ホンダ神話 教祖のなき後で(上)
〈底 本〉文春文庫 平成十二年三月十日刊
(C) Masaaki Sato 2002
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目  次
プロローグ
昭和元禄時代が爛熟期にさしかかっていた昭和四十八年の夏。ホンダの創業者・本田宗一郎は、盟友・藤沢武夫とともにさわやかに引退を表明した。その瞬間から“ホンダの子供たち(役員及び従業員)”の漂流が始まった。
第一章 ヘッドハンティング
失意の中、ホンダを退社しつつも、平成五年七月一日、スイスで米GMの上級副社長就任の記者会見をする手筈を整えていた前副社長の入交昭一郎。だが彼は土壇場でセガを選択した。なぜ彼はGM入りを断念したのか?
第二章 二人羽織り
戦後の混乱期に無から有を生じさせた宗一郎。創業者を教祖に祭り上げ“ホンダ神話”の脚本を書き上げた藤沢。そんな彼らは昭和二十四年の夏に初めて出会った。二人の敬愛と敵愾心なくしてホンダの成長はなかった。
第三章 抱き合い心中
F1の世界チャンピオンを目指すホンダの足元を、昭和四十四年の欠陥車騒動が揺るがした。藤沢は、水冷エンジンを嫌って、あくまでも空冷エンジンに固執する宗一郎への“クーデター”を敢行せざるを得なかった。
第四章 凡庸の団結
宗一郎と藤沢はカリスマ性を残したまま、静かに経営の表舞台から去った。彼らの後継者たちはその前後に低公害のCVCCエンジンの開発に成功。これを機に、ホンダは世界のメジャー自動車会社の仲間入りを果たした。
[#地付き](以下、下巻へつづく)
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ホンダ神話(上) 教祖のなき後で

プロローグ
「課長、部長、社長も包丁、盲腸、脱腸も同じだ。ようするに皆符丁なんだ。命令系統をはっきりさせるために符丁があるんで、人間の価値とはまったく関係がない。オレなんか、社長として一度も社長印を押さなかったんだから完全にクビだよ」
[#地付き]本田宗一郎
「社長とは会社という機構の中の一つの職名に過ぎない。決して人間の価値を表すランキングではない。にもかかわらず社長になると、元帥にでもなったつもりで威張りたがる人がいる。社長とは世の中で最も危険な商売だ」
[#地付き]藤沢武夫
昭和元禄と呼ばれた時代が爛熟期にさしかかっていた昭和四十八年。国民は時の総理大臣、田中角栄を“今太閤”ともてはやし、彼の唱えた「日本列島改造論」に酔いしれていた。金とドルの交換を停止した二年前のニクソン・ショックで大量の過剰流動性が発生、企業は余剰資金の有効な運用をはかるため、競って土地や株式を買い漁っていた。
地価が高騰し、庶民はマイホームの夢を次々と奪われた。物価も急騰して、日本経済は知らず知らずのうちにインフレの危険水域に踏み込んで行った。日本の貿易収支の黒字は九十億ドルに達し、二月には米ドルの一〇%切り下げと同時に、円は固定相場制から変動相場制(フロート)に移行した。
年明けから理由もなく、車が飛ぶように売れ出した。初夏になると中国地方で石油化学コンビナートの工場爆発事故が相次ぎ、不吉な予感が現実になった。石化製品を中心としたモノ不足が一気に顕在化し、ついに新車にスペアタイヤが付かないという異常事態が発生した。
それでもなお車は売れる。バブル(泡)という言葉は、まだ使われていなかったが、日本経済は風船のように膨れ上がり、いつ破裂しても不思議でないカオス(混沌)の状態にあった。
この時、まだだれも数カ月後に、先進国の経済を混乱の“るつぼ”に陥れた第一次石油危機が発生するとは予想だにしなかった。
梅雨は例年より早目に明け、暑くて長い夏が到来した。暑さがピークに達した八月九日。東京の日中の最高気温は、三十三・六度でこの夏一番の暑さを記録した。夜になっても気温はさほど下がらず、熱帯夜となった。午前中には韓国の元大統領候補・|金大中《キム・デジユン》が東京のホテルから五人組の男にピストルで脅され、連れさられるというギャング映画もどきの事件が発覚した。事件が発生したのは前日八日の白昼だが、九日になって一一〇番に通報があった。警視庁と所轄の麹町署では誘拐事件と判断して、直ちに厳戒体制を敷き、羽田の東京国際空港にも大勢の警察官を配備した。
旧盆にはまだ間があったが、大企業の夏休みが分散化し始めたせいか、継ぎはぎだらけで、しかも狭苦しい羽田空港の待合室は、夜になっても海外旅行に出掛ける人と、帰国した人でごったがえしていた。
空港の二階にある特別ラウンジは、百人を超す報道陣が一人の男の帰りを待ちわびていた。冷房が効いているとはいえ、部屋は|人気《ひとけ》でムンムンしている。
この夜の主役は浜松の一町工場に過ぎなかった本田技研工業(ホンダ)を、わずか四半世紀で名実ともに「世界のホンダ」に育て上げた本田宗一郎。
七月三十日から国交を回復して間もない中国へ自動車工業の視察旅行に出掛け、ほどなく帰国する。出掛ける時は、日本体育協会訪中団がチャーターした全日空の特別機に便乗したが、帰りは香港発の定期便を使った。宗一郎を乗せた「JL(日本航空)六二便」は、予定通り八時過ぎ羽田に到着した。
パッセンジャー・ボーディング・ブリッジの横に着いた飛行機の前部ドアが開くと、真っ先に小柄な男が出てきた。青いジーンズ風のジャケットを着込み、ノーネクタイといういつものラフなスタイルだ。
「おい、新聞に出ちまったなぁ。あの通りだよ。世の中よくできてるょ。隠しごとができない仕組みになっているんだ。おれは社長を辞めた後、仕方がないからゴルフの練習場に通って、プロゴルファーでも目指すょ」
ガキ大将が悪さを見つけられたように、傷跡の目立つ左手で禿げ上がった頭を掻きながら、浜松弁を交えた独特なベランメエ調で話し始めた。
入国手続きと税関の申告を済ませ、記者会見場に充てられた特別ラウンジに現れた宗一郎は、先ほどと同じ仕種をしながらも、今度はやや神妙な表情で引退の弁を語り始めた。
「おれは若い時から好んで赤シャツを着ているが、人間だれでも六十歳を過ぎると、赤いチャンチャンコを着せられる。おれは若い積もりでいても、もう六十六歳。還暦を五、六年も過ぎると、経営者としての感覚が鈍り、従業員や社会の要請との間にズレが出る。変化の激しい企業経営について行くのは苦しいょ。最近それを痛切に感じるようになった。これが経営の第一線を退くと決意した最大の理由だょ」
「(あんたがたマスコミの人々はおれを)創業社長と呼んでいるが、会社っていうのは、個人や本田家のものではないょ。ホンダは従業員や株主のものだ。なっ、そうだろう。そうした人たちへの責任を果たすためには、トップはやっぱり若い人でなきゃ……。世間も従業員も納得できる後継者ができたことだし、この辺が(辞める)潮時だっていうことだ」
「おれと副社長(藤沢武夫)は二人揃って一人前。どちらが欠けても駄目だったろうょ。いってみれば、半玉が二人で芸者(経営者)として一本立ちできたようなもんで、当然、辞める時も一緒だょ」
「これからはとりたててやりたいこともないょ。だが若い経営者たちは(これからもおれを)こき使うだろうな。(おれは新社長になる河島喜好から)いわれたことをやるだけだが、あまり暇はできないだろうょ」
この日、大勢の新聞記者が詰めかけたのには伏線があった。ホンダは八月一日、東京・大手町の経団連会館で二千六百万株の公募増資を発表したが、その席上、専務の西田通弘はトップの進退問題について思わせ振りに語った。
「本田社長と藤沢副社長はこの数年、後継者づくりを最重点としてきたが、その体制はすでに整った。社内的には何の決定もされていないが、お二人は(今秋にも)引退を考えているかも知れない……」
勘の冴えた新聞記者は、ピンときた。彼らは後追いの質問はしなかった。次に取る行動が分かっているからだ。
肝心の社長は日本にいない。となるとホンダのもう一人の創業者、藤沢武夫を取材しなければならない。社内で藤沢は港区・六本木にある自宅の地名から「六本木」、宗一郎は新宿区・西落合に住んでいることから「西落合」と呼ばれている。また創業以来、苦楽をともにしてきた人々にとって、宗一郎は「オヤジさん」「おとっつあん」、威厳のある藤沢は「オジうえ」「六本木の旦那」、次期社長の河島は仲間意識から「オニイさん」であり、「きいちゃん」である。
藤沢のマスコミ嫌いはつとに有名だった。
〈マスコミは何かあると、あたしと西落合を喧嘩させたがる。二人の仲を割いてそんなに面白いもんかねぇ。あたしたちは決してマスコミの餌食なんぞにはなりませんょ。いっそマスコミの人たちを集めて「あたしたちは喧嘩なんぞしてません」と弁明でもしようと思ったこともある。だが、それではあまりにも子供じみている。それならいっそマスコミの人たちなんぞには会わない方がいい〉
といって藤沢が本当に新聞記者に会わないかといえば、決してそうでもない。新聞記者が六本木の酒場に繰り出す前、時間潰しに六本木の交差点を防衛庁の方向に進み、二本目の路を右に折れた閑静な住宅地の一角にある藤沢の自宅に立ち寄ると、気軽に応接間に呼び寄せる。酒をふんだんに振る舞い、肝心の質問を適度にはぐらかしながら、逆にホンダ社内の動きを聞き出すのを楽しみにしていた節すらある。
西田の発言があった夜、藤沢は新聞記者が来るのを満を持して待っていた。そもそも増資発表の席で、西田を通じて宗一郎の引退を匂わすよう指示したのは、だれあろう藤沢自身だ。
藤沢の計算通り、その夜、勘を働かせた新聞記者が六本木に押し掛けた。
「しょうがない」とさも迷惑そうな顔をしながら、藤沢はいつものように彼らを応接間に招き入れ、自ら輸入物の高級ブランディーを大きなグラスになみなみと注ぎ、独特の軽妙な語り口で、胸の内を語った。
「今秋ホンダは創立二十五周年を迎えます。あたしはそれを機に引退する|肚《はら》を決めている。この気持ちはすでに西落合に伝えてある。ただし向こうがどう判断するかは別だ。もしあたしと一緒に引退するとすれば、後任は専務の河島になるだろう。(後継者を河島にすることは)だいぶ前から二人で決めているからね」
ホンダは昭和四十五年春に河島喜好、白井孝夫、川島喜八郎、西田通弘の四人の常務を一挙に代表権をもった専務に昇格させ、それぞれ総括及び技術、総務、販売、経理の分野を担当させる集団指導体制を敷いてきた。
それ以前から二人は意識的に役員会に出席せず、日常の社業は四専務に任せてきた。宗一郎は四専務体制が発足した一年後に、本田技術研究所の社長も退任、対外活動に専念し始めており、用事がない限り本社には顔を出さない。
社長の宗一郎から実印を預けられ、経営を任されている藤沢にしても、本社には午前十一時頃出社して昼飯を摂り、二時には帰宅する気ままな生活を送っていた。
時には高級な着物を着流して、六本木の自宅から飯倉、新橋、銀座を経て、東京八重洲口にある本社まで二、三時間かけてブラブラ歩いて来ることもある。が、その日は「絶対に仕事はしない」という意思表示である。緊急の時は四専務のだれかが、藤沢の自宅を訪ね、決裁を仰ぐという暗黙のシステムが確立している。
若手の専務陣にいつでもバトンタッチできる体制は出来上がっていた。二人は早晩引退するにしても、この年の四月の株主総会で再任されたばかりということもあり、社内では退任時期を任期切れの五十年春と読んでいた。
そのスケジュールをハナから信じていたのが、誰あろう宗一郎自身だった。春先に西田を通じて藤沢からの引退のメッセージを送られた時、〈来るべき時が来た〉と判断して「分かった」との了解のサインを出したものの、時期は勝手に二年後と理解した。
お祭り好きの宗一郎の心のどこかに「創立二十五年の式典は(ホンダをここまで築き上げた)自分たちの手で迎えたい」という気持ちがなかったといえば嘘になる。三月に次男の勝久を病気で亡くしており、何かで気を紛らわせたかった。その「何か」は仕事以外にない。
〈社業を見渡しても小型乗用車の「シビック」を発売してまだ一年足らず。まだ四輪車の基盤は固まったとはいえない。「ホンダの車は欠陥車」という汚名を晴らす低公害のCVCC(複合渦流調速燃焼方式)エンジンにしても、マスキー法の七五年規制値は楽々クリアできたが、七六年規制値は実験室段階の域を出ていない。いま国会で論議されている排ガス規制の決着いかんで、ホンダが本当に四輪車メーカーとしてやっていけるかどうかが決まる。日常の経営はすべて六本木に任せているが、おれはホンダのトップとして引き続き若い技術者の尻を叩かなければならない。後継者に決めている河島は、まだ四十五歳。二年後の交替であっても「若き経営者」には変わりない〉
宗一郎は引退の心の準備もなく、なかば物見遊山気分で羽田を飛び立った。前年の四十六年の九月に国交が正常化したとはいえ、中国はまだ通信事情が悪く、一歩奥地に入れば電波さえ届かず、むろん電話もつながらない。
マスコミは八月一日の西田発言を機に、さみだれ的に宗一郎と藤沢の退陣を書きまくった。だが、引退後の二人の処遇がどうしても分からない。藤沢は宗一郎との同時引退を確認してくれたが、記者会見の要求には「それは経営の最高トップである社長がするもの」と頑として応じようとしない。新聞としては最終的に宗一郎自身から引退の弁を聞いた上で、それを紙面化しない限り、ニュースとして完結しない。
宗一郎は中国にいる間、自分に関する引退報道が世間を騒がせていることを全く知らなかった。香港に戻り、ホテルで自分の引退を報じた新聞に接した時、本田宗一郎というもう一人の自分の死亡記事を見ているような錯覚に陥った。記事には黒枠こそないが、自分の顔写真が載り、大きな見出しが踊っている。
「ホンダ“秘蔵っ子社長”誕生/本田氏退任、河島氏昇格/“創世期から脱皮”/若手経営者の集団合議制へ」(昭和四十八年八月四日付毎日新聞朝刊)
新聞記事では宗一郎の功績が延々と称えられ、引退の理由としてこう書かれてあった。
常に時代の先を見通してきた本田氏も、四十四年から火がついた“欠陥車問題”で創業以来初めての大きな危機を迎えることになった。「今だからいえるが、あの時が一番苦しかった」と三日辞任を明らかにした藤沢副社長は語っている。
だれが新聞にリークしたかは明らかである。宗一郎は即座に藤沢の顔を思い浮かべたが、あえて連絡を取ろうとしなかった。
〈わざわざおれが日本にいない時に引退記事を流したのは、六本木の配慮だろう。おれに(引退について心を整理する)時間を与えてくれたのだ。(ホンダのために)がむしゃらに働いてきて二十五年たったが、二人で育てた会社も今やオートバイでは「世界のホンダ」と呼ばれるような大きな会社になった。四輪車は若いものに任せた方が良いのかもしれない。おれたちの時代は、間違いなく終わった。
ホンダにはおれの名字がついているが、実態は“本田工業&藤沢商会”だった。おれが金のことを心配せず、自由奔放にやってこれたのも六本木という相棒がいたからだ。もし六本木だけが辞める中抜き人事になれば、「ホンダに内紛があったのではないか」と痛くもない腹をさぐられる。そんなことになれば、創業以来苦楽をともにしてきた六本木に迷惑をかけるだけでなく、おれ自身の晩節を汚すことになる。やはり辞める時は一緒だな〉
宗一郎が羽田での記者会見を終え、厳戒体制の敷かれた高速道路に乗り、西落合の自宅に帰る頃、藤沢は自宅にある茶室でひとり瞑想に耽っていた。まだ記者会見の報告は届いていないが、大方の想像はつく。
〈二十数年連れ添った西落合なら必ず分かってくれる。ホンダの経営は創業以来、確かにあたしが担ってきた。ただしここまでホンダが大きくなったのは、西落合の技術があったからこそだ。あたしは西落合の天才的な才能を引き出すことで会社を大きくしてきた。だが二人ともいずれいなくなる。それに備え、意識的に集団指導体制でやっていける経営システムを作ってきた。それもようやく軌道に乗った。
西落合は人間的には欠点だらけの男で、よく喧嘩もした。不思議なことにその欠点が魅力でもある。欠点があるから人に好かれる。それでいながらあの男は、人の心を買う|術《すべ》を知っている。カリスマ性もある。あたしはそれを見抜いてマスコミに働きかけ、“ホンダ教の教祖”に仕立て上げた。これだけは、だれも引き継げない。第二、第三の宗一郎を作ろうとしても無理だ。今こそすべての雑務から解放して、教祖としてホンダイズムの布教活動に専念してもらう方が、ホンダの将来のためになる。
今回の引退劇は、間違いなく世間から“さわやか引退”として喝采を博すだろう。軽自動車「N360」の欠陥車裁判はこれから本格化し、最終結論が出るまでには、最低でも十年はかかる。『欠陥車のホンダ』という悪いイメージを引きずっては、いくら「低公害CVCCのホンダ」を宣伝しても限界がある。低公害車の発売直前に二人が同時に辞めれば、世間の目はそちらに向く。うまくするとホンダの悪いイメージは一掃できる。
西落合はじっとしているのが嫌いな性格だ。黙っていても、教祖としての役目を果たしてくれる。西落合が元気なうち、ホンダは安泰だ。あたしは残された人生を好きなワグナーを聴き、夏目漱石や谷崎潤一郎を読みあさり、不肖の子供と一緒に小さな事業でも始めて安穏と過ごす〉
世間は藤沢が予想した以上の反応を示した。マスコミはこぞって「ホンダ首脳/さわやか引退」と書きまくり、経済界の老害を批判してホンダの引退劇を「一服の清涼剤」に仕立て上げた。
性格や才能を異にしながら、しかも敬愛と敵愾心を持ち合わせていた二人の男は、第一次石油ショックの起きるわずか一週間前の九月二十四日、鈴鹿サーキットで盛大に行なわれた創立二十五周年の記念式典で三万人の従業員とその家族を前に退任の挨拶をし、十月三十日の株主総会で取締役最高顧問に退き、経営の表舞台から去った。宗一郎六十六歳。藤沢六十二歳である。
二人の創業者の黄金の日々が始まった。宗一郎は「ホンダのために頑張ってくれた従業員一人ひとりにお礼をいいたい」と石油ショックの最中の年明けから工場、営業所、販売店はいうに及ばず、従業員二、三人の修理工場まで足を運ぶ「全国行脚お礼の旅」に出掛けた。それを終えると今度は世界を飛び歩き、その合間をぬって、財界活動や行革審などの社会活動を精力的にこなした。
晩年は弟の弁二郎とともに私財を投じて設立した本田財団の活動をベースに各国の元首、大統領との懇談を通じてホンダイズムを世界に広めた。宗一郎の名声は年々高まっていった。
一方、藤沢は六本木の自宅を改造して「現代藝術雑貨商・高會堂」というかんばんを掲げた店を開いた。名付け親は文化勲章受章者で、三菱商事の社長、会長を経験した、諸橋晋六の父親でもある漢文学者の諸橋轍次である。高會堂というのは高士(趣味人)が語り合う場所という意味だ。趣味を仕事にしたわけだが、実務は妻の好子と二人の息子に任せ、本人は音楽と書物と芸術品に囲まれた悠々自適の生活に入った。むろんホンダの公式行事には一切出ない。
さわやか引退から十五年後の昭和六十三年。時代はバブルにまみれ始めていたが、世間は重苦しい空気に包まれていた。秋以降、昭和天皇の御容態が芳しくなかったからだ。年の瀬の慌ただしさが漂い、その年も残すところあと一日となった三十日の夕刻。それまで元気だった藤沢が突然、心筋こうそくで倒れた。
偶然にも長女の夫で、東京女子医大心臓外科教授の今井康晴が年末の挨拶にきており、その場で懸命に心臓マッサージを施したが、再び拍動することなく、家族に看取られながら永眠した。享年七十八。
藤沢には死ぬ間際まで心残りがあった。
〈あんたは“ホンダ教の教祖”の役をあたしが思った以上に、見事に演じてくれた。あれは社外向けのイメージなのに、いつのまにか偶像化され、社内でもそれが本物の宗一郎だと信じるバカ者どもが出てきた。企業としてこれはヤバイ。虚像が独り歩きすれば、ホンダの経営基盤が揺らぐ。あたしの最後の仕事は、目の黒いうちにおまえさんを教祖の座から下ろし、等身大の姿に戻してやることだった。しかし虚像が風船のように膨らんでしまってはとうてい無理だ。パンパンに膨らんだ風船に針を刺せば、無用の混乱を引き起こす。問題はあんたがこの世からいなくなった時だ。やはりホンダといえども、万物流転の掟に逆らえないのではないか〉
藤沢の葬儀・告別式は、元号が昭和から平成に変わった一月二十七日、社葬として芝公園の増上寺大殿で、しめやかに執り行なわれた。葬儀委員長は三代目社長の久米是志。藤沢の功績を称える弔辞を聞きながら、宗一郎は花で囲まれた遺影に向かって問い掛けた。
〈おい、副社長、六本木。ずるいょ。ものごとには順番がある。おれより四つも若いおめえさんが、なんで早く逝っちゃうんだ。おれはおめえさんのいう通りにやってきた。これからおらっちの会社(ホンダ)はどうなるんだ。なっ、六本木。頼むから教えてくれょ〉
宗一郎と藤沢は昭和二十四年夏に、共通の知人である竹島弘の紹介で出会い、「これから一緒にやるが、別れる時はお互い得るものを持って別れよう」と別離を前提にコンビを組んだ。そして引退した後はお互いの私生活には一切干渉せず、お互い得るものを持って別れたせいか、その後は数えるほどしか会わなかった。
宗一郎は平成二年十月、自動車に人生を捧げ、自動車の発展に貢献した人々を永遠に記念する米自動車殿堂(オートモティブ・ホール・オブ・フェーム)入りを果たした。自動車殿堂は米国の自動車産業の発展に貢献した個人を称えるため創設された、いわば自動車産業のノーベル賞である。殿堂にはフォード一世、アルフレッド・スローン、ウォルター・クライスラー、ゴッドリープ・ダイムラー、カール・ベンツ、フェルディナンド・ポルシェなどそうそうたる名前が刻まれている。むろん殿堂入りは日本人として宗一郎が初めて。
デトロイトでの授章式を終え成田に着くと、宗一郎は西落合の自宅ではなく六本木に直行して、藤沢の位牌に受章した勲章を架けた。
〈この勲章はおれ一人がもらったのではない。六本木、おめえさんと二人でもらったものだ〉
宗一郎の心にポッカリ穴があいた。体から魂が抜け、体力も気力も目に見えて衰え始めた。一見、健康そうに見えたが、引退した後は病魔との戦いの連続だった。肝機能障害、糖尿病、脳血栓とあらゆる病気と戦いながら、人前ではそれを隠し通してさわやかなイメージを振り撒いてきた。
しかしそのエネルギーも尽きる時がきた。翌平成三年の梅雨明けを間近に控えた七月二十二日突然、腹痛を訴え、東京・お茶の水の順天堂大学病院に入院した。それから二週間後の真夏の八月五日の昼前、八十四歳の波乱万丈の生涯を閉じた。病を押してホンダの株主総会に出席、四代目社長、川本信彦のテキパキとした采配ぶりを見届けてからわずか一カ月と六日しか経っていなかった。死因は肝不全と発表されたが、正式な病名は肝臓ガンである。
藤沢を「花を咲かせる茎」とすれば、宗一郎は「華やかな花」にたとえられる。茎が枯れれば、花は散る。茎は木枯らしの舞う冬の季節に枯れ、花は夏の真っ盛りに散った。そして“ホンダの子供たち”(役員、従業員)は二人の創業者が築き上げた“ホンダ神話”の代償を払わされることになる。
第一章 ヘッドハンティング

「後継者選びにルールはない。今の時代、そんな素晴らしいシステムはどこの企業だって、持っちゃいない。後継者選びに失敗すれば、その企業の命取りになる。図式化、機械化した考えは通用しない」
[#地付き]本田宗一郎
「自分にエキスパートであるという自信があれば、何も恐れることはない。エキスパートになれば、よその会社が引っこ抜きにくる。よそから引っこ抜かれるような人材がホンダの中から続出すれば、ホンダの思想が日本中に広がり、もっと素晴らしい日本になると思う」
[#地付き]藤沢武夫
日本経済のバブルが崩壊した平成五年六月二十九日。梅雨前線が日本列島をスッポリと覆い、低気圧が九州・中国地方を経て関西から関東に近づきつつあった。警察庁の調べによると、この日は上場企業を中心に三月期決算会社の千九百一社が、一斉に株主総会を開くことになっている。
ホンダの総会も例年通り、東京・大手町のサンケイホールで開かれた。創業者・本田宗一郎の「会社は株主と従業員のもの」という思想を色濃く引き継いでおり、一般株主、総会屋を問わず、出席者に自由に発言させるのがホンダ流の株主総会だ。前年は車のリサイクル問題について延々と質問した株主がおり、一時間に及んだ。結果はシャンシャン総会でも、中身はそれなりにあった。
総会の出席者は例年五百人を超すが、その年は「東京は終日雨」という天気予報が出たせいか、四百四十人とやや少な目だった。出席した株主の中には、大勢のホンダOBが混じっている。これらの人々は、天気がどうであれ必ず出席する。
社会的な立場を象徴する役員まで上りつめたOBは、新年早々、国道246号線沿いに面した東京・南青山にある、白亜の新本社ビルに招待される。社長の口から直接過去一年間の活動報告を受け、そのあと立食パーティーで酒を酌み交わしながら新旧役員の交流を深める。
役員になれなかったホンダOBが、社長の肉声を通じてかつて自分たちが身を粉にして働いたホンダの現況を直接知る機会は、株主総会しかない。
会場のロビーでは簡単な茶菓が振る舞われ、出席者はそれをつまみながら一年振りの再会を喜び合い、開会時間までのひととき、近況を報告しあって旧交を温めあっていた。まるでホンダの同窓会の光景である。
壇上にいる社長の川本信彦は、一年振りに見る先輩たちに軽く会釈しながら、つい二年前まではいつも最前列に陣取っていた本田宗一郎の姿が見えないことに、一抹の寂しさを感じていた。宗一郎は昭和四十八年秋の創立二十五周年を機に引退して取締役最高顧問に退き、五十八年に久米是志が三代目社長になったのを見届けて、今度は取締役も返上して総会の壇上から降りた。
宗一郎は経営の第一線を退いた後、銀座に個人事務所を開き、意識して本社に来ないようにしていた。用事があって立ち寄ることがあっても、それが済めば大部屋の役員室にヒョッコリ顔を出すだけ。宗一郎と藤沢のために用意した最高顧問室は、“開かずの間”になっていた。むろん経営には表向き一切口を出さない。新車発表会で現役の経営陣と顔を合わせても、軽い冗談を交わすだけでその場を去った。
だが総会だけは別である。宗一郎の顔から笑いが消え、真剣なまなざしで壇上にいる自ら手塩にかけて育て上げた“ホンダの子供たち”の顔をじっと見据えている。
〈ホンダの将来は、おまえたちの双肩にかかっているんだ。頑張れ、頑張るんだ。役員は燃えて燃えて、燃え尽きるんだ〉
宗一郎は熱いまなざしで、壇上にいるホンダの子供たちにエールを送り続けた。
川本が社長に就任したのは平成二年六月の株主総会後の取締役会だから、社長として総会に臨んだのは翌三年からである。宗一郎はこの四代目社長のテキパキとした議事進行振りに安心したのか、それからわずか約一カ月後に鬼籍に入ってしまった。
だが壇上にいる川本に、感傷に耽っている余裕はなかった。ホンダの業績は芳しくない。平成五年三月期決算は、売り上げが前年比七・五%減の二兆六千九百億円で、三兆円企業入りを目前に控え急ブレーキがかかってしまった。税引き利益は同七・七%減の三百億円だった。減収減益決算は実に三十年振りのことであった。
巷では「ホンダ神話は崩壊した」と囁かれ出している。前期の業績はまさにそれを数字の上で証明したようなものだった。円高が予想以上に早いピッチで進んでいることもあり、六年度の決算もさらなる減収減益は避けられない。
冒頭、業績不振を釈明して株主の理解を得なければならないが、川本には今年の総会で一つだけ気になることがあった。
ちょうど三十年前の昭和三十八年。自分と同じように宗一郎に憧れ、同期入社した入交昭一郎がつい二カ月前、ホンダを正式に退社したことだった。入交はクルマの世界から完全に足を洗って、ファミコンの任天堂を激しく急追しているゲーム機器の大手メーカー、セガ・エンタープライゼスに入った。
入交はかつて「ミスター・ホンダ」と称され、四代目社長の後継レースでは、大本命視されていた。その証拠にある新聞は新社長を決める取締役会の直前、自信ありげに顔写真、略歴つきで「ホンダの新社長に入交氏」と書いた。
結果的に四代目社長の椅子を射止めたのはライバルの川本で、“入交社長”は幻に終わった。入交が平成四年春に健康を理由に突然副社長を辞任した時も、今回セガに入る時も、川本に事前の相談は全くなかった。二人の間にわだかまりがないといえば嘘になる。
「あなたは入交(昭一郎)前副社長の能力を生かせなかったのではないか」
万が一、株主の中からこうした質問が出たらどう答えるか。事務当局が作成した想定問答集にも、この質問項目は入っているが、川本は入交の件だけは、想定問答から離れて丁寧に答えようと思っていた。
〈ただし、ホンダとイリ(入交)さんの名誉を考えれば本当のことをいうわけにはいかない〉
川本の心配は杞憂に終わった。総会は業績低迷の責任追及どころか、入交に関する質問もなく、わずか二十五分で終了した。名実ともにシャンシャン総会であった。
ホンダの総会が始まったとまったく同じ時刻、入交は羽田の東京国際空港にほど近いセガ本社にいた。セガの本社は首都高速道路羽田線と産業道路の間を走る環状八号線に面している。近くに京浜急行羽田線の踏切があるせいか、本社前の環八通りは昼夜を問わず車が数珠つなぎとなり、都内でも有数の渋滞の名所となっている。
本社ビルの隣にファミリーレストランとコンビニエンスストアが並ぶ商業地と工場地帯が入り組んだ雑然とした街で、ホンダの本社があるファッショナブルな南青山とは好対照の土地柄である。
セガの平成二年度の売り上げは七百八十億円だったが、平成四年度には三千五百億円と、日本の大多数の企業がバブルの後遺症にあえいでいる中にあって、わずか三年で五倍弱という驚異的な成長を遂げた。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。急成長を象徴するように、まだ新しい十階建ての本社ビルの隣に、早くも本格的なスタジオを備えた新本社ビルの建設を急いでいる。環八を挟んだ向かい側には古びたマンション風の五階建ての建物があり、本社別館の看板を掲げている。セガがまだ「日本娯楽物産」と称していた時代の本社ビルだ。
この日、セガも本社ビルで株主総会を開いた。三階の大会議室には黒板を背に二十五人の役員とその候補者が並んでいた。総会の出席者は百四十四人。社員株主らしい若い人が中心で、総会屋らしき人はほとんど見当たらない。
紺のダブルのブレザーに身を包んだ小柄な入交は、神妙な顔付きで席に着いた。一年前のホンダの総会には病み上がりの青白い顔で壇上に並んだが、今はすっかり健康を取り戻している。心機一転をアピールするかのように、髪を短く刈り込み、日焼けした浅黒い顔には昔の精悍さが戻っている。
入交は出席者の顔を見渡したが、当然のことながら知った顔は一人としていない。
〈果たして自分が選択した道は間違っていなかったのだろうか〉
自問自答しながら目を閉じ、偶然がなければ選択したであろう光景を想像していた。
〈今頃の時間、成田の新東京国際空港で搭乗手続きを終え、家族と別れの挨拶を済ませ、胸を弾ませパリ行きの飛行機に乗り込んでいただろう〉
「セガは売り上げの増加と共に従業員も増えました。現在三千五百人ですが、長期計画では六千人に増やします。中間管理職はこれまでも積極的に中途採用してきました。しかしながらどうしても足りないのが経営陣です。そこで今回、ホンダから入交さん、ダイエーから藤本さん、住友銀行から木下さんのおさん方に来てもらうことにしたのです」
入交が現実に戻って目を開くと、社長の中山隼雄が自慢げに業績を報告するとともに、今回の“大物三人”のスカウトに至る経緯を説明している。
窓の外はどんよりしており、今にも雨が落ちてきそうな雲行きだった。
最後の議案に役員選任の件がかかり、入交は自分の名前を呼ばれ、神妙に立ち上がり一礼した。株主総会という名の儀式は終わった。この間わずか二十二分。十一時から同じビルにある役員室で取締役会が開かれ、入交の研究開発及び生産担当副社長就任が決まった。
この日は入交にとって「ミスター・ホンダ」から「セガのプリンス」への華麗なる転身の儀式であった。
株主総会が開かれた同じ三階の会議室で、午後二時から記者会見が開かれた。会見場には五十人を超す新聞、雑誌、テレビの報道陣が待ち受けている。セガは国内でこそ任天堂に圧倒されているが、欧米では互角以上に戦っている。その海外での躍進を証明するかのように、外国のマスコミ関係者の姿もチラホラ見える。
会見には社長の中山を中心に、左に入交と住友銀行取締役から専務に就任した木下紘一、右にスーパーのダイエー専務から入交と同じく副社長として迎えられた藤本敬三が座った。
カメラマンの写真撮影が終わると、入交は中山に促されて、セガ入りの動機を淡々と語った。
「私は三十年間、ホンダでオートバイと自動車の開発と生産に携わってきました。だが昨年の春に体調を崩し、やむなくホンダの副社長を辞任しました。この間、体の回復に努め、ようやく健康に自信を取り戻しました。私も若いと思っていましたが、気がつけばもう五十三歳。決して若くはありません。
ことしに入ってから実業界でもうひと仕事、できればワクワクするエキサイティングな仕事をやってみたいという意欲に駆られました。そんな時(まだ二、三カ月前のことですが)、ある人の紹介で中山社長と食事をする機会に恵まれました。その席で中山社長から『セガにきて開発の仕事をやってみませんか』という誘いを受けたのです。当時はシリアスに受け止めませんでしたが、その後、二、三回中山社長に会って話すうち、『アミューズメントの世界は、もう一度人生を賭けるに値する』という考えに変わりました。そこで五月末に中山さんにお願いして、今回セガで働かせてもらうことにしたのです。
自動車とアミューズメントの世界は確かに違います。ただし大きく製造業という点では、基本は変わらないと思っております。私のホンダにおける三十年の経験を活かせば、この会社に何らかの貢献はできるのではないかと自負しております」
入社動機を淡々と説明した後、再び窓の外に目をやった。四時間前の総会の時とは違い、雨は本格的に降り始めた。
入交は腕を組み、目を閉じて今年に入ってからの慌ただしい動きに思いを巡らしていた。
〈つい二カ月前までは、セガに入るとは思ってもみなかった。セガという会社すらろくに知らなかった。この席に座っているのが不思議でならない。本来であれば、世界最大の自動車メーカーのGM(ゼネラル・モーターズ)に入り、いまごろ任地のスイスに向かっている頃だ。
今の時間、飛行機はすでに日本海を離れ、荒涼たるロシアの上空を飛んでいる頃だ。あと数時間もすればパリ郊外のドゴール空港に着く。パリで一泊して、翌日スイスのチューリヒに行く。空港では欧州GM社長のルー・ヒューズが出迎えてくれる。ホテルでヒューズと綿密な打ち合わせをした後、七月一日に現地で記者会見をして、その席でGM入りを正式表明する〉
そう思っていた矢先、突然入交に質問の矢が飛んできた。
「入交さんにお伺いします。(むろんセガに入る前ですが)体が良くなったらホンダの経営陣に戻るという考えはなかったのですか」
米ウォールストリート・ジャーナル紙の若い記者からの素朴な質問である。
「私は自らの意思でホンダ副社長の座を降りたのです。そうしないと自分自身の健康、もうちょっと大袈裟にいえば、命すら危ないと思ったからです。自分の身勝手で辞めておいて、良くなったら戻るというのは、日本の企業社会では通用しません。また私の頭の中には最初から、ホンダに戻るという選択肢はありませんでした」
入交は今度は自分自身に言い聞かせるように、言葉を選びながら、やや突き放した言い方をした。
〈本当にそうだろうか。ホンダを辞めようと決心した時、若い頃から世話になった社内の先輩にはだれにも相談しなかった。もし本田宗一郎さんや藤沢武夫さんが生きておればどうだったろう。間違いなく相談せざるを得なかっただろう。あの二人ならこう言ったのではないか。
「お前、なんで子供みたいに拗ねているんだ。頭を冷やせ、頭を。身体が悪かったら会社なんか気が済むまで休め。良くなったら出てくればいいじゃないか」
二人の創業者にこういわれたら「分かりました」と引き下がらざるを得なかっただろう〉
「今日の記者会見の趣旨は、ここに同席しているホンダの元副社長であるミスター・イリが、七月一日付でわれわれGMの仲間になったことをお知らせするためのものです。イリの肩書きはGMコーポレーション(デトロイトの本社)の上級副社長(シニア・バイスプレジデント)兼GMインターナショナルの生産担当の副社長です。
私が責任者を務めるGMインターナショナルは、ご存じのようにドイツのオペルを始めとする北米以外の子会社の生産を担当しています。ミスター・イリには、私の右腕として当面、欧州を中心としたGM子会社の工場を管理・監督してもらいます。私は財務と営業部門が長く、技術の詳しいことは分かりません。したがって欧州GMの生産・開発に関しては、イリが実質的なトップということになります。欧州GMはGMグループの収益源です。それだけに責任も重い。私はイリに大きな期待をかけています。
むろんイリはコーポレーションのボード(取締役会)メンバーですから、デトロイトで開かれる経営会議に出てもらい、GM本社の経営にも積極的に参画してもらいます」
欧州GM社長とドイツ・オペルの会長を兼ね、さらにGM本社の国際担当執行副社長でもあるルー・ヒューズは、入交のGM入りをこう説明することになっていた。
その日はGM社長兼CEO(最高経営責任者)のジャック・スミスもデトロイトで記者会見をして、入交のGM入りを正式発表する段取りになっている。スミスの狙いは、自ら記者会見して入交に対するGMの期待の高さを、全世界に向けて表明することにある。
入交のGM入りは自動車業界のみならず、世界の産業界にとっても第一級のニュースになったはずである。米国の自動車産業及び自動車ジャーナリズムの世界では、依然として入交はスーパースターであり、その動向は大きなニュースになる。
ホンダのオハイオ工場を運営するHAM(ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング)の社長時代、入交は「来る者は拒まず」の方針を取った。ビッグスリーは日系企業の初めての工場ということもあり、オハイオ工場の動向に関心を示していた。入交は秘密主義を取らずに、見学したいという人には、ライバル会社であろうと工場の隅々まで見せた。さらに時間の許す限り自ら説明役を買って出て、意識して米国社会に溶け込む努力を続けてきた。
その一方で部品の現地調達率の向上に努め、六〇%を超えた頃を見計らって、米国自動車工業会にも加盟した。ホンダは名実ともにGM、フォード、クライスラーのビッグスリーに次ぐ、米国第四番目の自動車メーカーとして認められた。入交の交際範囲もぐっと広くなった。ホンダのシンボルは、国内ではいまなお本田宗一郎だが、米国では「ミスター・イリ」である。
それを裏付けるように、平成四年の春に突然副社長を退任した時も、「ニューヨーク・タイムズ」を始めとする米国のマスコミは日本の新聞以上に大きなスペースを割いて、大々的に報じた。入交の動向は日本以上に米国で大きな関心をもたれていた。その入交が元首相の宮沢喜一をして「GMは星条旗そのもの」といわしめた巨大企業の、それもボードメンバーになるとなればニュースバリューは大きい。
タイミングの良いことに、GMは三月に購買担当副社長のイグナシオ・ロペスをドイツのVW(フォルクスワーゲン)に引き抜かれ、GMとVWの間では訴訟問題までに発展している。
事実はどうであれ、世界の自動車マスコミは「GMはロペスを引き抜かれたため、その後任としてホンダから入交をスカウトした」と書き立てることは容易に想像できる。スミスがわざわざデトロイトで記者会見をするもう一つの理由は、ロペス問題と入交のGM入りは無関係であることを表明したかったからだ。
入交のGM入りのニュースは、日本の自動車業界でも衝撃をもって受け止められただろう。日本企業はこれまでヘッドハンティングと無関係だったわけではない。日産は米国テネシー州での小型トラックの現地生産に際し、フォードの生産担当副社長だったラービン・ラニオンをスカウトしてNMMC(米国日産自動車製造)の初代社長に据えた。
逆にホンダは入交が副社長を辞めた九二年秋に、HAMの米国人ナンバーツーの上級副社長、アレン・キンザーをBMWに引き抜かれている。アレン・キンザーはHAMの上級副社長というより、HAMが採用した最初の米国人社員である。設立当初から工場建設と米国人の採用に携わり、日本人スタッフと苦楽をともにしてきた、いわばオハイオ工場の生き字引的な存在である。BMWはその経験と知恵に目を付け、米生産子会社のCEOに起用した。
HAMの経営幹部を引き抜かれたホンダは、九三年に入ってマツダの米国販売会社の副社長、リチャード・コリバーを現地販売会社の米国ホンダ(アメホン)の上級副社長として引き抜いた。米国では日系企業を巻き込んだスカウト人事は、日常茶飯事に行なわれている。
ただし世界最大の自動車会社、GMとなれば話は別である。フォードは一九六八年に当時会長だったヘンリー・フォード二世が、GMの執行副社長、シーモン・ヌードセンを引き抜いて社長に据えて、米自動車業界の度肝を抜いた。クライスラーの「中興の祖」であり、日本車バッシングで悪名をとどろかせたリー・アイアコッカの最後の仕事は、欧州GMでジャック・スミスの右腕として働いたロバート・イートンを引き抜いて、自分の後任に据えることだった。
GMはこれまで人材スカウトの草刈り場にされても、王者らしく鷹揚に構え、自ら積極的にヘッドハンティングに動くことはなかった。プライドの高いGMが日本企業、それも海外の知名度ではトヨタ、日産を凌ぐホンダ、それも「ミスター・ホンダ」「ホンダのプリンス」の名をほしいままにしていた男を上級副社長として迎えるというのは、まさに前代未聞といえる。
世界の自動車業界は再編に向けて、水面下では動きが活発になっている。再編劇で主導権を握れるかどうかは、人と人のつながりがモノをいう。入交がGMに入れば世界の自動車業界の再編劇の動きに拍車をかける。
米自動車専門誌のオートモティブ・ニューズが選んだ九三年の米自動車産業の重要ニュースは、第一位がGMのロペス移籍問題で、二位が日本車メーカーの苦境だった。三位以下はクライスラーの復活、NAFTA(北米自由貿易協定)合意、GMのピックアップトラックの安全性問題と続いている。もし入交がGMに入っておれば、そのニュースは間違いなく上位にランクされたであろう。
入交が健康を理由に突然、川本にホンダ副社長と本田技術研究所社長の辞任を申し出たのは、宗一郎が亡くなってから八カ月後の平成四年三月十六日のことだった。この年は三月半ばになっても春一番が吹くどころか、発達中の低気圧の影響で十六日の深夜から関東・甲信越地方にみぞれが降り、十八日の未明から東京は雪となった。
春の雪が舞う十八日の午前、ホンダは南青山の本社で急きょ臨時取締役会を開いて、入交の辞表をあっさり受理した。辞任の理由としてホンダは「本人から心身ともに疲労こんぱいし、激務を続けるのは困難という申し出があった」ことを挙げ、さらに「川本社長は慰留したが、本人の辞意が固く、受理せざるを得なかった」と付け加えた。辞意が突然だっただけに、新聞は会社のコメントを信用せず、翌十九日付で憶測記事を書きまくった。
「入交副社長突然の辞任/理由は“健康不安”/重み増す川本社長」(日経)
「五十二歳『疲れ切った』ホンダのエース/入交副社長退任」(毎日)
ホンダ社内ではOB役員を含め、入交から進退について、事前に相談を受けた人はいない。退任理由は漠然と健康問題というだけで、ホンダのスポークスマンですら「あまりにも突然過ぎて辞任の真意がいまひとつはっきりしない」と解説する始末。当然のことながら憶測が憶測を呼んだ。
「辞任の理由は、経営路線を巡って川本社長と対立したからだ」
「いや、根はもっと深い。そもそもの原因は、久米是志前社長から後継に指名されなかったことにある」
「それは違う。実は金銭的な問題だ」
ホンダ・ウォッチャーはここぞとばかり解説した。
肝心の入交は辞表を出した翌日から、順天堂大学病院の伊豆長岡分院に入院してしまったため、真相はヤブの中となってしまった。
川本自身、マスコミの取材に苦慮していた。仮に本当のことを説明しても、理解を得られそうにもないからである。真相が分からないだけに、新聞記者は連日連夜、東京・中野区鷺宮にある川本の自宅に押し掛けた。川本はそのつど判で押したようにこう答えた。
「うわさされるような路線対立などはまったくありません。私は入社以来三十年間、イリ(入交)さんと付き合ってきました。彼の責任感の強さが、激務と健康を両立させにくいと思わせたのでしょう」
川本と入交がホンダに入社した昭和三十八年は、時の首相、池田勇人が提唱した所得倍増計画が軌道に乗り始めた時代だった。国鉄はこの年の春に、中学を卒業したばかりの七万八千人の若年労働者を、「就職列車」という名の専用車に乗せ、地方から東京、大阪、名古屋の大都会に送り込んだ。若年労働者が大都市に集まり、高度成長に拍車がかかった。
五月には鈴鹿サーキットで四輪車の「第一回日本グランプリ」が開かれた。自動車メーカーもタイヤメーカーも、まだレース専用のタイヤがあることすら知らなかった。それにもかかわらず、排気量二〇〇〇cc以下のスポーツカーの部門で、日産の「フェアレディー」が並み居る海外の強豪車を抑えて優勝、日本車メーカーに自信を植え付けた。
七月には名神高速道路が一部(尼崎、栗東間)開通した。日本にもようやく時速百キロのスピードが出せる高速道路ができ、いやがおうにも国民の間に自動車熱が高まった。
ホンダはマイカー時代の到来を見越して、この年に小型スポーツカーと軽トラックを発売、念願の四輪車進出を果たした。従業員も七千人を超え、確実に中小企業から大企業へと脱皮しつつあった。そういう時代に川本や入交がホンダに飛び込んできた。
入交は父親が航空機のエンジニアだった関係で、小さい時から機械に興味を持っていた。飛行機のエンジニアになる決心をしたのは、小学校四年の時だった。発端は理科のテストにあった。テストは右にピストン、ノズルといった機械部品の名前、左に蒸気タービン、ジェットエンジンといった関連用語が並べてあり、これを結び付けるものだった。
入交はノズル(筒状で、先の小さな穴から勢いよく液体を出す装置)をジェットエンジンに結び付けた。ところが正解は蒸気タービンだった。入交は担任の先生に食ってかかったが、先生は「ジェットエンジンにノズルはない」といって相手にしない。入交はそれに納得せず市の図書館に行き、航空機の本を読み漁った。
わが国初の民間旅客機、「YS─11」の設計者として知られる日大教授の木村秀政が書いた『航空機の驚異』という本の中にノズルという言葉を見つけ、溜飲を下げると同時に航空機に興味を持ち出した。
「将来、航空機のエンジニアになりたい」
入交のこうした考えは中学、高校に入ってからも変わらなかった。当時航空工学を教える大学は九州大学、大阪大学、東京大学の三つしかなかったが、入交は東大を選んだ。東大工学部航空機学科は、原動機と機体に分かれていたが、ためらわずエンジンの原動機を専攻した。
大学三年の時に三菱重工業の大江工場、四年は川崎重工業の明石工場で実習したものの、大学に入学すると同時に航空機のエンジニアになる夢は半ば諦めた。
戦後の航空機産業は、航空機製造禁止の影響でエンジン技術が大きく立ち遅れ、エンジンから機体までの完全国産化は絶望視されていたためだ。大学でいくら航空機のエンジンを学んでも、それを活かせる職場がなければ入社しても意味がない。
大学に入って興味を持ったのがレース用のエンジンだった。大学へは親から買ってもらった排気量五〇ccの小型オートバイ、ホンダの「スーパーカブ」に乗って通学していたこともあり、ホンダには親しみを感じていた。高回転のレーシング用のエンジンの改造に熱中し、五月祭にはホンダから二五〇ccのオートバイ用エンジンを借りて、ホーバークラフト用に改造して展示したこともある。
入交が三年の時にホンダは、マン島レースで完全優勝を果たした。このニュースは入交をワクワクさせた。
卒論設計には「十二気筒のF1エンジン」を選んだ。指導教官は後に日産と合併したプリンス自動車の中川良一だった。中川はプリンスの役員の傍ら非常勤講師として、週一回東大に来てエンジンについて講義すると同時に、原動機を専攻した学生の卒論設計を指導していた。
航空機学科原動機を専攻したのは、入交を含め十七人おり、うち十一人が就職先として自動車メーカーを選んだ。イレブンが“カー・ガイ(自動車野郎)”になったのである。トヨタ、日産、いすゞ、ホンダ……。イレブンは大手自動車メーカーに散った。
九州生まれの広瀬裕(現マツダR&D北米社長)は、当時創刊されたばかりの機械に関する技術雑誌「内燃機関」に、RE(ロータリー・エンジン)産みの親とされる山本健一(マツダ元社長、会長)がREの将来性について述べており、それに興味を抱いてマツダを選んだ。
ホンダには入交と吉野浩行など三人が入った。入交がトヨタ、日産といった大手の自動車メーカーではなく、ホンダを選んだのは、ホンダだけがレースに積極的に取り組んでいたことが決め手になった。
「ホンダに入れば、レース用エンジンの開発に携われる」
レースであれば、オートバイでも四輪車でも何でも良かった。むろん本田宗一郎に対する憧れもあった。入交にとって、入るべき会社はホンダしかなかった。それほど惚れ込んで入った会社であった。
「宗一郎さんのように、将来自分の手でレーシングカーを作ってみたい」
その夢が実現し、無我夢中でオートバイ作りに没頭している間に、会社は「世界のホンダ」と呼ばれるほど大きくなっていた。そして入交自身も三十九歳の若さで役員に就任した。
東北大学の院生だった川本は、仙台の映画館でホンダのマン島レースの完全優勝のシーンに感動した。白黒テレビはすでに家庭に普及し始めていたが、業務用ビデオカメラがなかったことから、感激のシーンはニュース映画でしか見られなかった。
カーマニアだった川本は、子供の頃から自動車会社に憧れていた。トヨタ会長の豊田章一郎(現名誉会長)が学んだと同じ棚沢泰教授の研究室で精密工学を学んでおり、就職活動をしようとした矢先、恩師から「トヨタなら良く知っているので、紹介状を書いてやる」といわれた。
一時は真剣にトヨタに入ることを考えたが、ニュース映画でホンダという会社に興味を持ってからは、トヨタに対する関心が急激に薄れた。ホンダに関するニュースを注意深くフォローしていたとき、ホンダがオートバイのマン島レースに続いてF1レースにも挑戦するとの観測記事に遭遇した。
嘘か本当かは別にして、こうなると矢も盾もたまらなくなる。大学の就職課に相談に行くと、偶然にも海外視察旅行で、ホンダの研究所の人と知り合いになったという担当者から「ホンダは今年は大々的に技術者を採用するらしい」との情報を得た。そこで担当者の紹介でホンダを受験した。筆記試験はなく、簡単な面接だけ。面接官は二代目社長の河島喜好だった。結果は入交同様、一回の面接で即採用が決まった。
三十八年は技術系、事務系合わせて、大卒は八十人ほど入社した。技術系、それも開発に携わるエンジニアは、別会社になっている技術研究所に配属された。入交は入社したその日に、二つの点で度肝を抜かれた。研究所にはF1のシリンダーブロックが無造作に置いてあった。入交はそれをめざとく見つけて、ホンダがF1に挑戦する準備を進めていることを初めて知った。
「ホンダはF1に出るんですか?」
入交が恐る恐る尋ねると、担当者はしたり顔で答えた。
「来年から出る積もりだ。ところでおまえは、研究所で何をやりたいのだ」
「私はレース用のエンジン設計をやりたいと思っております。もしやらせてもらえなければ、辞める積もりです」
すると担当者は、大声を張り上げて笑い出した。
「今の若い者は夢がちいせいな。月にロケットを飛ばそうとすれば、ホンダなら二、三年もあればできる。ホンダは何でも出来るし、何でもやらせる会社だ。安心しろ。おまえらには希望通りの仕事をやらせてやる」
川本はこの年に新設されたばかりの乗用車のエンジンを開発する四輪車発動機課、入交はレース用エンジンを設計するレース設計課への配属が決まった。
入交が配属されたレース設計課は、課長以下十二、三人しかいない。このわずかな人間で、排気量五〇ccの小型オートバイから一二五cc、二五〇cc、三五〇ccの中・大型機種、さらには四輪車のF1からF2まで、すべてのレース用エンジンの設計を手掛けるのである。
入交は入社早々、五〇ccのオートバイの設計を任された。川本は新設されたばかりの課で、乗用車用エンジンの図面を引いていた。課は違っても部屋は同じで、仕事の内容も似たようなものである。机を並べて図面を引いたこともあり、ごく自然に「イリさん」「カワさん」と呼び合うようになった。
二人は入社したてから仕事も夢も共有してきた。夢は自分たちが設計したマシンで、F1レースを制することである。入社して間もなく、宗一郎の長男、本田博俊からレーサーの生沢徹を紹介された。博俊と生沢は昭和十七年生まれの幼馴染みで、二人はまだ日大芸術学部に在学していた。
生沢は昭和三十二年に、作家井上靖の新聞連載小説の挿絵を担当していた父親の売れっ子画家、生沢朗から五〇ccのオートバイ「オオツキ・ダンディ」を買ってもらい、オートバイの浅間火山レースに出場した。
この時、まだ十五歳。当時は五〇ccであれば十四歳で免許が取れた。だが一二五cc以下のレースであっても、五〇ccのオートバイでは生沢がいくら天才ドライバーでも勝てるわけがない。生沢が十五歳でレースの世界に入ったのは、マン島レースのドライバーを夢見ていたからである。
大学在学中にプリンス自動車のワークス(チーム)・ドライバーとして、「スカイラインGT」に乗って第一回の日本グランプリに出場、今度は華々しく四輪ドライバーとしてデビュー、早くも「スカGの神話を作った男」として名を馳せていた。が、彼は単なるレーサーに飽き足らず時間を見付けては、ホンダが開発したスポーツカー、「S600」をレース用に改造し、それでレースに出場することに熱中していた。
博俊に頼まれて川本や入交たちが、生沢に協力することになった。三人に共通した夢は、入交や川本の設計したマシンに生沢が乗り、F1レースで優勝することだった。
週末が近づくと研究所の仕事もそこそこに、研究所から余った部品を持ち出し、世田谷・奥沢にあった生沢の自宅に行き、そこで「S600」の改造を手伝った。その改造車に乗って、開通したばかりの首都高速道路を、制限時速の八〇キロを大幅に上回るスピードを出してテストをする。それを終えると明け方までレースについて、自分たちの夢を語りあった。下宿先に帰るころは、すでに東の空は明るくなっていた。
レースのある週は、十人近くものホンダの若手技術者が生沢の自宅に集まった。改造が終わり次第、改造車を先頭に数台の車に分乗して鈴鹿サーキットまで行きレースに臨んだ。東名高速道路がまだ開通していない時代で、鈴鹿までは国道1号線を制限速度をオーバーして徹夜で飛ばしても、ゆうに十二時間はかかる。レースにはホンダのワークスも参加していたが、生沢の改造車は常にホンダ・ワークスを負かした。
改造を手伝っていたのが、入交や川本を中心とした研究所の若手社員であることが判明するまでは、それほど時間がかからなかった。キッカケは川本が、不用意に埼玉県・白子にあった修理工場のホンダSFに改造車の修理を出したことにあった。そこから研究所の部品を無断で持ち出したことも判明、一時は入交や川本の進退問題にまで発展した。しかし紹介したのが宗一郎の長男の博俊ということもあって、最終的には事なきを得た。
レースに出ない日曜日は、池袋にあったスポーツカー専門のレンタカー会社から、それぞれ自分の好きな車を借りて、出来たばかりの小河内ダムまで、スピードを競って遊んだ。入交と川本は、会社の仕事も遊びも、プライベートな生活もすべて一緒だった。入交と川本は仕事と遊びを通じて、お互いに相手が何を考えているか大体想像がついていた。
こうした青春時代の友情関係とは裏腹に、いち早くマスコミの脚光を浴びたのは入交の方だった。取締役に就任したのが入交が昭和五十四年で、川本より二年ほど早い。三十九歳と若かったこともあり、「ホンダの若さの象徴」として、何かとマスコミに取り上げられた。
性格的にも入交を「陽」とすれば、川本は「陰」である。入交は役員になってからも表参道の本社に皮ジャンを着込み、“ナナハン”と呼ばれる排気量七五〇ccの大型オートバイに乗って通勤する、派手なパフォーマンスを持ち合わせていた。
これに対し川本は見た目が地味で、気難しそうな顔をしているせいか、最初は取っ付きにくい印象を与える。だがいったん酒が入ると、独特のベランメエ調が出だし、陽気な人間に早変わりする。その落差が大きすぎるため、酒の入ったときの陽気さは、本人が意識して作ったように誤解された。
入交はすべてが自然体で、何をしても絵になる。話も理路整然としており、歯切れも良く、人を引きつける魅力がある。マスコミ受けするのは、当然といえば当然である。会社も入交を宗一郎と藤沢に代わる「新しいホンダの顔」として意識的に売り込んだ時期もあった。入交はいつしか社内外で「ホンダのプリンス」と呼ばれ出した。
性格からパフォーマンスまで、二人はすべての面で対照的であった。入交は仕事の上ではどちらかといえば、三代目社長の久米是志より、二代目社長の河島喜好に近かった。敬虔なクリスチャンでもある河島は、若い時から入交を実の弟のように可愛がり、酒が入ると入交の肩を叩きながら必ずこういった。
「いいか。おまえはいずれ、ホンダの社長になる男だ。おまえが将来ホンダの舵取りをするのだ。そのためにはいろんなところを経験しておいたほうがよい」
これに対し久米は、河島と違った評価を下していた。ポスト久米を巡ってマスコミから二人の人物評を聞かれると、いつもこう答えた。
「カワ(川本)さんね、彼は大悪党、ヒットラーだな。とにかくめちゃくちゃだょ。イリさん(入交)、ちょいと難しい人だね」
久米の川本評は一見、厳しいようにみえるが、言葉尻から親しさが伝わってくる。それに比べ、入交評はどこか妙にぼやけている。久米が平成二年春に後継者に選んだのは、河島が意識してゼネラリストの道を歩ませた入交ではなく、研究所畑一筋の川本であった。久米は川本を選んだ理由として「私と同じように、なりたくない人になってもらうのがホンダの伝統」という、分かったような分からないいい方をして、「どんな点を評価して川本を選んだか」について執拗に食い下がるマスコミを煙にまいた。
「引退後もホンダの経営に大きな影響力を持っていた六本木の旦那が生きておれば、もっと違った結果が出たのではないか」
二人を知るホンダの役員OBが解説するほど、客観的にみて二人の力は拮抗していた。
企業の権力の象徴である社長に就けなかった入交に、悔しさがなかったといえば嘘になる。ホンダは伝統的に次期社長を副社長からではなく、専務陣の中から選ぶ。ホンダにとって副社長は上がりのポストで、その先は会長しかない。ホンダにおける会長の立場は代表権は持っているものの、社長に次ぐ社内序列二番目のポストである。入交は川本社長の誕生と同時に副社長に昇格した。
過去の例に倣えば、その時点で「入交社長」の芽は消えたことになる。にもかかわらずホンダの社内事情を知らない世間は、二人の年齢が四歳違うことから依然として「ポスト川本の本命は入交」と見る向きが多かった。入交はポスト久米に川本が選ばれた時点で、自分に言い聞かせた。
〈いまのままでは、ホンダはダメになる。今後おれはカワさんの右腕となって、ホンダの改革を進める〉
ホンダは入交と同時に途中入社組の宗国旨英も副社長に昇格させ、川本を交えたトロイカ体制を発足させた。入交の辞任は管理職の年俸制の導入など、ホンダ再生に向けた果敢な経営改革に取り組み始めた矢先の出来事である。
憶測は憶測としてこの時期、入交が健康を害していたのは事実である。HAMの社長に着任した一年後の一九八五年秋、エンジン工場の鍬入れ式(グラウンド・ブレーキング)の前夜に突然不整脈が起きた。
夜中に猛烈に気分が悪くなり翌朝、かかりつけの医者に駆け込んだところ、軽い心筋こうそくと診断された。直ちに入院するよう諭されたが、その日の鍬入れ式にオハイオ州の知事を呼んでいるので、欠席するわけにはいかない。
不整脈は過労によるストレスからきていた。入交は仕事でも、遊びでもトコトンやらなければ気が済まない性格である。働く以上一〇〇%、それも自分の考えで突き進まないと納得しない。瞬時に物事を判断して、果敢に突き進む猪突猛進型の人間ともいえる。
幸い米国での発作はこの時の一回だけで済んだ。米国での生活に慣れるにつれ、自然とストレスも解消した。吐け口となったのは、鈴鹿製作所長時代に始めたゴルフである。米国では仕事も死に物狂いでやったが、土、日の休みは仕事を忘れてゴルフに熱中した。
束の間の夏のシーズンには、一日三ラウンド、それも違ったコースでやったこともある。食事は移動する車の中。運転しながらハンバーガーをかじる。こうした熱心さが功を奏してか、メキメキ上達し、いつしかシングルの仲間入りを果たした。
「この本面白いわよ」
入交は順天堂伊豆長岡分院に一カ月ほど入院した後、自宅療養に切り換えた。その直後、妻の啓子から一冊の本を手渡された。タイトルは『気・命の力』、サブタイトルに「今注目の西野流呼吸法」とある。
著者の西野皓三はタレントの金井克子や由美かおるを育てた西野バレー団の創設者として知られ、その後中国の気功を取り入れた独自の呼吸法を編み出し、それを実践する西野塾を主宰している。
入交は妻から渡された本を読んで、“気”に興味をいだき、だれの紹介もなく西野塾の門を叩いた。稽古は最初のうちはきつかったが、慣れるに従って、自分でも驚くほどみるみる間に健康を取り戻した。
入門当初は初心者クラスのため、西野と直接話し合う機会はなかったが、稽古に通ううち自然に親しくなり、人生論を交わす間柄になった。健康を害した人に一番必要なのは、身体の障害を治す以前に心の病を治すことである。
「入交さん、人生はすべてゲームです。ただ生きているだけが真実なのです。でも多くの人たちは、自分の仕事が人生だと思っている。名誉だ、肩書きだと思っている人もいるでしょう。夢、つまり幻想の花は大きく咲かせるべきです。忘れてならないのは、いま生きていることだけが真実であって、あとはすべて幻想だということです」
入交は西野からこの言葉を聞いたとき、目からウロコが落ちるのが分かった。そしてなにかしら心の底から意欲が湧いてきた。
〈考えてみれば、おれはまだ五十二歳。老け込むには早すぎる。老後の生活はホンダの役員年金があるので問題ないにしても、自宅でブラブラしていては、生活に張りがない。何かやらなければ……〉
新たな仕事に就くのは、しばらく先になるにしても、入交は健康を完全に取り戻すまでの間、日本の製造業の強さと弱さを検証するため、自分の足で製造業の現場を歩き、技術者の目でそれを確かめ、一冊の本にまとめようと決意した。日本経済はバブルが弾けて、深刻な不況に突入している。経済の高度成長を支えた製造業にも疲弊が見え始めていた。
〈日本の製造業はどんな生い立ちをたどって生まれ、そして強くなったのか。強さの秘密はどこにあるのか。果たしてこの強さを、これからも維持できるのか。それともバブルの崩壊を機に衰退してしまうのか〉
入交は六月下旬に開かれた株主総会で、正式に取締役を退任、新たに常任顧問に就いた。ホンダの慣例では、副社長以上であれば退任後の役職は相談役、専務、常務は顧問である。入交の待遇について、ホンダは苦しい説明をした。
「入交さんは確かに副社長まで務めたが、任期途中で辞めています。ホンダの役員を退任したときの直近の肩書きは、単なる取締役でしたから、常任顧問に就任されました」
入交は会社が用意したポストに、文句をいわずに就いた。将来の生活設計に直接響く役員年金は、副社長当時の年収で計算される。相談役であろうが顧問であろうが、東京駅・八重洲口にあるホンダの旧本社ビルは事務所がわりに自由に使えるので、これからの仕事に何ら支障はない。
株主総会で役員を退任したのを機に、取材旅行が始まった。大阪、名古屋、広島、九州……。意識して大企業ではなく、独自の技術を持ち、製造業の底辺を支える中小企業を回り、創業経営者の話を聞いて歩いた。
ホンダの研究所と工場は、隅から隅まで知り尽くしているが、一次部品メーカーは知っていても二次、三次になるとほとんど知らなかった。その知らない世界を自分の足で回るのは楽しい。分からないことがあれば、自分で国会図書館や日比谷図書館に足を運んで調べた。
西野塾には週二回ほど通って稽古を続けた。つい半年前に死線をさまよったことが嘘のように健康を取り戻した。秋口に入ると、知人から再就職の話がチラホラ持ち込まれるようになった。大半は米国の自動車部品会社である。ホンダと資本・業務提携している英国のローバーからも誘いがきた。
ホンダには「役員は(現役時代に燃えて燃えて燃え尽きたはずだから)退社した後、再就職しない」という掟がある。その見返りに優雅な生活を送れるだけの手厚い役員年金が支給される。ライバル会社に行くのは論外である。唯一、大学を始めとする教育関係の仕事だけが許される。
この掟を破りホンダと絶縁したのは、ホンダが大卒の定期採用に踏み切った年の昭和二十八年に入社した元常務の千々岩雄平一人しかいない。千々岩は常務を退いた後、鈴鹿でレジャーランドを経営する関連会社の「ホンダランド」の社長に就任した。その時の実績が見込まれ、岡山のレジャーランド会社からスカウトされた。それがホンダの役員会で大問題となり、千々岩はそれに嫌気がさして役員年金を返上、自らホンダと手を切った。
入交は「役員を経験した人は、再就職しない」という掟があることは百も承知している。だからこそ米国の自動車部品会社からスカウト話が舞い込んできた時は、条件すら聞かずに丁寧に断った。
ホンダが資本提携しているローバーに行くことは、信義の問題が絡むので、それ以上に難しい。ただ声を掛けてくれたのが、旧知のローバーの幹部だけに直接会ってホンダ側の事情を説明して断念してもらった。
といって五十そこそこで世捨て人になり、年金生活に入るにはいかにも侘しい。健康の回復とともに、ふつふつと意欲らしきものが湧き出てきた。
再起に向けて対外活動を始めたのは、平成四年十一月に入ってからである。一橋大学の学園祭に招かれ「国際人の条件と大学教育」のテーマで講演、オハイオ工場時代に地元の大学生を積極的に採用してきた経験から「日本より米国の大学生の方が、自分の受けた教育に対して自信を持っている」と、目の前にいる大勢の学生に歯に衣を着せぬ調子で語りかけた。
十二月には日米の代表的な企業が制度、慣習の枠を超えて戦略提携を実現するための会議「ALIANCE(アライアンス)92」にゲストスピーカーとして参加、「庶民レベルで使える日本のハイテク技術は成熟段階に入り、製造業も行き詰まり状態にある。これを打破するには、国境をはじめとする既存の枠組みを超えたアライアンス(提携)しかない」と半年間の“取材”の成果をまとめた持論を披露した。
健康回復が本物であることが分かり、対外活動も軌道に乗るにつれ、そろそろ真剣になって将来の進路を考えなければならない。自宅には時折、旧知の新聞記者が訪ねてくるが、将来の進路を聞かれると必ずこう答えた。
「いろんなところからお話をいただいているが、ホンダや日本の製造業のために自分に何ができるかを、もうしばらく考えたい」
入交が健康を取り戻しつつあることは、ホンダ本社にも風聞として伝わった。ホンダのヒーローだっただけに、退社の事情を知らない若手の技術者の間からは公然と「入交復帰論」が出始めた。
業績は向上するきっかけをつかむどころか、泥沼の様相を呈してきている。期待の米国も思ったように伸びない。社内には暗い空気が漂い始めている。業績が低迷している時期だけに、役員室は入交復帰論に神経を尖らせた。当然のことながら、社内の動揺は入交の耳にも入ってくる。しかし入交の肚はすでに決まっていた。
〈自分の身勝手から副社長を辞めたが、その経緯からして、今後ホンダの経営に携わる可能性は一〇〇%ない。かつての部下の中には私の健康が良くなったら現役に復帰することを期待する向きがあることも知っているが、それは幻想に過ぎない。顧問とはいえ、私がホンダに籍を置いていること自体がホンダの古傷に塩を擦り込むことになっている。となるとホンダの傷を癒す唯一の手段は、一日も早く私自身がホンダを去ることだ〉
入交は遅くとも翌年の春までに、ホンダを去る決心を固めた。ただ、その前にホンダの掟がどうであれ、次の仕事を探しておかなければならない。
再就職先として真剣に考えたのが、さる私立大学から依頼された総長就任である。大学であればホンダと直接利害がぶつからず、役員の掟にも抵触しない。日本の製造業の強さを探る取材を通じて、教育の重要性を身にしみて感じ始め、さらに大学祭で自分の子供と同じ世代の学生と接触してみて、そうした思いが日毎に強まっていった。
〈日本の製造業が強かったのは、あくまで改良技術の分野だった。基本技術は昔も今も米国にある。日本は戦後それを導入して、日本人独特の器用さで改良に改良を重ね、今日の基盤を作り上げた。しかし米国の基本技術も枯渇し始めている。今後新たな技術を開発しても、これまでのように野放図に日本には提供しないだろう。となれば日本は基本技術から開発しなければならない。大学教育は今後ますます大切になる〉
入交の教育に対する情熱は、日増しに高まった。誘われた大学に何度か足を運び、教室の一番後ろで実際に講義を聞き、理事長とも大学の運営や教育方針について話し合った。
〈自分の第二の人生は、教育に尽くす〉
そう自分にいい聞かせた矢先の十二月の半ば過ぎ、海外の自動車業界に精通している知人とホテルニューオータニのガーデンコートにある「寿司割烹・四季」で寿司をつまみながら世間話をしている時、思いがけないことを持ち掛けられた。
「イリさん。GMにルー・ヒューズという男がいるのを知ってますか。ジャック・スミス社長の腹心中の腹心で、欧州市場を全部任されている実力者です。欧州GM社長でオペルの会長も兼務しています。その人が正月早々日本に来る。なぜか向こうがあなたに一度会いたいといっています。気軽に会ってみる積もりはありませんか」
ヒューズの名前は、米国駐在経験のある入交はむろん知っている。
〈確かまだ四十三歳のはずだ。おれより九つも若い。その男がなぜこの時期に、どんな目的で……〉
入交は首を傾げた。再就職先は大学の総長に絞りかけている。といって自動車に対する未練を完全に断ち切ったわけではない。
「会うことはやぶさかではない」
そう返事をしたが、その時はまだGMからのスカウトとは夢に思ってもみなかった。
ヒューズは一月九日にヤナセ本社で行なわれるオペル車の出荷式に参列するため、正月明けに来日する。オペルはGMのドイツにおける生産子会社で、経営は欧州GMの監督下にある。
ドイツ市場ではVWとトップを争っているが、日本市場ではVWに圧倒され、馴染みも薄く稲妻をかたどったオペルのエンブレムのロゴを知っている日本人は少ない。
VW車は輸入車業界の雄、ヤナセが扱っており、ワーゲン車はカブト虫(ビートル)の時代から熱烈なファンを持っている。日本市場にワーゲン車が浸透したのは、ヤナセの努力の賜物だが、VWはそれに満足せず独自の販売網作りに走る一方、トヨタと共同販売網を作った。これにヤナセ社長の梁瀬次郎がさすがに肚にすえかね大喧嘩となり、ヤナセは日本におけるワーゲン・アウディ車の輸入代理権を返上してしまった。
ヤナセの販売台数のうち、ワーゲン・アウディ車が半分を占める。代理権を手放しては販売台数は半減する。そこでGMの子会社であるオペル車に目を付けたのだった。
オペル車の日本における輸入代理権は、従来GMが資本提携しているいすゞが持っていたが、いかんせんトラックが販売の中心とあって思うように台数が伸びず、いすゞはその輸入販売権を返上してしまった。
VWと手を切ったヤナセと国内で強力な販売パートナーを求めていたオペルの利害が一致した。ヤナセは打倒VWに燃えていた。そのヤナセを側面から支援するため、正月明けのオペル車の出荷式に合わせて、欧州GM社長のヒューズが来日することになった。
ビッグスリーの役員にとって、今や欧州は出世の登竜門である。若い時から社内で「カントリー・ボーイ」と呼ばれたGM社長のジャック・スミスは、トヨタとの合弁交渉をまとめあげ、その後GMカナダ社長を経て欧州GMの社長に就任した。欧州時代、オペルを始めとする欧州各地にあるGM子会社にトヨタのかんばん方式を定着させ、欧州部門を「金のなる木」に育て上げた。この実績をひっさげてデトロイトに戻り、海外事業担当の副会長を経て、九二年春に社長兼CEOに就任した。
スミスの片腕として「コスト・カッター」の異名をとるスペイン生まれのイグナシオ・ロペスは、オペルのリュッセルハイムの工場で購買部門で働いていた時、工場視察にきたスミスに見出された。オペルでの購買方針と実績が高く評価され、スミスの本社社長就任とともにデトロイトに凱旋して、いきなり国際購買事業部長に就任した。ロペスはいわばGM叩き上げの出世男である。
クライスラー会長のボブ・イートンも、欧州GM時代スミスの下で働き、スミスが本社に戻ってからは後任社長となった。だが年齢がスミスと近いこともあり、将来GMのトップになる可能性が薄いとみて、リー・アイアコッカの誘いに乗った。
