千一夜物語 10
佐藤正彰 訳
目 次
乙女 心の傑作、鳥の代官の物語
バイバルス一世と警察隊長《ムカツダム》たちの物語
第一の警察隊長の語った物語
第二の警察隊長の語った物語
第三の警察隊長の語った物語
第四の警察隊長の語った物語
第五の警察隊長の語った物語
第六の警察隊長の語った物語
第七の警察隊長の語った物語
第八の警察隊長の語った物語
第九の警察隊長の語った物語
第十の警察隊長の語った物語
第十一の警察隊長の語った物語
第十二の警察隊長の語った物語
海の薔薇とシナの乙女の物語
蜂蜜入りの乱れ髪菓子と靴直しの災厄の妻の物語
知識と歴史の天窓
[#この行2字下げ]詩人ドライド、その高邁な性格と高名の閨秀詩人トゥマーディル・エル・ハンサーへの恋
詩人フィンドとその二人の娘、女丈夫日輪オファイラと月輪ホゼイラ
王女ファーティマと詩人ムラキースとの恋の冒険
フジル王の復讐
夫君の品定め
両断者オマル
歌姫空色のサラーマー
押しかけ客
薄命の寵姫《ちようき》
悲しき首飾り
モースルのイスハークと新曲
二人の舞姫
ピスタチオ油のクリームと法学上の難問解決
泉のアラビア娘
しつこさの報い
ジャアファルとバルマク家の最期
素馨王子と巴旦杏姫の優しい物語
大団円
訳註
[#改ページ]
千一夜物語 10
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
[#改ページ]
乙女 心の傑作、鳥の代官の物語
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、平安の都にしてあらゆる歓喜の屋敷と快楽の館《やかた》と才気の花園であるバグダードに、三界の御主《おんあるじ》の御名代にして信徒の主《おさ》、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、その御親友と酌人の間に、酒盃のお相手、お気に入りの友として、指は妙《たえ》なる調べを奏《かな》で、手は琵琶《ウーデイ》の愛人であり、声は鶯にとっての教育であった人、音楽家の王であり、当代の音楽の驚異であった音楽家、奇蹟の歌手モースルのイスハーク・アル・ナディム(1)を、お持ち遊ばしておりました。教王《カリフ》は彼をばこの上ない御寵愛で愛しなされ、御自分の宮殿のうち最も美しい、最も選り抜きの宮殿を住居としてお与えになりました。その屋敷で、イスハークは、教王《カリフ》の後宮《ハーレム》に入れるため、奴隷|市場《スーク》と世界中の取引所から買い求める乙女たちの間で、最も素質のよい若い娘たちに、歌謡の術と音曲を教える役目と任務を帯びておりました。そしてその中の一人が儕輩の間でぬきんで、歌謡と琵琶《ウーデイ》と六弦琴《ジーターラ》の術で他を凌駕するとすぐに、イスハークはその娘を教王《カリフ》の御前に連れて行って、御前で歌わせ演奏させるのでした。もしその娘が教王《カリフ》のお気に召せば、直ちにこれを後宮《ハーレム》に入れました。けれどもあまりお気に召さないならば、イスハーク屋敷の生徒の間にまた戻ることになっておりました。
さて、日々の中の或る日のこと、信徒の長《おさ》はお胸の狭《せば》まるを覚えられて、大|宰相《ワジール》バルマク家のジャアファルと、酒盃のお相手イスハークと、その復讐の御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを召し出されました。一同御手の間に参りますと、御自身が今なされたように、一同も変装せよとお命じになりました。こうして変装いたしますと、一同は単なる市民同士の寄合いと変らぬものとなりました。これにジャアファルの兄アル・ファズルと、学者のユーヌース(2)が、やはり変装して一行に加わりました。こうして皆は見咎められずに宮殿を出て、ティグリス河に達し、船頭を呼んで、バグダードの郊外アル・タフまで行かせました。そしてそこで地に下り、偶然の出会いと思いがけない事件の路上を、当てもなく歩きなさいました。
一同語り合い笑いながら進んで行きますと、一人の白鬚を生やした尊ぶべき様子の老人が、進み寄ってくるのが見えましたが、その老人はイスハークの前に身を屈《かが》めて、その手に接吻しました。イスハークはこれが教王《カリフ》の宮殿に少年少女を口入れしている御用商人の一人とわかりました。そしてイスハークは自分の音楽学寮に新しい一組の生徒が欲しくなる度に、普通申し込むのが、ちょうどこの長老《シヤイクー》だったのでございます。
さてこのとき、長老《シヤイクー》は、イスハークの連れと一緒にいるのが信徒の長《おさ》と宰相《ワジール》ジャアファルと御友人たちであるとは少しも気づかずに、このようにイスハークに近づくと、まず散歩の邪魔をして足をとめさせることを大そう詫びて、付け加えました、「おおわが御主人様、久しい前からお目にかかりたく存じておりました。お屋敷へ参上しようとまで決心しておりました。ところが、アッラーは今日わしをあなた様の御厚情の路上に置いて下さったからには、わしの心にかかっていることを、すぐさま申し上げることと致しましょう。」イスハークは尋ねました、「一体何事かな、おお敬すべき方よ。何をしてあげたらお役に立てるかな。」すると奴隷商人は答えました、「こういう次第でございます。目下わしの奴隷宿所に、すでに大へん琵琶《ウーデイ》に堪能な娘が一人おりますが、これは何しろ天分豊かで、おっつけあなた様の学寮の誉れともなることでございましょう。それというのは、この娘は誰よりもあなた様の立派なお教えを物にすることができましょう。その上、その優美さはこれまた精神《こころ》のさまざまの授かり物の続きでございますれば、あなた様はこの娘を御一見下さり、貴いお耳をしばし貸してその声をお試し下さることを肯《がえ》んじたまうであろうと、存じまする。もしその娘がお気に召せば、万事上々。さもなくば、これをどこぞの商人に売ることにいたしますから、わしとしては、あなた様、ならびにお友達のこの尊ぶべき殿様方におかけしたお邪魔を、今一度お詫び申しさえすれば、事は済むでござりましょう。」年とった奴隷商人のこの言葉に、イスハークはすばやく目配せして教王《カリフ》の御意を伺ってから、答えました、「おお伯父よ、さればわれらより先に奴隷宿所に行ってもらい、それなる娘にあらかじめ知らせて、われわれ一同にお目見えし、声を聞かせる用意をするようにしてもらおう。私の友人方も同道なさるであろうからね。」すると長老《シヤイクー》は承わり畏まって答え、足を早めて姿を消しましたが、一方|教王《カリフ》と御一行は、道を知っているイスハークに案内されて、もっとゆるゆると奴隷置屋のほうに向いなさいました。
さて、この事件はごく普通なこと以外何も変った点がございませんでしたが、しかし御一同は快くこれを受け入れなすったのでした。ちょうど漁師が海のほとりで、いかに些細なものであれ、アッラーがその最初の網の一と打ちに記したもうた運を、ありがたく受けるようにです。そして奴隷宿所に近づくと、高い壁をめぐらし広々とした敷地の建物が見え、それは沙漠の全部族をごく安らかに泊めることもできそうでした。御一行は戸口を越えて、売買に宛てられ、買手の人々が坐る腰掛を周囲にめぐらした大広間にはいりました。そしてその腰掛けにこの方々がお坐りになり、一方先に来ていた老人は、その若い娘を呼びに行きました。
広間のちょうど中央は、その娘のために、イオニアの刺繍《ししゆう》した布で被われた貴重な木材で作った、玉座ようのものが用意され、その足許に金と銀の弦を張ったダマスの琵琶《ウーデイ》が一張置かれておりました。
突然、待たれていた若い娘は、揺れるときの小枝の優美さをもって、はいって参りました。そして一行に会釈をしながら、用意されている玉座の上に坐りました。彼女はさながら真昼の空の天頂に輝く折の太陽のようでございました。そして両手は少しばかり顫《ふる》えておりましたけれど、彼女は琵琶《ウーデイ》を取りあげ、姉が弟を抱くように、それを胸に押しあて、人々の心を奪う序奏を迸り出させました。その直後、別な調子で、意のままになる弦を奏して、詩人の次の詩句を歌いました。
[#ここから2字下げ]
吐息せよ、おお朝よ、汝が漂う吐息の一つ迷い来て、愛する女の地まで達し得むがために。しかしてわが馨《かぐ》わしき挨拶《サラーム》を、懐しく輝かしき群一同に届けよ。
しかしてわが友に告げよ、われはわが心を君への愛の担保に残せりと。わが欲情は恋人らを阻喪せしむるを常とする一切よりも強ければなり。
友に告げよ、君はわが心とわが眼に致命の一撃を与えたりと。されどわが情熱はいよいよ募り昂《たか》ぶりしのみ。
かくてわが精神は、夜ごと恋情に引き裂かれて、わが瞼《まぶた》に、睡眠を命に従わしむる術《すべ》を、忘却せしめたり。
[#ここで字下げ終わり]
若い娘がこの詩句を歌い終わると、教王《カリフ》はお叫びにならずにいられませんでした、「おお祝福された女よ、そちの声とそちの芸の上にマーシャーアッラー(3)。まことに天晴《あつぱれ》であったぞ。」けれども突然変装していらっしゃることを思い出され、正体が判ることを恐れなさって、それ以上何も仰しゃいませんでした。そして今度はイスハークが口を利いて、若い娘を讃めようとしました。ところが、口を開くか開かないうちに、その調べ妙《たえ》なる乙女はつとその座席を立って、彼の許に来て、恭《うやうや》しくその手に接吻して申しました、「おおわがお師匠様、あなた様の御前では人の腕は動かなくなり、お姿を拝しては人の舌は黙し、お顔を合わせては、雄弁は唖《おし》となります。わたくしにつきましては、ただあなた様だけが、面衣《ヴエール》を解くことができるお方でございます。」乙女はこの言葉を言いながらも、その眼は泣いておりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十七夜になると[#「けれども第九百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これを見て、イスハークはいたく驚き、心を動かされて、乙女に尋ねました、「おお貴い乙女よ、なにゆえそなたの魂は悲しみ、そなたの眼を泣かせるのか。いったいそなたは何者か、おお私の知らぬそなたよ。」すると若い娘は答なく眼を伏せましたので、イスハークは、これは人々の前では話したくないのだと覚りました。そこで不審がられる教王《カリフ》に眼で御意《ぎよい》を伺った上で、彼は競売に出される奴隷を買手たちから隔てられるようになっている垂れ幕を引かせて、優しく言いました、「たぶん今度は、そなたは心安らかに自由に、身の上を明かしてくれるだろうね。」
若い娘は、イスハークと二人きりになったと知ると、優美さ溢れる身振りで、その顔の面衣《ヴエール》を掲げ、実際にある姿を現わしました。全く美しく、新月のように白く、双の|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》の上には黒い捲毛が垂れ、透明な真珠母のように清らかな、まっすぐな鼻をし、熟れた柘榴《ざくろ》の果肉に刻まれた口、微笑の窪《くぼ》みのついた顎《あご》を持っておりました。そして面衣《ヴエール》を脱したこの美しい顔の上には、大きな黒い両の眼が、眉毛の二度繰り返される弓形の下で、長々と延びて、今にも顳※[#「需+頁」、unicode986c]を通り越さんばかりでございました。
イスハークはしばらく物も言わずに乙女に見入ってから、前よりももっと優しくこれに言いました、「おお乙女よ、心を許して話すがよい。」すると彼女は、泉の中の水の声にも似た声で言いました、「待つこと久しいのと、わたくしの精神《こころ》の切なさとは、わたくしに昔の面影をなくなさせてしまい、おお、お師匠様、そしてわたくしの流した涙は、わたくしの頬からみずみずしさを洗い流してしまいました。そして昔の薔薇の一輪すらも、そこには咲いておりません。」イスハークは微笑して、その言葉を遮りながら言いました、「そもそもいつから、おお乙女よ、薔薇は満月の面の上に花を開くことになったか。そして何ゆえ、そなたは自分の言葉によって、自身の美しさを貶《おとし》めようとするのか。」彼女は答えました、「今までただ己れ自身のためにしか生きて来なかった美女などは、そもそも何を望むことができましょうか。おおわが殿よ、この奴隷宿所で、数カ月以来日々が過ぎ去りましたが、わたくしは新たな競売の度ごとに、売られまいとの新たな口実を見つけ出そうと工夫を凝らしておりました。それと申しますのは、わたくしはいつもあなた様のお出でと、わたくしの国の野辺にまで名声の広まっている、あなた様の音楽学寮に入れていただくことばかり、待っていたからでございます。」
乙女がこのように話しているところに、その持主の商人がはいって来ました。そこでイスハークはこれに尋ねました、「この娘の代金はいくらお望みかな。それにまず、名は何というのかね。」長老《シヤイクー》は答えました、「名前はと申すに、おおわが御主人様、我らはこの娘をトーファー・アル・クルーブ(4)、『心の傑作』と呼んでおりまする。と申すは、全くのところ、ほかのどんな呼び名もこれには似合うまいからです。またその代価につきましては、娘の眼に惹きつけられて、代る代る現われたお金持の糶手《せりて》とわしとの間で、もう何度も論議されたということを、申し上げなければなりません。それは少なくとも一万ディナールでございます。それにこれまで買手の方々にそれ以上の申し出をさせなかったのは、当のこの娘であることも、言い添えて、御承知おき願わねばなりません。それと申すは、娘の求めに応じて、買いにまかり出なすった方々のお顔を見せてやる度ごとに、娘は当人自身の承諾がなくてはわしが売らないことを心得ていて、わしに言うのでした、『あの方はこれこれしかじかの点で気に入りませんし、もう一人の方は、これこれしかじかのため、とても我慢しきれません。』こんな風にして、結局あの娘は普通の買手を全く自分から遠ざけ、異国の人々を落胆させてしまったのでございます。それと申すは、誰しも皆結局、この娘は自分たちに何か重大な欠点なり瑕《あら》なりを見つけ出すだろうと、前もって知ってしまったからでございました。そして誰一人あえてその無愛想な難癖を平気で受けようとはいたさなんだ。さればこそ、正直なところを申し上げれば、この乙女の奴隷の代価としては、ただの一万ディナールの金額しか御請求申さざるを得ませんが、これではほとんど当方の出費を埋めかねる次第にござりまする。」するとイスハークは微笑して、言いました、「おお長老《シヤイクー》よ、御請求の分にさらに一万ディナールの二倍を加えなさい。さすれば、この娘はおそらく相応の値段に達したこととなろう。」
呆気《あつけ》にとられた商人の前でこのように語って後、彼は付け加えました、「今日にもすぐこの乙女を私の屋敷に連れてきて、われわれの間で取りきめた代価を支払わせることにしてもらおう。」そして彼は感動する乙女にほほ笑みかけてから、商人を残して、教王《カリフ》はじめその他の同行の方々に再び会いに行きました。御一同もうしびれを切らしておいででしたが、彼は起ったことを全部細大洩らさずお話し致しました。そして御一同打ち揃って、奴隷宿所を出て、それぞれ互いの運命の気紛れに従って、散歩を続けたのでございました。
乙女「心の傑作」のほうはどうかと申しますと、その主人の年とった長老《シヤイクー》は、即刻即座にこれをイスハークの御殿に連れて行き、その買値として決められた三万ディナールを受け取りました。そして自分の道に立ち去りました。
すると家の奴隷の小娘たちは、乙女のまわりに寄ってきて、浴場《ハンマーム》に連れて行き、気持よい風呂を使わせて、着物を着せたり、髪を結ったり、首飾りや、指輪や、腕輪や、踝《くるぶし》の環飾りや、金の刺繍をした面衣《ヴエール》や、銀の胸飾りといった、あらゆる種類の装飾品で飾り立ててやりました。その輝き渡る滑らかな顔の美しい蒼白さは、王の庭園の上にかかる第九月《ラマザーン》の月のようでございました。
主人のイスハークは、この新しい輝きのうちにあって、婚礼の日の花嫁よりも自分も心を動かし、人の心をも動かす様子の乙女「心の傑作」を見たとき、よいものを手に入れたと悦んで、心中で言いました、「アッラーにかけて、この若い娘がわが学校で数カ月を過して、琵琶《ウーデイ》と歌の術に一段と磨きがかかった暁には、また自分の心の満足のお蔭で、生来の美しさをすっかり取り戻した暁には、これは教王《カリフ》の後宮《ハーレム》にとって抜群のものを手に入れたことになるであろう。なぜなら、全くのところ、この乙女は決してアーダムの娘ではなく、選り抜きの天女《フーリー》だからな。」
そして彼は、この娘の音曲勉強のため必要な一切を自由に使えるようにせよと命令を下し、音楽宮の滞在があらゆる点で彼女に快いものであるように、百方手を尽せよと申しつけました。そして事はそのとおりになりました。こうして、この乙女にとっては、芸と美の道において万事易々と行なわれることになりました。
さて、日々の中の或る日のこと、折から彼女の仲間、琵琶《ウーデイ》と六弦琴《ジーターラ》の乙女たちは自分たちに当てられている諸所の庭園に全部散らばり、音楽宮はその若い月たちがすっかり空《から》になった際、乙女「心の傑作」は休んでいた長椅子《デイワーン》から立ち上って、ただひとり教場にはいって行きました。そして自分の座席に坐り、首を翼の下におさめる白鳥の仕草で、自分の琵琶《ウーデイ》を胸にぴったりとあてました。以前は蒼白くあんなに無頓着であったのが、今ではその美しさはそっくり残りなく戻っていました。あたかも花壇で、再来の春に際し、冬の死によって頬色褪せた水仙に取って代って、アネモネが咲くようなあんばいでございます。こうして彼女は、人々の眼にとっては魅惑、心にとっては恍惚、これを形作りたもうた御方《おんかた》に向い行く喜悦の歌でございました。
そしてただ独りで、彼女は自分の琵琶《ウーデイ》を歌わせ、木材の胸から、被造物のうち最も逆らう者をも酔わせてしまうような、一連の前奏を発しさせました。次に彼女は音楽家の鳥たちの顫音《トリル》と旋転《ルーラード》を凌ぐ腕前で、最初の旋法に戻りました。それというのも、まことにその指一本一本に、奇蹟が隠れていましたから。
たしかに、イスハークの御殿で、この若い娘が師匠自身と同等の、また立ち勝りさえする腕の持主であろうとは、誰一人思いもかけませんでした。それというのは、かつて奴隷宿所で、感動がこの絶世の乙女の手と声を戦《おのの》かせた日以来、彼女は仲間と同様、イスハークの教えに耳傾けて、それから弾《ひ》きかつ歌いましたが、ただ一人ではなく、全部の生徒と一緒に合奏合唱するだけでしたので、一人で公衆の前で弾くとか歌うとかする機会は、絶えてなかったからでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十八夜になると[#「けれども第九百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
されば、琵琶《ウーデイ》の調べ美しい木材に、この木材が取り出された木に昔群れ住んでいた鳥たちのあらゆる歌声を発しさせ終わると、彼女は頭をあげて、歌いながら、次の詩人の詩句を唇から洩らしました。
[#ここから2字下げ]
およそ伴侶たり得る唯一の女《ひと》を魂の望むとき、何ものも魂を後に退《ひ》かしむること能わじ、運命すらも。
おお、責苦によってわが心を永久に深淵に投げ入れし君よ、わが生命《いのち》をことごとく取りて、君が所有となせ。ただ君の不在の悩みのみわれを打ち倒し、死なしめ得べければ。
君は笑ってわれに言えり、「ひとり妾《わらわ》のみ君の悩める病を癒《いや》し得べし、いかなる医師も君を救え得ざりしも。わが眼差《まなざし》のただ一つだにあらば、君が病む身の薬石として足らむ。
更に幾時、おお酷薄の女よ、君はわが痛手を嘲笑《あざわら》わんとするや。主《しゆ》は、君が嘲笑の投槍の的として、広大なる地上に、われより他に何ぴとも創りたまわざりしにや。」
[#ここで字下げ終わり]
ところで、彼女が歌っている間に、朝から教王《カリフ》のお傍に参っていたイスハークは、召使どもに帰宅を知らせずに、家に戻ってきておりました。そして自宅の玄関にはいるや、歌っている声を聞きつけました。絶妙な、かくも優しい、棕櫚《しゆろ》に挨拶する時の早朝の微風のような、力士の身体に塗る巴旦杏の油よりも、聞く人の精神を元気づける声でございました。
そこでイスハークは、琵琶《ウーデイ》の伴奏にまじったこの声、些かの疑いもなく、地上の声のうちの一つの声ではあり得ず、楽園《アドン》の調べから迸り出た何か絢爛たる妙音に違いないこの声の音調にすっかり感動して、驚愕と同時に感嘆の大きな叫びを挙げずにいられませんでした。若い歌姫トーファはその叫びを聞きつけ、まだ琵琶《ウーデイ》を両腕に抱えたまま、駈けつけました。すると師匠のイスハークが玄関の壁に寄りかかり、片手を胸にあてて、顔色蒼白になって痛く感動しているのを見たので、彼女は琵琶《ウーデイ》を投げ出し、不安で一杯になって師匠のところに駈けつけながら、叫びました、「御身の上に至高者の恩寵あれ、おお、お殿様、して一切の苦患よりの釈放あれ。どうか何の御不快や御不例のございませんように。」するとイスハークはわれに帰って、小声で尋ねました、「誰もいない教場で、弾き歌っていたのは、おおトーファよ、お前であったろうか。」すると若い娘はどぎまぎして、顔を赤らめ、自分には少しも動機《いわれ》のわからない問に対して、何と答えるべきかを知りませんでした。けれどもイスハークがしいて尋ねるので、これ以上黙っていて気を損ねることを恐れ、答えました、「済みません、おお、お殿様、あれはあなた様の端女《はしため》トーファでございました。」イスハークはこれを聞くと頭を垂れて、言いました、「これぞ恥じ入りの日である。おお魂|驕《おご》れるイスハークよ、汝は声と音曲にかけては、自分こそわが世紀の第一人者と信じておったが、この天上の乙女の前では、もはやあらゆる才能を失った一介の奴隷にすぎぬぞ。」
そして感動の極、彼は乙女の手を取り、恭しく唇にあて、次に額に持って行きました。トーファは気が遠くなるのを覚えましたが、それでも急いで手を引っこめるだけの力を出して、叫びました、「御身の上にアッラーの御名《みな》あれ、おお、お師匠様。そもそもいつから、御主人が奴隷の手に接吻なさるようになったのでしょう。」けれども彼はあくまでへり下って、答えました、「お黙り、おお『心の傑作』よ、おお被造物の第一人者よ、お黙りなさい。イスハークはわが師を見つけた、今までは匹敵する者なしと信じていたものであったが。なぜというに、預言者にかけて――この御方《おんかた》の上に祈りと平安あれ。――私は誓って言う、私は今までは匹敵する者なしと信じていたが、今ではわが芸はそなたの芸に比べれば、一ディナール金貨に比べた一ドラクム銀貨にすぎない。おおトーファよ、そなたは卓越そのものだ。私は即刻即座に、そなたを信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードの御許に連れて行こう。その御眼差《おんまなざし》がそなたの上に煌《きら》めけば、そなたはすでに神の被造物の間の女王であるように、女の間の貴女となろう。そうなれば、そなたの芸と美とは聖なるものとなるであろう。さればこそ、そなたに称讃《たたえ》あれ、重ねて称讃《たたえ》あれ、おおわが至上の『心の傑作』よ。そなたの驚嘆すべき運命が、信徒の長《おさ》の宮殿にて選り抜きの席にそなたを坐らせた暁には、そなたは決してそなたの奴隷、溺れたるイスハークをば、記憶から追い払わぬようにだけ、何とぞアッラーのなしたまいまするように。」するとトーファは眼に涙を湛えて、答えました、「おお、お殿様、どうしてあなた様をお忘れ申せましょうか、一切の幸運の源であり、わたくしの心の力そのものでいらっしゃるあなた様を。」するとイスハークはその手を取って、自分を忘れないことを、聖典《キターブ》にかけて誓わせました。そして付け加えて申しました、「さよう、いかにも、そなたの天命は驚嘆すべき天命であり、そなたの額の上には、信徒の長《おさ》のお望みが印されているのが私に見える。されば、教王《カリフ》の御前で、さきほどそなたが自分独りのために歌っていたところを歌ってくれるよう、勝手ながら私に頼ませてくれ。あのとき私は扉の蔭で、そなたの歌を聞いていた。身はすでに天国に予定された人々の中にある思いをしながら。」
そして若い娘の約束を得てから、彼はさらにこれに言いました、「おお『心の傑作』よ、今は最後の好意として、聞かせてもらえるであろうか。そもそもいかなる神秘な事件が相次いで、いやしくも女王たる身が、売ったり買ったりされる奴隷の中に混じってしまうことができたのか。よしんば諸方の鉱山に秘められたあらゆる宝物と、至高のアッラーが地水火風の胸に埋めたもうた地下海中のあらゆる財宝を、この女王の前に積み重ねたとて、到底その身代金を算定することは叶うまいものを。」
トーファはこの言葉を聞くと、微笑して言いました、「おお、お殿様、あなた様の端女《はしため》トーファの身の上は、異様な物語でございます。その身に起ったことは大へん驚くべきものでございます。それと申しますのは、もしそれが針を以って眼の内側の一隅に書かれたならば、それは注意深く読む者にとって教訓ともなるものでございましょうから。いずれ近日、アッラー望みたまわば、わたくしはその物語をお話し申し上げましょうが、それはわたくしの生涯とバグダードに参りました次第の物語でございます。けれども今日のところは、わたくしはマグリブ人の捕虜で、マグリブ人たちの中で暮したということを御承知相成るだけで、御満足下さいまし。」そして付け加えました、「わたくしは信徒の長の御殿にいつなりとお伴《とも》するつもりで、あなた様の御手《おんて》の間におりまする。」
イスハークは元来控え目で心遣い細かい性格であったので、それ以上詳しく知ろうとせがむようなことは致しませんで、立ち上って、手を打ち、この合図で駈けつけた女奴隷たちに、御主人トーファのため外出着を用意せよと命じました。すぐに一同大きな衣裳櫃《いしようびつ》を開いて、ニーシャーブール産の絹の、縞のはいったすばらしい衣服一式を取り出しましたが、これは各種の揮発性の精油の薫《かお》りを焚きしめ、手触りも見た眼にも軽やかな品でした。また同様に宝石箱から、眺めて快い宝石一揃いを取り出しました。そして主人の乙女に、それぞれ色の異なる七枚の襲《かさ》ね着を着せ、宝石を鏤《ちりば》め、シナの偶像さながらに装いました。
こうした世話を終ると、女奴隷たちは乙女の両側に付き添い、右と左から身を支え、一方他の娘たちは、引裾《ひきすそ》の総《ふさ》のついた垂れを腕に載せる役を引き受けました。そして見事な琵琶《ウーデイ》を携えた奴隷少年と一緒に行進の先頭に立つイスハークの後から、一同乙女と共に音楽学寮を出たのでございます。
こうして行列は教王《カリフ》の宮殿に到着して、控えの間にはいりました。イスハークは急いでまず単身|教王《カリフ》の御前に伺候しに行き、礼を交して後、申し上げました、「ここに、おお信徒の長《おさ》よ、私は今日御手の間に、最高の美女たちの間の唯一無二の乙女、その創造者の選り抜きの賜物、奇蹟、天国より脱走してきた女性、わが師にして弟子ならぬ、奇《くす》しき女流歌手トーファ、『心の傑作』を連れて参りました。」するとアル・ラシードは微笑なされて、申されました、「その傑作とはどこにおるのか、おおイスハーク。それは他日、奴隷宿舎にて余の垣間《かいま》見た乙女のことでもあろうか、あの節は買い手の眼には見えず、面衣《ヴエール》を被っておったが。」イスハークは答えました、「まさにあの女でございます、おお殿よ。アッラーにかけて、これは爽やかな朝よりも打ち見るところ爽やかにして、小石の上の水の歌よりも耳に響きよろしゅうございます。」アル・ラシードはお答えになりました、「然らば、おおイスハークよ、これ以上遅滞することなく、朝を、また朝よりも爽やかなるものを、ここに通せ。そして水の音楽、また水の音楽よりも響きよろしきものを、これ以上長く我らに聞かせざることなかれ。それと申すは、まことに、朝は決して隠さるべきでなく、水は歌いやむべきではないからな。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十九夜になると[#「けれども第九百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでイスハークはトーファを呼び出しに行きましたが、一方|教王《カリフ》は彼が今度はじめて、しかもこのように熱烈に、女性歌手を讃めるのを見られて、御心中で驚きなさいました。そしてジャアファルに仰せられました、「これはまことに驚くべきことではないか、おお宰相《ワジール》よ、イスハークが自分自身ならぬ他人について、かくも感嘆して申すとは。これぞ余を茫然のかぎり茫然とさせることじゃ」そして付け加えなさいました、「しかしこの件はどうなることか、われわれはとくと見ると致そう。」
しばらく経つと、そっとその手を取るイスハークに先立たれて、乙女がはいってまいりました。すると信徒の長《おさ》の御眼《おんめ》はその上に煌《きら》めきました。御《み》精神《こころ》はその優美に動かされ、御双眼は肩掛けの翻える絹に似たその魅力ある物腰に悦ばれなさいました。そして教王《カリフ》がじっと見入っていらっしゃる間に、乙女は御手の間に身を屈《かが》めに参り、その顔の面衣《ヴエール》を掲げました。すると、第十四夜の月のごとく、清らかで、まばゆく、白く、晴々としておりました。そして信徒の長《おさ》の御前に出て取り乱していたとは申せ、礼儀、作法、行儀の命ずるところを少しも忘れず、他の誰の声も及ばぬその声で、教王《カリフ》にこう言上して、御挨拶申しました、「君の上に平安《サラーム》あれ、おお、人の子のうち最も高貴の子の御後裔よ、おお、われらの主《しゆ》モハンマード――その上に祈りと平安と選り抜きの恩寵あれ。――その祝福されたる御子孫よ、公正の道を歩む人々のわが家にして隠れ家、三界の公明正大なる判官よ。君の奴隷のうち最も恭順にして最も眼眩みたる者よりして、君の上に平安《サラーム》あれかし。」
アル・ラシードは、かくも心地よい音調で言われたこの言葉をお聞きになって、お胸広がり、清々《すがすが》しくなられて、叫びなさいました、「|天晴れなるぞ《マーシヤーアツラー》、おお完全の鋳造物よ。」そしてさらに注意をこめて乙女を眺め、悦びのあまり飛び立つばかりになられました。そしてジャアファルとマスルールも同じく、悦びのあまり飛び立つばかりになりました。次にアル・ラシードは玉座からお立ちになり、乙女のほうに降りて行かれ、これに近づいて、ごくそっと、その顔の上に絹の小|面衣《ヴエール》を元どおり引き戻しなさいました。これは、この女は今後は御自分の後宮《ハーレム》に属し、そのあるところすべては、今後は信徒のなかの選ばれた女性たちに定められた神秘に属するということを、意味したのでございます。
それが済むと、教王《カリフ》は乙女に坐るように勧めて、仰しゃいました、「おお『心の傑作』よ、そなたはまことに選り抜きの贈物(5)である。されどそなたは、住居を輝かせる来訪と共に、この宮殿に妙音を入らしめてくれるわけにはゆかぬかな。今や我らの眼と同じく、我らの耳はそなたの有《もの》じゃ。」そこでトーファは黒人少年の手から琵琶《ウーデイ》を取って、教王《カリフ》の玉座の脚元に坐り、すぐに最も頑強な耳をも感じさせるばかり前奏しはじめました。その指の奇蹟は小鳥らの喉《のど》にもまして感動させる現実でございました。それから、一同息をこらしているさなかに、彼女は次の詩人の詩句を唇の上に歌わせました。
[#ここから2字下げ]
地平の果てに、若き月己が寝床を出でて、沈み行く真紅の王に突如行き会うとき、
面衣《おもぎぬ》なくして不意に見られしことを深く恥じ、月はその面《おもて》の蒼白を軽き雲の蔭に隠す。
夕べの静かなる空に、己が散歩を続けんと、月は赫々《かつかく》たる支配者《アミール》の姿消ゆるを待つなり。
女王さえも王の近寄りたまう前に、畏怖を制し得ざりしとせば、いかでか若き娘の、直ちに命絶ゆることなく、その帝王《スルターン》の眼差《まなざし》によく耐えんや。
[#ここで字下げ終わり]
すると教王《カリフ》はこの若い娘を愛情と、満足と、優しさをこめて眺められ、その天賦、美声、演奏と歌の妙にすっかり魅了されておしまいになって、玉座を降り、その傍に行って敷物の上に坐りなさって、これに仰しゃいました、「おおトーファよ、アッラーにかけて、そなたはまこと選り抜きの贈物である。」次にイスハークのほうを向かれて、これに仰しゃいました、「まことに、おおイスハークよ、その方これについてわれらに申したすべてにかかわらず、この驚異の女性《によしよう》に対するその方の評価は、十分に正しくはなかったぞよ。なぜと申すに、これは異論の余地なく汝自身を凌ぐと、余は主張して憚らぬからな。教王《カリフ》を措いて、何ぴともこれを正当に認むる筈がないことは、記《しる》されてあったのじゃ。」またジャアファルは叫びました、「御首《おんこうべ》の生命《いのち》にかけて、おおわが殿、仰せのとおりでございます。この乙女は人々の精神を盗む者です。」するとイスハークは言いました、「まことに、おお信徒の長《おさ》よ、私はそれを認めるに何の難色もございません。なにせ初めてこれを聞いた折に、私はすでにきわめてはっきりと、私の芸のすべてとアッラーの私に頒《わか》ちたもうた才能などは、私自身の眼から見てもはや何ものでもないことを、感じたのでありましたから、なおさらでございます。私はその節、叫びました、『おおイスハークよ、今日こそは汝にとって恥じ入りの日であるぞ』と。」すると教王《カリフ》は仰しゃいました、「然らばそれでよい。」
それから教王《カリフ》は、同じ歌をもう一度聞かせるようにトーファに乞われました。そして改めてこれをお聞きになって、悦びの叫びをあげて、そわそわなさいました。そしてイスハークに仰しゃいました、「わが父祖の御功績にかけて、その方は全世界の支配にも匹敵する進物を持ってきてくれたぞよ。」次に感動その極に達せられ、御友人方の前であまりに感情をさらけ出すように見えるのを好まれず、教王《カリフ》は立ち上って、宦官のマスルールに申しつけなさいました、「おおマスルールよ、立ち上って、汝の御主人トーファを後宮《ハーレム》の誉《ほま》れの部屋にお連れ申せ。そして何一つ御不自由なきよう注意いたせ。」閹人御《えんじんみ》佩刀持《はかせもち》は、トーファを伴って退出しました。すると教王《カリフ》は、彼女が羚羊《かもしか》の足取りで、装身具と縞の衣裳を着けて遠ざかるのを両眼を涙で濡らしながら、見つめていらっしゃいました。そしてイスハークに仰しゃいました、「高雅な服装をしておるな。わが宮殿にあれに類した衣裳をついぞ見たことがないが、あれはどこから手に入れたものかのう。」イスハークは申しました、「おおわが殿、わが頭上への君の御寛仁の結果により、君の奴隷より乙女の手に入ったものにござります。私を介して、君よりかの乙女に遣わされた贈物でございます。それに、君の御《おん》生命《いのち》にかけて、世界のあらゆる贈物とても、あの乙女の美しさに比べますれば、もはや無きに等しいのでございます。」すると、鷹揚にかけてはかつて後《おく》れをとったことのない教王《カリフ》は、ジャアファルのほうを向いて、言いつけなさいました、「おおジャアファル、即刻|金庫《かねぐら》より、忠実なるイスハークに、十万ディナールを算《かぞ》えよ。また選り抜きの衣裳部屋の、誉れの衣十着を取らせよ。」
次にアル・ラシードは、面持ち晴々として、お精神《こころ》は一切の憂いから解き放たれて、トーファが御《み》佩刀持《はかせもち》に案内されて行っていた特別の部屋に、お向いになりました。そして乙女の許にはいって、申されました、「そなたの上に安泰あれ、おお『心の傑作』よ。」そして乙女に近づき、神秘の面衣《ヴエール》の蔭で、これを腕に抱きなさいました。かくて新たに拾われた海の真珠のように無疵《むきず》の、清純な処女を見出しなされたのでした。そして乙女に御満足遊ばしました。
この日から、トーファは教王《カリフ》の御心中にきわめて高い地位を占め、片時たりとお傍を離せぬほどでありました。ついには王国の国務一切の鍵を、その掌中にお預けになってしまいさえ致しました。それというのは、彼女に聡明な女性を見出しなされたからでした。彼女は日常の生活のために、月々二十万ディナールと、日夜の用を勤めるために、若い奴隷娘五十名を賜りました。そして贈物や高価な品々など、イラク全土とナイル河流域を買い取れるほどのものを頂きました。
この乙女に対する愛情は教王《カリフ》の御心中に深く刻み込まれてしまって、その番をするのに、もう誰も信用しようとはなされないほどになりました。それで彼女のところから出なさるときには、その特別の部屋の鍵を、御自分の身につけていらっしゃるのでした。そればかりか、或る日などは、彼女が御前で歌っていると、あまりにも熱狂なされて、その手に接吻なさる素振り(6)をなさいました。けれども彼女は一と跳びして後ろに退《さが》ったので、この急な身ごなしのため、自分の琵琶《ウーデイ》を壊してしまいました。そして彼女は泣きました。するとアル・ラシードはこの上なく心動かされなすって、その涙を拭ってやり、顫《ふる》えるお声で、なぜ泣くのかと尋ね、叫びなさいました、「何とぞアッラーは、おおトーファよ、ただ一滴の涙も、そなたのただの一眼からも、決して滴り落ちぬようになしたまえかし。」するとトーファは言いました、「おおわが殿、君が妾《わらわ》の手に接吻なさろうと遊ばすとは、そもそも妾は何者でございましょうか。アッラーとその預言者――その上に祈りと不安あれ。――が妾にこれを罰し、妾の至福を脱れ去らしめたまうことを、君はお望みでしょうか。なぜならば、この世の誰もこのような誉れに到りついた者はございませぬから。」アル・ラシードはこの御返事に満足なさって、仰せられました、「そなたが、おおトーファよ、いかなる真の地位をわが精神のうちに占めているか、そなたに判った今となっては、そなたの心を驚かせたような素振りはもう二度と致すまい。さればそなたの眼を爽やかにして、余はそなたより外に愛せず、そなたを愛しつつ死ぬものと、しかと承知してくれよ。」するとトーファはその足下に伏して、両腕でお膝をかき抱きました。教王《カリフ》は起き上がらせて、これを抱いて、仰しゃいました、「そなたのみが余にとって女王じゃ。そなたはわが伯父の娘、妃《シート》ゾバイダすらよりも上である。」
さて或る日、アル・ラシードは狩猟にお出かけになって、トーファは自分の離れ屋にただ一人、黄金の燭台の下に、薫《かお》りのよい蝋燭《ろうそく》に照らされて坐っておりました。そして一冊の本を読んでいました。すると突然、勾《にお》いのよい林檎《りんご》が一つ、膝の上に落ちて来ました。そこで頭を挙げて、林檎を投げたのは誰かと、戸外《おもて》を見ました。それは王妃《シート》ゾバイダでございました。そこでできるだけ早く、トーファは立ち上がって、恭しく御挨拶《サラーム》をしてから、申しました、「おおわが御主人様、御免下さいませ。アッラーにかけて、もしわたくしが行動自由の身でございましたら、毎日|御許《みもと》に伺って、わたくしの奴隷のお勤めを御嘉納遊ばされますよう願い奉ったでございましょう。何とぞアッラーはわたくし共より、玉歩(7)を決してお奪いになりませぬように。」するとゾバイダは寵姫の部屋にはいって、その傍にお坐りになりました。そのお顔は悲し気で憂わし気でした。そして申されました、「おおトーファよ、あなたの立派な心は私も承知ですから、今の言葉も意外とは思いません。なぜならば、あなたの高潔な心事は自然の賜物です。さてこの私は、信徒の長《おさ》の御命《おんいのち》にかけて、私は自分の宮殿から出て、私の従兄《いとこ》であり夫である教王《カリフ》(8)の妃《きさき》たちや寵姫たちを訪ねに行く習慣は、全くございません、けれども今日は、あなたが王宮にはいって以来、私の陥ったお恥かしい立場をあなたに訴えに参ったのです。事実、私は全く顧みられず、ひからびた側妻《そばめ》の地位に成り下がってしまったものと、御承知下さい。なぜならば、信徒の長《おさ》はもはや私に会いにも見えず、私の消息もお尋ねにならないのです。」そして王妃は泣きはじめなさいました。するとトーファも一緒に泣いて、気を失うばかりになりました。ゾバイダはこれに申されました、「ですから、私は、あなたにひとつお願いをしに参ったのです。それは、私が全く女奴隷の地位に堕《お》ちないために、アル・ラシードが月にただの一夜でよいから、私に与えてくれるよう、計らってくれることです。」するとトーファは王妃の手に接吻して、申しました、「おおわが頭上の冠よ、おおわれらの御主人様、御心が力づけられますため、そしてここに参ったばかりに、御悲しみの因《もと》となりましたわたくしが許されますために、教王《カリフ》におかれましては一夜ではなく、まる一と月をあなた様のお傍で過しなさるよう、わたくしは魂の真底から願う次第でございます。そして願わくは、いつの日かわたくしは、女王様、御主人様の御手の間の、一介の奴隷にすぎなくなりまするように。」
ところが、そうしているうちに、アル・ラシードが狩猟からお帰りになって、まっすぐ寵姫の離れ屋に向われました。ゾバイダ妃は、遠くからそのお姿を見かけ、トーファが執成《とりな》しを約束してから、いそいで逃げ去りました。アル・ラシードははいってくると、微笑を浮べながらお坐りになり、トーファを御自分の膝の上に坐らせなさいました。次にお二人で一緒に食べ、飲み、そして着物を脱ぎました。そのときになってはじめて、トーファはゾバイダ妃のことを話して、自分の心の望みを容れ、今夜直ちにお妃の傍に行かれるようにと哀願いたしました。教王《カリフ》は微笑して、仰しゃいました、「ゾバイダ妃を訪れることがそれほど緊急とあらば、そなたは、おおトーファよ、われわれが着物を脱がぬうちに、話すべきであったな。」けれども彼女は答えました、「このように致しましたのは、次のように申した詩人の言を正しとするためでございます。
[#この行2字下げ] 哀願する女は何ぴとも面《おもて》を被って現わるべきにあらざらむ。全裸にて取《と》り做《な》す女こそ、最もよく取り做すものなれば。」
アル・ラシードはこれをお聞きになると、御満足なすって、トーファをお胸に抱きしめなさいました。そして行なわれたことが行なわれました。その後で、ゾバイダ妃について彼女がお頼みしたことをなさるため、彼女の許を去りなさいました。そして扉を閉めて鍵をかけ、行ってしまわれました。教王《カリフ》については、以上のようでございました。
トーファについては、この瞬間からその身に起ったことは、まことに不思議で驚くべきことでございますから、これはぜひゆるりとお話し申さなければなりません。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十夜になると[#「けれども第九百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
トーファは自分の部屋にただ独りになると、先刻の本を再び取り上げて、読書を続けました。次にいささか疲れを覚えたので、自分の琵琶《ウーデイ》を取り上げて、自分独りのために弾《ひ》きはじめました。それはまことに美しく、生命のない物まで楽しさに踊り出すほどでございました。
すると突然、彼女は本能的に、このとき蝋燭の微光に照らされていた自分の室に、何か普通でないことが起っているのを感じました。そこで振り返ってみると、室のまん中で、一人の老人がひっそりと踊っているのが見えました。その男は目を伏せていて、人品卑しからず、風采は威厳があります。そして恍惚とした舞いを踊っているが、それは人間には誰もとうてい踊れないような舞いでした。
トーファは恐怖に寒気を催しました。それというのは、窓や戸はみな閉めてあって出入口は皆宦官たちに厳重に守られていたのです。そしてかつて王宮でこの奇怪な老人の顔を見た覚えは、全くありませんでした。ですから彼女は心中でいそぎ、悪魔|祓《ばら》いの文句を唱えました、「石打たれし者(9)に対し、至高のアッラーのうちにのがれ奉る。」そして思いました、「たしかに、この奇怪な人物のいることに気がついた様子を見せないことにしよう。それよりか弾《ひ》き続けるとしよう。そうすればアッラーの望みたまうことが起るでしょう。」そこで演奏を途中でやめずに、弾き出した曲を続けるだけの力を出しましたが、指は楽器の上で震えました。
さてひと時ほど経つと、踊手の老人《シヤイクー》は踊るのをやめて、トーファに近づき、彼女の両手の間の床《ゆか》に接吻して、言いました、「まことにお見事であった、おお、東洋と西洋随一讃め称《たた》えらるる方よ。願わくはこの世界は、あなたのお姿と完全さを決して奪われることなかれかし。おおトーファ、おお『心の傑作』よ、あなたはわしを御存じないかな。」すると彼女は叫びました、「いいえ、アッラーにかけて、存じあげません。けれどもあなたは妖霊国《ジンニスターン》の魔神《ジンニー》にちがいないと思います。悪魔は遠ざけられよかし。」すると相手は、微笑しながら答えました、「その通りじゃ、おおトーファよ。わしは妖霊国《ジンニスターン》の全部族の首領《かしら》であり、わしはイブリース(10)である。」トーファは叫びました、「わが上とわが周囲にアッラーの御名《みな》あれ。アッラーのうちにのがれ奉る。」けれどもイブリースは彼女の手をとって、それに接吻し、唇と額にあてて、言いました、「何も恐れることはない、おおトーファよ。なぜなれば、久しい以前より、あなたはわしの庇護を受け、魔神達《ジン》の若い女王カマリヤの最愛の女性じゃ。カマリヤと言えば、美貌の点では、魔神達《ジン》の娘の間で、ちょうどあなた自身がアーダムの娘の間であるところに相当する。事実、知るがよい、もうずっと以前から、わしはこの女王と共に、あなたに気づかれずに、毎夜、あなたを訪れ、あなたに気取られずに、あなたを打ち眺めに来ているのじゃ。それというのは、われらの麗《うる》わしい女王カマリヤは、あなたを狂おしいほど熱愛し、あなたの名と眼にかけてしか誓わない始末じゃ。女王はここに来て、あなたの眠っている間に、あなたを見ると、欲情で融け、あなたの美しさゆえに死なんばかりになられる。そしてあなたの許に来て、あなたには見られずに、あなたの姿を眺めて楽しむ夜を除いては、時間は女王にとって憔悴《しようすい》にすぎぬ。さればわしは使者としてあなたの許に来て、女王の苦悩とあなたから遠く離れている時の憔悴をお伝えし、女王から、またわしからとして、もしおよろしかったら、わしはあなたを妖霊国《ジンニスターン》に御案内申し、魔神達《ジン》の王たちの間で最高位にお就け申すということを、お話しに参った次第じゃ。さすれば、あなたはちょうどここで人間の子らの心を支配しているように、われわれの心を支配なさるようになろう。ところで今日は、事態はあなたの旅に絶好なのじゃ。それと言うのは、我らはわが娘の婚礼とわが息子の割礼を執り行なおうとしているところなのだ。そして祝典は、あなたの御列席で光り輝くことであろう。魔神達《ジン》は御来臨に感動し、皆快くあなたを自分たちの女王と認めるであろう。あなたはお好きなだけいくらでも、われわれの間に滞在なさるがいい。また妖霊国《ジンニスターン》がお気に召さず、絶えざる祭礼の生活であるわれわれの生活になじめなくなられたら、わしはここで誓約します、たっておとめもせず難色も示さずに、お連れした場所にお帰し申しまするわ。」
こうしたイブリースの談義を聞くと――その懲らしめられんことを、――おびえ切ったトーファは、悪魔《シヤイターン》とのいざこざを恐れて、その申し出を思い切ってことわりきれませんでした。そして頭の合図で、「はい」と答えました。するとすぐにイブリースは、トーファの渡す琵琶《ウーデイ》を片手で受け取り、「ビスミラーヒ(11)」と言いながら、今一方の手で彼女自身をつかまえました。こうして彼女を連れて、鍵も使わずに次々と戸を開き、厠《かわや》の入口に着くまで一緒に歩いてゆきました。
ところで、厠《かわや》とか、また時には井戸や用水溜めは、地下の魔神達《ジン》と鬼神《アフアリート》が地上に出てくるために用いるただ一つの場所でございます。そしてこのような動機《いわれ》からして、どんな人間でも悪魔|祓《ばら》いの呪文を唱え、心の中でアッラーのうちにのがれ奉らずには、厠にはいらないのです。そして魔神達《ジン》は便所から外に出て来ると同様、やはりそこから自分たちのところに戻ります。この規則には例外がなく、この習慣に背くということはございません。
ですから、おびえ切ったトーファは、長老《シヤイクー》イブリースと一緒に、厠の前に来たときには、彼女の理性は飛び去りました。けれどもイブリースは、べらべらとおしゃべりをしはじめて彼女をごまかそうとし、便所の大きく開いた穴から、一緒に大地の内奥に降りて行きました。そしてこの難関を無事に越えると、穹窿《きゆうりゆう》形にくりぬいた地下道に着きました。この道を渡り終ると、突然外の、空の下に出ました。その地下の出口には、鞍《くら》を置いた一頭の馬が、乗手も馬子もなく、二人を待っていました。そして長老《シヤイクー》イブリースはトーファに言いました、「ビスミラーヒ、おおわが御主人よ。」それから鐙《あぶみ》を抑えながら、彼女を馬上に乗せましたが、その鞍には大きな背凭《せもた》せがついておりました。彼女ができるだけ一番工合よく馬上に身を据えますと、馬は直ちに彼女の下で波のように揺れ、突如、闇の中に非常に大きな翼を広げました。そして彼女を乗せて空中に舞い上がり、一方|長老《シヤイクー》イブリースは、その横に並んで、自分の力で飛んで行きました。こうしたすべてに彼女はもう恐れのあまり、鞍の上に仰向けに倒れて、気を失ってしまいました。
そして清冽な空気のお蔭で、正気づいたときには、彼女は広々とした草原におりましたが、そこは、美しい色彩で彩られた軽い衣を見る思いがするばかり、花と爽涼の気に充ち満ちておりました。その草原の中央には、一つの宮殿が聳え、空中高く塔がいくつも屹立し、側面には百八十の赤銅の扉がついておりました。その正門の敷居には、美服をまとった魔神達《ジン》の首領《かしら》たちが控えております。
この首領《かしら》たちが長老《シヤイクー》イブリースの姿を見つけると、一同|挙《こぞ》って叫びました、「ほれ姫《シート》トーファが来るぞ。」そして馬が門前にとまるとすぐに、彼らは全部、彼女のまわりに押し寄せて、地に下りるのを助け、その両手に接吻しながら、宮殿に担いで行きました。宮殿の内部には、壁が金で柱が銀の四間つづきの部屋から成る大広間が見えましたが、それを描き表わそうと試みたら、舌に毛が一杯生えてしまうような広間でした。またずっと奥には、海の真珠で趣きを添えられた純金の玉座が一台ありまして、その上に、一同物々しく彼女を坐らせました。そして魔神達《ジン》の首領は、彼女の周囲と足下の、玉座の階段に来て整列しました。彼らは容貌の点では、アーダムの子らと変りませんでしたが、中の二人だけは別で、何とも物凄い顔をしています。それというのは、この二人はそれぞれ顔のまん中に、縦に裂けた目が一つきりなく、猪の牙《きば》のように前に突き出た牙を持っていたのでございます。
めいめい自分の身分に応じて席に着き、一同静粛になると、優雅で美しい若い女王が進み出るのが見えましたが、その面《おも》は広間の身のまわりを明るく照らすばかり、輝かしゅうございました。ほかに三人の妖精のような乙女が、競って身体を左右に揺すりながら、女王の後から歩いて来ました。そしてトーファの玉座の前に着くと、一同優雅な挨拶《サラーム》をもって挨拶しました。それから先頭を進む若い女王は、玉座の階段を登りましたが、一方トーファは階段を下りて行きました。女王はトーファと向い合いになりますと、その双の頬と口の上に長々と接吻しました。
ところで、この女王こそまさに魔神達《ジン》の女王、カマリヤ姫、トーファに恋い焦れる姫でございます。他の三名はその妹で、一人はガムラ、二番目はシャラーラ、三番目はワヒーマ(12)です。
さてカマリヤはトーファに会えたことがもう嬉しくてならず、またもや自分の黄金の椅子から立ち上って、今一度彼女に接吻し、頬を撫でながら、胸に固く抱き締めに行かずにいられないほどでした。
これを見て、長老《シヤイクー》イブリースは笑い出し、叫びました、「さても立派な抱擁かな。ひとつわしものけものにせず、お二人の間に入れて下され。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十一夜になると[#「けれども第九百三十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると大笑いが魔神達《ジン》の集りを揺すりました。トーファも同じように笑いました。すると美しいカマリヤは言いました、「おお姉妹《きようだい》よ、私はあなたを愛します。そして心というものはまことに奥深いものですから、ただ魂しかその証人とすることができません。そして私の魂は、私があなたにお目にかかる前から、すでにあなたを愛していたことを証言してくれます。」するとトーファは躾《しつ》けが悪い女と見られたくなかったので、答えました、「アッラーにかけて、あなた様もわたくしにとって大切な方でいらっしゃいます、やあ、姫《シート》カマリヤ。そしてわたくしはお目にかかってからは、あなた様の奴隷となりました。」カマリヤはこれにお礼を述べて、今一度接吻し、三人の妹を紹介しながら、言いました、「この人たちはわれわれの首長《かしら》たちと結婚しています。」トーファはその一人一人によしなに会釈をしました。すると三人は代る代る彼女の前にお辞儀をしに来ました。
それが済みますと、奴隷の魔神達《ジン》が料理を盛った大盆を持って、はいって来て、食布《スフラ》を広げました。カマリヤ女王はトーファを誘って、自分と妹たちと一緒に、盆のまわりに坐らせましたが、その盆の中央には次の詩句が刻まれておりました。
[#ここから2字下げ]
われはあらゆる種類の料理を載するため作られしもの。
物惜しみせぬことこそわが本領。
されば一物も余すことなく、わが載するものを食したまえ。
最も権勢ある方々の御手《おんて》われを手招きしたまう。
各々方よ、われに示したまえかし、
わけても嗜《たしな》みたまうものの何たるかを。
われはかくも大いなる栄誉に相応《ふさ》う者なり、
わが連ぬる数々の料理のゆえに。
[#ここで字下げ終わり]
一同この詩句を読んでから、料理に手をつけましたが、トーファはすこしも食欲が進みませんでした。それというのは、胸の悪くなるような顔をした二人の魔神達《ジン》の首領の姿が、気になってならなかったからです。それでカマリヤに言わずにいられなくなりました、「あなた様のお生命《いのち》にかけて、おお、お姉様、わたくしの眼はあそこにいる人と、その傍にいるもう一人の人の姿を、もうこれ以上耐えきれません。あの人たちはどうしてあんなに恐ろしいのでしょう、いったいどういう人ですか。」するとカマリヤは笑い出して答えました、「おお御主人様、こちらにいるのは首領アル・シスバーンで、今一人は太刀取りの、大そう偉いマイムーンです。あなたに二人があんなに醜く見えますのは、あの人たちは誇りが強くて、私たち一同やすべての魔神達《ジン》のようにするのを嫌い、自分の最初の姿を変えて人間たちの姿になるのを望まなかったためなのです。それというのは、ここにいる首領たちは全部、平生の状態では、その姿と風采はこの二人と同じものと思し召せ。けれども今日は、あなたを恐がらせないため、皆アーダムの子らの外見をまとって、あなたが皆と親しめ、十分くつろいだ気持でいなさることができるようにしているのです。」トーファは答えました、「おおわが御主人様、本当のところ、わたくしにはあの人たちを眺めることができません。わけてもあのマイムーンは、何て恐ろしいのでしょう。正直のところ、わたくしあの人が恐い。そうです、あの双児《ふたご》のような二人はとても恐うございます。」それでカマリヤは声を立てて笑わずにいられませんでした。すると恐ろしい顔をした二人の首領の一人、アル・シスバーンは、笑っている女王を見て、これに申しました、「なぜそのように笑いなさる、おおカマリヤ様。」すると女王は、アーダムの子らの誰の耳にもわからない言葉で彼に話し、トーファが彼とマイムーンについて言ったことを、説明してやりました。するとこの呪われたアル・シスバーンは、怒り出すどころか、大へんな笑いで笑い出し、最初は激しい暴風雨が広間に吹きこんだのかと思えたほどでございました。
こうして食事は、魔神達《ジン》の首領たち一同の笑いのただ中で終りました。そして皆が手を洗い終えると、葡萄酒の壜が運ばれました。すると長老《シヤイクー》イブリースは、トーファに近づいて申しました、「おお、わが御主人よ、あなたは御臨席下さって、この部屋を楽しくし、この部屋を照らし、美しくして下された。けれども、もしあなたにお声で伴奏しながら、琵琶《ウーデイ》で何かわれわれに聞かせていただけたら、われわれ、女王方と王様方も、どのような感激にひたらずにいないでしょうか。それと申すは、今や夜は来ってすでに出発のためその翼を開いているが、その上そう長い間翼を広げてはおりますまい。されば夜がわれわれの許を去る前に、われわれに恩恵を授けて下され、おお『心の傑作』よ。」するとトーファは答えました、「仰せ承わるは、仰せに従うこと。」そして琵琶《ウーデイ》を取り上げ、実に見事に弾きまして、これを聞く人々には、あたかも船が錨の上に踊るように、宮殿が自分たちと一緒に踊るように思われたのでしたが、これぞ音楽の功徳《くどく》によるものでございました。そして彼女は次の詩句を歌いました。
[#ここから2字下げ]
誓いによってわが誠の友たる卿ら一同の上に平安あれ。
われは卿らに見《まみ》ゆべしと先に言わざりしや、おお、われに見ゆる卿らよ。
われは卿らを咎めん、朝の微風よりも優しく、凍れる清水《せいすい》よりも爽やかなる声もて。
何となれば、わが眼瞼《まぶた》は涙に誠を尽して、ことごとく傷つけらるるなり、わが魂の本来の真心は、これを見る人々には治療となるものを、おおわが友どちよ。
[#ここで字下げ終わり]
魔神達《ジン》の首領連中は、この詩句とその音楽を聞きながら、恍惚とした楽しみにひたりました。そして醜いマイムーン、あの根性曲りは、熱狂のあまり、自分の尻の穴に指を突っこんで、踊り出したほどです(13)。すると長老《シヤイクー》イブリースは、トーファに言いました、「お願いじゃ、調子を変えて下され。快さがわしの心中にはいって、わが血と息をとめてしまったからな。」またカマリヤ女王は立ち上って、両の眼の間に接吻しに来て、申しました、「おお、魂の爽やかさよ。おお、わが心の心よ。」そしてもう一度演奏してくれるように切に頼みました。するとトーファは答えました、「仰せ承わるは、仰せに従うこと。」そして伴奏をつけながら、次のように歌いました。
[#ここから2字下げ]
しばしば、やる瀬なさ募りゆくとき、われは希望によってわが魂を慰《いや》さむ。
もし汝が魂忍耐を知らば、難《かた》き事どもも蝋のごとく柔らかとならん。もし汝諦むれば、遠きものもすべて近づかん。
[#ここで字下げ終わり]
これは実に美しい声で歌われたので、魔神達《ジン》の首領全部が踊り出したほどでした。イブリースはトーファのところに来て、手に接吻して、言いました、「おお絶世の名手よ、歌を今一曲所望するのは、あなたの寛容に付け入ることになるであろうか。」トーファは答えました、「どうして女王《シート》カマリヤが御所望下さらないのでしょうか。」するとすぐに若い女王は駈け寄ってきて、トーファの両手に接吻しながら、申しました、「あなたの上なる私の生命《いのち》にかけて、どうぞもう一度。」トーファは言いました、「アッラーにかけて、わたくしの声は歌い疲れました。けれどももしお望みとあらば、歌わないで、律動《リズム》をつけて朗誦しながら、微風《そよかぜ》と花と鳥の歌(14)を、皆様御一同に朗吟いたしましょう。まずはじめに、微風の歌から吟じましょう。」
そして彼女は自分の琵琶《ウーデイ》を傍らに置いて、魔神達《ジン》の沈黙のただ中と、魔神達《ジン》の若い女王方の魅せられた微笑の下で、彼女は言いました、「これは『微風の歌[#「微風の歌」に傍点]』でございます。」
[#ここから2字下げ]
われは恋人たちの使者、恋ゆえに嘆く人々の歎息を運ぶ。
われは恋う人々の秘密を忠実に伝え、わが聞きたるままの言葉を繰り返す。
われは恋の旅人らに優し。彼らのためわが息吹《いぶき》はさらに心地よきものとなり、われは愛撫と戯れに力を涸らす。
されどわれは恋する者の振舞に則してわが振舞を加減するなり。よき人ならば、馨《かぐ》わしき一吹きにてこれを撫ずるも、悪しき人ならば、うるさき一吹きにてこれを悩ます。
わが戦《おのの》き葉の茂みを揺すれば、恋する者は歎息を禁じ得ず。わがざわめきは彼を撫ずるや、彼は己が苦しみを恋する女の耳に囁《ささや》く。
心地よさと優しさぞわが本領を成すもの、われは白熱する大気の間の琵琶《ウーデイ》のごとし。
わが動きて止まらざるは、いたずらなる移り気のせいならず。わが姉妹、四季の変遷と推移を追わんがためなり。
ひと、われを有益と言うも、われはただ快きのみ。春の季節には、われは北より吹き、かくして木々を繁らしめ、夜を昼と変らざらしむ。
暑き季節には、われは東方に駈け行きて、果実を恵み、木々にその完き美を装わしむ。
秋には、われは南より来って、わが愛児たち果実を完成に達せしめ、賢く熟さしむ。
最後に冬には、われは西方に駈け行く。かくして果実の重荷に疲るるわが友らの肩を軽くし、美しき枝々に生命を保たしむるため、葉を枯らすなり。
花をして花と語らわしめ、収穫物《とりいれ》を軽く揺すり、細流にその銀箔の鎖を与うるは、このわれなり。
椰子《やし》の木に実を結ばせ、恋する女に、己れゆえ燃え立ちし人の心の秘密を明かすは、このわれにして、恋の巡礼者に、最愛の女の天幕《テント》近きを告ぐるは、わが馨《かぐ》わしき息吹なり。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十二夜になると[#「けれども第九百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「さて今度は、皆様がお望みならば、おお、わが御主人様方よ。」とトーファは続けました。「『薔薇の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
われは冬と夏の間に訪れ来る者。されどわが訪れは、夜の亡霊の幻と同じく短し。
わが花開く束《つか》の間をいそぎ楽しみて、時は利剣なることを思い出でたまえ。
われは恋する女の顔色と恋する男の衣服とを、兼ねて持つ。われはわが息吹を吸う者を馨《かお》らしめ、友の手よりわれを受け取る乙女に、未だ知らぬ感動を催さしむ。
われはかつて煩わしきことなかりし客にして、われを長く放すまじとする者は過《あやま》てり。われは鶯《うぐいす》の恋い慕う女なり。
されどわれにあらゆる栄光《はえ》ありとも、噫《ああ》、われはわが姉妹すべてのうち、最も苦難に遭いし身なり。未だ若き頃、われ何処《いずこ》に花開くとも、棘《とげ》は八方よりわがまわりに迫って囲む。
鋭き矢、棘はわが血をわが衣服の上に撒き、これを真紅《しんく》の色に染む。われは永久に手負いの身なり。
さりながら、わが耐え忍ぶすべてにかかわらず、われは儚《はかな》きもののうち最も優雅の者。人われを「朝《あした》の誇り」と呼ぶ。爽やかさに光り輝き、われは自らの美しさをもて身を装う。
されどここに人間の恐ろしき手迫る。葉の繁るわが園のただ中よりわれを摘んで、蒸溜器の獄に投ず。
そのときわが身は溶けて、わが心は焼かる。わが肌は引き裂かれ、わが力は失わる。わが涙流るるも、何ぴとのわれを憐れむなし。
わが身は燃えさかる火の、わが涙は沈没の、またわが心は沸騰の餌食となる。わが滴らす汗はわが苦悩の否みがたき証《しるし》なり。
身を焼く苦しみに窶《やつ》るる人々は、気化するわが魂より慰めを受け、欲望に心乱るる人々は、わが旧《ふる》き衣の麝香《じやこう》をこよなく歓びて吸う。
されば、わが外の美しき人々の許を立ち去るとき、わが内の美質はわが魂と共に人々の中に止まるなり。
かくて、ひと時の色香より寓喩を取り出し得る瞑想家は、わが花咲いて園を飾りし時を、惜しむことなし。されど恋人らは、この時の永久に続かむことを願うらん。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、おお、わが御主人様方よ、もし皆様のお望みとあらば、『素馨《ヤースミーン》の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
悲しむをやめよ、おお、われに近づく各々方御一同よ、われは素馨《ヤースミーン》なり。わが星々は蒼天に煌《きらめ》く、鉱山の白銀よりも白く。
われは女神の胸より直接生まれて、女たちの胸の上に休ろう。われは頭上に挿《かざ》す絶妙の装飾なり。
われを伴侶に酒を用い、憔悴の裡に時を過ごす者を嘲笑《あざわら》え。
わが色は樟脳のある証拠なり、おお、わが殿方よ、またわが香は、もろもろの香の母。これによって、われは遠くにありても、今なおここにあり。
わが名、ヤースミーンは謎を呈す。この謎の真意は心霊生活の修練士には悦ばれざるを得ず。
この名は異なる二語より成る。すなわち絶望[#「絶望」に傍点]と誤謬[#「誤謬」に傍点]なり。さればわれは、わが言葉なき言語において、絶望とは誤謬なることを意味す。かるがゆえに、われはわれと共に幸福をもたらし、至福と喜悦を予告す。
われは素馨《ヤースミーン》。しかしてわが色は樟脳のある証拠なり、おお、わが殿方よ。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『水仙の歌(15)』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
わが美はわれを酔わすことなし。何となれば、わが眼は憔悴し、われは調子よく身を揺すり、わが出生は高貴なればなり。
常に花々のほとりにあって、われはこれに見入るを好む。月光を浴びてこれと語り、われは、終始彼らの友なり。
わが美はわが伴侶らの間に、われに首位を与うるも、しかもわれは彼らの下僕《しもべ》なり。さればわれは、何ぴとなりと望む者に、奉仕の責務の何たるかを教えん。
われは腰に服従の帯を巻き、よき下僕《しもべ》として立って控う。
われは他の花々と共に坐ることなく、わが客の方に頭《こうべ》を挙げず。
われはわが香を吸わんと望む者にかつてこれを惜しまず、われを摘む手にかつて逆らわず。
われはわれにとって純潔の衣服たるわが花杯《うてな》にて、絶えず喉《のど》を潤《うるお》す。翠玉《エメラルド》の茎はわが基部《もとい》となり、金と銀はわが衣を成す。
己が不完全をつらつら思いみるとき、われは忸怩《じくじ》として眼を地に伏するを禁じ得ず。しかして他日わが成らざるべからざるところを沈思するとき、わが顔色は変ず。
さればわれは、わが眼差《まなざし》の卑下によって己が欠点を告白せんとし、わが眼のしばたたくを容赦せられんことを欲す。
