角川文庫
たそがれに還る
[#地から2字上げ]光瀬龍
目 次
序 章
第一章 長い旅のはじまり
第二章 スペース・マンたち
第三章 都市と歴史
第四章 星そして星々
第五章 辺境にて
第六章 来訪者(その一)
第七章 来訪者(その二)
第八章 東キャナル市にて
第九章 はるかなる日々
第十章 明日への道
第十一章 三七八五年
終 章
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人、うたた情ありて
たそがれに|還《かえ》る
――R・M――
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序 章
――人類は、その宇宙に|於《お》ける発展の歴史の中で、三つの大きな事件に遭遇した。そのいずれもが、二千年におよぶ宇宙文明の栄光と未来に対する無限の可能性をいっきょに崩壊せしめるかのような強い影響を歴史の上に及ぼしたのであった。
すなわち、二千年代後半に於ける地球文明の経済的|破《は》|綻《たん》が、宇宙植民地の経営に与えた破滅的荒廃と、それにつづくあのいつ果てるともなく続いた泥沼のような統合戦争。その深刻な疲弊は当然の帰結として宇宙開発機構の一元化を生み出した。それはまことに栄光と破滅の微妙なバランスの上に成り立った息づまるような緊張の時期であった。
ここまでを最初の危機と考えてよいだろう。
そしてつぎに、三千年代前半にようやく絶望的な様相を示しはじめた人類とサイボーグの間の、あのいわれのない、それ故にこそ解決の方策も見出すに難かった深刻な対立の時代がくる。それは人類が長い長い間ほしいままにしてきた指導者の座を、はじめはゆっくりと、最後には急速にすべり落ちていった傷ましい荒涼たる時期といえる。
そして第三に、三千年代も終りに近く、全く突然に人類の前に提示されたあの一連の奇妙な事件がある。〈註一〉
これは一千年の歳月をへた今日、なお資料整理の段階にあり、歴史に徴した論議は時期|未《いま》だしの感がある。
前二者については、これまでにこころみられた解釈は何千という数におよび、現在ではほとんど研究しつくされた|如《ごと》くである。
しかし、この最後のものについては、賢明な歴史学者たちは|敢《あえ》て言及することを避ける傾向がある。これは当時、例の三八一六・全星域特別条例B〈註二〉にもとづく非公開資料としてすべて、その記録は封鎖されたまま放置されたことに起因する。
しかし、その制約も今はない。われわれには論議の広範なる自由が与えられ、しかもその必要は今日的課題を以てわれわれに迫っているといえよう。
〈註一〉
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宇宙省調査局報告EC八〇八一九一NよりEJ〇〇〇九二七Cまで。同じくL四一〇七一一KよりM六五三〇一二Dまでの件。
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〈註二〉
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三八一六年、宇宙省は太陽系連邦の経営に関して重大な障害となるおそれのある資料ならびに各種の統計はすべて封鎖し、これを調査局資料部の管理下に置くことを全星域に通達した。この通達を、のちに三八一六・全星域特別条例Bと称するようになった。
この通達が、当時、省調査局の入手した極めて重大なある情報の処置を示唆していたことは、今日、歴史学者の|誰《だれ》もが認めているところである。
なお、これ以後、調査局はしだいに連邦の経営面よりその姿を消してゆくのである。
[#ここで字下げ終わり]
さらに言うならば、この最後の問題に関しては、あるいは、人類の発展に|於《おい》て必然的に遭遇する本質的課題ではないのかもしれない。限りなく宇宙に前進してゆこうとする人類の前に、不測に設けられていた一つの|陥《かん》|穽《せい》だったのかもしれない。
これが人類の運命に、いかなる力を及ぼしてゆくかは実に今後の問題なのだ。それ故にこそ、この第三の事件は前二者に比すべくもない不幸と|挫《ざ》|折《せつ》の|翳《かげ》をおびているとさえいえる。
『三千年の歳月はかくて過ぎ去り、人類は三回にわたってその体力をおびただしく消耗し、今日に至るもついにそれを回復し得なかった』
とするアム・コダイの説には聞くべきものがある。
今こそ、|喪《うしな》われようとする資料を、われわれはあらゆる方法をもってひきもどし、復元しなければならないのだ。そこからたとえ何が現れてこようとも――
[#地から2字上げ]ユイ・アフテングリ著
星間文明史 第七巻
第五章 特徴的文明より
たそがれに還る
第一章 長い旅のはじまり
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昼と夜とを支配するため光と暗黒とを分つために
[#ここで字下げ終わり]
深紅色の残照が今、|宇宙空港《スペース・ポート》を真横から染めていた。天を指してそびえる宇宙船や、縦横にトラスを組み上げた巨大なガントリー・クレーンの影が長く長く地上を|這《は》い、昼の間じゅうはげしい|陽《かげ》|炎《ろう》にゆらめきつづけていた地平も、今は冷え冷えとした大気の中で、硬く一線を引いて遠く収まっていた。
はるかな虚空に待機する宇宙船へ往復するフェリー・ボートの群が、|噴射管《ノズル》から噴き出す白熱の|焔《ほのお》で夕映えのフィールドを|灼《や》き、はるかにつづく砂漠の流砂をふるわせた。フィールドに|撒《ま》かれたドライ・アイスの蒸気が積乱雲のように|湧《わ》き上り、そこから多彩な|虹《にじ》がうまれた。フェリー・ボートの群はあとからあとから虹を作っては飛び出していった。
宇宙空港はどこでも、ある奇妙な荒っぽさとなげやりとの入り混った一種独特のあわただしさを持っている。それはかりに二十世紀の地球にたとえるならば、純白な海の女王をもやうようなニューヨークやマルセーユよりも、むしろ古い舟乗りたちの伝説や慣習が石だたみの一つ一つにまでこびりついているようなアレキサンドリアやアムステルダムのあの薄汚れた波止場がふさわしい。そこに群れ集う木造機帆船や、魚臭いジャケットに身をかためた男たちや、なわで束ねた干魚。火のつくほど烈しいことでは共通点を持つ色のついた酒とすきとおった女。そこにはまだ見果てぬ海の冒険の夢の数々が、たふたふとゆれ、人々をなおそのいけにえの祭壇にかり立ててやまない海神の影が落ちている。人々は手を振って石垣の上から別れを告げ、残された家族は、帰らない者の名を波止場の石に刻む。
|宇宙空港《スペース・ポート》だってそうだ。ここでは投げ交されるテープもないし、叫び合う別れの言葉もないが、二度と|還《かえ》らなかった人々に対する傷みは深い。
星の光はうち寄せる波に似て青く、それよりも|冴《さ》えて冷たい。|水先案内人《パイロット》の首にかけた銀色のホイッスルはまだ見ぬ航海のために吹き鳴らされるが、|宙航士《パイロット》の首にはどんな笛をかけたらよいのだろう。
しばしば人は、海をゆく船にとって港は母だというが、それでは宇宙船にとって|宇宙空港《スペース・ポート》は何なのだろう。ある宇宙船の|船長《キャプテン》は、それは悪女だと言った。はげしく吸引しながら、実際に近づいてみると、取りすがるべき|袖《そで》もなければ指先もない。顔さえもない。一度とりこになったが最後、誰でも何とかしてその内部に侵入しようと努力するが、しょせん不可能なことだ。いたずらに|翻《ほん》|弄《ろう》されて周囲を盲めっぽうにかけ回るだけで終ってしまう。
つねに火星の、木星の、金星の、その他たくさんの惑星都市はすべて、人々の心の中で故郷の街々の面影に|変《へん》|貌《ぼう》する。それは背離してゆくものへの限りない接近だ。|宇宙空港《スペース・ポート》は忘れていたものを想い出させる。しかし忘れていたものを想い出すというのは不幸な作業だ。だから巨大な宇宙船は地球で仮泊するときも、天空はるか、星々の光の中で息をこらしている。できるだけ近づくまいとして。
地平線に円弧を接した太陽の方向から、おり紙飛行機のようなダイナ・ソアがななめにすべりこんでくる。
「フェリー・ボートだ」
一面にドライ・アイスが撒かれたコンクリートの平原を、その三角の影はすべる、すべる。ブレーキ・ロケットの噴き出す焔と|轟《ごう》|音《おん》。とがった機首を中天に向けて、フェリー・ボートは渦まく水蒸気の中へ沈みこんでゆく。フィールドの四周から地上車の列が、フェリー・ボートめがけて白い帯のように練り出してゆく。
ハッチから出てくる人々は遠い異境の空気を身におび、雨の日の葬列のように黙々とコンクリートを踏む。コンクリートにしめやかに|濡《ぬ》れてグラス・ファイバーの|重力靴《G・シューズ》をやわらかく吸いつける。地球の夕映えは彼らの身も心も紅に染めあげ、ただ|茫《ぼう》|漠《ばく》たる流離の想いが彼らを無口にする。宇宙を旅する者の心には、海ゆく舟乗りをなぐさめるあの海鳥の鳴声もなく、波の上におどるイルカの群の肌のかがやきもない。星々は人に語りかけることもなく、流れてやむこともない時の流れの中にあって、すべてひとたび別れて期すべき何ものもないのだった。だから|宙航士《パイロット》たちは黙々と地上を歩く。まるで虜囚のように。そよ風さえおそれるかのように。ここはあまりに人臭いのだ。かつてここより出発していった|宙航士《パイロット》たちが脱ぎ|棄《す》てていったすべてが、|宇宙空港《スペース・ポート》には厚くもう|文《あや》|目《め》もわかぬほど古びてたまっているのだ。
やがて冷たい夜がここをおおう。真昼のような照明を浴びて、宇宙船は魚のように透明になる。
「航路情報を申し上げます。航路管理局発表二十一時五十分。
座標B、銀経三八・〇七一。銀緯四二・三二八。定点よりマイナス九・一八一。〈青の魚座β〉より〈石の花座21〉へ軌跡を|曳《ひ》く流星群があります。同方面を航行する宇宙船は注意してください。また大圏航路第五ホフマン軌道上に遭難船の|残《ざん》|骸《がい》が漂流していることが報ぜられています。現在位置を確認した船舶は航路管理局まで通報願います」
「木星サベナ・シティ行七〇二便。|連絡船《フェリー・ボート》の乗船者は第二十一ゲイトよりフィンガーへ入ってください」
「金星エレクトラ・バーグ行四三一便は四六〇分おくれてフィールド9へ進入します。金星エレクトラ・バーグ行四三一便は四六〇分おくれてフィールド9へ進入します」
「フィールド18、フィールド18。貨物船が緊急着陸します。フィールド内のすべての|車輛《しゃりょう》は至急退避してください。フィールド内のすべての車輛は至急退避してください」
「辺境航路八一四便乗船者は第九ゲイトに集合してください。辺境航路八一四便乗船者は第九ゲイトに集合してください」
シロウズは肩に負った手回り品を収めたバッグをゆすり上げると、フィンガーへつづく回廊へ出ていった。回廊はあわただしくゆききする人々で雑踏していた。|宇宙服《スペース・スーツ》に身を固め、ヘルメットを背にはね上げた一団は、これからどこかへ出発する宇宙船の乗組員たちであった。船内電話のコードやエア・パイプをエポレットのように肩や胸に飾り、大小さまざまな装具はそのたくましい体をすき間なく埋めていた。彼らはゆさゆさと足を運んでいった。また青灰色のコンビネーション・スーツは空港作業員だった。腰のベルトに落しこんだドライバーやテスター、それに銀色の|放射能測定機《ガイガーカウンター》が、彼らの機敏な足どりに調和してひどく|粋《いき》に見えていた。オレンジ色の|制服《ユニホーム》の環境管理部員。グリーンの保安部員。その中に淡青色の一般市民の制服のブレザーコートが、これは申し合わせたようにそわそわと落着かなく立ち混っていた。彼らの大部分は〈惑星間経営機構〉の役人か、そうでなければそれとつながりを持つ〈地球連邦〉対外関係部門のスタッフたちであった。いずれもその顔はかたくこわばり、夕映えを受けてもなお色青ざめていた。無理もないのだ。任務とはいえ、また巨大な宇宙船での旅とはいえ、暗黒の宇宙をわたって時には太陽系の果までおもむかなければならないのは、彼らにしてみれば絶望的とさえ言える。途中で待ちもうけているかもしれぬ遭難の危険がほとんど確定しているかのように彼らに思えるのだった。乗船の時間が近づくにつれて、彼らはいよいよおののき、ひそかに身を震わせるのだった。いつの時代になっても、いや、いかに文明が発達した時代であっても、星々の輝く宇宙の|深《しん》|淵《えん》に足を踏み出すとき、おそれおののかないものはないのだ。帆船で大洋を横断したあの|頃《ころ》と、事情は実はそんなに変っていない。もしかしたら自分はふたたびここへ帰ってはこられないのではあるまいか? ふつうの人間だったら誰だってそう思うだろう。そう思わない人間はあるいは心にかかる何ものも持っていないのかもしれない。
「辺境航路八一四便乗船者は第九ゲイトに集合してください。辺境航路八一四便乗船者は第九ゲイトに集合してください」
スピーカーがしきりに呼んでいた。シロウズは〈第九ゲイト〉というネオンにしたがって自動ドアを入った。格納庫のような広大なホールに人があふれていた。彼らは円陣を作って、人垣の中央に立っている一人の人物に顔を向けていた。空港のはからいで特にそうしたのか、その人物の立っている所だけに|投光器《スポット・ライト》の光環が落ちてそこだけがフィナーレの舞台のように銀色に浮かび上っていた。
シロウズはバッグをゆすり上げると、人垣の後からのぞきこんだ。
光環の中に巨大な坊主頭が見えた。その下の短い首。青灰色の|制服《ユニホーム》に包まれた丸い分厚な肩。経営部高官の身分を示す小さなバックルが、突き出した腹の頂点に金色の目のようについていた。
男は人垣に囲まれて満顔を崩して笑っていた。幾分、|目《め》|尻《じり》の下った、くくれたあごのその顔は、あるいは笑っているように見えるだけなのかもしれない。内心どんなに苦痛や悲哀を抱いていても、それが表情としてあらわれる時は、まわりからはほほ笑んでいるように見える顔というものがあるものだ。男はひたいから頭頂部につづく皮膚をてらてらと光らせて、まぶしい照明の下にずんぐりした人形のように立っていた。人垣の中から一人ずつ進み出ては男に向って短いあいさつを述べはじめた。|宇宙空港《スペース・ポート》ならどこでもふだんに見られる情景だった。
おそらく地方の植民都市へでも赴任する経営部の幹部でもあろうか。見送りの人垣の中央にあってその|巨《きょ》|躯《く》は岩のように小ゆるぎもしなかった。多年、強大な組織の中に在って多数の部下をようし、おのれの仕事が何十人、何百人の手で積み上げられて成ったものか、一度も考えたこともない顔つきと、それ故にこそ自信にあふれた孤独なごうがんさを身につけていた。彼にとっては宇宙旅行の恐怖などおそらくものの数でもあるまい。男は目的地へ着かねばならないのであり、宇宙船は彼を運ぶのに何の間違いもないはずだったからだ。男は体をゆすって笑っていた。
シロウズは人垣に背を向けるとフィールドへ出た。フィールドにもう、うすずみ色のたそがれがもやのようにたなびいていた。
一日中宇宙船が噴き出す轟音と|閃《せん》|光《こう》の絶え間のない空港でも、ほんの何秒か発着がとだえることがある。今がちょうどそれだった。一切の音と動きの停止した平原には、茫漠たる静寂だけがひろがっていた。まだ残る夕映えに、遠く近く林立するフェリー・ボートだけがいやに鮮明に、奇妙な立体感をともなって彼をとらえた。
不思議に美しい夕映えだった。毎日きまったように、夜のおとずれる直前にやってくるあの|砂嵐《すなあらし》も、今日はやってこないようだった。シロウズはなぜかそのとき、これまで新しい任務につくときは、つねに雨が降っていたような気がした。グラス・ファイバーのコートのえりにあごを埋めて、暗い空からしぶいてくる雨に顔を向けていたような気がする。ひさしをはしるみぞれの音に、けもののように耳を立てていたものだった――
「いや、ちがう」
シロウズは胸の中でつぶやいた。それは何かの思い違いなのだった。広漠たる砂漠の中央に位置をしめるこの|宇宙空港《スペース・ポート》では、雨はほとんど降ることなどなかったし、それにだいいち、彼はグラス・ファイバーのコートなど持っていもしなかった。どこかで何かの記憶が混乱してしまっているものとみえた。しかしその暗い雨の夕方の想いは、シロウズの|削《そ》いだように鋭い|頬《ほお》の線を、ほんのわずかの間、気の弱いごく平凡な一人の青年の顔にかえしてしまっていた。それは触れれば切れるような鋭角の鋼の柱が、そのときだけ突然融けて丸味をおびた円柱に変ってしまったような、思いがけない、|隙《すき》だらけの変貌だった。
フェリー・ボートの内部は潜水艦よりもむしろ飛行艇に似ている。それは当然かもしれない。海水の重圧に耐えるため、潜水艦はおびただしいはりや|肋《ろく》|材《ざい》をとおし、その分厚な鋼鉄の材料とともに見るからに重厚な船内の雰囲気を作り出している。それに対して飛行艇の内部は何よりも軽く薄く、軽金属の材質はいかにも軽快な構造を示している。フェリー・ボートも、その白銀に磨き出された艇体は飛行艇のようにのびのびと軽くなめらかだ。近距離の連絡船であるフェリー・ボートの座席は開放式であり、深く倒れるリクライニングシートが発進時の衝撃を緩和してくれる。それに身を横たえると、まるで泡に包まれたようにふかぶかと沈む。|枕《まくら》の左わきの小さな投光器が淡い光を落した。
どん、とハッチが開いて一人の男がころがりこむように客室に入ってきた。ドア・ライトが光輪のように男の輪郭をくっきりと描き出した。それは先程の太った男だった。男はシロウズを見ると、せかせかと体を運んできた。短い指をシロウズの顔につきつけた。
「オペレーターはいないのか!」
男のひたいの汗が照明の下で玉となって光っていた。
「このフェリーのオペレーターはどこにいるんだ。思い出した用事がある。経営部に連絡をとりたい」
男は落着かなく周囲を見回した。
やっぱり経営部の高官か――ほう。
シロウズは男に|応《こた》えるより先に、めずらしいものでも見るように、男の頭のてっぺんから|爪《つま》|先《さき》まで見上げ、見下した。シロウズの知っている連邦経営部の幹部たちとこの男はどこかがひどく違っていた。その肥大した体と目や鼻のいやに小さい、つねに笑っているような顔つきだけではなく、およそ機敏とは縁の遠い、愚鈍ともいうべき一種の|臆《おく》|面《めん》のない無邪気さを備えていた。
「な、おい。オペレーターはどこにいるんだ」
「さあ、おれは知らんぞ」
「なに、知らない」
男は困惑の表情を浮かべて、シロウズの|制服《ユニホーム》の胸のバッジに目を当てた。それからにわかに我にかえったように胸を張った。
「お前は宇宙関係機構の人間だろう。それならこのフェリーのオペレーターの居場所ぐらい心得とるはずだ」
シロウズは思わずにやりと笑った。
「たしかにおれは調査局の人間だ。だからといってオペレーターの居場所まで知っていなければならぬとは思わないがな」
「なるほど」
男はあっさりと引き下がり、あらためてこの|不《ふ》|遜《そん》な言い方をする若者に顔をしかめた。
「よし、それじゃ君、至急オペレーターにこれをわたして経営部の資料室と連絡をとりたまえ」
男はプラスチックの円筒に入ったテレビ通話機のフィルムをとり出した。
シロウズはあきれて、
「待ってくれ、おれはあんたの部下じゃない。それより、そのシートの右側についている送話器で|船橋《ブリッジ》にたずねてみたほうがいい」
男は子供のようにうなずいてかたわらの座席にどかりと身を落し込むと、送話器のケースを開いた。シロウズは目をつぶって体をのばした。
「やれやれ、たいへんな|奴《やつ》といっしょになったものだ」
唇をゆがめて小さく笑った。
「……つまり、木星三一酵素原での深層|鑿《さく》|井《せい》の予備調査の開始期日を早めるために……そう、そうしてくれ。コピーはなるべく……それについては資料部の第三課を……」
男は見えないどこかとしきりに言葉を交していた。やがて目的を果したらしく、送話器のスイッチを切ると、おもむろに立ち上った。
「やあ、さっきはどうもすまなかった。少し急いでいたものでな。わしは連邦経営部のチャウダ・ソウレだ。木星のサベナ・シティまで行くのだが、君は」
シロウズは|座席《シート》の上で上半身を起した。連邦経営部のチャウダ・ソウレといえば、副首席としてこれまで連邦の年次計画やその施行に手腕を発揮してきた逸材だった。ことに各植民都市の条件つき独立会計に広範な予備資金をプールさせた手腕は高く評価されていた。
シロウズはこれまで何度も彼の名を耳にしてきたが、顔を見るのは今がはじめてだった。すこぶる威厳にとぼしい彼の|風《ふう》|采《さい》が、一人の政治家に与えられた名声とあまり調和しないのがシロウズの微苦笑を誘った。
「副首席。お名前は以前からよく存じあげておりました。私は宇宙省調査局のシロウズ。辺境星区までまいります」
ソウレはくくれたあごを引いてうなずいた。
「辺境までとはたいへんだね。すると、八一四便の乗客は三人だけか」
「三人?」
「うむ。もう一人いるらしい。さっき空港港務部の者が言っていた」
「そろそろ発進の時間ですよ。座席についたほうがいい」
天空のほとんど三分の二を占めて巨大な地球が浮かんでいた。その左半球は今夜明けだった。深々とした銀黒色がしだいに|藍《あい》に変り、それがみるみる淡い青緑色にうつり変ってゆくと、白い掃いたような線模様が浮かび上がってくる。おそらくそのあたりの成層圏には強い風が吹いているのだろう。幾すじもの流線を描く雲の動きの下から、時おりことにあざやかな青がのぞく。そこは海だ。地球の表面をおおう水と雲が、最初の朝の光を受けて、はるかにきらめいているのだった。そこには遠い今日があった。深い夜に溶けこんでいる半球は、|爪《つめ》|跡《あと》のような強い弧を描いてかすかに光っていた。そこにはまだ眠りつづける昨日があった。
背後は広漠とひろがる星の海だった。|永《えい》|劫《ごう》の時の流れだけが動くともなく来たり、去る果てもない星の海だった。決してまたたくことのない星々は、あるいは動かない焔のように、あるいは赤い閃光の、そのまま凝結したように、|凄《せい》|絶《ぜつ》な光を放っていた。そして、さらに遠い星はかすかな銀の粒子となって、暗黒のそのまた奥までひろがっていた。
宇宙船〈暁の|虹《にじ》4〉は、地球から三十五万キロメートルの距離を衛星軌道をとって長大な|槍《やり》のように浮かんでいた。|地球光《アース・ライト》がその白銀の肌をかすかに青く染めていた。辺境航路八一四便、三万トン型光子宇宙船も、この星の海にただよっては、つかの間の幻のようにひどく無力に、そしてはかないもののようにさえ見えた。
ランデブーを終った|連絡船《フェリー・ボート》は、えいのように身をひるがえして、ふたたび地球の影濃い中へとすべりこんでいった。
「乗船者は指定ナンバーの|重力席《G・シート》を使用してください。乗船者は指定ナンバーの重力席を使用してください」
インターフォンがシロウズの耳にささやいた。〈暁の虹4〉の船腹内、長大なオープン・デッキの両側に円筒型の|重力席《G・シート》が、チタニック・ファイバーの陶器のような光沢を放って何層にもならんでいた。それはまるで|蜜《みつ》|蜂《ばち》の巣のようだった。シロウズは自分の乗船ナンバーと同じ数字を記した|重力席《G・シート》を見出してそのハッチを開いた。淡い照明を浴びて内部の機器類が精緻な構成を描き出した。彼は座席に身を横たえると何本かのベルトを体に巻きつけていた。やがて、曲線を描いたクッションはあたかも雲の上に身を横たえたかのように、やわらかくシロウズの体を包みこんだ。最後にスイッチを押すと、ハッチが音もなく閉じた。ついで第二層の放射能防護スクリーン。さらに内層の耐重力スクリーン、そして耐熱スクリーンが、つぎつぎにカーテンを合わせるように閉まっていった。幾重ものスクリーンが閉じ合わされると、重力席のポッドの内部は完全に外界と絶縁した。それは厚いまゆ[#「まゆ」に傍点]に入ったさなぎのように、体を縮めておそるべき自然の暴力に耐えようとするものだった。
こうして円筒型の重力席は一個の|壺《つぼ》と化して、内部に収った者をこれからの長い辺境航路の途上のすべての危険から守りぬくのだった。もし万一、宇宙船が難破したような時でも、そのまま一隻の|救命艇《ライフ・ボート》となって空間にただよい、救助を待つことができるのだった。
地球、月間、あるいは月、火星間、火星、木星間などのようなローカル航路では、いぜんとしてむかしの旅客機のような開放された座席、機内の床上にならべられた|椅《い》|子《す》|式《しき》座席、つまりオープン・シートが用いられているが、この辺境航路のような長大なコースでは、もはや単なる旅客輸送の通念ではとうてい処理しきれないものであった。つまりここでは乗客はただの生鮮貨物の一種に過ぎなくなる。つねに、完全に|梱《こん》|包《ぽう》のケースに収められたそれは、温度や水分など鮮度維持のためのあらゆる機構に包まれて目的地まで運ばれてゆく。それはもはや人類と生野菜と輸送の方法上、何ら異なるところがないことを示していた。
発進まであと五分たらずであった。
シートの左にならんだ通話機のパイロット・ランプが二つ、オレンジ色の小さな灯をともしていた。これは乗客がシロウズのほかに二名あることを示している。一人はチャウダ・ソウレだがもう一人は誰だろう。誰にせよ、辺境航路の乗客が三名もいるとは近頃めずらしいことだった。よほど重要な、また急を要する公務でない限り、辺境直通の路線に乗船を許可されることはいろいろな意味で困難であった。ことに二千年代の終り頃から、しだいに深刻になってきた連邦と辺境の経営方針の相違はすでに慢性化した緊張をはらんでいた。
シロウズは全身の力をぬいてシートに沈みこんだ。これから四十日におよぶ長い|倦《けん》|怠《たい》がはじまろうとしていた。
そのとき、前面のテレビ・スクリーンに緑色の光輝が波紋のように湧いた。ブザーがやわらかな和音をひびかせた。
「座席一〇〇三より、コンタクトいかが」
船内のどこかにある通話中継センターがシロウズの意向をたずねてきた。座席一〇〇三はチャウダ・ソウレの座席番号だ。シロウズは顔をしかめた。宇宙航路に経験の少ない者はその孤独の旅の心細さと不安から、同船者に必要以上に近づこうとし、やたらに話しかけようとするものだ。不安は人を|饒舌《じょうぜつ》にするし、それが時にはいらざるまさつの種子ともなる。しかも出発を数瞬の後にひかえて。
旅は長いのだ。
――スウェイの奴、うまくやっているだろうか――
シロウズはふと、はるかな辺境にあって自分の到着を待ちわびているであろう一人の部下のことを想った。
ふたたびブザーが鳴った。
「座席一〇〇三より、コンタクトいかが」
中継センターがなんの抑揚もない声音でシロウズにささやいた。彼は応えず目をつぶった。
「座席一〇〇三より、コンタクトいかが」
「座席一〇〇三より、コンタクトいかが」
「座席一〇〇三より、コンタクトいかが」
応えないかぎりつづけるだろう。シロウズは通話機に向って吐き棄てるように言った。
「OK、つないでくれたまえ」
テレビ・スクリーンに金緑色の波紋がゆらめくと、その中心にチャウダ・ソウレのフットボールのような頭とあいまいな笑顔が浮かびあがってきた。短い首に巻きつけた|代謝調節装置《メタボライザー》が見るからにきゅうくつそうだった。
「副首席。何かご用でも」
「調査局員、ちょっと邪魔していいかね」
「どうぞ」
ソウレは苦しげに首の|代謝調節装置《メタボライザー》とひふの間に指を入れて二、三度動かし、そこをゆるめると、大きく息を吐いた。
「君が調査局の人間だということを知って、意見を聞いてみる気になったんだが、君は近頃、辺境でしばしば発生している宇宙船の行方不明事件をどう思うかね?」
「どう思うか、と聞かれても格別に感想もありませんが」
シロウズは言葉を濁した。
「つまり、いろいろな意見があるようだ。たとえば惑星間経営機構に対する辺境星区の破壊工作だと断ずる者もあるし、逆に、惑星間経営機構の辺境に対する経済封鎖だなどと言う者もある。しかし、これは全く根も葉もない流言だ。辺境に対する経済封鎖などまるで意味がない。むしろ彼らがわれわれを封鎖しようとするのならわかるが。わしが言うのはそんな政治的なことではなくて、調査局員、実は」
「ちょっと待ってください。副首席。この会話は公的なものですか? それとも私的なものですか?」
「ん? 調査局員だけあってなかなか慎重だな。もちろんこれは私的なものだ。だから君の意見も全く個人的なもので、決して調査局を代表するものではない」
「わかりました」
「実は連邦政庁内部に、太陽系外生物の活動によるものではないか、という見方もあるのだ。むかしはよく何か異常な事故でも起きるとそんなことを言ったものだ。しかし、そうしたことの可能性がなくなると誰もそんなことは言わなくなった。それが近頃、また真剣にとなえる者がでてきた」
「なるほど」
シロウズは言葉すくなくうなずいた。
「わしが君にどう思うか、と聞くのはその点なのだ。どうだね?」
「太陽系外生物の方ですか、それとも、そう考える者が現われてきた、という方ですか?」
「君はわしの言うことを|真《ま》|面《じ》|目《め》に聞いているのかね?」
「大真面目ですよ。副首席」
「君は」
「待ってください。副首席。そう聞かれても具体的には何一つお答えできませんよ。太陽系外生物がどうしたのこうしたの、そんな簡単に論じられることではありません。まあ、じっくりと研究してかかることです」
「君たち調査局員は何かというと、じっくり研究してかかれ、と言うが、わしら経営部はそうはいかないのだ。たった一日のおくれが経営を千年あやまらせることだってある」
シロウズがそれに応えようとしたとき、スクリーンがふっ、と暗くなった。ソウレの顔が|陽《ひ》がかげるように薄れていった。スクリーンを収めたパネルに真紅のパイロット・ランプがともった。
「発進五分前デス。代謝調節装置ノスイッチヲ入レテクダサイ。今ヨリ以後、|船橋《ブリッジ》カラ許可ガアルマデ、T・Vスクリーンヲツケナイヨウニシテクダサイ。ソレデハ体ノ力ヲヌイテ発進ノ秒読ミニ注意シテクダサイ」
警急ブザーが低く鳴りだした。シロウズはシートに全身をあずけ、|代謝調節装置《メタボライザー》をフルに作動させた。澄んだ水が流れこんでくるような清涼感が体内のどこかに湧き、それがやがて波紋のようにひろがっていった。
「……マイナス八……マイナス七……マイナス六……マイナス五……」
船体を縦につらぬいて、身震いするような震動が伝わっていった。
彼は目をつぶって深く息をひいた。
何かがはじまろうとしていた。目に見えない遠い所で|汐《しお》が動きはじめるように、何かが今、動きはじめようとしていた。
これから出発するのか、それとも還ってゆくところなのか、おのれ自身の心の動きとはいいながら、そのへんのところは彼自身にしてみてもよくわからなかった。
「……マイナス三……マイナス二……マイナス一……|0《ファイヤー》!」
いっさいを断ち落して衝撃が垂直に船内を貫いた。宇宙船〈暁の虹4〉はすさまじい光子の尾を曳いて幻のようにすべりはじめた。いったん針路を|右《う》|舷《げん》九十度に太陽を置いて、地球の公転軌道面に垂直に加速してゆく。
月面の方位信号所をはじめ、幾十の人工衛星に設けられた)|航路管制所《シグナル》が、この巨大な宇宙船を誘導していった。秒速三万キロメートル。しだいに太陽を船尾に落してゆく。バン・アレン帯の嵐を中性子シールドで避けながら一気に通過し、秒速八万五千キロメートルで大圏航路に出る。七時間後、〈定点〇三〉の近傍を通過する。これは直径十キロメートルにみたない小天体である。無人の|航路管制所《シグナル》が設けられ、遭難船の緊急不時着場に指定されている。かすかに青い|地球光《アース・ライト》を反射して〈定点〇三〉は冷たい暗黒の中に影のように消えていった。ここからさらに増速、秒速十一万二千キロメートルで力航し、それから慣性航行に入る。
航内にはようやくすべての物音も絶え、|灼熱《しゃくねつ》した大反射鏡は酷烈な宇宙の絶対温度に触れて、ゆっくりと収縮しはじめる。
長い旅のはじまりだった。
第二章 スペース・マンたち
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未だ約束の物を受けざりしが|遥《はる》かにこれを見てむかえ、地にては旅人、また|寓《やど》れるものなるを言いあらわせり
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果しもなくひろがる宇宙空間に身を置くとき、そこには前後も左右もない。周囲はことごとく星また星だ。その微細な光点は暗黒の背景に撒かれた千億の銀の砂、そしてさらに遠い星々はかすかな光の翳を曳いて、煙霧のように茫漠とたなびいていた。それら遠い星々は、いかに高性能の望遠鏡をもってしても決して一つ一つに分離して見えることはない。それは永劫ときそう果にかけられた光の幕だ。そしてその星くずの海のあちこちに、暗黒星雲が|微《み》|塵《じん》でそこだけ濃い暗黒を描き出していた。
マイナス二百度C。置き忘れられた水素原子だけが星々の間の空間にひとりただよっている。かつて、そこに航跡を印した宇宙船もなく、呼び交う電波も交錯しなかった。
そこには生命もなく、ましてや死もない。百億年の時の流れだけが一切を包含してすでに去っていっただけだ。
太陽系からはるかにはずれたそこ。星図の上、〈青の魚座β〉から〈石の花座21〉への軌跡を曳いて、三十九隻の宇宙船よりなる船団AD七は流星のように暗黒の空間をななめにきっていた。
〈船団AD七ヨリ航路管制局ヘ。船団AD七ヨリ航路管制局ヘ。ワレ針路ヲ失ウ。動力部航法装置ニ異状ナキモ操船不能。原因調査中ナルモ事態、極メテ危急。コチラ船団AD七。コチラ船団AD七〉
「よし、|主任通信士《チーフ・オペレーター》そのままつづけろ、応答がなくともかまわん。きっとどこかの管制局か宇宙船がキャッチするだろう。|次席通信士《セカンド・オペレーター》、各船に連絡、船内状況を十分おきに、私あてに報告させろ」
|船団嚮導船《ガイド》(ガイド)〈カコープス〉の船橋は息のつまるような緊張につつまれていた。三交代制の操船要員のことごとくがその配置についていた。非常用のテレビ電話や船内用無線電話はすべて開放されて、絶え間ない報告や指令が、しばしば怒声をともなっては騒然と流れ出していた。
「――コチラ第四動力抑制室。タダ今、キャパシティ、フルマーク。至急、ツギノ指令ヲ|乞《こ》ウ――」
「――冷却器! 第九冷却器! 何をやっているんだ」
「|船長《キャップ》! |綜《そう》|合《ごう》電路ノ予備ケースハ本船ニ搭載シティマシタカ。綜合電路ノ――」
「――そこに|機関長《エンジン》、いますか。そこに」
二万トンの長大な船内のあらゆる部分が、すべての機器類が、悲鳴のようなうなりをあげて活動していた。一秒一秒が生死の別れ目だった。しかも今はしだいに死の比重の方が大きくなりはじめていた。
「|船長《キャップ》、もう一度、ブレーキ・ロケットを全力噴射してみましょう」
イアホーンから|船長次席《アシスタント》のサワのさびた声がもれてきた。どんな危急の時にでも語調の変ったことのないこの年輩の次席の声に、キャフタはわれにかえって、張りつめていた全身の力をぬいた。いちだんと高くなった指令台のハンドレールを、もう何時間も握りしめていたてのひらは、急にはひらけないほど固くこわばっていた。
「よし、やってみよう。サワ、打てる手段は全部打とう。それで駄目なら……」
言いかけてキャフタは声をのんだ。部下たちの耳にも入っているこの無線電話で、駄目なら、などと言う言葉は決して吐いてはいけなかった。あくまで沈着に、自信ありげにふるまわなくてはならなかった。
「|機関長《エンジン》! ブレーキ・ロケット全力噴射用意。マイナス七より秒読み開始。以上」
「OK! |船長《キャップ》」
ブレーキ・ロケット管制室へのブザーが高く鳴りひびいた。すべての機構はたちまちつぎにくる一瞬の急制動に対して用意された。
「フル・ストップ用意よし!」
「OK、フル・ストップ」
船内のあちこちからの報告がひとしきりパイロット・ランプを明滅させた。
「ゆくぞ! 時計発動」
機関長が時計のスイッチを押した。
「マイナス七……マイナス六……マイナス五……」
キャフタは|耐重力服《G・スーツ》のダイアルを最大に回した。急制動によって生ずるおそろしい重力を緩衝するG・スーツは、キャフタの体をG二・七でじわっ、としめつけた。まぶたの内側で何かがキラキラと光ったような気がしたが、すぐに消えていった。
「マイナス三……マイナス二……マイナス一……|0《ファイヤー》!」
キャフタは全身を硬直させて、すさまじい衝撃を待った。
〈カコープス〉の船体はびりびりと震動した。指令室の照明が汐のひくように薄暗くなった。
二秒たち、五秒が過ぎ、そのまま何の変化もあらわれなかった。
皆の顔にどす黒い落胆の色が湧き上った。新しい不安と焦燥が指令室を重くおおった。
「駄目だ! |機関長《エンジン》。制動効果全くなしだ。本船はいぜんとして直行している」
「|船長《キャップ》。制動推力十九万七千トンがまるできかないなんて、こんなことがあるんだろうか。不思議だ」
「|機関長《エンジン》。閉鎖通話にしてくれ」
「閉鎖通話に? オーライ」
自分たちの会話が他の乗員たちの耳に入らないようにする特別回路にスイッチを切りかえると、キャフタは送話器に口をよせた。
「|機関長《エンジン》。こんな現象はこれまで一度も聞いたことがない。三十九隻もの船団がいちように操船不能になってしまうなんて」
「それだけじゃない。ブレーキ・ロケットがきかなくなるということは、これはつまり、ニュートン力学では説明がつかないことですよ」
「あれだけの推力がノズルを出たとたんに消滅してしまうなどということがあるだろうか?」
キャフタの声はかすかにふるえていた。
「全く宇宙空間にはとんでもないことがあるものですなあ」
「おい、のんびりそんなことを言っている場合じゃないぞ。どうしたらいい? 今後の処置を」
「極力、原因の究明にかかると同時に、エネルギーの消耗を防がなければいけません。今のところ燃料の心配はないし、クロレラ槽の管理さえ充分にしておけば酸素と水、それに食料の欠乏はないとみてよいし、あとは心理状態の管理だけでしょう。しばらく事態を静観したらどうでしょうか。今、あわてることは絶対に|禁《きん》|物《もつ》です」
サワの声は淡々とキャフタの胸にしみこんだ。
「|機関長《エンジン》。このまま一年も二年も、いや、もう止ることなく直進したら?」
「|船長《キャップ》。そんなこと今考える必要はないでしょう」
キャフタは言葉につまって大きく吐息をもらした。
「|船長《キャップ》。各船長に連絡して船内秩序を平常通りにたもたせることです。ここで乗客たちが騒ぎ出したりしたらたちまち自滅です」
キャフタは無言で深くうなずいた。
「船を棄てて脱出したらどうだろう」
「|船長《キャップ》。それはもうおそいでしょう。本船団の位置からでは、救命艇では大圏コースに接近することは不可能です」
救命艇に装備されている酸素や水の発生装置は小型だし、また格納されている食物の量もわずかだから、ここからもっとも近い人工惑星にたどりつくことさえとうてい不可能だ。
「本船の工作能力では救命艇の改造は無理です。航法用の電子頭脳を搭載しなければ脱出しても意味ないし、電子頭脳を搭載したら救命艇のスペースの半分がなくなってしまいます」
サワの言うとおりだった。宇宙船の救命艇は自力で航行するように作られてはいない。遭難船から飛び出して慣性コースをすべってゆくのを、救助隊の救難艇がドッキングして|曳《えい》|航《こう》するようになっていた。つまり救助組織が完備していることによってはじめて救命艇も役にたつのだ。海にただよう遭難船からおろされたボートが、島をめざしてこぎよせるのとは本質的に異っていた。
「|機関長《エンジン》は市民登録はどこだね」
キャフタはふと、口調を変えて言った。
「市民登録ですか? 火星の東キャナル市です」
サワの声はかすかにいぶかしんだ。
「東キャナル市か。生れが? それとも育ったのが?」
「いや、全然。生れたのは木星ですよ。サベナ・シティ」
「ふうん。サベナ・シティはいつ頃行ったかね」
「|宇宙空港《スペース・ポート》なら三年に一度ぐらい寄るけれども|空港《ポート》の外へは出たことがないね」
「東キャナル市は?」
「夕焼の|綺《き》|麗《れい》な所ですよ。あそこは」
「誰か知っている者はいないの?」
「むこうが忘れちまったでしょう」
「それじゃ、|機関長《エンジン》。各船長に船内秩序の維持を徹底させよう」
キャフタはスイッチを切った。
このまま直進してゆけば――たしかに考えるだけ無駄なようだった。しかし、それを考えないではいられない。このまま永遠にはしりつづけるとすると、いったいどうなるのだろう。しかしその前に燃料のなくなるときがくる。船体の側面に二個のポッドをぶらさげたこの〈熱核反応型一万五千トンクラス|船団嚮導船《ガイド》(ガイド)〉はおよそ六十年分の航行用エネルギーをたくわえている。大圏航路をはずれてからはほとんど推力を使わない慣性飛行をつづけているわけだが、それでも船内用エネルギーとして発電その他でごくわずかずつ消耗している。それでもこのままでゆけばほとんど五千年先までエネルギー源の枯渇を心配することはないだろう。問題なのは人間の命と、船体の電流による|腐蝕《ふしょく》だ。しだいに交換部品がなくなってくるだろう。船体のほうはなんとか工作部の鍛造技術にたよってしだいに改造をつづけてもゆけるが、人体のほうは人工器官にたよるといっても、こんな状況ではせいぜいあと百年だ。
「まあ、五人から四人を作り、四人を合わせて三人にしてゆけば、四十人からいるんだ。最後の一人になる頃には帰れるだろう」
キャフタはつぶやいた。どこまで行くのかわからないが、こうなったら行きつく所まで行くしかない。キャフタの耳に、あのサワのどこかものうげな、およそ熱するということのない口調がよみがえってきた。
「どうやら奴の考え方が|伝染《うつった》らしいな」
キャフタは力なくほほ笑んだ。しかしその胸の底は鉛のように重く暗かった。
〈|嚮導船《ガイド》|船長《キャプテン》ヘ、コチラ『ペンダリオン8』
船内ニ暴動ガ発生シティル。暴徒ハ|船橋《ブリッジ》ヲ占領シ、船長、機関長ハ殺サレタ。船内各所ハ破壊サレ火災ガ発生シツツアリ。本船団ノ直面シティル事態ニツイテ今後ノ見トオシイカニ?〉
キャフタは|眉《まゆ》|根《ね》を寄せた。事態はサワの心配していた方向に近づきつつあった。
〈コチラ『千ノ目14』全員救命艇ニテ脱出スル〉
「|馬《ば》|鹿《か》な! よせ」
キャフタは船団内電話の送話器をわしづかみにして叫んだ。
「|船長《キャップ》! C編隊七番船から救命艇が射出されました」
テレビ・スクリーンに魚群のようにむらがった船団の一部が映っていた。幾千億の星くずを背景に、かすかな星の光をあびて宇宙船は波に浮かんだ木片のようにたよりなかった。その一隻の宇宙船の|舷《げん》|側《そく》に幾つかの小さな円筒が、とげでもはえたように附着していた。
「|船長《キャップ》! 救命艇は母船から離脱できないようです」
「どうしたんでしょう。射出されたものの、船体にくっついたままです」
スクリーンをのぞく皆の顔から血の気がひいた。
〈各船ヘ告グ。コチラ|嚮導船《ガイド》『カコープス』船長キャフタ。C編隊七番船『千ノ目14』ノ救命艇ニヨル脱出ハ見ラレルトオリ極メテ悲惨ナ結果トナッタ。各船ノ慎重ナ行動ヲノゾム。決シテ絶望シテハイケナイ。エネルギー、酸素、水、食料ニ不足ハナイ。イタズラニ混乱スルコトハ千ニ一ツノ生還ノ機会スラムナシクスル。慎重ニ行動セヨ。慎重ニ行動セヨ〉
キャフタは送話器を握りしめたままひたいの汗をこぶしでぬぐった。汗は冷たく、あぶらのようにねばった。
「|船長《キャップ》!〈ペンダリオン8〉が爆発しました」
最後尾の編隊に青白い閃光がはしって一瞬、消えた。小さな蛍の灯のようなきらめきだったが、もはやレーダーの中に〈ペンダリオン8〉の姿はなかった。
〈航路管制局ヘ、コチラ船団AD七。航路管制局ヘ、コチラ船団AD七。一部ノ船内ニ暴動発生ス。救命艇ニヨル脱出ヲココロミルモ不可能。全力ヲアゲテ事態ノ回復ニツトメツツアルモ、ナオ好転ノキザシナシ〉
「|船長《キャプテン》! 本船団は特殊な空間のひずみに落ちこんでしまったのではないでしょうか。電波の波長にひどいずれがおきています。光もはなはだしい偏光現象をおこしています。どうもこれは特殊な重力場のようです」
「ブレーキ・ロケットがはたらかないとすると通常の慣性もはたらいていないわけか」
「断層のようにつづいているのか、それとも気泡のように存在しているのか、とにかく本船団をとりまいている空間は、われわれの知っているものとは全く性質が変っているようです」
キャフタのほおは硬くひきつった。
「どうやったら脱出できる?」
「わかりません。|船長《キャップ》、それよりもわれわれの発する電波がこの空間から外へ出られるかどうかが疑問です。もし電気的に閉鎖的空間だとすれば、航路管制局ではわれわれの位置は知っていないはずです」
「|機関長《エンジン》! するとわれわれはいったいどこにいるんだ。今」
「わからなくなりました。|船長《キャップ》。あるいはこれが閉鎖空間だとしたら、われわれは球の内側を無限に回りつづけることになるのです」
キャフタは思わずよろよろとハンドレールにすがりついた。
「燃料も酸素も水も、食料も心配ないと思っていたが、もし無限に、円軌道をはしりつづけるとすれば、そんなことは何の意味もないことじゃないか。くそ! |機関長《エンジン》、何とか脱出の方法を見出すのだ」
「|船長《キャップ》。しっかりしてください。あなたまでそんなことを言い出しては困る。焦ったり、いたずらに絶望したりしても何もならん。冷静に機会を待つんです」
「ああ、しかし」
「しかしも何もない。|船長《キャップ》。なるべく早く専任の調査研究委員会を組織しましょう。その間、他の者は極力、精神状態を平衡に保って日常の業務を励行するんです。秩序を乱す者はきびしく処分する。今こそ|船長《キャップ》の権限は無限に大きくなければいけない」
「君の言うとおりだ。|機関長《エンジン》」
「ところで|船長《キャップ》。これまでの|航跡《ウェーキ》を……」
突然、ハッチが押し開かれて、ばらばらととびこんできた一団があった。
「|船長《キャップ》! |船長《キャップ》はどこだ」
キャフタは指令台の上から身をのり出した。
「おう。ここにいるぞ」
一団の人影は指令台の下にかけ寄った。|船橋《ブリッジ》の外の回廊ではざわめく人声が高かった。
「|船長《キャップ》! 本船団はいったいどうなったんだ。故障でもないし、航法の間違いでもない。われわれはこれからどうなるんだ。説明してくれ」
キャフタの胸から一瞬、不安も絶望もけしとんだ。ハンドレールを握る手に強い力がこもった。
「静まれ! はっきり言おう。われわれの置かれた立場は、たしかに悲観的だ。それもかなり深刻にだ。原因はわたしにも分らん。他の誰にもわからんだろう。だからと言って今、配置を離れることは絶対に許さん。諸君! さあ、自分の持場にもどれ」
「|船長《キャップ》! この船は|船団嚮導船《ガイド》だぞ。こんな異状な事態が発生するのがわからなかったのか」
「全然、予知し得なかった。それほどこれは突発的であり異状なできごとなのだ」
回廊の一団からも烈しい怒声がはしった。
「|船長《キャップ》無能!」
「部下の命をどうするつもりだ!」
「|船長《キャップ》! 退陣。この船はわれわれで指揮する。船団もだ」
キャフタの顔は曇った。
「落着くんだ。いいか。生きて帰りたければわしの言うことを聞くんだ。〈ペンダリオン8〉や〈千の目14〉の最期を見たろう。ああなりたくなければこのまま黙って自分の配置へもどるんだ」
「|船長《キャップ》! 下りろ。そこから」
キャフタは壁ぎわで銃をかまえている|次席通信士《セカンド・オペレーター》のクワイにあごをしゃくった。エア・コンプレッサーの吐き出す圧縮空気の裂けるような音が室内を鋭く切った。背後から襲ってきた針に縫われて、二、三人が、がく、とひざまずき、それからゆっくりと床に倒れていった。指令台の下にかけ寄った者たちは悲鳴をあげてうずくまった。
キャフタは沈痛なまなざしで彼らを見おろし、送話器に口を寄せた。
「いいか! 皆、聞け。わしの命令に従わない者は射殺する。これは皆を生きて連れ帰らねばならない責任上、やむを得ない処置だ。いかなることがあろうとも、配置を離れるな。皆は必ず帰れる。わしが必ずそうする。元気を出そう」
回廊の人声もしだいに静まり、やがて遠のいていった。
「第三レーダー士のハンイは死体を冷凍室に収容しておけ。あとで|蘇《そ》|生《せい》させよう」
ハンイは死体を運搬車に乗せると運転していった。
「|船長《キャップ》! B編隊一番船〈デロイ4〉爆発しました」
「C編隊二番船〈アイアース〉の舷側に大破孔が見えます。原因不明」
イアホーンに絶叫が重なった。
キャフタは祈るように目を閉じた。
〈|嚮導船《ガイド》『カコープス』|船長《キャプテン》、キャフタヨリ各船長ヘ。事態ノ原因ヲ調査スル専任ノ調査研究委員会ヲ組織スル。各船長ハ応答セヨ〉
キャフタの呼びかけに応じた船長はわずかに八名だった。
〈コチラ船団AD七。コチラ船団AD七。コノ通信ヲ傍受サレタ航路管制局、船舶ハ応答ネガイマス。船団AD七ハ海王星軌道上大圏航路、三・七|冥《めい》|王《おう》|星《せい》プラス附近ヨリ航路ヲ逸脱、現在慣性漂流中。船体ナラビニ操船機構ニナンラノ故障ナキモ、操船不能。ナオ船団ハ全滅ニ|瀕《ひん》シツツアリ。原因全ク不明ナルモ、異質ノ未知空間ニ陥入シタノデハナイカト思ワレル点アリ。目下、緊急調査中。コチラ船団AD七。コチラ船団AD七〉
〈コチラ船団AD七。|嚮導船《ガイド》『カコープス』|船長《キャプテン》キャフタ。船団内電話ニ応答アル船ハ、現在十一隻。他ハナンラ反応ヲ見ズ〉
〈コチラ船団AD七。船団ヲ解散スル。コチラ船団AD七。船団ヲ解散スル。現在、船影二十九隻ヲ数ウルモ、全船応答ナシ。ナオ|嚮導船《ガイド》『カコープス』ハ本時刻ヲモッテ任務ヲ放棄スル。|嚮導船《ガイド》『カコープス』ハ本時刻ヲモッテ任務ヲ放棄スル〉
どこかで電話が断ち切られているらしく、|船橋《ブリッジ》の照明の半分は灯が消えたままだった。非常用電源の移動小型原子炉によって、かろうじて通信装置と、航法用の二次電子頭脳だけが機能を保っていた。その二群のパイロット・ランプが、灯の消えた壁面に、そこだけ花園のようにかがやいていた。
キャフタは指令台に腰をおろしてぼんやりとパイロット・ランプの点滅に目を当てつづけていた。もう何を考えるのもおっくうだった。考えても何の役にもたたないことがわかりすぎるほどわかっていた。それでも彼は、時々、思い出したように首をもたげて叫んだ。
「いいか! みんな。もち場を離れるなよ。がんばるんだ」
しかし、その叫びは決して声にはならなかった。キャフタは口の中でつぶやいただけで、またがっくりと首を垂れた。
送気パイプから送られてくる酸素は規定量の三分の一にも、達していなかった。電源を断たれると同時に、クロレラ槽の管理が不可能になったものとみえた。すでに炭酸ガス吸収装置は停止していた。船内の空気はしだいに稀薄化し、それと同時に臭気をおびて|沈《ちん》|澱《でん》しはじめた。
キャフタはもう何時間も、|耐重力服《G・スーツ》を脱ごうとして必死に指を動かしつづけていた。いくら探しても着脱用のジッパーをさがしあてることができなかった。――こんなはずはない。こんなはずはない――キャフタは全神経を指先に集中してジッパーの所在を求めた。
「ああ、これが脱げたらなあ」
この重苦しいG・スーツが脱げたら、それだけで充分だ。その上、もとめることはない。この船の行き着くところがどこだろうとわしの知ったことか。それよりジッパーだ。キャフタはそろそろとてのひらでさすっていた。なんの手ざわりもなかった。二度も、三度も。
しかし、実際にはキャフタの手は全く動いてはいなかった。ジッパーのありかを求める手の動きは、すべてキャフタの頭の中でのことであり、その手はハンドレールを握って石のように固かった。
「|機関長《エンジン》。どこにいるんだ。早く来てわしを助けてくれ」
キャフタはかすかに唇を動かして助けを求めた。声は出ず、細い吐息がもれただけだった。
警急装置が、もう長いこと鳴りつづけていたが、なんの関心も湧かなかった。
「……彼らには宇宙旅行というものが、一種の|賭《かけ》だということが分っていないのだ。要するに目的地に無事に着くか、着かないか、単純な賭だ。いくら航行組織が完備され、宇宙船が重装備になっても、しょせんは着く方に賭金がゆくか着かないという方に賭金がゆくかというだけさ。それを彼らは出発すれば到着するのが当り前だと思っている。これはレールの上を走る列車とはわけが違うんだ。今度のことだって、宇宙空間には、ごくありふれた事故なのさ。なあ、人間は万能じゃないんだぜ……」
うとうとと、とりとめもなく思念をめぐらせていたキャフタは、突然、真黒な怒りにぶつかった。それは吹き出す機会を待っていたかのようにキャフタの心に猛然とひろがった。
「くそ! これから船団の|制《せい》|禦《ぎょ》は心理管理局がやればいいんだ。航行の安全はとてもわれわれの手には負えんよ。船団の心理的原因による崩壊か。そんなことはむかしから分っていたことじゃないか」
キャフタは仁王立ちになった。何に向けようもない怒りが彼の体をふるわせた。
〈……船団AD七。コチラ船団AD七。船団ヲ解散スル。現在、船影二十九隻ヲ数ウルモ、全船応答ナシ。ナオ|嚮導船《ガイド》『カコープス』ハ本時刻ヲモッテ……〉
タイム・スイッチの入った通信機が、テープを回しはじめた。|次席通信士《セカンド・オペレーター》の低く笑う声がそれにからんだ。姿は見えなかったが、散乱する|座席《シート》の間にでもうずくまっているらしかった。
キャフタは指令台のハンドレールにとりつけられていた消火器をわしづかみにすると、通信機にたたきつけた。
青い閃光がほとばしって、通信機のパネルが吹き飛んだ。衝撃で電圧選択装置の回路が閉じたらしく、メーターの針がはね上るのがキャフタの目をとらえた。
なにかがうなりを立てて飛んでくるとキャフタのヘルメットにぶつかった。幾千の火花が吹雪のように散って、キャフタは意識を失った。
濃縮したアンモニアの大気をとおして見る太陽は、異様に|紅《あか》く十字ににじんでいた。その光にひとみをこらすと、大気を構成するアンモニアが目に見えないような微細な氷片をなして、コロイドのように渦巻いているのが見られるのだった。それは濃霧よりも重く、また密度が大きい。見つめていると、その粘着力のある厚い氷霧の壁に身動きもできなくなるような気がしてくる。物音一つしない永劫の静寂の中で、この淡紅色の氷霧の大気を長く見つめていることは、経験の豊かなスペース・マンにとっても危険なことだった。そこにははげしい孤独と酷烈な疎外だけがあった。
「調査局員は至急、|航路管制所《シグナル》へお帰りください。調査局員は至急、|航路管制所《シグナル》へお帰りください」
聞き|馴《な》れたチャンの声がヘルメットのイアホーンからもれてきた。
「よし、今ゆく」
スウェイは応えてゆっくりと歩をかえした。ヴイトールの魚のような影が、氷霧の奥にぼんやりと浮き上ってきた。
スウェイが|航路管制所《シグナル》の内部へ入ると、異様な興奮が渦まいていた。
「あ、調査局員! 今、船団AD七からの通信をキャッチしました」
管制所の若い所員が通信機の前で中腰になって叫んだ。
「なに! AD七からの通信だって?」
「読みます」
トーチカの内部のような方位盤室は、一瞬静まりかえった。
「長い電文の一部分のようです。『船団AD七。コチラ、船団AD七。船団ヲ解散スル。現在、船影二十九隻ヲ数ウルモ、全船応答ナシ。ナオ船団|嚮導船《ガイド》〈カコープス〉ハ本時刻ヲモッテ』ここまでです」
誰も口を開かなかった。張り裂けるばかりの緊張の沈黙がつづいた。
「この船団を解散する、というのはどういうことかね。調査局員」
|航路管制所《シグナル》の所長のマニがぽつりと言った。
「もはや船団を構成する意味がなくなった、というのか、それとも|嚮導船《ガイド》がその能力を失ったのか、どちらかでしょうね」
「そんなことはこれまでになかったことだな」
レーダー操作席についている男がふり向いてスウェイとマニを半々に見ながら言った。
「行方不明になって、もう九十時間近くなるが、全く位置がつかめません。超遠距離レーダーに入らないほど遠くへ行ってしまったとも考えられないし」
|通信士《オペレーター》が奇妙な表情で首をかしげた。
「|通信士《オペレーター》! 今の通信の発信位置は出たか」
「それがどうも」
しばらく方位盤を操作していたが、当惑の色を濃くして、
「発信位置は出たのですが」
「どうしたんだ?」
「発信位置は」
「発信位置は?」
「ここなんです!」
「なに?」
「ほんとうです。今、調査局員の立っている所の床上十二センチです」
皆の目がスウェイの足もとに集中した。スウェイも思わず自分の足もとの床に視線を投げた。網の目のように発熱チューブを埋めこんだグラス・ファイバーの床は、照明の下で|碧《あお》い氷盤のように硬い光沢を放っていた。
「ほら、これをごらんなさい」
|通信士《オペレーター》が方位盤の側面の孔から長いテープをひき出した。それには、今、通信機がキャッチした電波の発信源までの距離と方位角が正確に打ち出されていた。
「その方位盤に故障はないかね?」
「ありません。自己監視装置がついていますからもし故障があればただちに計算を中止します」
所長はどさりと椅子に体を落しこんだ。
「わしは何がなんだかわからなくなったよ。調査局員、これはいったいどうしたことなんだ?」
「さあ、私にも全くわかりません」
「これまでに、これに似たことがどこかであったかね」
「いや、ありませんね。これまで知られていなかった非常にめずらしい現象です」
「指向性電波なら異常反射ということもあるだろうけれど」
スウェイはそれには応えず、黙って唇をかんだ。
――先ず考えなければならないことは、なぜ今まで通信がとだえていたのか、ということだ、これは。
「調査局員、K12飲料です。どうぞ」
プラスチックの円筒型の容器から発散する香が室中にひろがった。
「ありがとう」
「わしは|蒸溜水《じょうりゅうすい》を三十五パーセント混ぜてくれたまえ。よくシェイクしてな」
ややしぶみをおびたその味は、焦立った神経をやわらかくもみほぐすのに充分だった。ねっとりと重い液体なのに、飲みこんだあとは、口の中は洗ったようにすがすがしかった。
「以前、といっても、もう七、八十年前だが、地球でコーヒーというものを飲んだことがあったが、このK12飲料はどこかあれに似た味がするなあ」
所長が目を細めて言った。
氷が融けるように緊張がほどけていった。
「コーヒー、というと禁制じゃないんですか、あれは」
所長のマニと通信士が飲料の容器をささげるようにして微笑を交した。
「むろんそうさ。だが、秘密に製造している者があるらしいのだ。訪問した先で、たまたま飲んだのだが、刺激的でなかなかよいものだった」
「所長、今度はK12だけでなく、K14も補給してもらいましょう。あの味も変っていて良い」
「K14飲料は飲み過ぎると幻覚作用があるというじゃないか」
他の者も会話に加わった。
「主成分がパラ・コデイン酸ですから、飲み過ぎると幻覚作用があらわれてくるでしょうね」
スウェイは円筒型の容器を手にしたまま顔を曇らせた。見事にはぐらかされた感じだった。すでに異常なできごとはわきへ押しやられ、飲料をめぐって会話はにわかに活発になった。彼らにとってはAD七からの奇妙な通信よりも、飲料の味についての論議のほうがはるかに優先するものとみえた。表情まで別人のように豊かになり、目に少年のような光が宿った。
「でもK12のほうが味は……」
「所長! 船団AD七の位置ですが」
スウェイは彼らの会話をまっぷたつに切って所長に顔を向けた。意識的に高い音をたてて容器を置いた。
胸を|衝《つ》かれたように皆の顔はスウェイに集中した。みるみるその目からは、今まで見せていた意欲的な輝きは陽の|翳《かげ》るように消え失せ、なんの感情もない冷静なまなざしにかえった。それはたしかにすぐれた技術者だけが持つ、また有能なスペース・マンだけが見せる表情だったが、スウェイはそのとき、やり場のない烈しいいら立ちをどうしようもなかった。彼ら――永く宇宙空間で生活している者にとっては、宇宙船の行方不明など、なにほどの意味ももちはしない。マイナス百六十度の淡紅色の氷霧に厚く包まれたこの惑星の上にあっては、小さな容器一ぱいの飲料は稀薄化したおのれを再結合させるだけの強烈なイメージを持っていた。
異邦人を見るように、男たちはむなしいまなざしでスウェイを見た。行方不明になった船団を追うスウェイは、ここではむしろたとえようもなく非現実的な存在だった。
「方位盤に示された発信位置までの距離ですが、もし……」
スウェイは目に見えない壁に向って言葉をたたきつけた。他人の死に何らかの形で関心を持っている者の酷薄なひびきがそこからした。
第三章 都市と歴史
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日、没し|暗《くら》|闇《やみ》の臨みし時、見よ煙吐く炉、燃える|松明《たいまつ》、割かれしいけにえの間を通りぬ。
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インスターメント・パネルのプッシュボタンを押すと、曲はにわかに軽快な点滴をかなでるエレクトロ・ドラムに変った。二万八千個のダイオード・ハニカムを使って、電子頭脳が自ら作曲演奏しているのだった。その切り落すようなスタカットの歯切れの良さは、この作曲家はシロウズの好みをすでによく知っているものとみえた。同時にこれが彼の生理状態を観察する一つの方法でもあるはずだった。好みの曲を聞かせて、刻々、その反応をとらえてゆくことは綜合的な心理検査であり、調整であった。そして二曲目はさらに彼の好みに近づく、そして三曲目、四曲目、と、疲れた心をいやしてゆくのだった。
シロウズは目を閉じて音響の渦にひたりこんでいった。低音のブラスが素晴らしい効果をあげていた。静かな夜のようなつやのある沈静がシロウズの体のすみずみまでうるおしてひろがった。
〈暁の|虹《にじ》4〉はすでに小惑星帯をはるかな|左《さ》|舷《げん》に見て、しだいに木星軌道へ接近していった。右舷後方十八万キロメートルに|雁《がん》|行《こう》する小船団があったが、それもやがてうしろに取残されて消えていった。
木星の|航路管制所《シグナル》の電波がしだいに強く入りはじめた。
「こちら|船橋《ブリッジ》、主任オペレーターです。調査局からあなたへ緊急連絡です」
突然、イアホーンがシロウズを現実にひきもどした。彼の知らない所で、冬眠管理機構がほとんど一瞬のうちに覚醒回路を入れ、つづいて起る烈しい不快感を延髄励起電圧を高めて消し去っていった。
まだかすかに低迷する頭痛に眉をひそめてシロウズは応えた。
「よし。つないでくれたまえ。その前に何か冷たい飲物をくれ」
「かしこまりました」
いったん消えたパイロット・ランプがふたたびまたたいた。
「こちら|船橋《ブリッジ》、医務管理官です。冷たい飲物をご希望ですが、これはもう少したってからでないと駄目です。代りにK8飲料を送ります」
シロウズはうんざりした顔で気送パイプの受け皿を開いた。待つほどもなく、受け皿の上に小さなアンプルがころがり出た。プラスチックの容器の中に、透明な液体が泡をうかべていた。
K8飲料はのどの奥に冷水のような清涼感を与えた。混濁した頭のしんがみるみる洗われるように澄んでいった。
「緊急連絡、どうぞ」
テレビ・スクリーンに急流のような輝線が乱れ、そこから一つの顔が生れた。
「局長、どうしました?」
シロウズの心は一瞬、緊張した。局長がじきじき、指令の伝達を与えることなどこれまであり得ないことであった。
惑星間経営機構の中にあって、|厖《ぼう》|大《だい》な機構と組織をもつ星域調査局の長官が、直接、部下の一人に口頭で連絡をはかるなどということは、これはそのまま機構の崩壊をさえ意味することであった。
スクリーンの中で、局長のひたいは汗に|濡《ぬ》れていた。
「シロウズ。目的地を変更して金星のエレクトラ・バーグへ行ってくれ。急いでほしい」
シロウズは黙ってうなずいた。
「くわしい説明をしているひまがないが、エレクトラ・バーグで何か起っているらしい。調査局の駐在機関も沈黙したきりだ。君、行って調べてくれたまえ。すべて君の判断にまかせる」
「わかりました。一つだけ質問があります。直接、あなたがスクリーンに出られたわけは?」
局長はてのひらでひたいをぬぐった。
「現地で発生している事件について、わしにはある予感があるのだよ。調査局の任務に軽重はないが、まあ、ここは経験を積んだ者にまかせたいのだ」
要領を得ない答えがもどってきた。シロウズは押してたずねるのをやめた。何かある! 暗い予感が閃光のようにシロウズの胸にひらめいて消えた。
スクリーンはふたたび死魚の目のように光を失っていった。
シロウズは|船橋《ブリッジ》へのコール・サインを送った。
「|船橋《ブリッジ》へ、こちらシロウズ。本船を至急、金星のエレクトラ・バーグへ向けてくれ」
イアホーンの中に船橋のざわめきが流れこんできた。
「こちら|船橋《ブリッジ》、船長のコウエンです。目的地の変更は非常に困難です。それに本船が今から金星に向かうとなると、辺境航路八一四便は欠航ということになります。これは政治的に複雑な問題を招来するおそれがあります。調査局員、できるならばこのまま冥王星の〈青い耳〉基地まで直行し、そこからおりかえされてはいかがですか」
遠慮深いその声音には、だが厳然たるひびきもふくんでいた。
「|船長《キャップ》、これは緊急事態なのだ。無理はすべてしょうちだ。行先変更によって生ずるさまざまな問題については調査局が処理するだろう。心配するな」
「しかし調査局員。こうした……」
「黙って言われたようにやるのだ。|船長《キャップ》、これは惑星間経営機構の命令だぞ」
こんな言いかたはシロウズのもっとも嫌いなものだったが、今はしかたがなかった。船橋内部がしん、と静まるのがイアホーンに伝わってきた。
「わかりました。調査局員。本船はただちに金星エレクトラ・バーグに直行します」
シロウズは黙ってスイッチを切った。
――惑星間経営機構の命令か。
シロウズは片頬をゆがめてつぶやいた。
たしかに惑星間経営機構は絶大な政治権力を握っていたし、また、その力を背後で支えているものこそ、シロウズの属している星域調査局だった。
――星域調査局の歴史は、そのまま太陽系文明の歴史だ、と言った歴史学者がいたっけ。
シロウズの心はかすかに苦かった。
〈暁の虹4〉は大きな円弧を描いて星空をすべった。方向転換用のノズルが何度か白熱の火花を散らし、はるかな銀河と輝きをきそった。
火星がその鉄さび色の光を|暗《あん》|鬱《うつ》にたたえて遠く右舷にあった。〈暁の虹4〉の無電機に東キャナル市空港の管制塔が火星に進入する宇宙船に呼びかけているのがかすかに聞えていた。レーダーには火星の衛星軌道を周航しているおびただしい船団が映っていた。この惑星間経済の一つの中心地である東キャナル市の繁栄が騒然と電波の奥に渦まいていた。
シロウズはふたたび夢もない眠りにおちていった。
「調査局員! 間もなく金星の衛星軌道に進入しますが、金星の誘導電波が全く絶えています」
|船橋《ブリッジ》からあわただしい声が流れてきた。
「直接、エレクトラ・バーグの|宇宙空港《スペース・ポート》を呼んでみたら」
「|航路管制所《シグナル》だけでなく、すべての電波が入ってきません。ふつうこのあたりからエレクトラ・バーグの中央テレビ局の電波や、船舶間の通信が入ってくるのですが」
やはり何かが起っているのだ――金星には主要な無電局が四つ。その内の一つは太陽系内で最大の機能を有するエレクトラ・バーグ|航路管制所《シグナル》だ。その他にも比較的小規模な無電局が約三十。中継局が約四十ある。さらに在泊中の船舶が大型船だけで五十隻はあるだろう。それらの通信施設がことごとく沈黙しているというのはいかなるわけだろう?