フォード前会長のレッド・ポーリングは執行副社長時代、欧州フォードの社長を兼務していたことがある。現会長のアレックス・トロットマンはもともと英国人で、英国フォードに入り、欧州での実績が認められデトロイトに引き上げられ、外国人として初めてビッグスリーのトップに登りつめた。
イートンの後任社長であるヒューズは、スミスの腹心で財務部門が長く、トレジャラー(財務の専門家)としていすゞを担当したことがある。トヨタとの提携交渉でもタスクホース(作業チーム)のメンバーに入った。さらに両社が豪州市場で生産部門を統合する際、GM側の責任者として交渉にあたった。その後、海外営業部門に転じたが、日本の自動車業界に精通しており、いすゞ、トヨタ、スズキを中心に知己が多い。
欧州GMは、デトロイトの本社が過去三年間、赤字を続けていた時代にも高収益を上げ、デトロイトに送金を続けていた。欧州市場が不況だった九一年から九二年にかけても十五億ドルの利益を上げた。GM本体は九二年の第4四半期から黒字に転換したものの、リストラ(事業の再構築)を推進する上で、引き続き配当という形での本社への送金は欠かせない。それだけに欧州市場を預かるヒューズの責任は大きい。
欧州市場は慢性的に供給過剰に悩まされており、この市場で引き続き高収益を上げるには、さらなる合理化と生産性の向上しかない。
欧州GMが不況時代にも高収益を上げることができたのは、ロペスが厳しい購買政策を推進したことに加え、旧東ドイツ地区に建設したアイゼナッハ工場が戦力化したことによる。
スミスはこの工場にGMとトヨタの合弁会社、NUMMI(ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング)でトヨタの生産方式を学んだ技術者を米国から呼び寄せ、日本の効率的な生産方式を積極的に取り入れた。従業員もオペルの既存工場から厳選して送り込んだ。
日本の生産方式の原点はトヨタの創始者、豊田喜一郎が戦前に考案した「ジャスト・イン・タイム方式」に行き着く。「毎日必要なモノを、必要な分だけ、必要なタイミングで提供するシステム」を実現するには、徹底してムダを省かなければならない。
この喜一郎の考えを「トヨタ生産方式を作った男」として知られる大野耐一が実現した。大野は「かんばん」と呼ばれる長方形のビニール袋に入った一枚の紙をつかうことで、喜一郎の夢を実現した。
かんばんは一種の注文書であり、部品の入った箱には必ずこのかんばんが付いており、使い切ると、外されて決められたポストに入る。そのかんばんは一定の時間に集められ、新たな指示が書き込まれる。部品メーカーはその指示に従って、決められた数を作る。理論通りいけば、作り過ぎはなくなり、在庫も必要としなくなる。
トヨタはかんばんを使ってジャスト・イン・タイム方式を具現化したが、各社も独自の方法を編み出して、効率の良い生産方式を完成させた。基本的な考えは、すべてトヨタのかんばん方式と同じである。
オペルがアイゼナッハ工場に日本の生産方式を定着させるには、ドイツ人や米国人だけでは限界がある。
ヒューズは焦っていた。彼自身、頭で日本の生産方式は理解できても、技術者ではないので、工場に入り込んで生産性向上や合理化の指揮を執ることはできない。
また彼は欧州に赴任した時は、本社の上級副社長兼欧州GM社長だったが、四月にスミスが本社の社長に就任すると同時に執行副社長に昇格、さらに十一月にスミスがCEOになると、今度はGMの国際事業全般を任された。
欧州GMの本社はチューリヒにあるが、工場はドイツ、英国、スペイン、ベルギーなどに分散している。さらに資本提携しているスウェーデンのサーブの経営にも目を光らせなければならない。加えて国際事業全般である。GMの国際事業の本部をデトロイトからチューリヒに移してみたものの、一人で全部見るのはどうみても不可能である。
仕事は年を追うどころか、月を追うごとに増えてくる。ヒューズはそれだけスミスの信任が厚いということになるが、その期待に応えるには、全面的に信頼のおける人材を欧州GMのナンバーツーとして置く必要がある。いわば自分の右腕となる人材は、自分が不得意の技術が分かり、しかも経営センスを持っていることが必要最低限の条件である。スミスがロペスを起用したことで、欧州GMを高収益会社にしたように、ヒューズも自分にない才能を持った人を片腕にしたかった。
日本の生産方式をただ単に取り入れるだけなら、トヨタ、いすゞの知己に頼めば、公式ルートで専門家を派遣してもらえないこともない。だがその時、ヒューズの頭に浮かんだのは、入交の名前であった。入交が健康を理由にホンダの副社長を辞任したニュースは米国のみならず、欧州でも大きな話題になった。
入交と直接面識はないが、オハイオ工場を軌道に乗せた実績は、欧州の自動車業界でも高く評価されている。オハイオ工場を見学したGMの技術者は、無条件に入交の経営手腕を高く評価していた。
GMがいくら業績不振でも、永年業界の王者に君臨してきた鷹揚さから、ライバルの現役役員を強引に引き抜くような行為は考えもつかなかった。ただし第一線を退いているとなれば、話は別である。五十二歳といえば、ロペスと同じ年齢で、まさに働き盛り。これを見逃す手はない。
〈日本企業の意思決定システムはよく分からないが、ホンダの経営の第一線を退いた人をスカウトしても、ホンダと事を構えることにはならない。一度、入交という男に会って、もし彼がGMに興味を持ってくれたら具体的な話を切り出してみよう〉
ヒューズはまだ見ぬ入交に、大いなる可能性を感じた。むろんヒューズはホンダに「役員は退任した後、再就職しない」という掟があることは知る由もない。ヒューズが一番問題にしたのは、自分の片腕になってもらう人材だけに、果たしてお互いの波長が合うかどうかという点だけである。それだけに自分の目で直接相手の力量を確かめておかなければならない。
連絡はGMの現地法人、日本GMを通さずに、双方共通の知人が間に入り、極秘に進められた。そして二人の会談は、ヒューズが来日した翌日の一月六日の朝、七時四十五分からヒューズが宿泊しているホテルオークラで朝食を一緒にとりながらすることが決まった。
入交との会談が正式に決まったとの極秘のファックスがヒューズの手元に届いた直後、日本GMからも一通のファックスが入った。
「ホンダの川本信彦社長から、ヒューズ社長が来日した際、ぜひお会いしたいとの申し出がありました。いかが致しましょうか」
日本GMはヒューズの来日について、正式なアナウンスはしていない。といって隠してもいないので、ホンダ首脳の耳に入っても少しもおかしくない。ヒューズは川本の真意が分からず、一瞬戸惑った。断ることもできたが、将来入交がGMに入った場合、その後の儀礼的な挨拶は欠かせない。そこで部下に次のような趣旨のファックスを打つよう指示を出した。
「今回の来日は極めて短時間です。いまのところ一月七日の朝食の時間なら空いています」
〈私は川本社長とまったく面識がない。前社長のロイド・ロイスが川本という技術者を、盛んに褒めていたことは覚えている。ロイスは「ホンダに川本という凄い技術者がいる。おれの目に狂いがなければ、将来ホンダの社長になるだろう。世界の小型車の流行は、ホンダが作っている。君たちも日本に行く機会があれば、一度川本に会って話を聞けば参考になる」と誇らしげに語っていた。
ロイスと川本は、同じ技術者として波長が合ったのだろう。しかしその川本がなぜこの時期に私に面談を申し込んできたのだろう。入交をGMにスカウトする件は、まだデトロイトのジャック・スミス社長にも話していない。したがって川本の耳に入るはずもない。もしいすゞとの件であれば、私は直接の担当でないので筋違いだ〉
ヒューズが呟いた「いすゞの件」というのは、ホンダといすゞ自動車が平成四年十二月十九日、電撃的に提携を発表したことを指している。
米国では「ミニバン」と呼ばれるトラックをベースにしたRV(レクリエーショナル・ビークル)が全盛期を迎えているが、ホンダにはこの種の車がなく、販売店は苦戦を余儀なくされている。ただし販売網を維持するには、どうしてもRVを供給してやらなければならない。が、ホンダにはトラックの基礎技術がないので作ろうにも作れない。手っ取り早い方法は他社から完成車を融通してもらうことだ。そこでいすゞに白羽の矢を立て、夏以降、秘密裡に供給交渉を続けてきた。
水面下で進められていた提携交渉は十二月の半ば過ぎにようやくまとまった。骨子はいすゞが富士重工業と共同でイリノイ州に建設したSIA(スバル・イスズ・オートモビル)が生産したRVをホンダにOEM(相手先ブランドによる生産)供給することである。
見返りとしてホンダは、国内でいすゞに乗用車を供給する。いすゞのアキレスけんは乗用車部門で、赤字決算の元凶はすべてここにあった。平成四年一月に社長に就任した関和平は、就任直後に小型乗用車「ジェミニ」の開発中止を決断して以来、乗用車生産からの撤退時期をうかがっていた。
そこへ降って湧いたのが、ホンダとの提携話だった。むろん交渉はGMのスミスの了解のもとに行なわれたが、基本的には日本と米国の話で、国際事業担当のヒューズは直接タッチしていない。ヒューズはGM本社の役員会でスミスから両社の提携のいきさつを聞いたが、「いすゞにプラスであれば何ら問題はない」と積極的に賛成を表明しておいた。
〈もしホンダのトップがいすゞの親会社であるGMに報告したいというのであれば、私のところではなく、デトロイトのスミス社長のもとに行くのが筋だ〉
ヒューズは予定通り、一月五日の夜、まだ松の内の明けない東京に着いた。宿泊先のホテルオークラでは、つい数時間前まで大宴会場「平安の間」で日本自動車工業会、日本自動車部品工業会など自動車関連五団体による恒例の新年賀詞交換会が開かれていた。不況の真っただ中ということもあり、交換会自体は例年に比べて盛り上がりに欠けたが、挨拶に立った通産大臣の森喜朗は「景気は今年の春先から回復する」と威勢のいい見通しを述べて業界を激励した。
ホンダ社長の川本信彦は、会場で顔を合わせた知人に「近く欧州GM社長のヒューズに会うんですってね」と問い掛けられドキリとしたが、嘘をつくわけにもいかず、「単なる表敬ですよ」と言葉を濁した。
事実、川本は表敬と考えていた。川本に限らず、ホンダの経営幹部の交際範囲は意外と狭い。これは対外的な活動を宗一郎一人に任せてきたことによるが、基本的には若くしてトップとなるせいか、どうしても内弁慶になりがちなところからきている。
川本もその例にもれない。入社以来一貫して自動車の開発に携わってきただけに、研究所勤務が長く、海外での知己といえば技術者か、F1の関係者に限られる。欧州市場に関して唯一の情報交換相手が、BMW社長のクーンハイムだった。だがクーンハイムは前年に社長を辞め、BMWを去ってしまった。その時思い出したのが数年前、一度会ったことのあるGM前社長、ロイド・ロイスの言葉だった。
「うちにヒューズという若い副社長がいる。財務畑の男だが将来、間違いなくGMを背負って行く人材だ。機会があれば一度、紹介しましょう」
しかしそのロイスはすでに失脚、直接紹介してもらうことができなくなった。そこでヒューズが正月明けに日本に来るという情報を頼りに、日本GMを通じて面談を申し込んだ。
平成五年一月六日の朝。入交は東京・小金井の自宅から愛車を運転して、ホテルオークラに向かった。正月明けの朝の中央高速道路はガラガラ、都心も日曜日のように空いていた。普段ならたっぷり一時間はかかるが、この日は四十分足らずで着いた。
約束の七時四十五分には多少、間があったが、指定された新館十二階の「チェルシーの間」には、すでにヒューズが待っていた。
「この種の話は互いの呼吸が合うかどうかが問題。だれも交えずに二人で話し合った方が良い」
仲介者である共通の知人のアドバイスを受け入れ、二人だけの朝食会となった。入交は日本人にしては小柄だが、ヒューズも米国人にしては小柄な方である。ヒューズは名刺を差し出すなり、挨拶もそこそこにパンを両手でちぎりながら、GMの現状をまくし立てた。
「ミスター・イリ。GMの決算は九〇年、九一年と連続赤字でした。九二年は最悪です。業績は確かに悪いが、必ず立ち直ります。GMのリストラは、世間がみている以上に早いテンポで進んでいます。欧州GMの業績を一段と向上させることが、デトロイトの再生につながる。私の仕事は欧州市場で、GMの収益をもっともっと高めることです。それには生産性をさらに上げ、合理化も推進しなければなりません」
入交は仕事の話が決して嫌いではない。しかし初対面でいきなり仕事の話を始める外国人も珍しいと思いながら時折、質問を挟んだ。
GMの決算は八九年に四十二億ドルの利益を出した後、九〇年は十九億八千万ドル、九一年は四十四億五千万ドルと二年連続して巨額の赤字を計上した。さらに九二年は医療保険やリストラに伴う工場閉鎖の費用が加わり、二百四十億ドルと米国企業史上空前の赤字が予想された。一ドル=一〇〇円換算で二兆四千億円、三菱自動車の年間売り上げに匹敵する数字である。
ヒューズは米国市場の需要がすでに回復する兆しが出てきたこと。ビッグスリーの体質改善も急ピッチで進み、最も遅れていたGMも、社長のスミスが合理化の陣頭指揮をとった成果が出始め、九三年は年間を通じて四年振りに黒字転換すること。欧州は東西ドイツが統合した後、不況に見舞われ厳しい状況にあり、国境を越えた再編成が避けられないことなどをまくしたてた。
世界を巻き込んだ再編劇で、GMはいかにして主導権を握るか。また欧州GMの社長として独オペル、英ボグソールなど欧州工場の生産性をどう高めていくかなどを一方的に語った。
入交は自分より九歳年下のヒューズが熱っぽく語る自動車の世界を、最初は苦笑しながら聞いていたが、時間が経つにつれ表情が堅くなってくるのが、自分でも分かった。
〈世の中にこれほど仕事が好きな男も珍しい。こういう男がいる限り、GMの再生は意外に早いのではないか。わずか四十歳そこそこの男に欧州市場のみならず、国際事業全般を任せるGMの底の深さに末恐ろしさを感じる。いずれにしても、この男は本物だ。久し振りに正統派の米国人ビジネスマンに会った。正直いってGMにもこんな素晴らしい男がいるとは驚いた。GMもまんざら捨てたものでない〉
ヒューズの話は止むことがない。入交が質問すれば、期待した以上の答えが返ってくる。聞いているだけでワクワクした。肝心のスカウトの話はおくびにも出さないが、入交にはヒューズが言わんとしていることが、頭だけでなく体でも理解できた。
ヒューズは話を続けた。
「欧州の各工場は、ジャック・スミスが欧州GMの社長時代、日本の生産システムだけでなく、部品の調達システム、製品開発システムにいたるまで日本の方式を積極的に取り入れました。ご存じのようにスミスはトヨタとの提携交渉に携わり、GM、トヨタの合弁会社であるNUMMIの設立に尽力した人です。
GMはテネシー州に別会社のサターン社を設立して、小型乗用車のサターンを生産しています。当時GMの会長だったロジャー・スミスは日本車の成功の秘密はロボットを始めとする自動化にあると勝手に決め込んで、最新鋭のハイテク(先端技術)工場を建設したのです。
巨額の資金を投じて、ロス・ペローが所有していた情報処理会社のEDS(エレクトロニック・データ・システム)や宇宙・航空のヒューズ社も買収しました。日本のファナックとロボットの合弁会社も作りました。ロジャー・スミスはハイテクを駆使することで、トヨタのかんばん方式を上回る新しい生産方式を開発しようとしたのです。
ただし残念ながら、その計画は挫折しました。ロジャー・スミスは『ハイテクがすべてに勝る』と思い込んでいたのです。これに対しジャック・スミスはNUMMIで働いていた仲間を欧州の工場に呼んで、日本の生産方式を根づかせ、欧州GMをGMの収益源にしました。
ビッグスリーの中でGMの業績回復が一番遅いのは、ロジャー・スミスの後任会長のロバート・ステンペルが優柔不断の政策を取ったことに原因があります。ステンペルは事態を楽観して就任早々『GMはチームワークで勝ち抜く。大掛かりなリストラは考えていない』という態度を取りました。これが社外重役の反感を買ったことから、九一年夏になってやむをえず大規模なリストラ策を打ち出しました。
九五年までに北米の二十一工場の閉鎖と七万四千人の人員削減です。社外重役はこの大胆なリストラを遂行するのは、ステンペルでは無理と判断して、彼を更迭し会長には社外重役のジョン・スメイル(ザ・プロクター&ギャンブル会長)が自ら就任、CEOには社長のジャック・スミスを起用したのです。
いまや欧州では完成車のみならず、部品メーカーの間でも日本の生産方式を取り入れております。指導しているのは、日本に短期間研修に行った人や日本企業との合弁会社で働いたことがある人です。しかし私はGMが日本の生産方式を完全にマスターしたと思ってはいません。欧州でGMが勝ち抜くにはもっと日本の生産方式を徹底させなければなりません。ところがいかんせん私は、財務畑の出身です。技術の詳しいことは分かりません。ドイツ人は自分たちの技術に誇りと自信を持っており、日本の生産方式を導入したがりません。オペルも同じです。そこを何とかしたいのです」
ヒューズは朝食もそこそこに、GMの現状をまくしたてた。
すでに時間は九時近くになっている。九時過ぎにはホテルを出なければならない。二人の話し合いはここで終わったが、ヒューズは最後に提案した。
「ミスター・イリ。今日のミーティングは大変有意義でした。欧州に来る機会があれば、ぜひ今日の続きをやりたい。その時にわれわれの工場を隅々まで見てもらい、適切なアドバイスをしてほしいのです」
入交はヒューズが何を期待しているかを、ほぼ推測できた。ただ向こうが正面切ってスカウトの話を切り出さない以上、自分の方から尋ねるわけにもいかない。
〈この男は本気でおれをGMに誘っている。それなら一度、将来の職場になるかもしれない現場を見ておかなければならない。結論を出すのは、それからでも遅くはない〉
「実は四月にIBMが主催する生産技術のコンファレンスがロンドンで開かれます。私は友人に頼まれ、ゲストスピーカーとして日米欧の生産技術の比較を話すことになっています。日本の現状は知り過ぎるほど知っています。米国についてもオハイオ工場にいた関係で、大体分かっている積もりです。しかし欧州についてはまだ分からない点が多い。欧州の生産技術水準がどの程度なのか。その下調べを兼ね二月に三週間の予定で、欧州の代表的な製造会社の工場を見学する計画を立てています」
入交がこう返事すると、ヒューズはやおら背広のポケットから手帳を取り出した。
「それはいつですか?」
ヒューズは真剣な表情で尋ね、手帳をめくりながら日程調整を始めた。
入交が欧州に行く目的はヒューズに話した通りだが、もう一つ目的があった。自分の体が果たして、長期の海外出張に耐えられるまで回復しているかを確かめることである。
翌七日、ヒューズは前日と同じ時刻に、同じチェルシーの間でホンダ社長の川本と朝食を共にした。入交には川本社長に会う予定を事前に報告して、川本の真意を探ったが、入交は首を傾げただけで詳しい解説を避けた。
この時期、川本はGMが入交と水面下で接触を始めたことは知らない。ヒューズは川本の真意が分からず、多少身構えたが、朝食での話し合いは川本が質問して、それにヒューズが答えるという儀礼的なものに終始した。ヒューズは前日に入交に会ったことは、一切口にしなかった。GM前社長のロイド・ロイスという糸で結ばれた川本とヒューズの会談は実りのないまま終わった。
その日の午後、青山の本社で役員OBを招いた恒例の新年会が開かれた。むろん入交も出席した。現役の経営陣とOB役員が一堂に集まって歓談する機会はここしかない。
ホンダの役員の中では、創業者の宗一郎と藤沢、それに二代目社長の河島喜好の三人が現役を退いた後に最高顧問に就任した。ただし社長を経験した者が全員、最高顧問になれるわけでもない。前社長の久米是志は取締役相談役である。
最高顧問にはっきりした内規はないが、さる幹部は「社長の在任期間中に売り上げを二倍以上伸ばしたことが最低条件」と解説する。創業者二人は別格として、河島は社長就任時に三千三百六十億円だった年間売り上げを十年後に一兆八千四百六十億円へ、五・五倍、久米はそれを七年間で二兆八千億円へ、一・五倍伸ばした。この伸び率の差が退任直後の肩書きとなって表れたといっていい。相談役と顧問は八重洲を事務所代わりに自由に使えるという特典がある。
元役員で構成する役員社友会は、毎月第二火曜日に東京・八重洲の旧本社ビルで昼食会を開いている。毎回ゲストに現役の役員を招いてホンダの経営の現状を聞くのが目的だが、この会に現役社長は滅多に出席しないので、社長とOB役員の懇親の場は、新年会しかない。
OB役員は現役を退いた後はどんな称号を貰おうと、経営に口を挟まないのが鉄則である。元副社長の西田通弘は「私もそうだったが、ホンダの相談役というのは、相談と役の間に『されない』という文字が入る」と苦笑する。
川本は新年会の席上、ホンダを巡る経営環境が一段と厳しくなったことを説明した後、最後にこう締め括った。
「皆様もご存じのように、昨年暮れにいすゞとの提携が新聞を賑わしました。これは向こうからの要請で実現したものです。ホンダは今や自動車業界でも頼りにされる存在になったわけです。これもひとえに諸先輩が築いてくれた永年の努力の所産と思っております」
川本はいすゞが頭を下げてくるほど、ホンダの存在が業界で高まったことを先輩に自慢したかったが、大半のOBはこの言葉を聞いてがっかりした。
〈今のホンダには戦略がない。いすゞ提携はいわば受け身だ。昔のホンダなら積極的に仕掛けていった〉
社長が過去一年間、ホンダの活動を報告した後、立食パーティーに移った。川本も入交もお互いに言葉を交わすどころか、意識して相手と顔を合わせることを避けた。そうした中で、ウィスキーグラスを片手にした会長の吉沢幸一郎が、何気なく入交に近づいて小声で囁いた。
「将来の身の振り方が決まり次第、知らせてほしい」
ヒューズと入交は、東京の朝食会で意気投合した。ヒューズは入交に惚れ込んだ。
〈ミスター・イリは予想した以上に魅力的な男だ。あの人の持っている知識と経験を欧州GMで生かすことができれば、オペルはVWを抜いて、遠からず欧州最強の自動車メーカーになれる〉
一方、入交もヒューズは自分の将来を託せる男ではないかと感じていた。
〈ヒューズは日本人以上にワーカホリック(仕事中毒)だ。GMに来て欲しいとは一度も言わなかったが、彼の話を聞いているだけでワクワクしてくる。不思議と助けてやりたくなる。年下でも彼のもとでなら抵抗なく働ける。ただし、GMに行くには清水の舞台から飛び下りる勇気がいる。ホンダは役員内規を盾に猛反対するだろう。その前に家族も説得しなければならない。いずれも解決できない問題ではない。おれも年が明けて五十三歳になった。エキサイティングな仕事をするのはこれが最後だろう〉
入交はヒューズとの約束を果たすため、二月早々欧州に向かった。最初にイギリスに行き、自動車・自動車部品やエレクトロニクスの工場を見て回り、次にフランスに渡り、二十二日にヒューズとドイツのオペル本社で落ちあい、三日間の予定でオペルの最新鋭工場、アイゼナッハ工場などを見て回り、最後にチューリヒにある欧州GMの本社に立ち寄ることにしている。
イギリスではウェールズ地方の金型、ラジエターなどの自動車部品の中小企業を中心に回った。案内役兼運転手を買って出たのが、ロンドンに移り住んだレーサーの生沢徹だった。入交は一通り工場を見せてもらうと、経営者へのお礼として、必ず工場の改善すべき点を指摘した。
生沢はエンジニアとしての入交の確かな目に舌を巻いた。
〈イリさんがどんないきさつでホンダの副社長を辞めたかは知らないが、自動車に対する情熱は三十年前、私の家に来てS600の改造を手伝ってくれた時と少しも変わらない。彼はやはり自動車の世界で生きるべきだろう〉
ヒューズは入交が欧州に来た時は、誠意を示すため自分がフルアテンドする積もりでいた。入交も結論は帰国してから出すにしても、欧州GMを訪問するに際しては、相当な決意が必要であることを覚悟していた。
入交はホンダで培ってきた自分の経験を、ビッグスリーという日本より数倍広いフィールドで、もう一度試してみたいという衝動に駆られていた。そのはやる気持ちをドイツ語を勉強することで抑えた。GMへの入社が決まれば、当面オペルの工場に入り込み、まどろっこしい通訳を使わずに、直接ドイツ語で指導しようと思っていた。
〈私はいわば突撃隊長だ。冷暖房の効いたオフィスで、生産性を高める議論をしても何の成果も上がらない。欧州GMで生産を任されれば、鈴鹿やHAMでやったように、直接工場に入ってトコトンやる。そうしなければ自分の性格として気が済まない〉
入交は自分の性格を知っている。
「カチンコのイリさん」
かつてホンダの仲間が入交に付けたニックネームである。確かに過去三十年間、入交は研究所で働き、役員になってからも率先して現場を指導してきた。何ごとも自分の目で確かめ、自分の手で製品を直接触って、最後に自分の手で叩いて音を出してみないと納得しない。
ホンダには「現場(事実)」「現物(行動)」「現実(モノ)」という三現主義がある。入交は文字通り、それを実践してきた。
研究所を始めとする現場が長かっただけに、今では工場を一目見ただけで、その善し悪しが分かるようになった。事実、ヒューズの案内でフランクフルトからアウトバーンを使って約二時間、旧東独地区にあるアイゼナッハ工場を見学したとき、瞬時にして改善すべき点が分かった。
〈オペルは日本の生産方式を取り入れているが、まだ形式的だ。魂が入っていない。これでは生産性が低いのは当たり前だ。これを改善するのはそう難しいことではない。ただしドイツ人は自分に誇りを持っている。むしろ大変なのは、工場で働いている人の意識を変えることだ。それにはやはり自分が工場に入り込み、現場でドイツ語で直接指導する以外にない〉
入交はオペルの工場を見た後、ヒューズと一緒にチューリヒの欧州GM本社に立ち寄ると、今度は次々と欧州GMの経営幹部を紹介された。ヒューズが国際担当執行副社長を兼ねている関係で、GMの海外事業はチューリヒでコントロールしている。いわばスイスがGMの海外本社なのである。ヒューズは早くも入交を将来の仲間として紹介した。
入交が帰国する前日、欧州GMの幹部と夕食をともにしたあと、ヒューズは二人きりになったのを見計らって真剣な表情で切り出した。
「欧州GMのすべてをお見せしました。仲間も紹介しました。私たちはミスター・イリの力を必要としています。ここで一緒に働いてみる気はありませんか。後日、GMの代理人を差し向けますので、待遇や報酬などについて話し合ってください。待遇その他の希望には、できるだけ添うようにします。返事は再び欧州に来る四月で結構です」
二月二十六日、入交は約三週間振りに日本の土を踏んだ。ホンダにいる時は海外出張ともなれば、飛行機の中でも慌ただしく書類に目を通し、翌日からの会議に備えたものだが、今回は違っていた。
飛行機の中では、二つの仕事をこなした満足感に浸っていた。一つは将来の職場となる異国の工場を実際に自分の目で見て、「これならやれそうだ」という充実感。もう一つは三週間も海外で生活して、健康についての不安が払拭されたという安心感であった。
健康については、帰国後、病院で入念な精密検査をしてもらったが、何の異常もなく医師が驚くほど回復していた。
入交の心は完全にGMに移っていた。
〈GMでの仕事はエキサイティングで、やりがいがあるだろう。下の子供はまだ高校生になったばかりなので、当分、カミさんが面倒みなければならない。一緒に連れて行くのは無理だ。最初の一年間は単身赴任になるが、健康に不安がないとすれば、日常生活はさほど不自由はしない。日本企業の国際化はこれから本格化する。ただしGMに行っても五年が限度だろう。その期間は自分の人生にとって、決してマイナスにはならない。むしろその後の人生のキャリアアップにつながる〉
三月に入ってGMの代理人との間で入社に向けて具体的な条件の詰めの作業に入った。まず期限については、GMは役員定年の六十五歳まで勤めて欲しいとの希望を出したが、入交が日本人であることを考えると、そこまで契約で縛るのは無理がある。入交は五年を一つのメドにしていた。GMもそれを受け入れ、契約は当初五年間とし、双方が合意すれば延長する線でまとまった。
次が報酬。ホンダの役員年金は、日本企業の中で飛び抜けて充実している。ホンダは公表しないがOB役員によると、相談役や顧問に就いている間は、辞めた直近の収入が保証される。その後については、八十歳まで約三五%支払われる。物価スライド制になっているので、インフレによる目減りの心配もない。さらに本人が八十歳前に万が一、死亡した場合は、該当年金の六〇%が遺族に支払われる仕組みになっている。
仮に六十歳でホンダの役員を辞め、直近の年収が四千万円だったとすれば、相談役や顧問にいる最初の約五年間で二億円。八十歳までの残り十五年間は、年間千四百万円ほど貰える。年金の累計は四億一千万円となる。インフレ条項があるので実際の金額は、もっと大きくなる。
五十三歳。しかも副社長で辞めた入交の場合、八十歳までに受け取れる年金は、ゆうに五億円を超えると推定される。
ただしこの役員年金は、ホンダを円満退職した場合であって、内規に反してライバル会社に入った場合は適用されない。一時金としての役員功労金が支給されるだけだ。入交がGMに入った場合は、むろん役員年金は放棄せざるを得ない。
GMは契約金代わりに、相当額のサインボーナスを払い、年収については入交のホンダの副社長時代の金額を保証するとともに、別途GMの業績に応じたボーナスを支給することに双方の意見が一致した。また役員年金については、原則的にGMがホンダの分を引き継ぐことになった。
待遇はGMインターナショナルの生産担当副社長。GMインターナショナルは北米以外のGMの海外部門を統括する事業部で、そのトップにはGMの執行副社長で、欧州GMの社長を兼務するヒューズが就いている。
入交の仕事は当面、GMの欧州工場の生産性を上げることだが、正式な肩書きはインターナショナルの副社長なので、中南米、アフリカ、東南アジアの欧州以外の各工場も守備範囲となる。
入交はホンダが「再就職はしない」という役員内規を盾に、訴訟を起こすことを恐れたが万が一、訴訟問題に発展したときは、入交に代わってGMが全面的に受けて立つことになった。
報酬や待遇についてとりたてて不満はなかった。不安があるとすれば、GMの中で意気投合したのがヒューズ一人であることだった。将来ヒューズがGM欧州の社長の座を離れた場合、自分の立場がどうなるか。GMは世界で六十万人を超える従業員を抱える巨大企業だけに不安が残る。
GMは入交のこうした不安を見透かしたように、待遇について新たな提案をしてきた。GMインターナショナルの生産担当副社長のまま、GM本社(コーポレーション)シニア・バイスプレジデントに起用するというものである。上級副社長というのはデトロイト本社のボード(取締役会)メンバーになることを意味する。入交はこと生産に関し、当面は欧州の工場が仕事の中心であるとはいえ、北米の工場についても意見を言わなければならない立場になる。
これで入交の不安は完全に払拭された。さる私立大学からの総長就任要請は、すでに大学側に丁寧に断っている。心は完全にGMに移っていた。
さっそくGMと入交の双方の弁護士が、契約書のドラフトの作成にとりかかった。入交は四月半ばにロンドンで開かれるIBM主催の生産技術に関するコンファランスに出席することにしている。その前に米国のオハイオ工場に立ち寄り、かつて一緒に働いた仲間に別れの挨拶をし、その後ヨーロッパに移動する予定を立てている。
スイスでヒューズと再会する日を決めるため、海外での予定表を送ったところ、ヒューズから願ってもない申し出を受けた。
「ミスター・イリのGM入りについては、すべてデトロイトのジャック・スミス社長の了解を得ました。スミスも大変喜んでおり、その前にぜひ一度会いたいと言っております。ただし本社の上級副社長就任については、事前に取締役会と財務委員会の了承が必要です。
この二つの会議が四月の第一週の月曜日、つまり四月五日にニューヨークのGMビルで開かれます。社長はミスター・イリのGM入りの案件は、五日に開かれる二つの最高議決機関に諮りたいと言っています。ミスター・イリの都合さえ付けば翌日の六日にスミス社長に会ってもらう予定です。その席で仮契約書にサインをして頂けませんか。むろん正式契約はその後で結構です」
入交のGMにおける待遇が、インターナショナル副社長兼務のまま本社の上級副社長に格上げされたのは、GMなりの計算があってのことだ。
入交とGMが条件面での具体的な話し合いに入った直後の三月十二日、VWは突然、GMの国際購買担当副社長、イグナシオ・ロペスの引き抜きを発表した。
ロペスがVWに入るうわさは年明け早々から流れていたが、実現性は薄いというのがデトロイトウォッチャーの見方だった。GMスペインの一介の技術者に過ぎなかったロペスの才能を見出したのがスミスである。彼はその期待に違わず、デトロイトに赴任してからも購買部品の徹底したコストダウンに取り組んだ。
「今日、私があるのはすべてスミス社長のお陰だ。スミス社長のためなら右腕を切り落としても構わない」
ロペスはことあるごとに、こういって憚らなかった。二人の結び付きはそれほど強かった。
米国では新車を発売してから、そのモデルが生産されている間は、部品の納入価格は最初に決めた値段がそのまま固定する仕組みになっている。それに対し日本は、生産性の向上を条件に部品メーカーに毎年コストダウンを要求する。ロペスはこうした日本のやり方をそっくり導入して、部品メーカーに毎年の原価低減を要求した。それも年間一〇%という過酷なものである。こうした荒療治は、確実にGMの官僚的な企業風土に風穴をあけつつあった。
三月十日にロペスは突然スミスに辞表を提出した。スミスはGMを改革するには、ロペスは欠かせないと信じており、慰留する最後の手段としてGMのナンバーツーの地位である執行副社長と、自分が兼務していたNAOO(北米自動車事業)の社長のポストを用意した。ロペスはいったんこれを受け入れVW入りを断念したが、十二日になってあっさり前言を翻して、VWに走ってしまった。
その日、スミス自ら記者会見してGMの新体制を発表する段取りになっていたが、その同じ時刻にロペスは逃げるようにデトロイトのメトロ空港からフランクフルトに飛び立とうとしていた。会見は予定通り行なわれたが、内容はロペスの退任会見となった。
それから数時間後、今度はVW社長のピエヒがロペスのVW入りを発表した。スミスは飼い犬に手を噛まれた。ロペスがスミスの信頼を裏切ってまでVW入りを決意したのは、VWがロペスの故郷のスペイン・バスク地方に自動車工場の建設を約束したためとされる。
GMは官僚的な会社だが、スミスが社長になってからは、それを打破するため人事面で意識的に色々なことを試みている。官僚主義を打破する手段として使ったのが、若手の起用と才能のある外部の血を入れることであった。四十三歳のヒューズに国際事業全般を任せ、CFO(最高財務責任者)には三十九歳のリチャード・ワゴナーを起用したのが象徴的な例で、ロペスの執行副社長への起用や入交のスカウトもその延長線上にある。
入交に目を付けたのは確かにヒューズだが、スミスはその提案を積極的に支持した。スミスが社長になる以前のGMでは、日本人の経営者をスカウトして本社の経営幹部に起用するという大胆な人事は、だれも思いもつかなかっただろう。ヒューズは入交を自分の右腕として期待していたが、スミスはロペスの穴埋めというより、彼の持っている知識と経験をGMグループ全体で活用することを頭の中で描いていた。
「ミスター・イリといえば、何といってもホンダのナンバーツーだった人だ。それだけにGMとしては恥ずかしくない待遇をしなければならない」
この鶴の一声で、入交の上級副社長への起用が決まった。
入交はGMの思惑を知る由もない。当初の予定では、四月半ば過ぎにロンドンで開かれるIBMのコンファランスに出席した後、チューリヒの欧州GM本社に立ち寄って、ヒューズに自分の意思を表明することにしていた。
だが現実は、入交の予定より早いテンポで進んだ。GMから「四月五日の取締役会と財務委員会に諮る。できれば翌日のスミスとの会談の席で契約書にサインして欲しい」との要請が来たためである。
入交はニューヨークでスミスに会うまでに、契約書が出来上がっておれば、その場でサインしても構わないとの意思を固めていた。しかし細部については、まだ弁護士同士が協議しており、六日は仮契約書にサインできても本契約は無理である。入交は仮契約さえ済ませれば、本契約は郵送でもよいという極めて合理的な考えを持っていた。むしろホンダを退社する手続きを終える前に、GM入りの情報が世間に漏れることを危惧していた。
入交とGMの間では、契約時期がどうであれ、GM入りの期日は基本的に七月一日ということで合意している。入交はその一週間前に、社長の川本にホンダ退社とGM入りを報告し、その後世話になったホンダOBに挨拶して、株主総会のある六月二十九日に日本を離れようと思っていた。
ヒューズと共に欧州GMのあるチューリヒでGM入りの記者会見をするのは、ホンダの株主総会が終わってからである。「さらばホンダ=私はなぜGMに行くのか(仮題)」については、七月発売のさる月刊誌に手記を載せる準備も進めていた。
だが四月六日にGMと仮契約書にサインするとなれば、そうのんびりしておれない。道義上、本契約にサインする前にホンダを正式に退社しておかなければならない。入交が欧州から帰国するのは、四月二十三日の金曜日である。
〈となればカワさん(川本社長)にはゴールデンウィーク前の四月二十七日か二十八日に会って、ホンダを退社する意思を表明しておかなければならない。GM入りは七月一日付になるとしても、五月下旬か六月上旬に一度、家族を連れてチューリヒに行き、住む家の下見をしておかなければならない。思い切って、その時にヒューズと一緒にGM入りの記者会見をする方法もある〉
入交は自らのGM入りは家族以外、だれにも相談しなかった。ホンダの現役経営者やOBに相談すれば、反対されるのは分かり切っている。会長の吉沢幸一郎からはことあるごとに「将来の進路が決まり次第、知らせてほしい。ホンダとしてもできる限りのことはする」とクギを刺されている。
一度だけ「さる私立大学から総長として来てほしいと誘われている」と話したところ、「それは君にピッタリの仕事だ。ホンダのイメージアップにもつながる。内規にも抵触しない」と逆に勧められたこともあった。
〈果たして自分の選んだ道が間違っていないのだろうか〉
ニューヨーク行きが近づくにつれ、だれかにGM入りを話して、自分の判断が間違っていないかどうかを確認したいという衝動を抑え切ることができなかった。入交がホンダ関係者以外で個人的に相談する相手となれば、自民党代議士の後藤田正晴しかいない。
入交家は高知、後藤田家は徳島と同じ四国という関係で、後藤田と亡くなった入交の父親は前々から親密な関係にあった。後藤田の二男、祐輔がホンダに入社する際、入交が推薦人になったことから、今度は入交と後藤田の関係が出来上がった。それが縁で祐輔の結婚式でも、宗一郎と共に主賓に招かれて、挨拶するなど私的な交際が深まった。父親を亡くした後、入交は私的な面では後藤田を親代わりとして頼りにしてきた。
だれかに相談したいという衝動には遂に勝てず、ニューヨーク行きが一週間後に迫った三月下旬、永田町にある衆議院議員会館の事務所に後藤田を訪ね、GM入りを決意したことを報告するとともに意見を求めた。
「私は実業界のことは分からない。したがって賛成したり反対したりする立場にない。行くか行かないか、最後に決めるのは君だ。ただし日本の社会ではライバル会社、しかも外国の会社に行くともなれば、周りから村八分にされることだけは覚悟しておかなければならない」
後藤田の答えはある程度予想されたが、父親代わりの人から、強く反対されなかったのがせめてもの救いだった。
しかし今度は新たな不安が出てきた。入交はオハイオ工場で大きな実績を残し、米国ではヒーローとして名を馳せていただけに、米国の自動車部品メーカーの経営者は日本に来れば、副社長を辞任した後もなお頻繁に入交を訪れる。GM入りの肚を固めてからは、意識的にGMの最新の動向を探るようにしていたが、再建の可能性については十人中八、九人までが否定的な答えを返した。
「GMの組織は腐り切っている。だれがやっても再建は無理だ。唯一の救済策はGMが会社更生法を申請することだ」
こうした極端な意見を聞く度に入交の心が揺れ始めた。
〈果たして巨大な官僚組織のGMの中で、一体自分は何ができるのだろうか〉
いったんはGM入りの肚を固めたものの、入交の揺れ動く気持ちを見透かしたように、神様は時としていたずらをする。その神様のいたずらに、入交もGMも弄ばれてしまった。
三月二十六日の夜、東京・小金井市にある入交の自宅の電話のベルが鳴った。
「もしもしイリさん。堀です。急で申し訳ないが、明日の土曜日空いてない。もし空いていたら一緒にゴルフをしようょ。実は予定していた一人が急用ができて来れなくなったのょ。ピンチヒッターとして入ってくれない。相手は私の会社のクライアントのヒロセ電機の酒井秀樹社長とセガ・エンタープライゼスの中山隼雄社長だ」
電話を掛けてきたのは入交の友人で、ホンダのコンサルティングをしているボストンコンサルティンググループ社長の堀紘一だった。
入交は土曜日は外出の予定がなく、時間を持て余していたので、気軽に「OK」の返事をした。
酒井と中山は初対面だが、ゴルフは和気あいあいと進んだ。そして十八番ホールに近づいたとき、入交は何気なく堀の耳元で囁いた。
「堀さん。いろいろ考えたんだが、GMに行くことにしたよ。再来週の火曜日、四月六日にニューヨークでGMのスミス社長に会って仮契約に調印する段取りになっている」
堀は飛び上がって叫んだ。
「イリさん。早まったことをしてはダメだ。ゴルフが終わった後、二人でじっくり話し合おう」
入交は堀に話したことを後悔したが、後の祭り。
クラブハウスでの四人の懇談が終わり、酒井と中山が帰った後、二人は席に戻って深刻な表情で話し始めた。まず入交がGM入りの経緯をかい摘まんで話し、仕事の内容から待遇、報酬についても報告した。それを聞いて堀がまくしたてた。
「イリさん。日本には一周忌という習わしがある。人が死んだ時、一年間は喪に服すということだ。お前さんがホンダの副社長を辞めたのは昨年三月半ばだから、確かに一年は過ぎている。しかしホンダの役員を辞めたのは、六月末だからまだ喪は明けたとはいえない。
しかもきょう現在、まだホンダの禄をはんでいる。六月末には株主総会もある。もしどうしてもホンダを辞めてGMに行くというなら、GM入りを表明するのは、最低限株主総会の後にすべきだろう。ただしGMに行けばホンダの友人を失うのを覚悟しなければならない」
すでに時刻は六時を回り、外は薄暗くなり始めていた。客は入交と堀の二人しかいない。クラブハウスのクローズの時間が迫り、二人は追い出されるようにしてゴルフ場を出たが、帰り際、堀が有無をいわさず言った。
「都内に戻って、話の続きをどこか静かなホテルでやろう」
入交と堀は別々の車で帰り、八時過ぎに都内のホテルで再び落ち合った。話すのは専ら堀で、入交は聞き役に回った。
「イリさん。私自身、外資系の会社に籍をおいているので分かるが、日本人はどんな優秀な人でも、まだまだ白人社会では通用しない。外資系会社を見てください。日本の現地法人では、そこそこであっても本社ではまったく通用しない。使い捨てにされている。
私はイリさんがGMに入って、仮に五〇%以上成功する可能性があれば反対しない。しかし私のみるところ、あなたの場合、語学はなんら問題はないが考えは白人社会、とりわけ世界一の製造会社のGMでは通用しないでしょう。
GMにどんな甘い条件を提示されたかは知らないが、多分使い捨てにされるだけです。なぜそれが分からないのですか。私には行く前から分かる。友人として失敗することが分かっていて、送り出すわけにはいかない。
お前さんの将来のことは、私も真剣に考える。時間がないのでここで一つだけ約束してほしい。四月にニューヨークに行ったときは、絶対に仮契約書といえどもサインをしないと……」
ここで二人は別れたが、入交の頭の中は混乱し始めた。
そんな入交の悩みをよそに週明けの二十九日、堀は二日前に一緒にゴルフをしたセガの中山に電話を入れた。
「中山さん。先日ゴルフ場で紹介したホンダの前副社長のイリさん。もしものことがあれば、セガで面倒みてもらえますか」
「“ホンダのプリンス”と言われた入交さんほどの人材がうちに来てもらえるなんて、願ってもない話です。喜んでお引き受けします。どんな条件でも呑みます」
中山は堀からの電話を切ると、今度は入交の自宅に電話を入れ、週末のゴルフの礼もそこそこに、翌日の三十日に会う約束を取り付けた。
翌日、食事を一緒にしながら、中山は単刀直入に切り出した。
「入交さん。私は堀さんに頼まれたからというわけではありませんが、私どもの会社で働いてみる気はありませんか」
いきなりこう切り出されて入交は戸惑いの表情をみせた。
「中山社長のお申し出は大変有り難いのですが、正直いって私はセガという会社の名前を知っている程度で、一体何を作っている会社なのかすら分かりません。いきなり来て欲しいと言われましても……。それより私はすでに行く会社が……」
「それはそうですね。入交さんもセガといえば、内心まだおもちゃ屋に毛の生えた程度の会社だと思っているでしょう。無理もありません。どうでしょう。何ならこれから羽田にあるわたしどもの研究室に来て、実際に何をやっている会社なのかを、自分の目で確かめてみませんか。それで興味があれば、それから考えてもらえばいいんです」
中山は半ば強引に、入交を羽田の研究室に連れ出した。
環八沿いにある倉庫を改造した研究室には、バーチャル・リアリティー(VR=仮想現実感)を使った業務用のゲーム機が置いてあった。研究室に来るまで入交は、任天堂の家庭用ファミコンと同じように子供相手のゲーム機を作っている会社だと思っていたが、中山から見せられたゲーム機はまったく違っていた。
目の前には「AS─1(エースワン)」と書かれた鉄製のドンガラがある。
「階段を上って乗ってみて下さい」
中山の指示に従って中に入ると、大人八人分の座席があり、目の前には横長の大きな映像の画面が据え付けられている。座席に座りシートベルトを締めると、ドアが閉まり、真っ暗になった室内の座席が、映像に合わせて動き出した。
鉄製の箱全体を宇宙船に見立て、地球から宇宙に向けて発射する。画面に映し出される異物(インベーダー)を手元のボタンを操縦することで撃ち落とす。SFXらしきストーリーはいたって簡単だが、人と映像が相互にコミュニケートできるのでバーチャル・リアリティーに溢れている。
「入交さん、どうですか。これは仮想現実の世界を全身で体験するアミューズメントの機械です。今のはインタラクティブ(対話型)のSFXの映像ソフトです。ソフトを入れ替えれば、地震や嵐など大自然の現象や事故の衝撃を身をもって体験できます」
倉庫を改造した研究所を出て本社ビルにある別の研究所に行くと、二つのLCD(液晶表示装置)が組み込まれたゴーグル型のヘッドセットを渡された。
「これを被ってみて下さい」
中山からいわれた通りヘッドセットを被ると、目の前に突然レーシング場が現れた。頭を動かすとレーシングカーの動きに合わせて光景が次々と変わっていく。ハンドルを握っているのは、入交自身である。
「これはレーシングゲームです。いながらにしてF1の世界を楽しめます。次はこれを被って下さい。ヘリコプターのフライトシミュレーションです。別のソフトを使えば、背後から来る追っ手を攻撃することもできます。要するに自分が主人公になって上下左右三百六十度の空間をフルに使うテレビゲームなのです。
いま試してもらった製品を実用化するのは、もう少し先になりますが、いずれ家庭でも楽しめるようになります。将来はテニス、ゴルフ、サッカーなどスポーツゲームなどのソフトも開発していきたいと思っております」
次から次へと見せられるバーチャル・リアリティーの世界は、入交がそれまで信じて疑わなかった現場、現物、現実の三現主義の対極にある世界であった。それだけにショックも大きかった。
GMでの仕事に自信を失いかけた矢先だけに、入交にとってセガでの体験は強烈だった。といっていまさら、GM行きを中止するわけにはいかない。出発は三日後に迫っている。翌三十一日、パレスホテルで堀と落ち合った時、堀からクギを刺された。
「イリさん。自動車だけがビジネスの世界ではない。世の中にはいろんな世界がある。セガの件は真剣に考えてみたらいかがですか。とにかくニューヨークでは仮契約書といえどもサインをしてはだめです。これだけは絶対に約束してください」
入交は四月三日の土曜日、午前十一時三十分成田発の「JL(日本航空)六便」でニューヨークに向かった。六日にマンハッタンのど真ん中にあるGMビルで社長のジャック・スミスと昼食を交えて懇談することになっている。GMからはスミスほか執行副社長のルー・ヒューズ、ウィリアム・ホグランド、財務最高責任者のリチャード・ワゴナーなど大勢の経営幹部が同席することになっている。GMは入交をすでに仲間として扱っていた。
GM入りの決意を固め、非公式に仮契約書にサインする旨伝えたのはわずか十日前だが、日本を離れる直前に、契約書に家族の医療保障の項目を盛り込んで欲しいことを挙げ、ニューヨークでは仮契約にサインできないことを伝えてある。
気分はいくらか楽だが、問題は自分の心の整理がつかないことにあった。セガでの体験は強烈だった。といってGMに興味を失ったわけではない。入交は中途半端な気持ちのまま、JALのジャンボ機に乗り込んだ。
ニューヨークのケネディ空港には、時差の関係で同じ三日の午後に着いた。その日は時差ボケを解消するため休息するにしても、四日の日曜日と五日の二日間は丸々空いている。
四日からマンハッタンのジャビック・センターで「ニューヨーク・オートショー」が始まっており、それを見学することも考えたが、人目につく恐れがあることから出掛けるのを止め、終日ホテルにこもり、自分の気持ちを整理する時間にあてようとした。だが一日中まんじりともせず過ごしたものの、依然GMにするか、セガにするか踏ん切りがつかない。
むろんGMは入交の心の葛藤を知らない。GMは予定通り五日の月曜日、ニューヨークで社外役員を含めた取締役会と財務委員会を開き、まず取締役会で入交のGM入りを、続いて開かれた財務委員会で上級副社長就任に伴う報酬額を了承した。入交が六日にサインをすれば、その日からでも「GMの入交副社長」が誕生する段取りがすべて整った。
六日は宿泊先の日本航空が経営するエセックスホテルで朝食をとり、その後GMが差し回してくれたリムジンでGMニューヨークビルに向かった。
役員応接間に案内されると、まず顔見知りのヒューズがにこやかな顔で出迎え、続いて社長のスミスを紹介した。米国人にしてはさほど背が高くないが、体はがっしりしている。髪も短めに刈り上げている。洗練されたニューヨークのビジネスマンというより、どこから見ても中西部の“カントリーボーイ”である。
入交がオハイオ工場にいた時期、スミスはカナダGMの社長を務め、その後欧州GM社長に転出したので、二人にとってこの日が初対面である。
スミスは一九三八年の生まれだから、入交より二歳年上となる。入交がオハイオ時代に付き合ったGMの経営幹部は、いずれも官僚色を漂わせていたが、スミスにはそれがまったくない。
〈経営のトップ層を見る限り、今やGMよりホンダの方が官僚的かも知れない〉
ヒューズは前日の取締役会で入交のGM入りが正式に了承されたことを報告。これに対し入交は今日の段階で、まだ仮契約書にサインできないことを率直に詫びた。
役員食堂で他の役員も交えた昼食が始まったが、入交の態度は何となくぎこちない。それを解きほぐすかのように、ヒューズが話し掛けた。
「オハイオ工場時代に一番苦労したのはどういう点でしたか」
それで幾分リラックスしたのか、入交はオハイオ時代の苦労話を始めた。
昼食での話はとりとめもないものばかりだが、GMの狙いは入交に役員会のメンバーと、GMのエグゼクティブの雰囲気を知ってもらうことにある。
〈ヒューズに最初に会った時から気がついたが、GMは確かに変化しつつある。こういう人たちとならうまくやっていけそうだ〉
入交の心は再び揺れたが、かといって「ここで仮契約書にサインしましょう」という踏ん切りもつかない。昼食が終わりスミスは満足気に席を立ち、入交はヒューズと二人だけの話し合いに入った。ここで世間話に終始すれば、GM入りが既定事実として走り出してしまう。結論はもう少し先に出すにしても、多少軌道修正しておかなければならない。
「ルー。きょう仮契約書にサインできなかったのは、正直いってまだ家族の説得が終わっていないからだ。もう少し時間を貸して欲しい」
「それは構いません。人それぞれ家庭の事情があります。GMの社内手続きはすべて終えています。契約書には六月末までにサインしてくだされば結構です。むろんそれまで社内でも厳しい箝口令を敷いておくので、外部に漏れる心配はまったくありません。その点、ご安心下さい」
ヒューズは入交がGMに入り、自分の右腕として働いてくれることを一〇〇%信じていた。入交にはそれが分かるだけに、自分の言葉にもどかしさを感じたが、どうすることもできない。
家族を説得できないというのは、口からのでまかせではない。当初、GMに決めかけた時は、さしたる反対もなかったが、セガの話が出てきてからは形勢が逆転した。
家族にすれば、大黒柱である入交の健康問題を考えれば、海外へ単身赴任しなければならないGMより、国内勤務のセガの方が良いに決まっている。とりわけGM行きに反対だったのは神戸に住む母親と医師をしている弟だった。
入交は多少うしろめたい気持ちでGMビルを去り、その足でラ・ガーディア空港へ向かった。それから数時間後、今度はスミスが訪米中のトヨタ自動車社長、豊田達郎と会うためワシントンに飛び立った。トヨタとGMのトップ会談の主要テーマは、GMが開発した小型車「Jカー」の次期モデルの対日輸出の数量を決めることにあった。
四月二十三日。入交はホンダのオハイオ工場から欧州を回って帰国した。欧州にいる間も心は揺れ続けたが、気持ちは次第にセガに傾きかけていた。いずれの結論を出すにせよ、その前にホンダを正式に退社しておかなければならない。
帰国してから三日後の二十六日に八重洲にある旧ホンダ本社の顧問室に出社すると、さっそく退社の手続きをとった。「辞職願」を|認《したた》め、川本に直接手渡すべく、秘書室を通じて面談を申し込んだが、秘書室からの返事は「社長は連休前で忙しく、時間が取れない」という素っ気ないものだった。
そこでやむを得ず会長の吉沢に会って辞職願を手渡した。肝心の将来の進路については「あと一、二カ月のうちに決めます。決まりしだい川本社長にご報告します」と言葉を濁した。
こうして入交は寂しくホンダを去った。
入交は連休中に親、兄弟、妻、子供を交えた家族会議を開いて最終結論を出そうと思っていた。しかし最後に判断するのは親代わりの後藤田の言葉を借りるまでもなく、入交本人である。
〈家族は全員、私の健康を気遣ってくれている。それを無視することはできない。あと十年若かったら、いやあと五年……〉
自分自身をこう慰めたが、それでも悔いは残る。だがいくら悔やんでも、飛ぼうとした時は、自らの羽はすでにもがれていた。羽のない白鳥は空を飛ぶことはできない。入交は遂に五十三年の人間社会のしがらみから逃れることができなかった。
結論は会議を開く前に決まっていた。家族会議はそれを追認するだけである。入交は世界最大企業のエグゼクティブとして、国際舞台で活躍するチャンスを、自ら放棄してしまった。
GMの誘いを断り、セガに行くと決断したものの、セガ社長の中山に入社の意思表示をする前にヒューズに断りの手紙を出すのが筋である。
家族会議の結論を踏まえ、入交はヒューズ宛てに長文の手紙を|認《したた》めた。内容はGMに入社できなくなった理由として、自分の健康問題と家族の反対を挙げ、結果的にGMに多大な迷惑をかけたことを率直に詫びた。ただしセガ入りについては、早晩明らかになるにせよ、この時点では触れないことにした。触れれば未練がましい言い訳になり、さらにはヒューズにGMとセガの両天秤をかけたと誤解される恐れがある。
そして手紙の最後にこう付け加えた。
「Dear Hughes 一緒に働けなかったことは非常に残念です。本当に申し訳ないと思います。同封したレポートはアイゼナッハ工場を見て、私なりに考えたリストラの具体的な処方箋です。このレポートをあなたが最も信頼する工場の責任者に見せ、書いてある通りやれば、オペルのリストラは必ず成功します」
入交は誠意を示すため、レポート用紙七枚に英文でびっしり書き込んだリストラの処方箋を同封した。内容は自分がGMに行くことを前提にして考えただけに、核心を突いている。
セガの中山に会い、入社の意思があることを表明したのは、ゴールデンウイークの連休明けであった。中山はボストンコンサルティンググループの堀から頼まれたものの、まさかこんなに早く入交に来て貰えるとは予想もしていなかった。
ただし待遇、報酬、さらには具体的な仕事の内容、役職などの条件を詰めるには最低半月ほどかかる。条件が折り合ってからでないと、世間に公表できない。企業は通常、決算役員会で新任役員を決めるが、セガの三月期決算の発表は数日後に迫っている。それまでにはどう計算しても間に合わない。ただし五月中に決めれば、六月末の株主総会には何とか滑り込める。
入交がセガに入社の意思表示をした数日後、ヒューズのもとへ分厚い手紙が届いた。その手紙を読んで、ヒューズは狐につままれた思いがした。一〇〇%GMに来てもらえると信じていただけに、戸惑いすら感じた。わずか一カ月の間に入交に何が起こったのか、入交の心境がなぜ変化したのか、ヒューズにはとうてい理解できなかった。
GMに行けなかった理由として挙げている健康については、GMは最新鋭の医療施設を備えており何ら問題がない。家族の問題にしても副社長という立場からすれば、自己裁量で毎月でも帰国できる。報酬にしてもGM本社の副社長を兼務することで、ぐんと跳ね上がる。
七月までにはまだ時間がある。ヒューズはスケジュールを調整して、日本に行って入交に会って直接説得することも考えた。
そうした矢先の十九日の新聞に入交のセガ入りの憶測記事が出た。
「本田顧問/入交氏、セガ入り濃厚」(日本経済新聞)
「セガ/本田技研の入交顧問獲得へ」(サンケイ新聞)
新聞記事はいずれも断定はしていないが、可能性が高いことを匂わせている。外電がただちにキャッチして海外に流した。
〈新聞に書かれてしまった以上、こちらからヒューズに連絡して事実を報告すべきだろう〉
新聞に書かれた翌日の日曜日、入交はチューリヒにあるヒューズの自宅に電話を入れた。
入交は電話の向こうにいるヒューズに、約束を果たせなかったことを率直に詫びたが、ヒューズは諦め切れなかった。
「GMに来れない理由は分かりました。GMの副社長になってもらうことは諦めましょう。これは私の思い付きの提案ですが、欧州GMの非常勤の技術顧問、それが無理ならミスター・イリ個人と欧州GMとの間でコンサルタント契約を結ぶことはできませんか。契約に基づき年に何回かこちらに来てもらい、われわれにアドバイスしてくれるだけでいいのです」
しかし入交はキッパリ断った。
「ルー。それは無理だ。日本の社会ではいったん会社に入れば、業種が違うとはいえ道義的によその会社の技術顧問はできない。コンサルタントは私に向いていない。私はやる以上徹底してやらなければ気が済まない性格だ。コンサルタントでは、かえってルーに迷惑をかけてしまう」
国際電話は延々一時間半に及んだが、話は堂々巡りで、平行線をたどり結論が出ない。入交は最後に弟を諭すように言った。
「ルー。いますぐGMに行くのは無理だ。とにかく先日送った処方箋通りのリストラをやってみてくれ。二年も経てば状況も変わってくる。GM入りは、その時改めて考えよう」
この言葉でヒューズは入交獲得を断念した。二年後という時期には何ら根拠がなく、顔が見えずとも、入交の単なるリップサービスに過ぎないことが分かったからだ。
入交のセガ入りは五月二十八日に正式発表された。それを待ちかねたように入交は青山のホンダ本社に社長の川本を訪ね、正式にセガ入りを報告した。
「イリさん。新しい職場で頑張って下さい」
川本はたった一言だけいって応接室を後にした。
ホンダ社内は複雑な思いで入交のセガ入りを受け止めた。入交は六月に入ると、妻と連れ立って梅雨のない北海道に旅行したが、その合間をぬって河島喜好、久米是志の歴代社長を始め、これまで世話になったホンダOBに挨拶をして回った。
GMとセガからスカウトの話があったことは、連休前後からOBにも何となく伝わっていた。久米に挨拶に行った時、励ましとも嫌みとも付かない言葉を掛けられた。
「イリさん。セガで良かったんじゃないか。仮にGMに入っても使い捨てにされるだけだ。GMがお前さんを引き抜こうとしたのは、トヨタの意向が入っていたのではないかな。GMが本気で引き抜こうというのなら、まずホンダに仁義を切るのが筋じゃないのかね。お前さんがホンダを捨ててGMに行けば、ホンダの多くの友人を失っていただろうよ……」
ホンダのもう一人の創業者である藤沢武夫は、昭和三十年代の初めに近代的な組織作りに着手した時こう予言した。
「ホンダの社員がエキスパートになれば、よそが必ず引っこ抜きにくる」
藤沢が予言した通り、入交はホンダを代表するエキスパートになった。世界最大の自動車メーカーであるGMは、それを認めたからこそ上級副社長というポストを用意した。だがかつて藤沢のもとで、国際化を目指してガムシャラに働いてきた“ホンダの子供たち”の反応は、およそ「国際企業ホンダ」のイメージとは掛け離れていた。
ホンダの役員は退任後、自動的に「役員社友会」のメンバーになるが、入交はその入会手続きをせず役員年金も辞退、自らの手でホンダと縁を切った。
自ら取材して、途中まで書き上げた日本の製造業に関する出版も幻となった。入交が日本の産業界と訣別する覚悟で筆を取っただけに、内容は辛辣だった。しかし一転、入交自身が引き続き日本の企業で働くとなれば、天に唾をすることになりかねないことから、出版を断念せざるを得ない。
第二章 二人羽織り

「私はわが社のモットーとして三つの喜びを掲げている。第一が作って(メーカー)喜び、第二に売って(代理店、小売店)喜び、第三が買って(お客様)喜ぶである。この三つの喜びが有機的に結合してこそ、生産意欲の高揚と技術の向上が保障され、経営の発展が期待される」
[#地付き]本田宗一郎
「ホンダは三つの喜びをモットーに掲げているが、順序を変えなければ企業は失敗する。企業は“お客さまの喜び”を第一にしなければならない。その喜びがあって初めて“売る喜び”がある。その二つの喜びの報酬として“作る喜び”になるのが順序である」
[#地付き]藤沢武夫
「ホンダのプリンス」の名をほしいままにしてきた入交の退社は、世間にホンダ社内に異変が起きたことを印象づけた。
「天才技術者・本田宗一郎」「F1」「国際企業」「若さ」
ホンダはこれまで世間に四つのイメージを振り撒いてきた。“ホンダ神話”は四つのイメージと右肩上がりの好業績が重なり合って出来上がった。そして、業績の低迷とともに神話を構成したイメージがいずれも色あせ、いつしか神話の崩壊が囁かれ始めた。
「ホンダ教の教祖」ともいうべき本田宗一郎と、それを陰で演出した藤沢武夫の二人は、すでに|黄泉《よみ》の国に旅立った。バブルがはじけて業績が急降下、“走る広告塔”の役目を果たしていたF1からも撤退した。
ホンダが国際化の先駆的な企業であるのはだれもが認めるところだが、昭和六十年のG5(先進五カ国中央銀行総裁・蔵相会議)プラザ合意後の円高を境に、国際化を余儀なくされた産業界にあって、いまや国際企業はホンダの代名詞ではなくなった。一ドル=一〇〇円を突破した現状で、国際化は当たり前。それが行き過ぎると、国内の空洞化問題が出てくる。
若さの象徴である常勤役員の平均年齢は、五十四歳三カ月と同業他社と比べてまだいくらか若いとはいうものの、最年少役員が四十六歳では、胸を張って若さを誇ることはできなくなった。役員同様、断トツの若さを誇っていた従業員の平均年齢も三十七歳二カ月まで高まり、自動車業界の中で五番目まで後退している。
神話の崩壊を最初に印象づけたのは、平成五年三月期の業績だった。四輪車進出の負担と二輪車の対米輸出不振が重なった昭和四十二年二月期以来、実に二十六年振りに減収減益に陥ると同時に、創業以来初めて経常利益と税引き利益が三年連続して前年を下回るという、不名誉な記録を作ってしまった。平成六年三月期の利益はさらに半減、ワースト記録を塗り替えた。
むろんホンダは創業以来、順風満帆で成長してきたわけではない。むしろ二輪車で「世界のホンダ」の基礎を築くまでの零細企業や中小企業の時代は危機の連続だった。四輪車への進出もスンナリ進んだわけではない。何度か経営危機に見舞われた。そのつど危機を乗り越え、右肩上がりの成長を遂げてきたからこそ神話が出来上がった。神話の神話たるゆえんである。
神話の原点は二人の創業者の見事なまでの「|二人羽織《ににんばお》り」にある。高座の前でお客に向かって、ベランメエ調で喋りまくるのが本田宗一郎、後ろで上手にソバを食べさせる役目が藤沢武夫。当然のことながら客席からは宗一郎の表情は見えるが、後ろで上手にハシを使っている藤沢の姿は見えない。
客は二人羽織りであることを知りつつ、宗一郎が一人で演じているような錯覚すら覚える。それほど二人の呼吸はピタリと合っていた。
世間では二人の関係を宗一郎を主役、藤沢を番頭役や補佐役と位置づける人が多いが、それは明らかに間違いだ。ホンダの社長は宗一郎だが、実際の経営を担ってきたのは藤沢だった。ホンダの発行する小切手や手形は引退する前日まで「代表取締役/藤沢武夫」の名前で切られていたことが、その辺のことを如実に物語っている。
といって宗一郎が藤沢の|傀儡《かいらい》だったというわけではない。宗一郎には「ホンダはおれが興した会社」という強烈な創業者意識があった。藤沢はそれを認めた上で、全知全能を傾けて「ホンダ神話」の脚本を書き、主役の能力をフルに発揮できるような舞台装置を整え、マスコミを味方に引き込むことで、宗一郎を“ホンダ教”の教祖に祭り上げた。欠陥車騒動とそれに続く、二人の引退劇はそれがいかんなく発揮された場面といえるだろう。
浜松を流れる天竜川を遡った静岡県磐田郡光明村(現天竜市)の小さな鍛冶屋の倅として生まれた本田宗一郎。この天真爛漫な職人肌の技術者が、持てる才能を思う存分発揮できたのは、主役、脇役を含めた舞台全体をうまく回す藤沢という名演出家がいたからである。もし宗一郎が藤沢に出会わなかったなら、浜松の一介の中小企業のオヤジで終わっていただろう。
同じことが藤沢にもいえる。藤沢がどんな経営の才能を持ち合わせていたとしても、宗一郎という“名優”との出会いがなかったら、演出者としての才能を発揮することができなかっただろう。この二人は性格、考え方から趣味まで何から何まで正反対。共通点といえば学歴がないことぐらいだ。
元副社長の川島喜八郎は野上弥生子の小説『秀吉と利休』を引き合いに出し「小説は類い稀なる才能を持った二人の葛藤と友情を書いたものだが、本田さんと藤沢さんとの関係もそれに通じるものがある。二人は間違いなく敬愛と敵愾心を持っていた。だからこそホンダがここまで大きくなった」と分析する。
といって二人が最初の出会いから意気投合したというわけではない。藤沢によると戦後の焼け跡がまだ痛々しい、昭和二十四年夏に初めて会ったときは、どちらかといえばトゲトゲしい雰囲気だった。
二人を引き合わせたのは、商工省(現通産省)の役人をしていた竹島弘だった。竹島は商工省に移る前の昭和十年前後、旧中島飛行機に勤めるかたわら、母校の浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)で、非常勤講師として教鞭をとっていた。
宗一郎は大正十一年、二俣尋常高等小学校を卒業すると、父親の儀平に連れられて上京、本郷にある自動車修理工場「アート商会」に丁稚奉公に上った。アート商会に入るキッカケとなったのは、鍛冶屋から自転車屋に転じた儀平が愛読していた「輪業の世界」という業界誌の求人広告だった。
「アート商会からのれん分けしてもらうまで、天竜には帰ってきてはならない」
宗一郎は儀平からこう厳命され十五歳から六年もの間、歯を食いしばって頑張った。二十一歳になった昭和三年、一年間のお礼奉公を終え、のれん分けしてもらう形で浜松に「アート商会浜松支店」を設立、当時としてハイカラな「ART, Automobile Service Station」と横文字の看板を掲げた。
故郷に錦を飾ったといえば聞こえはいいが、工場長の宗一郎のほかに従業員はたった一人しかいなかった。
独立した一年後の昭和四年に、ウォール街の株価大暴落が世界恐慌の発端となり、日本もそれに巻き込まれ、金融恐慌の嵐が吹き荒れ、天下を震撼させた。だが地方の零細自動車修理工場にはまったく影響は出なかった。それどころか工場の評判が良く、従業員も十五人に膨れ上がった。
三年後の昭和六年、宗一郎は自動車のホイールを木製スポークから鋳鉄製に変える画期的な発明をした。この発明が全国産業博覧会で評判をとり、海外からも引き合いが来た。「一生に千円貯金ができればいい」と思って独立した直後に、毎月千円以上もの特許料が入ったのである。
宗一郎は舞い上がった。羽振りがよくなり、大型のハーレーダビットソンを乗り回し、自分でモーターボートを作っては浜名湖や佐鳴湖を走らせ、夜は夜で毎晩芸者をあげて遊んだ。入ってくる特許料はほとんど遊びに費やしたことから、いつしか浜松では宗一郎の名を知らないものがいないほどの有名人になった。
工場は毎年拡張し、事業は順風満帆そのものだったが、宗一郎はそれに満足しなかった。逆に飽きがきていた。自動車の修理工場をやっている限り、世界は広がらない。その点、モノ作りをすれば狭い地域に縛られず、自由に腕を振るえる。そこで修理工場を経営するかたわら「アートピストンリング研究所」を設立して、ピストンリングの製作にとりかかった。
「一度見たものは必ず作れる」
宗一郎はこれまで見よう見まねでいろんなものを作っており、自分の経験に絶対の自信を持っていた。ピストンリングについても、いとも簡単に作れる自信を持っていた。
ところが学問のない悲しさで、どうしても品質の良い鋳鉄のピストンリングを作れない。失敗の連続だった。冶金学という基本的な知識不足に原因があると思った宗一郎は、奮起して浜松高工に聴講生として通い始めた。すでに三十歳になっていたが、詰め襟の学生服に学生帽を被って登校する姿に、だれもが度肝を抜かれた。この浜松高工時代に竹島の知遇を得た。
“学生時代”の昭和十四年に、アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡して、東海精機重工業という浜松ではそこそこに名の通ったピストンリングの会社の経営に参加して、いきなり社長に就いた。
浜松高工時代、試験をことごとく無視したことから二年で退学を言い渡されたが、追い出された後も“無料聴講生”を決め込み、その後一年間通学した。宗一郎にとっての勉強はあくまで仕事のためであって、試験のためではなかった。悪戦苦闘の末、ピストンリングの技術を修得し、二十八件の特許を取った。
一方、藤沢は東京・小石川生まれの江戸っ子で、旧制中学を卒業した後、筆耕屋など自由気ままな生活を送っていたが、昭和九年に三ツ輪商会という従業員十人の鋼材小売店に奉公に出た。ところが店主に召集令状がきて、経営を任されるようになった。
独立して資本金十万円のバイトと呼ばれる切削機の刃を作る、名前だけが立派な日本機工研究所を設立したのは、宗一郎が浜松高工を修了したと同じ昭和十四年のことだ。藤沢の会社は、生産したバイトを中島飛行機に納入していた。納入窓口の購買部にいたのが竹島で、下請け部品会社に出掛けて納入部品の検査や品質向上を指導していた。ここで二人が知り合った。
藤沢は放浪生活を送っていた若い時分から、無名でありながら才能のある人と組み、その人を通じて自分の知恵を試してみたいという夢を持っていた。自分にできることといえば、金を集めることと、物を売ることで、藤沢は経営の表舞台で活躍することより、最初から舞台裏で活躍する演出家を目指していた。
東海精機は戦時中の昭和十七年に、船舶、トラック、航空機のピストンリングを生産する軍需工場となり、トヨタ自動車工業や中島飛行機に納入していた。事業の拡大に伴い、トヨタの資金援助を仰ぎ(出資比率四〇%)、同時に社長としてトヨタから石田退三を迎え入れ、宗一郎は専務に退いた。
ともあれ東海精機は、資本金千二百万円、徴用工を含め従業員二千人の“大企業”に成長した。ところが終戦の九カ月前の昭和十九年の暮れ、浜松地方を中心に千人の死者を出した東海地震で、工場がことごとく倒壊してしまった。宗一郎は経営に嫌気がさして、終戦の翌月には持ち株すべてを四十五万円で、石田の率いる豊田自動織機に売却してしまった。