わがしきりに頭を垂るるは、水に己が姿を映して己れに見惚れんがためにはあらず、己が末期の惨たる瞬間を凝視せんがためにこそあれ。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『菫《すみれ》の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
われは緑の葉の外套と群青《ぐんじよう》の誉れの衣を身に着くる。われは様子好もしき、いとささやかなるもの。
薔薇は「朝《あした》の誇り」と名乗らば名乗れ。われこそは、朝《あした》の神秘なれ。
されど、わが姉妹薔薇は、まこと羨《うらや》むに値するかな、幸《さち》ある人々の生を生き、己が美に殉じて死するなれば。
このわれは、悲しみに窶《やつ》れ、幼き頃より早くも萎《しお》る。われは喪服を着て生まるるなり。
われ快き生を楽しむ瞬刻《とき》のいかに短きことよ。あわれ、あわれ、われひからびて、葉の衣を奪われつつ、細々と世を送る瞬刻《とき》のいかに長きことよ。
見たまえ。わが花冠開くや直ちに、人来ってわれを摘み、わが根より引き離し、わが成長の果てに達する暇《いとま》を与えず。
このとき、わが弱きに付け入りて、わが愛嬌にも慎しさにも心動かさるることなく、われを荒々しく取り扱う人々もなしとせず。
われはわが傍らにある人々に楽しみを与え、わが姿を認むる人々に悦ばる。さりながら、一日或いは一日の一部さえも経つや否や、すでに人はもはやわれを珍重せず。
われをばこの上なく重んじたる挙句、最低の価にてわれを売り払い、われをば讃めちぎりたる挙句、果てにはわれに難癖をつくるなり。
夕べには、敵意ある天命の作用にて、わが花弁《はなびら》はめくれよじれて萎《しお》る。朝《あした》となれば、われは蒼白となって萎《しな》び果つ。
わが薬効を知る好学の士われを拾うは、この時なり。わが助けを得て、彼らは諸病を遠ざけ、苦しみを鎮め、潤いなき気質を和らぐ。
生新なれば、われは人々にわが香りの快さ、わが花の魅力を楽しましめ、干からびては、われは人々に健康を取り戻さしむ。
されど人の子の間には、わが内なる美質を知らず、わが賢慮を探るを怠る者のいかに多きか。
とはいえ、かくのごとき反省の資料は、われを研究して学ぶところあらんと努むる瞑想家に呈するなり。そはわが在り方は、理性の声を聞く人々の注意を引きとむればなり。
されどわれはかくもしばしば見損わるるを自ら慰む、小さき茎につくわが花は、翠玉《エメラルド》の兜をかぶる精兵ら、槍に青玉《サフアイア》を飾り、その槍をもて、巧みに敵の首級を挙ぐる軍隊にも似たるを見て。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、もし皆様方のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『睡蓮《すいれん》の歌』を吟じましょう。このようでございます。」
[#ここから2字下げ]
わが性はもと怖《お》じやすく内気なれば、われは裸にて空中に生くる決意をなし得ず、人目を避けて水中に身を隠すなり。かくして、わが汚れなき花冠によって、われは見さするよりもむしろ察せしむ。
恋する人々はわが教訓に貪るごとく耳傾け、われに対して斟酌《しんしやく》を用い、慎重に振舞えよかし。
水中の場所はわが安らいの床なり。われは澄みて流るる水を好み、朝《あした》も夕べも、冬も夏も、これを離れざるがゆえなり。
何たる稀代のことぞ、この水に対する愛に悩み、われは水を慕ってやまず、欲情の焼けつく渇きに責められて、到る処に付き従う。
かかること見しためしありや、水中にありながら、最も熱烈なる渇きに身を苛《さい》なまるるを覚ゆるとは。
日中、陽光の下、われはわが金色《こんじき》の萼《がく》を開く。されど夜来って地を包み、水上に広がれば水波はわれを引き寄す。
わが花冠は垂れ下り、われは乳母の胸に埋まりて、わが緑と水の巣深く引き籠り、わが孤独の想いに立ち戻る。
何となれば、わが花萼は夜の水中に没して、そのとき、油断なき眼《まなこ》のごとく、己が幸福を成すものを凝視すればなり。
軽率なる人々はもはやわが在処《ありか》を知らず、わが隠れたる幸福を思いもかけず、いかなるやかまし屋ももはや来ってわれを悩まし、われをわが爽やかなる愛人より遠ざくることなし。
且つ、わが欲望われをいずこに運ぶとも、わが愛人はわが傍《かた》えにあり。もしこれにわが身を燃やす熱気を和らげよと乞えば、すなわちその甘き液もてわが喉を潤《うるお》す。これに隠れ家を求むれば、欣然その胸を開いて、われを匿《かく》まう。
わが存在はこの女《ひと》の存在に結ばれ、わが生命は、この女のわが許に留まる限り続く。
ただこの女《ひと》によってのみ、われは完成の最終段階に達し得、ただこの女の美質にのみ、われはわが徳を負う。
わが性はもと怖《お》じやすく内気なれば、われは裸にて空中に生くる決意をなし得ず、人目を避けて水中に身を隠すなり。かくして、わが汚れなき花冠により、われは見さするよりもむしろ察せしむ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十三夜になると[#「けれども第九百三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「さて今度は、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『においあらせいとうの歌(16)』を吟じましょう。」
[#ここから2字下げ]
時の循環《めぐり》はわが最初の色を変じて、三つの異なる色合いを作りしが、これぞわが多様の趣きを成すものなり。
第一は恋の病の黄色き衣服をつけて現わる。第二は不在の悩みによって生ずる、不安の白き衣をまとって人目に映ず。第三は恋の悲しみの青き面衣《ヴエール》の下に立ち現わる。
われ白きときは、輝きもなく香りもなし。されば嗅覚はわが花冠を軽んじて、人来ってわが色香を敝《おお》う面衣《ヴエール》を剥《は》ぐことなし。
されどわれは、かくのごとく顧みられざるを悦ぶ。これを自ら望みたればなり。われはわが秘密を入念に隠し、わが香を己が裡に秘め、わが宝を丹念に潜めて、欲望も眼《まなこ》も楽しむを得ざらしむ。
われ黄色きときは、これに反し、誘惑せんものと心に期すなり。その意を抱きて婀娜《あだ》めきし風姿を取る。朝な夕な麝香《じやこう》のごときわが匂いを放ち、朝夕の薄明の時、わが馨《かぐ》わしき息を洩らす。
われを咎むることなかれ、おお、わが姉妹よ、われ欲望に駆られて、わが情熱を微風《そよかぜ》の息吹に托すとも。己が秘密を裏切る恋する女は罪あるにあらず。恋情の激しさに敗れしなり。
されどわれ青きときは、昼の間わが熱情を抑え、忍耐づよくわが苦しみをこらえ、わが心の香を発散することなし。
われを愛する人々にすら、わが好む神秘を陽光の遮るときには、われは何事も答えず。わが魂の秘密を彼らに明らかにすることなく、わが香気によってわが所在を洩らすことさえせず。
されど、夜その蔭をもてわれを包むや、われは友らにわが宝を示し、われと同じ苦しみを忍ぶ人々に、わが悩みをかこつ。
わが友らの坐る園に、酒盃の巡《めぐ》るとき、われはわが番には、われ自身の心中の酒を飲む。
そのとき、時機われによしと見ゆれば、われは夜の発散を放ち、深く愛する友との差向いと同じく甘き香を撒ず。
またそのとき、もし人わが姿を求め、われを優しく愛撫せば、われはいそいそと誘いに応じ、つれなき心たちのわれを苦しめしことなど、かこたず。
ああ、恋人たちが逢引きの時と選び、恋する女は差し延べし腕《かいな》の中に悶絶する暗闇を、われは愛す。わが香りよき愁訴《しゆうそ》を吐いて風にまかせ、わが裸身を隠す面衣《ヴエール》の類を脱ぎ去り、香りなきわが姉妹たちに、わが薫香の敬意を呈することの叶う暗闇を、われは愛す。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、おお、わが御主人様方よ、もし皆様のお望みとあらば、『羅勒《めぼうき》の歌』を吟じましょう。」
[#ここから2字下げ]
わが姉妹よ、わが住む園を君ら競いて飾るべき時とはなりぬ。われに命令を下して、乞い願わくは、われを君らの陪食者とせよ。
わがみずみずしく花車《きやしや》なる葉は、わが稀なる美質を君らに告ぐ。われは細流の友なり。われは月光の下に語り合う人々と秘密を共にし、最も忠実なる秘密の保管者なり。
われをば陪食者とせよ、おお、わが姉妹よ。舞踊は楽器の音なくしては楽しきを得ざると同じく、好もしき人々の精神は、われ在らずば興じ得ざるべし。
わが胸は、人々の心底にまで滲み入る貴き香りを秘む。われは楽園に入る選ばれし人々に約束せらる。
われは先に君らに言えり、おお、わが姉妹よ、われは口軽き者にあらざるを。さりながら、君らおそらくは噂に聞きしならん、わが同族の一員に、密告者の薄荷《はつか》あるを。
されど願わくは薄荷を咎むることなかれ。その撒き散らすは、ただ己れ自身の香のみにして、己が身に係わりある秘密のほか口外するにあらず。
己れのことに口軽き者は、人より打ち明けられし秘密を明かす者と同視さるるを得ず、密告者なる悪名に値せず。
そはともかくも、われは薄荷とは近親の縁《えにし》によってつながるにはあらず。これをよく考えよ、わが姉妹よ。われは細流の友なり。われは月光の下の恋人たちの秘密を知り、忠実なる保管者なり。
わが住む園を君ら競って飾るべき時とはなりぬ。われに命令を下して、乞い願わくは、われを君らの陪食者とせよ。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、おお、わが御主人様方よ、もし皆様のお望みとあらば、『加密爾列《カミツレ》の歌(17)』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
もし汝表徴を解すを得ば、立ちて、汝に差し出されし表徴より利を得に来たれ。然らずば、眠れ、汝は自然を解読し得ざる者なれば。されど、敢えて言わざるを得ず、汝の無智は大いに罪深きものなり。
わが花咲く日々は、いかでか心地よきものならざらんや。今やわれ野を美しく飾り、わが美はさらに優しく、さらに快よき時期とはなりぬ。
わが白き花弁《はなびら》は遠くよりわれを見分けしむるに役立ち、わが円き黄色き花心は花冠に静かなる物憂さを印す。
わがこの二種の色合いの差異は、聖典《コーラン》の或るものは明るく、或るものは暗き唱句に存する差異にも、比《たぐ》え得るなり。
年毎に起るわが表面《うわべ》の死と、運命によってわが忍ぶ苦悩との、隠れし意味を、引き出すことを知れ。
わが咲き誇る花によって野辺は魔法にかけらるるとき、汝はしばしばわれを眺めに来れり。そのしばらく後、再び来たりしも、汝はもはやわれを見出さざりき。汝は解せざりき。
されば、わが苦しき嘆声、わが姉妹なる鳩の方へと昇るとき、汝はこの呻吟を悦びの歌と聞き、欣然として、わが花を鏤《ちりば》めし芝生の上にて遊び楽しみぬ。噫《ああ》、汝は解せざりき。
わが白き花弁《はなびら》は、遠きよりわれを見分けしむるに役立つものを、さるを汝は。汝はわが快活とわが悲哀を弁別し得ざるこそ、口惜しけれ。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、おお、わが御主人様方、もし皆様のお望みとあらば、『ラヴァンドの歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
おお、嬉しきかな。花壇を飾る花の数にわれの入らざるは。われは卑賤の手中に陥る恐れなく、軽薄なる言説を蒙る憂いなし。
わが姉妹なる草木の風習《ならい》に反し、自然はわれを小川より遠く離れて生《お》いしむるなり。われは耕されし所と開けたる地を好まず。
われは野育ちの身。人里を離れ、わが住家《すみか》は沙漠と僻地《へきち》なり。われは群衆に立ち混じるを好まざるゆえ。
何ぴともわれを種蒔《たねま》き、われを育つることなければ、何ぴともわれに加えし配慮の恩義を忘れたりと、われを咎むるなし。繋縛《けばく》なければ、われは自由なり。奴隷と都会人の手は、かつてわれに触れたることなし。
されど、もし汝アラビアはネジド(18)に来らば、そこにわれを見出すべし。かしこに、蒼白き人々の住居より遠く離れ、広々としたる平原はわが幸福を成し、羚羊《かもしか》と蜜蜂との交際《まじわり》はわが唯一の楽しみなり。
かしこに、味苦き苦艾《にがよもぎ》はわが孤独の妹なり。われは隠者と瞑想家の愛人。われはハガル(19)を慰め、イスマーイールを癒《いや》したり。
繋縛なければ、われは自由にして、町々の市場に曝《さら》されて売らるることなき高貴の血統の娘らと同じなり。
放蕩者はわれを求むることなし。されど揺がざる計画を抱いて、脚を露《あら》わにし、わが茎|一本《ひともと》を|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》につけ、速き駿馬《しゆんめ》に飛び乗る者のみ、われを尊重す。
わが出生地、ネジドの沙漠に汝のあらんことをわれは願う、朝《あした》の微風わがほとりの谷間をさまようとき。
わが爽やかにして馨《かぐ》わしき香は、孤独なるベドゥイン人を匂わし、わが貞淑なる呼気は、わが傍らに憩《いこ》う人々の嗅覚を悦ばす。
されば、駱駝曳く荒くれ男も隊商《キヤラヴアン》の人々にたまたまわが稀なる美質を述ぶることあらば、可憐の情を籠めてわがことを語らざるを得ず。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、皆様のお望みとあらば、おお御主人様方よ、終りに『白頭翁《アネモネ》の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
もしわが内にしてわが外に叶うならば、われは嘆いてわが姉妹らの境遇を羨むに及ばざるものを。
人は絶えずわが衣服の豊かなる色合いを誉めそやし、処女の頬を称《たた》うる最大の讃辞は、わが淡紅色《ときいろ》に似たりと云うにあり。
さりながら、わが姿を見る者はわれを侮《あなど》る。宴《うたげ》の広間を飾る花瓶にわれを挿さず、わが色香に讃辞を呈する人なく、わが姉妹らの受くる敬意にも、われの与《あずか》ることなし。花壇には末席のほかえられず、われをば全く除外するにすら到る。われは視覚と嗅覚に同時に容れられざるもののごとし。
わが上に悲しきかな。この際立つ無関心の原因はそも何か。噫《ああ》、噫《ああ》、思うに、そはわが心の黒きがゆえか。
されど運命の判定に逆らって、われ何をかなし得んや。わが内は欠点に満ち、わが心は黒くとも、わが外は美ならざらんや。
われは戦うをあきらむ。わが上に悲しきかな。もしわが内にしてわが外に叶うならば、われは嘆いてわが姉妹らの境遇を羨むに及ばざるものを。わがすべての不幸は、思うに、わが心より由来するか。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十四夜になると[#「けれども第九百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「さて、微風《そよかぜ》と群芳の歌を終って今度は、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、わたくしは『鳥の歌』を幾篇か吟じましょう。まず初め『燕《つばくら》の歌』はこうでございます。」
[#ここから2字下げ]
われ露台や家々を住居とし、かくして木々の窪みや小枝に住まうわが同類の鳥たちと別れてあるは、
われより見れば、異国人の身分より好ましきはなければなり。されば、われは人間に立ち混じる。そは彼らはわが種にあらざるゆえにして、またまさしくわれ彼らの間にあって異国人たらんがためなり。
われは常に旅人として生き、かくして教養ある人々と共にあるを楽しむ。祖国より遠く離れてあれば、人は常に好意をもって懇《ねんご》ろに迎えらるるものなり。
一軒の家に居を定むるとき、われはその住人に敢えていささかも累を及ぼすことなし。われは小川のほとりより取り来る材料をもって、そこにわが小房を建つるのみ。
われはその家の人員を殖《ふや》すことにはなれど、彼らの食料を分かち与えよとは求めず。そのゆえは、われは人気なき場所にわが糧《かて》を求めにゆけばなり。
されば、わが家の主人たちの有するものを使わざるよう意を用うるがため、われは彼らの親愛をかち得るなり。何となれば、われもし彼らの糧に与《あずか》らんと欲さば、彼らは己が住居にわれの入るを許さざるべし。
彼ら相|集《つど》うときは、われは彼らの傍らにあれども、彼ら食事をしたたむるときは、われは遠ざかる。何となれば、われの配分に与るを望むは、彼らの美質にして、彼らの饗宴にはあらず。わが求むるは彼らの長所にして、彼らの小麦にはあらず。彼らの友情を望みこそすれ、彼らの穀物にはあらず。
されば、われは細心に人々の有するものを使わざれば、人々の親愛を手に入れ、かくてわれは、胸に抱き締めらるる孤児のごとく、彼らの住居に受け入れらるるなり。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『梟《ふくろう》の歌(20)』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
人われを知恵の師と言う。噫《ああ》、人は果して知恵を知るや。
知恵と平安と幸福は、隠棲の裡にしか見出されず。少なくとも、そこにこそこれらに遭遇する多少の可能性もあるなれ。
われは生まれ落つるや、世を退く。何となれば、ただ一滴の水も急流の源となると同じく、社会は災厄の源となるなり。さればわれはいまだかつてそこにわが福楽を置きしことなし。
きわめて古きどこぞの廃墟の窪みこそ、わが孤独の住居。かしこにて、伴侶、友人、近親より遠く離れ、われは苦悩を避け得、羨望《せんぼう》者を恐るる要もなし。
われは豪壮なる宮殿を薄倖《はつこう》の者どもに委ねて、その邸宅となさしめ、美味なる佳肴《かこう》を憐れむべき富者どもに委ねて、その身を養わしむ。
わが厳しき孤独の裡に、われは反省し瞑想することを学びたり。わが霊魂はわけてわが注意を惹けり。そのなし得る善と、自らを不義となし得る悪とに、思いを致したり。わが注意をば内的の真の美質に向けたり。
かくしてわれは、喜悦も快楽も永くは止まらず、世界は空無の上に建てられし大いなる空無なることを認めたり。われは晦渋《かいじゆう》に語るも、わが意はわれに明らかなり。説き明かすはきわめて危うき事柄もあり。
われはゆえに、わが同類のわれに期待する権利あるものをも、わが彼らに期待する権利あるものをも忘れ去ったり。われはわが家族と、わが財と、わが国を棄てぬ。城館《しろやかた》の上を意に介することなく飛び過ぎぬ。われは城壁の古き穴を選びぬ。われは己れを採りしなり。
かるがゆえに、人われを知恵の師と呼ぶなり。噫《ああ》、人は果して知恵を知るや。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、もし皆様のお望みとあらば、『鷹の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
いかにも然り、われは寡黙なり。時として、すこぶる陰鬱なることすらあり。いかにも、われはかの己惚れに溢るる鶯にはあらず。その絶え間なき歌は鳥どもを疲らし、その暴言はあらゆる不幸を身に招くなり。
われは沈黙の掟を守る。わが舌の控え目は、けだしわが唯一の長所にして、わが義務の厳守は、けだしわが完き美点なり。
人間により囚《とら》われ来りし以来、われは慎しみ深く、断じてわが思いの奥底を露《あら》わすことなし。わが過去の跡形に涙を垂るるを人の見ること、ついになかるべし。知識こそは、わが旅において求むるものなれ。
さればわが主人も、ついにはわれを愛するに至り、わが冷淡と慎しみにより憎しみを招くを恐れ、わが眼《まなこ》を頭巾をもって蔽えり、「眼《まなこ》を遠く向くることなかれ」との聖典《コーラン》の御言葉《みことば》に従って。
また主人はわが舌を嘴《くちばし》に縛る、「舌を動かすことなかれ」との聖典《コーラン》の御言葉を目指す紐をもって。
最後に、主人は枷《かせ》をもってわれを警《いま》しむ、「血気に逸《はや》って地上を歩むなかれ」との聖典《コーラン》の唱句によって指定せらるる枷なり。
われはかくのごとく縛されて苦しめども、常に黙々として、わが耐ゆる苦痛を零《こぼ》すことなし。
されば永きに亘り頭巾の夜のうちにわが思念を熟さしめて、わが知識は成れり。この時ぞ、国王はわが従僕となり、その王者の手はわが飛翔の出発点となり、王者の手首は傲然たるわが足下にあり。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『白鳥の歌』を吟じましょう。短こうございますけれど、こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
わが欲望のまにまに、われは風、土、水を自在に行く。
わが体は雪、首は百合にして、嘴《くちばし》は金色の琥珀《こはく》の小筐《こばこ》。
わが王者の風格は純白と孤独と威厳より成る。
われは水の神秘と水底の財宝と海の霊宝を知る。
かくて、われは自らの帆によって旅し水上を行けども、砂浜にとどまる冷淡なる者は決して海の真珠を採ることなく、苦き泡沫よりほかには望み得ず。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『蜜蜂の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
われは丘々の上にわが家を建つ。われは木々を傷《いた》むることなく取り得るものと、憚らず食し得るものをもって、身を養う。
われは花の上と果実の上に身を置くとも、一個の果実を損ずることも、一輪の花を害《そこ》なうことも絶えてなし。ただ露のごとく軽やかなる養分を取り出すのみ。
わが味よき獲物に満足し、われはわが住居に戻り、己が勤労と、瞑想と、あらかじめ天命の定めたる恩寵に耽る。
わが家は厳しき建築の法則に従って建つ。エウクレイデスその人さえもわが蜂窩の幾何学に感嘆して、学ぶところあらん。
わが蜜蝋と蜜とは、わが学識と労働との結合の産物なり。蜜蝋はわが労苦の結果にして、蜜はわが知識の結実なり。
われはわが恩恵を望む人々に、わが針の苦さを味わわしめし上ならずば、これを授けず。
君もし寓喩を求むとあらば、すこぶる教訓に富む寓喩を呈さん。君はわが軽蔑と痛手の苦さを、隠忍よく耐ゆるにあらざれば、わが寵を享《う》くるを得ざることに、思いを潜めたまえ。
愛は最も重きものをも軽くす。もし君解さば、進み出でよ。然らずば、今あるところに止まれよ。
[#ここで字下げ終わり]
「さてこんどは、おお、わが御主人様方よ、もし皆様のお望みとあらば、『蝶の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
われはわが愛人、焔への恋に永遠に焼かるる恋する男。
欲情と激情に身を焼き尽すこと、これぞわが短き生涯を律する掟。
わが友の虐待も、わが恋を衰えしむるばかりか、ただ募らしむるのみ。かくてわれらの契りの成就を見んとの欲情に駆られて、われはかの女《ひと》へと突進す。
されど友は惨酷にわれを斥け、わが翼の紗《しや》の織物を裂く。否、いまだかつて恋する男にして、わが耐え忍ぶところを耐え忍びしためしなし。
蝋燭はわれに答う。「真《まこと》の恋する男よ、われを咎むるに急なることなかれ。われも君と同じ苦悩を覚ゆるなれば。
慕い寄る男の身を焼き尽すは、何ごとの不思議なけれど、愛さるる女にして同じ運命に遭うとは、まさに驚くに足ることなり。
火はわれを愛す、われ君を愛するがごとく。されば彼の燃ゆる吐息はわれを焼き、われを熔かす。
彼はわれに近づかんと欲し、かくてわれを食《くら》う。愛によってわれと結ばれんと欲するも、われを滅さずしてはその欲望を遂ぐる能わず。
火によってこそ、われはわが住居より引き離されたり、われとわが兄弟なる蜂蜜とは。次いで、われと兄弟とを分け隔て、われらの間に甚だしき距離を設く。
わが光を広げ、焼き、涙を垂るること、これぞわが運命なり。かくてわれは他の人々を照らすため、身を焼き尽すなり。」
蝋燭はわれにかく語りぬ。されど火は、われら両人の方を向いて曰く、
「おお汝ら、わが焔に苦しみ悩まさるる両人よ、何ゆえに嘆くか、汝らは契りの甘き刹那を味わうものを。
われを酌人として、酒|酌《く》む人々は幸いなれ。わが不滅の焔に焼き尽され、自ら進んで死し、愛の掟に従う者の生涯こそ、幸いなれ。」
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十五夜になると[#「けれども第九百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「さて、こんどは、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『鴉の歌(21)』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
然り、われはこれを知る、黒衣をまとい、われは、はしたなき叫びをもって、およそ最も清きものを掻き乱し、およそ最も甘きものを苦からしむるものなるを。
曙《あけぼの》の射しそむる頃にせよ、夜の近づく頃にせよ、われは春の野営地に赴いて、人々を解散に駆り立つ。
もし欠くるなき幸福を見れば、われはその近き終焉《しゆうえん》を宣す。壮麗なる宮殿を認むれば、その差し迫る崩壊を告ぐ。
然り、かかるすべてを人はわれに難じ、しかしてわれはカシェル(22)よりも凶兆にして、ジャデル(23)よりも不吉の者と難ぜらる。われこれを知る。
されど、おお汝、わが振舞いを咎むる者よ、もし汝にして、われのわが幸福を知るごとく、汝の真の幸福を知るとせば、汝もわれのごとく黒衣を以て身を蔽うをためらわざるべし。しかして常に愁嘆《しゆうたん》をもってわれに答うるならん。
されど空《むな》しき快楽、汝の折々を占め、汝の虚栄は知恵の径《みち》より遠く汝を引きとむ。
汝は忘る、汝の誠実なる友とは率直に汝に語る者にして、汝の誤謬《ごびゆう》を汝に隠す者にはあらざるを。また、汝を叱責する者にして、汝を赦す者にあらず、汝に真実を教うる者にして、汝の罵詈《ばり》に復讐する者にあらざるを。
何となれば、汝に諌言を寄する者は何ぴとにあれ、汝の心中に、徳眠るときはこれを目覚まし、有益なる畏怖を吹き込みて、汝をして警戒せしむるがゆえなり。
われはと言えば、喪服を着けて、われらをのがれ行く移ろう生に流涕し、先導者に進行を速めらるる隊商《キヤラヴアン》を認むるごとに、常に呻吟を禁じ得ざるなり。
われはかくて回教寺院《マスジツト》の説教師にさも似たり。説教師の黒衣をまとうは事新しきにはあらず。
されど、悲しきかな、わが予言者の声に答うるは、ただ無言の生なき事物のみ。
おお耳鈍き汝よ、今は眼を覚し、朝雲の示すところを悟れ。地上の人にして、不可見界の何事かを垣間見《かいまみ》んと努むる要なき者はなし。
されど汝はわが言を聞かず、わが言を聞かざるなり。今ぞ知る、われは死人に語ることを。
[#ここで字下げ終わり]
「さて今度は、もし皆様のお望みとあらば、おお、わが御主人様方よ、『戴勝《やつがしら》の歌』を吟じましょう。こうでございます。」
[#ここから2字下げ]
われ愛の使者としてサバア(24)より来りしとき、金色燦然たる王に、青味を帯びし切れ長の眼の女王の文《ふみ》を渡したり。
スライマーン曰《のたまわ》く、「おお戴勝《やつがしら》よ、汝はサバアよりわが心を踊らしむる便りを齎《もたら》せり。」
かくて王はわれに恵み物の限りを尽し、わが頭上にこの愛《うる》わしき冠を置きたまい、爾来《じらい》われはこれを常に戴く。
かつわれに知恵を教えたまえり。かるがゆえに、われはしばしばわが想念の孤独に戻って、その御教えをば、授けたまいしさながらに思い出だすなり。
王は仰せられたり、「心得よ、おお戴勝《やつがしら》よ、もし心にして学ぶに意を用いなば、叡知は事物の隠れし意味を洞察するならん。
もし精神にして善良ならば、真理の徴《しるし》を認むるならん。もし良心にして解するを知らば、容易に吉報を聞くならん。
もし魂にして神秘の作用に開かれてあらば、超自然の光明を受くるならん。
もし内心にして清純ならば、事物の神秘は露《あら》わに出現し、『崇高なる女神』も御姿《みすがた》を見せたまわん。
もし自愛の衣を脱ぎ去らば、もはや人生に障害は存せず、精神は凍れる想念を分泌することなからん。
かくして汝の体質は均衡の度を獲《え》て、霊的健康を成し得、汝は汝自身の医師ともならん。
汝は希望の団扇《うちわ》をもって身を涼しくし、避難の訶梨勒《かりろく》、矯正のセベスタン(25)、配慮の棗《なつめ》、指導の羅望子《ちようせんもだま》を、汝自身のために調合し得ん。
汝は忍耐の乳鉢にて汝を砕き、謙譲の篩《ふるい》にかけて汝を篩《ふる》いて、徹宵の後、朝の独居の裡に、『崇高なる友』と向い合い、霊的薬剤を己れに服用さするを得ん。
何となれば、扉のけたたましき叫び、蠅の飛ぶざわめき、埃《ほこり》の中を舞う虫類の運動より、寓意を抽《ひ》き出すを知らぬ者、
雲の運行、蜃気楼《しんきろう》の微光、霧の色調の示すところを解するを知らぬ者、かかる者は知ある人々の数に入らざればなり。」
[#ここで字下げ終わり]
これらの花鳥の歌を吟じてから、乙女トーファは口をつぐみました。すると宮殿のあらゆる地点から、感激した魔神達《ジン》の歓呼の声が湧き上りました。長老《シヤイクー》イブリースは彼女の足に接吻しに来、女王たちは熱狂の極に達し、涙を流しながら彼女を抱擁しに来ました。そして皆一斉に、手と眼でもって、身振りと合図をしはじめましたが、それは明らかに、「われわれの舌は感嘆の念で縛られ、われわれの口から言葉が出ることができない、」という意味でした。それから一同はそれぞれ自席で拍子《ひようし》をとって、脚を宙にあげながら跳び上りはじめましたが、これは明らかに魔神達《ジン》の言葉で、「まことに美事だ。あなたは上手であった。われわれは驚嘆した。一同お礼を申し上げる、」という意味でした。鬼神《イフリート》マイムーンは、その醜悪な仲間とともども、立ち上って指を尻の穴に入れて踊り出しましたが、これは彼の言葉で明白に、「私は驚嘆の念で逆上した」という意味でした。
するとトーファは、これらの歌と詩が魔神達《ジン》に及ぼした効果を見て感動して、一同に申しました、「アッラーにかけて、おお、わが御主人様方、もし疲れておりませんでしたら、この上さらに、そのほかの馨《かぐ》わしい花と草と鳥についての歌と詩を、吟じてさしあげたでございましょう、わけても『鶯』『鶉《うずら》』『椋鳥《むくどり》』『鶸《ひわ》』『雉鳩《きじばと》』『鳩』『山鳩』『五色鶸《ごしきひわ》』『孔雀《くじやく》』『雉《きじ》』『鷓鴣《しやこ》』『鳶《とび》』『禿鷹《はげたか》』『鷲』『駝鳥』の歌など。またいくつかの動物の歌も吟じたことでございましょう、例えば『犬』『駱駝《らくだ》』『馬』『野驢馬』『驢馬』『麒麟《きりん》』『羚羊《かもしか》』『蟻』『羊』『狐』『山羊』『狼』『獅子』その他たくさん。けれども、|アッラーの思し召し《インシヤーラー》あらば、わたくしたちはまた別な機会に御一緒にお会いいたしましょう。さしあたっては、わたくしは長老《シヤイクー》イブリース様に、わたくしの御主君信徒の長《おさ》の御殿にお連れ戻し下さいますようお願い申します。御主君は、わたくしの身の上を大そう御案じになっていられるにちがいありません。わたくしがお子様の割礼にも、お若い魔女姫《イフリータ》の御婚礼にも出席させていただけないことを、どうぞお許し下さいませ。本当にわたくしにはできないのでございます。」
すると長老《シヤイクー》イブリースはこれに言いました、「まことに、おお『心の傑作』よ、あなたがそんなに早く我らの許を去りたがっていると承わっては、我らの心ははり裂ける。いま少し我らと共に止《とど》まっていただくすべはあるまいか。あなたは我らに甘味《あまみ》を味わわせておいて、それを口中から抜きとるというもの。あなたの上なるアッラーにかけて、おおトーファよ、我らにさらにしばらくの時を恵まれよ。」トーファは答えました、「ほんとうに、それは私の力に余ること。私はぜひ信徒の長《おさ》のお側に帰らなければなりません。それというのは、長老《シヤイクー》イブリース様、地の子らは地上でなければ真の幸福を味わえまいことは、御存じのはず。私の魂は同胞からこのように遠く離れていることを、悲しんでおります。おお皆々御一同様、どうぞこれ以上、わたくしの心に反して、ここにお引き止め遊ばしますな。」
すると、イブリースはこれに申しました、「わが頭上と目の上に。けれどもわしはまずあなたに言っておきたいが、おおトーファよ、わしはあなたの音楽の旧師、感嘆すべきモースルのイスハーク・イブン・イブラヒームを知っておるのじゃ。」次に微笑して、言いました、「そして彼もまた同じくわしを知っておる。それというのは、或る冬の一夜のこと、われらの間に或る事が起ったのじゃ(26)。|アッラーの思し召し《インシヤーラー》あらば、今度はわしもいつか必ずそれをお話ししてあげようが。というのは、あの仁《じん》とわしとの間柄の話は長い話で、あの仁も、わしが教えてやった琵琶《ウーデイ》の指の位置も、わしが世話してやった一夕の乙女のことも、まだ忘れていないに相違ない。しかしあなたが信徒の長《おさ》の御許《おんもと》に戻るのをかくも急いでいるからには、今はこうしたすべてをお話する折ではない。さりながら、あなたが手に一物も持たずに、我らの許を出させるわけにはまいらぬ。それゆえ、わしは琵琶《ウーデイ》の一手を示してあげ、それによってあなたが全世界に名を挙げ、御主君|教王《カリフ》に、なおいっそう寵愛せられるようにして進ぜたい。」すると彼女は答えました、「およろしいようになさりませ。」
そこでイブリースは乙女の琵琶《ウーデイ》をとって、新しい旋法で、すばらしい反覆と、未聞の復奏と、完璧な顫音《せんおん》をつけた一曲を演奏しました。この音楽を聞くと、トーファはこれまで自分の覚えたことは全部誤りであり、長老《シヤイクー》イブリース――その懲らしめられんことを。――から今聞いたことこそ、あらゆる妙《たえ》なる調べの源であり、基礎であるように思えたのでした。そしてこの新しい音楽を、主君信徒の長《おさ》とイスハーク・アル・ナディムに聞かせてさしあげることができると思うと、大そう悦びました。それで自分がまちがえて弾《ひ》かないように確かめるため、今聞いた曲を、それを弾いた当人の前で、自分で繰り返してみたいと思いました。そこでイブリースの手から琵琶《ウーデイ》を取り、彼の調律した最初の調子を頼りとしながら、まことに完璧にその曲を繰り返しました。すると全部の魔神達《ジン》が叫びました、「絶妙だ。」そしてイブリースはこれに言いました、「今やあなたは、おおトーファよ、あなたの芸は最後の極点に達した。さればわしはあなたに、魔神達《ジン》の首領《かしら》全部の副署のある免許状を交付し、それによって地上随一の琵琶《ウーデイ》奏者たることを認め、宣言すると致そう。またこの同じ免状で、わしはあなたを『鳥の代官』に任命しよう。それというのは、あなたが我らに誦してくれた詩篇と、我らに聞かせてくれた歌とは、あなたを並ぶ者なき人とし、あなたこそはまさに音楽家の鳥どもの筆頭たる資格があるからじゃ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十六夜になると[#「けれども第九百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして長老《シヤイクー》イブリースは書記頭を呼ばせると、一枚の雄鶏の皮を取りあげて、その場ですぐに、件《くだん》の免状のために、それを整えました。次にその上に、長老《シヤイクー》イブリースの口授するままに、クーファ書体(27)の美しい筆蹟で、申し分のない文言を認《したた》めました。この免状の中で、乙女トーファは今後鳥の代官たること、及び特旨によって、女流|琵琶《ウーデイ》奏者と女流歌手との女帝《スルターナ》に任ぜられる旨、決定され認可せられました。そしてこの免状には、長老《シヤイクー》イブリースの印璽が捺《お》され、その他の魔神達《ジン》の首領と魔神達《ジン》の女王方の印璽によって、副印を捺されました。それが済むと、免状は金の小匣《こばこ》に納められ、威儀を正してトーファに渡され、彼女はこれを受け取って、お礼を述べながら、額に押しあてました。
それからイブリースが周囲の者どもに合図をしますと、すぐにそれぞれ戸棚を背負った荷担ぎ役の魔神達《ジン》がはいってまいりました。彼らはその戸棚をトーファの前に下ろしましたが、その数は十二棹、どれも同じようでございます。するとイブリースはこれを一つ一つ開けて、内容《なかみ》をトーファに見せながら、申しました、「これらはあなたの所有物《もちもの》じゃ。」ところで、第一の戸棚には宝玉がぎっしりと詰まり、第二のものにはディナール金貨、第三のものには金塊、第四のものには細工を施した宝石、第五のものには黄金の枝付燭台、第六のものには砂糖煮の乾果と訶梨勒《かりろく》の乾果、第七のものには絹の下着類、第八のものには脂粉と香料、第九のものには楽器類、第十のものには金の食器、第十一のものには錦の衣類、そして第十二のものにはあらゆる色の絹の衣類が、ぎっしりと詰まっておりました。
トーファがこの十二の戸棚の内容を見終りますと、イブリースは新たに荷担ぎに合図をし、一同すぐに戸棚を再び背負って、トーファの後ろにきちんと整列しました。すると魔神達《ジン》の女王方は泣きながら、鳥の代官に別れを告げに来ました。そしてカマリヤ女王は言いました、「おお私の姉妹よ、あなたは残念ながら私たちの許を去りなさるけれど、せめて、私たちが時々あなたのお住みになっている離れ屋にお訪ねして、人々の精神《こころ》を飛び立たせるお姿で、私たちの眼を楽しませることを許して下さいませ。また、これからは、私が眼に見えないままではおらずに、地上の娘の姿をとり、私の息でお眼を覚ますようにしてほしいと、あなたも望んで下さいね。」トーファは言いました、「親しみこめて心から悦んで、おお私の姉妹カマリヤ様。はい、たしかに、私はあなたのお息で眼を覚まし、あなたが私に寄り添って寝ていらっしゃるのを感ずるのを、嬉しく存ずることでございましょう。」そう言って二人は最後に接吻し、互いに千度も恋人同士の挨拶《サラーム》と誓いをし合いました。
そこでイブリースはトーファの前に来て背をこごめ、自分の首に跨《またが》らせました。そして訣別の言葉と別れを惜しむ嘆息のただ中で、彼は彼女と一緒に飛び立ち、そのすぐ後には、戸棚を背負う荷担ぎの魔神達《ジン》が従いました。そして瞬く間に、一同|恙《つつが》なくバグダードの信徒の長《おさ》の離れ屋に到着しました。イブリースはトーファをそっと彼女の寝床の上に下ろし、荷担ぎたちは十二の戸棚を壁際にきちんと並べました。そして鳥の代官の両手の間の床《ゆか》に接吻してから、一同イブリースを先頭に、来たときと同様、僅かの物音も立てずに引き取ったのでございます。
さて、トーファは自分の部屋で自分の寝床の上で我に返ったときには、どうもここから外に出たことなどなかったような気がいたしました。わが身に起ったことすべては、一場の夢にすぎないように思えました。そこで、自分の感覚が現実《うつつ》であることを確かめようとして、わが琵琶《ウーデイ》を取り上げて、調子を合わせ、帰宅についての詩を即吟しながら、イブリースから教わった新しい旋法で、弾奏してみたのでした。すると離れ屋の警護をしている宦官が、部屋のなかのその弾奏と歌を聞きつけて、叫びました、「アッラーにかけて、これは御主人トーファ様の演奏だぞ。」そして彼は外に飛び出して、ベドウィン人の盗賊の群に追いかけられる男みたいに走り、転んでは起き直りながら、すっかり顛倒して、いつものように信徒の長《おさ》の門口で警備に当っていた宦官の長《おさ》、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールの許に辿りつきました。
彼は宦官の長《おさ》の足許に倒れながら、言いました、「やあ殿様《シデイ》、やあ殿様《シデイ》。」するとマスルールは言いました、「どうしたというのだ。いったいここに何をしに来たのか、こんな時刻に。」宦官は言いました、「大急ぎで、やあ殿様《シデイ》、信徒の長《おさ》をお起こしして下さい。吉報を持ってまいりました。」マスルールは叱りはじめて、言いました、「貴様気が狂ったのか、おおサワーブよ、こんな時刻に御主君|教王《カリフ》様をお起こし申すことが、俺にできると思うのか。」けれども相手は飽くまで譲らず、大声で叫び出しましたものですから、とうとう教王《カリフ》が物音を聞きつけてお目覚めになってしまいました。そして内側からお尋ねになりました、「やあマスルール、なぜそのように外が騒がしいのか。」マスルールは震えながら、答えました、「お離れの警護に当るサワーブめでございます。おおわが殿、ここに会いにまいって、『信徒の長《おさ》をお起こし申せ』と申しまする。」教王《カリフ》はお尋ねになりました、「申したきことは何じゃ、おおサワーブ。」すると宦官はただ、「やあ|お殿様《シデイ》、やあ|お殿様《シデイ》、」と口ごもることしかできません。そこでアル・ラシードは、宮殿の内で御寝《ぎよしん》の夜伽《よとぎ》をしていた若い奴隷娘の一人に、申しつけなさいました、「いったい何ごとか見てまいれ。」
そこでその若い娘は宦官たちのほうに出て行って、離れ屋の警護をしている宦官を中に入れました。ところがこの男はすっかり取りのぼせていて、信徒の長《おさ》を拝しても、御手《おんて》の間の床《ゆか》に接吻することを忘れ、まるで宦官の同輩の一人に話しているみたいに、叫びかけたものです、「ヤッラー(28)、早く、立ち上がれ。御主人のトーファ様が御自分の部屋で、歌ったり琵琶《ウーデイ》を弾いたりしていらっしゃるぞ。さあ、早く、聞きに来い、おお男よ。」教王《カリフ》は呆気《あつけ》にとられ、一語も仰しゃることができずに奴隷を見守りなさいました。すると奴隷は言いました、「俺の初めに言ったことが聞えなかったのか。俺《おい》らは気ちがいじゃないぜ、アッラーにかけて。御主人のトーファ様が御寝所に坐って、琵琶《ウーデイ》を弾いたり歌ったりしていらっしゃるんだと、俺は言っているんだぜ。早く来い。いそぎな。」するとアル・ラシードは立ち上って、手当り次第に触れた衣服を大急ぎで召され、宦官の言葉など一語もお判りにならなかったけれど、これに仰しゃいました、「汝に禍いあれ。何を言っておるのか。汝の御主人|姫《エル・シート》トーファのことなど、憚りもなく余に申すとは何ごとじゃ。汝の御主人は戸も窓も全部締めきってあったのに、自分の室から姿を消してしまったのを、汝は知らぬのか。何事も知らぬことなきわが宰相《ワジール》ジャアファルは余に断言した、この失踪《しつそう》は不自然なことであり、魔神達《ジン》と彼らの呪術の仕業であると、そして魔神達《ジン》に攫《さら》われた人間どもが再び戻ってくるということは、通常全く見られぬところだということを、汝は知らぬか。汝に禍いあれ、おお奴隷め、汝の黒い脳味噌の中で見た奇怪な夢のために、憚りなくも汝の主君を呼び起こしに来るとは。」すると宦官は申しました、「夢も見なかったし、気をゆるめもしませんでしたし、空豆を食ったわけでもございません。だからまあお立ち下さいませ、私も立ち上れるように。そしてたんと切ないお苦しみのあと、絶世のハウワーの娘(29)を見にお出で下され。」教王《カリフ》はともかくも、宦官サワーブのまごうかたなき発狂ぶりを御覧ぜられては、声高く大笑なさらずにはいられませんでした。そしてこれに仰しゃいました、「もし汝の言葉が真《まこと》ならば、汝の幸福というものであろう。余は汝を自由の身にして、金貨千ディナールを取らせるであろうからな。しかしこのすべてが偽りであったら、それにこれは黒人の夢の結果であるから、偽りにきまっておると、あらかじめ言ってやることができるが、その節は汝を磔刑《はりつけ》に処すであろうぞ。」すると宦官は両手を天に挙げて、叫びました、「おおアッラー、おお庇護者、おお保護の主《あるじ》よ、どうか私の黒い脳味噌の中には、夢も幻もなかったようにして下さいまし。」そして一番に歩き出し、教王《カリフ》の先頭に立ちながら、言いました、「耳は聞くため、眼は見るためにござります。ではお出でになって、御自分のお眼とお耳をもって、御覧になりお聞き下されませ。」
そしてアル・ラシードが離れ屋の戸口に着きなさると、琵琶《ウーデイ》の音と歌うトーファの声をお聞きになりました。まさしく彼女はこの時、長老《シヤイクー》イブリースが教えた旋法によって、歌い弾じていたのでございます。それでアル・ラシードは動顛なされ、すでに飛び去ろうとしている理性を辛うじて抑えながら、錠前に鍵を入れなさったものの、御手は戸を開けることを拒むほど、震えておられました。しばらくしてやっと、勇気を振いなさり、開いた扉に身を寄せかけつつ、中におはいりになりながら、仰しゃいました、「|アッラーの御名によりて《ビスミラーヒ》、悪魔は懲らしめられよかし。われは呪術を避けてアッラーの裡に逃がれ奉る。」
トーファは信徒の長《おさ》が、動顛なさり興奮で身を震わしなさりながら、はいって来られるのを見ると、つと立ち上って、お迎えに駈け寄りました。そして御身《おんみ》を両腕に抱えて、わが胸に抱き締めました。するとアル・ラシードはあたかも魂を失いなさるかのように、ひと声叫びをあげて、失神なさり、お頭《つむ》のほうが足よりも先に落ちて、仰向けに倒れてしまいなさいました。トーファは麝香《じやこう》入りの薔薇水を振りかけ、失神から回復なさるまで、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》と額を軽く湿《しめ》してさしあげました。教王《カリフ》はしばらくは、さながら酔った人のような有様でいらっしゃいました。幾条もの涙が頬に沿って流れ、お鬚を濡らしました。完全に意識を取り戻しなさると、ようやく、同じく涙を流す最愛の女の胸に、心ゆくまでお悦びの涙を流すことがおできになりました。お二人の言った言葉と交わした愛撫とは、筆舌に尽しがたいものでございます。そしてアル・ラシードは言いなさいました、「おおトーファよ、そなたの失踪はまことに並々ならぬことであったが、そなたの帰還はなおそれにもまさるものがあり、理解を絶する。」すると彼女は答えました、「御《おん》生命《いのち》にかけて、おお、お殿様、まことにさようでございます。けれども、すべてをお話し申しあげた上で、すべてをお目にかけました節には、殿には何と仰せられることでございましょうか。」そしてそれ以上長くお待たせすることなく、離れ屋に年とった長老《シヤイクー》が音もなくはいってきたこと、イブリースの酔心地の踊り、厠《かわや》から地底に下ったこと、翼のある馬、魔神達《ジン》の住居、魔神達《ジン》の女王方とわけてもカマリヤの美しさ、御馳走と栄誉、花と鳥の歌、イブリースの音楽伝授、そして最後に鳥の代官として交付してくれた免状のことなど、委細お話し申し上げました。それからその御前《おんまえ》に、雄鶏の皮に認められた件《くだん》の免状を、広げて御覧に入れました。次にその御手をとって、例の十二棹の戸棚をその内容《なかみ》と共に、次々にお目にかけましたが、これらは千の舌も述べ尽すことができますまいし、千の帳簿も記録しかねることでございましょう。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十七夜になると[#「けれども第九百三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして後になって|バルマクの子孫《バニー・バルマク》と|アッバースの子孫《バニー・アツバース》との富の源となったのは、実にこれらの戸棚なのでございました。
アル・ラシードにおかれましては、最愛の「心の傑作」との再会をお悦びになって、バグダードの両岸を飾りつけ、火を点《とも》させなさり、豪華な祝宴を催され、それには一人の貧しい人も忘れずに招かれました。そしてこの祝宴の間、今までよりもいっそう高い栄誉と格式に進められたイスハーク・アル・ナディームは、トーファが自身イブリース――その永久に懲らしめられんことを――から習ったものを、感謝の念から旧師に教えるのを忘れなかった歌を、公衆の前で歌ったのでございました。
かくてアル・ラシードと「心の傑作」とは、墳墓の供給者の避け得ざる到来まで、繁栄と愛情の裡に、楽しい生活を送ることを、やめなさらなかったのでございました。
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――「以上が、おお幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「鳥の代官『心の傑作』乙女トーファの物語でございます。」
するとシャハリヤール王は、このシャハラザードの話を、わけても花と鳥の歌と詩、中でも「戴勝《やつがしら》の歌」と「鷹の歌」を、驚嘆の限り驚嘆した。そして心中で思った、「アッラーにかけて、このわが大臣《ワジール》の娘は余にとってまたとなき祝福であった。この女のごとき功績と美質の人間は、死には値しない。されば、この女について最後の意を決するに先立ち、今しばらく、とくと考えねばならぬ。それにこの女はおそらく、余に語るべき他のこれに劣らぬ見事な物語を、いろいろと持ち合わせているやも知れぬ。」そして王はこれまでついぞ感じたことのない昂奮状態にあるを覚えて、突如シャハラザードを胸に抱き締めて、こう言わずにはいられないほどであった。「そちに似た娘たちの祝福されよかし、おおシャハラザードよ。この物語は、そこに含まれたる花と鳥の歌により、また、あれらの詩篇が余を富ませたる大いなる教訓によって、極度にわが心を動かした。されば、おお、わが大臣《ワジール》の操正しく慎ましき娘よ、もしそちがなお余に語るべき、今の物語のごとき物語を、一つ、二つ、三つ、四つ、持ち合わせておるならば、語り始めるに躊躇するなかれ。何となれば、余はわが魂が今宵《こよい》は、そちの言葉によって鎮められ、爽やかにせらるるを覚え、わが心がそちの雄弁によって惹きつけらるるを覚える。」するとシャハラザードは答えた、「わたくしは御主君王様の奴隷にすぎませず、お讃めの言葉はわたくしの功績には過分でございます。けれども、お望みあるからには、わたくしは女たちとか、警察隊長《ムカツダム》とか、その他それに類した事どもについての、いくつかの出来事をお話し申したいとも存じますけれど、わたくしの言葉がいささか自由奔放に亘る節があって、君の御精神と立派な人の道に対する御愛好心を傷つけはしまいかと、それが大そう心配でございます。それと申しますのは、おお当代の王様、人民というものは通常慎しみ深い言語を知らず、その言葉使いは時として礼儀作法の限度を越えることがございますから。それでもし、わが君がさらに先を続けることをお望みならば、わたくしは先を続けまするが、もし口をつぐむことをお望みならば、わたくしは口をつぐみましょう。」するとシャハリヤール王は言った、「いかにも、シャハラザードよ、話して苦しゅうない。何となれば、女どもについてはもはや何ごとも余を驚かす能わず、女どもは曲った肋骨《あばらぼね》に類することを、余は知っているからな。曲った肋骨を真直に矯《た》めようとすれば、さらにいっそう曲らせるばかりとは、周知のこと。強いてなお矯めれば、骨は折れてしまうのじゃ。されば、腹蔵なく話せ。何となれば、知恵分別はわれらより遠く離れて、もはや住んではおらぬのじゃ、そちの知るあの呪われた妃《きさき》の裏切りの行なわれた日以来というものは。」そしてこの最後の言葉が言い出されると、シャハリヤール王の顔は突如曇り、両眼は暗くなり、眉は顰《ひそ》み、顔色蒼白となり、その有様は陰悪な有様となった。ただ昔の災難を思い出しただけで、こうしたことになったのである。それゆえ、不穏な気配しか示さぬこの変化を見て、小さなドニアザードはすぐに気を利かせて叫んだ、「おお、お姉さま、お願いです、早く、先ほど仰しゃった警察隊長《ムカツダム》と女たちについてのお話を、わたくしたちにして下さいませ。そしてこのお育ちよろしき王様のことは、何も御心配なさいますな。女たちは宝石のようなもので、或るものはいろいろと汚点《しみ》や瑕瑾《きず》や欠点があるし、他のものは汚れなく、透明で、あらゆる試練に耐えるものであることを、王様はよく御承知でいらっしゃいます。そして王様は、あなたよりも、またわたくしよりも、よく見分けをつけなさって、宝石と小石を一緒になさらないことがおできになりましょう。」するとシャハラザードは言った、「本当にそのとおり、おお小さな妹よ。ですから、親しみこめて心から、わたくしはわたくしどもの御主君に、アル・マリク・アル・ザヒル・ロクン・アル・ディーン・バイバルス・アル・ブンドクダーリとその警察隊長《ムカツダム》の物語[#「アル・マリク・アル・ザヒル・ロクン・アル・ディーン・バイバルス・アル・ブンドクダーリとその警察隊長《ムカツダム》の物語」はゴシック体]と彼らの身に起ったことを、お話し申し上げましょう。」
そしてシャハラザードは言った。
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バイバルス一世と警察隊長《ムカツダム》たちの物語(1)
語り伝えられまするところでは――さあれ不可見のアッラーは更に多くを知りたまいまする。――昔エジプトの国はカイロの町に、トルコマン人のバハリー族(2)の非常に世に聞えた名族の、豪勇強大な帝王《スルターン》の間の一人の帝王《スルターン》がいらっしゃいました。御名《おんな》を帝王《スルターン》アル・マリク・アル・ザヒル・ロクン・アル・ディーン・バイバルス・アル・ブンドクダーリ(3)と申し上げました。その治下で、回教《イスラーム》は例《ためし》なき光彩を放って輝き渡り、帝国は堂々、東洋の辺境から西洋の遠い果てにまで及びました。そしてアッラーの地の面《おもて》の上、碧空の下、今は欧洲人《フランクびと》やナザレト人の城砦などは何ひとつ立っていず、彼らの王たちはこの帝王《スルターン》の御足《みあし》の敷物になっていました。緑野の上、沙漠の中、水の上には、信徒の声にあらざる声は一として挙がることなく、正道を行く者の歩みにあらざる歩みは、一として聞えることがございませんでした。さても、われわれに正道を示したまいし御方、クライシュ族アブドゥラーの御子の至福者、我らの主にして君なるアフマド・ムハンマド、使徒――その上に祈りと、平安と、最も選りぬきの祝福あれ。――この御方の、永久に祝福されよかし。アーミーン。
さて帝王《スルターン》バイバルスは人民を愛し、人民から慕われておりました。そして、近くも遠くもおよそ人民に関係のあることならば、風俗習慣についてであれ、地方の伝統風習についてであれ、すべてこの上なく関心をお持ちになるのでした。ですから、御自分の御眼《おんめ》をもって万事を御覧になり、御耳をもってお聞きになるのを好まれるばかりでなく、物語をお悦びになり、話家(4)たちの話を聞くのを大いにお悦びになりました。それで役人や警吏やお出入りの人々のうち、過去の事柄を語り、現在の事柄を伝えるに、最も巧みな人々をば、最も高い位にお取り立てになりました。
それゆえ、或る夜、常にもまして、話を聞き啓発されたいお気持を覚えなすったとき、帝王《スルターン》はカイロ市の警察隊長《ムカツダム》全部を集めて、彼らにおっしゃいました、「今宵は、その方たちの知っている最も語るに値する事柄を、語ってもらいたいと思う。」一同は答えました、「われらの頭上と眼の上に。さりながら、わが御主君は、私どもがわが身一身に起ったところを語るのをお望みでござりましょうか。それとも、他人について存じているところを語るのをお望みでござりましょうか。」するとバイバルスはおっしゃいました、「それはなかなか難問じゃ。よって、その方たち各人望むところを随意に語ってよいということにいたそう。但しそれはまことに驚くべきものでなければならぬぞ。」一同答えました、「はい、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、おお御主君様、私どもの精神は、私どもの舌と忠誠と共に、わが君の有《もの》でござりまする。」
最初に話を始めるため、バイバルスの御手の間に進み出たのは、モイン・アル・ディーン(5)と申して、肝臓が女好きのため蝕まれ、心臓が絶えず女の引裾に引っかかっている警察隊長《ムカツダム》でした。帝王《スルターン》の御長命を祈ってから、彼は申しました、「私は、おお当代の王様、わが一身上のことで、職を奉じた初めの頃にわが身に起った、並外れた事件をば、お話し申し上げまする。」
そして彼は次のように述べたのでございます。
第一の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
お聞き下さい、おおわが殿にしてわが頭の冠よ、私が総監アラム・アル・ディーン・サンジャル(6)様の配下として、カイロ市の警察(7)に勤務するようになりました時、私は非常な名声を得まして、あらゆる周旋人や犬や絞首刑者の息子ばかりか、売女の息子さえも、私をこわがり、災いと同じくらい私を恐れ、まるで黄熱病みたいに私を避《よ》けました。そして私が馬に乗って市中を巡回すると、人々はお互い同士私を指さして、私に委細承知の目配《めくば》せをし、一方他の人々は恭々《うやうや》しい挨拶《サラーム》を、両手でもって地上から拾うほどにして、私が通って行くのに敬意を表するのでした。しかし私は彼らのしぐさなど、まるでわが陰茎《ゼブ》を掠《かす》めて行く蠅ほども意に介しません。そして傲然とした魂を持って、わが道を通って行くのでした。
さて或る日のこと、私は代官《ワーリー》邸の中庭に、壁に背をもたせて坐って、わが身の豪《えら》さと勢力を考えておりますと、そのとき突然、最後の審判の判決みたいに、何かずっしりと重い物が、天から私の膝の上に落ちてくるのを見ました。それは一杯詰まって封じてある財布でした。そこでそれを手に取って、開け、中身を着物の襞《ひだ》のなかにあけました。数えてみるときっかり百ドラクムあります、それより一ドラクムも多くも少なくもなく。私は頭の上と身のまわりと、八方を眺めて見ましたが、それを落した人は見当りません。そこでいいました、「可見界不可見界両王国の王者、主《しゆ》に讃《たた》えあれ。」そしてその娘をば父親の懐の中に隠してしまいました。娘についてはこうした次第でございます。
翌日も、私は勤務の関係で前日と同じ場所に行きました。そしてしばらくそこにいると、また何かがずしんと頭上に落ちてきて、私に癇癪《かんしやく》を起させました。それで憤然としてよく見てみると、アッラーにかけて、これまた、一杯詰まった財布で、あらゆる点で、昨日私の胸にかくまう権利を与えてやった、父親の愛嬢のまさしく姉妹《きようだい》でございます。そこで私はそれをも同じ場所に温めにやって、姉さんと一緒にして、世人の不躾けな欲望《のぞみ》に対してその貞操を保護してやることにしました。前日と同じように、私は頭を上げて下げ、首をめぐらして戻し、くるくる廻って停まり、右と左を眺めましたが、しかしこの愛すべき珍客の送り人の跡形《あとかた》を見つけることができませんでした。私は自分に訊ねました、「お前は眠っているのか、眠っていないのか。」そして答えました、「俺は眠っていない。たしかに、アッラーにかけて、眠りは俺の上にない。」そして何食わぬ顔をして、私は着物の裾をからげて、数歩ごとに地に唾を吐きながら、素知らぬていでお屋敷を出ました。
けれども三度目には、私はちゃんと警戒しました。事実、平生われとわが身に感心しながらくつろぐ例の壁のところに着くとすぐ、私は地面に横になって、眠ったふりをし、謀叛《むほん》を起した駱駝《らくだ》の群ほどの音を立てて、鼾をかきはじめました。するとにわかに、おおわが殿|帝王《スルターン》様、一本の手が私の臍《へそ》の上に来て、何かしら探すのを感じました。別に捜索されたって取られるものなど何ひとつないので、私はくだんの手を勝手に、上から下まで商品を探《さぐ》らせておきました。そしていよいよその手が峡間《はざま》のまん中の、狭い路にさしかかったと覚しきとき、私はいきなりその手を掴まえて、いいました、「どこへ行くんだね、おい姉さん。」そして眼を開きながら、その場に起き直ると、この滅びの道に迷いこんだ、金剛石の指環をいくつもはめた優しい手の持ち主は、仙女のような乙女で、おおわが殿|帝王《スルターン》様、笑いを含んでじっと私を見つめているのです。まるで素馨《そけい》のような女です。そこで私はいいました、「お心安く、御昵懇《ごじつこん》に、おおわが御主人様。商人と商品とはあなたの物です。ただ、あなたはどこの花壇の薔薇か、どこの茂みのヒヤシンスか、どこの園の鶯か、ひとつ承わりたい、おお若い娘のなかで一番好ましい娘さんや。」こういいながらも、私は気をつけて手を離さないようにしていました。
するとその乙女は、身ごなしにも声にも少しも遠慮の気配がなく、私に立ち上がるように合図をして、いいました、「やあ|モイン様《シ・モイン》、立ってあとからついていらっしゃいな、もし私が誰で、名前は何というのか知りたいとお思いになるなら。」そこで私は一瞬も躊躇せず、まるでずっと前からのなじみとか、乳兄弟ででもあるかのように、立ち上がって、着物の塵を払い、捲頭巾《ターバン》を正してから、人目を惹かぬよう、十歩さがって後から歩きましたが、しかし一瞬もその女から眼を離さずに行きました。こうして奥まった袋小路の突き当りに着くと、女は私に、心配なく近よって大丈夫という合図をしました。そこで私はにやにやしながら近づいて、時を移さず父親の悴《せがれ》に、女のそばで、空気を吸わせてやろうとしました。そこで馬鹿や阿呆に見えてはいかんと思って、私はくだんの悴を引き出して、女にいいました、「ここにいますぜ、おおわが御主人よ。」ところが女は私をさげすむような様子で見やっていいました、「引っ込めなさいな、おおモイン隊長《ムカツダム》様(8)、風邪《かぜ》をひくといけないから。」そこで私は、承わり畏まって答えてから、いい添えました、「それに異存はない、あなたは御主人様だし、私は恩恵の限りを尽していただいた身だから。しかし、おお正妻の娘さんよ、あなたの気を惹かれるのが、この砂糖煮の太い筋でもなければ、付属品つきの陰茎《ゼブ》でもないとすれば、いったい何だってあなたは、ぎっしり詰まった財布を二つもくれたり、臍《へそ》をくすぐったり、その上、跳ねまわったり襲ったりするのに工合のいい、こんな薄暗い袋小路まで、わざわざ私を連れて来たりしなすったんだね。」すると女は私に答えました、「おおモイン隊長《ムカツダム》様、あなたはこの町で私の一番信用している方で、それだから、私はほかのすべての人をさし置いて、特にあなたを選んだわけなのです。だけれどこれはあなたの思っていらっしゃるのとは、全くちがったわけからなのです。」そこで私はいいました、「おおわが御主人様、どういうわけからであろうと、合点《がつてん》だ。聞かせてください、百ドラクムの財布二つで買いなすった奴隷に、あなたはいったいどんな御用を御所望なんで。」すると女は微笑していいました、「どうかあなたが長生きなさいますように。こういうことなのです。実は、おおモイン隊長《ムカツダム》様、私は或る少女にぞっこん夢中になっている女でございます。その女《ひと》への愛情は私の臓腑《はらわた》のなかで、ぱちぱちはねる火と同じくらいなのです。たとえ私に千の舌と千の心があろうとも、この熱い思いはこれ以上激しくはなるまいというほど、もうこれにつかりきっています。ところが、その崇拝する女というのは、この町の法官《カーデイ》のお嬢さんその人なのです。その女《ひと》と私との間には、起きたことが起きました。それは愛の神秘というものです。そしてその女《ひと》と私との間には、熱烈な契約が、規約により、約束により、誓言によって結ばれていますの。なぜって、その女《ひと》もまた同じくらいの熱情で、私に焦れているのです。それでその女《ひと》は決して結婚はしませんし、またどんな男も決して私にふれることはございますまい。私たちの関係はもうしばらく前から続いて、二人は切っても切れない仲となり、一緒に食べ、同じ冷水壜で飲み、同じ寝床で眠っておりましたところが、或る日、お父様の法官《カーデイ》、あの呪われた鬚《ひげ》が、私たちの関係に気がついて、二人の仲をぷっつりと裂き、お嬢さんを全く独りぽっちにして、私には今後もし自分の家に足踏みしたら、私の手足を折ってやるからというのです。それからというもの、私は崇拝する女《ひと》に会えず、人づてに聞いたことなのですけれど、お嬢さんは、仲を裂かれたためもう気ちがいのようになってしまったということです。それで私はわが心を安らげて、いくらか悦びを返してやりたいためばかりに、あなたにお目にかかりに行こうと決心した次第でございます、おお並ぶ者のない隊長《ムカツダム》様、ただあなただけからしか、悦びと安らぎは来ることができないことを、存じておりますので。」
