光瀬 龍
夕ばえ作戦
へんな円筒
もう建物の影《かげ》も、電柱の影も長くのびて、空はこい夕ばえにいろどられていた。ひっきりなしにつづく自動車の列も、あわただしく警笛《けいてき》を鳴らし、買い物を急ぐ人びとの足の運びもいそがしくなっていった。まだ明るい空に、もうネオンがまたたきはじめ、やがてせまってくる夜をむかえるかのように、はなやかな人工のにじをえがき出していた。
「茂《しげる》くん、ふみきりのそばの古道具屋をのぞいてみたこと、あるかい」
「いや、ないよ。古道具屋っていうと、古いつぼだの仏像《ぶつぞう》だの売っているんだろ。明夫《あきお》くんはそんなものに興味があるのかい?」
「とんでもない! その古道具屋はね、こわれたテレビの機械や電気そうじ機のモーターなんかもならべているのさ。ちょっと修繕《しゆうぜん》しさえすれば、使えそうなものもあるんだ」
「ふうん」
茂と明夫は同級生。ときどきはけんかもするが、ふたりとも機械いじりの大好きな親友どうしである。学校が終わるといつもふたりはつれだって帰る。ふたりの家は東京の西、大岡山《おおおかやま》のふみきりをこえて二百メートルほどいったところにある。
「ね、茂くん、ちょっと寄ってみようよ。おもしろそうなものがいっぱいあるんだぜ」
茂はきょうは早く帰って、この間から作りかけているプラモデルのゼロ戦をしあげようと思っていたのだが、明夫にさそわれて、じつは――とはいい出せなくなってしまった。それに機械のこわれたのがいろいろある、と聞いてはなおのこと、ふりきって帰ることなどできない。茂の心は明夫のさそいにすっかりひきつけられてしまった。
「よし、それじゃ行ってみよう。だけどそれを見たらすぐ帰ろうよ。あんまりおそくなると、ぼくはおこられちゃうんだ」
「だいじょうぶだよ。ぼくだって、そんなに長いこと道草食っているわけにはいかないんだ」
ふたりは、にわかに目をかがやかせていそぎはじめた。
古道具屋はふみきりのそばの商店街の一角にあって、めだたない小さな店だった。店のおくにはいちおう古めかしいが、りっぱな花びんや、つぼ、仏像などがかざってあったが、店の大部分をしめているのは、ほこりだらけのカバンや、ぬりのはげた戸だなや机、それによごれて見るかげもない、古ぐつなどだった。
茂は前からこの店のあることは知っていたが、中にはいってみるのははじめてだった。カビくさい、ほこりのぶあつくつもった店の中は、まるで息がつまるようだった。薄暗い店のてんじょうには、赤っぽい裸電球が、ただ一つぶらさがっていた。
明夫は、かって知ったようにどんどん店の中へはいると、片すみに積み上げられた金物の前にしゃがみこんで、熱心にのぞきこみはじめた。なるほどそれは、明夫のいうように内臓《ないぞう》をさらけ出したテレビだの電気そうじ機だの、そのほかさまざまの機械類が、ざつぜんと投げ出し、積み上げてあるのだった。
「茂くん、このテレビ、ここんところさえなおせば使えると思うんだ」
「ああ、きみはテレビやラジオにくわしいんだったなあ」
「ほら、このモーターだったら、子どもひとりぐらいなら乗せて走れるような電車だって作れるぜ」
ふたりともすっかりむちゅうになってしまった。
「茂くん。ぼくはいま、新聞配達やっているんだけど、お金をためて、あのモーターと、それからあっちの小型変圧器《こがたへんあつき》のこわれたのを買おうと思っているんだよ」
「いいねえ」
そのうちに茂はふと、ならべられているほこりだらけの機械類の中に、なんの部品だかわからない、みょうに複雑な、それでいて小さくまとまった何かの装置がなげ出されているのに気づいた。それは十センチメートルぐらいの直径の円筒で、以前はすっかり金属板でおおわれていたらしいが、今はそのカバーをとめたボルトの穴だけが残って、内部のおそろしく複雑な配線がすっかり見えているのだった。
「明夫くん、これ、なんだろうね?」
「どれどれ」
明夫は顔をよせてしげしげとながめていたが、首をひねり、
「わからない。おっそろしく配線に手がこんでいるな。それより茂くん、こっちのハンド・トーキー見てごらんよ」
明夫はどうやらその機械には興味がわかないらしかった。
茂はそのみょうな機械がひどく気に入った。同じこわれた機械でもモーターや電気そうじ機よりも、なんだかえたいの知れない機械のほうが、ずっと空想をしげきする。とうとう茂は、店の土間につづくおくの座敷で新聞を読んでいる、この古道具屋の主人に声をかけた。
「おじさん。この機械はなんだい」
主人は新聞から顔を上げて、その機械のほうに、ちらっと目をあて、それから茂の顔を見ていった。
「ああ、それか。なんだかわしにもわからん。半年ぐらい前に、ほかの機械といっしょに買いとったのだが、なんに使うものかさっぱりわからん。とにかくそこにおいたが、あんたわかるのかね?」
「わかんないから聞いたんだ。おじさん、これいくら?」
主人は新聞をおくと、あらためてそのみょうな機械をさぐるようにながめた。
「そうさな。五百円というところかな」
「五百円? 高いや」
主人は、もう茂のほうを見ようともしなかった。
「茂くん、茂くん。帰ろう。すっかり道草くっちゃった。家へ帰ったらどなられちゃうよ」
明夫がせきたてた。茂は明夫のあとから店を出ながら、もう一度ふりかえって見た。
「五百円か……」
あの機械にとって、そのねだんが高いのか安いのかよくわからなかったが、なぜかそのとき、茂はとてもその機械がほしくなった。
いつかの、あの古いめざましどけいを修理したときのあの興奮が、からだの中にぞくぞくとよみがえってくるような気がしてしようがなかった。
「よし、ぼくはあの機械を修理してやるぞ。なんに使うのか研究してやる」
「よせよ茂くん、あんなもの、くたびれもうけだぜ。それより、あのテレビを修理したほうが高く売れるよ。大もうけできるぜ」
明夫はどうやらテレビを修理して、アルバイトをしようというのが、こんたんらしかった。
こわした貯金箱
「ただいまあ」
茂が自分の家の玄関をはいると、妹の陽子がとび出してきた。陽子は小学校の四年生。茂にとってはとてもよい妹なのだが、ときにはたいへんな敵にまわる。いまもそうだ。
「おにいちゃん。明夫さんとふみきりんとこの古道具屋へはいっていったでしょう。あたし、ちゃんと見ちゃった」
「うるせえなあ。ちょっと機械を見てきただけだよ」
「道草してんの、おかあさんにいってやろ」
「こいつう!」
茂がげんこつをかためて、一歩まえへ出ると、
「おかあさん、おかあさん。おにいちゃんが……」
と陽子はかなきり声をあげた。
「なんです。茂! 道草してきて、何いばってるの」
おかあさんの声が茂にぶつかってきた。茂は首をちぢめると、自分の勉強べやへ退却《たいきやく》した。
「あの機械、五百円ていってたっけなあ」
今月のおこづかいはもうあらかた使ってしまって、百円ぐらいしか残っていなかった。考えればいよいよほしくなって、とても来月までは待てそうにない。
「そうだ! あの貯金箱をこわしてしまおう。あの中に確か三百円ぐらいはいっているはずだ」
その貯金箱は銀行でもらってきたもので、これまで学用品を買ったおつりの小ぜにを投げこんでいたものだった。だが、それは、茂が夏休みに学校の臨海学校へ参加する費用の一部にあてることになっていたものだった。
茂はうなった。これまで、使いたいのをがまんしてためてきたものを、ここでこわして取り出してしまうのはちょっとしゃくだったが、けっきょく、誘惑《ゆうわく》に負けた。茂は立って本箱の上から貯金箱をとりおろした。思いきって机の角にぶつける。がしゃっ。くだけた貯金箱のかけらとたくさんの十円玉や一円玉がたたみの上にちらばった。茂はいっしょうけんめいにかぞえ出した。
「お! 四百二十円もあるぞ。しめしめ」と、茂はほくそえんだ。
茂はたくさんの硬貨をポケットに落としこむと、足音をしのばせて玄関へすべり出た。
「おかあさん、ちょっと文房具屋まで行ってきます」
母親の声がもどってこないうちに、茂はもうおもてへ飛び出していた。
円筒はわが手に
古道具屋にはあい変わらずひとりの客もなかった。薄暗い裸電球の光の中に、つみ重ねられたさまざまのものの影が、異様な重なりを見せて無気味に沈んでいた。
茂はさきほど見た機械のまえに身をかがめてそれを手にとった。それは見かけより重く、茂の手にずっしりとした重量感を伝えた。内部の機構は、外から見るよりよほど複雑になっているらしかった。
茂はすっかりうれしくなった。複雑であればあるほど調べがいがあるというものだ。おそらく、このあいだ分解し、組み立てためざましどけいの比ではあるまいと思われた。
「おじさん、これくれ。五百円ていってたね、ほら」
茂は古道具屋の主人がおさまっている、半畳《はんじよう》のたたみ敷きの端《はし》に金を置いた。
「どうするんだ。そんなもの」
「何にするものかしらべてみるのさ」
「ほう。わかったらおしえてくれないかね。なんだかわからないものを売ったままじゃ、気がとがめるからね」
「ああ」
茂は後《あと》をも見ずに店を出た。
奇妙な円筒は茂の手の中でひんやりと冷たい金属のはだをしていた。茂は歩きながら心はそれを分解するときのスリルにかられていた。ネジやピンを一つはずすごとに番号をつけ、図を書き、すこしずつ分解してゆく。そしてみきわめのついたところでふたたび組み立てるのだ。
しかし、わずかの不注意が、この組み立ての段階で、いっさいをむなしくしてしまうのだった。それはまさにわずかのゆだんも許されないスリルだった。機械を組み立てるおもしろさは、クロスワード・パズルをはめこんでゆくときの緊張にあると茂は信じていた。
いつのまにか茂は、街路わきの防犯燈《ぼうはんとう》の光のえがく明るい円の中に立って、手にした円筒を一心に見つめていた。円筒の底にあたる部分に、小さなつまみがついていた。手にして歩いているうちに、震動《しんどう》でそこがしだいにゆるんで、ぐらぐらになってきていた。
茂は、おやゆびとひとさしゆびでそれをつまむと、ぐいとばかりに回した。
「ぬけて落ちでもするとたいへんだ」
つまみはテレビのダイヤルを回すように右へでも左へでも自由に回転することができた。
「これを回すと……」
茂はそれを右へ右へと回していった。とつぜん円筒の内部で何かがぴいんと鳴った。
それは、円筒の内部というよりも、どこか、茂をつつむ空間の一部分が、つよくはりさけたような、はげしいひびきをもっていた。
茂の目の前からすべての光が消えた。
おのれも風魔か!
寄せてはひいてゆく波のように、たくさんの人びとの叫び声が高く聞こえていた。倒れているからだのわきをすれすれに、荷車に山のように家財道具をつんだ一団が走り過ぎていった。
「どうしたんだろう、あの人たちは」
茂は頭をもたげて見送った。そのひどいあわてようは、これはただごとではなかった。
「あれ! どうしてぼくはこんな所に倒れているんだろう」
そこは雑木林にかこまれた小さな部落のはずれだった。なかば雑草におおわれた畑が、部落の裏手から雑木林のむこうにひろがる平原へとつづいていた。
部落の一部に火災がおきていた。赤い火は雑木林の上の空をぼうっと赤くそめていた。茂はズボンのよごれをはらい落として立ちあがった。
「ここはどこだろう? そして、なんでぼくはこんな所にいるんだろう?」
それは、茂がこれまでまったく見たことのない風景だった。遠く聞こえる人のざわめきと、かけぬける荷車さえなければ、それはほんとうに、わびしいばかりの静けさをたたえていた。
「道も、方角もわからない。いったいここは東京なんだろうか?」
茂の胸にまっ黒な不安がわきあがってきた。
「そうだ! ぼくは、古道具屋であの円筒を買って帰る途中だったんだ」
あわててまわりをみると、それはいま倒れていたかたわらに落ちていた。茂はそれをひろいあげると、しっかりかかえこんだ。
自分の身の上に何かたいへんなことが起こったのだ、という予感が、茂の胸を息苦しいほどしめあげた。
まず、あの燃える部落へ行ってようすを見ることだった。
「ああ、ぼくはもしや記憶喪失症《きおくそうしつしよう》にでもかかって……」
それは考えるだけで目の前がまっくらになるような思いだった。これまでになん度か聞いたことがある、まったく記憶を失ってひとりでさまよい歩いている記憶喪失症患者のことが、茂の胸に浮かんできた。
部落にはいると、騒ぎは四方からまき起こってきた。家の焼けくずれる地ひびきと、男や女のひめい、子どもの泣き声などがあらしのように聞こえていた。
「いったい、何をさわいでいるのだろう?」
そのとき、左手の竹やぶの中から数個の人影がとび出してきた。手に手に、くわや竹やりなどを持っている。茂は思わず、ぎくりと足を止めた。赤い火の光の中に茂の姿を見て、かれらはどっとうしろへさがって、手に手にえものをふりかざした。聞きとりにくいことばで何か叫んだ。
とつぜん、茂はなんでもいいから今は口を開かねばならないような、あるおそろしい緊張を感じとった。茂は人影に向かって叫んだ。
「何のまねだい、それは。そんなことより、ここはどこだい。教えてくれよ」
なぜか人影はひどく動揺した。家が焼け落ちたとみえて、周囲が一瞬、明るくなった。その光の中で、茂は思わず自分の目をうたがった。
「な、なんだい! そのかっこうは……」
人影の中から、とくにからだのたくましい男がするすると進み出てきた。姿勢を低め、すさまじい殺気をはらんで茂をうかがった。
「おのれも風魔《ふうま》か?」
茂はとっさにことばも出なかった。
「ふうまあ?」
「おのれも風魔の片われだな。よくもわしらの部落を荒らしおったな。こい!」
「おい! なにいってるんだい。風魔の片われだの、部落を荒らしたのだの。それより火事を消したらどうだい」
「ええい! この人非人《にんぴにん》め」
男は竹やりをふるうと、茂めがけて弾丸のようにつっこんできた。わけがわからぬまま、茂はあやうく飛びのいた。男は息つくひまもなくふみこんできた。それはまともに受けたらその竹やりでくしざしにされてしまうにちがいないほどはげしいものだったが、学校では体育に5をもらい、運動神経はふつう以上にするどい茂であり、その気になればその竹やりの猛攻を受け流すのは、けっしてむずかしくはなかった。
「やめろ! 何するんだ」
茂は必死に叫んだが、その男の耳にははいらないようだった。なん度めかの攻撃をかわしたとき、茂の胸にはげしい怒りがつきあがってきた。とっさに落ちていた石をひろい、下手投げの剛速球でみけんをねらった。男はひたいをおさえて地面にころがった。その手から竹やりが飛んだ。
「いいか! 答えないとその男のようになるぞ。いえ、ここはどこだ」
人影はおしだまったまま、じりじりとうしろへさがった。茂は石をひろった。
「いわないか!」
人影のひとりがおずおずと答えた。
「このへんは荏原村《えばらむら》といいますだ」
「えばらむら?」
「はい」
「何区だときいているんだ」
「なにく、とはなんのことでごぜえますか?」
「おい! ここは東京だろ!」
「とうきょう? はて、聞いたことねえな」
「やめろ! もういい。おまえたち、どうしてそんなちょんまげなんか結んでいるんだ」
「ちょんまげ? はあ、このまげのことですか? どうしてって、その……」
茂の胸はしだいに大きくなみうってきた。のどがからからにかわいて頭が燃えるようだった。胸の中で、何かが必死に、
――おちつけ、おちつけ、おちつくんだ!
と叫んでいた。
あごががくがくしてくるのを、歯をくいしばっておさえた。
夢か? いや、夢じゃない。幻《まぼろし》か? いや幻でもない。それでは気が狂ったのか? ちがう、けっして気が狂ったりしていない。それじゃ――茂はくらくらとおそってくるはげしい目まいの中で、みずから質問し、みずから答えた。
――ぼくは、どうやらむかしへまぎれこんでしまったらしい。これは江戸時代だろうか? たぶんそうだ。どうやって、ああ、どうやってここからぬけ出したらいいんだ?――
絶望が茂のからだにあふれた。
「あ! 風魔だ。風魔のやつらがきたぞ!」
男たちはみるみる浮き足だった。茂が見ると、部落の奥からこい茶色の衣服とふく面に身をかためた、一見して忍者とわかる一団が風のように走り出てきた。立っている茂を見ると、かれらはぎらぎら光る大刀をさか手にかまえると、けもののようにうずくまった。つぎの瞬間に、かれらは、はやてのようにとびかかってくるのだろう。茂は思わず落ちていた竹やりをひろうと、身をかがめて低くかまえた。
「くそ! こんな所で死んでたまるか」
雑木林が、ぱっと燃えあがった。
八方手裏剣《はつぽうしゆりけん》
正面の男が、足音もなく、すべるようにするすると進み出てきた。茂は思わず二、三歩身をひいた。とたんにその男は鳥のように大地をけった。長い刀が燃えあがるほのおにあかくギラリとかがやいた。一瞬、茂の竹やりはうなりをたてて円をえがいた。もうひとりがバネのようにすばらしい跳躍をみせておどりかかってきた。しかし、これはなんなく竹やりの一方のはしで、どん、と突きたおした。忍者たちは潮のひくようにどっと後ろへさがった。風が出たのか、はげしい火の粉が茂たちの上へまっかな吹雪《ふぶき》となって落ちてきた。
「あつ、つ、つ……」
茂はふりかかってくる火の粉《こ》を竹やりではらいのけた。そのすきをねらったのか、何か、するどくとがったものが、おそろしい早さで茂の顔をねらって飛んできた。
「た!」
茂はとっさに竹やりのえをかえしてそれをはらいとばした。また一つ、さらに一つ。それは弾丸のようにうなりを発してきらめいてきたが、最初の一個をはらいのけると、あとはらくだった。カン! カン! カン! 茂の足もとに澄んだ金属音をたててそれは落ちた。とぎすまされた八つのきっ先を持った八方手裏剣だった。茂のひたいにつめたい汗がうかんだ。
――これはとんでもないことになったぞ。こいつらはどうやら忍者らしい。絵でみたのとそっくりの服装をしている。それにこの手裏剣だって、すごい!――
しかし今はなんとかして、彼らの手からのがれるしかない。こんな所で、こんな奇妙な連中にやられるなんて、考えただけでもごめんだった。茂の目は、追いつめられたけもののように光った。
「ゆくぞっ!」
竹やりをとりなおすと、猛然と走った。手近なひとりのからだのどこかに、竹やりが、カツーン、とはげしい音をたてた。茂は竹やりをふり回し、ふりおろした。
「ひけい! ひけ、ひけい!」
どこかでだれかがさけんでいた。その声にあやつられるように、忍者の一団は、あらわれてきたときと同じように風のように姿を消していった。あとには忍びの服装に身をつつんだ男がふたり、長くのびていた。
茂は太い息を吐いた。もう立っていられないほど、ひどくつかれていた。
火事のほのおは低く地上をはっていた。その赤い光をあびて、数人の黒い人影がばらばらとかけ寄ってきた。その後ろから、くわやかまをもった男たちが、これはすこしおくれてこわごわつき従っていた。先頭に立った数人は、はかまのすそをぐいと引き上げ、長い刀のつかに手をかけて、茂の前にじりじりと迫ってきた。
「何者だ! 名を名のれ」
「あやしいやつ、神妙にせい」
ことばづかいはどうやら役人のようだった。
「いったいなんのさわぎなんだ? それに、今はいつごろなんだい」
役人たちは、茂のことばにぎょっとして足を止め、それからはげしいおどろきを全身にうかべて、石像のようにからだを固くした。今ごろになって、茂の学生服やぼさぼさの髪などに気がついたようだった。それはかれらにしてみれば、見たこともない奇妙ないでたちに思えたにちがいなかった。
「何者だ? どこからきた?」
役人の声はうわずって、語尾はおかしいほどふるえていた。
「ぼくは帰りたいんだ。ここはどこだ?」
かれらがその道を知っているとは思えなかったが、茂は内心、すがりつくような気もちでたずねた。したでに出れば、あるいは茂に手をかしてくれるかもしれなかった。
「ぼくの名は砂塚茂《すなづかしげる》。東京都|目黒区大岡山《めぐろくおおおかやま》四四〇八番地に住んでいます」
そういってから、思わず、涙が出そうになった。もうそこへは帰れないのかもしれないのだ。
とつぜん、茂の胸にはげしい後悔がわきあがってきた。
――ああ、だまって家をぬけ出したりなんかするんじゃなかった。貯金箱をこわしたりして……。おかあさん――
茂の胸に、あのいつでも、かすかにたべ物のにおいのこもっている茶の間のすべてが、ふいに幻のように浮かんで消えた。
――どうしよう。どうやったら家へ帰れるんだろうか。――
――いまごろ、家ではぼくをさがしているだろう。もうそろそろ夕ごはんだもの――
――おとうさん、おかあさん、陽子!――
茂は胸《むね》の中で絶叫した。
風魔ではござらぬ?
「これ、だまっていてはわからぬではないか。返答せい」
じりじりした声が耳もとでさく裂した。茂ははっとわれにかえった。気の遠くなりそうな茂の孤独感は、たちまち現実にひきもどされた。
役人たちは全身に殺気をみなぎらせて茂を包囲した。
「お役人さまあ、ちょっとお耳にお入れ申してえことがごぜえます」
役人の後ろにつき従ってきた男たちの中から声がした。
山刀《やまがたな》を持ったひとりの年よりが進み出て、ひとりの役人の耳に何やらぼそぼそささやいていた。
「ふむ、ふむ。なるほど。すると、あそこにたおれている風魔のふたりは、あの少年が倒したというのだな。ふむ、お味方かもしれぬ? さ、それはいまはなんともいえぬが。よし、まてまて」
その役人は意気ごむ同りょうたちを、おしとどめるように両手を左右にひらいて、
「ご同役、ただいま、異《い》なることをば耳にいたした。あれなる少年は、どうやらお味方らしゅうござるぞ」
「なに? あの少年が? はて、風魔とはちがうのでござるか」
役人たちは急に生気をとりもどしたように、気味悪そうな顔をして後ろへさがった。
「あの服装といい、また、風魔をたおした手練のわざといい、これはたしかにただ者ではない。ここは代官《だいかん》の小泉《こいずみ》さまにご出馬をねがおう」
役人のひとりがどこかへ走り去った。残った者たちは、茂を遠巻きにして、石のようにだまって立っていた。
代官、平伏す
風が吹くたびに、焼け跡から思い出したように弱いほのおが立ちのぼった。それへ水をかけて回る男たちの姿が、影絵のように黒ぐろと浮きあがってみえた。風魔によって荒らされた家々の内部からは、あと片づけの物音がさかんに聞こえていた。
燃え残った庄屋《しようや》の家のはなれ座敷で、茂は代官とむかい合っていた。
「わしは代官の小泉右京太夫《こいずみうきようだゆう》だが、先ほどのはたらきみごとであった。いずれ名ある忍法者であろうが、さしつかえなくば姓名をうけたまわりたい」
「砂塚茂。大岡山中学の一年だ」
「おおおかやまちゅうがく? はて、それは公儀隠密《こうぎおんみつ》の組の名であろうか」
「公儀おんみつ? ちがうよ」
「たいへん変わった服装をしているようだが、それはやはり忍びの衣しょうか」
「わからない人だねえ。そんなんじゃないったら」
「たら? たらとは何か?」
「なんだっていいよ。それより代官! このさわぎはいったいなにごとだい」
茂はだんだんめんどうくさくなってきた。こんな所で、石頭のさむらいなどに、くどくど聞かれて、いちいち答えていられるような場合ではない。
心細さが、しだいにあてもない怒りに変わってきた。
「え? 代官、さっきのさわぎはあれはなんだ」
代官の顔に、急におそれの色が動いた。公儀隠密のきげんをそこなってはのちのち自分の立場があやうくなる。幕府に何を報告されるかわかったものではない。これは少年であっても隠密としてそうとう重要な人物ではあるまいか。
代官はとっさにそう考えると、両手をひざにあてて、ちょっと頭を下げていった。
「いや、それについては、先日くわしいご報告を伊豆守様《いずのかみさま》までさしあげてございますが、なにぶんにも風魔のやからは組織もあり、わざにもすぐれ、鎮圧にはいささか手をやいているありさまにて、めんぼくしだいもござらぬ」
「なんで風魔があばれているんだ?」
「先日、松平伊豆守様まで申し上げたように……」
「伊豆守はわかった。ぼくに説明しろよ」
「ぼく、と申しますと」
「ぼくはぼくさ」
茂は人さし指で自分の鼻の頭をつっついた。
「は、これはおそれいりました」
代官はほんとうに心配になったとみえて、からだをかたくすると、
「さればでござる。江戸開府のおり、東照《とうしよう》神君《しんくん》家康公《いえやすこう》におかせられては、当時、武蔵《むさし》、相模《さがみ》に勢力をもっていたいくつかの豪族をとくに召して、駿河《するが》以来の旗本にお加えになった由にござります。そのとき、八王子《はちおうじ》、府中《ふちゆう》から相模国伊勢原《さがみのくにいせはら》のあたりに広く散っていた風魔一族にも、新規お召しかかえになるとのごさたがあり、代官を派して彼らの土地をお取り立てになったのでござった」
「ふうん。つまり家来にしてやるから、その代わり土地をよこせというわけだな」
「さようでござる。ところが、その後、なぜか風魔一族、召しかかえのことはさたやみになり、代わって服部半蔵《はつとりはんぞう》のひきいる伊賀者が城中警護《じようちゆうけいご》、ならびに隠密をうけたまわったのでござった。さあ、だまっていないのは風魔でござる。はじめのうちは願い書《しよ》をもって幕閣《ばつかく》にうったえていたのでござるが、その後、いっこうごさたのないのにごうをにやし、ついにとくいの忍びの術をもって北関東のあちらこちらの代官所を襲い、幕府に納める上納米をうばい、絹糸《きぬいと》商人《しようにん》の家やくらに火を放ち、田畑を荒らすなど、手のつけられぬあばれようでござる」
「約束を守らない幕府もいけないが、何も罪のない百姓や町人を殺したり、傷つけたりする風魔もよくない」
「おおせのとおりでござります」
「それでなんとか方法はあるのか?」
代官はうつむいて、
「江戸城お庭番の伊賀者が二十名ほど当代官所につめておりました。なれど、ざんねんながら風魔には歯が立たず……」
「歯が立たずって、おまえ、ぼんやりしているときじゃないだろ! 考えたらどうだい」
「ははっ!」
代官はたたみの上へひらたくなった。
そのとき、となりのへやとの間のふすまがほそめにあけられて、ひとりのさむらいが手をつかえた。
「これは隠密殿のお持ちになっていたものではござりませぬか。ただいま、下役《したやく》の者がとどけてまいりましたが……」
茂が見ると、それはあのふみきりのそばの古道具屋で五百円で買った奇妙な円筒だった。
「あ、そうだ。それはぼくのだ。ありがとう」
茂は両手で円筒を抱いた。それを見た代官はこのときとばかりに、
「それでは、夜の食事などめしあがっていただきまする。いましばらくここでご休息を……」
代官はあたふたとへやを出ていった。
茂はひとり、へやのまん中にぽつんとすわって、気の遠くなるような心細さとたたかっていた。風魔一族だの、松平伊豆守だの、まったくとんでもないことになったものだ。もし、帰れなくなったらどうしよう。おとうさんにもおかあさんにももう会えないし、陽子や、明夫をはじめ、仲の良い友だちにも、もう二度と会えない。あのさむらいたちといっしょに、この江戸時代を生きてゆかねばならないのだろうか。いったい、どうしてこんなことになっちまったんだ――ああ、あのとき何か変わったことがなかったろうか。こんなむかしの時代へとびこんでしまうような何か特別に変わったことを、ぼくはしちまったんじゃないだろうか。――
必死に茂は考えた。
もう薄暗いあの駅前通り、ふみきりのそばの古道具屋。街路燈の丸い光の輪の中で、この機械をいじっていたんだった。円筒の底のつまみがぐらぐらになっていたのを、右へ右へと回したら――
とつぜん、目のくらむような期待が、衝撃のように茂のからだをつらぬいた。
そうだ! もしかしたら。ああ、そうあってくれ!
