感触に、良介はいつしか自分もひたすらにそれにのめりこんでいった。
しっかりと良介のものをつつみこんだシャナの体からは、湯のような液体があふれ、膨出した子宮が良介のもっとも鋭敏な部分を|擦《こす》り上げた。良介はたまらず放射した。良介の背筋を、電撃のようなけいれんがつらぬいた。おそろしく粘性のある液体がシャナの体内を打った。シャナは歯をくいしばると、良介の体にむしゃぶりついた。
汗に|濡《ぬ》れた体に夜風がここちよかった。さすがに、全身から力がぬけた感じだった。シャナも良介に寄りかかったまま、ものを言う気力もないらしい。
「どうだった? よかったかい?」
しばらくたってから良介がたずねた。
「ええ」
シャナは小さく答えて恥ずかしそうにうつむいた。
「それで、結果はどうだ?」
少し酷な質問かな、と思ったが、それも目的のひとつだったのだからしかたがない。
「うまくいったみたい」
シャナは消え入りそうに答えた。
「へえ! わかるのか?」
「女って、その瞬間て、なんとなくわかるのよ。ああ、今、受胎したんだなって」
良介は、まるで自分とは無縁なできごとのようにその言葉を聞いた。今、自分の子供がこの世に生命を持ったということが、何としても信じられなかった。
良介は黙々と、シャナはややはしゃぎながら着衣をまとった。
「ね、少し歩きましょうよ」
シャナが良介の腕を取った。良介は言われるままに足を運んだ。広い公園は、どこへ行っても避難者でいっぱいだった。良介はやりきれない思いだった。かれらは、自分のためにおそろしい犠牲を払ったのだった。しかも何の意味もない犠牲だった。結局、良介に向って投げつけられた破壊と死は、何千何万の人々を殺し、傷つけ、その財産を灰にしただけで終ってしまったのだった。
「おれはどこか遠い所へ行く。この破壊された東京の街は見たくない」
良介は声をふるわせた。シャナは良介の腕にからめた手に力をこめた。
「どこへ行くの?」
「わからない。足の向いた方へ行くんだ」
良介はとぼとぼと歩き出した。ほんとうにどこへ行くというあてもなかった。
しばらく歩いてから、ふと、誰かがついてくるような気がしてふりかえると、後にシャナがいた。
「なんだ。まだいたのか? もうおれには用がないんだろ。早く行けよ」
しょせん、シャナも別世界の人間だった。いつまでもいっしょに居ることはできない。それなら、いっそ早く別れた方がよかった。
シャナは悲しそうな目で良介を見つめた。
「早く行けよ」
良介は体をかえすと歩きはじめた。百メートルほど歩いて、ふりかえると、まだシャナは良介の後について歩いていた。
「どこまでついて来るんだ?」
「元気を出してね」
「おれは元気さ」
良介は無理に笑顔を作った。
「さよなら」
「ああ。さよなら」
良介は逃げるようにシャナに背をむけた。
五十メートルほど歩いた時、前方から消防自動車のサイレンのひびきがつたわってきた。真紅の回転灯の|閃《せん》|光《こう》が、良介の目を射た。その後に一台、また一台。広い道路の中央を、はやてのように突進してくる。あちこちにまだ火災の黒煙が立ち上っていた。いったん消えた火災が、何かの誘爆でふたたび燃え上るものもあった。焼け残った消防車の数は、ごく少ないのだろう。走り回る消防車は、どれもすすと|泥《どろ》で見るかげもなく汚れ、火炎の熱で、塗装もみにくくはげ落ちていた。
良介は道路の端へ寄った。消防車はぐんぐん近づいてくる。とつぜん、先頭の消防車が、ぐいと向きを変えた。タイヤのきしむまさつ音が、すさまじいひびきをまき散らした。
「あぶない!」
良介はとっさに身を丸めて、まりのように|跳《と》んだ。消防車は車体をななめに傾けて、横ざまに、道路に面した家へ突込んだ。地震でいためつけられていた家は、爆弾の直撃を受けたように、こっぱみじんに吹き飛んだ。コンクリートの破片や、材木などが雨のように降ってきた。そのコンクリートの破片のひとつが、つづいて走ってきた巨大なハシゴ車の上に落下した。
グワーン!
