陽はまた昇る 映像メディアの世紀
〈底 本〉文春文庫 平成十四年六月十日刊
(C) Masaaki Sato 2002
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〈目 次〉
プロローグ 世界に誇る“三人の父”
第一章 夢
1 風にそよぐ葦
2 VTRでもう一度
3 天才たちの葛藤
4 演歌が収益の下支え
5 U規格の思惑
第二章 先陣争い
1 天からの授かり物
2 石油危機という名の“神風”
3 文庫本サイズのカセット
4 “経営の神様”の御託宣
5 ソニー、ベータ規格を提案
第三章 つばぜりあい
1 「ご幸運をお祈りします」
2 一世一代の大芝居
3 大いなる誤解
4 四国の暴れん坊
5 手負いの野武士
第四章 ファミリー作り
1 「百聞は一見にしかず」
2 井植三兄弟
3 反ソニー七社連合
4 老獪な経営者
第五章 対峙
1 三社七首脳の秘密会談
2 ベータ、VHS両陣営相譲らず
3 飛車角落ち
4 通産省の思惑
5 決裂した規格統一
第六章 揺らぐ家電王国
1 崩壊寸前の七社連合
2 規格統一問題が再燃
3 “山下跳び”
4 帝王学伝授
5 起死回生の一発
第七章 陣取り合戦
1 虚々実々の駆け引き
2 ひょうたんから駒
3 乾坤一擲の大勝負
4 太めの「マックロード」
5 開発メーカーの意地
6 「おれは忙しいんだ」
第八章 ハリウッドからの挑戦状
1 衝撃の一〇〇〇ドルビデオ
2 四時間録画機種、米国で大勝利
3 追いつめられた映画の都
4 “爪の経営哲学”
5 著作権裁判は逆転また逆転
6 「米の法律を変えてみせる」
第九章 亀裂そして修復
1 南の島の靴屋の寓話
2 VHS、欧州で破竹の快進撃
3 アルバムビデオ
4 怒髪天を衝く
5 「あんじょううまくやってや」
第十章 二十世紀最後の家電商品
1 “絵の出るレコード”
2 創業者の秘密兵器はVHD
3 老いの一徹
4 断腸の規格統一
5 哀れな末路
第十一章 産みの苦しみ
1 ビデオムービー登場
2 8ミリは次世代ビデオか
3 狙い撃ちされたゼニス
4 VHSを選択した東京三洋
第十二章 天下分け目の欧州市場
1 現代版“ポワチエの戦い”
2 幻の欧州電機連合
3 欧州の巨人、フィリップス争奪戦
4 身を捨てて……ミスターVHS
第十三章 世界規格への道
1 雪崩現象
2 東芝の奇妙な提案
3 ソニーから消えた二十人の技術者
4 地獄の株主総会
第十四章 最後の勝利者
1 笛吹けど踊らず
2 泰然自若の総帥
3 VHSは化石になる
4 策を弄さぬ潔癖の人
5 “幻”のクーデター計画
エピローグ デジタル時代のVHS
あとがき
主要参考文献
主要人名索引
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陽はまた昇る
映像メディアの世紀

プロローグ 世界に誇る“三人の父”
冬の到来を告げる木枯らし一号が立冬の前に吹けば、その年は寒い冬になるという。一九九六(平成八)年の木枯らし一号は、立冬より二週間も早い十月二十四日に吹き荒れ、谷川連峰の天神平スキー場は、その日を待ちかねたようにオープンした。
それから一週間後の十一月一日。東京は昼過ぎから氷雨となり、早くも四時過ぎには夕闇が迫っていたが、日比谷にある帝国ホテルの「光の間」だけは、熱気にあふれていた。会場には「VHS二十周年記念の集い」という看板が掲げられ、入り口では日本ビクター社長の守隨武雄が来客の家電、電子部品、テープ、ソフトメーカー首脳に深々と頭を下げていた。
四時から始まった記念の集いは、パーティーに先駆けて電通顧問で工学博士の和久井孝太郎が「世界的メディアVHSについて〜デジタル時代を迎えたVHSの位置づけ〜」と題する記念講演を行った。この中で和久井は「VHSはすでに文化の領域に達した」ことを強調した。
五時半過ぎから同じ会場でパーティーに移り、会場のあちこちでグラス片手に昔話に花を咲かせる光景が見られた。六時直前にソニー社長の出井伸之が急ぎ足で駆けつけた。ソニーはこの日、都内の別のホテルで創業五十周年の記念パーティーを開いていたが、出井はそれを中座しての出席である。
ソニーはビデオ戦争で屈辱的な敗北を喫し、ベータマックスの生産を中止して久しく、家庭用の据置型は|面子《めんつ》を捨て、元号が昭和から平成に変わる以前にVHS方式を採用している。恩讐を超えての出井の出席は、ビデオ関係者に時の流れを感じさせ、ビデオ戦争ははるか彼方の出来事だったことを印象付けた。
宴もたけなわに入り、VHSを世界規格にするため、苦労を分かち合った人々が次々と壇上に立ったが、出席者は本来主役であるべき“ミスターVHS”と慕われ、さらに“VHS共和国の大統領”と親しまれた元ビクター副社長の高野鎭雄の姿が見えないことに、ある種の寂しさを感じていた。それを補うように壇上に立つ人は、|挙《こぞ》って高野の功績を称え、記念の集いはいつしか“高野追悼会”に変わった。
人類の歴史の中で最も普及した娯楽媒体とされる世界初の電子式テレビは、大正から昭和への移行期に日本で誕生した。テレビの発明がなかったらビデオも生まれず、映像メディアが世界を|席巻《せつけん》する世紀は到来しなかったであろう。
一九二六(大正十五)年の年の瀬も押し迫った十二月二十五日。浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授の高柳健次郎は、冬休みに入り学生が去った寒々とした実験室で、助手と一緒に朝からテレビの実験を繰り返していた。
夜の九時を過ぎたころ、暗箱のような受像装置を覗き込むと、|雲母《きらら》板の上に描いたカタカナの「イ」の字が、ブラウン管の上に崩れることなく鮮明に映し出された。この瞬間、まだ空想の域を出なかったテレビが実用化に向けて一歩を踏み出した。
〈これで東京の歌舞伎公演を、浜松の家庭にいながら楽しむことができる〉
前年の春に結婚したばかりの二十七歳の若き天才技術者は、実験成功の喜びをかみしめながら、妻と生まれたばかりの子供の待つ自宅に向かった。その道すがら一人の男が、暗闇の中を「チリン、チリン」という鈴を鳴らし、“号外”“号外”と大声を上げながら、凍てつく町を駆け抜けた。高柳は見るとはなしに手にした紙に目をやると、白抜きの文字で、「天皇崩御」の大きな四文字が躍っていた。
高柳はそれから十四年後の一九四〇(昭和十五)年、東京オリンピックをテレビ放送するため、請われる形でNHKに出向した。ところが国際情勢の悪化からオリンピックはあえなく中止、テレビの研究も中断を余儀なくされた。
そして戦後。高柳は二十人余りの海軍技術将校を引き連れて日本ビクターに入社、中央研究所長を経て伝説的な技術指導者になった。NHKがテレビの本放送を始めたのは一九五三年だが、アメリカでは早くも翌五四年にカラーテレビの放送を開始、その二年後に米の中堅オーディオメーカー、米アンペックス社が世界初の放送局用ビデオを公開した。
高柳はすでに五十七の|齢人《よわいびと》になっていたが、アンペックスのビデオを見て、まだ自分の仕事が終わっていないことを悟った。そして若い技術者を集めては、自分の夢を語らった。
「私が開発したテレビは太平洋戦争が勃発したこともあり、実用化の面ではアメリカに先を越されてしまった。テレビはいつの日か、個人の映像メディアになる。さらに将来はユーザー一人ひとりが広範なプログラムを選択でき、しかも自分用の映像を作れる機械が開発されるだろう。私は自分の目でそれを見届けたい」
ただし高柳の夢である映像を蓄える機械、VTR(ビデオテープレコーダー)を家庭に普及させるには、気が遠くなるような技術のブレークスルーが大前提となる。
高柳がブラウン管に「イ」の字を映し出してからちょうど半世紀後の七六年二月。この年は夏季オリンピックが開催される「うるう年」で、節分は例年より一日遅れの四日となった。その前日の夕刻。ビクタービデオ事業部長の高野は五十人近い部内の全役職者を横浜工場の会議室に集め、自らの決意を披露した。
「今まで隠していたが、実はビデオ事業部はVHS(ビデオ・ホーム・システム)と名付けた家庭用ビデオの開発に成功した。うまくいけば夏には発売できる。製品には自信がある。ただし闘う相手は松下、ソニーはいうに及ばず、米RCA、オランダのフィリップスといった名にしおう世界の強豪メーカーだ。私はこうした世界の巨人たちと闘ってみたい。もし負けたら私はクビになるだろうが、あんた方にも会社での出世を諦めてもらわなければならない。一緒に行動するということは、私と心中するということだ。もし不安を感じる人がいたら、遠慮なくこの部屋から出て行ってほしい」
高野の発言が終わるやいなや、最後列に並んでいた一人の男が一礼して部屋を出て行った。沈黙の時間が過ぎ、どこからともなく「やろう」という声が発せられると、「そうだ、やろう」「松下やソニーに一泡吹かしてやろうじゃないか」との声が次々と沸き上がった。ビデオ事業部は社内で“お荷物”扱いされていたせいか、反骨精神が旺盛で、ほぼ全員の役職者が一介のビデオ事業部長と“心中”することに同意したのである。この時、高野は働き盛りの五十三歳。
とはいえ正直なところ、誰もソニーに勝てるとは思ってなかった。ソニーのビデオに関する技術は、世界の家電業界でも抜きん出ていた。その集大成として、前年の春に本格的な家庭用ビデオと銘打った「ベータマックス」の発売に踏み切り、その席で会長の盛田昭夫が高らかに宣言した。
「今年はビデオ元年になるであろう」
仕事柄、ビデオ事業部の幹部は個人的にベータマックスを購入していた。そして例外なく、その出来栄えと使い勝手の良さに感心した。ベータマックスを実際に使った人々を前に、高野がいくら「VHSに自信がある」と大見得を切っても、その場に肝心の製品がないので説得力がない。そうした不安を察したのか、高野は言葉を続けた。
「世界で超一流といわれた会社が、何度となく家庭用ビデオに挑戦したが、ことごとく失敗した。ビデオの世界では、過去の常識は通用しない。したがってソニーのベータマックスも必ず成功するとは限らない。逆に言えば過去に大きな足跡のないビクターでも、ハンディにならないのではないか。どうせ命をかけるならVHSを世界規格に育ててみようじゃないか」
|訥々《とつとつ》とした高野の話し振りは、心中に同意した人々を奮い立たせた。高野の夢を乗せたビクターのプロジェクトが発足したことで、世界市場を舞台にした家電メーカーと消費者を巻き込んだビデオ戦争の火ぶたが切られた。VHS(ビクター)とベータ(ソニー)の死闘は十年もの長きにわたった。
「いったん決めた規格は、ユーザーがいる限り、たとえ会社が|潰《つぶ》れても守り抜くべきだ」
高野は自分に課した信念を貫くことで、VHSを名実ともに、世界の標準規格に育て上げた。
テレビを開発した高柳健次郎は九〇年七月二十三日、愛弟子たちが心血を注いで開発したVHSとビデオ戦争の行方を見届け、九十一歳の天寿をまっとうした。
その直前の六月二十九日の株主総会を最後に、高野は副社長から常任監査役に退いた。その夜、横浜市郊外の磯子にあるホテルでビデオ事業部主催による「さよならパーティー」が開かれた。高野に文句を言いたかった人、感謝の気持ちを述べたい人が次々と壇上に上がり、知られざるエピソードを披露した。
出席した三百人が苦しかった時代の思い出話を、それぞれの胸に刻んだ。そして最後に頬を紅潮させた高野が挨拶に立った。
「……ビデオ事業部時代というのは、私の人生で最も充実した時代でした。懸命というか……夢中でした。……あの時代はとにかく夢中で、ベータに敗れるなんて考えもしませんでした。苦しかったという思い出はありませんでした。皆さんも何でもいいですから、夢中になって下さい」
途中で感きわまったのか、言葉が出なくなった。それでもつかえながら話し続けた。
「夢中というのは大変すばらしいことです。なぜあの時、そんなに夢中になれたかというとね……。ここに集まっておられる仲間をね……神様がね……私の周りに……こんなにすばらしい人たちをね……神様が、よりによって私の周りに置いて下さったからです。
本当に皆さんのお陰で充実したビデオ時代を過ごさせてもらいました。これで私はいつ死んでもいいんです……。本当にありがとうございました」
不幸は突然やってきた。翌年五月、人間ドックに入った時、癌が発見された。癌は高野の身体を確実に蝕み、家族には「余命半年」と告げられた。それを知ってか知らずか、高野は妻の智恵子に厳命した。
「おい、おれにもいろいろ準備があるので、病名だけはちゃんと教えてくれよな」
しかし智恵子は病魔と必死に闘っている夫に、「死の宣告」をすることはできなかった。
〈治る可能性が一%でもあるなら、告げることもできるが……私には到底できない。神様は残酷過ぎる〉
夏に手術をして、晩秋に退院した。そして十二月には家族と共に伊豆と箱根に旅行した。それを境に病状は急激に悪化、年明けには再入院を余儀なくされた。
「お父さん、痛かったら先生に頼んで痛み止めの注射をしてもらったら」
「大丈夫だ。VHSを開発した時の苦しさからみれば、こんなもの辛いうちに入らない」
妻の前では強がりをいったが、主治医はレントゲンを見てびっくりした。
「癌細胞が全身に回っています。痛くないわけがない。辛くないわけがない。なんと意志の強い人だ」
家族と顔を合わせる時は、痛みを顔に表さずごく普通の会話をしていたが、深夜に痛さで何度か失神してベッドから転がり落ちたこともある。そして一月十九日未明、最後は眠るように息を引き取った。享年六十七。
それから四年十カ月後に冒頭の「記念の集い」が開かれた。パーティーは高野の戦友ともいうべき松下電器の前社長、谷井昭雄による中締めの挨拶で終わった。谷井は帰りしな、長くビクターに出向して陰に陽に高野を励まし続け、松下に復帰して副社長を最後に顧問に退いた平田雅彦に語りかけた。
「高野さんが亡くなってから、もうかれこれ五年になる。そういえば、一度もお墓参りに行っていない。近いうちに今日の集いの報告をしようや」
一カ月後に谷井と平田はビクター関係者とともに、未亡人となった智恵子の案内で、高野の生まれ故郷、愛知県安城市に隣接している刈谷市の昌福寺を訪れた。寺の山門の横には「加藤与五郎博士生誕の地」の看板が掲げられていた。
東京工業大学教授だった加藤は、一九三〇年に同僚の武井武とともに、世界に先駆けてフェライト(磁性材料)を発明した。ビデオがカラーテレビに並ぶ巨大産業に|伸《の》し上がったのも、フェライト技術におうところが大きい。|因《ちな》みに、フェライト技術を工業化するため設立された会社が現在のTDKである。
加藤と高野の墓は、斜め背中合わせにある。谷井は墓石に水を掛けながら、感慨深げに無言の高野に語りかけた。
「高野さん。VHSの販売台数は延べ六億台を突破し、なお毎年コンスタントに五千万台ほど出荷されています。VHSは今や単なる家電ではありません。デッキ、ムービー、テープ、ソフト、関連部品、流通を含めた一大産業に発展したのです。VHSは高野さんがいなくても開発されたかもしれない。が、高野さんの情熱がなければ、VHSは日の目を見なかった。
高野さんの好きだった盆栽は、松の種を|播《ま》いて十年、二十年の時間をかけて育てていく。ビデオも同じですね。若い技術者が息長く大事に育てていけば、ビデオの将来性は限りなく明るい。VHSは和久井先生の言葉を借りるまでもなく、立派な映像メディアに成長したのです。
デジタル時代の到来で、地上波のテレビ放送のデジタル化もスケジュールに上っております。VHSは十分デジタル時代に対応できます。すでに文化の領域に入ったVHSが、この世から消えることはありません。ポストビデオとして期待されているDVD(デジタル・ビデオディスク)が伸び悩んでいるのは、高野さんのような信念に基づいた旗振役がいないからです」
そして谷井は手を合わせながら、自分に言い聞かせた。
〈人間の|縁《えにし》とは不思議なものだ。テレビを発明した高柳先生は、戦後ビクターに入社してビデオの夢を説いた。そして高野さんが、その夢を|適《かな》えてくれた。磁気テープがなければ、誰もビデオの発明を思いつかなかっただろう。高野さんはその磁性材料を発明した加藤先生と、背中合わせで眠っている。テレビ、フェライト、ビデオ――日本が世界に誇る“三人の父”が見えない糸で結ばれている〉
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第一章 夢

1 風にそよぐ葦
戦争は多くの人の人生を|弄《もてあそ》んだ。VHSで映像メディアの時代を切り|拓《ひら》き、後に“ミスターVHS”と慕われた日本ビクター元副社長の高野鎭雄もその一人である。もし太平洋戦争が起きなかったら、カメラメーカーの一技術者として平凡な人生を送ったであろう。そうなればビデオの歴史のみならず、映像メディアの世界も大きく変わったに違いない。
太平洋戦争で日本の敗戦が色濃くなった一九四三(昭和十八)年九月、浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)を卒業した高野は、日本光学工業(現ニコン)への入社が内定、横浜市郊外にある戸塚工場への配属が決まった。運命のいたずらか、明日から出社という九月三十日の朝、愛知県安城市の実家から赤紙(召集令状)が転送されてきた。
高野は入社の挨拶もそこそこに、海軍短期現役技術士官として佐世保に赴いた。その後、大阪に移りそこで終戦を迎えた。四五年の秋に復員して戸塚工場に戻ったが、あろうことか看板がよその会社に変わっていた。
一瞬、自分の目を疑った。てっきり違った工場に来たと思い、もう一度あたりを見渡した。周りは戦災で焼けただれていたが、目の前の工場は紛れもなく自分が配属されたニコン戸塚工場である。狐につままれた気持ちで周りを右往左往していると、守衛に呼び止められた。
「あんた、さっきから何でこの辺をウロウロしているんだね?」
「確かここは、ニコンの戸塚工場のはずですが……」
「そうだよ。しかし、半年前にビクターに売却したんだ」
「そうなんですか」
高野はこの時、浜松高工の同級生で、ビクターに入社した加藤久雄の顔を思い浮かべた。
「あのう、私の浜松高工の同級生がビクターに入社したはずです。名前はカトウヒサオと言います。ご存じありませんか」
すると守衛は首を傾げながら答えた。
「そういえば、技術部に加藤さんという人がいる。確か浜松の出身だといっていた。もしかしたらあの人かな……」
数日後、加藤の下宿先に押しかけて就職の相談をした。
「ビクターの戸塚工場では、映写機を作っているんだ。おれもお前も浜松高工では、精密機械を専攻した。カメラも映写機も内部構造は似たようなものだ。どうだいっそのこと、ビクターに来ないか。お前にその気があるなら、上司の課長に頼んでやる」
「この前、工場の前で会った守衛さんも、元はおれと同じニコンの社員で、そのまま居着いたといっていた」
「いい忘れたが、浜松高工で教鞭をとっていた高柳健次郎先生が、近くビクターに入社するという|噂《うわさ》だ。もし来れば研究開発の指揮をとることになる」
「えっ、テレビを発明した、あの“世界のタカヤナギ”がビクターに来るのか。おれたちの学生時代には、すでにNHKに出向しており、直接教わる機会はなかったが、同じ職場で働けるとなれば光栄だ。おれは決めたぞ。ビクターに入る」
高野は翌四六年四月一日付でビクターに入社した。配属されたのは、紹介者の加藤と同じ技術部機械技術課。といっても課長以下四人の小さな所帯だった。がらんとした部屋には製図板と人数分の机しかない。最初に与えられた仕事は、戦前の資本提携先のRCAが設計した映写機の設計図に書かれたインチを、ミリに換算して設計し直すことだった。
噂の高柳はそれから三カ月後の七月一日、二十数名の海軍電波兵器技術士官を引き連れてやってきた。高柳がビクターを選んだのは、ビクターが戦前、RCAの子会社で資本関係が切れた後も細々ながら技術交流を続けており、RCAと自分が開発した技術をドッキングさせれば、日本でのテレビ実用化が早まると判断したためだ。
高柳は大きな夢を抱いて入社したものの、国鉄(現JR)京浜東北線・新子安駅近くにある主力の横浜工場は戦災で壊滅状態に陥っていた。そこで、ニコンの戸塚工場を買収したわけだが、まともな生産設備もなく、研究どころでなかった。レコードのプレス工場も東京のスタジオも焼失、プレスは戦災被害の少なかった同業他社に委託する有様だった。専属アーティストへの給料だけはなんとかやりくりしたが、社員に対しては遅配、欠配が慢性化していた。
ここでビクターの数奇な生い立ちに触れておく。蓄音機を発明したのが、トーマス・エジソンであることは広く知られている。一八七七年のことで、エジソンが開発した蓄音機は、茶筒のような形をしたマイクロホンを兼ねる円筒に|錫箔《すずはく》を巻きつけ、その上に録音するというものだった。エジソンは錫箔型蓄音機の改良を進め、その後ラッパのついた|蝋管器《ろうかんき》を作り、これを「エディフォン」と名付けた。エディフォンを最初に日本に持ち込んだのは、当時の駐米大使・陸奥宗光とされる。明治十九年のことだ。
エジソンに遅れること十年、ドイツ人のエミール・ベルリナーがハイファイ・システムの原型ともいうべき平円盤式のレコードと蓄音機を考案し、「グラムフォン」の名称で売り出した。エディフォンは一回に一本しか録音できなかったが、グラムフォンはレコードをプレスすることによって、量産できるメリットがあった。こうなると勝敗は火を見るより明らかである。エディフォンは急速に衰退した。
だがグラムフォンにも泣き所があった。片手でハンドルを回しながらレコードを回転させるため、円盤を一定速度で回転させることが難しい。そこでベルリナーは、精密機械会社を経営するエルドリッジ・ジョンソンの協力を得て、ゼンマイ式を導入することでこの問題を解決した。一九〇一年にはベルリナーとジョンソンがそれぞれの特許を持ち寄って、米国に「ビクター・トーキング・マシーン」を設立した。
平円盤レコードの普及に伴って、多くの名歌手や名演奏家が競って至芸をレコードに吹き込むことが可能になり、名曲、名演奏が劇場に足を運ばなくとも、家庭で聴ける時代を迎えた。
ビクター製品に付いている犬のマークの原画は、英国の青年画家フランシス・バラウドによって描かれた「(蓄音機のラッパから出る)主人の声に耳を傾ける犬のニッパー」の絵を図案化したものである。バラウドの兄は、賢くしかも忠実なフォックステリア犬を可愛がっていたが、兄が亡くなるとバラウドが愛育を引き受けた。ある日、家にあった幼稚な蓄音機で、亡き兄の声が吹き込まれたレコードをかけたところ、ニッパーは懐かしそうに、かつての主人の声に耳を傾けたという。バラウドはその姿に感激して、ラッパに耳を傾ける犬の絵を描いた。
ニッパーのマークの付いたビクターの音響製品は、世界各国に輸出され、いつしか二十世紀初頭の音楽文化の象徴となった。これに気を良くした米ビクターは、高柳がテレビを発明した一年後の一九二七(昭和二)年九月、全額出資で「日本ビクター蓄音機」を設立、日本で蓄音機とレコードの現地生産に踏み切った。
ただし、米ビクターの海外進出は合弁を基本としていたことから、二九年二月に三菱と住友両合資会社の出資を仰ぎ、名実共に日米合弁会社に衣替えした。だがその直後に親会社のビクターがRCAに吸収合併され、社名も「RCAビクター」に変わり、それから数年を経ずして、米国から伝統のある「ビクター」の社名が消えた。
日本ビクターが、旧財閥の出資を仰いだ年の十月、ウォール街の株式大暴落(暗黒の木曜日)が引き金となり、世界恐慌が起きた。米国では労働人口の四分の一に当たる千二百八十三万人が職を失った。銀行の倒産も相次ぎ、全財産を銀行に預けていた金利生活者は、一夜にして貧乏人になった。世界恐慌の勃発から三年後の三二年。ルーズベルト大統領が登場して、ニューディール政策を発表するまで、米国は未曾有の大不況に見舞われる。
日本では昭和五(一九三〇)年の金解禁が裏目に出て、金融恐慌の嵐が吹き荒れた。企業は軒並み赤字に転落、大学を出ても就職先がなく、「大学は出たけれど」が流行語になった。農村では輸出生糸の相場が崩落したのをはじめ農産物がいっせいに値下がりしたことから、都市生活者以上に困窮した。
こうした中で日米の合弁会社に衣替えした日本ビクターは、経営基盤が強化されたこともあり、蓄音機からレコードまでの一貫生産を目指して、新子安駅前に東洋一の近代的な工場を建設、厳しい経済情勢にもかかわらず、第一次黄金時代を迎えた。
「テレビはあと一、二年もすれば実用化される。テレビこそが次代の日本を担う産業です」
一九四〇(昭和十五)年に予定されていた東京オリンピックを、テレビで中継するためNHKに出向していた高柳は、講演を依頼されると必ずこの持論をぶった。日産コンツェルンの総帥・鮎川義介がこれに興味を示し、米RCAに対してビクター株の譲渡を打診、水面下の交渉を経て三七年六月に四二・五%の株式を取得した。鮎川が自ら会長に就き、実務を取り仕切る専務として、戦後日産自動車の社長となる浅原源七が送り込まれた。その一カ月後に|盧溝橋《ろこうきよう》事件が発生した。
「日産コンツェルンが満州(中国・東北部)開発に関与したいなら、娯楽会社(ビクター)の経営から手を引いてもらいたい」
日本は不況から脱出する切り札として満州進出を決めたが、鮎川は満州を支配下に収めた関東軍からこう|恫喝《どうかつ》され、わずか半年でビクターの経営から手を引いた。持ち株は後に東芝に統合される東京電気に譲渡された。
翌三八年には近衛内閣の手で「国家総動員法」が施行され、日米関係が急速に険悪化したことからRCAは日本市場に見切りをつけ、日本ビクターとの資本関係の継続を断念、残りの持ち株を全株東京電気に売却してしまった。
世界情勢の悪化で、東京オリンピックはあえなく中止されたものの、前年の三九年九月にビクターの手によって、高柳の長年の夢だったテレビジョン受像機の第一号機が完成した。
NHKと陸軍への納入に先立ち東京・日本橋高島屋で当時人気絶頂だったビクターの専属歌手、小唄勝太郎がテレビカメラの前に立ち、その姿がブラウン管を通じて初めて大衆の前に映し出された。しかし日本は太平洋戦争に突き進んだことで、テレビ放送されることもなく、したがってテレビジョン受像機が商業生産されることもなかった。
余談になるが男の世界には、親分と子分の関係がある。サラリーマン社会とて例外ではない。親分には面倒見の良さともいうべき“親分肌”が要求される。“子分肌”という言葉は聞かないが、あるとすれば親分の信頼が厚く、しかもその立場を脅かさないのが絶対の条件である。
当然のことながら企業にも親会社と子会社がある。この親子関係は資本で結ばれており、いくら時間を経ても逆転することはない。ビクターは数奇な運命をたどり、知らず知らずのうちに、親会社に逆らわない“子分肌”が身に付いた。順調な時代には子分肌の良さが生かされるが、激動期には第一回の芥川賞を受賞した石川三の小説のタイトルにある『風にそよぐ|葦《あし》』になりかねない。ビクターの半世紀はまさに葦の歴史だった。
それに終止符を打つには、何はともあれ戦災の廃墟から立ち上がらなければならない。日本の電子産業は一九五〇年に勃発した朝鮮戦争に伴う特需で、飛躍の糸口を見いだすが、東芝主導によるビクターの経営は労働争議のあおりを受け、再建復興が軌道に乗らず、最悪の事態を迎えていた。
政府は経済界の混乱を是正する策として「企業再建整備法」を策定し、経営難に陥った企業の再建を支援する方針を打ち出した。ビクターは四九年四月に同法の認可を申請、五一年に再建計画の認可を得た。これに基づいて資本金を一千万円から百万円へ減資すると同時に、企業再建整備法に基づく戦時中の残存旧債務弁済のため、今度は二千五百万円に増資、その大半を日本興業銀行が引き受けた。親会社が東芝から興銀に代わり、ビクターは興銀の管理会社として再出発することになった。
興銀はビクター再建の具体的なシナリオを書き、副社長の派遣を決めた。ところが再建に乗り出そうとした矢先に独占禁止法が改正され、銀行の株式保有に制限が加わったこともあり、興銀はいやが応でもビクターの持ち株を手放さざるを得なくなった。そこで有力企業に経営権の肩代わりを打診したところ、松下電器の創業社長・松下幸之助が敢然と名乗り出た。
幸之助は戦前から「犬のマーク」に興味と同時に|畏敬《いけい》の念を抱いており、買収の経緯を部下に語ったことがある。
「日本ビクターは戦前、外資企業としてスタートしたが、邦楽を最初にレコードにしたのはアメリカのビクターや。あんたがたは知らんだろうが、そのころ日本にはまだレコードの原盤を作る工場がなかったんやで。そこでビクターがレコードの録音技師を日本に派遣して、日本で吹き込み、それをアメリカでプレスしたんや。日本ビクターは伝統のある会社や。技術もいいもんを持っとる。そういう会社が消えるのは寂しいやないか。ビクターの経営を引き受けるということは、日本の文化を守るということや」
幸之助の鶴の一声で、ビクターの存続が決まった。ただし幸之助は吸収合併といった安易な手段を選ばず、独立企業として存続させることにした。理由は幸之助独特の経営哲学にあった。
「松下が犬のマークを持っていても、猫に小判、豚に真珠や。ビクターは昔から独自の企業文化を持っている。それを生かすには、別会社にしておいた方が松下のプラスになる。ビクターとわしの会社(松下)を競わせるんや。そこで勝つことがビクターの生きる道や」
ビクターの良さを生かすために、役員人事でも露骨な進駐軍人事は避け、社長には東条内閣当時の駐米全権大使として日米交渉に携わった野村吉三郎(元海軍大将、外相)を迎え、副社長には住友銀行常務から松下興産に入った|百瀬《ももせ》結を派遣、松下本体からは専務として北野善朗を送り込んだに過ぎない。朝鮮戦争の休戦協定に調印する五三年三月のことだ。社長に経済界とは縁もゆかりもない野村を据えたのは、野村が幸之助と同じ和歌山県の出という地縁に由来する。
ビクターの「風にそよぐ葦」の状態に終止符が打たれた。半面、善し悪しは別にして、“子分肌”の体質はこれによって骨の髄まで染み込むことになる。
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2 VTRでもう一度
ビクターの経営は松下傘下に入ったのを機に安定に向かい、開発部門を預かる高柳健次郎は、研究に没頭できる環境が整った。それから二年後の一九五五年、映像メディアの世界に大きな衝撃が走った。プロ向けの中堅オーディオ・テープレコーダー・メーカーとして知られる米アンペックス社が、さりげなく一つのニュースをアナウンスしたのが発端だった。
「ギンスバーグ博士を中心とするわが社の六人の若手技術者が磁気テープを使い、音だけでなく映像も同時に収録できる放送局用白黒VTR(ビデオテープレコーダー)の開発に成功、一年後に発売に踏み切る」
このニュースに接した瞬間、高柳は大声を発した。
「しまった! やられた!」
高柳はその日のうちに、若手技術者を集めて、やや興奮しながら|檄《げき》を飛ばした。
「ビクターは音の缶詰のレコードと蓄音機を作るため設立された会社なのです。私は内々ビクターの次なる仕事は、絵と音の缶詰を実用化することだと考えていました。ビデオです。放送局用ではアンペックス社に後れを取ったが、その分、なんとしてでも家庭用で取り戻したい。
蓄音機を発明したのはエジソンですが、今日普及している平円盤のレコードを使った蓄音機を開発して実用化したのは、ベルリナーとジョンソンという戦前のわれわれの親会社、米ビクター・トーキング・マシーンを設立した二人の創業者です。彼らは偉大な発明王・エジソンに敢然と立ち向かって、勝利を収めたのです。決め手となったのは、新しい技術です。
ビクターは技術でエジソンを打ち負かした会社の流れを汲む、由緒ある会社です。ビデオは世界の電機メーカーのみならず、テレビ会社も目の色を変えて開発を急いでいます。われわれはその激戦の市場に参入するのです。それがビクターの宿命なのです」
テレビの映像と音声信号を磁気テープに記録する考えは、“電気屋”を自負する技術者であれば、誰でも思いつくことだ。それを世界で初めて実験したのは、「ホワイト・クリスマス」の大ヒットで知られるアメリカの往年の名歌手、ビング・クロスビーが主宰する「ビング・クロスビー・エンタープライズ」とされる。一九五一年のことだ。これに刺激され、まず「テレビの元祖」として世界にその名をとどろかせていたRCAが動き出した。RCAは戦前、米ビクターを吸収合併した大手電機メーカーである。ビング・クロスビー・エンタープライズが実験を始めたその年に、会長のデビット・サーノフは社内で厳命した。
「テレビの時差を解消するため、映像を蓄える機械を開発せよ」
水面下では英国営放送のBBCやRCAも開発に着手したが、一番乗りを果たしたのは、伏兵ともいうべきアンペックス社だった。同社は予定通り、五六年の全米エネルギー大会に放送局向けのビデオ(VR─1000)を出展したのを機に発売に踏み切った。このビデオたるや、中は真空管だらけ。幅二インチの磁気テープが、四つのヘッドの間をけたたましい音をたてながらブンブン回る、まるで化け物のような機械だった。
大きさは当時、アメリカで大流行していた超大型のジュークボックスほどあった。日本流にいうと六畳間に辛うじて入る大きさである。どこから見てもグロテスク。ライバルの電機メーカーは「こんな化け物のような機械を放送局が採用するわけがない」とタカを|括《くく》っていた。ところが、この機械がアメリカの映像メディアの世界を大きく変えた。
アメリカのテレビの歴史はハード、ソフトともRCAの歴史でもある。高柳が積分型撮像法の特許を出願した一九三〇年、RCAは映像メディアの将来性に着目して、米三大ネットのNBCを傘下に収め、同時にニューヨークにテレビ実験局を開局させた。エンパイアステートビルからテレビの試験放送を始めたのは、それから六年後の三六年である。翌年には電子式テレビの実験放送を始め、さらに金属ブラウン管・投射型テレビも開発した。
一方、日本では高柳の技術を基に三三年に浜松高工が、安立電気に依頼してテレビ実験放送のための短波送信機を設置、その三年後にはNHKが東京オリンピックの放送に備え高柳に協力を要請した。この時、すでに浜松高工では高柳の技術を基に走査線二百四十五本、毎秒像数三十枚の電子式テレビの開発を終えていた。
NBCがニューヨークで定期試験放送を開始した三九年九月に、日本でもビクターが日本橋高島屋で一週間にわたり公開受像展覧会を開いた。テレビの前は黒山の人だかり。その前で歌ったビクター専属歌手の小唄勝太郎は、日本初のテレビ出演タレントとなった。
日米は技術交流がないまま、太平洋を挟んで実用化に向け激しく競いあったが、ゴール直前(本放送)で、決定的な差が出てしまった。日中戦争から一気に太平洋戦争へ突入した日本は、テレビの開発どころでなくなった。この間、アメリカは本放送に向けて着々と準備を進めた。第二次世界大戦が勃発する直前の四〇年には、難航していた白黒テレビの標準方式が決まり、まずNBCに第一号の免許が与えられた。翌年の十二月八日に日米の太平洋戦争の火ぶたが切られた。この日、ルーズベルト大統領の対日宣戦布告要請の議会演説がテレビで流され、テレビが米国民の士気高揚に一役買った。
米国ではこれを機に一気にテレビが普及するかに見えたが、戦争の激化で四二年にNBCとCBSがテレビ放送の中止を余儀なくされてしまった。連合軍の勝利が決定的になった四四年にようやくテレビ放送が再開されたが、今度はカラーテレビの開発動向が絡んで消費者の買い控え現象が起き、白黒テレビの普及は思ったほど進まなかった。
テレビが全盛期を迎えるのは、RCAが白黒テレビと互換性のあるカラーテレビを発表した四七年以降である。四九年に米国のテレビ局は百七局に達し、受像機は早くも一千万台を超えた。
日本といえば戦前のほんの一時期、ビクターの経営にタッチした鮎川義介と、読売新聞のオーナー、正力松太郎が水面下でテレビ放送の実験化に向けて|蠢《うごめ》き始めたばかりで、アメリカとの差は埋めようもなかった。正力が「日本テレビ放送網構想」(NTV)をぶち上げたのは、公職追放が解除された直後の五一年九月である。正力構想は翌年一月にまず東京で放送を始め、次いで大阪、名古屋など全国十四カ所に中継所と送信所を作り、全国の山頂をマイクロ回線で縦断的に結び付け全国放送網を作り上げるという雄大なものだった。
正力構想が出る半年前に、二年後の放送開始を決定したばかりのNHKのショックは大きかった。ただしテレビ放送を始めるには、その前に放送の標準方式を決めなければならない。これを巡って正力が推す米国方式と、家電メーカーが主張する国産方式が激しく対立していたが、最終的に走査線五百二十五本、画像三十枚、周波数幅六メガヘルツの米国方式が採用された。
これを機にテレビ放送「一番乗り」競争が熾烈になった。NTV構想に刺激され、NHKのみならず民放各社も負けじとばかり免許申請の準備を急いだ。そして五二年七月に、正力の率いるNTVが予備免許を獲得した。NHKとラジオ東京(現TBS)の申請は保留されたが、それでもNHKは本免許に備えて着々と準備を進め、運用実験も開始した。
NHKが受信契約を結んだ一千九十三世帯を対象にテレビ放送を始めたのは、五三年二月のことである。その半年後に正力の率いるNTVが開局した。予備免許の段階ではNHKに先んじていたNTVが本放送で後れを取ったのは、RCAからの放送機器の納入が遅れたためとされる。
日本の映像メディアが、ようやく|黎明《れいめい》期を迎えたころ、米国はすでにテレビ全盛期に入っていた。五二年に一時凍結していたテレビ局新設の免許の受け付けを再開、同時にUHFチャンネルの割り当ても始めた。五五年にはテレビ局は四百十局に膨れ上がり、テレビの世帯普及率は一気に九五%に達した。
テレビの普及率の高まりとともに、ビデオの開発が盛んになったのは、米国の国土の広さと無関係ではない。東海岸と西海岸では時差が三時間あり、ニューヨークで夜の七時から始まるゴールデンタイムの番組は、ロサンゼルスではまだ日が沈む前の夕方四時に放映される。ところが番組をビデオに収録しておけば、ロスでも夜の七時に流すことができる。
グロテスクだが便利なアンペックス社の開発したビデオに、NBCのみならずCBS、ABCの米三大ネットワークがわれ先にと飛び付いた。第二次世界大戦の英雄・アイゼンハワー将軍が大統領に再選されたのは五七年だが、この時CBSはアンペックス機を使って放映し、米国民を驚かせた。むろんNHKをはじめ、日本の放送各社も一台三千万円と破格の値段の機械に、競って飛びついた。こうしてアンペックス社のビデオは、瞬時にして世界の放送局を|席巻《せつけん》した。
日本のテレビドラマ製作で最初にビデオが使われたのは、五八年に大阪テレビ放送(現朝日放送)が六月五日に放映した「ちんどん屋の天使」である。同じ年にTBSが制作し、今なおテレビドラマ史上最高の傑作とされるフランキー堺主演による「私は貝になりたい」の前半四十五分はビデオで制作された。
ビデオはドラマ以外にも活用された。TBSとNHKが積極的に利用したのが大相撲の中継だった。それまでは分解写真を使って解説していたが、ビデオの登場で色あせたものになった。
「VTRでもう一度」
「スローモーションでもう一度」
大相撲アナウンサーのこの言葉が、たちまち流行語になった。現像などの|煩《わずら》わしい作業がなく、テレビの映像をそのまま再現できるビデオの出現は、生放送と映画フィルムだけだった映像メディアの世界に、多彩な表現をもたらした。
「もはや戦後ではない。われわれは異なった事態に直面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」
経済企画庁は昭和三十一(一九五六)年度の経済白書にこう書き込んで、戦後の混乱期と訣別した。
「ビデオは金の卵です。将来必ず商売になります」
その頃、後に“ミスターVHS”として慕われるビクターの高野鎭雄は、技術部からテレビ部特機技術課に移り、NHKの依頼でベルハウエルの16ミリカメラや35ミリ映写機と放送局用映写機の開発を担当していた。映画は中村(萬屋)錦之助主演のチャンバラとシネマスコープの全盛時代で、映画産業は「わが世の春」を|謳歌《おうか》していた。
映画館は全国に五千二百館あり、この年の総入場者数は九億人に達した。日本人は赤ちゃんから年寄りまで、年平均九回ほど映画館に足を運んだことになる。|因《ちな》みに映画人口は、五八年の十二億二千七百四十五万人、映画館数は六〇年の七千四百五十七館が史上最高記録である。
ビクター製の映写機は、大きなスクリーンでも映りが良いとの評判が高く、どこの映画館でも引っ張りだこだった。評判の秘密は、高野が開発した映写機の研磨技術にあった。その映写機をNHKに納入しながら、高野は放送局におけるビデオの使われ方を目のあたりにした。
〈フィルムに収められた映画をビデオに置き換えれば、テレビで何回でも放送できる。外国映画なら16ミリの磁気録音テープを使えば、吹き替えも簡単にできる。これからは映画館に足を運ばなくとも、家庭にいながらにしてテレビで映画が見られるんだ〉
NHKのテレビ受信契約数は、五五年に十万世帯を超し、その後も年々倍々のペースで伸び、“ミッチーブーム”を巻き起こした皇太子御成婚の前年の五八年には、あっさり百万世帯を突破した。
家電のトップメーカー、松下電器はテレビの将来性に着目し、業界に先駆けて本社のある大阪・門真市にテレビ専門工場を建設した。辛口評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」とテレビを批判したのは、「週刊新潮」が発刊された五六年である。
テレビの急激な普及で、映画産業に陰りが出始めた。それを肌で感じた松竹、大映、東宝、東映、日活の邦画五社は、六二年に劇映画のテレビ局への提供打ち切りと、専属俳優のテレビ出演に制限(映画五社協定)を加えた。こうした時代錯誤の方針が日本映画の衰退に拍車をかけることになる。
高野は映像がフィルムからテープに移行する瞬間を自分の目で確認して、副社長の|百瀬《ももせ》結に進言したことがある。
「ビデオは金の卵を生むニワトリです。将来必ず商売になります。ビクターとしては一日も早くビデオ事業部を新設すべきです」
ビデオが金の卵であることは、研究所を預かる高柳の方が知り尽くしていた。ただし小型で軽量、しかも安価という家庭に入る究極のビデオを開発するには、技術面では気が遠くなるようなブレークスルーが大前提となる。それでも高柳は若手技術者に具体的な指示を出した。
「ビデオはたとえ放送局であっても、もっと小さく、しかもシンプルでなければならない。どうしたらそれができるか皆で考えて欲しい」
白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」ともてはやされ、家電が景気の機関車役を果たした岩戸景気は五九年から始まった。それを勢い付かせたのが、六〇年の安保騒動で総辞職した岸内閣に代わって登場した池田内閣が提唱した「国民所得倍増計画」である。
首相の池田勇人は就任半年後の閣議で、今後、年率七・九%の経済成長を遂げ、十年後の国民総生産(GNP)を二十六兆円に引き上げる目標を掲げた。ここから日本の高度経済成長、“黄金の六〇年代”がスタートした。
ビクターに限らず、家電各社は家庭用ビデオの実用化を夢見ていた。だがいくら高柳が若手技術者に、「家庭で使えるビデオを開発せよ」と大号令をかけても、ビデオの需要はまだ放送局用しかないのが現実だった。
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3 天才たちの葛藤
ビデオ技術史の中で屈指の発明とされるヘリカルスキャン(|螺旋《らせん》走査)方式を発明したのは、東芝元専務の澤崎憲一である。澤崎は戦前の一九三八(昭和十三)年、早稲田大学理工学部を卒業した後、東芝の前身、東京電気に入社してテレビの開発に携わっていた。戦後テレビが実用化されると、今度は磁気記録研究を志願した。東芝はテープレコーダーの開発では同業他社に後れを取ったが、澤崎はその汚名を返上するため、ポスト・テレビとして音と映像を同時に記録するビデオの実用化に熱中していた。しかも記録方式を磁気と静電のどちらを選択するかで迷っていた。
そんな矢先の五五年の春、自分の仕事と直接関係のない会議に呼ばれ、同僚の話を上の空で聞いていた。その時、偶然一つの考えが|閃《ひらめ》いた。
〈磁気テープを回転ドラムに螺旋状にして巻き付けながら回せば、一枚のテレビの画面がテープのワントラックに入るはずだ。それを続けて記録すれば、音と映像を同時に記録できる〉
このアイデアを基に澤崎は、ヘッドの予備試作機を作って実験を繰り返し、技術面での問題がないことを確認した上で、特許を申請した。アンペックス社がビデオの成功をアナウンスしたのは、まさにその直後である。
アンペックス社は日本進出に際して、東芝と提携して合弁会社の「東芝アンペックス」を設立するが、その契約書になぜか「合併会社はヘリカルスキャン方式は導入しない」という条項が記載された。これは後で改定されるが、この条項が東芝のビデオ戦略の足カセとなり、大きく立ち遅れることになる。
澤崎の発明したヘリカルスキャン方式に、ビクターの高柳健次郎が真っ先に飛びついた。ビクターがビデオを開発しようにも、技術基盤がない。だが高柳には天才技術者としての意地がある。アンペックス社と同じ製品を作っては、コピーの域をでない。
高柳はビデオの開発に際し、アンペックス社の半分の二ヘッドで記録する方式を目指した。二ヘッドに澤崎の発明したヘリカルスキャン方式を組み合わせれば、四ヘッドでは不可能とされた停止画像だけでなく、映像のチラツキも除去できる。
「二つの回転ヘッドを使ったヘリカルスキャン方式のビデオを開発せよ」
ビクターは高柳の指示で、五五年から基礎研究に着手した。まずビデオの基本的な仕組みを勉強し、続いて五八年からは具体的な開発にとりかかった。高柳自身、会社にいても家にいても、頭の中からビデオの原理が離れなかった。家では湯飲み茶碗を逆さにして、それをヘッドに見立て、TBSの技術部に勤める長男の俊を相手に、二ヘッドの可能性と問題点を洗い出した。
高柳の執念が実り、五九年十月九日には、回転二ヘッドにヘリカルスキャン方式を組み合わせた基本特許を申請するところまでこぎつけた。この方式は他社も研究しており、ビクターが申請した一週間後の十六日にソニー、続いて十九日に松下電器も申請したが、最終的にハナの差でビクターが栄光の座に就いた。
ビクターは六一年に、その優位性を生かし、現在のビデオの原型ともいうべき回転二ヘッド、ヘリカルスキャン方式による世界初の放送局用ビデオ(KV─1)を完成させた。この業務用ビデオは、小型で機構がシンプルなので使い易く、しかもアンペックス機に比べ値段もはるかに安かった。高柳は新製品を前に|呟《つぶや》いた。
〈このビデオさえあれば、アンペックス機を世界の放送局から駆逐するのも夢ではない〉
ビクターの営業部隊は、高柳に励まされて世界の放送局へ売り込みをかけたが、なぜかどの放送局も相手にしてくれない。理由はスタジオに鎮座しているグロテスクなアンペックス機と互換性がないことだった。
ビデオ化されたアメリカ映画を自国でテレビ放映しようにも、アンペックス機でないと再生できない。頼みの国内市場はソニーがいち早くアンペックス機と互換性のある製品を作っており、入る余地がまったくない。放送局用の製品が売れなければ、家庭用ビデオの開発費を|捻《ひね》り出すことができない。さしもの天才技術者の高柳も、ことビデオに関してはまだ互換性の重要性に気付いておらず、屈辱的な体験を味わうことになる。
〈ビデオは性能の善し悪しよりも、互換性が重要視される。先発メーカーが開発した技術規格を満たさない限り、市場に参入しても勝ち目はない。ビデオの規格というのは、ハードが普及すればするほどその価値が増す〉
当時、特機製造部精密機器課にいた高野は、高柳が中心となって開発したKV─1の失敗を側で見ていて、大きな教訓を得た。
その点、ソニーは賢明な選択をした。九七年末に亡くなった創業者の井深大はアンペックス社が初の放送局用ビデオを開発したとのニュースに接した時、愛弟子の木原信敏(現ソニー木原研究所代表)に号令をかけた。
「アンペックス社にできて、ソニーにできないはずがない。ビデオの実用化を急げ」
ソニーのビデオに対する取り組みは早かった。四七年に早稲田大学専門部工科機械科を卒業して創立まもない東京通信工業(現ソニー)に入社した木原は、テレビ放送が始まった直後の五三年、個人的に固定式ビデオの基礎実験を手がけ始めていた。会社として本格的に取り組むため翌五四年、通産省に研究補助金を申請した。申請書には研究目標として大きな夢を書いた。
「東通工では磁気記録によるテープレコーダーを販売している。その技術を基に、将来テレビ録画を磁気記録により、現在のフィルムに代わる性能のよい録画システムを完成させたい」
ところが時期尚早だったこともあり、申請はあえなく却下され、ビデオ開発は中断してしまった。申請書に書いたビデオの記録方式は、数年後アンペックス社が実用化したのと同じ回転四ヘッド方式だった。もし研究を継続していたら、ソニーは「世界で最初にビデオを実用化した企業」というタイトルを手に入れ、もっと早い段階で「ソニー神話」が確立していたであろう。
ソニーにはアンペックス社が実用化する以前から、ビデオの基礎知識があったわけだが、それでも井深はあくまで謙虚だった。ビクターの高柳が最初から回転二ヘッド、ヘリカルスキャン方式での実用化を目指したのとは対照的に、井深はアンペックス社と同じ製品を作ることからスタートした。
五八年八月に開かれたビデオの試作確定会議で、井深はビデオに関する持論を吐いた。
「アンペックス社には先駆者としての努力と敬意を払わなければならない。ソニーがアンペックス社のビデオを試作することは、単に模倣することではない。少なくともわれわれの技術をアンペックス社の技術水準まで引き上げる手段である。そのためビデオに付随するあらゆる技術をアンペックス社から学び、これを役立てていかなければならない。当然のことながらすべての電気回路、機械工作、材料の検討が必要だ。社内の技術を結集して開発にあたってほしい」
井深はアンペックス社の技術に追いつくことが当面の課題で、次の段階でソニー独自の製品を開発する戦略を立てていた。その直後に通産大臣から「VTRの試作研究に対する昭和三十三年度の研究補助金の交付指令」を受けた。これを機にソニーは、アンペックス型ビデオの国産化に全力を注ぐことになった。それから二カ月後の十月には、早くも試作機を完成させ、十二月にNHKや通産省の幹部を招待して試作機を公開した。
わずか二カ月という信じ難い短い期間に試作機を作ることができたのは、井深のビデオに対する情熱のほかに、TBSの協力が見逃せない。アンペックス社が発売に踏み切って以来、ソニーはあの手この手を使って技術情報を得ようとしたが、図面は入手できても、肝心の製品を見ないことには試作機を作りようがない。
日本の放送局で初めてアンペックス社製のビデオを設置したのは、大阪テレビである。五八年四月のことだ。続いてTBSとNHKが設置した。この時、ソニーはTBSに頼み込んで、入荷と同時にビデオの記録・再生の技術をつぶさに見せてもらった。
アンペックス社のビデオは二百本以上もの真空管を使っていたが、ソニーはすでにトランジスタを実用化していたこともあり、次々と真空管をトランジスタに置き換え、互換性を保ちながら、一・五ヘッドを経てビクターと同じ二ヘッド、ヘリカルスキャン方式に切り替えていく。
そしてオールトランジスタでできた工業用の「SV─201」が完成した直後、井深は木原にさりげなく話しかけた。
「同業他社はまだ放送局用のビデオの受注を目指して競争している。しかし放送局の需要は限られている。うちは小型化を一段と進め、放送局用と並行して家庭用の需要を狙おうよ」
早い段階で家庭用ビデオの将来性に着目した高柳と井深には、技術者としての|慧眼《けいがん》があった。その証拠に放送局用に安住したアンペックス社は、家庭用に取り組むことなく衰退、RCAをはじめとする世界の強豪電機メーカーも、二ヘッド、ヘリカルスキャン方式を実用化できず、さじを投げてしまった。
良品が必ず売れるとは限らない。ビクターは放送局向けに開発した第一号機のKV─1で、大きな授業料を払った。しかしシッポを巻いて逃げ出すどころか、むしろビジネス面での失敗は、ビデオに首ったけになる反作用の役割さえ果たした。失敗を機に、技術成果の発表を通じて、積極的にビデオ業界に参入したのである。業績が岩戸景気の波に乗って上向き始め、研究開発にも余裕が出てきたことも幸いした。
松下がビクターを傘下に収めてから九年目の六二年十一月。ビクター社長の野村吉三郎が病気で退陣、代わって副社長の百瀬結が社長に昇格、高柳も常務となった。ビクターは松下入りした当初、金融筋をして「十年かかっても返済は不可能」といわしめるほどの巨額の負債を抱えていたが、これを半分の五年で返済、六〇年には東京、大阪の両証券取引所に株式を上場させた。二割配当ということもあり、兜町や北浜では「新しい成長株」として注目され始めた。
トップ交代のあった六二年は、NHKのテレビの受信契約数が一千万を突破、それに反比例して映画観客人口が最盛期の半分近い六億六千二百万人に減った。前年の六一年に新東宝が倒産、負債整理の過程で五百二十九本の映画がテレビ局へ流れた。ところが大映、松竹、東宝、東映、日活の邦画五社は時代の流れに気づかず、社長会を開いて専属主演スターの他社出演禁止を申し合わせた。この時代錯誤の申し合わせが、映画産業のさらなる衰退に拍車をかけることになる。
ビクターの好業績の秘密は、テレビではなく音響製品のステレオにあった。六一年は前年比二・五倍と驚異的な伸びを達成、売り上げに占める比率も前年の一九%から三七%に高まり、六三年にはテレビの三六%に対して音響は四四%と、あっさり逆転してしまった。“経営の神様”としての松下幸之助の名声は、ビクターの再建で一段と高まったが、幸之助は再建を確実にするため、自らビクターの会長に就任した。
皇太子の御成婚で白黒テレビが爆発的に売れたように、今度は東京オリンピックが引き金になって、カラーテレビが普及する条件が整った。六〇年代前半の日本経済は高度成長の|黎明《れいめい》期で、カラーテレビを抱える家電業界とモータリゼーション(自動車の進展)前夜にあった自動車産業が牽引車役を果たした。
自動車メーカーの夢は、自動車を一家に一台置くことだが、家電各社に共通した夢は、家庭の居間に置けるような、小型でしかも手頃な価格の家庭用のビデオを開発することだった。カラーテレビに続き家庭用ビデオが開発されれば、家電産業の将来は安泰である。
放送局用ビデオのテープ幅は、二インチから一インチに縮まり、機械も年々小型化した。だが各社の激しい技術開発競争とは裏腹に、ビデオは依然として放送というプロ用の域を出なかった。多少小型化したとはいえ、操作も難しく家庭用には向かない。家電メーカーは必死になって家庭用の開発に取り組んだが、次第に「金食い虫」の様相を呈してきた。
ビクターの主力製品は、音響製品、テレビ、レコードが三本柱になっていた。ビクターは“テレビの父”高柳を擁しているだけに、カラー化への取り組みは早かった。オリンピック不況から脱した六七年の秋口のある日、松下会長、高橋荒太郎の秘書をしていた平田雅彦は、相談役の松下幸之助に呼ばれた。
「きみな、悪いけどわしが会長をしているビクターに行って(出向して)くれんか」
「技術屋でもない私がですか?」
平田が戸惑った表情をしていると、幸之助が出向の狙いを語り始めた。
「ビクターの業績は表面上はそこそこやが、病気になりかけている。きみが行って社長の百瀬を助けてやってほしいんや」
といわれても平田にはどんな病気なのか、さっぱり見当がつかない。
「病気といいますと?」
「行けばわかるやろ……」
幸之助の言葉は穏やかだが、表情は厳しかった。平田の専門は経理である。五三年の入社以来、経理畑を歩き入社十年目で予算課長になり、その後秘書室に移ってきた。
〈相談役のいわれたビクターの病気というのは、何のことやろう〉
まもなく平田は経理部長としてビクターに派遣され、翌六八年に取締役に就き、ビクターがどんな病気にかかっているのか、直ちに問題点の洗い出しにかかった。病名はほどなく分かった。「白のビクター」をキャッチフレーズにした主力製品のカラーテレビは、台数こそ年々増えているが、シェアが低下している。いってみれば“シェア低下病”である。
お家芸の音響製品もパイオニア、トリオ(現ケンウッド)、山水電気の専業三社の猛追を受け、かつての勢いがなくなっていた。それでもそこそこの利益を出しているのは、すべてレコードのお陰だった。
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4 演歌が収益の下支え
黄金の六〇年代。昭和で言えば高度経済成長の軌道に向けて日本経済が離陸した三十年代半ばから、大学紛争の嵐が吹き荒れた四十年代半ばにかけて演歌が全盛時代を迎えた。ビクターは鶴田浩二、フランク永井、橋幸夫、内山田洋とクールファイブ、森進一、松尾和子、青江美奈、藤圭子、佐良直美といった、出せばヒットする売れっ子歌手と専属契約を結んでいた。何のことはない。ビクターの収益構造は、いつしか流行歌、とりわけ演歌が下支えするようになっていた。
松下幸之助の命令で、松下本社から経理部長としてビクターに乗り込んできた平田雅彦は思った。
〈レコード事業はしょせん水ものだ。永遠にヒットを出し続けるのは不可能に近い。レコード中心の収益構造を是正しなければ、ビクターはメーカーとして生き残れない。幸之助会長の言っていたビクターの病気というのは、このことではないか〉
平田は自分なりに問題点を洗い出して、そのつど大阪に出向いて幸之助に直接報告した。
「ビクターはソフト(レコード)で利益を上げ、ハード(機器)の不振をカバーしています。事業部ごとの収支決算を出せば、よりはっきりします」
すると幸之助はわが意を得たりとばかりに、平田に次なる指示を出した。
「そうやろう。わしのにらんだ通りや。日本経済は資本の自由化を目前に控え、これからますます競争が激しくなる。家電業界とて例外ではない。中堅メーカーほど抜本的な改革をせなあかん。ハードが儲からずソフトの利益で決算数字の格好をつけるというのは、経営の邪道や。そんなことでは、本当の改革なんかでけへん。ビクターがモノ作りの会社であるんなら、その辺のケジメをつけんとあかん。ケジメをつけさせるのがお前の仕事や、分かっているやろな」
平田は幸之助の助言を受け入れ、独自の改革案作りに着手した。今でいうリストラ(事業の再構築)である。平田が考え出したリストラ策は、儲け頭のレコード事業部門の切り離しと事業部制のさらなる徹底である。ただし、いくら幸之助という後ろ盾があるとはいえ、一介の取締役経理部長が収益部門の切り離しを提案しても、社内の反発は目に見えている。
「収益部門のレコードを切り放したら、ハード部門への投資ができなくなるではないか」
こう言い返されたら「松下グループ企業の事業部は独立採算が大原則です。よその事業部の利益をあてにしてはならない」と正論を吐くのは簡単だが、“松下進駐軍”の若き経理部長が、正面切って反論すれば角が立つ。ビクターの社員は、松下の社員に理解できないほど、レコードに強い愛着を持っていた。
ビクターの歴史は、ある面で日本の流行歌史でもある。会社設立は一九二七(昭和二)年九月十三日だが、翌年二月には最初のレコードを発売した。この中に日本を代表するテナー歌手として世界にデビューしたばかりの藤原義江が、アメリカで吹き込んだ「荒城の月」「沖の|鴎《かもめ》」「出船」「出船の港」など多くの日本歌曲が含まれていた。
最初のヒット曲となったのが、四月に発売した野口雨情(作詞)と中山晋平(作曲)の手で作られた「波浮の港」である。歌ったのは新人歌手の佐藤千夜子。これがヒット盤となり、彼女は日本のレコード界の最初のスター、文字通り“一番星”となった。
実のところ「波浮の港」は、レコード用として作られた作品ではなかった。これに対し同年十二月に発売した「君恋し」は、最初からレコード用として企画され、作詞を時雨音羽、作曲を佐々紅華に依頼、浅草の人気歌手だった二村定一に歌わせるというレコード界にとって前例のない試みだった。大衆はビクターの新しい試みに「待ってました」とばかりに飛びついたことから「君恋し」は、「波浮の港」を上回る大ヒットとなった。この歌は戦後の六一年、フランク永井が絶唱して再び大ヒットした。
流行歌に強いという伝統は、戦後も引き継がれ「異国の丘」「東京の屋根の下」「月よりの使者」「高原の駅よさようなら」「|夜来香《イエライシヤン》」「銀座カンカン娘」「黄色いリボン」「野球小僧」……。今なおカラオケで歌われている数々の歌謡曲をヒットさせた。当然のことながらビクターは灰田勝彦、竹山逸郎、小畑実、山口淑子、高峰秀子、渡辺はま子……といった当代の売れっ子歌手を揃えていた。流行歌での切れ目ないヒットは、高度経済成長期の演歌に受け継がれた。|因《ちな》みにビクターは「誰よりも君を愛す」「君恋し」「いつでも夢を」と六〇年から三年連続して、日本レコード大賞を獲得するという離れ業を演じた。
戦前戦後を通じてビクターの発展を支えてきたレコード事業を切り離すことに、流行歌とともに歩んできた生え抜き社員は強い抵抗を示したが、意外にも社長の|百瀬《ももせ》結が乗ってきた。住友銀行出身の百瀬の目から見ても、ハード部門の生産性は低かった。百瀬は銀行出身者らしく、なにごとにも合理的だった。レコード部門を抱えているせいか、ルーズになりがちな社員の出退勤時間の厳守を徹底させ、さらに企業意識を高めるため、社員に「犬のマーク」のついたバッジを付けることを義務付けた。
「お前はどこの会社の者か」
百瀬は顔見知りの社員でも、バッジを付けていない社員を見ると、その場で怒鳴り飛ばした。その一方で経理管理の面でも、削減を徹底させた。たとえ鉛筆一本にしても二センチぐらいにならなければ、新しいものは支給しない。社長就任後も二割の高配当にもかかわらず、社長室にはじゅうたんすら敷かせないという具合に率先垂範した。いつの日か社員は名字の百瀬に|因《ちな》んで、「モモケチ」と陰口を叩くようになった。それでも百瀬は「われ関せず」の姿勢を貫いた。百瀬がレコード事業の分離案に乗ったのには、それなりの計算があってのことだ。
〈ビクターの生産性が低いということは、品質に問題があるということではないか。レコードという金の卵がある限り、どうしても経営が甘くなる。平田君の提案には間違いなく、幸之助会長の意向が入っているはずだ〉
創立四十周年の記念式典は六七年に行われたが、百瀬はその席であえて「事業部制の徹底」と「生産性倍増」を訴えた。
日本ビクターが家電メーカーとして生き残るには、事業部制のさらなる徹底は当然として、レコードに代わる金の卵を育てなければならない。となればビデオしかない。問題はその責任者に誰を据えるか。この時、百瀬は副社長時代に「ビデオ事業部を新設すべきだ」と進言してきた、実直な顔をした高野鎭雄の顔を思い浮かべた。
〈あの男は一本芯が通っている。やはりあの男しかいない〉
高野が属していた特機製造部は、日本映画の全盛時代は社内の稼ぎ頭だったが、テレビの普及に伴う映画産業の衰退と軌を一にして採算が悪化した。映画で食えなくなると副業として見よう見まねで企業や学校向けの業務用ビデオを作り、細々ながら対米輸出を始めた。百瀬はこうした高野のやり方をじっと見ていた。
七〇年二月。ビクターはVTR事業部(七二年にビデオ事業部に名称変更)を新設した。その直前、高野を社長室に呼んだ。
「今度、VTR事業部を新設する。新しい事業部にはビクターの命運がかかっている。そこでだ。初代の事業部長には、君になってもらう」
予想もしてなかった人事だけに、高野はうろたえた。
「社長、ちょっと待って下さい。|藪《やぶ》から棒にそんなことを言われても困ります。確かにビデオは会社の将来を左右する事業だと思います。ただし私のようなバカには、そんな大役は務まりません。それだけは勘弁して下さい」
高野は本心からそう思っていた。だが百瀬は一歩も譲らない。
「高野、よく考えてものを言え。そもそもビデオを事業部にして、本格的に取り組めば儲かると進言してきたのは誰か覚えているか。お前だぞ」
「確かに私はそう言いました。その考えは今も変わりありません。しかし、ほかに適任者がいるはずです」
「私の見るところ、お前がその適任者だ。しかもお前はバカだから、うってつけだ」
ここまで言われると返す言葉がない。
「それでは少し考える時間を下さい」
「いくら考えても無駄だ。私の人事方針は変わらない。これはお前だけに言っておくが、私は秋の株主総会を最後に社長を退く。良い返事をもらうまで、事業部長の席は空席にしておく。いいな、分かったな」
高野は入社以来、初めて一週間ほど会社を休み、朝から晩まで趣味の盆栽の手入れをしながら考え続けた。盆栽は生まれ故郷の愛知県安城市に住む実弟から何鉢かもらったのがきっかけで始めた。松一本ヤリで、毎年十月になるとマツカサを買ってきては、鉢に種を|播《ま》く。毎日水をやり、雪の降った朝は早く起きて、すべての鉢を風呂場に運ぶ。
高野は考えに考えた末、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、事業部長を引き受けることにした。その時、百瀬に一つだけ条件を出した。
「私は業務機器事業部の次長です。多少の引き継ぎがあるので、少し時間を下さい」
「それなら業務機器事業部長兼VTR事業部製造部長でどうだ。ただし私の社長退任と引き換えに、秋には事業部長専任になってもらう」
高野は百瀬に返事をする前日、大量の鉢を買ってきて、マツカサの種を播いた。
〈もしビデオが失敗して、事業部が解散にでもなったら、この鉢を部員全員にわけてやろう〉
百瀬は予定通り十一月の株主総会後の取締役会で会長に退き、新社長には副社長の北野善朗が昇格、松下幸之助は松下本社より一足先に会長から取締役相談役に退き、事実上ビクターの経営から手を退いた。
ビクターにVTR事業部が新設された七〇年の三月十四日から大阪・千里丘で「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会(EXPO'70)が開かれた。博覧会には七十七カ国が参加、九月十三日までの半年間の会期中に、日本の人口の半分に当たる六千四百二十二万人が千里丘に足を運んだ。
五十カ月という戦後最長のいざなぎ景気は、すでに前年の十二月に天井を打っていたが、七〇年に入ってもその余韻は残り万博のお祭り気分とあいまって、誰ともなく“昭和元禄時代”と呼ぶようになった。
万博が開幕する直前の二月、フジサンケイグループがビデオソフトに進出するため設立した「ポニー」社長の石田達郎は、バラ色に満ちたビデオ産業の未来像をぶち上げた。
「ビデオ産業は五年を待たずして、五千億円産業に成長するだろう」
家電業界首脳は景気のいい石田発言にわれ先に飛びついたものの、現実は想像以上に厳しかった。各社とも業務用、家庭用を問わず、開発に全力投球したが、結果は規格が乱立しただけでなく、煩雑な特許問題と高度な製造技術の問題が複雑に絡んで、事業化は困難を極めた。
利益を出せる会社はなく、開発部隊を解散したり、再結集したりの離合集散を繰り返した。開発責任者は酒が入ると自嘲気味にぼやいた。
「ビデオの責任者を一年もやれば、間違いなくクビが飛ぶ」
こうした逆風の中で、高野はVTR事業部長に就いた。事業部長といえば、一国一城の主である。やりがいがある半面、責任も重くのしかかる。事業部の本質は徹底した独立採算制にある。現在、産業界では総合商社を中心にディビジョンカンパニー(企業内分社)制を導入する会社が目立っているが、松下の事業部制はそのはしりともいえる。
幸之助がこの制度を取り入れたきっかけは、結核にかかり出社もままならず、経営の指示を出せなくなったことにある。そこで幸之助は考えた。
〈いちいち部下から報告を聞かずとも、会社を運営する方法はないものか〉
考えた末に編み出したのが、部を製品ごとに分けて、そこに生産、販売だけでなく予算、決算まで全責任を負わせ、あたかも独立の会社のように運営させる方法である。このシステムが定着すれば、社長の幸之助がいちいち具体的な指示を出さなくとも、会社は回る。戦前の一九三三(昭和八)年のことで、ラジオ、乾電池・ランプ、配線器具、合成樹脂・暖房器の四事業部でスタートした。むろんビクターも松下グループ入りと同時に、ゆるやかな事業部制を導入した。
事業に成長性があり軌道に乗れば、事業部長は左うちわだが、逆の場合は地獄である。ビクターのビデオ事業部は経営トップの期待が大きいものの、果たして事業として成り立つものなのか。経営トップはおろか、責任者となった高野すら見当がつかなかった。
製品といえば、日本電子機械工業会が初めて規格を統一した、業務用のオープンリール式の統一1型しかない。それもビクターは量産をしたことのない悲しさで、作っても作っても不良品の山。それでも売らなければ、事業部の売り上げが立たない。営業部隊は生産部門の人間には、信じられないようなことを平気で申し入れてくる。
「たとえ不良品であっても製品を作って欲しい。それでないとわれわれの仕事が成り立たない」
不良品を売れば、当然のことながら返品される。いつしか返品の数が売れた台数より多くなった。これでは高野ならずとも頭を抱えてしまう。厳しい独立採算制のため、赤字であろうと黒字であろうと、売り上げの三%を本社に上納しなければならない。資金を必要とする場合、事業計画を添えて本社に申し込む。ただし厳しい審査を経た上で、銀行借入と同率の金利を払わなければならない。
事業が軌道に乗り、借金を返済すれば、残った利益は事業部長の判断で再投資に回せる。逆に業績が好転しなければ、事業部長は責任をとらされるだけでなく、当該事業部は“社内倒産”の|烙印《らくいん》を押される。
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5 U規格の思惑
「ビデオを軌道に乗せなければ、日本ビクターの将来はない。といって事業部は赤字なので、使える金は限られている。売れそうな商品もない。ご覧の通り返品の山だ。将来はおれが何とかするから、当分の間、本社に迷惑かけないよう、自活する道を考えてくれ」
高野はビデオ事業部長を引き受けた直後の一九七〇(昭和四十五)年の晩秋、経理課長の大曽根収を呼んで、天井を仰ぎながら申し訳なさそうに言った。と言って確たる成算があったわけではない。事業部の売り上げは月五千万円ほどあったが、同時に同額の赤字が発生していた。その穴埋めのため本社から借金しても、焼け石に水。赤字は雪だるま式に膨らんだ。
これではいかんともしがたい。高野はそれまで酒を|嗜《たしな》まず、飲み物はコーヒー一辺倒だったが、事業部長に就任してからは、日が暮れる前から横浜工場の近くにある居酒屋「きしや」へ入り浸るという、飲んだくれの生活が始まった。
トップ自ら自暴自棄とも思える生活をしていては、事業部の士気は上がらない。発足した七〇年と翌七一年は、売り上げと同額の赤字を計上したことから、本社からの借金も発売当初の二倍に膨れ上がった。返品率は依然として五割と高い。二台売れても一台が返ってくる。これでは事業にはほど遠い。
ビデオ事業部は誰がみても、破滅への道を歩んでいた。高野は前社長の|百瀬《ももせ》から、請われる形で事業部長に就任したものの、いったん引き受けた以上、数字を残せなければ本社から完璧なまでに叩きのめされる。
「お前たちビデオ事業部の人間は、ビデオで食っているという自覚が足りない。泥を|被《かぶ》ってやるという意志はないのか。なければ……」
高野は社長の北野善朗から|叱責《しつせき》された言葉を日記に書き込み、|傍目《はため》には飲んだくれの生活を続けながらも、ビデオの将来性を自分なりに分析して考え、悩み、苦しんだ。そして一年過ぎたころになって、ようやく一つの結論を出した。
〈家庭用のビデオは教育用だけでなく、人々の生活、もっと|大袈裟《おおげさ》にいえば社会構造や文化まで変える可能性を秘めている。その夢を実現するには、まず今、作っている製品の品質を安定させなければならない。そうしなければ、夢が夢で終わってしまう〉
品質を安定させるのは、高野にとってそれほど難しくなかった。カラーテレビはエレクトロニクスの塊だが、ビデオはメカトロニクスの塊である。浜松高工で精密機器を専攻した高野は、それを活かすために就職先としてカメラメーカーの日本光学工業(現ニコン)を選んだ。
戦争に|弄《もてあそ》ばれ、ビクターに転職したものの根が“機械屋”だけに、ビデオの品質を高め、量産を軌道に乗せるカギはメカにあることを知り尽くしていた。
アッセンブラーであるビクターは、ほとんどの部品を外部から購入している。高野はまずビデオの心臓部ともいうべきドラムとヘッドの内製を始め、何はともあれ品質を安定させることに取り組んだ。
家庭用ビデオの一里塚ともいうべきテープ幅四分の三インチの「U規格」が生まれたのは、高野がビデオ事業部長に就任する一年前の六九年の暮れに、ソニーが松下とビクターに共同開発を持ちかけたのがキッカケだった。その原型は、東京オリンピックの開かれた六四年にソニーが「世界初の家庭用ビデオ」と銘打った回転二ヘッドの「CV─2000」にある。
この機械は据置型オープンリール式テープレコーダーの大きさまで小さくなったにもかかわらず、グロテスクなアンペックス機に負けないきれいな絵が出ていた。しかも価格は放送局用の百分の一以下、業務用の十分の一以下と安かった。
「家庭で使えるビデオを作りたい」という創業者・井深大の夢は、実現に向けて一歩踏み出したかに見えたが、現実はオープンリール式なのでいくら家庭用と銘打っても、需要は医療や工業用に限られた。
日本におけるカラーテレビの歴史は、映画の製作本数がピークに達した六〇年に、NHK(東京、大阪)、NTV、KRT、朝日放送、読売テレビの六局が本放送を開始した時に幕が上がった。四年後の東京オリンピックで、NHKは二百十台のカラーカメラを使って開会式のほか八種目、延べ百時間中継した。これを可能にしたのは、NHKとソニーが共同で、世界に先駆け放送機器のトランジスタ化に取り組み、カメラの性能を向上させたことにある。
NHKのテレビの受信契約数は、東京オリンピックの年に一千七百万世帯を超え、普及率も八三%に達した。普及率の上昇に伴い、テレビ広告費は一千億円の大台に乗り、新聞広告費の一千二百九十七億円に肉薄した。これを機にテレビ番組のカラー化は野火のように広がり、受信契約数が二千万世帯を超えた六七年には番組のカラー化率は、九〇%を超えた。
消費者は王様にたとえられるが、この王様は身勝手で、しかもメーカーに容赦なく無理難題を吹っ掛ける。
「ビデオは欲しいが、オープンリールは操作が面倒だ。オーディオのようにカセットにできないか」
王様の要望はとどまるところを知らない。
「テレビがカラー化された以上、ビデオも早晩カラー化される。購入するのはそれを待ってからでも遅くない」
王様の要望を満たすのは、口で言うほど易しくない。井深はそれを承知の上で、愛弟子の木原信敏の顔を見るたび苦言を呈した。
「なぁ、木原君や。カラーテレビが主流になった以上、ビデオも一日も早く、カラー化しなければお客さんは満足しないよ。テープレコーダーはカセットにしたお陰で、使い易くなり、需要が爆発的に伸びた。カセット式のカラービデオが出れば、お客さんは喜ぶんだが……。私には今からその光景が目に浮かぶんだ」
井深に指摘されるまでもなく、木原はカラー化とカセット化の必要性を痛感していたが、井深から明確な宿題を出されたことで、新たな悩みが始まった。ビデオはテープレコーダーと違って、構造が複雑である。
理論的にはデッキの上に並んだ、供給用と巻き取り用のリールを一つの箱にしまい込めば、カセットになる。しかし回転ヘッドのビデオは、カセットケースからテープを引き出して、記録・再生ヘッドのついたドラムに自動的に掛ける機能、つまりオートローディンク(テープ装填作業の自動化)を開発しなければならない。これが予想以上に難しい。
そのうえカラー化である。試行錯誤を繰り返し、まずカセットの小型化は酸化クロームテープを開発し、さらに供給用と巻き取り用の二つのリールを上下にずらし、部分的に重ねることで解決した。ローディングはロータリー式のU型の開発。カラー化は輝度信号の下に、周波数変換をしたカラー信号を入れ、さらにビクターの藤田光男が考案したカラーアンダー方式を採用することで実現した。
NASA(米航空宇宙局)が宇宙船アポロ十一号で、人間が初めて月面着陸した六九年の十月。ソニーはテープ幅四分の三インチ、カセット式のカラーテレビ番組を録画・再生できる「ソニー・カラー・ビデオ・プレーヤ」の発表にこぎつけた。
ところがソニーは技術発表しただけで、製品の発売には踏み切らず、|密《ひそ》かに松下電器とビクターの両社に共同開発を持ちかけた。両社はこれに飛びつき、ソニーを交えた三社は、木原が持つ特許をベースに自社の技術を持ち寄って改良を加え、一年後の七〇年末に共同開発の合意に達した。
U規格という名称は、テープをヘッドに巻き付けるローディング方式が、アルファベットのUに似ていることに由来している。U規格はそれまでの製品に比べ、あらゆる点で優れていた。画像は一段と鮮明になり、録画時間はたっぷり一時間ある。
画期的だったのは、特許の有無に関係なく、三社の技術をお互い自由にしかも無償で利用できるクロスライセンス契約を結んだことである。同時に各社が独自に開発した技術を三社で共有することも契約に盛り込んだ。
U規格製品は七一年に三社から次々と発売された。ビクターもその年の暮れにU─VCR(ビデオカセットレコーダー)の名称で売り出した。オープンデッキしかなかった製品のラインアップに、ポータブルのVCRが加わり、ようやく製品がスムーズに流れるようになった。
ビデオ事業部は組織の上では、業務機器事業本部の下に属していたが、七一年の組織改変で事業本部が廃止され、ビデオ事業部も他の事業部と同じように社長直轄となった。それまでは独立採算とはいえ、問題が起きれば上部組織の業務機器本部長に泣きついて、失点を覆い隠すこともできたが、今度はそうもいかない。ビデオ事業部長の高野が全責任を負わなければならない。高野の目の色が日に日に変わっていった。
「ビクターのビデオが、果たしてどの程度市場に出回っているのか。さらにどのくらい売れているのか。営業マンなら自分の足で歩いて、自分の目で確かめろ」
「他社の製品がなぜ売れるのか。商品力か、それとも販売力か、品質か、サービスか。営業マンならそれを見極めろ」
「仕事にケジメをつけろ。どこがどう悪かったのか、誰が責任を持って改めるのか。一人ひとりはっきりした考えを示せ」
「間接部門が直接部門を上回る人間を抱えているということは、どういうことか。こんな人員構成では利益が出る方が不思議だ」
「ビデオ事業部が置かれている現状は厳しい。お前たちは正直いって、その自覚が足りない」
こうした高野の怒鳴り声が、事業部内のあちこちで聞かれるようになった。高野は事業部を軌道に乗せ、一日も早く赤字体質から脱却したかった。その切り札としてU─VCRに大きな期待をかけた。対米輸出をするため、七二年の秋に初めてアメリカ市場視察に出かけ、市場の大きさに|度胆《どぎも》を抜かれた。
〈アメリカのビッグビジネスは、北米大陸だけで一千カ所以上もの支店や営業所を抱えている。これだけ大規模になると営業マンを一カ所に集めて研修するのは無理だ。その点、ビデオを使えば時間を節約でき、経費も安上がりになる。業務用ビデオを売り込むにはこんな最適な市場はない〉
高野は帰国早々、アメリカにビデオ専門の販売会社を設立する指示を出した。といってVCRを投入したことで、直ちに業績が好転したわけではない。依然赤字体質から抜け出せない。本社からは頻繁に業務報告を求められる。しかし高野は|頑《がん》として自分から本社に足を運ぼうとしなかった。自分が行けば、喧嘩になるのが分かり切っているので、代理として経理課長の大曽根収を派遣する。
「きょうは本社でどんな無理難題を押しつけられた?」
「固定費削減の一環として、『人を減らせ、とにかく人を減らせ』とやいの、やいの言われました」
高野は|憂鬱《ゆううつ》な気持ちになったが、さりとて一歩も譲る気はない。
「そうか、だがおれは絶対に人は減らさん」
「事業部長、本社の意向はともかく、工場は在庫で|溢《あふ》れ返っています。ここは意地を張らずに少し生産を落としましょう」
すると高野が怒りだし、大曽根に厳命した。
「お前までバカなことを言っちゃいかん。在庫が多いということは、生産性が上がったということだ。倉庫が満杯になるまで作り続けろ」
「しかし……」
「しかしもくそもない。生産調整すれは従業員のクビを切らなければならない。将来のことを考えれば、絶対に居てもらわなければならない大事な人たちなんだ。残ってもらうなら、働いてもらった方が会社としても得策だろう。なぁ、お前、そう思わんか」
高野はようやく安定した品質と、軌道に乗りかけた生産体制を崩したくなかった。いま量産体制を確立しておかなければ、本格的な家庭用ビデオが登場したとき、思い通りの生産ができなくなる。U規格のVCRは業務用として魅力的な商品だが、家庭で使うには大き過ぎ、重量が重く、しかも機構が複雑ときている。米国市場での価格は一台二千五百ドルと高い。
この高価な製品を購入して元が取れるのは、企業の広報部門や学校などの法人しかなかった。その市場はソニーが、がっちりと握っている。
井深と並ぶソニーのもう一人の創業者の盛田昭夫は、持ち前の顔の広さを活かしたトップセールスで、取引先の企業に百台単位で売り込みを図っている。松下電器に次ぐビクターの第二の大株主は日本生命保険だが、盛田はそんなことにも、お構いなしに売り込む。しかし大半の企業はビデオを購入したものの、肝心の使い方が分からず、倉庫で|埃《ほこり》を|被《かぶ》っていた
〈盛田さんは強引なトップセールスで、Uマチックを売りまくっているが、本当にそれでいいのだろうか。松下はU規格製品より、自社開発のカートリッジ式のビデオに力を入れている。ビデオの本命商品は小型で軽量、しかも値段の安い家庭用だが、その開発費を|捻《ひね》り出すにはVCRを売らなくてはならない〉
高野のジレンマはビクターの苦悩でもあった。業績は七〇年代前半は曲がりなりにも増収増益を維持してきたが、変調の兆しは七一年に入って表れた。前年の秋に発覚したカラーテレビの二重価格問題のあおりを受け、テレビの売れ行きが急減したのである。
NHKのカラーテレビの受信契約数は六八年に一千万世帯を突破したが、消費者運動の高まりの中でカラーテレビの二重価格問題が発覚、まず地婦連が不買運動を提唱、七〇年十一月に公正取引委員会が家電業界に警告を発したことで、販売不振が決定的になった。
家電各社は輸出に逃げようとしたが、この夢もニクソン・ショックであえなく断たれた。七一年八月十五日にニクソン米大統領が、金ドル交換の一時停止、一〇%の輸入課徴金を含むドル防衛策を発表、世界市場でドル売りが殺到したのである。そして暮れの先進十カ国蔵相会議で、金一オンス三八ドル、一ドル=三〇八円と決まりスミソニアン体制がスタート、日本経済は新たな局面に入った。
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第二章 先陣争い

1 天からの授かり物
東京通信工業と呼ばれていた創業期のソニーは、研究・開発の井深大、営業の盛田昭夫の二人がクルマの両輪となり、がむしゃらに働いたことで発展の基盤を築いた。井深が技術者として、第一線で活躍したのはトランジスタとテープレコーダーまでである。技術至上主義のソニーの強みは、井深をして「彼は会社(ソニー)にとって金の卵を生むニワトリです」といわしめた天才肌技術者、木原信敏の存在である。ソニーのビデオの歴史は、木原の発明史といっても過言ではない。
井深の先見性と木原の発明力、それに盛田の営業力が三位一体となって、ソニーはビデオ市場を切り|拓《ひら》いてきた。悲しいかな、その点ビクターには、“テレビの父”高柳健次郎しかいなかった。
その高柳の力が衰え始め、悪いことにカラーテレビの二重価格問題で業績が低迷し始めていただけに、経営陣の中には、U規格の「U─VCR」の成果を家庭用ビデオの開発につなげてほしいという思いが強い半面、研究開発本部に対する不満の声が公然と出始めていた。
「家庭用ビデオの開発を、研究所に任せていたら、いつモノにできるか分からない」
ビデオはポスト・カラーテレビの本命商品には違いないが、その一方で遅々として本格的な家庭用ビデオが登場しないことから、いつしか業界では「ポスト・カラーテレビはカラーテレビ」、との悲観的な声が|囁《ささや》かれ始めた。
ビクターの経営トップもその辺の見極めがつかず、時間が|経《へ》るにつれ打算的な考えが浮上していた。
「家庭用ビデオの開発を研究所に任せておけば、構想は出すことができても、彼らにはそれを事業化する才覚がない。下手をすれば技術者特有の遊びに走り、事業化の道を閉ざしてしまう危険性すらある。それより開発部をビデオ事業部に移し、そこで取り組ませた方が得策ではないか。仮にモノにならなくても痛手が少ない。どうせ移すなら早い方がよい」
研究開発本部の研究費は、各事業部が上納する本社経費で賄われる。当然のことながらビデオの技術者を事業部に転籍させれば、それだけ本社の負担は軽くなる。そこで思い切って温室育ちのビデオの研究者を、収益がすべてに優先する世界(事業部)に放り出すことにした。
「ビデオはビクターの将来を担う重要な仕事だ。ビデオ事業部に移っても、そちらで頑張ってくれ。事業部にVCRを定着させたなら、再びここ(研究開発本部)に戻って、新しい研究に取り組んでほしい。私はその日を首を長くして待っている」
研究開発本部を預かる専務の高柳健次郎は、送別会の席でこう挨拶した。百人近いビデオの技術者が研究開発本部から離れるということは、単にビデオが高柳の手から離れるだけでなく、社内で高柳のパワーが落ちることを意味する。
余生をビデオに捧げることを決意した高柳は、ビデオの開発に惜しみなく優秀な人材を注ぎ込んだ。高柳はこと技術に関しては、輝かしい成果を上げたものの、学究肌の悲しさで、事業化する才覚に乏しかった。
ところがビクターの経営には余裕がなくなってきた。ビデオ事業部長の高野鎭雄は、早い段階で本社の意図を見抜いていた。
〈本社の台所は、ドル箱のレコード事業部を切り離したことで苦しいのだ。考えたくないが、ひょっとしてビデオの将来に見切りをつけたのかもしれない。ただし本社がビデオを諦めても、おれは絶対に諦めない。事業部に移って来るビデオの技術者は、まさに天からの授かり物だ。彼らに本格的な家庭用ビデオを開発してもらい、私がそれを世界に普及させる。新しいビデオの規格は、たとえ会社が|潰《つぶ》れても、私が守り抜いてみせる。それだけに世界に通用する規格を作らなければならない〉
高野は家庭用ビデオに熱い思いを秘め、台所の苦しいビデオ事業部の中に、経営的には重荷になる百人の技術者を取り込んだ。ベテランの技術者は、ビデオをもがれた高柳の心情を察したが、若手の技術者は逆に高柳の挨拶に違和感を覚えた。高野が亡くなった後、VHSの語り部となった入社十三年目の廣田昭もそんな一人だった。
〈いよいよソニー、松下電器と一緒になって開発したVCRが立ち上がる。果たしてどのぐらいの事業に育つのか。自分の目で確かめ、それを家庭用のビデオに生かしたい〉
VCRの設計に携わった廣田は、ビデオ事業部への転籍を歓迎したが、高柳から「いずれ研究本部に戻ってこい」といわれた瞬間、心の中で叫んだ。
〈なぜ、何で、どうして〉
高柳の思いやりの挨拶と、自分の気持ちが|噛《か》み合わなかったからである。高野は百人の技術者を、新設の「VCR推進室」に配属した。そしてVCRが立ち上がった直後、高柳の愛弟子だった白石勇磨を呼び、日ごろから考えていたビデオに対する思いを打ち明けた。
「私はU規格のVCRに大きな期待を抱いたが、残念ながらこの機械は家庭用にはなりそうにもない。どこかが間違っている。そこでだ、君には失敗を恐れずに、新しいコンセプトによる家庭用ビデオを開発してもらいたいんだ。家庭用は基本的に小型・軽量でないと絶対に普及しない。そこでステレオデッキに近いものを考案してほしいんだ。といっても君の下には太田善彦と梅田弘幸の若手二人の技術者しかつけられない。難しい仕事であることは重々承知しているが、それを開発できるのは白石君、きみしかいない」
白石は五二年に日本大学理工学部を卒業した。少年時代から機械いじりが好きだったが、病弱なこともあり、電鉄会社に入りたかったが、就職難の時代で希望が|適《かな》わなかった。そこで赤字にもかかわらず、人材を募集していたビクターに潜り込んだ。
最初にレコード録音の仕事に携わったが、三、四年が過ぎたころ上司から助言を求められた。
「高柳先生が磁気テープにテレビの絵を入れられないかと言っているんだ。果たしてそんな夢のようなことが可能なのかね?」
「それは不可能ではありません。先生が考えているのはビデオテープレコーダー、英語の頭文字をとってわれわれがVTRと呼んでいる機械のことでしょう。すでにアメリカのアンペックス社が放送局用VTRの開発に成功しています。どんな製品か見てみないことには分かりませんが、来年にはテレビ局で使われるようです。先生はそれをビクターでも開発できないか考えておられるのだと思います」
「テレビを録画する機械だな。そうか、夢のような機械ができる時代になったんだ。それじゃ、お前は先生の相談相手になってくれ」
白石はこれがきっかけで、ビデオに首を突っ込むようになった。ビデオ事業部は毎月一回、管理者が一堂に会した全体朝礼を開く。その席で高野は報告した。
「今度、ビデオ事業部の中に総勢十五人の開発部を新設する。家庭用ビデオを担当するのは白石部長を含めたった三人だが、彼らには五年先の製品を開発してもらう」
当時、部内の最大の関心事は「いつまでビデオ事業部が持つか」だったこともあり、誰一人として開発部の新設に興味を示さなかった。ただし白石にとって新しい職場の居心地は、決して悪くなかった。研究開発本部時代には、湯水とまでにはいかないまでも、研究費はふんだんに使えたが、それなりのプレッシャーもあった。本社からは「技術成果をマスコミに発表するので、何月何日までメドをつけるように」という通達がくる。技術成果の発表は、企業のイメージアップにつながることから、経営トップは研究開発本部の動向に強い関心を示した。
ビデオ事業部に転籍してからは、この種のプレッシャーからは解放されたが、高野の要求は雲をつかむようなもので、おいそれとアイデアは浮かんでこない。一年も過ぎると、「VCR推進室」に在籍していた廣田など数人が開発部へ移ってきたが、事業部内の人々は、依然として白石たちの仕事に関心を示さなかった。しかし高野だけは人目を忍んでこっそりやってきては励ました。
「家庭用ビデオは世界の強豪家電メーカーが総力を挙げて取り組んだにもかかわらず、今もってモノにできないでいる。なぜ開発できないのか。それさえ分かれば、ビクターも新規参入する余地はあるはずだ。われわれがこれから戦う相手は、世界の一流メーカーだ。
言ってみれば野武士の蜂須賀小六が、素手で戦国大名の織田信長や徳川家康と戦うようなものだ。真正面からぶつかっても勝てるわけがない。ビデオの世界も同じだ。過去の延長線からは、世界市場を|席巻《せつけん》できるようなビデオは生まれない。過去の常識から離れて、基本設計に取り組んでほしい」
高野の予言通り、VCRの販売は芳しくなかった。期待の対米輸出も思ったように伸びない。ただし生産は、高野の方針でフル操業を続けている。在庫はいつしか九カ月分の八千台に達した。事業部の赤字も雪だるま式に膨れ上がり、高野は本社から厳しく業務報告を求められる。そのつど経理課長の大曽根収を代理として報告に行かせるが、事業部長が直接目に見える形での合理化策を提示しない限り、本社は納得しない。いつまでもノラリクラリとした返事では済まなくなった。
ビクターはビデオ時代の到来に備え、大阪万博が開かれた七〇年に松下、TBS、電通、東映、テイチク、凸版印刷、毎日新聞と共同でビデオソフトの企画、制作、販売を目的とした「パック・イン・ビデオ」を設立した。社名の「PACK IN VIDEO」は、文字通り「映像をパッケージにしたもの」、「映像の缶詰」の意味である。
参加企業の顔ぶれを見る限り、ビデオ時代の到来を予測させたが、ハードの機器が普及しないことには新会社の事業は成り立たない。ビクターが音頭をとって設立したソフト会社を軌道に乗せるため、高野は「ビデオを使えば仕事の効率が高まるのではないか」と期待している人々に、ビデオの効用を説くのが早道と考えた。
そこである日、白石と一緒に研究開発本部から転籍してきた技術部次長の上野吉弘を呼んだ。
「ビデオは世の中の役に立つ機械であることは、おれ以上にお前が知っているはずだ。本社は赤字というだけで、『技術者を減らせ』と言ってくる。しかしここで技術者をバラバラにしてしまえば、ビクターのビデオ事業部は、金輪際立ち上がれなくなるだろう。そこでだ、上野。おれは本社をごまかすため、システム開発部というもっともらしい組織を新設する。お前がそこの責任者に就いて二十人の技術者を抱え、自分たちで飯を食うことを考えてくれ」
「新設の部では、何をやればいいんですか」
「ビクターは伝統的に法人向けが弱い。とにかくソニーの盛田さんのトップセールスには舌を巻く。うちのトップにそれをまねしろというのは酷だ。うちは法人向けが弱い分だけ、勢い旅館やラブホテルに走る。悪いとはいわんが、こんなものビデオ需要のほんの一部でしかない。麻雀でいう|端牌《はじはい》だ。その点、お前たちはビデオ開発という王道を歩んでいる筋金入りの技術者だ。その製品が、販売先として口に出しにくいラブホテルでしか使われないというのであれば、いかにも情けないだろう。
ビデオは素晴らしい機能を持っている機械であることを、残念ながらまだユーザーは知らない。そこでビクターの方からアイデアを出して、ビデオ活用法を提案しようと思っているんだ。それができるのは、お前たち技術者しかいない。システム開発部に配属された人間が直接セールスに携わって、オピニオンのユーザーを開拓してくれ。むろん休日にはおれも手伝う」
上野は五六年に東京工業大学を卒業してビクターに入った。大学四年の夏休みに、松下通信工業に二カ月ほど実習に行き、さんざん松下グループ企業の良さを吹き込まれた。ところが上野は、ビクターの方に親近感を覚えていた。父親が大のレコード収集家で、家には犬のマークの付いたビクターの蓄音機があり、レコードも洋楽から浪花節まで揃っていた。
こうした環境で育ったせいか、小さいころからビクターの製品に愛着を感じていた。高柳が大学の先輩だったことにも、心を動かされた。実習先への配慮から松下とビクターの両社を受験することを決めたが、運悪く試験日が重なってしまった。思いあまってゼミの教授に相談したところ、予想通り一喝された。
「家電は将来日本経済を担う重要な産業だ。松下電器といえばそのトップメーカーだろう。一方のビクターは、東工大の先輩でもある高柳先生が研究・開発の陣頭指揮をとっておられるが、業績不振で松下に買収された会社だ。どちらを受けるかなんて聞くだけ野暮だ。お前の成績なら文句なしに松下に入れる。悪いことはいわん。松下にしろ」
教授には松下の受験を薦められたが、それでも犬のマークに対する思いは断ち難く、上野は最終的にはビクター受験を選んだ。
〈松下電器は日本を代表する家電メーカーだが、いかんせん組織が大き過ぎる。たとえ希望する研究所に配属されても、一つの歯車になってしまう。その点、ビクターのような小さい会社なら、自分のやりたいことをやらせてもらえるのではないか〉
ビクターは上野が入社する前年の五五年に研究部が発足、高柳が初代の研究部担当役員となった。上野は前年に発足したばかりの研究部に配属された。研究部の入っている建物は戦災で焼けただれ、どす黒くまだ戦争の爪跡を残していた。研究部の総勢は四十人で科学、音響、テレビの三つの研究課と事務管理課で構成されていた。
アンペックス社が放送局用ビデオを売り出したのは、まさに上野が入社した年である。これに刺激されビクターはビデオに取り組むことになった。
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2 石油危機という名の“神風”
一九五六(昭和三十一)年にビクターに入社した上野吉弘は、最初に音響研究課に配属され、新人ながらビデオの開発に携わった。研究開発は高柳健次郎自ら陣頭指揮を執り、早くも五八年に回転二ヘッド、ヘリカルスキャン(螺旋走査)方式(KV─1)にメドをつけ、その後一年ほどかけてカラー化に取り組み、五九年秋に試作機(KV─2)を完成させた。
そして横浜工場の中にあるビデオの研究所に大勢のマスコミ関係者を呼んで、試作機を披露した。研究所内に仮設スタジオを作り、ビクター専属歌手の松尾和子に歌ってもらい、それを試作機で録画・再生した画面をマスコミ関係者に実際に見てもらおうというわけだ。信号系とカラー系を担当していた上野は、仮設スタジオの裏に設置したビデオルームでモニターを見ながら、必死になって画像調整に取り組んでいた。
その後、録音機事業部に移ったが、七〇年にソニー、松下と共同開発したU規格の業務用ビデオのVCRの開発を推進するため、十年ぶりに研究開発本部に戻ってきた。ビデオ事業部では技術部次長のポストを得たが、VCRの生産が軌道に乗ると、さしたる仕事がなくなった。
そこで事業部長の高野から、直販を目的としたシステム開発部長に指名された。上野を長とするメンバーは、事業部で購入したアンペックス機の減価償却の資金を捻り出すため、ソフト屋を回ってダビングの仕事を取る一方、花や踊りのお師匠さん、ゴルフの練習場、ビクター専属歌手、映画俳優、テレビタレントなどに売り込みをはかった。
上野は婦人雑誌の「主婦の友」と提携して、生け花の先生の指導をビデオ化し、それをお弟子さんに機器とソフトをパッケージ販売したり、富士通とTBSがコンピューターソフト教育のビデオを作りたいとの情報を聞きつけては、そのプロジェクトに入れてもらいシステムセールス、今でいうシステムエンジニア的な仕事も発掘した。その合間を縫って、仕事で知り合った俳優の鶴田浩二やコメディアンのハナ肇の自宅に行き、自分が売り込んだVCRをセットアップしたり、故障を直したりしていた。
一方、高野は休日ともなれば自分で車を運転して、ビクター専属歌手はいうに及ばず、知り合いの放送局幹部や政治家、果ては自分の親戚筋まで回った。事業部長が率先して営業活動を始めたとなると、他の幹部は休日にも家でのんびり休んでおれない。いつしかビデオ事業部全員がセールスマンとなった。
「なに、ビデオ事業部の技術者がビデオを売り歩いてんだって。そんなもの、しょせん武士の商法だ。最後は債権保全ができずにひっくり返るのがオチだ」
高野のやり方に周囲の目は冷ややかだった。ビクターの営業政策は特約店制度が基本となっていることもあり、事業部の直販をもれ聞いた営業所からはクレームが相次いだ。本社は事業部の動きに神経を|尖《とが》らしたが、高野はこれを無視した。
だが素人セールスマンの悲しさで、案の定というべきか、戦後最大の倒産といわれた七三年の日本熱学の倒産のあおりを受け、不渡り手形をつかまされてしまった。倒産情報を知った前夜、販売先に返品証明書を書かせ、翌日の早朝、高野が陣頭指揮を執り全国各地にトラックを回して全品回収した。日本熱学はその日の夕方に不渡り手形を出した。ビデオ事業部は間一髪で難を逃れた。
システム開発部が悪戦苦闘しているころ、高野から家庭用ビデオの開発を任された開発部長の白石は、もがき苦しんでいた。エレクトロニクスに限らず、技術者の発想の原点は「改良」にある。新製品はどんなものであれ、間違いなく前の製品より良くなっている。といって単なる改良では、高野が出した高いハードルを越えることはできない。
白石たちの開発チームは、来る日も来る日も家庭用ビデオの条件を考え続け、暗中模索の中から、本体の機器をできるだけ小型・軽量にすることとテープの収録時間を二時間にする――という二つの条件を決めた。機器をコンパクトにすることは、それほど難しくない。ドラムを小さくしてテープ幅を狭めれば、ステレオのプレーヤー並みにできる。
ただし機器を小さくして、なおかつ録画時間をU規格製品の二倍の二時間にするのは至難の業である。当時のテレビ番組は、映画やプロ野球中継などの番組を除くとほとんどが一時間の枠内に収まっていた。にもかからわずシステム開発部から上がって来る声は、長時間番組の録画ニーズが圧倒的に多かった。ニーズ優先の技術開発を前提とした小型化と長時間録画。この矛盾をどう乗り越えるか。開発チームは試作機に盛り込む条件作りに着手したが、その過程で「家庭用ビデオのニーズ」が洗い出された。とはいえ開発意図と市場ニーズは、おいそれと結び付かない。白石はそれをマトリックスにしてみたところ、実に十二項目にのぼった。
▼ビデオ固有の条件
市販のテレビに結び付けることができる
画質と音声が放送受信機と同等である
録画時間は二時間とする
他社機種とテープの互換性がある
テレビカメラを使えるなど、広い機能を持っている
▼家庭内での条件
価格が安い
操作が容易
テープなどの経費が安上がり
▼メーカーの条件
生産性が高い
設計が合理化されていて機種の統合が可能である
サービス性が良い
▼社会性
情報文化の担い手になれる
以上の十二項目は家庭用を前提にする限り、どれ一つとしておろそかにできない。
家庭用ビデオの開発を厳命されてから二年が過ぎ、ようやく自分たちが作るべき家庭用ビデオの概念ができ上がったのである。白石は毎日、夜を徹して開発メンバーと激論を繰り返し、そのたびマトリックスを書き直し、それを事業部長の高野に見せた。そして高野は満足げに目を細めながらマトリックスに目を通して、開発チームを励ました。
「このマトリックスは実に良くできている。家庭用ビデオの必要条件がすべて書き込まれている。この条件を満たした製品ができれば、間違いなくビデオ時代が到来する。主導権を握るのはわがビクターだ。製品の愛称はビデオ(V)・ホーム(H)・システム(S)の頭文字を取ってVHSにしようと思うが、どうだろう」
「VHSのVはビクターのVにもとれるし、語感もいいですね」
「おれはそんなにケツの穴が小さくない。VはビクターのVではなく、あくまでビデオのVだ。冗談はさておき、一日も早くVサインを出せるよう頑張ってくれ」
白石を中心とした開発部隊はマトリックスを基に試作機作りにとりかかった。記念すべき第一次試作機が完成したのは、石油危機が発生する一年前の七二年秋である。
テープをドラムに巻き付けるローディングは、二本のアームでテープを引き出し、素早くドラムに巻き付けるM型のパラレル方式を採用した。この方式はかつて欧州の巨人、オランダのフィリップスがテープレコーダーに採用したことはあるが、ビデオでは初めての試みだった。
パラレル方式は機構が簡単なので、デッキ本体の小型・軽量化に役立つことはいうまでもない。ソニーも開発過程で研究を進めたが、途中でテープが切れる恐れがあることから、U規格ではM型を諦めU型のロータリー・ローディング方式を提案した。結果的にはそれが採用され、ソニーは家庭用のベータマックスでもこの方式を踏襲した。
ほかにもACモーターに比べて重量が軽いうえに消費電力が少なく、回転数を自由に変化できるDCモーターや、テープを隙間なく高密度で記録するとともに画像を鮮明に再生できるPS方式を採用するなど、随所に数々のアイデアを盛り込んだ。さらに白石は「VHSを世界規格に育てたい」という高野の意図を汲んで、ヨーロッパのテレビ方式にすぐ対応できる低速でも高密度記録ができるうえ、画像のノイズを大幅に減少させる画期的なDL─FM方式を開発した。
ともあれ曲がりなりにも十二の開発マトリックスの条件を満たした。最初の試作機としてはまずまずの出来である。白石を長とする開発チームのメンバーは、高野からねぎらいの言葉を期待して、第一次試作機を披露した。ところが説明を聞くうち、高野の顔が次第に|強張《こわば》っていった。
「これは最初の試作機としては、そこそこの出来かもしれない。ただしおれが、こんなもので満足していると思ったら大間違いだ。カメラも映写機も同じだが、フィルムの世界は35ミリから16ミリ、そして8ミリへと飛躍した。アンペックス社が出した放送局用のビデオを35ミリとすれば、U規格のVCRは16ミリの世界だ。それがどうだ。この試作機は確かに絵は出ているが、まだ14ミリ程度の仕上がりだ。こんな中途半端な製品で、おれにビデオの商売をやれというのか。世界市場でリーダーシップを握るには、こんなものではダメなんだ。すぐやり直せ」
高野はビデオ事業部が|密《ひそ》かにVHSの開発に取り組んでいることを、本社に一切報告してなかった。専従の研究者も多少増えたとはいえ、十人足らずでそれほど目立たない。本社以前に事業部でも開発チームのメンバーを除けば、まだ誰も気が付いていない。VHSに対する期待は、高野の胸の中で日ごとに膨らんでいった。
ビクターの業績は幸之助が予想した通り、悪化の一途をたどっていた。収益源のレコード部門を切り離したことで、七一年三月期から三年連続して減収減益を余儀なくされた。カラーテレビの二重価格の問題が尾を引いていたものの、家電業界は“昭和元禄時代”の余韻で高収益を|謳歌《おうか》していただけに、ビクターの業績不振が余計目立った。
七三年十月六日、エジプトとシリアの両軍がイスラエル軍と戦闘を開始、第四次中東戦争が勃発した。二十四日にはひとまず停戦協定が成立したが、これが引き金になって発生した石油危機が日本列島を襲った。手をこまぬいておれば、石油危機という名の波にのみ込まれてしまう。そこで業績低下に悩むビクターは、幸之助の助言もあり経営トップを刷新することになった。
社長の北野善朗は業績不振の責任を取り、会長に就かず一気に非常勤取締役に引き下がった。さらに会長の|百瀬《ももせ》結は取締役相談役、副社長の高柳健次郎も取締役技術最高顧問に退いた。代わって新社長には、幸之助の秘書役を務めたこともある松下電器・常務東京支社長の松野幸吉が起用された(正式就任は十一月十九日)。百瀬、北野、高柳と戦後のビクターの再建を担ってきた三人が、経営の表舞台から姿を消したことで、ビクターの戦後はようやく終止符を打った。
トイレットペーパーの買い占めに代表される石油危機に伴う資材不足は、翌年春に沈静化したが、代わって激しいインフレが襲った。自動車は石油危機発生直後の十一月と年明けの一月の二度にわたり現行車種の値上げに追い込まれた。家電業界も例にもれず松下もソニーも値上げに踏み切らざるを得なかった。
こうした中でビクターの高野だけが一人ほくそ笑んでいた。
〈もしかしたらこの石油危機は、ビクターに幸運をもたらすかもしれない〉
ビデオ事業部は高野の指示で、VCRの生産を続けたことから山のような在庫を抱えていた。在庫は資材が値上がりする前に生産しているので原価は安い。ソニー、松下に追随して値上げすればアブク銭が入ってくるが、高野はあえて値上げをしなかった。高野のやり方に長年、赤字に泣かされ続けてきた経理課長の大曽根収は首をかしげた。
「事業部長。この際、思い切って値上げしましょう。そうすれば少しは事業部の台所が楽になります」
「お前は商売のやり方を知らん。確かに値上げすれば目先、利益が出るだろう。しかしビクターのU─VCRの知名度はソニーのUマチックに比べて格段に低い。同じ値段ならお客さんはビクターの製品よりもUマチックを選ぶだろう。考えてもみろ。在庫の製品は原価が安いんだ。これまで通りの価格で売っても、うちは損はしない。ここで値上げすれば、それこそ便乗値上げだ。おれはそうした悪徳商人みたいなやり方は嫌いだ」
七四年に入ると、値上げ見送りを聞きつけた米国の家電バイヤーから注文が殺到、九千台ほどあった在庫はまたたくまにさばけた。まさに“神風”以外のなにものでもなかった。
ビデオ事業部は発足以来五年目にして、単年度黒字となり、苦しかった事業部にもようやく|曙光《しよこう》が見え始め、高野の顔に笑顔が出てきた。
〈赤字さえなくなれば、すこしはVHSの開発に資金を回せる〉
むろん在庫一掃だけで、事業部が立ち直ったわけではない。在庫がなくなると、今度は世界で初めてテレビ局用のビデオを開発した米アンペックス社や戦前の親会社のRCAからOEM商談が舞い込んできた。OEMは日本語に直せば「相手先ブランドによる生産」となる。言ってみれば下請生産である。心血を注いで開発・生産した製品に、縁もゆかりもない会社のブランドが付くことから、プライドの高い大手メーカーほど嫌がる傾向が強い。
だが高野の考えは違っていた。
〈OEMというのは自社で生産できないから、信頼できるメーカーに発注することではないか。これを断る手はない〉
高野はVCRの輸出を通じてOEMビジネスを学び、|密《ひそ》かに開発を進めている家庭用のVHSを普及させる手段に使えないかどうかを考えていた。
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3 文庫本サイズのカセット
いま振り返ってみると、ビクターがVHSの第一次試作機を作り終えた一九七二(昭和四十七)年は、映像メディアの世界が大きく変化した年だった。
一月にグアム島の密林で元日本兵の横井庄一さんが発見され、「恥ずかしながら……」という羽田空港での第一声がテレビ放映され、これが流行語になった。二月には札幌で冬季オリンピックが開催され、七〇メートル級ジャンプで日本が金、銀、銅のメダルを独占、国民はテレビの前にクギ付けとなった。
札幌オリンピックが終わってわずか三日後の十六日には、連合赤軍によるリンチ事件が発覚した。連合赤軍幹部は軽井沢の浅間山荘に人質を盾に籠城、警察は二十八日の強行作戦で人質を救出するとともに、犯人を全員逮捕した。この時、テレビ局は異例の長時間報道番組を編成した。浅間山荘事件のさなか、アメリカのニクソン大統領が訪中、中国はこの時の様子を初の衛星中継でアメリカと日本に向けて放映した。
五月には沖縄の施設権が返還され沖縄県が発足した。七月には佐藤栄作首相が在任期間二千七百九十七日という前人未到の新記録に幕を引き、沖縄返還を花道に引退を表明した。
「新聞記者諸君はこの部屋から出ていってくれ。私はテレビを通じて国民の皆様にメッセージを送る」
佐藤はこうタンカを切って、ガランとした首相官邸の記者会見室で直接NHKのビデオカメラに向かって退陣の弁を語り、官邸を後にした。この前後からテレビのニュース、スポーツ枠の時間が大幅に増えたのは、電子工学の進歩によってビデオ機器の小型化、とりわけENG(小型ビデオ収録システム)の出現に負うところが大きい。社会が大きく揺れ動き、ニュース番組が売れるようになったのである。
この年に郵政省から有線テレビジョン法が公布され、まず甲府や横浜でCATV(有線テレビ)の自主放送の実験が始まり、第一次ニューメディアブームが起きた。アメリカでは映画「ゴッドファーザー」が大ヒット。旧作の名画が夜のゴールデンタイムに続々と放映され始めた。視聴者は潜在的に見過ごした番組や好きな映画を録画しておきたいという願望を抱いており、本格的な家庭用ビデオの登場を待ち望んだ。しかし表面的には、家電メーカーに目立った動きはなく、ユーザーをがっかりさせた。
表舞台の静けさとは裏腹に、水面下では激しい競争が繰り広げられていた。ビクターがVHSの第二次試作機に取りかかり始めたころ、ソニーは最後の追い込みに入っていた。
「私のみるところ、放送局用のビデオは高性能だが大きい分、作るのは意外と易しい。その点、家庭用は性能はむろんのこと、小型・軽量でしかも安くなければ売れないだろう。家庭用は知恵とチャレンジ精神がなければ開発できない商品だ。小型でしかも軽量の家庭用ビデオこそ、ソニーが手がけるべき製品だよ」
ソニーの創業者、井深大は愛弟子の木原信敏に常々こう語っていた。家庭用ビデオの第一弾として開発した製品は、テープ幅四分の三インチの「ソニー・カラー・ビデオ・プレーヤ」である。ビデオの技術に関しては、ソニーの力は抜きんでており、この新製品で市場を独占することは不可能ではなかった。にもかからわず、松下とビクターに働きかけて、三社の共同開発にしたのは、むろん深謀遠慮があってのことだ。
大阪万博が開かれた七〇年前後、家電各社はポスト・カラーテレビの本命商品として家庭用ビデオに狙いを定め、開発に意欲を燃やしていた。結果として新製品ラッシュに沸き、二、三カ月に一回の割合で、新製品や新技術を発表した。ところが、互換性のない製品が出回れば出回るほど、業界が混乱するだけでなく、消費者の購買意欲を|殺《そ》ぎかねない。「大手家電メーカー」というだけで、消費者が品質の劣る製品を選択するという事態も予想された。
ソニーは放送局向けは圧倒的に強かったが、家庭用はまだ本格的な製品が出回っていなかったこともあり、ビデオの開発競争は消費者に横一線の印象を与えていた。折しも業界にはオープンリール方式に続いて、次世代のカセット式でも、規格統一を図ろうという機運が盛り上がりつつあった。
ソニーの伝統はモノまね、ヒトまねをしない製品を作り出すことである。独自の道を歩むには、協調性はむしろ足カセになる。こうした社風から、電機業界で異端児扱いされていたが、傍観しておればソニーの先進的な技術が反映されないまま、次世代ビデオの規格が決まってしまう恐れがある。
それを避けるため、先手を打つ形で松下とビクターに共同開発を提案したわけだ。提携先を二社に絞ったのは、「一位ソニー。二位、三位がなく四位ビクター。五位松下。残るメーカーは番外地」と|揶揄《やゆ》されるほど、技術格差があったことによる。ソニーにすれば松下とビクターさえ抱き込んでおれば、業界を牛耳れるという思惑があったはずだ。
三社の共同開発となったU規格製品には放送と教育の二つの業界が強い関心を示しただけで、一般消費者からは「カセットが大きく、値段も高い」とソッポを向かれてしまった。それ以前に国内のカラーテレビの普及率がまだ四〇%に満たず、ビデオを家庭で楽しむというライフスタイルが、まだ完全に定着していなかった。
家庭用ビデオの使用目的は、テレビの録画とソフトを楽しむことだが、カラーテレビの普及率が低くては購買層が広がらない。広がらないから、市販ソフトも出回らないという「ニワトリが先か、それとも卵が先か」という悪循環に陥っていた。
ソニーの木原もビクターの高野と同じように、機構、重量、値段の面から早い段階で、U規格製品は家庭用になり得ないことを悟らざるを得なかった。ソニーがU規格の「Uマチック」を発売したのは七一年三月だが、木原は早くも翌月には、家庭用ビデオの構想に取りかかった。
実のところ、U規格製品の原型が完成した六九年に、木原は井深からとてつもない宿題を出された。
「私はきみに、小型で軽量の本格的な家庭用ビデオを開発してほしいんだ」
その後も井深はふらりと研究所に現れては、とりとめもない雑談をして帰る。ある時、何気なくポケットから文庫本サイズのソニー手帳を出し、自分の願望を込めて語った。
「木原君や、次に開発するビデオのカセットは、せめてこのぐらいの大きさにしてくれないか。そうなれば機器も小さくなり、家庭に簡単に入る」
この言葉が木原の頭から離れなかった。井深の「文庫本サイズのカセット」が、いつしかソニー技術者のターゲットになった。
「われわれはニュー・フロンティアのはしに立っている。月へ行こう」
アメリカ第三十五代大統領のジョン・F・ケネディが設定した明確な目標が、アメリカの技術と産業の発展を促したように、井深の文庫本サイズという目標が、ソニーのビデオ技術を飛躍させた。井深にはカリスマ性があり、木原に言わせると研究所の技術者は、どんな無理難題を押しつけられようとも、誰もが「井深さんの喜ぶ顔を見たくて、ついつい頑張ってしまう」という。こうなると井深の人徳以外のなにものでもない。
戦後派企業の代表はソニーと本田技研工業(ホンダ)だが、創業者の井深と本田宗一郎は、六〇年代の前半にある雑誌の対談で知り合って意気投合した。二人は技術者社長という点では共通しているものの、経営のやり方は百八十度異なった。井深は技術者としては、早い段階で足を洗い、「技術の分かる経営者」に徹した。一方、宗一郎は別組織となっている本田技術研究所の社長を七一年に辞めるまで第一線の技術者だった。
井深は自分のアイデアを木原以下の部下を叱咤激励することで実現したが、宗一郎は盟友の藤沢武夫が出したアイデアに自ら率先して取り組んだ。
五八年に発売し、ロングセラーとして今なお売れ続けている排気量五〇ccのオートバイ「スーパーカブ」がその代表製品である。
「本田さん。ソバ屋の小僧さんが、片手でソバ箱を積み上げたものを支えながら、片手で運転できる小型のオートバイを開発できないもんかね」
藤沢のイメージした製品ができれば、確かに便利である。ただし運転に使えるのは両足と片手だけ。その足も発進にあたってはバイクが倒れないよう、スタンドを代用しなければならない。手は片手しか使えないので、当然クラッチは自動にしなければならない。操作が簡単でしかも安全、しかも低価格が大前提である。
宗一郎は一瞬、|怯《ひる》んだが藤沢はそれを見逃さず、今度はおだてあげる。
「本田さん。あんたは天才技術者だ。こんな製品はあんたしか開発できない。いや、あんたなら間違いなくできる」
藤沢からおだてられた宗一郎は、工場の設計室に泊まり込んで、オートバイとスクーターの中間的な製品を作り上げた。宗一郎は藤沢が満足な顔をすれば、製品は売れ、ホンダが発展すると信じていた。
話は横道にそれたが、木原は井深の要求を満たすため、Uマチックの研究所から工場に移管された翌日から、本格的な家庭用ビデオの開発に取り組んだ。天才肌の技術者だけに、回答は頭の中ですぐ浮かんだ。
〈U規格で採用を見送ったアジマス記録を採用すれば、記録密度は倍増する。さらにドラムの直径をUマチックの七〇%に縮小すれば、記録波長を短くできる。さらにテープも二分の一インチに縮めると、テープの使用量は四分の一に減るので、その分カセットは小さくなる〉
木原は自分のアイデアを実現するため、研究所のビデオ関係の技術者を総動員して、具体的な開発に着手した。それからわずか半年後の七一年の晩秋、手作りのカセットができ上がった。木原はそれを井深に見せた。
「次世代の本格的な家庭用ビデオのカセットは、この大きさにしたいと思っております」
カセットを見た井深は、|怪訝《けげん》そうな顔をした。
「木原君、カセットはまだこんなに大きいのか。私はソニー手帳と同じぐらいの大きさにしてほしいと言ったはずだが……」
木原はこの質問の答えを用意していた。
「ちょっと待ってください。このカセットのサイズは、文庫本と同じですよ。ということは、ソニー手帳と同じということです」
「しかし、このカセットは……」
木原は背広の内ポケットから自分で使っているソニー手帳を出して、それをカセットの上に置いてみた。すると寸分も違わない。
「大きく見えるのは、厚みがあるからです。一種の錯覚です」
ソニーが開発している新製品は、Uマチックをベースにしており、しかもビクターと違い、優秀でしかも大勢の技術者が揃っている研究所で手掛けるので、開発スピードは速い。早くもその年の暮れの経営会議で、最終スペック(仕様)が固まった。愛称も従来のテープでは、必ず必要とされたガードバンドの余白部分にまでビデオ信号をベタ状に記録することから「ベータマックス」と命名された。
ここでソニーは、悔やんでも悔やみ切れない過ちを犯してしまった。録画時間である。研究所ではまだ一時間機種しか作っていなかったが、理論的にはテープの速度を落とせば、長時間録画が可能であることがすでに解明されていた。木原は経営会議の席で、そのことを報告した。
「カセットを担当した技術者は、六十分だけでなく同じ大きさで九十分はおろか、百二十分録画も可能と言っています。私個人としては業務用のUマチックが六十分ですから、家庭用のベータマックスは二時間はともかく、一時間半の九十分に延ばした方が良いかと思います。ただし、長時間録画にするとすれば、多少開発時間がかかります」
ところが井深は長時間録画にはまったくといっていいほど、関心を示さなかった。
「技術的に(長時間録画が)いつでも対応できるのであれば、ユーザーからの声が高まった時点で、考えても良いのではないか。今は家庭用ビデオを一日も早く完成させ、市場に投入することが先決だ」
これに副社長の盛田昭夫が相槌を打った。
「社内で調べさせたところ、テレビ番組の九八%は一時間以内に終わっている。したがってベータマックスの録画時間は、会長のいう通り一時間で十分だ。ユーザーはいい製品であれば必ず買ってくれる。テレビで放映される映画が二時間であれば、テープを二巻使ってもらえればこと足りる。われわれの方で、消費者をそのように教育すれば済むのではないか」
二人の創業者が気軽に一時間録画に決めたのは、ソニーがそれまで録画時間で悩んだことがないことに起因している。ソニーの体質は良きにつけ悪しきにつけ、技術至上主義にある。自社で開発した独自の技術をいち早く商品化するのが、ソニーのソニーたるゆえんである。
ここに大きな落とし穴があった。前にも述べたように、米アンペックス社が放送局用のビデオを開発した際、世界に先駆けて電子式テレビの実験に成功したビクターの高柳健次郎は、アンペックス社のビデオを上回る製品を開発することで、自分とビクターの存在を世界に誇示しようとした。
高柳の努力が実り、ビクターは確かに回転二ヘッド、ヘリカルスキャン方式の開発に成功したが、アンペックス機と互換性がないことから、無残な結果に終わった。それをそばで見ていた高野は、改めて互換性の重要さを知り、VHSでは録画時間を二時間に決め、「いったん決めた規格は、たとえ会社が|潰《つぶ》れても守り抜いてみせる」と決意した。
一方、ソニーの井深はアンペックス社に敬意を払い、アンペックス機と同じ製品を作ることから始めた。その後、ビデオにも最新のエレクトロニクス部品を多用することで、世界的なビデオメーカーとなった。
ソニーには「ビデオの規格はわれわれが作る」という強烈な自負心があった。ソニーの経営陣に脈々と流れる考えは「時代が変わり、技術が進展すれば、規格も変わって当然」ということだ。製品の優劣はともかく、規格に対するソニーとビクターの考えの違いがその後、明暗を分けることになる。
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4 “経営の神様”の御託宣
本格的な家庭用ビデオの開発に向け、水面下でビクターとソニーがお互いの進捗状況を知らないまま、激しい開発競争を繰り広げているとき、U規格で共同戦線を張った松下電器は、ポスト・U規格として第三の道を選択した。
「消費者は本格的な家庭用ビデオの発売を待ち望んでいる」
この発言に代表される松下首脳の家庭用ビデオに対する思いは、ソニーにもビクターにも負けなかった。そして家庭用ビデオの本命商品として、カセットではなくカートリッジ式を選んだ。当時一つの箱に二つのリールが入っているのをカセット。リールが一つだけで、もう一つのリールをビデオ本体に組み込んだものをカートリッジと呼んでいた。
第一次石油危機が発生した一九七三(昭和四十八)年の正月明け、松下は録画時間は三十分、カラーテレビの空きチャンネルで録画・再生できるチューナー付きの『オートビジョン』を売り出した。価格は三十四万八千円。耐久消費財にしては、いささか値が張るものの、二分の一インチのテープを巻き込んだカートリッジの大きさに誰もが驚いた。カーステレオのミュージックテープとほぼ同じで、ポケットにも簡単に入る。
「ビデオ時代の幕開けを飾る商品」
このキャッチフレーズがオートビジョンに対する松下の期待の大きさを示している。期待は発売する前から膨らみ、岡山市郊外に専用のビデオ工場を建設した。三月のスタート時の月産は二千台と、U規格製品を生産している大阪・門真工場と同じだったが、引き続き二期、三期の拡張工事を進め、七五年までに月産一万台まで引き上げる遠大な計画を立てた。
松下はオートビジョンを普及させるため、ビクターにも採用を働きかけた。ビクターは第一次石油危機が発生した直後の十一月に、松下幸之助の鶴の一声で経営トップを刷新した。新社長には幸之助の子飼で、松下本社の“東京探題”ともいうべき常務・東京支社長の松野幸吉が就任、副社長には戦後、“テレビの父”高柳健次郎と行動を共にして海軍からビクターに入社した専務の徳光博文が昇格した。
副社長就任直後、徳光はふらりと横浜工場に現れ、ビデオ事業部の役職者を集めて懇願した。
「親会社の松下がオートビジョンを採用してくれと、頭を下げてきたんだ。子会社としては親会社の要請をむげに断ることはできない。悪いけど(採用を)考えてみてくれんかのう」
これにビデオ事業を預かる高野が|噛《か》みついた。
「徳光さん。それは副社長としての命令ですか、それともわれわれに対する単なるアドバイスですか。副社長ならビデオ事業部がまだ赤字なのは知っているはずです。赤字の事業部に将来性のない製品を押しつけるとは何ごとですか。あんた、それでも経営者の端くれですか」
「それは……なぁ、高野。少しはおれの気持ちを察してくれよ。実をいうと、松野社長と相談して、すでに採用することを決めているんだ。したがってこれは業務命令と思ってくれ」
「それは変ですよ。考えてみると、第一ビデオ事業と関係のない徳光さんが、この席にいるのがおかしいんだ。本社が勝手に採用を決め、事業部に命令するのであれば、松野社長が来てしかるべきだ。それはともかく、本社はビデオ事業部はどうなってもいい、放り出すということか、どうなんですか、徳光さん」
「おれはそんなことはいっちゃいない。『少しは本社の面子を立ててくれ』と頭を下げて頼んでいるんだ」
最後は取っ組み合いする寸前までなったが、他の役職者が中に入り、その場を収めたものの、高野は最後まで身体を張って松下の『オートビジョン』の採用を拒んだ。彼がにべもなく松下の要請を断ったのは、カートリッジが中途半端な製品で、ビデオの本命商品になり得ないことを見抜いていたからだ。その規格を採用すれば、ビデオ事業部の赤字が増えるだけでなく、|密《ひそ》かに進めているVHSの開発にも支障をきたす。
オートビジョン開発の陣頭指揮は、入社以来一貫してラジオ、テープレコーダーなどの生産を手がけ、立ち上がりの商品を育てることでは、松下社内でも余人の追随を許さないとの評価を得ていた常務の松本正男が執った。
松下はオートビジョンを成功させるため、社内で“ビデオの神様”の異名をとる副社長の中尾哲二郎が全面サポートする万全の体制を敷いた。中尾の妻のやす江は、幸之助夫人むめのの妹である。つまり幸之助は中尾の義兄に当たる。
それでは、高野をして「将来性がない」といわしめた製品に、なぜ松下がそれほどまでにこだわったのか。実は松下がカートリッジに走ったのは、それなりの理由があってのことだ。松本はビデオが家庭に入るには、何よりテープの入れ物と機器の双方を小型化しなければならないと考えた。機器の小型化をはかれば、カセットもU規格製品より小さくできる。ところがカートリッジにすれば、ミュージックテープの大きさにできる。しかも直接テープに触れずに操作できる。
半面、いったん装着してしまうと、途中で引き出しができず、巻き戻しにも時間がかかるという欠点がついて回る。松本はカセットとカートリッジの長所と短所を|秤《はかり》にかけたうえで、カートリッジの採用を決めた。採用の決め手となったのは、オープンリールとの互換性である。カセットにすると、オープンリールとの互換性はとれなくなるが、その点、カートリッジなら互換性がとれる。松本は互換性を保つことが、消費者に対する最大のサービスだと考えたのである。
録画時間は三十分と短かったが、それなりの自信があった。
〈規格統一されたオープンリールの録画時間は、教育界からの要請で十五分に決まった。教育用が十五分なら家庭用は三十分で十分ではないか〉
しかし、松下の期待とは裏腹に、オートビジョンは悲惨な運命をたどる。第一次石油危機後の買い控えムードが、誕生間もない高額商品の足を引っ張った。三十分という録画時間の短さも、市場から手痛い批判を浴び、需要不振に追い打ちをかけた。消費者には「まだビデオは高額商品」という意識があり、加えて家庭用の決定版ともいうべき長時間録画ができるカセット式の登場を辛抱強く待っていたのである。
ビデオ事業部は“社内倒産”し、岡山工場の拡張計画も凍結された。従業員も配置転換し、岡山工場では仕事を確保するため、生産ラインの一部をマイクロモーターの生産に振り向けた。松下の失敗を尻目に、ソニーのベータマックスの試作機は最終段階に入った。ビクターのVHSの開発にも拍車がかかった。
高野が開発部長の白石に家庭用ビデオに対する熱い思いを述べたとほぼ同じ時期、デッキの担当者にポータブルビデオの開発を命じた。
「ビクターには白黒のポータブルビデオがある。次はこれをカラーにすることだ。ただし大きさは白黒と同じにしろ」
同時にカメラの技術者にも指示を出した。「一台三十万円で売れるカラーカメラを作れ」
高野の要求は目茶苦茶だった。白黒をカラーにするのは、技術的にさほど困難ではないが、同じ大きさにするには、部品点数が倍近くになるので、至難の業である。苦肉の策としてアダプターを外付けするなどのアイデアを出しても、高野から怒鳴られる。
「アダプターなんかも全部デッキの中に入れるんだ。そうしなければ世界市場で通用しない。小手先の改良じゃダメだ。抜本的な改良策を考えろ。分かったなら、やり直せ」
苦労はカメラも同じだった。カラービデオカメラは当時、安いものでも一台百万円ほどした。それを一気に三分の一にしろという命令である。高野はもともとカメラメーカーのニコンに入社した。ビクターに転籍した後も映写機や16ミリのシネカメラを手掛けていただけに、カメラに造詣が深い。高野は「究極のビデオはポータブル」という考えを持っていた。カメラとビデオをくっつけ、バッテリーを使って屋外で撮影するのである。
それから三年近い歳月を経て、第一次石油危機が収束に向かった七四年春。ビクターはカメラとデッキを組み合わせた、世界初のポータブルカラービデオシステムを完成させた。カメラは目標とする三十万円を切ることはできなかったが、ビデオとのセットでぴったり百万円に値付けすることができた。
高野は満足しなかったものの、ビデオカメラの将来性に賭けた。
〈まあ、最初の製品はこんなものだろう。月に五百台も売れれば、コストダウンが可能になるだろう〉
「高野君、きみんところの事業部が良い製品を開発したらしいな。機会があれば一度、幸之助相談役に見てもらおうか。相談役は何といってもビクターの救世主や。うちの会長をやっていたこともあり、ビクターの動向には、ことのほか関心を持っとるしな……」
社長の松野はこうアドバイスした。幸之助はほどなく横浜工場に見学にきた。案内役を仰せつかった高野は前夜、緊張して寝つかれなかった。幸之助はポータブルタイプのカラービデオカメラのGC─4800(通称ヨンパチ)の試作機を見るなり、触って、撫でて、匂いを嗅ぐように顔を寄せ、自分で持ち上げ、顔をほころばせながら、開発陣の労をねぎらった。
「わしは前々からこんな便利なものが欲しいと思っていたんや。しかし松下どころか、どこの会社も作ってくれへん。ビクターはいいものを作ってくれはった。この製品は売れるで。すぐ事業化しなはれ。月一万台は大丈夫や。わしが保証したる」
高野は直立不動の姿勢で“経営の神様”の御託宣を聞いた。高野の緊張をよそに幸之助は、自らカメラを回して周りを撮影し始めた。次にデッキのふたを開け、中に組み込んである部品を指して尋ねた。
「この部品はどこのメーカーが作っているんや?」
ヨンパチの開発に携わり、説明員として陪席していた若手技術者の土居修二が当然のごとく答えた。
「松下のものを使っております」
「そうか、うちもいろんなものを作っているんやな」
幸之助は帰りしな、高野に声を掛けた。
「きみが開発責任者の高野君やな。わしはそのカメラが気に入った。これから開発状況を直接わしに報告してほしいんや。頼んだで」
高野はその夜、今度は興奮のあまり寝つかれなかった。経営の神様に「必ず売れる」と太鼓判を押されたのがなによりも嬉しかった。翌日、高野は関係者を集めて方針転換を説明した。
「社内にはビデオカメラは売れないとか、売るのは難しいとの意見がある。しかし昨日、幸之助相談役からヨンパチは『必ず売れる商品』とのお墨付きを頂いた。スタート時は月産五百台と言ったが、急きょ二千台に引き上げる。そこでだ、どうしたら月二千台売れるか、皆で考えてくれ」
説明を終えると、高野はこっそり土居を呼んで怒鳴りつけた。
「昨日のお前の相談役に対する説明の仕方はなんだ。非常識にもほどがある」
「私なにか不都合なことを言いましたか?」
「まだ気が付いていないのか。だからお前は大バカもんなんだ」
土居はなぜ高野が怒っているのか、理解できなかった。怒られるようなへまをやった覚えはない。首を傾げていると、高野が真顔で言った。
「きのう、相談役から『これはどこのメーカーの部品か?』と尋ねられただろう」
「はい、ですから松下と答えました。事実、松下電器から購入しているのですから」
「おい、相談役の前で“松下”“松下”と呼びすてにするとはなにごとだ。相手は経営の神様の松下幸之助さんなんだぞ」
「………」
「済んだことはいい。今後、気をつけろ。ところでこれから一週間ごとのデータを出せ。相談役に送る」
一週間後、土居は高野からいわれたデータを棒グラフにして付属の書類とともに提出したが、また怒鳴られた。
「土居、お前はこのデータを誰に見せるか知っているのか。大松下の相談役だぞ。相手はお年を召しているんだ。棒グラフはもっと太くしろ。字もこんなに小さくては読めない」
こうして毎週、ビデオカメラのデータを送るようになったが、分からないことがあると、幸之助は直々、高野に電話をかけてくる。ビデオ事業部には事業部長専用の個室はむろんのこと、専属秘書もいない。高野が席を外したときには、手の空いた人が電話を取る。
ある日、高野が数メートル先のテーブル机で打ち合わせをしていた時、事業部長席のそばを通りかかった人が何気なく電話を取った。
「事業部長、コウノスケという人から電話です。年寄りなのかボソボソ喋っているので、どこのコウノスケさんか分かりません。偉そうに自分の名字どころか社名も名乗らないんですよ。まったく失礼な人ですね」
高野はさすがにこのときばかりは、青い顔になった。
「バカモン、コウノスケさんというのは、松下の相談役の松下幸之助さんだ!」
ヨンパチの改良品が完成すると、社長の松野に呼ばれた。
「高野君、相談役はきみがお気に入りのようだから、改良品は直接相談役のところに持ち込んで見せてくれ」
高野は翌日、車にヨンパチを積み込んで、東名高速道路を飛ばして大阪・門真市の松下本社まで届けた。幸之助は七十九歳に達し、すでに経営の第一線から退いていたが、本社では千客万来の日々を送っていた。
執務室は本社二階の役員室フロアの左端の奥まったところにあるが、一階に幸之助専用の入り口があり、誰にも顔を合わせず、執務室に入れる仕組みになっている。相談役室は社長、会長室より質素で、執務机の前に袖のない椅子が置いてあり、後は四人掛けの応接セットがあるだけ。壁には「大忍」と書いた自筆の額縁が掛けられ、その下に地球儀が置いてある。
幸之助は八十歳近くなってなお、毎日この地球儀を眺めながらナショナル製品を世界に普及させることに思いを馳せていたのである。
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5 ソニー、ベータ規格を提案
第一次石油危機が発生した翌年の一九七四(昭和四十九)年は、政治の世界で大きな節目を迎えた年である。西独は五月にシュミット内閣が成立、フランスでもジスカールデスタンが新大統領に就任した。米国では八月にニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任を余儀なくされ、フォード副大統領が昇格した。ウォーターゲート事件のテレビ報道は、ニュース番組として過去最高の視聴率を記録した。
日本でも秋を境に、金権政治に対する批判が高まった。就任した時はマスコミから「今太閤」と持てはやされたさしもの田中角栄も、世論の批判に抗し切れず、十二月に首相辞任を余儀なくされた。代わってクリーンを売り物にする三木武夫が登場した。
日本経済は第一次石油危機の混乱が尾を引き、戦後初のマイナス成長となった。地価と消費者物価の暴騰がやまず、日本経済は狂乱状態に陥った。
政治と経済が混乱の極みにあった十月二日。ソニー副会長の岩間和夫と専務の大賀典雄は、一枚の図面と文庫本大のカセットを携えて、東京・日本橋にある日本ビクター本社に副社長の徳光博文を訪ねた。持参した図面はソニーが開発した家庭用ビデオの設計図である。会談の席には、ビデオ事業部長の高野と開発部長の白石が同席した。
「われわれは次世代の家庭用ビデオを開発しました。これがその図面です。ご覧の通り、カセットのサイズは文庫本と同じです。私どもは勝手に『ベータマックス』と名付けました。松下さんには一週間前に、同じものをお見せしてあります。どうでしょう。U規格のように、今度も三社の共同開発にしませんか」
岩間がこう切り出すと、次に大賀が技術的な説明を始めた。ビクター側の三人は黙って、岩間と大賀の説明に耳を傾けた。
「ご趣旨はよく分かりました。少し検討する時間を下さい」
徳光はソニー幹部を見送った後、急いで応接室に戻り、せきを切ったように高野と白石に尋ねた。
「おい、どうなんだ?」
「図面を見る限りは、良くできています。U規格をベースに改良を加えているにしては、小型でしかも軽い。さすがビデオの先駆者を自認するソニーの製品です。大げさにいえば、芸術品といっても過言ではありません。ただし一つだけ欠点があります」
「なんだ、それは?」
「録画時間です。うちのVHSは二時間ですが、ベータマックスは一時間です。この違いは後々まで尾を引くでしょう」
「録画時間はともかく、一体どちらが優れているんだ。おれにも分かるように説明してくれ」
「実物を見ない段階では、なんとも言えませんよ」
「それもそうだ。それじゃソニーへの返事をどうする」
「ソニーは松下にも同様の提案をしたと言ってました。ここは松下の出方を待ちましょう」
「ところで高野君、VHSはあとどのぐらいでモノにできるんだ?」
「近く最終の第四次試作機に取りかかります。耐久試験にそれなりの時間がかかるので、どうしてもあと十八カ月ほどみなければなりません」
「ということはあと一年半か。今日の様子では、敵は年内にも発売しそうだ。それにしても驚いた。わが社がソニーに対抗できる家庭用ビデオを開発していたとは。それも本社に内緒で……。この秘密兵器があったからこそ、一年前に松下から要請されたカートリッジ式ビデオの採用を断ったというわけか。あの時はおれが悪かった。改めて謝るよ」
徳光はこう言って深々と頭を下げた。この時、高野は一つだけ注文を出した。
「徳光さん。ビクターがVHSを開発していることは、まだ松下に内密にして下さい。松野社長にもクギを刺すのを忘れないで下さい」
「分かっている。なにしろうちの社長はおしゃべりだから……」
高野が松野と徳光にVHSと名付けた家庭用ビデオの開発を報告したのは、ソニーから面談の申し込みがあった直後である。前にも述べたが、高野はVHSの開発に際して、ビデオ事業部はむろんのこと、本社にすら秘密にしていた。中途半端な形で報告すれば、本社の期待が大きくなり、万が一、製品化できなかった場合、単に落胆するだけでなく、収拾がつかなくなることを恐れたためだ。
赤字の事業部で爪に火をともすようにして蓄えた資金を投じ、わずか三人の技術者でスタートしただけに、事業部内でも誰も興味を示さなかったことが、秘密を守ることに役立った。しかし、ソニー幹部来訪の目的がおおよそ推測できたので、これ以上本社に黙っているわけにはいかなくなった。
ソニーが画期的な家庭用ビデオを開発したとの|噂《うわさ》は、岩間と大賀がビクターを訪れる前の夏過ぎから、業界を駆け巡っていた。むろん高野は八方手を尽くして情報を収集していた。そんな折、米国のエレクトロニクス専門誌「テレビジョン・ダイジェスト」誌の記事が彼の目に止まった。
「ソニーが開発した家庭用ビデオ規格の採用を検討していたRCAは、市場調査の結果、当分、採用を見合わせることになった」
なぜRCAはソニーの提案を断ったのだろうか。高野の頭からこの疑問が離れなかったが、ソニーの幹部と会った瞬間、氷解した。
〈RCAの調査結果というのは、間違いなく録画時間のことだ。世界のすう勢は長時間録画に向かっている。ソニーはRCAから断られたため、ビクターと松下に提案したに違いない。これではおいそれと、ソニーの提案に乗れない〉
ビクターを訪れたソニーの二首脳が大阪・門真市にある松下本社に、副社長の中尾哲二郎と中央研究所長の西村真二郎ら技術幹部を訪ねたのは、彼岸が過ぎた九月二十六日だった。
松下の商品開発の基本は、二番手商法にある。パイオニアともいうべき一番手はリスクを伴うので、パイオニアが築いた道が安全であることを確認してからソロリ、ソロリと二番手として登場する。販売力には定評があるので、短時間でトップに躍り出るのはたやすい。松下における研究者の仕事は、競合製品を分析して、どんな価値を付加すれば売れる製品に仕上げられるかを工夫することにある。
ところが家庭用ビデオに関しては、珍しくパイオニア精神を発揮して、カートリッジを選んだ。そのカートリッジの失敗がはっきりした直後だけに、ソニーからの提案は願ってもないはずだった。岩間と大賀の説明が終わった後、質疑応答に移った。中尾は最初に確認の質問をした。
「今回もU規格のように、ビクターを含めた三社の技術者が集まり、ソニーさんの製品を叩き台に改良を進めて、共同規格に育て上げるわけですね」
ところがソニーからは思ってもみなかった答えが返ってきた。
「申し訳ありませんが、今回は時間がないので、そのことは考えておりません。もっともベータマックスは完成品ですから、その必要がないのです」
この時、中尾の腹の中は煮えくり返っていた。
〈ソニーの提案は表面的には共同開発だが、実質的には規格の押し付けではないか。ソニーの態度はU規格で共同戦線を張った会社への提案というより、最後通牒だ〉
中尾がいくら憤慨しても、選択肢は限られている。一つはソニーの提案を拒否して、自社で新たなフォーマットを開発すること。もう一つは恥を忍んでソニーの提案を受け入れ、名目上の開発メーカーに名を連ね、従来通り二番手商法に徹することである。
松下はカートリッジビデオの失敗で、それまで百二十人ほどいたビデオの開発技術者を半減させているので、自主開発は絶望的だった。残された技術者が新たなフォーマットを開発するにしても時間がなさ過ぎる。その間、ソニーに初期需要を奪われることを、覚悟しなければならない。ソニーからの提案は、その日のうちに社長の松下正治に報告され、それを受けて社内で何度となくビデオ戦略の再構築が検討された。
ソニーはデッキを製造するための金型をすでに起こしており、松下とビクターの同意を得られれば、年内にも発売する計画を立てていた。
〈うち(ソニー)が先陣を切って年内に発売しても、市場づくりに時間がかかる。その間、松下とビクターが急いで生産体制を整えれば三社の間にそれほど格差はつかない〉
ソニー首脳はこう読んで、共同開発と言う名の規格の採用を持ちかけたわけだが、予想に反して十月が過ぎ、十一月に入っても松下、ビクターからは何の音沙汰もない。業を煮やした社長の盛田昭夫は下旬に入って大阪に赴き、北区中之島にあるロイヤルホテルで松下正治に会い、改めて三社提携を正式に提案した。
松下は依然としてビデオ事業再構築のメドが立たず、ソニーへの返事が延び延びになっていた。だが盛田から社長の正治へ正式提案されたとあって、返事をこれ以上延ばすことができない。
「ベータマックスを採用するにせよ、しないにせよ、実物を見ない限り最終判断できない」
これが松下の結論である。これを踏まえて中尾は、岩間宛てに「図面とカセットだけでは、詳細な技術が分からない。ついては実物を見せてほしい」との返事を出した。
この申し出は、ソニーにとっても望むところだ。松下技術陣のソニー訪問は十二月四日に決まった。東京・北品川の通称“御殿山”にあるソニー本社に隣接した研究所を訪れた松下技術陣は、中尾を筆頭に技術本部長を兼ねる常務の城阪俊吉、同じく常務でカートリッジのビデオ開発指揮をとった松本正男、ビデオ技術部長の村瀬通三、中央研究所部長の菅谷汎の五人。松下ビデオ技術陣の最高峰に位置するそうそうたるメンバーである。
ソニーが二十数年手がけたビデオ技術の集大成として開発したベータマックスは、松下電器の目利きの技術者から見ても素晴らしいものだった。画期的なのはアジマスという記録方式を実用化したことだった。従来の回転二ヘッドのビデオは、使用するテープの幅や記録方式を問わず、トラックとトラックの間にガードバンドという隙間を空けてある。
アジマス方式はガードバンドがなく、テープの上にベタ状に記録する。この方式は一九五九(昭和三十四)年に電気通信大学教授の岡村史良によって開発され、すでに実用新案として登録されていたが、専門家の間では「カセットでの実用化は困難」とされていた。これをソニーは新しいカラー信号の記録再生方式と併せて実用化した。
U規格のカセットは週刊誌と同じぐらいの大きさだったが、ベータマックスのそれはひと回りどころか、ふた回りも小さく、背広のポケットの中にもスッポリ収まる。カセットには厚さ二〇ミクロン、長さ一五〇メートルの二酸化クロムでできているテープが入っている。テープの走行スピードも、オーディオカセット並みの毎秒四〇ミリメートルに抑えたことで、一時間録画を可能にした。
記録方式以外の基本部分はU規格をベースにしてあるが、細部については大胆な改良を進め、部品点数も大幅に減らした。岩間の説明を聞きながら、一番ショックを受けたのが松本である。カセット式のベータマックスを目の前にして、自分が選んだカートリッジが誤りだったことを、率直に認めざるを得なかったからだ。
松本は翌年四月、カートリッジでの失敗の責任をとり、病気を理由にビデオの戦列から離れただけでなく、自ら取締役への降格を申し出た。同時に松本の後ろ盾となっていた中尾も技術最高顧問に退き、急速にビデオに対する発言力を失った。
中尾は幸之助の義弟、正治にとっては義理の叔父に当たる。松下の二人の最高トップは、「泣いて|馬謖《ばしよく》を斬った」ともいえる。後任副社長としてテレビ、ビデオの無線事業を担当することになったのが、四国・高松市に本拠を置く松下寿電子工業社長の稲井隆義である。だが、稲井の登場が、その後の松下のビデオ戦略に大きな混乱をもたらすことになる。
一方、ソニーから共同開発を提案されて以来、高野は一人悩んでいた。ビクターのVHSがベータマックスよりすべての面で優れていない限り、市場に出す意味がない。ソニーの出方にもよるが、ビクターの選択肢は三つしかない。
最初が屈辱的な敗北である。もしベータマックスがVHSより数段優れた機械であれば、録画時間に多少問題があるにせよ素直に敗北を認め、ただちに研究を中止しなければならない。この場合、高野は責任をとって会社に辞表を提出する覚悟を決めていた。
二つ目は、多少技術的な問題があるにせよ、ソニーの軍門に下りビクターが開発した技術を提供して、小さなパートナーとしてソニーに合流することだ。ビクターは高柳健次郎を擁していただけに、テレビ分野では優れた技術を持っていた。U規格ではビクターが提案したカラー方式が採用された。家庭用でも自社開発の技術を洗いざらい提供し、ソニーと一緒になって開発を推進すれば、そこそこの特許収入が期待できる。
最後がソニーと|袂《たもと》を分かち、死に物ぐるいで開発スピードを速め、ソニーから半年遅れ程度でVHSを市場に投入することだ。ただし、その代償も払わなければならない。高野はポータブル・ビデオカラーカメラ、通称“ヨンパチ”が幸之助から絶賛されたのに気を良くして、VHSとセットで売り出すことを考えていた。
それには技術改良を進め、一段と小型・軽量化を進めなければならない。そこで高野はビデオカメラ部を新設して、初代部長にシステム開発部の責任者としてセールスマン顔負けの働きをした上野吉弘を据えた。しかしベータマックスに追いつくには、ビデオカメラの開発を犠牲にして、VHSの開発に全力投球しなければならない。
松下の技術陣がソニー中央研究所を訪問したことは、分かっていたが、高野はあえてその結果を聞かなかった。そして結論が出ないまま、ビクターがソニーを訪問する日を迎えた。
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第三章 つばぜりあい