茂は思わず心の中でいのった。円筒をひっくりかえしてみると、つまみはたしかにそこにあった。むちゅうでそのつまみを左へ左へと回した。
円筒の内部で何かがぴいんと鳴った。それは円筒の内部というよりも、茂をつつむ空間の一部分が、強くはりさけたようなはげしいひびきをもっていた。
茂の目のまえからすべての光が消えていった。
――大きなダンプトラックが大地をゆるがせて通っていった。風にまかれた紙くずが茂の足もとでくるくると回った。さあっと潮のひくように何かが茂のからだからぬけていった。茂はへたへたとそこへすわりこんでしまった。帰ってこられたことを喜ぶより先に、おそろしい夢からさめたあとのような、虚脱感が茂のからだをいっぱいに占めていた。
「どうしたい? 気もちでも悪いのか」
通りがかりのおとなが茂をのぞきこんだ。
「だいじょうぶだよ。なんでもないよ」
茂は円筒をかかえなおすと、立ち上がった。
もう時間は八時を過ぎていた。
「茂さん! いままでどこへ行っていたの。夕はんも食べないで……」
ふだんはやさしい母も、いまはきびしい目で茂をにらんだ。茂はいいわけをするのを忘れて茶の間にへたばった。
「茂さん、貯金箱をこわしてお金を持っていったわね。使うときにはおかあさんにいってからこわす約束だったわね。何を買ったの」
「これだよ。変わった機械があったもんだから……」
「いくら変わった機械があったからって、夕はんも食べないで、だまって出ていったりしちゃだめじゃないの!」
陽子がにやにや笑っていた。こんなときはいい気もちになるらしい。
「おにいちゃん。貯金箱をこわしたんなら、あたしのかしてあげたお金、かえしてよ」
茂は思いきりこわい顔をして陽子をにらみつけると、だまって座を立った。
懐中電燈とカンシャク玉
その夜、ねどこへはいってからも、茂はどうしても眠りにつくことができなかった。きょうのあの思いもかけない奇妙な体験が、まだからだじゅうに熱っぽくうずまいていた。
――第一に、あの円筒のつまみを回したら江戸時代へ行ってしまった。それから左へ回したらまたここへもどってこられた。これはもしかしたら、いつか本で読んだタイム・マシンかもしれない。そうだ。分解して中を調べるよりも、もうすこしこのままにしておいてまた使ってみよう。――
――第二、ぼくは風魔と戦った。忍者とはおそろしいわざをもっているということだったが、あんがいそうじゃなかった。でも、ぼくはいろいろスポーツをやっているし、それに栄養のあるものをどっさり食べている。こっちのほうが体力はあるし、運動神経だって発達しているわけだ。あいつらの手裏剣よりも、学校の野球部の山崎君の速球のほうが、よっぽど早いや。ぼくはその山崎君の投球でときどき、ホームランを打つんだからな。――
電燈を消した暗やみの中で、茂は大きな目をあげてしきりに考えていた。
「そうだ!」
茂はむっくりとおきあがった。家の中はねしずまって物音一つしなかった。そっと電燈をつけると、ぬいでおいた服にそでを通した。
長いひもをとりだして円筒をぐるぐるしばり、首からぶらさげた。懐中電燈とマッチをポケットに入れ、それから机の引き出しから≪カンシャク玉≫をつかみ出すと、紙にくるんでこれもポケットにしまった。玄関に出たが、くつをはくわけにいかないので、くつしたを二枚かさねてはいた。
「これでよし、と」
円筒のつまみに指をかけたとき、ちょっと胸がどきどきしたが、思いきって右へ右へと回した。また、ぴいんと何かが張りさけるように鳴った。すうっ、と頭から血がひいてゆくような気がした。かすかに目まいがした。
忍法エレキ目つぶし
――あかり一つなく、暗やみの中をかすかに風がわたっていった。茂は腰まで草むらの中に立っていた。先ほどの部落のうしろの原っぱと思われた。茂は草をかき分けながら、静かに部落へ近づいていった。焼け落ちた家の柱が、無気味に暗やみの中につっ立っていた。そのかたわらを通って茂は部落にはいった。なんの物音もしなかった。
「まるでゴースト・タウンじゃないか」
心の中でそう思ったとき、かすかに空気が動いた。それは足音とも違う、人間のはく息によって乱れる空気の流れのようだった。
「だれかいる!」
茂は足をとめ、大地に低く身をかがめた。こうすれば相手に発見されず、こちらは暗い夜空に相手をすかしてみることができる。本で読んだ忍びの術¢謌皷ロだった。
二十メートルほどさきの、一本の木の下に、ひとりの男が影のように立っていた。きゃはんをつけ、刀を背にしょっている。どうやら忍者らしかった。
「風魔だろうか? それとも代官がいった伊賀者だろうか?」
やがてその男はそろそろと動き出した。茂の所からは家のかげになって見えないが、どこか一点へ向かって、足音を忍ばせて接近してゆくようだった。見とおしのきくように茂も位置を変えていった。
「はっ!」
声にならない気合いがほとばしると、男の右手から何かが飛んだ。カチン! カチン! 金属と金属のはげしくぶつかる音がやみにこだました。
足音が入り乱れた。
「うわっはっは、は、は。おまえら伊賀者の手におよぶ風魔かよ。それ! 受けてみよ。忍法小夜嵐《にんぽうさよあらし》!」
術におちたらしい伊賀者のうめき声が低く聞こえた。
茂はかげからとび出した。
風魔の声のするほうへ懐中電燈をつき出して、すばやくつけたり消したりした。その光をあびて、茶色の忍びの服装に身をかためた男が両手で目をおさえてよろめいた。
「どうだ。目がくらんだろう。忍法エレキ目つぶし!」
うしろの屋根の上に、音もなくもう一つの人影が動いた。
「おのれ! 奇怪なやつ!」
ばけもののように両手をひろげると、茂の頭上へ風をまいて落ちてきた。
忍法の講習会
一瞬、茂が横っ飛びにジャンプするのと、その茂の手から何かがあられのように地面の上へばらまかれるのと、ばらまかれたものの上へ黒い影が落下するのがほとんど同時だった。
パン! パン! パパパパ……ン!
すさまじいさく裂音が夜のやみをふるわせた。黒い影はそのさく裂音のまっただ中で、気が狂ったように手足をうちふった。
「ウーム、不覚!」
奥歯でかみしめたうめきがもれた。
「あっはは、カンシャク玉の上へ落っこちてくるとは、バカなやつだ」
どこからか茂の高笑いが聞こえてきた。
こまくが破れ、気力の張りと同時に方向感覚をうしなって、めくらめっぽうに逃げさろうとした風魔の忍者は、警備のさむらいや伊賀者たちに、たちまち寄ってたかって捕えられてしまった。
「おみごと、おみごと。いかなる術かは存ぜねど、まことに鬼神をもひしぐおはたらきでござった。これからもなにとぞ、よしなにおたのみ申す」
おっとり刀でかけつけてきた代官は、茂の前で、くりかえしくりかえし、ひざにつくばかりに頭を下げた。よほどうれしかったのだろう。代官にとっては、風魔対策は重大な責任問題に発展するおそれがあった。幕府のてまえ、いつまでも鎮圧できないでいては、やがては代官の首もあやうくなる。
「代官!」
「はっ」
茂は鼻の頭にしわを寄せて代官をじろりと見た。代官とならぶと体格のよい茂のほうが十五センチメートルほど背が高かった。それでなくとも代官はうやうやしく小腰をかがめている。それでいよいよ茂は代官の青くそった頭頂《とうちよう》のあたりをにらむことになる。
「風魔がふたりも忍びこんでいるというのに、伊賀者は気がつかなかったようだ。伊賀者といえば、忍者の名門ではないか。ちょっとだらしがないぞ」
「まことにめんぼくもござらぬ。しかし、かれらとても、決して風魔に劣る者どもとも思われませぬが」
「いや、あんなことではとうてい忍者とはいえないよ。ぼくはちょっと幻滅を感じたなあ」
代官は身の置き所もないように、もじもじした。
「そうだ。代官、ぼくが伊賀者たちに忍法の講習をやってやろう。ぼくは忍者のことにはくわしいんだ」
これまで本で読んだいろいろな忍者の物語や、忍びの術のさまざまが茂の胸をかすめた。
「いいか、代官。忍びの術というものは科学的でなければならないんだ。つまり合理的でなければいけない」
「ははっ」
代官は必死の面もちで茂のことばにうなずいた。代官は若いころ、漢学者として当時、江戸に名高かった半村乾《はんむらいぬい》について、さむらいにしてはめずらしいほど学問をつんでいたのだが、それが今この奇妙な少年のいうことがまるでわからないのだった。代官はうろたえるとともに、背すじをはしる冷たい汗をどうすることもできなかった。
「わかるか、代官」
「ただただ感服つかまつってござる」
代官は思わずうそをついてしまった。もうわかるもわからないもない。面接を受ける生徒のようにちぢみあがってしまった。
「自分で手がらをひとりじめにしようなどと思ってはいけないんだ。自分をぎせいにしてもみなに協力するんだ。これは昔も今も変わらないぞ、代官」
「ははっ」
「自分が姿をかくそうと思ったら、どこへかくれたらいいか、何を利用したらいいか、自分が虫や小さな動物になったような気もちで考えるんだ。これはつまりしぜんな心の動きだ。いいか代官」
「まことに深いおことば……」
「ようし。ではすべての伊賀者を集めろ」
「はっ」
茂、ついに頭領に
見張りの伊賀者数名をのぞいて、全員が部落の中央の広場に集合した。みな、深い好奇心と多少のおそれをいだいて、かがり火にはえる茂の顔に視線を集中した。
「おまえたちの隊長はだれだ?」
茂の声に応じて、ひとりが立ち上がった。小さな男だが、岩のようにがっしりした肩と胸を持っていた。
「伊賀の地虫兵衛《じむしべえ》と申す」
「ジムシベエ? へんな名だな」
「おそれいってござる」
「別におそれいることはないぞ。地虫兵衛。いろいろ教えることが多いが、まずおまえたちの着ている黒い着物だがな、これはかえっていけない。夜、活動するには濃いグリーンかレンガ色がいいぞ」
地虫兵衛はからだを堅くしていった。
「その、なんでござる。グリーンとかレンガ色とは、そもそもいかなるものでござろうか」
「濃い緑色か、茶色に近い赤だ。夜といったって、その着物のように周囲がまっ黒になるわけではあるまい。かえってめだつんだよ。夜のやみの中では、濃い緑色なんかがかえってとけこんで見えにくいんだ」
「ははあ」
「さっそく着物の色をかえるんだ。それから夜はぜったいに刀をぬくな。星明かりを反射して光るから、自分の居場所を敵に教えるようなものだ」
「では、どうやって敵を倒すのでござるか?」
「敵を倒すことを考えるよりも、自分がやられないようにするんだ。どうしても刀をぬかなければならないときは、さやごとぬけ」
「ううむ、なるほど。みなの衆、このご仁《じん》のおっしゃることはすべて伊賀本家、服部様の御家伝に説かれることにもあることじゃ。砂塚茂様とのみ存じ申しあげたが、これはいかなるお人じゃ。先ほどのお手なみといい、ただただおそれいるしだい。つきましてはいかがなものでござろう、われわれ伊賀衆の頭領としてご下知《げじ》をたまわりたいものでござる」
「下知? ああ、命令してくれ、というわけか。よかろう」
茂も今は自由に帰ることができるだけまったく気楽だ。おうようにうなずいた。地虫兵衛は満面に喜びを浮かべて低く頭をたれた。
「よし、それでは今からおれが頭領としてお前たちを指揮する。そうだ、地虫兵衛につづく幹部は名をいえ」
「羽衣五郎太《はごろもごろうた》でござる」
「空蝉《うつせみ》の典夫《のりお》でござる」
「新羅孫七《しんらまごしち》」
「青葉の片岡《かたおか》」
四人の男がうやうやしく会釈した。どの男も、すばらしい戦闘力を秘めたバネのように強じんな肉体の持ち主だった。
茂を囲んで円陣をえがく十数名の伊賀者の中で、さきほどからじっと牛のように執念のこもった上目づかいで、茂を見守るひとりの男がいることに、このとき、茂は気づかなかった。
「それでは、四人一組で分隊を作るんだ。この四人はぜったいにばらばらになってはいかん。つねに一組で行動する。地虫兵衛、今見張りに立っている者もふくめて全部でなん人いるんだ?」
「十六名でござる」
「よし、それでは四個分隊できるな。A分隊の分隊長は羽衣の五郎太。B分隊の分隊長は空蝉の典夫。いいか、C分隊は新羅孫七。D分隊は青葉の片岡。地虫兵衛はおれの副官だ」
「はっ」
「D分隊はここに残って予備隊になる。ABC各分隊は、部落の東と西、それから北を守れ」
「頭領、南はいかがいたしますか」
「南はあけておけ。そこから風魔を入れる」
「風魔を入れる?」
「入れないようにしていたんでは、いつまでたっても勝負がつかないじゃないか。それよりもわざとすきを作って部落へ入れ、袋のねずみにしておいていっぺんにかたづけるんだ」
地虫兵衛はこの大胆な戦術にすっかりどきもをぬかれて、うなるばかりだった。それと同時に、ますます茂に対する尊敬の念を深めたようだった。
「地虫兵衛、代官に伝えて部落の南側にタコツボを掘らせるんだ」
「たこつぼ、と申しますと……」
「わからんやつだな。ひとり用のごうだよ。そこへ代官の部下をひとりずつかくれさせるんだ」
「かしこまりました」
地虫兵衛はたちまち影のように走り去った。
しばらくの間、部落の南側の木立ちのかげでひそかな作業の物音がつづいていたが、やがてそれも終わったとみえ、夜ふけの静寂が水底のように周囲をおし包んでいった。
「きませぬな」
やみの中で地虫兵衛がぽつりといった。
「いくら風魔だって、昼も夜もというわけにはいくまい」
茂は思わず大あくびをもらした。気がついてみれば、いつもなら今ごろはとうに寝床の中だ。それに長く石の上に腰をおろしていたので、しりが痛くなった。
「頭領。私めが起きておりますゆえ、あちらでおやすみなされては……」
地虫兵衛が気づかうようにいった。
「ああ、そうするかな」
茂は立ちあがってもう一度あくびをした。いっぺん眠くなると、矢もたてもたまらなくなる。茂の今ののぞみは、寝床にもぐりこむことだけだった。もう伊賀も風魔もなかった。
忘れた宿題
「茂! 茂さん! いつまで寝ているんです。学校におくれますよ。夜おそくまで出歩いて、朝おそくまで寝ているなんて、なんです!」
いつにない母のはげしい声が落ちてきた。
「しまった!」
茂は飛び起きて、ほうり出してあるズボンに足を通し、上着のそでに腕をおしこんだ。まくらもとのとけいはもう八時二十分を過ぎていた。あと十分あまりしかない。学校の予鈴は八時四十分だった。それにまにあわないと遅刻につけられてしまう。もう食事をしているひまもなかった。教科書とノートをカバンにほうりこむと、玄関に飛び出した。
「茂さん! お待ち。ゆうべはあんなおそくまでどこへ行っていたの。それをいわないうちは学校へは行かせません」
母のきびしい声が背後から茂の背を突き刺した。つづいて、もっとおそろしい第二撃がやってきた。
「茂! どうもこのごろ、おまえのようすを見ているとそわそわしてるぞ。勉強しているのか」
ふだんは何もいわない父までが、こごとをいいはじめた。
「ゆうべ? おそくまでだって?」
茂は思わず足を止めた。ゆうべ、とは? おそくまで? はてな? 一瞬、すべてが目覚めた。あらゆることが一度にどっと茂の心にさく裂した。
「しまった!」
そうだった。あのとき、眠さに負けて寝床にころがりこむ期待で、ぼくは家へ帰ってきてしまったんだ。地虫兵衛のやつがあちらでやすめというものだから、うっかりして家へ帰ってきて寝てしまったんだ。
どうしたろう、伊賀の忍者たちは。あれから風魔たちはやってこなかっただろうか。
茂は玄関のたたきに立って、棒のように息をのんだ。
「茂! どうなの? ゆうべはおとうさんも陽子もそれはそれは心配していたのよ。いったいどこへいっていたの?」
奥のほうから父の重々しい足音がひびいてきた。
「茂! おかあさんに心配かけてはいかんじゃないか」
万事、休すだった。茂はカバンをかかえると、ものもいわずに風のように玄関を飛び出した。とにかく学校に遅れてはならない。伊賀者たちとの約束も気になったが、学校に遅れると放課後の居残り当番をしなければならなかった。
「あれはつらいからな」
しかも、クラスの申し合わせで、今週はぜったいに遅刻をしないようにと決めたばかりだった。
「出席委員の田中さんはきびしいからなあ」
茂のクラスでは朝のホームルームのまえに、委員が遅刻を調べることになっていた。委員の田中|敬子《けいこ》は、とくに男子にきびしいので有名だった。
「くそ! 風魔のやつ」
茂は走りながらうなった。
風魔の姿と出席委員の姿が火花のように交錯《こうさく》した。
茂が息せききって教室へ飛びこむのと、クラスの受け持ちの高尾先生が廊下のかどからあらわれるのがほとんど同時だった。
田中敬子が意地悪そうな顔で、鉛筆をもち直していった。
「茂くん、まにあったわね」
ふだんの茂ならここで一言、あびせるところだが、けさはそのまま自分の席へ、どかりと落ちこんだ。
「起立!」
委員が叫んだ。皆、がたがたいすを鳴らして立ちあがった。
*
二時間めは数学。数学は茂の好きな学科の一つだった。さんざん考えてようやく問題の解けたときの喜びはこころよい。しかしそのくせ成績が3から4にならないのは、どうも試験になると多少あわててしまうからであった。
数学は担任の高尾先生だ。若い女の先生で、茂たちにはお姉さんぐらいの年頃だ。たまごのような顔で、髪をたばねて結い上げている。皆はそれをかげで≪おばちゃんみたいだ≫といっていたが、茂はそれがかえってよく似あうと思っていた。
高尾先生は教科書をとりあげると、鈴のような目で教室を見わたした。
「五七ページの応用問題は宿題でしたね。それでは、と。黒板に書いてやってもらいましょう。だれがいいかな。はい、砂塚くん」
茂の背すじをしゃく熱の電撃がはしった。
しまった! 宿題が出ていたっけ。
からだじゅうからみるみる血の気が引いてゆくのがわかった。きのうは学校から帰るとすぐにあの古道具屋へ出かけて、それから風魔と伊賀の忍者どうしのはげしい戦いに巻きこまれ、そして――。
「どうしたの砂塚くん。宿題やってこなかったの?」
茂はうつむいた。
「はい、忘れてきました」
高尾先生はまことに意外なことを聞く、というようにまゆをひそめて、ひた、と茂の顔に視線をすえた。茂が数学の宿題を忘れてくるなどということは、これまでにないことだった。
「忘れてきたって、どうしたの? 何かあったの?」
担任の先生でなければ、ただ注意されるだけですんでしまうのだが、担任の先生だとクラスの生徒のひとりひとりの生活指導にまでおよんでくるから、生徒としても、とてもいいかげんないいのがれはできない。
茂は追いつめられたような気もちで、背中をつたう冷たい汗を感じていた。
「うっかりして忘れてしまいました」
「きのうはおうちへ帰って一度もカバンをあけないわね。カバンをあけて数学の教科書やノートを見れば、しぜんに宿題のあったことを思い出すはずです」
「すみません」
たしかに先生のいうとおりだった。ぐうの音もでなかった。
――だけど、こういう整然としたことをいうから女の先生はいやなんだよ。
茂はからだをすくめて席についた。高尾先生は茂がじゅうぶん反省したと思ったらしく、他の生徒に顔を向けてその名を呼んだ。
「その二番と三番は、どちらも方程式を使って式を作るんですよ」
消火器と高尾先生
茂はいつしか問題を解くのにむちゅうになっていた。
――ええ、と、これからこれを引くと、一時間に進んだ距離が出るんだから、それにこれを加えて……。
そのとき、ふと、茂の耳に、かすかにかすかにひびいてくる声があった。それは風にゆれる木の葉のさやぎのように、はるかな遠くからしだいに力を弱めて茂の耳にとどいてきたものだった。
「なんだろう? あれは」
茂は鉛筆を持った手を止めて、その声なき声に全身の神経をすませた。それはしだいにはっきりした意味をなして、茂の耳に聞こえてきた。
≪……頭領!……頭領!……いずこにおられまするか……おたすけくださいませ……≫
茂は思わず腰を浮かせた。
「あの声は地虫兵衛だ!」
周囲の者が、茂のつぶやきにふしんそうに首を回して茂に視線を集中した。
「なんですか? 砂塚くん」
高尾先生が窓ぎわからのびあがった。
雨≪……頭領、風魔の朝がけに味方は苦戦でござる……火《ひさめ》の術によって村は火に包まれ……今はもうわれらも最期でござる……頭領……≫
地虫兵衛の声はいたましくかすれていた。
それは必死の力をふりしぼって、頭領とあおぐ茂を求めて叫んでいた。
茂はくちびるをかんだ。
「くそ! 風魔め。地虫兵衛、今ゆくぞ。待っていろよ」
心の中で叫ぶと、茂は立ちあがった。
教科書とノートをカバンにほうりこむと、それをかかえて小走りに進み出た。
「先生、家へ帰らせてください」
「帰る? どうしたの?」
「その、おなかが、おなかが痛いんです。お願いです」
茂はぺこりと頭をさげると、もう教室の出口へ向かって走っていた。
あっけにとられた高尾先生が、つぎの瞬間、きりきりとまゆをつり上げた。
「待ちなさい! 砂塚くん。なあにその態度」
それをうしろに聞き流して、茂はカバンの中からあの円筒をつかみ出した。
「そうだ!」
廊下のすみの赤い消火器をかかえこみ、円筒のつまみを力をこめて回した。
茂のあとを追ってきた高尾先生が、茂の上着のそでをつかんだ。
「砂塚くん! きなさい。教室へ」
高尾先生は、これまでに見たこともないようなきびしい顔をしていた。
茂は一瞬ひるんだ。
≪……頭領、頭領さえおわせば、かかるやぶれは見ぬものを。無念でござる……≫
「がんばれ! 地虫兵衛。あぶない、先生、きちゃだめだ。いまいくぞ!」
三つの声が一つに重なって、それがまだ消えないうちに、周囲はとつぜん、火の海となった。黒い煙が低く地をはい、熱風の中に白刃がきらめいた。
高尾先生が悲鳴をあげて顔をおおった。
茂は叫んだ。
「ぼくはもどってきたぞ! 地虫兵衛はどこだ」
その声めがけて、うなりをあげて何かが飛んできた。
新しく火炎がふきあがった。茂は高尾先生をかばって必死に走った。
はげしい火の海の中で
燃え上がるほのおは、ごうごうとすさまじいひびきをたててうず巻いた。どちらを向いても周囲はことごとく火の海だった。大きな火の粉が吹雪《ふぶき》のようにからだや顔にぶつかってきた。髪も衣服も、まゆ毛もちりちりとこげた。
熱いも痛いもいっていられなかった。茂は上着をぬぐと高尾先生の頭からかぶせた。気もそぞろに、足もとのもつれる高尾先生をかかえるように守って、茂は走った。
ほのおの間から白刃がひらめいて茂に迫ってきた。それをどう防ぎ、どう突破したか茂はむちゅうでくぐりぬけ、追ってくる者をふりきってさらに走った。
ようやく火の海をぬけ出して、火のとどかない暗い木かげに茂はころげこんだ。
「だからいわないこっちゃない。きちゃいけないっていうのに……。先生、しっかりしてくれよ。必ず先生のこと、つれて帰るから、安心してよ」
高尾先生はよろよろとその場にくずおれた。
「茂くん、これはいったいどうしたことなの。ああ、すごい火事。ここ、どこ? あたし夢でも見ているのかしら……」
高尾先生は顔をあげて、力なくうつろにつぶやいた。学校の廊下から、とつぜん、このすさまじい火の海と白刃の中に連れこまれて、どうやら意識がうすれてきたらしい。大きな目が焦点《しようてん》を失って視線がさまよった。
茂は高尾先生の肩を思いきりゆすぶった。
「しっかりするんだ、先生。ぼくは風魔をやっつけにむこうへ行かなければならない。すぐもどってくるから、先生、ここを動いてはだめですよ」
その声も耳にはいらないのか、高尾先生はあわくくもった目で茂の顔を見つめるだけだった。
茂は思いきって立ち上がった。
「いま、行くぞ! 地虫兵衛」
茂は消火器をしっかりとかかえこんだ。大きく息を吸いこむと、からだを丸めて鉄砲だまのように、ふたたび火の海へかけこんだ。
「地虫兵衛! 地虫兵衛! どこにいるんだ」
その茂の背へ、キラッと電光のようにやりが飛んだ。とっさに茂は、それをひふのどこかで感じて、ふり向きもしないで身を沈めた。肩先をかすめて飛ぶやりを、左手をのばして、がっしとつかんだ。
「来い! 風魔!」
その声に応ずるかのように、黒い人影が、ばらばらと茂の前に立ちふさがった。
「ようし! 命がいらないとみえるな」
茂はやりをまっすぐに突き出し、片足を軸にしてぶうんと回った。長いやりのほ先に、がつん、がつんと衝撃がはしった。つんざくような悲鳴があがり、ずずっ、と退いてゆく足音が重なった。
茂はけもののように背を低め、ものもいわずに突っかけていった。その前に立つ者はだれもいなかった。
「地虫兵衛! 地虫兵衛はどこだ」
風魔の精鋭が、たいせいをたてなおして茂のあとを追おうとしたときは、その声はもう、はるかかなただった。
消火器の威力
茂は吹き寄せてくるほのおの舌からからだをひいて、周囲に鋭い目をくばった。気がつくとひどい風が吹いていた。空を流れる火の粉はまるで急流のようだった。茂は注意深く火の粉の流れてくる方向を見定めた。
「よし。部落の北のはずれだな」
茂は一個の黒い影となって走った。火で作ったような木立ちを左に回ると、そこに茂のもとめるものがあった。
「くそ! あんなもの」
茂はかかえていた消火器のせんをぬいた。コックをひねると、消火剤の粉末が霧のようにふき出した。その霧を受けると、さしもの猛烈なほのおも急にしぼんで、白い煙に変わって低くはった。目もあいていられないほど吹きつけてきた火の粉は、みるみる黒い燃えがらとなって地上に散った。
消火器をからだの前にかまえて、茂は突撃に移った。火の海はたちまち燃えさしの柱や板壁に変わり、黒煙は白煙になり、変わって風のまに吹きちぎれた。
茂のからだに、ばちばちとしきりに何かがぶつかってきた。鼻をつく石油のにおいに、茂は顔をしかめた。
消火剤は濃霧のように周囲のすべてを押し包んでいった。
「いかん! ひけ! 長居は無用ぞ、方がた」
その声めがけて茂はやりを投げた。茂はやり投げにも自信があった。区立中学の選抜対抗試合《せんばつたいこうじあい》にも出場したことがある。やりは命中したかどうか、見定めることはできなかったが、その声は二度と聞こえなくなった。
急にまわりが静かになった。茂の目の前に、木で作られた大きな羽根車がすえられていた。木の骨組みに厚く渋紙《しぶがみ》を張った羽根が六枚。それを回転させる長い柄といくつかのハンドルがついていた。そしてその羽根車の周囲には、うず高くもみがらが積まれていた。そのもみがらは強い石油のにおいがした。
「おおかた、こんなことだろうと思ったよ。油をしみこませたもみがらに火をつけて、せん風機で吹きつけてきたんだな。風魔もなかなかやるねえ」
風魔の火攻めはひじょうにたくみだと本で読んだことがあるが、じっさいにそれを目で見ると、やはりそうとうてごわい相手だという実感がひしひしとせまってきた。
茂はからになった消火器を投げすてると部落へもどった。風魔が退散したことを知って、逃げ散っていた部落の人びとがぞろぞろ連れだってもどってきた。
「あ! 地虫兵衛、どうした」
広場のかたすみに負傷者が横たえられていた。地虫兵衛は、全身まっかな血にまみれて、息もたえだえにうめいていた。それでもかけ寄ってきた茂の姿を見て、血の気のないほおにかすかな笑いを浮かべた。
「や! 頭領、ごぶじでしたか。頭領のおられぬうちにこの不始末、許してくだされ」
茂は地虫兵衛のかたわらにひざをついて、頭をふった。
「いや、地虫兵衛。いけないのはぼくのほうさ。ぼくがいなかったばかりに、皆に苦労をかけたよ」
地虫兵衛は茂の手をおしいただいた。
「頭領、さても、もったいないおことば。地虫兵衛、ただうれしゅうござる」
この実直な中年の忍者は、自分たちの頭領とあおぐ人物に親しくなぐさめられたのにすっかり感激していた。その素ぼくなようすに茂もうたれた。
「な、地虫兵衛。はやく元気になれよ。あとでぼくが薬や栄養になるものを持ってきてやるよ」
地虫兵衛は深い尊敬と感謝をこめて茂を見つめた。
さらわれた高尾先生
「各分隊集合! 負傷者はその場でよし」
茂の号令で集まってきた伊賀者たちは、みなひどいありさまだった。衣服は焼けただれ、かわいた血が顔にも、腕にも厚くこびりついていた。のこぎりのように歯こぼれした刀をつえについて、犬のようにあえいでいた。
味方の損害は意外に大きかった。
生き残ったのは、青葉の片岡、空蝉の典夫、それとけわしい目つきの古参の伊賀者がひとり。それに加えて、見習いていどの若い男。その四人だけがどうやら五体満足でつぎの戦いの戦力になり得るだけだった。地虫兵衛、羽衣の五郎太は重傷を負い、とくに五郎太は衰弱がひどかった。
けっきょく、十七名の伊賀者のうち、たった一夜の戦いで半数以上を討たれていた。そのほかに、代官の部下が、数名切られていた。
部落の半分の家が焼け、代官屋敷も火を放たれて、すべて灰じんと化していた。
あきらかに風魔の勝利だった。開幕の得点は、大きく敵側にはいってしまった。茂はだまってくちびるをかんだ。
そのとき、茂はたいへんなことを忘れていたのに気がついて、そう白になった。
「しまった! 高尾先生はどうしたろう」
茂は息せききって、高尾先生をかくしておいた樹木のしげみへと走った。
そこに、高尾先生の姿はなかった。
「高尾先生! 高尾先生! どこへ行ったんですか。出てきてください」
どこにも高尾先生の姿はなかった。茂の叫びはむなしくこだまを呼ぶだけだった。茂の胸は鉄のふいごのように熱く、あらあらしく高鳴った。
「あれはなんだろう? 紙きれのようだが……」
一枚の紙片が、小づかで木のみきにとめてあった。茂の目はその紙片にすい寄せられた。
≪女性拝借《によしようはいしやく》――。身代《みのしろ》金一千両は高からず。明《みよう》、月の出に頂戴いたしたし。賢察《けんさつ》をこう。風魔小太郎吉春《ふうまこたろうよしはる》≫
墨《すみ》の色もあざやかに、うむをいわせぬつめたいひびきが文字の間から茂の目を射た。
明日の夜、月の出に一千両と高尾先生を交換しようというのだ。
「やられた! やられた。やられた。くそう。ああ、ぼくの負けだ」
茂は頭をかかえてうなった。
木かげにかくしておいた高尾先生を見つけ出されて、人質に取られてしまったのは、たいへんな失敗だった。
――ああ、あのとき、やっぱり一度もどって高尾先生を学校へ送りかえすべきだった。一千両の身代金なんて手にはいるわけはないし、代官だって伊賀者たちだって、一千両という大金を持っているはずがない。
高尾先生はきびしいし、なにごとにもきちょうめんで、茂のもっとも苦手な先生だったが、しかし茂は高尾先生が好きだった。ときにはおねえさんのような気がすることがあった。その敬愛する高尾先生が、にくむべき風魔の手に落ちてしまったとあっては、茂も今は必死だった。これまでの遊び半分の気持ちでは、とても風魔の手から高尾先生をとりもどすことなどできない。勝つにしても、負けるにしても、時間はたった二十四時間しかなかった。茂のからだから、熱っぽいものが急速にぬけていった。
「高尾先生! 力を落とさないでください。きっと助けにゆきます。高尾先生! 高尾先生――」
茂は力のかぎり叫んだ。高尾先生の所まで聞こえるはずはないのだが、茂は全身に闘志をみなぎらせて叫んだ。それは一ぴきのおおかみが、強敵に向かって戦いの始まりを宣言するあの雄たけびに似ていた。
三人の救援隊
茂は四人の伊賀者に部落の死守を命じた。事の重大性に、四人の伊賀者たちをはじめ、代官もことばもなく茂に従うだけだった。きのどくなのは代官だった。茂の不機げんさのことごとくが自分のせいであるかのように、小さなからだをますます小さくして茂のことばに気を配っていた。
――味方の数は急に減ってしまった。高尾先生をとりかえしに風魔の本拠へのりこむにしても、ぼくだけではちょっと心細い。地虫兵衛でも元気でいてくれればいいのだが、今はだめだし、どうしよう。
茂はくちびるをへの字に結んで、考えにふけった。
そうだ! 学校の友だちに応援してもらおう。茂の胸に、明夫をはじめ数人の顔が浮かんだ。茂は胸の中で慎重に人選した。明夫――機械いじりが好きで、合理的な考えの持ち主だ。五郎――力が強く柔道部の選手だ。無口で地味な性格だが信頼できる。礼助――からだはクラスでいちばん小さいが、びんしょうで、ぼくの忠実な子分だからさそってやろう。
茂の胸の中で計画がまとまった。茂は自分のいない間のこまかい指図を与えるために、空蝉の典夫を呼んだ。空蝉の典夫はたちまち影のようにあらわれて、茂の前にうずくまった。
「空蝉! ぼくがいないあいだ、おまえが責任者だ。しっかりやるんだぞ。かたときもゆだんするなよ。いいか。われわれは必ず勝つ。風魔に思いしらせてやるのだ」
「しかとうけたまわってそうろう」
「よし。ゆけ!」
空蝉の典夫はあらわれたときと同様に、影のように去った。
茂は首にさげた円筒のつまみを回した。
*
茂は休み時間をみはからって、三人の友だちをそっと校庭に呼び出した。
「どうしたんだい、茂くん。高尾先生といっしょにいなくなってしまったんで、みんなで心配していたんだよ」
「高尾先生は、あれから教員室にもあらわれないんだって。国語の先生が首をひねっていたぜ。いったい、どうしたのさ」
茂は声をひそめて、
「その高尾先生のことなんだよ。いいか、おどろかないで聞いてくれよ。実はな……」
おどろかないでくれ、といってもそれはむりだ。茂のことばに三人はすっかり肝《きも》をうばわれてしまった。はじめは半信半疑のおももちだったが、高尾先生が風魔にうばわれたと聞くにおよんで、三人の顔色は変わった。そして、さらに、茂が、三人に応援をたのむと、にわかに顔をかがやかせて、茂をとりかこんだ。
「すげえぞ。茂くん。伊賀の忍者の頭領になったなんて。ぜひおれも連れていってくれよ。な……」
「茂くん。それで、いつ出かけるんだい。今すぐでもいいんだぜ」
「いや、まて。今、三人が急に早退したら、学校でもへんだと思うだろう。それにこのことはあまり人に知られたくない。放課後、ぼくの家へ来てくれよ。そして今夜はぼくの家へとまって勉強することにでもすればいい」
「よし、そうしよう。いよいよおれも忍者の仲間入りかあ。うでが鳴るぜえ。ほら、聞こえるだろう」
「ばかだな、礼助。それは上衣のそでがほころびる音だよ」
「それじゃ、三人ともたのんだよ。用意はととのえておく」
三人は教室へ、茂は垣根をくぐって外へ出た。
茂はこっそりわが家の門を開いて、縁側から自分の勉強べやへ足音を忍ばせてすべりこんだ。さいわいおかあさんは台所でいそがしそうにからだを動かしている。
茂は押し入れから大きなリュックサックをとり出した。テープ・レコーダー、目覚しどけい、とつレンズ、水筒、野球用のスパイク、アルコールランプ、ペンチ、ドライバー、その他、手あたりしだいにリュックにつめこんだ。リュックは子牛ほどの大きさにふくれた。それにロープをかけ、せなかにせおって立ち上がると、さすがに足もとがもつれた。必死に重さに耐えて壁づたいに縁側へ出た。ようやく門をくぐりぬけ、一歩、一歩、踏みしめておもての道へ出た。
薬屋で傷薬とほうたいの包みを買い、たまごと牛乳を買うと、それをポケットにつっこんだ。となりの酒屋でウイスキーの小びんを買った。大びんを買いたかったのだが、もうお金がなかった。ウイスキーのびんをかかえて酒屋の店を出たとき、茂の後ろからだれかが近づいてきた。
「きみ! きみ! どこへ行くのかな。きょうは学校は休みなの?」
重いからだごとふりかえると、パトロールの巡査がいぶかしげに茂の姿を見つめていた。
「今、きみはウイスキーを買ったようだね。きみが飲むのかね」
「あ、これ? 地虫兵衛にやるんだよ」
「ジムシベエ? それはだれだね?」
「伊賀の忍者さ。ぼくのけらいだ」
巡査は世にも奇妙な顔をした。
「忍者? きみのけらい?」
「ああ、地虫兵衛は重傷でね。風魔にやられたのさ。気はきかないがいいやつさ」
巡査の顔はしだいにむずかしくなった。その目に怒りの色が浮かんで、茂の顔を見すえた。
「ちょっとそこの交番まできてもらいたい。そのリュックのなかみも見せてもらおう」
「いやだよ」
「なに! いやだって!」
巡査の太い腕が、ぐいとのびてきた。
とたんに、茂の姿は消えていた。あとに残された巡査は、しばらくポカンとその場につっ立っていたが、急にはずかしそうな顔になると、足ばやにそこを離れていった。
落下する十字手裏剣
傷薬を塗り、ほうたいを巻いて、ウイスキーを飲ませると、地虫兵衛はすっかり生気をとりもどした。とくにウイスキーがかれの気にいったらしい。地虫兵衛は子どものように喜んで、かれにとっては宝石のような味を楽しんでいた。それを見守る他の忍者の顔こそみものだった。さすがに地虫兵衛は一団の頭領におされていた男だけに、周囲の顔に気づくと、ウイスキーのびんをかれらにさし出した。そこでもひとしきり嘆息がもれた。
ウイスキーには舌つづみを打った地虫兵衛も、牛乳とたまごには見るもきのどくなありさまだった。しかし茂の前でいやだともいえない。目をつぶって無理にのどへ流しこんでいた。
茂がつぎつぎとリュックサックからとり出すさまざまな器具は、地虫兵衛をはじめ忍者たちの心をうばうのにじゅうぶんだった。茂は目ざましどけいのベルのねじを巻き、針を合わせた。とつぜん、鳴り出したベルのひびきに、青葉の片岡は思わず反射的にふところの八方手裏剣に手をやって、皆に笑われた。
午後三時。茂はふたたびわが家の門の前にあらわれた。十分ほど待つと、明夫たちが興奮を顔に浮かべてやってきた。茂はその三人に自分の上衣のすそを握らせ、そのまま、地虫兵衛たちの待つ部落の広場へとってかえした。
ただちに作戦会議が開かれた。
忍者たちは右側、明夫たちは左側。中央に茂と地虫兵衛。下座に代官がかしこまって座っていた。
「代官! 風魔の本拠はどこだ」
代官は、はっ、と頭をさげて答えた。
「瀬田村の蓮妙院《れんみよういん》なる寺が、風魔小太郎の本拠と聞いておりますが」
「ふうん。瀬田村って、明夫くん、今の玉川線の瀬田のことかな?」
「たぶんそうだろう。でも今は蓮妙院というお寺はないよ」
「で、代官。その風魔の本拠の守りは?」
代官にかわって青葉の片岡が、ひざをのり出した。
「申し上げます。本拠を守る風魔の数はつねに十八人。鉄桶陣《てつとうじん》なる秘法をもって警戒に当たっているようすにございます」
「どうせ、落とし穴とか地雷火とか、そんなものだろう」
「は、しかと存じませぬが、まだ余人《よじん》によって破られたことのない守りとか」
「よし。今夜、それを破る。明夫くん、五郎、礼助、青葉の片岡はぼくに従ってゆく。空蝉の典夫は地虫兵衛を助けてここを守る。いいな!」
「ははっ」
そのとき、茂の背後で地虫兵衛が、かすかに身動きした。ふり向いた茂の目に、おそろしい緊張を浮かべた地虫兵衛の顔が天井をあおぐのがうつった。
「どうした? 地虫兵衛」
茂の声がまだ消えないうちに、ざっ、と音を立てて十字手裏剣が降ってきた。カン、カン、カカカ……ン
はげしい音をたてて十字手裏剣が床に突き立った。皆がいっせいにぱっと壁ぎわにとびのくのと、天井の中央が、どん、とけ破られて、黒衣の人影がつぎつぎと舞いおりてくるのがほとんど同時だった。その人影へ向かって、五郎と礼助の手から、早くも二本のロープがヘビのようにうねって空間を飛んだ。
飛んだドライバー
「気をつけろ! 五郎、礼助! 風魔の襲撃だぞ!」
礼助がちら、と茂をふりかえって、にっ、と笑った。
風魔の忍者たちは風のように床に降り立ったまま、ある者は片足で立ち、ある者は中腰で、ある者は床に片ひざをつき、まるで奇妙な踊りが中断されたかのような姿勢で無気味にかまえた。一瞬の動から静へ、氷のような冷たい緊張の中で、すさまじい殺気が流れた。
五郎と礼助の手からのびたロープは、ちぎれるばかりにぴいんと張られて、忍者のひとりは腕を、ひとりは足をからまれていた。代官の吐く息の音だけが、ふるえをおびていやにはっきりと皆の耳にとどいた。青葉の片岡も、空蝉の典夫も、腰の刀を半分引きぬいたまま、まだ攻撃のための足構えもとれていなかった。
それは死を待つにふさわしいなん秒かだった。冷たい汗が目にはいっても、まばたきすら許されない。一瞬でもすきを見せたらそれが最期だった。
――ううむ。こいつらはできるぞ! 今までの風魔の忍者とはくらべものにならない。かれらもいよいよ主力をくり出してきたな。
茂の全身の筋肉は凄絶な戦いの予感にしびれた。
――こい! 風魔!