終戦直後、宗一郎は周りに「人間休業」と称して無為徒食の一年間を過ごした。薬用アルコールをドラム缶いっぱい買い込んで合成酒を作り、惜し気もなく知り合いに振る舞った。昼間は手慰みに尺八を習い、塩やアイスキャンデーの製造機を作ったりした。電気式製塩機を使って作った塩は米と交換した。暇潰しに地元、磐田警察の科学技術臨時講師も務めたこともある。夜はお決まりの酒盛り。
人間休業は予定通り一年で止め、二十一年九月には内燃機関と紡織機の製造などを目的とした個人組織の本田技術研究所を開設して自ら所長に納まり、戦災で焼けた東海精機山下工場跡にバラックに毛の生えたような工場を建てた。工場の中にはベルト掛けの古旋盤、外には十台の工作機を並べてある。従業員は宗一郎を含め十人足らず。典型的な零細企業の町工場としてスタートを切った。“研究所”と名付けたのは、宗一郎の技術者としての心意気だった。
同じ年、井深大が盛田昭夫と組んでソニーの前身、東京通信工業を設立した。戦後のベンチャー企業の代表とされるホンダとソニーは、ほぼ同じ時期に産声を上げた。
宗一郎は密かにロータリー式織機の開発を狙っていた。浜松は昔から繊維産業が盛んな土地柄で、宗一郎の母親の「みか」は機織りの名人といわれ、機織り機の修理も自分でやってのけた。宗一郎の機械いじり好きは「本田家」の血筋ともいえる。
戦後、繊維の産地でもある浜松は「ガチャ万」時代の到来で好景気に沸いていた。ガチャ万というのは、繊維機械を一回ガチャンと動かせば、一万円が入るという意味からだれともなしにこう呼ぶようになった言葉である。宗一郎はそれに目を付けたわけだが、ロータリー式の織機を開発するには巨額の資金が掛かることから、早々とこれを断念した。
ガチャ万景気で、多くの成金が登場したが、庶民の足ともいうべき交通機関は、戦争で疲弊しきっている。市民は食料の買い出しもままならない。宗一郎は戦災でただれた焼け跡に放置されていた旧陸軍の六号無線機に付いている発電用の小型発動機に目を付けた。
この発動機を集め、自転車に取り付けられるように改造することを思いついた。自動車の修理工場を経営していただけあって、改造はお手のもの。燃料タンクには湯タンポを使った。
改造を終えると中古の自転車に付けてテストする。発動機のエンジンが正確に設計されておらず、しかも戦前の統制時代の名残で、燃料は松の根を絞った「松根油」を使った。こんな油ではなかなか爆発しない。始動するのにゆうに三十分はかかる。
一日に一台作るのがやっと。そんな中途半端な製品でも、庶民の足としてそこそこ売れた。ただし肝心の原価ゼロの発動機は五百台も生産するとなくなってしまった。宗一郎はすでにオートバイ作りに夢中になっており、今度は自分でシリンダー・ヘッドがピョコンと飛び出したエンジンを発明した。自転車に取り付けると恰好は悪いが、運転してみると意外と調子がいい。これに勢いを得てVベルトの後輪駆動式の二サイクルA型エンジンを開発した。
いわゆる“バタバタ”と呼ばれたもので、買い手は自転車屋と得体の知れない闇屋だった。自転車屋はともかく闇屋はどこからかフレーム(構体)を調達し、それにリヤカーのタイヤを付けて売りまくる。そんな危なっかしい代物でも、バタバタとけたたましい爆音をたてて時速一〇キロや二〇キロで走る。
バタバタは時流に乗って人気を博し、出来上がるとすぐに買い手がつくほど売れ、慢性的な品不足に陥った。軽自動二輪車業界で、車体とエンジンを一緒に生産する企業は、まだどこにもなかった。宗一郎はこの時期、真剣に本格的なオートバイを自前で、それも東京で作ることを考えていた。
浜松は温暖な気候を反映してか、のんびりした土地柄で、宗一郎のせっかちな気性に合わない。アート商会の時代から赤シャツやつなぎの作業服を着て、若い従業員を連れて外車や輸入オートバイを吹っ飛ばして夜の街に繰り出し、夜中にエンジン音をがなりたてて帰宅する。当然のことながら近所から文句が出る。宗一郎自身はさほど意に介さなかったが、その分、家族が肩身の狭い思いをした。
宗一郎はそこそこの小金は持っていたが、東京に出て、自前でオートバイ事業を興すには、ケタ違いに巨額の資金が必要だ。戦後、通産省に転じた竹島が、仕事で浜松に行った帰り道、思い出したように宗一郎の家に立ち寄ったのは、ちょうどそのころだった。
「おれはモノを作るのはだれにも負けない。ところが肝心要の金がない。浜松にも金を出してやろうというガチャ万で儲けた篤志家はいるが、口も出さないと気が済まない人たちだ。これでは一緒にやってゆけない。東京でだれか金を出してくれる人はいないだろうか」
宗一郎は竹島が訪ねてきたのをこれ幸いと、近況を説明するかたわら、さしたる期待もせず、何気なく相談を持ち掛けた。研究所を設立した一年後の二十二年のことだ。
竹島も深刻に受けとらず聞き流したが、二年後の二十四年春、戦災の跡がまだ痛々しい東京・新橋で偶然、藤沢に再会したとき、宗一郎の言葉を思い出した。
藤沢は戦争が激しくなったのを機に、日本機工研究所をたたんで、福島県の二本松に疎開した。妻が病に伏せっており、病気療養には空気の良い田舎の方が良いという医者の勧めから、戦争が終わっても東京に戻らず、二本松にとどまって細々と製材業を営んでいた。
だが東京でひと旗あげたいという気持ちを抑えることはできなかった。藤沢は虎視眈々と再起のチャンスを狙ってさしたる用事もなく、上京しては新橋や新宿の闇市をさまよっていた。竹島は藤沢が自前の金を持っていないことは知っていたが、金を集める特異な才能があることを早くから見抜いていた。昔から「才能のある人と組んで仕事をしたい」という“夢”を聞かされていたこともあり、思い出したように宗一郎の話を藤沢に持ち掛けた。
宗一郎は藤沢について何一つ知らないが、逆に藤沢は戦前、機械の町工場を経営していただけに、「浜松に天才的な技術者がいる」という宗一郎のうわさを耳にしたことがあった。さらに中島飛行機に出入りしていた当時、竹島から「浜松に面白い男がいる。本田宗一郎という男だ。機会があれば一度紹介する」といわれたことがある。この一言が頭の片隅にこびりついていた。
「あたし、その話に乗るよ。あたし自身は確かに金は持っていないが、本田宗一郎という人が欲しいというだけの金を集めてきてやる」
藤沢は即座に竹島の話に飛びついた。
宗一郎は竹島に相談したことも忘れ、ひたすら独力でオートバイを作る道を探っていた。バタバタのA型エンジンの量産体制が確立すると同時に法人組織の話が進み、月産二百台に達した二十三年九月二十四日に資本金百万円の「本田技研工業」に改組した。従業員も二十人に増えた。この時の資金は父・儀平が虎の子ともいうべき十一町歩(約三万坪)の山を売り払って援助してくれた。
ホンダのエンジンにはAから始まるアルファベット順の名称が付いている。B型、C型を経て二十四年に完成したD型エンジンは、二サイクル、排気量九八cc、二段変速、チェーン・ドライブ式で、同時に車体(ボディ)も設計された。ボディとタイヤとエンジンが一体になった試作品を見て、だれかが「本当に夢のような製品だ」といったことから、宗一郎は自分の夢と希望を託して「ドリーム号」と名付けた。
試作品はだれに見せても評判が良い。だが、いかんせん日本中いたるところにドッジ・ラインの嵐が吹きまくり、日に日に不況色が強まっていた。超緊縮のデフレ政策の影響で金融が逼迫、ホンダのバイク・エンジンの売れ行きもバッタリ落ちた。取引先への支払いも滞り、従業員に満足な給与が払えず、いつしか分割払いになった。宗一郎が竹島から藤沢という男に会ってみないかといわれたのは、その頃だった。
宗一郎は小なりといえ、一国一城の主である。戦時中の統制経済下とはいえ、従業員二千人の企業を経営した実績もある。本来なら藤沢が浜松に出向かなければならない。が、藤沢は意識してそれを避けた。出会いが宗一郎の本拠地の浜松では、最初から主従の関係が出来上がってしまうことを恐れたのだ。確かに持ち金はないが、宗一郎との関係ではあくまで対等を願望していた。
その点、宗一郎はまるで無頓着だった。このままでは早晩、ホンダの経営は行き詰まる。金を出してくれたり、それができないまでも金を集めてくれるという人がおれば、だれでも構わない。相手の指定したところならどこへでも出掛けて行く用意がある。
二人は二十四年の夏真っ盛りの八月、東京・阿佐ヶ谷にある竹島の自宅で“見合い”をした。
「交通手段は形はどう変わろうとも、永久になくならない。仮に手を握るにしても、おれは技術屋だから何を創り出すかについては、一切、おめえさんから|掣肘《せいちゆう》を受けたくない。ただし一緒にやるとなれば、金のことは一切おめえさんに任せる」
「分かった。お金の方は確かにあたしが引き受けましょう。それと機械をどうこうするとか、あんたが一番仕事しやすい方策を講じましょう。社長はあんたなんだから、あたしはあんたのいうことはすべて守る。ただし近視的な見方をしてほしくないね」
「得手に帆を上げる」といえば聞こえはいいが、最初に相手の得意分野に口を出さないことを約束した。藤沢は宗一郎を独創的な発明家、宗一郎は藤沢を才気あふれる戦略家として、お互いに稀有の才能を認め合った。藤沢のホンダ入りが決まった。
宗一郎四十二歳、藤沢三十八歳。決して若くはないスタートであった。
二人がその後、お互いの家庭を訪問し合って、生い立ちからこれまでの生き方、そして性格、キャラクターまですべて正反対であることを再確認するまでには、さほど時間がかからなかった。宗一郎はどちらかといえば小柄で、頭髪も年の割にやや薄くなっている。その点、藤沢は大柄でガッシリして、頭髪もふさふさしている。
「黒鼻のイタチ」
小学校の頃、宗一郎は同級生からこう呼ばれていた。鼻の頭が煤で黒くなっていたのと、イタチのようにすばしっこく動き回ることから付けられた渾名だ。対する藤沢は小さい時から運動が大の苦手だった。
宗一郎は開けっ広げな性格で、しかも社交的。口からは機関銃のように、次々と軽快な言葉の弾が出る。不思議なことにどんな乱暴な言葉を吐いても、決して相手に不快感を与えない。そして矛盾するようだが、極めてシャイ(内気)でもあった。これは天性もさることながら、丁稚奉公を経て二十歳そこそこで独立し、実社会の荒波に揉まれたことによるものだろう。ある意味で商売のコツは、商売人以上に長けている。
商売人を自負する藤沢は、万事が几帳面で、考え方も理論的。常に近づき難い雰囲気を漂わせ、表舞台に出るのを極力避けた。人間としての欠点を表にさらけ出しても人に愛されるのが宗一郎とすれば、極力欠点を出さないようにするのが藤沢だといえよう。
もしこの二人が最初から主従関係にあったなら、宗一郎は自分の後任に早い段階で藤沢を選んでいたであろう。藤沢がポスト宗一郎を目指さず、スタートから共同経営者の道を選択したのは、宗一郎という天才的な技術者を通じて自分の夢を実現させようという思いがあったからだ。だからこそ一緒に仕事をする期間を区切ったともいえる。
藤沢が宗一郎の単なる補佐役であれば、今日のホンダの姿はもっと違っただろう。ホンダは宗一郎と藤沢の「二人羽織り」が見事なまでにうまくいったからこそ、神話ができるほどまでに成長を遂げた。
“見合い”をしてから二カ月後の昭和二十四年十月、藤沢は二本松の製材業を引き払って上京、ホンダの経営に参画した。翌月の十一月にホンダは倍額増資を実施、資本金を二百万円に引き上げた。藤沢は増資額の半分の五十万円を払い込んで、二五%の大株主となった。ホンダはこれを機に「本田家のホンダ」から「本田工業&藤沢商会」に衣替えした。
この年、水泳の古橋広之進が一五〇〇メートルの自由形で世界新記録を樹立、湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞して、敗戦のショックに打ちのめされていた日本国民を奮い立たせた。街には「リンゴの唄」に代わって、藤山一郎が歌う「青い山脈」の軽快なメロディーが日本中いたるところに流れ、戦後の混乱期と訣別しようとしていた。
藤山は戦前、人気絶頂だったころフランス製の「ルノー」を乗り回しており、浜松公演の際は必ずアート商会に立ち寄り、宗一郎に車の修理・点検をしてもらっていた。有名歌手をひと目見ようと、アート商会の周りには山のような人垣ができたという。
ホンダに入社した藤沢は、いきなり宗一郎の弟、弁二郎と同じ代表権を持った常務に就いた。弁二郎は六つ違いの弟で、小学校を卒業した後は、兄を慕って上京、同じアート商会に丁稚奉公に出た。修業を終えると浜松に帰り、アート商会浜松支店で働くなど、宗一郎の右腕として働いてきた。
藤沢の最初の仕事は、東京に営業拠点を設営することで、二十五年春には東京・京橋槇町に間口二間、奥行き八間、建坪十五坪の古家を借り、念願の東京営業所を開設した。狙いは東京を中心に関東、甲信越、東北地方の需要開拓にある。古机を買い込み、電話も引いた。営業マンを募集しなければならないが、新聞広告を出す金がない。頼りは無料の職業安定所である。
宗一郎は浜松に残り、四十六人に増えた従業員を使ってドリーム号の改良を進めていた。アイディアを出すのが宗一郎で、助手として設計図を引くのが二十三年春、浜松工専(現静岡大学工学部)を卒業すると同時に技術研究所時代のホンダに入社した河島喜好だった。
就職難の時代で、河島は浜松で病院の事務長をしていた父親の知人の紹介で、本田技術研究所に入社した。河島は“町の発明家”としての宗一郎の名前は知っていたが、技術研究所というのは、株式会社なのか個人の組織なのか、それ以前に一体どんな研究をしているかさえ知らなかった。
父親の友人というのは近所のモーター屋で、そこで初めて宗一郎の自宅が、自分の家とは二〇〇メートルと離れていない目と鼻の先にあるのを知った。何のことはない、二人は同じ町内に住んでいたわけだ。
河島の面接試験は、研究所という名の工場ではなく、同じタイプの建売住宅が連なる宗一郎の自宅で行なわれた。二人はコタツを挟んで向き合い、宗一郎は「今はろくに給料も払えねえが、将来自前のオートバイを作ってみせる」という夢物語を熱っぽく話した。むろん即採用。河島はこうしてホンダの十二番目の社員となった。
藤沢が東京営業所を開設しようとしたのは、宗一郎が開発したドリーム号を見て、直感的に「これは売れる」と判断してのことだ。運良く、政府から二百万円の対日援助物資見返り資金の融資を受けることができ、この資金を元手に工場を増築して機械を増やし、何とかドリーム号の生産計画を立てた。エンジンは当面、浜松で作るにしても、二人は東京に工場を建て、そこで組み立て生産する計画を練っていた。宗一郎は一日も早く浜松を離れたかった。
戦後、財閥が解体され経済の民主化がスタートしたが、ドッジ・ラインによるデフレ政策の後遺症で、企業活動は縮小の一途をたどった。そこへ復員者とともに戦前の労働運動の指導者が続々と帰国、全国各地で労働争議が頻発、世の中は騒然としていた。二十四年から二十五年にかけての一年間で製造業を中心に千百社が倒産、五十一万人が解雇されたという。
ホンダが東京営業所を開設した直後の二十五年五月、トヨタ自動車工業は千人の大量首切りを発表、これに対抗して、組合は無期限のストに入るなど労働争議がピークに達した。創業者社長の豊田喜一郎はこれを収拾するため、責任を取って退陣を表明、組合も涙を飲んで首切り案を受け入れた。
そしてトヨタの将来は豊田自動織機の社長をしていた豊田家の番頭、石田退三に委ねられることになった。銀行は創業者の退陣と工販分離を条件に融資に応じたことで、辛うじてトヨタは倒産という最悪の事態を免れた。
「明日潰れてもおかしくない」零細企業だったホンダにとって、こうした大企業の動きは他人事だった。二人は浜松と東京と離ればなれになっていたが、藤沢は宗一郎の上京を待ちわび、会えばホンダの将来のあるべき姿について、膝を突き合わせ夜明けまでトコトン話し合った。
新興宗教についての論争をして、大笑いしたのもこの頃だ。
「本田さん。あんたはへ理屈をつけるのがうまい。それもまことしやかだ。何か知らないが、相手を引きつける魅力がある。今はこうやっているが、会社がやっていけなくなったら、新興宗教でも興してやるから、その教祖になれ。お金を集めるのはあたしの仕事だ。あんたを教祖に祭り上げた方が、お布施が入るので、会社をやるより楽かも知れない」
宗一郎も黙っていない。真剣になって反論した。
「宗教で金儲けなんかしたらダメだ。もし新興宗教を始めたら、おれは旧来の宗教とはまったく別な、何ごともすべて理詰めで考える哲学を追求する。人生の不可思議ではなく、現代人に分かりやすい普遍妥当性を説く」
藤沢は宗一郎と会えば必ず「ホンダを世界一のオートバイメーカーにしたい」という夢を聞かされた。最初の頃は単なる夢物語と聞き流していたが、宗一郎から何回もいわれると、不思議と明日にでも世界一のオートバイメーカーになるような錯覚に陥った。宗一郎が藤沢を洗脳し、藤沢が宗一郎の夢に乗り、その実現に向けて動き出した。藤沢は自分にこういい聞かせた。
「あたしの仕事は、宗一郎の夢を実現するためのレールを敷くことだ。きっちりとしたレールさえ敷けば、その上を突っ走るだけで夢は必ず実現する」
トヨタの創業者、豊田喜一郎が退陣してから二週間後の六月二十五日、突然、朝鮮戦争が勃発した。米軍からトヨタ、日産、いすゞの三社に大型トラックが一万台ほど発注され、トヨタは一気に赤字から黒字に転換した。日本経済は戦争特需で復興の糸口をつかんだ。となれば早晩、オートバイの需要も出る。
藤沢はこのチャンスを見過ごさなかった。同年の秋には宗一郎に相談もせず、北区十条に四百五十坪の中古ミシン工場を買収して「本田技研工業東京工場」の看板を掲げた。金はいくらあっても足りない。十月に通産省から自転車工業補助金として四十万円、十二月には自転車発明実施補助金として十万円をもらった。むろんそれだけの金で事業を軌道に乗せることはできない。
運転資金は藤沢が闇屋の情報をもとに、持ち前の才覚でどこからともなくかき集めてきた。藤沢は本来、融資してやらなければならない販売店から逆に株式を担保に借りまくっただけでなく、得体の知れない闇金融業者、果ては昔のブローカー仲間のツテを頼りに、華僑からも借りまくった。ホンダは二十七年に早くも沖縄、フィリピン、台湾などにドリーム号を輸出しているが、実態は借金を清算するための輸出だった。
「あの時期、藤沢さんは泥棒と詐欺以外の何でもやったんじゃないかな」
河島は当時の状況をこう振り返る。
東京通信工業(現ソニー)もこの時期、資金難に陥っていたが、創業者の井深大はそのつど、銭形平次で知られる人気作家の野村胡堂に運転資金を無心した。野村が井深の仲人という関係で、会社設立の際にも多額の出資を仰ぎ、その関係で甘えられるだけ甘えた。ソニーには流行作家というパトロンがいたが、ホンダにはその類いの篤志家はいなかった。こと金に関して、頼りは藤沢しかいない。
東京工場では浜松工場からエンジンを運び、十一月から月産三百台のペースで「ドリーム号」の組み立て生産を始めた。二十七年に入って、宗一郎は生活と仕事の場を念願の東京に移した。東京工場の真ん中にある一坪あるかないかの小さな部屋にこもり、古机の上に置かれた大きな板だけの製図台を挟んで、助手の河島と額を突き合わせて、エンジンとミッションが一緒になった四サイクル・OHV(オーバー・ヘッド・バルブ)エンジンを設計していた。
ホンダに発展をもたらしたという点では、宗一郎が開発したOHVエンジンは、後に四輪車の基盤を作ったCVCC(複合渦流調速燃焼)エンジンに匹敵する画期的なものだった。それまでは二輪車も四輪車もバルブがエンジンの横に付いているサイドバルブ方式を採用していたが、この方式では圧縮比を高めることができない。ところがOHVにすれば圧縮比が目いっぱいとれるうえ、燃焼室の形状も自由に設計できる。同じ大きさのエンジンなら、馬力が倍になる。まさにコロンブスの卵である。
新製品の試作品が出来上がると、宗一郎は必ず藤沢を工場に呼んで意見を聞いた。
「どうだい、常務。今度の製品は?」
「いいね、いいよ。社長、お客さんはこういうオートバイを待っていたんだ。あたしは商売人だから、今からお客さんの喜ぶ顔が浮かぶょ。これなら間違いなく売れる。いや、あたしが必ず売ってみせる」
藤沢は固定された試作品のオートバイに乗り、ハンドルを握りながら大袈裟な素振りで宗一郎の虚栄心をくすぐった。ただし嫌な顔をしない代わりに、注文を付けるのも忘れない。
「しかし社長、お客さんの立場からすれば、ここをこう直せば便利になる。するともっと売れるね。本田さん、あんたなら必ずできるょ。あたしはそう信じている」
ここまで持ち上げられれば、宗一郎としても決して悪い気はしない。プライドの高い宗一郎としては、今度は意地でもやり遂げなければならない。
D型ドリーム号は予想通り、ヒット商品になった。二十六年にはOHVを採用した排気量一四六ccの「ドリーム号」が完成した。その後、一七五cc、二〇〇ccと排気量を上げていき、それに伴って生産も急上昇した。ドリーム号のセールスポイントは高回転と高馬力にある。
〈良い製品であれば、お客さんは多少待ってでも必ず買ってくれる〉
藤沢の販売哲学である。
「ホンダのオートバイはすべて社長自身が開発したものだ。ライバル会社の製品に比べても、すべての面で優れている。お客さんは必ずその辺のことは分かってくれる」
藤沢はこう叱咤激励して、営業マンを全国津々浦々まで販路開拓の旅に送り出した。営業マンは藤沢から四、五カ月分の給料に相当する出張旅費をもらい、自分で製品のパンフレットを作り、それを持って長期出張に出掛ける。決められた販売地域のモーター屋や自転車屋を足を棒にして回り、ホンダ車の扱い店を一軒一軒増やしていくのである。
ホンダのオートバイを扱ってもいいという店があると、その場で代金の一部を先にもらい、本社に製品を送るよう連絡する。営業マンはもらった代金を旅費に充て、本社に戻らず再び新規開拓の旅に出る。金のない時代だったが、こうした営業マンの血の出るような努力によって、販売店は着々と増え、ようやく月販千台体制が確立した。
この間、宗一郎は東京工場の狭い部屋で、自転車の後輪の上部に白い燃料タンク、真ん中に真っ赤な補助エンジンを付けた排気量五〇ccの「カブ号」の開発に全力投球していた。宗一郎は赤と白が大好きだった。
宗一郎が最初に開発した自転車補助のA型エンジンは、自転車のフレームの中央に装置されたV型のゴムベルトをミッションとして使うので、ズボンなどが汚れてしまうという欠点を持っていた。むろん女性が運転するのは無理だ。カブ号はエンジンを後輪に装着することで、こうした欠点を解消した。
この時期、浜松を中心に百二十社ものバイク・エンジン・メーカーがひしめきあっていた。その中からホンダが短期間で大手の仲間入りを果たすことができたのは、オートバイの既成概念を打ち破ったことにある。
ホンダは国産初の本格的なオートバイとされるドリーム号のヒットで、経営基盤を固めたものの、当時オートバイといえば米国のハーレーやインディアンといった見掛けだけが立派な外国製が幅をきかせていた。外国製は豊富な材料をふんだんに使っており、多少ぶっつけても壊れないような設計になっている。外見だけ見れば、交通違反を取り締まる警察の白バイには適しているが、狭い街を走り抜けたり、ソバ屋の出前持ちには適さない。値段もべらぼうに高く、庶民には高根の花でしかなかった。
宗一郎が目指したのは大衆の乗り物、世の中の動きと実際の需要にマッチしたオートバイであり、それを実現したのがカブ号だった。ホンダは今も昔も技術を売り物にしているが、その技術はあくまで実際の需要に直結したものだ。その意味で宗一郎が発明した技術は意外に地味だが、一方で彼はまさに「銭の稼ぐことが上手なエンジニア」だった。
カブ号は自転車にエンジンを取り付けただけなので、スピード狂に人気が出ないことは初めから予想された。藤沢は一般ユーザーに効率的な交通手段として、人気が出ることを期待していた。取り扱いが簡単で値段が安いので、売れて当たり前の商品だが、良品が必ずしも売れるとは限らない。
藤沢は頭の中で、カブ号をテコにホンダを大飛躍させる夢を見ていた。ホンダの成長を担ったカブ号は、二十七年五月に発売した。六月、七月の二カ月で五千台出荷したが、クレームはたった三台しか出なかった。
日本経済は朝鮮戦争特需や生産拡大の余波で、消費景気に沸いていた。
〈今の消費景気は当分続く。生産体制を拡充し、販路もしっかりすれば最低でも月一万台は売れる〉
藤沢はこう確信した。だが既存の販路に頼っていては、潜在需要を掘り起こしても、とうてい月一万台には届かない。一気に販路を増やすには大量の営業マンを投入して、販売網を整備しなければならない。それには巨額の資金を要する。そんなお金は零細企業から中小企業へ脱皮したばかりのホンダにはない。藤沢をもってしても、一度に巨額の資金を集めるのは困難だ。
金をかけずに大量にさばく方法はないものか。藤沢は全国五万五千軒の自転車屋に手紙を出す「レター作戦」を思い付いた。
「あなた方の先祖は日露戦争の後、チェーンを直したり、パンクを直したりすることを思いつかず、勇気を持って輸入自転車を売る決心をした。それが今日のあなた方の商売になっている。ところで戦後、時代は変わった。お客さんはエンジンの付いた自転車を求めている。ホンダはその要望にピッタリ合った製品を開発した。故障は皆無です。興味があるなら返事をして欲しい」
ざっとこんな内容だったが、何と三万軒から返事がきた。そこで藤沢は興味を示した自転車屋に返事の手紙を出した。
「私どもの製品に興味を持っていただいてありがとうございます。ついてはまず一軒につき一台お送りします。卸値は一万九千円ですが、これを二万五千円で売って下さい。すると六千円の利益が出ます。ただし代金は事前に郵便、もしくは指定銀行に振り込んで下さい」
ホンダといっても、世間的にはまだ無名の会社に過ぎない。町の自転車屋にしてみれば、興味があっても、製品が届く前に金を送るのには勇気がいる。藤沢はそうした不安を見透かしたように、三菱銀行に掛けあって京橋支店長名で手紙を出してもらった。
「ホンダは私どもの取引先企業で、非常に立派な会社です。ホンダ宛ての送金は、ぜひ三菱銀行京橋支店に振り込んで下さい」
これで多少信用がついたのか、最初に五千軒、最終的に送金してきた自転車屋は一万三千軒に達した。二十七年秋にはカブ号だけで月産六千五百台の生産体制が確立、この分野でのシェアがいつの間にか七〇%に上った。カブ号は確実にオートバイの底辺需要を掘り起こし、見込み生産と大量生産の基盤を作った。
カブ号の代金は毎日、前金で入ってくる。ドリーム号は工場から出荷した後、平均二カ月で販売代金を回収できる。部品の購入は五カ月の約束手形だから、手元資金にも余裕が出てきた。
新製品の開発も着々と進んでいる。九〇ccのOHVエンジンを積んだ新しいオートバイの「ベンリイ号」のデザインも出来上がった。プラスチックを車体の一部に組み込んだスクーターの「ジュノー号」も出番を待っている。技術を指揮する宗一郎と藤沢の販売戦略が噛み合って、ホンダの経営は成長軌道に乗った。
「本田さん。あたしのところの小学一年生になる坊主は、どうもあたしのことをニセ金作りの名人だと思っているらしい。女房にいわせると『本田のオジさんがドリームやカブを作っているのは分かるが、うちの親父は何をしているのかさっぱり分からない』と首を傾げているんだってさ。あたしが毎朝、家を出る時、『さぁ、きょうも銀行へ行って金を作ってくるか』と大声でいうものだから、坊主は本当にニセ金を作っていると思っているらしい」
この時期、藤沢は子供の目からみても、目の回るような忙しい毎日を過ごしていた。
二十八年には零細企業を脱して月商四億円の中堅企業に成長、東京駅前の八重洲に九十八坪の土地を取得して、建坪百七十五坪の二階建て社屋を建設した。さらに本社を浜松から東京に移した。
社員も急増した。二十七年二月に二百十六人だったのが翌年には千三百三十七人と、わずか一年で六・二倍に増えた。新社屋ができたといっても、背広にネクタイを締めて仕事をするのは管理部門の人たちだけで、営業マンは修理工場の工員さんと同じように“つなぎ”を着ていた。“つなぎ”を着込んだ町のモーター屋のおやじさんや手ぬぐいを頭に被ったおかみさんが、新社屋の見物がてら販売代金を納めに来るからである。
背広にネクタイの姿に憧れ、本社で“つなぎ”を着ることに抵抗する社員もいたが、すると藤沢はこう怒鳴りまくった。
「おまえら勘違いをするな。ホンダにとって一番大切なのは、オートバイを売ってくれる販売店の人たちなんだ。相手が“つなぎ”を着込んでいるなら、こちらも同じ服装をするのは当たり前だ。経営者のおかみさんがソファーの上に座り込んだら、同じ姿勢をとれ」
後に河島とともにポスト宗一郎・藤沢体制の四天王と呼ばれた西田通弘と白井孝夫は二十五年、川島喜八郎は翌年の二十六年に相次いで入社した。
陸軍の技術将校だった西田は戦後、ニギリヤ印の鍋やヤカンを作っていた「那須アルミニュム」に入社したが、会社になじめず独立してアルミ製品に表面加工する小さな町工場を経営していた。一時は従業員七十人を抱えるいっぱしの中小企業に成長したが、最後はお決まりの金詰まりであっけなく倒産。やむなく飯田橋の職業安定所に通いつめ、明日の糧を得るためホンダに入社した。二十七歳の時であった。
ホンダが人材を募集したのはこの時が初めて。面接したのは藤沢だが、応募者は西田一人で、むろん即採用。こうして西田は縁故でない正規入社の第一号社員となった。
次に入ったのが白井。大学を卒業した後、東洋製鋼に入り繊維貿易公団を経てホンダに入社した。川島は東芝、東海石油を経てやってきた。生まれ故郷の四国で英語の教師をしていた二代目会長の岡村昇は、二十六年の入社。
いずれも縁故による途中入社である。縁故といえば聞こえはいいが、実態は職安や新聞広告だけでは優秀な人材が集まらず、知り合いのツテを頼って求人したまでである。宗一郎と藤沢を引き合わせた竹島弘も二十八年に常務として迎えられた。
典型的な零細企業の時代に入社した岡村は自らの会長時代、低コストの資金を調達するため積極的に欧米各国で証券アナリスト相手に企業説明会を開いた時、世界のホンダに成長した現況を説明する原稿を読み上げているうち〈あの雑然とした町工場が、ここまで大きくなったのか〉と涙が出るほど感動したという。
初代会長の杉浦英男は二十八年に新聞広告を見て入社した。杉浦は大学を卒業した後、就職難から父親が経営していた従業員百五十人の中小企業に逃げ込んだものの、仕事に馴染めず、毎日鬱々とした生活を送っていた。家業を捨てて、新しい世界に飛び込む決心をした時は、すでに二十八歳になっていた。
会社はどこでも良かった。たまたま目に入ったのが「高級社員募集」と銘打ったホンダの新聞の求人広告だった。三行広告に毛の生えた大きさだが、杉浦にとっては何とも魅力的なキャッチフレーズだった。もっとも当時の“高級”は大卒程度の意味しかなかったのだが……。
ホンダがどういう会社か、何を作っているかも知らず、入社試験会場の東京・板橋区と接する埼玉県の白子工場へ出向いた。白子工場の正式な住所は埼玉県北足立郡大和町字白子。つなぎの作業服を着た人が腰にナンバープレートをぶら下げ、けたたましい音をたてながらオートバイに乗って川越街道の方に向かって走って行く。杉浦は恥を承知で恐る恐る面接官兼案内人に尋ねた。
「ホンダはオートバイを作っている会社ですか」
「お前、そんなことも知らないで来たのか。まあいい。おれだってこの会社につい一カ月前に入ったばかりだ。まだうちの会社は小さいのでテストコースがない。それで仮ナンバーを取って、近くの川越街道で最終テストをやっているのだ」
ひと通り工場を案内してもらった後、「どうだ。うちの会社は」と聞かれ、杉浦がつい「うん」と答えたら、「それなら採用だ」と太鼓判を押された。前向きの返事をしたのは、工場になんとなく活気があったからだ。
ホンダが大卒の定期採用に踏み切ったのは、二十八年に入ってから。といっても正式募集したわけでなく、三代目会長の大久保叡と元常務の千々岩雄平などが応募した。就職難の時代で、二人とも卒業間近になっても就職先が決まらず、知り合いの近所のモーター屋などのツテを頼りにホンダを受験した。
まだ筆記試験はなく、入社間もない総務部長が簡単な面接をして、その場で「はい、採用です。できれば明日からでも出社して下さい」と懇願されての入社である。大久保にいわせると杉浦の時と同様、「入社した時、工場を案内してくれた人がえらそうに威張っていたので、『いつ入社されたのですか』ときいたら『昨日だ』という梁山泊の時代」であった。世の中は朝鮮戦争による好景気の反動が出て不景気だったが、ホンダの工場は猫の手も借りたいほど繁忙していた。
東京・神田のガード脇の貸しビルで筆記試験と面接をやって、本格的に大卒の定期採用に踏み切ったのは二十八年秋からである。二十九年春入社は大卒だけで二十八人を採用、この中に三代目社長の久米是志、四代目会長の吉沢幸一郎、元副社長の中川和夫、元専務の原田隆夫などがいる。
久米は自動車が好きで、トヨタや日産を受けたがことごとく失敗、「就職難の折りこの際、贅沢もいっておれない。乗り物という点では四輪車もオートバイも同じだ」と自分に言い聞かせて、入社試験日の遅かったホンダを受験した。吉沢は製造業に憧れて当時の大企業を受けたが、久米と同じように受験したメーカーからことごとく撥ねられ、最終的にホンダに潜り込んだ。
「よその会社なら若くて社会経験も未熟なおめえたちを、最初はそれほど有り難がらないだろう。ところがホンダは違う。大いに期待している。ただし会社を辞めたかったら、いつ辞めてもらっても結構だ」
宗一郎は新入社員が入ってくると、必ずこう挨拶した。ホンダは日本の企業社会ではまだエスタブリッシュされておらず、宗一郎も藤沢もまだ無名の経営者でしかない。その中小企業に大企業からはじかれた学生や既存の企業になじまなかった若者が大挙して入ってきた。入社したものの、徒弟社会の色彩を色濃く残した中小企業の社風に肌が合わず、短期間で辞める人もいたが、自立心のある若者は創業者の背中を見て黙々と仕事に励んだ。
本社を浜松から東京に移したのを機に、宗一郎と藤沢は大きな賭けに出た。レター作戦の成功で強力な販売ルートも出来上がり、ドリーム号は月産千台、カブ号は五千台を超えた。それでも製品は作る先から右から左へと売れていく。産業界の中には依然として「オートバイはしょせんキワモノ(際物)産業。いずれぽしゃる」と見る向きも多かったが、藤沢はこうした声には耳を貸さず、強気の姿勢を崩さなかった。
〈オートバイの保有台数は西独が二百四十万台、英国とイタリアが各百五十万台に対し、日本はまだわずか二十万台そこそこ。普及率の面からいっても、日本はまだまだ伸びる余地がある。
全従業員千四百人のホンダは自動車八台、三輪車六台、百三十二台のオートバイを使っている。オートバイは自家製であっても、販売すれば総額で二千万円はする。だからそれ以上の価値を生み出さなければ、持っている意味がない。しかしホンダが発展したのは、営業マンがこのオートバイを使いこなしたからだ。自転車を使っていたらここまで発展しなかった。
機械化、スピード化は時代のすう勢だ。時代にマッチした機械化された商品を提供し、それが大衆に認められれば、オートバイの需要は永遠に続く。オートバイは決してキワモノ産業なんかじゃない〉
新製品の開発も怠りない。出揃えば月商は軽く十億円を突破する。資金繰りにも余裕が出てきた。人材も積極的な中途採用のお陰で技術系だけでなく、営業系も揃った。次代を担う大卒の定期採用も始めた。
残る問題はどうやって生産設備の拡張をはかるかである。ホンダはカブ号のヒットで上昇気流に乗っているが、末端での販売競争は依然として熾烈だった。ちょっとでも手を抜けば、たちどころにシェアは低下する。
経営基盤を磐石のものにするには、他社が真似できないような製品を開発し、それを最新鋭の設備で大量生産してコストを下げ、競争力を強化するしかない。
当時の日本の工作機械産業の技術水準は、欧米に比べ十年から十五年ほど遅れていた。したがって最新鋭の機械を揃えるには、欧米から購入しなければならない。性能が悪くしかも値段の高い日本製を使っていては、コストダウンにつながらない。それ以前に世界市場で、性能とコストの両面で競争に打ち勝てない。「弘法(経営者)は筆(設備)を選ばず」の考えは通用しない。藤沢は時間を金で買うことを考えた。
「本田さん、設備を大々的に拡張しましょう。社長自身がアメリカに行って、性能の良い機械を好きなだけ買ってきて下さい。金はあたしが何とか工面します」
藤沢は宗一郎に大胆な提案をした。宗一郎は二十七年四月、小型エンジンを始めとする数々の発明が社会に貢献したことが評価され、四十五歳の若さで藍綬褒章を受章し、気分が高揚していた。二人が大企業に入っておれば、まだ課長の年代だが、今やいっぱしの中小企業の経営者、青年実業家であった。
宗一郎は藤沢の助言を受け入れ半年後の十一月、単身で「機械王国」アメリカに旅立った。一カ月ほど滞在した間に、三億円を投じて最新鋭の工作機械を百台買い込んだ。この中にはなぜか本来オートバイに使われることがない、米グリーン社のスパイラル・ベベル歯切盤なども含まれていた。続いて翌年二十八年一月には、技師に昇格した河島がドイツとスイスに渡り、一億五千万円ほど買い付けた。
留守を預かる藤沢も負けじとばかり、拡大戦略を展開した。二十七年二月の名古屋を皮切りに、四国(高松)、大阪、九州(福岡)の各支店を開設した。その一方で、埼玉県・白子の中古工場を月賦で購入した。宗一郎は工場を補修する時、一つだけ注文を出した。
「工場はそのまま使うが、便所だけは水洗に直してくれ。人間は入れるところと出すところをきれいにしておかないと、美しい製品は生まれない」
台所を預かる藤沢にすれば、金は限られており、もっと別のところに使いたかったが、宗一郎のモノ作りに対するささやかな注文とあって、反対するわけにもいかず渋々了解した。
続いて二十八年一月に同じ埼玉県の大和町に三万坪の土地を買収、大和工場の建設に着手した。同じ年の七月には浜松の飛行連隊跡の敷地二万坪を買収した。ほぼ同時期に三工場の建設に踏み切った。設備投資額は機械の購入代金を含めると十五億円に達する。当時のトヨタ、日産の年間設備投資はまだ五、六億円に過ぎなかった。
ホンダは二十七年に資本金を六百万円から千五百万円に増やしたばかり。その百倍の設備投資である。裏目に出れば会社は左前になるどころか倒産してしまう。名実共に社運を賭けた投資であった。二十八年の正月明けから春にかけて宗一郎と河島が買い込んだ機械が続々と到着、据え付け工事も終わり、夏から秋にかけて三工場が順次稼働し始めた。
ホンダの初期の発展を支えたカブ号、ドリーム号の生産は十条の東京工場から新工場に次々と移管、東京工場は社員研修センターに衣替えした。八月には満を持して「ベンリイ号」を発売、十二月には四倍増資で資本金を六千万円に引き上げた。翌二十九年一月には東京株式市場に店頭公開すると同時に、スクーターの「ジュノー号」の発売に踏み切った。社内のだれもがホンダの前途は洋々であると確信していた。まさに日の出の勢いであった。
「良品に国境はない。日本市場だけを相手にした日本一は真の日本一ではない。優秀な外国製品が輸入されれば、日本だけの日本一はたちまち崩れ去ってしまう。世界一にならなければ日本一とはならない。だから世界一のオートバイメーカーになるんだ」
宗一郎がミカン箱の上に乗り、東京工場の従業員に向かって|檄《げき》を飛ばしたのは、大規模な設備投資を決断した直後の二十七年の十月のことだ。続いて三工場が完成した二十九年三月の社内報では「わが社は今や業界の注目の的となっており、おそらく数年を経ずして、名実ともに世界第一のオートバイメーカーになるものと思う」とぶち上げた。
聞いている方はあっけにとられるばかり。宗一郎も藤沢も社運を賭けた設備投資さえ軌道に乗れば、ただちに世界一にはなれずとも、日本一はむろんのこと世界有数のオートバイメーカーになれると信じて疑わなかった。
宗一郎は鍛冶屋の倅として生まれ、そこで育った。徒弟社会では親方が弟子をしごき、身体で仕事を覚えさせる。自分の腕しか通用しない世界だ。アート商会浜松支店の時代、宗一郎は目をぎらつかせ、従業員が少しでも手を抜こうものなら遠慮会釈なくスパナやハンマーを飛ばした。あまりにも厳しくしかも乱暴な宗一郎の仕打ちに耐え切れず、人がしょっちゅう入れ替わった。
こうした激しさはホンダになっても変わらなかった。ナッパ服を着込み、自ら工場のベルトコンベアラインに入り込み、治工具を粗末に扱った人を目の前で「バカヤロウー」と怒鳴ったり、蹴飛ばしたり、鉄拳を加えたりするのは日常茶飯事だった。
興奮すると設計用の三角定規の角で頭を叩いたり、果てはスパナを投げて怪我をさせたという類いの話は、まさに徒弟社会そのもの。宗一郎が従業員に向かって、口癖のように「会社のために働くな。自分のために働け」と叫び続けたのは、企業を徒弟社会の延長線上にとらえていたからにほかならない。
宗一郎の欠点は、怒りだすと相手を完膚なきまで叩きのめしてしまうことだ。興奮して怒鳴り飛ばした後は必ず次の言葉を吐いた。
「おめえなんか会社を辞めてしまえ。辞表を出せ、辞表を……」
話が飛躍するので怒られている方は、最後は何が何だか分からなくなり、工場の中には宗一郎の罵詈雑言を額面通り受け止め、本当に辞表を出す人まで現れた。出された側の宗一郎は自分が吐いた言葉は、とうの昔に忘れており「おれも悪かった」の一言ですべて一件落着する。激情家で「カミナリオヤジ」と恐れられた半面、気さくに新入社員に近付いて声をかけるので、「オヤジさん、オヤジさん」と慕われた。
ただし宗一郎は、怒り方について独特の哲学を持っていた。一対一の場合、将来のある人と本当にダメな人には、必ず逃げ道を用意しておいた。二人以上いる時は、自分が怒鳴れば、その日のうちに社内に伝わることをある程度計算していた。だれもが犯しやすい過ちについて、怒りやすい人を選んで怒る。怒られた人は、不幸にしてサンプルにされたに過ぎない。
怒鳴り散らす点では、藤沢も負けてはいない。ギョロッとした目玉で、口を半開きしたような顔で怒鳴られると、大抵の人は震え上がる。付いた渾名が当時大ヒットした怪獣映画の“ゴジラ”。
藤沢は大阪、名古屋などの主要都市の営業所を月最低一、二回訪れるが、まず怒鳴ることから始まる。理由は何でもよかった。たまたま営業所の机の上が乱雑になっていると、入るなり両手で机の上にあるものを片っ端から下に投げ出す。それを口火に営業のありかたについて懇々と説教する。その後で営業の報告を聞き、万が一、安易な商売をしているのが分かろうものなら、たとえ成果が上がっていても、「安易な道を選んだ」としてまた怒鳴る。
慣れてくると怒られる方も、怒鳴ることが藤沢一流の社員教育だと分かってくる。何回か繰り返すうちに藤沢の目的がバレ、営業マンは今後どのような点に気をつければよいかを理解するためメモをとり出す。すると藤沢は「待ってました」とばかり、前よりまして強い調子で怒り出す。
「営業マンは人の心を掴むのが仕事だ。相手の目を見て話さなければ、人の心は掴めない。いちいちメモなんかとっていては仕事にならない。そうだろう」
そうなると怒られる方は、藤沢の目を見ながら神経を張りつめ、緊張して聞くようになる。すると藤沢がたたみかける。
「ホンダは葬儀屋じゃないんだ。笑顔を見せろ。笑顔で話せ、笑顔で」
藤沢が何について怒ったかは、その日のうちに他の営業所はむろんのこと工場まで知れ渡る。藤沢も宗一郎と同じように、そのことを十分計算しており、他の営業所に行ったときは同じことでは怒らない。
営業マンは酒が入ると藤沢の説教を「お寺の鐘」とぼやいた。その心は「陰にこもる」。だれもが後でジワジワときいてくるのを自覚しているからである。そこで憂さを晴らすため、その夜は一杯飲むことになる。
藤沢は宗一郎の技術を生かしながら、中小企業の活力を維持できる組織を作ろうと考えていた。怒鳴り散らす式の社員教育はその一環ともいえる。
二人は「ホンダを大きな企業にする」という共通目標を持っていた。その代名詞に使われたのが「世界一」という言葉だった。「企業の社会的責任」といったことを考える余裕は、まだ微塵もなかった。
だが、現実はそれほど甘くはない。大規模な設備投資が完全に裏目に出てしまった。ホンダがこの時期、手形を落とせず倒産しておれば、本田宗一郎と藤沢武夫という、戦後の日本が生んだ立志伝中の英雄たちの名は、産業史に残らなかったであろう。
ホンダにとって昭和二十九年の経営危機は、徒弟社会の残滓を色濃く残した中小企業から、近代企業に脱皮する上で大きな意味を持っていた。
危機は年明けに訪れた。景気は二十七年の消費景気と二十八年の投資景気の反動が出て、国際収支が赤字に転落、日銀が金融引き締め政策を取ったところから生じた。戦後初の在庫循環的な景気後退であった。
その影響がホンダにも出た。ドル箱のカブ号の売れ行きが、突然止まってしまったのだった。カブ号は独特の真っ赤なエンジンを、自転車の後輪の脇に取り付けていた。同業他社が同じ方式をとれば、先発の優位性を発揮できる。が、ライバル会社はホンダの方式に追随せず、エンジンを自転車の三角パイプの中に置く方式を開発した。これだと後輪の脇に付けるよりバランスがとれ、運転しやすい。
宗一郎がいくら世界一を目指すと大ボラを吹いてみたところで、販売店はしょせん売れるものしか売らない。景気が後退していた時期だからなおさらである。カブ号のシェアはみるみる低下した。
カブ号と並ぶホンダの二本柱だったドリーム号も、排気量を二〇〇ccから二二〇ccへ引き上げた途端、ユーザーからのクレームが相次いだ。悪い時には悪いことが重なるもので、新開発のOHVを積んだベンリイ号は“不便利号”と揶揄されるほど評判が悪かった。さらに水に濡れないスクーターとして期待をかけたジュノー号は、エンジンをプラスチックで囲っていたためエンジンが冷えず、発売早々から失敗作の烙印を押されてしまった。
三月に入ると二人は完全に頭を抱えてしまった。巨額の投資はカブ号とドリーム号が順調に伸びることを前提に踏み切っている。月十億円の売上げを見込んでいたが、現実は三億五千万円がやっと。前提条件が崩れたことで、まず資金繰りが悪化した。
手をこまぬいておれば倒産に追い込まれる。株式を店頭公開したばかりで、兜町には「ホンダの手形は、街金融でも相手にされない」という信用不安説も流れ始めた。膨大な在庫の山を見て、「うちの経営は大丈夫なのだろうか」と動揺する従業員も出てきた。
危機を乗り切るには資金、技術、従業員対策の三つを同時並行でやらなければならない。在庫資金に関しては、藤沢が奔走して何とかメインバンクの三菱銀行に手当てしてもらった。
部品メーカーには、頭を下げて手形の繰り延べを依頼する一方、新規調達分については「今までのようにお金は払えなくなった。代金の三〇%は現金で払うが、残りの分は業績が回復したら必ず払うが、(不渡りになる恐れがあるので)手形にはしない。当面これで我慢してほしい」と泣きついた。
新規調達の外注部品の支払いは、いってみれば「あるとき払いの催促なし」である。部品メーカーの中には、ホンダの将来に見切りをつけたところもあったが、大半は藤沢の提案を受け入れた。藤沢は世間にどんな悪質なうわさが流れようとも、こと資金に関しては危機を乗り切る自信を持っていた。
宗一郎の仕事は製品改良だった。白子工場に移した技術部の部屋に泊まり込んで、文字通り不眠不休で原因を追及していた。排気量を上げたドリーム号にクレームが相次いだ原因が、キャブレター(気化器)にあることを解明するまでには、それほど時間はかからなかった。原因は宗一郎が設計したエンジンの性能に、キャブレターメーカーの技術がついて行けなかったことにあった。
カブ号については、新しい製品を加えることでシェア低下に歯止めをかけた。ドリーム号も新型の二二〇cc車の生産をいったん中止、逆に従来の二〇〇cc車を緊急増産することで、販売店のホンダ離れを食い止めた。さらにベンリイ号、ジュノー号も宗一郎が陣頭指揮で改良を重ねることで失地回復に努め、技術面でもひとまず危機を回避した。
最後に従業員対策が残った。宗一郎は年明けに社内報で「ホンダは世界一のオートバイメーカーになる」と宣言したばかりである。ミカン箱の上に乗って叱咤激励しているうちは、「またオヤジさんの大ボラが始まった」で済むが、社内報で活字として発表してしまっては、いまさら「あれは社長の夢物語でした」では済まない。そんなことをすれば従業員の信頼を失い、モラルが低下してしまう。
そこで藤沢は大芝居を打った。宗一郎を新興宗教の教祖に見立て、ホンダの健在ぶりを内外にアピールするという作戦だ。モーターサイクルのオリンピックといわれるイギリスのマン島で開かれるT・T(ツーリスト・トロフィー)レース、通称マン島レースに出場を宣言するというのだ。
「本田さん、あんたマン島レースに出てみる気はないかね。やる気があるなら、あたしが出場の宣言文を書く」
マン島レースは一九〇七年に開かれ、一周六〇キロの島を七周、合わせて四二〇キロ走る世界で最も権威があり、しかも過酷なオートバイのロードレースとして知られている。期間中には狭い島に十万人の見物客が集まり、ここで優勝することは、世界一性能の良いオートバイであることを証明することになる。
「オートバイを作っている以上、世界的なレースに出て優勝してみてぇ」
藤沢は創業間もないころ、夜を明かしてホンダの将来を語った時、宗一郎が何回も口に出した言葉を思い出して、持ち掛けたのだった。苦肉の策であるに違いないが、藤沢は「ホンダ=オートバイレース=宗一郎」のイメージを作り上げることで、危機回避を考えていた。これに成功すれば、間違いなく宗一郎は“ホンダ教”の教祖になれる。
日本のオートバイの技術水準は、まだ世界では通用しなかった。ホンダはどの程度の格差があるのかを知るため、その年の一月にブラジルのサンパウロで開かれた国際レースに参加した。結果はマイナーなレースにもかかわらず、出場二十二台のうち十三位と惨敗した。ホンダの技術水準がまだ世界に通用しないことは、だれより宗一郎が一番良く知っていた。それにもかかわらず、こう大見得を切った。
「マン島レースといえば、世界一のレースじゃねえか。それはおもしれぇ。やってやろうじゃねいか。すぐは無理でもいずれ必ず優勝して、世間を“あっ!”といわせてやる」
いくら経営を藤沢に任せてあるとはいえ、会社が苦境に立たされているのは、直接経営にタッチしていない宗一郎とて肌で感じている。藤沢の意図を知って、宗一郎は自分が“役者”になる覚悟を決めた。
資金繰りに苦慮している最中の三月二十日、藤沢は宗一郎の名前でマン島レースの出場宣言を書いた。
わたしの幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。しかし世界の覇者となる前には、まず企業の安定、精密なる設備、優秀なる設計を主眼としてもっぱら優秀な実用車を国内の需要者に提供することに努めてきたため、オートバイレースには全力を注ぐ暇もなく今日に及んでいる。
(中略)
絶対の自信を持てる生産態勢も確立した今、まさに好機到る。明年こそはT・Tレースに出場せんと決意をここに固めたのである。
(中略)
日本の機械工業の真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。ここにわたしの決意を披瀝し、T・Tレース出場、優勝するためには精魂傾け創意工夫に努力することを諸君と共に誓う。
右宣言する。
[#地付き]本田技研工業社長 本田宗一郎
宣言文は具体的であるが、書かれてある内容は檄文に近い。これを読んで従業員はホンダが倒産の瀬戸際に立たされているのも忘れて、奮い立ったのはいうまでもない。
藤沢はこの時、もう一つ芝居を打った。手形決済の来る六月十日を前に、宗一郎をマン島レースの視察を名目に欧州に送り出したのだ。宗一郎に余計な心配をかけたくないという配慮と同時に、世間や従業員に「ホンダの経営は、社長が外遊するくらいだから大丈夫だ」という安心感を植え付けるためだった。
そして問題の六月十日は何とか乗り切り、当面の経営危機から逃れることができた。経営的には難局を乗り越えたが、宗一郎は帰国後、気が気でなかった。心配はマン島レースにあった。実際に自分の目でレースを確かめ愕然とした。マン島レースは桁はずれた馬力とスピードの世界だった。そしてついつい本音が出た。
〈マン島レースというのは、こんなにすさまじいものなのか。ホンダの力では永久に勝てない。「雉も鳴かずば撃たれまい」に。あんな宣言を出したのは、一生の不覚だった〉
しかし出場どころか、優勝宣言までしたとあってはいまさら後に退けない。
宗一郎は宣言文の中で、一年後にマン島レースに出場すると高らかに謳い上げたが、その準備が整っていないことは従業員が一番よく知っていた。目先の危機はひとまず脱したが、外注部品の支払いは停止したまま。生産調整も続行している。現場の従業員は次に来るのが工場閉鎖か人員整理であるのを肌で感じ始めていた。
目を社外に転じると、この時期、日産自動車の労働争議が泥沼の様相を呈していた。キッカケはお決まりの賃上げ要求。日産の組合は、大卒の新入社員の初任給が一万円に満たない時代に二万円の賃上げを要求した。根拠は「労働者としての生活を続けるため必要な資金を積み上げるとこれだけになる」というバスケット方式にあった。
日産は朝鮮戦争特需で潤ったとはいえ、そんなに出せるわけがない。それどころか「働かざるものは食うべからず」という「ノーワーク・ノーペイ」のゼロ回答を出した。これに組合が猛反発してストに踏み切り、会社はロックアウトで対抗したことから争議は泥沼化していった。
これを塩路一郎の率いる第二組合と日本興業銀行出身の労務担当常務の川又克二が手を結ぶことで解決した。ここで日産の労使協調路線の原型が出来上がった。
ホンダの埼玉工場に労働組合が結成されたのは、経営危機が起きる一年前の二十八年七月のこと。組合設立に動いたのが、大卒定期採用の一期生として入社した久世哲也だった。
ホンダは当時、大卒者にも工場実習を義務付けていた。当然のことながら、実習生の仕事はもたつきの連続である。久世はその実習の時に宗一郎に怒鳴られ、それに怒って労働組合づくりに走った。むろん宗一郎は久世が大卒の実習生か、工場の従業員か区別がつかず、単にモタモタしている人がいたので、例によって怒鳴り散らしたに過ぎなかったのだが……。
組合はホンダの先行きは決して明るくないと判断して、二十九年の暮れに高額の越冬手当の要求を出した。会社が潰れないうちに取れるだけ取っておこうという労組特有の打算から出た要求だった。
会社にすればとうてい呑める額ではない。会社の回答は一律五千円。組合としてはたとえ二、三倍の金額を提示されても納得できないほど低額回答だった。交渉で歩み寄りはみられない。決裂すればストに突入する。そこで藤沢は単身埼玉工場に乗り込み、冬の寒空の下で千六百人の従業員を前に団体交渉に臨んだ。
「この五千円という金額を会社としてどう思うか」
藤沢はのっけから委員長に質問された。
「会社の回答はあたしがいうのも何だが、問題にならないほど低い額だ。しかしもう少し出したとしても、出せば今度は会社が潰れてしまう。潰れれば皆さんに迷惑がかかる。経営者としては従業員の皆さんを路頭に迷わすようなことはできない。年が明けて桜が咲く季節になれば、景気も回復してオートバイも売れ始める。その時にもう一度交渉のテーブルに着きたい」
藤沢の熱のこもった演説に、万雷の拍手とともに「頼むぞ! 頼むぞ!」という声がかかり、スト突入→工場閉鎖→人員整理→倒産という最悪の事態は避けられた。組合はこれを機に中央、埼玉、浜松の三つに分裂、三十年に統合して久世が二代目の委員長に就任した。
ホンダがマン島レースに出場したのは、宣言文を出してから五年後の昭和三十四年である。ここへたどり着くまでは並大抵ではなかった。まずエンジンをそれまでの三千回転から一万回転に引き上げなければならない。一万回転というのは当時の飛行機の倍の能力である。よしんば研究室の実験段階で達成したとしても、日本にはそれに耐えられる部品は一点もない。
そこで宗一郎は再び単身ヨーロッパに旅立ち、あり金はたいて大量の部品を買い込んだ。それを担いでローマの飛行場から飛行機に乗ろうとしたとき、重量オーバーで咎められたこともあった。
三十四年の初出場の時は、一二五ccクラスで六位に入るのがやっとだった。最初にしては上出来ともいえる成績だったが、監督の河島に言わせれば「六位といっても馬力が優勝車の半分もなかった。実質的にはあれはボロ負け」だった。
「馬力、馬力を何とかしなければ、優勝できない」
宗一郎は研究所で、朝から晩までブツブツ言い続けた。
それから二年後の三十六年には一二五ccクラスと二五〇ccクラスの両部門で一位から五位まで独占して、世界のモータースポーツ業界を仰天させた。マン島レースでの優勝宣言してからすでに七年の歳月が経っていた。
「ホンダのエンジンは精巧な時計のようだ」
イギリスのデイリー・ミラー紙は、ホンダをこう絶賛した。宗一郎の夢が実現した。
宗一郎は採算を無視してもレースに勝てばホンダの技術力が向上して、消費者により優れた製品を提供できると考えた。黙っていても異才のエンジニアを集めることができる。狙いはズバリと当たった。ホンダの技術力はこれを機に高まり、川本や入交など、次代を担う新たな“子供たち”も続々と入社してきた。
一方、藤沢は対応が遅れていた輸出の道が開けることに期待をかけた。ホンダの苦境を従業員の目からそらすため出場を決めたマン島レースだが、その後の“ホンダ神話”の形成に大きく貢献することになった。
昭和二十九年の経営危機を乗り切った後、宗一郎と藤沢の二人は完全分業体制に入った。宗一郎はマン島レース用のレーシングカーを作るため、白子工場にこもった。白子工場の生産部隊は新設の和光工場に移っていたが、技術研究所の前身となる技術部はそのまま残っている。宗一郎はそこに社長室を作り、活動の前線基地にした。
ホンダの本社は八重洲にあっても、社長室は白子工場にあるという、よそでは考えられない変則体制が確立した。いってみれば宗一郎の率いる“本田工業”の本拠地が白子で、藤沢が率いる“藤沢商会”の本拠地が八重洲というわけだ。この二本拠地制は二人が引退するまで変わらなかった。
といって藤沢は毎日、八重洲の本社に出社するわけではない。銀座の松屋に近い越後屋ビルに十坪の部屋を借り、黒で統一された部屋に膨大な経営資料と書籍を持ち込んで、一人でこれを読み漁った。疲れると瞑想に耽り、銀ブラをしてまた部屋に戻るという一風変わった生活に入った。この時期、二人は年数回しか顔を合わせない年すらあった。顔を合わせるのは会社ではなく、料理屋で酒を酌み交わしながら、お互いの近況を報告するときだけである。
「もはや戦後ではない。われわれは異なった事態に直面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」
昭和三十一年、政府は経済白書の中で、戦後復興の終了を高らかに宣言した。
藤沢はこうした経済情勢の変化を見て、真剣になってホンダの将来のあるべき姿を模索し始めていた。だがその前になぜ経営危機に陥ったかを総括しておかなければならない。技術的な原因はすでに解明している。カブ号の売れ行きが突然止まった原因は、景気後退もさることながら、同業他社が自転車の三角パイプの中にエンジンを取り付けた新製品を出したことにある。
が、本当の原因は宗一郎の設計したエンジンの馬力があり過ぎ、市販の自転車では耐えられず破損したことにあった。ドリーム号の原因も同じようにキャブレターがエンジンの性能について行けなかったところにある。
加えて受注生産から見込み生産に切り替えたことも見逃せない。コスト意識も欠如していた。オートバイに限らずどんな製品でも、商品力があれば確かに売れる。売れれば設備を増強するから、経験の浅い新興企業は、往々にしてコストはそれに伴って自然に下がると思いがちである。ただし新興企業には、製品管理に対する意識がないので、最後につまずいてしまう。
〈経営危機の原因は、数えれば限りない。基本的には経営のバランスを欠いたことにあるのではないか。バランスが崩れた原因は宗一郎の技術に過大な期待をかけ過ぎたことにある。経営のバランスを崩さないようにするにはどうすれば良いか〉
藤沢は独立して日本工機研究所を経営した戦時中、一冊の本に深く感銘したことを思い起こした。清沢冽の『日本外交史』である。感銘した箇所には次のような意味のことが書かれてあった。
「軍事力と外交は車の両輪である。このバランスがとれている時に国は安定する。ところが日本が国際連盟を脱退した昭和八年当時、軍事力は小さい輪であるにもかかわらず大きく見せて、外交にも同じ大きさを要求した。これではバランスを失ってひっくり返る。水増しした輪に、もう一方の輪の大きさを合わせようとしたのが国際連盟の脱退である」
これをホンダに当てはめてみると、どうなるか。国の軍事力を技術力とすれば、外交にあたるのは営業力ということになる。本来はこの二つのバランスがとれていなければならない。ところが藤沢は宗一郎の技術を信頼し過ぎて、それに合わせて販売網を拡大してきた。カブ号から二〇〇ccのドリーム号まで、営業は宗一郎の見通しが大前提になっており、これまではすべて成功してきた。
その延長線で十五億円という当時の企業規模としては、だれがみても過大な設備投資に踏み切った。そこに大きな落とし穴が待ち受けていた。拡大を急ぐあまり、判断能力を失い、技術と営業のバランスが崩れてしまっていることに気が付かなかった。
それではどうやってバランスをとるか。藤沢は銀座に借りた部屋でトヨタ、日産の同業他社を皮切りに、東レなど日本の代表的な優良企業の経営分析を始めた。優良大企業の数字をとらえることで、町工場の零細企業から中小企業へ発展したホンダを、そのエネルギーを損なわないまま、大企業へ衣替えさせるにはどうしたら良いかを模索し始めた。
藤沢が経営参加した時のホンダの従業員はわずか三十七人だったが、いまや二千五百人を超えている。中小企業までは宗一郎の技術的なひらめきと藤沢の経営の知恵で何とかやれたが、大企業になろうとすれば、二人のリーダーシップにも限界がある。そろそろ近代企業に見合った本格的な組織を作らなければならない。といって宗一郎に頼らざるを得ない組織では永続性がない……。
経営のバランスを取るため、三十一年には、商品の一年間保証サービス制度を発足させた。クレームが相次ぎ地に堕ちたホンダの企業イメージの回復をはかるのが狙いだが、同時に研究・開発部門に緊張感を持たせ、営業と技術のバランスを取る狙いもあった。
技術者にコスト意識を持たせるためには、まず何よりもバランスシートを理解させなければならない。そこで大卒の技術者を一週間、箱根のホテルに缶詰めにして財務諸表の見方を勉強させたこともある。
「技術屋がお金を知らないと、部長になっても工場長になっても大変だ。モノは課長や部長がいなくても生産できる。毎日書類にハンコを押す立場になると、お金のことを知らなければいい加減に押した判になってしまう。商品の価値は技術屋だからこそ分かる。その価値とお金の流れの両方が分からなければ、経営幹部にはなれない」
藤沢がホンダのあるべき姿を模索している時、彼の頭の中をよぎったのが「万物流転の掟」、つまり栄えた者は必ず滅びるという盛者必衰の原則である。
藤沢が万物流転の掟を初めて知ったのは、衆議院議員平泉渉の父親にあたる平泉澄が戦前に書いた『万物流転の法則』という本からであった。
〈世の中、どんな富も権力も必ず滅びる時が来る。ホンダが生まれ成長できたのはまさにこの法則に則ったためだ。だがこの掟がある限りホンダも大きくなれば、新しく進出してくる者に負けて滅びてしまう〉
その一方で別の考えが頭をもたげてくる。
〈本来なら、一度大きくなった企業は没落するはずがない。大企業は資本、人材などあらゆる面で大きな力を蓄えている。社会的な信用もある。だが小さな者が生きていくには、万物流転の法則を成立させなければならないのではないか〉
「おい、おまえはホンダは永遠だと思うか」
そのころ埼玉工場長をしていた河島喜好は藤沢に尋ねられた。
「それは無限でしょう。無限でなければ、そこで働いている私たちが困ってしまう」
「本当におまえはそう思っているのか。企業が無限に発展するなら日本中、企業だらけになってしまう」
「それじゃ有限ですか?」
「その考えに立つと、ホンダはいつかはなくなってしまう。そうならないようにするにはどうすればよいか、おまえたちも真剣に考えてほしい」
河島といくら禅問答しても、いい答えが浮かんでこない。論理的に考えれば考えるほど、袋小路に入ってしまう。その悩みを三十一年四月の社報に載せた。
万物流転の法則の掟が、いつの日かホンダに襲ってくるかも知れない。これを避け、永遠に繁栄させるためには、どういうことをすればよいかを考えている。どんな角度からみても崩れ去ることはあるまい、と自他ともに許していた会社が、今、この企業間競争の激しさの中で落伍した。いかなる優秀な設備、優秀な人材、巨額な資本金があっても、万里の長城と同じ運命にならないとはいえない。
ホンダを繁栄させるものは何か……。モノを頼みにしたり、カネを頼りにする他力本願であっては、自己を安定させることはできない。自分たち自身、世界の進歩を良く認識して遅れることのないよう、自分たちの地位を高めるべく努力する考え方、これを大切にしてほしい。
藤沢が落伍した会社として挙げたのが自動二輪車、消防ポンプ、発動発電機などを生産しているライバルの東京発動機(トーハツ)だった。ホンダが経営危機に陥り、兜町で信用不安説が流されたとき、東洋経済やダイヤモンドなどの経済雑誌は、トーハツを優良会社と持て囃した。根拠はバランスシートの良さにあった。
ホンダが経営危機に瀕した昭和二十九年のトーハツの従業員は六百七十一人。設備機械は二億一千万円で、ホンダの五分の一にも満たない。売上高は月平均二億円、一人当たり約三十万円に対し、ホンダはそれぞれ五億円と二十万円であった。売上高利益率もトーハツの一〇%に対し、ホンダはわずか一%しかない。トーハツはホンダに比べて設備や人員は少ないにもかかわらず、売り上げが多く収益率も高い。支払手形はホンダの四分の一、買掛金は三分の一、借入金は十分の一に過ぎない。
数字を見る限り、トーハツは超優良会社ということになる。現実はそれから数年を経ずしてトーハツは脆くも倒産、ホンダは生き残った。両社の違いは、ホンダにはバランスシートや財産目録に絶対に表れることのない本田宗一郎という天才的な技術者がいて、トーハツにはいなかったことにある。
〈本田宗一郎という天才的な技術者が、ホンダという会社を興し、それをあたしが育てた。無一文から始めたオートバイ事業が成功したのは、宗一郎の未知への探求があったからだ。だが彼個人の生命や挑戦には限界がある。彼の知恵が尽き、第一線を引いた後でも、それに代わる人が沢山輩出するような組織を作れば、万物流転の掟を避けることができるのではないか〉
藤沢の考えた末の結論である。新しい組織作りはすべて「宗一郎がいなくなったらどうするか」というところから出発している。その行き着く先が、宗一郎をカバーできる組織を作ることである。
仮に宗一郎が大企業に入っておれば、一生下積みの一職人で終わったであろう。宗一郎は自分で事業を興したからこそ、今日のホンダがある。ホンダが発展を続けるには大勢の宗一郎を作ればよいわけだが、現実的には無理である。天才は生まれながらの才能であって、人工的に養成できるものではない。
しかし宗一郎ほどではないにしても、本能と直感で動くエキスパートなら、社内に沢山いるし養成もできる。ただしエキスパートの能力を認める周りの雰囲気と環境が必要である。ホンダの組織をエキスパートの能力を生かせるものにすれば、従来通りユニークな企業として発展し続けることができるのではないか。
藤沢の発案で実施したのが、工場の人たちに「私の記録」と書かれた一冊のノートを渡し、そこに毎日の仕事の悩みや苦労、失敗談とその克服法を書かせることである。それを現場に置き、だれでも閲覧できるようにした。
いってみれば「仕事の履歴書」で、藤沢は四十三年に導入した専門制度の下準備としてこれをとらえていた。結果的にはこの運動が、ホンダ独特の生産性向上に向けての創意工夫制度の役割を果たした。
従業員参加の生産性向上運動としては、トヨタの「創意くふう提案制度」が有名だが、トヨタの制度は名誉会長の豊田英二(現最高顧問)が米フォードに留学したとき学んだ「サゼッションシステム」が下敷きになっている。一方、ホンダは藤沢の発想が原点になっている。
藤沢が真剣になって取り組む前までホンダには、組織図らしい組織図はなかった。あまりにも中小企業的ともいえるが、藤沢が意識して作らせなかったためでもある。いったん組織図を作ってしまえば、身動きが出来なくなり、企業の活力が失われるというのが表向きの理由だが、本当は宗一郎の位置付けに苦慮していたからにほかならない。
二十八年に労働組合ができたことから、組織には組織で対抗する必要に迫られ形式的な組織図を作ったが、それでも藤沢は「組織は壊すためにある」とうそぶいていた。組織はどんな素晴らしいものでもピラミッド型にならざるを得ない。といって従業員が何千人に膨れ上がっては、組織図なしで会社を運営するのは不可能だ。
組織、人事は融通無碍という考えは現在でも色濃く残っており、ホンダには今なお定期的な人事異動がない。
藤沢は常務としてホンダに入り、二十七年には専務、三十九年には副社長に“昇格”した。普通の会社であれば経営の最高人事である役員の起用は社長が決めるが、ホンダの場合は、いささか違っていた。
「あたしは今度、専務の名刺を使うよ」
「誰々を専務に昇格させるから、あたしは副社長になるよ」
藤沢が一方的に自分で決め、宗一郎に報告するだけ。むろん宗一郎は一切文句をいわない。藤沢にしてみれば専務でも副社長でも仕事の内容は変わりはない。宗一郎から実印を預かっていたものの、これまで一度も使ったことがなかった。手形や小切手は「代表取締役/藤沢武夫」で切っている。「ホンダの経営はあたしが担っている」との藤沢の自信の現れでもある。
藤沢にとっての肩書きは、社内外に存在感を示す程度の意味合いしかなかった。逆に宗一郎にとって社長の肩書きは、創業者であることを示す対外的な名称であって、仕事の内容からいえば開発本部長、同じ社長でも仕事の内容からすれば、後に設立する本田技術研究所の社長である。
藤沢は社内ナンバーツーの副社長でありながら、彼自身の意識や会社運営の実態面では、米国流のCEO(最高経営責任者)の役割を果たしていた。こうした関係は創業当初から引退するまで終生変わらなかった。
宗一郎は死ぬ直前まで「おれがホンダを興した」という強烈な意識を持っていたが、藤沢にすれば、ホンダを設立したのが宗一郎であるから、社長を名乗っているに過ぎないという意識である。肩書きはどうであれ、宗一郎の社内での位置付けを、そろそろ明確にしておかなければならない。
〈あの男が並の人間でないことは、あたしが一番良く知っている。この型破りな男を単純なピラミッド型の組織の中に入れ、単なるトップにしてしまえば、ホンダの良さは消えてなくなる。宗一郎の良さを生かす組織を作り出さない限り、ホンダの発展はない。私が欲しいのは何人もの本田宗一郎だ〉
藤沢が大勢の宗一郎を作る方策として考えたのが、開発部門を本社機構から分離・独立させることだった。
ヒントは愛読した漱石の『吾輩は猫である』の中にあった。藤沢の頭の中から離れなかった逸話というのが、日露戦争で国中が大騒ぎしているさなか「蛙の眼球の電動作用」を研究するため、大学の地下室でガラス球を磨いている学者の行動である。ここに出てくる学者の水島寒月は、理学士の寺田寅彦がモデルとされている。
藤沢はこう考えた。
〈世の中がどんなに騒々しくとも、うちの技術者も寒月先生のように、心穏やかに落ち着いて研究できる環境が必要ではないか。そうすると技術者は安心して研究に没頭できる。技術者の層が厚くなれば、そこから企業成長の源泉となるヒット商品が次々と生まれる〉
物理的には開発部門を工場から切り離せば、技術者を囲い込むことができる。ところがそこに工場と同じピラミッドの組織を持ち込んでしまっては、効果は半減するどころか逆効果になってしまう。生産現場の工場は利潤追求の場であり、常に生産効率の向上を目指している。
研究所を工場と同じ現場の組織図の中に入れれば、研究費は業績に左右され、長期展望に立った開発はできないばかりでなく、下手をすれば利潤追求の思想に巻き込まれる。逆に組織を分離させ、研究所に自主性を持たせれば、目先の利益を求める販売や生産部門からの要請に煩わされることなく、長期のプロジェクトに取り組むことができる。
研究開発部門の技術者に必要なのは、自由に研究できるという物理的な環境とそれなりの社会的な地位である。ピラミッド組織では、当然のことながら管理職の数には制限がある。その点、藤沢のいう文鎮型のフラットな組織にすれば、一人のトップの下に何人もの部長待遇や課長待遇の研究員がいても、少しもおかしくない。しかもホンダの売り上げにスライドした委託研究費を渡すシステムにすれば、技術者は安心して自由なテーマに取り組める……。