1 「ご幸運をお祈りします」
松下とビクターは業務用ビデオのU規格をソニーを交えた三社がお互い技術を持ち寄って作り上げた「正真正銘の共同開発規格」と信じていた。ところが世間の多くの人は、「U規格はソニーが作り、松下とビクターはその規格を単に採用したに過ぎない」と誤解していた。その証拠にU規格の中では、ソニー製品の評判が圧倒的に高く、売れ行きも群を抜いていた。
「販売の松下、技術のソニー」と対比されるように、両社は何から何まで対極にあると思われがちだが、こと商売に関しては、やり方がよく似ている。根底にあるのは、客の要望があれば、どんな製品でも市場に投入することだ。
松下は名実共に総合家電メーカーだが、ソニーも一時期「総合家電企業」を目指したことがある。ソニーの松下化である。
「SONY WANTS TO SELL US PRODUCT IN JAPAN」(ソニーは日本市場で、アメリカの商品を売りたい)
一九七二年、ソニーは米国の主要新聞、週刊誌にこんな見出しの付いた全面広告を掲載した。ソニーといえば、トランジスタラジオやトリニトロンカラーテレビしか知らない米国民は、この広告にびっくりした。「ソニーがわれわれのビジネスの手助けをしてくれるのか」――と。
ソニーが輸入を促進する狙いは、|大袈裟《おおげさ》にいえば、日本製品に対するダンピング批判と、日本市場が閉鎖的であるとの不満をいくらかでも解消することにあった。輸出比率はすでに五〇%を超えており、ソニーにとって最大の敵は、貿易摩擦の激化だったともいえる。
派手な広告には、もう一つの狙いがあった。ソニーは「音と映像の専門メーカーに徹する」ことを経営方針に掲げてきたが、かねて国内の販売店から「白物家電を揃えてほしい」との要望が舞い込んでいた。ところが現実は、ソニー自身が白物家電を開発、生産する余裕がない。それを輸入品でカバーすれば、販売店の要望も満たせるうえ、総合家電企業へ脱皮する道が開ける。こうした思惑を秘めて一連のキャンペーンを打ったわけだが、反響は予想以上に大きかった。
ソニーの言葉を借りていえば、「ソニーの名に恥じない優秀な製品、何よりも日本国民の消費生活を豊かにしてくれる製品」との観点から、輸入家電の第一号として米ワールプール社の大型冷蔵庫、洗濯機、乾燥機を選んだ。続いて米オースター社のキッチンセンター、スーパーグリル、同フーバー社の掃除機、西独クルップ社のコーヒーメーカーなどを子会社のソニートレーディングを通じて輸入した。
七七年になると、ソニー本体も主婦向け家電製品シリーズ、「ソネット」の第一弾として電子調理器を売り出した。ただトランジスタを開発したソニーの企業イメージと、白物家電が|噛《か》み合わず、評判になった割にはそれほど売れず、いつしか尻すぼみとなり、総合家電企業への脱皮は、看板倒れに終わった。
ソニーの商売のやり方は、まず海外で評判をとり、それを国内に持ち込むことにある。より正確にいうと、製品の良しあしよりも、まず企業イメージを売り込むのである。U規格のUマチックでは「ソニーが独自に開発したトリニトロンカラーテレビとセットで使えば効果的」と大々的に宣伝した。
ビクターの高野鎭雄はこうしたソニーのやり方を見て、「家庭用ビデオでの共同開発は、ビクターにとって得策でない」と判断した。だからこそ親会社の松下はおろかビクター本社にすら黙って、VHSの開発に取り組んだのである。
〈製品化のメドが付かない段階で本社に報告すれば、経営幹部はおろおろするだけならまだしも、不安になって親会社に相談するだろう。ビデオはポスト・カラーテレビの本命商品だけに、松下は松下で、VHSを自分勝手に改良するだろう。そんなことになれば、当初の開発構想とは似ても似つかない製品になってしまう〉
高野はそのことを極端に恐れた。
松下技術陣がソニー中央研究所を訪れた二日後の十二月六日。今度はビクター副社長の徳光博文と高野、それに直接VHSの開発に携わっている開発部長の白石勇磨、同次長の廣田昭の四人が複雑な思いでソニーの門をくぐった。
松下の技術陣はベータマックスの映像を見た瞬間、「うぉー!」との感嘆の声を発したが、ビクターの技術陣は、家庭用ビデオの原理を理解しているせいか、比較的冷静だった。高野と白石はテレビモニターに映像が写し出された時、お互いに視線を交わした。二人のまなざしは安堵に満ちていた。印象も共通していた。
〈ベータマックスは随所に苦心の跡が見受けられるが、基本設計はUマチックの域を出ていない。これならVHSの方が数段上だ。今さらソニーの軍門に下ることはない〉
ビクターの技術陣は目を皿にして、ベータマックスの映像を見た。ソニーからはすでに松下を含めた三社による共同開発を正式に提案されている。高野が恐れたのはソニー首脳から、大人の提案をされることだった。
「ビクターさん。U規格の時と同じように、このベータマックスをベースに松下を含めた三社の技術者が集まり、トコトン技術改良を重ね、名実共に共同開発にしませんか。そうすれば、名実共に世界規格になります」
ソニーからこうした提案をされれば、断る理由がないので、いやおうなしに共同開発に向けて交渉のテーブルに着かなければならない。高野にはすでにその覚悟ができていた。ソニーの説明が一通り終わると、質疑応答に移った。事前の打ち合わせ通り、高野と白石は前面に出ず、質問は徳光一人に任せた。最初の質問は期せずして松下副社長の中尾哲二郎と同じものだった。
「ソニーさんはベータマックスをベースに三社の共同開発にしたいとのことですが、当然、これから三社の技術検討会を開くわけですな」
すると専務の大賀典雄が木で鼻を|括《くく》った返事をした。
「確かにU規格の時は、細目については三社の技術屋さんに任せました。ところがわれわれが提案してから、規格がまとまるまで一年もかかってしまった。したがって今回は考えておりません」
これに徳光が異論を唱えた。
「お言葉ですが、大賀さん。時間をかけたからこそ、素晴らしい規格ができたのではありませんか」
「それはそうです。しかし家庭用ビデオで技術検討会をやれば、一年では済まないでしょう。そんな悠長なことをしていては、みすみすビジネスチャンスを失ってしまいますよ。お客さんは一日も早く本格的な家庭用ビデオの登場を待ち焦がれているんです。ベータマックスはこと技術に関しては、完璧な製品です。われわれは当初、年内発売を考えていましたが、今となっては無理です。それでもなんとか年明けには出したいと思っております。ノンビリと検討会をやっていては間に合わないのです」
大賀の言わんとすることは、共同開発はあくまで名目で、要は規格を丸|呑《の》みしてほしいということだった。徳光は大賀の発言を無視する形で、ダメ押しするように確認した。
「ソニーさんは今回の家庭用ビデオでは、技術検討会は考えていない。そう理解していいのですね」
「残念ながら、今のところそういう計画はありません。必要がないといったほうが適切かも知れません」
ビクターがVHSを開発していることを知らない大賀の発言は、自信にみなぎっていた。それが高飛車な態度となって表れた。自社の技術に全幅の信頼を置いている社長の盛田昭夫も、同じ思いだった。
〈本格的な家庭用ビデオを開発できる企業は、世界広しといえどもソニーをおいてない。うちの技術陣が自信を持って出したのがベータマックスだ〉
徳光は副社長の岩間和夫と専務の大賀に深々と頭を下げ、礼を言った。
「本日は年末のお忙しい中、ビデオの技術説明会を開いてもらって、本当に有り難うございました。ソニーさんは素晴らしい家庭用ビデオを開発なさいました。ご幸運をお祈りします」
岩間も大賀もこの徳光の言葉が、断りの返事であることを、この時まだ気付かなかった。帰り際、社長の盛田がわざわざエレベーターの前に現れ、徳光に親しげに声をかけてきた。
「ビクターさんはビデオの老舗企業です。先輩、U規格に続いて家庭用でも、ぜひ一緒にやりましょうよ」
盛田と徳光は、一九四五年八月十五日の終戦をそれぞれ少尉と中尉として、海軍の横須賀鎮守府で迎えた。その時の二人の上司が“テレビの父”高柳健次郎である。戦前、東京工業大学の講師をやっていた盛田は、戦後、大学に復帰するつもりだったが志願軍人だったことからパージに遭い、四六年に井深と一緒にソニーの前身である「東京通信工業」を興した。一方、徳光は高柳と行動を共にしてビクターに入社した。
徳光は盛田の呼びかけに、返事をせず目礼してエレベーターの中に消えた。高野と白石はここで日本橋の本社に帰る徳光と別れ、京浜東北線の電車に乗り込み横浜工場に着くまでの間、それぞれの感想を述べあった。
「白石君、VHSが技術面でベータマックスに劣る点は何もない。VHSの容積はベータより一回り小さくて、しかもシンプルだ。ソニーがベータを先行発売しても、一時間録画では市場を完全制覇するのは難しいのではないか」
「ベータマックスは私たちが苦労して作り上げた十二の開発マトリックスを満たしていません。物珍しさでそこそこ売れても、いずれ長時間録画に走らざるを得ないでしょう。そうなれば、必ず互換性が大問題になります。ビデオは事業部長が口を酸っぱくして言っているように、放送用、家庭用を問わず最初の規格が大切なんです。ソニーともあろう会社が、なぜそれに気が付かないんですかね……」
高野と白石は内心、勝ち誇っていた。高野の関心は、早くもVHSをどうやって事業化させるかに移っていた。音響製品でいかに歴史と伝統があろうと、“子分肌”の企業風土に慣れ親しんだビクターが、本格的な家庭用ビデオを開発しても、企業規模、名声、過去の実績――どれ一つ取り上げても、熾烈な競争が予想されるビデオ戦争で勝利を収めるのは容易ではない。
ビクターにはソニーのように先進的な技術で市場を作り出した実績もない。社風もおっとりしており、系列販売店も少ない。営業精神も乏しい。良くいえば業界の信頼が厚いといえるが、逆に悪くいえば、それだけ甘く見られていた。
高野はその社風を逆手に取ることを考えていた。水面下でベータとVHSの激しい覇権争いがスタートしたころ、日本のみならず世界の家電メーカーはビデオに自信を喪失しかけていた。各社とも多くの技術者と巨額の資金を投入して、ポスト・カラーテレビの本命商品である家庭用ビデオの開発に取り組んだが、思ったような成果を出せなかったからだ。
ベータマックスを見た高野は、VHSに自信を持ち、頭の中でVHSを世界規格に育てる戦略を練っていた。
〈ソニーは早晩、ベータの仲間作りを始めるだろう。そのやり方は規格の押し付けだ。自信を失った会社は、その提案に乗るかもしれない。ビクターはその間隙をぬって、長時間録画などVHS優位性を、謙虚な態度でプレゼンテーションすれば、ひょっとして世界の大企業を取り込むことができるのではないか〉
ビクターは七五年の正月明けから、最終の第四次試作機に取りかかった。一方、まだビクターの思惑を知らないソニーは、一日千秋の思いで吉報を待った。松下さえ採用を決めてくれれば、子会社のビクターも自動的に採用せざるを得ないと読んでいた。ところが年が明けても、両社からはなしのつぶて。業を煮やしたソニーは、松下に何度か返事を促したが、答えはいつも同じ。
「引き続き検討しているが、結論はまだ出ていない」
ベータマックスに対する松下の技術陣の一抹の不安は、録画時間にあった。一時間では短すぎる――。こうした不安は、カートリッジの失敗を機に、調査会社に依頼して、数千人のユーザーを対象に行ったアンケートの調査結果から来ている。
調査項目は「ビデオは何に使えるか」「どういう用途で使っているか」「どんなプログラムが欲しいか」など単純なものだったが、「テレビで放映される映画やスポーツ番組の録画に使いたい」という回答が圧倒的に多かった。となれば一時間では短すぎる。
録画時間三十分のオートビジョンの挫折は松下に「家庭用ビデオは短時間の録画では市場に受け入れられない」という教訓を残したが、独自に長時間録画が可能なビデオを開発するには、あまりにも時間がなさ過ぎた。そうした中で、中尾がいくら「ソニーのやり方は規格の押し付け」と|憤《いきどお》ってみても、松下にベータマックスに対抗する製品がない以上、選択すべき道は一つしかない。録画時間の短さに目をつむり、恥を忍んでベータ規格を採用することである。
ただ採用するにしても、松下にも意地がある。松下の真骨頂ともいうべき「創造的模倣戦略」を展開するには、ライバルの製品を徹底的に分解して分析する必要がある。とはいえ肝心の製品が売り出される前では、手の打ちようがない。松下といえども、研究所で試作機を見ただけでは、正確な評価はできない。研究所では|侃々諤々《かんかんがくがく》の議論の末、三月に入ってようやく結論を出した。
「ソニーのベータマックスの発売を待って、それを徹底的に分解して、ソニーの技術指導を受けずに、しかも短時間で自社生産できるようだったら、ベータ規格を採用する」
ソニーが「家庭用ビデオの開発に成功したのではないか」という|噂《うわさ》は、年明けとともに真実味を帯びて業界やマスコミを駆け巡った。こうなるとソニーとしても、いつまでも発表を抑えておくことはできない。もともと前年のクリスマス商戦の前に発表を予定していただけに、社内では「遅きに失した」との意見が大半を占めた。こうした社内空気を察して社長の盛田が最後の断を下した。
「このままズルズル延期していては、みすみすビジネスチャンスを失してしまう。来年はソニーの創立三十周年の大事な年だ。松下にやる気がないなら、われわれが先行販売して、ビデオが商売になることを教えてやろうじゃないか」
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2 一世一代の大芝居
一九七五(昭和五十)年四月。泥沼のベトナム戦争で南のサイゴン政府が降伏、ハノイ政府解放軍がサイゴン(現ホーチミン)に無血入城して二十年の長きにわたったベトナム戦争に終止符が打たれた。世界は平和に向けて一歩踏み出し、十一月にはジスカールデスタン仏大統領の提案で、フランスの保養地・ランブイエで米、英、仏、西独、伊それに日本を含めた先進六カ国の首脳が一堂に会した第一回先進国首脳会議(サミット)が開かれた。
一方、日本経済は依然として第一次石油危機後の不況から立ち直れず、この年の二月に完全失業者が百万人を突破するなど不況が一段と深刻化していた。
そんな暗い世相の中でソニーは、家庭用ビデオ「ベータマックス」の発売に踏み切った。四月十六日の発表の席には、会長の井深大、社長の盛田昭夫、副社長の岩間和夫、専務の大賀典雄らソニーの最高首脳が勢揃いした。翌月に創業三十年を迎えるソニーは、創業四十周年に向けての発展をベータマックスに賭けていた。最高首脳の揃い踏みは、その意気込みの表れでもあった。
記者会見では冒頭、井深がソニーにおけるビデオの開発史を語り、続いて盛田が家庭用ビデオの効用を延々とぶち上げ、次の言葉で締め|括《くく》った。
「ビデオがやっと大型カラーテレビと同じ一台二十万円台の価格になった。ポスト・カラーテレビの本命商品がビデオだというのが、ソニーの長年の主張だった。ベータマックスが登場したことで、ビデオ時代が必ずや到来する。今年こそビデオ元年になるであろう」
実は盛田が「ビデオ元年」を宣言したのは、今回が二回目である。最初は七二年に業務用ビデオ、Uマチックのテープをダビングするプリントハウスをニューヨーク、シカゴなど米国の大都市に設置した際、現地のマスコミを前に胸を張って語ったものだ。
「このシステムによって、家庭用のカラービデオの時代が始まる。今年がビデオ元年になるだろう」
プリントハウスはレンタルビデオの走りともいうべきシステムで、ソニーはUマチックが家庭用に入ることを期待したものの、肝心の製品が業務用の域を出ず、ビデオ元年は幻に終わった。それだけに盛田のベータマックスに対する期待は大きかった。
「SL6300」と呼ばれた一号機の価格は、二十二万九千八百円。ただしテレビ番組の録画は、ビデオ端子の付いたカラーテレビとしか接続できないという欠点を持っていた。ビデオ端子の付いていない旧型のテレビに接続するには、多少なりとも改造しなければならない。
それではソフトが出回っていなかった時代に、なぜソニーは欠陥商品ともいえる製品を出したのか。業界の雀は一様に首を傾げたが、高野は独特の見方をしていた。
〈ソニーは消費者にビデオは高額商品という印象を与えたくなかったに違いない。ソニーは焦っているのだ〉
二カ月後にビデオ端子の付いていないカラーテレビに接続できる「SL7300」を出したが、価格は二十八万円に上がっていた。ソニーは共同開発を諦めて単独発表に踏み切ったものの、松下、ビクターとの提携を断念したわけではなかった。松下の真意を探るため、水面下で新たな提案をしてきた。
「松下さんが自社生産に踏み切るまでの間、ベータマックスを松下系列のナショナル店に展示させてほしい」
ソニーにすれば、この提案を松下に受け入れてもらえれば、弱点ともいえる販売力の弱さをカバーできるうえ、販売店の方から松下本社にベータ規格の採用を働きかけてもらえるという、一石二鳥の効果を期待したわけだ。
両社の国内販売網には、歴然たる差がある。ソニーは専属の「ソニーショップ」が一千五百店のほか、ソニー製品の取扱高の大きい準系列店を合わせても三千店に満たない。これに対し松下は専属の「ナショナルショップ」が一万八千店、松下製品を扱うナショナル店会加盟店が一万二千店の合わせて三万店ある。こと国内販売に関しては象と蟻ほどの差があった。
松下中央研究所はベータ規格の採用に傾きかけていたものの、最終態度を決める前に販売店を利用されては、外堀を埋められたも同然である。商売上手の松下は、ソニーの提案を無視することにした。
副社長退任が決まった中尾哲二郎は、最後の最後まで、技術部門の総帥としての面子にかけ、世間に向けて松下独自の規格を提案したかったが、いかんせん時間がなさ過ぎた。研究所内に「ベータ規格の採用やむなし」の空気が流れ出すと、次に「果たして松下はソニーの教えを請わずベータ規格の製品を作れるのか」という不安がよぎった。その不安が的中するかどうかは、ベータマックスをバラバラに分解してみれば一目で分かる。
大阪でベータマックスを誰よりも早く購入したのは、誰あろう松下中央研究所である。発売したその日に購入して分解したところ、基本設計がU規格を踏襲し、しかも思ったほどIC(半導体)が使われていないことが判明した。となれば作るのはそれほど難しくない。これを見て技術者はひとまず安心した。
その日のうちに、生産技術研究所にベータ規格の試作機の生産を依頼したところ、一カ月を待たずして十台ほどでき上がってきた。試作機には思い切って大量のICを使い、本家のベータマックスを上回るきれいな絵を出すことにも成功した。
当然、生産ラインに乗せた場合の問題点も洗い出された。そしてベータマックスが発売されてから四カ月後の八月の夏休み前に、中央研究所は役員会にレポートを上げた。
「半導体の一部をソニーから購入するだけで、ベータマックスを上回る製品を作れる。数カ月間の準備期間があれば、量産体制を敷くことは可能」
夏休み明けに予定している役員会の了承を得れば、ベータマックスの採用が正式決定する段取りが整った。
日本経済はまだ石油危機の傷が癒えず、八月二十八日にパルプ、繊維、建材の複合企業の興人が会社更生法を申請して事実上倒産した。負債総額は二千億円に達し、日本熱学を抜いて戦後最大の倒産記録を塗り替えた。興人が倒産する一週間前、ビクターの定例役員会が東京・日本橋の本社で開かれた。この儀式に出席するため松下会長の高橋荒太郎は、前日の夜に上京した。
高橋は松下本体がビクターに直接資本参加した五四年から非常勤取締役として名を連ね、七〇年に監査役に就任してからも、引き続きビクターの経営に目を光らせていた。高橋は幸之助の名代ということもあり、よほどの用事がない限り、ビクターの定例役員会に出席した。
松下の高収益の源泉は、事業部制にあることは前に触れたが、各事業部は独立採算で運営されるにしても、収益状況を厳しくチェックされるのが、松下独特の経理制度である。この制度を作り上げたのが高橋である。戦前、朝日電池の常務として|辣腕《らつわん》を振るい、三六年に朝日電池が松下の傘下に入ったのを機に退社を決意したが、幸之助に請われ、意を翻して松下に入社した。
高橋の功績は経理制度の確立にとどまらない。松下精工の再建、九州松下電器の設立、「パナソニック」ブランドの海外での展開、オランダ・フィリップス社との技術提携、健全な労使関係の構築……。枚挙にいとまがないほど幸之助から出された難問を具体化させてきた。
特筆すべきはフィリップスとの提携である。一九五二年に合弁で松下電子工業を設立しただけでなく、フィリップスの技術を駆使して電球、蛍光灯、ブラウン管、トランジスタラジオなどの生産を始めた。
戦後、松下を「家電業界の王者」に育て上げたのは、紛れもなく「幸之助─荒太郎」の創業者と番頭のコンビである。
ビクターの取締役会が開かれるのは、午前十時からと決まっているが、高橋はいつも三〇分前に来て、松下で同じ釜の飯を食った社長の松野幸吉と取締役経理部長の平田雅彦を相手に、世間話をするのが習わしになっていた。平田は松下時代、高橋の秘書をしていたこともあり、ざっくばらんに何でも話あえる間柄である。旧盆を挟んだ長い夏休みが明けた直後の役員会だけにノンビリとした雰囲気が漂っていたが、話題はどうしても松下の動向に移る。その流れの中で高橋の口から、松下のビデオ戦略が出た。
「ビクターもご存じのように、松下はビデオの問題で世間様に顔向けができないようなゴタゴタを繰り返したが、ようやく方針が固まったで。どうやら面子を捨てて、ソニーのベータ規格を採用するらしい。正治社長はすでに了解しており、一両日中に担当役員が相談役に報告して、そのあと向こうさんに正式な返事をするらしい。情けない話だが、うちにベータマックスに代わる製品がない以上、いたしかたない。いわずもがなのことだが、早晩ビクターもベータ規格を採用することになるんやろな……」
高橋の話を聞いて、松野と平田は飛び上がらんばかりに驚いた。二人にすれば|驚天動地《きようてんどうち》である。松野は高橋が中座したのを見計らって、平田に耳打ちした。
「平田君。きみ、すまんが急用ができたことにして、役員会を欠席してすぐ横浜工場に飛んでくれ。そこで高野君と善後策を協議してほしいんや。ここで松下にベータ規格を採用されたら、これまでの苦労が水の泡や。頼んだで」
平田はビデオ事業部長の高野と善後策を協議するため、横浜工場へ向かって車を飛ばした。高野はじっと腕を組み、目を閉じながら、平田の話に耳を傾け、話が終わると重い口を開いた。
「最悪の場合、相談役に直談判せざるを得ませんね。その前に平田さん、悪いが松下の動向を探ってくれんかね。それもできるだけ早く」
平田はその前に確認しておかなければならないことがあった。
「高野さん、相談役にはビクターがVHSを開発していることは話していなかったのですか。てっきり私は……」
「私がいくら相談役に心酔しているとはいえ、本社のお偉いさんにも伏せていたことを、話せませんよ。ともかく松下がベータの採用を決めたら、VHSは日の目を見ない」
平田は高野から松下の動向を探ってほしいと頼まれたものの、ハタと困った。彼の本籍は依然として松下本社にあるものの、根っからの事務屋で、経理部と秘書室の経験しかない。技術部門の人脈はまったくといっていいほど知らない。
思案投げ首のとき、平田は学者然とした一人の男の顔を思い浮かべた。それは同期入社の菅谷汎だった。技術屋と事務屋と畑は違うが、五三年入社というよしみから数年に一回、同期が集まり酒を酌み交わしながら仕事を離れ、ワイワイガヤガヤ騒いでいる。平田はその場で古巣の秘書室に電話を入れ、まず菅谷の職場を聞き出し、電話を転送してもらって真偽のほどを確かめた。
「平田君、高橋会長の言ったことは本当だよ。松下にベータマックスに対抗できるビデオがない以上、残念ながらベータ規格の採用はやむを得ないんだよ。生産技術研究所で実際に試作機を作ったところ、『ソニーの技術援助がなくとも作れる』という判断も出ている。けさ最高技術顧問の中尾哲二郎さんと中川懐春副社長、それに松本正男取締役の三人が相談役に説明して了承を取った。これから私が盛田社長のアポイントを取ることになっている」
「詳しいことは後で話すけど、盛田さんのアポイントを取るのだけは、ちょっとだけ待ってくれんか。実はビクターが……」
そばで二人の電話のやりとりを聞いていた高野は、菅谷が平田の要請を受け入れたことを確認すると、その足で東京・日本橋のビクター本社に直行して、八階の社長室に飛び込んだ。
「社長、これからすぐ大阪へ飛んで下さい。そして相談役に会って、ビクターがベータマックスに負けない家庭用ビデオを開発したことを報告して下さい」
松野は用件が分かっているせいか、一つだけ念を押した。
「高野君、それだけでいいのか」
「十分です。それだけ言えば相談役なら分かるはずです。間違いなく、数日中に技術者をビクターに派遣するよう指示するでしょう」
それでも松野は不安なのか、自分ができることがないかどうか尋ねた。
「私のほうから相談役にソニーへの返事を当分見合わせるよう、直接頼んでみようか」
「そこまでダメ押しをしなくても大丈夫かと思います。相談役はその辺の機微は分かる人です」
この時、高野は|乾坤一擲《けんこんいつてき》、一世一代の大芝居のシナリオを書き、白石と廣田の二人に披露した。
「松下の技術者が明日ここに来る。おれは|伸《の》るか|反《そ》るかの大勝負に出る。ここで負けたらVHSはわれわれの手慰みで終わってしまう。それだけは絶対に避けなければならない」
「で、私たちは何をどうすればいいんですか」
「おれは明日、急用ができたことにして、松下の連中には挨拶だけして中座する」
「どうしてですか? 事業部長がいなければ変に|詮索《せんさく》されます」
「いや、おれはいないほうがいいんだ。いなくなった後、二人で大芝居を打ってくれ」
「芝居といいますと?」
「ごらんの通り、VHSはまだ試作機の域を出ていない。完成すれば松下の技術者にもベータマックスより小型・軽量で、使いやすいことが分かってもらえるが、|剥《む》き出しの試作機ではそれもできない。録画時間にしても、松下がこの重要性にどこまで気が付いているか分からない。万が一、気が付いていなければ、ビクターにとって極めて不利だ。
どんな経緯があったかは知らないが、松下は事実上、ベータ規格の受け入れを決めている。それも近日中に返事をする段取りになっている。これを覆すのは容易ではない。松下をビクターに呼び戻すには、VHSがいかに魅力的かを分かってもらうしか手はない」
「それは当然です」
「頼みというのはほかでもない。明日松下の技術者にVHSを見せたとき、アジマス記録方式であることを伏せてほしいんだ」
「事業部長、そんな子供だましみたいなことをやっても、必ずバレます」
「そうかもしれない。しかし彼らに強烈な印象を与えない限り、松下の決定を覆すのは無理だ。技術者としては心苦しいだろうが、頼む。責任はすべておれがとる」
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3 大いなる誤解
日本ビクター社長の松野幸吉が、大阪に飛んで、松下幸之助にVHSの開発を報告してから二日後の八月二十五日。松下ビデオ技術部長の村瀬通三(後に副社長)と中央研究所部長の菅谷汎の二人がビクターの横浜工場を訪れ、VHSの試作機を見せてもらった。
「ビクターさんも水臭い。家庭用のビデオを開発していたんなら、われわれにも一声かけてくれれば、いろんな面で協力できたのに」
「いずれ松下さんにはご報告しなければならないと思っていたのですが……。なにせまだ完成していないものですから」
二人を応接間に招き入れた高野は、この人には珍しく軽口をたたきながら応対した。
「きょうはこちらが呼び寄せておいて申し訳ありません。私はよんどころない用事があって、外出しなければなりませんのでここで失礼します。VHSは直接開発に携わった開発部長の白石と次長の廣田に説明させませすから、じっくりご覧になってください」
高野は挨拶を終えると、何食わぬ顔で応接室を出ていった。部屋には|剥《む》き出しの試作機とモニター用のテレビが置いてある。白石はあらまし説明した後、その日の朝のテレビニュースを録画した映像を映し出した。
ビクターにとって松下は親会社とはいえ、両社の間に技術交流はまったくといっていいほどない。高柳健次郎を擁するビクターの技術陣の中には、「松下なにするものぞ」という気概と同時に、ことAV(オーディオ・ビデオ)に関しては、「この分野ではわれわれの方が歴史と伝統がある。松下だけには絶対負けたくない」という強烈なライバル意識がある。
松下にしても、いくら業界で“マネシタ電器”と陰口をたたかれようが、「日本一の家電メーカー」というプライドがあり、頭を下げてまで子会社のビクターに教えを請う気はサラサラなかった。幸之助の方針とはいえ、ことほど左様に技術開発の基盤が違うので、ビクターが開発した新しいビデオを松下の技術者に見せても、短時間ですべて分かってもらうのは難しい。
村瀬と菅谷は、幸之助から直接「ビクターはどえらいビデオを開発したらしい」と聞かされているせいか、どうしても先入観を持って質問する。
「これだけ鮮明な絵を出して、しかも二時間録画とくれば、記録方式は当然アジマス方式ですよね」
のっけから痛いところを突かれたが、白石はなに食わぬ顔で答えた。
「(アジマス方式ですが)ソニーのベータマックスとはあらゆる点で異なります。VHSは(ベータマックスと違って)欧州のテレビ方式にも、即座に対応できます」
これに松下の二人の技術者は色めきたった。
「本当ですか?」
「本当です」
松下の技術者が記録がアジマス方式でないかと尋ねたのに対し、白石と廣田は微妙に答えをはぐらかし「細部ではベータマックスと異なる点」をことさら強調した。
松下側の鋭い質問が続く。
「カセットの大きさから推測しますと、テープにはガードバンドがありませんよね」
「その通りです。ありません」
「(アジマス方式でなくしかも)ガードバンドがないとすれば、これはノーベル賞に匹敵する画期的な発明だ」
「………」
アジマス記録方式は一九五九(昭和三十四)年に電気通信大学教授の岡村史良が発明した記録方式で、オープンリールの時代に松下が初めて採用した。担当者として製品化に尽力したのが、オランダのフィリップス留学から帰国したばかりの菅谷だった。
U規格を決める際も菅谷は強力にアジマス記録方式の採用を主張したが、最終的には安全を最優先させ、採用を見送ったいきさつがある。U規格が決まった直後、ソニー創業者の井深大は、しみじみと菅谷に語ったことがある。
「菅谷さん。電通大の岡村先生が開発したアジマスというのは素晴らしい記録方式ですね。今回は無理でもいずれ主力になる技術ですね」
「私もそう思います」
井深はアジマス記録に興味を示し、ソニーはベータマックスでいち早く採用した。村瀬も菅谷もこうした経緯を知っているだけに、VHSを見るまでは、ハナからビクターもアジマス方式を取り入れたものと信じていた。
ところが説明役の白石と廣田は「(アジマス記録だが)細部ではベータマックスとは違う」と言ったつもりが、村瀬と菅谷は勝手に「VHSではアジマス方式は採用していない」と受け止めてしまった。ここで高野が期待した通り、大いなる誤解が生じたわけだが、この誤解が結果的にビクターに大きな幸運をもたらすことになる。
翌朝、二人は大阪・門真市の松下本社に出社するなり、幸之助から相談役室に呼び込まれた。
「ビクターが開発したVHSとかいうビデオはどうやった。松野(幸吉・ビクター社長)は自信あり気に言っておったが、本当にきれいな絵が出てたんか?」
「詳しい技術的なことは省きますが、ビクターの言っていることが本当だとすれば、画期的なビデオであることは間違いありません」
「あんたがた二人は、実際にVHSの絵を見たんやろ。きれいな絵が出ておったんなら、なんも問題はあらへん。やっぱりビクターや。わしの目には狂いはなかった。別会社にしておいて本当に良かった」
松下とビクターの技術者に激しいライバル意識はあっても、幸之助にすれば松下もビクターも同じ自分の子供であり、平等に扱ってきた。ただビクターには辛い想いをさせないため、自分が松下本社の相談役に退いてからなお数年間、ビクターの会長だけは続けてきた。
村瀬と菅谷は、VHSの報告を続けた。
「VHSが技術的に優れていることもさることながら、カセットの大きさがベータマックスと同じで、しかも二時間録画ということです。相談役もご承知のように、数年前わが社が開発したカートリッジビデオ(オートビジョン)の致命傷は、録画時間が短いことでした。正直言いましてベータマックスの録画時間が一時間である限り、市場では受け入れられないでしょう。これはわれわれの調査でもはっきりしています。その点、二時間録画のVHSには大いに興味があります」
「そんなら早急に若手の技術者をビクターに派遣して、VHSが商品としてモノになるかどうか、調べさせなはれ。本物になる可能性があるのなら、わしも一度見てみたい」
村瀬と菅谷が研究所で声を大にして「ビクターが家庭用ビデオで世界的な発明をした」と吹聴したことから、技術者の間でVHSへの関心が急激に高まった。
九月に入ると連日、松下の技術陣がビクターの横浜工場を訪れた。VHSの記録方式がアジマスであることは、ほどなく判明したが、松下社内でビクターを非難する声はほとんど上がらなかった。とはいえそれで松下がすんなり採用するかといえば、ことはそう簡単に運ばない。松下社内の空気は複雑だった。研究所の最大公約数の意見は、打算に満ちたものだった。
「VHSの性能は優れているが、いかんせんまだ試作機の域を出ていない。技術的に分からない点も多い。松下がVHS規格を採用するかどうかの結論を出すには早過ぎる。ベータマックスはVHSがダメだった場合に備え、安全パイとして残しておいた方がいいのではないか」
この年の残暑は、例年になく厳しかった。九月半ばを過ぎても、連日三十度を超す真夏日が続いた。彼岸の過ぎたある日、幸之助は無線事業担当副社長の稲井隆義と六五年以来、幸之助の専属秘書をしている六笠正弘を伴って横浜工場を訪れた。
一カ月前に松下の目利きの技術者が訪れた時は、まだVHSの試作機は|剥《む》き出しのままだったが、今回は幸之助が見に来るとあって、高野の指示で試作機は、そのまま店頭に並べても恥ずかしくないほど、丁寧に仕上げられていた。
応接室で高野から一通り説明を聞いた後、幸之助はやおら立ち上がり、デッキに近づき、何か音が聞こえないかと頬ずりせんばかりに耳を寄せた。さらに手で触って、そして慈しむように撫で回し、最後に自分で持ち上げた。さらに自分の手でカセットを入れ、スタートボタンを押して絵を映し出した。
「ほっ、いい絵が出るやないか。ビクターはええものを開発してくれた。ポータブルのビデオカメラに続いて、二回目やな。ご苦労はんやった。高野君、ようやってくれた。これは売れるで、わしが保証する」
“経営の神様”は目を細め、前回と同じ言葉を吐いてビクターの開発陣をねぎらった。幸之助が「売れる」と言い切ったのは、むろんそれなりの根拠があってのことだ。幸之助は長年の経験から、家電製品について「お客さんが自分で家に持ち帰れる商品は、そうでないものに比べて十倍売れる」という独特の哲学を持っていた。テレビが登場してからその傾向が顕著になり、新製品が出るたび、この持論を側近に自慢気に語ったものだ。
この経験に則した販売哲学をビデオに当てはめれば、次のようになる。重さが二〇キロあるベータマックスは店頭で買っても、自分で家に持ち帰るのは難しい。その点、一三・五キロしかないVHSは、その場で包装してもらって、そのまま電車に乗って家に持ち帰れる。したがってVHSはベータマックスの十倍売れる。
高野は幸之助が機嫌が良いのを確認したうえで、最初に村瀬と菅谷が見にきたとき、アジマス記録であることを伏せていたことを率直に詫びた。
「高野君、わしは技術の詳しいことはよう分からんが、きみはよほど切羽詰まっていたんやな。しかし、結果オーライや。アジマスというやらの件はうちの技術者が聞き違えたんやろ。そうしておいたほうが、誰も傷がつかんでええ」
幸之助はこれを機に、上京した際、暇を見つけては日本橋のビクター本社や横浜工場に足を運んで、高野からVHSの進捗状況を聞いた。高野は病気がちでしかも八十歳を超す高齢の幸之助が、VHSを持ち上げられるかどうかで、その日の体調を判断していた。
それから数日後、松下のビデオ関係役員を集めて幸之助が主宰する“御前会議”が松下本社で開かれた。役員会議室にはソニーのベータマックスと、関係会社の松下寿が開発したVX100の二機種のビデオが置かれていた。
VX100はもともと松下の無線研究所が、ニュースや天気予報、料理などの短時間番組を録画するために開発したものである。松下はこれをテレビに組み込み、「メモ録テレビ」としての需要を狙ったが、肝心の録画時間が十五分と短いことから早々と製品化を断念して、お蔵入りしたいわくつきのビデオである。
これに松下寿社長の稲井が目をつけ、寿の本拠地、四国・高松に持ち帰り、|密《ひそ》かに改良を続け、|虎視眈々《こしたんたん》と製品化を狙っていた。そんな矢先の七五年春、松下本社の副社長に就任したばかりの稲井に、幸之助が何気なく尋ねた。
「うちでええビデオが開発できんのやったら、ソニーのベータ規格を採用するのも一案だが、どうやろ」
「相談役。お言葉ですがソニーのベータマックスは、改良すべき点が数多くあります。私が松下本社のビデオの責任者に就いた以上、一度自分で納得できるものを開発してみたいのです。ぜひやらせて下さい」
こうした経緯から御前会議にVX100を展示することになった。この会議には、ビデオ事業部長の谷井昭雄とビデオ技術部長の村瀬の二人が陪席を認められた。幸之助の前には互換性のない二台のビデオが並べられている。
「右の方がベータマックスであるのは分かるが、左の大きい機械は何やね?」
幸之助が|訝《いぶか》しげに尋ねると、稲井は胸を張って言った。
「これが松下寿が開発したVX100です。録画時間はベータマックスと同じ一時間あります」
「それにしても大きなカセットやな。まるで弁当箱、それもドカ弁みたいやないか」
「VXのカセットが大きいという批判は重々承知しております。しかし相談役。この製品は一ヘッドですから、二ヘッドのように生産過程で、精密な調整作業の必要はありません。しかも二ヘッドに負けないほどのきれいな画質を出せます」
陪席を許された谷井と村瀬は、VXの利点をとうとうと述べる稲井の話を、苦り切った表情で聞いていた。二人は稲井の意気込みとは裏腹に、VXが家庭用ビデオの主流になり得ないことを知っていた。それどころか松下が中途半端な製品を投入すれば、市場が大混乱してユーザーのビデオに対する熱が冷めることを恐れていた。とはいえ直属の上司だけに、面と向かって反論することは許されない。稲井の弁舌が一段落すると、幸之助は二人に発言を求めた。
「谷井君と村瀬君はビデオの専門家やな。専門家なら一時間録画と二時間録画のどちらの機種を選ぶかね」
「それは文句なく二時間です」
谷井と村瀬が期せずして、同じ返事をした。二人はVHSを選択することで、ベータマックスとVXの双方を否定したつもりだった。すると幸之助はしたり顔でうなずいた。“御前会議”はここで終わるはずだったが、稲井が粘り腰をみせ、最後に発言を求めた。
「一時間録画のVX100は、いつからでも生産を始められるよう準備を進めております。相談役、一つだけお願いがあります。VXを松下の全国販売網に乗せるのが無理なら、せめて四国に限定して売らせて下さい。そこでお客様の声を聞いて、改良を加えもっと良い製品を出してみせます」
幸之助は返事をしなかったが、稲井はこれを自分に都合よく「相談役が了承した」と受け止めた。この時、幸之助の頭の中にはVXのことはなかった。
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4 四国の暴れん坊
四国・高松市に本拠を置く松下寿社長の稲井を、マスコミの人間は“四国の暴れん坊”“四国の猛牛”と呼んでいた。淡路島出身で松下幸之助夫人むめの、三洋電機の井植歳男、祐郎、薫のいわゆる「井植三兄弟社長」の遠縁に当たる。
稲井は井植三兄弟が松下電器の実権を握っていた戦前の松下に入社した。長年、幸之助の専属運転手を務め、幸之助が工場を視察するたび、一緒に工場の生産ラインを見て回り、そこでモノ作りの面白さを知った。粗野で学歴はないものの、運転手時代から人にない天才的ともいえる鋭いカンを持っていた。
その才能を幸之助に見込まれ、一九四八(昭和二十三)年に懐中電灯に使う豆電球と赤外線用ランプを生産するため、松下本社の資本参加を得て高松に松下寿電子工業を設立して初代社長に納まった。寿は別組織で木工工場を経営しており、そこで木製のテレビの型枠を作り松下本社に供給していた。寿の経営資源活用策の一環として、本業の赤外線ランプと木工技術を組み合わせ、日本独特の赤外線コタツを開発したのも稲井である。
稲井が松下本社の副社長を兼務するようになった七五年当時の寿の事業は、赤外線コタツ、テープレコーダー、カラーテレビが三本柱になっていた。ただ収益源のカラーテレビは、松下本社に集約され、寿としては自前の商品の開発を迫られていた。そこで稲井は、松下本社の無線研究所が「メモ録テレビ」としての需要を期待して開発したものの、製品化を断念したことからお蔵入りとなった一ヘッドのビデオに目を付け、それをモノにすることに意欲を燃やしていた。
一ヘッド方式は画質の安定性で二ヘッドに劣るものの、ローディング機構をカセットの中に組み込んでいるので、カセットそのものが大きくなる半面、デッキ本体の機能が簡素化されるので、大幅なコストダウンが可能となる。問題は録画時間が十五分と短いことだった。
稲井はこれを高松にある寿の研究所に持ち込み、自ら陣頭指揮をとり改良を進めた。風邪をこじらせ病院に入院した時でも、高熱をおしてベッドの上で図面を引いた。そして数々の工夫を凝らし、録画時間を一時間に延ばし、運よく松下本社の副社長に就任した時期に製品化のメドを付けた。稲井が後に「VX100」と名付けたこのビデオの製品化にここまで情熱を燃やすのには、それなりの理由があった。
松下の経営の特徴は、独立採算に基づく本社の事業部制と独自商品を持つ関連企業のいわば、“連邦経営”にある。各事業部だけでなく、関連企業同士に売り上げと収益を競い合わせることが、松下の成長の源泉だった。
稲井自らが松下本社の無線担当副社長に就いたことで、寿にチャンスが巡ってきた。寿が製品化したVXを松下本社に供給してソニーに対抗すれば、一石二鳥の効果がある。稲井は副社長就任早々、VXでの市場制覇を頭に描きながら、松下本社の技術者を前に|檄《げき》を飛ばした。
「ビデオを普及させるには、何より価格を引き下げることだ。知恵を出してコストダウンをはかれ」
聞いている技術者は、単に自分たちを鼓舞するための発言と聞き流し、彼がVXの販売を考えているとは、夢想だにしなかった。稲井に一貫して流れている思想は、徹底したコストダウンをはかりながら生産を軌道に乗せることだった。松下社内では稲井を“合理化の鬼”と畏敬の念を込めて呼んでいたが、いつしか「合理化のやり方は寿に学べ」という風潮も出てきた。
幸之助は松下本社に合理化という名の“文化大革命”が起きることを期待して、稲井を副社長に抜擢したともいえる。
「松下はモノ作りの会社なんや。社長も暇を見つけて、四国の寿の工場を見てきなはれ」
幸之助は後継社長の婿養子、松下正治に口を酸っぱくして苦言を呈した。重い腰を上げて寿の工場を見学した正治は、徹底して合理化し尽くされた寿の工場に驚いて、長男の正幸にモノ作りを学ばせるため、寿に出向させることにした。
「百点の良品を作ろうと思ったなら、一点一点の部品が良品でなければならない」――。これはかねてから稲井の持論で、彼のモノ作りに対する考え方は極めてシンプルである。だがこれを口で言うのは易しいが、実行するのは意外と難しい。
ところが、稲井の手にかかれば手品のようにいとも簡単に実現する。その秘密は稲井の指示で、寿が質の高い部品を作るため、検査を専門とする人間をラインに配置して、部品全量を検査することにあった。専門検査員をラインに配置すれば、人件費は上昇するが、稲井の考えは違っていた。
「不良品が出ればラインは止まる。そうすれば逆にコストが上昇する。したがって不良品を出さないことの方が経費削減につながる」
稲井が松下本社に乗り込んできて最初に行ったのは、部品一点一点を徹底的に調べ上げて、不良品をなくしたことだ。不良品を見つけると、彼の口から出る言葉は必ず決まっていた。
「大学出は役に立たん。早く現場の職長を呼んでこい」
ともあれ稲井は、松下社内のいたるところで旋風を巻き起こした。
九月下旬に開かれた幸之助主宰による“御前会議”は、非公式なもので、この席で松下がVHSの採用を決めたわけではない。当然のことながらビクターには、御前会議の報告どころか、開催も知らされていない。それでもビデオ事業部長の高野は、VHS規格を松下本社に採用してもらえる、と信じて疑わなかった。
十月に入ると、稲井の率いる松下寿は予定通り、VX100を四国に限定して販売に踏み切った。価格はかろうじて二十万円を切っていた。高野はこれをビクターの系列販売店を通じて購入し、分解してみたところ|唖然《あぜん》とした。
〈値段は確かに安いが、われわれが考えているビデオの思想とは百八十度異なる。こんな中途半端な製品では規格の主導権は握れない。相談役はどんな考えがあって、販売を許可したのだろうか〉
高野はVXを|歯牙《しが》にもかけなかったが、稲井の意気込みはすさまじかった。VXを大型商品に育てない限り、寿の業績がジリ貧になるのは目に見えている。販売は四国という狭い地域に限定されていたものの、ここで評判をとれば、自ずと全国展開の道も開ける。そうなれば松下本社副社長としての職務も全うできるとの信念からだった。
稲井の期待が大きく膨らんだこの時期、寿の工場を見学した松下系列の販売店主から嬉しい注文が出され、彼は意を強くした。販売店主はビクターがVHSを開発していることも、むろん幸之助が採用に乗り気であることも知らない。販売店としては、むしろ売れ筋商品のビデオがないことに焦りを感じていた。どんなものでもビデオという名の付く商品を店頭に並べたかった。寿の工場でVXを見た販売店主はこう言った。
「松下の販売店はビデオがなくて困っているんです。寿でビデオを作っているのなら、われわれにも供給してほしい。VXの録画時間は、ソニーのベータマックスと同じ一時間ですから十分対抗できます」
これに気を良くした稲井は、ヒトとカネを惜しみなく注ぎ込んで猛然とVXの改良に取り組む決意を固めた。VXのさらなる改良に向けて新たに六億円の研究開発費を投入、さらに二十億円かけて専用ラインを付設することも決めた。
そのころ松下本社の技術陣は、稲井の思惑を知る由もなく、ビクターと一緒になってVHSの技術改良を進めていた。安全性を重んじる松下の技術者が最後までこだわったのが、カセットの大きさだった。ハードを小型・軽量化するためには、カセットの小型化が大前提となる。ビクターは第一次試作の段階から腐心して、最終的にカセット内の供給リールと巻取リールをダブらせる方式を採用したことでベータマックスと同じ大きさにした。
この方式はすでに、東芝と三洋が共同開発した「Vコード」で採用していたが、欠点は録画・再生の途中でテープが切れる恐れがあることだった。発売後にこの欠陥が露呈すれば、取り返しのつかない事態に追い込まれる。ソニーはそれを恐れて、供給リールと巻取リールをダブらせない方式を採用した。松下の技術者はベータ規格の採用を前提に十台の試作機を作った経緯があるだけに、ベータマックスの長所も短所も熟知していた。そしてビクターに提案した。
「高野さん、供給リールと巻取リールをダブらせる方式はリスクが大き過ぎます」
これに高野が反発した。
「この方式を採用しないことにはカセットが小さくなりません。VHSの売り物は、カセットがベータマックスと同じで、しかも二時間録画ができるということです」
VHSを直接開発した開発部長の白石も次長の廣田も、カセットを大きくすることに猛反対したが、松下の技術者は一歩も引かなかった。
「開発メーカーとしてのビクターさんの気持ちは、痛いほど分かります。しかし万が一、事故が起き、欠陥商品の|烙印《らくいん》を押されれば、その時点でアウトになってしまいます」
実は高野もそのことを危惧していた。そこで春から始まった第四次試作では、供給リールと巻取リールを別々にしたカセットも研究させていた。にもかかわらずカセットを拡大することに|躊躇《ちゆうちよ》していたのは、「カセットの大きさはベータと同じでも、VHSは二時間録画ができる」ことを誇示したかったからにほかならない。
松下から改めて欠陥商品の危険性を指摘され、高野は考えを直した。
〈カセットを大きくしても機器全体が大きくならなければ、VHSの優位性は保てるのではないか〉
十一月に入ると、第四次試作の実験はすべて終わった。その矢先、幸之助から松下本社の役員会で、VHSの実物を持参して技術説明をしてほしいとの要望がきた。松下から提案されたカセットの拡大を受け入れ、ようやくその設計図ができたばかりだったが、試作機とカセットを徹夜に次ぐ徹夜で作り上げ、高野、白石、廣田の三人が松下本社に乗り込んだ。
本社の玄関口では中央研究所の菅谷汎が出迎えた。
「高野さん、今日はわざわざ大阪までおいでいただいて、恐縮しています。相談役も楽しみにしています。ところでデッキは別便で送られたんですか。私の部署にはまだ着いていません。別の部署に送られたのであれば、私が取りに行き、急いでセットします」
「デッキは廣田君が持っています」
確かに廣田はやや大きめの旅行カバンを持っていた。
「菅谷さん、VHSはこのカバンの中に入っています」
そういって廣田は、旅行カバンを軽々と持ち上げてみせた。
「本当ですか。八月に横浜工場で見たときには、|剥《む》き出しだったので、はっきりした大きさは分かりませんでしたが、こんなに小さかったんですか。これを見れば相談役は喜びますよ」
松下本社の役員会議室には、幸之助とビデオ関連役員、部長のほかビデオ関係会社のトップが勢揃いしていた。正面にはすでにベータマックスとVX100がセットされていた。幸之助はこの場に三人を手招きして、出席者に紹介した。
廣田は旅行カバンからVHSを取り出し、松下が用意したモニターテレビにつないだ。それが終わるとベータマックス、VX100、VHSの順でデモが行われた。VHSの番がきて、操作係の廣田がモニターに絵を出そうとするが、どうしたことかボケた映像しか出ない。出席者は気の毒そうな目で見ている。高野は冷や汗のかき通しだが、それを見かねて、幸之助が助け船を出した。
「VHSの映像はこんなもんやない。モニターのテレビが悪いんと違うか?」
この一言でモニターテレビを取り換えたところ、今度は鮮明な絵が出た。
「見なはれ、これが本当のVHSや。いい絵が出とるやろ」
そして帰りしな、幸之助は関連会社の一人ひとりに声をかけた。
「VHSは松下の将来を担う大型商品や。みんなビクターに協力してや。頼んだで」
そばで高野はこの言葉を聞いて、意を強くした。
〈相談役は“VHS推進本部長”に徹してくれている。本当に有り難いことだ〉
松下本社で行ったデモの席には、むろん稲井も列席していた。彼は何食わぬ顔できれいに映し出されたVHSの映像をじっと見ていたが、心の中ではVHSに猛然と|敵愾心《てきがいしん》を燃やしていた。
〈VX画像は現時点で確かにVHSに劣る。ただVXは改良すべき点は山ほどある。改良に向けて地道な努力を重ねれば、ベータマックスどころか、VHSにも対抗できる。わたしは絶対にやってみせる〉
高野は高野で、まったく別のことを考えていた。
〈ビクターの置かれている立場は、まさに『前門の虎、後門の狼』だ。VHSを松下に採用してもらい、しかも稲井さんの動きを封じるにはどうしたらよいものか。解決策は一つしかない。VHSの仲間を増やすことだ〉
高野はこの時、高柳健次郎がアンペックス機の対抗機種として小型・高性能の放送局用ビデオを開発したにもかかわらず、どこの放送局にも採用してもらえず、天才技術者が屈辱的な体験を味わったことを思い出した。失敗の原因は、高柳が心血注いで開発したビデオがアンペックス機と互換性がなかったことにある。
〈ビデオは互換性がなければ、絶対に普及しない。ビクターがVHSの開発メーカーであっても、市場を独占する必要はない。技術とフォーマットを普及させるだけで、十分過ぎるほどの利益がビクターに転がり込んでくる。その辺はソニーも抜かりはないはずだ。早晩、特許問題を絡め高圧的な態度でファミリー作りを始めるだろう。ビクターは先手を打つしかない〉
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5 手負いの野武士
高野がVHSのファミリー作りに際して、最初に目を付けたのが日立製作所だった。日立は野武士集団にたとえられるが、ことビデオに関しては、手負いの獅子ならぬ“手負いの野武士”と陰口を叩かれていた。
日立のビデオ戦略を狂わせたのは、EVR(エレクトロニック・ビデオ・レコーダー)と呼ばれる製品である。EVRは一九六七(昭和四十二)年にアメリカの三大ネットの一つ、CBSが開発したビデオシステムで、CBSと英国ICI、スイス・チバガイギーの三社が共同出資して設立したEVRパートナーシップ社が製造・販売権を持っていた。
EVRは磁気テープの代わりに電子ビームで記録した特殊なフィルムを使うことから、素材も安く、高速プリントができるので、ソフトが作りやすいという特徴を持っていた。欠点はプレーヤーに録画機能が備わっていないことだった。
業務用のU規格で仲間外れにされた日立は、米国で大きな関心を集めていたEVRに真っ先に飛び付いた。七〇年十一月には、パートナーシップ社から特許を導入、わずか四カ月後の翌七一年三月には早くも試作機を完成させ、四月に東京・日本橋の丸善で一般公開に踏み切った。
一般の見学者に交じってライバルメーカーの技術者も、この機械に熱い視線を注いだ。マスコミも大々的に取り上げたことから会場は「ビデオ時代の幕開け」を予想させる大盛況となった。社長の駒井健一郎らの日立首脳は、会場の熱気を肌で感じて、会心の笑みをもらした。
EVRに賭ける日立の意気込みは並々ならぬものがあった。日立本社はEVRに専念することにして、東海工場(茨城県勝田市)が開発したオープンリール型のビデオは、そっくり子会社の芝電気(後に日立電子と合併)に移管したほどである。五月には欧州向けのカラーEVRを開発して、ロンドンで開かれた「メイトレードショー」に出品したところ大好評を博した。それに気を良くした日立は秋から東海工場で生産を始め、満を持して十月から国内発売に踏み切った。
CBSとも輸出契約を結び、七二年早々から船積みするスケジュールになっていた。すべてが順風満帆で、軌道に乗れば近い将来、日立に膨大な利益をもたらすはずだった。
『自主独創』
日立・中興の祖ともいうべき小平浪平が打ち出した社是だが、ことビデオに関しては、|死屍累々《ししるいるい》の歴史である。悲しいかな、日立がいくら自主独創の|高邁《こうまい》な理想を掲げても、技術の蓄積がなければ、野武士といえども闘いようがない。
日立は起死回生の一打として、これまでの遅れを一気に取り戻すためEVRに飛び付いたわけだが、破局は突然やってきた。第一次石油危機が発生する直前の七三年夏に、CBSが不採算を理由に日立からOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けて販売していたのを含め、この分野から完全撤退することを表明、続いて秋にはEVRパートナーシップ社も手を引いてしまった。
CBSは撤退の理由として不採算を挙げたが、本当の理由は別のところにあった。CBSのライバルであるNBCの親会社、RCAがこの年の春にビデオディスク(VD)開発を表明したことで、米国市場におけるビデオの人気がEVRからVDへ移りつつあったからである。
EVRの素材は安いが、VDはもっと安くできる。CBSはこれでは勝負にならないと判断したわけだ。日本メーカーでは、日立のほか松下、東芝、三菱電機の四社がEVRパートナーシップ社から特許を導入して、製造・販売権を得ていた。こうした中でカートリッジに走った松下は、商品化を見送った。東芝も試験的に二、三百台生産しただけで、損害を最小限に食い止めた。
これに対し日立と三菱は、それぞれ月産三千台のラインを作り、さらに帝人が中心になって設立したソフトウエア制作会社の「日本EVR」にも出資していた。これから全力投球しようとした矢先のCBSの撤退だけに、日立のショックは隠し切れなかった。CBSの変わり身の早さに日立首脳は呆然としたものの、打つ手もなくただ狼狽するのみ。不運は重なるもので、ビデオ事業の再建を模索し始めた矢先に、第一次石油危機に襲われた。
ビクターの高野は資材高騰を逆手にとり、値上げしない戦法で九千台ほどあったU規格ビデオ「U─VCR」の在庫を一掃したが、日立のEVRには神風が吹かず、経営的には逆に重い足カセになった。日立の在庫は輸出分を含め二万台ほどあったが、需要がないので値下げしても売れるわけではない。ほとんど不良品として処分しなければならなかった。
“技術の日立”の金看板が泥にまみれた。それだけでなく後遺症も大きかった。再建に向けて七五年二月の組織改正で、まずビデオ事業を日立電子から取り戻し、日立電子は放送局用のビデオカメラ事業に専念することになった。
しかしビデオ事業を本社に取り戻しても、技術の蓄積がないので、いくら大声を上げて「再建」「再建」と叫んでもなす術がない。日立は重大な決断を迫られた。日立の輝かしい歴史の中で、製品をOEM(相手先ブランドによる生産)供給したことはあっても、ライバルメーカーから供給してもらったことはない。とはいえビデオ事業を再建するには、面子を捨てOEM調達する以外に手はなかった。
この時期、ソニーの家庭用ビデオ『ベータマックス』はまだ発売されておらず、市場は業務用のU規格製品が主流を占めていた。それではU規格製品をどこから調達するか。ソニーと松下は誇りが高く、OEM供給をしてくれそうにもない。となると残るはビクターしかない。
日立は日産自動車とともに戦前、鮎川義介が率いる日産コンツェルンの中核だった企業である。一方のビクターは戦前のほんの一時期、日産コンツェルンの傘下に入っていたことがある。つまり日立は昔の子会社から製品供給を受けるという、苦渋の決断をしたわけである。
新しい組織が発足した直後の七五年二月十七日。家庭電子事業部ビデオ機器部長の宮本延治は、日立電子に書いてもらった紹介状を持って、ビクター横浜工場に事業部長の高野を訪ねた。宮本は眼光鋭く日焼けした顔に白髪が光り、古武士のような雰囲気が漂う、五十三歳になったばかりの高野の容姿に圧倒された。
「ご承知のように日立は、EVRで取り返しがつかないほどの大失敗をしてしまいました。日立のビデオ戦略は一から出直しです。正直申し上げまして、日立にはビデオの技術蓄積はありません。ついてはU規格の業務用ビデオ、VCRの供給をお願いしたいのです。ここでビデオを最初から勉強し直して、家庭用の開発につなげたいと思っております」
この日立の要請に高野は|諸手《もろて》を挙げて賛成した。
「願ってもないお話です。しかしビクターはOEM供給した経験がない会社ですので、本社は大反対するでしょう。しかし私が責任を持って説得します。それまで少し時間を貸して下さい」
話しているうち宮本は、自分より三歳年下の高野が、ひと回りどころかふた回りの年長者に見えた。そして即座に判断した。
〈この人は絶対人を裏切らない人だ〉
高野にすれば日立からの申し出は、願ったり叶ったりだった。唯一の悩みは、本社がOEMビジネスの重要性をほとんど理解していなかったことである。高野は本社に報告する前に、事業部の営業担当者に意見を求めた。
「VCRをライバルメーカーにOEM供給したいんだが、あんたがたはどう思うかね」
「事業部長、冗談はやめてください。VCRは在庫がなくなり、ビデオ事業部もようやく黒字になったばかりです。人気も出始めております。その矢先にライバルメーカーにOEM供給するということは、敵に塩を送るのと同じ行為です」
「お前たち、営業の連中がもっと売ってくれれば話は別だが、月二、三千台ではいかんともし難い。実は内外の三社からOEM供給の商談が来ているんだ」
高野は「ここだけの話」と前置きしても、営業担当者は習い性で間違いなく本社に報告するという前提で話している。案の定、数日を経ずして高野のもとにある役員のコメントが伝わってきた。
「OEMなんてとんでもない。ビクターは音響製品の分野では、由緒ある名門企業なんだ。五十年の歴史の中で、自分の作った製品に相手のブランドを付けて売る商売なんか一度もしたことがない」
本社の反応を知って、高野はバカバカしくなった。
〈本社のお偉いさんは、OEMビジネスの本質をまったく分かっていない〉
そこで高野は日を置かずして、大阪に飛んで幸之助に相談した。
「実は内外のメーカーから、業務用のVCRをOEM供給してほしいという商談が舞い込んでいます。ただし本社は前例がないという理由から、反対しています。それで困っております」
「高野君、それはええ話やないか。安くてええ製品なら世界中に供給してやんなはれ。OEMというのは、ビクターの製品が同業他社に高く評価されたということや。安心したまえ。なんならわしの方から松野(幸吉社長)に(この話を)通しておこうか」
「いえ、相談役の考えを聞けただけで十分です」
高野は帰京すると、幸之助の意向をおうむ返しで本社に報告した。
「相談役はOEMビジネスは積極的にやるべきだ、とおっしゃっていました」
「相談役の了承を取った」といえば、“子分肌”の体質が染みついた企業の悲しさで、社長以下誰も反対しない。結果的には高野が幸之助という『葵の御紋』を見せたことで、VCRを日立にOEM供給する方針が決まった。これを機に高野は幸之助を、経営の師と仰ぐようになる。
日立への供給交渉はトントン拍子で進んだ。窓口になっているビデオ機器部長の宮本は、もともと勤労畑の育ちで、技術に|疎《うと》いことからVCRの交渉とは関係なく、技術について分からないことがあれば、気軽に横浜工場まで足を運んで、高野に教えてもらった。
四月にソニーがベータマックスを発売した時も、宮本は高野に意見を求めた。
「ベータマックスは家庭用ビデオの第一号といっていいでしょう。U規格製品を家庭用に改良したものですが、素晴らしいでき栄えです。技術的にもアジマス記録方式を採用するなど、随所に工夫が凝らされています。ただ録画時間は一時間というのがちょっと気になりますが……。いずれベータを上回る製品が出てくるはずです」
高野はVHSがまだ試作の域を出ず、そのうえ松下にも報告していないこともあり、自分が手がけているVHSに関しては言葉を濁した。宮本は業務用についてはビクターから調達する方針を決めたが、家庭用については、東芝と三洋電機が共同開発した「Vコード」に興味を持っていた。
東芝と三洋は七四年九月の発売と同時に、ライバル各社にVコード規格の採用を呼びかけたが、色よい返事をしたのは日立しかなかった。偶然にも日立の宮本と東芝テレビ部長の中山雄が山口県の旧制柳井中学以来の親友ということもあり、交渉はスムーズに進むかにみえた。ところが高野がベータに高い評価を与えたことで、宮本の心がVコードからベータマックスに傾き始めた。宮本は中山を前に率直に自分の考えを述べた。
「中山。お前には悪いが、ソニーが発売したベータマックスはどうやら本物らしいぞ。専門家の間でも評価が高い。日立はEVRで失敗しているだけに、同じ過ちを犯すことはできない。業務用はビクターから調達するが、家庭用はソニーのベータ規格を採用しようと考えているんだ」
「ちょっと待ってくれ。ベータマックスの素晴らしさはおれも認めるが、うちと三洋が共同開発したVコードもまんざら捨てたもんじゃない」
ここから東芝の猛烈な巻き返しが始まった。その前に少しだけソニー、ビクターを|凌《しの》ぐビデオの名門企業、東芝のビデオの歴史に触れておく。世界に先駆け、澤崎憲一(後に専務)がヘリカルスキャン(螺旋走査)方式を発明した際、ソニーの創業者・井深大が半ば冗談にいったことがある。
「澤崎さん、東芝さんは重電や原子力といったソニーが逆立ちしてもできない事業をやっている会社です。まさか家電のビデオまで手を広げるつもりじゃないでしょうね」
井深の恐れは|杞憂《きゆう》に終わった。東芝は家庭用でソニー、松下、ビクターの後塵を拝してしまったからである。原因は皮肉にも世界で初めて放送局用のビデオを作ったアンペックス社と合弁で「東芝アンペックス」を設立したことにある。
合弁会社はわが国初のカラービデオをNHKに納入するなど、放送分野では一時期独走体制を築いた。だがアンペックス社が放送分野にこだわり過ぎたことから、家庭用では後手に回ることになる。澤崎がいくら家庭用の将来性と自分が発明したヘリカルスキャンの可能性を説いても、アンペックス社はいっこうに興味を示さない。たとえ東芝が単独で家庭用を開発しても、契約で生産・販売ができない。
それでも澤崎は粘り強くアンペックス社を説得して、七〇年にカートリッジ方式の「インスタビジョン」の開発にこぎつけた。二分の一インチのテープを使用しており、日本電子機械工業会が音頭をとって規格統一した白黒オープンリールとの互換性もある。ポータブル型で電池を電源に使える。再生時間は三〇分とやや短かったが、売れる素地は十分あった。
東芝はこれに大きな期待をかけたにもかかわらず、最終的に発売を見送らざるを得なかった。この年の十二月にソニー、松下、ビクターの三社によるU規格がまとまり、オープンリールの後継機種はカートリッジではなく、カセットになることが鮮明になったためだ。インスタビジョンは東芝の技術を誇示した“幻のビデオ”に終わった。
澤崎の発明したヘリカルスキャン方式は東芝では花を開かず、ソニーとビクターに受け継がれU規格やベータマックス、VHSの家庭用に引き継がれた。さらに放送分野ではアメリカでENG(小型ビデオ収録システム)用に採用された。
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第四章 ファミリー作り