キキキキキ!
けたたましい急ブレーキの絶叫が鼓膜を突きさした。ハシゴ車は、大きく半回転すると、積み重ねられた銀色のハシゴがなだれのように路上にくずれ落ちた。ハシゴ車は、くねくねと折れ曲った長大なハシゴをふり回してなお回転した。ふり回されたハシゴの先端が、一瞬の恐怖に立ちすくむシャナの体を人形のようにはね飛ばした。
「シャナ!」
良介はうなりを上げて飛んでくる消防車の|残《ざん》|骸《がい》の下をかいくぐって走った。
「シャナ! しっかりしろ!」
鮮血にまみれたシャナを抱き上げた。シャナの胸はつぶれ、すでに完全に呼吸は止まっていた。
「ちくしょう!」
良介はシャナの体を抱きしめて、けもののようにうめいた。
シャナの立っていた場所へ突込んできた消防車は、偶然にそこで事故を起したとは思えなかった。何か目に見えない強力な力が、疾走する消防車をとらえ、その進行方向をねじ曲げたとしか考えられなかった。それは、あきらかにシャナを|抹《まっ》|殺《さつ》する目的だったのだ。
良介はシャナをそこに横たえ、深く頭を垂れた。たまらなくやりきれなかった。
ひたすら、思いつめたようなシャナのひとみだけが良介の胸に焼きついていた。与えられた任務を何とかやりとげようと必死になっていたシャナ。そのために、良介に献身的でさえあったシャナ。遠い世界からやって来て、ついにそこへ帰ることができなかったシャナ。良介の目から熱い涙がこぼれた。良介は、自分はシャナを愛していたと思った。
「|仇《かたき》をとってやるぞ」
かみしめた良介のくちびるから、血が糸のように垂れた。
良介はシャナのポケットをまさぐった。固い金属が指に触れた。取り出してみると見覚えのあるタイム・マシンだった。良介はそれを自分のポケットにおさめた。
消防車のガソリンタンクが爆発し、あたり一面が火の海になった。その火に追われるように良介は走った。ふりかえると、シャナの死体のあったあたりは、すさまじい火炎につつまれていた。
どこへ行けば、あのヒナ子やその仲間のタイム・パトロールマンたちに会えるのか、全く見当がつかなかった。良介を倒すのが、かれらの最終目的である以上、かならず現代にひそんでいるはずだった。また、シャナをほうむった手口からみて、かれらはどこか、ごく身近に居るにちがいない。たえず良介に対して監視の目を光らせ、すきをうかがっているに相違なかった。かれらが良介に対して、あくまで何らかの|事故《アクシデント》による落命をのぞむ以上、とつぜんの襲撃はありえないであろう。
こんどこそ、やつらの居場所をつきとめてやるぞ!