三十二年に入って、藤沢は自分が考えた構想を組合に提案したが、予想に反して猛烈な反対にあった。ホンダは白子工場が手狭になったことから前年、埼玉県・和光市に土地を取得して工場と研究所の前身の技術部のうち、中核となる研究図面作成・試験を担当する設計部隊を移した。それを機に設計部の有志が組合を脱退して第二組合を作った。藤沢の提案はその矢先のことであった。労組は研究所の分離・独立は組合の分断工作とみて態度を硬化させ、反対に回った。
〈独立した研究所を持たなければ、ホンダの前途は暗い。あたしがホンダに入ったころ、工場にはベルト掛けの機械数台とわずかな動力機械しかなかった。従業員も四十人にも満たなかった。銀行から金を借りようとしても担保もなかった。すべて無から始まった。あるのは本田の技術だけ。そんな時期からあたしと本田は『ホンダを世界一のオートバイメーカーにするんだ』と広言して、業界から鼻であしらわれたものだ。
だが現実は無資本からスタートして、十年足らずで世界一のオートバイメーカーになった。冷静に考えてみると本来、資本主義社会では絶対に有り得ない。それができたのは、戦後の経済混乱という既成社会に何か手抜かりがあったからだろう。
ただし今度は後続企業がホンダの隙を突いてくるのを、覚悟しなければならない。防御するだけでは発展はない。引き続き攻撃の態勢を貫くには、大勢の本田宗一郎を作り、あらゆる面に研究網を張り巡らしておかなければならない。ホンダから技術を取り上げれば何もないのだから……〉
藤沢の頭の中でこうした考えが、日増しに強まっていく。ただし強行突破すれば、労組との亀裂が決定的になる。組合の猛反対から藤沢は提案をいったんは引っ込めたが、決して諦めたわけではなかった。独立の必要性はエキスパート制度を導入し、仕事の履歴書をスタートさせてからますます強まった。
エキスパート予備軍がいても、ピラミッド型の組織では育たない。寒月先生のように、技術者が安心して研究に没頭できる組織を作ってやらなければ、大勢の本田宗一郎は生まれない。
藤沢はその後もことあるごとに、組合の幹部に研究所の分離・独立の必要性を説いて回った。そして最後には藤沢の熱意が功を奏したのか、組合も時間を経るにつれ理解を示すようになった。
問題はむしろ社内の経営幹部にあった。藤沢は昭和三十五年六月に幹部社員百五十人を一堂に集め、「研究所を独立させない限り、研究の飛躍的な発展はなく、したがってホンダの将来もない」と熱弁をふるったが、それでも賛成する者は少なかった。
業を煮やした藤沢は、それから一カ月後に社内のコンセンサスが得られないまま、強引にホンダの全額出資による「本田技術研究所」を発足させた。初代社長は宗一郎、藤沢は副社長、河島も非常勤取締役として名を連ねた。研究所が掲げた社是にはこう書かれてあった。
「我々は本田技研と不可分の関係に立ち、他分野にわたる高度の研究に即応する独自の組織を活用し、個性と能力の自由な発揚を図り、その成果である商品図面を販売する」
当時研究所の仕事は、基礎技術の開発より製品開発が中心となった。研究所は独立したものの、販売中の製品については本社の営業部門と緊密な関係を保ちながら、研究開発の成果を提供しなければならない。
さらには開発から生産への移行問題、製品保証、製品のクレームにも対処する必要がある。研究所が独立したからといっても、即座に文鎮型の組織に移行することは出来ない。過渡期の処置として、ゆるやかながらもピラミッド型を残さざるを得なかった。
一時的な混乱はつきものだが、この新たな組織に宗一郎が一番面食らった。「うちの専務もおかしな組織を作りやがった」と憎まれ口を叩いたが、宗一郎の行動はそれまでと何ら変わらなかった。問題があれば、だれかれとなく文句を言うし、言った通りのことをやらない技術者にはカミナリを落とす。
研究所の技術者から宗一郎の戸惑い振りの報告を受けても、藤沢はニヤニヤしながら聞くだけで指示は一切、出さない。
〈この組織は宗一郎のために作ったものではない。宗一郎がいなくなった後のホンダの将来をにらんで作ったものだ〉
エキスパート制度は時間が経つにつれ威力を発揮してきた。研究所を独立させたとはいえ、肝心の研究員はトヨタ、日産に比べ不足がちなのは否めない。オートバイ専業メーカーのうちはまだいいが、四輪車のみならずF1まで同時並行で研究するとなると人材不足が顕著になる。
エキスパート制が定着したことで、人材を縦横無尽に使うことができた。本来二輪車のエンジンが専門であっても、その技術はF1にもスポーツカーにも生かせる。人材も投入できる。投入された技術者も技術の幅が広がる。
委託研究費は当初、二・五%からスタートしたが、その後三%に引き上げ現在五%となっている。平成六年三月期の売り上げは二兆五千億円だから、研究所の研究費は千二百五十億円になる。発足当初が十六億円だったから、この間七十八倍増えたことになる。
世界の自動車産業の中で、研究所を別組織にしているのは今もってホンダだけである。さらに売上高に比例して研究費を計上しているのは品質を重視するドイツのベンツぐらいだ。
〈ホンダの社長の仕事は、新しい技術で世の中の人に大きな夢を与えることだ。したがって社長は将来とも技術系の人が担って行くべきだろう。そのためにも本社の社長となるべき人物は、一度は研究所の社長を経験しておいたほうがよい。経営の実務はあたしみたいにお金と売ることに通じている事務系の人がやればよい〉
ポスト宗一郎に関して、藤沢は「技術が分からない人では、宗一郎の思想を受け継ぐことができない」という信念を持っていた。
研究所の分離・独立以後、研究所の社長を経験した人は全員本社の社長に就任していないが、宗一郎、河島、久米、川本と続く過去四代の本社社長は、研究所の社長を経験している。ホンダにとって研究所の社長を経験することが、最低限の条件である。
日本経済は昭和三十年代に入って高度成長の波に乗った。藤沢はホンダを近代企業にするための施策を練るため、銀座に部屋を借りていたが、その後引き払って本社の隣のビルに同じような部屋を借りた。さらに日米安保騒動のあった三十五年、六本木に自宅を新築したのを機に、元三菱銀行副頭取、川原福三の勧めで自宅に本格的な茶室を作り、瞑想に耽ったり、考えごとをする場をそこへ移した。
川原については三十六年に特別顧問としてホンダに迎え入れ、経営の指導を仰ぐとともに、三十九年の役員室の開設と同時に、監査役に就任してもらった。
その頃から藤沢は社内で「経営はアートである」と口走るようになった。時間が許す限り、意識して芸術に接し始めた。宗一郎が一年中、休みを返上して研究所に通いつめているのと対照的に藤沢は、毎年夏になると夫人を伴ってドイツに渡り、ワグナーの生演奏に接するなど勝手気ままな生活を送っていた。
こと音楽に関しては、クラシックからオペラ、モダンジャズまで専門家顔負けの評論をするまでになった。
邦楽の中でも最も難しいとされる常磐津も始めた。それも十五世家元・文字太夫に直接弟子入りして稽古に励み、その甲斐あって短時間で名取となり「文王」を名乗るまでになった。役員の中にも常磐津を習い始める者も出てきたが、藤沢は聞かれるまま、自分の経験を踏まえてこう助言した。
「本気でやるなら難しいことから始めなさい。そして習う以上最高の人から学びなさい」
趣味は音楽にとどまらない。美術・芸術の愛好家としては、歌舞伎、絵画から始まり彫刻、彫金、工芸品、家具、インテリア、宝飾品、そして建造物、庭園まで広がった。数多くの芸術品に触れることで意識的に感性を磨いて、それを経営に反映させようとしていた。感性は先見力、洞察力、独創力を生み出す源泉と信じていた。
藤沢がこうした気ままな生活を送れたのは、「仕事は会社以外でもできる」という藤沢流経営哲学の以前に、神武景気に支えられ社業が極めて順調だったことによる。
三十三年には藤沢の発案による排気量五〇ccという超小型のオートバイ、「スーパーカブ」の商品化に成功した。藤沢は自転車にエンジンを付けただけの「カブ号」に商品としての限界を感じていた。すでにヨーロッパでは「モペット」と呼ばれる排気量五〇ccの本格的な小型オートバイが実用化されていた。
〈国民の所得は急激に増えている。となると女性が乗れないカブは早晩、飽きられる。底辺に広がりのある商品を作り出さない限り、ホンダの将来はない〉
二十九年の経営危機を乗り切った二年後の三十一年に宗一郎と一緒にさしたる目的もなくドイツ、イタリアを旅した折、帰国の飛行機の中で、藤沢はさり気なく宗一郎に小型オートバイの開発を提案した。
「社長、ドイツのクライドラーやイタリアのランブレッタのモペットはおもしれいが、製品としてはいまいちだね。第一使う人が不便だ。しかし改善して便利な乗り物にすれば、あの種の車は日本でも売れると思うょ。うちにもあんな車があればなあ……」
こう持ち掛けても宗一郎は、興味を示すどころか、取り合おうともしない。
「技術屋でないおめえさんには分からないだろうが、おれにいわせりゃ、あんなのはオートバイじゃないんだょ。オートバイというのは……」
藤沢は宗一郎に、オートバイの講釈をさせるだけさせておいてから話をむし返した。
「排気量は五〇cc、エンジンや配線を露出しないで、しかもボディぐるみの小型オートバイなら必ず売れるね。日本にソバ屋が何軒あるか知らないが、みんな買うね。それを開発できるのは世界を見渡しても本田さん、あんたしかいないょ」
「………」
宗一郎は藤沢の提案を無視したわけではない。本格的な小型オートバイの必要性は藤沢から指摘される前から考えてはいた。しかし、売れるからといって藤沢の提案をそのまま受け入れることはできない。
製品開発について、二人の間には大きな違いがあった。藤沢の要望は、あくまでユーザーの立場から出ている。宗一郎が返事をためらったのは、技術者の立場から安全に対してまだ自信を持てなかったことによる。
二人の間に安全に関してもユーザーと開発者という立場の違いがあった。藤沢はホンダに入った直後に自動二輪の免許を取ったものの、自分がハンドルを握ることは滅多になく、免許証を専ら靴べら代わりに使っていた。移動には当時“神風”と揶揄されたタクシーを嫌って、安全運転をモットーにしているハイヤー会社の車を使った。
国内出張にしても、営業所の社員が運転する車には絶対乗らない。宗一郎は反対にどこへ行くにも自分で運転し、社員の車にも気軽にそれも助手席に乗り、目的地に着くまで喋りまくる。
藤沢が社員の車に乗らないのは、事故につながりかねないからだ。社員の車に乗れば経営トップとして、何か話し掛けてやらなければならない。すると社員は怒られると思い、緊張して気もそぞろになる。ハイヤーに乗っても運転手が急ブレーキを踏もうものなら、怒り出して説教を始める。
「安全を心掛けているなら、もっと丁寧に運転しろ。左右を見ながら運転しておれば、人が突然飛び出してきても機敏に対応できる」
反対に宗一郎は「ブレーキは事故を避けるためにあるんだ。危ないと思ったら急いでぐっと踏め。乗っている人に多少ショックを与えても事故は防げる」というのが持論である。二人の発想は最初から違っていた。
スーパーカブの開発に際して、藤沢が宗一郎に出した注文は、いってみれば「ソバ屋の小僧さんが、片手でソバ箱を積み上げたものを支えながら、片手で運転できる」という小型オートバイであった。
そんな製品ができれば確かに便利だ。ただし運転に使えるのは両足と片手だけ。その足も発進に当たってはバイクが倒れないよう、スタンドを代用しなければならない。片手しか使えないので、クラッチは自動にしなければならない。操作が簡単でしかも安全、さらに低コストが前提条件となる。
「ソバ屋の小僧が、ソバ屋の……」
薄暗い白子工場の設計室で、宗一郎が何度か唸りを上げた末、三十二年の秋になってようやく試作品が出来上がった。宗一郎が作り上げた製品は、オートバイとスクーターの中間的なものを、もう一段進化させた製品で、片手で運転しても大丈夫なように設計されていた。
宗一郎は自ら八重洲の本社にいる藤沢に電話をかけ、研究所に来てもらって試作品を見せた。自動クラッチと三段変速機、それに自動スターターを備えた排気量五〇ccの「スーパーカブ」に接したとき、藤沢は興奮気味に大声で叫んだ。
「社長、やってくれたね。これは凄い。外観は自転車並みで、しかも運転席の前のフレームが開いている。こうなると女性客も狙えるな。本田さん、あんたが作った製品の中でもこのオートバイは最高の傑作品だ」
宗一郎は学校のテストで百点満点を取った少年のように、胸を張って尋ねた。
「どうだい、専務。おめえさんの希望通りの製品ができただろう。一体、どのぐれい売れるかね」
「うん、これは良い。これなら間違いなく売れる。三万台は大丈夫でしょう」
この言葉を聞いて、宗一郎は多少がっかりした。三万台といえば月に直して二千台強でしかない。カブの半分以下の水準である。
藤沢は宗一郎の怪訝そうな顔を見て、ニヤリとして言った。
「本田さん、あんた何か勘違いしているね。あたしが三万台といったのは月産だよ。年に直せば三十六万台、いや輸出を入れると軽く四十万台はいくな」
今度は宗一郎がびっくりする番だ。居合わせた研究員は「ええっ!」と叫び声を上げた。
業界の総販売台数が月二万台の時代に、藤沢はこともなげに一機種で業界全体を上回る台数を売ってみせるといってのけた。
宗一郎と藤沢に共通することは、まずアドバルーンを上げ、その反応を見ながら目的に向かって邁進することだ。この時の三万台という数字は、藤沢の単なる勘による腰ダメの数字だったが、同席した研究者を鼓舞させたことは間違いない。
昭和三十二年、日本経済は神武景気を謳歌しながらも、狂瀾怒濤の真っただ中にあった。
昭和三十三年六月に発売した排気量五〇cc小型多用途オートバイの「スーパーカブ」は、ホンダを世界一のオートバイメーカーに飛躍させる約束手形の役割を果たした。
といってもスタート当初から軌道に乗ったわけではない。発売時期がなべ底不況の真っただ中にぶつかってしまった。それに追い討ちをかけるように発売三カ月目にクラッチ切れの苦情が続出した。年末には営業マンとサービス工場の人々が休暇を返上し、手分けしてお客のクラッチを直して回った。スーパーカブの人気が出始めたのは、発売後二年ほど経った三十五年の後半になってからである。
藤沢は月販三万台の目標を達成するため、本格的な二輪車工場の建設と対米輸出という二つの手を打った。景気が底を打った三十四年に三重県鈴鹿市に二十一万坪の土地を取得、六十億円の資金を投じて専用工場の建設に着手した。ホンダはこれを機に工場を製作所と呼ぶようになった。
スーパーカブが登場する以前に宗一郎と藤沢が描いていたホンダの将来のイメージは、イギリスのBSA、トライアンフ、ノートン、イタリアのモト・グッティ、MVアグスタのような、いわばオートバイの名車を作る会社だった。だが三十一年に二人揃ってドイツ、イタリアの二輪車企業をつぶさに見て回った時、欧州で名車と呼ばれるオートバイを生産している企業は、いずれもマスプロの工場ではなく、町工場的な色彩を残した手作りの少量生産の工場であることが分かった。
宗一郎は藤沢から月販三万台と聞いて、丁稚奉公時代に真っ黒になって修理していたT型のフォード車を思い出した。宗一郎の子供の頃の夢は、自分が日本のヘンリー・フォードになることであった。ヘンリー・フォードの最大の功績は、T型フォードでマスプロの生産方式を確立したことである。宗一郎はスーパーカブで、見込み生産を前提としたマスプロ生産に挑戦しようとした。
藤沢にも異論はない。量産体制が確立すれば大幅なコストダウンが可能になる。四輪車でも一車種で月産一万台以上の量産と呼べる工場は、まだどこにもない。四輪と二輪の違いがあるにせよ、ホンダの計画はその三倍の三万台である。ホンダは生産の面でも、前人未到の世界に踏み込もうとしていた。
それでは部品をどうするか。ホンダには系列と呼べる下請け部品会社はなかった。オートバイといっても、部品の七〇%は外注で賄っている。藤沢はここでドライな外注政策を取った。
「取引高を高めるのはホンダではなく、外注メーカー自身である。外注メーカーの努力いかんによって納入量は決まる」
藤沢はこう信じて、日産の部品メーカーで構成する宝会やトヨタの協豊会の会員会社に、ホンダへの納入を呼び掛けた。系列部品メーカーを持たないホンダのやり方は、思い通りの安くて良い部品を買い上げることができる。業界からは「ホンダのやり方は、自分本位で独善的」という批判が出たが、藤沢は一向に意に介さなかった。
月産三万台を達成するには、輸出は欠かせない。これまでの輸出はどちらかといえば、スポットで安定性がない。恒久的に輸出するには、多機種の製品体系を整え、独自の販売網を構築しなければならない。
当然のことながら少量機種の大量生産は効率はいいが、リスクも大きい。いったん売れなくなったら、工場が遊んでしまう。理想は多機種の大量生産である。大量輸出ができ量産が軌道に乗れば、価格も下がり自然と競争力もついてくる。
「ホンダさんは外国から機械を買うだけで、ちっとも輸出しようとしない」
ホンダは輸出振興に躍起になっている通産省の役人からことあるごとに、こんな嫌味をいわれ続けてきた。が、ようやくスーパーカブという目玉商品が出て、輸出環境が整った。
ではどこから始めるか。販売担当の川島喜八郎は、藤沢に進言した。
「地理的な関係からみて、東南アジアを最優先すべきです。マン島レースで独占優勝したお陰で、欧州市場ではホンダの知名度は高まっています。しかし市場は成熟期にさしかかっています。アメリカに至ってはホンダの知名度はゼロです。だれも知りません。知らない会社の製品を一体だれが買いますか。まず東南アジアの市場を押さえ、次に欧州を開拓、アメリカは最後に回すべきだと思います」
当時、米国の二輪車市場は“ブラック・ジャケット”(黒いジャンパーを着た粗暴なライダー)というイメージが定着していた。映画「ならず者」で主演したマーロン・ブランドが生み出した黒の革ジャンパーのイメージである。オートバイ業界にとって「暗黒の大陸」とも言うべき市場で、年間需要はわずか五、六万台しかない。
だが藤沢の考えは違っていた。
〈市場規模、波及効果からみて、東南アジアは短期的な効果は大きいが、そこを突破口として世界商品に育て上げるには無理がある。世界経済の中心は米国であり、そこで需要を開拓できれば自ずと未来が開ける。最も難しい米国市場にアプローチして、そこで成功を収めれば、必ず欧州市場でも成功する。ホンダの精神は一番困難なことに、最初に立ち向かうことだ〉
藤沢は社内の反対を押し切って、三十四年七月にロサンゼルス郊外に「アメリカ・ホンダ」(通称アメホン)を設立した。初代社長には皮肉にも「米国市場の開拓は最後に回すべき」と主張した川島喜八郎が起用された。
当時の耐久消費財の対米輸出といえば、現地の商事会社、通販会社に一括して買い取ってもらうことである。相手も一手販売権を欲しがった。これだとメーカーもリスクなき輸出が可能となる。
だが藤沢はその手を使わず、国内市場を開拓したときと同じように、地道に直接販売する道を選んだ。まず試験的に五〇ccのスーパーカブを投入し、売れ行きを見ながら順次六五cc、九〇ccを加える。昔と違うのは、資金繰りに余裕が出てきたことから、販売網整備に向けて多少の先行投資ができることだ。
国土の広い米国では、営業マンが足を棒にして売り歩いても砂漠に水を撒くようなものだ。そこで川島は大胆な宣伝戦略を取ることを思いついた。大手広告会社のグレイと組み、五百万ドルを投じて「タイム」「ルック」「ライフ」といった高級雑誌に強力な広告キャンペーンを張ったのである。
「すばらしき人ホンダに乗る」
カブト虫の形をしたVW(フォルクスワーゲン)の「ビートル」の全盛時代で、宣伝コピーも意識してVWを真似た。これまで米国市場になかった小さなオートバイと、一味違ったコピーが受け、いち早く「ホンダは二輪車のビートル」との評判をとった。米国の二輪車市場はまたたく間に活性化した。ブラック・ジャケットのイメージが駆逐され、代わって「オートバイ=ホンダ」の新しいイメージが定着した。ホンダは米国市場で世界企業として飛躍する足掛かりをつかんだ。
この余勢を駆って欧州では、ベルギーに小型オートバイの組み立て工場の建設を決断、三十八年五月から稼働させた。欧州で現地生産に踏み切ったのは、三十六年のマン島レースの独占優勝に続いて二輪車の世界グランプリレースでも優勝したことから、ホンダのブランドは不動になったと判断してのことであった。
鈴鹿製作所は三十五年四月に完成、十一月には早くも月産六万台体制が確立した。スーパーカブはオートバイ史上最大のヒット商品になることは、だれの目にもはっきりしていた。むしろ問題は生産体制が予想を上回る早いテンポで軌道に乗ってしまったことにあった。製品は資金を投じて工場を作り、稼働すれば自動的に工場から出てくるが、販売体制の整備にはある程度時間がかかる。
金庫を預かる藤沢は、鈴鹿製作所の建設資金の六十億円は銀行から借りず、売り上げの増加で賄い、不足分を増資で調達する計画を立てていた。メインバンクは創業以来、三菱銀行一本に絞っているが、その主力銀行でさえ今回の大規模設備投資には反対すると睨んでのことだ。
鈴鹿製作所建設を決めた直後、三十三年の資本金は一億二千万円に過ぎなかった。藤沢はなべ底不況を脱した後、景気は急カーブを描いて回復すると判断して一気に六倍増資で七億二千万円に引き上げ、その増資資金で工場用地を取得した。続いて三十四年五月に倍額増資で十四億四千万円に引き上げた。
むろんそれでも足りない。そこで三十五年一月に更に三倍増資、続いて三十六年五月に倍額増資に踏み切り、新資本金を八十六億四千万円とした。資本市場は大活況を呈しており、三十六年の初めには、立ち会い時間を短縮しなければならなかった。
ホンダの資本金はわずか三年足らずで七十二倍に増えた。とにかく無茶苦茶な増資である。「高天原に集う八百万の神々の祭りが最後に天の岩戸を押し開いた」ような大型景気は衰えを知らなかった。ホンダはこの波に乗った。鈴鹿工場の設備投資は最終的に百億円を超えたが、結果的には大半を増資で賄った計算になる。
当然のことながら増資をしても、ある程度配当を維持しなければならない。無配にすれば“食い逃げ増資”と非難され、世間の評判も落ちる。ホンダの配当は三十四年の倍額増資直前までは年三〇%、その後二期が二五%、三十五年八月期から二〇%と徐々に減配して行った。だが増資のテンポが早く、しかも増資後の配当金の総額がうなぎ登りに増えたことから、増資による間接増配と歓迎された。
危機は三十六年の年明けにやってきた。販売が生産に追いつかず、みるみる間に工場の空き地が在庫の山と化してしまった。三月に入ると在庫は四万台を超え、置く場所にも困るようになった。もはや在庫調整は避けて通れない。五月には倍額増資を控えていたので、社内には払い込み直前の生産調整をためらう空気が強かったが、藤沢はあえて鈴鹿工場の操業を五日間止める決断を下した。
ただし対外的には、生産調整を前面には出さず「浜松工場の設備を鈴鹿工場に移す」ことを理由に挙げた。新聞もベタ記事で報じただけで、世間はまだホンダに忍びよっていた、経営危機に気がつかなかった。
藤沢は生産調整の直前になって初めて、三菱銀行に減産に伴う緊急融資を依頼した。通常資金難に陥った企業は常套手段として、正確な不足額を打ち明けず、当座の決済資金だけ申し込み、その後で追加融資を依頼する。銀行はこうした手口が分かっているので、この種の融資依頼は「最初に断った方がいい」と判断しがちである。
「スーパーカブは夏になれば、順調に回復します。そうなればまた大増産します。申し込んだ金額には、その分も含まれています」
藤沢は頭取、副頭取、融資担当役員、当座取引をしている京橋支店長など十人近い三菱銀行の経営幹部を前に大見得を切った。銀行が知りたいのは、融資した後どうなるかである。藤沢はそれを見透かしたように、追加融資の必要がないことを明言したのだった。
追加融資の心配がないということは、企業の先行きに問題がないということで、結果的に五十億円の緊急融資が決まり、ホンダは救われた。
二十九年の経営危機は技術的なトラブルから起きたが、今回は生産があまりにも順調に立ち上がり、販売が生産に追いつかないことから起きた。またしても生産と販売のバランスが崩れた。二輪車でフォード式のマスプロ生産を確立したが、同時に見込み生産の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。たった五日間の休止だったが、社内には危機感が芽生えた。
販売体制の整備・強化が終わり、国内販売が軌道に乗れば、自然にバランスはとれる。米国でもスーパーカブはブームの状態を呈している。五月の増資払い込みが終わるあたりから、逆に玉不足が深刻化してきた。そして藤沢の予想通り、八月にはスーパーカブだけで月販十万台という、とてつもない大記録を樹立した。むろん秋を待たずに三菱銀行から借りた五十億円は全額返済した。
スーパーカブの利益率は約一〇%と決して高いとはいえなかったが、販売が急上昇したことから短期間での増資にもかかわらず、借金を返済したうえ高率配当を維持できた。
三十七年のホンダのオートバイの生産台数は百五万五千台を記録、シェアは六〇%を超した。スーパーカブは小型自動二輪の部門で、実に九三・六%を占め、早くもホンダ一社で、業界の動きを左右する独占体制を築いた。
スーパーカブの爆発的ともいえる大ヒットで、ホンダ社内に活気が戻ってきた。活気の源泉は従業員の若さにあった。社員は五千人を超えたにもかかわらず、平均年齢はわずか二十四歳九カ月。浪人した大卒者や大学院修了者が工場に配属されると、歓迎会の席で工場長は冷やかしとも激励ともつかない挨拶をした。
「これでわが社もいくらか平均年齢が高くなる」
社員が若いだけではない。部長クラスの経営幹部も若い。総務部長の宇佐美正文は五十一歳とやや年配だが、浜松製作所所長の原田信助四十五歳、アメリカ・ホンダ社長の川島喜八郎四十四歳、営業部長の小林澄夫四十一歳、ヨーロッパ・ホンダ総支配人の岡村昇三十七歳、埼玉製作所所長の河島喜好に至っては三十五歳である。
社内は工場に限らず、本社、研究所、営業所に至るまで活気に満ち溢れていた。その源泉は若さの他に高賃金にあった。ホンダの賃金体系はホワイトとブルーの差別がなく、すべて同一基準による平等主義が貫かれていた。高卒、大卒の学歴に関係なく、能力に応じて昇給する仕組みになっており、平均月収は高卒二年目で平均七万五千円、大卒三年目で十三万円。三十八年の夏のボーナスは月収の六カ月あった。
東京オリンピックが開かれた前年の三十八年九月二十三日には、七千五百人の全社員を京都に集め、盛大な創立十五周年記念式典を行なった。京都で若手社員のアイディアを採用、一億円を投じて京都の夜の街を借り切るイベントも実施した。
「模擬国際都市/京都の夜」と銘打った前夜祭は、京都市民の度肝を抜いた。京都会館、弥栄会館などのほか主要ホテルのホールを借り切って、ミュージカル、歌謡ショー、都おどり、ダンスパーティーを開催した。
この催しに出演するため三波春夫、村田英雄、中尾ミエ、伊東ゆかり、園マリなど流行歌手から、藤田まこと、フランキー堺、三木のり平、伴淳三郎などの人気お笑いタレント、果ては手品師・引田天功まで、この日ばかりは売れっ子といわれた芸能人がほぼ全員京都に集合した。
社員は「夜の京都招待券」と書かれたお土産付きの金券を使って、この日ばかりは飲み放題、食い放題。古都・京都でホンダの若さを発散させると同時に、町工場から世界企業へ飛躍した喜びを分かち合った。
圧巻は国際ホテルの宴会場に、京都中の舞妓、芸者を全員侍らせた大宴会だった。ここで宗一郎は丹前姿で当時流行していた村田英雄の「王将」を万感の思いを込めて歌い上げた。
吹けば飛ぶような将棋の駒に、かけた命を笑わば笑え……
歌っている宗一郎にも、側で聞いている藤沢にも「あの焼け跡から出発した、歌の文句の通り吹けば飛ぶような無名の零細企業だったホンダも、遂にここまで来た」という思いがよぎった。
「私は三十八年の夏にホンダへの就職が内定した。内定者には毎月社報が届く。そこには京都での楽しい一夜の予告編が載っている。てっきり内定者も呼ばれると思い込んでいたが結局、匂いを嗅がされただけで終わった。後で先輩に話を聞いたが、本当に楽しかったようだった」
昭和三十九年に入社した取締役鈴鹿製作所所長の笠井要は、今なお一年遅れの入社を悔やむ。
相次ぐ増資で「ホンダに億万長者の女子社員続出」と週刊誌で騒がれたのも、この頃だ。ホンダは最初の経営危機を脱した三十年一月に従業員持ち株制を発足させた。当時の株価は一株二百円前後だったが、宗一郎と藤沢は五十円の額面で譲渡した。株を会社で保管するといった制限を一切付けずに、従業員が欲しいだけの株数を男女の別なく割り当てた。むろんこの時はほぼ全員が購入した。
極端な話、額面で購入した翌日に市場で売れば、一株につき百五十円の利益が出る。二人の創業者は、それを百も承知で持ち株制度をスタートさせたわけだが、最初の一年間はさすがにだれも売らなかった。
その持ち株が三十四年から三十六年にかけてわずか三年の間に七十二倍に増えた。増資はすべて額面割り当てである。払い込んでもらわなければ、失権株が発生するので、従業員株主には会社が三菱銀行を紹介、銀行の融資を受けて払い込んでもらった。男子の社員は株価が上がったところで、適当に市場で売却して増資資金を捻出したが、女子社員の多くは正直に払い込んだ。
社員が若いだけに“内作”と揶揄された社内結婚も増えた。内作と分かると、「それで彼女の固定資産は……」と暗に持ち株を聞き、それが社内のうわさになるほど内作組は羨ましがられた。大久保、久米、吉沢など後にホンダを背負う幹部は、相手の固定資産はともかく、いずれも内作組である。
工場が増えるたび役員の数も増え、忙しそうに飛び回っている。役員はそれでも十人足らずで、宗一郎と藤沢以外は、常務でも工場長や部長を兼ねている。しかし藤沢の目には役員がやっていることといえば、単に決済のハンコを押しているとしか映らない。
〈役員の仕事はハンコを押すだけではない。こんなことを繰り返していては、いずれ官僚組織の会社になってしまう。役員には役員らしい仕事をしてもらわなければならない。それでは役員の仕事とは何か……。未知への探究にあるのではないか。役員になる人は、何らかのエキスパートであるはずだ。そのエキスパートにつまらない雑務をやらせてはあまりにももったいない。雑務から解放して一つの部屋に入ってもらい、そこでホンダの将来をじっくり考えてもらったほうがよい〉
藤沢が万物流転の掟から逃れる方策としてたどり着いたのが、「役員室」の開設だった。研究所の独立が大勢の宗一郎を作るのが目的とすれば、役員室の狙いは沢山の藤沢を作ることにある。
宗一郎が技術のエキスパートとすれば、藤沢は経営のエキスパートといえる。エキスパートの特徴は、本能と直感で動くことだ。大勢の宗一郎を作るため、研究所を独立させたが、仮にそこから第二、第三の宗一郎が輩出しても、才能を認めそれを経営に生かす人がいなければホンダの発展はない。
藤沢はまともなサラリーマン生活をしたことがなく、堅苦しい集団で生きていくことができないタイプの人間だった。だからこそ性格は違うものの、同じような環境で育った宗一郎と意気投合してコンビを組んだ。第二、第三の宗一郎というのは、言い方を換えれば、個人ではなく研究所という文鎮型の組織を指す。
組織には組織で対抗しない限り、バランスがとれない。崩れてしまえば二十九年の経営危機の二の舞いになってしまう。それを避けるには、経営陣を集団制にしてしまうのが手っ取り早い。宗一郎を組織化したのが研究所とすれば、藤沢を組織化したのが大部屋の役員室といえる。
四輪車に進出した直後の三十九年、ホンダの役員は宗一郎を除いて全員、藤沢の本拠地である八重洲の本社の一室に集められ、役員の大部屋制度が発足した。
この時期、宗一郎は本田家の同族色を排除するため、創業時から苦労を共にしてきた弟の弁二郎を強引に退任させた。宗一郎は弟の存在がホンダの発展を阻害すると判断した。確かに弁二郎は技術者として峠を越し、最新の技術にはついて行けなくなっていた。
だがアート商会浜松支店以来、苦労を共にしてきた功労者だけに、ホンダにいる限りそれなりの待遇をしなければならない。いくら藤沢といえども宗一郎に面と向かって「あんたの弟がいるので、若手の技術者が育たない」とはいいにくい。
それを察知した宗一郎が、先手を打つ形で泣いて馬謖を切った。このとき二人はお互い自分の子弟をホンダには入れないことを約束して、同族色の芽を断ち切った。
宗一郎は弁二郎が役員を退任した翌年の三十八年九月、弁二郎のために「本田鋳物」(現本田金属技術工業)という部品会社を設立してやった。藤沢も一株所有して名前だけの初代社長に就き、経営の指南をするなど側面から弁二郎を支援した。
宗一郎、藤沢に次ぐ社内ナンバースリーの常務は、二人を引き合わせた竹島と三菱商事からスカウトした高橋健助の二人で、それぞれ埼玉製作所所長と資材部長を兼務していた。いずれも明治生まれで、二人の創業者と同世代である。
若手役員は順調に成長している。集団制でポスト宗一郎・藤沢を担う河島、西田、川島の三人は三十七年に弁二郎と入れ替わる形で、揃って三十代の若さで取締役に就任した。もう一人の白井は三十四年に一足先に役員になっていた。
役員の大部屋制は当初、猛反発を受けた。
「今まで(ハンコを押す)仕事があったが、それが八重洲に来たお陰でなくなってしまった。これからここで一体なにをすれば良いのだ」
「私は営業しか知らない。これからも営業一本ヤリで行こうと思っている。こんなところに閉じ籠っていては、肝心の営業ができない」
「工場には大勢の部下がいた。私が現場にいて陣頭指揮をとってきたからこそ、生産性も上がった。指揮官がいなければ、現場は混乱するだけだ」
藤沢はこうした声を一切無視した。
「君たちはいやしくも“世界のホンダ”の重役なんだ。重役というのは何もしないでいいのだ。その証拠にあたしは何もしちゃいない。会社にも週の半分ぐらいしか出てこない。重役の仕事を強いていえば、白紙の状態でホンダの将来のあるべき姿を考えることだ。ハンコを押したりする日常的な仕事は、部長以下に任せれば良い。毎日役員同士が顔を合わせ、ムダ話でもしておれば宜しい」
役員を一つの部屋に集めた役員室は、役員間の相互信頼をはかり、派閥が出来る芽を早目に摘み取ることも狙った。
役員が担当もなく、一つの部屋に閉じ込められれば、派閥を作ろうにも作れない。時間があるから他の役員の話にも自然に耳を傾けるようになり、自分がこれまで担当した以外の分野にも自ずと興味が湧いてくる。
藤沢は役員全員に経営者としての意識を植え付けるため、労組との交渉に当たる労担を役員の輪番制とした。輪番だから技術系の役員でも、自分に番が回ってくれば会社を代表して労組交渉に当たらなければならない。
ともあれ大部屋による役員室がスタートした。予想通り現場にいた役員ほど戸惑ったが、時間を経るにつれ藤沢の考えを理解できるようになった。工場関係者は営業や経理の実情を知り、資材の関係者は開発を学ぶなど、役員の間に社業に関して共通認識が出来上がった。役員室が発足した十年後に二人の創業者は同時に経営の表舞台から去ったが、バトンタッチがスムースに行ったのは集団制が完全に定着していたからであろう。
役員室制度を発足させ、社長、副社長以外の役員を大部屋に集めたことで、だれもが担当の枠を外れて気軽に話し合う雰囲気が出来た。そこから生まれたのが後日、ホンダの専売特許となる“ワイガヤ”である。文字通り「ワイワイ、ガヤガヤ」を略したもので、名付け親は三代目会長の大久保叡である。この言葉は昭和四十年代の半ばに定着し始めた。
ホンダには宗一郎の開けっ広げな性格と議論好きを反映して、「いいたいことを自由にいわせ、やりたいことを自由にやらせる」という企業風土ができつつあった。これを組織として最初に取り上げたのが、藤沢の発案によるエキスパート制度で、役員室はその延長線上にある。“ホンダ・アプレ論”が囁かれたのもこの頃である。
社長の宗一郎は、和光の研究所に社長室を構え、日常の経営には一切タッチしない。副社長の藤沢も会社にいる時間が極端に短い。それ以外の役員が一つの部屋に集められれば、問題が発生したときは、全員がまず自分の意見を述べ、それを役員室として集約して、最終的に藤沢の判断を仰ぐシステムが自然に出来上がった。
短時間で役員の意見を集約するには、日頃から役員室としてのベクトルを合わせておかなければならない。このやり方を繰り返せば自ずと集団思考が可能になる。いってみれば“ワイガヤ”というのは、あるテーマについて各人が非公式に立場を離れ、自由に意見を吐いて議論する絶好の場である。ただし一歩踏み外せば、いい放し、聞き放しの無責任体制になる危険性も秘めている。
役員室から始まった“ワイガヤ”は、知らず知らずのうちに社内の各部署が真似し始め、それが海外の工場まで広まり、いつしかホンダ独特の和製英語として定着した。
話は前後するが、ホンダが鈴鹿工場の生産調整に苦しんでいる頃、将来を揺るがす大問題が巻き起こりつつあった。通産省が貿易自由化をにらんで、特定産業振興法(特振法)の成立に向け動き出していた。日本はすでに昭和三十五年にガット(貿易と関税の一般協定)の八条国(為替制限撤廃)に移行しており、ウェーバー(自由化義務免除)を申請していたものの、仮に自由化の実施時期を二年遅らせても、三十八年には踏み切らなければならない。その後には資本自由化が控えている。
当時GM(ゼネラル・モーターズ)、フォード、クライスラーの米ビッグスリーは、自動車業界の巨象にたとえられていた。対する日本メーカーは蟻である。ガット八条国に移行した昭和三十五年の生産台数は乗用車とトラックを合わせてわずか四十八万台。これはGM一社、それも乗用車二、三車種の規模でしかない。日本のメーカーが束になってかかっても、生産台数はまだGMの十分の一にも満たない。
日本の自動車産業は、昭和二十五年の朝鮮戦争に伴う特需で産業として一本立ち出来るキッカケをつかんだ。それ以前には自動車産業、とりわけ乗用車の国産化無用論が大手を振って罷り通っていた。
日銀総裁の一万田尚登がこれを強力に唱えていた。“日銀の法王”と呼ばれていた一万田の在任期間は、二十一年六月から二十九年十二月まで実に八年半の長期にわたり、この間内閣が七つ、大蔵大臣は九人を数えた。公職追放令によって有力財界人が少なかったこともあり、一万田は法王として権勢を振るった。
「日本で乗用車工場を建設しても成り立たない。日本はトラックの生産に徹し、乗用車は欧米先進国から輸入すればよい。これこそ理想的な国際分業だ」
一万田が唱える「乗用車工業育成不要論」の根拠は二つあった。一つは乗用車というのは限られた特権階級の人だけが乗る贅沢品であること。もう一つが乗用車産業はエンジン、ボディーを含め二万点を超す部品からなっており、大規模な資本を必要とするが、その投資に見合う需要は日本では期待できないというところにあった。
戦後、日本の乗用車はGHQ(連合国最高司令官総司令部)の方針で、生産を制限されていたが、二十四年十月になってようやく解除された。この年の生産台数は、トラック二万五千台、バス二千台、乗用車はわずか千台に過ぎなかった。生産設備の機械が極度に老朽化しており、乗用車の量産をはかるには、まず何より設備を更新しなければならない。一万田の言葉を借りずとも、日本が乗用車で自立するのは困難な情勢だ。
ところが思いがけずに朝鮮特需でトラックの需要が盛り上がり、その利益を乗用車の開発に回す余裕ができたことから、通産省も重い腰を上げ、乗用車を育成産業の対象にすることになった。だが肝心のメーカーに乗用車の技術蓄積がない。
そこで二十七年に日産が英オースチンと提携して「A四〇型」、翌二十八年にはいすゞ自動車が同じく英のルーツの「ヒルマン・ミンクス」、日野ヂーゼル工業(現日野自動車工業)は仏ルノー公団の「ルノー4VC」の生産を開始した。
提携の骨子は単に技術を教えてもらうだけでなく、主要部品を輸入したライセンス生産である。トヨタも米フォード車のライセンス生産を画策したが、朝鮮戦争の勃発でフォードの技術者の来日が困難となり、提携交渉が白紙還元されたいきさつがある。
二十九年には東京・日比谷公園で東京モーターショーの前身である「第一回全日本自動車ショー」が開催された。
三十年代に入るとライセンス生産も、エンジンから部品に至るまで完全国産化され、軌道に乗り始めた。最大の需要先は、タクシーを中心とした営業用で、乗用車需要の八割近くを占めていた。
わが国のモータリゼーション(自動車の大衆化)の第一段階は、神武景気に陰りが出始めた三十三年にスタートした。この年の乗用車の生産台数は、まだ五万台に過ぎなかったが、営業車の比率が四四%に低下、代わって事業用自家用車の比率が四六%に達し、初めてその比率が逆転した。
欧米のモータリゼーションは一人当たりの国民所得と乗用車の価格がほぼ等しい水準になった時に起きた。マイカーの発展が起爆剤になったわけだが、日本は事業用自家用車が起爆剤となった。
マイカーを中心としたモータリゼーションが、日本でいつ起こるか。昭和三十年の日本の一人当たりの国民所得は八万一千円。これが三十五年には十四万二千円に増えた。マイカーのはしりとして注目されたトヨタの「コロナ」、日産の「ブルーバード」の小売価格がようやく百万円を切ったばかりである。
マイカーを中心としたモータリゼーションを起こすには、まだまだ値段を下げなければならない。外国車のライセンス生産では限界がある。日本の道路事情に合わせたもっと小さな大衆小型車を開発しない限り、需要は開拓できないし、コストも安くならない。
日本の自動車産業は、明らかに曲がり角にさし掛かっていた。タイミング良く安保騒動の責任を取って退陣した岸信介に代わって、所得倍増計画の大風呂敷を広げた池田勇人が首相の座に就いた。高度経済成長に弾みがつき、池田の公約通り国民所得が倍増すれば、十年後の日本の自動車の生産台数は、年間百万台の大台に乗り、日本は自動車先進国の仲間入りする。
日本の自動車市場の将来性は、豊かでバラ色に見えた。ただし貿易自由化が実現すれば、米ビッグスリーが巨大な資本を背景に、日本に上陸するのは目に見えている。“黒船襲来”による影響を最小限に食い止めるには、その前に国内メーカーの集約をはかり、体力をつけておかなければならない。
ところが肝心の自動車産業の国際競争力は、機械産業の中でも工作機械と共に最も弱いとされていた。といって自由化の時期を二年以上遅らせるのは難しい。
こうなると通産省の出番である。通産省は貿易・資本の自由化とモータリゼーションの進展をにらみ、昭和三十年代の初期から国民車構想を進めており、トヨタはその絡みで三十五年に米フォードと日本で合弁生産する交渉に入った。
一方、二十八年に米ウィリス社と提携して四輪駆動車「ジープ」のライセンス生産を始めた新三菱重工業(現三菱自動車工業)は、今度はイタリア・フィアットとの技術提携による乗用車のライセンス生産を計画していた。両社は貿易の自由化に続いて「資本の自由化が実施されれば、日本メーカーの存立基盤が危うくなる」と判断して、外資との提携に走った。
トヨタとフォードの合弁生産は、トヨタが開発した排気量八〇〇ccの大衆車「パブリカ」が前提になっているので、問題は比較的少なかった。一方、新三菱はフィアット車のKD(ノックダウン=組み立て)生産のため、国産車の育成にはつながりにくいことから、通産省としては認可すべきかどうか苦慮していた。
その通産省自体も大きく揺れ動いていた。将来の日本の通商政策を左右する経済自由化の是非を巡り“異色官僚”の名をほしいままにし、民族資本育成派の頂点に立っていた重工業局長(現在の機械情報産業局長)の佐橋滋とそれに反対する国際派とに分かれ、激しい政策論争を繰り広げていた。しかし自由化が秒読み段階に入るとともに、佐橋の率いる民族派が次第に主流に伸し上がってきた。
通産省の基本政策は、三十八年の貿易自由化を前提に、短期間で国際競争力をつけることにあった。それには乗用車への新規参入を抑え、過当競争を排除すると同時に、既存メーカーを再編成して量産効果を上げるしかない。
こうした通産省の動きを察知して、三輪車中心の東洋工業(現マツダ)、ダイハツ工業、オートバイの鈴木自動車工業(現スズキ)、スクーターの富士重工業などの非四輪車メーカーが、続々と乗用車への新規参入を表明した。
トヨタは三十四年に乗用車専用の元町工場を完成させた。日産も月産二万台を目指した追浜工場の建設に取り掛かった。トヨタ、日産と並ぶ自動車業界の“御三家”を形成していたいすゞ自動車も、乗用車専門の藤沢工場の建設に着手した。日本の自動車産業は、貿易・資本の自由化とマイカー時代の到来を目前に控え戦国時代を迎えた。
四輪車への登竜門は、何といっても排気量三六〇ccの軽自動車である。東急くろがね工業、愛知機械、ホープ自動車の三社はすでに軽四輪トラックへ進出しており、軽トラックブームを巻き起こしていた。軽の主力ユーザーは、中小企業と商店だった。
当時テレビでは大村崑が主演した「番頭はんと丁稚どん」という番組が人気を博しており、ダイハツの「ミゼット」に代表される軽三輪車が「丁稚どんの車」と呼ばれたのに対し、軽四輪車は「番頭はんの車」と一格上の車とされていた。
有力企業の中で去就がはっきりしないのは、ホンダだけとなった。経営的にみてホンダが長期的に発展し続けるには、四輪車進出は欠かせない。藤沢はオートバイで世界一になった後の宗一郎の次なる夢が、四輪車のF1レースで優勝して、四輪車メーカーに転身することであることは百も承知している。にもかかわらず、二人とも四輪車進出は、まだ時期尚早と見ていた。
四輪車の開発は数年前から続けているが、たとえどんなに優れた四輪車を作っても、事業として成功するかどうかは、販売網とアフターサービス体制いかんにかかっている。オートバイの全国販売網がようやく完成したばかりで、続いて四輪車の体制を築くとなれば、気が遠くなるような資金と労力が要る。
ホンダは確かにオートバイという戦後の成長産業では世界を制覇したが、“キワモノ産業”と揶揄されたように、オートバイ産業は四輪車事業に比べて、技術も投下資金も児戯に等しい。技術の総帥である宗一郎がいくら天才とはいえ、四輪車の基礎技術はアート商会時代のフォード車の経験しかない。それも一九二〇年代にブームを呼んだ旧式のT型フォードである。
自動車の先進国である欧米の自動車産業は、すでに成熟化している。米国自動車産業の最後の成功者は一九二五年にクライスラーを設立したウォルター・P・クライスラーとされる。クライスラーの後もハドソン、スチュードベーカー、パッカード、ウィリスから七五年の元GM副社長のデロリアンが設立したデロリアン自動車まで、何人もの“自動車野郎”(カー・ガイ)が企業化に挑戦したが、いずれも志半ばにして挫折している。
自動車事業はそれほど難しい。優秀な技術があり、巨額の資金があっても成功する保証はない。ホンダが四輪車を単純にオートバイの延長線と位置づけ、中途半端な形で進出すれば、宗一郎の夢が壊れるだけでなく、下手をすれば二度と立ち直れないような壊滅的な打撃を受ける。
単に資本だけでなく、技術蓄積のないホンダが自動車分野に進出して成功する可能性は極めて低かった。こうした事情は二人とも分かり過ぎるほど分かっていた。四輪車進出はホンダにとって、「|伸《の》るか|反《そ》るか」の大仕事となる。だからこそ進出の機会を慎重にうかがっていた。
だが時代は待ってくれない。民族派の佐橋が主流に伸し上がった通産省は、国際競争力の強化を目指して、まず「自動車工業合理化促進臨時措置法」の制定に動き出した。
骨子は既存の乗用車メーカーを月産一万台以上を生産する量産グループ(トヨタ、日産、マツダ)、高級車、スポーツカー、ディーゼルエンジンなど技術の特色を生かした特殊車グループ(プリンス、いすゞ、日野)、軽自動車中心のミニカーグループ(富士重、マツダ)の三グループに集約すると同時に、新規参入は通産省の許可制にすることである。佐橋は国際競争力を強化するため、再編に際し合理化カルテルを認め、一気に生産の集約をはかろうとしていた。
ホンダの業績は創業わずか十数年にして、売り上げ、利益ともトヨタ、日産の半分弱まで成長している。「スーパーカブ」の大ヒットで、ことオートバイに関しては国内トップの座は安泰であるばかりでなく、海外でもマン島レースを完全制覇したことで、急速に評価が高まり輸出も急増し、内外で「世界のホンダ」のイメージが定着し始めていた。
〈二輪車はまだまだ伸びる。今の調子でいけばトヨタ、日産との体力格差をもっと縮められる。四輪車進出はそれからにしたい。とはいえ、通産省は本気で立法を狙っている。法案が成立する前に進出を表明しておかなければ、永久に四輪車進出のチャンスを失ってしまう。すべての面で準備不足は否めないが、とりあえず進出だけ表明しておき、できるだけ時間を稼ごう〉
生産調整のため鈴鹿工場を五日間休止した直後、宗一郎と藤沢は四輪車進出を決断した。経営危機に陥った昭和二十九年に、苦し紛れでマン島レース出場宣言した時と似たような状況での決断であった。
宗一郎と藤沢のやり方は、その時の技術や採算を度外視してまず大きな目標を掲げ(アドバルーンを上げ)、それが少しでも達成する可能性があるとみるや、いつの間にか目標を既成事実化して、実現に向けて社員を引っ張っていくことである。必要な技術はその過程で作り出す。こうしたやり方は社内ではいつしか“ホンダイズム”と呼ばれるようになった。
一種の竹やり戦法といえないこともないが、ホンダの場合、藤沢が宗一郎の技術を一〇〇%信頼し、また宗一郎が経営を藤沢に全面的に任せたことで目標を達成してきた。業界では“ホンダの大ボラ”は有名になっていたが、二人が大きなアドバルーンを上げても玉砕に終わらなかったのは、二人の創業者にお互いの能力を信じ切る、誇りともいうべき矜恃があったためであろう。
四輪車の開発は、研究所が別会社として分離・独立する前から中村良夫を中心に密かに進めていた。中村は昭和十七年に東大工学部航空機科を卒業した後中島飛行機に入社、中島に在社しながら、陸軍立川第二航空技術研究所で、戦闘機のエンジン設計を手掛けた。戦後中島が解体されたのに伴い富士重工業の前身である富士産業に入社、その後日本内燃機製造(くろがね)を経て、昭和三十二年に三十九歳でホンダに入社した。
中村をホンダに紹介したのは、宗一郎と藤沢を引き合わせた竹島弘だった。竹島と中村は戦前、中島飛行機にいた関係で旧知の間柄。その竹島はすでに通産省を辞め、一足先にホンダに入り、新設したばかりの埼玉県・和光工場の工場長をしていた。
ホンダはすでにマン島レースへの出場を公表しており、業界の雀は早くも四輪車進出をうわさしていた。中村はオートバイにはまったく興味がなかった。というより「私はオートバイは嫌いだ。あれは野蛮人が乗るものだ」と広言してはばからなかった。したがって目先はともかく、長期的な展望としてホンダに四輪車進出の計画がなければ、入社しても意味がないとさえ思っていた。
中村の夢は四輪車にとどまらず、F1レースにあった。そこで白子工場の社長室で面接試験を兼ねて宗一郎に会ったとき、業界のうわさを頼りにあえて不躾な質問をした。
「ホンダはマン島レースを制した後、四輪車のグランプリであるF1への出場を考えているのですか」
宗一郎の返事は簡単である。
「できるか、できんか、おれにはわかんないけど……。おれはやってみてぇよ。なにしろF1といやぁ、世界一のスピードを競うレースだからな」
中村はこの一言で、ホンダに入ることを決心した。配属されたのは宗一郎を頂点とする総勢百人足らずの技術部だった。技術部は設計、研究、試作、総務の三部門に分かれていた。さらに設計部門はオートバイのエンジンを担当する第一課、オートバイの車体を担当する第二課、四輪車の第三課、汎用機と農業機器を担当する第四課、他に造型(デザイン)室の四課一室からなっていた。むろん第三課は中村の入社を機に新設した組織である。
人員は各課とも十人前後で構成され、四輪部隊には八人が配属されていた。半分がホンダの生え抜き社員で、残りが中村同様「くろがね」からの移籍組である。四輪車の知識は移籍組の人間しか持っていないので、いやがおうでも年長の中村が中心にならざるをえない。
宗一郎はスーパーカブの開発に全力投球していたこともあり、中村に「こんな車を開発してほしい」といった具体的な指示は一切出さなかった。ホンダにとって四輪車はまだ保険の域を出ていなかった。といって中村は遊んでいるわけにはいかない。
そこで将来どんな車でも作れるよう「A120」と名付けたV4型、空冷の排気量三六〇ccエンジンを車の前に積み、ハイボイド・ギヤで前輪を駆動するFF(前置きエンジン、前輪駆動)型の軽乗用車の設計に取り組み始めた。
「A120」のAは四輪車(オートモビル)、120は最高時速一二〇キロを目標にしていることを表す開発記号である。A120の特徴は乗用車、バン、トラック、スポーツ車のどんなボディーにも対応できることだ。中村はオートバイしか経験がないホンダの技術水準と、ディーラー、サービス網の実態から判断して、最初の四輪車は軽自動車にならざるを得ないと判断していた。
宗一郎はスーパーカブを完成させた後、鈴鹿工場の建設に全力投球していたこともあり、A120の開発にはそれほど興味を示さなかった。ときおり第三設計課に顔を出すが、前輪駆動方式だけには猛反対した。理由は前例がないことと、登坂力に限界があるということだった。
一方、藤沢はA120の試作車に乗った上で、多用途シャシーでいろんな車を開発するのも良いが、ホンダの実力からみて第一号車はやはり軽トラックに絞った方が良いという考えに傾いていた。
三十年代も半ばになると、富士重工業が名車の誉れ高い「スバル360」、マツダは「キャロル」、ダイハツは「ハイゼット」、スズキは「スズライト」という具合に、特振法の動向をにらんだ軽乗用車を相次いで発売した。
業界の動きは慌ただしくなってきたが、中村は藤沢の考えを|忖度《そんたく》してA120の開発をやめ、空冷水平対向四シリンダー、セミ・キャブオーバー型の「A170」という開発番号を持った軽トラックの試作に取り掛かった。試作品も出来上がり、問題の洗い出しに着手し始めたある日、宗一郎が設計第三課に顔を出していきなり大声で言った。
「オイみんな、よく聞け。おらっちはスポーツカーをやるんだょ。トラックなんか止めちゃえ。とにかくスポーツカーをやるんだょ」
それからほどなくして、まことしやかなうわさが研究所内を駆け巡った。
「スポーツカーを開発することを、藤沢さんも了解したらしい」
「藤沢専務も社長同様、やはりホンダの四輪車は、乗用車にすべきだといっている」
この時期、二人は四輪車の開発を巡って激しい意見を闘わしていた。具体的なやりとりはだれも知らないが、宗一郎はスポーツカー、藤沢はトラックを主張したことは容易に想像できる。にもかかわらず藤沢が乗用車に傾斜したのは、問題の「特定産業振興法案」の動きが出てきたからだった。
乗用車といっても宗一郎は、カーチス航空機のエンジンを積んだ本格的なスポーツカーを連想したのに対し、藤沢は二シーターで外見はスポーツカーの体裁をとっても、実質的には二人乗りの小回りのきくビジネスカーを考えていた。ホンダの初期の発展を支えたオートバイの「ドリーム号」の四輪車版である。といって軽トラックを諦めたわけではない。
だがいかんせん、当時のホンダにはスポーツカーとトラックを同時並行して開発する力はなかった。宗一郎はすでに第一号車はスポーツカーと決め込んでいたが、中村を中心とする開発陣はむしろ藤沢が考えたスポーツタイプの乗用車をイメージしていた。これだと最低限、エンジンはトラックと共用できる。
むろん宗一郎もトラックの必要性は認めていたが、スポーツカーを優先して開発し、そのエンジンをトラックに積めばよいという考えから、こううそぶいていた。
「スポーツカーと同じDOHC(ダブル・オーバー・ヘッド・カム)のエンジンをそのまま積めば、ヨタヨタしないトラックが出来るじゃねえか」
二人の最終的な調整がないまま「A190」と名付けられた乗用車の開発が進められた。
鈴鹿工場の生産調整からほぼ一カ月を経た三十七年の四月二十一日。鈴鹿サーキットのオープンに合わせて開かれた全国販売店会議の席上、藤沢はさり気なく四輪車進出を表明した。
「ホンダはすでに最高時速一二〇キロが出る排気量三六〇ccの軽四輪車の試作研究を終えている」
むろん身内のディーラーを前にした内々の進出表明でも、ホンダの四輪車進出が間違いなく通産省に伝わることを計算に入れての発言だ。
こうした藤沢の思惑を知ってか知らずか、鈴鹿での販売店会議から一カ月後の五月三十一日、重工業局長の佐橋滋は、産業合理化審議会産業資金部会で特振法の概略を説明し、民族資本育成の意欲を内外に示した。ホンダは間一髪、滑り込んだかにみえた。
通産省は昭和三十六年七月七日、七夕の日に徳永久次の次官昇格と次の次官の指定ポストとされる企業局長(現在の産政局長)に重工業局長の佐橋滋を起用する人事を発令した。この人事は貿易自由化の影響を最小限に食い止める切り札として、通産省が特振法の成立に向けて動き出したことを意味した。
佐橋には「日本にとって需要な産業は貿易自由化を前に体質強化すべき」という考えが根底にあった。過当競争を排除するため新規参入を認めないという方針は、当然の帰結であった。
ホンダは四月に藤沢がさりげない形で、販売店に四輪車進出を表明したものの、通産省はハナから信じていなかった。通産省にすればトヨタ、日産ですら将来が危ういのに、これから新規参入するというのは、無謀であり正気の沙汰でない。
それ以前に通産省はホンダに対して、抜き難い不信感をもっていた。ホンダが中古のミシン工場を改造した東京工場を稼働させた昭和二十五年当時、ガソリンはまだ配給制をとっており、オートバイの生産台数は事実上通産省が決めていた。企業の生殺与奪を通産省が握っていたわけだ。ホンダが通産省に申請した生産予定台数は月産三百台。業界全体で月産千台足らずの時代である。そこに資本はおろか、販売網もない無名のホンダが突然申請してきたのである。通産省は首を傾げた。
「資本も販売網もブランドもない無名の会社が、どうしてそんなことができるのだ。ホンダというのは、ガソリンの割り当てをもらおうとして、生産計画を水増ししているのではないか」
それだけではない。外貨不足の時代に「外国製の工作機械を購入する」と称して、乏しい外貨を遠慮会釈なく海外に持ち出す。といって一向に輸出をする気配がない。ホンダのやることなすことは、すべて通産省の方針を逆撫ですることばかりであった。
むろん宗一郎にも言い分がある。
〈日本のオートバイが世界市場を制覇できたのは、政府の保護を受けなかったからじゃないか。産業政策に政府が介入すれば、逆に企業の力は弱まる。貿易自由化に最も有効な手段は自由競争だ。ところが戦後、自動車産業の発展が疎外された原因は、外国車を輸入制限したことにある。技術の競争はあくまで技術をもってすべきだ。どんな障害を設けても、良い品はどんどん入ってくるのだから……〉
なんとか既成事実を作ろうとするホンダと、それを無視しようとする通産省の熱い闘いが始まった。宗一郎と藤沢の二人は「打倒・特振法」に向けて動き出した。宗一郎のやり方は敵意むき出しである。
「通産省のバカヤロー、おまえたちが日本の産業を弱くしてしまうのだ」
宗一郎は酔ったふりをして一升瓶をぶら下げ、通産省の廊下で怒鳴り散らしたこともあった。宗一郎はある宴席で佐橋を前に真顔でこういって噛みついた。
「おめえさんがた役人は、公益を守るよう動くべきなのに、おれたちが何かやろうとするときは、あれこれ文句をつけて必ず反対する。企業に文句をつけるのなら、株主になってからにしてもれえてえもんだ、株主になってから……。そんなら役人の言い分も聞いてやる」
と言ってみたところで、ホンダの四輪車進出のスケジュールが立っていないので喧嘩にならない。通産省にしてみれば、既存メーカーの競争力の強化に向け、業界再編をどう進めるかが本題であって、まだ進出していないホンダはラチ外であった。
ホンダがいくら「四輪車の試作研究を終えた」と販売店に大見得を切ったところで、まだ内々の話でしかない。実車もなくしかも対外的にまだ何の発表もしていない弱みがある。正確にいえば四輪車のコンセプトすらはっきり決まっておらず、公式に発表しようにもできない。
ホンダが四輪車の輪郭を明らかにしたのは、翌三十七年の正月明け。藤沢は新築したばかりの六本木の自宅を訪れた新聞記者に自信ありげに語った。
「ホンダはこれまでオートバイに主力を置いてきたが、ようやくシェアも五〇%に達し、研究開発の面に余力が出てきた。今まで隠していたが、実は研究所では秘かに四輪車の開発を進めており、すでに試作研究を終えている。排気量三六〇ccの軽乗用車だ。軽乗用車としては業界初の水冷四気筒のエンジンを積んでいる。五月にマスコミの方々や販売店さんに実車を見てもらい、それから生産に取りかかり、年内を目標に発売にこぎつける。価格や生産台数はそれからにしたい」
藤沢が強調したのは、生産車種がトラックではなく乗用車であることだ。ホンダの実力から判断して、藤沢は依然として四輪車への参入は軽トラックが無難との信念を持っていた。それが一転、宗一郎と足並みを揃える形で乗用車へ転換したのは、特振法の対象があくまで乗用車であることを意識してのことだ。
ただしスポーツカーであることは、まだ伏せておいた。スポーツカーも乗用車に違いないが、量はさほど期待できず、国内需要はどうみても月数十台しかない。二人の調整がつかないまま、スポーツカーであることを強調すれば、「月産百台にも満たない台数では、乗用車に参入したことにはならない」と、通産省から横ヤリを入れられる。
藤沢はしたたかなソロバンを弾いていた。
〈仮に二人乗りのスポーツタイプの車であっても、ビジネスカーであることを前面に出せば、通産省の難クセをかわすだけでなく、うまくすればそれなりの需要が見込めるのではないか〉
続いて十六日の新年の記者会見に宗一郎と藤沢が揃って出席、ホンダとして初めて公式に四輪車進出を表明した。車種は引き続きぼかしながら、生産は埼玉、浜松、鈴鹿の三工場で分散生産することを明らかにした。こうしてホンダの四輪車進出は徐々に既成事実化していった。
だが開発が順調に進んでいたわけではない。トップ二人の考えが違っており、開発責任者の中村良夫は頭をかかえていた。最初に販売店へ表明したときは、まだ粘土で作ったクレイモデルすら出来上がっていなかった。四輪車に本格的に取り組むため急きょ、技術者を中途採用したもののすぐに戦力にはならない。
三十七年入社予定の大卒は、鈴鹿製作所の生産調整問題が尾を引き、モタモタしているうち採り損ねてしまった。宗一郎が新年の記者会見で公式に四輪車進出を表明したことで、社内の士気は上がったが、開発陣は騒然となった。期日までメドがたたなければ「社長の舌禍事件」に発展するのは分かり切っている。
約束の五月は刻一刻と迫っているが、研究所の幹部がいくら「ホンダイズムでやり遂げろ」と叱咤激励しても、無理に無理を重ねても間に合いそうにもない。
「ホンダは本当に四輪車に出るのか?」
こうした疑問は、時間が経つにつれマスコミだけでなく、徐々に販売店の間にも広まっていった。ホンダの決算は藤沢の方針で一切経理操作をせず、生の数字をそのまま公表するので利益の変動が激しい。それを反映してか、株価も荒っぽい動きをする。
兜町では「ホンダ」と聞いただけで眉に唾をする人がかなりいた。同じようにトップ二人が正月にがん首を揃えて四輪車進出を表明しても、業界では「ホンダ一流のアドバルーン」と聞き流す向きが多かった。
そうした世間の陰口に宗一郎は耳を貸さず、研究所にこもり、開発の陣頭指揮を取っていた。宗一郎にとって四輪車は未知の世界である。エンジンなどの技術開発は「くろがね」で四輪車の経験がある中村に任せ、自らは専らデザインを担当していた。
ホンダは三十六年に念願のマン島レースを完全制覇した余勢を駆って、同年から国際オートバイ協会が主催する二輪車の世界グランプリレース(GP)でも勝ち名乗りを上げた。三十七年からは鈴鹿でオートバイの「第一回日本グランプリ」と日本初の国際ロードレースの「鈴鹿全日本ロードレース」が開かれる。地元の日本でも連戦連勝して、世界のオートバイ市場でホンダの地位を磐石なものにしたいところだが、そうもいっておれなくなった。オートバイの技術者を四輪車部門に回し、大車輪で開発に取り組まなければならなくなった。
約束の期限も残すところ十日余りとなった五月二十三日。ホンダは突然、軽乗用車の発表時期を秋の東京モーターショーまで延期すると発表した。理由は「発表から発売まで時間が開くのは好ましくない」ともっともらしいが、要するに約束した日までに車ができなかっただけである。発表が遅れればその分、発売が遅れるのが業界の常識。藤沢は、苦しい言い訳をした。
「年内発売は無理かと思います。ただし開発は順調に進んでいます。六月五日の販売店会議には“試作途中車”を非公式に展示する予定です」
試作途中車というのも聞き慣れない言葉だが、ここでも「販売店の声を車に反映させたいため」とごまかすしかない。
販売店会議は六月五日、鈴鹿サーキットの会議室で開かれ、新設のショートコースには確かに、ヘッドランプの大きいスポーティーな形をした車が展示された。展示会場からマスコミをシャットアウトし、報道関係者には「軽四輪乗用車及び同トラックに関する資料」を配布するにとどめた。配布資料に書いてある車の仕様は、排気量と最高出力、それに最高時速だけ。この数字を見れば、実車を見なくても自動車評論家であれば、スポーツカーであるのが一目で分かる。
興味をひいたのは、乗用車だけでなく「AK」の開発番号のついたトラックも同時並行して開発していたことだった。Aは四輪車、Kはトラックを表している。
ホンダが販売店会議に展示した車は、紛れもなく排気量三六〇ccの軽乗用車であった。だが開発を担当した中村は、この車に不満を持っていた。形こそスポーツカーの体裁をとっているが、三六〇ccではトルクが不足し、スポーツカー本来の走りを期待するのは無理がある。
スタイルは宗一郎が直接デザインしただけあって斬新だが、全長三メートル以内という軽の規格枠を守ろうとすれば、どうしても寸詰まりになってしまう。これでは藤沢が狙ったビジネスカーの機能も満足につけられない。
それらの問題を解消するため、軽の規格枠にとらわれない排気量五〇〇ccの車も開発していたが、販売店会議には間に合わず、最終的に展示を見合わせた。
ホンダの第一号となる四輪車はモーターショーが始まる一カ月前の九月二十四日にベールを脱いだ。展示されているのは「ホンダスポーツ500(S500)」と呼ばれる水冷四気筒、最高出力四十五馬力、最高速度時速一四〇キロのスポーツカーだった。ホロのない二人乗りのオープンカーで、性能だけ見れば一〇〇〇ccの小型車に匹敵する。
そして藤沢は自慢げに語った。
「この車は輸出用です。国内は軽自動車の規格で生産しますが、輸出用は三六〇ccでは無理です。モーターショーには軽トラック(T360)を合わせた三車種を出展します。販売、輸出は需要動向を見ながら来春以降、順次開始します」
通勤用と銘打たない限りマーケットが広がらないという考えから藤沢は、五〇〇ccのスポーツカーは輸出用、国内は三六〇ccでビジネス用という割り切り方をしていた。
その分、事務方が苦労を強いられた。東京モーターショーのホンダの展示ブースには、スポーツカーとビジネスカーとそれぞれ用途の異なった二台の車が展示してある。一般公開前に宗一郎が見に来た時は、スポーツカーのコーナーに連れて行き、逆に藤沢が来た時にはビジネスカーという具合に、二人の思惑を満足させるよう配慮した。二人とも先刻、事務方の意図を承知していたが、お互いにそのことにはまったく触れなかった。
S360は数台の試作車を生産しただけで終わったが、S500は予定通り十月に発売した。この車は業界で「四輪付きオートバイ」との陰口を叩かれたものの、宗一郎は全く意に介さなかった。
翌三十八年十月の発売に際しては、乗用車メーカーとしてのホンダの存在をアピールするため、四カ月前の六月から「価格当てクイズ」を実施、大々的なキャンペーンを張った。この懸賞募集には東京中央郵便局開設以来のレコードといわれる五百七十万通を超す応募を得るなど、大きな話題を呼んだ。
その後、S500のボディーにエンジンをボアアップした六〇〇ccのエンジンを積んだ「S600」、同じく八〇〇ccの「S800」と立て続けにスポーツカーを発売した。海外での評判はまずまずだったが、国内ではモーターショーの評判を販売に結び付けることはできなかった。
高度成長期とはいえ、まだ道路が整備されておらず、スポーツカーが普及する条件が揃っていなかったためである。また藤沢が期待したビジネスカーとしての用途もほとんど出なかった。
一方、一足先に発売した軽トラックも散々な結果に終わった。トラックのセールスポイントは、S500と同じように高速・高馬力だが、当時のホンダには違った二種類のエンジンを生産するだけの力がなく、苦肉の策としてスポーツカーのエンジンをそのまま流用したに過ぎない。
それを逆手に取る形で宣伝したが、トラックのエンジンは本来、高トルクを前提にした扱い易さが絶対条件となる。レーシング用に近いエンジンでは、ユーザーは熱狂的なホンダファンか、過積載してもローギヤかせめてセカンドギヤしか使わない特殊な業者に限られる。
これでは輸出もできない。スポーツカーのエンジンを積んでいるからコストも高い。宗一郎が「スポーツカーのエンジンを積めばヨタヨタしないトラックができる」といくらうそぶいても、売れなければ失敗作である。
スポーツカーはホンダの技術に対するパイオニア精神を世に問う役割を果たしたものの、国内販売は予想通り月百台にも満たず、経営的な面では殆ど業績に貢献しなかった。トラックも同じである。
しかし四輪車進出のきっかけとなった特振法は、キャンペーンを開始した直後の三十八年の通常国会で一度も審議されないまま、廃案になってしまった。先発各社が特振法による車種調整を見越し、その前に続々と新車を発表したため、さすがの通産省も得意の行政指導ができなかった。
その直後、企業局長の佐橋は念願の次官を目前に時の通産大臣、福田一に嫌われ飛ばされてしまった。これを機に通産省の派閥争いは一段と激化、貿易自由化対策は企業に任されることになった。
人間が作り出した運搬手段の中で、最も進化したものが自動車である。だから宗一郎は最初に藤沢と出会った時「交通手段というものは形がどう変わろうとも、永久になくならない」と言い切った。特振法が廃案になってしまえば、じっくり四輪車の開発に取り組める。
第三章 抱き合い心中

「時代にさきがけるアイディアが経営を繁栄に導く。良いアイディアがなければ、いかに金貨の袋を抱いていても、時代のバスに乗り遅れて敗残者となる。時代の急激な進歩は事業経営における資本とアイディアとの重要度を転倒させた。まさに色即是空、空即是色」
[#地付き]本田宗一郎
「私が現在の地位にあるのは、その仕事に慣れているからではなく、自信を持っているからである。諸君の中で過去にいかなる功績があろうとも、現在に功績があり、未来に進歩の見込みがなければ、その職務につくことは許されない」
[#地付き]藤沢武夫
東京オリンピックが終わるのを待ち構えたように、不況の嵐が日本列島を直撃した。四十年三月には山陽特殊鋼が、当時戦後最高とされた五百億円の負債を抱え会社更生法を申請して事実上倒産した。
それからわずか二カ月後の五月には山一證券の経営危機が表面化した。オリンピック景気の絶頂期には「銀行さん、さようなら。証券さん、こんにちは」が合言葉になり、ヘソクリを懐にした主婦が兜町を|闊歩《かつぽ》していた。が、九州を地盤とする西日本新聞に山一の経営危機が報じられると、今度は投資信託の解約や運用預かり、保護預かりなどの引き上げを求める客が、全国にある山一の店舗に殺到した。その数は三日間で四万人、解約金額は七十億円に達した。
取り付け騒ぎは山一一社にとどまらず兜町、北浜全体を巻き込み、株価が急落した。山一に続いて大井証券の経営行きづまりも報道され、証券不況は金融市場全体にかかわる信用不安の様相を呈してきた。こうなると大蔵省、日銀も事態を静観することができず、山一の危機表面化から一週間後の二十八日になって救済に必要な資金を無担保で無制限に融資するという日銀特融が発表された。
これで取り付け騒ぎは一段落したが、株価の下落はその後も続き、証券業界に大きな爪痕を残した。だが証券不況をよそに、モータリゼーション(自動車の大衆化)は猛烈な勢いで進み、だれもが「マイカー時代」が目前まで来ているのを肌で感じ取っていた。
昭和四十年の日本の自動車生産台数は百八十七万台。翌四十一年には二百二十万台に増え、英国を抜いて米国、西独に次ぐ世界第三位の生産国に躍り出た。安保騒動の直後に登場した池田勇人が所得倍増の目標を掲げた時、通産省は「日本国内の自動車販売は、十年後に百万台の大台に乗り、自動車先進国の仲間入りを果たす」と予想したが、実際は予想を遥かに上回るスピードで成長を遂げた。