――考えられる原因は二つだ。
一つは何かの理由で電力、あるいは通信機能を喪失したか、もう一つは――
「調査局員。このまま自力航法によって進入します。衛星軌道にセットし、フェリーによる接地をこころみようと思います」
|船長《キャップ》のコウエンが|暗誦《あんしょう》でもするようにゆっくりと告げた。おそらく船橋内は恐慌をきたしていることだろう。金星からの通信が全く|跡《と》|絶《だ》えてしまうなどと、考えられもしないことだし、しかもそこへ着陸をこころみるなどとは|宇宙《スペース》パイロットである彼らにしてみればそれこそ遭難を約束されたようなものだった。必死に動揺を押しかくしている|船長《キャップ》の烈しい心の動きが、その声音からよくくみとることができた。
「よし、今、そこへ行こう。じゅうぶんに注意してくれたまえ」
シロウズは|重力席《G・シート》につながるいっさいの電源を断った。電子頭脳や通信装置、|代謝調節装置《メタボライザー》などのパイロット・ランプが、息絶えるように細くかすかに、やがてふっと、消えた。
シロウズはハッチを開いてデッキへ出た。長大なデッキには人影もなく、ところどころにともされた微光燈だけが、遠く一連の星のように青白い|光《こう》|芒《ぼう》を|曳《ひ》いていた。水底のような静寂の中で彼の|重力靴《Gシューズ》の足音だけが重く反響した。
スクリーンの前に立って、操縦士に何事か命じていた|船長《キャプテン》のコウエンは入ってきたシロウズを見て一瞬、複雑な表情を浮かべた。部下の生命もろとも船を危険に投じなければならなくなった|船長《キャプテン》の、それを命じた者に対する怒りとうらみのないまぜになった心の動きだった。
乗員の一人が露骨に顔をそむけた。シロウズはそれを黙殺して、船長の立つスクリーンの前へ進んだ。
「|船長《キャップ》、その後の変化は?」
「いぜんとして何の反応もありません」
「|逆電波探知機《タカン》による走査をつづけてくれ」
もしどこかの管制所がはたらいていれば、必ずそのレーダーのビームをとらえることができるはずだった。壁面をおおう巨大な広角スクリーンの左端に映し出されたエメラルド・グリーンの扇形が、タカンの触手がまさぐる金星からの流出電波の描く空域だった。しかしそれは、そこに強固にはめこまれたように、かすかなハレーションさえ浮かべなかった。
「これはほんとうに金星の連中は死に絶えてしまったんじゃないかな」
「そうとしか思えませんな」
コウエンがうつろな声で応えた。
「|船長《キャップ》、こうしていても具体的なことは何一つつかめない」
「|船長《キャップ》、つぎの周回コースで金星の赤道上二百キロメートルまで接近しよう。そこからフェリー・ボートで進入だ」
「わかりました。|主席宙航士《チーフ・パイロット》は赤道上、高度二百キロメートルにセットしろ。フェリー・ボート要員は一号艇の発進準備にかかれ」
こうなっては船長も落着きをとりもどした。きびきびした指令がつぎつぎと船内に飛んだ。
「|船長《キャップ》、他の二人にも事態を説明しておいたほうがよくはないかな」
「そうしましょう。|重力席《G・シート》一〇〇一、一〇〇二に覚醒回路を入れろ!」
「おどろくだろうな」
シロウズの胸に、あの副首席チャウダ・ソウレの肥満した|体《たい》|躯《く》と巨大な頭が、にわかに懐かしく思い出された。
副首席は顔中に子供のような笑いを浮かべて|船橋《ブリッジ》に入ってきた。|宇宙服《スペース・スーツ》の気密ジッパーをきちょう面に閉じてある。
「もう冥王星へ着いたのかね。さすがは特別便だ」
シロウズはスクリーンの半ばをしめている巨大な青灰色の金星を視線で指し示して言った。
「副首席、あれは冥王星ではなくて金星です」
ソウレの顔に軽い驚きの色がはしった。
「ほう! 金星。この船は冥王星へ行くのに金星へ寄ってゆくのかね。たいへんな遠回りをするものだ」
「冥王星へはもう行かないかもしれない」
シロウズは|誰《だれ》に言うともなくつぶやいた。それをたちまちチャウダが聞きとがめた。
「冥王星へは行かない? それはまたなぜかね」
「行けないかもしれないのです」
「そりゃ困る。調査局員、だったな。わしは一時間でも早く冥王星へ行かねばならんのだ」
「あれをごらんなさい」
「あれ?」
シロウズは、全く灯の消えて今は冷却器さえ停止している通信機をあごで示した。
「あれ。あの通信機。もう長いこと沈黙したきりです」
「だから冥王星へ行かないで金星へ来たのかね。調査局員、頭がどうかしたのではないかね。もしそうなら遠慮せんでわしにそう言いなさい」
「いやいや、副首席。もし、そうだったらあなたに言うより先に医務官に言いますよ」
「呼んでやろうか」
「結構。いいですか、副首席。あそこに見えているのは金星です。本船から通信を送っても何の応答もない。そればかりでなく、金星の市内T・V電波をはじめ、すべての電波が入ってこない。つまり金星はまるで無人の惑星になってしまったかのようです」
「ほう、そうかね」
「副首席、あなたは惑星間経営機構の高官として、この事態をどう解釈なさいますか」
ソウレは急にいやな顔をするとスクリーンから目をそらした。
「それは極めて当を得ない質問だ。調査局員」
「そうですか。しかしどうしても冥王星へおいでになりたいのならば救命艇で行っていただきます。一人で」
「救命艇というと、あの小さな、あれか」
「そうです。行けないことはない」
「だからわしは調査局員というのは好かんのだ。えらそうな口をききおって、なんだ!」
「協力してくださるでしょうね」
「お前らはいつもその手口でわしらの妨害ばかりしてきた」
「困りますな」
「お前が困ることはあるまい」
シロウズがスクリーンから目を離さずに答えるのが、無視されているようでソウレはひどくしゃくにさわった。何か思いきった言葉を浴びせてやろうと思ったが、適切な言葉が思いつかないまま、ソウレはポケットに両手をつっこんで背を丸め、スクリーンの前を離れた。
「調査局員、赤道上高度二百キロメートルにセットしました。ただ今の速度、五・二一〇キロメートル秒!」
「よし、|船長《キャップ》、フェリー離船用意!」
「本船からは|船長次席《アシスタント》のコゴウと操機係のリンボーがまいります」
「いそごう」
足を踏み出したシロウズの背に、そのとき突然、さわやかな声がはしった。
「星域調査局員、C15シロウズ。あなたにはわたしを連れてゆく義務があるわ」
シロウズの足は|釘《くぎ》づけになった。
ゆっくり体を回すと、ハッチからさしこむ強烈な光が目を射た。その光を光輪のように負って一人の女が彫像のように立っていた。
「誰だ? お前は」
シロウズは光の矢から顔をそむけ少しずつ体をずらした。
「この船の乗客の一人」
「それがなんで金星へ行く用がある?」
女は黙って光の中から歩み寄ってきた。シロウズは一瞬、後退すべきかどうかとまどった。
「おう! エレクトラ・バーグ市長ではないか。この船に乗っていたのか」
突然、ソウレのどら声が皆の耳をうった。
「なに? エレクトラ・バーグ市長!」
ソウレはいかにも親しい者をむかえるように両手をひろげて女に歩み寄った。女も何か言ったようだった。
「おい、調査局員。紹介しよう。これから君が遠征しようとしている金星のエレクトラ・バーグ市長、ヒロ18だ。君のような礼儀しらずといっしょで、はなはだ気の毒だ」
ソウレは巨大な腹をつき出してにんまりと笑った。
女のまとっているチタニウム・ファイバーのコンビネーション・スーツがすばらしい光沢を放った。
――上等なものを着ていやがる。
――これがエレクトラ・バーグの市長か。惑星間経営機構にならぶ者のない|辣《らつ》|腕《わん》|家《か》だと聞いていたが。調査局にはあまり好意を持っていないはずだ。
金星の首都、エレクトラ・バーグは太陽系内に数ある植民都市の中でも、火星の東キャナル市とならんで、地球連邦に比肩し得る大きな発言力を持っていた。とくに金星の植民都市群は極めて恵まれた鉱物資源を背景に巨大な工業力を誇っていた。太陽系内でひろく用いられている各種宇宙船、人工衛星、それに重建設資材のほとんどはこの金星の工業力の生み出したものであった。その点、航路の要衝、とくに辺境への航路基点として発達した火星の東キャナル市とは対照的であった。また金星は太陽系内に|於《お》けるもっとも強力な地球連邦支持者であり、その点でもっとも右翼的態度を持っていた。内惑星という太陽系内の位置が、大圏航路から遠く離れ、絶えず動揺する辺境の情勢から無縁であり、地球連邦との宿縁のもとに平安と繁栄をほしいままにしていたといえよう。その金星の植民都市群の中核的存在であり、指導的役割を果してきたのがエレクトラ・バーグであった。
「ごらんのとおりのありさまだ。直接その目でたしかめるのもよいだろう」
シロウズは背を向けて歩き出した。
「調査局員、わしもいっしょに行こう」
ソウレの声が追いかけてきた。
「副首席、ことわっておくが、これはただの視察や見物ではないぞ。どんな危険があるかわからない。私の命令は絶対に守ってくれ。勝手なまねは許さん」
シロウズは苦い顔で吐き|棄《す》てるように言った。
フェリー・ボートは発射室のカタパルトの上で三角の翼を張っていた。巨大なエレボンが鏡のように五人の姿をさかさまに映していた。
五人は黙々とラッタルをのぼった。前にのぼる女の後姿に、シロウズはふと、忘れていたあることを思い出してかすかな苦笑を浮かべた。
――もう何十年か前に、調査局はエレクトラ・バーグの市長の暗殺を計画したことがあった。そうだ。たしか、あれは惑星間経営機構の提唱する大圏航路関税同盟に対して辺境星区が木星の酵素原を閉鎖した時だ。経営機構の調停に応じない金星側に手を焼いた調査局では、その指導部を弱体化するためにエレクトラ・バーグの市長を倒すことを計画したのだった。しかしエレクトラ・バーグの保安局はとうとう市長をその計画から守りとおした。そのためついに金星側はその言い分を強引におし通すことができたのだった。あれがそれ以後、太陽系に永い争いのもととなって残った。
――あのときの市長がこの女か。
あるいは自分の手にかかったかもしれぬ女の後姿に、シロウズは抗し難い時の変転を感じた。
フェリー・ボートは金星の濃密な炭酸ガスの雲に、|イルカ跳び《ポーポイシング》をくりかえしながらしだいに高度をさげていった。
〈コチラ、宇宙船『暁の虹4』搭載フェリー・ボート。エレクトラ・バーグ、応答セヨ。エレクトラ・バーグ、応答セヨ〉
操機長のリンボーは通信機に向って絶え間なく呼びつづけた。アンテナを回転させるモーターの音が静かな船室に、虫の鳴いているように低く聞えていた。シロウズはリンボーの肩をたたいて言った。
「もういい。それ以上呼んでも無駄だろう」
スクリーンには乳白色の厚い雲が、急流のように乱れ飛んでいた。フェリー・ボートの背後に太陽が回ったとみえて、その厚い雲が時おり、目のくらむような白光をはねかえした。
「現在の大気温、四百二十七度、徐々に低下しているようです」
コゴウがメーター・ボックスに目を寄せて読み上げた。
「コゴウ、一気に雲の下に出よう。リンボーはドップラー・レーダーで針路前方を監視するんだ」
「OK」
フェリー・ボートはぐいと機首を下げるとすべるように速度を上げた。雲の流れは斜下方から斜上方へ流線を変えた。
スクリーンには陽が翳り、それからふたたび明るくなった。
「調査局員、ただ今、エレクトラ・バーグ上空を通過、西進します。エア・ブレーキいっぱい、時速五百十五キロ」
「コゴウ、市の外郭に沿って旋回、二分後に着陸しよう」
機体は大きく左にかたむいた。シロウズはそのかたむきに合わせて体を左舷のインスターメント・パネルにもたせかけて|舷《げん》|窓《そう》を開いた。
機体は厚い雲層をつらぬいて一気に雲の下へおどり出たところだった。天をおおう乳白色の漠々たる雲海の下に、灰色の平原が目のとどくかぎり荒涼とひらけていた。あるかないかの起伏が、淡い影となって平原におちていた。
五人の目はその平原に吸い寄せられた。
一周、二周、三周目にかかっても、その平原にはなんの変化も認められなかった。
「降りてみよう」
シロウズの声もさすがに緊張にかすれた。
気温は百四十五度Cを示していた。金星の上層大気を構成する炭酸ガスは、結晶雲となって金星表面に極端な温室効果をもたらしていた。熱を通さない炭酸ガスは、金星表面の熱を大気中に放散することがない。だからここでは水分はすべて乾燥水蒸気となって大気中にただよっていた。
「市長は金星の住人だからわかっているだろうが、副首席、どんなことがあってもヘルメットと|宇宙服《スペース・スーツ》を脱がないように。冷却器は一時間ごとに点検してください。|代謝調節装置《メタボライザー》はつねに非常のほうに切り換えておいてください」
|宇宙服《スペース・スーツ》の腰に縫いこまれている冷却器が全力をあげて活動しているのが、かすかに感じられた。
リンボーがフェリー・ボートの舷側を開いて小型の地上車をひき出した。
「コゴウ。エレクトラ・バーグはどっちの方角だ?」
コゴウは方位盤を開いてしきりに首をかしげていた。シロウズはのぞきこんだ。
「どうした? コゴウ」
「調査局員、航法に間違いはなかったと思うのだが、どうもここはエレクトラ・バーグの周辺部とは違うようだ」
「なに!」
そのとき、ヒロ18が砂を踏んでゆっくりとシロウズに近づいてきた。
「シロウズ。ここは金星ではないわ」
ヘルメットの中でその顔はおそろしいほど白く|冴《さ》えていた。
「シロウズ。ここはとてもよく金星に似ているわ。だけど、どこか違う。どこだか分らないけれど、ぜんぜん異ったところがあるわ」
シロウズは中腰のまま、顔だけ上げて四人に視線を当てた。誰も何も言わなかった。永い沈黙の中で誰と身動きもしなかった。
車の上のリンボーの荒い息が、高く低くイアホーンから|洩《も》れていた。
「金星でないとすると、ここはどこなんだ」
誰も石に化したように動かなかった。
シロウズは自分がへんてこな姿勢をとっていることを知っていても、なぜか体が動かなかった。
コゴウが深く息を吸うと言った。
「調査局員、レーダーにもエレクトラ・バーグが映っていないんです」
シロウズはようやく腰をのばして四周にひろがる平原に顔を向けた。乳白色の薄明の空から、時おり羽毛のような雲の塊が垂れさがってきては、地平を糸を曳くように掃いていった。風もなく、何の物音も聞えてこなかった。
「ここが金星でないとすると」
「いや、調査局員、チャートから位置を求めればここはたしかに金星です。しかし、この風景は、これは私の知っている金星じゃない!」
コゴウの語尾ははげしく震えた。
「おい、みんなしっかりしてくれよ。はっきりしないことは口に出さないでくれ。ここが金星であるかないかは航法装置にまかせよう」
しかし誰も何も言わなかった。シロウズの言葉がむなしい気負いとなってみなの耳に飛びこんだ。
「どうしたんだ! みんな」
シロウズはとめどもなく惑乱しかかる自分を必死におさえつけた。
「調査局員。これからどうするね?」
ソウレが巨大な体を象のように運んできた。
「ここが金星であろうとなかろうと、わしのしったこっちゃないが、お前に早く仕事を終えてもらわなくてはわしの仕事がはじまらんでな。調査局員」
ソウレはどこが目だか口だかわからないような顔をして|茫《ぼう》|洋《よう》と笑った。
シロウズもつられて青白い微笑を浮かべて口を開いた。
「よし! 乗車。できるだけ附近を探察する。そうだ。リンボーはフェリーに残ってわれわれをレーダーで追跡しろ。危険を感じたらわれわれにはかまわないでただちに離陸するんだ。いいな」
四人は黙々と地上車におさまった。キャタピラーは砂をかんできしんだ。
また垂れこめてきたぼろきれのような雲の中に、横たわったフェリー・ボートはかすかにうすれていった。リンボーも息をこらしているらしく、|無線電話機《トーキー》も沈黙したきりだった。ただ、追跡してくる電波をとらえて、|逆探知機《タカン》が時おり、思い出したようにパイロット・ランプを明滅させていた。
灰色の砂漠は果もなく、海のようにつづいていた。濃淡さまざまに天をおおって流れる雲さえなかったら、あるいはしだいに物体に色のあることさえ忘れてしまったかもしれない。
誰も、口を開くのを恐れるかのように沈黙したきりだった。
もう、出発してから六時間になろうとしていた。
濃い雲の束が、遠い雨足のように地平にかかっていた。それは動くともなくゆっくりと西から東へ移ってゆく。その雲のゆくえを目で追っていたシロウズは、その複雑な翳の下、天と地がつらなるあたりに、ふと、何物かの形を見たような気がした。
「見ろ! あそこに何か見えないか」
皆の視線がシロウズの指さすかなたに向けられた。
「あれは!」
「見える。何だろう?」
雲が流れさると、それはあきらかに遠い地平のかなたの空にそびえていた。薄明の空よりもまだ淡く、それはほとんど幻のように非現実的な翳をおびていた。
「林ではないだろうか」
金星に林などあるはずがない、心の片すみではそう思いながら、シロウズはそのもの[#「そのもの」に傍点]の印象を口にのぼせた。
「いや、|尖《せん》|塔《とう》だ。おびただしい数の尖塔がそびえているんだ」
「それにしてもずいぶん大きなものだぞ。あそこまでの距離はここから百キロメートルはあるだろう」
「調査局員! 林や尖塔など金星にはありません」
レーダーのダイアルにしがみついたコゴウがシロウズをふりかえって叫んだ。
「それに、これを見てください! 調査局員。レーダーには何も映っていないんです」
「あわてるな。コゴウ。レーダーに感じない物質だってあるんだ」
「しかし、このレーダーは二重浸透型で百キロメートルの距離なら紙一枚だって探知できるんです」
その目は狂気のように血走っていた。シロウズは腕をのばしてコゴウの肩をつかんだ。
「いいか。落着くんだ。今はレーダーなんか信じなくてもいい。それよりお前の目を信じろ。見えるだろう。あれが」
「見えます」
「よし。見えればそれは、あれがあそこにあるということなんだ。コゴウ、われわれは皆、金星にあんなものがないことは知っている。だが、あそこに見えるものは何だ? コゴウ、エレクトラ・バーグはいったいどこへ消えてしまったんだ? ここはわれわれがよく知っている金星であることに間違いはないんだ。それともコゴウ、われわれは皆、そろって気が変になってしまったのだと思うか」
コゴウは黙ってシロウズの顔をみつめていたが、やがて弱々しく首をふって言った。
「いや、調査局員、われわれの頭脳は健全です」
「よし、コゴウ、監視をつづけろ」
それ[#「それ」に傍点]はしだいにくっきりと地平線に形をあらわしてきた。薄明の曇天を背景に、巨大な沈没船の|舳《へさき》が天を指すようにそそり立っていた。
「都市だろうか?」
「まるで城のようではないか。わしは以前に地球の古代資料で見たことがあるが、その城によく似ている」
「あのたくさんの塔は高さが千メートル以上あります」
何者かに聞えるのをおそれるかのように、三人の声は低くかすれた。
「市長、どうした」
「ヒロ18、何か聞えるのか?」
さっきからおし黙ったままのエレクトラ・バーグ市長は、石のように身動きもしなかった。左の肩をわずかに落して、ヘルメット側面の聴音器を遠いかなたに向けて開いていた。かすかに、かすかに伝わってくる何かのひびきを、その心で受け止めてでもいるかのような静かで冷たい姿勢だった。
「え、何が聞える?」
シロウズも、ソウレも、体を起して耳をすましたが、床下から伝わってくる駆動装置の震動のほかは、聞えてくる何の物音もなかった。シロウズはエンジンのスイッチを切った。地上車は数メートル走って停止した。
死のような静寂が四方に起った。三人はかすかな|衣《きぬ》ずれの音もおそれるかのように、息をひそめ、身を固くして耳を傾けた。大気は重く沈み、深い|淵《ふち》のようによどんでいかなる変化のきざしも感じられなかった。
「わしには何も聞えんが」
ソウレが落胆したようにつぶやいて、シロウズの顔に視線を投げた。シロウズの耳にも風のそよぎさえ入ってこなかった。
ヒロ18の顔には何の変化も浮かばなかった。水のようなうつろなまなざしを灰色の砂の海に投げて、呼吸するのさえ忘れてしまったかのように、わずかな反応もなかった。
「おい! どうしたんだ」
シロウズはヒロ18の肩に手をかけてはげしくゆり動かした。ヘルメットはがくがくとゆれ、ヒロ18の全身からふいに力がぬけて、そのまま泥人形のように床に崩れおちた。ヘルメットを硬い床に押しつけ、手足をちぢめて倒れ伏したその姿はひどくたよりなく、もろく見えた。
シロウズは黙って肩をすくめた。
「調査局員。市長はおそらくこの異状な事態に耐えきれなかったのだろう。やがて回復するだろうと思う。しばらくそっとしておいてやろう」
ソウレはヒロ18の|代謝調節装置《メタボライザー》のダイアルをしぼって体温の低下に備えると、固くちぢめている手足をそっとのばしてやった。そこに、思いがけなく、部下をいたわる老首長の心の動きがきらめいた。
「スタート! コゴウ」
地上車はふたたび猛然と前進を開始した。
それは|平《へい》|坦《たん》な砂の面から、ほとんど垂直にそびえる大壁面によって周囲を囲まれていた。さらにその上に幾重にも積み重なった平らな部分があり、そこから天に向ってそそり立つ数十本の尖塔があった。その頂きは千切れ千切れに飛ぶ灰色の雲にともすればかくれ、|陽《かげ》|炎《ろう》のようにゆらめいた。
くすんだ灰色は砂漠と天に溶けて今にも拡散してしまうかと思われた。
|永《えい》|劫《ごう》におよぶ静寂の中で、雲だけがあとから暗い影を掃いて流れ過ぎていった。
内にひそむ者の気配もなかった。三人の上に長い沈黙の何十分かが過ぎていったが、動きはじめるものの気配はさらになかった。
「調査局員。わしはこれまでにずいぶん色々と奇妙なものを見聞してきたが、こんなものを見るのははじめてだよ。それに、これには何か人類の知識を超えるようなものがあるぞ。危険だ。何かしらんがとても危険だ」
「副首席。金星の開発が始って一千年をへたが、過去に|於《おい》て人類はこのようなものを建設したことはない。また金星の調査はすみずみまで行なわれ、今では人類の知らないものはここには存在しない。あのようなものがあったという記録も私の知るかぎり全くない。副首席、あれはおそらく人類の作ったものではないだろう。それがなぜ今、あそこに現れたのかは、たぶんエレクトラ・バーグの消失と関係があるのではないだろうか」
「調査局員、今、君は人類の作ったものではないと言ったが」
「その生物が何であったかはわかりません。しかし、過去に於て太陽系内に人類以外の知的生物の存在は否定されつづけてきたのだが」
「あれはどう見てもかなり高等な知識の所産だ」
言葉を交しながら、二人の目は灰色のそれ[#「それ」に傍点]に釘づけになっていた。あきらかに人類以外の生物の手に成ったと思われる奇妙な建造物を前にして、二人の心は鮮烈な異和感でふくれあがった。恐怖でもない、不安でもない。それははじめて山火事を見た、あるいは津波を知った原始人の本能的なおそれに似ていた。
「なあ、調査局員、わしはまだ夢を見ているような気がするよ。それも二度と見たくないような夢だ」
シロウズは黙ってうなずいたまま、急に立って四方を見わたした。灰色につづく|渚《なぎさ》のような砂の平原に、地上車のキャタピラーの跡が長く長く伸びていた。始めも終りもないような限りなく静かな世界だった。
「何を見ているのかね?」
「いや。ただなんとなく」
シロウズは短く答えて、視線をふたたび灰色の塔の群にもどした。ほかに答えようもなかった。ふと、シロウズはおのれの目で見ているものが信じられなくなったからだった。これは現実だろうか? ふと、かいま見た悪夢の続きなのではないだろうか? 吐き気をもよおすような絶望感が噴き上ってシロウズの胸を真黒に塗りつぶした。しかし、それを口にしてはならなかった。今は三人の命をあずかっている責任感がシロウズの焦燥をかろうじて胸の内で冷却させた。
「副首席。あなたはヒロ18を連れてフェリー・ボートへもどってください」
「君は?」
「あそこへ入ってみます。どこかに入口があるでしょう」
「まて。君一人で行くよりも、いったん宇宙船へもどって惑星間経営機構へ状況を告げて応援をたのんだ方がいいんじゃないかな」
シロウズはかすかな微笑をたたえて言った。
「副首席。私は調査局長から金星で何事か異変の起ったことを告げられてここへ派遣されてきたのです。その異変が何であるかを確認しなければもどることはできないのです」
「なるほど。しかし調査局員、もうわれわれはじゅうぶんに異変をたしかめたじゃないか。これ以上の追及は一人、二人の人間にできることじゃない。応援をたのめ、応援を」
シロウズは首をふった。
「いや。それはできないんだ。副首席。応援をたのむということはそれだけ事態の真相を知る者がふえてくるということだ」
「知られて困る、か」
「そうです。副首席。こんなできごとを市民たちに知られて何事もなく収まりますか?」
「それは困るなあ」
「私でさえ、おのれの目や頭を疑っている状態です。まして市民の常識の範囲は極めてせまい。ことに|近《ちか》|頃《ごろ》ではわずかの生活変動も許容できないありさまです」
「よし。それでは調査局員、わしは君といっしょに行こう。何か手伝えるだろう」
「いや、危険です。後退してください」
ソウレはがんとしてうなずかなかった。
「市長の世話は、ほれ、そこでさっきからものも言わずに震えている男にまかせたらいい」
コゴウは|蒼《そう》|白《はく》なひたいに冷たい汗を浮かべて無理に笑ってみせようとしたが、ただ唇がひきつっただけだった。
「コゴウ。ヒロ18を連れてフェリー・ボートまで後退するんだ」
コゴウは身を固くしてわなわなと震えながらも首をふった。
「い、いや、調査局員。私も、私も行きます。べ、べつにこわいわけじゃありません」
彼にも宇宙船〈暁の虹4〉の船長次席としての自負があるのだろう。ヘルメットの中でほおを引きしめた。
「大丈夫か? ほんとうに」
「さっきまではたしかにたまらなく恐ろしかったが、もう大丈夫です」
コゴウはなお血の気の失せた顔で言い切った。
「それじゃコゴウ、君はここでヒロ18を守って待機していてくれ。異状があったら連絡するからただちに本船に帰って処置してくれ」
「OK」
「四時間たったら連絡がなくともフェリーへもどるんだ。いいな」
シロウズは地上車の荷物台からかまぼこ型の金属パネルをとり出して地上におろした。コゴウはそれを高さ一メートル、幅二メートルほどの低い埋込式のキャンプに組立てた。通信装置、赤外線レーダーなどが運びこまれた。
「このパネルはチタニック・シリコンファイバーだからかなり強烈な物理的・化学的変化に耐えられるはずだ。コゴウ、危険を感じたらここから出るんじゃないぞ」
シロウズはソウレとともに地上車をあとにした。乾いた砂は二人の足もとでかすかにきしんだ。また灰色の雲が低くなってきた。ぼろ切れのような雲が幾重にも垂れさがって尖塔の群をおおいかくしてゆく。
二人はまっすぐ歩きつづけた。その奇妙な建造物は今や頭上をおおってそびえ立っていた。いかなる物質でできているのか、ひどい風化にさらされたような粗面がはっきりと見てとれた。窓一つなく、悪魔のために設けられた巨大な墓石のように静まりかえっていた。
基台と思われる壁面の高さは二百メートルはあろう。それに沿って二人はゆっくりと進んだ。
「調査局員、これに沿って回ったらとても一日では回りきれないぞ」
「これだけの建造物だ。入口が一つや二つのはずはない」
「上からねらい射ちされたら一発でやられてしまうぞ」
シロウズは油断ない目を周囲に配りながら歩を進めた。
「上からねらわれるなどと、つまらない心配はしないでください。やられるとすれば、たぶんわれわれには想像もつかない方法でですよ」
こともなげなその口調に、ソウレはいやな顔をして横を向いた。
「そういう神経でなけりゃとても調査局員はつとまらんな」
「そして生きぬくこともできないんですよ」
「いや、わしは死んだ|奴《やつ》の意見を聞きたいもんだ」
シロウズは突然、手をあげてソウレを制した。一瞬、二人の神経は針のように鋭く澄んだ。
「入口だ!」
二百メートルほど先の壁面に、暗い四角な穴が開いていた。扉もなく、ピラミッドの内部への入口のように、奥深い|闇《やみ》がうかがわれた。
シロウズは送話器のスイッチを押した。
「コゴウへ、こちらシロウズ。入口を発見。これより内部へ進入する。このままスイッチは切らずにおけ。そちらは異状はないか」
コゴウの緊張した声が飛びこんできた。
「異状ありません」
「たのむぞ」
二人は影のように壁面にはりついた。息をこらすと、|代謝調節装置《メタボライザー》がその全機能を動員して全身の神経や筋肉の極度の緊張を緩和してゆくのが波紋のひろがってゆくようにこころよく感じられた。
シロウズはそろそろと壁面から身をはがした。脚に巻いたレーダーで闇の奥をさぐる。
「何かいるか?」
おし殺した声でソウレがささやいた。小さなスクリーンには、金緑色の輝線がさざ波のように静かに揺れ動くだけだった。
「何もいないようだ」
二人は足音を忍ばせて暗闇にすべりこんだ。ヘルメットの赤外線マスクを|目《ま》|深《ぶか》におろす。|闇《あん》|黒《こく》の奥へつづく平坦な回廊が浮かび上った。
「見ろ。この回廊の壁は鏡のように磨かれている。外部の壁面と材質は同じはずなのに、どうして外だけはあんなに粗粒化したのだろう」
「副首席。これはおそらく外部は何かによって|腐蝕《ふしょく》したのだろうと思う」
「自然現象か?」
「わからん。どうもそうではないような気がする」
「攻撃されたのだろうか」
「副首席。あなたを調査局でやとってもよさそうだ」
回廊はやがて十字に|交《こう》|叉《さ》した。交叉した回廊はおそらく外部の壁面に平行にはしるものと思われた。回廊の両側は鏡のように磨かれた壁面がかぎりなくのびていた。靴で踏む床面も、磨き出された壁も、二人がこれまで見たこともない物質でできていた。しいてたとえれば|強化絹《ハイ・シルク》パネルの柔軟性と|強靱《きょうじん》さを持っていた。すばらしい吸音性を持つとみえて、この長大な回廊に、二人の靴音は全くこだましなかった。
「全く照明装置がない。これを造った生物は目がなかったのだろうか?」
「そうとも限らない。副首席。われわれとは異った波長の視覚領域なのかもしれない」
「それにしても照明装置が」
「たとえば、この壁面からわれわれの感じないある波長の光が絶えず放射されているのかもしれない。われわれのシティのように」
「音を嫌う。少なくともわれわれとは異った色彩感覚をもつ。この二つだけはわかったようだ」
「上へむかう|傾斜路《スロープ》があるぞ」
傾斜路はなだらかに上へむかっていた。幾つもの回廊が傾斜路と交叉した。暗黒の中でそれは迷路のように入り組んだ。
「調査局員。これは都市だろうか? それとも巨大な城だろうか? 居住設備も、エネルギーの配分設備も全く見あたらないが」
「わからん。もう少し調べてみよう」
「帰る道はおぼえているか?」
「大丈夫だ。二人の靴の裏に放射性のカドミウムが塗ってある。それをたどればさっきの入口へもどれる」
二人は黙々と回廊を踏んでいった。回廊はどこまでもまっすぐに、もはや上っているのか、下っているのかも判然としなかった。ただ歩きつづけることだけが、二人に与えられた宿命のように、闇黒の奥へ奥へと踏みこんでいった。
「わしは、むかし、まだ子供の頃こんな夢を見たような気がする。何もない、光もない暗黒のトンネルのような所を、黙って歩きつづけていった。今それと全く同じだ。もしかしたら、これはあの時の夢のつづきなのではないだろうか」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。金星にあるはずのない、こんなものを今、この目で見ていることは事実だ。これは疑いようもない。しかしこれが夢であるかどうかはたしかめようもないし、また実は今はどうでもよいことだ。さめてみたらばエレクトラ・バーグに居るのかもしれないし、それはそれで夢のつづきかもしれない」
「調査局員、どうやらこの回廊はあそこでゆきどまりになっているぞ。われわれの旅もここでおしまいかな」
突然、そこで回廊は断ち切られたように終っていた。永劫の静けさの中で、そこで時間の流れも終りを告げるかのように垂直な面が二人のゆくてをさえぎっていた。
「べつにドアらしいものもないし、壁面のあわせ目もない。ここまで来た者は、ここから先どうするんだ?」
「向う側にはいったい何があるんだろう? この回廊の両側にはドアらしいものは一つもなかったが、この回廊の壁のむこうは部屋なのか? それとも何もないのか?」
「それとも全体がこの物質で造られているのか、だ。ピラミッドの内部が石であるようにな」
二人は顔を見合わせてほとんど同時に、ゆくてをさえぎる壁面をこぶしでたたいた。
広壮なホールだった。はるかな壁面から半月形に張り出した|舞台《ステージ》がホール全体を見おろしていた。薄明に浮き上ったホールには、深海のようなもの憂いよどみがあった。それはたそがれから夜の移り変ってゆくひとときの寂滅がそのままここに凝って、この広大なホールを形成したかのように、およそ生きるものの気配とてなく荒涼と静まりかえっていた。
その薄明に顔を向けたとき、シロウズの耳は遠い声を聞いた。それははるかな時空をわたってきたもののように、胸の奥底に水滴が落ちるに似たかすかなひびきをつたえてきた。
――もうおそい。時はすでに去ったのだ。
――亡びへの道は長かった。あまりにも長過ぎたのだ。生きるためのおそれも努力も、すべて煙よりも|稀《き》|薄《はく》になり、この長い道に耐えることができなかった。
――これからどうするのだ。あきらめの酔いか。絶望の狂乱か。戦うにすべなく、残された都はただ一つ、消えてゆく明日への道をはらむここだ。
――明日? 明日とは何か? |終焉《しゅうえん》のむこうにあるもののことか。
何者かが語り合っていた。一人がたずね、一人が答え、寂漠たる世界の中に、それはいつ終るともなく憂愁をはらんで続いていた。
――この惑星にはじめて都市をきずいた時は、まだ|橙色《だいだいいろ》の時代の残光が都市の回廊に映えていた。
――地下資源は豊富であり、とくに短波長の鉄が刺激的だった。恒星ザラは熱源として申し分なかったが、夜の暗紫色はあの多くの不安な物語をかもし出した。
――都市の形態について三千年にわたって論議されたものだった。都市は憎悪の象徴であるとするタムダム派はふたたび船に乗って去った。あれは黄色の時代だった。
――偏在は罪悪であり、宇宙の本質は均質であるとする彼らの思想は惑星テトラソニアでは成功した。しかし彼らは政治としての社会機構すら認めようとしなかった。
シロウズは深く腕を組んでゆっくりとホールの床を踏んでいった。床は厚くほこりともつかない|微《み》|塵《じん》におおわれ、運ぶ足の下から白い煙のように舞い上った。ほこりの飛んだあとから、硬質ガラスに似た床材が鈍い光沢を放っていた。
あきらかにこれは何ものかがきずいた都市の|残《ざん》|骸《がい》だった。残骸というよりもむしろ亡霊と呼んだ方がふさわしいかもしれない。
金星の過熱水蒸気渦まく砂漠に、かつて何ものかが残していった都市の亡魂の出現だった。これは。
星間文明の興亡がかなでる悦楽と苦悩の歴史の中で、何ものが? いつ? そう、栄光への道はけわしいが短い。だが滅亡への道は長くたどるにはたやすいのだった。それに気がついたときはすでにおそい。もう、もどることもできないほど時を重ねてしまっているのだ。
シロウズはおのれの内なる声に向って言った。
語れ。聞こうではないか。
――かぎりなく宇宙にひろがってゆく。そのことにもとより何の意味もない。つねに充足は内にある。新しい精神は新しい冒険の所産か。人々は都市を造り、個室にひそみすでに夢の終ったことを知る。かぎりないその絶望のくりかえし。ここにあるものは終った夢の|堆《たい》|積《せき》だ。
――渦状星雲から渦状星雲へ、残してきた足跡は今でも消えずにそこにあるだろう。だが今、われわれの胸にあるものは残した夢の終焉に対するあわれみではない。この大宇宙を構成するある力の存在だ。ものすべて始めと終りがあるとすれば、その転変に超然たるある力こそわれわれの不断に求めつづけてきた夢ではなかったか。この大宇宙を支配するものは、われわれにとって憎悪か、愛か、あるいは二つながらに意味を失わしめるさらに偉大な何かか。
――タムダム派は言った。無こそ均質だと。偏在するところから存在がはじまる。均質化が窮極の意味するところなら宇宙を支配するものこそ無ではないか。
――永劫の時と争って何を残すのか? 時そのものを手中に収めながら、今、|蒼《そう》|茫《ぼう》たる世界のたそがれをむかえて残す遺産とてもない。
――長かった。実に長かった。
――祖先たちがその粗末な宇宙船に身をたくして星の海へ乗り出したとき、世界は暁の色だった。やがて一千兆光年の果までもわれわれの船はゆききし、都市は輝ける過去と無欠な未来への十字路となった。
――あれ[#「あれ」に傍点]は伝説ではない。永劫に果されることのない希望が、かりそめにうたい上げた罪の顔ではない。都市はやがてくる破滅の予感におびえながら、おそるべき神、偉大な神を見たのだった。
――おしなべてむかしのことだ。
声はしだいに遠く、かすかにかすかに壁の中に吸いこまれていった。
「待て!」
シロウズは全身の力をふりしぼってさけんだ。
「待て! お前たち。神を見たが故に退却するのか。終焉を知ったが故に去るのか!」
シロウズの声はむなしく壁にこだました。こだまの消えたあとにはさらに身も凍るような荒廃があった。
「調査局員! 調査局員! いかがなさいましたか。むこうでお休みになっては。調査局員」
耳もとでしきりに彼を呼ぶ者があった。体中が奇妙にしびれ、立ち上ろうとしても地についたひざが鉛のように重かった。
「どこだ? ここは」
とまどったような声がもどってきた。
「どこって、エレクトラ・バーグですが」
エレクトラ・バーグ? エレクトラ・バーグとは何だ? そうだ! エレクトラ・バーグは金星の……
とたんにすべての記憶が、シロウズの胸にどっ、とよみがえってきた。
思わず立ち上ったシロウズの顔は紙よりもまだ白かった。
そこはたしかにエレクトラ・バーグ空港の外航船コンコースだった。天をおおう巨大なドームの下に、真昼のような照明をあびてさまざまな形の宇宙船がならんでいた。
「おい! 惑星間経営機構の副首席はどうした? 副首席のチャウダ・ソウレは?」
空港管理局の|制服《ユニホーム》をまとった男は片手をあげてシロウズの後方を指し示した。
「今、空港附属病院のほうへお運びいたしました。軽い脳貧血を起されたようです」
「市長は?」
「は、さいわい御無事で。しかし一応附属病院の方へ」
おそろしい疑惑にシロウズはかろうじて耐えた。手をかして立ち上らせようとする男のしぐさを無視して、シロウズはなお地にひざまずいたまま、しだいに定着してくる沈静に身をまかせた。
「調査局員、病院車を呼びましょうか?」
「いや。いらん。それより、君、〈暁の虹4〉はどうなった。説明してくれ」
「〈暁の虹4〉はなぜかいっさいの通信を絶ったまま、金星の衛星軌道へ進入してまいりました。本空港の管制塔による非常誘導にも応答がありませんでした。赤道上周回六周目にフェリー・ボートが離れ、本コンコースに着陸しました。調査局員、副首席、市長、それから〈暁の虹4〉の乗組員二名が下船しました。しかし船外へ出ると乗組員二名は原因不明の発作を起して倒れました。死亡したものと思われます」
「船長次席のコゴウと操機長のリンボーだ」
「調査局員と副首席、市長は三十メートルほど歩かれ、市長は気を失い、お二人はここまで来られてやはり……」
「おれたちがフェリー・ボートを出てから、ここまで何分たった」
「一分ほどでしょう」
「一分!」
シロウズは深い息を吐いた。その一分間の間に、いったい何事が起ったのだろう。あれはつかの間の幻想だったのだろうか? それとも着陸の衝撃が生んだ異様な一瞬の悪夢だったのだろうか?
シロウズは体を起して首を回した。コンコースのホリゾントの描く地平線に、きらめく百万の灯をともして首都エレクトラ・バーグの壮大な|街《がい》|衢《く》があった。
違う! あれは決して夢ではない。一瞬傷ついた心の描いた幻想ではなかった。
たしかにこの耳で聞いたものは、亡びてゆくものの、永劫に寄せる|挽《ばん》|歌《か》であり、都市の歴史にささげる|頌歌《しょうか》だった。
あれは何ものの終末だったのだろう。そしてなぜこの耳だけにあの声が聞えたのか?
シロウズは襲ってくる混迷と闘いながら首をあげて男に言った。
「地上車を。副首席に会いたいんだ」
空港附属病院は空港エリアのはずれにあった。地上車は電磁誘導路にみちびかれて高速で傾斜路を回って附属病院の構内へすべりこんでいった。
副首席は傾斜ベッドに横になって眠っていた。その頭側に当てられた小さな電極が、虫の鳴くようにかすかな震動音を発していた。
「副首席と話をしたいんだが」
従ってきた医務部員は|携帯電話機《トーキー》でどこかとしきりに会話を交していたが、やがてベッドのわきのスイッチを切った。
「三分間だけ許可します。貧血が意外に重症だったのであまり興奮すると危険です」
「よし。すまないが君はちょっと室外へ出ていてくれないか」
医務部員はうなずいて、さらに他のスイッチも切り、それからきびすをかえして室の外へ出ていった。
「副首席、副首席」
シロウズはソウレの肩をそっとゆすぶった。
ふいにソウレは目を開いた。まじまじと視線をシロウズの顔に当てみるみる強いおどろきの色を浮かべた。
「調査局員、これはいったいどうしたことなんだ。ここはエレクトラ・バーグではないか。さっきわしは」
「副首席。落着いてください。副首席のごらんになったものについて聞かせてください」
「わしの見たものって、つまり。君もいっしょだったではないか」
「そうです。ただ確認したいのです」
ソウレは半眼を閉じて深く息を吸った。
「エレクトラ・バーグからの通信は全く途絶していた。君と、わしと、市長と、〈暁の虹4〉の乗組員二名とでフェリー・ボートで強行着陸した。そうだったな」
「そうです」
「見わたすかぎりの砂漠だった。われわれは地上車で出発した。そうだ、われわれは見たのだった。灰色の雲の下に奇妙な尖塔を持った、あれは都市だったろうか、それとも城だったろうか。われわれはそれに向って進んだ。市長のヒロ18はたしか、そのあたりで気を失ったのではなかったろうか。〈暁の虹4〉の乗組員と市長を地上車に残して、われわれはその|廃《はい》|墟《きょ》に入った。長い長い回廊を進んだ。おぼえているかね、調査局員。やがてその回廊はゆきどまりになった。向う側にはいったい何があるのか、われわれには重大な関心があった。調査局員、ほとんど同時に、二人でその壁をたたいた。気がついた時、わしは空港コンコースのコンクリートの上に倒れていた。わしの倒れていた少し先で、やはり同じように君も倒れていた」
シロウズの目は茫、と淡くかすんだ。その目の奥にかえってすさまじい意欲は沈みこんで、口調はかすかに無関心のひびきをたたえていた。
「そうでした。それから副首席は壁をたたかれてからコンコースに倒れているご自分に気がつかれるまでの間、何か人声とか物音などはお聞きになりませんでしたか」
「いや、聞かなかったな。気がつく直前には空港の連中ががやがや騒いでいるのが耳に入ったが」
「そうでしたか」
「調査局員。これはいったいどうしたのだ? なんだか夢でも見ていたような気がする」
シロウズは|応《こた》えず、やわらかな光を放つ壁面に黙って顔を向けていた。あの壁をたたいて、さらにその先はシロウズだけが経験したことだったのだ。ソウレは壁をたたいたその瞬間に、現実へ立ちもどってきたのだった。それから先を、シロウズだけがコンコースのコンクリートの上をさらに二十メートルほど歩いたのだ。その間にシロウズはあの不思議な会話を聞いていたのだ。
「副首席。どうやらわれわれは一種の集団催眠におちいっていたようです。そもそも、エレクトラ・バーグの通信が途絶してしまったと思いこんだ〈暁の虹4〉の司令室がいけなかったのだ。すでにあの時から、われわれは皆、催眠状態にあったのでしょう」
「そうかな。わしにはあれがとても幻想とは思えないのだが」
「副首席、幻想とはしばしばそういうものです。だが、副首席、なぜわれわれが皆いちようにあのような幻想を抱いたのか、これは調査する必要があります。よろしいですか。このことはしばらく誰にも話さないでいてください」
「よし、わかった。しかし奇妙だ。こんなことはわしもはじめてだよ」
「副首席、|冥《めい》|王《おう》|星《せい》へ行かれるのならば、どうぞ御自由に船便をおえらびになってください。いずれお目にかかることもあると思いますが、私はここで失礼します」
「なに? ここで別れるのか。そうか。じゃ、元気でな。わしもこのつぎ君と会うのを楽しみにしているよ。あのことは絶対に誰にももらさんから安心してくれ」
ソウレは半身を起してシロウズに片手をさしのべた。大きくて厚い手はいやに熱っぽかった。
「それでは」
|大《おお》|股《また》に去ってゆくシロウズの幅広い背を、ソウレは首を回して見送った。その背中から白い|焔《ほのお》が噴いているような気がした。それは、気づいた者には思わず面をそむけさせるような、ある|凄《せい》|愴《そう》なものをふくんでいた。
執念かもしれない――ソウレはふと、思った。
あの男は何かを知っている。あの男は、あれは幻想だと言いきったが、あれは決して、傷ついた心が描いたうたかたの幻などではなかった。
あの男は何かを知っている。しかも自分の知らない以外の何かを知っている。それは何だろう? 催眠による幻想だと信じこませようとした意図の下にかくされてあるものはいったい何だろう?
ソウレはまたしてもシロウズの背中から噴いて出た執念を思い浮かべた。
金星をめぐって、今、何かが起りつつある。ソウレは静かに目を閉じて去っていった男の靴音に耳をすませた。靴音はもう聞えなかった。
シロウズは外への出口に向わずに、かえって病院の構内奥深く入っていった。〈医務部エリア〉と記された一画に立ち寄って、エレクトラ・バーグ市長、ヒロ18の病室の所在をたずねた。一人の医務部員が先導に立った。幾つもの回廊を横ぎり、リフトを乗りかえて、やがて一つのドアの前に着いた。
「ここです」
「ありがとう」
ノックすると、しばらくたってから応えがあった。
「どうぞ」
応えとほとんど同時に、スチール・ドアは音もなく横にすべった。
やわらかなクリーム色の光があふれる広い病室の中央に、スチール・パイプのソファを置いてヒロ18が寝そべっていた。
クリーム色の光は、彼女の頭上に|天《てん》|蓋《がい》のようにさしかけられたサークル・ランプから投げかけられてくるものだった。見おぼえのあるあのチタニウム・ファイバーのコンビネーション・スーツがやわらかな光の中で、淡黄色のパステルカラーのつやを放っていた。
「市長、ご無事で何よりでした」
ヒロ18は黙ってシロウズの顔を見上げた。その大きなひとみに、サークル・ランプがぽつんと映っていた。
「どうぞ」
ヒロ18は高く結い上げた髪の、うなじのほつれ毛を指の先でかき上げながらかたわらの軽金属の|椅《い》|子《す》を目で指し示した。
シロウズはゆっくりと腰をおろしながらあらたまった口調で切り出した。
「実は、市長。二、三、うかがいたいことがあるのですが」
ヒロ18はふたたびソファにのびのびと体をずらし、頭当てにのせた頭をわずかにシロウズに向けた。
「どうぞ」
にこりともしない目が、ひた、とシロウズの顔に当てられた。
「市長、あなたはさっき、われわれ三人がおちいった集団幻覚ともいうべき現象をおぼえておいでですか?」
ヒロ18はまたたきもせずにシロウズを見つめたきりだった。
「あのような現象について市長はほかに何か経験されたことはございませんか? あるいは市長でなくとも、他に誰かあのような経験をした、という話はありませんか?」
シロウズはたたみかけるようにたずねた。
ヒロ18は頭を動かしてまっすぐ天井を見上げた。凝然と視線を天井へ遊ばせて、しばらくして口を開いた。
「副首席は何と言っていました?」
「え?」
シロウズはひざを組んで小鼻を|爪《つめ》の先で|掻《か》いた。質問の答えを的確に引き出すのは難かしい。
「副首席は何と言っていました?」
同じ口調でヒロ18はくりかえした。
「あれは、とても幻覚とは思えない、と言っていたが」
ヒロ18はかすかにうなずいたようだった。
「あなたはどう思いますか? 調査局員」
ヒロ18は手を伸ばすとソファの頭当ての側面のスイッチを押した。
天蓋のサークル・ランプが急にかがやきを失い、|陽《ひ》の|翳《かげ》るように淡くなってゆくと、それにかわって壁面と上部がまばゆくかがやきはじめた。発光材で張られているらしかった。やや青みをおびたその冷たい光は、ヒロ18を金属的な冴えた鋭さに変えた。
「質問しているのは私の方だと思うが、市長」
ヒロ18は一瞬、内側の姿勢を変えた。
「そうでしたね。調査局員。先ずあなたの質問にお答えしましょう」
視線はいぜんとして天井に向けられたままだった。
「実はこれまでに二度、あれとたいへん似かよった体験をしています。一回は市政庁ビルの内部で、一回は私の|個室《コンパートメント》で」
シロウズは逆に沈黙した。心もち細められた目が鳥のように無表情になった。
「二度とも、あの灰色の砂漠と、それから奇妙な塔のある巨大な建築物を見ました。そして中へ入ると迷路のような回廊がどこまでもつづき――」
言葉が絶えると、深い海の底のような静寂がひろがった。そのままヒロ18は声を|呑《の》んだ。しばらくたってシロウズがかすかに身じろぎした。
「それで?」
「それだけ」
断ち落すようにヒロ18が言葉を切った。
「それであなたはフェリー・ボートに乗ることを希望したのですね。あなたのその体験を自ら解明されるために」
ヒロ18はわずかに目を動かした。
「質問はそれだけですか」
「いや、もう一つある。あなたはあの奇妙な塔に近づくにつれてしだいに気力をうしなわれ、ついに意識不明になった。なぜですか?」
シロウズはわれながら乱暴な質問だと思った。しかしシロウズ自身、あの奇妙な体験を幻覚だったのか、それとも現実だったのかまだ決めかねていた。ヒロ18があの塔に近づくにつれてしだいに元気がなくなり、ついに意識を失ってしまったことは、もし、あれが幻覚だったとすればそれはただシロウズの|脳《のう》|裡《り》にだけ起ったことなのだ。しかしあれが現実だとしたら――
ヒロ18ははじめて表情を動かした。一瞬の当惑がその青みをおびた|眉《まゆ》の下のひふをかすめた。
「あの塔に近づくにつれて、私はひどい頭痛と|嘔《おう》|吐《と》|感《かん》に苦しめられたのです」
シロウズの目は針のように細くなった。
「すると、あれはやはり現実のできごとだったのだな」
三人が三様におちいった幻覚ではなかった。やはり三人がどこかの世界で現実に行動していたのだ。
「市長、あなたはあれをどうお考えになりますか?」
シロウズは深く腕を組んだ。ヒロ18は何事かを胸のうちで整理するように黙って天井を見上げていたが、やがてゆっくりと体を起した。上体をシロウズの方へねじ向けた。
「過去か、未来か、あるいは他の次元か、ま、今はそれはどちらでもたいした問題ではないけれども、誰かが、いえ、何ものかがと言った方がいいわね。その何ものかが私たちに何ごとかを告げようとしているのではないか? 私はそう思うのです」
ヒロ18のうるんだアルトだけが、室内の静寂に流れた。
「もう一つ。その手がかりはあきらかにこの金星のどこかに、あるいはエレクトラ・バーグの周辺のどこかに在るのではないかということです」
シロウズは身動きもしないでヒロ18の言葉に耳を傾けていた。やがて顔を上げてたずねた。
「それだけの結論をつかむためには相当、詳細な調査をなされたのでしょうが、何か確証となるような資料がありましたか?」
ヒロ18はこのとき、|謎《なぞ》のような微笑を浮かべた。
「資料など何一つありません。すべて私の体験を分析した結果です」
「体験の分析、か」
「このエレクトラ・バーグの保安局の中枢はダブル・トリミング方式の|綜《そう》|合《ごう》電子頭脳なのです。ご存知でしょう。あらゆる犯罪を事前に予知してその防止方法を算出する機構を」
シロウズは何かしれない霧のようなものが脳裡を横ぎるのを感じた。
「それで、その犯罪予知電子頭脳に分析させたところが、あの現象には何ごとか、犯罪、いや不幸な事件の輪郭が感じられた、とおっしゃるのですね」
ヒロ18は片手の指先を軽くひたいに当てて目を細めた。その目が無機的な光を放った。
「そう。かつて、遠いむかし何かがここで起った。それをあの現象は今に伝えようとしているのではないでしょうか」
「遠いむかし――いつ頃」
「さあ、計り知れないほど遠いむかしでしょう」
「すると、あの巨大な塔のある建築物を造ったものたちの上に起った何かのできごとが、ふたたびわれわれの上にめぐってくるのだ、とでもおっしゃるのですね」
「不幸の予知は幸福の予知に比べればはるかにやさしい、と彫られた記念碑がありましたわね」
シロウズはうなずいた。
「木星のサベナ・シティだ」
あの吹き荒れ、波しぶくアンモニアの大気とメタンの海、あそこではたしかに不幸の予知だけはいかにもたやすく、しかも確実に、そして誰にでもできるのだ。
シロウズは視線をヒロ18の上にもどした。
「それで、その予測される不幸に対する防止策として、いかなる方法が算出されましたか?」
「一時間もかかってようやく一つの解答が出ました」
「どんな?」
「〈不明〉ただそれだけ」
二人の間にふたたび深い沈黙がきた。
二人はたがいに離れて置かれた一組の彫像のようにおのれの姿勢を固く守ったままその沈黙に耳をかたむけていた。
――だが、まて、これはいささか速断に過ぎないだろうか? 彼女の体験したものがおれの体験したことと同じ性質のものなら、どうしてあれだけのことを幾つものサンプルに分けてプログラミングできたのだろう? 果してあれだけの資料で、やがて到来するであろう不幸なできごとの遠い足音をとらえることができるものだろうか? それになぜあれを不幸なできごとに結びつけたのか。彼女の確信めいたものはもっとたしかな幾つかのデーターにもとづいているのではないだろうか? たしかに彼女はおれの知っている以上のことを知っているらしい。しかし彼女はなぜそれをかくしているのだろう?
