角川e文庫
|征《せい》|東《とう》|都《と》|督《とく》|府《ふ》
[#地から2字上げ]光瀬龍
木立のむこうにそびえるビル街に灯がともった。それが合図のように、|日《ひ》|比《び》|谷《や》公園にも水銀灯がかがやきはじめる。それまで濃い|夕《ゆう》|闇《やみ》の中に沈んでいた|花《か》|壇《だん》が、照明もまばゆい大舞台のように浮かび上った。咲き乱れている菊が光にけむる。ベンチに|憩《いこ》う人たちも、公園をぬけて帰路をいそぐ人たちも、みな一様に銀をおびて名優に|変《へん》|貌《ぼう》する。
自転車に乗った少年が、ハンディ・トーキーでどこか見えない所にいるなかまと交信しながら走り過ぎてゆく。
ベンチによりそった二人連れは、どうやら楽しい語らいではないらしい。男がしきりに話しかけるが、若い女は顔をおおったまま身じろぎもしない。男は当惑したように時おり顔を上げて周囲に視線をはせる。もてあましているのだろう。あるいは気がとがめるようなことがあるのかしれない。
『……ランナー二塁、三塁。あ、投手交代のもようです……』
むこうのベンチから聞えていた|携《けい》|帯《たい》ラジオの声が、そこでぶっつりと切れた。ラジオの持ち主は敗軍のファンらしい。それ以上、聞くに耐えなくなったのだろう。かわって交通情報が流れ出した。
つとめ帰りのOLたちのはずんだ声が通り過ぎてゆく。
「|中尊寺《ちゅうそんじ》、見たらその日のうちに|一関《いちのせき》から|厳《げん》|美《び》|渓《けい》まで入っちゃうのよ。そこで一泊してつぎの日、|鳴《なる》|子《こ》温泉へ行けば」
「|平泉《ひらいずみ》ゆっくり見てさ、一関で泊らない? 夜行でつかれてるもん」
「いっそのこと、一関から|大《おお》|船《ふな》|渡《と》線で|気《け》|仙《せん》|沼《ぬま》まで出て、フェリーで|石巻《いしのまき》へ渡ろうよ」
半月後に迫った|飛石連休《ゴールデン・ウィーク》の相談らしい。かの女たちの去っていった方向には、大噴水が五色の光彩をおどらせていた。
「この間までカンナやサルビアが真盛りだったのに、もう菊ですのね」
「季節が移り変るのは実に早いねえ。ことに私ぐらいの|年《と》|齢《し》になると、歳月のたつのは身に|沁《し》みて感じられるよ」
|三《み》|宅《やけ》|貞《てい》|造《ぞう》はパイプをくわえなおして、光の滝の下に|展《の》べられた花壇に視線を投げた。植えたような銀髪や、首筋のあたりのややたるんだひふに、それなりの年齢を感じさせはしたが、広い肩や、がっしりした胸にはまだまだ壮年の元気さとたくましさをとどめていた。
「ふだんは周囲の風景などに心をとめていることもないのだが。あなたといっしょにこうして歩いていると、花だの木だの、光に照された噴水だのが、とても新鮮に目に入ってくるよ。妙だねえ」
貞造はそう言ってしまってから急に照れたように、ワイシャツのえり元に指を入れてゆるめるふりをした。
「ときどきはお仕事のことはお忘れになって、のんびりなさったほうがよろしいんじゃございません?」
|笙子《しょうこ》は、あえてはなはだ見当ちがいのへんじをえらんだ。
「それなんだが……」
貞造はいったん口を閉じ、それから調子を変えて切り出した。
「|青龍堂《せいりゅうどう》さん。いや、これは商売の話ではないから、笙子さんと呼ばせていただくとしよう。実は、これはまだ会社の|誰《だれ》にも話してはおらんのだが、私は、来年の春には引退しようと思っているのだ」
やや|荘重《そうちょう》な口調が、かれ個人の問題よりはるかに大きな意味内容を示していた。それも当然のことで、三宅貞造のひきいる大コンツェルンは日本の経済界を名実ともに支えている存在だった。貞造はその中核をなす三宅合名の会長として|傘《さん》|下《か》の|厖《ぼう》|大《だい》な企業群に多年|采《さい》|配《はい》をふるってきた。
「あら。たいへんなお話」
笙子は当りさわりなく受けてほほ|笑《え》んだ。貞造の引退に関する感想など、どうのべられるものでもない。
「どうやら後継者も育ったところだし。私もこのへんで楽をしたい。あなたも知ってのとおり、私はやもめだし、子供ももう一本立ちになって会社を切りもりできるようになった。引退するのには少しも心配がないのだが、いざ、引退するとなると、私の身の回りはひどくさびしい」
貞造の顔がふっと曇った。
笙子はハンドバッグを胸にだいて、黙々と貞造にしたがって歩を運んだ。
貞造が、胸に|溜《たま》っているものを、こらえきれなくなったように切り出した。
「笙子さん。どうだろう? 私といっしょになってもらえんだろうか」
淡々とした口調に無言の|愛《あい》|惜《せき》がこもっていた。青年のような相手を圧倒するような激情こそないが、男と女の結びつきについて、ある見通しを持つようになった女性の胸には、しみ通るような説得力があった。
笙子は無言で目を伏せた。
「青龍堂画廊はあなたがつづけたければ、今のまま、つづけたらよい。ただ、あなたには私といっしょに居てもらいたいのだ。二人でのんびりと外国へも行ってみたいし、外国にあなたの気に入った土地があったらそこに住んでもよい」
貞造の言葉には押しつけがましく出て笙子の|機《き》|嫌《げん》を損じてはならぬ、という遠慮がにじみ出ていた。
貞造は、笙子が|銀《ぎん》|座《ざ》で開いている青龍堂画廊の有力な|顧客《こきゃく》の一人だった。かれはこれまでに何回となく、青龍堂を会場とする展覧会のスポンサーとなっていた。かれは浮世絵や明治期の絵画の著名なコレクターでもあり、その批評眼は専門家の間でも高く評価されていた。三宅貞造が笙子の画廊に出入りするようになったのは、画商としての笙子を通じて|画《え》を手に入れるということのほかに、笙子それ自体を自分のものにしたいという熱望があったからでもあった。笙子も、それは十分に感じていた。だから三宅貞造の誘いに応じて、二、三回食事につき合ったことはあるが、のっぴきならなくなるような言動はつとめてさけてきた。
今日は笙子は都内のある有名なホテルでおこなわれた浮世絵の某コレクションの競売会に、三宅貞造を誘ったその帰りだった。画商の鑑札と顔にものを言わせて、いわばアマチュアである貞造にも、二、三品を落させ、その礼に貞造から早目の|晩《ばん》|餐《さん》を|馳《ち》|走《そう》されてのち、散策に出てきた日比谷公園だった。
「いや。これはいかん。自分の気もちばかりしゃべりすぎてしまって。あなたは機嫌をそこねたのではないかな」
貞造は軽く肩をすくめて笙子の顔をうかがった。
「私、お返事に困っておりますのよ」
笙子は涼しい目元に|恥《はじ》らいの色をたたえてほほ笑んだ。
「返事に困る、と言うと?」
貞造の声に、あらためて熱がこもった。
「私、なにか果物、いただきたいんですの。ひんやりした」
「果物ね。ああ。いいとも、いいとも」
貞造は返事をはぐらかされたことに、腹を立てたそぶりもなく、かえって目を細めて遊歩道の|岐《わか》れ道を指さした。
「たしか公園の出口にフルーツパーラーがあったはずだ。それとも、銀座通りへでも出るかね」
「出口にある店でよろしいですわよ」
花壇についてゆっくり回りこんでゆくと、厚い木立の奥から、日比谷通りをゆき交う車の音が聞えてくる。
「冷えたフルーツのあとで、あなたの気持ちを聞かせてくれんかね」
貞造はパイプをくちびるから離すと、薄紫のけむりを吐き出した。それは、魚に合わせて|投《と》|網《あみ》をしぼる呼吸にも似ている。
「あれ、なんでしょう?」
笙子がふと|眉《まゆ》をひそめた。
前方に人だかりがしている。
「けんかかな?」
「もどりましょうか?」
笙子が足の運びを止めた。
「ま、もどるまでもあるまい」
貞造が笙子をかばうように半歩ほど前へ出てうながした。
アベックが引返してきた。
「通行止なんて、いやね」
「でも、来るときまでなかったじゃないか。なんであんな所へ鉄条網なんか張ったんだろう?」
どうやら行き止りになっているらしい。
「夜間工事でもはじめるのかな?」
貞造がつぶやいた。
二人は人だかりの後からのぞきこんだ。
右手の木立から、がん丈な鉄条網がのび出し、遊歩道を横断して左方の木立の暗がりに消えている。地面に打ちこまれた二メートルほどの高さの太い丸太に張りわたされた数本の|有《ゆう》|刺《し》鉄線は、子供でもくぐりぬけることができないだろう。
その鉄条網のむこう側には、公園へ入ろうとしてさまたげられた人々が、こちら側と同じように溜っていた。
「この出口をふさいじまって何を造ろうってんだ? |有《ゆう》|楽《らく》町へぬけるには、この出口がいちばん便利なんだぜ」
若いサラリーマンが不満の声をもらした。
「何を造るんだろうな? この鉄条網では当分、ここは封鎖だな」
実際、それは一日や二日の通行止ではないのだろう。半永久的ともいえる構造と、きびしい拒否を示していた。
しかし、そこから、公園の出口までは遊歩道は多少屈曲はしているものの、直距離で二十メートルほどだった。その、薄く、せまい空間でどのような工事がなされるのだろう?
貞造は別な出口から出ようと言って、笙子の肩をたたいた。
「そうしましょう」
笙子が動きかけたとき、有刺鉄線にくくりつけられた木札が目に入った。
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[#ここから2字下げ]
日本人禁止進去
大清国征東都督府
[#ここで字下げ終わり]
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「なんでしょう? これ」
どうやら、日本人は入ってはいけないという意味らしい。
「たいしんこく、せいとうととくふ。というのかしら」
笙子は、首をかしげた。
貞造はその木札から目をそらし、笙子をうながした。
「さ、行こう」
その目に、一瞬、けわしいものが動き、消えた。
夜風がわたり、樹木の影がゆれ動いて木札を明暗に|隈《くま》どった。
買おうか。どうしようか?
寒くなれば安くなるだろうが、それでは着る機会はほとんどなくなる。来年になればまた新しい柄が出てくるだろうし、流行も変るだろう。
買おうか? でも高いし……
かもめは気に入ったブラウスを、体に当てては考え、考えてはまた体に当ててみた。黒と深黄色とわずかな灰色と赤。もともと派手な顔立ちのかもめにはよく似合った。ウインドケースに置かれた鏡に映っている自分の上半身を、ためつすがめつ思案しているかもめの背後を、青年たちの一団が、熱っぽい関心を示しながら通り過ぎていった。かもめはそんなことには気がつかない。
ようやく決心がついた。
「あのう、これください」
なけなしのかねを払い、デパートのマークの入った紙袋をかかえて売場の前を離れた。
「|元《げん》さん、どうしたろ?」
エスカレーターで上の階へ向った。上の階は雑貨、金物類の売場だった。
ヤカンや|鍋《なべ》のならんでいる|棚《たな》の間を通りぬけると、『日曜大工用具』と書かれた案内板が目に入った。
「どこにいるのかな?」
売場をひと回りすると、|勘定場《カウンター》の前に立っている元の背の高い|後姿《うしろすがた》が見えた。
「いたいた」
近寄ってゆくと、二、三人の女店員がしぶい顔をして元の手元を見つめている。
「どうしたの? 元さん」
わきへ回ってのぞきこむと、元は女店員以上に難かしい顔をしていた。
「見ろ! これ」
元は自分の札入れをかもめの前に突き出した。
「なあに?」
「札入れの中身をすりかえられた」
「中身を?」
なに言ってんだろ?
かもめは元の札入れの中をのぞきこんだ。
十数枚の紙幣が入っている。ぬき出して見ると、見たこともない紙幣だった。
「どうしたの?」
「全くおぼえがないんだ。それに、おれの千円札が四枚、全部消えている」
「そんな! 元さん。ねぼけているんじゃないの?」
「ばかいえ!」
「これ、むかしのお札みたいね。元さん、買ったんじゃないの?」
「ちがうよ。さっき、一階でライターの石を買ったときにはたしかに千円札があったんだ」
元は首をひねった。
「お客さん。どうするんですか? 買うんですか、買わないんですか?」
女店員がうさんくさそうな顔で二人を見た。
「いや。やめておく」
元は追われるようにカウンターの前を離れた。
「お客さん。盗難だったら保安課へとどけるといいですよ」
女店員は、多少気の毒だと思ったのか、元の背へ声を投げた。
元とかもめはたがいにものも言わず、階段の途中の踊場にいそいでそこにある喫煙所のベンチに腰をおろした。
「どこのお札かしら?」
「これまで一度も見たことがない図柄だが」
紙幣は新品に近いものだった。一万円札よりひと回り小さい。紙質はかなり上等なものだが、印刷はやや鮮明度に欠ける。印刷技術が旧式なのかもしれない。それに図柄がひどくクラシックだった。
|淡褐色《たんかっしょく》の|地《じ》の中央に|鳳《ほう》|凰《おう》が白く染めぬかれ、そのつばさの端が|唐《から》|草《くさ》模様のように紙幣を|縁《ふち》どり、それに抱かれるように左右に二個の人物像を配している。
右の人物は舟形の|元《げん》|帥《すい》帽に大礼服。左右の肩から|脇《わき》へ|綬《じゅ》を帯び、胸には全面あますところなく大小の勲章をつるしている。目は細く、眉が長く、女のように小さなくちびるをさらに小さく見せるのは、鼻下からくちびるの両端へ、八の字に垂れた細いひげだった。そして、元帥帽の下からは、少女のお下げのような長い|弁《べん》|髪《ぱつ》がのぞいていた。
左の人物は、|肋《ろっ》|骨《こつ》のついた黒っぽいつめえりの軍服を着、髪を七三に分けた、|面《おも》|長《なが》の中年の男だった。
裏を返すと、中国風の壮麗な建物が単色で描かれてあった。
「どこの国の紙幣だろう?」
元の目が、紙幣の表面の上縁にならんだ四角な文字に吸いよせられた。
〈大清国征東都督府法幣 一円〉
裏には〈都督府経済部、大都督証認〉とあり、それを示す朱色の大きな印が刷りこまれていた。
元はしばらくその紙幣をぼんやりと見つめていた。
元が|仲《なか》|御《お》|徒《かち》|町《まち》の裏通りで古物商を始めてから、もう十数年になる。元に言わせれば古美術商というところなのだが、およそ古美術品に類するものをあつかうことなど、年に一度有るかなしだ。間口二|間《けん》にたりない店にならべている品物も、不ぞろいの|組《くみ》|皿《さら》だの、塗りのはげた|文机《ふづくえ》、傷だらけの碁盤、虫喰いだらけのかけ軸だのばかりで、|金《かね》|目《め》のものなど何ひとつないありさまだ。たったひとつ置いてあるガラスの飾り戸棚の中には、|錆《さび》の浮いたような古い勲章。銀メッキの小さな仏像。それに|緑青《ろくしょう》だらけの貨幣などが、いつもうっすらとほこりをかぶっている。
「こいつはこれまで全く知られていない紙幣だぜ」
「でも、それがどうして元さんの札入れに入っていたの?」
かもめにとっては、その札とすりかわってしまった四枚の千円札の方がよっぽど問題なのだ。
元はかもめには|応《こた》えず、世界の古紙幣に関する自分の知識を動員していた。
清国とあるからには、これは先ず疑いようもなく、一六三六年から一九一二年の間の|清朝《しんちょう》時代の紙幣であろう。だが、このような紙幣が発行されたという記録は全くない。
試作品が流れ出たのだろうか? しかし、試作品としても、それが今の東京で十数枚もまとめて手に入るということはほとんど考えられない。
偽造だろうか? 考えられないことはない。古紙幣の中でも、とくに値うちのあるものなら、偽造してでも自分のコレクションに加えたいと思うような超マニアもいるだろう。ましてそれが高価に売買されるものなら、悪心を起すような者もいるかもしれない。
元の心はしだいにそれにかたむいてきた。
「歩こう」
元はかもめの肩を押して階段を|降《くだ》った。
「これは偽造だと思う。実際に存在しない古紙幣や切手などをこっそり印刷して、知識のとぼしいアマチュアに高価で売りつけるような悪いやつがいると聞いている。この紙幣はたしかに存在していないものだ。これを作ったやつは、追われるかなにかして危険を感じておれの札入れに入れたんだと思う」
「でも、元さん。それには一度、元さんの札入れをすり取って中身を交換して、また札入れを元さんのポケットにもどす、というめんどうなことをしなければならないじゃないの。そんなこと、するかしら? 自分の作ったにせ札をかくすなら、なにもそんなことをしなくともかくす場所はたくさんあるでしょう」
かもめは、まだ元が、自分にだまって古紙幣を買い求め、|有《あり》|金《がね》をはたいてしまったばつの悪さに、そんなことを言っているのではないか、と疑っている。
「おれの札入れをすり取って、中に入れておいた、というのは、たしかにおれにもちょっと不自然に思えるんだが、どうもこいつはそうとしか考えられないよ」
「そうかなあ?」
「もし、そうだとすると、やったやつはこの紙幣をとりもどしたさに、またおれのポケットをねらうだろう。しばらくようすを見よう」
元はかもめの気もちなどにはかまわず、かもめの背を押してどんどん階段を降った。もうそうなっては元にしたがうほかない。かもめは背を押されるままに足を運んだ。
混み合うデパートを出て、横断歩道をわたり、雑踏する街路をバスの停留所へいそいだ。買物をしたら、久しぶりにレストランで食事をしようと考えていたかもめは、大むくれだった。
店の奥の、元たちが帳場と呼んでいる二畳の畳敷にすえた小机に向かって、元は分厚いバインダーを開いていた。それは古物商組合の有志が作っている研究会から、時おり送られてくるパンフレットのとじこみだった。そのパンフレットは商品知識と、コレクターの傾向などについて多くのページをさいていた。|近《ちか》|頃《ごろ》は古い硬貨や紙幣のコレクションがアマチュアにまでおよんできて、その手の品がよく動いた。しかし種類もはなはだ多く、それに加えて珍品やら偽造物やらで、あつかうにはよほどの知識が必要だった。それだけに研究会のパンフレットは重要な資料だった。
「やはりこの札は偽造らしいな。研究会のカタログには出ていないよ」
元は手にした拡大鏡を投げ出した。
「しかし、これは悪質な偽造だな。組合にも知らせておいた方がいいかもしれない」
奥の部屋との境ののれんを割って、かもめが顔を出した。
「大がかりにやっているのかしら?」
「ここにある十六枚が、全部のナンバーがちがっているんだ。これは相当大がかりにやっているぞ」
偽造物はたいていナンバーが同じだ。精巧に作るためには、ナンバーだけを打ち直すというわけにはいかない。
「外国製かしら?」
「さあ、なんとも言えないが、おそらく国内だろう。これだけの古紙幣が作りだせるというのは一流の技術を持っている組織だ」
「それなら、今の一万円札や五千円札、千円札などを作っているんじゃないかしら?」
「そうかもしれない」
「それなのに私たちの千円札、持っていっちゃうんだから?」
かもめはにわかに、あらためて怒りを爆発させた。
「元さんがいけないんだ! お札入れをすりとられても気がつかないんだから!」
「わかった、わかった!」
「どうなんだか!」
かもめはくやしそうに下くちびるをかみしめた。小さな糸切歯がのぞいた。
「ほんとうにおまえさんの言うとおりだ」
「しらない!」
かもめは引込んだ。
|新宿《しんじゅく》の|角《つの》|筈《はず》で|彫美堂《ちょうびどう》という古美術商を開いている|徳《とく》さんは、古紙幣の売買では経験が深い。元はダイヤルを回した。
出てきた徳さんに、元は今日の出来事を話した。
「元さんよ、清国の紙幣は、おれは全部あつかったが、そんな図柄のやつはねえなあ、そいつあ、おおかた偽造だぜ。元さんの札入れをすり取って、もう中へ入れてまた返してよこしたというのはにくいじゃねえか。それはきっと、スリのグループがからんでいるな。偽造グループとスリのグループがはじめはつるんでいたが、そのうち、なかが悪くなって偽造グループのあることを世の中に知らせたくて偽造紙幣をひとの札入れにしのばせたんじゃねえかな? よくあるんだよ」
徳さんはそのへんの陰の事情にも通じていた。
「それなら警察に送ればいいじゃないか」
「そうも割切れないんだな。悪いやつにも悪いやつなりの仁義があってな」
「自分で|密《た》|告《れ》こむのはいやだが、|他《ひ》|人《と》がやるならいいってわけか」
「まあそんなものだ。直接、お|上《かみ》の手伝いはしたくねえってわけよ」
「どうしたらいいかな? この札」
「元さんが警察へ届けるというならしょうがないが、そうでなかったら、元さん、その札、おれにゆずってくれないかな?」
「徳さん、いるのか? こんなもの」
「偽造物のコレクションもあるんだ。むろん、ただとは言わないよ。な、おれにゆずってくれよ」
徳さんはかなり|執心《しゅうしん》のようだった。
「いいよ。やるよ。どうせ、おれのものというわけじゃない」
徳さんは電話機のむこうで声をはずませ、礼の言葉をくりかえした。
「じゃ、明日、元さんの所へ行くよ。ありがとうよ」
偽造物のコレクションというものもあると徳さんは言ったが、徳さん自身がそのコレクターであるとは思えない。どこかで|美《う》|味《ま》い汁を吸うのだろう。
元はにやりと笑って受話器をおいた。
元は、ふとめざめた。
カーテンのすき間から|射《さ》し込んだ街路灯の光が、室内をほの白く浮き上がらせていた。時計を見るまでもない。朝の光にまだ遠い。
何か物音が聞えたのだろうか? 元はまくらに頭をつけたまま耳をすませた。|昭和通《しょうわどお》りを走る自動車のひびきが|潮《しお》|騒《さい》のようにつたわってくる。それはふだん|聞《きき》|馴《な》れた物音だった。それが眠りをさまたげるはずはない。
なんだろう? 元はひどく気になった。
深い休息の|淵《ふち》に沈んでいた元の神経に、電撃のような衝撃を与え、波紋のような不安をもたらしたその原因が、元の心に|翳《かげ》を落した。
室内には|静寂《せいじゃく》が満ちていた。棚の上の置時計が小刻みに時をきざんでいた。カチリ、とかすかな金属音につづいて、電気冷蔵庫が低く鳴りはじめた。
かもめが口の中で何か言うと、寝返りをうってきた。あたたかい乳房や腹が元の体に密着し、夜具からぬき出した裸のうでが胸から肩にのびてきた。甘い吐息が元の首筋をくすぐった。
元はそっとかもめのうでをはずし、夜具からすベり出た。まくらもとに脱ぎ|棄《す》てておいたシャツに手をのばしたが、やめてブリーフ一枚の姿でたたみの上を|這《は》った。ひと間きりの部屋は、古障子で店と仕切られている。
元は障子に這い寄った。破れ穴から店の内部をうかがった。
店のおもてはガラス戸で、|汚《よご》れた古い|木《も》|綿《めん》のカーテンを張ってある。そのカーテンごしにさしこむ街路灯の光で、店の中は相当あかるい。
帳場に一個の黒い影がうずくまっていた。書類入れに使っている小さな木の本箱のひき出しをまさぐっている。
元は、はね起きざま一挙動で障子を押し開いた。
「だれだ!」
影は一瞬、|跳《は》ね返った。元は帳場のすみに立てかけておいた古い木刀を握った。
「こんなことじゃないかと思ったぜ。あの偽造古紙幣をとりかえしにきたんだな!」
壁のスイッチを手さぐりする。とたんに黒い人影は突風のように襲ってきた。元の木刀がうなりを生じたが、ほんのわずかに遅れ、元ははじきとばされて壁に背中を打ちつけた。|唐《から》|金《かね》の仏像がけたたましい音をたてて倒れ、重ねてあった組皿が|微《み》|塵《じん》に砕け散った。起き上ろうとする元の首に太いうでがからんだ。木箱が倒れ、壁につるした|陣《じん》|傘《がさ》が落ちてきた。
「元さん! 元さん!」
かもめがさけんでいた。
「電灯をつけろ! 電灯をつけろ!」
元は声をふりしぼった。
店の中があかるくなった。元の視野のすみで、かもめの白い裸の体が動いた。元にのしかかっていた黒い影が苦痛のうめきをもらすと、急に元の呼吸が楽になった。くずれ落ちてくる体をおしのけて立ち上る。
「たすけてくれ!」
若い男だった。後頭部の頭髪の間から血が|湧《わ》き出してジャンパーのえりもとへ流れつたってゆく。その髪をつかんで、電灯の方へ顔をねじ向ける。全く見おぼえのない顔だった。
「だれだ? おまえは?」
「か、かんべんしてくれ! たのまれただけなんだ」
「|誰《だれ》に、何をたのまれたんだ?」
「おれの知らないやつだ。この店へしのびこんで古い紙幣を盗んでこいといわれた」
「そんな話を信用すると思うか?」
「ほんとうだ! 五万円くれた。盗み出したらもう五万円くれることになっている」
「どこでたのまれた? 言え!」
「駅前のパチンコ屋でだ」
元の平手打ちがつづけざまに男のほおへとんだ。男のくちびるが切れ、あごが血に染った。
「まだシラをきる気か! 見も知らぬ人間に前金を渡して、それでトンズラされたらどうなるんだよ。そんなたのみ方をするやつがあるか! ほんとうのことを言え!」
ふたたび男のほおが痛烈に鳴った。男の目が焦点を失ってきた。
「言うよ! 言うから、や、やめてくれ! |上《うえ》|野《の》町一丁目に住んでいる|島《しま》|本《もと》というやつだよ」
「島本?」
「いなり|荘《そう》というアパートに住んでいる」
「おまえの|友《だ》|達《ち》か?」
「つき合いはあるが、|友《だ》|達《ち》じゃねえ」
「そいつが古紙幣を偽造していやがるのか」
「おれはなにも知らねえんだ」
どうやらこの男は使われただけらしい。元は男を突き離して立ち上った。そのすきをうかがっていたのか、男はやにわに身を起すと、床に散乱していた古紙幣をさらい取り、店の戸口へ向かって走った。
「まて!」
しまった! 元があとを追うより早く、かもめの手から木刀が飛んだ。木刀は元の耳もとをかすめ、男の後頭部の傷を|真後《まうしろ》から正確にえぐった。男は苦痛のうめきを上げ、体をねじって土間に沈んだ。ならべてあった品物が男の上になだれのようにくずれ落ちた。
「|観《かん》|回《かい》|堂《どう》さん! どうかしましたか!」
「元さん!」
店のおもてで足音とさけび声があわただしく入り乱れた。
「おっ、戸があいているじゃないか」
カーテンのかげで、ガラス戸がガラガラと引きあけられた。物音に目をさました近所の人がかけつけてきたのだ。かもめはあわてて奥の部屋へかけこんだ。
「元さん! どうした? どろぼうか?」
「見ろ! 男が倒れているぜ。元さん、こいつがどろぼうか!」
「一一〇番に電話しろ」
右どなりの|魚《うお》|金《きん》の|親《おや》|父《じ》、左どなりの雑貨屋の|息《むす》|子《こ》。向いの電気工事店の泊りの若い衆、みな血相変えている。
「さすが元さんだ。このやろう、|泡《あわ》吹いてぶったおれているんじゃねえか。けがはなかったかい?」
「ありがとう。大丈夫だ」
「それにしても、元さんの店をねらうとはもの好きなやつもいるもんだ」
魚金の親父が|真《ま》|顔《がお》で言った。つい本音を|洩《も》らしたというところだ。
「かもめちゃん、大丈夫だった?」
雑貨屋の息子はだいぶ前から、かもめに夢中になっている。この|界《かい》|隈《わい》では、かもめは元の妹ということになっている。
そこへかもめが出てきた。GパンにTシャツ。寝乱れた髪を白いハンカチで結んでいる。
「たいへんだったね。でも無事でよかった」
魚金の親父がかもめの肩をたたいた。雑貨屋の息子が息をはずませてかもめのかたわらに移動する。
パトカーの|警笛《ホ ー ン》が急速に近づいてきた。店の前で止ると、緊張した面持ちの警官がかけこんできた。遠く近く、パトカーの音が聞える。あちこちから人がかけ集ってくる。大さわぎになった。男は救急車で運ばれていった。元は胸の中で舌打ちした。男が逃げようとさえしなかったら、あれで放免してやるつもりだった。
刑事らしい背広やジャンパー姿の男たちが何人ものりこんできた。かれらは今夜はひまだったのかもしれない。
押し入った男が、傷を負っているのが刑事たちに多少の疑惑を抱かせたらしい。それも後頭部だ。
「その男が逃げようとしたところを、後から打った、のかね」
元は、発見と同時に男にとびかかられ、首をしめられたことを説明しなければならなかった。
「そこを、この人、ええと、かもめさんだね。あなたが木刀で男の頭を打った。なるほど。で、その男が戸口で倒れていたわけは?」
追及がきびしい。元は、男がすきを見て逃げようとして転倒し、ふたたび頭部を打ったと説明した。
「なにか特にねらわれたというようなものは?」
刑事はガラクタの山のような店内を見回した。
「ないね」
自分で判断して手帳に何か記した。
「ええと……」
別な刑事が横から口をはさんだ。
「|二《に》|階《かい》|堂《どう》元さん。三十五歳。こちらは奥さんですか?」
「いや。妹……です」
「そりゃ、どうも。お名前は、かもめさんでしたね。二階堂かもめさん……と」
「妹は……」
元は一瞬、|戸《と》|惑《まど》った。連中は調べるかもしれない。
「妹は……|稲《いな》|村《むら》かもめです」
元はとっさにいつか、|鎌《かま》|倉《くら》の|稲《いな》|村《むら》が|崎《さき》で見た白いかもめを思い出した。だが、口にしてからひやりとした。
「ちょっと事情があって姓がちがうんですよ」
「そうですか」
刑事は別に気にするようすもなく、手帳を閉じた。
その間に店内では指紋やら遺留品やらの調査が進んでいた。たっぷり時間をかけ、ようやくかれらが引揚げていったときは、もう朝はしらじらとあけそめていた。
忍びこんできた男の目的が偽造古紙幣にあったということは、元は刑事たちには言わなかった。元は男の手から奪い返したそれを、ビニール袋に入れて台所の流しの|後《うしろ》におしこんだ。
朝めしを食っていると、また刑事がやってきた。あの騒ぎの時にかけつけてきた中に居たかどうかはわからなかったが、すでに聞き取っていったはずのことを、ふたたび最初から克明にたずね直しては手帳と引き合わせていた。
「すると、あなたか犯人に首を締められたので、妹さんが犯人の頭を木刀で一撃した、とこうですな」
「その点はよく説明したはずだが」
「ええ。聞きました。たびたびでどうも」
「ところで、犯人はおもてのガラス戸を破って、そこから手を入れ……」
元はうんざりした。警察のやり方はいつもこうなのだ。非能率的なことおびただしい。めしも汁もすっかりさめてしまった。
ようやく刑事は帰っていった。
それから一時間ほどたった頃、店のおもてにパトカーが|停《とま》った。|風《ふう》|采《さい》の上らない地味な背広姿の二人連れが店に入ってきた。
「いやあ、今朝は早々と大変でしたな」
一人は見覚えのある顔だった。かけつけてきたときは、汚ないジャンパーを着ていた。
「犯人は上野町一丁目の、いなり荘というアパートに住んでいる島本という男にたのまれたと言っているんだが、あなたはその男を知っていますか?」
言葉はおだやかだが、目の奥には、氷とも|鋼《はがね》ともつかぬものが冷たく|冴《さ》えていた。
「いや。全く知りません。だが、どろぼうをやとってまで手に入れたいような品物など、うちにはあるわけがないんだが」
「以前にその島本といさかいがあったとか、うらまれていたとかいうようなことはありませんか?」
もう一人の、若い方がたずねた。元は強く否定した。刑事はちょっとがっかりしたようだったが、それでも愛想よく礼を言って、パトカーヘひきかえそうとした。
「どうも御苦労さん。あなたがたの前にも一人、刑事さんが来ましたよ」
二人の刑事はいぶかしそうに視線を|交《かわ》した。
「私たちの前に来た?」
「ええ」
「おかしいな? どんな刑事でしたか?」
どんなと聞かれても目立たない顔で、地味な背広を着ているどこにでもいるような男では説明にもならない。
「|今《いま》|西《にし》くんかな?」
弱り切った元から視線をはずして二人は顔を見合わせた。
「今西くんは、|大《おお》|井《い》町の件で出かけているはずですよ」
「|白《しら》|石《いし》さんがこっちへ様子を見に回ってきたのかな」
「どうですかねえ」
二人の刑事は、それで話を打ち切り、元にあいさつをして店から出ていった。
帳場に立っていたかもめのほおが緊張していた。
「元さん。今の、どう思う?」
「かもめちゃんは?」
「さっき、一人で来たの、にせ刑事だったんじゃないかしら?」
「そうかもしれないな」
「きっとそうよ」
「失敗の程度をさぐりに来たのだろう」
「あいつが、島本かしら?」
「本人なのか、それとも島本とグルになっているやつなのかわからないが、ちょっとしっているようだな」
元はかもめに店を閉めさせ、二人で外へ出た。国電の御徒町の駅をぬけ、バス通りをこえて上野町へ入った。
いなり荘はすぐわかった。
公団タイプの鉄筋コンクリートだが、建てられてから十年以上たっているとみえ、灰色にくすんで、かなり古びている。補修もろくにしていないとみえ、ベランダの手すりなども、すっかり|錆《さ》びている。
三つある階段の下の住居表をひとつひとつ見ていった。いちばん奥まった階段の四〇二号室の島本というのがそれらしい。
せまいほこりだらけの階段を上る。階段や廊下には、なわでくくった段ボール箱だの、木箱、あき|罐《かん》などが乱雑に積み重ねてある。鉄のドアにとりつけられた居住者の名札のほかに、たいてい、なになに商事とかなになに金融などというもう一枚の名札が|貼《は》られている。どうやら、この古びたアパートは今では専用住宅とは名ばかりで、最小規模の会社群の|巣《そう》|窟《くつ》ともいうような状態におかれているらしい。
「ここよ」
かもめがささやいた。
ドアの横にブザーの押しボタンがあった。何度押しても、ドアは開かなかった。
元は一階に、管理人室と書かれたドアがあったことを思い出した。
階段を降りて、そのドアをたたいた。作業帽をかぶった初老の男が顔を出した。
元は、四〇二号室の島本をおとずれてきたのだが……と切り出した。
「夕方の列車で|故《く》|郷《に》へ帰る予定なので、今、島本さんの居る場所がわかったら教えてほしいのだが、ひと目、会って帰ろうと思って」
元は残念そうに言った。
「そうかい。それはどうも気の毒だな。島本さんはね、ゆうべ、引越したよ。医療器機の代理店のようなことをやっていたようだったが、うまくゆかなかったようだ。だいぶ赤字を背負いこんだとか言っていた」
「どこへ引越したんでしょうか?」
「さあ。わからないね。聞いたんだが、言わなかったよ。郵便物などは棄ててしまってくれと言っていたが。乱暴な話だが、移転先を人に知られたくない、何かよっぽど事情があったんだろうね」
逃げたな! 元は口の中で舌打ちした。かれは危険が身に迫ったのを感じて、早くもゆくえをくらましたのだ。元の店での騒ぎを、どこかで見ていたのかもしれない。手先に使った男が|逮《たい》|捕《ほ》されたのを知っていたのだろう。
元は、もはやここに立止っていることは許されないのを感じた。しかし、この機会を|無《む》|駄《だ》にはできない。
「あの、島本さんにはもう二十年近く会っていないのだけれども、今はどんなようすですか? 前は枯木みたいにやせている人だったけれども」
管理人は、とんでもないというように首をふった。
「いや。あんた。島本さんはでっぷりふとっていてね。頭は少し薄いが、|貫《かん》|禄《ろく》があってさ、そう言っちゃなんだが、いいかげんな商売をやっている人には見えなかったね」
管理人の男は遠慮のない言い方をした。
「そうですか。そんなにふとりましたか。もう幾つになるかなあ。五十歳ぐらいかな」
管理人は不審そうに元を見かえった。
「五十てことはねえなあ。七十ぐらいじゃないかね。顔の|色《いろ》|艶《つや》なんかいいから、ちょっとは若く見えるが、それにしても、六十より若くはないぜ」
「そうだ。七十近いはずだ。二十年ぐらい前に四十代の半ばだったんだから」
元は|納《なっ》|得《とく》したようにうなずいた。
「そうだろう。血色のよい、上品なじいさんだぜ」
「ところで島本さんは、このアパートヘ来るまで、どこに住んでいたんでしょうか?」
「それはわからないよ。アパートの持主だって、そこまでは聞かないだろうから」
「本籍地なんかわからないだろうな?」
元は、たずねるともなくつぶやいた。
「あんた。なにか調べにきたのかね?」
管理人は急に警戒の色を浮かべた。
これ以上の追及はあやしまれる。元は礼を言って管理人室を離れた。
島本の手がかりは完全に失われた。偽造古紙幣も、どこで、誰が、どんなやり方で作ったものか、どれだけの枚数が流されているものか、いっさいはあきらかにされることなく、|闇《やみ》から闇ヘ消えてゆくのだろう。
やはり警察に告げるべきだったかもしれない。いくら徳さんのたのみとはいえ、あれほどの精巧な偽造古紙幣を、その存在を知りながら見逃してしまうのは、良心の痛みをともなった。元の胸に、ほろ苦い後悔が|湧《わ》いた。
知識のとぼしいコレクターや初心者が、ひっかかって大金をはたかせられるはめになるのだろう。それは美術愛好家が、にせもののセザンヌをつかませられたり、去年描かれたドガを買わされたりするのとは本質的にちがう。この世に存在しなかった『清朝の古紙幣』は模写ですらないのだ。
それに、今ひとつ、元はどうしても知りたいことがあった。それは、なぜ自分の札入れにそれを入れたのか? ということだった。確実なことは、わずか四枚の千円札が欲しいために、おこなった作業ではないということだった。元は、そこに何か、大きな理由があるにちがいないと思った。
だが、もうだめだ。
元は、はなはだ|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》だった。そんな時の元には、かもめも口をきかないことにしている。二人は黙々と店へもどった。
その翌日の夕方だった。
店の前に一台の車が止まった。ドアが閉るにぶい音が聞え、軽やかな足音が店へ入ってきた。携帯テレビの小さな画面に吸いつけられていた元は、その気配に顔を上げた。
「あ、笙子ちゃん!」
ほの暗い店の中の、すすけた仏像や破れ|屏風《びょうぶ》の間に立って、笙子は|燦《さん》|然《ぜん》と輝いて見えた。
元はいそいでテレビのスイッチを切ると、自分の敷いていた座ぶとんを裏返して、笙子にそこへかけるように言った。自分は、何年か前まではそれでも商品のひとつだった古い|籐《とう》|椅《い》|子《す》のほこりを払い、帳場の前へ引きずってきてそれに腰をおろした。
「どろぼうに入られたんですって?」
「あれ? どうして知っているの」
「今朝、かもめちゃんから電話がかかってきたのよ」
笙子はかかえていたハンドバッグを置くと、和服のひざを軽く組み、それがいつものくせの、両手をそで口に入れて胸を抱いた。
同じ和服を二度と着たことがない、とうわさされる、この銀座の画廊の女主人は、今日は銀ねずの|無《む》|地《じ》のお召に、|鉄《てつ》|錆《さび》色の|染《そめ》|皮《かわ》の帯を|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に締めていた。後に丸く|束《たば》ねただけの髪に、かんざし代りに一本差し通した|白《しろ》|珊《さん》|瑚《ご》の|箸《はし》が憎い。
元がふがいなく|萎縮《いしゅく》してゆく自分を感じた。
「それがどうも、納得ゆかないことが多くて……」
「清朝の偽造古紙幣なんですってね。めずらしいじゃない。ちょっと見せてもらおうと思って」
「へえ! 個人としての趣味の問題かい? それともそっちの方まで手がけようってのかい?」
「そのどちらでもないわね」
どちらでもないと言いながら、笙子は異常な熱心さで紙幣を調べた。
「元さん。これ、一枚、私にちょうだいな」
「いいとも、徳さんが、ほら、新宿の彫美堂の徳さんだよ。かれがね、この紙幣をくれと言っているんだよ。でも、全部やると言ったわけではないから、笙子ちゃん、欲しいだけ持っていっていいよ」
笙子がふと、形のよい|眉《まゆ》をひそめた。
「徳さんがどうしてこれを?」
「偽造紙幣のコレクションをやっているというんだが、なあに、そうじゃないよ。どこかへ流そうというわけさ」
「そう」
笙子はごく短い間、なにか考えていた。
「その島本という人について、もう少し知りたいわねえ」
「やっぱり気になるかい?」
「なんとなくね。いいわ。|山《やま》|崎《ざき》くんに調べてもらうから」
山崎というのは、笙子の画廊で事務をとっている青年だ。
「あら、お姉さん!」
買物かごを提げたかもめが、大仰な身ぶりで店へ入ってきた。かもめは笙子をお姉さんと呼ぶが、この二人は顔立ちも気質も、似ているところは全くない。似ていないのも道理で、この二人は決して姉妹ではない。
「お野菜、また高くなったわね。見て! こんなホウレンソウがさ……」
わらしべでくくられた貧弱な束を、かもめは目の前へかざして見せた。
「お大根だって、ほら!」
これで、いくらいくらなのよ、と肩をすくめた。
「…………」
いやあねえ。笙子も眉を曇らせて|応《こた》えたが、こちらはそういうことにはあまり実感がもてないでいる。
「お姉さん。ごはん食べていって」
かもめは土間ヘサンダルを脱ぎとばすと、もう帳場へ上っていた。
「あ、かもめちゃん。いいのよ」
笙子は、これから出かけるところがあるのだという。
「でも、いいじゃないか」
引き止める元を笙子はさえぎった。
「これからちょっと三宅さんに会わなければならないの」
元は露骨に|嫌《いや》な顔をした。
かもめが、帳場と居間の境ののれんを頭で割って顔を出した。
「でも、すぐ作るわよ! 三宅さんに会うの、何時?」
「八時なの。時間はまだあるけれどもね。その前にちょっと美容院に行きたいし」
かもめがそのひとことを聞きのがすはずはなかった。
「長かったねえ。三宅さんも。翼よ、あれがパリの灯だ! か」
「ばかおっしゃい!」
元はやたらにライターをカチカチと鳴らしていた。
「このところ、商売のことで三宅さんに会うことが多いのよ。ゆうべもね、入札のあとで……」
笙子は三宅と日比谷公園を歩いたことを口にのぼせ、ついで話の内容は公園の入口をふさいでいた鉄条網に変った。
「今朝の新聞、見た?」
「見たけれども」
「その鉄条網のことが出ているの。いたずらなんですって!」
「いたずら?」
「公園の管理係でも、都の方でも全く知らないことなんですとさ。誰かがいたずらしたんだって」
「へえ! それにしてもやるわね。作業服を着て、ヘルメットなんかかぶってやられたら誰だって本気にするじゃない」
「警察でも悪質ないたずらということできびしく調べているそうよ」
かもめは自分もやりたそうな顔をした。
笙子は腕の時計に目をはしらせ、あらあら、もうこんな時間、などと言いながら立ち上った。
かもめは、バイバイと言いながら、手にしたホウレンソウをふった。元はむっつりと見送った。
笙子は、形よく腰から|座席《シ ー ト》にすべりこむと、白い顔をこちらに向けて軽く|会釈《えしゃく》した。黄色いフェラーリはたちまち二人の視野から消えた。
かもめが台所に引き上げてゆくと、元は朝刊をひろげた。今朝ひらいた時は目にとまらなかったが、社会面の片すみに、笙子が|遭《そう》|遇《ぐう》したという小さなできごとが、囲み記事で報じられていた。
〈日比谷公園、封鎖さる?
昨夕、日比谷公園の日比谷通り南側入口が鉄条網で封鎖され、通行ができなくなっているのを発見した入園者が不審に思い、公園管理室にたずねたところ、管理室でも全く知らぬできごとであり大さわぎになった。鉄条網は長さ約三十メートル、高さ二メートルの|頑丈《がんじょう》なもので、敷設した作業員も見当らず、また、工事責任者も判明せず、結局、悪質ないたずらとわかった。入園者の話によると、一分ぐらいの間に設けたものらしいというが、作業には少なくとも数人の人数がなければ、また作業のためには二、三時間を必要とするものとみられるが、その目撃者もないまま、公園管理室では首をかしげている。通報を受けた日比谷署では、道路交通法違反の疑いもあるとして捜査にのり出した〉
いたずらとして考えれば、これほど大胆で人の意表を|衝《つ》くようなものはなかった。だが、長さ約三十メートル、高さ二メートルの鉄条網といえば、これは土木作業だ、とても|素《しろ》|人《うと》の手に負えるものではない。労力ばかりではない。材料費も相当かかる。いたずらにしては規模が大き過ぎる。元は奇妙に不自然なものを感じた。なにかえたいの知れぬ意図がそこにかくされているような気がしてならなかった。
深い眠りの底で、電話のベルが鳴っていた。それはいつ終るともなく、断続して鳴りつづけていた。感覚のほんのわずかな部分だけがそれを知覚していたが、意識ある動作をよびさますにはいたらなかった。そのまま、また数秒の間、完全に眠ってしまったらしい。そのつぎに気がついたのは、かもめが電話に応対している声だった。
「……もしもし……ちょっと待って下さい……もしもし……もしもし! あ、切っちゃった」
かもめが悲鳴のようにさけんだ。
「どうしたんだ?」
ただならぬ気配に、元は首をもたげた。
「元さん! たいへん!」
すがりついてくるかもめのうでははげしく震えていた。
「なにごとだよ? しっかりしろ!」
「元さん! 笙子ちゃんが……笙子ちゃんがゆうかいされたわ」
「ゆうかい? |誰《だれ》に?」
「返してほしかったら、あの清朝紙幣をそっくりそのまま持ってこいって。場所は明日の朝、午前七時、日比谷公会堂の正面入口の石段の上だって」
元は、ひたいを|棍《こん》|棒《ぼう》で強打されたような気がした。一瞬、耐え切れないほどの滅失感が襲ってきた。完全な敗北だった。かれらのやり口はあきらかにプロのものだった。このような事態におちいるおそれがあることなど、元は考えてもいなかった。古紙幣は、自分のところで守り切れればそれでよいと思っていたし、事実、それは成功した。だが、それはどうしても手に入れたい、もどしたいと考えている連中にとっては、|手《て》|段《だて》は無数にあるし、とってはならないという方法があるわけでもなかった。
「電話をかけてきたのは男か? 女か?」
「男よ。それも若くはないわ。言葉づかいもていねいだったし、落着いていたわ。いかなる性質のものであっても、第三者の介入は絶対に認めない。だって、なんだか自信たっぷり」
ちくしょう! かれ、またはかれらは、笙子と元たちの関係まで調べ上げ、要求に必ず応ずるだろうという確信をもって|挑《いど》んできたのだ。笙子がほんとうに捕えられているのか、どうか、たしかめる必要などもはやなかった。
元は頭をかかえた。偽造古紙幣は少しも惜しくはなかったが、このような方法で奪い返されることにがまんがならなかった。
それに、もし笙子の身にもしものことがあったら、紙幣を奪い返されるどころの話ではない。
元は傷ついた|海象《セイウチ》のように|吠《ほ》えた。
山崎は、青龍堂画廊の事務室で、一人デスクに向っていた。元もかもめも、この男が眠っているのはもちろん、食事をしたり湯茶を飲んでいるところも見たことがない。もちろんデスクから離れているとこさえ、目にしたことがないのだ。
「きみ! えらいことになった」
息をはずませる元に、山崎はいつもと少しも変わらない顔を向けた。中高な顔に、目が小さく眉も薄い。しゃべる時も、ほとんどくちびるを動かさない。それがこの青年をひどく陰気臭く見せるが、性格がそうなのかどうかはわからない。
山崎は、またたきの少ない小さな目を、元の顔に|据《す》えた。
「こちらへも電話がありました。あなたへも同じ内容の電話をかけると言っていました」
「笙子ちゃんは、おれが責任をもって必ずとりかえす」
「なにか手伝うことは?」
「今はない。なに、あの偽造古紙幣と引きかえに、笙子ちゃんを引き取るだけだ」
山崎は元の顔から視線をそらし、両手の指を軽く組んでデスクの上に置いた。
「笙子ちゃんは、ゆうべこれから三宅氏と会うと言っていたけれども、それからどこへ回ったか、知らないか?」
山崎は壁に顔を向けたまま首をふった。
「三宅氏は昨夜、午後十時四十分の羽田発のエア・スカンディアで、ヨーロッパヘ視察旅行に行くということでした」
「ヨーロッパヘ?」
「社長に同行をすすめていたようですが。社長は、行けたらあとから行く、というようなご返事をしていらっしゃいました」
そんな話があったのか! 元は胸の底に、ずっしりと重いものが沈みこんでくるのを感じた。
「すると、笙子ちゃんがゆうかいされたのは午後十時四十分以降ということになるな」
「社長は、三宅氏をお見送りするため、羽田においでになったはずです」
くそっ!
元はどさりとソファに|尻《しり》を埋めた。
「そのあとだ。空港でやられたのだろうか? 空港からここまでは、高速道路だから、その途中で、ということは先ずないだろう」
元は吸いつけたばかりのたばこを、つぎつぎと|灰《はい》|皿《ざら》におしつぶした。
「三宅なんかとつき会うからだ!」
元のくちびるからそれまでおさえつけていたものが、とつぜん、ほとばしり出た。
かもめがケタケタと笑った。笑うと顔が|扁《ひら》たくなり、大きな目が弦月のように細くなった。
「それが……」
山崎が何の感情も交えないでつづけた。
「三宅氏は午後十時四十分のエア・スカンディアには乗りませんでした。他の航空会社、また、他の時間のいずれの便にも乗っていません」
「なんだって?」
その意味するところが理解されるまでに何秒かを必要とした。
「すると……笙子ちゃんと三宅がどこかに……」
「しけこんでいるとも考えられるわね」
かもめが悪魔的な言い方をして、小さな三角の舌の先をのぞかせた。元はもう何も言わなかった。
「どうして乗らなかったのだろう? その理由は会社ではわかっているのではないかな?」
「会社には連絡をしていないようです。おそらく、会社では出発したものと思っているのでしょう」
「しかし、会社の誰かが見送りに空港へ来るだろうが?」
「三宅氏の海外旅行は|頻《ひん》|繁《ぱん》なので、特に会社から見送りというようなことはないようです」
「山崎くん。笙子ちゃんのゆうかいと、そのことが何か関係があると思うか?」
「わかりません」
「山崎くん。三宅の会社から、笙子ちゃんについて何か問い合わせがあっても知らないと言っておいてくれ」
「承知しました」
山崎は何を考えているのか、彫像のように動かない。かもめは屈託のない顔で、壁に|掲《か》けられた絵を見上げていた。
こいつら!
元はやり場のない怒りを、太い首すじにみなぎらせて、荒い息を吐いていた。
午前七時。あかるい朝の光が、日比谷公園の深い木立にまぶしかった。木々はもうすっかり黄色く色づき、もずの声がけたたましく流れてくる。犬を連れて散歩をする老人や、マラソンをする若者などが、木々の間をぬって見えかくれする。
公会堂の高い石段を上りきった、深いひさしの下の正面玄関はまだ固く閉されていた。
二人は無言で待った。
午前七時を五分ほど過ぎたとき、石段の下に一個の人影が|湧《わ》いた。ふりあおいだ顔が、逆光で人相を見定め難い、体つきのがっしりした男だった。ゆっくりと石段を上ってくる。男の頭上から襲いかかりたい衝動を必死にこらえた。男の体はすきだらけで、元のひと|蹴《け》りで、容易に地上へたたきつけることができた。だが、それをやってしまったら、唯一の手がかりはここで完全に失われてしまう。
男は静かな足どりで石段を上りつめると、二人の前に立った。がっしりした体つきの、|品《ひん》のよい初老の男だった。着ている背広も、外国製の布地の、仕立のよいものをゆったりと着こなしている。柔和な目尻のしわと、おだやかなまなざしが、瞬間、二人の心を空虚なものにした。
「こんな方法をとったについては、たいへん恥かしく思っております」
なんでもない世間話のように、ほんのわずかな緊張もうかがえなかった。
「き、きさまが笙子ちゃんをゆうかいしたのか! さ、連れてこい! そうすれば、きさまの望む物をわたしてやるぞ」
元は最大限に自制心をはたらかせた。しかし、その全身から兇悪なほのおが|噴《ふ》き出していた。
「まあまあ。こうしましょう。あなたにはご不満かもしれないが、私が先ず、お願いしたものをここでいただく。同時に、あの|芝《しば》|生《ふ》のむこうに遊歩道が見えますでしょう。あそこに、あの方に出ていただく、というのはいかがです」
「だめだ! ここへ連れてこい。この場で交換だ」
男は、ほほ|笑《え》んだ。
「それはあなた。私の方が困ります。あなたがたはお若い。交換のあとで、私が襲いかかられたら、それっきりじゃありませんか」
「ふざけるな!」
怒りで|蒼《あお》ざめた顔を、さらに引きつらせて言いつのろうとする元のひじを、かもめがそっとつついた。
「いいじゃない。元さん。約束を守らなかったら、どうなるかは、この人がいちばんよく承知しているはずなんだから。この場は五分と五分よ。ね、そうでしょ? おじさま」
かもめの白い歯がこぼれた。その笑いが、しだいに邪気に満ちたものに変った。
かもめのジャンパーのそで口の中で、かすかな金属音が聞えた。
老紳士は、そのかもめの言葉に、耳を傾けるように何度も小さくうなずいていたが、やがて顔を上げて正面から、かもめの笑いを受けとめた。いぜんとして柔和なまなざしが、かれのあらゆる意志をおおいかくしていた。
「お嬢さん。あなたはおそろしいかただ。私は、ほんのささやかだが、ひとつだけ失敗をしたらしい、おっしゃるとおり、ここは五分と五分です」
老紳士はかもめに軽く|会釈《えしゃく》した。それから元に向き直って、片手をさし出した。
「それでは、いただきましょうか」
元は打ちひしがれた顔で、ポケットから|清朝《しんちょう》の偽造古紙幣をとり出した。
老紳士はそのまま、石段を|降《くだ》っていった。老紳士が、コンクリートの道路に降り立ったとき、はるかむこうの芝生に沿った遊歩道に、とつぜん、白い花のような女性の姿があらわれた。
「笙子ちゃん!」
元がさけんだ。
自分のさけび声で、元の自制心は限界を突破した。
元は、言葉にならないさけびを発すると、高い石段をころげ落ちるように、老紳士の後姿へ殺到していった。
「やめて! 元さん!」
もうおそかった。
かもめは風のように動いた。絶望的な状況の中で、朝の光をあびて、ひっそりと立つ笙子の白い和服姿が、手のとどかないはるかな距離を示していた。
石段の下に元がうずくまっていた。かもめは走り寄って元をかかえ起した。
犬をつれて散歩をしていた老人が、立ち止って不審そうにこちらをうかがっていた。
老紳士の柔和な笑いがまぼろしのように薄れ、朝の光も、美しく黄ばんだ木々の|梢《こずえ》も、色を|喪《うしな》い、みるみる単色の風景に|変《へん》|貌《ぼう》していった。――
はげしいめまいが、かもめからすベての動きを奪った。
「…………!」
「…………!」
するどい|声《こわ》|音《ね》とともに、強い衝撃が体のどこかに加えられた。もう一度、怒声がはしり、さらに荒々しい打撃が襲ってきた。
かもめはわれにかえった。つめたい汗が全身をぬらしていた。急速に意識がよみがえってくると、自分の胸に突きつけられている鉄の棒が目に入った。鉄棒の先端に、暗い穴があり、つぎの瞬間に起る事態を明確に予告していた。
上体を起すと、鉄棒は銃に変った。大きな|槓《こう》|杆《かん》の突き出した旧式な小銃だった。
「|※[#「※」はUnicode=4f60。ニーハオのニーですた]誰呀《ニーシェイア》!」
黒の、ゆったりしたズボンに白い|脚《きゃ》|絆《はん》。黄土色のつめえりの制服らしい上着の腰に、大きな弾帯を巻いていた。お|椀《わん》のような丸い帽子の下から長い|弁《べん》|髪《ぱつ》が垂れていた。
「|※[#「※」Unicode=4f60]誰呀《ニーシェイア》!」
銃口が、かもめの胸のふくらみにくいこんだ。かもめは平衡を失い、両手を|後《うしろ》について|尻《しり》を落した。
ほお骨の張った、いかつい顔に、荒々しく危険な表情が動いた。
そのとき、背後からかけ寄ってきた足音があった。聞き馴れぬ短い言葉が、かもめの頭ごしにやりとりされ、ふいに野太い声が降ってきた。
「おまえは何者だ!」
ふりあおぐと、黒い制服に白いゲートルを巻き、|蛇《じゃ》|腹《ばら》のついた丸い帽子をかぶった男が、六尺棒を地に突き立てて|反《そ》りかえっていた。見事なひげを左右にはねている。
「こら! おまえは何者だ!」
「稲村……かもめ、です」
「なんだと? 稲村かもめ? 妙な名だな。それで、何の用があって、こんな所をうろついている?」
「別に、うろついてなんかいないわよ。あんたたちはだあれ?」
立ち上ろうとすると、とつぜん、六尺棒が風を切って飛んできた。
「痛い!」
かもめは打たれた肩をおさえて身をよじった。
「聞かれたことだけに答えろ!」
「だから、稲村かもめだって言ったんじゃないの!」
とたんに六尺棒で顔がひん曲るほど打ちのめされた。かもめは悲鳴を上げて地に|這《は》った。
「|鑑札看見《チェンチャカンチェン》!」
銃をかまえた男が、きびしい調子で言った。黒い制服の男が上司に対するように、その言葉に体を硬くし、それから、やおらかもめに向き直った。
「身分証明書を出せ!」
身分証明書? なんのことだろう?
銃を持った男の顔が緊張した。早口に、黒い制服の男に何か命じた。
「身分証明書だ。持っていないのか?」
かもめが口を開こうとするより早く、黒い制服の男の手がすばやく動いた。|後腰《うしろごし》から|捕縄《ほじょう》を抜きとると、かもめのうでをねじ上げた。
「な、なにをするの!」
捕縄と黒い制服の腕がそれぞれ独立した生き物のように動くと、たちまち、かもめの上体は荷物のように|縛《しば》り上げられた。
「歩け!」
目のくらむほど打ちすえられ、|縄《なわ》|尻《じり》をつかんで引き立てられた。怒りと苦痛で、かもめは息さえ止りそうだった。
頑丈な鉄条網が左右に長くのびていた。その鉄条網には、『禁止進去』と大きく書かれた木の札がくくりつけられていた。
「立入禁止というのが、わからないのか? それに身分証明書を持っていないというのはすこぶるあやしい。おおかた|反《はん》|清《しん》運動の一味だろう!」
男は六尺棒で、かもめの背を小突いた。そのたびに、すでに感覚を失っているかもめの上体に新しい痛みがわいた。
鉄条網で囲まれた広大な敷地の中央に、見馴れぬ建物がそびえていた。それは木造ではあったが、二つの|円《ド》|屋《ー》|根《ム》と、全面に|回《めぐ》らされたバルコニーを持つ壮麗な建物で、あきらかに明治時代の建築物の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を濃くただよわせていた。
鉄条網沿いに、黄色い制服と黒い制服の二人組がやってきて、すれちがった。
「ほう! こんどは女か」
黒い制服どうしが声をかけ合った。
そのとき、鉄条網にくくりつけられた大きな木札がかもめの目に映った。
それには、
────────────────
[#ここから2字下げ]
日本人禁止進去
大清国征東都督府
[#ここで字下げ終わり]
────────────────
と書かれていた。
高い鉄条網に沿って追い立てられてゆくと、やがて大きな門が見えてきた。
かもめは目を見張った。
あざやかな朱塗りの太い門柱の上に、これも今、塗ったばかりかと思われるようなつやつやした緑色の|瓦《かわら》で|葺《ふ》いた重厚な屋根がのっている。その両端の金色の|鴟《し》|尾《び》が、朝の光をはねかえして頭上はるかな位置にあった。
すべて朱一色の、分厚い|門《もん》|扉《ぴ》に打たれた大きな|釘《くぎ》かくしや|鋲《びょう》は、どうやら黄金らしい。
太い門柱に、幅一メートル、長さ三メートルもあるような門標が掲げられていた。
|雄《ゆう》|渾《こん》な文字で、
────────────────
[#ここから2字下げ]
大清国征東都督府
[#ここで字下げ終わり]
────────────────
とあった。
その左右の大円柱の下に、人一人入れるほどの小さな小屋があり、黒いつめえり服に、太鼓のような帽子をかぶった兵士が、着剣した長い小銃を構えて目を光らせていた。
敷きつめられた石だたみを踏んで、たくさんの人々が出入りしている。
フロックコートに山高帽。羽織はかまに威儀を正した男。|肋《ろっ》|骨《こつ》のついた黒い軍服に白い乗馬ズボン、|膝《ひざ》までの長靴に銀色の拍車を鳴りひびかせる将軍らしい老軍人。鉄ぶちの小さな眼鏡を光らせ、新調したばかりらしい、えりの細い背広に、のどもとのリボンも|伊《だ》|達《て》な洋行帰りの書記官風の青年など、すべてがかもめの目をうばった。
その壮大な門は、かもめの知識や記憶のどの部分にもないものだった。
だが、その門を出入する人々の姿は、知識のどこかに該当するような気がした。
だが、その二つのものはどこでどう結合するのか、その結節点が見出せぬままに、かもめはただ、|茫《ぼう》|然《ぜん》とその壮麗な門をあおぐばかりだった。
「こら! 早く歩かんか!」
背後の制服が、かもめを縛り上げた縄尻を、かもめの背にぴしりとたたきつけてきた。
「あ|痛《いた》! ね。ここはなあに?」
追われて歩み出しながらも、かもめの目はまだ門に吸い寄せられていた。
「なにだと? おまえ、どこの|田舎《い な か》から来た? ここは|大《だい》|清《しん》|国《こく》征東都督府じゃ」
誇らしげに言う。
大清国征東都督府?
征東都督府?
かもめは口の中でつぶやいた。
「さっさと歩かんか!」
縄尻をふり上げたらしい。かもめは首をすくめた。
そのとき、門内で|喨々《りょうりょう》とラッパの音が鳴りひびいた。
「|捧《ささ》ゲェ|銃《つつ》!」
門内のごく近い所で、ぱらぱらと|軍《ぐん》|鼓《こ》が鳴り始めた。門内から走り出てきた兵士が小さな笛を口に当てた。|甲《かん》|高《だか》い笛の音がそれが消えてからも人々の耳に、耳鳴りのような余韻を残した。
「何がはじまったの?」
かもめはふりかえった。
「やかましい! |静《せい》|謐《ひつ》の笛が鳴っておるのに、わからんのか!」
「そんなもの、知るわけないでしょ!」
「こいつ!」
人々はくもの子を散らすように左右に散り、両手をひざまで垂れて深く上体を折った。中には石だたみに土下座する者もあった。
「早く歩け!」
かもめの縄尻をとらえた男はひどくあわてだした。もう一人の男も、顔色が変っている。
太鼓帽子に黄色い線を一本巻いたのが飛んできた。
「おい! おまえたち。何をしとるか! 大都督閣下の御馬車じゃ、そんなもの、早く、どこへなりと引込めろ!」
「来い!」
|叱《しか》られた二人は、いきなりおそろしい力でかもめを引きずって走り出した。
「痛い! 痛い! なにするのよ!」
かもめは、ことさらに絶叫した。二人はひるんだ。
「おい! 声を出させるな。その場に伏せさせろ! 押えておけ!」
黄線があわててさけんだ。かもめは地べたにねじ伏せられ、それをかくすように、かもめを後に、二人の男は道路に向ってひざをついた。
馬のひづめの音が大門扉の間に反響し、馬車の|鉄轍《てつわだち》のひびきが人々の耳を打った。
「大都督閣下に敬礼! |捧《ささ》げえ|銃《つつ》」
「|捧《ささ》ゲェ|銃《つつ》ウ!」
「|頭《かしら》ァ右ィ!」
最大限に緊張した号令がつぎつぎと|静寂《せいじゃく》を破る。
門をくぐりぬけた馬車は、石だたみを踏んで、かもめの方に近づいてきた。
かもめはそっと顔を上げた。
拝伏している二人の制服の体の間から、通り過ぎてゆく馬車が見えた。二頭の白馬に|曳《ひ》かれた馬車はおそろしく華麗なものだった。朱塗りの地に|金《きん》|泥《でい》で|鳳《ほう》|凰《おう》を描き、車体の後部には|錦《にしき》にこれも金銀で日月を縫い取りしたものと、これも白地錦に|青龍《せいりゅう》を描いた二流の|幡《のぼり》を朝風に|翩《へん》|翻《ぽん》とひるがえしていた。
屋根はなく、向い合った座席の一方には、|雪豹《ゆきひょう》とおぼしい高貴な毛皮をかけ、そこに一人の男がゆったりと身をもたせかけていた。
舟形の元帥帽に大礼服。左右の肩から|脇《わき》へ|綬《じゅ》を帯び、胸には全面あます所なく大小の勲章をつるしている。その|顔《がん》|貌《ぼう》は、あくまでも|悠《ゆう》|揚《よう》迫らず、|大《たい》|人《じん》の風であった。目は細く、|眉《まゆ》が長く、女のような小さなくちびるをさらに小さく見せるのは、鼻下からくちびるの両端へ、八の字に垂れた細いひげだった。そして元帥帽の下からは、少女のお下げのような長い弁髪がのぞいていた。
かれと向い合ってかれの前の座席に、やや肩ひじを張って顔を|強《こわ》|張《ば》らせているのは、肋骨のついた黒っぽいつめえりの軍服を着、赤い|蛇《じゃ》|腹《ばら》を巻いた軍帽をいただいた面長の初老の男だった。
馬車はたちまちかもめの視界から消えた。ふたたび引立てられて歩き出しながらも、かもめの頭の中は、今見た二人の男の顔を、記憶と照合するのでいっぱいだった。
そうだ! あの顔だ!
元の札入れの中に入っていた古紙幣に描かれていたあの顔だ!