背景は国民所得の急激な上昇にあった。四十年の一人当たりの国民所得は、五年前に比べ八七%増の二十六万五千円に達した。翌年には三十万円を突破するのは確実で、池田首相が予測したより四年早く、所得倍増が実現するのをだれもが疑わなかった。
四十一年はトヨタ一社で、三十五年の日本の総生産台数を十一万台も上回る五十九万台を記録した。世界のメーカーランキングも九位に躍進、初めてベストテン入りを果たした。トヨタの累計生産台数は、四十年に二百万台に達したが、それからわずか一年十カ月後の四十二年四月に三百万台となった。
昭和四十一年は日本の自動車産業にとって「モータリゼーション元年」「マイカー元年」と呼ぶにふさわしい年であった。口火はわが国を代表するトヨタ、日産の二大メーカーが切った。
両社が排気量一〇〇〇ccクラスの大衆車を開発しているのは、オリンピックの前後から周知の事実となっていた。先陣を切ったのは日産だった。発売に際して車名を公募、発売前に全国を行脚して前人気をあおり、四月に応募のあった八百万通の中から「サニー」の名前をつけて新発売した。日産のキャンペーンはホンダが「S500」の発売の際に藤沢が取ったと同じ手法だった。
ただし日産社長の川又克二は、モータリゼーションの対応で二つの過ちを犯した。一つは国民所得の水準からみて、モータリゼーションには小型車「ブルーバード」の中古車で対応出来ると判断したこと。日産は国民車構想に対応する車を開発しなかったことから、大衆車の初期需要の開拓に出遅れてしまった。
日産の技術陣は焦りを感じ、川又に無断で密かに大衆車を開発していた。問題はそれを川又にどうやって見せるか。日産は毎年、十二月二十六日の創立記念日の式典の後、社長が会社発祥の地である横浜工場を巡行する慣わしになっている。
そこで大衆車を開発した技術者は組合の力を借りて一計を案じた。横浜工場の廊下に大衆車のクレイモデルを置き、川又がそこを通った時に何気なくカバーを外すのである。
川又はそれに、ものの見事に引っ掛かった。
「うん、何だこの車は?」
「技術者が勝手に開発したものでしょう」
「もったいない。売れそうな車じゃないか」
これで日産は救われたかに見えたが、川又はここで二つ目の過ちを犯してしまった。大衆車の需要がそれほど急激に伸びるとは思わず、追浜工場の既存ラインの改造で対応しようとしたことだ。月産能力は五千台。
だが販売を預かる小牧正幸(元副社長)は「月一万五千台は売れる」という強気の見通しを出した。塩路一郎の率いる組合がそれに賛成し、短期間のうちに小牧が中心となってサニーのディーラー網を作り上げた。
予想通り大衆車の需要は、マイカー時代の到来で爆発した。日産は急場しのぎで追浜工場の生産ラインを増強したが、それでも追い付かず、最終的には座間工場への専用ライン新設に踏み切った。日産は何とかモータリゼーションの波に乗ることが出来たが、結果的には生産コストの上昇を招いてしまった。この時の高コスト体質は今日まで尾を引いている。
その点、トヨタは用意周到だった。日産の動向を詳細に分析したうえ、半年後の十月にサニーより排気量が一〇〇cc多い「カローラ」をデビューさせた。トヨタはカローラのためにエンジン(上郷工場)と組み立て(高岡工場)の二工場を新設した。当時の月産能力は四万台だったが、カローラ一車種のために月産二万台の工場の建設に踏み切った。トヨタは文字通りモータリゼーションに社運を賭けた。
両社はライバル意識剥きだしで、相手の車を激しく攻撃する米国式の派手な宣伝を展開、猛烈な販売合戦を繰り広げた。時あたかも高度経済成長期の真っただ中。大衆車の人気は日に日に盛り上がりを見せた。
トヨタ自動車工業の社長だった豊田英二は後日、カローラにかける当時の意気込みをこう語った。
「今日のトヨタがあるのは、モータリゼーションの波に乗ったからではなく、カローラで自らモータリゼーションを起こしたからです。もしあの時期にモータリゼーションが起きなかったなら、今日のトヨタはなかった」
トヨタと日産の違いは、技術上がりの豊田英二と銀行出身の川又克二の性格の違いでもある。川又はリスクを取ることを極端に恐れる銀行マンの発想から最後まで抜け出せなかった。
昭和三十年代後半の国民所得の水準からみて、当面のモータリゼーションには「ブルーバード」の中古車で対応できるという川又の判断は、一概に間違いとはいえない。
ところが英二は、国民所得の伸び率のトレンドを見れば、四十年代の半ばには一人当たりの国民所得が大衆車の小売価格を上回ると読んだ。軍配はトヨタに上がった。
日本は四十年不況後の高度経済成長に支えられ、四十三年にGNP(国民総生産)で米国に次ぐ自由世界第二の経済大国にのし上がった。日本がカナダを抜いて自由世界第五位に進出したのは、昭和三十五年のことだ。三十年代はこの順位は変わらなかったが、四十一年にフランスを抜いて四位、四十二年にイギリス、四十三年に西ドイツを抜いて第二位の座に躍り出た。
とはいっても一人当たりの順位は、依然二十位前後の中進国である。このギャップは生産性の低さに由来している。逆にいえば生産性を向上させる余地が大きく、長期にわたり高度成長が続く可能性が高いことを意味していた。
ホンダはこの時期、指をくわえて見ていたわけではない。といって四輪車の最後発メーカーで技術蓄積もないホンダが、トヨタ、日産の牙城である大衆車の分野に殴り込みをかけるのは自殺行為に等しい。
スポーツカーの「Sシリーズ」はエンジンをボアアップして排気量を上げてみたものの、国内の人気はいま一つ盛り上がらない。輸出で辛うじて生産量を維持していたが、それだけでは採算は合わない。といっていつまでも赤字の垂れ流しは許されない。
その一方でモータリゼーションの波は、着々と押し寄せてきている。手をこまぬいておればジリ貧となり、四輪車からの撤退を余儀なくされてしまう。
宗一郎と藤沢は頭を抱えてしまった。初心に返ってホンダの販売網やアフターサービス体制を点検してみると、四輪車部門を再構築するには、やはり軽自動車しかないことが分かった。軽乗用車は一時のブームが去り、大衆車に押されモータリゼーションに取り残されていた。市場は火の消えたようにさびれ、販売台数は業界全体で月四千台前後と低迷している。
藤沢が不振の原因を分析してみると、馬力が小さいうえ、大人四人乗りにしては室内も狭く、しかも値段がそれほど安くはないことにあることが分かった。
「トヨタ、日産の大衆車が市場に出回れば、軽自動車はその役割を終え、早晩消える運命にある」
自動車評論家は軽乗用車の将来性に疑問を投げ掛けたが、藤沢はそうは考えなかった。
「確かにモータリゼーションが猛烈な勢いで起きている。ただし国民所得の水準から勘案して、一般庶民が大衆車を手に入れるまでには相当時間がかかる。排気量三六〇ccという軽規格の枠内でも、三十馬力、トランク付きで大人四人がゆったり座れる車内スペース、一人当たりの国民所得と同じ三十万円台の小売価格、この三つの要素が備わっておれば、月一万台は売れるのではないか」
まず進出する市場規模を調べ、次に狙うシェアを設定し、それから製品を開発するのが自動車業界の常識だが、藤沢の発想はその逆。まず製品のコンセプトを固め、市場規模はその後で自分で決める。藤沢は二輪車の「スーパーカブ号」で大成功を収めた経験から、同じ手法を軽乗用車でも採ろうとした。
藤沢の考え出したコンセプトを製品化するのは、宗一郎の仕事である。具体的にどんな車を開発して、どこの工場で生産するかは宗一郎の頭の中にしかない。オートバイの時代からホンダの製品は開発から生産まで、宗一郎が「一気通貫」で考えてきた。研究所の技術者はその手足でしかない。
唯一の例外が「S500」だった。宗一郎に四輪車の基礎知識が乏しかったことから、くろがねを経てホンダに入社した中村良夫が中心となって開発したが、その中村はF1レースに全力投球するため日本を離れ、イギリスに駐在していた。いやがおうでも宗一郎が前面に出ざるを得ない。宗一郎はオートバイでの経験を生かし、自分が納得できる車を作ってみたいという意欲に駆られていた。
販売網を構築するのは藤沢の仕事である。スーパーカブの時は、鈴鹿製作所があまりにも順調に立ち上がり、それに販売網の整備がついて行かなかったことから、製販のバランスが崩れ、五日間の生産調整に追い込まれた。責任は明らかに藤沢にあった。
藤沢は宗一郎に「月一万台は売れる」とけしかけて、開発に踏み切らせたものの、販売網の整備は口でいうほど生易しいものではない。オートバイは自転車屋を組織化すればよかったが、四輪車ともなればそうもいかない。自転車屋が発展したオートバイ中心の業販店を使うにしても、アフターサービスや修理はとうてい無理だ。予想もしない故障が起きることも覚悟しなければならない。
といって弱音は許されない。藤沢が最初に考えたのがSF(サービスファクトリー)構想だった。直営のサービス工場を全国五百カ所に建設して、そこでホンダ車のサービスと部品を供給しようというのである。軒先だけの業販店は修理から解放されるので、販売に専念できる。
月販一万台に向けての布石は他にも打った。新車を発表する半年前の四十一年四月、四輪車を手掛けたことがない素人同然の業販店をサポートする「ホンダ営研」、中古車を扱う「ホンダ中販」、クレジット会社の「ホンダ信販」の三社を同時に設立した。
営研は「セールスを科学する」というのがキャッチフレーズで、藤沢が技術研究所に対抗して作った営業研究所だった。営研には五百人のセールスマンがいたが、職制がなくしかも管理事務や金銭を一切扱わないという一風変わった会社である。
東急グループの総帥だった故五島昇の長男、五島哲(現東急建設社長)は武者修行のため、大学を卒業するとホンダに入社したが、即、営研に配属された。途中採用もしたが、それだけでは間に合わない。工場から営業部門へ。研究所から工場へ。ホンダ創業以来の民族の大移動が始まった。
藤沢は販売体制が整った頃を見計らって、全国のオートバイ屋、自転車屋、街の修理業者に「ホンダの作った軽自動車を売ってみませんか」というDM(ダイレクトメール)を使った得意のレター作戦を展開した。その中から二万五千軒を選び出し、卸業務と小売り業務を明確に分けた「業販システム」と呼ばれるホンダ独特の販売体制を作り上げた。
特振法に端を発した四輪車進出は、二人の創業者の調整もないまま、不本意な形で踏み切らざるを得なかったが、軽乗用車は万全な形で発表にこぎつけることができた。
「N360」と名付けられた軽乗用車は、当時としてはすべての面で画期的な車だった。Nはニューの頭文字、360は排気量を表している。FF(前置きエンジン、前輪駆動)方式による空冷二気筒エンジン、最高速度時速一〇五キロ、出力三十三馬力、二セットのゴルフバッグを積めるトランクを備えた上、大人四人がゆったり座れる広い車内、ガソリン一リットル当たり二八キロメートルの走行距離。セールスポイントは低燃費と高性能にあった。
ただし新車を発表した四十一年十月当時の業績は、最悪だった。稼ぎ頭のスーパーカブが米国で極端な売れ行き不振に陥り、この年の夏を境にアメホンの在庫が急増、八月に入ると流通段階を含め三十万台を超え、四千四百万ドルの資金がショートしてしまった。
藤沢はワグナーの生演奏に接するため夫人とともにドイツにいたが、善後策を講じるため急きょ単身ロサンゼルスへ飛んだ。販売不振の原因は、スーパーカブが米国市場で飽きられたことにあった。最初は五〇ccだけだったが、その後六〇cc、九〇ccとバリエーションを広げたものの、基本は一車種である。しかも排気量の上昇に伴って値段だけは高くなっていく。
帰国早々、不足資金を送金するとともに、対米輸出の船積みを止めるよう指示した。その一方で研究所にスタイルの違う若者向けのカブの開発を指示した。そのあおりを受けて、今度は鈴鹿工場が大幅減産に追い込まれた。
まだ四十年不況の後遺症が残り、オートバイの最大の輸出先である米国は在庫の山。そこに四輪車の開発負担が重くのしかかり、四十二年春の決算は大幅な減収減益が確実視されていた。にもかかわらず、二人の創業者は事態を楽観視していた。
藤沢は新車発表の席で不気味な予言をした。
「この車の小売価格は十二月に発表するが、自動車業界に大きな混乱を引き起こすかも知れない」
すでに発売されているサニーの価格は四十一万円、カローラは四十三万二千円。これに対しN360は三十一万三千円(埼玉製作所渡し)と十万円以上安い。セールスポイントに新たに低価格が加わった。まさに藤沢が最初に出したコンセプト通りの車が出来上がった。
排気量が三六〇ccという制約はあるものの、性能の面ではカローラ、サニーと比べてもそれほど遜色なかった。販売台数も同じく立ち上がり月五千台。意気込みという点でも、トヨタに負けなかった。N360でホンダなりに底辺需要を開拓して独自のモータリゼーションを起こすことで、四輪車での地盤を築こうとした。
N360は発表から半年後の四十二年三月に発売された。藤沢の予言通り、発売直後から爆発的な人気を呼び、三カ月目の五月には五千五百台の販売を記録、富士重の「スバル360」を抜いて、一気に軽乗用車のトップメーカーに躍り出た。
人気の秘密は車室が広いことに加え、オートバイで熟成された空冷二気筒エンジンを採用したことにあった。N360には簡易式ながら標準装備としてヒーターも付いている。
当時、四輪車のエンジンはラジエターの水を循環させてエンジンを冷やす水冷式が主流だったが、水漏れしたりラジエターにヒビが入るなどの欠点があった。ホンダが最初に開発したS500では、宗一郎といえども四輪の構造が分からず、開発は中村良夫に任せた。中村は業界の定石通り水冷式を採用したが、冷却システムに悩まされ痛い目にあっている。宗一郎は自動車の修理工場を経営していただけに、ラジエターの故障がユーザーにとって、いかに面倒かが手に取るように分かる。
その点、空冷エンジンは多少音がうるさく、しかもノロノロ運転の時にオーバーヒートしやすいという欠点があるものの、普通に走行している分には、風が自然にエンジンを冷やしてくれる。構造がシンプルなので扱いが便利なうえ、信頼性も高い。ユーザーにとっては何といっても安い価格が魅力だった。
一時“斜陽車”“がまん車”と呼ばれ、限界説まで流れた軽乗用車だが、N360の登場で猛烈な値下げ競争が巻き起こった。今でいう価格破壊である。九月には業界全体で、初めて月販七万台を突破、市場はまたたくまに息を吹き返した。
ホンダの破竹の快進撃は衰えることなく、年末には月販二万台体制を確立した。姉妹車ともいうべきN360をベースにした軽トラックの「LN360」も好調で、四十二年の軽自動車の生産は合わせて十五万台に達した。前年の十一月に発売したカローラの販売が十六万台だから、月販ベースではN360がカローラを圧倒していたことになる。
四十年四月から稼働した埼玉製作所(狭山工場)はフル生産が続き、四十三年は最低四十万台、年末には月産四万台体制を確立するという強気の生産計画を立てた。実現すれば小型車と軽自動車の違いがあるにせよ、一車種当たりの生産、販売規模では日産のみならず、トヨタも追い越すことになる。
といってすべてが順調だったわけではない。発売五カ月後の八月には、系列販売店の中で最大規模を誇る「ホンダ販売」など関西地区の有力販売店四社がディーラー権を返上して、一斉にライバルのスズキの傘下に入るというショッキングな事件が起きた。
発売直後には二番手の「福岡ホンダ販売」もスズキへ|鞍《くら》替えしている。離反したディーラーの中には、創業当時、ホンダが資金難に喘いでいたころ、融資してもらったディーラーもあった。
離反の原因は藤沢の営業政策に対する不満にあった。ホンダはN360の販売に際し、流通経費を合理化するという名目で、既存のメインディーラーを使わず、直接サブディーラーに流す政策に切り換えた。トヨタ、日産のように地域ごとの販売体制を採用しても、後発メーカーのホンダに勝ち目はないと判断したからである。藤沢は四輪車でも「世界のホンダ」になるため、思い切って既存ディーラーを切り捨て、独自の販路を築こうとした。一時的な混乱は、ある程度織り込み済みである。
だがこの時の決断が後に発生するN360の欠陥車騒動を、余計混乱させる原因となる。
藤沢は血も涙もないディーラー政策を取ったわけではない。販売店の中には放漫経営から左前になったところも続出したが、ホンダが作成した再建計画を受け入れ、真面目にコツコツと努力したディーラーの残債は、ホンダが肩代わりしたり、ホンダが直接融資したところは、債権を放棄した。それも全国ベースでは十数社に達した。
中京地区のあるディーラーの経営者は、年末にホンダから残債放棄の吉報を得て祝杯を上げたが、そのまま心臓マヒで急死したという笑うに笑えない事態も起きた。
ともあれホンダの四輪車は、特振法で急きょ進出を表明して以来、六年目にしてようやく軌道に乗った。四輪車進出のあおりで一時、手を抜いていたオートバイの国際レースも、懸命な巻き返しで四十一年の世界選手権グランプリレースでは、史上初の全種目(五〇cc、一二五cc、二五〇cc、三五〇cc、五〇〇cc)でメーカーチャンピオンになるという偉業を成し遂げた。もはやオートバイの世界では、敵はいなくなった。
宗一郎の次なる目標は、本格的な四輪車を作ることに移った。水冷式のSシリーズは、国内では思うように売れなかったが、空冷式を採用したN360は爆発的なブームを巻き起こした。
それで自信を得た宗一郎は、ホンダを本格的な四輪車メーカーに脱却させるため、研究所に「H1300」と名付けたベーシックカーの開発を指示した。Hはホンダの頭文字、一三〇〇ccは排気量を意味している。
日本経済は四十年不況を克服して「昭和元禄時代」に突入、待望のマイカー時代が到来した。自動車業界は貿易自由化を乗り切ったかにみえたが、次なる資本自由化が間近に控えている。特振法の廃案で官主導による業界再編成は避けられたが、四十年代に入り業界内には、急激に業界再編の機運が高まった。
業界再編成の口火は日産が切った。四十年三月に軽自動車メーカーの愛知機械を傘下に収め、翌四十一年八月にはプリンス自動車を合併した。これに触発されて、十月にはトヨタと日野自動車が資本提携、十二月にはいすゞ自動車と富士重工業が業務提携に踏み切った。
続いて四十二年十一月にはトヨタとダイハツが資本提携した。GM(ゼネラル・モーターズ)、フォード、クライスラーの米ビッグスリーも、水面下で虎視眈々と日本上陸を狙っていた。
ホンダといえども再編のラチ外ではない。四輪車で地盤を強化しない限り、再編の渦に巻き込まれてしまう。人一倍、独立心の強い宗一郎も藤沢も他社との提携はまったくといっていいほど考えもしなかったが、四輪車の基盤が弱ければ、二人の意思に関わりなく再編劇の主役に祭り上げられてしまう。いつ第二の特振法が浮上しないとも限らない。
宗一郎の基本発想は競争第一主義である。自由競争崇拝者といってもよい。
〈物事はすべて自由な競争で決まる。ホンダはマン島レースで完全優勝したからこそ、世界一のオートバイメーカーになれた。N360がたまたまヒットしたからといって、四輪車の地盤が磐石になったわけではない。本格的な小型車を出し、それをヒットさせて初めて基盤が固まる。四輪車の国際レース、F1で連戦連勝すれば、ホンダの力も自然とつく。輸出も出来るようになる。企業競争に勝ち抜き、レースに勝つことが世の中のためになるのだ〉
何事にも負けず嫌いの宗一郎は、そう信じて疑わなかった。藤沢も負けず嫌いの点では人後に落ちない。藤沢の持論は「松明は自分の手で持て」である。このモットーは藤沢が本を読んで学んだものでもなければ、人から教わったものでもない。すべて自分のそれまでの経験から導き出したものである。
〈松明は先頭を行く人にはいいが、後続の人にとっては良いか悪いか分からない。先頭に行く人に火を消されれば、行き先が分からなくなってしまう。だからしっかり歩くには、松明は自分で持たなければならない〉
表面的には二人の意見は一致していたが、本格的な四輪車メーカーへの脱皮という点では、一八〇度異なっていた。
自動車業界は再編の荒波に揉まれていたが、N360の爆発的ともいえるヒット、二輪車における世界グランプリの完全制覇を反映して、ホンダ社内は以前にもまして活気がみなぎっていた。軽自動車の月販四万台体制の実現は目前に迫り、販売部門の意気も上がっている。N360がトヨタのカローラと日産のサニーを抜いて単一車種でトップに立つのは夢どころか、時間の問題とさえ思えた。
とはいえトヨタ、日産とホンダの企業としての力の差は、横綱と十両ほどの違いがあった。十両の力士は横綱と対戦しないように、トヨタ、日産はホンダがいくら快進撃しても、まだ自分たちのライバルとはみなさなかった。軽自動車と小型車では競合しない。初めから土俵が違うのである。
しかしホンダは十両優勝を果たし、幕内に上がり早晩、横綱と対戦する地位に就き、金星を上げるチャンスを虎視眈々と狙っていた。
サブディーラーに流す直販システムだからユーザーの声は、直ちに営研のセールスマンに入る。生産現場も休日を返上してのフル稼働である。生産も販売も必死になって“夢”を追い求めた。社員一人ひとりがエネルギーを出し切って、生き生きとして働いている。
最も活気があったのは、F1のレーシングマシンと小型乗用車「H1300」の開発を同時並行して進めていた和光市の技術研究所だった。
「私は車が好きで昭和四十一年にホンダに入り、研修期間を終えた後、運良く希望した研究所の車体設計セクションに回された。配属される前の印象は、研究所というのは企業でも大学と同じように、粛々と研究に没頭していると思っていたが、実際はかなり違っていた。
確かに研究者はそれぞれ机の前で黙々と仕事をしているが、なにやら殺気だっており、“るつぼ”のような状態にあった。大袈裟にいえば皆が寝食を忘れ、日曜日も出て仕事をしていた。オヤジさんは毎日、研究所の中をウロウロしており、自分が指示したことに対し、満足に答えられない研究者を怒鳴り散らす。ホンダにはエンジンの専門家は大勢いたが、私が担当していた車体設計は素人の集まり。
エンジン以外四輪車の技術蓄積がないから、どうしても他社の真似をしようとする。するとオヤジさんに『おまえたちはどうして、他人の真似をしようとするのだ。なぜ自分で考えようとしない』といっては、また怒鳴られる。そんな毎日でした」
ホンダの取締役で技術研究所の専務を兼ねる萩野道義がホンダに入社した頃の研究所の雰囲気である。萩野はトヨタ、日産を第一志望にしていたが、ホンダから一番早く合格通知をもらったため、そのままホンダに入社した。
「ホンダに行くのはいい。だが研究所だけはやめろ。あそこに行けば必ず殺されてしまう」
萩野はホンダ入社の知らせを大学のゼミの教授に報告に行った時、こう忠告されたという。それほどホンダの研究所の人使いの荒さは、大学の間でも有名になっていた。
当時のホンダは売り上げ規模では、すでに大企業と呼べるまでに成長していたが、技術系の学生の就職先の人気ランキングは、経営基盤が磐石なトヨタ、日産の方がはるかに上だった。ホンダ、とりわけ研究所に入ってくるのは宗一郎に憧れた人と、萩野のようにトヨタ、日産を第一志望としながらも、巡り合わせで来た人が大半を占めた。
宗一郎と藤沢は、役員室の開設と共に取締役会にも意識して顔を出さず、社業は河島喜好、白井孝夫、川島喜八郎、西田通弘の四人に任せる体制を取り始めていた。四人は八重洲にある本社の大部屋の役員室に一緒にいるので、自然と物事を合議制で決める訓練ができてきた。時間があれば、それぞれが将来のホンダ像を語り合った。
入交昭一郎の言葉を借りていえば、社内全体が秩序より自由度を重んじる“カオス(混沌とした)”状況にあった。
技術研究所を実質的に統括する研究所長は、杉浦英男が就いていた。彼は宗一郎の下で、直接N360の開発に携わっていたが、N360の本格出荷直後に定期健康診断で胃ガンを宣告された。
研究所では不思議なことに、幹部になればなるほど健康診断を楽しみにしていた。本格的な検診ともなれば、丸一日かかる。このわずかの時間だけは、物理的に宗一郎と顔を合わさないで済むので、怒鳴られることもない。ささやかな休養の時間である。こうした気安さから杉浦は、喜んで胃カメラを飲んだ。
数日後、杉浦は診療所の医師から突然、胃ガンを言い渡された。顔から血の気が引くのが自分でも分かった。
「早期発見なので、今すぐ手術すれば九九%助かりますが、放置すれば九九%助かりません」
杉浦はまだ四十歳になったばかりの働き盛り。ためらわずその場で手術することを決めた。そして小さな子供を抱える家族の経済負担をいくらかでも軽くするため、診療所の医師から入院費の安い東大病院を紹介してもらい、直ちに入院手続きをとった。
これに宗一郎が激怒した。
「なんで東大病院なんかにしたんだ。あそこは確かに腕のいい先生がいるかも知れねぇが、冷房の施設がなく、しかも大部屋だ。おまえ、腹を切ったら傷口が疼いて化膿する。これから夏に入るのでなおさらだ。冷房の整った病院にしろ。おまえはホンダにとっちゃかけがいのない技術者だ。安い部屋でくたばられたら会社が困る。後はおれに任せろ。悪いようにはしない」
宗一郎は有無をいわさず、杉浦の入院先を勝手に自分のかかりつけの順天堂大学病院に変更してしまった。順天堂は個室で、しかも冷暖房設備も整っている。
入院する前夜に、今度は藤沢からホテルオークラで中華料理をご馳走になった。帰りに六本木の自宅に連れて行かれ、お土産として、当時としてはまだ珍しい英国製の紅茶をもらった。
「手術が終わったら、これを冷やして飲め。腹に浸みわたり、生きている喜びが実感として分かる。入院中は会社のことも家族のことも一切心配するな。家族のことはあたしがすべて責任を持つ」
杉浦は胃の三分の二を切り取り、手術は成功した。退院して自宅でしばらく静養した後、職場に復帰したが、研究所にはトゲトゲした空気が漂っていた。
小型車進出の第一号車として位置付けている「H1300」のエンジンをN360同様、空冷式にするか、それとも水冷式にするかを巡って、宗一郎と若手の研究者の間で大論争が巻き起こっていた。表面化こそしなかったが、水面下でF1や小型車作りを巡って、宗一郎と藤沢が対立し始めていた。
「日本の自動車技術のレベルを世界に示す唯一の手段は、何がなんでもF1レースで勝つことだ」
この時期、宗一郎はF1にとり憑かれていた。宗一郎は昔からF1への参戦に熱心だったわけではない。最初の頃はむしろ尻込みしていた。昭和三十三年にホンダに四輪車進出どころか、F1へ参戦する可能性があると信じてホンダに入った中村良夫は、オートバイのマン島レースを完全制覇した直後(昭和三十六年)に、宗一郎にさり気なく持ち掛けたことがある。
「次はいよいよF1ですね」
「………」
宗一郎はまだF1に近づき難い印象を持っていたせいか、無言の返事しか返ってこなかった。オートバイは二つの輪しかないことからくる不安定さを、ドライバーが運転して走らせて安定させる。一方、四輪車はもともと静的に安定している。これを走行状態でも安定させるには、機械と電気の力を借りなければならない。
オートバイを作るには、動物的なカンが必要だが、四輪車は力とエネルギーの物理的な知識がなければ、構造そのものを理解できない。宗一郎の技術はアート商会で丁稚奉公していた時の経験「見て、触って、職人芸で修理する」が基本となっている。
機械のように目に見えるものには滅法強いが、電気のように目に見えないものには苦手意識が先に立ち、理解するまで時間がかかる。オートバイはまさにメカニズムの領域にあり、宗一郎の職人芸ともいえる技術と独特のカンが最大限に生かされた。宗一郎の技術はすべて実践的、経験的だった。
「あんたら事務屋には分からないかもしれないが、この技術は……」
宗一郎は藤沢に対し、オートバイの新製品ができるたび、どんな難しい技術でも素人にも分かるように説明した。同時に作り方も明快に解説してくれる。藤沢はそれに感激して、宗一郎の機械工業に対する貢献を後世に残すため、一冊の本にまとめようと画策したことがある。
狙いは宗一郎の偉大さと同時に、戦後世界に雄飛した日本の技術が、どのようにして生まれたかを宗一郎の体験を通じて、世間に知らせることにあった。思い通りの本が出来上がれば日本の機械産業の発展史にもなる。
出版社と口述筆記を担当する編集者も決まり、取材も順調に進み、藤沢は本が出るのを楽しみにしていた。
『得手に帆をあげて』と題した本は、昭和三十七年に出版され、ベストセラーになるほどヒットしたが、藤沢は出来上がった本を読んで愕然とした。内容が自分の考えていたのとはまったく違っていたからだ。
内容は宗一郎が歩んで来た人生を、おもしろおかしくまとめたものだった。本の目次には次のような見出しが付いていた。
「親不孝といわれた私の親孝行論」
「わがアイデア人生の原点はいたずらにあり」
「人生の地図は実地走行してみなければ分からない」
「人生の競馬場につれてこられる若者達」
「貧乏・苦労は自分を丈夫にする乾布摩擦」
「若者に贈る─悔いなき青春を生きる六つのメッセージ」
〈西落合(宗一郎)のおしゃべり好きにも困ったもんだ。調子に乗るとすぐ得手に帆を上げて本題から外れてしまう。あの男は経営のイロハが分かっていない。自分が開発した技術を経営術と誤解している。マスコミはおもしろがってチヤホヤするが、気を付けなければならないのは、西落合がそれに満足してしまうことだ。
人間おだてられれば、だれだって悪い気はしない。本人が有頂天になっているときに注意すれば、あたしがやきもちを焼いていると受けとられかねない。それはホンダにとって決してプラスにはならない。残念だが宗一郎が確立した技術を体系化して後世に残すチャンスは、これで完全に失した〉
宗一郎は口にこそ出さなかったが、技術者としての自分の限界をある程度自覚していた。中村からいくらせかされても、当初F1への挑戦をためらったのは、四輪車の構造をまだ完全に理解できなかったからともいえる。
ところがそうした宗一郎の意思とは関わりなく、欧州のモータージャーナリズムはホンダは早晩、F1に参戦してくると受け止めていた。欧州ではマン島レースからF1への転進は、ごく当たり前のパターンだった。
宗一郎がF1に急速に関心を示すようになったのが、昭和三十七年に四輪車進出を決断した直後である。
「ホンダは四輪車に進出する以上、F1にも積極的に参戦すべきだ。勝負は二の次、三の次。まずは参戦することが大切なんだ」
研究所で声を大にして叫んでいた中村は、一計を案じ、東京モーターショーを取材にきていたスイスの自動車専門雑誌「オートモビル・イヤー」の主筆、ギュンダー・モルターを宗一郎に会わせることを画策した。
「ところで欧州では、ホンダがF1グランプリに参戦するといううわさが出ていますが、本当ですか」
主筆にこう尋ねられ、通訳をしている中村は当然、宗一郎は漠然とした生半可な返事をするものと思っていた。ところが、思いがけない答えが返ってきた。
「そうです。その積もりです」
宗一郎は自信タップリと言い切った。
中村は慌てた。宗一郎にそのまま通訳してよいか尋ねたが、目配りしてうなずく表情を見せたので、「イエス」の返事をした。オートモビル・イヤーが宗一郎の顔写真付きのインタビュー記事を掲載するまでには、そう時間はかからなかった。これを機に欧州では、ホンダのF1参戦が既定の事実と受け止められた。
中村はこの時の宗一郎の会話を信じて、スポーツカーの「S500」と並行してF1マシンの開発に取り組み始めた。参戦のニュースは欧州から国内に逆戻りして、宗一郎としてはもはや後戻りはできなくなった。
F1に前向きの返事をしたのは、宗一郎の心の中に四輪レースに対する情熱が蘇ってきたからだった。宗一郎が最初に四輪レースに関わったのは、アート商会に入った大正十一年だった。この年の春に「日本自動車競走倶楽部」が設立され、十一月に東京・洲崎の第一号埋め立て地で「自動車大競走」が開催された。
これにアート商会も外車を改造して出場したが、宗一郎の役目は意に反して工場主の子供の子守だった。徒弟社会の仕来たりで自動車に丁稚の間は乗るどころか、触らせてさえもらえなかった。宗一郎は大正十二年に起きた関東大震災直後に初めて自動車を運転した。
翌十三年にメカニックとしてカーチスV8型航空エンジンを使用した「カーチス号」の製作に携わり、十四年に今度はドライバーとして代々木練兵場のレースに参加、初勝利を飾った。
レースに対する情熱は浜松で独立した後も変わらず、弟の弁二郎と一緒にフォードのエンジンとシャシーを使ってレーシングカーの「浜松号」を作り上げ、自らもドライバーとして報知新聞が東京・多摩川スピードウエーを使って主催していた「全日本自動車競走選手権大会」に参戦した。
アート商会浜松支店を手離してからその後の二十年間は、レースと無関係の生活を送ったが、オートバイのマン島レースを制覇したことで、四輪車のレースでも世界を制覇したいという野望が頭をもたげてきた。その第一弾がサーキットの建設だった。
「おれは暴走族の親玉だ。暴走族といわれる連中に町でなく、本格的なレース場を作って、そこで思い切り走らせてやる」
これは宗一郎一流の冗談だが、この時期から四輪車のレースにも異常なまでの情熱を傾け始めた。それにはまず本格的なレース場を作らなければならない。
「アメリカにはインディ、ヨーロッパにはF1グランプリという世界的なレースがある。自分の夢を実現するためにも、日本の自動車産業のためにも、日本でも本格的なレースを開ける場所を作る」
こうした発想から二十五億円の資金を投じて、鈴鹿製作所に隣接して鈴鹿サーキットの建設に取り掛かり、昭和三十七年に完成させた。鈴鹿の開幕戦はオートバイのレースだったが、半年後に四輪車の「第一回日本グランプリ」が開催された。宗一郎のF1熱はサーキットの完成と軌を一にして高まった。
内外でホンダのF1参戦は既成事実と化したことで、宗一郎と中村はF1マシンの開発に没頭し始めた。ところが藤沢はF1にまったくといっていいほど関心を示さなかった。藤沢にすればスーパーカブの輸出固めと、四輪車進出をどういう形で進めるかで頭が一杯で、F1どころではなかった。藤沢はまだF1を社長の単なる“お遊び”としかみていなかった。
宗一郎は単なる思いつきで、アドバルーンを上げたわけではない。四輪車進出を機に「F1に参戦すべき」という、信念にも似た気持ちが頭をもたげてきた。その信念は初の四輪車としてスポーツカーを選んだことと無縁ではない。
〈オートバイはマン島レースで勝ったからこそ、世界に飛躍できるチャンスをつかんだ。F1といえば世界一のスピードを競う四輪車の最高峰に位置するレースじゃねえか。スポーツカーをやる以上、F1で実績を上げる必要がある。それ以前にレースはオートバイでも四輪車でも、時間が極端に制限されているので、若い技術者の養成に役立つ。しかし、オリンピックじゃあるめいし、参戦するだけではダメだ。出る以上勝たなければ……〉
しかし冷静に考えてみると、果たしてこの時期、ホンダがF1に挑戦しなければならなかったかは、はなはだ疑問である。確かにオートバイのグランプリレースは、世界市場に打って出るために避けて通れない関門だった。ここで成功したからこそ、輸出が急増して世界を制覇できた。
だが四輪車の影も形もない時点で、F1に挑戦する必然性はまったく見当たらない。参戦するにしても、もう少し技術を蓄積し、小型車に参入してからでも遅くはない。
F1はレースに火の玉のような情熱と執念を燃やし、それに勝たなければ納得しない経営者と、レースに異常なまでに意欲を燃やしてホンダにやってきた一人のエンジニアがいたことで、参戦への道が開けたといえよう。
F1が金食い虫であるのは、ホンダの金庫を預かる藤沢が一番良く知っている。といって宗一郎から「技術者の鍛練に役立つ」といわれれば、面と向かって反対しにくい。
「藤沢さん、F1というのは参戦しただけで世界のモータージャーナリズムが書きまくる。これを宣伝費に換算すれば途方もない金額になります。ホンダはまだ本格的な小型車がないからこそ、参戦する意味があるのです」
中村はこう言って藤沢を口説き、藤沢も渋々了承した。藤沢が出した条件は、それほど金のかからないエンジンサプライヤーとしての参加だった。中村はその線に沿って、イギリスのロータスやジャック・ブラバムなどの名門F1チームと交渉したが、結局条件が折り合わず、最終的にホンダは独自のチームを結成して、エンジンだけでなくマシンまで製作しての参加となった。
三十九年一月にF1参戦を正式に表明した。早くも半年後の七月にはV型十二気筒、排気量一五〇〇cc、最高出力二百三十馬力、馬力一三〇〇〇RPM(一分間の回転数)、最高時速二七一キロのエンジンを積んだ試作のマシーン(RA271)をマスコミに公開した。デビュー戦として七月十一日のイギリスGP(グランプリ)を選んだ。ロンドンにはホンダの支店があり、英語が通じるので何となく好都合という単純な理由だったが、実際にはそれまでにマシンの製作が間に合わず、デビュー戦は三週間後のドイツGPとなった。
F1といっても、日本でもまだ一部のマニアしか知らない時代である。現在のF1は車体だけでなく、ドライバーのウェアにもところ狭しとばかりスポンサーのロゴが入っているが、一九六〇年代当時は、まだスポンサーすら付かず、車体のカラーリングが国ごとに決まっていた程度に過ぎない。イギリスはグリーン、フランスはブルー、イタリアはレッド、ドイツはシルバー……。
宗一郎はそのことすら知らずに、大声で叫んだ。
「うちは金だ、金色でやろう。車体に金箔を塗ったらもっと面白いかもしれねぇ」
だが金は産金国・南アフリカのナショナルカラーとしてすでに登録されている。そこでやむを得ずメタリックゴールドを選び、車体に日の丸を描いて走らせることになった。
ホンダはまだ四輪車を欧州に輸出しておらず、欧州メーカーを脅かす存在でなかったせいか、欧州のF1関係者に温かく迎えられた。とりわけF1に熱心なのは、イギリスとイタリアで、グリーンとレッド色の車しか走らないレースもあった。予選はあることはあるが、出場した全車が決勝に進むことができたのどかな時代だった。
ホンダが初めて出場した年は、全部で十レースが組まれていた。ホンダは第六戦のドイツGPのほか、アメリカとイタリアの各GPに参戦した。初挑戦のドイツGPでは十三位に入ったものの、残り二戦は途中リタイアである。翌四十年は八レースに参加、このうち六レースは二台のマシーンで臨み、最終戦のメキシコGPでは待望の初優勝を遂げた。
「ホンダF1チーム」の総監督として八六年、八七年に連続してホンダを世界チャンピオンに導いた桜井淑敏は、その優勝のシーンをニュース映画で見て、四十二年にホンダに入った。
「レースは勝つことに意義がある」という宗一郎の所期の目的は達成された。藤沢はこれでF1から撤退すると思い込んでいたが、宗一郎にその気はさらさらない。
「次の目標は年間を通じて優勝し、ワールドチャンピオンになることだ」
宗一郎は藤沢に会うたび、F1に賭ける夢を語った。宗一郎の気分は高揚しており、藤沢としてもその意気込みに水をさすわけにはいかない。F1は一九六六年に規定が変わり、エンジン排気量が一五〇〇ccから三〇〇〇ccに引き上げられた。従来通りの規定だったらワールドチャンピオンを狙える立場にあったが、ゼロからの出発となった。
「RA273」の開発番号を付けた三〇〇〇ccの新しいマシンは、四十年にメキシコGPで優勝した後、ただちに開発に着手した。
Rはレース、Aは四輪、数字は時速を表す記号である。ホンダのF1マシンは271からスタートしているが、数字には「時速二七一キロのスピードが出るはず」という期待が込められている。
RA273の図面は、入社四年目の入交が引いた。入交は入社したその年に、排気量五〇ccのオートバイレース用のエンジンを手掛けた。ホンダはオートバイの世界GPの五〇ccのレースで連戦連敗して、どうしても完全優勝出来なかった。入交はその原因が馬力にあるとみて、チューニングを変えることで従来十馬力しかなかったのをなんとか十・八馬力に引き上げた。これが功を奏して、翌三十九年の世界GPで見事優勝を果たした。
入交はこの年、二五〇ccのエンジンも手掛けた。入交の設計にはだれもが舌を巻いた。早くも業界には「ホンダに入交あり」の名がとどろいた。入交は小学校からエンジンに興味を持ち、大学の卒業設計では、F1のエンジンを選んだ。エンジン設計はオートバイであれ、四輪車であれ生活の一部になっていた。入交にすれば、指示された通りのエンジンは、設計して当たり前だった。
この時、入交は密かに心に期すことがあった。前年のF1の最終戦で初優勝を遂げたが、八月のイギリスGPでは入交が設計した部品ミスから途中リタイアを余儀なくされた。これに宗一郎は烈火のごとく怒った。
六五年のレースまでは排気量は一五〇〇ccで、入交はイギリスGP用のマシン「RA272」のピストンリングを担当した。ところが肝心のレースでは、ピストンリングが焼けただれて途中でリタイアしてしまった。
マシンは直ちに研究所に戻され、宗一郎が先頭に立って原因分析を行なった。
「だれだ。ピストンリングを担当したのは」
宗一郎が大声を張り上げると、入交が恐る恐る「私です」と名乗りを上げた。宗一郎は容赦なく詰問する。
「おまえは何で焼けただれるような設計をしたんだ?」
こうなると入交も黙って引っ込めない。
「社長はそうおっしゃいますが、理論的にはレースの途中で焼けただれることはあり得ないのです。ほかに原因が……」
すると宗一郎は額に青筋をたてながら、怒鳴り飛ばした。そして開発責任者の中川和夫に向かって叫んだ。
「おれはピストンリングの専門家なんだ。戦前は大勢の人間を抱え、ピストンリングの会社を経営していた。特許も沢山とった。この若僧はこのおれに説教する気でいる。だからおれは大学出は嫌いなんだ。頭でっかちで、何も分かっちゃいない。中川、こいつをすぐに辞めさせろ。辞表を書かせて、明日にでもおれのところに持って来させろ」
これに入交はムッとなって反論した。
「私は辞めません。ただし間違いがあれば謝ります」
原因は薄々分かっていた。入交はオートバイでの手法を四輪車に取り入れた。これでは理論は合っていても、時速三〇〇キロ近いスピードの出るF1マシンでは通用しない。
「お前がそういうのなら、それなら皆に謝ってこい。お前の間違った設計で、皆が迷惑したんだ。おれも一緒に付いて行って頭を下げてやる」
入交は両手で焼けただれたピストンリングを持って、研究所の関係者一人一人に謝って回った。その後から宗一郎が付いてきた。中国で文化大革命が起きて、修正資本主義者が紅衛兵に三角帽を被せられて、市中引き回しにあったのはそれから半年後のことだが、さながら宗一郎が紅衛兵で、入交は修正主義者といった図であった。
「私の設計ミスで皆さんにご迷惑かけました。申し訳ありません」
入交はその時の屈辱を忘れていなかった。宗一郎もその時のことを覚えており、入交に敗者復活戦のチャンスを与えたともいえる。入交に限らずホンダの技術者は、大きなエンジンを手掛けた経験がない。といって、単なる意地だけで、勝てるマシンは開発できない。悪戦苦闘の連続だった。シーズン開幕に間に合わないどころか、後半のイタリア、アメリカ、メキシコの三レースに出るのがやっとだった。
しかも急いで作ったため醸成するどころか、満足なテストができないままの出場だった。当然のごとく成績は芳しくなく、最高がメキシコGPの四位だった。
それでもこの年の暮れ、英国で出版されたレースの年鑑「オートコース」にRA273の設計者として、入交が顔写真入りで大々的に紹介された。見出しには「入社四年目、二十七歳のチーフエンジニア」と書かれてあった。欧州ではF1のエンジン設計者はベテランと相場が決まっていたので、F1の世界で入交は羨望の目で見られた。
一九六六年(昭和四十一年)のF1レースは、規定が改正されたこともあり、満足な結果を出せなかった。しかしジャック・ブラバムと組んで出場した、エンジン排気量一〇〇〇ccの欧州F2選手権では快進撃を続け、ほとんどのレースで|一《ワン》、|二《ツー》フィニッシュを飾り、破竹の十一連勝を飾った。むろん史上初の偉業であった。F2のエンジンを設計したのが後に三代目社長となる久米是志である。
連戦連勝に気を良くした宗一郎は、この勢いを何とかF1につなげたかった。
「ことしF2で収めた成果を、来年はF1で実現するのだ」
これに藤沢が頭を抱えた。ホンダの業績は最悪である。オートバイの収益源である米国市場は、過剰在庫に悩まされいやおうなしに巨額の在庫資金を注ぎ込まなければならない。S500の投資は回収できないうえ、軽乗用車「N360」の発売を目前に控えている。金はいくらあっても足りない。
経営を預かる藤沢の仕事は、宗一郎の虚栄心を満足させることよりも、ポストN360対策である。宗一郎は早くもスポーツタイプの小型乗用車、「H1300」の開発に着手していたが、商売人を自認する藤沢の目から見て、飛ぶように売れる車でないことははっきりしていた。下手をすればS500の二の舞いになりかねない。
市場の感触からみてN360が大ヒットするのは疑いなかった。藤沢としてはN360の勢いを大衆車につなげ、四輪車での基盤を固めたかった。それにはどうしてもスポーツタイプの車より、トヨタのカローラや日産のサニーのようなファミリータイプの車が欲しかった。
藤沢の悩みの種は、ホンダがその種の車を開発できるかどうかである。藤沢はF1を、「創業者の道楽」と割り切っていた。できれば四十年にメキシコGPで優勝した時点で手を引かせたかった。その後で本格的な小型車開発に全力投球する。研究所が総力を上げればトヨタ、日産に伍する大衆車を開発できないことはない。藤沢はこう信じていた。
四十年のシーズンを最後にF1からの撤退を提言する積もりだったが、宗一郎の生き生きとした顔を見ているうちに撤退をいいそびれ、ズルズル四十一年のシーズンに突入してしまった。
ところが怪我の功名で、F1の成績は芳しくなかったものの、市販車により近いF2で快進撃を遂げた。この成績を見て藤沢はほくそ笑んだ。
〈オートバイの世界で、ホンダの地位はもはや揺るぎない。ホンダが四輪車での基盤を固めるには、軽自動車だけでは弱い。爆発的な需要が期待できる大衆車は欠かせない。モータリゼーションは緒についたばかりだ。まだなんとか間に合う。なにしろうちには、秘密兵器があるのだから〉
藤沢が言った秘密兵器というのは、排気量一〇〇〇cc、百四十八馬力のF2用のエンジンのことを指している。この時期、藤沢は本気になってトヨタ追撃のシナリオを描いていた。
〈ホンダは元をただせばオートバイメーカーというより、エンジンメーカーだ。二輪、四輪、汎用を合わせると、エンジンの生産量はおそらく世界一だ。この分野ではトヨタはおろかGM、フォードにも負けない。F2レースであれだけの成績を収めたのは、技術の蓄積があったからだ。これを利用しない手はない。市販用に改造すれば、トヨタのカローラを上回る性能の良い小型車を作れる〉
藤沢は宗一郎と手を組むとき、お互いの責任分野に干渉しないことを約束した。しかし実際には、スーパーカブやN360の時のように、アイディアを藤沢が出し、宗一郎がそれを製品化することで成長の礎を築いてきた。宗一郎には技術者としてのプライドがあり、決して藤沢の提案を、その場で受け入れることはなかったが、自分が納得すれば製品化にむけての努力は惜しまなかった。二人の呼吸はピタリと合っていた。
N360を発売する直前、藤沢はいつものようにさり気なく持ち掛けた。
「本田さん。N360は間違いなく売れる。すべてあんたのお陰だ。問題はN360に乗ったお客さんが、次にどんな車に乗るかだ。本田さん、あんたが次にスポーツカーをやりたいのは分かる。ただあたしはトヨタのカローラや日産のサニーに対抗する大衆車を開発すべきだと思っているんだ。
うちには素晴らしいエンジンがあるじゃないか。ほれ、去年連戦連勝したF2のエンジンだよ。あのエンジンは世界一だね。あれを積んだ大衆車なら間違いなく売れるね。日産どころかトヨタを追い越すのも決して夢じゃないね」
だが宗一郎はいつものように直ぐには、藤沢の提案には乗ってこなかった。
「副社長、これは素人のあんたに説明しても分からないだろうが、レースのエンジンと市販のエンジンとは違うんだ。それにあれは水冷だろう。ホンダらしい車を作るには空冷でなければダメなんだ。
副社長には悪いけど、おれはF2のエンジンを使ったクルマなんか作る気はさらさらないね。とにかくクルマ作りはおれに任せてくれ。F1で連戦連勝すれば、トヨタや日産なんかいつでもやっつけられるんだ」
ある程度予想された答えだったが、この問題は時間をかけて説得しなければならない。藤沢はその後もことあるごとに、大衆車の開発を持ち出したが、今度ばかりは宗一郎も頑として聞き入れようとせず、H1300の開発に邁進した。藤沢は晩年になってもこの時の判断の誤りを悔やむ。
〈あの時がトヨタを追撃する最初で最後のチャンスだった。今にして思えば、体を張ってでもH1300の開発を止めさせるべきだった。あの時期にF2のエンジンを使った大衆車を開発しておれば、今頃トヨタを追い抜いていたかもしれない〉
H1300の開発はすでにスタートしており、藤沢の力を持ってしても、中止させるのは困難だった。研究所は宗一郎の牙城であり、宗一郎が号令を出さない限り組織は動かない。経営を預かる藤沢としては、赤字の垂れ流しを少しでも食い止めなければならない。金食い虫は何といってもF1である。
藤沢はF1を止めさせたかったが、宗一郎が熱中している以上、そうもいかない。となると経費の圧縮しかない。藤沢はF1監督の中村良夫を呼んで、レースの継続を条件に大幅な経費の圧縮命令を出した。
中村はホンダの四輪車技術をもう一段高めるには、F1は絶対に継続しなければならないという強い信念を持っていた。
〈ワールドチャンピオンの座を目指す宗一郎と、金庫を預かる藤沢の要望を満足させるにはどうしたらよいか〉
考えあぐねた末の結論は、F1の開発本拠地を和光の技術研究所から切り離して、イギリスに移すことであった。ホンダ独自のレーシングチームをイギリスに設立して、そこでF1のマシンを開発すれば、遠隔地からの輸送費が安くなるうえ関税も低くなる。メカニックの人間もわざわざ日本の研究所から連れてくるよりも、現地の人を雇えば安く済む。
ハリウッドが映画の都とすれば、F1の本拠地はロンドンだ。ロンドンにはF1マシンの部品しか作らない部品メーカーが散在している。イタリアのフェラーリもフランスのルノーも開発拠点をロンドンに置いている。ホンダも和光で作るよりも、ロンドンに移した方が開発コストは安くなる。
無駄な時間とエネルギーがなくなるので、経費を多少切り詰めても従来通りの活動ができる。中村はそう判断して、藤沢の了解を得た上でロンドン郊外にホンダ全額出資による「ホンダ・レーシング」を設立した。
だが開発の本拠地を海外に移すことは、とりもなおさず、宗一郎からF1を取り上げることを意味する。そのことに藤沢も中村もまだ気が付かなかった。これが後々、宗一郎と藤沢の二人の“抱き合い心中”の伏線となる。
F1レースを継続する以上、藤沢としても単なる社長の道楽として済ますことはできない。ホンダに本格的なスポーツカーがあれば、F1のイメージと重複させ、商売に結びつけることもできるが、N360はあくまで実用性を追求した車だ。
「F1を営業宣伝に活用するにはどうしたらよいか」
藤沢から中村に与えられたテーマだが、考えた末のキャッチフレーズが「走る実験室」だった。
「F1は走る実験室。どうやったら安全に速く走れるか。それを知るにはレースが一番近道」
藤沢はこれが気に入り、ホンダのイメージアップをはかる宣伝用として、意識的に使用した。だが皮肉なことに、N360が欠陥車騒動に巻き込まれた際、ホンダを執拗に攻撃した日本ユーザーユニオンは、このキャッチフレーズを逆手にとり「ホンダはドライバーの意思を無視して、N360を“走る実験室”として使った」と攻撃した。
開発拠点をイギリスに移したことで、研究所の人員に余裕が出てきた。研究所は総勢六百人に膨れ上がっていたが、何と半分近くの研究者がF1を始めとするレーシングカーの開発に従事していた。入交も川本も企業という営利を目的とした組織にいることを忘れ、どんなに金を使ってもレースで勝てるエンジンを開発するのが、自分たちの仕事だと思い込んでいた。
そんなある日、藤沢が宗一郎がいないのを見計らって研究所に来て、カミナリを落とした。
「F1活動は今後とも継続するが、拠点をロンドンに移すので、これから和光の研究所でマシンは作らない。研究所はレースのために作ったわけではない。売れる商品を作るために本社から分離・独立したのだ。それが現状はどうだ。売れるクルマはさっぱり出てこない。会社というのは利益を上げなければやっていけないのだ。今後、君たちには売れるクルマ作りに専念してもらう」
こうして入交を始めとするレース設計課のエンジニアは、そっくりN360をベースにした軽トラックの開発に取り組むことになった。
ホンダが開発拠点をイギリスへ移した途端、イギリスのF1の大物ドライバー、ジョン・サーティースからアプローチを受けた。ホンダと一緒になってF1マシンを開発してレースに参加したいという申し込みだった。
サーティースはイタリアのフェラーリに乗って六四年のチャンピオンになったが、その後フェラーリを離れ、独自に「チーム・サーティース」を作ってF1活動を続けていたが、性能のいいマシンと巡り合わずに苦戦を余儀なくされていた。そこにホンダがイギリスに本拠地を構えるとのニュースを知って、接してきたのだった。
本拠地をイギリスに移すということは、ホンダがF1活動を永続的に行なうという宣言でもある。むろんサーティースは、密かにパワフルだが車体重量が重く、多少洗練度に欠けるホンダの水冷V8型エンジンを積んだRA273に興味を抱いていた。サーティースは一つだけ条件を出した。
「中村を引き続き監督に据えて欲しい」
ホンダにとっては、極めて魅力的な提案であった。サーティースと組めば、イギリスのレース界に足場ができるうえ、マシン開発の技術的、経済的負担が軽くなる。ホンダはためらいもなくサーティースの提案に乗り、四十二年にロンドン郊外にあるチーム・サーティースを二分して、そこにホンダが資本参加する形で「ホンダ・レーシング」を設立した。合弁の新会社はイギリス人のメカニックも雇い入れ、欧州のレース界にベースキャンプを持つ日本チームとして再スタートすることになった。
参戦四年目は重量が四〇キロほど軽量化されたRA273の改良型で臨んだが、マシンの総重量は依然として七〇〇キロもある。これでは出力は申し分ないものの、スピードが足りず、三位に入るのが精一杯で、どうしても優勝に手が届かない。シーズンを通じて何とか好成績を収めることができたのは、サーティースと組んだことで、トップクラスのドライバーに恵まれたという要素が大きい。
優勝するにはどうしても軽量のエンジンを開発しなければならず、そこでRA300の開発に取り組んだ。Rはレーシング、Aは四輪車、数字は時速を表す記号であることは先に述べた。RA300は前のマシンに比べ時速二七キロのスピードアップを狙った。軽量化を実現するためローラ社のシャシーを採用、さらに実績のあるイギリスのコンストラクターのノウハウをふんだんに取り入れた。
この年は九レースに出場したが、RA300は六戦目のイタリアGPでデビュー、いきなり優勝した。三リッター時代になってからの初優勝、ホンダにとっては貴重な二勝目であった。八戦目のアメリカGPでは途中リタイアを余儀なくされたが、最終戦のメキシコGPでは何とか四位に食い込んだ。
RA300を開発したことで、念願のワールドチャンピオンにも、ようやく手を伸ばせば届くところまで来た。それを現実のものにするには、一段の軽量化が欠かせない。RA300は確かにRA273より軽くなっていたが、ライバルも軽量化に力を入れているので、依然としてホンダのマシンは、よそより一〇〇キロほど重い。そこで中村は直ちにRA300に比べて一〇〇キロほど軽い、新しいマシン「RA301」の開発に取り掛かった。
中村はエンジニアとしては、すでに第一線を退き、技術プロデューサーに徹し、自ら図面を引くことはなかった。RA301のエンジン設計に際しては、和光の研究所から宗一郎に内緒で久米是志をロンドンに呼び寄せ、「ホンダ・レーシング」に缶詰状態にして図面を引かせた。久米が設計したエンジンは、高速性に定評があるので、重量で互角になれば優位性を発揮できる。
ホンダの四輪車用エンジンはS500から始まるSシリーズ、N360、H1300とすべて久米が手掛けてきた。N360は当初、別の人が担当していたが、出来上がった図面を見て宗一郎が大声を出した。
「こんな車じゃスピードが出ない。久米にやり直させろ」
宗一郎はそれほど久米の腕を信頼していた。中村が宗一郎の“秘蔵っ子”ともいうべき久米を使うとなれば、本来なら事前に宗一郎に設計の意図を説明して、了解を取らなければならない。しかし中村は設計前の段階で説明すると、単に口を挟まれるだけでなく、ズタズタにされる恐れがある。そこで全体図が出来るのを待って、一足先に帰国した久米に説明させた。
「おまえら、ロンドンで何をゴチャゴチャやっているんだ。エンジンの図面をロンドンで引き、シャシーを日本で作るなんてナンセンスだ。本来エンジンとシャシーは、密接な関係を取り合って共同作業で当たるべきなんだ。
それになんだ。おまえの引いた図面を見ると、エンジンは水冷じゃないか。今度は空冷でやるんだょ、空冷で。どうしても水冷でやりたかったらRA273のエンジンを改良して使え。おれはおれで空冷マシンを開発する」
久米の頭の上に宗一郎のカミナリが落ちた。中村が一時帰国した時も同じことをいわれた。中村は怒り心頭に発し、空冷はすでに時代に取り残されたエンジンであることを、技術面からことこまかに説明したが、宗一郎は聞く耳を持たなかった。
トコトンまでやり合えば「ホンダはそもそもおれが作った会社なんだ。嫌なら辞めろ。辞表を出せ、辞表を……」といわれるのがオチだ。自分が辞めれば「ホンダ・レーシング」は壊滅し、ホンダがF1で世界を制覇する夢は破れる。といって空冷エンジンで参戦すれば、F1の世界で物笑いの種にされる。ただしここで宗一郎と決定的に対立してしまえば、これまでの苦労は水泡に帰してしまう。
〈ここでオヤジさんと喧嘩してもはじまらない。F1を継続するには、RA301の開発を一時棚上げして、モノにならないのは分っていても、ひとまず273エンジンの改良に取り組まざるを得ない〉
中村はこう判断して、入交が設計した273エンジンの軽量化に取り組むことになった。シャシーは301用に設計したものをそのまま使うことにして、川本信彦にエンジンの設計変更と改造を命じた。中村が譲歩したのは、この時まだ宗一郎が本気で空冷エンジンでF1に挑戦するとは、夢想だにしなかったからだ。
だが宗一郎は本気で空冷エンジンを引っ提げて、F1へ挑戦することを考えていた。宗一郎にとってエンジンは絶対空冷でなければならない。ホンダが本格的な小型車進出として開発を進めていたH1300のエンジンは、研究所の技術者は全員が水冷を主張したが、宗一郎は頑として譲らず、強引に独断で空冷にすることを決め、お気に入りの久米に図面を引かせた。久米自身、空冷には疑問を持っていたが、社長命令とあれば従わざるを得ない。
宗一郎が手掛けたオートバイのエンジンは、すべて空冷である。ホンダにとって初の四輪車であるS500は、水冷を採用したものの、決して成功したとはいえない。反対に宗一郎が陣頭指揮をとったN360では空冷エンジンを採用、空前のヒット車となった。宗一郎はそれで自信を得た。
H1300はその延長として開発している車である。ただし宗一郎がいくら社長とはいえ、研究所の技術者に「なぜ空冷なのか」の説明をして、納得させなければならない。
「水冷であれ空冷であれ、最終的に空気中に放熱するのだから、空冷の方が効率がいいに決まっている。第二次世界大戦中、ドイツのロンメル将軍が北アフリカ戦線のサハラ砂漠でイギリス軍を破ったのは、空冷のディーゼルエンジンを使ったからだ。逆にイギリス軍は、水冷だったから負けたんだ。それにアメリカも日本も航空機エンジンは、みな空冷じゃないか」
宗一郎はことあるごとにロンメル将軍の逸話を持ち出すが、大学でエンジンを学んだ若手の技術者は、子供だましのような説明では納得しない。
ロンメル将軍のエピソードが、米国で一躍有名になったのは、VW(フォルクスワーゲン)のノルドホッフ社長が小型乗用車ビートル(かぶと虫)の対米輸出に際して「砂漠の中でも水は不要です」とのコピーが大当たりしたためだ。宗一郎はそれをどこかで仕入れて、自分が主張する空冷を正当化しようとしたのだった。
「社長はそうおっしゃいますが、ロンメル将軍の率いる部隊は、最後に米軍のコンパクトな水冷エンジンを積んだ四輪駆動車に叩かれてしまったじゃありませんか。航空機のエンジンにしても、次第に水冷に変わっています」
そんなことでたじろぐ宗一郎ではない。今度は自分が手掛けたオートバイの話を持ち出して、空冷の優位性を説く。
「確かにオートバイは空冷で大成功しました。それはオートバイのエンジンの排気量が小さく、こぢんまりとしており、走っておれば自然に直接風が当たるからです。しかし四輪車のエンジンはボンネットに収められ、しかも大きな熱量があります。これを空気で冷やすのはとうてい無理です」
技術者がいくら基本から説明しても、それでも宗一郎は水冷の特性を一切認めようとしない。空冷の問題点を提起すればするほど、今度は逆にそれを乗り越える努力を求める。宗一郎はどんな難問でも工夫を凝らし、実験を繰り返すことによってブレークスルーできると信じていた。
「九九%の失敗でも、最後の一%のところで成功すれば、技術の常識を覆すことができる」
そして最後は人間は面倒くさがり屋という持論を持ち出す。
「いいか。おまえら、胸に手を当ててよく聞け。人間というのは、もともと面倒くさがりな生き物なんだ。おまえたち高速道路に乗って小便したくなっても、ついつい我慢するだろう。
車を運転している最中、腹が減っても面倒だから次のサービスエリアまで行っちゃおうと思うだろう。そういう人間がいちいちラジエターの水をチェックしたり、ホースが破れていないかどうか、確認するか。しないだろう。だからそれを確認する必要がない空冷がいいんだ。どうしておまえたちはなぜそんな簡単なことが分からないのだ」
その頃、自動車業界ではホンダがライバル視していたマツダが西ドイツ・NSU社からRE(ロータリー・エンジン)の基本特許を導入して実用化を急いでいた。REはエンジン騒音が低く、高馬力が特徴で、世間では華々しい脚光を浴びていた。
こうなると宗一郎は面子にかけてもトヨタ、日産と異なり、しかもマツダに負けない、ホンダらしい独自のエンジンを開発しなければならない。それが技術者社長に背負わされた宿命だと思い込んでいた。
宗一郎は人一倍自意識が強く、マツダのように外国から技術を導入するという考えは微塵もなかった。
それでは具体的にどんなエンジンを開発できるかとなれば、宗一郎にはオートバイで経験し、N360で実績を上げた空冷エンジンしかない。研究所はむろんのこと、業界でも空冷式は「時代錯誤のエンジン」というのが定説になっていたが、宗一郎は残り一%に賭け、敢然と空冷に挑戦した。
空冷がいかに優れたエンジンであるかを世間に知らせるには、F1で優勝するのが最も効果的だ。
ところが肝心のF1の開発拠点は、いつのまにかイギリスに移され、自分の目に触れるところから遠く離れてしまった。
〈経営は六本木(藤沢)に任せてあるが、ホンダはもともとおれが作った会社なのだ。潰れようがどうなろうが、おれの勝手だ。とにかくおれはだれが何といっても、空冷エンジンでF1に挑戦して優勝してみせる〉
宗一郎は面と向かって口には出さないが、藤沢がF1の経費をカットしたことも、それ以上に開発拠点をイギリスに移したことがどうしても許せなかった。その時期に久米がイギリスで設計したRA301の図面を持って説明しにきたことから、これまでの怒りを爆発させたのだった。
宗一郎に指示された273の改良は、思うように進まない。結局モノにならず放棄せざるを得なかった。
明けて四十三年。本来のRA301の開発は大幅に遅れたことから、初戦の南アGPは旧型のRA300で出場せざるを得なかった。成績は辛うじて八位に入り、最低限面目だけは保った。
二戦目のスペインGPから登場したRA301の総重量は五三〇キロで、RA300より八〇キロほど軽くなり、さらに出力も四百二十馬力から四百五十馬力へアップしている。
鈴鹿サーキットでまともな醸成テストをする時間もなく、ぶっつけ本番での参加にもかかわらず、予選は三位とまずまずの成績を残した。ただし決勝レースでは、エンジントラブルから途中リタイアを余儀なくされた。
その後のモナコGP、ベルギーGP、オランダGPも予選のレースではそこそこの成績を収め、決勝に期待を持たせたが、小さなトラブルの続発でトップ争いから脱落してしまった。満足な醸成テストができなかったツケが回ってきたのである。それでも中村はレースを続けて行けば、必ず光明を見出せると信じていた。
次回のレースは七月二日からのフランスGP。その準備に入った矢先、本社からとんでもない情報がもたらされた。
「宗一郎社長が陣頭指揮して開発を進めていた、空冷V8型のエンジンを積んだRA302が完成したので、フランス・ホンダを通じて七月のフランスGPにエントリーした」
中村は宗一郎が久米を使って、勝手にF1用に空冷エンジンを開発していることは知っていたが、ハナから計画倒れになるものと思い込んで、相手にしていなかった。ところがエンジンどころか、シャシーも作り上げてレースに参加するという。
宗一郎は水冷エンジンはむろんのこと、イギリスで製作したボテボテしているマシンのスタイルにも不満を持っていた。宗一郎の哲学からすれば、レース用のマシンは華麗でなければならない。
その点RA302はフロントノーズがきりりと閉じられ、空気抵抗が少なく、シャープで先進的なイメージを出すことに成功した。空冷を採用したことでラジエターがいらなくなった分、ドライバーズシートを前に出すことができたからである。
問題は果たしてレーシングマシンに、大量の空気を取り入れることができるかどうかである。空気が少なければオーバーヒートしてしまう。ポルシェはかつて空冷エンジンを積んだマシンを開発、F1に臨んだことがあるが、この時は大きなファンを取り付けた。
宗一郎はF1レースは、高速でしかも走行時間が長いのでファンでなく、ボディの中央の左右にエアダクトを取り付けるだけで、エンジンを冷やす空気を十分取り入れられると計算していた。オートバイと同じ構造である。
空冷エンジンを積んだ問題のRA302は、鈴鹿サーキットでマスコミに公開された後、十分な醸成テストもせずロンドンに送られた。
宗一郎は空冷エンジンを積んだRA302の出来栄えに満足していた。あとはフランスGPの成績を待つだけとなった。ここで優勝とまでいかなくとも、上位入賞を収めれば、「時代錯誤のエンジン」との烙印を押された空冷エンジンのイメージを払拭できる。
それをモノにした宗一郎の名声も再び高まる。本格的小型乗用車の第一弾として準備を進めていた「H1300」の発売に花を添えることもできる。
研究所の若手技術者の猛反対を押し切って空冷を採用したH1300は高回転、高出力の特長を出し切り、ホンダらしいパワフルなエンジンとなったが、肝心のエンジンを冷やす技術に悪戦苦闘していた。エンジニアは宗一郎の命令でピストンの裏側に空気を送り込む実験を繰り返していたが、この方式だとコストが高くなってしまう。
F1マシンは採算を無視してやれるが、市販車はそうもいかない。だが宗一郎にすれば、コスト計算の以前に意地でも、空冷エンジンがF1でも通用することを証明しなければならない十字架を背負わされていた。
RA302はイギリスに運ばれ、最終調整に入ったが、中村はマシンを走らせた途端、愕然とした。名手サーティースがテストドライブをしても、いったんスピードを上げると、すぐオーバーヒートしてオイルを吹き上げてしまう。
「私はこのマシンと対話できない。RA302は醸成が足りず、まだレース走行に耐えるマシンではない。何より高速に入るとエンジン温度が上昇してしまう。現段階でF1で走らせるのは絶望的というより危険だ」
サーティースの率直な感想であった。これを聞いて中村はRA302の出場を止めさせるため、ホンダ・レーシングが独自に開発したRA301もフランスGPへの参戦を中止しようと真剣に考えた。痛み分けである。だがRA302はフランス・ホンダが勝手にエントリーを終えており、いまさら取り下げできない。
フランス人のジョー・シュレッサーとスポットのドライバー契約も済ませている。シュレッサーはもともとスポーツカーのドライバーだが、F1レースは初出場で、ようやく巡ってきたチャンスに張り切っていた。シュレッサーにすれば、F1グランプリに出場することは、勝負を度外視しても名誉なことであった。
ことはすべて中村の知らないうちに着々と進められていた。RA302の監督には、宗一郎に命じられてエンジンを設計した久米が就いた。がんじがらめの中で中村ができることといえば、シュレッサーに空冷マシンの特徴を詳しく説明して、絶対に無理はしてならないことをアドバイスすることぐらいしかない。中村にすればオリンピック同様、空冷マシンは出場することに意義があり、順位はともかく完走さえすれば宗一郎の気が済むとみていた。
予選は七月二日からルーアンのサーキットで始まった。ルーアンのコースは起伏が激しく、しかもくねくね曲がっており、ベテランのドライバーでもとりわけ神経を使うサーキットとして知られる。出場マシンは十八台。一位はポールポジションのブラバムに乗ったヨッヘン・リント。RA301のサーティースは二秒遅れの七位。まだトップを狙える位置にいる。RA302のシュレッサーはトップから八秒遅れ十七位、下から二番目のブービーであった。中村にすれば予想された当然の順位だが、むしろ完走したことに満足していた。
F1は予選と決勝は日を置かず連続して行なうのが原則だが、ルーアンは現地の交通事情の関係で、レース当日は近郊の道路を封鎖してしまう。そのため予選と決勝の間に数日の間隔をおいていた。
悲劇は七日の決勝レースの日に起こった。ルーアンはあいにくの雨で、コースは濡れて滑りやすくなっていた。中村は不吉な予感がしたが、同時に安心感もあった。最後尾の一台前でスタートするRA302は、早い周でピットインしてリタイアすれば、コース上にオイルをまき散らすこともない。
空冷エンジンがF1レースで役に立たないことが証明されれば、空冷プロジェクトはその時点で終了する。中村は自分が手掛けたRA301が優勝することより、RA302が途中リタイアすることを願った。
だが中村が予想したシナリオは脆くも崩れた。監督の久米は十七番目にスタートしたRA302が一周回り姿を現した時、祈る気持ちでRA302の勇姿に目線を走らせていた。
「順位はどうでも良い。何事もなくこのまま無事に終わってほしい」
ところが二周を過ぎピットから一番遠い下り坂のコーナーを回ろうとした途端、濡れたコースにタイヤがとられ、コントロールを失って高さ三メートルの土手に激突、マシンははね飛ばされ、コースサイドに叩き付けられてしまった。久米の頭の中が一瞬、真っ白になった。
「悪夢であって欲しい」
そう思うまもなく、二〇〇リッターのガソリンを満載していた燃料タンクが壊れ、そこからガソリンが漏れ、RA302はたちまちのうち炎に包まれてしまった。ガソリンは酸素を求めて黒煙となり、空高く吹き上がった。
現在のルールはマシンの事故が起きれば赤旗が振られ、レースはいったん中断されるが、当時はたとえドライバーの死亡事故が起きても、コースが塞がれない限り続行された。
RA302の事故を尻目に無事故のマシンは、炎を突っ切り、消火剤を撥ね上げながらけたたましいエンジン音を発して駆け抜けて行く。だが雨によるスリップが相次ぎ、次々とリタイアしていく。六十周を完走したのは、優勝したフェラーリとRA301のたった二台だけ。
RA301が優勝する可能性は十分あった。ところが先を走るフェラーリの撥ね上げる消火剤がサーティースのゴーグルにかかり、視界が遮られ、ピットインを余儀なくされた。優勝の夢はその時点で消えた。ゴーグルを替えて復帰したものの、この時のロスタイムは最後まで縮めることが出来なかった。
事故が起きた時、中村は呆然とした。起きてはならないはずの事故が、目の前で起きてしまった。炎上した中からシュレッサーが出てくることを願ったが、黒煙が空高く舞い上がるだけで、焼けただれたRA302の中から人が出てくる気配がない。焼死は明らかだった。
興奮した中村が凄い剣幕で久米を睨んだ。そして心の中でこう叫んだ。
〈久米、おまえは人殺しだ〉
中村が言いたかった本当の相手は、宗一郎であった。中村はどうしても気持ちを抑え切れずその夜、酒の勢いを借りて、久米を前に言った。
「久米、やはりお前は人殺しだ。何らかの形で贖罪しなければならない」
久米はうなだれるしかない。
シュレッサーと夫人のアニーは、久米と同じホテルに泊まっていた。前夜、中村に説教されたばかりで、相当落ち込んでおり、一夜にして未亡人となったアニーと顔を合わせるのが、久米には何より辛かった。