ところで私は、おおわが殿|帝王《スルターン》様、わが眼の前にいるこの類《たぐ》いない乙女の言葉を聞くと、呆れの限り呆れ返ってしまって、心の中で独りごとをいいました、「おお全能のアッラーよ。いったいいつから、若い女どもが若い男に変り、仔山羊が牡山羊になっちまったのか。別な女に対する一人の女の愛慾や色恋とは、そもそもどんな種類の愛慾で、どんな部類の色恋であることができるのかなあ。いったい胡瓜《きゆうり》は、その栽培に不向きな土地に、どんな工合にして、付属物と一緒に、一と晩のうちに生えることができるのかしらん。」それで私は驚いて両手を打ち合わせて、その乙女にいいました、「おおわが御主人様、アッラーにかけて、私はあなた様の御用件というやつは、とんと解《げ》しかねますね。まずそれを初めから詳しく御説明下さい。というのは、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、普通牝鹿が牝鹿、牝鶏が牝鶏に恋い焦れるなんてことは、ついぞ聞いたことがないからなあ。」すると女は私にいいました、「黙っていらっしゃい、おお隊長《ムカツダム》様。というのは、それは愛の神秘というもので、それがわかるように出来ている人はいくらもいないのです……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十八夜になると[#「けれども第九百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……ただ私は、その法官《カーデイ》のところに忍び入るのに力を貸して下さるよう、あなたを頼みにしているということを、御承知なさるだけで我慢して下さいまし。そうして下されば、永くあなたを忘れない一人の女の感謝を、お購《あがな》いなさるでございましょう。」私はこれを聞くと、この上なく感心して考えました、「ほう、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、おいモインの親方や、お前は今、一人の女から別な女への取り持ちとして選ばれたぜ。こいつは取り持ちの歴史始まって以来、類のない事件だ。なに、かまやしない、遠慮なく引き受けてやれ。」そこで私は金色《こんじき》の乙女にいいました、「私の牝鳩さん、御用件はすこぶる難題です。まあ私はその隣りも近所もてんでわからんけれど、私の承諾は得られた、私の忠勤と共にな。だがあなたの生命《いのち》にかけて、そうしたすべてのことで、いったいどうすればお役に立つのですかい。」女はいいました、「法官《カーデイ》の娘、私の崇拝する女《ひと》のところに、たやすくはいれる便宜を計らって下さればいいのです。」私は答えました、「これは、これは、おお私の雉鳩さん、この私はいったいどこにいて、その法官《カーデイ》の娘はどこにいるのですか、その仕合せ者は。あなたの美しさの真実《まこと》にかけて、その女《ひと》と私とを隔てている距離は、ちっとやそっとじゃありませんぜ。」すると女はいら立った口調で、私にいいました、「おお憐れな方よ、何も私はあなたをその乙女の許にはいらせるほど、分別がないとはお考えなさいますな。アッラーにかけて、そんなことはしはしません。私はただあなたに、計略と策略に向って私が歩いてゆくのに、支えの杖となっていただきたいだけですの。そしてただあなただけが、おお隊長《ムカツダム》様、私の望むことをして下さることができると、私は思いました。」そこで私はいいました、「仰せ承わり仰せに従う。私はあなたの手のうちの盲目《めくら》で聾《つんぼ》の杖ですよ、私の仔羊さん。」すると女は私にいいました、「では承わって従って下さいまし。今夜、私は孔雀《くじやく》のように私の一番美しい着物を着飾って、あなたの外には界隈《かいわい》で誰も私とわからないような工合に顔を包んで、私の恋人のお父様の、法官《カーデイ》の家のそばに坐りに行きます。すると、あなたとあなたの部下の警吏たちは、私の発散する沁み入る匂いに引きよせられて、私のほうに寄ってきて下さるのです。そしてあなたは私のほうに恭しく進み出て、私に訊ねます、『こんな遅い時刻に、たった独り街なかで、何をしておいでですか、おお身分高い貴婦人よ。』私は答えます、『|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、おお勇ましい隊長《ムカツダム》様、私は城砦区の若い娘で、父は帝王《スルターン》の貴族《アミール》の一人でございます。ところが今日私は、私どもの家と区から出て、少々買い物をするため、市中に出かけました。そして欲しいものをば買い求め、注文しなければならないものを注文しおわると、もう遅くなってしまったのでございます。それというのは、私どもの城砦区に着いてみると、もう城門は閉まっていました。そこで誰か御存じの方にお会いして、そのお宅で夜を過ごさせていただこうと思って、また市中に下りてまいりましたが、生憎と、どなたにもお目にかかりません。歴とした身分の娘である私が、夜中に宿もない有様でいるのに困じ果てて、私は何でも法官《カーデイ》様のお屋敷とかいう、このお屋敷の軒先を拝借したいと存じ、ここの敷居に坐りにまいりました。夜が明けたらすぐに両親のところに戻ります。両親はきっと今は私が死んだものとか、少なくとも行方不明になったものと、思っているにちがいありません。』そのときあなたは、おおモイン隊長《ムカツダム》様、あなたは頭がおよろしいから、実際私が贅沢な服装《なり》をしているのを見て、こうお考え下さい、『こんなにきれいで若く、真珠や宝石ずくめの女を、街頭に置き放しにしておくことは、回教徒《ムスリム》としてあるまじきことだ。無頼漢《ならずもの》どもに強姦されたり、盗まれたりしかねないからな。それに、万一この界隈でそんな事態が起ったら、この俺自身、わが眼を持ったモイン隊長《ムカツダム》が、我らの御主君|帝王《スルターン》の前で、暴行の責任者となるわけだ。これはともかくも、俺がこの美人に保護を加えなければならん。それでは武装した俺の部下を一人この女のそばに置いて、朝まで番をしてやるとしようか。それとも、――俺の警吏どもはあまり信用できんからな、――取りあえず、どこか立派な人の屋敷を選んで、名誉にかけてこの女を朝まで泊めてもらうほうがいいか。いやそのほうがずっといいな。そうなると、アッラーにかけて、ちょうど運命がこの女を門前に坐らせた、この我らの主人|法官《カーデイ》のお宅ほど、あらゆる点で、この女が安心していられる場所は見当らぬ。ではこの女をこの家にあずけよう。そうすれば、感謝の気持がこの若い女の肝《きも》を俺のほうに傾けることができるのは別として、きっとたんまり得があるにちがいない。この女の眼は早くも俺の臓腑《はらわた》に火事を起させたわい。』こういう工合に筋道を立てて考えた上で、あなたは法官《カーデイ》の扉の環を鳴らして、私をその婦人部屋《ハーレム》にはいらせて下さい。そうすれば私は恋人と一緒になれます。そして望みが叶えられるでしょう。これが私の計画なのです、おお隊長《ムカツダム》様。またこれが私の説明です。以上《ワーサラーム》。」
そこで私は、おおわが殿|帝王《スルターン》様、私はその乙女に答えました、「どうかアッラーはあなたの頭上に御恵みを増したまいますように、おおわが御主人様。これは驚き入った妙案だし、やりやすい計画だ。知恵は報酬者の賜物のひとつです。」そこで、落ち合う時刻を女と打ち合わせておいて、私はその手を接吻しました。そしてめいめい自分の道に立ち去りました。
かくて夕方になり、次に休憩時間になり、次に礼拝の時刻となりました。それでしばらくたつと、私は抜身の剣を携えた部下の先頭に立って、夜警に出かけました。地区から地区を抜けて、われわれは真夜中ごろ、あの奇怪な恋をしている若い女のいるはずの街に着きました。するとその街の入口から早くも豊かな驚くべき匂いがして、その女のいることを知らせました。やがて腕輪と踝《くるぶし》の輪の鳴る音が聞えました。そこで私は部下の者にいいました、「おい息子ども、あそこに人影が見えるようだな。だがそれにしても、何といういい匂いがすることだ。」一同あたりを見廻して、その匂いの源《もと》を見つけ出そうとしました。すると私たちは、絹物に包まれ、ずっしりと錦をまとったくだんの美女が、うつむいて耳を澄ましながら、私たちの来るのを眺めているのを見ました。そこで私は、素知らぬ風をして、その女に近づき、言葉をかけました、「これは美しく着飾って、こんな時刻にただ独りいなさるとは、どこの御婦人かな、おおわが御主人よ、あなたはいったい夜と通行人たちを、少しもこわいとは思いなさらぬのか。」ここにおいて、その女は先刻打ち合わせておいたとおりの返事をしました。私はさも一同に意見を聞くみたいに、部下の者たちのほうを向きました。すると彼らは答えました、「おお、お頭《かしら》、お頭さえおいやでなかったら、私たちはこの女をお頭の家へ連れて行きましょう、ほかのどこへ行くよりか安心でしょうから。そりゃ、女はお頭に感謝するにきまってまさ。何しろ金持にちがいなく、金目のものを一杯つけてるのだから。お頭はこの女を、どうなとなさるようになさるがいい。そして朝になったら、心配している母親のところに返しておやんなさい。」私は怒鳴りつけました、「黙れ。俺はアッラーの裡にのがれてお前たちの言葉を避ける(9)。俺の家なんぞこんな貴族《アミール》の娘を迎えるのに似つかわしいかい。それに知ってのとおり、俺はここからひどく遠方に住んでいるんだ。こいつはこの区の法官《カーデイ》に、親切を頼むのが一番よかろうぜ、ちょうどここに家があるから。」すると部下は承わり畏まって答えて、法官《カーデイ》の戸を叩きはじめると、戸はすぐに開きました。そして法官《カーデイ》自身が、二人の黒人奴隷の肩に支えられながら、入口に出てきました。そこでお互いに挨拶《サラーム》を交してから、私は彼に事の次第を話して、この件をまかせると、その間、乙女は念を入れて大小の面衣《ヴエール》で顔を包んで、じっと立っておりました。すると法官《カーデイ》は私に答えました、「よろこんでその乙女を迎えてあげよう。娘がお世話をして、御満足の行くように気をつけてさしあげるだろう。」そこで私はこの危ないあずけ物を彼の手に渡し、生きている危険を彼にゆだねました。彼は女を婦人部屋《ハーレム》に連れてゆき、私は自分の道に立ち去りました。
さて翌日、私は法官《カーデイ》に託したあずけ物をとりに、その家に戻りました。私は心の中で独りごとをいったものです、「いやはや、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、あの二人の若い娘にとっちゃ、昨夜は全くまっ白いことだったにちがいない。だがたしかに、俺の脳味噌が擦りへってしまったところで、あ二人の惚れ合った羚羊《かもしか》の間に、どんなことが起ったのか、到底わかりっこあるまいて。まあこんな事件なんぞは、ついぞ話に聞いたこともないわい。」こうしているうちに、法官《カーデイ》の家に着きました。だがはいってゆくといきなり、私は大へんな騒ぎと、慄《ふる》えあがっている召使どもと、あわてふためく女どもの、まん中に飛びこんだのでした。そして突然、法官《カーデイ》自身、あの白鬚の老人《シヤイクー》が、私のほうに飛んできて、私に叫びました、「卑しき奴ら、恥を知れ。お前がわしの家に連れてきた人間は、わが全財産を盗んで行ったぞ。ぜひあの女を見つけてこい。さもないとわしは帝王《スルターン》にお前のことを訴えに行って、お前に赤い死(10)を味わわせてくれるぞ。」私がもっと十分詳しいことを聞かせてくれといいますと、彼はあの若い娘に対して大へんな喚《わめ》きと騒ぎと脅迫と罵倒を浴びせながら、私の頼みによって宿を貸してやったあの女が、明け方に、暇を告げずに婦人部屋《ハーレム》から姿を消し、それと一緒に、かれ法官《カーデイ》の帯も消え失せてしまった、その帯には彼の全財産である六千ディナールがはいっていたのだと、私に説明しました。そして付け足しました、「お前はあの女を知っているわけだ。だから、わしはお前にわしの金を請求するぞ。」
ところで私は、おおわが殿、この知らせにはびっくり仰天してしまい、一と言もいい出すことができない有様でした。私はわが掌《たなごころ》の端を噛みながら、独りごとをいいました、「おお取り持ち男よ、今やお前は松脂と瀝青《チヤン》のなかに落っこったぞ。お前はどこにいて、あの女はどこにいるんだい。」次にしばらくすると、口がきけるようになったので、私は法官《カーデイ》に答えました、「おお、われらの御主人|法官《カーデイ》様、そういう事になったのなら、それはそうならなければならなかったのです。起るべきことは避けられないのですから。ただ私に三日の猶予を賜わりたい。あの不思議な人物について、何か聞き出せないものか試みてみます。もし私が成功しなかったら、そのときは、私の首をなくすることについてのあなたの威《おど》かしを、実行することにして下さい。」すると法官《カーデイ》はじっと私を見据えて、私にいいました、「お前の求める三日を与えてやろう。」そこで私は考えに沈みながらそこを出て、独りごとをいいました、「こんどこそはだめだ。ああ、たしかに、お前は馬鹿だ。馬鹿より悪い、頓馬の大間抜けだ。カイロ全市のまっただ中で、面衣《ヴエール》をした女一人を見わけるのに、いったいお前はどうするつもりなんだ。方々の婦人部屋《ハーレム》に立ちいらずに、そのなかを見るには、お前はどうする気か、そうだ、お前はいっそこの三日の猶予期間を寝に行って、三日目の朝、法官《カーデイ》のところに出頭して、お前の責任をとるほうがましだ。」心中こう思い定めて、私は自分の家に帰り、茣蓙《ござ》の上に横になって、くだんの三日を、外出もいっさいことわって過ごしましたが、しかしこの困った大事件が気になって、目を閉じることができませんでした。期限が経ってしまうと、私は起き上がって、法官《カーデイ》のところに行くため外に出ました。頭を垂れて、わが身の断罪に向って歩いてゆくと、そのとき、法官《カーデイ》の屋敷から遠からぬ街を通りかかると、突然、半ば開いた網を張った窓のうしろに、私はわが苦難のあの乙女を見かけました。そして女は笑いを浮かべながら私を見つめて、瞼《まぶた》でもって、「早く上がれ、」という意味の合図をしています。それで私はこの誘いにこそ、わが一命が繋《つな》がっているわけで、大いそぎで誘いに乗って、またたく間に女のそばにつき、挨拶《サラーム》も忘れてこれにいいました、「おお姉さんや、私は町中の隅々まできりきり舞いしてあなたを探しまわっていた。全く何というひどい事件に、私を差し向けたのだ。アッラーにかけて、あなたは私に赤い死の踏段を下りさせているぞ。」すると女は私のところに来て、私に接吻し、ぴったりと胸に抱きしめました。「モイン隊長《ムカツダム》ともあろうものが、どうしてそんなにびくびくすることがありますか。さあ、あなたの身に起ったことは、何ひとつ伺うまでもありません、私は全部存じています。けれど、あなたを窮地から救い出すことは、私には造作《ぞうさ》ないことなのだから、私はそれをするのに最後の瀬戸際まで待っていたわけでした。今お呼びしたのは、ほかでもなく、あなたをお救いするためなのです、のがれるすべのない断罪に向って、黙ってあなたの道を続けさせておくことは、何でもなくできることでしたけれど。」そこで私はお礼をいって、何しろいかにもかわいらしかったので、私の現在の災難の因《もと》であるこの女の手に、接吻せずにはいられませんでした。すると女はいいました、「安心なすって、御心配をお鎮めなさい、何も悪いようにはなりませんから。それに、まあ、立ち上がって、ごらんになって下さい。」そして女は私の手をとって、一室に案内しましたが、そこには宝玉や紅玉やその他の宝石と、珍奇な豪奢な品々が一杯詰まった、長持が二|棹《さお》ありました。次に女は更に別な、金貨を満たした長持を開いて、それを私の前に置いて、私にいうのでした、「さあ、もしお望みなら、あなたはこの箱のなかから、私の崇拝する女の父親にあたる、あの瀝青《チヤン》の法官《カーデイ》の帯にはいっていた、消え失せた六千ディナールを、持っていらっしゃっても結構です、けれども、おお隊長《ムカツダム》様、何もあの禍いの鬚《ひげ》にお金を返すよりか、もっとうまいやり方があると思し召せ。それにあのお金を私がとったというのも、あの年寄りは邪魔になると同じくらい吝嗇《けち》で慾張りだと知っているので、腹立ちがこもって死んでしまうようにと思って、したことにすぎないのです。私がああしたのは、決して慾得からなぞではございません。私ぐらいお金持だと、盗みのために盗みなぞいたしませんよ。それに、あのお嬢さんだって、私がただあの年寄りの運命の決定《さだめ》を早めるためにこんな真似をしたにすぎないということは、よく知っています。それはともかくとして、あの痿《な》えた薄汚ない山羊爺さんをすっかり気ちがいにしてしまう私の計画は、こうなのです。よく私の言葉を聞いて、おぼえておいて下さいまし。」そしてちょっと話を途切らせてから、いいました、「こうするのです。あなたはこれからすぐに法官《カーデイ》のところにいらっしゃると、彼はあなたを待ちかねてじりじりしているにちがいありません。そこであなたはこうおっしゃるのです、『法官《カーデイ》殿、貴殿が私のお願いで一夜の宿を貸して下さり、今は貴殿から金貨六千ディナールを盗んだとお咎めのあの若い女について、私が全市を捜索してこの三日間を過ごしたのは、実は単に形ばかりにすぎないのです。ところでこの私、モイン隊長《ムカツダム》はしかと承知しておりますぞ、あの女はお宅にはいってから、お宅を出てはおりませぬ。というのは、わが部下と、他の諸区の警察隊長《ムカツダム》全部の捜査にもかかわらず、あの女については跡も形も発見されなかった。またわれわれが方々の婦人部屋《ハーレム》に出した女間諜も、何の消息も掴まなかった。ところで、やあ、法官殿《シデイ・エル・カーデイ》よ、貴殿はわれわれにあの若い女は金を盗んだとおっしゃり、明言しておいでだが、この断定は証明する必要がありましょう。なぜなら、アッラーにかけて、この怪事件においては、あの若い女が貴殿自身のお宅で、何らかの暴行の犠牲者とか、少なくとも、何か非道な陰謀の被害者とならなかったかどうか、計り知れませんからな。そしてわれわれの捜索によって、あの女は町にはいないことはほぼ証明されたからには、おお法官《カーデイ》殿、ひとつお宅の家宅捜索をして、果たしてお宅にあの行方不明の女の跡形《あとかた》がないかを検証し、私の推測が正しいか過《あやま》っているかを確かめてみるのも、無駄ではござりますまい。されどアッラーは更に多くを知りたもう。』」
「こういう風にして、おおモイン隊長《ムカツダム》様、」とその不思議な女は続けました、「あなたは被告から逆に告発者になるわけです。すると法官《カーデイ》は眼の前の世界が暗くなるのを見て、ひどく腹を立てるでしょう。顔は胡椒《こしよう》のようになって、叫ぶでしょう、『そんな推測をするとは、モインさん、あんたは大それた仁《じん》だ。だがそんなことはどうでもいい。ではさっそく家宅捜索をしてもらおう。しかしその上で、あんたがまちがっているということがはっきり証明されたら、帝王《スルターン》によるあんたの罰はいっそう当然なものとなるばかりじゃろう。』そこであなたは証人として配下の人々を従えて、あの家の家宅捜索をなさるのです。無論、私は見つかりはしません。こうしてまず露台を、次には部屋部屋を、長持や箪笥《たんす》の類を捜索しますが、何の手懸りもないとなると、あなたはひどく困り果てて、頭を垂れ、嘆き詫びはじめます。そのときあなたは家の台所にいるのです。そこであなたはふとといった工合に、大きな油の甕《かめ》の蓋を取って、その底をのぞいてみる、そして叫びます、『はて、ちょっと待て、おかしいぞ、このなかに何かあるが。』そして腕をその甕のなかに突っこんでみると、中には何か着物の包みみたいなものが感じられます。それを引っぱり出して、あなたと一緒に並いる人全部も見ると、それは私の面衣《ヴエール》、肌着、下穿き、その他私の衣類の残りです。そして全部に凝《かた》まった血がこびりついています。これを見ると、もうあなたの勝ちで、法官《カーデイ》はあわてふためき、顔色は黄色くなり、関節はぶるぶる顫《ふる》えるでしょう。そして倒れてしまうか、ひょっとすると死んでしまうかも知れません。途端に死んでしまわないとすれば、こんどは全力を尽して、自分の名がこの怪事件に出ないようにして、事件を揉み消そうと努めるでしょう。たくさんのお金を出して、あなたに口止めをするでしょう。これこそあなたのため、私のお願いすることでございます。おおモイン隊長《ムカツダム》様。」
この話を聞いて、私はこの女が法官《カーデイ》に復讐するために、何という名案を工夫したかわかりました。その利口な頭と、たくらみと、知恵には、ほとほと感心しました。そして自分は今後もう心配しないでよくなったと思うと、ぼんやりして、ぽかんとしてしまいました。けれどもやがてその乙女に暇《いとま》を告げて、取りきめた方針どおりすることにしました。そして女の手を接吻すると、女は私の指の間に百ディナール入りの財布を滑りこませて、私にいいました、「これは今日のところのあなたのお小遣いです、おおわが御主人様。けれども、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、やがてあなたはお世話になった女の気前のよさを、もっとよく知りなさるでしょう。」そこで私は厚くお礼をいって、こういわずにはいられないくらい、その女にすっかり参ってしまいました、「あなたのお命にかけて、おおわが御主人様、もしこの件が御満足のゆくように終った暁には、あなたは私と結婚することを承知して下さるわけにゆかんでしょうか。」すると女は笑い出していいました、「けれどあなたは、やあ|モイン卿《サイード・モイン》よ、私がもう私の心を掴んでいる女《ひと》と、約束と誓約と誓言によって、結婚し結ばれていることを、お忘れになっていますね。けれども、ただアッラーのみが将来を御存じです。何事も起るべきことのほか起きないでしょう。|さらば《ワーサラーム》。……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三十九夜になると[#「けれども第九百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私は女を祝福しながら、その家を出て、部下を連れてすぐさま法官《カーデイ》のところに行くと、彼は私の姿を認めるや、叫びました、「|アッラーの御名において《ビスミラーヒ》、やっとわしの債務者が来たぞ。さあ、わしの財産はどこにあるのだ。」私は答えました、「おお法官《カーデイ》殿、私の首などは法官《カーデイ》の首に比べれば、何ものでもありませんし、それに私には自分を法廷で支えてくれるような有力者は、誰もいません。しかしもし正義が私の側にあるならば、正義は明らかに現われることでしょう。」すると法官《カーデイ》はかんかんに怒って、私に叫びました、「何が正義だ。お前はもしあの女とわしの財産が見つからなくとも、身のあかしが立つとか、お前を待つところをまぬがれられるとか思っているのか。おい、アッラーにかけて、正義とお前との間の距離は、ずい分遠いものだぞ。」そのとき私は少しも騒がず、じっと相手の眼を見据えて、さっき教えられた驚くべき話をそのまま述べて、被告から告発者に変りました。その利き目は、あの若い女の予想したとおりそのままでした。というのは、法官《カーデイ》は憤慨のため、眼前の世界が暗くなるのを見て、胸は大へんな立腹に占められ、顔は唐辛子《とうがらし》のようになったのです。彼はどなりました、「何をぬかすか、おお兵士のなかで一番傲慢無礼な奴めが。よくもわしの前で、わしの家で、そんな推測が平気でできるものだ。だが、そんなことはどうでもよい。お前が嫌疑をかけるとあらば、これからすぐに家宅捜索をしてもらおう。そしてお前が勝手に振舞ったということがはっきり証明された節は、帝王《スルターン》によるお前の処罰はいよいよ重いものとなるばかりだろう。」そう語りながら、奴は真赤《まつか》になった鍋のなかに冷水《ひやみず》を注ぎこんだみたいになりました。
そこで私たちは彼の家に乱入して、到るところ、あらゆる隅々を、上から下まで、ただひとつの長持でも、穴でも、箪笥でも見のがさずに、家宅捜索をしました。そしてこの家探しの最中、私はあの同性の女の惚れこんだ愛すべき羚羊《かもしか》が、他人の目からのがれるため、部屋から部屋へ逃げまわるに従って、これを盗み見せずにはおきませんでした。そして心中で思いました、「|アッラーの望みたもうごとく、おおアッラーの御名において《マーシヤーアツラー・ワア・ビスミツラーヒ》、あの女の上とあの女のまわりに、アッラーの御名あれかし。何という小枝で、何という撓《たお》やかさだ。何という優雅、何という美しさだ。あの女を身ごもった胎《はら》は祝福されよ、そして完全の鋳型のなかにあの女を型どりたもうた創造主に讃《たた》えあれ。」そうして私はどうしてこのような乙女が、自分に似た別の乙女を征服することができるのか、いささかわかりました。なぜなら私は考えました、「薔薇の蕾《つぼみ》は時には薔薇の蕾のほうに傾くこともあるし、水仙も水仙のほうに傾くこともあるのだ。」私はこの発見にすっかり嬉しくなって、さっそくこの発見をあの不思議な女に知らせてやり、あの女が私を誉めて、私が全然微妙な考えと見識がない人間ではないと、思わせてやりたい気になったほどでした。
さて私たちはこうして、前よりいっそう立腹している法官《カーデイ》に付き添われ、何ら疑わしいものも見つからず、あの女の痕跡も形跡も全然見出さずに、台所まで着きました。
そのとき私は、わが物識りの女主人の指図に従って、自分の勝手な処置を大へん恥じ入った風をし、法官《カーデイ》の前であやまりますと、奴は私の困っているのを大悦びでした。私は彼の前でひたすら恐縮してやりました。だがこうしたすべては、かねて用意の手の内を見すかさせない目的のためでした。知恵の働きの鈍《にぶ》い法官《カーデイ》は、蜘蛛《くも》の網にひっかからずにはいず、この機に乗じて、自分の勝ちと思っていることを、いやというほど私に思い知らせました。そして私にいうのでした、「どうじゃ、無礼者、嘘つきの息子で、親子代々の嘘つきめ、お前の脅迫がましい咎め立てと、失礼な濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》は、今はどうなったのか。だが心配することはない、やがてお前は都の法官《カーデイ》に対する無礼のため、どういう目に会うかわかるだろうて。」私はその間に、蓋のとってある油の大甕《おおがめ》に寄りかかって、頭を垂れ、後悔しているような様子を見せていました。しかし急に、私は頭をあげて叫びました、「アッラーにかけて、はてな、どうもこの甕から何か血の臭いみたいなものが出ているようだぞ。」そして私は甕のなかを見て、腕をつっこみ、「|アッラーは偉大なり《アツラーフ・アク》、|アッラーの御名において《バルビスミツラーヒ》」といいながら、腕を引き出しました。こうして私は、わが主人の乙女が姿を消す前にこの甕のなかに投げこんでおいた、血まみれの衣類の包みを取り出しました。そこにはあの女の面衣《ヴエール》や頭巾や胸当や下穿きや肌着や革草履《バーブジ》や、その他もう覚えていませんが、いろいろの下着類など、すべて血だらけになってありました。
これを見ると、法官《カーデイ》はあの乙女が予想したとおり、茫然とし唖然とした態《てい》でした。そして顔色はまっ黄色になり、関節はふるえ、気を失って、頭のほうが足より先に落ちて、ばったり床《ゆか》に倒れました。私は彼が正気づくとすぐに、事件の捗《はこ》びに得意にならずにいないで、彼にいってやりました、「どうですね、やあ法官殿《シデイ・エル・カーデイ》、私たちのうちでどちらが嘘つきで、どちらが正直ですかな。アッラーに讃《たた》えあれ。さあこれで、私はあの若い女と共謀でいわゆる泥棒を働いたという件の、あかしが立ったと思いますね。だがあなたのほうじゃ、いったいあなたの御思慮と法律学はどうなったんですかい。それにあなたのようにお金持で、法に通ずるお方が、憐れな女に宿を貸してやることを良心にかけて引き受けなすってからに、これを裏切って、きっとこの上なくひどいやり方で手ごめにしたあげく、持物を盗んで殺してしまったとは、いったいどうしたことですかい。こいつは、わが生命にかけて、慄《おそ》ろしい所業で、私としては時を移さず、われらの御主君|帝王《スルターン》にお知らせ申し上げなければならん。こんな事件を黙ってちゃ、私は職分を果たさないことになりますからね。それに何事も露《あら》われずにはいないのだから、この件はきっと別な方面から帝王《スルターン》のお耳に入らずにはいまい。そうなれば私はいっぺんに地位と首とをなくしちまいまさ。」
不運な法官《カーデイ》は茫然自失の極に達して、私の前で、眼を大きく見開いたまま、何も聞えず、こうしたすべてが全然わからないといった態《てい》で、立ち尽していました。そして狼狽《ろうばい》と苦悶に満ちて、まるで枯木のように身動きもしません。それというのは、彼の精神のなかは夜になってしまって、もう自分の右腕と左腕の区別も、嘘と本当の区別も、つかなくなってしまったのです。そしていささかぼんやりした状態から覚めると、彼は私にいいました、「おおモイン隊長《ムカツダム》よ、これはただアッラーのみおわかりになることのできる奇怪な事件じゃ。けれども、もしあなたが口外しないで下さるならば、きっとお悔みになることはございますまい。」こういって彼は私に慇懃《いんぎん》鄭重の限りを尽しはじめました。そして私に自分の無くしたと同額のディナール金貨のはいった袋を渡しました。こうして私の口止め代を出して、被害のおそれある火を消しました。
そこで私は法官《カーデイ》に別れを告げて、茫然とした彼をあとに残し、乙女に事件の報告にゆくと、彼女はにこやかに私を迎えて、いいました、「きっとあの人は永くは生きていませんよ。」なるほど事実、おおわが殿|帝王《スルターン》様、三日とたたないうちに、法官《カーデイ》は胆嚢《たんのう》が破裂して死んだという知らせを聞きました、そして起ったことを知らせようと思って、さっそくあの乙女を訪ねますと、女中たちは女主人が、ナイル河のタンターの近くに持っている領地に向って、法官《カーデイ》の娘と出発したところだと、教えてくれました。私はあの竪笛《クラリネツト》のない二人の羚羊《かもしか》がいったい一緒に何ができるのか、ついにわかるに至らないながら、このすべてのことの次第に驚嘆して、二人の行方を探しましたが、ついに突きとめられませんでした。それ以来、私は、いつかそのうちあの女たちが便りをよこして、かくも了解困難な事柄を、私の精神に明らかにしてくれることを、待っている次第でございます。
以上が私の物語でございます、おお、わが殿|帝王《スルターン》様よ、そして以上が、御信任によって私の奉じておりまする職務に従って以来、私に起った最も奇怪千万な事件でございます。
――警察隊長《ムカツダム》モイン・アル・ディーンがこの話を語りおえますと、二番目の隊長《ムカツダム》が帝王《スルターン》バイバルスの御手の間に進み出まして、祈念と祈願ののちに、申しました、「私は、おおわれらの殿|帝王《スルターン》様、私もまたやはり、わが一身上の事件をお話し申し上げましょう。それはアッラーの思し召しあらば、君の御胸《おんむね》を晴らし奉るでございましょう。」そして言いました。
第二の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
さればでございます、おおわが殿|帝王《スルターン》様、私の伯父――願わくはアッラーはこれにお慈悲を垂れたまえ。――の娘は、私を夫とするのを承知する前に、私に申しました、「おお伯父の息子さん、もしアッラーの思し召しあらば、私たちは結婚いたしましょう。けれどもそれにはあなたがあらかじめ私の出す条件を承知なさらなければ、私はあなたを夫に迎えることはできません。それは三つありまして、それより一つも多くもなく、少なくもございません。」そこで私は答えました、「差支えない。だが、それはどういうことか。」彼女はいいました、「決して麻薬《ハシーシユ》を用いないことと、決して西瓜《すいか》を食べないことと、決して椅子にお坐りにならないことです。」私は答えました、「あなたの生命《いのち》にかけて、おお伯父の娘よ、その条件は楽じゃないね。だが私はそっくりそのまま、誠の心で承知しよう、その理由は一向にわからないながら。」彼女は私にいいました、「そういう風なことなのです。承知するかやめるかどちらかです。」そこで私はいいました、「承知しよう、心から悦んで。」
そこで私たちの結婚が取り行なわれ、事は成立し、万事行なわるべきように行なわれました。そして私たちは数年の間、完全に和合して安穏に、共に暮らしました。
ところが、そのうち、私の精神は麻薬《ハシーシユ》と西瓜と椅子についての、例の三つの条件の理由を探《さぐ》りたい気持に、どうにもならず付きまとわれる日が来ました。私は自分にいうのでした、「いったいそれにしても俺の伯父の娘は、あの三つのものをお前に禁じて、何の得があるのだろう、用いたところであいつには全然|痛痒《つうよう》があるまいに。きっとそこには何か秘密があるにちがいない。そいつをぜひ明らかにしてみたいものだ。」そして私の魂の唆《そその》かしと私の欲望の強さに、もうさからいきれず、私は友人の一人の店にはいって、まず手始めに、藁を詰めた椅子に坐りました。次には、あらかじめ水に冷やしておいた、上等の西瓜を持ってこさせました。そしてそれを大へんおいしく食べてから、ごく少量の麻薬《ハシーシユ》の煉薬を呑みこんで、夢と静かな楽しみのほうに飛び立ちました。そして私は申し分なく好い気持でございました。胃は西瓜のため好い気持だし、ふくらんだ椅子のため、長い間椅子の快味を奪われていた尻は、やはり大へんいい気持だし。
ところが、おおわが殿|帝王《スルターン》様、私が自宅に帰ってみると、こいつは横笛《フアイフ》と竪笛《クラリネツト》でした。というのは、私が女房の前に出るとすぐ、女房はつと立ち上がって、面衣《ヴエール》を顔の上に引き下ろし、まるで私は亭主なんかじゃなく、女房にとっては、もう他処《よそ》の男にすぎないみたいです。そして憤りと軽蔑をこめて私を見据えて、叫びました、「おお犬の息子の犬め、そんな風にお前は約束を守るのですか。さあ、あとから来なさい。この足で私たちは法官《カーデイ》のところに行って離婚をしましょう。」私は頭はまだ麻薬《ハシーシユ》で酔っているし、腹はまだ西瓜でくちいし、身体《からだ》は久しぶりでふっくらした椅子を尻の下に感じて休まっていたので、ままよ大胆にやってやれと思い、自分は三つの悪事なぞしないと言おうとしました。けれどもほんの打消しの身ぶりをしかけたばかりで、もう女房はがなり立てました、「お前の舌を動かしなさんな、おお女衒《ぜげん》よ。お前さんは白ばくれてはっきりした証拠を打消そうとするのか。麻薬《ハシーシユ》臭いことは、私の鼻がわかります。西瓜をたらふく食べたことは、ちゃんと着物に跡がついています。最後に瀝青《チヤン》を塗った汚ない尻を椅子にのせたことは、着物のそこにしるしがついている。坐ったところに、藁の条《すじ》がはっきり残っています。こうなれば、私はもうお前さんにとって何でもないし、お前さんはもう私にとって何でもありません。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十夜になると[#「けれども第九百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
このようにいうと、女房はすっかり面衣《ヴエール》で顔を包んでしまって、私の鼻にもかかわらず、私を法官《カーデイ》のところに引っぱってゆきました。私たちが法官《カーデイ》の前に出ると、女房はそれにいいました、「おお法官《カーデイ》の殿様、あなた様の端女《はしため》は、今御前にいるこの卑しい男と、合法の結婚で相結ばれました。ところが私は結婚前に、肝腎な三つの条件をこの男に出しますと、彼は承知して或る期間中はそれを守りました。それなのに、今日それを破ったのでございます。そこで私は私の権利に従って、ただ今から、この男の妻であることをやめるつもりでございます。それであなた様に離婚をお願いして、私の嫁入り仕度と扶助料を請求していただきたく、参上しました。」すると法官《カーデイ》はその条件を知りたいといいました。女房はそれを詳しく話して、付け加えました、「ところがこの絞首刑《しばりくび》になった男の息子は、椅子に坐って、西瓜を食べ、麻薬《ハシーシユ》を呑んだのでございます。」そして私に対する言い分の証拠をあげ、一方私は敢えてその明らかな証拠を否定できず、困って頭を垂れるばかりでした。
すると法官《カーデイ》は、親切な気持を持った男で、私の有様に憐れを覚え、決定を下す前に、家内にいいました、「おお正しい人々の娘よ、あなたはたしかに自分の権利があるが、しかし慈悲深くあって然るべきだ。」ところが女房は激昂して怒鳴りちらし、何ごとも耳に入れようとも聞き入れようともしないと、法官《カーデイ》とそこにいる人たちは、こんどだけは私を許すよう、口を極めて頼みはじめました。だが家内はやはり無情な態度を示すと、一同は結局それではただ離婚の起訴を一時中止して、こうして皆が口を揃えてぜひと頼むのだから、さしあたり要求を延期したほうが筋道が通りはしないか、そこのところをゆっくり考えたらどうか、必要の際は改めて要求を提出しさえすればよいのだからと、頼んでくれました。すると女房はやむなく、最後にいいました、「よろしゅうございます、この男と仲直りするのを承知しますが、けれどそれには、法官《カーデイ》殿が私のかける問に必ず答えて下さるという、条件がぜひいります。」すると法官《カーデイ》はいいました、「よろしい。問を出しなさい、おお御婦人よ。」そこで家内はいいました、「私は、はじめは骨です。次に私は筋になります。次に私は肉です。私は何でしょう。」法官《カーデイ》は頭を垂れて考えふけりました。けれども鬚《ひげ》を撫でながら、いくら考えてもわかりませず、黙りこんでいます。最後に私の女房のほうに向いて、いいました、「|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、今日のところはわしは長い間開廷していたので疲れて、そんな問題の解答を見つけることができかねる。だがどうか明朝ここに来てもらいたい。そうすれば暇をかけてわしの法学書の類を調べてみた上で、お答えしよう。」
そこで彼はその日は閉廷にして、自宅に引き上げました。そしてくだんの問題にすっかり気をとられて、娘の十四歳半になる乙女が供えた食事にも、手をつけることさえ思わないのでした。そしてその気がかりに取りつかれて、低い声で自分に繰り返しいっていました、「最初は骨で、次に筋になって、次は肉だ。私は何でしょう、と。はて、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、私は何でしょう。そう、こいつは何だろう。いったいこれは何かな。」そして自分の法学書を全部繰って見、医学の著述や、文法書や、学問の論文などいろいろ見ましたが、どこにもこの問題の解決は見つからず、また何か近くも遠くもこれを解くようなことはおろか、説明の手がかりとなるようなことさえ見当りません。それで最後に叫びました、「いやだめだ、アッラーにかけて、あきらめた。どんな著書を見ても、ついにこれを解き明かしてはくれまいぞ。」
するとそのお嬢さんは、父親を見て、何か気にかかっている様子に気づき、この最後の言葉を口にするのを聞いて、父親にいいました、「おお、お父様、どうやら御心配で悩んでいらっしゃる御様子ですが、お父様の上のアッラーにかけて、どうなすったのですの。お父様の御心配と悩みの動機《いわれ》は何ですかしら。」そこで父親は答えました、「おお娘よ、この動機《いわれ》はとうてい説明できないし、落着のつかない事件なのだよ。」お嬢さんはいいました、「とにかく説明して下さいませ。至高者のお知恵に、隠されたことなどございません。」そこで法官《カーデイ》はいっさいの事件を娘に話して、先刻の私の家内である若い女に出された問題を、娘に持ち出してみる決心をしました。するとお嬢さんは笑い出していいました、「|アッラーの望みたもうごとく《マーシヤーアツラー》、それが解けない問題ですの? だけど、おおお父様、それは流れる水の進むように、造作ないことですわ。実際、その解答は明らかで、こういうことになります。元気と堅さと耐久力の点で、男の陰茎《ゼブ》は、十五歳から三十五歳までは、骨に比べられます。三十五歳から六十歳までは筋に比べられ、そして六十歳以後は、もう効力のない肉のぶらさがりものにすぎません。」
お嬢さんのこの言葉を聞くと、法官《カーデイ》は胸が広がって晴々として、いいました、「聡明の分配者アッラーに讃《たた》えあれ。お前はわしの面目を救ってくれた、おお祝福された娘よ、そしていい家庭を壊さずにすませてくれたよ。」それで夜があけきらないうちに、待ちかねて起き出し、自分が裁判を司どっている法の家に駈けつけ、長いこと待ったあげく、やっと待っている女、すなわち私の家内と、ここにおりまする奴隷、すなわち私自身とが、はいってくるのを見ました。そしてお互いに挨拶《サラーム》を交してから、家内は法官《カーデイ》にいいました、「やあ殿《シデイ》よ、私の問を覚えていらっしゃいますか。そして問題をお解きになりましたか。」すると法官《カーデイ》は答えました、「|アッラーのお蔭をもって《エル・ハムドウ・リラーヒ》、わしに解き明かして下さったアッラーに讃《たた》えあれ。おお正しき人々の娘よ、あなたはもう少しむずかしい問を出してくれればよかった。これは難なく解けるからな。誰でも知ってのとおり、男子の陰茎《ゼブ》は十五歳から三十五歳までは骨のごとく、三十五歳から六十歳までは筋のようになり、六十歳以後はもはやとるに足らぬ肉片にすぎぬ。」
ところで私の家内は、その若いお嬢さんと彼女の聡明をよく知っていたので、起ったところを見ぬいて、馬鹿にした様子で法官《カーデイ》にいいました、「お宅のお嬢さんはまだ十四歳半にしかならないけれど、お頭《つむ》はその倍か、それ以上ものお年です。ほんとにおめでとうございます。この分でゆくと、どこまでおのびになることでしょう。|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、その道の女でもなかなかこれほどできる者は多くはございません。お嬢さんの学才は大したもので、将来は保証つきですわ。」
そういって、家内は私に法廷を立ち去る合図をして、満座の前で、法官《カーデイ》を一生凹ませ、度を失わせ、散々恥をかかせたまま、外に出たのでございました。
――このように話しおわると、第二の警察隊長《ムカツダム》は自分の列に引きとりました。すると帝王《スルターン》バイバルスはこれにおっしゃいました、「アッラーの神秘は測り知れぬ。この物語は驚くべき物語じゃ。」すると第三の警察隊長《ムカツダム》で、エズ・アル・ディーンという名の男が進み出て、バイバルスの御手の間の床《ゆか》を接吻してから、申しました、「私におきましては、おお当代の王様、陛下の上聞に達するに値するようなこれといったことは、私の生涯を通じてひとつも起りませんでした。けれども君のお許しあらば、一身上のことではござりませぬが、やはり心を惹く不思議な物語を、お話し申し上げまする。それは次のような物語でございます。
第三の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
さればでございます、おおわれらの殿|帝王《スルターン》様、わが君の奴隷の母は古い世々の話を数々知っておりました。そして私の聞いたいろいろの物語のなかで、母は或る日、次のような話を聞かせてくれました。」
むかし塩からい海の近くの国に、一人の漁師がおりまして、美人と結婚していました。その美人は彼を仕合せにし、彼もまたその美人を仕合せにしてやりました。その漁師は毎日漁に出かけて、魚を売っていましたが、その代金はちょうど二人分の食物にきっかりというところでございました。ところが或る日、漁師は病気になったので、その日は食物なしで過ぎました。それで翌日、女房は彼にいいました、「工合はどう。今日は漁に出かけないの? さもないと、私たちはひぼしになってしまうわ。ねえ、ちょっと起きてごらんなさい。お前さんは疲れているから、私が代りに網と魚籠《びく》を持ってってあげよう。そうすりゃ、たとえ二匹の魚しかとれなくても、それを売れば夕御飯にはありつけるでしょう。」漁師はいいました、「それがいい。」そして起き上がると、女房は魚籠《びく》と網を持って、後ろから歩いてゆきました。そして二人は海岸の、帝王《スルターン》の御殿の軒下にある、魚の集まる場所に着きました。
さてその日、帝王《スルターン》はちょうど窓辺によって、海を眺めていらっしゃいました。そして漁師の妻のその美人を認めて、じっとこれにお眼をとめると、その瞬間に、思いをかけてしまいました。それで即刻総理|大臣《ワジール》を呼んで、いいました、「おお、わが大臣《ワジール》よ、余は今、あそこにいるあの漁師の妻を見て、もうすっかり惚れこんでしまった。何しろ美人で、わが王宮には近くも遠くも、あれに及ぶものはいないからな。」すると大臣《ワジール》は答えました、「これは難題でございます、おお当代の王よ。さればわれわれは何といたしましょうか。」帝王《スルターン》は答えました、「なに、ためらうことはない。その方、宮殿の警吏を派してあの漁師を捉え、殺してしまえ。さすれば余はあの妻を妃《きさき》にしよう。」すると大臣《ワジール》は思慮分別のある人でしたので、申し上げました、「あの男に何の罪もないのにお殺しになるというのは、不法でございます。さもないと、世間はわが君のことを悪しざまに申すでしょう。例えばこういいましょう、『帝は女をめあてに、かわいそうに、あの漁師を殺してしまった、』などと。」すると王は大臣《ワジール》に答えました、「いかにもそうじゃ、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》。すると、どうすればよいかな、あの無類の美女に対して、余の望みをとげるには。」大臣《ワジール》はいいました、「君は合法的手段によって、その目的を達することができなさいます。というのは、御承知のごとく、この御殿の謁見の間《ま》は縦横一アルパン(11)ございます。私たちはあの漁師をあの広間に呼び出して、私から申しつけましょう、『われらの御主君|帝王《スルターン》は、このお部屋に絨緞《じゆうたん》をお敷きになりたい。その絨緞はただ一枚の布で出来ていなければならぬ。もしお前がそれを持ってこなければ、われわれはお前を生かしておけない。』こうすれば、漁師の死にはちゃんと理由がつきます。女のせいとは誰も申しますまい。」すると帝王《スルターン》は答えました、「よしよし。」
そこで大臣《ワジール》は立ち上がって、漁師を呼びにやりました。そして漁師が来ると、彼を連れて、くだんの大広間の帝王《スルターン》の前に伴なって、申しつけました、「おお漁師よ、われらの御主君王様は、お前に、縦一アルパン横も同じきこの広間に、ただ一枚の布で出来た絨緞を置けよとの御所望である。そのためには、三日間の猶予を与えて下さるが、三日たってお前がその絨緞を届けぬ節は、お前を火焙りになさるであろう。さればこの件につき、この紙に契約書を認《したた》めて、お前の印を捺《お》せ。」
この大臣《ワジール》の言葉を聞くと、漁師は答えました、「へい。だけど私はいったい絨緞を作る人間でしょうか。私は魚をとる人間です。あらゆる色、さまざまの種類の魚をお求めになるなら、持ってもまいりましょう。だが、絨緞ということになると、アッラーにかけて、絨緞は私を知りゃしませんし、私も絨緞なんぞ知らない、そんなものは臭いさえ、色さえ存じません。魚というなら、お約束もしましょうし、捺印もいたしましょう。」けれども大臣《ワジール》は答えました、「お前の徒《いたず》らな言葉を重ねるは無用のこと。王様がそう御命じになったのじゃ。」すると漁師はいいました、「いやはや、アッラーにかけて、私が絨緞の御用商人になったというのなら、そりゃ印《はんこ》をひとつきりじゃなく、百でもおとりなさるがいい。」そして漁師は両手を打ち合わせて、御殿を出ると、腹を立てて女房のところに帰りました。
すると女房は亭主のその有様を見て訊ねました、「どうして怒っているの。」亭主は答えました、「黙っていろ。これ以上何もいわず、立ち上って俺たちの持っている少々のぼろ着を集めて、この国をずらかることにしよう。」女房は訊ねました、「なぜよ。」答えて、「王様が三日後に俺を殺そうというからね。」女房はいいました、「なぜさ。」答えて、「御殿の大広間に敷く、縦一アルパン、横一アルパンの絨緞を、俺に持ってこいとおっしゃるんだ。」女房は聞きました、「それだけのことなの?」亭主は答えました、「そうだよ。」女房はいいました、「いいわ。安心してお寝《やす》みなさい。私が明日《あした》その絨緞を持ってきてあげるから、お前さんは王様の広間にそれを拡げりゃいいよ。」そこで漁師はいいました、「とんでもない話だ、こうなりゃ申し分ない。いったいお前も、あの大臣《ワジール》みたいに気が変になったのか、おお女房よ。それともおいらは絨緞屋なのかい。」けれども女房は答えました、「今いるのかい、その絨緞が。お前さんをこれからすぐ取りにやって、ここへ持ってくるようにしてあげようかね。」亭主はいいます、「そうだな、明日《あす》といわず、すぐのほうが安心だよ。そうすりゃ、ゆっくり眠れるというものだ。」女房はいいました、「そういうことなら、おお旦那よ、|さあ《ヤーラー》、立ち上って、公園のそばの、これこれのところに行きなさい。そこに行くと、一本のよじれた木があって、その下に井戸がある。お前さんはその井戸をのぞきこんで、内を見て叫ぶのです、『おお何々姉さん、あなたの親友の何々という女が、私と一緒にあなたに御挨拶《サラーム》を送って、何でも昨日、夜にならないうちいそいで家に帰ろうとして、お宅に紡錘《つむ》を忘れてきたから、それを私に渡して、自分のところに届けるようにしてもらいたいと、こういっておりました。実は私たちはあの紡錘《つむ》でもって、部屋に飾りつけをし、敷物を敷きたいわけなのです、』と。」すると漁師は女房にいいました、「よし、よし。」
そこで漁師は時を移さず、よじれた木の下の、くだんの井戸に行って、底のほうを見て、叫びました、「おお何々姉さん、あなたの親友の何々という女が、私と一緒にあなたに御挨拶《サラーム》を送って、こう申しております、『私が昨日お宅に忘れた紡錘《つむ》を下さいな。実は私たちはあの紡錘でもって、部屋に飾りつけをしたいのです、』と。」すると井戸のなかにいる女――それはただアッラーだけが御存じの女《ひと》です。――はこういって答えました、「私は私の親友に何をことわりきれましょうか。さあ、ここにその紡錘があります。これを持って行って、これでもってお好きなように、お部屋に飾りつけをし、敷物をお敷きなさい。それがすんだらここに返しに来て下さい。」漁師はいいました、「承知しました。」そして井戸からその紡錘が出てきたので、それを取って衣嚢《かくし》に入れ、わが家を指して道を行きつつ、独りごとをいいました、「あの女のため、俺はあの女と同じくらい気が変になったわい。」そして道を続けて、女房の許に着くと、これにいいました、「おお伯父の娘よ、さあ、紡錘を持ってきたよ。」女房はいいました、「結構、それじゃこんどは、お前さんを殺すという大臣《ワジール》のところに行って、『大きな釘を一本下さい、』といいなさい。大臣《ワジール》は釘をくれるでしょうから、あなたはそれを大広間の片端に打ちこんで、それにこの紡錘の糸を結《いわ》いつけ、好きなだけの縦と横の絨緞を、拡げればいいのです。」すると漁師は叫び出して、いいました、「おい女房、お前はいったい、やがて俺の死ぬ前に、人々に俺の分別を笑わせ、俺を気ちがいと思って馬鹿にさせたい気か。この紡錘《つむ》の内部《なか》に、一アルパンの絨緞がはいってでもいるのかい。」女房は腹を立てていいました、「お前さんさっさと行く気なの、それとも行かない気なの? 黙って、私のいうとおり、行けばいいことです。」そこで漁師は紡錘を持って、こう独りごとをいいながら、御殿に行きました、「全能のアッラーのほかには頼りも力もない。さあいよいよ、おお憐れな男よ、お前の最後の日となったぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十一夜になると[#「けれども第九百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして漁師は王様と大臣《ワジール》に会いに行きました。すると大臣《ワジール》は、かたわらを見ながら、漁師にいいました、「絨緞はどこにあるのか、おお漁師よ。」漁師は答えました、「ここに持ってます。」二人は訊ねます、「いったいどこだ。」彼は二人にいいます、「ここに、衣嚢《かくし》のなかにある。」すると二人は笑い出して、いいました、「こいつは死ぬ前にふざけている男だな。」そして大臣《ワジール》は嘲りながら、聞きました、「一アルパンの絨緞は、衣嚢《かくし》のなかに入れられる子供の鞠《まり》かね。」漁師は返答しました、「そんなことはあなた方の知ったことかね。あなた方は私に絨緞を持ってこいというから、私はそれを持ってきたのだ、ほかに何も私に要求する筋合はない。だから私を笑ってなんぞいないで、おお大臣《ワジール》様、立ち上がって私に大きな釘を一本下さい。そうすりゃ絨緞を、この部屋の皆さんの前に出しましょう。」
すると大臣《ワジール》は、漁師の気ちがい沙汰を笑いながら、釘を持ってきて、太刀取《たちとり》の耳許にいいました、「おお太刀取よ、お前はあっちへ行って、このお部屋の戸口にいよ。そして漁師は、この釘を渡してやっても、こちらの望みどおりこのお部屋に絨緞を敷くことはできっこないから、お前はわしの別な命令を待つまでもなく、剣を抜いて、一刀の下にあいつの首を刎《は》ねとばせよ。」太刀取は答えました、「よろしゅうございます。」そこで大臣《ワジール》は釘を漁師に渡しに行って、いいました、「さあ、今はわれわれに絨緞を見せよ。」
すると漁師は部屋の一方の端に釘を打ちこんで、それに紡錘《つむ》の糸の端を結びつけ、心の中では、「俺の死を繰り出せよ、おお悪魔《シヤイターン》よ、」といいながら、紡錘をば廻しました。すると何と、すばらしい絨緞が出てきて、部屋中びっしりと拡がり、こんな立派なものは御殿にもありません。王様と大臣《ワジール》は一と時の間、ただ茫然と顔を見合わせるばかりで、一方漁師は何ともいわずに、静かに控えておりました。次に大臣《ワジール》は、心得た様子で、王様に目配せをして、漁師のほうを向いてこれにいいました、「王様は御満足で、お前に『よし、よし、』との仰せじゃ。しかし王様はお前にもうひとつ御所望である。」漁師はいいました、「それは何ですか。」大臣《ワジール》は答えました、「王様がお前に御所望であり、また御要求であるのは、小さな子供を連れてくることじゃ。その子供は生後一週間でなければならぬ。そしてわれらの御主君の王様に、何か物語を話さなくてはならぬ。その物語は嘘ではじまり嘘で終らなければいけないのじゃ。」
漁師はこれを聞くと、大臣《ワジール》にいいました、「それっきりですか。アッラーにかけて、それは大した御注文じゃない。ただ、生まれて一週間の子供が口を利いて、その上、始めが嘘で終りが嘘の話を話させるなぞということは、今の今まで私は知らなかった、たとえ悪鬼《アフアリート》の息子たちであろうともね。」すると大臣《ワジール》は答えました、「黙れ。王様のお言葉とお望みとは行なわれなければならぬ。そのためには、われわれはお前に一週間の猶予を与えるから、もし一週間後に、お前がその子供を連れてこなかった節は、お前は赤い死を知るであろう。さればここに契約を認《したた》めて、お前の印を捺《お》せ。」漁師はいいました、「よし、よし、ここに私の印《はんこ》がある、おお大臣《ワジール》様。私の代りにあなたが印《はんこ》を捺して下さい、私は知らんから。私はただ網を繕ろうことを知ってるだけだ。印《はんこ》はあなたの手の間にあるから、どうなと好きなようにしなされ、一つの代りに百でも捺しなさい。その子供というのは、寛大なアッラーがお授け下さるでしょうよ。」すると大臣《ワジール》は漁師の印をとって、くだんの契約に捺印しました。漁師はその印を受けとって、腹を立てて立ち去りました。
そして漁師は女房のところに着くと、これにいいました、「立ち上がって、この国をずらかろう。前にもそういったのに、お前は俺のいうことを聞こうとしなかった。立ち上がるがいい、俺は出て行くから。」女房はいいました、「なぜよ。どういう理由《わけ》で。絨緞が紡錘《つむ》から出なかったのかい。」漁師は答えました、「いや、ちゃんと出た。だがあの女衒《ぜげん》、俺の尻《けつ》の大臣《ワジール》め、犬の息子め、こんどは俺に、生まれて一週間の子供を連れてこいとぬかしゃがる。その赤ん坊は、話をしなければいけない。またその話は嘘に嘘を重ねた嘘でなければならんというのだ。そして奴らはそうするため、俺に一週間の猶予をお与え下さりやがったのだ。」すると女房はいいました、「いいわ。まあ怒らずにいらっしゃいよ、おお旦那よ。その一週間がまだ経ったわけじゃなし、それまでには私たちはゆっくり考えて、救いの戸を見つける暇もあるのだから。」
さて一週間目の朝になると、漁師は女房にいいました、「お前は俺が連れて行かなければならない子供のことを忘れたのかい。今日が猶予の最後の日だよ。」女房はいいました、「いいわ。じゃあのよじれた木の下の、お前さんの知っている井戸へ行きなさい。最初に、井戸のなかに住んでいる女《ひと》にあの紡錘を返し、よろしく御礼をいいなさい。次にこういいなさい、『おお何々姉さん、あなたの親友の何々があなたに御挨拶《サラーム》を送って、昨日生まれた子供さんを貸して下さい、私たちはちょっと用事があって拝借したいからと、こう申しております、』と。」
この言葉に、漁師は自分の細君にいいました、「|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、俺はお前ほど馬鹿で気ちがいの人間は知らないよ、まあ、あの瀝青《チヤン》の大臣《ワジール》めは別だがね。何ということか、おお女房よ、大臣《ワジール》は俺に生まれて一週間の子供を連れてこいというが、お前はまたそれに輪をかけて、流暢に口を利いて、いろんな話を話せる、昨日生まれた子供を、俺に渡してくれようというのかい。」細君は答えました、「余計なことはいいなさんな。黙って私のいうとおり行ってらっしゃい。」漁師は叫びました、「よし、よし。いよいよこれが俺の地上最後の日だわい。」
そして彼はわが家を出て、井戸に着くまで歩きました。そして井戸のなかに紡錘《つむ》を投げ入れながら、叫びました、「紡錘をお返しします。」そして付け加えました、「おお何々姉さん、あなたの親友の何々があなたに御挨拶《サラーム》を送って、昨日生まれた小さなお子さんを貸して下さい、私たちはちょっと用事があって拝借したいからと、こう申しております。だがどうぞ早くして下さいまし。さもないと私の首が肩の上から飛び立ってしまいます。」すると井戸のなかに住んでいる女――それはただアッラーだけが御存じの女《ひと》です。――は答えました、「ここにいますから、お受けとり下さい。」そこで漁師は、さし出された昨日生まれた赤子を受けとると、井戸に住んでいる女は彼にいいました、「この子の上に、邪視を防ぐ御祈祷を唱えて下さい。」そこで漁師は受けとりながら、赤子の上に|アッラーの御名において《ビスミラーヒ》を唱えていいました、「|慈悲深き慈悲神の御名によりて《ビスミラーヒ・ルラーハマーニ・ルラーヒーム》。」そして赤子を腕に抱いて、立ち去りました。
歩きながら、漁師は考えました、「いったい子供で、この子のように生後一日どころか、たとえ三十日たっていようと、口がきけていろんな話を話せるなんて子供が、いるものだろうか、この上なく不思議な悪鬼《アフアリート》の息子たちの間にだって。」次に、このことについてはっきりわかっておきたいと思って、彼は腕に抱えている襁褓《むつき》に包まれた赤子に言葉をかけて、いいました、「さあ、赤ちゃん、ちょっと口をきいてみておくれ。今日が俺の最後の日かどうか、はっきり確かめたいからね。」ところが子供は、漁師の大きな声を聞くと、おびえて、顔とお腹《なか》をぴくぴくさせ、すべての小さな赤ん坊なみのことをしました。つまり、ひどく顔をしかめて泣き出し、せい一杯小便を垂れたのです。そこで漁師はびしょびしょになって、腹を立てながら、女房のところに着いて、これにいいました、「さあ、その子供を連れてきたぞ。アッラーは俺を護りたまえ。この子の知ってることといえば、泣くことと小便を垂れることだけだ、犬の息子めが。お蔭で俺のざまを見てくれ。」けれども女房はいいました、「余計なことはいいなさんな。預言者の上にお祈りをして、おお旦那よ、そして私のいうとおりしなさい。ぐずぐずせずにこの子を王様のところに連れて行きなさい。そうすりゃ、この子が口をきけるかきけないかよくわかりますよ。ただ、お前さんはこの子のために座布団を三つもらって、まずこの子を長椅子《デイワーン》のまん中に据え、その座布団のひとつを右側に、ひとつを左側に、ひとつを背中の後ろにあてがって、身体《からだ》を支えてやりなさい。そして預言者の上にお祈りをなさい。」そこで漁師は答えました、「その上に祈りと平安あれかし。」次に嬰児《あかご》を腕に抱いて、王様と大臣《ワジール》に会いに行きました。
大臣《ワジール》は漁師がこの襁褓《むつき》に包まれた小さな子供をつれて来るのを見ると、笑い出して、これにいいました、「これか、その子供は?」漁師は答えました、「そうです。」それで大臣《ワジール》は子供のほうを向いて、普通に小さな小僧どもに話すような声でいいました、「坊やよ。」ところがその子は口をきく代りに、鼻と口をぴくぴくさせて、「ワァ、ワァ、」といい出しました。大臣《ワジール》は大悦びで王様のところに行って、申し上げました、「私はその子供に話しかけてみましたら、子供は返事をせずに、ただ泣いて、ワァ、ワァというだけでした。これで漁師の生命《いのち》は終りです。だが、証拠は大臣《ワジール》、貴族《アミール》、貴顕の集まりの前でこそ示されなければなりませぬ。というのは、われわれが漁師と結んだ契約の条項を、私が一同の前で読み聞かせて、その上で殺すことにしましょう。そうすればわが君は、世間がとやかく申す権利なくして、あの美女を楽しむことがおできになりましょう。」王様はいいました、「まさにそのとおりじゃ、おお大臣《ワジール》よ。」そこで二人は揃って広間にはいると、貴族《アミール》と官吏が集まりました。そこで漁師を呼び出しました。大臣《ワジール》は漁師と並いる一同の前で、捺印した契約を読み上げてから、いいました、「さて今は、おお漁師よ、われわれに話をするというその子供を連れてまいれ。」漁師はいいました、「まず座布団を三つ下され。それから子供は話をします。」そこで三つの座布団を持ってくると、漁師は子供を長椅子《デイワーン》の中央に据えて、その三つの座布団でまわりを固めました。すると王様は漁師に訊ねました、「これがわれわれに、嘘に嘘を重ねた嘘の物語を語るという、子供であるか。」
然るに、漁師が返答する暇もなく、その生後一日の子供は答えました、「何よりもまず、御身の上に平安《サラーム》あれ、おお王よ。」それで大臣《ワジール》、貴族《アミール》をはじめ他の全部の人は、この子供にすっかり驚き入ってしまいました。王様も、並いる人に劣らず仰天しましたが、子供に挨拶《サラーム》を返して、いいました、「では、われわれに話してもらいたい、おお気の利いた小童《こわつぱ》よ、嘘の砂糖煮であるごとき物語を。」すると子供は、次のようにいって、これに答えました、「こういう話だ。かつて、その頃私は若く血気|旺《さか》んであったが、炎熱の時、城外の畑を歩いていると、ふと西瓜売りに出あった。私は暑くて喉がかわいてならなかったので、金貨一ディナールで西瓜を一個求めた。私は西瓜を受け取って、切ってその一と切れを食らうと、渇が癒えた。それから、その西瓜の内側を眺めてみると、そこには城砦のある町があった。そこで私は、ためらわず一方の足をあげ次に他方の足をあげて、その西瓜のなかにはいった。そして自分のまわりの、この西瓜に含まれている町の店や、家や、住人を眺めながら、散歩しはじめた。こうして歩きつづけていると、そのうち畑に出た。するとそこには一本の棗椰子《なつめやし》の木があって、それにはそれぞれ長さ四尺ばかりの棗椰子のついた一と房がなっている。そこで私の魂はその実が欲しくなり、激しく私をそちらに押しやり、私はもう魂の切望にさからいきれなくなって、その実を一つか、二つか、三つか、四つばかり、摘んで食べようと思い、その棗椰子の木にのぼった。ところが棗椰子の上には、百姓《フエラーハ》たちがいて、棗椰子の上で穀物の種を蒔《ま》いたり穂を刈ったりしているし、一方他の百姓は麦を打って穂をこいている。そこで私は更にしばらく棗椰子の上を歩いていると、一人の男が麦打場で卵を打っているのに出あった。よくよく見ると、麦打場で打たれている卵全部から、小さな雛《ひよこ》が出てくる。そして雄《おす》の雛は一方に行き、雌《めす》の雛は他方に行く。私はそこにとまってじっとそれを見ていると、その雛は見る見る大きくなってゆく。そこで私は小さな雄鶏と幼い雌鶏を一緒にしてやった。次に、鶏どもを一緒にして悦ばせておいて、私は棗椰子の別な枝の上に立ち去った。するとそこで、胡麻《ごま》の菓子を運んでいる一頭の驢馬に出あった。ちょうど私の魂は胡麻の菓子が無性に好きなので、私はさっそくその菓子をひとつとって、二口か三口で呑みこんでしまった。こうしてそれを食べおわると、私は眼をあげた。すると私は西瓜の外に出ていた。西瓜はまた閉じて、元どおりまん丸になった。これが私の皆さんに話そうと思った物語だ。」
王様はこの襁褓《むつき》に包まれた嬰児の言葉を聞くと、子供にいった、「いや、はや、大嘘つき共の親方《シヤイクー》で、彼らの冠よ、いや、はや、気の利いた小童《こわつぱ》よ、こいつは全くでたらめの塊まりじゃ。われわれがこんな悪魔じみた物語をたった一と言でも信じたと、本気でお前は思うのか。えい、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、例えば、いったいいつから、西瓜のなかに町がはいっているなどというためしがあるか。またいったいいつから、卵が麦打場で打たれると、雛が出てくるなどというためしがあるか。白状するがよい、気の利いた小童《こわつぱ》よ、こうしたすべては嘘に嘘を重ねた作りものだと。」すると子供は答えました、「私は何ひとつ否定しない。だが汝もまた、おお王よ、この憐れなる漁師の男についての汝の本音《ほんね》を、否定したり、隠したりしてはなるまいぞ。汝は実は、浜辺で見そめた漁師の妻の美女を奪わんとて、ただそのために漁師を殺そうとしているのだ。然り、汝は王であり帝王《スルターン》の身でありながら、己れの有《もの》ならぬものを望み、この憐れなる漁師のごとく自分よりも豊かならず権力なき、汝の同胞の財を盗まんとするとは、われらを見そなわすアッラーの御面《みおもて》の前で、恥ずかしくはないか。アッラーと預言者――その上に祈りと平安あれ。――の功徳《くどく》とにかけて、己《おれ》は誓う、もし汝が即刻即座に、この漁師をば安らかにしてやり、その妻に対する汝の不届きなる下心を放棄せぬとあらば、己は汝と汝の大臣《ワジール》と、汝らの跡形《あとかた》を人間の地より消滅せしめ、蠅すらもはや汝らを見出し得ざるようにいたしてくれるぞ。」
物凄い声でこういい放って、襁褓《むつき》に包まれた子供はすべての人を茫然とさせておいて、漁師にいいました、「さあ、わが小父よ、また私を抱いて、ここを出て、お前の家に連れて行きなさい。」そこで漁師は生後一日の嬰児の、気の利いた小童《こわつぱ》を抱き、誰にも邪魔されずに王宮を出て、満足して女房の許に立ち去りました。女房は知らさるべきことを知らされると、亭主にいいました、「今はお前さんはすぐと、この子供を連れて来たところに戻しに行かなければいけない。私の親友に私の挨拶《サラーム》とお礼を伝えることを忘れないで、そしてお元気かと訊ねて下さいよ。」すると漁師はいいました、「よし、よし。」そして女房がしろといったことをしました。それがすむと、わが家に戻って、洗浄《みそぎ》と礼拝を果たして、女房の美人といつものことをしました。そしてその時から、二人は共に仕合せに栄えて暮らしました。
二人についてはこのようでございました。