つぎの攻撃がおそらく、最後の攻撃になるであろう。その時、やつらを倒すことができなかったら、おれがやられる番だ。
良介は、決戦が近いことを、ひしひしと感じた。恐怖は少しも感じなかった。心は氷のようにつめたく|冴《さ》えかえっていた。
43
良介はやがて海岸へ出た。くずれ落ち、黒焦げになった工場群が古代の|廃《はい》|墟《きょ》のように連なっていた。ねじ曲った巨大なクレーンが、|釣《つり》|橋《ばし》のようにそれらの廃墟をまたいでいた。運河の水面は、焼けた木材や紙片、ゴミなどで|隙《すき》|間《ま》もなくおおわれ、その間に人間の死体が浮いていた。
くずれ落ちた防波堤の間から流れこんだ海水が湖のように廃墟の町を|浸《ひた》していた。その防波堤に立ったとき、百メートルほど前方で、舟を押し出そうとしている一団の人影があるのに気づいた。
道路を寸断されてしまった東京から逃れ出るには、今は舟しかなかった。
良介はその舟に近づいていった。
わずかばかりの家具を積みこんだ小さな発動機船は、もはや綱を解こうとしていた。
「どこへ行くんだ?」
良介は堤防の上からさけんだ。
「|銚子《ちょうし》だ」
発動機船の上から、作業服を着た男が答えた。
「おれを乗せていってくれないか」
「だめだ。これ以上は乗れない」
長さ十メートルほどの発動機船だ。男のほかに四人乗っているが、積んでいる荷物はわずかばかりの家具だ。良介一人が加わったとしても、どうということはないはずだ。
「いいじゃないか。おれ一人ぐらい。たのむよ」
「|外《そと》|海《うみ》へ出るんだ。これでもあぶねえと思っているんだ。だめだよ」
「おれも銚子へ行きたいんだ。かねが必要なら向うへ行ってから払うよ」
「かねがほしくて言っているんじゃねえんだ。だめだったらだめだよ」
ポン、ポン、ポン、ポン
エンジンがかかった。
良介はポケットに両手を突込み、背を丸めて、舟を見送った。
「おとうさん。あの人、乗せてやったら」
「そんなこと言ったって」
「かわいそうよ」
舟の中での会話が、風にのって良介の耳にとどいてきた。見ると、男たちばかりと思ったが、一人は若い娘だった。
娘の言葉に負けたのか、ふいに発動機船の船首が良介の方を向いた。いったん上げかけた速力を落して、防波堤に近づいてくる。
「ようし。乗せてやる!」
「ありがとう」
良介はすっかり|嬉《うれ》しくなった。
防波堤から発動機船に乗り移ると、男が心配しているように、いがいに古びた舟であることがわかった。
「なるべく岸に近い所を走るようにすればいいだろう。なにせぼろ舟だからな」
ジャンパーを着た男が、心配そうにふなべりから身をのり出して|吃《きっ》|水《すい》をたしかめた。
舟は沖へ向かってしだいにスピードを上げていった。
東京港に近い海面は、|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》や|荒《あら》|川《かわ》、|六《ろく》|郷《ごう》|川《がわ》などから吐き出されてきた建物の|残《ざん》|骸《がい》や、焼け焦げのプラスチック、紙などで厚くおおわれていた。その間に、男とも女とも見分けがつかぬ焼死体が無数に浮かんでいた。
発動機船は、それらの浮遊物を押しのけて進んだ。海上から見る東京港の沿岸は、港も町もことごとく焼野原となっていた。
左に遠く、房総の山々が影絵のようにつづいている。海面はしだいに波が高くなりはじめた。太平洋の荒波が東京湾内に入ってくるのだ。
「もうしばらくで|木《き》|更《さら》|津《づ》沖だぜ」
舵輪を握っていた男がさけんだ。
うねりにのった舟が真白な水しぶきをはね上げた。
とつぜん、それまで勢いよく動いていたエンジンが、ぴたりと止った。舟の周囲で、急に波の音が高くなった。
「しまった!」
男の一人が、エンジンハウスのふたを開いて首を突込んだ。推進力を失った舟は、たちまち波にもてあそばれて、うねりに横腹をさらした。
ずしん! ざざざあ。
波がどっと舟の中に打ちこんできた。男たちは必死に、舟に入ってきた水をくみ出しはじめた。
「早く修理しろ!」
「このままでは、ひっくりかえってしまうぞ!」
「もうすぐ直る。大丈夫だ」
エンジンの修理をしている男の声が、エンジンハウスの中で反響した。