かもめの胸は高鳴った。
かもめはふりかえった。また縄尻でぴしりとやられるかもしれないが、この機会を逃すと、いつたしかめることができるかわからない。
「ねえ。今の馬車に乗っていた人、だあれ?」
縄は飛んでこなかった。
「おまえは、とんでもない|山《やま》|猿《ざる》だのう。あのお方も知らんのか! ようくおぼえておけ」
制服は見えもしないのに胸を張ったようだ。
「あのお方は、大清国征東都督府を|統《す》べられる大都督、|李鴻章《りこうしょう》閣下じゃ」
かもめの背筋を、つめたいものが走った。全身の血流が、どこかの一点へ向って急に集中しはじめたような気がした。だが、顔と言葉つきだけは平静をよそおっていた。
「もう一人の人は?」
「あのお方はの……」
口を開きかけたとき、一行は小さな門の前に到着していた。
そこは通用門らしく、先程の威容などどこにもない。石の門柱と、八文字に開かれた門扉。二人の番兵こそ立っているものの、一人は小銃を|杖《つえ》に、一人は門の柱に立てかけて、出入りの商人らしい男と世間話に夢中になっている。
門柱には、ただ、第一通用門と書かれたのみの木札が打ちつけてあるだけだった。
「入れ!」
「ねえ。もう一人は|誰《だれ》よ?」
「うるさい! 黙って歩け!」
もう取りつく島もなかった。
おいしげった木々の間から、|煉《れん》|瓦《が》造りの長い建物があらわれた。|緑青《ろくしょう》を吹いた|銅《どう》|葺《ぶ》きの長い屋根。その下の|廂《ひさし》を支える列柱の歩廊。そして馬継ぎの|木《もく》|柵《さく》。建物の前には、黒い軍服を着た兵士たちが、雑然と列を作ってならんでいた。どうやらこれは兵営か、あるいは軍関係の施設らしい。
その煉瓦造りの建物のむこう、木々の緑の上に広壮な建築物がそびえていた。
かもめの目に、それは一枚の絵となって焼きついた。
それは、あの古紙幣の裏に描かれていた建物に相違なかった。
あの古紙幣をデザインしたものは、あきらかになんらかの権力の象徴として、あの建物を描き、さらにその権力を直接、行使する人物として、あの馬車の上の二人の肖像をその紙幣の表面に掲げたのだ。しかも、その肖像の一人は、大都督、李鴻章だという。
かもめの胸に、ある不安が雲のように|湧《わ》き上ってきた。それははげしい焦燥と、えたいの知れぬ危機感となってかもめの体内を|灼《や》きはじめた。
「入れ!」
どうんと突き放されると、歯の浮くような音を立てて重い鉄の|扉《とびら》か閉ざされた。
固い煉瓦の床に、いやというほど体を打ちつけたかもめは、歯をくいしばってようやく体を起した。すりむいたひじを押えて深く息を吸いこんだとたんに、刺すような|匂《にお》いが鼻の奥底を|衝《つ》いた。
湿って重い|饐《す》えた|臭《にお》い。|垢《あか》や汗やそれに|糞《ふん》|便《べん》の臭気まで交えたよどんだ空気の中には、ここに閉じこめられた者たちの|怨《おん》|念《ねん》や怒り、|哀《かな》しみや|呻《うめ》きが|瘴気《しょうき》のようにこもっていた。
たたみ二畳ほどのせまい独房の壁の一面が、そこだけ人間がかろうじて横たわれるほどのせまい切欠きになっていた。そこがベッドらしい。だが毛布もなにもない。床の一方には、|楕《だ》|円《えん》|形《けい》の穴があり、その周囲は、石のように固化したもので|縁《ふち》|取《ど》られていた。臭気の主たるものは、そこから立上っていた。
かもめは心底、ゆううつになった。
天井に近い所に|鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》のはまった小さな窓があり、あかるい空がのぞいていた。
かもめはその窓にとびついた。鉄格子をにぎって顔を押しつける。
小さな窓を配した、なんの装飾もない倉庫のような建物が何列もつづいていた。
かもめが閉じこめられている独房のある建物との間が、運動場になっているらしく、|幽《ゆう》|鬼《き》のようにやせ細った男や女が、幾重もの円を描いてぐるぐる回っていた。台の上では、監視役らしい大男がサーベルを杖にして|仁《に》|王《おう》立ちになっている。囚人たちのつくる円のあちこちには、六尺棒を抱いた黒服の連中が|狼《おおかみ》のように目を光らせていた。とつぜん、その一人が走り出し、円の中の男を手にした六尺棒でしたたかに打ちすえた。男は頭をかかえてうずくまった。さらに二度、三度、打撃を加えておいて半死半生になったものを、えりがみをつかんで引起し、荒々しくふたたび列の中に押しこむ。打たれた男はよろめき、よろめき、必死に足を運んでいた。またもや別な方で始まる。
かもめは床にとびおりた。
ここは刑務所かな? と思ったが、どうもそうではないらしい。サーベルをつった監視役も、六尺棒の連中も、軍人のようだった。
すると、ここは軍刑務所か、憲兵隊の留置場のような所らしい。
「えらい所へ入れられちゃったな!」
かもめは顔をしかめて、小さく舌を鳴らした。
思案するかもめの目を、ふと、とらえたものがあった。
煉瓦で頑丈にたたまれた壁に、かすかな文字と思われるものが刻まれていた。それは最初、煉瓦の表面の剥げ落ちた傷か、ひび割れかと思ったがそうではなく、あきらかに人の手によって彫り込まれたものであった。
高い小窓からのみの光を頼りにそれを読み取るのは、極めて困難な作業だった。
予、朝鮮出兵ノ停止ヲ上申ス、内、勧業策ノ未ダ其ノ緒ニ就クコトナク、民、日々ニ窮乏シ、加ウルニ重年ノ|饑《き》|饉《きん》イヨイヨ舌下ノ|唾《つば》ヲモ|渇《か》ラシム。|然《しか》ルニ頭領ノ|奈何《い か ん》ゾ外ニ兵ヲ用ウル。|豈《あに》、|社稷《しゃしょく》ヲ傾ケルノミナラン|哉《や》。半島ノ民ノ|憂《うれい》マタ同ジ。軍卒ノ|忽《たちま》チ至ッテ予ヲ獄ニ|継《つな》グ。同志、既ニ|亡《な》シ。|而《しか》シテ……
そこから先は判読できなかった。
その上にも刻まれている。
朝鮮出兵反対 |即《すなわち》|可斬奸佞徒《かんねいのとをきるべし》
また|鉄《てっ》|扉《ぴ》には、|爪《つめ》で刻みつけられたらしく、大きく、|斬《ざん》|奸《かん》、という文字が浮いていた。その文字のところどころが|錆《さび》のように|茶褐色《ちゃかっしょく》に変色しているのは、血の跡ではないかと思われた。
事態の輪郭がおぼろに形をなしてきた。想像もつかないようなできごとが、音もなく静かに進行していた。
かもめのひたいにつめたい汗が浮かび、ほおをつたった。
小窓から囚人たちを|叱《しっ》|咤《た》する兵卒の声が流れこんできた。
時間はゆっくりと過ぎていった。
正午に近いかと思われる|頃《ころ》、鉄扉に設けられた小さな窓が開き、そこから小さな|丼《どんぶり》が押し込まれてきた。|汚《お》|泥《でい》のような|雑《ぞう》|炊《すい》が底の方に、どろりとよどんでいた。とても口に入れられるようなしろものではない。
かもめはじっと待った。
高い窓から見える小さな空が、|色《いろ》|褪《あ》せ、独房のすみに|薄《うす》|闇《やみ》がただよいはじめる頃、とつぜん鉄扉が開かれた。
「出ろ! 女」
暗い灯の輪が動いた。
長い廊下は、地下墓地のように荒廃と|腐朽《ふきゅう》が濃くただよっていた。壁につるされたアセチレンランプが、小さな光輪を描いていた。
いったん建物の外へ出、|別《べつ》|棟《むね》に入って幾つかの階段を上り下りし、ようやくたどり着いた部屋は取調室だった。
壁を背にして、粗末な机をすえ、りっぱな黒い口ひげをたくわえた軍人が、入っていったかもめを奇妙な小動物でも見るように|見《み》|据《す》えた。
かれの背後の壁には、二つの金縁の額が掲げられていた。それぞれの額は、白地に長楕円形の写真を浮かせていた。一方は李鴻章大都督であり、もう一方は、かれと馬車に同乗していた軍服の男だった。
「八七番。連行いたしました!」
かもめをここまで護送してきた二人の兵士が、かもめの頭越しにさけんだ。
「これからおまえを取調べる」
取調官は、背を板のように|反《そ》らせて、いかめしい声を出した。その軍服のそでに、黄色い山形の線が一本入っている。かもめは、かれはあまり上級の軍人ではないな、と思った。
「名前は?」
「稲村かもめ」
「ふむ。稲村かもめ、だな」
かれは、かれの右方の小さな机に向っている書記らしい半白の初老の男にあごをしゃくった。書記は手の筆に、|硯《すずり》の墨をふくませると、机の上の二つ折の|罫《けい》|紙《し》にさらさらと達筆を走らせた。それが調書らしい。
「住所は?」
東京都|台《たい》|東《とう》区と言いかけて、かもめはぐっと|呑《の》みこんだ。こんな時には、思いきり遠い所を言うにかぎる。
「岩手県……」
そうだ! 行ったことがある。
「|西《にし》|磐《いわ》|井《い》郡平泉……」
「平泉村?」
取調官は聞きとがめた。
「いえ。稲村です」
「そうか。稲村住、女、かもめ。というわけだな」
「はい」
「いや、まて。かもめという名は妙だな。かめ、あるいはおかめの間違いではないのか?」
かもめの眉がきりきりと|釣《つ》り上った。だが一瞬、思い直して息をぬく。
「はい。そうです」
「そうだろう。文明開化の波も、ようやく奥六郡におよんで、おのれの名もわからぬような女子供までが帝都にあこがれて迷い込みおる。これ。女。年齢は何歳になる?」
「二十歳です」
「ほう。若いな。よし。岩手県西磐井郡稲村住、女、おかめ。おまえはなんで、征東都督府の周囲をうろついておった?」
「うろつくって……何だか知らなかったから」
「これだから困る。立入禁止という制札があったろう。字は読めんのか?」
でも立入禁止というのは鉄条網の中のことで、外なら近づいたって別にかまわないだろう。
よほどそう言ってやりたかったが、かもめはがまんした。
「近寄ってもならんのだ。これは都督府からの厳重な命令で、あの鉄条網から一町以内に接近してはいかんことになっておる」
「はい」
「おまえ。東京での身寄りは?」
「ありません」
「国元に親はいるのか?」
「いません」
「身元引受人がないのは困ったな」
「はい」
「おまえ。東京に出てきて、はたらきたかったのか?」
「はい」
「そうか。それでは、どうだ? おれの所で下女働きをせんか?」
口ひげが急にゆるんだ。|目《め》|尻《じり》にしわが寄り、かれはよみがえったように、かもめの全身にいそがしく視線を走らせ、満足気にひとりで何回もうなずいた。
「よし。書役! 岩手県西磐井郡稲村住、女、おかめ。禁札を犯せしも、本人、|文《もん》|盲《もう》につき他意ないものと認め、釈放」
かもめは黙って頭を下げた。
「おかめ。わしは征東都督府警護処付属、日本陸軍憲軍第五中隊南第一詰所第二取調室副頭取、特務|曹長《そうちょう》、|室《むろ》|井《い》|弥《や》|七《しち》|衛《え》|門《もん》である」
ひと息に言ってのけた。よほど|馴《な》れているらしい。
「どうじゃ。言ってみい。言えるか?」
「征東都督府警護処付属、日本陸軍憲軍第五中隊南第一詰所第二取調室副頭取、特務曹長、室井弥七衛門である」
「さまと言うんじゃ。さまと」
「さま」
「言えるじゃないか! ええぞ、ええぞ! 書役。従兵を呼べ。今日はもうこれまでにしよう。あとは明日だ。おかめ。わしといっしょに来い!」
特務曹長、室井弥七衛門は大酒呑みだった。もう一升五合を軽くあけ、なお|酒《しゅ》|盃《はい》をしきりに口に運びつづけている。|肴《さかな》といえば、白い粉を吹いたねじれた古大根を手づかみで|齧《かじ》るだけだ。もっとも、かもめの連れて来られたかれの官舎は、部屋数こそ三間あったが、家具とよべるような物は何ひとつない。ある物は壁にかかっている例の金縁の額と、それにかれの軍帽とサーベルだけ。あとはかれの前の、|紫《し》|檀《たん》とは名ばかりの傷だらけの座卓だけだった。どうやら、かれは官舎へ帰ってからの着がえもないらしい。黒いつめえりの軍服のボタンをはずし、その下に着こんでいる軍隊用語でいう|襦《じゅ》|袢《ばん》のえり元の貝ボタンをはずしただけの姿で、呑みはじめたのだ。
特務曹長程度の給料で、毎日一升酒をくらっていたら、家具どころの話ではあるまい。
「どうじゃ。呑め!」
特務曹長、室井弥七衛門は時々、思い出したように、大きな酒盃をかもめにさしつけた。かもめは注がれた酒を、ぐびぐびと腹に流しこんだ。
「うむ。見事じゃ」
また注ぐ。
ふたたび、息をもつかずに干す。
「ううむ。まことにりっぱな呑みっぷりじゃ」
もう一度、注ごうとしたが、急にやめてかもめの手から|盃《さかずき》をとりかえした。気がついたら惜しくなったのだろう。たくあんを|噛《か》みだした。ひと口、齧っては、じっと見つめながら|顎《あご》を動かす。またひと口齧ってはたんねんに顎を動かす。本来ならいい音が出るところなのだが、ものがものだからそうはいかない。
「おまえ、なかなか可愛い顔をしとるのう」
たくあんに向って言ったのかと思ったらそうではなかった。
たくあんを見つめていた目が、かもめに向けられていた。
「はい」
「おお、そうか。知っとるか。よしよし」
室井弥七衛門は無邪気な顔をして、手にした盃で、部屋の一方のふすまを指した。
「おかめ。あの中に長襦袢が入っておる。美しいぞ。着ろ」
「あたしがですか?」
「きまっておる。わしはたくあんに向って言っておるのではない」
あら、この人、|他《ひ》|人《と》の心が読めるのかしら。
かもめはそっと首をすくめた。
ふすまを開くと、押入れだった。男臭さとかび臭さが、むっと迫ってきた。乱雑にほうりこまれたせんべいぶとんの上に、これだけは室井弥七衛門にまことにふさわしくない絹物の長襦袢がのっていた。
いやだ! このおっさん。女物の長襦袢なんか抱いて寝てるのかしら?
かもめの背中を、虫のようなものがちりちりと|這《は》い上った。
「あるだろう。それを着ろ!」
いやおうもない。かもめは手にとった。かび臭い|匂《にお》いとともに、かすかに安|白《おし》|粉《ろい》の匂いもした。どこからか、かっぱらってきたものでもあろうか。
室井弥七衛門は、|据《すわ》った目で、もう一度、着ろ、と言った。
かもめはしかたなく、Tシャツを脱ぎはじめた。
「近頃は女子供までそのようなものを着おって! また、えらい細身のもんぺだのう。脱げ脱げ、男のようなかっこうなど、せんでええ!」
弥七衛門は八つ手のような手を顔の前で打ちふった。
かもめはそろそろとGパンを脱ぎにかかった。
「ほう! まだ下にも着けておるのか。奥六郡の女は身を固むること、|厳《げん》だのう」
酔眼もうろうとしながらも、|貪《どん》|欲《よく》にかもめの体の動きを目で追う。とうとうかもめは|素《す》|肌《はだ》に長襦袢をまとうはめになってしまった。
「帯かひもはないのかしら?」
「そんなもの、締めんでよい」
冗談じゃない!
かもめはともすれば開きそうになる前を、かき合わせ、かき合わせ、その場に坐った。
「おかめ。ここへ来い」
弥七衛門は、今こそわが思いをとげんとばかり、気息も荒く、わがかたわらを示した。
かもめは形ばかり体を進めた。
「ここへだ。ここへだ。恥かしがらずともよい。さあ」
かもめはほんの少し寄った。体を動かすと、帯ひもなしの前が開いて胸のふくらみがのぞいた。あわててえりをかき合わせる。
「寄れ、寄れ!」
かもめは片手で胸を抱き、残った手を使っていざり寄った。
「その前に、もう一ぱい」
「酒か。よく入るのう。まあ、ええ。それ」
事態の|進捗《しんちょく》におおいに気をよくした弥七衛門は、大盃になみなみと注いだ。それを受け取ろうとして、手をのばしたとたんに長襦袢の前が開いた。弥七衛門の手は、すかさずのびてかもめの乳房をつかんだ。
うわっ!
だが声は、さあらぬていで、
「これを呑んでから。ねえ、特務曹長さん。このお盃の底にある紋は|徳《とく》|川《がわ》家の紋みたいだけど、特務曹長さんは幕臣だったんですか?」
「うむ?」
弥七衛門は|好《す》|色《き》心に水をさされたかのように、手指の力をぬいた。
「幕臣だったのかだと? 何を聞くのかと思えば! これ。おかめ」
弥七衛門は、そこがかねがね他人に聞かせたいところだったらしく、かもめの胸から手をぬくと、急におごそかな顔になって半身に構えた。かもめはすばやくあとじさると前をかき合わせた。かき合わせながら見ると、乳房に赤く弥七衛門の指の跡がついていた。
いやなやつ! 見てろ!
「はい」
「草深い|奥州《おうしゅう》にあっては知るまいがな、あの|慶《けい》|応《おう》三年の|小《お》|田《だ》|原《わら》の|戦《いくさ》。それにつづく|相《そう》|馬《ま》の合戦で、わしは歩兵|振《しん》|武《ぶ》隊第七小銃隊十四番隊に属して、おおいに|薩長《さっちょう》の|奸《かん》|賊《ぞく》どもを打ちなやました」
「…………」
「そもそも、歩兵振武隊は旗本、|御《ご》|家《け》|人《にん》からなる最精鋭の部隊よ。並たいていの者では隊士にはなれん。わしは十俵二人|扶《ぶ》|持《ち》の軽い身ではあったが……」
かれはそこで、はっと口をつぐんだが、聞いている方が、別にその関心もしめさないのを見ると、安心したようにあとをつづけた。
「うおっほん! 推されて隊士に任ぜられた。思えば、二十歳の時であったよ。薩長、|亡《ほろ》びるにおよんで……」
なんだって?
かもめの胸の奥底で、なにかが音をたててはじけた。
「軍制あらたまり、わしは戦功によって一躍、|伍長《ごちょう》に補せられ、その後、累進して現在、特務曹長に任ぜられ、乗馬、帯剣を許されておる。おかめ、そのお盃は、わしが特務曹長を拝命せしおり勲功者一同に対し、かたじけなくも大頭領閣下御臨席のもと、総参謀長にして陸軍|大《た》|輔《ゆう》、|松平容大《まつだいらようだい》公おん手ずから下し賜ったものだ」
「ちょっとその、松平容大公ってだあれ?」
「どうも、黙って聞いておれば、おまえは耳ざわりな口をききおるのう。ちょっとその、だあれ、とは、なんという軽々しい口のききようだ!」
「すみません」
「おたずねいたしまするが、松平容大公とは、いかなる御方様でござりまするか、と言うんだ」
「はい。とのさまにおたずねいたしまするが、まつだいらようだいこうとは、いかなるおかたさまにござりまするか。おおしえくださいませ」
「さよう、さよう。言おうと思えば言えるんじゃ。心いたせよ」
「はい」
「総参謀長、陸軍大輔、松平容大閣下は、新体制以前は、|岩《いわ》|代《しろ》国|会《あい》|津《づ》、二十三万|石《ごく》を領し、|文久《ぶんきゅう》年間は京都守護職として、|京《けい》|洛《らく》の治安維持に大活躍をなされ、のち、薩長の関東侵攻のおりには会津|鶴《つる》が城の|防《ぼう》|禦《ぎょ》戦に縦横の奇策を講じ、かの相馬の大会戦大勝利の端緒を開かれた御家門第一の英雄であられる。どうだ、わかったか!」
かもめは、いよいよもつれてゆく糸の塊を見ている思いがした。
「ねえ。もうひとつ聞くけど」
「ほれ! また!」
弥七衛門は目を三角にした。
「あわわ……もう、ひとつうかがいますが、あの額の左の写真は誰ですか?」
「御写真は|誰方《ど な た》様で|御《ご》|座《ざ》|居《い》まするか」
「御写真は誰方様で御座居まするか」
「よし。あの御方は……あの御方様こそ」
幕臣中の幕臣、特務曹長、室井弥七衛門は、ここで不覚にもひどいげっぷをもよおした。
かれは|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、なすところなく、たたみの上に這いつくばった。
「これは、これはまことに、まことに無礼の段、|平《ひら》に|御《ご》|容《よう》|赦《しゃ》くださりませ。臣弥七衛門、はなはだ|恐懼《きょうく》の至りにござりまする」
いいかげんにしてよ!
かもめは肩をすくめた。
拝伏し終った弥七衛門は、やおら体を起すと、にわかに|憑《つ》きものが落ちたように室内を見回し、それからかもめに赤く濁った視線を当てた。
その顔は、大酒呑みで粗野ながら、すこぶる単純で人だけは|好《い》い弥七衛門とは別人のように|変《へん》|貌《ぼう》していた。
「女!」
弥七衛門は、かすれた声をふりしぼると、|猿《えん》|猴《こう》のようにふいに一|間《けん》の距離をいっきに|跳《と》んで、かもめをとらえた。
弥七衛門はおそろしい力で、かもめを押し倒した。抵抗するひまもなく、かもめは前を押し開かれ、両腕から|袖《そで》を引きぬかれた。弥七衛門はたくみに片手でかもめの両手の自由を奪い、もう一方の手で自分のズボンを押し下げた。
かもめは、急転した事態に動転し、必死にあばれ始めた。悲鳴を上げようとすると、ほおに平手打が飛んできた。平手打が|炸《さく》|裂《れつ》するたびに、かもめの頭は髪を乱して右に左にはげしくねじ曲げられた。
かもめはとうとう最後の姿勢をとらされた。
一〇
|鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》のはまった窓は、下三分の二ほどが目かくしの板張りでおおわれ、その上方に青い空と、古い商家らしい大きな|瓦葺《かわらぶ》きの屋根の、つらなりがのぞいていた。行き|交《か》う人々のにぎやかな|下《げ》|駄《た》の音。子供の泣き声、荷車のわだちの音や、それを|曳《ひ》く者たちのあたりはばからぬ|胴《どう》|間《ま》|声《ごえ》などが、ひとつの音響となって元の耳に流れこんできた。
たたみ三畳敷程の小さな部屋の、板張りの床に、元はあお向けになって体をのばしていた。
分厚いドア。天井のしみ。壁にとりつけられた鉄の環。そして、ドアの上の、空気抜を兼ねた|洋燈《ラ ン プ》台。その周囲の壁は、すすで真黒に|汚《よご》れている。
ここはどうやら留置場のような所らしかった。
窓から見えるあかるい空の色と、聞えてくる町の活気のある物音から、元は、時刻は|午《ひる》少し前頃であろうと思った。
とつぜん、ドアが開いた。
あお向けのまま、目だけを動かしてみると、粗末な黒のつめえり服に黒ズボン。黒皮のベルトを巻き、頭に、小さなバケツにひさしをつけたような帽子をかぶったたくましい男だった。
「どうだ? ぐあいは?」
見つめる目つきにはゆだんがないが、声の調子はいがいにやさしい。
「どうやら、いいようです」
元は床の上に起き直った。
「ここはどこですか?」
「なんだ。おぼえておらんのか? ここは警視庁日比谷大区第一小区巡査|屯《とん》|所《しょ》じゃ。おまえの入っておるこの部屋は、病者監といってな、おまえのような行路病者、酔っぱらい、その他|逮《たい》|捕《ほ》にさいして負傷しおった罪人などを一時、入れておくところだ」
「私は倒れていたんですか?」
「そうじゃ。おまえ、持病でも持っておるのか?」
「いや。なんだか気もちが悪くなったのまでは覚えているんだけれども……」
それはほんとうのことだった。
「よし。気分がよくなったのなら、来い。二、三、聞きたいことがある」
元は立ち上った。まだ頭のしんが重苦しかった。
せまい廊下につらなった十畳ほどの部屋では、四、五人の巡査が机に向っていた。床は半分が土間、半分が板張りになっていて、その境は、上部に平たい板をわたした|木《もく》|柵《さく》になっていた。一人のみすぼらしい姿の老婆が、その板に両手をつき、さらにその両手にひたいをのせて何事か熱心にたのみこんでいた。その板のこちら側に、一人の太った巡査が、両手を腰に当てて|仁《に》|王《おう》立ちになっていた。
くどくどと何か言う老婆の声が、念仏をとなえているように高く低く流れてくる。
仁王立ちになっていた巡査が、皆の方をふり向いた。腰に手を当てて、|反《そ》り返った姿とは裏腹に、その顔は当惑しきっている。
「弱ったな。|婆《ばあ》さんの息子がまだ、戦争から帰って来ないけれども、どうしてなのか? と言うんだ。去年、息子から|威《い》|海《かい》|衛《えい》が陥落して、|清《しん》|国《こく》が降参したから、勲章をみやげに、もうすぐ帰るという手紙がきたというんだよ。長屋の差配に読んでもらったんだからたしかだ、と言うんだな」
机に向っていた巡査が、暗然とした顔を老婆に向けた。
「かわいそうになあ。威海衛の戦いは、ずいぶんひどいものだったからな。第三師団は師団長の|桂太郎《かつらたろう》閣下以下全員、戦死じゃ。あの婆さんの息子も、その中に入っているんじゃよ」
「あの婆さんにそれを言って聞かせても、さっぱりわからんし。いやはや、困った」
「婆さん。息子の戦死の公報を聞いたとたんに、気が変になってしまったのだろう。日本全国には、そんなのがどれだけ居るかわからんぞ」
ふと、沈黙が流れた。
そのとき、執務室の一方のドアが開いて、蛮声が流れた。
「こら|行《ゆき》|倒《だお》れを連れて来い!」
そこは署長室だった。
正面の壁の上部には例の額。それも特製といったもの。さらに|扁《へん》|額《がく》を掲げ、|短《たん》|冊《ざく》を配した左右の書架には、職務上の書類|綴《とじ》のほかに、何十冊もの洋書をならべている。そして、部屋の一方の壁面を形造る出窓には|鹿《ろっ》|角《かく》の刀架を据え、それに|朱《しゅ》|鞘《ざや》の大小を横たえている。
「どうだ? 体のようすは?」
太い|眉《まゆ》の迫ったひたいに深い刀傷があり、それが細く浅くなりながら鼻筋から口もとへ走っている。その刀傷をいくらかでもかくすつもりか、濃い口ひげを八の字にはね上げている。やや|窪《くぼ》んだ目に宿る光は、その傷跡とともに、かれがくぐりぬけてきた数知れぬ|白《はく》|刃《じん》の|巷《ちまた》を、十分にしのばせた。机越しに見る上体は、それほど大柄でもないのにかかわらず、がっしりとした肩幅や太い|猪《い》|首《くび》などに、きたえぬいた者の、沈静した活力が秘められていた。
かれはおそろしく気力のこもった目で元を見つめた。
「取調べの結果、疑わしい点がなければ、ただちに釈放するから、たずねることには、つつみかくさずきちんと答えなさい」
元はだまって頭を下げた。
「姓名と年齢、住所を」
「二階堂元。三十五歳。住所は……|甲州《こうしゅう》です」
「甲州のどこか?」
「|塩《えん》|山《ざん》」
「職は?」
「道具屋です」
さすがに元も、古美術商とは言わなかった。
「都督府の禁札が見えなかったのか?」
「気がつきませんでした。あまり腹痛がひどかったので」
「甲州の者が、この東京でどこへ行くつもりだった?」
「東京で職につこうと思って、|桂《けい》|安《あん》を探していたんです」
「職業紹介所と言うんじゃ」
「そうですか?」
「おまえの言葉は、東京者のようだが?」
「はい。東京で職につくには、東京の言葉を話せなければいけないと聞いたもんで、一生懸命、練習したんです」
「そんなことはないぞ。地方の|訛《なまり》のある者でも、どんどん職業についておる」
署長は語勢をやわらげて言った。
「はい。ありがとうございます」
「うむ。そこで、これは何だ?」
署長の声に、あきらかに何かが加わった。
署長は机のひき出しをあけ、中から小さな|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みをとり出した。かれはそれを机の上に置き、結び目をほどいた。
しまった!
元はひそかに胸の中で舌打ちした。
机の上にひろげられたものは、元のポケットに入っていた手帳や小銭入れ、ハンカチなどだった。
署長は小銭入れをあけて百円硬貨や十円硬貨をつまみ出した。
「これは何だ?」
「それ、実はひろったんです。貨幣のようですが、東京ではこのような貨幣が使われているのですか?」
署長は|蟇《ひき》のようにうなった。
「どこでひろった?」
「東京……いや、|飯《いい》|田《だ》町の駅の近くでした」
飯田橋なら中央線が通っている。中央線と名称が変っているか、それとも|甲《こう》|武《ぶ》鉄道という名のままかはわからないが、甲州から上京してきた者であれば、飯田町で下車したというのは自然であろうと思った。当時の飯田町駅は、現在の飯田橋駅に隣接する飯田町貨物駅や客車区の位置にあった。
「駅? ああ、|停車場《ステンション》のことか。ふむ。飯田町の|停車場《ステンション》の近くでひろったと?」
「はい」
「まちがいないか? 飯田町の|停車場《ステンション》か?」
「そうです。まちがいありません」
「|停車場《ステンション》の近く、というと?」
「改札口を出て、右へ、いや、左だったかな? 曲って五十メートルほど行ったところに落ちていたんです」
「なるほど。そのあたりは商家だったな?」
「はい。店がならんでいるようでしたが、なにしろ、朝が早かったもので、店はまだ閉じていました」
「すると、甲州からは今朝、早く着いたのか?」
列車の時間をたずねられるかもしれない。一日の列車の本数は、そう多くはないはずだ。まして早朝の列車など、ないかもしれなかった。
「いや、昨夜、着いたのです。道もわからないので、ゆうべは駅の近くで野宿しました」
署長はだまってうなずいた。元は薄氷を踏むような気もちだった。
「この貨幣の|如《ごと》きものだが、実によくできておるのう。まことに妙なものをひろったものだ。これに、百円と彫られておる。こちらは十円じゃ。それに、日本国、昭和四十八年とあるのう。これは年号らしいが、まことにもって奇妙な年号と数字よ」
「…………」
署長は立上って、執務室から、上席らしい巡査を呼んだ。|袖《そで》|口《ぐち》に二本の黒いモールがついている。署長は、その男にひそひそと何事かささやいた。黒モールの巡査は署長の言葉にうなずきながら時おり、|蛇《へび》のような目を元に送ってよこした。
「……|薩長《さっちょう》の……|丹《たん》|沢《ざわ》|蜂《ほう》|起《き》の残党……しきりに暗躍……」
などという言葉が聞えてくる。
やがて黒モールの巡査は、署長の机の上の百円硬貨と十円硬貨をポケットにおさめると、足早に出ていった。
「このことは、あと回しにしておいて、つぎにこのふところ帳面はおまえのものだな?」
机にもどった署長は、元の手帳をばさりと机の上に投げた。
元はとっさに首をふった。
「いいえ。ぼくのものではありません」
「ちがう? これもおまえのズボンの|尻《しり》のかくしに入っておったものだぞ」
「入れておいたのは本当ですが、それもひろったものなんです」
少しは時間を|稼《かせ》ぐことはできるだろう。
「ひろった? ほう! また妙なものをひろったのう。このふところ帳面には、なにやら、十数人分の人名とその住所らしき地名が記されてある。ところが、その地名だが、これが合点がゆかぬのだ。東京まではわかるが、|都《と》、とはなんだ? また|新宿《しんじゅく》区とあるが、|淀《よど》|橋《ばし》区というのは知っておるが、新宿区というのはげせぬのう。これは、ある種の計画と密接な関係のある結社の暗号ではないのか? おまえ、知らぬか?」
「ぼくはひろっただけだから」
「それをどこでひろった?」
「これも飯田町の駅のそばで」
「飯田町の……|停車場《ステンション》の近くの、どのへんだ?」
「駅の改札口を出て、右へ曲って少し行ったところです」
「飯田町の|停車場《ステンション》に間違いないか?」
念を押すようなその聞きかたに、元は、目に見えない|陥《かん》|穽《せい》が掘られてゆくような気がした。
「間違いありません」
「ひろってから、中を見たか?」
「ちょっと見ただけで、すぐポケットへしまいました」
「なぜ、すぐ近くの交番へ届けなかったか?」
「腹もへっていたし、早く職業紹介所を見つけようと思ったので」
「その財布とふところ帳面は、同じ場所に落ちていたのだな?」
「そうです」
「飯田町の|停車場《ステンション》の近くだったな?」
「はい」
「ばかもの!」
とつぜん、署長のすさまじい怒声がこの小さな警察署の建物全体をゆらめかせた。
「きさま! 本官を|愚《ぐ》|弄《ろう》するつもりか! 黙って聞いておれば、やくたいもないことをよくもべらべらと! きさま、飯田町の|停車場《ステンション》とやらで貨幣とふところ帳面をひろったと言ったな。どうだ。飯田町へ行ってみるか? いったい飯田町のどこを汽車が走っておる? どこに|停車場《ステンション》があるんじゃ? 甲州から来る鉄道は、|多《た》|摩《ま》郡|中《なか》|野《の》が終点なんじゃ。ばか者が、二度も、三度も、飯田町の|停車場《ステンション》なんどとぬかしおって。自ら墓穴を掘るとはそのことよ」
くそっ! 元はいやというほど横面をはり倒されたような気がした。頭から血の気が引いた。最初から抱いていたかすかな不安が、確実に現実のものとなった。
「きさまら如き|鼠《そ》|賊《ぞく》に|誑《たぶ》らかされるわしではないわ! わしは官等十三等、五等警部、|沖《おき》|田《た》|総《そう》|司《じ》ぞ!」
げっ!
元は、かれの手が刀架の大刀へはしるのではないかと思って息を呑んだ。
「こやつをそっちへ連れてゆけ! 泥を吐かせるんだ。手足を折っぺしょり、目ン玉のひとつもえぐり取ってやれば、洗いざらい吐くじゃろう。やれ!」
その口からは火を吐くかとばかり思われた。
元の背後に立っていた巡査が、すかさず、元の両腕をねじ上げた。二、三人の巡査が執務室から飛んできた。
元は抵抗するひまもなく、手取り足取り署長室から引きずり出された。
「よし! 道場へ連れてゆけ!」
見るからに力のありそうな大男が、立ち上った。力をこめて肩の上下運動をおこない、両の指をぽきぽき鳴らした。もう一人、四尺に達する長い木刀を手に、|椅《い》|子《す》を離れてこちらへやって来る者がいた。
「一刀流免許|皆《かい》|伝《でん》、|松《まつ》|田《だ》|安《やす》|之《の》|進《しん》。過ぐる相馬の戦いで薩長兵の首、二十を上げたる腕前の程、とくと見せてやろう」
「よし! おれもだ!」
また一人、立ち上った。みんなひまらしい。
元は、警察署の裏庭に面した道場へ運ばれていった。
元たちのあとから、書役を従えた主任らしい巡査が入ってきた。かれは椅子を運ばせ、それに尻を|据《す》えると、部下たちにあごをしゃくった。
「やれ!」
元の両腕をとらえていた二人の巡査が、元の両腕を離すと、腰を思いきり|蹴《け》とばした。元の体は大きく前へ泳いだ。そこへ正面から木刀がうなってきた。
「おうりゃあ! 抜胴一本!」
すさまじい気合とともに、固い|黒《くろ》|樫《かし》の木刀が目にもとまらず、元の|脾《ひ》|腹《ばら》にくいこんだ。苦痛に顔をゆがめてうずくまった元のえり首に、すかさず大きな手がのびた。
「それ! |関口流《せきぐちりゅう》奥の伝、返し車だ!」
元の体はずるずると引きずり上げられ、そのまま、岩のような背中に載せられたかと思うと、一瞬、宙におどって五|間《けん》の距離をまりのように飛んだ。|羽《は》|目《め》板がきしみ、壁が白い粉を落した。元は羽目板を背に、床に長くなった。
二人の巡査が、元の足をつかんでふたたび、道場の中央に引きずり出した。
「立て!」
元を支えて立ち上らせる。|両脇《りょうわき》から支えていた二人がとび離れたとたんにこんどは肩口ヘ木刀がきた。元は棒切れのように床にころがった。
「こんどは、わしだ」
また大男の巡査が進み出た。
「まて。まだ口のきけるうちに|白《は》|状《か》せよう。こりゃい! きさまは反政府運動の結社員じゃろう? 何という結社の者だ? うん? それとも、|反《はん》|清《しん》運動の方か? 近頃は、反清運動に名を借りて新政府の転覆をたくらむ薩長の残党がいるそうだが、そっちの方か? 白状せい!」
主任が|吠《ほ》えた。
「主任さん。こやつ、まだまだその気にならんとみえます。もう一|丁《ちょう》、いためつけてみましょう」
大男が息まいた。
「よし。もう、二、三回、投げてやれ。ただし、口がきける状態にしておけよ」
とびついてくるのと、投げるのがほとんど同じだった。元の体は、羽目板と床の間を何回か往復し、一度などは天井にぶつかっておびただしいほこりを降らせた。鼻血と体のあちこちから|噴《ふ》き出した血で、元の上体は朱で染めたようになった。床にも血が飛び散り、巡査たちは白い|靴《くつ》|下《した》が汚れるのを|嫌《きら》って|裸足《は だ し》になった。たちまち血染めの足跡が幾つもおされた。
元の右手も左手も、妙な角度でねじ曲り、足も、糸のゆるんだあやつり人形のように、|滑《こっ》|稽《けい》とさえいえる形で折れ曲り、投げ出されていた。
「どうだ? |白《は》|状《く》気になったか!」
「……知るものか! あんなもの……」
「なに!」
「ほんとうにひろったんだ」
「こやつ!」
主任が、どんと机をたたいた。
元はがっくりと床にくずれ落ちた。
「こいつ、気を失ったようだ。おい、水をくんでこい! 頭からぶっかけてやれ。ちょうどいい。床の汚れを洗わなければならんからな」
水が運ばれてきた。|飼《かい》|葉《ば》|桶《おけ》のような大きな木製のバケツから、水がどっと|跳《は》ね出して滝のように元の体を打った。薄赤い水が、道場の床、いっぱいにひろがった。
息を吹きかえした元に、二、三人がわらわらととりすがった。
「さあ、いいかげんに白状しろ! もっと痛い目にあいたいか?」
全身であえぎながら、おし黙っている元を、いまいましそうににらみつけていた主任は、ついにたまりかねたか、椅子を|蹴《け》って立ち上り部下の手から木刀をうばい取った。こめかみの血管が蛇のようにふくれ上った。
「ようし! おれが背骨が砕けるまで打ちすえてくれる!」
びゅうびゅうと木刀に|素《す》|振《ぶ》りをくれた。
そのとき、道場の入口に人影があらわれた。
「おい。主任!」
署長の五等警部、沖田総司だった。
みな直立不動の姿勢になる。
「そのようすでは、白状せぬとみえるな。なかなか、しぶといやつ。主任、今、|近《こん》|藤《どう》さんから電話があってな、そやつを都督府内の憲軍中央情報処理御用掛へ連行するように連絡があった。貴公、そやつを近藤さんに引き渡してきてくれんか」
主任はかしこまって辞儀した。
「近藤先生じきじきの御取調べですか。そうすると、こやつは、たいした大物というわけですな」
「うむ。なんでも、もっと上の方のおかたも重大な関心を持たれておるそうじゃ」
沖田五等警部は、主任に、連行途中は警戒を厳重にし、|遺《い》|漏《ろう》なく任務を果すように命じた。
「ピストルを持ってゆけ。囚人馬車に近寄る者は、何人でもかまわん、|射《う》ち殺せ」
主任はいかつい顔をいよいよ硬くした。
「わしは馬車より少し遅れて出る。一緒ではかえって人目につく。向うでは|永《なが》|倉《くら》くんが、直接受けとる」
「わかりました」
戸板にのせられた元は、巡査たちの手によって玄関へかつぎ出された。低い石段の下には、箱のような囚人馬車が待っていた。後部の|観《かん》|音《のん》|開《びら》きのとびらが開かれ、元は戸板ごと押しこまれた。
馬車が、がらがらと走り出すと、その後に数騎の騎馬巡査がしたがった。道行く人々は、かれらの腰につるされている大きなピストルの皮袋に、恐怖とおどろきの目を見張った。
やや遅れて、|颯《さっ》|爽《そう》と馬を駆るのは、第五等警部、沖田総司だった。その黒つめえり、金山形の制服を引締める黒皮帯に、|閂《かんぬき》に差し通された|朱《しゅ》|鞘《ざや》の大刀が、たくましいかれの体によく|釣《つ》り合って、まことに一幅の絵のようだった。
一一
広壮な征東都督府の建物の一角、西の端に近い幾室かが、日本国政府の都督府|申《しん》|次《じ》弁務処の御用部屋だった。電話交換台のベルがたえず鳴りひびき、女性の電話交換手のあやつる|清《しん》|国《こく》|語《ご》が、カナリヤのさえずりのようににぎやかに交錯する。かの女たちは、先年、都督府指令によって、急速に養成された清会話に|堪《たん》|能《のう》な交換手たちだった。文書による命令下達に馴れた日本の政府にとって、重要な指令も、簡単に電話一本で伝達してくる都督府側のやり方には、最初の内はおどろくばかりでなく、しばしば致命的な間違いをしでかした。日本側の役人は、電話を受取っても、それをメモすることもしなかったり、自分たちにつごうのよいように理解したりした。そのために都督府側に罪に問われた者も多く、ごうを煮やした都督府は、きびしい都督府指令をもって多量の電話交換手の養成を命じたのだった。
その電話交換手の一人が、メモ用紙を持って、弁務処御用部屋のもっとも奥まった一室のドアをたたいた。
「入れ」
ドアを開くと、日頃、この部屋を占領している何人かの男たちが長方形のテーブルを囲んでいるのが目に入った。
いちばん、ドア近くに座を占めていた男がメモを受取った。
「ご苦労」
ぶっきら棒にそれだけ言うと、電話交換手の目の前で、厚いドアはふたたび固く閉ざされた。
メモを受取った男は、それをテーブルの正面に位置するかれらの首領の前へ運んだ。
メモに目を当てた首領の顔に、怒りと|苦渋《くじゅう》の色が浮かんだ。
あごの張った|凹《おう》|凸《とつ》の少ない顔は、眉も薄く、目も細く、一見すると|野《や》|老《ろう》の|如《ごと》く思われる。だが、一|分《ぶ》のすきなく引きしまった体つきと分厚い胸、それに渋紙色に|灼《や》けたひたいを三日月形に|削《そ》いだ白い傷跡は、この男がこれまでの人生を、|鋤《すき》|鍬《くわ》を取って送ってきたものではないことを|如《にょ》|実《じつ》に示している。ことにその全身から発散する|凄《せい》|愴《そう》ともいうべき沈痛な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は、かれが、おのれの生死を|賭《か》けた決断を、幾回となく|強《し》いられ、そのつど、|寸《すん》|隙《げき》の間に生を全うしてきたその勇気と、自信と、また孤独と虚無を、|翳《かげ》のように|揺《よう》|曳《えい》させていた。
かれの名は、|近藤勇《こんどういさみ》。
「先生、何事です?」
テーブルの一角から、身をのり出してたずねたのは、これもひとかどの剣客とみえた。
「山崎君。これはまた、きみにひとはたらきしてもらわねばならなくなった。諸君。ただ今、都督府情報監部甲課、|李崇順《りすうじゅん》上将の名で緊急の指令が下った。
大意はこうだ。
一、日本国政府転覆を意図する、ある強力な結社の存在があきらかにされた。
二、極めて有能なる工作員が、首都に潜入している。
三、かれらの工作が成功するや、日本国はもちろん、大清国の存立にも極めて危険な事態が発生する可能性がある。
なお、一に関しては、その詳細は現在、説明の段階ではない。二に関しては、目下、判明せる者、二名。三に関しても、それが|如《い》|何《か》なる事態を意味するかは、目下のところ、説明を避けたい。
と、こうだ」
近藤勇は、言葉を切って、くちびるを一文字に結んだ。
「しかし、近藤さん。それでは、あまりに|茫《ぼう》|漠《ばく》としていて、われわれとしてもちょっと行動の目安が立たないんじゃないかな」
勇のとなりに座を占めている|瀟洒《しょうしゃ》な背広の男が、慎重な口ぶりで意見をのべた。
「|土《ひじ》|方《かた》君。この二に関して、カッコがついておるんだ。|曰《いわ》く、その二名の内なる一名は、本日早朝、都督府警護処付属憲軍第五中隊、南第一詰所巡察が逮捕せし男なるべし。|件《くだん》の男は、取調官の不注意により、単なる行路病者扱いとなり日比谷大区第一小区巡査|屯《とん》|所《しょ》に引渡したるも、不審の点あり、憲軍中央情報処理御用掛監事に送致せしむ。
とある。
土方君。総司や永倉君にはこのことはむろんまだ伝えてはいないわけだが、重要囚人としての警備手配は十分だろうね」
土方|歳《とし》|三《ぞう》はうなずいた。
「大丈夫です。総司は警衛の巡査にピストルを持たせたと言っていましたから」
「近藤先生。その結社というのは、なんでしょうか? どうも気になりますなあ」
|角《かく》|袖《そで》の着物に前垂れを締め、どこから見ても|大《おお》|店《だな》の|白鼠《しろねずみ》としか見えないこの男は、中央情報処理御用掛の中で、|間《かん》|者《じゃ》として抜群の能力を誇る山崎|烝《すすむ》だった。
「そこだ。山崎君。わしは、その男を形だけ取調べたのち、釈放してやろうと思うんだ。それから先は、君の役目だ」
山崎烝の柔和な目に、ちらとするどい光が走り過ぎた。
「わかりました。かれはやがて、もう一名の潜伏場所に私を案内してくれるというわけですね」
近藤は大きくうなずいた。
「実は、君の役目はもうひとつある。それは、いいかね、これはおれ個人が命ずることだ。諸君も聞いてくれ」
近藤はやや、声を落した。
末席に居た一人が、座をすべって音もなくドアの外へ出た。このような場合の見張り役だった。
「さっき土方君が言ったように、その結社というのが、いったい何をたくらんでいるのか、何人によって構成されているのか、知らなければ、調査しようにもなにも、手のほどこしようがない。そこで、それをわれわれの手で調べ上げてみたいと思う。どうだね?」
いっせいに賛成の声が上った。
「それに、わしが思うには、この指令が、いったいどこから出てきたものであるのか、はなはだ了解に苦しむ点があるのだ」
みなの目が近藤の顔に集中した。
「この指令を読むと、ここに示されているある結社の存在なるものが、都督府、ひいては大清国に危険をおよぼすというよりも、日本国そのものに害をもたらすように記されてある。日本国に危険をもたらすもの、必ずしも大清国に危害をおよぼすものとは限らんじゃろう。むしろ、その逆じゃ。この指令は都督府情報監部甲課、李崇順上将の名で発せられてはいるが、これは、日本側政府上層部が、そう要請したからではないかと思う。何か、日本政府が、極めて憂慮するような、ある種の組織や活動が、あきらかにされたのではないかと思う。わしが妙だと言うのは、そこだ。この結社は、あるいは日本国というよりも、現今の政治体制、あるいは社会体制に重大なるなにかをもたらすものではなかろうかと思われるのだ」
「近藤先生。すると、かれらは薩長の残党とでも?」
「いや、何とも言えん。諸君。あの相馬の戦い以来、すでに三十年。新政府創業を宣してすでに二十五年になる。今さら、何の薩長残党であろう。しかも、多年のわれわれの精細な調査の結果では、日本全国に、もはや薩長残党によって組織されたる有力な反政府運動など、その|片《へん》|鱗《りん》すら見られないではないか。むろん、反清運動は日ましに活発にはなるが、これとて、近い将来、現体制に重大な何かをもたらすおそれがある、などというものではない。そうであるにもかかわらず、政府首脳が、極めて危険なる秘密結社などという不穏当な表現をなす勢力がいったいどこにあるというのか? はたまた、政府は、いかなる方面からその情報を得たのか? 政府が、われわれ、中央情報処理御用掛以外に、他の機関や組織を持っているというのか? どうも不可解な部分が多過ぎる。この不可解な部分について、鋭意、究明したいと思う」
みなは言葉もなくうなずいた。
近藤勇は、ふだん、あまりものを言わない男だったが、ひとたび、活動の方向や計画を指し示す時など、自己の意志を非常に鮮明に表明した。それは、かれらの部下たちをして、一路、死地へおもむかせるにたる強い説得力を持っていた。
この時、かつての|新《しん》|選《せん》|組《ぐみ》局長、近藤勇は、実は事態の本質に、するどく迫っていたと言える。
時は一八九六年。慶応三十一年五月だった。
一二
[#ここから2字下げ]
竜華寺の我が宗の修業の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をばそのままに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我身を我身と思はれず、唯何事も耻かしうのみあるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の際よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知る者なけれども、美登利は何故となく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿とめでけるが、聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。
[#ここで字下げ終わり]
なつ子は筆をおいた。前の方から、ずっと読み直して、現象を|現《あり》|象《さま》と読んでくれるかどうか、気になったのでルビを振った。思ったより良いできばえだった。
まあ、こんなものだろう。
原稿用紙をそろえ、右上すみに|錐《きり》で穴をあけた。|反《ほ》|古《ご》の和紙を細く裂いて、|観《かん》|世《ぜ》|縒《より》を作った。一作成しとげたあとの満足感と解放感は、このひとときにある。なつ子は、その観世縒でたんねんに原稿を|綴《と》じた。
それを大判の封筒に収め、〈文学界〉の編集部あてに郵送する。これは一月三十日発行の第三十七号に掲載されるはずだった。
帰ってくると、せまい玄関に見馴れた黒の|短《たん》|靴《ぐつ》と、誰のものともしれぬ|草《ぞう》|履《り》がならべて脱いであった。
誰か連れてきたのかな?
なつ子は、格子戸をしめて、ショールをはずした。男の声が聞える。
ふすまをあけると、
「やあ。お邪魔しているよ」
東京朝日新聞の小説記者である|半井桃水《なからいとうすい》が、白い|額《ひたい》にかかる髪を、片手でかき上げながら|会釈《えしゃく》した。
「いらっしゃい。今、〈文学界〉の原稿を|投《とう》|函《かん》してきたところです」
「ほう。〈たけくらべ〉もいよいよ完結ですな。あれは、|貴女《あ な た》の|生涯《しょうがい》で、そう幾つもできない傑作のひとつですよ」
桃水は、いつものくせの、そんな|誉《ほ》めかたをした。
「どうせ私はそう幾つも傑作は書けませんですのよ」
なつ子は、つんと澄ましてみせ、|唐《から》|金《かね》|火《ひ》|鉢《ばち》のこちら側に坐った。その火鉢は、前年、|彦《ひこ》|根《ね》中学の英語教師になって赴任していった|馬《ば》|場《ば》|孤蝶《ばばこちょう》が、|要《い》らなくなってくれていったものだった。
「なつ子さん、いや|一《いち》|葉《よう》君」
半井桃水が、あらたまった調子で、かたわらに|膝《ひざ》をそろえている男を見返った。
人前で桃水になつ子さんと呼ばれるのは閉口だった。そうでなくてさえ、世間は、なつ子と桃水の間を、できている[#「できている」に傍点]としている。
「この人はね、|畠芋之助《はたけいものすけ》君ですよ。一度、一葉女史にお会いしたいと頼まれていたものだから、今日連れてきました」
なつ子も、畠芋之助の名は覚えていた。博文館の〈太陽〉や〈文芸|倶《く》|楽《ら》|部《ぶ》〉に、時おり作品を載せている作家だった。作品は通俗をねらったものであり、ややもすると講談|読《よみ》|本《ほん》調に流れるのが、なつ子の好みに合わなかった。実際、有力な小説記者連や、文壇の師匠格の先輩作家が、かれを話題にとり上げたこともなかったし、なつ子の家に集る文学青年達の口から、芋之助の名前が出たことは、ただの一度もなかった。だいいち、なつ子は、その畠芋之助などという無神経なペンネームが|嫌《きら》いだった。
だが、この畠芋之助、この年の四月十日発行の〈文芸倶楽部〉第二巻第五編に、〈|秘妾伝《ひしょうでん》〉という短編を発表し、|山《やま》|田《だ》|美妙斎《びみょうさい》の絶讃を浴びる。一葉を訪問した日から二か月半後のことだ。
|因《ちなみ》に、この〈文芸倶楽部〉第二巻第五編の目次をひろげると、
泥水清水   |江《え》|見《み》|水《すい》|蔭《いん》
秘妾伝    畠芋之助
朝鮮太平記  松居松葉
当世議士伝  くさひで
たけくらべ  |樋《ひ》|口《ぐち》一葉女
むらくも   |有本樵水《ありもとしょうすい》
当世記者|気質《か た ぎ》 |武《たけ》|田《だ》|仰《ぎょう》|天《てん》|子《し》
と、ならんでいる。この〈たけくらべ〉は先に〈文学界〉に連載したものの再録一括掲載である。なつ子は原稿料の二重|稼《かせ》ぎをやったわけだ。
「一葉です。よろしく」
「はっ。お初にお目にかかります。芋之助です」
かれは、近頃、売出しの天才女流作家を前に、ほおを上気させて、しゃっちょこ張っていた。
芋之助は年齢は三十歳を二つ三つ越したぐらいで、肩幅は広く、手足も大きく、骨組が頑丈で、柔術でもやっているような人間に見える。眉が太く、鼻筋が通り、くちびるが男にしては|紅《あか》く、|色《いろ》|艶《つや》がよい。少し|年《と》|齢《し》をくった美少年というところだ。
それにしても、桃水が芋之助をともなってくるとは思わなかった。半井桃水は、つねになつ子に計算された通俗性の必要を説いていたが、反面、おのれの通俗性に気のつかない作家を、口を極めて|罵《ののし》っていた。桃水の|槍《やり》|玉《だま》にあげられる何人かの作家の中の一人が、この芋之助だった。
「一葉先生は、なかなかリアリズムでいらっしゃいますな。平安朝文学を御研究なさいましたか」
なつ子はぎょっとした。桃水はちょっと困ったような顔をした。
なつ子は返答に窮し、あいまいに笑った。
「〈文芸倶楽部〉の臨時増刊に先生がお書きになった名誉夫人は、実によかったですな」
それは第一巻第十二編の臨時増刊〈|閨秀《けいしゅう》小説〉号のことを言っているのだろう。それなら、〈名誉夫人〉の作者は、なつ子ではなく、|小《こ》|金《がね》|井《い》|喜《き》|美《み》|子《こ》だった。
――この人ったら!
なつ子は胸の中で舌打ちした。どうやら畠芋之助は、最初からなつ子が抱いていた印象と違わぬ男らしかった。
|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になった目を桃水に向けた。桃水はしきりに着物の|襟《えり》をかき合わせたり袖口をそろえたりしていた。なつ子より十二歳上の桃水だが、こんな段になると、からきし|駄《だ》|目《め》だった。どうせ芋之助にすがりつかれて承諾してしまったのであろう。人にものを頼まれて、いやとは言えないのが桃水の長所でもあり、欠点でもあった。
「先生は、今どんな作品を執筆中ですか?」
「どんなも、こんなも、だめですねえ。この頃、とんと意気地が無くなっちまって」
なつ子は、たもとを口に当てて|虚《うつ》ろな|咳《せき》をした。
「一葉君。少しやすみたまえ。熱があるのかもしれない。顔が紅い。さ、畠くん。おいとましようか」
|汐《しお》|時《どき》と見て桃水が芋之助をうながした。
「そうですな。これで一葉先生とも御近づきになれたのだし、これからはちょいちょいうかがわせてもらいます」
芋之助は無邪気な顔で頭を下げた。
「こちらこそ」
なつ子も、形だけはていねいに頭を下げた。頭を上げながら、桃水をきゅっとにらみつけた。桃水はへどもどして、何か口の中で言いながら腰を上げた。
なつ子にとって、桃水はかつて結婚まで考えた相手だった。なつ子が桃水にはじめて会った時が二十歳。桃水は|美《び》|貌《ぼう》の恋女房を失って、虚無的なやもめ暮しをしていた。なつ子は、この桃水にはげしく|魅《ひ》かれたが、|臨終《い ま わ》の|際《きわ》の妻に、再婚しないことを誓った桃水は、なつ子の積極的な愛にも、はかばかしく|応《こた》えることはなかった。やがてそのことを|人《ひと》|伝《づ》てに聞いたなつ子の、失恋の|傷《いた》みは深く、かつ大きかった。すでに、なつ子も二十五歳。桃水に対する思慕は変らなかったが、その愛はより深く、豊かなものに|変《へん》|貌《ぼう》していた。
「桃水先生。私、この所、|戦《せん》|役《えき》物におおいに関心を持っております」
いったん腰を上げかけた芋之助が、ふたたび、思いついたように話題を切り出した。
「そうですか」
桃水もなつ子に遠慮して、早く辞したいらしい。
「そのために、何か参考になるかと思って、征東都督府の付近を|徘《はい》|徊《かい》してみました」
「結構、結構」
戦役物というのは、この頃、一種の|流行《ブ ー ム》だった。“何とか城頭、一番乗り”
だとか、“|鬼《き》|神《しん》も|哭《な》く、何某中隊長の最期”などという|日《にっ》|清《しん》戦争に関する戦記物がさかんに読まれていた。それは小説ともいえないような、|至《し》|極《ごく》単純なストーリーで、非常に誇張された文体を持つ、いわば講談の速記のようなものだった。いかにも畠芋之助が関心を持つのにふさわしい。
半井桃水は、穴があったら入りたそうな顔になった。
なつ子は、つんとしている。
「そうしましたら、桃水先生、妙なものを目にいたしました。戸板にのせられた男が、警察の護送馬車からかつぎおろされているところでした。何をしでかした男ですかなあ。もう全身、血だらけになっておりましたな。何か、ズックのような紺のズボンをはいておりましたが、足がおれているらしく、戸板の端からぶらんぶらんと……」
「芋之助君! |止《や》めたまえ!」
桃水の声に、芋之助は、はっと息を呑みこんだ。なつ子の顔が、青葉のように|色《いろ》|褪《あ》せていた。
「や! これは失敬しました。か弱い女性に聞かせる話ではなかったです」
芋之助は恐縮して口を閉じた。
「いやですねえ。国事犯でしょうか?」
なつ子が暗い面持ちでたずねた。
「おそらく、反清運動の徒輩でもありましょうか。そう言えば、妙な話を聞きました。近頃、日本と清国との戦いで、勝った方は、ほんとうは日本なのだ、などと言っている団体があるそうですな」
「どういうことでしょうか?」
「出征兵士の家族を中心とした団体だそうですが、出征して戦死した父や兄や夫からの手紙には、|遼陽《りょうよう》の大会戦で日本が大勝利を収めたとか、|黄《こう》|海《かい》の大海戦で、清国の砲塔艦、|定《てい》|遠《えん》、|鎮《ちん》|遠《えん》の二隻を打ち沈めたとか、そんなことが書いてあるのだそうです」
桃水が首をひねった。
「兵士たちは錯乱したのだろう。ひどい負け|戦《いくさ》だったというし」
「いや。桃水先生。それだったら手紙を出せるはずがありません。軍事郵便局が検閲して、あやしい手紙はおさえてしまうでしょうから」
「それも、もっともだ。だが、勝ち|戦《いく》さを負けたと書くのは|御愛嬌《ごあいきょう》かもしれんが、実は負けているのに、現地からは勝ったと言ってくるというのは、これはちと妙だな」
「一葉先生は、いかが|思《おぼ》されますか?」
芋之助の目が、期待に光った。
「そういう難かしい話は、今はしたくないわ」
「征東都督府の内部でも、この二、三日大層緊張の趣きと風聞しています」
「芋之助君も、あの付近には近づかん方がいいぞ。この間も、うっかり近づいた、ぽっと出の|田舎《い な か》娘が、|哨兵《しょうへい》に捕えられてひどい目にあっていたそうだ」
「哨兵長だか取調室頭取だかの、室井弥七衛門という特務曹長がたいへん乱暴な男だそうですな。引張ってきた女には手をつける。あやしい男はすぐ中央情報御用掛に引渡してしまうということで、反清運動の連中などからは、鬼のように恐れられているそうです」
畠芋之助は、そうした話題に実にくわしいようだった。顔つきまで|生《いき》|々《いき》している。半井桃水は、なつ子に対する遠慮だけでなく、自分でもいやになったらしい。
「芋之助君! さあ、腰を上げたまえ」
語気鋭く言った。芋之助はぺこりと頭を下げると、商人のように背を丸めて、玄関へ出ていった。
「今日はすまなかった。あとでまた来る」
桃水は低い声で早口に言うと、そのまま、芋之助を追って座敷から出ていった。
なつ子は、|行《あん》|火《か》にもぐりこんで送られてきた雑誌に目を通した。
一昨日、|川《かわ》|上《かみ》|眉《び》|山《ざん》から借りた十五円で、質草の一部を受け出し、返済を迫られていた借金をひとつだけ返し、まだ二、三円は残っていたから久しぶりにのんびりした気分だった。
一三
樋口一葉のファンには申しわけないが、かの女は、実はたいへんな借金魔だった。かねが借りられそうな相手と見れば、見境いもなしにと言ってよいぐらい、借金を申しこんだ。かの女にとって、編集者や出版社主というのは、借金を申し込むための相手でしかないのではないか、と思われることさえある。かの女の恋人である半井桃水は、かの女のために、どれだけ|銭《ぜに》を用立てたかわからないし、川上眉山も|斎《さい》|藤《とう》|緑雨《りょくう》も馬場孤蝶も、|博《はく》|文《ぶん》|館《かん》の|大《おお》|橋《はし》|乙《おと》|羽《わ》も、みな、なんのかんのと一葉にかねを借りられて大迷惑をしている。だいたい一葉は、自分の日記の中でも、|貧《ひん》のどん底にあることを、くりかえし記しているが、かの女の二十歳から二十五歳までの文筆生活の中で、後半の二年ばかりは、ほとんど毎月、原稿を書いている。小説ばかりではなく、随筆もあるし、短歌もある。当節と違って、文士というのは、まるで人外にひとしい扱いを受けていた時代とはいえ、一葉は無名の作家ではない。
一葉、二十四歳の折、博文館の大橋乙羽が一葉に出した手紙に、〈その節御預り申上|候《そうろう》御尊稿本日出社|仕《つかまつり》 |候《そうろう》て館主に見せ候ところ是非|頂戴《ちょうだい》致度儀申居り御謝儀十五円にては|如《いか》|何《が》に侯〉
とある。この作品が、一葉の作品の中のどれなのかは今日不明だが、何枚分にせよ、十五円である。当時の優秀な旋盤職の月収が十六円余り、支出が二十円程度であったことを考えれば、月、一本しか仕事をしなかったとしても主たる収入が毎月、十五円内外、加うるに和歌の添削などの不定収入もあり、借金につぐ借金の意味があきらかでない。一葉の母親や妹は、質屋通いに明け暮れたといわれるが、質屋通いに明け暮れるということは、出したり入れたりということで、質草が無くなることではない。もちろん、ずいぶん流しもしていよう。一葉の収入が十七、八円。あるいはそれ以上、母親は長い間、仕立物の賃仕事をしている。この時代、|技術《て》がよければ五円は|稼《かせ》ぐ。妹も|若干《じゃっかん》の収入があったらしいから、当時の労働者家庭の年収の二百円を越す程度の収入はあったはずである。しかしこの程度の収入では生活は決して楽ではない。当時、質屋通いの、借金をかかえての生活はごく当り前のものではあったが、子供もいない、病人もかかえていない、酒呑みがいるわけでもない女三人の小さな世帯で、一葉の派手な借金ぶりには、何か|理《わ》|由《け》があるとしか考えられない。
かの女の家には、半井桃水や斎藤緑雨、川上眉山を始め、多くの文学のなかまや、かの女のファンともいうべき文学青年たちがつねに出入りしている。一葉自身、典型的な女書生であり、談論風発という|態《てい》であったから、かれらも、夜遅くまで、時には|鶏《けい》|鳴《めい》に至ってはじめて時の経過に気づくというありさまだった。毎夜のことであれば、かれらをもてなす|為《ため》の|茶《さ》|菓《か》の代もばかにはなるまい。まして、今を時めく女流とあっては、寝そべって塩豆をかみながらというわけにもゆかなかったであろう。
文学青年達が、ほおを紅潮させ、目をかがやかせて居ならぶ一座の正面に、一葉が派手なゼスチュアでつぎからつぎへと話題を展開し、その隣では、川上眉山あたりが、すでに大家の貫禄を見せて、一葉の言葉に|鷹《おう》|揚《よう》にうなずきかえしている。座敷のすみには、一葉の妹の|邦《くに》|子《こ》がひかえていて、そんな姉をうっとりと見つめている。そして、ぴたりと閉めきったふすまのむこうのせまい茶の間では、一葉の老いた母親が、暗い|洋燈《ラ ン プ》の下で、老いの目やにをぬぐいながら賃仕事に精を出している。
この|情景《シ ー ン》は、妙に私を|物《もの》|哀《がな》しくさせる。
明治二十九年十一月二十三日の|霜《しも》|晴《ばれ》の寒い|暁《あ》け方、誰一人みとる者もなく、|淋《さび》しく死んでいった一人の若い女流作家の、やりきれない虚と実がここにあるような気がする。
一四
「一葉先生。御在宅ですか」
玄関で声がした。聞き|馴《な》れない声だった。――だれかしら?