シロウズはそのとき、ふたたび深い霧のようなものが脳裡を過ぎるのを感じた。
シロウズはのろのろと立ち上った。
「それでは、これで」
二人の視線が、たがいに相手の目の奥をのぞきこむように一瞬、からんだ。
シロウズは軽い会釈を残してきびすをかえした。
ヒロ18がふわりと動いた。
「飲物はいかが? K10飲料です」
「K10?」
「アルカロイド性の飲料です。わがエレクトラ・バーグの生産局が新しく開発したものです。まだ公式には発表していないけれども」
シロウズの返事も待たず、ヒロ18は壁の一方にとりつけられた透明な戸棚からポリタンクと二個の容器をとり出してきた。ポリタンクの栓をひねると淡黄色の液体が容器になみなみと注がれた。液体は素晴らしい透明度を持っていた。ヒロ18は容器の一つをとり上げて自分で一口飲んでみせ、もう一つをシロウズにさし出した。しかたなくシロウズはそれを受けとり唇に当てた。舌からのどの奥にかけてこれまで味わったことのない|爽涼感《そうりょうかん》がはしった。何の香りか、軽い刺激的な|匂《にお》いが口から鼻へぬけてひろがった。
経営機構の内部では、すべての新しく開発された食品は関係する機関の登録を受け、それが適当なものであれば量産に移して機構傘下の各都市へ配給しなければならなかった。
「調査局員、年齢は?」
「百二十七年です」
「私は九十二年。これは私が二十三年の時よ」
ヒロ18は微笑んで両手をひろげて姿態をさらすように反り身になった。ふつう、よほど親しい者にでもなければ、現在の|容《よう》|貌《ぼう》や姿が何歳の時のものか告げたりはしないのが慣習だった。
シロウズは微苦笑した。
「私は三十七年の時のものです」
百年、百五十年と寿命を重ねようとも、自分のもっとも気に入った年代の容貌や姿態を保ちつづけていられるこの頃だったが、時としてそれがひどく邪魔になることもあった。出生のおそい者が、出生の早い者より老けた容貌や姿態を持っていることがしばしばあったからだ。
シロウズは一息に飲料を干した。
――不幸の予感か。しかし、いかなる不幸が到来するというのだろう?
心はそのことだけを回っていた。
シロウズは容器をヒロ18の手にもどした。
「これが量産されたら市民は非常に喜ぶでしょう」
ヒロ18は容器をささげるように持ち、その容器の上から大きなひとみでシロウズをひた、と見つめた。そのひとみの奥に氷のように冷たい焔がやどっていた。友情でもない。信頼でもない。もとより恋する者のそれでもない。獲物をねらう機敏な動物のそれでもなく、また|仇敵《きゅうてき》のすきをうかがう者のそれでもなかった。
シロウズは背すじを伝うかすかな|戦《せん》|慄《りつ》を感じた。
挑戦だ! これは挑戦なのだ。ヒロ18は何ごとかを|回《めぐ》って戦いを挑んできているのだ。シロウズはしだいに冷え上ってゆく胸の中で息をひそめた。それがあの奇妙な現象と結びついているであろうことはもはや疑うまでもなかった。
――彼女は何ごとか非常に重大なことを知っているのだ。そして自ら解明にのり出している。彼女はいったい何を知っているというのだろう。
「それでは、また」
シロウズはヒロ18の前を離れた。ドアに手をかけ、ふりかえってふと言った。
「保安局の電子頭脳を見学させて下さい」
ヒロ18はかすかに眉をひそめたが微笑をとりもどしてうなずいた。
「どうぞ」
シロウズは静かにドアを閉じた。
〈医務部エリア〉、サインを視野の端にとらえて回廊へ出た。
医務部エリアに附属するおびただしい施設を通りぬけ、やがて幾すじもの|走路《ベルト》が大河のように流れている広大な回廊がひろがった。おびただしい人々がいそがしそうにゆききしていた。軽金属の巨大なコンテナーが山の様に積まれて流れていった。そのあとから、子供たちの群がこぼれ落ちそうに運ばれていった。そのさわがしい叫び声や|唄《うた》|声《ごえ》を見送って、シロウズは一人の男を呼び止めて保安局への道をたずねた。
「十九号|走路《ベルト》が医務部エリア、A四居住区、保安局コースの|直通走路《エクスプレス》だからあれにお乗りなさい」
言われてシロウズは幾つも|補助走路《サブ・ベルト》や固定プラットホームをこえて十九号|走路《ベルト》に飛び移った。おりたたまれていた|座席《シート》をおこすとシロウズは腰をおろして風防を引きあげた。
腰をおろすと、また身内によどんでいた疑惑が雲が|捲《ま》くようにふくれ上ってきた。あの奇妙な塔、何ものかが交していた劇的な会話、ヒロ18との会見、そして秘められたままの数々の事実、風防が風を切る笛のような音にシロウズは耳を傾け、底知れぬ|奈《な》|落《らく》へのめりこんでゆくような不安にそうけだった。
――その手がかりはエレクトラ・バーグの周辺のどこかにあると思う。
――遠いむかしに起った何かのできごとを今に伝えようとしているのではないだろうか? ヒロ18の声が耳の底に聞えていた。
シロウズは首をふってその声を胸の中からしめ出そうとした。
「そもそも、奴は何者なのだ?」
シロウズは声に出してつぶやいた。
――調査局の記録によれば、年齢は九十二年。エレクトラ・バーグの医務部エリアで生れている。惑星間経営機構の上層部に設けられた特別教育機関で長期にわたる教育を受け、このエレクトラ・バーグの経営局に配属されている。この期間に見るべき活動なし。三七三五年、大圏航路関税同盟の締結にからむ辺境星区とエレクトラ・バーグとの間の|執《しつ》|拗《よう》な|軋《あつ》|轢《れき》に手を焼いた惑星間経営機構は、ついにエレクトラ・バーグに対する弾圧にのり出した。それによって金星植民都市群の発言力を弱めようとしたのだ。しかしその意図は失敗に終り、かえってそれを機会にエレクトラ・バーグは惑星間経営機構に陰に陽に圧力を加える存在にのし上ってしまったのだった。その時、エレクトラ・バーグの指導者としてヒロ18の名がはじめて記録に載った。調査局ははじめて、そのときおそるべき指導者としてあのヒロ18に注目したのだった。『完成された電子計算機』と評したある調査局員がいたが、たしかに当を得た観方かもしれない。すでに市長として十四任期をつとめ、その位置はほとんど独裁者にもひとしい。市長としての個人的な存在は意味もないが、巨大な経営の機構を考えるとき、その運営の|鍵《かぎ》を握るのが一人の人物であることを思うとそれはまさに恐怖ともいえた。
――遠いむかしに起ったできごとを今に伝えようと、
シロウズは唇をゆがめた。
〈保安局エリア〉
サインがきらめいた。シロウズは風防をはねて立ち上った。
〈保安局エリア〉は十数層からなる広大な領域を占めていた。オレンジ色の|制服《ユニホーム》の男や女たちがすれ違うシロウズに好奇の視線を注いだ。
「調査局のシロウズです。長官にお会いしたい」
オフィスをたずねたシロウズは、ここで一時間近く待たされた。その間にひそかにシロウズの容貌、骨格、代謝のタイプなどが調査され記録の照合がおこなわれているのであろうことはシロウズにもわかっていた。まして事前の連絡もなしに突然、調査局に所属する人物の来訪を受けた場合、緊張するのは当然だった。惑星間経営機構という巨大な組織の、調査局は鋭敏な触手でありおそるべき毒針でもあったからである。しかも良きにつけ、悪しきにつけ、シロウズの名を知らぬ者はなかった。
やがて長官はシロウズの申請を許可した。面会時間は五分。立体テレビで行なう、という連絡がシロウズのもとに届けられた。シロウズは思わずにやりと笑った。
大会議室の広大なホールに通されたシロウズは、室内の一角に影のように浮き出てきた保安局長官に、必要以上に|鄭重《ていちょう》に身をかがめた。
「長官、おいそがしいところを突然に失礼いたします。実は保安局のダブル・トリミング方式の綜合電子頭脳を見学させていただきたいのです。市長の許可は先程、直接いただきました」
保安局長官の顔に烈しい血の色が動いた。ほっ、と肩を落すとにわかに笑顔になった。
「や、それはどうも。いや、突然のこととてたいへん失礼いたしました。電子頭脳の方はどうぞご自由に。私は|只《ただ》|今《いま》、会議中ですのでこれで失礼いたします」
長官はあらわれてきた時とはまるで人が違ったように明るい顔になって、あたふたと消えていった。シロウズが難問題をたずさえてきたのでなかったことがよほど|嬉《うれ》しかったらしい。電子頭脳のことなど気にも止めなかった。
シロウズはオフィスから一人の局員を借り出した。その男によって、シロウズはさらに数層上の電子頭脳操作室にみちびかれていった。操作室の手前の小室でシロウズと案内の男は厚い防寒コートをまとった。ガラス繊維のハニカム構造を持った厚い防寒コートは、二人を宇宙探検隊員のようにものものしく見せた。二人はたちまち噴き出る汗に息をはずませた。
防寒コートを点検すると男は壁のボタンを押した。シグナルが赤からオレンジ、オレンジからあざやかな緑色に変った。音もなく壁が左方へ滑った。
一瞬、眼下に目のくらむ光の海が開けた。その強烈な光の散乱にひとみをこらすと、はるか下方に何かおそろしく大きなものが横たわっていた。それは円盤型の宇宙船を上から見おろしたような形をしていた。
シロウズはハンドレールを固く握りしめて体を支え、石に化したようにそれに目を当てつづけた。そこにあるのは人類の思考の極限が造り出した電子機構の集積だった。
「点検用のゴンドラが来ました」
案内に立った男の声に、シロウズは、はっ、とわれにかえった。巨大なガントリー・クレーンのパワー・アームの先に設けられた銀色のゴンドラがゆっくりと近づいてきた。
「下へ降りてご案内しましょう」
シロウズは何気なくたずねた。
「ずいぶん大きなものだが、どこで操作するのかね?」
男ははるかかなたの壁面を指さした。
「あそこにガラス張りの張り出しが見えますが、あれが操作室です」
円形競技場のようにやや|楕《だ》|円《えん》|形《けい》をおびた壮大なホールの対岸の壁面の中腹に、あたかも|断《だん》|崖《がい》にさしかけられた監視所のようにガラス窓が光っていた。そこまで五百メートルはあろうと思われた。
二人はゴンドラに入った。
「このダブル・トリミング方式による綜合電子頭脳は全部で七十基の母機から成っています」
男は説明をはじめた。彼にしてみれば、調査局のバッジをつけたこの男が、なんで電子頭脳に興味を持ったのかはなはだ不可解だったろう。しかし男は熱心だった。
「この電子頭脳の成功した原因は、これまでできるだけコンパクトにまとめようとしたものを、すえつけ面積は一切、度外視して設計した点にあるといわれています。従ってこのように極めて大型のものになりました。そしてその七十基の母機と、それに接続する補助電子頭脳六百三十五基をすべてあのように中央に集中したのです。重量四万二千トン、作動最高時使用電力量一万九千キロワットです」
「この電子頭脳だけで小さな発電所が一つ必要だな」
「はい。発電量三万八千キロワット時の原子力発電所が附属しております」
シロウズはひそかに舌をまいた。
「室内温度は常にマイナス四十五度Cにセットしてあります。これはこの温度における作動がもっとも鋭敏であることが実験的にたしかめられたからです」
シロウズは説明に耳を傾けるふりをしながら、目はもっぱら遠い操作室へ向けられていた。眼下には巨大なサイクロントンのような電子頭脳が青灰色の肌をかがやかせていた。
「このダブル・トリミング方式というのは……」
やたらに難解な技術用語が連続してシロウズを困惑させた。がまんしてうなずきかえし、説明のとぎれたすきにシロウズはようやく言葉をはさんだ。
「操作室を見せていただけませんか」
男は一寸、考えていたが、
「でも、今は操作は休んでいるようですが」
「いや、機器類の配置などを見るだけでいいんだ」
男はうなずいてゴンドラをあやつっていった。
「部外者は操作室への立入りは厳禁になっているのですが、調査局の方ですからよろしいでしょう」
男はシロウズを見て微笑した。シロウズは感謝するように軽く頭を下げて微笑をかえした。そのとき、はじめてシロウズは分厚い防寒コートをとおしてきびしい寒気が身に浸みこんでいるのを感じた。シロウズは固くこぶしを握りしめた。
二人はゴンドラから操作室のプラットフォームに降り立った。操作室の内部は人の気配もなく、空気は鋼のように硬かった。|煌《こう》|々《こう》たる照明の中で無数のパイロット・ランプやメーター類がすき間なく壁面を埋めていた。ユニバーサル・アームに支えられた小さな座席が飾物のようにぽつんと置かれていた。
「すべての操作機構があの椅子の動く範囲に……」
男は説明しかけて、けげんな面もちで言葉を切った。
シロウズの右手が、〈電源〉とサインのともっているボタンを押した。数十個のパイロット・ランプがいっせいにともった。どこかでヒィーンと冷却器のファンの回転する音が聞え、すぐ低くかすかに静まっていった。
シロウズは無言でつぎに〈作動〉と示されているキーを倒した。先のパイロット・ランプの群に隣りあった数十個が、これも生命を吹きこまれたようにともった。
「調査局員! 手を触れてはいけません」
男はシロウズの行為に|唖《あ》|然《ぜん》とし、次に顔を引きつらせてシロウズを押し止めようとした。
「君! 動くんじゃない。私は調査局の人間として市長に操作の許可を得てきている。君の責任にはならないから安心して私に協力すればいい」
シロウズは抑揚のない声で言い|棄《す》てると、さらに〈全回路受容〉とサインのかがやいているキーを押した。
「しかし調査局員、私はそう聞いておりません。操作部の確認サインを得てからにして下さい」
男は蒼白になった顔に汗の粒を浮かべてシロウズにとりすがった。
「君! 私の言っていることがわからないのか!」
シロウズは片手で男を押しやった。男の顔にどす黒い恐怖の色が浮かんだ。シロウズの低い静かな声音の中に、男はおそろしい危険なものを感じた。それに調査局員であるというある固定観念が男の行動を鈍らせた。男は蒼白な顔に歯を|喰《く》いしばってじりじりと後退した。シロウズはもう男のほうはふり向きもしないで操作席に体をすえた。おびただしいスイッチやダイアルなどを一つ一つたしかめながら、シロウズの胸は|嵐《あらし》のような焦燥に|喘《あえ》いだ。もう保安局では突然、電子頭脳に電力が入ったことに気づいたかもしれなかった。当然、非常点検の手がのびてくるであろう。それまでに、それまでに、それまでに。シロウズは満身の力で高鳴る胸をおさえて、操作盤の上に目を走らせていった。シロウズはこれまでに幾種類もの電子頭脳を操作した経験を持っていた。極めて旧式な簡単なものから、ほとんど人間の頭脳の働きにひとしい能力を持ったものまでいろいろあったが、今、目の前にあるものは、これまでに知っているいかなるものとも異っていた。
――ダブル・トリミング方式というのは、たしか、それまでにあつかった資料のすべてを整理、蓄積しておいて、それを以後、自由に選別して判断の資料にする、という機構になっているはずだ。
――したがって命令さえすれば、ある特定の資料をとり出して見せることができるはずだ。
――そのキーはどれだ?
ふいに窓ガラスの外に黒い影が映った。ゴンドラがプラットフォームから離れてゆくところだった。シロウズを案内してきた男が、ゴンドラから身をのりだしていた。土気色の顔が一瞬、窓の外をかすめてすぐ下へ見えなくなった。
シロウズの体は火のように燃えた。逆に頭の中は氷のように冷たく|冴《さ》えかえった。残る時間はおそらく二分とはないだろう。落着くんだ、落着くんだ。シロウズは弾む息をこらえて胸の中で必死に叫んだ。
「資料確認、資料摘出……資料摘出、資料摘出、これかな」
シロウズはそのキーを押した。幾つかのランプが消え、新しく幾つかがともった。
〈資料選別用意よし〉
クリーム色のサインがまたたいた。
「くそ! 資料をえらばせるコードはどれだろう」
この電子頭脳が持っている何億何十億という蓄積資料の中から、ヒロ18が投入したあの奇妙な現象について資料をいったいどうやって吐き出させるのだろう?
〈資料選別用意よし〉
〈資料選別用意よし〉
サインはしきりにシロウズをうながしていた。
シロウズは窓の外を見た。まぶしい照明を浴びて、電子頭脳だけが頂きの平坦な山のようにひろがっていた。人影一つ見えなかった。今になってガントリー・クレーンが黄色と黒の|縞《しま》に塗り分けられているのに気がついた。
シロウズはもう一度、操作盤上に並んだ幾十列ものスイッチ群に目を走らせた。
〈七A七、九C一、ロクオンジュンビヨシ〉
シロウズは思わず飛びあがった。その声は熱鉄のように耳の奥を|灼《や》いた。
〈七A七、九C一、ロクオンジュンビヨシ〉
ふたたびどこからか、それは聞きとれないほどかすかに伝わってきた。メーターの指針がいっせいに動いた。
「あれだ!」
シロウズは思わず叫んで座席を大きく回転させた。〈回路四一BB〉と記されたパネルの前面にレシーバーがとりつけられていた。声はそこから|洩《も》れてきた。
「そうか! この電子頭脳は音声操作だったんだ」
シロウズは送話器をつかんだ。
音声操作はキーパンチ・カードのような特別なコードを必要としない。人間に話すように送話器に向って言葉で直接命令を下せばよいのだった。七A七、九C一、この二基の補助電子頭脳が口と耳の役目をしているものらしかった。そして言葉で伝えられた命令を独自のコードに変え、中枢部の記憶回路を発動させるものとみえた。
〈七A七、九C一、ロクオンジュンビヨシ〉
シロウズはおのれの口がくわっと裂けたような気がした。
「市政庁ビル内部、エレクトラ・バーグ市長|個室《コンパートメント》にあらわれた灰色の砂漠、高い塔をもつ建築物についてのすべての資料を示せ。資料はキーパンチ・カードでよし」
もう一度くりかえそうとしてシロウズはあやうく口を閉じた。音声記号によるすべての装置に命令を二度くりかえすことはいたずらに混乱を招くおそれがある。命令を二度くりかえしたために、同じ答を二組、造り出してしまうことすらめずらしくなかった。
パイロット・ランプが騒然と点滅した。
まだここへ近づいてくる何者の気配もなかった。
パイロット・ランプはつぎつぎと消え、そしてふたたびともった。それはまるで光の中を暗黒の縞が矢のように見えた。
突然、七A七が赤いパイロット・ランプをともした。
〈キーパンチ・カードノイミ、フメイ〉
「なに! キーパンチ・カードを知らないのか」
思わず|怒《ど》|鳴《な》って、しまった! と思った。とたんに反問がかえってきた。
〈ツヅケテイミ、フメイ〉
「キーパンチ・カードとは記憶事項に相当する部分を欠損サインで示す一連カードのことだ」
七A七は沈黙した。ややあってふたたび質問がもどってきた。
〈リールノコトカ〉
――リール? ああ、カードの代りに細長い紙を使っているのか。
「リールよし」
赤いパイロット・ランプが、ふっと消えた。
数秒後、パネルの中央の小さな銀色のふたが開いた。その細いカード吐き出し口から、幅一センチメートルほどの白い長い紙が急流のように勢よくおどり出てきた。手にとってみると無数の微細な穴がうがたれていた。シロウズはその紙に火のような目をそそいだ。「応答不能」ただそれだけだった。突然、それまで目にもとまらぬ早さで点滅をつづけていた無数のパイロット・ランプがいっせいに消えた。冷却器の音がかすかにうなりを|曳《ひ》いて遠くなっていった。ついに電源を切られたのだ。
シロウズは駄目と知りつつ幾つかのキーを倒しスイッチを開閉した。壁面を埋めるパイロット・ランプの群は、もう死魚の目のようにむなしく、ただのガラス玉の光を反射していた。シロウズは解答をはじめたリールを引き千切り、丸めて|制服《ユニホーム》のポケットにおしこんだ。
操作室の奥に金属ドアがあった。出口はそこだけしかない。
シロウズはそっとドアを押した。ドアは音もなく開いた。人影もない回廊が乳白色の照明の中に真直ぐのびていた。どこか遠くでベルが鳴りつづけていたが、それはシロウズの侵入とは関係ないものか、いやにのんびりといつまでも聞えていた。シロウズは足音を忍んで急いだ。保安局員がかけつけてこないのが不思議だったが、このように巨大な機構ではささいな活動にすら何分もついやすことは普通だった。おそらくチェックにチェックを重ね、長いやり取りのあとにようやく出動ということになるのだろう。シロウズが電子頭脳に電力を注入してからまだ三分にもなっていないはずであった。
電子頭脳の吐き出した資料を何とか守りぬきたかった。保安局さえぬけ出してしまえば調査局員の権限でかなり安全は約束されていた。ここに長くとどまる限り、部外者に電子頭脳に手を触れさせてしまった失態をおおいかくすために、保安局の上層部は積極的な手段を講ずるに違いなかった。保安局から出てしまえば、もうそこにはたくさんの市民の目がある。その市民の目の前で惑星間経営機構の職員に危害を加えるなどということは、いかな保安局でも容易にできることではなかった。
回廊にリフトがならんでいた。その前にたくさんの保安局の制服を着た人々が群れていた。シロウズはゆっくりと近づいていった。しかしシロウズに注意を払う者は|誰《だれ》もいなかった。彼ら、下級局員にとっては、今脳裡を占めているのはリフトが早く到着することだけらしかった。ようやくリフトのシャッターが開くと、なだれこむ彼らに混ってシロウズもリフトに入った。彼らは下級内部職員とみえ局内の施設や、書類整理などの話題がしきりに交されていた。その点では有能な彼ららしかった。
シロウズはようやく居住区の回廊にたどり着いた。保安局の捜索がおこなわれているのかいないのか、たしかめようもなかったが、一応の危険は脱し得たものと思われた。居住区では色とりどりの|制服《ユニホーム》をまとった市民たちがシロウズと肩を触れ合って行き過ぎ、すれ違っていった。濃紺の制服、明るいオレンジ色の制服、白い作業コートに黄色の絶縁服、それらがいそがしげに自分たちの居室へ急いでいた。そこはこのエレクトラ・バーグの中でも、もっとも雑然とした一画であり、つねに生きた人間の臭いがしていた。
〈三七地区居住者への配食は十七時よりおこないます。地区メス・ホールは改修工事中ですから配食カードを交付しますから三五、三六、三八各地区ホールに提示、配食を受けて下さい……〉
〈三四地区居住者でまだ配食を受けていない者は急いで下さい〉
〈被服、飲料等特別交付票所持者は二十時、第七居住区Dプラットフォームへ集合してください〉
アナウンスが回廊にこだましていた。ある者はそれを耳にしてにわかに足を早め、ある者は何人かと叫び交して他の回廊へ曲っていった。居住区は今、プライベート・タイムをむかえようとしているらしかった。人々はそれぞれの所属する部局から解放され、自由な時間を楽しんでいた。
居住区にこそ初期建設時代の苦悩の歴史が刻みこまれているといえた。時おりあがる荒々しい笑い声や、苦渋にみちた年老いた顔などがふんだんにここにはあった。エレクトラ・バーグをはじめとする金星植民都市が、地球連邦の都市ともっとも異なる点があるとすれば実にそこだった。地球連邦はようやく衰え、人々の生活は苦しかったが、豊かだった時代の残光がなお訪れる者の目を奪うこともあった。しかし、宇宙植民都市は、火星の東キャナル市にせよ、このエレクトラ・バーグにせよ、過去の豊かだった時代の想い出はない。あるものは苦悩の刻印、なお消し難い建設の惨苦の歴史だけだった。
シロウズはどこの都市でも、居住区に足を踏み入れると、不思議な興奮をおぼえるのだった。そこだけには敵意もなければ、都市の興亡をめぐる策謀もなかった。シロウズははじめて、ほっ、と太い息を洩らして足のはこびをゆるめた。途中、一度だけ白いヘルメット姿の保安局員の姿を見つけたが、シロウズは回廊の一つにおれ曲ってそれをやり過した。
〈B登録者は……してください〉
〈……A登録者に対する……配給が計画されています〉
きれぎれにアナウンスが聞えていた。
――B登録者か。
B登録とは、個室を一つにすることを希望する一組の男女が、市経営部にそれを申請し、厳重な審査をへて与えられる同番号登録のことだった。B登録者はあらゆる面で保護されていた。それはあの初期植民時代に|於《お》ける市民生活の基本的形態に対する感傷的変形ともいえた。人類が惑星開拓の初期にもっとも苦しんだのは実は植民都市に於ける男性と女性の数のあまりにも大きな開きだった。しかし結果的にみるとそれが人々に優れた子孫を残すことになったのだとも言えた。
〈B登録者に対する特別配給票は……〉
シロウズは無為に終った探検の苦さをポケットの中で握りしめてその声をあとにした。
居住区を出はずれると、シロウズの目の前にエレクトラ・バーグの壮大な夜景が浮かび上った。幾千万の燈火のまたたきは遠い潮騒のような市街のどよめきを伝えていた。ドームの外には、濃厚な窒素ガスや炭酸塩の雲が低く垂れこめているはずなのに、眼下にあるのは一千万の市民をようする巨大な植民都市だった。
その光の海のどこかにヒロ18がいるはずだった。
〈遠いむかしに何かがここで起った。それを今に伝えようと――〉
〈不幸の予知は幸福の予知にくらべればはるかにやさしい――〉
シロウズの胸に|兇暴《きょうぼう》なものが噴き上ってきた。高く結い上げた髪と、ほつれ毛をなでつけていたしなやかな指の動きが、突然、シロウズのまぶたに|炸《さく》|裂《れつ》した。
挑戦だ! これは挑戦なのだ!
彼はくしゃくしゃに顔をゆがめた。彼は頭をふって高く結い上げた髪と、しなやかな指の動きを追放した。しかしそれはすぐまたもどってきた。
ドームの外、はるか遠い空で、旗のように|極光《オーロラ》がはためいた。
第四章 星そして星々
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人は|暗《くら》|闇《やみ》を破り、いやはてまでもたずねきわめて、暗闇および暗黒の中より石をつかみぬ
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宇宙空間――その|茫《ぼう》|々《ぼう》たる非情のひろがり。あらゆる形象も存在も、|永《えい》|劫《ごう》の時の流れに|虚《むな》しく跡をもとどめない限りない放心のそこ。月のない暗い夜、星々はいよいよ騒然とその光を夜空にまき散らす。海原のようにひろがる無数の微細な光点は、その背後の大宇宙の暗黒と果もしれない奥行の深さをさらにきわだたせる。青白い星、暗い赤い星、オレンジ色の星、あるいは糸の切れた首飾りのようなひあです[#「ひあです」に傍点]、ぷれあです[#「ぷれあです」に傍点]などの星団。あるいは遠く光のしみのような淡い星雲、夜更けて、星空に目を遊ばせるとき、人はしだいに虚しく透きとおってゆくおのれの心に気づいて、ふと、おののく。それはかがやく星々とおのれとの間の気も遠くなるような距離の遠さに気づいた心の、声にならないおびえでもある。絶対的なものとの対面はおそろしいが、それは人々の心を無に帰する。無に帰した心は、もうとうに棄ててきてしまったもの、どこかへ置き忘れてきてしまったものへの限りない接近をこころみる。しかしそれは決して近づくことができない、決してそこへたどりつくことのできないはるかな想いに過ぎない。|茫《ぼう》|漠《ばく》たるひろがりのそこには、人の心を結べる何ものもない。永遠に近い過去から永劫の未来にかけて流れてやむことのない時の流ればかり。その永劫の中で星々は光り、爆発し、また消えてゆく。人々は七十年の生涯のあるとき、ふと星々を見てその遠きを思う。永劫の中の七十年が、いったい何を意味するのか。
この|渺《びょう》たる一惑星の上に生命が宿るにいたったそのいきさつはまさに運命的ですらある。
宇宙空間――その荒涼たる不毛のなかには、人をして強烈に酔わしめるものがある。おのれの存在すら疑われるような広漠たる時空の中に、実は原初の生誕の物語がある。それはあの古えの神話に変る新しい科学の頌歌でもあるのだ。
星間物質――この舌ざわりの悪い、実用本位一点ばりのこの言葉(自然科学上の用語はえてしてそうなのだが)、星間物質。実はそれがすべての星の生誕の秘密につながっているのだ。これが星々の創成と、宇宙の構造の本質を神話の世界から引きもどし、伝説めいた幼稚な模型を驚嘆すべき現代宇宙構造論にまで仕立て上げたのだ。
その正体は冷たく微細な粒子である。宇宙空間にあっては、陽子と電子の大部分は水素原子を形造り、その水素原子のほとんど半分は、太陽のように自らかがやく星――恒星を作っている。そして他の半分は広漠たる宇宙空間にただよう|塵《ちり》のように投げ出されている。このあとのほうのものこそ星間物質の主要形成物であり、実態は原子のままの形で存在するものと、分子の形で存在するものとの二通りがある。このほかに水素原子より重いもの、たとえば鉄、銅などの金属の原子や、酸素、炭素などをもふくんでいる。そしてこれらが極めて|稀《き》|薄《はく》な化合物や混合物を作っていることもある。たとえばその一つとして微細な氷の粒となっていることも観測されている。これら星間物質はその直径は二万分の一センチメートルから大きなものでも一万分の一センチメートルぐらいである。
その密度はおそろしく小さい。大気の密度は水の千分の一だが、こちら星間物質の密度は、その水を一とすれば実は〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇……と〇を二十五個も書きならべたほどである。そしてそれは全体として一立方センチメートルの空間内に水素ガスの分子としては一個程度、それより質量の大きな金属原子などをふくんだ微粒子の方は百メートル四方の空間内に一個ぐらいの割合で存在している。地球の大気が地上では一立方センチメートルのひろがりの中に、分子がおよそ二千七百億個のさらに一億倍もつまっているのとくらべればこの星間物質の稀薄さの程度がわかるであろう。この濃厚な大気の中で生活しているわれわれからすれば、それはほとんど真空と考えてもかまわないほどの稀薄さである。
さて、このようにおそるべき稀薄な存在である星間物質だが、これが永劫にその場を動かないものもあれば、目に見えないような速度で徐々にその位置を変えてゆくものもある。位置を変えてゆくものの移動力は光の圧力である。星の光の圧力は想像することもできないほど小さいものだが、微細な星間物質などにとっては、それは大きな影響力をもつのだ。|彗《すい》|星《せい》は長い尾を曳く。一九一〇年に地球に近づいたハレー彗星の青白い長い尾は地平の一方から一方にまで長大な橋をかけたほどだ。この尾は微細な粒子からできているが、これは太陽の光の圧力によってふき出してきた彗星の内容物である。だから彗星の尾は必ず太陽とは反対の方向にのびているものである。
何十光年、何百光年の距離をわたってきたかすかな星の光が、小さな小さな星間物質を押す。やがてゆっくり、ゆっくり、目に見えないほどの速度で星間物質が動き出す。一センチメートルの距離を移動するのに、いったいどれほどの長い時間を必要とすることだろうか。一メートル、百メートル、千メートル、そして一光年、十光年、百光年。その|人《じん》|智《ち》を絶するような|厖《ぼう》|大《だい》な時の経過の果に、星間物質の吹き|溜《だま》りができる。周囲の星々からの光圧が均等な空間にたどりつくと、星間物質はそこにとどまったまま、もはやどちらへも移動することをとどめる。そのような空間は、この宇宙のひろがりの中で決してめずらしいものではない。こうして特に星間物質の濃いところができあがる。これが暗黒星雲とよばれるものだ。現在まで、この暗黒星雲は全天で約二百か所が知られている。その中で有名なものにはオリオン座の暗黒星雲で俗に馬頭星雲とも呼ばれているものである。この馬の首の形をした暗黒の部分こそ、星間物質の濃厚な吹き溜りなのだ。この馬の首の背景に明るい光の散乱がある。これもまた実は星間物質が近くの星の光を反射してかがやいているものである。この光の海のかがやきをさえぎり、落日にかがやく積乱雲のように、|光《こう》|芒《ぼう》で金色に縁を飾るこの馬頭星雲こそ、星間物質の神秘をわれわれに伝えるものだ。どんなに小さな物質でもそれがたくさん集ることによって背後の強烈な光さえおしかしくしてしまうのだ。とはいえ、今、一隻の宇宙船がその暗黒をつきぬけて進んだとしても、なんの抵抗も感じないであろう。おそらく、宇宙船の船体にぶつかる星間物質すらないのではないかと思う。その稀薄な状態は、暗黒星雲は星間物質の濃い吹き溜り、とよんだところでこのありさまである。
こうしてしだいに集ってきた星間物質はやがて個々に万有引力によってたがいに引き合うようになってくる。二個集ったものはさらに他の一個を引き寄せ、三個集ったものはさらに別の二個を引きつけるというように、時間がたつにつれ雪だるまのように成長してゆく。そしていつか大きな塊は小さな塊を吸収し、遠く遊離する星間物質にまで手をのばしてゆく。こうして原始の星ともいうべき巨大な星間物質の塊ができあがってゆく。その冷たく暗い星間物質の塊は、質量が太陽ぐらいでもその直径は九兆キロメートルにもおよぶ巨大なものであることがしられている。これは太陽の直径は約百四十万キロメートルであることとくらべれば、その稀薄さがうかがうことができよう。こうした原始星の存在は一角獣座の花かご星雲や、N・G・C二二三九オリオン座の大散光星雲、あるいはへび座の散光星雲、N・G・C六六一一や白鳥座附近の北アメリカ星雲などの内部に幾つも見出すことができる。
こうしてでき上った原始星の温度はマイナス百度からマイナス二百度ぐらい。ほぼ宇宙空間の温度と同じと考えられる。
しかしすでに重力を持ち、自らの力で収縮をはじめている。原始星内部の個々の星間物質は中心部めざしてひたすら集中してゆく。やがて内部の圧力は急速に高まりそれと同時に中心部の温度は加速度的に上昇してゆく。何年かたち、何十年かたち、そして何百年かが過ぎ、中心部の温度はマイナス二百度からマイナス百度へ、マイナス百度からマイナス五十度へ、そして〇度から今度はプラス十度へ、そして百度へ。千度へ。長い時の流れののちにはやがて数十万度にも達してゆく。こうしてついに水素核融合反応がはじまる。冷たく暗い原始星は長い長い成長の年月の果てにようやく|燦《さん》|然《ぜん》たる光輝を天空の一角に放ちはじめる。星の誕生だ。またしても新しい星がここに生れたのだ。おしなべて夜空にきらめく星々、そしてまたわれわれの太陽もこうして生誕のための時をきざみ、その光と熱を存在の象徴として放つまでに至ったのだ。
ここで夜空について想いをはせよう。
きらめく一千億の星々。それは今、重ねて言うまでもなく、すべて太陽と全く同じ性質をもっている天体だ。その輝きは水素核融合反応。水素原子四個が反応してヘリウム原子一個が合成されるしくみである。この時、|莫《ばく》|大《だい》なエネルギーが光と熱になって放出される。水素一グラムがヘリウムに変る際に放出される熱量は石炭二十トンの燃焼熱にあたるほどすさまじいものだ。光と熱のほかに、さまざまな放射線も飛び出してくる。紫外線などがそれである。地球上のすべての生物をはぐくみ、心地よい住みかと豊かな食物を生み出す源泉は実にこの|凄《せい》|絶《ぜつ》な水素核融合反応によるものなのである。この水素核融合反応の原理を応用したものが水素爆弾である。人間の愚かな行為の最たるもの、窮極兵器などと称しておのれの主張を押し通さんがため太陽のひな形[#「ひな形」に傍点]をおそれ気もなく天に飾ろうとする。その者たちこそ、満天に輝く星々に恥ずるべきである。そこに流れている悠久の時の流れを想い、そして、今一度、人間に与えられた七十年の生涯の意味を考えるべきである。
さあれ、かくて星々は今夜も茫々とその光をわれわれの上に投げかけている。この千億の星の集団こそわが銀河系の姿である。平面形はほとんど円形であり、側面からながめたとすれば凸レンズ状の空間の中に、これら一千億の星々は分布している。その直径は十万光年、つまり一秒間に約三十万キロメートルも突走る光でさえなおかつ十万年も走りつづけなければ通りぬけることができない距離である。厚さは中心部で約一万五千光年であり、われわれの太陽の位置はその中心から三万光年ほど離れたところにある。これは半径の三分の二、近くも縁に寄った所であり、いわばわれわれの太陽系は、銀河中心からかなりはずれた〈辺境〉である。この銀河系は中心部を軸として回転しているが、その速さは太陽系の部分で一秒間に二百二十キロメートルほどである。
内部には無数の散開星雲や暗黒星雲などがあるいはかがやき、あるいはくろぐろとただよっている。
そしてその渦巻の周囲には、球状星団という特別な星の集団を配している。
おそらく、宇宙船に乗ってはるかかなたから銀河系をのぞむと、中心部の目をうばうようなかがやきから、幾つも太い渦巻がのびてそれが|巴《ともえ》のようにめぐっているのを見ることができるであろう。その太い渦巻はすべて無数の微細な光点でできている。望遠鏡でのぞけばその光点が実は一つ一つ、巨大な恒星であることはもう説明の要もあるまい。
このような星雲を〈渦状星雲〉という。〈渦状星雲〉はすべてわれわれの銀河系と同じぐらいの大きさか、あるいはさらに大きなものである。この宇宙空間にはこのような〈渦状星雲〉が一千億以上も存在している。今、手近なものを二、三、あげれば、先ず有名なアンドロメダ大星雲がある。直径約十万光年、われわれの銀河系からの距離、約百七十五万光年である。パロマー山の二百インチの巨鏡に収められたその姿は、見る人の心をうたずにはおかない。〈銀河系〉と同じように、暗黒星雲や散開星雲を内に含め、周囲に球状星団を配している。そこまでの距離、百七十五万光年。これはすなわち、今夜望遠鏡を通して見たアンドロメダ大星雲の姿は実は百七十五万年前の姿である、ということだ。今夜、アンドロメダ大星雲を出発した光は、あと百七十五万年たたないとわれわれの所までとどかないのである。
〈渦状星雲〉の名をさらにあげよう。大熊座M一〇一。これは大熊座の中に見られ、非常に美しい形をしている。また、ペガサス座N・G・C七二一七。これもまた明るく濃密な中心部のかがやきから、枝のように|岐《わか》れた渦巻が均等に巴を描いてのびている典型的な〈渦状星雲〉である。
遠いもの、近いもの、あげてゆけばきりがない。いずれも銀河系やアンドロメダ大星雲と同じ性質のものであり、形もよく似ている。
おそろしく遠いものもある。かみの毛座の星雲群はわれわれからの距離、一億二千万光年。かんむり座の星雲群は三億六千万光年、海蛇座の星雲群は十億八千万光年、かみの毛座の附近に微細な光のしみ[#「しみ」に傍点]となって見える星雲群は実に二十億ないし三十億光年のかなたにある。ここでいう海蛇座の星雲群とか、かみの毛座の星雲群という呼び名は、それらの星雲や星雲群が、海蛇座やかみの毛座という形を示す幾つかの恒星と同じ所にあるという意味ではない。われわれから見えるすべての恒星は銀河系と呼ぶわれわれの住んでいるこの〈渦状星雲〉の内部にのみ存在するものである。海蛇座の星雲群、という時、それはただ、海蛇座の方向に見える、というだけの意味である。だから、われわれが〈渦状星雲〉をながめる時、それは一千億の星くずを通してそのむこうの漠々たる暗黒の空間に浮かんでいる別な〈世界〉をながめていることになる。
今日、望遠鏡で探し求め得る最も遠い〈渦状星雲〉はパロマー山天文台の二百インチの巨鏡で認められる五十億光年のかなたにあるものだ。もちろん、そのむこうにも〈渦状星雲〉は存在するであろう。理論的には三百インチ、五百インチ、あるいは千インチの反射望遠鏡を作ればよいはずだが、しかしこれはレンズの解像能力の関係で不可能とされている。
五十億光年といえば、言うまでもなく光の速さで五十億年もかかる距離である。五十億年も経過するうちには星雲の盛衰すらさだかでない。あるいはもうその星雲は何かの原因で崩壊しさってもうそこにはないかもしれない。そこにまだ存在しているかどうか、今夜まだ健在であるかどうかを知るためには、これから五十億年たたなければわからないのである。たとえばその星雲に住む知人に電話をかけようと思う。受話器をとって、「もしもし」という。電波の速さは光の速さと同じだから、その知人の所までとどくのに五十億年かかる。知人はこちらからの電話を受けて「はいはい」という、これがこちらの耳に届くまでに五十億年かかる。「もしもし」「はいはい」、これだけですでに百億年が経過してしまうことになる。
宇宙に|於《おい》ては遠方を見ることは過去を見ることである――この言葉の意味を考える時、われわれははじめて宇宙のほんとうの姿に触れたような気がする。宇宙では実に現在という時点と、数十億年前の過去とが一つにつながっているのである。太陽ですら、この瞬間に見る太陽は実は八分何十秒か前の姿である。この瞬間の太陽を見ることはわれわれには全く不可能なのだ。その意味でわれわれはつねに八分何十秒か前の中古の太陽[#「中古の太陽」に傍点]しか見られないのである。〈渦状星雲〉の場合はそれが何十万年前、何百万年前、さらに何億、何十億年前のものを見ているわけである。
宇宙の果にはなにがあるか? これこそわれわれが絶えず胸の中に抱いてきた素朴な、しかし永遠の疑問である。
これについて今少し考えてみよう。
生れたばかりの原始星の質量には大きいものや小さいもの、さまざまがある。これらはすべて水素や重水素を燃料としてすさまじい水素核融合反応をおこなってそれぞれが、太陽――恒星へと発展した。この変化の中で、水素はヘリウムに変り、ヘリウムはさらに炭素や酸素、ネオンなどに変化してつぎつぎと新しい物質が作られてゆく。これら恒星のたどるコースには二つある。簡単に言えば、質量の大きな星々はエネルギーの消費も厖大であり、そのために全体としてのエネルギーのバランスが崩れてついに大爆発を起して空間に飛び散ってしまう。いわばエネルギーを惜し気もなく乱費してその命を自らちぢめてしまうというタイプ。もう一つは、エネルギーの消費に従ってしだいに小さく小さく収縮してゆくもので、これは最後に白色|矮《わい》|星《せい》といわれるものになってしまうタイプ。この二つである。たとえば前者は、われわれの太陽であり、後者はシリウスの伴星である。前者はその爆発は新星、あるいは超新星と呼ばれ、歴史的な文献にもしばしば登場してくる。かに座の星雲、あるいはこと座の環状星雲などがその爆発ガスのひろがりと考えられている。望遠鏡でそれらの星雲(くりかえして言うがこれは星の集りではない)を見ると、いかにもすさまじい猛烈なガスのひろがりを見てとることができる。
このような恒星の爆発によって飛散する内容物、つまりガス体や微粒子がふたたび宇宙空間にひろくまき散らされ、これが先にのべた星間物質になるのである。
〈渦状星雲〉の中では不断にこうしたエネルギーから物質へ、物質からエネルギーへの転回がなされ、茫々かぎりない流転がくりかえされてきたのである。空にかがやく星々――むろんわれわれの太陽もふくめて――はこれら星間物質から生れたものであり、これが実は、銀河系やアンドロメダ大星雲の外周を飾る球状星団を形づくる星々とは明らかに異った組成と生い立ちを示しているのである。
球状星団の星々は非常に古いものが多く、すでに赤色巨星や白色矮星となってしまっているものが多い。もちろんむかしは若い水素核融合反応も活発な星々の集団だったのであろう。そして今よりももっと広大なひろがりを持ち現在の〈渦状星雲〉よりも華やかにけんらんと虚空を飾っていたことだろう。しかしいつか星々の力はおとろえ、そのまき散らした物質はやがて現在の銀河系の位置に濃くただよいはじめた。球状星団はいよいよむなしく爆発ガスを噴き放ちながら、しだいに濃く凝集しはじめた星間物質の渦巻の中をなお猛然と突進し、回りつづけたことだろう。時がたつにつれて、球状星団は吐き出すものは吐き出し、噴き出すものは噴き出してついに幾つかの小集団に分裂してしまった。そして今は凸レンズ型に凝集した星間物質の大渦巻の外側に、宝石を散りばめたようにただ静かになおかがやいているだけである。球状星団はすでに実力者の位置を離れ、今はこのかれらがまき散らした星間物質の中から、全く新しい次代の星々が生れつつあるのをじっと見ているだけだ。
これら、星間物質から生れた星々、毎夜、夜空にかがやく千億の星々、(ふたたび言う、われわれの太陽もふくめて)は、第一種族と呼ばれ、球状星団を形造っているあの古い、もはやその使命を終った星々は第二種族と呼ばれている。観測によれば、実際に第一種族の星々は第二種族の星々にくらべて、はるかに多くの重い金属元素をふくんでいることが知られている。それではこの第二種族の星々はいったいどんなしくみで作られたのだろうか? ここにさらに古い星々の集団があり、それらのまき散らした物質によって第二種族の星々が作られたのだ、と考えることは自由だ。非常に遠いむかし、現在の銀河系のこのあたりに星々の巨大な集団があり、幾変転ののちにまき散らされた物質から第二種族の星々が生れ、原初の星々はその姿すらとどめずに消え去った。そこにいかなる生物が発生し、どのような文明がそこにきずかれたかは想像することも困難だ。ドラマチックな流転興亡の時はすぎ去り、やがて第二種族の星々もその姿を完全に消してゆくのだろう。そしてそのあとには、第一種族と呼ばれるわれわれの銀河系が、栄え、衰えてやがていつか第三の星々を作り出すのかもしれない。そのときわれわれのこの〈渦状星雲〉は今の球状星団のようにただむなしくいにしえの物語を秘めて次代の若い星々の誕生を見守る時がくるかもしれない。
一九五八年、モスクワで開かれた第十回国際天文連合学会の討議は、大宇宙の年齢を八十億ないし百億年とはじき出した。しかし、他の計算によると二百五十億年という数字もある。いずれにせよこれに対して太陽や地球の年齢は四十ないし五十億年といわれる。百億年といい、四十億、五十億年といい、ほとんど永劫と長さを競うような時の流れの中ではまことに短い時間である。今では時間は宇宙空間とは切り離して考えることはできないから、宇宙の存在しないところで時間のみ存在することは考えられないが、百億年、千億年と言っても、ほんとうに一瞬の間と考えたってさしつかえない。
さて、「宇宙の果には何があるか」この素朴でかつ根源的な問題を考えるまえにもう一つ重要なことを思いかえしておこう。それは観測によればすべての〈渦状星雲〉はわれわれから遠ざかりつつある、というあの事実だ。〈渦状星雲〉の中の多くの星々は赤色偏位といってその波長がしだいに長くなってきている。これは『ドップラー効果』といって、たがいに高速ですれ違う電車の警笛の音などが、すれ違った瞬間から音が高音部から低音部へ移り変ってゆく現象でよく知られている。これは距離が遠くなってゆくにつれて音の波長が長くなってゆくことを示している。これと同じことが遠ざかってゆく〈渦状星雲〉の中の星の光についても言える。こうして観測された結果に基くと、すべての〈渦状星雲〉はわれわれから遠ざかってゆきつつある。これは実はわれわれから遠ざかってゆくのではなくて大宇宙の中心から遠ざかってゆくのが、われわれの目にそう映るだけなのである。われわれの銀河系もまた、大宇宙の中心からひたすら遠ざかりつつあるわけである。〈渦状星雲〉の後退速度は一般的に距離に比例して百万光年について一秒に約三十キロメートルずつ早くなっている。地球から約三千八百万光年のかなたにある乙女座星雲団の後退速度は、毎秒一千百四十キロメートルだし、距離、約一億八千万光年のペルセウス座星雲団の後退速度は毎秒五千四百三十キロメートルあまり。距離七億八千万光年のところにある双子座の渦状星雲は毎秒二万三千四百キロメートル。さらに二十億光年の距離にある海蛇座第二星雲団の後退速度は毎秒六万キロメートル以上である。こうして毎秒、毎秒、加速してゆくとやがては後退速度、毎秒三十万キロメートルという数字が出てくるだろう。その距離はおよそ百億光年の附近である。
光の速度以上の速さはあり得ない――相対性理論の中でアインシュタインは言った。もし〈渦状星雲〉が光速に達した瞬間に消えてしまうか、爆発してしまうかでもしない限り、なお、光速以上に速度を早めて遠ざかってゆくだろう。しかし、その光はもはやどんな大きな望遠鏡を作ってのぞいたとしても全く目に入らない。なぜならそのような光はいつまでたってもわれわれの所まで届いてこないからである。〈渦状星雲〉が光速に達する百億光年のゾーンが、われわれのこの世界と、われわれの知らない向う側の世界との絶対的な境界線と考えられる。しかし、〈渦状星雲〉がつぎからつぎへと、そのゾーンを越えていってしまったら、銀河系から見る〈渦状星雲〉はしだいに少なくなり、やがていつかわれわれのこの銀河系もそのゾーンを越える日がくる。
相対性原理はさらにこう言う。物質が光速に達した時、その進行方向へのひろがりは|〇《ゼロ》、質量は無限大、時間経過の早さはこれも|〇《ゼロ》になる。つまりもはや時間はたたないのである。
光速に近づくに従ってその物体の厚みがなくなってゆくということは、これを一歩、おし進めれば空間自体が収縮したと考えることができる。空間が収縮すれば、物質を造っているすべての素材、原子、電子、電磁場などすべてのものが等しく収縮する。それは原子と原子との間の距離、天体と天体との間の距離も収縮することを意味する。
このように考えてゆくと、〈渦状星雲〉の後退速度が光速に達するゾーンでは、全く厚みを持たない〈渦状星雲〉が、まるで幻影のように浮かんでいるのだろうか? そしてそれら〈渦状星雲〉の中ではもはや時間は流れず、完全な静止、死よりもすさまじい凝固の世界となっているのだろうか? それら星々にもし高等な生物がいたとすれば、もちろん彼らはおのれのおかれた絶対静止の状態など気のついているはずもない。なぜなら死んでいるのではない、ただ時間が流れていないだけなのだから。何の変化もおきない。音、光、すべては時間の止った瞬間を保持しつづけているだけである。
百億光年のゾーンはそういう世界なのだろうか? あるいはそのゾーンのかなたにはなお茫々と大宇宙がひろがっているのだろうか? いつの日か、科学はその劇的な物語を人類に伝えてくれるだろう。
この〈渦状星雲〉の後退するありさまを調べて、『膨脹宇宙』なる理論が生れた。しばしば説明される方法をかりれば、この宇宙のひろがりを、ふくらんでゆく風船の内側のようすになぞらえる。風船がふくらんでゆくにつれ、内側の表面(おかしな言いかただが)に描かれた無数の点はゴムののびるにつれてしだいにその間隔をひろげてゆく。風船がどんどんふくらむ。点と点の間隔はいよいよひろがってゆく。これを風船の中心にあってながめるとすれば、描かれたすべての点は自分から遠ざかってゆくように見えるだろう。
こうした『膨脹宇宙』の理論に従えば、当然、膨脹をはじめる前の状態がどうであったか、また何が原因で膨脹をはじめたのか、この二つが問題になってくる。膨脹をはじめる前の宇宙は、ほぼ太陽系ぐらいの大きさの超高温の|混《こん》|沌《とん》としたルツボのようなものだったのであろうと考えられている。原子すら|未《いま》だ形をなしていず、裸の素粒子の状態で存在しているような世界だったのだろう。
それがいかなる原因で膨脹をはじめたのか、これは仮説を立てることも冒険である。数十億年、他の説に従えば数百億年前のあるとき、突然、膨脹がはじまったのだ。猛然と空間はふくらみはじめた。その空間の内部を、せきを切ったように時間が流れはじめたのだ。
この空間の外側に何があるか? 実はこの空間自体がその大質量によって大きくゆがんでいるために、完全な閉鎖空間になっていると解釈されている。だから、この大宇宙をどこまでも真直に、直線コースをとって飛びつづけたとしても、空間の曲率に従って結局は非常に大きな曲線コースをとって出発点にもどってきてしまう。一直線にどこまでも飛びつづけたとしても、しょせんはこの空間から外へ飛び出すことは不可能なのだ。
この空間の外側には何があるか? それこそ尽きない|念《おも》いにも似た問いだが、その問いが解明されるのは果していつのことだろうか? 宇宙空間に果があるとすれば、それより先はもはや物理学的な方法では認識することができない。物理学的な方法で認識することができないとすれば、それはすなわち物質や空間ではないということだ。物質や空間の存在しない所に何ものも期待できるはずはない。こう考える時、しかしこの明快な理論で満足しきれない何かが胸にうずく。物質や空間のない世界とはそれではどんな世界なのか。
何もない[#「何もない」に傍点]世界、絶対的な無という存在はいかなる存在なのか? 疑いは果しもなくつづく。そしてわれわれのもっとも人間的な疑問、もし、それらの世界に高等な生物がいたとしたらどんな生活をしているのだろうか? また、その言葉が出てくる。人間の疑問はつぎからつぎへと果しなくつづく。疑問に実は幼稚もなければ素朴もない。疑問はそれ自体ですでに物事の根源へ迫っているのだ。疑問を抱くということはすばらしいことだ。そのために時に人類は木の葉のような舟に身をたくして大洋をわたり、小さなポッドに体をおしこんで宇宙空間をわたったのだ。
見上げる星空は今夜も茫々と青く、その背後の暗黒には幾十億、幾百億の永い永い年月の歴史がこめられている。
今夜のアンドロメダ大星雲の中のある一つの惑星の上ではいったい何が起っているのだろうか? われわれのこの銀河系と同じ構造を持つこの〈渦状星雲〉に、生物の発生をみた惑星がいったい幾つあることだろうか? この銀河系の中だけで約五百億の惑星が存在する計算になる。その内、一パーセントの惑星に生物が発生しているとみてさしつかえなかろう。それらの惑星のうえでおそらく無数の生命が、さまざまの進化の段階をたどり、中には人類以上の高度な頭脳を持つに至ったものも当然、存在するはずである。
アンドロメダ大星雲の中の一つの惑星の上では、あるいはまたN・G・C七二一七の中の惑星の一つでは? また、距離三十億光年のかみの毛座の遠い遠い〈渦状星雲〉の中の惑星では?