目のくらむような緊張の中で、茂はくちびるをかんだ。
とつぜん、その氷のような静寂《せいじやく》は一角からくずれた。
「どうしちゃったの、これ。忍者って、もうちっとカッコいいんじゃないのかい。上から降ってきて片足で立ってるなんぞ、これじゃまるでできのわるいサギだよな」
「ほんと! 見ろよ、礼助! あのおっさん、トイレでりきんでるカッコじゃないか」
およそこの場に似つかわしくないのんびりした会話が、皆の心の針のように鋭いバランスをうちやぶった。
くっくっくく……
あっははは……
五郎と礼助の笑い声が爆発した。
思いがけないこの笑い声に、風魔の一団はひどく動揺した。
「な、なにを笑うか!」
先頭に立ったひとりがほえるように叫んだ。
「あれ、おい五郎。あのヒト、おこってるよ。おれたちの笑ったのが聞こえたかな」
人をくった礼助のことばに、ついにたまりかねたか、その忍者はいきなり身をひねって礼助めがけておどりかかった。びゅっ、と大刀が鳴った。その目にもとまらない白刃の動きよりもまだ早く礼助は横へ飛んだ。その手にしたロープに腕をとられていた忍者は、この礼助のとっさの動きに、ふいをつかれて大きくよろめいた。踏みとどまろうとするより早く、礼助のからだは弾丸のようにその背中へ体当たりをくれた。
つづいて五郎が動いた。それから青葉の片岡と空蝉の典夫がほとんど同時に床をけった。最後に代官の小泉右京太夫が刀をぬいて乱闘に加わった。
ふいを襲った風魔の忍者たちの最初の優位は、完全にくずれてしまった。おどりこんでくる礼助たちを防ぎとめるのにせいいっぱいだった。ロープに手や足をとられた忍者は、なんとかしてロープを切断しようとして刀をふりまわしたが、礼助や五郎が目まぐるしく動き回るので、それにつられて床の上をずるずる、ぐるぐる引き回されるばかりだった。ふり回す刀と引き回されるロープがいよいよ風魔の忍者たちの行動をうばった。乱戦の中では、おたがいに、手裏剣を使うわけにもゆかない。
「いやあ! とう!」
五郎のすさまじい叫びとともに、黒い忍び姿がはげしい音をたてて壁にぶつかった。壁土がばらばらと飛び散った。柔道部キャプテンの五郎の得意の山嵐《やまあらし》が出た。つづいて二、三人がその五郎をかこんで必殺のすきをうかがう。
茂はらんらんと目を光らせてはげしい乱闘を見つめていた。その茂の右に明夫、左に地虫兵衛がゆだんなく身構えていた。
「しゃっ!」
するどい気合いとともに、小さな鉄びしが空気を裂いて、茂の顔面に飛んだ。茂が動くより先に明夫の右手がさっとひらめいた。
キイイーン! 澄んだ金属音が三人の耳をうった。鉄びしは大きく弧を描いてはね飛んだ。明夫の手を離れたドライバーは床に落ちて、からからとすべった。
「すげえぞ、明夫くん。ドライバーを手裏剣がわりに使うなんて……」
「なあに、いつでも持ってるのさ」
明夫はちょっとてれて、学生服の上着のすそをまくって見せた。その腰にドライバーやスパナーなどをさしこんだ幅広のベルトが巻きつけられていた。さすがに機械いじりがめしより好きな明夫だ。とっさの危機にも使いなれたドライバーに手がはしったとみえる。
小二郎をいけどる
「ううむ、聞きしにまさる手だれ者よ。ゆくぞ!」
ひとりの黒衣の忍者が三人の前に大手をひろげてにじり寄ってきた。おそれげもなく三人を相手に戦おうとする自信のほどが全身にあふれていた。地虫兵衛が傷の痛みをこらえて大刀をひきぬいた。
「伊賀者! その傷ではちと、むりなようだの」
風魔の忍者の両手には短い栗形《くりがた》(短刀の一種)が氷のように冷たく光っていた。
「地虫兵衛。おまえは見ていろ。おい、風魔。名まえをいえ」
「のう。忍者とは名のらぬものよ。ゆえに忍者という。が、しかし、あの世へのみやげ話に、聞かせてやろうかい。わしは風魔小太郎吉春の弟、小二郎高秋《こじろうたかあき》だ。見なれぬ忍者が代官屋敷にあらわれたと聞き、この目で見んものとまかりこした」
「高尾先生をとらえていったのもおまえか!」
「たかおせんせい? ああ、あの女のことか。あれはおれではない。兄、小太郎の手の者よ。女をかどわかすなどおれの好みではないわい」
「なるほど。それでは小二郎、帰って兄貴の小太郎にこういえ。あすの月の出までに、高尾先生と賠償金《ばいしようきん》一千両をそろえてもってこいと。もし持ってこないときは、いいか、おまえらひとりも残さず皆殺しだ、とな」
茂がいやに静かにゆっくりといった。そのことばの裏にひそむ茂の決意のかたさと、すさまじいきはくに、小二郎はおしだまったまま炎のようなひとみを燃やして茂をにらみかえした、
一瞬、小二郎のからだは宙におどった。二本の栗形は電光のように茂のからだをつらぬいた、としか見えなかったが、なんとしたことか、その二本の鋭い栗形は、茂の直前で中空にとどまってぶるぶるふるえていた。小二郎にそれが見えたかどうか、小二郎は風を切って茂の上に落ちてきた。
予期しない攻撃の手順の狂いが小二郎の顔から血の気をうばった。二本の栗形は正確に敵をつらぬくはずだったし、倒れたその上に落下してとどめを刺すこの方法に、小二郎はこれまで敗れたことのない絶大な自信があった。小二郎の目に、茂がにやっと笑ったのが、へんにゆがんでうつった。中空にとどまっている栗形に手を伸ばそうとして、そのままどさりと床に落ちた。とっさにはね起きようとして、からだの自由がまるできかないのにかれはあわてた。なんだかひどくせまい所へおしこめられたような感じだった。
ふたりの敵がロープで自分をしばろうとしているのに気がついて小二郎は必死にあばれたが、ひじがつかえて刀をぬくこともできなかった。かれは今、自分がせまい空間へ押しこめられてしまったことを知った。はじめてかれの胸におそろしい恐怖がわいた。全身から冷たい汗がふき出した。
「お、おのれ! 魔か、鬼か! こ、このわざは……」
小二郎はせまい空間におし包まれ、その上からロープでぐるぐるまきにされて、さかなのようにあえいだ。
「どうだ。小二郎。これが忍法あやかしの包みだ」
茂と明夫は顔を見合わせて腹の底から笑った。
「透明なビニールのテーブルクロスが張ってあったとは、どんな風魔だって気がつかないだろう」
投げた刀で弾力性のあるビニールをつらぬくことは、どんなに力のあるものでもできることではない。さすがに小二郎の投じた栗形は半分ほどつらぬいたまま、落ちもしないでささっていたのはむしろあっぱれというべきかもしれない。落下してくる小二郎の下に、茂と明夫はつってあるビニールのテーブルクロスの下端をひろげて待っていたのだからたまらない。小二郎の体重でつってあったひもは切れ、同時にふたりはすばやくあばれるからだをビニールで押しつつみ、ロープでぐるぐる巻きにしてしまった。
礼助や五郎のほうもすっかり片づいて、手負いの風魔をふたりいけどりにして、得意になっていた。青葉の片岡、空蝉の典夫、それに代官は、小二郎をいけどりにしたふたりの手なみにあきれると同時に、少しおそろしくもなったらしい。ものもいわずに顔を見合わせて、そっとひたいの汗をぬぐっていた。
「茂さまならびに明夫さま、そもこれはいかなるわざでござりますか。小二郎高秋といえば、兄小太郎吉春にまさるとも劣らぬ忍びの手だれ。これまでこの者の手にかかった伊賀者の数はどれほどか、それをかくもたやすくとりおさえるとは。私め、なんとのうあなたさまがたがおそろしゅうなりもうした」
「あっはは、代官。こんなことでおどろくのはまだ早いぞ。おれたちの世界ではな、ビニールのふろしきでものを包むのなんか、こんな小さな子どもでもできるんだ」
「はあ。まるで夢のようでござりまするなあ」
「よし、それじゃみんな、耳をかせ」
八人は頭を寄せ合った。
地獄からのうめき声
雑木林の茂るゆるやかな丘陵地帯の間をぬって、いくつもの清らかな小流が終日、せせらぎをたてていた。その流れはどれも西に向かっていた。
丘の上に立てば、すぐ目の下に、ゆうゆうと流れる多摩川《たまがわ》が白い川原のひろがりを見せていた。その流れのはるかむこうには、秩父《ちちぶ》、丹沢《たんざわ》の山々が波のうねるようにつらなっていた。相模《さがみ》の平原をまっすぐたどってきた厚木街道《あつぎかいどう》から左におれた間道が、多摩川の川原に沿って、やがてこの瀬田郷にぬけてくる。雑木林に包まれた六道地蔵尊《ろくどうじぞうそん》のほこらの前で、その道は右と左に分かれる。左へたどれば世田谷太子堂《せたがやたいしどう》へ、右にたどれば小山郷円融寺《こやまごうえんゆうじ》への道だ。その右の道を一丁ほど行った左側の小高い丘のいただきに、蓮妙院があった。
ひるま、深いすぎ木立ちの間からもれてくる日ざしの下で見ると、この寺が、むかしはそうとう高い格式であったということがわかる。山門の造り、本堂のやね、こけにおおわれた前庭など、そのどれ一つをとりあげてみても、いかにもゆいしょある古い寺のなごりをとどめていた。
しかし、濃い夜のやみの中で見るとき、とくにそれが周囲のすぎ木立ちがごうごうと風に鳴る夜などは、見すてられて久しい、すむものは鬼か魔ものしかない廃きょのように見えるのだった。
今、その蓮妙院のくずれた白壁を青い月光が染めていた。すぎ林の高いこずえはかすかに風の音をひびかせ、ふくろうの声がものがなしく夜のやみをつたっていった。
その本堂の奥に、ちらちらと小さな火がゆらめいていた。
しょく台のゆらめくほ影を横顔に受けて、じっと目を半眼に開いているのは風魔の頭領、小太郎吉春だった。年のころ、三十もまだなかば、多すぎるぐらいのつやのある髪を肩までたらし、そぎ取ったような鋭いほおの線が鉄のような意志と鍛練のなみなみならぬすさまじさをあらわしていた。全身、墨のような忍びの衣服に包み、短い忍者刀を腰におびている。
小太郎の前に平伏しているのは、数人のこれも黒の衣服に身を固めた忍者たちだった。
「おろか者め。わしが弟、おまえたちにとっては小頭《こがしら》の小二郎がいけどりにあったのを、みすみす見すてて逃げ帰ってまいったのか!」
「あいや、頭領、おまちくだされい。われら逃げ帰ってまいったのではござらぬ。先ごろより伊賀者に加わりし不可思議なる忍者、うわさにたがわぬまことにおそるべきわざの持ち主。小二郎殿も手もなく取りおさえられるありさま、まことに思うだに身の毛もよだつようでござった。それを頭領におつたえすべく、われら血路を開いて落ちのびてまいったしだいにござる」
「して、それはいかなるわざぞ」
「乱戦のこととて、しかと見定めがとうござったが、何やら、目に見えぬかごのようなもので、小二郎殿を伏せ取りにしておったようでござりましたぞ」
「目に見えぬかご? はて……」
小太郎は太いまゆを寄せると首をかしげた。
「よし! このたびは許すぞ。さがって休め」
「ははっ」
忍者たちは床に頭をこすりつけるようにして平伏した。
「まて、狐狸斎《こりさい》は残れ」
ひとりの年老いた忍者が、その場に残った。
「狐狸斎、つぎにとるべきわれらの手は?」
老忍者は、しばらく考えておもむろに口を開いた。これまで戦ってきたあらゆる記憶を、この年老いた忍者は胸の中でたどっていた。
「されば頭領、そのようなえたいの知れぬ者どもを相手に、戦いをながびかせてはこちらが不利。風魔が秘法、かげろう陣をもっていっきょにぜんめつをはかってはいかが」
「なるほど。しかしかげろう陣は一度おこなえば二度はおこなえぬ秘法中の秘法。狐狸斎、とくと考察し、わしの命を待て」
「かしこまってござる」
老忍者狐狸斎は足音もなく影のようにやみの中へ消え去っていった。
「おとなしく身の代金一千両を出すかどうか。もし応ぜぬそのときこそ、秘法かげろう陣をもちいてくれるぞ。ふっふふふ……」
小太郎は片ほおをゆがめて、ひとり無気味に笑った。
そのときだった。小太郎の耳にどこからか、かすかなうめき声が聞こえてきた。
それはまるで地獄の底から、無限の責苦《せめく》にあえぐ亡者のうめき声がつたわってくるように、静かな本堂の深夜の空気をかすかにふるわせた。
「だれだ!」
うめき声は息もたえだえになおつづいていた。
「狐狸斎! 悪多聞《あくたもん》!」
小太郎はやみの奥にひそむ部下を呼んだ。たちまちふたりの忍者が小太郎の前に片ひざをついた。
「頭領、お呼びでござりますか」
「うむ。ふたりともあれが聞こえるか」
狐狸斎も悪多聞もいわれるままに耳をかたむけ、同時にぱっと床をけって小太郎の左右に身を沈めた。さすがに頭領の側近にあるこの風魔の精鋭は、やみに聞こえるうめき声に異常なものを感じとったのだろう。
「……兄者、兄者……く、くるしい。息がつまる……助けてくれ、助けてく……ううむ、地獄の鬼どもとてこのような……」
うめき声はものすごい叫びに変わって小太郎の耳をうった。
「頭領! あれは小二郎殿のお声」
「いかにも小二郎殿。いずこにおわすぞ」
「ううむ、あれはたしかに小二郎の声。ふたりともゆけ」
狐狸斎のからだは鳥のように天井めがけて高くとんだ。悪多聞は一息で床板をはねのけ、たちまち消えた。小太郎は忍者刀のつばもとに親指をそえて、ゆだんなく周囲のやみに目を配った。
「……兄者……助けてくれ、早くきておれの命を断ってくれい……それが慈悲ぞ……ああ、殺せ! 殺してくれい……」
声は高く低く小太郎の心を乱した。
「頭領! 天井にも屋根にもだれもおらぬ」
狐狸斎がふしぎそうな顔で床に降り立った。
「頭領! 床下には摩利支天丸《まりしてんまる》以下三人の仲間がひそむのみでござる」
悪多聞が床の穴から上半身をのぞかせて叫んだ。
「狐狸斎に悪多聞! すみずみまでさがせ。小二郎! 待っておれよ。今、助け出してやるぞ」
小太郎吉春はくちびるをかみしめてうめいた。重傷を負った小二郎のからだを、これを見よ、とばかりにそのへんにうちすてていった敵のしわざが、がまんのできないほどにくかった。鉄桶《とう》陣によって厳重に守られているこの蓮妙院の本堂へ、どうやって近づいたのだろう。小太郎は歯がみして立ち上がった。ふところから忍者笛をとり出すと、鋭く吹き鳴らした。
「……ううむ、苦しい、あっ! あっ! 息がつまる……」
小二郎の悲痛な叫びは、本堂に集まった忍者たちの胸にくいこんだ。
「聞こえるであろう、小二郎の苦悶《くもん》のうめきが! ゆけ! いって小二郎を救え」
三十名の忍者集団は声もなく散った。
ほら、うしろを見ろ!
「ふしぎだ、頭領! 声のする方へ近づいてゆくと、声はいつのまにか後ろへ回っている。左から聞こえてくるかと思うと実は右から聞こえていたり、どうにもうめき声の所在がわからぬ」
悪多聞はくやしそうに声をふるわせた。
「頭領! この寺の中にはあやしいものの影一つない。それだのに小二郎殿のうめき声はやまぬ。これはなんとしたことだ」
狐狸斎は深く腕組みして首をかしげた。
「のう頭領。わしがまだ若いころ、四国の丸亀《まるがめ》城下で幻術というものを見たことがある。アンナンとかいう異国のわざ使いであったが、このようにあちこちから声の聞こえる方法などをひろうしおった。頭領、わしは思うに、これは幻術ではあるまいか。あの代官屋敷にあって伊賀者に加たんせし男たちは、異国の幻術使いではないか。服装といい、また、ことばといい、何やら異国ふうと思われるぞ」
「ふうむ、幻術とな」
「………兄者、風魔の手の者………かれはまさしく………天魔じゃ、これは天魔のしわざじゃ………うわあ!」
小太郎はたまりかねたようにすっくと立ち上がった。その顔は悲壮な決意にあふれていた。
「聞け! みなの者、風魔の……」
なみいる部下に向かって叫びかけた小太郎の怒声をうち消して、それより高く本堂をふるわせた声があった。
「うわっははは! 小太郎。どうだ? いいかげんこわくなったろう。おじけづくのはまだ早いぞ。これからゆっくり料理してやる。ほら! 後ろを見ろ!」
一瞬、水底のようなおそろしい沈黙がきた。さすがの小太郎も、精鋭をほこる風魔の忍者たちも、おのれの後ろをふりかえる勇気を失った。
神秘
「おっ!」
「ううむ、むむ」
腹の底からしぼり出したような叫びが忍者たちの口をついてほとばしった。
「おう、小二郎どのう」
「あ、あれは!」
見よ。本堂の板壁に、幻《まぼろし》のようにもうろうと浮き出たものは、けもののようにうごめく一個の人影だった。なんの光か、あわい黄色の光がほの明るく壁や床を照らし出し、その光の中で、がんじがらめになわをかけられた人影は、身をくねらせてもだえていた。
「……苦しい、息がつまる。目が見えぬ……く、くそ!……」
人影は小二郎だった。その全身をおし包んで、白い煙が霧のようにうずまいた。忍者たちはおのれの目をうたがった。この寺の内外、もれなくさがし回ってあやしいものがいないのをたしかめたばかりだ。そこへとつぜん、小二郎の姿がこのようにあらわれてくるとはとうてい信じられないことだ。ふしぎを信じないかれらの理性がこの一瞬にくずれさった。あくまで現実的な考えにしたがって行動するかれらが、はじめて理解することのできない神秘にぶつかって、完全にうろたえた。
「頭領!」
「おお、これは小二郎どののうらみの一念か!」
「おそろしいことだ」
さすがの悪多聞や狐狸斎までもが、くちびるをむらさき色にふるわせた。
「……南無、小二郎どの、成仏《じようぶつ》してくだされい」
摩利支天丸がうめくようにいって片手おがみに頭をたれた。そのときたまりかねたように、小太郎が床を踏みならしてすっくと立ち上がった。
「ええい! みなの者。気をたしかにもてい」
泣くような声で叫んだ。その右手が目にもとまらずひらめくと、八方手裏剣が流星のように小二郎の姿めがけて飛んだ。
どすっ、どすっ、どすっ!
板壁をうちつらぬく八方手裏剣のひびきが、とつぜん、それまでわれを忘れていた風魔の忍者たちを、にわかに正気にかえした。
「てえっ!」
「えおっ、ほおう!」
怪鳥のような叫びをあげると、まっ黒なつむじ風となって小二郎の姿がうかぶ板壁へ向かって突進した。ふわっ、と小二郎の姿が重さをもたないもののようにひるがえった。黄色の静かな光が急に目のくらむ光に変わって一瞬、やみがきた。中空に、ぼうと火が燃え上がり、たちまち板戸から天井をはしった。その炎のかがやきの中に、背を低めて走りさる二、三の人影があった。
「おのれ!」
悪多聞はふところの鳥足《とりあし》をつかんで低く飛ばした。
ひとりがふり向きざま何か叫んだようだった。白い歯が悪多聞をあなどるように、チラと光った。うなりをたてて何かが飛んできた。悪多聞は身をひねってあやうくさけた。前へおどり出てきた仲間のひとりが腹をおさえてうずくまった。
ごおう、炎はみるみる本堂をつつんで燃えひろがった。どこに敵がいるのか、だれが味方なのか、ただ足音と叫び声が周囲にみちていた。狐狸斎は頭領がどうしているかひどく気になっていたが、やみと火の戦いの中では、頭領の姿を発見することも不可能だった。何がどうなっているのか少しもわからなかった。おそろしく身軽な人影が狐狸斎に走り寄ってきた。
「な、なにものだ!」
さけるまもなく狐狸斎は、どん、と体当たりを受け、思わずよろめいた。この老忍者は、これまでいく十度の戦いに、一度も敵の手を自分のからだにふれさせたことがなかった。それが誇りの狐狸斎は、
「不覚!」
と叫んだ。
立ちなおるひまもなく、その人影は狐狸斎の腰に足をかけ、肩を足場にひらりと天井に飛び移った。
「まて!」
怒りに身をふるわせた狐狸斎が、たちを突き上げるより早く、燃える材木が天井から投げ落とされてきた。狐狸斎は横っ飛びに逃げた。
フィルムの煙
いつのまにか戦いは本堂の前の境内に移っていた。本堂の燃える炎は高く高く天を焦がした。この蓮妙院を包む深いすぎ木立ちは炎にあおられ、にわかに吹きはじめた烈風に、ごうごうとどよめいた。うずまく火の粉は、川の流れのように暗い空をいろどった。
小太郎はぜいぜいとのどを鳴らして走った。刺《さ》すように目が痛み、とめどなく涙があふれてきた。肺の奥までひりひりとかわいて、小太郎はたえずのどをかきむしった。
「むねんだ!」
「さ、頭領、ここはしばらく敵に勝ちをゆずり、機をうかがうが最上と存ずる」
摩利支天丸も片手で目をおさえ、犬のように舌をたらしてあえぎながら、小太郎をせき立てた。
「小太郎、逃げるのか」
とつぜん、後ろから声がかかった。それを見定めもせず、摩利支天丸はたちをふりかぶっておどりこんだ。ただれた目は敵の姿をとらえることもできなかったが、刀をとっては風魔第一といわれた摩利支天丸の必死の一撃は、正確に呼びとめた敵の胴を横にはらった。
がつうん!