「どうぞ!」
|格《こう》|子《し》戸が開いて、中年の男が小腰をかがめた。
「あら。|岡《おか》|野《の》さんじゃござんせんか!」
「や、先生。お久しぶりでございました」
この男、岡野|茂《しげる》といい、|人形町《にんぎょうちょう》で|足《た》|袋《び》屋を営んでいる。父親の代まで|鯖《さば》|江《え》藩につとめ、漢学を教授していたという。そのせいもあって、茂も文学を好み、文学青年達と交わって時おり、なつ子の家へも顔を出していた。
岡野は商人らしく小腰をかがめて座敷へ通った。
「今、桃水さんと畠芋之助君がお帰りになったところですよ」
なつ子は、水屋から豆大福と緑雨が持ってきてくれた|煎《せん》|茶《ちゃ》を取り出した。岡野は|森《もり》|鴎《おう》|外《がい》のファンでもあり、なつ子が鴎外に、|尾《お》|崎《ざき》|紅《こう》|葉《よう》とともに、鴎外の主宰する〈めざまし草〉という同人雑誌に招かれていることを告げると、岡野はおおいに喜んだ。紅葉はすでに特別寄稿という形で事実上、参加していたから、鴎外としては、|幸《こう》|田《だ》|露《ろ》|伴《はん》、斎藤緑雨、樋口一葉、尾崎紅葉という当時の最強力メンバーで同人を構成しようとしたわけだ。
「ところで一葉先生。先生は戦役物には全くご関心をお持ちにならないようですが、これは戦役物といえばいえるような、あるいはそうでないような、たいへん変った趣好の小説を書いている男がございましてな」
「変った趣好というと?」
岡野茂はひざをのり出した。
「つまり、こうなんですわ。日本と清国の戦争で、もし、日本が勝っていたら、という仮定にのっとって、戦後の日本の様子をいろいろ書こうというこころみでして」
「日本が勝っていたら?」
「ええ。今とはまたずいぶんと違った社会になっているでしょうな」
「落し話みたいなものですね」
「西洋では実験小説とか空想小説などと言っているようです」
「岡野君、博識なんですね」
「こりゃどうも。しかし、面白い発想ですな。日本が清国に勝てる可能性というものはあったんでしょうか?」
「さあ、ねえ。ただ戦場で勝ったとか負けたとかではなくて、|敗《ま》けた原因というのは、歴史的に深いところにあるのでしょうね」
「うむ。これはまた卓見ですな。たしかにわが国が清国との戦争で負けるべき必然性というものが、過去の歴史の中ですでに作られていたと思います。私は、その原因の第一に、近代国家にふさわしからざる幕府、藩閥連合政府というわが国の政治機構をあげたいですな」
岡野茂は事も無げに言ってのけた。
「岡野君。あんまりそんなことを言わない方がいいんじゃないかしら。このへんにも|諜者《ちょうじゃ》はたくさんいるんですよ」
なつ子が軽くたしなめた。実際、諜者はどこにでもいる。一説によると、警察や憲軍に一回なにがしかの情報をもたらすと二十銭。それが重要な情報であった場合には一円から二円にもなるのだという。
「そんなことをびくびくしているからいけないんだ。国民はもっと、自分の考えを述べなければいけませんよ。世論を作ることです。世論を」
岡野は激したように、膝の上でこぶしをにぎりしめた。
岡野がこのようなことを主張するなどというのは、極めてめずらしいことだった。
「そりゃまあ、そうですよね。恐怖政治はいけませんよ。自由は国民の権利なんだから」
「日清戦争に日本が勝つ、という条件は、幕府・藩閥連合政府ではなく、|薩長《さっちょう》を中心とした政府による中央集権下における近代化が前提になる、という説があるのですよ」
「…………」
なつ子はふと口をつぐんだ。
「何とか|太《た》|郎《ろ》|兵《べ》|衛《え》だか|次《じ》|郎《ろ》|兵《べ》|衛《え》だかという男がいましてな、これが主人公なんですわ。この主人公が、ふとしたことから、妙な機械を手に入れましてな。この機械が、これを使えば、なんと過去の時代へ自由に旅行することができるという世にも不思議な機械でして。この主人公先生はこの機械で、三十年ばかり、歴史をさかのぼってみたのですよ。そして、もとの出発したところへもどってきたら、そこが、どうも自分が出発した世界とは違うんですな」
「…………」
「どこが違うかというと、日本が、清国と大戦争をやって、清国に勝ったという世界だったんですわ。その世界では、日本が清国との戦争に勝って手に入れた|遼東《りょうとう》半島を、ロシアやドイツなどが清国にかえしてやれといってきたため、くやし涙にかきくれながら清国にかえし、それでは、というのでいよいよ大国ロシアを相手に、のるかそるかの大戦争を決意してその戦争準備に一心不乱になっているところだった、という物語なんです」
「面白い話ですね」
「過去の時代へさかのぼることができる機械というのが実に愉快な発想ですな」
岡野茂は、大きな口をあけて笑った。
「そんな機械がほんとうにできるんでしょうか?」
「今はともかく、未来にはわからんですな。案外、そんな機械を使って未来の世界からこの世へ来ている人があるかもしれない」
「気味の悪いことを言わないでくださいよ」
「その人物は、もしかしたら清国が勝っている世界は、間違っているから、日本が勝っている方に切りかえてしまえなどと考えているかもわかりませんな」
岡野は屈託のない顔で言った。
「そんな小説を書いている人って、|誰《だれ》ですか?」
なつ子は、両手で支えた|湯《ゆ》|呑《のみ》ごしにたずねた。
「お笑いになっては、いやですよ。私。私ですよ」
「|貴方《あ な た》が?」
「そうなんです。〈文芸倶楽部〉の懸賞に応募してみようかと思っているんです」
「ふうん!」
「それでね、その小説の第一章は、その日清戦争で日本が勝った世界から、こちらの世界へ、三人の|密《みっ》|偵《てい》が忍びこんでくるんです。そのうちの二人は、憲軍中央情報処理御用掛に捕えられてしまうんです。ところが、三人の中の首領格の|行《ゆく》|方《え》がわからない。御用掛では、その首領が捕えられた部下を助けにやってくるはずだから、網を張って待ちかまえている。さあ、どうなるか? というところで第一章は終りです」
「畠芋之助君ばりの小説ね。私にはどうも」
「そうかなあ。一葉先生には|解《わか》るだろうと思ったんだが」
「残念でしたわね。でも、ぜひ書き上げなさいよ。とても面白い趣好ですよ」
「お話した筋に、何かつけ加えていただくようなことはありませんか?」
なつ子は当惑して茶をすすった。
「私には|一寸《ちょっと》|苦《にが》|手《て》ですよ。芋之助君なら、どこをどうすれば面白くなるとか、読者が喜ぶとかわかるでしょうけれどもね」
「そうですか。残念だな」
「これからは、そういう小説がどんどん出てくると思いますよ。|武侠《ぶきょう》小説というのかしら? 空想冒険小説というのかしら?」
岡野茂は、少しあてがはずれたか、急に話すことに熱意を失ったように沈黙して、手にした湯呑の底をぼんやりと見つめていた。何か、全く別なことがかれの胸中を占領しているらしい。
「岡野君、怒った? 私、なんだか|素《そっ》|気《け》ない返事をしたのかもしれないわね」
なつ子はすまなそうな笑顔を作った。
「いや。そんなこと、ありません」
岡野はそれから、にわかに時計などを見て帰り仕度を始めた。
「これは、とんでもない|長《なが》っ|尻《ちり》をしてしまいました」
あいさつもそこそこに立ち上る。
一葉は、気の毒になって、昨日郵送されてきたばかりの博文館の雑誌〈太陽〉を貸し与えた。岡野は喜んで帰っていった。
時計はもう午後四時を指していた。風が出て寒くなってきた。一葉は火鉢に炭をつぎたし、からになった鉄瓶に水をたして火鉢にのせた。
文机にもどって、原稿用紙に向ったとたんに、ふいに地の底に引きずりこまれるようなめまいを覚えた。無意識に何かにすがろうとしてのばした手が、むなしく|空《くう》をつかんだ。なつ子は重心を失って、その場に横ざまに倒れた。
薄闇に溶け込むように、意識が遠のいていった。
一五
岡野茂は|梶《かじ》|棒《ぼう》が下ったのを感じて、はっと思案から覚めた。
「|旦《だん》|那《な》。御門でやす」
車夫が岡野をふりかえった。
「弁務処の玄関へ着けてくれ」
岡野は、胸の上に組んだ腕にあごを埋めたまま言った。
「旦那。御門内は町方の|人《じん》|力《りき》はいけねえんで」
「構わん」
岡野は車夫の言葉を、少しも意に介さなかった。
「へっ。で、でも……」
「いいから、やれ」
車夫は|蒼《そう》|白《はく》になった。征東都督府の構内は、いかなる理由があっても、民間人が民間の人力車に乗って構内に入ることは許されていなかった。特別な場合だけ、都督府から免許の旗が借下げられ、それを梶棒に立てて入ることが許された。
|入《いり》|谷《や》の裏通りから乗せたこの客は、都督府に出入りする顕官、紳商とも見えないのに、平気で玄関に乗りつけようとしている。こいつは頭がどうかしているのではないだろうか? 車夫がそう思ったのも無理はない。
「冗談じゃねえ! ここを入ったらどうなるか……」
わかったもんじゃねえ! 怒鳴りかけた車夫の口があんぐりと開きっぱなしになった。
「敬礼!」
「|頭《かしら》ア右ィ!」
門の両側に立っていた|哨兵《しょうへい》が、直立不動の姿勢を取ったのだ。かれらの視線は、あきらかに車上の男に向けられていた。
車夫は|狐《きつね》につままれたような顔になり、ついで恐怖が、いっさいの思考を奪った。都督府に出入りする日本人などというものは、かれら庶民とは全く無縁の存在だった。都督府や、それと関係のある日本の役所などは、人々にとっては、まさに直接、死と破壊をもたらすもの以外の何ものでもなかった。|触《さわ》らぬ神にたたりなし、とはこのことだった。
「近藤先生。樋口一葉女史の所へ行ってきましたが、別に報告するようなこともありませんなあ」
近藤勇の前で、|憮《ぶ》|然《ぜん》とした面持ちで|顎《あご》をなでているのは岡野茂だった。
「山崎くん。指示どおりの話にもっていったわけだね」
近藤勇の顔色もはなはだ|冴《さ》えなかった。
「局長もご存知でしょうが、一葉女史の書く小説はたいへんロマンチシズムの傾向の強いものでして、女史自身、文学の芸術性を強く希求するという態度を堅持しているわけです。したがって……」
近藤勇はおよそ芸術とか文学などには理解のない男だった。おそらく樋口一葉の名前も知らないかもしれない。だが、山崎|烝《すすむ》は自分の思うところを勇に逐一述べた。勇も、自分の不可解な話題だからといって、聞くのを面倒がったり、話を|端折《は し ょ》らせたりするような男ではなかった。
「日清戦争で日本が勝った世界の話だとか、過去の時代へ旅行できる機械の話だとかに興味を持つわけがないのですよ」
「なるほど」
「つまり、そのような武侠小説というか、熱血冒険小説というものは、一葉女史の文学の|範疇《はんちゅう》とは全く別なものなのです」
「ふうむ。そういうものかな」
「都督府情報監部甲課が、わが国の一女流作家の作風について、さまで詳しく知っているとも思われませんが、それにしても、たいへん変った小説の筋道を、ことさら一葉女史に話して、その反応をうかがえ、というのは全く|解《げ》せませんなあ。どういうつもりでしょうかね」
近藤勇は苦く笑って首をふった。
都督府情報監部甲課、李崇順上将の名でその指令がきたのは今朝のことだった。その指令を受け取った憲軍中央情報処理御用掛主任近藤勇は、ただ頭をひねるばかりだった。
その指令の内容がなんとも奇怪だった。
主任近藤勇は、すぐさま、次席の土方歳三や山崎烝、永倉|新《しん》|八《ぱち》、新見|錦《にしき》らの部員を招集した。五等警部として刑事警察の現場に出向している沖田総司にも|急遽《きゅうきょ》、出席を要請した。
これまでも、調査目的のよく解らない指令や統計調査が下令されたことが何回かあったが、今回のものは、理解できないというよりも、異様としか言いようがなかった。それも今日中にその結果を報告せよという。
近藤勇は、不愉快だった。かれ自身、都督府と日本国政府の間に在って、つねに最高度の機密にあずかってきたし、かれの指揮する中央情報処理御用掛は、情報の収集や謀略活動に極めて高度な能力を持っている。かれや、かれの部下たちはそれに対して強い自負を抱いていた。その自負がおおいに傷つけられることになったのだ。何の目的で動くのかわからないようなことで働かされたり、その活動の意味を説明されぬような使われ方をされることにはその自負が承知しなかった。だが、都督府情報監部甲課、李崇順上将の命令は絶対だった。
近藤勇は、土方歳三の言を|容《い》れ、取りあえず山崎烝を樋口一葉のもとにおくることにした。和漢洋の文学を好み、自分でも小説などを書いたりする山崎烝は、幸いなことに、一年ほど前から樋口一葉の家へ出入りしていた。山崎烝は最初、おおいに渋っていたが、他に適任者がいないという事情がついにかれをこの任務につかしめたのだった。
「近藤先生、私はこれでも一葉女史には師事しているつもりなのですよ」
山崎烝はうらめしそうに言った。
「ああ、わかっとるよ。すまんが、たのむ」
近藤勇にたのむと言われては、とてもことわりきれない。
その結果が、手ぶらの帰館ということだった。烝にしてみれば、最初からわかっていたことだった。
「近藤さん。山崎くんに語らせたその小説の筋というのは、いったい誰が考えたものなんだろうね? また、なんでそれを樋口一葉女史に告げる必要があったのだろうか?」
土方歳三の目が暗く|翳《かげ》った。
「|歳《とし》。わしはこんどの件は、例の情報監部甲課の指達と何らかの関係があるとにらんでいるのだ。歳。あの男、何かしゃべったか?」
「おそろしくしぶとい|奴《やつ》で、まだ何もしゃべっていない。あまり責めて死なれてしまっては元も子もなくなってしまうので、まあ、手心は加えながらやってはいるが」
「よし。歳、きみは都督府情報監部甲課を洗ってくれ。とくに李崇順上将の周囲をだ。あるいは大都督、李鴻章閣下の身辺も調査する必要があるかもしれん。ねらいはあくまで、樋口一葉女史の耳に入れようとした小説の筋を作った者が誰か? という一点だ」
「わかった」
「山崎君は、なお引きつづき一葉女史に注意していてくれ」
「はい」
「永倉君は内務省の治安委員会委員たち一人一人の最近の動きをチェックしてくれんか」
「はい」
「総司は反清運動の動きを監視してくれ」
「わかりました」
「他の者はしばらく待機していてくれ」
会合が終ると、かれらは影のように部屋を出ていった。一人残った近藤勇は、深く腕を組んで彫像のように動かなかった。かれの知らない所で、極めて異常な事件が進行しているようであり、いったいそれがどのような事件であり、なにびとがいかなる目的で動いているのか、全く見当もつかない|苛《いら》|立《だ》ちがかれの心を|鷲《わし》づかみにしていた。
一六
今朝、中央情報処理御用掛へかかってきた指令電話は、わずかに四本。その内の一本が一葉女史への接触を命じたものだった。
歳三は電話室の主任を物かげに招いた。
「ちょっとたずねたいんだが」
やせぎすの長身を|瀟洒《しょうしゃ》な背広につつみ、チョッキに細い|金鎖《きんぐさり》を垂らした歳三の、その暗い湖のような|双《そう》|瞳《どう》は、野のけもののような酷烈な光と、|対《むか》い合う者の胸を凍りつかせるような非情な翳を宿していた。かれは話す時、ほとんどくちびるを動かさない。動作は日常、しごくひかえ目であり、一見、女のように優雅でさえあった。
「どんなことでしょうか?」
電話室の主任は、この高名な情報部員の前で、何となく、|狼《おおかみ》の前のうさぎのようにおびえ上った。白刃を突きつけられたような生理的な恐怖が、中年の主任の胃の|腑《ふ》を締めつけた。
「今朝、われわれの方へこのような内容の電話がかかってきた」
歳三は、近藤勇からあずかってきたメモを主任の前にひろげた。主任の視線が、いそがしくメモの上を|這《は》った。
「この電話が、情報監部甲課の誰がかけてきたものか知りたいのだが」
主任のほおが|強《こわ》|張《ば》った。体が小きざみに震えはじめた。右手が無意識に背広のボタンをまさぐっている。
「そ、それは」
「どうかね?」
「あ、あ、あなた、都督府、とくに情報監部からの指令は、その指令発信者の名をあかすことはかたく禁じられています。あなただってご存知のはずです」
「知っている。その上でたずねているのだ。電話を受けた者は、たしかにそれを受けたことを確認し、報告するための|控《ひかえ》をとることになっている。そうだったな」
「そ、そうです」
「その控を見せろ」
「勘弁してください。そんなことがばれたら、私は禁固ぐらいではすまないですよ」
「大丈夫だ。おまえの身に、迷惑がかからないことはおれが保証する」
「いけませんよ!」
歳三はふ、と笑った。
そのくちびるの端に浮かんだ笑いが、主任の腰のつがいから支持力を奪った。主任はくたくたとその場へくず折れた。歳三はその腕をとらえて引きずり上げた。
「いいか。これも考課表の中に入ることを忘れるなよ。おまえはたしか、|逓《てい》|信《しん》省属官二十三等だったな。もう一等、進めば本官となる。そうなれば|俸給《ほうきゅう》だけではなく、恩給もぐっと違ってくるし、本省づとめも待っている。本省づとめはいいぞ。それとも、一等郵便局の局長はどうだ? これは毎朝、馬車で出勤だ。馬車は便利なものだ。とくに雨の日などは。そう思わないか? うん?」
耳もとでささやかれると、もう抵抗する気は|失《う》せた。逓信省派遣の都督府弁務処電話交換室主任にとって、本省へ入れるかもしれないというひとことは、いったん失せた勇気を飛躍的に増進させるに十分だった。それに、ここでさいごまで断りでもしたら、あとがどうなるか考えてみるまでもなかった。中央情報処理掛の一端をうかがった者が、そのままですまされるはずがない。主任は歳三の腕につるされたまま、人形のように首を縦にふりつづけた。
控はいちいち主任が受取って厳重に金庫へ保管し、夕方、情報監部へ提出することになっていた。もちろん、電話を受けた交換手には厳しい|緘《かん》|口《こう》令が敷かれている。絶えず身辺監視の目が光っているともいわれている。全寮制であり、長期にわたって家族との面会も許されない電話交換手だが、庶民には目玉の飛び出るような高給がそれをつぐなっているといったところだ。
「なるほど。李崇順上将じきじきの電話だったのだな」
控を見つめる歳三の目が青く燃えた。
すると李崇順上将にその命令を与えた者が誰か、ということになる。
李崇順上将の幕下の情報監部甲課は、五つある課の中で、総務課ともいうべき仕事を分担していた。他の|乙《おつ》課、|丙《へい》課、|丁《てい》課、|戊《ぼ》課に比べて、情報監部内の比重はぐっと重く、時には情報監部そのものですらあった。そのことは甲課の課長は情報部部長が兼ねていることでもわかる。すなわち情報監部部長は李崇順上将その人であった。そのことは、李崇順上将に命令を与えることのできる人物は、大都督李鴻章大元帥しかいないということだ。
歳三の胸に深い疑惑がわだかまっていた。
大都督といえば、日本占領軍最高指揮官である。かれは占領下日本の軍政全般にわたって指揮、監督するものであり、一情報員の活動の指針を与えることなどあろうはずがない。これはおそらく李鴻章大元帥の全く関知することではないであろうと思った。おそらく、何者かが、かれの名をかたって指示を出したのだ。あるいは、李鴻章大元帥自身が、おのれの名を使うことを許しているかだ。
何者だろう? それは。歳三の胸に、暗い雲が影を落した。かれはずっと以前から、都督府の名で、あるいはその命令系統のどことも知れぬ部分から、さまざまな機関の名で発令される命令のあることに気づいていた。それは大部分が情報収集であったが、都督府がなぜそのような調査が必要なのか、と思うような内容のものも多かった。たとえば、過ぐる日清戦争における黄海の大海戦で、かろうじて生き残った海軍の士官、水兵たちの中で清国の主力砲塔鑑定遠が沈没するのを見た、という者が何人かあったが、情報監部は、なぜかその者たちのその後の言動をきびしく監視するよう命令してきた。歳三が考えるに、そのようなことは、|凄《せい》|惨《さん》な戦場ではしばしば見られる心理的打撃による幻想で、情報監部あたりが、その後の言動|云《うん》|々《ぬん》などというような問題ではなかった。また、ある時、横浜の貴金属商のもとに、日清戦争大勝利記念メダルなるものがあらわれて、情報処理御用掛が非常に緊張させられたこともあった。これなどは反清グループによる単なる|嫌《いや》がらせであろうが、その捜査命令は内閣官房長官から発せられていた。指揮系統が違うような気がしたが、憲軍総司令の元|古《こ》|河《が》藩主、陸軍大将|土《ど》|井《い》|利《とし》|興《おき》の連名もあり、情報処理御用掛では、主任近藤勇以下、大いに動いたものだったが、これも何の手がかりもつかめず、結局、うやむやに終ってしまった。そんなことが、これまでに何回もあった。いったい何者が、なぜ、そのようなことで神経をとがらせているのだろう?
歳三は、ふと思い立って都督府官房へ電話をかけた。身分を名乗って、大都督李鴻章大元帥のこの二、三日の予定についてたずねた。電話に出た官房長の言葉は、歳三をおどろかせるに十分だったし、別な意味では予期したとおりとも言えた。
「大都督閣下には、皇帝陛下の御誕生日祝賀会への参加と、国民議会への参加と、国民議会ヘの報告の為先週はじめより、来週なかばまで、|北《ペ》|京《キン》へお帰りになられております」
官房長は、うやうやしく答えた。
歳三は|鄭重《ていちょう》に礼を言って、電話機を置いた。やはり、あの指令は、李鴻章大都督より出たものではなかったのだ。都督府令といえども、勝手に李鴻章大都督の名を使うことは厳しく禁じられているはずだった。何者かがそれを使ったのだ。
かれは、おそらく、大都督の名を自由に使えるのだ! 都督府内部の組織が、それを黙認するように、あるいは黙認しなければならないような陰の実力者がたしかに存在するのだ!
歳三は肩をすくめると、情報処理御用掛の御用部屋へ、いそぎとって返した。
「歳。おまえ、それが誰なのか、見当がついているのか?」
近藤勇は、閉じていた目を開き、するどい視線を歳三の上に移した。
「いや。わからない。最初は、大統領かとも思ったが、そうではないな。大統領が一葉女史に、かけるかまのことまで心配するはずはないものな」
「だが。他に大都督の名を使って、自由に都督府令を出せる者がいるか? 今の日本国の政府高官内では、ちと考えられぬが」
「その点でなあ。どうも。私にはなんとも見当がつかないのだ」
「歳。その樋口一葉女史に語って聞かせるために送られてきた小説の筋だが、それは、たしか書面だったな?」
「そうだよ。自動印字機で打たれたものだ」
「歳。それを打ったのは誰なんだ? その者のところには送られてきた原稿があるはずだ」
「なるほど! さすがは近藤さんだ。いいところへ気がついた」
「自動印字機があるのは文書課と経理課、それに大都督第一私室だ。調べられるか?」
「よし。近藤さん。やってみよう。自動印字機はたしか全部で二十二台。それぞれ担当の打手がいる。自動印字機には文字の打ちぐせがあるから照合してみればわかるはずだ。そうすれば打手がわかる。文書の原稿はそいつがあずかっているはずだ」
「歳。やってくれ。永倉にも手伝ってもらうといい」
歳三はくわえていた細い葉巻を、|灰《はい》|皿《ざら》にねじると、さっと立ち上った。背広の細いえりをしゃれた手つきで、つん、つん、と引いて整えると、|大《おお》|股《また》に部屋を出てゆく。長いもみ上げをなでつける細い指先の優雅な動きも、この男のとぎすまされた|凄《せい》|愴《そう》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を、いっそう、|伊《だ》|達《て》なものにしていた。
一七
特務曹長室井弥七衛門の節くれだった太い指が、肉の|襞《ひだ》を押し分け、もっとも感覚の鋭敏な部分を|摘《つま》み|擦《こす》り上げるたびに、かもめの体はバネのように|跳《は》ね上った。酒臭い息が|嵐《あらし》のようにかもめの顔を襲い、かもめはその臭気が自分の肺のすみずみまで侵すのを感じた。
「やめて! やめて! やめてったら!」
かもめは急も絶え絶えに、声をふりしぼった。
室井弥七衛門はなかなかの|上手《じょうず》だった。息こそ荒々しくはずんではいたが、女体を責める手順は手ぬかりなく踏んでいった。襞の内側をはげしく|掻《か》き|撫《な》でるかと思うと、外側から柔らかくゆっくりとねぶる。その間に、浮かせた指で果核を|翻《ほん》|弄《ろう》する。心はやたけにはやっているはずなのに、これでもか、これでもかと責め立てるのは、酒を|醸《かも》すのに似ている。味わいを|佳《よ》くしてから|戴《いただ》こうという寸法だ。室井弥七衛門の太い指が体内をまさぐるのを感じた時、かもめはついに|陥《お》ちた。のけぞったかもめの白い胸や腰に、汗の粒が噴き出したのを見て、室井弥七衛門は勇気|凜《りん》|々《りん》、全身の筋肉を盛り上らせてかもめにおおいかぶさった。|棍《こん》|棒《ぼう》のような物がその全長を余すところなく埋没させたとき、かもめは気息を絶するような|欣泣《きんきゅう》を|洩《も》らした。しきりに|虚《こ》|空《くう》をつかむその手をとらえて、室井弥七衛門はおのれの首に巻かしめた。
三|浅即《せんすなわ》ち|春雨《しゅんう》を呼び、一|深《しん》即ち|鶯《おう》|声《せい》を断つ。四旋すれば花影たちまち震え、二|突《とつ》ただちに至る|神《しん》|仙《せん》境。緩急の揺動、今や気、合わざるはなく、|艶色《えんしょく》、堂に|溢《あふ》るるばかりであった。
「どうじゃ? 心地ええか。うん?」
室井弥七衛門はしきりに感想を求めた。それはささやくというよりも、わめくに近かった。
「どうじゃ? 言え!」
耳元で強要され、かもめは弥七衛門の肩に顔を埋めた。弥七衛門はその顔を灯の下にねじ向けた。そうされたことが、かもめの感覚に新しい火をつけた。かもめははげしく四|肢《し》をからめ、感覚が最高の極致にあることを示す言葉でうったえた。その声と表情が、室井弥七衛門をこの上なく満足させた。
「おお、そうか、そうか。そんなにええか」
室井弥七衛門は掌に|唾《つばき》する心で、さらに猛然と|揉《も》みはじめた。弥七衛門の克己心は驚くべきものがあった。何度か、いまわの|際《きわ》まで達しながら、そのつど|剣《けん》が|峯《みね》でとってかえす。受ける方は今こそと思うから身を震わせて気を入れる。するとはぐらかされる。再度|昂《こう》|揚《よう》の波が襲ってくる。またまたむなしく気をそらされる。先へ先へと追い立てられて、急速に心気もうろうとなってくる。喪神状態におちいった女体を見て、弥七衛門は|撓《たわ》めに撓めていたものを|渾《こん》|身《しん》の力をこめて放出した。ひと声、断末魔のさけびを上げてかもめは|悶《もん》|絶《ぜつ》した。
一八
|蓮《れん》|花《げ》|寺《じ》|坂《ざか》を上って|広《ひろ》|小《こう》|路《じ》に入り、|白《はく》|山《さん》|御《ご》|殿《てん》|跡《あと》|大《おお》|通《どお》りを北へ進む。このあたりは元下級旗本連の屋敷が連なっていたところだが、御一新後、屋敷地割の整埋かおこなわれ、今は官公署の寮や中級官員のための貸与住宅が立ちならんでいた。
元旗本|西《にし》|川《かわ》|忠四郎《ちゅうしろう》屋敷角の四つ|辻《つじ》を、右へ曲れば|小《こ》|石《いし》|川《かわ》|七《しち》|軒《けん》町。左へ曲れば|氷《ひ》|川《かわ》|台《だい》。今、一台の人力車が、そのだらだら坂をヒッタ、ヒッタ、ヒッタと上っていった。
やがて元|池《いけ》|田《だ》|甲《か》|斐《いの》|守《かみ》の屋敷の、大きな屋根が見えてくる。八千七百|石《こく》の|大《たい》|身《しん》旗本で、|普《ふ》|請《しん》に目がなかったといわれる池田甲斐が、その盛事、|数《す》|奇《き》を|凝《こ》らしたという結構な屋敷だった。巨大な|門《もん》|冠《かむ》りの松が、長屋門をおおっている。
人力車は、その門の前でぴたりと止った。|梶《かじ》|棒《ぼう》が地に着くと、垂れが上って、すらりと降り立ったのは樋口一葉だった。
よろけ|縞《じま》の|銘《めい》|仙《せん》に|昼夜帯《ちゅうやおび》を巻きつけ、かなりすり減った塗りの|日《ひ》|和《より》をつっかけている。
一葉は壮大な長屋門に近づいた。
門の前に立っていた|巡邏《じゅんら》がつかつかと寄ってきた。
「これこれ。無断で御門を通ることはならん。何用じゃ」
|権《けん》|柄《ぺい》ずくでさえぎる。
「私、樋口一葉と申します。折入って|勝《かつ》先生にお願いいたしたいことがあってまいりました」
「なに? ひぐちいちよう? |女《おな》|子《ご》の身で勝先生にお願いとはいかなることじゃ?」
「それは、勝先生にお会いしてからのこと。取次いでください」
「なんだと! 勝先生に取次げとはなにごとじゃ! 勝先生は今でこそ無官の|太《た》|夫《ゆう》でおわすが、大勲位功一級、左賢王、中元帥に任ぜられた顕官最上席の御方じゃ。おまえらがお会いしようなどと、とんでもない。帰れ、帰れ!」
取って喰わんばかりの勢いだ。
「お役目はよくわかりますけれどもね。お巡りさん。世の中にはそりゃいろいろなことがあるんですよ。取次がないなら取次がないでもよござんすがね、電話番号小石川七番、あらかじめ連絡しておいて来ればいいものを、こうしてふらりとやって来たのも、それが不要だからですのさ。それじゃ出直して、そうですねえ、小石川の公衆電話局からでも勝先生に電話して、それからまたお訪ねするとしましょうか。そのとき、勝先生にこう言いましょう。天下の勝などと自分でも言い、人にも言われている身が、一葉に恐れをなして門前からぼっかえしなさるのかってね」
巡邏は出かかった言葉をぐっと呑みこんだ。何やら、ひどくやっかいな事が起きるような気がした。顕官第一の勝|海舟《かいしゅう》については、ほんとうのところ、かれは何ひとつ知らなかった。門前に人力車を乗りつけた、この身なりはあまりよくないが、色白の|佳《よ》い女が、勝海舟とどんなつながりがあるのか見当もつかなかったが、小石川七番という電話番号を知っているだけでも、これは並の人物ではないようだった。その電話番号は、外部には固く秘められていた。政府高官でも知っている者はごくわずかだった。
「おまえ、勝先生のお屋敷の電話番号を知っておるのか?」
巡邏は警戒心と、おのれの身分に対する|危《き》|懼《く》を半々にその顔に浮かべて、|痴《ち》|呆《ほう》のようにたずねた。
「小石川七番の電話番号を持つ電話はね、勝先生の書斎の隣の資料室にあるんですよ。イギリスのケンブリッジ大学から贈られたとかいう、ガラス張りの|書《しょ》|棚《だな》の中にね。あんなものの中に入れておいてベルが鳴ったのが聞えるのかねえ」
「ちょっ、ちょっと待っているように」
巡邏はあたふたと門内へかけこんだ。門の内側に警備係巡邏のつめ所がある。
一葉は日和の歯を短く鳴らしながら、事態の変化を待った。
大勲位功一級、左賢王、中元帥。あとの二つはこれは清国から贈られた位階だ。左賢王は右賢王に対し、ともに|匈奴《きょうど》の首長、|単《ぜん》|于《う》を補佐する東西の王である。つまり、清国にとって、日本国第一の政治家といえども左賢王に同じ、というわけだ。中元帥は李鴻章大元帥に対する勝海舟中元帥である。
この左賢王中元帥である勝海舟先生は、この時、|愛妾《あいしょう》お|糸《いと》を擁して|衾中《きんちゅう》にあった。
伝奏の小間使いが、女性の来客のあったことを告げた。
「女? 誰でえ? いきなり」
海舟先生は衾中からたずねた。小間使いの耳には、閉された障子を通してお糸の方の切なげな|溜《ため》|息《いき》が聞える。
「樋口一葉様と申されまする」
「なに? 樋口一葉だって? そいつは近頃、売り出しの小説書きの女先生よ。滅法美人だっていうじゃねえか。何の風の吹き回しだ。ま、いいや。通してくれ、通してくれ。おう、お糸、抜くぜ」
「あれ、殿様。そんな……」
「そんなもへんなもあるもんか! つづきはまただ。ほれ、|尻《しり》をしまえ」
伝奏の小間使いはほおを|紅《あか》らめてその場を離れた。
身づくろいをした海舟は、廊下を踏み鳴らして客間へやってきた。
南に面した客間の障子に、|陽《ひ》|射《ざ》しが映えている。泉水で|鯉《こい》がはねた。波紋がゆっくりとひろがっていった。
海舟はふと、泉水の波紋から閉された障子に視線を転じた。殺気ともつかぬ、|物怪《もののけ》の気配ともつかぬ、異様ななにかが、あかるい陽射しのあふれた縁先にかすかにただよっていた。海舟の背筋をつめたいものが走った。それは泉水のかなたからただよってくるようでもあったし、閉された白い障子の内側から放射されてくるようでもあった。
海舟は、気息を絶って周囲のようすをうかがった。
とつぜん、陽が|翳《かげ》り、時ならぬ|黄《たそ》|昏《がれ》がかれの視野をおしつつんだ。その薄明の中で万物は|陽《かげ》|炎《ろう》のように輪郭を失い、|色《いろ》|褪《あ》せて|瘴気《しょうき》のごとくゆらめいた。その中から目に見えぬ波が生れ、波紋となって音もなくひろがり、海舟を押しつつもうとした。その波紋の中心、一点に凝結するところに何者かが居た。海舟は、おのれを引きさらおうとする力に耐えて身を折った。つめたい汗が、|滴《てき》、滴、と|磨《みが》かれた板敷を|濡《ぬ》らした。
一瞬、海舟はわれにかえった。
あかるい陽射しの満ちあふれた廊下や、目に|沁《し》みるような白い障子、風にゆらめく|樹《き》|々《ぎ》の影などがふだんと少しも変らぬたたずまいでそこにあった。何の異変もそこからは感じられなかった。
海舟は大きく肩で|喘《あえ》ぎ、てのひらでひたいの汗をぬぐった。
一瞬の夢魔を見た思いだった。体を動かすと、ひどい疲労が海舟を襲った。
近頃、やや高いと医者に言われている血圧が、海舟を|臆病《おくびょう》にさせた。だが、今、体験した幻影は、血圧の上昇からきたものとは海舟には思えなかった。
汗に濡れた|肌《はだ》|着《ぎ》が不愉快で、海舟はよほど着換えてこようかと思ったが、なぜか、退くことがためらわれた。背後の橋を|墜《おと》された思いで海舟は客間の障子を開いた。
一人の女が、障子に近い|椅《い》|子《す》に浅く腰をかけていた。海舟が部屋へ入ると、音もなく立ち上って静かに|会釈《えしゃく》した。
「勝先生でいらっしゃいますか。私は樋口一葉と申します」
女は白いうなじを見せて、つつましく名乗った。
「樋口一葉といやあ近頃、えれえ人気の小説書きの先生じゃねえか。おいらも小説は大好きでよく読んでるんだよ」
「恐れ入ります」
「たけくらべ、なんかいいねえ。うめえもんだよ。全く」
「お恥かしいしだいです」
「なあんの! 一葉先生。こないだね、陸軍|卿《きょう》の|榎《えの》|本《もと》に会った時よ、あいつの|鞄《かばん》ン中見たら小説本が入っていやがるんだ。|柄《がら》にもねえ、おめえも小説なんぞ読むのかって、そいってやったらよ、やつめ、もじもじしやがって取り出したのが、なんと、先生、あんたの〈にごりえ〉よ。あいつ、生れてはじめて小説読んだんだぜ」
海舟は腹をゆすって笑った。それから、どさりと椅子に腰をおろした。
「おっとっと。笑ったりしちゃいけねえや。陸軍卿でさえ小説を読む時代だ。先生もおおいに傑作をものしてくれや。ところで、先生|御《ご》|来《らい》|駕《が》の趣きは?」
勝海舟の、この|伝《でん》|法《ぽう》な口のききようは、かれが|微《び》|禄《ろく》の|御《ご》|家《け》|人《にん》の家に生れ、|市《し》|井《せい》の間に育って、町の人々とのつき合いが深かったせいだと言われるが、ほんとうのところは、多分の|衒《てら》いがあった。家柄を誇るなかまや上司、下僚に対する露骨な|嫌《いや》がらせがあったとも思われる。つねに|多《た》|摩《ま》|弁《べん》まる出しだったといわれる近藤勇や土方歳三らは、この海舟の伝法な口のききようを極めて|嫌《きら》い、|軽《けい》|蔑《べつ》したとつたえられている。
「勝先生。実はお願いしたいことがあってまいりました」
一葉は、張りのある涼しい目で海舟を見つめた。
「願い? ほう。どんなことだえ? 一葉先生の願いとは」
「今、都督府付属情報処理御用掛に、男が一人、捕われておりますね。その男を、釈放してやってもらいたいのです」
「なに? びっくりするじゃねえか。もう一度言ってくれよ」
椅子の|肘《ひじ》|掛《かけ》を握った海舟の手に力がこもり、指先が白くなった。
一葉は同じ言葉を、もう一度ゆっくりとくりかえした。
「そ、そいつは……一葉先生。えらいこったぜ。情報処理御用掛が? 男を一人、とっつかめえているのか? その男というのは、いってえ何者なんだ? おめえさんの、いや、先生の身内とか、|好《い》い人とか、なんかなのかえ?」
海舟は、はげしい動揺を顔にあらわすまいと必死に耐えているようすだった。ポーカーフェイスを|身上《しんじょう》としてきたこの男には、今がその|生涯《しょうがい》の内でもっともその能力を必要とする一瞬でもあった。
「はい。私の好い人。これは新聞社の小説記者の人たちも知らないことなんです。知られたらちょっとうるさいことになりますけれど」
「ふうん。はっきり言ったね。一葉先生。それで、その一葉先生の好い人が、なんでまたそんなこわい役所にとっつかまったんだね?」
「何かの間違いだと思います。甲州の塩山から上京してきたばかりなんで、東京のことは何も分らず、都督府のあたりをうろうろしていたところを、とがめられたらしいんですよ」
「だが、情報処理御用掛がおさえているところをみると、何かの容疑がかけられているようだな」
「ですから、何とか先生のお力で放免していただきたいんです。|拷《ごう》|問《もん》などされたら、あの人、死んでしまいますよ」
「名前は?」
「二階堂元」
「|年《と》|齢《し》はよ?」
「三十五歳です」
「職は何だえ?」
「道具屋です」
「ふうん。だが、情報処理御用掛というところはおいら、ちいと苦手だねえ。あそこの主任は、近藤勇よ。それに次長が土方歳三ときていやがる。|恐《こわ》い人たちだ。おいら、ああいう血なまぐせえ連中はいけ好かないよ」
「でも、情報処理御用掛を動かせるお方は、勝先生のほかには、いらっしゃいませんでしょう?」
「とんでもねえ! あれだって陸軍の組織の内よ。陸軍卿だって|大《た》|輔《ゆう》だって、あんな役所なんざ鼻息ひとつで吹飛ばせらあ。誰か、そっちの方のやつに頼んでみたらどうなんだえ?」
一葉は、ふっとほほ|笑《え》んだ。
「でも、勝先生は政府第一の実力者でいらっしゃるから」
海舟はほおをゆがめた。
「そんなこたあねえさ。でも、おまえさん、いや一葉先生は、その好い人が御用掛にとっつかまっているというのを、よく知りなさったねえ。いったい、誰に聞いたえ?」
一葉の目は、まっすぐに海舟の目を見つめた。その目はわずかに笑っているようであった。
「それ。|蛇《じゃ》の道は|蛇《へび》と申すじゃございませんか」
海舟の目も、まばたきを忘れたように、ひたと一葉の目に向けられた。水底のような|静寂《せいじゃく》の中で、二人の|灼熱《しゃくねつ》の意志が目に見えない火花となってぶつかり合い、|閃《せん》|光《こう》のように飛び|交《か》った。
|百《も》|舌《ず》のさけびが、けたたましく氷川の森にこだましていた。
一九
静寂の中で海舟の耳に聞えてくるものは、ただ、かすかな金属的な余韻を|曳《ひ》いて、時を刻みつづける|圭《と》|鶏《けい》の音だけだった。
ひどく長い時間がたったような気がした。白い障子の上を|這《は》う陽射しは、ほとんど動いたとも見えなかったが、海舟にはそれが、一時間にも二時間にも感じられた。
眼前六尺の距離から、わずかに|笑《え》みをふくんだ|切《きれ》|長《なが》の涼しい目が、かれを見つめていた。その目は、見返す者の身も心もたちどころに|萎《な》えさせ、吸引してしまうかと思われた。それでいて、その|瞳《ひとみ》の奥底は|模《も》|糊《こ》としてそこにいかなる意図をも|窺《うかが》わしめなかった。
海舟は全身の力をぬいて、椅子の背に体重をあずけた。
ようやくある種の判断が生じてきた。
「先生は|怖《こわ》いお人だねえ。女の一念というやつかなあ。ま、いいだろう。ここは一番、先生のおのぞみをかなえてさし上げようじゃねえか。なんといったっけねえ、その男」
「二階堂元です」
「よし。待っていな。今日明日中に必ず釈放させるようにするから。それにしても先生は、しっかりしているよ。それにまた、小説書きにしとくなんざ、もってえねえような|別《べっ》|嬪《ぴん》さんだねえ」
「勝先生」
「なんだえ?」
「今日明日中にとは、また、気がもめるお話ですねえ。それ、仏作って何とやらと申すじゃござんせんか。せっかくの勝先生のお声がかりでございますよ。今日という日の内にお願いしたいものでございますねえ」
「そいつあまた、火のついたような催促じゃねえか」
「思い立ったが吉日。これからちょいといかがでございますか?」
海舟は苦い顔になった。
「これからか?」
「そう言われて引きさがる勝先生じゃございませんでしょう?」
海舟は一歩、一歩、追いつめられてゆく自分を感じた。
「その前に、一葉先生。ウエスケなんぞ一|杯《ぺえ》どうだね? こないだ|小《お》|栗《ぐり》のやつがイギリスからおみやげに持ってきたスコッチがあるんだよ。|肴《さかな》は|露《ろ》|国《こく》の海軍少輔ロジェストウェンスキーが送ってよこしたキャビアがあらあ。おいら、この頃、|邸内《やしきうち》に|酒場《バア》なんぞこせえちまってよ。珍客はそこで接待することにしてるんだ。さあ、そっちへ行こうや」
海舟は一葉にあごをしゃくると椅子から腰を浮かせた。
「勝先生」
「なんだえ?」
「せっかくのおもてなし、たいへん|嬉《うれ》しゅうございますが、私、お酒はとんと|駄《だ》|目《め》なんでございますよ。スコッチとやらは、このつぎゆっくりいただくとして、気にかかる方から先にお願いしとうござんすのさ」
「なんでえ。一葉先生ともあろうお人が、気のきかねえ話じゃねえか。手間は取らせねえ。それに|美《う》|味《め》え酒だぜ。ちょっちょっとこうやってゆこうじゃねえか」
そこまで言われては、それでもとことわるのは、みっともない。
一葉はしかたなくうなずいた。
勝海舟は、おおいに気をよくして、自ら先に立って廊下へ出た。客間が二つ続き、その隣が書斎らしい。海舟は書斎にならんだ部屋の西洋風の|扉《ドア》を開いた。|総檜《そうひのき》の、白い障子もまぶしい書院造りの結構に、文字通りとってつけた|樫《かし》|材《ざい》のドアがなんともちぐはぐだが、海舟は、そんなことは少しも気にならないらしい。もっとも、この人、ほかの誰かがやったことだったら|糞《くそ》|味《み》|噌《そ》にけなすことだろうが。
八畳間ほどの室内は、すっかり洋間に模様がえされ、壁は|更《サラ》|紗《サ》風の壁布を張りつめ、皮張りのテーブルやソファが置かれている。そして一方の壁ぎわには、胸を突くような背の高い張り出し式の長机を据え、その背後の壁にはたくさんの洋酒の|瓶《びん》や豪華な|切《きり》|子《こ》|硝《ガラ》|子《ス》のコップがならんでいる。海舟は、高い机の向う側へ回った。
「まるで質屋の店先の仕切り板のようでござんすねえ」
一葉はおそろしく背の高い|円《まる》|椅《い》|子《す》へ尻をのせた。海舟は|嫌《いや》な顔をした。
「この台はな、カウンタアてんだ。西洋の居酒屋てのはみんなこの式なんだ。店の|主人《あ る じ》はこの台のこっち側にいてよ。客の注文を聞いちゃあそれを調合するってしかけよ。ところで先生、何をお飲みになりますかね?」
海舟はとくいそうに、台の上を白い|布《ふ》|巾《きん》でさっとぬぐって|反《そ》り|身《み》になった。まるで、この頃|流行《は や り》の握り|鮨《ずし》の板前職人といったところだ。一葉はくすりと笑った。
「ですから私、お酒は駄目ですと申し上げましたでしょ」
「つれねえことを言いなさんなよ。先生。ま、ウエスケを|一《いっ》|杯《ぺえ》」
海舟は背後の棚から、スコッチの瓶を取りおろすと、小さなグラスに|淡褐色《たんかっしょく》の液体をなみなみと|注《つ》いだ。
「さ、ぐっとやんな」
「これをですか?」
「良い酒だよ。とろっとくらあ」
海舟は小さなグラスを、一葉の顔の前に突きつけた。一葉はしかたなく、手を伸ばしてそれを受け取った。おそるおそる目の高さにグラスを支える。
「ひと息にあけな」
一葉はウイスキーグラスをくちびるに当てると、目をつぶって顔をあお向け、グラスの中の液体を一気にのどに流しこんだ。透きとおるような白いのどがひくりと動いた。その、のどから下方の、着物の|襟《えり》にかくされている部分や、帯に締めつけられているため、ことに強調されている胸の|膨《ふく》らみなどを、海舟の視線が|舐《な》めずるように|這《は》った。
「どうだえ? 胃の|腑《ふ》にかあっとくるだろう。もう|一《いっ》|杯《ぺえ》いこうじゃねえか」
「いいえ。もう結構です。私、お酒に弱くて」
その間にも海舟はふたたびグラスを満たした。
「さあ、もう一|丁《ちょう》やってくんな」
「いけませんよ!」
「先生は小説書きじゃねえか。私は酒が飲めません、なんて言ったら、酒飲みの話なんぞ書けねえじゃねえか。何事でも自分が体験してるからこそ書けるんじゃねえか」
「勝先生のお言葉とも思えませんねえ。小説は体験記じゃありませんよ。たとえ自分が体験したことでなくとも、想像を|回《めぐ》らせて書くのが小説じゃありませんか」
「そうむきになるところがまた可愛いねえ。別嬪はとくさね。怒っても泣いても男心をとろかすわな」
「勝先生」
「ま、ま、そう|柳眉《りゅうび》を|逆《さか》|立《だ》てなさんな、それより、ほら、やりなよ」
「ほんとうにこれだけですよ。これを飲んだら私と一緒に行って下さいますね」
「ああ。行くとも。一葉先生となら地獄へでも極楽へでも行くともさ」
一葉は眉をひそめ、何かに耐えるような表情でウイスキーグラスをあおった。
ほっと息を吐いてグラスを置くと、にわかに目もとに血の色が上った。
「さあ、まいりましょう。勝先生」
一葉は高い円椅子から床に降り立った。その拍子に、ゆらりとカウンターに片手をついて体を支えた。
「あら、私」
酔いの映える白いうなじに二条、三条ほつれ毛がゆらめいていた。
「おっとっと。いけねえ、いけねえ。こいつあどうも、すすめ過ぎちまったようだな」
カウンターを回って出てきた海舟が、大手をひろげて一葉を抱き止めた。
「向うで休んでから出かけることにしようぜ。これじゃとても歩けねえ。なあに、すぐさめるよ」
海舟は一葉の耳に口を寄せ、ささやきながら、もう一葉の体を奥の扉の方に運んでいた。
「勝先生、いけません。そんな……」
一葉は運ばれながら身もだえた。|咎《とが》めるまなざしが|藹《あい》|駘《たい》として|艶《えん》|冶《や》だった。
「いいじゃねえか。おめえさんだって|処女《きむすめ》ってわけじゃねえだろう」
海舟の右手はすでに一葉の身八つ口から入って、かの女の乳房を|弄《もてあそ》んでいた。
「ほら、どうでえ。こんなにころころしてきたじゃねえか。え、こうか」
海舟の指が心得た|抓《つま》み方をした。一葉は息をつまらせ、海舟の腕の中で反りかえった。
海舟はその一葉を片手で支え、もう一方の手で扉のノブを回した。部屋の中央に据えられた寝台と、それを|被《おお》うぜいたくな|羽《は》|根《ね》|蒲《ぶ》|団《とん》が見えた。
「ほれ、足元に気をつけなよ」
海舟は今や完全に|取《とり》|籠《こ》めた一葉の体の重みを半身で受け止めて、意気揚々、部屋へ足を踏み入れようとした。
そのときだった。
「殿様!」
とつぜん、背後で女の金切声がはしった。
海舟は一葉の体を支えたまま、一瞬、凝固した。
「何としたことでござりまするっ」
尻上りの絶叫が二の|太《た》|刀《ち》を浴びせるように襲いかかってきた。
海舟はのろのろと体を回した。
「お糸、お糸! いいかげんにしねえかよ。このお人はな、樋口一葉先生だよ。小説書きの。たけくらべ、おめえも読んだじゃねえか。|一寸《ちょっと》、用事があっておいらをたずねて来たんだがよ。ウエスケをすすめたのがいけなかったようだ。ちっと、ここで休んでいってもらうのよ。それなのに、何をめくじら立てていやがるんだ! それに、おめえ、客の来ている時に、なんで断りもなしに|入《へえ》って来やがるんだ!」
海舟は|威《い》|丈《たけ》|高《だか》に怒鳴りつけた。
「殿様。お客様をそのお部屋へご案内するのはよろしゅうございますが、殿様のお手が何でそんなところに入っているんでございますか!」
海舟はわっともげっともつかぬ声を発すると、一葉の胸から一気に手を引き抜いた。支えを失った一葉は、花が落ちるように床に崩れ落ちた。|裾《すそ》が割れて、|膝《ひざ》を曲げた足の、ずっと上の方まで|剥《む》き出しになった。|万《ばん》|斛《こく》の恨みをふくんだ海舟の視線がそこに|灼《や》きついた。
「ちょっと気を許していると、すぐこれなんですから! 殿様! 元旗本の誰それの奥様とか、官員の何某の妹様とかなどといううちは何があってもあとにそうたいした傷も残りませぬ。女小説書きなどにうっかり手を出して、あとで何か書かれでもしたらいったいどうなさるおつもりですか!」
海舟はお糸の言葉を満身に浴びながら、しきりに髪をなでつけたり、|咳《せき》|払《ばら》いなどをしたり、身の置き所も無いようだった。
「そうでなくてさえ、殿様が|煙《けむ》たくて、何とかして政界から葬り去ろうとするような策略が|頻《ひん》|繁《ぱん》なこの頃ではありませぬか」
「わかった。わかった。お糸」
「いいえ、わかりませぬ。この女小説書きとて、どのような下心を持って殿様に近づいてきたものやら」
「そんなことはない。この先生のレコが情報処理御用掛にとっつかまっているんで、何とか、おいらの力で助けてやってくれと頼みに来たのさ」
「ほれ、ごらんなされませ! そのような悲しい|事《わ》|情《け》のあるお人まで殿様はご自分の慰みものになさろうなどと」
「もういい。もういい。勘弁してくれ」
お糸は、女に|惚《ほ》れた相手があるとわかると、何とはなしに安心したらしい。
「あれまあ。苦しそうに。殿様、早う、寝台に運んでおやり遊ばせ」
「おいら、いやだよ。もう」
「それでは、このお人を私の細腕で寝台に運べと?」
「なあに、この間、むかいの|頼《たの》|母《も》|木《ぎ》|一《いち》|之《の》|進《しん》の|邸《やしき》が焼けた時は、|葛籠《つ づ ら》を二つも重ねて庭へかつぎ出していたじゃねえか」
「あの時はあの時。そうですか。それならそれでよろしゅうございます。|作《さく》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》殿! もうし! 作左衛門殿はおりませぬか!」
海舟は舌打ちしてお糸を押しとどめた。
「お糸! お糸! 何もおめえ、|用《よう》|人《にん》を呼ぶことはねえじゃねえか。こいつはおめえ、ほんとうのプライバシイてもんだ」
「|無《ぶ》|頼《らい》か|麩《ふ》|羅《ら》|伊《い》か存じませぬが、私一人ではどうにもならぬこと故、手助けを呼ばぬことにはなりませぬ」
海舟は肩をすくめると、一葉をよいしょとばかりに抱き上げた。開きかかる裾を、お糸がすばやく合わせて手で押えた。
一葉は羽根蒲団に埋って少女のような寝息を立てはじめた。
「殿様」
「なんだ?」
「と・の・さ・ま」
「なんだよう?」
「お忘れになってはいやでございますよ」
「忘れる? 何をだ?」
「あれ、|情《つれ》ないご返事。それ、まだ続きがございますでしょう。続きはあとでだとおっしゃったではございませんか?」
海舟は顔をしかめて手をふった。
「すっかり酔いが回っちまって、とてもそんな気にはなれねえ。あとだあとだ」
「でも、さっきは小説書きの女先生相手にその気になっておいでのご様子」
「そうじゃねえったら」
「女の生殺しは|蛇《へび》の生殺しよりあとが|怖《こお》うございますよ。ねえ、殿様」
「おいら、疲れてるよ」
「また! ああ、じれったい」
「そんなにしてえのかよ。おめえも強いねえ」
「お仕込みでございますよ」
居間へもどると、お糸は早速、息を|弾《はず》ませて海舟にねだり始めた。まずいことのあったあとだけに、海舟もむげに突放すわけにもいかない。
「どっちの口も達者だよな。しかたがねえ。それ、氷川村は季節はずれの|早《さ》|乙《おと》|女《め》の田植といくか」
「あい」
ちょうどその時、一葉の寝息がぴたりと止った。
一葉はそっと寝台から降りた。
どこか間近な部屋から、時計が三時を打つ音がゆったりと聞えてきた。|小《こ》|槌《づち》で打たれる|真鍮《しんちゅう》の|渦《うず》|巻《まき》バネの余韻が、いいいいいん、といつまでも消えずに尾を|曳《ひ》いていた。
二〇
「近藤さん。これを見てくれ」
近藤勇の前に、土方歳三が一通の命令書を置いた。
「何だ? |歳《とし》」
テーブルの上の紙片に目を当てた勇の|眉《まゆ》がけわしく迫った。
「容疑者、釈放の事、
一、二階堂元。甲州塩山住。三十五歳。
一、右の者、良民と判明せるにつき、直ちに釈放すべし。
一、なお、本人の所持せる金品は、|遺《い》|漏《ろう》なきよう返却すべし。
日本国征東都督府情報監部甲課情報部長。上将、李崇順。|花《か》|押《おう》」
「近藤さん。まことに奇怪ですな。また李崇順上将ですよ。李崇順上将は今、|北《ペ》|京《キン》ですよ。日本には居らんのです」
「花押とあるな。こいつだけは、本人でなければ使えない。たしかに歳、こいつは妙だ」
「それにこの内容も、実にいいかげんではありませんか! この二階堂元という男が、何者であるのか。どうしてわかったんです? われわれでさえ、何もつかめないというのに」
「有力な身元引受人があらわれたのかな?」
「そうかもしれませんなあ。それにしても、いったい警備中隊からわれわれの所へ身柄を移させたからには、それなりの容疑があったからでしょう。それにもかかわらず、すぐまた釈放せよ、では、われわれは全く、つんぼ|桟《さ》|敷《じき》じゃありませんか!」
「いったいこの命令を出したのは何者かな? 李崇順上将でないとすると」
「全くわかりませんな。ま、政府の高官の一人ですな。それも、よほどの大物でしょう」
「しかし、歳。命令書には釈放せよ、とある。こいつは、そうせねばなるまいよ」
「近藤さん。いっそのこと、李崇順上将は在日していない、ということを表立てて、この命令書には不審の点があると上申してみたらどうですか?」
「歳。そいつは|下《へ》|手《た》をすると、抗命罪に問われるぜ。それに、誰に上申するんだ?」
「大統領にです」
「あの大統領に何ができるもんか! それに、この命令書が大統領から出ていたとしたら、どうなるんだ?」
「そうか。その|懸《け》|念《ねん》もありますな」
「それよりも、歳。この二階堂元という男を釈放してみよう。あとをつけさせろ。何かわかるだろう」
「なるほど。それは名案だ」
「歳。手ぬかりなくやれよ。こいつは有力な手がかりだからな」
都督府の一角を占める情報処理御用掛の、さらに裏に続く|煉瓦造《れんがづくり》の建物から、一団の男達があらわれた。皆、襟に御用掛と染めぬいた雑役雇員の|御《お》|仕《し》|着《き》せをはおっている。中の二人が、もっこをかついでいた。
「釈放するったってよ、こんな動けねえやつをどうするんだ? 誰か引取人でも来ているのかよ?」
「さあな。かまわねえから、裏門からほっぽり出せとよ」
「生きてるのか?」
「うなってら」
もっこの中でうなっているのは、元だった。
かれらは、土でも運ぶように、もっこをになってくると、裏門を開いた。
「それ!」
よいしょ、とばかりに、もっこをゆすって元をそこへほうり出した。
「これでいいのか」
「いいんだ。いいんだ」
かれらは、ふたたびぞろぞろと門の中へ吸いこまれていった。
「あれまあ。ひどいことするわねえ。車屋さん! すみません。あの人を車に乗せて下さいな」
裏門から少し離れた所で、車屋をせき立てているのは一葉だった。
体中紫色に|腫《は》れ上り、意識もなくうめいている元を車に押し上げ、|幌《ほろ》をおろす。
「ねえさん。どちらへ?」
「|本《ほん》|郷《ごう》の|丸《まる》|山《やま》|福《ふく》|山《やま》町裏へやってくださいな」
「へい」
車屋はうなずいて、そっと|梶《かじ》|棒《ぼう》を上げた。
本郷丸山福山町四番地。このあたり、人呼んで|稲荷《い な り》|店《だな》。もと旗本の屋敷地内で、その頃、庭内に在ったといわれる稲荷の|祠《ほこら》が四番地の一角に残っている。その稲荷の裏に、細い露地の両側に、同じような造りの小さな家が四軒ずつ向い合っている。|高《たか》|橋《はし》|作《さく》|兵《べ》|衛《え》持家で、いずれも茶の間が六畳。それに四畳半。玄関のとっつきの三畳にせまい台所という間取りである。
露地の突き当りは、形ばかりの木戸が裏のあき地を境いしている。そこへ立つと、稲荷の|祠《ほこら》の、色の|褪《さ》めた赤い小さなのぼりが、すぐ目の前に立っている。時には油揚げが供えられていることもある。
一葉が、元をともなって帰ってきた時は、折良く、母親も妹の邦子も外出して、いなかった。一葉は車屋に手伝わせ、元を奥の六畳に運んだ。
「すみません。車屋さん。これ」
車賃五十銭に手間賃の二十銭をそえて渡すと、車屋は大喜びで帰っていった。
裏のあき地で、子供達の遊んでいる声だけがさわがしく聞える。
いつもの戦争ごっこが始まるらしい。誰が李鴻章大元帥になるかでもめているようだ。
玄関の|格《こう》|子《し》|戸《ど》が開く音がした。
「先生。誰かたずねてきたようですな」
一葉の原稿に目を通していた|岩《いわ》|田《た》|吉《きち》|太《た》|郎《ろう》が、顔を上げて玄関の方をうかがった。
「ええ。こんにちは。|越中《えっちゅう》富山の|重宝《ちょうほう》薬は|万《まん》|金《きん》|堂《どう》でございます。急のさしこみ、腹痛みさがらぬ熱に止らぬふるえ。子供の夜泣き|疳《かん》の虫、御婦人血の道にめまいやのぼせ。御旦那衆の浮気の虫さえぴたりと封ずる神速特効重宝薬は越中富山の万金堂でございます」
立板に水を流すような|口上《こうじょう》が流れてきた。
一葉が顔をしかめて体をずらし、間のふすまをあけてさけんだ。
「薬屋さん。うちは|金龍堂《きんりゅうどう》が入っているからよござんすよ」
「おや。さようでございますか。金龍堂さんが入っていらっしゃる。ですが、御嬢様か御新造さんか。金龍堂さんもなかなか信用のある良い薬屋さんでございますがね、私ども、万金堂は越中富山の薬種屋なかまのうちでも、創業は一番古く、|文《ぶん》|禄《ろく》年間でございますよ。扱っております薬のあれこれ、何と百六十種もございます。その中でも、ことにあれは万金堂に限る、と皆様の御評判をいただいておりまするのが|金《きん》|創《そう》|薬《やく》。それと打身、|挫《くじ》きや肉離れの熱取り|膏《こう》でございます。一度、御手に取って|御《ご》|覧《ろう》じろ」
「いりませんよ」
「この文明開化の世の中に、|御《お》|目《め》|々《め》で確かめることもなさらずに、何で物の良し|悪《あ》しがおわかりになりましょう? とはしがない|商《あき》|人《んど》の恨みがましい御願いの口上でございます。どうか、いっぺん御覧になってくださいませよ。御値段の方は十分に勉強させていただきますゆえ。それから、|御《お》|土産《み や げ》の心づもりもほれ、このとおり」
「ほんとうに間に合っていますから」
「御嬢さんですかえ? それとも御新造さんですかえ? 重宝薬万金堂のこの|富《とみ》|山《やま》|薬《くす》|兵《べ》|衛《え》、決して、|嘘《うそ》いつわりは申しませぬ。あれこれ病い|怪《け》|我《が》、予防薬一式づめの大袋。ここへひと袋置いてまいります故、よろしく|御《お》|試《ため》しの程」
がさごそと大袋を畳の上に滑らせる音がする。
「いりませんたら!」
一葉の声が高くなった。
「ごめんなすって」
玄関を出てゆく気配がする。
たまりかねたか、岩田吉太郎が立ち上った。岩田吉太郎は、この頃、文学館から発行されている〈新文壇〉の編集兼発行者だった。|直情径行《ちょくじょうけいこう》で、けんかっぱやいので有名な男だ。かれは|袴《はかま》のすそを|蹴《け》って、玄関へ突進した。
「待てい!」
「これは、これは旦那様」
「わしは来客。当家の旦那ではないが、これやい、薬売り! 貴様は何というしつこいやつだ。この家の|主人《あ る じ》があれ程、|要《い》らぬというておるのが聞えんのか!」
「まことに申しわけございませぬ。これも|商《あきな》いの|慣習《な ら い》でござります。御耳にさわりましたら御勘弁を」
「その薬入りの大袋、そっちへ引込めて、さっさと行ってしまえ!」
薬売りは、|鬱《う》|金《こん》色の|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包を、いったん手元に引き寄せたが、まだ未練たっぷりに奥をうかがいながら、声をひそめた。
「旦那様。いかがでございましょうか。奥においでのこの家の|主人《あ る じ》なるお人に、まこと家伝の万金堂の重宝薬、ひとつすすめてみていただけませんでしょうか」
「まだ言うか! 貴様!」
「いえね。それと申しますのも、先程、あちらの露地口で、ちらと耳にした人の立話し。この家のどなた様か、たいそうな|御《お》|怪《け》|我《が》とか。|人《じん》|力《りき》で運ばれて御帰りになったと申しておりましたよ。それなら御役に立てるかと、やつがれ、早速うかがったような次第で」
「この家の|誰《だれ》かが怪我だと? おいおい、何を聞いてきたのか知らんが、この家には病人も怪我人も居りはせんよ」
「何も、あなた。薬売りが薬を持ってまいっただけのこと。幸い御客様方の評判をいただいております家伝の秘薬を持って回っております故、御使い下され、御試し下されと御願いしているのでございますよ。そうむげに御断わりなさることもないじゃございませんか」
「貴様! 言いがかりをつける気か! わしは|日《に》|本《ほん》|橋《ばし》区|亀《かめ》|島《しま》町一丁目に社屋を持つ文学館の代表社員にして取締役。文学雑誌〈新文壇〉の編集人兼発行人の岩田吉太郎だ。この家は、当今、女流第一等の小説作者樋口一葉女史の御宅である。無礼なことをぬかすと、たちどころに|巡邏《じゅんら》に引き渡すぞ!」
割れ|鐘《がね》のような声で怒鳴りつけた。もともとこの岩田吉太郎、雑誌の編集者よりも、右翼の壮士といった方がふさわしい|体《たい》|躯《く》と|容《よう》|貌《ぼう》の持ち主だった。
「どうなすったんですよ。岩田さん!」
奥から樋口一葉が飛び出してきた。
格子戸の外にも、人影が動いた。
「いや。一葉先生。この薬売りめ。あまりにしつこく無礼である故、大いに|叱《しか》りつけたところです」
「どうもすみません。越中富山の重宝薬は万金堂、富山薬兵衛でございます」
薬売りは小腰をかがめて、ひくつな愛想笑いを浮かべた。
「この男、実にけしからんやつです。人のうわさを聞いたとかなんとかぬかしおって、金創薬なんぞを売りつけようとのこんたんですわ」
一葉がけげんな顔をした。
「人のうわさ?」
「いいかげんなことを言っておるのですよ。そんな口実を考えてくるのです。この手の|商《あき》|人《んど》は」
売薬売りは、早々に荷物をまとめて退散しようとする。
「お待ち。そのうわさとやらを聞きましょう。御近所とは、まるでつき合いというもののない私だけれども、世間様ではこの私のことを何と言っているのか、聞きたいものだねえ」
「およしなさい。一葉先生」
岩田はとめたが、売薬売りは、図に乗った|態《てい》で岩田に言ったことと同じことを一葉にも告げた。
「へえ! この家に怪我人が! 人力で運びこまれてきた? いったい誰がそんなことを。でも、怪我人がかつぎこまれてきたなんて、|縁《えん》|起《ぎ》でもない。いいですか、薬売りさん。この家はおまえさんが見てのとおり、これだけの家ですよ。二階もなければ、離れなんぞという気の|利《き》いたものもない。さあ、とっくりと見ておくれ。どこにそんな怪我人がいますか? 勝手だってそこから見える。押入れの中にかくれているんじゃなかろうか、などと思うといけないから、押入れの中も見せてやろう」
一葉は、目を三角にすると、岩田が引止めるひまもなく、六畳間の押入れを引きあけ、それから四畳半の方の|半《はん》|間《げん》の押入れまでさっとあけ放った。押入れの中には夜具や|柳行李《やなぎごうり》、それに積み重ねてひもで|縛《しば》った雑誌などがしまいこまれているばかりだった。
「わかったかえ? これでも不審ならば、あとは天井裏へでももぐりこんでみるがいいや。この露地の突当りは木戸でいつも閉めきってあるよ。人力で運び込まれるような怪我人が、木戸を乗り越えて逃げられるものかね?」
「御新造さん。あたしゃ何も」
「薬売りさん。ここに居るお方はね、名乗ったとおりの、版元の責任あるお人ですよ。私の作品のことで、もう三時間も前からおみえになっていたんですよ。怪我人が運びこまれたも何も、つまらないことを言わないでもらいたいね」
「この野郎! 巡邏に引渡してやる!」
岩田が、丸太ン棒のような腕で、売薬売りの|襟《えり》|髪《がみ》をむずとつかんだ。
そのとき、格子戸の外の人影がにわかに動いた。
格子戸ががらりと開いて、顔を出したのは岡野茂だった。
「あら、岡野君」
「先生。今、たずねてきたら、玄関の内で何やら騒がしい声がするので、外で様子をうかがっていたのですが、何か、無礼なことでもしでかしたのですか? この男。おや、富山の薬売りじゃありませんか」
一葉が、とんだところを見られた、というような顔で、これまでのいきさつを手短かに岡野に話した。
「岡野君。このお方は〈新文壇〉の編集人兼発行人の岩田吉太郎さんですよ。こちらは、岡野茂君。大の文学愛好者ですよ」
二人は薬売りを中にはさんで|会釈《えしゃく》しあった。
岡野の来訪で、岩田も気勢を|殺《そ》がれ、ふり上げた|拳《こぶし》のやり場がなくなった形だ。
「岩田さん。放しておやりなさい。さあ、気分直しに、岡野君も交えて、文学談義でもやりましょうよ」
岩田は、薬売りを玄関の外に、どんと突き飛ばした。
「そうですか。高名な編集記者の方にお会いできるとは、これは運がいい。そうだ。一葉先生。僕、何か御茶菓子でも買ってきます」
「岡野君。気をつかわなくってもいいのよ!」
一葉の声も耳に入らぬかのように、岡野は飛び出していった。
「なかなか熱心な青年ですなあ」
高名な編集記者と言われて、岩田吉太郎はおおいに気を良くしたらしい。
「山崎君。どうもわからん」
首をかしげて深い吐息を|洩《も》らしたのは、売薬売りの男だった。
「土方さん。私は一葉先生は良く知っていますよ。あやしい点など何ひとつありゃしません」
商家の息子らしい地味な|角《かく》|袖《そで》をまとった山崎烝は、内心の|安《あん》|堵《ど》を顔に浮かべて主張した。
「しかし、あの男が車屋に背負われてこの家に入ったのは君も見たろう。都督府を出てからここまで、人力も人も変りはしなかったぞ」
「それはそうですが」
「あの岩田吉太郎は、二階堂元とはあきらかに別人だ。山崎君。あの家には、他に|納《なん》|戸《ど》部屋とか、かくし部屋のようなものはないのか?」
「僕は何度もあの家には上り込んでいるけれども、そんな部屋はありませんね」
「妙だな。一葉女史と二階堂元は、たしかにあの家に入ったのだが」
「さっき出てきたのは、たしかに一葉女史で、別人ではありませんでしたね」
「山崎君。君はすぐ一葉女史の家へもどりたまえ。あまり時間をくっては、あやしまれる。中の様子なども、しっかり見てきてくれ」
「はい。土方さん。この、下に着ている|印半天《しるしばんてん》と|腹《はら》|掛《がけ》、すみませんが持って帰ってください」
山崎烝は、すばやく、角袖の下の職人をよそおって着ていた印半天、|丼《どんぶり》腹掛を脱ぎ|棄《す》て、土方に渡した。
「ああ、きゅうくつだった」
「相変らず見事な、早変りだな」
「それじゃ、もう一度、顔を出してきます」
「おれもこのふきんで待機しているからな」
二人はうなずき合って、右と左に別れた。
二十分ほどたつと、山崎烝はふたたび一葉の家からあらわれた。
露地を出て、一丁程行ったところで、後から追いついてきた歳三が肩をならべた。
「どうだった? 山崎君」
歳三がのぞきこんだ山崎烝の顔は、紙のように青ざめていた。
「土方さん。まことに奇怪です。一葉女史は今日はずっと家に居たようです」
「そんな、ばかな!」
「私も、何と理解したらよいのか……土方さん。私は、一葉女史の家に居た岩田吉太郎という男に、いろいろとわなをかけて聞いてみました。むろん一葉女史にもです。おどろきましたなあ。岩田吉太郎は、三時間程前に、一葉女史宅へやって来たようです。その時には、半井桃水という小説記者が来て居ったそうです。それから出版元である博文館の館主、大橋乙羽ですな。その男も訪ねて来たと言っていました。どうも一葉女史は、あの家にずっと居たようですよ」
「しかし、妙だな。おれはその方面のことはよく知らんが、半井桃水とか大橋乙羽といえば、名士だろう。その連中の名前を出して、うそはつけぬはずだ。まして君が情報処理御用掛であることは、むこうは知っているわけもないのだから、君にうそをつく必要はないだろうし」
「だが、土方さん。あの人力車と、その後についていた一葉女史、あるいは一葉女史|態《てい》の人物はどうなるんですか?」
「それを聞きたいのは、おれの方だよ。山崎君。ここは先ず、その半井桃水や大橋乙羽がほんとうに一葉女史の宅を訪れたかどうか、たしかめることからかかるとしよう」
「公衆電話局へ行きましょう」
二人は、本郷電話局へ向かって飛ぶようにいそいだ。
二一
大きく開いた障子のすぐ下の低い|石《いし》|垣《がき》を、|上《あげ》|潮《しお》の大川の水が、ひたひたと|濡《ぬ》らしていた。明るい灯が水面にちらちらとゆれ、そこからは見えない暗い|川《かわ》|面《も》のどこかを、河蒸気のポンポンというはずむ音がすべっていった。
障子の敷居に腰をおろした近藤勇のきびしい横顔を、川風がなぶって吹き過ぎていった。
「|歳《とし》。おまえらしくない報告だと責めてみたところではじまらんな。おまえがそう判断したからには、おそらくそうなのだろう。だが、歳よ。今は|文《ぶん》|化《か》|文《ぶん》|政《せい》の昔ではない。すでに慶応も三十一年よ。この文明開化の世の中に、その報告は、どうにも|戴《いただ》き兼ねるぞ。一葉女史は幻術を使うのではないか? だと? それなら歳。それを確めてこなかったのか? 事実が自分達の目で見たものと違っていたからといって、それを幻術だと結論してしまうのは、歳らしくないぞ」
近藤勇は苦り切っていた。
土方歳三と山崎烝が持ってきた報告は、勇の神経をさかさまになで上げるようなものだった。
二階堂元という男を引き取りに来た樋口一葉は、たしかに本郷丸山福山町の家へ、その男を運びこんだ。ところがその家には、樋口一葉は居たものの、二階堂元という男の姿はなく、かわりに岩田吉太郎という男が居た。しかも、樋口一葉はこの日、全く外出していず、それを証明する来客も何人かいる。なお樋口一葉は、二階堂元という男については、全く知らないもののようである。
その報告をもたらした歳三と烝は、勇が目を|釣《つ》り上げるような発言を行った。樋口一葉はあるいは幻術を、よくするのではあるまいか? と。山崎烝は、樋口一葉に師事しているだけに、さすがにその説には承服しかねるようだった。
「歳らしくないぞ。まったく歳らしくない。幻術とは何だ? ええ? 幻術とは」
勇は顔をしかめた。
ならべられた|盃《はい》|盤《ばん》を前にして、歳三は深く腕を組んだまま、むっつりと押し黙っていた。山崎烝は、両手をひざに置いたまま、頭をたれていた。
新選組時代から、その頭脳の|冴《さ》えは、|薩長《さっちょう》にも並ぶ者なしと言われ、かみそりと恐れられた土方歳三だった。何事も理づめで解釈し、推測し、分析整理してゆく彼の能力は、勇にとっては、無条件に敬意を払うに足るものだった。彼はこれまで、ただ一度もあやかしの|類《たぐい》や、|妖《よう》|怪《かい》じみたもの、非人間的な能力などを認めたことはなかった。どんなできごとにも、必ず、はっきりした物的な因果関係があると主張し、人間の感覚でとらえることのできない、いかなる種類の奇怪な現象もこの世には存在しないときめつけてきた男だった。
「いや。近藤さん。一葉女史が幻術使いであったとしても、私はべつにふしぎとは思いませんね。私は幻術というものについては、よく知らないし、これからくわしく調べてみたいと思いますが、それをひとつの術、なんらかの技術と考える時、それをマスターしている人間がいたとしても、べつにおかしくはないでしょう。私は、二階堂元という男を人力車で運んでゆく一葉女史を、たしかに見ていますし、一葉女史の自宅では、そのようなことはしなかった一葉女史をも、たしかに見ています。この二つをどうやってひとつに結びつけたらよいのか? また、どうやったら結びつけることができるのか? 今はそのことを考えているのですよ。その方法のひとつとして、私は、幻術のようなものが、それを可能にするのではないか? と申し上げたのです」
土方歳三はあくまで冷静だった。
「だが……歳よ」
歳三にそう言われると、勇には反論する論拠もなかった。
「幻術は困るなあ」
勇は実際、困りぬいた顔で、うったえるようにつぶやいた。
「近藤さん。私は必ず実証してみせますよ。幻術といったところで、ひとつの術です。私は自分の見たものを信ずるし、その見たものがたがいに|矛盾《むじゅん》しているならば、その矛盾をこえて、どちらも事実であることを証明するような原理を見つけだします。こんどのことは、どうやらそれしかないような気がします」
歳三はおのれに言い聞かせるかのように、言った。
「山崎君はどうなんだね?」
「局長。私にはどうも。なんだか、この世のできごととも思われませんでしたなあ。一葉女史が|稀《き》|代《たい》の大うそつきかペテン師でもあればですな。いや、私はそうは考えたくないし、それに一葉女史はうそをついてはいませんでしたよ。私にはわかります」
「弱った連中だな。なんだかしらんが、すっかり毒気に当てられてきおって」
勇は苦く笑った。二人を叱る気にはなれなかった。この極めて有能な二人の部下は、たしかに何か、不可解な事態にぶつかったのだ。
「まあいい。飲もう」
勇は窓ぎわを離れ、ならべられた|酒《しゅ》|肴《こう》の前にどかりと坐った。
「もうひとつ報告があります」
歳三がポケットからふところ帳面をとり出した。
「例の自動印字機の打ちぐせから、担当の打手がわかりました。その者を問いただしましたところ、電話をかけてきた者の電話番号がわかりました。電話番号は小石川七番です」
「小石川七番? すると……」
「勝海舟先生の自宅内の電話のひとつですな」
「勝?……勝がか?」
|酒《しゅ》|盃《はい》を支えた勇の手が、ぴたりと止った。
「この電話番号は勝先生の書斎にある電話機の番号だそうですな。勝邸には現在、勝先生と、お糸という|愛妾《あいしょう》、それに用人が一人、ほか書生、下男その他で計十一人の人物が起居しておりますが、この電話を使えるのは、勝先生当人だけだと思います」
「ふうむ」
勇は手の|盃《さかずき》を|膳《ぜん》の上にもどしてしまった。
予期しないことではなかった。薩長との対決を戦いぬいたこの英雄が、内戦の渦おさまってのち、|位《くらい》人臣を|極《きわ》めた地位を自らすてて|野《や》に遊んでからすでに久しいが、政府のみならず、占領軍総司令部である征東都督府内部にも、隠然たる影響力を持っていることは、|巷《こう》|間《かん》でもつねに語られているところだった。ある場合には、かれはまさに陰の宰相ですらあった。
「やはり勝か!」
勇は太い息を吐いた。
だが、その海舟がなぜ、そのような力を持っているのだろう? わが国政界第一の実力者とはいえ、今はたかだか敗戦日本の隠退政治家に過ぎないではないか!