星々の光はいよいよ青く、きらめいてその尽きない物語をわれわれにささやく。
われわれ人類は、太陽系の中の一惑星にしばりつけられていて、それら星々をおとずれ、あるいは宇宙の果まで飛んで、自らの疑問をただしてくるなどということはとてもできない。たとえわれわれに翼があり、あるいは光より早く飛べたとしてもそれは不可能なわざである。しかし、石のごとくこの地球を離れられなくても、その心さえ自由ならばいつでもそれら星々はもとよりあるいは大宇宙の果までも自らの目で、自らの心でながめ考えることができる。それは難かしい数式や巨大な観測装置など何一つ必要としない。ややもすれば生活の中に失いがちな柔軟な心、あるいは花を見、鳥や虫の鳴声に耳をかたむけ、夕映えの空に忘れていたむかしの事どもを想い起す心、その心が実は星々の語る物語を受け止める。
そこに永遠につながる一つの世界がある。
第五章 辺境にて
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この地に|巨人《ネフレイム》ありき。彼ら、いにしえのほまれ高き勇士なりき
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厚い氷原のはるかな深層、地殻の深奥のどこかでかすかに何かがどよめいた。何億年の時の|死《し》|骸《がい》の凍結した底から、それはゆるやかな波紋のように、上層へ向ってしだいに拡散していった。
それは人間の知覚には感じられないほど弱いゆるやかな動きだったが、それを知った者たちは、ただ、遠い水面の波立つかすかな震動をとらえた魚たちが、一瞬、そのひれの動きを止めるように、人々は手を止め、息をつめ、そのどよめきの意味をさぐろうとして、宙にひとみをすえて耳を澄ますのだった。
どよめきの遠く去ったあと、それを追うかのように氷原はかすかにきしんだ。硬質ガラスが触れ合うような、乾いた、澄んだひびきが氷層の下で|湧《わ》いた。
ここ、|冥《めい》|王《おう》|星《せい》。
古代の|破城槌《はじょうつい》のような原子力ジャンボーが、氷の岩盤に沿ってゆっくりと移動していった。幾十個の浅い反射鏡からほとばしり出る白熱の光の束は鉄壁の氷層を一瞬に消滅させた。すさまじい蒸気と、金属鉱床の|熔《と》ける|灼熱《しゃくねつ》のゆらめきが、回廊全体をごうごうとどよもした。
原子雲のような蒸気の雲が、分厚く渦巻いて回廊の照明をおおいかくしてひろがっていった。コロイドのような微細な粒子となった金属鉱床は多彩な光輝を放って生き物のように回廊の床を|這《は》った。
おぼろにかすむ投光器の光の輪の中に、小山のようなロボット原子力ハンマーが進み出てきた。その前頭の真紅のスクランブル・ライトが血のようににじんだ。
〈輸送車ハ速度2デ徐行シテクダサイ。前車トノ間隔ハ四・五メートル。ブレーキハ無制限急制動用意――〉
メーター・パネルに埋めこまれた|無線電話機《カー・トーキー》が抑揚のない声で誘導をはじめた。帯のようにつらなっていた輸送車の列がゆっくりと動き出した。
〈ソノママ前進、左右限界ニ注意セヨ〉
ヘッドライトの光芒が渦まく|微《み》|塵《じん》の濃霧をなでさすり、虫の這うようにのろのろと進む先行車の|尾《び》|燈《とう》をとらえた。
ファイバーグラスの長大なトラスが、回廊の大天井をななめにつらぬいている。それをとり巻くように複雑な形の建設機械の一群があわただしく活動していた。
輸送車の列はいよいよ速度を落して、そのかけわたされたトラスの下をくぐりぬけていった。
投光器の滝のような光の幕の中に、崩された壁や天井から吐き出された電路パイプや、エア・コンディショニングの通気パイプの束が毛細血管のようにのたうっていた。
突然、先行する輸送車がはげしくおどり上り、ずるずるすべって傾いた。急制動をかけるエア・ブレーキの噴き裂けるようなひびきがたえまなく回廊の空気を震わせた。しかしその車はそのまま崩れかかるように回廊の壁に向って突進した。
青白い光球がソウレの輸送車の屋根すれすれにかすめて飛んだ。一瞬、周囲はすさまじい青に染った。投光器の真昼のような輝きも、輸送車の曳く黒い影も、すべて消え失せただ濃い海のように、目もくらむ青い光に包まれた。コースを乱して壁に向ってすべっていった輸送車の姿はすでになかった。そのあった位置に、濃い青色の光環が幻のように浮いているだけだった。そのかがやきもみるみる淡く消えていった。あとには何も残らなかった。
「どうしたんだ? あれは」
ソウレは思わず無線電話機にしがみついた。
たちまち答えがもどってきた。
「アノ車ノ予想針路上ノ壁面内ニ非常用酸素発生装置ノ警戒機ガアル。車ノ激突スル可能性六十八・七パーセント、ソレニヨッテ警戒機ノ破損スル可能性二十一・四パーセント。シタガッテ輸送車ハ未然ニ破壊サレタ」
「破壊?」
「リチウム原子弾ニヨル緊急処理ダ」
「まて! それでは殺人ではないか」
「殺人? 質問ノ意図ト氏名ヲ言エ!」
「質問の意図? なにも殺すことはあるまい。何が壊れるのかしらんが。そんなに大事なものか。それなら壁の中などにいれずにもっと安全な所に置いたらどうか」
「氏名ヲ」
「惑星間経営機構副首席、チャウダ・ソウレ」
それきり声が絶えた。ソウレの名が思いがけなかったか、それともはじめて耳にするものだったのか、|無線電話機《カー・トーキー》はふと、沈黙した。
「ふん、記録の照合でもやっているのだろう」
路面警戒装置の|橙色《だいだいいろ》のパイロット・ランプがせわしく点滅しはじめた。床面の工場区域に入ったのだろう。
「惑星間経営機構副首席。疑問ニオ答エシヨウ。ココデハイカナルモノニモマシテ建設ガ優先スル。作業ノ遅滞ハスベテノ人々ノ運命ヲモ支配スルカラダ。辺境ノ生活ハ厳シイ。ササヤカナ失敗ガ致命的ナ事故ヲ誘引スルオソレハ充分ニアル。副首席、辺境ニ対スル理解ハ不断ノ危機ヲ理解スルコトニアル」
やれやれ、ごくろうなことだ――ソウレは腹の中で顔をしかめた。
「わかった。なお理解を深めるように努めよう」
「感謝スル」
ソウレはシートに肩まで埋めて太い息を吐いた。得体の知れぬある恐怖が胸の奥底に湧いてきた。
どうも辺境の連中は一すじなわではゆかんようだ。|真《ま》|面《じ》|目《め》すぎるのかな。
ソウレは頭をふった。
回廊に敷きつめられた仮設床材に乗り上げて、輸送車の車体がはげしくきしんだ。オートパイロットが一瞬おくれて、先行する車のリア・フェンダーへ喰いつきそうになってあやうく踏みとどまった。
トン、と輸送車の|屋根《ルーフ》に何かがぶつかった。
「なんだろう?」
ソウレは頭上をうかがったが、パーマネント・シャドウのルーフは濃い乳白色の|翳《かげ》となって頭上の視界をさえぎっていた。
ふいに、屋根の上からさかさまにのぞきこんだ者があった。青白い大きな顔がソウレの鼻先にぶつかるようにたれ下った。ソウレは思わず身をひいた。まばたかない円い目がひた、とソウレに向けられた。
「路面ニ注意スルヨウニ。名前ハ?」
ソウレはきもをつぶしながらも、きびしい口調で応じた。
「私は惑星間経営機構副首席、チャウダ・ソウレだ。辺境星区庁エリアへおもむくところだが、急ぎたい。優先的に通してもらえないだろうか」
なんの感情もあらわさない円い目がわずかに動いた。
「経営機構高官、アナタノ|為《ため》ニ特ニ便宜ヲハカルコトハデキナイ。交通管制ニ従ッテ通行シテモライタイ」
その冷たい音声がソウレの胸に一種の敵意めいたしこりを生じた。
「君、わしは辺境経営部上層との会談をひかえているのだ。その目的のために最上級の処遇を受ける権利があると思うが、またそれが惑星間の礼儀でもあるはずだ」
「経営機構高官、ココデハイカナルモノニモマシテ建設ガ優先スル。作業ノ遅滞ハ許サレナイ。アナタノ車ヲ先ニ通スコトニヨッテ起ル混乱ハ、コノ工区ノ作業ヲ最小九十四秒遅延サセルコトニナル」
「全く石頭ばかりそろっているものだ」
「石頭トハ何カ?」
「なんでもいい。ゆけ!」
ソウレはいまいましそうに視線をそらした。屋根の上からのぞきこんでいた顔はたちまち消えた。徐行する車の列の屋根から屋根へ飛び移ってゆく人影がちら、と目に映った。ぴったり身に合った濃色のコンビネーション・スーツの異様な光沢と、よく動く細長い手足がソウレの目に|灼《や》きついた。
――公用のサインをかかげた辺境星区高官用の車でさえ、建設作業に対しては無制限の制約を受けている。ここでは惑星間経営機構の権威など認める者もいない、これは地球や金星、火星などの都市では考えることもできないことだ。開発に寄せる辺境市民の強烈な意欲と指導者の高度な認識がここにあるとはいえ、宇宙開拓時代三千年の星間文明の次代の継承者はすでに育ちつつある。このライトもかがやきを失うような|塵《じん》|埃《あい》と|瓦《が》|礫《れき》、乱雑と騒音、ひどく高価なものと|芥《あくた》に近いものがひとしく位置を占めているここ。極めて危険ではあるがひどく新鮮でもある。ここでは一つの目的の為にあらゆるものが動員されている。そこになんの感傷もためらいも介入の余地はない。それが歴史の推進の原動力にもなっている。
建設はすべてに優先する、か。かつては金星もこうだったし、火星でもこうだった。そう、かつては――
ソウレはこのとき、骨まで凍るような冷たいものに触れたような気がした。宇宙を開拓してゆく者の心の|凍《い》てつくような非情さと、むなしいまでの無心さが、ソウレを烈しく追いたてた。それはソウレ自身がとうに|棄《す》て去ったもの、置き忘れてきたものだった。
そしてそれを|喪《うしな》ったときに、文明の|凋落《ちょうらく》ははじまった。宇宙開拓者の魂から凄絶な意欲が|剥《はく》|離《り》し、今では|哀《かな》しみと優しさだけが、過去の勇気と英雄的行為の唯一の名残りとして残されてあるだけだった。
暗い|嫉《しっ》|妬《と》と|羨《せん》|望《ぼう》が痛みのようにソウレの心をつらぬいた。
ソウレはここで、あの執念にみちたシロウズの|面《めん》|貌《ぼう》を想い出した。
広大なホールの中央に立って、ソウレは近づいてくる者の姿を見た。やわらかな光は、高い天井から濃淡の光輝の縞を銀白のフロアに投げかけていた。そのかがやきの縞を|大《おお》|股《また》にこえて、こちらへ近づいてくる者の|青藍色《せいらんしょく》の肌の沈んだ色調がソウレの目にしみた。
はるかな頭上、数千メートルの厚さの氷層と凍てついた岩盤のさらに上方には、|大氷崖《だいひょうがい》よりもまだ|碧《あお》い星々の光が、数十億年の歳月を魔法のように染めているはずであった。宇宙線だけが永劫から永劫へと走り過ぎ、その軌跡は今と未来を結んでかすかに青く輝いた。そこではいかなる意味でも人間が主役になることを許さなかった。人間の|語《ご》|彙《い》が少なすぎたからだ。
二人は数メートルの距離をおいて黙々と|対《むか》い合った。二つの勢力を代表する二人の人物は、それぞれおのれの肩に背負いきれないほどの広大な星域の文明と、それらの明日への|賭《かけ》を負って、たがいに相手の上に視線を投げた。深い静寂が二人の鋼のような心を映してつめたく冴えた。
テーブルに居ならぶ辺境星区側の補佐官たちは石像のように身じろぎもせずにこの深い沈黙の底に没していた。
「惑星間経営機構代表、先の審議事項に対する覚書はすでに検討を積んだ。なお相互の妥協し得る線について討議しよう」
「よかろう」
ソウレはゆるく腕を組むとゆっくりと歩を移した。
――辺境星区代表イ・タンギー、傑物だ。暗黒と不毛の辺境に都市を開いて、今、|形《けい》|骸《がい》に化した地球的理念に基く古い秩序に挑戦しようとしている。地球中心、地球連邦中心、そして辺境に対する永く、あらため難い植民地意識とそれに基く差別待遇。それがこの男を生み出したのだ。もとより地球に対する憎悪でもないし、惑星間経営機構に対する競争意識でもない。言ってみれば、金星や火星や地球ではすでに見られなくなった〈開拓者〉の一人なのだった。
手ごわい相手だ――
ソウレはおのれに向けられたタンギーの強いまなざしを感じた。
「|先《ま》ず、木星の酵素原の所属に関するあなたがたの主張は、二九〇三年協定がまだ存在する今、極めて当を得ないものと言えるだろう。これに対するあなたがたの説明を聞こう」
きたぞ! ソウレは足の運びはそのままに顔をあげてはるかな壁面に目を当てた。
「おこたえしよう。木星の酵素原、つまり木星第八一二区酵素栽培原の開発は当時の木星第五十三浮遊基地が担当し、その後、管理運営は地球連邦にゆだねられた。やがて第三次統合戦争が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》し、地球連邦とその周辺の植民都市の疲弊は長く続いた。そして三三一二年、木星の第五十三浮遊基地は当時発足したばかりの辺境星区に所属した。以来、木星酵素原は辺境星区政庁の管理下に操業をつづけてきた。しかしこのことは酵素原の本来の所有者の問題とはおのずから別なことだ」
「しかし経営機構代表。多年厖大な資料を投入し、収穫はひろく全太陽系域内に配分してきた辺境星区の立場を現実的に考えてもらいたい。また、このことは惑星間経営機構にとっては、自らは労せずその責任の一部を辺境星区に転嫁代行させていたということになりはしないか」
タンギーの低いがさびをふくんだ声音には、多年、辺境を支えてきた者の烈しい闘志と、永い不断の戦いに対する感慨めいた沈痛なひびきがあった。
「だから?」
「だから」
タンギーは息をひいた。木星の酵素原は、実は今は辺境にとって経済的にそれほど重大な価値をもつものとは言えなくなってしまった。木星酵素原から得られる植物性|蛋《たん》|白《ぱく》質と同等な、それ以上に高度な栄養価をもつ食品の合成は、すでに辺境の各地で量産されていたし、酵素原開発当時の重要食品独占管理による優位はすでに失われてしまっていた。多大の経費と時間をさいてまで、今は辺境星区の経営上の大負担にまでなっている酵素原の所有を主張するのは、ただ一つ、惑星間経営機構内に辺境星区の主権を認められた拠点を、|橋頭堡《きょうとうほ》として今後も失いたくないという政治的な意味しかなかった。惑星間経営機構の|鉄《てっ》|桶《とう》の内部にあって、その統制の手のおよばない地帯の存在の持つ心理的効果は絶大であった。
「酵素原の主権譲渡に対する条件は」
タンギーはソウレに背を向けて黙々と歩を運んだ。用意された豪華なソファにかけようともしないで二人は、それぞれの想いにふけるように静かに足を運びつづけた。
「条件としては、経営機構の運航費全負担による大圏航路の冥王星〈HOKUTO・シティ〉までの延長。それにともなう航路関税の全面撤廃。さらに近い将来に於て、幹線航路経営に関する全施設・機構の永年貸与を考えている」
補佐官のテーブルに設けられたテレプリントと電子頭脳の記録装置がにわかに活発な動きを示しはじめた。
これまで辺境星区では、金星を起点として地球、火星を結び、その間に散在する幾つかの人工惑星の植民都市や開発基地をつないで木星に終る太陽系内一号幹線航路、すなわち大圏航路に直接、接続する航路を持っていなかった。冥王星から火星や地球へ行くためには、天王星まで飛び、そこから木星まで不定期航路にたより、木星で大圏航路の宇宙船に乗り換える以外になかった。また、一気に火星や地球まで到達し得る大型宇宙船でも、木星近傍で大圏航路の航路管制局の誘導にのるのが極めて面倒だった。
これらはひとつに大型の高速宇宙船の建造の技術的困難さにあった。太陽系外にまで自由な航行の可能な大型光子宇宙船のほとんどが金星エレクトラ・バーグの重工業生産区の手になるものであったし、辺境星区では大型宇宙船よりも建設機材の生産に重点が置かれつづけてきた。経済力の発展にともなって大型宇宙船の必要は|焦眉《しょうび》の急に迫られるに至ったが、その急速な整備は辺境星区の宇宙船建造能力にとっては絶望的ともいえた。それがいよいよ辺境星区を惑星間経営機構から遠ざける結果となった。
「決して損な取引きではあるまい」
ソウレは冷やかとも聞える口調で言った。
「一つだけ聞く、経営機構代表。なぜそんなに木星の酵素原に固執するのか」
「われわれは現在、食料生産機構の根本的な再編成を考えている。その計画と推進に木星酵素原が重要な役わりを果すことになるのだ。そしてその再編成された組織と、それによって得られる成果は広く太陽系全域に開放される予定だ」
「よし、酵素原問題については、なお検討する余裕を与えてくれ。二十四時間以内に返答しよう」
これでよし。おそらく辺境星区は承諾するはずだ。この交換条件はあきらかに辺境星区に完全勝利に近いぐらいの成功を意味している。
「つぎに惑星間経営機構代表」
先ずもっとも重要な問題を解決できる見通しがついてソウレの胸は明るかった。
「最近、太陽系内でひんぴんと発生する宇宙船の行方不明事件についてあなたの意見を聞きたい」
「目下、経営機構、調査機関に調査させている」
「辺境星区としてもこれについては非常に注目している。経営機構代表、当初はわれわれの一部にも、これら一連の事件の発生は経営機構側の辺境孤立策による謀略ではないかとの警戒的見方をする者もあった。聞くところによると、経営機構の内部にも、辺境側の破壊工作だとする見方もあったようだ。しかし今なおそれを語る者もあるまい」
ソウレは足をとめて体ごとタンギーに顔を向けた。
「辺境星区代表。それについて私の意見をのべよう」
「どうぞ」
「宇宙船の行方不明事件についてこれ以上、黙過することはできないだろう。しかも辺境星区代表、私の手元にはどうも故障などによるものではなく非常に奇妙な自然現象ではないか、と思わせるような情報も入っている」
「自然現象?」
「今のところはっきりしたことは言えないのだが、何か空間の性質に関するようなことらしい。しかもそれが何らかの形で人工のものではないかと伝えている」
「経営機構代表。それは私としても全く初耳の情報だ。あなたがたの調査機関はすぐれている。たとえ未確認の情報にせよ、そこまでつかみ得たことは敬服に値いする」
「そこで辺境星区代表、この調査は独立した一つの機関で統一ある|綜《そう》|合《ごう》|的《てき》調査活動が必要だ。そのような機関を設け、惑星間経営機構と辺境星区とで調査を一任してはどうだろうか」
「当を得た意見だと思う。すみやかに辺境星区代議員会に提出してみよう。ただ具体的に言っていかなる機関、またいかなる人物をその指揮者に用いるのか」
「私は惑星間経営機構調査局員、C15シロウズの名をあげたい」
「シロウズ」
「彼をごぞんじか」
タンギーのほおにかすかな色が動いた。
「辺境星区にとっては忘れることのできない存在だ」
「そうか」
ソウレは言葉につまってただうなずいた。
「これまで幾多の重要な事件のかげに彼の名があらわれては消える。三一二六年の〈憂いの悪魔基地〉での原因不明の爆発事故。第三次統合戦争後の強圧的経済統制。土星〈第二チャンパ基地〉の反乱等、いずれも彼が重大な一役をかっていたと聞く。彼一人というよりも、彼の所属する経営機構調査局の活動であろう。しかし、辺境星区に聞えてくるのは彼の名だ。危険人物と言うべきだ」
ソウレは耳のないような顔をして立っていた。
「だが、それだからこそ役に立つのではないかな。彼には任務だけがあって文明も人類も眼中にないのだ。まして辺境星区に対する特別な敵意などありはしない」
「あなたの部下なのか? シロウズは」
「いや。部下ではない。しかし私は彼の才能を高く評価している」
ふと、それに気づくと、身も心も引きこまれるような深い静寂がよどんでいた。身動きする者もいなかったし、聞えてくる物音もなかった。
タンギーは姿勢を変えるとソウレに後姿を見せてゆっくりと靴音をひびかせた。
「よいだろう。経営機構代表。これまで、われわれは開発のみに追われて強力な調査機関を持たずにきた。今、当面の問題を処理するにあたっては、あなたの提案を受け入れるにしくはないだろう」
ソウレの耳にそれはかすかな皮肉となって聞えた。地球、火星、金星を中心とする惑星間経営機構にあっては、すでに大規模な開発は終り、高度な民生と科学技術の漸進的向上がその経営上の主要な路線であった。そこでは既存の秩序を守ることが何よりも優先した。そこに調査局の不断の活躍の素地があった。辺境星区の経営機構に対する絶えない疑惑の思いは、ひいてはこの調査局の動きに対する監視となってあらわれた。経営機構のねがうところと、辺境星区ののぞむところは両者の間に横たわる広漠たる空間のひろさよりもまだ大きなへだたりがあった。その距離感がたがいの異質感となり、やがて不信が疑惑となるにおよんでいよいよ調査局はこの時代の星間情勢に射す暗い影となっていった。開拓と維持、混乱と整合、危険と平穏が併立してそれぞれの相手をうかがっていた。
ソウレはおだやかな笑顔を作ってうなずいた。
「わたしの意見を容れていただいて感謝する。辺境星区代表。惑星間経営機構と辺境星区の間の、今では通常の状態にまでなってしまったこの緊張が、宇宙文明の一元化と今後の発展に黙過しがたい大きな障害となっていることは悲しいことだ。われわれの努力が、この半永久的な緊張の緩和に少しでも役に立ってくれれば、と私は思っている」
その言葉にうそはない――ソウレもタンギーもひとしく胸の中でつぶやいた。辺境星区と経営機構とが積極的な協力の気がまえを見せ合ったあるいはこれが最初の記念すべき瞬間だったのかもしれない。ソウレは胸の奥底に湧き上ってきた深い感慨を、ぐいとむこうへ押しやって口調をあらためた。
「第三の問題は、辺境星区の……」
そのとき、ソウレはかすかに、銀白の床からつたわってくるかすかな震動を感じた。それはあるかないかの微風にそよぐ木の葉のような、かすかな遠い震動だった。ソウレは思わず口をつぐんで、その震動がはるかに消えてゆくのに、全身の神経を集中していた。
地震か? この氷雪に閉された惑星の悠久の眠りの中に、なお地震を生み出す力がひそんでいたのか。タンギーもあらぬ方向に視線を遊ばせたまま深い憂いと緊張の面もちで、かすかにわたる微動に心をかたむけていた。
「これは?」
ソウレはタンギーの顔に目を向けた。その質問を封ずるようにタンギーは胸を張って言った。
「経営機構代表、私はこれよりある会議に出席しなければならない。予定の時間をとうに過ぎている。あなたとの会談を決しておろそかにするのではないが、緊急を要することなので私はそちらも気になる。辺境星区も多忙なのだ。この会談は五時間後に再開したい。どうだろうか?」
ソウレは虚心にうなずいた。事実、多少疲れてもいた。休息できるならそれもいい。
「よかろう。そうして下さい」
「ご理解下さってありがとう。では」
ソウレはふたたび市街へ出た。迷路のような走路と高架回廊が入り組み、あやなす光の幕が市街をいよいよ奥深いものにしていた。
政庁エリアのテラスに立って、光の帯のように交錯する走路に顔を向けているソウレに、通り過ぎてゆく市民たちはひとしく奇異のまなざしをそそいだ。
ソウレの身につけている惑星間経営機構高官の|制服《ユニホーム》は老いた者たちに、宇宙開発時代のあのかがやかしい人類の成果と努力、そして古い秩序といたずらに装飾化された形式主義の、今は形骸の象徴として彼らに、そのとうに忘れてしまっていた何ものかを思い出させた。ソウレの突き出た腹に彼らは目を当て、彼らのかつての上役や長官たちがそうであったことをにわかに懐しく思い出した。それはかつての地球の権威を代表する典型的なタイプの一つであった。また年若い者たちにとってはソウレの|制服《ユニホーム》は、遠い伝説の中の亡命の皇帝のそれを見るように、いささかのあわれみと露骨な嫌悪の感情をもたらすものであった。さらにそれこそ、現実に辺境星区の発展を阻害する邪悪な精神の権化だった。
〈非地球的〉の|烙《らく》|印《いん》を押されることが、そのまま死に通ずるような永い苦痛の時代の物語は、なお年若い者の胸に消し難い憎悪を残していた。
さらに、もう一つ、何の興味も関心も示さない魚のように無感動な目があった。彼らは違う。青銅色の皮膚を持ち、代謝調節装置を体に埋め、補助電子頭脳を|叡《えい》|智《ち》の一部にする辺境星区の中核的にない手。サイボーグたちだった。彼らにとってはもはや惑星間経営機構もなければ、ソウレもない。過去につながるすべてが彼らにはないのだった。
「やがてあれらが人類を明日にみちびくことになるのか、それとも亡びへの道を開くことになるのか。いずれにしろ、それは人間がもはや人間として存在しなくなる時だろう」
ソウレは眼前を通り過ぎてゆく一団の彼らに目をそそいでつぶやいた。
会談の再開までまだ長い時間をおくらねばならなかった。ソウレは走路に沿ってのびる高架回廊をゆっくりと歩いていった。たどるにつれて回廊は思いがけない所で分岐し、それがさらに幾つにも離合して広大な|街《がい》|衢《く》の奥へ奥へと迷路のようにソウレをみちびいていった。ソウレはあてもなく十字路をわたっていった。政庁エリアを遠く離れ、市民のあふれる居住区を通りぬけると急に物音の絶えた静けさに満ちた一角へ出た。もとはおそらく建設資材のような大型の重量物でも運搬するのに使われた回廊であろう。旧式な投光器を壁面につらねた広大な回廊が真直ぐにのびていた。
『右へ、環境管理機構D。左へ、第二十九綜合変電所、上へ、第七居住区、下へ、建設予備区』
ミルク色の光環が四つの方向へ文字を走らせていた。光の文字はゼンマイのように銀白の壁面にのびた。のびきって一瞬とどまり、ふたたびとびはねるように収縮した。収縮したあとには平滑な壁面がうそのようにとり残された。
右へ。環境管理機構D――
誰のために
左へ。第二十九綜合変電所――
いつやむともない
上へ。第七居住区――
そのくりかえし
下へ。建設予備区――
「建設予備区というのは、かつて造ろうとしてやめた所か。それともこれから造ろうとするところなのか」
ソウレは屈伸をくりかえす光の矢を目で追いながらつぶやいた。
直角に交わる十字路に、ややはずれてもう一つの回廊が口を開いているのがソウレの目に入った。そこには何のサインも示されていなかった。数個の投光器を束ねた照明が、そのひっそりと伸びる回廊の奥を指していた。ソウレはその光の束を背に負って、まっすぐに歩を運んでいった。
ここでも磨き上げられたチタニック・シルコンの壁面が、ソウレの姿を鏡のように映していた。深い静寂がソウレの靴音を吸いとった。
急に自分の周囲に広大な空間がひろがったのを感じてソウレは顔を上げた。そこは巨大な広間だった。ソウレをさかさまに映した床の面に文字が浮いていた。翳のように浮かんだ文字をひろうと、
〈グローバーズ・ホリゾント〉
そう読めた。
「地球人のための|天《てん》|蓋《がい》、か」
百メートル四方はあろう。広大な広間には高さのことなった三段の床が、神殿の|階《きざはし》のようにせり上っていた。そのもっとも奥の中央に一つのモビールがつるされていた。ソウレは歩み寄った。動かない空気の中で薄い金属パネルを組み合わせたモビールは、ソウレの気配を感じてかすかにゆれた。ソウレは手をのばしてモビールの薄片に触れた。モビールは重さを持たないもののように、ある空間の幅でゆっくりと往復した。
「地球の|方《かた》らしいな」
突然、背後で声がした。ふりかえってみると、一人の老人が立っていた。いつ近づいてきたのか、ソウレは全く気がつかなかった。全身をおおったひだの多い着衣が、光と金属の中でひどく印象的だった。
「そう」
「この場所がお気に召したかな?」
気に入ったか、と聞かれても、答えられるほど形をなした感想などなかった。ソウレはあいまいに笑った。
「このグローバーズ・ホリゾントに地球人がやってきたのはいったい何十年ぶりだろうか」
老人は自分だけの想いにひたるかのように薄く目を閉じて小さく首をふった。
「なんだね? ここは」
老人は閉じていた目を見開いて見すえるように強いまなざしをソウレの顔に当てた。
「地球人よ」
「地球人? 古い言いかただ」
「そうだ。むかしはそんな呼びかたをしたものだ。そして地球人は話し方にも、一寸した動作にもすぐそれとわかったものだ」
老人の顔には|憑《つ》かれたような烈しい色が流れた。
「ここは何だ? そしてあんたは?」
「そう質問ばかり急ぐな。なあ、地球人よ。その|頃《ころ》、この辺境で、まだ海のものとも山のものともつかない開発作業に血みどろになっているやせこけた骨と皮ばかりの辺境の者たちとはまるで違っていたよ、当時の地球人は」
モビールがゆれるたびに、虹のような|光《こう》|芒《ぼう》を|曳《ひ》いた。
「辺境の者と言ったところで、つまり地球の人間ではないか。なんでそう別個の存在として地球人を考えるんだ」
「辺境の者たちは地球からの指令によってはたらいていたのだ。新しい計画を持って、新しい勇気と技術を持って地球人はやってきた。いわば彼らは初期宇宙開発時代のエリートだったんだ」
「何を言いたいんだ? いったい」
「なあ、地球人よ。ここへ何しに来たのかしらないが、むかしの地球人はもうここへは来ないのかい?」
「わしじゃ駄目か」
「駄目だ! 地球人。この場所はな、まだ高貴な魂の所有者だった頃の地球人が、故郷を思い出すために集会した所だ。その頃は|誰《だれ》もが未来を信じていたものだ」
「今だって信じているさ」
ソウレは子供をあやすように言った。
「うそだ! 誰が信じているのだ。あんたか? わしか? はっはっははは……」
老人は鳥のような声でけたたましく笑った。ソウレは黙って背を向けて歩き出した。
そのとき、また、かすかな震動がこの広壮な広間を風のようにわたっていった。
モビールがゆったりと揺れ動いた。
ごおう――
はるかな足下から、地鳴りが這い上ってきた。
「これは大きいぞ」
ソウレは身を固くして通りぬけてゆく震動の持続をはかっていた。寄せては返す波のうねりのように、それは来たり去っていった。
ソウレは老人をふり返った。老人の顔は言い知れぬ不安に、|夕《ゆう》|闇《やみ》のように薄暗く翳っていた。
「老人。今のあれは何だ?」
老人は黙って首をふった。
「さあ、分らん。地震のようなものではないかな」
「地震? この冥王星にも地震があるのかね?」
「そりゃあるだろう。もっとも最近だよ。あんなふうに揺れはじめたのは」
「いつ頃からだ?」
老人は奇妙なことを聞く、というように|眉《まゆ》をひそめたが、
「一年ほど前からだ。たしかにそれまでは地震など無かったよ」
それまでは無かった――たしかに調査局の収集した情報の中にも冥王星の地震に関する記録など何一つなかった。とくに自然現象に関してはつねに大きな関心を持っている調査局のことだ。冥王星の地震について見逃すはずもない。宇宙開発時代にとって何よりも敏感にならなければいけないのは自然の異変に関してなのだ。
「なぜこの頃になって急に地震が多くなったんだろう。そのことについて何か聞いたことがあるか?」
「あんたは地震の研究家かね?」
「いや。そうじゃないが」
「いろいろうわさもあるようだ。地震がだんだんひどくなって、やがてこの冥王星がくだけてしまうのだとか」
「なるほど」
「笑うな、地球人。あんたが聞くから言ってるんだ。それからこの市街のさらに下層で新しい建設作業がはじまっているのだといううわさもある」
あれほどの爆破作業を要するような大規模な新建設計画がこの冥王星の都市で必要あるだろうか。経済的にかなり苦しいはずだが。
「老人。あんたはここで何をやっているのかね。グローバーズ・ホリゾントの案内人かね?」
「地球人! わしはむかし、ここの管理人だった。地球人の会合にはわしが重要な仕事を果したものだ」
「どうしてこの頃では地球人は集らなくなったんだ?」
「半分は地球へ帰った。半分は辺境が気に入った。誰が地球を想い出すのかね」
たぶんそのとおりだろう。地球や火星から辺境開発のために毎年多くの技術者がこの地へやってきた。そのたびに半数の者はこの辺境のとりこになって故郷を忘れた。その後、地球や火星からの応援は絶えた。老人の語るように、もう地球を想い出す者はここにはいないのだろう。
「老人、あんたはいったい幾歳になるね? そんなむかしのことを知っているなんて」
老人はもやもやと顔を崩した。
「さあ、もう忘れてしまったよ。二百年になるか、三百年になるか」
遠い地の底で、また、何かがどよめいた。
そのとき、老人の目がふと、曇った。今までかがやいていた目の光がにわかに暗く翳った。肩がとがって小きざみに震えた。
「どうした? 体が悪いのか?」
老人は目の前に立っているソウレを見失ったかのように両手をのばして空間をまさぐった。
「どうした?」
ソウレは思わずあとじさった。
「遠いむかしに起った不幸なできごとを今に伝えようとして」
「なに?」
「これはあきらかに迫ってくる不幸の予感なのだ」
老人の目は|茫《ぼう》、と碧くうるんでいた。
狂っているのか。
ソウレは老人のよろめく足取りから身を引いた。
「逃がれ得べくもない悲劇の、これはあきらかに最初の兆候なのだ。と」
老人は急に全身から力がぬけたかのようにくたくたと床に崩れおれた。崩れおれた老人の小さな体の上に、まとっていた着衣がふわりとひろがった。ソウレは老人を抱き上げた。
「しっかりしろ。なんだその悲劇だ、とか、不幸の兆候とかいうのは」
老人は視線のさだまらぬ目をぼんやりとソウレの顔に遊ばせていたが、やがてよろりと立ち上った。
「ヒロ18、ヒロ18が言った」
「なに! ヒロ18が?」
老人は突然、|憑《つ》きものが落ちたように、真直ぐにソウレを見た。
「地球人、あのときの計画どおりにこのグローバーズ・ホリゾントに電子頭脳を設けておけばよかったのだ。そのため、この床も三段に高低を設けたのだ。しかし結局、実現しなかった」
「そのために設けたホールだったのか、ここは」
ソウレはあらためて広大なホリゾントに目を向けた。
「宇宙の|深《しん》|淵《えん》に挑戦するためのこのホールが、地球を|偲《しの》ぶための神殿に変った時、悲劇はすでにここに在ったのだ。地球人よ」
「まて、老人。何のことか一向にわからない。それになぜその話にヒロ18が関係があるのだ?」
ソウレはようやく、この狂人ともまごう得体の知れぬ老人のつぶやきの中にひそむ異様な意味に気づいた。
「老人、聞かせてくれ。その話を」
「辺境にたどりついた者たちの何人かは、すでにそのことをおぼろげにも知っていた。そしてここにトリデを設けようとした」
老人の口調には不思議な熱がこもった。
「トリデ、というのは何かね?」
「だが、その頃、この辺境では遠い未来のために巨大な電子頭脳を建設するよりも、居住施設や空港施設に資材を動員しなければならなかった」
「なるほど」
「それは当然だ。そして電子頭脳の建設はいつまでたっても実現せず、やがて忘れられていった。それを願う人々もいつかこの地を離れ、伝説だけが残った。ここは|遥《はる》かに地球を懐しむための集会場と化し、今はそれも絶え果てた」
「老人、あなたはここで何をしているのかね?」
「いつかあれは必ずここへやってくる。わしは見定めなければならない」
「な、老人、あなたはどうしてヒロ18を知っているのだ?」
老人の顔からいっさいの表情が失われた。見開かれた両眼は底知れずうつろだった。
「今、今生き残っているのは、わ、わしとヒロ18だけになってしまった」
「なに! それではヒロ18は、老人、あなたのそのグループだったのか」
――遠いむかし、はるばるとこの冥王星にたどりつき、建設の第一歩をしるした人間たち。その中に何事か他の人々の想像も及ばぬ宇宙的規模の出来事を予知したグループがあったのだ。そのためあるいは進んで辺境の開発集団に加わったのかもしれない。しかしその企図はむなしく、そのグループもいつか散じ、この老人だけが一人むなしくこの地に残り、あのヒロ18だけが新しい天地を求めて、エレクトラ・バーグへ去っていったのだろう。
ソウレは|暗《あん》|澹《たん》たるまなざしで老人を見つめた。
もし、この時、ソウレがシロウズの見たエレクトラ・バーグの深奥にきずかれたあの山のような巨大な電子頭脳について知っていたら、老人の言葉の裏にひそむものにさらに一歩、迫り得たのだったが――
老人は影のように力なく遠ざかっていった。
「ヒロ18が」
ソウレは突然老人に向って突進した。手をのばして老人の腕をむず、とつかんだ。身をもがくのもかまわずにソウレは片方の手で老人の衣服をべりべりと引き裂いた。色つやを喪った半透明なひふに包まれ、骨張った上半身が照明の中にさらけ出された。肩甲骨の下に小さな突起がならんでいた。補助電子頭脳の冷却器だった。もう見ることもできないような旧式な型のものだった。
「老人、あんたはサイボーグだな」
「サ・イ・ボー・グだって? なんのことだ。それは。わしは地球人だ」
「うそをつけ。お前はサイボーグだ。この体の中にあるものだっておそらく酸素発生装置や超小型ポンプなどだろう。たぶん辺境型のそれも初期のやつだ」
「離せ! わしは知らん」
「あんたがサイボーグだとすれば、グローバーズ・ホリゾントのあった時代だって知っているはずだ」
「知らない。わしは」
「そしてあんたの知っているヒロ18もサイボーグというわけだ」
「ヒロ18?」
老人の目にふたたび狂気の色がもどってきた。老人はソウレの方へ向きなおった。
「もうよい。ゆけ!」
ソウレは老人を突き離した。ひどくやりきれなかった。そのやりきれない気持の底にヒロ18や、この老人の抱きつづけているある執念が鉛色に反映していた。
――辺境星区の宇宙整形医学の発展は目ざましい。あの市中で見かけたサイボーグたちもたしかに超一級と思われるすぐれたものだった。そうだ、あるいはこの老人やヒロ18などがあの技術をここで育てたのかもしれない。自分たちが五百年、六百年の生命を得るために。
――それほどまでにして追求しなければならないものはいったい何だったのだろう。〈すでにそのことをおぼろげにも知っていた〉とは何のことだろう? 何を知っていたというのだろう。
――エレクトラ・バーグで見たあの古い塔や、奇妙な灰色の平原は、このグローバーズ・ホリゾントや、あの老人、そしてヒロ18とどこかで結びつくものではないだろうか。
〈宇宙の深淵に挑戦するためのこのホールが、地球を偲ぶための神殿に変った時、悲劇はすでにここに在った〉
老人の言葉がソウレの耳の奥でまた聞えた。
ソウレは黙々とその場を離れた。
第六章 来訪者(その一)
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こころみに、|汝《なんじ》が前に過ぎ去りし日について問え
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冥王星――大気のないここでは、いかに強烈な光でも決して光芒を曳かない。光は物体の表面に当るときだけその面を|焔《ほのお》のかがやきのように浮き上らせる。そしてその光源と光を受けた面との間には、底知れぬ|闇《やみ》が千古の影となって存在する。闇は相対する二つのかがやきの間にあってことに深いのだった。
ここ、冥王星デビル盆地は、その周囲に|鋸《のこぎり》の歯のようにつらなる氷の岩峰をめぐらせてかがやく星空の下にそびえていた。高い尾根は水銀の焔のように星の光を映して、近づこうとする人間たちを烈しくこばんでいた。
急設された投光器群が首飾の宝石のように盆地の一部を環状にとり巻いていた。その目もくらむ光輝をあびて、断ち割られた大氷層はその巨大な傷口を星空の下に開いていた。垂直に切り立った|断《だん》|崖《がい》の肌は、見る者におのれの正気を疑わしむるような非現実的なたたずまいだった。
数十台の巨大なジブ・クレーンが、その太い腕をはるかな裂口の底へ垂らしていた。
そのとき、裂口の底で何かが光った。
あわただしくバケットの|爪《つめ》で岩盤がひきむしられ、そのあとに放列をしいたテレビ・カメラのレンズが集中した。
それは無数の|光《こう》|斑《はん》のつながりを浴びて、かすかな形をなしていた。それは深淵に沈む巨大なクラゲの死骸に似ていた。
裂口の周囲にあった人々の間に、氷のような沈黙がきた。彼らはしばらくの間、身動きもしなかった。
誰かが非常電話に飛びついた。一瞬、|立体《キューブ》テレビが、|携帯電話《ハンド・トーキー》が、狂気のように緊急サインを送りはじめた。それは悪夢から逃れようとするかのように死物狂いに受信者を呼びつづけた。
断崖の下に沈潜するものを見つめたまま、シロウズは身動きもしなかった。
とうとう!
奇妙な感動が|戦《せん》|慄《りつ》となってシロウズの背すじをはしった。
どこから?
いつ?
何をしに?
どんな形の?
敵か? それとも友人か、
文明、過去、未来、滅亡
いや! まて!
さまざまな思念が一度にどっと噴き上ってきた。シロウズのひたいを冷たい汗が流れた。
いつかはこの時がくることを、人類はもう永いこと心のどこかで思いつづけてきた。宇宙のどこからかおとずれてくるかもしれぬ未知の生物との|出《で》|逢《あ》いは、人々の心に絶えないおそれと不安の翳を投げかけてきた。
何十光年、何百光年の|闇《あん》|黒《こく》をわたり、太陽系をおとずれてくるような高度の文明を持った生物の存在は、ある時代には強く否定され、またある時代には明日にでも現れるかのように言われ、しかしついに今日までその到来の|痕《こん》|跡《せき》すら認められずにきた。
ああ、とうとうその日が来た!
この大氷層の下に埋められて何千年か何万年かを送り、今、人類の目の前に掘り出された彼ら。彼らはすでにここへ来ていたのだ。広大な宇宙の中で、人類は孤独でなかったのだ。しかしまたここで人類はあるいは破滅の未来を知ったのかもしれなかった。
どこから? いつ? どんな形の?
それは幾万べん口にしても尽きない問だった。
目を上げると、デビル盆地は星空の下で、暗い湖のようにひらたくひろがっていた。爆破され、削り取られた氷層の破片が、|熔《よう》|岩《がん》の|堆《たい》|積《せき》のように闇の底を埋めていた。
――震源地、HOKUTO・シティの西方北十二キロメートル。深さ四千五百メートル。おそらくはデビル盆地の直下。なお、同位置に弾性波不伝導個所あり。重金属より成る物体と推定されるも確認不可能。
地震計の記録を整理した電子頭脳の報告がシロウズの胸によみがえった。それはくりかえしくりかえし明滅した。
シロウズが東キャナル市から運んできた二千基の精密地震計は、この冥王星の大氷原深く設置され、シティをどよめかせる得体のしれぬ震動をこう、的確にとらえたのだった。
原子力破砕機、原子力ジャンボー、メーザー・ドリル、クレーン、ブルドーザーの群がデビル盆地を埋めた。
そして、求める獲物はたしかにそこにいた。永い間おそれ、期待し、心のどこかで待ちのぞんでいたもの。しかし、ようやく他天体の文明に触れ得た喜びよりも、これがパンドラの箱にならないことをそのとき、シロウズは痛切に願った。
今、巨大なクラゲのようなものは彼の眼下にあって何事か告げようとしていた。
求めてその眠りを覚ましたものは、あるいはシロウズ自身かもしれなかった。
「外殻に穴をあけることができたらただちに連絡してくれ」
長いアンテナはシロウズの心を映して銀色に|冴《さ》えた。
「調査局員、こちら作業班指揮官です。ご指示のとおり作業を進めましたが、底部は岩盤に|熔《よう》|融《ゆう》しています。|剥《はく》|離《り》するには多大の日数を要すると思います」
「初期調査の結果は?」
いつになく、ひどく気が焦だっていた。
「直径五百メートル。中心部の厚さ八十メートル。重量はまだ不明ですがおそらく二万トンを越すのではないかと思っております。外殻はファイバー状の未知の金属ですが、かなり腐触がはげしい。窓、ハッチ、その他開口部は見あたりません」
「よし。その位置で氷層の古さは?」
「詳細は目下調査中ですがG七層です」
冥王星をとり巻く氷層の厚さは、もちろん部分によって異なるが、デビル盆地ではG七層と呼ばれる氷層は最深層に位していた。
「すると千二百万年前か!」
シロウズの声は悲鳴に近かった。
――まさか!
しかし否定することはできなかった。
事実のみが事実であることはシロウズ自身が良く知っていた。
千二百万年前――地球では、まだ人類の夜明けも遠く、幾つかの山脈はまだ今ある姿を定めていなかった頃、この未知の文明からの来訪者は、かがやく星空の一角から流星のようにすべりこんできたのだ。むかしのことだ。遠い遠いむかしのことだ。何らかの原因でその宇宙船は氷層の下に眠ることになり、ついに救援の手もさしのべられることなく終ったのだ。おそらく遭難の報を送ることもできなかったのだろう。あるいは最初から救援は望み得なかったのかもしれない。
だが、まて!
シロウズの思念はにわかに氷のように凍結した。重大なことを忘れていた。
――この宇宙船はまだ生きているのだ――
その気配をたよりにここを探り当てたのではないか。シティを震わせたあの風のような震動こそ、この宇宙船がまだ生きつづけていることの何よりの証拠ではないか。はるかな地の底に、巨大なクラゲの死体のように横たわるものが、今にも電光のように飛びたってくるかもしれぬ恐怖がシロウズの唇を白くさせた。
「調査局員、トーキーを切ります」
地底からの声は水のように静かだった。
待つ時間は長かった。作業が進んでいるものやら進んでいないものやら何の連絡もなかった。ただ時おり裂口の底で青白いスパークが咲くのがのぞまれた。シロウズは断崖の縁に立って一人、待ちつづけた。それはいつ果てるとも知れぬ苦行のようにシロウズには思えた。世界を根底からゆり動かす何かがこれからはじまろうとしているのだった。シロウズは一人、待ちつづけた。星々は|凄《せい》|愴《そう》な光を放ちつづけ、氷崖のきわに立つ一人の男の魂までもつかみ取ろうとしていた。
「調査局員! 外殻の切断に成功しました。セクション七の縁辺です」
「よし、すぐ行く」
どうやら無事に外鈑の熔融、切断に成功したらしい。メーザーや原子力の高熱にも異状な反応を起さずにすんだらしい。未知の物質でもっともおそろしいのは、不用意に高熱や高圧を加えることだった。それによってどんな急激な反応を誘引することになるのか全く見当もつかないからだ。
「これで一歩、近づいたぞ」
シロウズを乗せたリフト・バケットは静かに裂口の底へ降っていった。頭上の星空はしだいに円くせばまり、やがて深い井戸の底から見上げたように遠く、小さくなった。バケットはかすかな衝撃を伝えて止った。シロウズは低いドアを押し開けた。
目の前に、なだらかな曲面を描いて大半球がひろがっていた。色|褪《あ》せたレンガ色の表面は粗雑な|篆《てん》|刻《こく》ですき間もなくおおわれていた。巨大な半球の上を動き回っている数個の人影が、投光器の放つ光輝を背景に、まるで地平線高くそびえる高圧線の鉄塔のようにくっきりと見えた。シロウズはそっ、と足をおろした。サリッ、くだいた軽石を踏んだような触感が伝わってきた。
「だいぶ腐蝕が進んでいるようだな」
表面には何の足がかりもなく足はずるずるすべって登りにくかった。
セクション七の縁辺はゆるやかになだれてきたカーブが、急激に裏側へ回りこんでゆくそのやや内方にあった。縁辺は深奥の闇の中に巨大な屋根のようにせり出していた。数十個の投光器の光斑がこの一点に集りはじめた。その真昼のようなかがやきの中に数台の大型レッカーが地虫のようにうごめいていた。
高熱で切断した部分を冷却するために、浴びせるドライ・アイスの蒸気が、竜巻のように渦巻いて立ち上っていた。その蒸気の奥に、ぶざまな開口部が黒いトンネルとなって開いていた。
十数人の作業員が一団となってそのトンネルの奥をのぞきこんでいた。
「内部調査班はセクションの縁辺七へ集合、他の班は作業を急げ!」
ドライ・アイスの煙をくぐって内部調査班があらわれてきた。闇の中から光円へ躍り出てきたその一団は、いちように細く長い手足と円い頭を持っていた。青銅色のひふがキラ、とうろこのように光った。
「内部調査班は急いで内部の通路の見取図を作れ。ハッチなどの閉まっている所はそのまま、概略でよい。ゆけ!」
彼らはなんのためらいもなく、つぎつぎと暗い破孔の奥へと消えていった。
彼らの|無線電話機《トーキー》は時おり報告らしいものを伝えてきたが、内部はひどい空電状態とみえて何を言っているのか全く聞きとれなかった。その報告はすべて重大なものに違いなかったが、しかし、シロウズは眉も動かさずにそれを聞き流した。彼らから具体的な報告を得ようなどとは最初から思ってもいなかった。船内が安全かどうか、彼らを入りこませることによってたしかめることができればそれでよいのだった。彼らの体につけた診査器が呼吸数の変化や血圧、体温、代謝の異状を記録して帰るはずだった。
彼は星空の下に黙々と立ちつくした。
「調査局員、辺境星区代表と惑星間経営機構副首席がおみえになりました」
イアホーンがあわただしく告げた。
「セクション七へ案内してくれ」
しばらくすると、作業班の一人に導かれてタンギーとソウレが光圏の中に現れてきた。|着《き》|馴《な》れないスペース・スーツのせいか、二人とも動作がぎごちなかった。
ヘルメットの中でタンギーの顔はほとんど色を喪っていた。|削《そ》いだようなほおに時おりけいれんがはしった。辺境星区の指導者として、この事態は骨身を砕くようなショックだったに違いない。
タンギーは深く息を吸いこむと、なお信じられぬというように宇宙船に目を向けつづけた。
「ずいぶん大きなものだな」
ソウレがうなるように言って宇宙船の円弧をすかし見た。
「それにかなり古いものだそうじゃないか。今、上で聞いてきた」
「約千二百万年前ではないかと推定されます」
「千二百万年前か! シロウズ、内部の調査の結果はどうなった?」
「今、初期調査班が入っています。結果を見て私が入ります」
「ふうん。あいかわらずずるい|奴《やつ》だ」
タンギーがようやく宇宙船から目を放して体を向き変えた。
「調査局員、ごくろうでした。やはり経営機構副首席が推すだけのことはある」
タンギーの射るような目が、ふとなごんだ。シロウズはその言葉に軽く会釈をかえした。ソウレは無邪気な顔になって得意そうに何度もうなずいた。
「あとで報告書を提出してもらいますが、調査局員、この事態を当面の問題としてどう扱ったらよろしいか」
タンギーの声はかすれていた。
シロウズはしばらく黙っていたが、
「内部の詳細な調査にまたなければ具体的なことは申しあげられませんが、さしあたって危険なことはないと思います。ただ辺境星区の各|航路管制所《シグナル》には非常警戒態勢につくように指令して下さい」
「よし、そうしよう」
タンギーはその理由も聞かずに深くうなずいた。
やがて初期調査班がつぎつぎと切断部から姿をあらわした。
「安全らしいな」
シロウズはつぶやいてあらためてその暗い内部をのぞいた。
調査班の一人が内部の通路を感光プレートに写しとった簡単な見取図をシロウズに手渡した。
医療部員の手によって一人一人の体につけられた診査器が点検された。
「生理的、精神的な異状は認められません」
「よし、それでは三、四、九号はおれといっしょにもう一度、入ってもらう。他はここで待機。連絡には有線テレビを使う。それから辺境星区資料部との直通回路は結んだままにしておけ」
三号が|携帯《ハンド》テレビの送受像機を、九号が|携帯用原子力発電機《マイクロ・ダイナミック》をすばやく背に負った。四号がトーチ・ランプなどの工具の入ったバッグをさげた。シロウズは自分の|代謝調節装置《メタボライザー》を綿密に調整した。
「ゆくぞ」
従う三人に鋭いまなざしを投げた。
「まて、シロウズ、わしも行こう」
ソウレが手をのばしてシロウズのひじをつかんだ。タンギーは棒立ちになった。そして手をさしのべてソウレに何か言おうとしたがそのまま口を閉じた。
「副首席、よした方がいいと思うんだが」
シロウズはそう言いながらも、ソウレの代謝調節装置にこまごまと手を加えていた。
「辺境星区代表、わしもこの目で内部のようすをたしかめてくる。ま、この男がいるから大丈夫だろう」
ソウレはシロウズを追い立てるしぐさをした。シロウズは苦笑いを浮かべて頭から切断孔へ身を入れた。
破孔の縁がカミソリの刃のように薄く鋭かった。その白銀の光輝がシロウズの|宇宙服《スペース・スーツ》を一瞬、音もなく切り裂いた。
ヘルメットの内側、目の下に橙色の非常燈が電光のようにきらめいた。つうーん、刺されるような痛みが鼻筋をつらぬいて頭頂へぬけた。手足が石のように重くなった。シロウズは頭のどこかで、|宇宙服《スペース・スーツ》が裂けたのを知った。手足が急に重くなったのは血液を頭部と呼吸器官に集中したために起った一時的|麻《ま》|痺《ひ》状態だ。シロウズは頭を垂れてしだいに回復してくる体力を待った。切り裂かれた|宇宙服《スペース・スーツ》の切り口は真空状態で瞬間的に溶融する一種の蛋白質でふさがれてしまうのだった。
「危いところだった!」
シロウズは胸の底から息を吐いた。ほっとすると同時に新しいおどろきが噴き上ってきた。
「この船殻は!」
この巨大な船体の船殻はわずかに一ミリメートルほどしかなかった。
「この|錫《すず》|箔《はく》のような薄弱な外殻が千二百万年もの間、大氷層の重さに耐えてきたのか!」
それはとても信じられないことだった。しかし宇宙にはあまりにも信じ難い現実が|横《おう》|溢《いつ》していた。ヘルメットの投光器が内部の暗黒に光斑を撒き散らした。内部にはその紙のように薄い外殻を支えるための骨組みもなかった。それはあたかも、人間の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》のように、それ自体で圧力を支える完全な応力外被構造になっているようだった。
もし、これだけの規模を持つ宇宙船を太陽系文明の技術をもって建造するとなれば、その船殻の厚さはおそらく十メートルに達するだろうと思われた。
シロウズはそろそろと前進を開始した。巨大なパネルに埋めこまれたおびただしい|円筒《シリンダー》が|蜂《はち》の巣のように行手をふさいでいた。その|円筒《シリンダー》から|円筒《シリンダー》を結んで透明のワイヤーが縦横にはしっていた。その円筒の内部には、かつて何かが入っていたらしい。今はおそらく容器とおぼしい|円筒《シリンダー》だけがむなしく空間を埋めているだけだった。その円筒群の上部から|蝶《ちょう》の|翅《はね》のように薄い軟らかな膜が張り出していた。
「材質はいったいなんだろう? 金属でもないし、プラスチックやシリコンのようなものでもないようだし」
ソウレが背後でつぶやいた。
材質がわからないのにはたらきがわかるはずもない。
「三号! 周囲の状況をすべて資料部へ送信しろ」
三号の背中でテレビ・アイがかま首をもたげてダーク・グリーンの灯をともした。生きているもののように首を振る。
人間一人がくぐりぬけられるぐらいの大きさに機器類が焼け落ち、熔融して崩れ落ちていた。調査班が押し開いて通ったのだろう。メーザー・ガンのおそろしい熱によって、崩れ落ちた金属の肌はどす黒く変色し、熔融した金属の滴が白銀の玉となってつらなっていた。焼き払われたワイヤーやパイプが|溺《でき》|死《し》した人間の毛髪のように垂れ下っていた。
五人は一列になってそのジャングルをくぐりぬけていった。シロウズは見取図にライトを当てた。
「ここがA点だ。ここから左へ、コイルのような高い円筒数本、ああ、あれだ!」
そこをさらに上方へパイプの束を伝って一気に登る。
「ここをこえるとエネルギー探知機が発動する、か」
長大な浮舟のような得体の知れぬ大円環を手足を使って滑りおりると、シロウズの腕に巻いたエネルギー探知機が、ぽっ、とオレンジ色の光点を浮かべた。
「ななめ上方|僅《わず》かに右、距離二百二十メートル、ほぼ船体中央部に強力なエネルギー流動あり」
四号がうたうように告げた。
シロウズは深い疑惑を抱いて周囲にひろがる千古の闇をうかがった。
ひどく気になることが幾つかあった。
たとえば、これだけ巨大な船体を有していながら、内部に乗組員のための船内通路というものが全く見あたらないことだった。
それだけではない。この船内の|艤《ぎ》|装《そう》品配置には――この船内スペースをすき間もなく埋めつくしているさまざまな、得体の知れぬ機器類が本来の意味での艤装品だとするならば――ここにはたらいている必然性そのものは、人類の知っているものとはおそらくかけ離れた異質のものに違いなかった。あるいはこの巨大な宇宙船自体が一個の生物体ででもあるかのような構造を示していた。
「調査局員、この宇宙船には生物は乗っていなかったのでしょうか?」
三号が声をひそめてシロウズにたずねた。
「今は何とも言えないな。たしかに通路も、リフトも、点検用のランニング・ボード一枚すらない。人類的構想のもとで建造したものとは本質的に異なっているのだ。しかし軽々しく判断することは危険だ」
何に使うものなのか、半透明の|管《パイプ》が大きな渦を描いていた。そしてその|管《パイプ》はななめに左の上部、銀白色に輝く巨大な|球体《ボール》につながっていた。それをとり囲んで|扁《へん》|平《ぺい》にひろがる一画があった。パネルの合わせ目がはずれて内部がのぞけた。シロウズはパネルを押し開いて半身を入れた。高さ五センチメートルほどのビンのような透明の小円筒が整然とならんでいた。それが数列、さらに数列、強烈な投光器の光と影に鮮烈な|縞《しま》|模《も》|様《よう》となって浮き上っていた。
「宇宙船内の装置でこんなものはこれまでに一度も見たことがないな」
ビンの中にはさび色の薄い葉片のようなものが色褪せて縮んでいた。そしてその無数のビンを結んで微細なワイヤーが見分けもつかぬほどもつれてからんでいた。シロウズは手をのばしてその微細な糸の束を指先にかけてひっぱった。それはまるで雲の糸でも引き千切るようにふつふつと|手《て》|応《ごた》えもなく断ち切れた。シロウズはさらに顔を近づけた。無数のビンの間に、キラキラと光る微細な|塵《ちり》があった。指の先で押しつけてみると、それはこまかい結晶だった。
「この部分はかつては何かの液体に浸っていたのだろうか?」
そのときシロウズの胸にある一つの疑惑が生れた。シロウズは思わず手を宙にとめて、そのかすかな疑惑に心をかたむけた。しかしそれは水平線はるかに遠い雨雲のように、まだまだ全天をおおいつくすものにはならなかった。
「調査局員! エネルギー流動がしだいに強くなっています」
九号の声にシロウズはわれにかえった。たしかにエネルギー探知機の針はじりじりと右方へ動きつつあった。理由はわからないが、エネルギーの発生量がしだいに増大しつつあった。
「シロウズ、掘り出したり、われわれが侵入したために活動がはじまったのだろうか」
「そうかもしれません。しかしこの程度のエネルギー発生量ではまだ危険というほどのこともないでしょう」
船体のほぼ中央、暗黒の深淵に沈んで巨大な球形のタンクがあった。金属ともつかぬ、シリコンともつかぬ|強靱《きょうじん》な物質の一体構造を示すそれは、数本の太い突起を突き出していた。どこにも開口部ものぞき窓もなく、内部のようすはうかがうすべもなかった。しかし内部では何らかの機構によって強大なエネルギーが発生していることはエネルギー探知機の針の動きをまつまでもなかった。
「調査局員、空間にわずかな偏位が認められます。テレビ電波がひどくゆがんでいます。おそらく磁場の変動も考えられます」
九号が記録でも読み上げるかのように報告した。
ソウレが及び腰で近寄った。
放射能検出装置は思い出したように時おり点滅した。
「|γ《ガンマー》線が|漏《ろう》|洩《えい》しているらしいな」
「調査局員、エネルギーの発生源は何でしょうか?」
「水素核融合反応ではないかと思うが」
「反応炉の直径一・二メートルぐらいですね。この防護殻を破ればわかるんだが」
四号がしきりに検出装置で白銀の球体の表面をなでさすっていた。
シロウズは足もとにうず高く積み重なって散乱している汚白色の薄片を|蹴《け》|散《ち》らした。それは地衣類のようにちりちり収縮して、まるで重さを持たないもののように床を滑った。
「見ろ! この収縮したコケのようなものが以前は球体をおおっていたらしいぞ」
シロウズの示す投光器の光環の中に、球体の表面に一面にうろこ形の変色した痕跡がひろがっていた。
「エネルギー発生装置をおおうコケ、か? まさか」
三号がつぶやいた。
「ある種の結締組織に似た支持構造と考えたらいいんじゃないかな。以前はこれが|空《くう》|隙《げき》をすべて埋めていたかもしれない」
「材質はいったい何でしょうか?」
シロウズも首をかしげた。
「ファイバーのようでもあるが?」
四号がその薄片を|吸塵器《きゅうじんき》で収集タンクにとり入れた。
「工作部に連絡して、これをそっくり取りはずすための用意をさせろ。大きな収穫になるかもしれん」
千二百万年のむかし、太陽系外のどこからかやってきて、この冥王星の大氷層の下に閉じこめられた彼ら。その想像を絶する|知《ち》|慧《え》の結果がこの銀色の球体の内部に秘められていることだろう。広漠たる空間をわたり、この巨大な宇宙船を運んできた|厖《ぼう》|大《だい》なエネルギーがこの銀色の球体に、いったいどのような形で収められているのか、シロウズは胸の痛くなるような圧倒感に息をつめた。
これに乗ってきた者たちは果して太陽系に対する侵略の意図を抱いてやってきたものなのか? それとも、彼らの遠大な宇宙探検計画の途上にあって、むなしくこの大氷層にすべてを喪ったものなのか。いずれにせよ、この船を支える偉大な力だけはまだ生きてそこに秘められているはずであった。千二百万年の歳月がそこだけに鮮烈に生きてきたのだ。生命はここでは何のはたらきもなし得ないでいる。その生命を支えるための機構だけがわずかに生き残ってなお生命に奉仕するべく無駄な努力を積み重ねてきたのだ。
「いや、無駄ではなかったさ」
シロウズはひとりつぶやいた。努力とはおしなべて最高のぜいたくのことかもしれない。ことにこの広漠たる宇宙空間にあっては、努力はつねに至高の浪費と結びついてきた。そして無駄そのものに比類ないある充実がこめられていた。
「彼らの言語を知りたいものだが。たとえ二、三の単語でも書かれていないか、みんなよく注意してくれよ」
ふつうならどの機器類にも製造にあたったプラントの名や、製造番号、それに基礎的なデーター表がプレートに刻みこまれて、どこかに|鋲止《びょうど》めにされているものだが、ここではそれらしいものは全く見当らなかった。
エネルギー発生装置から突き出した太いつのが、やがて数本のパイプとなって分岐し、それが五十メートルほど上方で巨大な糸巻のようにもつれ合っていた。その内部に何ものかを抱いていた。
「シロウズ、見ろ。エネルギー導管があそこに集中しているぞ。あれは何かたいへんなエネルギーを使っていたものとみえる」
「推進機関か、航法装置か、あるいは武器か、いずれにせよもう使いものにはなるまい」
五人はもつれ合う|管《パイプ》の束を足場にそこまで登っていった。無数の|管《パイプ》に包まれているのはほとんどライフ・ボートぐらいの大きさの円筒だった。
注意してみるまでもない。最後のエネルギーがこの管群をくぐりぬけてから、一つの文明が発生し隆盛を極めた末に静かに亡んでゆくだけの年月が流れさったのだった。
「トーチ・ランプを出せ」
四号がバッグからトーチ・ランプをとり出してセットした。
「焼き切って内部を点検しよう」
熱線銃のひらめきに似た鮮かな緑色のビームがパネルを|灼熱《しゃくねつ》させた。
やわらかな粘土板を押し切るようにパネルが音もなく床に落ちた。乾ききった海綿状組織が金属の削りかすのようにキラキラと微細に反射していた。それを靴先で払いのけると、微粉の下から小さな円筒の束があらわれてきた。長さ二センチメートル、直径一センチメートルほどの半透明のそれは、無数の|蜂《はち》の巣のように幾何学的な造形をつらねていた。
「船内いたるところにみられるこの小さな円筒はいったい何だろう? バッテリーでもないようだし、貯蔵組織にも似ているが違う。それにしても乗組員のための設備が全く見当らないが、これはあるいは|無人宇宙船《ロボット・シップ》なのかもしれないぞ」
シロウズのつぶやきに、ソウレは投光器をめぐらせて落ちていた一本の管を手にすると、つらなる蜂の巣の小円筒群を突き崩した。微粉をまき散らしながら、砂のように崩れて床を埋めた。靴の下でそれはかすかにきしった。
突然、シロウズは烈しくつき上げてくる|嘔《おう》|吐《と》|感《かん》に身を折った。体の深奥からぐっとのど元までこみ上げてきたものをシロウズは脂汗を流しながら必死に|呑《の》みこんだ。ヘルメットの中へ吐き出しては以後の行動にさしつかえる。嘔吐感のあとから猛烈な目まいがおそってきた。シロウズは太い|管《パイプ》を握りしめてこらえた。ソウレが床に打ち倒れているのが目の端に見えていたが、シロウズにはどうすることもできなかった。
「三号! 四号! 九号! いるか。副首席を外へ運べ!」
叫んだつもりだったが、声が出なかった。シロウズは体を引きずって倒れているソウレの上体をゆすぶった。|赭《しゃ》|顔《がん》は血の気を失って青白く透きとおり、ほとんど呼吸はとまっていた。
「副首席! 副首席! しっかりするんだ」
シロウズは自分の口が耳まで裂けたような気がした。ソウレはかすかにうめいた。
「もう少しがまんしていろ! 今、外へ運ぶ」
惑乱をこらえながらシロウズは全身の力をこめて首を回した。求める三人の初期調査班員たちの黒い姿が、|微《み》|塵《じん》の中に長く、ぼろ切れのように横たわっていた。
シロウズはソウレを抱き起した。ソウレがかすかに何かつぶやいた。
「しっかりしてくれ! 大丈夫だ」
ソウレは唇を動かしてあえいだ。
「――永い戦いだった」
ソウレはつぶやいた。
「なに?」
「――二つの全く異なった星間文明が、その最盛の時期を同じうするなどということが考えられたろうか」
シロウズは思わずソウレの体を離した。狂ったか! 真黒な悔恨が爆発した。
「――のみならず、その二つが接触し合うなどと」
ソウレのつぶやきは|万《ばん》|斛《こく》のうらみがあった。
傷ましい思いの中でみつめるシロウズの胸にソウレの言葉は熱鉄のようにひびいた。
――たしかに、われわれの知り得る範囲内に高度な文明を持つ生命は存在しなかった。たとえ存在してもそれはわれわれよりはるかに過去の時代かそれとも遠い未来だ。二つの異なる生命体が、それぞれ最盛の文明を背景にしてこの広大な宇宙空間で相逢うなどという偶然は万に一つもありはしないのだ。
「副首席、副首席! どうしたのですか、何のことを言っているんですか、それは」
ソウレは床に手足を投げ出したまま、唇だけを動かしつづけた。
「――永い戦いだった。人々は生き変り、死に変り、戦いの記憶だけを抱いて果しない時に身を投じていった。戦いにうみ、疲れながらも、戦いをやめることは滅亡を意味することを知っていたからだ。絶対に意志を通じ合うことのできない相手というものがあることを人々は知った。それは宿命の烙印だった。どうして石と語り合うことができようか。また彼らも同じように言うだろう。風と手を結ぶにはどうすればよいのかと」
シロウズは顔をゆがめて叫んだ。
「誰だ! お前は」
「――ああ、四つの太陽が吐き出す紫色の長大な尾が天空を四つに分けている。やがて|橙色《だいだいいろ》の時代がくるのだろう。あれこそわれわれの紋章だ。永い永い戦いの果てに、傷つき疲れたわれわれがさらにも守り通さなければならないわれわれの生のしるしだ」
シロウズは床に腰を落してソウレの唇の動きを見つめた。体を支えていられないほど手足が震えていた。
「――残された方法は一つ。われわれは形を変え、自ら宇宙船となって日ましに強大となる敵をむかえた。あらゆるエネルギーの枯渇したあとにはもはや自らが……」
シロウズは電撃に打たれたように立ち上った。胸の内をふさいでいた分厚い疑惑の壁の一部分が突然、突き崩されて光が射しこんできた。
――そうか! やはりそうだったのか! この宇宙船は実はある生物の死体だったのだ! あの|管《パイプ》と見えたものも、ワイヤーと見えたものも、すべて血管や神経にひとしいものだったのだ。だから、だから、だからあの小さな無数の円筒こそ細胞そのものなのだ。この宇宙船は実はサイボーグだったのだ。
「――この惑星系テトラソニアが最後の戦場となった。障害物となった第五惑星オリハングルが破砕された」
「そ、それは火星のことか!」
「――しかし、永かった戦いにもついに終りの時が来た。われわれはどんなにか戦いの終るのをのぞんだことだろうか。だが決してこのような終末をのぞんでいたのではなかった」
うめきのような言葉の中には、あるおそるべき破滅の形態、絶望におしひしがれた生命のあがきの|苦《く》|悶《もん》があった。
ソウレはおそろしい力で身を起した。死者のような顔をあお向けに両手を高くかざした。
「――あれはやってきた! やってきたのだ。あれについて、かつて説いた者もあった。しかし、当面の敵と死力を尽しているわれわれに何の力が残されていたろうか。たとえいかに力を持とうとも、あの〈|終焉《しゅうえん》〉と〈無〉の前にこころみる何ものもないはずだ」
「答えてくれ! この宇宙船は水素核融合反応を動力源にしているようだが、これが生物だとしたら……」
「――すべては終った。すべては終ったのだ。長い年月だった。とても長い年月だった」
ソウレは天の一角をにらむように白い目を見開き、やがて、どうと床に崩れ落ちた。
「副首席!」
シロウズは現実に立ち還ってソウレに飛びついた。ソウレの体は板のように硬直していた。シロウズはふるえる指先でソウレの代謝調節装置をひねり回した。ソウレが低くうめいた。わずかに生色がよみがえってきた。憑きものが落ちるようにソウレの体は柔軟さをとりもどしてきた。シロウズはソウレの体を背に負った。ひどく足もとがたよりなかった。ソウレの太く短い手足が不規則にゆれてシロウズの足の運びをさらに困難にした。
突き崩された蜂の巣のような小円筒と、舞いたつ微塵――かつての生物の組織か器官か、を踏みくだき、蹴散らしながらシロウズはよろめき進んだ。
――細胞の大きいのはめずらしくはないが、このように細胞の外殻だけが残っているところをみると、彼らは植物性の生物だったのだろうか?