1 「百聞は一見にしかず」
カラーテレビのNHK受信契約数は、一九七五(昭和五十)年に二千万を超え、家庭用ビデオが普及する条件は急速に整いつつあった。本格的な家庭用ビデオの第一号は、七五年四月に発売したソニーのベータマックスだが、その半年前に「Vコード」を発売した東芝と三洋電機は、先発の意地にかけても負けるわけにいかなかった。
東芝の相棒である三洋は、ビデオの後発メーカーで東芝ほど輝かしい歴史はない。六七年に白黒のオープンリール機種を発売したのがスタートで、後発のハンディを|撥《は》ねのけるため、スローモーションやスチル(静止画像)などの機能の充実に的を絞った。幸運にも成果は発売したその年に出た。録画時間二十分のカセット式白黒ポータブルビデオが、札幌冬季オリンピックの公式判定装置に採用され、「サンヨー」の社名が世界に広がったのである。ただし家庭用として売り込むには、カラー化に取り組まなければならなかった。
カートリッジビデオの「インスタビジョン」の発売を見合わせてカセット化を急ぐ東芝と、ポータブルでカラー化を狙う三洋の思惑は、ここで一致した。本社が東京と大阪と離れていたものの、両社の関係は日本電子機械工業会のビデオ委員会を通じて深まり、文字通りお互いの技術を持ち寄った共同開発へと進んだ。
Vコードは三洋の白黒ポータブルの規格をそのまま採用し、これを東芝の技術でカラー化したものである。標準録画時間は三十分と短いが、テレビの映像信号を間引きして記録・再生する際、画像の数を合わせるフィールドスキップ方式を採用したことで、一時間録画が可能になった。画質の劣化は避けられなかったが、その問題は補助ヘッドを採用することで解決した。
東芝と三洋は日立製作所をVコード陣営に引き止めるため、録画時間を二時間に延ばすことを約束した。ところが肝心の日立はソニーからベータマックスが発売されて以来、関心がそちらに移りつつあった。ビクタービデオ事業部長の高野鎭雄がベータマックスに高い評価を与えたことが、それに輪をかけた。
ビデオの命はテープの互換性にある。テープの互換性のないビデオが市場に出回っては、消費者が混乱する。規格争いで主導権を握るには、仲間を増やすことである。ライバルメーカーが採用すれば、その規格は一段と価値を増す。
日立は早い段階でソニーがファミリー作りに乗り出すと予想していたが、一向に動き出す気配がない。しびれを切らした日立はソニーの真意を確かめるべく、ベータマックスが発売された三カ月後の七五年七月十日、家電事業部長の長浜良三と家電研究所長の真利藤雄の二人をソニー本社に派遣した。
事前に副社長の岩間和夫のアポイントを取ってあったが、岩間は急用でもできたのか、約束の時間が過ぎても現れない。お茶とコーヒーをかわるがわる出され、長時間待たされた揚げ句、“社長代理”と称する人が出てきた。二人は非常識ともいえるソニーの態度に怒りを感じたが、ここで喧嘩をしては子供の使いになってしまう。彼らは怒りを抑え、訪問の趣旨を話した。
「ソニーさんはいつからグループ作りを始めるのですか。その際は、ぜひ日立も……」
すると“社長代理”と称する男から意外な答えが返ってきた。
「ベータマックスの技術はまだ完全に固まっていないので、今のところグループ作りする考えはありません」
長浜と真利はソニーの真意を測りかねたが、それでも|下手《したて》に出た。
「それならせめてライセンス供与だけでも……」
「いや、申し訳ありません。技術が不完全な段階でライセンス供与をするのは無理です」
日立はそれでもあきらめ切れず、日を改め今度は専務の大賀典雄にアポイントを入れた。日立は確かにビデオでは立ち遅れたが、それでも老舗だけにそれなりの技術蓄積はある。
家電研究所でベータマックス導入の是非を討議した際、問題となったのが一時間という録画時間だった。最大公約数の意見はやはり「一時間ではもの足りない」というものだった。同時に「ベータマックスは基本が一時間設計なので、単純にテープのスピードを落として二時間録画にしても、走査線のH並びができないので画面がちらつく」という意見も出された。
家電研究所長の真利は研究員の論議を聞きながら、自分の考えをまとめていた。
〈そうか、先日会ったソニーの男がベータマックスの技術が固まっていないといったのは、ひょっとしたらH並びのことではないのか。ビデオ走査線は一の三乗だから一時間録画のベータマックスは三時間にしない限りH並びは成り立たない。二時間ではノイズが出るのは避けられない。日立の技術を持ってすればこの問題は解決できる。今度、大賀さんに会った時その辺のことを聞いてみよう。そしてソニーに名案がなければ、日立から提案するのも一つの手だ。そうすればベータマックスは日立との共同開発となる〉
長浜と真利は勇んでソニー本社に乗り込んで大賀に会い、改めてグループ作りの意思を尋ねた。二人は大賀の口から「日立さん一緒にやりましょう」という前向きの返事が出たときには、改めて二時間録画機種の開発を提案して、ノイズの解消に向けて日立が技術面で全面協力を表明するシナリオを描いていた。
ところが大賀からの返事は前回通り、“社長代理”と称する男と同じでグループ作りも技術供与をする意思もないというつれないものだった。これでは取り付く島もなく、二人は二時間録画の提案をすることもなくソニー本社を後にした。
ソニーにグループ作りの意思がなく、ライセンスの供与もダメとなれば、日立としては、二時間録画の開発を約束してくれたVコード規格の導入を再検討するしかない。ビデオ機器部長の宮本延治は、長浜と真利がソニーを訪問した五日後の七月十五日に東芝、十七日には大阪・守口市の三洋本社をそれぞれ訪れ、二時間録画機種の開発スケジュールを聞いた。ソニーから技術導入を断られた経緯を知らない両社は、|諸手《もろて》を挙げて歓迎した。宮本はその席で八月の旧盆明けに日立の態度を正式表明することを約束した。
負債総額二千億円を抱えた興人が会社更生法を申請して、事実上倒産した前日の八月二十七日。宮本はその日も念のため高野に会い、日立の家庭用ビデオに対する考えと、Vコード規格を採用する方針が出たことを話した。二人は業務用の供給について、何度も話し合っていたが、高野はVHSについて、これまで一言も口にしなかった。だが日立がVコードを採用する方針を聞いて焦りを感じた。
高野はVコードと松下寿電子工業が開発しているVXは同じレベルの技術で、二つとも仮に長時間録画に成功しても規格争いでは主導権を握れないと判断していた。しかし日立がVコード陣営に走れば、ビデオの規格戦争の行方は大きく変わる。日立は良きにつけ悪しきにつけ、業界の盟主である。高野はここで腹を|括《くく》った。
〈ここはどんな策を使っても、日立をVHS陣営に引き込まなければならない〉
事態は緊迫していた。高野はその夜、横浜工場前を走る国道一号線沿いにある居酒屋「きしや」で、宮本と酒を酌み交わした。
「今まで黙っていましたが、実はビクターも家庭用ビデオを開発しているんです。ご存じのようにビデオはテープの互換性が大事です。いったん規格を採用したら、すぐやめるというわけにはいきません。Vコードも結構ですが、一度VHSの試作品を見た上で、東芝と三洋さんに返事をなさったらいかがですか」
「高野さんも水臭いな。家庭用ビデオを開発しているなら、事前に一声かけてくれれば良かったのに」
「申し訳ない。宮本さんの顔を見るたび、|喉元《のどもと》まで出かかったんですが、まだ未完成のうえ、開発していること自体、親会社の松下電器にも知らせていなかったものですから……。しかし松下がベータマックスを採用する動きが具体化したので、つい一週間前に幸之助相談役に報告したばかりです。一昨日、松下の技術屋さんが見に来ました。来月に入ると、相談役も見に来られます」
「私は技術屋でないので、見ても細部のことは分かりません。どうせなら、家庭電子事業部長の長浜や研究所長の真利と一緒の時に見せて下さい」
高野から秘密を打ち明けられた宮本は、翌日本社の家電事業首脳と協議したうえで、ひとまず東芝と三洋への回答を延ばすことにした。
宮本、長浜、真利の三人が横浜工場でVHSの試作機を見たのは、幸之助が横浜工場を訪れる二週間前の九月十一日である。三人はVHSの映像を見た瞬間、驚嘆の声を発した。
「おーっ、これは素晴らしい。絵はVコードどころか、ベータマックスより優れている。録画時間もたっぷり二時間ある。しかも小型・軽量ときている。文句なしだ。ビクターさんには業務用ビデオのOEM(相手先ブランドによる生産)をお願いしている。この際、家庭用もOEM供給してもらえば助かります」
その夜、四人は一緒に食事をしたが、高野は酔いが回るにつれ、VHSに対する自分の思いをぶちまけた。
「VHSはあらゆる観点から見て、家庭用ビデオにふさわしい機械です。この機械をビクターが一社で独占する考えは毛頭ありません。もしビクターが独り占めしても、そこそこ売れるでしょう。そうすれば会社が儲かることは百も承知しております。しかし、高野鎭雄という男は、そんなけちな考えは持っておりません。考えてもみて下さい。ビクターはちっぽけな会社です。戦前は日立の親会社、日産コンツェルンの傘下に入ったこともあります。東芝の子会社や日本興業銀行の管理会社だった時期もありました。
|紆余《うよ》曲折を経て、松下グループ入りしました。どんなに頑張っても、ビクターには一社でVHSを世界中に普及させる力はありません。私の夢はVHSという素晴らしい機械を世界中の人々に使ってもらうことなのです。この夢を実現するためには、どんな努力も惜しみません。私の夢に賛同してもらえる会社に、仲間になっていただきたいのです」
聞いている日立の三人は個人と会社を超越して、自分の夢を実現したいと語る高野の考えに感動した。
翌日、宮本は友人の東芝テレビ部長・中山雄に会い、ビクターがVHSを開発していることを報告するとともに、Vコードの採用が難しいことを匂わせた。
「お前だからいうが、ビクターはとんでもないビデオを開発したぞ。昨日、その実物を見せてもらった。言っちゃなんだが、Vコードとはモノが違う」
興奮気味に話す宮本の顔を見て、中山はVHSに傾斜した日立を呼び戻すのは容易ではないと感じた。十月に入ると宮本と中山、それに東芝ビデオ技術部長の小山章吾の三人が大阪・守口市の三洋電機を訪ね、担当者と善後策を協議した。
小山は三井グループの長老、小山五郎の長男である。三洋は落胆の色を隠さなかったが、VHSを見ていないのでその場で結論は出せない。この日はVHSの動向と関係なく、Vコードの長時間録画だけは、引き続き進めることを確認して別れた。
十一月に入ると、松下寿は社長の稲井隆義が執念を燃やして開発したVX100の四国限定販売に踏み切った。日立はこれに神経を|尖《とが》らせたが、高野は超然と無視する態度を取り続けた。十一月二十六日からは、公労協が空前のスト権スト(スト権奪還のためのスト)に突入、国鉄の全線がストップしたことから、高野も工場に寝泊まりすることになった。そのころ、日立の宮本は頻繁に東芝の中山に会い、Vコード不採用の布石を打ち始めた。
国鉄史上最長のストは十二月三日に解除された。それを待っていたかのように、翌日の四日に長浜、真利、宮本、それにビデオ設計部長の久保田の、いわば日立のビデオ事業を預かる四幹部が東京・日本橋のビクター本社に副社長の徳光博文を訪ね、高野の立ち会いのもとにVHSに関する「コンフィデンシャル・アグリーメント」に調印、これで日立のVHSグループ入りが正式に決まった。
儀式を終えると歓談に移り、最初に高野が口火を切った。
「数日前、非公式に松下の技術者からVHSを採用する旨、連絡がありました」
これに年長の長浜がほっとした表情で答えた。
「それは良かった。ビクターさんを中心に日立と松下が脇を固めれば、ソニーに対抗できます。とはいえファミリー企業は多ければ多いほどいいに決まっています。どうでしょう、徳光さん。私どもがよそのメーカーにVHSファミリー入りを打診しても構いませんか。何社か心当たりがあります」
徳光は興味深そうに身を乗り出したが、その前に高野が深々と頭を下げて返答した。
「そういうことは、むしろこちらからお願いしたいくらいです。VHSの試作機を見たいという会社があればいつでもお見せします」
宮本はその足で、銀座の東芝ビルに中山を訪ね、日立がVHS規格の採用を決めたことを報告した。
「お前には悪いが、日立はビクターのVHS規格を採用することにした。実は午前中に日本橋のビクター本社でコンフィデンシャル・アグリーメントにサインしたんだ」
「そんなに急いで大丈夫か。最初はOEMで供給を受けるにしても、ゆくゆくは自社生産するんだろう。それならサンプルを借り、分解して実際に自分のところで作れるかどうか、確認してみなければ……」
「それもそうだ。一度、高野さんに頼んでみる。それより、東芝はいつまでもVコードにしがみついておらず、思い切ってVHSを採用したらどうなんだ。東芝にその気があるなら、いつでも高野さんを紹介してやる」
「ちょっと待ってくれ。おれはまだVHSのことをうちの経営幹部には一切報告していない。その段階で勝手にビクターにのこのこ行って、VHSを見せてもらうわけにはいかんだろう」
「なら個人の資格でならどうだ」
「果たしてビクターは、規格を採用するかどうか分からないライバル会社の、それも個人資格の人に見せてくれるだろうか」
「それは心配ない。高野さんはお前が考えている以上に懐の深い人だ」
翌日、宮本は電話で中山の意向を伝えた。それから一週間後の二十六日。宮本と中山は、仕事納めを控え雑然としているビクター横浜工場でVHSの試作品を見せてもらった。
「高野さん、きょうは東芝のテレビ部長としてではなく、個人の資格で見せてもらいました。正直な感想をいわせてもらえれば、驚きの一言です。年が明けたらテレビ事業部長の池田温にも見せてもらえませんか。『百聞は一見に如かず』です」
中山はここで帰ったが、宮本は横浜工場に残り、高野に直談判した。
「実はいいにくい話なんですが、工場関係者には、まだVHSの採用に首を|傾《かし》げる向きがあるんです。もしサンプルがあればお借りするわけにはいきませんか。現実にVHSを見れば、彼らも納得するでしょう」
「VHSのサンプルは本社と横浜工場に、それぞれ一台しかありません。門外不出といえば|大袈裟《おおげさ》ですが、幸之助相談役にも、こちらに足を運んでもらっているのが実情です」
「それじゃ無理ですね」
「どうしてもというのであれば、あと二日ほど待って下さい。サンプルは二十八日の夕方に、さっき中山さんにお見せしたのをお貸ししましょう。年明けの仕事始めの四日朝までに返してもらえれば結構です。むろんその間、自由に分解してもらって構いません。ただし元通りにしておいて下さい」
「そこまでしてもらって、高野さんにご迷惑がかかりませんか」
「大丈夫です。年末年始の休みには誰も工場には来ませんから」
宮本はいったん信用したらトコトン面倒を見る高野の懐の深さに、改めて舌を巻いた。
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2 井植三兄弟
日立・ビデオ機器部長の宮本延治が十二月二十六日にビクターの横浜工場から、東京・西新橋の日立愛宕別館にある家電事業本部に戻り、自分の席に着いたのを見計らったかのように、電話のベルが鳴った。電話を掛けてきたのは、三洋常務の中井一だった。用件は受話器を取る前からある程度想像できた。Vコードを採用するかどうかの正式な返事を引き延ばしていたので、その催促である。宮本は日立がすでにビクターとの間で、VHSに関するコンフィデンシャル・アグリーメントを結んだことを、友人で東芝のテレビ部長をしている中山雄には知らせたが、三洋にはまだ報告していなかった。
「例の件、いつ返事をもらえますか」
「中井さん。東芝の中山から何か聞いていませんか……」
「いや、何も聞いていませんが。何か変化があったんですか?」
「………」
「それより喜んで下さい。Vコードの録画時間を二時間に延ばす技術的なメドが付きつつあります。完成次第お見せします。とにかく日立さんからの吉報を心待ちにしております」
電話はここで切れたが、この時期、三洋のビデオ戦略は情報不足から混乱の極みにあった。東芝と共同開発した録画時間三十分のVコードの売れ行きは芳しくない。技術陣は必死になって二時間録画に取り組んでいたが、社長の井植薫の手元には、Vコードの規格を日立が採用するという吉報は上がってこない。
遠縁に当たる松下寿電子工業の社長で、松下本社の副社長を兼ねる稲井隆義はぶらりとやってきては、執拗にVXの採用を働きかける。その一方で研究所からは、まったく逆の情報が上がってくる。
「松下の本命は、どうやらソニーのベータ規格の採用らしい。すでに量産に向けての試作機の開発を終えたようです」
井植はこの種の情報に接するたび、苛立ちが募った。
〈松下は一体どうなっているんや。うちにVXを勧めておきながら、自分はベータ規格を採用するというのか。こんな無茶苦茶な会社とは、よう付き合い切れんわ。“わが|故郷《ふるさと》”ながら実に情けない。うちは東芝と共同開発したVコードでいく。Vコード陣営に電機業界の盟主たるべき日立が加われば、必ずや規格争いで主導権を握れる〉
不幸なことに井植のもとには、ビクターがVHSを開発したことも、松下がいったんはベータ規格の採用に傾きかけたものの、VHS陣営にくら替えしたとの情報も伝わっていなかった。
井植薫が松下を“わが故郷”と表現したのは、薫自身一九二五(大正十四)年から戦後の四九年暮れまでの四半世紀にわたり、松下に在籍していたことによる。彼は戦時中に上海松下電業の常務として乾電池工場の運営にあたり、戦後は引き揚げ松下本社の製造担当常務として、松下の民需転換に貢献した。
松下幸之助が九十四歳の天寿を全うしたのは、八九年四月だがその葬儀の際、井植歳男の長男で三洋社長の井植敏(現会長)が松下家の席に座っていた。両社をライバルととらえていた人は、この光景を|訝《いぶか》しげに見ていた。しかし松下家と井植家の姻戚関係を知る者にとっては、当然の席次だった。
松下電器の創業者は幸之助だが、創業期に彼を支え、発展の土台を作ったのが歳男、祐郎、薫の井植三兄弟である。松下と井植の結び付きは、幸之助の妻・むめのが作った。幸之助が大阪電灯(現関西電力)で働いていた一五年に、井植むめのと結婚した。新郎二十歳、新婦は一歳年下の十九歳だった。
淡路島の井植家は子沢山で、女五人男三人の八人の兄弟がいた。父親の清太郎は「清光船」と名の付いた千石船を持ち、大阪、九州、果ては朝鮮まで出掛ける自家貿易をしていた。むめのの六歳下の弟で、長男の歳男は幼いころから父親と同じ船乗りになることを夢見ていた。
清太郎は歳男が高等小学校低学年の時に亡くなったこともあり、小学校を卒業すると、おじが所有している石灰石を運ぶ帆掛け船の船員になり、“板子一枚下は地獄”の生活に入ったが、船の事故に遭い、わずか三カ月で船員を辞めてしまった。
ちょうどそのころ、義兄の幸之助は大阪電灯を退社、独立する準備を進めており、むめのの誘いで大阪に渡った。事業といっても、大阪・鶴橋にあった幸之助の自宅を兼ねる借家の土間で、ソケットを作るという典型的な家内工業である。働き手は幸之助と歳男を含めてたった四人。歳男の仕事は小さい荷車をひいて道修町まで行き、コーパルゴムや石粉、石綿などを集めソケットの原料を買いに行くことだった。しかし製品は買い手がつかず、資金も枯渇してしまった。二人の従業員は見切りをつけて逃げ出し、廃業は時間の問題となった。
それでも幸之助は一心不乱にソケットの改良を続けた。愁眉を開いたのが一七年の暮れ。扇風機の碍板の注文が入り、事業は奇跡的に持ち直した。その後事業が軌道に乗り、鶴橋の借家が手狭になったことから、三年後の一八年に正式に松下電気器具製作所を創設、ソケットを作る小さな町工場として再スタートを切った。事業の拡大に伴って二男の祐郎、三男の薫も次々と松下に入社した。
井植家の五姉妹のうち、長女しゅうは、淡路島の分部家に嫁ぎ、次女むめのは幸之助、三女きぬゐは後藤重三郎、四女よしのは亀山武雄とそれぞれ結婚、五女やす江は若くして妻を失った後の松下本社副社長、中尾哲二郎の後添えとなった。つまり井植八兄弟のうち、五人が松下電器と関係を持ったのである。和歌山県出身の幸之助にも八人の兄弟がいたが、いずれも夭逝、創業したころは幸之助一人になっていた。
戦前における松下の発展は、井植兄弟の活躍なくして語れない。とりわけ歳男は、幸之助の右腕として|辣腕《らつわん》を発揮、本社専務のかたわら、戦時中には系列の松下造船、松下飛行機、松下無線など軍需会社の責任者として軍に協力した。
ところが戦後の四六年六月、松下家はGHQ(連合国軍総司令部)から財閥家族に指定され、社主の幸之助及び常務以上の役員は、旧軍需会社の役員を兼ねていたことから、公職追放の指定を受けた。幸之助は退任を覚悟したが、松下の社内外から、社主追放解除運動が起こり、GHQに働きかけた結果、一週間後には幸之助は無条件追放のA項指定から、資格審査後に追放・非追放を決めるB項指定に変更された。
人生の“あや”はここで起きた。GHQはB項への指定換えに際して「経営者は一人だけ残ってよい」との条件を出した。軍需会社の責任者だった歳男は、自分が退けば義兄が有利になるとの判断から退社を決意した。こうした歳男の行動がGHQに理解されたかどうかは定かでないが、翌年五月には、幸之助と役員全員の追放指定が解除された。はっきりしていることは、歳男がそのまま松下に残っておれば、松下のみならず、日本の家電業界の地図も大きく変わったことだ。
四十三歳で松下を退社した歳男は、自分が責任者だった軍需会社の株式を大量に保有していたが、敗戦によって株式は紙屑同然となった。株式は借金して購入していたことから、歳男の手元には借金だけが残った。歳男は故郷の淡路島に帰って、|隠遁《いんとん》生活を送ることを決意したが、私財を整理してもとうてい借金を返せる額でない。途方に暮れている矢先、住友銀行から呼び出しがきた。声をかけたのは、後に頭取になる鈴木剛である。
「井植さん、あなた松下をお辞めになったそうですね。それでこれからどうするお積もりですか」
「田舎の淡路島に帰って、釣りでもやってノンビリ暮らそうかと思っております。ただ、一つ困ったことがあります。個人的に住友銀行さんに借金があります。軍需会社の株は二束三文になったし、残った株も額面の半分以下になってしまった。私財を投げ売っても返せません」
「それは弱りましたね。借金を返してもらわないことには、こちらも困ります。どうですか。もう一度、働いてみる気はありませんか。やる気があるならうちの銀行が援助しますよ」
「申し訳ありませんが、私は借金まみれで、新たに金を借りても、担保がありませんよ」
「いやあなたは立派な担保を持っています」
「………」
「借金ですよ。私どもはあなたの借金をカタにお金を融資しましょう。住友銀行が借金をカタに金を貸すのは、開行以来、あなたが二人目です」
鈴木は事業家としての歳男の才能を高く評価しており、新たに五十万円の融資を申し出た。これに感激した歳男は、私財を整理して得た七十万円と合わせて百二十万円を元手に事業を起こすことを決意した。鈴木の行為は、融資というより、歳男に再起を促す奨励金の性格を持っていた。
四六年十二月。歳男は大阪・守口市に六畳の部屋を借り、ここを事務所にして事業プランを練り始めた。目をつけたのが自転車用の発電ランプだった。戦後、国民の足となった自転車には、灯がいる。ロウソクを使えば千時間で二万円ほどかかる。乾電池でも七千五百円だが、発電ランプだと千五百円ですむ。
〈自転車用の発電ランプは、全国で十六社が生産しているが、年間十万個しか作っていない。しかしやがて二百万個に増えるだろう〉
幸之助が追放解除される三カ月前の四七年二月一日、歳男は戦災を免れた兵庫県加西郡西条町の古工場を買収して、総勢十五人で発電ランプを作る「三洋電機製作所西条工場」の看板を掲げた。社名の「三洋」は歳男の少年時代の夢〈船乗りになって太平洋、大西洋、インド洋の大海原を駆け巡りたい〉ということに由来している。
歳男の個人事業として始めた三洋電機製作所は、年々発展を遂げ、三年後には従業員も四百人に膨れ上がった。そして五〇年の正月に大きな転換期を迎える。三男の薫が、前年の大晦日をもって松下を円満退社し、年賀の挨拶のため歳男の家を訪ねた。
「実は私も松下を円満退社しました」
「お前が残っていては、幸之助さんもやりづらいだろう。どっちみち松下は婿の正治さんが後を継ぐ。それなら辞めたのは正解だ。それでこれからどうするつもりや」
「兄貴のように独立して事業をやろうかと思っている」
「何の事業をやるつもりや?」
「ラジオを作ってみたいんだ」
「そんならウチに来んか」
井植三兄弟は他人が羨むほど仲が良かったが、それぞれ独立心が旺盛だった。二男の祐郎は松下を辞めた後、一時、梅田駅前で電器店を経営していたが、四七年に歳男に誘われ三洋電機製作所に入った。薫は歳男の家に行くまでは、一人で事業を起こすと固く決意していたが、歳男から誘われグラリときた。そこで一つだけ条件を出した。
「兄貴のやっている発電ランプにしても、おれがこれからやろうとするラジオにしても、まだまだ普及率は低い。企業が飛躍するには株式会社にしなければダメだ。株式を上場して、広く資金を集めなければ、会社を大きくできない。その条件さえ満たしてくれれば、一緒に仕事をするのはやぶさかでない」
「実はおれもそのことを考えていたんだ。従業員も取引先もみんな三洋を『会社、会社』と呼んでいるが、まだおれの個人事業だ。お前が入ってくるのを機に会社組織に改組しよう」
こうして五〇年四月、三洋電機製作所の発電ランプ事業をいっさい引き継いで、資本金二千万円の三洋電機が設立された。半分を歳男が出資、残りを祐郎、薫のほか井植家の縁者や従業員が出資した。本社を守口市に置き、社長には歳男が就任、取締役には祐郎と薫の実弟が就いた。
薫には「三洋電機製作所は兄貴が作った。が、新生三洋電機は三人の兄弟で設立した会社」という強烈な創業者意識があった。どんな事業を起こすかは長男の歳男が考え出し、バランスシートに強い二男の祐郎が必要な人と金を手当てし、管理に強い三男の薫が実務を担当した。三洋は毛利元就の「三本の矢」の例え通り、三兄弟が力を合わせ「世界のサンヨー」を目指し、その後、驚異的な発展を遂げた。
|因《ちな》みに戦後派企業で初めて年間売り上げ一兆円を達成したのはホンダ(本田技研工業)で、その後にダイエー、ソニーと続き、四番目が三洋である。
歳男は六八年一月に社長の座を祐郎に譲って会長に退いた。それから一年半後の六九年七月十六日、脳内出血に襲われ不帰の人となった。享年六十六。宇宙船アポロ十一号が月面着陸に成功したのは、それからわずか四日後である。
「私は生活を革新して“電化元年”を記録した歳男会長に“宇宙元年”の月面を見せてあげたかった」
薫は社葬の弔辞で、万感を込めて兄に対する思いを語った。歳男の急逝で会長が空席になったことから七一年一月には、祐郎が社長在任わずか三年で会長に退き、薫が三代目社長に就いた。三洋のビデオ戦略は、薫の社長就任と同時にスタートした。それだけに薫のビデオに対する思いは強かった。ビデオの規格問題が噴出した七六年は、薫が社長に就任して六年目、経営者として一番脂の乗った時期だけに、足腰の定まらない松下の煮え切らない態度に内心、業を煮やしていた。
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3 反ソニー七社連合
ビデオの歴史で最大の転換点となる一九七六(昭和五十一)年は、日本経済が重厚長大から軽薄短小へ転換した年でもある。一月八日の深夜に、中国の周恩来首相死去のニュースが飛び込み、経済に続いて政治の世界でも激震を予測させた。
ビデオを巡る家電各社の動きも慌ただしくなった。成人式の翌日の十六日には、東芝・テレビ部長の中山雄が上司のテレビ事業部長、池田温を伴ってビクターの高野を訪ねた。中山は訪問に際し、仲介役を果たした日立ビデオ機器部長の宮本延治に同行を求めたが、宮本は「この種の交渉は第三者を交えず、当事者同士でやるべき」と断ったいきさつがある。
池田はVHSの映像を見ると同時に、三洋電機と共同開発したVコードの敗北を認めざるを得なかった。
「高野さん、正直に申し上げます。われわれはVコードの長時間録画に取り組んでおり、技術的なメドを付けつつあります。実のところVHSを見るまでは、ビクターさんにもVコード規格の採用をお願いする積もりでした。しかし映像を見た瞬間、とうていVコードはVHSにかなわないことを知りました。こうなると東芝もVHSを採用する方向で考えざるを得ません」
池田は早々とシャッポを脱いだ。それを確認したうえで高野が尋ねた。
「今日はお見えになっていませんが、三洋さんはどうなさいますか」
「三洋さんとは一緒にVコードを共同開発した経緯もあるので、私どものほうから話すのが筋というものでしょう」
「よろしくお願いいたします」
高野はこう言うなり、深々と頭を下げた。東芝と三洋の調整は二十日過ぎから始まった。三洋のビデオ戦略をあずかる常務の中井一にすれば、共同開発の相棒の東芝がVHSに興味を示したことは大きなショックだった。といって三洋単独でVコードを担いで走る自信もない。これでは結論が出たも同然である。二十九日には中山から宮本へ連絡が入った。
「おい、宮本。三洋を説得したぞ。多分、二月早々にも東芝と三洋の役員がビクター首脳に会って正式にグループ入りを表明することになるだろう」
宮本は中山からの吉報を直ちに、高野に報告した。
「高野さん、喜んで下さい。東芝と三洋がVHSに乗ることを決めました。これでVHSの賛同メーカーは松下を入れると五社になります」
「東芝と三洋のVHSグループ入りは、すべて宮本さんのお陰です。大手家電メーカーの中で、採用の可能性があるのは三菱電機とシャープですね」
「三菱は私どもに任せて下さい。日立と三菱はEVRで苦労した仲です。私のほうから打診してみましょう」
「それじゃ、シャープの方は私の方で当たります」
「いずれにせよ、三菱とシャープが賛同してくれれば反ソニーの七社連合ができ上がりますね」
「ビクター一社だったら、こうスムーズにはいかなかったでしょう」
「いやこれまでのところファミリー作りがうまくいっているのは、VHSの基本設計が優れているからです。それと高野さんの人柄でしょう」
VHS陣営のファミリー作りは急ピッチで進んだ。宮本は高野と会ったその日の夜、旧知の三菱電機商品営業部長の今村正道と酒を酌み交わした。
「今村さん、EVRではお互い苦労しましたが、三菱のビデオ戦略の再構築はいかがですか?」
「鋭意検討はしているのですが、依然として展望は開けません。ご存じのように三菱はビデオの最後発組です。起死回生策として、EVRで先行イメージを作り上げ、それを足掛かりにビデオ業界に参入するつもりでした。しかし日立さんと同様、ものの見事に失敗しました。
社内では細々とビデオディスク(VD)を研究しているのですが、いかんせん技術蓄積がないので、海外メーカーから技術を導入しなければなりません。とはいってもどれが本命なのか、事務屋の私にはさっぱり見当が付きません。正直、お先真っ暗です。早急に何らかの手を打たない限り、民生用エレクトロニクス部門のジリ貧は免れません。むしろ何かいい知恵があったら貸して下さい」
「今村さん。これは極秘ですが、日立はビクターが開発したビデオ規格の採用を決めました。業務用のU規格とは別の本格的な家庭用のビデオです。VHSと言います」
「宮本さん、まさかうちだけ除け者にするわけでないでしょうね」
「とんでもない。今村さん。三菱さんもVHS入りを真剣に考えて下さい」
三菱電機の無線研究所と商品研究所が一緒になってビデオの研究に着手したのは、東京オリンピックが開かれた翌年の六五年である。世界初の二重リール構造を採用したビデオを開発するなど、大きな技術成果を上げたにもかかわらず、オープンリール方式の規格統一を巡る混乱に嫌気をさし、社長の大久保謙は「しばらく様子をみる」と称して、ビデオの開発を中止してしまった。
これが命取りになった。技術面で他社に見る見る間に差をつけられ、気が付いたときには、自力では挽回不能になっていた。そこで七〇年に日立と足並みを揃えて米CBSからEVRの特許を導入して生産・販売に踏み切ったが、結果は悲惨な運命をたどった。
五千台の在庫のうち海外の二千台は米軍にただ同然で売却した。米軍はこの機械をベトナム戦争で、軍人教育用に使用したとされる。残る国内の三千台は、ゲーム機への進出を模索していた任天堂に売却した。任天堂はこのEVRでエレクトロニクスの基礎知識を学び、ファミコン進出の足掛かりをつかんだ。
在庫処分と残務整理が一段落した七五年六月にEVRグループは解散、三菱のビデオ業務は日立の宮本と苦労を共にしてきた今村に|委《ゆだ》ねられた。その矢先の日立からの勧誘である。今村は直ちに常務の小原啓助に報告、二月二日の常務会で討議され、社長の進藤貞和が断を下した。
「日立が採用すると言うのであれば、ビクターの開発したVHSは本物に違いない。早急に技術者を派遣して実物を見せてもらおう。結論はその報告を待ってから出す」
シャープも三菱とほぼ同じ時期にプロジェクトチームを発足させ、ビデオの開発に取り組んだが、目に見える成果を上げることができなかった。原因は社是として「採算第一」を掲げていたことから、先行きのはっきりしないビデオには慎重な態度で臨んできたことによる。シャープは日立や三菱のような手傷は負わなかったものの、展望が開けない点では同じ立場にあった。ビクターからの提案はシャープにとってもむしろ渡りに船だった。
三菱電機の今村は二月十五日に京都製作所ビデオ製造部長の松村長延と応用研究所主幹の植竹勝入の二人の技術者を伴って横浜工場を訪れた。ビクターはいつものように高野と開発部長の白石勇磨が対応した。
「今回、ビクターが開発したVHSは四年近い歳月をかけた自信作で、各社さんからお褒めいただいております。松下さんと日立さんには採用を決めてもらいました。東芝と三洋のVコード陣営からも採用の内諾を得ています。VHSはビクターが開発した技術ですが、商品化に際しては、賛同メーカーで改良を進め、名実共に共同開発にしたいと思っております。したがって三菱さんにも早めに回答していただきたいのです」
高野は|朴訥《ぼくとつ》な口調ながら、熱っぽく語った。
松村は見学を終えて京都に帰ると、その日のうちに常務会に提出する報告書をまとめた。
外観、寸法、重量
VHSはコンパクトにまとめられており、内部も特別に無理して詰めたという感じではない。各機構部品がかなり小さくなっている。全体の容積はソニーのベータマックスより相当小さい。重量も一三キロでVコードよりも軽い。
機構
画期的な技術は導入されていないが、シリンダーヘッドに沿わせる最も単純なMローディング方式を採用している。この方式は米RCAが手掛けて成功しなかったが、ビクターは二ヘッドで実現した。
電気性能
放送電波を受信したテープとビクターのスタジオで撮影・記録した再生映像を見せてもらった。ソニーのベータマックスより少し画質が良いと思う。
総合所見
全体としてコンパクトに、画質も無難にまとめてある。とりわけMローディングを採用していることから操作上、機能上のメリットが大きい。工作精度、互換性、量産性などの問題は、今後吟味しなければならない。今の時点で即断できないが、小型・軽量でしかも部品点数が少ないことから、コスト低減の可能性を秘めている。
ビクターより宿題
すでにソニーを除いてビデオを手掛けている大手メーカーに見せている。各社から技術基準、規格の詰めを行うための会合を開くよう要求が出ているので、規格に賛同するか否かの回答を二月九日から始まる週にしなければならない。
高野事業部長談の要旨
近く第五次試作が終了するので、春以降いつでも市場に投入できる。家庭用ビデオとしてはすでにベータマックス、VX100、Vコードの三機種が市場に出回っているが、VHSはそれより数段優れていると自負している。ビデオの普及には規格統一は不可欠だが、ソニーの従来のやり方を見れば、VHSでの統一の提案には乗ってこないだろう。したがって早晩、ベータマックス対VHSの戦いになる。松下とは同じ資本系列なので、以前から話し合いを進めている。松下はプロジェクトチームを組んで、VHS規格のビデオを岡山工場で生産する準備を進めている。発売は今年の五月前半になる見込み。
ビクターの社内事情
ライバル各社にビデオを見せて一緒にやろうというのは、高野氏一存の考えであって、ビクターの役員会で了承されているわけではない。高野氏は「役員会で賛否両論が出て、事情の分かっていない人たちの多数決で決められてはかなわない」と嘆いていた。本日の開示は、まだ特許の手続きが完了していないので、三菱社内では幹部にとどめてほしい。さらにVHSの開発はビクター社内でもマル秘になっているので、仮にどこかでビクターの経営幹部と会っても不用意にVHSを見たことを漏らさないでほしい。
ビデオ製造部長の松村に同行した応用研究所の植竹も、同じ日に出張報告書をまとめた。VHSを見た印象は松村とほぼ同じで、彼は最後に五つの技術見解を付記した。
特に目新しい技術はないが、従来技術をうまく改善してまとめてあり、これまで開発されたビデオの中では、最も家庭用としてふさわしい。
当所(応用研究所)では、松下が製品化すると言われる本年五月までにビクターのVHSに代わるビデオ開発の具体案はない。
松下が本格的に取り組めば、末端の販売価格が二十万円を切るのは時間の問題と思われる。特にテレビとの組み合わせで、近い将来、二十万円台のビデオテレビの出現が予想される。
当社がVHS規格を採用した場合、ビクターに提供できる特許の有無は現在不明である。もしあれば導入条件が有利になる。
カラー信号記録方式に関して、ソニーの特許に触れるかどうかの確認を急ぐ必要がある。
三菱はそれから一週間後の十二日に小原常務の名前で、ビクター副社長の徳光博文宛に秘密の文書を送付した。
「このたび、貴社新製品の家庭用カセットVTRに関する現況をご開示頂きましたことを、厚くお礼申し上げます。本件に関わる二月五日付貴翁によるご趣旨並びにご意見には、当社と致しまして充分留意し、ご同意申し上げる所存であります。就きましては、今後共、何卒よろしく御配慮を賜りますようお願い申し上げます」
三菱からの秘密文書がビクターに届いた十三日。高野はテレビ技術部長の尾島義郎をキャップとするシャープの技術陣を横浜工場に招いて、VHSを開示していた。説明の途中で高野の元へ三菱からの手紙が送付されてきたとの情報がもたらされ、興奮気味にシャープの技術陣に披露した。
「たった今、三菱電機の小原常務から、VHSを採用するとの手紙が届きました」
この一言で、これまでビデオには慎重な態度を持ち続けてきたシャープの技術陣も、いやが応でもVHSが家庭用ビデオの最終バスであることを認めざるを得なかった。
事実上、反ソニー連合が結成されたが、高野の気掛かりは東芝と三洋のVコード陣営だった。両社には三菱、シャープの前にVHSを開示している。その回答を持って二月五日に東芝テレビ事業部長の池田と三洋常務の中井が、揃って東京・日本橋のビクター本社に徳光と高野を訪問した。
東芝、三洋をVHS陣営に引き込むための障害は、新たに開発した二時間録画の「Vコード」の存在である。高野は両社の複雑なお家の事情を、日立の宮本を通じて聞いていた。
「高野さん、東芝と三洋はどうやらVコードの金型を起こし、部品も発注しているらしい。東芝は市場への投入はやめても構わないと言っているが、三洋の方が相当Vコードにこだわっている。どうも松下との間でひと悶着あったらしい」
高野は宮本から聞いた情報をおくびにも出さず、両社の幹部を役員応接室に招き入れた。型通りの挨拶を終えると、中井がおもむろに三洋電機の態度を表明した。
「VHSはわれわれの予想を超える製品です。したがって三洋としても、東芝さんと足並みを揃えてVHS規格を採用したいと思っております。これからは仲間として扱って下さい」
高野の心配は杞憂に終わり、この時点で反ソニー七社連合が成立した。
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4 老獪な経営者
高野は一九七五(昭和五十)年の後半からVHSファミリー作りに専念しており、横浜工場にある事業部長の席を温める暇もなく、飛び回っていた。七六年に入ると一段と忙しくなった。社長の松野と副社長の徳光は、VHS規格導入先企業のトップが来た時、セレモニー要員として駆り出されるが、挨拶を終えると部屋を出るので、果たしてファミリー作りがどこまで進展しているかまったく知らない。
徳光が時折、高野を訪ねて進捗状況を聞いても「順調に進んでおります。ご安心ください」とそっけない返事しか返ってこない。その点、高野の頑固な性格を見抜いていた松野は、いたって|鷹揚《おうよう》だった。
「そうか、順調に行っているか。分かった。きみの好きなようにしたらええ。ただし幸之助相談役だけには節目節目に報告しておいてくれや」
「分かっています。それより社長、VHSのファミリー作りは松野社長と徳光副社長の二人しか知りません。ほかの役員には絶対に話さないで下さい。|僭越《せんえつ》ですが責任のない役員が、|迂闊《うかつ》に外部の人に話せば、これまでの苦労が台なしになります」
高野の秘密主義は徹底していた。二月三日に事業部の幹部を集めて、VHSの開発を知らせたのは、第五次試作が最終段階にさしかかり、いよいよ量産に向けての設計と生産準備に取り掛からなければならないためだった。反ソニー七社連合のメドが付き、高野の気分はいつになく高揚していた。
「今年はエジソンが蓄音機を発明して九十九年、来年は百年に当たる。奇しくも来年はビクターの創立五十周年だ。ビクターは蓄音機とレコードで発展を遂げたが、これからはビデオが発展の担い手となる。そこで本日付でVHSプロジェクトを発足させる。メンバーは昨日まで業務用ビデオ、U規格のVCRに携わっていた人が中心となる。ただしことは機密を要する。当分の間、事業部の中でも秘密にしておいてほしい」
むろんこの時点で高野がVHSのファミリー作りを進めていることは誰も知らない。この時期を境に、高野は頻繁に開発部に出入りするようになる。また開発部長の白石が高野の席に来ると、二人はコソコソと奥の応接室に入っていく。
ファミリー作りのメドが付きつつあっても、高野の悩みは尽きなかった。家電製品は大量に作って大量に売るのが大原則だが、それを実現するには生産体制を確立しなければならない。
ビデオ元年を宣言したソニーにしても、ベータマックスの生産はまだ月数千台で、量産にはほど遠い。肝心の需要が不透明だから、ビクターのビデオ事業部はむろんのこと、本社にも先行投資するだけの余裕はない。
「|凋落《ちようらく》か再起か、剣が峰に立つ/ノレンにすがった安全経営に成長はない」
日経マグロヒル(現日経BP)社が発行する経済誌の『日経ビジネス』が七五年五月二十六日号で、ビクターを取り上げた時のタイトルである。むろんまだマスコミにはVHSを開発していることを嗅ぎつけられていない。前文は次のような書き出しで始まっていた。
「音響の名門、日本ビクターが苦境にあえいでいる。前三月期は、営業外収益で金利と税金を負担、営業利益がほぼそのまま税引き利益という“珍妙な決算”になった。売り上げは昨年ようやく七〇年水準を回復したに過ぎない。税引き利益は往時の四分の一しかない。長期低迷の原因はどこにあるのか。筆頭株主、松下電器の意向もある。家電業界の好調が終わりを告げた今、同社はまさに凋落か再起か、その剣が峰に立っている」
高野はこの記事を読んで、自分に言い聞かせた。
〈確かにビクターは、日経ビジネスの指摘通り凋落か再起かの剣が峰に立たされている。しかし、VHSのファミリー作りさえうまくいけば、必ず再起できる〉
ビデオも他の家電製品と同じように、一定の量を確保しなければ、事業として成り立たない。ビクターが社運を賭けて、巨額の資金を投じて量産体制を敷いても、中堅メーカーの悲しさで、自社の販売網ではさばき切れない。そこで高野はVHSファミリーを結成して、ファミリー企業からOEM(相手先ブランドによる生産)の注文をもらいながら、順次設備を拡張する作戦を立てた。
事業部内ではファミリー作りはおくびにも出さず、新設したプロジェクトのメンバーには険しい表情で厳命した。
「桜の花が咲くころまでに、デザインを含めた量産モデルの商品設計を終え、ゴールデンウイーク前に最終試作機を作れ。これにビクターの命運がかかっている」
そのころ、松下も独自にVHS規格の試作機の製作に取り掛かっていた。高野が最終試作機の期限を切ったのは、五月の連休明けに幸之助の前で両社の試作機の品定めをしてもらうことになっているためだ。高野にすれば意地でも、松下より優れた製品を出さなければならない。むろんそのことは誰も知らない。
ビクターだけでなく、ソニーの動きも慌ただしくなった。お|屠蘇《とそ》気分も覚めやらぬ七七年一月五日。ソニーは会長の創業者の井深大が名誉会長に退き、社長の盛田昭夫が会長、盛田の義弟、岩間和夫が社長、専務の大賀典雄が副社長に昇格するトップ人事を発表した。一見すると、各人がワンランク昇格しただけの順送り人事に見える。新聞の見出しだけ見れば、井深が名誉会長、盛田が会長に退いたことから、「ソニーも創業者の時代が終わった」と判断する慌て者が出ても少しもおかしくない。日本の企業社会では、会長はたとえ代表権を持っていても、事実上の引退を意味するからだ。
しかしソニーの狙いは別のところにあった。ソニーはアメリカ型の会長主導による経営手法を導入したのである。井深は経営の第一線から退くが、盛田は最高経営責任者(CEO)になり、社内序列ナンバーワン、社長の岩間は最高執行責任者(COO)で、ナンバーツーと位置付けたのである。
高野がビデオ事業部の幹部を集めてVHSの開発を打ち明けたまさにその日に盛田、岩間、大賀の「新生ソニー」のトリオが、就任の挨拶を兼ねて、大阪・門真市の松下本社に社長の松下正治と会長の高橋荒太郎を表敬した。
盛田が松下本社を訪れて、正治にベータマックスの共同開発を提案してからすでに一年数カ月の時間が過ぎている。ソニーはしびれを切らす形でベータマックスの販売に踏み切ったことから、共同開発の道は閉ざされたが、松下がベータ規格を採用してくれれば、ビデオの市場は一気に膨らむ。
ソニーは疑心暗鬼になりながらも、松下からの返事を辛抱強く待った。前年の夏に日立からファミリー作りの打診や技術供与の話が舞い込んだときにも、悩みに悩んだ。日立は電機業界の盟主だけに、内心小躍りせんばかりだったが、松下の態度が決まる前に日立に技術供与すれば、松下との関係にひびが入る。
秋には稲井の率いる松下寿が、販売地域を四国に限定したVX100の販売に踏み切った。稲井は松下本社の副社長を兼ねているだけに、彼の動きは無視できない。そこで非公式に松下の真意を探ったところ、技術最高顧問に退いた中尾哲二郎から、ソニーの不安を見透かしたようなメッセージが届いた。
「VXは松下寿が勝手に販売したもので、松下本社は一切関知していません。仮に本社がやるときは、事前に連絡します」
これでは松下への未練は断ち切れない。年明けから電機業界に「ビクターがソニーのベータマックスを上回る画期的なビデオを開発したらしい」との|噂《うわさ》が広まった。そうした噂をソニー首脳は|歯牙《しが》にもかけなかった。会長の盛田も新社長の岩間もベータマックスの優位性を信じ切っていた。
〈たとえビクターが家庭用のビデオを開発していたとしても、ソニーとは技術の蓄積量が違うので、ベータマックスを上回る製品を開発できるわけがない。ビクターとはU規格で共同戦線を組んできた仲だ。うちは信義を重んじて仁義を切った以上、仮にビクターが新製品を開発しておれば、向こうも何らかのアクションを起こすだろう〉
二月三日にソニー首脳が松下本社を表敬した際、帰りがけに盛田はさりげなく社長の松下正治に重ねてベータ規格の採用を申し入れた。
「松下さんもご承知のように、ビデオを家庭に普及させるには、何より規格統一が必要です」
この時、正治は聞き流したが、それから二週間後、中尾から岩間のもとへ電話が入った。
「ご提案の件(ベータ規格の採用)は、あと三カ月ほど待ってください」
この時、岩間の胸中に不安がよぎった。ビクターが家庭用ビデオの開発に成功したとの噂は、真実味を帯びて業界を伝播していた。同時に、松下寿が長時間録画に向けて改良を進めているとの噂も広まりつつあった。岩間は日を増すにつれ恐怖感にかられ始めた。
〈もしかしたらソニーは、松下とビクターの連合軍に包囲されているのではないか〉
こうした重苦しい重圧を撥ねのけ、局面の打開を図るには、盛田が幸之助と差しで話し合う以外にない。盛田と幸之助はそれまで、ことビジネスに関して接触を持ったことは一度もない。盛田は幸之助を日本が生んだ偉大な経営者として尊敬、幸之助も盛田の姿に事業拡大に意欲を燃やした若き日の自分の姿を見いだしていた。
オーナー経営者としてお互い共鳴する点も多い。事業観だけでなく人生観、世界観も似たところがある。こうした土壌を基に、幸之助が主宰するPHP研究所が二人の対談を企画、七五年の夏に都内のホテルで数時間にわたって話し合った。PHPというのは繁栄によって平和と幸福をという意味である。二人はそれぞれの立場を離れて、政治、経済から人間の生き方に至るまで、すべての分野にわたって語りあった。秋にはこの対談をまとめ、『憂国』と題した本をPHP研究所から出版した。
盛田は三月に入ると、大阪のロイヤルホテル(現リーガ・ロイヤルホテル)に幸之助を訪ね、これまでの経緯を洗いざらいぶちまけるとともに、“経営の神様”を前に、子供を諭すようにビデオの将来性を説いた。
「ビデオの普及は値段と規格統一が決め手となります。ところが規格がバラバラで、しかもカセットテープに互換性がなければ、ハードの普及にもブレーキがかかります。ソフトも伸びません。ビデオは松下とソニーが手を握って初めて普及の条件が整うのです」
幸之助は松下電器の創業者で、カリスマ性はあるが、決してワンマン経営者ではない。若いころから病弱なこともあり、独特な事業部制を編み出して、権限を下に委譲してきた。経営の第一線を退いて相談役になってからは、意識して自分から経営に口を挟まなくなった。とはいえ現実は肩書はどうであれ、社長の松下正治を始めとする経営陣は、松下の将来を左右する問題が持ち上がると、必ず幸之助の判断を仰ぐ。
そうした光景が世間には「松下は今なお相談役に退いた幸之助が采配を振るっている」と映る。盛田もその一人だった。だが“経営の神様”は、決して現場を無視したやり方はしない。常に相手の顔を立てる。
ビデオに関しては自ら“VHS推進本部長”の役目を買って出たものの、松下本社の経営陣には、VHS規格を押し付けるようなことはなかった。徳川家康のように柿が熟すのをじっくり待つのである。
しかし盛田から正面切ってベータ規格を持ちかけられ、これまでのように傍観者の立場を貫くことはできなくなった。とはいえ幸之助の態度はすでに決まっている。最終結論を出す前に念のため、ビデオ事業部長の谷井昭雄を相談役室に呼んで、自分の意見を述べた。
「わしの見たところ、ベータマックスは百点やな」
「それじゃ、VHSは……」
「ベータが百点というのは、録画時間が一時間やからや。その点VHSは二時間やから、二百点やな」
幸之助の経営の特徴は、どんな難しい問題でも、|譬《たと》え話を使ってシンプルに考えることである。点数換算は好んで使う|譬《たと》え話だが、あまりにも分かり易いので、相手がいくら理論武装してきても、反論ができない。
「谷井君、わしがVHSに惚れ込んだ一番の理由は何やと思う。目方や。ベータマックスは二〇キロを超すので、年寄りのわしにはよう持ち上げられん。その点一三キロしかないVHSは、わしでも軽々とはいわんが、簡単に持ち上げられる。お客さんは店で買うて、そのまま家に持ち帰って、その日からビデオを使える。
二番目が見た感じやな。いうたら製品の顔や。VHSは姿、形がすっきりしている。三番目がさっき言うた録画時間や。画質は最後や。これはVHSもベータも同じや。これでは勝負は最初からあったも同然やないか」
幸之助はいつしか“VHS推進本部長”として熱弁を振るっていた。谷井にすれば幸之助がVHSを選んだ最大の理由は、録画時間の違いだけと思っていただけに、意外な気がした。
〈相談役は根っからの商売人や。お客さんが何を欲しているか、トコトン知り尽くしている〉
創業者はいつの時代でも|老獪《ろうかい》である。老獪であるからこそ、事業が成功したともいえる。だが幸之助はビデオの問題に関しては、松下本社の相談役とビクターの“VHS推進本部長”の板挟みにあっていた。創業者の立場から強権を発動して、松下の経営陣にVHSを押し付けることはたやすいが、それでは自分が後継者に選んだ婿養子の顔を|潰《つぶ》すことになる。ソニーにベータ規格の採用を断るにしても、相手の面子を立ててやらなければならない。
こうなると老獪な経営者の腕のみせどころである。
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第五章 対峙

1 三社七首脳の秘密会談
松下幸之助の苦悩を知らない松下電器副社長の稲井隆義は、自らが社長を兼ねる松下寿電子工業の研究陣を叱咤激励して、VXの改良を進めていた。そして試作機ができ上がるたび、相談役室に持ち込んでくる。
「相談役、喜んで下さい。VXの九十分録画にメドがつきました。ソニーのベータマックスに対抗できるビデオができたのです」
幸之助は稲井の報告を聞くたび、|憂鬱《ゆううつ》な気分になった。どんな事情があったにせよ、ソニーから提案された返事を一年半近く遅らせたのは、明らかに松下側のミスである。
〈ビデオはポスト・カラーテレビの大型商品や。この商品を大事に育てれば、家電業界全体が発展する。しかし手をこまぬいておれば、互換性のない製品が出回り、成長の芽を摘んでしまいかねない。メーカーのエゴで消費者を混乱させてはいけない〉
ソニー会長の盛田昭夫に正式な返事をする前に、幸之助は二つの手を打った。まず松下社内の意思統一を図るため、ビクターの技術者に役員会へ出席してもらい、VHSがいかに優れたビデオであるかを説明させた。
幸之助は松下の全役員がVHSの良さを理解すれば、さすがの稲井もVXを引っ込めざるを得ないと読んでのことだ。そこで幸之助はビクター社長の松野幸吉に、VHSを開発した技術者が松下の役員会に出席して、VHSの技術を説明するよう要請した。
松野はただちにビデオ事業部長の高野鎭雄に連絡した。
「相談役から松下の役員会に出席して、VHSを説明してくれとの要請がきた。悪いが、きみ出てくれんか」
「社長。お言葉ですが、私が行けば角が立ちます。相談役はVHSに好意的ですが、松下全体がそうであるかどうか分かりません。VHSに敵意を抱いている人が大勢いるのも事実です。VHSの責任者である私が松下の役員会に出れば、逆効果になり相談役に迷惑をかけます。説明は開発部次長の廣田(昭)にやらせます」
廣田は三月下旬に開かれた松下の役員会に出席して、専門用語を交えVHSの構造を一から説明した。廣田は簡単に説明したつもりだが、根が真面目な技術者だけに、松下の役員には難し過ぎた。幸之助は役員の顔色を見て、彼らが理解してないと判断するや、口を出し始めた。
「きみの話は専門的でよう分からん。説明が下手や。私が代わってやってあげる」
幸之助は廣田からマイクを取り上げ、自分で説明し始めた。“VHS推進本部長”の幸之助から熱弁を聞かされると、松下の役員もVHSを評価せざるを得ない。
もう一つがソニー対策である。幸之助は翌日、ビデオ事業部長の谷井昭雄を呼んだ。
「谷井君、すまんが一つ頼みがあるんや。実はソニーの盛田はんから、ベータ規格の採用を持ちかけられている。きみはビデオの専門家や。どないやろ、VHSとベータの両方かかる機械を開発できんもんか、一度考えてくれ。頼むで」
谷井は検討を約束したが、結論は最初から決まっていた。
〈相談役の注文は無茶苦茶だ。ベータとVHSの両方かかる機械を開発しろというのは、梅の木に桜の木を接ぐようなものだ〉
谷井は幸之助の要望を無視したが、幸之助はそんなことにはお構いなしに、一週間も待たずに、回答を求めてきた。
「どうや、できるか?」
そこで谷井は意を決して、自分の考えを述べた。
「相談役、この際だからはっきり言います。ベータマックスとVHSの規格を統一するのは不可能です。ただし二つの機械を一つにするのは、そう難しくはありません。一つのドンガラに二つの機械を入れ、チューナーでつなげばいいんですから」
「そうか、簡単にできるんやないか」
「問題はそこです。二台の機械を入れるだけですから、値段も単に二倍になるだけでなく、チューナーの分だけ高くなります。むろん見た目も不細工です。お客さんはどちらか一台買えばいいわけですから、商売になりません」
「そんな商品なら、お客さんは買わへんわな。やっぱり無理か」
幸之助は谷井の報告を聞いて、ガックリと肩を落とした。といってソニーへの返事をいつまでも引き延ばしておくわけにもいかない。幸之助は袋小路に入りかけたが、数日間、真剣に考え自分なりの考えがまとまると高野に電話を入れた。
「高野君やな、幸之助や。うちの谷井にベータとVHSの両方かかる機械を開発してもらおうと思ったんやが、どうも無理らしい。もともと規格統一には無理があったんやな。こうなれば、ソニーにVHSを採用してもらう以外ないな。私が盛田はんに話してみるが、異存ないやろな」
「相談役にそんなことまでお願いして恐縮です。しかしソニーは簡単に受け入れてくれるでしょうか」
「それは話してみんことには……」
三月も余すところ数日となったある日、幸之助は盛田を大阪市内のホテルに招いた。
「盛田はん。実はビクターがVHSという家庭用ビデオを開発したので、一度見てやってほしいんや。VHSというのはビデオ・ホーム・システムの略やそうや」
幸之助はニコニコ顔で話しているが、盛田は大きな衝撃を受けた。こうなると最悪の事態を予測せざるを得ない。救いといえば、幸之助がベータマックスを一切批判しないことである。
〈たとえビクターが家庭用のビデオを開発したとはいえ、ベータマックスの方があらゆる面で優れているはずだ。ソニーはビデオに関して二十年もの間、一貫して業界をリードしてきたのだから〉
盛田は衝撃と自負心をおくびにも出さず、その場で思いついたことを提案した。
「ビクターさんも(家庭用ビデオを)開発したんですか。水くさいですね。途中で声を掛けてくれたなら、規格統一は簡単にできたのに。残念です。
しかしいまさら愚痴を言ってもはじまりません。釈迦に説法ですが、家庭用ビデオのような新しい大型商品の普及には値段と規格統一が決め手となります。価格は言うまでもありませんが、規格が各社バラバラですと、カセットテープに互換性がなく、ソフト分野が発達しないばかりか、ハードの普及にもブレーキがかかります。どうでしょう、相談役さん。お互いの製品を一堂に並べて比べ、その中で一番いいものを選びませんか」
「それもええな。うちの稲井が松下寿で開発しているVXの長時間録画に成功したと言ってはった。どうせなら三台並べまひょうか。盛田はんにはたびたび大阪に来てもらっているので、今度は私が東京に出かけますわ。あいにくVHSはまだ市販していないので、試作機しかあらへんのや。製品はビクターに取り揃えさせますわ」
幸之助も三台のビデオを比べれば、盛田といえどもベータマックスを放棄せざるを得ないと読んで、提案を受け入れた。まさに同床異夢である。幸之助はこの日の会談を高野に報告、改めて「規格統一を図るには、ソニーがVHSを採用する以外に解決の道はない」ことを確認し、松下とビクターがソニーの説得に当たることにした。
この年の桜は例年に比べ一週間ほど早く三月末に満開を迎え、四月に入ると散りはじめ、ビデオの品定めに予定された五日は完全に葉桜となった。
この日はアジアが大きく揺れた日でもある。北京の天安門広場では故周恩来首相追悼禁止措置に抗議した人たちへの弾圧が始まった。いわば第一次天安門事件である。その二日後には華国鋒の首相就任と副首相・小平の全職解任が公表された。
家電業界もその日、大きく揺れ動いた。午前十時ちょっと前、東京・日本橋のビクター本社に松下電器、ソニーの最高首脳が三々五々集合した。幸之助は稲井を伴い、勝手知ったるわが家に来た感じで、地下駐車場から八階にある役員応接室に向かった。
対照的に盛田、岩間、大賀のソニー首脳は、敵地に乗り込むような緊張した面持ちで、地下駐車場からエレベーターに乗り込んだ。幸之助と稲井は応接間でお茶を飲んだ後、ソニー首脳の来社を確認してから役員会議室に入った。
会議室の入り口ではホストともいうべきビクター社長の松野と副社長の徳光博文が、にこやかな表情で松下とソニーの経営トップを迎えた。
「やあ、やあ」
「お久し振り」
「御無沙汰しています」
「お元気でっか」
ビデオ三社の七首脳は、いかにも親しげに挨拶を交わし、用意された長机の席に着いた。その後ろにはビクターから高野のほか、開発部長の白石勇磨と次長の廣田昭の三人が座った。同列にベータマックスを開発したソニーの木原信敏や河野文男、松下中央研究所の菅谷汎、幸之助の専属秘書の六笠正弘などの顔が見える。
幸之助を中心に、右にソニーの三首脳、左に松下とビクターの三首脳が一列に並んだ。七人の前には互換性のない三台のビデオが陳列されている。ベータマックスは近くのデパートから購入、VXの長時間録画機種は|急遽《きゆうきよ》、四国の松下寿から取り寄せた。VHSは高野が二月に発足させたプロジェクトチームに作らせた量産モデルの試作機である。
U規格では共同戦線を張った三社七首脳が一堂に会した最初で最後の秘密会談が、今まさに始まろうとしていた。三台のビデオに接続されたモニターに、その日の朝、同時に録画したフジテレビの子供番組「みんなで遊ぼうピンポンパン」の映像が映し出された。
七人の首脳は、無邪気に遊んでいる子供の顔や動作を、首を左右に動かしながら、真剣な表情で食い入るように見比べた。沈黙の時間が過ぎると、ソニーの三首脳が一斉に立ち上がり、VXには目もくれずVHSの試作機に近づきデッキのふたを開け、内部機構をくまなく見渡した。三人の目にそれは紛れもなくベータマックスのコピーに映った。そして盛田が身体で怒りを表し、暴言に近い言葉を吐いた。
「ベータマックスの録画時間は確かに一時間です。しかしVHSはそれを単に二時間録画に改造しただけですね。それにしてもビクターさん……。|酷《ひど》いじゃないですか。紛れもなくこれはベータマックスのコピーですよ」
盛田の怒りの言葉に圧倒された幸之助は、斜めうしろに座っている高野に目配せした。二人は目で語り合った。取締役でもない一介の事業部長に過ぎない高野は、陪席するだけで発言は許されない。万が一に備え、高野は事前に松野と徳光にVHSの開発史とこと細かな技術を入念にレクチャーしておいた。
盛田の暴言に、徳光が血相を変えて反撃に出た。
「盛田君、それは言い過ぎというものだ。VHSは一〇〇%ビクターが自社開発したビデオだよ。その証拠にソニーから共同開発の提案があった七四年秋には、すでに絵が出ていた。ローディングもソニーが採用を見送ったM型を採用しているじゃないか。違いはほかにも色々ある。それより考えてもみろ。ベータマックスを一回見ただけで、ビデオのような精密機械を作れるかね。もとはといえば、あんたも技術者の端くれだろう。そのぐらいのことがなぜ分からんのかね」
そして徳光は最後にとどめを刺した。
「技術は日進月歩で進んでおり、後から出る製品は前の製品より優れているのが、この世界じゃ当たり前じゃないのかね」
そこまで言われて、たじろぐ盛田ではない。彼は国際ビジネスマンとして何度も修羅場をくぐり抜けてきた貴重な経験がある。
「徳光さん。それを言うのなら、われわれがビクターに共同開発を持ち掛けたとき、自主開発をしているので、その意思がないことをなぜ表明してくれなかったんですか」
「ソニーは“共同開発”“共同開発”と声を大にするが、実態は規格の押し付けじゃないのかね。その証拠にわれわれに提案したときには、すでに金型を起こしていたというじゃないか。規格が変更できない共同規格なんて、この世の中にあり得ない」
盛田と徳光は、終戦の四五年八月十五日を海軍横須賀鎮守府で迎えたいわば戦友である。それから三十年が過ぎ、属する企業も立場も違った。二人の間には冷酷なビジネスの世界の理論しかなかった。
この時、陪席していた松下の菅谷は一年半前の出来事を思い出していた。ソニーからベータ規格の共同開発の提案を受けた直後、技術者仲間としてかねて懇意にしていたソニー取締役の盛田正明と個人的に意見を交換したことがある。正明は盛田昭夫の実弟である。
「盛田さん。ベータマックスの録画時間が二時間であれば、松下としても採用しやすいんだが……。何とかならないものですか」
「そうでしょうね。私も個人的にはそう思います」
「それなら話は簡単だ。ベータの規格を二時間録画に設計変更して下さい。盛田社長はあなたのお兄さんでしょう。弟の頼みなら聞いてくれるはずです。ソニーに設計を変更する意思があるなら、私に連絡下さい。松下社内は私がなんとかします」
「菅谷さん、それがダメなんです。ソニーは松下さんとビクターさんに共同開発を提案する前に、すでに金型を起こしているんです」
菅谷は盛田と意見交換したことを、高野に話している。徳光はその経緯を持ち出したわけである。ソニー首脳は徳光の反撃にはほぞを|噛《か》んだ。盛田に続いて岩間、大賀も興奮して自席を立ち|拳《こぶし》を握りしめ、机を叩かんばかりにビクターを非難するが、徳光は高野の書いたシナリオ通り反撃する。
幸之助はソニーとビクターの激しいやりとりを無言のまま聞いている。この間、松下寿のVXは完全に無視された。自ら開発の指揮を執った“四国の猛牛”“四国の暴れん坊”の異名を持つ稲井の表情は、時間を|経《へ》るにつれ厳しくなっていく。
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2 ベータ、VHS両陣営相譲らず
三社七首脳の激論は、解決の糸口を見いだせないまま果てしなく続いた。局面の打開を図るため、ソニー会長の盛田は、持論を持ち出した。
「ビデオを普及させるには、規格統一が必要です。これには松下さんもビクターさんも異論がないはずです。われわれはVHSを拝見した今なお、ベータマックスの方が優れていると信じています。しかしビクターさんはそうでないとおっしゃる。これでは水掛け論で、どこまで行っても平行線です。われわれが百歩譲って、技術面では五分と五分にしても、ベータマックスは一年前から販売している。お客さんにご迷惑をかけないためにも、規格統一は販売面で先行しているベータマックスにすべきではないでしょうか」
この提案に、またしても徳光が|噛《か》みついた。
「ビデオは無限の可能性を秘めていますが、当面は盛田さんが名付けた“タイム・シフト・マシーン”、つまりテレビ放送の番組を時間をずらして見る機器として使われます。テレビ映画の放映時間は二時間です。プロ野球は一時間半ですが、試合が終わらなければ、テレビ局は放送時間を延長する。家庭用ビデオの録画時間は、どうしても二時間必要です。一時間録画のベータマックスは、いくら先行販売しているとはいえ、その条件を満たしていない。これでは規格統一機種にはなり得ません」
徳光はベータマックスの致命的な欠陥を指摘したわけだが、なぜかソニー首脳は平然としていた。これまで集めた情報から、ビクターが録画時間での優位性を誇示することは、ある程度予測していた。
実はソニーも二時間録画機種の開発を進めており、不測の事態に備え徹夜で試作品を作り上げ、前夜にでき上がったばかりの製品をビクターに持ち込んでいた。盛田の指示で、ソニー陣営の陪席者は急いで地下駐車場に置いてある大賀(典雄)副社長の専用車から二時間録画の試作品を運び込み、松下とビクター首脳の前で、誇らしげに映し出してみせた。
録画時間でのビクターの優位性は崩れた。この時、ビデオ事業部長の高野は誰にも分からないようにさりげなく一枚の紙を徳光に手渡した。
『一時間機種と二時間機種の互換性を尋ねてください』
徳光はなにくわぬ顔で質問した。
「ソニーさんが二時間機種を開発したということは、ビデオは将来一時間機種ではなく、二時間機種が主流になると読んでいるわけですね」
「それは違います。主流はあくまで一時間機種です。ユーザーが二時間機種を欲しいというのであれば、ソニーとしてはいつでも出せるという意味です」
盛田はこう言って徳光の質問をかわしたが、徳光は遠慮なく切り込んでいく。
「一時間録画のベータマックスは、発売後まもなく一年を迎えます。すでに数万台売れているはずです。ソニーさんは一時間機種と二時間機種の互換性をどうやって保つのですか」
「二時間機種は一時間機種をベースに開発したもので、テープのスピードを落とすことで実現しました。切り替え装置を付ければ互換性は十分保てます。ソニーの技術を持ってすれば、こんなことはたやすいことです」
徳光と盛田の丁々発止のやり取りを黙って聞いていた高野は、盛田から切り替え装置の発言を聞いた瞬間、これから本格化するであろうビデオ戦争で、VHSが勝利することを確信した。
〈ベータの二時間機種が一時間機種をベースに改良したものであれば、量産した際、画質の劣化は免れない。設計を最初からやり直し、二時間専用機種を開発すれば、今度は一時間機種との互換性を保てなくなる。ソニーは間違いなく|自家撞着《じかどうちやく》に陥る〉
時計の針はすでに正午を回っていたが、口角泡を飛ばさんばかりの激論は、なお続いた。幸之助と稲井は|度肝《どぎも》を抜かれた様子で、出番もなく沈黙を守り続けた。幸之助と高野の間では、VHSをソニー首脳に見せた上で、ソニーにVHS規格の採用を呼びかけるシナリオを描いていたが、それどころではなくなった。
三社七首脳会談の物別れは、決定的である。時計の針が一時を回ったころ、盛田は幸之助に向かって突然、提案した。
「相談役さん。もしよろしければこれからうちの研究所をご覧になっていただけませんか。一度、見てもらえれば、ベータマックスの先進的な技術をご理解してもらえるかと思います。徳光さんもご一緒にどうですか。われわれの会社は何でもお見せすることをモットーにしております」
誘いを受けた徳光は一瞬戸惑い、高野の方を振り向いたが、高野は二、三度首を横に振った。
「お申し出は有り難いが、互換性のない製品を作っているライバル会社の研究所を見るべきではありません。ご遠慮申し上げます」
幸之助と稲井は昼飯もとらずに、ソニー首脳と一緒にビクター本社を去り、通称「御殿山」と呼ばれる北品川にあるソニーの本社に向かった。
四月五日に開かれた三社七首脳会談を機に、高野の動きが再び慌ただしくなった。ソニーは幸之助を取り込むことで巻き返しをはかる作戦を立てていたが、高野には早晩、その作戦が失敗することが分かっていた。そうなるとソニーが、「VHS七社連合」の切り崩しにかかることは、容易に想像できた。その前に何らかの手を打っておかなければならない。内部固めである。
高野は三社会談の二日後の七日昼過ぎ、都内で日立ビデオ機器部長の宮本延治と昼食をとりながら、会談内容を報告した。
「ビクターさんがソニーの研究所に行かなかったというのは、賢明な選択ですね。それにしても幸之助さんともあろう人が、なぜノコノコついて行ったんですかね。相談役がソニーの研究所を見て心変わりする恐れはありませんか」
「相談役からは、まだ見学の結果は聞いていませんが、宮本さんの恐れは、万に一つもありません。相談役は相手の顔を立てただけです。自分の目でソニーの研究所を確かめるというより、盛田さんと二人になった時にVHSの採用を逆提案するつもりなんでしょう。先日はとてもそんな雰囲気ではなかったし……」
「それじゃ、こちらとしては内部固めを急がなければなりませんね。きょう中に三社会談の結果を三菱、東芝、三洋、シャープに知らせますが、構いませんね。ところで高野さん。VHS陣営の旗揚げはいつにしますか」
「私個人としては、五月半ばを一つのメドにしております」
「これからソニーの切り崩しが激しくなるでしょうから、発表は早いにこしたことはない。旗揚げ式に製品を展示できれば理想的ですね」
「旗揚げ式という晴れ舞台で製品を展示できなければ、発表する意味がない。何としてでも間に合わせますよ」
「その時まで価格は決められないですよね」
「当面、松下を除くファミリー企業には、うちがOEM(相手先ブランドによる生産)供給しますが、価格は各社に決めてもらいます。ビクターとしては小売店での販売価格は二十八万円を切ることを目標にしています」
「ということはベータマックスより、いくらか安いということですね」
「VHSは後発ですから、先発のベータマックスより安くて当然なんです。それでなければ出す意味がありません」
高野は横浜工場に戻ると、製造部の藤森文夫を呼んだ。
「どこでもいいから空いている工場を探して、早急に製造ラインを作れ」
「分かりました。ところで新設ラインでは、どんな製品を流すのですか。それが分からなければ、作りようがありません」
「そんなことはお前は知らんでいい。どんなラインがいいのか、実はおれにも分からないんだ。とにかくお前はラインを作ればいいんだ」
藤森は思いあまって、技術部に相談に行った。
「事業部長からビデオの製造ラインを作れと言われました。技術部ではどんな製品を開発しているんですか。それさえ分かれば、ラインなんか簡単に作れるんですが」
「VHSとかいう家庭用ビデオであるのは間違いないんだが、一体どんな製品なのか、おれたちにはさっぱり分からん。開発部の連中に聞いても誰一人として教えてくれない」
「それじゃ、勝手に作らさせてもらいますよ」
藤森は第一工場にあった事務所を撤去して、ダブルのコンベヤーを敷いた。このラインには、四月に入社したばかりの女子社員を含め三人が配属された。家電製品はどんなに設計が良くても、量産となれば別問題である。家庭用ビデオは電気と機械とドラムの組み合わせでできている。まだ技術の最終スペックが決まっていないから、互換性をとるのが難しい。高野といえば、毎日工場へ来ては、超スローなラインの流れを黙って見ているだけ。
彼なりに問題点をチェックしていたわけだが、予想通り互換性の保持が最大の問題であることが分かると、長年自ら講師をやっていた「ビクター技術学院」の卒業生を製造ラインに投入した。まだ高精度の治工具や測定器が揃っていなかったので、腕に自信のある高野の教え子ともいうべき熟練の工員は、旋盤を使って精密な部品を作り上げた。
半月も|経《た》たないうちにラインに携わる人は百五十人に膨れ上がり、試行錯誤を繰り返しながら、何とか最初の一台を作り上げた。これを量産ラインに乗せるのは並大抵ではない。最初の一台ができ上がると、高野は満足げに生産ラインに張り付いている技術者に声をかけた。
「ちゃんと作れるじゃないか。やればできるんだ。一台できりゃ、同じものなんだから何台でも作れるはずだ。ともかく一日も早く量産体制を確立してくれ」
高野は言いたいことを言うと、工場を去って行く。一カ月後に一日二、三台ほど流れているのを確認すると、再び藤森を呼んだ。
「どこか空いている工場はないか」
「第五工場に多少余裕があります」
「それじゃ、そこへラインを作れ。一本じゃたりないから二、三本まとめて作れ」
「事業部長、ちょっと待って下さい。第一工場に付設したラインは、まだ一日二、三台しか流れていません。余力はまだまだあります」
「言っておくが、ラインというのはモノを流すだけではないんだ」
高野は寡黙の人で口数が少ない。長年一緒に仕事をしている人は、一を聞いて十を知らなければ、仕事が進まないことを知り尽くしている。藤森はまだそのことを知らずに、異議を申し立てたのだった。高野は新しいラインでVHSファミリー向けのOEM(相手先ブランドによる生産)を考えていた。むろん高野がVHSファミリー作りに奔走していることは、開発部長の白石勇磨など数人を除いて誰も知らない。
高野の悩みの種は、東芝と三洋が共同開発した新型Vコードにあった。最終的にVHS規格を採用するとの約束を取り付けてあるものの、両社とも二時間録画の新型機種を発売したがっていた。そうした気持ちは同じ技術者として理解できるが、発売日がVHSの旗揚げ式と近ければ、余計な混乱をもたらすだけである。
ビクターが高野の指示で第一工場にVHSの製造ラインを作り始めたころ、日立の宮本を通じて東芝から「新型Vコードの細部が決まりしだい、ビクターに報告に行く」との意向が伝わってきた。そして数日後、東芝と三洋のビデオ責任者が、横浜工場に高野を訪ねて来た。
「高野さん。実をいうと、新型Vコードは金型どころか部品もVHS陣営に入ることを決める前から発注しているのです。直接の開発者は、消費者の判定を仰ぎたいというのです。今回だけは目をつぶってもらえませんか」
ここまで言われると、高野としても反対できない。東芝と三洋は四月二十六日、新型Vコードを発表した。販売は六月からで、価格は三十二万五千円。二時間録画に|因《ちな》んで「Vコード」と名付けられた。
ソニーも|伸《の》るか|反《そ》るかの大勝負に出た。五日の三社のトップ会談が決裂した後、盛田は強引に幸之助と副社長の稲井を北品川のソニー研究所の見学に誘い、十六日にはベータマックスの専用工場の「ソニー幸田」を案内した。家電業界には新製品の生産工場を、ライバルメーカーに見せる慣習はない。盛田は幸之助に研究所に続いて、ベータマックスの量産工場を見てもらうことで、試作機の域を出ていないVHSとの違いを示し、松下をベータ陣営に呼び戻す“ウルトラC”のカードを切ったのである。
幸之助はソニー幸田の見学を終え、本社に戻ると、ビデオ事業部長の谷井昭雄(後に社長)を呼び、厳しい顔付きで尋ねた。
「くどいようだが、もう一度聞く。ベータマックスとVHSの両方かかる機械を開発するのは無理なんやな」
「結論は前回申し上げた通りです」
谷井から自分の出したアイデアを再び断られた幸之助は、専属秘書の六笠を呼んで、高野に明日にでも松下本社に来るよう指示した。
「わしは盛田はんがあまりにも熱心なので、もしかしたらベータマックスの方がいいのではないかと思って、ソニーの研究所を見せてもらったし、昨日はソニー幸田の工場も見た。しかしわしの考えは変わらんかった。ベータマックスとVHSを一緒にできないものかと思って、谷井にもう一度確認したがやはりダメやった。こうなった以上、わしが盛田はんにVHS規格の採用を薦める以外にないな。ところで肝心のVHSはどないや」
「第五次試作も終えたので、横浜工場に量産ラインを作りました」
「それで発表はいつごろになるんや」
「五月十五日から二十日の間を考えています」
「値段はどうや?」
「上限をベータマックスより二万円ほど安い二十八万円にすることを目標にしています」
「それはええ。お客さんにはできるだけ安い商品を提供すべきだ。それがメーカーの務めや。いずれにせよ、その前に盛田はんに会わんならんな……」
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3 飛車角落ち
一九七六年のゴールデンウイークが明けた五月六日午前。ソニー会長の盛田昭夫は、ベータマックスを開発した木原信敏を伴い、期待と不安を胸に秘め、東京・港区御成門にある松下電器産業の東京支社を訪ねた。盛田は幸之助専用の相談役室に通された。日本の家電業界を代表する創業者会談は余人を交えず、二人だけの差しで始まった。別室では松下、ビクター、ソニーの関係者が|固唾《かたず》を飲んで、成り行きを見守っている。
口火は幸之助が切った。
「盛田はん。返事が遅れて申し訳ありませんでした。最初からわしがソニーの提案を知っていたら、どうにかなっていたかも知らん。盛田はんの言う通り、ビデオの規格は統一でけたほうが、ええに決まっている。しかし、わしの知らんところで松下寿はVXを開発し、ビクターはビクターでVHSを開発してしもうた。東芝と三洋の開発したVコードを入れると、四つの規格の違う製品ができてしもうたわけだ」
「相談役さんのおっしゃる通りです。私はこの四つの中で、ベータマックスが一番優れていると確信しております。現状を放置すれば混乱するだけです。そこで相談役さんにご配慮をいただき、ベータマックスで規格統一を図れば、混乱は未然に防げます」
「規格統一は何としてでもせなあかん。そこでうちのビデオ事業部にベータマックスとVHSの双方かかる機械の開発を頼んでみたんやがダメやった。そこで盛田はんの言う通り、どこかの機械に統一するしか道はない。わしの見るところ、ベータマックスは百点や……」
幸之助の口から百点の言葉が出たとき、盛田はこれまでの苦労が報われた気持ちになった。ところがひと呼吸おいた幸之助の口から、思いも寄らなかった言葉が飛び出した。
「ベータマックスは確かに百点や。ただしVHSは部品点数が少ないだけ(ベータマックスより)安く作れる。お客さんにとっては、百円でも二百円でも安いほうがええに決まっとる。わしの見るところVHSは百五十点や。仮に百二十点やったらビクターにベータ規格を押し付けることもできるんやが……。これだけ差がある以上どうにもならん。盛田はん、率直に言います。(ソニーの方で)VHSの規格を採用してもらうという訳にはいかんやろうか」
幸之助の回答は盛田にとって厳しいというより、屈辱的なものだった。一年七カ月にわたるソニーの努力は徒労に終わった。二人の創業者の間には十カ月前に天下国家や人生観を語り合った時の蜜月のムードはまったくなかった。あるのはビジネス社会の厳しい現実である。
「ご迷惑をおかけしました」
盛田は返事をしない代わりに一礼して、相談役室を後にした。幸之助と盛田のトップ会談が決裂したことで、松下・ビクターの連合軍とソニーの対立が一気に尖鋭化した。ビクター・ビデオ事業部長の高野鎭雄によるVHSファミリーの内部固めにも熱がこもってきた。
トップ会談から二日後の五月八日に、横浜工場に日立、三菱、シャープの担当者を集め、VHSの発表時期を相談した。二時間録画のVコードを発売したばかりの東芝と三洋には、あえて声をかけなかった。不安といえば、松下にも出席を呼びかけたが、なぜか誰も出てこないことだ。
日立、三菱、シャープの三社はすでにビクターに対しVHS規格採用の念書を提出しているせいか、和気あいあいで、冗談が飛び出すほど親密さが増していた。
「高野さん、VHSという名称を変更してもらえませんか」
三菱の商品営業部長の今村正道が、半ば冗談げに言った。
「どうしてですか。VHSでは何か不都合でも……」
高野は三菱が何か不満があると思い込んで、真剣な表情で尋ねた。
「そんな怖い顔をしないで下さい。VHSというのはビデオ・ホーム・システムの略であるのは分るのですが、うちの上役はVはビクター、Hは日立、Sはシャープの社名の頭文字で、三菱のMがないじゃないか。どうせならVHSMにでも変えてもらえというんですよ」
「今村さん、それは違います。三菱さんのために取って置きの技術を採用したんです。VHSのローディングはM型でしょう。三菱と松下さんのためにわざわざM型を採用したのですよ」
高野は冗談には、冗談で応じた。この日はVHSファミリーの旗揚げ式の席にVコード陣営が入ったケースと、欠席したケースの発表原案を作成して別れた。その後、高野と日立のビデオ機器部長、宮本延治は横浜工場前の居酒屋「きしや」で酒を酌み交わしながら、腹を割って話し合った。
「高野さん、松下の態度が少し変だとは思いませんか。きょうも会合に誰も出てこなかった」
「相談役は心配ないんだが、どうも副社長の稲井さんの様子がおかしい。事業部長の谷井さん、技術部長の村瀬さん、研究所の菅谷さんの三人はVHSシンパだが、ビデオ事業はなにせ稲井さんが采配を振るっているので、勝手に動けないのかもしれませんね」
「ならいいんですが。万が一、松下がドカ弁(VX)の改良版を全国的に売り出すようなことがあれば、混乱に拍車をかけるだけです」
「いくら稲井さんでも、相談役の意向を無視して、全国発売には踏み切れないでしょう」
高野はこう言って宮本の|杞憂《きゆう》を打ち消したものの、高野自身にも一抹の不安があった。幸之助は“VHS推進本部長”として、高齢を押して東奔西走する獅子奮迅の働きをしてくれているが、社長の松下正治のビデオに対する考えが一向に伝わってこないことだ。
そのころ、業界ではまことしやかに一つの|噂《うわさ》が流れた。
「松下は早ければ、五月中にもVXの改良版を売り出す」
噂の出所が部品メーカーだけに、真実味があった。松下の不穏な動きを封じ込めるには、世間に向けて一日も早くVHSファミリーの結成を公表することである。
「高野さん。松下に遠慮せず、とりあえずビクター、日立、三菱、シャープの四社で旗揚げしませんか」
だが高野は宮本からいくらせっつかれても、決して首を縦に振らなかった。
〈ソニーの力はあなどり難い。ベータに対抗するには四社では弱過ぎる。ここは松下とVコード陣営の東芝、三洋を含めた七社がまとまらなければ……。ビジネスは急ぐことも大切だが、一つの規格をみんなで守る条件が整わない限り、スタートさせることはできない〉
東芝と三洋は録画時間を二時間に延ばしたVコードを発表したものの、前評判は芳しくなかった。両社とも将来にわたってVコードで行けるとは露ほども思っていなかった。当面はVコードでつなぐとしても、早晩ベータかVHSのどちらかの規格を採用せざるを得ないとの覚悟を決めていた。
そして五月十三日に東芝はビデオ技術史上屈指の発明とされる「ヘリカルスキャン(螺旋)」方式を開発した専務の澤崎憲一、常務の二谷芳夫、テレビ事業部長の池田温の三人が集まって、今後のビデオ戦略を協議した。
「Vコードを発表したばかりだが、感触はいまひとつです。たとえ計画通りの台数が出ても、赤字が膨らむだけです。東芝としては早めにVコードに見切りを付けて、VHSに切り替えた方が得策です。そのためには、ビクターから要請のあったVHSファミリーの旗揚げ式には参加しましょう」
二谷はこう言って、強力にVHSグループ入りを主張した。池田はもともとVHS推進派である。その中で一人、澤崎だけが慎重だった。
「私個人としてはVコードを捨てて、VHS規格を採用するのは構わないと思っている。だが会社としてみれば、三洋と歩調を合わせるのが大前提だ。三洋は松下の動きに不信感を持っている。これを払拭しないことには……」
それから二日後に池田はビクターの高野、日立の宮本、三菱の今村の三人を銀座の東芝ビルに招き、Vコード陣営の態度を表明した。
「三洋さんとも協議した結果、Vコード陣営二社もVHSファミリーの旗揚げ式に出席させてもらうことにしました。ただし条件といっては何ですが、二つほど要望があります。一つは松下のしかるべき人をご紹介願いたいこと。もう一つはVHSの規格を、ソニーも乗りやすいような規格に変更してほしいということです。変更は東芝が中心になって進めても構いません。いかがでしょうか」
池田の話を聞いて高野は半ば呆れた。
〈東芝は一体なにを考えているんだ。松下のしかるべき人を紹介してくれという要望はともかく、ベータとVHSを融合させるのは、梅の木に桜の木を接ぐようなもので、土台無理な話だ〉
宮本も今村も同じ印象を持った。高野は「分かりました」というわけにもいかず、「一応、検討してみます」と|曖昧《あいまい》な返事をして東芝を後にした。
激震はそれから四日後の五月十九日に起こった。松下が「VX2000」と名付けた録画時間九十分の新機種を、六月中旬から全国の系列販売網に乗せて発売すると発表したのである。稲井はこれに二十一万円という破格の値段を付けた。
〈松下ともあろう会社が規格統一で主導権を握れない製品を、全国ネットに乗せるはずがない〉
高野はハナからそう信じていただけに、ショックは大きかった。こうなると腰の定まらないVコード陣営が動揺するのは目に見えている。案の定、松下の発表したその日の夕刻、まず東芝が申し入れてきた。
「われわれとしては松下がこの時期、VX2000を発表したのは、VHSの採用を見送ったと理解せざるを得ません。松下がVHSを採用しないとなれば、東芝としても乗りにくい。三洋も同じ結論です」
反ソニー七社連合は挫折した。飛車(松下)、角(東芝・三洋)落ちでは、ソニーの牙城を切り崩すのは難しい。三菱の今村は社内で、苦しい立場に立たされた。上司からはさんざん嫌みを言われた。
「今村君、きみの話とはだいぶ様子が違うようだが……。それより松下は一体どうなっているのかね。松下が採用しない規格をうちが採用して、本当に大丈夫なのかね」
いち早くVHSグループ入りを決めた日立は、さすがに|狼狽《ろうばい》しなかった。家電事業部長の長浜良三は、むしろ高野を励ました。
「高野さん、これからどうするかを考える前に、みんなで相談役に会って、松下の真意を確かめるのが先決だよ」
幸之助の元へ押しかけるのは簡単だが、高野は実力行使に出れば、松下社内で幸之助の立場が悪くなることを恐れた。幸之助は確かに松下の創業者だが、取締役を外れた一相談役に退いてからは、意識して婿養子社長の松下正治の顔を立て、通常の業務にはできるだけ口を挟まないようにしている。
〈きっと相談役には、考えがあってのことに違いない〉
そう自分に言い聞かせ、長浜からの提案は「折を見て……」と、言葉を濁して即答を避けた。それではなぜ稲井がVXの全国発売に踏み切ったのか。稲井は自分が開発したVXに絶対の自信を持っていた。VXの全国発売が実現したのは、正治が稲井をサポートしたことによる。
四月五日にビクター本社で三社七首脳が一堂に集まり、ビデオの品定めをした際、ソニーとビクターが鋭く対立し、松下寿のVXは片隅に追いやられたが、稲井は両社の口角泡を飛ばさんばかりの激論に|度肝《どぎも》を抜かれたものの、三台のモニターテレビに映し出された映像を見て、誰にも気付かれず一人ほくそ笑んでいた。
〈わしが陣頭指揮をとって改良した長時間録画のVXは、間違いなくベータマックスより優れている〉
その一方でVHSを高く評価していたが、同時に不安もあった。松下の技術者は七五年の夏以降、頻繁にビクターの横浜工場を訪れ、VHSの試作品を見せてもらっている。そして一様に感心して帰り、同じ言葉を発した。
「VHSの完成度は高い」
稲井も初めて見たときから、同じ印象を持っていた。だが同じ技術者から、必ず次の言葉が出た。
「VHSは精密すぎて、そう簡単には量産できない。量産が軌道に乗るまでには、かなり時間がかかるのを覚悟しなければならない」
VHSの第五次試作が終了した時点で、ビクターから量産試作機が送られてきたが、それを分解してみて、技術者が言っている意味が分かった。モノ作りの専門家を自負する稲井の目からみても、松下が手がけた場合、半年どころか一年ほどかけなければ量産を軌道に乗せる自信がなかった。
量産できなければ、ビクターに供給してもらえばよさそうなモノだが、ビクターはすでに日立、三菱、シャープの三社にOEM(相手先ブランドによる生産)供給を決めている。松下が本腰を入れて販売するとなれば、最低月一万台は必要だ。むろんビクターにはそんな余力はない。それ以前に無線担当副社長として、松下グループビデオ戦略の指揮を執る稲井にすれば、子会社のビクターから供給してもらうことはプライドが許さない。
ベータマックスは発売から一年|経《た》っており、日に日に量産体制が確立しつつある。稲井は幸之助と一緒にソニー幸田を見て、それを肌で感じ取った。ビデオの投入時期が決まらないことに対して販売店から苦情が相次いでいる。松下のビデオ進出が遅れれば遅れるほど、市場はベータマックスに|席巻《せつけん》されてしまう。
「このままでは松下の販売網はソニーに乗っ取られてしまう。たとえつなぎの商品でも投入せざるを得ない」
こうした経営上の判断から、正治と相談のうえ、VX2000の全国販売に踏み切った。幸之助も松下の置かれた苦しい立場が分かるだけに、稲井の方針を容認せざるを得ない。
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4 通産省の思惑
“四国の暴れん坊”“四国の猛牛”の異名を持つ稲井が率いる松下寿が開発した録画時間九十分のVX2000を全国発売するとのニュースは、松下電器社内で思わぬ波紋を呼び起こした。
「VXはもとはといえば、松下本社が開発した製品で、寿は単にそれを改良したに過ぎない。VXが市場に受け入れられれば、子会社のビクターが開発したVHSなんか出すことはない」
松下の置かれた厳しい事情を知らず、技術にも|疎《うと》い社員が公然と言い出した。こうした声を岡山に本拠を置くビデオ事業部の幹部は苦々しく思っていたが、稲井の耳には快く、しかも頼もしく聞こえた。
〈とにかくわしは、VXを世に問うてみる。岡山のビデオ事業部の連中や本社の技術陣はVHSをやりたければ、やったらええ。結果はお客さんに決めてもらえばいいんだ〉
稲井はVXに賭けていた。それどころか密かにVXでのビデオの規格統一すら夢見ていた。その証拠に発表直前に遠縁の三洋社長・井植薫を松下本社の貴賓室に呼んで、VXの採用を持ちかけた。案に相違して、井植の返事はにべもなかった。
「VXの価格は魅力的だが、(ベータマックスやVHSに比べ)画質はかなり劣る。四国の限定販売ならまだしも、全国販売となれば規格統一の動きに水を差すだけだ。そんな規格は採用しかねる」
だが稲井の考えは違っていた。
〈ベータの録画時間は一時間、それで二十九万円以上もする。高い価格のまま規格が統一されたら、急速に値下がりすることはない。これで迷惑するのはお客さんだ〉
松下寿は六月から十一月までの半年で、五万台ほど生産する計画を立てていた。月産九千台弱。ビデオを安定して生産するのは難しいといわれた当時の家電業界では、驚異的な数である。これでソニーのベータマックスに続き、東芝・三洋のVコード、松下のVX2000と互換性のない三機種のビデオが出揃った。
こうなるとVHS陣営のファミリー作りも、再構築を迫られる。ビクターの高野は自分の席を暖める暇もなく、ひたすら飛び回っている。第一工場と第五工場に付設した製造ラインの稼働率は、まだ量産にはほど遠い。高野は時折、工場を見て事業部に戻るなり、経理課長の大曽根収を呼びつけ、ポロポロ涙を流しながら怒鳴る。
「おれは死ぬ思いでやっているのに、第五工場は誰も責任を持ってみていない。だから量産が軌道に乗らないんだ。お前ら事業部の幹部は、もっと工場に目を光らせろ」
高野が一体何をやっているのか、大曽根どころか事業部の誰も知らなかった。高野自身、社長の松野幸吉にすらロクに報告しないので、ファミリー作りが|暗礁《あんしよう》に乗り上げても、社内では相談どころか、愚痴をこぼす相手がいない。いらだちがピークに達したとき、側にいる大曽根にカミナリが落ちる。
そんな矢先の六月十日の早朝。高野は朝日新聞の朝刊を見て跳び上がった。経済面に載っている記事の見出しは「規格統一の調整へ/家庭用VTRで通産省」とある。そして本文には次のように書かれてあった。
「ポスト・カラーテレビの本命商品の一つといわれる家庭用VTRの規格問題がにわかに表面化してきた。ソニー、三洋電機・東芝の二グループに続き、家電トップの松下電器が独自の方式による製品を今月から売り出し、互換性のない三種の方式が登場する結果になったからだ。このため通産省は『消費者にとって好ましいことではない』と規格の統一など調整策を検討し始めた。
業界にはまだ家庭用VTRを出していないメーカーを中心に『消費者の便を考え、大量製品を売り出す前に、できることなら基本規格だけでも統一しておくべきだ』という声が多い」
高野は読み終えると、直ちに渋谷区西ヶ原にある社長の松野幸吉の自宅へ電話を入れた。
「社長、朝早く起こして申し訳ありません。けさの朝日新聞を見て下さい。そしてすぐ通産省に直行して、役所の真意を確かめて下さい」
ビデオ戦争は四月五日のソニー、松下、ビクターの三社七首脳会談が決裂し、それを受けて幸之助がソニー会長の盛田昭夫にVHS規格の採用を逆提案してから、舞台は規格統一を巡るつばぜり合いに移った。もはや相手を力でねじ伏せる以外に解決の道はない。ソニー、松下、ビクターとも、そう覚悟した矢先にタイミングよく、通産省から規格統一のアドバルーンが上がった。
通産省は春先から機械情報産業局の電子機器電気課(通称電電課)が中心になって家庭用ビデオとファクシミリの規格統一を検討していた。夏から業界のヒアリングを始め、秋口には本格作業に着手して、遅くとも年内に規格案を提示するスケジュールを立てていた。むろん通産省は水面下で繰り広げられた|熾烈《しれつ》な規格統一の動きは、一切知らない。
松野は朝食もそこそこに、おっとり刀で霞が関に向かった。皮肉にも通産省の正面入り口で、ばったりソニー社長の岩間和夫と出くわしたが、お互い二カ月前の苦い思い出があるせいか、目礼するにとどまった。電電課長の鈴木健は、二人からそれぞれの言い訳を聞いた。岩間はこれまでの水面下での動きを洗いざらいぶちまけた上で、「規格統一は販売実績のあるベータマックスを基本にすべき」と主張して帰った。
松野は日立、三菱、シャープを含めた四社がすでにグループを形成していることを力説するとともに、将来は松下、東芝、三洋が加わり七社連合に発展する可能性が依然として残されていることを|匂《にお》わせ、最後に「参加メーカーの多い方式で統一すべき」と、数の理論を展開した。
ソニーはベータマックスの開発に際して、カラーテレビの「トリニトロン」を上回る巨額の資金を投じている。規格統一で主導権を握れなければ、開発資金を回収できないだけでなく、これまで|培《つちか》ってきた「技術のソニー」というイメージが地に墜ちてしまう。ビクターとて事情は同じ。この機を逃せば、家電業界で浮上するチャンスを永久に失ってしまう。松野は高野から知恵を授けられた通り、電電課長の鈴木に提案した。
「ビクターはVHS規格に賛同してくれた会社にOEM(相手先ブランドによる生産)供給することにしています。一度、われわれの製品をご覧になってください。一週間後にファミリー企業の担当者を集めますので、各社の意見を聞いた上で判断して下さい」
高野は松野から通産省がVHSファミリー企業とのミーティングに同意したことを聞くと、事後承諾の形で日立、三菱、シャープ、東芝、三洋の各社に連絡した。松下にはあえて声をかけなかった。それでもどこでどう聞きつけたのか、中央研究所部長の菅谷汎から「VX2000は松下寿が生産している関係で展示できないが、ミーティングには参加させてほしい」との要請がきた。
通産省とVHSファミリー各社のミーティングは十六日の夕方四時から霞が関に近い日立愛宕別館の会議室で開かれた。出席者は総勢十四人。通産省からは電電課長の鈴木、課長補佐の岩崎隆治など三人が出席。ビクターは高野、開発部長の白石勇磨、同次長の廣田昭の三人が顔を揃えた。会場を提供する日立は家電事業部長の長浜良三、ビデオ機器部長の宮本延治など四人。三菱は商品営業部長の今村正道、シャープは技術部長の尾島義郎、松下は菅谷、そしてVコード陣営からは東芝テレビ部長の中山雄が代表の形で出席した。
ミーティングは出席者の中で最年長の長浜が口火を切った。
「日立は昨年七月にソニーさんにベータマックスの技術供与を申し入れましたが、残念ながら断られてしまいました。その直後にビクターさんからVHS規格の採用を呼びかけられたのです。詳しくはビクターさんからご説明があるかと思いますが、VHSは大勢のメーカーが参加できる条件を満たした規格です。私たちは独自の規格を出すのは無用と判断して、昨年暮れにVHS規格の採用を決めました。ところが六月十日付の朝日新聞で、通産省のご心配を知って、本日この会をアレンジさせてもらった次第です」
続いて開発メーカーの立場から、高野がいつもの調子で|訥々《とつとつ》と開発の動機を語った。
「VHSの開発に際して最初に想定した使い道は、テレビ放送の録画です。ご存じのようにテレビはNHKを除いてタダで見られます。わざわざお金を出してビデオを買ってもらっても、その機械がテレビの録画再生しかできないのでは、商品としていささか訴求力が弱すぎます。新しいメディアがデビューするとき、メーカーは今までできなかったことができると宣伝します。ただ多くの場合、それを実現させるには、膨大なインフラ投資が必要になります。その間、ユーザーは我慢しなければなりません。それが普及の阻害要因になり、ソフトとハードの『ニワトリが先か、卵が先か』の論争になります。
その点、VHSは二時間録画ですから、買ったその日からテレビで放映される映画やプロ野球を楽しめます。タイム・シフト・マシーンとしての機能です。しかし、それだけでは消費者には何も目新しい発見がありません。買ったその日から本当に楽しめるのは、テレビの録画再生ではなく、ビデオカメラを使って撮ったプライベートソフトです。そのためには誰にでも買える高性能のビデオカメラを供給しなければなりません。そうして何年か|経《た》ってビデオがある程度普及すれば、ソフトメーカーから大量のソフトが提供され、どの家庭でも、手軽に劇場用の映画を楽しめるようになるのです。
VHSは将来の使い方を展望しながら開発しました。とはいえ、当面はテレビの録画・再生機としてスタートするわけですから、他の家電製品並みに、安く買えなければなりません。性能もいたずらに高性能を求めるのではなく、テレビ放送の画質、音質が一つの目安となります。そして茶の間のテレビの脇に並べて置くのですから、最初から小型・軽量でなければなりません。VHSはまだ未完のビデオです。したがってファミリー企業の方々と一緒に改良を進めて行くつもりです。
ビデオの最大の特徴は、コミュニケーションの道具だということです。それを実現するには、世界的な標準が必要です。開発メーカーには、一つの標準を作り上げるという気概がなければなりません。とはいえ競争の中からだけでは世界の標準は生まれません。ビクターはVHSの世界標準を目指してファミリー作りを進めているのです」
高野の熱弁に圧倒され、会場は静まり返った。続いて白石が、VHSの開発マトリックスを持ち出して、ビデオの利用条件と技術実現の関係を説明して、最後にこう締め|括《くく》った。
「VHSはビデオにとって最も有効な用途を先に規定し、そこに技術を集中させるようにしてあるので、技術が独り歩きする心配はありません」
規格の理念と技術を説明した後、モニターに映像を映し出して、ベータマックスとの違いを目の前で実演した。VHSのカセットはベータマックスのそれよりひと回り大きいが、デッキの大きさも体積で比べると半分ぐらいしかない。映像の映りもベータマックスと|遜色な《そんしよく》い。これでは通産省としてはいやが応でも事態が切迫していることを認めざるを得ない。
実演を終えると質疑応答に移りまず、通産省の鈴木が質問した。
「VHSに賛同しているメーカーは、きょうご出席の六社ですか?」
「条件付きですが、三洋さんとも合意しているので、七社ということになります。ほかにTDKをはじめとするテープメーカー三社さんからも賛同を頂いております」
高野が自信ありげに答えると鈴木がたたみかけてきた。
「ソニーには参加を呼びかけたのですか」
「松下電器の幸之助相談役が、盛田会長に直接働きかけましたが、残念ながら不調に終わったようです」
今度は角度を変えて質問した。
「素人目にはベータマックスとVHSの大きな違いは、テープのローディングにあるように見えますが、これを変えることは可能ですか?」
これには白石が答えた。
「ローディングはビデオの命です。M型を変えるつもりはありません」
鈴木は今度は矛先を松下に向けた。
「松下さんは本気でVX2000を売るつもりなんですか?」
突然の質問に菅谷は戸惑い、言葉を濁した。
「VXはあくまで価格のニーズから出した製品です。将来は……」
「ところでVHSは近々発売なさるのですか」
これにはVHS陣営の盟主の高野が答えた。
「この問題は、春先からファミリー企業で相談しています。最初は一斉発売を考えていましたが、こうなるとビクターが先行することになるかと思います」
そして最後に鈴木が注文を出した。
「ここまで合意したことは、“見事”というよりほかに言葉がありません。誠に結構なことです。ただ何としてでもソニーを仲間に入れてあげないといけません。入れないと世界で日本の家電メーカーのあり方が問われます。七社が合意しているのなら、ソニーにもそのことを明示したらいかがですか。そうすれば必ずや局面を打開できます」
VHS陣営はソニーとの協議を促されたわけだが、高野は余裕を持って答えた。
「われわれはソニーに限らず、どのメーカーさんにも門戸を開放しています」
「ともかく通産省としては、ビデオの規格は統一すべきだと考えています。場合によっては、強権を発動してでも規格統一すべきとの決意です。今日のところはこれで終わりますが、近く各社からそれぞれの事情をおうかがいします」
ミーティングは七時過ぎに終わった。
〈通産省はVHSでの規格統一を考えているのではないか〉
高野は電電課長の口ぶりから、こうした感触を得た。そして翌日には、通産省からの指示もあり、VHSの規格書を付けた試作品をソニーに送った。
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5 決裂した規格統一
ベータマックスのファミリー作りに立ち遅れたソニーは、通産省とVHS陣営の動きを苦々しい思いで見ていた。黙認すればVHSが規格統一機種になりかねない。これを阻止するには、通産省の強力な行政指導に|縋《すが》る以外ない。
通産省には会長の盛田、社長の岩間、副社長の大賀が交互に足繁く通い、ベータマックスでの統一を働きかけたが、先行販売を訴えるだけでは決め手に欠ける。電電課長の鈴木は困惑の表情を見せるだけ。それを察して、ソニーは切り札を出した。
「実はうちもベータマックスの二時間機種の開発を終えているのです。一度ご覧になっていただけませんか」
ソニーは電電課の担当者を北品川の本社に隣接した研究所に招待して、二時間機種を説明しながら、技術面での優位性を誇示した。二時間機種はテープの長さを変えずに記録トラックピッチを半分に狭め、それに合わせてテープの走行速度を落とすことで実現した。カセットの大きさは一時間機種と同じだから、テープの経済性は倍に高まる。しかも切り替え装置を付ければ、現行の一時間機種との互換性も保てる。
通産省はこの時点でVHSからベータマックスへ方向転換した。規格統一機種として一、二時間共用のベータマックスを頭に描きながら、各社から精力的に聞き取り調査を始めた。
「家電業界が大同団結できる状況が生まれれば、自社製品にこだわらず採用します」
最大の収穫はVコード陣営の東芝からこの回答を引き出したことだ。東芝は四月下旬のVコードの発表直後、岩田弍夫副社長の社長昇格を内定した。岩田は記者会見で、弱体部門を思い切って切り捨てる米ゼネラル・エレクトリック(GE)の「集中と選択」の経営戦略を取り入れることを表明した。
家電部門出身の岩田はVコードが規格統一の動きの中で、主導権を握れない製品であることをいち早く見抜いており、早晩Vコードを捨てる腹を固めていた。
松下寿社長で松下本社の副社長を兼ねる稲井の意気込みとはうらはらに、VX2000は価格こそ安いが、技術面でベータとVHSに比べ、見劣りするのは素人目にもはっきりしていた。聞き取り調査で稲井の意向はともかく、松下本社は何がなんでもVXを規格統一の主流に押し上げる意欲が薄いとの感触を得た。残るはベータマックスとVHSの調整である。
通産省はソニーと日本ビクターのどちらかが譲歩することを期待して、両社に規格統一に絞ったトップ会談を提案した。その一方で、七月二十九日にVHS陣営の代表者全員と懇談したいという要望を出した。トップ会談は通産省の意図か、それとも偶然の一致か、翌日の三十日に決まった。
だがビクターの高野は、日時を指定した通産省の姿勢に疑問を持った。
〈これは何かある。二十九日の前に最低限、ビクターと日立の間で意思疎通をはかっておかなければならない〉
日本電子機械工業会の会長を兼ねる日立社長の吉山博吉は二十九日午前、通産省に機械情報産業局長の熊谷善二を訪ねた。その前日には、高野の発案で|急遽《きゆうきよ》、吉山とビクター社長・松野幸吉のトップ会談が持たれた。その席で「行政指導による規格統一は好ましくない」ことが確認された。吉山は工業会会長として、そのことを通産省に申し入れに行ったのである。
午後には電電課長とVHSファミリー企業のメンバーが、前回と同じ日立愛宕別館に集まった。口火は電電課長の鈴木が切った。
「通産省としては、何としてでもビデオの規格統一を図りたい。できなければ消費者に迷惑がかかり、通産省だけでなく皆さんも非難されます」
半ば脅かし気味だが、総論では誰も異論はない。そこで日立の家電事業部長の長浜良三がVHS陣営を代表して、役所の真意に探りを入れた。
「われわれ業界の人間も同じ考えです。問題はどうやって統一するかです。通産省の方に何か妙案があるのですが?」
鈴木はベータを全面に出すわけにもいかず、官僚的な答弁をした。
「通産省の希望は、VHS陣営の皆さんとソニーがよく話し合ってもらい、お互いが歩み寄る形で、統一の糸口を見いだしてもらうことです」
これにVHS陣営の技術者が猛反発した。
「技術は生き物です。政治の世界のように足して二で割るというわけにはいきません。この問題は短期間で解決するのは困難です」
「それはやってみなければ、分からないじゃないですか」
鈴木は|憮然《ぶぜん》とした表情で、反論するが技術者連中も負けてはいない。
「私たちはビデオの専門家です。絶対とはいいませんが、結果はある程度予測できます。しかしソニーさんと協議するのはやぶさかではありません。ただし協議の場は通産省の方で責任を持ってセットして下さい」
鈴木はその場でソニー首脳に電話を入れたが、意外な答えが返ってきた。
「七社の方々とは喜んでお会いします。ただしできることなら個別にしてほしい」
電話のやりとりを聞きながら高野は素早く、ソニーの戦略を分析した。
〈ソニーは焦っている。VHS連合の七社と一堂に会すれば、多勢に無勢。負けは分かり切っている。個別に会うことで一本釣りを考えているのではないか〉
ソニーは高野の分析通り、猛烈な巻き返しに出た。三十日の夕刻には、予定通り、社長の岩間が日本橋のビクター本社に社長の松野を訪ねた。
「松野さん。繰り返すようですが、ビデオには規格統一が必要です」
「その考えに異論はありません」
松野が総論に賛成したことから、岩間は恐る恐る切り出した。
「どうでしょう。ここはVHSがベータマックスに同調する形で、何とか規格統一できませんか。むろんビクターさんの面子は立てるつもりです」
しかし松野はこの提案に乗らなかった。
「|僭越《せんえつ》ながら規格統一をおっしゃるなら、ベータマックスより二時間録画のVHSの方がふさわしいかと思いますが……」
だがここまで言われると、岩間も黙って引き下がるわけにはいかない。
「先日お見せしましたように、ベータマックスも二時間機種の開発を終えております」
こうなるとまたしても堂々巡りである。業を煮やした松野は、最後に引導を渡した。
「岩間さん、この際、はっきり言わせてもらいます。ベータマックスでの規格統一は無理です。というのもうちも量産に向け金型を起こし始めたからです」
相手が金型を起こしたとあっては万事休す。ソニーとビクターのトップ会談は、予想通り決裂した。岩間はその足で、丸の内に本社のある三菱電機に社長の進藤貞和を訪ねた。
「ご承知のようにビデオの規格統一を巡って、業界は大混乱しています。三菱さんはVHSに興味をお持ちのようですが、私どももベータマックスの二時間機種を開発しました。一度ご覧になってもらえませんか」
「それは、結構なことです。お言葉に甘え、近く技術者を派遣しましょう」
進藤は社交辞令の意味合いから、相手が前向きに受け取ってもおかしくない返事をしたことから、後々までソニーに食いつかれることになる。
ソニーとビクターのトップ会談が決裂したことは、その日のうちにソニーから通産省に報告された。通産省の思惑は完全に外れたが、これで規格統一を諦めたわけではない。
決裂はある程度織り込み済みである。通産省が本気になって模索していたのは、ベータマックスとVHSの長所を取り入れた、いわば第三の方式である。これを実現するには、ライバル関係にある技術者同士が同じ土俵に上がらなければならない。
ビクターはすでにVHSのスペック(仕様書)と試作機をソニーに渡してある。しかしベータマックスの二時間機種は、まだ市販されていないので、VHS陣営は検討のしようがない。それを見透かしたようにソニーの動きが活発になった。七夕の七月七日から十五日にかけてシャープを皮切りに、日立、三菱、東芝、三洋の順に技術者を個別にソニーの研究所に呼んで、二時間機種の技術説明会を開いた。
「ベータマックスとVHSを比較する場合、ローディング方式やプレーヤーのサイズの違いは、それほど重要ではありません。カセットの規格が大問題なのです。VHSは二時間録画で、テープの長さは二百三十五メートルあります。これに対してベータマックスは百五十メートルに過ぎません。これで二時間録画が可能なのです。トラック幅を狭め、ヘッドスピードをもっと落とせば、三時間録画も夢ではありません。われわれが強調したいのは、テープのコストです。ベータマックスは一本四千五百円ですが、単純に比較するとVHSの方は三四%ほど高くなります」
熱弁を振るったのは会長・盛田昭夫の実弟、常務の盛田正明だった。盛田はテープコストのほかにも一、二時間切り替え機種でも画質、音質とも劣化しないこと、将来は販売価格が十万円を切ることを目標にしていること、すでにポータブル機種の開発に着手していることなどを強調した。
それを踏まえた上で、各社選りすぐりの技術者がベータマックスとVHSの長所と短所を洗い出し、純粋に技術面から検討を重ねた。しかし短期間で生木を接ぐような第三の方式の糸口が見つかろうはずもない。両陣営の技術者が交流を深めれば深めるほど、設計思想の違いが浮き彫りにされるだけで、いつしか「基本設計の異なる製品を無理に統合しても、技術開発の芽を摘むだけ」という声も出始めた。
二十日にはビクター本社でVHS陣営の技術会議が開かれ、第三の方式に対する結論を出した。
「ベータマックスとVHSの技術を融合させた新機種を、短期間で開発するのは困難である」
そんなVHS陣営の動きを知らないソニーの大賀は、局面を打開するため、二十二日の午前に通産大臣の河本敏夫に会って、強力な行政指導による規格統一を訴えた。その日の午後には機情局長・熊谷の|肝煎《きもいり》で、運よく上京していた松下幸之助と盛田の創業者会談が、再度持たれた。盛田は|一縷《いちる》の望みを託したが、幸之助の態度は変わらなかった。
「盛田はん。この前も言った通り、百五十点のVHSを百点のベータマックスに合わせろというのは無理というもんや」
翌二十三日には午後一時から都内のホテルでソニーを含むビデオ八社の技術会議が開かれた。当然のことながら議論は平行線のままで、解決の糸口すらつかめなかった。VHS陣営は夕刻に、日立愛宕別館に電電課長の鈴木を呼んで、VHSファミリーの最終結論を伝えた。
「通産省の要望に従って、ベータマックスとVHSの長所を取り入れた新しいビデオの開発を模索しましたが、双方を足して二で割るやり方は、やはり無理があります。これからなぜ困難かという技術面での説明を致します」
ビクターの白石が通産省の役人を前に黒板に図を書きながら、事務系の役人にも分かるよう懇切丁寧に説明した。
規格統一ができない最大の原因は、ビデオ信号のH並びができないことだった。H並びというのは、ビデオ信号の水平走査線の一本、一本がテープの上で隣の水平走査線とお互いにズレないで並ぶことである。これができなければ、きれいな映像が出ない。
規格統一は技術面からも暗礁に乗り上げた。こうなると数の論理しかない。ファミリー作りに立ち遅れたソニーは、技術交流と並行して、経営トップが手分けして家電各社を訪問、VHS陣営の切り崩しに出た。
ソニーが何としてでもベータ陣営に取り込みたかったのが、業界の盟主ともいうべき日立だった。日立をベータ陣営に引き入れれば、規格統一問題で有利な立場に立てるうえ、VHS陣営からの|雪崩《なだれ》現象も期待できる。
話は少し|遡《さかのぼ》る。通産省による規格統一の動きが表面化した六月十八日。岩間が新丸ビルの日立本社に吉山を訪ね、ベータ規格の採用を正式に要請した。続いて七月十二日には大賀が愛宕別館に家電事業部長の長浜、家電研究所長の真利、ビデオ機器部長の宮本を訪ね、一年前の不誠実な対応を謝るとともに、改めてベータ規格の採用を申し入れた。
「ソニーがどんなに厳しい立場に立たされようが、ベータマックスを捨てる気持ちはありません。日立さんに賛同してもらえば、家庭用ビデオはベータ方式で規格統一できます」
「残念ながら日立は、すでに事業部段階でVHSの採用を決めております。ビクターさんとはすでにOEM契約を済ましております。だからこそ四月にソニーさんの方から非公式にベータマックスの二時間録画機種を見てほしいとの要望があった際も、お断りしたのです」
大賀がいくら愛想を振りまいても、三人の態度はまったく変わらない。帰り際、大賀は誰にともなく|呟《つぶや》いた。
「私は戦術を間違ったのかもしれない。やはりこの種の話はトップ同士の交渉でないと……」
日立の三人は大賀が呟いた言葉の意味を、その場で理解した。
〈ソニーは日立の社風を全然分かっていない。日立の場合、社長に会っても結論は同じなのに……〉
松下やビクターと同様、日立も徹底した事業部制をとっており、事業部の判断がすべてに優先する。事業部長がいったん「ノー」という結論を出したら、よほどのことがない限り、トップといえどもそれを覆すことはできない。
規格統一が暗礁に乗り上げた七月三十日。今度は会長の盛田が日立本社に吉山を訪ね、再びベータ規格の採用を働きかけた。吉山は多少うんざりした表情で返答した。
「再検討してみますが、日立のVHS採用は家電事業部の決定事項です。それだけはご了解願います」
「そこを何とか再考を……」
「分かりました。再検討したうえ後日、正式に返事します」
何事にもたじろがない盛田の態度に吉山は舌を巻き、|溜《た》め息をもらしながら側近に語った。
「盛田さんの唯我独尊ぶりは|噂《うわさ》には聞いていたが、心臓の強さは予想以上だ」
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第六章 揺らぐ家電王国