「妙な男だな。勝は」
近藤勇にとっては、樋口一葉が幻術使いではないか、という見立てよりも、海舟が大都督の名を使って都督府の組織を操っている方が、はるかに現実的な重大問題であった。
「よし、ここはひとつ、勝に当ってみるか」
勇の目が、かれ本来の光を放った。
「局長。一葉女史の方はどうしますか?」
「それはきみたちにまかせる」
幻術などはどうでもよかった。
「よし、そうときまったら、さあ飲もう。おい、烝、芸者を呼べ」
二二
征東都督府警護処付属、日本陸軍憲軍第五中隊南第一詰所第二取調室副頭取、特務曹長室井弥七衛門の従兵でもあり、別当でもある二等卒|得《とく》|能《のう》|金《きん》|蔵《ぞう》は、上官の馬を、玄関前の|馬《ば》|繋《けい》|柵《さく》につなぐと、八つ手の|繁《しげ》みをくぐってそっと庭へ回った。|猫《ねこ》のひたい程のせまい庭には、雑草がぼうぼうと生い繁っている。ならんでいる官舎の庭は、同じようにせまいながらも、それぞれに菊だの盆栽だのと、|主人《あ る じ》の好みの|丹《たん》|精《せい》を競っているのだが、この家の主人はそんな気はとんとない。盃のかわりにもならない植木|鉢《ばち》など、なんの意味もない、といったところだ。荒れ放題に荒れた庭の、枯れかかった南天のかげから屋内をうかがった。
室井弥七衛門が、軍服の上着の|釦《ぼたん》をかけている。ひどい寝不足らしく、大きなあくびを連発している。目が赤く、顔から首筋までギラギラと|脂《あぶら》が浮いている。
「ゆうべは、よっぽどお楽しみだったようだな」
二等卒得能金蔵は、にやりと|凄《すご》い笑いをもらした。
隣の座敷をうかがうと、こちらの方では、敷きのべられたせんべいぶとんの上に、一人の若い女がもの|憂《う》げに半身を起していた。一糸もまとわぬ白い体に乗った髪が、昨夜の悦楽の名残りを十二分にとどめていた。
「|未《お》|通《ぼ》|女《こ》じゃなさそうだぜ」
得能金蔵は舌なめずりした。女の体は、室井弥七衛門の求めに応じて自分も|愉《たの》しんだあとをあきらかにとどめていた。つややかな腰や張りきったふとももは、昨夜の忘我の躍動の疲れをとどめて、いかにも重たげだった。若い女は、片手で体を支えもう一方の手で乱れた髪をかき上げながら、室井弥七衛門に何か言った。そのうったえるような目の色に、弥七衛門は威張り返った様子でひと言、ふた言、うなずくと、サーベルの皮帯を巻きながら|大《おお》|股《また》に部屋から出た。
別当の二等卒得能金蔵はふたたび、素早く玄関へ回った。
室井弥七衛門がサーベルをガチャガチャ鳴らしながら玄関へ出てきたときには、金蔵は早くも、馬の|手《た》|綱《づな》を取ってそこにひかえていた。
馬を駆る室井弥七衛門の後から小走りに従ってゆく得能金蔵は、心中はなはだ|浮《うき》|々《うき》していた。
特務曹長室井弥七衛門を、都督府の警護処付属憲軍第五中隊の建物へ送りこんでしまうと、大急ぎで馬の始末をすると、得能金蔵は|厩舎《きゅうしゃ》係の伍長に五十銭を握らせると、事務所の電話を借りた。消灯ラッパが鳴ると、毎夜厩舎のすみで始まる|博《ばく》|打《ち》に、伍長が負けつづけであることを金蔵は知っていた。
電話機の|把《とっ》|手《て》をカラカラと回す。
「えー、なんばんへ」
女の声が妙なアクセントで流れ出す。
「|浅《あさ》|草《くさ》の二十八番だ。いそいでくれ」
伍長がまだそのへんでうろうろしていたが、金蔵がわざとらしく背を向けると、首をすくめて部屋を出ていった。いやになるほど待たされる。
「女交換手め! 電話をつなぐ|前《めえ》にションベンにでも行っちまいやがったかな」
掃除のゆきとどいた床に、ぺっとつばを吐き出した。
「モシモシ。|万《まん》|亀《き》|楼《ろう》ですが」
ようやく、電話機の奥から、しわがれた女の声が流れ出てきた。
「おう。万亀楼かい。お|仙《せん》はいるかい?」
「お仙さんかい。ちょっと待っておくれ。おまえさんは誰だえ?」
「お仙の弟の金蔵よ」
「金蔵さんかえ。じゃ、すぐ呼んでくるからね」
さっさと行きやがれ! 金蔵は腹の中で怒鳴りつけた。それからまた、しばらく待たされて、ようやくお仙が出てきた。
「おう。お仙。上玉だ。おれの親玉の所だ。そうだよ。官舎の、けの五号だ。すぐ行け。六十円ぐらいにはなるだろう」
「あいよ。すぐ行くよ」
お仙は金蔵の姉でもなんでもなかった。浅草|馬《ば》|車《しゃ》|道《みち》裏のあいまい屋、万亀楼の女中をしている。
「お仙。今夜い|一《いっ》|杯《ぺえ》やろうじゃねえか。ここんところ、おめえの体にもごぶさたしてらあ。今夜はひとつ、しっぽり濡れようじゃねえか」
お仙のけたたましい笑い声を残して電話は切れた。
二等卒得能金蔵は、まるで特務曹長のように胸を張って事務室を出た。事務室の外の廊下では、伍長が壁によりかかって鼻水をすすっていた。
かもめは這いずるように台所へ行って水を飲み、ハンカチを濡らして顔や腕をぬぐった。体中をふきたかったが、そうもいかなかった。壁に弥七衛門のものらしい汚ない手ぬぐいがかかっていたが、使う気にもならなかった。
腕も足も重く、体中の節々が痛かった。体内に注入されたおびただしい液体は、とうに流出してしまっていたが、下腹部やもものあたりに乾いて|貼《は》りついたそれが、うとましく不快だった。
全くわれながら、ふがいないていたらくだった。だが、いくらがんばっても、あのような場合、体の方が言うことをきかなくなってしまうのだからしかたない。縁もゆかりもない室井弥七衛門に、さんざん良い思いをさせてしまったのがしゃくだった。
これからどうしよう?
失策をどうやって取返すか? かもめはすっかりゆううつになった。
そのとき、ふいに玄関の格子戸が開いた。
かもめは、弥七衛門が帰ってきたのかと思って身を固くした。もうたくさんだった。
足音が玄関につづく三畳へ入ってきた。
弥七衛門の足音ではない。
誰だろう?
ふすまががらりと開いて、男がぬっと入ってきた。
|不精《ぶしょう》ひげのはえた顔に、目つきが異様に鋭い。ニッカーボッカーに兵隊シャツ。その上からくたびれた背広をひっかけ、首に手ぬぐいを巻いている。いいかげんのびた|角《かく》|刈《が》りの頭といい、大きな手足といい、どうやら力仕事に従事する男か、その|小頭《こがしら》といった風態の男だった。
「この娘か?」
男がふりかえると、男のうしろから女がのぞいた。
赤茶けたちぢれ毛をぐるぐる巻きにして、歯の欠けた|櫛《くし》で止めている。細い目が|狐《きつね》のように釣り上り、こけたほおがとがって、薄い|唇《くちびる》から|反《そ》っ|歯《ぱ》がむき出している。|陽《ひ》に当ったこともないのか、へんに青白いひふに首筋のあたりは|白《おし》|粉《ろい》焼けが鉛色にまだらになっている。良いものを着ているのだが、着つけも帯もだらしなく、それでいてダイヤの指輪などを光らせている女だった。
「ああ。その娘らしいや」
女はまばたきのない細い目を、かもめに向けた。
「おい! こっちへ来い!」
男は台所につっ立っているかもめのそばへ近づいてくると、大きな手で、かもめの腕をぐいととらえた。
「いや! 何するのよ!」
「来いったら来いよ」
男は容赦なく、かもめを座敷へ引きずりこんだ。
「金蔵の言うとおり、|別《べっ》|嬪《ぴん》じゃないか。これなら三百円は固いよ」
「可愛い顔をしていやがるが、結構男の味は知ってるらしいですぜ。これならすぐ使えら」
「四百円でも高くはないね。|安《やす》、これひろい物だよ」
「室井の|旦《だん》|那《な》も、目が|高《たけ》えや」
安と呼ばれた男は、いきなり背後からかもめを抱きすくめた。|熊《くま》|手《で》のような手が、かもめのブラウスを割って入りこみ、乳房をつかんだ。
「いやだ!」
身もだえするかもめの動きを封じておいて、すばやく両方の乳房をあらためると、つぎに手が下腹へのびてきた。かもめは必死にもがいたが、男の手は事務的に前と後をあらため、ついで中へ押し入ってきた。楽しむかのように、二、三度指を動かしていたが、そうではなく、引き抜くと指の|匂《にお》いを|嗅《か》いだ。
「大丈夫だ。|剥《む》いて調べてみるまでもねえ。道具も上々だ」
女は冷然とながめていたが、男の言葉におうようにうなずくと、あごをしゃくった。
「連れといで」
男は、かもめを引き立てようとした。
「私をどうしようっていうの! 離して!」
かもめは男の腕から逃れようとした。男の平手打がかもめのほおに|炸《さく》|裂《れつ》した。
「安、顔を傷つけないようにしとくれよ。こんな上玉、めったにないんだからね」
「へえ。わかっとりやす。なに、あっさり言うことをききまさあ」
「安。体で言うことをきかせようったってだめだよ。その娘は、ゆうべ、室井の旦那にたっぷり良い思いをさせてもらったあとだからねえ」
「なあに、そんなんじゃねえんで」
安は、ニッカーボッカーの|尻《しり》ポケットヘ手を回すと、ギラリと|匕《あい》|首《くち》をぬいた。
「やい。おとなしく言うことを聞かねえと、これだぞ」
おそろしく切れそうな匕首の刀身で、かもめのほおをぴたぴたとたたいた。
「安! およしよ! そんなものを使うなんて、とんでもないよ。うっかり傷ものにしてごらん。五十円や六十円はたちまち値切られちまうんだからね」
「いや。|姐《ねえ》さん。この頃はね、野郎が気をそそられるとかで、|佳《い》い女の胸乳やももなんぞに刀傷があるなんてのは、店じゃ売れ|妓《こ》になるご時勢でやしてね」
「そんなもんかねえ」
安と呼ばれた男は、手の匕首を、かもめの太ももに押しつけた。つめたい|鋼《はがね》の感触が、かもめを震え上らせた。この男なら、ほんとうにやるかもしれなかった。
「どこへ連れて行こうっての? あんたたちは何よ?」
かもめは抵抗をやめて、男に追い立てられて部屋を出た。
「おれたちはな、おめえみてえな、ぽっと出の姉ちゃんによ、はたらき口を世話してやっているんだよ。つまり、|桂《けい》|庵《あん》よ」
「はたらくって、どこで?」
「知れたことよ! おめえらのはたらく場所ってのは、きまってら。ま、おめえは、|面《めん》が良いから、|吉《よし》|原《わら》の表店へ世話してやるぜ。おめえなら、すぐひいきの客がついてよ、年季があける頃には、千円ぐらい貯金ができてるぜ」
「そんな所、いやです! 離して!」
「うるせえ! この|女《あま》!」
「安。黙らせな!」
「姐さん。こいつで一丁、軽くさすってやりますか!」
「それがいいかねえ」
安の手が、動くとも見えず、ふいにかもめの太ももに、つめたい水の走るような感触が|湧《わ》いた。あっ、と思ったとたんに、灼けるような痛みが、じいんとひろがった。
「痛い!」
「おとなしくしねえと、もう一丁いくぜ」
かもめは太ももをおさえて、その場にうずくまった。おさえた指の間から、鮮血があふれ出て、ぽたぽたと畳の上に落ちた。
今度は有無を言わせず、両側から腕を取られて引き立てられ、玄関の外に止めてあった人力車の上に押し上げられた。
「声を立てやがったら、ずぶりいくぜ。息の根を止めなけりゃならねえからそう思え」
どうやら車夫もかれらのなかまらしい。|幌《ほろ》をおろした車の両側に、女と安がつきそうように従うと、特務曹長、室井弥七衛門の官舎を後にした。
「室井の旦那も、せっかくの上玉を、いっぺんこっきりってのは、ずいぶんぜいたくな話だねえ」
「旦那の話じゃ、毎回、新しい女じゃねえと駄目なんだと」
「元気がいいんだねえ」
「そうじゃねえんだ。姐さん。逆よ。あっちが言うことをきかなくなってるのよ」
車をはさんで、女と安が、のんびりとやりとりを|交《かわ》している。
かもめは、気が気ではなかった。太ももの傷はどうやら出血が止ったものの、痛みはかなりはげしい。それに吉原に運びこまれてしまったら、それこそ、どうなることかわかったものではない。
ああ、どうしよう!
かもめは悲鳴を上げたくなった。
お姉さん、怒っているだろうな。
もしかしたら、もうこれでタイム・パトロール・マンの資格は|剥《はく》|奪《だつ》されて、送り帰されてしまうかもしれない。きっとそうだ。こんな失敗をやらかしたんだもの! 元さんはどうしているだろう! 元さんだって同じだ。それにしても、全くひどいやられかたをしたものだ。
お姉さん、怒っているだろうなあ!
助けて! お姉さん!
かもめは心の中で絶叫した。
しかし、その叫びもとどくはずもなく、かもめは今や孤独だった。
|山《やま》|下《した》|御《ご》|門《もん》をあとにして、人力を中にした一行は、|南鍋《みなみなべ》町から|尾《お》|張《わり》町二丁目を左に曲り、尾張町元地から大四ッ|辻《つじ》へと向った。荷馬車や人の往来で混雑している。日本橋あたりに店を構える大店の、下請けやならべ売りの小店が軒をつらね、番頭、手代、|丁《でっ》|稚《ち》小僧などが店を出たり入ったりしている。尾張町から|数《す》|寄《き》|屋《や》通りにかけて、近頃、長屋がぎっしりと立ちならび、下っ端役人や会社づとめの給料取りが急にふえた。日用の品を売る店はどこも繁盛しているらしい。
その人混みを縫って、人力車は進んだ。
道の左側に一軒の絵草紙屋があり、その店の奥から、一人の年増が通り過ぎる人力を見ていた。
走り出してきた子供が|梶《かじ》|棒《ぼう》にぶつかりそうになった。
「おっとっと。気をつけろい!」
「待てい! 車屋!」
とつぜん、背後から|割《われ》|鐘《がね》のような|罵《ば》|声《せい》がとんできた。
「今、わしのせがれに何と申した?」
「ちいっ」
車屋と安が舌打ちした。
「姐さん。どうする?」
安が女にけわしい目を向けた。
「ふん! どこかの芋さ。ちょっとおどかしてやりな。|平《へい》|助《すけ》、かまわないから行っちまおう」
女は梶棒を取っている男をうながした。
安は、その場に立ち止り、凶悪な面つきでふりかえった。その右手は尻ポケットの|匕《あい》|首《くち》の柄を握りしめている。
「おう! どこのどいつだ。おれたちに何か用でもあるってのか!」
その剣幕に、周囲の通行人がわっと逃げた。
そこへ、一人の壮漢が、のっし、のっしと歩み出てきた。
「こしゃくな|無頼漢《ごろつき》め! これやい! きさま。あれなる子供を警視庁日比谷大区第一小区をあずかる官等十三等、警視庁第五等警部、沖田総司の息子と知っての上での今の|雑《ぞう》|言《ごん》か!」
「げっ!」
安は、とっさに身をひるがえして逃げようとしたが、もうその時には、沖田総司のボディガードらしい屈強な壮士たちが、ひしひしと周囲をとり囲んでいた。
むこうでは、人力車の梶棒が押えつけられ、女かきき腕をねじ上げられていた。
「痛い、痛い! 何をするんだよう!」
「ふとどきなやつらだ! 二、三日|臭《くさ》いめしを食わせてやる。来い!」
たちまち女も車夫も路上にねじ伏せられた。その二人の耳に、安がなぐり倒され、|蹴《け》りとばされる音が、まるで|大《おお》|槌《づち》で俵でもたたくように聞えた。
「その人力車の中をあらためろ。乗っているのはなにやつだ。この騒ぎにあいさつもせんとは!」
沖田総司が、手にした太いステッキで人力車を指し示した。壮士たちがばらばらと人力車にかけ寄って、|幌《ほろ》をはね上げた。内部をのぞきこんだ壮士たちは、けげんな顔で総司をふり向いた。
「先生! 誰も乗っておりません」
二三
「あなたたちらしくもない。だめじゃありませんか!」
笙子は|苦《にが》り切っていた。
ソファに身を埋め、|袖《そで》|口《ぐち》にさしこんだ両腕で胸を抱いた笙子は、きつい目を二人の上にそそいだ。切れ長の涼しい目の、まなじりに|紅《あか》みが|射《さ》し、ふだんはおっとりした物言いが、幾分早くなっている。
かもめと元は、ただ、ただ、小さくなっていた。
「あの男が自分の回りに、バリヤーを張っているのに気がつかなかったんですか? かれは、私たちがタイム・パトロールであるかもしれないという疑いを持っていたわ。だからこそ、バリヤーを張っていたんじゃありませんか。元さん。このバリヤーはどんなものだかご存知ね」
元は、笙子のほこ先が自分に向けられてきたので、ますます身を縮めて息を殺した。
「ああ。知っているよ。タイム・マシンをアイドリングの状態にさせておくと、周囲の空間に重力変化が起って、その変化域の中では他のタイム・マシンが正確に作動しなくなるんだ」
その空間を通して見る時、周囲の風景は奇妙にゆがんで見える。光は屈折し、色は波長を変えて、全く異った色彩を呈する。
「知識として知っていても、実際に役立たなくてはだめね。かもめちゃん! あなたはどうだったの?」
「お姉さん。ごめんなさい!」
「どうだったの? って聞いてるの」
「私、気がついて元さんを止めようとしたんだけれども間に合わなかったわ」
「だから引きずりこまれて行っちゃったんじゃありませんか!」
二人とも声もない。
「ほら! これ、ごらんなさい」
笙子は帯の間から、黒い万年筆と、女持ちの小さなライターを取り出すと、カタリとテーブルの上に置いた。
「あっ」
「それは!」
笙子はそれらの品物と二人に、こもごも視線を投げた。
「万年筆は元さんのもの。ライターはかもめちゃん、あなたのものよ。私はあの瞬間、とっさにあなたたちのタイム・マシンを抜き取ったのよ。それを持ったままあちらの世界へころがりこんで、使うひまもないうちにそれを取り上げられていたら、二人ともどうなっていたと思う? たちまちタイム・パトロール・マンということがわかってしまうでしょう!」
二人はもう声もなかった。
「元さんだってかもめちゃんだって、そんなことぐらいではすまないのよ」
「いや。ほんとうにまいったよ。タイム・マシンはてっきりやつらに取り上げられたものだとばかり思っていた。よかった!」
「私は取り上げられた記憶はないし、どこかで落してしまったのかと思って心配していたのよ」
「かれか、かれらか、まだわからないけれども、時間密行者は元さんやかもめちゃんが、タイム・パトロール・マンだということには気がつかなかったと思うわ」
「どうなることかと思っていたよ」
「元さんは、ひどい怪我だったしねえ。あれからすぐ本部へ送って再生してもらったのよ。本部には単純な事故だと、言っておいたわ」
「ほんとうに、すまん」
「樋口一葉女史の体を借りるのはたいへんだったわ。あの人は、かなり胸が犯されていてね。あの年の十一月二十三日に死んでしまう人なのよ」
笙子は暗然としたまなざしになった。
「お姉さん、明治の文豪になったわけじゃない。素敵よ。ぴったり!」
かもめが、ひょいと顔を上げて|日《ひ》|頃《ごろ》の声を出した。
「かもめちゃん!」
なごやかになりかかっていた笙子の目が、ふたたび、きっとなった。かもめはあわてて、また縮んだ。
「か・も・め・ち・ゃ・ん」
|尻《しり》上りにはね上った。
「は、はい」
「あなたは、室井特務曹長にはたらきかけて、元さんに接近できる状態にあったのにもかかわらず、あれはなあに!」
かもめは泣き出しそうな顔になった。
「ただもう成りゆきのままに、引きずられていただけじゃありませんか!」
「…………」
「こんどへまをしたら、ほんとうに人買いのお仙に渡しちゃいますからね」
「ごめんね。お姉さん」
元がひたいの汗をそっとぬぐって、かもめにたずねた。
「かもめちゃんはどうしていたんだ?」
「ううん、どうっていうこともなかったけれどもね」
かもめは言葉を濁した。
「特務曹長の室井弥七衛門という、たいへんな人がいてね。それが……」
「だめ! だめ、だめ! お姉さん。だめよ!」
かもめはとび上った。両手をふり回して、笙子の言葉を空中でさえぎろうとした。
「お姉さん! 言ったら承知しないから!」
笙子は、ちらりと意地の悪そうな顔をした。
「何も言ってないじゃないの」
「もう、いや!」
「何かあったのか? なんだい? その室井なんとかいう特務曹長というのは?」
「いいの、いいの。何でもないの!」
かもめは、居ても立っても居られないように、そわそわとそれ以上、話が発展するのをさまたげた。
笙子は、この、肝心の場面であまり役に立たない二人の助手に、ひそかに肩をすくめた。だが、ある時代に永く常駐して、その時代の人々の中に完全に|融《と》け込んで生活を続けてゆくためには、かれらのような、この時代の人間が八|分《ぶ》で、パトロール・マンの意識が二|分《ぶ》ぐらいしかないような助手がおおいに役に立ったし、それなりに不可欠の存在でもあった。
「尾張町元地の絵草紙屋のお|女《か》|房《み》さんになりかわって道路を見張っていたら、かもめちゃんを乗せた人力車が通って行くじゃないの。そこで、ちょうど、非番で買物に来ていた沖田総司警部の子供を走らせたわけなの。案の定、車屋は怒鳴るし、|親《おや》|父《じ》さんの総司が頭に来てのり出した。その騒ぎの間に、かもめちゃんをいただいたのよ」
「でも、よくそこを通ることがわかったね?」
「それは、山崎くんが計算してくれたのよ」
ここ、銀座の青龍堂画廊の奥まった一室で、つねにデスクに向っている山崎青年の無愛想な顔が、二人のまぶたに浮かんだ。
「絵草紙屋の女房に|化《ば》けた、というのは?」
「元さん。尾張町元地というのは、ここなんですよ。その絵草紙屋のある場所が、この青龍堂画廊のある場所なのよ」
「なるほど。だが、沖田総司は面くらったろうな」
壮漢、沖田総司の|面《めん》|貌《ぼう》を思い出して、元は背筋をつめたい水が流れ走るような気がした。
「第一ラウンドは完全に失点ですか!」
元は自ら招いた敗北に、くちびるをかみしめた。
「そうでもないわ。私は、土方歳三くんに、この事件の異常さに気がつくようにしむけて、ある程度、成功したわ。かれは一葉女史が幻術使いではないかと思いはじめたの。一方では、局長の近藤氏は、勝海舟旦那があやしいとにらんでいるのよ。そして一葉女史と海舟旦那を結ぶラインに、何かあると思っているわ。近藤氏は、おそらく、今日、明日中に海舟旦那に会いにゆくと思うの。そこで状況は急転するの」
「すると、笙子ちゃんは勝海舟があやしいとにらんでいるわけか?」
「それがねえ……なんともまだ言えないわ」
「しかし、これは早急に手を打たなければいけないのね。だけど、気がつかなかったなあ。歴史が明治二十九年まで作り変えられていたなんて。先はどのへんから変っているのかな?」
「本部では気がつかなかったんでしょうか?」
「常駐員が足りなくて、あの時代の日本列島には誰もいないのよ。たしかオーストリアのハプスブルク家に一人いるはずなんですけれど、手が回らないでしょうね。常駐員のいない所は、テレビ・カメラを仕込んだ人工|隕《いん》|石《せき》などを|射《う》ちこんで調べているらしいんだけれど、センサーとしては能力が不足で、全部カバーするというわけにはいかないんですよ」
「あの妙な札に気づかなかったら、えらいことになるところだったな」
「変化が迫ってきているから、いろいろな物がまぎれこんでくるんですよ。ちょうど、台風が近づいてくると、日本沿岸ではうねりが高くなるようなものね」
「何者のしわざなのかを、つきとめる必要がありますね」
「タイム・パトロールが動き出したということは、もうさとっていると思うの。あれだけ大規模な歴史変化を起させたのだから、時間局との全面衝突さえ考えているかもしれないわね」
これまで、時間密行者の大規模な活動といっても、それは個人的なもので、歴史そのものを作り変えてしまうような活動というのはほとんどなかった。何百年も前に、インカで一度こころみられ、またBC五十年頃のイスラエル地方で発覚したことがある。だが、それらは、いずれも時間密行者側の不手ぎわや、幼稚な計画で、たちまち発覚し、何事もなく終ってしまった。
だが、こんどは違う。少なくとも明治は二十九年まで。またさかのぼればいつ頃から始まっているのか見当もつかない。その変化がどのくらいの早さで、現代に向かって近づいているのか? それもひどく気になった。その前線は、一日が十二時間、あるいは六時間もの速さで変化しているのかもしれない。それはあたかも、津波が押し寄せてくるような勢いで進行しているのかもしれなかった。その前線ではどのような混乱が起っているか、想像することも難かしい。このまま放置すれば、それはやがて確実に現代をも呑みこみ、|怒《ど》|濤《とう》の|如《ごと》く未来へ向って攻め寄せてゆくだろう。
そのような大規模な異変が生じたのも察知できなかったのは、これはよほど巧妙なカモフラージュと|欺《ぎ》|瞞《まん》工作がおこなわれていたにちがいない。計画したものは、なみの時間密行者や逃亡犯罪者などではあるまい。そこにはおそろしく|稠密《ちゅうみつ》な計画と大胆な発想があった。
「いいこと。こんどは失敗しないようにやってちょうだいよ」
笙子の言葉は、いつになく真剣だった。
そのとき、入口のドアが開いた。
「お客さんよ」
|恰《かっ》|幅《ぷく》のよい紳士が|悠《ゆう》|然《ぜん》とロビーへ入って来た。ガラスで囲われた応接室をうかがって、そっと会釈した。
「あら、三宅さんだわ」
笙子が|笑《え》みを浮かべて立ち上った。
「やあ、電話もせずにいきなりうかがって失礼しました。いやね、私の友人で、ジャパン・スチール・アンド・シップビルディングの社長の|平《ひら》|賀《が》くんが、絵を数枚欲しいということで私がいろいろ相談を受けましてね。なに私など、自分では絵が好きでも、人様の欲しいという絵のお世話など、とてもとても。そこで青龍堂さん。あなたにひとつ、面倒をお願いしたい、というわけなんだが」
「それでしたら、わざわざ、いらっしゃらなくとも、お電話いただければ、私、お邪魔いたしましたのよ」
三宅貞造は、パイプをくちびるから離して、薄い煙を吐き出した。
「それは口実でね。ほんとうは、あなたのお顔が見たかったからね」
三宅貞造ほどの苦労人が口にすると、少しもきざにひびかない。
笙子は、いたずらっぽく|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「絵をお買いになるのは、平賀さま、なんじゃございません? 三宅さんがお|上手《じょうず》言ってもだめですのよ」
「そんなことはない。それに青龍堂さん。いや、笙子さん。私、あなたからまだ、あのお答えをいただいていないんだが。私は気になって気になってねえ。いけませんよ。あなたはちょっと残酷なところがあるなあ」
三宅貞造は、ほんの少し恨めしそうな目つきになった。
「それ、ごらんなさいましな。どうせ私は残酷な女ですのよ」
「おいおい。こりゃ困った。とんだ失言をしてしまった」
「私なんぞのような女に、あんなこと、おっしゃるからですわ。もう後悔なさっていらっしゃるのでしょう?」
「笙子さん。今日はご|機《き》|嫌《げん》がお悪いですな」
「いいえ。とっても気分がよろしいですよ。今なら本心がしゃべれそう」
「勘弁してくださいよ。これ、このとおり」
三宅はおどけて、|膝《ひざ》に両手を当てて頭を下げた。
「それじゃ、勘弁してあげます。それで、平賀さまは、どんな絵をさがしていらっしゃいますの?」
「手伝ってもらえますか。ありがたい」
「こちらへどうぞ」
笙子は三宅を奥の応接室へ誘った。元とかもめはすでに事務室へ姿を消していた。
山崎は相変らず、デスクに向っていた。この男はおよそ、その表情を変えたことがない。いつでも、むっつりと一日中、そこで過している。まあ商売の方ではかなりいそがしい笙子だから、その事務の方も、たいへんなのだろうが、それにしても、どんなに朝早くても、また夜おそくても、この山崎はいつもここに居た。かれがその椅子から立ち上って歩いているところなど、元やかもめはついぞ見たことがなかった。
トイレなど行くのかしら?
かもめは妙なことが気になった。
応接室の壁には、大きな鏡がはめこまれている。その鏡は実はマジックミラーになっていて、応接室の様子は手に取るようにわかる。
山崎青年の手が動いて、デスクのどこかをまさぐった。
「……新しい社屋には、幹部用の応接間が三室あるそうで、そこに二枚ずつ、一枚は油絵、一枚は日本画、計六枚。これは大きなものでしょうな。それから……」
にわかに三宅貞造の声が、壁のスピーカーから流れ出した。
「来週京都のある画商が、面白いものを放出するらしいんです。よろしかったら、それを見ていただければ……」
笙子が熱心にすすめている。
山崎青年は、スイッチを切った。
「早く帰らねえかな。あの、おっさん」
元はいらいらとたばこに火をつけた。
商売のことになると、笙子も妙に熱心だ。この危急の時に商売気を出して、のんびり話しこんでいる。
ふだんなら、あくびをしたり、|鼻《はな》|唄《うた》を歌ったりで落着きのなくなるかもめだが、今日はさすがに神妙な顔でひかえている。
画廊のウインドの外の銀座通りが、ネオンでしだいににぎにぎしくなってきた。行き交う人の数も急にふえてくる。
今日は金曜日だった。以前の土曜日の|宵《よい》のにぎわいは、今は金曜日の宵に移ってしまった。
そのとき、ふと、山崎青年の横顔がかすかに緊張した。眼が宙の一点を|凝視《ぎょうし》した。両手がデスクのかげで、せわしく動いた。
「山崎くん。どうかしたの?」
元がいぶかしそうにたずねた。しかし、山崎青年はそれには答えず、デスクの上のインターフォンのスイッチを押し、口を寄せた。
「何かがこちらへ近づいてきます」
その声がどのように伝わっているのか、笙子には少しも変化が見られなかった。
「山崎くん! どうしたんだね? いったい何がやって来るというんだ?」
元はせきこんでたずねた。
「わかりません。あなたがたも注意してください。そうですね。あなたがたは、前の歩道にいていただきましょうか。ウインドから内部の様子を見張っていてください」
山崎青年は早口に二人に言った。
元やかもめは何となく不満だった。何事か、異常が迫っているというのに自分たちだけが画廊の外に出され、その危急をむかえる体制に加わることができないというのは、不愉快だった。
「早く! 裏から出てください、それから、指示があるまではマシンは使わないように。二人は別々に離れて立っていてください」
それだけ二人に指示すると、山崎青年は、なにごとか、じっと思念を|凝《こ》らすように目を閉じた。二人は仕方なく裏のドアを開いて、外の露地へ出た。
宵の銀座の騒音が、|潮《しお》|騒《さい》のように、にわかに二人の体をつつんだ。
二人は建物と建物の間のせまい通路を通って、表の歩道に出た。
少し離れてそれぞれに、恋人を待ち合わせてでもいるかのように、歩道を流れてゆく人波に目を向けた。
灯のあかるい画廊の内部では、笙子が、いつものはでなしぐさで、三宅貞造としきりに話しこんでいた。
いったい何が、どの方向からあらわれてくるというのか?
元も、かもめも、恋人を待つにしては、やや似つかわしくない不安と緊張の面持ちで、夜風に髪をなぶらせていた。
二四
|氾《はん》|濫《らん》する光りの絶え間のない|変《へん》|貌《ぼう》にリズムを刻んで、スクランブル歩道が人の波で埋まる。その人波を、さらに美しいサリーを巻いたインドの若い女性や、アメリカ人観光客らしい老人たちの一団。東南アジアからやって来たらしい|黄《こう》|衣《い》の僧、引締った面影の人民服の青年たちなどが、織りこまれた模様のように異彩を|綴《つづ》ってゆく。
週末の宵の銀座は、誰の胸にも、はなやかな期待を与える。行きずりの恋が手の届くところにありそうな気がするし、知っている|誰《だれ》|彼《かれ》にばったりと|逢《あ》いそうな気もする。とにかくそれが親しい女性で、十分に美しくもあり、向うも相手欲しやなどという心境であってくれたりしたら、これはもうおんの字なのだが。
女たちも美しく着飾り、行き交う男性の目も熱っぽく注がれるのを意識しながら、おおいに満足しつつも、思うような事態に立至らないことに、なお多少の不満を感じながら、精いっぱい|遊《ゆう》|弋《よく》する。
「あのう。すみません。ちょっとおうかがいいたしますけれども」
二人連れの若い女性のうちの一人が、連れに何かささやくと、元の前に歩み寄ってきて声をかけた。
「おかもとさんでいらっしゃいません? 私、なるしまきょうこです」
ファッション雑誌から、抜け出してきたような服装の、目鼻立ちのくっきりした美しい感じだった。顔に見覚えはないが、一流のモデルか、タレントではないか、と思った。
「いや、ちがいます」
娘にとって、そのおかもとなる人物は、きわめて懐しい存在であるらしい。表情にそれがあらわれていた。
「あら」
娘は顔を赤らめ、いったん退きかけたが、合点がゆかぬらしい。
「私、なるしまきょうこですけれども……」
もう一度言った。
「ぼくは、おかもとではありません。二階堂といいます」
元も相手の当惑が感染して、なんとなく居心地が悪くなった。
娘はある種の屈辱感を全身にみなぎらせ、何かつぶやきながらそそくさと立去ろうとしたが、あきらめきれぬとみえて、また立止り、元に半信半疑の視線をそそいだ。
「あなたは、おかもとさんでしょう?」
「いいえ」
「ちがうわ。おかもとさんよ。あなたは私と口なんかききたくないっていうのも、私、わかるの。でも、私、決して|悪《わる》|気《ぎ》でしたことではないのよ。私、あなたのためを思ったからこそ……」
一度、しゃべり出すと、娘は自分の感情にあおり立てられるように、元の顔色などかまわずに言った。
「……そうでしょう。あなたは、何も言わないんだもの。あいこさんだって言っていたわ」
「待ってくれ!」
「ひろこちゃんもよ。けいすけくんだってそういう気もちだったのよ」
元の知らない名が、つぎつぎにとび出してきた。
「待ってくれよ。いったいきみは誰なんだ? 何を言っているんだ?」
「ま! 私はなるしまきょうこじゃありませんか。きょうこよ。忘れたの?」
「成島さんだか京子さんだか知らないけれども、ぼくは、あなたのいう、おかもとという人ではありませんよ」
元は思わず声を荒らげた。歩道を行く人たちが、いっせいに好奇の視線を向けてきた。
紙片を手に、しきりに看板を目で追い、あかるいショーウインドの中をのぞきこみながら、人波に押されるようにこちらへやってくる一人の老婆がいた。
服装も|履《はき》|物《もの》も、どうやらおろしたてのよそゆきで、|襟《えり》には|汚《よご》れよけの手ぬぐい。|合財袋《がっさいぶくろ》の小さいやつの|口《くち》|紐《ひも》をしっかりと握りしめている。胸には旅行社のワッペンをつけている。団体旅行で東京へやって来たついでに、自由時間を利用して、村からはたらきに来ている誰それの顔でも見てゆこうかというあんばいだった。
老婆は立っているかもめを目にすると、激流に押し流される者が、必死に岸辺に泳ぎ着こうとするかのように、懸命にこちらへ向って移動してきた。
「ちょっと、おうかげえしやすけんどもなあへ」
老婆は、かもめにとりすがるようにうったえた。
「はあ?」
「ちょっと、おうかげえしやすけんどもなあへ、ばあさんこつうみせはどごだべなむす」
かもめは、老婆の聞き馴れない言葉の抑揚にのみ気を取られて、その意味するところは全く理解できなかった。
「な、なんでしょう?」
「おらだのむらのきざえもんえのむすめでまさえつうものだがよ、そのみせさづどめでえるから、なじょなあんべえでだがみてきてけれづうだでよ。んだども、はっばわからね。どごだべな? あねちゃ、しゃねべが?」
どこか、店の所在をたずねているらしい。かもめにも、その程度のことはわかった。
「なんという店でしょう?」
老婆は、落ち|窪《くぼ》んだ目をしょぼしょぼさせた。
「ばあさんこだと」
「ばあさんこ?」
「きざえもんがそういっていただ」
聞いたこともない名前だった。
「さあ。そんな名前の店、この銀座にあったかしら? 所番地はわかっているんですか?」
「はえ?」
「所番地よ」
「ああ。ばんつか? こいっつあがいであるだども、おら、めね。あねちゃ、よんでくなえや」
老婆は手にした紙片をさし出した。
「どれ? 中央区銀座四の五の十。へえ、四の五の十か。でもねえ、お|婆《ばあ》ちゃん。四の五といえばこのへんだけれども、四の五の十のその十の中に、どれだけ店や事務所があるかわからないわよ。それに、ばあさんこ、なんて、何の店だろう? 聞いたこともないわね」
老婆の顔に、濃い落胆と悲しみの色が浮かんだ。
「そんたなこってねがとおもっでたってば! まんつ、まんつ」
「お婆ちゃん。どこから来たの? 宿はどこなの?」
「かんだのようじょうかんつうやどやだけんともよ。なあに、けるのはなんだてこともねえが、ここまできてよお、きざえもんにたのまれだことはだせねのはきばくせな」
老婆はいかにも残念そうだった。
「しがだね。もうすこしさがしてみんべ。あねちゃ、ありがど」
老婆は、かもめの手の紙片をふたたび手中におさめると、人波の中に老いの体を運んでいった。
かもめははげしく動揺した。
老婆の後姿は縮んで小さく、かもめの半分程にもならぬかと思われた。
どうするのかしら?
探しても、探し出せるはずもないのに。
やめた方がいいわよ。お婆ちゃん!
せっかくの東京見物がだいなしになっちゃうじゃないの?
かもめは胸の中でさけんだ。
だが、老婆の心の中は、村のきざえもん氏から頼まれてきた氏の娘の安否をたしかめるという作業を果さなければ、という気もちでいっぱいなのだ。
けがでもしたらどうするの。よしなさい!
かもめは思わず走り出した。
人混みの中を、おぼつかない足取りで歩いてゆく老婆の姿を見出したとき、かもめは、どうしても、そのばあさんこという名の店を発見してやらなければなるまいと思った。
「平賀です」
三宅の友人の、ジャパン・スチール・アンド・シップビルディングの社長、平賀|宗《そう》|右衛《え》|門《もん》は、豊かな銀髪を|後《うしろ》になでつけ、引締った顔に細い|金《きん》|縁《ぶち》の眼鏡がよく似合う、まだ十分に壮年の意気を|留《とど》める|瀟洒《しょうしゃ》な男だった。
「笙子でございます」
「お|綺《き》|麗《れい》なおかただ。いや、よく三宅くんからおうわさは聞いておりました」
平賀は白い歯を見せて微笑んだ。
「あら、いやですわ。三宅さん。何をお聞かせしたのかしら」
そんなときの、|恥《はじ》らいの色を見せた|姿《し》|態《な》は、意識しない商売用かもしれない。こぼれるような上品な色気と|愛嬌《あいきょう》は、画商、笙子の天与の武器でもあった。
たくみな誘導で商談に入る。一千万を越える|商《あきな》いが五分たらずで成立した。若干の事務的な処理を残して、三人は立ち上った。
これから、二人のよく行く酒場へ笙子を案内しようというのだ。
「でも、私のようなのが、ごいっしょしたりしては、なにかとおさまたげになるんじゃございませんかしら。殿方といたしましては」
笙子はいたずらっぽく笑った。
「そんなことはありませんよ。こんな美しい人を知っているんだということを、大々的に宣伝しなくては」
平賀も三宅も、なんとなく|浮《うき》|々《うき》していた。
「でも、絵を買っていただくんですから、ほんとうは私がご招待しなければいけないんですわね」
「そんなご心配はいりません。私たち、いつもこの時間からそんな所で遊んどるのですから」
馴れた調子で平賀が、さあ、と言った。
もちろん車に乗るなどという距離ではない。
三人は青龍堂画廊から宵の銀座の歩道へ出た。
せまい露地をぬけて裏通りへ出る。ビルの壁面を、酒場のネオン広告がおり重なって|這《は》い上っている。その裏通りを越えて、さらにもう一本裏へ出る。有名な広告会社のビルに近く、その酒場はあった。
階下は毛皮商らしかった。せまい階段を上ると、木彫風の厚い扉があった。その|扉《とびら》に、|緑青《ろくしょう》のはえた銅板の文字が打ちつけてある。
〈酒場 |珊《さん》|瑚《ご》〉
「いらっしゃい」
はなやかな声が三人をむかえた。|豪《ごう》|奢《しゃ》な和服に身を包んだ女たちが、上等な常連だけに向ける特注の笑顔を向ける。だが、かの女たちも、三宅と平賀のあとから入ってきたおそろしく|磨《みが》きのかかった女に、なんとなく微妙な反応を見せて笑いを薄めた。時に女連れの客もいないわけではないが、その女が他の酒場の女性であったりする場合には、あまり安らかではなかった。客についてくる場合は、これも客だから仕方がないようなものの、遠慮もあれば仁義というものもある。同業者には見せたくないという陰の部分もある。とくにママなる者はおだやかではない。へたをすると、わが店の客まで奪われることもある。
だが、平賀と三宅にはさまれてソファにおさまったこの連れは、どうやら水商売ではないようだった。女たちはなんとなくほっとしたものの、それはそれでこんどはやりにくい。
人妻かしら? それにしては世帯のやつれが全く感じられないし、さりとて芸能人でもないようだし……かの女たちは内心、首をひねった。それにしてもずばぬけた|佳《い》い女だった。周囲の客の視線も、その女に集っている。そのうちに、女たちの一人が|朋《ほう》|輩《ばい》に、あ、そうだ。あれは青龍堂画廊の女社長よ、とささやき、みなの視線があらためて動いた。
「青龍堂さんは、なかなかご繁盛のようすで結構ですな」
平賀は運ばれてきたグラスを上げて、軽く|会釈《えしゃく》した。
「いらっしゃいませ」
中年の|色《いろ》|香《か》をしっとりと発散させた結構な年増が、ストゥールに腰をおろした。
「ここのママですよ。ママは知っているだろう。四丁目の青龍堂画廊の社長だよ」
三宅が紹介した。
「じゅん子と申します。まあ、青龍堂画廊の社長さんですか。お綺麗なかただっていうことはうかがってましたけど、私たち女から見てもほれぼれするようなかたですのね」
ママはうっとりするような声を出した。だが、相手が社長であれ何であれ、またこれから上客をひっぱってきてくれるような人物であろうとなんであろうと、相手が綺麗な女であれば、冷徹なまなざしが、遠慮会釈なく相手の全身を|嘗《な》める。
「こんどね、この青龍堂さんから絵を買うことにしたんだよ」
「およろしいですわね。平賀さまも、ますます御繁盛ですのね」
三宅が横から口をさしはさんだ。
「平賀くんのところはうらやましいよ。一千万以上の買物だよ」
「まあ」
ママはあらためて笙子におどろきの目を向けた。女の細腕一本で、そんな大商いができるというのがうらやましかった。同時にかの女は心の片すみで、どうせこの顔と体が|資本《も と で》なのだろうとも思った。そういう発想は、実は男よりも女の方が早い。男の方は疑ったり勘ぐったりだが、女の方は自分で簡単にそう決めてしまう。ママはだんだん不愉快になってきた。自分がこの店を出した時のことが思い出されてきたからだった。
北陸のある小都市の花街での芸者をふり出しに、囲われ者を兼ねての酒場のやとわれマダム、それから大阪へ出て苦心|惨《さん》|澹《たん》、ようやく小さなスナックを手に入れ、それを元手にしだいに大きな店に持ち変え、その|強《ごう》|引《いん》なやり方にいづらくなって大阪を逃げ出し、東京へ移って、最初は|立《たち》|川《かわ》あたりで黒人兵相手の酒場を始め、それが調子よくいって、中野、新宿、|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》としだいに都心へ向って前進してゆき、数年後には念願の銀座へ進出することができたのだった。その間に、かねを引き出すためにだました男の数は十指を越した。かの女自身、何回かあやうく手が|後《うしろ》に回りそうになったこともある。銀座へ進出できたとはいえ、ありようは|土《ど》|橋《ばし》寄りの、昼間でも超大型のドブネズミが|徘《はい》|徊《かい》しているような露地に面したスタンド・バーもどきだった。これでは持ち前の気性が承知しているはずもなく、ふたたびかの女は猛烈にかねもうけに精を出し、資金をためこむと同時に、|後援者《ハ ト》さがしにも走査を|凝《こ》らした。五丁目の裏で酒場の権利が売りに出ているという話を耳にしたのは数年前だった。人を介して探ってみたが、別に不動産自体にも問題はなく、やくざがからんでいるようすもなかった。さしあたって千万というかねが欲しかった。
そこへあらわれてきたのが一人の男だった。かの女が、その男と、最初に、どこで誰を介して会ったのか妙に記憶があいまいだった。必要額を出資しようと言う。条件はその内部を改装するにあたって、店内の一角にある一坪ほどの物置を提供してくれればよいということだった。その物置というのは、このビルの持主である階下の毛皮屋が、その二階まで使っていた頃、商品の特別な保管室として設けたものだという。その物置とも小部屋ともつかぬ一|画《かく》は、酒場の有効面積をそこなうような場所でもなく、また内部のていさいにわずかの|凹《おう》|凸《とつ》をもたらすような位置でもなかった。つまり、酒場の内部のどこから見ても、壁の向う側にそのような小部屋があるとは気がつかない造りになっていたのだ。
ママ、じゅん子は|雀躍《こおどり》した。二つ返事で承知した。そんな小部屋|云《うん》|々《ぬん》は結局、口実で、いずれは体を求めてくるようなことになるのだろうが、それならそれでもかまうことはなかった。体で|稼《かせ》げるかねなら気楽だった。もうひとつ条件があった。ホステスを一人、使ってほしいという。これも条件などともいえないようなものだった。どんな子をあずけられるのか、ちょっと不安でもあったが、まあ店で使ってみてもてあますようなぐあいなら、レギュラーからはずしてもよい。自分の給料ぐらいは稼ぎ出すだろう。
交渉はまとまり、じゅん子の必要とする金額がかの女の口座に振込まれるや、かの女はただちに、店内の造作にかかった。今は使われていない毛皮屋の保管室は、前の借主はただの物置に使っていたらしく、ビールのあき箱や古新聞の|束《たば》などがほうりこまれていた。店内改装をはじめた翌日、出資者から連絡があって、改装工事を一日だけ休んでほしいという。仕方がないので、そのむねを工務店へ電話して、はじまった工事を一日だけストップしてもらった。
翌々日行ってみると、物置のドアは頑丈なスチール・ドアに変えられていた。ノブらしいものがついてはいるが、じゅん子が引いてみたぐらいでは微動だもしなかった。もともとそこはボール紙細工のようなベニヤのドアがとりつけられていて、かまちの部分も、ブロックや木の柱がむき出しになっていたのだが、そこは完全にコンクリートで塗り固められ、ドアとかまちの間も、一ミリのすき間もなく、|完《かん》|璧《ぺき》に閉じられていた。じゅん子は首を|傾《かし》げた。いったい、ここを何に使おうというのだろう? その隣がクロークで、さらに入口に近い所に手洗所があった。そこで|頻《ひん》|繁《ぱん》に物などを出し入れされたのでは、店の入口でもあり、ちょっと困ることになると思ったが、そのドアの堅固な感じでは、しょっちゅうあけたてするというものでもないようだった。気配からすると、すでに何かを収めてしまったようだった。
妙なことに、それきり出資者からは何の連絡もなかった。連絡もないままに、じゅん子はそのスチール・ドアをすっぽりとおおいかくすようにペルシャ|絨毯《じゅうたん》をつらせた。それでかえって豪華な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》になった。
〈|酒《バ》|場《ー》 珊瑚〉ははなやかに開店した。これまでの|伝《つ》|手《て》で、じゅん子があちこちと手を回して集めた客種は、さすがにしごく上等だった。高名な大学教授、画家、音楽家、局長クラスの高級役人。さらにジャパン・スチール・アンド・シップビルディングの社長や、三宅コンツェルンの会長などのトップ企業の首脳連中。〈|酒《バ》|場《ー》 珊瑚〉は、たちまち銀座の超一流のクラブにのし上った。
じゅん子はいそがしさにまぎれて、絨毯のかげのスチール・ドアのことなど、いつとはなしに忘れてしまった。
それから一年ほどたったある日、店ヘ一人の若い女がやって来た。女は一通の手紙を持っていた。その手紙は、例の出資者からのものだった。
〈かねて申し上げし出資条件二件の内、残る一件の事、この書状持参の女、貴殿店内にてお使い下され度候〉
手紙にはただそれだけが書かれてあった。
女にたずねてみると、かの女はひろ子と名乗り、さらに、出資者の名をあげ、この店に行くようにと言われ、手紙を|托《たく》されただけだと答えた。それ以外のことは、何をたずねられても、言葉を濁して多くを語ろうとしなかった。
じゅん子は、あらためて女を観察した。年齢は二十二、三歳。十人並の器量で、ほおからくちびるにかけて、年に似合わぬ色気があった。胸や腰のあたりにも、十分に男を知った厚みと線があった。これなら、店でも十分に使える。着る物や髪形にもう少し気を配ったら、店のナンバーファイブに入るかもしれない。じゅん子はそう判断した。早速、翌日から店に出てもらった。どうやら経験があるらしい。客扱いは馴れたもので、半月もたたぬうちに、ひろ子を目当てで通ってくる客が引きもきらぬようになった。
じゅん子は大喜びだった。とんだ上玉をひろった思いだった。
それからひと月ほどたったある日の夕方、じゅん子が出勤すると、店内の内務班長ともいうべきバーテンの|若《わか》|杉《すぎ》が、じゅん子をそっと物かげにまねいてささやいた。
「社長。あの、ひろ子という子だが、今日、出勤してくると、あのドアをあけていましたよ」
じゅん子には、とっさにはその意味がわからなかった。
「ドア? どこのよ?」
「ほら。絨毯のかげの。鉄だかなんだかの頑丈なドアがはまっているじゃないですか」
「ああ、あれ。ええ? ひろ子が? あのドアをあけた?」
「中に入ったようですよ」
「中で何をやったのかしら?」
「さあ。なにしろあの絨毯のかげでしょう。なんにも見えねえ」
「それで、どうした?」
「五分ぐらいしたら出てきましたよ」
「|鍵《かぎ》を持っているのかしら?」
「そうでしょうな」
「何か入っているのかしら?」
「さあね」
これは全く意外な報告だった。
やはり、出資者はなんらかの目的で、あの物置を改造したのだ。ドアの頑丈さからみても、ただの物置や倉庫などではなかった。
何かよほど貴重な品物か、人の目に触れさせたくない物が収められているにちがいない。ひろ子は、その監視役としてこの場に送りこまれてきたのだ。それにちがいない。じゅん子はなんとなく薄気味が悪くなった。何か犯罪がからんでいるのではないだろうか? もし、そうだとしたら、これはとんでもないことになる。何かの犯罪が発覚して、新聞にでものるようなことになったら、これまでの苦労が水の|泡《あわ》になってしまう。そのようなことは、|真《まっ》|平《ぴら》ごめんだった。
「若ちゃん。あの子、注意していてね。何か妙なことがあったら、すぐ知らせてね」
じゅん子は、若杉に言いふくめて店へ出たが、はなはだ気分が重かった。店内をうかがうと、すみのボックスで、ひろ子が客を相手に、くったくない笑い声を上げていた。
その翌々日だった。店へ出たじゅん子を、若杉が引きさらうような勢いでクロークの前へ運んだ。
「ど、どうしたのよ! 若ちゃん」
「社長! 今、今、ひろ子が、ほら、あのドアの中に入っています」
若杉の言葉に、じゅん子は絨毯の前にかけ寄った。絨毯の上から、ドアのある位置をまさぐった。厚い織物を通して、固い金属が感じられた。ドアは閉じられている。どうやら、ひろ子は内部へ入って、またドアを閉めたらしい。おそらくドアは内側へ開くのだろう。
「ひろ子ちゃん!」
じゅん子は思わず呼びかけた。この際、事情を聞いておきたいという衝動が突き上げてきた。
「ひろ子ちゃん! ひろ子ちゃん!」
「社長! およしなさい。ほかの子に聞えますよ」
若杉がじゅん子を押しとどめた。
じゅん子は声をおさえた。
やがて、じゅん子の目の前で、壁をおおう絨毯が、向う側からむっくりとふくれ上った。ひろ子が出てきたのだ。かすかに何かが作動する音が聞え、カチリと金属音がした。ドアが閉じたのだ。絨毯のふくれ上った部分は端の方へ移動してくる。じゅん子と若杉はそっと後退した。
やがて絨毯と壁の間からひろ子が顔を出した。髪や|衣裳《いしょう》を直すと、なにくわぬ顔で二人の方ヘ近づいてきた。
「あら。お早うございます。ママ」
ひろ子が、あでやかに笑ってあいさつした。
じゅん子はとうとう自分をおさえきれなくなった。
「ねえ。ひろ子ちゃん」
「はい」
「あのドアの奥には、何か、しまってあるの?」
ひろ子の目が、キラと光った。しかし、じゅん子も若杉もそれには気がつかなかった。
「ママ。あたし、困っちゃうな。そんなこと聞かれても」
カマトトの|如《ごと》き|姿《し》|態《な》を作った。
「ひろ子ちゃん! 私はお客さんじゃないのよ。ふつうに返事をすればいいの。あなたは今、あの中に入っていたわね。何なの? 中は?」
「いけないわ、ママ。それを聞いては。ママには関係のないことでしょう」
「でも、私、聞きたいのよ。このお店の責任者としてね、このお店の中に何がしまわれているのか、知っておかなければ」
「ママ。ママはおかねを借りた時の条件を忘れているんじゃないでしょうね。あの部分に関しては、ママは関係ないんじゃなかったかしら?」
聞きようによっては、ひどく憎々しげだった。
「でも消防が調べに来るからね。警察や保健所だって」
「いいえ。これまでだって、ただの一度も調べなかったはずよ」
じゅん子はくやしそうにくちびるをかんだ。実際に、なぜか時たま顔を出す消防署や警察の連中も、あの絨毯の後のドアについては、何もたずねなかった。
「いいわ。こんど検査があった時、そう言ってやるわ!」
じゅん子は|噛《か》みつきそうな顔になった。美人はどんな時の顔でもいいと言われるが、青くなって目を釣り上げている時の顔などは、|不《ぶ》|美人《し ゃ ん》 が怒った時の顔よりもまだひどい。最良の状態でいる時との落差がはげしいのだ。器量良しと切れようと思ったら怒らせてみるがいい。未練も何も残らず、快適に別れられるというものだ。
「ママの気のすむようになさったらいいわ」
ひろ子は肩をすくめると、二人の前をすりぬけて、|床《フロア》へ出ていった。
「あのやろう!」
若杉が息まいた。
そこへ店の女たちがぞくぞくと出勤してきた。ここで大声を立てていては、店の|主人《あ る じ》としてこけんにかかわる。
じゅん子は|猛《たけ》る心をなだめなだめ、笑顔を作った。
二五
平賀も三宅もはなはだごきげんだった。笙子にもすすめ、自分たちも|盃《さかずき》を重ねる。平賀や三宅の席に着く女たちはどうやら決っているらしく、それもこの店のトップクラスの女たちらしい。顔や姿が美しいばかりでなく、上品で話題も豊富だった。苦手であるはずの女客の笙子の気もそらさない。
「今日はひろ子ちゃんはどうした?」
三宅がのび上って店内に視線をめぐらせた。
「今日はひろ子ちゃんは、ちょっと遅刻するんですって」
「|川《かわ》|辺《べ》先生もお待ちかねなのよ」
見ると、やはりこの店の常連の、売れっ子作曲家の川辺|良作《りょうさく》が、|隅《すみ》のボックスに陣取ってひろ子でない女を相手にぶっちょうづらでグラスを運んでいる。
「川辺先生、だいぶご|執心《しゅうしん》とみえるね」
「三宅さんのお|馴《な》|染《じ》みのかたですの?」
笙子がいたずらっぽく笑った。三宅は、悪事が見つかった子供のようにわざとおどけてあわてたふりをした。
「いやいや、笙子さん。お馴染みなんて! ただ、こう話が面白いものだから、時々、テーブルにはべらせておるだけですわ。ねえ、平賀くん」
「さあ。ぼくは知らんよ。きみは一人でよくここへ来とるようだけれども」
平賀は|澄《すま》した顔でキャビアなどをつまむ。
「おい。そりゃひどい! ひどいよ」
三宅が笙子に気を兼ねていると見た女たちが、にぎやかに調子を合わせる。
「ねえ、社長さん。こちらさんたらねえ」
女の一人が笙子に水を向けた。笙子も乗って耳を寄せる。
「こら、|止《や》めろ。何を言う気だ。笙子さん。そんなやつの言うことに耳をかすと、耳が汚れますぞ」
「まあ、ひどい!」
「三宅さん。どうしたの?」
「この間ねえ……」
「こら!」
三宅の手が女の体のどこかをつねったかさすったかしたらしい。きゃっきゃっという騒ぎになった。
そのとき、とつぜん異様な騒動が入口で巻き起った。
流れこんでくる声がひどく場違いな|闖入《ちんにゅう》者のあったことを示していた。
「まさえ! まさえ!」
ふりしぼった声が、天井の低い店内にくぐもった。
「お婆さん、お婆さん。入らないでください!」
若杉の声が重なった。
「はなせ! この。はなせつに! まさえ! まさえ! ここさでてあべ! きざえもんえのまさえよ! でてこう。てらめえのおらあ、さだだよ。まさえ!」
「お婆さん。まさえさんて誰ですか? 今ここへ呼んできますから。大きな声をださないでください」
「なに、このこぞう。はなせ、そのて。おらきいてきたんだ。ばあさんこつのはここだべちゃや。まさえ、こんたなところでおとこにさけなんぞのますしょうべやってただがよ。まさえがじょきゅうやってたなんぞ、きざえもんはまさがかんげえてもみねえべさや」
声の主は、はなはだ|激《げっ》|昂《こう》していた。
じゅん子が、つ、と立ち上って入口へ向った。
何か言っているじゅん子の声が聞えてきた。
「わからねが、このおなご。まさえだってるでねがよ! まさえだ」
「お婆さん。お店での名前はちがうんですよ。若ちゃん、まさえって誰だっけ?」
「ええと、待ってください」
笙子や三宅たちの目も、しぜんに入口の方に吸いつけられていた。早くおさめなければ、客たちの興もさめてゆくだろう。どこの酒場でも、場違いの闖入者には神経過敏になっている。ことに尋ね人はやっかいだ。
「だめですよ!」
とつぜん、じゅん子がさけんだ。
その時にはもう、一人の老婆が背を丸めて|床《フロア》に走りこんできた。
「まさえはどこにいるだ?」
手近なボックスにいた女の肩に手をかけ、その顔をのぞきこんだ。女が悲鳴を上げた。ボーイが走り寄ってきたが、相手が老婆では手荒い|真《ま》|似《ね》もできない。腕をかかえて連れ出そうとすると、老婆とは思えないような力で、ボーイの体を突き飛ばした。
テーブルが倒れ、床に落ちたグラスが割れて飛び散った。
大騒ぎになった。
「誰が連れてきたんだ! 連れて行かせろ!」
客の一人がさけんだ。若杉が入口に向って怒鳴った。
「お婆ちゃん、お婆ちゃん!」
老婆を連れもどそうとして、おろおろと走りこんできたのは、かもめだった。
そのとき、入口の扉が開いて、若い女が入ってきた。その後に、背の高い男がつづいている。
女は店内の騒ぎに、不審そうに|眉《まゆ》をひそめた。
「どうしたの? この騒ぎは?」
ボーイたちが寄ってたかって引きずり出してきた老婆を見て、女はあごをしゃくった。
老婆の視線が、女の顔をとらえた。
「あっ、まさえ! まさえでねえか! やっぱりここにいただか。おら、てらめえのさだだよ。まさえ!」
老婆はボーイの腕をふり切って、女にむしゃぶりついた。
「こら! まさえ。きざえもんがおめえのことしんぺえして、おらがとうきょうけんぶつさゆくったら、なじょしてもおめえをつれでけってきてくれつだ。さあ、あべ! むらさけえるだ!」
「離して! 痛い! 痛い! なにするのよ!」
「まさえ! おらがわがんねが!」
「ひろ子ちゃん! あんたの知ってる人ね!」
「ひろ子ちゃん! このお婆さん、連れていってちょうだい」
「痛あい! 知らないわよ! こんなお婆さん」
「このくそ! こう! こてば!」
「|痛《いて》え! 痛え! おれの足踏むな!」
「ママ! いったいどうしたのよ! これは」
「ひろ子ちゃん、あんたクビよ!」
たいへんな騒ぎになった。
ママのじゅん子は完全に逆上した。店でこんな騒ぎを演じられたのではたまったものではない。しかも、その騒ぎの元兇はどうやら、ひろ子の知り人らしいとわかった時、じゅん子の、ひろ子に対するこれまでの|嫌《けん》|悪《お》感がいっぺんに爆発した。
「さあ、すぐ出ていってちょうだい! もうたくさん。あんたなんか、顔も見たくもないわ!」
じゅん子は|夜《や》|叉《しゃ》のようにさけんだ。
「へえ! 私がクビ? そう。じゃ言いますけどねえ。あんた、いったい誰のおかげでこの店やっていられると思っているの?」
「そんなこと、あんたなんかに関係ないわよ」
「頭が悪いねえ! あんた。それなら思い出させてやろうか。あんた、二つの条件を|呑《の》んで、この店出す資金借りたんだろ。その条件のひとつが、私がこの店につとめることだったじゃないか! ねえ、みんな聞きな。この女はね……」
ひろ子についてこの店に入って来たものの、それまでこの騒ぎにあっけにとられて、突っ立っていた男が、それ以上の事態の変化に耐えられぬように、そっとひろ子の腕をとらえた。
「あのう。きみ。きみのいう人たちはどこにいるんだね。きみが私といっしょに来て、あいこさんやけいすけくんという人に会ってくれ、というから来たんじゃないか。ぼくはおかもとという人物ではないから、会ったってしょうがないけれども……」
|元《げん》だった。
じゅん子の血走った目が、元を見すえた。
「なんだい! この男は。おまえのひもか? こんな男とひっついていやがったのか! 出て|失《う》せろ。|売《ばい》|女《た》!」
「なにを、この|雌狐《めぎつね》!」
ひろ子が歯をむき出した。その顔に、じゅん子の平手打がいい音をたてて|炸《さく》|裂《れつ》した。
キイーッとひろ子が金切声を上げて、じゅん子に飛びついた。その手の下をくぐりぬけて、じゅん子はクローク|脇《わき》の|絨毯《じゅうたん》の壁の前に走った。
「さあ! この中にある物を全部かつぎ出して持ってゆけ!」
じゅん子は髪をふり乱して、両手で力まかせに壁をおおっている絨毯を引張った。絨毯はずるずると垂れ下り、やがてどさりと床に落ちた。
その下から、銀白色にかがやくスチールの巨大なドアがあらわれた。
みなの目が、そのドアに集中した。
「開けるんだよ! ひろ子!」
じゅん子は身をひるがえして、ひろ子に襲いかかった。
「若ちゃん! ぼやぼやしていないで、探すんだ。鍵、鍵!」
はっと気がついた若杉が、じゅん子とともにひろ子につかみかかった。わけがわからぬながら、ボーイたちがじゅん子に加勢してばらばらととりついた。ひろ子のスーツのぼたんが飛び、ブラウスが引き裂かれた。
「身につけているにちがいねえんだ。裸に引ン|剥《む》いて探せ!」
若杉が本性をあらわして|吠《ほ》えた。スカートがほうり出され、パンティストッキングが引きおろされ、パンティを巻きこんだまま足先から引き抜かれた。その頃には、全部の客がそこへ集って来ていた。胸と下腹部を押えて、必死に体を丸めようとするひろ子を、あお向けにしようと奮闘しているのは作曲家の川辺だった。
「やれ、やれえ!」
テーブルの上にのって、|人《ひと》|垣《がき》の|後《うしろ》から声をふりしぼっているのは、さる電鉄会社の社長だった。
「もっと|尻《けつ》を上げさせろ! 見えねえぞ」
大学教授の|浜《はま》|崎《ざき》が、つばきを飛ばしてさけんだ。さけんだ拍子に細い金縁眼鏡が、細い顔から離れてどこかへ見えなくなった。肝心な時に視力を失って、浜崎は人の足の間を犬のように|這《は》い回った。
「いいぞ! そいつを突込んじまえ!」
現場監督のような声を張り上げているのは某大銀行の頭取だった。
主役がヒイヒイと泣きさけぶ。
「あった、あった! これだ!」
じゅん子は、のたうち回るひろ子の腰にまつわる、金色の細い|鎖《くさり》に目を止めた。小さな鍵が光っている。
じゅん子は力まかせにそれを引き|千《ち》|切《ぎ》った。鎖がひろ子の腰に喰いこみ、ひろ子が白目をむいた。
じゅん子は、金色の細い鎖のついた鍵を手に、ドアへ走った。
そのとき平賀が動いた。
三宅が腰を浮かせ、
笙子が、ふ、と笑った。
平賀のほおが|苦渋《くじゅう》にゆがんだ。かれには、事の成りゆきが信じられないようだった。
どうして、このようなことになってしまったのか?