ソウレの重みに耐えながら、シロウズは頭の中でくりかえし、くりかえし、おのれに問うた。
――水素核融合反応を体内で自在に操ってエネルギー源としていた生物とは、そもそもいかなる形態をしていたのだろうか。
――そのエネルギーが、まだ生き残っていたある器官か装置をはたらかせ、ソウレの大脳を刺激して、この生物の過去の記憶を語らせたのだ。
ふとシロウズの足の運びが止った。電光のように彼の胸をつらぬいたものがあった。シロウズの顔に冷たい汗の粒が浮かんだ。
〈――何かの不幸を今に伝えようと〉
〈――あきらかに近づいてくる何ごとか不幸の予感がある〉
〈――何かの不幸を今に伝えようと〉
〈――あきらかに近づいてくる何ごとか不幸の予感がある〉
〈――何かの不幸を今に伝えようと〉
〈――あきらかに……〉
ヒロ18の言葉が耳の中で|嵐《あらし》のように鳴りひびいた。
シロウズは冷たい汗にまみれて一歩一歩、歩を運んだ。ゆれるソウレの手や足が、髪の毛より細いワイヤーの束をひっかけては千切っていった。毛細血管のように細いパイプの束がシロウズの靴の下でこなごなに砕けた。
ソウレを背負ってあらわれたシロウズに、投光器が集中した。医療部員を満載したバケットが急降下してきた。放射能|洗滌剤《せんじょうざい》が氷霧となって立ち昇った。その渦まく霧の結晶の中をバケットはふたたび急上昇していった。
突然、誰かが何か叫んだようだった。人々はその絶叫に思わずイアホーンをおさえた。
一瞬、すべてがほとばしる光輝と化した。かがやく星々の天は|灼《や》けた。はじめは目もくらむ火の柱が、やがて色褪せた光の波が波紋を描いて虚空にひろがっていった。
人々は息を止めてそれを見つめつづけた。
デビル盆地全体がごうごうと揺れ動いた。崩れ落ちる|氷崖《ひょうがい》が光輝の中で滝のように見えた。
第七章 来訪者(その二)
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山、いまだ定められず、丘いまだなかりし時、われ、すでに在り
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濃い|藍《あい》を溶かした大海原がしだいに浅黄色に変り、それが暗色を深めたと思うまに地表は淡い黄土色のベールにおおわれた。それは|陽《かげ》|炎《ろう》のようにゆらめき、風に千切れる波頭のように高く高くのびて高層の暗い|碧《へき》|空《くう》に溶けこんでゆく。大気はすでに微細な|砂《さ》|塵《じん》をおびて煙霧のように曇りはじめた。
宇宙船は高度を下げると、荒波に呑まれるように荒れ狂う|風《ふう》|塵《じん》の中へ沈んでいった。天も地も周囲はことごとく黄褐色の厚い壁にさえぎられていた。厚い船殻をとおして、ごうごうとほえる|砂嵐《すなあらし》のどよめきが伝わってくるようだった。加速、減速をくりかえすたびに、噴射管からほとばしる焔に吹きまくる砂塵は熱く灼けておそろしい速さで吹き飛んだ。
風脈の谷間に入ると、太陽は暗いオレンジ色の円盤となって黄土色の天の一方に、ぼんやりと幻のように姿をあらわした。その時だけ、周囲は掃いたような|鬱《う》|金《こん》|色《いろ》をよそおい、時に高い山脈の輪郭が影のようにもうろうと浮かび出た。しかしそれもつかのま、すべてはふたたび厚い砂塵にさえぎられ、その所在もわからなくなってしまうのだ。
宇宙船の船体は微細な砂粒との間断ない摩擦によってしだいに烈しい熱を持ちはじめた。耐熱陶土製の船体も焔のようにひらめく陽炎を|曳《ひ》き、弾丸のような速度でぶつかってくる微塵の|爪《つめ》|跡《あと》の|掻《か》き傷が無数に白く散っていた。
〈コチラ、エベンキ特設|宇宙空港《スペース・ポート》、管制所。宇宙船『コンデッチェリC』ヘ。コースA七二変針セヨ。進入コース誘導波長一六五〇B変波帯。直進セヨ。ソノママ直進セヨ〉
天地をおおう風塵の奥から、エベンキが呼んでいた。砂嵐からのひどい乱反射を手さぐりに、宇宙船は砂塵をまいて高度を下げていった。
このあたりは本来ならば、|左《さ》|舷《げん》遠く、雲の|峯《みね》ともまがうコンロン山脈をのぞみ、タリム盆地の|沃《よく》|野《や》をこえてはるかにテンザン山脈のつらなりが地平を閉ざすのをうかがうことができるはずだった。そびえ立つ積乱雲と、モウコジャコウ草の白い花をつけた群落。そして動くものの影とてない。目のくらむような真昼の大草原のはずであった。
さらにアルタイ山脈を越えてバイカル湖を右舷かなたに、シベリアの大森林地帯が海のようにひろがってくるのだが――
エベンキの特設|宇宙空港《スペース・ポート》のシグナルがタカンに入りはじめた。ブレーキ・ロケットの|轟《ごう》|音《おん》が砂塵の中にとどろく。いちだんと濃い砂煙が火山の噴煙のように|湧《わ》き上った。その砂煙の下から白い蒸気が渦巻いてみるみる周囲を汚白色に変えてゆく。強力な誘導電波も砂嵐のおびる磁気にさえぎられてほとんど聞きとり難いほど乱れていた。
〈コンデッチェリC〉は、ドップラー・レーダーの触手を網のようにまさぐりのばしてなお北へ飛びつづけた。
北極点を通過、さらに砂塵の中をもう一周する。
あの淡い青緑色の素晴らしい大気圏も、群青色の海も、暗緑色の森林地帯も、すべて黄土一色に厚く塗りこめられていた。特長ある大陸の海岸線も、はるかかなたから目を奪う白銀の高峯も、今は望み得べくもなかった。
〈コチラ、エベンキ特設|宇宙空港《スペース・ポート》、管制所。宇宙船『コンデッチェリC』ヘ。貴船ノ現在位置、コンロン山脈東方、東経九十二・五度、北緯三十七・二度五分二十秒、ツアイダム盆地上空。オビ河右岸ニ注意セヨ〉
いよいよ進入コースだった。しかし進入コースとはいえ、どこに何があるのか全く見当もつかなかった。
烈風に吹き千切れる波しぶきのように砂が飛ぶ、砂が飛ぶ。機器類が鳴りをひそめると、天地をどよもして砂嵐が|吠《ほ》えた。
砂の厚い|帳《とばり》のむこうから強烈な投光器の|光《こう》|芒《ぼう》をかがやかせて地上車が近づいてきた。それは巨大な目を持った原始の怪獣があらわれてきたかのようだった。幅の広いキャタピラーが波を|蹴《け》|立《た》てる高速艇の|舳《へさき》のように流線をえがいて砂を切っていた。
「装具をはずさずに、そのままでこの地上車へ乗ってください」
イアホーンが叫んだ。
「さあ、ゆこう。スウェイ」
シロウズは部下のスウェイをうながして走り出した。〈コンデッチェリC〉の船腹の下から走り出て、たちまち烈しい横風をくらい、あっ、というまに横ざまに砂の上を数十メートルもすべった。それを見て地上車が速度を上げて風下に回ってきた。二人はようやく立ち上って全身の砂を払い落した。
「注意してください。この砂嵐に巻きこまれてこの間も整備員が二人、死んだんですよ」
地上車のキャノピーの内部まで厚い砂塵におおわれていた。強化プラスチックの車体に降りそそぐ砂粒が風のようにはげしい音をたてていた。
「ひどい砂嵐だな。毎日、こうなのかね?」
地上車に乗っていた作業員の一人がシロウズのヘルメットの顔の部分を、エア・ブラシでていねいにぬぐった。
「日の出直後と日没前に必ずやってきます」
「これは火星の砂嵐よりひどいぞ」
作業員はつぎにスウェイのヘルメットにとりかかった。
「上空から見たところでは大陸中央部がとくに砂漠化が進んでいるようだが、これではせっかくの地球連邦の緑地拡大計画もあまり成果をあげることができなかったようだな」
「調査局員、それがどうもとくにこのエニセイ河上流地域がひどいのです」
作業員はエア・ブラシを片づけながらシロウズに顔を向けて言った。その実直そうな平たい顔は、このシベリア大陸奥深く地味な任務に従う者に多くみられる|容《よう》|貌《ぼう》だった。首をかしげるシロウズに、
「主任、タリム盆地にダムができてタリム河水系の調整がじゅうぶんにおこなわれるようになったのは二〇六一年でした。それから中央アジアからゴビ平原にかけての緑地化は非常な成功をみましたが、なぜか百五十年ほど前からこのエニセイ河上流地域の乾燥化がひどくなったようです」
「しかし、スウェイ。どうしてこんな所が砂漠化するのかな? このあたりはレナ河やエニセイ河に流入する河川の多い所で地下水も豊富な所だと思うが」
スウェイも口をつぐんでキャノピーをたたく砂の雨に顔を向けていた。
地上車は速度をおとして『エベンキ特別地質調査所』と記された標識の立っているせまい谷間に入りこんでいった。
砂嵐はうそのように静まっていた。厚い黄土色に塗りこめられていた空が、薄紙をはがすように明るくなっていった。やがてオレンジ色の太陽が思いがけない低い位置にぽっかりとその輪郭をあらわした。微細な|塵《ちり》がコロイドのように大気にただよい動き、それが風にのって流れさってゆくと、あちこちに浅黄色の空の断片が見えはじめ、十分もたたないうちにぬぐったように|碧《あお》い空がよみがえってきた。陽光はにわかにまぶしく黄土色の丘や平原に照り映えた。
「この砂嵐はどのくらいの時間、つづくのかね」
「だいたい二時間ほどでやみます。しかしその間は全く作業は中止です。|防《ぼう》|塵《じん》装置のついているこのキャノピーの中でさえこれですからね」
作業員は自分の体をはたはたとたたいた。砂がざらざらと床に落ちた。
「砂嵐の吹き荒れている間に作業するときはこのような特別の気密服をもちいないととてもだめです」
作業員は両手をひろげて自分の着ている|宇宙服《スペース・スーツ》のような作業服を示した。本格的な酸素タンクと|携帯電話機《ハンド・トーキー》を背負い、飲料水チューブまでそなえたその装具は、温度調節装置や放射線防護被膜をとりつければ、そのまま木星や土星などで使用できるような高級なものだった。
「とても地球上で使う作業服とは思えないな」
シロウズは首をふってつぶやいた。
「もう、ヘルメットをはずしてもよろしいです」
作業員は二人のヘルメットのジッパーをひいた。
ほこり臭い空気が鼻孔にこそばゆかった。
せまい谷間に、カマボコ形のたくさんの建物がならんでいた。走りこんできた地上車に、数人の人影がかけ寄ってきた。
そのとき、はげしい爆発音が谷あいをぬってとどろいた。こだまがこだまをひいてごうごうと頭上をわたっていった。
人々はちら、と目を見交し、暗い面もちで音のひびいてきたかなたの谷あいに目を向けた。高く低く、サイレンが鳴りだした。赤い回転燈をきらめかせて、医療部の白色の地上車がスタートしていった。
「なんだ? あれは」
「さ、調査局員、どうぞ」
シロウズは地上車から飛び降りた。
「爆発音がしたようだが」
エベンキ地質調査所、と書かれた|袖章《そでしょう》をつけた、赤褐色の髪をした大男が近づいて会釈した。
「所長のカンノ・ヒガです」
シロウズはHigaという奇妙な発言を前歯の間から|洩《も》らした。名前を二つ重ねてもちいるやりかたが、地球連邦ではまだ一部残っていた。
「ところでヒガ」
赤褐色の髪をした大男は、かすかにほおをほころばせて、軽く手をふった。
「カンノ、と呼んでください」
「それではカンノ、今の爆発音はなにかね?」
カンノは|眉《まゆ》を寄せた。
「調査局員、詳細はのちにファイルをお届けしますが、この作業区では作業開始時より各種器材の脱水現象による破壊事故が連続して発生しているのです」
「脱水現象? と、いうとつまり蒸発か、分解かによって水が失われ、それによって機器類がこわれるというのかね?」
「そうです」
シロウズはカンノの袖章に目を遊ばせ、それからカンノの顔に射るような視線をそそいだ。
「人体にはどうなんだ?」
「あきらかに脱水現象による生理機能のいちじるしい低下が報告されています。時にこれが慢性的な心臓麻痺や脳障害をもともなっていることがあきらかにされています」
砂嵐を防ぐためだけにしては、いやに完備した作業服を用いていたわけがはっきりした。作業員のヘルメットの中の飲料水吸入管がシロウズの目によみがえってきた。
「原因は?」
何が入っているのか、巨大なタンク・ローリーが小山のように谷あいに移動していった。その外側に真紅の耐熱服をまとった作業員が鈴なりにぶら下っていた。
「調査局員、お疲れでしょう。事務所の方でご説明いたしましょう」
カンノが先に立ってシロウズを事務所へみちびこうとした。
「いや、カンノ、爆発現場へ行ってみよう」
カンノは顔をひきしめて言った。
「調査局員、それは危険です。おやめになったほうが」
シロウズはにっ、と笑った。
「カンノ。ここは太陽系でもっとも安全な惑星だ。心配しないでいい」
「わかりました。ご案内しましょう」
カンノは辺地の技術者らしい機敏な動作で地上車によじのぼった。シロウズとスウェイもそのあとにつづいた。
「調査局員、その原因なのですが、まだよくつかめていません。この地域を中心として半径三百キロメートルの円周内に極度の乾燥化が進んでいるようです。緑地は砂漠となり、|原始林《タイガー》は枯死し、すでに一本の草もはえていない地域が方々に見られています」
地上車は警笛を鳴らしづめに、せまい谷あいを進んでいった。谷あいの両側は|崖《がけ》を掘り崩して幾棟もの器材倉庫が立ちならび、|車輛群《しゃりょうぐん》が怪獣の巣のように巨体を寄せ合っていた。
「気象局による緊急湿度調整を併行して進めていますがどうも効果はないようです」
「調査局員、この異状にすみやかな乾燥化が今、発掘されているものと何か関係があるのではありませんか?」
さすがに鋭い観方をこの男は持っていた。
「実は私もそう思っているのだ。それについてはあとでくわしく話そう」
シロウズはカンノの追及をかわして、砂塵で汚れたキャノピーを手袋でぬぐった。
巨大なクレーンが林立しているのが、丘の切れ目に見えてきた。そのクレーンの基柱にまつわるように太い煙の柱が竜巻のように立ち昇っていた。
地上車は速度を早めて急カーブをかけぬけた。
とつぜんシロウズの目の前に、地平が落ちこんだかのような広大なカルデラが開いた。それは赤茶けた砂岩の崖で囲まれ、その崖は急な傾斜ではるかな眼下のかがやく盆地に落ちこんでいた。崖の斜面には数条のソフト・チューブが設けられ、バケットが虫の列のように動いていた。盆地の底には、黄色と黒の縞もようの大型ジャンボーがゆっくりうごめいていた。
はるか北方には、ヴィリュースキー山脈につづくけわしい尾根が、雲の|翳《かげ》を浮かべていた。東方、湧き流れる白雲の下に影絵のようにつらなるのは、ヴィリイ河の水源地となるヤク丘陵だった。
風は耳もとで鳴り、むせかえるような熱気が盆地の底から噴き上ってきた。崖の砂は灼かれるように絶えずさらさらと急斜面を流れつづけていた。
昼の月だけが、その非情な風景の上に幻影のようになかば透きとおってかかっていた。
盆地の底に、黄色と黒のまだらの破片が四散していた。ロートダインが盆地のふちの丘陵のかげからあらわれ、下へ沈んでいった。
「メイン・リフトに異状はないか」
カンノが|携帯電話機《ハンド・トーキー》に向ってたずねていた。
たずねるものに異状はなかったのだろう。カンノは顔色をやわらげて受話器を置いた。
「原子力ジャンボーの熱交換機が爆発したそうです。放射能の漏洩もなかったそうですがあぶないところでした。原子力を使用している装置はすべて十分おきに重点検をさせているのですが」
「盆地の底の温度は?」
「百四十度Cを上下しています」
シロウズは黙ってうなずいた。
「火山地帯でもないのに、異常に地熱が高いようです」
「気温は現在三十七・五度Cです」
「カンノ、このへんの地熱について過去二百年間の記録があるだろうか?」
「調査局員、発掘が進むにつれ、それにともなうこの盆地を中心としたこの地方の異常な地温の高さに不審を抱きまして、調査所では記録の収集につとめたのですが、残念ながら統計的な資料がありませんでした。ただわずかに、六十年ほど前のクムイスクのコルホーズの報告に異常な地温上昇によって地下水の量が非常に変化したことがのべられています」
「すると六十年ほど前にはすでに地温変化はあらわれていたわけだな」
スウェイがつぶやいた。
山も風も大気もひどく乾燥していた。陽炎が無色のほのおのようにたえまなくゆらめいていた。そのゆらめきをとおして見るむこう側の物体は、山も盆地も、風や空さえもがひどくゆがんでいた。
格納庫のような会議室の縦横にトラスのはしった天井には、直径十メートルはあろうかと思われるような大きなサークル・ランプがつるされていた。軽金属とプラスチックのこの仮小屋に、それだけがいやにりっぱで堂々としていた。おそらくどこかの都市、ここからもっとも近いところでクラスノヤルスクであろうか、そこの豪華な集会場からでもはこんできてとりつけたものだろう。そのかがやきはテーブルを囲む人々の顔を明るく照していた。
「――そのようなしだいで、作業は四十八時間以内に終らせていただきたい。惑星間経営機構上層部でもとくに最近頻発する宇宙船の行方不明事件に重大な関心を寄せているのです。そして二、三の重要な手がかりをも入手しています。この『エベンキ特別地質調査所』の任務も、それらの資料に非常に重大な一項を加えるはずです――」
シロウズの言葉にテーブルを囲む人々は|喰《く》いいるようなまなざしで深くうなずいた。
「このツングースカ|隕《いん》|石《せき》の調査はこれまで――」
シロウズは会議室の窓のむこうに、ムカデのようにつらなって動いてゆくパワー・シャベルの列に目をはせた。そこからは見えない北側の丘陵の谷あいにカルデラのように巨大なたて穴が掘られ、原子力ドリルの鉄柱が数百本も林立しているのだった。たて穴はすでに二千メートルも掘り下げられていた。掘り出された厖大な土はすでに小高い山を幾つもこのエベンキの谷間に作っていた。掘り出された土は乾いて軽く、風に吹き飛ばされてたえずさらさらと音もなく崩れつづけていた。作業は極秘のうちに昼も夜も進められていた。しかし、それを知る者の目はひとしくこのシベリアの谷間にそそがれていた。
シロウズが言葉をつごうとしたとき、テーブルの上の電話機がけたたましく鳴りだした。シロウズのかたわらに座を占めていた所長のカンノが手をのばした。受話器を耳に押し当てたその顔にさっ、と緊張がはしった。
「調査局員! たて穴の底にあきらかに人工物と思われる巨大な金属塊を確認したそうです」
人々の顔にいっせいにはげしいおどろきの色が動いた。テーブルのふちをにぎりしめた指がまっ白だった。
「よし、それを地上に引き揚げるように命じてください」
受話器を置くと、するどくスウェイをかえりみた。「行け!」スウェイは一挙動で立ち上った。シロウズはふたたび会議にのぞむ顔にもどった。しかし人々の心はよういに平静にかえらなかった。シロウズに質問したいことは山のようにあった。その一つ一つに満足ゆくような説明が与えられないかぎり、とてもここにこうしてテーブルを囲んでいることなどできそうにもなかった。
惑星間経営機構の密命によって突然、開始されたこのツングースカ河上流の無名の谷間の発掘作業は、これが例の一九〇八年に落下した隕石に関係がありそうだ、ということはすでに多くの人によってひそかに語られていた。おびただしい機械類は地球連邦だけでなく、東キャナル市やエレクトラ・バーグのマークのついたものまで搬入され、この発掘作業のためのエネルギー源となる中級都市用の原子力発電所まで隣接する谷間に造られた。作業は一日二度襲来するはげしい砂嵐をおかして昼も夜もつづけられた。原子力ジャンボーや重サンド・ポンプを積載したジェット輸送機や宇宙船はひっきりなしに空港に入った。部品の磨滅したものはどんどん新しいものに交換され、送りかえすための輸送便でさばききれないそれらの機械が、空港の一方のはずれに|鉄屑置場《ジャンク》のように積み重ねられていた。
はげしい好奇や、不安や、疑惑に胸をふさがれている人々の落着かない姿に目を止めたシロウズは、かすかに苦笑いをもらした。
「それではみなさん、これまでツングースカ隕石と呼ばれていたものについて少し説明を加えておきます――」
人々はにわかに水を打ったように静まりかえった。テーブルにひじをついて身をのりだす。カンノのせわしい息づかいがシロウズの耳をくすぐるようだった。
「これについては、これまで数回、惑星間経営機構、および地球連邦より公開資料として発表されているように――」
ツングースカ隕石。
それは一九〇八年六月三十日、日の出前の乳白色の薄明が、波のようにつづく|原始林《タイガー》の分厚な黒をようやく幻のように浮き上らせる|頃《ころ》、天の一角からすさまじい白光を放って突込んできた。
南東から北西にかけてようやく動きはじめた雲を裂き、その大気をおしのけるすさまじいひびきと打撃は大地をたたき、山をゆすり上げ、裸地の崖はなだれのように崩壊した。
目のくらむ白熱の焔を|曳《ひ》いた光球はツングースカ河谷のひらける丘陵地帯をかすめて、無名枝谷G12へおおいかぶさっていった。
一瞬、天地はあざやかな青緑色に染まった。山も谷も原始林も、何十万分の一秒の間、化石に化したように奇妙に静止し、つぎの一瞬、白熱の火の海と化した。地上数十メートルの高さにまぶしくかがやく火の玉があらわれ、それはおそろしい早さで上昇していった。火の玉は青緑色からしだいにあざやかな紅に変り、かぎりなくふくれ上って傘のように開いた。多彩な光輝がめまぐるしく移り変ってやがてどす黒い雲となり、積乱雲のように高く高くそびえ立った。
七百五十キロにわたる地域が遠雷のようなとどろきにふるえた。
はるかな地平線にそびえるふしぎな、キノコのような形をしたこの雲を、明け方の光の中に見た二人のきこりがいた。
ヨーロッパやアメリカの各地のすべての気象台では地震計が烈しい地殻の振動を記録した。大気の衝撃波は九百七十キロメートル離れたイルクーツク市では約五十分後に、五千キロメートル離れたポツダム地球物理研究所では四時間四十一分後に、ワシントンの海軍天文台では八時間後に、それぞれキャッチした。この衝撃波はそれから三十時間二十八分後に再度、ポツダムでとらえられた。それは実に三万四千九百二十キロメートルの円周を描いて地球を一周してきたものであった。
その後、中部ヨーロッパや、モスクワ、レニングラードなどでは、はるか東方の空に銀色にかがやく雲がたなびいているのが見られた。大気上層の研究にしたがっていた多くの研究者たちは七月のはじめになると大気圏の透明度が非常におちてきたことを報告した。これはツングースカ地方でおこった大爆発によって吹き上げられた微塵が大気圏にただよっているためである。
この事件は実は宇宙的規模をもつ出来ごとであるにかかわらず、一部の熱心な研究家以外にはほとんど学界の興味をひかなかった。
こうして、この一九〇八年六月のある朝の奇妙な事件は、当時の、日常的な、極めて人間的な事件の追及にのみ追われていた人々の胸を領することなくやがて忘れられていった。
一九二一年、ソビエトの若い地球物理学者クーリックは隕石落下に関する資料を収集しているときに、偶然にこのツングースカ地方に落下した隕石について簡単な記録を見出した。彼はただちに中部シベリアへの探索旅行をこころざした。この旅行でのクーリックの成果は、
@ この地方の数少ない住民たちの間に、一九〇八年六月の異常な自然現象についての記憶が、なお濃い恐怖とともに残っていることを知った。
A 実際にこの隕石が飛来するのを見たという人たちの間を丹念にたずね回った結果、この隕石がゴビ砂漠方面から飛来して、シベリア内陸の広漠たる|原始林《タイガー》地帯をかすめ、ツングースカ河上流のはるかな奥地の|凍土《ツンドラ》地域に落下したことをほぼたしかめた。
B この隕石落下によってみられた爆発は非常に大規模なもので、落下地点の山や谷はおそらく地形が|変《へん》|貌《ぼう》するほどの衝撃を受けたものと思われる。
クーリックは自らまとめた三つの結論を抱いて、それから数年の間、このツングースカ隕石に関する資料を細大洩らさずに集めた。やがてクーリックは大隕石の落下したと思われる地点を地図の上で推定し、それについて地理学者のオブルチェフ教授と討論を重ねた。
その結果、一九二四年、オブルチェフ教授は単身、シベリア大陸への調査におもむいた。教授は苦心を重ねてようやくツングースカ河中部流域地方のワノワリ地方事務所にたどりついた。教授は早速、住民たちの間を歩きまわって調査を開始した。この調査は困難を極めた。教授が得た資料は、
一 ワノワリ地方事務所から、北へ二、三日行程の付近で、永遠に訪れる者もないトド松の原始林が、何百キロメートルにもわたって地面に倒れているのがはるかに望見される。
二 すなわち、この隕石はクーリックが推定した位置よりもはるか北方であろうと考えられる。
三 ツングース族の土着民たちは、この異常現象を、『火の神が天より降った』として落下位置を他人に告げたり、そこを訪れたりすることをたいへん恐れている。
以上の三つであった。この資料の中で特に人々の注意をひいたのは、一であった。
一九二七年、ソビエト科学アカデミーはクーリックの指揮する重装備のツングースカ河上流地方探検隊を編成した。これには飛行機も参加していた。
ワノワリ地方事務所がこの二度目の探検隊の前進基地となった。ワノワリ地方事務所は松丸太を組み合わせて造られたがんじょうなだけがとりえの粗末な平家建ての小屋だったが、その前庭一帯には、探検隊の急造仮小屋が立ちならんだ。探検隊はいよいよ、ツングースカ河上流へ向って出発した。
ワノワリ地方事務所を出発した探検隊は、コンパスだけをたよりに前進をつづけた。探検隊はまもなく、あきらかに隕石が低空を通過したために、そのソニック・ブームでなぎたおされたものと考えられる倒木地帯へ到達した。
探検隊員たちは声もなく目を見はった。
はるか北方にはチュスモ河畔の雪をいただく連山がかがやいていた。東にはレナ河の水源となる無名のたくさんの河谷を抱くツングースカ山塊が幾重にも重なってその果は|茫《ぼう》|々《ぼう》と雲のかなたにかすんでいた。南にははるばると越えてきた標高二千メートル級の山々が雲煙万里とつづいていた。
おそるべき火の神の通っていったわだちの跡は目の前に|拡《ひろ》がっていた。数十メートルの幅で樹木は根こそぎねじり倒されていた。真黒に焼け焦げた巨木はすでに朽ちかけていた。その茶褐色に変った幅広い道は尾根を越え、谷をわたり続いていた。その焼け焦げた幅広いベルトの両側では、半死の状態の倒木から元気よく伸び上った若枝がすでに数メートルの高さに達しているものさえあった。真昼のはげしい陽光の下で、さえずる鳥の声もなく、ただ風だけが、そうそうとわたっていった。はるか北方の尾根に、赤茶けた地肌をさらした崖が傷跡のように浮かび出ていた。
ワノワリ地方事務所を出発してまる一か月をへた五月三十日、探検隊はツングースカ河に支流チュルグマ河が合流する小さな扇状地にたどりついた。そこから北方には広大な谷がひらけていたが、谷の周囲はそそり立つ赤土の丘によって深く囲まれていた。その広大な谷間を見おろす周囲の尾根をたどった探検隊は、この広大な谷間と見えたものが、実は巨大なカルデラ状の|窪《くぼ》|地《ち》であることを確認した。その窪地を中心として、原始林はすべて外側へ向けて倒れていた。窪地の直径は三千メートル近いのではないかと思われた。窪地の周囲をとり巻く赤土の丘は、実はここへ大隕石が落下したとき飛び散った土砂の|堆《たい》|積《せき》だった。
探検隊はその翌日、谷底へと降りていった。この窪地の底は、大小無数の湖、沼、小高い丘、谷間など変化にとんでいた。窪地の底から見上げると窪地を囲む周囲の丘は見上げるほど高かった。窪地は名も知れぬ雑草におおわれ、湿地帯の中に点在する湖沼には、ぬけるように青いシベリアの空が映っていた。
クーリックはじめ探検隊員たちは言いしれぬ感慨を抱いて、その窪地の湿地を、靴を|濡《ぬ》らして歩きまわった。
宇宙のどこからかやってきて、地球の引力圏にまぎれこみ、ついにこの荒涼たる|原始林《タイガー》に激突して砕け散ったこれが巨大な隕石の墓場だった。
探検隊は再来を心に約して引き揚げた。
同じくクーリックのひきいる科学アカデミー第二次探検隊は、翌々年の短い夏を期してふたたびツングースカ河上流をアタックした。今度は試掘用の動力つき|掘《くっ》|穿《せん》|機《き》をはじめ、小型エンジン、それに必要な燃料、バッテリー、磁器測定器等あらゆる新しい探検用機械がこの調査のために投入された。
しかし奇妙なことに、精密な機器類を駆使して進められたこの調査は、隕石落下に関する何の実質的な証拠も入手することができなかった。のみならず、探検隊に参加した何人かの地質学者は、この窪地は隕石孔に非ず、という見解まで示すに至った。
窪地に散在する大小無数の湖沼群は、隕石が大地に激突してくだけた破片が造ったものだ、とするクーリックらの意見にかかわらず、掘穿機はそれら湖沼群の湖底深いボーリングにもなんの痕跡さえつかみ得なかった。隕石の破片はもちろんのこと、微細な隕鉄の小片すら探知することができなかった。地質学者は、はじめは遠慮がちに、のちには堂々とこれらの穴は泥炭層が地下水に洗われる場合に、しばしばみられる小陥没現象であり、また、泥炭層の成立の過程でふつうに認められる現象が窪地のいたる所で見られることを報告した。すなわち、この窪地の底では、かなり古い時代から泥炭層の成立が進んでおり、それは一九〇八年をはるかに数百年もさかのぼる時代から静かに営まれつづけているのだ、という結論で結ばれるものであった。
科学アカデミーは苦悩した。もしこの窪地がはるかな以前、なんらかの自然現象によって形成されたごくふつうの盆地だとするならば、この巨大な窪地を中心として放射状に外側へ向って倒れている広大な|原始林《タイガー》は何を物語っているのだろう? そしてまた、何百キロメートルにもわたって幅広くつづいている黒焦げの倒木のベルトはいったい何ものが刻みつけたものなのだろう? わずかの破片も残さず、隕石はいったいどこへ消え失せたのだろう?
科学アカデミーはつぎつぎと新鋭の器材を動員してこの問題にしつように迫っていった。|謎《なぞ》はいよいよ深まっていった。
第一の謎は航空写真によって決定的となったもので、|原始林《タイガー》の倒れかたは、どうやらこの窪地を中心にした同心円的傾向を描いているのではない、ということだった。つまり、被害を受けた樹々はたしかに窪地の周囲に集中してはいるが、必ずしも窪地に近いものがすべて黒焦げになり、あるいは根こそぎほうり出されているのではなく、数キロメートル、あるいは数十キロメートルも離れた別な地点でそのようなひどい被害を示している所があった。高空から偵察した飛行士の言葉によれば、被害のひどい所とそうでない所が|虎《とら》のような縞もようになっているということであった。数キロメートルむこうの|原始林《タイガー》が、なんの被害も受けていないのに、その先、数十キロメートル離れた地点のトド松の原生林が、見わたすかぎり黒焦げの炭化した|残《ざん》|骸《がい》をさらしている所もあった。
この事実に直面した科学者の一群は、これを『|影の効果《シェード・エフェクト》』あるいは『|反射効果《リフレクト》』と呼ばれる現象で理解しようとした。すなわち、爆発の圧力、および熱線の効果は山の尾根のむこう側や谷あいなどの影の部分には作用しないという説明であった。これはいみじくも後年、原子爆弾の効果について詳細に検討されることになるのであった。
ここに至って、科学アカデミーはついに、窪地を中心に、強弱さまざまのエネルギーがわずかな時間を異にして放射されたのではあるまいか、という極めてあいまいな結論を得ただけで、この|莫《ばく》|大《だい》な器材と人員、そして人間の知慧と努力を傾注した調査を終らざるを得なかった。
時に時代はソビエトをして、かかる貴重な科学調査といえども、これ以上、多額の予算を注入することを許さなかった。世界はまさに第二次大戦の前夜をむかえていた。戦乱と苦悩のうちに二十年の歳月は去っていった。
一九五〇年、新しい時代はようやく人々の胸に生新な息吹を送りはじめていた。
ソビエトの若い科学評論家、カザンツェフはとつぜん、ツングースカ隕石に関する非常に大胆な仮説を発表した。それはかた苦しい論文の形をとらず、興味ある物語「宇宙からの客」と題して刊行された。そのため、彼のその新しい説は一般の人々の間に喜んでむかえられ、人々はここに久しい間忘れていたツングースカ隕石についての幾つもの謎にふたたび多大の関心を示すことになった。
彼の説はこうだった。
ツングースカ隕石の落下する二日前に、フランスのある天文学者が、その望遠鏡の中に小さな天体を発見した。この天体は非常な速さで運動していて、すぐに彼の視野から消えてしまった。その後、彼は自分の観測の結果を公表した。その記録に付せられた彼の見解はただ無心に〈未知の小天体〉と結んであった。当時、どの天文学者も、もちろん発見者である当のフランス人の天文学者も、この地球の周囲を非常な高速で移動する小天体――小物体をツングースカ隕石と結びつけて考えたものはいなかった。
しかし、カザンツェフはこの点を巧妙に|衝《つ》いていた。彼はこの小天体の軌道を克明に分析し、この小天体こそ鯨座の方角から|抛《ほう》|物《ぶつ》|線《せん》軌道を描いて地球に接近し、着陸するために地球のまわりを|楕《だ》|円《えん》軌道で周回しつつしだいに高度をさげてきた宇宙船ではなかったかと主張した。
彼の説によれば、この宇宙船は巨大なものだった。おそらく数千トンに達する重量を持つものと思われる。その宇宙船の内部にあって青緑色にかがやくこの惑星の表面を観察していた者たちは、|茫《ぼう》|漠《ばく》たるシベリアの大|原始林《タイガー》地帯を、自分たち故郷の星の表面にひろがる砂漠とでも思ったのだろうか、秒速、二、三十キロメートルの速度で弾丸のように突込んできた。しかしこのとき、おそらくは乗組員たちが地球の大気圏の厚さについてじゅうぶんな観測をおこなっていなかったか、あるいは大気の密度、その粘性についての認識がたりなかったか、もう一つの可能性としては、ブレーキが思うようにきかなかったのか、宇宙船はすでに空気との摩擦によって白熱の火球と化していた。おそろしい速度で宇宙船はゴビ砂漠をかすめ、着陸するためにはさらに減速しなければならないにかかわらず、エンジンの故障か、あるいは|制《せい》|禦《ぎょ》装置の故障か、宇宙船はそのまま無理に着陸態勢に入った。ブレーキ・ロケットは断続的に|咆《ほう》|哮《こう》したが、それはほとんど効果をあげ得なかったものと思われる。宇宙船はソニック・ブームと、ブレーキ・ロケットから噴き出す熱や衝撃で|原始林《タイガー》を根こそぎにし、|焔《ほのお》の渦に巻きこみながらさらに百キロメートル余を突進した。これがシベリア探検隊を奇妙な窪地にみちびいた倒木の道になったのである。
ツングースカの人跡未踏の河谷の上空で、宇宙船の乗組員たちは何を考えたかは知るよしもない。丘陵や大原始林や千古の沼沢が宇宙船の着陸に適したものであるかどうかは地球の科学であろうと、火星や金星の科学であろうと判断するところはおそらくは同じであろう。宇宙船は最後の力をふりしぼってふたたび高度をとろうとした。推進機関を作動させようとしたが、すでに灼熱した船体はその自由を|喪《うしな》っていた。数百メートルの上空で船体はいたずらにコマのようにおどった。不規則なエンジンの噴き出す高圧ガスは濃淡の爆煙となってあるいは遠くの、あるいは近くの|原始林《タイガー》を電撃のように焼き焦したのだった。そして最期がきた。
巨大な火の玉がツングースカ河谷の緑を焼き、多彩なキノコ型の雲がすさまじい勢いで天空に立ち上っていった。
カザンツェフの描いてみせたこの情景は、それまで謎とされてきた幾つかの現象をみごとに説明していた。|原始林《タイガー》のあの奇妙な損傷の受けかた、エネルギー放射に関する不均等な配分を目の当りに見るように説明していた。さらにカザンツェフは、この爆発時に見られた多彩な雲について、それを実際に望見した人物を探し求めた。何人かの老人が彼の前にあらわれた。その語るところを|綜《そう》|合《ごう》すれば、原子爆弾の爆発によるキノコ雲に酷似していた。そこでカザンツェフはさらに言う。
爆発の瞬間に太陽よりも明るい光を発し、数十キロメートルにわたって|原始林《タイガー》を焼き払い、根こそぎ吹きとばし、焦土と化せしめるような、そして宇宙船そのものすら一片の破片すら残さずに消滅せしめるような高エネルギーといえば原子分解しかない、と強くうったえた。天空高くかがやいた巨大な火の玉の中で、人類の想像を絶するような何千トンの宇宙船は一瞬の間に蒸発してしまったのだ、と。
このカザンツェフの意見は一部の間に、かなり強い反応を起させはしたものの、残念ながら確実な証拠としてあげ得る科学的なデーターに欠如していた。しかし彼の意見は心ある人の|脳《のう》|裡《り》に印象深く刻みつけられはした。
こうしてツングースカ隕石の謎はふたたび、人々の記憶の中から薄れていった。
一九六〇年代に入ると、天文学の分野でさまざまな新発見や、すぐれた学説がつぎつぎと発表された。その新鮮な意見をもって、ツングースカ隕石を解明しようとする努力も、目立たないが着実に進められていた。
その一つでもっとも注目されたものは、|彗《すい》|星《せい》の頭部を構成する物質は微細な氷片の集ったものであるということだった。そしてさらにその説は拡大され、宇宙空間には大小さまざまのおびただしい氷塊が浮遊していると考えた。それは微細な宇宙|塵《じん》を核として、それを包む氷の結晶からなるものであり、アイスロイドと呼ばれた。このアイスロイドが地球の引力によって引きよせられ、流星になって飛びこんでくることがしばしばある。こうしたアイスロイドの小さなものは、地表に達するまでにほとんど蒸発して失われてしまうが、時に非常に大きなものは氷片のままで地表に激突するであろうと思われる。何千トンの重さをもつ巨大な氷塊でも、大気圏を通過する何分の一秒かの間に外側から猛烈にふっとうして地表に到着するまでには非常に小さなものになっている。しかしふっとうする気圧はすさまじいものである。マイナス百七十度からマイナス二百二十度の極低温の空間をわたってきた氷塊が何分の一秒、あるいは何十分の一秒かでプラス百度から二千度Cの高温にさらされる状態を考えてみればよい。猛烈にふくれあがる気圧の動きはおそらく樹々をうちたおし、山をもおし崩すことだろう。
一九六〇年代の中頃、ツングースカ隕石の謎を解く|鍵《かぎ》はこのアイスロイドにあると、となえた科学評論家があった。ニホンのこの若い科学エッセイストは、ツングースカ河谷に残る惨害の跡こそ、この地方を襲った巨大な氷塊が、猛然と大地をたたいた|痕《こん》|跡《せき》にほかならないと主張した。なお彼は、カザンツェフが集めた資料の中で、なぜか彼が見のがしてしまったある重要な一項目についてこう語っている。
あの奇妙な爆発のおこった日、偶然、付近にあってしかも負傷をまぬがれたツングース族のきこりがおそるおそる爆発現場に足を踏み入れたとき、彼らが見たものは、例の窪地の中央の湿地――それはそのとき一面に湧き立つ蒸気と黒煙、なお飛散、落下する泥にほとんど視野をふさがれていたのだが、それにもかかわらず、その中から高く高く噴き上がる太い水の柱を見た、と。
つまりこの水の柱こそ、融けきらぬまま大地に突入したアイスロイドの残骸が、地下深く高圧水蒸気と化して噴き出すものにほかならなかったのだ、と言った。
噴き上げる水蒸気は高く高く立ち昇って、上部は気流によってキノコ型にひろがり、おりから暁の光に多彩なかがやきを放って天にそびえ立ったものであろう。
なお解し難い二、三の疑問はあるが、と、この科学評論家は最後に記している。
こうして三度、ツングースカ隕石は人々の胸に消えない何ものかを残して明滅したのである。
一九六〇年代の末期まではなお、二、三の説明がくりかえし、世界のあちこちで発表されたが、特記するようなものは無い。しかし、長い年月を要しつつも、なぜかこのツングースカ隕石が人々の脳裡のすみに存在しつづけたということは、そこに何か極めて異状なもの、単なる関心でなく、もっと人々の不安や恐れに通ずるあるものが伏在することも敏感にも人々は感じとっていたのかもしれない。
一九〇〇年代の終り、インド洋のセイロン島のはるか沖、マルディヴ諸島近海で作業中の深海調査船は四千メートルの海底のさらに数百メートル下層の軟泥中から一個の奇妙な金属塊をすくい上げた。それは長さ約三メートル、直径五十センチメートルほどのわずかに中央でくの字形におれたものだった。最初、それは難破船の船具か何かであろうと思われた。深海調査船に乗り込んでいた科学者の一人がその金属塊の異様な軽さに注目した。泥をぬぐいとってみると、その金属棒は銀白の光沢を放つ軽金属ようの物質だった。それはインドの国立科学センターから東京の国立|冶《や》|金《きん》研究所へ送られた。そこに至るまで多くの意見が交され、何度となくセミナーが設けられたのだった。決定的な意見は得られなかった。トーキョーは、『極めて興味ある金属塊』という見解をのべただけでなぜか多くを語らなかった。一部の学者の間では、空中から落下した航空機の部分品である、という説が強かった。ある新聞社がその金属棒に相当する航空機部分品を過去、何十年にもさかのぼる航空機のほとんどの機種について調査、検討を加えたが、その営々たる努力の果てにそれはかえって謎を深めるだけに終った。なぜならどんな機体にも、そのような部分品など用いられていなかったからである。
その金属棒はチタニウムとセシウムの合金だった。
二〇〇五年、ふたたびツングースカ隕石が人々の胸によみがえった。もうこの頃には一九〇八年のある朝のできごとなど、遠い伝説となって一部の研究者のファイルの中にだけ記憶をとどめているにすぎなかった。
二〇〇五年も終りに近い頃、ゴビ平原オルホン河畔のコルホーズ建設中の技術者の一団が、深層|穿《せん》|井《せい》をおこなっているとき、約千メートルの深所に、超硬度ボーリングの|錐《きり》の先端を|削《そ》ぎ落す異物の存在するのに気づいた。彼らは協議ののち、注意してたて穴をひろげていった。この作業に史上初の原子力ジャンボーが使用されたのを知っている者は少ない。異物は慎重に引き揚げられた。それはほとんど表面が|熔《よう》|融《ゆう》し、外形もさだかでない長さ約一メートル、たても横も五十センチメートルほどのほぼ円筒形のものだった。それを最初に見た印象は、|錆《さ》び朽ちた自動車エンジンのようであったと技術者の一人は言っている。もちろん、これが自動車エンジンであるはずはない。|北京科学研究所《ペ キ ン》はこの不思議な金属塊の埋没していた地層にだまされることはしなかった。彼らはトーキョーと連絡をとった末、これは過去に|於《おい》て空中から投棄され、このオルホン河畔に落下、地中深く没入したものであるとの判断をくだした。
先に一九〇〇年代の終りに、インド洋の海底で発見された奇妙な金属棒と、このオルホン河畔で発掘された金属塊とのつながりが当然、論議にのぼった。
この予感は適中していた。トーキョーはひそかな情報としてこの両者が同質の素材からなるものであることを宇宙物理学者の一団に通報した。さらにこれらの物体は地球上のものでなく、あきらかに人類以外の手になるものであることを告げていた。この資料は一般市民にはかたく閉ざされたまま、一部関係者の間だけで長く討論がつづけられた。一般市民にとっては宇宙からの来訪者の存在は、恐怖、それも現在の生活を根底からくつがえすような、ある異質な悪意を確定的ならしむるものであったからだ。
二〇〇七年、トーキョーは科学者を召集し、こうした宇宙からの来訪者に対して、何らかの積極的な研究態勢を、可及的すみやかにとるべきことをアドバイスした。この会議の席上、南ローデシア、ソールスベリ地球物理学研究所のニシノは、この二個の金属塊を、埋没深度、地表に対する落下角、地質の変化、などを三項とする方程式をもって、ツングースカ隕石と結びつけたのであった。彼は最初から例の有名な隕石を頭に思い浮かべてその作業を進めたのではなかった。二個の金属塊を投下していったと思われる飛行体の軌道を追求していた彼のグラフは、その地表との接点にツングースカ河上流地方のある一点を指し示したのだった。彼は数十度にわたる演算の結果を、ノーベル賞ならびにシャン・カイグ・ホウ記念賞受賞者であるレイコ・カワカミに提示した。孫に囲まれ、隠退生活を送っていたカワカミはこのレポートによってトーキョーに飛び、関係部局をうながして多くの科学者に招電を発したのであった。
この会議が終るや、ペキンはただちに、重装備の調査団をツングースカ河上流地方に送った。調査団は過去に|於《お》ける秘境探検隊めいたものとことなり、ツングースカ河谷を開拓して調査団のための本格的な調査施設および居住施設よりなる小さな町を造りあげたのであった。|原始林《タイガー》地帯、緑地化されたコルホーズは徹底的に調査された。一九〇八年のあの爆発によって、宇宙船の本体は完全に失われてしまったとしても、かつて気づかなかった|些少《さしょう》な痕跡でも見出そうとするのが調査団の任務であった。三年の歳月を要した綿密な調査も百年の時の流れには抗し得べくもなかった。二〇一〇年の末、調査団はむなしく解散した。しかしこの時、ニシノおよびカワカミは実は深い謎を解明する門の前まで進んでいたのだった。
しかし時はまだ人類にくみしなかった。やがて第一次統合戦争前夜の混乱がすべてを暗黒の中に呑みこんでいった。その混乱の中でカワカミはなお一度調査団をツングースカ河谷に送ったが、その記録はついに残っていない。
二〇〇〇年代に入ってにわかに活発になった宇宙探検が、そしてつぎつぎと明るみにさらされた火星や金星の異世界が人類の目を奪い、新しい知識を限りなくつけ加えていった。金星の厚い雲の下にも、|黄《こう》|塵《じん》うずまく火星の砂漠にも、知的生命の痕跡すらなかったことが、人々にある想いを生ぜしめた。太陽系の中で人類は真に孤独であることを発見したのだった。あるいは何光年、何十光年へだたった惑星系には知的生命の存在することの可能性は考えられたが、それはもはや真の意味での接触の希望をかなえるものとはならなかった。
かくして、一九〇八年、短い夏のある朝、地軸をゆるがしてひびきわたった異状な爆発についての記憶が、ほんとうに人々の脳裡を去っていった。
ファイルは閉じられたのだ。
それは長さ三十メートルほどの、ほとんど外形をとどめないまでに腐蝕、熔融した|円《えん》|錐《すい》|形《けい》の物体だった。黒褐色の泥炭のようなぼろぼろとくだけ落ちる土塊につつまれ、沈没船のように地上に横たわっていた。
窪地全体は顔を向けられないほど、はげしい熱気につつまれていた。大気も山も急斜面の崖もほのおを吹き出すばかりに白熱していた。金属塊をつり上げたクレーンは、その仕事をはたしたのちに、熱のためについに機能をうしなったものとみえ、その長大な腕はななめにそれて急斜面にさしかけられたまま、動かなかった。黄と黒の塗料が溶けてぷつぷつと気泡を浮かべていた。
すべての車輛のゴム被覆部分が焦げ臭い|匂《にお》いを放ちはじめた。
「すべての車輛は退避せよ! すべての車輛は退避せよ!」
「原子力燃料をのぞくすべての固体、液体燃料使用機器類は急ぎ、搬出せよ」
スピーカーが騒然と警告をさけびはじめた。おびただしい車輛群がにわかに動きはじめた。その流れにさからって接近してゆくタンク・ローリーのノズルから噴き出すドライ・アイスの濃霧が重く、金属塊をおしつつんでいった。
「時間をかけてすこしずつ冷やすんだ!」
スウェイの声がどこからかイアホーンにひびいてきた。低空を乱舞するロートダインから吹雪のように|撒《さん》|布《ぷ》されるドライ・アイスの微細な結晶は、純白なかがやきで盆地一帯をおおいはじめた。退避してゆく車輛群の中に火災がおきた。黒い煙がドライ・アイスの純白の霧とからみ合ってあざやかな白と黒のコントラストをえがき出した。
夜に入って、金属塊は暗いオレンジ色の陽炎を|極光《オーロラ》のように放ちつづけた。
陽が落ち、また陽が昇り、その間を砂嵐が幾度もおそってきた。間断なく噴きつけるドライ・アイスと、ゆらめく熱気と、砂嵐とは、このシベリア内陸の丘陵地帯をさまざまな色に染め、地軸の底のように閉ざした。
三十九日目にそれはようやく百二十度Cまで冷えた。耐熱服に身を固めた作業員が、|瀕《ひん》|死《し》の獲物にしのび寄る狩人たちのように、すり足で近づいていった。
今は金属塊は赤褐色のさびにつつまれ、難破船の舳のように朽ちて無力に横たわっていた。そのむこうの広大な盆地の底には、この金属塊の落下による地質の変化を調査する一団の人々が、|蟻《あり》のように小さく見えていた。
細い糸を曳いたような雲が、北から南へゆっくり動いていた。ぬぐったような碧い空が、はるかな尾根をふちどる|原始林《タイガー》の上に茫漠とひらけていた。その尾根のすぐ下方から赤土の崖が見えない谷底へむかって、|城塞《じょうさい》のようにおちこんでいた。シベリアの内陸は短い夏もすでに終ろうとしていた。今では主要な都市や、重要な集落には、気象管理がゆきとどき、酷烈な冬や人間の住むに耐えない炎暑はほとんど姿を消してしまっていたが、このシベリアの内陸は、二千年代のあの広範な開発とコルホーズの繁栄のあとをあちこちに残したまま、今ではふたたび見棄てられた土地になってしまっていた。そして気象管理機構からも除外され、|見《み》|棄《す》てられた土地であるがために、ここにだけは自然があった。たとえ砂嵐が天地をおおい、|原始林《タイガー》は枯死してその白い残骸を天日にさらそうとも、ここにだけはまごうことない自然があった。計画された雨や風、消散させられる雲や、吹きはらわれる霧はなかった。そうした計量され、人類に奉仕する自然のかわりに、ここにあるものは荒々しくきびしい生のままの自然だった。
金属塊にとりすがっている作業員の小さな人形のような動きが、しらじらとした陽の光の中に、ひどくけなげに見えた。
小山のような金属塊は静かに天日をはねかえしていた。どのような自然が、かつてこの奇妙な金属の塊をとり巻いていたのだろうか。この金属塊が、巨大な宇宙船の船体の一部として天にそびえ立っていたその場所は、青い砂漠だったのだろうか。それともメタンやアンモニアの雨しぶく海だったのだろうか? はるかな尾根に、やはり|原始林《タイガー》が、おそらく奇妙な形をした原始林が、この風景のようにかざられていたのだろうか?
高度な知的生命の発生する惑星の自然は、共通した条件を持つ、という。
――すると、やはり碧い空、遠い赤土の崖と影画のような|原始林《タイガー》、はげしい砂嵐とみじかい夏か。
シロウズには目の前の風景がひどく空疎なものに思えた。きらめく星々の間を縫い、|永《えい》|劫《ごう》の闇黒と零下二百度のきびしい宇宙空間を旅する者にとっては、青い空とさわやかな風、かがやく巨大な太陽などこそ、仮構の世界でなくてなんであろう。
おのれの墓場を地球に求めなければならなかったものに眠りあれ。
シロウズは暗然と明るい風景に顔を向けていた。
「主任」
スウェイがシロウズの姿を認めて歩み寄ってきた。肩をならべて、はるかな|稜線《りょうせん》にひとみをそそいだ。
「主任、いつかおたずねしようと思っていたのですがここはこれまでツングースカ隕石の落下位置と考えられていた所より、三百キロメートルも北方へ寄っていますが、主任はどうしてこの地点を発見したのですか?」
「この位置か」
シロウズはスウェイをかえり見た。
「それはな、これまで落下位置と考えられていたところは、たしかに宇宙船の落下位置に間違いない、と思う。それは例のニシノ・カワカミ・レポートを再検討するまでもないことだ。ところがこれまで宇宙船の船体はもちろん、破片一つ、ついに発見されなかった。これは宇宙船の推進機関の性質を考えれば当然のことだろう。船体を手に入れるのは全く不可能なのだ。だが、スウェイ。ごくふつうに考えてだよ、もしこの宇宙船に生物が乗っていたとして、彼らが着陸に失敗したからといってそのままみすみす地表に激突してしまうようなことをするだろうか?」
スウェイが何か答えようとしたが、シロウズはそれを軽くおさえるように手をふって語をついだ。
「はるばると太陽系の外から来たような連中だよ。当然、なんらかの非常対策を設けていたはずだ。これまで多くの調査団がこの点に気づかなかったのも無理はない。それは非常脱出装置さ」
「すると、あの金属塊が」
「あの形から考えて、あれは弾頭部、いや宇宙船の先端だと思う。内部に操縦室や重要な航法装置などが収まっているのだろう。船体が回復不能の状態におちいったとき、彼らは非常脱出装置をはたらかせて、舳の部分だけを切り離して爆発をのがれたのだと思う。これはわれわれの宇宙船でもひろく使われている方法だ。おれの探索はそこからはじまったのだよ」
「よくこの位置がわかりましたね」
「スウェイ。君は未知の惑星へ着陸しようとして失敗し、宇宙船が墜落しはじめたら、脱出してどこへ降りるかね?」
「最初に着陸しようと思った地点になるべく近い所に降下します」
「そうだ。それは最初に着陸しようと思った所は条件が良いからこそえらんだのであり、あくまでその判断に従ったほうが安全だからだ。それともう一つは、上空から発見されやすい所に不時着したほうが救出されやすいからだ。とくに船体が爆発した跡が|明瞭《めいりょう》に上空から視認されるような時はなおさらだ」
たしかにそのとおりだ。スウェイは深くうなずいた。
「これまで落下地点と考えられていたツングースカ河谷のあの窪地の状態、それからこれまでに集められた資料から考えれば、あの爆発はかなり低空でおこったものと考えられる。おそらく|操縦者《パイロット》は最後の瞬間までがんばったのだろう。非常脱出装置のついている頭部も、それまでにはかなりの被害や故障をおこしていたはずだ。離脱後にさらに地球を一周したとはとても考えられない。と、すれば、離脱した部分は例の軌道の延長上、爆発位置を中心として、ほぼ三、四十度の扇形地区内のどこかに落下したはずだ。それもツングースカ河谷のごく近いところだ」
「よくわかりました。主任」
「それともう一つ。その扇形地区内に異状に地温の高い地点を発見できたことだ。近くに火山脈もないのに、比較的浅い所でさえ温度が千度C近くある。そしてその地域は大気も非常に乾燥し、尾根も河谷も砂漠化している。これは地下で何ごとか強力なエネルギー放射がおこなわれていると考えたのだ」
見つめるスウェイの目に、シロウズは笑顔でうなずいた。
「スウェイ。これはたいへん間違った推定だったかもしれないのだ。それはおれがこの宇宙船の機構や、乗組員たちの考えかたをわれわれと同じものとして扱った点だよ。だからおれはこの推定を東キャナル市政庁の中央集計処理室にゆだねた時も、なんのための計算なのか、ということはついに言わなかったよ。でも幸いに、というよりも全く偶然に事実はおれの予想どおりだった。スウェイ、君がこれからこうした問題にとり組むときは、もっと資料をそろえて、あらゆる可能性を考えてやらなければだめだよ。さ、ゆこう」
シロウズはめずらしく一人の忠実な部下に、おのれのやりかたについて自己批判めいた口調を洩らした。およそ部下の調査局員たちに訓練とか教育とかを課したことのないこの男が、こうして洩らす述懐は実はおのれに向って告げるきびしい警告であった。太陽系外から飛来した未知の生物たちの思考形態や、宇宙船の機能を人類のそれと軌を一にして考え、それをもとにしてすべてを推定しなければならなかった無力さがシロウズには腹立たしかった。事態が切迫しているとはいえ、実はそれは万に一つも適中ののぞめない方法であった。ニシノ・カワカミ・レポートがツングースカ隕石に未知の宇宙船の影を察知したとき、人類はこの問題に肉迫していなければならなかったのだ。そう。はるかに伝説の町、ソドムとゴモラにせよ、インダスの石の舟にせよ、そこに想像もつかない何かの事実が伏在しているはずであった。しかし、もう時間はなかった。手に入るわずかな資料だけで、茫漠とした宇宙の歴史と、そこにくりひろげられる何ものかの物語をひろい読みしなければならないのだった。
原子力カッターが金属塊にいどみかかっていった。朽ち果てて泥炭のようにぼろぼろになった外殻は、果実の皮をむくように削りとられていった。その下から青銅色にかがやく素晴らしい光沢がのぞいた。
「主任、|冥《めい》|王《おう》|星《せい》で発掘されたものとはかなり形や材質がことなるようですね」
「ん」
シロウズは生返事でそれに答えながら、しだいに胸の中にかたまってくる疑惑を感じていた。それは金属塊を解体する作業が進むにつれて、しだいに大きく、いよいよ形をなして沈んできた。外殻は抵抗もなく、風に散る木の葉のようにぼろぼろと|剥《はく》|落《らく》した。原子力カッターの刃は、湿った粘土でも切り落すよう、分厚な外殻を削ぎ落していった。
「主任、冥王星で発掘した宇宙船といい、これといい、これまでなんのはたらきも示さなかったものが、なぜ今頃になってはたらきを回復したのでしょうか?」
「ああ」
「千年でも二千年でも、もしのぞむなら一千万年でも、はたらきを持続し得るような自己補償能力を持った何かの装置というものは、これは現在の人類の科学技術をもってすればできないことではない。ところで、主任、いったん永い休止期間に入っていた彼らのある装置がふたたびその活動を開始した理由はいったいなんでしょうね? その永い眠りを覚ました警報はなんだと思いますか?」
スウェイの声は耳に入っていたが、心が全く別なところにあった。その心の鼓膜が、がく、とスウェイの言葉にぶつかった。
――警報? 警報だと? 永い眠りを覚ました警報は何か? といったな。警報か。たしかに、すでに永い眠りについていた彼らを呼び覚まし、わずかに生き残っていた機構をあげてとぼしいエネルギーを放出させたものはいったいなんだろう? 厚い氷層の下に眠る千二百万年前の夢を覚まさせたものは、また、ツングースカの、飛ぶ鳥の影もない深い河谷の、地層の底の眠りをさまたげたものは。
〈――遠い、いつかの日の不幸を今に伝えようとして〉
〈――はるかに近づいてくる何ごとか悲劇の予感があると〉
ツングースカの白い風光がむなしい静けさをたたえていた。
〈――絶対に意志を通じ合うことのできない相手だった〉
シロウズの胸の底を、幾つかの言葉が風のようにわたっていった。その言葉は、シロウズの体の中に、ばらばらにおさまっていたものをしだいに一つにまとめてゆくようであった。すべては、ある一点に向ってゆっくりと動いてゆきつつあった。しかしまだ、それが一点に集るにはなお幾つかのはめ絵と、しばらくの時が必要であった。
「スウェイ。内部の機器類はすべて地球連邦政庁の資料部へ送るように手配しろ。外殻は|連邦科学研究所《ペキン》へでもやれ」
急に鋭い声音に変ったシロウズの顔を、スウェイはちら、と見て、すぐに|携帯電話機《トーキー》の送話器を口に当てた。永い経験から、この男の言葉がにわかに冷たいひびきをおびるときは、事態が急変することを知っていた。
千二百万年前と、一九〇八年と。来訪者たちはそのどちらも永遠の眠りをまっとうすることができずに、ふたたびよみがえろうとした。永い時の流れに耐えて、わずかに生き残った幾つかの機器類が最後に残ったエネルギーをふりしぼって、いったい何を意図したのだろうか? 彼らのその眠りの中にあらわれたおびえはいったい何だったのだろうか。
そしてこの時をへだてた二つの来訪者の関係は?