が、運命のいたずらで皮肉にも翌朝、ホテルの出口でバッタリ顔を合わせてしまった。久米は悔やみをいおうにも口から言葉が出ない。
「事故なんですから、しようがないのです。事故なんですから……」
アニーは久米の顔を見て、前日の事故を思い出し、涙を浮かべ嗚咽しながら言った。久米にすれば面と向かって罵倒されるより、胸にこたえた。
フランスGPの悪夢のような事故は直ちに東京のホンダ本社にも打電された。悲しみの知らせを聞いても、宗一郎は微動だにせず、なお空冷エンジンでF1に挑戦する姿勢を崩さない。
当時レース中の死亡事故は頻発していた。フランスGPの三カ月前、ドイツのホッケンハイムサーキットで行なわれたF2レースでは、F1界の不世出の名手といわれたジム・クラークがシュレッサーと同じ雨の日のレースでタイヤをとられ亡くなっている。クラークは早過ぎる死によって伝説のドライバーになったが、ドライバーたちは仲間の死は乗り越えるべきものと理解していた。
宗一郎の冷酷ともいえる態度は、自らがF1レースを観戦していないことと無関係でない。宗一郎が現役経営者として観戦したのは、四十一年のアメリカGPだけ。F1の事故はテスト走行を含めれば毎年のように起きており、レースを見たことがない宗一郎にすれば、起きても不思議でない事故であった。
中村も久米もシュレッサーの事故の後処理には、最善を尽くすよう指示を出したが、肝心の宗一郎は、空冷エンジンの開発を止めるどころか、研究所のエンジニアにはRA302に搭載された空冷エンジンの一層の改良を求めた。宗一郎は空冷の限界を知るどころか、フランスGPの失敗をH1300に生かすことができないかを考えていた。
これに怒りを持ったのが「ホンダ・レーシング」だった。社長の中村はむろんのこと、レーシングチームの内部にも徐々にホンダ本社に対する不信感が芽生え始めた。宗一郎が空冷に執念を燃やせば燃やすほど、ホンダ・レーシングとの亀裂が深まって行く。
レーシングチームは新しいマシンを開発するどころか、RA301を改良する意欲も失い、フランスGPの後、イギリス、ドイツ、イタリア、アメリカ、メキシコの各GPを転戦したものの、最高の成績がアメリカGPの三位で、ついに一勝もできないまま、四十三年のシーズンを終えた。ワールドチャンピオンを目指す道は完全に閉ざされてしまった。
宗一郎が研究所にRA302の改良を命じたのは、F1マシンを市販車と同じレベルとしてとらえており、空冷の選択は決して間違っていないと信じていたからである。
ホンダ・レーシングは追いつめられた。人身事故を起こしたのが、日本のホンダが開発したRA302とはいえ、責任はホンダ・レーシングにかかってくる。ホンダと別の組織を作りながら、ホンダと有機的につながっているという事実が明らかになった以上、引き続きF1活動を継続できない。残された道はF1からの撤退しかない。
だがホンダが発表すれば、衝撃が大きすぎる。中村はサーティースと協議のうえ、現地法人のホンダ・レーシングが「一時休止」という表現で、ホンダのF1活動からの事実上の撤退を発表することにした。
撤退ではなく休止としたのは、中村の無念の意思表示であり、宗一郎に対するせめてもの抵抗であった。五年間にわたるホンダのF1活動は、後味の悪い結果を残して終わった。中村は撤退の責任をとる形で、宗一郎宛てに辞表を|認《したた》めたが、藤沢と河島喜好に慰留され、引き続きロンドンに残り、F1から離れるものの、ホンダの国際活動の足掛かりをつかむ仕事に専念することになった。
F1に夢をかけてホンダに入った中村のF1人生がここで終わった。ホンダのF1活動はこれを機に冬の時代に入る。カムバックはそれから実に十五年後、昭和五十八年七月のイギリスGPまで待たなければならない。
F1からの撤退を宗一郎があっさり受け入れたのは、ホンダを巡る社会環境が大きく変化していたことによる。のちのち「ホンダがF1を撤退したのは、米国で排ガス規制が大問題となり、この排ガス規制に全力投球するため」というのが定説とされるが、真相は別のところにあった。
米国では確かに排ガスが社会的な問題になりつつあったが、国内では欠陥車騒動が表面化、ホンダのN360もこれに巻き込まれ、販売が急減していた。ホンダ初の四輪車、スポーツカーの「Sシリーズ」も使命を終えようとしていた。
ホンダが四輪車メーカーとして生き残るには、空冷エンジンを積んだH1300の開発に全力投球しなければならないことは、技術者である宗一郎が最もよく知っていた。
RA302の監督を務めた久米はフランスGPで大きな衝撃を受けた。久米はパリのエトワール広場近くの寺院で厳かに執り行なわれたシュレッサーの葬儀に参列した後、帰国したが、和光の研究所では宗一郎が何事もなかったように、若い技術者を怒鳴り飛ばしながら、空冷エンジンの開発・改良に取り組んでいた。久米はそんな宗一郎が許せなかった。
「シュレッサーはなぜ死んだんだろうか……」
ルーアンの事故の瞬間は観客の一人が偶然にも八ミリの映写機で撮影していた。そのフィルムを手に入れ、何度もフィルムを巻き戻して食い入るように見直した。素人撮影なので細部ははっきりしないが、激突の直前、シュレッサーは雨で濡れた下り坂の角をコントロールできず、そのまま土手に激突していた。
「やはりマシンに原因があったのではないか。そうであれば贖罪しなければならない」
そう考えれば考えるほど、宗一郎に対する怒りもさることながら、贖罪しなければならないという衝動を抑えることができない。そんなある日、家族に「ちょっと出張してくる」と言い残して、羽田空港へ向かった。無断欠勤である。とにかく東京を離れたかった。
「行き先はどこでもいいから、すぐ乗れる便のチケットを下さい」
渡されたのが高知行きの切符だった。目的もなく高知に着くと、今度はバスに乗って室戸岬に行き、民宿に毛の生えた旅館に泊まり、毎日、朝焼けと夕焼けの海を見ながら暮らした。それでも気分が晴れず、贖罪した気にならない。暇を持て余して行くあてもなく、近くの四国八十八カ所巡りのお遍路さんが立ち寄るお寺に行くと、古びた立て札が目についた。
「志のある方は、一枚でもお寺にお運びください」
久米は来る日も来る日も瓦運びに精を出した。ようやく久米なりの贖罪を見つけた。
十日ほど経ったある日、いつものように瓦を担ぎ、石段をかけ上がっているとき、吹っ切れたような気持ちになった。
〈人生はしょせん、一段、一段かけ上がっていくのだ。天才といわれたオヤジさんだって、生まれた時から天才ではなく、努力を積み重ねてきたに違いない。今の今もオヤジさんも研究所の仲間も一段、一段と目標に向かって頑張っている〉
そう思うと今度は、無性に東京に帰りたくなった。迷いから吹っ切れ、恐縮しながら研究所に戻ってきた。
「おっ、元気そうだな。最近姿が見えなかったが、おまえ一体どこへいっていたのだ。また一緒に頑張ろうゃ」
宗一郎は何事もなかったように、あっけらかんとして声をかけてきた。
宗一郎が執念を燃やしたH1300は、欠陥車騒動が社会問題化する直前の四十四年五月末に発売された。H1300のセールスポイントは「空冷でも音が静かなエンジン」である。確かに空冷にしては静かだが、経営的には欠陥商品だった。対米輸出が出来ないうえ、販売価格が製造原価を一台につき五万円ほど下回っており、売れば売るほど赤字がかさむ。
対米輸出が不可能というのは、モータリゼーションの進展が著しいアメリカでも、この時代、交通事故の急増に悩まされ、一九六七年(昭和四十二年)一月に運輸省が二十項目にわたるFMVSS(連邦自動車安全基準)を制定したことが響いている。
この中に車の窓ガラスが凍結した際、「エンジン始動後、決められた時間内で解氷できるだけの暖房能力を持たなければならない」という安全着氷法案も入っていた。水冷エンジンであればいとも簡単にクリアできるが、空冷エンジンにとっては至難の業である。エンジンの改良では対応できず、わざわざ石油を燃料とするヒーターをつけなければならないからだ。
米国市場では引き続き西独VWのビートルが輸入車ナンバーワンの地位を保っていたが、空冷式のため法案に対応するのは不可能とされていた。VWはこれを機に、ビートルの後継車としてFF水冷式のゴルフ(米国名ラビット)の開発に着手した。米国でも空冷は時代錯誤のエンジンになろうとしていた。
H1300を本気になって対米輸出するには、さらに大掛かりな改良を進めなければならない。宗一郎は執念を燃やし、エンジニアの尻を叩いたが、時代は空冷エンジンに固執する宗一郎を置き去りにしようとしていた。
昭和四十四年は交通事故が、初めて社会公害と言われ出した年である。年初来の交通事故による死者は、一月二十八日には早くも千人を超した。交通事故による年間死者は日露戦争の戦死者を上回る一万五千人、負傷者は百万人を超す危険性があると指摘された。
軽自動車を含めた四輪車の国内販売は、四十年には百六十六万台だったが、四十三年には一気に三百万台の大台を超えた。国内販売はわずか三年で倍増、マイカー時代が足音をたてて到来した。五月二十六日には東名高速道路の全線開通が予定されており、これがモータリゼーションの進展に一段と拍車を掛けると予想された。
交通事故死者の急増に業を煮やした運輸省は、三月六日に黒住自動車局長の名前で、日本自動車工業会(自工会)など自動車関連団体に要望書を出した。
「ユーザーのスピード違反を助長するような、最高速度を掲げた宣伝は厳に謹んで欲しい。とりわけスポーツカーの表示は、最高速度ではなく加速性能やブレーキ性能など運転者の安全に結び付くものにして欲しい」
翌日、自工会は加盟各社の副社長クラスのトップが集まり、緊急会議を開いてスピードを前面に出した宣伝・広告の自粛を申し合わせた。対象はスポーツタイプを含めた全乗用車である。申し合わせには罰則規定はないが、その前に公正取引委員会が「公正競争規約」を告示しており、違反すれば強制的に罰則が科せられる。
ホンダは頭を痛めた。五月末には宗一郎が心血を注いで開発したスポーツタイプの小型乗用車「H1300」の発売を予定している。当面の目標は月販二千台だが、その後、徐々に増やしていく計画だ。
セールスポイントは空冷エンジンの特徴を最大限に生かした、走りと高馬力にある。だが業界の申し合わせにより、これらの特徴を前面に出すことができなくなった。これでは両手どころか両足も縛られてしまったようなものだ。
しかし役所からの要請とあって、反対するわけにもいかない。交通事故による死者は春先から夏にかけても一向に減る気配がない。五月末には遂に六千人を突破した。前年より二十三日も早く不名誉な記録を作ってしまった。
総理府の全国調査によると、交通事故で親を失った交通遺児は、小・中学生だけで三万人近くに達し、大半が生活保護を始めとする何らかの就学援助を受けている。この交通遺児を支援するため日商会頭の永野重雄が音頭を取り財団法人組織の「交通遺児基金」を発足させた。
初年度は十六億円の基金を集める予定で、自動車業界には十億円の拠出を申し出た。業界側の回答はトヨタが生産累計五百万台を記念した一億円と、自工会が拠出した一億円の計二億円に過ぎなかった。
これに育英基金の専務理事の玉井義臣が噛み付いた。
「自動車メーカーはこれまで交通事故を運転者や歩行者のせいにして、政府の過保護の下で“走る凶器”を作って儲けてきた。それなのに交通遺児基金にお金を出し渋っている」
「日本の自動車/欠陥車なぜ隠す/日産・トヨタを米紙が批判/国内でも極秘に修理/安全性より“営業優先”」
交通戦争の加害者として自動車会社に世論の非難が集まり出した矢先の六月一日、朝日新聞が朝刊社会面トップで米「ニューヨーク・タイムズ」のジョン・モーリス記者が書いた記事を引用しながら、衝撃的な見出しの付いた記事を掲載した。新聞には欠陥車と指摘された二枚の写真が付けられている。
記事のリード(前文)は、次のように書かれていた。
「日本の自動車メーカーは車の欠陥を公表せず、秘密に回収している」とニューヨーク・タイムズ紙がこのほど日産、トヨタの両社を批判した。両社とも「米国で売れた台数はわずかだから新聞発表しなかった。ユーザー(需要者)には直接書留便を出してある」と心外そう。しかし国内では同型の車が走っているのにメーカーは手紙で知らせるどころか、社員にも車の欠陥はひた隠し。この両社に限らず回収の例は多いが、実情を知っているのは運輸省とメーカーだけ。運転者、乗客の安全はそっちのけで販売政策が独走しているといえそうだ。
これが自動車業界を揺るがした欠陥車騒動の引き金になった最初の記事だが、前文で分かるように自動車業界は事態をそれほど深刻に受け止めていなかった。
欠陥車という言葉は後に欠陥車騒動の主役として登場する日本自動車ユーザーユニオンの事務局長、松田文雄による造語で、朝日新聞が松田の進言を入れ、このとき初めて使用した。造語にもかかわらず、その後一般に広く使用され、品質欠陥による民事事件の裁判の判決文にも使われるようになった。
騒ぎは六日に運輸省がトヨタ、日産に対し欠陥車の最終点検を指示したことから一気に広まり、国会の衆議院商工委員会でも取り上げられた。欠陥車の摘発キャンペーンに、とりわけ熱心だったのが朝日新聞だった。
「欠陥車の総点検を/運輸省/トヨタ、日産に」(六月六日付朝刊一面)
「こっそり欠陥車を回収/日産のマイクロバス」(同日付夕刊社会面)
「日産のブルーバード/また火を吹く/車庫入れ中爆発/三カ月前に点検」(七日付朝刊社会面)
「欠陥車各国の対策」(八日付朝刊経済面企画)
「トヨタ、欠陥車対策で方針/“緊急要すれば公表”」(八日付朝刊社会面)
「四十四年型も火を吹く/ブルーバード/大平通産相、自工会に厳重注意」(十日付夕刊社会面)
「衆院運輸委員会/きょう欠陥車問題でトヨタ、日産社長を参考人」(十一日付朝刊社会面)
「車の製造にいささか不注意があった/トヨタ、日産社長欠陥を認める」(同日付夕刊社会面)
「欠陥車新たに十九車種/四十七万台回収急ぐ/トヨタ、日産が公表/運輸行政の盲点晒す/本格事故の恐れ/二専門家一致して指摘」(十一日付一面トップ)
「欠陥車でムチ打ち症/業者に賠償請求」/(十二日付朝刊社会面)
「警視庁が欠陥車の事故を再点検/刑事責任追及も」(同日付朝刊社会面)
朝刊、夕刊、それも一面と社会面が連動した欠陥車摘発キャンペーンだった。「カラスの鳴かない日はあっても、欠陥車に関するニュースが新聞を飾らない日はない」といっても決して大袈裟でない日が続いた。書く側は調査報道と胸を張るが、実態はマスコミによる魔女狩りに等しい。
こうした記事を見ながら、日産社長で日本自動車工業会の会長を兼ねる川又克二は夜回りに来た新聞記者に苦々しい表情で愚痴をこぼした。
「日本車への嫌がらせに過ぎない米国の新聞論調に、何で日本のマスコミが乗る必要があるのか」
川又は欠陥車騒動の本質を、まだ完全に理解していなかった。マスコミの魔女狩りは、いっこうに止む気配がない。こうした中の十三日の衆院法務委員会で社会党議員の中谷鉄也が爆弾質問をした。
「ホンダにトヨタ、日産以上の欠陥車があるといううわさがあるが……」
これに対して運輸政務次官の村山は、こう答えた。
「そういううわさは私どもも聞いており、急いで調査を進めている。資料をもとに厳しい措置をとる」
この国会でのやり取りをもとに夕刊では、ホンダをヤリ玉に上げた。
「こんどはホンダ?/運輸省調査/運転手に救済措置/法相答弁/各社の欠陥事故」
この車がN360を含むNシリーズであるのは、翌十四日に明らかになった。
「運転者まるで試験台 ホンダNシリーズ/発売急いだ花形車/二十八万台に欠陥」
朝日新聞が朝刊社会面トップで大々的に報じた。前文は次のように書かれてあった。
本田技研工業の車の欠陥が、十三日の衆院法務委員会で取り上げられ、運輸省が調査を始めたが、同社の花形製品である軽自動車に設計や製造上のミスとみられる故障が続出、あちこちで事故が起こっているという。同社が販売店にひそかに流している『四輪ニュース』には、車の欠陥対策が列挙してあるが、「対策の内容からみて、発売を急いでテストを十分していない。ユーザーをテスト台にしたのではないか」という見方も出ている。
本田技研西田通弘常務の話。
Nシリーズのステアリング系統に問題があり、そのほか雨漏り、騒音などの欠点があるのは事実で、修理に全力を注いだ。だからいま作っている車はほぼ完全といっていい。うちは、もともとエンジンメーカーで、ボディーの技術者は少なく、四輪車は未経験だった。しかし車体のバランスがくずれているとは思えない。特に本田宗一郎社長は安全のためにはメンツにこだわらない主義であり、ユーザーをテスト台にするなんてバカなことはしない。ただあと一、二の緊急整備を必要とする個所があるので十七日の新聞に広告する。
ホンダはその日の夕方、Nシリーズの欠陥内容を公表した。自主的に公表したのはブレーキ・ホースの材質不良、ステアリング・ギアボックスの欠陥、フロントブレーキのゆるみ、エアクリーナーの不良、ショック吸収装置の不良、ブレーキの不良、コラムシャフトの軸受け部分の締め過ぎ、キャブレターの不良、ステアリング軸のゆるみの合わせて九点。
この日はいすゞ自動車もバス、トラックの欠陥を公表しており、欠陥車を出したメーカーは都合四社になった。
十六日には自工会が欠陥車の実態をまとめた報告書を作成、運輸省、通産省、警視庁に通告するとともに、マスコミにも公表した。
この日公表されたのは、先に報告されているトヨタ、日産を除いた九社分である。つまりわが国の全自動車メーカーが欠陥車を作っていたわけだ。欠陥車の烙印を押された車は業界全体で二百四十五万台に及び、このうち回収・修理されていない車はまだ百三十万台あった。四十三年末の保有台数は千二百四十八万台だから、すでに回収・修理したものを含めると、五台に一台が欠陥車、十台に一台は依然として危険が予想された。
自工会は自主的に欠陥車を公表、早期回収・修理することを運輸省に約束すると同時に、先に要請があった交通遺児育英基金の残り八億円についても、急きょ満場一致で拠出を決めた。あとはひたすらマスコミによる欠陥車キャンペーンの嵐が過ぎ去るのを待つだけであった。
ホンダは予定通り六月十七日に全国の新聞に「ホンダ車ご愛用の皆様へ/部品の点検・交換に関するお願い」と題する五段の広告を出して、欠陥車の修理・点検を呼び掛けた。対象は二十万台。トヨタ、日産も同じ五段の広告を出したが、ホンダは翌日、今度は全ページ広告を出した。
「交換部品はホンダSFに全品準備完了しました」
二度にわたり、それも二度目は全面広告というのはホンダだけだった。広告の媒体価値がテレビより新聞が上位にあった時代で、さらに好景気だったこともあり、短期間で全国紙の全面広告枠を確保するのは困難だった。ホンダは本来H1300のために枠取りしておいた広告のスペースを、急きょ欠陥車の告知広告に切り替えたのだった。
「当面の新車生産を犠牲にしても、欠陥車の早期回収に全力を尽くせ」
宗一郎の指示で、全国二百カ所のSFにN360を生産している狭山工場の従業員七百人を派遣した。N360は欠陥車騒動が起きてからも売れ続けており、六月、七月、八月はそれぞれ三万四千台の生産を予定していた。しかし七百人もの従業員をSFに派遣しては、月三万台の生産が限度だった。
ホンダの電撃作戦は業界でも話題になり、企業としてのホンダの評価は上がった。その直後に、こうした努力に水を差す事件が起きた。ホンダの元の代理店が組織化した「旧全国ホンダ会」が十六日に通産省と運輸省に自動車代理店の保護を訴えるとともに、都内のホテルに欠陥のブレーキドラムを持ち込んで、記者会見したのである。
旧ホンダ会のいい分は、二点に要約される。第一点はホンダのようにメーカーが直接、販売と修理を独占すると、欠陥車の公表は独善的になる。もう一点は軽自動車のNシリーズの乗用車、貨物車、バンを合わせた欠陥個所は四十二カ所にのぼる。だがこのうちホンダが公表したのはたった五カ所に過ぎず、残る三十七カ所は対策中であるにもかかわらず隠しているというものだった。
ホンダは直ちにサービス部主任技師、吉田長雄のコメントを出した。
「十四日に公表した欠陥個所以外に回収の対象はない。旧ホンダ会が指摘した欠陥は過去に確かにあったが、すべて回収を終えている」
この時期、欠陥車キャンペーンが盛り上がったのは二つの理由があった。一つは四十一年にトヨタ、日産が本格的な大衆車を発売したのを機にモータリゼーションが予想を遥かに上回るスピードで進展したこと。自動車メーカーは需要に対処するため懸命になって量産体制を築いた。しかし余りにも急激に進んだため、量産技術の確立が追いつかず結果的に欠陥車を出してしまった。
もう一つは、ドライバーの運転技術の未熟さである。警視庁が四十四年に警視庁と科学警察研究所と協力してまとめたドライバーの心理、技能のテストによると、五人に一人が欠陥ドライバーであるという結果が出た。交通事故が起きれば、原因はすべて車の欠陥だとしかねない風潮の中で、実際はかなり多くの欠陥ドライバーがおり、こうした人々の運転の未熟さが事故の原因にもなっていた。
その背景として高度経済成長の反動がある。日本は世界第二の経済大国にのしあがったが、その一方で消費者物価の上昇、公害問題、都市問題などを引き起こしてしまった。
「高度成長は必ずしも国民生活の向上につながらないのではないか」という疑問の声が出始め、成長至上主義の見直し機運が高まった。その矛先は、高度成長の担い手であった自動車業界に向けられた。
欠陥車騒動の火付け役ともいえる朝日新聞は六月だけで大小合わせて、欠陥車に関する記事は九十七本に上ったが、七月に入るとさすがに沈静化し、新聞記事の量もぐっと減った。
欠陥車の回収・修理は順調に進み、二百四十七万台の対象車のうち九六%に当たる二百三十七万台が対策を終えた。四%の未対策車のうち半分は廃車と推定、残りの半分は持ち主を突き止められなかった車だった。米国のリコールは通常七〇%だから、日本は予想以上の成績をおさめたことになる。ともあれこれで欠陥車騒動は一段落したかに見えた。
このあおりを受けて、H1300の出足は惨たんたるものだった。大々的な宣伝が出来なかったこともあり、目標とした月販二千台には遠く及ばず、秋口には早々と大幅な減産に追い込まれた。軽自動車のN360では一大旋風を巻き起こしたホンダだが、小型車部門では欠陥車騒動に巻き込まれ、出鼻を挫かれた。
ホンダの経営は欠陥車騒動が巻き起こった昭和四十四年に大転換を余儀なくされた。この時期宗一郎が最後まで空冷エンジンにこだわり続けていたら、間違いなく晩節を汚しただけでなく、ホンダそのものが空中分解する危険をはらんでいた。
H1300の販売は欠陥車騒動に巻き込まれ、藤沢の予想通り不振を極めた。回復する見通しもない。米安全法の関係で対米輸出のメドは、依然として立たない。夏を待たずにホンダの将来を担うに足り得るだけの車でないことが、だれの目にも明らかになりかけてきた。
藤沢は頭を抱えてしまった。最良の策はH1300に一日も早く見切りを付け、新たな小型車を開発することである。それには研究所を巻き込むしかない。
「ホンダ(H)1300はなぜ失敗したのか」
藤沢は研究所に対し密かに、意見を集約するよう命じた。研究所の幹部は藤沢から与えられたテーマを議論するため、入交が世話役となり宗一郎の目を避け、梅雨空のある日、軽井沢のホテルに集まって研究員集会を開いた。議論が集約されるころを見計らって、藤沢が顔を出し報告を聞いた。
研究所としての方向性は、議論を始める前から出ていた。
「諸悪の根源は空冷エンジンにある」
藤沢もある程度、こうした答えを予想しており、研究所と自分の考えがそう違っていなかったことを一つ一つ確認するように、うなずきながら聞いた。
「それ以外にも原因があります。1300には発売直後、ユーザーから沢山クレームが来ました。それはホンダに本格的なテストコースがないからです。一応、荒川の土手を使ってやってますが、それだけではなかなか欠陥個所が見付かりません。したがって売り出してから、ユーザーの声を聞き、それで欠陥個所を直すようにしています。うちにもGMのようなテストコースがあれば……」
車両実験課の若手の研究者が報告を始めた途端、藤沢は烈火のように怒り出した。
「おまえら何を勘違いしているのだ。ホンダはGMじゃないんだ。唸るほどの金はないんだ。本社から分離・独立したのは、おまえらに自由に研究してもらいたいからなんだ。研究所が売れる車を作れば、研究費は自然に増える。
近くにテストコースがなければ、なぜ自動車業界が金を出し合って作った浅間のテストコースを使わないんだ。そんなたるんだ気持ちでいるから欠陥車問題が起きるのだ。研究所が傾いたら、ホンダの経営基盤が崩れてしまうのだ。今の発言をあたしは許さない。すぐ取り消せ」
藤沢は欠陥車問題でイライラしていた時期だけに、若手といえどもこうした甘えた発言は、絶対に許さなかった。甘やかしたのはだれあろう宗一郎である。
H1300が失敗作であることを、宗一郎に何としてでも分かってもらわなければならない。が、肝心の宗一郎は自分の間違いを認めるどころか、研究所の若手エンジニアに次から次へと、空冷エンジンの改善に向けての実験テーマを与えてくる。どうやって猫の首に鈴を付けるか。藤沢の苦悩は一段と深まった。遅くなれば遅くなるほど、モータリゼーションの波に乗り遅れてしまう。
こうしたホンダ社内のゴタゴタと関係なく、米国で今度は、マスキー法案を巡る動きが慌ただしくなってきた。マスキー法案というのは環境汚染や公害問題が社会問題としてクローズアップされた一九六〇年代の後半に米民主党の上院議員、エドモンド・マスキーが提案した自動車に対する排ガス規制に関する法律である。
自動車王国のアメリカでは第二次世界大戦の前の一九四〇年頃からカリフォルニア州を中心にスモッグの発生が社会問題となっていたが、戦争の勃発で原因の追及と対策は後回しにされていた。
戦争が終わり平和が戻ると再び取り上げられ、原因は一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)、窒素酸化物(NOx)などの光化学反応によるものであることが突き止められた。
六三年には市民運動の高まりを背景に、まず大気清浄法が成立、その修正案として自動車の排ガス規制に的を絞ったマスキー法案が出てきた。自動車が排出するガスには多くの有害物質が含まれており、マスキー議員は自動車メーカーに排出を大幅に減らすことを義務づけることで大気汚染を抑制しようと考えて法案を議会に提出した。
七〇年の排出レベルを五年後の七五年には、一酸化炭素と炭化水素を十分の一、一年後の七六年には窒素酸化物も同じく十分の一に減らそうという野心的な法案である。
米国の自動車業界は、この数値を見て騒然となった。フルサイズカーと呼ばれる米車特有の大型車の全盛時代に、わずか五、六年の間で有害物質の排出レベルを九〇%減らすというのは、自動車産業の技術常識ではとうてい考えられない。GM、フォード、クライスラーのビッグスリーは猛然と反対のノロシを上げた。
だがいくら政治力があるビッグスリーといえども、世の中の流れには逆らえない。排ガス規制に反対すれば、社会の敵とみなされかねない。自動車はもはや時代の寵児ではなくなっていた。仮にどこかのメーカーが達成できる技術を開発すれば、取り残されたメーカーは、たちどころに社会から葬り去られてしまう。世の中は確実に公害追放へ動いていた。
マスキー法案の動向は、日本の自動車業界に大きな影響を与える。日本の自動車産業が自立するには、どうしても対米輸出は欠かせない。トヨタ、日産は昭和三十年代から対米輸出しているが、最初は思ったように伸びず、大衆車の投入でようやく軌道に乗り始めた。四十年の乗用車の対米輸出は、業界全体でたった二万二千台だったのが、四十三年には二十万台を超えた。わずか四年間で十倍に増えたのである。
といっても本格的な販売網の整備はこれからである。前年にニューヨーク・タイムズから欠陥を指摘され、一時輸出に影響が出ることが心配されたが何とか乗り切った。だが排ガス規制に対応できなければ、今度こそ輸出断念に追い込まれる。
日本は高度経済成長の真っただ中にあり、交通事故とともに徐々にではあるが、排ガスも社会問題化しつつあった。米議会でマスキー法案が成立すれば、日本でも同様の動きが出るのは自明の理である。自動車会社にとって、排ガス規制をクリアできるかどうかは、日本メーカーにとっても死活問題。マスキー法案は決して対岸の火事ではない。
といって対応できる技術があるわけでない。日本メーカーは米ビッグスリー同様、マスキー法の最終数値を達成するのは不可能とみていた。
そうした中で宗一郎だけが一人ほくそ笑んだ。
「ホンダが四輪車で遂に世界に飛躍できるチャンスがやってきた。世界中の自動車会社が同じスタートラインに立ったのだ。技術は金があればできるという問題ではない。世界の自動車メーカー全社が横一線に並んで、“ヨーイドン”でスタートするのだ。
こんなチャンスは滅多に来ない。アイディアと努力だけで世界の有力メーカーと勝負できるのだ。技術の競争なら絶対に負けない。何としてでもマスキー法案をクリアできるエンジンを作ってやろうじゃないか」
マスキー法案が米議会に提出されたとき、宗一郎は研究所の若手研究員に向かって、興奮しながら語りかけた。宗一郎は無公害エンジンをどのメーカーよりも先に作ることによって、F1からの撤退、N360の欠陥車騒動、H1300の不振など、この一、二年の汚名を一挙に挽回しようとした。それ以上に無公害エンジンに一番乗りすることで、自動車の先発メーカーに「一泡吹かしてやろう」という持ち前の闘争心が頭をもたげてきた。
宗一郎がいくら“しめた!”と思い、一番乗りしたいと叫んでも、その前に決着を着けなければならない問題があった。エンジンの空冷・水冷の論争だ。これに終止符を打たなければ、低公害エンジンの研究開発は一歩たりとも前進しない。
空冷エンジンの特徴は高回転、高出力にある。半面、温度変化が激しく、排ガスに含まれる有害物質をコントロールするのが極めて難しい。
排ガス規制に対応するには、燃料と空気の混合割合を示す空燃比を精密にコントロールしなければならない。当然のことながら、回転が低い水冷エンジンの採用が大前提となる。むろん水冷を採用したからといって、すぐ無公害エンジンができるわけではない。水冷なら規制数値を達成できる可能性があるというに過ぎない。
研究所を預かる所長の杉浦英男、久米是志らの技術幹部は、個人の意見というより研究所の総意として、マスキー法案が浮上する以前から何度か宗一郎へ水冷への転換を申し入れていたが、宗一郎は耳を貸そうとはしなかった。あまつさえ排ガス規制に、空冷エンジンで対応しようとすらしていた。
研究所では宗一郎に無断で、密かに「AP」と名付けた水冷エンジンを専門に研究するチームを発足させていた。研究は八木静雄と中川和夫の二人が中心となって進めていた。時代錯誤の空冷エンジンを積んだH1300をだましだまし、何とかごまかしながら市販にこぎつけたのは、杉浦が「エレクトロニクスと自動車の結婚」と名付けたカーエレクトロニクスにいち早く取り組み、エレクトロニクスの技術をエンジン冷却に採用したからにほかならない。
だがそれにも限界がある。APチームでは早い時点で結論を出していた。
「(水冷への)転換が遅れれば、遅れるほど排ガス規制への対応が難しくなる」
宗一郎の意気込みとは反対に、いつしか宗一郎の存在が低公害エンジン開発の最大の障害になっていた。これに研究所は焦りを感じた。
「研究所にとって本田宗一郎というのは、今や偉大なる“敵”だ。全員が結束して敵に当たらないと、とてもじゃないがかなわない」
宗一郎を説得できるのは、本社の副社長であると同時に研究所の副社長を兼ねている藤沢しかいない。杉浦や久米を始めとする研究所の幹部は考えた末、藤沢を巻き込んで“内なる敵”を粉砕する決意を固めた。
こうした機会が来るのを藤沢はじっと待っていた。研究所の危機感は技術に端を発しているが、藤沢の危機感は経営の面からである。四輪車部門の赤字は、オートバイの利益で何とか消しているが、そろそろ長期展望に立った抜本的なビジョンを示さない限り、早晩四輪車市場から撤退を余儀なくされる。
藤沢にはF2のエンジンを使った大衆車を作っておれば、今頃、トヨタ、日産と肩を並べていたはずという思いが強い。現実は肩を並べるどころかH1300の失敗で、世間では「ホンダの四輪車は、しょせん軽自動車どまり」という風評が立ち始めていた。
〈研究所の連中はガタガタ騒いでいるが、西落合(宗一郎)に空冷エンジンを止めさせるだけで、本当に問題が解決するのか。ホンダは技術で成長してきた会社だ。その基盤が崩れれば、成長は止まる。一度じっくり研究所幹部の意見を聞いて、技術の将来展望を見極めておく必要がある。そうでないと経営戦略は立てられない〉
欠陥車騒動が一段落し、夏も終わろうとしていた週末のある日、藤沢は研究所の幹部を熱海の旅館に招いた。
杉浦や久米にすれば、研究所の窮状を訴える願ってもない絶好の機会である。藤沢に説明する技術資料は、川本が徹夜で作成した。
「ホンダは空冷四サイクルエンジンを使って高回転、高馬力を追求し、それを売り物にして発展しました。しかし排ガス対策ではこの逆のことをしなければダメなのです」
久米が口を震わせながら、なぜ空冷が時代遅れのエンジンなのかを縷々説明した。これを踏まえ、藤沢は素朴な疑問を呈した。
「それでは水冷エンジンで低回転、低馬力をやってきた同業他社の方が有利ではないか」
予想された質問であり、若手の技術者でさえ、これを論破するのはそう難しいことではない。
「そんなことはありません。低回転、低馬力しかやってこなかったメーカーは、まだこの理論に気が付いていないはずです。ホンダがこれまで空冷を通して、エンジン燃焼の極限を知り尽くしているからこそ突き止めることができたのです」
この時、藤沢は“しめた!”と心の中で叫んだ。
〈どんな技術であれ、低公害エンジンの開発に一番乗りすれば、今度こそ四輪車で世界に飛躍できる道が開ける。Sシリーズはホンダ初の四輪車として話題になったが、経営的には完全な失敗作だった。N360も確かに売れてはいるが、まだ先行投資を回収する段階に至っていない。このクラスの車ではエンジンの排気量を多少上げたところで、しょせん大量輸出は無理だ。F2のエンジンを使った大衆車作りも幻に終わった。もし低公害エンジンが本当にできるのなら、これまでの劣性を一気に挽回できるかもしれない〉
そんな経営上の期待をおくびにも出さず、ダメを押した。
「それならうちの会社なら、低公害エンジンを開発できるのだな」
藤沢にここまで言われれば、研究所としては、技術面でホンダの基盤が揺るぎ始めていることを知ってもらうだけでは意味はない。研究所としては、藤沢を通じて宗一郎に何としてでも、空冷の開発を止めてもらうのが当面の目的である。それを決定的にするには、水冷なら排ガス対策をクリア出来る可能性があることを匂わせておく必要がある。
「一〇〇%出来るとは断言できませんが、可能性はあります。ただし空冷の開発を止め、研究所が全員一丸となって水冷エンジンの研究に取り組むのが前提条件です。社長は空冷でも出来るといっていますが、私たちは一〇〇%見込みがないと思っております」
最後に全員が、水冷エンジンを積んだ車を開発させて欲しいことを要望した。
〈研究所にはいろんな文句ばかり言ってきたが、あたしの目論見がようやく芽を吹いた。大勢の宗一郎が出てきたのだ。やはり研究所を本社から分離・独立させた方針は間違ってなかった〉
「おまえたちのいわんとすることは、分かった。一度社長に話してみる」
藤沢はそう言い残して席を立った。実のところ研究所の幹部の話を聞きながら、“しめた!”と思うと同時に、強いショックを受けた。大勢の宗一郎を作ろうとして発足させた研究所だが、今や総大将である宗一郎の存在がガンになりつつあることを、宗一郎が手塩にかけて育て上げた、“ホンダの子供たち”の口からあからさまに聞かされたのである。
藤沢は東京に戻ると、六本木の自宅にある茶室に籠った。
〈薄々感じてはいたが、天才と謳われた西落合にも、技術者としての限界があったのだ。西落合が研究所を引っ張って行く時代は終わった。今のまま研究所のトップに据えておけば傷がつく。傷をつかせないように退かせると同時に、研究所の要望を実現するにはどうしたらよいものか。ホンダの将来を考えれば、ここは筋を通さなければならない。西落合と刺し違える覚悟はできている。ホンダを守るためにはそれより方法がない〉
「本田さん、研究所の連中は水冷エンジンであれば、排ガスのマスキー法案をクリアできるといってましたょ。どんなもんか試しに水冷エンジンを積んだ車を開発させてみたらいかがですか……」
藤沢は自分の考えをまとめ、翌日和光の技術研究所にある社長室で宗一郎と向き合い、熱海で研究所の幹部から要望された水冷エンジンへの転換を持ち出した。
「……副社長には技術の詳しいことを説明しても分かんねぇだろうが、マスキー法案は空冷エンジンでも出来るんだ。いや、おれは絶対にやってみせる」
宗一郎は藤沢の真意が分からず、提案を歯牙にもかけようとしない。ここで藤沢が「そうでしょうね。あんたなら必ずできる」と従来通り宗一郎を信頼して引き下がれば、水冷どころか、低公害エンジンを開発する道も閉ざされてしまう。といって空冷に凝り固まっている宗一郎の考えを変えさせるのは並大抵ではない。藤沢はここで肚を括った。
「本田さん、あたしと最初に会った時、あんたは確かにこと技術に関して、他人から|掣肘《せいちゆう》を受けたくないと言ったよね。わたしは技術の詳しいことは分からないので、これまでは一切掣肘してこなかったし、これからも毛頭する積もりはありません。
ただ一つだけお聞きしておきたいことがあります。本田さん、あんたはホンダの社長としての道をとられるのか、それとも技術者としてホンダにいるべきだと思われるのか。その辺りをどう考えておられるのか。あたしはそろそろはっきりさせなければならない時期にさしかかっていると思ってるんですがね……」
藤沢は宗一郎とコンビを組んで、二十年目にして、最初で最後の反抗を試みた。
この言葉を聞いて宗一郎は、一瞬怯んだ。藤沢が何をいわんとしているかは、表情を見ていれば自然と分かる。迂闊な返事をすれば、取り返しがつかなくなる。宗一郎は顔を天井に向け、目を閉じて自分の考えをまとめていた。
〈確かに六本木にはおれの実印を渡して、経営のすべてを任せている。それだけ信頼に足る男だ。しかしホンダの社長はこのおれだ。ホンダはおれが作った会社なのだ。技術者としての道を選ぶということは、ホンダの社長を辞めるということだ。といって社長の道を選択すれば、もう技術に口出しができなくなり、技術者としてのおれの生命は終わる〉
藤沢は仮に宗一郎が技術者としての道を選べば、それを逆手にとり、強引にでもホンダの社長の座を降りてもらうことを考えていた。そうなった場合、ホンダの社長に誰を据えるか。年回りからすれば自分にお鉢が回ってくる。社内にはそれを期待する向きがあることは知っている。ただしその器でないことは、自分が一番知っていた。
仮に藤沢が宗一郎を会長に棚上げする形で自分が社長の椅子に座れば、世間をどう取り繕っても、社長に弓を引いたことには変わりはない。ホンダの社長は本来、技術者でなければならない。いずれにせよ宗一郎の返事次第で、藤沢は重大な決断を迫られる。
先に沈黙の時間を破ったのは宗一郎だった。
「おれは社長として残るべきだろうな」
宗一郎はすでに還暦を過ぎており、体力に限界を感じていた。自転車用の補助エンジンの開発から始まり、オートバイ、N360、空冷F1、H1300と創業以来休む暇もなく走り続けてきたが、手塩にかけて育ててきた“子供たち”が年々自分から離れて行くのは何としても寂しい。宗一郎は心の中で呻いた。
〈せめておれが五十代であれば、昔のように陣頭指揮をとり、可能性がある限り、だれが何といおうが最後の一%に挑戦しただろう。排ガス対策は理論的には、確かに水冷の方がやり易いが、空冷でやってやれないことはないんだ。VW、ポルシェ……。名車と呼ばれる車はすべて空冷を採用している。
世界最大の自動車メーカーのGMですら、最近「コルベア」に空冷エンジンを採用した。空冷は将来性のあるエンジンなのに、技術の可能性はまだ解明されていない。おれがもう少し若かったら、もう少し……〉
“不世出の天才”であり、強烈な信念を持っていた宗一郎でも、朋友と“子供たち”の造反を食い止めることは出来なかった。技術者としての本田宗一郎の生命は、この瞬間終わった。同時に藤沢は宗一郎の後継社長になる芽も自ら摘んだ。
〈これでいいのだ。あたしのこれからの仕事は、本田宗一郎という天才的な技術者の晩節を汚さないようにしてやることだ。それには傷が付かないうちに、あたしが道連れにする以外にない。いってみりゃ、抱き合い心中だ〉
「社長、(研究所に)水冷エンジン(の開発)をやらせてもいいのですね。本田さん、辞めるときは一緒ですょ」
「………」
二人の創業者がお互いに「右手に剣、左手にコーラン」を持った対峙は終わった。二人はホンダを引き続き発展させるには、刺し違えによる抱き合い心中の形で退くしかないことを、無言のうちに確認し合った。
翌日、宗一郎との話の内容を伏せたまま、何事もなかったように、藤沢は杉浦に電話を入れた。
「社長には一応(話だけ)通しておいた。念のためお前たちの口からもう一度、社長に話してみてくれ」
それからまもなく杉浦は、薄暗い和光の研究所の試作室で宗一郎に懇願した。
「オヤジさん、時代が変わったのです。オヤジさんが心血を注いだ空冷エンジンでは、アメリカの排ガス規制をどうしてもクリア出来ないのです。水冷をやらせて下さい。夜を徹して研究を進めれば、(期日まで)何とか間に合います」
宗一郎は黙って聞きながら、杉浦が話し終えると、今度は背中を向けてポツリといった。
「おまえらの好き勝手にしろ……」
背を向けたまま試作室の出口へ向かい、一度振り向いたが、杉浦には宗一郎の目には涙が浮かんでいるように見えた。
藤沢が研究所を巻き込んで起こした“クーデター”は成功した。
大手を振って水冷エンジンを開発できるようになり、研究所には活気が戻ってきた。水冷エンジンを積んだ最初の車は、軽乗用車の「ライフ」だった。宗一郎の許しが出た半年後には、早くも第一次試作車が出来上がり、“いの一番”に宗一郎に乗ってもらった。
「おっ、これが水冷エンジンの車か。思ったよりいいじゃないか」
この言葉を聞いて杉浦以下の研究所のメンバーは胸をなで下ろしたが、ライフの開発に際しては問題が山積していた。F1やF2での経験はあるものの、市販車では事実上初めての水冷エンジンである。研究所は面子にかけても絶対に成功させなければならない宿命を背負っていた。
同時にこの車で、低公害の研究も進めなければならない。低公害に重点を置くとすれば、ホンダが売り物にしてきたスピードと高馬力はある程度、犠牲にせざるを得ない。
ライフが宗一郎の許しが出て、わずか半年という短期間で試作車までこぎつけることができたのは、F1撤退を機にイギリスの関連会社に出向した中村良夫が残した“遺産”がモノをいった。中村は宗一郎が軽自動車「N360」の開発に没頭していた時期、F1マシンと並行して「BS」と名付けた排気量一一〇〇cc、水冷四気筒、FFのエンジンを積んだ本格的な小型車を開発していた。
BSはホンダを本格的な小型車メーカーに転換させた「シビック」の原型となった車である。中村はトヨタの「カローラ」や日産の「サニー」に真正面から対抗できる車だと自負していた。
「おれたちが開発するのは、こんな大人しい車じゃない。それにエンジンは水冷じゃないか。おれがやりてぇのは、空冷エンジンでスポーツカーに近い車だ」
BSのグランドデザインが出来上がったとき、中村はこれを宗一郎に見せたが、けんもホロロの扱いを受け、そのままお蔵入りになってしまった。杉浦はそのBSをお蔵から出してきて、改良を加えた。エンジンは半分の二気筒にして、ボアを狭めれば軽自動車に転用できる。デザインも多少手直しすれば十分通用する。ホンダの四輪車のエンジンは、それまですべて久米が手掛けてきたが、ライフでは初めて川本が担当した。
昭和四十四年六月に米「ニューヨーク・タイムズ」の記事がきっかけとなって表面化した欠陥車騒動の最大の収穫は、欠陥車が発生した場合、メーカーは運輸省に届けるとともにユーザーにも知らせて、回収・整備を義務づけるリコール制度が発足したことだ。この制度の定着でその後、欠陥車問題は散発的にマスコミを賑わすことはあったが、ニュースの表面から遠ざかっていった。
それから一年後の四十五年夏、欠陥車問題が突如再燃した。八月六日に最大手のトヨタが運輸省に対し、小型乗用車のカローラ、パブリカ、コロナ、マークの四車種、計八十四万台についてアクセルとブレーキに欠陥があるとしてリコールを届け出た。
トヨタが大量リコールせざるを得ない伏線は、四月二十日に「マイカー集団、団結せよ」のスローガンを掲げて発足した日本自動車ユーザーユニオンの存在にある。ユーザーユニオンの狙いは、全国で百万人ともいわれる自動車所有者(ユーザー)を消費者として組織してメーカー、役所に注文をつける“圧力団体”となり、自動車メーカーにより安全な車を作らせることである。
発起人には地婦連会長山高しげり、元日弁連副会長赤鹿勇、元最高裁判事下飯坂潤夫、科学警察研究所交通部長大久保柔彦など、そうそうたる人々が名を連ねた。会長には自民党代議士の小宮山重四郎、専務理事・事務局長には自動車評論家の松田文雄、幹事には元検事の弁護士、安倍治夫が就任した。そして発足に当たって松田は次のような抱負を述べた。
「メーカーの知識に対抗するには、ユーザーの数の力しかない。黙っていればメーカーは膨大な利益を上げる一方で、欠陥車を売り続けるだろう。通産省も消費者保護の立場から協力してくれることになっている」
米国ではラルフ・ネーダーが消費者の立場から欠陥車の摘発や反公害のキャンペーンに乗り出し、社会的な旋風を巻き起こしていた。ユーザーユニオンを実質的に切り回しているのは“和製ラルフ・ネーダー”を目指していた松田と安倍の二人で、月刊の機関紙「ジャック」を発行、その販売資金を運営資金に回し、自動車の商品テスト、苦情相談、法律相談にあたっていた。
ユーザーユニオンはまず警察庁が六月に発表した欠陥車による交通事故の追跡調査結果にクレームを付けた。警察庁は四十四年の前半に発生した十二件の欠陥車事故について一年かけて調査し、「責任はすべてメーカーにあるが、メーカーの責任者を送検できるのは、京都で二十人のけが人を出した日産のマイクロバスの“ニッサン・エコー”だけで、残りの十一件については刑事責任を追及するのは困難」との結論を出した。
追跡調査の対象となったのはトヨタ、日産、マツダ、ホンダの四社、五車種で、ホンダはN360の二件の事故が含まれていた。
これにユーザーユニオンは「メーカーに甘すぎる」と猛反発した。トヨタが渋々と八十万台を超えるリコールを届けたのは、「ジャック」の七月号に、数多くの欠陥を指摘されてのことだった。
トヨタのリコールから二週間後の八月十八日、N360で事故を起こして死んだ京都のユーザーの遺族が、同乗者の証言を元に「事故は車の欠陥によるもの」としてホンダ社長の本田宗一郎を「未必の故意による殺人罪の疑い」で東京地検特捜部へ告訴した。告訴代理人にはユーザーユニオン幹事の安倍がなった。N360の事故はすでに大阪地裁、名古屋地裁、東京地裁八王子支部の三カ所に出されているが、申し立て理由はいずれも事故を起こした運転者が「N360は欠陥車ではないか」ということだった。
今回は殺人罪というショッキングな告訴である。しかも背後にユーザーユニオンが控えている。自動車業界では、先にエコーの事故に絡んで日産社長の川又克二が同じように告訴されている。エコーは日産が四十年代初期の業界再編劇で傘下に収めた愛知機械が生産していた。川又は日産グループの最高責任者としてヤリ玉に上げられた。
ホンダはN360の開発に直接携わったのは、マスコミに「花形企業のスター経営者」としてもてはやされた社長の宗一郎である。しかも罪名が殺人罪とあっては、ニュースバリューも大きく、世間の注目度も高い。
「未必の故意」というのは当事者に明確な故意がなくとも、ある原因から結果が予測できる場合に故意を認定する法律理論である。
これをN360にあてはめてみると、ホンダに事故を起こす故意はなかったにしても、欠陥車を放置することによって、事故が起こることを十分予測できたはずとなる。その後、水俣訴訟でも使われたが(最終的には不起訴)、さすがに自動車先進国の米国でも、この理論を振りかざして、メーカーのトップを告訴したケースはなかった。
ホンダにとっては寝耳に水の出来事で、新聞報道について、次のように反論するのが精一杯だった。
「事故の詳しい状況が分からないので、ホンダとしての意見はいえないが、検察庁、裁判所から意見聴取があれば、N360に欠陥がないことを責任を持って立証する」
ホンダはこの年の五月に河島喜好、川島喜八郎、西田通弘、白井孝夫の四常務を揃って代表権を持った専務に昇格させた。役員室の運営も軌道に乗り、前年の欠陥車騒動が一段落、永年の懸案だったエンジンの空冷・水冷論争にも終止符を打った。研究所では水冷による低公害のエンジンの開発が着々と進んでいる。
「そろそろ真剣に引退を考えなければならない」
藤沢がそう思って、四常務を専務に昇格させた矢先の降って湧いた告発騒ぎだった。宗一郎の直情型の激しい性格を考えれば、マスコミの前に出せば何を言い出すか分からない。下手をすると、火に油を注ぐことになりかねない。
なにしろN360は宗一郎が部品の一点一点を自分の目で見て、触って、品質を確かめ、精魂を込めて作り上げた車である。N360は宗一郎にとって、わが子同然といっていい。それが“走る凶器”と断定されれば、宗一郎がこれまで歩んできた人生を否定されたも同然である。こうした思いは藤沢とて同じだった。
宗一郎は研究員が何気なく「うちのN360の欠陥車問題は……」とでも言おうものなら、額に青筋をたててカミナリを落とした。
「N360は欠陥車であるはずがない。欠陥車だとしたら、それを作ったおれたちは人殺しということになる。おれたちは欠陥車でないと信じているからこそ頑張っているんだ。おめえら二度と(N360を)欠陥車なんて言おうものならおれは断じて許さない。欠陥車だと思っているなら会社を辞めろ。辞表を出せ、辞表を」
ホンダ社内ではそれ以降、“欠陥車”という言葉は禁句となった。社内では今日に至るまで「N360の問題」で通している。
「再燃した欠陥車騒動は、おまえたち四人が中心になって役員室で対応せよ。この件に関しては社長もあたしも前面に出ない」
藤沢は四専務にこう言い渡した。
告発から三週間は何事もなく過ぎたが、九月八日、ユーザーユニオン事務局長の松田が衆院運輸委員会に国勢調査権の発動による調査を陳情した。
ユーザーユニオンの独自追跡調査によると、N360の欠陥による事故は過去三年間に九十一件あり、犠牲者は死者四十人、重軽傷者百十四人に達する。原因は大半が「車の突然の蛇行」だという。
国会に陳情した事務局長の松田は、正義の味方“月光仮面”を気取って言い切った。
「これ以上欠陥車による犠牲者が出るのは忍びない。運輸省と警察庁は協力して、事故の分析と欠陥の発見に努めるべきだ」
陳情を持ち込まれた運輸委員会としては、こうした社会正義の論理を無視できない。各党と協議した結果、衆院は閉会中ということもあり、十一日に参院交通安全特別委員会で一連の欠陥車問題を取り上げることになった。前年の六月に続いて、またしても自動車業界の関係者が国会に呼ばれた。
国会があっさり取り上げたのは、警察庁が十日に開かれた国家公安委員会に「ホンダN360は高速走行時に横ぶれする欠陥があるので、高速道路などで起こった三十八件の事故について再捜査を始めた」と報告したことと無関係ではない。
ホンダとして国会でどう対応するか。四専務は前日まで真剣に検討した。結論は徹底抗戦であった。参考人としては広報担当の西田通弘が出席することになった。
N360の欠陥の原因は今にして思えば、明らかに技術の未熟さに由来している。だが当時はまだメーカーにPL(製造物責任)の考えが稀薄で、ホンダ自身、宗一郎以下だれもがPLの自覚を持っていなかった。
ホンダはそもそもがエンジンメーカーである。バタバタのエンジンを土台にオートバイに進出、その余勢を駆って四輪車に進出した。初期のオートバイのトラブルの原因は、宗一郎の作ったエンジンにキャブレターを始めとする他の装置の性能がついて行けないことにあった。
N360にしても、多少そうしたきらいがあった。オートバイはスピードを出し過ぎない限り、死亡にはつながらないが、四輪車は多分に“走る棺おけ”の要素を持ち合わせている。
ところが肝心のホンダには、四輪車作りのマニュアルがない。だれもが初めての経験である。海外企業とのライセンス生産の経験があれば、それを真似て独自のマニュアルを作れるが、ホンダにはそれもない。製品のテストですらどの程度やればよいのかが分からず、自分たちがある程度納得すれば、それで終了する。
S500は事実上、手作りの車だったため、欠陥が露呈しなかったが、N360は量産、それもモータリゼーションの波に乗り、爆発的にヒットした。いくらユーザーユニオンから欠陥車と指摘されても、自分たちが欠陥車を作ったという意識は、宗一郎以下研究所のエンジニアにほとんどなかった。まだ四輪車の構造を知らない、いってみれば無知の強みが幅をきかしていた。
参院特別委員会は十一日午前十一時から開かれた。業界から参考人として西田のほかトヨタ自動車常務松尾一、日産副社長岩越忠恕の三人が出席した。最初に参考人から意見陳述があり、その後で質疑応答が始まった。トヨタ、日産の参考人は質問者の顔をある程度立てながら、最後に自分たちのいいたいことをいう戦法をとったが、西田は質問者に真正面から反論、トヨタ、日産とは正反対の高姿勢を貫いた。
「N360に設計上の欠陥があるとの批判は当たらない。いたずらにユーザーに不安を与えるような問題の取り上げ方は、まことに遺憾だ」
西田は最初からユーザーユニオンと対決する姿勢を鮮明に打ち出した。
質問者が「ホンダの態度は高飛車で合点が行かない」と反論しても、西田はこう言って遮った。
「N360は国際的に通用することを前提に設計した車です。時速一二〇キロ出しても技術的には不安はなく、十分高速走行に耐えられるはずです。ホンダの姿勢が高飛車といわれましたが、決してそういう積もりでいったのではありません」
質問者は続いてホンダの自信の根拠を質した。
「四十二年から翌年四月に売った十三万五千三百五十一台のN360について、確かに疑わしいものが九件ありましたが、昨年暮れまでにほぼ回収しました。しかしいま騒がれている車はテストコースを使って数種類の試験をしましたが、事故と同じ状況に置いても、まったく横ぶれは起きていません」
議員はユーザーユニオンの資料を手元に置きながら質問している。
「問題にされたN360の横ぶれに関し、(ユーザーユニオンが)新聞に発表した十四件を見る限り、正常な運転状態とはほど遠い点があるのは大変残念です。ユーザーユニオンは他にも九十一件の事故があると発表しましたが、当社からその内容を問い合わせたのに対して、残念ながら(ユーザーユニオン側から)回答をいただけないで困っています。しかしわれわれのこれまでの調査と各種のテストでは、構造上の欠陥はまったく見出しえないという結果が出ています」
どこまで行っても平行線のまま。ある議員は業を煮やし、「構造上に問題がないというのなら、ホンダは公開テストに応じるつもりはあるか」と持ち掛けたのに対し、西田は自信を持って言い切った。
「望むところです。その時期の車を当時の状況に整備して、公正な形でテストしていただければ、公正な結果が出ると思います」
テレビ、ラジオ、新聞ではホンダの高飛車な姿勢と西田の強気発言が非難された。それに反比例して、ユーザーユニオンの活動が高く評価された。
朝日新聞は特別委のあった日の十一日の夕刊で次のように解説している。
(中略)
(欠陥車の原因は)車の欠陥で事故を起こしたと主張するユーザーに、メーカーが誠意のある態度を見せないことにある。N360の場合も、いったん事故が起きると、メーカーはユーザーの主張に耳を貸すどころか、車体をすぐさま引き揚げるという証拠いん滅ともみられる方法を各地でとっている。
月賦を払い終わっていない場合、車体の所有権はメーカーの支配下の販売店にあり、ユーザーは自分の無過失を証明できるかもしれない大切な証拠物件をみすみす奪われているありさま。
(中略)
こうしたユーザーの怒りをもとに、ユーザーユニオンが果たした役割は大きい。さる五月「ジャック」を創刊して以来、全国のユーザーから不審な事故を知らせてくれるようになり、これまでに手紙や電話で受けた通報は二千件を超すという。
これだけのユーザーが集まって、初めてメーカーの主張に対抗できるだけのデータを示すことができるようになった。そういう意味で同日の委員会の本当の主役は全国の無名のユーザーたち、ということができる。
西田は宗一郎が言いたかったことを十分代弁して言い尽くしたが、ホンダは消費者からは完全にソッポを向かれてしまった。N360がバッタリ売れなくなった。
N360は四十二年三月の発売から宗一郎が告訴されるまでの三年半で、九十六万台生産され、国内では九十三万台を販売、残りの三万台が輸出された。最初に欠陥車騒動が持ち上がった四十四年でさえ、国内で二十万台売れたが、四十六年にはわずか四万台まで急減してしまった。
西田が国会でいくら強弁しても、ホンダ車が交通事故を起こせば、ユーザーは「ホンダのクルマは欠陥車だから……」と思ってしまう。これでは商売にならない。営業活動はカラ回りするだけ。
セールスマンがユーザーの自宅に足を運んでも「N360は決して欠陥車ではない」と弁明するところから始めなければならない。いつのまにかホンダのディーラーには車を見にくるどころか、カタログを貰いに来る人すらいなくなった。
宗一郎が執念を燃やして作り上げたH1300も、予想通り悲惨な運命をたどった。採算ラインが月産一万台にもかかわらず、現実の販売は千台を切る月さえあった。ホンダの四輪車はユーザーから見捨てられようとしていた。オートバイ部門がいくら収益を上げているとはいえ、そのまま行けば間違いなく倒産する運命にあった。
ホンダの地獄の苦しみが始まった。一方、ホンダの苦悩とは関係なく、東京地検の捜査が本格化し、四十五年十二月十日から十日間の予定で大規模な実験をすることが決まった。
実験が行なわれるのは、茨城県筑波郡谷田部町にある日本自動車研究所のテストコース。実験に使われるのは日本ユーザーユニオンが全国から集めた“クセの悪い車”四台とホンダが提出する四台、合わせて八台のN360と「スバル360」など同業他社の軽乗用車六台の計十四台。
実験のテストに当たるのは、東京地検特捜部主任検事の村田恒のほか、鑑定を依頼された運輸省交通安全公害研究所自動車安全研究室長の石川健三郎ら十一人。この実験にはユーザーユニオン事務局長、松田文雄と車両実験課長としてN360の開発に携わったホンダの主任技師、早野宏の立ち会いが認められた。
審判は東京地検から鑑定人に指名された東大生産技術研究所教授の亘理厚が下すことになった。N360は果たして欠陥車かどうかを巡って、ホンダとユーザーユニオンの“巌流島の決闘”が今まさに始まろうとしていた。
十四台の車は前日の昼過ぎまでに法務省の裏庭に集められ、夕方五時過ぎに二台の大型トレーラーで谷田部のテストコースに運び込まれた。実験を前に水面下では、すでに両者の間で激しい攻防が展開されていた。
先に噛みついたのがユーザーユニオン。独自に集めた事故を起こした“クセの悪いN360”を東京まで運び込む際、東京地検はホンダの子会社に搬送を依頼し、代替車を要求した所有者にホンダが新車を貸し与えたとして問題提起した。
「東京地検はホンダから便宜供与を受けており、これは実質的な捜査費用の肩代わりである。果たしてこれで正当な裁判ができるのか」
ユーザーユニオンが疑ったのは「ホンダの子会社に搬送を依頼すれば、ホンダはそのまま工場に持ち込み、欠陥個所を全部直してから提出しかねない」という点だ。
この問題は東京地検がホンダの子会社に運送料を支払い、地検が責任を持ってホンダには、事故車に一切触れさせないことで決着した。
ともあれ実験は十日から十日間の予定で始まった。車にはふらつきや操舵角を計る計器類を積み込み、ドライバーと助手のほか後部座席に重さ六十キロの人形二体を乗せた。実験は直線と曲線の走行、手放し安定性、ステアリング特性、走行時の車体安定性など計八項目について行なわれる。九月に国会で追及され、議員から公開テストを持ちかけられた時、専務の西田は「望むところ」と威勢のいいタンカを切ったが、最終的に東京地検の方針で非公開となった。
年明け後、四十六年一月に第二次テスト、三月には初期生産車を使った第三次テストも行なわれた。漏れ伝わってくる情報は、ホンダに不利なものばかりだった。テストでは蛇行が始まるとなかなか回復せず、コースを飛び出したのを始め、車の片側後輪がカーブで浮き上がるなど不安定さが目立ち、関係者の間では「やはり設計にミスがあったのではないか」という見方が日増しに強まった。
こうした情報に接するたび、宗一郎は怒り心頭に発し「N360に限って絶対にそんなことはない」と研究所に来ては、だれかれなくつかまえて反論した。しかし告発された当事者だけに、外に向かって感情むきだしの発言をすれば、誤解を招くので藤沢は極力、宗一郎をマスコミの前に出さないよう指示した。欠陥車問題は司直の手に委ねられたので、ホンダはいかなる情報が流れても、意識して評論するのを避けた。といって決して手をこまぬいていたわけではない。
焦眉の急は、地に堕ちた企業のイメージをいかにして回復するかにある。販売不振は深刻を極めた。N360は告発直後の四十五年十月に、あっけなく首位の座から転落した。N360のダメージをいくらかでも食い止めるため、水冷エンジンを積んだ「ライフ」の発売を事前予告しているが、宣伝が行き過ぎるとN360の買い控えを煽ることになる。
「ホンダの車は欠陥車」という世間の見方を変えるには、やはり技術しかない。
ユーザーユニオンは欠陥車問題で自動車メーカーを厳しく追及しているが、アメリカで端を発した自動車の排ガス問題は、またたくまに日本にも上陸して社会問題となった。四十五年五月には東京・新宿牛込柳町の交差点で排ガスの鉛中毒が発生、続いて七月には杉並区の立正高校で光化学スモッグによる第一号の患者が出た。
その二日後に運輸省技術審議会は自動車排気ガス対策基本計画をまとめた。月末には政府が中央公害対策本部の設置を閣議決定。翌月の二日からは反自動車の社会現象として全国各地で「歩行者天国」が実施された。
排ガス問題は月を追うごとに燃えさかり、十一月には公害をテーマにした臨時国会が開かれた。一方、十二月に入ると米国ではマスキー法が成立、年も押し迫った三十一日にニクソン大統領がこれに署名した。
日本の自動車メーカーも、もはや排ガス問題を避けて通れない。欠陥車問題では窮地に追い込まれたホンダだが、低公害エンジンの開発は、予想以上に早いスピードで進んでいた。
そして四十六年二月の「建国記念の日」の翌日、宗一郎、藤沢、河島の経営幹部が記者会見して、無鉛ガソリン対策と排ガス浄化を施した二つの画期的なエンジンを発表した。
市販のガソリンにはノッキング(異常燃焼)を防ぐため鉛が加えられており、これが鉛公害の原因とされている。そこで通産省は四十九年を目標にガソリンの無鉛化を指導していた。石油精製会社にすれば鉛を抜くことはいとも簡単だが、自動車に何らかの対策を施さない限り、ノッキングは防げない。
ホンダは住友電気工業と共同でガラス繊維と銅を主体にした耐熱焼結合金を開発、それを排気部分に使うことでこれを克服した。こうすると無鉛ガソリンを使ってもノッキングは起こらない。
排ガス浄化は従来のレシプロエンジンの燃焼室の形状を変え、燃料供給、点火などの各装置に改良を加えることによって新しい燃焼方式を完成させた。トヨタ、日産を始めとする同業他社は、エンジンそのものの改良には限界があるとみて、触媒やサーマルリアクター(熱交換器)などの補助装置を併用する方策を考えていた。ところがホンダだけはエンジンの改良だけで排ガス規制に対応しようとしていた。
ホンダの開発したエンジンは複合渦流調速燃焼方式と呼ばれ、CVCCの名称はまだ付いていなかった。このエンジンを使うと排ガスの排出量は、従来のエンジンに比べ八〇%も少ない。実験室段階のテストでは、すでに運輸省が制定した五十年度規制を下回っており、九〇%減らすことを義務付けたマスキー法にもあと一歩のところまできていた。
発表した二つの新しいエンジンは、未完成だがホンダの技術水準の高さを世間にアピールする効果は十分あった。東京地検による欠陥車のテストも大詰めを迎えている。技術問題だけに発表には宗一郎自ら出席したが、藤沢にはもう一つ狙いがあった。CVCCエンジンの発表の場を、宗一郎の最後の舞台にするのである。
〈四輪車でホンダの将来の発展を約束するかも知れない低公害エンジンの開発は、宗一郎抜きでやれた。エキスパートの制度は完全に定着したのだろう。大勢の宗一郎的なる技術者も立派に育った。これからの自動車技術はますます難しくなる。あとは若い者に任せた方が良い。低公害エンジンの開発は、本田さん、技術者としてのお前さんの引退の花道にふさわしい〉
藤沢がそう判断したのは、低公害エンジンの開発にメドをつけたことに加え、その直後の「ライフ」の最終試作車が、あまりにも現実の動きと掛け離れていたからだった。
ライフは四十六年五月に発売されたが、低公害エンジンを発表した頃は、耐久テストも大詰め段階にさしかかっていた。ホンダとしては低公害エンジンを積んだ本格的な新しい小型乗用車を作り出すまでの間は、何としてでもライフにつなぎ役を果たしてもらわなければならない。ところが藤沢はライフの仕様を聞いて愕然とした。最高速度がN360を上回る時速一二〇キロもある。
軽自動車のスピードアップ競争は、確かにN360が先鞭をつけたことで激化した。他社はこれに刺激され、ついに最高時速一二五キロとスポーツカー顔負けの車まで現れた。日本の高速道路で軽自動車の最高制限速度は、八〇キロであるにもかかわらず、メーカーは公然と一〇〇キロを超えるスピードをセールスポイントにした。小さな車でスピードを出せば、事故が起きる確率は高くなる。
「ダメだ。軽自動車でこんなにスピードを上げては。もっと抑えろ。ライフはN360と違って、スピードを売り物にした車じゃないんだ」
藤沢は研究所の開発責任者を怒鳴り飛ばした。ライフのコンセプトは文字通り「生活」、タウンカーである。スピードは売り物にはならない。スピードを落とせば、もっと乗りやすい車ができる。研究所でもそれを十分知っているが、宗一郎は「もっと馬力を出せ。もっと速度を上げろ」というスピード哲学の持ち主である。
宗一郎はライフの開発に直接タッチしていないとはいえ、研究所のトップの座にいる限り、研究者はスピード狂の宗一郎をおもんぱかって、ついついタウンカーでもスピードを上げてしまう。
世の中はスピードを競う時代ではなくなった。欠陥車騒動で流れが変わり、排ガス規制がそれを決定的にした。アメリカでは最高速度を制限して、それを売り物にするメーカーも現れている。スピードを競う時代は完全に終わり、宗一郎の時代は過ぎ去ろうとしていた。
藤沢は直接、宗一郎にいえば角が立つので、役員室を通じて後継者が育ったことを理由に研究所の社長の座を河島喜好に譲るようメッセージを送った。藤沢は発足以来、研究所の副社長を兼任しているが、自分も退任する意思があることを伝えることも忘れなかった。
宗一郎があっさり藤沢の提案を受け入れたのは、一年半前、藤沢に「本田さんは社長としての道を選ばれるのか、それとも技術者として残るべきか」と詰め寄られた時のことが、頭の中で鮮明に蘇ってきたからであった。宗一郎はこの時、すでに研究所の社長から退く決意をしていた。
その証拠にH1300に続く新型小型車の開発には一切口を出さず、彼が育てた“ホンダの子供たち”の仕事ぶりを側から見守ることに徹していた。二人は四月一日付で同時に退任した。抱き合い心中の第一幕が切って落とされた。
形としては宗一郎はホンダ本社の社長専任となり、毎日、研究所に出掛ける必要がなくなった。しかし通い慣れない八重洲の本社は、どうしても違和感がある。毎朝、自ら「H1300」のハンドルを握って家を出るが、車は知らず知らず研究所のある和光に向かう。途中で間違いに気付きUターンすることもしばしばあった。
ライフは藤沢の指示でスピードを抑え、五月十一日に赤坂プリンスホテルで発表会が開かれた。最高速度は時速一〇五キロ、車種によっては九〇キロに抑えたものもある。ホンダがスピードが売りものの車から、ファミリーユースのタウンカーへ一八〇度転換した最初の車だった。
藤沢は「ホンダらしさ」がなくなった車にユーザーがどう反応するかが気掛かりだった。しかしそれも杞憂に終わった。ライフは「時代を先取りした車」という評価を得た。ライフの発売を機に、馬鹿げたスピードアップ競争に対する反省の機運が生まれ、その後、軽自動車業界は最高速度を一一〇キロに抑えることで意思統一をはかった。
東大教授の亘理に依頼したN360の事故に関する鑑定書は、四十六年七月下旬に東京地検特捜部に提出された。結論は二点に要約される。第一点は初期に生産された車は時速八〇キロを超すと、経験不足のドライバーではコントロールできなくなる運動特性がある。したがって大衆車としては不向きである。
第二点はこうした運動特性が直ちに事故につながるかどうかは、運転者が死亡していたり、車が破損しているためはっきりしない。鑑定書ではN360は高速走行の安定性に問題があることを指摘したものの、事故との因果関係は「不明」とした。亘理鑑定は、刑事責任がホンダにあるのかどうかについては、完全に逃げてしまった。
判断は東京地検に委ねられた。ホンダはこの亘理鑑定を厳しく受け止めた。東京地検が起訴して万が一、ホンダに刑事責任があるという“クロ”の有罪判決が出れば、N360は欠陥車の烙印が押され、そのあと民事訴訟が殺到して、巨額の賠償を請求されるのは目に見えている。宗一郎は殺人者扱いされ、これまでの数々の功績は無に帰してしまう。それ以前にホンダの屋台骨が揺らいでしまう。
「亘理鑑定が出て、東京地検が最終判断を下すのは八月の初めと予想されました。仮に起訴されれば、告発されたのは宗一郎でも収監されるのは、開発責任者の私です。暑い盛りでしたから、収監されたら蚊取り線香だけは持って行こうと思いました」
宗一郎の下で直接N360の開発を担当した杉浦英男は悲壮な覚悟を決めていた。
それから十日後の八月五日。東京地検特捜部は、最高検、東京高検と最終処分について協議した結果、N360の事故では、殺人、業務上過失致死傷罪で告訴された社長を含む関係者の刑事責任は問えないという結論に達し、不起訴処分にする方針を出した。ユーザーユニオンが提起した「未必の故意による殺人罪」の法律理論は成立しなかった。
不起訴となったのは、運転者の疲労による単純な運転ミスか、それともN360の危険な運動特性に運転者の経験不足が加わって起きた事故かについて、最終的に運転者の死亡で決め手がなくなり、東京地検としては起訴するだけの証拠を集めることができなかったからだった。
不起訴になったからといってホンダは手放しで喜べない。しょせん灰色の結論でしかない。今後ユーザーユニオンが民事で訴訟してくることは十分あり得る。宗一郎にも藤沢にも、そして研究所の技術者にも勝利感はまったくなかった。
第四章 凡庸の団結

「私は老人は社会の一線から早く身を引くべきだと考える。今の世界は、年寄りの世間知らずだ。昔は若い人を世間知らずと言ったものだが、現在は逆。急激な世の中の変化に、もはや老人はついて行けなくなっている」
[#地付き]本田宗一郎
「ホンダの経営を担ったのは私でした。会社の中でそれを知らない人はいない。それなら私に社長が務まるかといえば無理です。社長にはむしろ欠点が必要なのです。付きあっていて、自分の方が勝ちだと思ったとき、相手に親近感を持つ。理詰めではダメなんです」
[#地付き]藤沢武夫
旧財閥企業と呼ばれる三菱、三井、住友を始め、今日ビッグビジネスと呼ばれる企業の基盤を築いたのは、起業家精神に溢れる創業者の才覚と努力に負うところが大きい。
蒸気で動く国産第一号の自動車は、明治三十七年に完成した。その三年後の明治四十年に吉田真太郎の東京自動車製作所がガソリン車を作った。
昭和十一年に政府が制定した自動車製造事業法に基づいて、自動車を専門に作ることを目的に設立されたのがトヨタと日産だった。
トヨタの自動車事業は、昭和八年豊田自動織機の自動車部として発足したのが始まりで、創業者・豊田喜一郎の父、発明王・豊田佐吉が残してくれた自動織機に関する特許権収入が新しい事業を興す際の元手となった。
「ダットサン」のブランドを持つ戸畑鋳物と、日本産業の共同出資会社として昭和八年に発足した自動車製造(翌年日産自動車に改称)のオーナーは、日産コンツェルン総帥、鮎川義介だった。