「うっ!」
摩利支天丸は腕がしびれて、思わず刀をとり落とした。まっ二つに断ち切った竹筒が宙に舞った。
「ばかめ。それはふしをぬいた竹筒だぞ。それを口にあててどなっているんだ。竹筒の先から声が聞こえたっておれがそこにいるものか」
「ひ、ひきょう!」
「なにがひきょうだ。それ、これでもくらえ!」
「あつ、つ、つ!」
摩利支天丸は夢中でからだにまといついてきた炎のひもをはらい落とした。ひもは白い煙とオレンジ色の炎を吹き出しながらチリチリとちぢんだ。魔利支天丸は目と鼻をおさえてころげ回った。
「く、くるしい、息がつまる」
その摩利支天丸を背後にすてて、小太郎は煙の下をくぐって走った。肩ごしにふり向いた目に、口と鼻を白い布でおおった小がらな敵が、摩利支天丸のからだを飛びこえて突進してくるのが見えた。
「どうだ、苦しいだろう。フィルムの燃える煙を吸いこんだんじゃな」
――フィルム、フィルムとはなんだろう。このにおいでは小二郎のあの苦しみも当然だ。命を断つのが慈悲じゃとわめいておったが、むりもないことよ。
走りながら小太郎はくちびるをかんだ。こんなにひどい負けいくさは、風魔はじまって以来と思われた。蓮妙院の丘はもうことごとく火に包まれていた。深いすぎ木立ちも雑木林もうなりを上げて燃え狂っていた。火は風を呼び、風は火をまいて夜空を染めた。遠い部落で半鐘《はんしよう》が鳴りはじめた。
小太郎は松林に囲まれた窪地の茂みの中にからだを横たえた。北の空がまっ赤に燃えていた。目がやきつくように痛んだ。細い流れの水を手ですくっては目をひやした。のどや胸の痛みはどうやらおさまってきたが、それでも深く息を吸うと、のどの奥がかきまわされるようにうずいた。
「おう、頭領、これにおわしましたな。狐狸斎めにごさる」
がさがさと草の葉を鳴らしながら狐狸斎がよろめきこんできた。つづいて悪多聞が、さらに、四、五人の風魔の者どもが、足もとの乱れをかくそうともせずのめりこんだ。
「申しわけない、頭領。われらがいたらぬせいでござる」
「もうよい。勝負はこれからじゃ。まずよく休め」
小太郎も名だたる風魔の頭領、もう部下を責めるようなことは、ひとこともいわなかった。北の空はいよいよ赤くかがやいた。おそらく蓮妙院の丘全体がひどい山火事になったものらしかった。ふたり、三人、と集まってくる部下を、悪多聞が点呼をはじめた。
「中田《なかだ》の甚兵衛《じんべえ》」
「おう」
「高津《たかつ》の片目《かため》」
「ここに」
「裕天寺五郎《ゆうてんじごろう》」
「おる」
「牛頭天王《ごずてんのう》の吉次《きちじ》」
答えはなかった。
「吉次はいないか? 吉次は」
悪多聞の声がかすれた。名まえを呼んでも答えない者がつづいた。
「三十四名のうち、ここにつどう者わずかに十三名かよ。なんとしたことだ」
「しかし悪多聞、ここをさけていずれかにひそむ者もあろう」
小太郎は沈みがちな皆の気もちを引き立てるようにいった。
ふだんから、万一、蓮妙院が敵の手に落ちるようなときは、この松林の中の窪地《くぼち》を集合場所にすることをきめていたが、敵にあとをつけられてここを発見されるおそれのあるときは、わざと違う方角へ逃げる場合もある。
小太郎はなお痛む目を見開いて、周囲のやみをうかがった。
「静かに! だれかが来る」
高津の片目が中腰に立ち上がって低く叫んだ。かすかに草の葉ずれが夜気を伝わってきた。
人質に傷をつけるな!
「うぬ! ここまで追いしたってきたか」
小太郎の全身は水をあびたように鳥はだになった。まったく無気味な敵だった。戦い、傷つき、疲れ果てたこんなところをいっきょに襲われては、いかに風魔でも全滅は目に見えている。それでも皆、からだを起こして最後の勇気をかりたてた。忍び寄ってくる者の気配はもう間近だった。
「もはやかくなるうえは相打ちにてひとりでも倒せ。さすが風魔が最期と人をしていわしめよ。よいか」
小太郎の低い低いささやきは、皆の耳にかすかな風のさやぎのように伝わった。皆は声もなくうなずいて、腰のたちに手をかけた。
「おおう。頭領、皆の衆、わしじゃ、摩利支天丸じゃ。あやまって手裏剣なぞ飛ばすでないぞ!」
草の茂みのむこうから、しわがれ声が飛んできた。
「おお! 摩利支天丸か。敵かと思うたぞ」
「肝《きも》を冷やしたわ」
皆は、ほっ、と肩をおろした。
「しっかりせい。敵でないことを知らせるためにわざと虎尾足《こびそく》を用いたではないか。それもわからぬほどおぬしら、気もそぞろなのか」
いわれて皆は思わずやみの中で顔を赤らめた。風魔の忍者たちは皆、自分独特の歩き方を考案している。それによってやみの中での戦いや、てい察などで同士討ちをさけるのだった。今、摩利支天丸の使った歩き方は速歩で三歩進み、そこで四分の一呼吸ほど停止し、それからまた速歩で三歩進む、という歩き方だ。そして眠っているとらの尾を踏むようにつま先でかるがると歩くことから、摩利支天丸は自分でこれを虎尾足と呼んでいたのだった。
「頭領、ごぶじでしたか。皆の衆も」
摩利支天丸はかついでいた大きな袋をどさりと地上に投げ出した。ひっ、というかすかな悲鳴がもれた。
「摩利支天丸、その袋はなんじゃ」
「頭領、これがわが手のうちにあるあいだは、われわれはつねに九分の勝ちじゃて」
摩利支天丸は不敵にいい放つと袋の口をほどき、さかさまに持ち上げた。ごろりところがり出たのはなわでぐるぐる巻きにされた高尾先生だった。みだれた髪が地上に長くのびた。青白い顔も、スーツもどろだらけだ。
「おう、これは摩利支天丸、でかしたぞ。この人質は、敵の手によって放たれた火によって、焼け死んだとばかり思っておったが」
「いやいったんは外へのがれ出たものの、このまま敵の手にうばいかえされるのはどうあっても残念。追いすがる敵をまいて本堂へもどってかつぎ出したのでござるよ」
「心ききたるやつ。まず横になって休め!」
小太郎はすっかり機げんをなおして摩利支天丸をねぎらった。
高津の片目が、刀をかまえて小太郎ににじり寄った。
「頭領! 憎い敵の片割れ、その女を一寸だめし五分だめし、切り刻んで敵に送りかえしてくれよう」
答えも待たず、高津の片目はギラリとたちを引きぬいた。
ううむ、と苦しそうに、高尾先生は低くうめいた。小太郎がおしとどめた。
「ばか者! やめい。人質に傷をつけてはなんの取り引きにもならんわい。五体満足に保ちおきてこそ、千金の価値も生まれてこよう。息の根を止むるは、取り引き成り立たずとわかってからでよい」
悪多聞がぎょろりと高津の片目をにらんだ。
「それにおぬし、この人質を運び出してきたのは摩利支天丸じゃぞ。なにをこざかしげに刀なぞぬきおって」
高津の片目はくやしそうにたちを引いた。
「もうよい、仲間割れはかまえていたすな。これより次の計略にかかろうぞ」
皆はやみの中で小太郎の顔に視線をそそいだ。
「摩利支天丸は、中田の甚兵衛ほか一名をともない、人質を小山郷円融寺へ運べ!」
「なんと頭領、小山郷円融寺は敵の本拠とは目と鼻の先ではないか」
「だからかえってよいのだ。敵はこの瀬田郷にのみ気を配っておろう。われわれはその裏をかいてかれらの背後に人質をかくすのだ。それにあそこは渋谷、青山への往還をおさえ、また千束郷から御嶽《おんたけ》の社へも近い。敵中にあって、進退きわめて便利だ。摩利支天丸、ただちにゆけ!」
「ははっ。して頭領は?」
「うむ、これより洗足池近くの弁天の社へ移る」
「なるほど。しからばごめん」
摩利支天丸は大急ぎで高尾先生をもとのように袋におしこんだ。高尾先生は必死に身もだえして抵抗したが、摩利支天丸はかまわずぐいぐいと袋へおしこんだ。
「甚兵衛かつげ。稲丸《いなまる》まいれ!」
風魔の若者が、つ、と立ち上がった。
三人は足音を忍ばせて、暗やみに消えた。
円筒盗まれる
「お、まただれかきたようだぞ。うむ、石神井《しやくじい》の喜三太《きさんた》だな」
暗やみに耳をすませていた悪多聞が、皆をふり向いて低く叫んだ。
「なに、喜三太だと……」
やがてひとりの忍者が窪地におどりこんできた。
「おのおのがた、しばらくでござる。おお頭領も」
「いかがいたした? 喜三太」
飛びこんできた忍者は汗にまみれたふく面をすばやく解きほぐした。あらわれ出た顔は、なんと伊賀者のひとりではないか。茂がはじめて部落の庭で地虫兵衛や羽衣の五郎太、空蝉の典夫などの伊賀者たちの幹部と顔を合わせたとき、ひざまずいていた十数名の伊賀者の中にまじって、おそろしい目で茂の顔をうかがっていたあの男だった。
「いや、伊賀者をよそおうのもらくではないわい。頭領、あれらはまったく幻妙な者どもでござるぞ。いったいいずこの術者か、とんとけんとうもつきもうさぬ」
「異国の幻術使いとはちがうか?」
「さてのう。根来衆《ねごろしゆう》ではなし、武田流ではなし、さりとて唐様《からよう》でもない。頭領、これからも、じゅうぶん注意されよ」
「喜三太、蓮妙院の本堂に小二郎の姿があらわれたが、あれはいかなる術ぞ」
「ふむ。わしもよくわからんが、うすい絹に、はて、なんといったかな、ま、まじっく、いん、いんくともうしたかな。何やらそのようなもので、小太郎どのの絵姿を描き、それを後ろから奇妙な光る棒で照らしたのじゃょ」
「ふうむ。してあの声は?」
「それじゃて。て、てえぷれこだ、いやてえぷれこおだあと申したかな。なにやらえれきを使うもののようでござった。その小さい箱は人の声をしまっておき、その後、いつ、いかなるときでも語らせることのできる道具でござったよ」
「それに小太郎のうめき声をたくわえ、本堂のどこかへしかけたのだな」
「こうももうしておった。四方が開く箱をこしらえてな、それにその箱を入れ、かわるがわる箱の横を開くのじゃ。するともれ出る声があるいは左、あるいは右と、聞こえてくる方角が変わってくるのじゃと」
「ううむ。それだ! どうも小二郎の声があちこちから聞こえてまいって、いっこうに場所がつかめなんだのは」
悪多聞が横から乗り出した。
「ふいるむとはなんじゃ」
「さあ、わからぬ。しかしあれに火をつけると、そのにおいのものすごきこと、きたえぬいた忍者でも気を失うほどじゃ」
「それで小二郎どのを責めたのじゃなあ」
聞けば聞くほどおそろしい相手だった。これでまったく見たことも聞いたこともないおそろしい術を使う連中だということがわかってきた。風魔の忍者たちは、しだいにことば少なに、周囲の暗やみに神経質な目を光らせた。
「あ、それから頭領、彼らの頭《かしら》とおぼしき男が、つねにはだ身離さず所持いたす物がござる。ほれ、これでござるよ」
喜三太がふところから取り出したのは、茂の円筒形のタイム・マシンだった。
「なんだ? それは……」
「なにやらしらぬが、ひどくたいせつにしているようでござる。それをこよいは代官にあずけてまいったのよ。代官は居間の物入れにこっそりしまっておいたが、それをひそかにいただいてきた」
狐狸斎は受けとってひねくり回したが、首をふると悪多聞に回した。悪多聞はしばらくいじっていたが、こんどはそれを足もとの石にたたきつけた。
「喜三太、ごくろう。なお伊賀者の中にあって間者をつとめてくれい。悪多聞、その得体のしれぬものは穴を掘って埋めい。破裂などしてはかなわん」
小太郎はその奇妙な円筒にはあまり興味がないようだった。悪多聞はさっそく小づかをぬいて、足もとに三十センチメートルほどの穴を掘ってタイム・マシンを投げこみ、上から土をかぶせた。とんとんと踏みかためると上から草をかぶせた。
「これを埋めた場所は忘れろ。これが敵にとってたいせつなものなら、これを奪っただけでもわれらが勝ちじゃ」
小太郎が押し殺した声でいった。
「さあ、それでは洗足池北側の弁天の社へまいろう」
皆、黒い影のように立ち上がった。北の空はまだ赤々と燃えていた。
「これで戦いは五分と五分。見ておれよ」
小太郎は氷のような笑いをうかべた。
重大な会議
夜明けに近いさわやかな風が、雑木林や焼けくずれた代官屋敷の残がいの上を吹きわたっていった。そのむこうの東の空は、もうほんのりと、朝焼けの紅《くれない》に染まっていた。
瀬田郷、蓮妙院の襲撃を終えた茂たちは一団になってもどってきた。るすを守っていた地虫兵衛と空蝉の典夫が影のように皆を出むかえる。いかにも熟練の忍者らしく出むかえのことばなどは口にしない。どこで敵の忍者に聞かれているかわからないからだ。ただ、地にひざまずいて、沈黙のまま会釈するだけだ。かえって大げさにちょうちんなどをふりかざしてかけ出してきたのは、代官の小泉右京太夫の家来たちだ。
「いや、まことにあっぱれなおはたらきでござりましたなあ。ここからも蓮妙院の火の手がよく見えもうしたぞ」
「さ、さ、おつかれでござりましょう。まずは茶など召しあがれ」
「これでもはや風魔の者どもも、この荏原郷には二度と足ぶみいたすまい。まことに祝着《しゆうちやく》でござる」
うるさいほど口ぐちにほめそやす。
「や、代官さま」
「お、小泉さまもお出むかえだ」
家来たちが前方から近づいてくる人影にさっと道をあける。ちょうちんのほ影の中にせかせかとあらわれたのは代官の小泉右京太夫だ。顔色がまっさおだ。小腰をかがめる家来たちには目もくれず、そのまま茂の前に立つと、口をてのひらで囲うようにしてほそぼそと何かささやいた。そして何事か深くわびるようにひざまで手をたれた。茂の顔にひどい動揺が浮かんだ。
「おい! 茂くん、どうしたんだ」
「何かあったのか!」
明夫と五郎が、茂のとつぜんの変化に心配そうにたずねた。茂はその声も耳にはいらないかのように、からだを堅くしてつっ立ったままだった。
「茂くん! 茂くんったら!」
はじめてその声に気づいたように茂はわれにかえった。
「あ、い、いや、なんでもない。なんでもないんだよ」
茂はまるで別人のように力なく足を運びはじめた。明夫も五郎も礼助も、また地虫兵衛も、けげんなひとみをその茂の上にそそいだ。ひとり、代官だけが、身も世もないような姿で、しおしおと一団のあとにつづいた。
代官屋敷の敷地の一角に建てられた急造の板小屋が、仮の代官陣所になっていた。
茂は腰をおろすひまもなく、ただちに、明夫、五郎、礼助とそれに地虫兵衛を加えてその板小屋にこもった。よほど重大な会議とみえ、青葉の片岡、空蝉の典夫が、直接警備についた。さらにその外側を若い伊賀者と、もうひとり、あの石神井の喜三太が代官の家来たちとともに遠巻きに配置についた。代官の小泉右京太夫は、はるかむこうの高い木の下に立って小さくなっていた。
会議は長かった。もう夜はすっかり明け放たれ、農家の軒先からは朝のめしをたく煙がうっすらと流れはじめた。
会議はまだつづいていた。板小屋の中からは何かしきりにいい合う声が低くひそひそともれていた。ときおり、
「くそ! 残念だ」
「このままではたいへんだぞ。茂くん!」
押し殺した叫びがもれ聞こえてきた。それを耳にした片岡や典夫、代官の家来たちはだまって顔を見合わせた。何事か大事件が起きたらしかった。茂たちが人質をとりかえすことができなかったようすといい、帰ってきてからのただ事でないこの雰囲気《ふんいき》といい、どうやら戦況はひどく悪いほうへ向かっているように思えた。片岡や典夫、代官の家来たちの顔はしだいに暗くくもりはじめた。
理由は代官だけが知っている。代官はなん度か切腹して茂たちにおわびをしようかと思ったが、それもあまり無責任すぎるような気がして、会議の終わるのを冷たい汗を流しながら待っていた。
その理由を知っている者がもうひとりいた。
石神井の喜三太だった。かれはもくもくと警戒に従いながら、腹の底ではあの円筒を奪ったことが敵に予想以上の打撃を与えたらしいことにすっかり満足していた。このなかば戦意を失った敵が、つぎにどう出るか、今度はそれを頭領の小太郎に報告するのがかれの新しい任務だった。
会議が始まってからすでに四時間もたっていた。朝の光はきょうもまぶしく武蔵野を照らした。どこかでのんびりとにわとりが鳴いていた。
そのころになって、ようやく茂たちはむっつりと板小屋からあらわれた。
「ようし、皆ごくろうだった。それでは見張りの者だけを残し、他の者は休んでくれ」
茂の声はうつろにひびいた。
がけ下のほこら
木ぎの大枝が黒ぐろとおり重なった谷の底に、弁天の社があった。北からは碑文谷郷《ひもんやごう》、南からは千束郷につらなる丘陵が洗足の池の北端で一つにつらなって高いがけをつくっている。そのがけからしみ出した湧き水がいくつもの澄んだ小さな滝となってがけ下の谷あいに落ちてゆく。その谷間に、木の葉もれる水しぶきをあびるように、弁天の社のかやぶきの低いやねがあった。
周囲ははげしい雨の降るように高い水音がひびいていた。その水の音に耳を傾けているように、じっと社の縁に動かない人影は風魔小太郎だった。
江戸名所図|会《え》によれば、いまの洗足池《せんぞくいけ》は江戸時代にはもっとずっと大きかったようだ。現在の東急線、大岡山駅の東側、大岡山駅を出た目蒲線《めかません》と田園都市線が左右に分かれてゆく踏み切りのすぐ右側の下あたりまで洗足池はのびていた。そして広い渓谷が今の線路を断ち切るように北へのび、病院のわきを通って現在の町名、富士見台と呼ばれる地域の高台の下へ回りこんでいた。
このへんに住んでおられる読者の皆さんはあるいはごぞんじであろう。今でも、緑の影濃い谷あいの窪地と思われるがけ下に、弁天の小さなほこらが残っている。いかにもむかしの水源地と思われるような所だ。この窪地に沿って宮が丘や富士見台方面へのぼってゆく道がある。今では美しくたたみ上げられた石がきの上には、造りのこった家々が建ちならんでいるが、この物語の当時のこのへんは昼も薄暗い森だった。
こんどそこを通ったら、木ぎのこずえに鳴る風のどよめきや、足もとからわき上がってくるせせらぎの音、そして忍びわらんじに足音を忍ばせて、黒衣の忍者が坂を下ってくる――そんな場面をおもい浮かべてみようではないか。
星が流れた。ほこらの床下を流れる水音の中で、地虫がかすかに鳴いていた。
「静かでござるのう」
狐狸斎が低い声でつぶやいた。それが、かえって、周囲の静けさを深いものにした。
「頭領、お疲れでござろう。酒などまいられよ」
悪多聞がやみの中でからだを動かして腰の竹筒をはずした。ひと口、自分で毒味して小太郎にさし出した。小太郎は受け取ってうまそうにのどを鳴らした。
「皆も少し休め。あすは大事ぞ」
小太郎はそういって目をとじた。どんなに不自然な姿勢でも眠れるように忍者は訓練をつんでいる。しかもぜったいにいびきをかかなかった。
愛甲五人衆と少女
静寂の中に時だけが移っていった。風がでてきたとみえて木ぎの大枝、小枝がざわざわと鳴った。ふと、狐狸斎が首をのばして風音の奥をうかがった。
「頭領、足音が……。はて、われわれが身内とおぼしいが……」
狐狸斎はゆっくりと立ち上がった。悪多聞も腰に大刀を引きつけてまゆをひそめた。
風の中に、かすかな足音が伝わってきた。十数人いるらしい。はじめて小太郎の目があいた。
「頭領! いずこにおわすぞ。愛甲《あいこう》が五人衆でござる」
葉ずれとまちがいそうな低い低い呼びかけが、小太郎たちの耳に届いてきた。
「なに! 愛甲が五人衆とな」
「おう、これは心強い方がたがみえられたのう」
狐狸斎も悪多聞も、心の底からうれしそうに暗やみの奥から近づいてくる人群れに声をかけた。
「頭領、お久しゅうござりました。流《ながれ》の葉室《はむろ》にござる。狐狸斎殿、また悪多聞殿もご壮健にてなにより」
見上げるばかりに背の高い男が、小太郎のまえにひざまずいた。
「悪多聞、あかりなどともせ。ほこらに燈明のともるは当たりまえ、心をとむる者はあるまい」
小太郎のことばで小さなあかりがともされた。暗いオレンジ色の光の輪がちらちらと、ほこらの前の葉かげに動いた。
「流の葉室、事のあらましはすでにぞんじおろうが、くわしくは狐狸斎に聞けい」
背の高い忍者は、はっ、と頭を下げた。小太郎はかれの背後に居ならんだ黒衣の人影に順々に目を移していった。
「うむ。むささびの平吉《へいきち》、渡しの六蔵《ろくぞう》、つぎは白旗明神《しろはたみようじん》の猿若五太夫《さるわかごだゆう》、それに青木右京《あおきうきよう》か、愛甲五人衆よくぞまいった」
小太郎もこの思いがけない増援部隊を得て、さすがに口もとをほころばした。
「下忍《げにん》を十人ほど召し連れましたほどに、お手の内にお加えくだされい」
五人のさらに背後に、黒衣の忍者たちが、これは顔もあげずに平伏していた。
「小太郎殿、じつは――」
流の葉室が少し当惑したように口を開いた。
「ん?」
そのとき、居ならんだ下忍の後ろから、さわやかに澄んだ声がはしった。
「おどき! じゃまよ」
ぴしり! 細竹が空気をさく音がして、下忍のひとりがぐっ、と奇妙な声をたててのめった。下忍たちがすばやく両側に開いた。その気配につられるように愛甲五人衆も、ずずっ、と左右に分かれた。
燈明の光の中にあらわれ出たのは、まだ年若いひとりの忍者だった。
ゆれるほ影を受けて、大きなひとみがうるんだように光った。
「兄者、まいりましたぞ」
前髪立ちの少年のような顔が、笑うと花のようだった。頭の後ろで束ね、背に長くたらした黒髪がつややかに光った。
「陽子! あれほど来るなと申したに」
小太郎は顔をしかめた。
「兄者、風祭《かざまつり》のおじさまもひどくご心痛あそばしてじゃ。それならわたくしがまいって兄者に合力《ごうりき》いたすともうしたら、ひどくお怒りになられた。それゆえ、こうして五人衆のあとを追って飛び出してまいりました」
小太郎は苦い顔をした。
「陽子、そなたは風祭の家をつぐたいせつな身じゃ。この兄を思う心はかたじけないが、そなたはもはや風魔の一族ではない。自重《じちよう》いたさねばならぬぞ」
陽子の作戦
風祭陽子《かざまつりようこ》――じつは風魔一族の中でかの女の美ぼうと才知は知らぬものもない。今はなきかの女の父、先代小太郎がかの女を風魔一族の中で埋もれさせるのを惜しむあまり、北豊島郡仲《きたとしまぐんなか》の郷《ごう》の郷士、風祭家の養女とした。
ところがこの陽子、忍びの術にかけては兄小太郎をしのぐわざを身につけていた。ときに隣家で秘蔵の菊の大輪をひそかに切り取られたり、あるいは近在の染物屋でせっかく仕上げた高価な生地《きじ》に別な模様をべったり描きこまれたり、陽子に対する苦情はあとを絶たなかったが、風魔の名門、小太郎の娘とあってはだれもそれを責める者とてなかったのだ。それにこのあでやかなえ顔を見せつけられると、だれしもそのいたずらを許したくなってしまうのだった。
「陽子、そなたは何歳にあいなる?」
「十三歳じゃ」
「十三歳にもなれば――」
「兄者! こごとはもう聞きとうない。それより、このような手ぜまな谷あいで何をしておじゃる?」
陽子は三日月のようなまゆをきりりと上げて悪多聞や狐狸斎を見すえた。黒い忍びの衣装がかえって陽子を可憐に見せていた。娘らしい化粧造りの細身の一刀が美しく光った。
「高見、高見と位を占むるのが進むにも退くにも有利。それが風魔の陣がかりとおぼゆるに、この釜の底のような窪地にひそむとは、すでに気おくれし証拠、狐狸斎、悪多聞、おまえがたともあろう者が、兄者のかたわらにあってこのしかけぶりは何ぞ!」
ふたりの忍者はことばもなく、うつむいた。
「陽子、少しことばが過ぎようぞ。このたびの敵はとうてい伊賀、甲賀の術者とは比べものにならぬおそるべき者どもよ。小太郎とて今は重々、気を配らねばならぬ」
陽子は耳のないような顔をして聞いていたが、
「兄者、江古田《えこだ》の岡村左兵衛《おかむらさへえ》に大づつを八門、作らせました。硝薬《しようやく》もたんとござります。夜明けを待たず、敵の本拠をうちくだいてくれましょう」
「なに? 大づつ、それはまたえらい物を持ってまいったのう。しかしそれもよい考えじゃ。いかがだ、皆の者」
狐狸斎も悪多聞も、また愛甲五人衆もおどろきの目で陽子を見た。陽子ならそのくらいのことは考えるだろう。
「して、その大づつはいずこに?」
「目黒不動尊《めぐろふどうそん》の境内にすでに到着いたしておるはず。兄者、だれか使いをやってくだされ」
「よし。手はじめに愛甲五人衆、下忍をともなってその大づつを運んでまいれ」
「はっ!」
流の葉室が、さっと立ち上がった。他の面々も、それにつづく。
「兄者、大づつだけではおもしろうない。な、こうしてはいかが」
陽子は小太郎の耳にくちを寄せてひそひそとささやいた。小太郎は妹に寄りそわれて目を細めた。やはりこの妹がかわいいのだろう。
「うむ、なるほど。それも一興、一つやってみるか。寄れ」
狐狸斎と悪多聞に手で合図をした。ふたりはするすると前へ進んだ。狐狸斎はふところから地図をとり出して、四人の前へひろげた。それはおどろくほど精密な地図だった。
「この一本松より田川へ出る間道に地雷火をしかけ、敵のひき口をおさえ、代官屋敷の裏の小川に油を流すのじゃ。愛甲の下忍には鉄砲を持たせてここへ忍ばせる。そしてわれらは――」
陽子の作戦は兄の小太郎や、狐狸斎、悪多聞も舌をまくほどち密なものだった。
――ふうむ。さすがは先代小太郎さまが、男であれば、となげかれたそうなも、うなずけるわい。
狐狸斎は胸の内でつぶやいた。
一時間もたたぬうちに大づつが到着した。大づつといっても今の野砲や重砲とは違う。砲身の内側だけが一センチメートルほどの肉厚の青銅のくりぬき。その外側を火完布《かかんふ》(石綿《いしわた》)で包み、さらに銅の針金でしめつけ、その外側が厚い樫材《かしざい》、それをさらに針金ですき間もなく巻きしめてある。口径十五センチメートルほどの今でいえば迫撃砲《はくげきほう》といったところだ。
それを二門ずつ馬の背に積み、別に弾薬を積んだ馬車が一台。流の葉室が指揮してがけの上に勢ぞろいした。
「集まれい!」
小太郎が大刀をつえに立ち上がった。
氷のような緊張がやみに流れた。いよいよ総攻撃の時はきた。
陽子はくちびるをかみしめて小太郎のかたわらに立った。
風魔に降伏?