良介は舟の中にあった古いバケツを手にして、必死に水をかき出した。水はあとからあとから入ってくる。腕も腰も、疲労で板のようにこわばってしまった。だが、やめるわけにはいかない。水をかき出せ! かき出すのだ! 波と風の音だけが、ごうごうと良介をとりまいていた。
「どうだ? まだ直らないのか?」
良介は水をかき出す手を休めずにたずねた。
「どうなんだ?」
|誰《だれ》も答えなかった。
「どうなんだ?」
答えはなく、もどってくるのは風と波の音だけだった。良介は顔を上げた。
舟の上には、誰もいなかった。
「たいへんだ!」
良介は、木の葉のようにはげしくゆれ動く舟の上から、周囲の海面を見回した。最初、良介は他の者たちは、ゆれ動く舟の上から、海面に投げ落されたのかと思った。だが、海面のどこにも、人の姿はなかった。女一人と男四人。かれらが海面に落ちて、救いも求めず波に|呑《の》まれたとは思えない。何かの理由で舟を|棄《す》てたのだとしても、海面に逃れたものなら、これも見える所にただよっているはずだった。
「どこへ消えちまったんだろう?」
そのとき、いちだんと大きな波が舟に打ち寄せ、どっと滝のように舟の中にくずれ落ちてきた。舟はたちまち、ふなべりまで水でいっぱいになった。幸い、木造だから沈む心配はないが、もはや舟の中にとどまることは危険だった。良介は水中へ飛びこんだ。頭を出して水舟となった舟のとも綱にすがった。潮流に押し流されて、舟はどんどん東京湾口から外へ運ばれてゆく。良介は百メートルぐらいは泳ぐことができたが、うねりの高い荒れ模様の海では、水舟にすがっているのがやっとだった。このまま太平洋に押し流されたら、とても生きのびることは不可能だった。
「そうか! そうだったのか!」
良介はこの時、全身の血が逆流するのを感じた。|罠《わな》だったのだ。これはおそろしい罠だったのだ。
あの防波堤に舟を寄せ、焦土の東京から脱出をはかる避難者をよそおって、良介の関心をひき、良介を舟に乗せ、危険な水面まで走り出てから、良介一人を舟に残して消えていったかれら。
かれらがいったい何者なのか、良介には今こそ、はっきりとわかった。
「くそ! 逃がすものか!」
良介はとも綱を放して、ポケットをさぐった。シャナから手に入れたタイム・マシンを握ってスイッチを押した。
安定を失った良介の体は水中深く沈んだ。水の中でダイヤルを回す。水に濡れたタイム・マシンが、正常に作動するかどうか不安だったが、ダイヤルを五分前にセットした。
ピイイイイイン!
かすかなひびきが、良介をつつんだ。
ずしん! ざざざあ。
波がどっと舟の中に打ちこんできた。男たちは必死に、舟に入ってきた水をくみ出しはじめた。
「早く修理しろ!」
「このままでは、ひっくりかえってしまうぞ!」
「もうすぐ直る。大丈夫だ」
エンジンの修理をしている男の声が、エンジンハウスの中で反響した。
良介は舟の中にあった古いバケツを手にして、必死に水をかき出した。水はあとからあとから入ってくる。
良介はバケツで水をかき出す作業の手を休めて顔を上げた。
かれらはたがいに顔を見合わせ、目でうなずき合った。
一瞬、かれらの姿は舟の中から消えた。
よし!
良介はタイム・マシンのもうひとつのスイッチを押した。
「やつらの行った所へ行きたい!」
ふたたび、かすかな音響が良介の体を押しつつんだ。
44
東京湾の埋立地が|広《こう》|漠《ばく》とつづいていた。ブルドーザーやダンプトラックがあちこちに置き|棄《す》てられたように止っている。作業員の宿泊する飯場の建物が、めちゃめちゃにつぶれて取り残されている。果しなくつづく埋立地には、人っ子一人姿が見えない。火災と破壊に追われる避難者たちも、つなみを恐れて、埋立地には入ってこないのだ。
良介は周囲を見回した。
百メートルほど前方に、一団になって遠ざかってゆく人影があった。
良介は地面に|這《は》った。
かれらは良介の追跡には、気がついていないようだった。うねりのはげしい海で|溺《でき》|死《し》したと思っているのだろう。高いうねりをくらって、舟が水びたしになり、溺死するのはたしかに人間が自然に負けた、いわばごく当り前の〈死〉ではあろう。だが、良介に、その舟に乗るように仕向けたのはかれら自身だった。直接手を下さないからといって、一個の人間の存在を|抹《まっ》|殺《さつ》しようとしたのにはかわらない。
「虫のいいことを考えるやつらだ!」
直接、手を下して殺したのでは、その後の歴史の流れにひずみが出てくるからだという。そんな勝手なことってあるか!