かれの顔は、はっきりそう語っていた。平賀はたまりかねたように立ち上り、怒りと燃えるような無念さをこめて、笙子をにらみすえた。ソファに身を埋めたままの笙子の、大きな目が、その平賀の視線を宙で受け止めた。そのひとみが氷の湖のように平賀の心を|凍《い》てつかせた。
平賀は身をひるがえして、スチールのドアへ向って走った。
じゅん子の手によって、小さな鍵が今、鍵穴へさしこまれようとしていた。
平賀は、じゅん子を押しのけてその手から小さな鍵を奪い、強く回した。
薄明の空間がそこに開いた。
何とも知れぬ異様な機械や装置が、生き物のように回転し、小さな光の点滴を生み出し、かすかなうなりを上げていた。
平賀の姿は、その中に消えた。
いつの間に移動してきたのか、平賀のあとを追って、笙子がすベりこんだ。
かもめと元が、二匹のいるかのように、|跳躍《ちょうやく》した。二人の体が、|洞《どう》|窟《くつ》のような薄暗い空間に吸い込まれるのとほとんど同時に、ドアの部分の壁全体が、急速に色と形を失っていった。あかるい照明が、もやにつつまれたように、淡く|翳《かげ》った。氷のような冷気が、量感をともなって周囲を押しつつんだ。
色と形を失った壁が、ふたたび実質をともなってそこに姿をあらわしたとき、それは、汚れたコンクリートとブロック、それにペンキの色もはげ落ちた粗末な木製のドアに変っていた。
それを見つめるじゅん子と若杉の顔がしだいに|弛《し》|緩《かん》し、やがてゆっくりと床に崩れ落ちた。
この変化に気がついた客は誰もいなかった。ひろ子をとり囲んでいる客や店の女たちからは、そこはわずかに死角になっていた。
気を失って倒れているじゅん子と若杉を発見した店の女たちが悲鳴をあげ、客たちがどっとそこへかけ集ってきたときには、もはや何の異常を察知することもできなかった。
誰かが一一九番へ電話をかけ、時ならぬ救急車の|警笛《ホ ー ン》が、銀座の裏通りの夜気をやたらに震わせるのみだった。
二六
間断なく高い水柱が立ち、一瞬、それが崩れて、滝のように海水が落ちてきた。
空気が絶えず震動し、|灼熱《しゃくねつ》の鉄片が熱い|甲《かん》|板《ぱん》を紙のようにぶちぬき、周囲一面にすさまじい火花をまき散らした。塗料が燃え、索具が燃え、短艇が燃えていた。
黒煙と水しぶきにおおわれた|虚《こ》|空《くう》を、肉眼でもそれとわかる巨大な砲弾の黒い影が、飛跡を|曳《ひ》いて落下し、天地もくつがえるような衝撃とともに、視野は|火《か》|焔《えん》でおおわれた。
根元から折られたマストが、巨大な円弧を描いてななめに海面に突込んだ。|檣頭《しょうとう》の|戦闘楼《ファイティング・トップ》から、小砲とともに、そこへたてこもっていた数名の水兵たちが、人形のように空中へほうり出された。
長大な橋のように、ななめに水面へ倒れたマストが、満身|創《そう》|痍《い》の海防艦、|松《まつ》|島《しま》の動きを完全に封じた。猛火に包まれ、気息えんえん、わずか三ノットの微速で、戦場から離脱をはかろうとしていた松島は、海中に突込んだマストの抵抗で、大きく円を描いて変針しはじめた。
それを見た|清《しん》|国《こく》海軍の巡洋艦、|超勇《ちょうゆう》が、十二センチ砲をふりかざして突撃に入った。距離、わずか六百メートル。つるべ|射《う》ちに射ちまくる十二センチ砲の砲弾は、ことごとく松島の船体に吸いこまれた。
松島に坐乗している連合艦隊司令長官|伊《い》|東《とう》|祐《すけ》|亨《ゆき》中将は、倒れたマストをいそいで海中に投棄するように命じた。だが、艦長も副長も、すでに鮮血に染まって艦橋の床に横たわっていた。伊東中将自身も、飛来した弾片によって重傷を負っていた。彼は信号係の|兵《へい》|曹《そう》に、その作業の指揮を命じた。兵曹は、大きくかたむいている艦橋からとび出していったが、この|惨《さん》|澹《たん》たる艦上で、どうやって人手を集め、百トンからあるマストを持ち上げ、海面に投棄することができるのか、伊東中将自身でさえ疑問だった。短艇揚収用のクレーンも、倒れたマストを支柱にしているのだった。
「|右《う》|舷《げん》の十二センチ砲は何をしておるのか! あの敵艦を射ちまくれ!」
伊東祐亨中将は、指揮棒がわりの|竹刀《し な い》をふり回してさけんだ。
「砲術長! 砲術長はどこへ行った!」
先任士官がかけ寄って、伊東中将の腕にとりすがった。
「長官! 砲術長の|柳《やな》|川《がわ》大尉は戦死されました。右舷十二センチ砲は完全に破壊されています。長官。本艦は間もなく沈没します。どうか損傷を受けていない艦に移乗なさってください」
「貴様! 何を言うか! |臆病《おくびょう》風に吹かれたな!」
伊東中将は先任士官を、手にした竹刀で打ちすえようとして荒れ狂った。連合艦隊司令長官、伊東祐亨中将は完全にどうてんしていた。
左舷に近く、完全に停止したまま猛煙を吹き上げているのは、連合艦隊主力、三景艦の一隻、|橋《はし》|立《だて》だった。その後方では巡洋艦|高《たか》|千《ち》|穂《ほ》が艦尾をすでに深く水面下に没していた。右舷遠く、海面をおおう真黒な団雲は、先刻、主力の一隻、|厳島《いつくしま》が大爆発を起して沈没した跡だった。精鋭を誇る巡洋艦|吉《よし》|野《の》も|浪《なに》|速《わ》も、姿を消していた。
|樺《かば》|山《やま》軍令部長の乗る|西京丸《さいきょうまる》と、砲艦|赤《あか》|城《ぎ》は、檣頭高く白旗をひるがえして停止していた。
清国艦隊はなお抵抗をつづける松島や巡洋艦|秋《あき》|津《つ》|洲《しま》、|比《ひ》|叡《えい》、ほか数隻の水雷艇に向って、とどめの砲火を集中していた。
間もなく秋津洲が爆沈した。清国海軍の巡洋艦|経《けい》|遠《えん》は、|猛《もう》|虎《こ》のように突進してその鋭い|衝《ラ》|角《ム》で、必死に逃げ回る水雷艇の横腹を突き刺した。清国海軍の水雷艇の放った魚雷が比叡を命中の水柱でつつんだ時、|黄《こう》|海《かい》の海戦は終った。
一八九四年。明治二十七年九月十七日。
帝国連合艦隊は、黄海奥深く|大《たい》|孤《こ》|山《さん》沖で、三隻の輸送船を護衛中の清国北洋艦隊を発見した。
九月十五日未明に開始された総攻撃によって、|平壌《へいじょう》は十六日、ついに陥落し、朝鮮半島を北ヘ進攻する日本軍は、いよいよ朝鮮と清国の国境である|鴨緑江《おうりょっこう》を目指す態勢を取った。戦略的優位に立ったとはいいながら、東京の大本営は|秘《ひそ》かに憂色につつまれていた。
それは名将|丁汝昌《ていじょしょう》提督のひきいる清国北洋水師の精鋭が、一向に姿をあらわさないことであった。帝国の連合艦隊は、黄海の制海権を完全に握ることを作戦の主眼においていた。それというのも、清国北洋水師司令部は、その艦隊を、制海権の獲得に使用せず、専ら陸軍部隊を朝鮮半島に輸送する輸送船の護衛に当てていた。そして、日本の艦隊と接触することを努めて避け、戦力の温存を図るとともに、極力戦火の拡大することを防いでいた。それに対し、連合艦隊司令長官伊東祐亨中将は、しきりに巡洋艦隊を黄海奥深く索動させ、|偵《てい》|察《さつ》と敵主力の誘出に当らせていた。大本営が焦慮しているのは、清国が日本陸軍の側面を|衝《つ》いて大兵力の陸兵を朝鮮半島の西岸に揚陸させはしないか、ということだった。当時、朝鮮半島にあった日本陸軍は第一軍主力は歩兵一万三千、騎兵三百五十、その他合計しても一万五千に足りない。とうてい朝鮮半島西岸を守りきれるものではない。日本陸軍はあげて前線にあり、その背後に上陸され、補給路を断たれてはひとたまりもない。なんとかして清国北洋水師を黄海中央部に引きずり出し、そこで|乾《けん》|坤《こん》|一《いっ》|擲《てき》の決戦をおこなって、黄海の制海権の|帰《き》|趨《すう》を決したいと念願していた。
大孤山沖に北洋水師あらわる。の報に、連合艦隊は勇躍した。
あらわれ|出《い》でた北洋水師は、旗艦定遠、姉妹艦鎮遠以下十四隻。排水量総計四万トン――一隻で四万トンの船といっても現代ではそう大きなものではないが、なにしろ一八九四年のことだ――戦艦定遠、鎮遠に三十センチの主砲を四門ずつ備え、それを中心に、艦隊の大口径砲は合計二十一門。各艦の装甲は強大であった。
それに対して、帝国連合艦隊は、主力松島、橋立、厳島の三十センチ砲一門ずつ。排水量総計こそ約五万トンと、清国側のそれよりも大きかったが、巡洋艦以下の小艦が多かった。したがって十二センチ砲や七・六センチ砲クラスの小砲は、清国側の六門に対し、六十七門と圧倒的に多かった。この英国製十二センチ砲というのが、三十センチ砲や二十センチ砲に比べて当然威力は小さいが、当時ようやく実用化されたばかりの、最新式の速射砲であり、一分間に二十発も射てるという当時驚異的な新兵器だった。
主力の三景艦に|搭《とう》|載《さい》した三十センチ砲は、その小さな船体には巨大すぎ、一発、射つと、その動揺が三十分も止らず、約六時間にわたる黄海の海戦で、実際に発射した弾数は、三隻総計わずか五発、一説には十三発といわれている。連合艦隊は、その過大な兵装を背負ったための重大な欠陥について知っていた。その故もあって、この新式十二センチ速射砲に絶大な信頼をおいていた。そしてそれが北洋水師に対する戦術的優位を確信させる結果ともなった。
今でこそ十二・七センチ砲で一分間八十発、七六ミリのOTOメララなどは三百六十度の全周を三秒でふり回しながら一分間に百二十発もぶっ放すのだから、|隔《かく》|世《せい》の感はあるというものの、あえて原爆を持ち出すまでもなく、この百年間における殺人道具の発達はまことにすさまじいものがある。
さて、この九月十七日。
“煙も見えず雲もなく、風も起らず波立たず、鏡のごとき黄海は……”
というまことにすばらしい秋晴れだった。
連合艦隊は|坪《つぼ》|井《い》司令官のひきいる第一遊撃隊、巡洋艦吉野、高千穂、秋津洲、浪速を前衛に配し、伊東連合艦隊司令長官直率の主力、三景艦に配するに|千《ち》|代《よ》|田《だ》、比叡、|扶《ふ》|桑《そう》の直衛。さらに左舷非敵側に、状況視察の樺山軍令部長坐乗の仮装巡洋艦西京丸。砲艦赤城を置き、檣頭高く戦闘旗をひるがえして、全軍第一戦速。
これに対し、精鋭北洋水師。また後翼|単《たん》|梯《てい》陣。先頭を承るのは、檣頭に|翩《へん》|翻《ぽん》たる|牙龍《がりゅう》の一騎。これぞ名将丁汝昌提督坐乗ましますのしるし。旗艦、定遠。その左舷斜め後方には鎮遠。定遠の右方には快速巡洋艦|斎《さい》|遠《えん》、|来《らい》|遠《えん》、|致《ち》|遠《えん》、|経《けい》|遠《えん》、さらに|揚《よう》|威《い》、|広《こう》|甲《こう》、超勇を直衛に配し、全軍ひた押しに押し進んだ。
十二時五十分。両軍の距離六千メートル。定遠は先ず、連合艦隊第一遊撃旗艦吉野をとらえ、第一弾を送った。それが四番艦浪速への至近弾となり、同艦は二本の巨大な水柱につつまれた。同時に、北洋水師は全艦、いっせいに砲門を開いた。
|閃《せん》|々《せん》たる砲火。百雷、一時に落つるがごとき砲声。林立する水柱。
|厳《いわ》|盤《き》の煙わだつみの、|龍《たつ》かとばかり舞い上り、鏡の|如《ごと》き黄海はたちまち|凄《せい》|惨《さん》な|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》と化した。黒煙と水しぶきをくぐって、突進することさらに三千。第一遊撃隊は、ついに十二センチ速射砲の火ぶたを切った。
いんいんたる砲声は波間にどよめき、|火《か》|焔《えん》と黒煙は、林立する水柱をどす黒く染め、|彼《ひ》|我《が》祖国の興亡をかけた一大海戦の幕はここに切って落されたのであった。
敵弾命中の衝撃が二度、三度、旗艦松島を大地震のようにゆり動かした。
「|鑵《かん》|室《しつ》、被弾!」
「機関停止!」
悲鳴と絶叫が交錯した。
松島の船体の中央部から、高さ五十尺にも達する真白い蒸気の柱が|噴《ふ》き上った。今や松島の上甲板は、急坂のように大傾斜を深めた。
ついに火薬庫に火が回りはじめたらしい。下甲板の下、奥深い所で誘爆がはじまった。足元の甲板が下からつき上げられ、張りつめられた板が弓なりに|反《そ》って|跳《は》ね飛んだ。
「お姉さん! お姉さん! これ以上、ここにいてはあぶないわ」
かもめは烈風に髪を吹き散らしながらさけんだ。傾斜に身を支えたハンドレールは、|素《す》|手《で》ではつかめぬほど熱くなっていた。
「笙子ちゃん! 引揚げよう。弾薬庫が爆発するぞ!」
|渦《うず》|巻《ま》く火の粉が、笙子の衣服の|袖《そで》や帯に、無数の焼け焦げを作っていた。
「まだ少し間があるわ。さがすのよ!」
美しく|結《ゆ》い上げた髪もほつれて、今は血の|気《け》を失ったほおにはげしくまつわった。
「たしかに、この|艦《ふね》のどこかにいるわ!」
「よし。さがそう」
|元《げん》は、押し寄せてくる|猛《もう》|焔《えん》から笙子をかばって進んだ。
おびただしい乗組員達の戦死体が、三人の足をさまたげた。
「お姉さん。いないわよ。こんな沈みかけたふねの中などには、もういないわよ!」
かもめはおろおろとさけんだ。
「いいえ。たしかにいるわ。私たちをここに誘い込んで、いっぺんに始末をつけようとしてねらっているわ!」
焼けただれたハッチをくぐると、そこは破壊しつくされた十二センチ副砲の|砲《ほう》|郭《かく》だった。ねじ曲った砲身があらぬ|方《かた》を指し、吹き飛んだ砲架が鋼鉄の|隔《かく》|壁《へき》をぶちぬいている。床には手足の|千《ち》|切《ぎ》れた砲員の死体と無数の|薬莢《やっきょう》が散乱していた。
そのとき、とつぜん笙子が二人を制した。
「いる! そのドアの向う側よ!」
笙子は|獲《え》|物《もの》を追いつめたけもののように|総《そう》|毛《け》|立《だ》った。
そのドアは、|舷《げん》|側《そく》の砲郭部から艦内通路へ出るハッチだった。元にも、かもめにも、何者の気配も感じられなかったが、笙子の全身から、青い極光のような殺気が|湧《わ》き、硝煙と血と破壊の充満する砲郭の内部に凝結した。
笙子は|汐《しお》|風《かぜ》に乱れる髪を半顔にまつわらせて、一歩、一歩、ハッチに向って進んだ。そのハッチの向う側に、どのような|陥《かん》|穽《せい》が設けられているか、どのような武器が焦点を合わせているのか、全く予想することもできなかった。そこへ歩み寄ってゆく笙子は、身に寸鉄も帯びてはいなかった。元やかもめの知る限りでも、かつて笙子が、およそ武器と名のつく物など持ったためしのないことを知っていた。したがって、かもめも元もいつも全く素手だった。
あぶない!
お姉さん!
思わず二人は心の中で絶叫した。
だが、もはや一瞬のちゅうちょも許されなかった。
元とかもめは、笙子の左右に|跳《と》んだ。たとえいかなる武器を持たなくとも、全くの素手であろうとも、つぎの一瞬の変化に、進んで身を投じて闘わなければならなかった。それがタイム・パトロール・マンの宿命だった。
三メートル。二メートル。一メートル。
笙子の手が、ハッチのドアのハンドルに触れた。
そのとき、ハッチのかたわらに鮮血に染まって倒れていた一人の水兵が、むっくりと体を起した。ハッチに歩み寄った笙子の気配を、自分に向って近づいて来たものと思ったのかもしれない。
彼は床についた両手にわずかに残った力をこめ、笙子ににじり寄った。視力はすでにほとんど失われているようだった。
「副長……」
彼は笙子に向って、力なく片手をさしのべた。
「副長……」
笙子の視線が、一瞬、彼の上にたゆとうた。ドアのハンドルを握った手が、ふと止った。
「副長。定遠はまだ沈みませんか?」
すがるような声が彼ののどから|洩《も》れた。
「まだ沈みませんか? 定遠は?」
笙子の顔がゆがんだ。振り切ろうとして振り切れない、いまわのきわの|念《おも》いがあった。酷烈な一瞬の判断が、笙子をそこへひざまずかせた。
笙子は|瀕《ひん》|死《し》の水兵の上体を、やさしく自分のひざの上に抱き取った。
「定遠は沈みましたよ!」
水兵は|茫《ぼう》|乎《こ》としたまなざしを笙子の顔に当てた。
「そうですか! 定遠は沈みましたか」
「安心して。あなたのお名前は?」
「副長。ありがとうございます。自分は……自分は……帝国海軍二等水兵、|三《み》|浦《うら》|虎《とら》|次《じ》|郎《ろう》であります。ああ、あなたは副長ではありませんね。|誰《だれ》だろう。そうだ。おっかさんだ。おっかさん、若くなったね。そうか、若いときのおっかさんなんだ。おっかさん!」
死のほほ|笑《え》みが、彼の顔をかぎりなく安らかなものにした。彼は笙子の腕の中で、がっくりと崩れおれた。
未だ沈まずや、定遠は
この|言《こと》の葉の短きも
|御《み》|国《くに》を思う|国《くに》|民《たみ》の
胸にぞ、長く|記《しる》されん
|嗚《あ》|呼《あ》! 海軍二等水兵、三浦虎次郎は今、護国の鬼と化したのであった。
笙子は彼の|亡《なき》|骸《がら》をふたたび、そっと甲板に横たえた。その背後を、元とかもめが走った。
ハッチヘおどりこんだ二人の目に、眼前の空間へ溶けこんで消えてゆく一個の人影が、淡い残像となって残った。
二七
この年の夏は年来になく暑かった。
冬の極寒の用意に、どの家も窓は小さく、オンドル|焚《だ》きの床の二重構造と厚い土の壁は、間もなく東の空も白もうという時刻であるにかかわらず、昨日の昼の暑さをなお室内に充満させていた。人々が身動きするたびに、汗とすえたような体臭が|粘《ねば》つくように渦巻いて動き、吸いこめるような空気など、もはやどこにもないような気がした。
清国北洋陸軍、|牙《が》|山《ざん》守備隊提督、上将|葉志超《ようしちょう》は暗い|洋燈《ラ ン プ》の下にひろげた地図にもう一度見入った。その彼のこめかみからほおをつたった汗が濃いあごひげから地図の上に滴々としたたって幾つもの|汚《し》|点《み》を描いた。
その汗の一滴が、彼が地図上に印した赤丸を|薄紅《うすくれない》ににじませた。その場所こそ、彼が本営を置くこの|成《せい》|歓《かん》駅北方の高地だった。|忠清道《ちゅうせいどう》牙山東北方二十キロメートル。牙山に在る三千の日本軍が、|安城《あんじょう》から|京城《けいじょう》を衝くべく北上する公路を眼下に収める要衝の地だった。彼の手兵は三千五百。まだ増援を受けぬ日本軍とほぼ同数だった。本来ならば、今日までに彼が手にすべき増援軍は一千二百、野砲十二門、さらに多量の弾薬があるはずであった。しかし、それらは、四日前の七月二十五日。日本艦隊により輸送船|高陞《こうしょう》号もろとも、|豊《ほう》|島《とう》|沖《おき》に射ち沈められていた。旧式木造砲艦ただ一隻に護衛された輸送船高陞号は、坪井|航《こう》|三《ぞう》少将のひきいる第一遊撃隊、巡洋艦吉野、秋津洲、浪速などの精鋭の前にはあまりにも無力だった。日本艦隊はこの無力な砲艦と輸送船をなぶり殺しの血祭りに上げ、それをもって清国との開戦の通告に代えたのだった。
卑劣な!
猛将葉志超は、おのれの生命を|賭《と》しても、ここで日本軍の北上をくいとめなければならないと思った。
|東《とう》|学《がく》|党《とう》の乱を静め、朝鮮半島の治安を回復するという口実で、腐敗した|李《り》王朝を|恫《どう》|喝《かつ》と|籠《ろう》|絡《らく》で操りながら、日本帝国は朝鮮半島を|併《へい》|呑《どん》せんとし、さらには鴨緑江を越えて遼東半島をも手中に収めようとする意図は、今や明々白々となった。ひとたび彼等のその野望を許したならば、次には|奉《ほう》|天《てん》、|長春《ちょうしゅん》を中心とした清国東北地方すなわち|盛《せい》|京《けい》省全土を|歯《し》|牙《が》にかけようとするにちがいなかった。
清国の憂慮は今や現実のものとなった。小国日本とはいえ、その帝国主義政策に基く強力な陸海軍は、清国第一の精鋭である北洋水師、陸軍といえども、果してよくむかえ撃つことができるかどうか、濃い不安につつまれていた。近年の日本の台頭を見て、いつかこの日の来ることを予感していた清国も、ようやく遅れていた軍隊の近代化に着手したとはいえ、最初から侵略を目的として一意育成されてきた日本軍を相手にするには、その政策から根本的に検討してゆかねばならなかった。それに、ふがいない李王朝をも援助しなければならなかった。
北洋水師提督、李鴻章大元帥は彼の腹心である|袁《えん》|世《せい》|凱《がい》を朝鮮における清国代表である朝鮮総理交渉通商|事《じ》|宜《ぎ》に任命し、また葉志超上将をして在朝鮮清国陸軍提督に|据《す》え、この危急を打開しようとした。
葉志超上将は、この偉大な先輩でもあり上司でもある李鴻章大元帥の信頼に|応《こた》え、祖国の危機に身を|挺《てい》しようとしていた。
|洋燈《ラ ン プ》の光が|洩《も》れるのを防ぐために、|垂《たれ》|幕《まく》をおろした入口から、一人の将校が走りこんできた。
「提督! 南第四|哨所《しょうしょ》より伝令であります。敵が|白《はく》|露《ろ》|台《だい》方面にあらわれ、急速南下中であります!」
葉志超上将が問い|質《ただ》す前に、副官の|金《きん》|丁《てい》|迫《はく》が金切声でさけんだ。
「なに? 白露台に敵が? 馬鹿な! そんなことがあるはずがない。うろたえるな!」
「副官殿。南第四哨所より緊急伝令であります」
「だからうろたえるなと言っておるのだ! 南第四哨所は第七連隊第二大隊第一中隊の所管であろう。なぜ当該各所管を通して来んのか! 直接、提督本営へかけ込んで来るおろか者がいるか!」
「まて! 金副官」
卓をたたいて立ち上ったのは葉志超上将だった。
「その伝令をここへ呼んでくれ!」
「しかし提督」
「呼べ!」
葉志超上将の目が、|猛《もう》|虎《こ》のようにギラリと光った。
金丁迫副官は電撃に打たれたように硬直し、それからあわてて外へ走り出ていった。
やがて一人の兵士が、部屋へかつぎこまれてきた。ひどい血の|匂《にお》いがした。
「しっかりしろ! 葉提督の御前だ」
兵士は両側から体を支えられながら直立不動の姿勢をとろうとし、ふたたびずるずるとくずれおれた。
「そのままでよい。休め。白露台に日本軍があらわれたと?」
兵士はふいごのように|喘《あえ》いだ。
「南……南第四哨所が襲われ……哨長以下全員……戦死しました……敵は、敵は大部隊です。尾根づたいに、やがて、ここへ……」
兵士ののどが糸車の回るような音を発すると、その体はゆっくりと床に横たわり、そのまま動かなくなった。
葉志超上将は|長《なが》|靴《ぐつ》のかかとを打ち合わせると、そろえた右手の指を軍帽のひさしにかざし、うやうやしい挙手の礼を、息絶えた兵士に送った。それにならう副官達の長靴の音が、ざっといっせいに|湧《わ》き上った。
「この兵士を|丁重《ていちょう》に葬ってやれ。そのひまがあればよいが。金副官! 全軍に通報! 敵は背後だ!」
「提督。お言葉をかえすようですが、南第四哨所が襲われたとしても、それは敵の|斥《せっ》|候《こう》隊によるものではないでしょうか? 敵の主力はこの台地の正面に在ると思いますが」
副官の一人が金丁迫の後からのび上った。
「ちがう。日本軍の総兵力は我軍とほぼ同じだ。同じ兵力で攻勢を取ろうとするならば奇襲しかない。白露台とは正によい所へ目をつけたものだ。そうだ。あそこからならば尾根伝いにこの高地へ押し寄せて来ることができる。葉志超上将がもっともけねんしていたのはそれだった。だが、彼が守るべき前線はその兵力に比し、あまりにも広すぎた。|邪《や》|山《ざん》、京城公路を見おろすこの丘陵地帯に兵を配置するので手一杯だったのだ。
「|嗚《あ》|呼《あ》! 天、我に|与《くみ》せず|乎《か》!」
葉志超上将は天をあおいで慨嘆した。
すでに本営内は騒然と浮き足立っていた。
そのとき、とつぜん、ごく近い所で小銃の一|斉《せい》射撃が起った。手投爆薬の爆発するらしい|轟《ごう》|音《おん》がつづけざまに大地をゆり動かした。
「敵だ!」
「みんな出ろ!」
「たいへんだ!」
にわかに|蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになった。
「落着け! ここでくい止めるのだ。銃声を聞いて、間もなく味方の兵がやって来る」
葉志超上将は、|生色《せいしょく》を失ってうろたえ騒ぐ部下の将校達を|叱《しっ》|咤《た》した。
防ぐといっても、本営のこととて銃を持っているのは、ごくわずかの警備の兵士だけだった。あとは副官の短銃と腰につるした|洋《サー》|剣《ベル》だ。
それでも警備の兵士達がパチパチと射ち出した。たちまち、それを圧倒する銃声が湧き起り、土壁に命中する弾丸の音が、|鞭《むち》で壁をめったやたらに打ちたたくように聞えた。
金丁迫が扉に身をかくして短銃を射ちまくっている姿が、発射|焔《えん》の先に明滅した。
怒声と絶叫が家の周囲に迫ってきたかと思うと、家の裏口の扉が打ち破られる物音がした。黒煙が渦巻き、火のはぜる音がひびいた。
「諸君の生命をわしにくれ。日本人どもにひと|泡《あわ》ふかせてやるのだ!」
猛将葉志超は、じゃまになる腰の|洋《サー》|剣《ベル》をむしり取ると、壁につるしておいた葉家伝来の|明《みん》|初《しょ》の刀工|斎《さい》|寧《ねい》|孫《そん》のきたえた長さ四尺におよぶ大|青龍刀《せいりゅうとう》をむずとつかんだ。|朱《しゅ》|房《ぶさ》の|打《うち》|紐《ひも》手首に巻き、|皮《かわ》|鞘《さや》を払うと|白《はっ》|虹《こう》一|閃《せん》、ほの暗い|洋燈《ラ ン プ》の光も、たちまち|明《めい》|皓《こう》|々《こう》たる月光に変ずるが|如《ごと》くであった。
とつぜん、黒風の如く一団の日本兵が躍りこんできた。
「来い! |東《トン》|洋《ヤン》|鬼《キ》!」
猛将葉志超の大青龍刀が、風を切って旋転した。黒い飛沫が高く跳ね、なだれこんできた日本兵はどっと後ずさった。
「聞け! われこそは北洋水師提督の下にあって、朝鮮派遣清国陸軍総帥にて牙山守備を承る清国陸軍上将葉志超なるぞ! この成歓の駅を通れるものなら通ってみよ。|死《し》|人《びと》の山を築いてくれるわ。いでや!」
葉志超上将は、屋外へ走り出ると、大青龍刀をりゅうりゅうとふり回し、ひしめく日本兵を、はったとにらみつけた。
「なにをこしゃくな!」
「捕えろ! 捕えろ! 青龍刀なんぞ払い落してふん|縛《じば》ってしまえ!」
日本軍の将校が小馬鹿にしたように背後から部下を指図した。
「おのれ!」
葉志超の怒りは心頭に発した。とつぜん、足を縮めると、七尺の巨体は風をまいて宙を飛んだ。真黒に丘の頂きを埋める日本兵の|真《まっ》|只《ただ》|中《なか》に、音もなく足をおろした葉志超上将は、おどろきうろたえる日本兵を、左右にばったばったと切り倒した。その姿はまさに鬼か魔物のようだった。血しぶきが高く上るたびに、葉志超上将の華麗な軍服はみるみる鮮血に彩られていった。大青龍刀が旋転するたびに、彼の|黒《こく》|髯《ぜん》と手首の朱房が|颯《さつ》|々《さつ》と|血《けっ》|風《ぷう》になびいた。彼を|十《と》|重《え》|二《は》|十《た》|重《え》に取り囲んだ日本兵の銃剣の|槍《やり》ぶすまも、彼が動くたびに前へ後へ、右へ左へ、絶えず移動した。丘の頂きは今や彼が倒した日本兵の死体で足の踏み場もなかった。
新しい銃声が暁の大気を震わせた。公路に面して丘のふもとに布陣していた清国兵が、ようやくこの台地にかけ上ってきたのだ。いたる所で肉弾|相《あい》|搏《う》つ白兵戦が展開された。|鋼《はがね》の打ち合う響き、肉体に打撃を加える音、悲鳴、怒声、絶叫、乱れる|軍《ぐん》|靴《か》の音、うめき声、おりから、血のような朝焼けがこの丘の|稜線《りょうせん》を染めた。両軍の兵士たちは半顔を朝焼に染め、全身に血しぶきを浴びて獣のようにつかみ合い、なぐり合い、切り合った。
奮戦につづく奮戦で、さすがの猛将葉志超の鉄のような体も、鉛のような疲労に、思うように手足が動かなくなってきた。彼の周囲にはすでに清国兵の姿は一人もなかった。もはやこれまでだった。今はわが身ひとつ。敵の重囲を破って逃れるしかなかった。
ようやく動きが鈍ったとみたか、彼を取り囲む日本兵の輪が急激に縮まってきた。
「それ! 今だ。やっつけろ!」
「芋刺しにしてしまえ!」
どっと、なだれのように襲いかかってきた。その銃剣の槍ぶすまが、彼の体を貫通しようとする一瞬、朱房の大青龍刀が水車のように回った。数本の銃剣が|葦《あし》の葉を切り飛ばすように前後左右に折れ飛んだ。猛将葉志超、すかさず、包囲の円陣の一角へ飛鳥の如く躍りこむ。村田銃を握ったままの胸が血けむりを|曳《ひ》いて飛び、たたき割られた|洋《サー》|剣《ベル》が、持ち主の首といっしょに舞い上った。
「…………!」
「…………!」
葉志超の怪鳥のようなさけびが、日本兵たちの耳を打ち、その心気を奪った。彼は追いすがる日本兵を右に左に|斬《き》り払いながら、一歩、一歩、後退した。そこはすでに丘の端だった。ゆるやかな斜面を、細い道がふもとに向っている。丘陵の西の谷には、まだ完全に明けきらぬ早暁の|闇《やみ》が残っていた。今なら逃げのびることもできよう。葉志超は、|群《ぐん》|狼《ろう》のように喰いさがってくる日本兵を追い散らしておいて、すかさずその道をかけくだろうとした。
そのときだった。
「待てい! 大将軍ともあろう者が、敵に|後《うしろ》を見せるのか! 見ればまことに|天《あっ》|晴《ぱ》れな腕前。敵ながら惜しいやつじゃ。惜しくはあるが、その|素《そ》っ|首《くび》もらった」
|割《わ》れ|鐘《がね》のような|大音声《だいおんじょう》が、猛将葉志超の足をぴたりと止めた。
ふりかえると、日本兵の銃剣の槍ぶすまの後から、一人の八字|髯《ひげ》もいかめしい男がのっしのっしと進み出てきた。
丸軍帽に|肋《ろっ》|骨《こつ》縫い取ったる黒軍服、白|脚《きゃ》|絆《はん》に|斑《ふ》|入《い》りの皮|足《た》|袋《び》。|草《わら》|鞋《んじ》の|紐《ひも》を足首に喰いこむほどに固く縛り、威風、あたりを払って|仁《に》|王《おう》立ちになった。
「それなるは清国北洋陸軍朝鮮派遣軍都督にて牙山守備隊総司令、葉志超上将と覚えたり。われこそは、日本陸軍|大《おお》|島《しま》旅団歩兵第一連隊第三大隊にて、鬼と異名を取ったる帝国陸軍歩兵特務曹長、室井弥七衛門なるぞ! |汝《なんじ》を、わが家に伝わる天下の名刀、この|備《び》|前《ぜん》|長《おさ》|船《ふね》のさびにしてくれるわ! いでや!」
皮帯にぶっこんだ長いやつをギラリと引き抜いた。
上将葉志超、実は|清《しん》|日《にち》関係の雲行きが危くなると、ひそかに日本語の勉強に精を出していた。敵を知る者は百戦危うからず。名将たる者、つねにその心掛けを忘れない。
おどろいたのはその葉志超だった。これはとんでもないやつがあらわれたと思った。それに特務曹長というのが気に喰わなかった。大将どうしの一騎討ちならまだ話がわかる。上将と特務曹長の一騎討ちというのは、どう考えても上将の方が|分《ぶ》が悪い。負ければ大将首を進呈することになるし、勝ったとしても、特務曹長の首では、たとえお手盛りの勲章でもとてももらえない。
「|下《げ》|郎《ろう》! 下れ!」
猛将葉志超は|大《だい》|喝《かつ》した。そのまま、背を見せ、わざとポーズをつけ、|悠《ゆう》|々《ゆう》と丘を降ろうとする。それがかえっていけなかった。
「逃げるのか! このオタンコナス! その青龍刀は|伊《だ》|達《て》か。なんでえ、かっこつけやがって! このくされ×××の×××の×××××!」
要するに、使用|頻《ひん》|度《ど》が|烈《はげ》しいあまり、変形変色した女性性器を意味するおっそろしく|侮《ぶ》|蔑《べつ》的な単語の|羅《ら》|列《れつ》が、ここ忠清道成歓駅を見おろす丘の頂きから、夜明けの山野にひびきわたった。
|嗚《あ》|呼《あ》! 何たる|雑《ぞう》|言《ごん》。
猛将葉志超は、はらはらと落涙した。
今こそ上帝も照覧あれ。父祖の霊も|看《み》てあれかし。かつてわが|中原《ちゅうげん》を犯せし蛮賊は、かの|匈奴《きょうど》以来、|吐《と》|蕃《ばん》、|蒙《もう》|古《こ》など|数《あま》|多《た》有れど、一介の下士がわが大将軍をとらえてかくの如き|罵《ば》|詈《り》雑言の有りや無しや。何ぞこの恥辱を黙過し得ん。|豈《あに》、東海の君子国とは何をもってか言う。
切るべし!
葉志超上将は決然と|踵《きびす》を返した。
満面に朱を注ぎ、黒髯を朝風になびかせて、葉志超上将は大青龍刀に、りゅうりゅうと素振りをくれた。|斎《さい》|寧《ねい》|孫《そん》錬えるところの無双の名刀は、大気を切って笛のようにするどい|刃《は》|風《かぜ》を鳴らした。
「来い! |鼠《そ》|賊《ぞく》!」
「やる気になったか。ヒョウロクダマ」
筆者はこれをもって、日本人がいかに礼儀知らずで、言葉が悪くて、|品《ひん》が無いかなどと言おうとしているのではない。帝国陸軍特務曹長、幕臣中の幕臣たるこの室井弥七衛門、惜しむらくは武士の魂を|長州《ちょうしゅう》征伐あたりでどこかへ置き忘れてきてしまったのだ。|而《しか》してまた国際感覚の欠如を責むることも無用である。彼にとって、異人はすべてヒョウロクダマでありくされ×××であったのだ。
|凄《すさ》まじい気合いが雷鳴のようにとどろき、二尺八寸の備前長船と、四尺の斎寧孫は、火花を散らして激突した。一瞬、室井弥七衛門は電光のように刀身を回して、葉志超の左の小手に打ち込んだ。その|斬《ざん》|撃《げき》よりも早く、葉志超は打たれる小手を引きざま、右手の大青龍刀を片手なぐりに弥七衛門の脳天に打ちおろした。備前長船はわずかに小手にとどかず、弥七衛門はそのまま、葉志超の|腕《かいな》の下をくぐって彼の背後へ走りぬけた。そのあとへ|間《かん》|髪《はつ》を入れず重さ七貫|匁《め》の大青龍刀が降ってきた。
「見たか!」
流れる青龍刀の重さに思わずよろめく葉志超の背中から胸へ、弥七衛門の備前長船が、|鐔《つば》|元《もと》まで通れと刺し貫いた。と、思ったのは弥七衛門だけで、葉志超の体はすでに六尺の余も前方へ跳んでいた。
「えやおう!」
やらじとばかり弥七衛門が躍りこむ。ふり向きざま、葉志超は大青龍刀を水平に|薙《な》いだ。弥七衛門の胴体が上半身と下半身に真二つに分れた。と思ったのは葉志超だけだった。弥七衛門は平ぐものように地面に|這《は》いつくばった。その頭上二寸のところを突風のように白刃が飛び過ぎた。
二人は暴風のように息を吐いて向い合った。たがいに|青《せい》|眼《がん》。|淋《りん》|漓《り》たる汗は二人の視力をほとんど奪っていた。つぎに激突した瞬間が、二人のうち、どちらかの生命が失われることは明らかだった。
二人の決闘を見守る日本兵たちは、粛然として声もなかった。
どちらも、おそろしく腕の立つ剣客だった。二人の技量はまさに五|分《ぶ》五|分《ぶ》であり、今やおのれの生命を自ら|棄《す》てた葉志超と、背後の味方を意識する室井弥七衛門と、どちらがその闘志をかき立てられるかが、勝負の分れ目だった。
斎寧孫と備前長船はふたたびじりじりと|間《ま》|合《あ》いをつめた。
室井弥七衛門は自分の勝利を信じて疑わなかった。日本陸軍三千の将兵の目が、ことごとく自分に集中しているというのが、この上なく彼を満足させ、|有頂天《うちょうてん》にさせていた。晴れがましい心でいっぱいだった。このような晴れの舞台は、これまで彼の|生涯《しょうがい》にただの一度もないことだった。ここでこの清国大将軍を討ち果せば、|金《きん》|鵄《し》勲章は確実だった。特務曹長から一躍、中尉か大尉に昇進できるかもしれない。そうなれば好きな酒の一升や二升はもう不自由することもない。そうだ! 酒だ! 室井弥七衛門は|大蛇《お ろ ち》の如く舌なめずりをした。すでに二升の酒が胃の|腑《ふ》におさまったような気がした。
「ううい!」
彼は暴風のような酒気を吐いた。相手の四尺余の青龍刀が、少しもおそろしくなくなった。
彼の備前長船は一|閃《せん》して葉志超の上体にはしった。
「いたわ! あそこに!」
笙子が低くさけんだ。|元《げん》とかもめの目が笙子の視線を追った。
十重、二十重におり重なった日本兵の黒服の背に、|這《は》いつくように一人の男の姿があった。
「ジャパン・スチール・アンド・シップビルディングの社長の平賀よ。いいこと。こんどこそ逃さないでとらえるのよ」
笙子は元とかもめに目配せし、彼らを右と左に回らせた。
笙子はゆっくりと近づいた。
あと数メートルの距離まで近づいたとき、彼は身に迫るものの気配を感じたのか、さっとふり向いた。
彫りの深い端正な彼の顔に、おどろきと苦痛の色がみなぎった。
「…………!」
彼はくちびるをゆがめて何かさけぶと、|人《ひと》|垣《がき》の背から|跳《と》び離れ、やにわに、そこに落ちていた|洋《サー》|剣《ベル》をひろって身構えた。切先がぴたりと笙子の胸元をねらった。はげしい動揺が平賀の顔から消えてゆくと、じょじょに|凄《すさ》まじい殺気と|執念《しゅうねん》がその|面《めん》|貌《ぼう》を変えていった。
「パトロール・マン。よく追ってきた。だがここで終りだ!」
彼は青眼にかまえた|洋《サー》|剣《ベル》を、せきれいの尾のようにこきざみにはね上げながら、じりじりと笙子に迫った。
朝風が笙子の髪を吹き乱し、|袂《たもと》をひるがえした。笙子はすばやく髪にさした|簪《かんざし》を抜くと半身に構えた。左手で軽く、ひるがえる袂をおさえると、|露《あら》わになった白い腕に、朝の光が映えた。
二八
背広を脱ぎすてると、洋服|箪《だん》|笥《す》からしばらく着たことのない軍服を取り出した。その軍服も今年の春に新調したものだが、仮縫いの時に手を通しただけだった。しかし、時おり手入れだけは怠らない。|肋《ろっ》|骨《こつ》、肩章、金モール。それにどっしりした黒皮帯、紫|房《ふさ》の軍刀のつり|紐《ひも》、すべて新調した時のままに、きらびやかであり、つややかだった。
それを身にまとって鏡の前に立つと、背広姿とはうって変った|凜《り》|々《り》しくも|厳《いか》めしい陸軍歩兵大佐が現出した。
さらには箪笥から、|井《いの》|上《うえ》|真《しん》|改《かい》三尺五寸の大|業《わざ》|物《もの》をつかみ出し、皮帯へ|閂《かんぬき》に横たえた。
軍帽を|目《ま》|深《ぶか》にかぶると、土方歳三はもう一度、室内に視線を回した。
この部屋で過した何年かが、走馬灯のように歳三の|脳《のう》|裡《り》に浮かんで消えていった。何の変哲もない、殺風景極まる陸軍官舎の一室だったが、それでも上級将校用の単身者アパートは結構、住み心地のよいものだった。家具も自分の好みにまかせ、上等なものや使い心地のよい物を入れてある。
歳三は、最近、大金を投じて手に入れた仏和大辞典は、自分がいなくなったあと、|誰《だれ》が使うのだろうかと思った。会いたい女の一人や二人がいないわけではなかったが、もはや何の未練もなかった。
歳三はドアへ進み、電灯のスイッチをひねると廊下へ出た。
単身者用の官舎アパートのこととて、若い中尉や大尉が多い。どこかの部屋で酒宴が開かれているらしい。静かな廊下に、朗々と|唄《うた》う声が流れてきた。
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風、|蕭々《しょうしょう》トシテ|易《えき》|水《すい》寒ク
壮士一度去ッテ、マタ|還《かえ》ラズ
…………
[#ここで字下げ終わり]
歳三は無量の感慨をこめて自室のドアをしめた。
歳三の胸に、あの|池《いけ》|田《だ》|屋《や》の切込みに参加した遠い日のことが、|灼《や》けるような懐しさと感慨をもって去来した。あの夜も、このようにあたたかく静かな、そこはかとなく人恋しさの迫るような夜だった。|壬《み》|生《ぶ》の|屯《とん》|所《しょ》を出る隊列の先頭を進みながら、なかまたちの緊張や興奮を、妙に|他《ひ》|人《と》|事《ごと》のように感じ、ながめていた自分を、今の歳三は妙に切なく想起していた。おれはこれまで、自分自身のために人を|斬《き》ったことがあっただろうか? 自分が斬った相手は、つねに自分以外の誰かが選別し、その意図のままに自分は剣を振ったに過ぎなかったのではないか。往古の剣客たちが、おのれ自身の兵法のために、剣を抜いたのとは本質的に異なっていた。剣客とはしょせん、そういうものなのだろうか? おれはそれを、あの池田屋へ向って歩む隊列の中で、薄々それを悟っていたような気がする。
歳三は|唇《くちびる》をゆがめて笑った。
唄声はすでにやみ、彼の|靴《くつ》|音《おと》のみが沈綿たる夜気にひびいた。
歳三の|瀟洒《しょうしゃ》な背広姿を見なれている従卒は、彼の時ならぬ軍服姿に目を見張ったが、歳三の無言の眼光に|気《け》|圧《お》されて、いそいで馬車のとびらを開いた。
歳三の|鞭《むち》が一|閃《せん》すると、二頭立ての|軽駕《スパイダー》は|蹄《ひづめ》の音を|都大路《みやこおおじ》にひびかせて走り出した。
小石川氷川台の勝海舟の邸では、今、主人の海舟が|妾《めかけ》のお糸に肩を|揉《も》ませているところだった。いぜんは日に二千回、三千回とやっていた木刀の素振りをこの頃はとんとやらなくなった。そうなってからはやたらに肩が|凝《こ》り、腰が痛む。そうなってから海舟はふと思いついてお糸に|按《あん》|摩《ま》を習わせた。毎晩、外から人を呼ぶよりも、お糸に習わせて彼女に揉ませた方が、かねがかからないという海舟一流の計算だった。出入りの植木屋の親父の口ききで、なにがし|検校《けんぎょう》のもとへひと月ほど通ったお糸は、手筋がよかったらしく結構上達した。お糸も、その毎晩の按摩がおおむねそのままお床入りのきっかけになるので、張り切ってやっている。
「殿様」
障子の外で|用《よう》|人《にん》の|作《さく》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》の声がした。
「何だ?」
「征東都督府付属情報処理御用掛副頭取、土方歳三様がお見えでございます」
「なに? 土方が来た?」
寝そべっていた海舟は不審そうに眉をひそめて体を起した。
「一人か?」
「はい。お一人でございます」
「八時もとうに過ぎたってえのに、何の用だ、いったい」
海舟はどっこいしょ、と体を起した。お糸が不服そうな顔で鼻を鳴らした。海舟はそのお糸のあごをひとなですると、肌を入れて帯を締め直した。
「応接間へ入れておけ」
作左衛門が去ってゆくと、海舟はひと先ず自分の書斎に入り、それから応接間へ足を運んだ。
応接間のドアを開くと、|間《かん》|髪《はつ》を入れず、ソファに浅く|尻《しり》をのせていた一人の軍人がさっと立ち上った。何か|精《せい》|悍《かん》な野生の動物のような感じだった。
およそ感情の感じられない|爬虫《はちゅう》類のような目を、ちら、と海舟の顔に当て、それから|定規《じょうぎ》を当てたように体を折った。
右手に、|柄《つか》を後に向けた大刀を提げている。
「勝先生。御休みのところを失礼いたします。緊急なる用務の|出来《しゅったい》いたし、役目柄、夜分もわきまえず参上いたしました」
「なんだえ? その緊急な用事たあ?」
「実は……」
「ま、掛けろや。土方さんの軍服姿ははじめて見たが、おまえさん、軍服着ると立派だねえ。でも、その|右《め》|手《て》に|引《ひっ》|提《さ》げた大刀は、おまえさんの愛刀井上真改と見たが、それだけは|不《ぶ》|粋《すい》だねえ。|今日《き ょ う》|日《び》は|洋《サー》|剣《ベル》てのが|流《は》|行《や》っているんじゃないのかねえ。それとも、なにかえ、情報処理御用掛てのは、夜、人を訪ねるについちゃあみんなそんなかっこうをして来るのかえ?」
海舟は毒のある言葉をちらと吐き、それからへらへらと笑って、どさりとソファに身を埋めた。
「いや、恐縮であります。勝先生。おっしゃられるまでもなく、腰のものをおびての伺候はいささかはばかり多きことではありますが、これも武士のたしなみでありますれば、御許し下さい」
「武士のたしなみか! おまえさんたちの言うことは、どうも|血腥《ちなまぐさ》くて、おいらかなわねえよ。なんだか、おいら首のあたりが寒くなってきたよ」
海舟はテーブルの上の銀製のセットに手をのばし、|巻煙草《シガレット》をくわえて火をつけた。紫の煙がゆるい輪を描いて立ち上り、そのかげから海舟はあごをしゃくった。
「話してみねえ」
「勝先生。このお邸に小石川七番という電話がございますな?」
「小石川七番? ああ。あるよ」
「その電話は、勝先生以外のかたがお使いになることはありますか?」
「おいら以外に? いや。ねえよ。おめえさんがたももう知っているようだから言うが、その小石川七番て番号を持った電話は、おいらの、言わばまあ秘密電話でよ、文字どおりのおいらの専用の電話よ。それがどうかしたかえ?」
歳三は軍服のポケットから黒皮表紙のふところ帳面を取り出した。克明に月日と時間を読み上げる。
「今、申し上げた日時に、その電話をお使いになりましたでしょうか?」
海舟は煙草を宙に支えて首をひねった。
「さあ、いちいちおぼえちゃいねえよ。おいら頭が悪いからねえ」
「勝先生は、お使いになっていらっしゃる」
「ほう。そうかね。なんでえ! そっちで調べてあるんじゃねえか」
「先程、申し上げた日時に、勝先生は都督府情報監部甲課を通し、わが情報処理御用掛に指令を与えていらっしゃいます」
海舟は手にした煙草を|灰《はい》|皿《ざら》に押しつぶした。
「おうっと待ってくれ。そりゃ、おいらだって、隠居しているとはいえ、いろいろと用事もあらあな。都督府にだって電話の一本ぐれえかけることもあるさ。だがよ、指令を与えて、てのはそりゃおめえさん。見当違いもいいところよ」
歳三は海舟の言葉を聞いているのか、いないのか、その端正な顔には何の表情もあらわれなかった。海舟がしゃべる間、ただ黙っていただけなのかもしれない。
「勝先生。もう一度、日付を申し上げます」
歳三はそこで、ふたたび、ふところ帳面を読み上げた。
「勝先生。この日付のうち、本年に入ってからの分だけでも、一月九日、十四日、二十八日。二月十八日。三月は五日、六日、飛んで二十一日。さらに四月には……」
「おいおい。土方さん。おいら、その何月何日とならべられても、ひとつも覚えちゃ、いないんだ。そいつぁやめにして、その日付が、いったいどうしたというんだよう」
「一月十四日。二月十八日。三月五日、六日。四月は……」
「わかったってばよ!」
「勝先生。これらの日は、大都督丁汝昌元帥が清国へ帰国なされている日であります」
「なに?」
「つまり、丁汝昌大都督が在日されていようといまいと、征東都督府情報監部は、極めて重要な指令を受け、行動してきたわけです。申すまでもなく、情報監部は、征東都督府を通してなされる清国政府の日本占領政策が|円《えん》|滑《かつ》に行なわれているかどうかを監視し、また清国に対する抵抗運動あるいは反清的地下運動を調査するという、いわば征東都督府の基本的任務と性格を担う中核的存在であります。その活動は組織の上では全面的にわが情報処理御用掛が実務を担当してまいりました。すなわち、ここで私が問題とし、勝先生にぜひあきらかにしていただきたいことは、その情報監部甲課に与えられた重要指令の過半は、小石川七番という電話番号を持った電話からなされているという事実であります」
「土方さん。もう一度言うぜ……」
「勝先生。先生は、征東都督府を意のままに操り、わが情報処理御用掛を先生の私的機関として活動せしめてこられたわけであります。これに関しては、近藤先生も同様の見解を|抱《いだ》いておられます。いかがですか? 勝先生。先生は、清国の日本占領政策の中枢を一手に掌握し、自在にそれを動かすことができる立場におられるということであります。また、このことは日本占領国である清国政府をも自由に操っておられるということにもなります。なぜなら、征東都督府の根本的組織のひとつが一人の日本人の手に全く握られておることなど、|彼《か》の国の政府が断じて看過し得ぬことであるからであります。先生は|如《い》|何《か》にして彼の国人を|籠《ろう》|絡《らく》せしめたるか? これ、第二の質問であります。
つぎに、勝先生は過日、身元不審なる二階堂元なる人物を、特命によって釈放せられた。われわれの調査によると、|件《くだん》の男は、樋口一葉女史が身元引受け人となり、その家にかくまいましたが、その直後のわれわれの調査では、この二階堂元なる人物を引取った女性は、ほんものの樋口一葉女史ではありませんな。この時、非常に奇怪なるできごとが起っております。二階堂元を一葉邸にかつぎこんだ女性は、二階堂元もろとも、同邸より煙の|如《ごと》く消えております。奇怪と申すは、ほんものの樋口一葉女史は、知人とともにこの時、同邸に在ったのであります。このことは、確たる証言もあることとて、疑念はありませぬ。勝先生。先生は如何なる理由によって、二階堂元なる男を、釈放するように命じられたのですか? また、件の女性は何者でありまするか? ぜひご説明をうかがいたい。また、一葉邸より煙の如く消え|失《う》せたるそのからくりをば、お聞かせください」
歳三のまばたきの少ない目は、いよいよ|嵌《は》めこまれたもののように、ひた、と海舟を見つめた。
「よく、しゃべるお人だねえ。おいら、おめえさんはまるで無口なお人かと思っていたよ。人は見かけによらないものだねえ」
海舟は肩をすぼめた。
「勝先生。御説明を願わしゅう存ずる」
歳三の言葉に、かすかに硬い響きが加わった。
「土方さん。おまえさんの話の趣きはよくわかったよ。だがね、その煙の如く消え失せた。それはどんなからくりなのだ? とはなんだよ! おいらは|手《て》|妻《ずま》使いじゃないんだよ。おいら、知るもんかね。それに、この勝海舟が電話一本で都督府を自在に操っているの、日本国や清国を手玉に取っているのと言われたって、こいつは大|真《ま》|面《じ》|目《め》で聞ける話じゃねえわさ。おめえさん、いやさ、情報処理御用掛とやらは、みんなそろって夢でも見ているんじゃないのかえ?」
「それでは説明になりませんな」
歳三は戸をたてるようにぴしりと言った。
「土方さん。おめえさんは、日本陸軍きっての知恵者と言われていなさるそうだが、どうやら日本陸軍もおしまいらしいねえ。陸軍きっての知恵者が、手妻だか神かくしだか知らねえが、人が消えたなあ、どんなしかけだなんてたいそうな勢いで聞きにくるとはよ。ああ、いやだいやだ。むかし、十万の幕軍を一手にあずかったこのおれだが、長生きはしたくねえものだ」
歳三は薄い唇の端に、かすかな笑いを刻んだ。
「勝先生。もう一度うかがいます。なにゆえ勝先生は二階堂元を釈放なされたのですか?」
「だから、おいら知ら……」
「お答えなき時は、まことに失礼ながら、勝先生を二階堂元ならびに正体不明なる|件《くだん》の女と同類と断じざるを得ません」
「おいおい。無茶あ言うな」
「私の発言はすべて、情報処理御用掛の意志とお考えください。さらに私は、この一件に関して、処理を一任されております」
「土方さん。おどかしっこなしにしようぜ。だがなあ、おまえさんは、おいらの言うことを聞いても|納《なっ》|得《とく》しねえだろうと思うよ」
「思う思わないではありません。勝先生にとって、今必要なことは御自分の立場をあきらかになさることです」
勝海舟の顔に、当惑とある種の不安が浮かんで消えた。
「土方さん。おいら、あの二階堂元という男は|最《は》|初《な》っから怪しいとにらんでいたんだよ。それから、妙な女があちこち立ち回っているのにも気がついていた。二階堂元という男が、この女となんらかの意味でつながっているんじゃねえかとおれはにらんだ。そこで、二階堂元を泳がせてみたんだ。おれの思っていたとおり、やつはその女に引き取られた。そのまま消えちまったてのはおいらの失敗だったよ。そいつあ認める」
「勝先生。先生はどうやら私の質問の意味がおわかりになっていないようだ」
「話には順序というものがあるよ」
「勝先生。私は、先生が、いかなる理由と立場で日本国ならびに清国を自由に操っておられるのか? それを先ずうかがいたいのです。そうすればおのずから、二階堂元や怪しい女が消え失せたわけもあきらかになるでしょうから」
「土方さん……」
「勝先生。私はこの一件に関して、何か幻術あるいはそれに類するような力が舞台回しのはたらきをなしているような気がしてなりません。近藤先生には一笑に付されましたが。しかし勝先生。現在、失礼ながら無位無冠の勝先生がこれだけの政治力をお持ちとは思えません。清国政府の誰もが、また日本国高官の|何《なん》|人《ぴと》といえども、勝先生が征東都督府を動かし、また、ひいては東洋の情勢を一局の碁の如く動かしていることを知っている者はありません。政治の要路にある千人、万人の者が、ただ夢の如く働いているだけではありませんか。これ以上の奇怪なるできごとが、かつて歴史の上であったでしょうか? これ、おそるべき幻術でなくて何でありましょうか?」
歳三としても、もはやあとへひくことはできなかった。情報処理御用掛の名を挙げ、一代の英傑、勝海舟に迫った以上、このまま何事もなく引下ることはできなかったし、そのつもりもなかった。ここは何としてでも、海舟を追いつめ、彼の口から事態の説明をなさしめる必要があった。その結果、場合によっては海舟を斬ってもよいと思った。
「勝先生! 御返答や如何に!」
十二分に自制していたつもりだが、歳三は無意識に、ソファに立てかけておいた愛刀井上真改に手をのばし、同時に、つかんだ手の親指で|鯉《こい》|口《ぐち》を切っていた。
|雀《すずめ》百まで、というが、時代の流れの裏に呼吸する秘密情報組織の一員として、氷のような冷静さと石のような沈着さをつちかってきたはずの歳三だったが、ひと皮|剥《む》けば、彼の内側を百パーセント占めるのは、|京《けい》|洛《らく》の|巷《ちまた》に暗殺の剣をふるった新選組副長土方歳三以外の何者でもなかった。腕は覚えの|天《てん》|然《ねん》理心流。手にするは、利刃の|誉《ほまれ》高い井上真改。一瞬、目もくらむ殺気がほとばしった。
だいたいこの土方歳三という人、平常は極めて冷静で、温和な人だったというが、いったん、決断すると神速、鉄をも断つ人であったという。なかなか刀を抜かないが、一度、斬るときめたら必ず斬ったそうである。その燃焼と決断が、周囲の者をして肌に|粟《あわ》を生ぜしむるほど|凄《すさ》まじいものであり、近藤勇でさえ、「歳の手が刀の柄にかかったら、すぐ逃げろ」と言っていたほどであった。
「おい。無茶するな!」
さすがの海舟も、歳三の|気《き》|魄《はく》に思わず腰を浮かせた。海舟にはちょっとした誤算があった。歳三はあくまで、おのれの抱く疑惑の解明が第一であり、そのためにはあるいは烈しい|威《い》|嚇《かく》をもってのぞむことがあるかもしれないが、よもや斬りつけてくることはあるまいという判断があった。|謎《なぞ》を解きあかす唯一の|鍵《かぎ》を失ってしまうようなことはするはずがない。
だが、状況の一瞬の変化は、海舟におそろしい危険を感じさせた。
歳三はおれを斬る!