シロウズはカッターに外殻を引きむかれてゆく巨大な金属塊に飽かずにながめいった。吐き出されたエネルギーは、むなしくツングースカ奥地の尾根や河谷を灼くにとどまり、この地方にはげしい砂嵐を呼ぶだけに終った。だが求めたものは決して茫漠たる風塵ではないであろう。あの冥王星の氷層の下に眠っていたものは、おのれの残骸の中に残ったエネルギーで厚い重い氷層を震動させ、シティの人々を不安におとしいれた。しかし、それとて決して彼らの記憶にあるものは氷層やシティなどではなかったろう。
「調査局員! 内部に生物の遺体が!」
「操縦席に一個! いや、まだある!」
とつぜん、船内からの絶叫がからんだ。
長さ三十メートル近い金属塊は、二つの塊に切断されていた。直径の太いほうからは、青銅色にかがやく長大な|円筒《シリンダー》が引き出されつつあった。円筒の側面からは、あきらかに電路とおぼしい太い被覆チューブが何本も垂れ下っていた。
「あれはなんでしょう?」
「おそらく電子頭脳か、航法装置の一種だろう。あれにつづく熱交換機か放熱機があるはずだ」
二人は|洞《どう》|窟《くつ》のような先端部へもぐりこんだ。内部は幾層かの甲板からなっていた。作業員の持ちこんだ投光器のコードがへびのようにうねっていた。内部の機器類は全く腐蝕し、引き込んだコードに払われ、おしつぶされてすでに乾いた砂のように崩れていた。甲板の何層かは、紙のように薄く朽ち、とても二人の体重を支えることはできそうになかった。やむなく二人は最下層の甲板の下を、ぶすぶすと崩れて足の突きぬけてしまう外殻を踏んで前方へ進んだ。数個の投光器が光の束をあるものの上に集中していた。
そこは操縦室らしかった。五メートル四方のホールの一方に、あきらかにメーター・ボードとおぼしい小さな文字板がならんでいた。しかしその文字板はひどく変色して、記されてあるものを読みとることはできなかった。幾つかの奇妙な形のハンドルがまだ形を保っていた。昆虫のまゆを水平に切り割ったような形の、長さ一メートルほどの容器が床に置かれていた。さらに離れてもう一個。その舟形の底に、黒く干からびてなかば|塵《ちり》と化したものがこびりついていた。親指の太さほどの、長さ十センチに足りない部分。それにつづく黒いひものように収縮し、ねじれた二十センチほどの部分。その先はすでに崩壊し、塵となって原形をとどめていなかった。先端のやや太いところと、それにつづく部分の間のくびれた所から、二本の細い、おそらくは手が、まゆ型の容器のふちに伸び出していた。
もう一個の容器には何も入っていなかった。
「ここにもあります」
作業員の一人が投光器のむきをかえた。崩れ落ちたパネルの下で、これはほとんど原形をとどめないまでに崩れていた。目を寄せてみると、これには二本の足らしいものが付着していた。パネルをそっと引き起してみると、その一面に|篆《てん》|刻《こく》を浮かべた腐蝕面に、さらにもう一体が、植物のおし葉標本のように乾いてこびりついていた。
「この、まゆ型のものはおそらく|耐重力席《G・シート》でしょうね。この大きさから判断すると、彼らの身長は約一メートルていどですね」
スウェイがいやに静かな声でつぶやいた。
シロウズは黙って外へ出た。
長大な|円筒《シリンダー》を、数台のレッカーがロートダインの腹へ押しこもうとして奮闘していた。
そのむこうでは、水素核融合反応炉と思われる赤褐色の|壺《ポット》を、真紅の特殊作業班のトラックがマジック・ハンドを使って慎重に荷台へ積みこもうとしていた。巨大な動物の死体から内臓をとり出すように、さまざまな機器や装置類がひき出され、地面にならべられていた。
ようやく傾きかかった太陽が、それらの上に白い光を投げかけていた。
地球連邦政庁はマカッサル海峡にのぞむボルネオのサマリンダにあった。群青の海原に、水平線にそびえる大積乱雲、深い入江には風紋がたえずゆれひろがり、白い石だたみの街路にはブーゲンビリアの燃えるような赤い花がむらがって咲いていた。海峡にそそぐマハカム河の流れは市内を西から東へつらぬき、その流れにかかる高いアーチ橋が、この水の豊かな街を象徴していた。
地球連邦政庁は、このボルネオをはじめ、スマトラ、セレベスなどの島をふくめる大小七百余の島々をその直轄地としていた。地球連邦政庁がこのサマリンダをその所在地にえらんだのは、あの二千年代に於けるアジア同盟と全アフリカ連合の永い確執の名残りともいえた。前者は政庁の所在地を、トーキョーかペキン、あるいはシル・ダリア右岸、トルキスタンを主張し、後者はチャド湖畔のクカワ、あるいはアレキサンドリア、またはイスタンブールをおした。しかし永い疲弊のあとでは連邦政庁の意向を左右する力はどちらにもなかった。マカッサル海峡のサマリンダに政庁が居をかまえたときに、アジア同盟、全アフリカ連合は歴史に於けるその役割を果し終えたといってよかった。
今、ブーゲンビリアの花房は地に触れるばかりにたわんでいた。陽ざしは暑かったが、広い石だたみをわたってくる風はかすかに|汐《しお》の香をのせてさわやかだった。
地上二百階の政庁ビルはシリコン壁面をまぶしく陽にかがやかせてマハカム河の河口にそびえていた。陽ざしが西にまわると、この巨大なビルの影が長くサマリンダの入江に落ちた。この影の下にたくさんの魚が集るとかで、何隻かのヨットが今日も浮いていた。入江の中は動力船の通航は禁止されていた。ヨットは色とりどりの帆を張って、静かな水面に落ちた木の葉のように動かなかった。
「あれは何をしているんですか?」
百七十九階の回廊に立って、眼下にひろがる入江を一望におさめて、スウェイがたずねた。
「魚をとっているのではないかな」
「とる? 魚を?」
「釣っているんだろう」
「ほう。つるしてあるんですか」
「ゆこう」
シロウズは〈資料部〉と書かれたドアを入った。いぶかしげに|眉《まゆ》|根《ね》を寄せたスウェイがつづいた。
『統計センター』
『入室許可証は左肩につけよ』
『七万ボルト以上の高電圧を使用している機器類は絶対に持ちこまぬこと。不用意にそれら機器類を所持して入室すると自動的に超音波照射を受ける』
『入室者は気密服を使用すること』
『危険指示ライン内には立入らぬこと』
『一般型|補助電子頭脳《サブ・ディテクター》および|代謝調節装置《メタボライザー》使用者はアース用B端子を床面に垂らすこと』
きびしい注意事項が壁面に明滅していた。
数人の資料部員が二人をとり巻くように、気密服を着せ、酸素発生機や室内用通話機を背の大きなポケットに押しこんだ。
「調査局員、これはどうしますか?」
一人がアース用のワイヤーをシロウズにさし示した。
「うん。それは垂らしてくれたまえ」
アース用の細いワイヤーの端の小さな金属片が、カチリと床に落ちた。他の一人が入室許可証のバッジを気密服の左の肩の環にとおした。
「まるで|宇宙服《スペース・スーツ》じゃありませんか。大げさだなあ」
スウェイが気密服と一体になった気泡のような柔軟なヘルメットの中で悲鳴をあげた。
「地球の大気はひどく汚れているし、バクテリアやビールスが多いから電子頭脳の管理もたいへんだろうな」
「そうなんです。調査局員。ダージリンにある電子頭脳が、配線部のシリコン被覆部に寄生したビールスのために、ほとんど九か月間も操作不能になったことがあるのです」
「全く記憶回路などに|腐蝕《ふしょく》でもおきた日にはひどい目にあうからな」
二人の用意がととのうのを待っていた資料部長のホイットビーが歩み寄ってきた。
「さ、それではまいりましょう。そろそろはじまります」
三人はリフトでさらに上部の階へ移った。
幾つもの電磁ドアをくぐりぬけて、ようやく政庁ビルの百八十五階から最上階の天井まで吹きぬけになった広大な〈電子頭脳エリア〉へ入った。
長さ二百メートルほどの壁面に四方を囲まれた巨大な箱のようなホールだった。壁面には数層のプラットフォームが|桟《さん》|道《どう》のようにとりつけられ、|断《だん》|崖《がい》にとまった鳥のように、濃緑色の気密服の操作員が歩いたり立ち止ったりしていた。そのプラットフォームに沿って、無数のパイロット・ランプが光点の帯のようにつづいていた。三人は宇宙船の司令室によく似た集計室に入った。曲面ガラスで張りめぐらされたその部屋からは、電子頭脳エリアの全体が見わたせるようになっていた。
「電子頭脳エリアというものは、どこでも同じような構造になっているものだな」
集計室の|椅《い》|子《す》に腰をおろしてシロウズが周囲を見回した。
「だいたい、床下に電源部とスイッチなどの可動部分、|走査機《スキャナー》室を置き、周囲の壁面内に|記憶装置《メモランダム》と|選別機能《セレクター》域を収め、中央部に気温、湿度を調節するための広い空間を設けるというのがほぼ一定した型式のようですな」
資料部長のホイットビーがあちこちをさし示しながら説明した。
――あの、エレクトラ・バーグの電子頭脳は実に大きなものだった。ここの優に十倍はあるだろう。|記憶容量《キャパシティー》はおそらく百倍にも千倍にも達することだろう。とくにあの記憶回路を中央に集中した構造は他のどれにも見られないものだろう。あれこそ人類の造り得る最高の人工頭脳だろう。
「第一電路開け」
ホイットビーが送話器に向って指令をつたえはじめた。
「第二電路開け」
「第一電路よし」
「第二電路よし」
「走査機回路、ポイント一……二……三……」
「走査機作動開始」
送話器の中の声が、ふとやんでどこかで低いブザーが鳴りはじめた。
シロウズは思わず手を握りしめた。
この政庁資料部の電子頭脳は専用の原子力発電所から電力を送られ、その規模の大きさはダージリンの宇宙物理学研究所と、カイロの言語学校とにある電子頭脳とにつねに比較された。この三つの電子頭脳は、しばしば地球連邦の科学技術のレベルを代表するものとして内外に紹介されていた。これを一九〇〇年代末期の人類の計算能力と比べると、七百人の数学者が昼夜、飲まず食わずで四年八か月を要する計算を八千五百秒でおこなってしまうだけの力を持っていた。
今、この電子頭脳エリアの最下層の部分を形造る走査機室に、ツングースカの河谷から発掘した宇宙船の船内から取り出した青黒い長大な|円筒《シリンダー》が横たえられていた。|円筒《シリンダー》の外殻はすでにとりはずされ、内部のくもの巣のように張りめぐらされた電路が露出されていた。一部の部品は電路の接続を保ったまま床の上にならべられていた。
|走査機《スキャナー》はゆっくりと|円筒《シリンダー》を点検していった。走査機から送られてくる情報を分析した|解読機《リーダー》は|記憶装置《メモランダム》に照合して、この|円筒《シリンダー》内の電路構成に対して一つの結論をくだした。
〈経過1、電子頭脳〉
走査機は第一に与えられた仕事をただちに忘れさった。つづいて第二の仕事がはじまった。くもの巣のように入り組んだ電路を追跡して、この電子頭脳が専門におこなってきた仕事を調べ出すのである。走査機は必要な電路に微弱な電流を流すことを要求した。解読機は記憶装置にふたたび照合し、その操作の必要を認めると、マジック・ハンドをあやつって円筒内の走査機が示した電路に外部回路をつないだ。微弱な電流は回路から回路へ、水のように浸透した走査機は克明にそれを追いつづけた。マジック・ハンドと走査機は二本の手のようにたくみに連動した。七分たった。
やがて第二の結論がみちびかれた。
〈経過2、一船型。航法兼用。情報記録用〉
「資料部長! どんな情報が収録されているのか、それを抽出してくれたまえ」
集計室ではシロウズがホイットビーに命じた。
「こちら集計室。第九プラットフォームへ。記憶巣内の資料を抽出せよ。解答は音声にて集計室へ。磁気テープを用意せよ」
「OK。こちら第九プラットフォーム」
走査機はただちに、|円筒《シリンダー》内の記憶巣に収められている情報の抽出にかかった。マジック・ハンドは自動的にはたらいて、この|円筒《シリンダー》と|解読装置《リーダー》の回路を二十四万回路接続線で結んだ。その回路の中間の数か所には強力なフィルターが設けられた。もし流れこんでくる情報の中に、おのれの記憶装置を混乱させるような情報があった場合には、それを削除してしまうための自己補償装置であった。
解読機は走査機から送られてくる情報を分析しはじめたが、ものの二秒もたたないうちに作業を停止した。走査機から送られてくる資料とひきくらべるような既成知識がおのれの|記憶巣《メモランダム》の中になかったのだ。ここで作業ははじめにもどった。
送られてくる資料をすべて電流の|脈《プルス》に変え、それをさらにアルファベットに整理しなおす。電子頭脳の中では、これがもっとも重要な、装置容積としても最大の大きさを占める部分だった。あたかもこれは暗号解読の方法と非常によく似ている。一連の暗号文を分析し、その中でもっとも出現頻度の高い幾つかを母音にさだめ、それをもとにして子音をさぐってゆくというこのやりかたは、乱数表の解読などによく用いられる方法だった。
解読機はまたしてもその作業を放棄せざるをえなかった。直接四十八文字に置き換えることの全く不可能をさとったのだ。二十六文字ではどうだろう? これも駄目だった。解読機はついで一から百まで、つぎに一から千まで、そして一から万までの数字を置き換えてみた。どれも形にならなかった。解読機は記憶巣に分析方法の間違いの有無を照合させ、あらためて走査機に被験者の記憶巣をさぐらせた。すでに七分を経過していた。ここではじめて解読機は、通常もちいられる言語の形式では解読が困難なことをさとった。記憶巣は新しい回路の接続をおこない、全般的に新たな検討に入った。記憶巣をとり巻く冷却機がパワーを増大した。四つの変数域を持つ対数方程式が組み立てられた。その四つの中心を持つカーブの線上に明るい輝点が集中した。四つの母音を持つ言語形式が妥当であると思われた。記憶巣はそのような言語をおのれの記憶の中に探し求めたが、全く見当らなかった。解読機はついに全く新しい言語を創造しなければならないことをさとった。
〈経過904 四個の類別を持つ極めて撒布度のせまいB型弾性波震動類似の単振動群である〉
「わかったよ。早くやれよ」
スウェイがいらいらと椅子から立ち上り、また思いなおしたように腰を落した。ホイットビーがおどろいたように閉じていた目を上げた。シロウズは何を考えているのか、椅子に体をずらしてぼんやりと天井をながめていた。
解読機ははじめて手がかりらしいものをつかんで、それを検査装置にとおした。これまでに回路に故障もなく、おのれの情報分析と綜合に修正を要するところはなかった。これまでの操作順序を記憶巣に収録させ、いよいよ本格的な読みに入った。
解読機は四つの振動群をさらに幾つかの頻度群に分けた。この段階ではやはり、もっとも多く出現する|波《パルス》の型を母音に置く、例の暗号解読の方法が適用された。やがて四つの言語群が形をあらわしてきた。
〈経過1105 四種類の言語の相関的使用区分。これにはあきらかに抽象的用語、具体的に形状を示す数字に類する記号。位置、時間的経過をあらわすと思われる用法。助詞、助動詞と思われる極めて複雑なフレキシビリティを持つエネルギー変動〉
〈経過1106 訂正。経過1105に於ける第四群はあきらかに特殊な人称代名詞である〉
「四つの言語形式を持つというのはいったいどうしたわけだろう?」
「われわれでも四種類の言葉を話す――」
「いや、これは一人が四か国語を話すなどというものではなく、言語形式に四つの基本的な形式があるというのだ。スウェイ、もう少し待ってみよう」
解読機はあらわれでた四種類の言語形式をさらに一つのものに整理、統合しなければならなかった。この段階に於ては記憶巣が最大限に持てるその能力を発揮した。人類の言語に相当する名称や動詞、数詞、助動詞などに翻訳するのは、電子頭脳自体の記憶にたよらねばならなかったからだ。翻訳不可能の言葉が無数にあった。それをなんとかして似かよった言葉、意味に置きなおすには、それまでに要した何十倍もの照合、比較が必要だった。走査機は被験物体の上に、つぎからつぎへと新しい事実を見出した。選別機はそれを分類、整理するのに忙殺された。解読機は未整理の情報の山をひかえて、記憶装置との照合に、間断なく検波機をはたらかせた。記憶巣の中にしまいこまれている標本に適合する波形があった場合には、ただちに検波機はそれを解読機にリレーする。そして一つの単語が人類の言葉に翻訳されてゆくのだった。
こうして作業がはじまってから九十二時間目に、ついに解読機はその作業のすべてを終った。
〈経過9705 翻訳を終了した〉
〈経過9706 磁気テープによる音声報告をおこなう〉
〈経過9707 報告A――〉
シロウズは手をのばしてスピーカーのスイッチを切った。
「資料部長、すみませんがこの情報は惑星間経営機構の極秘事項なので退室をおねがいしたいのですが」
|慇《いん》|懃《ぎん》な言葉のかげにつめたい刃風のようなひびきがあった。
「や、これは失礼」
ホイットビーはかすかにほおを紅らめて立ち上った。がたがたと椅子を鳴らして、会釈すると急ぎ足に室外に出ていった。シロウズはスウェイに、つ、とあごをしゃくった。スウェイは電子頭脳への音声指令マイクをとりあげた。
「磁気テープの複写分路、あるいは音声報告の録音装置がはたらいていないか点検しろ」
壁面のパイロット・ランプの幾つかが点滅をくりかえして、やがて消えた。電子頭脳の自己補障装置が、それらの情報摘出の機構を点検しているのだった。
〈経過1 磁気テープの複写分路が接続している〉
「みろ! スウェイ。やっぱり盗聴をしているぞ」
「この情報をこっそりコピーしようとしていたのですね」
「こんな情報を聞かせたら、彼らは気が狂ってしまうよ」
「複写分路を閉鎖せよ」
ほとんど一瞬ののちに応答がもどってきた。
〈経過2 情報流出分路を閉鎖した〉
「ようし。経過9706へもどれ」
〈経過9707 報告A――〉
二人は身動きもしなかった。
|報告《レポート》A――
ミランニア星区ニ於ケル最初ノ接触ハ、第八七二二太陽年(意味不明)、闘争ノカタチデオコナワレタ。カレラハ、ドビアスDノ惑星クム(第四アルテア星系と考エラレル)ニ都市を建設シ、ソノ規模ハ大キイ。カレラノ発生シタ天体ハ不明デアル。□□□□(訳出不能。Lノ連続音デ示サレル)ノ原理(主義、教義、方針、アルイハ神ト置換スルモ可)ニヨリ拡大ヲハカル。第九〇一一太陽年、闘争ハ、シーラーズ星区ニ移リ、四ツノ都市ガ破壊サレタ。カレラノ空間転位ハ、コレラノ都市ヲオオッタ。都市ハソノ所在ヲアキラカニシタガ、ソコヘ到達スルコトハ不可能ダ。カレラノ宇宙船(概念的ニ)ハ都市ノ一部ヲ構成シ(非常ニ大キナモノデアルコトヲ意味シティル)。小天体ニ類似スル。
第九七〇八太陽年、カレラノ一八個体ニ対シテココロミラレタ調査ノ結果、カレラトハ論理的接触ヲオコナイ得ナイコトガアキラカニサレタ。闘争ハ激烈ヲ極メ、カレラノ都市、十五ヲ破壊シタ。カレラハ空間転位ニヨル|阻害帯《バリヤー》ヲ設ケ、ザイ星区ニ拡散シタ。
集計室の静寂の中を、電子頭脳のスピーカーの発する金属的な声音が、なんの抑揚もなく、たんたんとつづいていた。
|報告《レポート》B――
カレラハ個体間ニ於ケル形態的差異ガナイ。身長、九バイト(百八十メートル前後ト解サレル)体重二千コウク(四千キログラム程度ニ相当スルモノト考エラレルガ、資料不足ノタメ、不確実)。数個ノ大脳ニヨル綜合的思考活動ヲオコナウ。運動能力ハ極メテ低イガ、コレハカレラガ空間転位ヲオコナウヨウニナッタタメノ二次的変化ト考エラレル。
|報告《レポート》C――
都市ハ荘厳(適正ナ訳語ナシ。極メテ抽象的概念ヲ意味シティル)。伽藍、多数ヲ配シ、回廊ガ発達シティル。空間ニヨル思考伝達ガ可能デアル。第九九八一太陽年、『だ』(音訳ノママ。オソラクハ人名)ハ接触ノ不可能ナコトヲ確認、ザイ星区ヲ放棄スルコトヲ決シタ。セル(アキラカニ白鳥座61ヲ指スト解釈サレル)ノ三角形(意味不明)ノ方向カラノ流レハヤマズ、第一〇〇一二太陽年、テトラソニア星系デノ接触ハフタタビ激烈ダッタ。第五惑星オリハンゲルハ破壊サレ、カレラノ多クノ都市ハウシナワレタ。
第一一一七八太陽年カラ第一二一九三太陽年ニイタル暗黒ノ期間ノノチ、カレラハテトラソニア星区ヲ、ザイ星区ニ退イタ。カレラハワレワレニ接触ヲ意図シタガ、ソレハ失敗ニ終ッタ。ワレワレハ第一二〇〇〇太陽年ノハジメ、一連ノ極メテ視覚的ナ通信ヲ受ケトッタガ、ソノ意味ハ不明ダッタ。
第一二二一〇太陽年、カレラハ惑星クムニ於ケル都市ヲ封鎖シタ。
カレラハ急速ニ力ヲウシナイ転成(意味不明)シティッタ。□□□□(前出、訳出不能。Lノ連続音デ示サレル)デナイトコロノ□□□□(前出、訳出不能。Lノ連続音デ示サレル)ノ出現ヲヒドク恐レタ。コレニツイテ多クノ記録ガ送ラレタ。第一二九八五太陽年、第十惑星ンロプ(冥王星ト解サレル)近傍ヨリハイ(天体ノ名ト解セラレル)ニ至ル|阻害帯《バリヤー》ガ設ケラレタ。
|報告《レポート》D――
事態ハ破滅的ダッタ。カレラハ伽藍ニヒソミ、スミヤカニ転成シタ。ワレワレノ集団ハテトラソニアヲ棄テ□□□(被験体ノ回路故障ニヨル欠損部)ヘ移動シタ。□□□□(被験体ノ記憶巣、空白部分)ハ巨大デアリ、空間ヲソコナウ。ソレハ接近ヲ告ゲタ。
|報告《レポート》E――
無ハセルニアル
以上。
スピーカーのかすかなノイズが消えてゆくと、沈黙と静寂がきた。なんの物音もなく、白光の中のしじまが空漠とひろがった。
二人はいつまでも動かなかった。もう呼吸をするのもやめてしまったかのように、椅子に埋もれたまま、なおスピーカーの報告に五体を奪われていた。
やがてスウェイがうつろな目をあげた。そのひたいは汗に濡れていた。
「主任、説明していただけませんか。どうも……」
スウェイは力なく笑った。しかしその笑いは唇の端に凝って震えただけだった。
「……想像もつかないので……いかん、少しまいったようだな」
スウェイはふらふらと立ち上った。
「|坐《すわ》れ。立ち上ってはいかん。さ」
シロウズはスウェイのひじをつかむとふたたび椅子にかけさせた。スウェイは無意識にヘルメットをはずそうとしてのどもとのジッパーに手をかけた。シロウズはその手をぴしりと打った。スウェイはわれにかえったようにひとみに力をとりもどし、今度はいつもの笑顔を浮かべた。
「ああ、主任。これはどうも。もう大丈夫です」
壁面の小さな金属のふたがカタリと開いて、親指の先ほどの|円筒《シリンダー》が受皿にころがり出た。
シロウズはそれをつまみ上げ、一端から細い金属ワイヤーを引き出した。
「今の報告の全文が収録されているのだ」
シロウズはそのワイヤーをぬきとると、壁面に埋めこまれた翻訳機の走査板にはめこんだ。スクリーンに灯が入って文字が浮かびだした。
「スウェイ。説明しよう。これは、おれの想像とこれまでに入手した他の資料を加えた解釈だ」
シロウズは壁面によりかかって、遠いまなざしになった。
「――おそらく千二百万年より以前のことだ。白鳥座61の方向、白鳥座61の惑星系か、あるいはそのもっと先か、いずれにせよ、白鳥座の方向から、しだいに分布をひろげてきた生物があったと考えられる。さっきの|報告《レポート》にあった〈セルノ三角形ノ方向カラノ流レハヤマズ〉というのは、この生物の浸透を指すのだろう。それに対して、どこからやってきたのか、その故郷の天体の名も全く不明だが、同じようにこの頃、営々とその植民地の開拓につとめていた生物があった。前者が冥王星の氷原の下から掘り出された宇宙船状の生物であり、後者がツングースカ隕石といわれ、あの河谷の底から発掘され、この電子頭脳にその記録を分析された生物だ。
「――この両者は、意志を通じ合うことができなかった。おそらくはげしい敵意と憎悪だけがあったのだろう。両者の感覚器官の構造の相違か、思考形態の相違に根本的な原因があったのだろう。たとえば人類とバクテリアの間に意志の疎通がかなわないように。この二種類の生物も、たがいに相手を滅ぼさないかぎり、自分たちが滅ぼされてしまう運命にあったのだろう。宇宙空間での他天体の生物との出逢いがこうした方向をたどるのは宿命的ですらあるのだ。
「――白鳥座の方向からやってきた生物たちは一種の宗教に類似するものを持っていたようだ。あるいは宗教というよりも絶対的目的といったものかもしれない。〈ソノ原理ニヨリ拡大ヲハカル〉というのは、かれらの宇宙空間への広い進出が何か重大な目的に支えられていたのだと思う。
「白鳥座の方向からやってきた連中は、〈空間転位〉という方法を使っていたようだ。これは超光速をも暗示している。〈カレラノ空間転位ハコレラノ都市ヲオオッタ。都市ハソノ所在ヲアキラカニシタガ、ソコヘ到達スルコトハ不可能ダ〉ここでわれわれは先に行方不明になった船団AD七、|嚮導船《ガイド》カコープスから発せられた電波を想い出さなければならない。
「――白鳥座の方向からやってきた生物は、もう一方のものにくらべると、かなりすぐれた機能を持っていたように思える。この記録、これを以後、ツングースカ・レポートと呼ぼう。この記録を残した生物は、あの河谷の底から掘り起した操縦室の内部で見たような、身長一メートルに足りない、ひ弱な、細い手足をした生物だった。あの遺体はいずれ、生物学者のグループによってくわしく調べられるだろう。見たところ、骨格を有しない、あるいは有ったとしても軟骨質か、繊維状の骨格だったのだろう。彼らもよく戦って、白鳥座方面からの侵入者に大きな損害を与えたようだ。
「レポートCに、都市のありさまが述べられているが、これは白鳥座方面からやってきた生物のきずいた都市のものだ。非常に幻想的であり、長く高い灰色の壁に囲まれている。高い幾つかの塔、そうなのだ。あれはたしかに大伽藍を飾る、神のための塔だったのだ。その大伽藍をめぐる長い回廊。たしかにあれは荘厳な都市だったのだ。|風蝕《ふうしょく》にゆだねられたあの塔は、あきらかに一つの破滅を告げていたのだった。
「――かれらはテレパシーが使えたらしい。ツングースの犠牲者たちの仲間は、その敵を研究した。第四アルテア、ケンタウルス、エリダヌス座イプシロン、あるいはクジラ座のタウなどを広範な戦場とする永くはげしい闘争は、やがてこの太陽系にもおよんできた。太陽系の第五惑星は破壊されて飛散した。これが現在の火星と木星の間にある小惑星帯だろう。レポートの中で、〈第一一一七八太陽年カラ第一二一九三太陽年ニイタル暗黒ノ期間ノノチ〉とあるのは、おそらく永い混乱時代をさすものだろう。あるいはここにもっと深い意味があるのかもしれぬ。しかしこのあとで、白鳥座の方向からやってきた連中は、なぜかツングースカの黒い小さな連中に接触をこころみているようだ。視覚的な通信とは、立体テレビとか、テレパシーによる幻覚だったのだろう。しかしそれは結局、無駄に終ったようだ。
「――白鳥座の方向からやってきた生物たちの上に、何がおこったのかはわからない。かれらは非常な混乱をかさね、しだいにこれら星域から姿を消していったようだ。かれらはAでないところのA'の出現をひどくおそれた。A'とはいったい何なのだ? その混乱は黒い小さな者たちの上にも及び、この何千年、何万年、あるいは何十万年かにわたるはげしい戦いはいつとはなしに終っていったようだ。
「――〈事態ハ破滅的ダッタ〉この言葉のうらにひそむ意味は深刻だ。白鳥座の方向からやってきた生物たちは残された都市の伽藍にひそんだというが、どのような形でひそんだのかは不明だ。おそらくそれによって追ってくる何ものかの恐怖に耐えてゆくつもりだったのだろう。それが成功したかどうかもまた不明だ。それに対して黒い小さな生物たちは、この太陽系を棄てて、かれらがたどってきた道を遠くもどっていったのだろう。〈空間ヲソコナウ〉〈ソレハ接近ヲ告ゲタ〉危急を告げるこれらの言葉のひびきはいったい何を物語っているのだろう? そして〈無ハセルニアル〉と。セルというのは、すでに言ったが白鳥座61をさすものと思われる。何ものかが宇宙のかなたからやってきたのだ。〈セルニアル〉これは白鳥座61にあるということを意味しているのではなく、その方角をさす、と解するべきだろう。そして〈無〉とはなんだろう? 破滅のことか? それとも、ほんとうに無、そのものをさすのか?
「一個は冥王星の厚い氷層の下から、一個はツングースカの荒れ果てた河谷の底から、今、朽ち果てたその姿をあらわした。船体に残るはげしい焼損の跡は、戦いの跡と見るべきだろう。この太陽系が戦場となり、火星と木星の間にあった惑星がついにうちくだかれたその戦いの酷烈な名残りなのだろう。冥王星の氷層は宇宙船の落下したのが千二百万年前であることを示していた。さらにツングースカ隕石の落下は一九〇八年だ。いずれもこの数字に惑わされてはならない。彼らがこの地球に落下してくるまでにどれほど永い時の流れにただよっていたかを想起すべきだろう。千二百万年より以前、と言った。しかし実はそれはあるいは一億二千万年前かもしれないし、十二億年前かもしれないのだ。遠い遠いむかしのことだ。気も遠くなるほど古い古い過去のことだ」
静かだった。すべて死に絶えた世界で、ただ二人だけが石と化して目覚めているような、静けさが、厚く、重く、とりまいていた。
スウェイはひどい疲れをその顔にうかべてわずかに身じろぎした。苦心して体をねじ向けると声をふりしぼった。
「主任、一つだけ説明してください」
シロウズは壁に寄りかかったまま、暗い目をスウェイに向けた。
「その遠いむかしに、冥王星や地球へ墜落した宇宙船、その片方はサイボーグですが、それがなぜ今頃になってまたよみがえったように活動しはじめたのでしょうか? 地震を起したり、土地を乾燥させて砂漠にしてしまったり。どうもわかりません」
シロウズはゆっくりとスウェイのそばへ歩み寄った。
「たとえ難破船でも自己補償装置さえはたらいていれば、非常に長い間、船体を保っていることができる。乗組員がすべて死に絶えたのちも、わずかなエネルギーを使って、船体の最も重要な部分だけでも保存しようとつとめるのだ。かれらも、電子頭脳だけは細々と守りとおしてきたのだ。一千万年も、二千万年もにわたる長い歳月を。冥王星に墜落した宇宙船形のサイボーグも、動力炉と電子頭脳だけは生きつづけてきた。永い冬眠だった。いずれはほんとうの死に結びつくはずの。だがしかし、その深い眠りを覚まさせたものがあったのだ。かれらの瀕死の眠りをさまさせるような、そして遠い過去の記憶をよびさますような何かの警報が鳴ったのだ」
スウェイの目はしだいに大きく見ひらかれてきた。
「まさか、主任、あの――」
「この二、三百年の間におびただしい宇宙船が行方不明になった。中には推進装置や航法装置の故障で遭難したことがあきらかなものもある。しかしその大部分は、何の報告もなく、突然その姿を消してしまったのだ。船団AD七を忘れてはいないだろう。遠い過去に、綾を織るように張られたであろう空間転位によって、ゆがめられた空間が、まだどこかに残っていたのか、それとも、その空間転位による|阻害帯《バリヤー》を設ける任務をおびて飛行中の宇宙船が破壊され、漂流をつづけるうちに、その永い仮死からよみがえって、ふたたびその任務にとりかかったのではないかとも考えられる。それは、かれらの上にも、その永い永い仮死を破るような何か強烈な警報が鳴りひびいたからではないのだろうか」
「警報! なぜです、主任。なにがやってくるというのですか!」
スウェイの声ははげしく乱れた。
「それはわからない。人類よりもはるかにすぐれた生物たちが、そのために滅びていったある偉大な力の持ち主、とでも言ったらよいだろうか」
「しかし、しかし、なぜです? なぜふたたびやってくるんですか」
「スウェイ。おれがそれに答えられるか。死者をもおびえさせ、|亡《なき》|骸《がら》さえもその眠りから立ち上らせるような存在について、かりそめの想像でもつくだろうか」
スウェイは両手で目をおおって椅子に崩れおれた。
「スウェイ。元気を出せよ。おれたちの仕事はまだ終ったわけではないんだ」
シロウズは幾つかのスイッチを押し、送話機をとり上げた。
「〈経過9707 |報告《レポート》A、B、C、D、E〉に関するすべての資料、および情報を消去せよ」
パイロット・ランプの幾つかがいっせいに消えた。自動的につぎつぎとスイッチが入っていった。
〈経過1 経過9707 |報告《レポート》A、B、C、D、E、ニ関スルスベテノ資料、オヨビ情報ハ存在シナイ〉
電子頭脳の報告がまだ終らないうちにシロウズは『停止』と書かれたスイッチを押した。巨大な電子頭脳はすべてのはたらきを終って灯を消した。
回廊から見おろすサマリンダの市街は、入江に抱かれてなお静かに白い|陽《ひ》|射《ざ》しに映えていた。マハカム河の銀白の帯が、そのまま紺青の海を割って、長く長くのび出ていた。火星の荒涼たる砂漠や、金星の灰色の平原、木星のアンモニアの|嵐《あらし》などにくらべると、ここにはやはりあらゆる生命の源泉としての|豊饒《ほうじょう》と|完《かん》|璧《ペき》があった。
――ここより出でてここへ|還《かえ》る。
シロウズはたまらなくやりきれなかった。眼下にひろがる風景は、あまりにも遠く、むしろ異質でさえあった。それは手をさしのべれば、たちまち消えさってしまうもののようにもろく美く、また透明だった。
「スウェイ。副首席とエレクトラ・バーグ市長に連絡してくれ。東キャナル市で会いたい」
高速リフトは二人を待っていた。
第八章 東キャナル市にて
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天の星とその星座とは光を放たず、日は出でてなお暗く、月またその光を|喪《うしな》えり
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朝夕、二度おとずれてくる|砂嵐《すなあらし》のさったあとに、微細な|砂《さ》|塵《じん》はあわいかすみのように大気にただよっていた。遠い落日は燃える紅からみるみる暗いオレンジ色へ、そしてあざやかな青に変貌してゆく。薄い大気に浮かぶ砂塵の粒子の大きさが、落日の投げる光を選別するのだった。
薄い大気はいよいよ冷たく、羽毛のように軽い雲は動くともなく平原の上にかかっていた。天も地も染めたような深い青にいろどられて、そのあとにつづく|濃藍色《のうらんしょく》の夜を待ち受けていた。風のまだ残る時は暗いオレンジ色は帯のようにつややかな紅を|曳《ひ》き、その明暗の|縞《しま》もようは|風《ふう》|塵《じん》の平原にかすかな血の色を映した。
波のようにつづくなだらかな平原に夜がくる。冷たい濃藍色の夜空を埋めつくす千億の星々と、北方の夜空に咲く|極光《オーロラ》。時おり流星が長い尾でその夜空を切り裂いて流れた。地平の一方から一方へ、その長い尾の残影は見る人々の胸に消えない何かをやきつけるのだった。
東キャナル市はその広大な市街の大部分を砂中に埋め、船の上部構造物に似た幾つかの巨構を平原にあらわしていた。それは遠方から見ると数万トンの巨船がふなべりを寄せ合って停泊しているような姿だった。上部にそびえる巨大なパラボラ・アンテナの傘、レーダーの幅広いトラス。無線アンテナの銀色の支柱。望楼の窓。たしかにそれは動かない巨船の群だった。
都市を巨大な箱の中に収めるというこの構造は、その後の惑星上の都市建設に重要な影響を与えた。地表の都市を巨大なドームで包むという初期の建設思想は、完全に脱皮したものとなった。
その出発から、東キャナル市は月面上に設けられた初期開発時代の小集落とは性格を異にしていた。
すでに月面の開発は進み、その宇宙船発着場としての重要性。天体観測所としての意義、工業面での真空および太陽放射線の広範な利用。豊富な鉱物資源などは、むしろはるかに火星などよりも人類に貢献するものだったが、また一面、それゆえにこそ月面には基地的性格、特殊な生産地区としての重点的な発達だけがあり、人類の間に普遍的な人気は|湧《わ》かなかった。これはやがてその次にくる火星の開発によっていよいよあきらかになったのだった。それは二千年代の中頃、火星の本格的開発にのり出した開発公社が、地球の各関係すじにひろく配布した火星紹介用フィルムによってはじまった。このフィルムは大成功を収めた。人々はまのあたりに見る火星の多彩な風光に目を奪われ、それまで|見《み》|馴《な》れていた月面のあの、星のかがやく暗黒の真昼と、荒涼たる平原に、切りたった|急崖《きゅうがい》との、冷酷な風光に|袂《べい》|別《べつ》した。あきらかに火星には夢があった。広漠たる平原は砂の海でこそあったが所によっては高さ二十センチメートルにも達する下等植物――といっても、ほんとうに原始的な地衣類だったが――の群落もあったし、初期開発者たちの労作である、|灌《かん》|漑《がい》|用《よう》の水路さえ、透明な強化プラスチックのカバーにおおわれて設けられていた。それら水路は、東キャナル市建設予定地の流砂を固定し、開発に着手する以前にすでに地球の高地砂漠で研究が進められていたモウコジャコウソウの改良型、キャナルジャコウソウB型の定着化をみせていた。開発公社はあるとき、ヨノ山脈西方の砂漠の中に、奇妙な建築物の遺構があることを公表したが、これはその後、科学者グループによって金属鉱床の一部が地表に露出、|浸蝕《しんしょく》を受けたものと訂正された。知的生命が存在するのではないか、という希望はすでにむなしかったがいずれにせよ、火星は月面の自然には見られない夢と、ある漠然たる可能性をもって人々にうったえかけた。月面に対する深い失望は、たちまち火星に寄せる熱狂的関心にふりかえられた。その後、いよいよ東キャナル市は拡大し、それとともにその経済力も豊かになった。東キャナル市はさらに木星へ、土星へ、と新しい宇宙探検隊を送り出した。それがやがて輸送船団に変り、木星のサベナ・シティ、土星のシャングリラ基地、そして辺境星区にまで人類の手はのびてゆくことになるのであった。火星自体も、東キャナル市をとりまく幾つかの衛星都市群を生み出した。すでにほとんど火星は調査されつくし、建設時代はもはや遠い過去の物語となってしまっていた。静かな明け暮れ、夜の気温こそマイナス三十度を示していたが、陽の高い昼は、十度Cから十五度Cにおよんでいた。大気は窒素こそ多かったが、簡単な呼吸装置さえ身につければ、自由に都市の外へ出ることもできた。人々は弱い陽射しを浴びて、昼でも|藍《あい》の濃い、おそろしいほど奥深い空をながめやるのだった。静かな、きびしい開発時代の辛苦をいやす静かな明け暮れが、この平原の都市をひたしていた。
リフトのドアが開くと、ひろい円形ホールが一望にひらけた。壁面の上部のガラスの窓が明るい帯となって遠くシロウズの四周をめぐっていた。その光をななめに受けてホールの床は水に|濡《ぬ》れたように光っていた。その光の中央に二人の人間が立っていた。窓外の昼の光を背に、一人は太く低く、一人はすらりと、彫像のようにシロウズを待ちもうけていた。
「シロウズ」
ソウレの太い声がなめらかな床をすべってきた。
「もう一人、大事な人物を連れてきた」
シロウズは二人の前に歩み寄って微笑した。その微笑は主にヒロ18に向けられていたが。
「しばらくでした」
ヒロ18は影になった顔に、シロウズからは見えない表情を浮かべた。
「|報告《レポート》は読んだ」
ソウレが太い首を動かして言った。
「どうも事態は楽観を許さない方向へ発展してきたようだが。シロウズ、どうする気だね?」
シロウズは顔を曇らせた。
「調査局のやりかたに従えば、資料の出そろったここで、対策の方針を必要とします。それのない報告は公式の記録にならない。調査局が私に求めているのは、つねに対策の方針なのです」
「それはそうだろう。高い予算をかけてお前を遊ばせておくわけではなかろうからな」
「副首席、いっそのこと未確認資料としてこのまま封じこめてしまうか、それとも対策の方針を得るところまで追及するか、私としては決めかねているところなのです」
「どうして?」
「対策をたてるといっても、いったいどうやって何をたてるんですか?」
ソウレは大きな手で顔をなで上げ、なでおろした。
「それを考えるのがお前じゃないか」
「そして副首席、これを公式報告として惑星間経営機構に提出したら、あなたはどうしますか?」
ソウレは答えず、遠い窓に目を細めた。
「調査局長はその報告を経営機構に取り次ぐだけだ。あなたは調査局長の地位の性格をそのようなものに変えた。したがって局内秘というものはもはやない。要するにある情報について私が握りつぶすか、それとも経営機構に提出して衆目にさらすかどちらかです」
「しかし経営機構に提出したからと言ってそのまま市民の間に流れ出るということはないぞ」
「副首席、公式記録というものが、どれだけ多くの人々の手をへて機構内部で処理されるものかご存知でしょう」
ソウレはひたいにしわを刻んでおし黙ったままだった。
「副首席、だいじなことは、副首席自身、もうあの報告を公式に人々の前にさらす気を|喪《うしな》っておられる」
ソウレは太い指を耳の穴につっこんで二、三度動かした。
「シロウズ、実はおれもあの報告が公式のものとなって提出された場合の処理について自信がない。これは弱音ではなくて問題はあまりにも大き過ぎるからだ。調査局の提出した公式報告を信じないわけにはいくまい。しかしそれを信ずることは実は破滅を信ずることだ。できるか? そんなことが」
ソウレの顔は逆光に暗く、シロウズに見えないところで傷ましい苦悩にゆがんでいた。
「太陽系五百億の人類に説明できるか、そんなことが!」
ソウレはなげうつように両手をひらいた。
「今では人間は病気で死ぬこともなくなったし、怪我で死ぬなどということも絶えてなくなった。人間の生命はすでに二百年を越え、やがて三百年も越すだろう。さまざまな、生きるための不幸はようやく解消された。真の意味の豊かさと、健康を得るために、人類は実に四千年に近い長い年月を必要としたのだよ、シロウズ。一片の報告書がそれをむなしくさせるのかね」
声は静かだったが、一人の高名な指導者の顔は、|惨《さん》|憺《たん》たる哀傷の色でおおわれていた。この、容易にものに動じない太った男も、彼の民衆のためには、今、少年のように|虚《うつ》ろな深い悲しみを抱いていた。
「副首席、たとえそれが絶対の真実でも、決して告げてはならないこともあるのです。ちょうど今がそれだろうと思う。そして副首席、われわれにはまだ一つ残された道がある。それはなんとかして対策を考え出すことだ」
シロウズは言ってしまってから、自分の言葉が、ひどくたよりないのに気づいた。
「そうだ。シロウズ。まだそれをやっていないのだ。せめてそれにのぞみをかけるとするか」
いやに静かな口調でソウレが言った。語尾はかすかな笑いの中に消えた。せめて――彼には笑うよりほかにしかたがなかったのかもしれない。|哀《かな》しみも実はおのれのためにではなく、怒りもまたおのれの外にあるこの男には、せめて笑うことだけが自分の感情に率直につながっている行為だったのだろう。
「シロウズ。どうすればよいのか言え」
シロウズは視線をゆっくりとヒロ18の上へ移した。
「それより先に、ヒロ18! あなたの意見を聞こう」
ヒロ18の顔にどのような表情が浮かんだのかシロウズには見てとれなかった。
「あなたのもたらしたツングースカ・レポートにはただおどろくだけでした。はじめはとても信じられませんでした。しかし……」
「しかし……それで?」
「問題はあまりに重大です。結論を急ぎ過ぎてはいけない」
シロウズはいら立ちを浮かべて、ヒロ18の面に目を据えた。
「もちろんだ。しかし過去のあの事件から少くとも千二百万年は過ぎたのだ。そしてその原因となるものがふたたび太陽系にか、それとも銀河系にか近づいてくるらしいということを知り得た。急がなければ。問題が大き過ぎるからこそ急がなければ」
ヒロ18はかすかに首をふった。
「シロウズ、千二百万年前の、ある破滅はいったいどんな形であらわれたのですか? そしてその破滅をもたらしたものがふたたび宇宙の果てに去ったあとには、どんな破壊の跡が残されていたのですか? その事件の前と後ではここにどんな違いがあったのですか? それを知る必要があるでしょう」
たしかにそのとおりだ。シロウズは息をひいて適切な反撃の言葉をさがした。しかしそれは見つからなかった。
「シロウズ。ツングースカ・レポートの告げる過去の事実は、たしかにいそいで対策を講じなければならないような、ある非常に切迫したものをわれわれに感じさせます。しかしここでもう少しそれに耐えて、破滅の実態をも知る必要があるのではありませんか?」
「どうやってそれを知る? 知り得たときはもう、おしまいではないか」
「それを知る方法は」
ヒロ18は無雑作に唇にのぼせた。
「方法?」
「ないこともない」
シロウズは無意識に一歩、進んだ。
「ヒロ18! あなたがあのエレクトラ・バーグの電子頭脳に投入した資料とは、どんなことだ。それを聞きたい」
胸の奥底に凝固していたものが一瞬、噴いて出た。
「資料?」
「そうだ。あなたがエレクトラ・バーグの電子頭脳に記憶させたものだ」
ヒロ18は低い声で笑った。その笑いは|虹《にじ》のように環を描いて、黒い逆光のヒロ18を包んだ。
「ヒロ18、あなたはどうもわれわれの知っている以上の何ごとかを知っているらしい。なぜそれを黙っているのですか」
ヒロ18の笑いは、ふと、止んだ。
シロウズのひとみが急に冷酷な光を放った。
ソウレが大きな手をふって一歩、前へ出た。
「シロウズ、この問題については調査局からの公式報告がありしだい、経営機構の上級会議にかけられ、やがては代議員会が召集されることになるのだろう。上級会議に提出されるということは、この報告がひろく一般市民の目に触れるということだ。やむを得ないことだが。シロウズ、だからこの悲劇的情報に対する適切な対策を持っていないかぎり、この報告は極めて危険なものとなるだろう」
ソウレの巨大な頭が、背後の遠い窓からの光にひときわその輪郭を浮き立たせた。
「聞け、二人とも。わしは一つの方針をたてた。それはこのこれまで集められた資料の一部を発表して、科学者グループを召集する。そして過去に生起した異変の残された証拠をできるだけ集める。これはあくまで純粋の科学上の調査としておこなうのだ。その集められた資料をもって対策を考えるのだ。時間がかかるかもしれないが、これもやむを得ないだろう。科学者グループはわしが直接、監督することにしよう。調査部の傘下に入れたのでは不審に思うものもあるだろうからな。どうだ、シロウズ」
たしかに今はそれがもっともよい方法のようだった。
「市長はどうかね?」
ヒロ18は黙ってシロウズに顔を向けていたが、やがてうなずいた。
「それがよいと思います」
機械的に言った。その言葉はなぜかシロウズの胸に冷え冷えとした一陣の風を吹きこんだように思えた。さしのべた手を払いのけるようなにべのなさだった。ソウレはそれを少しも意に介さないかのように言葉をつないだ。
「それではシロウズはこれまでの収集資料をさしつかえないていどにまとめて非公式資料とし調査局に提出してくれ。調査局長は即日それをわしに回送するだろうから、そこでわしは首席に報告した上でただちに科学者グループを召集することにしよう」
「上級会議は開かれないのですね」
「ああ、そのていどの非公式資料にまとめるのだぞ。首席も関心を持つまい。市民情報部は宇宙物理学上の調査、という言葉にはすっかり|馴《な》れてしまっているから特別な興味を寄せることもしないだろう」
「わかりました」
「市長、エレクトラ・バーグの電子頭脳をこの科学者グループに使わせてやってくれんか」
シロウズは一瞬、緊張した。
「どうぞ、副首席」
ヒロ18の答えは涼しかった。
――あの巨大な電子頭脳がエレクトラ・バーグにとって、ほんとうに必要なものかどうか、副首席にだってわかるはずだ。あれが何のために設けられたものか、副首席は知っているのだろうか? C四――Cという記憶捜索コードは何を収めているのだろう。ヒロ18がこの異状な一連のできごとについて何ごとか、われわれ以上に知っているらしいのはどうも動かし難い事実のように思われるのだが。
シロウズにはヒロ18の言動が不可解だった。時には非協力的ですらある。
「それでは、どうだね。下へ降りて会食でもしようか。わしの招待客として食管部へ申請しよう」
「それはどうも」
広大なホールにはいぜんとして人影もなかった。
「わしはここを科学者グループの中枢本部にしようと思っているのだ。外を見ようか。よいながめだぞ」
ソウレは二人をうながして窓に歩み寄った。わずかに外へ向って傾斜した分厚なガラス窓のむこうに、|錆《さび》|色《いろ》の砂漠が|茫《ぼう》|々《ぼう》とひろがっていた。東の地平線はるかに、今日の日没前の砂嵐が、もやを引いたように濃い|翳《かげ》を落していた。近づいてくるまでになお一、二時間はあろう。眼下の砂の海には、砂嵐の前駆である低く長い砂煙の帯が、幾すじも走っていた。それがしだいに太くたくましく、高く幕のように成長すると、天地はすべて荒れ狂う砂の壁につつまれてゆくのだった。砂嵐に近い、生産区の高い無電アンテナがかすみはじめた。空はしだいに暗い紅をおびはじめた。その紅を背景に、遠く一隻の宇宙船が小さな黒点となって動いていた。
「さあ、ゆこうか」
そのとき、突然三人の影が床に長くのびた。そしてそれは何万分の一秒かくっきりとそこにとどまって消えた。周囲の窓から、異様な光が滝のように流れこんでいた。ホールの床も天井も、目もくらむあざやかな緑色の光をはねかえした。
三人は反射的に窓に走った。天も地も、ことごとく緑色に染まっていた。
「見ろ!」
「あれは!」
その緑色の空の一角に白色にかがやく巨大な光球があった。
「なんだろう」
「宇宙船の爆発か?」
ガラス窓に押しつけた三人の顔は、植物のように青く染まっていた。
見つめた三人の目に光球はゆっくりと収縮していた。それとともに視野を染めるあざやかな緑色もみるみる薄れて、その奥から暗いオレンジ色の夕空があらわれてきた。
砂嵐はもうすぐそこまで迫っていた。
〈宇宙船MK九ヨリ全無電局ヘ、地球ハ|焔《ほのお》ニツツマレテイル〉
荒漠たる砂塵の中で東キャナル市はそれを聞いた。
エレクトラ・バーグは重く垂れこめる灰色の雲の下で。木星のサベナ・シティは吹きつのるアンモニアの暴風の中で。辺境星区は結晶のように凝固した千億の星々の中で。また幾百の人工衛星都市や開発基地、そして何千隻の宇宙船も、その第一報に耳を疑った。
〈宇宙船MV七〇ヨリ全無電局ヘ 宇宙船MV七〇ヨリ全無電局ヘ 地球上ニ大爆発ガオコリ、焔ハ全域ヲオオッタ。地球上ニ大爆発ガオコリ――」
〈コチラ船団AD一九、コチラ船団AD一九。地球炎上中、極メテ強度ノ放射能ヲ感知ス。地球炎上中、極メテ強度ノ――〉
〈コチラ金星エレクトラ・バーグ中央無電局。地球周辺ニ強度ノ放射能帯アリ。近傍ノ船舶ハタダチニ退避セヨ〉
〈宇宙船MK九ヨリ全無電局ヘ。宇宙船MK九ヨリ全無電局ヘ。地球ハナオ白熱光ヲ発シツツアリ、本船ハ第五軌道ニ沿イ接近中〉
五分もたたぬうちに、緊急無電の電波が狂気のように飛び交った。あらゆる無電局はそれまでのいっさいの通信を絶って、この異変を告げる電波にしがみついた。太陽系内に散在する数千の天文台、観測所の望遠鏡はあげて虚空の一点、地球の位置へ向って集中した。早くもこの異変を知った都市の人々は奥深い自分たちの居住区から急ぎ地表へかけ上って、星くずの海の中の見馴れた一個の光点へ目を注ぐのだった。地球はやや青味をおびた黄色の光を、その夜も静かに放っていた。そこで何ごとが起っているのか誰にもわからなかった。人々は口をつぐんだまま目白押しになってその小さな光点をいつまでもあかず見つめていた。気のせいか、その光点はいつもよりかがやきが強く、いくらかにじんでいるような気がした。
〈宇宙船MK九ヨリ全無電局ヘ。宇宙船MK九ヨリ全無電局ヘ。本船ハ高度五百キロメートルデ周回中。地球ハ白熱光ニツツマレテイル。表面温度約二千度C。猛烈ナガスニ包マレテイル。コノガスハ濃厚ナイオンヲ含ミ、極メテ危険ナリ。本船ノ船内温度、百二十度C、操船ノ自由ヲ喪ウ〉
〈コチラ船団DD一四。地球ノ爆発ニヨリワレ破損。速ヤカナル救助ヲコウ〉
〈コチラ地球人工衛星KH一七、コチラ地球人工衛星KH一七。全員、救命艇ニテ脱出セントス。誘導ヲコウ、誘導ヲコウ〉
〈コチラ地球人工衛星KA〇五、コチラ地球人工衛星KA〇五、外鈑ガ|熔《よう》|融《ゆう》シハジメタ。救助ヲタノム、救助ヲタノム〉
〈ルナ第四二基地ヨリ、スベテノ無電局ヘ。事態ノ説明ヲコウ。事態ノ説明ヲコウ。当基地ハ秩序ノ維持困難ナリ。事態ノ説明ヲコウ。事態ノ説明ヲコウ〉
〈大圏航路第三コース上ニ在ル経営機構所属|鉱石運搬船《バケット》MM三三ハ、タダ今、ツギノ情報ヲキャッチシタ。スナワチ所属不明宇宙船MK九ハ高度百二十キロメートルニテ地球表面ヲ観測、白熱光中ニ暗部ヲ認メタ。ナオ、海洋、陸地ハ識別スルコトヲ得ズ、アルイハ『ガス化』シタモノデハナイカト思ワレル。以上。ナオ同船ハソノ後猛烈ナ磁気嵐ノ中ニ通信ヲ絶ッタ〉
入り乱れる電波は刻々と地球の異変を伝えて人々を|震《しん》|撼《かん》させた。
第一報を伝えた宇宙船MK九は、地球近傍にあってこの異変にまともにぶつかり、おそらくこの時、すでに地球への進入コースをたどっていたものと思われるが、そのままコースに従って|灼熱《しゃくねつ》の地球へ、おのれ自身も一個の火球となって接近していったものと思われた。鉱石運搬船MM三三が、おそらくその最期の発信をとらえていた。その一片の情報がおそろしい高熱に包まれた地球のありさまを不気味につたえていた。
「シロウズ。見ろ、この電文を。これは地球が核爆発を起したとしか考えられないぞ」
ソウレが受信テープをさし出した。
東キャナル市の中央無電局は数百基の通信装置を動員して嵐のように入ってくる電波を受け、また各地へ送り出していた。受信テープは広大な送受信室の床にもつれて山のように散乱していた。記録装置は全力をあげてそれを整理し収録していったが、吐き出される受信テープは急流のようにあとからあとから床を埋めていった。その中央無電局の一室に、ソウレは惑星間経営機構の緊急対策本部を設けた。
テープを受けとったシロウズは、長文の電文に目をさらしていたが、|眉《まゆ》を寄せて黙ってそれを小さく丸めた。
「副首席、地球自体が核爆発を起すというのはおかしいんじゃないですか? 核爆発を起すような原因は全くないが」
「砕け散ったというなら、百億メガトンもあるような水爆を爆発させればできないこともないけれども」
「しかし、シロウズ。地球は一瞬に太陽になっちまったんだ。それしか考えられない」
「太陽にか?」
〈惑星間経営機構ヨリ全宇宙船ヘ。惑星間経営機構ヨリ全宇宙船ヘ。現在位置ヨリ最モ近イ距離ニアル|宇宙空港《スペース・ポート》ヘ着陸セヨ。現在位置ヨリ最モ近イ――〉
〈惑星間経営機構ヨリ全宇宙船ヘ。以後、スベテノ宇宙船ハ現在アル空域ノ航路管制局ノ指揮下ニ入レ〉
〈各都市ナラビニスベテノ基地、オヨビ天文台、観測所ハイカナル宇宙物理学的変化ヲモ、ソレヲ感知シタ場合ハタダチニ緊急本部ニ報告セヨ。報告ハイカナル通信ニモ優先スル〉
〈各都市ナラビニスベテノ基地、オヨビ天文台、観測所ハ、四十八時間以内ニ、ソノ宇宙空港ニ在ルスベテノ宇宙船ノ発進準備ヲ完了セヨ〉
〈船団AD七〇、AD一四三、GC一八ハ予定ノコースヲ変更、月面基地ニ急行セヨ。ナオ、ソノ必要アリト認メタ場合ハ月面基地群ヲ撤収スベシ〉
〈船団KA八、KB八八、ST六五ノ各船団ハ地球周辺ノ宇宙船、オヨビ人工衛星ヲ救助セヨ〉
惑星間経営機構の緊急指令はつぎつぎと八方へ飛んだ。ソウレはもはや地球それ自体に対しては、救助の手は全く必要ないことをさとっていた。生存者が一人も居ないであろうことは疑いもなかった。
〈原子力発電所ノ爆発カ? 火山群ノ爆発カ?〉
問合わせは殺到していた。それ以外には考えようがなかったのだ。しかし地球上にある原子力発電所のすべてのものの出力は知られていたし、それが同時に数か所の発電所が爆発したとしても、地球全体が火の玉と化してしまうなどということはあり得ることではなかった。火山の爆発となるとなおさらだった。惑星が白熱した火の玉となってしまうことなど、これまでただ一つも知られていなかったし、またそうしたことが起り得るなどということはこれまでの宇宙物理学をはじめとする自然科学の法則を全くくつがえしてしまうことだった。
東キャナル市天文台のハン・グエン教授、ヨウ・タグチ教授、エレクトラ・バーグ生産区のサカキ博士、統計局のシンジ教授、さらに辺境星区からケンコ52技術官をはじめ、人類の最高頭脳と称される人々が|急遽《きゅうきょ》、ソウレのもとに召集された。集った四十二人の科学者たちは六つのグループに分けられた。ソウレはさらに辺境星区のイ・タンギーに、五百名のサイボーグ作業員を借り受けた。
中央無電局の一室に設けられた緊張対策本部の合同会議室は昼夜にかかわらず戦場のようなあわただしさに包まれていた。六つのグループの意見は、ひとしく地球上に発生した異変について先ず詳細な資料を得ることにある、とした。そしてでき得れば地球表面に観測装置を降すことだと主張した。
〈観測船GC九九ヨリ緊急対策本部ヘ、観測船GC九九ヨリ緊急対策本部ヘ。本船ハ高度四九キロメートルニテ赤道上空ヲ周回中。地表温度四百度C。ナオ相当強度ナルガンマー線ヲ検知シ得ル。地表ハ黒褐色ノ霧状物ニオオワレル。レーダーニヨル探索モ陸地ト海洋ノ判別ヲナシエズ。生存者ナキモヨウ。人工衛星KH一七、KA〇五、KA〇四ハ地球爆発時ノ熱線照射ニヨリ、破壊サレタ。周回軌道上ニ多数ノ宇宙船ガ漂流シティル。イズレモ焼損ハナハダシク、本船ノ呼ビカケニモ応答ハナイ、以上〉
〈観測船GC八三ヨリ緊急対策本部ヘ。観測船GC八三ヨリ緊急対策本部ヘ。地球ニ大気ナシ。地表温度二百度C。ガンマー線放射量八七〇〇毎秒レントゲン。地表ハ火山灰状ノ塵ニオオワレテイル。以上〉
〈観測船GC三二ヨリ緊急対策本部ヘ、観測船GC三二ヨリ緊急対策本部ヘ。地球上、東経百二十五度五分、北緯二十八度十二分三十秒ノ地点ニT・Vアイヲ投下シタ。T・Vアイハ|塵中《じんちゅう》ニ埋没シタ。ツイデ東経八十七度五分四秒、北緯三十五度十七分九秒ノ地点ニ浮舟ヲ装置シタT・Vアイヲ投下シタ〉
危険をおかして接近をこころみる観測船から、|変《へん》|貌《ぼう》をとげた地球の様相がつぎつぎと送られてきた。今や完全に焦土と化した地球は、ふかぶかと灰におおわれているらしかった。
観測船GC三二の投下したT・Vアイは、浮舟の力をかりてその灰の平原に浮き、間もなく送信を開始した。観測船GC三二はその電波を受け、それを太陽系全域に中継した。
磁気嵐の奔流によって乱れ流れる画面が、ほんのわずかの間定着するたびに、スクリーンの奥に見わたすかぎり茫漠と|鉄《てつ》|銹《さび》|色《いろ》の平原がひろがっていた。|堆《たい》|積《せき》した塵は繊維のようにからみあい重なりあってT・Vアイのレンズフードのほとんど下縁にまでとどいていた。浮舟を装着したT・Vアイでさえあやうく灰の中に埋没しかかっていた。T・Vアイが回転すると、四周がスクリーンに入ってきたが、ただ漠々たる灰の海だった。投下位置からすればそこはコンロン山脈の|南《なん》|麓《ろく》、チベット高原の奥地だった。北から西へ、カラコルムからヒンズークシへの|高《こう》|峯《ほう》が空をさえぎり、南方は八千メートルの連峯つらなるトランスヒマラヤの雪をのぞみ、世界の屋根といわれた地方のはずであった。しかし、スクリーンの中にはどこもそれらの山々の姿はなかった。あるものはただ、薄明の空の下に音もなくひろがる一望の灰の荒野だけだった。ヒマラヤも、カラコルムも、コンロンもすべて何の|形《けい》|骸《がい》もとどめていなかったのだった。
異変は徐々にその真のすがたをあらわした。
〈観測船GC一四ヨリ緊急対策本部ヘ、観測船GC一四ヨリ緊急対策本部ヘ。本船ハ赤道上、任意ノ数カ所ニ発信装置ヲ内蔵セル重錘ヲ投下シタ。本船ノ方向探知機ハソノ発信位置ヲイズレモ地表下八十五キロメートルニ探知シタ〉
ソウレのひたいには暗い翳が|隈《くま》どりのように浮かんでいた。入ってくるニュースのどれもが、おそるべき破滅を暗示していないものはなかった。科学者グループの全力をあげての活動にもかかわらず、成果は遅々としてすすまなかった。千二百万年前に、太陽系周辺を舞台に遭遇した二つの文明の実態と、その不幸な結末の様相を探り出すという極めて困難な仕事の上に、さらにこの突然の地球の異変をむかえてさしもの人類最高とうたわれる頭脳群も、今や完全にその働きを|停《てい》|頓《とん》させられてしまった観があった。経営機構上層部をはじめ、市民情報部や各都市の間にようやく不安の色が濃くなってきた。彼らはソウレによる科学者グループの集中に漠然と異状なものを感じていたが、さらに地球の異変の突発によって、彼に詳しい説明を求めようとする気運がにわかに動いてきたのだった。
ソウレは人知れず苦慮した。説明することはやさしかったが、それによって起る混乱と不安は計り難いものがあった。
宇宙船MK一六は、ブレーキ・ロケットをいっぱいに使って減速しながら、着陸予定点をフライング・パスしていった。高度八千メートル。視野の半分はおそろしく大きな、そしてまたたくことをやめた星々の海だった。大きい星のつらなりの間には、もっとずっと遠い、小さな星々が光の雲のように群れていた。その星空を大きくおおって、視野の他の半分を占めているのは、灼熱のほのおのようにかがやく黒褐色の平原だった。その平原は視野のはずれで大きく弧を描いていた。その平原の上を、MK一六の小さな影が流れるように動いていた。それは巨大な銅鏡に映った小さな一匹の虫の影だった。平原には山もなく、谷もなく、また陸と海との別さえなかった。あるものはただおそろしい|傷痕《しょうこん》をかくす、かがやく平滑な地表だけだった。