かれらは、埋立地をどこまでも進んでゆく。良介は、もしかれらがふりかえった時は、いつでも地面にぴったりと伏せることができるように、手とひざを使って、四つん這いのまま前進した。
かれらの進む方向に、飯場らしいプレハブの建物が見えてきた。その建物だけが、地震にも破壊されず、火災も起さなかったらしく、箱のようにしっかりと建っていた。
「そうか! あそこがやつらのアジトだったんだな」
かれらはやがて、その飯場らしい建物の側面にとりつけられた階段を上り、二階のドアに吸いこまれていった。二階には幾つかの窓がある。その窓に立たれたら、|平《へい》|坦《たん》な埋立地を這う良介の姿は、完全にかれらの目に止ってしまう。
良介は急いで周囲に目を走らせた。
二十メートルほどむこうに、大きなボール箱がころがっていた。良介は立ち上って一気に走った。ボール箱のかげに体を投げ出し、それからボール箱の中にもぐりこんだ。電気|洗《せん》|濯《たく》|機《き》が入っていたらしい。良介は箱の側面に穴をあけた。外をうかがう。飯場の二階の窓に人影が動いていた。だが、良介に気づいたようすはない。
良介は、箱をかぶったまま、そろそろと移動を開始した。
かなり強い風が吹いている。その風に、ボール箱が吹き動かされるように、良介は少しずつ、右へ寄ったり、左へ寄ったりしながら飯場の建物へ近づいていった。
長い忍耐の果に、良介はようやく建物の壁にたどりついた。良介はボール箱から這い出て壁にぴったりと身を寄せた。階下は|空《あき》|室《しつ》になっているらしい。そっと窓からのぞきこむと、ほこりだらけの|床《ゆか》に、大きなテーブルや、数脚の|椅《い》|子《す》が置かれているだけだった。テーブルの上には、ジュースのあきびんや、|錆《さ》びた|鑵《かん》|詰《づめ》の空鑵がのっていた。壁には緑十字の安全マークを|印《しる》したポスターが、もう変色してぶら下っている。この飯場が使われなくなってからだいぶたつらしい。
二階から、かすかに人声がもれてくる。
二階へ上る階段は、さっきかれらが上っていった外階段と、もうひとつ、内部から上る階段が、一階の片すみにあった。
良介は一階のドアをそっと開いた。
床に長さ一メートルほどの鉄棒が落ちていた。|手《て》|頃《ごろ》な武器だった。良介はそれを手に、そっと階段を上った。
ミシッ。
古い木の階段は大きくきしんだ。良介は足を止め、じっと息をこらした。二階から聞えてくる話し声は、いぜんとしてつづいている。何か物を運ぶような物音も聞えてくる。良介はその音に合わせて、一段、一段、慎重に上った。階段を上りつめた所は、あげぶたでふさがれていた。良介はそのふたを、そっと押し上げた。
しめた! ふたには|鍵《かぎ》がかかっていないし、その上に重い物がのせられているようすもない。
良介は気合をはかると、あげぶたをどうん! とつき上げた。頭上に開いた四角な空間へ、良介は弾丸のようにおどりこんだ。
数人の男たちが、腰を浮かせて、とつぜんおどりこんできた良介を見つめた。
部屋の中央に、小型の電子計算機のような装置がすえられ、そのコンソールに向っているのは、まぎれもなくあのヒナ子だった。
「てめえら! よくもおれをこけにしやがったな! タイム・パトロールマンにしてやるとか何とかぬかしやがって。それにおれの親父やお袋、兄貴まで巻きぞえにしやがって! 許せねえ!」
良介は鉄棒をふりかぶってさけんだ。
かれらがいっせいに動き、部屋の中央の装置の前にバリケードを作った。