戦前、それも自動車需要が限られた時代に海のものとも山のものともつかない自動車の国産化に挑んだチャレンジ精神は、十分驚嘆に値する。トヨタ、日産は旧財閥企業と同じように、創業者の起業家精神と涙ぐましい努力で今日の基盤を作り上げた。トヨタ、日産に共通しているのは、創業期に比較的潤沢な資金を持っていたことだ。
これに対しホンダは、戦後の焼け跡から徒手空拳、裸一貫から出発した。あるのは宗一郎の技術と藤沢の経営才覚、それに「ホンダをオートバイで世界一の企業にしたい」という二人に共通した夢だけだった。その企業がわずか二十数年にしてオートバイでは「世界のホンダ」と呼ばれるまで成長した。
藤沢の言葉を借りるまでもなく、戦後、社会秩序が混乱していたからこそホンダが誕生した。オートバイにしても自動車にしても、欧米ではすでに成熟産業とされた時代に、あえてホンダは新規参入した。平時ではとても考えられない行動だが、自転車からオートバイへ、そして四輪車と新たな輸送手段を求めていた日本の経済風土が追い風となった。
昭和三十年代、日本の消費革命をリードしたのは、“三種の神器”と呼ばれる白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電製品だが、四十年代に入ると主役の座をカー、クーラー、カラーテレビの三Cに明け渡した。同じ耐久消費財でも三種の神器に比べて商品の値段が高く、経済に対する波及効果も大きい。
三Cの花形商品は、だれが見ても自動車だった。“マイカー元年”の前夜に当たる昭和四十年の日本の自動車の生産台数は百八十七万台だったが、五年後の四十五年には五百二十九万台と二・八倍も伸びた。
この間、乗用車は七十万台から三百十八万台へ四・五倍も増加している。日本の自動車産業の成長は明らかに乗用車、それもマイカーを中心とした自家用車によってもたらされたといえる。
四十年に五・七%だった乗用車の世帯別保有台数は、五年後に二二・一%に増えた。会社員、公務員などの勤労世帯では、三・四%から二〇・八%へ上昇している。クルマは決して金持ちの乗り物ではなくなった。高度経済成長の波に乗って、勤労者世帯の五世帯に一世帯がマイカーを保有する時代が到来した。
昭和四十五年には、大阪で日本万国博覧会が開かれた。五十カ月という戦後最長のいざなぎ景気は、四十四年十二月に終わりを告げたが、四十五年に入ってもその余韻は残り、だれとなく「昭和元禄時代」と呼ぶようになった。
乗用車が大衆のものになり、自動車メーカー各社はオーナードライバーを狙って、次々と新車種を発売して商品の多様化をはかりながら、既存車種のモデルチェンジを繰り返して市場開拓に努めた。
ホンダがオートバイで世界一の実績を背景に四輪車に進出したのは、モータリゼーションの幕開期と重なった。その時期に軽自動車の「N360」を投入したことでモータリゼーションの波に乗った。二人の創業者の次なる夢は、口にこそ出さなかったが、世界一の自動車メーカーになることであった。
ただし世界一を目指す二人の方法は、一八〇度違っていた。宗一郎は四輪車の世界で、ホンダの存在を知らしめる手段として、スピードの世界一を競うF1レースに熱中した。彼はF1のワールドチャンピオンになれば、四輪車でも世界一になれる足掛かりをつかめると信じていた。
宗一郎の技術を盲目的に信じていた藤沢は、レースの成果として生まれたF2のエンジンを積んだ大衆車を開発して、トヨタを追い越す野望を持っていた。
だが二人の夢は、排ガスと欠陥車の問題で脆くも挫折してしまった。しかも単に夢が破れただけでなく、ホンダの経営を直撃した。排ガス問題が深刻化するにつれ、F1にうつつを抜かしている余裕がなくなり、時代の寵児ともてはやされたホンダも、欠陥車問題では企業存亡の危機に立たされた。
早急に四輪車部門を再構築しない限り、倒産に追い込まれてしまう。四十五年のホンダの四輪車生産台数は、三十九万三千台と四十万台まであと一歩のところまで来たが、欠陥車問題が深刻化した翌四十六年には三十万八千台へ急減した。国内販売も三十六万四千台から二十九万四千台へ減ってしまった。
この時期、藤沢が一時期密かにライバル視したトヨタは、着々とフルラインメーカーとしての道をばく進していた。三十年に新発売して乗用車メーカーとしての基盤を作った主力車種の「クラウン」は、二度のモデルチェンジが成功して、中型車市場では六〇%近いシェアを占めていた。
三十年代の乗用車は「コロナ」「パブリカ」を含めた三車種だったのが、四十年代前半には「カローラ」「スプリンター」「マーク」と続々と新型車を投入した。
さらに大衆車ユーザーの上級車移行の受け皿を拡充するため、四十五年にはスポーティーカーの「カリーナ」「セリカ」の二車種を新発売した。これに伴って元町、高岡に次ぐ三番目の乗用車工場として、五百億円を投じ堤工場の建設に踏み切った。これでフルラインメーカーの輪郭が出来上がった。
四十二年秋に中川不器男の急死に伴って新社長に就任した豊田英二は、資本自由化が閣議決定した四十四年十月、社内に大号令をかけた。
「トヨタの取るべき道は量産化だ。資本自由化実施直前まで、つまり四十六年までに年産二百万台体制を確立したい」
トヨタの生産台数は、四十三年に百万台に達したばかり。それをわずか三年で倍増させようとする野心的な計画であった。世界の自動車業界の中で、年産二百万台を超えているメーカーはまだGM(ゼネラル・モーターズ)とフォードの二社しかなかった。
「自分の城は自分で守れ」と檄を飛ばしたのは、“トヨタ中興の祖”とされる石田退三だが、豊田英二は外資に対抗するため量産化の道を選んだ。トヨタの量産体制は順調に進み、四十七年にあっさり二百万台を突破した。
モータリゼーションは年とともに進展して行ったが、資本自由化を目前に控え、フルライン策を取れない中堅メーカーは、必死になって生き残り策を模索していた。四十五年二月に三菱自動車がまず米クライスラーと資本提携契約を締結、続いて翌四十六年七月にはいすゞ自動車がGMとの資本提携を発表した。マツダとフォードとの提携交渉も大詰めを迎えていた。自主独立の旗を掲げながら売るべき車のないホンダだけが、時代に取り残されようとしていた。
昭和四十六年四月、宗一郎は技術研究所の社長の椅子を愛弟子ともいうべき河島喜好に譲り、技術者としての生命を終えた。宗一郎と藤沢は以前から本社の役員会にも出席しなかったので、研究所を含めた日常の経営は、すべて四専務が責任を負う体制がスタートした。
起死回生を目指した軽自動車の「ライフ」の売れ行きは、「N360」の落ち込みを一〇〇%カバーできないものの、まずまずのスタートを切った。期待の低公害エンジンの開発も順調に進み、マスキー法案をクリアするまであと一息のところまでこぎつけた。
欠陥車の告訴騒ぎも不起訴になり、勝利感はなかったものの、ホンダ社内に垂れこめていた暗雲はひとまず取り払われた。藤沢はここで決断した。
「あたしたちの時代は終わった。四輪車は河島以下の若い世代に委ねる」
さりとて、この時点で二人が直ちに引退するわけにもいかない。対応を四人の専務陣に任せていた欠陥車騒動劇の幕が降りなかったからだ。ドラマは意外な方向に進展した。
東京地検特捜部がホンダの不起訴を決めてから三カ月後の四十六年十一月二日。同じ東京地検特捜部が、今度は日本ユーザーユニオン専務理事の松田文雄と幹事の安倍治夫の二人を、ホンダに対する恐喝未遂容疑で逮捕するとともに、ユーザーユニオンの事務所と安倍の事務所を家宅捜索した。“和製ラルフ・ネーダー”として華々しくデビューした二人が、一転して今度は縄つきの身になった。
それまでユーザーユニオンの活動に、比較的好意を持って報道していたマスコミの論調も、逮捕を機に手のひらを返したようにガラリと変わった。
「彦根工専で内燃機関学を専攻したというが、自動車工学の知識はせいぜい三級整備士程度。高度の知識が要求されるホンダN360の操縦性、安定性については“子どもっぽい”理解しかない」
四十六年十一月二十四日付の朝日新聞に載った元ユーザーユニオン専務局員の松田評だ。
安倍の仮面も遠慮会釈なく剥がされた。逮捕される前、紳士録に安倍の略歴はこう書かれてあった。
「昭和三十八年に日本の巌窟王・吉田石松氏の再審無罪獲得に尽力、『新検察官僚論』により、検事の非近代性を痛論、また死刑囚免田栄の救命再審運動に参加、同六月に函館地検に配置転換、のち福岡地検検事に転じ、同高検検事を経て四十二年一月退職」
安倍は検事を辞めて弁護士となった、いわゆる“ヤメ検”である。この間、安倍の名前はマスコミに「反骨検事」「検察の反逆児」として華々しく躍っていた。
ところがいったん逮捕されると、マスコミの安倍評も一転した。朝日新聞は同日付の紙面に元同僚検事の談話を載せた。
「この人のマスコミ操縦については定評がある。華々しい活動のウラには常に『売名』の批判がついて回る。名声を求める自己顕示欲の強さと、自己中心主義。これは彼の言動のすべてを律するものです」
それではなぜ、このような前代未聞の恐喝事件が起きたのか。真相はN360が不起訴になった直後まで遡らなければならない。
逮捕状によると、安倍、松田の二人は共謀のうえ、ホンダN360の事故は自動車の設計、構造上の欠陥が原因だとして、賠償金の名目で本田技研工業から多額の金を恐かつしようと計画。さる九月三日から同二十七日ころまでの間、十回近くにわたり、東京都渋谷区富ヶ谷一丁目の料亭「初波奈」などで本田技研工業専務河島喜好さんらと面会「ホンダN360については告訴や民事訴訟の提起を続々行ない、マスコミでも取り上げるよう働きかける。このままでは十年戦争になる。日産のトラックの問題も本腰になれば日産はつぶれる。示談にするならば十六億円支払ってくれ」と要求した。
本田技研側では「個々の被害者を知らせてほしい。また、被害者からあなたたちが委任を受けているか」と申し入れたが、二人はこれに応ぜず、その後十月五日ごろ静岡県浜松市の「グランドホテル浜松」で安倍が本田技研側と会ったさいも、個々のケースについて話し合いたいという要求に対し「そんな暇はない。危険な時期なのだ。年内に解決しなければ、武装決起が始まるぞ」とおどした。
また同月十八日には安倍治夫法律事務所で、安倍、松田の二人が本田技研に対し「国会議員がホンダN360の鑑定書を入手して国会で取り上げ、全車を回収させようとしている」と、十月中に十六億円を支払うように要求した。そのさい「金を出さなければ告訴、民事訴訟を起こし、マスコミにも働きかける」などといったという。しかし、本田技研側がこの要求に応ぜず、東京地検に告訴したため未遂に終わった。(以下略)
本田技研工業/服部孝幸取締役(広報担当)の話「安倍弁護士と松田専務理事の二人は、ホンダN360で事故を起こされた方々の代表という形で、再三当社にお見えになり、法外な金額を要求されたことは事実だ。消費者運動自体はメーカーのかがみだと信じており、ユーザーの方々との対話の姿勢は、今後ともむろん貫く考えだが、ユーザーとメーカーの間にはいった一部の人が、私利私欲のために金品を要求されるとなると話は違ってくる。(昭和四十六年十一月二日付、読売新聞夕刊)
二人を逮捕した直接の容疑は十六億円の恐喝未遂容疑だが、取り調べの中で新たに奈良県下での事故をタネにホンダから八千万円恐喝した疑いも浮上、さらに同じ時期にトヨタにも数億円要求したことも明らかになった。
二人は逮捕されてから二十日後の十一月二十三日、東京地検特捜部から恐喝と、恐喝未遂の二つの罪で起訴された。起訴はホンダの二件のほか、トヨタに対する一億八千万円の恐喝未遂と千二百万円の恐喝も加わった。
「健全な消費者運動は否定するどころか、むしろ是とするが、ユーザーユニオンの正体は、消費者運動の名をかたり、恐喝を働く不正な団体である。捜査当局としては引き続き、ユニオンの実態解明を続ける」
東京地検特捜部検事の吉永祐介は、二人の拘置理由の開示を求める法廷で断言した。ユーザーユニオン事件は、法廷の場で争われることになった。
日常の経営は四人の専務に任せているとはいえ、実権は藤沢が握っている。藤沢の経営の基本は、何事にも筋を通すことである。その藤沢がなぜ二人の要求に屈する形で、八千万円もの大金を払ったのか。むろん藤沢なりの計算があった。
松田によると、事件の真相は「ホンダの仕組んだワナ」「ホンダが刑事告訴を逃れるために打った一世一代の大陰謀」「消費者運動に対する国家権力の弾圧」であり、今なお再審の道を探っている。
逆にホンダにすれば、まさに恐喝事件そのもので、いまさら思い出したくもない過去の忌まわしい出来事である。
ユーザーユニオンが宗一郎を殺人罪で刑事告訴した事件は、最終的には不起訴になったが、問題はこれですべて解決したわけではなかった。ユーザーユニオンは刑事告訴と並行して被害者同盟(百四十人)を組織、損害賠償金を請求する民事訴訟の準備もすすめていた。当時としてはまだ珍しい集団訴訟で、損害賠償金総額は十六億円に達した。
ホンダの経営は刑事事件で東京地検特捜部に取り調べられ、その一方で示談交渉を進めなければならないという、苦しい立場に立たされていた。刑事告訴が不起訴になったことで、示談交渉はホンダに有利になったかに見えたが、当然のことながら被害者同盟は、それでは納得しない。ホンダは非公式に被害者同盟に示談金として三億円提示したが、両者の間には大きな差があった。業を煮やした被害者同盟は、ユーザーユニオンの安倍に示談金交渉を委任してしまった。
ホンダとユーザーユニオンの接触は当初、都内の小料理屋を舞台にしていたが、小さな店では人の出入りが激しく目立ちやすい。ある時期、マスコミに交渉場所が嗅ぎ付けられ、隣の部屋に陣取られ、テープを仕掛けられた時もあった。
そこで交渉の場を人目に立たないところに移した。交渉の場としてホンダが指定した「初波奈」は、かつては将棋の名人戦も開かれた老舗の料亭だが、今や料亭というより寂れた古いお堂のような建物だった。部屋の横に大きな庭があり、多少大きな声を出しても一切外に漏れる心配がない。
逮捕状によると、安倍と松田は九月三日にホンダが指定した料亭に一緒に行ったとされているが、実際に行ったのは松田だけで、安倍は同行しなかった。そこには河島の他に研究所でN360のシャシーを担当した森潔もいた。
森は日本内燃機製造(くろがね)を経て、昭和三十三年に二十八歳の時にホンダに転籍した。面接したのは宗一郎だった。
「お前さんは『くろがね』にいたそうだが、一体何が出来るんだい」
宗一郎にこう聞かれて森は、はったりをかましてこう返事した。
「あたしは何でもできます」
F1で名を馳せた中村良夫と前後してホンダ入り、最初はスーパーカブの溶接ジグの設計図を描いていたが、その後S500、N360と一貫してシャシーの開発に携わってきた。
N360の欠陥車問題では、度胸の良さが買われ最初から関わってきた。刑事訴訟では、東京検察庁に“出勤”するのが日課となり、検察庁の守衛から検事と間違えられて敬礼されるまで通い詰めた。当然のことながら研究所で欠陥騒動のいきさつを一番知っている男として、民事訴訟でも交渉役に指名された。むろんユーザーユニオンの松田、安倍の二人とも顔馴染みとなった。
「松田さん、あなたの気性の激しさはうちの宗一郎と同じだ。あなたがもしホンダに入っていたら宗一郎と毎日喧嘩ですよ」
河島はトゲトゲしい雰囲気を少しでも和らげようとして開口一番、笑いながらこう切り出した。最初の会談では示談金額は出ず、終始世間話で終わった。険悪になったのは、安倍を交えた本格交渉が始まってからだ。
交渉は「初波奈」「浜松グランドホテル」「安倍事務所」と、転々と場所を代えて行なわれた。その過程で十六億円の賠償金の要求が出された。河島はそのつど「個々の被害者の名前と被害者からの委任状を見せてほしい」と要求した。
だが安倍と松田は、頑強にこれを拒否した。松田がいま、拒否した理由を語る。
「考えてもみてください。相手は大企業ですよ。いったん被害者の名簿を渡してしまったら、ホンダは個別交渉に出て、専門知識のない被害者をいいように、言いくるめてしまったでしょう」
二人はホンダに対し、抜き難い不信を持っていた。松田は本格交渉が始まる前の八月下旬、示談の下交渉を担当していた森から料亭に呼び出された。料理が運ばれ仲居がいなくなると、森に同行してきた若い技術者が背広の前を開いて、胴巻きに挟んだ現金を指しながら震え声で言った。
「松田さん、何かとお金にお困りでしょう。よかったら遠慮なくこれを使ってください」
森は後ろ向きになって、事態の推移を見守っている。
〈ホンダはおれたちを買収する気なのだ〉
松田は現金を見せられた時、胴巻きに現金とともに、テープレコーダーが隠されているのを見逃さなかった。そして瞬時に判断した。
〈相手は証拠となるテープレコーダーを持っている。ここで迂闊に現金を受け取れば、ホンダの買収工作に乗ったことになり、社会から葬り去られる〉
ホンダが買収まがいのことをしたのは、すべて藤沢の指示である。
「商売における交渉のやり方は、二通りある。攻撃する時はヤリを持ち、横を見ないで目標に向って真っ直ぐ突き進む。ヤリを持つ人は詳しい事情は知らない人がよい。逆に防御に回った時は事情を呑み込んだ人で、手練手管に長け、何本もの枝葉をちらつかせ、相手を攪乱させるに限る」
藤沢のビジネスにおける交渉術だ。これを欠陥車騒動でも実行した。下交渉にN360の欠陥車騒動のいきさつを最初から知っている百戦練磨の森と、全く事情を知らない若手の研究者を選んだ。藤沢には松田が元日産の技術者だったことから、技術者同士が話し合えば、解決の糸口をつかめるのではないかとの思惑もあった。それ以前に相手の狙いが、金目当てかどうかを確かめておく必要がある。
ヤリの代わりに現金とテープレコーダーを持たされた若い研究者は、松田に体当たりで突撃した。仮にその場で現金を受け取れば、相手側の狙いがはっきりする。
ホンダが現金をちらつかせ、テープを仕掛けたことが発覚したことで、両者の関係は日に日に険悪化していった。ホンダはあの手この手を使って、被害者同盟の名簿を手に入れようとする。これに対しユーザーユニオンは防戦に努める。
その過程でマスコミを巻き込んで、スパイもどきの行為も繰り広げられた。安倍と松田は次第に苛立って、態度を硬化させ、何回目かの交渉の席で、遂に脅しまがいの言葉を吐いた。
「ホンダがわれわれの要求を拒んでいるので、周囲の収まりがつかなくなった。こうなれば国会で問題にしてもらう以外にない。むろんマスコミにも取り上げてもらうし、民事で告訴する手続きもとる」
そもそもN360の欠陥車問題が再燃したのは、ユーザーユニオンが被害者の代理として東京地検に告訴しただけでなく、国会に欠陥車問題を取り上げるよう陳情したことが発端であった。
示談交渉を任されている四専務は、ユーザーユニオンの政治力をまざまざと見せつけられているだけに怯え切った。本当に恐喝されていると思った。N360の欠陥車騒動はホンダに法的な責任を問えないという結論が出ているものの、再度この問題を国会で取り上げられれば、せっかく回復しかけた企業イメージが再び失墜する。
四専務はこれまでの交渉のいきさつを、ことこまかに説明して藤沢の判断を仰いだ。
〈N360は天才技術者の西落合(宗一郎)が精魂込めて作った車だ。欠陥車であるはずがない。ただし騒動をこれ以上長引かせては、第一線の営業マンに苦労を強いるだけだ。騒動が発生して以来、四人の専務も西落合も、そしてあたしも、この問題では血の小便が出るような苦しみを味わった。
昭和二十九年と三十七年の経営危機は、原因がはっきりしていただけに打つ手があったが、今回ばかりはホトホト参った。このままだとホンダは本当に潰れてしまう。金で済むことなら、金で……〉
こと経営に関しては、筋を通してきた藤沢が、初めて相手の要求が理不尽と分かっていながら出した弱気の結論である。そして役員会に諮った。
「あたしは金を出すのに賛成しないが、みんながそうしなければならないというのであれば、よくよくのことだからそうしよう。しかし自分の気持ちとしては、ここで金を出すと、便乗して金をたかろうとする者が必ず現れる。それだけは覚悟しておかなければならない」
藤沢は一日も早く、欠陥車問題を終結させたかった。刑事告発された時は、多くの技術者が東京地検に呼び出されたため、研究所の機能は完全にマヒしてしまった。今後集団の民事訴訟が起こされれば、再び大勢の技術者が裁判所に呼び出される。
研究所はホンダの浮沈を担った低公害エンジンの開発に全力を注いでおり、時間と労力を要する裁判は、できれば避けたかった。
欠陥車問題でホンダが犯した最大の過ちは、ユーザーユニオンを健全な消費者団体というより、相手の言葉遣いの荒さに怯えるあまり、金目当ての恐喝団体と判断してしまったことにある。目論見通りの恐喝団体であれば、ホンダから受け取った金を被害者に渡さず、安倍と松田の二人が着服する可能性は十分あり得る。ホンダはその可能性が高いと読んだ。
「ホフマン方式で計算すれば三千万円ですが、上乗せして五千万円でいかがでしょうか」
奈良県下で起きた事故について、二人は引き続き八千万円を要求し続けた。いったん譲歩の姿勢を示せば、交渉は相手のペースにはまってしまう。九月二十五日の交渉の席で、「八千万円出さなければ交渉は決裂」との最後通告を突き付けられ、ここでホンダは苦渋の決断をした。
河島が新宿の京王プラザホテルで、藤沢武夫が振り出し人になっている額面八千万円の小切手を安倍に渡したのは、四日後の二十九日だった。この受け渡しには松田も立ち会った。
ホンダの名目はあくまで“見舞い金”である。ホンダ側はまだこの時点でも、二人は八千万円を着服すると見ていた。そうなれば、目論見通りユーザーユニオンは恐喝団体であり、金額に満足すれば、追加の脅迫はない、仮にあっても今度は恐喝罪で訴える事ができる。
ホンダ側の淡い期待と裏腹に、これで「ジ・エンド」にはならなかった。ホンダにとっては見舞い金であっても、ユーザーユニオンにすれば、示談金でしかない。彼らには「ホンダは自分の過失を認めたからこそ、お金を払ったのだ」という意識が強く、その後も執拗に十六億円を要求し続けた。二人はホンダから受け取った八千万円のうち、交渉に掛かった経費を差し引いて、奈良県下の遺族に支払っていた。
十月に入りホンダに、信頼性の高い情報が舞い込んできた。ユーザーユニオンの背後にライバルメーカー、スズキの系列ディーラーがいるというのだ。ここで藤沢は肚を括った。資金を提供しているとうわさされたのは、大阪にあるスズキ販売と福岡の九州スズキ販売の二社だった。
両社ともかつてホンダの主要販売店だったが、藤沢がN360の新発売に際し、業販制度を取り入れたのに反発して、スズキに|鞍《くら》替えしたいきさつがある。
この|鞍《くら》替え事件は、“大阪春の陣”“十年戦争”などと呼ばれ、業界でも大きな話題になった。さらに両社は「ホンダの販売政策は、既存ディーラーの利益を奪うもの」として、ホンダを相手に四億円の損害賠償の裁判を起こしている。
欠陥車が初めて社会問題となった四十四年六月、「旧全国ホンダ会」がホテルニューオータニで記者会見して、「N360」の欠陥を大々的に指摘したが、その代表として会見に臨んだのがスズキ販売社長の長尾豊だった。スズキ販売の前身はホンダ系列ディーラーの中で、全国一を誇った「ホンダ販売」である。長尾はホンダから離反したディーラーを募って、旧全国ホンダ会を組織した。
ホンダが懸命になって調べたところ、N360の欠陥車騒ぎは、関西を中心に長尾と共にライバルメーカーの系列に|鞍《くら》替えしたディーラーの販売地区を中心に起きていることも判明した。偶然の一致にしてはあまりにもでき過ぎている。
N360の基本的な欠陥は、ホンダの技術の未熟さに原因があったにしても、背後でそれを煽ったのは、かつて藤沢の下で親身になってホンダのオートバイを売ってくれたディーラーだった可能性が高い。中にはホンダが創業時に資金難にあえいでいた頃、ホンダ株を担保に融資してもらった販売店や、逆に経営不振に陥った際、ホンダが債権を放棄した販売店も含まれていた。
それにもかかわらず、喧嘩別れの形でホンダから離反してしまったのは、藤沢の厳しいディーラー政策についてゆけなかったことに原因がある。
藤沢の「身からでた錆」といえなくもないが、その代償はあまりにも大きい。このまま放置すれば、同業他社にも迷惑がかかる。ホンダは東京地検に、これまでの水面下での動きを洗いざらい話した上で、日本ユーザーユニオンの告訴に踏み切った。
この時、藤沢は一連の欠陥車騒動で噴出した過去の怨念を払拭するには、宗一郎を道づれにする形で経営の表舞台から完全に身を退くしかないことを悟った。
欠陥車問題の裁判は長期化が予想された。宗一郎がホンダの社長でいる限り、その過程で、証人として裁判所に出廷するのは避けて通れない。刑事事件の時は宗一郎も東京地検から事情聴取を受けているが、この時は非公開である。非公開の地検の事情聴取と、裁判の証人では世間に与えるインパクトがまったく異なる。
〈ホンダの社長は本田宗一郎であっても、実際の経営を担ってきたのはあたしだ。経営の実態を知らない西落合を、法廷に立たすわけには行かない。といってもあたしもキッタハッタの生活に疲れ果てた。神経も磨り減った。性格を始め何から何まで異なる二人が一緒に仕事をやるのは、四半世紀が限度だな。この辺が潮時だ。あたしの最後の仕事は西落合の過去の栄光に傷を付けずに引退させてやることだ。この考えは自分の行動を通じて、四専務に徐々に分からせる。西落合は最後になるが、あの男ならあたしの気持ちは分かってくれる〉
ユーザーユニオン事件の初公判は四十七年七月四日に開かれ、検察側は事件のいきさつを詳しく記載した起訴状を、四十分にわたって読み上げた。これに対し弁護側は、直ちに公訴棄却を申し立てた。
「この事件では捜査手続きに違法があり、起訴状には裁判所に予断を抱かせる記載が多く、それを除けば、事実が罪にならないのは明らか」
公判は冒頭から荒れ模様となった。
裁判は予想通り長引き、東京地裁の判決は五年後の五十二年八月十二日に出た。この間、社長の河島喜好、副社長の川島喜八郎、西田通弘など経営幹部が何度か裁判所に足を運び、証人台に立った。
裁判の争点は三つに絞られた。第一点は問題の車は、果たして欠陥車であったかどうか。そして被告は、果たして欠陥車との認識を持っていたかどうか。第二点は被告の活動は、正当な消費者運動の権利行使に当たるかどうか。第三点は安倍被告の行為は、正当な弁護士活動といえるかどうか。
「被告らは正当な示談交渉であると主張するが、(N360が)欠陥車であるとの確たる証拠はなく、一方的に高額の示談金を要求したもので、健全な消費者運動を逸脱している。弁護士の業務として許されることではない」
第一審の判決は検察側の主張を全面的に認め、起訴事実をすべて有罪と認定し、安倍に懲役三年(求刑同四年)、松田に同二年(同三年)の実刑判決を言い渡した。裁判所の判断は「(ユーザーユニオンの)目的と動機は正しいが、方法が悪い」ということであった。
二人の被告は、直ちに東京高裁に控訴した。それぞれ八百万円の保釈金(いずれも弁護士の連帯保証)を積み、その日の夕刻、保釈されて小菅の東京拘置所を出た。彼らはその足で霞が関の司法記者クラブで記者会見し、判決に不満をぶちまけた。
「判決は起訴状の焼き直しで、裁判官は不勉強」
「完全なミス・ジャッジ。第一ラウンドは負けたが、第二、第三ラウンドでは検察をノックアウトする」
日本消費者連盟代表委員の竹内直一は、裁判の結果とホンダの態度を手厳しく批判するコメントを出した。日消連は元農林水産省、経済企画庁の官僚だった竹内が行政、企業の反消費者的行動の告発を目指して設立した組織で、ユーザーユニオンと違った意味で世間から注目されていた。
「全く不当な判決だ。裁判官は消費者運動というものを、全く理解していないように思われる。欠陥車で被害を受けたという事実がある限り、その因果関係に争いがあっても、消費者が権利を主張するのは当然ではないか。本田技研が安倍さんたちの要求を不当と思うのであれば、なぜカネを渡す前に告訴しなかったのか。カネを渡したあと駆け込むとは、消費者運動を葬ろうという意図があったとしか思えない」(五十二年八月十二日付、毎日新聞夕刊)
対照的にホンダからは、遂に勝利宣言のコメントは出なかった。新聞では事件のいきさつはすべて一面と社会面で処理され、経済面ではまったく触れられなかった。経済面ではすでに事件そのものが風化していた。
控訴審の判決は、それからさらに五年後の五十七年六月二十八日に出た。内容はホンダ、トヨタ、日野自動車販売に対する三件の恐喝のうち、金額の最も多いホンダとの交渉は無罪となった。
「ホンダとの交渉は、遺族の委任を受けた補償要求であり、両被告は事故が車の欠陥によるものと確信していた。したがって損害賠償請求権はあると考えられる」
判決はホンダに対するユーザーユニオンの補償要求は正当であると認定、一転二人に無罪を言い渡した。さらに交渉時の二人の言動についても触れ、「駆け引きの範囲内」と認定して恐喝罪の成立すら否定した。
「脅迫的な圧力をかけながらの強引な交渉であり、余り感心した方法ではないが、二人の行為は、悲惨な事故の被害者を早く救済する意図から出たものであり、企業側も、誠実な態応をせず、欠陥がないことについて十分な反論などをしないまま欠陥を認めようとしなかったことから、二人の言動は社会通念上、一般に容認される」
裁判長はホンダに対する恐喝事件を無罪とした上で、一審の実刑判決を破棄、改めて安倍に懲役二年、執行猶予四年、松田に懲役一年六月、執行猶予四年の有罪判決を言い渡した。表面的には引き続き有罪となったものの、ホンダには厳しい判断を示した。
新関雅夫裁判長は「安全性の問題は『疑わしきは罰する』との考え方で取り扱われる必要があり、本田技研には、欠陥車(安全性)の疑問を払拭すべき社会的責任がある」と企業の責任を厳しく指摘した。ホンダが誠実な対応をせず、消費者の疑問にこたえる社会的責任を十分果たしていないというわけだ。
東京高裁は消費者運動にある程度理解を示し、全面有罪の一審判決より同情的な減刑判決を下したが、それでも二人は納得せず「白黒は歴史がつける。無罪が当然」として、最高裁への上告を決めた。
最高裁が二人の上告を棄却し、東京高裁の二審判決を支持する決定を関係者に通知したのは、藤沢が亡くなる約二年前の六十二年の一月二十四日であった。正当な消費者運動か、それとも賠償交渉に名を借りた恐喝行為かをめぐり、大きな論議を呼んだユーザーユニオン事件は、発生から終結まで実に十六年の時間を要した。
裁判の最終結果は、ホンダにとって不本意なものだったにもかかわらず、致命的な打撃にならなかったのは、三つの理由がある。一つは最終判決が出るまで十六年という長い月日がかかり、事件そのものが風化し、その間、世間の関心が薄れたこと。
二つ目は最終審結が出るまでの間、ホンダ側は「真実は裁判で明らかにされる」とひたすら沈黙を守ったこと。
そして最後が安倍と松田の二人が自分たちの正当性を主張するあまり、ユーザーユニオン事件に関し、多少なりとも事実誤認や憶測に基づいた記事が出れば、泣き寝入りすることなく、徹底的に抗議し続けたことだ。マスコミはそれに嫌気がさし、ホンダを論じる場合でも、N360の欠陥車問題を意識的に避けてしまった。
四十四年六月の「ニューヨーク・タイムズ」の記事に端を発した欠陥車騒動は、メーカーの量産技術が確立しないまま、高度経済成長の波に乗り、モータリゼーション(自動車の大衆化)が一気に進展した時代に起きた不幸な出来事だが、同時に日本の消費者運動もまだ未熟だったことを露呈した。
当時の消費者運動や市民運動の主流となっていた考えは、問題が発生すればすべて行政や企業に責任を負わせるというものだった。こうした動きの中からPL(製造物責任)法が制定に向けて動き出したのは事実だが、現在では問題が起きれば、すべて国や企業に責任を持たせるのが、果たしていい社会なのかとの疑問が出始め、日本の消費者運動は再び変革期を迎えている。
この間ホンダは、マスコミを通してホンダの行動を理解してもらうというよりも、ホンダを敵対視する勢力を作らないようにする努力を積み重ねてきた。結果的には皮肉にも自分たちの正当性を主張する安倍と松田のかたくなな行動が、ホンダの神話形成に一役買うことになった。
ホンダは欠陥車の裁判では一歩も譲らなかったが、一連の騒動を通じて一皮むけた。最大の収穫は、ホンダの存在を社会に向けて積極的に問い掛けなければならないという機運が役員室に芽生えたことだ。それまでは宗一郎にしても藤沢にしても、ホンダを大きくすることに夢中で、大半の中小企業がそうであるように、社会との対話は眼中にないというより、その余裕がなかった。
欠陥車騒動で西田が国会に呼ばれ、高飛車な態度をとったとき、「天才技術者の本田宗一郎が作った車だから間違いない」というホンダの強気の姿勢が国会議員、マスコミはいうに及ばず、世間からも非難された。ホンダの企業規模は、裁判が始まった直前に年間売上高が四千億円を超え、わが国の製造業では三十位以内にランキングされるほど大きくなっていた。利益だけ取り上げればさらに上位にランクされる。名実ともに大企業の仲間入りを果たしていたにもかかわらず、ホンダの経営陣にはその意識が稀薄だった。
世間の目は資本金百万円でスタートしたときの“ホンダ”に対するそれとは明らかに異なっていた。ところが世間ではホンダが大会社であることと、宗一郎の名前は知っているが、企業としてのホンダがこれまでどんな社会的活動をしてきたかはほとんど知らない。不幸にして第二、第三の欠陥車騒動が起きれば、社会から今回以上に激しく指弾されるのを覚悟しなければならない。
といってホンダがそれまで社会的活動をまったくしてこなかったかといえば、決してそうではない。昭和三十六年に鈴鹿製作所の建設資金調達の一環として大掛かりな増資を行なったが、額面割当増資だったため、結果的には大株主の宗一郎と藤沢の懐が潤った。単に持ち株が増えただけでなく、加えて配当もあるので収入は膨らむばかり。二人は個人では使い切れないほどの大金持ちになっていた。
そこで藤沢は三菱銀行の元副頭取で、ホンダの経営指南役でもあった川原福三に私財の社会還元策について相談した。そこから財団法人の「作行会」が生まれた。
六億円の基金は二人が折半で出し合った。科学技術振興に向けて科学技術者の研究助成、研究者の海外派遣、援助などの目的で、助成金は生活の苦労で研究が思うように進まない研究者に支給された。
新卒の初任給が二万円に届かず、大学院博士課程を修了した助手でも初任給が三万円に満たない時代に、月額一万五千円でしかも返済の義務はなく、使い途は自由、研究の成果に対しても一切拘束しないという極めて自由な奨学金制度を発足させた。
作行会は昭和五十八年までの二十二年間にわたり活動を続け、助成金の受給者は千七百三十五人にのぼった。その中には日本人として初めて米NASA(航空宇宙局)が打ち上げたスペースシャトル「エンデバー」に乗り込んだ毛利衛も含まれている。
ユニークなのは作行会のスタートに際して、研究者に余計な心配をかけまいとして、二人が川原に対し基金の拠出者の名前を伏せてくれるよう依頼したことだ。したがって毛利はスポンサーがホンダの創業者であることを知らずに受け取り、米国の大学に留学して博士課程を修了し、帰国間もない苦しかった時期に生活資金の一部に充てていたことになる。
基金拠出者の名前は、解散記念謝恩会の席で明らかにされたが、それまで二人は意識して受給者との接触を完全に避けてきた。作行会はあくまで創業者二人のボランティア活動で、個人としての活動であるからこそ意味があった。
企業として最初に取り組んだのは、安全運転普及本部である。キッカケは西田が国会に参考人として呼ばれたとき、ある議員から「ホンダはもっと安全教育に力を注ぐべきではないか」と諭されたことにある。
二週間後の四十五年十月一日、安全運転のキャンペーンや安全運転教育を施すことを目指した新しい組織を発足させた。ドライバーに対する運転教育は、まだどこの会社もやっていなかった時代だったとはいえ、ホンダが欠陥車騒動を起こした当事者だったことを考えれば、遅きに失したといえなくもない。
ホンダの存在を社会に問いかける手段は、お金を出して財団法人を作ったり、安全運転に向けての組織を作ることだけではない。役員室を中心に役員一人一人が、自分なりに社会との対話を考え始めた。社会が何をホンダに求めているかを知らなければ、社会に受け入れられるクルマを供給できない。
二輪車と違って四輪車の需要層は底辺が広い。排ガス規制の実施も目前に控えている。低公害エンジンの開発は順調に進んでおり、ホンダが業界に先駆けて低公害車を発表する可能性は高かった。だが、ホンダが仮に一番乗りしても社会との対話が欠けておれば、ホンダの考えは自動車業界の主流になり得ない。
欠陥車騒動を通じて役員室はそのことを思い知らされた。四人の専務は担当分野を離れ、政治家はいうに及ばず通産省、運輸省、科学技術庁など関係省庁の役人とも、積極的に付き合うようになった。
ホンダはN360の爆発的なヒットで、いったんは四輪車の基盤を固めたかにみえたが、小型車「H1300」の極度の販売不振、N360の欠陥車騒動で、モータリゼーションの波に乗り遅れてしまった。藤沢が描いたトヨタ追撃のシナリオも、「夢のまた夢」となった。
軽乗用車の「ライフ」は、実質的にN360のモデルチェンジで、四輪車部門は一からの出直しとなった。宗一郎が経営の第一線にいる限り、四輪車部門の再構築は難しい。宗一郎と藤沢の時代は完全に終わろうとしていた。
ユーザーユニオン事件の裁判開始を機に、創業者の引退に向けての具体的な舞台作りが始まった。藤沢が密かにフィナーレの場として選んだのが、四十八年秋の創立二十五周年の記念式典だった。
この時期であれば、裁判はまだ大詰めにさしかからない。その前にマスキー法をクリアできる低公害エンジンが完成しておれば、欠陥車騒動で地に堕ちた「ホンダ」の企業イメージが回復できるだけでなく、戦後の日本が生んだ、「不世出の技術者社長・本田宗一郎」にふさわしい引退の花道となる。
引退に向けての舞台作りの第一弾が、小型乗用車「シビック」の発売であった。シビックを直訳すれば「市民の、公民の、都市の」となる。ホンダはそれを拡大解釈して“あらゆる人々の車”“世界市民のベーシックカー”としての意味を持たせた。
コンセプトはすべて「H1300」の反省の上に立っている。基本はできるだけシンプルで、車体が軽くしかも販売価格を安くすることに置いた。むろんエンジンは水冷式を採用した。
冬季オリンピックが札幌で開かれ、その直後に連合赤軍の浅間山荘事件が起きてから半年後の四十七年の七月十一日。都内のホテルで開かれた新車発表会に展示された車は、なんとも異様なスタイルをしていた。
FF(前置きエンジン、前輪駆動)式の水冷四気筒、排気量一二〇〇ccのエンジンを積んだ車だが、後部にトランクの出っ張り部がなかった。乗用車といえば、後部にトランクルームの付いた三ボックスが、ごく当たり前のスタイルとされていたが、展示してある車は、台形のずんぐりした“げんこつ”と呼ばれる二ボックスのスタイルであった。開発陣は与えられた要件をすべて満たしたクルマとして、自信を持っていたが、発表会ではさんざんな評価を受けた。
「何だこの車は? あまりにも不細工だ。こんな車、売れるはずがない」
「単に軽自動車のライフを一回り大きくしただけじゃないか」
事実、シビックはライフの形とあまりにも似ていたことから後日、“デカ・ライフ”の愛称がついた。考えてみれば当たり前である。ライフは「BS」と呼ばれたシビックの原型車を軽乗用車に改良したもので、正確にいえばライフは“チビ・シビック”だった。シビックはFFのせいで、見た目は小さいが実際は背の高い、しかも体格も良い欧米人四人がゆったり乗れる本格的な小型車だった。
販売価格も安かった。スタンダードが四十二万五千円、ライフの四ドアカスタムが四十四万三千円。一人当たりの国民所得が七十一万円に上昇していたので、その気になればだれでも手が届く。
二カ月後の九月には後部のドアが跳ね上がるハッチバック式を追加した。ハッチバックという言葉は、アメリカで流行する兆しが出ていたが、日本ではまだ馴染みのない言葉だった。当時「みなし児ハッチ」というマンガがヒットしており、もし売れなければ、ホンダは本当に業界の“みなし児”になりかねない。
悪いイメージが出るのを恐れるあまり、ホンダは文字通り三ドア車と呼ぶようにしたが、今度はまだ実車を見ていないユーザーから、「クルマのどちら側にドアが二つ付いているのですか」と聞かれるなど、笑うに笑えないエピソードも生まれた。
一見して不細工なこの車の前評判は悪く、業界でも“異端児”扱いされたが、結果的には大当たりした。最初は戸惑い気味だったユーザーにも、時間が経つにつれ、徐々に運転しやすい車であることが理解され始めた。
自動車評論家の評価も高まってきた。四十七年の国内販売は、わずか二万一千台に過ぎなかったが、翌年には八万六千台、二年後の四十九年には十六万台に増え、五十年には過去最高の十七万六千台を記録した。
こうしてシビックの三ドア・ハッチバックは、いつのまにかFF二ボックスカーの主流にのし上がった。シビックは異端どころか、時代を先取りした車だった。
“カブト虫”として慕われてきたVW(フォルクスワーゲン)の「ビートル」が一千五百万七千三十三台の生産を記録して、フォードの「T型フォード」を抜いたのは、シビックが発売された年の年末で、シビックにはいち早く「和製ビートル」というニックネームが付けられた。
自動車の専門誌を集めた記者会見では、質問はシビックの技術面に集中したが、一般紙を集めた会見では、新聞記者の質問は新車の性能より、低公害エンジンの開発状況に集中した。宗一郎は新聞記者の胸のうちを見透かしたように、思わせぶりながらも、自信ありげに語った。
「研究所段階での実験はほぼ終え、現在、耐久性を試すため、五万マイルの走行テストをしています」
ホンダはそれから二カ月後の九月十九日に、米マスキー法及び中央公害対策審議会の自動車排ガス規制(日本版マスキー法)の五十年度規制値を達成する低公害エンジンの開発に成功した。
この日の朝、鈴鹿製作所で運輸省、通産省、警察庁の関係者の立ち会いのもと、CVCC(複合渦流調速燃焼)と名付けた低公害エンジンの排ガステストを行なった。結果は日米の規制値を見事クリアした。二日後の二十一日、CVCCエンジンを積んだ「シビック」を名古屋陸運事務所に持ち込み、新規登録検査(車検)を受けた。こうして低公害第一号車が誕生した。
CVCCを積んだシビックは、今度は一カ月にわたる一般道路での走行テストに入った。テストが終了した翌日の十月二十日、宗一郎は再び都内のホテルで記者会見に臨み、実車と排ガステストのデータを公開した。
会見ではまず宗一郎がCVCCエンジンを積んだシビックを、一年後の四十八年秋に発売することを高らかに宣言、マスキー法の七五年規制及び日本版マスキー法の五十年度規制を達成できるメドがついたことから、ホンダとしては米EPA(環境保護庁)に対し、マスキー法七五年規制の適用延長の申請をしないことを公約した。さらにここで宗一郎は、もう一言付け加えることも忘れなかった。
「CVCCの特許やノウハウ(技術情報)を、内外のメーカーに広く公開します」
ホンダの記者会見は、宗一郎と藤沢の二人が出席、最後に二人の掛け合い漫才で締め括るのがいつものパターンになっている。河島が研究所の社長になってからは、「ホンダの次期社長は河島」であることをマスコミに匂わしておきたい、という藤沢の配慮から河島も参加するようになった。この日は河島が司会役を務めたが、他にも見慣れない大勢の男が出席していた。
「CVCCはここに同席している研究所の二十一人の人々が、力を合わせて開発したエンジンです。とりわけ中心となって開発したのは、技術研究所の伊達|《たすく》首席研究員、久米是志常務、八木静夫主任研究員の三人です。むろん二十一人の中には、『低公害エンジンは付属装置を付けずにエンジン本体で浄化すべき』という開発の基本理念を明示した本田宗一郎社長も含まれています」
河島がCVCCの開発に携わった技術者を一人一人の名前を呼び上げて紹介した。過去数年間、研究所で悪戦苦闘を続けてきた男たちの苦労に報いるため、河島がわざわざ晴れの舞台に出席させたのだった。三代目社長となる久米是志、四代目社長の川本信彦、そして入交昭一郎など次代のホンダを担う人材が、この時マスコミの前に初めて姿を現した。
河島が久米より先に伊達の名前を上げたのには訳がある。薄い混合気を爆発させて排ガスをきれいにするという、CVCCの基本原理を最初に考え出したのが、伊達だったからだ。
「薄い混合気が爆発しないのは、プラグで飛ばす火花のエネルギーが小さいからではないか」
伊達はそう考えて、プラグ代わりに小型のエンジンで一度爆発させ、そこで発生する大きな炎で薄い混合気を燃やすことを思いついた。この方式だと、既成技術の組み合わせだけで低公害エンジンを作ることができる。研究所ではこの“伊達理論”を中心に研究が進められた。
最後にたどり着いた方策は、燃焼室を二つに分け、キャブレターを通じて小さな副燃焼室には濃い混合気、大きな主燃焼室には薄い混合気を別々に供給、プラグは副燃焼室だけに取り付けるというものだった。
二つの燃焼室の爆発時における最高温度が違うので、排ガス規制の最大の難敵とされる窒素酸化物を減らすのに大きな効果がある。主燃焼室に送る薄い混合気には空気があるので、一酸化炭素の発生は、そこで抑えることができる。炭化水素は排気管に工夫を凝らし、その中で分解させることにした。
難しい排ガスの駆除技術を、素人の新聞記者に分からせようと、汗だくで説明している若手研究員の晴れ姿を横目で見ていた藤沢がひとり呟いた。
〈CVCCエンジンはホンダの将来に発展をもたらすだろう。これであたしたち二人が引退する舞台装置はすべて整った〉
CVCCは予想通り大反響を呼んだ。ライバル各社が驚いたのは、四輪車最後発メーカーのホンダが、低公害エンジンを完成させた事実もさることながら、ホンダがマスキー法の適用延長をしないことを表明したことであった。同時に今まで歯牙にもかけなかったホンダに対する警戒心も生まれた。
マスキー法は七五年規制と窒素酸化物のさらなる低減を定めた七六年規制があり、「自動車メーカーがあらゆる努力をした上で達成困難な場合には、延期をEPAに申請できる」と定めている半面、「少なくとも一社が規制を乗り切れることが証明できれば予定通り実施する」との但し書きも付いている。
わが国の自動車業界は、この一社を巡って解釈が分かれていた。トヨタ、日産の大手は自社に都合良く「少なくとも一社という場合の一社は、米ビッグスリー、あるいはそれに準じるメーカー」であることを強力に主張した。たとえホンダが達成できても、ホンダはまだメジャー企業でないので、延期の流れは変わらないといいたかったのだ。
排ガス規制を延期するかどうかを決めるのは、日本の自動車メーカーではなく、米EPAである。環境庁はEPAの決定にそのまま追随するのは分かり切っている。その米国では排ガス規制を求める世論は日増しに高まっており、「CVCCがEPAのテストに合格すれば、七六年規制はともかく七五年規制の延期はない」という見方が急激に広がっていた。
CVCCがベールを脱ぐ前までは、マツダが西ドイツのNSU、バンケルの両社から基本特許を導入して苦難の末、実用化にこぎつけたRE(ロータリー・エンジン)が低公害エンジンの切り札として脚光を浴びていた。
REは燃焼室の横断面が三日月形をして、角には鋭い角があることから、燃焼効率が悪く、窒素酸化物の発生を防いでいた。燃焼効率の悪さからガソリンをガブ飲みするという欠点を持っているものの、窒素酸化物の発生が少ないだけに、一酸化炭素と酸化水素はサーマルリアクター(熱交換器)を装着するだけで軽減できる。
世界最大の自動車メーカー、GMは西独二社から基本特許を導入するとともに、マツダに五千万ドルの応用特許料を払い、スポーツカーの「ベガ」に搭載する準備を進めていた。トヨタはRE単体をマツダから購入する交渉に入り、日産も基本特許を導入して自社開発を急いでいた。大手メーカーといえども、面子にこだわっていては取り残されてしまうことを悟り、恥も外聞もなく金にモノをいわせて可能性のあるエンジンに飛び付いた。
マツダ社長の松田耕平は、REの特許を世界の自動車メーカーに売り付けることで「ロータリーブーム」を巻き起こそうとしていた。マツダとフォードは過去三年にわたり資本提携交渉を続けてきたが、四十七年三月になって突然、白紙還元してしまった。原因はフォードが五〇%の出資比率を求めたのに対し、松田が「それではフォードに乗っ取られてしまう」と反発したことにある。
一見、将来展望のない無鉄砲な判断に見えたが、彼は彼なりにしたたかなソロバンを弾いていた。
〈マツダには虎の子のREがある。世界の自動車メーカーが排ガスをクリアしようとすればRE車を採用せざるを得ない。その応用特許はすべてうちが抑えている。となるとマツダはあえて外資の軍門に下らなくとも、自主独立でやって行けるのではないか〉
だがCVCCの登場で、流れは大きく変わった。REについては各社とも、保険の意味で基本特許を導入したものの、いざ搭載するとなると、スポーツカーなど特殊な車に限られる。さらに膨大な設備投資も必要になる。その点CVCCは、従来のレシプロエンジンの改良だけで済む。エンジンの製造設備もそのまま使える。
CVCCの導入に向けて最初に動いたのが、マツダとの資本提携交渉を白紙還元したばかりのフォードだった。同社は排ガス対策として、薄い混合気と濃い混合気を分けて燃やすPROCO(プロコ)エンジンを開発していた。
CVCCと同じ層状吸気方式で、キャブレターの代わりにコンピュータで制御する燃料噴射装置を使い、空気と燃料が混ざらないうちにプラグの火花を、濃い混合気に狙いを定めて点火させて爆発させるのである。
この方式はもともと米陸軍の支援で開発を進めてきたもので、実験段階では成功していたが、コンピュータ技術の未熟なことからあと一歩のところで厚い壁に阻まれていた。プロコという名前はプログラム・コントロールの略称に由来している。
フォードはプロコの経験からCVCCの原理を十分理解しており、コンピュータを使わない分だけ、ホンダから技術を導入した方がコストが安くなると判断した。そこで九月にCVCCのテスト結果が出た直後、ホンダに技術供与を申し入れた。
同じ時期、トヨタもホンダからCVCCの技術を導入することを検討していた。トヨタは五十年度規制に対しては、従来エンジンの改良とともに、触媒浄化装置などの付属装置を取り付けることで乗り切る方針を固めていた。
マスキー法の七五年規制にあたる五十年度規制は、実験室段階で何とかクリアできるメドをつけていたが、次の五十一年度規制については、生産車種が多いこともあり、達成の見通しがまったく立っていなかった。その時期にホンダがCVCCエンジンを開発したとのニュースが飛び込んできた。技術的な説明を聞く限り、五十一年度規制もクリアできる可能性を秘めている。
こうした情報をもとに、トヨタは社長の豊田英二が自ら八重洲のホンダ本社に宗一郎を訪ね、CVCCの技術供与を申し入れた。条件はCVCCの国内、海外合わせた特許(約二百三十件)、及び設計、生産面でのノウハウのすべてを他社にも売ることを前提に、有償で供与することである。交渉は十一月に合意に達した。
欠陥車騒動に巻き込まれ、つい一年数カ月前までは、四輪車部門どころか企業の存続すら危ぶまれていたホンダだが、技術ではトップメーカーのトヨタに頭を下げさせるまで力をつけてきた。
トップメーカーのトヨタが導入を決めたことで、CVCCの評価が一気に高まった。通産省は規制の実施前に低公害車を普及させるため、低公害車の自動車税を免税する検討に入った。CVCC車がその適用第一号になるのは間違いない。CVCCエンジンを積載したシビックの市販価格は、五十万─六十万円と予想されるが、優遇税制が実現すれば七、八万円ほど安くなる。
十二月に入ると米EPAからCVCC車の走行テスト依頼が舞い込んできた。ホンダはこの要請に応じ、CVCCに関するデータとともに、CVCCを積んだ新車二台と五万キロ走行後の中古車一台を送り込んだ。EPAのテストは七日から一週間の予定でミシガン州アナーバーで行なわれた。マスキー法の七五年規制は、走行一マイル当たりの排出量が一酸化炭素三・四グラム、炭化水素が〇・四一グラム、窒素酸化物は三・一グラムとなっている。これが新車ではそれぞれ一・九六グラム、〇・二一グラム、〇・八一グラムとなっており、あっさり目標数値を達成した。
テスト数値は十二月十八日にEPAから発表された。CVCCはEPAから正式に「低公害エンジン」のお墨付きを得た。これに勢いを得て宗一郎が記者会見で公約した通り、EPAに「七五年規制の適用延長申請はしない」との方針を文書で提出した。
これでマスキー法の七五年規制は予定通り実施されることが確実になり、焦点は七六年規制に移った。窒素酸化物の七六年規制の数値は〇・四グラムで、CVCCといえどもまだ二倍以上の数値しか出していない。それでも研究所の意気は上がっていた。
「七六年規制も引き続き、白金触媒などの後処理装置を使わないで対応したい。CVCCで必ず達成できる」
藤沢は研究所からの報告を受け意を強くした。そして四十八年の正月明け、予定通り役員室を通じて、経営の第一線を退くことを宗一郎に伝え、同意を求めた。
こと技術に関して、宗一郎は天才の名をほしいままにしてきた。水冷・空冷の論争では、藤沢に諭される形で若手の技術者に屈したが、それで技術者としての宗一郎の評価が下がったわけではない。
「オヤジさんがあと十年若かったら、ひょっとして空冷エンジンで排ガス対策をやったかも知れない」
研究所の中には、今なおこう信じている技術者が大勢いる。宗一郎には技術者だけでなく、周りの人を引き付ける人間的魅力とカリスマ性があった。カリスマとは本来、神から授かった特別な資質、能力のことで、宗一郎は生まれながらにしてそれを備えていた。
藤沢は決して人当たりは良いとはいえないが、経営の面で天賦の才覚を備えていた。宗一郎の才能を引き出すことで、企業を発展させることを狙い、ゼロから出発したホンダをわずか四半世紀で日本有数の大企業に育て上げた。それだけでなく万物流転の法則から逃れるため、数々の手を打ってきた。
気性の激しい性格の異なる二人の天才がこれだけ長くの間、一緒に仕事ができたのは、「ホンダを大きな会社にしたい」という共通の目標があったからだ。その二人も遂に、若さだけには勝てなかった。欠陥車騒動とCVCCエンジンの開発を最後に「燃えて燃えて燃え尽きてしまった」。
ただし、どちらか一人だけ辞めれば変な憶測を呼び、二人とも傷がついてしまう。となれば“抱き合い心中”の形で辞めるしかなかった。二人の間に退任の時期については多少のズレがあったものの、最後は言わず語らずのあうんの呼吸で一致した。
十月二十九日の株主総会後の取締役会で、ホンダの新体制が発足した。二人の創業者が天才とすれば、後を託された“ホンダの子供たち”はごく普通の人である。創業者が経営の表舞台から退けば、創業者が築き上げたその企業独特の「……らしさ」が失われ、迷走する危険性がある。求心力を保持するのは容易なことではない。
新社長の河島喜好も白井孝夫、川島喜八郎、西田通弘の三専務も好んでホンダに入社したわけでない。戦後の混乱期に食わんがために零細企業だったホンダに潜り込んだに過ぎない。杉浦英男、岡村昇などの常務、取締役の人材も事情は似たり寄ったり。宗一郎と藤沢の背中を見てがむしゃらに働き続け、気がついたらいつの間にか自分の会社が「世界のホンダ」と呼ばれるほど大きくなっていた。
久米是志、吉沢幸一郎などの部長クラスの人材は第一志望がトヨタ、日産だったが、そこをハネられ、やむをえずホンダに入った。オートバイや四輪車、レース、さらに宗一郎の名声に憧れて入社したのは、その下の川本信彦や入交昭一郎の世代からである。
二人の創業者からバトンを受けた河島以下の経営陣の中に、個人として飛び抜けた能力を持った人材はいない。天才が築き上げた企業を守り抜き、さらなる発展を遂げるには、全員が一丸となって経営にあたる“凡庸の団結”しかない。ただし宗一郎と藤沢に直接しごかれた体験を共有しているので、役員室のベクトルは合っている。新社長の河島は、役員室を中心とした集団指導を徹底することで求心力を保とうとした。
経営の第一線から退いたとはいえ、大株主でもある二人の創業者は健在で、非常勤とはいえ取締役として残っているので一気にホンダのアイデンティティーがぐらつく心配はない。
求心力を維持するための最初の仕事がGMに次ぐ世界第二位の自動車メーカー、米フォードとの提携交渉だった。ホンダにとっては初めての提携交渉、それも相手は常に“暴れん坊”“乗っ取り屋”として悪いイメージがつきまとう多国籍企業である。百戦錬磨の長けた交渉術には定評がある。
社長のリー・アイアコッカは河島が新社長に就任した二日後の十月三十一日の昼過ぎ、白地に青とオレンジの二本のラインを引いたフォード・カラーの自家用ジェット機に乗って羽田の東京国際空港に到着した。
「私の来日の目的は、日本におけるフォードの事業を積極的に拡大するためです」
「ホンダとの間で提携問題について、いろいろ話し合いたい」
「資本提携の話はいまのところないが、可能性はトコトン追求したい」
アイアコッカは新聞記者に聞かれるまま、上機嫌で来日の目的を語った。十一月四日まで滞在する予定で、この間ホンダと精力的に交渉することになっている。
自動車業界では欠陥車騒動は忘れ去られ、排ガス規制のゆくえとともに、ホンダとフォードの提携が大きな関心を呼んでいた。マツダとの三年あまりの提携交渉をご破算にしたフォード。「シビック」のヒットとCVCCの開発成功で、スポーツカーの「S500」の発売以来十年目にして、ようやく四輪車に本格進出するキッカケをつかんだホンダ。両者の利害は一致し、手を結ぶ可能性はある。
フォードがホンダに触手を伸ばしてきたのは一年前の四十七年九月、ちょうどCVCCの五万マイルの走行テストが、最終段階にさしかかった残暑の残る季節だった。
フォードはホンダに対して、二段階のアプローチを試みている。第一段階としてフォードと関係の深いモルガン・ギャランティー・トラスト銀行の幹部を、東京・八重洲のホンダ本社へ派遣した。フォードの代理人はホンダの幹部に会っても具体的な用件を語らないまま、ヘンリー・フォード二世の親書を渡しただけで去って行った。
「国際企業同士として、相互にメリットのある話し合いをしたい」
親書にはこう|認《したた》めてあった。間髪を入れずに今度は社長のアイアコッカから、フォードとしての正式文書も届いた。フォードがこうした手の込んだ策をとったのは、CVCCの技術供与交渉をキッカケに、提携の輪を広げたいという意図があったためだ。
CVCCエンジンの完成を機に、全世界の自動車メーカーに売り込みをかけようとしていた矢先だけに、フォードからの提案は、ホンダにとってまさに「渡りに船」だった。
先々のことを考えれば、相手の提案に乗る形で土俵に上がった方が交渉は有利に働くと判断して、フォードの提案を受け入れた。
まず交渉の経緯が外部に漏れないように、両社は機密保持協定を結んだ。ホンダ側の窓口は、営業担当専務の川島喜八郎、フォード側は首席技術担当のヘン・ニコル。フォードの提案は、技術だけでなく生産、販売、資本などあらゆるテーマについて話し合いたいという野心に満ちたものだった。
この時期、フォードは焦っていた。GMはいすゞ、クライスラーは三菱自工と資本提携して日本市場への橋頭堡を築いている。ところが三社の中で対日進出に最も熱心だったフォードは、マツダとの資本提携交渉が破綻して進出の足場を完全に失い、対日戦略の再構築を迫られていた。
日本の自動車の生産台数は、四十五年に五百万台を突破、三年後の四十八年には七百万台に達すると予想された。その時点で国内販売も五百万台に乗る可能性が高い。米国の生産台数は好景気の時は一千万台を超えるが、不況になればたちどころに八百万台前後まで落ち込んでしまう。日本の自動車産業はこと生産台数に関しては、手を伸ばせば米国に追いつくところまで成長していた。
フォードが独自にプロコエンジンを開発していたことは先に述べたが、依然として実用化できるメドが立たず、焦りは頂点に達していた。ライバルのGMといえば「マスキー法に対応できる画期的な排ガス除去装置を開発した」と発表するかたわら、REの実用化にもメドを立てていた。
フォードも西独二社から基本特許を導入して、独自にREの実用化に取り組んでいたものの、いかんせん応用特許はマツダが握っている。提携交渉が白紙還元した直後とあって、いまさらおめおめと頭を下げて教えを乞うのは、フォードのプライドが許さない。
悪いことは重なるもので、その矢先に七三年型車の排ガス対策で大失態を演じてしまった。EPAから、排ガス対策に手抜きがあったとして告発されてしまったのだ。
早急に何らかの手を打たなければ、GMを追撃するどころか、自社の地盤が沈下してしまう。その矢先にホンダがプロコと似た方式による低公害エンジンの開発に成功したとのニュースに接した。
マツダとの提携交渉は会長のヘンリー・フォード二世、排ガス対策は技術者社長のリー・アイアコッカの担当だった。二人の蜜月時代で、自分たちの失敗をカバーするため、新たな提携先としてホンダに白羽の矢を立てた。フォード二世はホンダは自分の会社と似たような同族会社であり、社長のアイアコッカが提携の道筋さえつけてくれれば、最後はオーナーの宗一郎とのトップ会談で、単なる業務提携にとどまらず、資本提携まで発展させることもできると計算していた。
一方、ホンダもしっかりとした損得勘定を立てていた。
「マスキー法がホンダに、千載一遇のチャンスを与えてくれたのだ。CVCCという強い武器を持った以上、外資にも是々非々の態度で立ち向かえる。何といってもCVCCは画期的なエンジンだ。こちらから頭を下げなくとも、相手の方から下げてくる」
宗一郎はCVCCの成功で、満足感に浸っていた。鼻息の荒さは「フォード、何するものぞ」という宗一郎の強烈な自我からきているが、それがいつのまにか「こと技術に関しては、ホンダはよその会社より優れている」という独善性につながった。
これに対し経営を預かる藤沢は、CVCCの実用化にはしゃぎ過ぎることもなく、資本の論理で動くビッグスリーのビヘイビアを承知の上で、冷静な計算をしていた。
〈フォードとの提携はCVCCの技術供与だけでは済まないだろう。それに付随して早晩、エンジンや小型車の合弁会社設立の話が持ち上がるかも知れない。条件にもよるが、そこまでなら決して乗れないこともない。うまくすれば、フォードの販売網にホンダ車を乗せることもできる。
これで四輪車の遅れは一気に挽回できる。ただし資本提携まで進むことは絶対にあり得ない。交渉の席でフォード側が資本のシの字を口に出せば、この話はそこで終わりになるだろう〉
フォードは藤沢の予想通り、大掛かりな提携のシナリオを描いていた。CVCC技術の導入やエンジン単体の輸入は序の口で、小型乗用車「シビック」をフォードのブランドをつけ米国市場で販売するのを皮切りに、小型車の共同開発、そして資本提携……等々。考えられるありとあらゆる可能性を追求しようとしていた。
フォードの要求を全部聞き入れることは、ホンダが“栄光の孤立”を捨てて、フォードの下請けになることを意味する。とうてい受け入れられない。といって頭から断れば、CVCCの技術供与の話も破綻しかねない。CVCCの評価を決定的にするには、何としてでもフォードに導入させる必要がある。こうなると表面上はともかく、水面下の交渉は狐と狸の化かし合いである。
ホンダはこの時期、CVCCでGMにも攻勢をかけていた。フォードに続いてGMも採用すれば「技術のホンダ」のイメージは完璧である。現状はオートバイで高収益を上げているが、四輪車を一本立ちさせない限り、将来展望は開けない。CVCCを武器にした外資提携は、起死回生の絶好の機会であった。
四輪車の対米輸出は、空冷エンジンを積んだ「H1300」は早々とあきらめ、軽自動車の「N360」をベースにこれを補強して、六〇〇ccのエンジンを積んだ「N600」に絞っていた。だが、多少排気量を上げてみたところで、軽自動車の悲しさでまともにハイウエーを走れない。
対米輸出は年明けから投入する小型車の「シビック」にすべてを託していた。シビックはゆくゆく月産二万台を目指していたが、いかんせんホンダは、米国で四輪車を販売するノウハウを持っていない。
CVCCの技術供与の見返りに、シビックをビッグスリーのいずれか一社の販売網に乗せることができれば、ホンダは四輪車でも飛躍できる。条件はOEM(相手先ブランドによる生産)供給ではなく、あくまでホンダという自社ブランドだ。
オートバイの対米進出に際して、他人の手を借りずに大成功を収めたのは、米国にライバルらしきメーカーがいなかったからだった。四輪車ではビッグスリーを始め、世界の強豪メーカーがひしめき合っている。
「世界のホンダ」と胸を張ってみたところで、しょせんキワモノ(際物)産業のオートバイの世界の話である。こと四輪車に関しては世界最後発のメーカーに過ぎない。広い米国市場に自力の販売網を構築するには、気が遠くなるような時間と資金がかかる。
フォードからはCVCC開発成功のアナウンスを待っていたかのように、いち早く提携交渉の提案が舞い込んできたが、GMへはいくら働き掛けても何の音沙汰もない。こうなれば意地になって実績を示す以外にない。自分でGM車を取り寄せ、CVCCエンジンを取り付け、大型車にでも適用できることを、ホンダ側で証明してやるしかない。
ホンダの現地ディーラー三百店のうち三分の二はGM系列であり、GM車は容易に取り寄せられる。仮にGMがCVCCを採用すれば、フォードとの交渉も有利に働く。うまくすれば、シビックの販売提携でもフォードとGMを両天秤にかけることができる。
ホンダは四十七年十月三十日に、フォードとの提携交渉に入るとのコメントを出した。
「フォードから技術、販売面などで提携したいとの提案があり、ホンダはこの提案を受け入れることを決め、文書でその旨伝えた」
交渉の窓口役である専務の川島は、夜回りに来た新聞記者にフォードに伝わることを前提に、相手の期待が膨らむような見通しを語った。
「交渉には白紙の状態で臨むが、何らかの具体的な合意点が見出せるのではないか」
本格的な交渉は、年明け早々から始まった。フォードは時折、資本提携をチラつかせたが、ホンダはノラリクラリとかわし、フォードが遠回しの形でも資本提携の話をちょっとでも出せば、交渉が暗礁に乗り上げることを匂わせた。
フォードとしてもマツダとの交渉で、最後まで出資比率五〇%にこだわって失敗した苦い経験がある。事務レベルの交渉で資本提携を持ち出しても、結論が出ないことは承知している。お互いに腫れ物に触るような交渉であった。
ホンダは創業期に、宗一郎と藤沢が文字通り大胆な事業展開をしたが、欠陥車騒動に巻き込まれて以来、したたかさは一向に変わりはないものの、内実は極めて臆病な企業に変わっていた。経営の実権が河島以下の子供たちの手に移ってからは、その傾向に一段と拍車がかかった。
“凡庸の団結”で経営に当たる限り、合議制にならざるを得ない。河島、川島、西田、白井の四人は、自分たちが創業者のように天才肌でないことは知っている。彼らの結論はいつも決まっていた。
「現実的に出来ることからやる」
それを端的に示したのが、GMとの交渉だった。GMはホンダの思惑通り、四十八年の春になって「CVCCの導入について話し合いたい」と打診してきた。その要請に基づいて本社の取締役に就任したばかりの研究所出身の杉浦英男が渡米、ロサンゼルスでGMとの交渉に臨んだ。
「GMは車種ごとに排ガス対策を研究している。ホンダのCVCCは小型スポーツカーの『ベガ』への積載を考えている。ついてはCVCCエンジンを単体で、二十万基─四十万基ほど購入したい」
GMから予想外の提案が出た。ベガといえばすでにREを積載することを表明している車である。この時、杉浦はGMのRE開発は決して順調に進んでいないことに気が付いた。これだけの数量を供給するとなれば、大規模投資は避けられない。この種の話はリスクが大きいので、おいそれと乗れない。
GMは供給期間については、明確な提示を避けていた。ホンダの狙いはエンジン単体を供給することではなく、あくまでGMにホンダの技術を採用してもらい、CVCCの名声を高めることにある。さらにフォードとの提携交渉でもエンジンの単体供給が交渉のテーマに上がっているので、信義の点からいっても、たとえ興味があっても進めるわけにはいかない。
「七五年型のベガに積載したいとのことですが、今から設備を拡張してもとうてい間に合いません。それ以前にホンダとしては、エンジンの単体供給には関心がありません。ぜひ技術導入をご検討ください」
杉浦はこう言ってGMの要請を断った。むろんこれは水面下での交渉だが、ロス会談の十日後の三十日、GM会長のエド・コールは上院大気水質汚染防止小委員会の席で、ホンダに供給を断られたことを暴露してしまった。コールの狙いはホンダとの交渉の事実を明らかにすることで、議会に対してGMが真剣に排ガス規制に取り組んでいる企業姿勢を示すことにあった。
本筋ともいうべきフォードとの交渉は、虚々実々の駆け引きをしながら行きつ戻りつ、四十八年七月になってようやくCVCCの技術供与契約がまとまり、十三日に正式調印にこぎつけた。契約内容はトヨタとほぼ同じだが、フォードは果たしてCVCCシステムがV8型の大型エンジンに適合するかどうかという疑問を抱いていた。
そこでホンダは、フォードに技術者を派遣することにした。まず入交昭一郎が三カ月の間に、搭載するための具体的なプログラムを作り、その後、直接CVCCの開発に携わった若手研究者の桜井淑敏と西村宏之の二人が、一年間かけて実地指導にあたることになった。
入交は四十八年秋に渡米したが、フォードの研究所では見るもの聞くものすべてが新鮮だった。最も驚いたのが厚さ五〇センチにも達する膨大な社内の安全テストのマニュアルがあったことだった。チェック項目は数百カ所にわたっている。入交はこれを見た時、背筋が寒くなると同時に、ホンダがまだ本格的な四輪車メーカーでないことを思い知らされた。
〈ビッグスリーというのは、何と凄い会社だ。これが本当の自動車会社なのだろう。その点、ホンダはまだまだお粗末なところが多すぎる。安全対策一つ取り上げても、ホンダにはまだスタンダードがない。基準がないから安易に妥協してしまう。問題が起きても責任の所在が分からないので、だれも責任の取りようがない。
怖いもの知らずとは、まさにホンダのことだ。もっとも怖いもの知らずだったからこそ四輪車に進出できたし、CVCCエンジンも開発できたのかも知れない。昔、藤沢さんが言っていたF2用のエンジンを改良した大衆車の開発構想は、単なる素人の発想に過ぎなかったことが痛いほど分かった。仮に世界一のエンジンがあったとしても、あの時代のホンダは、到底トヨタに対抗できる大衆車は開発できなかった〉
入交は三カ月の間にCVCCの技術指導をしながら、安全テストのマニュアルを始め、フォードの社内のありとあらゆるマニュアルを集めては本社に送った。フォードもホンダをまだライバル視していなかったこともあり、社内の規定をいとも簡単に渡した。
「あの時、入交さんから送られてきた資料がその後のホンダの車作りに大きく役立った。フォードとの提携交渉があったからこそ、今日のホンダの四輪車があるといっても決して過言ではない」
研究所の開発陣に共通した認識である。
ともあれホンダとフォードの間に絆が出来上がった。次はこの実績をもとに提携の輪を拡大することである。そのためには両社のトップ会談は欠かせない。十月二十九日以前のホンダの最高責任者は宗一郎である。経営の実務は創業以来、藤沢に任せてあるとはいえ、世界第二の自動車メーカーの社長が来日するともなれば、社長が前面に出ざるを得ない。
だが都合の良いことに、宗一郎はアイアコッカが来日する二日前に最高顧問に退いているので、表敬を受けるだけで済む。ホンダが宗一郎の引退の日を計算に入れてアイアコッカの来日の日程を組んだか、偶然そうなったかは謎である。
アイアコッカはフォードのアジア・太平洋地区視察を名目に、初めて日本の土を踏むことになった。フォード二世とアイアコッカが、日本の再後発の自動車メーカーのホンダに首ったけであることは、世界の自動車業界でも有名になっていた。
フォードのホンダ提携に対する意気込みには、熱が入っていた。交渉する時間はたっぷりある。アイアコッカはかつて自ら設計して、一世を風靡したスポーツカー「マスタング」の後継車で、アメリカでも発売して間もない「マスタング」を宗一郎への手土産に日本へ乗り込んできた。
「みなさん見てて下さい。将来、クルマはシビックになります」
“デカ・ライフ”と称された「シビック」の米国での宣伝文句である。クルマのコピーといえば、性能、価格を前面に出すのが一般的だが、ホンダは広告代理店、グレイのアドバイスを受け入れ、「素晴らしき人、ホンダに乗る」と訴えた小型オートバイ「スーパーカブ」の時と同じように、米国人の「知」の部分に訴える作戦をとった。