――このようにこの物語を語ると、第三の警察隊長《ムカツダム》は自分の席に帰りました。帝王《スルターン》バイバルスはおっしゃいました、「おお天晴《あつぱ》れの物語よ。おおエズ・アル・ディーン隊長《ムカツダム》よ、その方が王と漁師との間に後日起ったところを、我らに語ってくれなかったのは、いかにも残念じゃ。」すると第四の警察隊長《ムカツダム》で、モヒイ・アル・ディーンという名の男が進み出ました。彼は申しました、「この私が、おお王様、もしお許しあらば、この物語の後日譚をお話し申し上げましょう。それは始まりよりも更に一段と驚くべきものでございます。」帝王《スルターン》バイバルスはおっしゃいました、「いかにも、衷心衷情より悦んで。」そこでモヒイ・アル・ディーン隊長《ムカツダム》は言いました。
第四の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
さればでございます、おお当代の王様、祝福のお蔭をもちまして、その漁師と美人の女房には、一人の男の子が生まれたのでございます。両親はかつて窮境を救ってくれたあの襁褓《むつき》の子を記念して、その男の子をば「利口者ムハンマード」と呼びました。その子は母親のように美しい子でありました。
またその帝王《スルターン》にもやはり、漁師の息子と同じ年齢《とし》の王子がありましたが、しかしこれは醜さに取りつかれ、その色は百姓《フエラーハ》の息子どもの色でした。
ところでこの二人の子供は、同じ学校に読み書きを習いに行きました。そして出来ない怠け者の王の息子は、出来る勉強者の漁師の息子に会うと、いつもいうのでした、「おい、お前の朝が仕合せであるように、漁師の小悴《こせがれ》よ。」これは彼を辱かしめるためにこう呼ぶのです。すると気の利いたムハンマードは答えました、「そしてあなたの朝が仕合せであるように、おお帝王《スルターン》の王子様、そして朝は、古い木履《きぐつ》の帯革《おびかわ》のように黒いあなたの顔を、どうか白くしてくれますように。」こうして二人の子供は、毎日こんな風に挨拶を交しながら、一年の間一緒に学校におりました。そこで最後に、帝王《スルターン》の息子は腹を立てて、父王のところにこれを言いつけに行って、いいました、「漁師の悴の、あの犬めは、毎日僕の挨拶《サラーム》を返してこういうのですよ、『古い木履の帯革のように顔のまっ黒いあなた』って。」それで王様は腹を立てたけれど、何しろ昔のことがあるので、御自身漁師の息子を罰しかねて、そこで学校の老先生を呼んで、いいました、「おお長老《シヤイクー》よ、もしその方あの漁師の息子のムハンマード少年を亡きものにしてくれれば、余はその方に立派な贈物をいたし、大勢の妾と美しい白人奴隷女《ママリク》をとらせよう。」すると学校の先生は悦んで答えました、「畏まりました、おお当代の王様。では私は毎日あの子供に鞭を加えまして、ついに死ぬまで折檻してやりましょう。」
そこで翌日、気の利いたムハンマードが学校に聖典《コーラン》を読みにゆきますと、学校の先生は生徒たちにいいました、「鞭打ちの道具を持ってこい。そして漁師の息子を地面に寝かせろ。」そこで生徒たちは習慣どおり、ムハンマードを掴まえて、地面に寝かし、両足を木の万力にはめました。すると先生は鞭をとって、少年の足裏を打ちはじめ、血が噴き出し、両脚も足先も腫れ上がるまで打ちました。そして先生は少年にいいました、「|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、明日《あした》またやってやる、おお鈍《にぶ》い石頭め。」そこで少年は、責具《せめぐ》から放されるとすぐに、脚を風にまかせて、学校から逃げ帰りました。そして父母のところに行って、いいました、「ごらん、学校の老先生《シヤイクー》は、帝王《スルターン》の王子のため、僕を殺すまで撲《ぶ》つんだ。僕はもう学校をやめて、お父さんみたいに漁師になりたい。」すると父親はいいました、「よしよし、悴よ。」そして立ち上がって、息子に網と魚籠《びく》をやっていいました、「お取り、これが漁の道具だ。明日《あす》は漁にお行き。お前ひとりが生きてゆけるだけしか取れないにしても、とにかく行ってごらん。」
そこで翌日、明け方、少年ムハンマードは、海に網を打ちに行きました。けれども網にかかったのはたった一匹、小さな|魴[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》きりでした。それでムハンマードは網を引きあげて、考えました、「この|魴[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》を鱗ごと丸焼きにして、朝御飯に食べるとしよう。」そこで少々の枯草と木ぎれを集めに行って、それに火をつけ、火にかけようとして|魴[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》を取りあげました。するとその|魴[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》は口を開いて、少年に言葉をかけていうのでした、「私を焼かないで下さい、やあムハンマード。私は海の女王のなかの一人の女王なのです。前のように私を水のなかに戻して下さい。そうすれば私はあなたの不幸な時にきっと役に立ち、必要な日にあなたを助けにきてあげますよ。」そこで少年はいいました、「よし、よし。」そしてくだんの|魴[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》を海中に戻してやりました。少年のほうはこのようでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十二夜になると[#「けれども第九百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが王様のほうはと申しますと、王様は二日後、学校の先生を呼んで訊ねました、「どうじゃ、その方は漁師の悴ムハンマード少年を殺したかな。」すると先生は答えました、「即日直ちに、気絶するまで鞭で打ち据えてやりました。すると逃げて行ったきり戻ってまいりませぬ。そして今は父親と同様漁師になっておりまする。」すると王様は先生を追っ払って、いいました、「目通り叶わぬ、おお犬の息子め。汝の父は呪われ、汝の娘は豚に嫁《とつ》ぐがよい。」
そのあと王様は大臣《ワジール》を呼んでいいました、「あの小悴は死んでいないぞ。どうしてやろうか。」すると大臣《ワジール》は王様に答えました、「私がひとつ工夫をして奴を殺してさしあげましょう。」王様は訊ねました、「してどういう手筈で殺そうというのか。」大臣《ワジール》は答えました、「私は一人の大そう美しい乙女を知っております。『緑の地』の帝王《スルターン》の姫君です。その地はここを去る七年の旅の距離にございます。ですからわれわれはここに漁師の小悴を呼び出して、私からこう申しつけましょう、『我らの御主君|帝王《スルターン》は、お前を大そう重んじて、お前の勇気を期待しておられる。さればお前はこれから緑の地に出かけて、そこからその国の姫君をお連れしてこなければならぬ。何となれば、我らの御主君王様は、その姫君をお妃に迎えたい思し召しで、お前を除いては、誰も姫君をお連れすることができまいからじゃ、』と。」すると王様は大臣《ワジール》に答えました、「それがよい。小童《こわつぱ》を呼んでまいれ。」
そこで大臣《ワジール》は少年ムハンマードを、鼻にもかかわらず(12)呼んで来て、これにいいつけました、「我らの御主君|帝王《スルターン》は、お前を遣わして、緑の地の帝王《スルターン》の姫君をお連れ申してこいとのお望みじゃ。」少年は答えました、「いったい、いつから、私はそんな国の道を知っていましょうか。」大臣《ワジール》はいいました、「行けといったら行け。」そこで少年は腹を立てて外に出て、母親のところに事の次第を話しに行きました。すると母親はいいました、「河岸の、ちょうど河が海に入る河口のほとりに、お前の不機嫌を散じに行きなさい。そうすれば自然と不機嫌は消えてしまうだろう。」そこで少年ムハンマードは不機嫌と一緒に、海岸の河口に散歩に行きました。
そして少年が腹を立てながら、縦横に歩きまわっていると、そこにこの間の魴[#「魚+弗」、unicode9b84]が海から出てきて、少年にお辞儀をしながら、磯にやってきました。そして聞きました、「なぜあなたは腹を立てていなさるの、気の利いたムハンマードさん。」少年は答えました、「何も聞いてくれるな、処置ないことなんだから。」すると魚はいいました、「処置はアッラーの御手の間にあります。まあおっしゃい。」少年はいいました、「まあ考えてもごらん、ねえ魴[#「魚+弗」、unicode9b84]さん、あの瀝青《チヤン》の大臣《ワジール》のやつが僕にこういったんだ、『お前は緑の地の帝王《スルターン》のお姫様を呼んでこなければいかん、』ってさ。」魴[#「魚+弗」、unicode9b84]はいいました、「いいわよ。それじゃ王様のところに行って、こうおっしゃい、『私は緑の地の帝王《スルターン》のお姫様を呼びに行ってあげます。けれどもそれには、王様が私に黄金《きん》の屋形船《ダハビエ》を作って下さらなければなりません。そしてその黄金は王様の大臣《ワジール》の財産から取ったものでなければなりません。』」
そこでムハンマード少年は、魴[#「魚+弗」、unicode9b84]の教えたことを、王様にいいに行きました。王様も、大臣《ワジール》の鼻にもかかわらず、大臣《ワジール》の財産で黄金の屋形船《ダハビエ》を作ってやらないわけにゆきませんでした。大臣《ワジール》は無理に抑えた口惜しさのあまり、すんでのことに死にそうになりました。ムハンマードはその黄金の屋形船《ダハビエ》に乗って、河を溯りつつ出発しました。
すると友達の魴[#「魚+弗」、unicode9b84]は、少年の先に立って、道を教え、河の支流と傍流の間を分けて案内し、最後に「緑の地」に着くまでついて行ってくれました。そこで気の利いたムハンマードは、触れまわる男を出して町中に触れさせました、「さあさ、老若男女いずれを問わず、皆さん河岸に降りてきて、漁師の息子利口者ムハンマードの、黄金の屋形船《ダハビエ》を御覧《ごろう》じろ。」
すると町の住人全部は、大人も子供も、男も女も、河岸に降りてきて、黄金の屋形船《ダハビエ》を見物しました。そして一同まる一週間の間、この船を眺めていました。すると王女様もまた好奇心を抑えかねて、父王にお許しを求めていいました、「わたくしも他の人たちのように、その屋形船《ダハビエ》を見に行きたいと思います。」すると王様はそれを御承諾になって、あらかじめ、当日は姫君が屋形船《ダハビエ》を御見物にいらっしゃるはずゆえ、男も女も何ぴともわが家を出てはならぬし、河岸方面に出歩いてはならぬ旨、町中に触れさせました。
そこで、王女は河岸にその美しい黄金の屋形船《ダハビエ》を見に行きました。そして気の利いた少年に合図をして、船の内側《なか》も見たいからはいってよいかと、お訊ねになりました。するとムハンマードはこれに、頭と眼でもって、「よろしい」という意味の合図を送ったので、姫は屋形船《ダハビエ》に乗り込んで、見物しはじめました。そのとき気の利いたムハンマードは、姫が夢中になっているのを見すまし、そっと屋形船《ダハビエ》の楔《くさび》と杭《くい》を抜き、船を動かして、出発してしまいました。
さて、緑の地の帝王《スルターン》の王女は見物を終って、船を出ようと思い、眼をあげてみると、屋形船《ダハビエ》は出帆してしまって、すでに父王の都からはずいぶん遠く離れているのでした。すると姫は魴[#「魚+弗」、unicode9b84]の友達にいいました、「私をどこに連れて行きなさるの、お利口な方よ。」少年は答えました、「或る王様のところにお連れして、あなたはそのお妃になるのです。」姫はいいました、「ひょっとして、その王様は、お利口なあなたよりか美男子ですの。」少年は答えました、「そりゃわかりませんね。やがて御自身で、あなたの眼で御覧になれます。」すると姫は指から自分の指環をはずして、それを河に投げこみました。けれどもそこには魴[#「魚+弗」、unicode9b84]がいて、その指環を拾い、口にくわえながら、水先案内をしました。それから姫は「利口者」にいいました、「私はあなたとでなければ結婚しません。ここで進んであなたに身を任せたいと思いますの。」すると少年ムハンマードは姫にいいました、「よし、よし。」そして姫をその処女と共に取りました。そして水の上で姫と楽しみました。
いよいよ目的地に着くと、漁師の息子ムハンマードは王様のところに行って、申し上げました、「帰ってまいりました。私は緑の地の帝王《スルターン》の王女をお連れしました。けれども王女は、わが君が地上に緑の絹の絨緞を敷きつらね、その上を歩いて御殿に来るのでなければ、屋形船《ダハビエ》から出ないとの仰せです。さすればどんなに優美に姫がお歩きになるか、御覧ぜられることでございましょう。」すると王様はいいました、「よし、よし。」そして王は大臣《ワジール》の鼻にもかかわらず、大臣《ワジール》の財産から、絨緞の市場《スーク》にある緑の絹の絨緞全部を買いあげて、それを屋形船《ダハビエ》のところまで地上に敷きつめさせました。
すると緑の地の姫君は屋形船《ダハビエ》から出て、緑の衣を着け、人々の心を奪うばかりの様子で身を揺すりながら、絹の絨緞の上を歩きました。王様はその姿を見て、感嘆し、その美しさのため思いをかけてしまいました。それで姫が宮殿にはいると、王様はこれにいいました、「今宵《こよい》直ちに御身との結婚契約書を認《したた》めさせよう。」乙女はするといいました、「よろしゅうございます。けれども、もし私と結婚遊ばしたいならば、私の指からぬけて河の中に落ちた私の指環を、取ってきて下さいませ。その上で契約をして、私を妻となさいませ。」
ところでその指環は、魴[#「魚+弗」、unicode9b84]が友達の漁師の息子、利口者ムハンマードに与えていたのでございます。
そこで王様は大臣《ワジール》を呼んでいいました、「聞くがよい。あの貴女の指環が、指からぬけて河中に落ちたのじゃ。今は何といたそうか。誰がそれを我らに取ってくることができようか。」すると大臣《ワジール》は答えました、「誰がそれを取ってくることができましょうぞ、あの漁師の小悴ムハンマード、あのいまいましき奴、あの鬼神《イフリート》めを除いては。」ところで彼がこういったのは、ただ少年を出口のない罠《わな》に陥れようという以外に他意なかったのです。そこで王様は大いそぎで少年を探させました。そして少年が来ると、二人はこれにいいました、「あの貴女の指から河中に落ちた指環があるのじゃ。これを取ってくることのできる者は、お前以外誰もいない。」少年は二人に答えました、「よろしゅうございます。さしあげます。これがその指環です。」
そこで王様は指環を受けとって、それを緑の地の乙女に持って行って、いいました、「おとりなされ、ここに御身の指環がある。では今宵《こよい》、結婚契約を結ぶとしよう。」姫はいいました、「よろしゅうございます。けれども私の国では、乙女がいよいよ結婚するとなりますると、ひとつの習慣《ならわし》がございます。」王様はいいました、「よろしい、言ってもらおう。」姫はいいます、「まず婚約した男の家から海まで堀を掘って、そこに薪《まき》と薪木《たきぎ》を詰め、それに火を放ちます。そして婚約した男がその火中に飛びこんで、海までずっと歩いてゆき、海で水浴をして、それから直接女のところにゆくのです。……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十三夜になると[#「けれども第九百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……こうして男は火と水によって清められたわけです。これが私の国での結婚契約の儀式でございます。」
そこで王様はこの美女にすっかり惚れこんでいるので、くだんの堀を掘ることを命じ、それに薪《まき》と薪木《たきぎ》を詰め、大臣《ワジール》を呼んで、これに仰せつけました、「明日、その方は余と共にあそこを歩く覚悟をいたせ。」
そして、翌日、いよいよこの薪の掘割に火を放つ時刻になると、大臣《ワジール》は王様にいいました、「まず漁師の息子ムハンマードを一番に火中に飛びこませて、どのような次第と相成るか見るに如《し》かず。もし奴がその火中から恙《つつが》なく出るならば、その節はわれわれも飛びこんで差支えございますまい。」すると王様はいいました、「よし、よし。」
ところでその間に、魴[#「魚+弗」、unicode9b84]が屋形船《ダハビエ》のなかの友達の少年のところに上がって行って、いい含めました、「利口者よ、もし王様があなたを召して、『この火に飛びこめ、』といったら、あなたは恐れることはありません。両の耳をふさいで、身を守る呪文を唱えなさい、『果てしなく寛仁にして、慈悲深きアッラーの御名において、』と。それから断乎としてその火の掘割のなかに飛びこみなさい。」
さて、王様はいよいよ薪と薪木に火を放たせました。そして二人はムハンマードを呼んで、いいつけました、「お前はこの火中に飛びこみ、海まで歩いてゆけ。お前は利口者であるからには、それができるはずだ。」少年は答えました、「わが頭上と眼の上に。畏まりました。」そして両耳をふさいで、心の中で「|アッラーの御名において《ビスミラーヒ》」の呪文を唱えて、断乎として火の中にはいりました。そして前よりもいっそう凛々《りり》しく、海のほうに抜け出ました。万人これを見てその男振りに目を奪われました。
そこで大臣《ワジール》は王様にいいました、「それではわれわれも火の中にはいって、あの漁師の小悴、いまいましき奴のように、凛々《りり》しく通り抜けるといたしましょう。ついでに王子様をもお呼びになって、われわれと一緒に火中に投じ、われわれのなるがごとく、凛々しくおなりになるがよろしゅうございます。」そこで王様は王子を呼びました。あの醜く、顔は古い木履の帯革のような王子です。そして三人互いに手をつないで、そういう有様で、火の中へ飛びこみました。そして三人は一と山の灰となってしまいました。
そのとき、漁師の息子、利口者ムハンマードは、緑の地の帝王《スルターン》の王女である乙女のところに行って、姫君と結婚の契約を結び、これを妻といたしました。そして彼が帝国の王座に就き、国王|帝王《スルターン》となりました。彼は父母をそばに呼びよせました。こうして皆で一緒に、満足し繁栄して、完《まつた》き至福と和合の裡に、王宮で暮らしたのでございました。さても、繁栄と満足と至福と和合の御主《おんあるじ》、アッラーに讃《たた》えあれ。
――警察隊長《ムカツダム》モヒイ・アル・ディーンがこのようにこの物語を語り、帝王《スルターン》バイバルスがこれにお礼を述べられ、御満足の意を表しなさいますと、彼は自分の席に戻りました。すると第五の警察隊長《ムカツダム》で、ヌール・アル・ディーンという名の男が進み出ました。そして帝王《スルターン》バイバルスの御手の間の床《ゆか》に接吻してから、申しました、「この私は、おお我らの殿にして我らの頭上の冠よ、私は物語のなかでまたと類《たぐ》いのない物語をひとつ、お話し申し上げましょう。」そして彼は言いました。
第五の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
むかし一人の帝王《スルターン》がいらっしゃいました。さてその帝王《スルターン》は日々のうちの或る日のこと、大臣《ワジール》を召して、仰せられました、「大臣《ワジール》よ。」そこで大臣《ワジール》は答えました、「御命令何なりと承わりまする。何事でございましょうか、おお王様。」王様はおっしゃいました、「余はひとつの勅書を認《したた》め印を捺させてもらいたいが、その勅書の威力たるや、余が機嫌よければ怒らず、怒っておれば悦ばぬというごときものであるべきじゃ。してその勅書を認める者は、そこにかかる威力を付するという約束をしなければならぬぞよ。このために、その方は三日間の猶予を持つ。」
そこで大臣《ワジール》は通常、勅書と護符の類を作る人々のところに行き、彼らにいいました、「王様のために勅書を認めてもらいたい。」そして王様の御所望の趣意を話しました。けれども誰一人として、そのような勅書を作ることは引き受けようとしません。そこで大臣《ワジール》は立ち上がって、腹を立てて立ち去るのでした。そして独りごとをいいました、「この町にはおれの必要とするものは見つかるまい。他の国に行ってみよう。」
そして大臣《ワジール》は町を出て、田舎を歩いていると、畑のなかで麦を打っている一人のアラビアの老人《シヤイクー》に出あいました。そこで大臣《ワジール》はこれに、「御身の上に平安あれ、おおアラビア人たちの長老《シヤイクー》よ、」といいながら、挨拶しました。アラビア人たちの長老《シヤイクー》は挨拶《サラーム》を返していいました、「今ごろ、どこに行きなさるのじゃ。やあ殿《シデイ》よ、この暑いなかを。」彼は答えました、「王様の御用で旅をしていますのじゃ。」長老《シヤイクー》は訊ねました、「それはどんな御用かな。」彼は答えました、「王様はわしに勅書を書けという御諚だが、それが、王様御機嫌よろしければお怒りにならず、お怒りになっておればお悦びにならぬと、こういったものでなければならぬのじゃ。」するとアラビア人たちの長老《シヤイクー》はいいました、「それだけのことですか。」大臣《ワジール》は答えました、「そうじゃ。」長老《シヤイクー》はいいました、「よろしい。まずお坐りなされ。食べ物を持ってきて進ぜるほどに。」
そしてアラビア人たちの長老《シヤイクー》はちょっと大臣《ワジール》をそこに置いて、ヤスミーンという自分の娘のところに行って、いいました、「おお娘ヤスミーンよ、お客様だから朝食の仕度をしておくれ。」娘はいいました、「そのお客様というのはどこからお出でになったのですか。」父親は答えました、「帝王《スルターン》の御用でな。」娘は訊ねました、「どういうことで?」そこで父親は用件を話しましたが、それを繰り返しても詮なきことです。
するとヤスミーン、そのアラビア人たちの貴女は、すぐに卵三十個とたくさんのおいしいバタのはいっている一と皿の卵の料理をととのえて、八つのパン菓子と一緒に、それを父親に渡しながら、いいました、「これをその旅のお方にさしあげて、こういって下さい。わが娘、アラビア人たちの貴女ヤスミーンは、あなたに御挨拶申し上げて、その勅書を自分が認《したた》めてあげましょうと、申しております。なお、こんなことも申しております、今月はやっと三十日しかないけれど、今日の海は満ち満ちていて、八日が一週間でございます、と。」すると父親はいいました、「よし、よし。」そしてその朝食を持って、立ち去りました。
さて老人《シヤイクー》は歩いていると、皿のバタがその手の上にこぼれました。そこで皿を地面に置いて、パンをひとつ取り、それで手のバタを拭い、それを食べ、ついでに卵も食べたくなってひとつ食べました。それから立ち上がって、朝食を大臣《ワジール》に持って行って、これにいいました、「わが娘ヤスミーン、アラビア人たちの貴女は、あなたに御挨拶《サラーム》を送って、自分がその勅書を認《したた》めてさしあげると申しております。なお、あなたにこう申しております、今月はやっと三十日しかないけれど、今日の海は満ち満ちていて、八日が一週間でございます、と。」すると大臣《ワジール》はいいました、「まず頂戴して、あとはそれからにいたそう。」
大臣《ワジール》は食べおわると、ヤスミーンの父親にいいました、「御息女にお伝え下さい、では勅書を認めていただきたい、けれども今月は一日足らず、海は干上がっていて、一週間は七日しかなかった、と。」
そこでアラビア人たちの長老《シヤイクー》は娘のところに戻っていいました、「大臣《ワジール》はお前に勅書を認めてもらいたい、けれども今月は一日足らず、海は干上がっていて、一週間は七日しかなかった、とこういっていたよ。」すると若い娘はいいました、「お父様てば、御自分のなさったことが恥ずかしくはないのですか。お父様はお食事を路の上におろして、パン菓子と卵をひとつ食べ、お客様にはバター無しの卵をおあげになったのでしょう。」父親は答えました、「うん、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、そのとおりだ。だが、娘よ、何しろ皿は一杯だったもので、わしの手の上にこぼれたのだ。それでわしは坐ってパン菓子でバターを拭ってそれを食べ、ちょうど卵が食べたかったので、ひとつ失敬したわけだ。」娘はいいました、「まあそんなことはどうでもよろしゅうございます。ではその勅書を考えましょう。」
そこで娘は勅書の案を練って、次の言葉でそれを作り上げました、「苦にせよ楽にせよ、およそあらゆる情はアッラーより我らに至る。」そしてその勅書を大臣《ワジール》に届けると、大臣《ワジール》は礼を述べてからそれを受けとって、王様にお届けしようと出発しました。
王様はその勅書を受けとって、そこに記されていることをお読みになってから、大臣《ワジール》にお訊ねになりました、「この勅書を作ったのは誰か。」大臣《ワジール》は答えました、「アラビア人たちの貴女ヤスミーンという名前の、若い娘でございます。」すると王様はすっくとお立ちになって、大臣《ワジール》に申されました、「来たれ。その娘を妃にしたいから、父親のところに案内いたせ。」
そこで大臣《ワジール》は王様のお手をとって、御一緒に出発しました。そしてアラビア人たちの長老《シヤイクー》に会いに行って、二人でいいました、「おおアラビア人たちの長老《シヤイクー》よ、我らは御身との縁組を求めてまいりました。」長老《シヤイクー》は答えました、「お心安く、お寛ろぎあれ。だが何ぴとを通じてかな。」大臣《ワジール》は答えました、「御息女の、アラビア人たちの貴女、ヤスミーン様を通じて。あなたのお眼の前におらるる我らの御主君王様が、御息女をお妃に迎えたいとのお望みです。」長老《シヤイクー》はいいました、「よろしい、我らはあなた様方の下僕《しもべ》じゃ。しかしわが娘をば秤の一方の皿に置き、他方の皿に黄金を置くとしよう。そして重さを釣合わせるのじゃ。それというのは、ヤスミーンはその父親の心にとって大切な女じゃからな。」大臣《ワジール》は答えました、「異存ござらぬ。」そして主従は黄金を取りに行って、それを秤の一方の皿に置くと、一方アラビア人たちの長老《シヤイクー》は娘を他方の皿に置きました。そして若い娘と黄金とが釣合いますと、その場で結婚契約書を認《したた》めました。そして王様はアラビア人たちの村で盛宴を張りました。その夜直ちに、王様は父親の家で、乙女のところにはいって、その処女を奪い、相共に楽しみました。翌朝、乙女と共に出発して、乙女を王宮に入れました。
さて、美しいアラビア娘ヤスミーンは、その王宮にしばらくいるうちに、次第に痩せ気味に向い、憔悴して衰えはじめました。そこで王様はお医者を呼んで、申されました、「早く上がって|アラビアの奥方《シート・エル・アラブ》ヤスミーン妃を診察いたせ。何ゆえあのように痩せ衰えるのか、余にわからぬ。」そこでお医者は上がって、ヤスミーンを診察しました。それから降りて、王様に申し上げました、「お妃様は都市のお住いに慣れていらっしゃいません、もともと田園の娘《こ》でいらっしゃいますので。それで大気不足のためお胸が狭まりなさるのでございます。」王様は訊ねました、「していかがすべきか。」医師《ハキーム》は答えました、「海岸に御殿を建てて、よい空気をお吸いになることができるようにしてさしあげますれば、前にもましてお美しくなりなさるでございましょう。」そこで王様はすぐに石工に、海岸に御殿を建てるようお命じになりました。そして御殿が出来上がると、そこにやつれたアラビア人たちの貴女ヤスミーンをお移し申しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十四夜になると[#「けれども第九百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてその御殿にしばらく住んでいると、彼女はまた肥えて、やつれるのがやみました。或る日のこと彼女が窓辺に肱《ひじ》をついて、海を眺めておりますと、そこに一人の漁師が御殿の下に網を打ちに来ました。漁師が網をあげてみると、中には瓦や貝殻などしかはいっていません。漁師は腹を立てています。そこでこれに言葉をかけていいました、「おお漁師よ、こんどもしお前が私の運をためして海に網を打ってくれるなら、骨折り賃に一ディナール金貨をあげよう。」すると漁師は答えました、「よろしゅうございます、おお貴婦人様。」そして漁師はアラビア人たちの貴女ヤスミーンの運だめしに、海に網を投じて、引きあげ、たぐり寄せてみると、銅《あかがね》の瓶《びん》がひとつはいっていました。そこで漁師がそれをヤスミーンに見せると、彼女はすぐに敷布でもって、面衣《ヴエール》のように身を包んで、漁師のほうに下りてきて、これにいいました、「さあ、ここにディナール金貨があるから、私にその瓶を下さい。」ところが漁師は答えました、「いや、アッラーにかけて、この瓶と引き代えには、ディナール金貨を頂戴せずに、あなたの頬《ほ》っぺたにひとつ接吻をさせて下さい。」
然るにちょうど二人がこうして一緒に話をしているところに、王様がひょっこり二人に出会いました。そして王様は漁師を捉えて、剣で殺し、屍体を河のなかに投げ棄てました。次にアラビア人たちの貴女ヤスミーンのほうを向いて、おっしゃいました、「その方もまた、余はもう二度と見たくない。どこへなりと出て行け。」
彼女は出て行きました。そして二日二夜、飢えと渇《かつ》えを覚えつつ歩きました。すると或る町に着きました。彼女は一軒の商売屋の戸口に、朝から正午の礼拝の時刻まで坐っていました。するとその商人はいいました、「おお貴婦人様、あなた様は今朝からここに坐っておいでだが、どうなさったのですか。」彼女は答えました、「私は異国の者でして、この町にはどなたもお知合いがございません。そして二日以来何も食べも飲みもしていないのです。」すると商人は自分の黒人を呼んでいいました、「この御婦人をお連れして、家に御案内しなさい。そして家で、この方に食べ物と飲み物をさしあげるよう、一同にいいなさい。」黒人は彼女を連れて、家に案内して、女主人の商人の妻にいいました、「御主人がこの御婦人に十分に食べ物と飲み物をさしあげるようにと、あなたにおっしゃいました。」商人の妻はヤスミーンを見やって、よく見ると、自分よりも美しかったので、焼餅を焼きました。それで黒人のほうを向いていいました、「よし、よし。それじゃこの御婦人を、露台の上の鶏小舎にお上げしなさい。」そこで黒人はヤスミーンの手をとって、露台の上のくだんの鶏小屋に上がらせました。
ヤスミーンはそこに夕方までいましたが、商人のお上さんは、食べ物も飲み物も、全然かまってくれませんでした。そこでアラビア人たちの貴女ヤスミーンは、小脇に抱えていた銅《あかがね》の瓶《びん》を思い出して、独りいいました、「さて、ひょっとするとこのなかに、いくらか飲み水がはいっているかも知れない。」こう考えて彼女はその瓶を取りあげ、その蓋を廻してみました。するとすぐに、なかから水差しと一緒に盥《たらい》が出てきました。ヤスミーンはそれで両手を洗いました。次に眼をあげると、瓶のなかから、お料理と飲み物を盛り上げた盆が出てきました。そこで食べ、飲み、すっかり満足しました。そのとき改めて瓶の蓋を廻しますと、こんどは十人の白人奴隷《ママリク》が手にカスタネットを持って、瓶から出てきて、鶏小舎で舞いはじめました。舞いがすむと、女奴隷たちはめいめい金貨入りの財布を十ずつ、ヤスミーンの膝の上に投げて、そして皆瓶のなかに戻ってしまいました。
こうしてアラビア人たちの貴女ヤスミーンは、まる三日の間、食べては、瓶の娘たち相手に気晴らししながら、その鶏小舎におりました。そして娘たちを瓶から出すとそのつど、舞いのあとで、必ず金貨の詰まった財布を投げてゆくので、しまいには、鶏小舎は天井まで金貨で一杯になってしまいました。
さて三日たつと、商人のところの黒人が、何か用を足しに露台の上に上がりました。するとヤスミーン夫人がいるので、びっくりしました。商人の妻のいうところではもう行ってしまったというので、そうとばかり思っていたからです。ヤスミーンはこれにいいました、「あなたの御主人が私をここによこしたのは、あなた方が私を養うためなのですか。それとも、私を前よりも飢えと渇《かつ》えに干乾《ひぼ》しにするためなのですか。」奴隷は答えました、「やあ奥様《シート》、家の主人は家人があなたにパンをさしあげ、あなたはその日のうちに立ってしまいなすったものと思っております。」次に奴隷はいそいで店にいる主人のところに駈けつけて、いいました、「やあ殿《シデイ》よ、あなたが三日前に、私をつけてお宅に送らせたお気の毒な御婦人は、その間ずっと、何も飲み食いもせずに、露台の鶏小舎においでだったのです。」すると正直者の商人は腹を立てて、すぐに店を飛び出して、お上さんにいいに行きました、「どうしたわけだ、おお呪われた女め、お前はあの気の毒な御婦人に、何ひとつ食べ物をあげなかったのだな。」そしてお上さんを掴まえて、撲《う》ちはじめ、腕が撲ちくたびれるまでつづけました。次にパンその他を持って、露台に上がり、ヤスミーンにいいました、「やあ奥様《シート》、どうぞ、お取りになって召し上って下さい。私たちが忘れていたことを、どうぞお咎めなきように。」彼女は答えました、「どうぞアッラーはあなたの幸いを殖やして下さいますように。まるであなたの御好意がやっと目的地に届いたみたいですこと。では、もしあなたが御親切を全うして下さりたいならば、ひとつお願いがございます。」商人はいいました、「仰せつけ下さい、おお奥方。」彼女はいいました、「実はあなたに、王様の御殿よりも倍も立派な宮殿を、町の外に建てていただきたいのです。」商人は答えました、「仔細ございません。承知いたしました。」彼女はいいました、「ここに黄金《おかね》があります。いるだけいくらでも持っていらっしゃい。石工たちが普通一日に一ドラクムで仕事をするなら、四ドラクムやって建築をいそがせて下さい。」商人はいいました、「よろしゅうございます。」
そして商人は金子《かね》を持って、石工と建築師を集めに行き、彼らはわずかの間に、王様の御殿より倍も立派な宮殿を建てました。そこで商人は鶏小舎のアラビア人たちの貴女ヤスミーンのところに行って、いいました、「やあ奥様《シート》、宮殿は出来上がりました。」彼女はいいました、「ここに金子がありますから、これを持って、その宮殿に入れる繻子《しゆす》張りの家具を買って下さい。それから、異国の男で、アラビア語を知らない黒人の召使たちを集めて下さい。」そこで商人は繻子張りの家具を買いにゆき、アラビア語を知りもしなければ、わかりもしないくだんの黒人の召使たちを求めて、鶏小舎のアラビア人たちの貴女ヤスミーンに、告げに戻りました、「おおわが御主人様、今は万事ととのいました。どうぞあなたの御殿を受けとりにお出で下さいませ。」するとアラビア人たちの貴女ヤスミーンは立ち上がって、鶏小舎を出るに先立って、商人にいいました、「私のいる鶏小舎は、天井まで黄金が一杯詰まっています。あなたが私にして下さった親切のお礼に、私からの贈物として、これを収めて下さい。」そして商人に別れを告げました。商人のほうはこのようでした。
さてヤスミーンのほうは、その宮殿に入りました。そして美々しい王衣を求めて、それを着用し、玉座に坐りました。それで彼女はさながら立派な王様のようになりました。彼女のほうはこのようでした。
その御夫君、漁師を殺してお妃自身をも追っ払ってしまった王様のほうは、しばらくたつとお気も静まり、夜中にお妃のことを思い出しました。それで翌朝|大臣《ワジール》を呼んで、おっしゃいました、「大臣《ワジール》よ。」大臣《ワジール》は答えて、「ここに控えまする。」王様は、「さあ、我らは身を窶《やつ》して、わが妃、アラビア人たちの貴女ヤスミーンを探しに出かけよう。」大臣《ワジール》は、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして両人は変装して王宮を出、アラビア人たちの貴女ヤスミーンを探して、人々に問い訊ね、聞き合わせながら、二日歩きました。こうして二人は、彼女のいる町に着きました。そしてその宮殿を見ました。すると王様は大臣《ワジール》にいいました、「この宮殿はここに新たに建ったものじゃ。前の旅のときには、いつも全く見受けなかったからな。いったい誰の宮殿であろう。」大臣《ワジール》は答えました、「一向に存じません。或いはわれわれの知らぬうちに、どこからか侵入してきて、この町を攻め取った王の宮殿かも知れませぬ。」王様はいいました、「アッラーにかけて、おそらくそんなことであろう。されば、我らはそれを確かめるため、町に触れ役人を派して、今夜は何ぴとも家に火を点《とも》してはならぬと、告示させてみよう。かくすれば、この宮殿に住んでいる人々が、我らに従う臣民であるか、或いはこの地を征服した王侯たちであるか、判明するであろう。」
そこで触れ役人は町中にその命令を触れにゆきました。そして夜になると、王様は大臣《ワジール》と一緒にさまざまの地区を巡りはじめました。するとどこにも灯火《ともしび》は見えませんでしたが、ただ二人の知らないあの壮麗な宮殿だけは別です。そこには歌声と、竪琴《テイオルバ》と琵琶《ウーデイ》と六絃琴《ジーターラ》の響きが聞えます。そこで大臣《ワジール》は王様に申し上げました、「御覧のとおりです、おお王様。先刻申し上げたように、この国はもうわれわれの領地ではなく、あの宮殿には、侵入してきた王侯たちが住んでいるのでございます。」王様は答えました、「何ともわからぬ。来たれ、我らは宮殿の門番の許で問い合わせてみよう。」そして二人は門番に訊ねにゆきました。ところがこの門番はバルバリア人で、アラビア語は一と言も知りもせずわかりもしない男なので、問われるごとに、ただ「シャヌー」と答えるのでした。それはバルバリア語で「知らぬ」という意味なのです。そこで王様と大臣《ワジール》は立ち去りましたが、その夜は、空恐ろしくて眠れませんでした。
翌朝、王様は大臣《ワジール》にいいました、「触れ役人にもう一度、何ぴとも今夜は火を点《とも》さぬよう、町中に触れよといえ。こうすればはっきり確かめられよう。」そこで触れ役人が触れて、夜となりました。王様は大臣《ワジール》と一緒に歩き廻りました。けれども、全部の家に闇が支配しているのに、その宮殿だけは、前日に倍する光が輝き、全体が煌々と照らされているのでした。そこで大臣《ワジール》は王様に申し上げました、「今となっては、外国の王侯たちによってこの国が奪われたことについて、先日私の申し上げたところは、もはやはっきりとおわかりになったでございましょう。」王様はいいました、「いかにもさようじゃ。だが我らは何としようか。」大臣《ワジール》はいいました、「まず、われわれは寝るといたしまして、明日考えましょう。」
翌日、大臣《ワジール》は王様に申し上げました、「お出で遊ばせ。われわれはこれから、世人と同じように、あの宮殿の方角に散歩にまいりましょう。そして私はわが君を下にお残し申し、計《はかりごと》を用いて一人だけ上に上がって、いったいどこの国の王か、わが眼をもって見、わが耳をもって聞いてまいりましょう。」
そこで、二人が宮殿の門番のところに来ると、大臣《ワジール》は警護の者どもの眼をかすめて、首尾よく玉座の間《ま》に上がりました。そしてアラビア人たちの貴女ヤスミーンを見ると、どこかの若い国王に挨拶するつもりで、これに挨拶しました。彼女はこれに挨拶《サラーム》を返して、いいました、「お坐りなさい。」相手が坐ると、アラビア人たちの貴女ヤスミーンは、前からこれが大臣《ワジール》とわかっていたし、また、夫の王様がこの町に来ていることもちゃんと知っていましたが、そのとき瓶の蓋を廻しますと、飲み物が出ました。そして十人の美しい白人奴隷《ママリク》が瓶から出てきて、カスタネットを鳴らしつつ舞いはじめました。舞いがすむと、めいめいがヤスミーンの膝の上に、金貨の詰まった財布を十ずつ投げてゆきました。すると彼女はそれを全部|大臣《ワジール》にくれてやりながら、いいました、「引出物としてこれを収めなさい。お見受けするところあなたは貧しいようだから。」大臣《ワジール》はその手に接吻していいました、「アッラーは君の御敵《おんてき》に対する勝利を君に授けたまいまするように、おお当代の王よ、そして我らのため君の御齢《おんよわい》を永からしめたまいまするように。」そして暇《いとま》を告げて、門番のそばに坐っている王様のところに下りました。
すると王様は大臣《ワジール》におっしゃいました、「上でその方は何としたか、おお大臣《ワジール》よ。」彼は答えました、「いやはや、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、先刻ちゃんと申し上げました、この地はわが君から奪い取られましたと。まあお考え遊ばせ、王は私に引出物として財布を百個くれて、いうのです、『これを。収めよ、その方は貧しい者だから、』と。そう私にいったのです、その王は。これでもなお、その王がこの町と国を取ってしまったということを、お疑いになることができますか。」すると王様はいいました、「いや、疑えぬが、しかしその方は本当にそう思うか。然らば、余もまた何とかバルバリアの警護の者どもの眼をくらまして、上に上がり、その王とやらを見てまいろう。」そして王様は仰しゃるとおりになさいました。
さて、アラビア人たちの貴女ヤスミーンは王様を見ると、すぐにそれとわかりましたが、少しもそんな素振りを見せませんでした。彼女は敬意を表して玉座から立ち上がって、いいました、「何とぞお坐り下さい。」王様は外国の王と思っていた人が、自分に敬意を表して立ち上がるのを見ると、お心が安んじて、独りごとをいいなさいました、「これはきっと臣下であって、国王ではないぞ。さもなければ、自分の知りもしないどこかの人間のために、こんな風に立ち上がりはしまい。」そこで王様は席に坐りました。すると飲み物が出ましたので、飲んで、満足なさいました。そうなると王様はすっかり気が強くなって、アラビア人たちの貴女ヤスミーンに訊ねました、「あなた方はいったいどういう御身分かな。」彼女は微笑して答えました、「われわれは富者です。」こういいながら、瓶の蓋を廻すと、すぐさま十人の美《うる》わしい白人奴隷《ママリク》がなかから出てきて、カスタネットを鳴らしながら舞いました。そして姿を消す前に、めいめいがヤスミーンの膝の上に、黄金の詰まった財布を十ずつ投げてゆきました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十五夜になると[#「けれども第九百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それで王様はこの瓶に驚嘆の限り驚嘆なさいまして、アラビア人たちの貴女ヤスミーンにいいました、「おおわが兄弟よ、あなたはその不思議な瓶をどこでお求めになったか、聞かせていただけましょうか。」彼女は答えました、「私はこれを金銭で求めたのではございません。」王様は訊ねました、「では、何でお求めになったのか。」彼女は答えました、「私はこの瓶を或る人のところで見たので、その或る人にこういいました、『この瓶を私に下さい、そして私に何でもお好きなものを御所望下さい、』と。するとその人は答えて、『この瓶は売り物でも買い物でもない。しかしもしあなたがこれをくれというのなら、私のところに来て、牡鶏が牝鶏とすることを、私と一度しなさい。そしたらこの瓶をさしあげよう。』そこで私はその人の私に望むことをしました。するとその人はこの瓶を私にくれたのです。」
ところでヤスミーンがこういったのには、或る考えがあったがためにほかなりません。
ですから、王様はこの言葉を聞くと、いい出しました、「よろしい、そんなことは造作ない。というのは、私だって、もしあなたがこの瓶を私に下さるなら、あなたが私にその同じことを、一度ならず二度なさることも、承知します。」するとアラビア人たちの貴女はいいました、「いや、二度では足りない。どうかアッラーが利得の門を開いて下さるように。」王様はいいました、「では、来なさい。この瓶のため、私に四度それをしなさい。」彼女はいいました、「よろしい。では立ち上がって、その用のため、こちらの部屋におはいりなさい。」そして二人は前後してその部屋にはいりました。
そのとき、アラビア人たちの貴女ヤスミーンは、王様が本気にその身売りの姿勢を身構えるのを見ると、すっかり笑い出して、尻餅をついて引っくり返ってしまったほどでした。次に彼女は王様にいいました、「|アッラーの望みたもうごとく《マーシヤーアツラー》、おお当代の王様。あなた様は王様であり帝王《スルターン》の身でありながら、たかが一つの瓶のため、お釜を掘らせようとなさいます。それではどうして、そんなお考えのくせに、『接吻をひとつさせて下さい、そしてこの瓶をお取りなさい、』とわたくしにいった漁師を、お手にかけて殺しなさったのでしょうか。」
この言葉を聞いて、王様は呆気《あつけ》にとられて茫然としてしまいました。それから、アラビア人たちの貴女ヤスミーンとわかって、笑い出して、おっしゃいました、「そなたであったか。そしてこうしたすべてはそなたの仕組んだことなのか。」そうして王様は彼女を抱いて仲直りしました。この時から、お二人は一緒に、満足し繁栄して、完き和合の裡に暮らしたのでございました。和合の命令者にして、繁栄と幸福の分配者、アッラーに讃えあれ。
――そして警察隊長《ムカツダム》ヌール・アル・ディーンは、このようにアラビア人たちの貴女ヤスミーンの物語を語って、口をつぐみました。帝王《スルターン》バイバルスは御感《ぎよかん》斜めならず、その話を聞かれたのでお胸が晴れ、これにおっしゃいました、「アッラーにかけて、この物語は非凡じゃ。」すると第六の警察隊長《ムカツダム》で、ガマル・アル・ディーンという名の男が、バイバルスの御手の間に進み出て、申しました、「私は、おお当代の王様、もしお許しあらば、君のお気に召すような物語をお話し申し上げるでございましょう。」バイバルスはこれに仰せられました、「いかにも、許して遣わす。」そこで警察隊長《ムカツダム》ガマル・アル・ディーンは言いました。
第六の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
むかし、おお当代の王様よ、一人の王女をお持ちの帝王《スルターン》がいらっしゃいました。そのお姫様は美しく、大そう美しく、大へん可愛がられ、大へん大事にされ、大へん甘やかされておりました。それにとてもおしゃれでした。そのためダラルと呼ばれていました。
さて、或る日、姫は坐って頭を掻いておりました。すると頭の上に一匹の小さな虱《しらみ》を見つけました。それでしばらくそれを眺めていました。次に立ち上がって、虱を指の間にはさみ、油とバターと蜜の大甕《おおがめ》の並べてある食糧倉にゆきました。そして油の大甕を開けて、その表面にそっと虱を下ろしてやって、甕の蓋をのせ、こうして虱の上に蓋をかぶせて、立ち去りました。
そして日々と年月がたちました。ダラル姫は十五歳になり、もうずっと前から、虱を甕にとじこめたことなど忘れていました。
ところがそのうち、その虱が大きくなって甕を割る日が来て、身の丈《たけ》と角《つの》と様子がナイル河の水牛みたいな姿で、甕を出ました。お倉番係の番人は、大声で召使たちを呼びながら、怖気をふるって逃げ出しました。人々は虱を取りまき、その角をつかまえて王様の御前に引っぱってゆきました。
すると王様は訊ねました、「これはいったい何じゃ。」ちょうどそこに立っていたダラル姫は叫びました、「|おや《イエー》、これはわたくしの虱です。」王様はあきれて姫に訊ねました、「何だと? 姫よ。」姫は答えました、「わたくしの小さい頃、或る日、頭を掻いていたら、頭の上にこの虱がおりましたの。そこでつかまえてこれを油甕のなかに入れに行きました。それが今は太って大きくなって、甕を割ってしまったのです。」
王様はこれを聞くと、王女におっしゃいました、「娘よ、今はお前は嫁に行かなければいけない。それというのは、この虱も甕を壊してしまったのだから、明日はお前も、壁の向う側に飛び出して、男どものところに行くおそれがある。それゆえ今となっては、わしがお前を結婚させてやるに如《し》かぬ。アッラーはわれわれを割れ目より守りたまえかし。」
次に王様は大臣《ワジール》のほうに向いておっしゃいました、「この虱を屠って、皮を剥ぎ、その皮を王宮の門に懸けよ。それからわが太刀取と、結婚契約書を認《したた》める係りの王宮の書記長とを、その方と一緒に連れてまいれ。そして吊るされた皮が虱の皮とわかった男を、わが娘ダラルと結婚させることにいたそう。されどこの皮を見分けられなかった男は、首《こうべ》を刎《は》ねられ、その者の皮は虱の皮と並んで、門に懸けられるであろう。」
そこで大臣《ワジール》はその場で虱を屠って、皮を剥ぎ、その皮を王宮の門に懸けました。次に触れ役人を派して、町中に触れさせました、「王宮の御門に懸っている皮を見分けた男は、|王女ダラル様《エル・シート・ダラル》を妻とするであろう。されど、見分け得ざる者は、首《こうべ》を刎《は》ねられるであろう。」
そこで大勢の住民が虱の皮の前に行列をつくりました。或る人たちはいいました、「これは水牛の皮だ。」彼らは首を刎ねられました。また他の人たちはいいました、「これは野山羊の皮だ。」これも首を刎ねられました。こうして四十の首が斬られ、四十のアーダムの子の皮が、虱の皮と並んで懸けられました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十六夜になると[#「けれども第九百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとそのとき、一人の青年が通りかかりましたが、それは海上に輝く時の、カノプス星のように美しい青年でした。彼は人々に聞きました、「王宮の前にこのように人が群がっているのはどうしたのですか。」人々は答えました、「この皮を見分けた男は、王女様を妻にすることができるのです。」するとその青年は、皮の下に坐っている大臣《ワジール》と太刀取と書記長のところに行って、彼らにいいました、「私がこの皮の名を申しましょう。」三人は答えました、「よろしい。」青年は彼らにいいました。「これは油のなかで大きくなった虱の皮です。」
すると三人は青年にいいました。「そのとおりである。では、はいって、おお勇士よ、王様の御許で結婚契約をなされよ。」そこで青年は王様のところにはいって行って、申し上げました、「これは油のなかで大きくなった虱の皮でございます。」すると王様はいいました、「そのとおりじゃ。さらば、わが娘ダラルとこの勇士との結婚契約を認《したた》むるよう。」
そこで即刻即座に契約が認められました。そして婚礼の式が挙げられました。カノプス星のような青年は婚姻の間《ま》にはいって、処女ダラルを得ました。ダラルは、海上に輝く時の、カノプス星のように美しい青年の腕のなかで、満足しました。
二人は四十日の間王宮に一緒におりましたが、その時が過ぎると、青年は王様のところに伺って、申し上げました、「私はさる国王、帝王《スルターン》の王子でございますが、妻を携えて出発し、父の領地に行き、自分たちの王宮にとどまりとう存じます。」すると王様は、今しばらく引きとめようと強《た》っておっしゃいましたが、結局いいました、「よろしい。」そして付け加えて、「明日、わが息子よ、われわれは御身のために、土産物と奴隷と宦官を伴《とも》させよう。」すると青年は答えました、「それには及びませぬ。われわれはそのようなものは十分持っていますから、私は妻のダラルより外に、何もいりません。」王様はいいました、「よろしい。それでは妻を携えて出発しなさい。しかし一緒にその母親も連れて行って、娘がどこに住んでいるかを知り、時々会いに行けるようにしてもらいたいものじゃ。」青年は答えました、「いや、どうして、お年寄りの母君を無益にお疲れ申させるのでしょうか。それよりは、毎月私が妻をここに連れてまいって、皆様御一同にお会いさせると、お約束いたしましょう。」すると王様はいいました、「|承知した《タイエブ》。」そこで青年は妻のダラルを引き連れて、一緒に自分の国に向って出発しました。
ところがこんなにも美男の青年は、実は食人鬼《グール》のなかの一人の食人鬼《グール》で、しかも最も危険な種類の奴にほかならなかったのでございます。彼はダラルを、或る山の頂上の、淋しいところにある自分の家に置きました。次に自分はその地方を狩り歩き、道を擁し、妊婦を流産させ、老婆を脅やかし、子供を威し、風に嘯《うそぶ》き、戸口で吠え、夜中《やちゆう》に喚き、昔の廃墟に出没し、呪詛《のろい》を投げかけ、暗中で渋面を作り、墓を訪れ、死人を嗅ぎまわり、その他数々の暴行を犯し、数々の災厄を起しに、出かけたのでございます。そのあとで、再び青年の姿に戻って、妻ダラルのところにアーダムの子の首を手に携えて行って、いいました、「ダラルよ、さあこの首をやるから、竈《かまど》で焼いて、細かに刻め。一緒に食おう。」妻は答えました、「まあ人間の首ですの。私は羊しか食べません。」彼はいいました、「よし、よし。」そして羊を取りに行きました。姫はそれを焼いて食べるのでした。
こうして彼らはその淋しい場所で二人きりで住みつづけ、ダラルは身を護るすべもなくこの人食いの青年の手に陥り、人食いは悪事に耽っては、殺人、暴行、虐殺、暗殺の形跡を身につけて、彼女のところに戻るのでした。
こうした生活を一週間続けると、食人鬼《グール》の青年は外に出て、変形《へんぎよう》して妻の母親の恰好と顔をして、女の着物を着け、戻って戸を叩きました。ダラルは窓から見て、訊ねました、「どなたですか。」食人鬼《グール》は母親の声で返事をしました、「私ですよ。戸を開けておくれ、私の娘よ。」彼女はいそいで下りてきて戸を開けました。この一週間の間に、すっかり痩せ、蒼白く、衰えてしまいました。食人鬼《グール》は母親の姿をして、相抱いてから、彼女にいいました、「おお、かわいい私の娘よ、私はとめられているけれど、あなたのところに来ました。というのは、何でもあなたの夫は食人鬼《グール》で、あなたにアーダムの子の肉を食べさせるとか、聞いたのでね。どうしておいでかね、わが娘よ。そのうち今度はあなたが食べられてしまわないか、心配でなりません。来て私と一緒にお逃げなさい。」けれどもダラルは夫を悪くいいたくなかったので、答えました、「何もおっしゃらないで下さい、お母様。ここには食人鬼《グール》もいなければ、食人鬼《グール》の臭いもございません。そのような言葉はおっしゃいますな、私たちの破滅です。私の夫は、海上のカノプス星のように美しい王子でございます。私には毎日肥えた羊を食べさせてくれます。」
そこで食人鬼《グール》の青年は、妻に心を悦ばされて、出てゆきました。妻は自分の秘密を洩らさなかったからです。そして最初の美しい姿に戻って、妻に羊を持って行って、いいました、「さあ、これをとって、焼きなさい、ダラル。」妻はいいました、「さっきお母様がここに来ました。何も私が呼んだわけではございません。あなたによろしくといっておりました。」彼は答えました、「もう少しいそいで、あの伯父上の忠実な奥方にお目にかかればよかったのに。本当に残念だった。」次にいいました、「お前はお前の母親の妹の叔母にも、会いたくはないかね。」妻は答えました、「ええ、そりゃお会いしたいです。」彼はいいました、「よろしい、明日よこしてやろう。」
さて翌日、日が出ると、食人鬼《グール》は外に出て、ダラルの叔母に変形《へんぎよう》して、戸を叩きにゆきました。ダラルは窓から訊ねました、「どなた?」彼はいいました。「開けて下さい、私です。叔母ですよ。あなたのことが気懸りで、会いにまいりました。」すると彼女は下りてきて、戸を開けました。叔母に身を変えた食人鬼《グール》は、ダラルの両頬に接吻して、長々とたくさん涙をこぼして泣いて、いいました、「ああ、おおお姉様の娘よ、ああ、おお苦しみと災厄《わざわい》よ。」するとダラルは訊ねました、「なぜですの、いつそんなことになりましたの。どうしてなの。」叔母はいいました、「つらい、つらい、つらい。」彼女はいいました、「どこがおつらいの、叔母様、どこかお悪いの?」彼女はいって、「いいえ、おお、お姉様の娘よ、私はあなたのために苦しいのですよ。あなたが夫に迎えた男は、食人鬼《グール》だと聞きましたよ。」けれどもダラルは答えました、「何もおっしゃらないで下さい、そのような言葉はおっしゃいますな、叔母様。私の夫は国王、帝王《スルターン》のお子です、ちょうど私が国王、帝王《スルターン》の娘であるように。夫の財宝はお父様の財宝よりも多うございます。そして夫は美しさにかけては、海上に輝く時のカノプス星に似ております。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十七夜になると[#「けれども第九百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
次に彼女は自分の夫の家では羊を食べ、決してアーダムの子の肉ではないことをはっきり見せるため、食事に羊の頭を食べさせました。そこで食後、食人鬼《グール》は満足して大悦びで、出てゆきました。そして青年の姿に返って、ダラルのために羊を持ち、自分自身のためには、斬りたてのアーダムの子の首を持って、帰って来ずにはいませんでした。するとダラルはいいました、「叔母様が訪ねていらっしゃって、あなたによろしくと申しました。」彼はいいました、「アッラーに讃《たた》えあれ、お前の親戚は俺を忘れないとは感心だ。お前はもう一人の叔母、お前の父親の妹も、大へん好きではないかな。」彼女はいいました、「ええ、それは大好きです。」彼はいいました、「よろしい。明日よこしてやろう。だがそれからあとは、もうお前の親戚には誰も会わぬことにしろ。奴らの舌がこわいからな。」
そして翌日、彼は父親の妹の叔母の姿で、ダラルの前に出てきました。そしてお互いに挨拶《サラーム》と接吻のあとで、叔母は大そう涙をこぼして咽《むせ》び泣いて、いいました、「私たちの頭上とあなたの頭上に、何という不幸と、何という嘆きでしょう。おお兄上様の娘よ。あなたが夫に迎えた男は、食人鬼《グール》だと聞きましたよ。われらの主ムハンマード――その上に祈りと平安あれ。――その御功績にかけて、私に本当のことをいっておくれ、わが娘よ。」するとダラルはもうこれ以上、自分を息づまらせている秘密に耐えきれなくなって、震えながら、声をひそめていいました、「おっしゃるな、叔母様、おっしゃいますな。さもないとあの人が来て、私たちの縦を横にめりこませてしまいますよ。まあ考えてもごらんなさい、あの人ときたら、アーダムの子孫たちの頭を持ってくるのですよ。そして私がいやというと、自分ひとりで平らげるのです。もう私は今に自分が食べられてしまいはしないか、こわくてたまりませんの。」
ところで、ダラルがこの言葉をいうが早いか、その叔母様は正体を現わして、恐ろしい様子の食人鬼《グール》となり、歯を軋《きし》らせはじめました。ダラルはこれを見ると、黄色い恐怖と身震いに襲われました。すると彼は腹も立てずにいいました、「さても、お前はこんな風にすぐさま、俺の秘密をばらしてしまうのか、ダラル。」すると彼女はその足下に身を投げていいました、「私はあなた様の庇護の下に身を置きます、こんどだけはお許し下さい。」彼はいいます、「だがお前は、自分の叔母の前で俺を容赦したか。俺の面目を保たせたか。いや、俺はお前を容赦するわけにゆかぬ。お前を食うのに、どこから食らいつけばいいかな。」彼女は答えました、「どうあっても私を食べなければならないとおっしゃるからには、それは私の運命のなかにあることだからでございます。けれども、今日は、私は汚れております。私の肉の味はお口によろしくありますまい。ですから、まず私を浴場《ハンマーム》にお連れになって、あなたのために身を洗わせていただくほうが、よろしゅうございます。お風呂から出ますれば、私は白くなって軟らかくなりましょう。そして私の肉の風味もお口においしくなりましょう。そのとき、どこからなりと、お好きなところから、私を召し上がりませ。」すると食人鬼《グール》は答えました、「それももっともだ、おおダラル。」
そして即刻即座に、食人鬼《グール》は浴用の大盥《おおだらい》と、浴場《ハンマーム》の下着類を出しました。次に自分の友達の食人鬼《グール》を一人呼びに行って、それを白い驢馬に変え、自分自身は驢馬曳きに変形《へんぎよう》しました。そしてダラルをその驢馬に乗せ、浴用の盥を自分の頭に載せながら、最初の村里の公衆浴場《ハンマーム》指して、一緒に出かけました。
浴場《ハンマーム》に着くと、彼は番人の女にいいました、「ここにお前に、土産として金貨三ディナールあるから、この王女の御婦人によく風呂を使わせて差しあげてくれ。俺はこの方をお前にあずけるから、そっくりそのまま俺に返してくれよ。」そしてダラルを門番の女に渡して、外に出、おもての浴場《ハンマーム》の門口に坐りました。
ダラルは待合室になっている浴場《ハンマーム》の最初の広間にはいって、大理石の腰掛の上に、自分の黄金の盥と高価な衣類の包みのそばに、ただひとり悄然と坐っていますと、その間に、若い娘たちはみんな風呂にはいって、沐浴《ゆあみ》をし按摩をしてもらってから、お互い同士ふざけながら、楽しげに出てくるのでした。しかしダラルは他の女たちのように悦ぶどころか、片隅で黙って泣いておりました。しまいには若い娘たちが寄ってきて、めいめい彼女にいいました、「どうしたの、お姉さん、なぜ泣いているの。まあいっそ立ち上がって、着物を脱ぎ、私たちと一緒にお風呂をおつかいなさいな。」けれども彼女はお礼を述べてから、これに答えました、「お風呂は心配事を洗い落せるでしょうか。どうにもならない悲しみを治せるでしょうか。」そして付け加えました、「とにかく早くお風呂にはいりにゆかなければいけないのです。」
こうしているうちに、羽《は》団扇豆《うちわまめ》と焙《い》った南京豆を売るお婆さんが、羽団扇豆と焙った南京豆の鉢を頭に載せながら、浴場《ハンマーム》にはいってきました。すると若い娘たちは、或いは一ピヤストル、或いは半ピヤストル、或いは二ピヤストルと、お婆さんから買いました。そのうちとうとう心悲しむダラルも、やはり南京豆と羽《は》団扇豆《うちわまめ》でも食べて、少しは気を紛らそうと思って、物売り婆さんを呼んでいいました、「ねえ、小母さん、羽団扇豆だけでいいから、貨幣一ピヤストル分だけ下さいな。」すると婆さんは近よってきて、坐り、角《つの》の桝《ます》に一ピヤストル分の羽団扇豆を盛りました。するとダラルは、これに一ピヤストルをやる代りに、その手に自分の真珠の首飾りを入れてやりながら、いいました、「小母さん、お子さん方にこれを上げましょう。」そして物売りが恐縮してお礼をいい、手に接吻していると、ダラルはこれにいいました、「あなたの羽団扇豆の鉢と、着ている破れた着物を私に下さって、その代り私から、この金の盥と、私の宝石と、着ている着物と、この高価な衣類の包みを取って、換えっこして下さらないこと?」すると物売り婆さんは、こんな気前のよいうまい話は信じかねて、答えました、「何だって、わが娘よ、お前さんは貧乏な私をからかうんだね?」するとダラルはこれにいいました、「私のあなたにいう言葉は本気なのですよ、お婆さん。」そこで婆さんは自分の着物を脱いで渡しました。ダラルはいそいでそれを着て、羽団扇豆の鉢を頭に載せ、ぼろぼろの青い面衣《ヴエール》で身を包み、浴場《ハンマーム》の鋪石《しきいし》の泥で両手を黒く塗り、そして夫の食人鬼《グール》の坐っている戸口から出て行きました。そしてもう大へんな怖《こわ》さに身も世もない思いで、本職の物売り女たちのいうように、「ええ、お慰みの焼いた羽団扇豆、ええ、お楽しみの焙《い》った南京豆、」と、ふるえる声で呼びながら、夫の前を通りすぎました。
さて彼女が遠ざかると、食人鬼《グール》はそれとわからなかったけれど、食人鬼《グール》の嗅覚《はな》で、彼女の匂いをかぎつけて、独りごとをいいました、「あの羽団扇豆売りの婆《ばばあ》にダラルの匂いがするとは、不思議なことだわい。アッラーにかけて、いったいどういうことなのか調べてみよう。」そこで叫びました、「おい、羽団扇豆屋。おい、南京豆屋。」けれども物売り女は振り向かなかったので、彼は思いました、「こいつは浴場《ハンマーム》に見に行ったほうがいいぞ。」そこで番人の女に聞きにゆきました、「俺のあずけた御婦人は、どうしていつまでも出てこないのか。」番人は答えました、「やがて他の御婦人方と一緒にお出になりましょう。何しろあの方々は、毛を抜いたり、指を指甲花《ヘンナ》で染めたり、香水をかけたり、髪を編んだり、いろいろすることがあるので、夕方頃にならないことにはここをお出になりませんからね。」
そこで食人鬼《グール》も安心して、改めて戸口に坐りにゆきました。そして全部の婦人が浴場《ハンマーム》から出るまで待ちました。そのうち門番の女が最後に出てきて、浴場《ハンマーム》を締めました。それで食人鬼《グール》はこれにいいました、「おい、何をしているのだ。俺がお前にあずけた貴婦人を、お前は閉めこむ気かい。」門番はいいました、「風呂にはもうどなたもいませんよ。いるのは羽団扇豆売りのお婆さんだけで、この人は住家がないので、私たちは毎晩|浴場《ハンマーム》に寝かしてあげてるんですよ。」すると食人鬼《グール》は番人の女の首を掴んで、こづきまわし、今にも首を絞め殺そうとしました。そして怒鳴りつけました、「やい遣手婆《やりてばばあ》め、あの貴婦人の責任はきさまにある。だからきさまに返してもらうとしよう。」番人は返答しました、「わたしゃ着物と皮草履《バーブジ》の番人で、御婦人方の番人じゃないよ。」だが食人鬼《グール》はいっそうきつく首を絞めあげるので、番人は叫び出しました、「おお|回教徒の方々《ムスリムーン》、助けて下さい。」そして人食いが殴りはじめると、四方から界隈の人たちが駈けつけてきました。すると人食いは怒鳴りつづけています、「あの女がたとえ第七の遊星にいようとも、何としても俺に返してもらわなけりゃならねえ、おお淫売婆どもの所有物《もちもの》め。」浴場《ハンマーム》の門番の婆さんと、羽団扇豆屋の婆さんとについては、以上のようでした。
ところでダラルのほうはと申しますと、こうです。彼女は一とたび浴場《ハンマーム》を抜け出して、首尾よく食人鬼《グール》の監視の眼をごまかしますと、自分の国に帰ろうと歩きつづけました。そしてもうかなり遠くその町から遠ざかった頃、ふと水の流れを見つけたので、そこで手と顔と足を洗って、すぐそばに聳えている屋敷のほうに向いましたが、それは或る王様の御殿でした。