「てめえら、未来人たちがだらしがねえのをたなに上げやがってよ! 妙な発明をしやがったやつの先祖の、おれがいけねえんだって? ふざけるな!」
良介は鉄棒を風車のようにふり回して突込んだ。男たちが右に左に|跳《と》び退り、ついで前後左右から襲いかかってきた。良介は必死に鉄棒をふるった。男の一人がはね飛ばされて壁に背中を打ち当て、床に|崩《くず》れ落ちた。一人が声もなくのけぞった。良介の目標は、ただ一人、ヒナ子だけだった。他の男たちはどうでもよかった。
男たちの腕が良介の手足をとらえ、良介は床に引き倒された。右から左から踏みつけられ、|蹴《け》り上げられた。良介は歯をくいしばってころげ回った。すきを見て、一人の足をとらえ、引き倒す反動で|跳《は》ね起きざま、手にした鉄棒を力いっぱい水平に回した。
「うっ!」
「ぐぐっ!」
足の骨をたたきおられた二、三人が、どろ人形のように打ち倒れた。
「さあ、来い! ヒナ子! てめえらにはおれを殺せねえだろう。おれはおめえを殺すことなんか、何とも思っちゃいねえんだ。かくごしやがれ!」
ヒナ子は乱闘の間、良介の動きにじっと目をそそいでいたが、良介の突進に、ぱっと立ち上った。
「まって! 良介さん。それは誤解よ!」
ヒナ子はさけんだ。
「うるせえ! 誤解もへちまもあるか!」
「ほんとうです! あなたは、時間密行者にだまされたのよ! あのシャナという人こそ、未来の破滅世界からやってきた時間密行者なんです。私たちは、シャナや彼女の仲間が、あなたに接近するのを妨げるために努力していたんです」
「だまされねえぞ! もうだまされねえぞ!」
「ほんとうです。私たちは、特定の時代の人たちだけを救うために働いているんじゃありません」
「だが、てめえたちはおれをだました。恐竜時代におれをほうりこんで、おれが恐竜にやられるのを見殺しにしようとした。それから、あの地震だ。おれを殺そうとして、おれの両親や兄貴だけじゃねえ、何十万人という人間を巻きぞえにしやがった」
「それは私たちのやったことじゃないわ! あれはほんとうにおこった地震です」
「口先では何とも言えらあ。くそっ!」
良介は|煮《に》えたぎる怒りをこめて、鉄棒をヒナ子めがけて打ちおろした。その下を飛鳥のようにかいくぐって、ヒナ子が良介にとびついてきた。鉄棒を握った腕に必死に取りすがった。
「やめて! やめて! 良介さん」
良介とヒナ子はからみ合ったまま床に倒れた。良介の両手は、ヒナ子ののど首をつかんでいた。全身の力を腕にこめて締め上げた。ヒナ子は苦しそうにあえいだ。みるみる顔が白くなってくる。ヒナ子の手は、もどかしそうに自分のGパンの|尻《しり》のポケットにのびた。小さな黒い物体を取り出すと、手さぐりで幾つかのスイッチを押した。
45
大学の正門前から駅へ向う繁華街のにぎわいに背を向けて、良介は見知らぬ裏通りへ曲った。それでもなお大学に合格したらしい一団が、入学者のしおりなどというパンフレットを開いて陽気な笑い声をまきちらしながら良介を追いぬいていった。
その笑い声に[#「その笑い声に」に傍点]、良介は[#「良介は」に傍点]、ああおれもあの連中と同じなのだな[#「ああおれもあの連中と同じなのだな」に傍点]、と思った[#「と思った」に傍点]。
ショウウインドーのガラスにジャンパーのえりを立て、ひざのぬけたGパンに素足で運動靴をひっかけた見っともない自分の姿が写っていた。
だが[#「だが」に傍点]、今日はその姿も少しも気にならない[#「今日はその姿も少しも気にならない」に傍点]。