1 崩壊寸前の七社連合
ソニー首脳は手分けしてVHS陣営の経営トップに会って、VHSからベータマックスへのくら替えを要請した。日立社長の吉山博吉は、すでに家電事業部がVHS規格の採用を決めて再考の余地がないことを表明して、ソニーの望みを断った。
ところが日立と同様、事業部サイドでVHSの採用を決めていた三菱電機は、社長の進藤貞和が相手に対するリップサービスから、|曖昧《あいまい》な返事をしてしまった。
「日本ビクターとは技術交流を続けているが、VHSを採用するかどうか、まだ決めていません。今後ベータマックスを含めて再検討します」
この発言をソニー首脳は「脈あり」と受けとめその後、入れ代わり立ち代わり三菱を訪れたことから、さすがの進藤も音を上げてしまった。対照的にシャープ社長の佐伯旭の態度は、はっきりしていた。
「当面ビクターから製品の供給を受けて販売するが、自社生産は規格統一問題が決着するまで待ちます」
ファミリー企業の動向は、その日のうちに高野の耳に入ってくる。全く動向がつかめないのが、東芝と三洋電機のVコード陣営だった。それもそのはず、両社のトップは水面下で激しく動き回り、その情報を担当部署に一切知らせなかったためだ。
「ソニーは二時間録画にまったく興味を持っていない」
Vコードの二時間機種を開発した直後、東芝の副社長だった岩田弍夫は、ソニー会長の盛田昭夫に意見を求めたところ、軽く|一蹴《いつしゆう》されたいきさつがある。それだけに東芝社内には反ソニーの感情が渦巻いていた。
「一時間録画にこだわったのは、私の判断ミス。岩田さんの指摘を受け一、二時間の切り替え機種を開発したので、よろしく……」
六月に盛田が社長就任のお祝いの挨拶を兼ね東京・日比谷の電電公社(現NTT)ビルの中にある東芝本社に岩田を表敬した際、過去の経緯を率直に詫びた。二人は愛知県常滑市の生まれで、生家はともに造り酒屋。一方は世界をところ狭しと駆ける国際セールスマン。片や石坂泰三、土光敏夫の“歴代財界総理”(経団連会長)に鍛えられた腕利きの経理マン。
歩んできた道は違うが、いずれも当代一流の論客であり話題にはこと欠かない。秋に向け二人が軽井沢でゴルフに興ずる機会がめっきり増えた。
ソニー首脳は大阪・守口市にある三洋の本社にも足繁く通った。松下に対する反発もあり、社長の井植薫はソニーの熱心な説得に急速に|魅《ひ》かれていった。決め手になったのは、短期間で二時間録画を可能にしたソニーの技術力である。これを機にVコード二社はVHS陣営から急速に離れていった。ソニーは通産省に、VHS陣営の切り崩し状況を逐一報告している。高野は東芝と三洋の不穏な動きに不安を覚えたものの、相手の様子が分からず打つ手がない。
通産省が規格統一の最後の切り札として持ち出したのが、金銭による解決である。通産官僚はいくら技術的な説明を受けても、ベータとVHSのどちらが優れているかを判断できない。官僚的な発想といわれようが、安易なやり方と非難されようが、消費者の立場に立てば、すでに市場に出回っている製品の規格に合わせてもらう以外、通産省が選択する道はない。
旧盆休みを数日後に控えた八月十日。通産省機械情報産業局電電課長の鈴木健は、ビクターの高野を役所に呼んだ。
「実は非常に言いにくいのですが、ビクターはVHS規格を撤回して、ソニーのベータ規格を採用してもらえませんか。それからもう一つ頼みがあります。もし仮にこの案が|呑《の》めないようでしたら、役所宛てに『次世代の家庭用ビデオは、ソニーを含む八社で共同開発する』という誓約書を出してほしいのです。これが通産省の規格統一問題に対する最終見解です」
〈そんなバカな!〉
高野が|呆気《あつけ》にとられていると、鈴木は「私見ですが」と断りながら、奇想天外なことを提案した。
「ビクターさんにベータ規格を採用してもらえるなら、役所が責任を持って、ビクターがVHSの開発に要した資金をソニーに負担させます」
高野は反論するのも空しくなり、返事もせずに霞が関を後にした。
〈VHSは今やビクターだけのものではないんだ。規格に賛同してくれたファミリー企業の共有財産なんだ。役所はその辺のことがまったく分かっちゃいない〉
ソニーはベータマックスの開発に、トリニトロンカラーテレビに匹敵する巨額の資金を投じた。一方のビクターはビデオ事業部が万年赤字ということもあり、高野は爪に火を|灯《とも》すようにして開発資金を捻出して、しかも本社にも知らせず、たった三人の技術者でスタートさせた。これまで五年間に投じた開発資金は二十億円。横浜工場に付設した製造ラインと治工具を合わせても三十億円と、ソニーの十分の一にも満たない。
高野は翌日、日本橋のビクター本社の役員応接室にVHSファミリー企業のメンバーを招集して、通産省から「規格統一機種はベータにしたい」との提案があったことを淡々と報告した。
この日の会合には日立、三菱、シャープ、松下が参加した。Vコード陣営の東芝、三洋にも声をかけたものの、出席の返事はなかった。こうなると、両社のVHSファミリーからの離脱は明らかである。高野の説明を聞いて、VHS陣営の怒りは頂点に達した。
「通産省の提案は開発メーカーどころか、われわれ賛同メーカーをもバカにしたものだ。検討するに値しない」
「通産省の方針は、VHS陣営の意思を無視したやり方だ。断固撤回させるべきだ」
心配になったのか、途中からビクター社長の松野幸吉が顔を出した。しかし、いくら通産省を非難しても、何の解決にもならない。それまで黙って聞いていた松下中央研究所部長の菅谷汎が、重い口を開いた。
「松下はVX2000の発売以来、皆さんにご迷惑をおかけしています。実は松下も通産省から態度表明を迫られ、昨日、松下正治社長が回答しました。要点は二つあります。一つはVX2000生産、販売は今後とも続ける。もう一つはソニーのベータマックスは一時間機種としては文句の付けようがないが、松下としては家庭用ビデオの録画時間は二時間を標準と判断している。したがって早晩、VHS規格の採用を表明する。以上ですが、岡山工場ではすでに生産準備に入っているので、VHSの旗揚げ式が九月以降であれば参加できるかと思います」
菅谷の口から松下の決意表明が出た途端、出席者の中からどよめきが起こった。そしてそれまで腕を組んで、沈痛な面持ちで聞いていた社長の松野が断を下した。
「次世代機種の共同開発は再検討するにしても、金銭での解決案は丁寧にお断りしよう」
日立社長の吉山は十六日、担当常務の高橋豊吉を伴って北品川のソニー本社を訪れ、盛田と大賀にベータ規格の採用を|婉曲《えんきよく》に拒否した。
「私は日本電子機械工業会長という立場からも規格統一を願っておりましたが、技術者の努力にもかかわらず、残念ながら実現できませんでした。日立としては家庭用ビデオは、二時間専用機種のVHSが最適と考えております。当面はビクターさんからOEM(相手先ブランドによる生産)供給してもらいますが、将来(VHSを)自社生産する際、(ソニーが持っている特許使用など)よろしくお願いします」
吉山が下手に出たのは、ソニーが各社とのトップ会談で、遠回しながら特許問題をちらつかせたためだ。ソニー、松下、ビクターの三社はクロスライセンス契約を結んでいるので、相手の特許は了解なしに自由にそれも無料で使える。ところが三社以外はそうはいかない。VHSはソニーの特許も使っているので、三社以外の会社が自社生産するには、ソニーに了解を求めなければならない。
この問題の重要性にいち早く気付いたのが、幸之助である。七月二十八日に通産省機情局長の熊谷善二の|斡旋《あつせん》で、ソニー会長の盛田との会談を終え帰阪すると、休むまもなく社長の正治を呼んだ。
「ソニーはこれから特許問題で締めつけてくるで。うちとビクターはソニーとクロスライセンスを結んでいるので問題ないが、ほかの会社は大変や。すでに動揺しているのと違うんか。新聞にそう書いてあった」
「相談役。それで松下としては、どうすれば良いのでしょうか」
「とにかくVHS採用の発表を急ぐことやな。岡山の事業部はぎょうさん苦労しているようだが、VHSを自社生産するまでに時間がかかるようだったら、松下がVHS規格を採用することを|匂《にお》わすだけでええ」
幸之助が新聞といったのは、その日の朝の日刊工業新聞一面に載ったトップ記事である。
「家庭用VTR/規格統一は新段階に/ソニーが巻き返し/ビクター中心の七社連合は“崩壊”」
崩壊の原因は松下とビクターを除くVHSファミリー企業が、ソニーが提示したベータ規格の将来展望に興味を示したことを挙げている。
この新聞記事を読んで、三菱電機商品営業部長の今村正道は、上司に上げる報告書をまとめた。
「ソニーは日刊工業新聞出身の広報部長を通じて米国の電子産業の専門誌『テレビジョン・ダイジェスト』誌の最新号のベータマックス批判に対抗するムードを作るVHSファミリーを分断して、早期発売を崩す――ソニーはこの二点を狙って記事を作らせた」
これはあくまで今村の憶測に過ぎないが、幸之助も似たような印象を持ったのだった。
幸之助の意を受けた正治は八月八日、東京・大手町の経団連会館で開かれた経団連記者クラブとの定例記者会見で、VHSを高く評価するとともに、初めて公式の場で規格の採用を|仄《ほの》めかした。
「家庭用ビデオの録画時間は、二時間が必要不可欠です。その点、初めから二時間に設計されたVHSには大きな興味を持っており、将来、松下寿が生産しているVXと並行して扱うこともありえます」
会見に同席した副社長の稲井隆義は、正治と幸之助の会談を知らないこともあり、ニュアンスを異にする発言をした。
「VXの録画時間は今のところ九十分だが、二時間に延ばすのは技術的に不可能ではなく、研究所の段階ではメドをつけつつある。そうなれば(ベータマックスだけでなくVHSにも)十分対抗できる」
VHSファミリー各社は同じ日、東京・日本橋のビクター本社に集まって、VHSの発表のやり方を協議した。会議は重苦しい雰囲気が漂っていた。依然としてVXにこだわっている松下と、経営トップから「VHSファミリーの会合に出席しても、約束事は一切まかりならん」という足カセをはめられている東芝と三洋のVコード陣営の言葉が重くなった。
日立、三菱、シャープにしてもビクターと足並みを揃えるには、その前に特許使用に関して、ソニーの了解を取っておかなければならない。会議は具体的な各論に入ると、足踏みしてしまう。そこで高野は各社のお家の事情を踏まえた上で提案をした。
「こうなったら発表は、さみだれ式でいきましょう。ビクターが先陣を切ります。その後、態勢の整った企業から順次、発表しましょう」
高野はVHSの発売に備え、春先から社内の精鋭営業マンを一本釣りでビデオ事業部に集めていた。菅谷光雄もそんな一人だった。彼は二年前にも高野から声を掛けられたが、ステレオ事業部からも誘われていたこともあり、言葉を濁した。
「“オーディオのビクター”というくらいですから、ビクターに入社した以上、音響も勉強しておきたいのです……」
この発言に高野が|噛《か》み付いた。
「二つの事業部から誘われて、お前は人事部に何と答えたんだ」
「私もサラリーマンですから、ビデオ事業部からも誘われているので、そちらの話を聞いてから決めます、と言っておきました」
「なに、お前はビデオ事業部以外だったら会社を辞めます、となぜ言わなかったんだ」
菅谷は最終的にステレオ事業部を選び、内示のあったその日の夜遅く、横浜市にある高野の自宅に挨拶に行った。応接間に通された途端、高野にどやされた。
「お前はビデオ事業部を見捨てた男だ。何年|経《た》っても、絶対に拾ってやらん。これがおれの方針だ。すぐ帰れ。会社に来ても二度とビデオ事業部の敷居をまたぐな」
菅谷は心の中で〈このくそジジイ。たとえ頭を下げられても、ビデオ事業部なんかに行くもんか〉と叫んだ。
高野にすれば営業の若造に|天秤《てんびん》に掛けられた思いがあった。とはいえ菅谷の営業手腕は高く評価しており、VHSの発売を前に、再び声を掛けた。昔のことはおくびにも出さず、菅谷が挨拶にきても素っ気ない返事をした。
「なんだ、今度来ると言う営業の精鋭というのは、間違ってもお前じゃないだろうな」
「事業部長。人を呼んでおいて、それはないでしょう。ところで仕事というのは、“例のやつ”ですね」
「“例のやつ”というのはなんだ。おれは知らん。あんたがたにやってもらいたいのは、ビデオで世の中を良くするにはどうしたらよいかを考えてもらうことだ。勘違いするな」
「事業部長、実は知っているんです。VHSの実物を見せて下さい」
「ブツを見たらいい知恵が出るのか?」
「いや、そうじゃありませんが、ブツを見なければ、良いアイデアも浮かびません」
「そんな考えじゃ、ブツを見たってダメだ。あんたがたはまだ知らんでええ」
菅谷がVHSの実物を見せてもらい、概要を知らされたのは、発売一カ月前である。
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2 規格統一問題が再燃
ビクターが「HR─3300」と名付けたVHSの発表会は、九月九日の大安の日に東京・虎ノ門のホテルオークラで行われた。開発責任者の高野にとって、VHSのお披露目は一世一代の晴れ舞台のはずだが、彼はあくまでも黒子役に徹し、その年の五月末の株主総会で取締役に昇格したにもかかわらず、目立たないよう末席に座った。
「ビクターが新しいビデオを作っているらしい。そんな|噂《うわさ》を耳にした記者さんが、ずいぶん私の自宅へ来ましたが、ようやくここに発表の運びとなりました」
最初に社長の松野幸吉が挨拶、それを受けて開発部長の白石勇磨が設計思想を説明した。
「家庭用ビデオはどうあるべきか。ビクターの開発はそこからスタートしました。そして三つの条件を掲げました。一つは小型・軽量で、操作がやさしく、しかも消費電力が少ないこと。二番目が二時間録画ができること。最後が画質がテレビ放送の時のそのままであること。ビクターはVHSでこの三条件を実現しました」
価格はベータマックスより二万円安い二十五万六千円。二十日後にソニーは対抗上、四万円の値下げに踏み切った。
ファミリー企業の揃い踏みによる共同開発は挫折したが、それでも十月二十二日から東京・晴海で開かれるエレクトロニクスショーに、各社がVHS製品を出品して、それを事実上の旗揚げとすることを確認している。ビクターからOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受ける日立、シャープ、三菱は独自のデザインを考案し、すでに図面をビクターに渡している。
ただしそれを実現するには、三社とも将来の自社生産に備え、事前にソニーの了解を取っておく必要がある。ビクターから製品供給のメドが付いた段階で、三社はソニーにトップ会談を申し入れたが、首脳同士の日程が折り合わない。といってソニーを刺激するわけにもいかず、こうなると三社は最終的にエレクトロニクスショーへの出展を断念せざるを得ない。
そうした矢先、突然、規格統一問題が再燃した。社会党代議士の松浦利尚が九月十四日の衆議院物価特別委員会で、この問題を取り上げたことが発端である。松浦を突き上げたのが家電の安売り店として知られる城南電機社長の宮路年雄である。
「ビデオはポスト・カラーテレビの本命商品として、家電メーカーが一斉に発売している。ところが各社のテープには互換性がない。通産省は七四年五月の告示でカラービデオの規格統一を|謳《うた》っているが、現状をどう考えるか」
松浦の鋭い質問に、機情局長の熊谷善二は苦しい答弁をした。
「オープンリール型のカラーテレビと四分の三インチのカセット型については、すでに業界が自主的に規格を統一しています。いま問題になっているのは家庭用の二分の一カセット型ですが、これについても引き続き規格統一を促進するよう業界を指導します」
とはいえ現実問題として、すでに発売されている複数の規格を統一することは不可能である。しかし国会でメーカーを統一に向けて指導することを約束した以上、動かざるを得ない。熊谷が国会に呼び出された翌日、通産省は関係各社に次のような文書を出して、内密の招集をかけた。
ホームビデオ規格統一問題懇談会
通産省機械情報産業局
熊谷善二局長出席
日時 十月二十日(水)
十四時から十五時まで
場所 日本電子機械工業会談話室
(東商ビル五階)
招集対象会社
テープメーカーを含む十七社の社長もしくは担当重役
こうした通産省の動きを、高野は苦々しく思っていた。
〈企業のトップは本当の動きを知らない。通産省首脳から規格統一を迫られ、「ごもっとも」「ごもっとも」と言われでもしたらたまらない。こうした動きだけは事前に封じなければ……〉
通産省は家電各社のトップに内密の招集をかけたにもかかわらず、二十日になって局長の熊谷に急用ができたことを理由に、出席者を電電課長の鈴木健に代え、十七社に「代理出席者は部長クラスでも可」と連絡した。
鈴木は二十八日の会合で、正式に規格統一を要請するとともに、統一の要望書を手渡した。要望書の文章は抽象的だが、いわんとするところは「次世代の機種では必ず規格統一を実現してほしい」ということだった。
〈通産省は単に将来に歯止めをかけたかっただけではないか〉
この日出席した家電各社の首脳は、こう受け止めたが、翌日、要望書を読んで一人だけ額面通り受け止めた人がいた。松下幸之助である。幸之助は早速、ソニー会長の盛田宛てに手紙を|認《したた》め、規格統一に関して三つの提案をした。
二時間機種はVHS、一時間機種はベータマックスを規格統一機種とする。
そのため松下電器は独自開発のVXを捨てる。
二時間機種に関してVHSで大同団結できるなら、松下とビクターは特許をオープンにする。
数日後、盛田は幸之助に直接返事をせず、日本橋のビクター本社に社長の松野幸吉を訪ね、家庭用ビデオに対するソニーの基本方針を伝えた。
「松野さん。私どもが最初にベータマックスの規格を提案した際、率直に腹を割って相談すべきでした。そのことは重々反省しています」
盛田に下手に出られて松野はいささか面食らったが、虚心坦懐に話した。
「うちも同じです。VHSを開発していることをもっと早く、ソニーさんに報告すべきでした。ビクターは近く、日立にOEM供給しますが、お手やわらかに」
「そうですか。うちは日立さんとはいろんなことがあったらしいが、あそこが販売に踏み切ってくれれはビデオの普及に弾みがつきます」
「日立に限らず他の企業がVHSを自社生産する際、うちと松下は特許面でも積極的に協力します。その辺ソニーさん、よろしくお願いします」
これを受けて盛田はわざわざビクターを訪れた狙いを切り出した。
「特許の件は松下の相談役さんからもお話がありました。前向きに検討します。ただ少し時間を下さい。それから相談役さんにお伝え願いたいのです。『数々のご提案は、こちらも真剣に検討しましたが、現時点で無理に|棲《す》み分けても、かえって混乱するだけです』。そう言ってもらえば分かるかと思います」
盛田の態度が急変したのは、規格統一が絶望的なことに加え、VHS陣営から東芝と三洋をベータ陣営にくら替えさせることに成功したことによる。ソニーと両社の水面下のトップ交渉を通じて内々に、「当面はソニーがベータマックスをOEM供給するが、将来は自社生産する」ことで合意している。
ソニーにすればここでVHS陣営に特許問題で横ヤリを入れれば、東芝と三洋が将来ベータマックスを自社生産する際、今度は松下とビクターに意趣返しされる恐れがある。そうなれば泥沼の戦いである。盛田はそれを避けるため下手に出たのである。
東芝と三洋がベータ陣営に乗り換えるとの方針は、秋口になって現場レベルまで下りてきた。それを機にソニーを交えた三社の会合が頻繁に開かれた。いわば“蜜月時代”に入ったわけだが、時間が|経《た》つにつれ、ベータマックスの新機種と投入時期について微妙な食い違いをみせはじめた。
当然のことながらソニーは、互換性保持の面から一〜二時間の切り替え機種、東芝と三洋は二時間専用機種を主張した。発売時期もソニーが年内、Vコードの在庫を大量に抱える東芝と三洋は、年明けそれもできるだけ遅い時期を提案していた。
そのころソニー会長の盛田は国内でのグループ作りと並行して、|密《ひそ》かに米国最大のテレビメーカー、ゼニスへ採用を働きかけていた。会長のジョン・ネビンと個人的に親しい盛田は、得意のトップ交渉でいち早く大枠をまとめあげた。
内容は東芝、三洋と同じでゼニスが将来自社生産することを前提に、それまでの間、完成品をソニーがOEM供給するというものである。
高野は盛田の動きを薄々感じていたが、その動きを封じるための秘策はなかった。晩秋になっても岡山工場はVHS生産に動く気配はない。それどころか十二月に入ると、松下本社副社長の稲井隆義が、恒例となっている大阪・機械記者クラブとの年末定例記者会見で、爆弾発言をして物議をかもした。
「松下のビデオ戦略はVX一本に絞った。したがって将来ともVHSを採用する考えはない」
同席した社長の正治もこれをやんわりと肯定したことから、マスコミのみならず家電業界の人々は|唖然《あぜん》とした。
「松下はVXに自信を得て、名実共にVX一本でいけると判断したのではないか」
VHSファミリー企業の中にはこう憶測する向きもあったが、高野の見方は違っていた。
〈あの発言は稲井さん一流のパフォーマンス。松下は予想以上にVXの在庫を抱えているので、ああ言わざるをえなかったのだろう〉
高野の予想通り、松下はVXの在庫処分に四苦八苦していた。稲井は業界の規格統一の動きをよそに、夏から秋にかけて大増産に踏み切った。
ところがビクターからVHSが発売されるや、VXの売れ行きがバッタリ止まった。在庫は月を追うごとに膨らみ、松下としてはこの在庫を年末商戦で一掃しない限り、VHSの採用を公式に表明できないジレンマに陥った。皮肉なことにVXの在庫を減らすには、逆にVHSを採用しないことを表明して、販売店の動揺を抑えるしかない。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした十二月十四日の午後一時過ぎ、松下、ソニー、ビクター、日立、三菱、シャープ、東芝、三洋のビデオ八社の社長が通産省正面前にあるレストラン「ナポレオン」に三々五々集まった。
この日の午前中、丸の内にある東商ビルで日本電子機械工業会の年末最後の理事会が開かれ、それが終わると八社の社長は会場へ直行した。遅めの昼食が終わるころ、通産省機情局長の熊谷があたふたと駆け付けた。
工業会専務理事の高井敏夫が八社の社長に出した案内状には、予定議題として「家庭用ビデオの規格の標準化に関する件」とあった。規格統一の問題はこれまで、工業会でもさんざん議論され、「数年内に新規格のビデオを開発するのは困難」との結論に達した。
これを受け工業会は十四日に熊谷を呼んで、会長を兼ねる日立社長の吉山博吉が、現行機種での統一は不可能であることを告げるとともに、将来の統一を目指し、工業会内に「家庭用ビデオ標準化促進委員会」を設置して、引き続き統一に向けて努力することを表明した。
標準化促進委員会は年が明けても開かれず、活動を始めたのは八〇年代に入り、8ミリビデオの動きが出てきてからである。
ビデオで明けた七六年は、規格統一の破綻で暮れようとしていたが、年の瀬も押し迫った二十二日に日立ビデオ機器部長の宮本延治から、ビクターの高野へ重大な報告がもたらされた。
「高野さん、どうやらソニーと東芝・三洋の間で密約が成立したらしい。発売するのは、一時間と二時間の切り替え機種です」
「やっぱり東芝と三洋はベータ陣営に走ったのですか。両社ともトップが政治判断で決めたのでしょう。VHSの採用に向けて走り回ってくれた東芝の中山(雄)さんや小山(章吾)さんたちは、さぞかし残念でしょう」
「それから高野さん。ソニーの盛田さんが年明け早々に吉山社長に面談を申し入れてきたんです」
「それで日立さんは、それを受け入れたのですか」
「用件が分からないまま断るのも失礼です。秘書室では一月七日の午前に会談をセットしたようです」
「まったく根拠はありませんが、ソニーはまだ日立をベータ陣営に引き込むことを、諦めていないのかもしれませんね。東芝と三洋を引き入れた余勢を駆って、改めて日立にもベータ規格の採用を持ちかけるつもりでしょう」
「ソニーからどんなに|美味《おい》しいことを言われても、日立の方針は変わりませんよ。吉山社長は意志の固い人ですから」
「それなら安心です。実は私のところに入ってきた情報によると、ソニーはアメリカでも激しく動いているようです。盛田さんのことだから、絶対に何か仕掛けています」
「何か根拠があるのですか?」
「実はRCAから一月の半ばにビクターのビデオの工場を見せてほしいという要請が舞い込んできたのです。RCAは録画時間の問題でベータマックスには批判的だった。そのRCAがビクターの工場を見たいということは……」
「ライバルのゼニスがベータマックスの採用を検討している、ということしか考えられませんね」
「その可能性は高いでしょう。カラーテレビに関して両社は、宿命のライバルです。ゼニスがベータ規格を採用すれば、RCAは間違いなくVHSを採用する。そのことはRCAの連中が日本に来た段階ではっきりします」
七七年一月七日午前。ビクター社長の松野は出社するなり、日立社長の吉山に電話を入れた。
「吉山さん、喜んで下さい。たった今、松下の正治社長から電話があって、松下はきょうの役員会でVHSの採用を正式決定するとのことです。三日後の十日に記者発表するようです」
「それは良かった。あと三十分もすれば、ソニーの盛田さんが私を訪ねて来ます。松野さん、ご安心下さい。盛田さんからどんな提案をされても、日立の方針は変わりません」
盛田が来社した狙いは、予想通りベータ陣営へのくら替え要請だった。盛田は遠回しながら、東芝と三洋がベータ陣営に加わったことを|仄《ほの》めかしたが、直前に松下がVHSの採用を決めたとの情報を握っている吉山は、盛田の要請に耳を傾けず、これを断った。
この日の夕刻、宮本から日立とソニーのトップ会談の報告を聞いた高野は、東芝の最終態度を確認するため、テレビ事業部長の池田温に電話を入れ、とりあえず十二日に会う約束を取り付けた。
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3 “山下跳び”
松下電器社長の松下正治が、新春の記者会見でVHS規格の採用を発表するという、問題の一月十日がやってきた。このニュースを翌十一日付の日本経済新聞は、次のように伝えている。
「松下電器産業の松下正治社長は十日、大阪で記者会見し『家庭用VTRで四月から日本ビクターのVHS型を発売、自社製のVX2000型との二本立てでいく』との方針を明らかにした。
松下がビクター方式の採用、発売に踏み切ることで規格統一問題はソニー方式とビクター方式の二つの方式の勝負になる見通しだが、すでに日立製作所、シャープ、三菱電機がビクター方式の採用を決めているだけに、孤立した形のソニーの対応が注目される。
一方、松下も規格の異なる二機種を売り出すことは消費者に戸惑いを与え、販売対策上マイナスに作用することも考えられる」
松下がVHS規格の採用を正式表明したことで、トップの一存でベータ陣営へ乗り換えを決めた東芝が動揺し始めた。そしてビクターの高野は予定通り、十二日に東芝ビデオ事業部長の池田温に会った。
「|巷《ちまた》の|噂《うわさ》はともかく、東芝がベータ規格に乗るかどうかは、まだ決まっておりません。依然として白紙です。高野さん。このことだけは信じて下さい」
「私は信じております。東芝さんも三洋さんも間違った判断をすれば、取り返しがつかなくなります。その辺のことがお分かりになっておれば……」
「高野さん。実は一つお願いがあります。ビクターさんのトップに、明日にでもうちの岩田(弍夫)社長と会ってもらえませんか。会談は私が責任を持ってセットします」
東芝社長の岩田と松野ビクター社長のトップ会談は、二日後の十四日に決まり、東芝副社長の浜野毅とビクターの高野が同席することになった。
家電部門を預かる浜野は、当初からベータ規格の採用に難色を示していた。家電分野では長年、東芝と松下は東西の横綱と称されてきたが、両社の実力は、歴然と差があることは浜野が一番知っていた。
〈家電分野で、松下と真正面から戦っては勝ち目はない〉
これが浜野の持論で、岩田がベータ規格の採用を決めた際にも、「松下はVX一本でいく」ことが前提になっており、渋々認めた経緯がある。この前提条件が崩れたことから、浜野に迷いが出てきた。松下がVHS規格の採用を決めた直後、岩田に直談判して再考を求めた。
「社長、状況が変わったのです。どの方式を採用したらよいか、再検討しませんか」
「東芝は重電が主流で、私もお前も傍流の旧東京電気の出身だ。社内では私とソニーの盛田(昭夫)君が同じ愛知県常滑の出身であることから、地縁でベータ規格の採用を決めたと噂する人がいることは承知している。しかし経営はそれほど甘くない。私は経理屋なので詳しくは知らないが、素人目に、VHSよりベータマックスの方が技術的に優れており、商売になると判断したから決めたんだ。盛田君がVコードを、ソニーが売ってくれるというのも心強い」
浜野の提案に岩田の答えはにべもなかった。浜野としてはここで引き下がるわけにはいかない。
「むろん社長の気持ちは分かります。しかし状況が変わったのです。VX一本ヤリでいくと思った松下が、VHS規格の採用を表明したのです。東芝がベータ規格を採用するということは、松下を敵に回すということです。私はもう一つ恐れていることがあります。ベータ規格を採用した場合、当初はソニーからOEM供給を受けます。ということは東芝の系列販売店がソニーの攻勢にさらされることになるのです」
「………」
沈黙を決め込んだ岩田に浜野がダメを押した。
「社長、東芝が最終的にどちらを採用するかは、ビクター社長の松野さんに会ってから決めませんか」
これに納得したのか、岩田は重い口を開いた。
「分かった。会うだけ会ってみよう」
十四日に東京・日比谷の東芝本社で行われた東芝とビクターのトップ会談は、実に奇妙なものだった。岩田と松野は時候の挨拶と、他愛ない世間話をするだけで、どちらからもビデオの話を切り出さない。
高野は会談に臨む前に一つだけ松野にクギを刺した。
「社長、東芝社内には大勢のVHSシンパがおります。彼らの将来を考え、今回は無理強いするのはやめましょう。向こうの方からビデオの話を切り出さなければ、まだ最終結論が出ていないということです。東芝は何といっても戦前、ビクターの親会社だったのです。喧嘩別れだけは絶対に避けなければなりません」
皮肉なことにこれが裏目に出た。二人が東芝の応接室に入った途端、高野は|憔悴《しようすい》しきった浜野の顔を見て、東芝社内での激論の様子が想像できた。そして両社のトップ会談は、予定通り三十分ほどで終了した。
東芝と同様、三洋社内にもベータ規格採用の見直し論が台頭していた。松下の電撃発表から一夜明けた十一日。同じ大阪で三洋の新春記者会見が開かれ、社長の井植薫はビデオ戦略について次のように語った。
「東芝と共同開発したVコードは、市場では高級機種として高い評価を得ています。したがって今後とも生産、販売を継続します。普及品について他メーカーの規格を採用するかどうかは、需要の推移を見てから、決めさせていただきます」
要は“|洞《ほら》が峠”を決め込んだのである。東芝と三洋の態度が煮え切らないのは、松下がVXとVHSの並売の方針を打ち出したことに起因している。そのことを、高野は冷静な目で見ていた。
〈松下がVHSの発売を四月としたのは、岡山工場の体制作りが遅れているというより、VXの在庫処分に三カ月から四カ月かかるということだろう〉
発表から数日後、松下正治からビクター、日立、三菱、シャープの四社の社長に直接電話が入った。
「記者会見の席ではVXとVHSを並売すると発表しましたが、すでにVXの生産は年末で打ち切りました。ビデオに関して今後、松下はVHS一本でいきます。価格も皆さんにご迷惑のかからないようにします。申し訳ありませんが、このことはまだ外部に漏らさないで下さい」
VHSの価格はビクターとシャープが二十五万六千円、日立は二千円高の二十五万八千円、三菱は独自にタイマーを付けたことから一万二千円高の二十六万八千円となっている。一時間録画のベータマックスは、ビクターが発売した直後に一気に七万円値下げして二十二万八千円と、早くも価格競争に突入していた。
松下のVHS採用表明からちょうど一週間|経《た》った一月十七日。お|屠蘇《とそ》気分の抜け切らない産業界に超|弩《ど》級のニュースが駆け巡った。松下がこの日の午前に開いた取締役会で、松下正治の会長就任と山下俊彦の社長昇格を内定したのである。衝撃というのは、新社長に松下の役員二十六人の中で、平取締役に過ぎない二十五番目の山下が選ばれたからである。
夕刻に北区中之島のロイヤルホテルで、河野洋平の率いる新自由クラブのパーティーが開かれ、大勢の関西の財界人が集まった。
「松下はん、ほんまでっか?」
関経連会長の芦原義重は、会場で定刻よりやや遅れて来た幸之助の顔を見るなり、駆け寄ってこう尋ねた。その場にいた関西財界首脳の目は、一斉に幸之助に注がれた。会場は松下の人事で盛り上がり、旗揚げ間もない新自由クラブの関西お披露目は、完全にかすんでしまった。
翌日の新聞は、松下の人事を大きなスペースを割いて書きまくった。電撃的な社長交代は、単にビジネス界にとどまらず、社会全般に強い衝撃を与え、いつしか“山下跳び”という流行語を生んだ。
すべてが異例ずくめの、松下ならではのトップ人事であった。新社長に選ばれた山下は、ソニーの岩間和夫と同じ一九一九(大正八)年生まれの五十七歳。とりわけ若いという年齢でもないが、高齢化が著しくしかもヒエラルキーの徹底している松下役員陣の中では、下から数えて二番目である。
むろん松下家との姻戚関係もない。山下は三七年に大阪市立泉尾工業学校を卒業し、翌年松下に入社した。その当時の松下は三年前に「松下電気器具製作所」から「松下電器産業」に改組したばかりで、従業員が四千人の中堅企業だった。
戦後、松下家は財閥家族に指定され、解体の危機にさらされ、山下の上司だった谷村博蔵(後に副社長)は、神戸にあった電球工場を譲り受けて独立した。山下も請われて付いて行ったが、この会社は数年を経ずして経営不振に陥り、谷村は松下本社に復帰。山下は別の電球会社に再就職した。
山下の運命を変えたのは、一九五二(昭和二十七)年の松下とオランダ・フィリップスとの提携である。フィリップスが技術、松下が経営の責任を持つことでスタートしたのが松下電子工業である。松下の課題は、短期間でフィリップスの技術をマスターすることにあった。ところがいかんせん、中堅技術者が不足していた。そこで山下にも本社復帰の白羽の矢が立った。山下を指名したのは、かつて上司の谷村である。
「私は今の会社に満足しています。いったん辞表を出した会社に戻る気持ちはありません」
山下は固辞したが、谷村の次の発言で心が揺らいだ。
「誤解するな。松下はお前の力を必要としているわけではない。自慢じゃないが、お前ぐらいの力量を持った人材は、松下にごまんといる。私が松下に帰ってこいと言っているのは、いま勤めている電球会社より松下のほうが舞台が広く、活躍するチャンスも多いからだ。私はお前の将来を思って言っているんだ」
山下は五四年に松下に復帰して、松下電子工業に出向することになった。そして五八年と六一年の二回、それぞれ数カ月間オランダ・アムステルダム郊外の田舎町、アイントホーヘンにあるフィリップス本社に短期留学して技術を取得すると同時に、フィリップスの合理的な経営手法も学んだ。
さらに六二年には松下電子系列のストロボメーカー、ウエスト電気に常務として再出向した。当時のウエスト電気は組合が強く、頻繁にストが起き、業績は悪化の一途をたどっていた。六千万円の資本金に対して、負債が十倍の六億円もあり、社員の給料すら満足に払えなかった。山下はまさに再建するため派遣されたのである。再建に際して山下は、各部門から会社の実情を報告させ、社員に現状の厳しさを認識してもらうことから始めた。経営をガラス張りにし、社員に現状を正しく理解してもらい、自分たちが何をしなければならないかを分からせたのである。
最初に問題点を明らかにし、再建計画を立てそれを組合に提示した。一年目は苦しかったが、二年目には再建の見通しが立ち、丸三年で再建を完了させ、六五年には晴れて松下本社に戻った。
山下を待ち受けていたのは、エアコン事業部である。松下は紛れもなく日本一の家電メーカーだが、得意分野はカラーテレビや音響製品、洗濯機といった電化製品で、エアコンなど大型機械を使う分野は弱かった。松下はこの分野の経験が乏しく、業界中位に甘んじていた。
山下がエアコン事業部長に就任した直後、『暮しの手帖』がエアコンの特集を組み、各社の製品をランク付けしたところ、松下の製品は最下位にランクされた。これを読んだ山下は、翌日、『暮しの手帖』の名物編集長、花森安治に会うため上京した。
「今回の調査結果に、文句は言いません。製品の良し悪しをテストして読者に知らせるのが『暮しの手帖』の使命です。私たちはこれから努力します。その代わり製品が良くなったときには、ぜひ誌上で取り上げて下さい」
山下は帰社するや、事業部の幹部を集めて、|檄《げき》を飛ばした。
「各部署は問題点を洗い出し、改善策を考えよ。こと品質に関してどこにも負けないものを作れるまで、売ってはいかん」
“業界最下位”の汚名を返上するため、全社一丸になって改善に取り組んだ結果、松下の製品の評判は高まり、四年後には業界トップとなった。こうした功績が認められ、山下は七四年二月の株主総会で取締役に選任された。だが、山下にはこれまで記述したような功績はあるものの、経歴に華麗な彩りはなく、知る人ぞ知るの地味な存在だった。
「人生も仕事も、大切なことは目標を立て、それをこなすことや」
山下がウエスト電気常務、エアコン事業部長時代に酒が入ると部下に語った人生訓である。そして取締役就任からわずか三年で|平取《ひらとり》から一気に社長に抜擢された。それでは幸之助はなぜ、無名の山下に松下の将来を託したのかである。幸之助は山下の抜擢に際し、次のようなコメントをマスコミ各社に出している。
「いまの厳しい経済環境の中で、社長としてやっていくには、若さが最大の条件や。五日前に私と高橋(荒太郎)会長、松下(正治)社長の三人で決めた。企業のトップというのは、くるくる変わるべきものではない。少なくとも十年以上はバリバリやってもらわないといかん。山下君には若さという条件があてはまるし、役員会でもポンポンものを言う“おもしろい男”だ。高橋会長がつねづね閑職に退きたいと言っていたことも、今回トップ人事を断行した一つの理由だ」
このコメントを読む限り、山下が社長に起用された最大の理由は、若さであり、タイミングは会長の高橋が閑職に退きたいとの意思表示をしたからということになる。
確かにその要素は否定できないが、ことはそれほど単純ではない。この時期に突然、山下を起用したのは、松下のビデオ戦略の混乱とは無縁ではない。実は七六年の春から晩秋にかけ、幸之助の焦りは頂点に達していた。
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4 帝王学伝授
松下幸之助が真剣に社長交代を考え始めたのは、一九七六(昭和五十一)年の夏に入ってからである。幸之助の頭をよぎったのは、東京オリンピック直後の昭和四十年に|因《ちな》んで付けられた「四十年不況」の悪夢の再来だった。
日本経済は六四年十月十日から開かれた東京オリンピックの終了を待ち構えたように、深刻な不況に襲われた。とりわけ家電メーカーは大量の在庫を抱え、四苦八苦していた。中でも松下は深刻な販売不振に陥り、在庫が山積みとなっていた。この不況を脱するため、松下系列の販売店同士がお互いに猛烈な安売り競争を繰り広げた。
当然の結果として販売会社の経営は軒並み悪化し、危機的な状態に陥った。社長就任間もない松下正治が、叩きあげの販売店主を押さえ切れなかったことが、混乱に拍車をかけた。
そこで幸之助は翌六五年の夏に、松下の経営幹部と販売店の社長を熱海のホテルに集め、後に『熱海会談』と称される三日間にわたる大会議を開いた。その直後に会長のまま営業本部長代理として第一線に復帰、同士討ちを抑え、混乱を収拾させた。四十年不況はこの年の十月に底を打ち、日本は高度経済成長の最終仕上げともいうべき「いざなぎ景気」に突入した。
松下の業績もこの恩恵を受け六六年に売り上げ、利益とも創業以来最高の数字を達成、幸之助は名実共に“経営の神様”の座に就いた。
幸之助は松下のビデオ戦略の混乱を〈四十年不況にも勝るとも劣らない松下の危機〉と深刻に受け止めていた。社内では「わしは“VHS推進本部長”や」と広言していたが、経営には口を出さないせいか、かつての威厳はなかった。
遠回しにVHSの採用を促しても、正治はVXを担いで暴走する無線担当副社長の稲井隆義の動きを止めることができなかった。といって幸之助も八十歳を超した高齢とあって、前回のように第一線への復帰もままならない。幸之助は一介の相談役に退いているが、高橋荒太郎以下の経営陣の高齢化は、予想以上に進んでいた。そのことを労組委員長の高畑敬一からくどいほど指摘されていた。
「相談役ならご存じだと思いますが、松下の経営陣の高齢化は予想以上に進んでおります。日本の大企業の中でも、ワーストテンに入るでしょう。松下が引き続き発展するには、ここで思い切った役員の若返りが必要です」
松下は創業以来半世紀余の間、何度となく厳しい不況に見舞われたが、持ち前の機動的な経営で切り抜けてきた。そこからいつしか「松下は不況に強い」という神話が生まれた。だが第一次石油危機後の長引く不況の中で、マンモス化した松下は活力を失い、幸之助の唱える「適正利潤の確保」も色あせてきた。
労組にとって一番関心が深いのが、“ポスト・幸之助”だった。松下は幸之助という偉大なオーナー経営者によって発展してきた。幸之助は後任社長に女婿の正治を据えると同時に、戦前から苦労を共にしてきた番頭を補佐役につけた。だが、補佐役の年齢も年々上昇し、その後を担う新体制の青写真もできていない。
松下の経営は、明らかに変調をきたしていた。それはビデオ戦略に極端に出ていた。ビデオ事業部が手がけたカートリッジ型ビデオの失敗。松下寿がVXを商品化する一方で、本社サイドはVHSの採用を目論む。互換性のない二つのビデオをどう位置付けるのか。国内と海外の販売体制は……。次代を担う大型商品、ビデオの戦略を|曖昧《あいまい》にしたまま走れば、松下の|凋落《ちようらく》に拍車をかけることになる。
歯車の狂いはビデオ戦略にとどまらない。海外戦略も|齟齬《そご》をきたしていた。アメリカの大手電機メーカー、モトローラからカラーテレビ部門を買収したものの、買収工場の設備が予想以上に老朽化していたこともあり、赤字のタレ流し状態が続き、買収から再建するまでに注ぎ込んだ資金は、ゆうに三百億円を超えている。
商品開発にも歯車の狂いが出ていた。石油危機以降、これといったヒット商品も出てこない。ヒット商品の不在は業績低下となって表れた。七〇年代初頭には一〇%台だった売上高営業利益率はみるみるうちに低下し、七五年には一・八%まで下がった。この数字を見て、幸之助が心配しないわけがない。十一月に入って、幸之助の耳によからぬ|噂《うわさ》が入った。
「稲井副社長が会長の座を狙っている」
真偽のほどは定かではないが、この時期、大阪のマスコミ界を中心に、松下を豊臣家に|譬《たと》えた噂話が流布されていたのは事実である。
「稲井さんの夢は、松下の会長に就くことだ。すでに幸之助の孫の正幸を人質(松下寿への出向)に取り、着々と布石を打っている。早晩、秀頼(正幸)を盾にして大坂城(松下本社)を攻める(会長になる)のではないか」
こうした噂話が出る原因の一つは、正治がビデオ戦略で指導力を発揮しなかったことにある。その一方で、社内には副社長の東国徳を次期社長に擁立しようとする動きも出始めていた。
〈正治は正治なりに全力投球しているが、このままでは傷が付く。この際、正治を会長に退かせ、社長には思い切った若手を起用しよう。それ以外に松下を再生させる道はない〉
幸之助が重視した次期社長の条件は、若さに加え、松下経営の原点ともいうべき製造畑の事業部長を経験しているかどうかである。二十六人の役員の中で五十歳代でこの条件を満たしているのは、下から二番目の山下俊彦しかいない。山下は役員会でも思ったことをズケズケ発言することで有名だった。
幸之助はこの山下に目を付け、立秋の過ぎたある日、エアコン事業部へ電話を入れた。
「山下君やな、幸之助や。エアコンの売れ行きはどうや」
「さっぱりですわ。大きな在庫を持って、ぎょうさん苦労させられてます」
「そんなこと心配あらへん。今年の夏は涼しかったんやから、売れないのは当たり前や。涼しい夏があれば、暑い夏もある。無理してごり押しして売ったらあかんで。それより一度、わしのところにきてエアコンの商売を教えてくれんか」
数日後、山下は本社に出向きエアコンビジネスに対する自分の考えを述べた。
「エアコンは季節商品ですから、水商売的な要素があります。売れれば営業の努力、売れなければ天候のせいにするのは、おかしいのですわ。相談役の言わはる通り、天候は自然現象でどうにもなりまへん。しかし暑いときは暑いなりの、涼しいときは涼しいなりの商売のやり方があるはずです。
私は過去二十年間にわたる大阪の七月の最高気温を調べたところ、三十度を超える真夏日は平均二十一日ありました。真夏日になるとエアコンはぎょうさん売れます。問題はここからなんですわ。真夏日が毎年二十一日あると考えてはいかんのです。二十年間の最低記録は十日です。つまり二十一日と十日の間で経営せんといかん。そう考えると計画が立ちます。ある時期まで計画的に生産して販売する。続いて真夏の直前に見通しをはっきりさせてから追加生産する。こうするとムダもなく、計画の精度も高まるんです。
事業にとって一番大切なものは、やはり計画です。それには計画を作る段階で、事業部が一丸となって知恵を出し合わなならん。計画ができ上がれば、仕事の六〇%は終わりですわ。計画の精度が低ければ、それはヤマカンであって、計画とはいえませんな」
山下は“経営の神様”を前に、エアコンビジネスのあり方をとうとうと述べた。
〈この男はなかなかのものだ。わしの目に狂いはない〉
幸之助はそんなことをおくびにも出さず、さりげなく意見を求めた。
「エアコンは分かったが、松下のビデオ戦略はどうや?」
「ビデオといえばポスト・カラーテレビの本命商品ですわな。真剣に取り組まんことには松下の将来は危ういですわ。役員会で稲井副社長の報告を聞いていても、私の頭が悪いせいかうちの戦略がどうなっているのか。さっぱり分かりまへんわ」
「さよか。そんなら君が松下のトップに立ってやってみてはどうや」
幸之助はさりけなく、社長就任を打診したが、この時まだ山下は創業者の単なる|気紛《きまぐ》れとしか受け止めず聞き流した。
「私は社長なんかになりとうないし、第一そんな器ではありません。自分のことは、自分が一番知っています。副社長、専務、常務の中に立派な人がおります。私は役員といっても、下から二番目の|平取《ひらとり》に過ぎまへん。相談役、悪い冗談はやめて下さい」
「冗談やろか……」
この時点で幸之助は、無理強いしなかった。山下は幸之助の真剣なまなざしを見て〈相談役は気が狂ったのではないか〉とさえ思った。
山下は家に帰っても妻の貴久子にも報告せず、翌日からは何もなかったように仕事に没頭した。役員である以上、月一回本社の役員会議室で開かれる取締役会に出席しなければならないが、会議の途中に必ずといっていいほど、メモが入る。
『相談役が取締役会終了後、部屋に立ち寄って下さいとのことです』
役員会を終えて相談役室を訪ねると、幸之助はニコニコ顔で尋ねた。
「どうや、この前の話やけどな……」
「といいますと……」
山下は半ば忘れていたが、改めて尋ねられ、言葉に窮してしまった。
「大事な話やから、すぐ返事をせいといっても無理やろ」
幸之助は即答を求めなかったが、山下は相談役の真剣な顔を見て意を決した。
「いや今ここで返事させてもらいますわ。私にとって、社長の座は荷が重過ぎます。お断りさせて下さい」
「今日のところはそれでええ。ただ、よう考えるんやで」
翌月も定例の取締役会が終わると、相談役室に呼び込まれた。山下はそのつど断るが、幸之助は「分かった」とは言わず、勝手に昔話を始める。
「わしが和歌山から大阪に出てきたのは九歳の時や。最初の奉公先は火鉢屋やった。仕事は子供の子守と掃除やな。寝るところと食べることには不自由しなかったが、|丁稚《でつち》やさかい給料なんかあらへん。そこに三年ほどいて自転車屋に変わった。仕事は使い走りやな。自転車屋に来るお客さんが、たばこが欲しければ走って買いに行く。修理が終わると、お客さんのところに知らせる。電話なんかない時代や。翌日にお客さんが取りにくることが分かっていても、その日のうちに知らせてあげると、本当に喜ばれる。
店の|旦那《だんな》はんは本当にできた人で、わしが十五歳になったとき、『幸之助どん、こんな仕事は長くやるもんやない。わしがちゃんとした仕事を見付けてやるさかい、そこに行きなはれ』といわれた。旦那さんが紹介してくれたのが大阪電灯(現関西電力)や。わしは最初に見習社員として入った。この続きは来月やな」
山下は翌月も幸之助の話を聞かされた。
「大阪電灯での仕事は、電気を使っている人の家を見て回るんや。わしが『変やな』と思うたのは、どの家にも電灯が一つしか付いていないことやった。そこでわしは二股ソケットを開発し、そこから線を引けば、他の部屋にも電灯がつけられると考えたんや。試しに自分で作ってお客さんのところへ持っていったら、ほんまに喜ばれた。わしもうれしかった」
次の月には創業期の話を始めた。
「わしが大阪電灯を辞めて、事業を始めたのが大正七(一九一八)年やから、かれこれ六十年になる。会社を辞めたのは結核を患い、休んでばかりおって、周りの人に迷惑かけたからや。そして家内(むめの)の弟、井植(歳男・元三洋電機社長)君を淡路島から呼んでソケットの生産を始めたわけや。
女工さんは十人ぐらいいたかな。皆、住み込みや。主人のわしは身体が弱かったので、一緒に働くことができない。主人がフラフラしていては、年端も行かない女工さんの意欲は湧かない。そこでわしは〈喜んで働いてもらえるには、どうすればよいか〉を考えたんや。
たどりついた結論は、女工さん一人ひとりの名前を呼んであげることや。まず名前を聞いて、次からはその名前を呼んで、話しかける。話している間にその人の良いところを探して、今度は褒めてあげる。すると彼女たちの仕事がだんだん変わってくる。いつしか従業員は、わしからの命令ではなく自分の意思で働くようになる。
わしが一番楽しくしかも充実していたのは、従業員が三百人のころまでやな。毎日三時間ほどかけて工場を回り、三十人ぐらいに声をかけて励ましてやるんや。すると従業員も非常に喜んでくれる。一カ月間に同じ人と三回ほど話ができるやろ。すると自然に顔と名前が一致する。これも三百人が限界やな。あのころはほんまに楽しかった」
山下が入社したころの松下は、従業員が四千人に膨れ上がり、幸之助が現場の従業員に直接話しかけることはなかった。しかし幸之助の口から直接、創業期の話を聞き、少しずつ山下の心が揺らぎ始めた。
〈相談役はわしを本気で松下の社長にする積もりだ。しかしわしみたいな学歴もない男が社長になれば、社員が失望するだけだ……〉
年が明けると、幸之助は社長の正治に山下を次期社長に起用する案を示した。正治にすれば、自分が松下に入社した時、上司だった東が社長になるより山下の方が扱い易いと考えていた。幸之助は正治の了解を取ると、山下社長案を副社長や人事担当専務、さらには労組委員長の高畑にも漏らし始めた。まず外堀を埋める作戦に出たのである。ただし|老獪《ろうかい》な経営者らしく、すでに山下に就任を打診していることは、一切口にしなかった。
七七年一月八日の朝。この日は土曜日だったが、幸之助の専属秘書をしている六笠正弘から山下の自宅へ電話が入った。
「相談役が十日の月曜日、午前十時に、相談役室にお越し下さいとのことです」
「正月早々、相談役が私らみたいな末席役員に何の用やろ……」
山下はとぼけて聞いたが、六笠は「私は具体的な用件は、一切聞いておりません」とにべもなかった。
翌日曜日の夕刻、自宅で晩酌を楽しんでいると、今度はかつての上司、副社長の谷村博蔵から電話が入った。
「おい、山下君。相談役から何か連絡があったろう」
「昨日、秘書さんの方から連絡がありました。それで明朝、お会いすることになっております」
「老婆心ながら言っておくが、相談役からどんなことを言われても、その場で断るな。分かったな」
十日は午後から松下の経営方針発表会が予定されている。相談役室に入ると幸之助は厳しい表情で言った。
「山下君、きみに社長になってもらうことにした。わしは決めたんや」
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5 起死回生の一発
一九七七(昭和五十二)年一月十日に開かれた松下電器の経営方針発表会後の記者会見で、社長の松下正治はVHS規格の採用を正式表明した。松下のビデオ戦略の変更は、瞬時にして家電業界を駆け巡った。この夜、ロイヤルホテルで開かれた松下幹部のパーティーでは、会場のあちこちでヒソヒソ話が交わされた。
半年前に幸之助から、遠回しに社長就任を打診され、十日の朝に“最後|通牒《つうちよう》”を突き付けられた山下俊彦は、そんなことはおくびにも出さず、会場の隅で一人ウイスキーの水割りグラスを傾けていた。
「相談役から難しいことを頼まれただろうが、頼んだで。年寄りのわがままをきいてやってな」
酒が入りやや赤ら顔の正治から、こう声をかけられても返事のしようがない。正治が去ると、それを見計らったように労組委員長の高畑敬一が擦り寄ってきた。
「山下はん。相談役の最後のわがままだと思って、黙って引き受けてくれ」
副社長や人事担当専務からも探りを入れられた。こうした励ましとも同情ともつかぬ言葉を聞くと、山下は外堀どころか内堀まで埋められているのを自覚せざるを得なかった。
帰宅して、妻の貴久子に社長就任を打診されたことを打ち明けたが、貴久子は半ば|呆《あき》れ顔で聞いているだけ。酔いはとうに醒め、寝付かれないまま翌日の朝を迎えた。十一日は朝一番で本社に行き、正治に会った。
「昨日は寝ないで考えましたが、やはりこの話はお断りさせて下さい」
「君を社長にするのは、相談役の方針や。何とか承知してくれ」
山下の社長就任を既定路線と受け止めすでに走り出した正治は、山下の話に耳を傾けようとしなかった。山下はその日、仕事をする気にもなれず、そのまま家に帰り、日が落ちる前から一人で|自棄酒《やけざけ》を|呑《の》み始めた。しかしいくら呑んでも頭が冴える。といって断りの名案も浮かばない。最後は「どうにでもなれ」という自虐的な心境になり、そのままフテ寝してしまった。
翌十二日。二日酔いのまま出社して、幸之助に受諾の返事をした。
「さよか、やってくれるんやな。この際、条件があるんなら遠慮なく言うてや。何でも聞いてやる」
「とりわけありませんが、強いて言えば、私のような人間を選んだ方にも責任があるということを忘れないで下さい」
山下が社長に就任するのは、それから一カ月後の二月十八日の株主総会後の取締役会である。
しかしビデオを巡る環境は|日毎《ひごと》に変化しており、空白の時間は許されない。
「ソニーが二、三日中に何か重大なことを発表するらしい」
ビクターの高野が張り巡らした情報網に、この情報がかかったのは、一月三十一日である。高野は瞬時に予想した。
〈多分、ゼニスとの供給交渉がまとまったのだろう。VHS陣営としてこれは致し方ない。ソニーは大勢の記者を集めて大々的に発表するつもりだろう〉
夕刻に入ると、今度は松下から決定的な情報がもたらされた。
「どうやら三洋がベータ規格の採用を正式に決めたらしい」
三洋の創立記念日は二月一日である。幸之助は二日前の一月三十日の朝、三洋副社長の後藤清一に電話を入れた。
「午後から正治社長に創立三十周年のお祝いの品を届けさせます。井植(薫)社長のご都合は……」
後藤は戦前、松下に在籍して幸之助に仕えたが、戦後井植三兄弟と行動を共にして、松下を去った男である。後藤はその場で井植の専属秘書から日程を確かめ、「午後なら……」と返事した。正治は予定通り午後になってお祝いの品と一緒に岡山工場で試作した松下製のVHSを持参して、三洋本社を訪ねた。三洋としては一年前にビクターからVHS規格の採用を正式に持ち掛けられたが、松下の態度がはっきりしないこともあり、VHSファミリーの会合にはほとんど出席せず、Vコードを共同開発した東芝に態度を付託してきた。
幸之助は創立三十周年記念にかこつけ、社長の正治を三洋に派遣して、せめて“兄弟会社”とも言うべき三洋だけでも、VHS陣営に呼び戻そうとしたのである。
正治はお祝いの挨拶もそこそこに、持参のVHSをセットさせた。
「どうですか。これが松下製のVHSです。いい絵が出るでしょう」
正治は遠回しにVHSグループ入りを誘ったが、義理の叔父に当たる井植はほとんど興味を示さなかった。
「確かにいい製品だが、いかんせん時期が遅過ぎた。しかもこの製品は三洋の技術が入る余地のない完成品だ。どうせ松下さんが手掛けるなら、三洋との共同開発にしてほしかった」
二年前、ソニーからベータ規格の採用を持ち掛けられた際、松下の技術者がソニー首脳に言ったことと同じ言葉を、今度は井植の口から聞かされたのである。ビデオで独自の技術を持つ三洋は最後まで意地を貫いた。
〈松下がせめて半年前にVHS採用を表明してくれたら、反ソニー七社連合は日の目を見ていた。松下内部の混乱が、ソニーに巻き返しのチャンスを与えてしまった〉
高野は松下と三洋のトップ会談の結果を聞いてほぞを|噛《か》んだが、後の祭り。もはや三洋をVHS陣営に呼び戻す手はない。
VHS陣営にとって悪夢の日は、“山下跳び”の人事が発表されてからわずか二週間後の二月二日に突然やってきた。
米国市場におけるカラーテレビのトップメーカーのゼニスが、現地時間一日の午後(日本時間二日未明)にソニーと提携して、ビデオ市場に本格進出することを発表したからである。提携の骨子は当面、ゼニスブランドベータ方式のビデオを今秋から全米で販売を始め、ソニーから技術を導入して、来年以降、自社生産に踏み切るというものである。ゼニスはベータ方式を採用した理由として技術的に優れている画質が鮮明であるテープのコストが経済的――の三点を上げた。
このニュースは日本の夕刊で大々的に取り上げられ、各紙とも一様に「ゼニスがソニーとの提携に踏み切ったことで、米国の家庭用ビデオ市場は、当面ベータ方式が圧倒的に優位に立った」と結んだ。ニューヨーク株式市場はこのニュースを好感、終値にかけてゼニスとソニーの株価が暴騰した。
ベータショックはこれで終わらなかった。夕刊が刷り上がる午後三時過ぎ、ソニーから東京・大手町の経団連記者クラブに東芝と三洋を含めた三社首脳による緊急記者会見の申し込みが飛び込んできた。
ソニーはこの日に合わせて、周到に準備を進めてきた。一日にゼニスがベータ規格の採用を発表することは前々から決まっていた。これに対して、東芝と三洋のベータ陣営入りの発表は当初、両社が共同開発したVコードの在庫整理にメドが付く三月中旬に設定されていた。これが一カ月半も早まったのは、一月末に松下社長の正治が三洋本社に社長の井植を訪ね、正式にVHS陣営入りを要請したことと無関係ではない。ソニー会長の盛田は焦った。
〈ここでモタモタしておれば、三洋がVHS陣営に取り込まれてしまう。発表を急がなければ……〉
最大のネックがVコードの在庫である。そこで盛田は東芝、三洋の両社に提案した。「ゼニスが二月一日にニューヨークでベータ規格採用の発表をします。どうでしょうか。この余勢を駆って、日本でも三社の首脳が揃って共同発表しませんか。なんならその席で、ソニーはVコードをベータマックスの上級機種、つまり高級機種として取り扱うことを表明しても構いません」
東芝と三洋にすれば、Vコードをソニーが扱ってくれるなら、ベータ陣営入りの早期表明に異論はない。運良く二月二日は三洋の決算発表の日で、副社長の後藤が午後から上京することになっている。
東芝社長の岩田弐夫はこの日、日本核燃料開発会社の核燃料研究棟開所式に出席するため水戸に出張するが、夕方までには帰京できる。|紆余《うよ》曲折を経て、ベータ陣営の旗揚げ式が決まった。こうしたタイミングの取り方は、ソニーならではの芸当である。
二月二日は盛田の顔から笑みが絶えることがなかった。一時は孤立無援の状態にあったソニーだが、米国ではゼニス、国内では東芝、三洋の援軍を得たことで、内外から一気にVHS陣営を逆包囲したことになる。記者会見では終始、東芝と三洋に花を持たせた。まず年長者の岩田が三社提携の概要を読み上げ、質疑応答に移った。
――三社が共同開発体制を取ったのはいつごろからか。
岩田 昨年の夏からだ。
盛田 ソニーのベータマックスの現行機種は一時間の録画再生しかできない。このベータマックスの機構をベースに二時間録画・再生できる技術を三社で共同開発したということだ。テープの使用量が増えないので、消費者のみなさんに喜んでもらえる。
――共同開発はどのメーカーが口火を切ったのか。
岩田 東芝にはソニーからだけでなく、ビクターからもVHSに乗らないかという誘いがあった。いろいろ検討した結果、最終的に私がソニー方式に同調することを決めた。
――ソニー方式を選んだ理由は。
岩田 私は経理屋なので、技術の詳しいことは分からないが、ソニー方式の方が儲かりそうだと判断したからだ。
――東芝・三洋のVコード陣営は、ビデオ戦線の行方を見極めて決定したということか。
後藤 |洞《ほら》が峠を決め込んでいたという意味ならナンセンスだ。
記者会見では、口数の多い盛田が終始、脇役に回り東芝と三洋を盛んに持ち上げるだけでなく、リップサービスも忘れなかった。
「ソニーは東芝さんと三洋さんが共同開発したVコードを、高級機器と位置付けて売ることも検討しているんです」
記者会見が急に決まっただけに、失態も見え隠れした。三社共同開発による機種の正式名称はベタ記録に|因《ちな》んだ「ベータフォーマット」だが、発表を急ぐあまり、発表資料では「ベーターフォーマット」と誤記してしまった。
名称を巡っては水面下で三社の激しい|鍔《つば》ぜりあいがあった。ソニーは「ベータマックス」の名称を三社共同で使いたいと主張、これに東芝と三洋が猛反発した。両社にすればベータマックスの名前をそのまま使えば、系列販売店がソニーに侵蝕される。|庇《ひさし》を貸して、母屋を取られかねない。
一方、ソニーは最後まで「ベータ」の文字を残すことを求め、最後は東芝、三洋もソニーの実績を尊重し、妥協案として統一名称を「ベータフォーマット」とし、愛称は個々の会社が決めることで合意した。土壇場まで揉め続けたため、発表文では「ベータ」を「ベーター」と誤記してしまったのである。この間違いに誰も気がつかず、翌日になって訂正した。
ソニーの巻き返しにほぞを|噛《か》んだ高野だが、手も足も出ない。当面の課題は、日立、シャープ、三菱の三社に契約通りの台数を供給することである。ところが肝心の製品が思ったように作れない。VHSの生命線は、テープの互換性を保つことである。これが意外に厄介で連日、開発技術者がラインに入り込んで、互換調整にあたった。むろん残業に次ぐ残業。それでも計画台数の半分もこなせない。反ソニー七社連合の崩壊に|苛立《いらだ》っている高野のもとに、工場からクレームが相次いだ。
「事業部長。なんで私たちは夜中まで残業して、他社の製品を作らなければならないんですか」
「馬鹿いっちゃいかん。戦争に例えれば、工場は|兵站《へいたん》基地だ。基地の役目は|弾《たま》を円滑に前線に供給することなんだ。前線ではビクターも日立も三菱もないんだ」
営業部隊も工場と同じ疑問を持っていた。VHSを発売してすでに四カ月ほど|経《た》っているが、販売店に製品が回ってこない。当然のごとく、販売店からはクレームの電話が入る。営業の仕事はVHSを売ることではなく、販売店へお詫びの電話を入れることになっていた。
ところが日立、三菱、シャープの営業は遠慮会釈なく、ビクター製でありながらマークだけ違うVHS製品を売りまくっている。ある日、VHSの営業を担当している菅谷光雄が遂に怒りを爆発させ、工場に怒鳴り込んできた。工場ではOEM(相手先ブランドによる生産)を最優先させ、他社ブランドの製品を作っている。
「お前らそれでもビクターマンか。ビクターマンなら、たとえ事業部長が反対しても、犬のマークの入ったビクターの製品を最優先して作るべきだろう」
菅谷はそれでも怒りが収まらず、今度は高野に直訴したが、逆に諭されてしまった。
「菅谷、そう怒るな。そんなケツの穴の小さいことを言うものじゃない。おれにとって少し売れたとか、儲けることなんか、どうでもいいんだ。おれの夢はVHSを一大産業に育て上げることなんだ。この仕事は何としてでもやり遂げたい。これは理屈ではないんだ。言ってみれば男の夢、ロマンなんだ。
この夢を実現するにはOEMを最優先しなければならない。VHSが商売になると分かれば、各社とも早晩自社生産に切り替えるだろう。自社生産すれば、今度はおいそれと止めるわけにはいかない。もう少しの辛抱だ」
菅谷は高野のVHSに賭けた情熱にほだされ、もやもやが吹っ切れた。その前後、高野は側近ともいうべき開発部長の白石勇磨と次長の廣田昭を前にしみじみと語ったことがある。
「夜遅く工場に戻って窓を開けると、思い切ってここから飛び下りようと思うことがある。何でだと思う。計画の半分も作れず、VHS規格に賛同してくれたメーカーさんに申し訳ない気がしてならないからだ。死んでお詫びをしたい気持ちに駆られる。私にとって、ビクターも日立も三菱も関係ない。私は多くの人に、この機械を使ってもらいたい、それだけなんだ」
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第七章 陣取り合戦

1 虚々実々の駆け引き
VHSファミリーは東芝と三洋が抜けたことからビクター、松下、日立、三菱、シャープの五社になった。VHSを世界規格に育てるには、海外に目を向けなければならないが、開発メーカーのビクターにはその余裕がなかった。ところが米カラーテレビのトップメーカーのゼニスがベータ陣営に走ったことから、にわかに米エレクトロニクス産業の王者・RCAの動向が注目され始めた。VHS陣営の司令塔として采配をとっていたビクターの高野は、それまで集めた情報から、RCAはベータ規格は採用しないと読んでいた。
RCAは一九一九年に、GE(ゼネラル・エレクトリック)とWH(ウエスチング・ハウス)の共同子会社として、それぞれの通信機器販売のため設立された会社である。ところがその後、米アンチトラスト法(独占禁止法)に抵触する恐れが出たことから、両社は経営権を手放さざるを得なくなった。RCAは巨大企業のくびきから解き放たれ、二九年に米ビクター・トーキング・マシーンを買収したのを機に音響分野に進出した。
日本ビクターにとって、RCAは二番目の親会社である。そのRCAは第二次世界大戦後、「通信機器業界のGM(ゼネラル・モーターズ)」を目指し、常に世界のエレクトロニクス産業をリードしてきた。中興の祖ともいうべきデビッド・サーノフは四四年、西ヨーロッパ連合軍最高司令官のドワイト・アイゼンハワー(元米大統領)の通信顧問としての功労が認められ、「将軍」の将官位を贈られた男である。
サーノフ将軍が伝説の人といわれるゆえんは、英の豪華客船「タイタニック号」(四万六〇〇〇トン)の沈没にある。タイタニック号は一二年四月十四日、北大西洋の処女航海中、氷山に衝突して沈没してしまった。タイタニック号の通信士は沈没寸前までSOS信号を打ち続けたが、これをいち早くキャッチして、モールス信号で世界に向けて打電したのがサーノフである。彼の献身的な働きが高く評価され、RCAに迎えられた。そして三十一歳の若さで副社長に就いた。
アメリカでラジオの定期実験が始まったのは、タイタニック号が沈没してから四年後の一六年で、ラジオは飛ぶように売れ出した。RCAはこのラジオで当て、サーノフは放送事業に進出するためNBCを設立した。
三〇年には念願の社長に昇格、今度はRCAのトップとしてテレビの商業放送を目指して邁進し始めた。ちょうどこの頃、高柳健次郎も浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)からNHKに出向してテレビ放送に取り組んでいた。太平洋を挟んでほぼ同じ時期にテレビ放送に取り組んでいたわけだが、NBCは三九年四月に初の実験放送に踏み切った。それから五カ月遅れで、ビクターが日本橋高島屋で公開実験に踏み切った。
ここまでは日米の技術はほぼ拮抗していたが、NHKは本放送を目指した東京オリンピックがあえなく中止になったことから、テレビ実験の中断を余儀なくされた。一方、アメリカは四一年からNBCが商業放送に踏み切った。RCAはテレビに関する特許を押さえたことから戦後、莫大な特許使用料が転がり込んできた。ところが「奢れる平家、久しからず」の|譬《たと》え通り、サーノフが現役を引退しコンピューター事業の失敗以来、経営のまずさも加わり、いつしか老大国の道を歩み始めていた。
これを|蘇生《そせい》させたのが七六年九月に、五十五歳で社長に就任したエドガー・H・グリフィスである。RCAの経営方針は、経理出身の猛烈社長がトップに就いたのを機に、技術志向から利潤追求へ百八十度転換した。
自社開発より他社からの技術導入の方がリスクが少ないとみるや、エレクトロニクス産業の王者の看板をかなぐり捨てて、技術導入の道を選んだ。そこには何より技術を重んじたサーノフ将軍時代の面影はなかった。
利潤追求の対象は、家庭用ビデオの分野も例外ではなかった。RCAは“絵の出るレコード”と呼ばれるビデオディスクを「二十世紀最後の大型家電製品」と位置付け、開発に一億ドルの資金を注ぎ込んだ。これに恐れをなしたライバルのCBSは即刻フィルムを使ったEVR(エレクトロニック・ビデオ・レコーダー)の販売を中止、CBSにプレーヤーを供給していた日立と三菱は、ビデオ戦略の再構築を余儀なくされた。「未来のビデオLP」「書物登場以来最大の通信革命」と形容されたEVRは、もろくも挫折したのである。
RCAがテープよりディスクを選んだのは、ディスクの方が大幅なコストダウンが可能と判断したためだ。ところがRCAはソフトの問題を解決しないまま、単に機器の生産コストの面からディスクを選択してしまった。
RCAの研究陣は十五年もの歳月をかけて、プレーヤーの改良を進め、七〇年代半ばに入って、ようやく完成にこぎ着けた。小売価格も一台五〇〇ドルを切るメドを立て、これに『セレクタビジョン』の愛称を付けた。その矢先に自らの誤算に気付いた。七六年春にソニーが投入したビデオが、米市場に定着する気配を感じたからである。ビデオはテレビ番組を録画し、後で再生して楽しむことができるが、ディスクはそれができない。市場の開拓時には、この差は大きい。どんなに安く性能の良いディスクプレーヤーを作っても、ソフトがなければ、しょせん“猫に小判”である。
巨額の資金を注ぎ込んでソフト市場を育成・整備しようにも、ビデオが脚光を浴びつつあった当時、たとえソフト市場を整備しても、成功する裏付けはなかった。セレクタビジョンはいつでも売り出せる状態にあったが、グリフィスは社長就任直後に、自社開発のビデオディスクを「一億ドルのギャンブル」と決め付けて、発売時期を凍結してしまった。
その点、ビデオは目先ソフトがなくとも販売に支障はない。難点といえば小売価格が高すぎることだ。RCAは独自の市場調査で、再生専用のディスクは小売価格が一台四〇〇ドル、テープを消せば何回でもテレビ番組を録画できるビデオは、七〇〇ドルを切れば爆発的に売れるとの感触を得ていた。
低価格のビデオを自社生産できれば問題ないが、RCAは家庭用ビデオの技術蓄積は皆無に等しい。これでは日本メーカーから技術供与を受けても、コストの面で太刀打ちするのは至難の業である。こうなると日本メーカーから完成品を調達するしかない。
人間に相性があるように、企業にも相性がある。ソニーとRCAは相性が悪すぎた。RCAはカラーテレビの心臓ともいうべきブラウン管のシャドーマスク方式を開発。松下、東芝をはじめとする世界の家電メーカーは、|挙《こぞ》ってRCAから特許を導入していた。
ところがソニーだけは、自社開発に執念を燃やし、独自にトリニトロン方式を開発して、RCAの特許を使わずに製品化にこぎ着けた。結果的にはこれが幸いし、ソニーは同業他社との違いをPRすることで、カラーテレビのシェアを大きく伸ばすことができた。そのソニーでさえ、いくら老大国の道を歩んでいるとはいえRCAの存在の大きさを無視できなかった。
実はベータマックスの開発に際して、松下、ビクターに共同開発を持ちかける前に、社長の盛田昭夫はベータマックスを開発した木原信敏を伴ってニューヨークのRCA本社に乗り込み、社長のアンソニー・コンラッドにベータ規格の採用を要請した。ベータ規格ができ上がった直後の七四年の夏過ぎのことである。
米国市場で放送局用のみならず、業務用でもソニー製ビデオの評価は高く、RCAも「ビデオ時代の到来」をある程度予測していた。が、こと家庭用に関しては、ディスクへの夢を断ち切れず、直ちにビデオを導入する計画はなかった。そこでコンラッドは盛田に一つだけ注文を出した。
「われわれの調査では、テレビ映画の放送時間は平均二時間です。米国の国技ともいうべきフットボールの試合は四時間かかります。家庭で使うビデオの録画時間は三時間とはいいませんが、最低二時間なければ……」
これに盛田は猛然と反論した。
「映画が二時間あるというのであれば、テープを二巻使ってもらえれば、解決するのではないでしょうか」
しかしコンラッドは盛田の提案に納得せず、交渉は物別れに終わった。帰りの車の中で、会議に同席した木原が珍しく盛田に苦言を呈した。
「社長、ベータマックスはテープ速度を落とせば、簡単に九十分録画ができます。今すぐとは言えませんが、理論的には百二十分も可能です」
「それは分かっている。ベータマックスはきみが中心になって開発した製品なんだ。しかもわれわれは、さんざん議論を尽くしたうえで、録画時間を一時間に決めたんだ。一時間に固執しているのは、私より井深さんだ。井深さんの意向を無視して、それも売り出す前から規格を変更すれば、ソニーの見識が疑われる。
いいか、木原君。いい製品であれば、お客さんは必ず買ってくれる。お客さんはまだビデオがどんな機械なのか知らないんだ。われわれがこれから教育しなければならない。したがってRCAに何をいわれようが、ソニーが一方的に折れることはない」
社長の盛田からここまで言われると、木原といえども返す言葉がない。
それから二年数カ月が過ぎ、ビクターが二時間録画のVHSを開発したことで、ベータマックスは劣勢に立たされ、ソニーは二時間機種の開発を余儀なくされた。いくら相性が合わないとはいえ、RCAのカラーテレビのシェアは、ゼニスと拮抗している。さらにRCAは米三大ネットのNBCを傘下に持ち、テレビ放送業界にも精通しているだけに、映像メディアの世界での影響力は、ゼニスと比ぶべくもなく大きい。
盛田はそれを計算した上で、ゼニスに採用を働き掛ける前の七六年の秋に、今度は新社長に就任したばかりのグリフィスに会いに行った。盛田はRCAの要望通り、録画時間を二時間に延ばしただけに自信があった。RCAにとっても、ソニーの売り込みは“渡りに船”だった。新社長のグリフィスは、ベータマックスの導入に意欲を燃やしたが、最後まで価格面で折り合わず、交渉は暗礁に乗り上げてしまった。
「RCAは二時間録画のビデオを、消費者に一台一〇〇〇ドルで売ることを考えています。ソニーさんにその価格で供給してもらえるなら……」
盛田は素早く計算した。小売価格が一〇〇〇ドルとすれば、工場出荷価格はその半分とみなければならない。いくら量産体制の整ったソニーといえども五〇〇ドルで出荷すれば赤字である。百歩譲って、ビデオの普及を早めるため赤字覚悟でOEM(相手先ブランドによる生産)供給しても、単に市場を混乱させるだけである。
ソニーが米国市場に投入した一時間録画のベータマックスの小売価格は一三〇〇ドルだった。同じソニーの製品でしかも二時間機種をRCAが低価格で販売すれば、必然的にベータマックスも値下げせざるを得ない。盛田はグリフィスとの会談を通じて、RCAが将来とも自社生産する計画がないことを知った。これでは赤字覚悟でOEM供給する意味がまったくない。RCAとの交渉は再び決裂してしまった。
この時期、ベータとVHSのビデオ戦争は、米のエレクトロニクス専門誌「テレビジョン・ダイジェスト」誌が克明に報道していた。グリフィスはソニーが自分の提案を拒否すれば、ジョン・ネビンの率いるゼニスに駆け込むと|睨《にら》んでいた。同時にプライドの高いソニーが、計算高いゼニスにOEM供給するはずもなく、必ずRCAへUターンしてくるとのソロバンを弾いていた。
ところが十二月に入って、グリフィスのもとへ、「ソニーとゼニスの提携が成立したらしい」との情報がもたらされた。提携成立の決め手は、ゼニスが将来、ベータマックスを自社生産することだった。盛田にすれば、当面は赤字輸出であっても、将来自社生産してもらえば、それだけ仲間が増えるので、総合的にみてプラスと判断したわけだ。
グリフィスは焦った。手をこまぬいておれば、米国のビデオ市場はソニーとゼニスの連合軍に|席巻《せつけん》されてしまう。といってもRCAの選択肢は限られていた。最も安易なやり方は、ソニーに頭を下げてゼニスと同じ条件で供給してもらうことだ。ただしこのやり方では、市場で主導権は握れない。それどころか、グリフィスが掲げた利潤追求の看板も下ろさなければならない。
それ以前にソニーに頭を下げることは、グリフィスのプライドが許さない。グリフィスが選んだ道はかつての子会社、ビクターからVHSを調達することだった。
高野は戦前のRCAを知る先輩から、同社の中堅幹部を紹介してもらっており、定期的に情報交換を続けていた。断片的ながらRCAの内情に精通しており、当然ソニーの申し出を断ったとの情報も入手していた。そして年末のクリスマス休暇の前に高野のもとへ、RCAから「一月下旬に技術に精通した購買担当者をビクターに派遣するので、横浜工場を見せてほしい」との要望書が舞い込んできた。
〈RCAの狙いは、うちの工場を見てVHSに供給余力があるかどうか、確かめることにある〉
要望書にはVHSについて一言も触れていないが、高野はこう|睨《にら》んだ。この時期、横浜工場はVHSの生産が軌道に乗らず、高野は焦りを感じていた。RCAの購買担当者に製品がスムーズに流れない工場を見せるわけにはいかない。そこで工場の製造責任者の曲尾定二を呼んで指示を出した。
「いいか、今度RCAの連中が工場を見にくる。そこでだ。工場のラインがスムーズに流れているように“演出”してくれ」
「事業部長、われわれはどうすればいいんですか」
「それはお前らが考えろ。例えばだな、ラインではポイント、ポイントで互換性をチェックしているだろう。それを知らない人が見れば、モタモタしているように映る。それじゃ困るんだ。とにかく製品がスムーズに流れているように工夫してくれ。工場見学といっても丸一日工場にいるわけではなく、たかだか三十分や一時間だけのことだ。その間、製品はチェックなしで通せ。そうすると大量生産が軌道に乗っているように見える。チェックしなかった製品は、面倒でも後でやり直せ」
RCAの購買担当者は予定通り来日して、横浜工場を訪問、副社長の徳光博文と高野が案内した。
「VHSの機構は複雑なので、心配していたんです。われわれが予想していた以上にスムーズに流れていますね」
RCAの購買担当者から、この言葉を聞いたとき、高野は即座に〈うまくいった。ここでRCAさえつかんでおけば、VHSは世界に飛躍できる〉と判断した。そして自信ありげに答えた。
「ビクターは自社だけでなく日立、三菱、シャープといった日本を代表する家電メーカーにも供給しています。したがって大量生産しなければ間に合わないのです」
「それほど順調ならRCAにも供給してもらえますね」
「それは、喜んで」
すべてがシナリオ通り進んだと思った瞬間、わきから徳光が口を挟んだ。
「ところでRCAさんはどのぐらいの数量をご希望ですか?」
「米国は国土が広く市場も大きいですから、最初は五万台ほどバラ|撒《ま》かないといけないでしょう。評判が良ければ引き続き月二、三万台は供給してもらわなければなりません。ビクターさん、本当に大丈夫ですか?」
数字を聞いた徳光は飛び上がらんばかりに驚き、高野の制止を振り切って、右手を左右に振りながら答えた。
「えーっ、そんなに大量にですか。とても、とてもうちにはできません」
高野は血相を変えて、徳光の背広の袖口を引いた。
「副社長、そんなことを言ったら自分の方から契約を断るようなものです」
RCAにVHSを大量供給する商談は、徳光の一言で水泡に帰したが、高野がいくら演出しようと、専門家の目はごまかせない。VHSの生産がまだ軌道に乗っていないことは一目瞭然であった。
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2 ひょうたんから駒
米大手エレクトロニクスメーカーのRCAが日本ビクターが開発したVHSに興味を持ち、購買担当者が隠密に来日してビクターの横浜工場を見学したことは、ほどなく“山下跳び”で揺れる松下本社首脳の耳に入った。
〈ビデオの問題だけは、過去の経緯があるので、私の社長時代に片付けておかなければならない。新社長になる山下(俊彦)君に任せるのは無責任だ。ビクターには供給余力がない。ここは松下が乗り出さなければ……。VHSの米国への売り込みが、松下社長として私の最後の仕事になるだろう〉
社長の松下正治はこう判断して、通産省通政局長として日米繊維交渉に携わった後、一九七一(昭和四十六)年に松下入りした米国松下電器社長の原田明にRCA、ゼネラル・エレクトリック(GE)、マグナボックス、GTEシルバニアなど、ゼニスを除く主要な米家電メーカー首脳のアポイントを取るよう指示した。
正治はソニー会長の盛田昭夫の向こうを張ってトップセールスを決意したのである。いうなれば「殿様が突然、馬に乗って飛び出した」わけだ。ゲットすべき最大の企業はRCAである。RCAをVHS陣営に取り込めば、米国市場への|橋頭堡《きようとうほ》を築くことができる。逆に失敗すれば、松下はポスト・カラーテレビの本命商品であるビデオで主導権を取れなくなる。
VHSがどんなに優れた製品であっても、米国市場で高い評価を得なければ、世界規格にはなり得ない。ビデオ戦争におけるVHSの敗北は、即松下の|凋落《ちようらく》につながる。下手すれば正治は、“戦犯”の汚名を着せられる。正治には〈RCAからどんな要求を出されても、まとめあげなければならない〉という悲壮感が漂っていた。一月三十一日になって、ようやく松下首脳の米国行脚の最終日程が固まった。出発は二月二日。一行は正治を団長に副社長の稲井隆義、米国松下社長の原田、中央研究所部長の菅谷汎、それに若手技術者の総勢五人である。
国際企業を標榜しているソニーは、セキュリティーの問題から間違っても井深と盛田の創業者コンビが同じ飛行機に乗ることはない。ところが、まだ松下には経営トップが飛行機に乗る際、分散して乗るという米国企業の習慣が定着していなかった。社長、副社長以下全員が同じ飛行機に乗ることに、誰も疑問を持たなかった。むしろ一緒に乗ることに安堵感さえあった。
伊丹の大阪国際空港からニューヨーク行の直行便はなく、二日の午前十時過ぎに全員が羽田空港(東京国際空港)に集合し、特別待合室で最後の打ち合わせをしていた。それを終え出国手続きをするため部屋を出ようとした矢先、東京支社の広報部員が慌てて飛び込んできた。片手にはソニーが発表したプレスリリースを握り締めている。
「ソニーが先ほど、一〜二時間の切り替え機種を開発したと正式発表しました。ただしゼニスに供給するのは二時間専用機種とのことです」
ソニーとゼニスの提携は、早朝に流れた外電で全員知っていたが、供給する機種は一時間録画と信じて疑わなかった。特別待合室の緊張感が一気に高まった。全員が顔面|蒼白《そうはく》になり、一瞬静まり返ったが、誰もが胸の中で思っていることを稲井が口に出した。
「ソニーはわれわれが米国へ行くことを事前に察知し、わざと出発の日にぶっつけたのではないか……」
同じ時刻、ビクターの高野は横浜工場の自分の席で腕を組み、目を閉じながら情勢を分析していた。
〈ソニーとゼニスの交渉が長引いていたのは、やはりこれだったのか。二時間録画のVHSが米国市場に出回れば、一時間録画のベータマックスが敗退するのは目に見えている。ソニーはベータマックスとの互換性を保つ上で、一〜二時間切り替え機種を採用してほしかったのだろうが、ゼニスにそんな義理はない。多分、ゼニスは二時間録画専用機種でなければ受け入れない、と一歩も引かなかったのだろう〉
高野はこの時、まだ松下首脳がVHSの売り込みのためアメリカに旅立ったことは知らない。
正治も稲井も、飛行機の中でまんじりともせず夜を明かした。考えれば考えるほどVHS陣営は不利であった。
ベータマックスとVHSの比較で一番分かり易いのが、生テープの経済性である。ベータマックスの一時間録画のテープは一本三千八百円、二時間録画のVHSは六千円である。ところが二時間録画専用のベータマックスが出るとなれば、今度は立場が逆転する。ハードの性能は互角としても、販売は知名度の劣る後発ほど不利になる。ベータ陣営の強みは、テープコストの面で俄然、優位に立ったことである。
ソニーは七六年から米国市場でベータマックスを販売している。初年度は四万台だったが、七七年は自社ブランドだけで十万台を目標にしていた。これにゼニスの分が加われば、ベータ陣営が米国市場を|席巻《せつけん》するのは間違いない。二時間という録画時間とテープコストの優位性を誇示することで、RCA攻略を考えていた松下のシナリオは、|脆《もろ》くも崩れた。正治はニューヨーク行きの飛行機の中で、稲井以下の随行者にビデオ戦略の再構築を指示した。
松下の交渉団は、時差の関係で現地時間二日の昼過ぎに、大寒波に襲われていたニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に到着した。そして出迎えの米国松下の若手社員が、通関を出てきた原田に二言、三言耳打ちした。原田はそのまま正治に伝言したが、彼の顔は見る間に|蒼《あお》くなり、何も言わず迎えの車に乗り込んだ。
一行はマンハッタンのホテルで一休みした後、RCA攻略策を協議した。全員が正治のスイートルームに揃った段階で、原田は日本からファクスで送られてきた三日付朝刊のコピーを手渡した。日本経済新聞には次のような見出しが躍っていた。
「VTR/ソニー、東芝・三洋と組む。新型を共同開発/VTR方式真っ二つ/ビクター連合に対抗/松下に打撃/ソニー孤立化の思惑はずれる」
正治は新聞の見出しを見ただけで、背筋が寒くなった。三洋のベータ陣営入りは数日前、社長の井植薫にVHS規格の採用を要請し、断られた段階である程度予想できたとはいうものの、記者会見に臨んだ三社首脳の笑顔の写真を見て、事態の深刻さと責任感の重さを感じた。
ソニーの影に|怯《おび》えた松下は、具体的な対応策がないまま、翌三日午前、マンハッタンのど真ん中、ロックフェラーセンターにそびえ立つRCA本社(現GEビル)に向かった。社長のグリフィスは、にこやかな表情で対応したが、言いたいことは歯に衣を着せずはっきり言う。松下側がVHSのプレゼンテーションを始める前に、彼の方から一方的に切り出した。
「一昨日、われわれのライバルメーカーであるゼニスが、ソニーから供給を受けて今秋から二時間専用機種を米国市場で発売すると発表しました。ゼニスの製品は二時間なので、テープの経済性はVHSよりはるかに安いということになりますが……」
最初からVHSの急所を突いてきたわけで、松下側はこれに真正面から反論できない。
「ベータ規格の基本設計は一時間録画です。それをテープ速度を落として、無理に二時間録画に仕立てているので、どうしても画像が劣化します。その点、基本設計が二時間のVHSはきれいな映像を出せます」
正治が応答している間、随行してきた米国松下の若手技術者は、VHSをモニターテレビにセットした。グリフィスはそれをじっくり見たうえで、遠慮なく切り込んでくる。
「ベータの二時間機種の映像を見ていないので、なんとも言えませんが、確かにVHSの絵はきれいです。ところでわれわれの調査によると、ビデオプレーヤーは相当安くしない限り、米国では普及しないとの結論が出ています。松下さんはわれわれの希望する価格で出してもらえますか」
ここで稲井が真剣な表情で尋ねた。
「RCAさんはどのぐらいの小売価格を想定しているのですか?」
「この際ですから、はっきり申し上げます。われわれはベータマックスの半値を目標にしております」
これに稲井は飛び上がらんばかりに驚いた。
「えーっ、ソニーの半値と言いますと六五〇ドルですよ。とてもとても……」
「誤解ないよう言いますが、六五〇ドルは将来の目標です。当面は一〇〇〇ドルを想定しています。この値段を付けられなければ、われわれが敢えてビデオ市場に進出する意味がありません」
松下側はグリフィスの出した数字に|呆気《あつけ》に取られるだけで、具体的な交渉に入れないまま、午前の会議は終了した。
昼食は正治、稲井、原田の三人は、VIP専用食堂でグリフィスと一緒にとった。一方、菅谷と若手技術者は同じビルの幹部食堂でRCAの技術者と共にした。その席で菅谷は、初歩的な疑問をぶつけた。
「米国でビデオはどんな使われ方をされているのでしょうか」
「今のところテレビ映画とスポーツ番組の録画が中心です」
「なら日本とさほど変わりませんね。映画は大体二時間ですが、スポーツ番組は?」
「米国の代表的なスポーツは野球でもなければ、サッカーでもありません。フットボールです。ただし野球やサッカーのように試合は二時間では終わりません。場合によっては三時間を超し、四時間近くになることもままあります。むろんテレビは全部放送します。試合時間が長いだけに、忙しい人は見たくとも、全部見られません」
「それじゃ、四時間録画できるビデオがあれば、この問題は解決するわけですね」
「そういう製品ができれば、米国のお客さんはきっと喜ぶでしょう。私たちもそういう製品が出るのを、待ち望んでおります。四時間録画のビデオが出れば、飛ぶように売れることは私たちが保証します。本来はRCAが開発しなければならないんですが、残念ながらわれわれにはそれを開発する力はありません」
菅谷はこの話に興味を持ち、ホテルに戻ると正治と稲井に報告した。
「RCAは長時間録画に興味を持っています」
すると稲井は突然、大声を発した。
「そうか、そういう手があったか。菅谷君。早急に中央研究所とビデオ事業部に連絡して、四時間録画ができるかどうか調べさせろ。基本設計が一時間録画のベータマックスは、テープ速度を落とすことで二時間録画に成功した。理論的にはVHSも同じやり方をすれば、四時間録画ができるはずだ」
ソニーの巻き返しで暗雲が漂っていた松下だが、「ひょうたんから駒」が出たことで、|愁眉《しゆうび》が開けようとしていた。
菅谷は自室に帰るなり、国際電話でお|膝《ひざ》元の中央研究所の部下に指示を出した。
「VHSテープのトラック幅を半分に狭め、それに合わせてテープ速度を落とせば、理論的には四時間録画が可能になるはずだ。それで本当に絵が出るかどうか、実験してその結果を直ちに米国松下に連絡してくれ」
正治を団長とする松下のVHS売り込み部隊は、翌日からGE、シルバニア、マグナボックスを訪れ、精力的にVHSをPRした。VHSの採用を即座に返事をしたところはなかったものの、各社が一様に注目していたのは、やはりRCAの動向だった。
中堅メーカーの生き残り策は、技術の良し悪しより「勝ち馬に乗る」ことである。ゼニスがベータ規格の採用を決めた後、彼らはむしろRCAの動きに注目していた。仮にゼニスに続いてRCAがベータ規格の採用を表明すれば、米国市場における陣取り合戦は勝負がついたのも同然で、VHSの入る余地がない。逆にRCAがVHS規格を採用すれば、ビデオ戦争の行方は|混沌《こんとん》としてくる。中堅メーカーはその|帰趨《きすう》をみながら、態度を決めようとしていた。
それだけに正治は焦った。正治と稲井、それに原田と菅谷が加わった四人は毎朝、朝食を共にしながら作戦会議を開いた。そして日本を離れちょうど一週間を過ぎた日に、中央研究所から待望の返事が届いた。
「たったいま、研究所から四時間機種についての返事が届きました」
菅谷が喜々として報告すると、正治と稲井が身を乗り出し、奇しくも同じ言葉を発した。
「どないな返事や?」
そして菅谷が説明を始めた。
「絵らしきものは出たとのことです」
すると稲井はわが意を得たとばかり、|頷《うなず》きながら言った。
「ベータマックスと同じやり方を取れば、必ず絵は出る。わしは最初からそう|睨《にら》んでおった」
「副社長。お言葉ですが、ソニーができたからといって、松下ができるとはかぎりません。そもそもベータマックスとVHSは機構が違うんです」
菅谷はこう反論したが、稲井は|歯牙《しが》にもかけずに話を続けた。
「詳しい技術的なことはともかく、ソニーにできたことが、松下にできないことはない。どんな絵か知らんが、研究所で絵を出したんなら、わしの本拠地・四国の松下寿で立派に生産してみせる」
稲井の言葉に勇気付けられたのか、沈黙を守っていた正治が、初めて自分の考えを表明した。
「VHSの四時間録画は、まだ技術面で問題があることは承知している。私はこの際、RCAに四時間録画機種の開発に着手したことを話してみようかと思っている。どないやろうか」
「社長、それはいい考えです。RCAは必ず乗ってきます。善は急げといいますから、米国にいる間、もう一度、グリフィス社長に会いましょう。そしてこの際、思い切って開発にメドを付けたぐらいのことを言いましょう」
無責任とも思える稲井の発言に、菅谷は|暗澹《あんたん》たる気持ちになった。
〈VHSはもとはといえば、ビクターが開発した製品だ。それをいくら子会社とはいえ、ビクターに無断で改造してよいものだろうか。このことを聞いたら、高野さんはどう思われるだろうか。かといってRCAを攻略しない限り、VHSの将来展望も開けないし……〉
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3 乾坤一擲の大勝負
“ひょうたんから駒”で生まれた四時間録画機種の開発を報告するため、米国松下社長の原田明は、RCAに再会談を申し入れた。だが社長のエドガー・グリフィスは、出張でニューヨークを離れており、コンシューマー・エレクトロニクス担当副社長のロイ・ポラックが対応するとの連絡が入った。
松下本社の副社長で松下寿社長を兼ねる稲井といえば、つい数カ月前まではベータマックスどころか、VHSさえ目の敵にしていた男である。それが今や、RCA攻略の急先鋒に変身した。稲井の信条は変わり身の早さにある。一時は、“ドカ弁”の異名をとった録画時間九十分のVXで、規格統一を夢見て大増産を図ったが、VHSが発売され好評を博したとみるや、あっさりVHSにくら替えして、年末でVXの生産を打ち切ってしまった。
松下がVHS規格の採用を表明した翌日から、ナショナル販売店からVX製品が姿を消した。業界の口さがない連中は、「寿はVXの在庫を瀬戸内海に沈めたのではないか」と|噂《うわさ》した。それほど稲井のやり方は徹底していた。
一方、社長の松下正治もRCA攻略に経営者としての“政治生命”をかけていた。これまでは義父の幸之助と稲井に遠慮して、ビデオ問題には意識して口を挟まなかったが、結果的には正治の沈黙が、混乱に拍車をかけたことは間違いない。正治は汚名返上に向け「|乾坤一擲《けんこんいつてき》」の大勝負に出たのである。
松下が提案した四時間機種の開発に、RCAのポラックは|諸手《もろて》を挙げて賛成した。
「VHS方式で三時間以上の録画ができる機種を開発してもらえるなら、長期契約を結ぶ用意があります。この方針は社のグリフィス社長の考えを聞くまでもありません」
ニューヨーク最後の晩、正治は共に行動した人々の労をねぎらった。しかしそれまで誰もが気にしながら、意識して口にしなかったことがあった。対ビクターとの関係である。中央研究所部長で松下を代表してVHSファミリーの会議に出席していた菅谷は、それが気掛かりだった。が、いつまでも黙っているわけにはいかない。そこで意を決して口に出した。
「VHSは松下ではなく、ビクターが作り上げた規格です。RCAへの長時間録画機種を供給するに際しては、規格の変更になるので、事前にビクターの了解を取らなければなりません」
正治は|頷《うなず》いて聞いていたが、菅谷が発言を終えると異を唱えた。
「確かにその通りだが、いまビクターに報告すれば、副社長の徳光が目の色を変えて反対するのは、目に見えている。彼を後ろで操っているのはビデオ事業部長の高野だ。規格を|遵守《じゆんしゆ》することも大切だが、ビクターとの間で規格論争していては、時間を浪費するだけだ。いま松下がやらなければならないのは、RCAを攻略することだ。当分の間、ビクターには内緒にしておこう。したがって研究所は、岡山のビデオ事業部と協力して自力で四時間機種を開発してほしい」
正治は淡々と語り、稲井がそれを引き取った。
「ビクターは昔から譲るということを知らない会社だ。考えてもみろ。RCA攻略に失敗すれば、VHSがたとえどんな優れた規格でも、世界市場を舞台にしたビデオ戦争で、ソニーのベータマックスに敗れてしまう」
松下中央研究所と谷井昭雄の率いるビデオ事業部は、ビデオ技術部長の村瀬通三が中心となりニューヨークの菅谷から長時間機種の可能性を打診されたその日から、共同の開発体制を敷いて、文字通り不眠不休で四時間機種の可能性を追求していた。
菅谷は帰国早々、二時間と四時間の切り替え機種の絵を見た。映像はザラザラしており、とても人様に出せる|代物《しろもの》ではない。菅谷は心配になり、毎日のように研究所に顔を出す。改良は思ったより早く進み、日を追うごとにチラツキが消え、きれいな絵が出るようになった。
二月十八日の株主総会を経て、松下の新社長には山下俊彦が就任したが、RCAとの交渉は会長になった正治が引き続き陣頭指揮をとることになった。三月に入ると、副社長のポラックを団長とするRCAの交渉団が来日したのを機に本格交渉が始まった。
RCAは当初、クリスマス商戦の目玉にすることにしていたが、ライバルのゼニスが秋に発売することを表明したことから、対抗上これを繰り上げて、十月の秋商戦から投入することになった。これから逆算すると、遅くとも八月には製品を船積みしなければならない。
交渉は松下が四時間機種を開発できることを前提に進めている。交渉の席で、松下側が少しでも不安な態度を示せば、白紙還元する恐れがあるので、交渉責任者の正治も稲井も自信あり気に振る舞った。それでも予想通り、交渉は価格で難航した。RCAは小売価格を一〇〇〇ドルと想定している。これを一歩も譲る気配がない。この価格を実現するには、工場出荷価格は半分の五〇〇ドルにしなければならない。
RCAとの交渉は、正治が発端から途中経過まで逐一、幸之助に報告していた。
「五〇〇ドルというのはきつい数字やな。しかしそれで出さんと、この話はまとまらんのやろ。そんなら半導体をぎょうさん使うて、少しでもコストを下げるんやな。わしからも電子(松下電子工業)の三由(清二社長)に頼んでみる」
数日後、幸之助は三由を相談役室に呼んだ。
「三由君や。うちは正治社長が中心になってRCAに長時間録画のVHSを供給する話を進めているそうや。電子工業時代に君の部下だった山下(俊彦)新社長の初仕事や。協力してやってや、頼むで」
「それで私どもは、何をやればいいんですか」
「実はRCAに供給する製品は、これから開発するんや。開発もさることながら、ぎょうさん半導体を使わんことには、コストダウンがでけへん。その辺のことで相談に乗ってほしいんや」
「長時間録画機種とやらは、いったいどのぐらいの値段で出すつもりですか」
「社長の話やと、RCAは一台一〇〇〇ドルで売りたいんやて。それから逆算すれば、工場出荷価格は半分の五〇〇ドルやな……。何とかならんもんやろうか」
「相談役、いま一ドル何円かご存じですか。三〇〇円でっせ。サンゴジュウゴ、十五万円で四時間録画のVHSを輸出するつもりでっか。そりゃ無理というものや。できまへんな」
「しかしできへんかったら、RCAとの商談がまとまりまへん。これじゃお前さんの教え子ともいうべき山下君の顔が立たへん」
「山下君の顔はともかくとして、仮にでけたとしても、松下には儲けが一銭も残らないどころか、赤字や。そんな商売、相談役の哲学に反するのじゃおまへんか」
「それはやってみないことには、分からへんやないか。それを採算に合わせるのが、あんたの仕事やろ。あんたは半導体の専門家やろ。ゴチャゴチャ言わんと頼んだで」
幸之助は言いたいことだけ言うと、話を打ち切った。
原価計算は開発と並行して進められたが、松下本社と松下電子が一緒になってソロバンをはじいても、なかなか五〇〇ドルを切ることができない。米国は品質保証がことのほかうるさく、コストダウンを図ろうとして少しでも手を抜けば、万が一、問題が発生した場合、取り返しがつかなくなる。
ビデオは互換性が命である。VHS各社は、早晩対米輸出に踏み切ることは分かっているので、それとの互換性にも細心の注意を払わなければならない。松下は正治の方針で、ビクターには四時間機種の開発を知らせなかったが、松下の開発陣はVHSの自社生産に向けて、最後の追い込みに入っており、ビクターとの間で頻繁に技術交流を進めていた。こうした状況下では、松下が勝手にRCA向けに四時間機種を開発しているとの情報は、いやでも高野の耳に入ってくる。彼はこれに強い危機感を抱いた。
高野にはVHSは今やビクターだけのものではなく、その規格に賛同してくれたファミリー企業の共有財産という思いがある。
〈VHSは二時間録画を基本に開発したビデオなんだ。これを四時間に延長するのは技術的にはさほど難しくないが、ファミリー各社の二時間録画機種とどう互換性を保つのか。この問題を放置すれば、VHSのフォーマットは壊れてしまう。ここは何としてでも阻止しなければならない〉
高野は松下が独自に、VHSをベースにした四時間機種の開発に取り組んでいることを確認したうえで、松下にクレームを付けることにした。ただ高野がいくら幸之助と親しくても、それはあくまで個人的な関係である。取締役とはいえ一介の事業部長に過ぎない高野には、荷が重過ぎる。そこでVHSファミリーを代表して、ビクターの技術部門を統括している副社長の徳光が、松下本社に抗議することになった。
徳光はビクター社内では、頑固者として知られ、そのうえ怖い物知らずときている。一年前の四月に松下、ビクター、ソニーの三社七首脳会談の席でも、ソニー会長の盛田と真正面から互角に渡り合って、評価を高めた男である。皮肉な巡り合わせで、かつて松下の開発したカートリッジ式のビデオをビデオ事業部に採用を押し付けようとして、高野に|噛《か》み付かれたが、今度は高野の要請で松下に噛み付かなければならない立場になった。徳光は単独で大阪の松下本社に乗り込んで、稲井に直談判した。
「稲井さん。松下はビクターに黙ってVHSの四時間機種を開発しているそうじゃないか。あんたがたは寄ってたかってVHSを|潰《つぶ》す気ですか。VHSはビクターが作り上げた規格なんですよ。その規格を勝手に変えられたら、VHS規格に賛同してくれたメーカーさんに顔向けできません。即刻、四時間機種の開発は中止してください。もしどうしてもやるというのなら、最低限VHSという名称を使うのだけはやめて下さい」
高野の意を体した徳光は言いたいことだけ言うと、稲井の反論も聞かずにさっさと帰ってしまった。稲井は苦虫を噛み潰した表情で、同席した部下に大声で叫んだ。
「徳光という男はアホと違うか。譲るということを知らない。VHSがどんなにいい規格でも、世界市場で普及しなければ、単なるドンガラに過ぎないんだ。あいつはその辺のことが、なぜ分からんのだ」
といってビクターの抗議を無視するわけにもいかない。VHSがビクター一社の規格であれば、力で|捩《ね》じ伏せることもできるが、今やその背後には日立、三菱、シャープの三社が控えている。ビクターの抗議を無視すれば、三社を敵に回してしまう。稲井は正治と相談のうえ、菅谷に松下本社の真意を伝えてもらうことになった。
VHSの四時間録画機種対策を目的としたファミリー企業の会議は二月二十四日、ビクターの横浜工場で開かれた。機先を制して菅谷が、苦しい弁明をした。
「今まで黙っていて申し訳ありませんでした。四時間機種はまだ開発途中ですが、次回会合予定の三月七日には、試作機をお見せできるかと思います。皆様のご批評を承ってさらなる改良を続け、納得できる製品に仕上げたいと思っております。当然のことながら、松下がRCAに供給する四時間機種とVHS本来の二時間機種との互換性には完璧を期します。
申し遅れましたが、四時間機種開発の狙いにつきましては、新会長(松下正治)、新社長(山下俊彦)が就任挨拶かたがた、VHSファミリー各社のトップにお目にかかって、直接説明のうえ、ご了解を得る段取りになっております」
ファミリー各社は高野からの電話連絡で、松下が四時間機種の開発に取り組んでいることは知っていたが、改めて菅谷から開発状況を知らされ、怒りをあらわにして、一斉に批判の矛先を菅谷に向けた。
「私たちはまだビクターさんから完成品をいただいて、勉強している最中です。むろんVHSの二時間機種が当分の間、続くという前提で自社生産の準備を進めているのです。その矢先に突然、四時間機種を持ってこられては、混乱に拍車がかかるだけです」
「たとえRCA対策とはいえ、松下さんの提案は、あまりにも虫がよすぎます。みんなで相談して決めた規格とは違う規格を持ってこられても、われわれとしては対応のしようがない」
「反ソニーの七社連合が崩れた原因は元をただせば、松下さんが態度を鮮明にしなかったことにあるのです。松下さんには松下さんなりのお家の事情があったにせよ、われわれと足並みを揃えてもらえれば、東芝と三洋の脱落は防げたはずです。その責任を松下さんはどう考えておられるのか」
日立、三菱、シャープの出席者は代わる代わる松下の態度をなじった。高野も同じ思いだったが、ここで三社に同調すれば菅谷を窮地に追い込み、収拾がつかなくなる。そこで怒りを|呑《の》み込んで、収拾に向けて提案した。
「みなさん。いろんな意見があるでしょうが、この議論は四時間機種の現物を見てからにしましょう」
菅谷は予定通り、三月七日に四時間機種を持参した。モニターに映し出された絵はそれなりに出ているが、一見しただけではビクター製品との互換性が保てるのかどうか分からない。そこで高野は菅谷に頼んだ。
「申し訳ありませんが、少しの間この機械を貸してもらえませんか。分解して実験してみないことには、果たして二時間機種と互換性が保てるかどうか分からないものですから」
「ぜひそうして下さい。問題点があればどんな|些細《ささい》なことでも指摘して下さい。松下としてはこの四時間機種もVHSファミリー企業の共同規格にしたいと思っております」
二日後の九日に正治は山下を従えて、東京・丸の内の日立本社に社長の吉山博吉を訪れ、四時間機種の開発の狙いを説明するとともに、VHS陣営の結束を訴えた。
「VHSの四時間機種は、ベータ陣営に強烈なカウンターパンチになります。どうかその辺をご理解下さい」
といって吉山は、その場で松下の方針を了承したわけではない。多少皮肉を込めて日立の方針を伝えた。
「松下さんの狙いは、分かりました。日立はこれまでビクターさんと足並みを揃えて来ました。これからもそうなるかと思います」
正治と山下はその足で三菱社長の進藤貞和、数日後に大阪でシャープ社長の佐伯旭に会ったが、両社からは、事前に日立と相談したかのように同じ答えが返ってきた。
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4 太めの「マックロード」
ビクター、日立、三菱、シャープの技術者がビクターの横浜工場に集結して松下から借りた四時間機種を分解し、果たしてVHSの二時間機種と互換性が保てるかどうかの実験を始めた。そこで重大な欠陥を発見した。画像のH並びができないのである。H並びというのは、ビデオ信号の水平走査線が、テープの上で隣のトラックの一本ごとの走査線とお互いにズレないで並ぶことである。これができなければ、静止画などの再生ができない。
VHS開発の陣頭指揮をとったビクターの高野は、最初から「家庭用ビデオは二時間録画が最適」と信じていた。ソニーがベータマックスの長時間録画をはかるには、テープのトラック幅を狭め、テープ速度を落とさなければならないが、そうすると画像の劣化は避けられないとにらんでいた。
彼はソニーが一〜二時間の切り替え機種を発表した後も、ベータ陣営追及の手を緩めなかった。高野がVHSの四時間録画機種を認めることは、VHSの自己否定につながる。彼の結論は最初から決まっていた。
〈四時間機種の投入は、市場の混乱に拍車をかけるだけだ。何とか松下に思いとどまってほしい〉
こうした思いは、ビクターからOEM供給を受けている三社も同じだった。
松下はVHS各社との調整を進める一方、大阪、ニューヨークと場所を移してRCAと精力的に交渉を続けた。肝心のRCAは、VHS各社から批判された画像については満足していた。またRCAは二時間機種を発売する計画がないので、他のVHSファミリー企業との互換性を心配することはない。
日本側の交渉団が頭を痛めていたのが、何といっても価格である。松下がどんなに試算をしても、五〇〇ドルの工場出荷価格を実現させるのは難しい。交渉責任者の正治がその辺の事情をいくら説明しても、RCAは一歩も譲らない。RCAの交渉団が一瞬、折れる気配を見せても、翌日には態度が一変する。言い方は必ず決まっていた。
「念のため、グリフィス社長に判断を仰いだが、一〇〇〇ドルで売れなければ、RCAがビデオを投入する意味がないと言っております。したがって、昨日の発言は訂正させて下さい」
かといって赤字輸出は「適正利潤の確保」を看板に掲げる幸之助の経営哲学に反する。
〈せっかくだが、この交渉は諦めざるを得ない〉
正治は弱気になり、最後は神頼みで幸之助の判断を仰いだ。ところが“経営の神様”の御託宣は明快だった。
「確かに赤字と分かっている輸出は、わしの経営方針に合わない。しかしRCAを取り込まんことには、アメリカ市場はベータ陣営に取られてしまうんやろ。ここは目を|瞑《つぶ》って相手のいうことを聞くんやな。スタート時には赤字でも、みんな頑張って一日も早く黒字にするよう努力するんやな」
三月三十日。大阪・門真市の松下本社で社長の山下俊彦と来日中のRCA副社長・ポラックの間で契約書が交わされた。前の晩、正治は一睡もできなかった。というのは経理部から「仮に現状のコストで出せば、五年間で八百億円の赤字が発生する」との数字が上がってきたからである。八百億円といえば松下本社の一年間の利益である。これが現実になれば、正治は間違いなく“戦犯”の汚名を着せられる。しかしサイは投げられた。
マスコミ発表に際してRCAは、次のようなコメントを出した。
「録画時間、性能、安全性、品質及び信頼性などあらゆる観点からみて、最もバランスが取れた価値ある製品と判断して、VHSの四時間録画機種の採用を決めた」
松下から供給を受ける製品は、四時間機種であることを認めたものの、販売価格と数量について、この段階では一言も触れなかった。両社の発表文を読んで、高野は松下のRCA攻略に対する強い意志を感じ取った。
〈松下は本気だ。これには相談役の意思が働いている。と言って欠陥品を市場に|氾濫《はんらん》させるわけにはいかない。ここで譲歩すれば、これまでの苦労が水の泡になってしまう〉
高野にとって唯一の救いは、松下の発表文の中に、「四時間録画機種を国内市場に投入する」とは、一言も触れていなかったことだ。翌日、ビデオ戦争における戦友ともいうべき日立ビデオ機器部長の宮本延治に自分の考えを打ち明けた。
「松下がRCAと契約した以上、対米輸出を止めることはできない。しかし四時間機種を国内に投入することだけは、身体を張っても絶対に阻止しなければならない」
「高野さん、ぜひそうして下さい。日立も全面支援します。四時間機種を国内に投入すれば、市場はメチャクチャになります」
それではどうして阻止するか。頭を悩ましているちょうどその時、幸之助から電話が入った。
「高野君やな、幸之助や。ようやく松下製のVHSがでけたで。営業の連中は『マックロード』という愛称を付けはった。何でもアメリカで人気を博しているテレビドラマの『マックロード警部』に|因《ちな》んだそうや。そこでだ。発売する前にビクターだけでなく、VHSファミリー企業の技術スタッフの方々にも大阪に来て見ていただき、率直な意見を聞かせてほしいんや」
そして高野は「分かりました」と返事をすると同時に一つだけ質問した。
「松下が開発した四時間録画機種も見せてもらえるのでしょうか?」
高野からの頼みごとを、幸之助は予想していた。
「もちろんや。実をいうと、わしはそっちの意見を聞きたいんや。松下が四時間機種を開発したといっても、しょせんビクターが開発したVHSを改良しただけや。本家本元の意見を聞かんことには製品化でけへんやないか」
さらに高野は念を押した。
「相談役。本当に私たちが何を言っても構わないのですね」
「かまへん、きみもほかの連中も四時間機種では言いたいことが山ほどあるやろ。いつまでも腹の中に収めておくのはよくない」
高野は電話を終えると、日立、三菱、シャープのファミリー各社に幸之助の意向を伝えた。日立の宮本は、三社を代表する形でファミリー企業の誰もが感じていることを尋ねた。
「高野さん。本当に相談役の前で、われわれが日ごろ話し合っていることを、話しても構わないのですね」
「むろん、どんな意見でも遠慮しないで言って下さい。相談役も内心それを期待しているはずです」
三菱の商品営業部長の今村正道は、やや興奮気味に提案した。
「高野さん、絶好の機会だから幸之助さんに“直訴”して国内市場への投入だけは止めてもらおうよ」
これに高野が珍しくキッパリ答えた。
「私もそう考えている」
経営の神様に直訴する日は、四月十二日に決まった。当日は中央研究所でマックロードの説明を受け、その後、本社役員室で幸之助と懇談することになっている。VHS四社の出席者はビクターからは高野と開発部長の白石勇磨、日立は宮本とビデオ設計部長の久保田、シャープは技術本部次長の壺井良男、技術部長の尾島義郎、三菱は今村のほか京都製作所の糸賀正己、同研究主管の植竹勝入の総勢九人である。
九人は予定通り、十二日に松下本社を訪れ、最初に本社事務棟の真向かいにある中央研究所に入った。マックロードの技術説明は、常務で研究所長を兼ねる城阪俊吉が当たった。九人は説明を聞く前にマックロードを見た瞬間、|怪訝《けげん》そうな顔をした。
デッキの大きさがソニーのベータマックスよりひと回り小さいものの、体積比ではビクターのVHSより七割がた増えている。この謎は城阪の説明が終わった後、マックロードのフタを開けた途端に氷解した。ビクター製のVHSにはデッキの中に、部品がぎっちり詰め込まれているが、その点マックロードはゆったりしている。テープを支持するガイド機構と回転ドラムとの距離も長く取ってある。これを見た高野は、瞬時に判断した。
〈ドンガラを大きくしたのは、作業員が作りやすいようにしたためだ。ガイド機構と回転ドラムの距離を長くすれば、テープの走行性が良くなり、最終調整の手間が省ける。松下は生産性向上による原価低減を考えているに違いない〉
マックロードはほかにも画質を鮮明にするため、シリンダーにはステレオで使っている直接駆動のDD(ダイレクト・ドライブ)を採用し、あらかじめ録画時間をセットし自動的に録画できるビデオタイマーを内蔵するなど、随所に松下ならではの工夫を加えていた。
「さすがモノ作りに|長《た》けた松下だ」
高野のみならず、全員が脱帽せざるを得なかった。それを見届けたうえで、城阪が発売スケジュールを公表した。マックロードの技術説明が終わると、入れ代わりにビデオ事業部長の谷井昭雄が出てきて、松下のビデオ戦略の説明を始めた。
「マックロードは来月早々にも新聞発表して、六月から発売します。価格は二十六万六千円。岡山工場で生産します。それとRCAに供給する二時間と四時間の切り替え機種は、四国の松下寿で生産します」
ここでどよめきが起こった。しかし谷井は話を続けた。
「RCA向けは近く生産に取りかかり、秋の商戦に間に合うよう七月から船積みします。米国ではマグナボックスやGTEシルバニアとも交渉していますが、近くまとまる見通しです。欧州向けは二時間録画機種を予定しており、近くフィリップスと協議に入ります」
聞いているVHS各社は、実のところ松下が四時間機種をアメリカ市場に投入するのを、半ば諦めかけていたが、内心では誰もが国内市場への投入は、見合わせることを願っていた。谷井の口からその言葉が出るのを期待したが、まったく逆の言葉が出た。
「四時間機種はいずれ各社の同意を得たうえで、国内にも投入したいと思っております。正式に決まり次第、各社さんにご検討を願うことになるかと思います」
言葉はあくまで|慇懃無礼《いんぎんぶれい》だが、谷井はここで失態を演じてしまった。
「ところで四時間機種については、各社さんのどなたと話し合えばいいのでしょうか?」
これに日立の宮本が、心の中で反発した。
〈冗談じゃない。われわれはそれぞれの会社から、全権を任されてここに来ているんだ。谷井さんもしょせん、ソニーの大賀(典雄副社長)と同じで、各社のお家の事情が分かっていない。二人ともトップに話を付ければ、すべて解決すると思い違いしている〉
むろん谷井はこうした日立のビデオ幹部の思いを知るよしもない。谷井の問題発言でやや白けた雰囲気になったが、予定の時間がきたので研究所を去り、幸之助に会うため、本社役員室に向かった。幸之助は一行をにこやかな表情で迎え入れた。
「今日は遠路はるばる大阪まで来ていただいて、ほんまにご苦労はんやった。せっかくおいで頂いたのに、あいにく松下(正治)会長も山下社長も出払っておる。そこできょうは、私が代わりに皆さんの話を伺って後日、会長と社長に伝えます」
“ひょうたんから駒”の形で生まれた四時間機種に、松下の中で一番熱心だったのが誰あろう幸之助である。開発に着手してからは、出社した際は必ず、自室に入る前に研究所に立ち寄り、開発状況を逐一聞き、満足げに帰っていく。幸之助が惚れ込んだ最大の理由が、テープの経済性である。VHSの本体価格はベータマックスに比べ一万円ほど安い。ところがテープ価格はベータマックスの四千円に対して、VHSは四千八百円と約二割ほど高かった。
テープは消費者にとっていわばランニングコスト。長い目で見ればテープの価格が高ければ、消費者の負担も大きい。これではデッキが多少安くても、ベータ陣営を追い上げるのは容易ではない。これが四時間機種になれば、時間当たりのテープ価格はベータマックスの二千円に対し、VHSはわずか千二百円と逆転する。
幸之助はVHS各社の技術者を前に、まるで子供を諭す調子で、自説を交えながら語りかけた。
「これまでいろんな経緯があったが、家庭用ビデオは残念ながら規格統一できなかった。わしは今でも統一すべきだと思っている。ベータマックスとVHSの双方の録画時間が同じでは、二つの方式を存続させる大義名分がないやろ。ベータが一時間〜二時間、VHSが二時間〜四時間であれば、双方に存在意義が出る。したがってわしは、いずれVHSの二〜四時間機種を国内市場にも投入すべきやと思うとる。ただし国内で出すときは、皆さんと一緒に出せるよう協力せなあかん」
この幸之助の発言は、四時間機種を国内市場にも投入するとの不退転の決意表明でもあった。しかしいくら経営の神様から諭されようと、各社ともそう簡単には納得できなかった。反撃の口火は日立の久保田が切った。
「相談役の言われることは分からないわけではありません。しかし日立としては二時間録画機種を普及させることが先決かと考えております」
続いて三菱、シャープの代表者もそれぞれ意見を述べた。
「アメリカでは人気スポーツのフットボールが三時間半ぶっ通しでテレビ放映されるので、それなりの需要はあるかと思います。しかし日本にはそれに該当する番組がありません。プロ野球の巨人戦でも日本テレビは、試合が終了していなくても、時間が来れば打ち切ってしまいます。四時間機種は一見便利に見えますが、長いがゆえに使いづらいのも事実です。下手をすれば『無用の長物』になりかねません」
「相談役はベータとの|棲《す》み分けを言われましたが、私どもは四時間録画機種の国内市場への投入は、混乱を招くと考えています。しかも、将来の規格統一の動きに逆行するのではないでしょうか」
幸之助は四時間機種に対する各社の反発の強さに驚いた様子だったが、高野といえば、日立、三菱、シャープが自分のいわんとすることを次々と代弁してくれるのを、目を|瞑《つぶ》り両腕を組んで黙って聞いていた。
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5 開発メーカーの意地
松下幸之助は日立、三菱、シャープの技術者の反発にあって、VHSの四時間機種を国内市場へ投入するのは、「当面は無理」と判断したようだが、そんなことはおくびにも出さず、|老獪《ろうかい》な経営者らしく、特許問題で反撃に出た。
「みなさんの会社は日本ビクターからOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けているうちは、特許料の問題は心配ありまへん。しかし、いずれ自社生産に踏み切れば、この問題がクローズアップされるで……。VHSの特許料はタダというわけにはいかんが、わしは松下とビクターは、一%以下の格安にしたらええと思うとる。ただし、よその会社はそうはいきまへんで。松下は側面から協力するが、ソニーには一致団結して頼まなあかんな」
ビデオの特許使用料の仕組みは複雑である。十件のビデオ関連特許を持つソニーの場合、一件使えば二百万円のイニシャル特許料のほか、工場出荷額の二%をランニング特許料として取られる。二件使えばイニシャルコストは同じだが、ランニング特許料は工場出荷額の二・五%となる。十件全部使えば、イニシャル特許料はゼロになるものの、ランニングの特許料は五%に跳ね上がる。自社にビデオに関する特許が一件もなければ、工場出荷額の最低一〇%は特許代に消えるのを覚悟しなければならない。
これにアンペックスの基本特許料が加わる。同社の特許料はイニシャルがゼロの場合は、工場出荷額の一二・七五%と高い。逆にイニシャル特許料として五万ドル払えば、ランニング特許料は工場出荷額の一〇%、一〇万ドルだと八・五%、三〇万ドルになると六%に低下、最高は一二〇万ドルの二%となっている。
導入メーカーはこの中からどの条件にするかを選ぶわけだが、放送局向けのビデオを生産している池上通信機は、イニシャル特許料ゼロを選択。東芝と三洋は、Vコードの生産に際してイニシャル特許料三〇万ドル、ランニング特許料六%を選んで契約した。
それに比べると幸之助が提案した一%以下というのは破格の安さである。各社とも特許には頭を悩ましていただけに、四時間機種に反対する気勢を|殺《そ》がれた。幸之助はそれを目ざとく確認した上で、「絵の出るレコード」、ビデオディスク(VD)の持論を展開した後、全員に要請した。
「本日、私が話した真意を皆さんの会社のトップに正確にお伝え下さい」
そして秘書に用意させた自筆のサイン入りの本を、一人ひとりに手渡して席を立った。
VHS陣営各社のメンバーは、その足で大阪市阿倍野区にあるシャープの本社に立ち寄り、善後策を協議した。最初に日立のビデオ機器部長の宮本延治が口火を切った。
「今日の相談役の話しぶりからして、松下は、早晩四時間機種を国内にも投入するつもりですね」
これに高野が解説を加えた。
「ビクターの経験からみて、ビデオの量産体制が確立するまでは、最低一年ほどかかる。四時間機種はVXで経験がある松下寿が担当するとはいえ、八カ月から十カ月はみなければならない。これから逆算すると、松下は来春早々にも国内投入を言い出す可能性が高いですね」
「日立はVHSをビクターが開発したからというより、高野さんの人柄に惚れて採用を決めたのです」
すると三菱とシャープの代表者も次々と口を挟んだ。
「高野さんはわれわれにこう言ったじゃないですか。『VHSは未完の製品です。VHSよりいい製品があれば、ビクターも採用を検討するし、なければわれわれと一緒になってVHSの改良を進めましょう』と。私たちはもし松下が開発した規格だったらVHSを採用しませんでした。松下とソニーは独断専行という点で、極めて似ています。今回の四時間機種がいい例だ。松下はわれわれに一言の相談もなく、勝手にVHSを改良してしまった。これじゃ、松下にソニーを批判する資格はないですよ」
誰もが興奮していたが、三菱の商品営業部長の今村正道が話題を変えた。
「アメリカの新聞にソニーが三時間録画機種を開発している、という記事が載っていましたが、あれはどういうことですか……」
この質問にビクター開発部長の白石が解説を加えた。
「三時間機種というのは間違いで、正確には三時間録画が可能なテープを開発しているというべきでしょう。テープを薄くすれば、理論的には三時間録画が可能です」
「すると長時間録画競争が一段とエスカレートしますね」
「その恐れは、十分あります」
「そういえば、松下は六時間録画機種も開発したいと言っていた」
これに再び白石が技術的な解説を加えた。
「VHSを開発した立場から言わせてもらえば、四時間機種はビデオ信号の水平走査線がズレる。専門用語でいう走査線のH並びがないので、静止画の再生ができません。私に言わせれば、技術者のお遊びの域を出ません。しかし六時間録画はH並びがあるので、二時間録画と同じ性能を保持することは技術的にできます」
そして最後に高野が私見を述べた。
「VHSの基本録画時間は、あくまで二時間です。これだけはみなさん、絶対に忘れないで下さい。私はどうしても長時間録画機種が必要というなら、白石君が指摘したように、六時間機種の方がまだましだと思っております。市場が長時間録画機種をグリコの“おまけ”のようなものと認知してくれればいいんですがね……」
高野は帰りの新幹線の中で、一抹の不安を感じていた。気になったのが松下の態度である。松下の技術陣はビクターの開発したVHSに、独自に長時間録画の技術を付加したことで、平然と「VHSはビクターと松下が共同開発した技術」と言い出し始めたからだ。
RCAに対する四時間録画機種の契約もまとまり、松下は経営陣のみならず、技術者も自信を取り戻した。こうなるとビクターが君臨していたVHSファミリーの盟主の座に、自らが就きたくなるのが人情である。四時間機種を幸之助が全面支援してくれているのも、松下の技術者にとっては心強い。だがファミリー企業にしてみれば、VHSの主導権がビクターから松下に移れば、これまでのように和気あいあいというわけにはいかなくなる。
経営トップの判断はともかく、採用を決めた現場の人々は、ビクターというより高野の人間性に惚れ込んだ面が大きい。高野にはグループ各社の心遣いが、痛いほど分かっている。高野が早急にやらなければならないのは「VHSは松下との共同開発ではなく、ビクターが単独で開発した技術である」ことを内外に知らしめることだ。それをどうやって松下に切り出すか。高野の思い悩んでいる姿を、幸之助の指示でビクターに出向してきた経理担当役員の平田雅彦が見逃さなかった。
平田は高野に相談せず、出張を装い古巣の松下本社の秘書室に顔を出して、社長秘書に尋ねた。
「山下(俊彦)さんに新社長就任のお祝いを言おうと思って立ち寄ったんだが、時間があるかね」
かつての平田の部下だった社長秘書は日程表を見ながら答えた。
「ちょうど会議が終わったところで、いまなら空いています」
平田は幸之助の右腕ともいうべき元会長・高橋荒太郎の秘書をしていた関係で、ウエスト電気に出向していた山下とは顔馴染みだった。社長室のドアを開け、執務机を前に座っている山下の顔を見た瞬間、平田は驚きを隠せなかった。一瞬、部屋を間違えたかと思った。ウエスト電気時代の山下は、ふっくらとした顔をしていたが、その面影が跡形もなく、逆に引きつっている。社長就任まもない山下は、それほど緊張していた。
平田が用件を切り出す前に、山下が機先を制した。
「平田君、良い話なら聞かんでもええで。良い話には裏がある。ただし悪い話なら遠慮なく言ってくれ」
「実はお願いがあってきたのです」
「何やね?」
「ビデオです」
「ビデオは勉強中で、まだわしには詳しいことはよう分からん。なんでこんなにゴタゴタしたんやろな。もうちょっとスッキリせにゃあかん。ほんで願いごとというのは?」
ようやく本題に入り、平田は要件を切り出した。
「ビクターが開発したVHSは、松下の協力を得て製品化したのは事実です。特許件数だけみれば五分と五分でしょう。これをもって松下の中には、|臆面《おくめん》もなく『VHSはビクターと松下が共同で開発した技術だ』と吹聴している人がいます。これではビクターの技術者はあまりにも可哀相です。開発意欲を失います。それだけでなく松下が声を大にして、共同開発と言い出せば、世間には親会社の横暴と映るでしょう。これから松下に共同開発という言葉を使わせないでほしいのです」
すると山下は|怪訝《けげん》そうな顔で質問した。
「VHSはうちとビクターの共同開発と違うんか? 副社長の稲井(隆義)はんは、『あれはうちとの共同開発』と言っておったで。わしは社長と技術本部長を兼ねることになったさかい、一度調べて返事するわ」
「ところで山下さん。社長業に慣れましたか」
「バカいっちゃいかんよ。下から数えて二番目の|平取《ひらとり》が、いきなり社長になって、慣れるもくそもあるもんか。それより平田君。相談役というのは、けったいなジイさんやな」
「何でですか?」
「じいさんは時折、この部屋に入ってきては、盛んに『何か困ったことはないか』と聞くんや。この前もフラリとやって来て、『山下君、お金に困っているやろ』と言って、ポンと百万円ほど現金を置いていった。よう気が付く人やな」
「何で百万円なんですか?」
「よう分からんが、『社長になれば、タキシードやモーニングも作らなければならんし、天下の松下の社長になった以上、今までのようなヨレヨレした背広ではあかん』というわけやないか。『これは会社のカネやない。わし個人のカネや。そやさかい遠慮なく使ってくれ』といっていたが、むろん断った」
話は雑談に移り、平田は山下体制に探りを入れた。
「山下さんが社長になられて、相談役室に業務報告に行かれるのですか」
「忙しすぎてよう行かん。それより用事があれば、向こうがこの部屋に来るわ」
「先輩役員がたくさんいて、やりづらくはないですか?」
「そりゃ、想像以上に大変やな。古手にはいずれ辞めてもらわなあかん」
「その辺のことは、相談役と話されているのですか?」
「遠回しに一度話したことがある。そうしたら面白い返事が来たで。『お前の好きなようにやったらええ』と言うんや。てっきり相談役が(退任の)根回ししてくれるのかと思ったら、『辞めてもらいたい人には、お前が自分で言え』というんや。これから一年間、じっくり考えてみるわ」
それから一週間後、平田は山下から呼び出しを受けた。
「平田君、わしはこの一週間、技術本部長としてVHSの開発に松下がどの程度関与したか調べたで。結論から先に言おう。VHSは松下とビクターの共同開発やない。ビクターが独自に開発した技術や。そのことは相談役が一番知っておったわ。安心してや。きょう以降、松下社内では『VHSは松下とビクターが共同開発した技術』という言葉は使わせない」
平田は深々と頭を下げたが、山下は一つだけ注文を出した。
「ただし特許料だけは別や。VHSの特許料はビクターに管理してもらうが、VHSのファミリー企業が松下の特許を使う分については、しっかりもらうで」
「それはビジネスの世界ですから当然です。社長。ついでと言ってはなんですが、あと二つほどお願いがあります」
「なんや、まだあるんかいな」
「一つはVHSがビクターが開発したものであることを、うちの役員会で表明してほしいのです」
「かまへん、お安い御用だ。言うてやる。もう一つというのはなんやね」
「海外戦略です。松下はRCAに続いてGTEシルバニア、マグナボックスといった米国の家電メーカーと供給交渉を続けていると聞いております。松下が開発した四時間録画機種では、結果的にビクターが譲歩しました。正確には譲歩させられました。その代わりと言っては何ですが、ヨーロッパの市場開拓はビクターに任せてもらいたいのです」
「松下はすでにオランダのフィリップスに売り込んでいるはずやで」
「知っています。確かビデオ事業部長の高野の話では、フィリップスは依然として自社開発製品にこだわっており、当面VHSを採用する気はないようです。高野は戦略家です。彼はフィリップスは後回しにして、その周辺から攻めて行くのが、欧州市場制覇の早道と言っております」
「そやな。うちのビデオはまだ立ち上がったばかりで、岡山工場は国内向け、松下寿は米国向けで手いっぱいや。はっきりいうたらビデオ事業は、ソニーに二年遅れてしもうた。ここで手をこまぬいていたら、欧州市場もソニーに先手を取られてしまう。平田君。仮に欧州をビクターに任せることにしても、肝心のビクターにそんな余裕があるのかいな」
「ビクターは松下の子会社といいましても、貧乏会社です。横浜のビデオ工場をご覧になってもらえば分かりますが、|継《つ》ぎ|接《は》ぎだらけの工場です。とうてい人様にお見せできるような工場ではありません。松下なら巨額の資金を投じて工場を整備するでしょうが、ビクターにはそんな真似はできません。だからこそ欧州市場を任せてほしいのです」
「それはどういうことや?」
「欧州は国内同様OEM供給になります。欧州メーカーから大量受注して、それを担保に銀行からお金を借りて工場を増設します」
「誰のアイデアか知らんが、面白いやり方やな」
「むろんビデオ事業部長の高野のアイデアです」
「分かった。欧州市場攻略はビクターに任せよう。ただし末端で動いている事業部の動きは止められない。それだけは承知しておいてや」
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6 「おれは忙しいんだ」
「VHSは間違いなくビクターが独自に開発したビデオです。お恥ずかしながら、松下社内に『VHSは松下とビクターが共同開発した製品』と広言する人もいるようですが、今後、松下社内では『共同開発』という言葉は使わせないようにします。それから欧州市場の開拓はビクターさんを中心にやっていただきたい」
ビクター経理担当役員の平田雅彦が、古巣の松下本社を訪れ、新社長の山下俊彦に苦言を呈してから一カ月後。山下は上京した機会をとらえ、ビクターの取締役会に出席して、平田との約束を果たした。山下がビクターの役員会に出たのは、後にも先にもこの一回だけである。
VHSの生産は横浜の第一工場にまず一本のラインを敷き、月産千台でスタートしたが、日立、三菱、シャープに供給を始めてから、すぐに満杯になった。その後、第五工場に一気に四本のラインを敷いた。ビデオ事業部の中期計画(二年)は、それまで事業部が独自に策定していたが、VHSの発売を機に本社が多少参画するようになった。ビデオ事業部長の高野としても、資金の面倒を見てもらわなければならないので、本社の参画をむげに断るわけにもいかない。
すると本社の総合企画部は、“叩き台”と称して、卓上で練り上げた生産計画を出してくる。高野は本社から送られてきた生産計画書を|一瞥《いちべつ》し、ニヤリとしながら営業責任者の菅谷光雄の机の上にポーンと投げ出した。
「おい、これが本社の策定した生産計画台数だ。本社の考えているのはこんな程度だろう。こんなのは子供のままごとに過ぎない。参考までに見ておけ」
菅谷は数字をみながら、自分の感想を述べた。
「月産千台でスタートして、一年後に三千台に増やし、三年目には五千台に引き上げる。これはビクターの実力相応の数字ですね」
すると高野が怒り出した。
「お前は何も分かっちゃいない。月三千台や五千台で、どうやって世界市場に供給するんだ。だから本社が作った数字は、ままごとだと言ったんだ」
菅谷は高野が言っている意味が理解できなかった。すると高野が続けた。
「本当なら月産一万台からスタートしたかったんだが、貧乏会社だからそれができなかった。しかし一日も早く万の単位の月産体制を確立しなければ、ベータ陣営に負けてしまう」
ここまで言われて、ようやく菅谷は高野の野望を理解した。
「それなら事業部長は、本社の計画を了承したわけではないのですね」
高野と本社が考えていた生産台数は、天と地ほど違っていた。その落差は月を追うごとに大きくなってきた。高野はVHSを発売した直後、自分の考えを本社で説明したことがある。が、単なる夢物語として誰も相手にしなかった。それを機に本社のスタッフが現実的な提言をしてくるが、高野には余計なお節介にしか映らなかった。
「本社が役に立つことは、ほんの少しだけあるんだが、あとは|煩《わずら》わしいだけだ。煩わしいどころか、結果的に事業部の足を引っ張りやがる。おれは今後、一切本社に説明に行かん。お前らが適当にやっておけ」
高野と本社の溝は、事業部制に対する考えの違いから来ている。高野は幸之助の|薫陶《くんとう》を受けたせいか、本家本元の松下がびっくりするほど、独立採算による事業部制を徹底させていた。すべての権限を事業部長に集中させるため、VHSのファミリーづくりのようなケースは、ごく一部の側近にしか知らせない。高野には自分の判断が裏目に出れば、全責任を負う覚悟ができていた。
これに対して本社は松下に|倣《なら》って、組織の上では事業部制は採用しているものの、事業部が多少赤字を出しても、最終的に本社がその赤字を抱えていくという方針を取っていた。事業部が弱みを見せれば、本社はここぞとばかり口を出してくる。とりわけ海外メーカーとの提携に関しては、ビデオ事業部がまだ海外事情に|疎《うと》かったこともあり、必ずと言っていいほど本社が介入してくる。当時のビクターの海外提携は、高野が考えていたような、スケールの大きいものではなく、せいぜい技術供与とか技術を買う程度に過ぎなかった。
高野が考えているOEM(相手先ブランドによる生産)ビジネスは、単なる製品供給ではなかった。OEMを通じてパートナーシップの関係に引き上げ、一緒になってVHSを普及させることに狙いがあった。それをいちいち本社にお伺いを立てて、役員会で議論されたら、時間がかかってまとまる話もまとまらない。高野にすれば世界を相手にしたビジネスを展開するには、本社と事業部の間に、大きな壁を作らなければならなかったのである。
高野の本社を無視するやり方は、工場作りでも徹底していた。一九七七(昭和五十二)年春当時の横浜工場は、ビデオのほか白黒テレビ、録音機、スピーカー、レコードなどを生産していた。そのころ高野は、昼夜なく一人で世界戦略を練っていた。そんなある日、製造部長の曲尾定二と経理課長の大曽根収を呼んで指示した。
「早急にビデオの工場を増設しろ。今度は一気に五千台増やして、月産一万台まで引き上げる」
これに曲尾が異を唱えた。
「事業部長もご存じの通り、横浜工場は|継《つ》ぎ|接《は》ぎだらけの工場です。増設しても効率が悪過ぎます。どうせならこの際、思い切ってよそのところにドーンと大きな工場を建てませんか」
「お前はバカか。工場を新設すれば、百億円単位のカネがかかるんだ。そんなお金、貧乏事業部のどこにあるんだ。よしんば借金して工場を作っても、時間がない。とにかくおれは急いでいるんだ。生産体制が整わなければ、欧米市場に売り込めない。とにかく夏までに月産五千台体制を築け。ただし一つだけ注文がある。工場のラインを増やしても、まかり間違っても事務所のスペースだけは増やすな。分かったな」
しかし二人は納得したわけではない。今度はむきになって尋ねた。
「どうしてですか。ラインが増えれば、それに伴って事務量が増えます」
「よく考えろ。事務所のスペースを増やさなければ、事務に携わる人も増やせないはずだ。するといやでも、事務の効率を上げなければならなくなる。ただし工場のスペースは別だ。ビデオの工場として使えるところにラインを作れ。それでも足りなければ、よその事業部に頭を下げて、どこかへ移ってもらえ。横浜工場でなければ良い製品が作れないことは曲尾、製造部長のお前が一番知っているはずだ」
VHSは生産を始めてまだ半年しかたっていない。量産が軌道に乗らず、生産現場は悪戦苦闘していた。市場がどうなるかの予測が立たず、部品メーカーの間では「ビデオの部品を手掛けると損をする」と陰口を叩かれていた時代である。高野の指示もあり、ビクターから出される要求は厳しかった。といって部品の購買担当者が、部品メーカーの担当者を工場に呼び付けることもできない。現実は購買担当者が部品メーカーに出向き、頭を下げてひたすら発注書通りの部品を作ってもらうのである。
ビクターの下請け部品メーカーは横浜地区に集中していた。ビデオ事業部が横浜工場を離れれば、部品調達の効率が悪くなる。こうしたことから、高野は横浜工場から動く気はなかった。曲尾の仕事は生産を軌道に乗せることであり、一方の大曽根の仕事は資金繰りだった。だが、二人とも翌日から本来の仕事とは無縁のビデオ工場探しに奔走しなければならなかった。
ラインを増設するには、まず本社に設備投資計画書を提出して、了承を得なければならない。その次に具体的な工場探しが始まるわけだが、そんなノンビリしたことをやっていては、とうてい間に合わない。二人は足を棒にして毎日、横浜工場を歩き回り、夕刻に高野に報告する。
「事業部長、第二工場の三階のフロアが空いています。そこを借りて工場にしましょう」
「確かにあそこは良さそうだ。すぐに手続きを取れ。おい、それからあの工場の隣に大きな倉庫があるだろう。あそこも工場に転用しろ」
「あそこはダメです」
「何でだ? もったいないじゃないか。あの倉庫を工場に転用すれば、月二千台は作れる」
「それは分かっています。しかし出入り口が一カ所しかないので、工場に向きません」
「出入り口が問題だと。そんなことはお前たちが知恵を出して解決しろ。いまビクターにとって大切なのは、とにかく一台でも多くのVHS製品を作ることなんだ」
工場は本社の管財部が管理しており、本来は高野が管財部長に根回ししておかなければならない。曲尾と大曽根は高野に根回しを要請するが、いつもの調子でドヤされる。
「根回しだと。おれはとにかく忙しいんだ。そんなことをやっている暇はない。根回しなんか、お前たちの仕事だろう。適当にやっておけ」
といって高野がなにもしないわけではない。社内で唯一の理解者ともいうべき管財部を所管する平田だけには、事前に説明しておいた。事情を知らない曲尾と大曽根が、恐る恐る管財部長に説明に行くと、あっさり了解してもらった。それでも一つだけ注文を出された。
「本社はビデオ事業部の申請を許可する。ただしその前に当該事業部だけには、うまく話を通しておいてよ」
二人は連日、横浜工場を隅から隅までくまなく歩き回るが、よその工場に顔を出すと、極端に嫌な顔をされる。そして聞こえよがしに嫌みを言われる。
「今日もまた変な連中がうろついているな。今度はおれたちの事業部の番かね」
曲尾と大曽根に目を付けられた事業部は戦々恐々だった。「本社の管財部の了解を得た」というのがビデオ事業部の葵の御紋だが、引っ越しを要請された当該事業部としては、そう簡単に納得できない。工場移転は従業員の転勤が伴うので、人事部と労働組合の了解を得なければならないが、これも曲尾と大曽根の仕事となった。
ビクターでは工場を明け渡してもらうときには、追い出しを要請した側の事業部長が追い出される側の事業部長に挨拶するのが、古いしきたりとなっていた。このしきたりに従って、高野に挨拶に行ってくれるよう頼んでも、いつもの返事が返ってくる。
「おれはとにかく忙しいんだ。何なら向こうの事業部長に言っておけ。『あなたがたの事業部が、横浜工場から出ていくことが、ビクターのためになるんだ』とな」
なんとか当該事業部を説得して移転してもらっても、それからがまた大変だった。ビクター全体としては、人は余り気味だがビデオの生産は急激に膨らんでいたので、ビデオ事業部は猫の手も借りたかった。
「よその事業部で人が余っているなら、ビデオ事業部でいくらでも引き受けてやる。本社の人事部にそう言ってこい」
こうした高野の意を受けて、ビデオ事業部の人事担当者は、勇んで本社の人事部に行くが、夕刻になってションボリとした表情で帰ってくる。高野は|訝《いぶか》しげに尋ねた。
「そんな不景気な顔をしてどうした。本社の人事部は喜んでいただろう」
「それが違うんです。本社が言うには『ビクターは事業部制をとっているのだから、ビデオ事業部で人が必要なら、責任者の高野さんが当該事業部長のところに頭を下げてもらってきたら』というんです」
「あいつら何を勘違いしているんだ。おれは個人的な趣味でVHSをやっているんじゃないぞ。仮におれが当該事業部に『人を下さい』と頭を下げても、万が一『ノー』と言われれば、本社は『事業部長の頼み方と、頭の下げ方が悪い』というに決まっている。本来それを調整するのが、本社の仕事なのにあいつらは自分の職務を放棄していやがる。本当にけしからんやつらだ」
これを機に高野の本社嫌いに、一段と拍車がかかった。「忙しい」「忙しい」と言うのが高野の口癖だが、隣に座っている経理課長の大曽根にすれば、何が忙しいのかさっぱり見当がつかない。経理屋の立場からすれば、決算書をはじめとする社内の書類に目を通しているとか、必死になって何か書いているというのが、「忙しい」というイメージである。
曲尾にしても同じである。高野はしょっちゅう工場を見にくるが、工場の選定、生産計画の策定から協力工場の指導まですべて部下に任せている。高野は役員になってからも個室を作らず、狭い事務所の中央に部長や課長とそれほど違わない机を置いて、そこで仕事をしていた。大事な会議がある日でも、それには出席せず、自席でのんびりとタバコを吸いながら新聞や雑誌を読んでいた。
高野が会議に出席しないときは、重要な電話を待っているときである。そのことは、事業部の人間は誰も知らない。業を煮やした大曽根がある日、思い切って高野に聞いたことがある。
「事業部長は口では忙しい、忙しいとおっしゃっていますが、一体何が忙しいのですか。わたしら凡人には暇そうにしか見えませんが……」
「お前らには分からんだろうが、おれは本当に忙しいんだ。やらなければならないことが山ほどあるんだ」
高野がほとんど本社に説明に行かないため、社長の松野幸吉は心配になって、時折、直接横浜工場に様子を見にくることがあった。本社の秘書室から社長が工場を訪問する旨連絡があると、高野は曲尾と大曽根を呼ぶ。
「松野さんがこれから横浜工場に来るそうだ。おれは考えごとで忙しいから会わない。社長にはお前らが適当に現状を報告しておいてくれ。その間、工場でじっくり考えごとをしている」
松野が工場に到着すると、高野はそそくさと事務所の裏口から工場に逃げ出し、松野が帰ったころを見計らって事務所に戻ってくるのだった。
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第八章 ハリウッドからの挑戦状