彼女はその御殿の壁のほとりに坐りました。すると用事で降りてきた奴隷の黒人女が、彼女を見て、自分の女主人に言いに上がりました、「おおわが御主人様、あなた様を畏《おそ》れ憚《はば》かることさえなかったら、私は嘘をつく心配なく申し上げるでございましょう、この下にあなた様よりも美しい一人の婦人がいます。」女主人は答えました、「よろしい。ではその女《ひと》にここに上がってくるようにいいなさい。」そこで黒人女は降りて行って、彼女にいいました、「私の御主人がお呼びですから、どうぞお話しに来て下さい。」けれどもダラルは答えました、「私が奴隷などと一緒に上がるとは、いったい私の母は黒人の奴隷だとか、父が黒人だとかいうのでしょうか。」すると黒人女はダラルのいったことを、女主人に報告に上がりました。すると女主人は一人の白人の女奴隷に、「お前が行って、下にいるその御婦人を呼んできなさい、」といいながら、その女を遣りました。白人の女奴隷は降りてダラルにいいました、「おお貴婦人様、上にいらっしゃって私の御主人にどうぞお話し下さい。」けれどもダラルは答えました、「私は白人奴隷《ママルーク》ではなし、奴隷の娘でもないから、白人奴隷《ママルーク》と一緒に上にゆくわけにはまいりません。」そこでその奴隷はダラルのいったことを、女主人に伝えにゆきました。すると貴婦人は自分の息子の王子を呼んで、いいました、「それではあなたが降りて行って、下にいる御婦人を連れていらっしゃい。」
そこで、美しさは海上に輝く時のカノプス星に似た、その若い王子は、乙女のほうに降りて行って、これにいいました、「おお貴婦人よ、何とぞわが母上王妃の後宮《ハーレム》にお上がり下さいませんか。」こんどは、ダラルは答えました、「では御一緒に上がりましょう。私が国王、帝王《スルターン》の娘であるように、あなたは国王、帝王《スルターン》の御子《みこ》でいらっしゃるとあらば。」そして王子の先に立って階段を上がりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十八夜になると[#「けれども第九百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、若い王子はダラルが姿美しく階段を上がるのを見たとたんに、彼女への恋がその心の中に下《くだ》りました。一方ダラルもまた、魂のなかで、貴公子の美しさに感じ入りました。また王様のお妃の貴婦人も、ダラルを見ると、独りごとをいいました、「奴隷の言葉はまちがっていない。この人は実際に私よりも美しい。」
そこで、挨拶《サラーム》と辞令のあとで、王子は母君にいいました、「私はあの女の方を妻に迎えたいと思います。あの方は王家の血統の姫君であることは明らかですから。」すると母君はいいました、「それはあなたの問題です、わが子よ。あなたは御自分のすることが御自分でわかっているはずです。」
すると若い王子は法官《カーデイ》を呼んで、即刻即座に、ダラルとの結婚契約を認《したた》めさせ、婚礼を挙げさせました。そして王子は婚姻の間《ま》にはいりました。
けれどもこの間に、食人鬼《グール》のほうはどうなったか。それは次のようでございます。
婚礼挙式の当日、一頭の大きな白羊を曳いている一人の男が、王子の父君の王様に言上しに来たのです、「おお、わが殿、私は御領下の小作人の一人でございますが、御婚礼に際し、お祝いとして、手前どもの肥えさせたこの白い大羊を献上いたします。けれどもこの羊は後宮《ハーレム》の戸口につないでおいていただかなければなりません。それはこの羊は婦人たちの間で生まれ、育てられましたので、もし下に置いておきなさいますと、一と晩中|啼《な》きつづけて、どなたもお寝みになれますまいからです。」王様はいいました、「よろしい、受納いたそう。」そしてその小作人には誉れの衣を賜うと、彼は己が道に立ち去りました。王様はその白羊を後宮《ハーレム》の宦官長《アガー》に渡しながら、申しつけなさいました、「上に上がってこの羊を後宮《ハーレム》の戸口につなげよ。この羊は女どもの間でないと満足しないのだから。」
さて、いよいよお床入りの夜となり、王子は婚礼の間にはいって、なすべきことをした上で、ダラルの横で眠りますと、その白羊は綱を切って、その部屋にはいってきました。そしてダラルをさらって、一緒に中庭へ出ました。そして腹も立てずにダラルにいいました、「いうがよい、ダラルよ、お前は今でも俺の面目を保たせたかな。」彼女はこれにいいました、「あなた様の庇護の下に。どうぞ私を食べないで下さい。」彼はいいました、「こんどこそは、駄目だ。」すると彼女はいいました、「ちょっと待って下さい、私を食べる前に、用を足したいから、中庭の厠《かわや》に行かせて下さい。」すると食人鬼《グール》はいいました、「よろしい。」そして厠に連れて行って、用がすむのを待って、戸口で張番をしていました。
さて、ダラルは厠の内部《なか》にはいるとすぐに、両手をあげていいました、「おお、祝福されしわれらの預言者の御女《おんむすめ》、聖母ザイナブ(13)様、不幸より救いたもうあなた様よ、妾《わらわ》をお助け下さいまし。」すると聖女はさっそく魔神《ジン》の娘たちのなかの、侍女の一人を差し遣わされますと、その侍女は壁を破って出て、ダラルにいいました、「どういう願いか、ダラルよ。」彼女は答えました、「食人鬼《グール》が外にいて、私が出て行くやいなや食べようと待っております。」侍女はいいました、「あなたを彼から救ってあげたら、あなたは私に一度接吻をさせますか。」彼女はいいました、「はい。」すると|ザイナブ様《シート・ザイナブ》の女魔神《ジンニーヤ》は、中庭側の壁を破って、いきなり食人鬼《グール》に襲いかかり、その睾丸《こうがん》を蹴あげました。すると食人鬼《グール》は即死してしまいました。
そこで女魔神《ジンニーヤ》は厠に戻って、ダラルの手を曳いて、生命絶えて地面に延びている白羊を見せました。次に二人でその死骸を中庭の外に引っぱって行って、溝のなかに投げこみました。食人鬼《グール》のほうは、このような次第で、全くこれきりでございました。
さて女魔神《ジンニーヤ》は一度ダラルの頬に接吻すると、これにいいました、「こんどは、おおダラルよ、あなたにひとつ頼みたいことがあります。」彼女は答えました、「何なりと、愛するお方様。」女魔神《ジンニーヤ》はいいました、「ただ一と時でよいから、あなたに私と一緒に『翠玉《エメラルド》の海』に来てもらいたいのです。」彼女は答えました、「よろしゅうございます。ですけれど何のために?」すると女魔神《ジンニーヤ》は答えました、「実は私の息子が病気になって、お医者様は、翠玉《エメラルド》の海の水を一と椀《わん》飲まなければ治らないとおっしゃるのです。ところが人間の娘でないと、誰も翠玉《エメラルド》の海の水をお椀で一杯とることができません。それでちょうどあなたのところに来たのを幸い、その用を足していただきたいと思うわけです。」彼女はいいました、「わたくしの頭と眼の上に。わたくしの夫が起きる前にここに帰れさえすれば。」女魔神《ジンニーヤ》はいいました、「無論《むろん》のことです。」そして彼女を自分の肩に乗せて、翠玉《エメラルド》の海の浜辺に運んでゆきました。そして金のお椀を渡しました。ダラルはその不思議な水をお椀に満たしました。ところがお椀を水から引きあげる際、波が彼女の手にかかると、手はすぐさま馬肥《うまごやし》のように緑色になってしまいました。それが済むと、女魔神《ジンニーヤ》は再び彼女を肩に乗せて、婚姻の間の、青年のそばに戻しました。|ザイナブ様《シート・ザイナブ》――その上に祈りと平安あれ。――の侍女のほうは、以上のようでした。
ところで、この翠玉《エメラルド》の海には一人の量《はか》り役人がいて、毎朝海を量りに来て、誰か水を盗みはしなかったかどうかを調べるのです。責任はその男にあります。それでその朝も、その男は量り数えてみると、きっかり一と椀分だけ減っているのを見つけました。そこで自問しました、「はてこの盗みの犯人は誰だろう。すぐ旅に出て、そいつを見つけるまで探すとしよう。もし手に翠玉《エメラルド》の海のしるしがあれば、そいつをわれらの帝王《スルターン》の御許に引っ立ててゆけば、よしなに御処分なさるだろうから。」
そこでその男はガラスの腕輪と指環類を持って、それを盆に盛り、盆を頭に載せて運びました。そして全地を旅しはじめ、諸方の王の宮殿の窓の下に行っては、叫びました、「ガラスの腕輪でござい、おお姫君方よ。翠玉《エメラルド》の指環でござい、おお乙女の方々よ。」
こうして国々を渡りゆきましたが、緑の手の持ち主は見当らぬまま、とうとうダラルのいる御殿の窓に着きました。そこでも、彼はやはり叫びはじめました、「ガラスの腕輪でござい、おお姫君方よ、翠玉《エメラルド》の指環でござい、おお乙女の方々よ。」そのときダラルは窓辺にいて、盆の上の腕輪と指環を見ると、大へん気に入りました。そこで売り屋にいいました、「おお売り屋さん、今下に降りて手に合わせてみるから、待っていて下さいな。」そして実は翠玉《エメラルド》の海の量り役人であるその商人のそばに降りて、左手を出していいました、「指環と腕輪を私にためしてみて下さい、あなたの持っているなかで一番美しいのをね。」けれども売り屋は叫んでいいました、「左手をお出しになるとは、おお貴婦人様、あなた様の上の恥ではございませんか。私は左手にはためしてみませぬ。」ダラルは、まるで馬肥《うまごやし》のように緑色の右手を見せるのは工合わるく、大へん困って、いいました、「私の右手は痛いのです。」商人はいいました、「どうなすったのですか。私はぜひ自分の眼で拝見したく、拝見すれば手当もわかりましょう。」そこでダラルは彼にその手を見せました。
さて翠玉《エメラルド》の海の量《はか》り役人はダラルの手を見るとすぐに、緑のしるしがついているので、水を一杯とったのはこの女だとわかりました。そこでいきなり彼女を小脇に抱えてさらい、翠玉《エメラルド》の海の帝王《スルターン》のところに運んでゆきました。そしてこの女を帝王《スルターン》に引き渡して、いいました、「この女はわが君の水を一杯盗みました、おお海の王よ。よしなにこの女の御処分を遊ばしませ。」
翠玉《エメラルド》の海の帝王《スルターン》は、お怒りをもってダラルを眺めました。けれどもお眼が彼女の上にとまるとすぐに、その美しさにお心を動かされて、おっしゃいました、「おお乙女よ、余はそちと結婚契約を結びたく思う。」彼女はいいました、「何とも残念でございますが、私はもう合法の契約で、その美しさは海上に輝く時のカノプス星に似ている青年と、結婚いたしている身でございます。」すると王はいいました、「ではそちはそちに似た姉妹とか、娘とかはいないか、たとえ息子でもよいが。」彼女はいいました、「私には一人の娘がございまして、十歳でございますから、そろそろ妙齢《としごろ》で、美しさは父親に似ております。」王はいいました、「よろしい。」そして翠玉《エメラルド》の海の量り役人を呼んで、申しつけました、「汝の御主人を、お連れ申した場所にお戻しせよ。」そこでその役人は彼女を肩にかつぎました。すると翠玉《エメラルド》の海の帝王《スルターン》は、ダラルの手をとりながら、一緒に出発しました。
そして一同は王様の御殿にはいり、海の帝王《スルターン》はダラルのあとについてその夫君のところにゆき、紹介されてから、王にいいました、「余は御令嬢によって、貴殿と縁組を結びたいが。」王はいいました、「よろしい。さらば娘のために下さる結納《マハル》をおきめ下さい。」すると翠玉《エメラルド》の海の帝王《スルターン》はいいました、「御令嬢のためにお贈りする結納《マハル》は、翠玉《エメラルド》と風信子石を積んだ駱駝《らくだ》四十頭でござろう。」
かくて婚約が成立しました。そして翠玉《エメラルド》の海の帝王《スルターン》と、ダラル及びカノプス星王子の娘との婚礼が、挙げられました。そして一同相共に完き和合の裡に暮らしました。さてもあらゆる場合において、アッラーに讃《たた》えあれかし。
――ガマル・アル・ディーン警察隊長《ムカツダム》がこの物語を語り終えると、帝王《スルターン》バイバルスは、彼が自分の席に戻る暇も与えずに、これにおっしゃいました、「アッラーにかけて、やあガマル・アル・ディーンよ、これこそは余のかつて聞いた最も美しい物語であるぞよ。」彼は答えました、「この物語は、われらの御主君のお気に召した今となって、はじめて最も美しき物語と相成りました。」そして彼は列の間に戻りました。するとファハル・アル・ディーン隊長《ムカツダム》と呼ばれる、第七の男が進み出ました。そして帝王《スルターン》バイバルスの御手の間の床《ゆか》に接吻して、いいました、「私は、おお我らの支配者《アミール》にして我らの王よ、私はこの私自身の身に起りました出来事をお話し申し上げまするが、その取得と申せばただ短いということのみでございます。こういう話でございます。」
第七の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
日々のうちの或る日のこと、ちょうど私のおりました地方で、アラビア人のなかの一人の泥棒が、夜間、小作人の家に、麦を一と袋盗みにはいりました。然るに農場の人々が物音を聞きつけて、大声をあげて「泥棒、」と叫びながら、私を呼びました。しかしその男はまんまと身を隠しおおせて、私どものあらゆる捜索にもかかわらず、ついに見つけ出すに至りませんでした。私は引きあげようとして、門のほうへ行く道を戻って、中庭にある大きな麦の山のそばを通りました。その麦の山の天辺には、桝《ます》代りに使っていた銅の盥《たらい》がありました。すると突然、その麦の山で物凄い放屁《おなら》の鳴る音が聞えました。同時に、その銅の盥が五尺ばかりも、空中高く舞い上がるのが見えました。そこで私は、びっくり仰天しましたが、とにかくいそいで麦の山を探しますと、そのアラビア人が見つかりました。奴は尻を上に向けて、そのなかに隠れていたのです。さっそく引っ捉えて縛りあげた上で、私は奴のいることをばらしたあの奇怪な物音について、奴に訊問しました。すると答えていうに、「あれは私から求めてしたものです、おおわが殿。」そこで私は答えてやりました、「アッラーはきさまを呪いたまいますように。悪魔は遠ざけられよ。自分の身の不為になるものを、なぜあんな風に屁をするのか。」すると奴は答えました、「いかにもそのとおりです、やあ殿《シデイ》よ、私は身の不為になるように振舞ったことは、これはもう明らかです。けれども私がああしたのは、まさにあなた様のお為になるようにと思ってです。」それで私は訊ねました、「どうしてなんだ、おお犬の息子め。いったい屁が、たとえあんなに立派なものであろうと、地上の誰かの身の為に役立ったなんてことは、開闢以来あることか。」すると奴は答えました、「罵りなさんな、おお隊長《ムカツダム》様。私が屁をしたというのは、あなたにこれ以上長い間探させるお骨折りをかけさせず、私の後を追って町や野を無駄に駈けまわる御苦労をさせまいという、ただそれだけのためでした。だからどうか善に報いるには善をもってして下さいまし、あなたは正しい人々の子でいらっしゃるからにはねえ。」
そこで私は、おおわが君|帝王《スルターン》様、どうもこの理屈には敵《かな》いませんでした。そこで寛大にその男をば放してやりました。
これが私の物語でございます。
――このファハル・アル・ディーンの話を聞かれると、帝王《スルターン》バイバルスはこれにおっしゃいました、「ははあ、|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、その方の寛容は機宜に叶ったものであったな。」次に、ファハル・アル・ディーンがすでに自分の席に戻りますと、ニザム・アル・ディーンという名の、第八番目の男が進み出ました。そしていいました、「私はと申しますると、これからお話しいたしまするところは、わが君のただ今お聞きになったところとは、近くも遠くも、およそ関係のないものでございます、おお我らの御主君|帝王《スルターン》様。」するとバイバルスはお訊ねになりました、「それは見たことか、それとも聞いたことか。」彼はいいました、「いいえ、アッラーにかけて、おおわが殿、それは私が人から聞いただけのことでございます。こういう話でございます。」
そして彼は言いました。
第八の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
むかし竪笛《クラリネツト》を吹いて流して歩く男がおりました。彼は一人の女と結婚していました。その妻は性交によって妊娠し、アッラーのお助けをもって、一人の男の子を産み落しました。ところが笛吹きは、産婆に支払うにも、妻の産婦に何か買ってやるにも、自分のところには一枚の金子《かね》も持ち合わせないのでした。そこでもうどうしてよいかわからず、困惑は出口のないものとなってしまったので、彼は妻にこういいながら、腹を立てて出て行きました、「俺はこれからアッラーの路上に物乞いに行って、情深い人たちに銅貨二枚を恵んでもらってくる。一枚は産婆に内金として入れ、もう一枚はやはり内金として鶏屋に入れて、今日のお産の日にお前の食べる若鶏を一羽買ってきてやろう。」
そこで彼は自分の家を出ました。そして畑を横切っていると、丘の上に坐っている一羽の牝鶏が見えました。そこでそっとその牝鶏に近よって、鶏が逃げ出す暇もなくそいつを掴まえました。見ると鶏の下には生み立ての卵が一個あります。それでその卵を衣嚢《かくし》に入れながら、いいました、「今日は祝福が下ったわい。ちょうどあつらえ向きだ。これでもう物乞いに行かんでもいいわけだ。この鶏を伯父の娘のために焼いて、今日の分娩の日に食わせればよし、この卵を銅貨一枚に売って、産婆に内金として入れればいいからな。」そしてそのつもりで卵の市場《スーク》にゆきました。
ところが、彼が金銀細工屋と宝石屋の市場《スーク》を通っていると、知り合いのユダヤ人とぱったり出会いました。そのユダヤ人は聞きました、「お前さんそこに何を持っているのかね。」彼は答えました、「牝鶏と卵だよ。」ユダヤ人はいいました、「見せてごらん。」そこで笛吹きはユダヤ人に牝鶏と卵を見せました。するとユダヤ人は訊ねるのでした、「この卵は売るのかね。」答えて、「そうだよ。」ユダヤ人はいいます、「いくらだね。」答えて、「まあ、そっちから先にいい出してくれ。」ユダヤ人はいいました、「金貨十ディナールで買おう。それ以上の値打ちはないよ。」それで貧乏な男はユダヤ人がからかっているのだと思って、いいました、「俺が貧乏なもので、お前さんはからかっているのだな。この卵はそんな値段じゃないことは、よく知ってるくせに。」ユダヤ人は相手がもっと要求しているのだと思って、いいました、「ぎりぎりの値段で、十五ディナールまで出そう。」彼はいいます、「アッラーは戸を開きたもうように。」するとユダヤ人はいいました、「ここにま新しい金貨二十ディナールある。これで承知か、やめるかだ。」そこで笛吹きは申し出が本気なのを見て、その金貨二十ディナールで卵をユダヤ人に渡し、いそいで背中を向けました。ところがユダヤ人は後から追っかけてきて、訊ねるのでした、「お前さんのところには、こういう卵がどっさりあるのかね。」彼は答えました、「明日《あした》牝鶏が産んだら、またひとつ持ってきてやろう、同じ値段だぜ。これがお前さん以外の人だったら、金貨三十ディナール以下じゃ売らないところだが。」するとユダヤ人はいいました、「お宅を教えて下さい。わざわざ来てもらわなくとも、毎日こっちから卵をとりに出むこう。必ず二十ディナールさしあげます。」そこで笛吹きは自分の家を教えて、それからいそいでこの卵を産む鶏とは別の牝鶏を買いに行って、妻のため焼かせました。そして産婆にはその骨折りに十分お礼をしました。
翌日、彼は妻にいいました、「おお伯父の娘よ、あの台所にいる黒い牝鶏を絞めないように、よく気をつけろよ。あの鶏は一家の祝福だ。……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四十九夜になると[#「けれども第九百四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……あいつの産んでくれる卵は、今の相場で、一個が金貨二十ディナールずつになる。これこれという名のユダヤ人が、その値段で買い取ってくれるのだ。」
事実、そのユダヤ人は毎日、生み立ての卵を取りにきては、現金で金貨二十ディナールを払ってゆきました。こうして笛吹きはやがて大へん裕福な身になって、市場《スーク》で立派な商店を開くようになりました。
そしてこの牝鶏の来た日に生まれた息子が、やがて学校に行けるくらい大きくなると、旧《もと》の笛吹きは自費で立派な学校を建てさせて、そこに貧乏な子弟を集め、自分の息子と一緒に読み書きを習わせました。彼は子供たち一同のために、聖典《コーラン》を全部暗誦していて、たとえその最後の言葉から始めて最初の言葉で終るような工合にでも、子供たちに朗誦して聞かせることのできるような、優秀な先生を選んでやりました。
そのあとで、彼はヘジャズ巡礼に出かけようと思い立って、妻にいいました、「よく気をつけて、あのユダヤ人から甘く見られて、あの牝鶏を捲き上げられるんじゃないぞ。」次に彼はメッカに行く旅の一行と一緒に出発しました。
さて旧《もと》の笛吹きが出発してしばらくたつと、ユダヤ人は或る日その妻女にいうのでした、「私はあなたに鞄一杯の金貨をさしあげましょう。その代りにあの牝鶏を下さいませんか。」妻女は答えました、「どうしてそんなことができましょう、おお男よ。主人は立つ前に、あなたに卵しか譲っちゃいけないと、くれぐれも言いおいて行きました。」ユダヤ人はいいました、「いや御主人がお怒りになったって、あなたには御迷惑はかけません。その責任は私が引き受けます。御主人は私に文句をおつけになりゃいいので、私はちゃんと市場《スーク》のまん中の店にいますよ。」そしてユダヤ人は鞄をあけて、中にはいっている金貨を見せました。妻女はいちどきにこんなにたくさんの金貨が手に入るのを悦んで、牝鶏をユダヤ人に渡してしまいました。彼は鶏を受けとると、その場で絞め殺して、その妻女にいいました、「こいつをきれいにして煮て下さい。あとから取りにまいります。しかし一とかけでも欠けていたら、私はそれを食った奴の腹を裂いて、食った分を引き出してやりますからね。」そしてユダヤ人は立ち去りました。
さて、お昼時になると、笛吹きの息子が学校から帰ってきました。そして母親が鍋から牝鶏を取り出して、磁器の皿に盛り、それにモスリンの蔽いをかけているのを見ました。その学校生徒の魂は、この見事な牝鶏を一と切れ食べたくてたまりません。そこで母親にいいました、「一と切れ下さいな、ねえお母さん。」母親はいいました、「お黙りよ。これは私たちのものじゃないんだよ。」
そのうち母親が用事でちょっと立って行った隙に、少年はモスリンの蔽いを取って、一と噛みで牝鶏の尻を噛み切り、熱いところを丸呑みにしてしまいました。すると女奴隷のひとりがそれを見つけて、少年にいいました、「おお私の御主人様、何という不幸、何という救いのない災厄《わざわい》でしょう。早く家からお逃げなさい。それというのは、あのユダヤ人がやがて牝鶏を取りにきて、あなたのお腹《なか》を裂いて、呑みこみなすった鶏の尻を引っ張り出しますよ。」すると少年はいいました、「そうだね、このおいしい鶏の尻をとられちまうくらいなら、逃げてしまったほうがいいや。」そして牝驢馬に乗って、出て行ってしまいました。
さてやがてユダヤ人は自分の牝鶏を取りにきました。すると尻がないのを見つけました。それで母親にいいました、「尻はどこですか。」母親は答えました、「私が用を足しに出て行った隙に、息子が知らないうちに歯で尻を噛みきって、食べてしまいました。」ユダヤ人は叫びました、「きさまに禍いあれ。俺はあの尻のために有金全部出したのだ。その息子の腕白小僧はどこへ行きゃがった。腹を裂いて引き出してくれる。」母親はいいました、「ひどく怖がって、逃げて行ってしまいました。」
するとユダヤ人は大いそぎで外に出て、旅しはじめ、行く先々で少年の人相をいいながら、町々と村々を行き、とうとう少年が原っぱで眠っているところに行き当りました。そこで彼は殺してやろうとそっとこれに近づきますと、少年は油断しないでいたので、はっと眼を覚ましました。するとユダヤ人は怒鳴りつけました、「ここに来い、笛の息子め。誰が鶏の尻を食えといったか。俺はあのため一と箱の金貨を出して、お前のお袋にちゃんと条件をつけておいたのだ。今となっては条件どおり、きさまを殺さなけりゃならん。」すると少年は少しも騒がず、答えました、「あっちへ行け、おおユダヤ人め。たかが鶏の尻ぐらいで、はるばる旅をするとは、恥ずかしくないのか。またその尻のために、僕の腹を裂こうなどとは、もっと大きな恥じゃないか。」けれどもユダヤ人は答えます、「俺は俺のするべきことはちゃんと承知しているぞ。」そして少年の腹を裂こうと、帯の間から庖丁を取り出しました。ところが少年は片手だけでユダヤ人を引っ捉え、その身体を持ち上げて、地面に叩きつけて、骨を打ち砕き、その縦を横にめりこませてしまいました。それでユダヤ人は――その呪われよかし。――寿命尽きて死んでしまいました。
ところでこの少年は、やがてこの牝鶏の尻の利き目を、わが身に体験することとなったのでありました。果たして、少年は母親のところに帰ろうと引き返しましたが、途中で道に迷ってしまい、或る町に着きましたが、そこには王宮があって、その門には四十に一つ足りない首が懸けられています。そこで少年は人々に訊ねました、「どうしてこれらの首が懸っているのですか。」人々は答えてくれました、「ここの王様には、一人の王女様があって、その方は土俵での相撲が大へんお強いのです。中にはいって王女様を打ち負かした男は、王女様をお嫁にできるけれど、負かせなかったら、首を斬られてしまうのです。」
すると少年はためらわず王様のところにまいって、申し上げました、「私は王女様と土俵に降りて、力くらべをいたしとうございます。」すると王様はお答えになりました、「おお、わが少年よ、悪いことはいわぬ、立ち去るがよい。今まで大勢のお前よりも強い男が来たが、みなわが娘に敗れてしまった。お前を殺すのはいかにも不憫《ふびん》じゃ。」そのお言葉に、少年は答えました、「私は王女様に負け、首を斬られ、門に首を懸けられても、苦しゅうござりませぬ。」すると王様はいいました、「よろしい、それではその意味のことを認《したた》め、書状に捺印せよ。」そこで少年は認めて印を捺《お》しました。
そこで中庭に敷物が敷かれ、若い乙女と少年とは土俵に降り、互いに身体の中央を取り合い、相手の腋《わき》の下に腕を差しました。そして二人はすばらしく闘いました。或る時は少年が乙女を掴んで、地に引っくり返します。或る時は乙女が蛇のように起き上がって、こんどは逆に少年を引っくり返します。こうして少年が乙女を、乙女が少年を倒しつづけて、戦いは二時間にわたりましたが、どちらも相手の肩を地につけることができません。すると王様は、王女が今回は格別力がまさらないのを見て、御立腹になりました。そしていいました、「今日のところはこれまでじゃ。されど明日は両人今一とたび土俵に降りて、相闘うといたせ。」
次に王様は二人を分けて、御部屋に帰り、御殿の医者たちを召しておっしゃいました、「今夜汝らは、わが娘と戦ったあの少年の眠っている間に、これに催眠の麻酔剤《バンジ》を吸わせよ。そして催眠剤が利いてきたら、あの少年の身体を調べて、何かあれほど持ち耐えさせている護符でも身につけていはしないか、あらためてみよ。それというのは、実際のところ、わが娘は今まで、世界のあらゆる剛勇の武者のうち最強の者どもを打ち破り、彼らのうち四十人に一人欠けし者に土を噛ませたのである。されば何としてあの小童《こわつぱ》ごときを負かし得なかったのであろう。さればこれには必ず隠れた原因があり、その原因をこそ汝らは突きとめなければならぬ。それができぬようでは、汝らの知識は役に立たず、汝らは余にとって無用の長物なれば、余は汝らをこの宮殿と都より追い払ってしまうであろうぞ。」
ですから、夜になって少年が寝入りますと、医者たちはこれに催眠の麻酔剤《バンジ》を吸わせにゆき、昏々と眠らせてしまいました。そしてみんなで少年の身体を、ちょうど甕《かめ》を叩いてみるように、上から叩きながら、いちいち細かに調べて、最後にその胸の内側に、体内に包《くる》まれている牝鶏の尻を発見しました。そこで医者たちは鋏と道具をとりに行って、切開し、その牝鶏の尻を少年の胸から取り出しました。次に胸を縫い合わせ、非常な利き目ある酢《す》を注ぎ、胸を元どおりにいたしました。
さて翌朝、少年は麻酔の眠りから覚めると、どうも胸に疲れを覚え、自分自身もう以前と同じ逞しさがないように感じました。それというのも、彼の力はあの牝鶏の尻と一緒に抜けてしまったのです。それにはこれを食べた者を天下無敵にする効験があったのです。こうして自分が今後は無力な状態になってしまったのを見ると、少年は敢えて危険な試練を試みるのは望まず、若い女丈夫に負けて殺されてはと思って、逃げ出しました。
脚を風にまかせて、少年は王宮と都が見えなくなるまで、休まず駈けつづけました。すると、お互い同士喧嘩をしている三人の男に出会いました。そこでこれに訊ねました、「なぜあなた方は喧嘩をしているのですか。」彼らは答えました、「或るひとつの物を争っているのだ。」少年は聞きました、「ひとつの物って? 何ですか、それは。」彼らは答えました、「ここにあるこの絨緞さ。もし誰かがこの上に乗って、どこなりと、たとえカーフ山の天辺まででも、行ってくれと頼んで、これをこの杖で叩くと、この絨緞はまたたくまにそこに連れて行ってくれるのだ。それで俺たちはこれを自分のものにしようと、今首を絞め合っているわけだ。」少年は彼らにいいました、「それじゃ、この飛行の絨緞を取り合ってお互いに首を絞めることなどしないで、僕を審判官になさい。僕はあなた方皆さんに公平にやりますから。」すると彼らは答えました、「ではこの件について、俺たちの審判官になってくれ。」少年はいいました、「その絨緞を地面にひろげて下さい、縦と横の長さを見ますから。」そして少年はその絨緞のまん中に立って、彼らにいいました、「それじゃ、これから僕が力一杯石を投げますから、あなた方は三人一緒に追いかけなさい。最初に石を拾った人が、飛行の絨緞を取ることにしましょう。」一同いいました、「よろしい。」そこで少年は石をひとつ拾って投げると、三人は追っかけて駈け出しました。彼らが駈けている間に、少年はその杖で絨緞を叩きながらいいました、「しかじかの王の宮殿の中庭に、まっすぐ連れて行け。」すると絨緞は即刻即座に命令を果たし、笛吹きの息子を、くだんの宮殿の中庭の、王女の相撲が平常行なわれる場所に、下ろしました。
そこで少年は叫びました、「相撲の相手はここにあり。いざ、これを負かす者は出会え。」すると乙女は衆人の前で、中庭のまん中に降り立ち、絨緞の上で少年に向って構えました。するとすぐに少年は杖で絨緞を叩いて、いいました、「われらを乗せて、カーフ山の天辺まで飛んで行け。」絨緞は満座の呆然としている中を、空中に舞い上がり、眼をつぶって開ける暇もかからずに、二人をカーフ山の頂上に下ろしました。
そこで少年は乙女にいいました、「さて今はどっちが勝ったか。私の胸から牝鶏の尻を奪い取った女か、それとも宮殿のただ中から王の姫君を奪い取った男か。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十夜になると[#「けれども第九百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
王女は答えました、「あなたの御庇護の下に。どうぞお許し下さい。もしあなたが私を父の宮殿に戻して下さったら、私は『この方こそ私を負かしました、』といって、あなたを夫といたしましょう。そして医者たちに命じて、鶏の尻をあなたの胸に戻させましょう。」少年はいいました、「よろしい。だが諺にもいう、鉄棒は柔かいうちに打たねばならぬ、と。私は運んで行く前に、あなたと御承知のことをしたい。」王女はいいました、「よろしゅうございます。」そこで少年は王女を捕え、その上に寝て、ちょうど打ちごろなのを見て、柔かいうちに打たなければならぬところを打とうと構えました。ところが王女はいきなり彼をしたたか蹴とばして、絨緞の外に転がり出させました。そして杖で絨緞を叩きながらいいました、「お飛び、おお絨緞よ、そして私を父上の宮殿に連れて行っておくれ。」すると絨緞はその瞬間に、王女を乗せて飛び、宮殿に運びました。
そして流しの笛吹きの息子はたった一人、山の天辺に残され、危うく蟻さえもその跡形《あとかた》を見つけ出せずに、飢えと渇《かつ》えに死にそうな羽目になりました。彼は口惜《くや》しさに掌《たなごころ》を噛みながら、山を降りはじめました。こうして一日と一夜、足を停めずに降りつづけ、朝方、山の中腹に着きました。すると幸運にも、そこに熟《う》れた実の房をつけて撓《たわ》んでいる、二本の棗椰子《なつめやし》の木が見つかりました。
ところで、その二本の木の一方には赤い棗椰子がついていて、他方には黄色い棗椰子がついていました。少年はいそいで両方の枝を一本ずつ摘みました。そして黄色いほうが好きだったので、まずその黄色いほうの実をひとつ、おいしく呑みこみました。ところがすぐに、何かが自分の頭の皮を引っ掻くような気がします。そこでその引っ掻かれるような場所に、頭に手をやってみると、一本の角《つの》が頭からぐんぐんのびて、棗椰子の木のまわりにからみつくのを感じました。いくら逃げ出そうとしてもだめで、自分の角で棗椰子の木にしっかり繋ぎとめられています。そこで少年は思いました、「どの道死ぬなら、いっそまず飢えを満たして、それから死ぬほうがましだ。」そこで赤い棗椰子を食べはじめました。するとこうなのです。その赤い実をひとつ呑みこんだと思うと、自分の角が棗椰子の木からほどけて、頭が離れるのを感じたのでした。そしてまたたく間に、角はまるでそんなものはなかったみたいになりました。頭の上にはその跡形さえも残っていません。
そこで少年は独りごとをいいました、「よし、よし。」そして飢えを満たすまで赤い棗椰子を食べ出しました。次に衣嚢《かくし》に赤と黄の棗椰子を一杯詰めて、夜に日をついでまる二カ月旅をつづけ、とうとう敵手の王女の都に着きました。
そこで少年は王宮の窓の下に来て、呼ばわりはじめて、いいました、「さあ、季節はずれの棗椰子、さあ棗椰子でござい。姫君様方のお指、さあ棗椰子。騎馬武者たちのお相手女、さあ棗椰子でござい。」
すると王女は季節はずれの棗椰子売りの呼び声を聞きつけて、侍女たちにいいました、「早く降りて、あの商人から棗椰子を買ってきなさい。かりかりするのをよく選んでね、娘たちよ。」そこで侍女たちは棗椰子を買いに降りて行きましたが、何しろ珍しいので、一個一ディナールでなければ譲ってくれません。そこで十六ディナールで十六個求めて、それを御主人にさしあげに上がりました。
王女は見るとこれは黄色い棗椰子で、これこそ自分が一番好きな種類でした。そこで次々に十六個、ただ口に運んでゆくだけの時間で、ぺろりと食べてしまいました。女王はいいました、「おお、わが心よ、何とこれはおいしいのでしょう。」ところがこの言葉をいいもおわらぬうちに、王女は激しいむずかゆさを覚え、頭のさまざまの場所十六カ所が、むずむずするのでした。あわてて手を頭にやってみると、十六本の角が頭の地肌のさまざまの場所に、左右|対《つい》になって生えてくるのを感じました。叫ぶ間もなく、早くもその十六本の角はずんずん延びて、四本ずつ壁にしっかりとくっつきに行きます。
これを見て、侍女たちと声を揃えて王女の挙げはじめた鋭い叫び声に、父王は息を切らして駈けつけ、訊ねました、「どうしたのじゃ。」侍女たちは答えました、「おおわが君、私どもが眼を上げますと、突然この十六本の角が御主人様のお頭《つむ》から生えて、御覧のとおり、四本ずつ壁にしっかりと取りつきに行くのが見えたのでございます。」
そこで王様は一番上手な医者たちを集めました。それは少年の胸から牝鶏の尻を抜き取った連中です。彼らは鋸《のこぎり》をあてて角を切ろうとしましたが、鋸の歯が立ちません。それでいろいろ他の手段をとってみましたが、何の結果にも到らず、姫君を治すのに成功しませんでした。
そこで父王は最後の手段に訴えて、触れ役人を町中に遣わして触れさせました、「帝王《スルターン》の姫君に薬をさしあげ、その十六本の角を取り除いた者は、姫君の婿《むこ》となり、王位継承の指名を受けるであろう。」
さて、いかに相成りましたるか。
笛吹きの息子は、ただこの機をのみ待っていましたので、宮殿にはいって、姫君のところに上がり、いいました、「この私が、姫君の角をとってさしあげましょう。」そして姫の前に出ると直ちに、赤い棗椰子を一個取り出して、粉にし、それをば姫の口に入れました。するとその瞬間、一本の角は壁から離れ、見る見る縮まって、最後には乙女の頭からすっかり消え失せてしまいました。
これを見ると、王様はじめ並いる一同は、歓声をあげて叫びました、「おお、名医かな。」少年はいいました、「明日は二本目の角を取って進ぜましょう。」そこで一同少年を宮殿に引きとめ、少年は、毎日一本ずつ角を取り、姫の十六本の角を取り除くまで、十六日間滞在しました。
そこで王様は驚嘆と感謝の極に達して、すぐにこの少年と姫君との結婚契約書を認《したた》めさせました。そして婚礼は祭礼と飾灯をもって取り行なわれました。次にお床入りの夜が来ました。
さて、少年は婚姻の間の、新妻のところにはいるとすぐに、これにいいました、「さて今はどうだ。私たち二人のうちどちらが勝ったか。私の胸から牝鶏の尻を抜きとり、魔法の絨緞を盗んだ女か。それともあなたの頭に十六本の角を生えさせ、僅かの間にそれを取り除いた男かな。」すると王女は、これにいいました、「まあ、あなたでしたの? ああ、魔物《イフリート》ですわ。」少年は答えました、「そう、私だ、笛の息子ですよ。」王女はいいました、「アッラーにかけて、あなたは私に勝ちました。」
そして二人は一緒に寝ました。力も強さも互角でした。そして二人は王と王妃になりました。二人は共に、欠くるなき幸福と完き仕合せの裡に暮らしたのでございました。
これが私の物語でございます。
――帝王《スルターン》バイバルスはこのニザム・アル・ディーンの物語を聞きなさると、叫びなさいました、「|アッラーに誓って《ワアラーヒ》、余にはわからぬ、余のかつて聞いた最も美しい物語は、果たしてこの物語でないか、否か。」すると第九の警察隊長《ムカツダム》で、ジュラル・アル・ディーンという名の男が進み出ました。彼は帝王《スルターン》バイバルスの御手の間の床《ゆか》に接吻して、申しました、「|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、おお当代の王様、私のお話し申し上げる物語は、さだめしわが君のお気に召すことでございましょう。」そして彼は言いました。
第九の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
むかし一人の女がおりまして、この女はいくら襲っても、孕《はら》みもしなければ産みもしませんでした。そこで或る日、女は立ち上がって、報酬者にお願い申し上げていいました、「どうぞ私に一人の娘をお授け下さいまし、たとえその子は、亜麻の匂いで死ななければならないほどの子でも、よろしゅうございますから。」
こうして亜麻の匂いといったのは、たとえその娘は、亜麻の何でもない匂いをかいでも、死んでしまうくらい気分が悪くなるほど、ひよわで感じやすくてもかまわないから、女の子を授けていただきたいというつもりでした。
そこでその女は孕んで、アッラーの授けて下さった女の子を、つつがなく産み落しましたが、それは昇り際の月のように美しく、月光のように蒼白く、またそのように華車《きやしや》な子でありました。そしてその子はシットゥカーンと呼ばれました。
さて、その女の子が大きくなって十歳になると、帝王《スルターン》の王子が街を通って、窓から身を乗り出しているこの女の子を見ました。するとこの女への恋が王子の心のなかに下りました。そして王子は病気になってわが家に立ち去りました。
大勢の医者が相次いで王子の許に来ましたが、適当な薬がわかりません。その時、一人の婆さんが御門番の細君に寄こされて、王子を見舞いに上がってきて、じっと王子を見てから、いいました、「おお、あなた様は女に恋をしていなさるか、さもなければ、誰かお好きな男の友達がおありですね。」王子は答えました、「恋をしているのだ。」婆さんはいいました、「相手は誰だかおっしゃいな。私があなた様とその女《ひと》との間を結んでさしあげましょう。」王子はいいました、「美しいシットゥカーンだ。」婆さんは答えました、「お眼を爽やかにして、お心を安らかになさい。私がその女を連れて来てあげますから。」
そして婆さんは立ち去って、家の戸口の敷居のところで涼んでいるその若い娘を見つけました。そして挨拶《サラーム》と辞令の後、婆さんはいいました、「あなたのような別嬪《べつぴん》さんの上に保護《まもり》あれ、わが娘よ。あなたに似ていて、あなたの指のように美しい指をしている女のひとは、まず亜麻を織る術《すべ》を習わなければいけませんね。何といっても、紡錘形《つむがた》の指の間にある紡錘《つむ》ほど、好ましいものはありませんからねえ。」そして婆さんは行ってしまいました。
すると若い娘は母親のところに行って、いいました、「お母様、先生のところに連れて行って下さいな。」母親は訊ねました、「何の先生さ。」娘は答えました、「亜麻の先生です。」すると母親は叫びました、「お黙りよ。亜麻はお前には禁物だよ。その匂いはお前の胸には毒です。もしお前がそれにさわったら、お前は死んでしまいますよ。」娘はいいました、「いいえ、死にはしませんよ。」そして強《し》いて頼み、ひどく泣くので、とうとう母親も娘を亜麻の先生のところにやりました。
そして若い娘は一日中、亜麻を紡ぐことを習ってそこにいました。仲間の女たちは皆、この娘の美しさとその指の美しさに感心しました。そのうちふと、亜麻の切れっ端が娘の指の、肉と爪の間にはいりました。すると娘は気を失って、ばったり倒れてしまいました。
皆は娘が死んだものと思って、父母のところに人をやって、知らせました、「あなた方のお嬢さんを引きとりに来て下さい。どうぞアッラーはあなた方の齢《よわい》を永くして下さいますように。お嬢さんは亡くなりました。」
すると父親と母親は、この娘だけがたった一つの悦びであったので、彼らの着物を引き裂き、災厄《わざわい》の風に揺ぶられつつ、経《きよう》帷子《かたびら》を携えて、娘を葬ろうと出かけました。ところがそこに例の婆さんが通りかかって、両親にいいました、「あなた方はお金持なのだから、あの若いお嬢さんを、塵芥《ちりあくた》のなかに葬るのは、あなた方の恥というものでございましょうよ。」両親は訊ねました、「それじゃいったいどうしたらよいか。」婆さんはいいました、「お嬢さんのために、河のまん中に亭《ちん》を建てておあげなさい。そしてその亭のなかにお嬢さんを寝かしてあげるがよい。そしてあなた方は会いたくなったら、そのつどそこに会いにいらっしゃるんですね。」
そこで両親は河のまん中に、列柱を立てて、その上に大理石の亭《ちん》を建ててやりました。まわりには芝生を植えた花園をめぐらしました。そして若い娘を、亭のなかに、象牙の寝台に寝かして、泣く泣く立ち去りました。
さて、いかなることが起ったでしょうか。
婆さんはすぐに、恋患いをしている王子に会いに行って、いいました、「あの若い娘に会いにいらっしゃい。あの娘《こ》は河のまん中の、亭《ちん》のなかに寝て、あなた様を待っています。」
そこで王子は立ち上がって、父王の大臣《ワジール》にいいました、「己《おれ》と一緒に来い、散歩をするから。」そして両人は一緒に出ましたが、遥か先には婆さんがいて、王子に道を案内しました。こうして両人は大理石の亭に着くと、王子は大臣《ワジール》にいいました、「門口で己《おれ》を待っていてくれ。遅くはなるまい。」
それから王子は亭にはいりました。そして死んでいる若い娘を見つけました。そこで娘の美しさについての詩を誦しつつ、坐ってその死を悲しんでいました。そして娘の手に接吻しようと思ってその手をとって、指を見ると、それはいかにも細くかわいらしい指でした。指に見入っていると、その一本に、亜麻の切れっ端が、爪と肉の間にはいっているのを見つけました。王子はその亜麻の切れっ端にびっくりして、それをそっと抜き取りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十一夜になると[#「けれども第九百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとすぐに若い娘はその気絶から覚めて、床の上にまっすぐ起き上がり、若い王子にほほ笑みかけて、いいました、「私はどこにいるのでしょう。」王子は娘をじっと抱き締めて、答えました、「私と一緒にいるのだよ。」そして王子は娘に接吻して、一緒に寝ました。二人は歓喜の極に達して、四十日と四十夜、一緒におりました。
次に王子は娘に別れを告げて、いいました、「父王の大臣《ワジール》が門口で待っているのでね。大臣《ワジール》を宮殿に連れ戻した上で、また帰ってくるから。」
王子は大臣《ワジール》に会いに下に降りました。そして大臣《ワジール》と一緒に外に出て、花園を横切りました。すると白薔薇と素馨《そけい》の花が王子に出会いました。王子はこの出会いに心を動かされて、大臣《ワジール》にいいました、「おっと、この薔薇と素馨とは、シットゥカーンの頬の白さで白いぞ。おお大臣《ワジール》よ、ここでもう三日待ってくれ、己《おれ》は今一度シットゥカーンの頬を見てくるから。」
そして王子は上に上がって、シットゥカーンと一緒に三日いて、白薔薇と素馨のようなその頬を眺め暮らしました。
次に王子は下に降りて、大臣《ワジール》と落ち合い、出口に向って、花園の散歩を続けました。すると、黒い長い果実《み》をつけた、いなごまめの木が王子に出会いました。王子はこの出会いに心を動かされて、大臣《ワジール》にいいました、「おっと、このいなごまめは、シットゥカーンの眉のように長くて黒いぞ。おお大臣《ワジール》よ、ここでもう三日待ってくれ、己《おれ》は今一度シットゥカーンの眉を見てくるから。」
そして、王子は上に上がって、娘と一緒に三日いて、枝々に二つずつ並ぶいなごまめのように、長くて黒いその美しい眉を眺め暮らしました。
次に王子は大臣《ワジール》と落ち合いに下に降りて、一緒に出口に向って、花園の散歩を続けました。すると、水が美しくただ独り吹き上げている、泉水が王子に出会いました。王子はこの出会いに心動かされて、大臣《ワジール》にいいました、「おっと、この泉の噴水は、シットゥカーンの腰のようだぞ。おお大臣《ワジール》よ、ここでもう三日待ってくれ、己《おれ》は今一度シットゥカーンの腰を見てくるから。」
そして王子は上に上がって、娘と一緒に三日いて、泉の噴水さながらの、その腰を眺め暮らしました。
次に王子は大臣《ワジール》と落ち合いに下に降りて、一緒に出口に向って、花園の散歩を続けました。ところが、こうなのです。若い娘は恋人がこのように三たび、下に降りたと思うとすぐまた上がってくるのを見ると、独りごとをいったものです、「なぜあの方が出て行ってはああして戻ってくるのか、こんどは見に行ってみたいわ。」そして亭《ちん》から降りて、花園に臨む戸の後ろに立って、恋人の行くのを見ようとしました。王子は振り返ってみると、娘が戸口に頭を出しているのを見ました。すると王子はまっ青《さお》になって悲しげに、娘のほうに戻って来て、いいました、「シットゥカーン、シットゥカーンよ、もう私は二度と再びお前に会うまい、そうだ、もう決して。」そして立ち去って、大臣《ワジール》と一緒に出て行き、もう再び戻りませんでした。
するとシットゥカーンはわが身を悲しみつつ、本当に死んでしまわなかったのを残念に思いつつ、花園をさまよいに行きました。こうしてさまよっていると、何か水のほとりで光っているものがあります。それを拾ってみると、それは大魔王スライマーンの指環でした。そこで指環の上についている、呪文の刻んである紅瑪瑙《カキーク》をこすってみますと、すぐに指環はいいました、「何なりとお申しつけ下さい、ここに控えておりまする。仰せあれ、何をお求めですか。」娘は答えました、「おおスライマーンの指環よ、あなたにお願いします。どうか私を愛した王子様の御殿のそばに、御殿をひとつ下さい。そして私の美しさよりも一段とまさった美しさを、私に授けて下さい。」すると指環はいいました、「お眼を閉じて、お眼を開けなさい。」そこで娘はわが眼を閉じ、そしてそれを開けると、自分は王子の御殿のそばに建てられた、すばらしい御殿におりました。また鏡をのぞいてみると、自分自身の美しさにびっくりしました。
そこで娘は、王子が馬に乗って通りかかったとき、窓辺に肱をつきにゆきました。王子は娘を見ると、誰だかわからずに、これに懸想《けそう》して立ち去りました。そして母君のところに着くと、いいました、「母上、何か大そう立派な品で、あの新しい御殿にはいった貴婦人に、進物として届けて下さるようなものは、ございませんか。そしてその節同時に、『わが子の嫁になって下さい、』と、その方にいっていただけないものでしょうか。」母君の王妃はいいました、「大そう立派な錦が二反あります。それを持って行って、その方に申し込んでみましょう。」王子はいいました、「結構です。ではそれを持って行って下さい。」
それで王子の母君はその若い娘のところに行って、いいました、「わが娘よ、この御進物をお受け下さい。私の息子があなたをお嫁に欲しがっております。」すると若い娘は黒人女を呼んで、いいつけました、「これを、この錦二反を持って行って、これで舗石《しきいし》を洗う雑巾をお作り。」そこでお妃は腹を立てて出て行き、王子に会いに行くと、王子は訊ねました、「あの女《ひと》は何といいました、母上。」お妃は答えました、「あの女はあの二反の錦を女奴隷に渡して、これで家を拭く雑巾を作れといいつけていましたよ。」王子はいいました、「お願いです、母上、あの人に届けていただけるような何か貴い品は、ほかにございませんか。それというのは、私はあの明眸を慕って病気になってしまいました。」母君はいいました、「私は瑕瑾《きず》も汚点《よごれ》もない翠玉《エメラルド》の首飾りを持っています。」王子はいいました、「結構です。ではそれを持って行って下さい。」
王子の母君はその若い娘のところに上がって、いいました、「私どもからこの御進物をお受け下さい、わが娘よ。私の息子があなたをお嫁に欲しがっております。」すると娘は答えました、「御進物頂戴いたします、おお奥方様。」そして女奴隷を呼んでいいました、「家の鳩はもう食べ物を食べましたか、それともまだですか。」奴隷は答えました、「まだでございます、|おお奥様《ヤア・シツテイ》。」娘はいいました、「それではこの翠玉《エメラルド》の粒を持って行って、鳩にやり、これを食べさせて、元気をつけておやり。」
この言葉を聞くと、王子の母君は若い娘にいいました、「あなたは私たちを辱かしめました、わが娘よ。とにかく、あなたは私の息子のお嫁になって下さる気があるかないか、それだけ伺わせて下さい。」娘は答えました、「もし私が王子様に嫁《とつ》ぐことをお望みでしたら、どうか世間に王子様は亡くなったと思わせるようになさいましと、こうお伝え下さい。王子様を七枚の経《きよう》帷子《かたびら》に包んで、町中を練って下さい。そして王子様を私の宮殿にある花園のなかに葬らなければいけないと、御家来にお申しつけ下さい。」すると王子の母君はいいました、「よろしゅうございます。これからその条件を息子に伝えにまいりましょう。」
そしてお妃は王子にいいにゆきました、「思いもかけないことですよ。もしあなたがあの女をお嫁にしたければ、あなたを世間に死んだものと思わせ、七枚の経帷子で包み、町中を葬列を作って練り、あなたを葬るために自分のところに連れて来なさいと、こういうのです。そうすれば、あの女はあなたの嫁になるそうですよ。」すると王子は答えました、「ただそれだけでいいのですか、母上。それでは母上は着物を引き裂いて、叫び、『わが子は亡くなった、』とおっしゃって下さい。」
そこで王子の母君は御自分の着物を引き裂いて、痛々しいと共に鋭い声で叫びました、「おお、私の災厄《わざわい》、わが子は亡くなってしまった。」
すると御殿中の人たちは、その叫び声を聞きつけて、駈けつけると、王子は死人たちさながらに床《ゆか》に横たわり、母君は痛々しい有様でいらっしゃるのを見ました。そこで一同、故人の身体を持ち上げ、洗い、七枚の経帷子を着せました。次に聖典《コーラン》の読誦者と導師《シヤイクー》たちが集まり、行列を作って、高価な掛布を掛けた遺体の先に立って出ました。そして全市を練り歩いてから、一同戻って、若い娘の望みのままに、死者をその花園におろしました。一同はそこに死者を残して、それぞれ己が道に立ち去りました。
さて、花園にもう誰もいなくなると、むかし亜麻の切れっ端のために死んだその若い娘、その頬は白薔薇と素馨《そけい》に似、その眉は枝の上のいなごまめに似、その腰は泉水の吹き上げに似ている乙女は、七枚の経帷子に包《くる》まれている王子のほうに、降りて行きました。そして一枚ずつその経帷子を剥がしました。七番目の経帷子を除いたとき、娘は王子にいいました、「まあ、あなたでしたの? あなたの色好みのため、あなたは七枚の経帷子に身を包ませることになりましたのね。」すると王子はすっかり恥じ入って、わが指を噛み、恥ずかしさのあまり指を引《ひ》き|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》りました。すると娘は王子にいいました、「今度だけは、見のがしてあげます。」
そして二人は、愛し合い楽しみ合いつつ、一緒に暮らしたのでございました。
――すると帝王《スルターン》バイバルスは、この物語を聞いて、ジュラル・アル・ディーンにおっしゃいました、「|アッラーに誓い、更に誓って《ワアラーヒ・ワア・タラーヒ》、これこそ余のかつて聞いた最も見事なことと思うわい。」すると第十番目の警察隊長《ムカツダム》で、ヘラル・アル・ディーンという名の男が、帝王《スルターン》バイバルスの御手の間に進み出て、申しました、「私はただ今の物語の姉に当りまする物語をば、お話し申し上げましょう。」そして彼は言いました。
第十の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
むかし一人の王様がおられて、ムハンマードという名前の王子を持っていらっしゃいました。この王子が或る日、父君にいいました、「私は結婚したいと思います。」父王はこれに答えました、「よし、よし。お前の母親を諸所の婦人部屋《ハーレム》に遣って、婚期にある若い娘たちを見させ、お前のために求婚させるから、待つがよい。」けれども王子はいいました、「いいえ、父上、私は若い娘を自分で見た上で、われとわが眼で見て婚約したいと思います。」すると王様はいいました、「よし、よし。」
そこで若い王子は、仙女の国の動物のように立派な馬に乗って、旅立ちました。
王子は二日旅をしますと、一人の男が畑に坐って、韮《にら》を切っていると、その娘の乙女がそれを束ねているのに出会いました。
王子は挨拶《サラーム》のあと、両人のそばに坐って、その若い娘にいいました、「水を少々お持ちではないでしょうか。」娘は答えました、「ございます。」王子はいいました、「それでは飲ませていただきたい。」すると娘は立ち上がって、冷水罎を持ってきました。王子は飲みました。
さて、その若い娘は王子の気に入ったので、王子は父親にいいました、「おお長老《シヤイクー》よ、ここにいるお嬢様を、私の嫁に下さいませんか。」父親はいいました、「私どもはあなたの下僕《しもべ》です。」そこで王子はこれにいいました、「よろしい、おお長老《シヤイクー》よ。お嬢様と一緒にここにいて下さい。その間に私は婚礼に必要なものを取りに国に帰り、また戻ってきますから。」
そしてムハンマード王子は父君のところに行って、申し上げました、「私は韮《にら》の帝王《スルターン》の娘と婚約しました。」すると父君はいいました、「ほう、この頃は韮にも帝王《スルターン》がいるのかね。」王子は答えました、「そうです。それで私はその王女と結婚したいと思います。」王様は叫びました、「おお、わが息子よ、韮に帝王《スルターン》を授けたもうたアッラーに、讃《たた》えあれ。」そしていい添えました、「その王女がお前の気に入ったとあらば、我らはお前の母親を韮国《にらぐに》に遣って、その韮王と韮妃と韮王女を見させるから、せめてそれまで待つがよい。」王子ムハンマードはいいました、「よろしゅうございます。」
そこで母君はその若い娘の父親の国に行ってみると、王子が韮国の帝王《スルターン》の女《むすめ》といった女は、あらゆる点で美わしい乙女で、まことに王子たるもののお妃としては、打ってつけだとお思いになりました。その乙女はすっかりお気に召したので、お妃はこれに接吻して、いいました、「かわいい娘よ、私は王妃で、あなたの見た王子の母親です。私はあなたを王子と結婚させようと思って、ここに来ました。」すると若い娘はいいました、「何ですって、あなた様のお子は王子さまですの?」お妃は答えました、「そうです、私の子は国王の子息で、私はその母です。」すると若い娘はいいました、「それでは私はお嫁にまいりますまい。」お妃は訊ねました、「それはまた、なぜ。」娘はいいました、「私は手に職のある人のところでなければお嫁にゆきません。」
そこで王妃は腹を立てて立ち去り、御夫君にいいました、「韮国の若い娘は私たちの息子のところに来るのはいやだと申します。」王様は訊ねました、「なぜか。」お妃はいいました、「その娘は何か手に職のある人のところでなければ、嫁にゆきたくないというのです。」王様はいいました、「それは一理ある。」けれども王子はそれを聞いて、病気になってしまいました。
すると王様は立ち上がって、あらゆる職業組合の長老《シヤイクー》を全部呼びにやりました。そして一同御手の間に参上しますと、最初の者におっしゃいました。それは指物師の親方です。「その方はどの位の間に、その方の職をわが子に教えられるかな。」親方は答えました、「二年がせいぜいのところで、それより少なくては叶いませぬ。」王様はいいました、「よし。ではわきにどいておれ。」次に第二の者におっしゃいました。それは鍛冶屋の親方です。「その方の職はどの位の間に、わが子に教えてもらえるか。」彼は答えました、「毎日毎日やって、一年はかかります。」王様はこれにいいました、「よし。こちらにどいておれ。」こうして王様は組合の長老《シヤイクー》全部に問いただしますと、或る者は一年、他の者は二年、また他の者は三年、もしくは四年さえもかかるというのでした。そこで王様は何にきめてよいかわからずにいらっしゃると、そのとき皆の後ろに誰かいて、その男が飛び上がったり、屈《かが》んだり、眼で合図をしたり、一本の指をあげて合図したりしているのが、お眼にとまりました。そこでその男を呼び出して、お訊ねになりました、「その方はなぜ延びあがったり、屈んだりしているのか。」その男は答えました、「われらの御主君|帝王《スルターン》様のお眼にとまりますようにと存じまして。というのは、私は貧乏人で、組合の親方たちは皆さんここに伺うことを、私には知らせて下さらなかったのです。この私は機織《はたお》りで、私ならばこの職を王子様に、一時間のうちに教えてさしあげられます。」
そこで王様はもろもろの職業組合の長老《シヤイクー》全部を追い返して、その機織りを残し、さまざまな色の絹布と機織機械《はた》を取りよせて、これにおっしゃいました、「その方の技術をわが子に教えてくれよ。」すると機織りは、起き出てきた王子のほうを向いて、いいました、「ごらん遊ばせ、私はこうしろのああしろのとは申しません。申し上げることは、お眼を開いて、よくごろうじろ。私の手がどんな工合に往き来するか、よくごらん下さい、というだけです。」そしてちょっとのうちに、その機織りは、王子が注意深く見つめている間に、一枚の手巾《ハンケチ》を織り上げました。次にお弟子にいいました、「さあこんどはこちらに寄って、これと同じような手巾《ハンケチ》を作ってごらん遊ばせ。」そこで王子は織機《はた》の前に坐って、緯《よこいと》のなかに父王の御殿と御苑の模様をつけて、見事な手巾《ハンケチ》を一枚織り上げました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十二夜になると[#「けれども第九百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとその男は二枚の手巾《ハンケチ》を持って、王様のところに参上して、申し上げました、「この二枚の手巾《ハンケチ》のうち、どちらが私の作ったもので、どちらが王子様の作ったものでしょうか。」すると王様はためらわず、御殿と御苑の美しい模様のついているほうの、王子の手巾《ハンケチ》を指さしなすって、いいました、「こちらはその方の作ったものじゃが、もう一方もやはりその方の作ったものじゃ。」けれども機織《はたお》りは叫びました、「わが君の赫々たる御先祖様のお手柄にかけて、おお王様、この美しい手巾《ハンケチ》は王子様のお作りになった品、こちらの見っともないほうは、私の作った品でございます。」
すると王様は感嘆して、この機織《はたお》りをもろもろの職業組合の長老《シヤイクー》全部の総|親方《シヤイクー》に任命し、この男を満足させてお帰しになりました。その上で、王様はお妃にいいなさいました、「われらの息子の作ったこの手巾《ハンケチ》を携えて、韮国《にらぐに》の帝王《スルターン》の王女にこれを見せに行き、『わが子の職は絹物の機織《はたお》りです、』と、こういうがよい。」
そこで王子の母君はその手巾《ハンケチ》を携えて、その若い娘のところに行き、これに王様のお言葉を繰り返しながら、その手巾《ハンケチ》を見せました。すると娘はその手巾《ハンケチ》に感嘆して、いいました、「それでは私は御令息のお嫁になりましょう。」
そこで王様の大臣《ワジール》たちは法官《カーデイ》を連れて、結婚契約を結びに行きました。そして婚礼を挙行しました。王子は韮国の乙女のところにはいって、そして大勢のお子様を挙げましたが、お子様方はいずれも腿《もも》に、韮《にら》のしるしがついていました。そしてめいめい何か職を身につけました。こうして一同みな満足しかつ栄えて暮らしました。さあれ、アッラーは更に多くを知りたまいまする。
――次に帝王《スルターン》バイバルスはおっしゃいました、「この韮国《にらぐに》の帝王《スルターン》の娘の物語は、その美しい教訓の点で、余の意に叶った。されどその方たちの間には、更に何事か余に語り聞かすものを持ち合わせている者は、もはやいないか。」すると第十一番目で、サラー・アル・ディーンという名の、別な警察隊長《ムカツダム》が進み出ました。そして帝王《スルターン》バイバルスの御手の間の床《ゆか》に接吻してから、彼は言いました、「私の話は、次のようでございます。」
第十一の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
むかし一人の帝王《スルターン》がいらっしゃって、たまたま男子がお生まれになりましたが、それと同時に王の御厩舎《おうまや》の、血統正しい一頭の牝馬も、牡の小馬を産み落しました。それで王様はおっしゃいました、「生まれた小馬は、このたび生まれたわが子の運勢の上に、記されているから、この王子の所有に属するものじゃ。」
さて、そのお子様が大きくなって、年齢《とし》を重ねると、母君が亡くなりました。またその同じ日に、小馬の母馬も死にました。
歳月が過ぎまして、帝王《スルターン》は王宮の奴隷のなかから選んだ別の女をめとりなさいました。そして前のお子様は、もう大切にもされず、可愛がられもせずに、学校にやられました。母親の無くなったこの王子は、学校から帰ってくるといつも、自分の馬のところにはいって、馬を撫でてやり、食べ物飲み物をやっては、自分の悲しみと放り出されていることを馬に訴えました。
ところが、帝王《スルターン》のめとった奴隷には一人の情夫があって、それはユダヤ人の医者でした、――その呪われよかし。この二人は、ちょうどこの母親の無い王子が御殿にいることのため、密会に非常に邪魔になりました。そこで二人で相談しました、「どうしようか。」二人はこの件についていろいろ考え、結局この若い王子を毒殺してしまおうと決心しました。
王子のほうは、学校から帰ると、いつものように自分の馬を見に行きました。すると馬は泣いています。それで王子はこれを撫でながら、いいました、「何だってお前は泣くのだい、僕の馬よ。」すると馬は答えました、「あなたのお生命《いのち》が無くなるので、泣いているのです。」王子は訊ねました、「いったい誰が僕の生命《いのち》を無くしようっていうのさ。」馬は答えました、「父君のお妃とあの呪われたユダヤ人の医者の奴です。」王子は訊ねました、「どういう風にしてなの?」馬はいいました、「あの二人は黒ん坊の肌から煎じ出して、毒をこしらえたのです。それをあなたの食べ物のなかに入れるでしょう。だからよく気をつけて、召し上がらないようになさいませ。」
そこで若い王子は父王のお妃のところに上がってゆくと、お妃は王子の前に食べ物を出しました。王子はその食べ物をとって、こんどはそれを、そばでにゃあにゃあ啼いている王妃の猫の前に置きました。猫は女主人が遮る暇もなく、その食べ物を呑みこんで、最期を遂げてしまいました。王子は素知らぬ顔をして、立ち上がって出てゆきました。
すると王妃とユダヤ人は相談しました、「いったい誰が王子に教えたのだろう。」そして答え合いました、「教えたのは王子の馬のほかない。」すると女はいいました、「よろしい。」そして病気のふりをしました。すると王様は、侍医の呪われたユダヤ人を来させて、お妃を診《み》させました。奴は王妃を診て、いいました、「このお薬は、これこれしかじかの毛色の、血統正しい牝馬の産んだ小馬の心臓でございます。」すると王様はいいました、「それらの条件に合った小馬といえば、わが領内に一頭しかいない。それは母を無くしたわが王子の小馬じゃ。」そこで少年が学校から帰ってくると、父王はいいました、「お前の叔母様の王妃は病気で、その薬としては、あの血統正しい牝馬の子である、お前の小馬の心臓以外にはないのじゃ。」王子は答えました、「別に差支えありません。けれども、おお父上様、私はまだ一度もあの小馬に乗ってみたことがありません。だからはじめにまず私が乗って、それから後で屠《ほふ》って、心臓を取ることにして下さい。」王様はいいました、「よし、よし。」そこで若い王子は宮中の人たち全部の前で、自分の愛馬に乗って、馬場《マイダーン》のなかを疾駆させました。こうして疾駆させながら、王子はそのまま人々の眼から姿を消してしまいました。騎馬の者どもが後から追いましたが、ついに見つかりませんでした。
こうして王子は父王の領地とは別の領地に行き、その王国の王の御苑のほとりに着きました。すると馬は王子に自分のたてがみの毛一と束と、燧石《ひうちいし》をひとつ与えて、王子にいいました、「もしあなたが私を必要とする時は、この毛を一本とって火をおつけなさい。私はすぐにおそばにまいります。今はお別れしたほうがいいのです。第一に、これからさきの私の食料の心配をするためにも、第二に、あなたが御自分の運命とめぐり会うのにお邪魔にならないためにも。」そして王子と馬は抱き合って、別れました。