いそぎ足に歩き出したかれを、こんどは三、四人の女子高校生が追いぬいていった。
「あなた。第二外国語、何とる? フランス語? それともスぺイン語?」
「スぺイン語。かれ、第二外国語スぺイン語とったんだって。そのときの教科書やノートくれるっていうのよ」
「いいわねえ。あたしにもそのノート貸してよ」
「ダメ!」
「ほら、おぼえてる? 受験の時あたしたちの十番ぐらい前にいたすてきな人。ヤッチンが休憩時間に辞書借りたじゃない。あの人、受かってたわね。チャンスありそうじゃない。なんだかわくわくしてきたゾ」
キャッキャと笑い声がはずんだ。良介はその声を耳にしながらせまい路地へ入った。その辞書を貸したのは良介だった[#「その辞書を貸したのは良介だった」に傍点]。
二浪のあげく、ようやく良介は大学入試を突破したのだ。暗い浪人の生活は、ようやく終った。父や母、兄はどんなに喜んでくれるだろうか。早く家へ帰って、合格したことを告げたかったが、良介はもうしばらく、この喜びを一人で味わいたいと思った。
裏道をたどっているうちに、良介はふたたびにぎやかな商店街へ出た。どうやらひと駅歩いてしまったらしい。
良介は一軒の小さなスナックに入った。町の青年たちのたまり場になっているらしく、入っていった良介にかれらの視線がよそ者を見るように集中した。
カウンターの席にすわると、白い上っぱりを着たコックらしい男が顔をのぞかせた。
「ハンバーグとコーヒー」
「へい! あれ、なんだか|嬉《うれ》しそうじゃないの」
男は気さくに良介に声をかけた。
「ああ。おれ、大学に受かったんだ。三浪しないですんだよ」
「へえ。そいつはおめでたいや。よし。ハンバーグとコーヒー、この店のおごりだ」
男は張りきって冷蔵庫からハンバーグの材料を取り出した。
「どこの大学、受かったんだい?」
たむろしていた青年の一人がたずねた。
良介は大学の名を言った。
「そいつはいいや。ここにいる、こいつと、こいつもあそこ受かったんだぜ」
青年たちの中の、特に元気そうな二人が良介にちょっと頭を下げた。みんな好い連中だった。良介はすっかり嬉しくなった。
「お待ちどおさま!」
ドアが開いて一人の若い娘が風のように店に入ってきた。はっとするような|美《び》|貌《ぼう》の持ち主だった。
「毎度のことで!」
「ヒナ子には腹も立たねえや」
青年たちは、口ではぶつぶつ言いながらも、女王をむかえる|騎士《ナ イ ト》たちのように、あこがれのまなざしを娘にむけた。
良介の視線が、ヒナ子と呼ばれた娘の視線とぶつかった。娘は深い湖のような目で良介を見つめた。良介も視線をそらさず、娘を見つめた。娘はまぶしそうに視線をそらし、首筋を薄紅く染めると、急に浮き浮きした調子で、取り巻きの青年たちとの会話に入りこんでいった。だが完全に良介を意識している。
きれいなやつだな! おれは何だか、あいつが好きになりそうだぜ。
良介は、目の前に置かれたハンバーグにむしゃぶりついた。
だが、まてよ。おれはあの|娘《こ》をどこかで見かけたことがあるぞ。
良介はハンバーグをコーヒーで流しこみながら、胸の奥底に|湧《わ》いたかすかな疑惑に思いをこらした。
しかし、この店は初めて入った店だし、たむろしている青年たちにも、全く見おぼえがなかった。他人の空似だろう。良介はそう思い直した。
たしかに|逢《あ》ったことがある。どこでだったろうか? ヒナ子という名前も、どこかで聞いたことがある。どこでだろう? なぜ、あいつを知っているんだろう?