「石神井の喜三太はおるかい。頭領がお呼びじゃぞい」
地虫兵衛が板小屋の前でどなった。
「は、ただいま」
石神井の喜三太は内心、ぎょっとした。あの筒を奪ったのがばれたのではないだろうか。一瞬、喜三太は水を浴びたようにおじ気をふるったが、なにげない顔で板小屋の前に立つ茂の前にひざまずいた。
「喜三太、お前に頼みたい仕事がある」茂の声は沈痛だった。
「いいか、これからすぐ風魔小太郎の居場所をさがして、こう伝えてくれ。こちらで捕えている小二郎はただちにそちらへかえす。一千両もしょうちした。こちらとしては高尾先生をかえしてもらうだけでよい。それからな、喜三太、これはまだだれにもいっていないことだが、もし許してくれるなら、われわれは喜んで風魔の手の内に加えていただきたいと思う。と、こう伝えてくれないか」
「頭領、するとわれらは風魔の手に降るのでござりますか」
「もう、こうなってはしかたがない。実はな、喜三太、とても大事なものがなくなってしまったのだ。おそらく風魔の手によってぬすみ出されたのだと思うんだ。われわれとしてはそれを取りもどさなくてはならないんだよ。しかたがないから、ここはもう争いから手を引いて、そのたいせつなものをかえしてもらう相談を進めようと思うんだ」
喜三太は腹の中でにやりと笑った。
「いや、無念なことでござりまするなあ。それではさっそく、まいりましょう」
喜三太は一礼すると風のように走り去った。それを見送った茂は、つと礼助にあごをしゃくった。礼助はこれも目で合い図してそっと消えた。
「地虫兵衛、たのむぞ」
地虫兵衛もだまってうなずくと、青葉の片岡をともなって雑木林の奥へ消えていった。
板小屋の中では、トン、トン、カン、カン、何かしきりに打ちつけている音が聞こえていた。
その音もたえると、にわかにしいんと静寂がひろがった。代官の家来たちも青ざめた顔で、三、四人ずつかたまっていつまでも立ちつくしていた。
代官屋敷の伊賀者、降伏す≠アのしらせは風魔の一団を心から喜ばせた。
悪多聞や狐狸斎にとっては、勝利の直接の原因が石神井の喜三太の活躍にあるということがゆかいでなかったが、しかし風魔が勝ったということはうれしい。しかし、あれほどみごとな術を持った連中が、こんなにもろく手を上げたのは少しふしぎだったが、石神井の喜三太の説明を聞けばうなずけないこともない。
小太郎は一時、作戦を中止してただちに会議を開いた。小太郎の胸の内はすでにきまっていた。降伏してくるあの連中を味方に加える気もちなどもうとうない。皆殺しにするだけだった。
「わしの思うところを話そう――」
小太郎がすごい目つきで一同を見わたした。
そのとき、陽子が進み出た。陽子のひとみはまっすぐ喜三太を見つめていた。
「石神井の喜三太! 前へ出い」
喜三太はおどろいて顔を上げた。皆、ぼうぜんとしていた。
「前へ出いと申しておるのじゃ」
陽子は腰の大刀をぎらりとぬいた。
虚実陰陽の争い
あけがた近いひんやりした風が谷あいをわたって、燈明が今にも消えそうに、ちらちらとまたたいた。その光の中で、陽子のぬき放った大刀が、にじをひいた。
そのきっ先が、ぐいと喜三太の両眼の間に突きつけられた。
「陽子さま! な、なにをなされますか! こ、これは……」
喜三太は思わず腰を浮かせてあとずさった。悪多聞も狐狸斎も、わけはわからないながら、自分が白刃を突きつけられたような、ひどい恐怖とうろたえを感じた。
陽子の全身には、周囲からうっかりことばもかけられないような冷たい殺気がみなぎっていた。
「喜三太! おまえの役目は敵のひとりになりすまし、長い月日を敵中にあって、秘密をさぐり出す間者ではないか。その間者のおまえが、手もなくたばかられるとは! おろか者め!」
陽子の声はなみいる忍者たちの胸をするどくつらぬいた。
喜三太の顔はみるみるまっさおになった。かれは両手を顔の前でうちふった。
「め、めっそうもない! 陽子さま。わしがたばかられるなどとは。この喜三太、それほどのうつけ者ではござらぬわい」
「そうか」
陽子はふと笑った。その笑い顔はゆらめくあかりを受けて、はっとするほど美しかった。
「それではたずねるが、喜三太、戦いの勝ち負けにかかわりのあるほどたいせつな品物を、たとえひとときなりとも他人の手にわたすなどということがあろうか?」
「そ、それは……」
「まして風魔の手だれどもさえ手玉にとるほどのすぐれた術者が、なにゆえ代官などにその品物をあずけたのか? 喜三太!」
「陽子さま、それはよもやわしが、仲間にばけておるなどとは思わなんだからじゃ」
「代官がその品物を居間の物入れにかくすところを見た、と申したな。それがおろかと申すのよ。喜三太、それが身内にひそむ敵を見出すためにしくんだ、わなとは気づかなんだか。忍びの心得にもあることよ。かくしてあらわるるはわなありと知れ≠ニ」
喜三太は必死にいいつのった。
「陽子さま。代官が人目をしのんで居間の物入れにかくしこんだりすることこそ、あれがほん物である証拠」
「と、思う者がいるからこそわなももうけるのじゃ。喜三太、まことにたいせつな品物をあずかったものなら、なぜそんなおまえのような者の目をひくようなことをする? だまって静かにふところに入れておけばだれにも気づかれぬことではないか。それを気づかせるようなことをわざわざしたというのが、そもそもおかしいではないか」
陽子のことばは、いよいよ鋭かった。
小太郎がずいと前へ出た。
「いや、わかった、陽子。陽の裏には陰、陰の裏には陽がある。敵の裏のさらに裏をかく、これぞ忍法の極意じゃ。喜三太! 陽子の申せしこと、しかとわかったか!」
「兄者、それだけではない。おそらく喜三太はあとをつけられておりますぞ!」
「なに! あとをつけられたと……」
「降伏するという敵のことばを真に受けた心のゆるみは必ずあらわれているはず。このような者を追うはいとたやすいこと。追う者あるも喜三太は気づいていまい」
「ううむ。敵ながらあっぱれな術者よ」
「兄者、降伏したと見せかけて、喜ぶ敵の虚をつくのはこれも忍法の奥義《おうぎ》。別して心得られませ」
「ええい! くそ」
小太郎は腰の一刀をふりかぶると喜三太に飛びかかろうとした。陽子の左手がすばやく動くと、小太郎のひじをつかんだ。
「兄者、今、喜三太を切っては、なお事がめんどう。ここは敵にだまされたふりをするのじゃ」
陽子の声はあくまで涼しかった。
「なに、だまされたふり、とな」
「敵のしかけにやすやすとのったふりをいたし、その敵のゆだんを逆につくのじゃ。敵は降伏したふりをする。われわれは敵が降伏したのを喜ぶふりをする。兄者、虚実陰陽《きよじついんよう》の争いとはこれではありませぬか」
「よし! わかったぞ、陽子。しかしこの喜三太はいかがいたしたらよかろうか」
「喜三太はふたたび敵中へもどすのじゃ。そしてわれわれが敵の降伏にすっかり喜び、皆酒など飲んで、眠りこんでしまった、とでも報告させてはいかがであろうか」
小太郎はなん度も深くうなずいた。
もれた風魔の作戦
小太郎は喜三太のほうに向きなおった。
「すわれい! 喜三太。陽子がいま申したとおりじゃ。いそぎ立ち帰り、代官にていよく仕えるのじゃ。これからは深く心をはたらかせ、目をくばり、あやまちをいたすなよ。本来なればそのそっ首、打ち落としてくれるところだが、こん度ばかりは見のがしてつかわす。よいか!」
「うへええ」
喜三太は平グモのようになって、ひたいを土にこすりつけた。
「行け!」
はいつくばっていた喜三太は、からだを丸めると、弾丸のようにやみの中へ走りこんでいった。
そのとき、喜三太の走っていった方向とは反対の、暗やみの奥で、かすかに木の枝の折れる音がした。
それはふつうの人間の耳にはとうてい聞こえないような、低いかすかな音だったが、ここにいる忍者たちの耳には、はっきりと聞きとることができた。
狐狸斎の右手が目にも止まらず動いた。その手の下をかいくぐるように悪多聞のからだがおどった。狐狸斎の手から離れた十字手裏剣はうなりを発して、今、小枝の折れる音をひびかせた厚い茂みの奥を切り裂いた。ほとんど同時に、悪多聞は手にしたたちで燈明台を切り倒していた。
一瞬暗黒の中に忍者たちは息をこらした。
夜明けに近い風だけが、木ぎのこずえを鳴らして吹き過ぎていった。どこかでふくろうが鳴いた。そのまま三十分も過ぎたろうか、最初に動いたのは流の葉室だった。
「くそ! 逃げおおせたとみえる。あきらかに敵の物見よ」
深いやみの底にようやくわらわらと人の気配がよみがえった。
「兄者、あの物見は喜三太のあとをつけてきたのであろう。残念なことをした。生かして帰すのではなかった」
「これでわれわれのはかりごとももれたというわけか!」
小太郎がうめいた。
陽子がその小太郎のうめきをさえぎった。
「兄者、はかりごとがもれたとはいえ、今からならまだだいじょうぶであろう。そうじゃ、これよりただちに力攻《ちからぜ》めに押してまいろう」
「しかし陽子、われわれのはかりごとがもれては敵の防ぎも堅いであろう」
こうなっては小太郎は慎重だった。
「兄者! 臆病風に吹かれてか! 火術には昼も夜もない。たといはかりごとはもれようとも、大づつを防ぐ手だては、そうやすやすとはござるまい。敵も味方もはかりごとがもれてしまったうえは、力攻めがあるのみじゃ」
たしかに全力をあげてぶつかり合うとなると、大づつや鉄砲を持っている風魔勢が有利だ。それに地雷火や火を放つための油も豊富だ。小太郎は頭の中でとっさに判断した。
「聞けい! 皆の衆。これよりさい前の戦法に従い、代官陣屋を攻撃する。大づつを撃ちこみ、逃ぐる敵は鉄砲で撃て。降伏した敵はその場で切れ。家、林、畑、ことごとく油をそそいで火をかけろ。ひとりたりとも逃がすな。大づつは流の葉室がさしずせよ。鉄砲は悪多聞と下忍三名。狐狸斎は正面よりかかれ。むささびの平吉、渡しの六蔵、青木右京は地雷火をしかけよ。猿若太夫は後《ご》づめとなる。それではまいるぞ」
皆は一団となって、ほこらの前の暗やみから走り出た。
忍者たちはすべて夜目がきく。このすき間もなくおい茂る木ぎの枝々と、細いが流れの急な谷水、そしてけわしいがけをよじ登り、踏みこみ、あっというまにやしろの窪地をかこむ丘の上へおどり出た。
林のかげにひっそりと数頭の馬がつながれていた。その背にはすでに分解された大づつや、鉄砲、弾薬、地雷火などの包みが山積みされていた。その馬のくつわをとって、江古田の岡村佐兵衛のもとから従ってきた小者たちがひかえていた。かれらはたまを運んだり、火なわの火を守ったりする、軍夫として狩りだされてきたのだった。
「それ、行けい」
小太郎はかれらをうながした。風魔の忍者たちは、輸送隊を中にかこんで円陣を作り、はやてのように走り出した。
大づつ・地雷火・鉄砲・油
茂たちが本拠をかまえていたのは荏原郷の北西のはずれに近い、今の洗足駅の近く、渋谷から中目黒の正覚寺《しようかくじ》の前を通って清水町へぬけたバスが、円融寺《えんゆうじ》を右に見て、やがて目黒九中前、そしてまもなく左へ直角に曲がって、東急目蒲線洗足駅へとさしかかる。その曲がりかどが十字路になっているが、ここを反対に右へ曲がった付近だと思えばよい。当時はここから現在の富士見が丘、宮が丘などにかけて深い竹やぶだった。
だいたい今の目黒区はむかしは『竹の子』の産地として名高かった所である。
この竹やぶをくぐりぬけると道はくだって窪地となり、洗足池にそそぐ幅二メートルほどの流れがあって、その両側は広く開けた湿地で、あしが風になびいていた。
部落はその竹やぶを背に負い、雑木林にかこまれてひっそりと寄り集まっていた。
たび重なる風魔の襲撃に、部落の家は半分以上も焼け落ち、雑木林もほとんど骸骨のような姿で、黒焦げの枝をさしのべているばかりだった。
流の葉室のひきいる大づつ隊はひそかに竹やぶの東に陣をしいた。ただちに火薬をつめ、たまをおしこんで火なわを短く切り、砲撃の準備を完了した。むささびの平吉、渡しの六蔵、青木右京の三人は、重い地雷火を背負って音もなく部落の西側へ走りこんでいった。鉄砲をひっさげた悪多聞は、下忍を指図して部落の左翼に移動した。
愛甲の下忍がふたり、油のはいったたるを天びん棒でかついで、これは部落の裏手へ回りこんでいった。
東の空はこくこくと明るさを増してきた。どこかでにわとりが鳴いていた。降るような虫の声が、からだをおし包むように周囲の草むらからわいていた。
やがて地雷火を埋め終わったむささびの平吉たちがもどってきた。小太郎は陽子をともない、部落がよく見える所まで進んだ。猿若太夫が後ろに従った。
「頭領、地雷火八個、埋めてまいりました」
むささびの平吉が地にひざまずいてそっと告げた。
「よし、それでは三人とも狐狸斎に従え」
「はっ!」
小太郎は指を口にふくむと、高く一声吹き鳴らした。攻撃の合図だった。その鋭い指笛のひびきが消えないうちに、
グヮーン
天地も裂けるような砲声がとどろいた。
ビューン、
いくつもの砲弾がおそろしいうなりを発して部落へ向かって飛んだ。ぱっ、と紫色の火柱がふき上がった。その光の中に、ばらばらになった屋根や柱が高く舞い上がるのが見えた。
グヮ、グヮーン
第二のいっせい射撃だった。岡村佐兵衛の手の者はさすがにみごとな腕前だった。この先ごめの大砲をほとんど速射に近い早さで発射することができた。家の破片が炎を引いて他の家のやねに落ちていった。そこから猛烈な火の手が上がった。赤い火事の光の中に、黒い人影がばらばらと飛び出してきた。
ダーン! ダ、ダーン!
鉄砲の音がけたたましくこだました。
赤い光の中で、人影はのけぞった。第三回めのせい射は、部落の中央に火柱と土煙を巻き上げた。家がゆっくりと傾きわらやねがくずれるように炎の中に見えなくなった。鉄砲がたて続けに鳴りはじめた。小太郎たちからは見えない何かの目標を、ねらい射ちしているらしかった。弓をかかえて走り出てきたさむらいが、矢をつがえたままむなしく鉄砲に射ち倒された。つづくひとりが刀をふりかざして鉄砲のたまの飛んでくる方向めざして走り出したが、これも五メートルも走らぬうちに投げ出されるように倒れた。一軒の家から、ひとり農夫が長い棒切れをかかえて飛び出してきたが、これはたちまち腰をぬかしたか、四つんばいになって出てきた家へ逃げもどった。
次の瞬間、その家へ砲弾が落下した。家はめちゃめちゃになって吹き飛んだ。部落の裏手からまっ赤な炎が高く高く上がった。流した油に火を放ったらしい。炎はどす黒い煙にまざってごうごうと竹やぶをなめはじめた。
「うわっはっはは。どうだ。風魔の手のうちがわかったか!」
小太郎が赤い光に染まった顔をあお向けて、鬼のように笑った。
ズシーン!
大地をゆるがせてすさまじいひびきがはしった。
「おう! 地雷火じゃ、敵のやつばら逃げはじめおったわ。逃げられるものなら逃げてみよ。間道には、地雷火が待っておるわい」
いい終わらぬうちにまた一発、地雷火が爆発した。小太郎は第二の指笛を高く吹き鳴らした。
「おう!」
狐狸斎はおどり上がって腰のたちをギラリと引きぬいた。
「つづけ! 皆の衆」
さっきからこのときを待ちかねていた四人は、一団となってつむじ風のように燃える部落へ殺到していった。
指笛を合図に、大づつはぴたりとなりをひそめた。そして流の葉室も大づつのかたわらを離れ、得意の手やりをかざして部落へ突っ込んだ。悪多聞もまたたまをこめた鉄砲を小わきに、同じく鉄砲をかかえた三人の下忍を従えて部落へ走った。
部落は火の海だった。焼け落ちる家々の火の粉が雨のように風魔の忍者たちの上に降ってきた。
「く、くそ! 風魔」
まっさおな顔でわめきかかってきた代官の部下を、狐狸斎は一刀のもとに切ってすてた。
「しゃっ!」
低く叫んで煙の中からぬきうちに切りつけてきたさむらいがあった。悪多聞はとっさに横に飛びさがった。敵の白刃はもうその位置を正確になぎ払ってきた。おそろしい腕まえだった。悪多聞は必死にさらに横に飛び、鉄砲の引き金を引いた。
ダーン! 銃口が火を吹くのと敵の白刃が銃身を払うのが同時だった。たまはあらぬ方角へ飛んでいった。悪多聞は鉄砲を投げすてた。その手に、下忍がたまのこめられた鉄砲をほうった。悪多聞はその鉄砲を受けとめると同時に、引き金をしぼった。
まっこうから悪多聞の頭上に、一撃を加えようとして刀をふりかぶった敵は、避けるひまもなく胸板をぶちぬかれてふっとんだ。
流の葉室はまだ火のついていない一軒の家の板戸をけやぶった。その板戸のかげに身をひそませていた黒い人影に向かって、目にも止まらず手やりをくり出した。竹やりをかかえた農夫が悲鳴をあげてころがった。流の葉室はふところの爆薬を家の中にほうりこんだ。パッと火の手がうず巻いた。
魔物か、けだものか?
「陽子、どうやら戦いの結末も見えたようだの。敵の半分は大づつのえじきとなり、他は鉄砲のねらい撃ち、それと狐狸斎らの切りこみによってほうむられたものとみえる。裏の竹やぶが、あのように火の海となっては逃げることもかのうまいて」
陽子はさっきから不安そうなおももちで部落の火の海を見つめていたが、そっと小太郎のことばをさえぎった。
「兄者、ふしんでならぬ。敵の手ごたえが、あまりになさすぎるが」
陽子はひとりごとのようにいった。
「手ごたえ? それ今もうしたわ。大づつのたまをくらって、まずあらかた吹きとんだのよ」
「いや、兄者。これほどの力攻めを受けてやぶれたにしては混乱がない。それに地雷火が爆発したのもわずか二つ。あとはすべてあの火の中とは思えぬが」
「ううむ」
「兄者、これはやはり喜三太をつけてきた敵の術者が、われらの火攻めのはかりごとをぬすみ聞いたものとみえる。敵の守りはかたいとみえたぞ」
そのとき、ふと陽子が背後のやみをふりかえった。
「兄者! なんであろう。あれは!」
その声は緊張にかすかにふるえていた。
「頭領! 何かやってまいりますぞ」
猿若太夫が声を押し殺して悲鳴のように叫んだ。
「兄者! あれは人の足音ではない」
部落の燃えるひびきや、家のくずれ落ちるとどろきなどにさえぎられて、背後の物音はよく聞きとれなかった。
「何かやってくるぞ!」
小太郎は、ふところから八方手裏剣をつかみ出した。
ばりばりと小枝の茂みがおれる音が近づき、赤い光の中に、ぬっとおそろしく大きな物が姿をあらわした。
ダ、ダ、ダ、ダダダ……
これまで一度も耳にしたことのない、おそろしいひびきが空気をたたいてきた。それは草も木もおし倒して、立ちすくむ小太郎たちの前に迫ってきた。
「ウワアー」
恐怖にたえきれなくなったのか、猿若太夫が刀をさか手におどりこんだが、まりのようにはね飛ばされて大地にころがった。
「兄者! 早く!」
陽子は小太郎をどんと突きとばすと、からだを丸めて必死に走った。小太郎は、われにかえると、陽子のあとにつづいた。
――これはいったいどうしたことだ。魔物か! それともけものででもあろうか!
小太郎は敵のわなにかかったとは信じたくなかった。
目のくらむような混乱が、小太郎の足をともすればもつれさせた。
*
「待て! 小太郎! こんどこそひっとらえてやるぞ」
茂はハンドルを堅く握りしめて叫んだ。
きのう一日、皆で小屋にひきこもって会議をつづけていると見せかけて、実はひそかに現代から持ちこんだ二台のモーター・バイク。それを一日がかりで厚い板と、これもいっしょに持ちこんできたプラスチック・パネルとで、厳重に装甲をほどこした装甲車だった。
「小太郎! 逃げてもムダだぞ」
茂は強いライトを逃げる小太郎の背に当てた。
小太郎は思わずよろよろとよろめいた。
「兄者!」
悲痛な声で陽子が叫んだ。
茂は、ライトの光ぼうの中に立ちふさがった陽子に目を奪われた。
「くそ! 小しゃくなやつ。女じゃないか」
茂は全速で突進した。
「地虫兵衛、あとの操縦をまかせたぞ!」
「かしこまりました」
荷台の地虫兵衛の声を背に聞き流し、茂は側面のドアを押し開いた。
全速で陽子のかたわらをかすめ過ぎると、茂はドアから飛び出した。
「こい! 風魔のいくじなしめ!」
むささびのように手足をひろげて飛びかかってくる茂に、
――だめだ!
陽子は敗北を感じつつも、これも電光のようにギラリとたちをぬいた。
泣き虫め!
素手で飛びかかってくる茂に向かって、陽子は大きくたちをふった。そりの深い細身の刀身が、にじをひいて茂のまっ向《こう》へ飛んだ。
「くそ!」
茂は身をすくめて陽子の一刀を空《くう》に流した。少女とは思えぬすさまじいたちさばきだった。
流れる刀身の下をかいくぐっておどりかかろうとする茂の目の前に、つづいて第二撃がおそってきた。空を打った刃を、そのままピラとかえして、たたみかけるようにあびせてくる陽子のたち風の鋭さに、さすがの茂も思わずたじたじとなった。
ふみこんでそのたちを打ちはらうにも、おどりこんで打ちすえるにも、茂はえものを持たなかった。
――しまった!
茂はくちびるをかみしめた。たかが少女ひとり、と思ったが、これは強敵だった。茂は、ようやくす手で戦うことの不利をさとった。
何かえものを……。茂はじりじりとつめよってくる陽子の殺気を全身で受けとめながら、いそがしく周囲に目を走らせた。部落の燃えさかるほのおで空は昼のように明るかったが、足もとの暗やみはかえって濃かった。棒切れ一本、見定めがたかった。
「ゆくぞ! 風祭陽子のたち、受けてみよ!」
りん、とした声音が茂の耳をうった。
「かざまつりようこだってえ! 何を生意気な! おれは目黒十三中の砂塚茂だ。こい!」
今はもうやむをえなかった。茂はこぶしを低く構えて陽子の攻撃を待ちかまえた。
――ああ、短い竹ざお一本でもあればなあ。
茂は勢いにまかせて、装甲車からす手で飛び出したことを後悔した。
陽子が、ふっ、と笑ったようだった。白い歯がチラッ、とこぼれたとたんに、目にも止まらぬ早さで、陽子の刀がひらめいた。
茂は反射的に二メートルほど飛びすさった。その足がまだ地につかぬうちに、陽子はもう弾丸のようにおどりこんできた。茂はさらに後ろへ息もつかずに飛び移った。目の前、十センチメートルほどのところを、陽子の刀が風を切って通り過ぎた。どこも切られないのがふしぎだった。それほど陽子の攻撃はすばやかったし、茂の身をかわすのもまた、風のように機敏だった。
いつか、攻守ところを変えていた。陽子の目には、なんとかしてこの敵をここで倒して、これまでの風魔の惨敗をいっきょに回復しようという執念がこもっていた。また陽子自身、これまでにめぐりあったことのないこの手ごわい敵をむかえて、戦いの興奮に今やすべてをかけていたといってよい。
部落の戦いはようやく終盤戦となって、追いつめられてゆく風魔の忍者たちの絶望的な叫びやたち音が燃えさかるほのおのひびきにまじって、手にとるように聞こえていた。
陽子もしだいにあせってきた。これまで、自分の刀を避け得る者はただのひとりもいなかった。たとえ第一撃はなんとかかわすことができても、つづく第二撃をくぐりぬけることは不可能だった。それが目の前のこの敵は、なん回切りつけても、そのたびにひらりひらりと、右によけ、左にさけ、いっこうに刀の下にかからなかった。
陽子の白いほおに、ようやくあせりの色が浮かんできた。相手のおそろしさが少しずつわかりはじめてきた。
陽子は、ぱっと後ろへ身をおどらせると、愛刀のきっ先をまっすぐ天に向かって構えた。忍者造りのつのつばをくちびる近く引き寄せて、右の入身《いりみ》深く、必殺の気合いを全身にみなぎらせた。
茂は瞬間、ああ、きれいな子だな、と思った。その心が思わぬゆとりを茂に与えた。茂の右足はこのとき、落ちていた一本の棒切れを軽く踏んだ。
――よしっ!
一瞬、陽子の刀が夜風を切った。
茂はとっさに身をかがめて棒切れを右手につかむと、そのままの姿勢から宙天へ向けてすり上げた。しろがねの刀身と三尺の棒切れが、十字に交差した。がっきと組み合うと見えて、ふたりは右と左に飛びかった。
陽子はしだいに勝勢が失われてゆくのを感じた。す手のときでさえ打ちはたせなかった敵は、今やじゅうぶんな武器を手にしていた。こんなにびんしょうな人間がいるとは、陽子にはふしぎでならなかった。
茂はようやく手にすることのできた棒切れを青眼《せいがん》に構えた。長さも、重さも、てごろだった。
「さあ! どうした。こわくなったか」
陽子はきりりとまゆを上げた。
「広言はやめよ! 南無、風魔明神も照覧《しようらん》あれ。いでや!」
「陽子とかいったな。うちの陽子とおんなじで、どうせおまえも生意気で泣き虫だろう。こい! 陽子、ぶんなぐってやるぞ」
茂はふっと、この風魔の女忍者が自分の妹の陽子と名まえが同じであることに気がついて思わずどなった。陽子はふだん家では生意気なことをいって、茂のことをすぐ父や母にいいつける憎い相手だ。ようし、きょうこそ! 茂はとつぜん、見当ちがいなところで闘志を燃やした。
どなられた風祭陽子はおどろいた。命のやりとりに夢中になっていた当の相手に、生意気だの、泣き虫だの、ぶんなぐってやるぞだのと、どなり散らされて思わず心の構えがくずれた。
猛然と突入してきた茂の打撃をかわしきれずに、陽子は大きくよろめいた。からだの乱れを立てなおすいとまもなく、片手なぐりに右手の刀を大きく回した。その左の肩にびしり! と痛打がきた。陽子はあお向けに大地にころんだ。なぜこんなことになってしまったのか、陽子は頭のすみで、ちら、と思った。
風をまいて棒切れが降ってきた。こんどは左の腕をしたたかに打たれた。腕はしびれて陽子はふたたび地面にころがった。陽子は怒りで目がくらくらした。こんな恥辱をこれまで受けたことがなかった。風祭陽子ともあろう者が、棒切れで打ちすえられて大地へのめるとは!
手にした刀をほうり出すと、かろうじてふところの八方手裏剣をつかみ出した。陽子はごろごろころがって、つづいておそってくる棒切れの連打をかわしながら、流星のように八方手裏剣を飛ばした。その冷たい金属の飛び道具が、どうやら陽子の忍者としての理性をとりもどした。
カン! カン! カン!
澄んだ音とともに、陽子の手裏剣はことごとく敵の手もとではね飛ばされた。それはもとより計画のうえだ。手裏剣を払いのける敵の動きの乱れをついて、陽子ははね起きざま、ふところにのんでいた栗形《くりがた》をさっとぬき放った。それを両手で構えると、からだを丸めて敵のふところへ飛びこんだ。
――あぶない!
茂は身をそらせて脇腹すれすれに栗形の刃先をかわした。茂は手にした棒切れを投げすてると、流れる陽子の右手首をがっしととらえた。左手でえり首をつかむ。とたんに陽子の左手が手刀となって茂のみけんへ飛んできた。その左手をさらにはね上げる。陽子の甘い香りがふわりと茂の顔を包んだ。
――うえ! 女くせえや。
茂は思わず力をゆるめた。とたんに陽子のからだはするりと茂の手をぬけて背後へ回った。栗形のきっ先が茂の背後からおそってきた。
――いけねえ!
茂はその手を右のこわきにはさみこんだ。危機だった。陽子がさらにもう一本、栗形をひめていれば、茂は背中からくし刺しになる。茂は陽子の左手の動きに全身の神経を注ぎながら、この危機をのがれるべくあせった。陽子の手刀を茂は首をちぢめて防ぎながらうなった。
とらえた右手を離して逃げようか? 茂は手負いのけもののように首をふった。
――勝った!
陽子は敵の乱れを感じとって必殺の瞬間をうかがった。敵がかかえこんでいる自分の右手を離した瞬間が勝敗の決まるときだった。陽子はその瞬間をねらって、敵の首すじに飛びけりを加えるつもりだった。のめった敵に右手の栗形を飛ばす。それでいっさいは終わるはずだった。
茂は陽子のねらいをすでに察していた。とらえた右手にその心の動きがはっきりと伝わってくる。右手を離して飛びのくまでのなん十分の一秒かがほんとうの死地だった。しかも敵は当然、自由になった右手の栗形を飛ばしてくるだろう。
――いけない!
茂の左手はすばやく動いてポケットのタイム・マシンをつかんだ。この絶体絶命の危機をのがれるには、もはやこれしかなかった。陽子の右腕をかかえこんだままの自由のきかない右手の指先で円筒の下のねじをさぐる。
それを目にした陽子の顔色がかわった。
「あっ、それは喜三太がうばってきた……」
「ばかめ! あれはにせものだ」
「やっぱり……」陽子はくちびるをかみしめた。
このわずかな動きを陽子は一つのすきと見た。陽子はぐいとからだをひねると、さっと腰のさやをぬきとった。しろがね造りのこじりをつけたさやは強力な武器だ。陽子はそれをふりかぶると、茂の首すじめがけてふりおろした。茂は背後からの攻撃の気配に、息をつめて指先にありったけの力をこめた。
ピイイイン
かすかにねじが鳴った。ふたりはおり重なってどうと倒れていった。
ふたりの陽子
夜は完全に明けはなたれていたが、町にはまだ人の姿はなく、目蒲線の踏み切りの遮断器は大きく開いたままだった。そのむこうに洗足駅の無人の改札口がいやにひろびろと見えていた。
その無人の道路に、茂と陽子はぱっと飛び離れた。陽子は目まいでも起こしたのか、二、三度頭をふって片ひざをついた。
「どうした、陽子! かなわぬと知ったか」
茂はにやりと笑った。
その声に陽子はよろりと立ち上がった。自分の周囲に起きた異変にはまだ気がついていないらしかった。たちのさやは手放してしまったとみえ、右手の短い栗形だけが朝の光の中に冷たく光った。
「おのれ! 兄のかたき!」
陽子は低く叫ぶと、血走った目で茂を見すえて、影のように走り寄ってきた。
「かなわぬものなら、せめて相打ちに!」
「じょうだんいうな!」
茂は飛鳥のようにあとずさった。ここまできて相打ちになってたまるものか。陽子は無念そうにくちびるをゆがめると、後退する茂に追いすがった。
若木の街路樹を二、三度くるくると回り、茂は自分の家へつづく横道へかけこんだ。表通りで立ち回りをやって、もし人にでも見つけられてはあとがめんどうだ。
茂の家ではそろそろ妹の陽子が寝床をはなれたころだった。茂は隣の家の前に駐車してあるライト・バンに飛び上がり、その運転台の屋根を足がかりに、ひらりと自分の家の庭へ飛び降りた。
「逃げるな!」
陽子は、まっしぐらにかけよりざま、門の鉄のとびらをおどり越えた。
茂は玄関の横を回って自分のへやの窓の下へ移った。へやには木刀やバットや、自分で作ったブーメランや、てごろな武器になるものがいろいろ置いてある。窓からはいろうとして、茂はしまったと思った。窓はしまっていた。おそらく中からかぎがかかっているだろう。
陽子のやつ、もう起きているかな?