若い王子は御苑の長に会いに行って、いいました、「私はこの地で異国の者ですが、ひとつ使っていただけないでしょうか。」長は答えました、「よし、よし。今ちょうど撒水の水車を廻す牛を御する人が、誰か入用なところだから。」そこで若い王子は水車のところに行って、庭師の牛を駆り立てはじめました。
さてちょうどその日、王様の姫君たちが御苑を散歩していましたが、一番末の王女は、水車の牛を駆り立てている少年を見つけました。すると慕わしさがその心中に下りました。その王女は素知らぬ顔をして、姉たちにいいました、「お姉様方、いったいいつまで私たちは、夫を持たずにいようというのでしょう。お父様は私たちを酸っぱくならせておきたいおつもりでしょうか。私たちの血はだめになってしまいますわ。」すると姉様方もいいました、「そのとおりねえ、私たちはみんな酸っぱくなりかかっていて、血がだめになりそうねえ。」そこで一同打ちつれて、七人揃って母君に会いに行って、いいました、「私たちのお父様は御自分のお手許で、私たちを酸《す》っぱくならせてしまいなさるのでしょうか。私たちの血はだめになりそうです。それとも、お父様は、いよいよ私たちに夫を見つけて下さって、私たちの身体のなかでこんないやなことが起らないように、して下さるのではないでしょうか。」
そこで母君は王様に会いに行って、その意味のことをお話しなさいました。すると王様は、姫君たちが結婚なさるから、町中の若い男は全部、王宮の窓の下を通らなければならぬと、広く触れさせました。それで若い男は全部王宮の窓の下を通りました。そしてそのうちの一人が姉妹の一人の気に入るごとに、その王女は男の上に自分の手巾《ハンケチ》を投げました。こうして姫君のうち六人までは、自分の選んだ夫を与えられ、満足の様子を見せました。
ところが末の姫君だけは誰にも自分の手巾《ハンケチ》を投げません。そこで王様にその旨申し上げると、王様はいいました、「もう町には誰も残っていないのか。」人々は答えました、「もう御苑で水車を廻している、貧しい少年一人しか残っておりません。」すると王様はいいました、「まあ娘はそんな者は選ばぬとわかってはいるものの、とにかくその男を通らせてみずばなるまい。」そこで人々は彼を探しに行って、むりに王宮の窓の下に押しやりました。ところが何と、その乙女の手巾《ハンケチ》はまっすぐ彼の上に落ちたのでございます。そこでこの姫をばこれと結婚させました。するとお悲しみのあまり、乙女の父君の王様は、御病気になってしまいました。
すぐに医者が集まって、王様の御養生とお薬としては、処女の牝熊の皮で作った革袋に入れた牝熊の乳を、お飲みに相成るようにと処方しました。すると王様はおっしゃいました、「いとやすきことだ。余には六人の婿がいて、いずれも雄々しい騎士で、あの水車の小僧の、七番目の呪われた男とは、似もつかぬ勇士じゃ。彼らにその乳を取ってきてくれるように申し伝えよ。」
そこで六人の婿はそれぞれ駿馬に乗って、くだんの牝熊の乳を探しに出てゆきました。そして末の王女の夫である少年は、びっこの牡騾馬に乗って、皆にあざわらわれながら、同じように出てゆきました。やがて少年は人里離れた場所に着くと、燧石《ひうちいし》を打って馬の毛を一本焼きました。すると愛馬が姿を現わしたので、互いに抱き合いました。そして少年は馬に頼むべきことを頼みました。
さてしばらくたつと、王様の六人の婿はめいめい、牝熊の乳を満たした、牝熊の皮で作った革袋をひとつ持って、遠征から帰ってきました。彼らは妻の母君であるお妃に革袋を渡しながら、いいました、「これをば我らの伯父君、王様にさしあげて下さい。」そこでお妃はお手を鳴らすと、宦官たちが上がってきたので、これにおっしゃいました、「この乳を医者たちに渡して、調べさせなさい。」医者たちはそれを調べてみて、いいました、「これは年よりの牝熊の乳ですし、年よりの牝熊の皮で作った革袋にはいっている。これでは王の玉体におさわりになるばかりじゃ。」
そこに宦官たちが再びお妃のところに上がってきて、別な革袋をひとつお渡ししながら、いいました、「この乳の革袋はただ今下で、天使ハールートよりも美しい馬上の若者が、私どもに渡したものでございます。」するとお妃は、これにおっしゃいました、「これをば医者たちのところに持って行って、調べさせなさい。」医者たちは容器《いれもの》と内容《なかみ》を調べてみて、いいました、「これこそ我らの求めていたもの。これは処女の牝熊の皮にはいった、若い牝熊の乳じゃ。」そこで医者たちはこれを王様にお飲ませすると、王様は即刻即座にお治りになって、仰せられました、「この薬は誰が持ってまいったか。」一同答えました、「天使ハールートよりも美しい、馬上の若者でございます。」王様はいいました、「行ってその若者に、余よりと申し、治世の指環を渡し、彼をばわが王座に坐らしめよ。その上で、余は立ち上がって、末の娘をばあの水車の小僧と離縁させに行くであろう。そしてあの娘を、余を死の国より立ち帰らせてくれたその若者と、結婚させることにいたそう。」
次に王様は起き上がって、お着物を召され、玉座の間にお出ましになりました。そして玉座に坐っている美しい若者の足許に伏して、その足に接吻なさいました。するとその傍らに、末の王女が微笑しているので、これにおっしゃいました、「よしよし、わが娘よ。お前はあの水車の小僧と離縁して、この天使ハールートよりも美しい若者に、自分から進んで選択を投じたのじゃな。」すると王女はいいました、「お父様、水車の小僧と、処女の牝熊の乳を持ってきてくれた若者と、今治世の玉座に坐っている人とは、ただ一人の同じ人にほかならないのでございます。」
王様はこの言葉に驚き呆れて、その貴公子のほうに向いて、訊ねました、「娘のいうところは真実《まこと》かな。」貴公子は答えました、「はい、そのとおりでございます。しかしもし私をば婿としてお望みなくば、御面倒はござりませぬ、王女はまだ処女の身ですから。」すると王様は彼に接吻して、ぴったりと胸に抱き締めました。それから彼と王女との婚礼を挙げさせなさいました。そしてお床入りの際には、若者は立派に振舞って、若い妻の酸《す》くなって血がだめになるのを、永久に防いだ次第でありました。
その後、王子は妻を携えて、大勢の軍隊を率いて、父君の王国に戻りました。すると父王はすでに亡くなって、その王妃があの呪われた奴、ユダヤ人の医者と共謀《ぐる》になって、国政を司どっているのでした。そこで王子は両人を取り押え、燃える火の上で串刺しの刑に処しました。かくて両人は串の上で焼き亡ぼされてしまいました。両人のほうはそれでおしまいでございます。
さても、決して焼き亡ぼされることなくして生きたもうアッラーに、讃《たた》えあれ。
――帝王《スルターン》バイバルスはサラー・アル・ディーン隊長《ムカツダム》のこの物語をお聞きになると、おっしゃいました、「今の物語に類する物語を聞かせてくれる者が、もはや誰もいないとは、何と遺憾なことであろう。」するとその名をナスル・アル・ディーンという、第十二番目の警察隊長《ムカツダム》が進み出て、帝王《スルターン》バイバルスに敬意を表してから、申しました、「私はまだ何事も申しておりませぬ、おお当代の王様。かつ、私のあとでは、もはや何ぴとも何事も申さぬでございましょう。というのは、そのあとではもはや申すべき何事もござりますまいから。」するとバイバルスは御満足遊ばして、おっしゃいました、「その方の持つところを与えよ。」そこで彼は言いました。
第十二の警察隊長《ムカツダム》の語った物語
語り伝えますところでは、――されどアッラーの智のほかに、他の智がござりましょうか。――むかしアッラーの後に、地上に一人の王様がおられました。その王様はお子様のできないお妃と結婚していらっしゃいました。ところで或る日、一人のマグリブ人が王様のところに来て、申し上げました、「もし私が或る薬をさしあげて、お妃様がお望みなだけ懐胎出産遊ばされるようになったら、御長男を私に賜わらせていただけましょうか。」すると王様は答えました、「よろしい、遣わそう。」するとそのマグリブ人は王様に、ひとつは緑で、ひとつは赤い、糖菓《ボンボン》を二個さしあげて、いいました、「わが君は緑のほうを召し上がり、お妃は赤いほうを召し上がれ。あとはアッラーがよしなにして下さいましょう。」それから彼は立ち去りました。
そこで王様は緑の糖菓《ボンボン》を召し上がり、お妃には赤い糖菓《ボンボン》を与えて食べさせなさいました。するとお妃は懐胎なすって、一人の男子をお産みなさったので、御両親はこれをムハンマードと呼びなさいました、――この御名の上に祝福あれ。そしてそのお子は、学問においては利発に、また美しい声を授けられて、成長し大きくなりはじめました。
それから王妃は二番目の男子をお産みになり、これはアリと呼ばれて、何事にも下手で不器用に、成長しはじめました。その後、王妃はまた御懐胎、三番目の男子をお産みになり、これはマームードという名で、馬鹿で愚かに、成長し大きくなりはじめました。
さてそれから十年たって、例のマグリブ人が王様のところに来て、申しました、「私の子供を賜わらせて下さい。」王様はいいました、「よろしい。」そしてお妃のところにいらして、いいました、「あのマグリブ人がわれわれの長男をもらいに来たわい。」お妃は答えました、「いけません。その男には不器用なアリをお遣りなさいまし。」王様はいいました、「よし、よし。」そして不器用なアリを呼ばれ、その手をとって、これをマグリブ人に与えると、その男はこのお子を連れて、立ち去りました。
マグリブ人はその子と一緒に暑いさなかを、道から道と歩いて、正午になりました。そこでその子に訊ねました、「お前はひもじくもなければ、喉《のど》も渇かないかね。」すると少年は答えました、「アッラーにかけて、そんな質問ってあるものか。半日も食わず飲まずに過ごしたあげく、僕がひもじくもなければ、喉も渇かないってわけがあろうか。」するとマグリブ人は「ふふん、」といって、少年の手をとって、父王のところに連れ戻し、いいました、「これは私の子ではありません。」すると王様は訊ねました、「それではどれがお前の子か。」その男は答えました、「では三人のお子様を全部私に見せて下さい、自分でわが子をいただきますから。」そこで王様は三人のお子様を呼びました。するとマグリブ人は手を延ばして、長男のムハンマードを選びました。まさしく、美しい声を授けられた、利発なお子です。それからその男は立ち去りました。
彼はその子と一緒に半日歩いて、その子にいいました、「ひもじいかね。喉が渇いたかね。」すると「利口者」は答えました、「もしあなたがひもじかったり、喉が渇いたりしているなら、私もまたひもじく、喉が渇いています。」するとマグリブ人は子供に接吻して、いいました、「そのとおりだ、おお利口者よ、お前こそたしかに俺の子だ。」
そして彼はマグリブ地方の奥地の、自分の国に少年を連れて行って、庭のなかに入れ、食べ物と飲み物を与えました。それが済むと、彼は一冊の魔法の書物を持ってきて、少年にいいました、「この本を読め。」そこで少年はその書物をとって、開けてみましたが、ただの一語も判読することさえできません。するとマグリブ人は腹を立てて、いいました、「何としたことだ、お前は俺の子のくせに、この魔法書を解読できないのか。ゴッグとマゴッグ(14)にかけ、廻転する星辰の火にかけて、もしお前が、一と月三十日の間に、この書物全部を暗記できなかったら、俺はお前の右腕を斬り落してやるぞ。」次に彼は少年を置いて、庭から出て行きました。
そこで少年はその魔法書を取り上げて、二十九日の間、一所懸命読もうと励みました。けれどもその時になっても、まだその本を読むにはどういう方向《むき》に持てばいいのかもわかりませんでした。そこで独りごとをいいました、「もう残り一日しかないとすれば、どのみち死ぬんだ。この魔法書を見て眼を痛くしつづけているよりか、いっそ庭を散歩しに行くとしよう。」
そして少年は庭の木々の下を、深く分け入りますと、突然自分の前に、髪の毛で吊るされている一人の少女を見かけました。そこでいそいで放してやりました。すると少女は彼に接吻していいました、「私はあのマグリブ人の掌中に陥った王女でございます。あの人は、私が魔法書を暗記してしまったもので、私を吊り下げたのです。」そこで少年はいいました、「私もやはり王子です。あのマグリブ人は私に魔法書を与えて、三十日間で暗記しろといいました。私はもう明日一日の生命です。」すると少女はいいました、「私がこれから魔法書を教えてさしあげますけれど、マグリブ人が来たら、あなたは覚えなかったとおっしゃい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十三夜になると[#「けれども第九百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで少女は彼のそばに坐って、彼にたくさん接吻して、そして魔法書を教えてくれました。それからいうに、「また前のように、私を吊りさげて下さらないといけません。」少年はそのとおりにしました。
三十日目の終りに、マグリブ人はやってきて、少年にいいました、「魔法書を暗誦してみろ。」少年は答えました、「どうして暗誦なんかできましょう、ただ一語さえ判読できなかったものを。」するとマグリブ人はすぐに少年の右腕を斬り落して、いいました、「もう三十日猶予してやる。その時がたって、魔法書を知っていなかったら、お前の首を刎《は》ねてやるぞ。」次に彼は行ってしまいました。
そこで少年は、斬られた右腕を左手に持って、木々の下の、少女に会いに行きました。そして少女を下ろしてやりました。すると少女はいいました、「ここに私の見つけた或る植物の葉が三枚ございます。あのマグリブ人はこの植物でもって、魔術の項目全体についての自分の知識を完全にしようと思って、もう四十年以来これを探しているのです。この葉をあなたの腕の両方の切口におあてなさい。すると腕は治りましょう。」少年はそうしました。するとその腕は再び以前のようになりました。
それがすむと、少女は例の魔法書を読みあげながら、別の一枚の葉を揉みました。するとすぐさま、二頭の乗用駱駝が地から出てきて、二人を乗せようと膝を折りました。そこで少女は少年にいいました、「私たちはそれぞれ両親のところに帰るといたしましょう。それからあなたは、しかじかの国の、しかじかの場所にある、私の父の御殿まで、私に結婚を申し込みにいらっしゃいませ。」そして少女はやさしく少年に接吻しました。二人は互いに約束を交して、それぞれ自分の方角に出発しました。
少年ムハンマードは、自分の駱駝を物凄く走らせて、両親のところに着きました。けれども両親には、起ったことを何ひとついいませんでした。ただその駱駝を宦官長に渡して、こういっただけです、「この駱駝を家畜市場に売りに行け。しかしこの鼻についている綱をば売らないように気をつけよ。」宦官はその綱をとって駱駝を曳いて、家畜市場に行きました。
すると麻酔薬《ハシーシユ》を売る男が出てきて、その駱駝を買いたいというのでした。長い間押問答をし、値切ったあげく、何しろ宦官たちは普通、売買の商売《あきない》など全然知らないものですから、その男は結局大へん安値で、それを宦官から買いとりました。おまけにもっとひどいことに、宦官は綱ごと売ってしまったものです。
そこで麻酔薬《ハシーシユ》売りは、自分の店の前に駱駝を曳いて行って、平生のお顧客《とくい》の、麻酔薬《ハシーシユ》服用者《くらい》たちに眺めさせました。そして駱駝に水をやろうと鉢一杯の水を取りに行って、麻酔薬《ハシーシユ》飲みたちが、喉の奥まで笑い立てながら、見ている前で、それを駱駝の前に置きました。すると駱駝は二本の前足を、その鉢のなかに突っこみました。そこで麻酔薬《ハシーシユ》売りは、「どけ、どけ、おお周旋《とりもち》野郎、」と怒鳴りつけながら、駱駝を打ちました。すると駱駝はそれを聞くと、他の二本足をあげて、頭から先に、鉢のなかに飛びこみ、そのまま二度と姿を現わしません。
それを見ると、麻酔薬《ハシーシユ》屋は両手を打ち合って、叫びはじめました、「おお|回教徒の衆《ムスリムーン》よ、助けてくれ。駱駝が鉢のなかで溺れてしまった。」そう叫びながら、彼は自分の手に残った綱を見せました。
すると人々が市場《スーク》の八方から集まってきて、彼にいいました、「黙るがいい、おお男よ、お前は気ちがいだよ。どうして駱駝が鉢のなかで溺れるなんてことができるかい。」彼は皆に答えました、「あっちへ行きゃがれ。何をぼやぼやしてやがるんだ。駱駝はちゃんと、頭から先に突っこんで、この鉢のなかで溺れてしまったんだ。ほらここに、俺の手に残った綱があらあ。俺の店に坐っているお歴々の旦那方に訊ねてみろ、俺が本当をいっているのか、嘘をいっているのか。」けれども市場《スーク》の分別ある商人たちはこれにいいました、「お前にしろ、お前の店にいる人たちにしろ、みんなあまりあてにならない麻酔薬《ハシーシユ》飲みにすぎんからねえ。」
ところがこうして一同言い争っているところに、あのマグリブ人がやってきたのです。彼は王子と王女の失踪に気がついて、限りない怒りに入り、わが指を噛んで、指を引きむしって、いったのでした、「ゴッグとマゴッグにかけ、廻転する星辰の火にかけて、俺は必ずあの二人をとっつかまえてやろう、よしんば奴らが第七の地上にいようとも。」そしてまず「利口者」王子の町に駈けつけたのですが、それがちょうどこの麻酔薬《ハシーシユ》飲みと市場《スーク》の人たちとの争いの最中に、この町にはいったのでありました。そして彼は綱と駱駝とが、海となり墓場となった鉢とかいうことを聞きつけると、すぐに麻酔薬《ハシーシユ》屋に近づいて、これにいいました、「おお気の毒な仁よ、お前さんが自分の駱駝を無くしてしまったというなら、この俺がアッラーのために、お前の損を埋めてやろう。お前の手許に残っているものをよこしなさい、つまりその綱だね。そうすれば駱駝に出した分だけの値段と、その上、お前さんの儲けとして、百ディナールを進呈しよう。」それで取引は即刻即座に成り立ちました。そしてマグリブ人はその駱駝の綱を受けとって、悦び勇んで飛び立ちながら、行ってしまいました。
ところで、その綱には何でも掴まえてしまう力がこもっていたのです。ですからマグリブ人は、その綱を遠くから若い王子に見せさえすればよかったわけで、すると王子はすぐにひとりでにやって来て、自分の鼻をその綱に通したのでした。するとすぐに乗用駱駝に変ってしまって、マグリブ人の前に膝を折り、彼を背中に乗せました。
するとマグリブ人は、王女の住んでいる町の方向に駱駝を進めました。そしてやがてその父王の宮殿を取り巻く、御苑の壁の下に着きました。ところが、マグリブ人が駱駝に膝を折らせて降りるため、綱をさばいた瞬間に、「利口者」王子はすばやく歯でその綱をくわえて、まん中から二つに噛み切ってしまいました。それで綱にこもっていた力は、こうして切られると断たれてしまいました。そして「利口者」王子は、マグリブ人からのがれるために、大きな柘榴《ざくろ》の実に姿を変じ、その形をして、折から花の咲いている一本の柘榴の木に吊り下がりに行きました。
するとマグリブ人は、王女の父君の帝王《スルターン》のところにまいって、挨拶《サラーム》と辞令を述べてから、申し上げました、「おお当代の王様、私は柘榴《ざくろ》の実を一個頂戴いたしたく参上しました。それというのは、私の伯父の娘が懐妊しまして、その魂はしきりに柘榴を欲しがっているのでございます。妊婦の所望を満足させてやらぬことは、どのように罪であるかは、すでに御承知のところでございます。」すると王様はこの頼みに驚いて、お答えになりました、「おお男よ、季節は目下柘榴の季節ではなく、余の苑の柘榴の木は、やっと昨日から花がついたばかりじゃ。」マグリブ人はいいました、「おお当代の王様、もしも御苑に柘榴の実がなかったならば、私の首をお斬り下さい。」
そこで王様は御苑の長を召して、訊ねなさいました、「おお園丁よ、わが苑に柘榴の実があるというが、まことなりや。」園丁は答えました、「おお御主君様、ただ今の季節は柘榴の実の季節でございましょうか。」そこで王様はマグリブ人のほうを向いて、これにおっしゃいました、
「されば、その方の首は無いぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十四夜になると[#「けれども第九百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれどもマグリブ人は答えました、「おお王様、私の首を刎《は》ねなさる前に、まず御園丁に、柘榴の木々を見に行くようお申し付け下さいませ。」王様はいいました、「よろしい。」そして園丁に、果たして季節はずれの柘榴の実があるか否か、木々を見に行くようにと合図なさいました。そこで園丁は御苑に降りて行くと、一本の柘榴の木に、これまでのどんな柘榴にもかつて類のないような、大きな柘榴の実を一個見つけました。そこでそれを取って、王様のところに持参いたしました。
王様はその柘榴を取りあげてみて、すっかり驚き入ってしまいなさいました。そしてそれを御自分のものとしてとっておいたらよいか、それとも、妊娠時の欲望に悩まされる妻のためにと所望する、この男に与えたらよいか、おわかりになりませんでした。そこで大臣《ワジール》に問われました、「おお、わが大臣《ワジール》よ、余はこの大きな柘榴の実をぜひ食べてみたいが、その方どう思うか。」すると大臣《ワジール》はお答えしました、「おお王様、仮りにこの柘榴が見つからなかったとしたら、君はこのマグリブ人の首をお斬りにならなかったでござりましょうか。」王様はいいました、「いや、たしかに斬ったろう。」大臣《ワジール》はいいました、「然らばこの柘榴は当然この男のものでござりまする。」
そこで王様はお手ずからその柘榴の実を、マグリブ人にお渡しになりました。ところがマグリブ人がそれに手をふれると、とたんに柘榴は破裂して、全部の粒が飛び出し、八方に散らばりました。するとマグリブ人はその実を一と粒一と粒拾いはじめ、とうとう、王様の玉座の足許の小さな穴に落ちた最後の粒に行き着きました。ところで、「利口者」ムハンマードの生命は、実にこの粒のなかに隠れていたのです。いよいよマグリブ人がこの粒のほうに首を延ばして、これを拾いあげて潰そうと手を延べました。ところがいきなり、一と振りの短刀がその粒のなかから飛び出して、マグリブ人の心臓深く、その刃渡りを余さず突きささりました。そして彼はそのまま、血と共に不信の魂を吐き出して、死んでしまいました。
すると若い王子ムハンマードが、美しい姿を現わして、王様の御手の間の床《ゆか》に接吻しました。ちょうどそのとき、若い姫がはいってきていいました、「私が吊り下げられていた時、木から私の髪をほどいて下さった若者は、この方です。」すると王様はおっしゃいました、「お前を解き放してくれた若者がこの方とあらば、お前はこの方と結婚するよりほかにいたし方ない。」すると若い姫はいいました、「よろしゅうございます。」そこで二人の婚礼が然るべく挙げられました。二人の夜はすべての夜の間で、最も祝福されたものでございました。そしてその時以来、両人は満足し繁栄して一緒に暮らし、子供としては、たくさんの王子と王女を持ちました。これで終りでございます。
さても、終りも始めもない唯一者、並びなき御方に、栄えと讃《たた》えあれかし。
――ナスル・アル・ディーンという名の第十二番目の警察隊長《ムカツダム》は、このように語りました。これが最後の男でございます。帝王《スルターン》バイバルスはその話にわくわくなさいまして、御満足はその最後の極に達しました。そして御家来の警察隊長《ムカツダム》たちに対してお悦びのお気持を示しなさるため、帝王《スルターン》は彼ら全部を宮中の侍従に任じ、国庫から月額一千ディナールの俸禄を賜わりました。そして彼らをば盃の伴侶《とも》となすって、太平の時も戦争の時も、同じくお離しになりませんでした。彼ら一同の上に、至高者の御慈悲あれかし。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは微笑して、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王はこれにいった、「おおシャハラザードよ、何と今は夜々は短くなって、もっと長くそちの口から話を聞いていられないことであろう。」シャハラザードはいった、「さようでございます、おお王様。けれどもそれにもかかわらず、もし君のお許しがござりますれば、わたくしは更に今夜、今までお聞き遊ばした全部の物語も、遠く及ばぬような物語を、お話し申し上げることができますかと存じまする。」するとシャハリヤール王はいった、「いかにも、シャハラザードよ、それを始めて苦しゅうない。余はもはや疑わぬ、定めしそれは見事であろうからな。」
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海の薔薇とシナの乙女の物語(1)
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは言った。
語り伝えられまするところでは、おお当代の王様、シャルキスターンの王国の間の或る王国に、――されど讃められたもうアッラーは更に多くを知りたまいまする。――ゼイン・エル・ムールークというお名前で、名声四海に轟き、勇猛と寛仁の点では獅子の兄弟であった王様がいらっしゃいました。ところで、いまだお若いうちに王は、美質を授けられた二人の王子を、すでにお持ちになっておりましたが、そこにその「主《しゆ》」の祝福と「報酬者」の御慈愛によりまして、第三番目の王子がお生まれになりました。群を抜いたお子様で、その美しさは第十四夜の娘の満月のように、闇を追い払うのでした。そしてその若い年月が次々に連なってゆくにつれて、その眼、陶酔の盃は、眼差《まなざし》の優しい火によって、最も賢い人々の心をも掻き乱しました。睫毛《まつげ》一筋一筋は短刀の反刃《そりば》のように煌《きら》めき、黒い麝香《じやこう》の髪の捲き毛は、甘松香《かんしようこう》のように人々の心を縺《もつ》れさせ、頬は脂粉なくしてみずみずしく、あらゆる点で、処女たちの頬を恥入らせるものがありました。人を引きつける微笑の数々は、それだけの投槍であり、風姿は気品あると同時に愛くるしく、唇の左の端には手際よく円くなった痣《あざ》が飾られ、白く滑らかな胸は水晶の板のようで、溌剌として活気ある心臓を覆っておりました。
そこでゼイン・エル・ムールーク王は幸福の極に達しなされ、この子の将来を星占いするために、卜者と占星学者を召し出しました。彼らは砂を動かし、占星の図形を描き、占術の秘奥の呪文を唱えました。それが済むと、一同王様に言上しました。「このお子様の運勢は吉で、その星は限りない幸福を保証しておりまする。けれどもお子様の天命に同じく記されていることは、万一父上なるわが君が、お子様をその青年時代にたまたま御覧遊ばすようなことがありますれば、わが君は直ちに視力を失ってしまいなさるであろうということでございます。」
占者と占星学者のこの話を聞かれると、世界は王様のお顔の前で暗くなりました。そして王様は御前からお子を引きとらせ、大臣《ワジール》に命じて、これを母君と共に、遠くの宮殿に置き、王のお通り道で決してお出会いになることができないようにせよと仰せられました。大臣《ワジール》は仰せ承わり畏まって答え、主君の命令を違えず実行いたしました。そして歳月は歳月を追って過ぎました。そして帝王《スルターン》の園生《そのう》の美しい芽は、母君から申し分なく行き届いたお世話を受けて、健康と徳と美の緑を弥《いや》増したのでございました。
ところで、人は決して運命の記したところを消すことは叶わぬゆえ、若い王子ヌールジハーンは或る日のこと、自分の愛馬に乗り、獲物を追って林の中に躍り込みました。ところでゼイン・エル・ムールーク王もやはりその日、鹿を狩りに外出なさいました。そして宿命は、この森の広大さにもかかわらず、王様がわが子のそばを通ることを望んだのでございます。そしてわが子とはわからずに、王の視線はその上に落ちました。すると即座に、見る能力は王の両眼から失せてしまいました。そして王様は夜の王国の捕虜《とりこ》になられたのでございます。
そのとき王は、御自分の失明は若い騎士と出遭ったことに起因し、その若い騎士こそはわが子以外であり得ぬことをおさとりになって、涙を流しながら、仰しゃいました、「通常、わが子を見る父親の眼は、一段と明るくなるものだ。しかるにわが眼は、運勢の望むところによって、そのため永久に盲目にされてしまった。」
そのあとで、王様は、世紀随一の名医たちや、造詣の点でイブン・スィーナー(2)を凌ぐ人々を、王宮に召し出して、御失明治癒の手段についてお諮《はか》りになりました。一同協議し尋ね合った末、この御失明は通常の手段によってはとうていお治りにならぬものである旨、王様に言上することに一決しました。そして一同付け加えました、「御視力回復の唯一のお薬は入手至難のものゆえ、むしろ、そのようなものは思わざるに如《し》かぬくらいでございます。なぜと申せば、それはシナの乙女の栽培する海の薔薇《ばら》でございますれば。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十五夜になると[#「けれども第九百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして一同は王様に御説明申し上げて、シナの国の遥かな奥地に、フィルーズ・シャーフ王の王女にあたる姫君が一人おられ、眼を治し、生れながらの盲人にすら視力を取り戻させる効能のあるその海の薔薇の、現在知られた唯一の灌木は、その姫のお庭にあると申しました。ゼイン・エル・ムールーク王は、この医者たちの言葉を聞かれて、シナの乙女の海の薔薇を持ってきた者には、褒美として、帝国の半分を遣わす旨、触れ役人に全王国に触れさせなさいました。それから、ヤアクーブ(3)のように泣きながら、アイユーブ(4)のように憔悴しながら、二|葉《よう》に分れた御自分の心臓の血に浸りながら、その結果をお待ちになりました。
ところで、海の薔薇を求めてシナの国に出発した人々の中には、ゼイン・エル・ムールークの上の二人の王子がおりました。そして若いヌールジハーン王子も、同じように出発しました。それというのは、王子は思ったのでした、「私は危難の試金石に、わが運命の黄金を試してみたい。そして私が心ならずも、御父上の失明の原因となっているからには、これをお治し申すためわが一命を危うきに曝《さら》すのは当然のことだ。」
そこで、この第四天の太陽ヌールジハーン王子は、夜の黒馬に乗って旅する佳人の月が、馬首を東から逸《そ》らせた朝まだき、風のようにすばやい駿馬に乗りました。そして、幾日も幾月もの間、野や沙漠や、アッラーと野草のほかに何ものもない無人の僻地を、いくつも横切って、旅しました。そして最後に果てしない森のなかに着きましたが、そこは無智なる者の精神よりも暗く、日夜の区別《けじめ》もつかず、黒白のちがいも見分けられないほど闇の濃い森でした。ヌールジハーンは、その輝く顔のみが暗闇を照らしつつ、鋼欽の心をもってこの森のなかを進んで行きましたが、そこの木々は所々に、果実の代りに、生きた人間の頭をつけていて、それが嘲笑《あざわら》ったり、笑ったりしはじめては、地に落ち、一方、他の枝々には、土鉢に似た果実が、軋《きし》りながら爆《は》ぜて、その空洞から金色の眼の鳥を飛び立たせていました。
すると突然、王子は、いなご豆の大木の幹に坐った、山のような一人の年とった魔神《ジンニー》と、ぱったり顔を合わせました。そこで挨拶《サラーム》をしてこれに近づき、その口の紅玉《ルビー》の小箱から、砂糖が牛乳に融けるように、魔神《ジンニー》の精神に融け入る言葉をいくつか取り出しました。すると魔神《ジンニー》はこの高邁《こうまい》の園の若木の美しさに心を動かされ、これに自分の傍らに憩《いこ》うようにと誘いました。そこでヌールジハーンは馬より下り、袋の中から溶けたバタと上等の小麦粉で作った菓子を一つ取って、友情のしるしに、これをば魔神《ジンニー》に呈しますと、魔神《ジンニー》はこれを受けてぺろりと食べてしまいました。彼はこの食べ物に大へん満足して、小躍りして悦び、そして申しました、「アーダムの子らのこの食べ物は、我らの主君スライマーンの指環の宝石に役立つ赤硫黄を土産にもらったよりも、わしを悦ばせる。アッラーにかけて、わしはまことに嬉しく、わが毛一筋一筋が十万の舌と変じ、その舌一枚一枚があなたを讃めたたえたとしても、わしがあなたに対して感じておる謝意をいまだ現わしきれぬであろうほどじゃ。されば返礼に、お望みのことは何なりとわしに御所望あれ。直ちに叶えて進ぜよう。さもなくば、わしの心は、露台の高きより落ちて、粉々に打ち砕くる皿のようでもあろう。」
ヌールジハーンはその優しい言葉を魔神《ジンニー》に謝して、これに申しました、「おお、魔神達《ジン》の首領《かしら》にして彼らの冠よ、おお、この森の注意怠りなき守護者よ、わが希望を述べることをお許しあるからには、申し上げます。私のお願い申すことはただ、フィルーズ・シャーフ王の王国に、私を即刻猶予なく到達させて下さるということだけ。その地にて私はシナの乙女の海の薔薇を摘みたいと存じまする。」
ところがこの言葉を聞くと、森の守護者の魔神《ジンニー》は冷たい溜息を吐《つ》いて、両手でもってわが頭を打ち、失神してしまいました。ヌールジハーンはこの上なく行き届いた手当を尽しましたが、その甲斐のないのを見て、その口中に、二番目の溶けたバタと砂糖と上等な小麦粉の菓子を入れました。するとすぐに魔神《ジンニー》に感覚が戻ってきて、その気絶から覚め、そしてまだ菓子と王子の所望とにすっかり心を動かされた有様で、若い王子に言いました、「おおわが御主人よ、その仰せの、シナの王女の乙女の手中にある海の薔薇は、空の魔神達《ジン》に護られていて、彼らは日夜、一羽の鳥もその上を飛ばぬよう、雨滴がその花冠を傷《いた》めぬよう、太陽がその火でもって花を焼かぬように、見守っているのじゃ。されば、一たびその花の生うる園にあなたを運んで進ぜたところで、花に愛着するそれらの空の番人の警戒の眼を欺くには、どうしたらよいやら、わしにはとんとわからぬ。まことわが困惑は非常な困惑じゃ。しかし、すでに大へんわしの役に立った、その結構な菓子を、もうひとつわしに下され。或いはその効能はわが頭脳を助けて、わしの望むうまい方法を見つけさせてくれるかも知れぬ。なぜなら、わしはあなたをお望みの薔薇まで行き着かせて、あなたに対する約束を果さねばならぬからな。」
そこでヌールジハーン王子はいそいで件《くだん》の菓子を森の守護の魔神《ジンニー》に与えますと、彼は喉の深淵にそれを消え失せさせた後で、頭を熟慮の頭巾のなか深く埋めました。そしてにわかに頭をもたげて、言いました、「菓子の利き目があった。わしの腕に乗りなさい。われわれはシナを指して飛んで行こう。それというのは、今となっては、薔薇の空の番人たちの警戒の眼を欺く手段が見つかったからな。それは彼らに、この溶けたバタと砂糖と上等な麦粉の不思議な菓子を一個投げてやることじゃ。」ヌールジハーン王子は、先ほど森の魔神《ジンニー》が気を失うのを見て、大へん不安を覚えはじめていたのでしたが、今は愁眉《しゆうび》を開いて晴れ晴れとしました。そして園のように再び緑に返り、薔薇の蕾《つぼみ》のように花咲きました。そして答えました、「差支えございません。」
すると森の魔神《ジンニー》は王子を左腕の上に乗せて、右腕をもってアーダムの子を庇《かば》って太陽の光線を遮りながら、シナの国の方角に向って出発いたしました。そしてその飛行の下に距離を無いものにしながら、こうして安泰のお蔭で、恙なく、シナの国の首都の上に着きました。そこで王子をとあるすばらしい園の入口にそっと下ろしましたが、これぞ海の薔薇の生うる園にほかなりませんでした。そして王子に言いました、「あなたは心を安んじてこの中にはいってよろしい。薔薇の番人はわしが、さっき彼らのためもらっておいた菓子でもって、引き受けてあげるから。それから、この場に戻って来なされば、わしはいつなりとあなたのお望みのところにお連れする心構えで、ここにお待ちしているじゃろう。」
そこで、美しいヌールジハーンは友の魔神《ジンニー》と別れて、園のなかに分け入りました。すると、天の楽園から切り離した一角のようなこの園が、真紅の黄昏《たそがれ》のごとく美しく、彼の眼に現われ出るのが見えました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十六夜になると[#「けれども第九百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてこの園のまん中には、縁まで薔薇水の充ち満ちた広い池がありました。そしてこの貴重な池の中央に、茎の上にただ一輪、火のように赤い満開の花がそそり立っておりました。これこそ海の薔薇です。おお、何と見事なこと。ただ鶯のみがその適当な描写を聞かせることができるでしょう。
ヌールジハーン王子はその美しさに驚嘆し、その香に酔って、このような薔薇こそは、最も奇蹟的な霊験を授けられているに相違ないと、苦もなくさとりました。それでためらわず、衣服を脱いで、馨《かぐ》わしい水中にはいり、ただ一輪の花をつけた薔薇の木を、根ごとそっくり抜き取りに行きました。次にこの妙《たえ》なる重荷を携えた若人は、泉水の水際に戻り、身を乾かし、小枝の下で着物を着て、その植物を外套の下に隠しましたが、その間、葦のなかに潜んでいた鳥どもは、自分たちの言葉で、奇蹟の薔薇とその灌木の奪い去られたことを、細流《せせらぎ》に語っていました。
けれども王子は、水辺に聳えていて、全部がヤマーン地方の紅瑪瑙《カキーク》で造られている、瀟洒《しようしや》な亭《ちん》を訪れないうちは、この園を立ち去る気になれませんでした。それでこの亭の方角に進んで、大胆にその中にはいりました。そして完全な技術で装飾され、その釣合のいかにも美しい、この上なく調和のとれた建築の広間に出ました。この広間の中央には、宝石を飾った一台の象牙の寝台があって、まわりには巧みに刺繍を施した帳《とばり》が垂れております。ヌールジハーンはためらわず、その寝台のほうに進み、帳《とばり》を半ば開けてみると、布団《クツシヨン》の上に横たわって、自分自身の美しさ以外には衣服も装飾品もつけていない一人の手弱女《たおやめ》の姿を見かけて、感嘆のあまり立ち尽してしまいました。乙女は、生まれてはじめて、人間の眼が神秘の面衣《ヴエール》のない自分を見つめているなどとはつゆ知らず、深い眠りに陥っておりました。髪は乱れ、五つの窪《くぼ》みのついたふっくらした小さな片手は、額の上に無造作に置かれていました。そして夜の黒人は彼女の麝香《じやこう》色の髪の毛のなかに逃《の》がれて、一方|昴宿《すばる》の姉妹たちは、彼女の歯の輝かしい数珠《じゆず》を見て、雲の面衣《ヴエール》の蔭に隠れてしまいました。
「百合《ゆり》の顔《かんばせ》」と呼ばれるこのシナの手弱女《たおやめ》の美しさの眺めは、ヌールジハーン王子に激しい印象を与え、王子は感覚を失って倒れてしまったほどでした。けれども程なく正気に返ると、王子は冷たい溜息を吐きながら、自分を悩殺した美女の枕に近づいて、次の詩句を誦せずにはいられませんでした。
[#ここから2字下げ]
緋《ひ》の布に君眠れば、君が明るき面《おもて》は曙《あけぼの》のごとく、双の眼はさながら海の空。
水仙と薔薇をまとう君の身、立って四肢を延ばし、或いは細やかに長々と伸ぶれば、アラビアに生うる椰子《やし》の木も、これに敵さざるべし。
宝石の燃え立つ君の細き髪の毛、ずっしりと垂れ、或いは軽《かろ》く広がれば、いかなる絹もこの自然の織物に及ばざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
それがすむと、自分がこの場にはいったことの跡形を、この眠る美女に残しておきたいと思って、王子は自分のしていた指環をその指にはめ、乙女の指から乙女自身のしていた指環を抜いて、自分自身の指に通しました。そこで、次の詩句を誦しながら、乙女の眼を覚まさせないで、亭を出ました。
[#ここから2字下げ]
われはこの園を去る、血の滴るチューリップのごときわが心のうちに、恋の痛手を携えつつ。
己が衣の裾に包み、僅かの花すら携うることなく、世の園を出ずる者こそ不幸なれ。
[#ここで字下げ終わり]
そして王子は園の戸口に自分を待っている森の守護者の魔神《ジンニー》に会いに行って、時を移さず、自分をシャルキスターンのゼイン・エル・ムールーク王の王国に運んでくれるように頼みました。すると魔神《ジンニー》は答えました、「仰せ承わることは、仰せに従うこと。けれどももうひとつ別な菓子を下さってからじゃ。」ヌールジハーンはまだ手許に残っている最後の菓子をこれに与えました。するとすぐに魔神《ジンニー》は彼を左の腕に乗せて、共にシャルキスターン指して、空路旅立ちました。
そして二人は恙《つつが》なく、盲目のゼイン・エル・ムールーク王の王国に着きました。地上に下りたとき、魔神《ジンニー》は美しいヌールジハーンに言いました、「おお、わが生命とわが悦びの資金よ、わしはあなたにわが心遣いの印《しるし》を残さずに、お別れしたくはない。この毛束をお取りなされ、あなたのために今わが鬚《ひげ》からむしりとったものじゃ。このわしが必要になったら、そのつど、この毛を一本焼きなさりさえすればよい。わしはすぐさまあなたの手の間にやってくるであろう。」こう語って、魔神《ジンニー》は自分に食物を与えた手に接吻して、己が道に立ち去りました。
ヌールジハーンのほうは、謁見を願い出て、自分は治癒の持参者である旨告げてから、いそぎ父王の宮殿に参上しました。そして盲目の王の御前に案内されると、外套の下から奇蹟の植物を取り出して、これを王様にお渡し申しました。香りと美しさが見る人々の魂を奪った海の薔薇を、王様が御眼《おんめ》に近づけるが早いか、その双の御眼は即刻即座に、星のごとく光り輝くようになりました。
すると悦びと感謝の極に達せられ、王様はわが子ヌールジハーンの額に接吻し、この上なく強い愛情をお示しになりながら、お胸にぴったりと抱き締めました。そして今後は領国を御自分と末子ヌールジハーンとの間で分有する旨を、全領土に布告させなさいました。その上、向こう丸一年間、王室の祝典を挙行して、富めるも貧しきも全臣民に対し、喜びと楽しみの門を開き、悲しみと苦しみの門を閉ざしておくようにするために、必要な命令をお下しになりました。
父王は今後は視力を失う危険なくこの王子を眺めることがおできになって、ヌールジハーンは再び父王の最愛の王子となりましたが、そこで王子は、海の薔薇を枯らさないように、これを移植することを思いました。そのために、森の魔神《ジンニー》に頼むことにして、鬚の毛を一本焼いてこれを呼びました。すると魔神《ジンニー》は一夜のうちに、槍二筋の深さに掘って、純金を壁とし、宝石を土台とした泉水を作ってくれました。ヌールジハーンはいそいで薔薇をこの泉水のまん中に植えました。これは眼には法楽、鼻には慰藉でございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十七夜になると[#「けれども第九百五十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれども、王様の御平癒にもかかわらず、鼻を長くして帰って来た上の二人の王子は、この海の薔薇には霊験など全然備わっていない、王様の視力御回復はもっぱら「石打たれし悪魔」の妖術とこの件への介入とのお蔭に他ならぬと、主張しました。
ところが、両人の父君の王様は、その申し立てに激怒なさり、両人の無分別に御不満を覚えて、両人を弟ヌールジハーンの前にお呼びになり、厳重な説諭を加えて、両人におっしゃいました、「何ゆえお前たちはこの薔薇のわが視力への効能を疑うのか。至高のアッラーはこの薔薇の芯《しん》の中に、平癒を置きたまうことがおできにならぬとでも思うのか、女子をも男子に、男子をも女子に変じたまうことのできなさる御方《おんかた》ともあるものが。なおこのことについては、さるインド国王の王女の身に起ったところを、聞くがよい。」そして王様は仰しゃいました。
「時の古《いにし》え、さるインドの国王がおって、その後宮《ハーレム》に、数千の乙女の間から選ばれ、諸国の王宮にもこれに匹敵するもののない、百名の美しく若い女を持っていた。しかるに、そのうちのただ一人も王によって身ごもりもせず、出産もしなかった。それによってインド王は悲しみ嘆くようになった。すでに年老い、齢《よわい》のため身が曲っておられたからな。しかるに最後に、アッラーの全能の功力《くりき》により、王の妻妾中最も年少の女が懐妊し、九カ月の後、きわめて美しく、まことに仙女のごとき様子の女児を産み落した。ところがその母親は、王が男子を得ぬのを見て嘆かれることを恐れて、生まれたばかりの娘は男の子だとの風聞を立てさせた。占星学者たちとも申し合わせて、王がこの子を十歳になるまでは見てはならぬと、人々に信じさせることにした。
さてこの小さな王女が、ますます美しく成長して、いよいよ父王が見ることのできる年齢に達すると、母親はこれに必要な注意を授け、自分を男子と思わせるためにはどのように振舞わねばならぬかを、説き聞かせた。小娘はアッラーに明敏と聡明を授けられていたので、母親の指示を逐一理解し、あらゆる場合にそのとおりにした。そして男の子の服装をして、本当の男性であるかのように振舞いながら、王宮の部屋部屋を行き来していた。父王はこの子を男子と信じて、日々その美貌を喜んでいた。そしてこの自称の王子が十五の年齢に達すると、王はこれを隣国の王の娘のさる姫と結婚させる決心をした。そして結婚が決定された。いよいよ定めの時が来ると、王は王子に見事な衣服を着せて、象の背に載せた黄金の輿《こし》に、自分と並んで坐らせ、盛大な行列を作って、その未来の妻の国に連れて行った。この苦境にあって、内側では王女であった若い王子は、こもごも泣いたり笑ったりしていた。
ところで一夜、行列が或る鬱蒼《うつそう》たる森に止まったとき、若い王女は輿《こし》から出て、遠方の木々の下に用を足しに行った。こればかりは王女たちとてもその奴隷じゃ。すると王女は、木の下に坐っている大そう美男の若い魔神《ジンニー》とぱったり顔を合わせたが、これはこの森の守護者であった。魔神《ジンニー》はこの若い娘の美しさに眼がくらみ、これに優しく挨拶をして、どなたで、どこに行かれるのかと尋ねた。姫は相手の心を惹く様子を見て信頼の念を覚え、これに自分の身の上を一部始終残らず語り、やがて婚姻の夜の折、自分の妻と定められた女の寝床にはいった際、どんなに困る羽目に陥ることかと言った。
すると魔神《ジンニー》はその困惑に心を動かされ、しばらく思い耽ったが、次に潔く、彼女に自分の性をそっくり貸して、彼女の性を受け取ってあげよう、但し彼女が帰る折に預り物を忠実に返すという条件で、と申し出てくれた。若い娘は感謝に溢れて、その申し出を承諾し、提案に同意した。そして全能者の御意《ぎよい》の効験により、交換は支障も面倒もなく直ちに行なわれた。若い王女は恍惚の限り恍惚として、この新しい授かり物と商品をもって重くなり、父王のほうに戻って、再び輿に乗った。しかし彼女はまだ自分の新しい付属物に不慣れであったもので、その上に不器用に坐ってしまい、苦痛の叫びをあげた次第であった。しかし人に気取られぬようすばやく立ち直り、以後は同じ動作を繰り返さぬよう、あらゆる注意とあらゆる配慮を払い、同じ苦痛を味わわぬためのみならず、自分に委ねられていて、その持ち主に良好な状態で返さなければならぬその預り物を損《そこな》わぬためにも、努めて意を用いた。
数日後、一行は許嫁《いいなずけ》の町に到着した。そして結婚式はきわめて盛大に挙げられた。新郎は魔神《ジンニー》が快く貸してくれた道具を実にあっぱれに用いる術《すべ》を知り、甚だよく操ったので、新婦は直ちに遅滞なく、懐妊の身となった。かくて万人満足した。
さて九カ月たつと、新婦は愛らしい男子を産み落した。そして産褥を離れると、夫はこれに言った、『そなたにわが母上や身内やわが領土を見せるため、今はわれわれはわが故国に赴くべき時機だ。』彼は妻にこう言ったが、これは実は彼としては、森の魔神《ジンニー》に無疵好調な預り物を、これ以上遷延することなく、返したいと思ったからである。この九カ月の愉快な生活の間にこの預り物は成果を挙げ、立派になり、発達しただけに、なおさら急がれたわけじゃ。
若妻は仰せ承わり畏まって答え、一同発足した。そして程なく、商品の主人たる魔神《ジンニー》の住居の森に到着した。そこで王子は一行から離れて、魔神《ジンニー》の住む場所に赴いた。すると魔神《ジンニー》は同じ場所に坐っていたが、明らかに疲労の色を見せ、何か腹の大きくなった女のような様子をしていた。挨拶《サラーム》の後、王子はこれに言った、『おお魔神《ジン》たちの首領にして彼らの冠よ、御厚情のお蔭をもって、私は自分のなすべきところに十分に成功し、自分の望むものを得ました。そして今は、お約束に従って、成長し立派になったあなたの財産を忠実にあなたにお返し申し、私の財産を取り戻そうとて参上いたしました。』こう言って、彼は自分の携えている預り物を、相手の手に渡そうとした。
ところが魔神《ジンニー》は彼に答えた、『いかにもあなたの信義は見上げた信義で、あなたの正直ぶりはこの上ない。けれども、遺憾千万ながら私は申し上げなければなりません。今となっては私はもうあなたに貸して上げたものを取り戻したい気も、私の身に持っているものを差し上げたい気も、少しもないのです。これはもう済んだことで、運命はこれをこのように取りきめてしまったのです。それというのは、私たちがお別れしてから、新しい事実が起って、今後は私たちの間の一切の交換をもう許さないのです。』そこで元の若い娘は尋ねた、『そして、おお大|魔神《ジンニー》よ、私たち二人がそれぞれの性を取り戻すことをもう許さないその新しい事実とは、いったい何ですか。』相手は答えて、『こういう次第です、おお、元の若い娘さんよ、私は私のものと引き換えにあなたからまかされた預り物を、大切に守りながら、ここで永い間あなたをお待ちしました。私はそれを処女性と無垢《むく》の愛すべき状態に保つため、あらゆる手を尽したのですが、そのとき或る日、この領地の監督官の一人の魔神《ジンニー》がこの森を通りかかって、私に会いに来ました。そして彼は私の新しい匂いで、私が今まで彼の知らなかった性の持ち主であることを感じとったのでした。そこで私に対して激しい恋情を覚え、また逆に私の心中にも同じ感情をそそり立てました。そして彼は普通のやり方で私と交わり、預り物の処女性の封印を破ってしまいました。私も女がこのような際に感じるすべてを感じ、そればかりか、女たちの快楽は男たちの快楽よりもずっと永続きし、いっそう質が微妙であるとさえ思いました。そして現在では、私は自分の性を取り戻すことはできません。なぜなら、私は夫の監督官の胤《たね》を宿している身ですから。万一不幸にして、私が男子に戻ることに同意して、今わが胎内にいる子供を、その男子の状態で産むようなことにでもなったら、私はきっと苦しさのあまり、腹が裂けて死んでしまうでしょう。あなたが私に貸したものを手放さないことを、私の生きてゆく上の義務としてしまった新しい事実とは、このようなものです。さればあなたのほうでも、どうぞ私のお貸ししたものを手放さないで下さい。そして万事を損害もなく恙《つつが》なく運びたまい、私たちの間に、どちらをも傷つけることのないこの交換を許したもうたアッラーに、感謝しようではありませんか。』」
――王様は末弟ヌールジハーンの前で、二人の兄王子にこの物語を語られた上で、続けて仰しゃいました、「されば創造者の全能にはおよそ不可能事はないのじゃ。このようにして若い娘を若い男に変じ、男の魔神《ジンニー》を身重の女と変じ得た御方《おんかた》には、同様に、薔薇の芯《しん》の中にわが視力の平癒を置くこともできたもうたわけである。」このように話された上、王様は二人の兄王子を御前《ごぜん》から退出させ、若いヌールジハーンをお傍にお置きになって、親切と愛情の印との限りを尽されました。彼らのほうはこのようでございました。
けれども「百合の顔《かんばせ》」姫、シナの乙女、海の薔薇の主人につきましては、次のようでございます。
空の香水商が、曙の樟脳を満した太陽の黄金の盆を、東方の窓辺に齎したとき、「百合の顔《かんばせ》」姫はその魅惑の眼を開いて、寝床を出ました。そして櫛《くし》を整え、髪を結《ゆ》い、優美に身を揺すりながら、海の薔薇のある泉水のほうに、静々と向いました。それというのは、朝な朝な、姫の最初に思うのと最初に訪れるのは、その薔薇でしたから。そして園を横ぎって行くのですが、そこの大気は香料商の店先のように馨《かお》り、枝々の上の果実は、風に揺れる吊された砂糖の小壜の数々でございました。その日の朝は毎朝よりも一段と美しく晴れ渡り、錬金術士の空はガラスとトルコ玉の色でした。薔薇の身体《からだ》の乙女の一歩一歩は、花を生まれさせるばかりに見え、その衣服の引裾の立てる埃《ほこり》は、鶯の眼の目薬でございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十八夜になると[#「けれども第九百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうして乙女は泉水の端《はずれ》に着いて、わがいとしい薔薇の占める場所に眼を投じました。ところがその跡形すら見えず、匂いもいたしません。そこで苦しさに絶え入るばかりになって、今にも坩堝《るつぼ》の中の金のように溶け、悲しみの熱風《シムーン》に当る蕾《つぼみ》のように萎《しお》れそうになりました。しかも同じ瞬間に、かてて加えて不幸にも、自分の指にはめている指環は見知らぬ指環で、自分の年来持っていた指環は消え失せてしまったことに気づいたのでした。
それゆえ、自分が眠っていて、誰か他処《よそ》の男の眼が、わが身の魅力ある神秘すべてを、罰せられることもなく犯した間、自分が素裸であったことを思い出して、彼女は恥じらいの大洋に沈められてしまいました。そしてあたふたと自分の紅玉《ルビー》の亭《ちん》に戻り、独りきりで泣きはじめ、終日に及びました。その後で、分別のある考えが、思いに耽っているうちに浮んできて、彼女は独り言を言いました、「ほんとうに、『跡形を留めざるものには見出すべき跡形はない。何となれば、人もし跡形を見出すとも、その人自身跡形を留めざれば。』という言い方はまちがっている。また今一つの言い方、『失った物を探しに行くときは、それを見出すためには、わが身自身を失わなければならぬ』というのも、やはりこれ以上嘘なことはありはしない。なぜなら、アッラーにかけて、この私はたとえか弱い若い娘の身であろうと、今からすぐに私の薔薇を奪い取った人を探しに出かけ、その盗みの動機を知りたいと思うから。そして私は、その男が大胆にも私のまどろむ王女の処女性に、欲情の眼差《まなざし》を向けたことを、きっと罰してやりましょう。」
彼女はこう言って、即刻、戦士の装いをさせた奴隷の若い娘たちを従え、焦燥の翼に乗って、発足しました。
そして旅行中、行く先々で情報を求めながら、道を急いだ甲斐あって、彼女はとうとう、ヌールジハーンの父君ゼイン・エル・ムールークの王国シャルキスータンに、恙《つつが》なく到着しました。
首都にはいってみると、もう丸一年もつづいているらしい祝典の旗飾りが、到る所に見られて、各戸の戸口で、楽器や歓喜の発露が鳴り響くのが聞えました。こうした祝祭の動機を知りたい好奇心を覚えて、彼女は相変らず若い男に身を窶《やつ》して、町の住民の間に漲《みなぎ》る全都の悦びの原因は何なのか尋ねました。すると答えて言うに、「王様はお眼が見えなかったところ、優れた美男の王子ヌールジハーン様が、限りない苦労を重ねたあげく、首尾よく、シナの乙女の海の薔薇を持ってきてさしあげることに成功なすったのです。この奇蹟の薔薇がただ王様の御眼《おんめ》に触れただけで、王様は視力を回復遊ばした。御眼は星のように輝かしくおなりになりました。そこでこの機会に王様は、人民が国庫の費用で、丸一年の間、遊楽と祝祭に耽り、各戸に楽器が朝から夕方まで休みなく聞えるようにとの命令をお下しになったのです。」
「百合の顔《かんばせ》」は、ついに自分の薔薇の正確な消息を突きとめて、悦びの極に達し、まず最初川に水浴に行って、旅路の疲れを休めました。次に再び若い男の着物を着けて、優美に歩きながら市場《スーク》を通り抜けて、王様の宮殿の方角に向って行きました。この青年を見た人たちは、砂上の足跡のように、感嘆のあまり魂を消されました。そしてその髪の縮んだ捲き毛は、見る人々の心を捩《ね》じまげました。
こうして彼女は園に着きますと、自分の海の薔薇が、純金の泉水の中に、貴重な薔薇水のまん中に、昔のように咲き誇り、眼には法楽、鼻には慰藉であるのを見ました。そしてこの遭遇に覚えた悦びの後、彼女は独り言を言いました、「ではこれから木々の下に身をひそめて、私の園から薔薇を、私の指から指環を奪いとった恥知らずを、見届けてやりましょう。」
すると程なく、薔薇の泉水のほとりに、若人《わこうど》がまいりました。その眼、陶酔の盃は、眼差の優しい火によって、最も賢い人々をも掻き乱し、睫毛《まつげ》一筋一筋は短刀の反刃《そりば》のように煌《きら》めき、黒い麝香《じやこう》の捲き毛は、甘松香《かんしようこう》のように人々の心を縺《もつ》れさせ、頬は脂粉なくして美しくみずみずしく、あらゆる点で、処女たちのビロードの頬を凌ぎ、人を惹きつける微笑の数々は、それだけの投槍であり、風姿は気品あると同時に愛くるしく、唇の左の端には手際よく円くなった痣《あざ》が飾られ、胸は白く滑らかで、水晶の板のようで、溌剌として活気ある心臓を覆っておりました。
その姿を見ると、「百合の顔《かんばせ》」は一種の茫然自失の状態に陥って、ほとんど分別を失ってしまいました。それというのは、詩人が次のように申したのは、いかにも間違いないからでございます。
[#この行2字下げ] 人の集《つど》うところにて、眉の弓、秋波の矢を放つとも、矢鏃《やじり》はただ愛にふさわしき心にのみ届く。
そして「百合の顔《かんばせ》」は正気を取り戻したとき、眼をこすって四方を見渡しましたが、もはや若人《わこうど》の姿は見えませんでした。そこで彼女は独り言を言いました、「今は私の薔薇|盗人《ぬすびと》は、私の魂と心をも同じように奪い去ってしまったわ。その人は誘惑の石でもって、私の名誉の貴い罎《びん》を砕いたばかりでなく、私の心をも愛の矢でひそかに傷つけてしまったのです。ああ、自分の国とお母様から遠く離れて、今は私はどこに行ったらよいかしら。そしてこうしたすべての損害の裁きを求めるには、誰に訴えたらよいのかしら。」そして情熱に心を焼かれつつ、家来の若い娘たちに会いに行きました。その娘たちのまん中で自分だけただ独りとなり、彼女は一本の蘆筆《カラーム》と一葉の紙葉を取りあげ、ヌールジハーンに宛てて一通の手紙を書いて、それに自分の指環を添えて、気に入りの侍女に渡し、その二品を若い王子自身の手中に届けるよう申し付けました。その若い娘は瞬く間にヌールジハーンの許に着くと、王子は坐っていて、自分の女主人「百合の顔《かんばせ》」のことを思い耽っている様子でした。そこで鄭重な挨拶《サラーム》の後、彼女は王女の信頼が自分に託した文《ふみ》と指環を渡しました。するとヌールジハーンは自分の指環を認めて、感動の極に達しました。そして文を開いて、次のような文言を読みました。
[#ここから2字下げ]
「処女たちには優雅と美を、若者たちには誘惑の黒き眼を授けたまい、両者の心中に、蛾《が》のごとく、知恵の飛び入って身を焼く愛の灯火を点じたまいし、『いかにして』と『何ゆえに』との束縛を受けたまわざる『存在』に対し奉る称讃《たたえ》の後。
今や妾《わらわ》は君の悩ましげなる御眼に恋い焦れて絶え入るばかり、情熱の火は妾を、内からも外からも焼き尽さんとしております。ああ、いかばかり誤りでございましょう、『心と心は相通ず』などと申す諺は。なぜならば、妾は身を焼かれておりますものを、君は何ごとも御存じなきゆえに。もし君は何ゆえ君の麗姿によって妾を殺《あや》めたまいしやとお尋ね申さば、君はいかにお答え下さるでしょうか。
されど、おおわが蘆筆《カラーム》よ、これ以上書くなかれ。妾は恋の苦患にすでに十分に浸りたれば。」
[#ここで字下げ終わり]
この文《ふみ》を読むと、愛の火はヌールジハーンの心の灰の下で火花を散らし、彼は水銀のように性急に、蘆筆《カラーム》と紙葉を手にとって、次の数行の返事を書きました。
[#ここから2字下げ]
白銀《しろがね》の身を持つあらゆる美女に立ち勝り、その眉の弓は酔う戦士の手中の剣なるお方に。
おお麗わしき女性《によしよう》、額は遊星|土星《ゾフラ》に似て、シナの佳人らの嫉みを買う女性よ、御文《おんふみ》の文面はわが孤独の心の痛手を掻き立て、わが心は満月の面上に黒子《ほくろ》の現わるる限り、御身のためにときめくでありましょう。
御身の心の火花一片わが痛手の上に落ちて、わが欲望の稲妻は御身の収穫の上に閃めきました。ただ愛する者のみ、焼き尽さるるとき人の覚ゆる魅力を知る。今やわが身は半ば喉を切られし雄鶏にさも似たり、夜となく昼となく地上に転々し、速やかに救わざれば、程なく死なん雄鶏に。
おお「百合の顔《かんばせ》」の君よ、面衣《ヴエール》は御身の顔《かんばせ》の上にあらずして、御身御自身こそ、御身御自身にとって面衣《ヴエール》です。この面衣《ヴエール》のただ中より出て、前に進みたまえ。何となれば、心は天晴なるものにして、その狭隘にもかかわらず、創造者はそこに御住居《おんすまい》を定めたまいたれば。
されど、おお麗わしき君よ、私はこれ以上明白に語るべきでもなく、わが蘆筆《カラーム》にこれ以上の秘事を託すべきでもありませぬ。蘆筆《カラーム》は恋人同士の秘事の後宮《ハーレム》に入るを許さるべきでないゆえに。
[#ここで字下げ終わり]
次にヌールジハーン王子は恋文を畳んで、自分の眼の封印を捺《お》し、これを若い使いの女に渡しながら、その御主人「百合の顔《かんばせ》」に、自分が書面では書き表わせなかった微妙な事柄を、口頭で伝えてくれるようにと頼みました。お気に入りの侍女は時を移さず出発して、女主人の許に着きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五十九夜になると[#「けれども第九百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると女主人は、悩ましげな水仙の眼をして、睫毛《まつげ》の一筋一筋が泉に変りつつ、坐っておりました。そこで侍女は微笑を浮べながら女主人に近づいて、申しました、「おお、悦びの茂みの薔薇よ、貴いお涙をもってお顔の花を洗わせた原因は、どうか代って私の身に降りかかって、あなた様はいつも御満足で笑みを湛えていらっしゃいますように。ここに私は吉報を携えてまいりました。」そして彼女はヌールジハーンの返書を渡し、美貌の若人《わこうど》が、女主人のために自分に託《ことづ》けた優しい弁明を申し添えました。「百合の顔《かんばせ》」はその文《ふみ》を検《しら》べ、お気に入りの女の口から、美しい掠奪者ヌールジハーンが書面で書き表わせなかった微妙な事柄を聞きますと、彼女は心慰められて立ち上がり、家来の若い娘たちに、自分の身なりを整えさせ、身仕度させ、着付けをすることを許しました。
するとこの愛らしい娘たちは、女主人を引き立たせることに、腕の限りを振いました。髪を梳《くしけず》り、髪に多くの櫛を挿みながら、いかにも巧みに香水を馨《かお》らしましたので、韃靼《だつたん》産の麝香《じやこう》も、彼女の発散する芳香の前で嫉妬のため蒸発してしまい、人々の心は、祭日の棕櫚《しゆろ》のように編んだ見事な下げ髪が、彼女の腰まで垂れているのを見ては、胸の中で踊るほどでございました。
その次に娘たちは、腰のまわりに赤いモスリンの帯をめぐらしましたが、その一本一本の糸は人々の心の狩猟のために織られていました。それから身体の肌色を透かして見せる薔薇色の紗《しや》と、もっと厚い織物の、世界を奴隷にするに足る王者の寛やかさの下穿きで、彼女の身を包みました。また髪の毛を分ける分け目をいくつもの真珠で飾ったので、天の川の星々も顔色ない有様でした。その額には燦然たる王冠を戴かせまして、空に新しい月が現われたと思えるばかり、彼女は輝かしくなりました。娘たちは女主人をまことに美しく、まことに絶世の美女に仕立てましたので、誰しも彼女に見入って、壁画の前でのように驚嘆して立ち尽しかねないほどでした。けれども彼女は、そのすべての装飾によってよりも、遥かに自分自身の美しさによって美しくなっているのでした。
このように装われ終ると、彼女は心をときめかせて、園の木々の下、蔭濃きあたりに赴きました。彼女を見ると、ヌールジハーンは最初気を失ってしまいました。それほど彼の覚えた感動は激しかったのでした。けれどもやがて、「百合の顔《かんばせ》」の快い息吹の香りの利き目で、ヌールジハーンは眼を開き、わが友に見入りながら、幸福の絶頂に達して起き上がりました。一方「百合の顔《かんばせ》」のほうも、自分の心臓の葉の上に刻みつけた面影に、この若人《わこうど》がぴったり合って、毛一筋、点一点のちがいもないほどと思いました。そこで彼女は慎しみの面衣《ヴエール》を取って、わが愛人の前に、贈物として持ってきたものすべてを差し出しました。わが歯の真珠、薔薇の花びらよりも好ましい唇の紅玉《ルビー》、白銀の腕、微笑の月光、頬の黄金、韃靼《だつたん》産の麝香にまさる息吹きの麝香、双の眼の巴旦杏《はたんきよう》、捲き毛の黒い琥珀《こはく》、顎《あご》の林檎《りんご》、眼差の金剛石、それにわが処女の身体の三十六の造形的|姿態《ポーズ》。そして愛はこの二つの愛すべき胸の上と、二つの若々しい額の上に、その絆《きずな》を固く結びました。その夜、蔭濃き裡に、この二人の美しい若人《わこうど》の間に起ったことは、誰も知る者がございませんでした。
けれども恋と麝香は人に知られないわけにゆきませんので、両親は程なくこの二人の恋人の事件を知って、いそぎ両人を結婚で結びました。そして二人の生活は、愛と海の薔薇の眺めとの間に二分されて、幸福裡に過ぎました。
さても、薔薇を咲かしめたまい、恋人らの心を結び合わせたもうアッラー、全能者、至高者に、称讃《たたえ》あれ。そしてわれらの主《しゆ》にして宗主《きみ》ムハンマード、使徒たちの王と、そのあらゆる御身内《おんみうち》の方々との上に、祝福と祈りとあれ。アミーン。
[#ここから1字下げ]