彼にとっては、謎の解明など、どうでもよいのだ。結局、目的は斬ることだ。
それをさとった海舟は、ソファからすベり落ちると背後にとびさがった。
疑わしきは斬るべし。新選組の暗殺方針が海舟の胸にひらめいた。
「勝先生。これがさいごです。お答えください!」
歳三は井上真改の柄に右手をかけ、じりじりと間合いをつめていった。
歳三の真意は、海舟を斬ることではなかった。彼は何としてでも、海舟にこの奇怪な事件の説明をさせなければならないと思った。むだに海舟の生命を奪ってはならなかった。この歴史に例のない、大疑獄の真相を必ずつかまなければならない。
歳三は最大級のおどしをかけた。
海舟は一歩、二歩、後退した。
海舟には、歳三が、めったに着たこともない軍服をなぜ着てきたのかがわかった。軍服なら刀をおびていてもふしぜんではない。背広姿で刀を持っていたら相手が警戒するだろう。
くそ! 海舟はくちびるをかみしめた。背後の飾り|棚《だな》の刀架に、備前長船が横たえられてあったが、歳三と|刃《やいば》を交える自信は海舟にはなかった。
「勝先生。ゆきますぞ!」
歳三のさけびとともに、彼の|右《みぎ》|肘《ひじ》が高く上った。
必殺の抜打ちが、電光の如く襲ってきた。
二九
|梅《つ》|雨《ゆ》があけると江戸の町はもう夏だ。長屋の木戸におおいかぶさるようにおいしげった|青《あお》|桐《ぎり》の葉もあの若葉どきのみずみずしい緑を失って厚くたくましくなり、露地を吹きぬける風にたえずばさばさとゆれていた。今朝はまだ暗いうちからその|梢《こずえ》でひぐらしが鳴いていた。今年はじめて聞くひぐらしの声だ。鶏の鳴くのには|馴《な》れっこになっている長屋の者たちも、その今年いちばんのひぐらしには耳ざとくまくらから頭をもたげて“おう、かなかなが鳴いてやがら”
などと聞き入ったものだった。
その声をきっかけに、長屋のいちばん奥の|左《しゃ》|官《かん》|屋《や》の|仁《に》|助《すけ》のところの障子があいて井戸を使いはじめた。近頃、|四《よつ》|谷《や》の|塩町《しおちょう》あたりへ遠出の仕事に行っている。それから石屋の手伝いの|三《みつ》|右衛《え》|門《もん》、魚屋の|長八《ちょうはち》あたりが起き出す気配がした。|早《はや》|発《だ》ちの誰かが木戸を開ける音がするともうどこの|門《かど》|口《ぐち》にも人影が動き、井戸端はにぎやかになる。長屋の朝は早い。東の空があかね色に染まる頃にはもう露地には|七《しち》|輪《りん》のけむりがたなびき、|味《み》|噌《そ》|汁《しる》の|匂《にお》いがただよう。
「おつけの実、なんかあったら貸しておくれよ」
「ひじき、食べるかえ」
女房連中の声がする。食べ物のやったり借りたりは日常のしきたりのようなものだ。そのうちに子供が泣き出し、犬が|吠《ほ》える。台所をうかがった|猫《ねこ》にすりこぎが飛ぶ。長屋のせわしない一日の開幕だ。差配の|熊《くま》|造《ぞう》|爺《と》っつぁんがふんどしに形ばかりの|袖《そで》なし半天という姿で井戸端にあらわれた。
「|爺《と》っつぁん。|早《は》えな」
「かなかなとどっち早えかえったい?」
塩を使っていた連中がてんでに声をかける。
「お|今《こん》|日《にち》さんよ。|障《さわ》りのある者はいねえかい? 仁助は四谷塩町くんだりまで出仕事だってえが出かけたかえ? 三右衛門はよ? 長八は行ったな。職人が仕事に遅れるようじゃいつまでたっても一人|前《めえ》にゃなれねえよ。|喜《き》|三《さぶ》|郎《ろう》! おめえ、ゆんべはいいこころもちで|帰《けえ》ってきたはいいが木戸しめ忘れたじゃねえか。おめえが通ったあとで木戸が風にあおられてギイギイ鳴りやがってよ。それに気がついておいら起き出して閉めたんだぜ」
「すまねえ、|爺《と》っつぁん」
「ゆんべはどこのおふるめえよ?」
「|竹町《たけちょう》の|近江《お う み》|屋《や》の嫁取りでよ。おいらたち出入りの|者《もん》にまで酒と|折《おり》が出たんだ」
「うんうん。近江屋のせがれの|清《せい》|吉《きち》ってのが嫁もらったんだってな。嫁、どっから来たえ?」
「|品《しな》|川《がわ》の|赤《あか》|羽《ばね》|橋《ばし》へんの小間物屋だと」
「赤羽橋の小間物屋てえと|大《おお》|糸《いと》屋かえ?」
「そうそう。その大糸屋だ」
熊造|爺《と》っつぁんはひとしきり世間話に身を入れるとやがて思い出したように、
「そうそう。あさっては|聖天《しょうでん》様の|宵《よい》祭りだ。今年は裏祭なので別段、|神《み》|輿《こし》も|山《だ》|車《し》も出ねえが宵祭はそれぞれ町内でやることになっている。この長屋でも何か趣好はあるのかい?」
今月の月番の|飴《あめ》|屋《や》の|茂十《もじゅう》が顔をぬぐった手ぬぐいをぱあんとひとつはたきふってから答えた。
「おとついの夜とゆんべと、喜三郎や長八や、ほかに二、三人に集ってもらったんだが、なんだかこう、物騒な御時勢だから唄だの踊りだのってのはやめてよ、なんかうめえ物でも作ってそれを持ち寄ってみんなして食おうってなことにまとまったんだがな。|爺《と》っつぁん。なんか変った|考《けん》げえでもあるかい?」
「うめえ物作ってみんなで持ち寄って食うってえのはいいじゃねえか! それにしろそれにしろ。で、場所はよ?」
「みんなで集るったって|餓《が》|鬼《き》までいれりゃあかなりの人数だ。六畳と三畳それに|台《でい》|所《どこ》の|棟《むね》|割《わり》長屋じゃ|入《へい》るとこもねえ。そこで長八の知恵でよ、この井戸端でやることにした。もし雨でも降るようだったらそっちからこっちの軒へ丸太を何本かわたしてそいつに雨戸をのせて屋根にすらあな」
「そいつあいいが、その雨戸はどうするんだ。この長屋にゃ雨戸なんて上等なものは一枚もねえんだぜ」
「そいつは仁助が出入りの親方ンとこから古雨戸を何枚か借りてこられるってよ」
「そりゃつごういいや。今年の聖天様の宵祭はうめえもんが食えそうだぜ。じゃ、おいらもうちの|婆《ばば》あにそう言って腕によりをかけさせら」
「たのむぜ。|爺《と》っつぁん」
「酒もたんとじゃねえが、あてにしてていいぜ」
「気張ってくれよ」
「わかってらあな」
熊造|爺《と》っつぁんが引返してゆくと井戸端は急にひっそりとなってどの家も朝めしにとりかかる。住人の大部分が職人だからどこでも味噌汁に塩っからいお|新《しん》|香《こう》がつきものだ。そいつをがばがばとかきこんで道具箱のあるやつは手持ちぶさたな形で家を飛び出す。
「あんた。行っておいで」
送り出す声とともにカチカチと火を切る音もする。
「餓鬼、泣かせんじゃねえぜ!」
「ほらほら。お|父《とう》が行くよ」
いろいろな声がする。
朝の陽が今日の暑さをしのばせて井戸端いっぱいに射しこんでくる頃には、|亭《てい》|主《しゅ》たちを仕事に送り出し、台所の後始末を終った女房たちが|洗《せん》|濯《たく》物をかかえて井戸端の石だたみを占領しに出てくる。
「おかねさん! あんたんとこ、ゆんべは大荒れだったじゃないのさ!」
魚屋の長八の女房の|金《かな》|棒《ぼう》|引《ひき》のおきんが喜三郎の女房に自分のわきをあけながら言った。おかねがそこにたらいを置いて喜三郎の仕事着やふんどしをたたきつけるように投げこんだ。
「ああ。近江屋の婚礼にごしょうばんになったとか何とか言っちゃってさ! 折のひとつぐらいで夜の夜中まで何やってんだい。しゃくにさわったからそ言ってやったら聞えないふりしてからいびきかいてやがんだ。ひっぱたいてやったよ。わたい知ってんだ。|下《した》|谷《や》の|天《てん》|神《じん》|下《した》の|紅《べ》|殻《ん》|格《が》|子《ら》に色男ぶってちょくちょく|登楼《あ が っ》ているらしいんだよ」
「ゆんべも行ったのかい?」
「きまってら!」
おかねがカラカラと音をさせてくみ上げた水をざあっとたらいにあけた。
「でもねえ、おかねさん」
|左《しゃ》|官《かん》|屋《や》の仁助の女房がたらいに|灰《あ》|汁《く》を溶かしながらおかねをふりあおいだ。
「男ってのはそういう所へ行ってくるとさ、おぼえてきたことをすぐ|試《ため》そうとするじゃないか。|後《うしろ》向けだの|尻《けつ》上げろだのってさ。こっぱずかしいようなことを平気でやらせるじゃないか。そりゃすぐわかるもんだよ。あんたんとこもそうだったのかい?」
「そうなのさ。いやらしいっちゃありゃしない。わたいに指入れさせておいてさ。そこへ突込もうってんだから」
長八の女房がおしめをしぼり上げながら首をのばした。
「あれ、神奈川あたりの舟人足相手の店でやるんだってじゃないか」
「ほんとかい! すると、あいつ、そんなとこまで行ってんだろか?」
話はそのへんから急激に|未《お》|通《ぼ》|女《こ》ではとうてい聞いていられないような内容になっていた。いつもそうなのだ。
そのとき、ふいに木戸口の方がさわがしくなった。聞き馴れない野太い声がせまい露地をつたわってくる。井戸端を囲んでいた女たちが手と口を休めてそっちの方をうかがった。
「なんだえ? あのさわぎは?」
「けんかかい?」
おきんがたらいの前から腰を浮かせて首をのばした。とたんにおきんははじかれたように立ち上った。
「しゃぐまが来たよ!」
その声に女たちは洗濯物をかかえると追われた猫のようにわっと逃げた。
そのとき、木戸口の方から露地の奥へどかどかと入ってきたのは|薩《さつ》|摩《ま》の|巡邏《じゅんら》隊だった。黒ともねずみ色ともつかぬ粗末な段袋に|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》をしめ、そいつに|胴《どう》|太《た》|貫《ぬき》というのだろう丸太ン棒のような刀を一本だけかんぬきにさし|鳥《とり》|差《さし》のような|反《そ》りかえった|傘《かさ》をかぶっている。先頭の男は|頭《かしら》とみえて、みなと同じいでたちながらこいつだけが色が|褪《あ》せてもろこしの毛のようになったしゃぐまをかぶっている。
「…………!」
先頭に立ったしゃぐまがおそろしい声で何かさけび、手にしたむちで井戸のふちをぴしり! とたたいた。
「…………!」
また何かさけんだ。その見幕に女たちはひとかたまりになってすくみ上った。洗濯物をかかえていったんは逃げ出したものの、女たちが逃げこもうとした自分の家はおおかたが木戸口に近い方だったから、そっちから巡邏隊に入って来られてはどうにもならない。物干場のすみに葉をひろげている八つ手のかげにかくれるようにひとかたまりになってふるえていた。
「…………! …………!」
巡邏隊のかしらは|苛《いら》|立《だ》った。むちが空気を切り裂いて鳴った。
「おきんさん。あの人たち何言ってんだよお!」
おくめが悲鳴を上げた。
「わたいだってわからないよ。薩摩っぽうの言葉なんか知るものかね!」
無理もない。江戸は諸国の食いつき者の|吹《ふき》|溜《だま》りなどといわれるように、北は|松《まつ》|前《まえ》南は薩摩といたる所から人が集っている。それでもいったんかまどを|据《す》えたからには江戸っ子といわれたいのが人情で、三代つづかなければ江戸っ子とはよべもしないしよんでもくれないのだが、当人たちは根っからの江戸っ子気取りでもたつく舌でべらんめえのひとつも言いたくなる。だから三年前に|出《で》|羽《わ》だ|泉州《せんしゅう》だと言っていた者が結構|粋《いき》な江戸弁をあやつるようになる。ところが江戸へ出てくるのは先ず男ばかりで女は江戸育ちかせいぜい|武州《ぶしゅう》か|相模《さ が み》、|房《ぼう》|総《そう》あたりで、しかも持った亭主がはんちくながらもお江戸言葉ときているから薩摩っぽうにお国ぶりで何か怒鳴られても誰もわかる者はいないというわけだ。
「……ずっと!」
|頭《かしら》がむちを左手に持ちかえると右手を腰の大刀のつかに手をかけた。
「ひゃあ! た、たすけて!」
「やめておくれ! おさむらいさん!」
女たちはたがいに人の後にかくれようとしてどっと動いた。
「ま、待ってくだせえ! ちょっ、ちょっとばかし待ってやっておくんなさまし」
巡邏隊の後から|頭《かしら》の前にころげ出たのは差配の熊造|爺《と》っつぁんだった。地べたへぺたりとひざをついて白髪頭をやみくもに下げる。
「隊長さま。この女たちはこの長屋に住む|左《しゃ》|官《かん》や|大《でえ》|工《く》、手間取の女房連中で官軍のおさむれえさまを見ただけで口もきけねえようなていたらくでごぜえやす。この女どもが|錦《きん》|布《ぎれ》取りなんてそんなだいそれたことなんぞできやしません。へい。どうかごかんべんなすって」
「この女どもが|錦《きん》|布《ぎれ》取りだというとるんじゃなかばい! この長屋へ逃げこんだというとるんじゃ」
頭はこめかみを怒張させた。
「ごかんべんくだせえまし。わしゃ木戸口のわきに住む差配でやす。木戸口からめったにうさん|臭《くせ》えやつは通すもんじゃございやせん。その|錦《きん》|布《ぎれ》取りはどっかほかの長屋の木戸口に逃げこんだにそういございやせんとも」
|爺《と》っつぁんはばったのように頭を上下させながらも|頑《がん》として言い張った。
官軍の兵士達は、|錦《にしき》の|御《み》|旗《はた》を示す錦の布片を左の肩に留めている。
それをすれちがいざま、ひきむしるといういたずらが江戸の若い衆の間で|流《は》|行《や》った。
町人たちも、それを小気味よいこととしてかっさいした。
|頭《かしら》はそうまでがんばられて始末がつかなくなったらしい。怒りの色はそのままだが刀のつかから手は離した。|爺《と》っつぁんはすかさずふるえている女房連中をふり向いた。
「みんな! もってねえことだが、官軍の巡邏隊の隊長さまの肩の|錦《きん》|布《ぎれ》をかすめ取ったばかがいたんだとよ。でもこの長屋にはそんなやつは逃げちゃあ来なかったなあ。ほれ、|粗《そ》|相《そう》のねえようにお答え申し上げろ!」
女房連中は|爺《と》っつぁんの言葉にあやつられるように無言でこっくりした。
「ほんとうでごぜえますよ。隊長さま」
|爺《と》っつぁんは地べたにひたいをこすりつけた。
「ようし。それならほかを探してみることにするか……」
|頭《かしら》はつかつかと女房たちの前へ歩み寄った。
「いいか! 女ども。お|上《かみ》にたてつくようなことばすっと|容《よう》|赦《しゃ》せんぞ!」
おさとのかかえていた|洗桶《あらいおけ》をむちでぴしっと打った。おさとの手から落ちた洗桶が|濡《ぬ》れた洗濯物を地べたへぶちまけた。おさとはひいっと悲鳴を上げてとなりのおせん婆さんにしがみついた。|頭《かしら》はそのおさとの顔や体をねめつけ、手にしたむちをおさとの体にさしつけた。その目ににわかに粗暴な色をたたえるとむちの先でおさとのすそを左右にはねた。|湯《ゆ》|文《も》|字《じ》の下から白い|腿《もも》があらわになった。|頭《かしら》の手のむちの先はおさとの必死に閉じた腿の合わせ目に無理矢理にねじこまれた。
「あ|痛《い》たた! やめておくれ! やめておくれ!」
「おさむれえさま。おさとちゃんは先月ややを産んだばかりだ。そんなことをしたらこわれっちまう。やめてくだせえったら!」
「こなやつ! こなやつ!」
「ひいっ!」
大さわぎになった。
それを見た部下たちはすっかり調子づいた。わるさのたねをさがしていたが、隊長をさしおいて女をいたぶるわけにもいかない。そこで軒先に干してある|薪《たきぎ》などを|手《て》|槍《やり》の|柄《え》でどんとつき上げてがらがらとくずしたり干しならべてある大根を片っ端から|蹴《け》りとばしたりしはじめた。
「それにしてもむさい所だのう」
「江戸の|奴《やつ》|輩《ばら》、こげな所でなにばしちょっと!」
「臭いのう。ああ、臭い臭い!」
「|錦《きん》|布《ぎれ》取りば、かくしとるにちがいなか」
|門《かど》|口《ぐち》の障子の|桟《さん》がひどい音をたてて折れくだけた。子供が火のついたように泣き出した。手がつけられなくなってきた。
「|爺《と》っつぁん! お役人さまを呼んでくれ!」
「町方なんぞ呼んだってだめだあ」
「おもての|美《み》|濃《の》|屋《や》の|旦《だん》|那《な》に来てもらったらいいよ!」
「こらまて! どこへ行く!」
急を知らせようとして、木戸口へ向って走り出した差配の|親《おや》|爺《じ》の背に、しゃぐまの一人が|跳《と》びかかった。腰をひねると、|天《てん》|秤《びん》|棒《ぼう》のような胴太貫が親父の肩口から|貝《かい》|殻《がら》|骨《ぼね》の下あたりまで、ずうん、と切り下げた。
絶叫とともに、血しぶきがざっと破れ障子に水でも|撒《ま》くようにぶつかってはね返った。
「抜いたぞ! 逃げろ!」
「うわあ! てえへんだ!」
「ひい!」
長屋の連中は|蜘《く》|蛛《も》の子を散らすように逃げ走った。
「逃すな! 一人も残らず|斬《き》り|棄《す》てい!」
隊長が|吠《ほ》えた。
「どうせ江戸の奴輩、どいつもこいつも錦布れ取りよ。幕府軍に内通して何をしくさるかわからん。やれ、やれい!」
「ようし! おいどんの腕ば、見せてくれっと!」
「江戸のやつばら。切っ飛ばしてやっと!」
てんでに長いやつをギラリ、ギラリと引き抜いた。
運悪く、逃げ遅れた子守っ子の一人がたたき斬られた。
「おまえたち! 鬼だ。鬼だ! ちくしょう!」
魚屋の長八のところの婆さんが、泣くような声でわめきながら、火吹竹を手に、子守を斬ったしゃぐまにむしゃぶりついた。
「この|糞《くそ》|婆《ばば》ァ! なにするごたあある!」
横なぐりに切り払う。
「かまわん! 火をつけて焼き払え!」
隊長の蛮声が地獄の番卒のさけび声のようにひびいた。その声に応じて、一人のしゃぐまが、軒下に出ていた七輪に手をかけるや、どうん! と家の中へ投げこんだ。七輪の中でさかんにほのおを上げていた|木《こっ》|端《ぱ》が、火の雨のように飛び散った。
「か、か、火事だぞう!」
家の中にかくれひそんでいた者たちがころがるように外へ走り出てきた。そこへ立ちふさがったしゃぐまの大刀が、風を切って打ちおろされた。
もう目も当てられない。
そのときだった。
長屋の一番奥の、ここだけは|冴《さ》え|冴《ざ》えと白い障子がさらっと開いた。
「師匠! 出て来ちゃいけねえ!」
「薩摩の芋が|暴《あば》れていやがるんだ! かくれろ!」
障子のかげから姿をのぞかせた人影に、その前を駈けぬける長屋の住人達が口々にさけんだ。
「またかえ? いけ好かないねえ。おや、今日はただごとじゃないよ」
半分ほど開いた障子に片手をあずけ、もう一方の手をおさめた|袂《たもと》で軽く胸を抱いて、露地の騒ぎにまなざしを投げた|姿《し》|態《な》は、そのまま一枚絵の色と|艶《つや》だった。
目ざとくそれを目にしたしゃぐまの一人が、血刀をひっさげてかけ寄って来た。
「これやい! 女。ほう、これはええ女じゃ。江戸ちゅう所は、こげなむさい所に|別《べっ》|嬪《ぴん》がおるのか。来い! 女。かわいがってやるばい」
しゃぐまは|熊《くま》のような腕をのばして、女の手首をむずとつかんだ。
「痛い! なにするんですよう」
女は細い|眉《まゆ》をひそめて身をよじった。|衣《え》|紋《もん》を抜いた|襟《えり》から透きとおるような背や背中がのぞけ、それがしゃぐまの目を|炬《たい》|火《まつ》のように燃え上らせた。そこへさらに二、三人がばらばらと駈け集った。
「ええ|女《おな》|子《ご》じゃ! まことによかばい。これはお|主《んし》一人のものではなか」
「そうじゃ、そうじゃ。回すベし、回すべし!」
たちまち寄ってたかって女を露地に引き出した。悲鳴を上げる女の口を、八ッ手の葉のような手がふさいだ。後から|羽《は》|交《がい》|締《じめ》にされた女の前に回った男が、女の着物の|裾《すそ》をかき分けた。|絖《ぬめ》のような|光《つ》|沢《や》を持った|太《ふと》|腿《もも》があらわになった。
「先ず、おいどんじゃ」
最初に女のところへ駈け寄って来たやつが、上ずった声でさけぶと、|洋袴《ズ ボ ン》の皮帯をゆるめた。徳利を|嵌《は》めこんだかと思われるようなやつを、女の|股《こ》|間《かん》にあてがった。女は絶息してはげしく身をよじった。苦痛にもだえる|鎖《さ》|骨《こつ》の|窪《くぼ》みが、くっきりと深まった。
「どうも、いかん。こりゃい。もそっと着物まくれい。|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》やら湯文字やらで、こうっと届かんわい」
「帯解け! 引ン|剥《む》くがよか」
その気に|非《あら》ざる者を立たせたまま事を進めるというのは、そもそも至難のわざである。ことに帯から下の布の重なりというものは、左右に|撥《は》ねれば撥ねる程、肝心の部分に|重畳《ちょうじょう》たる合掌を形成する。試みられる|方《かた》はこの点に事前に御留意あれ。
「なんじゃ! おまえら!」
けんめいに帯の結び目と取組んでいたしゃぐま達の背後で、|割《わ》れ|鐘《がね》のような怒声が爆発した。しゃぐま達は、はっとわれにかえって硬直した。
「ほう。これは|佳《よ》か|女《おな》|子《ご》じゃ。ええ体つきしとるのう。これ、女、この長屋の者か?」
隊長は肩をそびやかせると、女のあごをつかんで、ぐいと顔をねじ向けた。
「あの……手を……手を!」
「おう、そうか。おい、手を離してやれ」
手の自由をとりもどした女は、いそいで着物の前をかき合わせ、ゆるんだ帯を締め直した。
「名は何と申す?」
「ふみ、と申します。|文《も》|字《じ》ふみ」
「文字文。|常《とき》|磐《わ》|津《ず》文字ふみ なんと! おまえは常磐津の師匠をしとるんか。こりゃ、ええ。ますます、ええど。よし、来い。来て酒の|酌《しゃく》などせい。その上でたっぷりとかわいがってつかあそう」
隊長は|鬼瓦《おにがわら》が崩れたような顔になった。ほくそ|笑《え》んだところらしい。隊長は女の襟元をひっつかむと、ぐいと引き寄せた。
「あれ。いけませんよう。隊長さんまで、そんな」
「そんなもへちまもないわい。常磐津の師匠なんちゅうたら、おおかた誰かの手かけにちがいなか。そんなんばおいどんが一丁、ええ目見せてつかあそう。来い!」
「離して! 離してったら!」
「静かにせい!」
隊長の右手が|閃《ひらめ》き、常磐津文字ふみのほおがぴしり! と鳴った。文字ふみの細い体は五尺の余を飛んで地にたたきつけられた。
「さあ、立て!」
文字ふみはほおを押えてよろよろと立ち上った。口の中を切ったらしい。形のよい唇の端から、血が白い|頤《おとがい》に細い糸を|曳《ひ》いた。文字ふみの大きな目に|万《ばん》|斛《こく》の|怨《うら》みがこもり、細い|三《み》|日《か》|月《づき》の眉に、|傷《いた》みが|蒼《あお》い|翳《かげ》を掃いた。
「おい。女。そげんな目でおいどんを見るな」
ふと、隊長がおびえたような声でさけび、あとじさった。
「こやつ、手むかいすっとか!」
部下が|吠《ほ》えた。
そのとき、露地の木戸口に人影があふれた。
「これこれ! われらは大総督宮府江戸守護職配下、|見廻方《みまわりかた》である。一同、|鎮《しず》まれい!」
一団の先頭を切って乗りこんできたのは、上等の黒サージつめ襟金ボタンの夏用軍服に白の真新しい兵児帯をぐるぐると巻きつけ、|猩猩緋《しょうじょうひ》の陣羽織。|細《ほそ》|身《み》の大小をたばさんで、手には|朱《しゅ》|房《ぶさ》のついた銀色の|十《じっ》|手《て》を持っている。見たところ、まだ紅顔の美少年といったところだが、重任をあずかる責任感と意気ごみは、その|颯《さっ》|爽《そう》たる体のさばきと|凜《りん》たる|声《こわ》|音《ね》にあらわれていた。
「なんじゃと! 見廻方? またあらわれおったか!」
しゃぐまの隊長が、大きく舌打ちした。
「長屋の者、鎮まれい! おのおの方は?」
銀色の十手が、ぴた、と隊長の面に指し向けられた。
「おいどんは、東海道|鎮《ちん》|撫《ぶ》隊第三十三大隊第四中隊頭取。歩兵上尉薩藩|剣《けん》|持《もち》|弥《や》|三《さぶ》|郎《ろう》でごわす」
見廻方の|頭《かしら》は薩藩藩士歩兵上尉剣持弥三郎の頭のてっぺんから|爪《つま》|先《さき》まで、つめたい視線でひとなめした。
「その第四中隊頭取が、このような所で|何《なに》|故《ゆえ》の抜刀ですか? 見れば長屋の者に死人や手負いも出ている模様。斬ったのですか?」
「そ、その。こ、この長屋のやつらは錦布れ取りでの……」
「黙らっしゃい! 大総督府御江戸|奉行《ぶぎょう》|御定書《おさだめがき》、第六条|之《の》十二。|濫《みだ》リニ町人ヲ斬ル事|勿《なか》レ。とあるをよもや御忘れではあるまい。幕軍との決戦が二、三日中にも迫っているという今、ただでさえ江戸町民の向背定まらずとて大総督府においては憂慮深きに、この有様は何事ぞ! きつく|糺明《きゅうめい》いたしてくれる。神妙にせい!」
「こりゃあ、またきつうごたある。お|主《んし》、見廻方の頭取か?」
しゃぐまの隊長は|揶《や》|揄《ゆ》するように、ふてぶてしく|反《そ》りかえった。
将軍去ったあとの江戸に軍制を|布《し》いた大総督|有栖川宮《ありすがわのみや》親王府は、新たに江戸守護職を設け、長州藩主|毛《もう》|利《り》慶親を当て、その旗本をもって江戸市中警備の見廻方を編成させた。その任務は、江戸内外の警備とともに、とかく幕軍に好意を寄せ、官軍に反抗的な江戸市民に対する宣伝工作を行うにあった。それだけに、占領軍として江戸市中を肩で風を切って横行する薩長の兵士にはまことに目の上のたんこぶ的存在であった。ことに薩軍側では、同じ乱暴でも長州兵のそれは見て見ぬふりをし、もっぱら薩軍の兵のみが取締りの対象にされるという不満があった。
「拙者は、大総督宮府江戸守護職監察方|与《よ》|力《りき》にて見廻方をあずかる|世良修蔵《せらしゅうぞう》である」
「げっ!」
しゃぐまの隊長、剣持弥三郎は|蟇《ひき》でも踏んだかのように|跳《と》び|退《の》いた。世良修蔵の腰から、今にも田宮流|極《ごく》|意《い》の|居《い》|合《あい》がほとばしるのではないかと思われた。
世良修蔵はおそろしい男だった。|帷《い》|幕《ばく》にあってはその軍略は|孔《こう》|明《めい》、|楠《くすのき》を|凌《しの》ぐと|謳《うた》われ、陣頭にあっては自ら、小野派一刀流至妙の|技《わざ》をふるって難敵を|蹴《け》|散《ち》らした。一見、役者かと思われるような|優男《やさおとこ》でありながら、ひとたび事に当るや、|獰《どう》|猛《もう》、果断、それに加えて軍令を行うに当って|秋霜《しゅうそう》苛烈、|剃《かみ》|刀《そり》の如くであったという。
まさに相手が悪い。
しゃぐまの隊長、剣持弥三郎はこそこそと血刀を|鞘《さや》に収めると、
「来い!」
部下に|顎《あご》をしゃくってたちまち退散した。
「女。|怪《け》|我《が》はないか?」
監察方与力世良修蔵は、身も世もない|風《ふ》|情《ぜい》でそこに立っている常磐津文字ふみに優しい目を向けた。
「あい。あぶないところを、ありがとうございました」
「うむ。さ、家の中へ入れ。もう心配することはないぞ。あの者は所属の隊へきつくかけ合って、きっと糺明いたすにつき、心配はない」
「あの……隊長さま。汚ない所ではございますが、ちょっと、わたいの所へお寄りくださいませ。渋茶なりとも……」
「いや。それにはおよばん。それに、ここの後始末もある」
監察方与力世良修蔵は、部下を指図していったん逃げ散った長屋の住人達を呼び集め、死人の収容に当らせ、手傷を負った者のために医者を呼びに走らせた。たたき壊された|廂《ひさし》や、踏み抜かれたどぶ板なども、部下に修復させる。
「医者代、壊された品物の値は、大総督宮府において御支払いくださるにつき、差配は書面をもって、町役人を通じさし出すべし。遠慮せず、どしどし書き出すがよい。大総督宮府は|莫《ばく》|大《だい》な軍用金の中から、江戸町民のためにおおいに|割《さ》いて下さる」
自軍の宣伝も忘れていない。若いがこの世良修蔵、うわさどおりのなかなか|利《き》れ者らしい。
部下や長屋の者を指図して後始末に当らせながら、彼はちらちらと、まだそこに立っている文字ふみを盗み見ている。その顔に、|初《う》|心《ぶ》な青年らしい|憧《どう》|憬《けい》に似た恋情が動き出している。
ようやく騒ぎの後片付けが終ると、彼は部下に酒を買いにやらせ、長屋の者達に与えた。そして部下に引揚げを命じると、自分だけ、常磐津ふみの住いの戸をたたいた。
世良修蔵がやってくるのを予測していたのか、文字ふみは勝手で|皿《さら》|小《こ》|鉢《ばち》の音をたてていた。
「われわれは引揚げるが、またあのような連中が来たら、すぐ|屯《とん》|所《しょ》へ知らせてください」
「ごくろうさまでございます。あのう。何もございませんが、ちょっと、お上りなすってくださいませ。さ、さ」
文字ふみはいそいそと世良修蔵を座敷に引き入れようとした。
「いや。職務中につき、これで失礼いたす」
「いいじゃござんせんか。めざましいおはたらきで、さだめしおのどもかわいたことでござんしょ。ちょっと一杯おやりなすって」
もともと、文字ふみの顔を見てゆきたさに立ち寄ったことでもあり、さあ、どうぞと手を取らんばかりにすすめられると、ことわる言葉も口の中だけになってしまう。
結局、長火鉢をはさんで文字ふみと|対《むか》い合うことになってしまった。小さな|膳《ぜん》に、有り合わせの物らしいが、見かけのよい|肴《さかな》が見つくろってある。
「さ、どうぞ」
文字ふみが|銚子《ちょうし》を取り上げた。これが結構な酒で、世良修蔵の腹にしみた。
「さ、もう一杯」
「おまえもどうだ」
「おそれいります」
受けた|盃《さかずき》を、あお向いて唇に当てるそののどからかなり深くえぐれて見える|胸《むな》|乳《ぢ》の谷間の白さと|艶《つや》やかさに、世良修蔵の目が吸い寄せられた。
「ああ、おいしい」
はっ、と息を吐いて姿勢をもとにもどした文字ふみのその笑顔のあふれるような|色《いろ》|香《か》に、世良修蔵はあわてて視線をはずした。あらためてほおに血が上ったのは重ねた酒のせいばかりではない。
長州の逸材世良修蔵も常磐津師匠文字ふみの|艶色《えんしょく》の前には、すでに心の内堀まで埋められた観があった。
「お過しなされませ」
「いや。こうしてはいられん」
「まあ。|情《じょう》の|剛《こわ》いお人。わたい、なんだか、こう、|焦《じ》れったくなってきましたよう」
文字ふみはいつの間にか長火鉢のこちら側から修蔵のかたわらに移って、しどけなく体を寄せた。
「ねえ、隊長さん。わたい、おそろしくっておそろしくって……」
「うむ。|女《おな》|子《ご》の身で無理からぬ」
「なんですか、幕府方の軍勢が|板《いた》|橋《ばし》へんまで進んできているそうじゃありませんか。わたいはこうして江戸に住んでいても、出が相模なもんですからね、江戸の将軍さまなんざ、ちっともありがたくありませんのさ」
「なに、大丈夫だ。幕軍のやつら、二度と江戸に入れはせぬ」
「まあ、たのもしいじゃござんせんか! でも、江戸をうかがう幕兵二十万とやら」
「まあ、兵卒の数だけは集めとるようだが、なにしろ|奥《おう》|羽《う》二十七藩の寄せ集めじゃ。ろくな教練もでけとらんじゃろう」
「まだ川向うでござんすかえ?」
「うむ。|千《せん》|住《じゅ》、板橋、|成《なり》|増《ます》を|衝《つ》かんとして|大《おお》|宮《みや》方面より南下してきおる。千住、|戸《と》|田《だ》の渡しの守りは固く、容易に|荒《あら》|川《かわ》を渡ることはできん。が、|野《の》|火《び》|止《どめ》辺より成増に迫ってきた幕軍は、なにしろ|平《へい》|坦《たん》地で大きな川などがないため、ちと防戦に追われているようじゃ」
世良修蔵は、自分でも知らず知らずのうちに口が軽くなっていた。それに戦闘の詳報をつかんでいるという立場を誇示したくなったのであろう。
「そんな幕軍など、蹴散らしてやればいいのに」
「二、三日中には必ずそうしてやる」
「幕軍はほんとうに二十万もいるんですか?」
「数だけは集めたようだのう。千住口へは|松平容保《まつだいらかたもり》を総大将とする会津、宇都宮、古河、|佐《さ》|倉《くら》、|米《よね》|沢《ざわ》の兵、合して六万。板橋口ヘは|佐《さ》|竹《たけ》義堯を主将とする佐竹、|南《なん》|部《ぶ》、仙台、|庄内《しょうない》の兵、約六万。さらに成増口へは、|河《かわ》|井《い》|継《つぐ》|之《の》|助《すけ》、|大《おお》|鳥《とり》|圭《けい》|介《すけ》、|榎《えの》|本《もと》|武《たけ》|揚《あき》、近藤勇らのひきいる|長《なが》|岡《おか》、|高《たか》|遠《とう》、|飯《いい》|田《だ》、|松《まつ》|代《しろ》ならびに新編の幕府陸軍合計五万が迫っておる。松平軍も佐竹軍も旧式装備の雑軍の如きもので、これはなんら恐れることもないが、大鳥圭介のひきいる|振《しん》|武《ぶ》隊、榎本武揚の洋式海兵隊、それに近藤勇の例の新選組などは幕軍中の精鋭を誇る部隊だけに、わが方もいささか応接に手間取っているようだ。榎本武揚の洋式海兵隊はガットリング銃などという新式銃を装備していてなあ。これがはなはだやっかいなのだ」
世良修蔵は苦い酒でも飲んだように顔をしかめた。
「隊長さん。なんだか心細いことをお言いじゃありませんか。それで、官軍の方の備えは大丈夫なんでございますかえ?」
「千住口へは征東大参謀|高《たか》|杉《すぎ》|晋《しん》|作《さく》のひきいる|東《とう》|海《かい》|道《どう》の兵五万。板橋口へは|東《とう》|山《さん》|道《どう》都督|吉《よし》|田《だ》|稔《とし》|麿《まろ》のひきいる東山道、|北《ほく》|陸《りく》の兵、八万。問題の成増口へは水戸の|藤《ふじ》|田《た》|小《こ》|四《し》|郎《ろう》ひきいる|新《しん》|天《てん》|狗《ぐ》党、|坂本竜馬《さかもとりょうま》の海援隊、|薩《さつ》|摩《ま》の|中《なか》|村《むら》|半《はん》|次《じ》|郎《ろう》の征東隊、|岡《おか》|田《だ》|以《い》|蔵《ぞう》のエゲレス式遊撃隊などを中心とする合計五万が布陣している。だが、女。今わしが言ったことは他言無用だぞ」
「あい。よっく承知しておりますともさ。口が裂けたって言うもんじゃござんせん。それで隊長さま。官軍の総大将は薩摩の|西《さい》|郷《ごう》|隆《たか》|盛《もり》というおかた。幕軍の総大将は勝海舟とうかがっておりますが」
「そうだ。勝という男は、幕臣第一の器量人だ。まことに|一《ひと》|筋《すじ》|縄《なわ》ではいかん男よ」
世良修蔵は、目の前にその男がいるかのように、|凄《すご》い目つきで宙をにらんだ。
「やつは幕軍総裁の身でありながら、戦線ともいうべき銃弾飛び交う|武蔵《む さ し》国、野火止|平《へい》|林《りん》|寺《じ》本堂に本営を置いて、江戸攻撃軍を指揮しちょる」
「まあ、そんな所にいるんですか!」
常磐津文字ふみの、|濡《ぬ》れたようなひとみの中に、ちら、と別な人間の目の色があらわれて消えた。
「さ、もひとつどうぞ」
文字ふみがさし出した銚子を受ける。そのとき、世良修蔵はかすかなめまいを感じた。畳や天井や壁が自分からすうっと遠ざかってゆくような気がした。手にした盃が急に一貫|匁《め》もあるかのように重くなった。
「あれ、どうなさったえ?」
文字ふみが手をさしのべた。その手の中へ、世良修蔵の体はゆっくりとのめりこんでいった。
三〇
[#ここから1字下げ]
一七九〇年 |寛《かん》|政《せい》二年。異学を禁ず。
一七九二年 寛政四年。海国兵談の|筆《ひっ》|禍《か》。
一七九八年 寛政十年。|本《もと》|居《おり》|宣《のり》|長《なが》、古事記伝完成。
一八〇○年 寛政十二年。|伊《い》|能《のう》|忠《ただ》|敬《たか》、|蝦《え》|夷《ぞ》|地《ち》測量。
一八〇六年 |文《ぶん》|化《か》三年。外国船に|薪《しん》|水《すい》給与の令を発す。
一八〇八年 文化五年。江戸湾沿岸に砲台を作る。|間《ま》|宮《みや》|林《りん》|蔵《ぞう》、間宮海峡を発見。
一八一〇年代 日本各地に異国船あらわる。
一八二五年 |文《ぶん》|政《せい》八年。異国船|打払令《うちはらいれい》。
一八三九年 |天《てん》|保《ぽう》十年。|蛮《ばん》|社《しゃ》の獄。
一八四〇年代 海防の論しきり。
一八五三年 |嘉《か》|永《えい》六年。米使ペルリ、|浦《うら》|賀《が》へ来航。幕府、開国の良否を諸侯に問う。
一八五四年 |安《あん》|政《せい》元年。日米和親条約、日英、日露和親条約。
一八五九年 安政六年。安政の大獄。
一八六〇年 |万《まん》|延《えん》元年。桜田門外の変。公武合体論さかん。(まだ幕府をつぶせ、というほどのものではなかった)
一八六三年 |文久《ぶんきゅう》三年。|攘夷《じょうい》論最高潮。|天誅《てんちゅう》組の変。
一八六四年 |元《げん》|治《じ》元年。|蛤御門《はまぐりごもん》の変。長州征伐。(ここまでは幕府の鼻息荒し)
一八六五年 |慶《けい》|応《おう》元年。長州再征。
一八六六年 慶応二年。薩長連合盟約成る。幕府の長州再征失敗。(ついに幕府は息切れし、実力の限界を見せてしまった)
一八六七年 慶応三年。討幕の密勅、薩長に下る。幕府大政奉還。王政復古の大号令。
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慶応三年十月二十五日、朝廷では幕府の大政奉還に対し、諸大名の京都参集を命じた。だが、諸藩主のうち、十一月中に京都へ上ってきたのは薩摩、|越《えち》|前《ぜん》、|尾《お》|張《わり》、|彦《ひこ》|根《ね》、|芸州《げいしゅう》、その他京都周辺の小藩主、十数人に過ぎなかった。大政奉還などといったところで、それがいったい何を意味するのかさえわからないというのが実情だった。多くの藩主達は、かえって朝廷からの命令を幕府に問い|質《ただ》し、その意見にまどうというありさまだった。ところが、そのような諸藩を指導してゆくだけの強い姿勢が幕府にはなかった。ここで幕府がひとこと何か言えば、大政奉還もどうなったかわからないし、王政復古も、|槿《きん》|花《か》一朝の夢に終ったかもしれない。もともと一度は成功した長州征伐をうやむやのうちに終らせてしまうようなふがいなさは、幕府の|朽《く》ちかかった屋台骨が原因なのだから、もはやそれ以上のことはおこないえなかったのではあるが。
三百年の泰平の夢は、骨の|髄《ずい》まで犯していたのだった。
それでも、徳川家の危急と見て、京都守護職、所司代などの握る|桑《くわ》|名《な》、会津の藩兵をはじめ、中央軍である幕兵さらに新選組等、一万五千の兵が京都、大坂を中心に集った。肝心の幕府そのものに骨がなくとも、これだけの兵力集中ができたのである。
諸侯集らず、加えて幕軍の集中を見て、もはや決戦以外になしと見た薩長側は、|島《しま》|津《づ》|茂《しげ》|久《ひさ》のひきいる三千を|急遽《きゅうきょ》、京にむかえ、さらに芸州の|浅《あさ》|野《の》|茂《もち》|勲《こと》のひきいる三百。長州の奇兵隊、遊撃隊千二百。それに加えて後続の長州藩兵千三百。その他合計一万という陣容だった。それにしても、天下分け目の戦いに、両軍合して二万五千に満たない兵力ですませようというのだから、ちょっと意外な感じがする。これを|関《せき》が|原《はら》の戦い、大坂夏の陣の両軍動員兵力に比べると、まさに十分の一に過ぎない。
薩長の志士たちは、京や大坂などでさかんに密議をこらし、議論に熱中し、酒をくらって放歌高吟しているうちに、なんとなくもう天下を取ってしまったような気になったのだろう。なにしろ口から先に生れてきたような連中だ。
こうして両軍が結集し、|鳥《と》|羽《ば》、|伏《ふし》|見《み》の戦いが始まるわけだが、わずか一万五千の幕軍の集結に、彼らは色を失った。主戦論をとなえていた西郷隆盛でさえ、成算は全くなく、敗色至れば、明治天皇を擁して|山《さん》|陰《いん》|道《どう》から|芸《げい》|備《び》へ逃れ、西国諸国を固めて防戦し、それでもだめなら薩摩まで後退し、その間に|仁《にん》|和《な》|寺《じの》|宮《みや》をいただいて東北地方へ|下《げ》|向《こう》し、勤皇の兵を集めて北方から江戸をおびやかす、などという作戦を真剣に考えていた。まるで|北畠親房《きたばたけちかふさ》なみだ。口でとなえる討幕が最後にはどのような形になるか、まるで考えていなかったのだ。そのあげくに動員できた兵力がようやく一万そこそこだったのだから、これはもう負けたと思ったのも無理はない。島津の殿様や浅野の殿様はのりかかった舟で、どうしようもなかったのだろうが、まさに薄氷を踏む思いだったにちがいない。
それに対する幕府の兵は、意気揚々たるもので、薩長の雑軍なにものぞ、というところだった。
一月三日午後五時。ついに両軍は衝突した。
こうなっては生きるも死ぬもこの一戦、というのは薩長側の方だ。ひくにひけない。必死の戦いぶりはめざましいものがあった。加えるに、薩長側は町人百姓よりなる|素《しろ》|人《うと》軍隊が主力であり、銃砲を多用した。つまり百姓や町人を徴用した速成軍人が主力だから|刀槍《かたなやり》で勝負をつけるわけにはいかない。引金を引けば勝負がきまる銃砲は彼らにはうってつけだった。ところが幕軍はれっきとした武士からなる部隊だから、腕に覚えの白刃をひらめかせての肉弾突撃で|方《かた》をつけようとする。これで勝つべき戦いを失った。新選組などはさんざんだった。
それまでは洋式軍隊として、多分にていさいや、外国の物|真《ま》|似《ね》でそろえた小銃だったが、これが素人軍隊の性格と微妙に、しかも実によいタイミングでマッチした。幕軍側も結構、数だけはそろえていたが、いざ必要な時になると、武士集団の|性《さが》があらわれ、飛道具よりも切り込め、となってしまったのだ。
翌日、これではならじと、再度、態勢をたてなおして襲いかかったが結果は同じだった。
このありさまに、将軍|慶《よし》|喜《のぶ》は、|潰《かい》|滅《めつ》した自軍を置きざりに、一人、舟で江戸へ帰ってしまった。
薩長側は驚喜した。生命をひろった思いだったであろう。ここにおいて、ようやく討幕のためには何が必要なのかを痛感した。まさに、百の議論も|屁《へ》ひとつであった。
この日、仁和寺宮嘉彰親王を征東大将軍に推し立て、|錦《きん》|旗《き》、節刀をいただいてはじめて〈官軍〉となった。そして朝敵、慶喜追討令を発し、山陰道鎮撫総督、|西《さい》|園《おん》|寺《じ》|公《きん》|望《もち》。東海道、|橋《はし》|本《もと》|実《さね》|梁《やね》。東山道、|岩《いわ》|倉《くら》|具《とも》|定《さだ》。北陸道、|高《たか》|倉《くら》永祐。四国中国、|四条隆謌《しじょうたかうた》。|沢《さわ》|宣《のぶ》|嘉《よし》。奥羽、|沢《さわ》為量。のお公卿さまからなる七方面軍司令官を任命し、その下に実権を持った副総督や参謀として薩長の実力者がつき、これを全国へ向って押し出していった。
〈宮サン宮サン、オ馬ノ前ニヒラヒラスルノハ、ナンジャイナ。アレハ朝敵征伐セヨトノ|錦《にしき》ノ|御《み》|旗《はた》ジャ知ラナイカ〉
トコトンヤレトンヤレナ。ピーヒャラドンドンドン、と宣伝して歩かなければならなかったのだ。実情はそんなところだったのだ。ああ。
尊皇か佐幕か、|攘夷《じょうい》か開港か、もつれにもつれた幕末の政情は、歴史書を二読、三読したぐらいでは容易にその実情をつかみ得ない。結局、徳川慶喜が大政を奉還し、薩長連合による新政府ができて明治となり、どうやら結末がつくから、なんとなく分ったような気がするだけで、もし、この結末がなかったら後世の人々には、いったい何のための騒動だったのか、まるで理解し難いものになったことであろう。
徳川三百年の体制の疲弊の|然《しか》らしむるところとか、当時ようやく、とうとうと流れこみはじめた西洋文明や新知識がそれをもたらしたものとか、さまざまに論考されているが、つまるところ、第二次関が原戦争というところであろう。薩摩、長州、|土《と》|佐《さ》などの大藩を中心とする西国連合対徳川幕府の衝突であり、それは一六〇〇年|慶長《けいちょう》五年の関が原の戦いの再決算でもあった。
官軍といい尊皇というが、ほんとうはそんなことはどうでもよかったし、鎖国だの攘夷だのといっても、そんなことはただりくつの上のことに過ぎなかった。天皇親政などということは考えてもみなかったであろう。しょせん天皇は〈|玉《ぎょく》〉であり、それをかかえこめば名目が立てやすいというだけにすぎない。〈|玉《ぎょく》〉というのは、「いい|玉《たま》だ」という玉であり、将棋の王将のことである。王将は二個あって一個は玉将と書いてある。それ自体いささかも戦力にならないが、取らなければ勝てないという妙な|駒《こま》で、将棋という遊びのいわばシンボルである。
西国連合にしてみれば、なにがなんでもかまわないから、徳川幕府をひっくりかえして積年のうらみを晴らしてやれ、というところである。
天皇親裁による明治の新政などといっても、実際にそんなものはどこにもなく、薩長政府による藩閥独裁政治だった。そもそも、日本の歴史において、天皇親政という時代が果してあったのかどうか、古代はともかく、さがしてみると、わずかに|建《けん》|武《む》の中興といわれる頃に、ごく短期間、それらしいものがあるだけだ。それとて、日本全土とはとんでもないことで、実情はわずかに京都を中心としたごくせまい地域に限られている。およそ幕末にいたるまで、天皇親政などという言葉が使われたことさえない。だから徳川にしろ薩長にしろ|侍《さむらい》、志士、活動家などの連中が、天皇親政とはどんなことなのか、理解していたとも思えないし、それを自分達の活動の焦点にするとも考えられない。当時の国学者達がさまざまに国体論や尊皇論をぶち上げて、勤王の志士達をあおり立てるが、なまじそれにかぶれた連中はあまりいい結果にならない。結局、|至《し》|極《ごく》単純に、どちらが天下を取るか、というので一生懸命になった方が成功したというだけのことだ。
慶長五年のそれに失敗した|復讐《ふくしゅう》を果したというわけだ。
三一
もはや四ツ半に近かった。昼間でさえ物騒極まりないのだから、日暮れと同時に長屋の露地口の木戸は固く閉じ、どの家もしんばり棒をしっかりかませて早々と寝てしまう。官軍が江戸に入ってからは、夜間の部隊の移動にさしつかえるからというので、町の木戸は開けたままだからこれだけでもどうも不安だ。それに戦火が近づいてからというもの、実際に夜間の部隊の移動もはげしくなって、時々、静まりかえった夜の町を、たくさんの兵隊の足音がどかどか、ひたひたと通り過ぎてゆく。号令をかける士官の|濁《だ》み声などが聞えてきたりすると、江戸の町人たちは頭からふとんをひっかぶって耳をおさえた。
とつぜん、露地の木戸ががたがたと鳴った。木戸と柱を結んでいる縄が刃物で断ち切られる音がすると、数人の足音が露地に入ってきた。
「ほら、来た!」
「またやって来たぞ!」
長屋の連中は、頭からふとんをかぶり、耳を押えた。何が起っても|触《さわ》らぬ神にたたりなしだった。うっかり起き出そうものなら、えらいことになる。
「この奥だったな」
「いちばん奥じゃ。|常《とき》|磐《わ》|津《ず》指南という看板が出ちょったぞ」
|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な|胴《どう》|間《ま》|声《ごえ》が露地にひびいた。
その声で、彼等の意図があきらかになった。
「これ、女! 起きろ!」
「東海道|鎮《ちん》|撫《ぶ》隊第三十三大隊第四中隊頭取。剣持弥三郎歩兵上尉のお成りじゃ。女! ここを開けい!」
障子をばりばりと裂いて中をうかがった。暗い屋内から、かすかに甘い香料の匂いが流れ出た。
「かまわん! 破れ!」
剣持弥三郎の声で、部下の一人が苦もなく障子をたたきこわした。
「おらんのか?」
「いや。おるようじゃ。気配がしとる」
石を打つ、せわしない音が聞え、入口の土間の奥の障子が、ぼんやりと明るくなった。
障子をがらりと引きあけると、薄暗い|行《あん》|灯《どん》の光の中に、しどけない|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》姿が浮き上った。
「おう! これはまた、たまらぬのう。いや、夜になるのを待つのは長かったぞ」
剣持弥三郎は舌なめずりして、かぶっていたしゃぐまを脱いでそこへ置き、さらに腰の大小も抜きとって畳の上にほうり出した。
「隊長どん。早くすませてつかあさい。いやもうたまらん。むずむずしちょる」
「ええからお|主《んし》ら。外へ出ちょれ。すぐ終るばってん」
部下たちを土間へ押し出し、境の障子をしめると、剣持弥三郎は、胸元をおさえてすくんでいる文字ふみにのしかかった。
節くれだった太い指が、文字ふみのやわらかい体のどこかを握りしめたところまでは、弥三郎の意識ははっきりしていた。とつぜん文字ふみの体が|敏捷《びんしょう》に動いたと思った瞬間、ひどく冷たいものが|両腿《りょうもも》を走った。激痛が脳天に|衝《つ》き上げてきた。それが何であるか、弥三郎は本能的に直感した。
「な、なんばすっと!」
第二撃が襲ってくるよりも早く、弥三郎は自ら、境の障子を打ち砕いて土間へ転がり落ちていた。剣持弥三郎、|神《しん》|道《とう》無念流の折紙を|戴《いただ》き、東海道鎮撫隊きっての剣客だった。不覚の一刀を浴びたとはいえ、さすが敏捷な|技《わざ》だった。
頭に血を上らせて順番がくるのを待っていた部下たちは、何が起ったかわからないながら、どっと立ち上った。
「隊長! いかがなさったとでごわすか?」
「なんじゃ? なんじゃ?」
「女め! てむかいしおったか!」
そうでなくてさえ、事あれかしと待ちかまえている連中だ。真黒になっておめき立ち、|膨《ふく》れ上った。
「女め! 引きずり出して切り刻んでくれる」
「長屋の|奴《やつ》ばら、たたき起して集めろ! その前で|仕《し》|置《おき》してくれるわ!」
部下の一人が、腰の大刀をギラリと引き抜き、破れた障子を引き倒すと、座敷へ踏ン込んだ。
「これやい! 女! 出て来い!」
おそろしい声でがなり立てた。
「うるさいね!」
行灯の光を背に、いつの間にか着物をまとい、帯をきちんと締めて立ちあらわれたのは文字ふみだった。その手に提げた抜身の小刀の|鋩《ぼう》|子《し》が、行灯の光を受けて灯明のようにかがやいた。
「官軍だの錦の御旗だのと大きなことをぬかしやがって、罪のない者を|殺《あや》めたり家をぶちこわしたり、おまえらは、人の皮をかぶった畜生だよ! 東海道鎮撫隊の歩兵上尉だって? 笑わせるない! 夜、一人住いの女を襲って手ごめにしようってのが、官軍歩兵上尉さまのやることかね。おおかたそのへんのろくでなしだろう。さあ、足もとのあかるいうちにさっさと帰んな!」
おっそろしく歯切れのいい|啖《たん》|呵《か》が飛んできた。
「な、な、なんじゃと! この女め。か、官軍をののしりおったな」
「おのれ! てむかいすっとか!」
「すっとこもひょっとこもあるかい! やい。芋! この頃江戸の町で|流《は》|行《や》っている|唄《うた》を聞いたことあるかい? 〈お馬の前にヒラヒラするのはなんじゃいな。あれはこの頃、おだてにのったる錦のふんどし知らないか。トコトンヤレ、トンヤレナ〉てんだ」
「この、女!」
怒り心頭に発したしゃぐまの一人が、腰をひねると、やにわにすさまじい抜打ちをあびせた。文字ふみの体が音もなく動くのと、|擦《す》り上げる|鋼《はがね》のひびきが|耳《みみ》|朶《たぶ》を打つのが同時だった。文字ふみの手にした小刀が、目にも止らぬ銀弧を描くその軌跡の中へ、|曳《ひ》かれるようにしゃぐまの巨体がなだれこみ、一瞬、障子が血しぶきに染った。
しゃぐまたちはどっとあとじさった。一人が泣くような声を発すると、大刀をふりかぶっておどりこんだ。振りおろした大刀が、低い天井の|梁《はり》に切りこみ、木片が飛び散ると同時に、鋼の厚板の折れる音がなかまたちの耳を打った。切り込んだしゃぐまが、絶叫を発してのけぞるとともに、文字ふみが|裾《すそ》をひるがえしておどりこんできた。また一人が|斬《き》られ、ひどい音をたてて羽目板にぶつかり、そこにつるされていた|番《ばん》|傘《がさ》をひっつかんでずるずるとくずれ落ちた。血の匂いが土間に充満した。
「外へ出ろ! 外へ出るんじゃ!」
動転したしゃぐまたちが、せまい入口から外へ出ようとしてぶつかり合った。いかな利刃、|肥《ひ》|後《ご》の胴太貫でも、天井や柱に切りこんだのではたまらないし、灯のとどかない薄暗い土間で三尺の長剣はかえって身動きがとれない。
しかし、逃れ出たそこも、幅一|間《けん》もない長屋の露地だから屋内とそうたいした違いはない。長いやつをあちらにぶつけ、こちらにぶつけ、なんとか態勢を立て直そうとしたときには、すでに一人が悲鳴とともに、露地の真中に設けられた|溝《みぞ》にころげこんでいた。
「さあ! どうした? 天下の鎮撫隊だろう。女一人を相手に、手も足も出ないのかえ? しゃぐまの隊長さん。後の方でうなっていないでかかっておいでな!」
「こな、くそ!」
文字ふみの|嘲弄《ちょうろう》に、逆上した一人が、|柄《つか》まで通れと一本棒になって突込んだ。その腕の下をかいくぐった文字ふみの小刀が目にも止らず旋転すると、体を失った両腕が握りしめた大刀は、流星のように飛んで、羽目板に刀身の半ばまで突き立った。一人が狂気のように露地口へ向って走った。その背へ、文字ふみの手から離れた小刀が、糸で曳かれるように宙を走った。
「おのれ! 女! よくも、よくも!」
文字ふみの手から刀が|失《う》せたと見たしゃぐまの隊長、剣持弥三郎は、両腿から血を|滴《したた》らせながら、じりじりとつめ寄った。その手には部下から奪った大刀が握られていた。
「隊長さん。女を|手《て》|籠《ご》めにしようなんと思って、うっかりお腰のものを畳の上に置いたりするもんじゃありませんよ。でも、それに気づいたときは、もう遅いやね。この|小便《しょうべん》臭いこおろぎ長屋の露地で命落すのは、はなはだ不本意ではござろうが。おい、これは芋の言葉じゃなんてんだい」
「こ、こ、こいつう!」
「さあ。どっからでもかかってきな! この文字ふみ|姐《ねえ》さん、|伊《だ》|達《て》で|三《しゃ》|味《み》|線《せん》の|撥《ばち》、握ってんじゃないんだ」
震えながら耳をそばだてる長屋の連中に、聞えたのはそこまでだった。
たしかに人が斬られる音が聞えた、という者もあったし、二、三度、刀の打ち合うひびきがしたという者もあった。だが、それきり露地はしいんと静まりかえった。何の物音も、もう聞えてはこなかった。
まんじりともせずに夜をあかした長屋の連中が、しらじらとあけてくると、まるで穴から出てくるようにおそるおそる顔をのぞかせた。
だが、彼らはいちようにわが目をうたがい、顔を見合わせた。
死体が散乱し、血しぶきが飛び散っているはずの長屋の露地には、|猫《ねこ》の死体すらなかった。羽目板のどこにも、血のしずくの跡さえない。たしかに打ち破られる物音の聞えた文字ふみの住いの戸障子も、いつものように白々と|冴《さ》えている。
|狐《きつね》につままれたような顔の長屋の連中は、そっと、その障子を押し開いた。内部も、騒動の跡は全くない。だが文字ふみの姿だけは消えていた。
いったい、あの斬られたとおぼしい官軍の兵士たちの死体はどうなってしまったのだろう? 文字ふみはどこへ行ってしまったのか?