茂はナンテンの茂みをくぐりぬけた。
「待て! 逃げるな!」
陽子の声が朝の静けさを破った。
窓は開いていた。レースのカーテンの奥に、陽子の姿が動いていた。茂は一足とびに陽子のへやへおどり上がった。
「あ! おにいちゃん! どこへ行っていたのよ。学校もずる休みして」
陽子は大きな目をさらに大きくして叫んだ。
「ここにおったか!」
窓のふちから身をのぞかせて陽子が叫んだ。次の瞬間、彼女はへやの中へ一陣の風のようにおどりこんできた。
「だあれ! このひと!」
「くそ!」
「しゃっ!」
三つの叫びが一瞬、交錯した。
茂、風祭陽子、妹の陽子は、三角形の頂点となって向かい合った。
「なあに、このひと。ひとの家に土足ではいってくるなんて。刃物なんか持って、あなた不良?」
妹の陽子はみるみるまゆをつり上げた。白いほおが怒りであかく染まった。
風祭陽子はこのときはじめて視線を茂から陽子の上へ移した。その顔にひどいおどろきの色が浮かんだ。茂を追っていたときの、思いつめた闘志は急速に薄れて、はげしい混乱がそれに変わった。
「こ、これは!」
「風祭陽子! よく見ろ。これは夢でも幻でもないぞ」
茂のことばも耳にはいらないように、陽子はぼうぜんと立ちつくした。その手から栗形が落ちて鈍い金属音を発した。
「おにいちゃん、このひといったいだあれ? おにいちゃんのお友だち?」
「友だち? とんでもない! 風魔第一の手だれ、風祭陽子だ」
「風祭陽子さん?」
妹の陽子は、ひそとまゆを寄せた。
「負けた! いかなるわざかは知らねど、まこと、これはあやかしの術とおぼえた。さ、首、打てい!」
風祭陽子はくずおれるように床にひざをついた。長い黒髪が肩から床へすべった。
「風祭陽子! しっかり顔を上げてまわりを見るんだ」
いわれて風魔の陽子は視線の定まらぬ顔を上げた。その目にいつか涙がたまっていた。
「このうえ、生き恥をさらしとうはない。早う首打って、おまえの勝ちにせい」
「おい風祭陽子。ここはな、今までおまえが暮らしていた江戸時代から三百年もたった時代だ。いいか。ここは江戸じゃない。東京というんだ」
陽子はしげしげと茂を見つめ、茂の妹の陽子を見つめ、へやの中のピアノやテレビを見つめた。想像もつかないできごとが、しだいに陽子の脳裏にうつりはじめてきた。
「そこのおかたはやはり忍びの者か? 美しい衣装を召しておられる」
まだネグリジェ姿の陽子は、あんぐりと口を開いた。
「おにいちゃん! このひと、これ?」
陽子は、頭の横で指をくるくるとまわした。
「いや、そうじゃないんだ。わけはあとで話すが、ほんとうに江戸時代からきちまったんだよ。だから、てんでおどろいちゃってるんだよ」
「えどじだい? またおにいちゃんのほらがはじまったわね」
風祭陽子は、うちしおれた姿で妹の陽子ににじり寄った。
「のう、私はやぶれた身。笑いものにされるもいたしかたがないが、そなたの兄者はきついお方。このうえは、そなたの手で私を討ってくだされ」
妹の陽子は何かいいそうになったが、風祭陽子のしんけんな顔に、ようやく事態の異常さがのみこめてきたらしい。陽子は、ちらっと茂の顔を見て、それからきっぱりいった。
「いいわ。なんだかよくわからないけれども私が教えてあげよう。おにいちゃん! このへやから出ていって」
「おい、だいじょうぶかい。そいつは強いんだぜ。なにしろ風魔第一の女忍者だからな」
「風魔だかなんだか知らないけれども、とにかくまず着がえなくては。ほら、どろだらけじゃない。おにいちゃん! レディのお着がえよ、さっさと出ていってちょうだい」
茂はくしゃくしゃと鼻にしわを寄せると、陽子のへやから飛び出した。自分のへやのドアを押しあけると、かねて考えておいたものをいくつかとり出して、ポケットにおしこんだ。
この騒ぎに父や母が出てこないのがふしぎだった。
「陽子、おとうさんたちは?」
茂の声にドアの向こうから陽子の声が返ってきた。
「おにいちゃんがおじさんの所にいるんじゃないかって、おとうさんとおかあさんがゆうべ行ったのよ。おそくなるから、むこうにとまるって」
茂は心の底からほっとした。まったくつごうのよい日にぶつかったものだ。これなら風祭陽子のことはうるさくたずねられずにすむ。
茂は台所へ出てゆき、水道のせんをひねると、口をつけてがぶがぶとのみこんだ。
ゆうべからの戦いでからだはひどく疲れていたが、こんなことで休んではいられなかった。茂は流しの前に立つと例の円筒をにぎり、こつぜんと消えた。
高尾先生をとりもどせ
部落は、なおくすぶりつづけていた。白い煙が、朝の空気に高く立ち昇っていた。昨夜の戦いで部落の家々はほとんど焼け落ちてしまっていたが、これは予想していたことでもあり、損害ともいえなかった。代官の部下や、風魔の下忍の死体がいくつか、黒こげの材木や灰の中に横たわっていた。
部落のはずれでは、射手を失った大づつが砲口をむなしく朝の光にさらしていた。
疾風のような風魔の襲撃も、あらかじめその動きを茂たちに知られたために、さんたんたる結果に終わってしまった。
敗走する敵を追っていった味方はまだもどってきていなかった。代官の部下が、二、三人ずつ組になって、まだ硝煙消えやらぬ戦場の跡を警備していた。
ちょうどそのころ、小山郷円融寺《こやまごうえんゆうじ》につづく道を明夫と地虫兵衛の運転するモーター・バイクは、朝風を切って突進していた。
「地虫兵衛! 敵の乱れの虚をついて、いっきに高尾先生を奪いかえすのだ。ぬかるなよ」
「明夫さま! この機会をのがしては、もはやわれらに利はございませんぞ」
ふたりは弾丸のように円融寺の山門につづく雑木林の中の道を飛ばしていった。装甲をはずしたモーター・バイクは、エンジンの音も高らかに、呑川《のみかわ》の土橋をおどりこえ円融寺のいけがきを突破して境内につっこんでいった。
緑色のこけで深ぶかとおおわれた広い境内には人影もなかった。正面の釈迦堂《しやかどう》めがけて風のようにつっ走る。
ビイイイ――
明夫が力いっぱい警笛を鳴らした。
釈迦堂のとびらが開いて、三個の人影が走り出てきた。三人ともこのはじめて見る異形の乗り物にぎょうてんした。
「やや! これは馬か牛か、さても奇態な」
「おそろしい声ではないか!」
さすがに摩利支天丸はおどろいてばかりはいなかった。
「おう! 地虫兵衛ではないか。奇妙なけものにまたがってまいったのう」
摩利支天丸は腰の大刀をすらりとぬいた。
その摩利支天丸めがけて、二台のモーター・バイクは、ぐいと車輪を向けた。
中田の甚兵衛は気の遠くなるような恐怖の中で、火薬玉をふり上げた。
明夫の手から、一本のロープが生き物のようにのびた。
姫君の高尾先生
高いすぎのこずえを、ごおっ、とどよもして朝あらしが吹きわたっていった。つゆがばらばらと雨のように降ってきた。それはモーター・バイクのボディーをぬらし、ぬき放った白刃に飛び散った。
甚兵衛の手から飛んだ火薬玉が、すざまじいひびきで爆発するのと、明夫の手から電光のようにのびたロープが、摩利支天丸の右腕にからみつくのが、ほとんど同時だった。
「それ! しとめたぞ!」
排気管のさけるようなごう音の中で明夫が叫んだ。摩利支天丸はバイクに引きずられて、土けむりとともにすべりはじめた。
「おのれ! くそ」
なんとかして右腕にからんだロープをたち切ろうとしたが、明夫はいよいよスピードを上げた。
円融寺の広い境内を大きく輪をえがいて回りはじめた。
地虫兵衛は火薬玉の爆発を一瞬に突破すると、立ちすくむ甚兵衛めがけてつっかけた。
「うわあ」
あわててとびのく甚兵衛に、流星のように、八方手裏剣が飛んだ。
「見たか! 甚兵衛」
地虫兵衛のおたけびが、すぎ林にこだました。明夫はバイクを止めた。摩利支天丸はきものもずたずたに破れ、どろだらけになって気を失っていた。
「よし、高尾先生をさがせ!」
ふたりはひらりと、バイクを飛びおりた。いっきに階段をかけ上がると内陣の板戸をおしひらいた。
「あっ、高尾先生!」
内陣の奥の柱のかげに、高尾先生がころがっていた。その目が明夫を見て、ひどいおどろきの色を浮かべた。明夫は地虫兵衛の手から短刀を受けとると、高尾先生の手や足をしばってあるなわをぶつぶつと切り放った。
「先生、しっかりしてください。もうだいじょうぶですよ」
「あなた明夫くんじゃないの! あなたもここへ? ね、おしえて。いったいこれはどうしたことなの?」
高尾先生の声は、不安と恐怖でうちふるえていた。
「そ、それはね、先生。茂くんの持っているタイム・マシンのせいなんです」
「タイム・マシン?」
「そうなんです。今、ぼくたちは風魔を相手に戦っているんです。先生をとらえていたのはその風魔のやつらなんですよ」
高尾先生は両手で顔をおおうと、絶望的にうずくまった。まったく無理もないのだ。タイム・マシンだの、風魔との戦いだの、どうして高尾先生に信じられよう。
「明夫さま。ま、ここはひとまず引きあげ、のちにゆるゆるとご説明申し上げては――」
地虫兵衛が後ろからそっとささやいた。
「そうだな。先生、さあ、われわれの本拠へかえりましょう」
「私、もういや、こんなおそろしいこと。帰りたいわ」
高尾先生は今にも泣きだしそうだった。その先生を、ふたりは両わきからささえるようにして内陣からつれ出した。
「明夫くんも、茂くんもこわい人たちね。私、帰ります」
明夫はすっかり困ってしまって、地虫兵衛の顔を見た。地虫兵衛は考え深そうにうなずいた。
「いや、姫君、ここな明夫さまも、またわれわれの頭領、茂さまもまことにごりっぱなお人じゃ。この修羅場も深いわけあってのこと。お察しくだされよ」
地虫兵衛の誠実さのあふれたおちついた口調に、高尾先生もはっとわれにかえったらしい。しっかりした足どりで自分から歩きはじめた。
「行きましょう」
一歩、前へ進んで境内に目を走らた地虫兵衛が、はっと足をとめた。
「しまった! 明夫さま。摩利支天丸のやつ、逃げましたぞ」
「ふむ。朝露にうたれて息を吹きかえしたかな。まて、甚兵衛もいないぞ」
さっき地虫兵衛と決戦のあげく、八方手裏剣をうたれて地に倒れていた甚兵衛の姿が消えていた。摩利支天丸が甚兵衛を救って逃げたのか、あるいは傷ついた甚兵衛が摩利支天丸をひき起こして姿を消したのか、いずれにしてもこれはおそるべき体力といわねばならない。
「とどめをさしておくべきであった」
地虫兵衛がつぶやいた。
「もうおやめなさい。なんですか! とどめをさすなどと、やばんな」
高尾先生がまゆをひそめた。
「これもわれわれのさだめなれば、おゆるしくだされ。姫君」
「姫君とは私のことですか」
高尾先生は、なんともなさけなさそうな顔になった。
「先生。この男は伊賀忍者第一の頭領で、地虫兵衛っていうんです。先生のことをお姫さまだと思っているんですよ」
「明夫くん! あなたたちは……」
明夫は顔をかかえて横っとびに逃げた。
「まずまず姫君、おしかりはあとでこの地虫兵衛めが、しっかりうけたまわりますれば、さ、このモ、モタ、ではないな。その……」
「モーター・バイクだ」
「さよう、さよう。そのバイクでござる。これにお乗りくだされ。この車は、馬で引くのではござらぬ。エレキの力で動くのでござるよ。珍妙なものでござろう。のう、姫君」
「地虫兵衛、先生はモーター・バイクなんて知っているよ」
地虫兵衛は、急にてれくさそうにあごをなでて、目をしばたいた。
「さようでござろうのう、高貴なご身分なれば」
「高貴なご身分じゃなくたって知っているよ」
先生はにっこり笑った。
「明夫くん。この人をからかったりしちゃだめよ。それじゃ行きましょう、地虫兵衛さん」
高尾先生にはこの素ぼくな中年の忍者のあたたかい気もちがほのぼのとつたわってきた。事情はまだよくわからなかったが、自分をなぐさめ、力づけようとするまごころがうれしかった。
高尾先生を後ろに乗せた地虫兵衛のバイクを前に、二台は爆音もけたたましく、円融寺の境内を飛び出した。
ホッとした代官
まだ焦げくさいにおいの立ちこめる部落は、高尾先生をむかえてひさしぶりに明るい勝利の笑いをとりもどした。青葉の片岡、空蝉の典夫が、部落の女たちを指揮してごちそう作りをはじめた。代官の小泉右京太夫も、家来の侍たちを総動員して、部落の内外の清掃をはじめた。なにしろ自分たちが力ともたのむ茂たちが、おそれうやまう高貴な姫君とあっては、うかうかしてはいられない。
だが、あちらこちら飛びまわっていそがしく指図している右京太夫の顔は暗くかげっていた。ときおり、いかにも心配そうに足を止めて、じっと考えこんでいた。そんな右京太夫の姿に、部下のおもだったひとりがそっとたずねた。たずねられた右京太夫は声をひそめて、
「のう。あの姫君が茂さまのおっしゃる現代とかもうす所へお帰りになるとすれば、とうぜん、茂さまご一統もお帰りになるのであろうのう。とすればこののち、われわれのみにていかにして風魔の攻撃を防いだらよいのか。身も細るわい」
部下もだまって頭をたれた。
「せめてこの部落を清らげにいたし、姫のお心に帰心やどらぬようつとめることじゃ。衣装、ご居間、おつきの女中などよく気をくばれよ」
「かしこまりました」
代官もその部下たちも今やしんけんだった。
顔や手を洗い、髪をとかして着くずれをなおすと、どうやらいつもの明るく美しく、そして少しきびしい高尾先生がよみがえってきた。そのころになると、青葉の片岡を先頭に、部落の女たちが、かずかずのごちそうをのせたぜんをささげてはいってきた。
茂をはじめ、明夫、五郎、地虫兵衛、代官など、おもだった者たちが、高尾先生を中心に居ならんだ。皆の口からこれまでのようすがこもごも語られた。高尾先生ははしをとるのも忘れて耳をかたむけていた。はじめはどうしても信じられないようだったが、しだいにその表情はかたくこわばってきた。
「茂くん、そのタイム・マシンはあとでゆっくり見せてもらうとして、これからどうするの」
「先生。ぼくはこの地虫兵衛や代官、それに部落の者たちを助け、風魔をやっつけてしまわなければ帰れません。ぼく、いや、ぼくだけじゃなく みんなもその気もちです」
「おうちの人たちが、心配しているんじゃないかしら」
「ええ。でもこの状態を説明してもわかってくれないと思うんです。だからすべてが終わって現代へもどってから、なんとかうまく説明するつもりです」
高尾先生はうなずいた。
「茂くん、風祭陽子はどうしているかな」
明夫がいった。茂は風祭陽子についてもくわしく説明しなければならなかった。
「そうだ! 先生。ぼくの家へ行って、ぼくの妹と風祭陽子がふたりでどうしているか見てきてくださいませんか。妹の陽子のやつ、たぶんうまくやっていると思うけど……」
「そうね。それじゃ、だれか私といっしょに行ってもらおうかしら」
「それじゃ、五郎、いってこいよ」
これでいちばんほっとしたのは代官の小泉右京太夫だった。最後まで茂たちが応援してくれることがわかって、たちまちよろこびが顔にうかんだ。それからひきつづいて作戦会議がはじまった。
これで戦いはどうやら五分五分、いや風祭陽子が敵の戦力からぬけただけに、五・五対四・五ぐらいの差ができたと考えてよい。これからの敵の動きを知り、それに応じてこちらの作戦をきめることに皆の意見がかたまった。空蝉の典夫の提案で、さらに伊賀者を十数名ほど加えて、戦力を高めることにした。その使いのために、若い伊賀者がただちに出発していった。応援の忍者部隊がやってきたら、かれがそのうちのなん人かをまかせられるということで、はりきって出かけていった。
茂はこまごまと必要な品物をメモして五郎にあずけた。代官はいよいよ最後の決戦をむかえて、この部落を堅固な要さいにするよう命令された。
「じゃ五郎、出発してくれよ。先生、学校のほうはよろしくおねがいします」
茂はポケットからタイム・マシンをとり出すと、そのひもを五郎の首にかけてやった。
ジュースとステレオ
茂の妹の陽子は風祭陽子を洗面所につれてゆくと、顔を洗わせ、髪についたほこりやどろをていねいにふきとってやった。腰にまでとどく長い髪を、頭の上にぐるぐる巻いてピンで止めた。それから、自分の衣装ダンスの中から彼女に似あいそうなものをさがし出して着せかえた。風祭陽子はまったく人形のように、陽子のいうなりに右を向いたり左を向いたり、すっかり陽子に心をゆだねきっていた。
「ほら、ごらんなさい」
陽子は、大きな三面鏡の前につれていった。
薄茶のデニムのスカートにライト・クリームのシンプルなデザインのブラウスが、きりりとした浅黒い風祭陽子を男の子のように軽快に見せていた。アップにまとめた髪のほつれ毛が、細いうなじにたれていた。陽子は自分の気にいっている明るいグリーンのハンカチで、結い上げた髪をまいてあげた。
「あなたって、きれいねえ」
陽子は感嘆の声を上げた。今、鏡の前に立っている風祭陽子は、あの黒衣の忍びの衣に身をかため、白刃をひっさげて闘志をまき散らしていた風祭陽子と、まったく同じ人物とは思えなかった。そのすらりとした姿は、かもしかのようにびんしょうで、野の花のように優雅だった。
「いいえ、私など。あなたさまこそ」
風祭陽子は、はずかしそうに目を伏せた。
「レコード聞かない? 私、レコードたくさん持っているのよ」
陽子は、この夏ねだって買ってもらったステレオのスイッチを人れた。
「私、ローズ・マリー=クルーニー好きよ。それから、リッキー=ネルソンもいいわ。ちょっとおとなっぽい気分もあるのよ、私」
風祭陽子は、ステレオと、陽子と、陽子が手にしたレコードをこもごも見くらべた。甘い音楽が流れ出すと、風祭陽子のほおに血がのぼった。はげしいおどろきのあとから、ふしぎな楽しさがわきおこってきた。
「おどりましょうよ」
陽子は指をならして軽くステップを踏んだ。うろおぼえの南国のリズムが色の白い陽子のほおをかがやかせた。風祭陽子もさそわれたように、つと立って、陽子のステップにならった。ふたりは顔を見あわせてにっこり笑った。もう長い間、親友だったように手をとってほほえみ、まなざしを投げあった。
「ジュース飲む?」
陽子は台所の電気冷蔵庫から、ジュースのびんをかかえてきた。母に見つかるとしかられるのだが、窓の金具にせんをはさんで、右のひじを曲げて、とん、と打つ。せんが飛んでジュースがあふれ出てくるのを、すかさず左手でびんを口にはこんだ。
――なまいきなまねをするな!
茂の声が聞こえるような気がして、陽子は首をちぢめて舌を出した。風祭陽子は困惑したようにびんを手にして立っていた。
「あけてあげるわ」
陽子はしゃれた手つきで、ふたたび、ぽん、とせんをあけた。
「陽子さん、陽子さん!」
玄関のほうでやさしい声がした。
「はあい」
陽子は玄関へ飛び出した。そのあとから風祭陽子がついて出た。
「あ! 高尾先生」
そこに立っているのは高尾先生だった。その背後に五郎が従っていた。
「陽子さん。だいじょうぶ?」
「え? なにが?」
「ああ、お友だちがきてるのね」
陽子は風祭陽子の肩に、そっと手をまわした。
「先生、ご紹介します。風祭陽子さんです。陽子さん、こちら高尾先生よ」
「風祭陽子さん!」
「げっ! かざまつりようこ!」
いちばんあとのは五郎だ。ぱっ、と二メートルもとびさがると、さっと、とくいの柔道のかまえをとった。
「私のだいじなお友だちよ。先生も五郎さんも、どうぞおあがりになってください」
風祭陽子も高尾先生も、これまで一度も会ったことはなかったが、おたがいによく知っているはずだった。風祭陽子はさっと、廊下に手をついて頭をたれた。
「かどわかしも戦いの作法なれば、許しはこわぬ。いかようにもなさりませ」
陽子はあわててそれを抱き起こした。
「陽子さん。ここではそんなことは忘れるのよ。やめて! へんなあいさつ」
高尾先生はあっけにとられたが、この美しい少女が風祭陽子とわかると、その前に歩み寄った。
「いいのよ、陽子さん。ここでは敵も味方もないの。それより、そのお洋服あなたによく似合うわ。きれいよ、とても」
ふたりは陽子をかかえるように、へやへはいった。
「へええ。あれが風祭陽子かあ、きれいになったなあ。でも茂くんの妹の陽子さんと友だちになったとはな」
五郎はぶつぶつとひとりごとをもらした。だれもあがれといわないが、しょうがないのでのこのこと廊下へあがった。五郎の目には、さなぎから美しいちょうに変わったような、みごとな風祭陽子の変身ぶりがやきついていた。
「ふーん、こりゃしゃくだ」
へやでは高尾先生と風祭陽子が身を寄せあっていた。高尾先生はやさしい姉のように、陽子に、今があれから三百年もへたのちの世であること、そしてあるふしぎな機械によって、風魔の小太郎や陽子たちの時代と自由にゆききできること、そしてこの現代には刀ややりをふるって人びとが殺し合ったりすることなどはないこと、などを説明した。風祭陽子は、ぼうっと夢を見るようなまなざしで高尾先生の肩に頭をもたせかけていた。高尾先生のからだから甘いかおりがただよって、陽子の胸の奥にしみた。それはこの風魔のひとりの少女に、長いこと忘れていたいろいろなことを思いおこさせた。
「あなたはまことに、私の母上か姉上のように思える」
「陽子さん、おかあさまはいらっしゃらないの?」
「母上は、まだ私が小さいころなくなられたそうじゃ」
風祭陽子の大きな目に涙が浮かんだ。涙にぬれたひとみは、たよりない少女の孤独と悲しみをたたえて、深い湖のように美しく光った。
「そう、陽子さん。それじゃこれからは、私があなたのおかあさんやおねえさんになってあげるわね。いろんなこと、おしえてあげるわね。手芸や、おどりや、歌や、そう、あなた絵もかけそうね」
高尾先生はくしを手にして風祭陽子の髪をとかした。ほつれ毛をかき上げてやると、陽子の目から落ちた涙が、スカートに小さなしみを作った。
「先生、あたし食事のしたくしてきます」
茂の妹の陽子は、かいがいしく腕をまくり上げた。
「五郎さん、ぼんやりしていないで手伝ってよ!」
五郎はあわててとびあがった。
「ぼ、ぼくは茂くんに……」
「あなた、おにいちゃんのいうことにはなんでもへいこらしてるくせに、あたしのいうことにはしたがわないっていうのね」
陽子のまゆが、きっ、とあがった。二重まぶたの大きな目がもっと大きくなった。
「やるよ、やるよ」
五郎は陽子のあとについて、台所へはいっていった。
「あなた、お米とぐのよ。そこに電気ガマがあるでしょ」
あとはハミングになった。
強敵王仁王丸
ようやく陽は高くなり、焼け残りの高い木のこずえに、もずがとまって、かん高く鳴きはじめた。
「五郎のやつ、いつまで何をやっているのかな」
茂はなかなかもどってこない五郎に、ようやくしびれをきらしていた。
部落の三方にはすでにきびしいバリケードが設けられていた。焼けた材木を打ちつけ、土のうを積み重ね、鋭くそいだ竹を植えならべ、もはやいかなる忍びの者も、これをのりこえることは不可能だった。
開いた一方には、幾重にもたこつぼ(地面に掘った穴)を掘って散兵ごうにした。
そのころ、この部落につづく林の中の道を、風のように音もなく走ってくる一個の人影があった。白いきものに白いくくりばかま。同じように白い手甲に、白い鉄の輪を頭にはめ、直径二十センチもある鉄の玉を左手にかかえていた。
その姿はやがて部落の西側にあらわれた。しばらくようすをうかがっていたが、両足をちぢめるとむささびのように空に飛んだ。いっきょにバリケードをおどりこえる。高さ五メートルにもおよぶがんじょうなバリケードも、この異様な男の前にはなんの役めもしなかった。
「いでよ! 茂! われは熊野権現《くまのごんげん》の別当《べつとう》、王仁王丸《わにおうまる》ぞ。風魔衆とはかねてよりじっこんの者なるぞ。いでや! 茂、その首打ち落としてくれようず」
ぶうん、ぶうんと空気をたたいて鉄球がまわりはじめた。
おそろしい力だった。
さすがの茂も顔色が変わった。
鏡の魔術
「うへえ! こりゃたいへんなやつがあらわれたぞ」
礼助が、頭のてっぺんからしぼり出すような声で叫んだ。
「気をつけろ! 茂くん、こいつはなかなかやるぞ」
明夫も全身に緊張をみなぎらせて、低くかまえた。
「ううむ。王仁王丸、とうとうやってきたか!」
地虫兵衛はうめくようにつぶやくと、つつう、と茂のかたわらに身を寄せた。ぶうん、ぶうんと空気をたたいて回転する巨大な鉄丸に、ひた、と目をそそぎながら早口に、
「茂さま、きやつは熊野党ずい一の荒わざ使い。彼に倒された伊賀者の数は二十名にもおよびましょうか。いつかはわれわれの前に現われ出ると思ってはおりましたが……。茂さま、ご油断めさるな! 巧者でござれば……」
地虫兵衛は決死の面持ちで、刀のつかに手をかけた。
「さあどうした! なにをそううろたえておるのだ。ひとり、ふたりはまことにめんどう。みんな一度にかかってこい」
王仁王丸は、鋼鉄のような色のほおをびくびくと動かすと、くゎっ、と口を開いた。
ピュッ――
ピュピュピュ――
鉄丸のうなりと、青銅の鎖がへびのようにくねって空気を切り裂く音が広場にひろがった。うず巻くどよめきの中で、だれもが、その巨大な鉄丸が自分めがけてふっ飛んできたと思った。茂も、明夫も、礼助も、思わずぱっと後ろへとびさがった。
「うわっ、はっはは! どうだ。それ、ゆくぞ」
王仁王丸は右手に握った鎖をすこしずつくり出しはじめた。茂はじりじりと後退した。いくらなんでもこんな攻撃をまともに受けとめることはできない。白ずくめの姿といい、見上げるばかりの長身といい、ふつうのおとなの倍はあろうかとも思われる広い肩幅、それに猛獣のような残忍さにかがやく双の目と、どれをとってもすさまじい迫力にみちていた。
「それ、それ、それ! ゆくぞ!」
王仁王丸は子どもをからかうような調子で叫ぶと、無人の野《や》を進むように広場の中央へ進み出た。
だれかが投げたらしい八方手裏剣が鉄丸にはね飛ばされて、白いせん光をひいて雨のようにそれていった。
「うわっはっはは、むだなことをしおるわ。手裏剣など、やめい、やめい!」
茂は奥歯をかみしめた。
「――くそ! 人をばかにしてやがる」
しかし怒りにまかせてうかつに飛び出していっては、これこそ敵の思うつぼにはまってしまう。
「茂とはどいつだ。まっさきに片づけてやるぞ。出ろ、出てこい!」
「鉄砲で撃ちとれい!」
代官がさけんだ。部下の二、三名がばらばらと鉄砲をかかえて走り出た。口火に火をつけ、ばたばたとひざ撃ちのかまえにはいった。とたんに、
「うおっ!」
王仁王丸がほえると、鎖はびゅうんとまるで生き物のようにのびた。
鎖は三十メートルものびた。
鉄丸は鉄砲をかまえた代官の部下を石ころのようにはじき飛ばした。おれた鉄砲が高く高く舞い上がった。
「これはものすごいぞ。風魔のやつら、反撃のための時間をかせぐために、とんでもないやつを殺し屋にやとったものだ」
明夫が背後でささやいた。
「よし、やっつけてやるぞ。いいか、明夫くん、礼助、それから地虫兵衛も聞け。たしかにあいつはものすごいわざの持ち主だが、体力に限界があるだろう。そういつまでもあんな物をふり回していられるはずがない。手と足の動きに乱れが出てくるのを待て。四人で散るんだ。そして相手の注意を分散させるんだ」
「わかった。茂くん。あの鉄丸をさけるのには、回転レシーブ≠フ要領でいけ」
「OK! それ!」
四人は、ぱっと四方に散った。
「おのれ!」
王仁王丸は鎖を短くたぐり寄せると、あらためてりゅうりゅうとふり回しはじめた。
茂たちの攻撃態勢をみてとって、代官の部下たちはさっとしりぞいて、遠巻きに要所要所を固めた。
「それっ!」
正面へ回った茂の頭をめがけて、巨大な鉄丸が電光のように飛んできた。一瞬、
「よいしょ」
茂はひらりとからだをおどらせて鉄丸の下をくぐりぬけた。まりのようにころがって、ぱっ、とはね起きる。
ずしん!
地ひびきをたてて鉄丸が地面をたたいた。とたんにそれは、もううなりをたてて王仁王丸の手もとに飛びかえっていた。息つくまもなく、鉄丸はそのまま王仁王丸の後方に低く構えた明夫めがけて飛んだ。
「てっ!」
明夫はくるりともんどりうった。
ずしいん!
明夫の後ろ、正確に二メートルのところに鉄丸が落下した。
「うまいぞ! 明夫くん」
「なにをこしゃくな!」
王仁王丸は顔中に怒りを爆発させた。
飛んでくる鉄丸をさけるために、後ろへ飛びさがったり、横へ飛んだりすることは、みずから死をまねくことだ。頭をねらってきた鉄丸は、飛びさがればその足にぶつかる。王仁王丸はその落下の角度をじゅうぶんに考えているのだった。
「それよ!」
「やっ!」
びゅうううん
流星のように鉄丸がおそってきた。ひたいの前、一メートルにまで迫ってきた一瞬、茂はバネのように前へ転倒した。
どしん!
びゅゅうん
地ひびき、たぐられる鎖の疾風のようなひびき。ころがった茂の頭上を鉄丸がもどってゆく。くるりと立ち上がる茂。それがほとんど同時だった。
王仁王丸はしだいにあせってきた。これまで自分に向かって飛んでくる鉄丸のほうへ身を投げてかわすような敵はひとりもいなかった。また、それに対しての対策など考えたこともなかった。
一回、回転レシーブ≠おこなうたびに、四人は少しずつ王仁王丸へ近づいていった。
――ううむ。後ろへ飛びさがればよいものを、こやつら、前へ身を投げるとは!
王仁王丸は内心、寒気を感じた。敵の身軽さもさることながら、風より早いとほこっていた鉄丸の動きを、こうも正確に見さだめることのできる力に思わず舌をまいた。
「どうだ! 王仁王丸。力だけじゃだめなんだ。早い動きをとらえることのできるカンが必要なんだぞ」
茂が叫んだ。
「そうとも。おまえ、トレーニングがたりないようだぞ。もっと科学的なトレーニングをしなけりゃな」
礼助がうそぶいた。
「ちいっ!」
鎖の長さはすでに十メートルよりもちぢまっていた。重い鉄丸を自由にあやつるには、すでに、鎖の長さが不足しはじめていた。
王仁王丸は、びんしょうな四匹のおおかみにかこまれた巨大なマンモスのように今や完全にその動きを封ぜられていた。次の鉄丸の飛来をさけた瞬間が、四人がいっせいに突撃に転ずるときだった。回転レシーブの姿勢のまま、一気にころがって王仁王丸の足をおそうのだ。
広場は一瞬、死のような静けさにみちた。その中で鉄丸のうなりだけが、いやにかん高く鳴りひびいていた。
王仁王丸の顔がひきつった。
「ぎえええっ!」
王仁王丸は長身を二つにおって、ぱっ、と身を沈め、両手で鎖をつかむと、地上一メートル、鉄丸は低くかまえる四人の下半身をなぎはらうように砂をまいて円をえがいた。
ひらっと茂が動いた。みごとな空中転回だ。ひざをかかえてからだをちぢめると、その姿はすでに中空に舞った。つづいて礼助、明夫、地虫兵衛が、ひら、ひら、ひら、と身をひるがえして空中におどった。
必死の攻撃をたくみにかわされた王仁王丸は、四人がまだ足を地に着けないうちに、とつぜん、鎖をほうり出すと風のように走り出した。大きなからだを丸め、地ひびきをたてて四人の作る包囲網を走りぬけた。
「やっ、逃げたぞ」
逃げたと思った王仁王丸は、一気に二十メートルをつっ走ると、その勢いでぱっとゆくての民家のやねに飛び上がった。
「うわあ、あいつ走り高とびのオリンピック選手になれるぞ」
「礼助! 喜んでる場合じゃないぞ」
明夫が礼助の頭をこずいた。
「どうだ! ここまではこられまいが」
「なにを! ようし、こんどこそ鉄砲でも弓でもかまわん。うち落としてしまえ」
「まてまてい、茂。これを見よ」
王仁王丸はふところから四角い紙包みをとり出した。
「見よ。これは地雷火だ。うぬら、ひとり残らずこっぱみじんにしてくれようぞ」
王仁王丸はにくにくしげに歯をむき出すと、頭上高くふりかざした。
「それ! いくぞ。ひとり残らず冥土へゆけい!」
やねの上の王仁王丸をあおぎ見る顔は、草の葉のように青ざめた。
「くそ!」
さすがの茂も絶体絶命だった。頭の上から地雷火を投げつけられようとは思わなかった。王仁王丸は勝ち誇ったように、にやっ、と笑った。
そのとき礼助が、ちらっと太陽を見た。その右手がふしぎな動きかたをした。
ピカッ!
やねの上で強烈な光の輪が動いた。
「うわっ!」
王仁王丸が両手で目をおさえた。巨体がゆらめいてふわりとからだが浮いた。急傾斜のやねをごろごろと落ちはじめた。
「みんな! 伏せろ!」
茂の叫びに、皆ばたばたと地に伏した。礼助の手から離れた鏡がころころところがった。
ドドーン!