――シャハラザードはこの物語を語り終えると、口をつぐんだ。すると妹の若いドニアザードは叫んだ、「おお、お姉様、何とお言葉はみずみずしいうちに優しく、好ましく、快いことでしょう。そして何と美事なことでしょう、この『海の薔薇とシナの乙女の物語』は。おお、お願いでございます、まだ暇《いとま》のあるうちに、どうぞいそいで何かこれに似たものを、わたくしたちに話して下さいませ。」するとシャハラザードは微笑して、言った、「承知しました、そしてわたくしのお話し申したいことは、もっとずっと見事ですよ、おお妹よ。けれどもむろんのこと、われらの御主君王様のお許しのないうちは、申し上げません。」するとシャハリヤールは言った、「ではそちはわが喜びを疑うのか、おおシャハラザードよ。余は今後、わが耳にそちの言葉、わが眼にそちの姿なくして、一夜とて過ごし得ようか。」するとシャハラザードは微笑をもって感謝して、言った、「それならば、わたくしは蜂蜜入りの乱れ髪菓子と靴直しの災厄の妻の物語[#「蜂蜜入りの乱れ髪菓子と靴直しの災厄の妻の物語」はゴシック体]をお話し申しましょう。」
彼女は言った。
[#改ページ]
蜂蜜入りの乱れ髪菓子と靴直しの災厄の妻の物語
おお幸多き王様、語り伝えられているところの間で語り伝えられているところでは、御加護あつきカイロの町に、大そう性質善良で、あらゆる人の好感の近くにいる一人の靴直しがおりました。彼は古靴(1)を直して暮しを立てていました。名前はマアルフ(2)といって、報酬者アッラー――何ごとの起ろうともその讃《ほ》めたたえられんことを。――によって、松脂《まつやに》と瀝青《れきせい》に漬けられた災厄《わざわい》の妻に悩まされておりました。その名はファトゥマと申しましたが、しかし近隣の人たちはこれを「ほかほかの牛の糞(3)」とあだ名していました。それというのは、実際のところ、この女は夫の靴直しの心にべったりくっついたやりきれない膏薬であり、これに近づく人たちの眼の上の黒い災禍であったからでした。そしてこの災厄《わざわい》の女は亭主の善良さと、忍耐をいいことにし、つけこんで、日に千度も悪口雑言し、夜もすこしも休ませなかったのでした。それで不運な男はついにはもうすっかりこの女の性悪を恐れ、悪行《あくぎよう》にふるえ上がるようになりました。それというのは、これは貧乏で身分卑しいとは申せ、物静かで、賢く、感じやすく、世間の評判を気にする男でしたから。そして彼は騒ぎや怒鳴り声を避けるために、稼いだだけ全部を使いはたし、こうしてこのそっ気ない、性悪の、がみがみ女の女房の費用《かかり》を満足させるのを常としていました。そしてもしあいにくと昼間十分に稼ぎがないようなことがあろうものなら、夜はひと晩中、平穏も容赦もなく、耳のなかには怒鳴り声、頭の上にはすさまじい喧嘩騒ぎです。こうして妻は彼に、彼女の天命の書(4)よりももっと黒い夜々を過ごさせるのです。詩人の言はまさにこの女にこそあてはめることができました。
[#ここから2字下げ]
そもいく夜さを希望なく、われは脚太き悪女、わが妻のかたえに過ごすかな。
ああ、何とても、われはわが婚礼の不祥の夜のおりに、冷たき毒の盃を携えて、その魂をくさめして吐き出さしめざりしか。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六十夜になると[#「けれども第九百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、この忍耐のアイユーブ(5)の受けたいろいろの苦しみのなかで、わけて次のようなことがその身に起ったのでございます。
事実、彼の妻は或る日彼に会いにやってきて、――何とぞアッラーはこのような日々をわれわれから遠ざけて下さいますように。――これに申しました、「おおマアルフや、今夜お前さんが家に帰るとき、蜂蜜入りの乱れ髪の糸素麺《クナフア》菓子(6)を、持ってきてもらいたいものだね。」するとこの憐れな男マアルフは答えました、「おお伯父の娘よ、もし寛仁大度のアッラーが私をお助け下さって、その蜂蜜入りの糸素麺《クナフア》を買うに入用な金を稼がせて下されたら、そりゃもうきっと、わが頭と眼にかけて、私はそれを買ってきてあげるよ。それというのは、今日は、預言者にかけて――その上に祈りと平安あれ。――私はまだ一文も持ち合わせがないからな。だがアッラーは慈悲深くましまして、むずかしいこともわれわれにたやすくして下さるだろう。」すると悪女は叫びました、「何を言ってるのさ、アッラーがお前さんを助けに乗り出して下さるとは。いったいお前さんは、その菓子を食べたい私の望みを満足させるのに、祝福がお前さんのところに来ようと来まいと、私がそんなことを待っていると思っているのかい。とんでもない、私の命《いのち》にかけて、私はそんな言い方には不服だよ。お前さんが今日稼ぎがあろうとなかろうと、私には蜂蜜入りの乱れ髪|糸素麺《クナフア》一オンスは、どうしたっているんだからね。どんなことがあろうと、私は自分の望みの何か一つだって、満足させないで引っこめてしまうことは承知しやしませんよ。もしお前さんがあいにくと、今晩|糸素麺《クナフア》なしで家に戻って来ようものなら、私はお前さんの頭の上に、お前さんの夜をまっ黒にしてあげるからね。お前さんを私の手の間に引き渡した天命と同じくらい、まっ黒にしてあげるよ。」そこで不運なマアルフは嘆息しました、「アッラーは慈悲深く、寛仁大度でいらっしゃる。ただこのお方にだけ私はお縋《すが》り申す。」そして憐れな男は自宅を出ましたが、悲しみと嘆きはその額の皮膚からにじみ出ておりました。
彼は靴直しの市場《スーク》にある自分の店を開けに行き、両手を天にあげながら、言いました、「主《しゆ》よ、お願い申します、どうかあの糸素麺《クナフア》一オンス分の代金を、私に稼がせて下さって、今夜、あの悪女の意地悪から私を守って下さいませ。」ところが、そのみじめな店でいくら待っても甲斐なく、誰も仕事を持ってきてはくれず、こういうわけで、一日が終っても、夕食のパン代すら稼げませんでした。そこで、胸をしめつけられ、自分を待つ女房の仕打ちに対する恐れに溢れて、彼は店を閉め、しょんぼりと帰途につきました。
さて、あちこちの市場《スーク》を抜けてゆくと、彼はちょうど糸素麺《クナフア》やその他の菓子類を商《あきな》っている菓子屋の店先を通りかかりました。これは彼の知っている男で、昔、古靴を修繕してやったことがありました。すると菓子屋は、絶望に沈んで、重たい悲しみの荷物を負っているように背中を曲げて歩いている、マアルフを見かけました。そこでその名を呼びますと、見ればその両眼には涙があふれ、顔はまっ青《さお》で不憫な様子です。それでこれに言いました、「おおマアルフさん、なぜ泣いていなさるのか。いったいあなたの悲しみの種は何ですかい。まあいらっしゃい。ここにはいってひと休みして、どういう不幸に襲われたのか、聞かせて下さいな。」するとマアルフは菓子屋の立派な店頭に近づいて、挨拶《サラーム》の後、言いました、「大慈大悲のアッラーのほかには、頼りはない。天命は私につきまとって幸いせず、夕飯のパンさえ私に与えてくれないのです。」そして菓子屋がたって詳しい正確なことを訊ねるので、マアルフは女房の頼みの件と、一日の稼ぎがなかったため、くだんの糸素麺《クナフア》どころか、一片のパン菓子すら買うことができない次第を、よく知らせました。
菓子屋はこのマアルフの言葉を聞くと、親切な笑いを浮べて、言いました、「おおマアルフさん、あなたの伯父の娘さんは何オンスの糸素麺《クナフア》を持って帰って欲しいと言いなさるのか、せめて聞かせていただけますか。」彼は答えました、「まあ五オンスあれば十分でしょう。」菓子屋は語を継いで、「仔細ないこと。私が糸素麺《クナフア》五オンスを貸売りして進ぜよう。あなたは報酬者の寛仁があなたのほうに降ったとき、その代金を払って下されば結構です。」そして、糸素麺《クナフア》がバターと蜜のまん中に浮いている大きな菓子から、たしかに五オンス以上ある大ぶりの一片を切りとって、こう言いながらマアルフに渡してくれました、「この乱れ髪の糸素麺《クナフア》は、王様のお盆にのせてお出ししても恥かしくないお菓子です。けれどもおことわりしておかなければならないが、これは蜜蜂の蜜ではなく、砂糖黍《さとうきび》の蜜で甘味をつけてあります。そうするほうがずっと風味がよろしいからね。」するとマアルフは、かわいそうに、蜂蜜と糖蜜のちがいを知らないもので、答えました、「あなたの寛仁のお手から、悦んで頂戴いたします。」そして菓子屋の手に接吻しようとすると、菓子屋は固くことわって、さらに言いました、「この捏粉《ねりこ》菓子はあなたの伯父の娘さん用のもの。だがそうなるとあなたは、おおマアルフさんや、あなたは夕飯に何もおありなさるまい。さあ、このパンとチーズを持っていらっしゃい、アッラーの賜物だ。私にお礼なんぞ言うことはない、私は仲介者《なかだち》にすぎんのだからね。」そして菓子屋はそのすばらしい捏粉菓子と一緒に、ふくらして焼いたいい香りのパンのでき立ての煎餅《せんべい》と、無花果《いちじく》の葉に包《くる》んだ白い円形チーズ一箇を、マアルフに渡しました。マアルフは全生涯を通じて、一度にこんなにたくさんの結構なものを手にしたことがないので、どうやってこの恵み深い菓子屋に礼を言ってよいやらもうわからず、結局、天に眼を挙げて、天を恩人に対する自分の感謝の念の証人としつつ、立ち去ったのでございました。
そして彼は、糸素麺《クナフア》と見事なパンの煎餅と円形の白チーズを抱えて、自分の家に着きました。中にはいるやいなや、女房は甲高いおどすような声で、怒鳴りました、「どうだね、糸素麺《クナフア》は持って来たかね。」彼は答えました、「アッラーは寛仁にまします。ほれ、ここにあるよ。」そして彼は菓子屋の貸してくれた盆を、女房の前に下ろしました。盆にはかりかりした乱れ髪の糸素麺《クナフア》が、上等な捏粉菓子らしい美しさを残らず見せて、広がっております。
ところが災厄《わざわい》の女は、盆の上に眼をやったかと思うと、われとわが両頬を打ちながら、憤慨のけたたましい叫びをひと声あげて、申しました、「アッラーは石打たれし者を呪いたまえかし。私はお前さんに言わなかったかね、蜜蜂の蜜でこさえた糸素麺《クナフア》を持ってきておくれって。ところがここに持って来たのは、何だか砂糖黍の蜜で作った代物《しろもの》で、こうして私を馬鹿にする気だね。これで首尾よく私を誤魔化しおおせて、私にいんちきが見やぶれまいとでも思ったのかい。この碌《ろく》でなしが、お前は欲求不満にしておいて、この私を殺してしまおうという気なのだね。」憐れなマアルフは、今度ばかりはまるで予想もしなかったこうした腹立ちにびっくり仰天して、おろおろ声でいろいろ申し訳を呟やいてから、言いました、「おお実直な人々の娘よ、この糸素麺《クナフア》はね、私はこれを買ったのじゃないんだよ。アッラーが恵みぶかい心をお授けになった菓子屋の何某が、私の立場を憐れんで、支払いの期限も定めずに、これを貸売りしてくれたんだよ。」けれども凄まじい悪女は叫ぶのでした、「お前の言うことなんぞみんなでたらめさ、わたしゃ一切信用しない。そら、お前の砂糖黍の蜜の糸素麺《クナフア》なんぞお前にくれてやるよ。わたしゃこんなものは食いはしないから。」そう言って女は糸素麺《クナフア》の盆を、中身もろとも容器《いれもの》ごと彼の頭上に投げつけて、言い足しました、「さあ立ち上がって、おお周旋人野郎め、蜂蜜でこしらえた奴を探しに行っといで。」そして言葉に動作を添えて、女は彼の顎《あご》にすごい拳骨《げんこつ》を一発くらわせたので、前歯が一本折れ、血が鬚《ひげ》と胸の上に滴り落ちたほどでした。
妻のこの最後の攻撃に、憐れなマアルフは逆上し、とうとう辛抱しきれなくなって、激しい動作をして、この悪女の頭を軽く打ちました。すると女は、自分のこき使っている男のこの些細な意志表示に、前よりいっそういきり立って、男に向って飛びかかり、その鬚を両手で鷲掴みにつかまえ、全身の重さをかけてこの鬚の毛にぶらさがりながら、大声で叫びました、「助けてくれ、おお|回教徒の方々《ムスリムーン》よ。こいつが私を殺す。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六十一夜になると[#「けれども第九百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この叫び声を聞いて、近所の人たちが駈けつけ、二人の間に割って入り、大骨折ってやっと不幸なマアルフの鬚を、その災厄《わざわい》の妻のぎゅっと掴んだ指から放させたのでした。そして一同見ると、このいきり立った女が引き抜いた鬚の毛はさておいて、顔は血だらけ、鬚は血まみれ、歯は欠けている有様です。もうずっと前から、気の毒な亭主に対する女房の理不尽な振舞いは皆知っていたし、それに彼がまたもや災厄《わざわい》の女の被害者となったことを歴然と証明している数々の証拠を見ては、一同懇々と女房に説教し、道理を尽して説き聞かせましたから、これが他の女だったらきっと深く恥入り、永久に行ないを改めたことでしょう。こうしてきつく女を咎めた上で、一同付け加えました。「われわれ一同はみんな、砂糖黍の蜜で作った糸素麺《クナフア》をいつも悦んで食べるし、蜜蜂の蜜でこしらえたものよりかずっとおいしいと思うのですぜ。いったいお気の毒な御亭主にどんな罪があって、あんたにこんなひどい目に会わされる筋合いがあるのか。歯を欠かれたり、鬚を|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》られたりしてさ。」そして一同口を揃えてこの女を呪って、それぞれの道に立ち去りました。
ところで、一同が出て行くとすぐに、恐ろしい悪女は、この騒ぎの間中ずっと自分の片隅に黙ってひっこんでいたマアルフのほうに戻ってきて、低いだけにそれだけ憎しみのこもった声で、言いました、「ああ、お前はこんな風にして隣近所の人を呼び集めて、私に食ってかからせるんだね。うまくいったよ。だがね、今にお前がどんな目に会うか、思い知るだろうさ。」そして女は、牝虎のような眼で彼を見やり、恐ろしい計《はかりごと》をいろいろ工夫しながら、そこからあまり離れていないところに坐りに行きました。
マアルフは自分の軽率な短気の行動を心から悔いていましたが、どうやって女房をなだめればよいかわかりませんでした。そこで決心して、皿の破片のまん中に床《ゆか》に転がっている糸素麺《クナフア》を拾い集め、それをきれいに整えてから、おずおずとそれを女房に差し出して、言いました、「お前の生命《いのち》にかけて、おお伯父の娘よ、まあとにかく、この糸素麺《クナフア》を少々食べてごらん。明日もしアッラー望みたまえば、別な品を持ってきてあげるからね。」けれども女房はそれを蹴とばして、叫びました、「お前の菓子を持ってさっさと行ってしまえ、おお靴屋どもの犬め。この私が、お前が菓子屋の周旋業をやって手に入れるものなんかに、手をつけると思っているのかい。|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、明日は私はお前の横を縦にめりこませて見せるよ。」
すると、こうして自分の最後の仲直りの試みも空しく斥《しりぞ》けられてしまった不幸な男は、朝から苦しめられている空腹を鎮めようと思いました。何しろ昼間何も食べなかったものですから。そして思いました、「女房がこの結構な糸素麺《クナフア》を食いたくないというなら、この俺がぜひ食ってやろう。」そして皿の前に坐って、このおいしい品を食べはじめると、それは彼の喉を快く撫でてくれます。それからふくらして焼いたパン菓子と円形のチーズに手をつけ、盆の上に跡形も残さず平らげました。こうした次第です。その間、女房は爛々《らんらん》とした眼で彼の様子を見つめて、一口ごとに繰り返し言うのをやめませんでした。「どうかこれがお前の喉に詰まって、息ができなくなってくれるように、」とか、または、「もしアッラー望みたまえば、どうかこれが身を荒らす毒に変って、お前の腹の中をめちゃめちゃにしてしまうように、」とか、その他似たような嫌味です。けれどもマアルフはひもじかったので、一言も言わずに、一所懸命食べつづけていたもので、とうとう妻の怒りは絶頂に達し、突然悪魔憑きのようにわめき立てながら立ち上がり、何でも手当り次第に亭主の顔に投げつけて、寝に行き、眠りながらも、朝まで悪口雑言を言いつづけたのでした。
マアルフはこのいやな一夜を過ごすと、大へん早く起きて、いそいで着物を着かえ、天命が今日は幸いすることを希望して、自分の店に出かけました。ところが何時間か経つと、そこに二人の捕吏が、法官《カーデイ》の命令を受けて逮捕に来て、彼をば後手に縛りあげ、市場《スーク》を通り抜け、法廷まで引っ立てて行きました。するとマアルフは大へん驚いたことに、法官《カーデイ》の前に自分の妻が、片腕に包帯を巻き、頭を血にまみれた面衣《ヴエール》で包み、そして指の間に折れた歯を一本挟んでいるのを見かけました。法官《カーデイ》はすっかりおびえた靴直しを見るやいなや、怒鳴りつけました、「こちらに寄れい。汝はこれなる憐れな若い女、汝の妻、伯父の娘をかくも虐待し、惨忍にもその腕と歯を折るとは、そもそも至高のアッラーを恐れ奉らざるか。」マアルフは恐れおののき、大地が裂けて自分を呑みこんでくれたらと念じるほどでしたが、恐縮して頭を垂れ、沈黙を守りました。それというのは、平穏を愛する気持と、自分の名誉と妻の評判をそこないたくない望みから、この呪われた女を罪に問う気になれず、必要の際には近所の人を全部呼んで、この女を咎め、その悪行を暴露したくはなかったのです。すると法官《カーデイ》は、この沈黙こそマアルフの罪状の証拠と信じて、判決の執行者たちに命じて、この男を仰向けにし、両の足裏に棒百を加えよと言いつけました。この命令は即座に、心中で嬉しくてわくわくしている呪われた女の前で、実行されました。
それでマアルフは法廷から出るときには、やっとのことで這《は》ってゆけるという有様でした。そして今後は、自宅に帰って災厄《わざわい》の女の顔をまた見るよりは、いっそ赤い死(7)を死ぬほうを選ぶ気になっていたので、ナイル河のほとりに建っている崩れかけた廃屋《あばらや》に辿りついて、そこで困苦窮乏のただ中で、棒で打たれて両脚と足裏をすっかり腫らしたのが治るのを待ちました。そしてやっと起き上がれるようになると、彼はナイル河を下る屋形船《ダハビーヤー》の船頭として傭われました。そしてダミエットに着くと、帆の修繕屋として傭われ、小帆船《フエラツカ》に乗って出帆し、自分の天命を「天命の主《あるじ》」におまかせしました。
ところで航海をして数週間経ちますと、その小帆船《フエラツカ》は物凄い暴風雨に襲われ、中身もろとも容器《いれもの》ごと、海底に沈んでしまいました。そして全員溺れて死にました。マアルフもやはり溺れましたが、しかし死にはしませんでした。それというのは、至高のアッラーは彼を護りたもうて、主檣《メーン・マスト》の破片の木切れを手の下に置いて下さり、溺死をまぬがれさせたもうたからです。彼はそれにしがみつき、危険と貴重なものである魂の高価さとのため並々ならぬ努力をすることができ、そのお蔭で首尾よくその木切れの上に跨《またが》りました。そこで彼は両足で櫂《かい》のように水を掻きはじめましたが、その間に波は彼を弄《もてあそ》んで、或るときは右に、或るときは左に、転がらせるのでした。こうして彼は一日一夜の間、ずっと深淵と闘いましたが、その後で、風と潮流に押し流されて、とある国の岸辺に着きました。そこには立派に建った家々の並ぶ町が聳えておりました。
彼ははじめ岸辺に、動くこともできず気絶したように横たわっておりました。そして程なくぐっすりと眠ってしまいました。眼がさめると、一人の美々しい服装をした人が自分の上にのぞきこんでいて、後ろには二人の奴隷が腕を拱《こまね》いて控えているのが見えました。そしてその金持の男は、ひと方ならぬ注意をこめてマアルフを見つめていました。そして彼がようやく眼をさましたのを見ると、叫びました、「アッラーに称《たた》えあれ、おお異国のお方よ、われらの町にようこそ来なされた。」そして付け加えました、「御身の上なるアッラーにかけて、あなたはどこの国のどこの町の方か、いそぎ承わりたい。それというのは、背中に残っている衣服の切れ端から見ると、どうやらエジプトの国の方らしく見受けられるから。」マアルフは答えました、「そのとおりです、おおわが御主人よ、私はエジプト国の住民の間の一人の住民で、カイロの都こそ私の生まれて、ずっと住んでいた町です。」すると金持の男は感動した声で尋ねました、「カイロはどの街《まち》に住んでおられたか、伺っても失礼ではございませんか。」彼は答えました、「紅街《くれないまち》です、おおわが御主人よ。」相手は問います、「その街で御存じの方々はどなたでしょうか。また御商売は何ですか、おおわが兄弟よ。」彼は答えて、「私の商売職業は、おおわが御主人よ、古靴を修繕する靴直しです。また私の存じている人たちといえば、私と同種の庶民ですが、皆立派な、尊敬されている方々です。もしその名を聞きたいとおっしゃるなら、その何人かの名を申し上げましょう。」そして紅街の地区に住む知合いのいろいろな人の名を挙げました。金持の男は、二人の間にこうした会話が繰り広げられるにつれて、悦びで顔を輝かしましたが、尋ねました、「それであなたは、おおわが兄弟よ、香料商の|アフマード老《シヤイクー・アフマード》を御存じですか。」彼は答えました、「アッラーは彼の齢《よわい》を永くして下さいますように。その方は壁を隔てた隣人です。」相手は尋ねました、「その人は達者ですか。」答えて、「アッラーに称えあれ、お達者です。」相手は尋ねて、「その人には今何人子供がありますか。」答えて、「相変らず三人です。アッラーはその子供たちを欠けさせないで下さるように。それはムスタファとムハンマードとアリです。」相手は尋ねて、「その子供たちは何をしていますか。」彼は言いました、「長男のムスタファは或る学校《マドラサー》の教師(8)です。有名な学者で聖典《コーラン》全部を暗誦していて、七通りの別々の読み方でこれを誦することができなさるそうです。次男のムハンマードはお父さんと同じ香料商の薬種屋で、お父さんはこの息子に男の子が生まれたとき、お祝いに、自分の店の近くに店を出してやったのでした。末子のアリは、どうかアッラーはこの人にその選り抜きの賜物の限りを尽して下さいますように。この人は私の幼な友達で、二人でいつも一緒に遊び、道行く人たちにさんざん悪戯《いたずら》をして、毎日を過ごしたものです。ところが或る日、私の友達のアリは、ナザレト人《びと》の息子の、或るコプトの少年に、したことをしたもので、その少年はこの上なくひどい辱しめを受け、乱暴されたと自分の両親に訴えたわけです。それで友達のアリは、このナザレト人たちの仕返しを避けるため、逐電し姿を消してしまいました。そしてその後もう二十年ほどになったにかかわらず、誰一人その姿を見た人がありません。どうかアッラーは彼を護って下さり、呪いと災厄《わざわい》を遠ざけて下さいますように。」
この言葉を聞くと、金持の男は突然マアルフの首のまわりに両腕を投げかけ、涙を流しながら、胸にぴったりと抱き締めて、彼に言いました、「友を再会させたもうアッラーは讃められよかし。私がアリだ、君の幼な友達だよ、おおマアルフ、紅街の薬種屋|アフマード老《シヤイクー・アフマード》の息子ですよ。」
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[#地付き]けれども第九百六十二夜になると[#「けれども第九百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして双方でこの上なく激しい悦びの熱狂の後、商人は彼にどうしてこの海岸に来たのか話してくれるように頼みました。そしてマアルフが一日一夜何も食べずにいると知るや、商人はすぐに牝騾馬の自分の後ろに乗せて、自分の住居の壮麗な御殿に連れて行きました。その上ですばらしい持てなしをしました。自分は彼と話し合いたくてたまらなかったにもかかわらず、翌日になってはじめて彼の許に出向いて、ようやく長々と一緒に話すことができました。こうして商人は、憐れなマアルフがその妻の災厄《わざわい》の女と結婚した日以来味わったあらゆる苦しみと、これ以上この悪女の非道に曝《さら》されているよりは、自分の店と故郷を立ち退くのを選んだ次第を、聞いたのでございました。また同様に、彼が笞刑《ちけい》を食った次第と、難船にあってもうすこしで溺死しそうになった次第も知りました。一方マアルフも友人アリから、現在自分たちのいる町はソハターン王国の首府ハイターンの町であることを聞きました。そしてアッラーは友人アリの売買の仕事を恵みたもうて、これをハイターン全市で随一の金持の商人とし、最も尊敬される名士となしたもうたということも、知ったのでございます。
次に、彼らが存分に心情を吐露し終えると、金持の商人アリは友人に言いました、「おお、わが兄弟マアルフよ、報酬者より私に来る財貨は、私の手中に預けられた報酬者の預金に外ならぬものと御承知あれ。ところで、私としてはこの相当部分を君にお委せして、君に利を挙げていただくにまさる、この預金の投資法があるでしょうか。」そして商人はまず金貨千ディナールの袋を与え、これに豪奢な衣服を着せて、付け加えました、「明日の朝、君は私の一番美しい牝騾馬に乗って、市場《スーク》に来てくれれば、そこには私が一番の豪商たちのまん中に坐っているだろう。そして私は君が来たら、立ち上がってお迎えに出て、君に特別に慇懃《いんぎん》を尽します。君の牝騾馬の手綱をとったり、できる限りのあらゆる名誉と尊敬のしるしを表わしつつ、君の両手に接吻したりしよう。こうした私の振舞いはすぐさま君に、人々の非常な敬意を得させることでしょう。そして私はどこか大きな店を一軒君に譲ってもらい、そこに商品を満たすように配慮しておく。それから都の名士と一番の豪商たちを御紹介します。そうすれば君の商売は、アッラーのお助けを得て利を挙げ、君は伯父の娘の災厄《わざわい》の女から遠く離れて、晴れやかと安楽の極みにあることになるだろう。」マアルフは友に自分のすべての感謝を表する十分な言葉を見つけることができなくて、その衣服の裾に接吻しようと身をかがめました。けれども気前のよいアリは急いでそれを遮って、マアルフの両眼の間に接吻し、そして眠る時刻まで、自分たちの子供であった昔について、四方山《よもやま》の話しをしつづけたのでした。
さて翌日、マアルフは豪奢な服装をして、いかにも異国の金持の商人らしい様子を見せ、美々しい馬具をつけた連銭葦毛《れんぜんあしげ》の見事な牝騾馬に乗って、言われた時刻に市場《スーク》に出向きました。そして彼とその友アリとの間には、示し合わせておいたとおりの場面がそのまま行なわれました。全部の商人は、わけても大商人アリがその手に接吻し、騾馬から下りるのに手を貸したりするのを見、そして友人アリが新しい店の正面にあらかじめ用意しておいてくれた座席に、マアルフ自身が重々しく悠々と坐ったのを見たときには、この新来者に対する感嘆と尊敬の念から、淵に沈められてしまいました。そして一同声を低めてアリに聞きに来て、言うのでした、「きっとあなたの御友人はさぞ大商人でいらっしゃいましょうね。」するとアリは哀れみの色を浮べて一同を眺めて、答えました、「やあアッラー、大商人かと仰しゃるのかな。だが、これは世界一流の紳商のお一人で、全世界に、火事でも焼き尽せないほどの店舗と倉庫をお持ちじゃ。この私自身ごときは、この方に比べれば最下級の行商人にすぎない。その協力者と代理人と支店は、エジプトとヤマーンからインドとシナの辺境まで、地上のあらゆる町々に数知れない。いや、あんた方はやがてもっと御昵懇《ごじつこん》に願うことができるようになった暁には、いったいどんなお方かおわかりになるでしょうよ。」
この上なくまぎれもない真実といった口調と、この上なく確信に満ちた口ぶりで言われたこの断言にもとづいて、商人たちはマアルフをこれはもう大した人物だという考えを抱きました。そして皆はわれ先にやって来て、挨拶《サラーム》と慶賀と歓迎の辞を呈そうとしました。誰しも次々に彼を食事に招く光栄にあずかろうとしましたが、彼のほうは愛想のよい様子で微笑して、何しろ自分はすでに友人アリの客の身として、お受けしかねると謝絶するのでした。そして商人の会頭も彼を訪ねて来ましたが、これは最初に訪問をするのは新来者ということになっている習慣に、全く反することでした。会頭は急いで彼にいろいろの商品と、この国の様々の物産の相場を詳しく知らせました。それから、自分は悦んでお役に立って、遠国からお持ちになった商品の売りさばきに尽力してさしあげたいという気持を示すために、彼に申しました、「おお、わが御主人様、あなたは定めし黄色いラシャの荷をたくさんお持ちでいらっしゃいましょう。それというのは、当地では黄色いラシャが特に好まれておりますので。」するとマアルフは、躊躇なく答えました、「黄色いラシャかね。ええ、うんとありますよ。」会頭は尋ねました、「羚羊《かもしか》の血色(9)の赤ラシャは、たくさんお持ちですか。」マアルフは自信を持って答えました、「ははあ、羚羊の血色の赤ラシャならば、十分御満足が行きましょう。それというのは、私の荷には極上のものがはいっていますからね。」そしてこれと似たすべての問に対して、マアルフはいつも答えるのでした、「うんとありますよ、」と。すると会頭はおずおず尋ねました、「おおわが御主人様、ひとつ私どもにいくつか見本を見せていただけましょうか。」マアルフはこの難題にためらう色もなく、これに気持よく応じて答えました、「ようござんす、ようござんすとも。私の隊商《キヤラヴアン》が着き次第、早速お眼にかけましょう。」そして会頭はじめ集ってきた商人たちに、自分はあらゆる色とあらゆる種類の商品の荷を満載した駱駝千頭の大|隊商《キヤラヴアン》が、数日後に来るのを待っているところだと、説明いたしました。すると集った人々は大へんびっくりして、この途方もない隊商《キヤラヴアン》が近く着くという話に驚嘆しました。
しかし一同の感嘆があらゆる言葉も言い表わせないほど、ぎりぎりの極に達したのは、一同が次の事実を目撃したときのことです。実際に、一同こうして隊商《キヤラヴアン》の来る話に驚嘆の眼を見張って、語り合っているところに、一人の乞食が一同のいる場所に近づいてきて、順繰りにめいめいに手を延べました。それで或る人たちは、半ドラクムの銀貨一枚、他の人たちは小銭一枚を与えましたが、大概の人は何もやらずに、ただ「アッラーがお助け下さるように、」と答えるだけにしていました。マアルフは、乞食が自分のほうに来ると、ディナール金貨をひと握り鷲掴みにして、まるで銅貨一枚を与えるみたいに無造作に、乞食の手に入れてやりました。すると商人たちはすっかり感じ入って、重々しい沈黙が一座を支配し、一同の精神は唖然《あぜん》とし、判断力は眼をくらまされてしまったほどでした。そして一同思いました、「やあアッラー、こんなに気前がいい様子を見せるとは、この人はえらい金持にちがいない。」このようにしてマアルフは、刻々に非常な信用を博し、富裕と寛仁の大した評判を得たのでございます。
そして彼の鷹揚と立派な態度とは都の王のお耳にまで達し、王様はすぐに大臣《ワジール》を召し出して、仰せになりました、「おお大臣《ワジール》よ、当地に莫大な財宝を満載した隊商《キヤラヴアン》が到着することになっていて、それは驚くべき異国の大商人の所有するものの由じゃ。ところで、市場《スーク》の商人ども、すでに金持すぎるあの詐欺師《ぺてんし》どもが、この隊商《キヤラヴアン》より利を収めることは、余の好まぬところ。さればこれより利益を得るは、余と汝の御主人たるわが妃と、わが娘の姫であるほうがはるかにましじゃ。」大臣《ワジール》は慎重と明敏溢れる人でしたが、王様にお答えしました、「仔細ござりませぬ。されど、おお当代の王よ、必要な処置をとるには、その隊商《キヤラヴアン》の到着を待つほうが好ましかろうとは、お考え遊ばされませぬか。」すると王は怒って、言われました、「汝は狂人か。いったいいつから、犬どもが食い荒してしまった後で、肉屋で肉を求めるなどということに相成ったか。むしろ汝は、急いでその金持の外国商人をわが面前に召し出し、この件につき余と談合するようにいたせ。」それで大臣《ワジール》は鼻にもかかわらず、王様の命令を実行しないわけにゆきませんでした。
そしてマアルフは王様の御面前に着くと、最敬礼をして、御手《おんて》の間の床に接吻し、上手な御挨拶を言上しました。王様はその巧みな言葉と品のよい挙措《きよそ》に驚き、これにその事業と財産についていろいろお尋ねになりました。マアルフは微笑しながら、ただこうお答えするだけでした、「われらの御主君、王様におかれましては、隊商《キヤラヴアン》到着の節にお判りになり、御満足遊ばされることでござりましょう。」王様は他の人々全部と共に大そう感じ入りなされて、そしてマアルフの知識程度がどのくらいであるかおためしになりたいと思って、少なくとも一千ディナールはする、すばらしい大きさと輝きの真珠一|顆《か》を彼にお示しになって、申されました、「してその方の隊商《キヤラヴアン》の荷には、この種の真珠はあるかな。」マアルフはその真珠を取りあげ、いかにも軽蔑した様子でこれを眺めてから、価値のない品のようにこれを床に投げ出し、力一杯|踵《かかと》で踏みつけて、平然とこれを砕いてしまいました。王様は呆気にとられて、叫びました、「何をするのか、おお男よ。その方は一千ディナールの真珠を砕いてしまったぞ。」するとマアルフは、微笑を浮べて答えました、「さよう、いかにもこれはそのくらいの値段は致しましたでしょう。しかし私は隊商《キヤラヴアン》の荷の中に、これよりはずっとずっと大きく、美しい真珠を詰めた袋を、いくつもいくつも持っておりまする。」
王様の驚きと貪欲はこの言葉にいっそう募って、お考えになりました、「たしかに余はこの驚くべき男をば、わが娘の夫に迎えなければならぬわい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六十三夜になると[#「けれども第九百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで王様はマアルフのほうに向き直って、仰せられました、「おお、きわめて敬すべく、きわめて高貴の貴族《アミール》よ、貴殿のわが国御到着に際し、余よりの贈物として、わが一人娘、貴殿の端女《はしため》を御受納下さらぬか。余はこれを婚姻の絆《きずな》によって貴殿に妻合《めあ》わせ、そしてわが亡き後は、貴殿に王国を支配してもらおう。」マアルフは慎しみ深く控え目な態度を持していましたが、思慮あふれる調子で答えました、「王様の御申し出は、御手の間にある奴隷に名誉を授けたまいまする。されど、おおわが御領主《きみ》よ、婚姻の挙行については、私の大|隊商《キヤラヴアン》到着まで待つに如《し》かぬとは、思し召されませぬか。それと申すは、御息女のごとき姫君の結納金《マハル》としては、私方より莫大な出費を必要と致しまするが、私ただ今はなしかねる状態にございます。事実、姫君の結納金と致しましては、私より少なくとも一千ディナール入りの財布二十万個を、お父上たるわが君に、呈上致さねばなりますまい。その上、婚礼の夜には、貧者と乞食たちに一千ディナールの財布一千個を、また祝いの品を持参する者に別に財布一千個、祝宴準備のために財布一千個を、分配しなければなりますまい。更に、後宮《ハーレム》の御婦人一人一人に、大粒真珠百|顆《か》の首飾りをひとつずつ進呈し、わが君と伯母君女王様にも、数え切れぬ多量の宝玉と豪奢な品々をば捧呈しなければなりません。ところでこれら一切は、おお当代の王よ、私の隊商《キヤラヴアン》到着後でなければ、程よくなされかねるのでございます。」
王様は、この大変な贈物を並べ立てられて、今までよりももっと心を奪われ、マアルフの控え目と奥床しい気持と慎しみに、魂の奥底まで感じ入って、叫びなさいました、「いや、アッラーにかけて。婚儀の費用全額はただ余一人が負担致そう。娘の結納金のほうは、隊商《キヤラヴアン》到着の節余に支払うがよい。ともかくも余は絶対に、貴殿が能うかぎり早くわが娘と結婚せらるることを望む。貴殿は必要とする金子全部を国庫より引き出して差支えない。これについては心配は一切無用じゃ。余の物全部は貴殿の物であるからな。」
そして即刻即座に、王様は大臣《ワジール》を呼んで申しつけました「おお大臣《ワジール》よ、|イスラムの大長《シヤイクー・リスラーム》老(10)にすぐに話しに来てもらいたいと伝えよ。余は今日のうちに、|マアルフ公《アミール・マアルフ》とわが娘との間の結婚契約を取りきめたいからな。」大臣《ワジール》はこの王のお言葉を聞くと、大そう困った様子で頭を垂れました。そして王様がじりじりなさると、彼はおそばに近よって、声を低めて申し上げました、「おお当代の王よ、あの男はどうも私の気に入りません。あの様子はどうしても胡散《うさん》臭うございます。御《おん》生命《いのち》にかけて、王女様とあの男の御結婚の儀は、せめてわれわれがあの男の隊商《キヤラヴアン》について何か確報を得るまで、お待ち下さいませ。何せ今までのところでは、ただ言葉に言葉を重ねているのみでござりますれば。ところで、王女様のごとき姫君と申せば、おお王様、秤《はかり》にかければ、あの素姓知れぬ男が手中に持っておるものよりも、はるかに値打ちがございます。」
王様はこの言葉を聞くと、お顔の前で世界が暗くなるのを見られ、大臣《ワジール》を怒鳴りつけなさいました、「おお、汝の主君を嫌う憎むべき裏切者め、汝が余にこの結婚を思い止まらせようと努めて、このように申すのは、もっぱら汝自身がわが娘と結婚したい所存のために外ならぬ。しかしそのようなことは汝の鼻先より遠いぞよ。されば、かの魂繊細にして、挙措高雅なる天晴れの富者について、わが心中に不安と疑惑を投ぜんと欲するをやめよ。然らずんば、汝の不実なる言説を憤って、余は汝の縦を横にめりこませるであろうぞ。」そして大へん激昂して、付け加えなさいました、「それとも或いは汝は、わが娘が年老い、求婚者らに悦ばれずして、わが負担となるを望むのか。寛仁にして控え目かつ好ましく、あらゆる点よりして申し分なきこの男のごとき婿を、余は果していつか見出すことができようか。この男ならば一点の疑いなく、わが娘を愛して、すばらしい進物を呈し、われら一同を、最年長より最年少に至るまで富ましめるであろう。いざ、歩け。そして|イスラムの大長老《シヤイクー・リスラーム》を呼んでまいれ。」そこで大臣《ワジール》は、鼻を足まで伸ばして、|イスラムの大長老《シヤイクー・リスラーム》を呼びに出かけると、大長老《シヤイクー》はすぐに参殿して王の御前にまかり出ました。そしてその場で直ちに、結婚契約書を作製しました。
王命によって全市は飾りつけられ、灯を点《とも》されました。そして到る処、祝祭と祝宴です。靴直しのマアルフ、かつては黒い死と赤い死を見て、あらゆる災厄の味を嘗《な》めたあの憐れな男は、宮殿の中庭の玉座の上に坐りました。すると踊り手や闘技士や、楽器奏者や太鼓の鼓手や、曲芸師や道化師や、陽気な手品師などの一群が、彼を面白がらせ、また王様はじめ王宮の大官を面白がらせるため、彼の前に出て来ました。そして一同秘術を尽して腕を見せました。マアルフは例の大臣《ワジール》自身に命じて、黄金の詰まった袋をいくつもいくつも持って来させ、この太鼓を打ち、踊り、騒ぎ立てる民衆全部に、ディナール金貨を掴んでは投げ与えはじめました。大臣《ワジール》はくやしさにはちきれそうになりながらも、片時も休む暇がありません。それほどひっきりなしに、新しい金貨の袋を持って来なければならなかったのでした。
こうした遊楽と祝祭と祝宴は三日三晩つづき、さて四日目の夕べはいよいよ婚礼と床入りの日でした。花嫁の行列は前代未聞の華やかなものでした。王様がそのようにお望みだったからです。貴婦人はめいめい、花嫁が通ると姫君に贈り物の限りを尽し、侍女たちは次から次へそれを取り集めました。こうして花嫁は婚姻の間《ま》に案内されましたが、一方マアルフは心中ひそかに思っていたのでした、「こん畜生、こん畜生、こん畜生、こん畜生め。なるようになるだろうさ。俺の知ったことじゃない。天命の致すところだ。避けられぬことの前では逃げられっこない。人各々自分の天命を首に結いつけて持っているのだ。こうしたすべてはお前のために運勢の書に書かれていたのだ、おお古靴修繕屋よ、おお女房に殴られた野郎、おおマアルフ、おお猿よ。」
そこで、皆が引き取って、今は絹の蚊帳《かや》の下でゆっくりと横になっている自分の妻の若い姫君の前に、マアルフはただ独りきりになると、彼は床《ゆか》に坐りこんで、両手を打ち合わせながら、激しい絶望に襲われた様子でした。そしてどうもあまり身動きする模様もなく、じっとこうした姿勢でいると、若い姫は蚊帳から頭を出して……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六十四夜になると[#「けれども第九百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……若い姫は蚊帳から頭を出して、マアルフに言いました、「おお、私の立派なお殿様、どうしてそんな風に悲しみに沈んで、私から離れていらっしゃるの。」マアルフは溜息をつきながら、努めて答えました、「全能のアッラーの外には、頼みも頼《たよ》りもない。」姫は心配して、尋ねました、「どうしてそんなにお嘆きになるの、おおわが御主人様。私が醜いとか片輪だとお思いなさるの。それとも何か別に悲しみの種がおありになるの。あなたの上とあなたのまわりにアッラーの御名《みな》あれかし。どうぞお話しになって、何もお隠しにならないで下さい、やあ殿様《シデイ》。」マアルフはまた新たな溜息をつきながら、答えました、「こうしたすべては、おわかりかね、あなたのお父上が悪いのですよ。」姫は聞きました、「それはどういうこと? お父様はどういう悪いことをなさったの。」彼は言いました、「なんだって。では、私があなたに対して、また宮中の婦人たちに対して、卑しい吝嗇振《けちぶ》りで吝嗇《けち》な態度を示したことを、あなたはお気づきでなかったのですか。ああ、お父上は全く落度がありなさった、私の大|隊商《キヤラヴアン》が着くのを待って、私が結婚するのを、お許しにならなかったとは。そうすれば、私はあなたに、鳩の卵ほども大きな真珠玉を五、六列連ねた首飾りいくつかと、どこの王女様方のところにも類のない美しい衣裳数着と、あなたの御身分にあまり不似合いではない宝玉いくつかを、進上したものを。それに、御両親とお客様方にも、もっと無愛想でない手をお見せできたものを。ところがこのとおり、お父上は事をあまり早くしようとのお考えで私をひどく困らせ、この点、私に対しては、まだ青いうちに草を焼く人のする行ないと同じような行ないを、なさったわけです。」けれども若い姫は彼に言いました、「あなたのお生命《いのち》にかけて、そんな些細な事柄については、そのように御心配なさらず、これ以上お悲しみなさいますな。それよりか立ち上がって、お召物を脱ぎ棄て、早く私のそばに来て下さいな、一緒にたんと楽しみましょうよ。そんな引出物とか、その他そういった事の思いなど、残らずうっちゃって頂戴。私たちが今夜しなければならないこととは、まるで関係のないことなんですもの。隊商《キヤラヴアン》とか財宝なんか、私どうでもいいの。私のあなたにしていただきたいのは、おお屈強な殿方よ、そんなことよりかずっと簡単で、ずっと面白いことよ。さあ、しっかり、あなたの腰を頑丈にして戦って頂戴。」マアルフは答えました、「合点だ、すぐ行く、すぐ行く。」
こう言いながら、彼はいそいで着物を脱ぎ、刺し手として、蚊帳の下のお姫様のほうに進み寄りました。そしてこう考えながら、この優しい乙女のそばに横になりました、「これこそマアルフ、俺自身なんだな、これこそカイロの紅街の元の靴修繕屋なんだな。いったい俺は昔どこにいて、今どこにいるのか。」そこで、脚と腕、股と手の乱闘が行なわれました。格闘は熱烈になりました。マアルフは若い姫の両膝の上に手をやると、姫はすぐに身を起して、彼の膝に乗りました。そして唇は唇の言葉で相手のわが姉妹に話し、いよいよ子供に自分の父親も母親も忘れさせてしまう時刻が参りました。彼は力をこめて姫をぴったり抱き締め、彼女の蜜全部をしぼり出し、ひと口ひと口|直接《じか》に吸いとるようにしました。そして自分の手を女の左の腋の下に滑りこませると、すぐに彼の生命の筋肉は固くなって、彼女の生命の局部も張り切りました。彼は左手を女の右の鼠蹊部《そけいぶ》の襞《ひだ》にあてると、すぐに両人の弓のあらゆる弦が唸り出しました。そこで彼はその手を相手の両方の乳房の間に突きあてると、突然どうしてやらわからないが、その衝撃は両股の間に反響しました。彼はすぐに姫君の両脚を自分の体のまわりにめぐらし、二つの方向に迷っている元気者にしっかり狙いをつけさせて、叫びました、「助けてくれ、おお接吻好きどもの父よ。」そして猶予せずに、穿《うが》つべきものを穿ち、そして火口《ほくち》に火をつけ、針の孔に糸を通し、あらゆる顫音《トリル》を調子よく響かせながら、ぱちぱちはねる火の上に鰻《うなぎ》を滑りこませましたが、一方その眼は「輝け、」と言い、その舌は「囀《さえず》れ、」と言い、歯は「噛《かじ》れ、」と言い、右手は「くじれ、」と言い、左手は「やっつけろ、」と言い、唇は「焙《あぶ》れ、」と言い、撞木錐《しゆもくぎり》は「お前の棒の上でのたうちまわれ、おお優しい若い娘よ、おお貝殻の中の真珠よ。そして気持よがってぱちぱちはぜて、跳ねまわれ、おお、お前の家族の秘蔵娘よ、」と言うのでした。そしてこう言っているうち、城砦は四隅が破れ、かくて壮烈な冒険が展開されました、打傷はないけれど大きな裂傷を負い、かすり傷はないけれど咬《か》み傷がつき、亀裂《ひび》は入らなかったけれど、裂け目と押し広げた跡と引っ掻き傷を残し、不平の声も、痛い怪我《けが》も、過労もなかったけれど、大首の乗り手と体つき美しい駒との、骨の節々《ふしぶし》のきしる音を発して。かくて万事軽快に、またすばらしい捗《はかど》りで運んだのでございました。さても、未来の子孫のために、若い娘をしてあらゆる姿態をとるに頃合いに熟せしめ、若い男にその逞しい本性を授けたまう被造物の主《あるじ》に称えあれ。
そこで、抱擁と吸い合いと乳飲み合いの歓楽に一夜をことごとく過ごした後、マアルフはやっと起き上がる決心をし、若い姫の満足した溜息と未練に送られて、浴場《ハンマーム》に行くことにしました。風呂を浴び、美々しい衣服を着てから、彼は政務所《デイワーン》に出向いて、貴族大官の挨拶《サラーム》と祝辞を受けるため、妻の父親である自分の伯父、王様の右側に坐りました。そして自身の専断で、敵の大臣《ワジール》を呼びにやり、これに命じて、満座の人々に誉れの衣を分配し、貴族《アミール》及び貴族の夫人、宮中の大官及びその夫人、衛兵及びその妻、大小老若の宦官に、数知れぬ祝儀をとらせるよう申しつけました。その上、ディナール金貨の袋をいくつも持ってこさせ、黄金を鷲掴みに取り出しては、欲しい者全部に配りはじめました。こうして、皆の者一同彼を祝福し、彼を慕い、その繁栄と長寿を祈ったのでした。かくて二十日の日がこうして過ぎ、これをマアルフは、昼は、数えきれない祝儀をはずみ、夜は、妻である王女と心ゆくばかりのびやかに過ごすことに用いました。王女はもうすっかり彼を熱愛するようになったのでした。
さて、この二十日がたつと、その間マアルフの隊商《キヤラヴアン》の消息は一向ございませんでしたが、マアルフの濫費と狂気の沙汰はとどまるところを知らず、ついに或る朝、宝蔵はすっかり使い果され、大臣《ワジール》が金貨袋の戸棚を開いてみると、それは全く空《から》になり、もう取り出すものが何ひとつないことを認めたのでした。そこで、困惑の極に達し、抑えた憤怒で心中一杯になり、大臣《ワジール》は王の御手の間に伺候して、申し上げました、「アッラーはわれらより凶報を遠ざけたまいますように、おお王様。けれども、私が黙っておりまして、わが君の正当なるお咎めを蒙らぬため、申し上げなければなりませぬが、国庫は完全に底をつき、婿君マアルフ公の驚くべき隊商《キヤラヴアン》は、いまだ到着してその空になった袋を満たすに到っておりませぬ。」王様はこの言葉にいささか心配になられて、仰しゃいました、「そうじゃのう、アッラーにかけて、いかにもその隊商《キヤラヴアン》はいささか遅れておる。しかしいずれ到着するであろう、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》。」大臣《ワジール》は微笑して、申しました、「アッラーはわが君に恩寵の限りを尽したまい、おお御主君よ、聖寿を長からしめたまわんことを。さりながら、マアルフ公のわが国御到着以来、われらは最悪の災厄《わざわい》に陥ってしまいました。して事態の現状におきましては、私にはわれらにとっての出口の扉が見当りませぬ。なぜと申すに、一方では宝蔵は空となり、他方では、王女様はあの異国人、あの素姓知れぬ男の妻となってしまいなされた。アッラーはわれらをば悪魔、呪われし者、石打たれし者より護りたまわんことを。われらの状態はまことに面白からぬ状態でございます。」王様はもう不安になり、我慢できなくなりはじめて、答えなさいました、「汝の言葉は余を悩まし、わが理性を重圧するぞ。そのように弁舌を弄する代りに、この事態に改むる手段を余に示し、わけて、わが婿マアルフ公は詐欺師《さぎし》であるとか、嘘つきであるとか、余に実証するほうが、はるかにまさるぞよ。」大臣《ワジール》は答えました、「そのとおりでございまする、おお王様、それこそ妙案。処罰する前に、まず実証しなければなりませぬ。ところで、真相に到達するためには、姫君王女様にもまして、われらに貴重な助力を寄せることのできる方は、誰もおりません。なぜならば、およそ妻以上に、夫の秘密に近くいる者はござりませぬから。されば王女様をここにお呼び遊ばして、間を隔てる帳《とばり》の蔭から私がお訊ね申し、かくしてわれらの関心を持つ件について、消息を承わることができるようにしていただきたいものです。」王様はお答えになりました、「差支えない。してわが首《こうべ》の生命にかけて、万一わが婿がわれらを欺いたことが実証されるに到らば、彼をば最悪の死をもって死なしめ、最も黒い最期を味わわせてやるといたそう。」
そこでさっそく、王様は王女に会議室にお出ましありたいと願わせました。そして王女と大臣《ワジール》の間に大きな帳《とばり》を垂れさせ、その後ろに王女は坐りました。こうしたすべてはマアルフの留守の間に、伝えさせ、手配され、実行されたのでございました。
そこで大臣《ワジール》は自分の質問をよく思案し、案を立てた上で、王様に用意ができた旨申し上げました。一方、姫君は帳《とばり》の蔭から、父上に申しました、「出てまいりました、おお、お父様。私にどんな御用でしょうか。」王様は答えました、「大臣《ワジール》と話してもらいたい。」すると姫君は大臣《ワジール》に聞きました、「では大臣《ワジール》よ、どういう用ですか。」大臣《ワジール》は言いました、「おおわが御主人様、背の君マアルフ公の御出費と濫費のお蔭で、国庫はすっかり空《から》になったことは、御承知のはず。その上、あのように度々私どもに到着を予告なされた大へんな隊商《キヤラヴアン》も、その後とんと消息がございません。されば、父王様もこの事態を心配遊ばされ、ただ姫君さまだけがこの点について明らかにして下さることができよう、御夫君のことをどうお思いになるか、御一緒にお過ごしになったこの二十夜の間に、どういう印象をお心に感じなすったか、これに対してどのような疑念を抱きなすったかを承わらせていただけば、わかるであろうと、御判断なされた次第にござります。」
この大臣《ワジール》の言葉に、姫君は帳《とばり》の蔭から答えました、「アッラーは私の伯父の御子、マアルフ公に恩寵の限りを尽したまいますように。私があの方をどう思うかと言うのですか。けれど、私の生命にかけて、ただよいことずくめです。甘さと味わいと嬉しさの点で、あの方に比べることのできるような砂糖煮《ジヤム》の筋は、地上にございません。あの方の妻になって以来、私はふとって美しくなり、誰でも私の顔色のよいのにびっくりして、私が通ってゆくと、『アッラーは凶眼から姫を守って、羨《うらや》む人や妬《ねた》む人からお護り下さいますように、』と申しますよ。まったく、私の伯父の御子マアルフ様は、歓楽の捏粉《ねりこ》ですし、あの方は私の悦びとなり、私はあの方の悦びとなっています。どうかアッラーは、私たちをお互いのものとしておいて下さいますように。」
王様はこれを聞かれると、鼻を長くしている大臣《ワジール》のほうを向いて、おっしゃいました、「どうじゃ、わかったろう。余は何と言ったか。わが婿マアルフは立派な人間じゃ。その方はあらぬ嫌疑をかけて、串刺しの刑に値いするぞよ。」けれども大臣《ワジール》は帳《とばり》のほうに向き直って、尋ねました、「して隊商《キヤラヴアン》は、おおわが御主人様、いまだに着かぬ隊商《キヤラヴアン》は?」姫は答えました、「それが私にどういうかかわりがあるのですか。それが着こうが着くまいが、私の幸福に増減がありましょうか。」大臣《ワジール》は言いました、「では今後、どなたがあなた様を養うでしょう、宝庫の戸棚が空になった今となっては。そしてどなたがマアルフ公の費用を弁じましょうか。」姫は答えました、「アッラーは寛仁にましまし、その礼拝者をお見棄てなさりませぬ。」そこで王様は大臣《ワジール》におっしゃいました、「娘の言い分はもっともじゃ。黙るがよい。」次に王様は姫君に言いなさいました、「けれどもな、おお父親の最愛の子よ、努めて伯父の息子マアルフ公から、大体何日ごろ隊商《キヤラヴアン》が着くものと考えておられるか、聞き出しなさい。わしがそれを知りたいのは、ただわれらの出費を加減し、われらの戸棚の空虚を埋められるだけの新たな賦税を徴集する必要があるや否やを、はっきりさせんがためにすぎぬ。」すると姫君は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。子供たちは両親に服従し尊敬いたさなければなりません。今夜早々、私はマアルフ公にお尋ねして、お答えになったことを御報告申しましょう。」
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[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで、日暮れ方、姫君はいつものように、マアルフのかたわらで嬉戯し、マアルフは姫のかたわらで嬉戯したおり、姫は彼に尋ねるためその腋の下に自分の手を入れて、何か頼んで手に入れたいものがある女は誰しもするように、蜜よりも甘く、甘えて、ちやほやし、優しく、愛撫しながら、これに言いました、「おお私の眼の光、おお私の肝《きも》の果実、おお私の心臓の核と私の魂の生命《いのち》と歓びよ、あなたの愛の炎《ほむら》は私の胸をすっかり燃え立たせてしまいましたわ。私はもうあなたのためならばいつでも一命を犠牲にしますし、あなたの運命がどんなものであろうと、運命を共にする覚悟ですわ。けれども、あなたの上の私の生命にかけて、あなたの伯父の娘には、何ひとつ隠し立てしないで頂戴。だから、お願いですから、どういう動機《いわれ》で、あの父が大臣《ワジール》といつも話している大|隊商《キヤラヴアン》がいまだに着かないのか教えて下さいな。それは私の心の一番奥底にしまっておきますからね。もしあなたがこのことについて何かお困りのこととか、危ぶんでいらっしゃることがおありなら、どうぞありていに、私に打明けて下さいまし。私があなたからすべての煩いを遠ざける道を見つけるよう、骨折ってみますから。」こう話してから、姫は夫に接吻して、胸にしっかり抱き締め、夫の両腕の中に身を溶け入らせました。するとマアルフは突然けたたましく笑い出して、答えました、「おお、いとしい女《ひと》よ、そんな簡単なことを訊ねるのに、どうしてそんなに廻りくどくいろいろするのかね。私は至極あっさりと、あなたに真相を話し、何ひとつ隠し立てしないつもりでいるのだから。」
そして彼は唾《つばき》を呑むためちょっと口をつぐんでから、言葉を続けました、「実はこうなのだよ、おお、いとしい女《ひと》よ、私は商人でもなければ、隊商《キヤラヴアン》の主人でもなく、どんな富とかそのほかそれに類する災厄《わざわい》の持ち主でもない。それというのは、私は自分の国では、貧しい靴直しの修繕屋にすぎなかったので、『ほかほかの牛の糞のファトゥマ』という名の悪女を妻としていた。こいつは、私の心臓の上の膏薬、眼の上の黒い災禍であった。そして、この女と私との間に、これこれしかじかのことが起ったのでした。」そして彼は、姫君にカイロの自分の妻との物語全部と、蜂蜜をかけた乱れ髪の糸素麺《クナフア》事件のためわが身に降りかかったことを、話しはじめました。そして何ごとも隠さず、その時から難船と幼な友達、気前のよい商人アリとの出会いに至るまで、身に起ったすべてを細大洩らさず知らせました。けれども、それを繰り返しても何の役にも立ちません。
姫君はこのマアルフの身の上話を聞くと、尻餅をついてひっくり返るほど笑い出しました。マアルフも同じように笑い出して、言いました、「天命の授与者はアッラーにまします。そしてあなたは、私の運勢に書き記されていたのです、おおわが御主人様。」すると姫君は彼に言いました、「いかにも、おおマアルフ様、あなたは計略にかけては名人で、手際よさ、利口さ、洗練、仕合せの点で、あなたに比べられる人は誰もいませんわ。けれども父上や、わけてもあなたの敵の大臣《ワジール》などは、もしもあなたの身の上の真相と隊商《キヤラヴアン》の作り話を知るようなことになったら、何と言うでしょうか。まちがいなく、あの人たちはあなたを殺させてしまうでしょうが、そうなったら私も、苦しみのあまり、あなたのおそばで死んでしまいます。ですからさしあたり、あなたはこの御殿から出て行って、どこか遠くの土地に引っこみ、私が事をうまくまとめ、説明できないことを説明する手段《てだて》を見つけるまで、しばらく待ちなさるほうがよろしゅうございます。」そして付け加えました、「では私の手許にあるこの五万ディナールを持って、馬に乗り、どこか人目につかない場所に行ってお暮しなさいませ。私にだけは隠れ家を知らせて、毎日私から飛脚を遣り、私の消息をお伝えし、あなたの消息を持ち帰らせることができるようにして下さい。これが、おおいとしい方よ、今の場合、私たちのとるべき最上の策でございます。」するとマアルフは答えました、「万事あなたにおまかせします、おおわが御主人様。そしてあなたの御庇護の下に身を置きます。」すると姫は彼を抱き寄せて、夜の半ばまで彼といつものことをしました。
真夜中になると、姫は彼に起きるように言って、これに白人奴隷《ママルーク》の着物を着せ、父王の厩舎《うまや》で最上の駿馬を与えました。そしてマアルフは、王の白人奴隷《ママルーク》のような姿で町を出て、自分の道に立ち去りました。さしあたり、彼の身に起ったところは、以上のようでございます。けれども王女と、王様と、大臣《ワジール》と、姿なき隊商《キヤラヴアン》につきましては、次のようでございます。
翌日朝早く、王様は会議室にお出ましになり、かたわらに大臣《ワジール》を置いてお坐りになりました。そして王女に聞いておくように申しつけたことを直接問い合わせるため、王女を呼ばせました。前日のように、王女は男子と隔てる帳《とばり》の蔭に出てまいって、尋ねました、「どういう御用でございますか、おおお父様。」父王は尋ねました、「どうじゃ、娘よ、どういうことがわかったかな、して、われわれにどういうことを告げてくれられるかね。」姫は答えました、「私のお伝えしなければならないことですか、おおお父様。ああ、アッラーは悪魔を、石打たれし者を、懲らしめたまいますように。そしてそれと同時に、どうか悪しざまに言う人々を呪いたまい、私の顔と、夫マアルフ公の顔を黒くしようと思った父上の大臣《ワジール》の瀝青《チヤン》の顔を、黒くしたまいますように。」王様は尋ねました、「それはどうしてか。また、なぜなのか。」姫は言いました、「アッラーにかけて、お父様がこんな不吉な男を御信任遊ばすことなど、どうしてできるのでしょうか、お心のうちに私の伯父のお子の信用を失わせようと、あらゆる手段を尽した男なのに。」そして憤りに息をつまらせたかのように、一瞬言葉を切らして、付け加えました、「ほんとうのところ、おおお父様、マアルフ公ほど公明正大で、心がまっすぐで、正直な人間は、地の表にいないと、御承知遊ばせ、――アッラーはあの方に恩寵の限りを尽したまいますように。父上にお別れしたあとから、次のようなことが起ったのでございます。日暮れになって、最愛の夫がちょうど私の部屋にはいってきた時のこと、そこに私の使っている宦官が、一刻も遅延を許さぬ報告があるから、私たちに話したいと願い出たのです。そこで案内させますと、手に一通の手紙を持っています。そして言うには、この手紙はただ今立派な着物を着た十人の外国の白人奴隷《ママリク》が、自分たちの御主人マアルフ様にお話し申したいと言って、渡したとのこと。そこで夫は手紙を開いて一読し、次にそれを私に渡しましたので、私も同様に一読しました。ところでその手紙こそは、あなた方がしびれをきらして待ちわびている例の大|隊商《キヤラヴアン》の頭《かしら》その人からのものです。その隊商《キヤラヴアン》の頭は、輸送隊についてゆくため、門で待っている十人と同じような若い白人奴隷《ママリク》五百人を従えているのですが、その手紙の中で、旅行中一行は運悪く、街道の追剥《おいはぎ》のベドウィン人の群に出会って、道を遮られたと申しております。それが隊商《キヤラヴアン》の到着の遅れた最初の理由です。そしてこの一群には首尾よく打ち勝ったところ、その数日後に、また別のもっと数も多く、武装もすぐれたベドウィン人の一隊に、夜襲されたとのこと。その結果、血みどろの戦闘となり、隊商《キヤラヴアン》はあいにくと五十人の白人奴隷《ママリク》が殺され、二百頭の駱駝と、高価な商品の包み四百を失ったということです。
この面白くない知らせに、私の夫は動ずる様子などさらになく、微笑を浮べながらその手紙を破り棄て、門に待っている十人の奴隷にその上詳しい説明を求めることさえしないで、私に言いました、『四百の包みと二百頭の駱駝など何だ。たかがせいぜい九十万ディナールの損失ぐらいのところさ。全くのところ、とり立てて話すまでもないことだし、わけてもあなたの心配をかけるほどのことではない、いとしい女《ひと》よ。このため生じる私たちにとってただ一つ困ったことは、残った隊商《キヤラヴアン》の到着をいそがせに行くため、私が数日間留守をしなければならないことだけです。』そしてあの方は笑いながら立ち上がって、私を胸に抱きしめ、私が別離の涙を流している間に、暇乞いをなさいました。そしてもう一度私に、心を安んじて眼を爽やかにするようにくれぐれも仰しゃりながら、降りて行かれました。私はこの私の心の核である方のお姿が消えるのを見て、中庭に臨む窓から頭を出してみると、最愛の方は、手紙を届けにきた月のように美しい十人の若い白人奴隷《ママリク》と語らっていらっしゃいました。そして馬にお乗りになって、先頭に立って宮殿を出、隊商《キヤラヴアン》の到着をいそがせにいらっしゃったのでございます。」
このように語って、若い王女は不在のために泣く人みたいに、音高く洟《はな》をかみ、急に腹立たしげになった声で付け加えました、「ところでお父様、お父様は瀝青《れきせい》の大臣《ワジール》めにそそのかされて、私にこうせよとおすすめになったけれど、万一私が不謹慎にも夫に向って、お父様にすすめられたとおり話したとしたら、どんなことになったか、仰しゃって下さいませ。そうです、どんなことになったでしょうか。夫は今後は私を軽蔑と猜疑《さいぎ》の眼でごらんになって、もはや私を愛さなくなり、全くのところ無理もなく、私をお嫌いにさえなったでしょう。こうしたすべては皆、大臣《ワジール》、あのいまいましい髯の失礼な推測と、侮辱的な嫌疑のためのことです。」こう語って、帳《とばり》の蔭で立ち上がり、荒々しい音を立て腹立たしい様子を見せて、立ち去りました。すると王様は大臣《ワジール》のほうを向いて、怒鳴りつけなさいました、「この犬の息子めが、汝は汝の過《あやま》ちによって、われらの身に起るところを見たろうが。アッラーにかけて、汝の縦を汝の横にのめりこませることをいまだに余に控えさせているのが何なのか、自からわからぬ。されどわが婿マアルフに対して、今一度あらぬ疑いをかけてみよ。汝を待つものを見るであろうぞ。」そして彼をじろりと横目で睨んで、政務所《デイワーン》を閉じてしまいなさいました。彼らのほうはこのようでございました。
けれどもマアルフのほうはどうかと申しますと次のようでございます。
姫君の父王の都であったハイターンの町を出て、数時間無人の野を旅すると、彼は非常な疲れがもう自分を困憊《こんぱい》させるのを覚えはじめました。何せ、王様方の馬に乗ることなど慣れていないし、彼の靴直しの商売は、後日彼が現在あるような颯爽《さつそう》とした騎士になるようには、少しも運命づけていませんでしたから。その上、彼は自分の事件の成行きについても、不安にならずにはいられませんでした。そして姫君に真相を言ってしまったことを、苦々しく悔みはじめました。彼は自分に言ったのでした、「今やお前は街道をほっつき歩くていたらくになりはてた、お前のバタ肌の妻の腕の中で満悦する代りに。あの妻の愛撫で、カイロの災厄《わざわい》のほかほかの牛の糞を、お前はすっかり忘れたものだったがなあ。」