1 衝撃の一〇〇〇ドルビデオ
〈ビデオ専用のカメラが開発されてソフトが市場に出回り、ビデオが家庭で自由自在に使えるようになれば、人々の生活や教育もっと|大袈裟《おおげさ》にいえば、社会構造や文化までも変えてしまうだろう。しかし残念ながら目先は市販ソフトがないのでテレビに接続してテレビ番組を録画する機械、ソニーの盛田昭夫会長の言葉を借りていえば、時間を再創造する「タイム・シフト・マシーン」としての使い道しかない。したがって欧州でビデオを普及させるには、まずその国を代表するテレビメーカーと手を組むのが早道だ〉
ビクターの高野が掲げた欧州市場攻略の基本方針である。日本とアメリカのカラーテレビの世帯別の普及率は、一九七〇年代の後半(昭和五十年代)に入ってほぼ一〇〇%に達していたが、欧州諸国のそれはわずか四〇%に過ぎなかった。普及率が低いのは放送時間の長さと無関係ではない。欧州各国のテレビ放送時間は一日平均六時間しかなく、日米両国の二十時間に比べて極端に少なかった。
とはいえ欧州は日米に次ぐ、世界第三の市場である。ここで大きな実績を上げない限り、将来予想される世界規模での規格統一の動きの中で主導権は握れない。
高野は毎年八月下旬から西ベルリンで開かれる世界のエレクトロニクス業界のお祭り「ベルリン国際ラジオ・テレビ展」(通称ベルリンショー)の場を借りて、欧州市場でVHSをデビューさせることを念頭に置いていた。
〈ベルリンショーには世界の家電メーカーが|挙《こぞ》って自慢の製品を展示してくるはずだ。ここで後れを取ったら、欧州制覇は『|泡沫《うたかた》の夢』だな〉
月産一万台体制にメドを付けた七七年七月、高野は開発部長の白石を呼んだ。
「今年のベルリンショーにVHSを展示しようと思う。欧州のテレビ放送はPAL(パル)とSECAM(セカム)の二方式がある。今年のベルリンショーには間に合わないだろうが、事前に欧州方式の規格を決めておきたいんだ。君が中心になってファミリー各社に呼び掛けて、細部を詰めてほしい」
高野の提案に白石は「待っていました」とばかり賛意を表明した。
「われわれ技術屋の目から見て、ベータマックスを欧州の放送方式に合わせるのは大変です。その点、VHSは意外と簡単です。わが陣営の技術者は、緊密に連絡を取り合っており、気心も知れています。欧州仕様は松下を入れた五社の共同規格にすればよいわけですね」
「いや、三菱電機の傘下に入って経営再建を図っている赤井電機も入れようかと思う。何と言っても欧州市場における『AKAI』のブランドは、ビクターなんか足元にも及ばないほど強い。赤井も将来、ビデオの対欧輸出を始めるだろう。それなら今から仲間になってもらっておいた方が何かと便利だ」
同じ日に高野は、製造部長の曲尾定二を呼んだ。
「今月中に開発部の白石君と相談して欧州仕様の試作品を作ってくれ。ベルリンショーに展示する」
「分かりました。今度は欧州ですか。VHSもいよいよ世界の檜舞台に立つわけですね。期日まで何とか数台ほど間に合わせましょう」
曲尾はやや興奮気味に返事をしたが、高野の注文はもっと現実的だった。
「いや四、五台じゃ足りん。最低三十台はほしい」
「そんなにたくさん作っても、ビクターのブースには展示できませんよ」
「そうじゃないんだ。VHSファミリー各社にも展示してもらうんだ。だからどうしても三十台ほど必要なんだ」
「それじゃ、夏休みを返上してでも作ってみせます」
四回目を迎えた七七年のベルリンショーは、家庭用ビデオという目玉商品があるせいか、八月二十六日のオープニングの前から大きな盛り上がりを見せた。ソニー社長の岩間和夫を筆頭に、日本の有力家電メーカー首脳が続々ベルリンへ乗り込み、事前に欧州の有力代理店を集めて翌年からの現地販売計画を明らかにするなど、前宣伝にこれ努めた。
本番のショーでは高野の期待通り、VHSが一手に話題をさらった。ベータ陣営の中には、絵の出ないモックアップの試作品しか展示できないメーカーもあり、よけいVHS陣営の優位性が目立った。日立、三菱、シャープ、赤井の四社はビクターから供給を受けて展示した。自社製品を展示したビクターと松下を含めると、VHS陣営の展示品はゆうに四十台を超した。当然のことながら同じ映像が出るので、デモ効果が大きかった。
ベルリンショーでVHSが脚光を浴びたのには、もう一つ理由があった。ショーが開かれる三日前に、米RCAがニューヨークでビデオの発売計画を発表したからである。発表の骨子は、松下から供給を受けたVHS方式による四時間録画ビデオに、一〇〇〇ドルの小売価格を付け、十月一日までに約一万五千台を全米五千店へ出荷するという衝撃的なものだった。
米国市場ではソニーが前年の七六年九月から、一時間録画ベータマックスを一三〇〇ドルで発売していた。ソニーから二時間録画機種の供給を受けたゼニスは翌年の七月から発売に踏み切ったが、価格はソニーと同じ一三〇〇ドルとした。VHSの開発メーカーであるビクターは、六月にシカゴで開かれたサマーCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)の席で、秋から一二八〇ドルで発売すると発表している。こうしたことから米国の家電アナリストは、最終的にRCAも一三〇〇ドル前後で足並みを揃えると予測していた。
ところがいざフタを開けてみると、RCAはベータ陣営より三〇〇ドルも安い価格を付けた。八月二十三日の円の為替相場は一ドル=二六六円六〇銭。松下が国内で発売した二時間録画機種の「マックロード」の標準小売価格は二十六万六千円だから、発表時点では、松下が生産した二つの製品は偶然にも同じ価格になった。その円が急騰したことから、RCAの製品は国内のマックロードに比べて相対的に安くなったわけだ。
日米市場でそれなりの価格差が出るのは致し方ないが、その場合、例外なく米国市場の方が高かった。ところがRCAの製品に関しては「日本製品でありながら、米国で買ったほうが安い」という珍妙な価格体系ができ上がってしまった。
松下のRCA向け製品の工場出荷価格は五〇〇ドル。これに輸送費、関税、販売経費を合わせて四〇〇ドルほどかかるので当面、赤字は避けられない。にもかかわらずRCAは、クリスマス商戦に向けて四〇〇万ドルの販売促進の予算を組み、『四時間、一〇〇〇ドル、セレクタビジョン』を宣伝文句に、大々的なキャンペーンを展開した、しかも一台買い上げるごとに、プロボクシングの世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリの試合を録画したテープを無料で提供するという“おまけ”まで付ける出血大サービスである。
『セレクタビジョン』の愛称は、RCAが十五年の歳月と一億ドルの資金を投じて自社開発したビデオディスクに付けていたものである。それだけRCAの四時間録画ビデオに対する期待は大きかった。米国市場におけるビデオの販売は、序盤戦から波乱含みとなった。RCAの低価格政策で最も打撃を受けると見られていたソニーは、それから半月後の九月八日。盛田がニューヨークに飛び、二時間機種発表の記者会見に臨んで、大見栄を切った。
「ソニーはこれまで、他社の価格政策に左右されたことは一度もない。今回投入する新機種も従来通りの一三〇〇ドルで発売する」
盛田にはベータマックスの録画時間が二倍になったので、価格据え置きは実質的な値下げという意識がある。そして最後にこう付け加えるのも忘れなかった。
「ソニーは三時間録画できるテープを開発したので、来年から発売します。むろんこのテープは発売中のベータマックスで使えます」
盛田の真意は、ソニーは価格競争には加わらないが、長時間録画競争には真正面から臨むという意思表明である。ソニーの開発した三時間録画テープは、それまでの二時間用のテープを薄くして、長さを五割ほど延ばしたもので、カセットの大きさが従来機種と変わらないのが最大の特徴だった。当然のことながらオートチェンジャーを使えば、六時間録画も可能になる。テープを自社生産しているソニーならではの技術である。
「ビジネスはマラソンと同じで、マイペースを守ったほうが勝ち残る。ビデオ戦争はまだ最初の一マイル地点を通過したに過ぎない」
「適正な利潤を得て、適正な価格で売るのが私の経営哲学だ。ソニーはベータマックスを一〇〇〇ドルで売れないこともないが、それは私の経営哲学に反する」
盛田はアメリカの新聞記者に聞かれるまま持論を披露した。自信の背景となっているのは小型テープレコーダーにおける過去の教訓にあった。小型テレコはソニーが数多くの特許を持っていたこともあり、同業他社が生産できず、一時米国市場で九〇%のシェアを誇っていた。にもかかわらずソニーは普及を図る目的で、惜しげもなく特許を公開した。当然のことながらソニーのシェアは一気に三〇%まで急落したが、逆に市場規模は十倍に膨らんだ。シェアを落としたものの、ソニーの販売台数は飛躍的に増えたのである。
狙いは、ズバリ当たった。ソニーは小型テレコの先駆者ということもあり、同じ機能を持った製品でも『SONY』というブランドが付いているだけで、多少高い値段を付けても飛ぶように売れた。ここで盛田は〈先発メーカーの製品は、ブランドイメージがあるので、値下げしなくとも売れる〉というブランドと価格の相関関係を学んだ。
多くの米国民は家庭用ビデオを開発したのはソニーであり、ビデオ=ベータマックスと信じていた。とはいえ盛田はソニーのブランドを過信していたわけではない。ソナム(ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ=SONAM)は、秋からクリスマス商戦にかけて六〇〇万ドルの宣伝予算を組んでいたが、予定を変更して大半をビデオに投じることになった。
RCAの四時間機種には、ソニーだけでなくVHS陣営も振り回された。最も影響を受けるのが「VHSの開発メーカーであるビクター」というのが業界の一致した見方だった。
高野は一月にRCAの購買担当者が来日して、横浜工場を見学した時点で、RCAが一〇〇〇ドルで売る計画を察知していた。彼はそれを知った上で、ビクター製VHSの小売価格を一二八〇ドルに決めた。その後、RCAの価格が公表されたわけだが、ビクターの発売時期は十月ということもあり、それを見た上で販売価格を変更しても混乱は起きないと読んでいた。価格改定を巡って社内では|侃々諤々《かんかんがくがく》の議論が巻き起こった。
「VHSのマークを付けたRCAの録画時間は四時間、しかも一〇〇〇ドルときては、いくらうちがVHSの開発メーカーだと胸を張っても、勝負にはなりません。事業部長、何とかRCAに近い値段まで下げてもらえませんか」
ビクターの米販売会社、JVCアメリカ社長の堀重彦は、|急遽《きゆうきよ》、帰国して高野に直訴したが、高野はまったく相手にしなかった。|因《ちな》みにJVCというのは、ビクターが海外市場で使っているブランドの名前である。
「あんたがたは売るのが仕事だろう。売る前からそんな弱気でどうするんだ。戦う前から白旗を掲げるつもりか。いいか、VHSは二時間録画が最適なように設計してあるんだ。ビデオは最初こそタイム・シフト・マシーンとして使われるが、機械が普及してソフトが出回る時代になれば、長時間録画機種は無用の長物になってしまう。将来のソフト時代の到来を見据えて、二時間録画機種を普及させるのが、あんたがたの仕事だろう」
高野にこう諭され、堀はRCAが一〇〇〇ドルビデオを発売した後も、値下げせずに踏ん張った。そして彼はマスコミから聞かれてもやせ我慢を通した。
「セレクタビジョンの発売後もわが社の受注は増えており、このままでは注文に追い付けない」
微妙な立場に立たされたのがRCAに製品を供給している松下だった。松下はこの年の正月明けから系列のクェーザー事業部で、松下寿電子工業が開発した『VX2000』の発売に踏み切った。国内仕様の録画時間は九十分だったが、社長の稲井隆義の陣頭指揮のもと、改良を進め米国向けは二時間録画に改良して、これに「グレート・タイム・マシーン」という愛称を付けて売り出した。小売価格は九九五ドルで、米国市場では「唯一一〇〇〇ドルを切るビデオ」を売り物にした。
VX2000の国内販売は松下がVHSの採用を表明して以来、売れ行きはバッタリ止まった。それだけに米国市場に対する期待は高まっていた。低価格が売り物のところへ、その面でもRCAに並ばれ、九月末には二〇〇ドルの値下げに踏み切ったが、回復の決め手にはならなかった。
もう一つのパナソニック事業部は、RCAとの競合を避けるため二時間専用機種の投入を検討していたが、セレクタビジョンの好調な販売を目の当たりにして、方針を百八十度転換した。十月十八日に米国松下が発表した四時間機種の価格は一〇九五ドル。RCAより一〇〇ドル弱高く、ソニーより二〇〇ドル強安い。松下らしく考えに考えた揚げ句の価格だった。
その後、クェーザー事業部もVXに見切りを付けて四時間機種を扱うことになるが、こちらの価格はVXと同じ九九五ドル。松下は不本意ながら、先陣を切って価格競争に参加せざるを得なくなった。松下の四時間機種の投入を機に、ソニーも価格競争に巻き込まれた。ニューヨークの安売り店で、ベータマックスの小売価格は一一〇〇ドルを割り込んだ。それでも盛田は|鷹揚《おうよう》に構えていた。
「ニューヨークは例外。どこにでも有名ブランド商品に安い値段を付け、客寄せの手段に使うディスカウントストアはある」
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2 四時間録画機種、米国で大勝利
表向き孤高を保っていたソニーだが、事態はクリスマス商戦を目前に控えた十一月に入って急転した。ソニーから供給を受けているゼニスが四日になって突然、「販売市場で主導権を握る」と称して三〇五ドルの大幅値下げに踏み切ったからである。新価格は九九五ドル。ゼニスは序盤戦でRCAとの三〇〇ドルの価格差を埋め切れず、ソニーの了解なしに、なりふりかまわず大幅値下げに走ったのである。日本メーカーはゼニスのやり方に|唖然《あぜん》としたが、米国では「ゼニスならやりかねない」と比較的冷静に受け止められた。
ゼニスは追いつめられていた。「当社のカラーテレビは一〇〇%米国人の手で作られています」というキャッチコピーを錦の御旗に、これまでありとあらゆる手段を使って日本の家電製品の締め出しをはかってきた。裁判|沙汰《ざた》は日常茶飯事で、日本の家電業界ではいつしか誰ともなしに、“訴訟屋ゼニス”と陰口を叩くようになった。
値下げに走る四十日前の九月二十七日。それまでの経営方針を百八十度転換する会社再建策を発表した。再建策はただちにビデオディスクや薄型テレビなど未来商品の研究開発部門を縮小。続いて一年以内にカラーテレビのモジュールボードとシャシーキットの組み立て生産をメキシコや台湾に移し、さらにステレオは米国生産をやめ、日本メーカーからOEM(相手先ブランドによる生産)で調達するという大掛かりなものである。
一九七六年の売上高は、九億七八五〇ドル。フォーチュン誌によるランキングは、二百三十位と中堅企業の域を出ず、企業規模ではRCAの足元にも及ばない。ただしことカラーテレビに関しては七三年にRCAを抜いてトップメーカーとして君臨していた。
その立役者が最高経営責任者(CEO)兼会長のジョン・ネビンである。フォード・モーターから引き抜かれたネビンは就任早々、「……米国人で作っている」というキャッチコピーを作り、カラーテレビ事業にすべての経営資源を注ぎ込み、七三年にはRCAを抜いて念願のトップメーカーに躍り出た。
対照的にRCAは本業の電子機器、通信機器、放送、レコード事業に飽き足らず、不動産、レンタカー、書籍販売からじゅうたんの製造、果ては冷凍食品まで手掛ける多角経営を推進した。ところが経営資源を分散させた多角経営が破綻、再建役として経理出身のグリフィスが社長に起用された。
だがゼニスの好調は長くは続かなかった。高収益を維持するため、値の張る大型のコンソールタイプにしがみついたのが完全に裏目に出た。六六年のピーク時に全売り上げの四分の三を占めたコンソールタイプは年々低下して、七七年には三〇%まで落ち込んでしまった。高価格政策が破綻したところに新型ブラウン管での失敗が追い打ちをかけ、一気に経営不振が表面化した。ポスト・カラーテレビの大型商品のビデオで、ゼニスはソニーを“勝ち馬”と見て、ベータ規格を採用したわけだが、ライバルのRCAが採算を無視したシェア獲得作戦に出た以上、それを黙って見過ごすわけにはいかない、ゼニスは収益ダウンを覚悟し、あえて大幅値下げに踏み切ったのである。
ベータ陣営から落伍者が出たとあっては、ソニーの足元に火がついたも同然である。同じメーカーの製品でありながら三〇〇ドル以上もの価格差がついては『SONY』のブランドをもってしても、高価格政策を維持するのは難しい。ゼニスの突然の値下げから十日後、ソナム(ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ=SONAM)は、ひっそりとベータマックスの価格を一〇九五ドルに引き下げると発表した。追随値下げはソニーの歴史の中で、屈辱的な政策変更である。
それでもゼニスより一〇〇ドル高く、パナソニックと並ばせたことで、何とか面目を保った。だが米国市場で大きな影響力を持つソニーが値下げに踏み切ったことで、価格競争に歯止めがきかなくなった。最後まで値下げに抵抗してきたビクターも、流れに抗し切れず一〇五〇ドルへ値下げを余儀なくされた。米国市場におけるビデオ販売の実勢価格は、早くも一〇〇〇ドル未満の“三ケタ時代”に突入した。
実はこうした乱売合戦の中で、ひとりほくそ笑んでいたのが松下である。社長の松下正治の言葉を借りていえば、「RCA向けの四時間機種は採算を無視し、神に祈る気持ちで契約した」経緯がある。この製品がヒットしなければ。日本最大の家電メーカーの松下といえども屋台骨が揺らぎかねないほど、甚大な損害を受けたはずだ。
だが結果的に松下はメーカーとして、劇的ともいえる勝利を収める。松下はRCAと契約した後、米国の家電メーカーに四時間機種の売り込みをかけた。各社ともRCAの販売動向に注目していたが、ソニーを凌ぐ勢いで売れ出すとみるや、競って松下との契約に走った。|雪崩《なだれ》現象が起きたのである。
それを象徴するのがゼネラル・エレクトリック(GE)である。アメリカ市場におけるカラーテレビの販売シェアは、六〜七%でゼニス、RCA、シアーズ・ローバック、ソニー、マグナボックスに次いで六位に甘んじていたが、総合電機メーカーとしての知名度は群を抜いている。
GEは発明王のトーマス・エジソンが、電気事業に乗り出すため作った会社である。最初の社名にはエジソンの名前が冠してあったが、その後、経営権を金融資本家のモルガン一族に奪われたことで、社名からエジソンの名前が消し去られた。それでも電機業界の名門企業には代わりはなく、GEがベータとVHSのどちらの規格を選択するかで、米国の販売戦線に少なからず影響を与える。
最初にGEの取り込みに意欲を燃やしたのが、何事につけても一流好みのソニー会長の、盛田昭夫だった。すでにテレビのトップメーカー、ゼニスは手中に収めた。次なる標的をGEと世界最大の小売り流通業者、シアーズ・ローバックに定めていた。GEはベータ陣営に入った東芝の筆頭株主であることから、売り込みは東芝があたることになった。
東芝の家電担当者は、六月にソニーから供給を受けた製品をGE本社に持ち込んで売り込んだが、GEからは明快な返事が返ってこない。このため東芝とソニーは「GEは当分、家庭用ビデオ市場には進出しない」と判断した。
一方、シアーズへの売り込みはカラーテレビをOEM供給している関係で三洋電機があたった。三洋は米国の保護主義の台頭に対処して、七六年十月に米ワールプールの子会社で小型テープレコーダーを生産していたウォーイック社を買収して、カラーテレビの現地生産に乗り出した。実はこれを仲介したのが誰あろうシアーズである。両社の関係は他社がうらやむほど仲が良く、東芝のGE攻略のもたつきぶりをよそに早々と八月に交渉をまとめ上げた。
ところが沈黙を守っていたGEが、RCAの四時間機種の発売と同時に動き出した。GEが製品供給を要請したのは、東芝とライバル関係にある日立製作所である。GEの家電担当副社長のスタンレー・ゴールは九月中旬、東京駅前の新丸ビルにある日立本社に、社長の吉山博吉を訪ねた。
「GEはこれまでビデオ戦争の行方を見守ってきましたが、米国ではどうやらVHS方式、それも四時間録画機種が主流になりそうです。GEも四時間機種を採用することを決めました。そこで完成品を日立に供給してほしいのです」
日立が十月からVHSの自社生産に踏み切ることは、すでに内外に知れわたっていた。むろん生産するのはビクターと同じ二時間機種である。これを踏まえて吉山は答えた。
「申し訳ありませんが、今のところ日立は四時間録画機種を生産する計画を持っておりません」
それでもゴールは一歩も引き下がらなかった。
「それではGE向けに特別に四時間機種を生産してもらえませんか」
「残念ながらわれわれはVHSの二時間機種を生産するのが精いっぱいです。それよりGEさんも二時間専用機種を販売なさったらいかがですか。この機種なら要望にお|応《こた》えできます。私どもは目先四時間機種が脚光を浴びても、最終的には米国市場で二時間機種が主流になると信じております」
吉山は逆提案したわけだが、ゴールは即答を避けた。
「興味のある提案ですが、副社長とはいえ私の一存で返事をできかねます。帰国後、検討してみます」
日立も東芝同様、戦前からGEの経営手法を取り入れているが、資本関係はない。にもかかわらずGEが日立にOEM供給を依頼してきたのは、この時期、両社が水面下でカラーテレビでの業務提携交渉を進めていたことによる。提携の骨子はGEがカラーテレビ部門を分離し、そこに日立が資本参加するというものである(この計画は米独占禁止法に抵触することから、後に白紙還元された)。
GEが日立に委託生産を申し込んだことは、まもなく東芝の耳に入り、社長の岩田弍夫が渡米してGEの最高首脳に直談判したが、GEのVHS規格採用を覆すまでには至らなかった。
一方、GEのゴールも帰国後、役員会で日立からの逆提案を報告したが、すでに四時間機種に傾いている流れを変えることができなかった。そして十一月に入ると、四時間機種の開発メーカー、松下に供給を申し入れた。GEが東芝との資本関係、日立との業務提携交渉を無視し、なじみの薄い松下に頭を下げてまで四時間機種にこだわったのは、松下とRCAの連合軍こそビデオ戦争の“勝ち馬”と判断したからにほかならない。
ともあれ四時間機種を採用したのはRCA、GE、マグナボックス、GTEシルバニア、カーティス・マテス、モンゴメリー・ワードの六社となった。これに松下のパナソニックとクェーザーの二つのブランドが加わるので、実に八ブランドが松下製ということになった。松下製ビデオの販売シェアは年末には早くも六〇%に達した。
米国の消費者は競って松下製のビデオを購入したわけである。これだけ数が揃えば、松下の生産性は上がり収益も好転する。米国市場を舞台にしたビデオ戦争は、カラーテレビの二大メーカーのゼニスとRCAが、それぞれソニーと松下の両陣営に付いたときからある程度予測されたが、それがRCAの発売から数カ月経た段階で、現実のものになった。
米国市場でビデオ市場を開拓したのは紛れもなくソニーである。国内販売に踏み切った半年後の七五年十月。ソニーはトリニトロン・カラーテレビに内蔵させたベータマックスを最初に米国市場に投入した。小売価格が二三〇〇ドルと高く、まだテスト販売の域を出なかった。ソニーはビデオが米国の消費者に果たして受け入れられるかどうか、自信がなかった。そこで、最初に航空パイロットやマスコミ関係者など、時間に不規則な高収入層の需要を狙った。彼らにとって、休日にゴールデンタイムの番組を見ることができるベータマックスの登場は、まさに福音だった。
これに自信を得て翌七六年二月に、専用デッキを発売した。まずこれにマニアが飛びついた。一二九五ドルという価格は確かに高かったが、インフレ率を考慮すると、一九五〇年代に登場したカラーテレビとほぼ同じレベルであった。さほど宣伝をしなかったにもかかわらず、ベータマックスはマニアと金満家を中心に飛ぶように売れ、七六年に二万五千台と踏んでいた販売目標台数は、夏を待たずに達成した。つれてテープも売れ出した。二十五万本の在庫はたちまちなくなり、消費者団体から〈ソニーは替え刃を用意せず、カミソリを売り付けているようなものだ〉との苦情が相次いだ。
うれしい悲鳴だが、この時期ソニーは日本国内で苦境に立たされていた。ベータとVHSの規格統一が暗礁に乗り上げ、日本ビクターがVHS陣営の先陣を切る形で新製品の発表に踏み切ったからである。盛田は水面下で懸命に切り崩し工作を進めていた。くら替えの可能性が出てきたのが東芝と三洋だった。両社をくら替えさせる切り札は、「ソニーのベータマックスは、米国で大評判をとっている」ことを見せることだ。
まず米国で評判をとり、それを国内に持ち込むのはソニーの得意技である。米国ではクリネックス(Kleenex)やゼロックス(Xerox)のように、Xで終わる製品がヒットの条件とされていたが、ベータマックス(Betamax)もその条件を満たしていたこともあり、短期間でその仲間入りを果たした。
だがヒット商品の常で、初期需要が一巡すると、販売は急速に低下する。消費財はここからが勝負である。ソナムはブームを維持するため、ただちに全米キャンペーンに取り組んだ。そして秋の商戦に向けて、広告代理店のドイル・デーン・バーンバック社にテレビCMの製作を依頼した。
夜勤明けのタクシーの運転手が、「さあ、これから家に帰って夕べのゴールデンタイムの番組を見るぞ」と、同僚の運転手に声を掛けて帰宅する。
別のCMでは吸血鬼のドラキュラ伯爵を起用した。伯爵がベータマックスのスイッチを入れ、独特の低音で視聴者に語りかける。
――わが輩同様、夜勤の諸君。ビッグなテレビ番組をずいぶん見逃しておられるのではないかな?
しかしわが輩にはそんな悩みはなくなった。どんなテレビにも接続できるソニーのベータマックスのお陰でな。わが輩の留守中にも、ベータマックスは自動的にわが輩のひいき番組をビデオ録画してくれる。わが輩は帰館してから、それを再生して楽しむというわけだ。
では、これから楽しませていただくとしよう――。
そしてCMの最後にヒッチコック劇場のテーマ音楽が流れるという、手の込んだ作品である。この一連のCMがハリウッドのみならず、ワシントンまで巻き込んだ一大著作権紛争に発展するとは、この時まだ誰も予想していなかった。
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3 追いつめられた映画の都
テクノロジーの発達史は、パイオニアと保護主義者との闘争の歴史でもある。映画の都・ハリウッドの体質は保守的だ。しかもテクノロジーに対して、神経質なまでに恐怖感を抱き、新しい技術の導入に対して常に拒絶反応を示す。だが皮肉なことに、知らず知らず新しいテクノロジーを取り入れたことで、さらなる発展を遂げた。テレビ、ビデオしかりである。
映画は戦前「活動写真」と呼ばれていたが、フィルムを一定の速さで進める写真機の構造を考え出したのが、発明王、トーマス・エジソンである。このとき彼の使った35ミリというフィルムの幅は、今でも映画の標準になっている。
エジソンは一八七七年、三十歳の時に蓄音機を発明して一躍脚光を浴びたが、「キネトスコープ」と名付けた活動写真の映写機を発明したのは、それから十二年後の一八八九年のことである。エジソンが考案した映画は、機械が組み込まれた小さな箱の中に映し出される映像を、一人ずつ中身を見るのぞきメガネ方式だった。
キネトスコープとボクシングの試合や動植物の生態を収めたフィルムは、一八九四年四月十四日、ニューヨークのブロードウェーの「キネトスコープ館」で上映された。観客は料金の二五セントを握りしめ、のぞきカラクリ箱に殺到したという。
にもかかわらずエジソンは、特許申請段階で二つの過ちを犯したことから「映画の父」という栄誉に浴すことができなかった。一つは申請項目にスクリーンを使う可能性を盛り込まなかったこと。もう一つはヨーロッパで特許を申請しなかったことである。
栄誉に浴したのは、三色カラー写真の発明や戦傷者用の義手義足を開発したことで知られるフランスの発明家、オーギュストとルイのリュミエール兄弟である。二人の兄弟はエジソンがキネトスコープ館で上映した一年八カ月後の十二月二十八日。パリ・オペラ座近くにあるグラン・カフェ地下のインド風サロンで「シネマトグラフ」と名付けた活動写真映写機を使った有料の試写会を開いた、兄弟が追求したのは、多くの人が同時に同じ映像を見ることができるスクリーン方式だった。
のぞき箱のキネトスコープと、スクリーンを使うシネマトグラフの違いは決定的だった。「シネマ」という言葉は、いつしか映画の代名詞となった。こうして誕生した映画はその後、半世紀にわたり娯楽の王様の座に君臨した。その座に揺さぶりをかけたのが、高柳健次郎が発明した電子式のテレビジョンである。
映画が登場してすでに百年が過ぎた。前半こそ「わが世の春」を|謳歌《おうか》したが、後半の半世紀はスクリーンを守ろうとする保守的なハリウッドと、テクノロジーの担い手であるエレクトロニクスメーカーとの戦いの歴史でもある。
保守主義者にとって敵ともいえるパイオニアの代表企業がソニーだった。国際企業としてのソニーの礎は、一九五〇年代に開発したテープレコーダーによって築かれた。ソニーはこの市場を独占支配していたにもかかわらず、特許を公開したことは前にも述べた。ソニーがテープレコーダーで目先の利益にこだわり、特許の公開を拒んだとしたら、今日の発展はなかったであろう。
ソニーの天才技術者・木原信敏は、ベータマックスの開発を終えた時点で、次なる新製品の8ミリビデオの開発に着手していた。ソニーとしては、8ミリビデオを大型商品に育て上げるには、その前に二分の一インチのベータマックスを成功させなければならない。
ベータマックスを米国市場に投入した時期は、市場開拓の苦労があったにせよライバルと呼べるメーカーもなく、一人「無人の広野」を行くようなものだった。七六年二月に米国市場に投入したベータマックスは、マニアや金満家の間での評判は上々だった。問題はこのテレビ番組を録画する機械をどうやって一般大衆に広めるかである。
コンソールタイプのテレビに組み込んだ時代は、「録画したテープをどこに行けば現像してもらえるのか」とユーザーから問い合わせが来るほど、ビデオについての知識は薄かった。
ソナム(ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ)が広告代理店のドイル・デーン・バーンバック(DDB)社に依頼して製作したテレビCMはどれも評判になった。これに気を良くしたソナムは、八月に入ると、早くもクリスマス商戦に向けて、今度は新聞向けの広告の製作を発注した。DDB社はビデオが消費者にとって身近な商品であることを印象付けるため、次のような広告素案を考えた。
「コロンボを見ていても、これさえあればコジャックを見逃すことはなくなります。その逆もありません。『ベータマックス』――イッツ・ア・ソニー」
『刑事コロンボ』と『刑事コジャック』は、ユニバーサル映画が配給している人気テレビドラマの双璧で、NBCとCBSが毎週水曜日の夜九時の同じ時間帯で放送していた。ビデオが登場する前だったら、視聴者はどちらか一方しか見ることができない。ところが『コロンボ』を見ながら、ビデオを使って裏番組の『コジャック』を録画しておけば、二つの番組を見ることが可能になる。この新聞広告の素案にソナム社長、ハーベイ・シャインをはじめとする幹部は満足した。
〈ユニバーサル映画は、さぞかし看板番組の|潰《つぶ》し合いに悩んでいるだろう。ソナムがこのCMを流せば、悩みは解決できる。したがってユニバーサル映画からは、|諸手《もろて》を挙げて賛成してもらえるに違いない〉
ソナムの経営幹部は、勝手にこう判断してユニバーサル映画の了解を得ずに、問題の新聞広告を製作した。九月に入るとDDB社は、広告業界の慣例に従ってユニバーサル映画の法務部に新聞広告の素案を送った。むろん承諾書を同封するのを忘れなかった。
ユニバーサル映画とその親会社、MCAの社長を兼ねる弁護士上がりのシドニー・シャインバーグは、法務部から上がってきた新聞広告の素案を見て激怒した。
「ユニバーサル映画もMCAも、映画やテレビドラマを製作して、それを配給するのが商売なんだ。NBCとCBSは意識してユニバーサル映画が製作した番組を、同じ時間帯にぶっつけている。それはわれわれの製作したドラマが優れているからだ。
それなのにこの機械(ベータマックス)は、著作権で保護されているわれわれの作品をコピーする目的で作られたものだ。これは明らかに著作権の侵害だ。放置すればユニバーサル映画とMCAの屋台骨が揺らいでしまう」
法律の専門家であるシャインバーグの目には、紛れもなくベータマックスが、自分たちが苦労して作り上げた映画やテレビ番組といった知的財産を盗む機械と映った。それから一週間後。シャインバーグはMCA会長のルー・ワッサーマンと一緒にソナムの本社にソニー会長の盛田昭夫とソナム社長のシャインを訪ねた。
ソニーは六〇年二月に、ニューヨークにソナムを設立、エンパイアステートビルとダウンタウンの中間に位置するブロードウェー五百十四番地に事務所を構えた。マンハッタンを南北に貫くブロードウェーに面しているとはいえ、劇場や映画館が集中している繁華街のタイムズスクエアとは、いささか趣を異にしていた。
この辺一帯はかつてニューヨークの中心だったが、年々寂れソニーが事務所を構えた当時は機械、家具、織物の問屋が軒を連ねていた。一歩裏通りに入れば、荷物を積み下ろしするトラックが頻繁に出入りしていた。ソニーは古びたビルの一角に三三平方メートルの小さな城を構え、ソナムの看板を掲げた。
それから十六年後。ソナムの本社はソニーの発展を象徴するように、マンハッタンのど真ん中、五番街とマジソン街の五十七番通り西九番地の凹型の正面構造が印象的な真新しいビルに移っていた。四十三階にある盛田の部屋からは、G5(先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議)のプラザ合意で一躍有名になったプラザホテルの特徴的な切妻屋根が真下に見え、その向こうにセントラルパークが一望できる。
MCAのニューヨーク支社はソナムの目と鼻の先、パークアベニューと五十七番通りの交差点にあった。MCAとユニバーサル映画は、米テレビの三大ネットに番組を供給していた。ソニーも三大ネットに放送用ビデオ機器を売っている関係で、両社のトップはそれほど親密ではないにしても、顔見知りだった。
ソニーがトリニトロン・カラーテレビに内蔵したベータマックスを発売した直後、ワッサーマンとシャインバーグから「ソニーは素晴らしい製品を開発されました。本当におめでとう」という内容の祝いの手紙をもらっている。盛田は今度もお祝いの挨拶と信じきっていた。時間が夕刻ということもあり、別室にディナーを用意させていた。会談が終われば、有名レストランから呼んだコックが料理を出すことになっている。この日の会談の結果が、八年に及ぶ著作権裁判の端緒を開くとは、まだ誰も予想していなかった。
MCAはハリウッドの中でも特異な会社であり、会長のワッサーマンと社長のシャインバーグは揃って個性的な経営者として一目置かれていた。ベータマックスの著作権裁判は、MCAの歴史に加え、トップ二人の人柄と経営哲学が大きく影響している。MCAはシカゴの眼科医で、音楽狂だったジュールズ・スタインが、世界恐慌の嵐が吹き荒れた一九二九年に音楽プロダクションとして設立した会社である。MCAの社名は「ミュージック(M)・コーポレーション(C)オブ・アメリカ(A)」の頭文字から取ったものだ。
スタインはMCAを全米一の音楽プロダクションに育て上げ、第二次世界大戦後の四六年に社長を退き、最高経営責任者(CEO)兼任の会長となった。スタインが後任社長に選んだのが秘蔵っ子ともいうべき三十三歳のワッサーマンである。彼の|辣腕《らつわん》ぶりはつとに知られていた。それが社長就任後に遺憾なく発揮された。最初の仕事が、有名芸能人と次々にエージェント契約を結んだことである。ヘンリー・フォンダ、ジェームズ・スチュワート、キャサリン・ヘップバーン、グレゴリー・ペック、マリリン・モンロー、ディーン・マーチン、アルフレッド・ヒッチコック、フランク・シナトラ……。
ワッサーマンは映画俳優のみならずありとあらゆる分野の芸能人とエージェント契約を結んだ。それを可能にしたのは、五二年に映画俳優組合(スクリーン・アクターズ・ギルド)から、エージェント契約の重複を解禁する権利をもぎ取ったことにある。当時の俳優組合の委員長が後の大統領、ロナルド・レーガンである。レーガンは一九三〇年代にワーナー・ブラザースの専属俳優としてデビューしたが、ハリウッドで彼の名前は、俳優としてよりもアカデミー賞女優のジェーン・ワイマンの夫として知られていた。
レーガンが権利を放棄したのは、俳優の雇用拡大につながると判断したからだ。その恩恵を最も受けたのがレーガン自身である。ワッサーマンはMCAと契約を結んだレーガンのために、「ゼネラル・エレクトリック(GE)劇場」のホスト役を用意。さらに当時としては破格の一〇〇万ドルの契約金を払ったという。レーガンとワイマンの結婚生活は、彼女がアカデミー賞に輝いた四八年に終止符を打った。そしてレーガンは五二年に当時新進女優として注目されていた現夫人のナンシー・ディヴィスと再婚する。しかし映画俳優としては、B級映画の主演の仕事しか回ってこなかったことから、次第に政治活動に積極的になり、六六年にハリウッドの地元、カリフォルニア州知事選挙に名乗りを上げ、それを足掛かりに、大統領に上りつめた。
いずれにせよワッサーマンの政治力は、レーガンが政治家に転身したことで一段と増した。ワッサーマンが打ったもう一つの手が、テレビへの進出である。アメリカでは五五年にテレビの世帯普及率が九七%に達したが、ワッサーマンはその普及を見越して五〇年代に入ると、テレビ番組の製作に乗り出し、意識的に草創期の三大ネットの一つで、RCA傘下にあるNBCとの関係を強化した。一時はNBCのテレビ番組の半数以上を手掛けていた。その余勢を駆ってCBSにも食い込み、まずテレビ業界での立場を不動のものにした。
六〇年代に入ると、ワッサーマンはタレントプロダクションを解散、続いて六二年にはユニバーサル映画を買収した。映画スタジオを手に入れたMCAは、数多くのテレビ・ヒットシリーズを製作。量の多さと堅実な配給ペースは、ハリウッドの同業者をして、“ユニバーサル工場”と|揶揄《やゆ》された。
ワッサーマンのテレビ重視の経営はハリウッドでは白い目で見られたが、映画の分野でも短期間で地歩を固めたのは、俳優を味方につけたからにほかならない。彼はジェームズ・スチュワートとの間でハリウッド史上初めて、通常の出演料のほかに、映画の興行成績に応じて歩合が支払われる契約を結んだ。ハリウッドの主演俳優が今なお途方もないギャラを手に入れることができるのは、ワッサーマンのお陰である。
MCAの強みは、借金がないことである。映画産業は水物で、ヒット作に恵まれれば、膨大な利益を手にすることができるが、失敗作が続けばたちまちにして会社が傾いてしまう。その点、MCAはディズニーランドの小型版ともいうべき「ユニバーサルシティ・スタジオ」をはじめとする膨大な不動産のほかに、一億七五〇〇万ドルの現金を持っていたことから、たとえ数年間ヒット作に恵まれなくとも、経営基盤が揺らぐ心配はなかった。
ワッサーマンの経営手腕は年々高まった。これに政治力も加わり、業界内外での影響力も出始め、いつしかハリウッドの“ドン(首領)”として君臨するようになった。そして七三年に社長の座を秘蔵っ子のシャインバーグに譲り、自らは会長に就任した。シャインバーグの新社長としての初仕事は、娯楽産業の将来を探ることだった。
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4 “爪の経営哲学”
映画の都・ハリウッドは一九四〇年代後半から五〇年代の前半にかけて、最新の映像メディアともいうべきテレビの脅威にさらされていた。映画の製作本数は、最盛期の六割まで落ち込んでしまった。不振を象徴したのが第三十五代大統領ジョン・F・ケネディの父親、ジョセフ・ケネディが事実上の創業者だったRKOが消滅したことだった。
ジョセフは十九世紀にアイルランドからアメリカに渡ってきた移民の三代目で、一九二〇年に始まった禁酒法の時代に、故国で醸造されたウイスキーの『ヘイグ』を、薬用酒と称して輸入したことで巨万の富を築き上げた。その豊富な資金にものをいわせ、二六年にFBO(フィルム・ブッキング・オフィス)という映画会社を買収して、ハリウッドに乗り込み、大手家電メーカーのRCAと協力し、短期間でFBOを大手映画会社のRKOに育てた。
RKOはその後、億万長者のハワード・ヒューズが買収したが、不振から脱却できず五五年にゼネラル・タイヤ&ラバー社に売却した。そしてその二年後に消滅の運命をたどった。原因のすべてはテレビの出現にあった。テレビは白黒からカラーに移行したことで、映像メディアとしての商品価値が一段と高まった。にもかかわらずハリウッドの製作現場は、危機感が薄かった。
「アメリカ人はもともと群れあうのが好きな国民なんだ。したがって家の中でテレビを見ているより、大勢の人が集まる映画館に足を運ぶんだよ」
こうした風潮が幅をきかしていたが、いつまでたっても観客動員数の減少に歯止めがかからない。そしてようやく「家にいて映画と同じ内容の映像が見られるのに、わざわざ映画館に足を運んで大金を払うわけがない」ことに気が付いた。
ハリウッドが再生するきっかけは二つあった。一つはスクリーンを大型化して、テレビの画面では絶対実現できない超大作主義に走ったこと。五六年に封切られた『十戒』は、大作主義のはしりであり、演劇が映画の登場によって質を高めたように、映画もテレビの登場で質を高める方向に走りだし、今日のSFX(特殊効果)映画につながった。
もう一つはテレビを敵視せず、自前のスタジオを利用してテレビドラマを手掛けるようになったことである。MCAの傘下に入ったユニバーサル映画の成功が、それに拍車をかけた。ドラマの製作ノウハウをふんだんに持っているハリウッドは、いつしか最大のテレビ番組提供業者になった。
ハリウッドの財産は極論すれば、映画のライブラリーしかない。この財産をいかに活用するかに命運がかかっていた。MCAはライブラリーの保存に、ハリウッドの中で最も神経を|尖《とが》らせていた。会長のワッサーマンと社長のシャインバーグが作り上げた“爪の経営哲学”である。
「誰かがMCAの爪の先を|掠《かす》め取ろうとすれば、われわれは断固厳しい制裁をもって応じる。なぜならこれを放置すれば、次には指、その次は腕、そして全身という具合にむしり取られてしまう」
ハリウッドが八〇年代に入って、映画に信じられないほどの巨額の資金を投じることができるようになったのは、「リリースウインドー」と呼ばれる考えが定着したことによる。映画はまず劇場で封切られ、六カ月を過ぎるとビデオ化される。さらにそれから半年後に有線テレビで流され、さらにその一年後に今度はABC、CBS、NBCといったネットワークテレビで放送される。
現在、新作映画をニューヨークのマンハッタンで見れば、八ドル五〇セントの料金を取られる。半年後にビデオになり、それで見ようとすれば三ドル五〇セントのレンタル料金で済む。有線テレビの月額料金は一二ドルで、五十本の映画が見られる。ネットワークテレビは無料である。つまり映画はよほどの名作でない限り、時間がたつほど資産価値が減っていく。
ハリウッドの経営者の最大の仕事は、リリースウインドーのタイミングをコントロールすることである。ソニーとMCAにとって不幸なことは、当時はまだリリースウインドーの概念が定着していなかったことだ。ビデオはむろん有線テレビもなく、映画は劇場で封切った後の活用策といえば、ネットワークテレビに流すしかなかった。
ワッサーマンは三大ネットに流すまでの間、ライブラリーの活用策をシャインバーグに命じていた。彼は保守的な体質のハリウッドにあって唯一、テクノロジーを理解できる経営者だった。そして彼はプラスチック製のディスクに記憶された画像をレーザー光線を使って識別して、テレビのブラウン管を通して高画質の映像を再生するビデオディスクの開発を思い立った。シャインバーグはこのビデオディスクに自信を持っていた。
「この分野の先駆者ともいうべきRCAが失敗したのは、ソフトを持っていなかったからだ。その点、MCAにはうなるほどの映像ソフトがある。ビデオディスクには録画機能がないので、MCAが製作した映画やテレビドラマの海賊版が出回る心配もない」
シャインバーグは七三年の社長就任を機に、『ディスコビジョン』と名付けたビデオディスクの開発に取り組んだ。研究開発のため数百万ドルの資金をつぎ込み、ディスクを生産する子会社も設立した。そのMCAにも泣き所があった。独自にシステムを開発しても、メーカーでないため再生装置(プレーヤー)を作ることができないことだ。そこで彼は有力な外注先として、ソニーに目を付けた。
ディスコビジョンが完成まであと一歩の段階に差しかかったとき、広告代理店のドイル・デーン・バーンバック社から『刑事コロンボ』と『刑事コジャック』をモチーフに使ったベータマックスの新聞広告の素案が送り付けられてきた。シャインバーグは広告素案を|一瞥《いちべつ》して、即座に〈これはわれわれの“爪の経営哲学”に対する重大な挑戦〉と受け止めたわけである。むろんソナムに乗り込む前に、MCAが使っているローゼンフェルド・メイヤー・アンド・サスマン法律事務所にビデオによるテレビの録画が、著作権関係法案に抵触するかどうかを徹底的に調べさせた。
米国の著作権法は一九〇九年に制定されたが、実情に合わなくなったとの批判から十五年にわたる審議の後を受けて、八一年から新しい著作権が制定されることになっていた。新しい著作権法にはコンピューターソフト、複写機、有線テレビなどが何らかの形で盛り込まれることになっていた。法令に盛り込まれた製品は、「関連企業がすでに被害を受けている」として、著作権で規制するよう政府に働きかけた成果でもある。
ところがテレビ番組の録画については、新しい法令案には一言も盛り込まれていなかった。ビデオに関してはどこからも不満の声が上がらず、新しい著作権法で規制する動きもなかった。新しい法案にビデオを追加するようワシントンに働きかけるには、時間がなさすぎる。改正前の著作権法には映画やテレビの再生権は著作権所有者が独占的に有することが規定されているに過ぎなかった。注意深く読むと一つだけ免責条項があった。
「公正使用」
この言葉で著作権侵害めいた行為が容認される仕組みになっていた。それでは公正な使用とは何か。新しい著作権法では「批評、評論、ニュース報道、教育、学術研究……などの目的のためなら公正な使用になりうる」ことが明記されていた。ローゼンフェルド法律事務所は、何が公正使用で、何が公正使用でないかの規範と過去の判例を徹底的に調べ上げた上で、「家庭でのビデオ録画は公正使用に当たらない」との結論を出した。
当時、ベータマックスはまだマニアや金満家にしか普及していなかったが、普及率が高まってからでは、法廷に販売差し止め要求を出しても、回収するのは困難である。シャインバーグは法律事務所が出した見解に満足してソナム本社に向かった。
MCAにとって最良の結果は、ソニーがベータマックスの生産を中止するか、生産中止が無理なら著作権侵害を認めた上で著作権使用料を払ってもらうことだった。欲をいえば『ディスコビジョン』のプレーヤーを委託生産してもらえれば万々歳である。
ソニーは会長の盛田昭夫とソナム社長のハーベイ・シャインが応対した。ワッサーマンとシャインバーグの厳しい顔付きを見て、盛田は悪い予感がした。二人は儀礼的な挨拶を交わしたが、その直後シャインバーグはいきなり、しかも一方的に通告した。
「ベータマックスはアメリカの著作権法に抵触します。ソニーは即刻、ベータマックスの販売を中止するか、それとも著作権使用料の金額を提示しなければ、MCAとしては著作権法侵害で提訴します」
単なる表敬と受け止めていた盛田は、MCAの真意を測りかね、疑問を呈した。
「確かにビデオの購入者が、営利を目的としてテレビ番組を録画すれば、著作権の侵害になります。しかし個人の楽しみのための録画は許されるはずです。現にオーディオの世界では、個人がテープレコーダーで録音して聴くのは、著作権の侵害に当たらないではありませんか」
これに法律の専門家でもあるシャインバーグが反論した。
「アメリカの著作権法は、これは営利のため、あれは個人の楽しみのための録画といった区別をしておりません。著作権の侵害を禁止しているだけです。したがってわれわれの製作した映画やテレビ番組を録画するベータマックスが著作権を侵害する機械であるのは間違いありません」
著作権を巡るソニーとMCAの首脳同士の話し合いは、どこまで行っても平行線のままである。これではディナーどころではない。局面を打開するため、シャインバーグは著作権問題を棚上げして、ビデオディスクを持ち出し、『ディスコビジョン』のプレーヤーをソニーに生産してほしいとの要望を出した。
ディスクの話題が出たことで、盛田はMCAのトップがわざわざソナム本社を訪ねてきた狙いが分かった。
〈そうかMCAはビデオディスク実用化を考えていたんだ。彼らはベータマックスが成功すれば、ディスクの出番が永久になくなることを恐れているのかもしれない〉
盛田の考え通り、ワッサーマンがそれに近い言葉を吐いた途端、盛田は子供を諭すように持論を展開した。
「MCAの見方は間違っています。オーディオの世界ではレコードとテープレコーダーが共存しています。映像メディアの世界では、ビデオカセットとビデオディスクは共存できます。ビデオカセットはテレビを録画できますが、まだテープのコストが高い。その点、ビデオディスクは複製するコストは安いし、レーザーを使えば瞬時にしてプログラムを検索するランダムアクセスの機能を持たせることができます。むしろビデオカセットの登場が、ビデオディスクの普及の扉を開くことになるのではないでしょうか」
しかしMCAのトップには、盛田の話に耳を傾けようとする姿勢はなかった。国際ビジネスマンとして世界的に名前をとどろかせている盛田にしても、一方で商談を持ち掛けておいて、片方で脅かしに出るMCA首脳の真意が、どうしても理解できなかった。そのことを皮肉まじりに口に出した。
「握手を求めて手を出しておきながら、テーブルの下で相手の足をけ飛ばすような真似をしないのが、日本のビジネス社会における伝統的な流儀です。しかしアメリカはいささか違うようですね」
ソニーとMCAのトップ会談は物別れに終わった。ワッサーマンとシャインバーグを見送った後、盛田は会談に同席したシャインに、今後の展望を述べた。
「MCAが本当にソニーを訴えるなんて考えられない。仮に裁判になってもどちらにも利益がない。それ以前にソニーとユニバーサルはこれまでいろんな面で共同戦線を張ってきたんだ。この縁があったればこそ、向こうは『ディスコビジョン』の委託生産を打診してきたんじゃないか。これは交渉を有利に進めるための単なる脅しだよ」
盛田は楽観論を述べたが、シャインの見方は違っていた。それを盛田の前ではっきり口に出した。
「会長、その見通しは甘すぎると思います。私も含めてアメリカ人は食肉人種です。食肉人種はいくら友人でも、訴訟に二の足を踏むようなことはしません。日本の情緒的な論理は通用しないのです。私はCBSレコードに十四年間勤めていたから、あの二人の考えは手に取るように分かるのです」
「きみ、それは考え過ぎというものだ」
しかし、MCAは本気だった。ニューヨークでの会談から一カ月後、今度は舞台をハリウッドの本拠地、ロサンゼルスのレストランに移し、再度両社のトップ会談が持たれた。その席でワッサーマンはすでに訴訟の準備を進めていることを|仄《ほの》めかしたが、盛田はこの時点でもまだ事態を楽観していた。
企業社会の日本では、個人でも組織でも訴訟を起こすことは、信頼関係の崩壊を意味する。法廷闘争は最後の手段であり、仮に問題が起これば関係者が集まって知恵を出し合い、お互いが解決の糸口を探り合い、それでも見つからなければ、裁判ということになる。ところがアメリカでは逆に最初に提訴ありきで、それから解決を図ろうとする。
米国は訴訟社会の国だが、とりわけハリウッドは訴訟好きの業界として知られ、訴訟が日常茶飯事となっていた。MCA首脳が訴訟を口に出すことは、〈これから解決に向けて交渉のテーブルに着こうではないか〉というシグナルに過ぎない。しかし盛田には当時まだ、こうしたハリウッドというよりMCAの経営姿勢が理解できていなかった。
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5 著作権裁判は逆転また逆転
MCA会長のワッサーマンと社長のシャインバーグが一九七六年九月、ニューヨークのソナム本社で開かれた最初の会談の席で、訴訟を口に出した瞬間からソニーとの交渉が始まったともいえる。
この時期、ソニー会長の盛田はこの問題が〈裁判|沙汰《ざた》になることはない〉と事態を楽観していた。対照的にソナムには一抹の不安があった。ソニーが「世界初の家庭用ビデオ」と銘打った回転二ヘッドのCV2000を開発したのは、東京オリンピックが開かれた六四年である。「家庭で使えるビデオを作れ」と|檄《げき》を飛ばした創業者・井深大の指示で作り上げた製品で、翌年から対米輸出に踏み切った。
ソナムの特許・商標関係の弁護士は、ビデオの著作権問題に不安を抱き、ビデオ録画の法的危険性について警告を発していた。しかし肝心のCV2000はオープンリール方式で、操作が難しかったことから家庭には浸透しなかった。ソナムはその後、販路を産業界や放送界に変更したことで、弁護士の警告はうやむやになってしまった。
ソニーはこのCV2000をベースに、テープ幅四分の三インチのUマチックを開発した。この時、「このビデオは米著作権法により保護されている番組の録画はできません」という注意ラベルを張り付けた。Uマチックは業務用であり、この機器を購入した企業がテレビ番組を録画して、それを販売する危険性があった。
ただし注意ラベルが貼付してあれば、著作権に触れることが一目瞭然で分かる。だがベータマックスはUマチックと違って、家庭用でしかも個人が楽しむテレビ録画だから、著作権法に反しないとの判断から、この種の注意書きラベルは貼付しないことになった。
ここにMCAに付け込まれる大きな落とし穴があった。MCAはソニーに交渉のサインを送る一方、交渉の決裂に備え着々と訴訟の準備を進めていた。問題は誰が原告になるか。映画とテレビドラマを製作しているユニバーサル映画は当然としても、ワッサーマンとシャインバーグは、ハリウッドが一丸となった連帯訴訟を頭に描いていた。そして二人の経営トップは手分けして同業者を説得したものの、同意が得られず連帯訴訟は早々と断念した。
MCAが連帯訴訟から共同訴訟へ戦略を切り替えたところ、かねて「爪の先の傷の手当てを怠れば、全身がむしばまれてしまう」というMCAの経営哲学に共感を覚えていたウォルト・ディズニー・プロダクションから、「共同原告として名前を連ねてもよい」との返事を得た。
ディズニーの商法は、一つの作品に二年から三年の歳月をかけて丁寧に作り上げ、それを徹底して守ることである。具体的には『白雪姫』『ピノキオ』『眠れる森の美女』などの人気アニメを封切った後、いったん封印して、観客が「また見たい」「子供に見せたい」というまで辛抱強く待つのである。このやり方は創業者のウォルト・ディズニーが、喜劇俳優のチャップリンの映画作りから学んだものだ。彼はチャップリンからこう教わった。
「自分の作品の著作権だけは、どんなことがあっても絶対に他人に渡してはならない」
創業者のディズニーは一九六六年に鬼籍に入ったが、後継者たちは彼の考えを忠実に守り通した。共同原告に名を連ねることになったのは、ビデオが普及すれば創業者が手塩にかけて育て上げたアニメの著作権が侵害されると判断したからである。
MCAの粘り強い説得が功を奏し、ワーナー・ブラザーズは共同原告には名前を連ねないものの、法廷費用の一部を供出することを承諾した。ほかの映画会社も証人として「ビデオに著作権が侵害された」との供述書を提出することになった。いわば精神的な支援だが、これで曲がりなりにも「ソニー対ハリウッド」の対立の構図ができ上がった。
ロサンゼルスでの会談からわずか一週間後の十一月十一日。電光石火、ユニバーサル映画とディズニー・プロが共同で、「ビデオを使った家庭での録画は著作権侵害に当たる」として、ベータマックスの製造・販売の差し止めと損害賠償を求めて、ロサンゼルス連邦地裁に提訴した。
提訴されたのは、ソニー、ソナム、広告代理店のドイル・デーン・バーンバック社、ソニー製品を扱う販売店、さらにはベータマックスを購入した個人である。実のところソナムは翌日に「テレビジョン・ダイジェスト」誌の編集者から聞くまで、提訴されたことを知らなかった。
ユニバーサルとディズニーが提訴した根拠は四つあった。
ハリウッドが製作した映画は、製作した会社の著作物である。
映画会社が著作権を持つということは、複製の独占権を持つということである。
著作権者でない個人消費者が勝手にテレビ映画の複製を可能にする家庭用ビデオは、必然的に複製権の独占の侵害、つまり著作権の侵害に当たる。
その侵害行為を行うビデオを実際に使用した個人はもちろん、それを製造・販売するソニーは侵害行為に加担している。
ソニーがハリウッドの標的にされたのは、単に一番最初に米国市場にビデオを投入したからに過ぎない。MCAが提訴を決意したとき、VHS陣営はまだ開発メーカーのビクターが、国内販売に踏み切ったばかりである。
裁判には莫大な費用と時間、さらにはそれに携わる人々のエネルギーを必要とする。それに恐れをなして中途半端な和解に応じれば、ビデオの将来性が摘み取られるだけでなく、世界のエレクトロニクス産業全体に汚点を残しかねない。ソニーとしては受けて立つ以外に選択の道がなかった。ただし敗訴すれば、ビデオは完全に米国市場から締め出されるだけでなく、莫大な損害賠償金を払わなければならない。ここからソニーが名実共に国際企業に脱皮するため、避けて通れない苦難の道が始まった。
提訴は七十年前に制定された著作権法で裁かれるが、裁判のポイントはたった一点。営利を目的に録画・再生ができるビデオを開発したソニーの企業行動を裁判所がどう判断するかである。
テレビの録画・再生を目的としたビデオは別名「タイム・シフト・マシーン」と呼ばれる。今では誰も違和感なく使っているが、この言葉は盛田が作った造語である。その根拠となったのは〈時間に拘束されずに、テレビ番組を見ることができる〉という概念である。ソニーは裁判でこの「タイム・シフト論」を、反論の大きな柱に据えることにした。それは二つの根拠に基づいている。
ビデオは受信機を持っているユーザーが、本来見ることができる番組を時間帯を変更して見られるようにしているに過ぎない。つまり放送の延長であり、決して複製ではない。
電波はより多くの人に情報を伝達するために与えられた公衆の資産である。この電波に情報を乗せた以上、多くの人に情報を伝えるための道具であるビデオの存在も認めるべきである。
これに対し原告のユニバーサルは、「ライブラリー」(保存)論で真っ向から対抗する構えを見せた。ベータマックスの購入者は、著作権によって保護されている作品を保存して、それを販売したり、交換してコピーし合っているというわけだ。
タイム・シフトとライブラリー。ユニバーサルは千件を超える文書類を法廷に提出、ソナムも負けじと段ボール箱で五十箱もの書類を用意した。証人も双方合わせて百四十五人を喚問するという大裁判に発展した。訴訟は二年余りの準備を経て、七九年一月三十日から審理が始まった。ロス連邦地裁は、それから九カ月後の十月に判決を下した。
「無料のテレビ放送の電波から家庭内でビデオ録画を行うことは、著作権の侵害に当たらない。またたとえ侵害と認められるケースがあっても、そのメーカーに法的責任はなく、販売差し止め命令を発することが適当とは認められない」
ファーガソン判事が下した判決文である。判決は二つの理由から公正使用条項を適用したのである。一つはテレビ番組の録画は、家庭というプライベートな場でされる。もう一つは提訴したユニバーサルもディズニー・プロも、自発的な意思によって自社の作品を公共の電波に乗せてきたことである。
ソニーの全面勝利であった。この裁判は日米大企業同士の対決で、しかもビデオは日常生活に結び付いている製品だけに、一審判決が出るまでは世間の注目を浴びた。ユニバーサルは直ちにサンフランシスコの連邦高裁に控訴したが、ロス地裁が「ビデオの録画に問題なし」との判断を下したことで、マスコミも消費者も同じ判決が出ることを疑わなかった。
だがソナムには悪い予感があった。審理が始まったのはユニバーサルが控訴してから一年を過ぎてからである。第一審判決を支持するだけなら、直ちに審理を始めても良いはずである。審理開始まで予想以上に時間がかかっているのは、ソニーに不利な判決が出る前兆かも知れなかった。
アメリカは司法、立法、行政の三権が独立している民主主義の国だが、この年の一月、「強いアメリカの再生」を掲げるロナルド・レーガンが大統領に就任した。MCA会長のワッサーマンとレーガンの関係は、前に述べた通りである。二人の関係を知るソナムの経営幹部は、レーガンの登場に顔を曇らせた。三人の裁判官が決まり高裁の審理が始まったのは、まさにレーガンが民主党選出の現職大統領、ジミー・カーターを破って当選した直後である。
「家庭でのビデオの録画は著作権違反であり、ソニーにその責任がある」
サンフランシスコ高裁は逆転判決を下し、三人の裁判官を代表してニクソン大統領時代に裁判官に任命された保守派のジョン・キルケニー判事は判決理由を述べた。
「地裁は米著作権法が例外事項を厳しく設定したものであることを、正しく理解せず公正使用の基準を法令に定めている以上に拡大適用してしまった。高裁の見解では、ビデオの録画は公正使用に当てはまらない。法令で家庭における録画について述べていないとすれば、それは|曖昧《あいまい》と解釈すべきではなく、一般にいう無資格での複写行為に当たると考えるべきである」
ソニーにとって唯一の救いは、ベータマックスの即時販売差し止めを命じられなかったことである。現実には販売差し止めの命令を下しても、回収できないほどビデオが普及していた。被上訴人に対する救済問題については下級審に差し戻された。
提訴から高裁の判決が出るまで、すでに五年の歳月が流れ、ベータマックスが先陣を切った米国のビデオ市場はその後、RCAが松下から調達した四時間録画機種を投入したこともあり、すでに三百万世帯の家庭に入り込んでいた。ビデオは裁判の|帰趨《きすう》に関係なく、米国でも順調にポスト・カラーテレビの道を歩んでいた。
一方、ユニバーサル映画は高裁で逆転勝利を勝ち得たものの、ソニーが投入した忌まわしい機械を、もはや市場どころか自社の文化からも締め出すことはできなかった。ソニーを提訴するきっかけとなったNBCの人気テレビドラマ『刑事コロンボ』でさえ、ビデオを重要な小道具として使わざるを得なかった。ドラマのあらすじはこうである。
殺人事件の容疑者が、アリバイとして自分は自宅でテレビを見ていたと主張し、番組の内容をすらすらと説明する。ところがコロンボは容疑者が殺人を犯した後で、その番組をビデオで見たことを証明して、犯人を自白に追い込んでみせる。今では陳腐なストーリーだが、当時は斬新なネタだった。
その当時、ソニーは米国市場で四面楚歌の状況にあった。四時間録画機種を中心としたVHSのシェアは年々高まっていた。ビクターや日立が投入した二時間機種もそこそこ健闘していた。ソニーも一〜二時間の切り替え機種の発売を機に販売攻勢をかけてはいたが、劣勢はいかんともし難い。ベータ陣営の劣勢に、市場に出回り始めた市販の映像ソフトが拍車をかけた。ソフトは大半が二時間用である。ベータマックスの切り替え機種を購入したユーザーは問題がないが、当初購入した一時間機種のユーザーは、このソフトを使えない。
ソニーは二時間用テープを一時間機種でも映せる「カセット・オート・チェンジャー」の開発を約束したが、なかなか市場に現れない。この製品は七九年にようやく出回ったが、待ち切れない客の中には、契約不履行で裁判に訴える者まで出てきた。
著作権裁判の第一審判決の出た七九年のVHS陣営とベータ陣営の販売比率は三対一まで広がった。ソニーは決して手をこまぬいていたわけではない。録画時間の延長に対しては、テープを薄くすることで最大三時間に延ばし、さらにトラックピッチと回転スピードを調整することで最大五時間録画にすることにもメドを付けた。
さらにベータスキャン、ベータムービー、ベータハイファイなど矢継ぎ早に新製品を投入した。そのつど専門家から賞賛され、ユーザーの関心を引いたが、いかんせんどの製品も長続きしなかった。
ビクターの高野が率いるVHS陣営も負けじと新製品を投入してきたことにもよるが、ソニーの巻き返しを阻んだ最大の原因は、ソフトの互換性にあった。ソフトは最初こそベータとVHSの二本製作されたが、ハードの面でVHSが優位に立つと、いつしかベータのソフトは、片隅に追いやられてしまう。
市場が二つの規格の共存を許さなくなったのである。ベータマックスのシェアがいくら落ちているとはいえ、ソニーは著作権裁判を放棄することもできなかった。
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6 「米の法律を変えてみせる」
ソニーは米国市場にどのメーカーより早く、家庭用ビデオを投入したため、ユニバーサル映画とディズニー・プロから著作権侵害で提訴された。一審ではソニーの全面勝訴となったが、二審の高裁ではまさかの逆転敗訴となった。
ソニーが最高裁に提訴しなければ、「ビデオはテレビの著作権を侵害する機械」というレッテルが|貼《は》られてしまう。かといって米国の裁判は、上告すれば自動的に審議してくれる訳ではない。上告してもまず、それを受理するかどうかを決める審議が行われる。受理される確率は、提訴件数の五百分の一。さらに受理されても勝訴する確率となれば、千分の一以下と、まさに針の穴に糸を通すようなものである。
ソニーの敗訴が米国のマスコミで大々的に報じられると、消費者の関心も高まった。ある新聞にはテレビの前でビデオを見ている人の前に、ミッキーマウスが手錠をかけにくるというヒトコマ漫画まで掲載された。
「いまはどんな時代?」
逆転判決から一カ月後の十一月二十四日と二十五日の二日間にわたって、ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ(ソナム)はこんな見出しの付いた全面広告を『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・トレビューン』をはじめとする全米有力二十三紙に掲載した。
広告では「人間の存在条件の改善は、人間が時間を創造的に支配できるようになったことから実現した」とまず総論を格調高く述べた後、ソニーは二十五年前に時間を再創造する機械=ビデオテープレコーダーを開発したこと、さらにその改良型の家庭用ビデオは世界が複雑になったいま、生活にかけがえのない製品になったことを説いた。
続いて「この機械を駆使する自由が脅かされている」と指摘し、その証拠として高裁から出された逆転判決を紹介した。最後に消費者のために「ソニーは戦い続ける」との強い決意を示し、「あなたはどんな時代であることを望みますか?」と結んだ。
ソニーは一連の意見広告でタイム・シフト論を中心に据え、最初に「消費者がビデオに録画する権利を守る」と宣誓する一方で、「消費者のためのソニー」を巧妙に売り込むことも忘れなかった。
ソニー敗訴のニュースは、ワシントンでも大きな話題になった。高裁の判断が出た翌日、多くの議員は「連邦裁判所最大の愚挙」と非難し、中には「連邦裁判所が米国の三百万世帯に不必要かつ、不当に介入するのを阻止する法案」を議会に提出する動きも出てきた。彼らに共通しているのは、「個人の楽しみのための私的複製を認めない現行の著作権法に問題があるなら、議員立法で合法化すべき」ということである。
積極的に支援してくれたのは、上院ではアリゾナ州選出議員のデニス・ディコンシー、下院ではワシントン州選出で現駐日大使のトム・フォーリーの二人である。とりわけフォーリーは自ら下院十の委員長宛てに「高裁はビデオ問題で間違った判断を下した」との手紙を|認《したた》めた。こうしたワシントンの動きに、盛田は意を強くした。
〈ベータマックスが提起した問題は、訴訟、裁判という特定当事者間で決着するのではなく、本来、立法で決着すべき性質のものなのかもしれない〉
ソナムの経営トップは一九七八年一月、前年に社長から会長に昇格したばかりのCBSレコード出身のハーベイ・シャインが解任され、後任社長にはソナム副社長の田宮謙次が昇格した。シャインが解任されたのは、米国企業特有の短期収益至上主義者のハーベイの考えと、ソニー本社の経営方針にズレが生じてきたことにある。
ソニーはベータマックス裁判に先がけて、盛田が自ら先頭に立ち、全米でユニタリータックス(合算課税)撤廃運動を進めていた。ソナムはロサンゼルス在住の顧問弁護士、ディーン・ダンレビーを中心に据えた裁判体制を作り、さらにソナム副社長の和田貞實(通称クリス和田)を日本人として初めてワシントンのロビイストに登録した。
盛田はソナムの支援部隊として在京の本社に法務チームを発足させ、ソニーの将来を担う中堅幹部の伊庭保、米澤健一郎、真崎晃郎などを集結させていたことから、シャインがソナムを去ってもベータマックス裁判に支障はなかった。
盛田の渡米回数は当然のことながら多くなった。最高裁に上告する準備を進めていたある日、盛田はクリス和田をソナム本社の自室に呼んだ。
「なぁ、クリス。ソナムは最高裁に上告する準備を進めているが、もしかしたらこの裁判は負けるかもしれない。何でだと思う。それはアメリカの法律が間違っているからだよ。日本の法律は、『個人の楽しみのための複製は、著作権侵害にあたらない』という私的複製の例外規定を設けている。
ところがアメリカの著作権法には、こうした記述がない。だから今回のようなバカげた判決が出てしまうんじゃないかな。ソニーがアメリカで生きていくには、たとえ悪法でも法律だけは絶対に順守しなければならない。ただし裁判によって立つ法律がおかしければ、それを何とかしなければならない。幸いなことにワシントンでは、私的複製を合法化しようとする議員も出てきている」
クリスは盛田の考えに心底から賛成した。
「ワシントンでも何人かの議員がベータマックスを使っています。それは会長の指示で、私が有力議員のチャリティーディナーに寄付したからです。彼らはビデオの理解者です。それで私は何をやればいいんですか?」
これに意を強くしたのか、盛田は持説を打ち明けた。
「私はアメリカの法律を変えようと思っているんだ。たとえ最高裁で負けたとしても、私的複製を認める法律ができれば、われわれがこれまで主張してきたのと同じ効果がある。クリス、お前はワシントンに登録された正真正銘のロビイストだ。そこでだ。どうしたらアメリカの法律を変えられるか考えてもらいたいんだ。ただし一つだけ条件がある。この問題をアメリカと日本の対立の構図にすることだけは、絶対に避けてほしい。ベータマックスのユーザーはアメリカの一般大衆なんだから……」
「要するに対立の構図を、ハリウッド対米国の大衆にすればいいんですね」
「早くいえばそういうことだ。ユニタリータックス問題は州税の問題なので、米国の州と外国企業の対立だったが、今回は違う。ハリウッド対大衆の構図を作るには、ソニーはおろかソナムも前面に出てはいけない。アメリカを最終的に動かしているのは選挙民だ。その選挙民にベータマックス裁判を理解してもらうには『草の根』運動は欠かせない。具体的にどうやるかは、弁護士のダンレビーとよく相談してやってくれ」
ソニーの幹部社員は、日米を問わず大半が中途入社である。和田もその例にもれず六〇年に国際基督教大学を卒業して、市村清の率いるリコーに入社した。カメラや事務機などの精密機械の対米輸出が急増し始めた時代で、メーカーは総代理店制度から直販に切り替えようとしていた。リコーもそうした一社で、対米要員として英語が達者な和田を採用した。
新入社員の和田は市村から餞別をもらって渡米したが、ニューヨークで偶然、盛田と知り合い彼に誘われるままあっさりソナムへ転職してしまった。渡米一年目のことで、それ以降一貫してソナムの渉外部門に携わり、ベータマックス裁判が始まった直後の七七年一月から日本人としては初めての正式なロビイストとして、ユニタリータックス問題の解決にあたってきた。
盛田の指示でベータマックス問題は、裁判と立法活動が同時並行的に進められることになった。ソニーは八二年三月に最高裁に上告したが、予備審議を経て正式に受理されたのは、翌八三年一月である。この間、水面の上下を問わず精力的な活動を展開した。ハリウッドの横暴を立証するためPR会社の助言を受けて、まず草の根運動から始めた。ただしソニーが前面に出れば、いらぬ反感を買うだけである。ワシントンでロビー活動をするにせよ、目立たぬようにしなければならない。
そこでビデオで利害の一致する他メーカーや流通業者と消費者を組織化して、まずワシントンに「家庭録画権(ホーム・レコーディング・ライツ)連盟」という名の団体を設立した。この団体が有力ロビイストを雇い、議会でロビー活動する一方、六〇年代に欠陥車問題で名を馳せたラルフ・ネーダーが組織した「コンシューマ・オーガニゼーション」の残党の力も借り、市民の署名活動を始めた。連盟の仕事は地方の家電販売店に、地元選出の国会議員宛てに反対の手紙を書かせる指導をすることである。
家庭録画権連盟の実態は、米国電子機械工業会(EIA)の別動隊である。EIAは日本の国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、米国に次ぐ世界第二の経済大国にのし上がった六八年に、「日本メーカーはカラーテレビをダンピング輸出している」と財務省に提訴した。
続いて七〇年十一月に財務省は日本製テレビをダンピング法違反と認定した。これが国内に飛び火して、「日本の家電メーカーは海外では安く、国内では高く売っている」という批判が高まり、二重価格問題を引き起こした。日本製カラーテレビの対米輸出はその後も増え続け、七〇年代半ばにはシェアが四〇%台に乗ったことから今度は政治問題となり、七七年春に日米政府間で市場秩序維持協定(OMA)を締結、日本が三年間にわたり一方的に輸出を自主規制することで決着した。
OMAの期間中に日本メーカーは、|挙《こぞ》って米国にカラーテレビの工場を建設、結果的に米国のカラーテレビメーカーをさらなる苦境に追い込んでしまった。EIAの財政基盤も弱まり、存続が危ぶまれたが、それを救ったのは皮肉なことに日本の家電メーカーだった。
EIAの運営は毎年夏(シカゴ)と冬(ラスベガス)に開かれる「コンシューマ・エレクトロニクス・ショー(CES)」の収入で賄われている。入場料収入はたかがしれており、収入源はメーカーが出店するブース使用料である。ショーへの出店は年々日本企業の比率が高まり、いつしか半数を占めるようになっていた。オーディオ製品など半数以上は日本企業のブースである。EIAは日本の家電メーカーなくして存続できないところまで追いつめられていた。
ソニーはかつての敵を味方に付けたのである。EIA加盟の米企業にすれば、カラーテレビでは日本メーカーは憎っくき相手だったが、ゼニスにしてもRCAにしても、ポスト・カラーテレビのビデオは全量日本メーカーから製品供給を受けている。日本メーカーの代表選手ともいうべきソニーが敗訴すれば、自社の業績にも跳ね返る。
同じことが松下などの日本のライバルメーカーにもいえた。市場ではベータとVHSの両陣営は激しく戦っているが、ソニーの著作権問題は決して対岸の火事で済まされない。ソニーがEIAを巻き込んだことで、こと著作権問題では日米メーカーの足並みを揃えることができた。
盛田の予想通り、ベータマックス問題は政治問題化していった。むろんハリウッドもチャールトン・ヘストンなどの大スターや大勢のロビイストを動員して対抗してきた。その中にはカーター政権の通商代表部(USTR)代表だったボブ・ストラウスも含まれていた。
ストラウスはUSTR代表を辞めた後、MCAのボードメンバーに名を連ねていた。盛田とストラウスは旧知の間柄である。著作権問題でストラウスは|執拗《しつよう》に盛田に会談を申し入れてきたが、そのつど盛田は断った。ストラウスの政治力を考えると、和解案を出された場合、断るのが難しいからだ。そこで田宮と和田が盛田の代理としてストラウスと接触、MCAの最終的な和解案は金銭での解決、著作権使用料であることを探り出した。
能弁家として知られる和田はその一方で、映画『ゴッドファーザー』の監督として知られるフランシス・コッポラをハリウッドのレストランで口説き落とし、味方につけるなどの努力も続けた。
ハリウッドの戦略は明らかに初期の「ビデオはハリウッドの財産を盗む機械だから、販売を中止すべき」という論調から「ビデオに著作権料を課す」方向に変わっていた。事実、議会にも著作権使用法案が上程されていた。
「ソニーはわれわれの作った映画を無断で録画する機械を開発して儲けようとする卑しい企業。いわば寄生虫だ」
ソニーはハリウッドでこう陰口を|叩《たた》かれていたこともあり、プライドにかけてもカネでの解決を拒否しなければならない。それ以前に当時ソニーの売り上げの三分の一、利益の半分をビデオで稼ぎ出していたこともあり、ビデオの価格を押し上げる法案が成立すれば、業績の低下は目に見えていた。
最高裁の判決は八三年秋に出た。判決は「リ・アーギュメント」。つまり九人の最高裁判事の前でもう一度議論しなさい、というものだった。その判決に基づいて最高裁の九人の判事は四カ月間再審議を行った。そして八四年一月十七日午前、連邦最高裁は判決を下した。
「無料テレビ放送の電波から、家庭内ビデオで録画しても、著作権法侵害にあたらない。メーカーにもいっさい法的な責任もない」
一審と同じソニーの全面勝訴だが、判決は五対四という際どいものだった。MCA会長のワッサーマンと社長のシャインバーグは、その後もビデオを敵と見なして次々と日本の家電メーカーを提訴したが、最高裁の判断を覆すことはできなかった。
歴史の巡り合わせは皮肉である。ソニーは勝訴したにもかかわらず、ベータマックスのシェア低下に歯止めをかけることができなかった。そして最高裁の判断が出てから五年後の八九年、ハードとソフトの相乗(シナジー)効果を狙ってハリウッドのメジャー映画会社、コロンビア映画(現ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)を三五億五〇〇〇万ドルで買収した。
さらに一年後の九〇年十一月、今度は松下がワッサーマンとシャインバーグが率いるMCAを六〇億ドルで買収した。ソニーは悪戦苦闘しながらも映画事業を軌道に乗せ、ハリウッドの仲間入りを果たしたが、松下は九四年に米三大ネットのNBC買収を巡ってワッサーマン、シャインバーグ、二人のMCAトップと対立、最終的に松下が大半の持ち株を手放し、MCAの経営から手を引いてしまった。
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第九章 亀裂そして修復