爆煙がうず巻き、わらやねが吹雪のように舞い散った。
「わっはっはは、王仁王丸め、自爆したぞ」
ものすごいほこりをあびながら、皆は顔を見合わせてほくそえんだ。
父母のしんぱい
高尾先生は学校へ顔を出してくるから、といって陽子の家を出ていった。五郎も茂にたのまれた品物をさがすのだといってあわてて飛び出していった。急に静かになった家の中で、風祭陽子と茂の妹の陽子はふたたびむかいあった。
「ねえ、陽子さん。あなた、このまま、うちの子になっちゃいなさいよ。おとうさんやおかあさんが帰ってきたら、あたしたのんであげるわよ」
風祭陽子は、ふと悲しそうに顔を伏せた。
「陽子さま、でも私は風魔のおなご。あなたさまの親御さまはおよろこびなされぬことであろう」
「そんなことないわよ。陽子さん。でもあの兄貴のやつがちょっとうるさいけど……」
「兄者、と申されると、あの茂さまのことか」
陽子は、げらげら笑い出した。
「し・げ・る さ・ま! しげるさまだってえ! ええ、そうよ。いじわるにいちゃんのこと」
「のう。そのようにおっしゃってはいけませぬ。茂さまはごりっぱなおかた。よい兄者をもってあなたはおしあわせ」
「そうね。ときどきいじわるするけれども、ほんとうはいいにいちゃんなのよ」
ふたりは顔を見合わせてほほえんだ。風祭陽子の胸に、このとき、あの茂の精悍な面持ちが熱い息《い》ぶきとなってはいりこんできた。風祭陽子はできるならほんとうにこの家の人間になってもよいと思った。今、自分が身に着けている美しい衣服、これまでに見たこともない数々のめずらしい、いかにも少女の持ち物らしいこまごました道具類。三面鏡や、オルゴールや、テレビや、ステレオなどに陽子の心はおどった。そして、また茂の面影を心に浮かべた。風祭陽子は、なぜか、じいんと心の奥底がしびれるような気がした。
一日は暮れようとしていた。
玄関の方で急に靴音と下駄の音がまじって聞こえた。
「あ、おとうさんとおかあさんだ。陽子さん、ちょっとここへはいっていて。わけを話してから出てきてもらうわ」
「あの、ここへ?」
「そうよ。そうよ。早くこの押し入れへはいって……」
茂の妹の陽子は、大あわてで風祭陽子を押し入れにかくした。彼女の食べていたおかしやくだものを大急ぎで紙に包むと、押し入れの中の陽子の手に握らせた。それから、あわててあちこちを片づける。風祭陽子に見せていたアルバム、学校の写真、自分のコレクションの切手、日ごろ、たいせつにしている美しいししゅうのハンカチなどをまとめてかかえこんで、べッドの下に押しこんだ。
「陽子ちゃん、ただいま。茂、かえってきていない? へんねえ。いったい、どこへ行ったんでしょう。おじさんの家にも行っていないのよ」
母親の声が玄関から流れてきた。
「おかえりなさい」
陽子はそわそわと玄関へ出ていった。
「陽子は学校へ行かなかったのかね?」
「ええ、おとうさん。私、おるす番していたのよ」
陽子はしおらしくうなずいた。
「陽子、茂から何か連絡がなかったかね? 目黒にも練馬にも行っていないんだよ」
目黒には父の弟、練馬には母の姉がいるのだった。茂はこれまでによくその両方の親せきへは泊りにいっていた。
「ううん、何も連絡ないわ」
父も母も暗い顔で茶の間へ通った。
「ねえ、あなた。これはやっぱり、警察へ行ったほうがいいかしら?」
母が涙声でいった。
「そうだなあ。しかし、茂のクラスの、ほら、明夫くん、五郎くん、礼助くんの三人も茂と同じように姿が見えないというし、これはどうやら四人はいっしょに行動しているんだと思う。だとすれば茂だけどこかで頭でも打って、何もわからなくなって病院に入れられているというのでもないようだしね」
陽子はおそるおそる口を出した。
「ねえ、お父さん。おにいちゃんはだいじょうぶよ、ぜったいに……」
「だいじょうぶって。どうして? 陽子」
「どうしてでもないけど、だいじょうぶなのよ」
母の目がキラッと光った。父の湯呑茶わんにお茶をつぐ手をとめて、
「陽子。あんた、茂にいいふくめられているんじゃないの? 茂の居所、知っているんでしょう?」
「ちがう、ちがう。ちがうわよ」
「陽子! おとうさんやおかあさんがこんなに心配しているんだ。茂の居所を知っているのなら、そういいなさい」
父がずしりと重みのある声でいった。
「私、何も知らないわよ」
陽子は、ぷい、と立つと自分のへやへ退却した。
風祭陽子は押し入れの中で小さくなっていた。
「おとうさんもおかあさんもきげんが悪いのよ。私さっさと逃げてきたわ」
茂の妹の陽子は押し入れの戸を細くあけて、中にいる風祭陽子に告げた。
「兄上の茂さまといい、あなたといい、ほんとうにおもしろいかたじゃ。うらやましい」
押し入れの中できゅうくつそうに身をちぢめて風祭陽子は楽しそうだった。
父も母も、もう寝床にはいったのをみすまして、陽子は自分の居間のドアにカギをかけた。それからそっと、押し入れを開いて風祭陽子を外へ出した。
「ごめんなさい、せまい所へおしこんで。ね、もう、おとうさんもおかあさんも寝てしまったからだいじょうぶよ。そうだなあ、べッドにはいってお話しましょうよ」
茂の妹の陽子は、風祭陽子のために、衣装ダンスから自分の気に入っているネグリジェをひっぱり出した。
「あなた、これ着るといいわ。まくらは、と……」
旅行用の空気まくらをとり出すとふくらませた。風祭陽子は目を丸くしてそれを見つめていた。
「寝る前に顔を洗うのは、美容上ぜったい必要よ。でも、今洗面所へ行っておかあさんたちに見つかると困るからクレンジング・クリームをお使いなさいよ」
こういうことはおしゃまな陽子は得意だった。美しいびんにはいったクリームに、風祭陽子は目を細めた。茂の妹の陽子は、風祭陽子の顔にクレンジング・クリームを塗ると、それをガーゼでふき取ってやった。風祭陽子は姉にやってもらうように、おとなしく鏡の前に立っていた。
しのびこんだ怪盗
はとどけいが二つなった。へやの中にはふたりの陽子の静かな寝息だけが流れていた。
そのとき、台所の窓ガラスに、黒ぐろとうつる一個の人影があった。
作業手袋をはめた手ににぎった飛び出しナイフで、たくみに窓ガラスをこじあけた。やみの中で男はすごい目つきで周囲をうかがった。底の厚いバスケット・シューズは、ネコのように足音を消した。台所から廊下へ影のようにからだを動かしていった。手袋をはめた手が、静かに、静かに、からかみを押し開く。
カタ、とどこかが鳴った。暗やみの中でその音は意外に高くひびいた。
「だれだ!」
陽子の父親の声が、暗やみをはしった。男は、かすかに舌うちした。
「静かにしろ! 命がおしくないか」
男は低く、ほえるようにいうと、ぱっ、と懐中電燈をともした。その光の中で飛び出しナイフがキラリと光った。
母親が悲鳴をあげた。
「どろぼう!」
「やい、声をたてるな!」
三人のからだがもつれてころがった。懐中電燈の光が消えて、暗やみの中で、何かが、がらがらとくずれた。
「陽子! 陽子! 一一〇番へ電話しろ! どろぼうだ」
「うるせえ!」
やみにひらめく飛び出しナイフの光よりもまだ早く、突風のようにおどりこんできた人影があった。
「うっ! くそう。 こいつ!」
男はやみの中でめちゃめちゃに飛び出しナイフをふり回した。人影はその刃《やいば》の下をくぐって、男の胸もとにすべりこんだ。
「いてっ、いてえ、いてえ」
「こやつ!」
何かがぴしりと鳴って、あとはしいんと静まりかえった。
「早く電気をつけて」
父親はようやく電燈のかさをさぐりあてた。まぶしい光の下に立っているのは、
「あら! あんただあれ!」
「よ、よ、陽子は?」
風祭陽子は、みるみる空気のぬけた風船玉のようにうちしおれた。
「陽子とお呼びになったゆえ……」
その足もとに、どろぼうはぐんにゃりとのびていた。
へやの入り口では茂の妹の陽子が、これも小さくなってつっ立っていた。
あわてた陽子
「陽子のお友だちかね?」
「あ、あなたがこの、ど、どろぼうを……」
茂の両親は目を丸くしておどろいた。
風祭陽子はぴたりとたたみの上に正座してしとやかに両手をついた。
「はじめて御意をえまする。風魔が頭領、小太郎の妹、風祭陽子にござい……」
「うわっ……」
茂の妹の陽子は横っとびに風祭陽子にとびついた。あわててその口を手でおさえた。
「おとうさん、同じクラスの風祭陽子さんよ。わたしひとりじゃさびしいからとまりにきてもらったの。さ、陽子さん、あっちへゆきましょう」
茂の妹の陽子は、風祭陽子のからだを抱きかかえるようにへやから押し出した。
「風祭陽子さんはね、護身術を知っているのよ。だからどろぼうなんかかんたんに、えい、やっ、て……」
ぺらぺらとまくしたてた陽子は、風祭陽子の背を押して廊下へ出た。そのふたりをぼうぜんと見送っていた父親が、にわかにわれにかえったように、
「もう一度、お礼をいわなくては……。陽子、陽子!」
「はあい。いまゆくわ」
茂の妹の陽子は、風祭陽子に自分のへやに行っているように目くばせすると、すぐ両親のへやにとってかえした。
「なあに、おとうさん」
「御用のおもむきは?」
へやへ行ったはずの風祭陽子が、早くもしきいの上にかしこまっていた。
「ちがう! ちがう。陽子といったってあなたのことじゃないのよ。私のことよ。さ、あっちへ、あっちへ……」
茂の妹の陽子は首をすくめて、父親のほうをうかがい、風祭陽子の腕をとってへやから引き出した。
「おいおい、陽子」
「ただいま、ただいまさんじょうつかまつるう。まずはおトイレよ。おとうさん、お礼なんていいのよ。さ、いこ、いこ」
両親は顔を見合わせて首をかしげた。
ふだんから頭のはたらきと口のたっしゃなことでは兄の茂をしのぐほどの陽子だが、今夜はいちだんとよく口がまわる。それにそわそわとようすがおかしい。父親は陽子たちのあとを追って廊下を出ようとしたが、そのとき遠くから近づいてくるパトロール・カーのサイレンの音が聞こえてきた。茂の両親はいそいで玄関の戸をあけた。
真紅のせん光燈が夜の闇を切り裂いてパトロール・カーがとまった。緊張した面もちの警官が機敏にかけこんできた。
茂さま、帰してくだされ
「す、すみません、だんな。だけど、ぶったまげたなあ。この家には女忍者みたいのがいるんだなあ。一週間もかかってこの家のようすをしらべてからはいったんだけど、あんなのがいるとは思わなかったぜ」
警官に活を入れられて息をふきかえしたどろぼうは、手錠をはめられて、なさけなさそうにひき立てられた。
「このどろぼうをやっつけたかたに、ちょっとお目にかかりたいのですが……」
警官のひとりが茂の父親にいった。
父親のかげになっていた茂の妹の陽子がするりと前に出た。
「私のお友だちなの。風祭陽子さんていうのよ。護身術がうまいの。わたしのおへやでもうねむっちゃってるわ。ここへ呼ぶの、かんべんしてあげて」
陽子のあどけない白いほおに真紅のせん光燈がはえた。
「そうですか。それじゃ、お名まえだけでも、ええと……」
警官はポケットから黒い手帳をとり出した。
「名まえ? 風祭陽子よ。学校は……」
茂の妹の陽子は、はたと困った。
「学校は、その……」
「陽子のクラスなんだろう」
そばから父親がいった。
――おとうさんたら、なんてしゃくなこというんだろう!
茂の妹の陽子は心の中で白目をむいた。
「ええ。お、お、大岡山第三小学校よ」
――もし、警察から学校へ問いあわせたらどうしよう。≪少女、どろぼうを捕える≫なんて新聞に出ないかしら? 風祭陽子なんて大岡山第三小学校にはいないんだから!
ええい、どうにでもなれ!
茂の妹の陽子は、そっと首をちぢめた。
「ねえ、おまわりさん。学校へなんかいわないでね。新聞の人なんかにも。風祭陽子さんてすごくはずかしがりやなの。学校なんかでほめられたりしたら、あの人、自殺しちゃうかもしれないわ」
「はっはっはは。いや、そうですか。どうもありがとうございました。でも、警視総監賞がもらえるかもしれませんよ」
「だめよ! だめよ!」
警官はさっと敬礼するとパトロール・カーに乗りこんだ。近所の家から出てきた人たちも、おそろしそうに肩をすくめて家へもどっていった。
「陽子、あの人になにかお礼しよう。何がいいかね?」
「ねむい! ねむい! あした、あした」
茂の妹の陽子は父親の手をふり切るように自分のへやへもどった。
そっとドアを開いた。
「あら? おにいちゃん!」
ソファに腰をおろしているのは茂だった。
「帰ってきてたの?」
「パトロール・カーが止まっているから、ちょっとようすを見ていたんだ。どろぼうがはいったんだってな」
「風祭陽子さんがつかまえたのよ、あっさり、ね」
その風祭陽子は、電気スタンドのあわいピンクのシェードの下でうなだれていた。
「どうしたの? 風祭陽子さん」
「風魔の連中、いよいよ決戦の決意を固めたらしいんだ。多摩川の川原にしきりにとりでを作ったり、いろいろな資材を集めたりしているようだ。空蝉の典夫や青葉の片岡が情報を集めてきた」
風祭陽子はすきとおるようなほおに、血の色を動かして顔をあげた。
「陽子さま。ただ今、茂さまにわたしをつれ帰ってくださるようにお願いいたしておりました。なれど、茂さまはようお聞きとどけくださりませぬのじゃ」
「帰る? どうして?」
茂の妹の陽子はつまらなそうに口をとがらせた。
「陽子さまはじめ茂さまも、ほかのみなみなさま、しんせつでよいかたばかり。われらが風魔のいいぶんもさることながら、このようなかたがたを相手にいたして、血刀ふるってのあらそいは、もう無用にいたしましょう。立ちもどって兄の小太郎にそう申したいと思いまする」
「それいいわ!」
「だけどなあ、陽子。この風祭陽子がそういったって、兄貴の小太郎がうんというわけはないよ」
「いわせてみせまする、茂さま」
風祭陽子は、きっとくちびるをかんだ。
「風祭陽子さんのいうとおりよ。おにいちゃんももうよしなさいよ」
「茂さま。われらが風魔の一族にも、このように楽しく美しい生活のなん十分の一、なん百分の一でもさせてやりとうございます。もともと、畑を作ったり、花を咲かせたり、糸をつむいだり、ときには歌をうたったりの生活がわれら風魔にもございますものを……」
風祭陽子の目にいつか涙が光っていた。そのまぶたの裏には、あの薄むらさき色のもやのたなびく武蔵野の雑木林や、小川のせせらぎ、のどかなにわとりの声や、子どものうたうまりつき歌などにつつまれた平和でのどかな明け暮れが、走馬燈のように浮かんで消えた。そうしたおだやかな生活からぬけ出して、乱刃の中に身を投じなければならなくなった自分が、むしょうにうとましかった。きびしい忍者としての訓練に耐えぬいてきた陽子の、心の底にひそんでいた少女らしいやさしい感情に、はじめて火をつけたのは茂の妹の陽子だった。そのいきいきとしたしぐさや美しい洋服や、楽しいいろいろな持ち物、それらは風祭陽子にはまるで夢の中のできごとのように思えた。
「のう、茂さま。つれていってくだされ。兄の小太郎にわたしの心のありたけを話して、あらそいはおさめさせまする」
風祭陽子の顔はきびしい決意と、きよらかな涙にぬれてかがやいた。
「陽子さん。あなたよく決心したわね。あなたのお兄さんの、その小太郎という人によく話してあげて」
「しょうがねえな」
茂は考え深い顔つきで床を見つめていた。茂は風祭陽子のことばを信じないわけではないが、もし風魔小太郎が妹の風祭陽子のことばに従わなかった場合、いったいこの風祭陽子はどちらの側につくだろうか。そこは兄と妹だ。心ならずも兄の手伝いをすることになるのはわかりきっている。そうすると今、風祭陽子をつれて帰ることは、みすみす敵の戦力を増強することになりはしないか?
茂は風祭陽子のことばに、じいんと胸を打たれながらも、心の反面では冷静に計算をはたらかせていた。
――まあ風祭陽子が敵陣にもどってもともとなんだ。それに今は風祭陽子は戦う意欲を失っている。おそろしい敵にはなりきれないだろう。あの小太郎がもし妹のことばを受け入れてくれれば、これはひろいものだ。
茂は戦国時代の武田信玄や徳川家康のように、戦いのかけ引きにちえをしぼった。
「よし! つれてゆこう」
風祭陽子はふかぶかと頭をさげた。
「かたじけのうございまする」
茂の妹の陽子がその肩を抱いた。
「風祭陽子さん! あなた、また、ここへきっと帰ってくるわね。ね、おやくそくしましょうよ」
風祭陽子は茂の妹の手をとって、さびしくほほえんだ。
「陽子さま。私、この命にかえても兄をいさめまする」
「いや! 命にかえてもなんて。きっとまたここへくるのよ。ね!」
茂の妹の陽子は、机の引き出しから自分がもっともたいせつにしている真珠のネックレスをとり出してきて、それを風祭陽子の手ににぎらせた。
窓の戸をとんとんとたたく者があった。
「茂くん、茂くん! 品物は全部そろったぜ。ゆこうや」
明夫のしのびやかな声がした。
「行こう」茂はくちびるを一文字に結ぶと立ち上った。
ラジコンてい察機で
夜明けだ。
さわやかな風が、はるかに多摩川の流れを見おろすこの等々力の丘陵地帯をわたってゆく。その雑木林をつらねた低い丘のかげに、茂、明夫、礼助、地虫兵衛の四人はうずくまっていた。
「茂くん、燃料もバッテリーもOKだ」
「こっちもいいぞ。発信OKだ」
「じゃ始動開始だ」
明夫がスイッチを入れ、レバーを引いた。
バッ、バッ、バ、バリバリバリ……
排気管からむらさきの煙がふき出した。
「OK! OK!」
バン! バン! ブルブルン、ブルル……
翼幅二メートル、機長一・五メートル。水冷一・一馬力の大きなラジコンの模型飛行機だ。真紅に塗った主翼に純白の胴体がすばらしい。モンキー・スピリットの文字が鮮やかだ。
「ぼくの持っているラジコン機のうちでいちばん性能のいいやつだよ。何しろ操縦電波は四十メガサイクル、二十チャンネルも使えるんだからな」
機械いじりが、めしより好きな明夫の手になる、ほんものそっくりの模型飛行機だった。
「カメラの調子もいいぞ!」
グウーン――
「それ!」明夫が、コントロール・ボックスのスイッチをパチリと入れた。
地虫兵衛が草を刈って板を敷いた急ごしらえの滑走路からモンキー・スピリット号は猛然と飛び出した。その下腹に黒いカメラがくっきりと見える。
「風魔のやつら、まさか頭の上から写真てい察されるとは思わないだろう」
それこそ、茂たち四人が頭をひねって作りだした無線操縦の写真てい察機だった。腹の下にとりつけた三十五ミリカメラのシャッターからフィルムの巻き取りまですべて電波でコントロールできる。望遠レンズに赤外線フィルムまでそなえつけた。
モンキー・スピリット号は低空を矢のようにせん回した。フラップをあげるとすばらしい速度が出る。
茂と礼助が双眼鏡を目に当てた。
「まず、川むこうの右手の森のかげを写そう。あそこがあやしい」
明夫がダイヤルを回す。
「もう少し右、高度を上げろ。もうちょい右」
ブ――ウン
モンキー・スピリット号はまるでほんもののてい察機のように、まっしぐらに多摩川を飛びこえていった。
こんもりと茂った雑木林をかすめてせん回する。パッ、と排気の黒煙を吐きすてると、いちだんとスピードをあげて朝風を切った。
カチ、ジーッ、カチ、ジーッ……シャッターが落ち、フィルムが巻かれてゆく。
許せ! 陽子
ちょうどそのころ、多摩川の流れに面した小さなやしろの前で向かい合っているふたりの人影があった。一つは大きく、一つは小さい。
「のう、兄上。もはやこれ以上の戦いはおやめなされ。とうていわれらの力でおよぶような相手ではない」
「なにをいうか! 陽子。敵の手に捕えられるなど、忍びの者には許されまじき不覚をとったのみならず、そのようなおろかなことをほざくとは!」
風祭陽子は必死だった。
「兄上! 茂さまと一度、お会いなされ。そのうえでいろいろご相談なされてはいかが。茂さまは考え深いおかたゆえ、きっと悪いようにはいたさぬはず」
「茂とか! ばかな!」
「それは楽しい一日でした。茂さまの妹さまも、私と同じ陽子というのじゃ。おかしかったぞ。兄上」
「ええい、うるさい!」
「兄上、美しい衣装を着て、うたったり、踊ったり、それはたとえようもないふしぎな明るい世界でござりましたぞ。極楽とはきっとあのような所をいうのであろう。私はあそこが好きじゃ。あそこにいる人たちが好きじゃ」
「陽子!」
小太郎は、にわかにふと沈んだこわ音になっていった。
「なあ、それは実はこの兄とて同じこと。ましておまえには楽しいことばかり、美しいことばかり与えたい。父上も母上もおまえがまだ幼いころなくなられ、おまえはやさしい親の愛も知らぬ。せめてこの兄が父母に代わっておまえのしあわせをねがってやらずばなるまい。しかし、のう陽子。わしは風魔の頭領と呼ばれる身じゃ。このわしのことばのまま生命をすて、風魔のおきてに従ってきた部下の者たちの気持も考えてやらずばなるまい。たとえよし、風魔の伝統も消えゆくともしびのごとくはかないものにせよ、われら残る一族の生命もて守りぬくべきものであろう。陽子、もうよい。おまえだけそこへゆけ。この兄はおまえを笑ったり、さげすんだりなどせぬ」
勇猛をもって鳴る風魔小太郎も、心の底では妹に対するひとりのやさしい兄だった。
「さ、部下に見られてはまずい。その茂のもとへまいれ」
「兄上!」
風祭陽子の目から涙があふれた。涙は陽子の足もとの大地に落ちてたちまち吸われていった。
「頭領! き、奇怪なものが、あれ、あのように!」
けたたましい叫びがこだました。
「なに!」
小太郎がふり向いた目の前にどやどやと走り寄ってきたのは愛甲五人衆とその頭、流の葉室だった。
「あれは何じゃ?」
その指さすかなたの林の上をトビのように舞っている黒い小さな影があった。
「それ、あのように叫んでいるぞ!」
ブウウ――ン
かすかな爆音が伝わってきた。
「狐狸斎や悪多聞が遠矢をしかけたが、手ごたえもない。鳥であろうか?」
「まさか! ううむ。あの叫びには寒気がするぞ」
風祭陽子は兄の小太郎に向かって声をふりしぼった。
「兄上! あれもおそらく茂さまの放ったしかけであろう。な、これ以上あらそってもむだじゃ。兄上!」
流の葉室がぎらりと目を光らせた。
「陽子さま。わしの部下が申しておりましたぞ。陽子さまが敵の茂めと親しげに肩をならべて歩いておった、と」
陽子は息をのんだ。
「忍びの物見、数名の申すこと、どうやら見まちがいではなさそうじゃ。陽子さま、あの奇怪なる鳥のごときのものはなんでござるか? ごぞんじであろう!」
「しらぬ!」
「陽子さま。皆の衆も申しておりますぞ。どうやらあなたさまは敵方に気心を通じておるらしいと」
「無礼であろう! 葉室!」
「されば、なぜあなたさまは敵の陣より出でてこられた? それにただいまの頭領へこれ以上あらそってもむだじゃ、と申しておられたのは何であろうか?」
流の葉室は毒じゃのようなひとみを小太郎にはしらせた。
「のう、頭領。味方の内部よりくずれてはこの戦いももう終わりじゃ。風魔もくされはてたかのう」
小太郎のほおは怒りにふるえた。
「しがない下忍のことばなど気にもせなんだが、こうなっては問いたださねばならぬかのう。頭領」
流の葉室は氷のように冷たい疑惑と殺気をひめて、かえってことばしずかに小太郎に呼びかけた。集まってきた風魔の忍者たちも、かたずをのんで小太郎の顔を見つめて立ちすくんだ。
小太郎は祈るように目を閉じた。
「許せ! 陽子」一瞬、小太郎のたちは電光のようにひらめいた。
「あっ!」
さけるひまもなく、左の肩口から胸へ一刀を浴びて、陽子は血しぶきとともに大地へ倒れた。
「――兄上!」
からだを起こそうとしてそのまま、がっくりと地に伏した。
茂の決心
「見たか! これが風魔の頭領、小太郎の胸の内だぞ!」
小太郎は悪鬼のように顔をゆがめて、むらがる忍者どもをにらみつけた。まともに向かい合っていられないようなすさまじい殺気がその目からふき出していた。流の葉室をはじめとして、狐狸斎も悪多聞も、なんとなく背すじが寒くなって、思わずわらじのかかとをすって後ろへさがった。
「頭領、よくわかりもうした」
下忍のひとりがそっとつぶやいた。
「陽子が敵の茂めと気脈を通じておったなどと申したのはだれじゃ! 前へ出い!」
みんなはしいんと、おしだまった。
「出い、と申しておるのだぞ!」
このままではすまされないおそろしい予感が、みんなの胸にふくれあがった。
「雪が谷の左文字が……」
みなはそわそわと下忍のひとり左文字の名を口にした。
みんなの目は、後ろで首をすくめている左文字の上に集中した。
「頭領! わしはうそはいわぬ。たしかにこの目で……ああっ!」
小太郎のからだが風のように動いた。いま、陽子の血を吸ったばかりの長刀が、一瞬、にじをひいて左文字のからだを通りぬけた。
「さあ、みんな! 持ち場にもどれ!」
顔色を失った下忍たちは横っとびに川原を走った。
「ははは、頭領、気を悪くなさるなよ」
流の葉室は、いやにていねいに頭をさげると歩き出した。歩き出してからいきなり、横を向いて、ぺっ、と地面につばをはいた。
「おっと、これは失礼」
後ろをも見ずにいいすてると、部下の下忍たちをひきつれて、やしろの前から立ち去っていった。
「おのれ! 葉室め、いい気になりおって!」
悪多聞が腰のたちをぬき放って、流の葉室を追おうとした。狐狸斎の手がのびてそのひじをとらえた。狐狸斎の声はかすれ、ふるえていた。
「待て! 悪多聞、すべてはこの戦いが終わってからだぞ。こらえるのじゃ」
小太郎はつば音たかく刀をさやにおさめると、足音荒らく、林の外へ歩み出ていった。血に染まって倒れている陽子には見向きもしなかった。あとには悪多聞と狐狸斎が石のように身動きもせず、頭をたれて立っていた。その上を、茂たちのてい察機が翼をかたむけてせん回をはじめた。
「おい、写真はまだかあ」
「待てよ、もう少しだ」
暗室の中から礼助の声がはねかえってきた。
部落の中央にもうけられた、茂たちが作戦室と呼んでいる木小屋の中、その一角に写真用の暗室があった。いま、礼助は敵陣のようすをうつしてきた写真てい察機のフィルムの現像に汗だくだった。
「はやくしろよ」
「失敗したらしょうちしないぞ!」
そのとき、暗室の中で礼助がさけんだ。
「おっ! こいつはいけねえ」
茂も明夫も思わず顔を見あわせた。
「礼助! おまえ、フィルムの現像、失敗したんじゃないだろうな」
とたんに暗室のとびらがおそろしい勢いでおしあけられた。
「見ろ! 茂くん。これを!」
まだ水にぬれているフィルムを空《くう》にかざしてみんなは目をこらした。
「あっ!」
一枚のフィルムには、手足を投げ出して地に伏しているひとりの忍者の姿がうつっていた。そしてさらにそのかたわらに、ふたりの忍者がうつむいて立っていた。
「こっちが狐狸斎、こっちが悪多聞だな。このまんなかに倒れているのはだれだろう?」
茂はとつぜん、まっさおになってさけんだ。
「こ、これは風祭陽子だ! さては小太郎め、風祭陽子を切りすてたのだな!」
茂は悲痛なおももちで声をのんだ。
「ううむ。小太郎め、自分の妹を切りすてるとは!」
茂の目に、あの前髪のよくにあう、目の大きな風祭陽子の顔がくっきりと浮かんできた。茂は胸の奥底がやけるように痛んだ。
「ああ、やっぱり小太郎のところへやるんじゃなかった。くそっ!」
茂の目は怒りに燃えた。
「みんな! 集まれ!」
茂はすっくと立ち上がった。
いままでは代官を助けるための戦いだった。しかしこれからの戦いはちがう。目的ははっきりしていた。あの冷酷残忍な小太郎と、その配下の風魔の忍者たちを、ひとりも残さずうちこらしてやることだった。
(風祭陽子! 待っていろよ。きっとかたきはとってやるぞ!)
茂はこみ上げてくる熱いものをこらえて胸の中で叫んだ。
たこ対ロケット
ブウウン、ルルルウン
晴れ上がった空の一角からのどかなたこのうなりが聞こえてくる。近所の部落の子どもたちでも上げているのだろう。
「ほう。三つ、四つ、いやまだあがっているぞ」
地虫兵衛がひたいに手をかざして空をあおいだ。
「大きなたこだな。長い尾をつけているぞ」
青葉の片岡がほおえんだ。
「あっ!」
地虫兵衛がとつぜん、身をかたくして青空に浮かぶたこに目をすえた。六つの大きなたこは矢のように、茂たちが陣をかまえている丘のいただきめがけて急降下してきた。
「茂さま! あれは風魔の秘伝しらぬいの術でござるぞ。気をつけなされ!」
「なに! 風魔だと」
「さようでござる。おのおのがた、ごゆだんめさるなよ」
ブウウウン、ブンブンブン
たこにとりつけたつると、たこ糸が怪鳥の叫びのようになって頭上からのしかかってきた。
ビュビュビュ! パシ、パシ、パシ
雨のように矢が降ってきた。鋭い矢じりは草の葉をそぎ、小枝をはね飛ばし、大地にふかぶかとつき刺さった。代官の部下が二、三人、胸を射ぬかれて悲鳴をあげてのけぞった。
ブウウウン!
急降下してきた大だこは、ふたたびさっと大空へ舞い上がった。つづいてつぎの大だこが獲物をねらう大ワシのように降ってくる。その大だこに、風魔の忍者がからだをなわでくくりつけて弓を引きしぼっている。
ビュッビュッ、ビュッ!
茂も、明夫も、地虫兵衛も、みな、必死にその地上掃射のほこ先をさけて逃げ走った。
シューッ!