良介はハンバーグの味も、コーヒーの香りもわからなかった。何かおそろしく気になるものが胸につかえていた。食い終って、かねを払い、良介はカウンターの前を離れた。
「また来いよ! おれたちの仲間に入らないか!」
青年たちが手をふった。
「ああ。また来るよ」
良介はうなずいてドアに進んだ。
ドアに手をかけた時、とつぜん、良介の体を電撃のように貫いたものがあった。それは|脳《のう》|裡《り》に|灼《や》きついている記憶だった。
そうだ! このドアに手をかけた時、おれの後からナイフが飛んできたんだ!
良介はふりかえった。
だが、ナイフは飛んではこなかった。
青年たちは、自分たちの話題にかえりはじめていた。
「思い出したぞ! ヒナ子!」
良介は、身をひるがえしてヒナ子へ向って突進した。良介はヒナ子の体をとらえた。
「逃さねえぞ! ヒナ子!」
青年たちが総立ちになった。あっけにとられて二人を見つめている。
「おいおい! 痴話げんかなら店の外でやってくれよな。カップをこわされちゃたまらん」
店の親父がさけんだ。
「ちくしょう! よくも」
ヒナ子は襲いかかる良介の腕にすがりつき、良介の耳にくちびるを寄せた。
「良介さん。これでいいんでしょう。あなたは大学に合格したし、あなたのおとうさんやおかあさん、おにいさんも無事なんだし」
「おれの気持ちが許せねえんだ」
「ね。わかって!」
ヒナ子は良介の腕から逃れ、テーブルの向う側に逃げた。青年たちの空気は、あきらかに険悪になっていた。自分たちのアイドルを一人占めにしようとする良介をほうっておけなくなったのだろう。
「おい! おまえ。出てゆけ!」
青年たちの一人が、ポケットからナイフをぬき出した。
良介はドアを背にして、じりじりと後退した。
シュッ、とナイフが飛んできて、ドアにぐさりと突き立った。
良介は外へ逃れた。
良介のひたいから、ほおへつめたい汗がすじをひいて流れた。
良介はポケットをまさぐった。だが、ポケットの中には、タイム・マシンは入ってはいなかった。
ここは良介が大学に合格した世界だった。そのことが、これから先の良介の生活を大きく変えてゆくのだろう。誰がそうしたのかは、ヒナ子に説明されるまでもなかった。
おれは、ただそう思わせられているだけなのではないだろうか? やつらにとって、おれを無害な存在にとどめておくためには、おれを〈大学に受かった世界〉に閉じこめておけばいいのだろう。そうだ! きっとそうだ! これは仮構の世界なのだ。
良介の胸に、新しい怒りが噴き上った。
おれはだまされないぞ! なにがほんとうでなにがそうでないのか、まるで見きわめはつかなかったが、もうこれ以上未来の人間や、未来の世界のつごうで、おれの人生を勝手にあやつられてたまるものか!
良介は戦いはこれからだと思った。どうやって戦ったらよいのか、全く見当もつかなかったが、ほんとうの戦いは、これから始まるのだと思った。
大学へ進むのはやめよう。金物屋の店員として家を手伝うのだ。そうすると、何かが送られてくるはずだ。この前はそうだった。こんども必ず何か起るはずだ。
良介は|大《おお》|股《また》に歩き出した。
酷烈な戦いの予感が背筋を走った。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地から2字上げ](角川書店編集部)
|復讐《ふくしゅう》の|道標《どうひょう》
|光瀬龍《みつせりゅう》
平成14年6月14日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Ryu MITSUSE 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『復讐の道標』昭和56年4月10日初版発行
昭和56年8月30日再版発行