1 南の島の靴屋の寓話
ソニーがユニバーサル映画との著作権裁判に忙殺されているころ、ビクターのビデオ事業部長、高野鎭雄はヨーロッパ市場制覇に意欲を燃やしていた。
VHSをエレクトロニクスの祭典、「ベルリン国際ラジオ・テレビ展(通称ベルリンショー)」に展示してから二カ月後の一九七七(昭和五十二)年十月十八日。VHSの欧州規格統一の発表会が東京・虎ノ門のホテルオークラで開かれた。出席したのはビクターから社長の松野幸吉のほか高野と開発部長の白石勇磨の三人。松下電器はビデオ技術部長の村瀬通三、日立製作所は東海工場開発部長の久保田、三菱電機は京都製作所テレビ技術部長の糸賀正己、シャープは尾島義朗ビデオ開発部長、そして八月にVHS陣営に入ったばかりの赤井電機からは開発部長の岩井克之の計八人が出席した。
松野、村瀬、岩井を除いた五人は半年前、松下幸之助に松下電器が四時間録画機種の国内投入を止めるよう、直談判に行ったメンバーである。高野はVHSの開発に着手して以来、反ソニーのメンバーが一堂に集まって、VHSを誇示する夢を何度か見たことがある。それが欧州規格発表宣言という形で実現したわけだが、それでも一抹の寂しさは隠せなかった。
〈この席に東芝と三洋電機のVコード陣営が加わっておれば……〉
高野のこうした思いは〈反ソニー七社連合さえ実現していたら、ビデオの規格統一争いは、すでに決着していたはず〉ということに由来している。それが現実は、血を血で洗う泥沼の争いとなってしまった。それも戦場は国内市場にとどまらず米国市場、続いて欧州市場に飛び火してしまった。
カラーテレビの放送方式は、世界に三つある。日本や米国などのNTSC方式、英国やドイツのPAL方式、そしてフランスを中心としたSECAM方式である。テレビを録画するビデオも、それぞれの方式間では互換性がない。欧州に進出するには、PALやSECAMの欧州放送方式に合った製品を開発しなければならなかった。
VHS欧州方式の最大の特徴は、録画時間を三時間に延長したことである。ほかにもビクターが独自に開発したスチル(静止)、スロー、倍速などの機能も規格の中に取り入れた。
それではVHS陣営はなぜ欧州規格で録画時間を三時間にしたのか。高野は当初、何の疑問も抱かず、白石に欧州方式も二時間録画で統一するよう指示した。ところが六社の技術者が集まって検討したところ、SECAM方式はともかくPAL方式は、偶然にも二時間録画よりも三時間録画の方が鮮明な画像が出ることを発見した。
ベルリンショーにはとりあえず二時間録画機種を展示したものの、高野はビクターのブースを訪れた欧州各国の家電販売業者にさり気なく質問した。
「ヨーロッパでは長い時間をかけて夜の食事を楽しみ、その後にオペラ観劇や音楽会に出掛ける習慣がありますね。そのせいかどうか分かりませんが、テレビの放送時間が短い。そういうお国でビデオは受け入れられるでしょうか?」
「ご存じのように欧州の冬は長くしかも厳しい。午後四時には暗くなるので、夜の時間がやたらと長い。だから食事の時間を長く取るのです。逆に夏の季節は短いが、深夜まで明るい。欧州で人気のあるサッカーをテレビ観戦したいという人でも、夏は外出したいという誘惑には勝てません。ビデオがあればサッカーの番組を録画しておき、休日にゆっくり楽しめるのですが……」
この話を聞いて高野は決断した。
〈VHSの欧州規格は三時間録画にしよう。三時間といってもテープを少し長くするだけで、テープケースの大きさを変えずに簡単にできる。その点、ベータの欧州仕様は二時間が限度だろう〉
高野は欧州規格の試作品が出来上がる前から、グループ化に向けて動き出した。国内生産は月産一万台が軌道に乗りかけているとはいえ、これに欧州市場向けが加われば、品不足に陥るのは目に見えていた。高野から欧州攻略の計画を聞いて、製造部門の責任者である曲尾定二は気が気でなかった。ところが高野といえばいつもの通り、悠然と構えている。
「生産は注文に応じて、徐々に増やしていけばいいんだ」
部下にはノンビリしたことを言っても、高野の頭の中からベルリンで聞いた欧州に伝わる靴屋の寓話がどうしても離れなかった。
ヨーロッパのさる国で靴屋を営む二人の男が南の島に旅行した。二人は島に上陸してびっくりした。誰も靴を履いていないのだ。
「ダメだこりゃ。ここでは靴を履く習慣がないんだ。これでは靴の商売なんか成り立たない」
一人が諦め顔で言うと、もう一人の男が反論した。
「いや、そうじゃない。靴を履いていないからこそ、靴の効用を教えれば売れるはずだ」
そして寓話をしてくれた人が、高野に尋ねた。
「欧州のビデオ市場は、まだこの寓話に出てくる南の島なのです。高野さん、ビクターはどちらの意見に|与《くみ》しますか」
むろん高野は後者の見方に与したかったが、自信があったわけではない。事業家としては軽率な判断を下すことは許されない。だからこそ欧州向けの設備投資を控えていたのである。そのころ高野の胸には、期待と不安が同居していた。欧州市場を南の島だとすれば、酋長はオランダのフィリップスである。欧州は名実共にフィリップスが君臨する市場である。ベータとVHSの欧州を舞台にしたビデオ戦争は、この欧州の覇者を抱き込んだ方が勝利者となる。
当然のことながら高野が動く前にソニーも松下も足繁くフィリップスに通い、それぞれの規格の採用を持ち掛けたが、肝心のフィリップスは、一向に日本製品には興味を示さず、両社とも半ば諦めかけていた。高野はフィリップスの戦略を自分なりに分析した。
〈酋長(フィリップス)にVHSの良さを分かってもらうことは必要だろう。しかしフィリップスはトコトン技術者を大切にする会社だ。技術者の意見を尊重して自社開発のビデオで行けるとこまで行き、その間ベータとVHSのビデオ戦争の行方を見て、最終的に勝ち馬に乗るのではないか。酋長を取り込むには時間がかかる。それなら酋長の側近(欧州の他の家電メーカー)を味方に付けておくことだ〉
フィリップスのビデオへの取り組みは、六四年に自社開発で開発したヘリカルスキャン(螺旋)方式の工業用ビデオが最初である。続いて七〇年にはテープのリールを二段重ねにしたタンデム方式の二時間録画の小型ビデオを開発した。八月のベルリンショーに出品したビデオは、この小型ビデオを基にドイツの大手家電メーカー、グルンディッヒと共同で開発した「VCR」と呼ばれる機種である。この製品に対する日本メーカーの評価は、教育用には適しているが家庭用では主流にはなり得ないという厳しいものだった。
「ビデオの初期需要はタイム・シフトとしての機能だ。ビデオはテレビにつなげて使うわけだから、欧州ではその国を代表するテレビメーカーにアタックしよう」
高野が欧州攻略に際して立てた原則である。一国一社と決め焦点をドイツ、イギリス、フランスの三カ国に合わせ、それぞれアタックチームを編成した。英は高野、仏は事業部次長の上野吉弘、西独は開発部次長の廣田昭がそれぞれ責任者となった。
夏に入ると三つのチームの総勢十数人が東京・羽田の東京国際空港からアンカレッジ経由で欧州へ飛んだ。“作戦本部”をフランクフルト郊外にある高級ホテルの『シュロスホテル』に置き、綿密な打ち合わせを重ねた上で、それぞれのチームがVHSを担いで、割り当てられた国へ散っていく。数日すると全員がシュロスホテルに戻り、情報を交換しながら深夜まで検討会を開き、再び各国へ飛んでいく。脈がありそうなメーカーがあれば、高野が直接乗り込む。
高野の交渉は徹底していた。技術的な質問が出れば、こと細かに自分で説明する。交渉中は常に電卓を側に置き、価格の話になると、自分で電卓を叩いてその場で相手に数字を示す。「イエス」と「ノー」を自分で判断して出すのである。相手のメーカーは技術者から経理、販売、特許の関係者が入れ代わり立ち代わり出入りする。これに高野は同行の担当者に任せず一人で対応する。
交渉は現地語に精通したビクターの海外営業部の人間を使った。高野は技術者の例にもれず|語彙《ごい》が少なく、しかもボソボソと話すので、通訳は単に言葉を直訳するだけではトンチンカンな内容になってしまう。それだけに通訳する人は日頃から高野の考えを理解していなければ務まらない。
悪戦苦闘の末、十二月に入ると西独第二のテレビメーカー、サバ社とのOEM(相手先ブランドによる生産)契約が成立した。高野は大詰めの段階で、恣意的に周りがハラハラするような演技をした。この種の交渉で最後に問題となるのが、いつの時代でも価格である。大筋で合意しても、発注する側は少しでも値段を値切ろうとする。最後は腹の探り合いとなる。サバ社との交渉でも、相手は最初に売り込みにきたベータ陣営の価格を持ち出して、執拗に値下げを要求してきた。朝八時から始まった交渉は、延々と続き夜に入っても終わらない。高野はしびれを切らした風を装って、タンカを切った。
「ベータマックスの値段がそんなに安いのなら、そっちから買えばいいじゃないか。サバの分からず屋の経理屋にそう言ってやれ!」
通訳を務める海外営業マンは血相を変えて高野の顔を見て叫んだ。
「事業部長、本当にそのまま訳していいんですか」
すると高野も青筋を立てて怒鳴りつける。
「おい、お前はなにしにここへ来たんだ。おれの言葉を訳すため、ここにいるんじゃないか!」
この間、相手の担当者は仲間内で喧嘩でも始めたかと思って|呆気《あつけ》にとられている。通訳の営業マンは恐る恐る訳すが、それは心得たもので、高野とのやりとりを適当に披露しながら、相手に伝える。高野はこれまでの交渉で、サバ社は一〇〇%VHSを採用すると読み切り、通訳を怒鳴ることで相手に圧力をかけたのである。
翌年の七八年は、高野の生涯で一番忙しい年になった。欧州出張は十数回に及んだ。唯一の慰めは、自宅での松の盆栽の手入れだった。休日はもちろん普段の日でも、手入れは欠かさない。冬に雪が降れば、百を上回る鉢を風呂場に持ち込む。海外出張先から妻の智恵子に電話を入れるが、話すことは決まっていた。
「おれは元気だ。それより松の手入れをちゃんとやっておけよ」
帰国して自宅に戻っても、玄関には上がらずそのまま庭に回って、ホースで盆栽にジャージャー水を掛けながら独り言をいう。
〈おれには分かるんだ。お前(松)は水が欲しいと言っているんだ〉
売り込み先の欧州メーカーで、何度かライバルメーカーと鉢合わせした。英国のソーンとの交渉に臨んだ時、トイレの使用場所まで指定されたのには驚かされた。その理由を尋ねたところ相手はウインクしながら答えた。
「きょうは、あなたの会社にとってライバル関係にある企業とも交渉を進めています。トイレで顔を合わせたら、お互い気まずい思いをするでしょう」
高野は一瞬、ソニー首脳の顔を思い浮かべたが、実はVHSにとって欧州市場における最大のライバルは、ベータ陣営ではなくフィリップスだった。フィリップスの国際戦略の基本は現地主義にある。その国の需要に合わせて製品を投入するのである。米国市場で四時間機種が主流になると見るや、米国子会社のマグナボックスは親会社の開発したVCRを採用せず、|臆面《おくめん》もなく松下から四時間機種のOEM供給を受けていた。
それだけに自社の庭先ともいうべき欧州市場では、先行している自社製品のVCRにこだわっていた。高野はそうした戦略を知った上で、頻繁にオランダのフィリップス本社を訪問した。ビクターとフィリップスは妙な因縁があった。VHSは高野の方針で最先端メカを採用する方針を掲げていた。心臓部にあたるシリンダーを駆動させる装置としてDCコアレスモーターの採用を決めたが、いかんせん国内の部品メーカーは作れない。
この分野はフィリップスが得意としており、同社に発注したがその代わり厳しい注文を付けられ、同時に分厚い使用注意書きを渡された。
「この部品は産業用に開発したものだから、民生用に使う場合は注意書きに留意してほしい」
ビクターはフィリップス製モーターの使用に際して、さんざん嫌な思いをした。ところがVHS向けの使用量が増えると、今度はフィリップスが高野に頭を下げてきた。
「日本にビクター向け専用のモーター工場を作りたいので協力してほしい」
部品の調達担当者は、フィリップスに振り回されただけに猛反対したが、高野はそれを承知の上で、フィリップスの申し出を快諾した。そして部下を諭した。
「フィリップスはVHSを立ち上げるとき、最初にモーターを供給してくれた大切な会社なんだ。お前たちは嫌な思いもしただろうが、フィリップスのモーターがなければ、VHSはここまで伸びなかった。だからお前ら、面倒をみてやってくれ」
高野は紛れもなくスーパーセールスマンだが、ただ単にVHSを売り込むだけではなかった。相手のセンスに合わせて自分の事業家としての考えをぶつけた。そして相手企業のトップには必ずこう付け加えた。
「将来VHSを自社生産するときは、ビクターにお手伝いさせて下さい」
こうした殺し文句が欧州メーカーの心をとらえた。
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2 VHS、欧州で破竹の快進撃
欧州市場でビクターの破竹の快進撃が始まった。一九七七(昭和五十二)年十二月の西独サバ社に続いて、七八年に入るとフランスのトムソン・ブランドと同社の西独関連会社、ノルデメンデを皮切りに英ソーンEMI、豪州ランク・オーストラリア、西独テレフンケンと立て続けにOEM(相手先ブランドによる生産)契約にこぎつけた。
欧州市場でビクターが優位に立てたのは、VHS陣営が一致団結して、早々と録画時間三時間の欧州規格を決めたことによる。VHSの欧州規格は少しテープを長くするだけで、同じカセットの大きさで三時間録画ができた。
これに対しソニーのベータマックスは、合理的な規格にしようとすれば、一時間半しか記録できない。VHSと同じ三時間にするには、克服しなければならない多くの技術的な問題を抱えていた。こうした技術開発の遅れから、ベータ陣営が欧州規格を発表したのは、七八年三月に入ってからである。
この間ビクターはVHSの開発メーカーという立場を生かして欧州メーカーと次々に契約にこぎつけた。交渉はすべて綱渡りだった。OEM供給だから機器の基本性能はすべて同じ。他社との差別化を図るため、トムソンは違いをデザインに求めた。同社との交渉は価格、数量は三月に入ってほぼまとまり、後は契約書を作成して調印するばかりとなっていた。ところが土壇場になって交渉責任者の高野は、会長のコナインから一枚の紙に描いたラフなスケッチを渡された。
「トムソン向けの外装は、このデザインにしたいのです。やってもらえますか。契約はスケッチ通りのモノができた段階でしましょう」
「分かりました。何とか試作品を作ってみます」
契約は十日後に予定されていた。この間、高野は久し振りにノンビリと欧州観光でも楽しむつもりだったが|急遽《きゆうきよ》、帰国することになった。開港したばかりの成田の新東京国際空港から横浜工場へ直行して、ラフなスケッチを握りしめ、そのままデザイン部へ飛び込み、担当の小幡文雄に声をかけた。
「おい、悪いがこのスケッチの通りのプレーヤーを作ってくれ。期限は一週間だ」
「事業部長、それは無理というものです。第一、そんなラフな図面では作れませんよ。ビデオは|玩具《おもちや》じゃないんです。何千という部品をこの箱にピッタリと収めなければならないんです」
「おれはビデオの専門家だ。そんなことは、お前に言われなくとも分かっている。無理な注文だがそれを何とかするのが、お前の仕事だろう。このモデルの試作品を作らない限り、トムソンを落とせない。お前が図面通りの試作品を作れるかどうかに、ビクターの命運がかかっているんだ。頼んだぞ」
それだけ言うと、高野はそそくさと部屋から出ていった。不器用を絵に描いたような高野の頼み方に、小幡は一瞬「ムッ」としたが、どこか憎めない。デザイン部はその日から徹夜の連続でコナインの描いたスケッチをもとにしたプレーヤーのモデルを作り上げた。
高野が焦ったのは、トムソンとソニーの関係を熟知していたからだ。トムソンは産業用、家庭用電子・電気機器を主力とするフランス最大の総合電機メーカーで、カラーテレビではフランス国内で三〇%のシェアを持っている。海外進出にも積極的で七七年十月に西独ノルデメンデを買収、スペインではGE(ゼネラル・エレクトリック)のテレビ工場を買い取った。世界に二十の製造子会社を持ち、全売上高の三分の一を海外が占めている。トムソンはオランダのフィリップスと並んで欧州を代表する多国籍企業である。
ソニーは七七年二月にトムソンの関連会社、トムソンCSFと放送用ビデオ、カラーテレビカメラの製造・販売で提携している。当然ソニーはこの関係を利用して、出来上がったばかりの欧州規格を武器にトムソン本社にベータ陣営入りを持ち掛けていた。背後からソニーの足音が聞こえてきただけに、高野としてはラフなスケッチであろうと、ともかく試作品を作り上げなければならなかった。
高野は出来上がったばかりの試作品を持参して、トムソンとの最終交渉に臨んだ。今回は契約が成立することを前提に、社長の松野幸吉にも同行を願った。すでに契約書は用意されている。予定では夕方までに契約書を最終チェックして、それが終わり次第両社のトップが調印してその後、夕食を共にする段取りになっていた。それまで松野はホテルで待機することになっていた。
トムソン専用のモデルもあり、高野は交渉成立を疑わなかった。だがトムソンは土壇場で粘り腰を見せ、価格だけでなく細部の技術についても難癖をつけてきた。トムソンは高野の予想通り、この時期、交渉相手をビクターに限定せず、ベータ陣営のソニーやフィリップスを含めた三社を|天秤《てんびん》にかけていたのである。
すべての交渉を終え最後に高野がサインをするよう求めても、トムソンの交渉担当者は席を外して、何やら社内で相談してから戻ってくる。
〈ひょっとしたらトムソンは別室で、どこかのメーカーと同時に交渉を進めているのではないか〉
高野はこんな疑念を抱き、交渉を一時中断してホテルに戻り、情報を収集して善後策を協議した。交渉は夜に入って再開し、深夜になってようやくまとまった。決め手となったのは、高野の切々とした訴えだった。
「ビジネスとはお互いの信頼関係で成り立つものです。トムソンの要求はきついが、相手の立場に立てば、われわれはこの要求を絶対に|呑《の》まなければならない。デザインが良い例です。私たちはこの要求を受け入れました。私は世界の多くのメーカーにVHS丸という名の船に乗ってもらいました。同じ船に乗った以上、仲間なのです。荒波に漕ぎ出した船は絶対に沈めてはなりません。トムソンにも同じ船に乗っていただき、仲間として世界の家電メーカーと同じ方向に進んでもらいたいのです。それでなければ、VHSは普及しないのです」
そして高野は最後に、こう付け加えるのを忘れなかった。
「ビデオは必ず御社に大きな利益をもたらす大型商品になります。ビクターはトムソンの損になるようなことは絶対にしません。ビデオは互換性が大事な商品ですので、共存共栄でいくしかないのです」
交渉をまとめ上げたものの調印を翌日に持ち越し、全員疲れ切った表情でホテルに帰り、ことの経緯を社長の松野に報告した。
「ご苦労さんやった。わしは何もできないからいつもの通り、一日中この部屋でお経を上げながら、交渉がまとまるのを祈っておった。わしのお経が通じたのかもしらんな……」
高野は帰国すると、突然デザイン部の朝礼に現れ、部長の挨拶が終わると、いきなり手にした感謝状を読み上げた。
「貴デザイン部はこのたび………感謝するとともに金一封を贈呈します」
高野は読み終えると、金の入った分厚いのし袋を、机の上にポンと置くと何事もなかったように部屋から立ち去った。
トムソンとの契約を終えたビクターの首脳は、今度はその足でドーバー海峡をはさんだイギリスに渡り、ソーンEMIとの交渉に臨んだ。ソーンとの下交渉も順調に進んでおり、高野としては社長の松野の訪英を機に、一気に契約までいかなくとも、せめて仮契約までこぎつける腹積もりでいた。いつものように松野にはホテルで待機してもらって交渉に臨んだが、どうも雲行きが怪しい。相手は「交渉を一時棚上げしてほしい」というだけで、そのわけを話さない。
ソーンは執拗に棚上げ理由を求める高野の粘り腰に根負けして、ことの真相をボソボソと語り始めた。
「実は松下電器との交渉も進めているものですから……」
“マツシタ”と聞いて、高野は怒り心頭に発した。
〈何ていうことだ。松下は一体何を考えているんだ。山下(俊彦社長)さんがわざわざビクターの役員会に来て「欧州市場はビクターに任せる」と言ったのは、あれは嘘だったのか〉
高野はその場で電話を借りて、松下の通産省出身の輸出担当副社長、原田明の自宅に電話を入れた。日本と英国の時差は八時間あり、高野が電話した午後二時は、日本では夜の十時。原田は夜の宴席でもあったのか、まだ帰宅していなかった。高野は原田からことのいきさつを聞かない限り、交渉は進展しないとみて、早々とホテルに戻った。
ソーンを巡るビクターと松下のトラブルは、ちょっとした行き違いから起こった。松下は七五年一月に家電不況に対応して、総括事業本部制を発足させた。各種モーターなどの産業機器、エアコン、冷蔵庫などの電化機器、テレビ、音響などの無線機器の三本部制で、責任者にはそれぞれ中川懐春、東国徳、稲井隆義の副社長が就任した。狙いは事業部間の溝を埋め、経営の機動性を高めることにあった。
ところが結果的には社長と事業部長の間に総括本部長が入ることで、逆に意思決定が遅れ、事業部長の責任が|曖昧《あいまい》になってしまった。当然のことながらモノ作りを預かる事業部長に甘えが生まれ、松下本来の事業部制の良さが見失われていった。山下が最初に取り組まなければならない仕事が、この組織の見直しだった。山下は新社長に就任した直後、幸之助に頼み込んだ。
「一年間は口を出さないで、黙って見てほしいんです」
そして山下が出した答えは「メーカーとしての松下の原点は、事業部制にある」ということだった。そこで四十九人の事業部長一人ひとりと膝を突き合わせ、自分の体験を踏まえ、「事業部経営こそ、松下の原点である」ことを徹底的に教え込んだ。山下が強調したのは「“販売の松下”といわれる強力な販売網は、先輩が築いたものだが、作れば売れるという甘えは許されない。事業部長には当然経営責任を問う。たとえリスクがあっても新商品開発、新市場開拓に挑む気概を持て」ということだった。
そして七八年一月に三総括事業本部制を廃止して、すべての事業部を社長直轄に置いた。それから一カ月後の二月八日。“四国の暴れん坊”“四国の猛牛”の異名をとった副社長の稲井は退任して、松下寿電子工業社長専任となった。山下はビデオの市場開拓に際して、欧州市場はビクターに任せるとの方針を稲井に伝えていたが、肝心の稲井はビデオの輸出部署に伝えていなかった。
混乱はここから生じた。輸出担当副社長の原田は、国内向けに開発した「マックロード」の輸出先として欧州に目を付けて、欧州メーカーに売り込みを図った。この種の交渉は最初に秘密保持契約を結んだ後、本格交渉に入るので、売り込んでいるメーカーは相手企業がどんなメーカーと交渉しているかを知らない。
高野がEMIとの交渉を打ち切ってホテルに戻り、一休みしていると原田から国際電話がかかってきた。
「あんたがた、いったいどういう了見でソーンと交渉しているのかね。欧州はうちに任せたはずじゃなかったのかね」
相手は酒が入っているのか、最初は高野がなぜ怒っているのか見当がつかなかった。国際電話では要領が得ず、帰国してから話し合うことになった。その後の話し合いで、最終的に松下が手を引くことになったが、このいざこざでソーンとの契約が三カ月ほど遅れてしまった。
欧州攻略に没頭していた七八年はフランスと西独に販売会社を設立して、JVCブランドの販売にも乗り出した。ところが高野はOEMを最優先していたため、肝心の製品がJVCの販売会社に回ってこない。英国などでは、赤井電機の製品が先に出回り現地の営業マンを悔しがらせた。
西独では現地駐在員がホテルに高野を訪ねてきても、冷たく突き放した。
「今回は超極秘だから、あんたがたはわれわれのアテンドをしなくてもいいし、ここに来た目的も知らんでいい」
高野はビクターの力だけでは、VHSを世界規格に押し上げるのは難しいことを知っていた。だからこそOEMに走った。
〈VHSを世界規格にしたいという夢は、世界一流メーカーのネットワークを使ってこそ実現する〉
効率を重んじる高野の方針で、ビデオ事業部員の海外出張は土曜、日曜は使わないことにしていたので、絶えず駆け足旅行。OEMの交渉メーカーには顔を出しても、現地の販売会社に顔を出す余裕がなかった。
ライバルのソニーは焦点をオランダのフィリップスに定めていたこともあり、他の欧州メーカーへのOEM供給はビクターほど熱心ではなかった。ソニーは『SONY』の知名度の高さを利用して自社ブランドのベータマックスの販売に徹し、OEMは同じベータ陣営の東芝や三洋電機に任せる作戦を立てていた。ほぼ互角でスタートした欧州市場開拓だが、ビクターが次々と有力メーカーとOEM契約を結んだことで、VHS陣営の優位がはっきりしてきた。
欧州メーカーは当面、ビクターからOEM供給を受けるにしても、将来は自社生産を計画していた。その前段階として自社設計の商品に切り替える動きも出てきた。OEM先企業のトップが自社設計のモデルをろくに見ないで、設計を変更しようとしているのを知ると、高野はわざわざ欧州に飛んで、トップにクレームをつけた。
「欧州メーカーが先行している日本メーカーと互角に戦うには、力のある製品を開発しない限り無理です。しかるにあなたはトップでありながら、設計変更の内容を知らない。経営者としてあなたはこの問題をどう考えているのか」
相手の立場に立ったアドバイスを繰り返したことで、欧州メーカーの間で高野に対する信頼が一気に高まった。
高野は欧州市場のみならず世界市場にVHS規格を定着させ、同時にビクターの知名度を高めるための秘策を練るよう貿易本部に指示を出した。国内では「犬のマークのビクター」というブランドが定着しているが、海外では犬のマークは英のレコード会社のEMI、Victorの表記は戦前の親会社の米RCA(後にGEが買収)が、それぞれ商標権登記しているので、日本ビクターは勝手に使えない。そこで海外展開に際しては七七年に「JVC」という新たなブランドを作ったわけだが、いかんせん知名度が低く、ローカルブランドにとどまっていた。
JVCの認知度を世界市場に定着させるためにはどうすればよいか。貿易本部が出した回答は欧州、南米を中心に全世界的に熱狂的な人気のあるサッカーの国際大会のスポンサーになることだった。サッカーの国際大会といえば、四年に一度開かれるワールドカップ(W杯)である。ところがこの大会のオフィシャルスポンサーは一業種一社に限られている。幸運にもAV(オーディオ・ビデオ)産業は世界的な不況でスポンサーのなり手がなかった。ビクターは敢然と名乗りを上げた。そして前段階として八〇年の欧州選手権のオフィシャルスポンサーの権利を獲得、まず欧州市場でJVCを強力にアピールした。
続いて二年後のスペイン大会からW杯のオフィシャルスポンサーとなり、JVCのブランドは一気に世界に広まった。その余勢を駆って八六年のメキシコ大会でもスポンサーを継続し、着実にブランドイメージを上げていった。
転換期となったのは九〇年の大会である。八五年九月二十二日にニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で円相場が切り上げられたことから、日本経済は円高不況に襲われ、ビクターも例にもれず、八七年三月期は四十二億円の営業赤字を余儀なくされた。
九〇年大会の契約交渉はメキシコ大会が終了した直後から始まったが、ビクター社内では「目下の経営状態では、W杯のスポンサーどころではない」と契約の継続に難色を示す声が高まっていた。しかし契約を破棄するには高野の了解を得なければならない。このとき、高野は副社長に昇格してビデオ事業の第一線から離れていたが、ビデオ事業に関しては隠然とした力を持っていた。担当者は恐る恐る高野に意向を打診したが、言下に一喝されてしまった。
「契約破棄というのは海外でのビジネスの現場のわかっていない人の考えだろう。契約の打ち切りは間違いだ。業績がどんなに悪くともスポンサーは続けるべきだ」
高野は欧州メーカーに対するOEM交渉をはじめ、VHSを世界規格に育てるため東奔西走してきた経緯を通じて、「ワールドカップのスポンサーとしてのJVC」というキャッチフレーズが、いかに役立ったかを肌で感じていた。この一言で九〇年大会も継続することになった。
余談になるがビクターはその後も業績に関係なくW杯のスポンサーを続け、日本代表が初出場した九八年のフランス大会ではEMI、GEと個別に交渉して、日本が出場する試合に限って「犬のマークのVictor」の使用許可を得た。そしてアルゼンチン、ジャマイカ、クロアチア戦の三試合でピッチサイドに「Victor/JVC」の看板が掲げられた。日本の茶の間でテレビ観戦した多くの人は、JVCがビクターの海外ブランドであることを初めて知った。
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3 アルバムビデオ
ビクターは一九七八(昭和五十三)年に次々と欧州の有力メーカーをVHS陣営に組み入れたが、この間、国内市場を放置していたわけではない。七六年秋にVHSの第一号機を売り出した当初は、もの珍しさも手伝って予想以上に売れたが、一年が過ぎると販売ペースが鈍ってきた。原因はどんな新製品でも、他人より先に買わないと気がすまないマニアの需要が一巡したことにあった。
第一次石油危機の狂乱物価が一段落して、日本経済が減速期に入り消費が低迷していたことにもよるが、いかんせん一台二十五万円を超すビデオは、庶民にとってまだ「高根の花」の域を出なかった。ビクターの営業は本社営業本部が流通、事業部営業がマーケティングを担当していた。機能を分担していたわけだが、ビデオの売り上げが鈍化すると、双方の担当者が事業部長の高野のところに陳情に来た。
「事業部長。ベータ陣営と互角に戦うには、値段を下げるしかありません。値下げを考えて下さい」
すると高野はカンカンに怒り出した。
「お前ら、何か勘違いしているんじゃないか。仮にだ。VHSの国内普及率が今後一年間で五〇%になるというのなら、VHSの値段をタダにしてやってもいい。そんなことはできやしないだろう。いまVHSを買ってくれたお客様は、まだ生テープを買ってテレビ番組を録画するしか使い道がないんだ。いってみればタイム・シフト・マシーンとしての使い道だ。ところがあと十年もしてみろ。映画をはじめとするソフトが大量に出回るはずだ。ソフトを出回らせるには、その前にVHSのプレーヤーを普及させなければならない。普及すればビデオの価値がぐーんと高まる。VHSを普及させるにはどうしたらいいか。値下げを言ってくる前に、それを考えるのがあんたがた営業マンの仕事だろう。もし営業に知恵がなければ、おれは開発部に頼んで新しい機能を追加させ、逆に値段を上げてやる。毎日毎日、電器屋のおやじさんと酒ばかり飲んでいないで、その辺のことを真剣に考えろ」
さらに広告・宣伝部門も、高野に叩きのめされた。初めてテレビCMをやるとき、広告代理店のアドバイスで大物タレントを使った。CMの試作品が出来上がり、高野に見てもらったところ、珍しく素直な答えが返ってきた。
「私は広告のことは、良く分かりません。皆さんでよく相談して決めて下さい」
この一言で宣伝担当者は「事業部長が了解した」と勝手に判断したが、最後に高野は誰ともなくポツリと|囁《ささや》いた。
「ところでこのCMが始まると、視聴者は思わず振り向いて、トイレに立つのを|止《や》めますかね。私はそういうCMを期待しているんですよ」
ネーミングでも同じことが起こった。VHSファミリー各社は「マックロード」(松下)、「マスタックス」(日立)「マイビデオ」(シャープ)という具合に独自のネーミングを付けて発売した。ビクターもVHSにネーミングを付けるべく、専門家を動員してチャーミングな愛称を考案して、最後に残った三つの案の中から、高野に選んでもらうことになった。高野は神妙に説明を聞きながら、最後に発言を求めた。
「皆さんが考えてくれたVHSのネーミングは、どれも素晴らしい。しかしですな。その名前、うちの九官鳥は覚えられますかな?」
そのころ高野は、自宅で飼っている九官鳥に大真面目で、『ビデオはビクター。VHS』というキャッチフレーズを覚えさせようとしていた。むろんビクターのVHSにネーミングを付ける案は流れた。
高野と幸之助に共通していることは、物事の本質を判断する際、自分のモノサシを基準にしていることだ。|乾坤一擲《けんこんいつてき》の大勝負をかけるときは、考えに考え抜き誰にも相談せず、自分の信念に従って決断を下す。逆に大勢に影響がないと分かれば、徹底して遊びに回ることだ。
ある機種の値付けのとき、営業と経理の案に一万円の差が出た。どちらにするか、事業部長に任されたが、高野は双方の言い分を聞いた上で、裁定を下した。
「それぞれの言い分は分かった。それでだ、営業と経理からそれぞれ代表選手を出せ。ジャンケンして勝った方の値段にする」
代表選手は真剣な表情で、大きな声を張り上げ「ジャンケンポン」とやったわけだが、いつのまにか事業部長の机の周りは、黒山の人だかりとなった。高野がこんな子供じみた行動に出たのは、たとえ一万円上下しても、経営に大きな影響が出ないとの判断があったからだ。
高野は本来技術者だが、ビデオ事業部の再建を通じていつのまにか、事業家としてのセンスを備えた。OEM(相手先ブランドによる生産)の値段を決めるとき、経理部は社内の規定に従い、出荷価格を算定して高野に了解を求めたが、ここでも一喝された。
「なんでこんなに高い値段になるんだ。この値段じゃ相手の会社は、販売経費どころか、販売店にマージンも払えないじゃないか」
「しかし、これは会社の決まりですから」
「それじゃ、会社に規定を変えてもらえばいい」
一号機の値付けも似たようなことがあった。高野は経理部が原価計算を始める前から、口癖のように唱えていた。
「VHSの小売価格は二十五万六千円だな。絶対これしかない」
営業部が有力販売店を回って、理想の価格帯を聞いたところ、値ごろ感のある価格として出てきたのが、高野の予想より一万円高い二十六万六千円だったからだ。
「商品の値付けはバランスシートから出発すべきではない。商売が先にある以上、お客さんの声を最優先させ、会社の仕組みはそれに合わせるべきだ」
こうした高野の事業センスに経理マンは、まったく歯が立たない。ビデオ事業部発足と同時に本社の経理部から移籍してきた経理課長の大曽根収は、赴任早々、高野にバランスシートの講義をしたことがある。
「バランスシートの左側は会社の財産で、右側は………」
大曽根は得意気にレクチャーを始めたが、一通り説明が終えると、高野は真剣な表情で質問した。
「大曽根、お前の言わんとすることは分かった。そんなもん、本を読めば分かることだ。おれが本当に会社の財産と思っているのは、人材とか技術力、ブランド力、販売網とかいう目に見えにくいものなんだ。そのことは、どの本にも書いていない。そうした会社の本当の財産はいったいバランスシートのどこに載っているんだ」
ともあれVHSの生産は、国内外のメーカーからOEM契約が増えるにつれ急増した。ビクターのビデオ事業部の生産機種はそれまで、業務用が中心だったため生産規模は月産千台とか二千台の域を出なかった。当然のことながら量産効果のうまみを知らない。だがVHSの生産が月産一万台から二万台に増えるにつれ、ビデオ事業部の収益は一気に改善した。七〇年に事業部が発足してから七年目にして、利益の面で本社に貢献できるようになったが、それでも彼はさほどうれしそうな顔を見せなかった。
高野の頭の中はビクターの収益を高めることよりも、いかにしてVHSを普及させるかでいっぱいだったからである。そして営業の連中をつかまえては、持論を展開した。
「メーカーにとって、生産と販売はクルマの両輪のはずだ。生産部門には必ず開発部という名の研究所が付いている。ところが販売部門にはそれに相当するものがない。そこでだ。お前たちに知恵がなければ、販売部門の中に、どうしたら売れるかを専門に研究する部署を作ったらどうだ。いってみれば“営業研究所”だ」
世の中狭いもので、高野が考えていた営業研究所を実際に作った人がいる。ホンダ(本田技研工業)の創業者・本田宗一郎の盟友、藤沢武夫である。藤沢は六六年に四輪車の販売を手掛けたことがない業販店をサポートするため「ホンダ営研」という会社を設立した。「セールスを科学する」というのがキャッチフレーズで、研究開発部門の「本田技術研究所」に対抗して作った研究所である。営研には五百人のセールスマンを配置。職制がなく、しかも管理事務や金銭を一切取り扱わない一風変わった組織を発足させた。
むろん高野はホンダの組織を研究して提案したわけではない。結果として、希代の名経営者・藤沢の考えと一致したに過ぎない。高野からここまで言われれば、営業部隊としても真剣にビデオの売り方を考えなければならない。そして一つの答えを出した。
「マーケティングとは教育の問題である」
分かりやすく言えば、「ビクターはどうしたら、ユーザーにビデオの価値を教えられるか」である。この考え方を巡って議論を続けたが、意外にも模範解答は、開発部長の白石が作ったVHSのマトリックスの中にあった。白石はVHSの開発に際して、家庭用ビデオのニーズとして十二の条件を上げた。その最後の条件として「情報文化の手段になり得ること」という項目を入れた。
そこで営業部門は白石を講師として呼んで、なぜこの項目を入れたかの理由を聞いた。
「ビデオは映画を収録した市販ソフトのない時代には、タイム・シフト・マシーンとして使われますが、将来はお客さんのアイデアや思い出を記録する個人用の媒体になれる可能性を秘めています。それが実現すれば、人々の心に感動を与えるでしょう。ビデオは本来、受動的でなく能動的な機械なのです。そして個人用の媒体たらしめるのがビデオカメラです。カメラもデッキと同じようにビデオのシステムを構成する重要な要素です。この二つは切り離すことができません。デッキとカメラが一体化して、初めて情報文化の手段となり得るのです」
聞いていた営業マンは全員、目からうろこが落ちた気分になった。ビクターは七八年一月にポータブル・ビデオカセッター(HR─4100)と二管式ビデオカメラの発売を機に、個人用媒体を目指した販促活動に入った。販売価格は二十四万八千円。カメラはズームレンズ付きが二十九万八千円、標準レンズが二十五万千八百円である。標準レンズの価格をこま切れにしたのは、デッキと合わせて買えば四十九万九千八百円と、辛うじて五十万円を切るという意味である。
とはいえ現実には、五十万円の家電製品を買える人はおいそれとはいない。ビクターの狙いは、あくまでデッキの普及にあった。そこで系列販売店を集めて売り込み方を指導した。街の電器屋がデッキとカメラを担いで、売り込み先を訪れて家族にポーズを取らせ、それをテープに収めてその場で再生して見せる。収録済みのテープは記念にその家庭にプレゼントする。テープをもらった家庭がもう一度見たければ、デッキを買わなければならない。
ビクターの全国特約販売店は、一斉にこのキャンペーンを始めたが、どの家庭にもリビングや庭があるとは限らない。大阪のある販売店のセールスマンは、客のアパートにデッキとカメラを持ち込んで撮影しようとしたが、いかんせん部屋が狭くて撮影できない。外に出ようにも雨が降っている。そのときなにげなく、テーブルの上に置いてあった家族のアルバムが目に入った。
「これ、これだよ」
セールスマンはテーブルに家族のスナップ写真を広げ、ズームインやズームアウト、さらには停止ショットと次々に撮りまくった。出来栄えは上々で、手軽に家族の思い出アルバムが出来上がった。こうした情報がビデオ事業部に上がってくると、営業部隊は次なる作戦を立てる。
「アルバムをビデオで撮るというのは、まさにアイデアだ」
「どうせならストーリーを作って、画面に動きを付け、バックにはその時代に|流行《はや》った音楽をBGM(バック・グラウンド・ミュージック)として入れれば、ムードが出る」
「音楽の代わりにナレーションでもよい。お客さんは若き日の自分の姿を見れば、感動するのは請け合いだ」
「具体的にはお客さんからアルバムとその当時好きだった音楽のリストさえもらえれば、街の電器屋の店頭で簡単に編集・ミキシングできる」
「要するにアルバムビデオだな」
「アルバムビデオか。よし、それでいこう」
『アルバムビデオ』と銘打った販促活動は、その年の三月から始まった。「自分の思い出が絵となり音楽となって再現される」という人間誰もが潜在的に求めながら、満たされなかった感動の世界をビデオを媒体にして実現できるようになった。営業部隊から報告を聞いた高野は、強く指示した。
「街の電器屋はアルバムビデオを作り、それをお客さんに見せるだけでいい。まかり間違っても、『ビデオを買って下さい』と言ってはならない。ハードを売らずにハートを売るんだ」
高野が提案した営業研究所は七九年に設立、「暮らしにビデオ」をメインテーマにした「いきいきビデオまつり」や、ビデオ映像の祭典「東京ビデオフェスティバル」を開催。これを新聞、テレビなどが新しい映像メディアの出現と報じたことから、ビデオは録画主体の「録って見る」機械からカメラを使って「撮って見る」映像メディアとしての道を歩み始めた。
七六年には十一万台だったVHSの生産は七七年に三十三万台とやや足踏みしたものの、七九年には百三十四万台、そして八三年には、千四百三十四万台と飛躍的に伸び、ポスト・カラーテレビの本命商品として離陸し始めた。八三年に登場したカメラ一体型も八五年には百九十万台を記録した。
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4 怒髪天を衝く
一九七八(昭和五十三)年は高野の生涯で最も多忙であると同時に、最も苦境に立たされた年であった。欧州出張は十数回に及び、国内にいるときは開発・生産のみならず、国内販売にも指示を出す。しかしこの時期、彼の頭を悩ませていたのは、VHSの長時間録画問題だった。
高野は欧州メーカーとの契約がまとまるたび、そのつど大阪まで足を運んで、経営の師と仰ぐ松下幸之助に報告するのが習わしとなっていた。幸之助は一時期、松下社内で“VHS推進本部長”を自認して、陽になり陰になり高野を支援してくれた大恩人である。高野には幸之助の支援がなかったら、VHSは日の目を見なかったという思いが強い。
幸之助は欧州メーカーの攻略をわがことのように、ニコニコ顔で聞いているが、それが一段落して長時間録画の話に移ると、急に機嫌が悪くなる。松下が開発した四時間録画機種は米国市場で大好評を博し、破竹の快進撃を続けている。高野は苦り切っていたが、対照的に幸之助は至極ご満悦だった。そして高野が来社するたび幸之助は同じことを聞いた。
「アメリカでは四時間機種が爆発的に売れているそうやないか。わしは『山下君にそろそろ国内でも売ってみたらどうや』と言っておるんや」
「相談役。お言葉ですが、VHSの標準モードはあくまで二時間録画です。四時間録画機種は技術的には邪道の製品です。米国での四時間機種の発売は即刻中止してもらいたいくらいです」
「いやにはっきり言うやないか。それじゃ、わしもはっきり言わせてもらうで。向こう(米国)のお客さんが喜んでいるのに、なんで発売をやめなきゃあかんのや。お客さんの喜ぶ製品を安く提供するのが、わしの経営哲学であることは、君だけでなくビクターの連中は全員知っているはずや」
幸之助は堪忍袋の緒を切らし、激怒してしまった。高野は幸之助の前で、米国市場における四時間機種の発売中止を口に出すことによって、国内市場への投入を防ぎたかった。逆に幸之助は高野の了解を得たうえで、円満な形で四時間機種を国内市場に投入するつもりだった。結果はお互い相手に対する配慮が裏目に出てしまった。
四時間機種の国内販売を巡っては、技術者ベースでも喧嘩腰で議論を続けたが、お互いに一歩も譲らない。いつしか松下対ビクターの構図ができ上がり、遂にビクター社長の松野幸吉も黙視できなくなった。
解決の糸口を探るため、松野は両社の首脳陣が一堂に会し、お互い腹を割って話し合うことを提案。松下は“渡りに船”とばかりに松野の提案を快諾し、第一回目の会合は松下本社で開くことになり、最初は幸之助も出席することになった。
松野は松下時代に松下の“東京探題”(常務東京支社長)として、東京における幸之助の水先案内人を務めた経験を持っている。強烈な個性を持つ松下経営陣の中にあって「|昼行灯《ひるあんどん》」と自称するほど、どんなことがあっても怒りを顔に出さない穏やかな性格をしていた。高野は松野の温厚な性格に一抹の不安を感じていたが、相手が社長とあって余計な口出しはできない。
七八年の春過ぎに松下本社で開かれた会議では、予想に反して松野が先陣を切って発言した。
「ご存じのようにVHSの基本は二時間録画です。ビクターとしては主に互換性の面から四時間機種の国内市場投入は認め難い」
松野はビクターに来てからちょうど四年半になるが、完全にビクターの人間になりきっていた。社長が真っ先に長時間録画の反対論をぶったことから、ビクターは勢いづき、副社長の徳光博文はむろんのこと、高野もそれぞれの立場から反対論を述べた。
幸之助は最初こそ両社首脳の話し合いを黙って聞いていたが、途中で怒りが込み上げてきたのか、いきなり発言を求めた。
「ビクターは一体なにを考えとるんや。わしは技術の詳しいことはよう分からんが、VHSが米国市場で主導権を握れたのは、四時間機種があったからと違うか。向こう(米国)でぎょうさん売れているということは、お客さんが喜んで買ってくれるからやないのか。向こうで売れているんなら、必ず日本のお客さんも欲しがるはずや。お客さんが求めているものを売って何が悪いんや。ビクターはまだ商売のイロハが分かっとらんようやな」
目前で“経営の神様”から|叱責《しつせき》されても、ビクターは一歩も譲歩しなかった。正確にいえば譲歩できなかった。ビクターは松下の子会社に違いないが、同業他社に働きかけてVHSのファミリー作りを進めており、もはや開発メーカーの一存で勝手に規格を変更できない。幸之助の怒りが爆発したことから、両社の首脳会談は決裂した。
幸之助の怒りは尋常ではなかった。彼は年々老いゆく自分に焦りを感じ、感情を抑えることができなかった。その直後、松下は東京・浅草の浅草寺に大提灯を寄付した。松野は松下時代、東京支社長をしていた関係で、その奉納の席に呼ばれた。その場には当然、信心深い幸之助も出席したが、幸之助は松野の姿を見ても|一瞥《いちべつ》しただけで、口すらきこうとしなかった。
これにショックを受けた松野は、自分の判断が正しかったかどうか悩み、毎朝、松下から出向している経理担当常務の平田雅彦に電話しては、愚痴をこぼした。平田の妻は早朝に掛かってくる電話をいつしか「暁の超特急」と名付けた。松野が解決に向け具体的な行動を起こさなければ、日に日に松下との関係が悪化する。そこで彼は三日を空けずに幸之助宛てに綿々と手紙を書き、ビクター技術者のVHSに対する思い入れを切々と訴えた。
松野の苦悩をビデオ事業部長の高野は知る由もないが、彼も幸之助の怒りを肌で感じていた。夏に入り欧州市場の現状を報告するため、幸之助に面談を申し込んでも、秘書室からは「相談役は多忙で、時間が取れません」という返事がくるだけ。幸之助の専用電話にダイヤルを回しても、誰も出ない。
松野と高野は、いってみれば幸之助に“勘当”されたのである。高野はビデオ事業部で隣に座っている経理課長の大曽根収に、悲しげな表情で語りかけた。
「どうやらわしは、相談役から勘当されたみたいだ。四時間録画でタテついた報いかな。しかしこの問題だけは、たとえ勘当されても絶対に譲るわけにはいかないんだ」
幸之助の経営哲学は「お客様が喜ぶ物を作って売るのがメーカーの使命」という考えが基本となっている。この考えに立てば米国で爆発的な売れ行きを見せている四時間録画機種の国内販売は当然の帰結である。
これに対して高野は「VHSの生命線は互換性にある」ことを信条としており、開発当初から「たとえ会社が|潰《つぶ》れても、VHS規格を守り抜く」という強い意志を貫き通してきた。もし高野にこうした強い信念がなかったら、VHSの標準モードが|曖昧《あいまい》になり、世界規格への道は閉ざされたであろう。
ビクターの歴史は「風にそよぐ|葦《あし》」であり、子分肌が染み付いた社風であることは前に述べたが、高野が幸之助の経営哲学に異を唱えたことで、子分肌の社風は少しずつ変わり始めていた。彼の頭の中には、ビデオは最初はテレビ番組を録画・再生するタイム・シフト・マシーンとして売れ始めても、それはビデオが本来持っている機能の一部に過ぎない。将来は映画フィルムのビデオ化によるソフトの再生、さらにビデオカメラによるソフト作りが加わることを信じて疑わなかった。
この三つの機能を実現するには、「VHSは二時間録画が基本」という姿勢は絶対に崩したくなかった。といって幸之助が唱える「お客様第一主義」も無視することはできない。この矛盾した考えをどう両立させるか。この時の“勘当事件”が翌年六月のトップ人事に微妙な影響を与えた。ビクターは七九年六月に社長の松野幸吉が任期途中にもかかわらず、突然辞任を表明して会長に退き、後任社長に常務の宍道一郎を選んだ。宍道は戦後の四六年、高柳健次郎に誘われビクターに入社し、主にテレビ畑を歩んできた。
ビクター社内ではこの時期に誰も松野が退任すると予想していなかった。もし病気であれば、宍道より三年早く取締役になった副社長の徳光博文が昇格するのが順当である。しかし結果は常務の宍道が社長になり、徳光は常任監査役に退いた。松野は野人的な雰囲気を漂わせている徳光の起用も考えないわけではなかったが、松下との関係が緊迫化していた時期に、徳光を起用することは親会社の松下に喧嘩を売るようなものである。なにしろ徳光は松下会長の松下正治から、「あいつは譲るということを知らない男だ」と名指しで批判されていたからである。
松野はこの時期、苦しい立場にあった。長時間録画機種では、松下と対立していたが、VTR(ビデオテープレコーダー)と並ぶもう一つのビデオ、VD(ビデオディスク)の覇権争いでは、幸之助の力を必要としていたからだ。松野は松下との関係修復を最優先させ、まず自分の“首”を松下に差し出し、さらに徳光を強引に監査役に退かせ、後任社長には温和な性格で、紳士的な宍道を選んだ。
そして宍道が選ばれたことにより、ビクター社内に「トップは松下との関係を最優先しなければならない」という|厭世的《えんせいてき》な空気が流れた。同時に将来、高野が社長になる芽も半ば摘まれてしまった。
高野が必死になって連絡を取っていたころ、幸之助は出張先のオランダで体調を崩し、|急遽《きゆうきよ》帰国して大阪・守山市にある松下記念病院に入院していた。
高野が失意のどん底にあったころ、VHSファミリー企業の技術者で構成する技術検討会は、必死になって長時間録画問題の解決策を模索していた。そして七八年の秋になって一つの方向性が出てきた。VHSを開発した白石が晩秋のある日、高野に打ち明けた。
「やはり四時間録画は画像のH並びがないので、静止画像やスローモーションなどの再生ができません。相談役がどうしても長時間録画にこだわるのなら、思い切って六時間録画にしたらどうでしょうか。これならH並びが成立します。二時間録画を基本にして、三倍モードで六時間にするのです」
「実はわたしも前々からそのことを考えていたんだ。VHSの基本はあくまで二時間録画で、六時間録画は付加機能として市場が受け入れてくれればいいなと思っているんだ。
最近の黒澤明監督の『影武者』やフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』などは、上映時間がゆうに三時間を超える。テレビではたとえ二時間を超える映画でも再編集して二時間に圧縮して放映するが、テレビ局には黒澤作品やコッポラ作品に限っては、ノーカットで放映してほしいという要望の声が舞い込んでいるようだ。
これが実現すると一本のテープに録画しておきたいというお客さんも出てくる。ビデオをタイム・シフト・マシーンとして使うお客さんには、録画時間が長ければ長いほどよい。技術的な問題がなく、しかも二時間機種との互換性が保てるなら、相談役の要望にもこたえられる。引き続き技術検討会で、その辺のことを詰めてもらおう」
二時間録画を基本にし、付加機能として六時間録画機種を開発するのは、理論的には可能である。二時間録画の映像信号を記録するビデオトラック幅は五八マイクロメートル。つまり一〇〇〇分の五八ミリという狭い幅に映像信号を記録して鮮明映像を出しているわけだから、同じテープに六時間分の映像を記録するには、ビデオトラックの幅を三分の一の一九・三マイクロメートルにすればいいわけだ。
ただしここまで狭くすると、再生するときビデオの専門語でいう「クロストーク現象」が起きてしまう。テープに録画された本来読み込むべきトラックに記録されている信号だけでなく、その前後の信号まで読み込んでしまうので、画面が|滲《にじ》んだり汚くなってしまう。こうした技術的な問題を解決しない限り前へは進めない。
松下の技術陣は、ビデオの録画時間は長ければ長いほどよいと考えていたため、六時間録画機種の開発には|諸手《もろて》を挙げて賛成した。こうした総意のもとにビクターの白石が中心になって二時間の標準モードでも六時間のどちらでもクロストーク現象が起きず、しかも鮮明な画像を出す技術開発に取り組み始めた。
クロストーク現象をなくす方法は意外と早く見つかった。映像信号を直接テープに記録(再生)するビデオヘッドの角度を従来の六度から九度に変更するのである。さらにこれまでの回転二ヘッドに三倍モード専用ヘッドを加えた四ヘッドにすると、六時間録画でも二時間録画と|遜色な《そんしよく》い映像が出ることも分かった。
技術検討会はただちに六時間録画機種のフォーマット作りに取り掛かった。それが出来上がると今度は、ビクターのみならず日立などVHSのファミリー各社が試作品作りを始めた。そして七九年三月二十三日になってまずビクターの試作品が出来上がり、松下を除くVHSファミリー各社の技術陣に公開した。説明役の白石は絵を出す前に説明した。
「本当はビデオヘッドの角度を思い切って十一度まで上げれば、二ヘッドのままでもきれいな映像を出せます。しかしここまで上げてしまうと、従来機種との互換性を保つことができなくなります。互換性を保ちつつしかも六時間録画でも一定の映像を出すには、この方法が最適かと思います」
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5 「あんじょううまくやってや」
VHSファミリー各社の技術者は、ビクターの六時間録画機種の映像を見た瞬間、驚きの声を上げた。
「高野さん。この絵は本当に三倍モードで撮った映像ですか? ほとんど二時間機種と変わりありませんね。ねぇ、これで行きましょうよ。ビデオヘッドの角度が九度であれば、クロストーク(画面の|滲《にじ》み)現象はなくなるはずですよね」
「理論的にはなくなります。ただし低速モード専用ヘッドを付けなければ、画像の劣化は避けられません」
松下との調整で最後まで残ったのが、画像とコストのどちらを優先させるかだった。ヘッドの数を増やすかどうかは各社の自由だが、互換性を保つには、最低限ヘッドの角度だけは統一しておかなければならない。画質にこだわるビクターは、九度に引き上げることを主張したが、松下は従来通りの六度に執着したことから事態は紛糾した。松下にすればヘッドの数を増やすのは論外で、ヘッドの角度を変えるだけでも、コスト増につながるので対米輸出価格を引き上げなければならない。
四時間機種を生産しているのはかつて松下本社の副社長として、ビデオ事業の采配を振るった稲井隆義が社長をしている四国の松下寿である。モノ作りの鬼として、何よりもコスト削減を信条とする稲井は、松下寿社長の立場から、いち早くビクター案に反対を表明した。
稲井だけでなく、松下本社社長の山下俊彦もビデオ事業部長の谷井昭雄も反対に回った。松下も独自にヘッド角度を六度にしたままで、六時間録画機種の試作品を作ったが、画像の劣化は避けられなかった。にもかかわらず事業採算を前面に押し出して、一歩も譲らない。両社の調整がつかず、六時間録画機種の規格作りは、完全に暗礁に乗り上げてしまった。
松下にすればすでに四時間機種で米国市場を制覇しているので、何がなんでも六時間録画機種を開発しなければならない理由がない。松下側が会議の席で強硬な反対論をぶつのは決まって、高野が欧州出張で欠席したときだ。時間を|経《へ》るにつれ、形勢は松下に有利になっていく。
一九七九年四月二十四日、ビクターの横浜工場で松下を除くVHSファミリー五社の技術検討会が開かれた。その席で「松下の独走に歯止めをかける」ことを申し合わせた。いち早くそれを察知したのか、四月二十五日の朝、高野は松下本社の秘書室から「明朝、松下記念病院にある相談役の執務室に来てほしい」という幸之助の伝言を受けとった。
〈相談役は体調を崩していたのか〉
幸之助から勘当されたと思い込んでいた高野は、一安心すると同時に今度は幸之助の病状が心配になってきた。
二十五日は折からの国鉄のゼネストで、東海道新幹線は全面運休。翌二十六日も動くかどうか分からない。高野は飛行機に切り替えるべく羽田空港に向かったが、新幹線からの振り替え客が殺到しており、いつになったらキャンセル待ちの番号が回ってくるか、見当すらつかなかった。
松下本社の秘書室には、事情を話して、面談の日時を延期してもらうよう要請したが、幸之助からは厳しい答えが返ってきた。「新幹線が動かないなら、車を使ってでも来い」と。
この一言で深夜に車を飛ばしていく覚悟を決めたが、その前にビデオ戦争における“戦友”ともいうべき日立のビデオ機器部長の宮本延治を羽田空港近くのホテルに呼び出して、夕食を共にした。急ぎ駆け付けた宮本は悲壮感を漂わせた高野の顔を見て、不吉な予感がした。案の定、高野は宮本の顔を見るなり、強い決意を述べた。
「宮本さん。出がけに女房から『絶対に島田さんのような真似はしないでね』とクギを刺されたんですよ」
「島田さんとおっしゃいますと……」
「亡くなった日商岩井常務の島田三敬ですよ」
「ダグラス・グラマン事件で自殺した、あの総合商社の日商岩井の島田常務ですか」
「そうです。あいつとは浜松高工(現静岡大学工学部)の同級生で、昔から家族ぐるみで付き合っていたんです。責任感の強い男だったが、事件発覚直後に飛び降り自殺してしまった。女房は私があまりにも深刻な顔をしているものだから心配したのでしょう」
ダグラス・グラマン事件はロッキード事件と同じように、七九年の正月明けの一月四日、アメリカから飛び込んできた。米証券取引委員会(SEC)の報告書にグラマン社の航空機を巡る日商岩井と政府高官の不正取引が明るみになり、約一カ月後の二月一日に担当常務の島田が自殺、四月二日には前副社長の海部八郎が逮捕された。
「宮本さん、心配しないで下さい。私は島田のような真似はしませんから。それより今日ここに来てもらったのは、相談役から呼び出しを受けたからです。私は食事が終わりしだい、車を飛ばして大阪に行きます。相談役は病み上がりらしいが、直接会って対決します。VHSを守るには、それしか道がないのです」
「本気で“経営の神様”にタテつくわけですね。しかし高野さん、幸之助さんはなんといってもお年だ。しかも聞けば病み上がりだという。あまり強硬に反対しない方が……。冷静になって話し合えば、必ず解決の道はあるはずです」
「ならいいんですが……。松下社内では四時間機種の開発は美談として伝えられているが、四時間機種のお陰で、どれがVHSのスタンダード機種か分からなくなってしまった。長時間機種問題で安易に妥協すれば、ベータマックスと同じ運命をたどってしまう」
高野は宮本と別れた後、東名、名神と二つの高速道路を飛ばして明け方には大阪に着いた。仮眠する間もなく、指定された時間通り松下記念病院の五階にある幸之助の専用執務室に入った。
病院とはいうものの、別室には本社の相談役室と同じように、執務机と応接セットが置いてある。その応接セットのソファに一人の老人が、目を|瞑《つぶ》ったままピーンと背筋を伸ばし、両膝に手を置いて座っている。逆光のせいか顔の輪郭ははっきりしなかったが、高野は一目で幸之助だと分かった。
秘書の足音で来客に気が付いた幸之助は、目を開け来客が高野だと確認すると、もっと自分に近付くよう手招きした。高野は緊張しながら恐る恐るソファに近付いた。高野が幸之助の顔を見るのは一年ぶりだが、一瞬、別人かと思った。頬はそげ落ち、顔には|艶《つや》がない。しかし黒ぶちの眼鏡フレームの奥にある目だけは、依然として事業家らしくカッと見開いている。幸之助の顔を見た途端、「相談役と対決する」という高野の戦意が喪失した。
幸之助は高野を前に話し始めたが、ボソボソと語るだけで、何を言っているのか、高野には聞き取れない。そこで彼はやや大きな声で「失礼します」と断って、やおら立ち上がり、幸之助のそばに行き右手を自分の右耳にかぶせて、幸之助の口元に近付けた。
「忙しいところすまんやったな。こんところ体調を崩して、ずーっとここにいるんや。ここにいる方が、西宮の自宅から通うより楽でええわ」
〈考えてみれば、VHSが日の目を見たのは相談役のお陰だ。これ以上、相談役を悲しませたり、怒らせたりするわけにはいかない〉
「ところで高野君。ビクターは六時間録画機種を開発しているそうやが、松下との調整はうまくいっているのかな」
「………」
「どこに問題点があるのか、分かっているんやろ?」
「分かっています」
「そんなら簡単や。松下とはあんじょううまくやってや。頼んだで」
高野は幸之助と対決するに際して、ベータマックスを引き合いに出して、互換性の重要さを訴えることにしていた。
〈アメリカでは確かに松下が供給している四時間機種が売れますが、最近出回り始めた映画のソフトは、大半が二時間です。市販ソフトは早晩二時間が基準になるでしょう。ソニーはそれで苦労しています。ベータマックスを見て下さい。最初に一時間機種を出し、次に一時間と二時間の切り替え機種、そして二時間専用機種と三種類の機械を発売しました。つまりソフト屋さんは、いくつものソフトを作らなければならないので、効率が悪すぎます。その点、VHSは『二時間録画が標準機種』ということが理解されれば、市販ソフトは一気に普及するはずです〉
こう話を切り出せば、幸之助は当然、「それと四時間機種と六時間機種の関係はどうなるんや」と聞かれるのを予測して、その答えも用意していた。
〈幸いなことに四時間機種のソフトはまだ出回っておりません。私としてはVHSは基本が二時間機種で、長時間録画機種は『おまけ』ということをお客さんに分かってもらえれば良いのです。ビデオをタイム・シフト・マシーンとしてだけ使うなら、四時間より六時間の方がテープコストも安くなります。ビデオヘッドの角度を上げ、さらにヘッドの数を増やし、三倍モードを採用すれば、二時間録画機種と|遜色《そんしよく》のない映像を出せます。H並びもできるので、四時間機種ではできない静止画の再生も簡単にできます〉
しかし現実は病み上がりながらなお、VHSの将来と松下との調整に頭を痛めている幸之助の表情を見て、ビデオヘッドの角度の問題で松下と激しく対立している現状を、口に出すのを思いとどまった。
〈これ以上、相談役に心配をかけるわけにはいかない。ビデオヘッドの角度は松下の主張するように六度のままでいこう。画像の劣化は新たな技術を開発して解決しよう〉
高野は最後に幸之助の耳に向かって話しかけた。
「VHSのスタンダードは二時間録画です。このことさえ相談役にご理解願えれば良いのです」
幸之助はどこまで理解できたかは定かでないが、初めてニコニコ顔で|頷《うなず》いた。
「さよか、VHSはわしにとっても子供のようなもんや。高野君、よう頼んだで」
六時間録画問題はビクターが譲歩したことで、翌月の五月八日に開かれた松下を含めたVHSファミリーの技術検討会で細部が決まった。十二月にはビクターが先陣を切って四ヘッドを装着した六時間機種を発売した。
松下電器は毎年一月十日に「経営方針発表会」を開くのが長年の習わしになっている。毎年、大阪府高槻市にある松下電子工業の福祉会館で行われ、巨大なドームをかたどった丸い建物の会場には、松下グループの中堅幹部以上の数千人の社員が参列する。全員が着席すると会場の中央通路の後ろから背筋を伸ばした幸之助が姿を現し、花道をまっすぐ正面舞台に進む。壇上に上がる直前に、くるりと向き直って高々と手を上げると、幹部社員は一斉に拍手をする。それを確認すると、幸之助がニッコリ笑う。この独特のパフォーマンスから松下グループの一年が始まる。
高野もビクターの役員になってから出席しているが、遠くから眺めマイクを通じて幸之助の肉声を聞くだけである。
経営方針発表会の翌日には、会場を本社の会議室に移して、松下グループ各社のトップを集めた「新春経営懇談会」を開く。八〇年も経営方針発表会の翌日開かれた。この会にはビクターから社長、副社長が出席するが、この年はなぜか一介の取締役に過ぎなかった高野も招かれた。大阪に出発する前日、高野はビデオ営業部長の菅谷光雄に向かって軽口を叩いていた。
「明日、松下本社に行ってくる。今年は新春経営懇談会にも呼ばれている」
「それなら、幸之助相談役に会われるわけですね。大丈夫ですか?」
高野が幸之助から勘当を解かれたことを知らない菅谷が、心配顔で尋ねた。すると、高野はすまし顔で、こともなげに言った。
「おれが大阪まで行って口をきかないようなら、こちらから願い下げだ。幸之助がそんなケツの穴が小さい男だとしたら、“経営の神様”なんていう称号は返上もんだぞ」
高野は部下の前で虚勢を張り肩を怒らして事業部の部屋から出ていった。菅谷はいつもの冗談話として受け答えていたが、高野は内心緊張していた。
新春経営懇談会は予定通り、経営方針発表会の翌日の午前、松下本社の会議室で開かれた。社長、会長の関係会社に対する経営方針の発表があり、最後に幸之助の講話で締め|括《くく》った。懇談会が終わると、松下の経営幹部はそそくさと席を立ち、昼食会の会場に向かったが、幸之助は通路の出口に立って高野が出てくるのを待っていた。
高野の顔を見つけると、弱った足で近付き肩を抱き寄せ二言、三言、言葉にならない言葉を交わし、さらに昼食会でも自分の隣に座らせた。高野が幸之助のもとへの出入り禁止、勘当されたことは、ビデオ関係者の中では知らない人はいないほど有名になっていた。しかし幸之助が関係会社の経営トップが一堂に会した昼食会で、自分の隣に座らせたことは、勘当を解いたことを知らせるセレモニーとなった。
翌朝、高野は上機嫌で出社すると、菅谷がおそるおそる尋ねた。
「事業部長、どうでしたか?」
すると高野は晴れ晴れした表情で、身ぶり手ぶりを交えて前日の様子を語って聞かせた。
「幸之助のことか。あいつはたいした男だ。おれの顔を見るなり、そばによってきて肩を抱くんだ。本当の経営者はああでなくっちゃ。本当にスケールの大きい男だよ」
幸之助との和解を契機に、高野の動きが一段と活発になった。それから数年を経てベータとVHSの激しかったビデオ戦争も、勝利の女神はVHSにほほ笑みかけた。しかし映像メディアの覇者としてVHSの立場を揺るぎないものにするには、高野はまだまだやらなければならないことが山ほどあった。
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第十章 二十世紀最後の家電商品

1 “絵の出るレコード”
ビデオテープレコーダー(VTR)は超精密機械技術と最新鋭のエレクトロニクス技術を結合させた商品で、資源のない日本に最も適した産業である。そのビデオが短期間で成長軌道に乗ったのは、米RCAが一〇〇〇ドルビデオを発売したのを機に、まず米国市場が価格競争に突入し、それが日本市場に跳ね返り、太平洋を隔てた両国で初期需要が一気に開花したためだ。
日本のビデオ技術は、欧米の追随を許さず、世界の供給基地としての地位を万全のものとしていた。幸いなことに輸出をいくら伸ばしても、貿易摩擦が発生する心配もなかった。
ビデオが産業として離陸し始めたころ、日本経済の高度成長の一翼を担ってきたカラーテレビは普及が一巡、輸出も思うにまかせず産業としては衰退の道をたどり始めていた。カラーテレビと並ぶ音響製品も内需不振が続いていた。八方ふさがりの家電業界にあって、唯一の救いはVTRが確実に、「二十世紀最後の大型家電商品」の道を歩み始めたことだった。
ベータとVHSが血みどろの死闘を繰り広げていたこの時期、水面下では“絵の出るレコード”と呼ばれるビデオディスク(VD)を巡って、もう一つのビデオ戦争の火ぶたが切られようとしていた。
今にして思えば、映像メディアの世界でVDほど不幸な歴史をたどった商品はない。開発の過程では多くの技術者たちが栄光の座を目指して血と汗を流したものの、失敗と挫折の連続で、ビデオ開発史に名をとどめるどころか、|死屍累々《ししるいるい》の惨状を呈した。原因はVDが“絵の出るテープ”=VTRの利便性に勝てなかったことにある。
これまで何度か触れたように、エジソンがレコードを発明して、レコード盤から音楽を取り出す道を開いたのは今から約百二十二年前の一八七七年である。蓄音機が登場したお陰で、音楽愛好家は自宅の居間にいながらにして、ニューヨークのジャズを聴くことができるようになった。
そのレコードに絵を入れようという夢に、最初に取り|憑《つ》かれたのがRCAの技術者である。いかにもアメリカ人らしく、西部劇の映画やブロードウェーのミュージカルを自宅で観せることを夢見た。いわば映画とレコードの結婚である。
ポスト・カラーテレビを模索していた一九六〇年代の前半のことで、RCAがビデオの本命商品としてVTRよりVDを選択した。VTRを捨てたのは、放送局向けで予想もしていなかった中堅音響メーカーのアンペックスに先を越されたことと無縁ではない。VTRで後れを取ったことで「エレクトロニクス産業の覇者」というRCAのプライドが傷つけられてしまった。
さらに技術者も小型化が要求される家庭用ビデオは、コストダウンが難しくたとえ研究室段階で開発に成功しても、とうてい商品にはなり得ないと判断していた。RCAの技術者に限らず、アメリカ人はまだテレビ番組をビデオで録画し、後でそれを見て楽しむ娯楽があることを知らなかった。
VDの開発はニュージャージー州プリンストンにある研究所が担当することになった。この研究所はRCAの中興の祖ともいうべきサーノフ将軍を称え「サーノフ研究所」と呼ばれ、AT&Tの「ベル研究所」、IBMの「ワトソン研究所」と並ぶアメリカを代表するエレクトロニクス技術の研究所である。
サーノフ研究所には精鋭の技術者が集められ、プロジェクトは原子爆弾開発にちなんで、「マンハッタン計画」と名付けられた。テレビの需要が低迷期に入った時期に、それを補完する大型商品としてさっそうとデビューする。VDはRCA再興に向けての救世主の役割を担っていたのである。
むろんVDの実用化は、欧州メーカーも|虎視眈々《こしたんたん》と狙っていた。そして一番乗りを果たしたのは、伏兵ともいうべき西独のテレフンケンだった。
「エジソンが発明したレコードは、音楽を楽しむものであったが、われわれは遂に絵の出るレコードを発明した。映画やニュースをレコードで楽しむ時代が到来したのだ。そのレコードこそがビデオディスクだ」
七〇年六月二十四日、テレフンケンは研究所のある西ベルリンで衝撃的な技術発表会を開いた。開発したのはテレフンケンと英国のレコード会社のデッカ社と両社の合弁会社のテレデック社である。三社が開発したのは直径二一センチ、厚さ〇・一ミリのビニールシートの円盤に五分間の白黒画像が記録され、再生はレコードと同じようにダイヤモンド針を使い、テレビ画面に画像を映し出すというものだった。この方式はTeD(テレビジョン・ディスク)方式と名付けられた。
世界の技術者が驚いたのはエジソン以来、音しか出せなかったレコードから現実に絵が出たことである。TeD方式の原理は、LP大のレコード盤上に凹凸で記録した映像信号を、先端がなぎなた状になったダイヤモンド針でこすり、上下の振動を電気信号に変換させて絵にするのである。ただし針とレコード盤を直接こすり合わせるため摩耗が激しく、再生時間が短いという欠点を持っていた。
七〇(昭和四十五)年といえば、大阪で日本万国博覧会(EXPO'70)が開かれ、日本経済はまだ戦後最長の「いざなぎ景気」の余韻を残し、誰ともなく“昭和元禄時代”と呼んでいた時代である。ソニーが松下とビクターに、テープ幅四分の三インチの業務用VTRの共同開発を持ち掛けたのはその前年末のことで、まだ家庭用ビデオの輪郭すら見えていなかった。それだけに世界の家電メーカーの技術者は魔法のレコードの出現を、半信半疑の目で見ていた。
発表から一カ月後にロンドンで実物が公開され、日本からも技術者が大挙して押しかけた。そして彼らは異口同音に驚嘆の声を上げた。
「これは凄い。なにしろペラペラのソノシートに8ミルフィルム一本分の画像が入っているのだから。これは紛れもなくエジソン以来の大発明だ」
テレフンケンのVDは本物だった。翌七一年には早くもカラー化を実現した。ここから日本企業のテレフンケン|詣《もう》でが始まった。日本企業が彗星のように現れたTeD方式のVDに異常なまでの関心を示したのは、ポスト・カラーテレビを巡って混迷していたことによる。七〇年のカラーテレビの世帯別普及率は、すでに三〇%を超えていたが、国内では二重価格問題、米国では日本製カラーテレビに対してアンチ・ダンピンク問題が噴き出し、業界の誰もが五年を待たずにカラーテレビの需要が頭打ちになると予想していた。それだけにポスト・カラーテレビから目をそらすわけにはいかなかった。
その一方で、盛んにビデオパッケージ論が|囁《ささや》かれた。提唱者は「ビデオ産業五千億円説」をぶちあげたビデオソフト会社、ポニー社長の石田達郎である。石田はビデオテープを念頭に置いていたが、家庭用ビデオの事業化は困難を極めていた。家電業界はVDに大きな興味を示した。
TeD方式が発表された二年後の七二年九月。今度はオランダのフィリップスがVLP(ビデオ・ロング・プレー)と呼ばれるガスレーザーを使ったVDを発表した。ダイヤモンド針を使うTeD方式は機械電圧方式と呼ばれたのに対し、フィリップスのは光方式と呼ばれた。
針の代わりにレーザー光線を使い、レコード盤上に記録した小さな信号ピット(レコードの溝にあたる)を読み出す。LPレコード大の専用ディスクには五万四千コマの絵が記録され、しかも針とレコード盤が接触しないので、好きな画像を自由に取り出せる。そのうえ画像の静止、スローモーション、早送り、巻き戻しができるなどの特徴を持っていた。両面使えば、最大九十分のカラー画像が入る。この光方式は|密《ひそ》かにハリウッドの映画会社、MCAも開発を進めていた。
ただし技術があまりにも複雑で、先端技術として高い評価を得たものの、家庭機器として商品化するにはVTR以上に困難とされた。それだけに世界の家電メーカーはRCAの技術成果を|固唾《かたず》を飲んで見守っていた。
RCAは七三年に入って静電容量方式と呼ばれるVDの開発成功を発表した。針を使う点ではTeD方式と同じだが、RCA方式はサファイヤ針を案内するためレコード盤に溝を作り、溝の中の凹凸を電気容量の変化として取り出して絵にするのである。ディスクは直径三〇センチの黒い円盤で、LPレコードと同じ外観をしていた。RCAはこれに「セレクタビジョン」の愛称を付けた。
RCAの究極の狙いは「レコード盤に映画を入れたい」ということだった。発表したのは一時間録画機種だが、将来は二時間に延ばすと公約した(七七年に実現)。セレクタビジョンはさほど技術的な目新しさはなかったが、エレクトロニクス業界に君臨していた“RCA神話”が生きていた時代だけに、真打ち登場の印象を与えた。これに恐れをなして米三大ネットのCBSは、自社開発したEVR(エレクトロニック・ビデオ・レコーダー)の発売を即刻中止してしまった。
続いて七四年には、仏トムソンCFSと米ゼニスがそれぞれレーザーで記録・再生するVDを発表した。この年の秋にはフィリップスとMCAが提携して共同で実用化することで合意した。
ところが日本メーカーはまだ外野席で見物していた。アンペックスが放送局用ビデオを開発した直後、ビクターの高柳健次郎が歯ぎしりして、翌年から家庭用ビデオの実用化に向けて開発に着手したのとは大違いである。しかし三つの方式が出揃ったとあって、日本メーカーもうかうかしておれなくなった。大手家電メーカーは七四年に入ると、一斉に研究・開発チームをスタートさせた。最初の仕事は開発メーカーを回ってできるだけ資料を集めることである。各方式の研究の進捗度を確認するとともに、将来の可能性を見抜こうとしたのである。
三洋とゼネラルはいち早く、テレフンケンからTeD方式の技術を導入。東芝は光方式の研究と並行して七二年に発足させた家電研究所でTeD方式を手掛ける一方、東芝EMIと共同でディスクのカッティングにも着手した。日立も中央研究所で光方式の研究に着手した。
松下は幸之助の鶴の一声で、中央研究所に第一開発事業部を新設して、消去法でRCAの静電容量方式を最優先に開発にあたることになった。理由がいかにも松下らしい。
最大公約数的な意見は「TeD方式は機構が簡単で安く作れるが、再生時間が十分と短すぎて商品としての魅力が乏しい。それ以前に会社が頼りない。フィリップスのレーザー方式は、将来性はあるが複雑で作りにくい。その点、世界のエレクトロニクス業界の盟主のRCAが開発した方式なら……」というものだった。
七五年夏までにシャープ、ゼネラル(現富士通ゼネラル)、パイオニア、クラリオン、新日本電気(現NECホームエレクトロニクス)、東芝の六社がライセンスを導入、“RCAファミリー”を形成した。しかし、肝心の松下はライセンシーには加わらず、独自にディスクを供給してもらう一方で、RCAから委託されて静電容量方式のピックアップ技術を開発するなど深く静かに技術交流を続けてきた。
ところが松下が最終的にたどり着いた方式は、意外にもテレフンケンが開発したのと同じ機械電圧方式だった。TeD方式と異なるのは、針先が|尖《とが》っていることぐらい。針先が尖っておれば、必要な信号だけピックアップする確率が高くなるので、映像がより鮮明になる。しかも二時間の再生が可能である。
RCA方式はレコードの表面にチリやほこりが付着することを極端に嫌うことからディスクをケースに入れるが、松下が開発したディスクは裸でそのまま扱える。さらにディスクそのものの製造でも、新技術を開発してコストダウンを可能にした。
またTeD方式では十分の番組の記録に二十時間かかったが、松下は十分番組なら十分、二時間番組なら二時間で記録するカッティング技術を開発した。松下はRCAに規格の採用を持ち掛けたが、答えはけんもほろろだった。
「機械電圧方式はもともと西独のテレフンケンが発明したもので、それに松下がいくら改良したとしても、TeD方式に変わりはない。オリジナルを重視するRCAは採用しかねる」
それから一年後の七七年十一月。松下社長の山下俊彦は東京・丸ノ内ホテルで記者会見に臨み、「松下電器は独自のVD技術を開発した。ビデオディスク(VIDEO DISC)を略して『VISC=ビスコ』と名付けました」と胸を張った。会場には十数台の試作機がズラリと並んでおり、一台一台に鮮明な画像が映し出されていた。山下は発売時期を執拗に聞かれたが、「今日は技術発表だけです。商品化の時期はまだ決めておりません」と巧妙に質問をはぐらかした。
松下の狙いは自社方式を発表することで、RCAに揺さぶりをかけることにあった。VDはすでに三方式が群雄割拠。いずれも互換性がないことから家庭用ビデオと同じように激しい規格競争の真っただ中にあった。そこへ松下が割り込んできたのである。
「松下方式は巧みに従来方式の技術を組み合わせ、特許の目をかいくぐったものだ」
外野席からこうした冷ややかな声もあがったが、その一方で業界内に「性能は松下方式が一番優れている」という高い評価があったのも事実である。ビデオで激しい戦争をしているソニーの大賀典雄でさえCBSソニーの社長の意見と前置きして「既存のレコード盤製作設備をそのまま使えるのが何としても魅力」と持ち上げた。
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2 創業者の秘密兵器はVHD
松下が一九七七(昭和五十二)年十一月に東京と大阪で開いた自社開発したビデオディスク(VD)、『VISC』の技術発表会は好評|裡《り》に終了した。にもかかわらず技術者の間では不満が渦巻いていた。針を使ってディスクの溝を正確にトレースするのは、口で言うほど簡単ではない。デモであれば事前に何回もディスクに針を通して、当日最も良いシーンだけを選んで映せばよいが、商品化した場合、そういうわけにはいかない。針を溝にはわせる以上、突発的な事故は避けられないからだ。
中央研究所には光方式の研究に携わっている部署もあり、ここではVISCのような厄介な問題に|煩《わずら》わされることなく、開発が進められていた。いつしかVISC担当の若手技術者の間から「針を使う限りデモ用の試作品は作れても、商品化は難しい。ビデオディスクの本命は光方式でないのか」といった声が上がり始めた。
VISCの開発を担当している第一開発事業部は、一風変わった組織だった。スタート当初は中央研究所に属して研究・開発を進め、商品化のメドが立った段階で、研究所から離れて製造部門を持った事業部に変身するのである。むろん幸之助の発案である。ただし配属された技術者は将来、製造部門に直接タッチするだけに、筋の悪い技術をつかみたくないという思いが強かった。
危機は予想以上に早く訪れた。技術発表会の直後、開発に携わった労働組合員の技術者が、辞表を懐に委員長あてに配転を直訴したのである。社長の山下俊彦が任命した事業部長に公然と反旗を翻したわけだ。この問題は最終的に団交まがいの席に幸之助が出席、孫のような若手技術者を諭したことで解決した。
「技術屋というのは、ええ仕事や。わしも若いころ、随分特許を取ったもんや。技術屋は楽したらあかん。技術屋というもんは、世の中の役に立つもの、人様の役に立つものを作るのが仕事や。きみらは針方式を悪く言うが、欠点というもんは、近づいて見るとよけい目立つ。欠点を探しだせばきりがない。『犬猿の仲』という言葉があるけれども、芝居には犬と猿が仲良くしているものもあるで。VISCはあんたがたが中心になって開発した松下独自の技術や。他人の特許を使うことを考えずに、松下らしいVDを作ってくれ。頼んだで」
“経営の神様”のお説教が功を奏したのか、造反劇は一件落着した。対外発表の翌日から幸之助は、中国の小平をはじめ内外のVIPが松下本社を訪れるたびVISCを披露した。七八年の正月明けには、ソニー会長の盛田昭夫が、新年の挨拶を兼ねて幸之助のもとを訪れた。
VHS対ベータのビデオ戦争で、幸之助が盛田に「松下はベータ規格を採用しない」との引導を渡したのは七六年五月のことである。それから一年半以上経過しているとはいえ、ソニーと松下は国内のみならず、米国市場でも死闘を繰り広げていた。
二人は過去のいきさつには一切触れず、話題をVDに絞った。その席で盛田は率直な感想を語った。
「相談役さん。VISCは素晴らしい出来です。ただしビデオディスクはVTRと違ってハードよりもソフトが大事かと思います」
「ソフトというのは番組のことやな?」
「そうです。映画やオペラそれに音楽。これらのソフトを自前で作ろうとすれば、膨大な金がかかります。その点、VTRはテレビ番組を録画できるので、当面、専用のソフトはいりません」
「わしはビデオディスクの需要は、娯楽用もさることながら教育用にあると|睨《にら》んでいるんだが」
「ソフト製作という点では、娯楽用も教育用も同じぐらいの製作資金がかかります」
盛田は「ソニーはビデオディスクに興味を持っていない」ことを言外に匂わせたのである。この時期、ソニーは米MCAとの著作権裁判の真っ最中で、盛田はことソフト作りに関して、日本はハリウッドに太刀打ちできないことを知り尽くしていた。
悲劇はここにあった。米国にはレコードの成功例を持ち出すまでもなく、VDを受け入れる素地は十分あった。だからこそRCAは、ポスト・カラーテレビの本命商品としてVTRよりVDを選択したのである。問題はハードの技術が完成していないだけであった。RCAは「手ごろな価格のプレーヤーさえ供給できれば、ソフト市場は自然と形成される」と将来性を楽観的にみていた。しかしこの見方は単なる虚構に過ぎなかった。RCAは「ビデオパッケージの本命はビデオディスク」と信じて疑わなかったが、VDより先にテレビ番組を録画できるVTRが市場に定着したことで、VDの活躍の場が制限されてしまった。
こうした技術の流れは、幸之助もうすうす感づいており、評判が良くても商品化のメドがたたないVISCに半ば見切りをつけかけていた。
実は幸之助の背広のもう一つのポケットには秘密兵器が入っていた。ビクターが|密《ひそ》かに開発していたVHD(VideoHigh‐density〈ハイデンシティ=高密度〉DiscSystemの略)である。
経営者としての幸之助の|老獪《ろうかい》な点は、常に現場にいる技術者を励まし続けることである。彼は時間さえあれば、本社の真向かいにある中央研究所に頻繁に顔を出し、VISCの開発陣を励ました。同時に上京するたびビクターを訪れ、VHDの開発状況を詳細に聞くのを楽しみにしていた。ただし松下本社には、ビクターが独自のVDを開発していることは絶対に知らせない。逆にビクターには松下のVISCの開発状況を決して漏らさない。幸之助はVTRでもVDでも、両社を真正面から競わせるようなことはしなかった。両方のポケットに卵を入れて、どちらが先に|孵化《ふか》するかをじっと待っていたのである。
ビクターのVHDは予想以上に速いテンポで開発が進められていた。世界で初めて電子式のテレビを発明した高柳健次郎が、VDの将来性にいち早く着眼していたからである。高柳は放送局用のビデオが実用化される以前から「レコードに絵を入れる」ことを夢見ていた。そして若手の技術者をつかまえては質問した。
「おい、きみらレコードに絵を入れてみる気はないかね?」
若手技術者は目を輝かせたが、五五年に米アンペックスが放送局用ビデオの実用化を発表するや、高柳は地団駄を踏んでその日のうちに若手の技術者を集めてビデオの開発を命じた。この時点でレコードに絵を入れる夢を一時棚上げしたのである。高柳の獅子奮迅の働きで、ビクターはソニーに次ぐ地位を築いた。高柳の執念がビデオ事業部長の高野に引き継がれ、VHSの開発へとつながっていった。
ビデオはビデオ事業部の発足を機に高柳の手から離れたが、彼は技術者としての最後の仕事として“絵の出るレコード”の実用化に意欲を燃やし、ことあるごとに研究所の技術者を叱咤激励した。
「ビクターはソフトとハードの両方兼ね備えた、世界でも珍しいメーカーなんだ。日本で絵の出るレコードを実用化できるのは、ビクターをおいてないじゃないか。ガンバレ、ガンバレ」
ビデオ事業部が家庭用ビデオの輪郭すら見いだせず、悪戦苦闘していた時代である。同じビデオといっても、技術的にはVTRとVDは水と油である。ビクターでVDを手掛けるとなれば、音響部門しかない。とはいえビデオに限らず、新製品は精神論だけでは開発できない。ビクターが具体的にVDの実用化に向けて動き出したのは、西独テレフンケンがTeD方式を発表した七〇年の秋である。音響技術研究所長の井上敏也(後に専務)が中心となり、まずTeD方式のディスクを作ることから始めた。
TeD方式のデビューがあまりにも衝撃的で、その後もフィリップス、RCAと次々と独自の方式によるVDを発表したこともあり、中央研究所やテレビ研究所も独自にVDの開発に首を突っ込んできた。三つの研究所の最高責任者が高柳だった。
彼は三つの研究所を競わせることも考えたが、七三年に松下が中央研究所の中にVDを開発する第一開発事業部を新設したのを受けて、翌七四年一月に神奈川県大和市にある音響技術研究所と同じ敷地の中にVD専門の開発研究所を発足させた。各研究所から選りすぐりの二十人の技術者が集められ、責任者には井上が就いた。
ビクターの技術者は、例外なく親会社に|敵愾心《てきがいしん》をもっていた。松下の製品と競合するテレビ、ビデオ、音響の部門にはその傾向が強い。とりわけ音響技術者は、酒が入ると必ず次のような言葉を吐いて、自分たちを鼓舞した。
「ビクターはディスク(レコード)の専門メーカーなんだ。どんないきさつがあって松下の傘下になったか知らないが、この分野で負けるわけにはいかない。音の分野で松下に負ければ、われわれの存立基盤は失われる」
VDの研究に取り掛かった七四年といえば、VHSの第三次試作機に取り掛かっていた時期である。社内で功名心争いがないとなれば嘘になる。音響部門の技術者には「音のビクター」という本家意識が強かっただけに、何がなんでもビデオディスクで金字塔を打ち立てたかった。
それではどんなVDを開発するか。VTRでは開発部長の白石が独自に十二のマトリックスを考案して、それに沿ってVHSを開発したが、VDではすでに欧米で三つの方式が開発されていた。しかもテレフンケンの圧電ピックアップ、RCAの電子ビーム記録、フィリップスの光記録再生……どれ一つ取り上げても日本メーカーが逆立ちしてもかなわない技術である。ビクターに限らず基礎技術の蓄積がない日本メーカーが、それに匹敵する技術を開発するには時間がなさ過ぎた。
言い出しっぺともいうべき高柳は、欧米メーカーとの基礎技術力の差を自覚しており、それを踏まえたうえでビクターの開発方針を示した。
「ビデオディスクでは新しい方式を開発するのではなくTeD、RCA、フィリップスの三方式の長所短所を見極め、まずどの方式が普及しかつビクターの技術が入り込む余地があるかを探ることだ」
研究陣は創造的な技術を開発したかったが、会社の台所事情がそれを許さなかった。三人の技術者でスタートしたビデオ事業部は、事業部の黒字化とともに開発者の数を増やしていったが、収入のない音響研究所では金食い虫の研究は許されない。
そこで井上は既存の三方式のうち、どの方式が一番商品化に向いているかの観点から検証を始めた。最初に再生時間が短く、しかも画像が良くないTeD方式が脱落した。井上が頭の中で描いていたのは「画像がVTRより良く、リアルタイムにカッティングしてランダムアクセスができ、しかも既存のレコード設備を使えるVD」という欲張ったものだった。
前者の条件をかなえるのがフィリップスの光方式であり、後者の条件を満たすのがRCAの静電容量方式だった。RCA方式は針に付いた電極で映像信号を拾うので、解像度は非常に高い。しかし溝があってはランダムアクセスができない。研究の過程では光記録で作った溝付きのディスクも検討したが、溝の底の形によって針の寿命が違ってきたり、「針とび」が起こり針が前に進まなくなって、同じ個所を回転してしまう現象が起きてしまう。
「針を使うにしても、溝さえなくせば従来のレコード設備を使えるのではないか」というのが井上の結論だった。松下同様、第四の方式の開発である。針先を溝に頼らず、いかにして信号の上を走らせるか。この問題さえ解決すれば、「溝なしの静電容量方式」が完成する。このアイデアに行き着いたのは、VHSが商品化に向けて最終試作機を作り始めた七五年の春のことであった。
しかし実用化となると、さらなる技術改良が必要となる。核心となるトラッキングの問題は、その年の暮れにはメドをつけ、七七年には基本システムを完成させ「VHD」と名付けた。
そのころビクターに限らず、VDの開発競争は終盤を迎えていた。最先発のTeD方式は、日本では三洋電機とゼネラル(現富士通ゼネラル)が特許を導入した。三洋は試作品を展示したものの、最終的に商品化を断念したが、中堅企業のゼネラルだけが敢然と挑戦した。
『一八七七年─エジソン、レコードを発明。一九七七年─ゼネラル、レコードから画像も取り出す』
ゼネラルが七七年秋に日本初のビデオディスクと銘打って売り出した新聞広告のキャッチコピーである。ゼネラルは教育・学習用として売り出したものの、十分間という再生時間の短さが災いし、業界の話題になっただけで、消費者には受け入れられずいつしか忘れ去られてしまった。
静電容量方式の本家ともいうべきRCAは、公約通り七七年春に入って片面一時間、両面二時間録画の長時間化に成功、日本でも試作品を公開した。ところが前年に新社長に就任したばかりのグリフィスが、発進寸前だった量産ラインの稼働に「待った」をかけ、設計のやり直しを命じた。
グリフィスが発売の条件として挙げたのは、プレーヤーの小売価格が四〇〇ドル以下で、しかも一枚一二ドルと安くて魅力のあるディスクを用意することだった。RCAは日本メーカー六社とライセンス契約を結んだが、TeD方式を商品化したゼネラルと光方式に走ったパイオニアはすでに脱落。残る東芝、シャープ、新日本電気(現NECホームエレクトロニクス)、クラリオンなどのメーカーは、本家のRCAが動き出さない限り手を出せないでいた。
折しも松下電器から調達した四時間録画のビデオが爆発的に売れ出したことから、RCAはその後、VDに関して沈黙を続けることになる。
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3 老いの一徹
松下電器の若手技術者をして「ビデオディスク(VD)の本命技術」といわしめた光方式は、フィリップス、MCAに続いてゼニス、トムソンCSFも華々しく技術発表したが、実用化は遅々として進まず、トムソンとゼニスは早々と実用化を断念してしまった。
光方式で一番乗りを果たしたのは、伏兵ともいうべき音響専門メーカーのパイオニアだった。松下が『VISC』の技術説明会を開く五カ月前の一九七七(昭和五十二)年六月十三日。社長の石塚庸三は東京・大手町の経団連会館で緊急記者会見をして、「パイオニアはビデオディスクに進出して、経営の多角化をはかる」と表明した。そして石塚は胸を張って参入動機を語った。
「われわれがビデオディスクに目を付けたのは、映像の伴ったハイファイという新しい技術に対応できると判断したからです。ハイファイにはアナログではなく、オーディオを飛躍させる力を秘めたデジタル技術が使われます。だからパイオニアはデジタル技術を駆使した光方式を選びました。この方式であればVTRの手の届かない新しい分野を開拓できます」
新技術取得と新規分野への参入という二つの観点からVD進出を狙っていたパイオニアは、発表の数日前に石塚自ら渡米して、光方式の特許を持っているMCA社長のシャインバーグとの間で技術導入と生産のための合弁契約を済ませ、米国からとんぼ返りで記者会見に臨んだのだった。
会長のワッサーマンとシャインバーグがニューヨークのマンハッタンにあるソナム本社(ソニー・オブ・アメリカ)にソニー会長の盛田を訪ね、ベータマックスを米著作権法違反で提訴する用意があることを伝える一方で、ソニーに自社開発の『ディスコビジョン』専用プレーヤーの委託生産を持ち掛けたのは、七六年の九月のことである。
盛田がこの提案をやんわり拒否したことから、MCAはソニーを著作権法違反で訴えた。いくら厚顔の経営者でも、一方で提訴して片一方でビジネスを進めることはできない。MCAは早々とソニーからプレーヤーを調達するのをあきらめたところへ、パイオニアから光方式VDの合弁事業を持ち掛けられたわけである。まさに“渡りに船”。交渉はトントン拍子で進んだ。
合弁会社のユニバーサル・パイオニア(UPA)は、早くもその年の十月一日に両社の折半で設立された。当初の計画は「山梨県甲府市に建設する新工場で七八年秋から産業用の生産を始め、提携先のMCAを通じて販売する。月産は当面千台だが、七九年には国内でも産業用を発売して、米国と合わせて年間二万台に引き上げる。そして翌八〇年には民生用の家庭向けも発売する」というものだった。
石塚は十月の合弁会社発足時の記者会見でも、再びバラ色の見通しをぶち上げた。
「ビデオディスクは家庭用としても大きな期待が持てます。教育、スポーツ、音楽、映画と利用範囲も広い。ソフトさえ揃えれば、家電製品としてテレビ録画専用機のVTR並みの市場に成長するのは時間の問題でしょう」
バラ色の未来の裏付けは、光方式の特徴にあった。光方式であれば、直径三〇センチのレコード盤一枚に五万四千枚の書類や製品カタログが入る。大企業や官庁の書類は年々膨大になるので、それを保存するには便利な機械である。しかもリモコン操作で任意に必要なコマを取り出せる。それを利用すれば百科事典などにも使える。こうなると娯楽機器というより情報機器である。
にもかかわらずパイオニア以外の日本メーカーが商品化に二の足を踏んだのは、針方式の方がコスト的には安くできるからだ。光方式の難点は、レーザーや光を絞るレンズが大量生産されていないことから、プレーヤーの販売価格が一台三十万円とVTRを上回ることにあった。
パイオニアの合弁会社設立、松下のVISCの技術発表を聞いて焦ったのがビクターである。ビクターの開発した溝なしの静電容量方式によるVHDは、七八年に入ってようやく試作品が出来上がり、九月に技術発表会を開くことが決まっていた。しかしビクターがどんなに良いVDを開発しても、親会社の松下に採用してもらえなければ、日の目を見ることはない。
幸之助はどの方式を採用するか、迷いに迷っていた。ごく普通の会社なら自社方式を最優先するが、経営の神様の判断基準はいささか違っていた。
「たとえライバルメーカーの商品でも、自分が創設した松下が作った製品より優れておれば、|面子《めんつ》を捨てて採用する」というのが幸之助の経営哲学だった。ビデオでは結果的にビクターのVHSを採用したが、ソニーの開発したベータ規格の方が優れていると判断すれば、|躊躇《ちゆうちよ》なくベータ規格を選択したであろう。こうした創業者の経営マインドを知り尽くしている光方式の家元ともいうべきフィリップスは、松下がVISCを発表した後、幹部を日本に派遣して幸之助に自社開発したVLP(ビデオ・ロング・プレー)の採用を働きかけていた。
すでにフィリップスは、米子会社のマグナボックスにプレーヤーを作らせる一方、ディスクはMCAに任せて、VD事業に本格進出する計画を詰めつつあった。それを確実に軌道に乗せるには、松下の協力は欠かせない。もともと両社は、五三年に合弁で松下電子工業を設立するなど、世界の大手家電メーカーの中で最も親密な関係にあった。
松下でVDの開発を担当していた中央研究所の第一開発事業部は、「同じ針を使う方式でもVISCの方がRCA方式より優れている」との判断から、早々とRCA方式に見切りをつけた。だが米国市場では三大ネットのCBSが、主にコストの面からRCA方式の採用を表明したことから、米国ではRCA方式が主流になる可能性が出てきた。こうなると、いくら松下といえども一度は切り捨てたRCA方式を見直さざるを得ない。
七八年四月には幸之助が主宰する非公式の“御前会議”が開かれた。部屋には松下のVISC、ビクターのVHD、フィリップスのVLPにRCA方式を加えた四つの方式の長所と短所を一覧表にした紙が張り出され、幸之助を前に担当者が改めて説明した。しかしすでに八十四歳の高齢に達した幸之助の口からは、老人特有の言葉にならない言葉がとぎれとぎれに出てくるだけで、なかなか結論が出ない。
幸之助の言葉は年々不自由になり、公式の場では専属秘書の六笠正弘が“通訳”を務める機会がめっきり増えたが、頭脳だけは以前にもまして冴えていた。彼が出した答えはビデオと同じように競争原理を導入して、それぞれの製品を対決させることだった。
二年前の七六年四月、東京・日本橋のビクター本社にソニー、松下、ビクターの三社七首脳が一堂に会してビデオの品定めをしたように、今度も方式の違ったVDを対決させ、一番良い方式を選ぼうとしたわけである。
ただし今回は海外メーカーも含まれているので、一堂という訳にはいかない。四つの方式の中ではやはりRCA方式はVISC、VHDより技術面で劣るという理由から真っ先に排除され、第一ラウンドはVISCとVHDの針方式の対決となった。
対決は“御前会議”の数日後、場所を東京・御成門にある松下電器の東京支社に移して行われた。出席したのは松下からは山下以下の常務会メンバー、ビクターからは社長の松野、副社長・徳光、開発責任者で常務・井上など数人の関係役員である。
会議室には二台のディスクが並べられ、実演と説明が行われたが、勝負は最初からついていたのも同然だった。映像の美しさを強調する以外にセールスポイントがないVISCに対して、ランダムアクセスができるVHDは、静止画からスロー画、クイックモーションまで数々の芸当を披露した。そして最後に井上はとどめを刺した。
「VHDは単なる絵の出るレコードではないのです。VHDこそが数あるビデオディスクの中で本命商品になり得る可能性を秘めております」
この言葉を幸之助は、ニコニコ顔で聞いている。この間、山下は渋い顔を続けたが、対照的に松野は腹の中でほくそ笑んだ。
〈VHDはVISCに勝った。これで松下は間違いなくVHDを採用するだろう。ビクターの将来はVHSとVHDが経営の二本柱になるので安泰だ〉
松野がVHSの長時間録画問題で、幸之助の|逆鱗《げきりん》に触れて勘当されたのはそれから一カ月後のことである。第二ラウンドはVHDとVLPの対決である。幸之助は「二十世紀最後の大型家電商品」と呼ばれたビデオディスクに取り|憑《つ》かれており、高齢を押して自らオランダにあるフィリップス本社に出かけた。こうなると執念以外の何物でもない。この旅には、中央研究所所長で常務の城阪俊吉のほかVISCの開発責任者でもある第一開発事業部長の長岡忠などが同行した。むろんビクターからは社長の松野と井上が早々と現地入りしてデモの準備を進めていた。
幸之助の並々ならぬ意欲を感じ取ったフィリップスは、アムステルダム空港に専用ジェット機を待機させ、幸之助一行が到着すると、専用機に乗り換えてもらい、一行を本社のあるアイントホーヘンの田舎町まで運んだ。
デモは幸之助がオランダに到着した翌日の五月十八日に行われた。光方式の特徴はディスクと接触する針がないのでランダムアクセスができることだが、ビクターのVHDも溝をなくしたことで、この機能を実現していた。
両社の幹部が勢揃いする中で実演と説明が始まった。幸之助の通訳を務めたのは、松下電器の研究員時代にフィリップスに留学した経験を持っている中央研究所部長の菅谷汎である。フィリップスの技術幹部は針式ながら、ランダムアクセスが可能なVHDに|呆気《あつけ》に取られた。デモを見る限り二つの製品の出来栄えは甲乙つけ難かった。そこで、フィリップスのVLP事業部長のザイスが奇抜な提案をした。
「プレーヤーの操作を知らない子供が、間違って汚い手でディスク(円盤)に触ることがままあります。ということはビデオディスクは汚れたディスクをプレーヤーに掛けても、きれいな映像を出せなければいけません。これからVLPとVHDに私の指紋を付け、それをプレーヤーに掛けてみませんか」
果たしてどんな事態が起きるか。ザイスは松下の関係者に考える時間を与えず、二つのディスクに自分の指紋を押しつけた。最初のVLPの実演では、先ほどと同じようにきれいな映像が出た。ザイスはニヤリと笑い、今度はVHDの実演に移った。ところがVHDは途中から画面がガタガタと乱れてしまった。ザイスはVHDのウイークポイントを突いてきたのである。
菅谷は画面が乱れた瞬間、それまで両膝に手を当てて食い入るようにモニターを眺めていた幸之助の顔に目をやったところ、老人の顔は蒼白になっていた。こうなるとデモどころではない。菅谷はデモを即座に中止してもらい、幸之助を抱き抱えるようにしてホテルに帰り、そこで医師を呼んで診断してもらった。医師からは長旅の疲れによる風邪と診断された。
夜になり幸之助がうどんを食べたいと言い出したことから、今回のデモのため日本から随行してきた松下の技術者がアムステルダムまで車を飛ばし、現地の日本料理店からうどんを運んでくるという一幕もあった。これで幸之助の体調はやや回復したものの、大事をとって|急遽《きゆうきよ》、帰国することになった。ところが翌朝、フィリップスの音響担当の役員から「松下とビクターの役員の方々だけに、特別お見せしたいものがあります」という連絡が入り、幸之助は風邪を押して再びフィリップス本社を訪ねることになった。そこで直径一一・五センチの小さなディスクを見せられた。
「このディスクはALP(オーディオ・ロング・プレー)と名付けた音響専用のシステムです。もし松下さんに興味があれば……」
フィリップスが見せたのは、デジタルで録音されたコンパクトディスク(CD)の試作品だった。それを聴いて、幸之助は一言だけ感想を述べた。
「わしにはよう分からん」
幸之助は映像と音が一緒になったVDには、若者のような情熱を持っていたが、音だけのディスクにはほとんど興味を示さなかった。城阪やビクターの松野、井上の三人は幸之助の体調が気掛かりで、CDの良さを見極める余裕がなかった。幸之助はその足で帰国、開港したばかりの成田の新東京国際空港で伊丹行きの飛行機に乗り換え、そのまま松下記念病院に入院した。
フィリップスは幸之助の帰国直後にALPの開発をマスコミに発表。さらにその一カ月後にはCBSソニーの社長を兼ねるソニー副社長の大賀典雄に実物を見せた。大賀は音を聴いた途端、感嘆の声を上げた。
「おっ、これは素晴らしい音だ。製品化されれば、今のレコードはたちまちにして市場から駆逐されるでしょう。ところでこの試作品は、以前に誰かにお見せしましたか?」
この質問にフィリップスの音響担当役員は正直に答えた。
「松下電器の松下幸之助さんに見せました」
コウノスケと聞いた途端、大賀の目の色が変わった。
「それで反応はいかがでしたか?」
「何の興味も示されませんでした」
大賀はただちに会長の盛田昭夫に連絡を取り、翌日にはALPの採用を決めた。フィリップスが松下とソニーにCDの試作品を聴かせたのは、自社が産んだ卵を日本メーカーに育ててほしいという思惑があったからだ。
「相談役がフィリップス本社を訪問した際、オーディオの専門家が同行しておれば、CDでソニーに後れを取ることはなかったんだが……」
当時を知る松下の技術者は今なお悔やむが、しょせん後の祭りである。はっきりしているのは、当時、幸之助の頭はビデオディスクでいっぱいだったことである。逆にソニーは音楽の専門家でもある大賀が即決したことで創業者利潤を手に入れることができたのである。
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4 断腸の規格統一
一九七〇年代の半ばから八〇年代にかけて、世界の家電業界で異常なほどビデオディスク(VD)熱が盛り上がったのは、自他共に認める米エレクトロニクス産業の王者・RCAをして「二十世紀最後の大型家電商品」と言わしめたことによる。
“絵の出るテープ”のVTRは七〇年代後半に産業として離陸したが、メーカーも消費者もまだ「VTRはテレビ番組を録画して、それを後で見て楽しむ機械」、つまりタイム・シフト・マシーンというイメージを持っていた。一方、“絵の出るレコード”のVDについては画質の良さから「映画などのソフトを見て楽しむ機械」と区別していた。
そして将来性については、圧倒的にVDに軍配を上げる向きが多かった。エレクトロニクスの世界で最も信頼性の高い調査コンサルティング会社、アーサー・D・リトル社は八〇年の年明け早々、衝撃的なVDの需要予測を発表した。
「八三年、八四年にはVTRを追い越し、九〇年代の半ばには米国家庭の半分以上にプレーヤーが入っているだろう」
三月になると投資情報サービス会社のアーガス・リサーチ社も具体的な数字を挙げ、似たような予測を出した。
「米国市場におけるVDの需要は、八〇年は十万台にとどまるが、八一年に三十万台、八二年には七十万台に増える。八三年には百五十万台とVTRとほぼ肩を並べ、八四年には一気に二百七十万台に急増して、VTRを追い越す。さらに八五年には、四百万台と大きく突き放す」
こうした数字を何の疑いもなく信じたのが米カラーテレビのトップメーカーのゼニスだった。同社は|面子《めんつ》を捨て、ライバル関係にあったRCAが開発した静電容量方式の採用を決めた。こうなると景気の良い話がポンポン打ち上げられる。RCA会長のグリフィスは、サンディエゴで開かれた販売店会議でVDへの期待を込めて、将来性の大きさを述べた。
「十年後には米国市場だけで、年間五百万台から六百万台のプレーヤーのほかに二億〜二億五千万枚のディスクが売れる。年間の市場規模は七五億ドルに膨れ上がるだろう。RCAはプレーヤーの改良に取り組んでおり、当社の方式が主流になる」
こうなると日本メーカーもうかうかしておれない。日本の市場規模がアメリカの半分だとすると、一ドル二〇〇円と計算して七千五百億円である。そのころ松下電器会長の松下正治も、販売店会議で販売店の店主に聞かれるまま「VDの市場規模はカラーテレビほどにはならないが、オーディオより大きくなる」と述べている。
VDに参入しない映像メーカーは、二十一世紀どころか一九九〇年代も生き残れない――。いつしかこうした見方が世界の家電業界に定着してしまった。この強迫観念から逃れるためVDへの進出を決めたのがパイオニアだった。社長の石塚庸三は記者会見の席で「多角経営の一環として参入を決断した」と語ったが、本音は音しか出ないステレオだけのオーディオ専業では生き残れないとの恐怖心があったからである。
松下もビクターもVTRとVDは競合しないと読んでいたが、こうした中でソニー会長の盛田だけは、一貫して違った見方をしていた。
「ソニーはVDに関して、どのメーカーにも負けないぐらい研究を続けている。ただVDがまだ市場に出回っていないので何ともいえないが、私個人としては二つの製品は真正面から競合すると思う」
こうした見方はむしろ少数派で、マスコミはむろんのこと業界の関心は、果たしてどのメーカーがVD市場で覇権を握るのかにあった。さらにその|帰趨《きすう》は松下の出方にかかっているというのが、業界の一致した見方だった。
ところが肝心の松下は、VTRのときと同じように迷走していた。松下は幸之助の意向が働き、VTRではソニーのベータマックスを退けてビクターのVHSを選択した。今度のVDはVISCとVHDのいわば身内の争いである。これにRCAとフィリップスの二つの方式が加わっているので、話が一段と複雑になった。
松下がどの規格を採用するか。VDに最後に取り|憑《つ》かれた男ともいうべき幸之助は、それぞれの機種を対決させる勝ち抜きトーナメントで決めるという奇妙な行動に出た。七八年に行われた第一ラウンドでは、VHDに軍配を上げたが、その直後フィリップス本社で行われたVHDとVLPの第二ラウンドで、VHDは汚れに弱いというアキレス腱を突かれてしまった。これでVHDに対する幸之助の信頼感は喪失したかに見えた。
ビクターはその後、プラスチック製のディスク専用ケースを作りそのままプレーヤーに入れる方式を開発した。こうするとディスクが汚れる心配はない。VHDは幸之助の信頼を取り戻し、七八年九月二十八日にようやく技術発表会にこぎつけた。ホテルで行った発表会の席には社長の宍道一郎と並んで幸之助もビクター相談役の肩書で出席した。
幸之助は一年前のVISCの技術発表会に出席しなかっただけに、たとえ病み上がりのせいで一言も発言しなかったとはいえ、顔を見せることに重みがあった。それが逆に憶測を呼んだ。
ビクター会長の松野幸吉は〈松下は自社開発のVISCを捨て、ビデオと同じようにビクターの開発したVHDを選んでくれるのではないか〉ということを期待して、幸之助に同席を要請したわけだが、ことはそう簡単にビクターの思惑通りには進まなかった。
実は同じ日に松下は東京で技術展を開き、盛大にVISCのデモを行っていたのである。さらに偶然にもRCAもその日、東京で量産型のプレーヤーの発表をした。翌十月にはRCA社長のグリフィスが来日して幸之助との間で、VD問題で話し合いの場がもたれた。ただしこの会談では、VDの規格統一問題で両社は共同歩調をとることを確認しただけで、具体的な成果はなかった。
ところが一度VHDに敗れたはずのVISCが、年末に入って息を吹き返した。その経緯はこうである。VISCの開発に携わった中央研究所第一開発事業部長の長岡忠は、春の第一ラウンドでVHDに敗れた後、幸之助からVISCは音専用に衣替えするよう命じられた。しかし長岡はそれに納得せず、黙々とVISCの改良を進めていた。
その成果を披露するため九月に東京と大阪で技術展を開いたわけだが、それとは別に幸之助のために秘密兵器を用意していた。技術展には間に合わなかったが、師走に入ってようやく開発を終えた。長岡は年末休暇の直前に直径一七センチの音専用のVISCを携え、松下記念病院に幸之助を訪ねた。和服姿の老人はVISCのデジタル音には、さほど感動を示さなかった。長岡はころあいを見て、今度は同じサイズのディスクを取り出して実演してみせた。
「これは三十分の動画が入った新しいVISCです」
VDには教育用映像機器として期待をかけていた幸之助は身を乗り出し、食い入るようにテレビモニターに映し出された映像を見た。
「これはええな。教育用なら時間は三十分もあれは十分だ。わしの勘やが、この製品は量産したら売れるで」
“経営の神様”のお墨付きを得たことで、VISCは土壇場で息を吹き返しリターンマッチの切符を手に入れたのである。長岡はこの製品に『ビスコパック』という愛称を付け、年明け早々自ら米国に飛んで説明行脚に走り回ると同時に、学会でも積極的に技術成果を発表するなどPRにこれ努めた。
一度はVISCに見切りを付けた幸之助だが、ビスコパックを見てからVDに対する見方が大きく変わってきた。そして病室で、自分なりの考えをまとめた。
〈VISCは単機能、いってみれば自転車のようなもんや。これに対してVHDは万機能だからオートバイやな。用途も使い道も違う製品だから、二機種とも市場に出してもいいのではないか。どちらが優れているかは、お客さんに決めてもらえばええ〉
いかにも現実主義者の幸之助らしい発想だが、時代がそれを許さなかった。七九年に入って規格の乱立に業を煮やした通産省が、ビデオの二の舞いを踏まないよう規格統一に動き出したからである。
ビデオで通産省が調整に乗り出した時期、すでにソニーはベータマックス、東芝と三洋がVコード、松下がVX2000を発売、VHS陣営も発売スケジュールがテーブルにのぼっていただけに、初動の遅れから調整が不調に終わったという苦い経験を持っている。
ところがVDはパイオニアこそユニバーサル映画との合弁会社を設立したものの、まだ産業用だけで民生用は手掛けていない。松下もビクターも技術発表の段階である。規格統一の余地はまだ十分あると見た。
メーカー側にも弱みがあった。ビデオ規格統一に失敗した後、通産省からは「次の世代の機種では必ず規格統一を実現してほしい」とクギを刺されている。業界団体の日本電子機械工業会は吉山博吉会長(日立社長)時代に「将来の統一を目指し引き続き努力する」との一札を入れている。
VDが次世代ビデオであるかどうかは議論の分かれるところだが、各社とも通産省の要請を無視できない。皮肉なことに電子機械工業会の会長は、この当時、輪番制で松下社長の山下にお鉢が回っていた。その山下は七九年五月の工業会の定時総会後の記者会見で「業界が責任を持ってVDの規格統一問題に取り組む」と発言して物議をかもした。
規格統一の第一歩は、松下グループ内での一本化である。ところが幸之助は次第にVISCとVHDの両機種を市場に投入する考えを固めていた。常務会でビスコパックの実演をさせるだけでなく、ソニー会長の盛田を呼ぶなど盛んに外部の意見を聞いていた。
山下はそれを知ったうえで、工業会会長として規格統一に乗り出した。まず社内に常務の飯田義男を座長とした「ビデオディスク方式選考委員会」を設置して、二つの機種を冷静な目で比較検討させることにした。
VDを巡る動きは、海外でも風雲急を告げてきた。パイオニアと組んで光方式のVDの生産に乗り出した米MCAは、IBMと提携してディスコ・ビジョン・アソシェーツ社(DVA)を設立することを大々的に発表、間接的ながらIBMがVD事業に乗り出す動きが出てきた。さらに三大ネットのCBSがRCAと組んで、ソフトを供給することも明らかになった。
松下がここでもたもたしておれば、日本メーカーは世界の流れに取り残されてしまう。一日も早く結論を出さなければならない。山下は社内の選考委員会の動きと並行して、腹心を使って日立、三菱、シャープなどVHSで共同戦線を張った企業の幹部にVISCとVHDについての意見を求めた。
技術者の間では「VDに針を使う時代は過ぎた。光方式こそ本命」とする意見が多かったが、経営トップは松下に対する配慮からか「日の丸規格として残すなら、どちらかといえばVISCよりVHD」という意見が多数を占めた。決定権を持つ山下も多機能のVHDに傾き始めていた。
松下がビスコパックを開発したことを知らないマスコミは、春先から松下グループ内での統一機種はVHDと決めてかかり、そのことを折にふれ新聞で書き立てた。朝日新聞は四月二十七日の段階で「ビデオディスク/松下自社方式を断念/家庭用、ビクター方式に/規格統一なお時間」という見出しの付いた記事を経済面のトップとして掲載した。
幸之助はこうしたマスコミ報道に内心反発したものの、もはや流れに逆らえない。秋口からめっきり口数が少なくなった。幸之助がしなければならないのは、自分が産んだ二人の子供のうち、どちらか一人を自分の手で殺さなければならないことだった。
年が明けて八〇年。松下恒例の経営方針発表会の前日の一月九日。幸之助は専用車のロールス・ロイスに乗って松下傘下のレコード会社、テイチクの奈良工場を訪問した。奈良工場は松下とテイチクがディスクを開発・生産するため共同で作った工場である。じっくり時間をかけて工場の隅々までくまなく見て回り、工場幹部の労をねぎらった。
翌十日朝。幸之助は秘書の六笠を通じてテイチクの社長に「VDに関し松下がテイチクに負担をかけた資金はすべて松下が支払う」との方針を伝えた。その後に何事もなかったように経営方針発表会に出席、十一日はグループ各社の新春経営懇談会に列席した。さらに十二日には、神奈川県大和市にあるビクター音響研究所を訪れ、車椅子に乗ってVHDの研究施設をつぶさに見学した。幸之助が車椅子を使ったのはこの時が初めてである。
見学を終えると社長の宍道一郎とVHD開発責任者の専務・井上敏也を前に松下の方針を伝えた。
「松下はVISCを取り下げ、ビクターのVHD規格を採用する」
幸之助は高齢にもかかわらず、わざわざ関係会社に足を運んで、自らの手でVISCの幕を下ろしたのである。山下は幸之助の美学を予想してか、十日の経営方針発表会後の記者会見で「VDの規格統一や商品化について、松下として結論を出す時期にきている」と遠回しに語った。
それから九日後の一月二十一日。山下と宍道は東京で記者会見に臨み「松下がビクターのVHD方式を採用することで、松下グループとしての規格統一を図ることになった」と発表した。質疑応答では山下に質問が集中したが、山下はテキパキと答えた。
「松下グループに二つの方式があるのはおかしいという強い批判を受けていたことから、この際ビクター方式に統一しました」
「フィリップスがすでに米国で試験的に販売しており、RCAも来年初めに発売すると発表しています。これにVHDが加わり世界市場は三分されるでしょう。VHDは光学式やRCA方式より優れていると確信しています」
山下は楽観的な見通しを語ったが、この時、VHDの将来に地獄が待ち受けているとは予想だにしなかった。
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5 哀れな末路
松下グループのビデオディスク(VD)戦略は、幸之助が八〇年の年明けにVHDを選択したことで、ビクターに軍配があがった。ビデオのときも土壇場で松下がソニーの要請を蹴ってビクターのVHS規格を採用したのが決定打になり、VHS陣営はその後、一気に出荷台数を伸ばした。
ビクターの関係者は誰もが「VHSの成功体験を生かしてファミリー企業を募っていけば、おのずと展望が開ける」と将来を楽観的にみていた。VHDをVHSに次ぐ大型商品に育てるため、ビクターの役員会でも激論が戦わされていた。こうした中でビデオ事業部長の高野鎭雄は、議論に加わらずVDの動きを醒めた目で見ていた。なげやりとも思える高野の態度を見て、半年前に会長に退いた松野幸吉は苦言を呈したことがある。
「高野君。きみが役員会でVHDについて何も発言しないのは、反対だから?」
「私は反対なんかしておりません。確かにVHDが発売されれば、VHSに何らかの影響が出るでしょう。しかしビデオディスクが成功して会社が儲かるようになれば、それにこしたことはないと思っております」
「しかしお前さんの顔には『ビデオディスクには反対だ』と書いてあるぞ」
「会長、私はそんなケツの穴が小さい男ではありません。私が疑問に思っているのは、VHDが果たして事業として成り立つ成算があるのか、どうかということです。事業であればいくら投資して、いつまでに回収するかという計画がなければなりません。残念ながら役員会の議論を聞いていると、この肝心の議論が一切抜けています」
「ビクターは技術優先の会社だ。ビデオディスクも社長の宍道がやりようによっては、事業になると判断したからこそ『ゴー』のサインを出したんだ。ところが残念ながら、どうやって事業化したらいいか、そのノウハウがない。私はビデオの成功体験をビデオディスクに生かせないものかと考えているんだ。ここだけの話だが、今度の株主総会でお前さんを常務に推挙しようと思っている。常務になればビデオ事業部のこともさることながら、会社全体のことを考えてもらわなければ困る」
高野は横浜工場にあるビデオ事業部に戻ると生産、開発、営業などの中堅幹部を集めた。
「新聞でさんざん書かれているのですでに知っていると思うが、ビクターはVHDというビデオディスクを手掛けることになった。そこでだ。VHDが成功するとしたら、どういうシナリオがあるか。あなた方の柔らかい頭で考えてほしいんだ」
するとVDをVTRのライバルととらえている幹部の中から反発の声が上がった。
「なんでビデオ事業部が、ビデオディスクのことを考えなければならないんですか」
すると高野は本気で怒り出した。
「バカをいっちゃいけない。VHSが今日あるのは、本社の支援があったればこそだ。今度はわれわれが本社に恩返しする番なんだ」
一カ月後、高野は前と同じ顔ぶれを集めて中間報告を聞いた。だが答えは予想通り、芳しいものではなかった。
「事業部長、ビデオディスク関係者の誰に聞いても、事業としての将来性に疑問を持っています。新聞には年内に発売すると書いてありますが、どうも間に合いそうにもないようです。こうなると商品化以前の問題です」
一人が否定的な意見を吐くと、“待ってました”とばかり、ほかの人間も同調する発言をした。
「技術もさることながら、一番の問題は誰が責任者か分からないことです。VHDは井上専務を中心とした音響研究所が開発していますが、事業に際して新たにVD事業部を新設するのか、それともどこか既存の事業部が担当するのか、誰に聞いても分からない。これでは良いアイデアが浮かんでも、持って行き場がありません」
高野もそのことを薄々感じていた。高野自身、VHSのファミリー作りで培ったネットワークを生かして各社から情報を集め、そのつどビデオディスクの関係者に知らせたが、良い情報のときには「そうか、どうもありがとう」と喜んでくれるが、悪い情報となると「やはりビデオ事業部はディスクには反対なんだ」と陰口を叩かれる。
VHSとVHDでは何から何までが対照的だった。VHSは先に事業部があり、事業部長の高野が本社に独断でVHSの開発に取り組んだ。事業部の運営からファミリー作りまで、高野のトップダウンで決めた。ところがVHDは最初に商品開発があり、松下の顔色をうかがいながら小田原評定的な決め方をしてきた。
とはいえ、もはや後戻りはできない。VHDを普及させるためにビクターがしなければならないことは、商品化を急ぐことと、それと並行してファミリー企業を募ることであった。
VDを巡る環境はこの一、二年で大きく変わりつつあった。七八年末にフィリップスの米子会社、マグナボックスがアトランタに限定して光方式のVLP(ビデオ・ロング・プレー)を発売したものの、プレーヤーの性能が悪くしかもソフトが少ないことからさほど評判にならず、不発に終わった。
光方式に暗雲が漂う中で、米MCAとの合弁会社「ユニバーサル・パイオニア」(UPA)を設立したパイオニアは、八〇年に産業用VDの対米輸出に踏み切った。MCAは七九年にIBMと提携してディスコ・ビジョン・アソシェーツ社(DVA)を設立。「IBMがVD事業に進出する」と話題を呼んだが、実態はディスクの生産に手を焼いたMCAが、IBMに支援を求めたに過ぎないことも判明した。
その提携も長続きせず、両社とも米国のディスク工場をパイオニアに売却、さらにMCAもUPAの株式をパイオニアに全株売却して、VD事業から全面撤退してしまった。フィリップスが事業化に失敗し、続いてMCA、IBMがVD事業から撤退したことで、パイオニアが名実共に光方式の“家元”となり、初代家元ともいうべきフィリップスが名付けたVLP方式のVDは「レーザーディスク」(LD)と呼び名を改めた。
一方、二十年の歳月とカラーテレビを上回る開発費をつぎ込んだRCAの静電容量方式は、CED(キャパシタンス・エレクトロニック・ディスク)と名前を変え、予定通り八一年三月に市場にお目見えした。RCAのVDは正式発表以来実に十年目にして米市場に投入されたのである。CEDは物珍しさもあって、立ち上がりこそ順調に販売を伸ばした。これを見て日立、東芝、三洋の三社がいち早く追随して発売に踏み切った。
これに気を良くしたRCAは、本格的な対日進出を考え、プレーヤーの生産を日立に要請したが、交渉は不調に終わった。RCAが日立に白羽の矢を立てたのは、当初、松下電器が供給していた四時間録画ビデオのOEM(相手先ブランドによる生産)を、日立が奪ったという経緯からである。
交渉がまとまらなかった表向きの理由は、価格面で折り合いが付かなかったとされるが、本当は日本国内でビクターのVHD旋風が吹き荒れ、日立自身、RCA方式は日本で定着しないと判断していたからである。
米国市場における好調な販売も長続きしなかった。RCAは八四年の四月四日、突然VDからの撤退を宣言して世界の家電メーカーを驚かせた。CEDは発売以来わずか三年で市場から姿を消してしまったのである。
ビデオディスクを「二十世紀最後の大型家電商品」と位置付けたRCAの夢は、|泡沫《うたかた》と消えた。そして八六年には会社ごとかつての親会社の一つ、ゼネラル・エレクトリック(GE)に買収され今世紀に入って一貫して世界のエレクトロニクス産業をリードしてきたRCAの社名が消えた。
悲劇はさらに続く。その二年後の八八年には会長、ジャック・ウェルチの『集中と選択』の対象となり、GEの家電部門が丸ごと仏トムソンに売却されてしまったのである。こうして社名に続いて栄光のブランド名も完全に消えてしまった。その引き金になったのがビデオディスクの失敗であることはいうまでもない。RCAはVD事業の失敗で、事実上“倒産”してしまったのである。
VHDを開発したビクターと、自社開発したVISCを捨ててVHDを選んだ松下も、苦難の道を歩んでいた。両社は八〇年春に東京・丸の内のパレスホテルで盛大に「VHDのお披露目の会」を開いた。狙いはファミリー作りにあった。VHD陣営が最も期待をかけたのが、ビデオで血で血を洗う壮絶な覇権争いをしているソニーだった。この日、松下社長の山下とビクター社長の宍道はホテルの別室にソニー会長の盛田を呼んで、VHD規格の採用を持ち掛けた。ビデオとは逆に、攻守所を異にしての要請である。
松下もビクターも『世界のソニー』に、この商品を手掛けてもらわない限り、普及に弾みがつかないことを知り尽くしていた。ところが期待に反して、盛田の返事はにべもなかった。
「ビデオディスクを本当に事業化しようとすれば、巨額の資金がかかります。松下さんとビクターさんがソフト作りにそれぞれ百億円を投じると言うなら、ソニーも考えないわけではありません」
「………」
「ただしソニーがビデオディスク事業に本格進出するとすれば、光方式しか考えられません」
盛田がビデオディスクにネガティブな考えを持っていることは知っていたが、ここまではっきり言われると、山下も宍道も返事のしようがない。盛田は「VDはVTRの次に来る商品」と位置付けており、商品化を急ぐMCA社長のシャインバーグにも持論を展開した。それ以前に当時のソニーは、ビデオ戦争での劣勢を跳ね返すため、次世代ビデオともいうべき8ミリビデオとCD(コンパクトディスク)の実用化を急いでおり、VDに力を注ぐ余裕はなかった。
ファミリー作りは難航したが、それでも八〇年九月に家電業界の「東の雄」ともいうべき東芝を引き込んだのをきっかけに、シャープ、三洋、三菱、新日本電気(現NECホームエレクトロニクス)、ゼネラル(現富士通ゼネラル)、日本楽器(現ヤマハ)、トリオ(現ケンウッド)、赤井、山水の国内メーカーに加え、GE、ソーンEMIの海外メーカーが加わり、松下、ビクターと合わせてVHD規格の賛同会社は一気に十三社に膨れ上がった。
松下グループとしては何とか面目を保ったが、実際は生産計画もないままに名乗りを上げただけのメーカーも多かったのも事実である。ライバルの光方式のパイオニアは、依然として一社だけである。その一方で、VHD陣営はこれを世界に普及させるため、松下、ビクター、GE、ソーンEMIの四社が米国にディスク、プレーヤー、ソフトと三つの合弁会社を作る構想をぶち上げた。数に勝るだけに、マスコミはVHDの圧勝を予想した。
当初の計画ではRCAに合わせて八一年四月の発売を計画したが、ファミリー作りの遅れから八月に延期され、さらに八二年三月に再延期されてしまった。ライバルのパイオニアは八一年十月に民生用のレーザーディスクの発売に踏み切った。だがその半年後、文字通りビデオデスクの事業化に命を賭けた社長の石塚庸三が、出張先の韓国で急死してしまった。
ファミリー作りの遅れに加えVHDの発売が遅れた最大の原因は、技術的なトラブルにあった。プレーヤーは何とか生産できたが、肝心のディスクの信頼性が向上しなかったのである。松下とビクターの足並みを揃えるのにも時間がかかった。松下はVISCの開発に携わった第一開発事業部が、VHD規格の採用決定直後に量産に向けて製造部隊を編成したが、八一年九月には解散させてしまった。合弁会社の設立も遅れ遅れで、海外メーカーは不安を募らせた。
ビクターがVHDの発売に踏み切ったのはRCAに遅れること二年。パイオニアには一年半遅れの八三年四月である。五社が自社ブランドの製品を発売したことから、スタート時こそ善戦したが、勝負は|呆気《あつけ》なくついてしまった。
光方式のウィークポイントはガスレーザーを使うため品質が安定せずしかも価格が高いことだったが、シャープが半導体レーザーの実用化に成功したのを機に、レーザーの価格が一気に安くなった。カメラメーカーの手で性能の高いレンズも開発され、いずれもレーザーディスクに転用された。パイオニアはこうした技術を応用した製品を八三年十一月に発売。これを機にソニー、ティアックが光陣営に加わり、翌年には日立、日本コロムビア、さらにフィリップスの傘下に入った日本マランツ、続いて八五年にはVHD陣営だったヤマハがくら替えしたことから光陣営は七社に増えた。
光陣営の優位を決定づけたのは、パイオニアが同じプレーヤーでディスクとCD(コンパクトディスク)をかけられる新機種を出したことである。八二年秋から売り出されたCDは破竹の勢いで進撃を続け、瞬く間にレコードを市場から駆逐してしまった。このCDとVDが一つの機器で操作でき、しかも十万円を切る価格とあれば、売れないはずはない。
VHDはレコードメーカーの生産設備を活用するという合理的なシステムだが、肝心のレコードが市場から消えてなくなれば、そのメリットも生かせない。VHD陣営の米合弁事業もいつしか雲散霧消してしまった。
といって光陣営に春が到来したわけではない。VHDとの戦いには勝利を収めたものの、需要が思ったほど伸びない。LD、VHD合わせたVDの販売台数は八二年に三万台、八三年十三万台、八四年四十三万台、八五年五十万台となったが、それ以降は伸びがパッタリ止まってしまった。
見込み違いはひとえにライバル商品のVTRの驚異的な成長にあった。VDの行き着く先がカラオケだった。ランダムアクセス機能を生かせば、自由にしかも素早く頭だしができる。だがこれも長続きしなかった。カラオケは通信に置き換えられてしまったからだ。「二十世紀最後の大型家電商品」として世界のエレクトロニクスメーカーが血眼になって開発したビデオディスクは、哀れな末路をたどり二十一世紀を前にほとんど市場から姿を消してしまった。
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第十一章 産みの苦しみ