長屋の人々は、ひたいを寄せ合い、長い時間をかけて、思いつく限りの意見をのべ合った。だが、結局、何もわからずじまいだった。
妙なことに、それをいちばん恐れた官軍の調べも、とうとうやって来なかった。長屋の連中は、その夜のできごとについては、たがいに固い口止めの約束を|交《かわ》した。
その頃。武蔵国野火止。平林寺の壮大な本堂に置かれた幕軍本営の一角。勝海舟総裁の居室で、異常な事件が突発していた。
三二
一八六七年。慶応三年。官軍は東海道、東山道、北陸道の三方面より江戸に迫る。
三月。河井継之助指揮する桑名、彦根、越前、高遠の兵を主力とする幕軍、|箱《はこ》|根《ね》に布陣。七日八夜におよぶ猛攻をもってするも、官軍、箱根を抜くことあたわず。しかして坂本竜馬ひきいる海援隊を|先《せん》|鋒《ぽう》とする官軍海兵隊は、突如小田原ふきんに上陸。腹背に敵を受けた幕軍はついに防衛線より撤収、箱根の尾根伝いに相模国|松《まつ》|田《だ》より|厚《あつ》|木《ぎ》ふきんに後退。|由《よ》って官軍は|馬入《ばにゅう》川の渡河に成功した。
さらに東山道を進んだ官軍は、これと相前後して上州|高《たか》|崎《さき》辺に進出。西北方より江戸に|匕《あい》|首《くち》を突きつけるに至った。
これにより、江戸周辺に在りし幕軍は江戸城守備の困難を感じ、防衛軍総司令|山《やま》|岡《おか》|鉄《てつ》|太《た》|郎《ろう》は江戸城放棄を決意。将軍徳川慶喜は江戸城を脱出、水戸へ向う。幕軍約三万は荒川を越え、|下《しも》|総《うさ》より|常陸《ひ た ち》方面へ撤退する。
四月。征東大将軍仁和寺宮嘉彰親王ひきいる征東軍は江戸に入った。
東海道鎮撫軍副総督、西郷|吉《きち》|之《の》|助《すけ》は東海道、東山道、北陸道の三方面軍に対し、奥羽進攻を命ずる。
江戸市内に潜伏せる幕軍|彰義隊《しょうぎたい》は、官軍の後方|攪《かく》|乱《らん》に猛威をふるう。薩摩藩江戸屋敷焼打ち、|両国《りょうごく》橋爆破、|汐《しお》|留《どめ》の官軍軍需品集積所爆破など相つぐ。官軍特務、必死の探索の結果、|上《うえ》|野《の》|寛《かん》|永《えい》|寺《じ》内に在りし彰義隊本拠を発見、急襲。幹部を|逮《たい》|捕《ほ》するとともに多数の証拠品を押収した。これより彰義隊による破壊活動下火となる。
六月。奥羽進攻の準備成った官軍は、奥州街道、水戸街道より続々と北上を開始した。征東大将軍仁和寺宮嘉彰親王は江戸に征東大将軍府を開き、北上軍の総裁は西郷吉之助。全軍を三個兵団に分け、|武《たけ》|田《だ》|耕《こう》|雲《うん》|斎《さい》ひきいる右翼軍は水戸より|棚《たな》|倉《くら》、|三《み》|春《はる》をへて|岩《いわ》|沼《ぬま》に至る。また奥州街道を進む中央軍は主力で西郷吉之助が直率し、さらに左翼軍として高杉晋作のひきいる奇兵隊を中核とする遊撃部隊が、新潟へ向っていた。
総兵力五万五千。さらに予備軍として一万二千が板橋、千住に待機していた。
これより前、幕軍の江戸放棄が決定されるや、仙台藩主、|伊《だ》|達《て》|宗《むね》|基《もと》は盛岡藩、|久《く》|保《ぼ》|田《た》藩、庄内藩、米沢藩、会津藩、|白《しら》|河《かわ》藩等の奥羽大藩に呼びかけ、新たに奥羽列藩軍事同盟を結成し、議長に会津藩主松平容大を|戴《いただ》き、参事に白河藩主、|阿部美作守《あべみまさかのかみ》正静、米沢藩主、|上《うえ》|杉《すぎ》|式《しき》|部《ぶ》|大《た》|輔《ゆう》茂憲を推し、薩長に対抗する構えを見せた。
奥羽列藩軍事同盟は、文書をもって征東大将軍仁和寺宮に戦後処理の具体案と、今後予想される政体について要求を掲げるとともに、薩長側の意向に関しての質問状を提出した。軍事同盟は、戦後の政体については基本的に、共和国であり、諸侯を議員とする議会制を主張しながらも、|暫《ざん》|定《てい》的に初代大統領は薩長側から出すことを容認していた。さらに現下の戦闘に関しては臨時協商会議をもって公平に万事処理することとし、双方より監視委員を出して一時休戦することを主張した。奥羽進攻軍総裁西郷吉之助、征東大将軍府参謀吉田稔麿、長州藩京都総務古高俊太郎らは、検討の要ありとしたが、京都側では岩倉|具《とも》|視《み》、|有栖川宮《ありすがわのみや》|熾《たる》|仁《ひと》親王、|中《なか》|山《やま》|忠《ただ》|能《よし》らが猛反対し、それに加えて|大《おお》|村《むら》|益《ます》|次《じ》|郎《ろう》、|大《おお》|久《く》|保《ぼ》|利《とし》|通《みち》、|中《なか》|岡《おか》|慎《しん》|太《た》|郎《ろう》、|桂小五郎《かつらこごろう》らの態度も極めて硬化した。岩倉らは天皇に要請して密勅を得、征東大将軍仁和寺宮に、奥羽列藩軍事同盟に対し、解体降伏を要求せしめた。ここに西郷吉之助は、進攻軍全軍に北上を命じた。
七月。奥羽列藩軍事同盟は、|郡山《こおりやま》盆地に大軍を集結した。また会津城に会津藩兵を中心とする|新庄《しんじょう》、中村、山形、|梁《やな》|川《がわ》の各藩の兵を入れ、一大防衛拠点とした。別に新潟、長岡方面に本庄、|下《しも》|館《だて》、|亀《かめ》|田《だ》などの藩兵より成る別動隊を送って、この方面よりする高杉晋作|麾《き》|下《か》の奇兵隊の進撃に当らせた。
七月十一日。奥羽列藩同盟軍と奥羽進攻軍の最初の戦火は、長岡ふきんで開かれた。この|遭《そう》|遇《ぐう》戦はごく短時間で終った。高杉晋作のひきいる奇兵隊はさすがに強く、約千二百の兵力をもって三千の同盟軍を潰滅せしめた。その余力をかって、奇兵隊は十三日には|喜《き》|多《た》|方《かた》方面へ進出した。この報を受け、官軍の右翼軍と中央軍は強行軍につぐ強行軍をもって岩代に入り、さらに右翼軍は海岸伝いに北上し、|相《そう》|馬《ま》|中《なか》|村《むら》ふきんに進出した。この中村より内陸に入り、|阿《あ》|武《ぶ》|隈《くま》川沿いに南下、郡山盆地に布陣する同盟軍を、北上する中央軍とともに腹背より攻撃せんとする作戦であった。
同盟軍は、先の小田原での戦闘に|鑑《かんが》みて、敵の上陸作戦に備え、海岸地方ははるかに北方に防衛線を敷いていた。抵抗を見ることなく海岸沿いに北上した右翼軍の相馬進出は、進攻軍参謀部の予定よりもはるかに早かった。
相馬中村ふきんに布陣する同盟軍は、仙台藩、盛岡藩の歩、砲兵より成る六個大隊約五千。フランス製野砲十二門。ガットリング銃二門を持つ精鋭であった。ここにふたたび彰義隊が登場する。彼らは農民や商人をよそおって官軍後方に潜入し、随所でその兵站線を断ち切った。彼らのとくいとする爆破と放火、切込みは、武田耕雲斎指揮する右翼軍をしてその応接にいとまなからしめ、|漸《ぜん》|次《じ》、その戦力を低下させた。右翼軍は決戦を前にしての、郡山盆地における中央軍との合同に、早くも時間的に絶望的状態におかれるにいたった。
一方、喜多方に進出した奇兵隊も、その位置を占むるに時間的にやや早きに過ぎた感があった。中央軍はなお白河ふきんにあり、相馬、会津線上への展開にはなお数日を要する状況であった。その間を利して、相馬中村藩、|脇《わき》|本《もと》|喜《き》|兵《へ》|衛《え》、|上山《かみのやま》藩藩主|松平信安《まつだいらのぶやす》らのひきいる歩兵三個大隊、騎兵二個中隊は砲兵の援護のもとに喜多方を襲った。激戦二日をへてもなお勝敗はあきらかでなかった。決戦を前に、この方面よりする圧力を取り除いておこうと図る同盟軍は会津城の防衛にあたる会津、桑名の主力より一万二千を分って喜多方戦線へ投入した。奇兵隊は孤軍奮闘、|屍《し》|山《ざん》|血《けつ》|河《が》の死闘を展開したが兵力の差は|如《いか》|何《ん》ともなし難く、ついに食糧、弾薬つき、喜多方西方|黒《くろ》|森《もり》ふきんにて全滅した。奇兵隊の戦死体、千。その他官軍八百。同盟軍に投降した者、奇兵隊十八。その他官軍、四百五十。同盟軍の包囲を逃れて脱出した者、奇兵隊なし。その他官軍約五百。という数字からも、奇兵隊の奮戦ぶりがしのばれる。隊長高杉晋作は黒森ふきんでの玉砕戦に先立つこと半日、流弾によって、重傷を負い後送された。
このような状況のもとで、進攻軍司令部は同盟軍に対する南北からの|挟撃《きょうげき》をあきらめ、郡山、会津方面での両軍主力による会戦を決意した。
白河を過ぎた進攻軍は、予備部隊もふくめて総兵力五万八千。西郷吉之助直率のもとに、七月二十一日、郡山盆地南部、|安《あ》|積《ずみ》|永《なが》|盛《もり》ふきんに展開した。同盟軍は主力を、三春西方に置き、会津防衛軍を|猪《い》|苗《なわ》|代《しろ》|湖《こ》北岸に配置し、阿武隈川沿いに、奥州街道を北上、仙台を|衝《つ》こうとする官軍を、その両側面からおびやかす態勢を整えた。郡山地方は、東に阿武隈山脈、西方に|峨《が》|々《が》たる奥羽|脊梁《せきりょう》山脈をひかえ、その間を北へ向って流れる阿武隈川の急流の両岸に開けた|狭隘《きょうあい》な盆地である。その北方の仙台平野に侵攻するためには、ぜひともここを通らなければならない。
進攻軍の総帥西郷吉之助は、三万八千を郡山東方へ進出させるとともに、二万の兵力を猪苗代街道を会津へと進撃させた。
七月二十二日早朝。この日、この夏、最初の台風が関東地方から東北地方一帯にかけてはげしい雨と強い風をもたらした。戦いは最初から壮烈な白兵戦となった。火器の数では優位を誇る官軍だったが、天地をどよもす雨と風の中では、精鋭な小銃隊もほとんどその効果を発揮することができなかった。
正午頃までに、官軍側は六個大隊が戦闘能力を失い、同盟軍側も死者三千を出し、両軍ともに戦場から離脱した。午後三時頃、ふたたび戦闘が開始され、それから休む間もなく、夕刻から夜に入ってもつづけられ、戦線は極度に混乱し、両軍司令部ともに戦況の|把《は》|握《あく》はすこぶる困難であった。
二十三日の夜明けとともに、はげしい雨と風は東方へ移り、泥と血でおおわれた戦場に朝の陽光が射した。福島藩年寄、|市《いち》|川《かわ》|五《ご》|郎《ろう》|太《だ》|夫《ゆう》、梁川藩家老、|下国弾正《しもくにだんじょう》、|黒《くろ》|石《いし》藩家老、|長《なが》|崎《さき》|勘《かん》|介《すけ》らは、それぞれ兵団の長として兵をひきいて乱軍の中に倒れていた。官軍側もまた、総帥、西郷吉之助の腹心、|桐《きり》|野《の》|利《とし》|秋《あき》が重傷を負い、|篠《しの》|原《はら》|国《くに》|幹《もと》、銃弾に倒れ、参謀|相楽《さ が ら》総三もまた本営に切込んできた一隊と戦って討死等、目をおおう惨状を呈していた。
両軍満身|創《そう》|痍《い》となりながらも、なお一歩も退くことなく戦った。この日の夜は、ふたたび相互の|凄《せい》|愴《そう》な夜襲に終始した。
一方、官軍の会津進攻作戦は猪苗代をめぐる|前哨《ぜんしょう》戦に勝利を収め、二十三日、会津城下に突入した。会津、新庄、中村、山形、梁川各藩の兵二万、これに加うるに会津人士よりなる民兵二千は、民家を|堡《ほう》|塁《るい》として立てこもり、|尺《せき》|土《ど》を争う激烈な攻防戦を展開した。会津城下は|猛《もう》|焔《えん》につつまれ、黒煙は天に|沖《ちゅう》した。士官も、兵も、民兵の男も女も、白刃をひらめかし、|竹《たけ》|槍《やり》をふるい、あるいは|徒《と》|手《しゅ》|空《くう》|拳《けん》で軒下から軒下へ、階下から階上へ、路地から路地へ|凄《せい》|惨《さん》な突撃をくりかえした。この時、はじめて会津城防衛軍は|手榴弾《てりゅうだん》を使用した。それは極めて簡単な導火線式の手投爆薬ではあったが、刀槍の技に不馴れな民兵を中心に多用された。防衛軍は善戦しつつ戦線を縮小し、会津|鶴《つる》|丸《まる》城に撤収した。
攻撃軍は城を包囲し、間断ない砲撃を加えた。
二十四日。攻撃軍は城の大手門の突破に総力を集中した。この日の両軍の死傷者だけでも一千を越えている。城内の各所に火災が起り、深刻な様相を呈した。しかし、攻撃軍の大手門突破は不成功に終り、翌二十五日は銃撃戦に明け暮れた。
二十六日。早朝より攻撃軍は大手門に対する攻撃を再開した。薩摩、長州、|宇《う》|和《わ》|島《じま》、|津《つ》|和《わ》|野《の》、佐賀の藩兵よりなる攻撃軍主力八個大隊は砲兵の援護射撃のもとに猛攻をつづけ、ついに大手門を突破した。同時に各所で架橋に成功、堀を渡って城内に侵入した。
官軍の打撃力の中心は、その優秀な火砲装備にあったが、突入部隊が城内に侵入するや、援護砲撃は味方に対する危険を考慮して発砲をひかえた。このため、ふたたび戦況は|混《こん》|沌《とん》とし、城内に入った官軍突入部隊はかえって敵の重囲の中に苦戦を|強《し》いられることとなった。この戦況下にあって民兵隊、および梁川、中村の藩兵は城外に進出し、官軍突入部隊に対する増援、補給を断ち、突破口を閉鎖する行動に出た。
戦いは昼夜を分かたずつづけられた。二十七日、会津城本丸が焼け落ちた。城内にあった官軍突入部隊は戦力のほとんどを|喪《うしな》い、城外に撤退した。もはや会津城は砲撃と火災によって、|要《よう》|塞《さい》としての戦術的意味を喪失していた。これ以上の|籠城《ろうじょう》の困難を感じた防衛軍総裁、会津藩主松平容大は城外における野戦を決意した。
二十八日。防衛軍は会津城を出て、会津の城下町を見おろす|飯《いい》|盛《もり》山から|背《せ》あぶり山にかけて布陣した。この移動を阻止し得なかった官軍は、編成を整えるや、猛攻に移った。防衛軍総裁松平容大の本営のある飯盛山をめぐる攻防戦は、屍山血河の肉弾戦となった。とくに藩主の親衛隊である|白虎隊《びゃっこたい》の奮戦はめざましく、数十回におよぶ官軍切込隊の猛襲を支えて、二十四時間にわたる戦闘で、隊員の八割を失った。背あぶり山に陣を布いた新庄、山形、中村の各藩の藩兵四千はついに|北《ほく》|麓《ろく》に後退し、さらに大谷川方面へ転進した。
攻撃軍は背あぶり山に野砲を引き上げ、飯盛山の会津藩陣地に猛砲撃をあびせた。
三十日。喜多方方面の戦闘に勝利を収めた中村、上山、桑名、会津の各部隊が、会津防衛軍救援のために会津城下に入って来た。攻撃軍は背後から、あらたに八千余の同盟軍の圧力を受けることになった。
郡山東方地区における両軍の会戦は、二十八日まで一進一退の激戦がつづけられた。江戸の征東大将軍府は、戦局の打開を求めて、新編の五個大隊を宇都宮より急行させるとともに、別に二個大隊を阿武隈川河口に上陸させた。宇都宮より北上した新編五個大隊は、奥州白河において、近藤勇指揮する新選組、|天《あま》|野《の》|八《はち》|郎《ろう》|麾《き》|下《か》の彰義隊を中心とする三千の同盟軍と衝突した。激戦の結果、同盟軍側に多大の損害は与えたが、結局、救援部隊は白河の関より反転し、|那《な》|須《す》へ後退した。この戦いは白河地方でおこなわれた一局地戦に過ぎなかったが、実は全戦局に重大な影響をおよぼした。進攻軍は郡山盆地に完全に封じ込められ、孤立したことを意味する。
会津進攻軍は猪苗代湖岸で、追尾する同盟軍の猛攻に悩みながら、果敢な退却戦をおこなっていた。
総帥西郷吉之助は、ここで、名将の真価をあらわした。戦史に残るその号令に|曰《いわ》く。『全軍、南へ!』
まだ十分に勝算あり、と主張する参謀、各級指揮官は、総帥西郷の命令に色をなし、中には憤然としてつめ寄る者もあり、西郷斬るべし、の声も出たが、総帥の命令は|磐石《ばんじゃく》であり、ついに進攻軍は、全軍、戦線を離れて整然と後退に移った。しかし、これを追う同盟軍も、すでに戦力はなはだ|枯《こ》|渇《かつ》し、退却を阻止することは不可能だった。だが白河における新選組と彰義隊の阻止戦闘はめざましく、進攻軍は白河の関に、三千の戦死体を残すことになった。
進攻軍南へ去るの報に、阿武隈川河口ふきんにあった官軍も、陣を撤して海上へ逃れた。この官軍艦隊を追う|甲《こう》|賀《が》|源《げん》|吾《ご》指揮する幕府軍艦四隻は、|塩《しお》|屋《や》|崎《ざき》沖でこれを|捕《ほ》|捉《そく》し、激烈な海戦を演じ、官軍軍艦二隻を撃沈し、二隻を捕えた。残る一隻は南方へ逃れた。ここに事実上、奥羽進攻軍右翼部隊は潰滅した。指揮官武田耕雲斎は漂流中を漁船に救助され、同盟軍に捕えられたが、のち、江戸に|還《かえ》された。
奥羽進攻軍撤退の報は、江戸の征東大将軍府をはじめ、薩摩、長州等の諸藩を|震《しん》|駭《がい》させた。戦局の|帰《き》|趨《すう》を見守る小藩の内部には早くも微妙な態度があらわれはじめた。
八月十日。奥羽進攻軍は宇都宮を中心に、水戸、|桐《きり》|生《ゆう》、前橋を結ぶ線を防衛線として南下する同盟軍をむかえ撃とうとしたが、|碓氷峠《うすいとうげ》を突破した同盟軍が高崎より|熊《くま》|谷《がや》を衝かんとする態勢をとるにいたり、北関東の防衛線を放棄、全軍、|利《と》|根《ね》川を渡って、|柏《かしわ》、大宮、|川《かわ》|越《ごえ》ふきんに集結した。
郡山盆地における会戦で勝利を得た奥羽列藩同盟は、朝廷に対し、薩長追討の宣旨を要求するとともに、薩長およびその協力諸藩に対して最後|通牒《つうちょう》を突きつけた。曰く、諸道鎮撫隊の解隊。しかもその麾下全軍の武装解除、すなわち、銃砲、弾薬、|馬《ば》|匹《ひっ》を同盟軍に引渡したのち、自藩領内にて待機、という|苛《か》|酷《こく》なものであった。注目すべき点は、この時点においては、列藩同盟は、内戦後の政治形態については、いっさい言及していないことである。そこには、佐幕という意志すらないように見える。実際、水戸にあった将軍慶喜は、もはや情勢の推移に何の影響力も持っていなかった。薩長連合対奥羽列藩同盟の|拮《きっ》|抗《こう》の間にあって、幕府は完全に|埒《らち》|外《がい》に置かれ、その直轄する兵力すらどこにも存在していなかった。
この列藩同盟の強硬な態度に対し、薩長は動揺する朝廷側を|威《い》|嚇《かく》しつつ協力諸藩を督励し、関東における決戦を決意した。名実ともに天下分け目の決戦であった。
薩長連合は、新たに諸藩より|醵出《きょしゅつ》せしめ、編成した二万五千の兵と弾薬、米等、海路、江戸ヘ送るとともに、さらに各藩の農民、町人より成る徴兵軍、十万を相模平野に配置した。すでに官軍の兵は枯渇していた。流動する情勢下にあって小藩は兵を出すことに難色を示しはじめていた。この徴兵軍は、すなわち、士気装備ともに劣悪な、雑軍ともいうべき内容のものであった。
西郷吉之助は、防衛線をさらに縮小後退させ、荒川を天然の堀として、千住、板橋、成増を、江戸防衛決戦拠点とした。もはや一歩も退くことはできなかった。総帥西郷吉之助に対する奥羽進攻作戦失敗の責任を追及する声も強かったが、この危急に際して、総帥を交代させることの無意味さを説く者も多く、|沙《さ》|汰《た》やみとなった。ほんとうのところは、この大任をよく果し得るであろう人物が、ほかに見あたらなかったからでもある。
天皇は西郷吉之助に対し、|三条鍛冶宗近《さんじょうかじむねちか》の太刀一口と、正三位|右近衛少将《うこんえのしょうしょう》の位階を贈って、その労をねぎらった。
補給成った奥羽列藩同盟軍十二万は、八月十日頃より、ぞくぞくと白河の関を南へ向って越えた。休養と補給を兼ねつつ、那須高原に展開し、戦備成るや、一気に行動を起し、三|梯《てい》|陣《じん》をもって荒川北岸に迫った。
宇都宮を発し、古河から|野《の》|田《だ》を抜き、|松《まつ》|戸《ど》に迫ったのは、会津、宇都宮、古河、佐倉、久保田、米沢の各藩兵よりなる三万五千。指揮するは久保田藩藩主、佐竹義堯。また、同じく古河を発し、大宮から戸田の渡しへ迫ったのは、仙台、庄内、白河、山形、三春など精鋭三万五千。|采《さい》|配《はい》を取るのは三春藩主、|秋《あき》|田《た》映季。さらに碓氷峠より高崎、|藤《ふじ》|岡《おか》、川越と、江戸の西北方をおびやかしつつ、成増へ迫ったのは、河井継之助総指揮をとる、長岡、高遠、飯田、松代の藩兵一万五千。それに合して、近藤勇ひきいる新選組、大鳥圭介ひきいる振武隊、また榎本武揚の洋式海兵隊等、計二万。三軍合して九万。さらに予備兵力三万は古河ふきんにあり、総兵力、十二万余という大軍だった。
これに対して、千住口へは征東大参謀高杉晋作が戦傷の身を、|駕《か》|籠《ご》にゆだねて指揮を取る東海道鎮撫隊を主力とする三万。板橋口へは、征東大将軍府参謀より出向した吉田稔麿指揮する東山道、北陸の兵計四万。さらに成増口には、水戸の藤田小四郎ひきいる新天狗党、坂本竜馬の海援隊、薩摩の桐野利秋こと中村半次郎のひきいる征東隊。岡田以蔵のエゲレス隊等、機動力にすぐれた部隊合して五千が布陣していた。総帥西郷吉之助は、将旗を|北《きた》|豊《と》|島《しま》郡|高《たか》|松《まつ》|郷《ごう》|熊《くま》|野《の》神社に掲げ、|汐《しお》の|如《ごと》くひた押しに迫る同盟軍と|乾《けん》|坤《こん》一|擲《てき》の攻防戦を展開すべく、背水の陣を|布《し》いた。
八月十九日早朝。川越街道を板橋方面へ向って進む振武隊の前衛小隊と、同じく川越街道を成増方面へ向って探察行動中のエゲレス隊|偵《てい》|察《さつ》小隊とが遭遇し、はげしい肉弾戦を展開した。大きな損害をこうむった振武隊は、成増方面に向って後退したが、それを追ったエゲレス隊は、|赤《あか》|塚《つか》ふきんで、振武隊前衛小隊に後続して南下中だった振武隊主力と衝突。その危急を救うべく、新天狗党、征東隊が|急遽《きゅうきょ》、出動した。総帥西郷吉之助は、その報を聞くや、満面に朱を注いで|大《だい》|喝《かつ》し、ただちに兵を|退《ひ》くように命じた。だが、この方面の総指揮官を兼ねていた武田耕雲斎は、戦局の判断をあやまり、また功を|焦《あせ》ってこの方面にあった官軍の全部隊を投入した。総帥、西郷吉之助の判断では、この方面に対する敵情はなお|詳《つまび》らかならず、さらに慎重な偵察を必要とする情況下にあった。
確たる情報を得ないまま、一|抹《まつ》の不安を抱きながらもついに坂本竜馬、中村半次郎、岡田以蔵らは、それぞれ麾下各隊主力に出動を命じた。
かくて、世にいう『|野《の》|火《び》|止《どめ》の戦い』の幕は切って落されたのだった。
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――国史調査所編 〈日本近代史 巻之九〉第二章〈共和国の夜明け〉より
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三三
|池袋《いけぶくろ》から|東《とう》|武《ぶ》鉄道|東上《とうじょう》線に乗る。十一番目の駅が|朝《あさ》|霞《か》。または国鉄京浜東北線で南浦和に至り、そこで近年開通の国鉄武蔵野線に乗りかえ、三つ目が|新《にい》|座《ざ》。野火止、平林寺辺に遊ぶにはどちらの経路を利用してもよいが、交通機関も、その土地の風物の一環である以上、東京からおもむくには、私は、これは東武、東上線の利用をすすめたい。何も東武鉄道という会社に義理や縁故があってのことではないが、私鉄というのは、妙にその土地の体臭というようなものを濃厚にただよわせているものだ。もっとも、近頃では、地方色豊かな、歴史的に由緒ある土地も、風光|明《めい》|媚《び》な、いわゆる名所も、おしなべて特色を失って全国平均的な観光地になりさがってしまったから、今、ことさらに土地の体臭だの、その土地と密着した私鉄の良さだの言ってみてもはじまらないのかもしれないが、北関東といえば、これはやはり東武鉄道であろう。朝霞だの川越だの、前橋だの、|館林《たてばやし》だの、武州上州をひた走るこの私鉄は、戦後もだいぶ長い間、その車体を、春の|嵐《あらし》に吹きすさぶ関東ロームの|風《ふう》|塵《じん》とも見まごう何ともいえない赤茶色に塗っていた。光沢のある|赤《あか》|銹《さび》色とでもいおうか。まことに奇態な色で、当節の鉄道ファンなどが見たら、目を回しそうな色だった。小さな窓には鉄棒を腰板には分厚い鉄板を張り回らし、それに巨大な|鋲《びょう》を打ちならべ、履いている台車も、それだけで何トンもあろうかという|頑丈《がんじょう》なやつ。屋根の上にのっているパンタグラフがまたやけに大きい。この|甲冑《かっちゅう》に身を固めたような電車が、ガアガアと|恫《どう》|喝《かつ》的なモーターの音を草野にひびかせて北風の中を疾駆した。これぞ光栄ある東武鉄道〈デハ1〉。デはデンドウシャのデ、ハはイロハのハ、イから数えて三番目。つまり三等客車。だから〈デハ1〉とは、東武鉄道における三等電動客車の型式第一号ということになる。これが国鉄払下げの木造客車を改造したハコをしたがえ、風塵万丈を衝いて往来するさまは、まさに一幅の絵であり、また今思い出しても、口の中が砂でざらざらしてくるような光景であった。これは|上《かず》|総《さ》、下総の田園の中を走る|京《けい》|成《せい》電車でもないし、|自《じ》|由《ゆう》が|丘《おか》や|田園調布《でんえんちょうふ》などのしゃれた町々を結ぶ|東急《とうきゅう》電鉄ともちがう。これはまさに東武鉄道以外のなにものでもなかった。他の私鉄が貨車を電気機関車で引くようになっても、東武鉄道だけは、ずいぶん後まで蒸気機関車を使っていて、鉄道博物館にでも収めたいような五一〇〇などという老機関車が、わずかばかりの貨車を重そうに引張って、上板橋あたりの踏切を、ごっとん、ごっとんと通り過ぎていったものだった。冬の夜など、その|甲《かん》|高《だか》い汽笛の音がはるかに聞えてきたりすると、井戸のポンプも凍りつく寒夜の静けさがいや増して感じられたものだ。
今はその東武東上線沿線も都市化が進み、いたる所に高層アパートが建ちならび、道路は舗装されて春一番の風塵も立ちようがなくなった。走る電車も、冷房つきの軽量車へと|変《へん》|貌《ぼう》したが、関東武士の発祥地である武蔵野を走る電車は、どうもやはりあの武骨な〈デハ1〉でなければぴったりしないような気がするのだが……
ともかく、その東武東上線の朝霞で降りる。駅前から平林寺行きのバスが出ている。休日は混む。クラス会を兼ねた一日の行遊などには、うってつけなのだろう。そのような小団体が多い。それと学校の遠足だ。
平林寺のあるあたりを野火止という。正しくは埼玉県|新《にい》|座《ざ》市野火止。改制以前は|北《きた》|足《あ》|立《だち》郡であり、|天《てん》|保《ぽう》郷帳には|新《にい》|座《くら》、また|延《えん》|喜《ぎ》|式《しき》も|新《にい》|座《くら》を称する。
ここに大寺在り、すなわち|臨済宗《りんざいしゅう》妙心寺派、|金《きん》|鳳《ぽう》|山《ざん》平林禅寺。山門には|石川丈山《いしかわじょうざん》筆の『金鳳山』の|掲《けい》|額《がく》も高く、境内約十万平方メートル。その林泉は国の指定史跡として名高く、平林寺境内林は天然記念物として、植物景観の見事なることと、ここに|棲《せい》|息《そく》するおびただしい野鳥が、訪れる人の耳目を奪う。そもそも、一三七五年、|天《てん》|授《じゅ》元年、武蔵|岩《いわ》|槻《つき》城主であった|太《おお》|田《た》|道《どう》|真《しん》が岩槻の平林寺村に建てたのが建初であり、のち一六六三年、|寛《かん》|文《ぶん》三年、|松平信綱《まつだいらのぶつな》が現在の地に移した。前記太田道真は、江戸城を築いた太田|道《どう》|灌《かん》の父である。
その門前を、遠く多摩川から引いた野火止用水が、今もその昔に変らぬ水音を立てて流れている。
東京の西北方にひろがる武蔵野台地は、関東ローム層と呼ばれる古代火山灰土よりなり、極めて|肥《ひ》|沃《よく》な土地である。関東平野には、日本第一の長流といわれる|坂《ばん》|東《どう》|太《た》|郎《ろう》、利根川をはじめ、多摩川、荒川など大河が貫流しているにもかかわらず、この武蔵野台地には川らしい川がない。そのため、古来この地では|灌《かん》|漑《がい》用水はおろか、飲料水さえ容易に手に入れ難い状態だった。関東ロームは土質は軽く、微細な土粒子はひとたび乾燥すると、強風によって|黄《こう》|塵《じん》と化し、|天《てん》|日《じつ》ために|昏《くら》くなるありさまで周辺の町村は|甚《じん》|大《だい》な被害を受けるのが常だった。肥沃な土地でありながら水田耕作は全く不可能であり、乾燥に耐えるわずかな種類の畑作物をもって農を支えるしかなかった。
井戸を掘るにも容易なことではなく、|鑿《さく》|井《せい》技術の幼稚な中世にあっては、この地の人々は、土地を|漏《ろう》|斗《と》状に深く掘りさげ、地下水の層にぶつかった所でそこに|井《い》|桁《げた》を組んで水をため、それを|汲《く》み上げるという、たいへん困難な作業をしなければならなかった。その大きな|漏《ろう》|斗《と》状の井戸は、直径数十メートル。深さ二十メートル以上に達する。その底で水を汲み、その|手《て》|桶《おけ》をさげて、井戸の急斜面に設けられた昇降路を|幾《いく》|重《え》にも曲って地上へ運び上げるわけである。現在でも、この〈七曲りの井戸〉の遺構が残されている。
人々は、このような大規模な井戸を、〈|堀《ほり》|兼《かね》の井〉とも呼んだ。実際、それは作業を始めてはみたものの、掘りかねるほどの大工事でもあったのだろう。
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武蔵野の 堀兼の井もあるものを
うれしや水の近づきにけり
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という|藤原俊成《ふじわらのしゅんぜい》の歌は、このような井戸が都の人々の間にもかなり知られていたことを示している。
現在でも、|狭《さ》|山《やま》市堀兼神社の境内に、その堀兼の井の跡といわれるものが残っている。また、同じく狭山市|入《いり》|曾《そ》にも、これはかなりはっきりした|窪《くぼ》|地《ち》が残っている。一日、この地に遊ばれる人々は、ぜひ一見をおすすめする。現代のわれわれが、まるで使い棄てにする水の一滴一滴にも、むかしの人々はどのように苦労してそれを得たのか、まのあたりに見る思いがする。雑草に埋もれたこの遺構には迫力がある。
農業用水を望むべくもないこの台地では、長く開発が遅れ、武蔵野の広大な|沃《よく》|野《や》は放置されたまま、|狐《こ》|狸《り》の|棲《す》むにまかせていた実状だった。
この台地の開発を計画したのは武州川越の藩主松平信綱だった。当時、|老中《ろうじゅう》として幕閣にあった信綱は、おりから開発中であった|玉《たま》|川《がわ》上水を調査研究し、それが完成するや、武蔵野西北台地に、玉川上水の支流を設けることを計画した。それが完成すれば、単に川越、野火止地方の原野開発のみならず、北足立郡一帯に水田耕作地がひろがることになる。
松平信綱は、家臣|安《やす》|松《まつ》|金《きん》|右衛《え》|門《もん》に、この大事業の着手を命じた。時に一六五四年。|承応《じょうおう》三年であった。
これは難工事だった。玉川上水と異なり、関東ロームの台地に水を引くには、一にも二にも精密な測量にまたなければならない。野火止用水は、多摩郡|小《お》|川《がわ》村に発し、武蔵野台地をほぼ東西に貫流して新座村に至り、そこで新|河《か》|岸《し》川に流入するもので、その延長、六里におよぶ人工の長流であった。現在では全く市街地に没し、その全容はうかがうすべもないが、現在の東京都|小平《こだいら》市である小川村から、|東村山《ひがしむらやま》市、|清《きよ》|瀬《せ》市を通って埼玉県新座市に至る野火止用水遺構をたどってみると、よくもこのような所に用水路を設けたものだと感嘆する。坂の少ない|平《へい》|坦《たん》地とはいえ、そもそもゆるやかな起伏のつづく台地の上である。池を作るのではなく、堀を作って水を流すのだから、全体的に新座村へ向って傾斜していなければならない。実際歩いてみると、どう見ても土地全体が新座へ向って|勾《こう》|配《ばい》が高くなっている所がある。用水堀の深さを加減しつつその地を乗り越えたのだろうが、ふしぎな気がする。わずかな測量誤差が計画全体に致命的な支障を与えるおそれがいたる所にあったのだろう。事実、安松金右衛門の|惨《さん》|澹《たん》たる努力にもかかわらず、|明《めい》|暦《れき》元年、一六五五年に完成したこの用水は、肝心の野火止の地には一滴の水も運ばなかったのだ。おそらく、水を通したものの、貫流せず、いたる所で|溢《いっ》|水《すい》という事態が生じたものであろう。それから三年もの間、手直し工事があり、ある日、大雷雨があり、これをきっかけとしてようやく多量の水が六里の用水を走って新河岸川に流れ落ちたという。それにしてもパワー・シャベルやブルドーザーも無い全く人力だけが頼りの大工事である。よくやったものだと思う。
この野火止用水に関しては多くの歴史学者や地誌学者が、数々のすぐれた研究を発表しているので、とくに御用のかたは、ぜひそれらを読んで|戴《いただ》きたい。そうした研究や資料に目を通してみると、|東《とう》|大《だい》|寺《じ》大仏殿の建築技術や、奈良、鎌倉の大仏|鋳造《ちゅうぞう》技術、|岩《いわ》|国《くに》の|錦《きん》|帯《たい》橋の架橋などを引き合いに出すまでもなく、明治以前の日本の技術はたいしたものだった。文明開化などというが、明治以後、日本人が独自に開発した技術というものが果してあっただろうか?
大仏|鋳造《ちゅうぞう》技術や錦帯橋の架橋などをあげると、すぐ、いやあれとて海外の技術の応用に過ぎないとか海外の技術者の采配になったものだとか言う人がいるが、現在の日本で、アメリカの特許を買ってきて物を造ったり、西独の技術雑誌を読んでヒントを得るなどというのとは根本的に違う。英語の辞書の|編《へん》|纂《さん》を思い立った者がアルファべットから習い始めるようなものだ。大仏の鋳造などというものは、その過程におけるわずかな失敗でも当事者の生命にかかわる。その作業場をいろどる火映とみなぎる緊張は、当時の人々の目に、どんなに|凄《せい》|愴《そう》で劇的な印象を与えたことか、想像することさえ難しい。用水堀を掘る作業もそうだ。地図というものが一般化されていず、地形や方位の相関関係が具体的に想像され得ない人々にとって、小川から野火止まで人工の川を掘ると言われても、目に映るのはただ|広《こう》|漠《ばく》たる武蔵野の、波のような大地の起伏だけであったろう。せっかく掘った用水堀が、三年間も空堀のままであったとしても、そんなことは失敗にもあたらない。そんなことを考えると、私はなんとなくうっとりしてくるのだ。
みんな総出で川を掘る。水が通ったときは|嬉《うれ》しかったろうねえ。開発というものはそういうものなのだ。
今は見わたすかぎり家やビルが建ちならび、野火止用水の跡は探すのさえ困難だ。
|嗚《あ》|呼《あ》――
三四
成増から北へ向う道は、すベて避難民で雑踏していた。わずかばかりの家財を荷車に積み、あるいは背負い、子供や老人の手を引いて、こけつまろびついそぐ。中には大事そうに|鍋《なべ》や|釜《かま》をかかえている者もあるし、二人がかりで|長《なが》|火《ひ》|鉢《ばち》をになってゆくのもある。子供が泣く、親が|叱《しか》る。そのうちに病人が出る。明日にも官軍対奥羽同盟軍の決戦がはじまるかもしれない。家や畑を守って飛び|交《か》う|矢《や》|弾《だま》の下で命を落すよりも、そんなものは投げ棄てて逃げのびた方がよい。なにしろ、生命あっての物種子だ。
土ほこりの中を、黒い流れとなってつづく人々に混って、足をいそがせる三人組があった。
一人は|印半纏《しるしばんてん》に|丼《どんぶり》腹掛、職人らしいいなせな男。一人は若い女で下女風な仕立て。もう一人は職人と下女に守られる|態《てい》で、疲れた足を運ぶ、これは|粋《いき》な|稽《けい》|古《こ》ごとの師匠かと思われる滅法|佳《い》い女。|鳥《とり》|追《おい》をしのばせる姿に|手《てっ》|甲《こう》|脚《きゃ》|絆《はん》を用いてはいるが、この騒ぎの中での馴れぬ|田舎《い な か》道。髪も衣装も白くほこりをかぶり、わらぞうりを踏まえる白い足には血さえにじんでいる。
道路の両側に警戒の目を光らせている官軍の兵士の姿が途切れると、頑丈な|木《もく》|柵《さく》が幾重にも設けられ、土を詰めたたわらがあちこちに積み重ねられている。間もなく最前線である。交戦地から退去する避難民の流れは、このバリケードに沿って、北へ南へとのびる。
その流れから、つ、とそれたのは三個の人影だった。
あき家になった民家から民家へ姿をかくし、軒づたいに人目を忍んで同盟軍陣地の背後へ、背後へと深く潜入していった。こちら側ではすでに住民の避難は終っている。今頃、このあたりをうろうろしている者はいない。
陽はようやく中天を過ぎたところで、やけに暑い。武蔵野特有の雑木林からは下界の騒ぎも知らぬげに、滝のような|蝉《せみ》しぐれが降ってくる。逃げ水がゆらゆらと目に痛い。
膝折から溝沼へ、無人と化した集落が点々とつらなっている。膝折から道を西へとり、野火止へと向う。
ゆくてに、平林寺境内の|鬱《うっ》|蒼《そう》たる|欅《けやき》の林が島のように迫ってくる。
奥羽同盟軍本営に当てられている平林寺周辺の警戒は、|蟻《あり》一匹通さぬほどきびしい。その警戒線を避けて、道をさらに西にとる。
道の左右を清流が音を立てて流れている。その清流を幾つもの土橋で越える。水田とも湿地ともつかぬ水面が夏雲を映し、水ぎわに生いしげった|葦《あし》の葉が絶えず風にざわめいていた。
「ああ、涼しいわねえ! お姉さん」
さわやかな風に向って、胸元を開いたのはかもめだった。
「かつらの下が汗で、ほら!」
下女風に結ったまげのかつらを、すぽりと両手で脱いだ。
「かもめちゃん!」
笙子の声が飛んだ。
「人に見られたら大変よ。なんです!」
かもめは首をすくめて、水から上ったように|濡《ぬ》れそぼっている頭をふたたびかつらに押しこんだ。
「おれだって、たまらねえよ。印|半《ばん》|纏《てん》の下は丼だけだけれども、こいつがしっかりした厚手の|木《も》|綿《めん》ときているから、たまったもんじゃないよ」
|元《げん》が汗で濡れた手ぬぐいをしぼりながら悲鳴を上げた。
「なんですねえ。しんぼうなさいよ」
汗とほこりで汚れてはいるが、笙子の意地は少しもおとろえていない。いつものように歯切れのよい言葉が飛び出す。
「さあ、もう少しよ。いそぎましょう」
たもとを風にひるがえして歩きはじめた。
「お姉さん、もう少し、もう少しって、どこへ行くのよ? 教えてくれたっていいじゃない」
「笙子ちゃん。平林寺の勝海舟の本営へ行くんじゃなかったのかい?」
それなら方角が違うぞ。元が首をかしげた。
二人の声も耳に入らぬかのように、笙子はひたいに小手をかざして、周囲の水郷風景に目を向けた。その顔が、やや|蒼《あお》ざめて見えるのは燃えるような緑が映えるからばかりではなかった。
「どうしたの? お姉さん」
「顔色がよくないようだぜ。暑さに当ったんじゃないかな。それとも何か気になることでも?」
笙子は、その大きな目まで緑に染めて、小さくかぶりをふった。
「へんだわ……やっぱりへんだわ」
一人、つぶやいた。
「笙子ちゃん。何がへんなんだ?」
「やっぱりって、何がやっぱりなの?」
笙子の顔を、憂いと、ある恐れの色が草野に落ちる雲の影のように横切った。
「ごらんなさい。この水郷の風景を」
また風がわたり、葦の葉がざわざわとゆれ動いた。その葦のそよぎの中で、ヨシキリがしきりにさえずっていた。
ギョギョ、ギョギョシ、ギョギョシ、ギョギョ、シキシキ……
その鳥の名は|行《ぎょ》|行《ぎょ》|子《し》とも書く。その鳴声からとった名であろう。俳句で詠まれるのみならず、水郷の夏の風物詩だった。
「行きましょう」
笙子は二人を引きずるようにして、両側から葦の迫る細い道を小走りにいそいだ。土地はしだいに低くなり、やがてほとんど水面の高さにひとしくなった。水草を浮かべる水が、ひたひたと寄せてくるそこで道は終っていた。それまで人の背丈以上もある葦の茂みでおおわれていた視界がとつぜん開けた。
「ほら! 見てごらんなさい」
笙子の声に、かもめと元は、石を|呑《の》んだように棒立ちになった。
目の前に、さえぎるものもない水面が、|渺茫《びょうぼう》とひろがっていた。
西の空にそびえる夏雲の下に、|重畳《ちょうじょう》と濃い影を連ねるのは|秩《ちち》|父《ぶ》、奥多摩の連峰に相違なかった。また、左方、遠くかすむ陸地のむこうには|丹《たん》|沢《ざわ》の山々、そして雄大なる富士が長く|裾《すそ》を|曳《ひ》いていた。
夏雲の影を浮かべた水面は、吹き渡る風にわずかに波立ち、陽光のもとに一面にきらめく刻点を動揺させていた。はるかかなたを、白い水鳥の群れが舞っている。
「これ、海? 海ではないわよね?」
かもめが、はなはだ確信の欠けた|虚《うつ》ろな声音でたずねた。
「でも、おかしいよ。関東平野にはこんな大きな湖はないよ」
元がなお|茫《ぼう》|然《ぜん》と水面に目を当てたままつぶやいた。
「二人とも、これを見てちょうだい」
笙子がふところから折りたたんだ紙をとり出して、ばさばさとひろげた。木版刷りとおぼしい一枚の地図だった。
「これよ。ほら」
笙子の指が地図の上を指した。
「なに? 武蔵国総絵図?」
「あら! 武蔵|大《おお》|湖《うみ》だって!」
二人の目が、あわただしく絵図の上を動いた。そこには、武蔵国の西北、武州一帯を占める大きな湖が描かれていた。
「よく見て。この|白《しら》|子《こ》、|新《にい》|倉《くら》という村は、今の埼玉県|和《わ》|光《こう》市よ。それから|笹《ささ》|目《め》、膝折。膝折は今の朝霞市。|志《し》|木《き》、福岡、川越の|旭《あさひ》、|石《いし》|原《はら》から|坂《さか》|戸《と》、|松《まつ》|山《やま》、|毛《も》|呂《ろ》山、|入《いる》|間《ま》から現在の東京都の|福《ふっ》|生《さ》市、|立《たち》|川《かわ》、|小《こ》|金《がね》|井《い》、|吉祥寺《きちじょうじ》、|井《い》|草《ぐさ》、|貴《き》|井《い》をふくみ、そして北西へ向って野火止へのびる全体が三角形の大きな湖よ。現在の東京都の半分がすっぽり入ってしまうほど大きいわ」
「こいつはおどろいた。笙子ちゃん、すると、この世界の関東地方には、こんな大きな湖があるというわけかい」
「元さん。次元が違っていても、自然地理的特徴には全く変化は無い、というのは知っているでしょう。たとえ、ここが現代とは異なった次元の世界でも、関東地方に大きな湖があるということはありえないわよ。それに、もうひとつ、これを見て」
笙子は、さらに他の絵図を開いた。
「|万《まん》|治《じ》元年つまり一六五八年に発行された絵図よ。これにも武蔵|大《おお》|湖《うみ》は描かれているわ。こちらの絵図は|承応《じょうおう》二年、一六五三年、小田原で発行されたものなの。これには武蔵大湖など描かれていないわ。小田原で発行されたものだといっても、まさかこれだけの大きな湖を描き忘れるということはないでしょう」
「それはそうだ」
「お姉さん。そうすると、この武蔵大湖というのは、一六五三年から一六五八年の間にできたということなの?」
「おいおい、冗談言うなよ。そんな五年ぐらいの間に、こんな湖が生れるものか!」
元は体を折って笑った。
「私ね、何か大きな勘違いをしていたような気がするの。いろいろ調べてみたのよ。この絵図ばかりではなくて、幾つかの古文書をあらためてみたわ。やはり承応三年頃から以前のものには武蔵大湖の名は出てこないわ。この両方の絵図は正しいのよ」
笙子の声音は、深い|謎《なぞ》を秘めてかすかに震えていた。
「最初、官軍や奥羽同盟軍の配備を見て、妙だな、と思ったのよ。攻め口の千住や板橋はわかるわ。でも、大きな川や沼のない江戸の西北一帯は、いちばん攻めやすい場所のはずよ。それなのに、成増口というのは、千住や板橋の方にくらべると、ずっと少ない兵力しか回していないでしょう。どうしてこの方面に大軍を回さないのか、ふしぎに思って来てみたのよ。そうしたら、こんな湖があるでしょう。びっくりしたし、うかつだったわ。これでは攻める方も守る方も、大軍が動かせないわけよ」
「なるほど、そうか。それで、その勘違いをしていたようだ、というのは何なんだ?」
「元さん。かもめちゃん。あなたたち、野火止用水って知っているでしょう」
うなずいたのは、かもめの方だった。元はあいまいな顔をした。
「玉川上水と新河岸川を結ぶ野火止用水が掘られたのは、明暦元年なの。明暦元年は一六五五年よ。この二枚の絵図が発行されるちょうど中間の時期よ」
「一六五三年には、まだ武蔵大湖はなかった。一六五八年にはもう湖はあった。そして一六五五年には、何かの大工事がおこなわれていた、というわけか?」
「そう」
元とかもめの顔から驚きと疑いが消え、その目にきびしい光が宿った。
「二人とも来てちょうだい」
三人の姿は消え、あとにはまぶしい陽光だけが残った。
三五
牛車に家財道具を積み、山のような荷物を背負い、たくさんの人々が|蟻《あり》のように進んでいた。中には、それまで住んでいたものと思われる家を分解したらしい柱や板を、そのまま何台もの|大八車《だいはちぐるま》に積み、大勢の男たちで曳いてくる者もあった。
「さあ、早く歩け!」
「今日のうちに、この土地から遠く離れぬと、雷に打たれて死ぬぞ」
街道のあちこちに立ったさむらいたちが、声を枯らし、人々の遅々たる歩みを|叱《しっ》|咤《た》していた。
「歩け! 歩かぬか!」
さむらいの一人が、道端に坐りこんだ老婆の腰を|蹴《け》り上げた。ひいっ、と悲鳴が上った。
「そんなことを言ったってよう、おさむれえさん。おらはこの土地で七十年を過しただよ。なんのことだか、わけもわからねえで、早く出て行け、早く立ちのけなんと言われたって、足の方が言うことを聞いてくれるもんじゃねえ」
老婆が涙声でうったえた。
「こいつ! |反《はむ》|抗《かう》のか!」
さむらいの手が腰の刀の|柄《つか》にかかった。
「婆ちゃん! 婆ちゃん! おさむれさんに向って何言うだよ!」
「どうか勘弁してやってくだせえまし。これ! 婆さ! 早く歩くだ!」
土ぼこりの中で怒声がひびく、泣声が|湧《わ》く。ひたすら道をいそぐ人々の顔からは、汗と忍苦の涙がしたたり落ちた。
そこへ伝騎が馬を飛ばしてきた。
「おい! 不審な三人連れが、御禁制地へもぐりこんだようだ。二番隊、三番隊はすぐ|二《に》|本《ほん》|松《まつ》へ行け。必ず捕えて本営へ引っ立てよという御命令じゃ。一番隊はこの場で警戒だ」
早速、二、三番隊の番頭は、街道警戒に散っていた番士たちを呼び集めた。
早くも抜刀する者がいる。
番頭の手が一|閃《せん》すると、彼らは真黒になって走り出した。
すでにどの村も無人だった。|庄家《しょうや》らしい家の前に、置き棄てられた家具が、運び去る者もないまま、白くほこりをかぶっていた。板戸、障子まで取り|外《はず》して運んだ家が多い。これから収穫期に入ろうとするこの季節に、この住民の大移動は、不可思議というよりも常軌をいっした暴挙としか言いようがなかった。貧しい畑には、それでも麦や野菜が実っていた。ところどころ、踏み散らされた畑があり、豆や野菜を引き抜いたらしい跡があった。畑の持ち主が、せめてもの思いで運び去ったのであろう。
赤い鳥居に、小さな土台石だけが残されている所もあった。その|社《やしろ》は、信心|篤《あつ》い者が牛の背にでも積んで持ち去ったのであろうか。
動く者の影もない白い街道を、三人はいそいだ。
「たしかに、このあたりにも設けられているはずよ。よく注意して見てちょうだい」
笙子だった。
元は丼から双眼鏡を取り出すと目に当てた。
|陽《かげ》|炎《ろう》の中で視野がたえ間なくゆらめいた。
「どう?」
「いや、それらしいものは見つからないな」
ゆっくりと地平線をなめていた双眼鏡が、はたと止った。
「黄色い|幟《のぼり》が立っているぞ。二キロメートルほど先だ」
「そこへ行ってみましょう」
「だが、行き着くまでには、ちょっと苦労するぜ。おでむかえの連中がやって来た」
ふりかえると、後方の雑木林のかげから、濃い土煙が立ち上り、急速にひろがりながらこちらへ近づいて来る。
「百人以上いるぜ! かくれよう」
「飛道具を持っているかもしれないから気をつけて」
もうもうと舞い上る土煙の中に、やがて人の姿があらわれ、抜身が陽光をはねかえして明滅した。
「お姉さん。たいへんよ」
「あの意気ごみはただごとではないわね。やはり何か相当だいじな計画が進行しているのかもしれないわ」
御禁制の地に潜入したという相手を探し出すだけにしては、これは必要以上に大がかりだったし、殺気立っていた。
三人は無人の農家のかげに走りこんだ。
とつぜん、中空に、何十本ものマッチの軸を投げ上げたかのように、細く長い影が浮いた。
それはみるみる矢の形になり、黒い雨のように降ってきた。ざわっ、と空気が鳴ると、土壁や板戸に、針山のように矢が突き立った。遠矢を射かけられたのだ。弓は鉄砲よりもおそろしい場合がある。鉄砲は物かげにひそんでいれば安全だが、弓は曲射が可能だから、物かげにひそんでいても、矢は頭上から降ってくる。こうした弓の使われかたは、戦国時代以降にあらわれたもので、弓が主要兵器としてさかんに使われた源平時代には、直射という考え方しかなかった。それが鉄砲が戦場にあらわれてくると、弓はいったんすたれる。だがその鉄砲も|遮《しゃ》|蔽《へい》物のかげにかくれている敵に対しては全く無力であることがわかってくるにつれ、ふたたび弓の威力が再認識されるようになった。半弓による|軽捷《けいしょう》弓隊の登場であった。遮蔽物を越えて突如、頭上から降ってくる無数の矢は、伏兵などにとってはたいへんな脅威だった。
「それ! 降ってきたぞ!」
三人は物かげにひそんで、できるだけ体をちぢめた。地面に伏せたのでは、かえって被射面積を大きくする。
ざあっ、と音をたてて降ってきた二、三十本の矢は、三人の周囲の地面にぶすぶすと突き刺さった。
喚声が間近に聞えた。矢に射すくめられている間に、抜身をさげたさむらいたちは、すぐそこまで迫ってきたのだ。
「お姉さん! 逃げましょう」
かもめが浮き足立った。
「だめ! ここで私たちが他の時代へ逃げたりしたら、こんどこそ完全に位置をマークされてしまいます。あれ[#「あれ」に傍点]を使わないでなんとか脱出しましょう」
「よし。だが、あの黄色の|幟《のぼり》はたしかめないでいいのか?」
「いいえ。それが目的じゃないの」
笙子はすばやく周囲を見回し、風向きを計っていたが、板壁の下にむしろや|竹《たけ》|籠《かご》を積み重ねた。
「元さん。火をつけて! かもめちゃんは、矢を集めて!」
乾ききった板壁はたちまち火柱を吹き上げ、真赤なほのおがわら|葺《ぶき》の屋根をなめはじめた。
黒煙が渦まき、視野が薄暗くなった。その煙の中へ、一団のさむらいがおどりこんできた。
「神妙にしろ!」
「手むかいするか!」
白刃をふるって迫ってきた。
笙子は、かもめがひろい集めた矢をかかえると、切り込んできたさむらいの足元へざっ、とほうり投げた。剛直な|篠《しの》|竹《だけ》に油を塗って|磨《みが》きこんだ矢柄だからたまらない。それに全体重をかけたさむらいたちは、手足をひろげて転倒した。
「ふ、不覚!」
「おのれ」
立ち上ろうとしてはまた転ぶ。起き上ろうとする鼻先へ、なかまの白刃が飛んでくる。あわてて身を伏せたところへ、誰かがつまずく。二、三人は腕や足から鮮血をほとばしらせた。
その彼らの頭上へ火の塊となったわら屋根が、どっと崩れ落ちてきた。
「|熱《あつ》つつつつ!」
「|退《の》け! 退けい!」
われ勝ちに逃げ出した。
このありさまに、部隊を指揮する番頭は、完全に逆上した。相手が反撃に出てきたと思ったのだ。残る部下を指図して二手に分け、前と後から突入させた。火はすでに周囲の雑木林から草原に燃えひろがっていた。高燥な台地ではあり、風も強い。もはや凄愴な野火となって、彼らを押しつつんできた。こうなっては不審な者を捕えるどころではない。上司へは死んだと報告しておけばよい。逃げたところで、自分たちがおこしたこの野火に巻かれて焼け死んでしまうだろう。番頭は、火傷を負った部下を集めて、火と煙の中から逃れ出た。
火の前線は遠くなり、黒煙は野末をおおいかくし、|天《てん》|日《じつ》を|翳《かげ》らせていたが、火元となったこの農家の|残《ざん》|骸《がい》は、ようやく|燠《おき》も白い灰になり吹き渡る風に|煤《すす》を飛ばして冷えはじめた。
とつぜん、うず高く積っていた灰の一角かごそりと動いた。そこは、この家の裏の軒下にあたる所だった。
灰がなだれのようにくずれ落ちると、その下から、そろそろと分厚い板がもち上ってきた。板の下に手がのぞき、頭があらわれ、さいごに板がはねのけられると、真黒に汚れた|元《げん》の顔がのぞいた。
「もう大丈夫だ」
元が地上に這い出すと、そのあとから、かもめと笙子が姿をあらわした。
「やれやれ。助かったわね」
「このあたりの農家は、たいてい、|室《むろ》と呼ばれる穴蔵を持っているのよ。非常の場合の貯蔵用に使ったり、お酒や|味《み》|噌《そ》を作るのに使ったりしているようだわ。穴蔵だから火には安全だしね」
さすがの笙子も、髪も顔も灰や|煤《すす》にまみれ見るかげもない。何はともあれ、その顔や手足を洗いたいところなのだろうが、この家には井戸もなく、日常の使い水である家の前の|溝《みぞ》も、焼け落ちた土壁に埋まっている。
「行きましょう」
笙子はしきりに|襟《えり》や胸元の灰を払い、焼け焦げて赤茶色にちぢんだ|鬢《びん》の毛を気にしていた。
見わたすかぎり焼野原だった。所々に、焼け死んだ野うさぎや野ねずみの死体がころがっていた。
まだ煙を上げている雑木林をかわして、浅い谷に降りると、小さな沼があり、|干《ひ》|上《あが》りかけた中心部に、わずかに水が残っていた。かもめと元は、犬のように|腹《はら》|這《ば》いになって、のどを鳴らして水を飲んだ。笙子は、手ぬぐいを濡らして、ほおや首筋をぬぐっただけだった。
「ああ、お水、おいしい。お姉さん、のどが乾かないの?」
「そんなかっこうをして、お水、飲めますか!」
「かっこつけちゃって!」
「かっこつけてじゃありません。たしなみですよ」
「言うゥ」
笙子は相手にしなかった。濡れた手ぬぐいで髪をぬぐうと、目尻が釣り上がるほど髪をひっつめて結び直した。汚れても|煤《すす》けても変らぬ笙子の|婀《あ》|娜《だ》姿だった。
「オシャレ!」
かもめは横を向いてくちびるをとがらせた。こういう笙子を見ていると、かもめは何となく突っかかりたくなる。かなわぬまでも、ひとこと言ってみたくなるのだ。
「なんですって?」
「ううん。なんでもない」
首をすくめたかもめが、ふいに歯をくいしばった。そのほおがみるみる|蒼《あお》ざめた。
「どうしたの? かもめちゃん!」
「ア|痛《い》タタ。おなかが痛い」
かもめのひたいに汗の粒が浮かんだ。
笙子のほおが|強《こわ》|張《ば》った。かもめの体を抱きとり、草の上に横たえようとしたとき、元がうめいた。
「|痛《つ》つつつ!」
「元さん!」
「|痛《いて》え! もみこまれるようだ」
元は腹を押えて、えびのように体を折った。
「しっかりしてよ。二人とも!」
「痛い! お姉さん! 助けて……」
「うう! がまんできない」
元とかもめは腹をおさえて、草の上をころげ回った。
笙子は、二人が飲んだ水たまりの水面に鋭い視線を当てた。三人にかき乱された水面はまだ多少、濁ってはいたが、ぽっかりと白い夏の雲を映して静まりかえっていた。
「薬はないわ……」
元やかもめが持っているはずはなかった。
短い時間の間に、元とかもめの顔には早くも危険な|翳《かげ》が浮かんでいた。うめき声もか細く、手はむなしく、宙をつかみ、笙子の助けを求めてさしのべられていた。
絶体絶命だった。二人を連れて脱出することは容易だが、それでは二度とこの地へ潜入することは不可能になる。一度、装置をはたらかせたら、それによって生ずる空間のゆがみは、たちどころに探知されてしまう。そのゆがみは、ごく短時間で消えるにしても、描かれた声紋のように、それを発した装置の特性をあますところなく伝えてしまうことになる。それは弾道を解析することによって、弾丸の発射位置を割り出すようなものだ。それは同時に、砲の性能まであきらかにしてしまう。
笙子のほおをつめたい汗が流れた。時間局員として、この状況から撤退することはできなかった。だが、二人をこのまま見殺しにすることはできない。敵はあきらかに、三人の進路を知って、|渇《かつ》にあえぐ者たちが必ずのどをうるおすにちがいないこの水たまりに、毒物を投げ込んだのだ。この段階では、なお敵は、禁制の地に踏み込んだ三人が、時間局員であるのかそうでないのか確信が持てないのだろう。時間局員であると確認していたら、こんな方法は用いないであろう。ここは無人の原野だった。もっと端的な方法、たとえばミサイルを|射《う》ちこんでくることぐらいはするだろう。彼らは調べたいのだ。死体にしてもよいから時間局員であるかどうかを調べたいのだ。
笙子はくちびるをかんだ。髪にさした|簪《かんざし》を抜いた。
「どうしました?」
無表情な顔で、山崎青年が立っていた。笙子の銀座の画廊の奥の事務室で、デスクに向っているときと、少しも変らない彼だった。
笙子は彼に、元とかもめを運んでゆくように命じた。山崎青年は、二人が水を飲んだと聞くと、スーツのポケットから小さなガラスびんを取り出して、それに水たまりの水を満した。それを内ポケットに収めると、元とかもめを|両脇《りょうわき》にかかえ上げた。
「ほかには?」
「何もないわ」
山崎青年の姿は、一瞬に幻の如く消え|失《う》せた。彼にかかえられた二人の姿も、ともに失せた。
吹き過ぎる風が、たえ間なく灰と|塵《ちり》を送ってきた。何の物音も聞えなかった。その|静寂《せいじゃく》の中に、笙子はたった一人残された。
笙子はゆるやかな斜面を上り、台地の端に立った。
その位置から見ると、黄色い幟は、すぐ近くだった。
火の回らなかった雑木林のかげに、丸太を組んだ高いやぐらが造られ、その頂きに、黄色の|幟《のぼり》がはためいていた。
雑木林が切れ、やぐらは目の前に迫った。
そのやぐらの下に、奇妙な物体が|据《す》えられていた。それは長さ三メートル、直径一メートル半ほどの金属の円筒だった。その円筒の周囲を、付属物と思われる複雑な装置が取り巻いていた。笙子はそれらの装置をたんねんに調べた。
予期していたことだった。おそらくこうであろうと思っていたことが、やはり現実の恐れとなって目の前にあった。
それは原子爆弾だった。
三六
鉄製の|枠《わく》に横たえられたそれは、長さ三メートル、直径一・五メートル程の円筒だった。弾体はその内部に収められている。その円筒にとりつけられているのは小型の受信機だった。|傘《かさ》のような形のアンテナが張り出している。爆弾の大きさは、十キロトン程度であろう。それを電波による遠隔操作で起爆させようというのだろう。
だが、一六五五年、明暦元年の武蔵野の原野で原子爆弾を爆発させて、いったいどうしようというのだろう? セットされたこの位置と場所を、それ自体単独に考えた場合、何の意味もないようだった。
笙子は歩きはじめた。あてもなかったが、この原子爆弾を中心とする半径五キロメートルの円周上を探すつもりだった。
だが、歩いていたのではとても間に合いそうもない。
笙子は簪を抜いた。朱の|珊《さん》|瑚《ご》玉をひねることによってパワーを加減し、時間通話機ともなるそれをくちびるに寄せた。この程度の出力による空間のゆがみならば、この原子爆弾をしかけた者にも気づかれることはないだろう。
「山崎くん。馬を一頭ほしいんだけれども」
「馬ですか?」
「そう。オートバイや自転車じゃおかしいものね」
「わかりました。そのまま二十秒間、送話状態でONにしておけますか? その位置へ送ります」
「おねがいするわ。あ、それから元さんとかもめちゃんはどうした?」
「二人とも全快しました。あの|水《みず》|溜《たま》りの水を分析したところ、アルカロイドRAA2が検出されました。これは三〇一五年、クロレラの一種、ラアア・ニグロマクラアタから検出されたものです」
「ふうん。そのクロレラは食用になるの?」
「発見当初は極めて有害なので食用は禁止され、培養も実験用に限られていましたが、その後、アルカロイドRAA2の抽出に成功し、ラアア・ニグロマクラアタの無毒種が作られると、|蛋《たん》|白《ぱく》質と脂肪の含有量が大きいために食用種として最適になり、三〇〇〇年代には大量に培養されました」
笙子はうなずき、それから元とかもめに与える指示を山崎に伝え、会話を打ち切って簪を地に置いた。数メートル離れて待つ。送られてきた馬の下敷きになったのではかなわない。待つ程もなく、周囲の空気が、量感のある波となって、一瞬、笙子にぶつかってきた。
目の前に|栗《くり》|毛《げ》のたくましい馬があらわれた。手綱も|鞍《くら》もついている。
「ありがとう。とどいたわ」
笙子は簪を髪にもどすと、馬背に身をゆだねた。手綱を引きしぼって馬首を|回《めぐ》らすと、ひと|鞭《むち》当てた。すばらしい脚だった。笙子の耳もとで風がうなり、草原は眼下を急流のように流れた。着物の前が割れて背後へひるがえり、|腿《もも》のずっと上の方までむき出しになった。だが誰も見る者はいないのだからかまわない。そのまま一里ほど飛ばした。雑木林につつまれたなだらかな丘がある。いっきにそこへかけ上った。
丘のいただきに馬をとどめ、笙子は双眼鏡を目に当てた。
南方に遠く、松林があった。その松林のかげに、火の見のような|櫓《やぐら》が見え、そのいただきに黄色い幟がはためいていた。
笙子を乗せた馬は疾風のように丘をかけ下った。そのあたりは畑もなく、見わたすかぎり雑草のおい|繁《しげ》った草原だった。松林は急速に近づいできた。
松林に沿って馬を進めてゆくと、そこに高い櫓が組まれ、その下に先刻見たものと同じ巨大な円筒が|据《す》えられていた。付属する受信機もアンテナも全く同じものだった。
笙子は馬の手綱を|曳《ひ》いて松林に分け入った。汗にまみれた体に、涼風がこころよかった。
やがて松林は切れ、|広《こう》|漠《ばく》と視界が開けた。台地はそこで終り、大地はゆるやかな傾斜をなして眼下の低地へつらなっていた。その浅く広い低地の底を、銀色の川が|蛇《だ》|行《こう》していた。その両側にわずかな水田が|拓《ひら》かれていた。
その浅い河谷の対岸はふたたび台地となって、雑木林を点在させながらはるかに西南方へ、波のように起伏していた。川は|石神井《しゃくじい》川だった。
さえぎるものもない視野の一角、石神井川に流入する支流の造る谷の奥に、さらに一本の幟が、その下に置かれているであろう物の所在を示していた。
もう一か所ぐらい確認する余裕はあるだろう。笙子はふたたび馬背に身を移すや、風をまいて斜面をかけくだった。水田を|渉《わた》り、石神井川を越えて対岸へ移る。その位置からは幟は見えなかったが、その方向に見当をつけて川に沿って馬を走らせてゆくと、やがて一本の枝谷があらわれた。枝谷といっても幅は一丁もあり、その真中を流れる小流の両側は、流れに沿って|短《たん》|冊《ざく》形の水田が作られている。
その谷をつめてゆくと、谷はしだいにせばまり、いつしか水田も消えて、頭上に台地の|急崖《きゅうがい》が迫ってきた。一本の小道がその|崖《がけ》を右に左に折れながら上っている。馬は巧みにそれをかけ上った。
台地のはずれに立つと、地名を刻んだ石が立っていた。一面に|苔《こけ》でおおわれた石の表面の文字をなかば指でまさぐるようにして読み取る。〈|羽《は》|根《ね》|木《き》|沢《さわ》〉とあった。笙子は現在の東京都の地図を思い浮かべた。|練《ねり》|馬《ま》区|羽《はね》|沢《さわ》であろう。昭和初年までは|豊《とよ》|多《た》|摩《ま》郡羽根沢村と称した所である。この枝谷が石神井川と合流するあたりに、今でも〈羽根木橋〉という橋がかかっている。
黄色の幟は、そこから二百メートルほど離れた台地の端に立っていた。近寄って確かめるまでもなく、その下に、これまで見たものと同じ装置が置かれていた。
このようなものが、あと幾つ据えつけられているのだろうか? そこからでさえ、さらに西や南に、点々と黄色の幟を望むことができた。全体では数十個に達するであろう。その意図は今やあきらかだった。
その引金にスイッチが入れられるのは、果していつだろうか? それをくい止めることができるだろうか? |灼《や》けるような焦燥が、笙子の全身に|渦《うず》まいた。
陽は|翳《かげ》り、草野は|暗《あん》|澹《たん》たる色につつまれていた。いつの間にか厚い雲が地平線をおおい、はげしい風が野面を吹きわたっていた。風は西から東へ、時に西南方から東北方へ、天地をどよめかせ、草原を押しなびかせていった。あきらかに台風が迫っていた。
笙子は風を背に東へ向った。
ふいに、笙子の背を電撃のようにつらぬいたものがあった。
東へ向ってはならなかった。
笙子は手綱をいっぱいに引きしぼり、馬首を南に立てた。風を側面に受けて、馬はたたらを踏んだ。笙子の|鞭《むち》が高く鳴ると、馬は狂気のように走り出した。
走れ! 走れ! 笙子は馬の背にぴったりと体を伏せ、風に|喘《あえ》ぐ馬をけんめいにはげました。羽根木沢から|豊《とよ》|玉《たま》、|野《の》|方《がた》|郷《ごう》から|高《こう》|円《えん》|寺《じ》|寺《じ》|領庄《りょうしょう》、さらに|淀《よど》|橋《ばし》十二|社《そう》。その|熊《くま》|野《の》|権《ごん》|現《げん》の深い林に走りこんでようやく馬をとめ、笙子自身、息もたえだえに林の下草に身を投げ出した。
雨こそまだ来てはいなかったが、風はいよいよはげしくなっていた。
とつぜん、北方の低い雨雲があざやかな青緑色に染まった。
笙子は地にひれ伏した。
|閃《せん》|光《こう》はつづけざまにはためき、すべての物体から影を奪った。武蔵野はこの世のものならぬ光に包まれた。それはあたかも低い空に、数十個の太陽が現出したかのような、すさまじい光輝の|氾《はん》|濫《らん》だった。大地は大波のように揺れつづけた。
下草のしげみのかげから見上げた笙子の目に、巨大な五彩の雲がおそろしい早さで天空へ突き上ってゆくのが映った。その頂部では雲自体がはげしい対流を起していて、雲の激流が上部から下部へと反転し、中央の部分からは絶えず新しい雲が噴出していた。そのたびにその雲の頂部全体が、あざやかなピンクからクリーム色、青緑色から銀へとめまぐるしく色を変えていった。
平原を低くおおっていた雨雲はいつの間にか吹き払われ、そのあとにのぞいた青空へ、その色と光の雲は高く高くそそり立ち、その頂部は一万メートルもの高空に達した。
その雲の柱は視野に入るものだけで、十数本は数えられた。すでにその頂部がくずれ、かなとこ雲のように水平にひろがりつつあるものもあった。また、ややおくれて、巨大な火の玉がいま、平原に生じたものもあった。
林立する雲の柱は、|淵《ふち》のような|虚《こ》|空《くう》を支える|冥《めい》|府《ふ》の|柱廊《ちゅうろう》のそれの如く思われた。
すさまじい烈風が大地をたたいてきた。雑木林のかなり太い枝までが、びしびしと折れ飛んだ。土ぼこりで一寸先も見えなくなった。人の頭ほどもある|石《いし》|塊《くれ》や土くれが、あられのように降ってきた。
ごうごうと天地は鳴りつづけていた。吹きすさぶ烈風、折れ飛ぶ木の枝、地をたたく石塊、大地は大波のように揺れ動き、降り積った土砂をはね飛ばし、払い上げた。
二十分、三十分……鳴動がようやく遠のき、虚空に鳴る風の音だけがよみがえってきた。
その頃から、雨が降ってきた。はげしい熱気流によって、いったんは消滅した雨雲も、急速に四方から失地を回復しつつあった。高空にひろがる原子の雲は、ひとつに融合して武蔵野全域をおおう巨大なかなとこ雲となり、真黒な雨を降らせながら、徐々に東方へ移動しつつあった。
頭上の大技が折れ、無数の葉や樹皮や小枝を降らせながら転落してきた。笙子はその下をくぐって必死に|這《は》った。滝のように降りそそぐ泥の雨は、鼻孔をふさぎ、のどに流れこんで呼吸さえ困難になってきた。笙子は、おびえて立ちすくんでいる馬をはげまし、はげまし、泥雨の中を進んだ。馬の平首にぴったり顔を押しつけていれば、どうにか呼吸をつづけることができた。時おり、紫色の閃光がひらめいたが、それは原子の爆発の光ではなく、雨雲を染める雷光だった。
台地と台地の間の|窪《くぼ》|地《ち》をえらんで、南へ南へ移動する。それとともに、泥の雨はしだいに澄んできた。さらに南へ進むと、雨は完全に透きとおった。もはや泥の粒子もふくんでいない。なお降りやまぬはげしい雨が、泥人形のような笙子を洗い流してくれた。髪をほどくと、|地《じ》|肌《はだ》まで|浸《し》みこんだような泥土が、際限もなく流れ出た。泥で|煮《に》|凝《こご》ったような帯や手甲、|脚《きゃ》|絆《はん》を苦心してほどくと、そこからもおびただしい泥土が流れ出した。胸乳の谷間や腰、下腹の|繁《しげ》みなどには、泥土が|縞《しま》模様を描き、泥の粒子が|貼《は》りついていた。体を洗い流し、窪地に|溜《たま》った水で衣類を|濯《すす》ぐと、笙子はふたたびそれをまとった。濡れた衣類は海草のようにひふに貼りついて不快だったが、今はどうしようもなかった。
とつぜん、笙子は気づいた。
武蔵野台地一帯に、原子爆弾をしかけた者は、台風の到来するのを待って、それを爆発させたのだ。
数十個の原子爆弾は、大地に巨大な爆孔をうがち、大量の土砂を吹き上げる。その土砂がふたたび地表をおおったのでは、この危険な作業の意図は無意味になる。おりから、関東地方を襲った強大な台風が、上空へ|捲《ま》き上げられた大量の土砂を、遠く|下《しも》|総《うさ》や|上《かず》|総《さ》の海へ運んでくれる。それがねらいだったのだ。
武蔵野台地にしかけられた数十個の原子爆弾は丘をくずし、谷を掘りさげ、またその爆孔はたがいにつらなって、武蔵野台地の端を縁とする巨大な窪地を形成する。それは盆地と言ってよい程の広さを持つものだ。
そして、それは……
一昼夜荒れ狂った台風はようやく東へ去った。
今日はぬぐったような青い空に、真夏の太陽がきらめいていた。朝から暑い。泥海と化していた草原や畑もみるみる水が引き、その下から厚い泥土があらわれた。さかんに白い水蒸気をゆらめかせて急速に乾いてゆく。だが、|蝉《せみ》の声や小鳥のさえずりは、心なしか低く、弱々しく、その数も少なく感じられる。
|見《み》|棄《す》てられた村々を通り過ぎる。やがて前方に広大な水面が見えはじめた。黒焦げになった雑木林が、枯骨のような枝を青い空に差しのべている。その炭化した雑木林のむこうに、銀色にかがやいて長くのびる一線は荒川の流れだった。