火の粉の帯を引いて火矢が降ってきた。
ゴォーッ、パチパチ
川原の草がみるみるまっかなほのおにつつまれた。青い空に黒い煙がうずまいて立ちのぼってゆく。火矢はあとからあとから新しい火炎のうずをまいていった。
「茂さま、このままでは火につつまれて焼け死にますぞ」
しかし、どっちへ走っても上空のたこから、見おろせばたちまちみつかってしまう。
ブウウウン
勝ちほこったように風魔の大だこは、ウサギをねらう大ワシのように雄大な輪をえがいて空を舞った。
「茂さま、いかがなされますか」
代官が降りかかる火の粉を木の枝でうち払いながら、かけ寄ってきた。
「ううむ。こうなってはしかたがない。おい! 礼助、あれを用意しろ!」
茂は叫んだ。
「あれを? 茂くん、あれは決戦のための秘密兵器じゃないか」
礼助がいぶかしそうにいった。
「ああ。でもこうなってはしようがない。あのたこをやっつけてしまわなければ、この火の海から脱出することもできないよ」
「よし!」
礼助は代官の部下にかつがせてここまで運んできた荷物をとり出させた。
「いそいで組み立てるんだ」
煙とほのおの中でたちまち奇妙な台がすえつけられた。それは円形の基盤の上に、自由に上下に角度を変えることのできる太い雨どいのようなものだった。
「ランチャー用意よし!」
礼助が目をかがやかせてどなった。
「よし、礼助! あのたこを片っぱしからうち落とすんだ」
礼助は長さ一メートル半ほどの細長い手製のロケットをランチャーにのせた。ロケットといっても、細く割った竹と、ブリキを交互に重ね、針金できつくまいたかんたんなものだった。しかし中につまっているのは強力な無煙火薬だ。これこそ礼助が苦心して考案した、対地ミサイルだった。
「あれいらい、作ったことがなかったから、うまくゆくかな」
礼助はちょっと不安そうに目をしばたたいた。
「だいじょうぶだ。ここならだれにもおこられないよ。しっかりやれ!」
明夫と五郎が礼助の背をどやしつけた。礼助のいうあれいらいというのは、一年ほどまえ、礼助は学校の校庭で自分が作ったロケットのうち上げ実験をやろうとして失敗し、火を吹いたロケットが校庭をはね回ってたいへんな騒ぎをまき起こしたことがある。先生にはさんざんおこられ、家のおとうさんやおかあさんには目の玉が飛び出るほどしかられ、それいらい、ロケットの実験から手をひいたのだった。チビでびんしょうな礼助が、他の者のまねを許さないかくれた特技が、じつはこのロケット作りだったのだ。
礼助はくちびるをかんでランチャーを回転させ、大空の一角をにらんだ。
四対六の不利
「きたぞ!」
一個の大だこが、ふたたび風を切っておそってきた。
「ゆくぞ!」
シュシュシュシュ!
ロケットはまっ白な煙をひいてランチャーを飛び出した。すばらしいスピードで大空をかけ上がる。
バーン!
ピカッとせん光がひらめいた。大だこがばらばらに飛び散った。竹の骨や厚い和紙や、糸などがちりちりと燃えながら舞い狂った。たこにのっていた風魔の忍者は、手足をひろげて人形のように草原に落ちていった。
「やった! やった!」
「それ、もう一丁!」
シュッ!
シュッシュッ!
ロケットの引く白煙が、あとからあとから青空を切りさいた。
バーン! バ、ババーン!
大だこはつぎつぎにけし飛んだ。たちまち四つもうち落とされ、残る二つはぐんぐん遠ざかっていった。
「それ! いまだ」
代官の部下たちは手に手に小枝をふりかざし、燃え狂う火をたたき消していった。茂たちは煙をくぐって走った。
「むこうに見えるまつ林に陣をしこう」
明夫も五郎も礼助も、地虫兵衛をはじめとする伊賀忍者の一団も背を丸めて走った。
脱出は成功した。
小高いまつ林に陣を移して、みんなはほっと息をはいた。
「茂さま、これで決戦のすべり出しはまず引き分け。ほんとうの勝負はこれからでござるぞ」
地虫兵衛がひたいの汗をふきながら低い声でいった。
「いや、地虫兵衛、こちらの手の内を見せてしまったようなものだ。ロケットを使わなくてはならなくなったのは、こちらとしては痛かった。この勝負、六対四でわれわれのほうが不利だよ」
地虫兵衛はくやしそうにうつむいた。
「おうい! 頭領、伊賀者の増援部隊がまいりましたぞ」
空蝉の典夫がうれしそうにさけびながら走ってきた。
「おう、きたか」
伊賀者を呼びにいっていた、地虫兵衛の部下の忍者見習いの若者が、地にひざまずいた。その後ろに、いならんだ忍びの姿の忍者が二十名ばかり、片ひざを地について頭を下げた。
「よし。銅太《どうた》、頭領に申しあげい」
地虫兵衛が若者をうながした。これまで見習いの忍者の身分では、頭領の茂に直接、話をすることなどは許されていなかったのだ。
「はっ!」
若者の銅太は、感激にほおをかがやかせた。
「地虫兵衛さまが配下、銅太めにございまする。伊賀組二十名引きつれ、ただいまもどりましてござりまする」
「うん、ごくろう。銅太、くたびれたろう」
「ありがたきおことば……」
「地虫兵衛、どうだ、銅太ももう一人前の忍者にしてやったら」
「はっ! 銅太、お受けせい」
銅太は地面にめりこむほどからだを平たくした。
「それではその伊賀組二十名、とりあえず銅太にあずける。おまえがかれらの隊長だ。いいな」
銅太はことばもなくひれ伏すばかりだった。
茂、明夫、五郎、礼助、それに地虫兵衛、青葉の片岡、空蝉の典夫、これが戦力の中心だった。それに加えて代官以下十四名の武士たち。そして若者の銅太とかれのひきいる伊賀組二十名。いまや決戦をむかえて、どうどうの勢ぞろいだった。
決戦の時いたる
茂は全軍をまつ林の丘にひそませた。もとより、この丘を堅固な陣地にして風魔の攻撃をむかえるつもりはなかった。
「先に多摩川をわたってつっこんだほうが勝ちだ。守って勝ったためしはないぞ」
茂は対岸の敵陣をにらんでいい放った。
そのとき、さっきからかたわらで、ポケットからなん枚かの写真を引き出して、しきりに首をかしげていた明夫が顔を上げた。
「茂くん、これ。さっき写真てい察機がうつした写真の中に、こんなのがあるんだよ」
「どれ?」
茂がのぞきこんだ。
「多摩川のこちら側がちょっとうつっているんだが、ほら、これがいま、ぼくらのいるこのまつ林だよ。このまつ林のまわりにいくつか新しい土がもり上がっているところがあるだろう。これ、何だろうな?」
なるほど、新しいもり土がそこだけ白くうつっていた。
「新しい土ですと?」
地虫兵衛が、ふとまゆをくもらせた。
「見ろ、地虫兵衛。この写真を」
写真を手にとった地虫兵衛の顔が、みるみる緊張した。
「おい! 片岡、空蝉、わしといっしょにこい!」
青葉の片岡も、空蝉の典夫も、地虫兵衛のいったことばの意味がわかったらしい。ふたりとも、さっと顔色を変えた。
「銅太! 伊賀組をもってここを守っておれ。陣形は魚鱗陣《ぎよりんじん》、もちいるは忍法雲がかりがよいぞ」
「はっ!」
地虫兵衛はふたりをつれて弾丸のようにどこかへ走っていった。
茂たちはあっけにとられて見送った。
「どうしたんだい? いったい」
銅太はきびきびと伊賀組を指図して、あちこちの松の枝にのぼらせた。
「銅太! 伊賀者をふたり、ここへよこせ!」
「はっ! 戸越《とごし》の正六《しようろく》、中村のくぐつ、頭領のおん前に出い」
たちまちふたりの忍者が茂の前にかしこまった。
「よく聞け! おまえたちはこれからただちに敵の風魔の本陣へ忍びこみ、風祭陽子の死体をうばってくるのだ。やつらがどこかへ埋めたりすててしまったりしないうちに見つけ出すのだぞ。風祭陽子はわれわれの手で手あつくほうむってやる」
茂の声はかすかにうるんでいた。
「かならずしとげるのだぞ。いけ!」
戸越の正六、中村のくぐつのふたりは、声もなく、はっ、と頭を上げると、けもののように丘をかけくだっていった。その姿を茂はじっと見つめていた。その目にふかい悲しみの色がやどっていた。
「茂さま! よういならぬことになりもうしたぞ」
かけもどってきた地虫兵衛が、めずらしく息を切らせて叫んだ。あとにつづく青葉の片岡と空蝉の典夫の顔も、これまで見たことのないほど不安の色にかげっていた。
「なにごとだ、いったい」
「茂さま。こ、この丘は敵の地下とりでに囲まれておりますぞ!」
「地下とりでだと?」
「さようでござる。あの写真にうつっておった新しい土もりは、その出口とおぼえまする」
空蝉の典夫もからだをのり出していった。
「おそらく風魔のやつめらは、この丘の地下に地下とりでをもうけ、通路を縦横に掘りめぐらし、機会をうかがっていっきょにうって出る所存かとおぼえまする」
「ううむ。敵ながらよくやった。さっきの火攻めも、われわれをここに追い上げる目的だったのか! そういえば、火のついていないところをたどってきたらここへたどりついたのも、やつらのしくんだことだったのだな」
茂は思わず背すじが冷たくなるのを感じた。いままでの風魔のやりかたとはまったく違う、おそろしく計画的なやりかただった。
どうやら決戦をむかえて、敵も必死に、また底力を出しはじめたようだった。
「茂さま! いまのわれわれは袋のネズミ。いかがいたしましょうか」
「くそ! 丘の周囲は風魔に囲まれているし、前方は多摩川だ。動くわけにはいかないぞ」
明夫の目も血走ってきた。
「おっ!」
とつぜん、地虫兵衛は飛びすさると、四つんばいになって地面に耳をつけた。その目がぎらぎらとかがやいた。
「いよいよ地下とりでにひそむ敵が動きはじめましたぞ。茂さま」
青葉の片岡も空蝉の典夫も、大地に耳をあてた。
「やや、聞こえる、聞こえる」
そのとき松のこずえから銅太がさけんだ。
「頭領、川むこうの風魔が進撃をはじめましたぞ!」
のび上がってうかがうと、おびただしい数の風魔の忍者が黒い豆つぶのように多摩川を押しわたってくるのが見えた。
「きたか! 風魔! ようし、日の沈むまであと四時間、それまでに勝負をつけてやるぞ。夕ばえの多摩川をやつらの血で染めてやるから見ていろっ!」
茂の声が高らかにひびいた。
その声を受けて、地虫兵衛も腰のたちをすらりとぬき放った。
「ゆこうぞ! 頭領!」
受け身の戦い
「見ろ! 茂くん」
礼助が絶叫した。
茂たちが陣をしいている丘のふもとは、厚くおいしげったクマザサにおおわれていた。そのクマザサをのせたまま、とつぜん地表が直径二メートルほどの丸いふたのように、ぐいとはね上げられた。その下に、暗いトンネルの入り口が見えた。
「あっ!」
トンネルから黒衣の忍者がとび出してきた。手にした大刀がギラリと光った。ふたり、三人、四人……八人、九人、十人。まるではじき出されるようにトンネルからおどり出ると、刀をふりかぶって一気に丘をかけのぼってくる。
「やっ、あそこにも! あそこにも。こっち側にも!」
丘を囲むように、六ヶ所にトンネルが開いた。そのトンネルからも十数名の忍者がはき出された。
「ううむ。これこそ、音に聞こえた風魔の地甲六方陣《ちこうろつぽうじん》か!」
空蝉の典夫がうめいた。
風魔の忍者たちは、えものを山頂に追い上げる狩人たちのように、さっと散ると丘の中腹をぐるりととり囲んだ。多摩川をわたって寄せてくる小太郎の本隊の先ぽうは、はやくも川原をつっ切って、くさび形に、この丘めざして突進をつづけていた。
「こうなってはしかたがない。受けて戦おう。おい! 代官、おまえたちは全力をあげて丘の中腹を囲む風魔に当たれ! 一方をつきくずして川原に出るんだ。いいか!」
「ははっ」
代官もいまは必死だ。血の気を失った顔をひきしめてうなずいた。
「銅太! おまえは伊賀者を指揮して、川をわたって寄せてくる風魔と戦え。あいつらは手ごわいぞ。敵の主力だからな」
「かしこまってござる」
明夫たちが心配そうに茂の顔をうかがった。
「ぼくらはどうするんだい?」
「うん。小太郎の親衛隊とやるんだ。みんなはなればなれにならないようにかたまっていろよ。地虫兵衛たちもいいな」
「ようし」
「しかとうけたまわってござる」
茂は手ぢかの松の小枝をおり取ってかざした。二、三度うちふって叫んだ。
「代官! 銅太! ゆけい!」
「おおう!」
二つの集団は、けもののようにときの声を上げると、ころがるように丘をかけくだっていった。
うわあああ!
うおおおう!
たちまちはげしい戦いがくりひろげられた。丘を囲む風魔の忍者たちは数が多かったが、丘をかけくだってくる勢いでつきかかってくるのは、よういには受け止められない。その態勢では双方の戦力は互角だった。白刃が入り乱れ、みるみる血しぶきが上がった。代官の部下たちはみな相当の腕達者ばかりだったが、おしいことに、こうした集団戦闘には不なれだった。ひとりひとりのたちさばきは、いまにもむらがる忍者を片はしから切りすててしまうかと思われたが、たくみな忍者のかけひきの前には、みすみす切れるものまで切らずに見のがさなければならなかった。
「あ、またやられた! くそ! しっかりしろい!」
礼助がじだんだふんでどなった。
シュシュシュシュ! パシパシパシ!
丘のいただきに立つ七人の上に、雨のように矢が飛んできた。
「いかん! 突破されたぞ」
代官の部下たちの作る防衛陣はついにつき破られた。
十数人の風魔の忍者がまっしぐらにかけのぼってくる。
「礼助! ロケット弾でやっつけろ!」
「よしきた!」
礼助は手ばやくロケット弾をランチャー(発射台)にはめこんだ。風魔の忍者たちはもう二十メートルほどに迫っていた。忍び頭巾のかげの目が、ほのおのように殺気を放っている。
「それ!」
シュシュシュ……
ロケット弾はさか落としに風魔の突撃隊につっこんだ。
バ、バーン! バーン!
目のくらむせん光がはしった。すさまじい爆風が突撃隊をなぎたおした。刀をにぎったままの腕が、くるくると舞ってふもとへ飛んでいった。
「礼助! 代官たちを援護射撃しろ」
代官たちはしだいに切りたてられて、丘の中腹を上へ上へと退却しつつあった。それに追いすがる風魔たちは、丘をのぼってくる黒い波のように見えた。
シュウ――! カシャカシャカシャ
ロケット弾は黒い煙の尾をひいてあとからあとから飛んだ。黒煙がふき上がり、真紅のほのおがうずまいた。丘の中腹の草に火が移って、かっ色の煙がもうもうと乱刃をつつみはじめた。あちこちで防衛線が突破され、黒衣の風魔がイナゴのように丘の斜面をかけ上がりはじめた。
「茂くん! ロケット弾がつきたぞ」
礼助がくやしそうに叫んだ。
「明夫くん。モンキー・スピリット号で神風攻撃だ!」
「ようし、やるか!」
明夫はガソリンのはいった燃料かんを、カメラをはずしたラジコンてい察機の胴体の下にくくりつけた。その燃料かんの口をゆるめてガソリンでぬらしたこよりをさしこみ、それに火をつけた。
ブルブルブル……
モンキー・スピリット号は、胴体の下から長いひとすじのほのおをひいて飛び立った。
長い刀をきらめかせてのぼってくる風魔の忍者の一隊へむかって、モンキー・スピリット号は猛然と急降下した。
グウーン! グウーン!
ぱあっとほのおがひろがった。ばらばらになったモンキー・スピリット号の機体は、火の粉をまき散らして風魔の一隊をおしつつんだ。
うわあ!
つつつつう!
耳をふさぐような悲鳴が上がった。火だるまになった風魔たちは、火を消そうとして夢中になって地面をころがった。ほのおをひき、煙をたなびかせて、かれらは競争のように丘の斜面を、ふもとまでころがっていった。
一瞬ひるんだ風魔へ、銅太たちが突入する。代官たちが切りこんでゆく。斜面の一歩、一歩をめぐって、追い落とそうとする者と、追い上げようとする者とが、血風をまいて入り乱れた。
風魔の奇策
「地虫兵衛! 風魔小太郎はどこにいる?」
茂はいまや小太郎の姿を求めて勝敗をきめるときだと思った。風魔の人海戦術のために、みかたはしだいに旗色が悪くなってくる。やがてこの丘のいただきに風魔はかけのぼってくるだろう。そうなってからでは、小太郎と血戦をまじえることはむずかしくなってくる。
「頭領! 小太郎めはあそこに……、ほら!」
地虫兵衛が、多摩川の対岸を指さした。銀色に光る川面《かわも》のむこう、対岸の白い砂の上に、小さな人形のように十数名の人影がならんでいた。
「ううむ、小太郎め! あんなところで戦いの指図をしていたのか!」
はるかにはなれた所で、敵みかたの激闘を冷静に観察し、指図している小太郎は、さすがに戦いなれした指揮官だった。
「あれでは小太郎をうちとることができないぞ!」
茂はくちびるをかみしめた。風魔の重囲を突破し、さらに広い多摩川を押しわたらなければ、小太郎たちの風魔の本陣に迫ることができなかった。それはいまの状態ではほとんど不可能だった。たとえこの囲みを突破しても、川をわたるとちゅうで両岸から矢で射すくめられてしまう。
「ややっ!」
えい、えい! えい、えい!
とつぜん、丘のふもとで腹の底からしぼり出すようなぶきみなかけ声がわき起こった。白刃のひらめき、土ぼこり、悲鳴、はがねの打ち合う乱闘のひびきを割って、雨戸をたてたようなものが、つぎつぎと押し出されてきた。下に小さな車がついていて、背後から数人の忍者が押している。数十枚のそれは、みるみるへいのように丘の中腹をぐるりととり巻いた。
――えい! えい! えい! えい!
その押し立てたへいは、ゆっくりと丘をのぼりはじめた。いままで切り結んでいた風魔の忍者はすばやくその後ろにかくれこみ、あとには銅太や代官の部下たちが、とり残された。厚さ十センチメートルほどのかたい木で作られたそのへいは、銅太たちの必死の突撃でもどうすることもできなかった。
えい! えい! えい!
まるでローラーのようにのぼってくる。茂たちは完全にとあみの中のさかなになってしまった。網はぐんぐんしぼられてくる。
ダダダダン! ダダダダン!
へいのかげからいっせい射撃の銃声がひびきわたった。
「あぶない! 伏せろ!」
地面に倒れ伏した七人の上を、弾丸の雨がかすめた。
シュル、シュル、シュル
パシパシッ、パシ、パシ!
つづいて矢が降ってきた。
「茂くん! こうしていては、みな殺しにされるぞ。はやくなんとかしなければ」
礼助が歯をがちがちいわせながら叫んだ。
しかし、もう絶体絶命だった。羽でもないかぎり、この囲みからぬけ出すことはできない。そしてあと二、三分もすれば、みんなの上に確実に死がおとずれてくることになる。
「せめて小太郎にひとたちなりともつけとうござった。地虫兵衛、くやしゅうござる」
地虫兵衛の目にはくやし涙が光っていた。
そのとき、茂の胸にある考えがひらめいた。茂の目がにわかにいきいきとかがやいた。
「そうだ! おい、みんな、スクラムを組め!」
「スクラムを?」
「そうだ。はやくしろ!」
みんなはけげんな顔をしたが、茂のいうままに腕を組んでかたくスクラムを作った。
「頭領、こうしてなむあみだぶつをとなえるのでござるか」
「ばかいえ! いいか、地虫兵衛たちはぼくがよしというまで、ぜったいに目を開くなよ。いいな!」
茂は明夫たち三人にそっと目をくばせると、ポケットからタイム・マシンをとり出した。明夫たちの目がそれにそそがれた。
「いたぞ! あそこに」
「ひとりも残らずうってとれい!」
風魔たちの叫びが、七人をあらしのようにとりまいた。
バババ――ン!
必殺のいっせい射撃のひびきが丘のいただきをふるわせた。その弾丸の雨が七人のからだをハチの巣のようにつらぬく直前、
ピイイイン
茂の手の中でタイム・マシンがかすかなひびきを発した。
奥の手
「さあ! 走るんだ」
茂は声をふりしぼった。ここは現代の多摩川原だった。スクラムを組んだ腕に茂はありったけの力をこめて、みんなを引きずるように走った。走った、走った。多摩川にかけられた長い橋の上を、青と黄にぬり分けられた電車がのろのろとわたっていた。土手をかけくだり、川原の砂利をすくいとったあとの大きな水たまりを水をけたてておしわたった。
おどろいたのは近くにいた人びとだ。
黒衣の忍者と少年が、スクラムを組んで風のように道路をこえ、川原に走り出たからだ。
――なんだろう? あれは。
――何をやっているのかな?
――映画のロケだろう。
土手の上を走る自動車の窓からも、ふしぎそうな顔がいくつものぞいていた。
「それ! 本流をわたるぞ。足をとられないように気をつけろ!」
「茂くん、だいじょうぶだ」
いまは茂の計画をさとった明夫や五郎も、しっかり地虫兵衛たちの腕をかかえこんだ。わけがわからないながら、地虫兵衛たちもこれが頭領の極秘の忍法だと思って、いわれるままに、いよいよ目をぎゅっとつぶってみちびかれていった。
ざぶざぶ、ざぶざぶ
七人は一団になって多摩川の本流を横切った。
対岸の川原では青年たちが野球をやっていた。そのまんなかへ、七人はぽたぽたとしずくをたらしながらかけこんでいった。
「おいおい! なんだおまえたち。マウンドの中へはいってきちゃだめじゃないか!」
「こらっ!」
野球の試合はたちまち中断されてしまった。どなり声の中を七人はものもいわずにかけぬける。
「ようし、つかまえろ!」
三、四人がばらばらと追いかけた。
「このへんだったな、小太郎たちが立っていたのは」
茂は足をふんばってみんなを引きとめた。タイム・マシンがかすかに金属的なひびきをたてた。
七人の姿は、青年たちの目の前で、一瞬、煙のように消えうせた。
忍法エレキしばり
対岸の丘から、はげしい切りあいのひびきが、白く光る多摩川の川面《かわも》をわたって聞こえていた。それへむかって冷然といならんでいる風魔小太郎とその親衛隊へむかって、茂たちは猛烈な突撃にうつった。
「それ! つっこめ!」
「うおおう!」
とつぜん、背後からあらわれた茂たちに、風魔小太郎もひどいおどろきと恐怖に、紙のように顔色を失った。
「ややっ! いつのまに」
「こ、これは! おのおのがた、油断めさるな」
茂は弾丸のように風魔のひとりのふところにおどりこみ、大刀《だいとう》のつかをにぎった。
「おのれ!」
風魔の忍者はおどろいてさっと身をひいた。ぎらり、大刀はぬけて茂の手に残った。茂のからだはとたんに二メートルも跳躍した。
「うっ!」
風魔の忍者は肩をおさえて砂の上にのめった。
「地虫兵衛なるぞ! 狐狸斎、まいれ!」
乱闘の中で地虫兵衛の声が、ずんとひびいた。
むこうでは悪多聞と青葉の片岡が、摩利支天丸と空蝉の典夫が、火花を散らして激突した。
「さあ、片っぱしから料理してやるでえ」
礼助、五郎、明夫が一団になって、流の葉室のひきいる一隊につっこんでいった。
「ええい!」
「くそ!」
「たあっ!」
絶叫が交錯し、砂煙がわき上がった。五郎のふり回す自転車のチェーンがキラキラと砂煙の中で光った。
「ううむ。敵ながらみごとな術よ。あの丘のいただきにひとかたまりになってふるえておったに、いつのまに川をわたりおったぞ」
風魔小太郎は、思いもかけぬこの茂たちの急襲に、さすがにくやしそうにほおをひきつらせた。
「はっははは、おどろいたか、小太郎。これこそ忍法タイム・スリップだ。よくもきさま、おまえの妹の風祭陽子を切りすてたな。妹の心もわからぬばか者め! 風祭陽子のうらみ、はらしてやるぞ」
「な、なにをこしゃくな!」
チャリーン!
二本の大刀は、ぱっと火花を散らしてかみ合った。
「てえ!」
小太郎は茂の大刀をひっぱずすと、茂の胴へすさまじい片手打ちをくれた。
「あっ!」
小太郎の猛烈な一撃を受けとめた茂の大刀は、根元からぽっきりおれ飛んだ。
「しまった!」
茂の顔がすっと青ざめた。小太郎が白い歯をむき出してにやりと笑った。
「ゆくぞ!」
小太郎が頭上高く長剣をふりかぶった。茂の右手がそっとポケットへはいった。
「ええいっ!」
小太郎の大刀は電光のように茂のまっこうから飛んできた。その下をかいくぐって茂は目にもとまらず小太郎の手もとに飛びこんだまま、もつれるようにくるりと回った。一瞬、ふたりは背を合わせて石像のように動きをとめた。二十秒、三十秒……。
「どうだ、小太郎、忍法エレキしばりだ」
茂が叫んだ。
刀をふりおろした姿のままの小太郎のひたいから、冷たいあぶら汗がふき出した。全身がこまかくふるえた。
「ううむ」
小太郎はうめいて川原の砂にどうと倒れた。
そのふところから茂は黒い箱を引きずり出した。
「このバッテリーは五百ボルトも出るんだぞ」
足でけとばすと、バッテリーからぱっと青白いせん光がふいた。こげた外被から白煙が立ちのぼった。飛びちがった一瞬、茂はゴム袋に入れたバッテリーをとり出してスイッチを押し、小太郎のふところに押しこんだのだ。茂はポケットからゴム袋をとり出してバッテリーをしまった。
「おう、頭領! ここにおられましたか」
戸越の正六と中村のくぐつのふたりがかけ寄ってきた。正六の背に、風祭陽子がぐったりとかつがれていた。
「おう! 風祭陽子!」
茂は陽子を砂の上に抱きおろした。陽子のほおは氷のように冷たかった。
「陽子! しっかりしろ。戦いはもう終わったぞ」
茂の腕の中で陽子はうっすらと目をあいた。うつろなひとみが弱々しく茂の顔をとらえた。
「し、しげ……るさま。よ、ようこさまに、……よろしくと」
陽子の手には、茂の家を出てくるとき茂の妹の陽子からおくられた真珠のネックレスが、かたくにぎられていた。
「しっかりするんだ、風祭陽子」
「こ、こんど……生まれてきたときは……し、しげるさまとなかよう……」
陽子は消えかかるまぼろしのように、美しくほほえんだ。
戦い終わった明夫や地虫兵衛たちのあげる勝ちどきが、広い川原にこだました。
おりから、西の空は燃えるような夕ばえだった。
ゆうゆうと流れる多摩川の水面も、茂のひたいも、茂の腕の中の陽子のほおも、染めたようにその夕ばえをうつしていた。
あとがきに代えて
私がSFを書きはじめてから、もう十二、三年になります。その間にずいぶんたくさんのSFを書きました。いったい幾つぐらい書いたのか自分でもおぼえていません。しかし、自分でも良くできたと思う作品、あるいはのちのちまでも、自分の心に残っている作品というのは、そう多くはありません。まして、自分でも心が躍るような気持ちで書いたものや、ひとつひとつの文字に、自分の考えていることを精魂こめて書いたもの、となると、これはもう、五本の指で数えられるほど、いや、もっと少なくなるかもしれません。
この≪夕ばえ作戦≫は、できぐあいはともかく、私自身、とても気に入っている作品です。ひと口に言えば、書いているとき、たいへん楽しかったのです。自分が登場人物の一人になってしまっている、と言ったらよいでしょうか。自分の書いているものに、自分で酔ってしまっている状態です。おかしいですね。でも、小説書きによらず、画描きさんでも、写真家でも、デザイナーでも、また役者でも歌手でも、そういうことというのはあることなのでしょう。小説を書いている場合だと、そういうときは実によく筆がすべるのです。筆がすべるというのは、ひとりでにアイデアが生まれ、登場人物が頭の中で自由自在に動いてくれるのです。結末をつけるのが難かしくなるほど、物語がひろがってきてしまいます。
ほんとうのことを言うと、私が気楽に、鼻歌まじりで(と言っても、いいかげんな、と言うことではなく、さあ、いつでもこい!≠ニいう意味で)書けるのは、なんとジュニアSFと時代小説なのですよ。ジュニアSFと時代小説という、この妙な取り合わせは、人が聞いたら、なんだい、おかしなやつだな。と思うかもしれませんが、やはり好みでしょうかね。ジュニアSFというのは、いつ書いても楽しいですね。時代小説は書きながら自分で浮き浮きしているわけです。
この≪夕ばえ作戦≫は、私自身の好みでもある、ジュニアSFと時代小説という二つの要素で成り立っています。私自身、この作品が気に入っているというわけが、おわかりになっていただけるかと思います。
今、この角川文庫に入るべきヤングSFを一本書いているところですが、これも登場人物たちが妙に気に入ってしまい、頭の中で物語がさいげんなくふくらんでしまって、どうにもしゅうしゅうがつかなくなり、うっとりして困っているといったあんばいです。登場人物たちが、現実の人間で、実際にどこかに住んでいて、私としょっちゅう会ったり話したりしている人間のように思えてくるのです。妙なもので、そうなると、でき上った作品を編集部の手にゆだねてしまうのがたまらなく惜しくなってくるのです。親しいなかまたちが、私をおいてみんなどこかへ行ってしまうような気がしてくるのですよ。別離の悲しみです。書き上って、ほっとするよりも、なんだかたまらなくさびしくなります。
自分が気に入った作品というのは、そういうものです。
ところで、読者のみなさんは、もしタイム・マシンが手に入ったら、どこへ行きますか? 未来へですか? それとも過去へですか? 二十年後の自分が何をしているか、三十年後の世界で、自分がどうしているか? わが目でたしかめてくるのもいいでしょう。あなたに今好きな女の子がいるとして、はたして、その子と結婚できるのかどうか、知りたくありませんか? もし、結婚できなかったとしたら、その原因をしらべてきて、現実の世界で、その原因をひとつひとつ取りのぞいてゆけば、ちがった未来ができるはずです。また、明日のテストで、どんな問題が出るかは、今日のうちに明日へ行ってしらべてくればわかります。高校進学や大学進学で、どうも自分の内申書の成績がよくないなあ、と思ったら、過去へ行って自分の成績をよくしてくればよろしい。どうせ過去へ行くなら、うんと遠い時代へ行って、十字軍の騎士になったり、海賊キッドが宝物をかくしている現場を見てきたり、キリストや釈迦に会ってインタービューを取ってきたりしたらどうですか? つぎからつぎへと楽しい空想がわき上ってくるでしょう。
それがSFの面白さです。読むだけでなく、自分の空想を、楽しい物語に作って書いてごらんなさい。
夢は自分で作るものであり、かぎりなくふくらむ自分の生命でもあるのです。
光瀬 龍 夕《ゆう》ばえ作戦《さくせん》
光瀬龍《みつせりゆう》
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平成14年5月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『夕ばえ作戦』昭和50年2月20日初版発行