1 ビデオムービー登場
「二十世紀最後の家電商品」の座を巡る“絵の出るテープ”、VTR(ビデオ・テープ・レコーダー)と“絵の出るレコード”、VD(ビデオディスク)の争いは、テープに軍配があがった。プレーヤーの価格がいくら安くともソフトがなければ、VDは単なるドンガラに過ぎない。ところがVTRは市販ソフトがなくともテレビ番組を録画・再生して楽しむことができる。
初期需要を開拓するうえで、この利便性の違いは大きい。さらにVDの敗北を決定づけたのは、市販ソフトの有無だった。確かに素材の価格は、テープよりディスク(円盤)の方が圧倒的に安いものの、ハードが普及しなければ、この優位性を生かせない。VDプレーヤーの普及が遅々として進まなかったことから、映画会社は自社コンテンツのディスク化になかなか踏み切ろうとしなかった。。
RCAをして「安いプレーヤーができれば、ソフトは黙っていてもついてくる」という見方は、メーカーの幻想に過ぎないことがはっきりした。パイオニアもビクターも直接ソフトの製作を手掛けたが、ユーザーの期待するタイトルを揃えるには膨大な資金と、気が遠くなるような時間がかかる。その行き着く先がカラオケだった。
むろん市販ソフトでは、VTRもそれなりの苦労をしている。手元に日本ビデオ協会が調べた興味ある資料がある。ベータマックスとVHSが市場に出揃った一九七七(昭和五十二)年の国内市販ソフト上位五位は、トップが児童向け(一九・八%)、次に医学・保健・育児(一七・五%)、アダルト(一七・二%)、教育(一〇・〇%)、映画・演劇(一〇・〇%)の順になっていた。
これが三年後の八〇年になると、アダルトが一九・三%とトップに躍り出た。アダルト物はダビングにダビングを重ねたテープが非合法ルートで流通し、これがハードのさらなる需要を拡大した。アダルトの成長はとどまるところを知らず、八一年には三三・三%、八二年三九・七%と年を追うごとに急増した。
ところが八三年に入って様相が一転する。八二年に一四・四%に甘んじていた映画が二八・一%と、アダルトを抜いてトップに躍り出たのである。八三年秋といえばソニーがユニバーサル映画との著作権問題で勝利を収めた時期である。以後、ハリウッドの映画会社が競って自社映画のビデオ化に踏み切ったことから、日本でも雨後の竹の子のようにレンタルビデオ店が誕生した。
これを機に盛り場の路地裏にあったレンタルショップが堂々と表通りで店を開くようになった。ファッション専門店の鈴屋のサラリーマンだった増田宗昭が脱サラして「蔦屋書店」を開業し、その一角に一本四万円で仕入れた百本のハリウッド製の映画を並べてビデオレンタル業を始めたのも八三年である。その蔦屋書店こそ、いまをときめくビデオレンタルの最大手「TSUTAYA」である。
ビクターの高野は、VDはポスト・VTRどころかVTRのライバル商品になり得ないことを、早い段階で見抜いていた。ただしビクター自身がVHDを手掛けていたこともあり、社内の混乱を恐れ自分の見方を口にしなかった。
彼がしなければならないのは、ベータ規格を打倒して、VHSを名実共にビデオの世界規格に押し上げることである。参入企業数ではベータ陣営を圧倒していたが、急成長期にさしかかると次々と難問が押し寄せてきた。競争が激しくなる中での事業のあり方から、世界市場の動向、そしてその後に起きるであろう新たな展開まで一人で考えなければならない。
話は前後するが、松下との長時間録画論争に悩み続けた七九年の正月。高野はビデオ事業部の幹部を集めた年初方針で、自分の考えているビデオの将来像を披露した。
「今年と来年はビデオ事業部にとって最も難しい年になるでしょう。最大のものはビデオ規格の主流争いです。この争いに敗れた方は、新しい規格を作って対抗せざるを得なくなる。仮にVHSが主流になったとしても、それを盤石なものにするには、今から新規格に対抗する強化策を立てておかなければならない。
第二にVHSが主流になっても、今度は主流の中での主役争いが熾烈になる。VHSを世に送り出したビクターが、いつまでも業界二番手、三番手の地位に甘んじているわけにはいかない。といってビクターがトップになるにはまだまだ実力不足。まず主役を演じられるだけの実力を付けなければならない。
三番目が海外市場です。ビクターの海外での有力なお客さんは欧州メーカーですが、残念ながら欧州経済は停滞している。にもかかわらず日本からは|雪崩《なだれ》のように輸出が急増している。これはいずれ問題になる危険を秘めているということだ。ビデオが経済のみならず政治問題になった場合、ビクターはどう対処すればよいか。みんなでその辺のことをよく考えてほしい」
ベータ陣営とVHS陣営による規格争いは、松下が米国で四時間録画機種を投入したのを機に、勝利の女神はVHS陣営に傾きかけていた。押され気味のベータ陣営に起死回生の策があるとすれば、高野の指摘通り新しい規格を提案することしかなかった。
高野は対ベータとの戦いには自信を持っていた。その裏付けとなっていたのが、VHSが娯楽性とメディア性の双方を備えていたことによる。娯楽性とメディア性の要素を満たさない限り、ビデオは世界規格になり得ないと、高野は信じて疑わなかった。
娯楽性というのは、ビデオ自体が持つ性能と機能である。これに対してメディア性というのは、ハードとソフトの互換性、規格の一貫性である。娯楽性の面ではVHSもベータも同じ目的で開発されたが、決定的に違ったのはメディア性である。
高野はVHSの規格を将来にわたって変更するつもりはなかった。それだけでなく、松下が独自に四時間機種を開発した際も、米国市場への投入は阻止できなかったが、国内市場への投入は幸之助の怒りを買い、勘当されてまでも文字通り体を張って反対し、最終的には二〜六時間機種を開発して、VHSの基本フォーマットを守り続けた。
一方のベータ陣営のソニーは、最初に一時間機種を投入するという判断ミスが後々まで尾を引いた。ソニーはVHSの対抗策として、発売から二年後の七七年に二時間録画機種の「|β《ベータ》」を発売したが、この機種は一時間録画の「β」との互換性がなかった。さらに「βHi‐Fi」では国内向けとヨーロッパ向けで異なる記録方式を採用するなど、自らメディア性を放棄してしまった。
高野は発売当初は娯楽性の訴求で、消費者を引きつけられるものの、ハードが普及すればコミュニケーション・メディアとしての商品特性がクローズアップされるとの展望を持っていた。こうなると消費者のビデオ選択基準の中で規格の一貫性、言葉を換えていえば、互換性が商品の価値と信頼性を決める重要なポイントとなる。
こうした高野戦略とは別にソニーは、ベータマックスに代わる新しいフォーマットの開発に着手していた。ソニーの精神的な支柱になっていたのが創業者・井深大の「ビデオはより高密度の記録を、そしてより小さく」との技術者魂である。井深は愛弟子の木原信敏に家庭用ビデオの開発を促し、業務用ビデオのU規格でカセット化の道を切り開いた。U規格の原型は一九六九年に完成したが、これを見た直後、井深は早くも木原に「本格的な家庭用ビデオを作れ。カセットはソニー手帳(文庫本サイズ)並みにせよ」と命じた。
出来上がったのが「ベータマックス」である。この商品の開発が終わるや今度は「ベータマックスが過去のものになるようなものを開発せよ」と早くも次世代ビデオの開発を促した。木原は七七年に入ると“木原学校”と呼ばれる第二開発部の幹部に「ベータマックスの寸法をすべて二分の一にするようなビデオを作れ」と厳命した。
半分にせよというのは、体積では八分の一にすることを意味する。これは口で言うのは易しいが、実現するのは難しい。井深はそんなことはお構いなしにけしかける。「どうせ新しいフォーマットを作るのなら、記録密度は思い切ってベータマックスの十倍に上げろ」と――。
こうなるとカセットのサイズも小さくしなければならない。開発チームは「八〇年代の次世代ビデオを目指そう」との意気込みから「八〇(ハチマル)プロジェクト」と名付けられた。U規格とベータマックスは、井深から直接|薫陶《くんとう》を受けた渡辺良美、堀内昭直、河野文男(現ソニーピクチャーズ会長)などの技術者が担当したが、新しいフォーマット作りにはテレビ事業部から移ってきた森尾稔(現副社長)をはじめ、ビデオに関しては、素人技術者があたることになった。
ソニーが新しいビデオを開発しているとの|噂《うわさ》が高野の耳に入るまで、それほど時間はかからなかった。高野は即座に「ソニーはVHSとのビデオ戦争で不利な状況に追い込まれたため、新しいフォーマットの開発に着手した」と判断したが、「技術は絶えず進歩する」という立場に立つソニーにすれば、小型ビデオの開発は、ベータとVHSの戦争の|帰趨《きすう》に関係なく、必然の流れであった。
八〇年に入ると社長の岩間和夫から「CCD(電荷結合素子)を使って録音・録画できるカメラ一体型ビデオを作れ」との指示が出た。CCDというのは光情報を電気情報に変えることができる最新鋭の半導体の一種である。ビデオカメラにはそれまで撮像管が使われていたが、このCCDをカメラに使えばビデオカメラは飛躍的に小型化できる。ソニーは手始めにCCDを飛行機用に実用化し、この年の一月から日本航空をはじめとする世界の大手エアラインに次々と納入した。乗客は前面のスクリーンを通して、自分の乗った飛行機の離発着を見ることができるようになったのである。
それから半年後の七月一日。ソニーはニューヨークと東京で、CCDを使った三倍ズームのカラーカメラと、幅が従来の二分の一インチの半分の四分の一インチ、いわゆる8ミリのテープを使用したビデオを一体化した世界初の『ビデオムービー』を発表した。
従来のポータブルビデオシステムは、カメラと録画機構が分離されており、重量も一〇キロ前後と重く、機動性に乏しかった。ソニーはこれを打破するため、幅八ミリのメタルテープを縦三・五センチ、横五・六センチの小型カメラに組み込んだ。記録方式はベータマックスと同じ回転二ヘッド式だが、録画時間は二十分と短い。カセットは従来のビデオカセットに比べ、容積が約十五分の一のマイクロカセットを使った。大きさはオーディオカセットよりはるかに小さいマッチ箱大である。
全体の大きさは縦一七・〇センチ、横一九・一センチ、厚さ六センチで、カメラとビデオそれに電池を合わせた総重量はわずか二キロと一気に五分の一の軽さになった。ニューヨークの会場には国際ビジネスマンを自認する会長の盛田昭夫、東京会場には社長の岩間和夫が出席したのは、当然のことながら意味があってのことだ。
この日はあくまでコンセプトの発表で、製品化の時期に意識して触れなかったのは「賛同するメーカーが一緒になって、新しい規格を作りましょう」という呼びかけの意味が込められていたからだ。事実、岩間は記者会見で次のように語った。
「超小型カセットのサイズ、方式は標準化したいと考えております。この方式をビデオメーカーだけでなく、カメラ、フィルムメーカーなどにも規格統一の叩き台として提案します。業界である程度の合意を得られてから商品化するつもりですが、八四年、八五年ごろを一つのメドにしております」
「価格は8ミリカメラに対抗できるように十万円台、再生装置を含めても十五万円以内に収めることを目標にしています。これが実現すれば大きさ、操作性、価格などすべての面で8ミリカメラに挑戦できます」
ソニーはテープ幅三分の二インチのU規格では、ビデオの老舗ともいうべき松下とビクターの二社に賛同を呼びかけた。次の二分の一インチでも同じように両社に話を持ち掛けたが、ちょっとしたボタンの掛け違いから、話し合いは決裂した。不幸にして世界の家電メーカーを巻き込んだ熾烈なビデオ戦争に発展してしまった。ソニーはこうした苦い経験から、ビデオムービーでは、会長、社長の経営トップがニューヨークと東京の発表の席に出席することで、松下、ビクターといった特定メーカーではなく全世界のメーカーに共同開発を呼びかけたわけである。
これにいち早く高野が反応した。
〈ソニーが開発していたのは、8ミリカメラに対抗するムービーだったのか。8ミリカメラの難点は、撮影時間が三分と短いことだ。ビデオムービーは間違いなく8ミリカメラに取って代わるだろう。ビデオの楽しみはテレビ番組を録画再生したり、市販ソフトを楽しむだけではない。究極の目的は“撮るビデオ”だ。ムービーの本命商品はVHSと互換性のとれる製品だが、現行のポータブルシステムを小型・軽量化するには、もう少し時間がかかる。
ともあれムービー人口が増えれば、自分たちの手で撮った映像を自由に使いこなす時代が到来する。ソニーが開発したビデオムービーは、その端緒を開いてくれるかも知れない。考えてみるとソニーも二分の一インチでは多少劣勢になったとはいえ、ベータマックスで飯を食っている会社だ。その会社が録画時間二十分のビデオに“次世代”と銘打つわけがない。そんなことをすれば混乱して、消費者に迷惑をかけるだけだ。正直いってビクターももう少し余裕があれば、ソニーのようなムービーを出したかった。ライバルに先を越されたわけだが、ここはムービー人口を増やすためにもソニーの規格に賛同しよう……〉
高野はもともとがカメラ技術者だけに、ムービーには理解があった。自分の腹を固めると、開発部長の白石勇磨を呼んだ。
「白石君。ソニーが発表したビデオムービーはどうかね?」
「正直いいまして、素晴らしいと思います。技術屋としては“してやられた”という感じです」
「私もそう思う。録画時間が二十分ならVHSと|棲《す》み分けができる。そこでソニーに伝えてほしいんだ。『ビクターはビデオムービーの規格に賛同する』と」
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2 8ミリは次世代ビデオか
高野はソニーが開発した超小型カメラとビデオを一体化した『ビデオムービー』を、8ミリカメラに取って代わる商品と位置付け、ビクターとしてはムービー人口を増やす立場から規格に賛同する旨、ソニーに伝えた。
ところがカメラとビデオの一体化を考えていたのは、ソニーだけではなかった。VHSファミリーの日立は、ソニーから二カ月遅れの一九八〇(昭和五十五)年九月十六日『MAG(マグ)カメラ』と名付けた一体型ビデオを発表した。撮像管の代わりにMOS(金属酸化膜半導体)を使い、総重量は二・六キロ。オーディオ並みのカセットはテープ幅六・二五ミリで、二時間録画が可能なテープが収納されている。
ビデオムービーは録画した映像を専用アダプターを使ってテレビで再生するが、マグカメラはそのままテレビに直結すれば再生できる。開発に当たった家電研究所長の真利藤雄は「マグカメラは据置型のVHSを補完するビデオ」と位置付けたが、高野の見方は違っていた。
〈日立は一体何を考えているんだ。二十分録画のソニーのビデオムービーは、明確に8ミリカメラを侵食するという意図があるが、二時間録画のマグカメラはせっかく育てたVHS市場を食う以外に生きる道はない。これでは何のためにスクラムを組んでベータ陣営と戦ってきたのか分からないではないか〉
高野の怒りはこれで収まらなかった。年が明け八一年に入ると、今度は松下が『マイクロビデオ』を発表した。総重量は二・一キロでテープ幅は七ミリ。日立同様二時間録画ができ、カセットはオーディオカセットより一回り小さい。最大の特徴は真空中でテープの上にコバルト、ニッケルの磁性体を結晶させた蒸着型を採用したことだった。蒸着テープを使えば録画再生能力が飛躍的に高まることは、技術的にすでに解明されていた。
VHS陣営の中から日立、松下と開発メーカーのビクターを支える太刀持ちと露払い役の二社が“反乱”を起こしたのである。といって高野は、怒りを両社に向けることはできない。ビクターと両社のビデオ事業部は足並みを揃えてVHSを世界規格にするため奔走しているからだ。
ともあれわずか半年余りの間に三つもの機種が出揃った。当然、撮影方式やテープ幅が違うから互換性はない。救いは各社ともコンセプトの発表にとどまっており、具体的な発売時期が決まっていないことだった。三社が発売時期を明示しなかったのは、商品化に向けて技術的に解決しなければならない問題が多いことに加え、二分の一インチでの規格統一が破綻した際、当時の日本電子機械工業会長が通産省に対して「次世代ビデオでは必ず規格統一する」との念書を入れているためだ。この念書が存在する限り、抜け駆けは許されない。
そこで通産省の助言もあり、三社の間で規格統一に向けて話し合いの場がもたれることになった。第一回の会議では「カメラ一体型のビデオは世界規格にする」ということで合意した。最初に問題となったのが既存のポータブル型ビデオとの関係をどう位置付けるかだった。
松下がいくらVHSを開発したビクターの親会社とはいえ、三社会議の席でビクターの意見を代弁できない。さらに世界規格にするには欧州メーカーの意見も聞かなければならない。そこでビクターと欧州規格ともいうべきV2000を開発したオランダのフィリップスにも参加を呼び掛けて規格の骨子を作ることになった。
五社の協議会にはビクターから開発部長の白石勇磨と次長の廣田昭が出席することになった。ビクターに限らずメンバー全員が技術者である。一回目の会議は八一年三月に開かれた。ビクターの二人はハナからビデオカメラレコーダーの規格を決めることと信じていた。ところがいざ会議に出てみると空気が違っていた。ビクターを除く四社は、完全にカメラ一体型を次世代ビデオとしてとらえているのである。その急先鋒は日立だった。日立の真利藤雄とその補佐役ともいうべきNHK出身の弓手康史の二人が、「カメラ一体型ビデオは絶対に二時間録画できなければならない」と延々と説く。
松下中央研究所の菅谷汎と末光大祐も、松下がかつて手掛けたカートリッジビデオが失敗した原因は、十五分という録画時間の短いことにあるとの反省に立って、8ミリでは二時間どころか四時間は必要だとぶった。さらに松下が提案している蒸着型のテープを使えばそれが可能であることを、さりげなくPRするのも忘れなかった。
通訳を従えたフィリップスの代表も日立、松下と同じように次世代ビデオととらえているせいか、規格統一には熱心だった。欧州では大きな発言力を持っているフィリップスも、ことビデオに関しては日本勢に押され気味で、自社開発のV2000は辛うじて生き残っていたものの、欧州でのシェアは年々下がっていた。フィリップスにとって新しい規格の誕生は、日本勢を巻き返す絶好のチャンスである。
ビデオムービーで二十分の録画時間を提案したソニーといえば「ムービー録画時間は決して二十分にこだわらない」と|曖昧《あいまい》な態度を取り続けた。こうなると多勢に無勢。ビクターは第一回の会議から窮地に立たされてしまった。白石と廣田はビデオ事業部に帰るなり、高野に会議の内容を報告した。すると高野はカンカンに怒り出した。
「8ミリの録画時間が二時間だって。それじゃ話が違うんじゃないか。ソニーと話がついていたんじゃないのか。一体どうなんだ!」
「ソニーには録画時間が二十分なら、つまり8ミリカメラの代替品としての商品ならビクターとしてバックアップすると伝えてあります」
「ともかく、おれはカメラ一体型の長時間録画化には反対なんだ。これを認めてしまったら次世代ビデオと宣伝されてしまう。これからの会議には、その心積もりで出てくれ。ビクターを除く四社が強引なことをいうなら、尻をまくって帰ってきても構わん」
第一回目の会議の様子を聞いて、高野は決断した。
〈カメラとビデオが分離したセパレーツタイプのポータブル型は、市場に限界がある。だからこそソニーの開発したビデオムービーの規格に賛成したんだ。ただし、一体型が日立や松下のように二時間録画となれば話は別だ。長時間にする以上、VHSとの互換性がなければならない。互換性のない製品が出回れば、ビデオのメディア性が失われ、迷惑するのは消費者だ。ビクターは一気にVHSのテープが使えるカメラ一体型を開発しよう〉
そしてその日のうちにビデオ研究所に開発を命じた。
「いいか。カメラ一体型のムービーは自分で撮影し、編集して楽しむプライベートな道具なんだ。こんな面白いものは世の中にないぐらいやりがいのある仕事だ。ムービーにはマスメディアとは違う面白さがある。マスメディアの代表選手ともいうべきテレビ放送は公的なものだから、法的に制約があって自由にならない。その点、ムービーは自分の思う通りに表現できる。法の制約も普通に使っている限り自由だ。そのことをわきまえたうえでVHSと互換性のとれるムービーを開発してくれ」
五社会議は月一回のペースで開かれた。当初は三、四カ月で終える予定だったが、案の定、録画時間でもめにもめた。二十分なら8ミリカメラの代替品となるが、日立、松下が主張するように二時間ならまさに次世代ビデオである。録画時間によって位置付けが百八十度変わってしまう。
この問題は師走に入っても調整がつかなかった。八一年も残すところあと二日となった十二月三十日。朝日新聞がこの日の朝刊、しかも一面トップで家電業界を震撼させるニュースを報じた。
「ビデオ規格を国際統一/国産四社とフィリップス合意/テープ幅など検討/発売早くて八三〜八四年/買い控えを懸念」
衝撃的な見出しでしかも「世界統一規格の導入でVTRの販売戦線に異変が……」という説明の入った写真付きである。多少長くなるが、前文を引用すると書いた記者の興奮とこれを読んだ家電業界首脳の狼狽ぶりが目に浮かんでくる。
「関係筋が二十九日明らかにしたところによると、松下電器産業、日立製作所、ソニー、日本ビクターの国産四社と、オランダの多国籍企業フィリップスは、家庭用ビデオ・テープ・レコーダー(VTR)の統一規格を新たに設けることでこのほど合意した。
家庭用VTRには、現在四つの方式があり、互換性がないことが難点となっている。新規格により、メーカーは違っても世界的規模の互換性が生まれる。また、新製品は大きさ、重さとも現行機種の半分以下だが、値段はいまの製品と同じに設定される見込み。これによって、VTRの一層の普及がはかれるものと五社は期待、年明けにも内外メーカーに新規格を提示、同調を働きかけたうえで正式発表する段取りだ。
テープ・部品メーカーも含め業界は、現行方式で数千億円規模の設備投資を行ってきているうえ、VTRが経営上最大の柱になっているメーカーも少なくないため、新規格の抜き打ち的な採用は業界内に大きな波紋を投じよう。新製品が市場に出回るのは『早くて八三年後半か八四年』というのが五社の見通しだが、新製品の発表を控えて、消費者に買い控えが広がる心配もあり、そうなると景気動向そのものにも影響しそうだ」
新聞を読む限り、ビデオの国際統一規格はカメラ一体型を飛び越して、次世代までいってしまった。その点、朝日新聞は巧妙に整合性をとっている。
「(五社会議の)当初の狙いは、松下など三社が昨年秋から今年二月にかけて相次いで発表したカメラ一体型VTR(8ミリビデオ)の規格を合わせ、録画したテープはどこのメーカー品でも再生しあえるものにすることだったが、フィリップスからの強い要請や通産省の指導で、録画時間の短い8ミリビデオを超えて一気に次世代ビデオの製作を目指すことになった」
ビデオ五社が集まって8ミリビデオの骨子を作っていることは、マスコミに一切秘密である。ところが秘密会議の動きがいささか違った形で新聞で報じられるや、五社に動揺が走った。年明けに開かれた会議では規格の骨子作りを棚に上げて善後策を協議した。
「あの記事はまずいよ。われわれが協議しているのは次世代ビデオではなく、単なるカメラ一体型ビデオだよ。そのことを正確に発表した方がいい」
「新聞には五社の技術陣による秘密協議会と書いてあったが、あんな風に書かれると、独占禁止法に抵触する恐れがある。とりわけアメリカはその辺のことがことのほかうるさいので、今は問題がなくともいざ商売となると難クセをつけられる恐れがある」
「カメラ一体型のビデオを開発しているのは、五社だけとは限らない。よそも|虎視眈々《こしたんたん》と狙っているはずだ。この際、ソニーさんが最初にアナウンスしたように、世界の関連業界に規格作りを呼び掛けましょうよ」
こうして一月二十日に五社の代表が、東京・大手町の経団連会館で共同記者会見をして、カメラ一体型、通称8ミリビデオの規格統一の素案を提示、内外の関連メーカーに新規格の同調を働きかけることになった。
素案といっても五社で合意しているのは記録方式(回転二ヘッド、アジマス記録)と、基本一時間という録画時間だけである。肝心の使用テープ、テープ幅、カセットサイズ、ドラム径などは、今後、内外の電機メーカー、磁気テープメーカー、カメラメーカーと意見交換しながら決めていくと説明するにとどまった。
共同記者会見にビクターが出席するに際して、高野は廣田に一つだけ注文を付けた。
「カメラ一体型の登場は時代の流れだ。しかし次世代という言葉は一切使ってはならない。ビデオ産業はまだ離陸したばかりだ。世界の家電産業は今世紀中はビデオで食っていかなければならない。家電産業にとってビデオは金の卵だ。それを|孵化《ふか》する前に|潰《つぶ》してはならない。はっきりしていることはみんなが8ミリビデオを次世代と呼べば、現行機種の買い控え現象が起きて、世界の家電産業が不況に陥ることだ」
日本電子機械工業会の調べによると、八一年のビデオの生産台数は前年比二・一倍の九百五十二万台。出荷額も一兆九百五十億円と初めて一兆円の大台に達した。カラーテレビを抜いて最大の商品となったのである。電子工業全体の出荷額は十兆四千億円だから、十年にも満たない期間で電子工業の一〇%を超える商品にのし上がったわけである。
こうした数字を見るたび、高野は思った。
〈技術者が新しい技術に挑戦したい気持ちは分かる。8ミリビデオに画期的な技術が導入されておれば、名実共に次世代ビデオといえるだろう。しかし五社協議会の報告を聞き、図面を見る限り今度のカメラ一体型は単にテープ幅を縮めて小型化しただけだ。驚くような技術は何も入っていない。機能の面でもすべてVHSで実現できるものばかりだ。ビクターは8ミリの開発にうつつを抜かすより、VHSを世界規格にするのが先決だ。VHSは世界でもっと普及すれば、世の中が変わる〉
高野は8ミリビデオの動きを完全に無視する態度をとったが、日欧五社が共同提案した8ミリビデオの規格作りには、世界のビデオ関連会社が続々と参加を表明、参加企業は百二十七社にのぼり、三月十九日に「8ミリビデオ協議会」として正式に発足した。事務局は日本電子機械工業会が務めることになったが、百三十社に及ぶメーカーの要望を取りまとめる作業は容易ではない。そこで基本方針を決める全体会議とは別に、ビデオ、オーディオ、トラッキング、カセット、テープの五つのワーキンググループを作り、それぞれが問題点を洗い出して規格を作ることになった。
この中で最もややこしいのがビデオワーキンググループで、その責任者にビクターの廣田が就くことになった。
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3 狙い撃ちされたゼニス
ビクターにとって、前門の虎は「ベータマックス」であり、後門の狼は「8ミリビデオ」である。ビデオ事業部長の高野がまず退治しなければならないのは、前門の虎である。
その一方でVHSファミリーの中での主役争いも熾烈さを増してきた。高野がビデオ事業部の幹部を前に「主役を演じられる実力をつけなければならない」と|檄《げき》を飛ばしたのは、七九年の年頭だが、その年の春に松下との長時間録画論争が決着。二〜六時間機種が登場したことでチャンスが巡ってきた。高野が全力投球しなければならないのは、この新機種を市場に定着させることである。
アメリカ市場では依然として松下が開発した四時間録画が主流になっていた。そこで彼は考えた。
〈二時間録画をVHSの標準にするには、なによりファミリー企業を増やすことだ。しかし現実はメーカーのみならず、流通業者ですら色分けができている。これを変えるには、オセロゲームの戦略を取り入れる以外にない〉
自分の持ち石(ファミリー企業)で相手を挟み、一気に自分の陣営にくら替えさせようとしたのである。高野は六時間録画機種の細目が決まった直後の八〇年の晩夏、ビデオ事業部次長の上野吉弘を応接室に呼んだ。
「忙しいところ悪いが、早急にアメリカに飛んでゼニスに新しいVHSを売り込んでほしいんだ」
すると上野は|怪訝《けげん》そうな顔で言った。
「事業部長。ゼニスはソニーからベータマックスの供給を受けている会社ですよ。いってみれば敵です」
すると高野はゼニス訪問の狙いを語り始めた。
「おれのところに入っている情報によると、ゼニスはベータ規格を採用したことを後悔しているらしい。そこでだ。ゼニスがVHSに興味を持っているかどうか、感触を探ってもらいたいんだ。もしその気があるなら、二〜六時間録画の新しい機種をアメリカに定着させる突破口になる。新しい機種を増やすにはビクター一社では、時間がかかり過ぎる。ただしヨーロッパのときと同じように隠密行動だ。アメリカの現地販売会社にも知らせてはならん。販売会社の耳にでも入ったら、話がややっこしくなるだけだ。むろん通訳を使うこともまかりならん」
ここまで言われて上野はようやく高野の考えを理解できた。
「分かりました。私の英語力では心細いので、ビデオ事業部の河野誠と伊藤幸雄の二人を同行させます」
この時期、米国市場では松下が開発した四時間録画機種が全盛を誇っていた。ビクターが新たに開発した二〜六時間録画機種がどんなに良い製品であっても、仲間の企業を増やさない限り市場に浸透させることはできない。VHSの新しい機種は、市販ソフトは二時間機能で楽しみ、テレビ番組は六時間録画で記録する、つまり一台で二つの機能を発揮できる強みがある。
二〜六時間機種ではビクターが先行しており、高野は松下が供給しているRCAをはじめとする米の家電メーカーに売り込みをかけることも考えないではなかったが、そんなことをすればことを荒立てるだけである。そこで狙いをソニーからOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けているゼニスに定めたのだった。
ゼニス攻略を任された上野は、水面下であの手この手を使い、ゼニス社のテレビ・ビデオ・音響担当上級副社長でゼネラルマネジャーを兼ねるジョセフ・フィオーレとの接触に成功した。当時、ゼニスはカラーテレビのトップの座をRCAに奪回され、さらにビデオのシェアもわずか四%と少なかったこともあり、即座に上野との面談に応じるとの返事がきた。プレゼンテーションを九月十日にシカゴ郊外のゼニス本社で開く日程も決まった。ただしことは隠密を要するので、上野はゼニスに宿泊ホテルの予約を依頼した。
渡米の前日、上野は高野と綿密な打ち合わせをした。
「おれがつかんでいる情報によると、ゼニスは間違いなくVHSにくら替えする。いま路線を変更しなければ、ゼニスの将来はないからだ。したがってこちらが譲歩することはない。ところで宿泊のホテルは決まったか?」
「シカゴのダウンタウンのホテルを予約すれば目立つので、郊外のホテルを取ってくれるよう向こうに依頼しました。先程、ゼニス本社近くにある『パンナム』というホテルを予約してくれたという連絡が入ってきました」
「パンナム。パン・アメリカン航空が経営しているホテルか? そんなホテル、シカゴにあったかな」
「ゼニスが予約してくれたのですからあるのでしょう」
「まあ、いいや。とにかく吉報を待っているぞ」
上野は二人の部下を連れて、二〜六時間録画の新しい機種(HR─6700)とヨーロッパ市場向けに出している最新鋭のデッキを携えてゼニス本社に乗り込んだ。二つのデッキを持って行ったのにはわけがある。ビクターの第一号機は高野の方針で、画像の映りの良さを最優先させるためマイコンを多用しなかった。逆にテープレコーダーを上回る究極のメカニズムを作り上げることで、コストダウンを図ろうとした。
一方、最初はビクターからOEM供給を受けていた日立、三菱、シャープなどは自社生産に際してはビクターとの違いを出すため、コントロール部分にマイコンを使い始めた。いわゆる電子式のリモコンスイッチで、この装置があれば居ながらにしてプレー、ストップ、早送り、巻き戻しなどの操作ができる。便利には違いないが、操作が複雑になるので、誤作動の危険が大きかった。まだマイコン自体の値段が高かった時代だから、小売価格が高くなるという欠点もあった。ビクターは欧州向けにマイコンを搭載した新製品を投入したが、6700では値段を抑え、しかも操作性を重視してピアノタッチの機械式スイッチを採用した。
しかしこの製品だけ見せれば、「ビクターには最新鋭の技術がない」と判断されかねないので、欧州市場に投入している最新鋭の技術を盛り込んだ製品も持ち込んだのである。
一行はシカゴのオヘヤ国際空港に到着すると、ホテルには寄らずその足でゼニス本社に向かった。上野はプレゼンテーションの席で大きな黒板を使いSP(スタンダード・プレー)の二時間モード、LP(ロング・プレー)の四時間モード、EP(エクステンド・プレー)の六時間モードの三つの録画パターンの原理から説明を始めた。
上野が録画パターンを持ち出したのは、ベータ規格に対する優位性を強調することのほかに、松下の開発した四時間録画機種が技術的に見て、いかに不完全なビデオであるかを理解してもらうためだった。その違いを分からせるには、録画パターンを見せるのが手っ取り早い。そして上野は最後にこう締めくくった。
「録画パターンを見てもらえれば分かるように、四時間というのは録画時間がいかにも中途半端で、しかもビデオの本質から外れたフォーマットと言わざるを得ません。技術者の良心からして、お客さんに自信を持って薦めることはできません。いい画質と音声を重視する人はSPモード、アメリカンフットボールなどの長時間番組を録画したい人はEPモードを使えば良いのです。ビクターの新しい製品は、一台で二つのモードによる録画、再生ができます」
この説明で技術者は納得したが、マーケティング担当副社長のジョン・マッカリスターが異論を挟んだ。
「VHSの良さは十分過ぎるほど分かりました。ゼニスはVHSの新しい機種に大きな興味を持っています。ただし一つだけお願いがあります。ゼニス向けにSPモード、EPモードのほかに四時間録画のLPモードも付けてほしいのです」
上野はゼニスの提案に疑問を呈した。
「アメリカではLPモードのソフトは販売されてないはずです。EPモードがあれば、LPモードは必要ないんじゃありませんか?」
するとマッカリスターは反論した。
「確かに上野さんのおっしゃる通りです。しかし遅れてVHSを採用する者として、ライバルのRCAに比べセールスポイントが一つでも落ちるのは困るのです」
マッカリスターはマーケティング担当の立場から注文を出したのである。上野は予想もしていなかっただけに困惑の表情を隠せなかった。
「LPモードを付け加えるのは、技術的にみてそんなに難しい問題ではありません。といって私がこの場でOKするわけにはいかないのです。われわれのボスの高野の判断を仰がなければなりません」
「それではミスター・タカノに電話して、われわれの要望を伝えてもらえますか」
「今の時間、日本は深夜です。夕食を終えてホテルに戻った後、国際電話を入れてみます」
上野、伊藤、河野の三人は夕食を終え、ほろ酔い機嫌でゼニスが予約してくれたホテルに帰ってきた。そこで三人は|唖然《あぜん》とした。パンナムのネオンを掲げたホテルは、長距離トラックの運転手相手の薄汚いモーテルだったからだ。むろん航空会社の『PANAM』とは縁もゆかりもない。といっていまさらホテルを替えるわけにもいかない。諦めてチェックインの手続きを取っていると、フロントの脇の薄暗いバーからフィオーレとマッカリスターがひょっこり出てきた。
「ウエノさん。ミスター・タカノに電話をしてもらえたか?」
「ご覧の通り、今チェックインしたばかりだ。部屋に入ってから電話をしてみる」
「それじゃ、わたしはここのバーで酒を飲みながら吉報を待っています」
上野は部屋に入るなり、高野に国際電話を入れた。
「事業部長。向こうは二〜六時間録画の新しいVHSの良さを理解してくれました」
「そうか、おれの|睨《にら》んだ通りだったわけだ」
「ただ一つだけ問題があります。向こうはSP、EPのほかにLPモードを付けてくれというのです。私が頑強に抵抗して、ボスの判断を仰がなければならないと言ったものですから、連中がホテルまで押し掛けて来ました。どうしましょうか。LPモードを付けるといえば、間違いなくこちらの側に来ます」
「ゼニスは何も分かっちゃいないな。EPモードがあれば、LPモードなんか誰も使いやしないのに。ただ販売価格が高くなるだけだ……。でも向こうがそう言うのなら、しょうがない。付けてやるか」
上野は電話を切った後、一階のバーに行き、「ボスがゼニス向けに特別にLPモードを付けることを了解しました」と告げたところ、二人は上野の手を握りしめ「ありがとう、本当にありがとう。これでゼニスはビデオで巻き返しができる」と涙を流さんばかりに喜んだ。
三人は勇んで帰国し、三つのモードの付いた試作機の開発に取りかかった。それと並行して契約書の作成にも着手した。開発、契約の両面の作業が終わり、三カ月後の十二月十五日に上野が再びゼニス本社を訪れたが、フィオーレから意外な答えが返ってきた。
「申し訳ありません。上から“待った”がかかり、契約書にサインできなくなってしまったのです」
上野が何を聞いても、要領を得ない返事しか返ってこない。上野はガックリ肩を落として、傷心のまま帰国、ことの顛末を高野に報告した。が、彼の見方は明快だった。
「おれの見方が間違ってなければ、ソニーがビクターの動きに気が付いて、会長のフィッシャーさんに圧力をかけたのだろう。盛田(昭夫ソニー会長)さんならやりかねない。ここはひとまず諦めよう。はっきりしているのは、ゼニスがいつまでもベータにしがみついていたら、いずれ会社そのものがなくなってしまうことだ」
高野の推測が当たっていたかどうかは定かではないが、盛田がフィッシャーと懇意にしていたのは事実である。結局、ゼニスは土壇場でベータ陣営に踏みとどまったが、その後シェアを回復するどころかさらに赤字が膨らんでいった。
それから二年後の八二年の暮れ。再び上野は高野に呼ばれた。
「ゼニスはどうやらギブアップしたみたいだ。この二年間、ベータで頑張ってみたものの、赤字がどんどん増えていった。ゼニスが引き続きベータにしがみつけば、早晩あの会社は消えてなくなるだろう。おれの感触では、今度こそ必ず乗ってくる」
上野は高野の指示で再度、ゼニスに売り込みに行った。上級副社長のフィオーレは二年前に契約に至らなかったことを率直に詫びた。
「ウエノさん。大変申し訳ないが、技術者も大変わりしているので、二年前と同じような説明をしてほしい」
上野は嫌な顔をせず、大きな会議室で執行副社長のロバート・ハンセンをはじめとするゼニスの経営幹部と技術者に、二年前と同じようにSP、LP、EPの三モードの記録パターンを黒板に書きながら懇切丁寧に説明した。今回はゼニスからは前のように四時間機種のLPモードを付けてほしいとの要請はなく、SP、EPの二スピードで行くことで合意した。拍子抜けした上野は独断でゼニスに一つだけプレゼントすることを思いついた。
「米国市場にはRCAの四時間機種が大量に出回っています。その機械で録画したテープが、ゼニスの新しい機械にはかからないということではお客さんが困るでしょう。記録はSP、EPの二スピードですが、再生だけは四時間機種で録画したテープがかかるような機能を付け加えてあげます」
「何から何までありがとうございます。本当は二年前に私たちがトップを説得して、VHSの採用を決めておけば良かったのですが……。ともあれこれでゼニスは救われます」
フィオーレは|大袈裟《おおげさ》なジェスチャーを交え、上野の両手を握りしめた。
ゼニス向けのデザインができ上がり、両社は八三年十二月に契約を済ませ、八四年の一月八日に正式発表した。ゼニスの業績はベータからVHSへ転換したことで一時的に回復したが、主力製品のカラーテレビや音響製品の製品基地をメキシコや台湾に移したことで、開発力が年々弱まり、九五年十一月には株式の五五%を韓国の有力財閥、金星グループ(LG)に売却、韓国資本の軍門に下ってしまった。
さらに九八年五月にはLGが「ゼニス株の一〇〇%取得を目指す」と発表。一時期「訴訟屋ゼニス」として恐れられた米名門家電メーカーも、今や風前の灯となっている。
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4 VHSを選択した東京三洋
いま振り返ってみると、一九八〇(昭和五十五)年はビデオ戦争の“天王山”だった。七九年のビデオ生産はVHSが前年比四九・七%増の百三十四万台、ベータは同四八・三%増の八十二万台。絶対生産量ではVHS陣営が圧倒的な優位に立ったが、ビクターの高野にはまだ勝利感はなかった。
この年の正月に幸之助から“勘当”が解かれ、六月には常務に昇進したが、自分の出世を素直に喜べなかった。松野の任期半ばにしての突然の社長退任、副社長・徳光の監査役就任。前年六月の役員人事の裏には、長時間録画機種を巡ってのビクターと親会社松下との確執があったことは、高野が一番よく知っていたからだ。
高野はそれを知りながら、ひたすらVHSを世界規格にすることに没頭していた。VHSが優位に立ったのは、松下が独自に開発した四時間録画機種が米国市場で大ヒットしたからである。だがビクターにすれば四時間機種は“欠陥商品”との思いが強い。
VHS陣営で長時間録画機種の新たなフォーマットができ上がったことで、高野の動きが活発になった。米ゼニス攻略がその第一弾である。だが労せずしてVHS陣営に飛び込んできたメーカーもある。ベータ陣営に属する三洋電機の関係会社の東京三洋電機(後に三洋電機と合併)だ。
東京三洋は三洋電機の関東地区における生産拠点として五九年七月に設立された会社だが、単なる三洋の分社ではない。労働組合との関係で別会社となったいきさつがあるものの、三洋と競合しない製品を手掛けるのが暗黙の了解事項となっていた。
社長は歴代、三洋電機本社の社長が兼務してきたが、実質的な采配を振るってきたのが副社長の黒河力である。黒河は戦前、九州・小倉の兵器会社に勤務していた。機関銃の部品を松下電器の関連会社に生産してもらっていた関係で、当時松下の兵器部門の責任者だった三洋電機の創業者、井植歳男と知り合った。
黒河は戦後、生まれ故郷の四国・松山に帰って、ミカン農業に携わっていたが、井植三兄弟が集まって株式会社組織に改組した五〇年に長兄の歳男から誘いの手紙をもらって三洋本社に入社した。
東京三洋はスタートこそ白黒テレビを手掛けたが、少しずつ主力製品をエアコン、冷蔵庫、業務用ショーケース、空調、半導体などに移して三洋本社との製品の差別化を図ってきた。そして高度成長の波に乗り、会社設立二年後の六一年に大阪証券取引所第二部、六三年六月には東京証券取引所第一部に株式を上場するなど驚異的な発展を遂げた。
その原動力となったのが、従業員の間にあった「三洋電機に負けるな。大阪に追いつき追い越せ」という強烈なライバル意識である。会社を設立してから二十年間にわたって年率二〇%の高度成長を記録。七一年夏のニクソンショック、七三年秋の第一次石油危機も生産の合理化とコスト引き下げ努力で乗り切った。
ところが七八年に入って三度目の危機に見舞われた。この年は暖冬冷夏で主力製品であるエアコン、冷蔵庫などが大きな打撃を受けた。何とか季節に左右されない大型商品を手掛けない限り業績は安定しない。しかしどこを見渡しても、三洋本社と競合してしまう商品ばかり。残された成長商品といえばビデオしかなかった。
三洋は米国市場では「サンヨー」と「フィッシャー」の二つのブランドを持っていた。フィッシャーはステレオの名門企業で、六〇年代後半にエマーソン電機の傘下に入り、生産拠点を米国から香港に移したが、これが裏目に出て経営不振に陥った。そこでエマーソンは三洋に経営参加を要請。七五年二月に五〇%出資することで合意した。再建に際しては、東京三洋もステレオをOEM(相手先ブランドによる生産)で供給することになった。七七年二月には、三洋はグループ各社の出資を仰いでエマーソンから残りの株式を譲り受け、完全子会社とした。
ベータ方式のビデオはサンヨーブランドで販売しており、フィッシャーは音響製品の販売に徹していた。しかし、このころからフィッシャーの米現地社長が来日するたび、三洋の経営幹部に愚痴をこぼした。
「フィッシャーでもビデオを扱わせてほしい。ただしベータではなくVHSを」
しかし三洋としてはベータ陣営に入り、ようやく自社生産に切り替えたばかりで、ソニーとの信義の上でもおいそれとくら替えできない。その辺のことをいくら話しても納得してもらえない。米現地法人の社長はしびれを切らし、群馬県邑楽郡大泉町に本社のある東京三洋に黒河を訪ねて、陳情をした。
「アメリカではVHS、それも四時間機種が主流になりました。大阪の三洋本社にVHSを供給してくれるようお願いしているのですが、なかなか良い返事がもらえません。三洋本社が無理ならぜひ東京三洋で作ってほしい」
黒河は「家電は普及率が一〇%を超えると、踊り場を上がって急に伸びる」ことを身をもって体験していた。以前からビデオには大きな関心を持っており、毎月、日本電子機械工業会から発表される数字を眺めていた。八〇年に入ると異変に気づいた。生産が前年比倍増のペースで伸び始めたのである。
前年が暖冬冷夏でさんざんな業績だっただけに、黒河はフィッシャー幹部の助言を受け入れる形で決断した。
〈ビデオは早晩、カラーテレビを上回る大型商品に育つだろう。今を逃せば東京三洋は、永久にビデオ市場に参入できないかもしれない。都合のいいことに、三洋本社はベータ規格を採用しているので、われわれはVHSを手掛けても競合しない。開発メーカーのビクターの技術支援を受けていては間に合わない。今すぐゴーサインを出さなければ、永久に手掛けられない。しかし、問題は果たして東京三洋にVHSを生産する技術があるかどうかだ〉
ビデオはテレビ、半導体、テープレコーダー、精密機械加工の四つの技術から成り立っている。この中で家電メーカーが弱いとされるのは精密加工技術である。日立、三菱、シャープがOEMからスタートしたのは、まさにこの分野が弱かったからである。
その点、東京三洋は恵まれていた。三洋本社との|棲《す》み分けを図るため、業務用ショーケースを手掛けてきた関係で、小型コンプレッサーで培った一〇〇〇分の一ミリ単位でもこなせる精密加工技術を持っている。この技術は簡単にビデオのシリンダーの機械加工技術に応用できる。巨額の資金を投じてCAD/CAM(コンピューターを利用した設計・製造)システムを導入したばかりで、このシステムをフルに活用することもできる。
八〇年八月に入って黒河は、専務の田村巧を自室に呼んでVHS方式によるビデオ進出の方針を伝えた。
「東京三洋でVHS方式のビデオを手掛けようと思う。今回がラストチャンスだ。後発のハンディはあるが、逆に生産設備や測定器が数年前より飛躍的に進歩しているので、かえって効率の良い生産ラインが作れるのではないか。私の見るところ東京三洋には、ビデオを作る技術が揃っている。前例にこだわらない合理的な設計、生産方式を確立するため、各事業部はとびきり優秀な技術者を出してほしい。来年の秋には出荷にこぎつけたい」
各事業部から選りすぐりの技術者が二十人ほど集まり、開発部という名のプロジェクトチームが発足した。そして責任者には黒河の腹心ともいうべき井上慧が就いた。そして直ちにCAD/CAMを使った設計に取り掛かった。開発部の人は毎月五、六人ずつ増えていった。年明けには組織を営業開発部に変更して、工場の建設に取り掛かった。工場建設といっても新たに工場の建屋を作るのではなく、既存の工場を利用して、そこにラインを敷くのである。
むろんVHSの工場は誰も見たことがないので、作り方が分からない。そこで井上はVHS陣営メーカーに納入している部品メーカーの経営幹部を呼んで、VHS規格採用の方針を打ち明けた。
「実はわが社でも、VHSを手掛けることになったんですよ」
「これから手掛けるのは、大変ですな」
こう同情されたものの部品メーカーは東京三洋が新たな納入先になり得るとのソロバンを弾き、得意げになって他社の生産実態を教えてくれる。部品業界に東京三洋がVHSへ参入するとの|噂《うわさ》がクチコミで知れ渡ると、今度はコンベヤーメーカーが売り込んでくる。彼らのセールスポイントは、「私どもは〇〇会社のラインを手掛けました」ということである。井上は複数のメーカーから意見を聞いた上で、てきぱきと生産設備と部品を発注していった。
四月に入ると生産ラインが出来上がった。シリンダーの加工機械は前年末には納入されており、別の工場でテストを始めている。五月からは新工場でシリンダーの加工、六月にはメカの試作も始まった。続いて七月には完成品のテストランにこぎつけ、九月からの本格生産、十月出荷のメドを立てた。
生産機種は二〜四〜六時間の切り替え機種で当面は対米輸出、それもフィッシャーブランドに限定して販売することにした。三洋と東京三洋は別会社とはいえ、同じ『サンヨー』のブランドを使っている。VHSを国内市場に投入すれば混乱することが分かり切っているので、国内市場への投入は見合わせることになった。
ただし本格生産、出荷する前にクリアしておかなければならない問題があった。ソニーとビクターから特許使用の了承を得ることである。副社長の黒河、専務の田村の二人は八一年の春先に、上京してソニーとビクターの本社を訪ね、VHS参入の方針を伝え、特許使用の了解を求めた。当然のことながら両社からは対照的な答えが返ってきた。ソニーは副社長の大賀典雄が出てきた。
「東京三洋さんの考えはよく分かりました。要するにビデオを手掛けたいということなんですね。それならベータ方式にしてもらえませんか。なんなら私どもが注文を出します。ソニーの市場を分けてあげても構いませんよ」
これに黒河が猛然と反論した。
「大賀さん。あなたは何か勘違いしてます。私どもはアメリカではサンヨーのほかにフィッシャーという販売チャネルを持っています。そこで売る商品を作りたいのです。フィッシャーの方ではVHSを供給してほしいといってきているのです。ソニーからの注文も市場も要りません」
ビクターは社長の宍道一郎と高野が対応した。黒河が計画を一通り説明すると、宍道は笑顔で質問した。
「東京三洋さんがVHSを作られることは、私どもは大歓迎します。で、いつごろからやりますか」
「私は半年後に(自社生産の製品を)出したいと思っております」
すると今度は高野が質問した。
「秋ですか。すると一年半余りはOEM供給ということになりますね」
「ちょっと待って下さい。私どもはすでに工場の建設に入っており、十月出荷を目指しております」
宍道も高野も信じられないという顔をした。しかし黒河の話を聞き、自社生産の準備がすべて整っていることを確認すると、高野は一つだけ注文を出した。
「黒河さん。一つだけお願いがあります。東京三洋で生産した第一号機ができたら、私どもに互換性をチェックさせて下さい。ビテオの命は互換性です。VHSのマークを付ける以上、フィッシャーブランドのビデオで録画したテープを松下電器さんが供給しているRCAの機械で再生しても、きれいな映像が出なければならないのです」
「それは承知しております。私どもはビクターさんから合格点をもらわない限り出荷しません」
トップ会談はここで終わったが、高野は帰り際、田村に声をかけた。
「田村さん。一度私どもの横浜工場を見て下さい」
数日後、田村は横浜工場を訪れた。高野は自らビデオ工場をくまなく案内し、それが終わると近くの国道一号線沿いにある行きつけの居酒屋「きしや」へ誘った。
「田村さん。私は東京三洋が最初から自社生産しようとする心意気には、敬服しています。心底から成功を願っております。社長はともかく、私はOEMで稼ごうなんていうケチな考えは持っていません。VHSを世界規格にするには、一社でも多くの会社に自社生産してもらうことが早道なんです。東京三洋さんが自力で自社生産する以上、私どもは互換性の問題以外は一切口出ししません。しかし困ったことや技術的な問題があれば、遠慮なく私に聞いて下さい。ビクターの高野としてではなく、高野個人として相談に乗ります」
この言葉に田村は感激した。
「有り難いことです。本当に助かります。テストの段階で旨くいっても、いざ本番となれば、計画通り進まないのがこの業界の常ですから」
「田村さん。VHS生産に際しての秘訣を一つだけ教えます。VHSファミリー企業のみなさんは、VHSの部品精度の高さに驚いているようですが、実は部品の精度を高くすればするほど、互換性を保つことができるのです。調整も易しく組み立ても簡単です。精度を上げるのは人間ではなく機械と測定器です。このことを頭に入れてラインを作ってみて下さい」
東京三洋がVHS参入を決断してから、わずか一年二カ月にして出荷できたのは、こうした高野の助言に負うところが大きい。黒河はVHSを本格生産してから三年以内にフィッシャーブランドでシェア一〇%を確保することを目標に掲げたが、八五年には目標を上回る一五%を占めた。
フィッシャーが短期間でシェアを取ることができたのは、音響メーカーとしてのブランド力、品質のほか業界に先駆けてAVの統一デザインを採用したことや、アメリカ独自の音声多重放送MTSを取り入れたことなどがあげられる。こうなると生産もうなぎ登り。生産開始三年目の八四年は前年比二・一倍の百四十二万台に増え、翌八五年には待望の二百万台に手が届いた。
余談になるが、ソニーは八八年一月にVHS規格の導入を決め、その後国内生産に踏み切るが、海外で販売されるソニーブランドのVHS製品をOEM供給していたのは東京三洋である。ソニーが九八年春にドイツの工場で手掛けるまで実に生産量の一割に当たる五百万台をソニーに供給した。
ソニー向けの製品は単に「品川行」と書かれていたことから、三洋の工場で働く大部分の従業員は自分たちの作っているVHSが、海外で『SONY』のブランドを付けて売られていたことは知らなかった。
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第十二章 天下分け目の欧州市場

1 現代版“ポワチエの戦い”
激動の一九八〇年代に突入した日本経済は、前年春のイラン革命に端を発した第二次石油危機で一時的な打撃を被ったものの、前回の危機のようなインフレにも見舞われず、むしろ折からの省エネブームの波に乗り、いち早く安定成長路線を軌道に乗せた。その牽引役が輸出であった。
とりわけ性能が高いうえ故障せず、燃費が良くて、値段も安い日本製の乗用車は世界市場で持てはやされた。だが「驕る平家は久しからず」の|譬《たと》え通り、八一年に入るとまず米下院で日本製乗用車の輸入規制法案が出された。自動車は国の基幹産業であり、その存亡は一国の経済と密接にかかわっている。
日本車の急増でゼネラル・モーターズ(GM)、フォード、クライスラーのいわゆるビッグスリーは大きな打撃を受けた。とりわけクライスラーは経営のまずさも加わり倒産の危機に瀕し、米政府に救済を仰いだ。自動車はいつしか政治問題と化し、日米政府間交渉の末、八一年五月には日本製乗用車の輸出は年間百六十八万台に自主規制することで合意した。
一方、自動車より一足先に通商摩擦の洗礼を受けたカラーテレビは、第一次石油危機の七七年から政府間で市場秩序維持協定(OMA)が結ばれ、輸出自主規制を余儀なくされた。協定は三年の期限付きだったが、この間に日本メーカーは競って現地生産に踏み切ったことから、最終年の七九年に輸出台数は最盛期の四分の一以下の七十万台まで下がった。むろんOMAの枠を大きく下回った。
ビデオの対米輸出は八〇年代に入っても引き続き急増していたが、米メーカーが自社生産する計画がなかったことから、自動車のように政治問題化することもなかった。
石油危機に伴う景気停滞は米国より、むしろヨーロッパ諸国の方が深刻だった。集中豪雨的に押し寄せてくる日本車に対し、フランスは輸入量の三%、イタリアは年間三千三百台、イギリスは日英業界の話し合いで、輸入台数を総需要の一〇%前後に抑えることで合意した。
自動車産業以上に打撃を受けたのが欧州の電子産業である。欧州メーカーは満身創痍、瀕死の重体に陥っていた。原因は日本のエレクトロニクス産業が急激に立ち上がり、それに開発面で対抗できず、投資意欲をなくしたことがあげられる。
カラーテレビ、オーディオ、半導体、OA(オフィスオートメーション)、コンピューター、ビデオなどの先端産業は日本に大きく立ち後れてしまった。欧州の電子産業で競争力を保っているのは、海外メーカーを排除し、国産品の使用を徹底させた通信機器と軍用の関連機器だけだった。
技術開発を怠った背景としては、欧州各国のカルテル体質と低賃金の外国人労働力に過度に頼ってきたツケが回ってきたことがあげられる。人口六千二百万人の西独でも、失業者が二百六十万人に上った。さらにEC(欧州共同体、現EU)諸国全体では千二百万人に達し、社会問題となりつつあった。とりわけ西独では機械電機産業の労働力五百万人のうち、約一五%を外国人労働者が占めていた。豊富な低賃金の労働力が組み込まれてしまった経済構造では、生産性向上や技術開発への刺激が生まれにくい。
米国の家電産業は日本との競争に敗れたことから事実上消滅したが、欧州メーカーはそう簡単に撤退できない事情があった。欧州における電子産業は米国における自動車産業と同じで、その国の存亡がかかっているからである。
ビクターの高野は当時はまだこうした欧州の経済構造を完全に理解していなかった。
〈日本製ビデオは価格が安いし、性能も良いので欧州の消費者は満足しているはずだ。OEM(相手先ブランドによる生産)供給先にも利益を還元しているので、ビデオが政治問題になるわけがない……〉
とはいえ現実には、八〇年に入るとEC外相理事会で対日貿易摩擦緊急対策が討議され、輸出の著しい日本製ビデオもヤリ玉に挙げられた。ビクターにとって欧州市場は|金城湯池《きんじようとうち》である。対EC向け輸出シェアは、ビクターが三六%で圧倒的に高く、次いで松下の一二・三%、日立、三洋が各一〇%、シャープ九%、ソニー六%の順であった。
ビクターにはOEM供給先から現地生産の要望が舞い込んでいたが、高野は決して首を縦に振らなかった。
〈ビデオの命は互換性だ。だが欧州メーカーの現状の技術水準では、まだ互換性を保つ製品は作れない。互換性のない製品が市場に出回れば、VHSの命取りになる〉
しかし日欧摩擦が日増しに尖鋭化し、火の粉がビデオに飛び火したとあれば、悠長に構えておれない。八〇年の二月に入って、高野は商売抜きで欧州市場をつぶさに見て回った。そこで高野は欧州各国のビクターに対する批判が想像以上に手厳しいことを肌で感じ取った。
〈ビクターはVHSでうまく行き過ぎたのかもしれない。互換性にこだわって市場を独占すれば、世界の孤児になってしまう。難しい国際環境の中で、ビクターはビクターなりの国際関係を構築しなければならない〉
帰国後、ビデオ事業部の幹部を集めて対欧州戦略の変更を宣言した。
「欧州では排日感情が高まっており、EC圏だけで独自のビデオ規格を作ろうという動きも出てきている。日本製品、とりわけ急増しているビデオに対する輸入規制の圧力も高まっている。これを避けるには欧州市場で仕事を創出して、失業者を減らすことが必要だ。欧州各国のOEM供給先からは、前々から現地生産に協力してほしいとの要望がきているが、これはできれば一本化した方がいいと思う」
欧州では現地生産をしないというそれまでの方針を百八十度変更したのである。それではどういう形で現地生産するか。現地生産を検討しているメーカーに特許を供与して、勝手にやってもらうのが一番簡単だが、互換性を維持するため各メーカーに技術者を派遣しなければならない。それではあまりにも非効率である。
高野は五月に入り、再度訪欧して今度は欧州メーカーのトップと意見を交わしてきた。そして帰国直後に社内に「ヨーロッパプロジェクト」を発足させ、メンバーを前に企業の国際化について語った。
「お前たちはミレーの代表作『落穂拾い』の絵の意味が分かっているか。生活が貧しいために、収穫の時にこぼれた落穂を拾って生活しているかわいそうな人を描いている絵と想像するだろう。実はおれもそう思っていたんだが、これが違うんだ。本当は自分より貧しい人のために、穂を彼らの分け前として残しておいて、あとは自由に取りなさいと助け合いの精神を描いているそうだ。
ビテオも同じだ。ビクターはOEMで儲けさせてもらったら、その分け前を彼らにも戻してやる。そのように物事は長期的に考えないと、本当の国際人とはいえないんじゃないか」
さらにビデオ事業部の幹部には言い方を変えて話した。
「日本人は農耕民族だから土地と太陽さえあれば作物ができたので、あまり他人のことを考えない。そこへいくと欧州は狩猟民族だから、人と協力しないと生きていけない。だから他人を利用し合うことが当たり前になっている。欧州のOEM先の首脳は、ビクターの利益が大きいと、堂々と『もっと分け前をよこせ』と言ってくる。欧州メーカーと助け合いの精神でやらなければならない」
助け合いの精神で事業を進める――。高野が考えた欧州での事業は途方もなく雄大なものだった。『J3T構想』。ビクター(JVC)とビクターがVHSをOEM供給している三つのT、トムソン・ブラント(仏)、テレフンケン(西独)、ソーン(THON)EMI(英)の四社が欧州でVHSを合弁生産しようという構想である。J3Tは四社の頭文字を取って付けられた。
いくら助け合いの精神が発達している欧州でもフランス、西独、英国を代表する家電メーカーがビデオの生産で手を握るというのは前代未聞である。五月の訪欧の際、高野は単独でトムソン社長のファイヤール、テレフンケン社長のストッフェル、ソーン社長のノーマンの三人に自分が立てた構想を直接話して、早々と内諾を得た。
欧州で三社はライバル関係にあるが、ビクターが触媒の役目を果たしたことで、交渉は順調に進んだ。ところが思わぬところから横ヤリが入った。フランス政府である。フランスは八一年五月十日の大統領選挙で社会党候補のミッテランが当選、二十二年ぶりに左翼政権が誕生した。ミッテラン政権は発足直後、戦略企業を次々と国営化してしまったのである。
ミッテランはかねてハイテク(先端技術)に大きな関心を示しており、ハイテクを武器に国家主導で企業の活性化を図ることを目標に掲げた。そして就任早々「ハイテクで主導権を握るには、まず半導体とりわけ超LSI(大規模集積回路)技術を制覇しなければならない。ビデオは超LSI技術の入り口の商品である。これ以上日本企業の侵略は許せない」と語った。トムソンを科学振興の目玉企業に据えるため国営化してしまった。
こうなると日仏独英の合弁事業にトムソンが参加するのは無理である。高野はトムソンの参加をあきらめ、八二年三月にロッテルダムに三社均等出資による持ち株会社の「J2Tホールディング」を設立、同時に生産会社の「J2Tビデオ」をベルリンと、英国ニューヘイブンの二カ所に設立した。
そして五月にはベルリン工場、十月にはニューヘイブン工場を稼働させた。ベルリン工場が会社設立からわずか二カ月後に稼働できたのは、旧テレフンケンの工場を改修したもので、四百五十人の従業員も旧テレフンケンの工場に勤めていた千百人の中から優秀な人材を選び、そのまま引き継いだことによる。ベルリン工場の年産規模は三十万台、ニューヘイブン工場は二十万台である。
といってこれでビデオを巡る通商摩擦が解決したわけではない。フランス政府は十月二十二日に突然、官報に「ビデオの輸入通関窓口をポワチエに限定する」と布告したのである。ポワチエはフランス南西ビエンヌ県の首都である。歴史上いくたびか戦場となり、西暦七三二年、メロビング王朝の王を補佐する宮宰シャルル・マルテルが、サラセン人の侵略を撃退、西欧キリスト教を守った地として知られる。日本製ビデオの急増をサラセン人の侵略になぞらえ、“現代版ポワチエの戦い”と呼ばれた。
伏線はあった。九月二十二日にフランスは、八三年一月一日からビデオの所有者から年間四七一フランの所有税を徴収すると発表、税金をスムーズに徴収するためには「登録番号の照合などを慎重に行わなければならない」として、通関業務をポワチエに集約したのである。
内陸部のポワチエに集約するということは、前代未聞の輸入規制措置であるのは誰がみても明らかである。フランス政府の決定を暴挙と決め付けるのは簡単だが、ミッテランは就任当初から対日赤字に悩まされていた。八二年の対日貿易赤字は一二〇億フラン(約四千二百億円)を上回り、貿易赤字全体の一二%を占めていた。日本の対仏輸出はビデオを筆頭にテープレコーダー、機械、自動車など特定の工業品に集中していた。逆に日本の対仏輸入に占める工業品の比率は極端に低いことが、フランス政府を苛立たせていた。
日本製乗用車は輸入車の三%に抑えていることから輸出急増には歯止めがかかっているが、思わぬところで被害を受けていた。日本と同じように自由貿易主義を標榜している西独で日本車の販売が急増すれば、それに反比例してフランス製乗用車の販売が落ち込んで、対西独輸出が減少するのである。
ミッテラン政権はハイテク企業を次々と国有化する政策を推進したものの、現実の経済は前のジスカールデスタン政権時代より悪化している。これではいつ政府批判の火の粉がふりかかってきてもおかしくない。国民の目をそらすには、理屈を超えたスケープゴート(いけにえのヤギ)を作るしかなかった。
その標的にされたのが、日本製ビデオである。ビデオは日本しか生産していないこともあり、七〇年代後半は対米輸出が急増したが、八〇年代に入ると今度は対EC向けが目を見張るような伸びを示していた。八〇年の欧州向け輸出は百四十五万台だったが、八一年には三百二十七万台に急増した。そして八二年に入ると一段と弾みがつき、EC向けは一〜五月だけで、前年同月比二・一倍の百八十一万台を記録してしまった。集中豪雨的な輸出は衰えを見せず、一〜十月では八四%増の四百五万台を記録した。この間の対米輸出はそれぞれ三九・五%増の九十五万台、一二・二%増の二百十一万台だから、いつしか対EC輸出だけで米国向けの二倍となってしまった。
テレビ放送時間の短い欧州でビデオが爆発的に売れたのは、最初は記録済みのテープが売れ出し、つれてレンタルビデオが急速に普及したことによる。
ポワチエの輸入業務担当者はたった二人しかおらず、しかも一日三百台しか通関させないので、税関の前にはトラックが列をなし、保税倉庫が日本から送られてくるコンテナで満杯になるには一週間もかからなかった。現代版ポワチエの戦いの仕掛け人ともいうべき貿易相のジェーベルは「日本がフランスのヘリコプターやエアバスを買えば、フランスは日本のビデオを購入する」と発言するなど、戦いは泥沼化の様相を呈した。
十一月に入ると通産省は、フランスのビデオ輸入制限措置をガット(関税貿易一般協定)に提訴する方針を表明したが、フランス政府は逆にEC加盟国にビデオなど七品目の対日輸入制限を提案するなど、日欧貿易摩擦は解決策を見いだせないまま尖鋭化していった。
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2 幻の欧州電機連合
〈ビデオは国際政治の|玩具《おもちや》にされている。このままではVHSは世界規格どころか、政治の犠牲になってしまう〉
ビクターの高野はフランス政府が事実上、ビデオの輸入規制に踏み切ったことで、事態が容易ならざることを悟った。高野はこの年(一九八二年)三月にビデオ事業部長の座を曲尾定二に譲り、常務のままビデオ担当となった。といっても個室に入ったわけでなく、従来通り横浜工場内にあるビデオ事業部の真ん中に机を置き、VHSの世界戦略を練っていた。
来る日も来る日も自分の机の前で腕を組み、欧州情勢を分析する日が続いた。フランス政府がビデオの通関業務の窓口を内陸部のポワチエに集約したのは八二年十一月だが、その直後に今度は西独のグルンディッヒが日本製ビデオをダンピング輸出の疑いでEC(欧州共同体、現EU)委員会に提訴しようという動きが表面化した。グルンディッヒはフィリップスが七八年末に「VCR」の後継機として開発した「V(ビデオ)2000」を擁して、日本メーカーに激しく抵抗していた会社である。
ダンピング提訴の引き金になったのが、デュッセルドルフの繁華街にある西独第四位のデパート「ホルテン」での安売りである。西独で日本製ビデオは一台二〇〇〇マルク(当時一マルクは一〇〇円)前後で売られていたが、こともあろうにホルテンはクリスマス商戦を控えた十月中旬に三洋電機の「VTC9300P」を、録画していないカセット一巻をおまけに付けて、半値以下の九九五マルクで販売し始めたのである。
これに刺激されて大手通信販売会社の「クレエ」やコーヒーショップのチェーン店の「チボ」が、近く一〇〇〇マルク以下の日本製ビデオを販売すると発表した。これで西独のビデオ市場は騒然となった。三洋に続いて他の日本メーカーが乱戦に加われば、V2000の息の根は止められてしまう。
当然のことながら三洋に対する風当たりが強くなった。三洋が五〇%出資する輸入業者のフィッシャー・ハイファイ・ヨーロッパは、「ホルテンが販売している機種はすでに生産を打ち切っているベータ方式の旧型モデルであり、三洋本社は乱売に関与していない」との声明を出した。ホルテンの乱売に刺激された日本メーカーの中にはクレエ、チボへの供給交渉を進めていたところもあったが、グルンディッヒの怒りが本物とみるや、早々と供給交渉を打ち切ってしまった。
ダンピング問題に追い打ちをかけたのがグルンディッヒとフィリップスのビデオ部門の人員解雇計画である。両社の西独ビデオ工場の従業員は年末までに合わせて千三百五十人ほど解雇されてしまった。日本と同じように自由貿易主義を|標榜《ひようぼう》する西独で、大量の失業者が発生したことから対日報復的な保護貿易主義が台頭し始めていた。皮肉にも日本製ビデオの乱売合戦が、それを|煽《あお》ったのである。
ECの大国、フランスと西独の両国で日本製ビデオが標的にされては、さしもの通産省も事態を黙って見過ごすわけにはいかなくなった。年末から翌八三年にかけてのEC委員会との交渉で日本側の輸出自粛、その見返りに欧州側はフランス政府の実質的な輸入規制の解除、日本製ビデオに対するダンピング提訴の取り下げ――という形で政治決着させた。
輸出自主規制は八三年から八五年までの三年間で、台数規制と同時に輸出カルテルによる最低輸出価格制を実施することになった。八三年の輸出台数は四百五十万台を上限とし、この中にはシャシー・キット(半製品)を含み、同時に欧州メーカーの生産・販売台数が百二十万台確保できるよう日本側が配慮することになっていた。日本が欧州メーカーの生産・販売を保証したのである。具体的にはフィリップスとグルンディッヒが合わせて年間百二十万台に達しなかった場合は、それに見合う分だけ日本から輸出台数を削減すると約束したわけである。
ビデオに先駆けて日本政府は、乗用車の対米輸出について自主規制に踏み切っている。表面的に見れば同じ道を歩んだことになるが、決定的に異なるのは、ビデオはEC側の事情によって規制水準を低くする余地を残したことである。
輸出規制は先発メーカーにとって、決して悪い措置ではない。最低価格制の導入によって製品価格が安定するし、各社ごとの割当台数は過去の実績がベースになるため、先発でしかも三六%のシェアを持つビクターは相対的に有利な立場に立てる。だが高野はこうした見方をとらなかった。
〈輸出規制というのはやはり変だ。自動車や鉄鋼といった成熟産業ならいたしかたないが、ビデオはこれから大きな飛躍期を迎える産業だ。世界のビデオの普及率はまだたかだか一〇%に過ぎない。最も普及している欧州でさえ、まだ一五%前後だ。輸出規制の下でビテオを普及させる手はないものか〉
高野は早い段階から日欧ビデオ摩擦の陰で、欧州メーカーが欧州電機連合の実現に向け、思惑と利害が絡んだ虚々実々の駆け引きをしていることを嗅ぎとっていた。すでに舞台裏ではビデオを巡って欧州メーカーによる激しい電子戦争が展開していた。
その主役は日本製ビデオのダンピング提訴で一躍有名になった西独最大の家電メーカー、グルンディッヒのオーナー会長、マックス・グルンディッヒである。十九歳でラジオ店を開業し、一代で西独最大の家電メーカーに育て上げたマックスは、七十四歳の高齢にもかかわらず欧州電機連合に執念を燃やしていた。
彼は欧州連合の第一歩として、ビクターとともにJ2Tで共同戦線を張っている西独第二の総合電機メーカー、AGFテレフンケンがフランクフルト簡易裁判所に和議申請する直前の八二年八月、子会社テレフンケン・フェルンゼー・ウント・ルントフルク(TFR)の買収を発表した。J2Tがベルリン工場に続き、英国工場でもVHSの生産を開始した直後の八二年十一月。今度はフランス最大の電機メーカーでミッテラン政権の下で国有化されたトムソンがグルンディッヒの株式を七五%取得するとの趣意書に調印したと発表した。欧州電機メーカーの資本関係は複雑で、フィリップスはグルンディッヒの二四・五%の株式を握っている。
これが実現すれば、グルンディッヒを媒介してフィリップスとトムソンのつながりが出来上がる。さらにグルンディッヒはテレフンケンへの資本参加を発表しているので、間接的ながら欧州電機大連合が実現することになる。フランスの有力紙のル・モンドはいち早く「トムソン、フィリップス、グルンディッヒの三社提携進展」と報じた。さらに会長のマックス自身がわざわざ記者会見して「欧州メーカーは大同団結に向けて話し合いをしている」と欧州電機大連合構想を明らかにした。そのころフィリップス社長のデッカーもトムソンにエールを送った。
「フィリップスとしてもトムソンによるグルンディッヒの買収計画を積極的に支援していきたい。欧州の電機メーカーは連合しなければ、日本メーカーの攻勢には太刀打ちできない」
トムソンとフィリップスはもともと仲がそれほどよくなかった。むしろライバル関係にあり、ことあるごとに対立してきた。それが成長商品のビデオで、欧州市場が日本メーカーに|蹂躪《じゆうりん》されたことから、|面子《めんつ》を捨てて本気で手を組もうというのである。欧州の電機メーカーは拍手喝采し、欧州電機連合構想は一気に盛り上がった。
だがマックスの執念も空しく、欧州連合のシナリオは八三年の年明け早々に挫折してしまった。一月にはグルンディッヒとTFRとの合併交渉が破綻、続いて三月には西独カルテル庁が「トムソンによるグルンディッヒの買収計画は、西独家電市場におけるトムソンの市場支配力が強くなり過ぎるので認可できない」との判断を下したのである。
フィリップス─(グルンディッヒ─TFR)─トムソンのグループ化は失敗した。表面的な理由はカルテル庁の認可が下りなかったことだが、フランス政府をバックにしたトムソンが本気で政治力を行使すれば、カルテル庁の判断を覆すこともできたはずである。
しかし買収が失敗した本当の原因は、トムソンとフィリップスの間でビデオについて折り合いがつかなかったことによる。トムソンはビクターからVHSのOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けているのに対して、フィリップスは依然として独自開発のV2000に執着していた。フィリップスがトムソンに対して欧州規格ともいうべきV2000への切り替えを要求したことは、容易に推察できる。
さらにトムソンがグルンディッヒを買収した後も、グルンディッヒの持つ西独内での強力な販売網は、フィリップスの既得権として、従来通り使わせてほしいとの条件をつけたとされる。
ところがトムソンの経営陣には当事者能力がない。経営の決定権は政府が握っている。経営陣は政府の“操り人形”でしかなかった。フランス政府の狙いははっきりしている。グルンディッヒ買収はフランス主導による欧州電機連合の構築である。フィリップスはその傘下の一社という位置付けである。
多国籍企業を自認するフィリップスとしては、国家戦略を前面に出したトムソンの軍門に下ることはプライドが許さない。しょせんトムソンとフィリップスは水と油、両雄並び立たない関係にあった。
その直後、トムソンは買収相手をグルンディッヒが買収を計画したTFRに切り替えた。すでにトムソンはビクターがVHSをOEM供給している西独の名門家電メーカーのサバ、ノルデメンデ、デュアルを傘下に入れており、グルンディッヒの買収に失敗しても、実質的に西独の家電業界を支配したことになる。トムソンのEC市場でのシェアは二三%に高まり、欧州でフィリップスに次ぐナンバーツーの地歩を固めた。
高野は欧州電機業界の|合従連衡《がつしようれんこう》の動きをじっと見守っていた。そしてグルンディッヒを巡るトムソンとフィリップスの話し合いが不調に終わったとの情報を得るや、素早い決断を下した。
三月下旬になって高野は随行者を伴わず、一人でパリのトムソン本社に飛んだ。高野の交渉のやり方は、相手に先入観を持たず、まず自分が胸襟を開いて話すことである。さらに相手がどんな立場の人であろうと、決して大上段に構えた態度は取らない。トムソンでは旧知の社長、ファイヤールと話し合ったが、日欧のビデオ摩擦にはさほど触れず、「今こそ国際協調体制を確立する時期」との持論を唱えた。
そしてトップ会談からわずか一カ月後の四月二十五日。ビクターとトムソンが電撃的に提携を発表した。提携内容はビクターがトムソンにVHSの生産技術を全面的に供与するというものである。日本の新聞ではそれほど大きく扱われなかったが、欧州の主要紙は二十六日付の一面トップで大々的に報じた。ル・モンドは過去の経緯を含めて次のように書きまくった。
「遠回りした後、欧州のビデオ業界は新しい局面を迎えた。トムソンはJVC(ビクター)との間でVHS方式のビデオの生産ライセンス契約を結び、V2000方式のビデオを中心にして欧州共通の戦線を築こうというフィリップスの夢に終止符を打ったのである。
しかし合意は驚くにあたらない。グルンディッヒの資本七五%買収に失敗して以来、トムソンは政府のお墨付きを得て日本企業との交渉に踏み切ったのだ。欧州電機連合を巡るフィリップスとトムソンの交渉でフィリップス側がトムソンに提示したのは、トムソンがV2000方式を採用するならば、トムソンのグルンディッヒ買収にOKを出すというものだった。
一方、トムソンはフィリップスの軍門に下ることをもともと望んでいなかった。簡単にいえば、欧州電機業界の勢力を二分する両グループの代表企業がお互いに警戒心をさらに強めるだけの重苦しい交渉だった。
(中略)
経済、政治両面で一枚岩でない欧州は今後とも各国がエゴイズムを強めていくであろう。欧州電機連合は幻となった。ア・ラカルトヨーロッパの時代である」
ル・モンドの論評にトムソンとその陰で糸を引くフランス政府の電子産業戦略が色濃く|滲《にじ》んでいる。日本の新聞では「日仏の産業協力」「摩擦の緩和材料」との活字が躍ったが、欧州ではそんなノンビリしたことよりも、欧州の電子産業が立ち直りのきっかけをつかむことができるか否かが、最重要課題となった。トムソンにとってビクターとの提携はその選択肢の一つに過ぎなかった。
英国のフィナンシャル・タイムズは客観的な論評を下した。
「欧州流解決策の展望には、常に不安な側面があった。フィリップス方式の小さなシェア、関連企業間の競争、日本企業の明らかな技術的優位性などから、欧州の消費者が日本製から“保護された”欧州製ビデオに高いカネを支払わされることは大いにあり得ると思われた。日本製の輸入を制限し、フィリップス方式に欧州市場の一定比率を保証するというECと日本政府との間の合意は、間違った方向への第一歩だった。
日本がビデオ産業で欧州の機先を制したことは、欧州人を不安にしているかもしれない。だが欧州の電子工業界としては、それに対して遅ればせの抵抗をするよりも、適応した方がうまくいくというのが現実である。英、仏、西独は日本の技術を最大限に活用し、必要とする日本製部品の輸入計画を実際に妨げないことを確認しあうことで、いつのまにか一致協力していることを悟るだろう」
高野は帰国の飛行機の中で、感慨深げに自問自答した。
〈これで日本のビデオメーカーを敵視してきたフィリップスとグルンディッヒの支配力は弱まるだろう。逆にトムソン、ソーンを中心としたグループの発言力が強まれば、EC委員会も無視できない。今回の技術供与は日本にとって決してマイナスではないはずだ。もう少しでVHSは世界規格になれる〉
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3 欧州の巨人、フィリップス争奪戦
一九八三(昭和五十八)年四月に日本ビクターが仏トムソンとVHSの技術援助契約を結んだことで、対EC(欧州共同体、現EU)のビデオ摩擦は沈静化に向かった。高野は八二年にビデオ事業部長を離れビデオ担当となったが、その一年後にはビデオ事業担当のまま、今度は代表権のある専務に昇格した。
取締役に就任したのが五十三歳。常務が五十七歳だからサラリーマンとしては順調な出世といえる。高野の出世を裏付けるのがビクターの業績である。VHSを発表する前年の七五年三月期の売り上げは一千百四億円、経常利益は二十四億円に過ぎなかったが、七七年三月期からVHSが業績に貢献し始めた。発売初年度の売り上げに占めるVHSの比率はたった六%だったが、翌年から一七%、三五%、四三%と年を追って高まり、八一年三月期には早くも五〇%に達した。
年間売り上げも五千億円を突破、経常利益は何と四百九十億円と、あっさり過去最高記録を塗り替えた。一時はいつ倒産してもおかしくないと陰口をたたかれた貧乏会社が、VHSの成功でたちまちにして高成長・高収益会社に変身したのである。
VHSの規格を採用する企業が増え、生産台数が増加すれば、今度は莫大な特許料が入ってくる。ファミリー企業が本格的に自社生産を始めた八〇年の特許料収入は九億円だった。ところが生産量が拡大するにつれうなぎ登りで増え、八五年には百億円を超し、最盛期の八九年には実に百六十六億円に達した。
高野はこうしたVHSの功績が認められて専務に昇格したわけだが、肩書が変わっただけで、専務席は従来通り、横浜工場にあるビデオ事業部の大部屋に置いた。
彼にはやらなければならない仕事が山ほどあった。目先は欧州市場制覇である。トムソンにVHSの技術を供与したことで、今度は逆にVHSによるフィリップス、グルンディッヒ包囲網を築いたことになる。
ビデオの対EC輸出は八三年から始まり、フィリップスとグルンディッヒの生産、販売が年間百二十万台に達しない場合は、それに見合う分だけ日本側の輸出台数から削減することになっていた。EC委員会と日本政府の合意が成立した直後、高野はフィリップスが開発したV2000の生産台数の推移を見ながら一人でつぶやいた。
〈八〇年のV2000の生産台数は十万台。これが八二年になっても五十七万台にしか増えていない。V2000は早晩市場から消えていく運命にある。こうなるとフィリップスといえども、VHS規格を採用せざるを得ない。こちらが働きかけなくとも、必ず相手の方から動く〉
フィリップスが選択すべき道は限られていた。一つはあくまでV2000に固執し、生産・販売台数が増えなければ、EC委員会を通じて日本からの輸出を削減してもらうことである。しかし輸出規制の網がかけられたとはいえ、日本から年間四百五十万台も輸出されては、どんなに頑張ってもマイナーな規格から脱却できない。
もう一つはプライドを捨て、V2000からVHSに転換することだった。高野はフィリップスの苦悩をよそに、トムソンに技術供与した時点で、欧州市場の完全制覇は秒読みの段階に入ったと読んでいた。
八三年十月二十八日。日本経済新聞は「松下、フィリップス、グルンディッヒ/VTRで日欧提携/VHSを技術供与」と報じた。そして記事の最後に山下社長の「両社に技術供与することで基本的に了解している」との談話を載せた。
ビクターもフィリップスへの技術供与を|虎視眈々《こしたんたん》と狙っていたが、相手が親会社の松下とあってはあきらめざるを得ない。フィリップスは八四年の年明けにVHS規格の採用を正式に表明すると同時に、「VHSを販売するのは欧州以外の地域で、欧州市場では引き続きV2000を手掛ける」と最後まで孤高を保った。だがなぜか技術供与先として、松下の社名は挙げなかった。
高野は|訝《いぶか》しげに思ったが、翌年十一月に入り、フィリップスが松下を通じて製品認定を申請してきたことから、「やはり松下が技術供与した」と判断した。松下も同じVHS陣営の一員であり、さらに日欧ビデオ摩擦がひとまず沈静化したことで、高野の頭からフィリップスの動向が消えかけた。
それから約五年後の八九年三月初旬。八六年に副社長に就任した高野が、一年前にビデオ事業本部長に就任した上野吉弘を呼んだ。
「近くフィリップスの経営幹部が来日する。うちは技術供与できなかったが、特許料はしっかりもらっている。いわばお客さんだ。そこでだ。横浜の料亭で接待する。時間があればお前もついて来い」
それから一週間後の十三日。フィリップス家電事業本部長のP・D・ハームゼンとウィーン工場長のルットカー・カイエンブルグの二人がやってきた。料亭では会席料理に舌鼓をうち、酒を酌み交わしながらお互いに腹を割ってビデオ談義に花を咲かせた。
「タカノさん。フィリップスの現社長のデッカーは一九七〇年から六年間、日本代表として駐在していた経験があるので、われわれが舌を巻くほど日本の電機業界に精通しております」
ハームゼンが昔話を始めると、高野が相槌を打った。
「七〇年といえば大阪で万国博覧会(EXPO'70)が開かれた年で、しかもビクターのビデオ事業部が発足した年です。ただしあの時は、まだVHSは影も形もなかった」
「フィリップスは昔からビデオの研究を進めてきましたが、最後にたどり着いたのがV2000です。私どもは自信を持っていました」
「オーディオカセットと同じで、裏と表で八時間録画できるやつですね。私もあの製品には感心しています。技術者の中にはVHSやベータより優れていると言う人もいました」
これにわが意を得たりとばかり、ハームゼンは秘密を打ち明けた。
「ウィーン工場ではVHSの機構部品を生産しています。実を言いますとウィーン工場では、まだオランダと西独向けにV2000を細々と生産しているのです」
「で、VHSの組み立て生産は?……」
「西独のクレフェルト工場でやっています」
「松下さんから技術供与を受けたわけですよね」
高野は当然の質問をしたが、意外な答えが返ってきた。
「違います。昔、日本の新聞でさんざん『フィリップスは松下から技術供与を受ける』と書かれましたが、私は交渉に直接タッチしていないので真相のほどは分かりませんが、交渉はまとまらなかった。松下さんからは一時期、英国向けにOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けただけです。すべて自力で生産しています」
「本当ですか。確か規格認定に際しては、松下が申請してきましたが……」
「それはVHSの規格書を、松下さんからいただいたからです」
高野と上野はフィリップスのプライドの高さに驚かされた。上野はフィリップス幹部が来日した目的を聞くため、真剣な表情で探りを入れた。
「私は来週、JVC(ビクター)欧州のボードミーティングがあるので、パリに行きます」
すると今度はカイエンブルグが『待ってました』とばかりに身を乗り出した。
「それは好都合だ。帰りにうちのウィーン工場を見てもらえませんか。フィリップスとしてのお願いごともありますし……」
上野は隣に座っている高野の顔を見たが、高野は〈行ってこい〉と目配せした。
「今回の来日理由を正直に言います。デッカー社長はさきごろ、V2000の生産を完全に中止することを決めました。われわれ開発に携わった人間にすれば、極めて残念なことです。これからウィーン工場でもVHSを組み立て生産します。しかしなんとかV2000の技術を残したい。ビデオヘッド、シリンダー……なんでも構いません。フィリップスの技術をどれか一つ、われわれが生産するVHSに採用してほしいのです。果たしてどんな技術が使えるか。ウエノさんにウィーンの工場を見てもらったうえで決めてもらいたいのです」
二人が料亭を去った後、高野は上野に語りかけた。
「フィリップスは痩せても枯れても、さすが欧州電機業界の巨人だ。V2000にはわれわれが学ぶべき技術が沢山盛り込まれているはずだ。上野、どんなに忙しくても時間を作ってウィーン工場を見てこい」
上野は予定通りパリでの会議を終えると、ウィーンに飛んだ。飛行場にはわざわざ工場長のカイエンブルグが出迎えに来た。
「ウエノさん。勝手ながらホテルを用意させてもらいました」
フィリップスが用意したホテルは石油輸出国機構(OPEC)の総会で使用することで知られるインターコンチネンタル、それも最上階のスイートルームだった。九年前、米シカゴ郊外にあるゼニス本社にVHSを売り込みに行った時、ゼニスが予約してくれた薄汚いモーテルとは大違いである。
上野がチェックインを済ませると、カイエンブルグは遠慮がちに切り出した。
「ウエノさんはオペラが好きだと聞いております。ちょうど国立オペラ劇場で『フィガロの結婚』を上演しています。よかったら今晩、見に行きませんか。切符は手配済みです」
上野は前々からこのオペラを見たいと思っていたが、時間がないこともさることながら、肝心の切符が取れずあきらめていた。ところがオペラ劇場に着いて再び驚いた。席が舞台真正面の特等席だったからである。今度は上野が恐る恐る尋ねた。
「こういう席は最低でも一年前に予約しないと取れないはずですが?」
「確かにウィーンでは一年前でないと取れません。しかしドイツに行けば何とか手に入ります。昨日、ウエノさんのために私どもの職員がドイツまで車を飛ばして買ってきたのです」
上野は感激したが、翌日はビジネスマンの姿に戻ってウィーン工場をくまなく見学した。工場は先端技術を駆使しており、聞くもの見るものすべて新鮮だった。一番驚いたのはありとあらゆるところでレーザー技術を使っていることだった。シリンダーヘッドにしても一個一個レーザーで削りながら作っている。上野は技術者らしく即座に判断した。
〈確かに先端技術を駆使しているが、これはまさにガラス細工。量産に向かない。欧州域内に出荷する分にはいいが、船を使ってアメリカまで送れば、必ずヘッドは欠けてしまう。これでは不良品の山になるだけだ。だからフィリップスはV2000を対米輸出しなかったんだな〉
上野は工場見学を終えると、率直な感想を述べ同時に、V2000はVHSに転用できる技術があることを匂わせて別れた。その後、念のため、ウィーン工場で作ったヘッドを船便で日本に送ってもらったが、いくつかはヘッドが欠けていた。
フィリップスがビクターの協力を得て、VHSの本格生産に入った時期に来日したフィリップスのビデオ担当副社長のマンゴルドは、高野と食事を共にしながら本人を前に寂しそうに語った。
「われわれの開発したV2000は、今でも絶対にVHSに負けないと信じています。負けたとすれば、ミスター・タカノのストラテジー(戦略)にです……」
フィリップスがビクターに目を付けたのは、松下から規格書をもらっただけでは、さしものフィリップスでも競争力のある製品を生産できず、開発メーカーの力を必要としていたことに加え、ビクターがマレーシアで現地生産していたことも見逃せない。マレーシアは対米、対オセアニアへの輸出基地としては最適である。
案の定、その後フィリップスはマレーシア工場をフィリップスとビクターの合弁工場に衣替えするよう提案してきた。合弁の骨子は資本は折半だが、運営はすべてビクターに任せるというものだった。
ビクターにとってフィリップスとの合弁生産は願ってもない話だった。しかし高野はこの話が出てきた時、一瞬顔を曇らせた。
〈トムソンとのことさえなければ、何の問題もないのだが……〉
トムソンはビクターからの技術供与でフランス国内でVHSの生産を始めた。当時の数年間は日本からの輸出は数量、価格の両面で規制されていることもあり、市場は安定しかけたが、この間隙を縫うように今度は、韓国メーカーがフランス市場を侵食し始めた。トムソンが国内生産にこだわれば、コストの面で太刀打ちできなくなる。
そこでトムソンはシンガポールにあるカラーテレビ工場の活用を考え、ビクターに合弁生産を持ち掛けた。高野は興味を示したが、最終的に条件面で折り合いが付かなかった。条件というのは両社のビデオエンジニアをシンガポール工場に移籍させることだった。
横浜のビデオ事業部から主力のエンジニアが海外に移れば、ビクターのビデオ事業部の技術が立ちゆかなくなる。ビクターとしてはとうてい|呑《の》める条件ではない。高野はトムソンの要望を断り、トムソンは|紆余《うよ》曲折の末、合弁のパートナーとして東芝を選んだ。
こうした経緯があるだけに、ビクターが隣国のマレーシア、しかも合弁相手がトムソンにとって宿敵ともいうべきフィリップスとあっては、トムソンに仁義を切って了解を得なければならない。
その難しい役目が上野に回ってきた。上野は重い足どりでトムソン本社に社長のファイヤールを訪ねたが、会談はこれまでの友好関係が嘘のように、険悪な空気で始まった。
「もともとわれわれにVHS規格の採用を持ち込んできたのはビクターの方です。トムソンはビクターにシンガポール工場で合弁生産を提案したが、断られてしまった。そのビクターがわれわれのライバルともいうべきフィリップスと合弁生産、しかも隣国のマレーシアでやるというのはわれわれに喧嘩を売るようなものではありませんか」
「それは違います。折半出資はともかく、技術者をシンガポールに移籍させろというのはビクターとしてはとうてい呑める条件ではないのです。その辺を理解してほしいのです」
あとは水掛け論。上野はほうほうのていでトムソン本社を後にした。だがその後、高野がファイヤール宛に、持論を|認《したた》めた手紙を送ったことで、両社の亀裂は避けられた。
「われわれは同じ船に乗っている仲間なのです。決して船を沈めてはなりません。同じ方向に進まなければならないのです。それだけは分かって下さい」
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4 身を捨てて……ミスターVHS
欧州の電機業界では、ビクターの高野鎭雄を尊敬を込め「ミスターVHS」と呼んでいた。日本でも一九八四(昭和五十九)年一月二十三日付の夕刊フジで「“ミスターVHS”/身を捨てて……VTR戦線に浮上」という記事が掲載されたのを機に、この愛称が定着した。
米国のタイム誌とITA(インターナショナル・テープ協会)は毎年、その年の最高の男にITA/TIME誌「マン・オブ・ザ・イヤー賞」を贈る。八三年はビクターの高野、松下副社長の谷井昭雄、同じくRCA副社長のジャック・ソーターの三人に贈られた。ITAの受賞者選考委員会がVHSを最も優れたホームビデオと認定し、その開発から生産、市場開発まですべての分野にわたって陣頭指揮をとってきた三社の責任者に栄えある賞を贈ったのである。とりわけ高野はVHSの開発責任者として高い評価を受けた。
そして三氏は八三年三月にタイム誌の表紙を飾った。VHSビデオを前に三氏ががっちり握手したイラスト入りの表紙は、まさに世界市場を|席巻《せつけん》したVHSの勢いを象徴するものだった。高野はその翌月に仏トムソンとの技術援助契約を結び、秋にはフィリップスと西独グルンディッヒのVHS陣営入りも決まった。米国ではまだ公式には発表していなかったが、すでにベータ陣営のゼニスをVHS陣営にくら替えさせることに成功していた。
こうなるとVHSの世界制覇は時間の問題だった。しかし高野の頭の中には、一つだけ気掛かりなことがあった。超小型カメラとビデオを一体化した8ミリビデオの動向である。
テープ幅四分の一インチ、つまり8ミリのテープを使ったビデオは八〇年七月にソニーが「ビデオムービー」と名付けた試作品を公表。続いて日立、松下なども発表した。むろん三社の試作品には互換性はない。そこで通産省の助言もあり、まず三社の間で「カメラ一体型ビデオは世界統一規格とする」ことで合意、これに据置型で実績のあるビクターとフィリップスを交えた五社で規格の骨格を作ることになった。
高野は戦前、日本光学工業(現ニコン)に入社しただけに、カメラには人一倍愛着を持っており、ビデオ事業部がまだ大赤字を出していた七四年にカメラとデッキを組み合わせた世界初のポータブルカラービデオシステムを完成させた。これが縁で松下幸之助の知己を得、幸之助を生涯を通じて経営の師と仰ぐようになった。
高野は早い段階から据置型の次には、カメラとビデオが一体になる時代が到来すると予測し、ソニーがビデオムービーのコンセプトを発表した直後、部下に対して「ビクターはソニーの規格に賛同する」と伝えた。
ところが事態は思わぬ方向に走りだした。五社による協議会にはビクターから開発部長の白石勇磨と次長の廣田昭の二人が出席したが、最初の会議で|愕然《がくぜん》とした。ビクターを除く四社はカメラ一体型ビデオを次世代ビデオととらえていたからである。
ところが朝日新聞が八一年十二月三十日付の朝刊一面トップで「ビデオ規格を国際統一」と報じたことから業界、とりわけ販売店が混乱に陥った。もしこれが本当なら|驚天動地《きようてんどうち》の大事件である。国内販売に加え、輸出もEC(欧州共同体、現EU)向けが爆発的に伸びている。そこへ性能が向上した統一型が出れば、消費者は買い控えに走るのは分かり切っている。
年明けからメーカーに抗議の電話が殺到。これをなだめるため五社は一月二十日に記者会見をせざるを得なくなった。混乱の原因は朝日が8ミリビデオを飛び越し、一気に据置型の規格統一と報じたことにある。
二十日の会見の目的は朝日の“先読み記事”を是正することにあった。会見では「五社が協議しているのは、あくまでカメラ一体型のビデオであり、規格作りに際しては世界のエレクトロニクス企業に呼び掛けること」になった。
三月十九日に東京・丸の内の東京商工会議所ビルで開かれた「8ミリビデオ懇談会設立総会」には、内外の電機メーカーはむろんのことカメラ、テープ、精密機械など幅広い業界から内外合わせて百二十七社が参加した。これだけ多くのメーカーが集まるというのはどうみても異常である。多くのメーカーが関心を示したのは、「8ミリビデオが家庭用ビデオ市場の再編のきっかけになる」との読みがあったからだ。
家庭用ビデオの需要は八二年には一千万台を突破、その九〇%を日本メーカーが供給していた。ビデオ戦争はVHS陣営が優位に立ち、ベータ陣営からのくら替えが目立ってきた。しかし同じVHS陣営といっても、先発と後発の差も少しずつ開き始めた。この力関係は、よほど画期的な新製品でも出ない限り変わらない。
8ミリビデオ懇談会に参加した多くの企業は、8ミリに変化の起爆剤としての役割を期待していた。むろん8ミリビデオに関しては、懇談会に参加したすべての企業が同じスタートラインに並んでいたわけだ。成長著しいビデオ産業に乗り遅れたメーカーにとっては、ビデオ市場に新規参入できる千載一遇のチャンスだった。また遅ればせながら参入を果たしたものの、劣勢に立たされているメーカーにとっても巻き返しの好機である。
規格が決まりさえすれば、規格の範囲内でVHSに勝る据置型を開発できれば業界の地図は間違いなく一変する。懇談会は各分野の専門技術を持つメーカーで構成するビデオ、オーディオ、トラッキング、カセット、テープの五つのワーキンググループで構成され、|侃々諤々《かんかんがくがく》論議が戦わされた。
「8ミリビデオは将来、据置型にも応用できるよう配慮すべきだ」「規格統一は少しでも早く成立させるべき」と積極派が発言すれば、慎重派は「規格統一はあくまで8ミリに限定すべき」「技術の進歩をにらみながら時間をかけて完全なものを作ろう」と切り返す。
慎重派の代表はむろんビクターである。ビデオワーキンググループの議長に就いたビクターの廣田昭は、会議のたびに消極論をぶち、メンバーからさんざん嫌みを言われた。
「廣田さん。あなたは8ミリの規格を壊すためこの懇談会に参加しているのですか」
多勢に無勢。廣田がいくらへ理屈をこねて会議の引き延ばしを図っても、すでに流れはできている。メンバーに議事進行の上手な人がおり「議長の意見は意見として、多数の意見は……」と次々と規格の細部を決めていく。
廣田の辛いところは、会議の報告書を高野に見せなければならないことだ。高野は報告書に目を通すと、満座の前で廣田を|叱責《しつせき》する。
「廣田。お前はVHSで良い仕事をしたから多少遊んでいても、文句を言うつもりはない。しかし今度はお前、悪いことをしているんだぞ。お前のやっている仕事は、ようやく儲かり始めたビジネスを壊すことなんだ。分かっているんだろうな」
廣田は泣きたい気持ちになったが、彼が体を張っても阻止しなければならなかったのは、懇談会に「8ミリは次世代ビデオ」という|謳《うた》い文句を定着させないことである。
〈8ミリには新しい技術は導入されていない。その意味ではVHSと同じ同世代のビデオだ〉
廣田は自分にそういい聞かせたものの、ビクターとしては8ミリビデオの動きを完全に無視するわけにはいかない。技術者の中にはシリコンサイクルならぬ、ビデオサイクルを唱える人が少なからずいたからである。
半導体のDRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)の集積度は、約四年ごとに四乗単位で高まる。このシリコンサイクルになぞらえ、ビデオもサイクルがあるのではないかという指摘である。
テープ幅四分の三インチのU規格が商品化されたのは七一年である。二分の一インチの家庭用ビデオが発売されたのが七六年で、いずれもソニーが先陣を切った。それから四年を経て、またしてもソニーが8ミリビデオで先陣を切った。
8ミリには目新しい技術が入っていないとはいうものの、ビデオ技術の流れからすれば、二分の一インチの延長線上に8ミリがある。規格作りの懇談会に出ている開発部長の白石と廣田は、ソニーや松下、さらに日立も規格が決まる前からすでに生産準備に入っていることが手にとるように分かっていた。
万が一、8ミリビデオの時代が到来すれば、ビクターだけが取り残されてしまう。ビデオ事業部長は八二年に高野から曲尾定二に代わり、二年後の八四年には取締役になった白石がその後を継いだ。白石も基本的には8ミリに反対だが、懇談会の動きを無視できない。それ以前にビクター自身、8ミリを研究しなければ、反対の意見を言っても説得力がない。白石は事業部長就任直後に「万が一に備え、研究だけは進めておこう」と決断した。
事業部長としては当然すぎる判断だが、高野に知れればことが|大袈裟《おおげさ》になる。そこで白石は|密《ひそ》かにビデオ研究所に8ミリの研究を命じた。ビデオ研究所は白石が長年部長を務めていた開発部が衣替えした組織である。
二人の動きを見透かしたようにある日、高野は廣田を呼んだ。
「おい、ビデオ研究所の入り口に鍵を掛けておけよ」
廣田は一瞬、ドキリとしたが、あくまで平静を装った。
「鍵といいますと?」
「研究所に入れば、お前らが8ミリを研究していることが一目で分かる。そのことがよそのメーカーに知られれば、えらいことになる。社長といえども入れてはダメだ」
八二年三月からスタートした8ミリビデオ懇談会の規格統一を巡る作業は、慎重論を吐くビクターの意向に関係なく順調に進み、半年後にはオーディオ、カセット、トラッキング、ビデオ、テープの各仕様が決まった。さらに米国、カナダ、日本など連邦テレビジョン方式委員会が採用しているNTSC方式と英国、西独、ブラジルなどが採用しているPAL(パル)方式の映像信号のうち、カラー信号低域変換方式も合意に達し、規格作りは峠を越したかに見えた。
ところが十一月に入って、廣田が議長を務めるビデオ部門で、フランスのトムソンが難題を持ち出した。
「映像記録方式はフィリップスが提案しているトランスコード方式を採用するようだが、それよりわが社が開発したタイムプレックス方式の方が技術的に優れている」
フィリップスが提案していたのは白黒/カラーの周波数を多重に活用する方式だ。これに対してトムソンの提案は輝度信号と色信号を一本の走査線に時間軸に並べる方式である。これだと高品位の画像が得られ、さらにSECAM(セカム)のほかNTSC、PAL方式にも適用できる可能性があるという。
日本メーカーはフィリップスの案に賛成したが、日本メーカーの多い懇談会で多数決で決めれば、禍根を残す。トムソンは国営企業でありフランスを代表してきている。しかもフィリップスとは宿命のライバル関係にある。
両社は一歩も譲らず、議長の廣田は頭を抱えてしまった。技術水準を判定するため八三年に入るとビデオワーキンググループは|急遽《きゆうきよ》、技術者をパリのトムソン本社に派遣した。トムソンでのデモでは、そこそこの絵が出た。こうなるとトムソンの提案は無視できない。かといって本格的に検討すれば、それだけ規格作りが遅れる。
そんな時、トムソンを訪問したさるメーカーの技術者が珍妙な提案をした。
「トムソンの提案はまだ技術的に未完成なので、十分な評価を下せない。採用できるかどうかは、最低一年間ほど時間を掛けなければならないでしょう。トムソン案を継続審議するか、それとも当初の予定通りフィリップス案を採用するか。この際、両社の代表が腕相撲をして決めたらどうだろうか」
欧州に腕相撲があるかどうか分からないが、提案者は腕相撲のやり方を詳細に説明すると、フィリップス、トムソンの代表が乗ってきた。赤鬼のような二人の大男がその場でワイシャツをめくり、腕の力を競った。結果はトムソンに軍配が上がったことから、タイムプレックス方式は「Bフォーマット」として継続審議となり、結論は一年先に延ばすことになった。
映像記録方式以外は大筋合意に達しており、メーカーがその気になればいつでも商品化ができる状態だった。
家電メーカーは二年に一度、西ベルリンで開かれる世界最大のオーディオ・ビデオ展「ベルリン国際ラジオ・テレビ展(通称ベルリンショー)」で秘密兵器を公開して、イメージアップを狙う。八三年九月に開かれたショーには、数多くのデジタルテレビやハイファイビデオが展示されたが、本来なら主役になるはずだった8ミリビデオは各社とも試作機すら展示しなかった。
三月に記録方式を残し大筋合意しているだけに早ければ秋、遅くとも来春には商品化に踏み切るメーカーが続出するというのがマスコミの見方だった。ところが日本メーカーの間には「ベルリンショーへの出展を見合わせる」との合意が出来上がっていた。
申し合わせの背景にあったのは、二分の一インチの据置型の販売が八三年に入って内外ともに好調で、各社に「この動きに水を差すのはやめよう」との計算が働いていたことによる。
VHS陣営はむろんのこと、劣勢に立たされているベータ陣営も増産に追われており、新規の設備投資を伴う8ミリの商品化を急ぐ必然性が薄れてきた。さらに両陣営は現行方式によるカメラ一体型ビデオの販売も好調に推移している。とりわけソニーの「ベータムービー」が市場に受け入れられたことから、8ミリビデオに超積極派と見られていたソニーの態度が明らかに変わった。
8ミリ懇談会の最終結論は八四年四月二十六日に出た。
「トムソン方式を採用すれば、解像度が高まり画質は良くなるが、半導体が簡単にできず開発に時間がかかる」
トムソンの提案は退けられ、最終的にフィリップスの案が採用された。世界百二十七社のメーカーが一堂に集まり、二年強の時間を掛けて作り上げた8ミリビデオの規格は、ただちに国際統一規格として国際統一標準会議(IEC)に申請された。そして8ミリ懇談会は翌年四月に解散した。しかし商品化に際しては、高野が大きく前に立ちはだかったことから|茨《いばら》の道を歩むことになる。
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第十三章 世界規格への道