小売価格は千八百ドル。VWのゴルフが千四百八十ドルだったから、強気の価格政策といってもよい。米国でもまだ珍しかった二ボックスのキュートなスタイルの車に、まずキャリアウーマンを中心とした女性ユーザーが飛びついた。
ホンダはこのチャンスを見逃さず、マスキー法七五年規制の実施に先駆け、七四年モデルからCVCCエンジンの搭載車を投入することを表明した。女性は公害問題に最も敏感に反応する。ここで「CIVIC」と「CVCC」のイメージが重なり合った。シビックの人気はまず女性の間で高まり、次に若者の間に急速に広まっていった。
「オートバイと同じように、四輪車も自分たちの力で米国市場を開拓すれば、自主独立路線を貫けるのではないか」
ホンダの若き経営者たちの間に、漠然とこうした自信が芽生え始めた。昭和四十五年の米国でのホンダ車の販売台数は、わずか四千台だったのが、四十六年には九千五百台、シビックCVCCを投入した四十七年が二万台、四十八年は三万九千台と倍々ゲームで伸びている。これが自信の裏付けとなった。
アイアコッカはホンダとの提携交渉に胸を膨らませて来日したが、ホンダの情熱はそれに反比例して冷めつつあった。小型乗用車のシビックが、米国市場で予想以上に大好評を博したことがそれに輪をかけた。
水面下でフォードと交渉を重ねるうち、お互いの思惑の違いもはっきりしてきた。決定的に違ったのが、米国市場における「シビック」の販売方法だった。
フォードの販売網を活用するにしても、ホンダの前提は自社ブランドである。逆にフォードは、自社ブランドをつけて売ることを念頭に置いていた。OEMだ。OEMは供給側に工場の稼働率が上がるというメリットはあるが、長い目で見ると発展が疎外されてしまうという危険がある。
「シビックの販売いかんで、ホンダの将来が決まる。米国でも日本でも排ガス規制という、ホンダにとってフォローの風が吹いている。CVCCはその切り札だ。四輪車も独力で開拓していこう。苦しくともその方が小型車メーカーとしての可能性が拓ける」
四専務を中心とした役員室は、藤沢が内々に引退を表明した四十八年春に自主独立路線の継続を再確認した。自主独立というのは外部資本の受け入れどころか、OEM供給もしないという意味を含んでいる。交渉の席でそうした態度をあからさまにすれば、CVCCの技術供与を含め、フォードとの提携交渉は白紙還元する恐れがある。
ホンダとしてはフォードにCVCCを採用してもらった上で、なお友好関係を継続していかなければならない。米国市場でフォードと敵対関係になれば、何かと面倒なことが起こる。ホンダとしては「自主独立」を貫くにしても、「自主孤立」だけは絶対に避けなければならない。
こうした努力が功を奏して、七月に入ってCVCCの技術供与がまとまった。ホンダの経営スタンスは、貸し借りを作らないことである。借りたものは必ず返す。
フォードにCVCCの技術を供与したことで、ホンダの名声は一躍世界に広まった。ホンダはフォードに借りをつくった。この借りをどうやって返すか。考えた揚げ句、たどりついた方策がフォード車の日本での販売にホンダが協力してやることであった。
フォードは案の定、CVCCの技術供与契約をまとめ上げた後、資本参加をはじめとする提携案を持ち出してきた。これにホンダはノラリクラリとかわしながら、日本国内におけるフォード車の販売を提案した。フォード車の国内販売は、むろんホンダ側にも打算があった。シビックがいくら内外で好評を得ても、小型車はまだ一車種しかない。軽自動車があるとはいえ、四輪車メーカーとしてはまだ片肺飛行である。
大型車が中心のフォード車が何台売れるか。見当はつかないものの、外車を扱うことで品揃えが豊富になり、販売店のショールームに彩りを添えることができる。
四十六年夏のニクソン・ショックで、円は一ドル=三六〇円から三〇八円に切り上げられた。円高基調はその後も衰えず、四十八年二月には変動為替相場制(フロート)に移行することになった。自動車の関税と物品税も引き下げられた。外車の輸入台数はこの数年年間三万台で推移しているが、これをバネに大きく伸びるのは間違いない。日本市場でフォード車を扱うことはホンダ、フォードの双方にメリットがある。
ホンダはフォードとCVCCの技術供与契約を交わしたとほぼ同じ時期、米国のGM系ディーラーから取り寄せたGMの七三年型「シボレー・インパラ」に自社開発の八気筒、排気量五七〇〇ccのCVCCエンジンを積み込んだ改造車を完成させ、米EPAに排ガステストを依頼した。結果は一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物のいずれもマスキー法七五年規制値を下回った。
それまでCVCCエンジンの大型車への応用は、技術的に困難との見方が出ていたが、ホンダは自らの手で大型車にも応用可能ということを証明してみせた。GMから要請のあったCVCCエンジンの単体供給の商談は断ったものの、技術供与の余地はまだ残されていた。あまりフォードに深入りすると、GMとの細い糸が完全に切れてしまう。ホンダとしては薄氷を踏む思いで、フォードとの交渉に当たらなければならない。
十月三十一日の昼過ぎに来日したフォード社長のアイアコッカは、その日は休養日に充て、翌日からの交渉に備えた。月が変わった翌十一月一日、満を持して朝一番で埼玉県和光市にある技術研究所を訪れ、最高顧問に退いた宗一郎を表敬するとともに、和光市の研究施設を見学した。本格的な交渉は東京に戻り、昼前から芝にあるフランスレストランの「クレッセント」の個室で行なわれた。
ホンダからは新社長の河島喜好のほか専務の川島喜八郎、取締役の杉浦英男など数人が出席した。交渉が終わったのは夕方の五時過ぎ。昼食時間が含まれているとはいえ、予定時間を大幅に上回っていた。つるべ落としの季節で、夜のとばりが押し寄せ、外はすでに真っ暗になっていた。
会談を終えた双方のトップの顔からは、直前までの笑顔が消え、表情が固い。外には新聞記者が待ち受けているが、両社とも一切コメントをせずレストランを後にした。ホンダの交渉メンバーはその日は自宅に帰らず、ホテルに雲隠れしたため、会談の様子は一切漏れてこない。
アイアコッカは翌日午前、首相官邸に田中角栄を表敬、その後米大使館、在日米関係者、財界人、フォード系ディーラーと会っており、表向きホンダとは接触していない。
ただ前日の会談が、フォードの目論見通り進まなかったことだけは明らかだった。アイアコッカは午後に入って、密かにホンダと交渉した。そして夕刻、午前中の交渉が事実上、決裂したことはおくびにも出さず、都内のホテルで記者会見に臨んだ。
「ホンダとの話し合いでは、資本提携の問題は出なかった。しかし今後、四─六週間内に具体的な販売提携について話し合う。フォードの対日戦略が資本参加から輸入販売に変わったのは、わが社が対日戦略を変えたのではなく、円が変動為替相場に移行したり、日本の輸入関税と物品税が下がり、フォード車が日本で売りやすくなったためだ。フォード車を増販するため、近く『日本フォード』を設立するが、販売面でホンダに協力してもらう」
ホンダとフォードの提携交渉は「大山鳴動してねずみ一匹」に終わった。その証拠にホンダは記者会見を拒み、アイアコッカも日本滞在を一日短縮して三日の朝、急きょ帰国してしまった。
果たしてホンダとフォードの間で何が話し合われたのか。アイアコッカは会見で「資本提携の話は一切出なかったし、これからも他のメーカーと話をする計画もない」と言い切ったが、実は遠回しの形で資本提携を打診、ホンダはこれを明確に拒否した。米国での販売協力についてもホンダは独自路線を歩み、フォードに「シビック」をOEM供給する意思がないことも表明したといわれる。
ほとんど物別れに近い交渉だったが、これでは借りを返したことにはならない。そこで最後に日本国内に、フォード車を専門に扱う会社を作る意思があるという具体策を表明して、どうにか体面だけは取り繕った。
ホンダはフォード車の国内販売を、CVCCを導入してくれた見返りとしてビジネスライクにとらえていたのに対し、フォードは資本提携に至る第一歩とみていた。百戦錬磨のフォード、その社長であるアイアコッカは、初めてのトップ会談で資本提携に関し、前向きの結論が出るとの甘い見方はしていなかった。ホンダの機嫌を損ねては交渉継続すら危ういと判断して、日程を繰り上げて帰国したのだった。
販売提携は石油危機に伴う狂乱物価のさなか、年明けの一月九日に合意した。内容はホンダの中古車を扱っているホンダ中販をHISCO(ホンダ・インターナショナル・セールス)に社名変更して七五年モデルからマスタングを中心としたフォード車を扱うことである。年間目標は一万台とした。
社長の河島は日本での販売提携が成立した直後、「資本提携についてはまったく考えていないが、他の事業はフォードからの申し入れもあり、相互に討議していく」との方針を明らかにした。フォードに対するリップサービスともいえるが、アイアコッカはこれを額面通りに受け止めた。
宗一郎は翌年五月にミシガン工科大学から名誉工学博士号をもらい、その授与式に出席するためデトロイトを訪れる計画を立てていた。フォードはそれを聞き付け、猛烈なアプローチを開始した。フォードの要請は会長専用のジェット機をニューヨークに回すので、それに乗ってデトロイト郊外のデュアボーンにあるフォード本社に来て欲しいというものだった。宗一郎にとってフォードは自動車修理工場の丁稚時代からの憧れの会社であり、二つ返事で快諾した。
この時期、フォードの研究所にはCVCCの技術を指導するため入交と交替する形で、桜井と西村の二人が出向していた。フォードの経営は石油危機の影響で急速に悪化して、技術開発の方針が揺れ動いていたことから二人は悪戦苦闘していた。宗一郎は彼らを陣中見舞いしてやりたいという希望を持っていた。
フォードはデトロイトを訪れた宗一郎を、下にも置かないもてなしをした。昼はフォード二世が本社の会長室に招き昼食を共にし、夜は夜でアイアコッカが自宅で歓迎のパーティーを開いた。フォード二世もアイアコッカも宗一郎の心さえ掴めば、自ずと資本提携の道も拓けると信じていた。
宗一郎はフォードの手厚いもてなしに、いたく感激した。ただし社名にいくら自分の名前を冠しているとはいえ、経営の第一線を離れた身で、フォードとの資本提携を“子供たち”に促すはずもない。ホンダの自主独立をだれよりも望んでいたのが宗一郎自身だった。フォードの苦労は水泡に帰した。
肝心のHISCOを通じたフォード車の販売も、軌道に乗らなかった。ホンダは年間一万台の販売は可能とみていたが、実際は計画を大幅に下回った。ディーラーの看板やショールームの作り方まで、フォードが高圧的な態度で押し付けてきたのに、ホンダが強く反発した。現在は外車販売がブームの状態を呈しているが、ホンダの場合、方向は間違っていなかったが、時期的に二十年早かったといえる。
最初の事業が軌道に乗らなければ、後の事業は具体化しない。フォードはCVCCを小型車の「ピント」「マスタング」へ採用する準備を進めていたが、その直後に石油危機が発生して資金難に陥り、最終的にはマスキー法の七六年規制が延期されたことから採用を断念した。
ホンダのフォード車販売もその後、フォードが住友銀行の仲介でマツダと提携交渉が復活し、資本提携が実現したことからホンダとの提携は自然解消となった。GMもフォードと同じ理由からCVCCの導入を断念した。
ホンダにとってGM、フォードとの交渉は初めての外資との付き合いだった。
「アングロサクソン系の人間が支配する外資との交渉は、予想に違わずタフだ。弱味を見せればカサになってかかってくる。創業者が経営の表舞台から去ったとはいえ、二人の影響力があるうちは、外資と手を組むことは有り得ないし、その必要もない」
ホンダはフォードとの交渉で、どんなに苦しくとも、自主独立路線の旗を掲げた経営がいかにやりやすいかを身をもって学んだ。同時にこの方針を貫くには、すべての面で絶えず他社より、半歩先を行かなければならないことを思い知らされた。
“ホンダの子供たち”は社内外から「雀の学校」「メダカの学校」と揶揄され、多少危うさをみせながらも確実に親離れを始めた。その直後に第一次石油危機が襲ったが、結果的には社内の結束力を強める役割を果たした。
石油危機の前兆は四十八年の夏前から出始めていた。車が飛ぶように売れ、それにモノ不足と人手不足が加わり、トヨタはディーラーからセールスマンの応援を得て工場に投入、辛うじて計画台数をこなしていた。ディーラーにすれば、売るべき車を確保するためには、売る努力をするよりも、メーカーに作ってもらうことが先決だった。だが秋口になると部品、資材不足が一段と顕著になり、コストアップを合理化で吸収するのも難しくなってきた。
高度経済成長期における自動車の販売価格は、大量生産すればするほどコストが下がるというシルバー曲線の通り、年々低下してきた。一人当たりの国民所得と乗用車の価格(トヨタ・コロナ、東京店頭価格)の推移を見れば、一目瞭然である。昭和四十年を一〇〇とした指数で見ると、五年後国民所得二一五に対して、乗用車は八三となっている。石油危機が発生した年の四十八年は、国民所得三二〇に対して乗用車は一〇〇であった。
つまりモータリゼーションの時代には、モデルチェンジのたびに排気量が上がり、性能、内装とも充実しているので、実態は指数以上に大幅な値下げとなっている。一人当たりの国民所得は急上昇しているので、日本のモータリゼーションは起こるべくして起こったといえる。消費者には「自動車は値上がりしない」という先入観念が植え付けられた。
日本の自動車産業というより世界の経済・産業に大きな転機をもたらした石油危機の発端となったのは、十月五日に勃発した「第四次中東戦争」だった。
「中東また火を噴く/エジプト、スエズ越え侵攻/イスラエル/シリア空港で激戦」
日本経済新聞は十月六日付の朝刊でこう報じた。それがわずか十二日後には石油危機につながるニュースが飛び込んできた。
「アラブ、石油減産決める/中東戦争へ“武器”行使を強化/毎月五%ずつ削減/OAPEC(アラブ石油輸出国機構)友好国は優遇」(十八日付日経夕刊)
アラブ諸国は戦争を有利に進めるため、原油を戦略に使い始めることを伝えるニュースだった。この時期、メジャー(国際石油資本)と値上げ交渉を進めていたOPEC(石油輸出国機構)のうち、まずアラブ諸国だけで構成するOAPECが減産を決めた。
メジャーとOPECの値上げ交渉は、予想通り決裂し、産油国は相次いで原油の大幅値上げに踏み切った。年初に一バレル=二ドル七四セントだった原油公示価格は、年末にはあっさり一一ドルを超えた。瞬く間に四倍以上に跳ね上がったわけだ。一バレル二ドル前後で重化学工業化を進めてきた日本経済の受けた打撃は大きかった。
自動車業界では十一月一日、トップを切って日産自動車が四十八年度九月期の決算を発表したが、その席上、経理担当専務の朔春洋は「今期中にモデルチェンジなしの値上げは避けられない」との見通しを語った。不幸なことに朔の予想はズバリ当たった。
もはや値上げは避けられない。十一月十五日に、まずいい出しっぺの日産がモデルチェンジなしの現行車種の値上げに踏み切った。同業他社はそれに雪崩現象的に追随した。マツダは二十一日に低公害車の「グランドファミリア」と「サバンナAP」を新発売したが、翌日にはこの二車種を含めた全車種の値上げを発表するといった失態を起こした。
ホンダはシビックを発表してからまだ一年も経っていないので、極力値上げは避けたいところだったが、そうのんびり構えてもおれない。シビックの採算ラインは輸出も含め月販二万台なので、値上げして販売台数が落ち込めば、採算が苦しくなる。
ホンダ車の平均値上げ幅は五・七%(約二万七千円)と同業他社より低めに抑えるとともに、値上げ時期を業界の中で一番最後にした。値上げに対して少なからず後ろめたさがあったからである。実はホンダは資材が高騰し始めた半年前の五月十六日、室内、エンジンルームの一部手直しを理由に、こっそり平均一万五千円値上げしていた。
この時は値上げを前面に出さず、単に価格改訂のタイトルをつけた一枚の資料を配布しただけで、値上げとは気がつかなかった新聞社も多く、姑息な手段だとしてひんしゅくを買った苦い経験を持っている。欠陥車騒動以来、社会との対話に気をつけてきたものの、まだ完全に身についておらず、時折ボロを出してしまう。
石油危機は燃え盛り、狂乱物価の嵐が吹き荒れ、ついにトイレットペーパーの買い占め騒ぎにまで発展した。ホンダはそうした最中の十二月十二日、低公害のCVCCエンジンを積載したシビックを発売した。低公害車の一番乗りの栄誉はマツダに譲ったが、CVCC積載車の特徴は、公害対策を施しても燃費(燃料消費量)が未対策車とほとんど変わらなかったことである。価格は四万五千円ほど高いが、三月までは低公害車に対する優遇税制の恩恵で、自動車取得税が安くなるので割高感はない。
河島は就任直後の初の記者会見で胸を張って抱負を語った。
「いまは売れるものを売れば良いという時代ではない。世間で必要とする、売るべき商品を売らなければならない時代だ。ホンダは売るべき商品、低公害車を手中に収めている。これからこの強みを生かしたい」
それから一カ月半後の低公害車の発表の席で「モデルチェンジは資源の浪費」という世論に敏感に反応して、モデルチェンジの廃止宣言をした。
「シビックは使いやすさ、経済性、公害除去などの点をギリギリのところまで追求した車なので、今後モデルチェンジはしない」
河島の発言は間接的ながらホンダはトヨタ、日産のとは違う生き方をすることを世間に表明したともいえる。
創業者の引退、創立二十五周年、石油危機の発生、フォード提携交渉、低公害CVCC車の発売……。四半世紀を迎えたホンダの波乱の一年が終わった。
石油危機に伴う混乱は年が明けてから、終息に向かうどころか、一段と拍車がかかった。石油関連製品の値上がりは、天井知らずの勢いで続いている。業を煮やした経団連、経済同友会、日経連、日商の財界四団体は、遂に年明けの一月十日に「当面の経済緊急事態への自粛決意」と題する“値上げ自粛宣言”を出した。
これを受けて経団連会長の植村甲午郎は鉄鋼、自動車、石油化学など主要十八団体に値上げ自粛の徹底を要請した。
それからわずか四日後、川又克二を経団連副会長に頂く日産が突然、全車種平均一〇%の大幅な再値上げを発表した。前回の値上げからわずか一カ月しか経っていない。値上げ旋風は経団連の中枢企業から火がつき、財界の自粛宣言は早くも破綻してしまった。
専任副会長の堀越禎三は「日産の値上げは便乗ではなく、止むをえない措置」と同僚の副会長会社をかばった。ただし堀越発言は狂乱物価の火に油を注ぐ結果となった。
自動車の国内販売は、それまでの好調が嘘のように、十二月には一転して前年同月比二三%の大幅減少となった。原因はガソリン価格の高騰にもよるが、それ以上に影響したのが現行車種の値上げであった。ここで再値上げすれば、販売がさらに落ち込むのは火を見るより明らかである。ただでさえ不振の販売の足をさらに引っ張り、経営が悪化するのは分かり切っている。
それでいながら「川に飛び込む動物の群れ」のように、トヨタ以下のメーカーは日産に追随して、再びモデルチェンジなしの値上げに踏み切った。業界では一月から三月までの三カ月間は、良くて前年比三〇%の大幅減は必至という悲観的な見方が主流となった。
ホンダの子供たちは悩んだ。シビックの十二月の販売は前年比九・九%増の八千七百六十六台。前年のレベルが低かったため実績割れこそ免れたものの、値上げの影響で販売台数は計画に達しなかった。低公害車を発売したばかりで、ここで追随値上げに踏み切れば、折角の低公害車ブームに水をさしかねない。トヨタは前年比三〇%減となったが、それでも十万台の大台を維持している。こと小型車に関しては、依然としてトヨタ、日産の大手とホンダでは格段の違いがある。
ホンダは再値上げすべきか、それとももう少し様子を見るべきか。迷いに迷った。藤沢が経営トップとして君臨していた時には、だれかが六本木にお伺いをたてていたが、すでに経営の第一線を退いているので相談に行くのをためらう雰囲気があった。
「確かに藤沢さんは引退している。しかし最高顧問とはいえ依然として取締役である。しかも大株主でもある。六本木の旦那に『この難局にどう対応するか』ぐらいの意見を聞いてもいいんじゃないのかな」
東京・八重洲にある大部屋の役員室で、値上げにどう対応すべきかの“ワイガヤ”をしているとき、だれかがこう提案した。そして役員室を代表して営業担当専務の川島が、六本木を訪れることになった。
「値上げするかしないかは、お前さん方が決めることだ。一体、役員室はどういった判断をしているのか」
藤沢は開口一番こう尋ねた。それに川島は恐る恐る答えた。
「まだ役員室の総意ではありませんが、私個人としては、値上げしないほうがいいと思っています」
「あたしもそう思う。後は社長の河島がどう判断するかだ」
藤沢は正式に副社長を辞めてから三カ月近く経っていたが、生活は前と何も変わらない。唯一、変わったことといえば自分が手塩にかけて育てた“子供たち”が、これまで通り六本木の自宅に顔は見せても、こと経営に関しては相談をしなくなったぐらいだ。
〈相談に来ないということは、経営に問題がないということだ〉
藤沢は自分にこう言い聞かせてはいたが、寂しさを隠せない。といって本社にノコノコ出掛けて、自分の意見をいえば院政になってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
藤沢は子供たちの石油危機の対応について歯痒い思いをしていた。日産が再値上げした時期は、確かに狂乱物価はピークに達していた。それを境に明らかに流れが変わり始めている。
戦後の混乱期にブローカーをやっていた経験から、石油危機に便乗して思惑買いをしている連中が、売りに回るタイミングを計っているのが、手に取るように分かる。原油価格は引き続き上昇しているが、資材を買いだめした連中が持ち切れなくなり、ボチボチ投げ売りに出ているせいか、物価は二十日あたりから妙に落ち着き出した。川島が相談に来たのはちょうどその頃だった。藤沢は自分が現役の副社長に戻ったような感じで瞑想していた。
〈ホンダは低公害のCVCC車を発売したが、まだ欠陥車騒動の悪いイメージを完全に払拭したとはいえない。ここで他社に追随して再値上げすれば、ホンダはトヨタ、日産と何ら変わらない単なる大きい企業になってしまう。逆に値上げしないことを宣言すれば、インフレムードに水をさすだけでなく、ホンダは異色の企業として世間の評価が高まる〉
トヨタ、日産とは違う生き方をすると大見得を切った河島の肚は、すでに固まっていた。一月三十一日、経団連で行なった新年記者会見の席で河島は資材、部品の高騰がやや沈静化、輸出が円安傾向で値上げ余地があることを理由に「当分の間、四輪車、二輪車とも値上げをしない」ことを表明した。
再値上げをしたばかりの同業他社は、ホンダの値上げ見送り宣言を苦々しく見ていた。だが世間は藤沢の予想通り、拍手喝采した。これでホンダと社長の河島の評価が一段と高まった。
これを見て藤沢は胸をなで下ろした。
〈河島はよく決断した。もう子供たちは独り歩きできる。あとは西落合に予定通り“ホンダ教の教祖”になってもらい、子供たちを側面からバックアップしてやる体制を作り上げることだ。経営に若さは必要だが、ホンダが企業として社会的責任を果たすには、若さだけでは通用しない。若さの弊害を西落合に補ってもらうのだ〉
宗一郎は河島が値上げ見送り宣言をする三日前の一月二十八日、ホンダの工場、ディーラー、営業所、関連会社にお礼と挨拶の全国行脚の旅に出発した。車と自家用ヘリコプターを乗り継いで一日平均十五カ所、スケジュールをやり繰りしながら全国七百カ所を回り、ホンダに関係するすべての人々と握手して、直接お礼をいうのが趣旨である。国内が終わると、海外にも行脚の輪を広げる計画を立てている。すべて終えるにはゆうに三年はかかる。
この間、子供たちはかねて藤沢から指示されていた通り、役員室が中心となり宗一郎の対外活動の舞台作りを始めた。
宗一郎の現役時代の対外活動といえば、日本自動車研究所理事、交通遺児育英会評議委員、自動車工業振興会副会長、日本自動車連盟理事、日本航空協会理事など本業に関連するものばかりであった。多少毛色の変わったところでは自衛隊友の会副会長、テレビ朝日放送番組審議会委員ぐらいしかない。
引退後、宗一郎と藤沢が基金を出し合って設立したのに財団法人「交通安全学会」がある。学者の卵に育英資金を提供する作行会は、最後の最後まで資金提供者の名前を明かさなかったが、交通安全学会はホンダの社会活動の一環として設立した。
五十二年には弟の弁二郎とともに四十億円の私財を投じて「本田財団」を設立した。この二つの財団を通じて学者、マスコミ関係者、役人の間に次々とホンダシンパが生まれた。
公職はざっくばらんな宗一郎の人間性を反映して、断り切れないほど舞い込んできた。宗一郎の人の心をつかむ術は、天性のものである。社長時代、宴席で初めて会った人でも名刺を交換したあと、最初の三十分は相手の立場に関係なく、自分の方から一方的にあたり構わず話し出す。
話題は仕事の自動車からレース、ゴルフ、エロ話まで多岐にわたっている。宗一郎が提供する話題に相手が興味をもって目を光らせると、それを絶対に見逃さない。その後は相手が興味を示した話題に絞り込んで話す。相手は知らず知らずのうちに、宗一郎の人間的な魅力に引き込まれてしまう。
「本田さんは写真で見ると厳めしい顔をしているが、いざ話してみると随分違うんですね。初めて会ったような気がしない」
ホンダの値上げ自粛宣言が評価されたせいか、四十九年には総理府から物価問題懇談会委員への就任要請がきた。翌年には公務員問題懇談会委員、国鉄再建問題懇談会委員、研究開発型企業育成センター理事及びセンター審査委員長、ボーイスカウト東京連盟維持財団理事長、ボーイスカウト日本連盟理事に就任した。
この種の公職は委員に指名されても、毎回出席する人は珍しいが、宗一郎は律義にも海外出張など、よほどのことがない限り出席することを心掛けた。宗一郎の発言は多少支離滅裂なところもあるが、どんなテーマも自分の体験や生活をもとに意見を言うので、ポイントを突いている。
たとえばガス料金の値上げの際には、物価問題懇談会委員や東商の役員をしている宗一郎のところへ、東京ガス会社の社員が根回しの一環として事前説明に来る。ひと通り説明を聞いた後、宗一郎は必ずこう言った。
「お前さんがた、何かゴチャゴチャ説明したが、なぜ値上げしなければならないのか、おれにはさっぱり分からなかった。おれに分からないことが、どうして都民に分かるのだ。まずおれにも分かるように説明しなければダメだ」
宗一郎の評判が高まると、断り切れないほど次々と仕事が舞い込む。
経営者としての実績が評価され、日本自動車工業会副会長、東京商工会議所副会頭、中小企業庁八〇年中小企業ビジョン懇談会委員、防衛技術協会名誉会長、国際科学技術博覧会協会副会長、日本ベルギー協会会長、行革推進全国フォーラム代表世話人、東京都情報公開懇談会委員、臨時行政改革推進審議会顧問、埼玉県知事相談役、航空工業審議会臨時委員、長岡技術科学大学客員教授、厚生省国民健康会議議長、ユーロパリア日本委員会議長……。仕事は年を経るごとに増えていった。
すべてがお堅い仕事だけではない。時には宗一郎の名前を使って金儲けをしようという輩も出てきたが、それだけは丁寧に断った。ユニークなのが総理府の売春対策審議会会長、日本ユースホステル顧問、日本ボクシングコミッション理事、日本プロゴルフ協会名誉顧問、森林文化協会理事、犯罪被害救護基金監事、東京YMCA援助会理事などがある。
宗一郎は昭和五十六年春に、七十四歳で勲一等瑞宝章を受けたが、決め手になったのが皮肉なことに本業のオートバイや自動車産業に対する功績ではなく、売春対策審議会会長であった。叙勲が遅れたのは、勲一等に相応しい格式の高い公職がなかったこともさることながら、N360の欠陥車裁判が微妙な影を落としている。
社外活動を始めるようになってから、交際範囲もぐっと広がった。宗一郎にとって経済界で唯一の友人がソニーの創業者、井深大である。ホンダとソニーは戦後急成長したエクセレントカンパニーの代表企業で、いくつかの共通点がある。二人は根っからの技術屋気質とチャレンジ精神に満ち溢れていた。企業の成長とともに技術屋社長の存在がマスコミの世界でも注目され、さる雑誌での対談で初めて顔を合わせて意気投合した。
「ソニーはモルモット企業」と揶揄したのは評論家の大宅壮一だが、その時、宗一郎はわがことのように憤慨した。
「冗談じゃない。企業はモルモットのような実験用の動物じゃないんだ。経営者も従業員も必死になって、安くて良い製品を作ることで社会に貢献しているんだ」
宗一郎にとってソニーへの批判は自分への批判にほかならない。二つ年下の井深の存在は、宗一郎にとって格好のライバルであり刺激剤、発奮材料だった。
二人は相前後して経営の表舞台から去ったが、何かの機会に「お互いに頼まれたことは、何があっても断らない約束」をした。宗一郎が行革審の全国推進フォーラムの代表世話人となったのは、まさに井深からの要請だった。
ホンダとソニーの決定的な違いは、後継者の選び方にある。ホンダは二人の創業者が同時に引退したが、ソニーは井深の後をもう一人の創業者、盛田昭夫が継いだ。
ソニーは発足当時に盛田の実家が資金的な援助をした関係で、今なお盛田家が大株主として君臨している。さらに盛田は社長、会長の在任期間が長く、さらに盛田の義弟や子弟が次々と入社したことから、ソニーはいつの間にか“盛田ファミリー企業”と陰口を叩かれるほど、同族色の強い企業に変わってしまった。
だが、井深の後継者の盛田も平成五年十一月に病に倒れ、一年後にはCEO(最高経営責任者)を兼ねる会長から「ファウンダー(創業者)名誉会長」に退いてしまった。ホンダは二人の創業者が取締役を退いた昭和五十年代の後半から異変の兆しが出始めたが、ソニーも十年遅れてホンダと同じ道を歩む可能性は否定できない。
宗一郎の人間性の幅を物語るのが、皇族や作家などとの付き合いである。高松宮殿下とはゴルフを通じて親しくなり、三笠宮寛仁親王とは雑誌で何回か対談した。宗一郎の話はおもしろく、おどけた仕種は人を笑わせる。そこが城山三郎、新田次郎といった作家をひきつけた。
すべてが宗一郎の持って生まれた賦だけではない。半分以上は努力といっていい。宗一郎は世間が自分に持っているイメージ以上に天真爛漫に振る舞えば、それだけホンダの名声が上がることを知っている。講演会やパーティーでも、事前にどういう人が出席しているかを聞き出し、それに合わせたパフォーマンスをする。
地方での講演会があれば、会場の手前で運転手と代わり、自らがハンドルを握って乗りつける。すると地元の人は「宗一郎さんがこんなに遠いところまで、わざわざ自分で運転して来てくれた」と感激する。時間にも気を使った。渋滞に巻き込まれ遅くなる危険があれば、自分で車を降り公衆電話から遅れる旨、連絡を入れる。逆に会場に予定より早い時間に着きそうになっても、予定時間まで近くでじっと待った。
「遅れそうになって連絡しないのは論外。といって早く到着すれば、相手を困らすことになる。会場の担当者はおれが時間通り来ると思って準備を進めている。早く着けば相手に迷惑がかかる」
皇族には意識して庶民的な話をする。三笠宮寛仁親王のプライベートな愛用車がいつのまにかホンダ車に変わったという。宗一郎ファンがホンダファンになり、ホンダの車を購入する。
社長時代は怒鳴り散らしてばかりいた宗一郎だが、現役を退いた後は手塩にかけて育てた子供たちを怒鳴り飛ばす性格は依然として変わらなくとも、宗一郎を直接知らない一般社員に対しては労りの気持ちの方が強く出た。
「今日の講演は評判が良かった。みんなが笑って喜んでくれた。これはおまえたちが事前にどんな人がきており、どんな話をしたらいいかを教えてくれたからだ。成功の半分はおまえたちのお陰だ」
宗一郎は講演が終わると、だれはばかることなく、エレベーターの中で謝礼金の入った封筒を破いて半分を講演会を企画したり、世話をしてくれた社員に渡した。
「世間ではトヨタの下請け政策や購買政策は厳しいというが、実態はホンダさんはもっとえげつないやり方をしている。それでもホンダはだれからも非難されない。それは本田宗一郎さんという人が、絶えずどこに行っても爽やかな印象を振り撒いているからです。ホンダさんはその点、実に恵まれている。トヨタが真似しようにも出来ない」
トヨタ名誉会長の豊田英二は、常々こう羨ましがった。
現役を引退してから現役の経営者以上の多忙な生活を送っていた宗一郎の唯一の趣味は、周りのすすめで始めた絵である。何ごとにも凝り性の性格を反映して日本画家の興津漁春に師事して基本から指導を受けた。本格的な写生画で、時間があればひとりで車を運転してスケッチ旅行に出掛けた。絵を描き始めると食事を取るのも忘れるほど熱中して自宅のアトリエから一日中出てこないこともあった。
宗一郎は藤沢の描いたシナリオ通り“ホンダ教の教祖の道”を歩み始めた。宗一郎は毎年一回、七月の梅雨あけ前後の二日間、友人、知人を西落合の自宅に招き、庭に流れる人工渓流にアユを放して、それを釣り上げて楽しむアユ釣りパーティーを開いていたが、藤沢は「趣味が違う」といって出席しなかった。藤沢は藤沢なりに悠々自適の生活を楽しみながら、ホンダの将来と子供たちの行動に目を光らせていた。
日本版マスキー法ともいうべき排ガス五十年度規制は、第一次石油危機の真っただ中の昭和四十九年一月二十一日、環境庁から正式に告示された。実施は五十年四月一日。藤沢の予想通り、石油危機は春を境に沈静化に向かった。
だが二度にわたる値上げが響いて、自動車の国内販売は前年水準を大幅に下回り、REを引っさげて、ホンダと低公害車実用化へ一番乗りを競ったマツダの経営危機が表面化した。
マツダの経営危機は、ある意味で人災だった。ワンマン経営者として知られる社長の松田耕平は、石油危機に伴うモノ不足は長期化すると判断して、四十九年の年明けから同業他社の減産を尻目に大増産に踏み切った。その矢先に社運を賭けて開発した頼みのRE車が米EPAから「ガソリンをガブ飲みする」との烙印を押され、まず米国での販売が急減、遅れて国内も同じ道をたどった。
またたくまに内外で在庫が膨れ上がり、広島の工場は至るところ、車で溢れ返った。米国では「マツダはRE車の在庫処分に困り、大西洋に沈めてしまった」というまことしやかなうわさも流された。在庫急増を機に経営危機が一気に表面化、減産による余剰人員を国内販売に回すという苦肉の策を打ち出した。
広島駅では毎日、全国のマツダ系列の販売店に出向する人を見送る人たちでゴッタ返した。|幟《のぼり》こそ立たなかったものの、さながら「出征兵士」の現代版で、マスコミでも大々的に取り上げられた。
マツダの経営危機は、自動車業界に低公害と低燃費を両立させない限り、生き残りが難しいことを教えてくれた。日産はレイオフ(一時帰休)に追い込まれた。その中にあってホンダだけが快調に飛ばしている。
昭和四十九年八月期の売り上げ(当時はまだ半年決算)は前年同期に比べ四〇・八%増の二千四百五十億円を記録した。利益は法人税率の引き上げで減益となったが、国税庁がまとめた申告所得ベースで見ると、前期比七八・四%増、前年同期比一三・八%増の百四十五億円となっている。
むろん八月決算期会社では断トツのトップ。こと決算に関していえば、石油危機の影響は皆無どころか、高度経済成長期を彷彿させる好業績を上げた。石油危機は自動車業界に逆風となったが、低公害車をいち早く実用化したホンダには追い風となった。
当時の自動車業界は、群雄割拠と呼ぶにふさわしかった。四十八年の生産はトップのトヨタが二百三十一万台。これを二百四万台の日産が激しく追い上げていた。この二社が東西の両横綱で、大きく遅れて七十四万台のマツダと五十六万台の三菱自動車が三位グループを形成していた。
それに続くのが三十五万台のホンダ、三十一万台のダイハツ。やや遅れて二十四万台のスズキ、二十二万台のいすゞ、二十一万台の富士重工業がダンゴ状態で続いていた。
ホンダは軽自動車のトップメーカーに立ったとはいえ、小型車分野ではまだ新参者に過ぎない。この年の小型車の生産台数は十六万台で、まだいすゞより下だった。CVCCの技術は業界のだれもが高く評価したものの、トヨタ、日産の大手は、ホンダをまだ一人前の自動車メーカーとは見ていなかった。
だが排ガス規制と石油危機が、自動車業界の流動化に拍車をかけ、地殻変動をもたらそうとしていた。石油危機の直撃を受けた四十九年のわが国の自動車生産は、モータリゼーションが進展して以来、初めてマイナスを記録した。それも七・五%減という大幅な落ち込みだった。日産、三菱、ダイハツ、スズキ、富士重などは軒並みふたケタのマイナスを記録した。
こうした中で、CVCCという武器を手に入れたホンダだけが、前年実績に比べ二〇・八%増という高度成長を遂げた。生産台数は一気に四十三万台に跳ね上がり、手を伸ばせばトヨタ、日産に次ぐ業界三位グループの仲間入りができるところまで力をつけた。
ホンダの躍進を決定づけたのが、第一次石油危機だった。とりわけ米国市場では思わぬ幸運をもたらした。今世紀に入り米国が世界一の経済大国になり得たのは、原油を自国で発掘できたからではなく、それを使う自動車産業が発達したからにほかならない。
日本では自動車がなければ、その代替輸送機関としての電車があるので、自動車がなくとも日常生活にはさほど痛痒を感じないが、米国人にとって自動車はゲタ代わりというより、生活のツールである。ガソリンがないということは、日本でいえば電気や水道が止められたようなものである。阪神大震災がその辺のことを良く物語っている。
米国では労働者のうち四百万人が自動車産業に関わっている。さらに毎年四百億ドル相当の設備及び原材料・資材が自動車産業によって購入されている。米国は国民生活、産業の両面で自動車がなければ成り立たない国である。
パニックは七三年十月五日に突然やってきた。タダ同然と思っていたガソリンの価格が三倍になっただけなら金で解決できるが、朝起きてみると肝心のガソリンがなくなっていた。パニック状態は時間が経つにつれ解消に向かったが、ガソリンは不足したままである。スタンドには長い行列ができた。新型車はすでに無鉛ガソリンしか使えないように差し込み口は小さくなっている。
ホンダはその時期に無鉛、有鉛ガソリンのどちらも使える一五〇〇ccのシビックCVCCを投入した。この車を買った客は、行列の長さを見ながら好きなガソリンを入れることができる。
「安くて燃費効率が良くて、クリーンなCVCCエンジンだから、どんなガソリンでも使える」
このキャッチフレーズが本当なら、売れない方が不思議である。石油危機の真っただ中に発売した低公害のシビックは、発売前からヒットが約束されていたも同然だった。米国のマスコミは挙ってホンダ車を持ち上げた。
「リーダーズ・ダイジェスト」は七五年の十二月号で「日本からやってきたガソリンを節約できる“クリーンカー”」というタイトルを付けた五ページにわたる特集を組んだ。そこにはホンダがCVCCを開発するまでの苦闘の歴史が延々と書かれてあった。そしてCVCCの評価を決定的に高めたのが、次の|件《くだり》だった。
「この新しいエンジンは、従来の内燃機関に比べ価格が百七十ドル上乗せされるものの、約三百五十ドルかかる触媒コンバーターや他の追加装置を使わずに済むから、最終的には百八十ドルの節約になる。しかもその節約は、新しいエンジンの燃費効率によって走るごとに増えていく」
要するにCVCCはエンジンの改良だけで済んだので、イニシャルコストが安いうえ、燃費も良いからランニングコストも安いという計算が成り立つ。リーダーズ・ダイジェストはホンダが作った「ガソリンを節約できる」というキャッチフレーズを、ご丁寧にも具体的な数字を挙げて説明してくれた。
自動車専門誌だけでなく一般誌までCVCCを“魔法のエンジン”として称えた。販売会社のアメリカ・ホンダ(アメホン)は、CVCCがマスコミで取り上げられるたび、掲載記事をコピーして、有力ディーラーに送りつけた。こうしてホンダはCVCCで一躍、米国の超有名企業に躍り出た。そしてアメホンにはディーラーのなり手が殺到した。
ここまで来る道のりは決して平坦ではなかった。オートバイに関してはごく短期間で市場を制覇したが、四輪車は苦闘の連続だった。オートバイの販売では、国内で培ったマーケティングのノウハウをそのまま米国にも適用できたが、四輪車にはそもそもノウハウらしきものはまったくない。オートバイのディーラーに乗用車を売ってくれるよう頼んでも相手にされない。米国ではオートバイと四輪車の流通から販売までまったく異なる。
ホンダ自体にも泣き所があった。最初の頃は軽自動車の「N360」の車体に六〇〇ccのエンジンを積んだ「N600」一車種しかなかった。N600はハワイ、オレゴン、カリフォルニア、ワシントンの四つの州で限定販売したが、最初は冷ややかな目で見られた。
「ホンダが売り出した小さな車はオートバイを大きくしただけだ。いってみればサイドカーに幌を被せたような車だ」
米国市場でホンダはまだ一人前の自動車メーカーとして扱われていなかった。
トヨタ、日産が対米輸出を始めたのは昭和三十三年だが、最初はハイウエーをまともに走れなかった。無理してスピードを上げれば、エンストしてしまう。こうした苦労を乗り越え、基盤を固めるまでには十年以上の年月を要した。
N600の基本構造は軽自動車である。エンジンの排気量を多少拡大したとはいえ、結果は十五年前のトヨタ、日産と同じ辛苦を味わった。それでも川島喜八郎の指揮するアメホンのセールスマンは根気強く、シボレーやフォードのディーラーを一軒一軒説得してまわった。砂漠に水を撒くような作業で、気が遠くなるような時間がかかる。
売るべき車が一車種しかないので、専売ディーラーを中心とした独自販売網の構築は「夢のまた夢」である。せいぜいGM、フォードのディーラーのショールームの片隅に一台置かせてもらえばいい方である。それでもシビックを発売する直前には、足を棒にしての苦労が実ってGM系のディーラーを中心に三百店ほどを組織化した。
フォードから提携の申し込みを受けたのは、ちょうどその頃だった。アメホンにとっては極めて魅力的な提案だったが、最終的にシビックとCVCCの反響の大きさに自信を持ち、独自の道を歩むことになった。第一次石油危機はビッグスリーを奈落の底に突き落としたが、ホンダにとっては世界の有力自動車メーカーに伸し上がる端緒を開いた。
それではどうやってシビックの供給能力を増やすか。藤沢が経営の舵取りをしていた時代であれば、千載一遇のチャンスとばかりに、借金をしてでも工場の新設に踏み切ったであろう。
しかし河島を中心とした経営陣は、それまで「ホンダらしい」とされた積極果敢な策はとらなかった。業界三位グループの仲間入りし、しかも小型車部門を不動のものにするために選択したのが、軽乗用車部門からの撤退という、だれも思いもよらなかった奇策だった。
「N360」の欠陥車騒動に巻き込まれて世間から袋叩きに合い、販売が激減したが、その後「Z」「ライフ」への切り替えが順調に進み、四十六年十一月には月販二万四千台を達成した。
軽乗用車の需要は、石油危機の前の四十四年の七十二万台をピークに下降線をたどり始め、四十八年には三十九万六千台まで落ち込んでしまった。この年のホンダのシェアは二八・五%。僅差ながらスズキ、ダイハツ、マツダ、三菱、富士重を抑え、再びトップ企業に返り咲いた。
四十九年八月期決算が大幅な増収となったのは、シビックが好調だったことによる。ただし年間販売十万台近い軽乗用車がなくなれば、引き続きシビックが健闘しても売り上げの落ち込みは避けられない。
創業者の築いた遺産を受け継いだ若き経営者は、それを承知の上で軽乗用車からの撤退を決断した。
「軽のトップメーカー」という看板を捨てた理由は二つあった。一つはシビックの販売が日米で予想以上に好調で、月産三万台体制の確立が急務であったこと。もう一つが軽自動車の排ガス対策に投入する人材が不足していたことだ。
シビックの増産に向けて工場を新設するとなれば、土地の取得から工場の稼働まで最低二年から三年はかかる。敷地に余裕のある鈴鹿工場に、新たに組み立てラインを新設するにしても一年はかかる。シビックの販売は爆発的であり、新工場や組み立てラインを新設していては、とうてい間に合わない。
国内販売は登録ベースでは月一万台だが、受注ベースはすでに一万五千台を超えている。十二月にはシビックバンの投入が決まっている。一二〇〇ccの一車種しかなかった対米輸出に、年明けから一五〇〇ccのCVCC車が加わる。内外合わせて月三万台の販売は決して困難ではない。
軽自動車は税金が安く、車庫証明がいらないなどの恩典がある半面、排気量や車の長さと幅などが制限されている。所得が低かった時代には、庶民の足として需要は爆発的に伸びたが、高度経済成長が爛熟化するとともに、マイカー族は次第に上級車指向を強めて行った。軽の需要層は、いつしか若年層から中年層に移り、“がまん車”という有り難くないニックネームも付いた。
それより問題は、排ガス対策にあった。研究所では三六〇ccのCVCCエンジンを試作したが、エンジン排気量の小さい軽自動車に排ガス対策を施せば、性能が悪化し商品性に問題が出てくる。CVCCとて例外ではなかった。業界にはいつしか「CVCCシステムは大きな車に応用できても、軽自動車には無理」という風評も流れた。
ホンダは日本自動車工業会の場で排気量の拡大を提唱してきたが、なかなか合意が得られず、規格拡大問題は暗礁に乗り上げていた。
宗一郎が技術研究所の社長をしていた時代であれば、自ら先頭に立ち、若い研究員を叱咤激励して改良に取り組んだであろう。彼の性格からすれば、意地でもCVCCエンジンを、小さな軽自動車に搭載しても商品性が落ちないことを証明しなければ気が済まない。
一方、藤沢も宗一郎が技術的な問題を解決し、自らも軽自動車の将来に可能性があると判断すれば、間違いなく小型車と軽自動車の二兎を追ったであろう。こうした野心的な計画が当たればオートバイ、軽自動車、小型車を揃えた世界でも極めてユニークな自動車会社になれる。こと売り上げに関してトヨタは無理にしても、日産を追撃可能な射程に入れることができる。
宗一郎と藤沢の意見が一致すれば、だれも立ち向かえない。二人には強烈なカリスマ性があり、従業員の間には「技術と経営の二人の天才創業者が決めたことなら間違いない」という安心感があった。だが社長の河島は、自分たちに創業者のような天才的な素質もカリスマ性もないことを知っている。経営の舵取りは、どうしても慎重にならざるを得ない。
“凡庸の団結”から導き出される答えは、「限られた経営資源を有効に活用する」こと以外にない。具体的には追い風が吹いている間に、小型車部門を強化して世界に通用する四輪車メーカーに変身することだ。軽乗用車の将来性は高いとはいえない。そこから撤退して、空いたラインで小型車を組み立てれば、設備投資もそう大掛かりにならない。
トップメーカーの座を自ら放棄するという方針は、一見すると大胆な賭けにみえるが、実は子供たちにとっては、緻密に計算された、最もリスクの少ない安全策であった。軽乗用車の生産は四十九年十月一杯で生産がうち切られた。四十二年春に発売した「N360」で一世を風靡したホンダの軽乗用車の歴史は、七年半でいったん幕を閉じた。
ホンダの撤退で軽乗用車のイメージ悪化に拍車がかかり、四十九年の販売台数はわずか十五万七千台で、最盛期の五分の一近くまで減ってしまった。
軽乗用車から撤退したことで、ホンダの企業イメージは逆に高まった。十一月に入ると、前年の石油危機の最中に発売した低公害車の「シビックCVCC」が、日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞、その直後に一五〇〇ccのシビックが米EPAのテストに合格、低公害車の認定を受けた。
EPAは同時に燃費テストも行ったが、CVCC車の燃費は市街地走行でガソリン一ガロン当たりの走行距離は二七マイル、高速走行では三九マイルの数値が出た。七五年型車のこれまでの燃費テストでは、触媒を使った日産の「サニー」(米国名B210)が世界で一番燃費が少ない車とされていたが、CVCC車の数値はサニーと全く同じであった。
シビックは世界最少燃費の折り紙をもらい「低公害と低燃費は両立する」ことを証明した。これを機に米国では四輪車メーカーとしてのホンダ車の知名度もウナギ登りに上がった。シビックも爆発的な人気を博し、同時にCVCCエンジンはこの年、米自動車技術会賞を受賞した。翌年三月には社長の河島喜好が過去一年間に自動車業界で一番活躍した人に与えられる「七五年アメリカ・マン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。
軽乗用車からの撤退は“吉”と出た。五十年二月期の決算では、四輪車の総販売台数は確かに減ったが、販売価格の高い小型車が健闘したことから、売上高は減るどころか前期に比べ一一・七%増となった。利益も二輪車の大型化が効を奏して、経営利益は過去最高を記録した。同じく八月期も二輪車の輸出が不振を極めたものの、これを四輪車がカバーして再び増収増益を記録した。こと決算に関してはどこから見ても順風満帆だった。
ホンダの快進撃は昭和五十年代に入って、一段と拍車が掛かった。切り札は虎の子ともいうべきCVCCエンジン。EPAから低燃費・低公害車の折り紙をもらっているが、弁慶にも泣きどころがある。燃料消費が公害対策を施さない従来のレシプロ車に比べて一〇%ほど多いことだ。
燃費効率はガソリンの安い時代には何の問題もなかったが、石油危機で原油価格が三倍になり、消費者はガソリン価格に敏感になっている。公害対策に決め手を欠く米ビッグスリーは、その機に乗じて「公害対策はむろん大切だが、燃費が悪くなっては省資源の時代に反する」という論調を展開していた。
排ガス規制は米国の七五年規制及び日本の五十年度規制は予定通り実施されたが、窒素酸化物を〇・二五グラムに抑える米国の七六年規制と日本の五十一年度規制は折からの石油危機と重なり、遂に達成に名乗りを上げるメーカーが出現せず、日米が足並みを揃える形で期日通りの実施を断念、二年延長を余儀なくされた。
ただし五十一年、五十二年の二年間については暫定措置として窒素酸化物を〇・六〇グラムに引き上げることにした。ビッグスリーは、その暫定措置さえ達成困難として米EPAに延期申請を出していた。
石油危機による省資源ムードに流され、排ガス規制が延長に次ぐ延長という形で骨抜きにされれば、ホンダの優位性は崩れてしまう。ホンダは研究室段階では早い時期にCVCCで窒素酸化物を〇・二五グラムに抑えることに成功していたが、どうしても燃費の悪化は避けられなかった。
ホンダに新たな課題が生まれた。排ガス対策を施していないレシプロ車と比べても燃費の面で遜色がないことを証明しない限り、排ガス規制は再度延期される恐れがある。
CVCCの燃費改善は五十年に入って、ようやく技術的なメドがついた。バルブや燃料の調整、点火時期の修正、キャブレターの改良などによって現状より一〇%─三〇%、公害未対策のレシプロエンジンに比べて最高二〇%改善することに成功した。
その直後に米ビッグスリーの七七年排ガス規制延長申請によって開かれたEPAの公聴会で、ホンダの杉浦英男は「七七年の排ガス規制基準は燃費を悪化せずに達成できる」と胸を張って証言した。
ホンダが窒素酸化物を〇・二五グラムに抑える五十三年度規制について量産技術が確立したことを公表したのは五十一年四月二日であった。この時期、業界ではマツダ、三菱、富士重の中下位メーカーが実用化にメドをつけたと続々名乗りを上げたが、ホンダは一歩踏み込んで「いつでも生産・販売できる」と報告した。環境庁は秋までに態度を決めることにしていたが、ホンダの報告で事実上、二年遅れで実施することが本決まりになった。
ホンダの小型車の一枚看板であるシビックは、引き続き国内外で快調に飛ばしていた。小型車の五十一年二月期(この年から年一回決算に変更)販売台数は国内、輸出合わせて三十万台を想定していたが、実際は三十四万五千台となった。
五十年(暦年)の米国市場における販売台数は十万二千台と念願の十万台に乗せ、米国の輸入車市場で、トヨタ、VW、日産に次いで早くも四位に躍進した。
国内は軽乗用車から撤退した反動で、一五%減の二十四万八千台に止まったが、落ち込みは予想より低かった。国内販売台数の面では、まだトヨタ、日産に大きく水を空けられているが、自己資本比率は三一・七%で、すでに日産の二六・九%を上回った。収益力を示す使用総資本経常利益率も六・六%と日産の三・三%を大きく引き離した。二輪車の蓄積を背景に四輪車に進出したホンダだが、四輪車でもようやく一本立ちができるようになった。
ホンダの役員が一つの部屋に集まって物事を決める役員の大部屋制は活気にみなぎっていた。軽乗用車からの撤退、小型車の増産のタイミング、国内と輸出の配分、排ガス規制の達成の時期表明などホンダの将来に関わるテーマは、社長の河島を中心に川島、西田、白井の三専務を交えた四人が相談しながら合議制でテキパキと決めていった。集団指導体制は河島が社長に就任する前からスタートしていたが、二人の創業者が退陣してからは完全に定着した。
「三人よれば文殊の知恵」式の集団指導体制の根本にあるのは“ワイガヤ”である。ホンダ独特のこうしたシステムは、役員室のコンセンサスを作る上で何かと便利だった。ワイガヤは役員室が意識的に奨励したこともあり、いつのまにか本社はむろんのこと、営業所、研究所、工場にまで広まっていた。
役員室のワイガヤから実験的ベンチャービジネスの「アクト集団」が生まれた。アクトはACTION(活動)の頭文字からとり、四十七年から四十九年にかけてアクトA(エース)、アクトL(エル)、アクトT(トレーディング)、アクトB(牧場)の四社を設立した。狙いは新分野の開拓にある。
AとLはレジャー産業に関わる新商品の開発が目的で、Aは海洋、Lは陸上とそれぞれ分野を調整している。Aはホンダ独特のアイディアコンテストの入賞作品のアメンボートを商品化した。Lは子供用の乗り物「ローラースルー」を開発、一時は月産十万台に乗せるほどの大ヒット商品となった。
Tは貿易業務で、輸出企業のホンダが国際収支の不均衡をいくらかでも解消するため、見返り輸入を促進するため設立したものだ。Bは社名通り牧場の経営である。ホンダはオートバイや四輪車以外に汎用エンジンを生産しており、農機具にも使われている。農機具に適したエンジンを開発するには、農業の実務を知らなければならない。
「風が吹けば桶屋が儲かる」の連想から牧場経営まで飛躍させたが、最後は飼育した牛の肉を乾燥させ、トレーディングを通じて販売を始めた。むろんトレーディングは牛を飼育する餌を輸入して牧場に販売するので、アクト集団としては「一石何鳥」もの効果があった。
アクト集団はいずれも理念先行型の企業だったせいもあり、武家の商法の道をたどったが、ベンチャー精神を持って新しい流通、新しい市場、新しい商品に挑戦してみようという意気込みだけは社内に伝わった。
アクトの企業展開には、宗一郎・藤沢体制から脱皮するという願いが込められていた。河島はアクト集団が設立される直前、ホンダの社内報の座談会で次のように語った。
「ホンダはこれまで社長(宗一郎)と副社長(藤沢)の偉大な影響力に引っぱられて、驚異的な成長を遂げてきた。ここまで会社が成長すると組織が大きくなり、やがて隅々まで思想が行き届かなくなり、動きも鈍くなる。ホンダは今や大企業ですが、動脈硬化だけは起こしたくないと考えている。もっとフレキシブルな、弾力的な体質を持つ企業にならなければならない」
「企業というのは問題が起きても、それに的確な方法で対処していく限り、間違いなく存続します。これからの時代に要請されるのは、発生した問題をいかにして解決するかということではなく、将来起こりうる事態を先取りし、先手を打って問題の発生を未然に防ぐ組織活動ができる体制を作り上げることです。むろんホンダにはその素地は十分あります」
ホンダの経営は宗一郎と藤沢のツーマン体制から、河島を中心とした集団指導体制へ変わった。
変化の激しい時代の中で、企業が長期にわたって発展するには、時代を先取りしなければならない。社長の河島喜好を頂点とする“ホンダの子供たち”は上級車指向と対米進出で時代を先取りし、オートバイに続き四輪車でも「世界のホンダ」に向かって邁進し始めた。
軽乗用車からの撤退、小型車「シビック」の増強が終われば、次は上級車への進出しかない。シビックの生産は五十年末にはすでにバンを含め月三万五千台に達した。単一銘柄の生産規模としては、トヨタの「カローラ」、日産の「サニー」に肩を並べるところまで成長、七五年の世界乗用車銘柄別のランキングでは、堂々八位にランクされた。
シビックが短期間で台数を伸ばしたのは、低公害CVCCエンジンという聞こえのいい、さわやかなイメージもさることながら、基本的には軽乗用車の「N360」を中心に、百万台近いホンダ車のユーザーの存在が大きかった。
シビックは軽のユーザーを掘り起こすだけで、一定の販売台数を確保できる。だがシビック一車種だけでは、四輪車メーカーとしてはまだ片肺飛行である。シビックの販売余地は大きいが、シビックに飽きたユーザーは、他社の上級車を求める。
販売店にしても軽トラックとシビックだけでは、確かに効率はいいが、成長に限界がある。トヨタの「コロナ」や日産の「ブルーバード」といった大衆車の上のクラスの小型車を持たない限り、早晩、ホンダは壁に突き当たる。フォード車はHISCOで扱うようになったので、既存ディーラーの品揃えには役立たない。
「スピードを競う車を開発したい」
宗一郎はN360で成功した後、自分の夢の実現に向けて、一気にスポーティーカーの「H1300」へ飛んだ。N360は最初に車に乗る人のエントリーカーだったのに対し、宗一郎が心血を注いで開発したH1300は、スピードが売り物のマニア向けの車だった。たとえ成功していたとしても、N360の受け皿にはなり得なかった。
H1300はいってみれば、創業者だから許されたクルマである。親の遺産を受け継いだ子供たちにリスクを伴うクルマの開発は許されない。ましてや個人の趣味で、クルマを作るわけにはいかない。
ホンダは河島が研究所の社長に就任したのを機に、SEDと呼ばれる開発体制を採用した。Sはセールス(販売)、Eはエンジニアリング、Dはデベロップメントの頭文字だ。販売とエンジニアリングとR&Dの人間が一緒になって、最初から終わりまで開発するのである。
クルマ作りに販売担当者が集めた情報が反映されるので、R&Dの独善性が排除されるうえ、エンジニアリングを担当する技術者にコスト意識も生まれる。最大のメリットはユーザーの欲しがるクルマを、安くしかも短期間で作ることができることだ。
上級車指向を持ったシビックのユーザーを確実に吸い上げるには、シビックとコンセプトを共有した車の投入は欠かせない。SEDは“デカ・シビック”のコンセプトを出した。
ホンダの企業イメージは、オートバイだけ取り上げれば、紛れもなく「スピード」を追求する会社である。四輪車もスポーツカーの「Sシリーズ」、軽自動車の「N360」、小型車の「H1300」の時代までは、オートバイのイメージと重なり合っていた。ところが排ガスが社会問題になり、作るクルマもタウンカーの「ライフ」、CVCCの「シビック」と、スピードを抑えた車を売り出し、それがヒットしたことで、企業イメージは変わりつつあった。米国ではホンダといえば、最初からスピードとは無縁の「ファミリーカーを作るのが得意なメーカー」というイメージが定着している。
「研究所でごく短時間で、シビックより一回り大きいクルマを作れないかね。ベースはシビックで構わないんだ」
国内販売担当専務の鈴木正己が、第一次石油危機が一段落したある日、研究所にぶらりとやってきて、エンジンの開発を担当していた川本信彦に持ち掛けた。
“デカ・シビック”を目指した新型車は、米国サイドの意見を最大限取り入れることにしている。ようやくそのコンセプト作りに着手したばかりで、これが固まらない限り、エンジンの大きさが決まらない。エンジンの開発には、最低でも二年はかかる。ところが鈴木の要請はそんな悠長なものでなく、出来れば一年以内にでもというものだった。
「そんなことをいっても無理ですよ。うちにはベースとなるエンジンはないんですから」
川本はにべもなく断ったが、鈴木はそれでも退かない。
「素人考えだが、シビックのエンジンを大きくして使えないだろうか」
こんな仕事はエンジン屋としては、出来ればやりたくない。しかし本社からのそれも販売からの要請とあればむげには断れない。
「分かりました。やるだけやってみましょう」
川本はこう答えて、いやいやながらシビック用エンジンのボアアップに取り組むことになった。シビックの基本排気量は一二〇〇ccで、バンの生産に際してはこれを無理やり一五〇〇ccまで引き上げた。これをさらに一〇〇cc拡大するのである。
「アコード」と名付けられた排気量一六〇〇ccのFF式の小型車は五十一年五月に発売された。アコードというのは「調和」という意味を持っている。スタイルはシビックと同じ二ボックスのハッチバックで、月間販売目標は国内、輸出それぞれ四千台。
「この車はシビックを原点に、乗る人のゆとりと環境との調和を基本テーマに開発したアダルトカーです」
河島はアコードをこう位置づけた。
ところがこの車は、一見してシビックを大きくしただけの単なる“デカ・シビック”に見えた。ただし大きくなった分だけ、居住性や乗り心地は、シビックに比べ一枚も二枚も上だった。ホンダの開発体制を知らないライバルメーカーはほくそ笑んだ。
「あのクルマはホンダが苦し紛れに作った速成の車だ。あれでは他社ユーザーを乗り換えさせるのはとうてい無理だ。アコードはシビックから上級車へ移行しようという自社のユーザーを確保するのが精一杯だろう」
「一台百万円を上回る高級車を売るには、結局販売力がモノをいう。排気量一六〇〇ccクラスの小型車には、時間をかけて築いた独自のファンがいる。ホンダはまだそのことを知らないのではないか」
アコードは確かに短期間で作った車だが、ホンダが小型車メーカーとして、生きていけるかどうかの命運がかかっていた。ホンダもそれを知った上で、販売面でも着々と手を打ってきた。
ホンダの販売体制は全国五十の営業所から全国二千五百店の特約店に卸す独自ルートと二千の業販店の二本立てとなっている。販売店は約四千五百人のセールスマンを抱えているが、平均すると一店当たりのセールスマンは一人しかいない。これではとうていトヨタ、日産のような人海戦術による訪問販売はできない。勢い店頭販売に頼らざるを得ない。販売店の数は多いものの、一店当たりの販売台数が少ないことが難点である。
アコードの販売に際しては、業販店には流さず特約店の中でも比較的規模の大きい五百店で扱うことにした。この選ばれた特約店には店舗拡充資金の借り入れ保証を条件に、一店当たり平均二人のセールスマンの確保を呼び掛けた。
ホンダ自体も三百億円を投じて狭山、鈴鹿の両工場を拡充、五十年末には年間五十万台だった生産能力を、半年後には六十万台に引き上げた。
業界三位グループの中ではマツダがいち早く七十万台を確立、四十八年と四十九年には七十四万台を生産した実績を持っている。三菱も六十万台体制を確立している。ただしマツダは生産能力はあるが、第一次石油危機以降、国内販売、輸出とも極端な不振にあえぎ、五十年には六十四万台まで落ち込んでしまった。
トヨタ、日産に次ぐ業界三位グループの企業は横一線に並び、単独三位の座を目指して、競争は一段と熾烈を極めた。
シビックは国内に先駆け米国で人気を呼んだが、アコードは逆にライバルメーカーの冷ややかな目を尻目に、まず国内で爆発的な売れ行きを見せた。月四千台の販売予定が五月に九千台、六月には一万台の予約注文が入った。輸出分を国内に回してもまだ足りない。六月には早々と生産を五割アップすることを決めた。
といってもおいそれと増産はできない。休日出勤は当然のこととして、例年生産が落ちる八月にはアコードのラインだけは季節労働者を大量に投入して、ホンダとして初めて一日三交替のフル操業を続け、何とか予約注文をこなした。
対米輸出の台数を減らしてまで国内に全力投球したのは、国内の販売基盤がまだ固まっていなかったことによる。その点、米国では多少投入時期が遅れても、必ずヒットするという自信があった。
こうした自信の裏付けは、CVCCのイメージの高さにあった。CVCCがマスキー法七五年規制を、触媒コンバーターを使わずにエンジンの改良だけでクリアするシステムであることは、すでに一般のユーザーにも浸透していた。ユーザーにしてみれば、必ずしも詳しい技術を分かる必要がない。問題は排ガス対策を施しても、なおかつ燃料消費効率が悪くならないかどうかだ。排ガス対策装置も簡単で、しかも安いほどよい。
これを最初に実現したのが、シビックだった。七四年モデルのシビックは米国市場で四万三千台を売った。七五年モデルは七四年秋から発売するが、船積み台数を決める本社とのミーティングの席で、アメホンのマーケティング担当副社長の宗国旨英は大胆な発言をした。
「今の情勢からすれば、七五年モデルは米国市場だけで十五万台は売れる」
聞いている河島以下の役員は、度肝を抜かれた。米国の自動車市場は奥行きが深く、目新しさと多少の話題性があれば、最初の一年間に十万台は売れる。難しいのはそれを維持して拡大させることだ。
本社が多少なりとも気にしたのは、シビックはあくまで国内向けに開発した車で、決して米国市場向けの車でないことだった。CVCCの話題性がどこまで長続きするか。一過性で終われば、これまでの苦労が水泡に帰してしまう。それだけに慎重に対応しなければならない。
だが、宗国は決して大ボラを吹いたわけではなかった。彼はシビックの発売と同時にアメホンの営業マンと別会社となっている研究所の米国現地法人HRA(ホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ)のスタッフを連れて、精力的に全米のディーラーを回った。営業マンがディーラーの経営者と商談を進めている間、HRAのスタッフはこまめに裏方のサービスショップに回り、現場の声を聞き、ユーザーがどんな車を求めているかを把握する。ホンダにとって幸運だったのは、偶然にもシビックのコンセプトと米国のユーザーの要望とが一致していたことだった。十五万台というのはそこから割り出した数字で、根拠は十分ある。
この時期、アメホンは五千万ドルの資本金を七千五百万ドルに増やした。アメホンの売り上げは年間五億九千万ドル、税引き利益は二千六百万ドル(一ドル=三〇〇円換算で約七十五億円)あった。ホンダ本社の半年の営業利益は八十五億円だから、アメホンはほぼそれに匹敵する利益を稼ぎまくっていた。宗国は頭の中で素早く計算した。
「増資資金を四輪車の販売網強化に回せば、年間販売十五万台というのは不可能な数字ではない」
アメホンの高収益はシビックが爆発的に売れたためではない。四輪車はいくら売れても、その利益は宣伝費を始めとする販売促進などに投入しなければならない。高収益の秘密は、利益率の高い大型のオートバイが飛ぶように売れたことにある。
米国のオートバイ市場は、「スーパーカブ」の登場で、それまでの“ブラック・ジャケット”の悪いイメージは一新した。だがこのブームは長続きせず、主力製品は自然と排気量二五〇cc以上の中・大型車に戻り、再びブラック・ジャケットの悪いイメージが頭をもたげつつあった。
石油危機前の米国経済は、ニクソン・ショックの影響で低迷を余儀なくされ、オートバイの販売も不振を極め、在庫は月を追うごとに増え、業界全体で一時百万台を超した。米国の年間需要は百万台前後だから、一年分の在庫を抱えたことになる。
ところが石油危機で情勢が一変した。七四年に入り、「ナナハン」と呼ばれる排気量七五〇ccの大型車が突然、売れ出した。米国のガソリン不足は日に日に深刻さを増し、通勤用に燃費効率の良いオートバイが見直されはじめたのだ。
日本でもそうだが、米国でも大型のオートバイといえば若者の乗る乗り物で、一家の主が乗るには、世間体をはばかる雰囲気があった。家族も危険な乗り物として反対した。しかしガソリンがなくなれば、そうもいっておれない。オートバイの燃費は、四輪車に比べ格段に優れている。
「オートバイならガソリンの消費が少ない。乗用車の代わりに通勤用としてオートバイに乗る」
一家の主にこういわれれば、財布を預かる主婦も反対できない。中年層を中心に大型のオートバイに乗ってみたいという潜在ユーザーは、米国にもかなりいた。これが石油危機を契機に一挙に顕在化した。百万台あった在庫は、またたく間に一掃された。ナナハンの小売価格は一台千八百ドルで、シビックとほとんどかわらない。原価は半分以下だから利益率は圧倒的に高い。客観的にみれば、当時は四輪車の価格が安かったのではなく、オートバイの値段が高かったのだ。
オートバイは基本的に輸送手段ではなく、趣味の範囲に入る製品である。価格が安ければ売れるわけではない。ユーザーは多少高くても気に入れば購入する。「バリュー・フォー・マネー」の代表商品ともいえる。
ホンダは石油危機で、単に四輪車の基盤を作っただけでなく、オートバイの潜在需要を顕在化させ、在庫を一掃、さらにアメホンは高収益を謳歌した。いってみればアメホンの利益はあぶく銭である。ホンダはそのあぶく銭を、本社に送金して税金を納めるよりも、増資という形で現地法人に残す方策を選んだ。
宗国がどんな楽観的な意見を吐いても、ホンダの生産能力からみて輸出台数を一気に十五万台に増やすという提案は、とうてい本社として呑める数字ではなかった。結果的に宗国の強気の見通しは、経営陣に自信を植え付け、軽乗用車からの撤退を決断する引き金になった。
七五年モデルはなんとかやりくりして最終的に十万三千台を供給したが、完売した。翌年も十五万台船積みしたが、玉(製品)不足はいっこうに解消されない。かつてはなり手のないホンダのディーラーだったが、今やホンダ車の販売権を持っているということだけで「アメリカンドリーム」が約束された。
「ホンダ車が本当に米国市場に根を下ろしたのはアコードからです。シビックは低公害車ブームと石油危機で売れた。低公害車が出揃い、石油危機も落ち着けばシビックの販売も一段落する。私はHRAにいて初代アコードの開発に携わりましたが、設計の段階から大ヒットすることを信じて疑わなかった。見た目は確かに“デカ・シビック”だが、私たち開発陣が直接米国のディーラーを回り、シビックに対する消費者の不満をすべて解消すると同時に、消費者がどんな車を求めているかを探り当てたからです」
入交や川本と同じ昭和三十八年に入社したHRA執行副社長の大塚紀元は、自信を持って言い切った。
イラン革命に端を発した七九年(五十四年)の第二次石油危機が、ホンダにさらなる幸運をもたらした。第一次石油危機の学習効果で、パニックこそ起きなかったが、米国民の間に石油が有限であることを周知徹底させる効果があった。ガソリンスタンドには前回通り、長蛇の行列ができたが、ユーザーは諦め切っている。ささやかな抵抗が、燃費の悪いビッグスリーの大型車を捨て、性能のいい日本車に乗り換えることだった。
米国の石油消費量の実に三四%が自動車の燃料として使われている。そうした時に米国ユーザーの意見を最大限に取り入れた「アコード」が登場した。米国のクルマ社会の見直し機運と、ホンダのクルマ作りが高次元のところで融合した。
ともあれ米国市場ではその後、十年にわたり玉不足に悩まされる。ぜいたくな悩みではあるが、その一方で反動も出た。後にアメホンの米人経営幹部が、ディーラーに車を優先的に回す代わり、ワイロを要求するというホンダらしからぬ事件を引き起こしてしまったのだ。
ホンダの四輪車が米国で大成功を収めるキッカケとなったのは、低公害車という時代が要求した車をいち早く開発したからにほかならない。顧客の声を聞き、顧客が欲しがっているものを作るというクルマ作りの原点に沿ったことが成功につながった。
初代アコードはエンジンこそシビックを流用したが、ユーザーの立場に立って作られた初めての車といっていい。米自動車雑誌の「モータートレンド」の七六年年間最優秀輸入車に選ばれ、ここでアコードのサクセスストーリーが確立した。
「仕事でフォードの研究所に行った時、駐車場に売り出したばかりのアコードが置いてあった。フォードの連中は私がいるのも知らずに『ホンダという日本の会社が開発したこの車は、本当に素晴らしい』と褒めていた」
アコードの開発に携わった川本は、この言葉を聞いてホンダが世界のメジャーな自動車メーカーになったことを肌で感じた。
オートバイと初期の四輪車はすべて、宗一郎のカンとひらめきに頼っていたが、ようやく“凡庸の団結”でヒット車を出せるような体制が出来上がった。
[#地付き](以下、下巻へつづく)
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文春ウェブ文庫版
ホンダ神話(上)
教祖のなき後で
二〇〇二年十一月二十日 第一版
著 者 佐藤正明
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