あの濃い大気の層をまとい、その青緑色のもやの奥に、翳のように大陸の形を浮かべていたこれが地球とはとうてい考えられなかった。
「本船ノ現在位置、東経百三十九度〇二分、北緯三十五度三十九分四秒デス」
|宙航士《コーサー》がうたうように告げた。
シロウズはもうこれ以上フライング・パスを重ねても意味のないことをさとった。わずかでもかつての山脈の跡を示す高まり、形骸だけでもその所在を示す都市、そのどれもがこの油の面のようにかがやく黒褐色の平原からは求めることができなかった。
「よし。着陸しろ!」
宇宙船MK一六は補助ロケットを間断なく使って姿勢をたてなおすと、ゆっくり高度を下げていった。
「高度七千……六千……五千……四千」
|第二操縦士《セコンド・パイロット》が無心にメーターを読みつづける。
高度三千メートルでなめらかな船腹が開いて、おりたたまれていたトラスが生き物のように伸びだす。それがみるみる巨大な傘のようにひろがった。さらにもう一個。宇宙船MK一六は二つの巨大な傘を踏まえてゆっくりと降下していった。
「高度一千……五百……四百……三百……二百……百……接地」
黒褐色の砂煙が|怒《ど》|濤《とう》のように船体を押し包み、星空をおおってひろがった。しかし砂塵は船体の傘の下から大きな|抛《ほう》|物《ぶつ》|線《せん》を描いてはね飛んだきり、星空はたちまちもとのように澄みわたった。
「あの|浮舟《フロート》でも船体を支えきれないのではないかと思っていたが、大丈夫のようだな」
「浮舟埋没深度、十五メートルです」
|操縦席《ドライバーシート》が答えた。
大気を失い、灰に埋まっている地表に大形宇宙船を降下させることは全く不可能だった。重量二万トン以上の宇宙船を、秒速一メートルで接地させても、おそらく数千メートルは埋没してしまうだろう。もちろん絶えず核エンジンをはたらかせて船体を持ち上げていればその危険はないが、それでは乗組員が船外に出ることもできない。そこで考案されたのが傘のように開く浮舟だった。これで接地面積を拡大すれば、どんなに軽い灰や砂の上にでも着陸できるのだった。
「調査局員、周囲ニ異状アリマセン」
|宙航士《コーサー》の淡々とした声が、ふたたびシロウズのイアホーンに流れてきた。
「当直は通信席につけ! 残り全員は船外へ」
シロウズは重装備に身を固め、さらに救難用発振器を腕に巻くと、小山のような姿をボート・デッキへ運んでいった。ボート・デッキの|傾斜路《スロープ》から、これも巨大な傘を履いた一台の|偵察車《コーチ》が地上におろされているところだった。乗組員の一人が水先案内人のように車体の先端に立っていた。
「沈下度、ホトンド|0《ゼロ》! ソノママ直進」
「|噴射管《ノズル》ノ後ニ立ツナ!」
「救助発振機ノ波長ヲ合ワセロ」
「乗車!」
イアホーンの奥でさまざまな声が入り乱れた。
濃藍色の空に黄白色の大きな太陽が燃えていた。それはこれまで地球や金星や火星で見てきた太陽とはひどく違っていた。それら、厚い大気の層を通して見た太陽の、全天に拡散したやわらかな光とは異なって、面も向けられない強烈な光と熱の波を放射していた。その光を受ける平原には、翳の部分は一つもなかった。
「出発!」
|偵察車《コーチ》は軽いショックで前進を開始した。車体の下にひろがる傘の両わきから、黒褐色の滝が噴いて出た。黒褐色の微粒は非常に軽く、直径は五ミリメートルから一センチメートルぐらいあった。中にはそれが幾十、幾百と融け合って一つにつらなり、てのひらほどの大きさになっているものもあった。それらがいかにも重さを持たないかのようにふわふわと重なり合いわずかな衝撃にもどっと舞い上ってはふたたび音もなく地表に降りそそいだ。それは黒褐色のマリン・スノーのように夢幻的でさえあった。いっさいの物音も絶え、大気を喪ったここにはそよ吹く風さえもなく、黒いマリン・スノーはあとから舞い上っては降りそそいだ。
「調査局員、位置ヨリスレバ、ココハトーキョーデス」
|機関士《エンジン》のマークをつけた|作業員《サイボーグ》がささやいた。ささやきはしたが彼の目にも顔にもなんのおそれも不安もあわれみもあらわれてはなかった。円い二つの目の奥に設けられた受光記憶回路が、今、彼の見ているものを正確に非情に、その大脳へ送っているはずだった。濃藍色のひふの色も、そう言えば虚空の色に似ていた。辺境星区からかり出された十五名の作業員が、今、この変貌した地球へ降り立ったシロウズと運命を分ちあう者たちだった。彼らは強烈な放射能にも耐える人工皮膚を持ち、内蔵された酸素発生装置と体液環流ポンプを備えていた。
「そうだ。ここは地球連邦第一の都市、トーキョーのあった所だ」
シロウズは|誰《だれ》に言うともなくつぶやいた。
高層ビルの林立するシリコンとガラスの街。網の目のように交錯する高架回廊。幾度かの大戦争にも耐えて生きぬいた壮麗な都市のあった所がここだ。地球連邦の経済の中枢として、またかつてアジア同盟創成の源泉となったここ。今はただ茫々と黒褐色のマリン・スノーに埋められていた。
「調査局員、微粉ノ採取ヲ終リマシタ」
ドレッジをおろしていた一人がパイプの巻き上げにかかった。
「磁力ハ極メテ弱イ」
おそらく変化は深部の物質にまで大きな変化を与えたものとみえた。
「微粉ハ金属ノ酸化物ラシイ。鉄、銅、アルミニウム、亜鉛、錫ナドイオンガ検出サレル」
「するとやはり核爆発の公算が強くなるな。大地や建造物などにふくまれている金属が核分裂をおこしたとも考えられるぞ」
しかし、極めて安定した組成を持つ金属が核分裂を起すことがあるだろうか。
「原子ノ振動ヲ励起スルヨウナ何カガハタラケバ、金属ノ核分裂モ可能デショウ」
なんでもないことのように作業員の一人がつぶやいた。
「金属原子の振動を励起する、か」
とんでもないことを言いやがる。シロウズは腹の中で舌うちしたが、次の一瞬、血が凍るような衝撃を感じた。
「そうだ! 空間のひずみを急激にくりかえせばその中の物質を構成している原子にも異常な震動が起るはずだ。空間に震動を与える磁力線か何かがどこからか注がれていて、それによって複雑な震動をくりかえしている空間に地球が飛びこんだとすれば地球を構成している物質は一瞬に核分裂をおこすかもしれない。今度の場合、地下八十キロメートルまでの変化というのは、そのはたらきが非常に弱かったからではないだろうか」
作業員たちは動きを止めてシロウズの言葉に耳をかたむけていた。
「調査局員、ソノ方向ヲサグルコトガ必要デショウ。シカシ何者ガソンナコトヲ?」
「調査局員、地球ノ軌道ガソノ空間ト交叉シタニ違イアリマセン。ソノ空間ガナオ存在シティルトスレバ、探シ出スコトハ困難デハナイデショウ」
「そうだ。これは想像だが、その空間のひずみもおそらく地球をねらったものではなかろう。なんらかの理由でかつて何ものかが設けたいわば機雷にひっかかったのだ。古戦場に残された一個の機雷が、たまたまそこを通りかかった運の悪い巨船をほうむるようにな」
「コセンジョウトハ?」
「過去に戦いがあった所のことだ」
「コノ太陽系デカ?」
「まあ、な」
「調査局員、コノヨウナコトガアッタ。第一次辺境外調査ノ時、百七十度四十分、ヴェガノ方向マイナス三度、|冥《めい》|王《おう》|星《せい》カラノ距離八千七百万キロメートルノ位置ニ難破船ヲ発見シタ。破壊ノ程度ハヒドク、マタ非常ニ永イ時間、漂流シティタヨウダッタ。|曳《えい》|航《こう》シヨウトシテ接近スルト爆発シタ。ソノ時、放出サレタアル種ノ放射線デ船内ノ二十人ガ死ンダ。ワレワレハ直チニソコヲ離レタ。ソノ事件ニツイテハノチニ詳細ニ再調査サレタガ、モハヤ何モワカラナカッタ」
「そうか」
死に絶えた宇宙船やあるいはその|残《ざん》|骸《がい》などが、まだまだたくさん漂流しているものと考えたほうがよさそうだった。そして展開されたバリヤーが目に見えない垣をおりなしているものとみえる。そしてまだ|莫《ばく》|大《だい》なエネルギーを残したまま、多数の宇宙船が、金星や火星、木星や土星の地下深く仮埋葬されているのではないだろうか。そして今、その残ったエネルギーをしだいに熱く燃焼させていっているのではないだろうか。
黒褐色の地表はいよいよ水銀の焔のようにかがやいた。|偵察車《コーチ》の傘の下から湧き上る黒い灰は羽毛の舞うように視界をつつんだ。
キャノピーの温度は急激に上ってきた。冷却装置はフルに活動していたが、冷却器自体の温度も上ったためか、しだいにその力を失ってきた。
「|第一操縦士《チーフ・パイロット》、大丈夫か。だいぶ車体温度が上昇してきたようだが」
中天をそれた太陽に面した側の車体は、外鈑が熔融しはじめるほど熱くなっていた。またその反対側の影の部分は、おそらくマイナス百度近い低温になっているであろうと思われた。
「調査局員、ヒトマズ本船ニモドリマショウ。冷却装置ヲ改造シナイト長時間ノ活動ガ困難デス」
偵察車は大きく円を描いてもときた方向へ頭を向けた。
ギラギラとかがやく反射のむこうに、はるかに遠く宇宙船MK一六が銀色の塔のようにそびえていた。星々はこの燃え殻と化した地球めがけていっせいに突入してくるようにすさまじい光を発していた。地球は暗黒の真空の中で震えていた。
どこから何を調べたらよいのだろう。その想いがふたたびシロウズの胸を暗く重く塗りつぶした。何ものが、なぜ? 今はわずかに、遠い過去の時、未知の二つの文明が相争って、その余力がなお太陽系に惨憺たる被害をおよぼしていることはわかっている。しかし考えてみれば実は何もわかっていないのだった。二つの文明の実態も全くつかめていなかったし、また彼らの故郷の星々、そしてさらには、その二つの文明を亡ぼすに至ったあの偉大な何ものかの出現は。
人類は孤独だった。そして人間はなお卑小だった。迫りくる災厄のかたちを知ることもできず、ただなおおのれの運命の周囲を低迷しているに過ぎなかった。行方不明になったおびただしい宇宙船の最初の一隻にはじまって、現在に至るまで事態はまだ何の解決への方向も見出されていなかった。事件の性格を感知させる幾つかの資料を入手して、その異状さにおののいているに過ぎなかった。
シロウズの目に、暗黒の虚空をゆく宇宙船の群や、灰色の雲の下の高い塔、エレクトラ・バーグの巨大な電子頭脳、また、きびしい|氷崖《ひょうがい》の下の|腐蝕《ふしょく》した宇宙船、黒く干からびた生物の残骸などがつぎからつぎへと走馬燈のように浮かんでは消えた。そして最後に、あの日の|宇宙空港《スペース・ポート》のたそがれが花火のように明滅した。たくさんの部下に囲まれて、顔中で笑っていた太った男。シロウズを見るや短い首と突き出た腹とで、「お前は宇宙要員だろう」とたちまち何か仕事を押しつけようとした。そうだ、あの時から実は人類の悲劇がはじまったのだ。あの|出《で》|逢《あ》いにはなぜかひどくさびしいものがある。あの男に逢わなかったら、あるいは人類は何事もなく、何事も知らず、なお永い繁栄と幸福を楽しめたのかもしれなかった。ヒロ18だってそうだ。金星の都の一角に、巨大な電子頭脳をかかえて、そこで一人、人類の未来と戦っていればよかったのだ。そして破滅の時はあるいは知り得たかもしれないし、またついに知ることができなかったかもしれない。どちらにしても結果は同じなのだ。明日を知ることは破滅を知ることだ。あの女はあそこへあらわれてくるべきではなかったのだ。あの女がおれの目の前にあらわれ出たことによって、人類の悲劇は予感だけではおさまらなくなってしまったのではないか。あれは人類の悲劇を招く出逢いだったのだ。
だが、ソウレは言うかもしれない。お前がそうしたのだ、と。不幸というものは、本来その所在をさぐり出してまで知るべきものではない、とあの男は皮肉に笑うだろう。しかしこれが人類の欲望の性格なのだろう。人類はこうしてついにおのれの死期までさぐり出した。どうするのだ、これから。シロウズはひとりとりとめのない想いにひたりながら、キャノピーをおおう星の海に顔を向けつづけていた。
第九章 はるかなる日々
[#ここから3字下げ]
彼らは夜をもて昼に変えぬ。彼らは言えり「光は|闇《やみ》に近づきぬ」と。
[#ここで字下げ終わり]
――一九〇〇年代末期には二つの事件が人類の歴史に加筆された。一つは月面への本格的な進出であり、一つはあの全面局地戦争なる不可解な言葉で呼ばれたところのいわゆる第三次大戦(実はこれを第一次統合戦争とみなすべきであるとする説が、最近有力になっているが)である。前者は最初、アメリカ、ソビエトの二国によって投機的に進められたが、のち、中国、ニホンなどがこれに加わった。このころまではまだ月面に対する認識は、豊富な鉱物資源を中心とした経済的な重要性よりもなお、軍事的な価値に向けられていた。切迫する第三次大戦の危機はこの傾向をいよいよ顕著なものとしていった。この事態を憂慮した月面開発委員会は一九九八年、月面の非武装宣言を発し、これが事実上、太陽系内に|於《お》ける最初の人類の植民都市の出現となったのであった。――いわゆる第三次大戦と呼ばれる。いつはじまったともなくはじまり、いつ終るともなく終った無意味な泥沼的戦争は月面の開発に致命的な、永い停滞をもたらした。開発基地は荒廃し、幾多の貴重な資料はむなしく放置された。しかし戦後、ようやく回復なった地球の人々が月面をおとずれたとき、彼らはもはやそこに発言権がないことを知った。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――二つの大戦はその経済思想を異にする二種の帝国主義的世界観の衝突であったとみなされ、それら経済支配圏の拡大意図が一九〇〇年代のとくに後半を極めて変化多いものにしている。民間資本は国家資本に対し、金利の点に|於《おい》て抗し難く、また民間資本は利潤の高さに於て国家資本をしのいだといえよう。この段階に於て生産者価格はつねに消費者価格に優先した。それは生産者価格の、消費者価格に対する基本的な挑戦と言えた。――第三次大戦は複雑な様相をもって進展し、広範な破壊と死をもたらした。無数の戦場は隣接する他の戦場の状況とは全く無関係に進行し、二つの勢力はたがいに相手をしばしば危機におとしいれた。戦争は二十年にわたる破滅的な歳月と、そのあとにつづくなお十年にもおよぶ散発的、盲目的な小戦闘の断続の時期とから成っていた。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――最後の戦闘が終って二十七年をへて最初の宇宙船が火星の広漠たる砂漠に進入した。この最初のこころみは、火星に於ける高度な知的生命の存在を完全に否定しさった。しかし人類の果敢な冒険に対し、火星は華麗な贈物をもって報いた。それは人類がはじめて真の意味での大規模な植民都市を建設し得る可能性であった。しかし火星の鉱物資源は、月面のそれに比して極めて貧困ではあった。火星は植民都市として一般市民の移住を広い範囲に許し、かつ経済的に地球とは固く結ばれていた。火星の自然環境は、人類にとってそれほどおぞましいものではなく、月面での生活に於ける絶えざる危険はここではかなり軽減されたものであった。第三次大戦後の|逼《ひっ》|迫《ぱく》した市民生活が、人類の火星での急速な発展をうながしたとも考えられる。そして高度の技術者のみにゆだねられた月面と異なり、火星の植民都市が建設当初より極めて地球の諸都市に近い性格を有していたことが、やがてくる太陽系の積極的開発に多大の推進力を与えることになったのである。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――二一〇〇年代に於ける東キャナル市の繁栄は地球の代表的都市をしのぐほどであった。合成食品の高度の発達、および酸素の発生装置をはじめとする各種環境調整機構の整備がその発展をうながしたのであった。太陽系開発の方向はここより出でて木星、金星へと指向された。小惑星帯への進出はすでに二〇〇五年|頃《ころ》よりおこなわれていたが、豊富な鉱物資源は東キャナル市の渇望するところであった。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――金星への進出は最初考えられていたほど容易ではなかった。数度にわたる悲惨な失敗ののち、一九〇〇年代もあと数年で終ろうとする年、ようやく金星へ最初の足がかりを作ることに成功した。金星の自然環境は極めて特異であり、鉱物資源はまた非常に豊富であった。金星に対する産業都市建設の気運はようやく高まった。二〇一一年、トーキョーのコモドウ教授は、金星の熱砂漠上に放置された宇宙船の残骸について報告をもたらしたが、これは過去に於てしばしばおこなわれたところの金星表面の観測ロケットの残骸であるとする説が圧倒的であり、この|報告《レポート》はやがて忘れさられた。
二〇一九年、エレクトラ・バーグは正式に自由植民都市として布告を発した。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――第三次大戦後ニ於ケル、ソビエトナラビニアメリカノ後退ハ、必然的ニ新タナ統合勢力ノ台頭ヲウナガシタ。コノ時期ニ於ケル国際連合ノ無力ヲ原因ノ一ツニ数エル者モアルガ、ソレハ当ヲ得テイナイ。経済的ニ戦後処理ニアタッタ、アジアオヨビアフリカノ両グループノ動キヲ分析スルコトニヨッテ、コノ時代ニ於ケル二ツノ大キナ歴史的流レ、スナワチ、両グループノ持ツ経済的主導権ノ与国ヘノ影響、ナラビニ宇宙開発問題ニ対スル発言権ノ強化ガヨミトリ得ルデアロウ。時代ハ|未《いま》ダ、真ノ安定ヲノゾムニハ時期尚早デアッタ。
[#地から2字上げ]バイ・ルウ・シャン教授講演集より
――第一次統合戦争後ノ永イ混乱ハ、ヤガテ全アフリカ連合、オヨビアジア同盟ノ二大対立勢力ヲ生ミ出シタ。前者ニ於ケル新市民主義、後者ニ於ケル選択集中生産方式ニハ、ナオ前時代ノ民族主義、ナラビニ後期社会主義ニヨセル郷愁ヲ感知シ得ル。
[#地から2字上げ]バイ・ルウ・シャン教授講演集より
――二三〇八年、アジア同盟オヨビ全アフリカ連合ハ、連名ヲモッテ火星東キャナル市、金星エレクトラ・バーグ、ソシテ|人工衛星開発都市《ステーション・シティ》群ニ対シテ、経済援助ノ打チ切リヲ通告シタ。コレニヨッテ惑星植民都市ハ事実上、地球ノ支配ヲ脱シタコトヲ意味スル。コレハ逆ニ、地球ガ自ラヲ惑星間文明ヨリシメ出シタコトニナリ、ヤガテ地球連邦衰退ノ原因トナッテユクガ、コレガ歴史ノ上ニ形ヲナシテアラワレルマデニ、ナオ一千年ノ歳月ヲ必要トスルノデアル。
[#地から2字上げ]バイ・ルウ・シャン教授講演集より
もはやどこにも真の意味での宇宙都市はなかった。そこにあるものはすべて地球の都市の類型。色|褪《あ》せた中古の文明に対する限りない接近の情熱だけがあった――
[#地から2字上げ]ハヤマ記念ホールの碑文より
――木星の開発は困難を極めた。アンモニアの大気とメタンの海荒れ狂う木星には、基地を設けるべき陸地とてなかった。人類はその嵐の海上に宇宙船を浮かべ、そこを輝ける都市の礎石となした。都市は後年|『浮游都市』《プランクトン・シティ》と呼ばれた。土星も、木星同様に人類の進出を固くこばみつづけた天体であった。最初の宇宙船が、その分厚い密雲の下へ|舳《へさき》を向けて消えさってから実に四十年の歳月をへて、ようやく本格的に土星進出がなされたということは、いかにこの天体が、その神秘を人類の手から守り通したかがわかる。天王星、海王星についてはみるべき開発の成果とてない。この木星型自然環境に、人類はもはや興味を示さなかった。しかしその数多い衛星は、広く開発され、やがて次の時代、すなわち辺境進出へのすぐれた前進拠点となったのであった。
[#地から2字上げ]|船長《キャプテン》シマの弔文より
――辺境進出を可能ならしめた最も大きな要因としてあげられるものに、生命体中に於ける人工組織の実用化がある。これはすでに一九〇〇年代の終りに幾多の研究がこころみられているが、人類の宇宙進出にあたって、その貴重な人的資源の消耗を憂慮した関係部門は、あげて人工組織の研究を推進せしめた。最初は人類の尊厳さをかなり傷つけるような結果しか得られなかった。人工組織、人工器官の前途は|暗《あん》|澹《たん》たるものであった。第一次統合戦争に於ける負傷者の救済のための人工組織の実用が、思いがけない新しい方向をさし示した。それこそ代謝系を一にする器官を、ユニットのまま交換するという画期的な方法であり、それまでくりかえされてきた故障部分のみの単一交換をはかるものとは大きく異ったものであった。かくして本格的なサイボーグへの道は開けた。二四四三年、サイボーグによって編成された探検隊が辺境へ送られた。その機能はそれまでの宇宙探検隊の装備、および基地設営の方法に非常な変革をもたらした。
これと時を同じくして深層心理に対する高度な分析がこころみられ、特に宇宙開発関係者に対する教育は強化された。サイボーグに対する本格的な教育が開始された。彼らは極めてすぐれた能力の持ち主となった。かくて辺境はその門戸を人類の前に開くことになった。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――サイボーグに対する反感は単にその形状に対して向けられるものではない。たしかにそれはおよそ「人体」という概念からは遠いものであった。人類がそこに看取するものはとりもなおさず、|傷痍《しょうい》の実体であったし不幸な事故の展示であった。たしかにそれは気の弱い者には夜の眠りをおびやかす悪夢ですらあった。しかし問題はサイボーグの形状にあるのではなく、彼らの卓越した能力にあった。
[#地から2字上げ]医務部レポートより
――二五一九年、地球は他惑星に先がけて、サイボーグの地球立入りを厳禁した。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――辺境の開発は遅々として進まなかった。冥王星はあまりにも遠く、冷たく、火星や金星の開発に比し、実に数十倍する資材を必要とした。二五一八年。辺境星区は新たな植民都市の開設を宣言した。新たな時代の開幕であった。
すでに火星や金星は、太陽系開発基地としての性格を完全に喪っていた。東キャナル市も、エレクトラ・バーグも、すでに巨大な経済都市であり、そこを訪れるものは惑星間貿易について語り合うためなのであり、|宇宙空港《スペース・ポート》から、星くずの中へ飛び立ってゆく宇宙船は、決して冒険を求めて出発したのではなかった。東キャナル市、エレクトラ・バーグはすでに五百年の歳月を送り、過去の、あの未知の宇宙空間に夢を結んだ人類の情熱はそのわずかな|痕《こん》|跡《せき》を残されているだけであった。幾つかの記念碑、また小ホール、小公園の名に、かつてこの地を夢みつつ倒れた者たちの名前が用いられていた。しかしその名前の由来を知る者はすでに絶えていた。もはや開拓時代は去ったのであり、勇者の時代は終ったのであった。
[#地から2字上げ]調査局資料より
――初期開発時代の情熱と混乱は、辺境に移っていた。人々はそこでは不断の危険にさらされ、困窮と戦って自分たちの|棲《す》むにたる場所を造るために努力を重ねていた。
人類は地球より出でてしだいに遠く、その足をのばしてきた。それは水面にひろがる波紋に似ていた。その前線ではつねに、酷烈な自然との間で、死闘が交わされていた。人類は幾つもの都市を、その通ってきた道に残してきた。その道がいつ終るのか、終る時までになお幾千、幾万の都市が造り出され後に残されてゆくのか、それは予測することも不可能である。辺境もやがて静かに満ち足りた都市になってゆくのであろう。その時にはすでにまた多くの人々が、見果てぬ夢にみちびかれるままに、さらに遠隔の地を掘りおこしていることであろう。
[#地から2字上げ]|船長《キャプテン》シマの弔文より
――喪われた故郷に寄せる|挽《ばん》|歌《か》は数多くある。電子音響による重複音階法で知られるシ・リンドウの『ストラクチャー48』、またオカの立体テレビの残影効果による『英雄記』、あるいは同じく無配色効果によるトネ・Cの『サマリンダ』などは、距離的にもまた精神的にもしだいに遠くなってゆく地球に対する人類の哀しみを歌ったものとして、今日なお聞く者の胸をうつ。この時代に於ては宇宙開発は一つのロマンであり、人々はそれを伝説として神話として心の片すみにつねに抱いていたのであった。一隻の小さな宇宙船に命をたくし、薄紙のような|宇宙服《スペース・スーツ》に体を包んで、人々は暗黒の明日へと旅立っていった。今はそのコースを、小さな惑星ほどもある宇宙船が、豪華な船室に人々を容れて音もなくゆききする。かつて死ときそいあい、時と興亡をあらそったあの情熱はすでに求め得べくもなかった。
喪われたものによせる哀惜は、しかしなお時代をつなぐにはたりなかった。
[#地から2字上げ]サベナ・シティ銘板より
――第二次統合戦争は地球連邦を生み出した。地球はここにはじめて一つの統一経営組織を持つことになった。しかしなお、旧アジア同盟および旧全アフリカ連合の間の摩擦は永く跡を曳いた。東キャナル市もエレクトラ・バーグも、この第二次統合戦争に対しては極めて冷淡な態度を堅持した。それはすでに惑星間文明に於ける地球の位置の低下を物語っているものであった。かつて、地球、金星、火星と三つが、人類を支える巨大な脚であったが、三〇〇〇年代にあってはその脚は、金星、火星、辺境星区と形を変えてしまっていた。今や惑星間経営機構はその一部を残して地球より火星へ移動することを決意せざるを得ないのであった。
[#地から2字上げ]調査局レポートより
――三八八一年、最初の太陽系外調査船団が辺境星区から出発していった。これが帰還したという記録はない。隊員の名を記した銅板が辺境星区|宇宙空港《スペース・ポート》の一角に埋められた。
[#地から2字上げ]調査局レポートより
第十章 明日への道
[#ここから3字下げ]
メネ、メネ、テケル、ウパルシンと
[#ここで字下げ終わり]
レーダー・スクリーンに無数の光点がかがやいていた。あるいは遠くあるいは近く、後になり先になり、それは水の流れにおし流されてゆくおびただしい泡のようだった。一つの群が過ぎ去ると、また新しい群がつづいた。さらにもっと大きな群がスクリーンを一方から一方へと横切っていった。いつ果てるともなく、群は切れ目なしにつづいていた。
その微細な光点の群は、しだいにそのかがやきを弱めて、はるかに星々の海へまぎれこんでいった。
〈――コチラ航路管制所。船団RA二、RA三、RA八、予定コースニ入リマシタ。速度一〇の一K秒。針路、青の魚座〉
航路管制所の電波が、一秒ごとに遠ざかってゆく輸送船団の航跡を追っていた。
「とうとう行ったか!」
シロウズは深い感慨をこめてつぶやいた。身動きもできないほど、心の底に重い虚脱感が|沈《ちん》|澱《でん》していた。
三千隻からなる輸送船団の第一陣は、今太陽系をあとに出発していった。それは、はるかに暗黒の宇宙空間をわたって、これまで人類が一度も踏みこんだこともない未知の星々の間に興亡の道を分とうとしているのだった。目的地点は、青の魚座の方向は、はるかに八光日。星図の上、へびつかい座七〇の近傍にあった。
これまで人類は太陽系の外に、遠く積極的な調査をこころみたことはなかった。辺境の開発はようやく軌道にのり、大圏航路は冥王星にまで達したものの、人類にはここよりさらに外、太陽系の外部に次の目的地を見出すことはまだできずにいた。辺境の開発に、体も心も疲れ果てた人々には、太陽系の外は見果てぬ夢でありながら、まだ手をのばす時期ではないとされていた。
「とうとう行ったか!」
それこそ人類がはじめてこころみる死と勇気とへの絶望的な挑戦だった。たとえ輸送の目的を達し得たとしても、果してその何隻が無事に帰ってくることができるだろうか。思えば無謀の極みではあったが、しかし今はそれをしなければならなかった。何もしないでいるよりも、何かした方がよさそうだったからだ。
「すばらしい! これでいよいよ人類も太陽系外への発展の足がかりを作ったわけですな。これで最近頻発している宇宙船の行方不明事件などでも、どんどん解決してゆけますね」
シロウズの隣に坐っていた男がひどく興奮した声音で体ごとのりだしてきた。男はルナ・シティの銀色の襟章をつけていた。シロウズは口をつぐんだきり何も答えなかった。
「ね、そうじゃありませんか」
男は宇宙船団の出発を目の当り見て、すっかり心を奪われたらしい。若者のように目をかがやかせていた。
「ま、そんなところだ」
シロウズは吐き|棄《す》てるようにつぶやいて立ち上った。ルナ・シティの男はシロウズの不機嫌な顔つきにおどろいて口を開いたまま見送った。シロウズは黙々と管制室を出た。
〈――ダイモス基地ヘ、コチラエレクトラ・バーグ航路管制所。船団CC九一、CC一〇八、CC一〇九、予定コースニ進入中。針路、青ノ魚座。誘導ネガイマス〉
ドアをしめるシロウズの背後で、スピーカーがあわただしく叫びはじめた。第二の船団が、その集結地、金星を離れたのだろう。これも三千隻近い宇宙船から成っていた。
この火星の衛星、ダイモスの航路管制所は、どこへいってもおびただしい人々で混雑していた。東キャナル市から、エレクトラ・バーグから、そして木星のサベナ・シティやたくさんの人工衛星都市、前進基地などからここへ集ってきた人々のほとんどが、輸送船団の誘導や長距離通信についての専門家ばかりだった。このダイモス管制所は、この『|極光《オーロラ》作戦』の誘導中央ステーションにあてられていた。凍結した岩石の平原に林立する高いアンテナ群や、この作戦のために急ぎ建設された原子発電所の|扁《へん》|平《ぺい》なドームなどが、この小さな一点を太陽系の中で、今もっとも重要な場所としていた。
「シロウズ!」
背後から呼びとめられた。ふりかえると、サベナ・シティの生産局の長官が数名の部下をしたがえて立っていた。シロウズとはこれまで数回、顔を合わせたことがある。
「や、長官。わざわざおいででしたか」
「船団の出発を見送りたいと思ってね。しかし、レーダーのスクリーンで光の点々を見ただけだったよ」
「それは残念でしたね」
この人の好さそうな中年の長官は、部下に持たせたヘルメットをかえりみて笑った。
「ずいぶん久しぶりにこんな物をかぶったが、若い頃を思い出してとても懐しかったよ」
シロウズも黙って笑った。
「古代のピラミッドを知ってるかね?」
「読んだことがあります」
シロウズは質問の意図をはかりかねて長官の濃褐色のほおのあたりに視線を遊ばせた。
「バンリノチョウジョウは?」
「それも読んだことがあります」
「うむ。シロウズ、この『|極光《オーロラ》作戦』はちょうどそれら古代の人類の労作に匹敵すると私は思う。古代の人類が、その持てる力のすべてをあげて、ピラミッドやバンリノチョウジョウをきずいたように、われわれも総力をあげて、宇宙の暗黒の中にレーダー網を張ろうとしているのだからな」
長官は自分で自分の言葉に深くうなずいた。シロウズの胸はかすかに痛んだ。
「シロウズ。この仕事が一段落ついたら、サベナ・シティへも遊びに来なさい。むろん調査局員としてではなくな」
「ありがとう。いずれ、また」
シロウズは一礼するとその場を離れた。シロウズの心のどこかが、ざっくりと切口を開いていた。その切口からはひどく冷たいものが噴き出してきた。その冷たさは彼の全身をしだいにひたしていった。
「ピラミッドか!」
長官のさりげない言葉は、シロウズの胸に痛烈な傷をあたえていった。ピラミッドか、たしかにピラミッドに違いない。しかしピラミッドは彼らの王をまつることによって少くとも当時の人々の胸にやすらぎを与えたはずだ。そして帝国の栄光と人間の文化がそのとがったいただきに|燦《さん》|然《ぜん》とかかげられていたはずだ。
「バンリノチョウジョウか!」
その荒涼たる石のたたずまい。強大な敵を防ぐために、えんえんと野をわたり、山を越え、落日の峰にそびえ、張りめぐらされたその石の壁。それによって何を防ぎ、何を守ろうとしたのか。今はただ、それをきずいた人々の心の形骸だけが、茫々と風塵にまみれているだけだ。
人類は今、太陽系の外、はるかな宇宙空間に、巨大なとりでを造ろうとしていた。とりで――何を防ぎ、何を守るために。
しかし、時の流れは興亡の外にあるのだった。
シロウズはひとり管制本部につづく階段をのぼっていった。そこがこの作戦の指揮所にあてられていた。どこかで、けたたましく電話のベルが断続していた。指揮所には、この作戦の責任者であるソウレがいるはずであった。シロウズはたまらなくソウレと話したい衝動にかられた。あの男のなんの屈託もない笑い顔を目にすれば、その時だけは妙に救われたような気もちになる。
「やあ、調査局員。こんどはいろいろたいへんでしたね」
階段を降りてきた男が、親しげにシロウズを呼びとめた。
「ルナ・シティの保安局ではこんどの総合セミナーにあなたを講師としてお招きしたいと申しております。そのときはよろしく」
ルナ・シティの行政局の制服をまとっているその男は、シロウズには見おぼえがなかったが、男はいかにも会えて|嬉《うれ》しかったというように笑った。
シロウズはその肩を軽くたたいて男の前を離れた。惨憺たる思いだった。
ここに集った人々は、皆、大きな目的のためにすべてを傾けていた。彼らは心から調査局の掲げる資料を信じ、ソウレの言う経営機構の計画に従って道をひらこうとしていた。彼らの信ずる未来はそのまま人類の未来だったし、彼らの開く明日への道はたしかに明日につながっているはずだった。それゆえにこそ、一万隻の船団は幾つもの群になって、未知の空間へ飛び立っていったのだし、多数の|宇宙技術者《スペース・テクニック》たちは、このステーションに集って船団を見守り、導いてもいるのだった。人類は今、明日に向って結束しつつあったが、その明日こそ期待し難いものであるとは誰が知ろう。人類はこの時代にあってもなお神ではなかった。
音もなく開いたスチール・ドアを一歩くぐって、シロウズは一瞬、頭上からおおいかぶさってくる痛烈な衝撃に身を固くした。何か途方もなく大きなものが落ちかかってくる感じだった。
息をひそめたシロウズの頭上を圧してひろがるのは千億の星の海だった。底知れぬ暗黒を背景に、星々の光はそのとき冷たくシロウズの体を射つらぬいた。シロウズは血の気を喪った顔を星空に向け、それからゆっくりと視線をホールにもどした。放射能|灼《や》けで、いくぶん鉛色をおびた彼のひたいから、冷たい汗が乾いていった。星空に恐怖を感ずるなどということは、これまでの彼には全くないことだった。星の光の中で育ち、星の光を唯一の道標として百余年を送ってきたこの男の胸を、今、刺し通したものはその星の光だった。
シロウズは顔をゆがめて星空の下へ踏みこんだ。彼はあらためて、青い星の光に顔を向けた。
宇宙船ドックほどもある広大な中央管制室の|円天井《ドーム》いっぱいに全天星図が投影されていた。そのほぼ中央に、赤い小さな点で示されているのは太陽系だった。それから糸のような細い緑色の輝線がゆるいカーブを描いてななめに下方に向ってのびている。それこそ、太陽系を離れて遠く飛び立っていった船団のコースを示すものだった。
その星々の|天《てん》|蓋《がい》の下に、|城塞《じょうさい》のようにそびえているのは航路管制用の大型電子頭脳だった。それを囲んでたくさんの人々が席についていた。それは巨大な生物の死体をとりまいてその味をこころみている|蟻《あり》の群のようだった。よく見ると、電子頭脳は無数のパイロット・ランプを電光のように明滅させていたが、それは頭上にかがやく星々の映像に比してみじめなほど小さく、かすかだった。
シロウズは、あわただしくゆききする管制部員の間を縫って中央へ進んでいった。この機械と人間が構成する戦場のようなあわただしさのどこかにソウレがいるはずであった。
シロウズは肩が触れ合うようにすれ違った一人の男を呼び止めた。
「君、副首席はどこにいるかね?」
「あ、副首席ですか? 副首席ならあそこの指令席におられます」
男はふり向きざまに、こちらへ背を向けている人々の群を指した。
「どこに?」
視線を遊ばせたシロウズがふり向いた時は、その男はもう、はるかむこうに遠ざかっていた。シロウズはやむなく、言われた方向へぶらぶらと歩いていった。
このあわただしい人々の動きと、機器類の低いが確実なうなり、パイロット・ランプの|嵐《あらし》のような明滅は、|渾《こん》|然《ぜん》と一つに溶け合って全く無駄のない律動をかなでていた。それらすべてが、一つの目的のために結晶していた。その中でシロウズの動きだけがひどく場違いなものだった。それは大きな河の流れを、風のまにまに横切ろうとする小舟の定まらぬ動きに似ていた。整然と収まったクロスワード・パズルの図形の中で、ただ一つだけ収まる所のない異形の一片が今のシロウズだった。人々はちら、とシロウズを見やって、彼を知っている者は、そのまま、またおのれの仕事に意識を集中し、彼を知らぬ者は、ふと手を休めてこのまぎれこんできた男の不協和音のようなたたずまいに眉をひそめた。
高声器が叫びはじめた。
〈第三船団ノ|嚮導船《ガイド》ハコースニ入ッタ。後続ノ第三編隊|貨物船《カーゴ》ハ冥王星軌道上ヲ慣性飛行中。十五秒後ニコースニ進入スル――〉
「了解!」
「了解!」
「了解!」
何人かの管制部員がどこかへ向って叫んだ。
〈|曳船《タグ・ボート》ハ海王星軌道上ニ集結中〉
〈|中央航路管制所《コントロール・センター》ヘ、コチラ第三船団。故障船アリ。連絡ヲコウ――〉
〈中央航路管制所ヘ、コチラ第一船団。全船異状ナシ。コレヨリ慣性飛行ニ入ル――〉
電波が交錯した。すでに太陽系をはるかに離れた第一船団は、慣性飛行に移り、秒速十四万キロメートルで暗黒の|深《しん》|淵《えん》の奥へ突進しはじめたようであった。
人々の動きはさらに緊張を深めた。
「副首席はどこにいる?」
「むこうにおられます」
たずねられた男はふりかえりもせずにあごをしゃくった。その両手は目にも止らず無数のスイッチを押していった。シロウズは無言でその場を離れた。もうこうなっては、ソウレの所在は自分でさがさなければならないようであった。シロウズは薄明の管制室の内部を泳ぐように一人一人の後姿をたしかめては進んでいった。
『第二直、交代用意』
誰かが叫んでホイッスルが鳴った。
電子頭脳に向ってほぼ中央、ほとんど水平に傾いたリクライニング・シートに、巨大な体が横たわっていた。スポット・ライトの光環の中で、それは解剖台に置かれた|溺《でき》|死《し》|体《たい》のようにシロウズの目に映った。それをとりまいて、数人の人影が検死官のように重々しく動いていた。
シロウズは黙って、横たわったままの大きな体のかたわらに立った。管制所の|制服《ユニホーム》の男が、ソウレの顔の前にグラフをひろげて熱心に説明していた。
「副首席、この定点七一を会合点にして、予備資材を慣性輸送したらどうでしょうか」
男は手にした長い筒をドームの星図に向けた。星々のかがやきの中にあざやかなオレンジ色の光点があらわれた。男の手はゆっくり下がる。それにつれてドームのオレンジ色の光点は糸を|曳《ひ》いたように長く長く、ドームの曲面に沿ってのびた。
「副首席。このオレンジ色の線の上を船団は右から左へ通過してゆきます。この線上の定点Bに資材を送っておいて回収させてはいかがですか?」
「宇宙船で誘導しないで、発見できるだろうか?」
「そのおそれもありますが、資材に強力な発振機を装着して目印にすればよいかと思います」
「それではそうしてくれ」
管制官はきびきびと頭をさげるとそこを離れていった。シロウズが見ると、その男は東キャナル市の|宇宙空港《スペース・ポート》の管制所で何度か見たことのある顔だった。その男もソウレによってここへ集められた|宇宙技術者《スペース・テクニック》の一人らしかった。シロウズがソウレに声をかけようとすると、もう、一人がソウレのシートにのしかかるように語りはじめていた。
「副首席、第三船団に若干の故障船が出まして、それらは冥王星に帰航するそうです。ところが副首席、その故障船は発電用原子炉の基材を積載した船なので、至急代船に積み換えて船団を追尾させねばなりません」
ソウレは一寸、遠い目つきをして、
「ふうむ、原子力発電所の建設資材が遅れるのは困るな。で、積みかえにどのくらいの時間がかかるんだね」
男は手にした大きなファイルをしきりにめくっていたが、
「だいたい四十時間です」
「目的地へ到着するのにどのくらいおくれる」
「加速航行で八十日ていどと思いますが」
ソウレはふいに大きな目を開いた。
「八十日! それはいかん。故障船の帰航コース上でランデブーして積みかえては」
「それも研究してみましたが、船外積載ですので、ふつう型の貨物船では積みかえが困難です」
男の声も困惑に満ちていた。
「船外積載用の|貨物船《カーゴ》はないのかね?」
「東キャナル市|宇宙空港《スペース・ポート》に|繋《けい》|船《せん》中のものが数隻ありますが、これは旧式船で速力がおそいため船団に追尾できません」
「じゃ、いったいどうしたらいいんだ」
「副首席、八十日のおくれを待つか、それとも非常な困難をともなうと思いますが、海王星に繋船中の発電船を送るか、この二つだと思います」
ソウレは目をかがやかせた。
「発電船か! あれなら二億キロワットの発電量があるからその点では大丈夫だ」
ソウレは大きなてのひらで、二、三度顔をなで回してからうなずいた。
「よし! 発電船を曳航してゆくんだ。曳船は何隻ぐらい動員できるんだ?」
「四十隻は可能です」
「それでやれ! 海王星には小型の発電船を回送しておけ」
男は敬礼すると体をひるがえすように急ぎ足で去っていった。
ソウレは両手を頭の下に組んであてがった。ソウレの目はのろのろとシロウズをとらえた。
「副首席。いそがしそうですね」
「皮肉を言うな」
シロウズは白い歯を見せて笑った。
「皮肉だなんてとんでもない」
ソウレは黙って目を閉じた。厚いまぶたが顔ぜんたいに、にわかに暗い色を掃いた。ソウレは空気のしぼんだ風船のようにリクライニング・シートの上に平らになった。
「シロウズ。調査局はもう首になったか」
「調査局も、もうおしまいだ。スウェイが昨日きて、地球の爆発事件の調査も全く進んでいないと言っていた」
「こんなにいろいろな事件が頻発しては、どれから手をつけたらいいかわからないものな」
「調査局も人類だけを相手にしているうちはよかったが、こうなってはまるで手も足も出ませんよ」
「人類はこの二千年の間、平穏無事であり過ぎたよ。シロウズ」
二、三人の管制官が|大《おお》|股《また》に近づいてきた。
「副首席、発電船の回送は可能です。曳船も二十時間以内に曳航位置につけそうです」
「それはよかった」
ソウレはふたたびリクライニング・シートの上にもり上った。
「輸送指揮者を誰にしましょうか?」
ソウレはゆっくりと首を回した。
「そうだな。シロウズ、お前ゆけ」
「私が、ですか?」
「そうやって情ない顔をしていないでやってみろ。その方がよけいなことを考えないですむぞ。ん?」
シロウズは何分の一秒かの間、ソウレの顔をみつめ、それからいやに静かな声で言った。
「いってみよう」
「ああ、そうしろ」
ソウレは立っている管制官に顔を向けなおした。
「シロウズに指揮をとらせる」
「はい!」
管制官はあらたまってシロウズに目礼した。
「それでは海王星へ行って原子力発電船を受けとり、船団を追ってくれ。海王星と船団にはこちらから連絡しておこう」
ソウレはシートのわきから小さなマイクを取り出すと、それに向って早口で指令を送った。シロウズはさっきから感心もし、また妙に圧倒されるものを感じていた。今のソウレは、もう何十年も船団の誘導と星間輸送を手がけてきた人間のような少しのすきもない熟達した手腕を示していた。そしてその顔にはいささかのおそれも不安もなく、この騒然たる人々の動きの中に埋没していた。
シロウズは頭上の星々を見上げて言った。「さっき、ここへ入ってきた時、あれを見て思わず足がすくんだ。これまで、星空を見ておそれを感ずることなどなかったんだが――」
ソウレはにやりと笑った。
「お前もどうやら人間らしくなったよ」
ソウレはリクライニング・シートを起した。こぶしで首の後をたたきながら立ち上った。
「かなわん」
その大きな頭の中に、今何があるのか、シロウズにはおしはかることもできなかったが、ふとあるいはソウレは今、ひどくまいっているのではないかと思った。
『調査局員へ。海王星への連絡ボートは三十分後に出発します』
高声器が叫んでいた。ソウレが目で「ゆけ!」と言った。
シロウズは何となく広いホールを見わたし、それから黙ってそこを離れた。
何もしないでいるよりは、何かしたほうがよいに違いない。すべての人々が、ある目的のために一つになって動いている時は、そしてその中から自分だけぬけ出すということが許されないならば、せめて形だけでも人々のまねをすることだ。せめて形だけの救いがあるだろう。それが居場所というものだ。それでいいじゃないか。これまで人類はそうしてやってきたのだ――シロウズは|制服《ユニホーム》の上に、重い|宇宙服《スペース・スーツ》をはおって、影のように回廊を歩いていった。回廊を踏む足に力が入らなかった。ダイモスの弱い重力のためだけでなかった。シロウズの胸から、これまで充満していた何かが音たててぬけ去ってゆくような気がした。
|宇宙空港《スペース・ポート》には、海王星へ急行する連絡ボートがすでに発進の準備を完了していた。投光器の描く|光《こう》|斑《はん》が幾つもギラギラと重なり合って、目に痛かった。太陽電池の巨大な集光板を傘のように開いた連絡ボートは、白銀の塔のようにそびえていた。その横腹にオレンジ色で描かれた『オリザ五』という文字が印象的だった。連絡ボートとはいいながら、船体の大きさは最も大型の|貨物船《カーゴ》ぐらいあった。大きな推進力を得るためのイオン・ロケットを備えているからであった。巨大な傘の、柄にあたる部分が船室だった。操縦室、食堂、寝室、機械室、航法室、発電室などが、縦に柄をつらぬくリフトを取り巻いて重なっていた。ジェット・ノズルは半円形に傘の縁辺にならんでいた。
シロウズは星空をおおう傘の下へ進み、ハッチから内部へくぐった。さまざまな震動が複雑な合成音となって船体を小きざみに震わせていた。
「輸送指揮官、ただちに操縦室の重力席についてください。十五分後に発進します」
シロウズのやってきた姿を認めたとみえ、スピーカーが彼を呼びはじめた。
ほとんど木星と同じような自然環境を持っているにもかかわらず、海王星がこれまで人類による積極的な開発を受けなかったのは、開発に要する多額な経費の回収が、木星などに比してはるかに困難なことと、さらには、木星に極めて似かよった自然環境が、未知の惑星に寄せる人々の情熱をかなり|喪《うしな》わせていたことなどにもよる。結局、航路管制のための基地と、不時着用をかねた前進基地が幾つか、アンモニアの氷霧渦まく中に開設されたにとどまった。
その氷霧圏の表層に、原子力発電船〈省EE――一〇〉が浮遊していた。
連絡ボートはしだいに速度を落して衛星軌道に入っていった。数周目に連絡ボートはようやく発電船のななめ後方、|雁《がん》|行《こう》位置にセットすることができた。スクリーンの中央に、傘を伏せたような巨大な物体の像がひろがっていた。
「あれか! 発電船というのは」
シロウズははじめて見る異様な船影に、子供のように心を奪われた。これまで、さまざまな任務をおびて幾度かこのあたりをおとずれたことはあったが、発電船なるものにとくに関心を持って目を向けたことはなかった。
「ずいぶん大きなものだな」
シロウズは、しだいに鮮明になってくるスクリーンに顔を寄せた。
「それになんとも奇妙な形をしているな」
実際それは全く奇妙な形をしていた。船体といっても、主要な部分は直径、五、六千メートルはあろうと思われる巨大な皿形のアンテナだった。それは暗黒の空に浮かぶ白銀の車輪のように、見る者の目をおどろかせた。そのどこかに、技術者たちの居住室や操作室、それに発電用原子炉などの収まったコーンが付属しているはずであったが、それはよく見定めがたかった。
「二億キロワットの無線送電とはよくやったものだ」
「これならわざわざ惑星表面に発電所を設ける必要がない」
「しかし、送電中にそのビームの中へ入ったらどうなるのかな。感電して黒焦げになっちまうんだろうか」
操縦室内の会話がシロウズのイアホーンにびんびんとひびいてきた。
――無線送電か! よくもここまで人類は考え出したものだ。
シロウズは一種の感慨めいた心で、その奇妙な形状の物体をあかずながめやった。
電力を電線をつかわずに、空間を指向性を持たせて送る方法については、一九〇〇年代の終り頃からしきりに論議されていたが、これが実用化の域に達するまでには二千年の時が必要だった。それはまことに、漠然と考えられていた頃には、思いもよらなかった困難な障害がつぎつぎとあらわれてきたからでもあった。
電力の空間輸送は、あきらかに次の時代を極めて特色あるものにしようとしていたのだった。空間は電気の不良導体である。その空間に電気を通すためには、空間それ自体の性質を変えなければならなかった。次にその変成空間を閉鎖的なものにしつらえる。あたかも、土中にトンネルをうがつように、電導体となった空間を延長しておいてそこを電気を流してやればよいのだった。これにはその空間を変成させるための強大な磁力線が必要だった。そして変成された空間の両端に、送電アンテナと受電アンテナを正対させ、放電させるのだった。当初はおびただしい電力のロスがあったが、それもしだいに改善されて微量なものになっていった。
発電船の周囲にはおびただしい数の工作船が遠く近く浮遊していた。その巨大なパラボラ・アンテナの化物を曳航、移動させることの難かしさが、このときになってようやくスクリーンを見つめる皆の胸を領しはじめたようだった。四十隻の|曳船《タグ・ボート》は、大きな獲物を見出したアリのように発電船のまわりにとりすがっていた。投光機の放つ目のくらむかがやきが、時おりアンテナを強烈な光と影とでくっきりと浮きたたせた。そのとき、|茫《ぼう》|々《ぼう》とひろがる千億の星々は、はるか背後の暗黒の深淵にいっせいに飛びすさるように見えた。
「――輸送指揮官!」
「――輸送指揮官!」
シロウズは、はっとわれにかえった。何度かの呼びかけが、おのれに向けられていたものと気づいて内心、うろたえた。
「輸送指揮官、占位しました」
|船長《キャプテン》が苦笑いを浮かべてもう一度、呼びかけた。
|操縦士《パイロット》と|宙航士《コーサー》がシロウズをふり向いた。二人の目に、このあまり熱意のなさそうな指揮者に対する批難の色が動いていた。
「輸送指揮官などと呼ばれるのははじめてだからな。どうも自分が呼ばれているような気がしないよ」
シロウズは皮肉をこめてつぶやいた。
「よし、作業を開始してくれ」
こんな言いかたがあるんだろうか。シロウズは頭の中で、ひとり苦笑いをもらした。|操縦士《パイロット》と|宙航士《コーサー》は顔を見合わせたが、やがて|宙航士《コーサー》が送話器をとりあげた。
船内にけたたましくブザーが鳴りひびいた。|宇宙服《スペース・スーツ》をつけた作業員たちがどかどかとエアロックに出ていった。
「|曳船《タグ・ボート》は作業をいそげ発進は二三・〇〇、|曳船母船《タグ・ボート》は作業終了まで現在位置で待機せよ」
「船団KD八が|銀杏座《GINKYO》βの方向より接近中。慣性漂流中の小型宇宙船は注意せよ」
|船長《キャプテン》のハッシンが送話器を片手に、指令をおくりはじめた。
発電船に近づくにしたがって、その皿形のアンテナのふちに無数のトラスが組み立てられ、それに|曳船《タグ・ボート》がとりつけられていた。|熔《よう》|接《せつ》の火花が|炸《さく》|裂《れつ》し、多数の作業員が鳥の群れのように、飛びたったり、また集ったりしていた。
「作業状況しらせ」
船長の声はいら立っていた。
「現在、工程の六割を終っている。ドッキング完了は二二・〇〇。|点火《ファイヤー》は二三・〇〇」
すぐ応答がもどってきた。船長は操縦席の時計に目を走らせ、|宙航士《コーサー》としばらくうち合わせをつづけていたが、やがてシロウズにこれからの予定についてこまごました説明をはじめた。シロウズはそれでも、深く何度もうなずきながら船長の言葉に耳をかたむけていた。しかしその実は、そんな説明など何も心にとめていないのだった。
――さあ、さっさとやって飛び出すんだ! シロウズは胸の中で舌うちした。
作業は瞬時のいとまもなく進められていった。発電船にとりつけられた長大な支持架の先端に|曳船《タグ・ボート》が一隻ずつとりつけられていった。真空熔接の火花は滝のように飛散した、原子力ハンマーが目ざましい速さでびょうを打ちこんでいた。ともすれば、慣性のおそろしい勢いで船体を飛び離れそうになる体を磁力靴でささえ、一本のライフ・ロープに命をたくして作業員は|曳船《タグ・ボート》と発電船を結びつけていった。
シロウズは時々、船外へ出てはその作業を見て回った。彼が監督しなければならぬ何事もなかったが、体を動かしている間はどうやら本来のおのれの顔つきをとりもどしていられた。それにたくさんの人々が一つの目的のためにその力を結集しているのをながめているのはこころよかった。おびただしい機材が発電船の周囲に浮遊していた。それをつなぐワイヤーやパイプは、縦横に引き回され、星空に張られたクモの巣のように見えた。
突然、星空の中からおびただしい宇宙船の群れが現出した。それは|湧《わ》いて出たかのような唐突なあらわれかただった。船団はななめに星空を墜ちてみるみる大きくなってきた。ナトリウムのあざやかな赤い|焔《ほのお》がつぎつぎに星空に尾を曳いた。|信号焔《シグナル》ミサイルだった。船団KD八は白銀の魚のような姿態を、発電船の上空にたむろさせた。
「あれもわれわれといっしょに行くのか?」
シロウズは展望窓から船団を見上げて、かたわらの|船長《キャプテン》にたずねた。
「そうです。あれは金星のエレクトラ・バーグから派遣されてきた船団で、観測器材を積載しているそうです」
「ふうん。エレクトラ・バーグからか。副首席は太陽系には針金一本残さないつもりなんじゃないかな」
「なにしろ、おびただしい資材です、これまでに送られたものだけでも太陽系内でなら、百年かかってもつかいきれないほどの資材ですね」
|船長《キャプテン》はうなるように言った。|通信士《オペレーター》がテープを持って席を立ってきた。
「船団KD八から連絡のボートが来るそうです、何かこちらから事前に連絡することがありましたら、今、打ちますが」
「いや、別にない」
二人はまた展望窓の外にひろがる茫々たる星の海と、その下でくりひろげられているアリの営みのような作業員の動きに目をそそいでいた。
「調査局員」
|船長《キャプテン》のハッシンがふと顔をシロウズに向けた。
「こんなことをおたずねしていいか悪いかわかりませんが――」
人の好さそうな笑いを浮かべて目をしばたたいた。
「この|極光《オーロラ》作戦というのは、これまでの辺境開発とはかなり異ったもののようですが。動員された人員や資材だけでも|厖《ぼう》|大《だい》なものですね」
「うむ」
シロウズはうなずいて展望窓の端に見える船団にひとみをこらした。
「皆ひどく不安がっているのですよ。何か非常によくないことが起っているのではないかというのです、たしかに私たちが見てもひどく緊迫したものが感じられるし、人員や物資の動員にしてもこれまでみられなかったある異状さが感じられます。調査局員、もしさしつかえなかったら説明して下さい」
シロウズは言葉につまった。
「説明するといったところで、作戦のあらましについては|船長《キャプテン》だって知っているだろう」
「太陽系の外、〈青の魚座〉の方向、八光日の地点に前進基地を設けるという計画でしょう」
「そうだ」
「調査局員、これまで太陽系の外に進出するという計画は何度かたてられたけれども、結局実現しないで計画のみに終ってしまいましたね。それというのも、|未《ま》だその時期ではないという調査局の判断があったからでした。そうですね、調査局員」
「まあ、そうだ」
シロウズは視野の外にあって見えない船団の後尾を、ことさらに身をかがめてうかがうふりをした。ハッシンの言葉が多少うるさく感じられた。
「この|極光《オーロラ》作戦が例の冥王星で発見された宇宙船とツングースカで掘り出された宇宙船とに関係があるらしいことはわれわれもうすうすは知っていますが、なぜそれが急に前進基地の開設ということになったのか、そこがどうもよくわからない、そういう知的生物がまた近いうちにやってくるという心配でもあるのですか?」
シロウズはようやく視線を|船長《キャプテン》の上にもどした。|船長《キャプテン》の顔には率直な不安の色がただよっていた。事実彼の問が、この作戦に参加している者のすべて、いや、太陽系の人類のすべての不安でもあるのだろう。たしかにこれまでこれほど大がかりな開発計画はなかったし、また緊急を告げる動員もなかった、惑星間経営機構は、二種類の異なる知的生命の、太陽系への来訪の痕跡について、かなり詳しい発表はしているが、それと今度の|極光《オーロラ》作戦との関連については何も語っていない。
「|船長《キャプテン》、皆が不安に思うのも無理はない。しかし、科学者グループが発表しているように、太陽系内で発見された知的生物の遺体といってもそれは千二百万年もむかしのものだ。ふたたび彼らが太陽系にやってくるものかどうかわからんよ。しかし存在の痕跡がある以上、人類としても用意だけはしておく必要があるだろう」
|船長《キャプテン》は考え深そうなまなざしでシロウズを見つめた。
「するとこんど建設する基地はその|前哨《ぜんしょう》基地というわけですか?」
「そうだ」
何かまだ納得できないようなものが船長の|眉《まゆ》の間にただよっていた。
「|船長《キャプテン》、あの知的生命の遺体については、おれ自身、詳細に調査したが、たしかに人類とは比較にならない高度な文明を持っているようだった。千二百万年といえばずいぶん長いようだが、この宇宙を舞台に考えると、決して長い時間ではないぞ。ふたたび、明日にでもやってくるかもしれないのだ。それもあれらの生物以上にすぐれたものが」
シロウズは強いまなざしで船長を見かえった。その烈しいまなざしとは反対に、なぜかひどく暗いひびきを|船長《キャプテン》はシロウズの言葉の裏に感じた。|船長《キャプテン》は息を引き、もう一度かさねてたずねた。
「そうした極めてすぐれた生物がやってくるかもしれないという具体的な証拠でも?」
|船長《キャプテン》は一瞬、聞き過ぎたかな、という懸念に思わず語尾を|呑《の》んだが、シロウズは表情も変えずに|船長《キャプテン》の顔を見つめていた。長い沈黙の末に、シロウズはつと、目をそらした。
「証拠はないが、そのおそれは十分にある」
|船長《キャプテン》も黙って展望窓の外の星空にふたたび目をはせた。よくかんがえて見れば、シロウズの言葉は極めて常識的なものだった。人類をはるかにしのぐすぐれた生物がやってくるかもしれないおそれは何も今にはじまったことではない。そしてそれがために人類の持つ科学技術の総力をあげて警戒線を設けるなどということは計画すらもたてられたことはない。なぜそれが今、急に火がついたようなあわただしさではじまったのだ? 惑星間経営機構の高級指導者たちをそれほど恐怖させたものはいったい何だったのだ?
船長はおのれの質問が問題の核心を|衝《つ》いていることをさとった。人類にとって何事かおそるべき事態が、今、しだいに近づきつつあるのかもしれなかった。船長は言葉を喪って化石のように星の海と対い合っていた。
「|船長《キャプテン》、何もおそれることはない。人類と太陽系外の生物とが|出《で》|逢《あ》うことは時間の問題なのだ。だからあらかじめ彼らの接近を知るような設備を設けておくことも必要だろう」
シロウズはなんとなくこの|船長《キャプテン》がかわいそうになった。シロウズは自分でも気がつかずに|饒舌《じょうぜつ》になっていた。
「あらかじめ彼らの侵入を知り得るように、超遠距離を捜索できるレーダーを設けることになった。このレーダーは非常に大きなものだ」
「レーダーを!」
「そうだ。これで常時、早期警戒をつづけるのだ。太陽系に接近してくる物体はすべてとらえることができる」
「なるほど、強力な前哨基地ができますね」
「その建設に要する資材だけでも莫大なものだ。金属材料やハイ・シリコン類や、絶縁材料に使う非金属材料。それに厖大な電力を生み出すための原子力発電所。通信施設やレーダーの操作機構など、一つ一つあげてゆけばきりがない。現在太陽系内にあるすべてのそれら施設を集めたよりもさらに大規模な能力と機構が要求されている。しかもその建設に多くの時間をかけることは許されていないのだ」
|船長《キャプテン》は無言でうなずいた。
「|船長《キャプテン》、この作戦は事実、太陽系の持てる力のほとんど半分を奪うことになる。これによって生起する有形無形の消耗は実は計り知れぬほど大きいだろう。しかし人類の未来を考えるとき、決して大きい出費ではないと思う」
「やむを得ないことでしょう。調査局員。人類の未来は必ずしも潤沢とはかぎらないのですからね」
「ああ。やむを得ないことだ」
シロウズは|船長《キャプテン》とは全く別な所でその言葉を口にした。やむを得ないことだ、と言いきってしまうにはあまりにも人類の未来は可能性に満ちていた。存亡を疑われつつも幾度かの戦いの悲劇を克服し、その果てにようやく人類は太陽系に真の宇宙文明ともよぶべき壮大な足跡をひろげはじめたところだった。
やむを得ないことだ――何が?