1 雪崩現象”
VHSとベータの国内生産比率が逆転したのは一九八〇(昭和五十五)年である。前年は四七対五三でわずかにベータが優勢を保っていたが、八〇年に五六対四四と逆転、八三年にその差は七八対二二まで広がった。
ソニーを盟主とする国内のベータ陣営は、三洋、東芝、新日本電気(現NECホームエレクトロニクス)、ゼネラル(現富士通ゼネラル)、アイワの六社で構成されていた。このうちアイワは生産品を全量親会社のソニーに供給していた。またゼネラルは東芝からのOEM(相手先ブランドによる生産)供給を受けているので、自前で生産し自社ブランドで販売しているのは残る四社である。
しかし八一年に三洋の子会社、東京三洋がビデオへの進出に際してVHS方式を選択したことからベータ陣営の一角が崩れた。八三年に入ると、今度はNECが戦線離脱を表明した。同社は川崎と小田原の各工場で月産一万台ずつ生産してきたが、まず小田原工場でVHSの生産準備を始めた。
東京三洋とNECは共に、海外向けとしていたが、裏を返していえばベータ規格は海外で商売にならないことを証明したわけである。
そこでがぜん、東芝の出方が注目され始めた。万が一、東芝がVHSにくら替えするような事態になれば、ベータ陣営が総崩れになるのは時間の問題である。東芝の国内営業部門はベータ製品の販売に全力投球しており、VHSへの転換を主張する人は皆無だった。だがベータが海外で商売にならないのは、東芝も同じである。
輸出部門は本社に「せめて輸出向けだけでもVHSを生産してほしい」と陳情していた。その声は年ごとに強まり、東京三洋に続いてNECも切り替えることが分かると、輸出部門の焦りは頂点に達した。
「本社はわれわれに仕事をしないで、遊んでいろというのか!」
その一方で研究所を中心とした開発部門は、百二十七社を超す世界のエレクトロニクスメーカーが集まって規格作りを進めている“次世代ビデオ”ともいうべき8ミリビデオに興味を示していた。開発部隊にすればベータもVHSもしょせんよその会社が開発したビデオで、東芝の技術はどこにも採用されていない。その点8ミリには、東芝の技術も随所に採用されている。
社内は三巴の様相を呈していた。社長の佐波正一は重電出身、副社長で軽電(家電)部門責任者の渡里杉一郎ももとをただせば重電部門の出である。二人は家電事業に直接携わった経験がないだけに、輸出部門の焦りを一〇〇%汲み取ることができなかった。
東芝が方向転換に向けて動きだすのは八三年に入ってからである。この年の四月、長年、家電輸出に携わってきた矢嶋利勇がオーディオ・ビデオ事業本部の配下にあるビデオ営業部長に就任した。彼のそれまでの赴任地はアルゼンチンである。
矢嶋の本来の仕事は南米市場に東芝の家電を売り込むことだったが、人数が限られているので重電はむろんのこと、電子部品も売り込まなければならない。当時アルゼンチンにおける東芝の最重要課題は、政府が決定権を持つ電車の受注活動だった。
そこで会長の岩田弍夫は、受注を有利に進めるためフォークランド紛争終結直後の八二年五月、大統領に陳情するため現地を訪れた。かつて東芝の社長としてベータ陣営入りを決めたのが、誰あろう岩田である。矢嶋はその岩田に、大統領に接見するまでの間、控室でベータ入りの経緯を尋ねたことがある。
「会長、東芝はなんでベータ規格を採用したのですか。社内では会長とソニーの盛田さんが同郷のよしみで決めたと|噂《うわさ》してますが……」
すると岩田はむきになり反論した。
「おれは昔のことは忘れたというより、話したくないんだ!」
すると今度はそばにいた夫人が口を挟んだ。
「矢嶋さんはお父さんと同じ家電部門の人ですよ。本当のことをおっしゃったら……」
夫人の説得が功を奏したのか、岩田が重い口を開いた。
「盛田君とおれが同郷だからベータ規格を採用したわけでない。そんなことをしたら、それこそ公私混同だ。ベータに決めたのは、盛田君が将来三時間録画ができると明言したからだよ。私は直観的に『三時間録画なら商売になる』と判断したんだ」
矢嶋はそれに納得せず、食い下がった。
「しかし現実にはソニーが三時間録画機種を出す前に、VHS陣営の松下電器が四時間録画機種を開発して、RCAに供給してしまいました」
「本当だ。あの時は正直“しまった”と思ったね。しかしもはや後戻りはできなかった」
「海外で見ている限り、ビデオ戦争の勝負はつきました。ベータ陣営の完敗です。東芝もそろそろ方向転換しなければなりません」
「誤解のないように、一つだけ言っておく。私は(VHSへの方向転換に対して必ずしも)反対しないよ」
この時、矢嶋はまさか自分が一年後に本社に戻って、ビデオ営業の責任者になるとは予想だにしなかった。しかしサラリーマンである以上、いったん辞令が出れば、全力投球しなければならない。
四月一日に着任した日に上司の常務でオーディオ・ビデオ事業本部長を兼ねる太田文雄と、今後のビデオ戦略を協議した。
「太田さん、はっきり言います。海外ではもはやベータでは商売になりません」
「そんなことはお前に言われんでも分かっておるわい。事業としてみれば、東芝が選択すべき道はVHSしかないんだ。しかしベータは当時社長だった岩田さんが決めた経緯があるしなぁ……」
「それは問題ないと思います。私は昨年、会長がアルゼンチンに来たとき、ベータ規格を採用した経緯を聞いたことがあるんです。その時、会長は(VHSへの転換に)反対しないと明言しました」
「それは本当か? それなら一度。佐波さんと渡里さんに話してみるわ」
太田は東芝には珍しく、生粋の商売人である。大学を出ると東芝の国内家電販売を担当する東芝商事に入社、営業一本ヤリで通してきた。思ったことを歯に衣を着せず言うことから、いつしか家電販売業界の人気者になった。その太田に一度だけ転機があった。ソニーからのスカウト話である。東芝がベータ規格を採用した翌年の七八年、全国家電大型店協会の総会に東芝商事の役員をしていた太田は来賓として招かれ、挨拶をさせられた。太田はやや興奮すると、生まれ故郷の関西弁が出てくる。この時は、意識して関西弁でまくしたてた。
「家電の大型店というても、みんな卸屋さんのなれの果てやないか。メーカーの政策の変更で、卸屋をやれんようになったから小売店に転換したというだけではダメなんや。その点、街の電器屋さんはいくら商いが増えても地道な商売をしてますがな。皆さんももっと地道な商売をしなければあかんのと違いまっか」
するとそれを聞いていた大型店のオーナーはゲラゲラ笑い出した。この話がソニー首脳の耳にも伝わった。そして数カ月後、盛田が東芝商事社長の今井龍治に正式に「太田をソニーの販売担当役員として迎えたい」と申し込んできた。
「ソニーの盛田さんがきみを欲しいと言ってきた。正式な申し込みだ。ソニーでは役員として遇するそうだ。決して悪い話ではないと思うが……」
今井はその日のうちに太田を呼んで盛田の意向を伝えた。東芝子会社の家電販売を預かる東芝商事に入社した太田には、本社の役員になる道は閉ざされていた。その太田を盛田はソニーの役員として迎えてくれるという。誰が見ても悪い話ではない。
「社長。申し訳ありませんが、その話、聞かなかったことにしてもらえませんか」
太田は考える間もなくその場で断った。
「私は自分の性格をよう知っています。言いたいことは、なんでも口に出す方ですわ。東芝はサラリーマン会社だから言いたいこと言うても、誰に|咎《とが》められることもありまへん。しかしオーナー経営の会社や創業者が君臨している会社は違います。言いたいことを言うたら、即座にクビですわ。私のような何ごともポンポン言うタイプの人間は、ソニーや松下のような会社では生きていけんのですわ」
盛田が太田のスカウトに動いたキッカケは、全国家電大型店総会の挨拶だが、それ以前から太田の存在に注目していた。東芝と三洋がベータ陣営入りをして以来、三社は定期的に技術、営業の面で情報交換をしていた。太田は営業の責任者として出席していた。
盛田が東京・御殿山のソニー本社に隣接するソニー迎賓館で開かれた三社の首脳陣が集まった会に出席したとき、太田は販売の立場から不満をぶちまけた。
「盛田会長がお見えになったちょうどいい機会だから、率直な意見を言わせてもらいますわ。ソニーさんは本当にベータグループを育てようという気持ちをお持ちになっているんやろか」
「もちろん育てていこうと思っております。しかし変な質問ですね」
盛田は|怪訝《けげん》な顔をしながら、太田の方を向いた。すると太田は“待ってました”とばかり、今度は標準語で話を続けた。
「東芝は最初のころ、ビデオをソニーさんからOEM供給してもらっていましたが、今は自社生産しています。ところがソニーさんの営業マンは、東芝ストアを集中的に攻めてくる。その売り込みの言葉がふるっているんです。ソニーはベータマックスを開発したメーカーだから、東芝が作るベータ製品より優れている、こう言うんです。こんなことじゃダメですよ。三洋さんも東芝もソニーさんも一緒になってVHS陣営のシェアを食ってこそ、ベータ陣営の力がつく。それを忘れて、攻めやすいところを攻めるという戦略は気に入りませんな」
ここまで言われると、盛田も反論のしようがない。太田は盛田の沈黙をいいことに営業マンの心構えを説いた。
「私は根っからのセールスマンです。机に座って『営業のあるべき論』を唱えても、何の役にも立ちません。常に現場を回っていなければ、お客さんの声は聞こえて来ません。この席でソニーさんに愚痴を言えるのは、今朝、都内の東芝ストアを回って、店の親父さんからビデオ販売の現状を聞いたからです」
盛田は洗練されたイメージの強い東芝にいながら、松下顔負けの前ダレ商法に徹している太田に興味を持った。ソニーが太田をスカウトする話は流れたが、七九年に東芝が東芝商事を吸収合併したことで、太田は晴れて東芝本社の役員に就任した。
家電業界では松下が西の横綱と呼ばれたのに対し、東芝は東の横綱と称されていた。主力製品ではそれぞれが二〇%前後のシェアを占めていた。七〇年代の最大の商品はカラーテレビだが、東芝はこの分野でも東の横綱にふさわしい二〇%強のシェアを占めていた。
ところがポスト・カラーテレビのビデオでは、ベータ規格を採用したことから、わずか五%のシェアしか取れなかった。それもじり貧状態にある。海外に至っては公表するのもはばかられる数字しか出せなかった。ベータで共同戦線を組んだ三洋が輸出に限定しているとはいえ、子会社の東京三洋を使ってVHS製品を生産し、海外では着実に成果を上げていた。
何の手も打たなければ、家電営業の責任者である太田の責任も免れない。そうした矢先に、矢嶋という頼もしい“助っ人”が現れたのである。太田は八四年四月にアルゼンチンから赴任してきた矢嶋から岩田の意向を聞いた後、社長の佐波と家電担当副社長の渡里にVHSへの方向転換を進言した。
二人はライバルの日立がビデオで大きな収益を上げているのを目の当たりにしていただけに、太田の提言を即座に受け入れた。
東京三洋は一年間を掛けてVHSを研究したうえで、自社生産に踏み切った。東芝にもビデオの基礎技術はあるが、じっくりVHSを研究していたのでは、発売時期がその分だけ遅れる。短期間でVHSをモノにするには、ビクターの手を借りるしかない。
それではどうするか。太田の性格からすれば、直接ビクターの高野の胸元に飛び込みそうなものだが、太田の責任分野はあくまで営業であり、独走は許されない。東芝社内でベータからVHSへの転換をスムーズに進めるため、太田は策を巡らせた。東芝は戦前から戦後にかけてビクターの親会社だったが、当時を知る社員、役員はもはや誰もいない。そこで太田は東芝とビクター経営陣の交友関係に目をつけた。
すると意外な人脈が出てきた。まず佐波とビクター社長の宍道一郎が旧制武蔵高校の先輩、後輩にあることが判明した。さらに渡里とビデオディスクの開発を担当していた専務の井上敏也が旧制山形高校、重電担当副社長の青井舒一と副社長の垣木邦夫が一高――東大、さらにビデオ技術部長の田尻昶夫とVHSの開発に一役買った廣田昭が東工大で同級生だった。
太田はそれぞれに頼んで旧交を温めてもらい、その席でさりげなく東芝がVHSへ転換する意思があることを匂わせてもらった。しかしビクターにおけるVHSの実権は、社長や副社長ではなく専務の高野が握っていることを太田も|噂《うわさ》で知っていた。東芝とビクターのトップがいくら旧交を温めても、高野がへそを曲げれば話は進まない。
そこで太田は東芝とビクターのゴルフの対抗戦を企画した。東芝は佐波、渡里、青井に自分を入れた四人。ビクターは宍道、垣木、井上に高野が入ったメンバーを作った。ゴルフは八三年の夏から秋にかけて短期間で三回ほど行った。
太田は自分と高野を意識的に同じ組にして、さりげなくVHSファミリーの内情を聞き出した。むろん東芝のVHS生産に際して、協力を依頼するのも忘れなかった。
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2 東芝の奇妙な提案
8ミリビデオは一九八三(昭和五十八)年三月に世界規格が大筋合意したことから、各社とも製品化に向けて走り出した。しかしなぜか自社ブランドでの製品投入には二の足を踏んでいた。既存のユーザーに「あのメーカーは二分の一インチを切り捨てて、8ミリに走った」との印象を与えたくなかったためだ。
互換性も問題だった。各社ともカメラとビデオのマッチングに苦労していた。互換性に自信がなくソフトもない以上、自社ブランドの製品を出すわけにはいかない。
こうなるとビデオ市場への参入を|虎視眈々《こしたんたん》と狙っていたカメラメーカーの出番である。カメラメーカーは機器のデザインは優れているが、いかんせんビデオの技術がない。その辺の事情を知っている電機メーカーは、一斉にカメラメーカーにOEM(相手先ブランドによる生産)供給を打診した。八四年七月にロサンゼルスで五輪が開かれることもあり、家電業界では「8ミリビデオは日本国内より米国市場が起爆剤になる」との期待を抱いていた。各社ともまず米カメラメーカーにOEMで供給して、その反応を見ながら本格参入する作戦を立てたのである。
先陣を切ったのは松下で、八四年一月三日に大手カメラメーカーのイーストマン・コダック、翌四日にゼネラル・エレクトリック(GE)と立て続けにOEM供給を表明した。負けじとばかり、日立製作所も四日にRCAへOEM供給を公表した。
ライバルが一斉にOEMビジネスに走り出したとなれば、東芝も安閑としておれない。東芝の開発部門は早い時期に8ミリの時代が到来すると読んでいた。八三年秋には試作品も出来上がった。ただし製品化のメドがついても、販売部門の協力を仰がなければ日の目を見ない。オーディオ・ビデオ事業本部長の太田は8ミリの販売に際して、開発部門に一つだけ注文を出した。
「開発部門の皆さんは8ミリにご執心のようですが、皆さんが8ミリでビデオ業界を制覇する自信があるのなら、私らも頑張ります。ただし私個人としては8ミリもモノにならないと思っております。8ミリをVHSやベータに代わる商品に育てようとしても、今の東芝の力では無理です。自社ブランドでの投入は危険が大き過ぎます。それでもやりたいというのであれば、松下や日立のようにカメラメーカーにOEM供給することです。供給先は私が責任を持って探してきます」
東芝は八四年二月三日に総重量一・七キロで、しかも六倍ズームの試作機を発表。営業部隊の努力も実って、五月には米ポラロイドへのOEM供給が決まった。その直後、ビデオ営業部長の矢嶋利勇は、思案顔で上司の太田に相談を持ち掛けた。
「8ミリは米国では商売になりませんよ。ロサンゼルス五輪に期待をかけているんですが、なぜかさっぱり盛り上がらない。まだマーケットがないのです。技術的にも問題が残っているようですし、ポラロイドへの供給は早めに打ち切りませんか」
契約ではオリンピックの開会式までに二千台出荷し、初年度だけで二万台供給することになっている。
「やっぱりダメか。生産もなかなか軌道に乗らないようだし、それじゃお前、ポラロイドに断りに行くか」
「常務が行けと言われれば……」
「頼む、そうしてくれ。本格的な設備投資をした後なら、被害も大きくなる。今ならまだ間に合う」
矢嶋は米国市場での需要が思ったほど伸びず、さらに工場でもまだ二千台分しか部品を発注していないことを確認した上で、ポラロイド本社に飛んだ。矢嶋とポラロイド会長、副会長の話し合いは奇妙なものだった。ポラロイド側は東芝の申し出に首を捻った。
考えて見れば当然である。8ミリビデオの規格作りにはポラロイドも参加している。製品が出回れば、主力商品の8ミリカメラは市場から放逐されるのは目に見えている。といってもポラロイドはすぐ8ミリビデオを作れない。そこへ東芝が売り込みにきたので、“渡りに船”とばかりに乗った。その東芝が今度は製品が到着する前に、「発売を中止しろ」と言ってきたのである。ポラロイドはすでに販促活動の準備を進めている。
「販促にいくらお金を掛けるかは知りませんが、今なら最低限の損で済みます。二万台も引き受けたら、損は十倍に膨れ上がります」
ポラロイドの首脳は東芝の真意が分からないまま、当然すぎる質問をした。
「東芝のいう通りしたとすれば、最初に船積みする分はどうなる?」
ところが矢嶋は平然と答えた。
「実験用としてポラロイドの社員に無料で配ったらいかがですか」
「お前は思い切ったことを言う男だ。8ミリビデオの将来性は、改めて調査し、後日正式な返事をする」
ポラロイド社内ではその後、8ミリビデオを巡って論議を繰り返し、最後は東芝の助言を受け入れて発売を断念した。むろん東芝も二千台ほど作っただけで、生産を中止してしまった。東芝のビデオ戦略から、まず8ミリが脱落した。残るはベータ陣営に残留するか、それともVHS陣営にくら替えするかである。転換が遅れれば遅れるだけ、得べかりし利益を失うだけでなく、家電販売網が崩れてしまう。ところがいざ転換するとなると、必ず反対論者が出てくる。
とりわけ強硬だったのが、実際にソニーと共同戦線を組んでいる第一線の販売担当者だった。
「確かに今現在ベータ陣営は不利だが、東芝が頑張れば巻き返しができます。ここでVHSに転換したらソニーからひんしゅくを買うだけでなく、家電業界で物笑いになってしまいます」
その面は確かにあるが太田も矢嶋も、問題は別のところにあると|睨《にら》んでいた。毎月社内の役員会で配布される東芝製ビデオの販売シェアは明らかに粉飾されていたのである。太田はそのことを一切口に出さず、ベータ派を説得し始めた。
強みは社長の佐波も家電担当副社長の渡里も「VHSへの転換やむなし」と腹を|括《くく》っていたことだった。矢嶋が報告に行くと、渡里は冷静になって興奮気味の矢嶋を|宥《なだ》めた。
「君ね。東芝がVHSを採用すると言うのは、ベータ陣営からすれば、確かに敵前転回にしかみえない。敵前転回するには、むしろああいう反対論者がいた方がいいんだよ。ソニーに対しても言い訳が立つからね」
東芝の国内販売は数パーセントのシェアを持っているので、まだ救いはある。無残なのは欧州市場である。一日も早くVHSを現地生産しない限り、市場から締め出されてしまう。欧州仕様は英国のカラーテレビ工場を活用して現地生産することを決めていたが、予想に反して英国工場の現地人社長は、「ベータ規格を生産したい」と主張したことから太田と大喧嘩になった。太田はその場しのぎでベータとVHSの両方を作る提案をして、とりあえず事態を収拾させた。
その前に太田がやらなければならないことが三つほどあった。ベータが果たして本当にダメなのかどうかを最終的に確認すること。次にVHSへの転換に備えてビクターから協力の約束を取り付けること。最後がソニーに対してベータ陣営からの戦線離脱を通告することである。
太田の意を受けた矢嶋は8ミリでポラロイドに発売断念を説得に行った直後、今度はニューヨークに飛んでRCAのビデオ担当副社長のジャック・ソーターに会い、またしても奇妙な提案をした。ソーターは前年にビデオの普及に貢献があったとして、ビクターの高野、松下の谷井と一緒に米タイム誌とITA(インターナショナル・テープ協会)が主催する「マン・オブ・ザ・イヤー賞」を受賞した男である。
ソーターは矢嶋の訪問目的が分からないまま面談に応じた。
「東芝はベータ規格の製品を生産・販売しております。生産に余力があるので、RCAがベータに興味があるならOEMで供給する用意があります」
ソーターは矢嶋の提案を理解できず、苦笑いしながら質問した。
「RCAはVHSの四時間録画で潤っています。なぜいまさらベータ製品を扱わなければならないのですか?」
すると矢嶋は強弁とも思える持論を展開した。
「おっしゃる通りです。ただしVHSの四時間録画機種は、松下さんが作った製品ですよね。確かにこの製品のお陰で米国市場ではVHSが圧勝しました。マスコミの報道によると、RCAは日立から8ミリビデオをOEMで調達するようですね。|忌憚《きたん》なく言わせてもらえれば、RCAはメーカーではなく、単なる配給会社じゃありませんか。ビデオ戦争は現時点ではVHSが有利かもしれませんが、いつベータが巻き返さないとも限りません。8ミリの時代が来るかもしれません。したがってRCAが保険をかける意味で、ベータ規格の製品を扱っても少しもおかしくないのです。配給会社に徹するのなら、むしろ積極的に扱うべきです」
矢嶋の説得にソーターの心が動いた。
「そういう見方もできないこともない。ただしRCAがベータ製品を扱うかどうかの結論は、半年ほど待ってほしい」
「なぜ半年なのですか?」
「実はまだ公表していませんが、さきごろRCAはビデオディスク事業から撤退することを決めたのです。台湾で大増産した製品を|捌《さば》くのに半年ほどかかります。それが一段落した後でベータ製品を扱うことを真剣に考えたい」
矢嶋は素早く計算した。六カ月後といえば、東芝がVHSへのくら替えを決め、生産に向けて準備を進めている時期である。
「理由は申し上げられませんが、半年後では遅すぎます。この話はなかったことにして下さい」
矢嶋はここでベータの供給話を打ち切ったが、最後にソーターに図々しく質問をした。
「ところでアメリカ市場ではこれからどんな機種が売れそうですか?」
するとソーターが得意げになって話し始めた。
「現在のビデオの操作は難しすぎます。マスターすれば何でもないが、何事にも大雑把なアメリカ人には向きません。これは私の個人的な考えですが、VHS方式の二ヘッドと四ヘッドのワイヤレス機種、この二つあれば一年以内に米国市場で、必ず一〇%のシェアが取れるでしょう。ただし小売価格は三九九ドルとか四九九ドルと低めに設定するのが前提です」
矢嶋は内心、小躍りせんばかりに喜んだ。RCAを訪問した本当の狙いは、ベータ製品を売り込むというより、奇を|衒《てら》った商談を持ち込み、米国市場でこれから売れる製品をRCAの幹部から聞き出すことにあったからだ。
ソーターは矢嶋の嬉しそうな顔を見て尋ねた。
「東芝はそんなことを聞いて、VHSを手掛けるつもりなのか?」
「正直言って検討しています」
「それならわれわれにベータ製品なんか売り込まずに、今言ったVHSの機種をRCAに供給してくれないか」
「仮に東芝がVHSを手掛けるにしてもOEMはしません。OEMは値段を叩かれるだけで利益が出ないからです」
矢嶋は言うだけ言ってRCAを去った。彼はその後、二度とRCAの本社を訪れることはなく、東芝がRCAにOEM供給する話も立ち消えになった。
ともあれ東芝の生産機種は決まった。この年の秋に入り、太田は矢嶋を伴って横浜にあるビクターのビデオ事業部に六月に専務に就任したばかりの高野を訪ねた。太田はゴルフを通じて高野の人となりを知っていたが、専務就任のお祝いもそこそこに本題を切り出した。
「高野さん。東芝はVHSへ転換することを決めました」
普通ならここで「宜しくお願いします」と言って頭を下げるのが礼儀だが、太田は違っていた。ここでも持ち前の前ダレ商法をいかんなく発揮した。
「東芝はVHSを生産しますが、特許の使用料をまけて下さい。できれば他社の半分にしてもらえれば有り難いのですが」
太田の頼みごとは、ここで終わらなかった。
「ついでといってはなんですが、VHSの作り方も教えて下さい。それから東芝がVHSに転換したことを、まだよその会社に伏せておいて下さい」
高野は太田の虫のいい話を半ば呆れ顔で聞いていたが、最後に重い口を開いた。
「東芝さんは戦前から戦後にかけて、ビクターの親会社だった会社です。全部私にお任せ下さい。悪いようにはしません」
太田はこの言葉を聞くと、さっさと席を立った。その後、高野はビデオ研究所次長の廣田昭を呼んだ。
「東芝がVHS陣営にくら替えする。東京三洋電機のような事前準備もしていないので、相当焦っている。そこで東芝から覆面部隊の研究者を受け入れる。丁寧にVHSの作り方を教えてやってくれ。太田さんの話では年末には英国工場で作りたいと言っていたので、当面はビクターが部品を全量出してやるSKD(セミノックダウン)方式にならざるを得ないな」
「分かりました。私は東芝ビデオ技術部長の田尻(昶夫)君とは東工大の同級生です。他の人間には分からないようにこっそり教えてやります」
それから一週間後、東芝から七人の技術者が派遣されてきた。そして英国工場では生産に入る直前、太田が訪英して、現地人社長に生産機種がVHSであることを知らせ、強引に押し切って決まった。
東芝が英国工場でVHS方式によるビデオの生産を発表したのは、十二月半ばだが、太田はその前日に後任のオーディオ・ビデオ事業部長の鈴木三郎を伴って東京・御殿山のソニー本社に会長・盛田昭夫の実弟で、ビデオ担当副社長の盛田正明と取締役国内営業本部長の足立好司を訪ねた。
ビクターのときとは違って、太田はなかなか用件を切り出さず、漫談調の世間話に終始した。ソニーの幹部は苛立ちながら太田の話を聞いていたが、一時間を過ぎたころ、太田は神妙な顔付きで切り出した。
「実は東芝は英国工場でVHSを生産することを決めました。明日、現地で新聞発表します。国内も早晩、VHSに切り替わるかと思います。ご了承下さい」
盛田と足立は|呆気《あつけ》にとられ、返す言葉を見失った。太田はそれを勝手に「ソニーに了承してもらった」と解釈して、そそくさとソニー本社を後にした。
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3 ソニーから消えた二十人の技術者
米国市場、欧州市場に続いて国内市場でもベータ陣営の劣勢がはっきりした一九八三(昭和五十八)年の晩秋。ソニーのビデオ事業部から、突然二十人の技術者が消えた。
通常の人事異動であれば、必ず社内報の「ソニータイムズ」に掲載されるが、今回はそれもない。二十人はある日突然、口裏を合わせたように出社しなくなり、社員名簿からも消えてしまった。まるで神隠しにあったようなものである。社内の仲間は突然消えた二十人の行方を巡って、いろんな|噂《うわさ》をした。
「ソニーが自動車を作るという話を聞いたが、本当かな……」
「なんでエレクトロニクスメーカーのソニーが自動車なんだ?」
「ビデオ事業本部から二十人の技術者がある日、忽然といなくなっただろう。あいつらに共通しているのは、カーマニアということだ。ほかにデザイン部の男もいなくなった。今ごろどこか、自動車関連の研究所で『SONY』のブランドを付けたクルマでも開発しているんじゃないかな」
「俺の同僚もいなくなったんで、心配になり家に電話してみたんだ。すると奥さんが出てきて、『主人は今日も元気で会社に出かけて行きました。何かあったんでしょうか』と逆に質問されてしまった。家族にも本当のことを言っていないとすれば、あいつらは本当に秘密で、スポーツカーでも開発しているかもしれない」
問題の二十人は、消える前日にそれぞれビデオ事業本部の担当課長から“密命”を言い渡された。ベータハイファイの開発に携わっていた当時三十歳の熊谷卓也もそんな一人だった。
VHS陣営はこの年の七月、VHSハイファイ方式の規格を発表した。録画時間を六時間まで延ばしたVHSの泣き所は、音声にあった。画質は四ヘッドにしたお陰で、問題はなかった。ところが音声はテープトラックの一番下に置いていたことから、長時間録画になればなるほど、悪化するという欠点を持っていたのだ。
そこでVHS陣営の盟主であるビクターは、ファミリー企業の協力を得て音声専用回転ヘッドを使い、FM変調された音声信号をテープの深層部に記録して、その上に従来のVHS方式と同じ配置の映像信号を記録する深層記録方式を開発した。この方式だと従来機種との互換性を保ちながら、ビデオの音質を飛躍的に向上させることができる。
こうなるとソニーも負けてはおれない。画像の色と輝度信号の間に、音声を記録するキャリア(基本周波数)を四つ立てる方式を採用して音質を向上させた。問題は従来機種との互換性である。熊谷はその難問に取り組んでいた。
実験がヤマ場にさしかかってきたとき、直属課長の芹沢彰夫に呼ばれた。
「悪いがすぐ本社八階の講堂の裏にある会議室に行ってくれ。人事部が大事な話があるそうだ」
熊谷は不安な気持ちで大崎のビデオ事業部から小走りで御殿山の本社に向かった。八階の会議室には、すでに顔見知りの技術者が集まっていた。
「俺たちが今日ここへ集められたのは、何のためなんだ?」
熊谷が素朴な疑問を発すると、誰かが小声で|囁《ささや》いた。
「俺たちはどうやら子会社のアイワに出向になるらしいぞ」
「アイワに出向して、何をやるんだ」
「それは、俺にも分からん」
人事部が招集をかけた二十人全員が揃ったのを確認すると、人事課長が神妙な表情で話し始めた。
「突然で申し訳ないが、君たちには明日から関係会社のアイワに出向してもらう。辞令は交付するが、理由があって今回の人事は、社内報には載せない。家族には普段通り、ソニーに出社しているように装ってくれ。むろんアイワでの仕事の内容は伏せてほしい。ただし給料は従来通り、ソニーの名前で指定の銀行に振り込む」
全員が不安になって、誰ともなく質問した。
「アイワではどんな仕事をするのですか?」
予想された質問だけに、人事課長は「それはアイワに行って聞いてほしい」と答え、次の質問を受ける前に会社としての要望を命令調で伝えた。
「君たちがアイワに出向することを知っているのは、社の、それも一部の上層部だけだ。したがって会社の同僚に、アイワでの電話番号を教えてはならない。こちらから掛けるのは自由だが、仕事の内容を喋るのはまかりならん」
「それでは急用など相手からかかってくる電話は、どうすれば良いのですか」
「連絡先は山川清士ビデオ事業本部長の秘書のお嬢さんのところにしておいてくれ。秘書の方から、君たちにそのつど電話連絡させるようにする」
翌日、二十人は揃って上野公園の近くにあるアイワ本社に出社した。すると意外な答えが返ってきた。
「君たちの勤務地はアイワ本社ではなく神田駅近くの岩本町に借りた研究所の分室だ。ここに地図があるから、そこに行ってくれ」
二十人の勤務地となる研究所の分室は、靖国通りと昭和通りの交差点にある貸しビルの四階にあった。そこには昨日まで熊谷の上司だった芹沢がいた。そして全員が揃ったところで、芹沢は今回の出向の狙いと、今後やるべき仕事を話し始めた。
「こんな面倒な手続きをとって申し訳ない。これも企業秘密だと思って勘弁してくれ。ここにはソニーからの二十人の出向者とアイワの技術者が八人ほどいる。両社の技術者が協力し合ってビクターの開発したVHSを研究してほしいんだ。期間はおよそ一年。この間に果たしてソニーらしいVHSが作れるかどうかを見極めてくれ。ここは秋葉原の電器街に近く部品を購入するには何かと便利だ。しかも目立たない。それで選んだんだ」
ソニーがVHSの研究に取り掛かるのは、むろんそれなりの理由があってのことだ。次世代ビデオと位置付けている8ミリビデオの規格が大筋合意した後もソニーは動かなかった。
この種の製品は「モルモット・ソニー」の最も得意な分野たが、ソニーは動くに動けなかった。開発部隊は撮像管の代わりに使うCCD(電荷結合素子)の解像度が上がらず焦っていた。開発陣が目指していたのは二十五万画素だが、まだ二十万画素にも届かなかった。
CCDは画素数が上がれば上がるほど、画質がきめ細かくきれいになる。8ミリの発売時期は8の数字にちなんで、八四年八月八日を予定していた。しかし一年を切った段階で二十五万画素の目標を達成するメドが付かなければ、商品化は難しい。
開発陣はCCDが間に合わない場合に備えて、撮像管の「トリニコン」の研究も進めていた。トリニコンを使ってもきれいな映像は出せるが、技術的な新鮮味に欠けることから「8ミリは次世代ビデオ」というキャッチフレーズが色あせてしまう。将来、小型化する際も障害となる。
それ以前にソニーはどうしてもCCDをモノにしなければならない事情があった。8ミリビデオの開発に際して直接指揮を執っていた社長の岩間和夫が、八二年八月に結腸ガンで死亡、|急遽《きゆうきよ》副社長の大賀典雄が社長に昇格した。岩間はビデオムービーを発表した時から、CCDを採用する方針を打ち出していた。8ミリビデオの開発陣にすれば、CCDの採用は岩間の遺言なのである。
しかしながら新社長に就任した大賀には、「本当に8ミリビデオ時代が到来するのだろうか」という不安があった。八〇年を境にベータ陣営のシェアは毎月低下していた。8ミリ時代の到来が予想した時期より遅れるようなことがあれば、VHSの並売も考えなければならない。
ソニーはビクター、松下との間でビデオ技術に関しクロスライセンス契約を結んでいるので、VHSの特許は自由に使える。とはいえソニーがVHSを生産するにしても、ビクターに教えてもらうといった|不様《ぶざま》な真似はできない。プライドにかけても自前でやらなければならない。
大賀が考えなければならないのは、8ミリとVHSを|天秤《てんびん》にかけ、どちらがソニーにとってプラスになるかだった。大賀はこの時点で保険をかける意味からVHSを選択した。だが社内でVHSの開発に着手すれば、外部に漏れる恐れがある。ことは秘密を要する。大賀は覆面部隊を組織して、音響メーカーのアイワと共同でVHSの開発にあたらせることを決めた。
アイワはソニーが株式の過半数を握る完全子会社だが、ことオーディオ製品の開発に関しては、技術者は「絶対に親会社のソニーに負けない」という自負心を持っていた。六〇年代から七〇年代にかけて、業績不振に見舞われたが、ソニーから派遣された経営陣が大手術を施して、優良会社に変身した。
七一年に派遣された鹿井信男も再建人の一人である。鹿井は東北大学を卒業した後、日本無線に入社。米軍の地対空無線機の補修工場に配置された。趣味のアマチュア無線が高じて、トランジスタを仕事にする機会を|虎視眈々《こしたんたん》と狙っていたが、運良く(?)会社が割増退職金付きの退職者を募ったことから、これに応募して、従業員三百人足らずのまだ東京通信工業と名乗っていたソニーに潜り込んだ。五五年のことである。
ソニーではラジオ課に配属され、トランジスタラジオの設計に携わった。その後、白黒テレビ、ビデオ、カラーテレビとソニーの技術の主流を歩き、七一年にアイワに出向した。アイワは徹底した合理化で音響メーカーとして確たる地位を築いたが、八〇年代に入り、次代を担う商品としてビデオに目を付けた。その責任者に就いた。
鹿井がビデオに目を付けたのは、音響の専門家の目から見て、ベータにしてもVHSにしても音声があまりにも悪すぎたことによる。
〈音声の良いベータ規格のビデオを開発すれば、親会社にも貢献できる〉
鹿井はこう判断してアイワのハイファイ技術を生かしたビデオを開発することを決めた。ビデオのハイファイ化は時代の流れで、ソニーも必死になってハイファイビデオの研究を進めていた。とはいえ親子で同じ製品を作っては投資が二重になるだけである。鹿井はソニーとの差別化を図るため、なぜベータマックスがVHSに抜かれたかを徹底的に調べ上げた。
〈ベータ陣営がVHSに後れを取ったのは、ソニーはプリント用の機器を作らなかったからだ。その点、ビクターは一生懸命になってプリント機器を作り、ファミリー企業に供給して販売促進につなげた。ベータハイファイでは、ソニーには従来通り消費者向けの製品を作ってもらい、アイワはそれをプリントする機器に徹しよう。ただし専門家向けだから、この際、徹底してVHSを研究し、ライバル製品の良い技術は取り入れさせてもらう〉
アイワが大量のVHSを購入して分解してみると、電気回路の部品はベータマックスよりこなれていることが分かった。鹿井は開発部門に命令した。
「アイワはベータ規格のビデオを手掛けるが、電気回路の部品はVHSで使えるものがあれば積極的に使え。ただし関東の部品メーカーから購入すれば目立つので、松下に納入している関西の部品メーカーから買え」
アイワがプリントを目的にした「ベータハイファイ」の生産を開始した直後、ソニーから帰還命令が出て本社に戻ることになった。入れ替わりにソニーから二十人の覆面部隊が乗り込んできた。
彼らは自分たちの目的がVHSの開発にあることは薄々感じていた。中には「なぜ自分がベータマックスにとってライバルのVHSの研究をやらなければならないのか」との素朴な疑問を抱く者もいた。
アイワから派遣された技術者は、鹿井の下でVHSを研究した連中である。三十人の技術者は会社の垣根を越えて意気投合した。彼らは配属されたその日、自分たちがどんなVHSを作るかについて真剣に話し合った。設計者は意気込んでいた。
「どうせVHSをやるんだったら、世界一素晴らしいVHSを作って、開発メーカーのビクターが掲げた理念を超えるVHSを設計してみせる」
それを契機に若い技術者たちが夢を語り合った。
「ベータもそうだが、VHSにしてもデザインがダサい。いっそのことデザインなんか、スポーツカーメーカーのポルシェに頼んでみたらどうかな」
「VHSだけ開発するのは何かしゃくだな。いっそのことベータとVHSの両方がかかる機器を開発すればいいんじゃない」
「そんなことは技術的には簡単だよ。ベータとVHSと二つの機器を並べてチューナーでつなげばいいんだから」
「それはおもしろいアイデアだが、著作権問題に引っ掛からないかな。ソニーは著作権の問題で米国のユニバーサル映画に訴えられ、裁判で争っている。二つの機器のうちどちらかがダビングマシンと判定されれば、ややっこしくなる。商品化するかどうかは、米国の著作権裁判の最終結果を見てからだな」
人間の発想は老いも若きも同じである。ベータとVHSを一つの機械に収める案は、七六年春に松下幸之助がビデオ事業部長だった谷井昭雄に頼んだアイデアである。松下はすでにVHS規格の採用を決めていたが、ソニー会長の盛田も執拗に幸之助にベータ規格の採用を働きかけていた。
幸之助は苦肉の策として、谷井に両方かかる機器の開発を依頼した。しかし谷井の「桜の木に梅の木を継ぐようなもの」との反対にあい断念した経緯がある。
若手技術者によるアイデアは盛り上がり、最後は「ソニーとしては何がVHSとして一番素晴らしいかを研究し、VHSというフォーマットの中で最高のものを開発する」ことで全員の意見が一致した。
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4 地獄の株主総会
一九八四(昭和五十九)年一月。ソニーはこのわずか一カ月の間に、天国と地獄の間を行き来した。天国は一月十七日に米連邦最高裁判所がビデオの著作権問題で、「無料テレビの電波から、家庭内ビデオで録画しても、著作権侵害に当たらず、メーカーには一切法的な責任はない」という全面勝訴の判決を得たことだ。
ユニバーサル映画がソニーを提訴したのが七六年十一月だから、すでに七年以上もの時間が経過していた。一審はソニーの全面勝利となったが、高裁ではまさかの敗訴、そして最高裁では再び全面勝訴。ソニーにすれば、ジェットコースターに乗って天国と地獄を往復したようなものだ。
判決の出た日のニューヨーク午前十時十分は、日本では十八日の真夜中の十二時十分。会長の盛田昭夫はいつもなら床に就いている時間だが、裁判の結果が気になってなかなか寝付けなかった。
ソナム(ソニー・オブ・アメリカ)社長の田宮謙次からの国際電話で朗報を聞いた盛田は「よかった、ご苦労さんでした」とこれまでの労をねぎらった。日ごろ酒を嗜まない盛田だが、この夜ばかりは興奮して缶ビールを飲みながら感激に浸った。ベータマックスの内外での販売はじり貧だが、ソニーの主張が認められたことが何より嬉しかった。
ソニーは苦戦する国内販売で、手をこまぬいていたわけではない。年明け早々から|虎視眈々《こしたんたん》と巻き返し策を練っていた。ソニーのマーケティングの旨さは、洗練された宣伝にある。ソナムは率直でしかも極端なコピーを作ることで知られているドイル・デーン・バーンバック(DDB)社という宣伝広告会社を使っていた。
率直かつ極端なコピーは米国では意外に受ける。ソニーがハイファイセット製品を売り出したとき、DDBのコピーライターはソニーの技術者から製品の特徴を説明してもらったが、どうしても理解できなかった。
「いくら聞いても、私にはこの製品の良さが分からない。ともかく一度、家で使わせて下さい」
こう言ってコピーライターは製品を家に持ち帰った。それから一週間後にコピーが出来上がった。
『このハイファイは何の特徴もありません。だけどいいんです』
ソナムはおっかなびっくりこのコピーを使ったところ、大反響を呼んだ。第二弾も一風変わっていた。
「このセット、何もいいところがありません。しかし私はこれを使って本当に生活をエンジョイしています」
ビデオの著作権裁判の引き金になったコピーも、DDB社が製作したものだ。
「(刑事)コロンボを見ていても、これさえあれば(刑事)コジャックを見逃すことはなくなります。その逆もありません。『ベータマックス』――イッツ・ア・ソニー」
どのコピーも率直だが、同時に極端でもある。国内の販売不振の流れを変えるには、消費者と販売店の素朴な疑問に答えることが先決である。
当時、ソニーの国内宣伝は「ウォークマン」を開発した黒木靖夫が担当していた。そして彼は国内販売部門との会議の席で、DDB社のような率直でしかも極端なコピーを使った広告を作ることを提案した。ソニー首脳は「VHSとの違いを分からせることが大切」との判断から、米国流の広告を許可した。
そして問題のコピーが出来上がった。ヘッドコピーはあまりにも刺激的で、二の足を踏む役員もいた。
「おい、言わんとすることは分かるが、お客さんに対する刺激が強すぎるんじゃないか」
「英語で表現すれば柔らかいが、日本語にすれば、こんなにきつい表現になるのかね」
役員の間でも|侃々諤々《かんかんがくがく》の議論があったが、最終的に盛田と社長の大賀がゴーサインを出した。サトウサンペイの漫画入りの全面広告は一月二十五日から二十八日まで四日連続して朝日、読売、毎日、サンケイの一般紙四紙の夕刊に掲載された。費用はしめて二億円。
初日は「ベータマックスはなくなるの?」
二日目が「ベータマックスを買うと損するの?」
三日目は「ベータマックスはこれからどうなるの?」
そして最終日が「ますますおもしろくなるベータマックス!」
ヘッドコピーの疑問に答える形で、サブコピーとして初日と二日目が「答えは、もちろん『ノー』」。三日目が「もちろん発展し続けます」。最終日が「ベータマックス ご愛用のみなさま ありがとうございます」を入れている。そして四日間とも広告の一番下に「これからもベータマックス。ビデオはソニー」と大書されている。
確かに率直で販売店や消費者の疑問に答えているが、日本の風土になじみにくい衝撃的な広告であることも間違いない。翌日から予想を上回る反応がでた。
ベータの売れ行きがじり貧状態にあるのは事実にしても、大半のユーザーは、その実態を知らない。そこへ改めて主要全国紙の夕刊に全面広告、それも四日間連続して打てば、読者に「ソニーはこんな広告を出さなければならないほど、ベータマックスの売れ行きが悪いのか」ということを知らせるようなものである。
ユーザーだけでなく、家電業界にも一石を投じた。ほとんどの人が「ソニーはなぜこの時期にこんな広告を打ったのだろうか」と真意を|訝《いぶか》った。家電販売業界には「ソニーがVHS方式に切り替える」との|噂《うわさ》が流れ出していた。この噂を根拠に「ソニーはこの噂を打ち消そうとして打った手」と|穿《うが》った見方をする向きもあった。その一方でVHS陣営の中には「ソニーは開き直った」と吐き捨てる人すらいた。“ベータマックスは不滅”ということを逆説的に強調したかったソニーの広告は、真意が理解されないまま、地獄の株主総会を迎えた。
衝撃的な広告が終了した二日後の一月三十日。ソニーは午前十時から東京・品川区御殿山の本社八階講堂で、八三年十月決算の定時株主総会を開いた。この日はどんよりとした曇りの天気で、朝方の気温は〇・八度。最高気温も五・九度と肌寒い一日だった。三十日は東京証券取引所の調べによると、二十三社が株主総会を開いた。
八二年十月に改正商法が施行されたのに伴い、総会屋に対する利益供与が禁止されたことから、日本の株主総会のやり方は大きく変わった。それまでの株主総会といえば、事前に総会屋と呼ばれるプロの株主が仕切る“シャンシャン総会”と相場が決まっていた。これからはそれができなくなる。
六月に開かれた三月決算の株主総会は、各社軒並み二時間を超えるロング総会となった。それまでは十五分から二十分で終了していたことを考えると雲泥の差である。
外はコートの襟を立てて歩かなければならないほど北風が冷たかったが、ソニーの講堂だけは熱気にあふれていた。会社側の調べによると出席者は二百九十三人。ソニーにとっては商法改正後初めての総会である。
ソニーは米国型の開かれた株主総会を|標榜《ひようぼう》しており、議事進行を促す特殊株主は用意していなかった。冒頭、議長を務める社長の大賀が自信ありげに挨拶した。
「総会の時間はたっぷりとってあります。なんでもご質問下さい」
前年までの株主総会は、冒頭に総会成立を確認すると議事案件の審議に入り、特殊株主の「異議なし」の大声を合図に次々と案件を処理していったが、今回は違っていた。のっけから決算案書類や招集通知の手続きに関する細かい点の質疑が続き、昼過ぎになっても本題に入れない。
ソニーの連結決算の売り上げは前年比〇・三%減、単独でも七・六%減となっていた。税引き利益もそれぞれ三五・〇%、三八・八%の大幅減となった。原因を追及しようとすれば、どうしてもビデオに質問が集中する。
「ソニーは『世界のSONY』というブランドや技術力を過信し過ぎているのではないか」
「販売面でなぜベータはVHSに押されているのか」
「一般紙四紙に四日間連続で広告を載せたのは、ソニーの宣伝のあり方が間違っているのではないか」
ベータ敗因について常務・ビデオ事業本部長の白倉一幸はコスト対応が遅れた技術志向が強すぎ、商品のプランニングに失敗した市場と生産計画に一体感がなかった――の三点を挙げ、「ソニーは技術志向の会社であり、それが過度に出たため、消費者の志向に十分対応できなかった」と分析して、深々と頭を下げた。
しかしそんなことで総会屋は納得しない。大賀といえば強気の答弁を繰り返すだけ。結果的にはこれが総会屋を刺激してしまった。時間が経過するにつれ言葉も荒々しくなっていく。そしてビデオにとどまらず強引な経営姿勢、戦略の甘さなどが次々と指摘され、ついに経営責任を問う声も出始めた。昼食と夕食、さらに午後三時と夜九時に休憩が入ったが、それでも終わる兆しがない。
多少の変化があるとすれば、微に入り細に入った嫌がらせともいえる質問に対し、大賀の対応が「申し訳ありません」「よく分かりました。今後気をつけます」と低姿勢に変わったことだ。こうなるとまさに地獄である。
しかしことビデオ戦略に関しては、最後までベータの敗北宣言はせず、今後8ミリビデオなど新製品を投入して、業績回復につなげることを繰り返し表明した。
時計の針はすでに深夜の十一時を回り、出席した株主もソニーの役員も二日間にわたる総会を覚悟したとき、突然、二、三人の総会屋が集まり密議をこらし始めた。
そして十一時十五分になって突然、リーダーらしき総会屋が大声で「議長! 議事進行」と怒鳴り声を上げた。会場には盛大な拍手がわき起こり、大賀は議案原稿を一気に読み上げ、十一時半になって閉会宣言にこぎ着けた。十三時間半にわたる超ロングラン総会は終了した。むろんこの記録はその後も破られてはいない。
ソニーの経営トップが天国と地獄の間をさまよっている間も、アイワに出向した二十人のソニーの技術者は、神田駅近くの貸しビルの中で、黙々とVHSの開発を続けていた。
ソニーの若手技術者は、先輩から創業者・井深大のビデオに対する考えを耳にタコができるほど聞かされていた。
「世間ではソニーとビクターが独自に家庭用ビデオを作ったと思っている人が多い。しかしビデオの基礎技術はすべてソニーが開発したのだ。VHSはそれを真似てカセットの大きさとテープのローディングを変えたにすぎない。言ってみれば便乗商品だ。私はそれを許すことができない」
ソニーの若手技術者はそれを信じてベータマックスの改良に取り組んできた。それがどういう巡り合わせか、VHSの開発に携わることになった。すべての面で開発メーカーのビクターを上回るVHSを作るには、まず部品を分解して設計者の意図を探らなければならない。
表面的にはベータとVHSの違いはカセットとローディングの違いしかなく、それ以外の基本構造は全く同じである。しかし時間が経つにつれ、二つの製品の違いが分かりかけてきた。
決定的な違いは、VHSの方がメカニズムが簡単でしかも作り易いことである。ソニーの場合、ビデオに限らずあらゆる製品は、最初に理念がある。いわゆる『ソニー・スピリッツ』である。ベータマックスでいえば、カセットのサイズであり、画質、記録時間、解像度である。まず先に理念とポリシーがあり、技術者はその実現に向けて設計に取り掛かる。
ところがVHSは作り易さ、コスト、将来の普及に重点を置いている。そのために部品点数を少なくして、調整をしやすくしている。ローディング一つとってもVHSのM型の方が、シリンダーにテープを簡単に這わせることができるので、U型のベータマックスより不良発生率が少ない。
「ベータとVHSは全く違う製品なんだ。ということは理念とポリシーの違う製品が、同じ土俵の上で戦っていたわけだ」
ある技術者は半年を過ぎたあたりから二つの製品の決定的な違いに気が付き始めた。この違いはベータとVHSの両方を手がけた技術者にしか絶対に分からないことである。
ソニーの覆面部隊が英知を凝らしたVHSのプロトタイプは夏に完成した。開発に携わった技術者は、全員が「開発メーカーのビクターを上回る製品ができた」と満足していた。後は本社の判断を仰ぐだけである。本社からは「結論が出るまでの間、秋葉原でどんなタイプのビデオが売れているか、調査しておくように」との指令がきた。そして秋になって二十人全員揃って本社の社長室に呼び出された。
社長の大賀はご機嫌で二十人の労をねぎらった後、米国での販売状況、欧州でのシェアの推移などをとうとうと述べた上で本題に入った。
「君たちが精魂を込めて作ったVHSのプロトタイプは非常によくできている。ソニーらしいVHSが出来上がった。しかしソニー製のVHSを発売するには、開発メーカーであるビクターの許可を得なければならない。ところが残念ながら現時点で、その許可を得ることができなかった。したがってVHSの開発は中断する。明日で君たちは本社に帰って、原隊に復帰してもらう。ご苦労さまでした」
だがこの時期、ソニーがVHSの生産に関してビクターと接触した事実はない。大賀がVHSの開発を中止したのは、8ミリビデオの量産にメドを付けたからにほかならない。ともあれソニーがVHSではなく8ミリビデオを選択したことで、新たなビデオ戦争が勃発するのは避けられない情勢となった。
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第十四章 最後の勝利者

1 笛吹けど踊らず
一九八一(昭和五十六)年秋の東京三洋を皮切りに、八四年春に日本電気(現NECホームエレクトロニクス)、年末に東芝、さらに八五年に入ると三洋とベータ陣営の企業が続々とVHS陣営へくら替えした。八五年のVHSとベータの国内生産比率はほぼ九対一まで広がり、VHSが事実上の世界規格となった。
十年に及ぶビデオ戦争でベータ陣営が敗退した最大の原因は、開発メーカーのソニーがベータマックスの基本録画時間を一時間に設定したことである。技術者は一時間録画を提案したのが創業者の井深大だけに、心の中では多少疑問に思っても、それを口に出すことはできなかった。ソニー首脳はベータマックスに絶対的な自信を持っており、ビクターが|密《ひそ》かに二時間録画のVHSを開発しているとは夢想だにしなかった。
録画時間が一時間ではユーザーの要望を満たせないことが分かると、一時間と二時間の切り替え機種を出さざるを得なくなった。さらに低価格競争に突入した七七年になると「|β《ベータ》」という名の二時間専用機種を出したが、明らかに規格の変更であり、正確に言えばこの時点で互換性を失った。
また八三年に発売した「ベータムービー」の録画方式に独自の規格を取り入れ、同じ年に発売した「ベータハイファイ」では国内方式とヨーロッパ方式に異なる規格を採用した。八五年に投入した「ハイバンドベータ」でも多少規格を修正したことから、従来機種との互換性に問題が起きた。ソニーは「両立性を維持した」と強弁したが、互換性が損なわれたことは間違いない。
その点、VHS陣営は多機能化、小型計量化、カメラ一体化、ハイファイ化など多角的な商品開発に際して、原則的に規格をいじらなかった。VHSは娯楽性(フィーチャー)とメディア性を両立させたのに対し、ベータはメディア性を早々と放棄して、娯楽第一主義に走ったともいえる。
ビクターの開発方針に賛同するメーカーは年々増え、VHSの冠を付けた製品は八五年には百を突破した。ソニーといえどもこうした動きを無視できず、覆面部隊を組織してVHSの研究を進めたものの、最終的には量産体制の整った8ミリビデオに全力投球することになった。
ただしソニーが社運を賭けようとしていた8ミリビデオは、時間の経過とともにスタート時と方向が変質していた。八〇年に構想が出た当時の二分の一インチカセットによるポータブルビデオとカメラの組み合わせではかさばる上、しかも重かった。
小型軽量によるカメラ一体型のビデオができないものだろうか――。家電メーカーはかねて素朴な願望を抱いており、密かに研究を続けてきた。そして八〇年七月にソニーがテープ幅四分の一インチ、つまり8ミリビデオのコンセプトを発表したのをきっかけに世界の百二十七社が集まり、足掛け四年がかりで世界規格を作り上げた。
ソニーが八〇年にカメラ一体型のムービーを提案した際、高野はいち早く賛同した。現行のポータブルビデオとカメラの組み合わせでは、小型軽量化するには時間がかかることから、「ムービー専用の規格ができるのはやむを得ない」と判断したからである。
ところが規格作りの段階で、各社とも8ミリを“次世代ビデオ”と定義し、さらに据置型の規格まで作り上げたことに高野は猛然と反発した。
〈録画時間の短いカメラ一体型のビデオは、自分で撮った映像を自由に使いこなす道具なんだ。据置型とは用途が違うので、思い切った小型・軽量化ができるとあれば、規格が別であっても構わないだろう。しかし8ミリの規格を据置型まで範囲を広げれば、消費者が混乱するだけだ。
欧米ではビデオレンタルが急速に普及しつつある。将来、この市場は間違いなくハードを上回る市場に成長する。いろんなハードの規格が出回れば、消費者はどの規格のビデオで見ていいか分からなくなる。規格はメーカーの都合で勝手に増やしてはならない。そんなことならビクターがVHS規格の範囲内で、8ミリの性能を上回るムービーを作ってみせる〉
高野は根がカメラの技術者だけに、ムービーには人一倍愛着心を持っていた。そして八二年九月、VHSとの互換性を保ちながらカセットを従来の三分の一にしたVHS─C(コンパクト)を開発、まずデッキの重さを二キロに落とし、さらに一・二五キロの高性能カメラを組み合わせたシステムビデオを開発した。
ビデオで自己表現する時代が到来するという意味を込めて「CITY JACK(シティジャック)」のネーミングをつけて売り出した。これは優れたデザイン、品質、機能を持つ商品に与えられる通産省認定のグッドデザイン賞、その最高の栄誉である大賞を受賞した。人気ディスクジョッキーの小林克也の奇抜なテレビCMと相まって爆発的な売れ行きをみせた。
こうなると次なる目標は、カメラ一体型ビデオの開発である。高野は8ミリビデオの規格が煮つまるのを横目で見ながら研究陣を叱咤激励した。細かいことには一切触れず、「重さも大きさもシティジャックの半分にしろ」と注文を出すだけである。
八三年の春に最後の詰めの段階に差しかかり、一体型でありながら重量はシティジャックのビデオ本体と同じ二キロを実現した。開発に携わった誰もがねぎらいの言葉を期待した。ところが高野の口から出た言葉は違っていた。
「良くやったと言いたいところだが、せっかくここまできたのなら、絶対に二キロを切れ。二キロを切るか切らないかで、市場のインパクトは天と地ほど違うんだ。この製品に打倒8ミリの命運がかかっている。発表時期は九月。それまでに何としてでも間に合わせろ」
Cカセットと高性能のカメラを一体化した総重量一・九キロの「GR─C1」は、予定通り夏過ぎには試作品が出来上がり、九月二日から開かれた世界のエレクトロニクス業界の祭典「ベルリン国際ラジオ・テレビ展(通称ベルリンショー)」でデビュー、国内での一般公開を経て、翌年二月下旬から発売された。
録画時間はCカセットを使うため二十分と短い。二分の一インチテープを使ったカメラ一体型ビデオは、ソニーが半年ほど早い八三年七月に「ベータムービー」の名称で売り出している。録画時間は三時間二十分と長いが、総重量が二・四八キロとやや重い。しかも撮影したテープを再生して見るには、別のベータ規格の据置型のビデオを使わなければならない。その点C1はそれ自体をテレビにつないで再生できる。
こうなると辛いのが8ミリビデオである。ビクターのC1が二キロを切ったからである。8ミリの構想が出た時の狙いが、現行の二分の一インチの規格の中でほぼ達成されてしまったのである。にもかかわらず家電メーカー、とりわけ規格作りに参画した技術陣は、8ミリ熱にうなされ社内でも製品化を主張した。しかし経営陣にすれば、自社ブランドで出せば好調な二分の一インチビデオの需要に水をさす恐れがあることから、各社ともおいそれと踏み切れない。
こうなるとOEM(相手先ブランドによる生産)供給で市場の反応を見るしかない。八四年から八五年にかけて松下、日立、東芝は米国のカメラ、家電メーカーとOEM契約を結び、ロサンゼルス五輪を控えた米国市場での反応を見ることにした。
ところが市場は「笛吹けど踊らず」の状況だった。八四年秋に松下から供給を受けて先陣を切ったコダックは、「世界で最初に8ミリビデオを商品化したメーカー」という|謳《うた》い文句にもかかわらず、売れ行き不振に喘いだ。
東芝から供給を受けることになっていたポラロイドも製品が届く前に発売を中止、RCAも発売を取りやめてしまった。八五年六月にシカゴで開かれたサマーCES(コンシューマ・エレクトロニクス・ショー)でも、8ミリビデオはほとんど話題にならなかった。
OEM供給に熱心だった松下社長の山下俊彦は、いつしか「8ミリビデオは二分の一インチビデオにとって代わるような、いわゆる次世代ビデオにはなり得ない」とまで言い出した。
米国市場で評判が悪かったのは、基本技術が二分の一インチビデオの踏襲で、特別目新しい技術革新がなかったことに加え、重量がビクターのC1より重かったことによる。逆にテープ幅が狭くなったことで、画質が劣化し、音声も一チャンネルでしかも用途の多いアフレコができない。PCM(パルス符号変調)音声も二分の一インチハイファイより周波数特性が劣る。決定的な欠陥は標準とLP(長時間)モード兼用のヘッド、さらにメタル及び蒸着テープ用ヘッドの材質と特性がメーカーによってバラバラで、商品が乱立すると互換性が保てない恐れがあったことだ。
ベータとVHSは開発メーカーがそれぞれソニー、ビクターとはっきりしているので問題はないが、世界規格の8ミリは、どのメーカーが規格の維持に責任を持つのか漠としていた。規格統一が不完全であれば、ソフトを揃えるのは困難である。にもかかわらずソニーがあえて8ミリを選択したのは、ベータファミリー崩壊から立ち直るためにはそれ以外選択すべき道がなかったことによる。いわば窮余の策であった。
「8ミリは次世代ビデオ」というイメージを定着させるには、ソニーが自分の手で二分の一インチとは別の土俵を作らなければならない。家電メーカーは8ミリビデオに消極的になっているものの、キヤノン、オリンパスをはじめとするカメラメーカーがかつての8ミリカメラ以上に有望商品と見て、商品化に意欲を燃やしているのは、ソニーにとって心強かった。
ソニーが8ミリビデオの土俵作りに悪戦苦闘しているころ、VHS陣営の盟主、ビクターは勝利感に浸っていた。七〇年十一月に松下電器相談役の松下幸之助から直接、ビクターへの出向を言い渡された専務の平田雅彦はビデオ戦争の勝敗の|帰趨《きすう》を見て、八四年六月末に古巣の松下に復帰することになった。平田はビクター社内で、VHSの生みの親ともいうべき高野の良き理解者でもあった。二人は平田が松下へ復帰する直前、酒を酌み交わしながら静かに祝杯を上げた。
高野はこれまで会社で仕事以外の話をしたことはないが、この時は肩の荷が下りたのか、しみじみと自分の家庭のことを話し始めた。
「平田さん。実は私は家庭では孤立していたんです。ビデオ事業部長になるまでは平凡なサラリーマンでした。今住んでいる家も、神奈川県の住宅供給公社から購入した分譲住宅です。ローンの返済が終わり、定年を迎えた後は毎日、朝から晩まで趣味の盆栽の手入れをして過ごすのが夢でした。
しかしビデオにかかわるようになってから生活が大きく変わってしまった。土曜、日曜も家に仕事を持ち込んでいました。家は家内まかせで、家族のことを顧みる暇もなく働き続けてきました。親父が死んだ時すら、喪主でありながら会社は二、三日しか休めませんでした。一番辛かったのは、娘が重い病気にかかり手術した時にも、忙しくて立ち会ってやれなかったことです。家族には相当恨まれていると思います……」
ビデオ戦争でVHSが勝利を収めたものの、その陰で高野の家庭が犠牲になっていたことを平田はこの時、初めて知った。
平田は六月下旬の株主総会を終えると十四年ぶりに松下本社へ復帰し、いの一番に松下記念病院の中にある幸之助の執務室に挨拶に出かけた。幸之助はすでに八十九歳になり、病床に伏せる日が多くなっていた。この時も浴衣を着てベッドの上に座っていた。
専属秘書の六笠正弘を“通訳”にした話は、ビクターの現状からビデオ戦争の秘話、そして自然と高野の話題に移った。
「相談役。ビデオを巡ってビクターと松下の間には多少、|諍《いさか》いもありましたが、VHSが勝利を収めたのはビクターに高野という頑固な男がいたお陰です。|大袈裟《おおげさ》な言い方をすれば、彼がVHSをものにしなかったら、今日の松下電器の発展はなかったはずです。なにしろ松下の全売り上げに占めるビデオの比率は二〇%、利益ではその倍近くあるはずです」
「さよか、もう立派な大黒柱やな。あいつはわしが欲しがるものを次々と開発してくれはった」
「そこで一つ相談役にお願いがあります。何らかの形で彼をねぎらってほしいのです」
「それは大賛成や。けど何がいいかな?」
「彼はビデオにかかわって以来、働きずくめでした。家庭を顧みる暇もなかったとぼやいていました。京都にでもご招待してあげたら喜ぶでしょう」
「それはええこっちゃ。喜んで招待してやるで。それも夫婦だけでなく、家族全員一緒がいいわな。わしが元気で京都の真々庵で一緒に飯でも食えればいいんだが……」
真々庵は一九六一年に幸之助がPHP(繁栄によって平和と幸福を)を研究するため取得した施設である。東山山麓南禅寺界隈にあり、八〇年に全面改修したのを機に「松下美術苑 真々庵」となり、松下の迎賓館として開苑した。幸之助の招待による京都旅行はその年の晩秋に実現した。京都駅頭には六笠が出迎え、幸之助差し回しの外車の大型リムジンに乗り、高野の四人の家族は修学院離宮、大原三千院、知恩院、南禅寺などを回り紅葉の映える秋の京都風物を楽しんだ。宿泊した都ホテルには幸之助が差し入れた花が飾ってあった。
後日、高野は平田に手紙を|認《したた》めた。
「私は長年、家族に不義理を重ねてきました。今回、天下の松下幸之助さんに京都に招待され、厚いもてなしを受けたことに感謝しております。家族も『幸之助相談役に評価されたのだから、うちの親父もちっとはましな仕事をしていたんだ』とやっと分かってくれたようです……」
しかし8ミリとの戦いは風雲急を告げ、高野は勝利に浸っている余裕はなかった。
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2 泰然自若の総帥
十三時間半という地獄の株主総会を乗り切ったソニーは、一年後の一九八五(昭和六十)年一月二十一日から8ミリビデオの国内販売に踏み切った。
「8ミリビデオは次世代ビデオ」というのがソニー社長・大賀の持論だが、新製品の発表会の席では、意識してこの言葉を口に出すのは避けた。次世代を強調すればするほど二分の一インチのベータマックスが売れなくなり、自分で自分の首を締めかねないからだ。その代わり「ベータマックスと8ミリの関係を音楽レコードに例えれば、LPとCD(コンパクトディスク)の関係に当たる」との表現を使った。
CDはデジタル技術を使った新しいレコード盤で、当然のことながらLPとの互換性はない。大賀の真意は「時間が経てばビデオも二分の一インチから8ミリに代わる」ということにあった。
ソニーは自社ブランドのほかパイオニア、富士写真フイルム、京セラなどのオーディオ、カメラメーカーにOEM(相手先ブランドによる生産)供給することを決めており、曲がりなりにも8ミリ連合を結成していた。8ミリを追撃すべく、VHS陣営は松下が先陣を切って八四年十二月二十四日に既存のVHSテープを使って百六十分録画・再生できるカメラ一体型ビデオ「マックロードムービー」の開発を発表した。これに気を良くしたビクターは、|急遽《きゆうきよ》、カメラ一体型ムービーのC1生産を月四万台から五割増の六万台に引き上げることを決めた。
8ミリのOEM供給に積極的だった松下が、一転して自社ブランドに慎重になったのは、ビデオ事業部長の村瀬通三の言葉を借りて言えば、「松下がいま8ミリを出せば、VHSの将来を否定したと受けとられかねない」からだ。
スタート時には孤立無援に見えたソニーにも、夏になって強力な援軍が現れた。三洋電機である。三洋は一年前の八四年夏から米国市場に自社ブランドの8ミリを投入する計画を立てていたが、需要が思ったほど伸びなかったことから発売を見送っていた。
三洋は子会社の東京三洋が八一年秋からVHSに転換したが、出遅れ感は免れず逆に8ミリビデオでの巻き返しを狙っていた。しかし三洋単独では市場を開拓するのは難しく、社長の井植薫はソニーの大賀に会うたび、尻を叩いた。
「大賀さん。一日も早く8ミリを自社ブランドで出しなさいよ。ソニーが出さなければ、いつになっても市場は広がらない。ソニーが売り出せば三洋は直ちに追随します」
井植は約束通り、七月からソニーから供給を受けて8ミリを発売、八六年三月からは自社生産に踏み切った。将来はともかく目先、大手家電メーカーが参入すれば、市場は一気に拡大する。
ソニーは三洋と歩調を合わせ、春先に欧米での発売を発表、六月には据置型、さらに九月には、撮影専用機と再生機を追加するなど機種を増やした。月産七万台だった生産体制を、八六年春には十五万台に引き上げてビデオの半分近くを8ミリにシフトする計画も立てた。
宣伝にも熱が入ってきた。七月に入るとボーナス商戦を当て込んで、東京・秋葉原駅の改札口を出たところに十五台の大型テレビを並べた仮設展示台を作り、8ミリビデオで撮影した南欧の美しい風景を映し出した。物珍しさに惹かれて立ち止まった人には、黄色のミニスカート姿の女子大生が、丁寧に使い方を説明する。
キャンペーンは十二日間にわたって続けられた。派手な演出に慣れっこになっている秋葉原の電器街で働く人も、さすがにこれには|度肝《どぎも》を抜かれた。むろんビクターも手をこまぬいていたわけではない。
八四年十二月にビデオ事業部長に就任した白石勇麿は、ムービーの『C1』をPRするため、ソニーのキャンペーンが終了した直後、秋葉原の電器店の店主たちを呼んで夜の宴席を設けた。ビクターの狙いはPRと同時に秋葉原における8ミリの感触を探ることにあった。
「ビクターは将来にわたって8ミリを手掛けません。なぜなら……」
白石はビクターが8ミリを出さない理由を挙げ、逆に自社のC1を宣伝した。C1の宣伝をすればするほど、どうしても8ミリ批判にならざるを得ない。白石はさりげなく「ところで8ミリの売れ行きはいかがですか?」と尋ねた。
すると店主は怒り出した。
「ビクターは8ミリを出さないで、それを批判するとは何事ですか。VHSのおごりではないですか。8ミリを批判するなら、ビクター自身が8ミリを出してからにすべきでしょう」
酒が回るにつれ、店主のビクター批判の舌鋒は鋭くなった。
「ビクターはろくな商品を出さずに、ソニーの足を引っ張るとは……」
「C1は確かに便利だが、いかんせん録画時間が二十分では短すぎる。われわれが欲しいのは魅力のある商品なんです。その点8ミリは斬新なイメージがある。ビクターはわれわれの商売の邪魔をしないでほしいですな」
それほどソニーの宣伝はうまかった。こうなるとソニーペースである。すでに開発と生産設備に百億円を投じているカメラ・OA機器メーカーのキヤノンは、ソニーが8ミリに本腰を入れていることを確認すると、九月から自社開発した自社ブランド製品を国内市場に投入することを決めた。
キヤノンにはカメラとOA機器で培った技術力と販売力があるだけに、ソニーにとっては三洋以上の援軍が現れたともいえる。ソニーにはさらなるフォローの風が吹いた。八五年に入ると、据置型のビデオの出荷が急激に鈍化し始めたのである。ビデオの生産額は八一年に一兆円を突破し、カラーテレビを抜いて家電のトップ商品に躍り出た。カラーテレビの付属品としてスタートしたビデオが、今や主客が逆転し、家電産業を支える史上最大の商品になったのである。
ビデオ産業の躍進はとどまるところを知らず、三年後の八四年には二兆九百億円の生産額を記録した。この年の半導体の生産額が二兆三千億円だから、ビデオはハードだけで半導体に匹敵する巨大商品に育ったのである。
そのビデオに陰りが出てきた。八五年の生産額が一兆九千百十一億円と初めて前年実績を割り込んでしまったのである。国内販売も四月から前年実績を割り込み始めた。普及率が一〇〇%のカラーテレビに対してビデオはまだ四〇%弱に過ぎない。業界では「カラーテレビは必需品だが、ビデオは嗜好品の域を出ない。普及率はそろそろ限界に達したのではないか」という見方が支配的だった。
それを敏感に察知したからこそ、秋葉原はビデオを活性化させる手段として8ミリに乗った。八五年の前半はソニーの生産が整わないこともあり、松下や日立のフルカセットのVHSムービーが快走したが、後半からは8ミリ派が巻き返し、カメラ一体型でのシェアは五〇%に達した。8ミリが好感されたのは、小型軽量でアウトドアに向いているからである。小型の点ではビクターのC1の方が一枚上手だったが、泣き所は録画時間の短さにあった。
8ミリの快進撃を見て、松下が揺らぎ始めた。社内には次第に「容積で8ミリの五倍の大きさのVHS標準カセットを使っている限り、VHSムービーをこれ以上コンパクトにするのは無理だ。長期的なビデオ戦略を考えた場合、今のうちから8ミリを手掛けておく必要がある」との声が高まってきた。そして十二月に入って社長の山下俊彦は年末の記者会見で、事実上のVHSムービーの敗北宣言をした。
「来年夏から秋にかけて屋外で使う製品に限って、松下ブランドの8ミリビデオを売り出します」
「松下がくしゃみをすれば他社は風邪をひく」のが家電業界の常である。年末の山下発言を聞いて、これまで8ミリの発売に慎重だったVHS陣営各社は浮き足立ってきた。日立、東芝とも海外メーカーにOEM供給した実績がありいつでも売り出せる。「松下が発売するのなら、うちもやらざるを得ない」という点では一致していた。
ビクターは再び孤立無援となった。技術陣の中には焦りが出て、「ビクターも8ミリを手掛けるべき」という意見が公然と出始めた。実際ビクターも研究所で8ミリを研究しており、その気になれば短期間で製品化できる。
C1の開発に携わったある若手の技術者から8ミリ進出を直訴された開発部長の藤田光男は一瞬迷ったが、何事にも泰然自若とした上司の高野の顔を思い浮かべて思いとどまった。そして逆に若手技術者を諭した。
「VHSがなくなることは絶対にない。したがってビクターとしては8ミリは手掛けない。必ずC1にも生きる道があるはずだ」
「どんな道ですか?」
「それはC1の一段の小型化しかないだろう。お前たちは本当にこれ以上、小型化できないと思っているのか。そんなことを高野さんの前で言ったらどやされるぞ。VHSを作り上げた先輩たちは、死に者狂いで幾多の難問を乗り越えて、VHSを世界規格に育て上げたんだ。VHSの強みは互換性だ。それをお前たちの時代で途絶えさせていいのか」
藤田はさらなる小型化を図ることを決めた直後、高野に報告した。
「8ミリの対抗手段として、C1の小型化をやります」
すると高野はいつになく神妙な表情で答えた。
「私も来年還暦を迎える。六十歳までは弱音を吐くまいと頑張ったが、そろそろ体力も限界にきた。あなたの思った通りやればいい。私も小型化の道が正しいと思う」
藤田が高野の了解を得て、開発部にC1のさらなる小型化を命じると、技術者の間に「高野さんが『絶対にCカセットでいける』というのだから、いたずらに心配することはないんだ」という妙な安心感が出てきた。
ビデオ事業部の人員は年々増え続け、工場を入れるとすでに六千人を超えていた。それを束ねる総帥の自信にあふれた言葉は、ビデオ事業部を勇気づけた。
高野の自信の根源は、絶えず海外に目を向けていることにあった。それは若かりしころ映写機の開発に携わり、ハリウッドの映画が海外市場でどう受け止められていたかを肌で感じていたことと無関係ではない。その行き着く先が「国内より先行して欧米市場を押さえろ」との方針である。
八五年に入って国内販売が前年割れをして、普及率が限界に達したとの見方にも高野は猛然と反発した。
「ビデオの使い方は、日本ではテレビの番組を録画するタイム・シフト・マシーンとしてスタートしたが、欧米ではレンタル店から手軽にビデオソフトを借りてきて楽しむのが主流だ。レンタルは二時間録画がちょうどいい。レンタルのソフトが出たお陰で、VHSが事実上の世界規格になれたのだ。日本ではテレビチャンネルが少ない。欧米のようにレンタルビデオ店が沢山でき、ソフトが手軽にしかも好きなものを選べるようになれば、ビデオはもっともっと普及する」
8ミリについて、高野は早い段階で次世代ビデオになり得ないという判断を持っていた。国内が次世代ビデオの論議に明け暮れているころ、ビデオ事業部の幹部を前に自分の考え方を披露したことがある。
「次世代ビデオ論争があちこちで始まっているが、本当に次世代ビデオが登場するのは、二十一世紀に入ってからだろう。それまではVHSが主流のフォーマットとして君臨する。ただしVHSには消費者が楽しめるように規格を変えずに改良を続ける責任がある」
高野はVHSの普及率を高めてソフトを押さえれば、ソニーが8ミリの据置型を出しても、入り込む余地がないと計算していた。松下との関係についても明快な考えを持っていた。
「ビクターは資本の面では確かに松下の子会社だが、製品面で差別化しない限り生き残れない。とにかく差別化するんだ」
高野は口を酸っぱくして松下との差別化を唱えた。そして新しい商品が出るたび、必ず開発者と販売担当者に尋ねた。
「この商品はナショナル製品とどこがどう違うんだ?」
「デザインが違います」
「デザインだけか。しかしお前ら、立場を変えて考えてみろ。ビクターは松下幸之助さんが巨額の資金を出して資本参加した会社なんだ。松下は中身は同じでデザインだけ違う製品を出す会社を買収して満足すると思うか。松下との共存を考えるなら、逆にビクターの価値を考えろ。ビクターの使命は松下にないニーズを探して、それを商品化することなんだ。ビクターに技術がなければ、その技術を持ったところと提携して、松下グループとして補完する。そういう役割を果たしていけば、松下グループにいる意味がある」
こうした高野の考えを藤田は正しく理解しており、8ミリの対抗策としてVHS─Cの小型化に取り組んだ。高野が出した注文はたった一つ。
「重さを半分にしろ」
高野にしては珍しく最初の段階から注文を付けるだけでなく、毎日開かれる検討会にも出席して、進捗状況を正確に把握した。
そして八六年一月八日に重さ一・三キロ、世界最小・最軽量・フル機能搭載の『GR─C7』を新聞発表した。GR─C1の重量は一・九キロだったから、目標には届かなかった。発表の前日、高野はビデオ事業部長の上野吉弘に冗談交じりに言った。
「今回は目標を達成できなかったが、発表会では、夏には大きさ半分の製品を出すと言え」
新聞でC7の発表を知った松下幸之助は、「高野はまたしてもいい製品を作ってくれはった」と、わがことのように喜びすぐ秘書に買いに行かせた。ただしC7の発売は三月だから店頭で売っているわけがない。それを知った高野は翌日、上野に試作品を届けに行かせた。
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3 VHSは化石になる
ビクターが二月二十七日から発売したカメラ一体型ビデオの『GR─C7』は、家電業界に大きな衝撃を与えた。何しろ8ミリより一回り小さく、しかも重量は一キロほど軽い一・三キロしかない。値段も二十四万八千円と五万一千八百円ほど安い。アダプターを使えば、据置型のVHSでも再生できる互換性が売り物である。
劣るのは六十分という録画時間だが、開発を指揮したビクターの高野は「ムービーはユーザー自身がソフトを作るのだから、録画時間は一時間で十分」と全く意に介さなかった。これにど肝を抜かれたのがソニーである。
ソニー会長の盛田が「今年はビデオ元年になるであろう」と高らかに宣言したのは、ベータマックスの発売から一年ほど経た一九七六(昭和五十一)年の新春記者会見の席である。十年を経た八六年の正月明けに、今度は社長の大賀が「今年は8ミリビデオ元年になる」と高らかに宣言した。それから数日後にライバルメーカーから8ミリを上回る製品が出てきたのだからたまらない。
そしてまたしても大恥をかいたのが松下である。社長の山下は前年十二月十二日、東京の経団連で行った年末記者会見で、記者の質問に答える形で8ミリ進出を語った。
「松下はいつ(自社ブランドの)8ミリを国内市場に投入するのですか?」
「松下グループでは松下寿が米国のカメラメーカーにOEM(相手先ブランドによる生産)供給しているが、いずれ国内でも出さざるを得ないだろう。(8ミリは)屋外用としては魅力がある。技術的には松下本体でもいつでも商品化できる状況にある」
「それでは来春までに出すのですね」
「いや、いろんな準備もあることだし、それでは早すぎる」
「じゃあ夏から秋にかけてですね」
8ミリビデオのやり取りはここまでだったが、松下のトップが自社ブランドに初めて触れたことから、新聞記者は色めき立った。そして翌日の朝刊で「松下、来年秋にも一斉に8ミリビデオ発売へ」と報じた。
これにソニーがほくそ笑んだ。コメントを求められた大賀は「松下さんが本気で8ミリ市場へ参入してくれば脅威」と真顔で答えたものの、内心では〈松下の参入で、8ミリがやっと世間に認知される〉ことを確信した。だからこそ、大賀は年明け後に自信を持って「8ミリ元年」を宣言したのである。
8ミリでVHS追撃に出たソニーは、海外のメディアには「VHSは化石になる」といった大胆な挑戦広告を打つなど反撃を開始した。松下の出方待ちだった家電業界も、8ミリの流れが出たことから、VHS陣営各社も一斉に生産準備に入った。その矢先のビクターの新製品発表である。
松下の腰のふらつきは、なお続いた。ビクターが新製品を発表した二日後の一月十日。大阪で恒例の経営方針発表会を行い、その直後の記者会見で山下は「親会社が子会社を苦しめるわけにはいかない。年内に8ミリを(国内で)発売するか分からない」と、こともなげに一カ月前の発言を翻した。
山下はそれから十日後の一月二十日に突然引退を表明、あっさり取締役相談役に退いてしまった。後任社長には副社長の谷井昭雄が昇格した。谷井はVHSを世界規格にするため、発売当初から高野と苦労を共にしてきた男である。
業界の視線は谷井の一挙手一投足に集まった。その谷井は三月四日、東京で行った就任後初の記者会見で、ビデオを知り尽くした男らしい巧妙な発言をして新聞記者を煙に巻いた。
「8ミリ市場への参入は、時期だけの問題である。一方、ビクターのC7はVHS方式のシステム機器としての役割がある」
翌日の新聞は「松下8ミリ参入を再確認」と報じた社があると思えば、「松下、C7採用へ」と書いた社もあり、混乱は極みに達した。揺れる家電業界の震源地はビクターだが、業界は松下首脳の発言の“あや”とニュアンスの変化に振り回され続けた。
それでは松下はなぜ揺れ続けたのか。社内で8ミリの投入に熱心なのはテレビ事業部で、ビデオ事業部は自社ブランドの投入には懐疑的だった。その間隙を突かれ、子会社の松下寿にコダックのOEMを取られてしまった。
ビデオ事業部を預かっていたのは、谷井の懐刀と言うべき取締役ビデオ事業本部長の村瀬通三である。村瀬は「松下は八百屋なんです。八百屋はお客さんが欲しがる商品を、店先に並べておかないと商売にならない」と公言していたが、8ミリ対策については緻密な計画を立てていた。
〈8ミリが将来、据置型の分野まで普及するようなことがあっては、VHSの根幹が揺さぶられる。8ミリをカメラ一体型という限定された市場の商品であることをはっきりさせるには、松下自身が8ミリを発売するのも一つの手かもしれない。そうすれば主力の据置型ではVHSの牙城を守ることができる〉
村瀬は自分の立てた戦略を実行に移すため、年末の記者会見の席で山下に8ミリ進出を匂わせてもらったのである。誤算があったとすれば、松下の社内組織が予想以上に官僚化しており、十一月下旬にビクターから届いたC7のサンプルが、村瀬まで上がっていなかったことだ。
C7のサンプルを見た松下技術陣に十年前の悪夢が蘇った。松下は据置型ではソニーからの共同開発の提案を断り、さらに松下寿が開発したVX2000も捨てて、幸之助のアドバイスでビクターが開発したVHSを採用した。技術者にすれば屈辱的な体験である。ビデオディスクでも同じ経験をした。
技術者は驚嘆したものの、「二度ならず三度まで子会社の開発した技術に屈服したくない」というプライドが先走り、上司に報告するのをためらったのである。8ミリは松下単独の技術ではないにしても、松下の技術も採用されており、なにより世界規格という大義名分がある。だがもたもたしているうちに、ビクターがさっさとC7を発表してしまった。
谷井が東京で社長就任の記者会見をしてから三日後の三月七日の土曜日の夕刻。静岡県袋井市にあるヤマハが経営する葛城ゴルフクラブに隣接した割烹『北の丸』に五人の紳士が三三五五集まった。ビクターの高野のほか松下の村瀬、日立製作所専務の八嶋庄衛、シャープ専務の晴雄、三菱電機副社長の廣瀬福市である。
村瀬は新社長の谷井の懐刀。八嶋は将来、日立家電販売の社長が約束されている。も次期社長が秒読みに入っていた。そして廣瀬は家電の復活を目指す三菱の切り札である。いずれも家電業界の次代を担うそうそうたるメンバーである。
この会合はVHSファミリーの最高戦略決定機関であり、内輪では誰ともなく「五社会」と呼んでいた。VHSの発売以来、年数回のペースで開かれているが、むろん秘密会で会議の内容はおろか、家電業界でもその存在すら知られていなかった。
五社会の存在が明らかになったのは、桜の花が咲く時期になって、業界に「ビクターが8ミリに走る会社には、今後VHSの特許を使わせないと脅かしをかけたらしい」という|噂《うわさ》が出たことだった。この情報がどこからともなくソニーの耳にも入り、噂が噂を呼んだ。
五社会は秘密会であるのは間違いないが、提唱者の高野にすれば、単なる情報交換の場であり、VHSファミリー五社のビデオを預かる責任者の親睦をはかる場に過ぎない。いつも土曜日の夕刻に集まり、酒を酌み交わし、翌日はゴルフを楽しんで解散する。
時期が時期だけに業界で憶測を呼んだ。いつもなら五人が揃い、一風呂浴び丹前に着替えたところで酒席に入るが、この時ばかりは珍しく酒が入る前に“VHS共和国の大統領”ともいうべき高野が一席ぶった。
「据置型ビデオは皆さんのお陰で、VHSが事実上の世界規格になりました。しかし規格統一されたとはいえ、これからのビデオ市場は一段と厳しくなります。十年間苦楽を共にしてきた仲間が今、昨日今日新規参入してきた内外のメーカーとの激しい競争に晒されております。しかし累積出荷台数が今夏に一億台に達するVHS陣営には互換性という大きな財産があります。
ビクターはVHSと互換性を保ち、しかも8ミリと比べ|遜色《そんしよく》のないカメラ一体化のVHSを開発しました。秋口には八〇〇グラムを切る新機種を投入します。古い仲間の皆さんには、この技術をベースに各社でアイデアを出し合って、ビデオ事業拡大につなげてほしいのです」
ビクターの業績向上よりも、VHSの規格を世界市場に普及させることに執念を燃やしてきた“ミスターVHS”の言葉だけに、説得力と重みがあった。
VHS陣営の直参旗本企業の秘密会が、ベータ陣営に筒抜けになったのは、翌週から高野の発言に共鳴した各社のビデオ事業部のトップが、それぞれ社内の8ミリ派の説得にかかったからである。説得には高野の言葉を引用せざるを得ない。それが巡り巡って8ミリの盟主ソニーの耳にも入り、いつのまにか「ビクターがVHSの特許を使わせない」という噂になってしまった。
C7の衝撃の大きさは二月のカメラ一体型ビデオの売れ行きをみれば十分である。一体型の国内出荷が前年同月に比べ四〇%も減ってしまったのである。秋葉原の大手量販店の店長は「正直言って8ミリかC7か、小売店としてはどちらをお客さんに薦めていいか迷ってしまう」と告白する始末だった。販売店が迷えば、消費者は戸惑う。これが買い控え現象となって数字に表れたのである。
ベータとVHSの十年戦争が、VHS陣営の完勝で終わった瞬間に始まった8ミリとC7の新たな規格争い。舞台は据置型からカメラ一体型へ移ったものの、登場する役者(メーカー)は十年前とそっくり同じ、しかも役回りも代わりばえしない。
第一次ビデオ戦争ではまずソニーがベータマックスを引っ提げて飛び出し、ビクターがVHSで追撃した。第二次ビデオ戦争も世界規格の8ミリで先陣を切ったソニーに、VHSとの互換性を武器にまたしてもビクターが真っ向から規格競争を挑んだ。そして松下がその間で悩み、各社が揺れ動いた。
決定的な違いは十年前のビデオには、ポスト・カラーテレビという期待はあったにせよ、海のものとも山のものとも分からない未知の商品という不安があった。ところが今やビデオは家電産業の最大の商品に成長し、収益面では各社のドル箱となっている。
新たに発生した規格争いは、巨大産業にのし上がった現状の市場と、その将来を決しかねない要素を含んでいる。だからこそ高野は、C7の発売からわずか一週間後の三月七日に五社会を招集し、言外にVHSファミリーのトップに「8ミリ放棄」を迫ったのである。
日本国内では第二次ビデオ戦争が勃発したが、海外からは冷ややかにみられていた。米国では8ミリの評判はさっぱりだったからである。欧州でも日本メーカーは現地生産に熱心だが、地元のメーカーはほとんど興味を示さなかった。
欧州の巨人・フィリップスは8ミリの規格作りでは中心的な役割を果たした企業だが、社長のデッカーが三月下旬、退任の挨拶のため来日した際、高野に露骨に不満を述べた。
「うち(フィリップス)がVHSの生産を始めたとたん、日本メーカーは8ミリをOEM供給してやると言ってくる。日本メーカーはVHSを過去の技術にするつもりですか。8ミリは限られた需要しかない。今われわれにとって大切なのは、立ち上げたばかりの据置型なんです。したがって8ミリには慎重にならざるを得ません」
こうしたデッカーの見方に高野は意を強くした。そして事業部の営業部門の責任者を呼んではどやした。
「いいか、お前らが8ミリなんか心配する必要はない。とにかく据置型であれムービーであれ、VHSの台数を稼げ。いまここでVHSをタダにして今後一年間でVHSの普及率が一〇〇%になるのなら、おれはそうしてやる」
高野の言わんとすることは、VHSが普及すればするほど、8ミリが活躍する場がなくなるということである。
松下の四代目社長に就任した谷井の披露パーティーは、大阪に続いて四月二日に東京・品川の新高輪プリンスホテルで盛大に開かれた。会場の正面には九十一歳になった松下幸之助が車椅子に座ったまま、来賓に挨拶している。大半の人には一礼するだけだが、高野の顔をみると専属秘書・六笠正弘の“通訳”で話を始めた。
「C7は九十歳を過ぎたわしでも操作できる。これは売れるで。(松下がどう対応するか)詳しいことは村瀬に聞いたらええ」
その村瀬は会場で高野の姿を見ると、耳打ちした。
「高野さん。ご心配おかけしました。(松下は)夏にC7を発売します。最初はビクターさんからのOEMになるかと思いますが、早急に生産体制を整えて自社生産に切り替えます。8ミリはOEMだけで、自社ブランドでは出しません」
松下はそれから十日後に米ニューオーリンズのヒルトンホテルで全米の松下系ディーラー千人を集めたディーラー大会の席で、会長の松下正治が|噛《か》みしめるように話した。
「松下はVHS─Cムービー(GR─C7)を日米両国で販売することを決めました」
松下首脳が公式の場で初めてVHS─Cムービーの採用に触れたのである。松下の動向をにらんでいた日立、シャープ、東芝も追随するのは時間の問題となった。
高野の戦いはこれで終わらなかった。「VHSを二十一世紀まで永らえさせるには、高画質化、大型ディスプレー化の流れの中でVHSは一段のレベルアップが必要である」として、開発陣にはスーパーVHS(S─VHS)の開発を命じた。
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4 策を弄さぬ潔癖の人
高野が8ミリビデオ対策で孤軍奮闘しているころ、彼はもう一つの問題で頭を悩ませていた。ビクターの次期社長問題である。宍道一郎が社長に就任したのが一九七九(昭和五十四)年六月だから、すでに三期六年が経過しており、いつ代わってもおかしくない状況にあった。
一九二〇年生まれの宍道は、戦後の四六年八月、“テレビの父”と慕われた高柳健次郎に誘われてビクターに入社した。高野は宍道より三歳年下の二三年生まれながら、入社は四カ月ほど早い。信賞必罰の人事を徹底させれば、誰が見ても次期社長は高野以外にない。しかし、社内では高野を本命とみる向きは少なかった。本命は高野より一歳半年下で宍道と同じように、ビクターの技術本流ともいうべきカラーテレビの道を歩んできた垣木邦夫だった。
高野が社長になれなかったのは、対松下との関係のほかに指名権を持っている宍道と|反《そ》りが合わなかったことにある。高野は松下幸之助を経営の師と仰いだが、経営哲学を一〇〇%受け入れたわけではない。VHSの長時間録画問題では激しく対立し、勘当されている。ことビデオに関しては、幸之助に対しても持説を曲げなかった。
これを機に松下とビクターの関係は悪化した。そこで社長の松野幸吉は任期半ばにして突然退任、まず自分の“首”を松下に差し出すことで関係修復に動いた。さらに高野とともに松下の方針に激しく抵抗した副社長の徳光博文を監査役に退かせ、後任社長に性格の温和な宍道を選んだ。
この人事を見てビクター社内には、「ビクターのトップは松下との関係を最優先しなければならない」という|厭世《えんせい》的な空気が流れた。
同時に社内では新社長に宍道が選ばれたことにより、「高野さんがビデオでどんなに功績を上げても、宍道さんは自分の後任には指名しない」とみる向きが多かった。二人の関係は七八年秋に起きた“ビデオカメラ事件”で決定的となった。
この時期、ビデオ事業部は日の出の勢いだった。まだレンタルソフトがなかった時代で、ビクターは高野のアイデアで「ハードを売らずにハートを売ろう」を合言葉にアルバムビデオのキャンペーンを展開した。それに伴ってビデオカメラも売れ出した。
もともとはビデオ事業部の製品だが、カラーテレビの本拠地・茨城県の岩井工場でも手掛けることになった。岩井工場で育った宍道は、この年の六月に人事担当の常務に昇格した。彼は古巣の岩井工場の幹部から陳情を受け、わざわざ横浜のビデオ事業部に足を運んで高野に申し入れた。
「ビデオカメラを岩井と横浜の両方で作っていてはいかにも経営効率が悪い。岩井で作った製品の方が売れているようだし、この際、横浜は生産をやめて岩井に一本化しませんか」
しかし戦前、日本光学工業(現ニコン)に就職しカメラに精通していた高野としては、この提案を受け入れることはできなかった。
「テレビの技術屋さんには分からないでしょうが、カメラはいずれビデオと一体になるのです。ビデオ事業部としては採算を度外視してやらなければならない製品なんです」
「それは単なる君の妄想じゃないのか。確かに遠い将来は可能性としてはあるかもしらんが、そんなことは理由にならない。君が夢みたいなことばかり言っているから、横浜にもカメラをやめたいと思っている人間が大勢いるはずなのに、言うに言えないのだろう」
いくら常務でもここまで言われると、高野も腹に据えかねた。売り言葉に買い言葉である。
「それならカメラの技術者をここに呼ぶから、あんたの口から、おれがそんな馬鹿げたことを言っているかどうか直接、聞いてみてくれ」
高野は技術部長の井上譲と営業部の菅谷光雄を呼んだ。
「お前たちに人事担当常務の宍道さんが話があるそうだ。私は側で黙って聞いている。この際、日頃思っていることを遠慮なく言ったらいい」
宍道はのっけから「横浜はカメラをやめてビデオデッキに専念してはどうか」との持論を展開した。何とかして岩井にカメラ事業を集中させたかった宍道は、その理由を説明する過程で、井上に向かって「技術は横浜より岩井の方が優れている」と口を滑らしたことから、井上が怒り出した。
「何ですか、その言い方は。その優れている技術をもってしてテレビ事業部のあの体たらくですか」
宍道と井上の間で、立場を離れ大口論となった。高野といえば宍道の側に座ったまま「われ関せず」の表情で聞いている。二人の議論はどちらの技術が優秀かという話に移ったが、時間が経るにつれ、宍道の形勢が不利なことがはっきりした。宍道は最後に苦し紛れに釈明した。
「横浜の技術が優れていることは分かった。だが、カラーテレビの需要が一段落し、岩井の設備が遊んでいる状況でぶちまけた話、人事担当常務としては岩井に仕事を持って行きたいというのが本音なんだ」
この釈明を聞いて井上が言った。
「宍道さん、腹を割って最初からそう言えばいいじゃないですか。それなら横浜から仕事を回しますよ。一つだけはっきり言っておきます。われわれはカメラはやめません。そうですよね高野さん」
いきなり同意を求められた高野は、黙って首を縦に振った。
高野と宍道の冷たい関係は、宍道が社長になってからも続いた。だからこそ高野自身、宍道が社長になった時点で、自分が後継社長に指名されることを諦めた。その分、社外や海外に目を向けて、VHSの普及に全精力を注いだ。
〈ビクターには信賞必罰がない。それだけに情実や派閥にまみれてしまったら、会社がおかしくなる〉
高野は常日頃、こう思っており、自ら範を示すため自分の配下のビデオ事業部の人間に対しては、厳しい態度で臨んだ。高野が後任のビデオ事業部長に選んだ子飼いの曲尾定二に対しても厳しい態度を取り続けた。事業部長ともなれば、大手販売店の社長とも会食やゴルフをしなければならない機会が多い。それが高野に知れると大事になる。
「おい、きょうは事業部長はいないようだが?」
すると周りの人間がおそるおそる、曲尾が販売店の人とゴルフに行っていることを告げる。
それを聞いて高野が怒り出す。
「一体、曲尾は何を考えているんだ。計画通りモノを作れない事業部長が昼から遊んでやがって!」
夕刻になって曲尾が帰ってくると、本人を前に怒鳴りつける。
「お前、いったい今まで何をやっていたんだ。ゴルフなんかやっている暇があったらモノを作れ」
二代目事業部長の曲尾は二年で外された。理由は「売れ筋の商品が間に合わなかった」ということだった。しかしその後、ビデオ研究所長として遇するなどの思いやりも高野は決して忘れなかった。
高野には「ビクターで最も稼いでいるビデオ事業部のトップにある自分が甘くなったら、会社全体がおかしくなる」という考えが骨の髄まで染み付いていた。それが一番はっきり出るのが人事である。ビクターの人事は等級制になっており、部長になるには何等級、役員候補になるには何等級と決まっている。事業部長は年明けになれば自分の仕事そっちのけで、部下を昇格させるため社内を走り回るが、高野はそうした運動は一切しなかった。結果的にはビデオ事業部の人間は社内での出世が遅れてしまう。
しびれを切らした側近の菅谷光雄が酒の席で文句を言ったことがある。
「事業部長は身内(ビデオ事業部)にちょっと厳し過ぎるのではないですか」
「お前、本当にそう思うか。実はおれもそう思っているんだ。しかし考えてみろ。儲け頭のビデオ事業部を預かるおれが人事でゴネ始めたら、いくらでもゴネてみんなを偉くできる。しかしそんなことをしたらビクターはどうなるんだ!」
人事だけでなく金銭についても厳しかった。ビクターの各事業部は本社費として、売り上げの一部を本社に納めなければならない。本社費は事業部から販売店に卸す納入価格が基本になっている。ところが経営の苦しい事業部は、納入価格から販売店に対するバックリベートを引いた裸価格を基本数字にしてしまう。こうすると建前の本社費は二%でも一割か二割ほど浮く計算になる。
ソニーとの国内販売競争が厳しくなったとき、営業部は経理部と相談のうえ、本社費を裸価格にするよう高野に提案したことがある。すると高野はいつものように烈火のごとく怒り出した。
「お前たちは、会社をダメにするようなことをおれに提案するのか。もしそれをやったら本社費から出ている研究開発費はどうするんだ。VHSは本社費から出ていた中央研究所の技術が原点になっていたんだ。ビデオ事業部が稼ぎ、本社費を納めることで次の新商品が生まれるんだ。その基準となる数字をドンドン下げて、研究開発費が少なくなるようなやり方は、会社をダメにするようなものだ」
「高野さん。お言葉ですが、この方式は徳光(博文)さんが副社長時代に導入したものです」
「副社長がどういったか知らないが、ダメなものはダメなんだ」
曲尾、白石勇麿の後を継いで四代目の事業部長になった上野吉弘も頭から怒られたことがある。上野が就任したのは八五年十月だが、就任早々高野に提案した。
「ビクターはビデオで世界のトップグループにあります。しかしこの立場を将来にわたって維持するには、量産工程をロボット化するシステムに切り替えなければなりません。それには一千億円ほどかかります。ビクターが脱皮するチャンスです」
上野の提案に高野は一瞬、興味を示したが、言下に一蹴した。
「一体、そんな金、ビクターのどこにあるんだ」
「ビデオ事業部はこれまで一千億円以上儲けてきました。それをつぎ込めば……」
「上野、お前は何か勘違いしているんじゃないか。確かにビクターの利益はほとんどビデオ事業部が稼いでいる。しかしビデオ事業部の利益は、ビデオ事業部の利益ではないんだ。お前らがいま稼げるのは、今まで本社に苦労をかけてやらせてもらったお陰なんだ。本社は新規事業のビデオディスク(VD)を軌道に乗せるためビデオの利益を必要としているんだ。ビデオ事業部が稼いだ利益を、丸々ビデオに使うなんてとんでもないことだ」
高野もサラリーマンである以上、社長になりたくないといえば嘘になる。自分が社長になったら信賞必罰を徹底させ、ビクターを実力主義で動く会社に変えてみたいという夢もあった。しかし現実は社内力学からみて、高野が社長になる可能性は薄かった。それでも|一縷《いちる》の望みがあった。ビクターはもはやビデオを抜きにして語れない会社になっていたからだ。
とはいえ、高野は最後の最後まで自分が社長になるための運動はしなかった。過去の経緯はともあれ松下幸之助以外にも、VHSの普及に向けて二人三脚で奔走し、八六年一月に松下の新社長に就任した谷井昭雄に働きかけることも不可能ではなかった。が、高野はこうした工作も一切しなかった。
八六年五月。VHSの累積出荷台数は念願の一億台を突破した。ビクターがVHSの第一号機を発売したのが七六年十月だから十年足らずして達成したわけである。その数日後に開かれた決算取締役会では、宍道は予想通り岩井工場で同じ釜の飯を食った専務の垣木を次期社長に指名した。
高野も副社長に昇格したが、内心は複雑だった。世界市場でのビデオの需要は順調だが、折からの円高と相まって、発展途上国の追い上げが激しく、日本におけるビデオ産業は、確実に構造不況の道を歩みつつあった。これを打破するには、従来機種の生産は発展途上国に移し、国内はムービーなど付加価値の高い製品に特化せざるを得ない。ビデオ事業部をリストラ(事業の再構築)しなければならない。そんな大事な時期に、ビデオ事業部を離れなければならなかったのである。
それだけにビクターにおいて“上がり”のポストである副社長昇格を単純に喜べなかった。しかしサラリーマンである以上、組織の決定には従わなければならない。高野は六月下旬の総会後に、デスクを長年住み慣れた横浜工場から、東京・日本橋の本社に移した。
高野の感傷的な気持ちとうらはらに、ビデオ事業部は盛り上がっていた。8ミリビデオを小型軽量の点で上回るカメラ一体型ビデオのGR─C7が爆発的な売れ行きを見せ始めたからだ。VHSが|産声《うぶごえ》を上げてからちょうど十年目にあたる九月九日には本体重量がわずか七五〇グラムという録画専用のムービー、GR─C9が登場した。
高野が置き土産として開発を進めていた高画質のS─VHSの開発も順調に進み、晩秋に入ってほぼ商品化のメドを立て、年明け後にラスベガスで開かれるウインターCES(コンシューマ・エレクトロニクス・ショー)へ出品する準備も整った。
十二月に入ったある日、高野はビデオ研究所長の廣田昭を日本橋の本社に呼んだ。
「悪いが、S─VHSを幸之助相談役のもとに届けてくれ」
「分かりました。しかし本当は副社長が直接届けた方が相談役は喜ぶのではないでしょうか?」
「おれがビデオ担当ならそうする。しかし今はその立場にない」
数日後、廣田は試作品を携えて大阪の松下記念病院を訪ねた。すでに病室の幸之助のベッドの前にはモニターテレビがセットされていた。幸之助はベッドをやや斜めに立て、鮮明な画像を見た。テストが終わると、両手を胸の上で組み無言のまま目を|瞑《つぶ》った。
廣田は疲れて眠ったのだろうと勝手に判断して、席を立とうとした瞬間、幸之助が何かボソボソと|囁《ささや》く。同席した秘書の六笠がそれを通訳した。
「相談役はもう一度、見たいといっておられます」
再び映像が映し出されるが、終わると再び目を瞑る。それを三度ほど繰り返した。“経営の神様”と崇められた松下幸之助の寿命はいままさに尽きようとしていた。
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5 “幻”のクーデター計画
日本ビクターがVHS発売十周年の記念行事を終えた直後の一九八六(昭和六十一)年十月。ソニー常務の鹿井信雄は一日付でビデオ事業本部長に就任した。子会社のアイワに出向していた鹿井が、オーディオ事業本部長として本社に戻ったのは、三年前の八三年十月である。
本社に着任したその日に、会長の盛田に挨拶に行ったとき、「きみの仕事はCD(コンパクトディスク)の基盤を強化することだ」と命じられた。CDは一年前に発売されたばかりで、ソニーが八〇%のシェアを握っていたものの、後発の他社が生産体制を整え、品揃えが進めばたちまちにして創業者利潤は失われる。CDの基盤強化はオーディオの責任者としては当然の仕事であった。
次に社長の大賀の部屋に入ると「カーステレオが苦戦している。なんとかしてやってくれ」と頼まれた。鹿井は会長と社長の無理難題を聞き入れ、CDは部品や半導体を押さえることで、「CDはソニー」という名声を盤石なものにした。カーステレオも販路を拡大して、短期間で業界トップクラスに押し上げた。
ソニーの屋台骨を支える二人のトップは、エンジニア出身ながらアイワでマーケティングを身に付けた鹿井の手腕を見込んで、ビデオの責任者に起用したのである。鹿井は前回通り、ビデオ事業本部長に就任したその日に、今度は最初に大賀の部屋に入った。
「8ミリを売り出してからすでに一年半になる。評判が良くて注文が殺到しているんだが、なかなか生産が軌道に乗らないで困っている。なんとかしてやってくれ」
次に盛田の部屋に行くと、単刀直入に言われた。
「大賀君が何を頼んだか、おおよそ察しがつく。私の頼みは簡単だ。君にVHSを手掛けてもらいたいんだ」
ソニーのビデオ戦略は据置型のベータマックスのシェア低下をできるだけ食い止める一方、録画専用の8ミリを前面に出し、後ろから8ミリのデッキを押し上げる。そして長期的には家庭用ビデオはすべて8ミリに切り替えるというものである。
ところが思わぬ誤算が生じた。8ミリを宣伝すればするほど、ベータマックスが売れなくなったのだ。8ミリでベータの落ち込みをカバーできれば問題はないが、肝心の生産が軌道に乗らない。八五年には一一%ほどあったビデオのシェアが、翌年には七%に落ち込んでしまった。
ビデオ事業の再建はソニーにとって緊急課題だった。深刻なのは8ミリよりも据置型である。インドネシア、フィリピン、中南米諸国は圧倒的にベータが強いが、主力市場ともいうべき欧米諸国では惨敗である。VHSとの差は開くばかりで回復は絶望的だった。
ソニーは八三年にVHS進出の計画を立て、若手技術者による覆面部隊を組織して子会社のアイワと共同でVHSの研究を進めた経験を持っており、その気になればVHS各社の性能を上回るVHSを作る自信もあった。
ビデオに関してはソニー、松下、ビクターの三社はクロスライセンス契約を結んでおり、相手の了解を得ずに、しかも特許料を払うことなく生産できる。厄介なのはビデオは他社製品と互換性を取らなければならないので、デッキに互換性を示す「VHS」のマークを付けることを義務付けられていたことだ。
創業者の井深大をして「VHSはベータマックスの便乗商品」と決め付けたソニーがVHSを手掛けるには、開発メーカーのビクターに頭を下げなければならない。プライドの高い盛田や大賀にはそれができず、その嫌な役割を鹿井に命じたのである。
若くしてアイワに出向した鹿井には、井深や盛田や大賀がVHSに対して持っている怨念はなかった。鹿井は盛田に改めて確認した。
「それでは私がビクターと交渉して、ソニーがVHSを作れるようにすればいいんですね」
「早くいえばそういうことだ」
ソニーは盛田と大賀を除けば事務系、技術系を問わず意外と同業他社との付き合いが少ない。その点、鹿井は社交的でよその会社の技術者とは頻繁に食事やゴルフを通じて情報交換していた。その中にビクターの新社長になった垣木邦夫も含まれていた。鹿井と垣木とは妙に馬が合った。
鹿井はこれまで培った人脈を頼りにVHS陣営の戦略を分析した上で、八六年の暮れに垣木に会い、単刀直入に切り出した。
「ソニーはVHSを手掛けたいと思っております」
すると垣木は遠慮がちに答えた。
「私はビクターの社長ですが、ことビデオに関しては、すべて副社長の高野君に任せてあります。私がここで即断できないのです。しかし責任を持って高野君と会わせる機会を作ります」
鹿井と高野の会談は八七年の年明け、S─VHSの発表直後に東京・日本橋のビクター本社で実現した。
「今日は会長盛田昭夫の代理として来ました。私はソニーとビクターが過去にどんな経緯があったかは知りません。盛田の用件はソニーがVHSを手掛けたいので、ビクターさんにその許可を得たいということです」
ベータ陣営の盟主のソニーが、“ミスターVHS”の高野に頭を下げ、VHS陣営の軍門に|降《くだ》ることを正式に表明したのである。この時点でVHSは名実共に世界のディファクト・スタンダードになった。
高野は垣木から事前に鹿井の用件を聞いていたせいか、さして驚いた様子を見せず、少し間をおいて答えた。
「分かりました。VHSはファミリー企業の共有財産ですので、私の一存で決めるわけにはいきません。グループの仲間と相談しなければなりません。その上でご返事します。半月ほど時間を下さい」
鹿井はVHSがファミリー企業の共有財産と聞いて、いささか心配になり恐る恐る高野に尋ねた。
「ソニーの方からも、VHSファミリー各社に仁義を切った方がいいのでしょうか?」
「いや、その必要はありません。私が責任を持って説得します」
「ということは……」
「ソニーさんが作りたいというのに、ダメというわけにはいかないでしょう。ただし第一号機の互換性を私どもにテストさせて下さい。それがわれわれの条件です。ところで鹿井さん。私の夢はビデオという素晴らしい機械を、世界中の人に使ってもらうことなんです。ソニーさんもVHSを沢山売って下さい」
二人の会話はそこで終わり、世間話をすることもなく、鹿井はビクター本社を後にした。ソニーがVHSの発売を正式発表したのは、それから一年後の八八年一月である。
VHSが世界規格になった後、高野の頭を悩ませたのが、「ゴービデオ問題」だった。オーディオの世界では右のカセットに入った音楽を左のカセットに移し替えるダブルデッキが普及していた。米ベンチャー企業のゴービデオは、ビデオでも同じような製品があれば便利だと考えて特許を申請。日本メーカーに生産を依頼したが、ことごとく断られてしまった。
ゴービデオは日本メーカーが共謀してこれを断ったとして、ビデオを生産しているすべての日本メーカーに対し、アリゾナ州の地方裁判所に損害賠償の提訴をしたのである。裁判は八八年四月から始まった。日本メーカーが断ったのは、この製品が出回れば新たな著作権問題が発生することを恐れたからである。当時、一本千円だった生テープに、一万円以上する映画のソフトを素人でも簡単にコピーできるような機械が出回れば、映画会社は莫大な損害を受ける。そうなれば映画会社は黙っておらず、ハードメーカーを提訴してくるのは分かり切っている。
ところがいざ裁判が始まってみると、裁判費用より和解費用の方が安いと判断して、日本メーカーは次々と和解に応じ、気がついてみるとビクター、ソニー、松下の三社しか残っていなかった。日本メーカーがゴービデオの要請を断ったのは、ビクターが後ろで糸を引いているからだ――。ゴービデオは勝手にこう判断して、狙いをVHSの開発メーカーであるビクターに定めた。これが本当なら首謀者は高野ということになる。
高野は裁判に忙殺され、八九年三月にはニューヨークに出向き、ビクターの弁護士事務所で双方の弁護士の立ち会いのもと、証言録取を受けた。裁判は高野が亡くなった一年八カ月後の九三年九月に結審、上告却下で被告側の日本企業の勝訴となった。
高野は副社長に昇格し、横浜を離れ日本橋の本社にデスクを構えるようになってからは、意識してビデオ事業部の日常業務には口を差し挟まないようにした。事業部長の上野が相談に来ても追い返した。
「ビデオにおけるおれの仕事はS─VHSで終わった。これからはソフト先行の時代に入る。こうなるともはや自分の責任を超えている。おれはVHSの将来は次の世代に渡したんだから、相談に来てもムダだ」
高野がビデオ事業で最後に手掛けた仕事が、八七年一月にビデオ事業部内にビデオ文化研究所を新設したことである。この構想はベータとのビデオ戦争が峠を越したころから温めていた。
「ヨーロッパにお城を買って、そこをVHS城と名付けたい」
高野らしい比喩的な言い方だが、狙いは心理学者や文化人類学者に「ビデオは将来どう使われるか」「ビデオはどういう文化に役立つか」を検討してもらう場を提供することにあった。VHS城で映像メディアのあるべき姿を追求し、それを開発テーマ化していく。ビデオ文化研究所はVHS城の構想が原型になっていた。
しかし高野がVHS以上に心配していたのが、「ビクター丸」の行方であった。自宅に帰る途中、横浜工場に立ち寄りかつての部下を引き連れ国道一号沿いの居酒屋「きしや」に繰り出し、ビクター丸の将来を語った。
「垣木時代は二期四年で終わるだろう。その次の社長は誰がいいかね」
「パッとした人は見当たりませんね」
「それじゃ、役員一歩手前の理事クラスの中に、将来のビクターを背負っていく人材はいるか」
「いやぁ……」
「理事クラスにもいないということか。それなら理事より下のクラスだな」
「それなら沢山います」
「それじゃその連中に、ビクター丸の将来を託すか……」
「しかし、現実にそんなことができるんですか?」
「お前たちが本当にそうしてほしいのなら、やりようがないわけではない。一つだけ秘策がある。おれがビデオ事業部に戻って大欠損を出す。二年連続で大赤字になればおれも社長も、ついでに役付き役員も全員責任を取らされるだろう。こうなると社長候補がいなくなるので、松下に頼んで暫く面倒を見てもらい、後継者が育つのを待つんだ。今ならできる。逆にいえば今のおれにはそれぐらいしかできない。お前たちにやる気があるなら、おれは……」
酒の上とはいえ、高野の“クーデター計画”は妙に迫力があった。高野がビデオ事業部に戻り、本気になってOEM(相手先ブランドによる生産)をやめれば、その日からビクターの工場は干上がって、赤字に転落してしまう。
VHSのOEM供給は相手企業がビクターの製品が良くて、しかも安いから契約したわけではない。ほとんどが高野が語るVHSの将来の夢に共鳴してのことだ。高野はころあいをみて、本来なら折り合えない値段でも商談をまとめてしまっていた。
聞いている方は、全員が高野の力を知り尽くしている。中には「副社長はビクターの将来を考えて、本気で“クーデター”を考えているのではないか」と思った人もいた。しかし酒が醒めると高野は冷静になり、必ず次の言葉で締め|括《くく》った。
「ビクターは確かにVHSで成功した。だがな、これを継続させるのはもっと難しいんだ。技術者はS─VHSの後を引っ張っていける商品を考えろ。管理者は成功を継続させることに経営の焦点が当てられるような仕組みを編み出すんだ」
しかし本社に移ってから、高野は急激に老け込んだ。こうなると余計VHSの行く末が心配になる。
〈VHSの将来を誰に託せばいいのだろうか。やっぱり松下かな……〉
気力、体力が衰え、後進に道を譲ることを真剣に考え始めた矢先、昭和天皇が崩御、元号も昭和から平成に改められた。それから一カ月も立たない三十日には、高野の経営の才能を最も評価していた元社長の松野幸吉が亡くなった。さらに四月には、高野が経営の師と仰いだ松下幸之助も九十四歳の天寿を全うした。
翌年の六月には社長の垣木は予定通り二期四年で退陣、高野も監査役に退き、新社長にはオーディオ部門出身の坊上卓郎が就任した。それからわずか一カ月後に高野がビクターに入社するキッカケとなった“テレビの父”高柳健次郎が黄泉の国に旅立った。
ちょうどその時期、日本経済のバブルは頂点に達し、経済企画庁は「日本経済は五十七カ月連続して上昇しており、いざなぎ景気と並んだ」と発表した。
皮肉にもビクターの業績は、高野が副社長を退任し、監査役に就任したころから暗雲が垂れこめ始めた。それでもかつて高野の口から“クーデター計画”を聞いたことのあるビデオ事業部の人間の誰もが心の中で思った。
〈高野さんの予言通り、ビクターを取り巻く環境は悪化している。このままでは早晩、赤字転落は避けられない。ビクターが危急存亡にある時、高野さんが手をこまぬいているわけがない。どこかでドンデン返しがあるはずだ〉
こう淡い期待を抱いたが、誰も予想しなかったドンデン返しが起こった。高野は九一年春の定期検診で人間ドックに入ったが、そこで癌に侵され末期的症状であることが分かり、それから一年も経たない九二年一月十九日、三途の川を渡ってしまった。高野が将来を案じたクーデター計画は“幻”に終わった。
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エピローグ デジタル時代のVHS
元号が昭和から平成に変わると同時に“経営の神様”と崇められた松下幸之助、“テレビの父”と慕われた高柳健次郎、そして“ミスターVHS”の高野鎭雄が相次いで鬼籍に入った。
さらに一九九四年(平成六)年晩秋になると、ソニー会長の盛田昭夫が“財界総理”とされる悲願の経団連会長指名を目前に病に倒れ、引退を余儀なくされた。翌九五年には松下社長の谷井昭雄が経営路線を巡って会長の松下正治と衝突、財テク失敗の責任を取る形で相談役に退いた。九七年十二月には、ソニーの創業者・井深大が波乱万丈の生涯を閉じた。享年八十九。
時は確実に刻み、世界市場で死闘と苦闘を繰り広げてきたビデオ産業に携わった男たちが、次々と経営の表舞台から消えていった。
映像メディアの世界にも九〇年代に入って、「デジタル革命」という名の技術革新の波が怒濤のように押し寄せてきた。最初に襲いかかったのがカメラ一体型ビデオである。8ミリとVHS─Cの間で繰り広げられたムービー戦争の行方は九〇年代にもつれ込んだ。
この時期、激しい商戦とは裏腹に水面下では、ビクター、松下、日立、三菱、シャープのVHSファミリーにソニーとフィリップスを加えた七社が|密《ひそ》かにDVC(デジタル・ビデオ・カセット)の開発を進めていた。しかし実態は規格作りの音頭をとるメーカーがなく、集合離散を繰り返していた。
こうした中にあってビクターは、九一年十二月に第一次試作品を完成させた。すでに全身癌にむしばまれていた高野は、体調の良い日を見計らって横浜工場にあるビデオ研究所を訪れた。研究所長の横山克哉はデジタル技術に造詣が深く、NHK放送技術研究所時代、記録・機構研究部長としてデジタル放送の研究に従事していた男である。八九年に定年退職した後、ビクターに迎えられ九一年三月からビデオ研究所長としてデジタルビデオの実用化に取り組んでいた。DVCは横山が精魂を傾けて開発した製品である。横山から一通りDVCの説明を受けた後、高野は一言感想を漏らした。
「これなら普通のカメラと同じ大きさにできる。間違いなくきれいな絵が出るだろう。ただしお前らの動機は何か不純だな……」
高野が動機不純と言ったのは、規格統一をしないまま各社が勝手に開発を進め、しかも|虎視眈々《こしたんたん》と一番乗りを狙っていたことを指している。DVCは最終的に八社が集まって規格を決め、九五年前後から先を争うように新製品を市場に投入した。カメラ一体型市場でDVCの比率は、初年度は一〇%足らずだったが、九八年に九〇%まで高まった。欧米のムービー市場は、依然としてアナログの8ミリとVHS─Cが主力だが、日本国内はDVCに移行した。
DVCとS─VHSのダブルデッキを使えば、ワンタッチでダビングできるので、コミュニケーションのツールとしては何ら問題もない。すべてVHSが世界規格になったお陰である。こうなると8ミリとVHS─Cのムービー戦争は終結したも同然である。
振り返ってみると、VHSの前に立ちはだかったのはベータマックス、LD(レーザーディスク)を始めとするVD(ビデオディスク)、8ミリビデオなどのハードだけではない。メディア先進国の米国では、衛星放送や有線テレビ(CATV)、別途課金されるペイ・パー・ビュー番組システムなど次々と最新の電子伝送技術を駆使した映像メディアが登場した。
しかし消費者は最新の映像メディアに興味を示してもビデオを見捨てなかった。ビデオソフトを利用するには、借りる時と返す時で二度ビデオレンタル店に足を運ばなければならないが、消費者はそれをいとわなかった。
ハリウッドの映画会社は、著作権裁判に敗れたものの、その後ビデオソフトを積極的に手掛けたことで、不死鳥のように蘇った。今やハリウッドの映画はビデオソフトが収益の半分以上を占め、ビデオなくして事業が成り立たないのが現実である。皮肉なことに消費者が家庭でテレビ録画とビデオソフトを利用すればするほど、映画を観賞する人口が増えていった。
ビデオが市場に出始めた頃、金持ちの|玩具《おもちや》に過ぎなかったが、激しいビデオ戦争を経てVHSが世界規格になり、発売二十年を迎えた九六年には、累積出荷台数は六億台を超え、その後も年間五千万台のペースで増え続けている。録画済みのテープと映画ソフトは全世界で軽く二百億本を超す。
テレビの普及台数は世界で約十億台とされるが、VHSをテレビと|対《つい》にして見た場合、それを作り出す映像情報ネットワークは、今や世界最大の情報インフラにのし上がった。テレビとビデオに次ぐ第二のインフラは、世界で六億台とされる電話機であり、インターネットが第三のインフラである。
ビデオはすでに映画とテレビと並んで文化の領域に達したといっても過言ではない。文化について広辞苑には「世の中が進歩し文明になること」と記してある。電通顧問の和久井孝太郎の言葉を借りれば、文化とは《権威と伝統の継承・発展したもの》と定義できる。VHSは紛れもなく、二十世紀後半が生んだ世界的な文化資産である。それを作り上げたのが、日本のビデオ産業に携わった男たちである。
ビデオは不思議なことに、これまでニューメディアと称されたことが一度もない。業務用から普及したためだが、家庭用で日本が世界市場を|席巻《せつけん》できたのは、技術者がコツコツ血のにじむような努力を重ね、数多くの障害を乗り越えたことによる。いわば日本の水田稲作農耕文化の勝利である。
その文化の領域に入ったVHSの前に立ちはだかったのが、デジタル革命である。カメラ一体型ではたちまちにしてアナログ技術が駆逐され、DVCが主役の座に躍り出た。そして据置型の分野にもデジタルの波がヒタヒタと押し寄せている。代表的なのが「二十世紀最後の発明」とされるDVD(デジタル・ビデオディスク)である。
人間は十九世紀末に音声(レコードと蓄音機)と映像(映写機とフィルム)を発明、今世紀に入って音声と映像が一体化したテレビを実用化し、さらにそれを記録するビデオを開発した。二十世紀は紛れもなく映像メディアの世紀だった。そして今世紀末には、誰もがいつでも自由に映像と音声を伝達できるデジタル技術を手に入れた。
多くの技術者は「デジタルはアナログに比べて一万倍の可能性を秘めている」と断言する。アナログ技術はある一定の知識を持っていれば理解できた。ところがデジタル技術になると、無限の可能性があるだけに、どんな優秀な技術者でも将来予測がつかず、下手をすれば夢を追い続け、開発倒れになる危険性がある。デジタル技術がテクノバブルといわれるゆえんである。
VHSには互換性という厳密な土俵があり、技術者はその中で相撲を取らなければならない宿命を背負っていた。ところが技術者は互換性という決められた土俵で相撲を取るより、土俵がないところで思う存分相撲を取りたいという希望を持っている。デジタル時代ではそれが可能になった。
デジタル時代のビデオは、DVDとビクターが開発したD─VHSの二つに|収斂《しゆうれん》されつつある。DVDの規格作りに際しては、松下・東芝陣営とソニー・フィリップス陣営が激しく対立した。最終的に両グループの話し合いで、統一規格は直径一二センチのディスクの片面容量が四・七ギガバイトで二時間十三分の映像と音声を記録する方式に決まり、ディスクも〇・六ミリの薄いディスクを二枚張り合わせる東芝方式が採用された。
DVDの映像と音声は完全にデジタル信号で記録されるが、泣き所は映像の品質がアナログ技術のLDを超えていないことに加え、現段階ではビデオのように記録することができない再生専用機であることだ。技術的な可能性はともかく、記録方式がアナログからデジタルに変わっただけでは、前評判とメーカーの期待とは裏腹にポスト・ビデオの製品として迫力不足は否めない。
ホームビデオが普及する条件は、娯楽性とメディア性を兼ね備えていることである。ポスト・ビデオとして登場したビデオディスクの夢が無残に消えたのは、再生専用のためメディア性に欠けていたことである。ソニーのベータマックスも途中から互換性を失ったため、メディア性が失われ、VHSに敗北する一因になった。
メディアはmediumの複数形で、現世と霊界との間にあって、死者の意思を取り次ぎする霊媒、巫女の意味を持っている。ホームビデオは巫女の役割を担っているのである。再生専用の一方通行では巫女になり得ない。
DVDがビデオのように画像を記録できるようになるのは時間の問題だが、書き換え(録画)のできるDVDは光磁気ではなく、コンピューター用外部記録装置として実用化されている相変化方式になる可能性が高い。しかし技術的なメドを付けたとしても、今度はコストだけでなく映像が劣化しないという特徴が裏目に出て、不法コピーに神経を|尖《とが》らせるソフト業界を刺激して、ハードが完璧でもソフトの供給が望めなかったDAT(デジタル・オーディオ・テープレコーダー)と同じ悲惨な運命をたどることは十分あり得る。
パソコン外部記憶装置としてのDVDは抜群の威力を発揮し、引き続き急速な普及が期待できる。しかしメディアとしての機能を持たない限り、VHSに代わる映像メディアの王座には就けない。再生専用のDVDは米国市場では、娯楽性の強いホームシアターとしての用途が広がっている。全世界の出荷台数は九八年に二百十二万台に達し、九九年は四百二十万台と予想されている。ただしポスト・ビデオと期待されたDVDも数字を見る限り、まだVHSの一〇分の一にも満たないのである。
DVDが華々しくマスコミで脚光を浴びている間、VHSが手をこまぬいていたわけではない。VHSの生みの親ともいうべき高野は死ぬ間際まで技術者に「S─VHSの後を引っ張っていける商品を開発せよ」と|檄《げき》を飛ばし続けた。
ところが九三年にビデオ事業部を継いだオーディオ出身の清水宏紀は、就任早々|愕然《がくぜん》とした。業績が厳しいにもかかわらず、事業部の経営幹部たちから技術者まで、「VHSは未来永劫にわたってアナログ技術の方が映像の再現性が優れている」と信じてカメラ一体型の部署を除いて、デジタル技術の開発を怠っていたからである。
しかしビデオ研究所の若手技術者と対話を進めるうち二、三人が上司に黙ってデジタル技術を駆使したVHSの基本フォーマットを開発していることに一筋の光明を見いだした。デジタルで記録すれば画像が良くなるだけでなく、アナログの機種との互換性がとれることも分かった。|密《ひそ》かに特許も出願していた。
高野が「どんな時代が到来するにせよ、互換性だけは絶対に順守せよ」と叫び続けていた遺伝子が、デジタル時代下でも若手技術者の中に脈々と生きていたのである。互換性を前面に出せば、テクノバブルに一定の歯止めをかけることができる。
清水は就任早々、同業他社の技術者から何度となく「紐(テープ)の時代は終わった。これからは皿(ディスク)の時代だよ」と言われ続けていたこともあり、すぐに「ゴー」のサインを出さずに、徹底的に紐と皿の長所と短所を比べた。
D─VHSがDVDに負けない点はいくつもあった。まず情報の容量。VHSをデジタル化すれば、一本のカセットにDVDの十倍近い四四・四ギガバイトの情報を記録できる。長時間(LS)モードを使えば録画時間にして実に四十九時間である。一本のテープの中に二十本の映画が入ってしまうのである。テレビの五チャンネルを同時に記録することも可能となる。デジタル放送、CATV、衛星放送、地上波放送を一本のテープに収録し、必要なときに取り出して見ることができる。
アナログのVHSとの互換性も問題ない。コストはテープの方がディスクよりはるかに安く、生産設備もVHS用を多少改造するだけだ。ダビング店、テープメーカーについても同じことがいえる。新技術の登場に伴う創造的破壊も場合によっては必要だが、ユーザーの側に立ち安い製品を供給し続けることもメーカーの義務である。
欠点はパッケージの大きさとアクセス性が弱いことである。デジタル化で記憶容量が増えたのでパッケージを小さくできるが、そうすると従来のVHSテープとの互換性が保てなくなる。清水はパッケージの大きさより、互換性を優先することにした。
アクセス性もビデオが家庭用で使われる限り、さほど問題にならない。まだ技術的なメドを付けていないが、将来、頭出しにハードディスクを使えば、アクセス性が飛躍的に改善される。
ビクターはこのD─VHSを九七年十月にまず米国で売り出した。続いて九九年三月二十九日、電撃的にソニーとの技術提携を発表した。提携の骨子はビクターがハードの技術、ソニーがデジタル家電のネットワーク技術をそれぞれ持ち寄って、パソコンなどの連携に適したネットワーク対応のD─VHSを共同開発しようというのである。清水とソニー常務(執行役員)の井原勝美が出席した和やかな共同記者会見は、出席者に激しかったベータとVHSのビデオ戦争が遠い昔の出来事であることを印象付けた。
実はD─VHSの規格に関してはソニーもいち早く賛同していた。九五年三月二十二日の朝、清水はソニー常務の出井伸之に会うため品川・御殿山のソニー本社を訪れた。二人は同じ時期にオーディオ事業部を担当したこともあり旧知の間柄である。
「出井さん、D─VHSの規格が決まりました。これが規格の細目です。目を通しておいて下さい」
ソニーが緊急役員会を開き出井の社長就任を決めたのは、まさにその直後である。清水は夕方本社に戻り、出井の社長就任を知った。そして、社長に就任したばかりの出井から電話を受けた。
「ビクターさんから提案のあったD─VHSの規格、了承しました」
こうした経緯があったからこそ、九六年十一月一日に帝国ホテルで開かれた「VHS二十周年 記念の集い」に出井は自社の創業五十周年パーティーを中座してまで駆けつけたのである。ソニーは今やれっきとしたVHSファミリーの中核企業なのである。
清水が九八年の春先にソニー副社長の森尾稔と会食をした時、二人の話は盛り上がった。
「デジタル時代にはソニーだ、ビクターだと言っていると、時代に取り残されてしまう。自分の弱い分野はライバル企業とも提携して補強しなければなりませんね」
「それはソニーとて同じですよ。なんならVHSのデジタル化で一緒にやりますか。うちはVHSのデジタル化は遅れているが、ネットワーク技術には自信を持っています」
この会話がきっかけになって両社の技術者による交流が始まり、一年を経て発表にこぎ着けた。ビクターはD─VHSを九九年七月から国内販売に踏み切ったが、CS(通信衛星)放送用のチューナーは、ソニーからOEMで調達した。逆にソニーはビクターからD─VHSをOEM供給を受けこれに「SONY」のブランドを付けて販売する。
エレクトロニクス産業はデジタル時代を迎え、従来のやり方で膨大な研究開発費を投じても、収益が確保できる保証はない。D─VHSに関してビクターとソニーの恩讐を超えた提携は、まさに時代の要請だった。
「VHS規格の生命を二十一世紀まで延ばす」ことに執念を燃やした高野の夢は、ソニーとの提携という形で実現した。文化資産となったVHSは、デジタル時代が到来して再び脚光を浴びたのである。
[#地付き]〈文中敬称略〉

あとがき
私は日本経済新聞社の産業部記者として第一次石油危機の混乱が終息に向かった一九七六年春から、第二次石油危機が発生するまでの三年間、電機産業を担当した。家電の取材テーマは、カラーテレビの対米輸出規制台数を探ることだったが、私個人としてはそれよりベータマックスとVHSのビデオ戦争のゆくえに興味を持っていた。
そこでカラーテレビ問題が一段落した後、東京と大阪の電機担当記者が中心になって、ビデオの長期連載を企画した。ビデオ戦争の|帰趨《きすう》を判断するには、最初になぜ規格統一できなかったかを解明しておかなければならない。連載ではビデオの開発に関する軌跡を丹念に調べ上げ、次に水面下のファミリー作りの動きを再現し、各社の戦略を踏まえた上でビデオ産業の将来を占うことを考えた。
ソニーは取材に非常に協力的で、会長の盛田昭夫さんや社長の岩間和夫さんは、秘密交渉の日付から内容まで正確に教えてくれた。難渋を究めたのが、むしろビクターだった。副社長だった徳光博文さんなどには、土曜日の午前中から夜の八時過ぎまでぶっ通しで取材したこともあった。が、肝心のファミリー作りの話になると「その件についてはすべて事業部長の高野(鎭雄)君に任せてある。実は正確なことは私も知らないんだ」と逃げられてしまった。
こうなると高野さんへの取材は欠かせない。ところが私の取材依頼に意外な答えが返ってきた。
「私はこれまで新聞記者の取材に一度も応じたことがない。VHSはビクター一社のものでもない。ファミリー企業の共有財産なんです。したがって私が独断で話すわけにはいかない」
ありていにいえば、取材を拒否されたわけである。が、ファミリー作りを避けて連載をスタートさせれば「画龍点睛を欠く」ことになる。あの手この手を使ってアプローチしたが、結局は会えずじまい。取材が袋小路に入った時、高野さんから簡単なメッセージが届いた。
「今回はどうしても取材に応じられないが、もし誤りがあれば、後日その箇所を指摘してあげましょう」
当人に取材しないで、その人の行動を書くことほど難しい作業はない。それでも精力的に取材を進めたことから、なんとかファミリー作りの輪郭を知ることができた。「離陸するビデオ産業」と題する連載企画は、七七年の十一月から日経産業新聞で始まった。三十七回の連載が終わった段階で、高野さんから「約束を果たします。飯でも食いながら雑談でもしましょう」という誘いを受けた。正直なところ、学校で先生から通信簿をもらう生徒の心境と同じで、会うまで胸がドキドキした。
「よくここまで取材しましたね。大体当たっております」
それから高野さんが亡くなる直前までの十五年の長きにわたって立場を離れて付き合ってもらった。しかし話を聞けば聞くほど、新聞連載がいかに不完全なものであるかを思い知らされた。大体当たっているということは、裏返していえば細部では、間違いが多いということだ。連載としてはソコソコであっても、ノンフィクション作品としてみれば、ストーリーが雑で満足すべきものでなかった。
私の頭痛の種は、いつしか不完全な連載記事をベースにしたVHS物語が定着してしまったことだった。晩年の高野さんは酒が入ると、必ずこう言ったものです。
「佐藤さん。VHSは私が夢見ていた通り、人類の共有財産になりました。私はたとえ会社が|潰《つぶ》れても、VHS規格を守り抜いてみせます」
酒が入っても表情を崩さず、ここまで言い切る高野さんの悲壮な覚悟を垣間見て、日本が生んだ今世紀最後の大型家電製品、家庭用ビデオの生々流転の歴史を自分のライフワークに選んだ。
さらに新聞連載はビデオ戦争の序盤戦で終わっていることもあり、その後の動きも含めVHSがなぜ映像メディアの王座に就くことができたのかをまとめるのが、モノ書きとしての私の使命ではないかと思うようになった。そこで時間を見つけては関係者にあたってコツコツと取材をし直した。
残念なことはせっかく取材を進めながら、忙しさにかまけて高野さんの生きている間に、まとめられなかったことである。さらに本格的な取材を始めてから松下電器の菅谷汎さん、連載の最終原稿を書き上げた直後の六月二十九日にはソニーのクリス和田さんが急逝、そして連載を単行本にする作業を進めている最中の十月三日には井深大さんの盟友でもある盛田昭夫さんが長かった闘病生活を経て、ひっそり息を引き取った。映像メディアの世紀を彩った男たちが次々と姿を消したのは寂しいかぎりである。
私はこの数年間、日本企業の国際化とそれにかかわった人をテーマにしたノンフィクションを書き続けてきた。高野さんがVHSを世界規格に育て上げたと同じように、私もいつしか日本初のノンフィクション作品を、どうしたら世界の人々に読んでもらえるかを考えるようになった。本田技研工業の二人の創業者、本田宗一郎さんと藤沢武夫さんの対照的な生きざま、その間の友情と葛藤を描いた「ホンダ神話 教祖のなき後で」は、一九九六年に第二十七回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのが縁で、オックスフォード大学から英文で出版することが決まった。オックスフォード大学の編集方針は「出発点から途中経過、そして結果が出て、しかも、後世の人に参考になる作品」である。
今回の「映像メディアの世紀」も、日本のエレクトロニクス産業の力強さと、それにかかわった男たちの活躍を日本のみならず世界に知らしめたいと思って筆を取った次第である。「映像メディアの世紀」と|謳《うた》いながら、次世代ビデオにさほどスペースを割かなかったのは、オックスフォード流に言えば「まだVHSに代わる本命商品が現れず、結果が出ていない」ためだ。それ以前に、高野さんのように信念を持って規格を作り、それを世界市場に定着させようという情熱を持った魅力的な人がいなかったことも一因である。
なお日経BP社ニューヨーク支局駐在の酒井弘樹君には構想、執筆段階から貴重なアドバイスを受けた。また取材面では日本ビクター広報室長(現ワールドカップ推進室長)の中村誠さんに、高野さんの生前時代から多大な協力を仰いだ。さらにまた日経ビジネスの長期連載では副編集長の川嶋諭君、出版に際しては日経BP社出版局の永瀬恒夫君にご尽力をいただいた。改めて深謝したい。
一九九九年十月
[#地付き]佐藤正明

◆主要参考文献
「夢中で……。」─ミスターVHS・高野鎭雄さんを偲ぶ─
「高野さんを偲ぶ本」制作委員会
「VHSコミュニケーション」
日本ビクタービデオ事業部
「GENRYU源流」
ソニー広報センター
「ソニー自叙伝」
ソニー広報センター ワック出版部
「ソニー技術の秘密」
木原信敏 ソニー・マガジンズ
「天分に生きる」
高柳健次郎 有斐閣
「井深大とソニースピリッツ」
立石泰則 日本経済新聞社
「電子メディアの近代史」
塚本芳和/和久井孝太郎/堀之内勝一監修 ニューメディア
「ブレイクスルー!」
P・R・ナヤック/J・M・ケタリンガム ダイヤモンド社
「ファースト・フォワード」
ジェームズ・ラードナー パーソナルメディア
「ぼくでも社長が務まった」
山下俊彦 東洋経済新報社
「アメリカ映画の大教科書(上)(下)」
井上一馬 新潮選書
「画の出るレコードを開発せよ!」
神尾健三 草思社
「激突! ソニー対松下」
日本経済新聞社編 日本経済新聞社
「二人の師匠」
平田雅彦 東洋経済新報社
「ソニー燃ゆ」
城島明彦 産経新聞ニュースサービス
「天才の発想法」
水野博之 ダイヤモンド社
「超デジタル革命DVDとはこれだ!!」
福島巌 フットワーク出版
「情報楽園」
増田宗昭 徳間書店
「従流不変」
三洋電気広報部 三洋キャリア開発
「日本ビクター50年史」
日本ビクター
「日本ビクターの60年」
日本ビクター
「日本ビクター70年の歩み」
日本ビクター
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主要人名索引
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ポラック、ロイ(RCA)
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堀内昭直(ソニー)
本田宗一郎(本田技研)
曲尾定二(ビクター)
真崎晃郎(ビクター)
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松下正治(松下電器)
松下正幸(松下電器)
松野幸吉(ビクター)
松村長延(三菱電機)
松本正男(松下電器)
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ミッテラン(仏大統領)
宮路年雄(城南電機)
宮本延治(日立)
三由清二(松下電子工業)
六笠正弘(松下電器)
村瀬通三(松下電器)
百瀬結(ビクター)
森尾稔(ソニー)
盛田昭夫(ソニー)
盛田正明(ソニー)
八嶋庄衛(日立)
矢嶋利勇(東芝)
山川清士(ソニー)
山下俊彦(松下電器)
弓手康史(日立)
横井庄一
横山克哉(ビクター)
吉山博吉(日立)
米澤健一郎(ソニー)
ら・わ
リュミエール兄弟
レーガン、ロナルド
和久井孝太郎(電通)
渡辺良美(ソニー)
渡里杉一郎(東芝)
ワッサーマン、ルー(MCA)
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本書は、「日経ビジネス」一九九八年三月二日号より一九九九年七月十二日号まで連載した作品を改稿、加筆したものです。
単行本
一九九九年十一月 日経BP社刊
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文春ウェブ文庫版
陽はまた昇る
映像メディアの世紀
二〇〇二年八月二十日 第一版
著 者 佐藤正明
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
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bb020804