笙子は馬の足を早めた。前方はるかかなたで、右方の荒川と左方の遠い水面がひとつにつらなっているのがのぞまれた。
左方一帯は広大な盆地で、関東ロームの|赤褐色《せっかっしょく》の地肌を無惨にさらしていた。それは水の干上った海のように、生物の跡もとどめていなかった。右方にひろがる、泥で汚れた草野に比してさえ、それはいやすことの不可能な傷口の如くみにくかった。
馬の進むよりも早く、前方の水面はこちらへ近づいてくる。やがて、どろどろと異様な地ひびきがつたわってきた。
前方に高く水けむりが上っている。
ここも水底になってしまうのではないだろうか? 逃げるなら今のうちだ! 笙子は一瞬ためらった。左方の盆地の底までは、二十メートル近くある。その深さが笙子を|納《なっ》|得《とく》させた。
水けむりはいよいよ迫り、やがてその水けむりの下から、|溢《いっ》|水《すい》の前線がつなみのようにあらわれた。|逆《さか》まき、渦まいてしぶきを散らし、たちまち盆地全体を呑みつくしてゆく。
充満した水は、笙子の立つ丘陵の尾根を自然の堤防として、みるみるうちにそこに広大な湖を作り出していった。
真夏の烈日の下にきらめく水面は、奇妙なまぼろしのように風景を一変させた。
荒川と盆地の間を結ぶ運河によって、荒川の水はとうとうと盆地に流れこんでいた。おそらく、数日をへずしてこの盆地は満水し、武蔵野に掘られた人工の大湖水は完成するのだろう。
笙子のほおを、つめたい汗がとめどなく流れた。
三七
武州川越。川越城本丸の大広間は、林立する|燭台《しょくだい》にともされた百|匁《め》ろうそくによって、真昼のように照し出されていた。見事な|膳《ぜん》|部《ぶ》がならべられ、上席家臣約二百名が、威儀を正して列座していた。誰の顔も晴れやかだった。
やがて|警《けい》|蹕《ひつ》の声がかかった。満座、水を打った如くに静まりかえった。
「殿のおでまし!」
老職、|田《た》|中《なか》|伊《い》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》が畳にひたいが触れんばかりにひれ伏すと、家臣一同、いっせいに拝伏した。|簾《すだれ》を排して、上段の間へ姿をあらわしたのは、川越城主にて六万|石《ごく》を領し、今を時めく|老中《ろうじゅう》として幕閣に重きをなす松平|伊《い》|豆《ずの》|守《かみ》|信《のぶ》|綱《つな》であった。
松平信綱は、慶長元年、一五九六年、|大《おお》|河《こ》|内《うち》|久《ひさ》|綱《つな》の長子として生れた。大河内家は|三《み》|河《かわ》|譜《ふ》|代《だい》の家柄ではあったが、家格は低く、幕府勘定方に属して各地の代官を歴任していた。その大河内久綱の弟の大河内|正《まさ》|綱《つな》は、幼少より|家《いえ》|康《やす》に目をかけられ、十二歳の時、家康の命によって、十八松平のひとつである|長《なが》|沢《さわ》松平|正《まさ》|次《つぐ》の養子となった。長沢松平家には跡を継ぐべき男子がいなかった。大御所縁故の松平家とはいえ、上級旗本からは養子は引き抜くことはできなかったらしい。後代とは異なり、まだ旗本の鼻息は荒かった。
信綱にとって、この|叔《お》|父《じ》正綱が松平家の養子になったことが信綱自身の|生涯《しょうがい》を決定づけることになるのだから、人の運命というものはわからぬものだ。
松平家に入った叔父正綱は、幕閣にあって急速に頭角をあらわした。極めて算勘、経済に明るく、家康の側近につかえて|近習《きんじゅう》筆頭人の地位にあったが、のち、幕府の勘定頭となった。これはのちの勘定|奉行《ぶぎょう》であり、今で言えば大蔵大臣兼通産大臣であり、合わせて運輸大臣と郵政大臣をも兼ね、同時に日銀総裁と会計検査院主務をも兼務するというたいへんな役職である。つまり幕府の経済行政に関するすベての役所を一手に掌握するという幕閣第一等の実務官僚だった。
この叔父が、兄大河内久綱の長男である信綱に目をつけた。信綱は幼児の頃からずば抜けた頭脳の持ち主で、神童の名をほしいままにしていたらしい。数多い逸話があるが、今は省く。この|甥《おい》が父の跡を継いで|田舎《い な か》代官で一生を終ることを惜しんだ正綱は、甥信綱を自分の養子にしたいと兄久綱に申し入れた。長子のこととて、久綱も手離したくなかったのであろう。正綱の懇請は数回におよんだと言われる。ついに久綱もわが子の将来を考え、弟とはいえ、他家に入った正綱にわが長子信綱を托した。信綱六歳の秋であった。三年後、信綱は三代将軍|家《いえ》|光《みつ》の|小姓《こしょう》として江戸城に入った。
その後、松平信綱は、|三《み》|浦《うら》|正《まさ》|次《つぐ》、|阿《あ》|部《べ》|忠《ただ》|秋《あき》らとともに家光の側近として重きをなし、寛永元年には小姓組番頭、同十年には宿老並として|堀《ほっ》|田《た》|正《まさ》|盛《もり》、阿部忠秋、三浦正次、|太《おお》|田《た》|資《すけ》|宗《むね》、|阿《あ》|部《べ》|重《しげ》|次《つぐ》らとともに『六人衆』と呼ばれる重職に名を連ねた。これがこののち、幕末に至るまで幕府行政の中心であった老中、若年寄の二大機関のうちの若年寄の発足である。
すなわち、『若年寄職務定則』に|曰《いわ》く。
一、御旗本|相話候《あいはなしそうろう》万事、御用並御訴訟之事
一、諸職人御目見並御暇之事
一、医師方御用之事
一、常々御|普《ふ》|請《しん》並御作事方之事
一、常々|被レ下《くだされ》|物《もの》之事
一、京・大坂・|駿《する》|河《が》、其外所々御番衆並諧役人、御用之事
一、壱万石以下、組はつれ|之《の》者、御用並御訴訟之事
右之条々承届、|可レ致《いたすべき》二言上一者|也《なり》、
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寛永十一年三月
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[#地から1字上げ]松平伊豆守
[#地から1字上げ]阿部|豊《ぶん》|後《ごの》|守《かみ》
[#地から1字上げ]堀田|加《か》|賀《がの》|守《かみ》
[#地から1字上げ]三浦|志《し》|摩《まの》|守《かみ》
[#地から1字上げ]阿部|対馬《つしまの》|守《かみ》
[#地から1字上げ]太田|備中守《びっちゅうのかみ》
第一条で、はっきり旗本に関する諸事務の取扱いと、いっさいの監督を明示している。
諸職人御目見|云《うん》|々《ぬん》というのは、江戸城内で働くさまざまな奉公人の採用とその退職に関する監督のことで、今でいえば官房人事局の仕事である。常々被レ下物之事というのは、将軍よりの拝領物を勘案することで、当時は、諸大名を始め、旗本や城中で働く職人医師、奥づとめの者などに対し、慰労の意味でしばしば拝領物の下賜ということがあった。つまり|葵《あおい》の紋のついた|煙草《た ば こ》入れや、|文《ふ》|箱《ばこ》、|印《いん》|籠《ろう》などを与えるもので、これが与える方も与えられる方もなかなかやっかいだった。特に功ある者とか永年勤続者とか、隠居する者とかでそれぞれ人と場合に応じて下賜品が異なる。江戸城中で使われている器物、諸道具のたぐいはすべて葵の定紋入りであり、古くなったものからどんどん御下賜品に回したらしいが、それでも、|貰《もら》う方は、御所様|御《お》|手《て》|擦《すり》|之《の》|品《しな》と称して、その保管にはなみなみならぬ注意が必要だった。それでも、与える方は十分、吟味して与えないと、とんでもない所で葵の定紋入りの古つづらなどが町の道具屋の手に渡らないとも限らない。関係者以外の者が持っているだけで首が飛ぶ葵紋入り御道具なのだが、中にはその|栄《えい》に浴したことのない旗本や大名が、こっそり手を回して、拝領の品をゆずり受けたり、あるいは貸し借りをおこなったり、時にはそれが売官に使われるなど、はなはだ|不《ふ》|都《つ》|合《ごう》な状態になってきた。そこで、拝領物に関する諸事務を若年寄に一括させ、いったん下賜した品物でも厳重に記帳し、何年かに一度、検閲させることになったのである。
寛永十二年十月。松平信綱は|土《ど》|井《い》|利《とし》|勝《かつ》、|酒《さか》|井《い》|忠《ただ》|勝《かつ》、阿部忠秋らとともに老中に昇った。
寛永十四年。|島《しま》|原《ばら》、|天《あま》|草《くさ》に起った|切《キリ》|支《シ》|丹《タン》一|揆《き》に際して、松平信綱は幕府の最高指揮官として現地へおもむき、苦心の末、乱を鎮定した。
この島原の乱の直後、彼はポルトガル船の来航を全面的に禁止し、オランダ商館を長崎の|出《で》|島《じま》に強制的に移し、その行動をきびしく規制した。これによって完全に鎖国体制を完成することができた。
鎖国という言葉からは、わが国が外国との関係を完全に断ち、世界の通商圈から自ら身を|退《ひ》いて固い壁の中に閉じこもったような印象を受けがちだが、実際にはそうではなく、外国貿易による利益を幕府が一手に握り、|外《と》|様《ざま》大名たちに対して富の独占による経済的な絶対優位を確立するにあった。松平信綱は、幕府が世界経済の一環に加わることによって、何を得ることができるかを、よく理解していたといえよう。この鎖国すなわち幕府の外国貿易独占という事態は、幕府と、西国外様大名たち、ことに|島《しま》|津《づ》との間を隠微な、仮想敵国の関係に置いた。
彼は幕府のお歴々の間でも、とくにその政治的才能はずばぬけたものがあり、知恵伊豆と|仇《あだ》|名《な》され、その説くところはおおむね、老中会議の結論となった。
今、その松平伊豆守信綱は、はなはだ満悦の|態《てい》にて、|悠《ゆう》|揚《よう》となみ居る家臣たちの上にひとみをめぐらした。
「殿。本日より武州、川越は申すまでもなく、多摩、|足《あ》|達《だち》より下総、上総にいたる八十八か村。いかに|旱《かん》|天《てん》のつづきましょうとも、田に水の乾くことなく、飲み水に苦しむことなく、百姓の喜びこれにつきることはござりませぬ。また、ひいては関東四百か村、これによっておおいに利にあずかり、はずみを受け、その|収《う》|穫《る》ところ、計り知れぬものがござりまする。これもただ、ただ、殿の|御《ご》|叡《えい》|知《ち》と御仁慈のしからしむるところと、われら一同、|恐懼《きょうく》感激いたすばかりにござりまする」
老職、田中伊左衛門が家臣一同を代表して祝賀を述べた。信綱は大きくうなずいた。
「みなもおおいに御苦労であった。馴れぬ手に|鋤《すき》|鍬《くわ》を持ち、百姓人足どもとひとつになっての土掘り、また、もっこかつぎなどさぞや疲れたことであろう。|今《こ》|宵《よい》はおおいに酒を飲み、気を散じてくれい」
「ありがたきしあわせに存じまする」
田中伊左衛門がこれ以上、平らになれないくらい、身を平たくするとなみ居る家臣一同、平ぐものようになった。
「よいよい。伊左衛門、その方もようやった。その方のもっこをかつぎおる腰つきは、なかなか堂に入ったるものじゃった。のう、老職にしておくのは惜しいほどだぞ」
「これはこれは恐れいりまする」
田中伊左衛門は、|尻《しり》をもぞもぞ動かして身を縮めた。
それで一座は急に緊張がほどけて、はじめて解放と喜びの空気が|湧《わ》いた。そこヘすかさず酒が運ばれてくる。
最初のうちは、主君に遠慮しがちだった話し声も、やがて誰に気兼ねない騒ぎに変ってゆく。飲み放題の|無《ぶ》|礼《れい》|講《こう》になった。
「おい。お|主《ぬし》の鍬のふり方、ありゃ何じゃ。当藩ずいいちの|新《しん》|陰《かげ》流も、鍬のふり方には通用せんじゃったようだの」
「なにを言うか! お主がもっこの先棒かつぐかっこうこそ、末代までの語り草よ。こう、|股《また》を開いての、へっぴり腰での、ひょこらひょこらと歩む姿は、まさにはさみ箱かつぎの見習いやっこのごとくであったわ」
その向うでは、てのひらにできた豆の数の多少を争っているひと組がある。あちらでもこちらでも苦労話に花が咲いている。
「それにしても、いかに殿おみずからの|縄《なわ》|張《ば》りとは申せ、最初のうちはいかに相なることやと心配いたした」
「鋤鍬取るのも殿のおんため、土もっこかつぐも殿への御奉公とは申せ、いや、まことにつらいことではあった。今日をむかえて、いささかほっといたした」
「戦さの庭に|屍《かばね》をさらすのは武士たるものの本懐にござるが、土百姓の|真《ま》|似《ね》をさらして土ぼこりの中に生命を棄てるのは、何とも|口《く》|惜《や》しいかぎりではあると、それをのみ心にかけてござったわ。先ずは|祝着《しゅうちゃく》しごくにござる」
「長かったのう。もはや六年になり申そうか。それにしても掘りも掘ったり。ようやったわ」
笑い声が渦まき、盃が飛ぶ。誰の顔も喜びにかがやき、酒気はもやのように大広間にただよった。
「みなの者、おおいに過すがよいぞ」
松平伊豆守信綱の声が、その宴のにぎわいにいよいよ熱気を加えた。
この大広間に参会する資格を持たない下級武士たちは、城内のしかるべき場所で酒宴を開いていたし、また|中間《ちゅうげん》、小者、下女に至るまで、それぞれの場所で祝いの席についていた。
城内だけではなかった。
川越城下の町から所々方々の打々、離れ里に至るまで、何がしかの|御《ご》|褒《ほう》|美《び》金と|酒《しゅ》|肴《こう》料とが下げ渡され、町人も村の人々も、藩を上げての工事の完成を祝っていた。
それはただに川越藩のみにとどまらなかった。遠く南多摩、豊島の村々、足立郡内の幾十の郷村の者たちも同様だった。
そして、将軍家においても、内々に祝賀の宴を張ったということであった。
「殿! おそれながら、かような御名君を|戴《いただ》くことは、われら家臣一同の、末代までも誇りといたすところにござりまする」
田中伊左衛門は老いの顔を|濡《ぬ》らすなみだをぬぐいもあえず、主君信綱の前に進み出て、くりかえし、くりかえし拝伏した。
「もうよい。伊左衛門。よいからその顔をぬぐえ」
「もったいないおおせにござります。われら一同、ただ、ただ……」
伊左衛門は声を震わせて絶句した。
「余は、明日、江戸に|発《た》つ。早速登城いたしてお|上《かみ》に工事完成の次第を言上いたそう。お上におかせられても、この工事の完成を、ことのほか首を長くしてお待ちになっておられるそうな」
「おそれ多いことにござりまする」
「伊左衛門。明日の行列は忍びでまいろう。今夜は一同、心おきなく飲め。領民も今夜はさだめし、ほっとしていることであろう。行列の触れは出すなよ。伊左衛門」
「ははあっ」
田中伊左衛門は這いつくばって感涙にむせんだ。
実は、田中伊左衛門には、もうひとつの喜びがあった。
田中伊左衛門には一男一女があり、息子の|伊《い》|兵《へ》|衛《え》は二十五歳。御書院番にて百二十|石《こく》を戴いている。あまり出来のよくない息子だが、将来は父の跡を襲って老職が約束されている。とはいえ、現在伊左衛門と肩をならべる重職連の息子には秀才がそろっている。これが皆、伊左衛門の息子と同年輩だから、父親の伊左衛門としては心配でならない。川越藩にあって重職と言われる席は、家老、勘定奉行、目付、江戸家老、それに国元にあっても江戸表にあっても常時、主君の|傍《そば》につかえる近習頭の五職、人数にして八、九人というところだから、|下《へ》|手《た》をすると伊左衛門の息子の伊兵衛は閉め出されかねない。
それに伊左衛門の家は、代々の武家ではなく、伊左衛門の父親の|伊《い》|作《さく》は、新座の大百姓だった。篤農家であり、計数に明るかった伊作は新田の開発を志し、新座に田中新田を興して藩に認められ、さらに江戸において需要に迫られている野菜栽培を藩に説いて藩の財政におおいに寄与し、やがて勘定方に召され、ついに勘定方大番頭にまで上った人物だった。その跡を継いだ伊左衛門だったが、まあまあ大過なく過した。しかし、勘定方大番頭田中伊作に対しては、とやかく言う者もなかったが、父親の実績だけで重職の席に坐った伊左衛門に対しては、これは風当りがきびしかった。やっかみもさることながら、百姓上りに対する武門の意地でもあった。もちろん、それは伊作の代でもそうだったのだが、それを|慮《おもんぱか》って、伊作は同職の者はもとより下級の者に対しても極めて礼を|篤《あつ》くし、身なりもことさらに質素にしつらえ、少しもおごるところがなかったという。その父親と比較される伊左衛門も気の毒ではあったが、やはり父親に比べて、器量はかなり劣ったようだ。
その伊左衛門を驚喜させるような話が降ってわいた。
伊左衛門の娘、おかよは今年十八歳。幼少の頃から人目をひく|美《び》|貌《ぼう》の持ち主だったが、長ずるにおよんで|嬋《せん》|娟《けん》たる美女となった。
色はあくまでも白く、肌は絹のようであり、切れ長のひとみはややうれいさえふくんで雨に濡れた|海《かい》|棠《どう》の花のようであった。唇は|紅《あか》く小さく、もの言う声は天上の|迦陵頻伽《かりょうびんが》もかくやと思われるばかりだった。
そもそも伊左衛門は色黒く、顔の中程はやや|窪《くぼ》みたるが如く、|頤《おとがい》とがり、眉薄く目細く、釣り上り、どちらかといえば人に好感を与えない種類の面相だった。伊左衛門の妻も、体の肉薄く、髪赤く縮れ、|頬《ほお》のこけたギスギス声の、尻ばかりやけに大きな女だったというから、娘のおかよは両親には全く似ていなかったということになる。
伊作は|眉《び》|目《もく》あくまでりりしく、筋骨たくましい古武士の如き|偉丈夫《いじょうふ》であり、彼の妻は高崎辺の出身で、今中将姫と言われた程の評判の美人だったそうであるから、伊左衛門の娘はこの祖父母に似たのであろう。
伊左衛門におもねる者があり、ある日、この娘の存在が藩主松平伊豆守信綱の耳に入った。信綱はおおいに心を動かされた。やがて伊左衛門にそれとなく下問があると、伊左衛門は夢かとばかり喜んだ。それからは、娘の売り込みに必死になった。伊左衛門の娘のことを信綱の耳に入れた者は、もうすっかり頭越しにされ、|白《しら》けかえってしまった。
伊左衛門の猛烈な運動が功を奏し、娘おかよは信綱の|側《そば》|女《め》に上ることになった。ただし、大湖造成工事のこともあり、お上に遠慮もあって工事完成後という信綱の言葉であった。
伊左衛門は有頂天になった。これで家は安泰であり、息子の伊兵衛も将来が保障される。この時までに信綱にはまだ世継ぎが無く、おかよに男子でもできれば、伊左衛門は外祖父となる。これはもう父親ゆずりの老職どころではない。どのみち田中伊左衛門は、おのれの能力だけではどうにもならないのだった。
つぎつぎと進み出て祝いの言葉を述べる家臣たちの|途《と》|切《ぎ》れるのを、じりじりして待っていた伊左衛門は、そっと信綱のかたわらににじり寄った。
「殿。上下|挙《こぞ》っての大願|成就《じょうじゅ》のめでたきこの日、それがしの娘、おかよめにも、喜びを分ってやりとうござりまする」
信綱は、おう、そうだ、とばかり、伊左衛門に顔を向けた。
「よい。|館《やかた》へ召し連れい」
「有難きお言葉にござりまする。されば、いつがよろしゅうござりましょうや」
「今夜にせい」
信綱は|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に命じた。
今夜にしろ、と言われて、うろたえるような伊左衛門ではない。すでに二、三日前からその準備万端を整え、おかよには|磨《みが》きに磨きをかけ、手ぐすね引いて待っていた。
伊左衛門は早速、自分の家来を|邸《やしき》へ走らせ、主君の命を伝える。邸では、準備は整っているとはいえ大騒ぎになった。
それでも夕刻までには出発の用意が成り、おかよの乗った|輿《こし》の前後を固める|徒《か》|士《ち》三十人、諸道具を山のように積んだ大八車十二台。それを|曳《ひ》く曳き方約百人。おかよに従って城中へおもむく女中二十人。その他下女、小者三十人。あたかも一国の主の行列の如く、盛大かつ花やかに伊左衛門の邸をくり出した。
伊左衛門の邸より川越城大手に至る沿道は、盛儀をひと目見ようという民衆で埋めつくされ、行列より彼らに向って|撒《ま》かれた小粒はおよそ二百両。|餅《もち》五千六百切。|木《も》|綿《めん》手ぬぐい八百枚におよんだ。
城内に入ったおかよはいったん休憩ののち、奥の書院にて伊豆守信綱に|拝《はい》|謁《えつ》、御書付を賜ってこれより正式にお|加《か》|代《よ》の|方《かた》と名乗ることになった。伊豆守信綱の奥方は|御《お》|風《か》|邪《ぜ》の事とて、御同席にはならず、代って奥方付番頭の老女|藤《ふじ》|岡《おか》が|挨《あい》|拶《さつ》した。それより城内、|紅葉《も み じ》|御《ご》|殿《てん》と呼ばれる|局《つぼね》に移って、老女たちに面会し、奥向諸方への|御《お》|土産《み や げ》が|披《ひ》|露《ろう》された。
あわただしさのうちに夜になる。
伊豆守信綱は、この日一日中、本丸天守にあって、城の南方から西方へかけて|漠《ばく》|々《ばく》とひろがる大湖の水面に目を当て、なお刻々とその面積をひろげつつある水の勢いと、護岸の状態などについて、絶えず入ってくる報告に耳を傾けていた。彼は自分の計算どおりに事態が進行しつつあることに、おおいに満足し、夕刻、いつもよりずっと早い時間に奥へ引き揚げた。さすがに疲れたらしい。
城の内外にはいよいよ喜びとにぎわいが充満していった。
これより先、日没をむかえてお加代の方は|沐《もく》|浴《よく》し、入念に化粧して|白《しろ》|綸《りん》|子《ず》の寝衣に着換えた。腰までとどく黒髪を背に垂らし、係りの老女に手を引かれて寝所へ歩むその姿は、まさに|幽《ゆう》|艶《えん》そのものであった。
紅葉御殿の奥まった寝所は二十畳敷にて、内十畳は上、十畳は下。その境に一段あり、上に|緞《どん》|子《す》の|三《み》|重《かさ》ね。共布の比翼の|枕《まくら》が置かれていた。|香《こう》のかおりが|馥《ふく》|郁《いく》とただよっている。
お加代の方は|褥《しとね》の上に端座して面を伏せた。
そこへ添寝の|中臈《ちゅうろう》が忍びやかに入ってきた。
「お加代の方様。|今《こ》|宵《よい》|宿《との》|直《い》をつとめまする|相《あい》|生《おい》にござりまする」
冷ややかとも聞える静かな声音で、そう口上を述べると、上手に横顔を見せて坐った。
将軍をはじめ、大名の家では、主君が側女と|同《どう》|衾《きん》する場合、添寝とか宿直とか称して、老女などが同じ部屋に寝る。これは側室が衾中にて政治的な要求や、|度《ど》|外《はず》れなおねだりをするのを警戒し、さまたげるためであったといわれる。実際、戦国時代にあっては、人質とか政略的な性格の側室が多かったから暗殺を恐れたのであろう。後代になると側室による人事への|容《よう》|喙《かい》が幕府人事の大きな障害になってゆく。権勢を誇る|御《お》|部《へ》|屋《や》|様《さま》ともなれば、添寝の老女の存在など眼中にも無かったのであろうか。
房中における添寝などという慣習が気にならぬほど、将軍や大名たちの神経は異常であり、常人とは並外れていたのであろう。彼らの権威をもってすれば、自分が|嫌《いや》なことややりたくないようなことは、その日からでも中止させることができるのだから、それにもかかわらず、そのような慣習が結構つづいたことをみると、案外、楽しんでいたのかもしれない。
男子禁制の大奥に永年つとめ、新参の御部屋様などには、ことさらに冷たくあたる老女などに対しては、思うさま|痴《ち》|態《たい》をくりひろげて見せて、男|日《ひ》|照《でり》に日夜身も細る彼女たちに当てつけ、|復讐《ふくしゅう》をとげるなどということもあったようだ。なにしろ女同士のことだから|凄《すさ》まじい。
やがて、長廊下の先で、腰元が打つ拍子木が乾いた音を伝えてきた。
「殿のおなりにござりまする」
|襖《ふすま》の外で、ひかえの老女が告げた。
廊下を数人の足音が近づいてきた。ひとつの足音だけが、ずしりと響く。
足音は襖の前で止り、その襖が左右に開かれると、腰元がささげ持つ|手燭《てしょく》の灯に送られて、伊豆守信綱が入ってきた。
お加代の方は褥の上で平伏した。
「これはまた、いちだんと|艶《えん》じゃのう」
信綱は満足そうに、分厚い褥にどさりと腰を落し、腹の底から酒気を吐いた。
お加代の方は、わずかに身を起し、消え入るような声で、だが教えられたとおり、信綱にたずねた。
「お|酒《ささ》、まいられまするか」
褥からやや離して、|膳《ぜん》|部《ぶ》が整えられている。
信綱は自分で首筋の後をたたきながらうなずいた。
お加代は立ち上った。その足もとが、わずかにふらついているようだった。|芯《しん》をつめた|灯《ひ》|皿《ざら》の、ゆらめく|翳《かげ》の中を、純白の寝衣の|裾《すそ》を曳いて|楚《そ》|々《そ》と歩む姿は、夜の花の精もかくやと思われるばかりだった。
信綱の目が、満足げな光をたたえて、その姿を追った。
「お加代」
「あい」
信綱の声に、お加代はその場へ坐り、指を突いて、信綱のつぎの言葉を待った。
「脱げ」
「……あの……」
お加代の顔にとまどいが動いた。酒を飲むと言われたのか、それとも床入りを命じられたのか、お加代は判断に苦しんだのだった。
「脱いで|酌《しゃく》せよ」
「…………」
伊豆守はそれきり無言で、自ら首筋をもみつづけている。
お加代はおずおずと体を起し、かたわらの膳部ににじり寄った。
「お加代。わしは脱いで酌をせよ、と申しておる」
伊豆守の声がずしりとお加代の胸にのしかかってきた。
「なれど……」
お加代は虫の鳴くような声で何か言いかけ、救いを求めるように、思わず添寝の老女に視線を投げた。それがどのようなことなのか、説明を受けてはいなかったのだ。
たまりかねたように、添寝の老女相生が動いた。上と下の境いで一礼すると、そのまま、するすると上段へ上ってきた。お加代のかたわらにぴたりと坐ると、お加代の方のかげに身をかくす|態《てい》にて、お加代の耳元に口を寄せた。
「さ、帯、解かせられましょう」
「殿様には、酌を、とおおせられておりまする」
「いかにもさようでござりまする。されば帯を」
老女はお加代の方の胸元を巻いている白絹のしごきを、さっと解いた。寝衣の前が開いて肌がのぞいた。お加代の方は動転して気もそぞろに体を折り、前を|掻《か》き合わせて必死に|抗《あらが》った。
「ええい。お上の|思召《おぼしめし》であるぞ! なにをそのように」
老女相生は、たちまち目を釣り上げると、か弱い小鳥をいたぶる|老猫《ろうびょう》のように、お加代の方の寝衣を|引《ひき》|剥《は》ぎにかかった。
「あれ、ご無態な!」
お加代の方は悲鳴を上げた。お加代とて男と女の間のことを、何も知らぬような小娘ではない。側室とはいえ、伊豆守は|愛《いと》しい|御《おん》|殿《との》となるべき人であり、その伊豆守が望むことなら、生れたままの姿で酌をすることぐらい、そう|抗《あらが》うようなことでもなかった。だが、それも二人だけの場でのことである。添寝のことさえあるに、その添寝役の老女がこの場へ進み出てきて、自分のまとっている寝衣を引剥がしはじめると、もう、そうはいかなかった。見られているという意識が、お加代に必死の防衛の姿勢をとらせた。
「この不心得者めが!」
相生は鬼女のような顔つきになると、胸をかき抱くお加代の手首をとらえ、|把《とっ》|手《て》を回すように背後へねじってしぼり上げた。
「おゆるしくださりませ!」
お加代は身をくねらせて相生の手から逃れようとした。
「おのれ! お上の御前ではしたない|真《ま》|似《ね》すな!」
相生の手は器用にお加代のまとっていた寝衣を剥ぎとった。さらに肌と白さを競う腰のものまでむしり取った。お加代は乳房をかかえてうつ伏した。美しい背中に、燭台の灯が光輪を落した。引締った腰と、成熟した豊かな|尻《しり》が無惨な責めの前に震えていた。
相生はお加代の方の両腕をしごきで縛り上げた。前へ回ると、お加代の方の頭ごしに腰に腕を回し、泣きさけぶお加代の尻を高く支え上げた。
「さ、お上」
馴れた手さばきだった。
伊豆守の目が、お加代の方の双球の間の小さな窪みに吸い寄せられた。その下につづく処女の色と形にはどうやら興味がないようだった。
「今宵はお心おきのう、お楽しみあそばされますよう。お上。お召物などお取り下さいませ。もはやお上のお心を悩ませたもうものはござりませぬによって」
相生は伊豆守に、ねんごろにすすめた。
伊豆守はためらった。
「お上。お上が他に御存念なく、あそばれたまうことこそ、今は大事かと。お加代の方様も、これ、このとおり、丸裸にてござります。お上も」
相生の言葉に、伊豆守もその気になったらしく、帯をしゅっとほどいた。だが思い直したらしく、いったんほどいた帯をふたたび締め直した。
「お上。お上は以前は、お召物などすべてお脱ぎ棄てなされて、お心のままにお楽しみあそばしましたなあ。それが、あの大湖工事の始まってよりこのかた、ついぞそのようなこともなく、従添寝番を承るわれら一同、かげながらもったいないこと、さまで御心痛あそばされておいでかと、なみだをおさえてまいりましたぞ。今宵よりは、むかしのお上にもどってくださりませ」
相生は声をつまらせて伊豆守をかき|口《く》|説《ど》いた。まさに、主君の|閨《けい》|房《ぼう》をあずかる老女の忠義であった。
「うむ」
信綱はその言葉におおいに心動かされながらも、なお着衣のまま、お加代と交わることを考えているようだった。
「お上! さ、|悉《しっ》|皆《かい》お楽しみなさりませ」
相生は、お加代の方の腰を逆しまに抱えていた腕の一方を放すと、自分のふところをまさぐって一個の赤貝の|殻《から》を取り出した。すばやくその殻を二つにすると、中の|半《はん》|練《ねり》|様《よう》の物を指ですくい取り、それをお加代の秘所の小さな窪みに、たっぷりと塗りつけた。|鬢付油《びんつけあぶら》の匂いがただよった。
「お上……」
相生は、お加代の尻を灯に向けると、指頭で、半練油にまみれたそこを軽くねぶった。
「ああ! そのようなところを。いけませぬ!」
お加代の方が絶叫した。全身が硬直し、|大《だい》|臀《でん》|筋《きん》がけいれんした。相生はかまわず、中指を関節まで押しこんだ。お加代の方は、苦痛と|羞恥《しゅうち》で子供のような泣声を発した。抜いては押し込み、押し込んでは抜く。その間にも、他の指は未通の部分と、その先のもっとも敏感な部分を巧妙に責め立てていた。お加代の方は絶え入りそうにあえぎ、泣きむせんだ。
それを目にした信綱は、ついにがまんがならなくなったものとみえ、やにわに寝衣を脱ぎ棄てた。下帯までむしり取ると鼻息も荒々しく、むきたての卵のようなお加代の尻に|挑《いど》みかかった。急角度にそびえ立った|棍《こん》|棒《ぼう》のようなものが湯気を立て、早くも玉滴をにじませている。信綱はけもののように目を光らせ、両の手でつややかな双球をわしづかみにすると力いっぱい左右に押し開いた。薄いひふを引きしぼったような小さな窪みがあらわになった。そこへ巨大なものの先端を押し当てる。お加代の方は魂も消え入るような悲鳴をほとばしらせた。そんなものが果して入るのかどうか、さすがの相生もほおを引きつらせて生つばを呑みこんだ。まるで|杭《くい》を打つようなものだ。信綱の|下《か》|肢《し》に力が入り、腰が|撓《たわ》んだ。先端が没し、それを呑みこんだ部分の周囲が引き裂けそうに展張した。お加代の方は苦痛に身をよじった。さらに押し入れる。薄いひふが切れ、血がにじんだ。これは房事ではなく処刑だった。いよいよ最期の|止《とど》めを刺すように信綱が腰を動かしかけたとき、三人の体の間から低い笑い声が|湧《わ》いた。
信綱はぎょっとしたようにその動きを止めた。
お加代の方のくちびるからは、苦痛のうめきに変って、忍びやかな笑いが|洩《も》れていた。
「な、なんとしたぞ。気でも狂うたか!」
信綱が気おくれしたかのように、逆しまになっているお加代の顔をのぞきこんだ。
そのとき、相生が、お加代の方の体を支えていた両の手を離した。白い裸身は背後へよろめき、継ぎ止められたままの信綱の体もろとも、二つに重なって床に落ちた。
相生はそのかたわらを風のように走り、信綱が脱ぎ棄てた寝衣を手にした。その裏をすばやく探る。
「あった!」
相生は寝衣の裏に縫いつけられたポケットから、銀色の小さな箱を取り出した。
「動くな! 時間密行者。動くと生命が無い!」
「おのれ! きさまは」
相生はすばやく重い|衣裳《いしょう》を脱ぎ棄て、美々しく|結《ゆ》い上げた|御《ご》|守《しゅ》|殿《でん》|髷《まげ》を頭からすっぽりと抜き取った。あらわれたのはかもめだった。
「女に目がくらんだのが運のつきよ! いつもタイム・マシンを体から離したことがないのに、今夜はとうとうがまんしきれなくなって素裸になったのが身の破滅だったわねえ」
「時間局員か! くそ!」
信綱は歯がみも凄まじく、かもめにとびかかろうとした。
「|痛《い》つつつ!」
信綱は激痛に身をゆがめて身を折った。
「こ、これはどうしたことじゃ! おのれ! あっ、|痛《い》たたた!」
信綱のひたいから脂汗が滴り落ちた。身動きするたびに、|股《こ》|間《かん》から脳天まで激痛が|衝《つ》き上った。信綱は必死に、お加代の方の体からおのれの部分を引き抜こうとしたが、それは|万《まん》|力《りき》のように締めつけられ、力を加えれば加えるほど逆にじりじりとくわえこまれていった。
「たまらぬ。離せ! 離せ! 引き千切れるわ!」
信綱は悲鳴を上げた。すでにその全長が没し、|嚢《ふくろ》の部分までがくわえ込まれつつあった。
「野火止用水建設の時期に合わせて、原爆で武蔵大湖を作ろうとしたわけを、聞きたいものね」
「そ、それは……」
「さあ、お言いなさいよ」
「痛い! 言う、言う。おれたちは歴史研究グループなのだ」
「歴史研究グループ?」
「おれたちは過去の歴史を変えることによって、未来がどう変るかを研究していた」
「ふん。もっともらしいことを言うじゃないの。わかっているのよ。三宅さん。あなた、三一二〇年条令A31、歴史変革に関する特別項目第十一章を知っているわね」
「……知っている」
「当該条令違反で|逮《たい》|捕《ほ》するわ」
かもめは銀色に光る手錠をとり出した。手錠の一端に刻まれているダイヤルの指針を動かし、時間局法務検察部の波長に合わせた。
「さあ、むこうへ行ってこわい人たちにせいぜいめんどうをみてもらうことね」
かもめは開いている手錠を、信綱の手首に回した。手錠自体が、軽便型のタイム・マシンであり、その手錠につながれた者をあらかじめセットした場所へ運んでくれる。銀色に光る二つの円弧が、今、カチリとひとつに合しようとしたとき、とつぜん、一人の男が弾丸のように躍りこんできた。
「時間局員! よくもかぎつけて来たな!」
彼は腰の大刀を抜き放つと、片手なぐりにかもめに襲いかかった。宙に跳んだかもめの足が畳につかぬうちに、ふたたび男の刃が風をまいてすり上げてきた。かもめは片足で畳を|蹴《け》るや、|飛《ひ》|燕《えん》のように宙で返った。
「早く来い!」
男は信綱の腕をつかんで引き立てようとした。そうはさせじと、お加代の方は畳に|貼《は》りついた。信綱がおそろしい苦痛のさけびを上げ、男ははじめて事態をさとった。
「はかったな! 時間局員!」
「逃げられるものなら、逃げてみろ!」
高い|格天井《ごうてんじょう》に、やもりのようにさかさまに貼りついたかもめの手に、麻酔銃が握られていた。
「こしゃくな!」
男はかもめの黒い影へ|小《こ》|柄《づか》を飛ばし、かもめがそれをかわすすきに、男は、|瀕《ひん》|死《し》のけもののようにのたうつ信綱のかたわらへ跳躍した。
「不覚をとったな!」
男は泣くようにさけんだ。男の手の大刀がひらめいた。密着しているお加代の方の白い背中と、信綱の腹部との間を、白刃は電光のように走りぬけた。二つの肉体は、はじかれたように跳び離れた。血しぶきが飛び、信綱は下腹部をおさえてよろめき倒れた。お加代の白い腰は|朱《あけ》に染まっていた。
男は倒れた信綱の体をひっつかむと、あけ放された廊下へ走り出た。かもめの麻酔銃が鈍い発射音とともに、銀の針を吹き出した。燭台の光の輪の中を、針は銀の雨のように乱れ飛び、音もなく柱や壁に突き立った。男はその下をかいくぐって夜の|闇《やみ》に逃れた。
お加代の姿が消え、|忽《こつ》|然《ぜん》と笙子があらわれた。笙子はかもめに深追いをいましめ、二人はまぼろしのように燭台の|灯《ほ》|影《かげ》に淡く消えていった。
三八
赤坂、六本木あたりの灯の海を眼下に見る高台にそびえるある病院の玄関へ、今、一台の乗用車がすべりこんできた。午後七時までにあと十分もない。面会時間も終りに近い頃とて、広壮な玄関ホールには引揚げる見舞客で混んでいた。退院も間近い患者は、名残り惜しげに、見舞客を送ってきてここでまだ立ち話だ。
「早く退院してくれよ。|麻雀《マージャン》のカモがいなくて困っているんだから」
「ふん。今のうちにお子様麻雀を楽しんでおけや。近いうちに、またがっぽり|稼《かせ》がせてもらうからな」
見舞客と患者の間で、元気な声がびんびんひびく。
「あたしがいない間に、あなた、すっかり羽を伸ばしているんじゃないの?」
「そんなことないよ。毎日七時にはちゃんと帰っているよ。うそだと思うならお|義《か》|母《あ》さんに聞いてみろや」
「浮気したりしたら承知しないから!」
ネグリジェの上にガウンを羽織った若い人妻が、見舞いに来た夫に|拗《す》ねている。
「パパ、こんどくる時、仮面ライダーのベルト買ってきてよ」
「ああ。おとなしくしていろよ。ママの言うことをよく聞いてな」
玄関を出てゆく父親を、息子とそのつきそいの母親が見送っている。
その|翳《かげ》のあるにぎわいを縫って、一人の人物が受付の窓口へ進んだ。
「あのう、ちょっとおうかがいします」
受付の窓口に坐っていた事務員は、目の前で小腰をかがめた美しい女に、思わず目を吸い寄せられた。
白い顔に渋い和服と、抱いた花束がよく似合う、ねたましくなるような|佳《い》い女だった。
「三宅貞造さまの病室は何号室でございましょうか?」
事務員は三宅貞造の名はよく知っていた。特別室八〇一号。その病室は、客種のよいこの病院でも、もっとも上等な部屋で、貴賓室ともいうべき部屋だった。
病室の番号を聞くと、女は受付の前を離れていった。わが国第一を誇る総合商社である三宅コンツェルンの会長ともなれば、あのような美しい女性の見舞客もあるのであろう。受付の男は、ぼんやりとその後姿を見送った。それで、間もなく面会時間は終りますから、いそいでください、と言うのをすっかり忘れてしまった。
八階でエレベーターを降りると、カーペットを敷きつめた廊下の両側に、ドアがならんでいる。そのドアも壁もクリーム色一色であり、カーペットのあかるいぶどう色とよく合って、特別室のならぶ豪華な階の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を伝えていた。
八〇六……八〇五……八〇三……八〇二、どの部屋も広いとみえて、ドアとドアの間隔も離れている。
「ここだわ」
八〇一とドアに記されたその下に、三宅貞造様という小さな札がかかっていた。
小さくノックする。
「どうぞ」
女の声が聞えた。
ドアを開くと、やわらかい照明の下に、|豪《ごう》|奢《しゃ》な病室の内部が浮き上った。自邸の居間かと思わせるような上等な家具や冷蔵庫、大型のテレビまで備わった部屋だった。サンルームやひかえの間までついている。
壁に寄せて大きなべッドが据えてある。そのベッドを、透明なビニール幕がすっぽりとおおっている。そのかたわらに、酸素ボンベやさまざまの機器がならべられている。
グルゥ……グルゥ……グルゥ……
そこからコンプレッサーのかすかな回転音がつたわってくる。
その透明なビニール幕でおおわれた空間の中に、一人の男が横たわっていた。三宅貞造だった。
つきそっていた看護婦が、立ち上った。
「三宅さん。ご容態はいかがですの?」
看護婦は、患者の顔にちらりと目を走らせてから、事務的な口調で答えた。
「だいぶお元気になられました。お話をなさってもよろしいですが、あと二分ほどで面会時間が終りますから、チャイムが鳴りましたらお帰りください」
それだけ言うと、読みさしの週刊誌を手に、ひかえ室の方へ引きさがっていった。
笙子は手にした花束をテーブルの上に置き、ベッドのかたわらに歩み寄った。
三宅は眠っているのかと思ったがそうではなく、ビニール幕の中から笙子を見つめていた。
「こんにちは」
「おお! 笙子さんか」
「三宅さん。おけがのようすはいかがですの? おどろきましたわ。私」
青龍堂画廊の女主人、笙子は憂わしげに眉根を寄せて、ベッドをのぞきこんだ。
「いや。とんだ事故を引き起してしまってね。|平《ひら》|河《かわ》町の|交《こう》|叉《さ》点を過ぎたところで追い越した車をやり過そうとしたんだが。平賀くん、ほら、ジャパン・スチール・アンド・シップビルディングの社長の。彼と同乗していたんだが、彼は無事だった。ま、よかった」
「まあ。平賀さんもでしたの?」
「私は気がついたら、ここへかつぎこまれていた」
「そうでしたの! 私、お店のお客さまにうかがいましてね、とるものもとりあえず、やってまいりましたのよ」
「ありがとう。ありがとう」
三宅は口調は元気そうだったが、体はかなり|憔悴《しょうすい》しているようだった。
「ほう。笙子さんのお店のお客というと、誰かね? ずいぶん早いね」
笙子はほほ|笑《え》んだ。
「ちょうどその方も、車を運転していて、平河町を通りかかったんですって」
「ほう、そうかね」
「無理をなさらないようになさいませ。もうお若くないんですから」
「ああ、わかっとるよ」
三宅は苦く笑った。
「そうだ。笙子さん。実はあなたにプレゼントしようと思ってな。実は事故を起したときは、それを買いに行ったところだったんだ。平賀くんにも見てもらった」
「私にプレゼントをくださるんですか?」
「これまで、いろいろとおせわになったからね。何かお礼をと思っていたら、知っている宝石店で、すばらしいダイヤモンドの原石が手に入ったという。それをあなたにプレゼントしようと思う」
「まあ、私にダイヤを?」
「原石だから、あなたの好きなようにカットするといい。その店でさせるから」
三宅は枕元をさぐって、ビロードの小箱をとり出した。ふたを開くと、光の結晶のような光輝がほとばしった。たしかに時価にして億をくだらないと思われるダイヤモンドの原石だった。
「すてき! これはすばらしいものですわね! でも、私、このような高価なものを|戴《いただ》くわけにはまいりませんわ」
「いいんだ。いいんだ。ありていに言えば、私はその店の経営者でもあるのだよ。遠慮はいらないから、受け取ってくれたまえ。先ず持ってみたまえよ。私はちょっと腕がのびないのでね、そのビニール幕の下をそっと持ち上げて手を入れてくれんか」
三宅はもどかしそうに、自分の体をおおっているビニールの垂れ幕をあごで指し示した。
「これをですか?」
笙子は手をのばしかけて、思わず、はっと息を呑んだ。つめたい|戦《せん》|慄《りつ》が背筋を電撃のようにつらぬいた。
目の前の、薄いビニールの垂れ幕は、笙子の身じろぎにともなうわずかな空気の乱れにも、重さを持たぬもののように小さくゆらめいていたが、今見るそれは、空間をさえぎる物質的な境界ではなかった。三宅貞造の横たわったべッドを|容《い》れる空間は、笙子の立っている空間とはあきらかに、その時空的特質を異にしていた。その内部をみたした光は、室内の照明とは異なり、その空間の属性であった。こちら側の空間と接する面が、光のわずかな干渉を起して、ビニール幕の表面のように見えているだけだった。
「どうした? さ、手を出しなさい」
三宅は笑みをふくんで笙子をうながした。
「笙子さん。この重傷にあえぐ老人の切なる願いを聞いてくれんのかね。私も、もうふたたび元気になれるかどうかわからん。受け取ってもらいたい。な、笙子さん」
三宅の目には、うっすらとなみだが光っているようだった。
「でも、私」
「遠慮などしてくれるな。私は悲しくなってきたよ。こんなもので、あなたの心を引きつけようなどという若者めいたこの心情を、あわれんでくれんか」
「困りました。私」
「私は引込みがつかなくなったら、どうしたらよいのかね」
三宅は老人らしく、|執《しつ》|拗《よう》でしかも効果的な攻めを発した。
受け取らないためには、|脱《だっ》|兎《と》の如くここを逃げ出すしかない。笙子がそんなみっともないことをするはずがないことを知っている三宅だった。
「私、このつぎまいりましたとき、戴きますわ」
笙子はたじたじとなって、ひたいに浮かんだ薄い汗をぬぐった。
敗北だった。三宅の体には指一本触れることができない。それを破ることはできないことではなかったが、ここでやったのでは、この病院全体を消滅させてしまいかねない。笙子の追及を受けているとはいえ、三宅はまだ笙子に対して致命的な失点を負っているわけではない。それだけに、笙子としては、ここで手も無くぶざまに追い帰される屈辱は身を刺されるようだった。
だが、その三宅の構成する空間の内部へ、たとえ指の先でも入れたがさいご、笙子の肉体を構成する物質のことごとくは、その空間の時空エネルギーに変換されてしまうだろう。
「ほんとうに戴いてよろしいのかしら。それじゃ、せっかくだから……」
「おう。受け取ってもらえるのかね。それは|嬉《うれ》しい」
三宅は|相《そう》|好《ごう》をくずした。
笙子はそろそろと手を伸ばしながら、胸の中で秒を数えた。
六……五……四……三……二……一……
“ピン、ポン、キン、コン”
壁のスピーカーからチャイムの丸やかな音が流れ出た。それを待っていたかのように、ひかえ室から看護婦があらわれた。
「面会時間が終りました。お帰りください」
笙子はおおいに残念そうに肩を落し、二、三歩あとじさって、ていねいに腰を折った。
「それでは、またまいります。どうかおだいじに」
「待っていますよ。あなたのお顔を見たら、なんだか元気になったようだよ」
ドアを出てゆく笙子の後姿に、三宅の|哄笑《こうしょう》が爆発した。
看護婦があっけにとられたように、ベッドの上の三宅と、出てゆく笙子とに半々に視線を投げた。三宅はとめどなく笑いつづけた。
面会時間終了のチャイムが鳴ると、病院内はにわかに|静寂《せいじゃく》が深くなる。あとは消灯前の巡回があって九時消灯である。重症患者はそれ以前に眠りについている。病院内を歩ける軽症患者などは、一階の外来待合室などにたむろして世間話で時間をつぶす。そこへ勤務あけの看護婦でも加わろうものなら結構楽しいミーティングになる。
三宅はまだ時々、思い出し笑いをもらしていた。あの上品ぶった|莫《ばく》|連《れん》女を、なすところもなく追い返したのは、われながら痛快だった。酸素放出用のビニール幕でおおわれた内部を、ひそかに異次元空間に変え、|陥《かん》|穽《せい》を設けて誘いをかけてみたが、さすがにそれには気づいたようだったが、その時の顔色といったらなかった。あの女は、自分のほんのわずかばかりの得点にすっかりのぼせ上って、その結果を確認し、あわよくば今度こそ決定的な勝利をおさめようとして、のこのこやって来たのだろうが、そうは問屋がおろすものか! それに作戦は完全に成功した。もはや、くい止めることはかれらには不可能だ。
三宅は腹の底から笑った。
「今夜はご|機《き》|嫌《げん》がよろしいですね」
看護婦が首をかしげた。
交通事故ということで、かつぎこまれてきた患者だったが、しきりに呼吸困難をうったえ、この種の外傷には例のないことだったが、医師に要求してビニール幕を張らせ、酸素を放出させていた。妙なことをすると思ったが、かねにまかせて気ままなことをしているのであろう。きのうまでは時おり苦痛をうったえていたのだが、今日は元気そうに大声で笑っている。
「いや。ちょっと愉快なことがあってね」
看護婦はどうせあのきれいな女が見舞いにきてくれたからだろうと思って、胸の中で、舌を出した。
「それにしても苦労したよ」
三宅は感慨ぶかそうにつぶやいた。
へえ! あの女相手にそんな苦労したんですか。見かけによらぬ|助《すけ》|平《べい》だね。
看護婦はそっと肩をすくめた。
これで人類は救われる。
三宅は目を閉じて深い息を吐いた。
その胸に、忘れ難いいまわしい光景が、モノカラーのフィルムのように浮かび上がった。
三九
「ようやくフィルムがとどいたんですってね」
「本部でもだいぶ苦労したようです。これだけのフィルムを撮影するのに、工作員が五名も死んだそうです」
「山崎くん。早く見せてくれよ」
銀座の青龍堂画廊の奥まった一室だった。
事務員の山崎は、机の上に小型のステレオ装置のようなものを|据《す》え、前方の床に、四個のスピーカーを、たがいに直角に交わる二つの対角線上に配置した。これだけ見ると、4chで音楽を楽しむかのようだったが、スピーカーは、その開口部に当る部分が、直径三十センチメートルほどパラボラ・アンテナになっていた。
山崎は壁の金属ロッカーの中から小箱をとり出すと、それを開き、慎重な手つきでピンセットを使い、微細なアンプルをつまみ上げた。それを装置のどこかにセットすると、ならんでいるスイッチをつぎつぎと入れた。
四個のパラボラ・アンテナが指向する空間を見つめる三人の呼吸が、わずかに早くなった。
H i i i i i i n ――
音ともいえぬかすかな音響が、空間から湧き出して|鼓《こ》|膜《まく》を震わせ、急速に可聴域外へ消え去った。
床の上、数十センチメートルほどのところに、もやのようなものがあらわれた。濃くなったり薄くなったりしながらゆっくりと渦巻き、たなびいてしだいに幅をひろげ、高さを増していった。何度か消えかけながら、少しずつ物の形を取り、やがてそこにはっきりとひとつの映像が浮き上がった。
それは一見、大工業地帯のようだった。
クーリングタワーを思わせる巨大な鉄塔や|熔《よう》|鉱《こう》|炉《ろ》のような構造物が林立し、その間を無数のパイプや電線が網の目のように這い回り、曲線を描いてからみ合っていた。その間を|昆虫《こんちゅう》の|肢《あし》のようなクレーンや、古代の巨大なカニを思わせるホイストが自由意志をもったもののように動き回っていた。
映像は少しずつ移動していた。それにつれて視野がひろがり、目の前の風景は、そのまま、はるかな地平線までつづいていた。
だが、この風景にはひどく変ったところがあった。その、さまざまな装置で埋めつくされた平原のどこにも、ビルひとつ、小さな建物ひとつ見当らなかった。
映像が移動したとき、天空に光の点滴があらわれ、視点の変化とともにかがやく光の連鎖となった。
それが、この平原全体をおおう巨大なドームの作るハレーションであることがわかったとき、この装置の林がむき出しであることの意味があきらかとなった。
だが、奇妙なことには、それらの装置の作るジャングルには、人間の通ることができるような通路や空間は全く無かった。よほど安全対策が確立しているのか、巨大な塔と塔の間は三十センチメートルもないし、その間をうねる何千本のパイプは、そびえる鉄塔の表面にとりつけられていた。
ドームの外はどうなっているのかここはいったいどこなのか? それを知る手がかりは何ひとつなく、物音の絶え果てた、静寂の中で、動くものはただクレーンの影だけだった。
ここには、生きているものの気配は無かった。生き物の存在は、たとえその場に姿は見えなくとも、目の前の風景にある暗示を与え、かくされた要素として十分にその存在の意味を伝える。だが、今、ここに展開されている風景には、それにあずかって生を保ついかなる種類の生命の存在も予想されなかった。それは死の予感でさえあった。
「ここはどこ?」
笙子の声が、かすかに震えていた。
「時代は八三二五年。場所は北アメリカ大陸西北部です。この時代や場所にはたいして意味はありません」
山崎の目がすばやく報告書の上を走り、その内容をひろってゆく。
「これはその時代における〈都市〉あるいは〈集落〉と呼ばれるべきものです」
映像はなお、広大な鉄塔の林とパイプのジャングルをなめていった。
「〈国家〉という政治的機能はすでに三千年も前に|喪《うしな》われ、この時代にあっては、今、映っている|厖《ぼう》|大《だい》な装置群があらゆる意味で人類の保護に当っています」
「人類の保護?」
「どこにいるの? その人類は?」
山崎にもその問いには答えようがなく、報告書と映像をしきりに見比べていた。
とつぜん、映像は暗黒になった。今まで映像の映っていた三メートル四方の空間が、全く光を失って、そこだけ世界が欠落したかのように無を現出した。
息をつめて見つめる三人の目に、ふいに青白い光の輪がゆらめいた。その光の輪の中に、コンクリートの粗面がちらちらとあらわれたり消えたりした。
「撮影者はおそらくトンネルの内部か、構造物の中に入ったのだと思います」
山崎の声がその撮影者の声であるかのように、重苦しくひびいた。
光の輪はたえず動き、やがてその中に、円形のハッチがあらわれた。分厚い|扉《とびら》が音もなく開かれ、その奥に新しい暗黒がのぞいた。その暗黒に光の輪がおどり、広大な天井と、そこまでとどく何十層もの金属の|棚《たな》が見えた。
撮影者は慎重にその棚に近づいていった。その棚は、五十センチメートル四方に整然と区画され、そのひとつひとつに、透明な球がはめこまれていた。撮影者はさらに近づいた。映像は一挙に拡大され、その棚におさめられているものは球ではなく、透明なカプセルの頂部であることがあきらかになった。
撮影者の手が、映像をいそがしくさえぎり、映像のアングルが変ったときには、棚から一個のカプセルが引き出されるところだった。カプセルの側面にとりつけられていた無数の電線が引き|千《ち》|切《ぎ》れ、くもの巣のように垂れさがった。光の輪の中心がカプセルをとらえ、内部におさめられたものを鮮明に映し出した。
「あら! 人間だわ! でも……」
かもめが悲鳴を上げかけて口をおさえた。
「これは……」
「…………」
三人の目が、その異様な物体に吸い寄せられた。山崎だけが、ひとり報告書にくいいる。
それは人体の非常に精巧な、そして、その創造の過程において致命的な失敗をおかしたミニチュアモデルというべきものであった。
身長は七、八十センチメートル。胴体は細く肉も薄く、体表はほとんど色素を失い、ところどころに血管が葉脈のように浮き出していた。手足は折れた木の枝のように力なく投げ出され、その先端には形ばかりの細い小さな指があった。そして、その人体には頭部というものがなかった! 薄い肩の上にのっている直径十センチメートルほどの球状の突起がそれと呼べるなら、それには目も鼻も口もなく、ただ一個の小孔が開口しているのみだった。
撮影者はなんらかの方法で、そのカプセルを開いたらしく、映像が変ったときには、その人体に似たものは床に引き出されていた。
頭部に開いた小孔は、その直径を倍にひろげ、はげしく収縮をくりかえした。全身にけいれんがはしり、細い手足は、瀕死の昆虫の肢のようにむなしく、無意味な動きをくりかえし、やがて動かなくなった。
撮影者は移動し、ふたたび他のカプセルを引き出した。全く同じ生物体があらわれ、カプセルから引きずり出され、ほんの少しの間もがいて死んだ。そのつぎのものも、そのつぎのものも同じだった。
この広大な部屋の壁面を埋める無数の棚におさめられたカプセルの内部には、すべてこのような生物体が収容されているのだろう。
撮影者の気もちの動揺をつたえるかのように、映像はこきざみに震えつづけた。
とつぜん、光の輪が急速に回転した。撮影者は背後をふりかえったらしい。暗黒の中を、光の輪があわただしく右に左に動いた。
ふいに光の輪は動きを止めた。
円形の光圏の中に、何かちらと動くものが見えた。それは急速に撮影者に近づいてくる。それがみるみる視界いっぱいになった。自由に折れ曲る金属の巨大な|手《ハンド》だった。
照明が消え、空間は暗黒と化した。ふたたび照明がともった。しかしぐっと照度が落ち、二、三度、消えそうにまたたいた。その光の中に、巨大な手によって|鷲《わし》づかみにされた撮影者の体の一部が見えた。つかんだ手と、それに接近して見えるもうひとつの何かが、とらえられた撮影者の体を調べているようだった。その撮影者はすでに死んでいるらしかったが、投げ出された撮影機は、なお回転しつづけているようだった。そのうちに照明が消え、暗黒が湧き、それも消えると、あとはカーペットを敷きつめた床がよみがえってきた。
ふだんは|見《み》|馴《な》れている赤いカーペットが、これほどいきいきと新鮮に、したわしく感じられたことはなかった。
すベては、そのカーペットの上に生じた非現実的な一瞬の悪夢だった。
しばらくの間、沈黙がつづいた。
「報告書によると、人類は七千年代の半ば頃には、自ら思考することを完全に放棄したようです。その兆候はすでに四千年代にかなりあきらかに各方面にあらわれていたようです。六千年代には政治、経済、治安維持、医療、民生等のあらゆる社会組織や機構を、電子頭脳とそれによって操作される自動機械にゆだねるようになりました。その結果、六千年代の終りには人類の知能指数の低下、労働力の低下はおそるべきものがあったようです。同時に体質も極めて虚弱化し、医療の発達にもかかわらず、人類の平均寿命は十三年を割っていたと推定されています。その結果、中枢電子頭脳は人類の平均寿命をのばし、個体の生命を長期にわたって維持させるために、画期的な方法を選択する必要に迫られました」
「それが、あれだったのね」
「報告書によると、広範囲にわたる不要な器官の発達抑制と切除、エネルギーの消費量の多い器官の除去が目的であり、それを外部装置によって補うことにより、平均寿命はいっきょに二百数十年にのびたと判断されます」
「でも、それはもう人間ではないわ」
「電子頭脳にとっては、生命の維持という大きな目的は果したわけでしょう」
山崎はほんのわずかも動ずる色もなく補足した。
「私、お水、飲んでくる」
だいぶ前から、紙のように青ざめているかもめが立ち上った。足もとがさだかでない。
「おれもちょっと一服してこよう」
元がぎごちなく腰を浮かせた。
「二人とも坐って!」
笙子がぴしりと言った。
なんです! その目が二人をもとの位置に|釘《くぎ》づけにした。
「山崎くん。つづけて」
笙子がうながした。
「つづけます。六千年代に入って、あるグループがこの問題に|挑戦《ちょうせん》しました。かれらの多年にわたる調査と研究は、未来のこうした事態を防ぐためには、ただひとつ、過去の歴史を変える以外にないことを結論づけました」
「時間局が? まさか!」
「報告書によれば、過去の歴史を変えるその初発点を一六五五年に置くことによって、十分に新しい変化を求め得ると判断したようです。そして場所は日本列島の武蔵国西北部です」
「報告書によれば、われわれの所属する時間局の本部では、この問題に関しては極めて苦慮しているようです。なぜなら、歴史はそれ自体必然的なものであり、それを過去にさかのぼって改変することには本来、何の意味もないからです。それは過去における無数の生命を否定することであり、同時にそれは現時点における生命の否定を意味するからでもあります」
「そのとおりよ」
「六千年代に入ると、時間局の組織はすでに崩壊し、かれらの企図も永く探知されることなく進められていたようです。かれらのグループは、少数の工作員を送り、ひそかに計画を実行に移しました」
「山崎くん。なぜ、かれらはその場所をえらんだのかしら? それに、どのような方法で未来を変えようというの?」
山崎は表情のない顔を笙子に向けた。
「そのお二人に、ちょっと部屋の外へ出ていてもらいたいのです」
「かもめちゃんと元さん?」
「はい」
笙子は不審そうに|眉《まゆ》を寄せた。かもめと元は不服そうに山崎をねめつけた。
「じゃ、すまないけれど、そうしてちょうだい」
笙子に言われて、元とかもめは首をすくめて室外へ去っていった。
「報告によれば……」
山崎の目はふたたび報告書に吸い寄せられた。
四〇
ドアをノックする音に、三宅は、はっと息を|凝《こ》らした。笙子がもどって来たのかと思った。つきそいの看護婦がドアに近づいていった。三宅はふとんの中でタイム・マシンの動力スイッチに指を当て、いつでも、ビニール幕の内部の空間を異相のものにできるように備えていた。
「いかがですか?」
ドアのかげからのぞいたのは、白衣を着た医師だった。
「先生が学会で今夜から出張したので、二日間、私が代ります」
インターンでもないだろうが、まだ三十歳を出たばかりと思われる若い医師は、眼鏡の奥の目を細めて三宅に|会釈《えしゃく》した。
「や、どうも。ぐあいがいいようです」
三宅はベッドの上から答えた。
「エア・コンディショナーは調子よく動いているでしょうな。今夜は気温が高いから、暑いと思ったらビニール幕はとってくださいよ」
「いや大丈夫です」
これを取ったらさいご、いつ笙子がのりこんでくるかわからないと思った。
「メーターを調べておきましょう」
エア・コンディショナーはベッドの後部の下に置いてある。医師は眼鏡をずり上げてメーターをのぞきこみ、それから、しゃがんで|蚊《か》|帳《や》でもくぐるように、ひょいとビニール幕の中へ上体を突込んできた。
「いいようですね」
医師は立ち上ってふたたびビニール幕の外へ出た。そのとき、三宅はベッドの脚に、カチリと何か金属物が触れる音を聞いた。
三宅はおそろしい予感にはね起きた。
「三宅! 逮捕する!」
それは記憶のどこかに残っている声だった。
「おまえは……」
語尾は声にならなかった。
看護婦の悲鳴が消灯時間間近い静かな病院の中にこだました。
かの女の前から、三宅が横たわっていたベッドが、けむりの如く消え|失《う》せていた。そしてあの医師の姿も、まぼろしのように消えていた。
日本橋通三丁目の角にそびえるJSB本社ビルの九階に、ジャパン・スチール・アンド・シップビルディング社の中枢部が置かれていた。今、その中枢部ではある|恐慌《きょうこう》が起っていた。
「社長が倒れたそうだ」
「心臓まひだってよ。来客が帰った直後、急に発作を起したらしい」
「秘書が社長室をのぞいたら床に倒れていたそうだよ」
専務も部課長も、ただうろたえてあちらでひと組、こちらで一団と顔を寄せ合い、声をしのばせてこの会社の危急について語り合っていた。平賀社長あってのジャパン・スチール・アンド・シップビルディング社と言えた。この会社を|興《おこ》すまでの平賀社長の経歴については、あまりあきらかでなかった。ただ|極《きわ》めつきの才能と経営者としての手腕が、一代でこの大企業を作り出したのだった。かれは徳川時代の|明《めい》|和《わ》、|天《てん》|明《めい》期の発明家|平《ひら》|賀《が》|源《げん》|内《ない》の子孫だという者もあった。
その社長の平賀は、今、つめたく床に横たわっていた。二階に診療所を持つ医者が急ぎ招かれ、倒れている平賀の脈を探った。医者は、周囲からのぞきこむ重役たちに、黙って首をふった。
外傷はどこにもなく、秘書の言葉によれば疑いようもなく急性の心臓発作であった。
重役たちは黙念と首を垂れた。
その頃、ジャパン・スチール・アンド・シップビルディング社のビルの下の歩道を、銀座の方へ向って歩いているのは笙子だった。あかるい陽射しが歩道にあふれ、すきとおるような笙子のほおに匂うような|艶《えん》をそえた。ハンドバッグを抱いて、うつ向きかげんに足を運ぶ笙子の|楚《そ》|々《そ》とした姿に、行き交う男たちの目が注がれた。少し遅れて、かもめが従っていた。なぜか、今日のかもめは笙子が近寄り難いきびしい存在に思えてならなかった。何か声をかけたら、とたんにあの美しい目で見据えられ、氷のようにつめたい言葉を浴びせられるような気がした。三宅は|元《げん》が逮捕して本部へ送ってしまったし、三宅のなかまの平賀は単なる時間密行者として、先程、笙子が始末した。事態の根本的な処理は、時間局の中央部が処理することになったという。いずれ、その結果がわかるだろうが、もはや問題は笙子の手を離れたとみてよい。
だが、なぜ笙子はあのように沈んでいるのだろう?
かもめは、笙子のうれいに満ちた後姿に首をかしげた。
笙子は苦い思いを抱いて歩きつづけた。デパートの大きなショーウインドに、自分の姿が写っていた。いつもなら、その前を通るときには、そこに写っている自分の姿に、ある種の満足を覚えるのだが、今日はそれがたまらなくやりきれなかった。笙子は目をそらし、砂をかむような孤独に胸を締めつけられた。
時間局の中央部の結論は、六千年代における、そのグループの計画を認めざるを得ないという線に固まったという。それ以外に、人類の未来を救う方法はついに見出せなかったようだ。
一六五五年、武蔵国で発生した歴史転換は、やがてある一人の人物をこの世に生み出す。その人物の子孫が、遠い遠い未来に、人類がおかす重大なあやまりを正し、亡びに至らぬ方向への選択を決定するのだという。時間局が、造り変えられた歴史の遠い先を見通した時、屈辱に甘んずる決意をしたのだという。
もはや、笙子のなすべき任務は終った。
歴史転換者たちのねらいは|精《せい》|緻《ち》であり、正確だった。かれらは一六五五年の武蔵国で、極めて積極的な行動に出て、笙子たちを引き寄せた。だが、ねらいはそこに生じた異なる歴史ではなかったのだ。武蔵大湖も、野火止の戦いも、征東都督府も、しょせんは何の意味も必要もなかった。かれらはただ、この地上に一人の人物が生れ、その遠い子孫がはるかな未来で偉大な指導者となることだけを読み取ったのだ。
その小さな|火《ひ》|種《だ》|子《ね》は、今、かもめの胎内に宿っているのだった。精を与えた者は仮構の歴史の中に存在した人物、室井弥七衛門であった。
時間転換者たちの必死の計算は、この二人を何とかして結びつけることにあったのだ。笙子も元も、当の室井弥七衛門も、いわばそのための道具に使われたに過ぎない。室井弥七衛門がそのことを知ったら、かれは何と言うだろうか。
かもめも、むろんまだそのことは知らない。決して知らされることはないだろう。生れてくる子供は、元との間にできた子供だと信ずるだろう。
武蔵大湖も、征東都督府も、今はすでにけむりの如く消え、武蔵野の荒野はよみがえり、征東都督府など決して建設されたことのない、これまでの歴史にもどっていることだろう。
タイム・パトロールマンのはたらきというものは、いつもこういうものなのだ。その労苦も、悲しみも、誰一人知る者もない。歴史というものの実体や意味さえ、理解している者はいないだろう。
放心と虚脱が笙子を別人のように哀傷に閉していた。
孤独は果てしなかった。
笙子はふりかえった。かもめがはっとするほど澄んだやさしい笑いが笙子の顔に浮かんでいた。
「かもめちゃん。お食事でもしましょうか」
かもめは|嬉《き》|々《き》として笙子に肩をならべた。
「かもめちゃん。あなた、体をだいじにしてね」
笙子の言葉に、かもめはけげんそうな表情を浮かべたが、すぐそれを笑いに溶かした。
笙子のほつれ毛を、風がなぶっていった。
笙子は、どこか一人で旅にでも出ようかと思った。
あとがきにかえて
タイム・マシンが物語の構成上大きな役割を果たすSFを、タイム・マシンもの[#「もの」に傍点]などといっている。
これには大別して二種類ある。
ひとつは、タイム・マシンそれ自体のはたらきが持つ空想上の科学理論を楽しむものである。
空想上の、というのは、アインシュタインの一般相対性理論ではタイム・マシンの実現は全く否定されているので、いくら|精《せい》|緻《ち》を極めたタイム・マシン理論が考えられても、しょせんそれは空想上のものでしかない。
たとえば、タイム・マシンに乗って過去の世界へ行き、そこで自分の祖先を殺害してきたら、今の自分はどうなるか? とか、人類の過去の歴史に、未来からタイム・マシンがやってきたと思われる痕跡は全くないから、未来からタイム・マシンがやって来たとしても、それは別な過去へ行ったのに違いない。とか、タイム・マシンが一度でもやって来たら、それだけで歴史は大規模であれ、ささやかであれ必ず変化をこうむるわけだから、そこから発した未来は、タイム・マシンの出現しなかった歴史の未来とはおおいに異なってくるはずだ。したがって、いったんやって来たタイム・マシンも、二度と自分が出発してきた世界にもどることはできないのではないか? などなど、楽しい思考実験的理論が組み立てられる。これらをタイム・マシン・パラドックスというが、戦後の一九五〇年代、アメリカを中心に、この種のSFがおおいに書かれた。わが国では、ストーリーを楽しむSFが喜ばれるせいもあり、タイム・マシン・パラドックスSFはマニアの愛好に限られてしまったようだ。
もうひとつは、過去や未来へ旅行するための乗物としてのタイム・マシンの扱いであり、これが現在ではタイム・マシンもの[#「もの」に傍点]の主流となっている。
この場合は、当然のことながら、前述のタイム・マシン・パラドックスは無視されている。
H・G・ウエルズの有名な作品『百万年後の世界』や『タイム・マシン』では、タイム・マシンに乗って、ただ過去や未来へ行ってみるという、いわば観光旅行だが、現代のSFでは、もっと複雑で、たとえば未来社会では時間密航者による犯罪を取締るために〈時間監視組織〉が設けられ、タイム・パトロールマンが過去の時代に潜入し、監視を続けているなどという設定がしばしば用いられる。この『征東都督府』も、その形をとっている。
この種類のSFは、わが国の大衆小説でいえばあきらかに忍者小説の系譜に入る。それも、忍者の活動をハードボイルドタッチでリアルに描いたものでなく、立川文庫的な娯楽性の強いものであり、制作上の技法としては時代小説の手法を大幅に取り入れたものといってよい。
新しい|娯楽小説《エンターテイメント》としてのSFと、アダルトの間に定着した強みをみせる時代小説との血を分けたものといえようか。
ジャンルを問わず若い作家たちも、おおいに手を染めてもらいたい世界である。
宣伝をさせていただくと、本篇と、『幻影のバラード』(徳間書店)、〈野性時代〉(角川書店)連載中の『所は|何処《い ず こ》、|水《すい》|師《し》|営《えい》』はいずれも同一人物を主人公にした三部作である。併せてお読み下さればその楽しみは三倍すること|請《うけ》|合《あい》。
[#地から2字上げ]光 瀬  龍
|征《せい》|東《とう》|都《と》|督《とく》|府《ふ》
|光《みつ》|瀬《せ》 |龍《りゅう》
平成14年5月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
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角川文庫『征東都督府』昭和57年1月10日初版発行