人類の明日をより充実したものにするためには今日の犠牲がいかに大きなものであろうともやむを得ないというのか――はたまた、茫々果てしない時の流れの中にあっては、明日亡び去るもやむを得ないというのか――
シロウズは|脳《のう》|裡《り》を灼くような苦い想いをかみしめた。
「|船長《キャプテン》、船団から連絡員がまいりました」
乗組員が後から呼びかけた。ふり向くと青灰色の|宇宙服《スペース・スーツ》に身を包んだ男が立っていた。
「船団KD八、|主任宙航士《チーフ・コーサー》、|貨物船《カーゴ》ダイアナ乗組、シャバス・トウです。作戦首脳部より指令をあずかってまいりました。調査局員はおられますか」
連絡員は腰のバッグから金属のファイルをとり出した。
「調査局員はおれだ」
シロウズはけげんな顔で連絡員がさし出したファイルを受けとった。
「|船長《キャプテン》、これからのコースについて二、三うかがいたいことがあります」
「それではコース算定機の所まで来てくれたまえ」
|船長《キャプテン》は男をともなって航法席へもどっていった。
シロウズはポケットからファイルのキーをとり出すと封印シールをはずした。数十枚の薄い金属片が収まっていた。シロウズはそれを|解読機《リーダー》に挿入してイアホーンを耳に当てた。パイロット・ランプがともってノイズが流れこんできた。
〈――ファイルAA一。惑星間経営機構は銀経二三一・〇三、銀緯三三〇・〇〇度、座標四九・一三、定点E八八、『青の魚座』マイナス一九より二三の切線に探知機を設けることに決した。この探知機は半径二光年におよぶ探知能力を有する〉
おそらく記録装置の音声再生だろう。男とも女ともつかぬ金属的な乾いた声が静かに流れはじめた。
〈――ファイルAA二。惑星間経営機構はこれに必要ないっさいの処置を、計画実施本部にゆだねた。計画実施本部はこの計画を『|極光《オーロラ》作戦』と呼び、経営機構副首席チャウダ・ソウレが全般の指揮を掌握する。作戦本部は東キャナル市、エレクトラ・バーグ、サベナ・シティの各宇宙政策担当省に人員、資材の広範な供出を指令した〉
〈――ファイルAA三。探知機は電磁エネルギーを感知するものであり大質量による空間のひずみを記録し得る〉
〈ファイルAA七。その構造はモック・アップBにて示される。長径一万一千キロメートル、短径八千七百キロメートル。二個の|楕《だ》|円《えん》中心より集束チューブ基底部まで四千三百キロメートルの半球形をなす〉
〈――ファイルAA一八。四個の原子力発電装置を持ち、総出力三十五億キロワット時とする〉
〈――ファイルAA二五。データーは中央電子頭脳によって操作される八個の集計用電子頭脳によって整理され、ただちに作戦本部へ打電される〉
〈――ファイルAA三四。この建設に要する高級金属材料、八千五百六十万トン。同じく非金属材料、六千百四十万トン。建設器材四百二十七万トンを至急、建設位置まで輸送すべく船舶を確保し、船団の編成を完了する〉
シロウズは|解読機《リーダー》のスイッチを切った。にわかに耳の底に静寂がひろがった。果てしなくつづくこれはシロウズが夢にも忘れない惑星間経営機構の上層部の秘密会議の決定事項と参考資料の収録だった。太陽系から八光日の地点に、ついに早期警戒線を設けることに決意した経緯とその後の計画が厖大なファイルに閉じこめられていた。
「ありがとう、副首席、近いうちにこれを調査局資料部へ届けるとしよう」
シロウズは胸の中でつぶやいた。
収録されていることがらは、すべてシロウズの熟知していることであった。ソウレはシロウズが調査局の資料部に提出する資料として公式な記録を送ってきたのだった。記録が事実と異なるところがあろうとも、長い時の流れから見ればそれは何ほどの違いでもない。必要なのは事実であって記録ではない。ソウレから送られてきた資料が、調査局の資料保管倉庫に収められ、もし後代の人々がそれを読む機会に恵まれたとすれば、そこに恐怖の痕跡を見出すことは不可能だ。それでいいのだ。この記録をいつか遠い日に、歴史的資料として扱えるということは、この資料に述べられていることがらだけが事実であったということだ。何も起らないにこしたことはない。今、目前に迫っている不安が、実は単なる計算の間違い、解読のあやまりによるものなら、悪夢はただの悪夢で終ってしまう。
シロウズはこの時ほど、ソウレや自分の考えが間違いであってほしいと思ったことはなかった。ソウレから送られてきた資料には、ソウレのそうした念いのようなものが目に見えて沈潜していた。
シロウズは他の金属片の束をとりあげた。その表面には、どれも、〈秘〉の一字が刻まれていた。シロウズはそれを|解読機《リーダー》のサンプル投入孔へさしこんだ。
〈――ファイルCC一。探知機は広範な種類にわたるエネルギー放射を感知し得るものである。空間のひずみによる電磁波の偏位、熱線放射、電子流|攪《かく》|乱《らん》等に対しては特に鋭敏な探知能力を有する〉
〈――ファイルCC二。その設置位置は座標四九・一三。『青の魚座』すなわちセルの三角形の方向[#「セルの三角形の方向」に傍点]を指向する〉
〈――ファイルCC三。これによって、その方向から接近のおそれあるいかなる物体をも未然に探知し得るものである〉
これこそ|極光《オーロラ》作戦の真の目的であった。太陽系を離れること遠く八光日。巨額な費用とおびただしい人員を投入してそこに設けようとするものこそ、実はあのツングースカ・レポートに記されていた、ある偉大な何ものかの存在をただそうとする一つの目であった。
〈無ハセルニアル〉
その一言をあきらかにするためには、人類はその持てる力のことごとくを投入しなければならなかったと言ってよい。そしてそれをたしかめることこそ一つの宿命であった。その疑惑は決して人々に知らしめてはならないものだった。極く少数の者だけが、深く胸の内に蔵していればそれですむものだった。
千二百万年という歳月はおそろしく長いようでもあり、また極めて短い時間でもあった。探知機が果して何をとらえるかは、想像もできない大きな|謎《なぞ》であった。
それを見ることはおそろしいことだったが、見なくてはならないことだった。人間はおのれの死すら見ようとする――その限りでは人間は神と同列にあった。
エネルギー探知装置――それはいわゆるレーダーとは全く異なっていた。接近してくるかもしれない何ものかを、気永に待ち受けるためのものではなかった。目に見えないはるかな距離で敵を発見するための|警戒線《ピケット・ライン》ではなかった。これは遠いかなたの異形の存在――すべてを『無』に置き換え得るという酷烈な存在を、たしかにそれがそこにあるかどうかを探りあてようとする一本の長い触角だった。
〈――ファイルCD五。科学者グループは、惑星間経営機構より提示されたレーダー・サイト建設計画について第九回目の小委員会を開催した。席上、副首席より緊急に検討すべきむねの指示があった。小委員会は数次の会合を重ね、超遠距離型のレーダー建設の必要とその可能性について答申した〉
「これだ!」
思いかえすまでもなく、シロウズの脳裡に、そのおりの情景がくっきりとよみがえってきた。それは広壮な惑星間経営機構の大会議室だった。正面の大テーブルに座を占めた副首席は、くびれたあごを深く|制服《ユニホーム》のえりに埋めて、石のように微動もしなかった。両側のテーブルに居ならんだ三十数名の科学者グループは、これも鉛のように重い沈黙を守って凝然と時のたつのも忘れていた。
彼らの前に示されている問題はただ一つ、すなわち、指示された地点に、与えられた資料にもとづいて巨大なレーダーを建設することであった。
一同の前に配られた分厚な資料は、つぎつぎと|解読機《リーダー》にかけられ、投影器によってくりひろげられていったが、彼らがそこに見出したものはとうてい普通の超遠距離型のレーダーなどとは異なるものであった。このような構造のレーダーなど誰もただ一度も見たことがなかった。論理的にこれは全くレーダーではない別物だった。皆はたがいに顔を見合わせた。得体の知れぬ疑念が頭をもたげた。
「副首席。私の見たところ、これはどうもレーダーではないと思われるが」
東キャナル市からやってきた老博士が、白髪をなでつけながら副首席に向って体をのり出した。それを受けて、青銅色の皮膚を持ったサベナ・シティの、原子力研究所の所長が首をのばした。
「副首席。この資料によればこの装置はレーダーとは全く異なる用途を持ったもののようですな」
彼らはひとしく、この奇妙な空間構造物に烈しい興味を抱いたようだった。
「ひとつご説明ねがえませんかな。副首席」
ソウレははじめてわずかに体を動かした。大きな頭をゆっくりと回して、自分を見つめている一人一人の顔をたしかめるように視線を動かしていった。厚い唇をなめるとすぐ|銹《さ》びた声が皆の耳にひびいた。
「諸君。指示されたことがらについての質問は遠慮していただきたい。いろいろおたずねになりたいこともおありでしょうが、それはその資料の上で各自ご検討ください。よろしいかな。これは遠距離用の新しいタイプのレーダーとごしょうちください。これは惑星間経営機構首脳部の命令でもあります」
会議場は水を打ったように静まりかえった。冷たい興奮がこの大会議場を満たした。
「それでは諸君。具体的な建設計画を練ってください。わしはもう一つ緊急を要する会合があるのでこれで失礼する。何か私に連絡することがあったら、この調査局員が果してくれるだろう」
ソウレはひどく冷たいまなざしを一同に注ぐと、もうこの会議のことなど頭から去ってしまったように大股で室外に出ていった。
ソウレの立ち去ったあと、会議室はたちまち混乱に近い状態となった。
東キャナル市から来た赤ら顔の中年の教授は、こぶしをふるわせて、自分はこのグループからぬけると言い張った。わけもわからないようなものは自分としては絶対に造れないと、言うのだった。サベナ・シティの宇宙医学研究所の客員教授として高名なチオイギンは、この資料を分析し、経営機構の計画の|全《ぜん》|貌《ぼう》をとらえてからでなければ積極的な協力はできえないとして言葉はげしく結んだ。そのような興奮した言葉のやりとりの末、皆の胸にあるものは、どうやら誰が計画し、算定したものかもわからないようなものを検討させられるのはいやだという自尊心であることに皆が気がつきはじめて、ようやく議論は下火になった。質問をすることを許さない、と言ったソウレの言葉が、しだいにおそろしい重さとなって彼らの耳によみがえってきた。そして、その|喧《けん》|騒《そう》から一人離れて黙々と|坐《すわ》っているシロウズの存在が気になりはじめた。
「さあ、それでははじめようか」
辺境のトイ・トバン博士の、もの静かな声音が会議場に流れたとき、皆の心は全く平静にかえった。一つの目的に対する結束が生れたのだった。
「調査局員。一つだけ教えて欲しい」
一人が伏目がちにシロウズにたずねた。
「この宇宙空間機構物はいったいどなたの考えられたものでしょうか? われわれは科学者グループとしてその偉大な頭脳の持ち主のお名前なりと知りたい」
皆が深くうなずいた。シロウズは一寸、考えてから口を開いた。
「エレクトラ・バーグ市長から提出されたものだそうです」
一瞬、ある種の感動と奇異な表情が湧いた。とくにエレクトラ・バーグからやってきた連中はたがいに顔を見合わせて首をかしげた。
「エレクトラ・バーグの誰だろう? 市長本人だろうか?」
科学者たちは席を変え幾つかのグループに分れて、おのれのたずさわるべき分野について熱心な論議をはじめた。
このときから巨大な探知機の建設がはじまったのだった。彼らはしだいに、この計画が最初から自分たちの手によって作られたものだという気持がしはじめた。
それから九十時間後、『|極光《オーロラ》作戦』は開幕のベルが鳴りひびいたのだった。
おびただしい資材を動員すべく、指令はこれより八方へ飛んだ。
東キャナル市も、エレクトラ・バーグも、サベナ・シティも、その所属する外航用の大型宇宙船のほとんどを、この作戦のために提供しなければならなくなった。
スーパー・スチール、ハイ・シリコン、ハイ・マンガン・スチール、ポリカボネート・ハニカム・スチール、その他あらゆる宇宙空間用建設資材のリストが編まれた。動員された一万隻の宇宙船はそれらの物資を積載すべく、太陽系内を幾つもの群をなして回航した。おびただしい宇宙技術者が現在居る場所で新しい任務につくためのチェックを受けた。辺境星区が供出した巨大な合成食品プラントはわずか十時間で解体され船積みされた。
宇宙船ドックは開かれ、船台上にある不急工事の船舶は吐き棄てられ、代って動員された輸送船が補修や改装を受けるために次から次へと呑みこまれていった。
探知機の建設位置までの八光日の航路を守るための|航路管制所《シグナル》となる四百隻の|標位船《ポイント》が辺境より発っていった。
すべての|宇宙空港《スペース・ポート》の上空には宇宙船団が雲のように浮遊し、貨物積載の順番を待っていた。
人々はもう何を考えるひまもなかった。何か異状なできごとが、どこかで起っているのだ、という不安と焦燥が人々をかりたてた。
「調査局員、調査局員!」
シロウズの背後でしきりに彼を呼ぶ者があった。ふりかえると|通信士《オペレーター》が受信テープをさし出していた。
「副首席から連絡です」
シロウズは受けとってそれに目を通した。
〈指令八E二〇一一。調査局員シロウズを、レーダー・サイト建設の現地主務者に命ずる。この件に関しては指令八E二〇二二を以って関係全部局に公布した〉
またか! シロウズは内心いやな顔をした。ただ原子力発電船を|曳《えい》|航《こう》、輸送するだけでよいはずの仕事が、いつの間にか建設主務者にすり変ってしまっていた。
「全く副首席にはかなわん」
巧妙に人を難かしい仕事に就けてしまういつもながらのソウレの人もなげなやりかただった。しかしシロウズは結局、その任務につくことが、自分にとってもっともよいことであることをさとった。この問題を片づけてしまわない限り、調査局員としても、他の任務にはとうていつけそうにもなかった。課題は極めて大きかった。
シロウズはテープをディスポーザーにほうりこんだ。
|曳船《タグ・ボート》のとりつけ工作は予想以上に難しかった。発電船の大きな楕円形に均等な引張力がはたらくように|曳船《タグ・ボート》を配置することは、優秀な作業員たちの手によっても、なかなか進まなかった。すべての発進準備が終った時には太陽標準時で百四十時間を経過していた。すべての準備がととのった時、シロウズは船団KD八七の|主任宙航士《チーフ・コーサー》をその宇宙船におとずれた。|主任宙航士《チーフ・コーサー》はシロウズよりもはるかに若いと思われる青年だった。おとずれてきたシロウズをむかえて、彼はひたいに汗を浮かべていた。この高名な|宇宙人《スペース・マン》を間近で見るのははじめてだった。彼は自分の挙動のすべてが、シロウズに見られているような気がした。
打ち合わせを終ったシロウズは、船団の幹部に送られて司令室を出た。船倉をあふれた貨物は船内の廊下の両側に積み上げられて固縛され、天井からもつり下げられていた。
「これは全部、|恒星電池《スター・バッテリー》の断熱材ですよ」
若い|主任宙航士《チーフ・コーサー》はシロウズの後から説明した。船団司令部になっているこの船には、各船から多数の人々が連絡や打ち合わせに集ってきていた。それらの人々がゆき交う船内廊下は、さまざまな分野の専門語が飛び交い、語り合いながらすれちがう人々の目は、いずれも鋭く光っていた。シロウズは久しぶりに情熱的ともいえる開拓者たちのかもし出す荒々しいけれども甘美な空気に洗われるような心地がした。ここでは一人、一人の意志がそのまま人類の意志に直結していた。
エアロックのならんだ一画からあらわれた一団があった。|宇宙服《スペース・スーツ》にヘルメットを背にはね上げている。肩が触れあうようにすれ違いながら、その一団の中の一人とふと、顔が合った。
「あ! 市長」
ヒロ18の透きとおったような笑顔が照明に映えた。
「またお|逢《あ》いしましたね」
立ち止った二人は、せまい船内廊下の片側へ押しつけられたように寄りそって向い合った。宇宙服に身を固めた人々が、幅広い肩をすくめるようにして通り過ぎていった。
「市長も船団といっしょに行かれるのですか?」
「あなたも、でしょう?」
「火星のダイモス基地でぶらぶらしていたら副首席につかまってしまった」
ヒロ18は小さく笑った。
「おたがいに変なめぐり合わせでしたね。あなたと最初に出逢ったのは――」
「辺境星区へむかう宇宙船の中でした。あなたが無理に針路を金星へ向け変えさせた――」
思えばあれがシロウズをこの奇妙な事件の渦中におとしこんだはじまりだった。そして偶然、乗り合わせていたソウレやヒロ18が、これもまたこの事件に重大な役割を果すべき人々だったのだ。そしてそれがすべてのはじまりだったのだ。亡びさえも。
「副首席もいっしょでしたね」
ヒロ18は何かを思い起すように静かなまなざしで言った。
シロウズはヒロ18がこうして、船団とともに探知機建設地点へおもむく以上、彼女もまたソウレから何ごとか重要な任務を与えられているに違いないと思った。
「あなたは何を?」
思わず、調査局員らしからぬ不用意なたずねかたをし、それに気づいて内心でうろたえた。しかしヒロ18はそれにこだわるようなそぶりもみせなかった。
「くわしい説明は聞いていないのですけれども、何か電子頭脳の記憶回路のキーに関係のあることらしい」
キーを作る、というのは記憶巣の中から、必要な記憶を抽出するさいの|鍵《キー》になる部分、つまり見出しの部分を作成することだ。
「それはたいへんな仕事だ」
シロウズはつぶやいた。実際、巨大な電子頭脳になればなるほど、記憶巣の中の保存される記憶の量は天文学的数字に近くなる。その幾百千かの記憶群に共通する指標をとらえるというのは困難な仕事だった。しかもこのキーのよし悪しによって記憶走査機の能力が決まるのだった。
「市長、こんどのこの探知機による捜索の結果についてはどう思いますか?」
シロウズは話題を変えた。ヒロ18は黙ってかすかに首をふった。
「さあ何かつかめるかもしれないし」
「何もつかめないかもしれない。しかし市長、何もつかめなければそれでもいい。少しはほっとする。千二百万年たってもあらわれてこないということは、遠い過去には事実何ものかがおとずれたのだとしても、それはすでにもときた方へ、|還《かえ》ってしまったのだ、とも考えられる」
ヒロ18の大きなひとみに、投光器が小さく映っていた。透きとおるような耳の薄さが、ヒロ18を|稚《おさな》い少女のように見せた。エレクトラ・バーグ市長は消えて、そこに在るのはただの孤独で頼りなげな一人の少女だった。
シロウズはふと思いついたままたずねた。
「辺境星区のシティに、グローバーズ・ホリゾントという所があるそうだ。副首席がたまたまそこをおとずれたそうだが、あなたはそこをごぞんじですか?」
「グローバーズ・ホリゾント?」
「そう」
「グローバーズ・ホリゾント」
「ごぞんじですか?」
「いいえ。でも、私なんとなくそこへ行ったことがあるような気がする」
「なんでも気の狂った地球人がいて、そのグローバーズ・ホリゾントが建設された理由などを話してくれたそうだ」
ヒロ18は遠い記憶をさぐるかのような茫とした表情を浮かべた。
「なんだかどこかで聞いたような気がするけれども」
「行ったことはありませんか?」
「辺境星区には何度か行ったことがあるけれども、市街を歩いたことはないし」
ヒロ18は何度か辺境の名を口にし、グローバーズ・ホリゾントと聞くにつれて、その笑顔はしだいに暗い|翳《かげ》をおびてきた。微妙な変化がその心におきてきたようだった。シロウズは黙ってその陽のかげったような顔を見つめた。なぜだ? 何がそんなに彼女の心におおい得ない翳をやどしているのだ?
ヒロ18の長いまつ毛は|濡《ぬ》れてでもいるかのように光った。
シロウズは、真二つに分裂してゆくおのれの胸を痛いほど感じていた。
もう少しで何かが何かに結びつきそうになっては|虚《むな》しくそれていった。そこにこれまで気づかなかった大きな意味がかくされているような気がしたが、それが何であるのかはシロウズにはまだわからなかった。調査局員としての本能的な衝動が、その疑惑にうずいたが、もう一つの思念がそれをさえぎっていた。
シロウズはつぶやいた。
「この作戦が終ったら辺境で休暇をとりませんか。それに今、私はこう考えているんだ――」
そう言ってしまってから、シロウズは言葉につまった。何を考えていたのだろう? 実は何も考えていはしなかったではないか? それにいったいヒロ18と自分との間にいかなる関係が持ち得るというのだ?
シロウズはこのとき心の底から、このヒロ18と、東キャナル市かエレクトラ・バーグの居住区の片すみのどこかでひっそりと暮したいものだ、と思った。太陽系に迫ってくる破滅の影も、その接近を知るためのトリデの建設も、にわかに色|褪《さ》めてシロウズの心から退いていった。恐れにも絶望にも勇気にも、また努力にも、今はただそれらをふり切ってひっそりと安らぎの中に埋没してゆきたかった。それにはおのれだけではなく、このヒロ18をもともなってゆかなければならないと思った。重錘のようにおのれの心を、あの|溜《ため》|水《みず》のような居住区の奥底にひきとめるものは、目の前に立っているヒロ18の憂いに満ちた顔しかないような気がした。それが愛情と呼ばれるものかどうかシロウズにはよくわからなかったが、そのときシロウズは自分の心がひどく傷ついていることを知った。
シロウズは胸の深奥を圧迫するやりきれない焦燥感と戦いながらみじめに|喘《あえ》いだ。
シロウズはおのれの胸にあるものを何という言葉で表現すればよいのかを思い惑った。一言で言えるような気もしたが、千万言をついやしても語り得ないような気がした。無量の想いだけが彼の胸を閉した。
回廊のどこかでブザーが鳴った。アナウンスが叫びはじめた。
「発進七十二時間前。これより秒読みに入ります。発進七十二時間前。これより秒読みに入ります」
船内はにわかに騒然となった。不必要なハッチを閉鎖する音があちこちでしはじめた。
ヒロ18は影のようにシロウズの前を離れていった。その姿は廊下を曲りたちまち見えなくなった。シロウズは見難い夢を見たようにいつまでもそこに立ちつくした。
おのれの内部からみるみる|剥《はく》|離《り》して飛び散ってゆくものがあった。あとに残ったものは酷烈な孤独だった。それは広漠たる大宇宙を旅する時に感ずる孤独とは異なっていた。たそがれに輝く都市の灯をのぞみ、そこに人の世の生活があると知ってなお同化することのかなわぬもどかしさにあえぐときのあの痛烈な疎外感だった。
「全船、動力系統の最終的点検をおこなってください」
いよいよ発進の時がきた。すべてのハッチは完全に閉され、原子力エンジンの|制《せい》|禦《ぎょ》|棒《ぼう》はいっせいに引き上げられた。
「……マイナス五……マイナス四……マイナス三……」
〈航路ノ安全ヲ祈ル〉
「……マイナス二……マイナス一……|点火《ファイヤー》!」
ナトリウム信号弾が真紅の焔で星空を高く高く切り裂いた。
船団KD八七は一隻また一隻、流星のように突進を開始した。やがて発電船の巨大な長楕円形が満天の星空をおおってすべりはじめた。
星座はしだいにその形を変えていった。太陽の光輝の中に、水星や金星、地球などはすでに呑みこまれて見定めることも難かしかった。太陽系から遠ざかるにつれて、黄白色の輝きだけが星の中に|凄《すさ》まじく存在を誇示していた。船団の周囲はすでに|茫《ぼう》|漠《ばく》たる星の海だった。無数の微細な光点の|綾《あや》なす銀河が白銀の大河となって虚空をわたっていた。
いつか太陽は船団の後方に|星《ほし》|屑《くず》の一つとなってまぎれこんでいった。
時おり、遠い宇宙|塵《じん》の流れを感知した警急装置が、ためらうように非常ブザーをならしては止まった。静かな時の流れだけが、今、船団を押しつつんでいた。
展望窓を開くと、息もつまるほど、空間は星屑で埋められていた。宇宙船はあたかもその星の海を押し分けて進んでゆくような錯覚を与えた。
展望窓を開いても、三千隻の船団がどこにいるのか全く見出すことはできなかった。はるか前方、五千キロメートルの距離に一つ、|左《さ》|舷《げん》、遠く一万キロメートル以上の間隔をおいて一つ、|標識電波《サイン・ウェーブ》の発信源が認められるだけだった。各船は広大な空間に散って衝突の危険を避けながら今や一個の天体と化して慣性航行に移っていた。
「調査局員! 右舷十二度にナトリウム焔らしい光が見えるそうです」
|船長《キャプテン》が航路修整装置のスクリーンをのぞきこんだ。
「ナトリウム焔?」
しかしそれは調べてみると、遠い星の光を誤認したものとわかった。
静かに時だけが移っていった。
「輸送指揮官! 無電が入りました」
|通信士《オペレーター》がテープを持ってきた。
「どこからかな?」
船団内の通信ならシロウズのところまでこないで処理されているはずであった。
テープの表面には調査局のコール・サインが記されていた。マガジンからテープを引き出した。
「スウェイからだ」
〈報告、E一〇一。ソノ後ノ調査ニヨレバ、地球ヲ荒廃セシメタ原子爆発ハ、震動的空間偏位ニヨル核力励起ト思ワレル。コノ空間ノヒズミハ波動状ヲナシ、銀経一二二・八一〇、銀緯三〇五・一一三、座標三一・〇四ヨリ六三・〇〇二ノ切線上ニアルト推定サレル、スナワチ全天星図Bノ五、グラフ一四、第四アルテアヨリ『青ノ魚座β』ヲ結ブ二次|函《かん》|数《すう》曲線ニ位スル〉
〈報告、E一〇二。金星エレクトラ・バーグノ『電子頭脳エリア』ハ空室デアル。スベテノ機器類ハトリハズサレテイル。指示ヲ待ツ〉
二つの報告を前にしてシロウズはふとはげしい目まいを感じた。どちらも極めて緊急を要する重大な問題であった。第一の報告に述べられている座標三一・〇四ヨリ六三・〇〇二ノ切線上、という数字が脳裡にひらめいた。
「|船長《キャプテン》! |宙航士《コーサー》! ちょっとこっちへ来てくれ!」
シロウズはテープを手にしたまま叫んだ。二人はシロウズの切迫した声音に、身をひるがえして座席を立った。
「この通信を見ろ! 座標三一・〇四より、六三・〇〇二の切線上。星図Bの五、グラフ一四、この位置とこの位置。これが第四アルテア、これが〈青の魚座β〉だ。この線上に空間のひずみがあるそうだ」
「空間のひずみ?」
「そうだ。船団AD七の事件を知っているだろう」
|船長《キャプテン》は何度もうなずいた。
「知っている」
「|嚮導船《ガイド》カコープスからの通信が海王星の航路管制所の一室から発せられていた、というあれですね」
「そうだ」
「読んでみろ。これを」
シロウズはスウェイから第一の報告だけを二人の前にさし出した。最初に顔色が変ったのは|船長《キャプテン》だった。宙航士にはそれが何のことだかよく理解できないらしい。
「調査局員! この報告に述べられている位置は、本船のコースと|交《こう》|叉《さ》するのではありませんか!」
「おれもそう思う」
二人は同時に航路修整装置のスクリーンをのぞきこんだ。つづいて|宙航士《コーサー》が二人に重なるように身をかがめた。算定機の輝線がスクリーンを上下左右に走査してゆく。やがて青い二つのカーブがスクリーンを左右から流れ動いてそれがほぼ中央で交叉した。
「調査局員! 完全に交叉しています」
「|船長《キャプテン》! 先頭の宇宙船から交叉位置までの距離はどのくらいだ?」
|船長《キャプテン》は唇をかんで|宙航士《コーサー》をふりかえった。|宙航士《コーサー》はまだ事態がよくのみこめないながら、それでもすばやく算定機をあやつった。
「ほぼ千八百万キロメートルです」
「現在の速度は?」
「十一万キロメートル秒です」
「調査局員!」
二人の顔は絶望的にゆがんだ。
「|船長《キャプテン》! 全船に急停止を伝えろ」
「調査局員! 制動がききはじめるまでに約二時間を要します」
「くそ!」
シロウズのひたいから冷たい汗がしたたった。
「とにかく伝えるんだ!」
船長はよろめくように|通信席《オペレーター》へ走った。
「調査局員! 何か非常事態が発生したのですか?」
|宙航士《コーサー》が声を震わせてたずねた。シロウズはそれに|応《こた》えようともせず、スクリーンを見つめていた。空間のひずみの中へ突入したら最後、どこへ運ばれてしまうかわからない。船団AD七がまさしくそれだ。いまだに未知の空間のどこかを飛びつづけているのか、それとも、海王星の|航路管制所《シグナル》の一室の中の、空間のどこかに閉じこめられたまま、|永《えい》|劫《ごう》に動くこともできないでいるのか? あるいはまた地球のように、原子励起を起して一瞬に核反応の火に包まれてしまうのか。どちらにせよ万に一つ助かる可能性もない。空間のひずみの強弱によって二つの場合があるのだろう。今や目前に迫っているのはそのどちらかだった。
空間のひずみが、どれだけの幅を持っているのかわからなかったが、すくなくとも地球の直径以上のひろがりを持っているものと考えられた。現在の船団の分布の程度はわからなかったが、船団が大きな|紡《ぼう》|錘《すい》|形《けい》をなしていると考えてその最大径はほぼ四万キロメートル程度であった。とすれば、その空間のひずみにすべての宇宙船が呑みこまれてしまうとも限らなかった。
「しかし、そのトンネル状の空間のひずみと、船団のコースとがななめに交叉していれば、ひずみの部分の断面はもっと大きくなるのだ」
シロウズのあごの先から垂れた汗のしずくが、スクリーンに幾つもまだらを作った。
「調査局員! G・シートについてください。三分後に全力制動を開始します」
|船長《キャプテン》が叫んだ。シロウズは航路修整装置のオートパイロットを入れると、不用な回路のすべてを断った。最小限度の照明を残して室内燈はつぎつぎに消されていった。急制動による船体の|脆《ぜい》|性《せい》破壊に備えて、気泡状の粘着材が船内に放出された。超精密な|冶《や》|金《きん》技術によって鍛造されたハ・チタニック・スチールの船材も、亜光速にちかい速度からの急激な制動による速度低下では、瞬間的な疲労をまねいて|微《み》|塵《じん》に砕け散るおそれがあった。その疲労のあらわれてきた部分にこの強力な粘着材は厚くはりついて張力を補うのだった。
「さあ、早く! 調査局員」
シロウズは急いで自分のためのG・シートに飛びこむと、幾つかの金属ベルトをきつくしめた。|代謝調節装置《メタボライザー》をフルに回した。
「全力制動、四十秒前。全身の力をぬいて」
そのとき、シロウズの頭のどこかで|閃《せん》|光《こう》のようにはじけたものがあった。それは白熱にかがやいて急速にひろがった。
「そうだ! 方法がある! おそらくこれで空間のひずみがくぐりぬけられるぞ!」
シロウズは今、しめつけたばかりの金属ベルトを解き放つとシートからおどり出した。
「あぶない! 調査局員! シートにつくんだ!」
|船長《キャプテン》が絶叫した。すでに|操縦士《パイロット》もG・シートにあおむけに横たわっていた。
「全力制動、十秒前、息をとめて」
録音テープが最後の注意を与えた。
シロウズは三歩で室内を横切り、操縦席に足からおどりこんだ。この型の宇宙船は機器の配置はどれも同じだった。スイッチ・ボードの左の一角を占めるブレーキ・ロケット用のスイッチ類を、シロウズは目にも止らず押していった。天井に近い壁面に点滅していた数百のパイロット・ランプが片端から消えていった。
「全力制動、二秒前」
そのアナウンスとともに、シロウズはブレーキ・ロケットへの入力回路の電源を断った。
ブレーキ・ロケットが完全に封鎖されたのを確かめてからシロウズは|通信席《オペレーター》に身を移した。非常回路のスイッチを入れ、彼は送話機をとりあげた。
「輸送指揮官ヨリ発電船EE一〇ヘ。船団ヲオオウ磁力線バリヤーヲ展張セヨ。船団ヲオオウ磁力線バリヤーヲ展張セヨ。船団ヲオオウ磁力線バリヤーヲ――」
EE一〇から「了解」のサインが送られてくるまで、シロウズは叫びつづけた。
操縦席のワイド・スクリーンを埋めつくす千億の星屑の海に、ポツンと小さな白い灯がともった。それは今にも星々の間に見失いそうなほど小さく、弱々しかったが、なお数秒の間、またたきつづけた。はるかに|雁《がん》|行《こう》する船団の一隻が、ブレーキ・ロケットを噴射させているものらしかった。
突然、スクリーンの視野のはずれに、目もくらむ青白い光が|炸《さく》|裂《れつ》した。それはみるみる星々を呑みこんで光の幕のようにはためいた。操縦席のスイッチ・ボードがすさまじい火花を噴き出した。室内の照明は一瞬、吹きとんだ。あらゆるものが、青白い光輝に包まれた。絶縁計の指針がみるみる赤い危険帯へ近づいていった。発電船の二十億キロワットの発電力をもって展張された磁力線の流れが船団を包みはじめたのだ。
「全船ヘ緊急指令! 全船ヘ緊急指令! 減速スルナ。タダチニ増速、発電船ニ追尾セヨ」
シロウズは広く散開した船団を呼び立てたが、磁力線バリヤーによる空電はほとんど送信を不可能にしていた。
何隻がブレーキ・ロケットを閉止し、何隻が急速に減速していったか全く不明だった。ただ発電船だけが彼の指示のままに、強力な磁力線のカーテンを展張しながら、はるか前方を突進してゆくのが今はわずかなみちしるべとなっていた。
「調査局員! これで空間のひずみを突破できるのですか」
|船長《キャプテン》が紙のように色を喪ったほおを硬ばらせて叫ぶようにたずねた。
「あるいは」
「他の宇宙船はどうなりましたか?」
「わからん」
航路修整装置の非常用回路がくすぶりだした。その白い煙が操縦室内に立ちこめた。
「|船長《キャプテン》! 火を消すんだ!」
二、三人の乗組員が炭酸ガス消火器を持って走り回っていた。船内電路があちこちでスパークしはじめた。
「空間のひずみが重力場によるものなら、このバリヤーを|反《はん》|撥《ぱつ》するはずだ」
シロウズは口の中でつぶやいた。しかし確信は何もなかった。通信機はひどい空電で雷鳴のように鳴りつづけた。
「交叉位置まであと十秒」
シロウズは思わず固く手を握りしめた。
ヒィーンと船体が奇妙なひびきをたててきしんだ。照明燈がすうっと息を引くように暗くなった。メーター・ボードのどこかでオレンジ色の焔が噴き上った。
「ただ今、交叉空域進入!」
「本船異状なし!」
「他の船との連絡はとれたか」
「全く通信途絶の状態です」
「よし。そのまま続けろ」
レーダー・スクリーンは水のように流れる数十本の輝線でおおわれていた。
連絡ボートは、今、おそろしい実験の渦中にあった。次の一瞬には死への跳躍が待っているのかもしれなかった。
さすがにシロウズの呼吸も浅く早くなっていた。冷たい汗も干上ってしまっていた。一秒、一秒がいやに長く感じられた。
「調査局員、計算の上からはもう危険空域を脱出できたと思うが」
|船長《キャプテン》は青黒いほおに病人のような脂汗を浮かべてシロウズにささやいた。
「もう少しこのまま進もう、バリヤーを消したとたんにどこかへ吹き飛んでしまっては何もならん」
操縦室にはどうやら生気がよみがえってきた。重要な二、三の機器が帯電したためにもう使用できなくなってしまったものがあったが、誰も心配しなかった。
乗組員の一人が湯気のたつスープを配って歩いた。スープが腹に入ると、どうやらシロウズも生きかえったような心地になった。
「|船長《キャップ》、発電船に連絡してくれないか。五分後にバリヤーを解除せよと」
五分後、すべての電子装置は正常の機能を回復した。火を噴いた電路や、メーター・ボードはただちに修理された。通信機はあわただしく船団に呼びかけた。
「調査局員、船団右翼の二個編隊七十九隻が姿を消しています!」
「やっぱりバリヤーですべての船をおおうことができなかったのだな。それにせっかくバリヤーの空域に入っていても、ブレーキ・ロケットで減速したために脱落したのもあるのだろう」
シロウズはその無事に脱出し得たものの中に、ヒロ18の乗っている宇宙船が入っているのを知ってほっとした。シロウズははじめて心の底から不安や恐怖がぬけてゆくのを感じた。
そのとき、スクリーンをのぞいた|宙航士《コーサー》が叫んだ。
「あれは!」
その顔は恐怖にひきつっていた。
「どけ!」
わなないている|宙航士《コーサー》の体を肩で押しのけてシロウズはスクリーンに顔を寄せた。
星の海を背景に、連絡ボートと平行して一隻の宇宙船が影のように浮いていた。その巨大な円盤型の船体は、星々の光をあびて、かすかに青くかがやいていた。
「|船長《キャップ》! あの船はどうも二万トン級省型宇宙船らしいが、この船団にはあの型の宇宙船は加わっていないはずだぞ」
その宇宙船の後方にもう一隻、そのはるか上方にも一隻、そして左舷遠く、さらに十数隻が淡い夜光雲のように浮いていた。それらはひとしく連絡ボートと平行して慣性軌道をたどりつつあった。
「なにものでしょう?」
|船長《キャプテン》の声はかすれていた。
「|通信士《オペレーター》! 呼んでみろ!」
必死の呼びかけもむなしかった。果してこちらの送信をキャッチしているのかどうかさえ不明だった。
幻のような船影を見つめるシロウズの胸に、ふとひらめいたものがあった。
「|船長《キャップ》! 探察用の小型ボートをおろすのだ。たしかめて見よう」
「調査局員! それは危険です」
「まあいい。急いでくれ」
シロウズは|乗組員《クルー》の中から三人をえらんで探察ボート用のランプへ急いだ。
高性能のイオン・ロケットを備えた探察ボートは、まっしぐらに奇妙な船団に接近していった。
淡い|星光《スター・ライト》をあびて、美しいカーブを描く巨大な船体は頭上を圧してひろがっていた。そのところどころが濃い翳をやどしている。
「もう少し近づけてくれ」
探察ボートは船腹をこするようにかすめて背面へ出た。
シロウズは息をつめて船腹に目をこらした。濃い翳と見たのはおびただしい破孔だった。
「照明ミサイルを発射しろ」
小さく円を描いて飛びつづける八十万燭光のかがやきは、|白《はく》|堊《あ》の粗面のように荒廃した船腹をさらけ出した。その表面にかすかな文字が見える。
〈カコープス〉
「破孔の一つへ着けてくれ」
そう言ったまではおぼえているが、それから先の何秒か、何十秒かの間はシロウズは何もおぼえていなかった。
意識がよみがえってきた時、彼は投光器を手に、大きな破孔のふちに立っていた。従ってきた三人の|乗《ク》|組《ル》|員《ー》たちは機敏に動き回って船体のあららこちらをカメラに収め、記録をとっていた。それはどうやらシロウズ自身が命じたものらしかった。彼らには、おのれの前に示されたこの状態がいかなる意味を持つものなのか全く理解されていないようであった。果して〈カコープス〉という船名を記憶しているかどうかさえ疑わしかった。
発電船によって展張された磁力線バリヤーは、空間のひずみの底に落ちこんでいた船団AD七をドレッジのように引き揚げてしまったようであった。重力場による閉鎖空間を突き破ったものと思われた。
シロウズは破孔から船内へ体を入れた。二重船殻をくぐりぬけると機械室の一部と思われた。小|隕《いん》|石《せき》の打撃を受けたものか、機械室の内部は直撃弾を受けたように|惨《さん》|澹《たん》たる破壊の跡をとどめていた。その間に、中身を失った皮袋のように、茶褐色の|宇宙服《スペース・スーツ》がひっかかっていた。噴出した内臓が薄い皮膜となってあちこちに乾いてはりついていた。おそらく一瞬に真空と化したために、破裂したものと思われた。
シロウズはそこからふたたび船外に出た。満天の星空は依然として絶対の静寂をたたえ、その|凄《せい》|愴《そう》なかがやきだけがこの荒廃した船団を冷たく照らしていた。
いかなる混乱と悲嘆、生きるための努力がそこにあったかは、すでに知ることもできなかった。閉ざされた空間の中にあって、いかに脱出路を求めてはかない努力がくりかえされたことか。勇気も絶望も、今は船体と同じくむなしく荒廃していた。
「全船へ告ぐ、われわれは行方不明となっていた船団AD七を発見した。生存者はなく、船体は荒廃に帰している。われわれは七十九隻の僚友を喪い、今死せる者の魂をこの手に抱いた。犠牲は大きく、われわれはいまだ死せる者を顕彰するすべを知らない。生をいとおしむ者はまたすべからく死をもあきらかにせよ」
ナトリウム焔の信号弾は高く高く星空へのぼった。茫漠とした星の海へささげられるそれは一本のたいまつだった。それにつづいて、船団はいっせいに信号弾をうち上げた。真紅の焔は長い尾を|曳《ひ》いて千億の星屑の中に消えていった。
星々の間で命を|棄《す》てた者への、これはあえかな葬いだった。
第十一章 三七八五年
[#ここから3字下げ]
かれらには暗黒こそ朝。かれらには暗黒のおそれこそ、こよない友。
[#ここで字下げ終わり]
それはかがやく星空を、幅広く二つに断ち割って暗い翳のようにのびていた。網の目のように縦横に張りめぐらされた枠組と、それを伝いのびるワイヤーとは、広漠たる星屑を、ことごとくさらい上げるかのようだった。
この世に人類が生じて以来、これほど巨大な建造物が造り出されたことはなかったし、また考えられたこともなかった。人類は遠い過去に|於《お》いて、万里の長城を造り、ピラミッドをきずいた。それはたしかにその造られた時代を考えてみればまことに壮大な規模だった。そのために何十万という人々が動員され、大帝国の経済がかたむけつくされた難工事であった。今ここで造られているものは、人類の持てるもののことごとくを仮借なく|呑《の》みこんで、なお満ち足りることのない大建設であった。長さ十二万キロメートル。幅一万キロメートル。八千個の受信面を持ったそれは長大なエネルギー探知装置であった。
おびただしい宇宙船が、無数の光点となってこの巨大な白銀の帯をとりまいていた。作業班のその宇宙船は資材を曳き、人員を乗せ、あるいは居住施設として、また病院として、それぞれの作業区をパトロールしているのだった。それは、探知機の広大な面の海にざわめく無数の微生物のようだった。かつて万里の長城をきずくために、人々は黙々と壁を塗り、ピラミッドを造るために営々と石を運んだように、今、人々はマジック・ハンドをあやつり、移動用のロケット・ブースターを間断なく噴かしていた。巨大な|梁材《りょうざい》が音もなく暗黒の空間をすべってきて、待ち受けていた支持架の腕にとらえられる。ただちに原子の|熔《よう》|接《せつ》の火が白熱の火花を滝のように散らした。みるみる電路が設けられ、金属材料には宇宙線によるイオン化を防ぐための特殊塗装がほどこされていった。それを終るとただちに通電テスト、そして最後に完成したすべての回路に電流が送られる。『区間作業終了』を告げるサインが飛び交い、工作船の群はもう次の工区へ向って流れはじめるのだった。
作業は一秒の停滞もなく押し進められていった。
はじめは極めて緩慢に進められていた作業も、ひとたび探知装置の一部が形をあらわしてくるや、その作業進度はいちじるしく伸びはじめた。人々は|憑《つ》かれたようにおのれの分担する作業に向って突進した。
作業は困難を極めたが、しかし着実に進行していった。
太陽系に在る人々は、日に何回となく、満天の星空の一画をあおぎみるのだった。もとよりそこに|城塞《じょうさい》の一部だに、見えもしなかったが、人々はそこに、星空のかなたに造られているはずの人類の手になった壮大なものに想いをはせるのだった。
それこそ進歩と栄光、勇気と努力に対する人類のあかしであった。
九百七十日をへて、工程はようやくその最終段階に達していた。作業が終りに近づくにつれて、船団は一群、また一群とこの空域を離れていった。熔接作業班、鍛造班、材質検査部、工程管理班、重機材輸送部……など、当初、|厖《ぼう》|大《だい》な組織と人員をようしていた作業陣は、一日ごとに縮小され、|櫛《くし》の歯を引くように帰航の途についていった。宇宙船の群は、|剥《は》げ落ちた塗装にも、長かった苦しい作業の年月をしのばせて、星空のあちこちに雲のように集結をはじめていた。
「第八九電路建設班、帰航します」
「三二一通信部撤収完了」
「金属材料部、乗船を完了しました」
シロウズのもとに送られてくる報告も、そのほとんどが、作業を終って、太陽系へ帰航してゆくグループからの連絡で占められていた。かつて建設作業たけなわの頃の喧騒と活気は今は全く|喪《うしな》われて、|誰《だれ》の顔にも興奮の去ったあとのしらじらした虚脱の翳がただよっていた。誰もが、おのれがこの探知装置の建設に、もっとも重要な仕事、もっとも重要な部分の構築にあずかったのだ、というなぐさめの心を抱いていた。その自負だけが人々の体のどこかに尾のようについていた。人々は星のような心を抱き、暗黒の|深《しん》|淵《えん》を負って今、その故郷へ還ろうとしていた。
毎日、何十という船団が、シロウズの建設指揮所となっている人工衛星基地の近傍を通過していった。時にはそれが、手をふれば見えるほどの至近距離を通り過ぎてゆくこともあった。そんな時、シロウズは展望窓を開いて、長いこと、船団を見送っていた。船団は幾つもの小さな群にわかれて、オレンジ色の|噴《ふん》|射《しゃ》|焔《えん》をきらめかせながら、あとからあとから通過していった。完成した巨大な探知装置は、そこがあたかも宇宙の果でもあるかのように、|茫《ぼう》|々《ぼう》とひろがっていた。その空間を織りなす架構の間からこぼれてくる星々の光は、かすかににじんで偏光していた。
引き揚げてゆく船団の数は、しだいに少なくなっていった。あとに残っているのは検査部門や管制部門だけになってきた。
いよいよシロウズのひきいる建設指揮所の引き揚げるときがきた。すでに厖大な記録をはじめとしてあらゆる器材はすでに船積みを終っていた。あとは二百名におよぶ指揮所のメンバーが乗船すればよいだけだった。
その前日から、シロウズは完成したばかりの探知機の巨大な壁に沿って宇宙船を飛ばせていた。もう最後の点検も、通電テストも終り、あとは本格的な作動を待つばかりだった。操作は遠く、ダイモス基地の作戦本部の手によっておこなわれることになっていた。
それが今日であった。もはやシロウズのおこなうべき何ものも残っていなかったが、彼はこの空域を離れるにあたって九百日にわたる人類の苦闘の跡を、もう一度、わが目に収めておきたいと思ったのだった。
すべては終った――その想いがシロウズをひどく感傷的にしていた。
中央管制室の巨大なゴンドラが架構の下に外壁のかがやきを見せていた。それこそ、このエネルギー探知装置の中枢であった。宇宙の果から送られてくるあらゆる種類のエネルギー放射をとらえて、その放射源の位置を求め、太陽系に接近をはかるあらゆる存在を確認することが頭脳中枢だった。ここに収められている電子頭脳は、その探知したものをただちにダイモス基地の作戦本部へ急報するようになっていた。
シロウズは宇宙船をゴンドラの継船デッキに横づけにした。電磁ロックを開放してシロウズはゴンドラの内部に入った。遠隔操作による内部には細いスチールの回廊が縦横にかけわたされているだけだった。シロウズは自動|点《てん》|燈《とう》|式《しき》の照明に映える内部にゆっくりと足を運んでいった。
絶対真空の広大なゴンドラの内部に、電子頭脳は山塊のごとくうずくまっていた。実際それは小さな丘陵ほどの大きさを持っていた。これから先、何千年、何万年にわたってこれら、探知アンテナや電子頭脳が、人類の眠りを安全に守ってくれるはずであった。
そうだ。この作戦が終ったら――
シロウズはいつかの日、ヒロ18に告げたおのれの言葉を思い出した。終ったらどうしようと言うのだろう。シロウズにはその言葉も今はひどく遠いものに思えた。だがその作戦だけは今、終ろうとしていた。
シロウズは黙々と、かけ橋のようなスチールの回廊をもどった。ヒロ18にも久しく会っていなかった。この建設作業がようやく基礎工事を終った|頃《ころ》、一度、遠くから、それと認めただけだった。電子頭脳関係部門の作業場は、シロウズのいる指揮所からは、ほとんど二日を要する地点にあった。
突然、シロウズは烈しい目まいを感じて、うずくまった。細い回廊から転落しそうになる体を、ハンドレールに支えた。
照明がたそがれのように淡く光輝を喪った。
淡い水色がかぎりなくひろがる天地をおおっていた。平原はゆるやかな傾きではるかかなたの低地につづいていた。その低地のさらにむこうに、一線、濃い|藍《あい》|色《いろ》が糸のように長くのびていたが、それが何であるのか、今立っている所からはよく見定めがたかった。シロウズはそれはたぶん海か湖なのだろうかと思った。
どちらを向いても、動くものの姿とてなく、何の物音も聞えてこなかった。水を掃いたような淡い濃淡だけが、この水色の天地にわずかな起伏と変化を与えているだけだった。
低地のどこかに求める何かがあるような気がしたが、その広漠たるひろがりのどこをさがしたらよいのか、シロウズはひどく自信をなくしてしまっていた。
北はどっちなのだろう?
見上げる水色の空に、
紫紺色の長大な帯が天空をらせん状に区切っていた。四本のその帯は、からみ合って壮大な|卍《まんじ》を天空に描き出していた。そしてその帯が一つに合するところに、かがやく紫色のコロナに包まれた四個の太陽があった。長大な光の帯は、四つの太陽が作る方形の空間からほとばしり出、あとからあとから大河の流れのように水色の虚空をうねり、その果ては遠く天涯に消えていた。
それはとうていこの世のものとは思えないすさまじいながめだった。
――ああ、これのことか
シロウズはおのれの胸の奥底にぽっかりと開いた冷たい深淵をのぞきこんだ。そこから声が|湧《わ》き上ってきた。
〈――四つの太陽が吐き出す紫色の長大な尾が天空を四つに分けている。やがて|橙色《だいだいいろ》の時代がくるのだろう。あれこそわれわれの紋章だ。永い永い戦いの果てに、傷つき疲れたわれわれがさらにも守り通さなければならないわれわれの生のしるしだ〉
その声は深いうらみと絶望におしひしがれていた。
〈――あれはやってきた! やってきたのだ。あれについてかつて説いた者もあった。しかしわれわれがいかに力を持とうとも、あの『|終焉《しゅうえん》』と『無』の前にこころみる何ものもないはずだ〉
シロウズは顔を上げて四つの太陽を見、それからはるかにつらなる平原に顔を向けた。「おしえてくれ! その〈終焉〉や〈無〉をもたらすものは、いったいなにものなのだ?」
シロウズの問いは波紋のように水色の空間に拡散していった。
〈――永劫の時と争って何を残すのか? 時そのものを手中に収めながら、今|蒼《そう》|茫《ぼう》たる世界のたそがれをむかえて残す遺産とてもない〉
「たのむ! おしえてくれ。何がやってくるのだ。そのおそろしい存在はどんなすがたをしているのだ?」
声はシロウズの胸深くつらぬいてたんたんとつづいた。
〈――宇宙を支配するものは果して『無』か。もしそれならば、都市はおそるべき神、偉大な神を見たのだった〉
シロウズは焦った。その声の主の姿をなんとかしてとらえようとしたが、なぜか視野におさめることができなかった。かれらの姿をなんとかとらえることができれば、かれらをそれほどまでにおそれさせる恐怖のすがたもわかるのではないか、という気がした。
〈――亡びへの道は長い。そのために生きるためのおそれも努力もすべて煙よりも|稀《き》|薄《はく》になり――〉
心をえぐるような悲哀と絶望感がシロウズの胸にひろがった。シロウズは小児のように震えた。
「みんなは、みんなはどうしてしまったんだろう? ソウレは? ヒロ18は? それにスウェイは?」
四つの太陽はいろいろそのすさまじいかがやきを虚空に放った。
「こたえてくれ! こたえてくれ!〈終焉〉とは何だ?」
シロウズは天をあおいで絶叫した。そのひたいに、ほおに、目のくらむ|光《こう》|芒《ぼう》が照り映えた。
突然、シロウズの前からすべてのものが消え失せた。
紫色のコロナをまとった四つの太陽も、天空をたちきる長大な光の帯も、はるかにひろがる水色の平原も、すべて一瞬の幻影のように消え去った。
あとには、暗黒の宇宙空間が広漠とひろがっていた。大星雲が壮大な渦状紋をかたむけていた。さらにその奥には幾つかのこれも巨大な星雲の群が、そしてそれらの背景には、なお微細な光点とも見まごうおびただしい星雲のかがやきがあった。それらの星雲のひろがりは、数十億、数百億光年のかなたから永劫の光を投げかけていた。アンドロメダの大星雲も、乙女座のN・G・C四五六七大星雲も、また、かんむり座の星雲群も、すべてその微細な光点の中にあるはずであったが、もとより見出すことはできなかった。冷たい暗い、荒涼たる不毛の空間をわたって数十億年、これよりさらになお何十億年という時間を、この光はひた進み、どこへとどいてゆくのだろう。その光は今、シロウズの目にやどっていた。
突然、その星雲の海が大きくゆらいだ。すべての星雲が、いっせいに右から左へ、おそろしい速さで流れ動いた。
近い星雲は一本の光の長となってシロウズの視野をすべった。遠いかすかな星雲は動くともなく、流砂の崩れるのに似て動きはじめていた。しだいに速く、ついにはかがやく大河となって全天の星雲の群が墜ちるように流れはじめた。
暗黒の空間の際涯から、星雲の群はかぎりなく湧き出ては急速に速度を早めて左方、はるかな暗黒に呑まれていった。それは無数の渦状星雲もろとも、この宇宙の大空間それ自体が、何ものかによって引き寄せられ、吸い寄せられているかのようだった。
やがて星雲群の流れは左から突然、右へ向きを変えた。近くを走り過ぎる星雲は長く長く、星間ガスの尾を曳いて、遠い星雲は茫漠たる光の幕となって音もなく疾走した。遠いどこかで、|灼熱《しゃくねつ》の光が炸裂した。幾つかの星雲がぶつかりあい、つらぬき合って原子の爆発をおこしていた。巨大な渦状星雲の中にはついに分解しはじめたものもあった。大星雲が幾つかの部分に分かれ、恒星の大集団をまき散らし、脱落させながら崩壊していった。それらの星雲の中では、どんなできごとが起りつつあるのか、想像することも困難だった。
ふたたび、虚空に満ちた光の流れはその方向を変えた。それはたとえようもない広大な|抛《ほう》|物《ぶつ》|線《せん》を描いて回りはじめた。数十億、数百億光年のそのさらに奥まで、渦状星雲の群はいよいよ崩壊を早めながらすべり墜ちていった。大宇宙の終焉は今、数秒ののちまで迫っていた。数知れぬ星雲爆発によって噴き出した原子のガスは|陽《かげ》|炎《ろう》のようにたなびき、渦巻いた。
すべて今、その終焉をむかえようとしていた。時間も空間も、今その意味を喪って終焉をむかえようとしていた――
〈――SHIROUZU SHIROUZU SHIROUZU――〉
遠いかなたから何ものかが呼んでいた。その声音ははるかにこだまをひいて、ようやくシロウズの胸にとどいてきた。
「誰だ!」
シロウズはうずくまったままつぶやいた。つぶやいたつもりだったが、くちびるは動かなかった。
〈――SHIROUZU――〉
「誰だ! おれを呼ぶのは」
目を上げると、激烈な痛みが|眉《まゆ》の間をさしつらぬいた。シロウズはそれをこらえて、大渦のように回転する視野をとどめようとして目をすえた。その目に、はるか下方、巨大な重量感をみせて電子頭脳がひろがり、うずくまっていた。それがはっきりと|脳《のう》|裡《り》に刻みつけられるまでに長い時間がかかった。
「今のは! 今のは夢だったのか!」
酷烈な記憶は夢にしてはあまりにもあざやかだった。幻覚というにはひどく現実的であった。
シロウズは惑乱する胸を必死におさえた。それには超人的な勇気が必要だった。
〈――SHIROUZU――〉
はじめて、シロウズはその声に意志を集中した。その声音は男ともつかず、女ともつかず、非常な金属的なひびきをおびていた。
〈シロウズ、ココダ。ヒロ18ダ〉
シロウズは一瞬、耳を疑った。ヒロ18! ヒロ18、いや、違う! この声の調子は決してヒロ18ではない。シロウズは心の中で叫んだ。
〈シロウズ。疑ウノモムリハナイ。シカシ、ココニイルノハ私ダケダ〉
「ちがう! その声はヒロ18ではない」
「ココニイル。アナタノ眼ノ下ニ」
声はあくまで静かだった。その静かなひびきの中に、このときシロウズははっきりとヒロの声音を聞いた。
シロウズはひどく熱いものが、くわっと、脳天に|衝《つ》き上げてくるのを意識した。
「お前は、お前は電子頭脳だったのか!」
「ソウダ。私ハエレクトラ・バーグノ電子頭脳ヲ、本来ノハタラキニ開放スルタメノ|鍵《かぎ》ダッタノデス」
「エレクトラ・バーグの」
「冥王星ノグローバーズ・ホリゾントニ設置スルハズノ電子頭脳ノ」
「グローバーズ・ホリゾントの」
「シロウズ。私ハ最初ニ冥王星ヘノ着陸ニ成功シタ探検隊ニ加ワッテイタアル科学者集団ノ一員ダッタ。ソノ科学者集団ハ、今、副首席ヤアナタガ予想シティルノト同ジ種類ノ危険ヲスデニ察知シティタノデス。ソレヲ確認スルタメニ、特殊ナ探知装置ヲ冥王星ニ設ケヨウトシタ。ソレガグローバーズ・ホリゾントデス」
「聞いたことがある」
「シカシソノ意図ハハタサレズニ終リ、タダソノ資料ヲ後世ニ残スタメニ私ノ内部ニ収メラレタノダ。残スタメダケデハナク、イツカハ私自身ガソノ解決ニアタルタメニ」
「それがエレクトラ・バーグのあの巨大な電子頭脳だったんだな」
「ソウデス。私自身ガ記憶巣ヲハタラカセル鍵ナノデス。ツマリ私ノ記憶巣ヲアノ電子頭脳ノトランクニ収メナケレバ、回路ガハタラカナイノダ」
「ヒロ18! あなたの肉体はどうなってしまったのだ」
「肉体? ソンナモノハ、ソウ、ドウナッタノダロウ。今、ココニアルモノガ私ノスベテデスヨ。シロウズ」
あの金星の灰色の雲、千切れ飛ぶ荒野。そこにそびえていた奇妙な塔や城塞。それらはすでに辺境で人々が活動しはじめた頃から、一人の人間、いや人間の形をした電子頭脳の内部に、すでに一枚の絵として収められていたのか。
「もう一度だけ教えてくれ! あなたはロボットだったのか? それともサイボーグだったのか。おれには完全な一人の人間にしか映らなかったが」
シロウズはハンドレールに体重を支えて、はるか眼下の金属の山を見おろした。
「私ハ人間デスヨ。ロボットデモナイ。サイボーグデモナイ、私ハ人間デアルト教エラレテキタ」
そう教えられてきた。教えられて――お前はいったい何ものだったのだ。おそらくは改造に改造をつづけられ、唯一の記憶巣に、ひめられた数々の資料を収めて、今に伝えたのだろう。おそらくそれはサイボーグと呼ばれるのが当っているのかもしれない。あるいはサイボーグよりも、もっともっと無機質に近いものだったのかもしれないが。
「それではあなたは本来のあなたにもどったわけだね」
本来の? 何が本来なのだ?
「ヒロ18、いまわたくしは不思議な夢を見た。すべての渦状星雲がいっせいに動き出したのだ。とめどもなく光の大河となって飛び交っていた」
しばらく間をおいて答えが戻ってきた。
「シロウズ、ソレハ私ガアナタノ大脳ニ放射線刺激ヲ加エテワタクシノ持ッテイル資料ノ一部ヲ投影シタモノダ」
シロウズの心から、あらゆる思念がはげ落ちていった。
シロウズは薄明の大天井の下でひとり笑った。
ひどく寒かった。寒さが背を伝って全身に急流のようにひろがっていた。
シロウズは体を動かした。
ああ、おれはどうしたんだろう?
全身の力をこめて立ち上ろうとしたが、不思議に力がこもらず、シロウズは冷たい金属の回廊にのめった。
夢か? 夢を見ていたのか?
すでにあの烈しい頭痛も目まいもさっていた。まばゆい投光器の光環が、海のように眼下にひろがっていた。
シロウズは腕をかえして時計を見た。時計は探知装置の作動、五分前を示していた。あと五分すれば、すべては終りだった。
シロウズは耐え難い疲労を抱いて宇宙船にもどった。操縦室のメーター・ボードには作動開始三分前を告げるパイロット・ランプが点滅していた。
あと三分すれば、はるかに〈青の魚座〉のかなた、〈セルの三角形〉のむこうに存在するものがその姿をあらわすはずだった。
“――事態は破滅的だった”
“――セルの三角形の方向からの流れはやまず”
“――第九九八一太陽年、『だ』は接触の不可能なることを確認”
“――無はセルにある”
遠い言葉がシロウズの胸にひびいた。
そのとき広漠たる星の海が白熱の光をまき散らした。その光は宇宙船を包み、シロウズを包んだ。
たそがれのような|酩《めい》|酊《てい》が急速に今、彼をおそいつつあった。それはあきらかに銀色のたそがれだった。
*
「見ろ! あれを」
「なんだ! あの光は」
太陽系六百億の人々は、天の一角を指さしておめき合った。
広漠たる星空の一方、天の端に白熱がかがやく光の塊が急速にふくれつつあった。それはしだいに長大な光の帯となり、おそろしい早さで流れひろがった。
「ガス星雲だ!」
「探知装置が爆発して火の塊になったんだ!」
星空はしだいにそのかがやきを喪っていった。巨大な星雲は、今や|飛沫《しぶき》の飛んだような形に大きく天にかかりはじめていた。
ソウレはこのとき、これまで味ったことのない苦い苦い想いに胸を|灼《や》かれていた。
「放射されてくるエネルギーは、あの探知装置では受け止められないほど大きくなっていたのだ! ヒロ18の記憶巣に収められていたデーターよりも、はるかに大きく、そうだ、それははるかに近づいていたのだ」
ソウレはついに今すべてを喪ったことを知った。すべてを――そうだ、このとき人類はその明日のすべてを喪ったのだった。
ソウレは黙って立ち上った。
彼はそれでもなお新しい別な方法を考えなければならなかった。
終 章
喪われ、散逸した記録を探し出し、それを復元することはけだし至難のわざである。とくにその記録が故意に破棄され、修正されてしまっている場合はいよいよ不可能に近い。ここにのべた物語は、アム・コダイをはじめとするすぐれた歴史学者の手によって収集され、整理された一連の資料によって構成されたものであるが、これが果してどれだけ歴史的事実への接近に成功しているものかわれわれには確信はない。この物語の時代が去ってすでに一千余年を経過し、われわれは今はただほとんどその光をうしなった巨大なガス星雲をはるかな星々の間にのぞみ見る。それがあるいは人類の閉された明日のしるしなのか、それとも栄光の未来におくられる灯なのか知り得ようもない。
喪われた記録に寄せるおそれは深い。あるいは亡びに至る道を秘め、あるいは栄光への確証を伏せ、なおわれわれの手のおよばないところに在る。
人類はつねにおのれの明日についての考慮を忘れてはならない。亡びに至る道は長く、そしてその道をたどる者にそれと気づかせない粉飾された平穏な行程を示すからだ。
[#地から2字上げ]ユイ・アフテングリ著
星間文明史 第十一巻
第三章 記録と事実より
たそがれに|還《かえ》る
|光瀬龍《みつせりゅう》
平成12年10月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Ryu MITSUSE 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『たそがれに還る』昭和60年6月25日初版刊行