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[#地付き]けれども第九百六十六夜になると[#「けれども第九百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして、別離によって自分の心を焼かれた昔のすべての恋人たちのことを考えながら、彼は自分自身の現状に憐れを催し、愛する者の不在についての絶望の詩句を自ら誦しながら、熱い涙を流しはじめたのでした。このように呻吟し、自分の境遇に似た長い文句の詩句によって、自分の恋する者の悲嘆をぶちまけながら、日の昇った後、或る小さな村の近くに着きました。すると畑に一人の百姓《フエラーハ》が、二頭の牛に鋤を曳かせて耕しているのを見かけました。王宮と町を早く逃がれたいと急いで、旅の糧食を用意するのを忘れたため、彼は飢えと渇《かつ》えに悩まされていましたので、この百姓《フエラーハ》に近づき、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おお長老《シヤイクー》よ、」と言いながら、挨拶《サラーム》をしました。百姓《フエラーハ》は挨拶《サラーム》を返して、言いました、「して御身の上にもアッラーの平安と御慈悲とその祝福あれ。あなたはさだめし、おおわが御主人様、帝王《スルターン》の白人奴隷《ママリク》たちの間の白人奴隷《ママルーク》でいらっしゃいましょう。」マアルフは答えました、「いかにも。」百姓《フエラーハ》は言いました、「ようこそいらっしゃいました、おお乳の顔よ、どうか私のところにお泊りになって、私の持てなしをお受け下さいまし。」マアルフは相手が寛仁な男であることをすぐに見てとって、近所にある貧しい住居を一瞥してみると、自分に食べさせたり飲ませたりできるものなど、何ひとつないことがはっきりわかりました。そこで百姓《フエラーハ》に言いました、「おおわが兄弟よ、お宅には私のようにひもじがっている客に出してくれることのできそうなものは、とんと見受けられないが。もし私があなたのお招きを受けたら、あなたはいったいどうなさるのか。」百姓《フエラーハ》は答えました、「アッラーのお恵みは常にございます、ちゃんと授っております。まあとにかく馬からお下り下さい、おおわが御主人様、そしてアッラーのために、私にお世話をさせ、おもてなしさせて下さいませ。村はすぐそこですから、すぐに私の足の全速力でひと走り行って、お元気を回復し御満足させるに必要なものを求めて参ります。お馬の食糧の秣《まぐさ》と穀物を持ってくるのも忘れずにいたします。」マアルフは気が咎めてきて、この貧しい男の邪魔をし、仕事を途中でやめさせたくはないと思い、これに答えました、「村がすぐそこというなら、おおわが兄弟よ、あなたより私が、馬でひと走りして、市場《スーク》で私のためと馬のため必要なものすべてを買ってくるほうが、ずっと早くできるというものです。」しかし百姓《フエラーハ》は生来の寛仁な性質から、アッラーの道の異国人を手厚くもてなさずに、こうして出発させてしまう決心がつきかねて、語を継ぎました、「どこの市場《スーク》のことをおっしゃるのですか、おおわが御主人様。家はみんな牛の糞で建ててある私どもの村のような、見すぼらしい寒村には、市場《スーク》とか、または何であろうと、とにかく遠くも近くも市場《スーク》に似たようなものなどございましょうか。私どもには売買の取引などなく、めいめい自分の持っている僅かなもので暮しております。ですから、アッラーにかけ、祝福された預言者にかけて、ぜひお願いいたします、私のところにお泊りになって、私に恩を施し、私の精神と心を悦ばせて下さいませ。私はいそいで村にまいって、それよりもっといそいで戻ってまいりますから。」そこでマアルフも、この貧しい百姓《フエラーハ》を苦しめ悲しませずには申し出を断わることができないのを見て、馬から下り、乾した牛糞作りの小屋の入口に坐りに行きますと、その間にすぐに、百姓《フエラーハ》は村を指して脚を風にまかせながら、間もなく遠くに姿を消しました。
彼が糧食を携えて戻ってくるのを待ちながら、マアルフは思案して独り言を言いはじめました、「はて俺はあの貧乏人にとって、心配と迷惑の種になってしまったわい。あの男は、俺がみじめな古靴直し屋にすぎなかった頃の俺と、全くそっくりだ。だが、アッラーにかけて、俺は自分の力の及ぶかぎり、あの男にこうして仕事をやめさせてかけた損害を、せいぜい償ってやりたい。まずその手はじめに、これからすぐあの男の代りに畑を耕して、そうやって俺のために潰す時間を取り戻してやるとしよう。」
そして彼は即刻即座に立ち上がり、王の白人奴隷《ママルーク》の金ぴかの服をつけたまま、犁《すき》を手に握って、すでについている畝溝《うねみぞ》の線に沿って、二頭の牛を進めました。ところが牛に数歩歩かせたと思うと、犁《すき》べらが何か妨げるものにぶつかって、妙な音を立ててはたと止りました。そして牛は勢い余って前脚をついてしまいました。マアルフは声を張りあげて、二頭の牛を立ち上がらせ、その妨害を乗り越えるため、激しく鞭を加えました。けれども牛がひどく一所懸命首輪を押すにもかかわらず、犁は一寸ほども動かず、まるで最後の審判の日を待つみたいに、じっと地に立ち尽しています。
そこでマアルフは、これはいったいどうしたことか調べてみる決心をしました。そして土をどけてみると、犁べらはほとんど耕地とすれすれのところにある、一枚の大理石板にはめこんだ赤銅の頑丈な環の中に、切先がひっかかっていたのでありました。
マアルフは好奇心に駆られて、その大理石板を動かして、持ち揚げてみようと試みはじめました。そして多少骨折ったあげく、ついに首尾よく板を動かして、ずらしました。すると内部には、階段があって、大理石の踏段がついていて、浴場《ハンマーム》くらいの広さの、四角形の地下穴倉に通じています。マアルフは「ビスミッラーヒ(11)」の文句を唱えながら、その穴倉に下りて行くと、それは四間続きの広間から出来ているのを見ました。その第一の間《ま》は床から天井まで、ぎっしり金貨が詰まっています。第二の間は、やはり床面から天井まで、真珠と翠玉《エメラルド》と珊瑚、第三の間は風信子石《ヒヤシンス》、紅玉《ルビー》、土耳古玉《トルコだま》、金剛石、その他あらゆる色の宝石が、満ちています。ところが第四の間は、一番広く一番よく整っているのに、黒檀製の台座があって、その上にレモン大《だい》のごく小さな水晶の小箱が一つ載っているきりで、他に何もありません。
マアルフは自分の発見にひどく驚いて、この宝庫を大へん悦びました。けれども一番気になったのは、地下室の広々とした第四の間にたった一つ眼につく品である、このほんのちっぽけな水晶の小箱でした。そのため、自分の魂の懇望にさからいかね、この宝庫のあらゆるすばらしい品々よりもずっとずっと心を誘う、このつまらない小さな品のほうに、手を延ばして、それを掴んで、開けてみました。そこには紅|瑪瑙《めのう》の宝石がついた黄金の指環が一つあって、宝石には極度に細かく蟻の足に似た文字で、呪《まじな》いの文が彫られていました。マアルフは本能的な動作で、この指環を自分の指に通し、それを擦《こす》りながら指にきちんとはめました。
するとすぐに、太い声が指環の宝石のところから出てきて、言うのでした、「御用は何なりと承わります、何なりと承わります。後生ですから、これ以上私を強く擦らないで下さい。御命じ下さい、仰せに従いまする。何をお望みか、仰せ下され。壊しましょうか建てましょうか、どこかの王と女王らを殺しましょうか、それともここに連れて参りましょうか、一つの町をそっくり現われ出させましょうか、それとも一つの国全体を潰しましょうか、どこかの地方を花で埋めましょうか、それとも荒野にしてしまいましょうか、山を崩しましょうか、それとも海を干上がらせましょうか、仰せあれ、お望みあれ、お求め下され。とにかく、後生ですから、私を手荒く擦らないで下さい、おおわが御主人様。私はあなた様の奴隷でございます、魔神《ジン》の御主君、日夜の創造者のお許しによって。」マアルフは、最初、この声がどこから出て来るのかよくわからなかったけれど、ついにはそれが自分の指にはめている指環の宝石そのものから出て来ることを確かめて、紅瑪瑙の中にいる者に向って言いました、「おお、わが主《しゆ》の被造物よ、お前は何者か。」すると紅瑪瑙の声は答えました、「私はこの指環の奴隷、魔神《ジンニー》『幸福の父(12)』です。そして誰であろうと、この指環の主人となった方の命令を、私は盲目のように実行いたします。私に不可能なことは何ひとつない。なぜなら私は、魔神《ジン》と鬼神《アフアリート》と悪魔《シヤイターン》と悪鬼《アウン》と魔霊《マーリド》の七十二族の最高首長の身ですから。そしてこれらの一族おのおのは、象よりも強く、水銀よりもすばやい、一万二千名の敵し得ない壮漢から成っているのです。けれども、さっき申し上げたように、おおわが御主人様、この私は今度はこの指環に服従している身です。そして、わが威力はいかに絶大なりとも、この指環の所有者の言いなりになりまする、子供が母親の言いなりになるように。さりながら、御注意申させていただきますが、万一不幸にして、あなた様がこの宝石を一度でなく、二度続けさまに擦《こす》りなすったら、あなたは私を、この指環の上に刻まれている恐ろしい御名《みな》たちの火で、焼き尽しておしまいになるのです。そして取り返しがつかなく私を失ってしまいなさいます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六十七夜になると[#「けれども第九百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、マアルフはこれを聞くと、紅瑪瑙の鬼神《イフリート》に答えました、「おお卓越した力強い幸福の父よ、私はお前の言葉をわが記憶の最も安全な場所にしっかと留めたと承知せよ。しかしまず手はじめに、いったい誰がお前をこの紅瑪瑙のなかに封じこめ、誰がお前をこの指環の主人の力に服従させたのか、聞かせてもらえようか。」すると魔神《ジンニー》は宝石の内部から答えました、「やあ、殿《シデイ》よ、今われわれのいる場所は、現在は廃墟となった有名な都立ち並ぶ円柱のイラム(13)の建立者、アードの子シャッダード王の古代の宝蔵であることを、御承知あれ。ところで私は、王御在世の間中、シャッダード王の奴隷でした。そしてあなたが太古から指環の納められていた水晶の小箱の中に見つけて、今所有しておられるのこそ、まさに大王の指環なのでございます。」
かくてカイロの紅街《くれないまち》の元の古靴直しの男は、この指環を手に入れたお蔭で、今はネムロドの後裔と、七羽の鷲(14)の年齢を生きたあの英雄的で傲岸なシャッダード王の直系後継者となって、指環の宝石に含まれているあらたかな霊験を、時を移さず験《ため》してみたいと思いました。そこで紅瑪瑙の中にいる者に申しました、「おお指環の奴隷よ、お前はここに蔵められている宝物を、この地下室から出して、地上に運び、日の光にあてることができるかな。」すると「幸福の父」の声は答えました、「もちろんのこと、それはまさに私にとって最も易しいこと。」マアルフはこれに言いました、「そういう次第ならば、ここにある財宝霊宝を残らず外に出して、わが後に来るやも知れぬ人々に何ものも、その跡形さえ残さないようにしてもらいたい。」すると声は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして叫びました、「おい、小僧ども。」
するとすぐにマアルフは自分の前に、大へん美しい十二人の少年が、頭に大きな籠をのせて現われ出るのを見ました。そして満悦しているマアルフの両手の間の地に接吻してから、立ち上がって、またたく間に、地下室の広間三室にはいっていた宝物全部を、何度か籠で運び出して、外に移しました。そしてこの仕事を終えると、一同改めて、ますます満悦しているマアルフに敬意を表しに来て、来たときと同じように姿を消しました。
するとマアルフは満足の極に達して、紅瑪瑙の住人のほうに向いて、これに言いました、「申し分ない。けれども今度はこの宝物をソハターン王国の首府ハイターンの町に運ぶため、箱と、騾馬曳きのついた騾馬と、駱駝曳きのついた駱駝が欲しいものだ。」宝石に閉じこめられている奴隷は答えました、「畏まりました、これほど造作なく手に入るものはございません。」そして一声大きく叫ぶと、即座に、騾馬と騾馬曳き、駱駝と駱駝曳き、箱と籠、それに月のように美しい豪奢な着物を着た白人奴隷《ママリク》が、いずれも六百の数だけ、マアルフの前に現われました。そして眼をつぶって開けるに必要な時間もかからずに、彼らは前もって黄金と宝石を満たした箱と籠を、獣《けもの》の背にのせて、きちんと整列しました。そして若い白人奴隷《ママリク》はそれぞれ自分の立派な馬に乗って、隊商《キヤラヴアン》の所々に配置されました。
そのとき元の靴直しは、自分の指環の下僕《しもべ》に申しました、「おお『幸福の父』よ、今度はお前にシリア、エジプト、ギリシア、ペルシア、インド及びシナの絹織物と貴重な布地を積んだ、他の動物千頭を頼みたい。」魔神《ジンニー》は承わり畏まって答えました。そしてすぐにマアルフの前に、くだんの品物を積んだ駱駝と騾馬千頭が現われて、輸送隊の後にひとりでに、規則正しい列をつくって並びに行き、他の仲間と同様に、別の若い白人奴隷《ママリク》がそれに配置されましたが、これらの人々も、その兄弟たちと同じように美々しい着物を着て、馬に乗っておりました。マアルフは満足して、指環の住人に言いました、「さて出発に先立って、私は食事をしたい。されば絹の天幕《テント》を張って、選り抜きの料理と冷たい飲物を出してくれ。」それは直ちに実行されました。
マアルフが天幕《テント》の中にはいって、多くの皿の前に坐ると、ちょうどその時、親切な百姓《フエラーハ》が村から戻ってきたのでした。その貧しい男は、頭に油漬けのレンズ豆(15)を満たした木の丼をのせ、左の腕の下には黒いパンと玉葱、右の腕の下には馬に食わせる燕麦を満たした一升袋を抱えて、帰ってまいりました。見ると自分の家の前には驚くばかりの隊商《キヤラヴアン》と絹の天幕《テント》があり、その中にはまめまめしくかしずく奴隷たちに囲まれて、マアルフが坐っており、一方他の奴隷たちは彼の後ろに、胸の上に腕を組んで待っているのでした。彼はこの上なく心を動かされて、考えました、「これは帝王《スルターン》様が、さっき俺の会った最初の白人奴隷《ママルーク》に先導されて、俺の留守中ここに到着なされたにちがいない。家《うち》の二羽の牝鶏の首を切って、牝牛のバタで料理して差し上げることを思いつかなかったとは、何とも残念だった。」そしてもう間に合わないながら、とにかくそうしようと決心し、牝鶏の首を切って、牝牛のバタで焼いて帝王《スルターン》に献上しようと、自分の二羽の牝鶏のほうに向って行きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六十八夜になると[#「けれども第九百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところがマアルフはこの男を見つけて、呼びました。そして同時に、かしずく奴隷たちに言いつけました、「あの男をここに連れてまいれ。」一同駈け寄って、レンズ豆の丼と玉葱と黒ぱんと一升袋を持ったこの男を、天幕《テント》の中に連れて来ました。マアルフは彼に敬意を表して立ち上がり、これに接吻して言いました、「何を持って来られたのか、おお、わが貧困の兄弟よ。」貧しい百姓《フエラーハ》はこのような豪い人からそんなに親しげに扱われ、このような口調で話しかけられ、自分を「貧困の兄弟」と呼ぶのを聞いては、もうすっかり驚いてしまいました。そして独り言を言いました、「もしこのお方が貧乏人なら、ではいったい俺は何だろうか、この俺は。」そして答えました、「私はお持てなしの食事を持ってまいりました、おおわが御主人様、それからお馬の食糧も。けれどもどうか私の無知をお許し下さいませ。それというのは、もしあなた様が帝王《スルターン》様でいらっしゃることを存じておりましたら、私は敬意を表してためらわず、自分の持っている二羽の牝鶏を犠牲にして、牝牛のバタで焼いて差し上げたことでしょうから。けれども貧困は人を盲《めくら》にして、あらゆる眼力をなくなさせてしまいます。」そして彼は恥かしさと恐縮の極に達して、頭を垂れました。マアルフはこの言葉を聞くと、昔やはり同様の貧困というよりも、この貧しい百姓《フエラーハ》よりももっとひどくさえある貧困にいた頃の、元の身分を思い出して、涙を流しはじめました。その涙は鬚の毛の間をおびただしく流れて、料理の皿の中に滴り落ちました。そして彼は百姓《フエラーハ》に言いました、「おお、わが兄弟よ、お前の心を安んじなさい。私は帝王《スルターン》などではなく、ただその婿にすぎない。私たちは互いに多少の悶着があって、そのため私は王宮を去ったのだが、王は今こうしたすべての奴隷と土産物を届けて、私と仲直りしたい意を示して下さった。だから私はこれ以上仲違いしないで、これから引き返すことにする。あなたについては、わが兄弟よ、あなたは私を知りもしないのにこんなに親切に取り扱ってくれたが、あなたは干からびた地面に種を蒔《ま》いたのではないと知ってもらいたい。」
そして彼は百姓《フエラーハ》にむりに自分の右に坐らせて、言いました、「これらの皿には、御覧のようにあらゆる御馳走があるが、それにもかかわらず、私はあなたのレンズ豆の料理以外食べまいし、このパンと玉葱以外のものに手を触れないことを、アッラーにかけて誓う。」そして彼は奴隷たちに豪勢な馳走を百姓《フエラーハ》に供するように命じ、自分の分としては、丼のレンズ豆と黒パンと玉葱しか食べませんでした。そして香りが脳を満足させるこれほどたくさんの馳走と、眼を悦ばせるこれほどたくさんの色どりを眺めて、憐れな百姓《フエラーハ》がびっくり仰天するのを見て、心を晴々させ、深く楽しんだのでございました。
食事が済むと、二人は「報酬者」にその恩恵を感謝しました。そしてマアルフは立ち上がり、百姓《フエラーハ》の手をとって、天幕《テント》の外に連れ出し、隊商《キヤラヴアン》のほうに案内しました。彼はこれに商品と包みを一種類ずつと、駱駝一|番《つが》いと騾馬一番いを、むりやり選ばせ、次にこれに言いました、「これはあなたの持ち物となります、おおわが兄弟よ。その上この天幕《テント》も、中にはいっているもの全部と一緒に、あなたに置いて行きます。」そして相手の辞退するのも、感謝を述べるのも、耳を貸そうとせずに、今一度接吻して別れを告げ、再び自分の馬に乗って、隊商《キヤラヴアン》の先頭に立ち、電光よりも速い飛脚を町に先発させて、王に自分の到着を告げるように言いつけた上で、自分の道に立ち去ったのでした。
ところで、マアルフの飛脚が王宮に着いたのは、ちょうど大臣《ワジール》が王様にこう申しあげているときでした、「君の誤解をお晴らし下さりませ、おお御主君様、そして背の君の出発についての姫君、王女様のお言葉を、御信じ遊ばされますな。それと申すは、御首《おんこうべ》の御《おん》生命《いのち》にかけて、|マアルフ公《アミール・マアルフ》は君の正当な御怨《おんうら》みを恐れて、逐電者《ちくてんしや》として当地を出発したので、実際はありもしない隊商《キヤラヴアン》の到着を急がせるためなどではございません。御《おん》生命《いのち》の神聖なる日々にかけて、あの男は嘘つき、ぺてん師、詐欺師にほかなりません。」王様はすでに半ばこの言葉を信じて、お口を開いて適当な返事をしようとしているところに、飛脚がはいってきて、平伏してから、マアルフの間近い到着を告げて、言上しました、「おお当代の王よ、私は前触れ申し上げる者として御許《おんもと》に参じました。私はわが主君、権勢絶大にして寛仁なる貴族《アミール》、天晴れの英雄、君の婿君たるマアルフ公が、わが後より御到着相成るという吉報を、持参仕りました。公は隊商《キヤラヴアン》を率いておられますが、それは満載する豪華な品々の重荷のゆえに、私ほど早くは進みかねたる次第でございます。」かく告げて、その若い白人奴隷《ママルーク》は改めて王の御手《おんて》の間の床《ゆか》に接吻して、来た時のように立ち去りました。
そこで王様は幸福の極に達し、しかし大臣《ワジール》に対しては激怒なさって、そちらに向いて申されました、「アッラーは汝の顔を黒くなさり、汝の精神と同様に闇となしたまうように。そして汝の鬚を呪いたまい、おお裏切者め、やがて汝がついにわが婿の偉大と威力の程を確信させられるごとく、汝の虚言と二心を汝に確信させたまいまするように。」すると大臣《ワジール》はびっくり仰天し、もう一切考えることができなくなり、ただの一言お答えする力もなく、主君の足下に身を投げ出しました。王様はこれをそのままその場に残して、町を飾りつけ、小旗を掲げるよう、そして婿を迎えに行列を作ってゆく準備万端をととのえるよう、命令を下しに出て行きなさいました。
それが済むと、王様は王女の部屋に行って、この悦ばしい知らせを伝えました。姫君はまるっきり自分自身の作ったでたらめと思っている隊商《キヤラヴアン》を率いて、夫が到着するということを父王から聞いて、当惑と驚きの極に達しました。どう考え、どう言い、どう答えてよいやらわからず、夫はまたもや帝王《スルターン》を茶化しているのか、それともその身の上話を聞かせた夜に、自分をからかうつもりであったのか、または単に、本当に夫に愛情を覚えているかどうか見るために、自分を試みにあわせるつもりであったのか、と自問するのでした。しかし何はともあれ、事の次第が判明するまでは、自分の疑念と驚きは自分だけの胸に秘めておくほうがよいと思いました。そこで、姫は満足で晴々した顔を父上に見せるだけにとどめました。そして王様は姫のところから出て、マアルフを迎えに行く行列の先頭に立ちなさいました。
しかし皆のなかで一番驚き、一番肝をつぶしたのは、文句なしに、マアルフの幼な友達の、親切この上ない商人アリでして、彼は誰にもまして、マアルフの富についてよく知っていたのです。ですから、町の旗飾りや、祭礼の準備や、町を出て行く王様の行列などを見ると、彼は通行人たちに尋ねて、この騒ぎすべての動機を聞きました。一同答えて、「おや、御存じないのですか。王様のお婿さんのマアルフ公が、素敵な隊商《キヤラヴアン》を率いて戻ってきなさるのですよ。」マアルフの友は両手を打ち合わせて、独り言を言いました、「靴直しのこんどの新しいいんちきは、いったい何だろうかな。アッラーにかけて、そもそもいつから古靴修繕の仕事が、わが友マアルフを隊商《キヤラヴアン》の所有者や引率者にすることができたのかしらん。しかしアッラーは全能者にましまする……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六十九夜になると[#「けれども第九百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……しかしアッラーは全能者にましまする。どうかあの男の名誉を全うしてやって、人前で恥を掻かないですむようにして下さいますように。」そして彼も他の人々と同じように、そこに留まって、隊商《キヤラヴアン》の到着を待ちました。
やがて行列は町にはいって参りました。そしてマアルフは馬に乗って先頭に立っていましたが、王様よりも千倍も光り輝き、威風堂々と勝ち誇り、豚どもの胆嚢をも妬《ねた》ましさに破裂させんばかりです。その後にはすばらしい布地を着用した美しい白人奴隷《ママリク》を配した厖大な隊商《キヤラヴアン》が続いて来ます。これらすべては全く美々しく驚くべきもので、誰一人かつて何かこれに類したものを見たことも、聞いたことも、覚えがないほどです。商人アリもやはりこの並外れた有様のマアルフを見て、独り言を言いました、「まさにそうだ。あいつは妻の姫君と一緒に何かたくらんで、王様に一杯食わせてやろうとしているにちがいない。」そして彼はマアルフに近づいて、身辺の物々しい取り巻きにもかかわらず、首尾よくその傍に行き、これに言いましたが、しかし相手一人にしか聞えないようにです、「ようこそ来られた、おお、運のいいぺてん師の|長老、《シヤイクー》詐欺師のなかでも随一の巧者よ。こうしたすべてはいったい何なのかね。けれどもアッラーにかけて、君は身に集まる寵遇と豪奢すべてを受けるだけの資格がありなさる、おおわが友よ。いいさ、満足して、晴々しなさい。アッラーは君の悪戯《いたずら》と詐欺《さぎ》をますます盛大にして下さいますように。」マアルフは友の言葉に笑い出して、翌日の再会を約しました。
そこでマアルフは、王様と並んで、宮殿に着き、謁見の大広間にしつらえた玉座に登って、栄光に包まれて坐りました。そしてまずはじめに王の宝庫に、黄金、宝玉、真珠、宝石を詰めた箱を運び入れ、これらの品をもって棚のすべての袋を満し、次にその残り全部を、貴重な布地と絹織物を収めた包みと共に、自分のところに持ってくるように命じました。一同その命令を正確に果しました。彼は箱と包みを次々に自分の前で開かせて、宮廷の大官とその夫人たちには、すばらしい布地と真珠と宝石をどっさり配り、政務所《デイワーン》の役人や、知合いの商人や、貧乏人や、下層の人たちには、金品をばらまきはじめたのでした。そして王様は、これらの貴重品が水を篩《ふるい》に注ぐように消えてゆくのを見て、強く反対なさるにもかかわらず、マアルフは隊商《キヤラヴアン》の積荷を全部分配しきってしまうまで立ち上がりませんでした。彼の与える一番僅かのものといっても、黄金か碧玉《エメラルド》か真珠か紅玉《ルビー》の一掴み、二掴みだったのです。彼はそれを鷲掴みにして投げてやっていると、王様はすっかりはらはらして、切なさに顔をしかめ、投げ与える度ごとに一々叫ぶのでした、「もういい、おおわが息子よ、もういいぞ。われわれの手許に一物も残らなくなってしまうぞ。」けれどもマアルフは微笑して、そのつど答えました、「御《おん》生命《いのち》にかけて、御心配無用。私の持っているものは無尽蔵ですから。」
そうしている間に、大臣《ワジール》は、宝蔵の棚が今は天辺《てつぺん》まで全部一杯で、もう何も入れる余地がない旨、王様に知らせに来ました。王様はこれに言われました、「よろしい。では別の一室を選んで、前の室のようにそこを満たせ。」マアルフは王を見やりもしないで言いました、「そうして差支えない。」そして付け加えました、「それから第三の室も、第四の室も、満たしなさるがよい。そしてもし王様に御異存なければ、宮殿中の室という室全部を、同様にそれらの品で満たしてさしあげてもよろしい。こうした品は、私にとっては何の値打もないものだから。」王様はこうしたすべてが、夢のなかで起っていることか現《うつつ》のときのことか、もうわからない有様で、驚きのぎりぎりの極に達しなさいました。そして大臣《ワジール》は外に出て、さらに新たな一室か二室をマアルフの持って来た宝物で満たしに出かけました。
マアルフのほうは、これらの序の口が終わり、こうしてかねて披露したとおりのこと全部を、しかもそれ以上に果したことを証拠立てるとすぐに、急いで分配の会を閉じて、その若妻の許に出かけました。姫はその姿を見かけるとすぐに、眼に喜色をあふれさせてそばに来て、その手に接吻して言いました、「定めし、おお伯父の息子様、あなたは御自分の昔の貧乏話と、災厄《わざわい》の妻ほかほか糞のファトゥマとの難儀の身の上話を私になさって、私をなぶりものにして、私のことを笑おうとお思いになったのか、さもなくば私の愛情をためそうとなさったのでしょう。けれども、あなたに対して、おおわが御主人様、あの時したとは別な振舞いを私にさせないで下さった至高のアッラーに、私は感謝いたします。」マアルフはこれを抱いて、よしなに返事をし、見事な衣服一着と、鳩の卵ほどもある天下一品の真珠四十|顆《か》の十列から成る首飾りと、魔術師たちの細工した手首につける腕環と踝《くるぶし》につける足環を与えました。姫はこれらすべての美しい品を見て、非常な悦びを覚えて叫びました、「ほんとうに、この美しい衣裳と装身具は、祭日のおりだけに使うことにいたします。」マアルフは微笑して、これに言いました、「おお、わが愛《いと》しい女《ひと》よ、そんなことに気を遣うことはない。あなたの戸棚が溢れない限り、あなたの長持が縁《へり》まで一杯にならない限り、毎日毎日、私は新しい衣裳と新しい装身具をあげましょう。」そういって、二人は朝までいつものことをしました。
ところが、彼がまだ蚊帳から出ないうちに、はいってよいかという王様の声が聞えました。そこでいそいで戸を開けに行きますと、王様は気も顛倒して、お顔は黄色く、恐れおびえた様子でした。そこで彼は用心深く王様をなかにお入れし、長椅子《デイワーン》の上に坐らせました。姫もこの思いがけない訪問と父上の様子に大そう心配して、父上の気持を落ち着かせ、言葉を取戻させるため、薔薇水をいそいで振りかけました。ようやく物が言えるようになると、王様はマアルフに言いなさいました、「おお、わが息子よ、残念ながら余は凶報をもたらすわけだが、とにかくその方の身に起った不幸を心得ておいてもらいたいから、申さなければならぬ。さて、言うべきか、それとも言わざるべきか。」マアルフは答えました、「無論、ぜひ仰しゃって下さい。」すると王様は言われました、「ではこういうわけじゃ、おおわが子よ、つい今し方、わが侍者と護衛の者どもが困惑の極に達して、余に知らせに来て言うに、その方の二千騎の白人奴隷《ママリク》と、隊商《キヤラヴアン》御者たちと、駱駝と騾馬は、昨夜姿を消してしまい、何ぴともどの道を通って出発したのかわからず、また行進のいささかの跡形も認め得ないとのこと。枝を飛び立つ小鳥とても、この隊商《キヤラヴアン》一行がわれらの路上に残したよりは、跡形を残すもの。ところで、この紛失はその方にとっては取り返しのつかぬ損失であるゆえ、余はすっかり動顛し、いまだに茫然としている有様じゃ。」
マアルフはこの王様の言葉を聞くと、にわかに笑い出して、答えました、「おお伯父上、お心を鎮めなさいまし。それというのは、私の隊商《キヤラヴアン》御者と動物の紛失または消滅は、私にとっては、大海の水一滴の紛失よりも重大事ではございません。それというのは、今日でも、また明日でも明後日でも、その他いつでも、私はちょっと望みさえすれば、ハイターンの町全体にはいりきらないほどの、積荷を持った隊商《キヤラヴアン》御者と駄獣を手に入れることができましょうから。されば君は魂を安んじさせて、今は私たちを、起きて朝湯に行かせて下さって差支えございません。」
そこで王様はかつてないほど呆気にとられて、マアルフの許を去り、大臣《ワジール》を呼びに行かれ、今起ったことを話し、これに仰しゃいました、「ところでどうじゃ、その方は今度はわが婿の不可解な威力を何と思うかな。」大臣《ワジール》はマアルフが自分の道に現われて以来蒙った数々の屈辱を忘れなかったので、思いました、「あの呪われた野郎に復讐する機会到来だぞ。」そして恭順な様子で王様に申し上げました、「おお当代の王よ、私めの意見など君に何らの光明でもあり得ません。けれどもお尋ねとあらば申し上げましょう。婿君マアルフ公の不思議な威力についておわかり遊ばす唯一の手段は、公と一緒に相会して飲み、これを酔いつぶしなさることでございます。酵素が公の理性を踊らせてしまった頃を見て、慎重に公の素姓をお尋ねになれば、定めし真相を何一つ隠し立てせず、御返事なさるに相違ありません。」王様は言いました、「それは妙案じゃ、おお大臣《ワジール》よ、今夕直ちに実行に移すといたそう。」
そこで夕方になると、王様は婿のマアルフと大臣《ワジール》と一緒に、いろいろの飲み物の盆の前で相会しました。そして杯がいくつも廻りました。マアルフの喉は底なしの素焼壺でした。そしてその状態は惨憺たる状態となりました。その舌は風車の翼のように廻り出しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十夜になると[#「けれども第九百七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてマアルフがもう右手と左手の区別もつかなくなると、妻の父君の王様は、彼に申しました、「実際のところ、おおわれらの婿よ、その方はかつて自分の生涯のいろいろの事件を余に聞かせてくれたことがないが、それはさだめしすばらしい並外れた生涯にちがいない。今夜はひとつ、その驚くべき波瀾重畳を語って聞かせてもらえれば、大いに嬉しいがな。」マアルフはもう上も下も前も後ろもめちゃくちゃで、酔いにまかせて、あらゆる酔っ払いが自慢話を好むように、つい王様と大臣《ワジール》に自分の身の上話全部を、貧しい古靴直しの身でカイロの災厄《わざわい》の女と結婚した時から、貧しい百姓《フエラーハ》の畑で宝蔵と魔法の指環を見つけるに到った日まで、一部始終を、べらべらしゃべってしまいました。けれども、それを繰り返し申しても詮なきことでございます。
王様と大臣《ワジール》は、こんなに驚き入ったものとは想像もつかなかった身の上話を聞かされて、掌《たなごころ》を噛みながら、互いに顔を見合わせました。そして大臣《ワジール》はマアルフに言いました、「おお、わが御主人様、そんなに不思議な霊験のあるその指環を、ちょっと私たちに拝見させて下さいませ。」するとマアルフは分別をなくした狂人のように、指から指環をはずして、それを大臣《ワジール》に渡しながら、言いました、「これだよ。この紅瑪瑙のなかに、わが友、鬼神《イフリート》『幸福の父』がはいっている。」すると大臣《ワジール》は、眼を爛々と輝かせて、指環を受けとり、マアルフが説明したように、その宝石を擦《こす》りました。
するとすぐに、紅瑪瑙から声が出て、言いました、「ここにおります、ここにおりまする。御命じあらば、従いまする。町を一つ滅ぼしましょうか、都を一つ建てましょうか、それともどこかの王を一人殺しましょうか。」大臣《ワジール》は答えました、「おお指環の下僕《しもべ》よ、おれは命ずる、この女衒《ぜげん》の王と牛太郎の婿マアルフとをとっつかまえて、どこかの水のない沙漠に放り出し、二人とも渇きと欠乏で野たれ死にさせろ。」するとたちまち、王様とマアルフは一本の麦藁《むぎわら》のように持ち上げられて、全くおそろしい荒れ果てた沙漠の中に運ばれてしまいました。これは赤い死と荒廃の住む、渇きと飢えの沙漠でした。両人については以上のようでございます。
大臣《ワジール》のほうは、いそいで政務会議《デイワーン》を召集し、高官と貴族《アミール》と重臣一同に、臣民の幸福と国家の安寧のため、王と最も悪質のぺてん師たるその婿マアルフは遠国に流され、自分自身が帝国の君主に任ぜられる必要があったと、述べ立てました。そして付け加えて、「なお、汝らが新しい事態を受諾し、余を汝らの正当の君主と認めることを、一瞬たりと躊躇するならば、余は立ちどころに汝らを、わが新しき威力の効力によって、渇きと赤い死の沙漠の最も荒れ果てた片隅に送りとどけ、汝らの旧主と牛太郎の婿のそばに行かせてやるぞよ。」
こうして彼は一同の鼻にもかかわらず、列席者一同に忠誠を誓わせ、任命する人々を任命し、罷免する人々を罷免しました。それがすむと、彼は王女のところに人をやって伝えさせました、「余を迎える用意をせよ。余はその方をぜひ欲しいから。」王女は他の人たちと同様、新しい事件を聞き知っていましたが、宦官をやって返事をさせました、「いかにも悦んでお迎えしますが、しかし目下は、婦人と若い娘に自然にある月のさわりを病んでおります。けれども一切の不浄がきれいになくなりましたらすぐに、あなた様をお迎え申しましょう。」けれども大臣《ワジール》はこれに伝言させました、「余のほうでは、いかなる遅滞も欲せぬ、余は月のさわりも年のさわりも知らぬ。今直ちに会いたい。」すると王女はこれに答えました、「結構です、今すぐ会いに来て下さいまし。」
そして王女はできるだけ美々しい服装をして身を飾り、匂わしました。そして一と時たって、父上の大臣《ワジール》が自分の部屋にはいってくると、満足げな嬉しそうな顔をしてこれを迎えて、言いました、「私にとって何という光栄でしょう。今夜はどんなに仕合せな夜となることでしょうか。」そしてこの裏切者の心をすっかり籠絡してしまうような眼で、見つめました。相手は早く着物を脱げとせき立てるので、姫はたくさんの流し眼と嬌態《しな》と手間どりをもって脱ぎはじめました。そのうち急に恐怖の叫びをあげ、顔を蔽いながら後ろに飛びすさりました。驚いた大臣《ワジール》は尋ねました、「どうしたのか、おおわが御主人よ。なぜそんなおびえた叫びをあげ、急に顔を蔽うたりするのかな。」姫はますます大小の面衣《ヴエール》の中に身をくるんで、答えました、「何ですって、あれがお見えにならないの。」大臣《ワジール》は答えました、「いや見えん、アッラーにかけて、どうしたのだ、わしには何も見えんが。」姫は言いました、「おお、私の上の恥辱、おお、不面目なこと。なぜあなたは、一緒に来たこの他処《よそ》の男の眼に、裸の私を曝《さら》そうなんてなさるのですか。」そこで大臣《ワジール》は右左を眺めてから、答えました、「わしと一緒に来た男とは何者だ。いったいどこにいるのか。」姫は言いました、「そこにいます、あなたが指にはめていらっしゃる指環の宝石の紅瑪瑙の中に。」大臣《ワジール》は答えました、「アッラーにかけて、なるほどな。わしはもう考えもしなかった。しかし、やあ奥方《シツテイ》よ、これはアーダムの子、人間ではない。指環の下僕《しもべ》の鬼神《イフリート》だ。」すると姫君はおびえきって、頭を枕に深く埋めながら叫びました、「鬼神《イフリート》ですって、おお、私の災厄《わざわい》だこと。私は鬼神達《アフアリート》がとてもこわいの。ああ、後生です、あっちにやって下さい。こんな奴、こわいし、恥かしいわ。」大臣《ワジール》は姫を安心させ、これに求めているものをいよいよ手に入れるため、指から指環を抜いて、それを寝床の座蒲団《クツシヨン》の下に隠しました。それから、有頂天の極で、姫に近づきました。
さて姫は相手を近づかせておいて、突然その下腹を足で激しく蹴ってやったので、相手は頭のほうが足よりも先になって、床《ゆか》に尻餅をついて引っくり返されてしまいました。そこで一瞬の猶予もなく、姫は指環を奪い、その宝石を擦って、紅瑪瑙の鬼神《イフリート》に言いました、「早くこの豚を捉えて、宮殿の地下牢へ放りこんで下さい。それから、すぐさま私の父上と夫を、お前が連れて行った沙漠に迎えに出かけて、お元気で恙《つつが》なく、お怪我なく、御無事に、ここに連れ戻して下さい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十一夜になると[#「けれども第九百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとすぐに、大臣《ワジール》は紙屑を拾うように拾いあげられて、王宮の地下牢の底に放りこまれました。そしてほんの僅かの時間がたつと、王様とマアルフは姫の居間に来ましたが、王様はすっかりおびえきっているし、マアルフはまだ酔いがほとんどさめずにいました。姫は言いようのない悦びをもって二人を迎え、まず最初は、食べ物と飲物を取らせました。何せこの早旅はすっかり二人のお腹をすかせ、喉をかわかせていたからでした。そしてその間に、今し方起ったことと、どうやって裏切者を幽閉したかを物語りました。すると王様は叫びました、「われわれは猶予せずに、きゃつを串刺しの刑に処し、焼き殺してやろう。」マアルフも言いました、「差支えございません。」それから妻のほうに向いて言いました、「けれども、おお愛《いと》しい女《ひと》よ、まず私の指環を返しておくれ。」王女は答えて、「いえ、それはいけません。あなたはあれをちゃんと身につけておくことがおできにならなかった以上は、またおなくしになる羽目になるといけませんから、今後は私がお預りいたしましょう。」彼は言いました、「結構だ、そのとおりだ。」そこで馬場《マイダーン》の中に、王宮の門の真向いに、串刺しの処刑場を設け、集った民衆の前で、そこに大臣《ワジール》を据えました。そして機械が動いている間に、柱の足下に、燃えさかる火を焚きました。かくして裏切者は、串に刺されて炙《あぶ》り殺されました。大臣《ワジール》のほうはこのようでございました。
さて王様は最高権をマアルフと共に頒《わか》ち、彼をば王座の唯一の継承者に指命しました。指環はその後ずっと王女の指にあり、王女は夫よりも慎重で油断なく、この上なく注意深く指環を大事に保管いたしました。そしてマアルフはこの妻と一緒に、晴れやかと暢《の》びやかの極みにありました。
ところが或る夜、ちょうど彼が王女といつものことを終って、寝ようと思って自分の部屋に戻ってくると、一人の老婆が突然彼の寝台から出てきて、手を振りあげ脅やかすように、彼に飛びかかってきたのでした。マアルフはこの老婆を見るやいなや、その恐ろしい顎骨、長い歯、黒い醜さで、これこそは自分の災厄《わざわい》の妻「ほかほかの牛の糞」ファトゥマとわかりました。そして彼がこの恐ろしい事実を確かめ終らないうちに、早くもぽかぽかと二発、音高い平手打ちを食らって、またも歯が二本折れてしまいました。老婆は彼にがなり立てました、「どこにいやがったんだ、おお呪われた奴め。よくも私にことわりもせず挨拶もしないで、私たちのカイロの家を出る気になったものだね。ああ、犬の悴め、さあこんどは掴まえたぞ。」マアルフは恐怖の極に達して、頭に冠をいただき、王衣を後ろに引きずりながら、いきなり王女の部屋に向って駈け出し、叫びました、「助けてくれ。紅瑪瑙の鬼神《イフリート》よ、来てくれ。」そして気違いのように王女の傍に飛びこんで、動顛のあまり気を失って、その足許に倒れてしまいました。程なく、王女が薔薇水をかけてマアルフを手厚く介抱している部屋に、恐るべき悪女が、エジプトの国から携えてきた棍棒を手に持って、侵入してきました。そして怒鳴りました、「どこにいるか、あの碌《ろく》でなし、不義の子の息子め。」王女はこの瀝青《チヤン》の顔を見て、自分の紅瑪瑙を擦り、鬼神《イフリート》「幸福の父」に早速命令を下す余裕がありました。するとたちまち、恐ろしいファトゥマは、まるで四十本の腕で押えつけられたように、はいりしなの脅迫の姿勢のまま、その場に立ちすくみました。
マアルフは正気に返ると、こうして棒立ちになっている昔の女房の姿を見ました。すると恐怖の叫びをひと声あげて、また気を失って倒れてしまいました。そこでアッラーに賢さを授けられていた王女は、こうした無力の脅迫の姿勢で自分の前にいるのは、カイロの物凄い悪女ファトゥマ、マアルフがまだ靴直しであった頃の、最初の妻にほかならぬことがわかりました。それでマアルフをこの災厄《わざわい》の女のやりかねないひどい仕打ちに遭わせたくないと思って、指環を擦り、改めて紅瑪瑙の鬼神《イフリート》に命令を下しました。するとすぐに、悪女は攫《さら》われて、庭に持って行かれました。そして太い鉄の鎖で、いなご豆の大木に、慣らされていない熊どもが縛りつけられるような工合に、縛られてしまいました。この女は性根を入れ替えるか、それとも死ぬかの運命を負って、そのまま繋がれていました。この女のほうは、このようでございます。
マアルフとその妻の王女につきましては、両人はその時から、幾年も幾年もの間、友を分け隔てる者、幸福の破壊者、墳墓の建立者、避け得ざる「死」の到来するまで、欠けるところのない歓楽のうちに暮らしたのでございました。
さて、その存在は生死を越えて、永遠の領域にあられる、「唯一の生者」に栄光あれ。
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――それからシャハラザードは、その夜は少しも疲労に襲われるのを覚えず、そしてシャハリヤール王も話を聞く気分になっているのを見てとって、次のような物語を始めた。それは知識と歴史の天窓[#「知識と歴史の天窓」はゴシック体]から眺めた富裕な若者の物語である。
彼女は言った。
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知識と歴史の天窓(1)
語り伝えまするところでは、むかしエル・イスカンダリヤの町に、一人の青年がおりまして、父の死に際し、地所田畑と共にしっかりとした建物など、莫大な富と非常な財産の持主となりました。そして祝福の下に生まれたこの青年は、正道へと向った精神を授けられておりました。彼は施しを命じ寛仁を奨《すす》める聖典《アル・キターブ》の戒律を、決して知らなくはなかったので、どうしたら一番よく善をなせるか、その道を選ぶのにすこぶる迷いました。それで思いあぐんで、結局、亡父の友達の尊敬すべき一人の長老《シヤイクー》に、このことについて相談に行くことにきめました。そして自分のためらいと迷いを打ち明けて、忠告を求めました。すると長老《シヤイクー》は一と時の間考えに耽っていました。次に頭をあげて、青年にいいました、「おおアブド・エルラーマーン――願わくはアッラーは故人の御恩寵の限りを尽したまえ。――の令息よ、窮乏している人々に金銀をどっさり分け与えることは、いささかの疑いなく、至高者の御眼の前で、最も功績ある行ないの一つであると承知せよ。さりながら、かかる行ないは、おおわが子よ、金持ならば誰にでもたやすくできることじゃ。そして自分の持つところの余分を与えるには、さして大きな徳を持つ必要がない。しかしそれとは別に馨《かぐ》わしく、万物の御主《おんあるじ》の御意にかなう寛仁があるが、それはすなわち、おおわが子よ、精神の寛仁ということじゃ。何となれば、己が精神の恩恵を、知なき人々にひろく施すことのできる者こそは、最大の功労者であるからだ。そしてこの種の恩恵をひろく施すには、高度に教養ある精神を持たねばならぬ。して、かかる品質の精神を持つには、ただひとつの方法がわれらの手中にあるのみ。すなわち、高度に教養ある人士の書き物を読み、これらの書き物について瞑想することじゃ。されば、おお、わが友アブド・エルラーマーンの令息よ、お前の精神を修養し、精神の道において寛仁なれ。これがわが忠言じゃ、|さらば《ワアサラーム》。」
金持の青年は長老《シヤイクー》に、さらにこれを補う詳しい説明を求めたいと思いました。けれども長老《シヤイクー》はもはやそれ以上、一と言もいうところがありませんでした。そこで青年は断乎これを実行しようと固く決心して、この忠言を携えて退出し、自分の霊感の赴くままに、本屋の市場《スーク》への道をとりました。そして書籍商全部を集めますと、そのうちの何人かは、アムル・イブヌル・アース(2)のエル・イスカンダリヤ入城の際、キリスト教徒のルーム人たちの焼いた図書宮から出た書物を持っておりました。青年は彼らの所蔵する価値ある書物全部を、自分の家に運ぶように命じました。そして値切りもためらいもすることなく、商人たちの申し出る以上さえもの報酬を与えました。しかしこの買い入れだけで満足せず、カイロ、ダマス、バグダード、またペルシア、マグリブ、インド、さらにはルーム人の各地にまでも、ひそかに使いの者を遣って、買入れ値段については糸目をつけぬよう言い含めて、これらの国々で最も評判の高い書物を買い求めさせました。それで使いの者たちはしばらくたつと、貴重な写本類を詰めた小さな梱《こり》をいくつも携えて、続々と戻ってきました。青年はそのためわざわざ建てさせた壮麗な円屋根の書棚に、全部をきちんと並べさせました。その円屋根の家には、正面玄関の破風の上に、黄金と群青の大文字で刻んだ「書閣」という、ただ簡単な語が掲げられていました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十二夜になると[#「けれども第九百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これがすむと、青年はいよいよ仕事にかかりました。彼は順序立て、ゆっくりと、深く考え考え、そのすばらしい書閣の書物を読みふけりました。何しろ彼は祝福の下に生まれていて、その一歩一歩は成功と至福にしるしづけられていたので、自分の読み、書きとめておいたことは全部、その恵まれた記憶にとどめるのでした。ですから、わずかのうちに、教育と知識の極点に達して、その精神は、彼の遺産として手に入ったあらゆる財産よりも、さらに豊かな賜物で、富んだのでございました。そこで彼は賢明にも、自分の周囲の人々に、己れの有する賜物の恩恵を受けさせてやることを思いました。その目的で、彼は「書閣」の下で、盛宴を張り、全部の友人、知己、遠近の親戚、奴隷、馬丁たちさえも、また平生自分の敷居《しきい》を跨《また》ぐ貧者や乞食たちに至るまで、招きました。そして一同食べ、飲み、報酬者に謝し終りますと、その金持の青年は、招客の耳傾ける輪のただ中に立ち上がって、一同にいいました、「おお、お客様方、今宵《こよい》は、歌手音楽家の代りに、叡智がわれらの集《つど》いを司会いたしまするように。それというは、賢人は申された、『語り、しかして汝の精神より汝の知るところを取りいだし、もって汝に聞き入る者の耳を、それをもって養わしめよ。知識を得し者は何ぴとも、巨富を得しなり。報酬者はその望みたもう者に知恵を授けたまい、精神はその御命令によって創られしものなり。されど精神的賜物を所有するは、人の子の間にただ少数のみ、』と。されば至高のアッラーは、その祝福された預言者――その上に祈りと平安あれ。――のお口を通じて仰せられた、『おお信徒らよ、汝らの獲《え》たる最上の物を施せよ。何となれば、汝らは汝らの最も秘蔵するところを施す時にのみ、はじめてよく完全に達し得べし。されど、決して衒《てら》いによってそをなすことなかれ。然らずば汝らは、わずかの土をもって浅く被われし、かの石多き丘に似るべし。一とたび驟雨《しゆうう》その丘に下りなば、残るはただ露《あら》わの巌《いわお》のみならん。かかる輩《やから》は彼らの仕業より何の利するところあらざるべし。されど、己が魂の確立のために、寛仁の態度を示す者は、天の豊かなる雨に潤い、果実を二倍に付くる、岡に植えられし園にも似たり。もし雨落ちざれば、露を生ぜん。しかして彼らは天国《アドン》の園に入るべし。』かるがゆえに、おおわが客人方よ、私は本夕皆様に集まっていただきました。というのは、吝嗇家《りんしよくか》のように、知識の果実を独り自分だけのためにしまっておきたいとは思わず、私は皆様方にも私と一緒にこれを味わっていただいて、われら相共に叡智の道を歩きたきものと、存ずる次第であります。」
そしてさらに言い添えました。「されば、われらの視線をば知識と歴史の天窓《てんまど》より廻らし、それによって、古き世の面影の驚嘆すべき行列の連なりを目睹し、もって、彼らの通り行くを見てわれらの精神を啓発し、啓蒙されたるわれらの精神をば、その完成へと向わせようではござりませぬか。アーミーン。」
すると金持の青年の招客全部は、「アーミーン」と答えながら、両手を顔にあてました。
そこで青年は静まり返る一同の輪の中央に坐って、いいました、「おお、わが友人諸君、私は感嘆すべき事どもをお頒《わか》ち申すに当っては、まずわれらの父祖なる無道時代《ジヤーヒリーヤ》(3)のアラビア人、生粋《きつすい》の沙漠のアラビア人たちの生活より、二、三の事蹟をお話しして、諸君の悟性に得るところあらしめることより始むるに如《し》くはないと思います。われらの父祖の驚嘆すべき詩人たちは、読み書きも知らず、彼らにあって霊感は激烈なる天の賜物であり、墨も蘆筆《カラーム》も検閲者もなくして、かのアラビア語を形づくったのであった。すなわち、われらが言語、特にすぐれたる言語、至高者が他のあらゆる言語をさし措いて選びたまい、御言葉《みことば》をばその使徒――その上に祈りと平安と最も選りすぐられし祝福とあれ。――に口授するに用いたもうた言語でありまする。アーミーン。」
そして招客一同が改めて「アーミーン」と答えると、青年は申しました。
「さればここに、それら無道の英雄時代の、幾多の物語のうちのひとつがござる。」
[#この行2字下げ]詩人ドライド、その高邁な性格と高名の閨秀詩人トゥマーディル・エル・ハンサーへの恋
語り伝えるところでは、|ジュサームの後裔《バニ・ジユサーム》部族の族長《シヤイクー》シンマの息子ドライド(4)は、無道時代《ジヤーヒリーヤ》に生きていた周知の詩人であると等しく剛勇の騎士であり、数多《あまた》の天幕《テント》と美しい牧場の主人であったが、一日、沙漠随一の大豪の武士ラビアーを族長《シヤイクー》とする、敵手|フィラースの後裔《バニ・フイラース》部族の地に、掠奪《ラージヤ》に出かけたという。して、ドライドは部族中最も優秀な者どもの間から選んだ騎手一隊を率いていた。そしてバニ・フィラース族領の敵地の或る谷間まで進出すると、彼は遥かに、谷の反対側の端《はず》れに、一人の徒歩の男が、駱駝に乗った婦人を連れているのを認めた。ドライドはしばしその一行を熟視してから、配下の騎手の一人のほうを向いていった、「汝の駒を駆って、あの男を襲え。」
その騎手は出発して、声の届くところまで着くと、その男に叫んだ、「降伏せよ。その女を渡して、汝の一命を救え。」そして三たび、その勧告を繰返した。しかし、その男は騎手の近づくままにさせておいて、次に悠々閑々、足も速めず、連れている女に駱駝の索《つな》を投げ託して、落ちつき払った声で、次の歌を歌い上げた。
[#ここから2字下げ]
おお貴女よ、かつて恐怖に心臓を戦《わなな》かせしことなく、張り出でし臀《いしき》は安泰の裡に円《まろ》かりし女《おみな》の、幸《さち》多き蓮歩をもて、歩みゆけ。
しかして、かつて敵に後ろを見する恥辱を知りしことなきフィラース一門の、今やこの騎手を迎うる応接ぶりを、眼をとめて御覧じろ。
何となれば、ここに君が眼下に、わが腕前の見本あり。
[#ここで字下げ終わり]
こう歌って、その男はドライドの騎手に打ちかかり、槍の一と突きをもってこれを鞍《くら》から突き落し、砂塵のなかに伸ばしてしまった。次にその主人なき馬を取って、婦人に敬意を表してから、ひらりと馬に飛び乗って、以前のように歩き出した、急がず騒がず――。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十三夜になると[#「けれども第九百七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ドライドのほうでは、使者が再び姿を現わす様子もないので、今一人の騎手を捜索に遣った。その騎手は生命絶えて路上にある自分の戦友を見つけて、その旅人のほうに進み、これに遠くから、最初の攻撃者の呼びかけたと同じ勧告を呼ばわった。しかしその男はまるで、何も聞えなかったような態《てい》であった。そこでドライドの騎手は槍を振るって、その男に迫った。しかし男は少しも騒がず、再び駱駝の索《つな》を自分の婦人に投げ託して、次の詩を寄せながら、突如騎手を襲った。
[#ここから2字下げ]
今や汝の上に、鉄の犬歯持てる宿命来れり、おお醜名《しこな》の子孫よ、宿命は自由不可侵の女性《によしよう》の路上に、汝を置く。
この女性《によしよう》と汝との間に在るは、汝の主人ラビアーなり。敵に対する彼の掟は、その槍の穂先、唯々《いい》として意のままに従う槍なり。
[#ここで字下げ終わり]
するとその騎手は肝臓を貫かれて、爪で地を引っ掻きながら打ち倒された。彼は一と口に死を飲み干した。そして勝利者はせかず急がず、その道を続けた。
ドライドは焦慮に満ち、配下の二人の騎手の身の上を案じて、同じ命令を下して第三の男を派した。その斥候《ものみ》は現場に着いて、自分の二人の戦友が、生命《いのち》絶えて地上に伸びているのを見出した。そしてさらにかなたには、片手に婦人の駱駝を引き、後ろにわが槍を無造作に曳きずりつつ、悠然と歩いている他郷の男を認めた。そこで彼は呼ばわった、「降伏せよ、おお部族どもの犬よ。」けれどもその男は、攻撃者のほうに振り向こうともせず、自分の婦人にいった、「わが友よ、ここから一番近いわれわれの天幕《テント》のほうに、進んでゆきなさい。」次に突如、敵手の真正面《まとも》に向って、次の詩を浴びせかけた。
[#ここから2字下げ]
汝見ずや、おお眼なき頭よ、血の凝塊の裡に|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》く汝の兄弟らを。して汝は感ぜざるや、すでに汝の面上に、「禿鷹《はげたか》の母」の息吹《いぶき》の過ぐるを。
汝はそも渋面の騎士より、何物を受くる所存なりや、汝の腰に、鴉《からす》の美しき黒色の血の産着《うぶぎ》を着せしむる、鮮やかなる槍の一撃の贈物に非ずして。
[#ここで字下げ終わり]
かくいうや、彼はドライドの騎手を突いて、最初の一と突きで、胸を刺し貫き、もんどり打って倒してしまった。けれどもそれと同時に、その槍は激しい勢いのため折れてしまった。そしてラビアーは――というのは、この峡道《はざま》と凹地の騎士こそは、まさにラビアーその人であった、――すでにわが一族に真近いと知って、身をかがめて敵の武器を拾おうとさえしなかった。そして武器としてはただわが槍のちぎれた柄だけしか持たず、己が道を続けたのであった。
さてこの間、ドライドは配下の騎手が一人も帰ってくるのを見ないのに驚いて、こんどは自ら親しく捜索に出た。そして砂上に伸びた戦友たちの事切れた死体に遭遇した。すると突如、小山の曲り角のところに、わが敵ラビアーその人が、武器というも愚かの武器を携えて、現われるのを見た。一方ラビアーのほうでもドライドと知って、かかる敵手を前にして、最後の攻撃者の槍をわが物としておかなかった不用意を、心中悔いたのであった。さりながら彼は馬上にきっと身を起こし、ちぎれた槍の柄を握りしめて、ドライドを待った。然るにドライドは、一瞥してラビアーの劣勢状態を見てとると、彼の宏量な魂はフィラース家の英雄に、次の言葉をかけるように促した、「おお|フィラース後裔《バニ・フイラース》の騎士たちの父よ、たしかに、貴殿のごとき人物を、人はむざむざ殺しはいたさぬ。さりながら、この国を狩り歩くわが配下の者どもは、貴殿に彼らの兄弟の死の仇を打ちたいと思うであろうが、見れば貴殿は武器なく、ただ一人で、またかくもお若いゆえに、いざ、拙者の槍をお取りあれ。拙者はこれより引っ返し、わが戦友に貴殿を追う望みを棄てさせるといたそう。」
そしてドライドは急遽配下のほうに引っ返して、一同にいった、「あの騎士は自分の婦人をよく護り得た。というのは、彼はわが方の三名を斃《たお》し、かつ、わが槍を捲き上げた。まことにしたたかの闘士、これを撃つことなど思うべきではない。」かくて一同は轡《くつわ》を返し、掠奪《ラージヤ》をすることなく、全員己が部族のところに帰ったのでありました。
そして幾年《いくとせ》か過ぎた。ラビアーは、非の打ちどころなき騎士の死ぬごとく、ドライド族の騎士たちとの流血の遭遇戦の裡に戦死した。そしてその復讐のため、フィラース家の一隊はバニ・ジュサーム一族に対する新しい掠奪《ラージヤ》に遠征した。彼らは夜間野営地を奇襲し、殺した人々を殺し、多数の俘虜を得、婦女子と財産の莫大な分捕品を奪った。その俘虜のなかに、ジュサーム家の族長《シヤイクー》ドライド自身がいたのであった。
勝利者の部族のところに到着すると、ドライドは十分用心してわが名と身分を隠していたが、他の俘虜全部と共に、厳重な監視の下に置かれた。しかしフィラース家の女たちは、彼の立派な相貌に感銘して、彼の前を勝ち誇って嬌態《しな》を作りながら、行ったり来たりした。すると突然そのうちの一人の女が叫んだ、「黒い死にかけて、何という天晴れな仕業をしたのか、フィラースの子らよ。お前たちはこの人が誰か知っていますか。」そこで人々は駈けつけ、眺め、答えた、「これはわれわれの隊伍を掻きまわした相手の一人ですよ。」するとその女はいった、「いかにも、これは勇者です。これこそまさに、谷の日、ラビアーに槍を贈ってくれた人です。」そしてその女は庇護のしるしに、その囚人の上に自分の胴着を投げかけて、言い添えた、「フィラースの子らよ、この私がこの俘虜を保護します。」すると人々はさらに大勢|犇《ひし》めき寄せて、俘虜に名を訊ねると、俘虜は答えた、「拙者はドライド・ベン・シンマだ。だが御身、おお御婦人よ、御身はいったいどなたか。」女は答えた、「私はジズル・エル・ティアーンの娘ライタ、ラビアーが私の駱駝を曳いていた女です。ラビアーは私の夫でした。」
次に彼女は部族の天幕《テント》全部に赴いて、武士たちに次のように告げた、「フィラースの子らよ、シンマの息子がラビアーに、自分の長柄の立派な槍を与えた時の、高潔な心事を思い出して下さい。さて、善に報いるには善、各人己が仕業の果実を受けるべきです。どうか世人の口が、ドライドに対するお前たちの振舞いを語って、軽蔑に膨《ふく》らむことのないように。彼の縛《いまし》めを解き、身代金《みのしろきん》を払って、彼を俘虜にした男の手から、彼を取り戻して下さい。さもないとお前たちは、終生、行き着くところのない憾《うら》みと後悔への踏段ともなるような、恥辱の所行を、自分の前に据えることとなりましょうぞ。」するとフィラース家の人々はこれを聞いて、ドライドを俘虜にした騎士ハーリックに身代金を払うために、醵金した。そしてライタは、自由の身とされたドライドに、亡き夫の武器を与えた。そしてドライドは自分の部族の許に戻ったが、その後二度とバニ・フィラース一家とは戦いを交えなかった。
さらに幾年《いくとせ》か過ぎた。そしてドライドは年老いたが、しかし依然、詩人の見事な魂を失わず、或る日のこと、たまたま|スライムの後裔《バニ・スライム》部族の野営から、程遠からぬところを通りかかった。その頃、このスライム族のなかに、アムルの娘トゥマーディル、かのエル・ハンサ(5)の渾名の下に全アラビアに知られ、その驚嘆すべき詩才をもって讃美された、閨秀詩人が暮らしていたのです。
この美しいスライム族の娘は、ドライドがその部族のかたわらを通りかかったとき、ちょうど父親の駱駝の一頭に、瀝青《チヤン》を塗るのに没頭していた。その場所は人里離れたところだし、折から酷暑で、あたりを通る人とてなかったので、トゥマーディルは着物を脱ぎ棄て、ほとんど丸裸で働いていた。ドライドは身を隠し、彼女に少しも気づかれずに、これを打ち眺め、熟視した。そしてその美しさに驚嘆して、次のような詩を即吟したのであった。
[#ここから2字下げ]
いざ行け、おお、わが友らよ、行きて美しきスライム族のトゥマーディルに敬礼せよ。今一とたび敬礼せよ、出生高貴のわが愛らしき羚羊《かもしか》に。
われらの部族にあって、駱駝に油塗るかくばかりあでやかの女をば、前よりも後ろよりも、かつて人は見たることなし。
面衣《ヴエール》なきところ、策略はなし。こはまことに純血の種族の、燦然たる褐色の娘なり。
われらが黄金の像の面《おもて》のごとく美わしき、この上なく艶《つや》見事なるあでやかの顔、由緒正しき種馬の煌《きら》めく尾にも似し、豊かなる髪に飾らるる顔。
ふさやかに豊かなる髪よ。繕わず振り乱しては、燦《さん》たる長き鎖となって垂れ、梳《くしけず》り整えては、さながらに細雨に濡れし美しき葡萄《ぶどう》の房。
反緩《そりゆる》やかの細き眉二筋、碩学《せきがく》の蘆筆《カラーム》の引きし瑕瑾《きず》なき二条の線。羚羊《かもしか》の切《きれ》長き双眼の上なる燦然たる冠。
ほのかなる紅《くれない》に色づく、柔らかに盛り上がる双の頬。真珠の淡き白色の野に射しそむる曙《あけぼの》。
清らかの真珠玉、馨《かぐ》わしき蜜に濡るる素馨《そけい》の花弁《はなびら》、見え分かぬ条《すじ》入りし皓歯《こうし》の上に、優美の花咲かしめし口、甘露の泉。
われらが象牙の小像の壮麗なる胸にも似し胸の上に、なだらかに聳ゆる、銀山の純銀のごとく真白き項《うなじ》。
好ましく肥えし、固き肉満てる双の腕。骨を感ぜず、静脈に触るることなき、双の前腕。枝々の棗椰子《なつめやし》も羨《うらや》みて赤面すらん、指骨と指。
香料を収むる象牙の小箱、臍《へそ》のまわりに連なりて、浅き階段形《きざはしがた》に畳みし紙のごとく、いみじく、間《ま》の詰まりし襞《ひだ》持てる、豪奢なる腹。
背よ。おお、かくもしなやかの細腰に到る、この風情《ふぜい》ある背筋。然り、かくもなよやかの腰にして、ここに、かくも大いなるこの臀《いしき》を繋ぎ、支うるには、神々の御力《みちから》を挙げて傾けざるを得ざりき。
見よ、ここに絶世の乙女、立ち上がりては、その重き腰は再びこれを坐らしむ。坐りては、その豊かなる臀《いしき》は弾《はず》み、これを立たしむ。おお、愛すべき砂地の双の小山よ。
しかしてこれら一切《いつさい》は、しかと立ち、しかと成る栄光《はえ》の円柱、真珠の幹二本の上に支えらる、褐色の綿毛の細かに被う紙草《パピルス》の茎二本の上に。してまた全体は、二本の愛すべき槍の穂先のごとく、曽りて細き、妙《たえ》なる小さき足二本の上に。
おお、神々に栄光あれ、かくばかりかぼそき二基の基礎《いしずえ》の、いかにしてこの上部の総体を支うる力あるならん。
いざ行け、おお、わが友らよ、行きて美しきスライム族のトゥマーディルに敬礼せよ。今一とたび敬礼せよ、出生高貴のわが愛らしき羚羊《かもしか》に。
[#ここで字下げ終わり]
そして翌日直ちに、高貴なドライドは、自分の部族の名士たちを従えて、華々しく、トゥマーディルの父親に会いに行き、御息女を嫁にいただきたいと請うた。すると老アムルは、返事を待たせることなく、騎士詩人にいった、「わが親愛なるドライドよ、貴殿のごとく高邁の士に対して、人はそのお申し込みを刎《は》ねつけはいたしませぬ。貴殿のごとき敬せらるる首領に対して、人はその御所望を斥けはいたしませぬ。貴殿のごとき種馬に対して、人は横面を張って懲らしはいたしませぬ。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十四夜になると[#「けれども第九百七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さりながら、申し上げねばならぬが、わが娘トゥマーディルは、常に念頭にいろいろと考えがあり、いろいろと見方がござる……。そしてそれは他の女子《おなご》の通常持つ考えや見方とはおのずと異なるのじゃ。して拙者は常々その好きなように、自由に振舞わせておきまする。というは、わがハンサは他の女子《おなご》とは同じからぬ。されば拙者は娘に、及ぶかぎりほめちぎって貴殿のことを話しましょう。それはお約束申し上げる。されど娘の承諾の程はお引き受けいたさぬ。そは当人のきめることでござる。」ドライドはその好意を謝した。するとアムルは娘のところに入って、これにいった、「ハンサよ、さる勇猛の騎士、高貴なる人物、バニ・ジュサーム一家の首長《シヤイクー》、その高齢と武勇をもって敬われる男、つまりはドライド、シンマの息子高貴なるドライド、お前も知る武勇詩と佳詩の作者が、お前を嫁に所望して、わが天幕《テント》の下に来た。これは、わが娘よ、われらの光栄となる縁組じゃ。もっとも儂《わし》はいささかもお前の決心に干渉はせぬ。」するとトゥマーディルは答えた、「お父さま、お答え申す前にとくと考えたく、どうぞ二、三日御猶予下さいまし。」
そこでトゥマーディルの父はドライドの許に帰って、これにいった、「わが娘ハンサは確答を与うる前に、いささか待って欲しいと申しまする。なお拙者としては、貴殿との御縁組を承諾するものと期待しておる。されば二、三日後に再びお出でありたい。」するとドライドは答えた、「承知仕った、おお諸豪の父よ。」そして彼に宛てられた天幕《テント》に引き取った。
さて美しいスライムの娘は、ドライドが遠ざかるや直ちに、召使女の一人にこういい含めて、彼の後を追わしめた、「行って、ドライドを見張りなさい。そしてあの男が用を足しに天幕《テント》から離れた時、後をつけなさい。小便の仕振りをよく見、その勢いと、砂の中に残した跡を御覧。そうすれば、あの男がまだ男性的な体力を保っているかどうか、私たちに判断がつくだろう。」召使は言われたとおりにした。まめまめしく立ち廻り、ほんのしばらくすると女主人の許に戻ってきて、次の簡単な言葉を伝えた、「老い荒《さ》びた男です。」
さて、トゥマーディルの求めた猶予期日が過ぎると、ドライドは返事をもらいに、アムルの天幕《テント》に再び来た。するとアムルは、これを天幕《テント》の男子に宛てた場所に残して、娘のところにはいって、娘にいった、「われらの客人はお前の決定と、わがハンサよ、お前の決心の程を待っていらるる。」すると彼女は答えた、「私はとくと考えました。そして私の部族を離れまいと決心いたしました。それというのは、私は、美しい長槍のように美男の若者たちの、私の従兄弟《いとこ》たちの誰か一人と結婚するのをあきらめてまで、今日明日にもその御立派な魂を吐き出そうとしている、あの疲れ衰えた身体《からだ》をしたドライドのような、老いぼれたジュサーム家の老人《シヤイクー》と一緒になる気にはなれません。われらの武士たちの名誉にかけて、私はひょろひょろ脚の妻になるよりは、処女のまま年とるほうがまだましです。」
天幕《テント》のなかで、男たちのそばに坐っていたドライドは、このさげすんだ返事を聞いて、手痛く胸を衝かれた。しかし誇りから、自分の感情を少しも外に現わさず、美しいスライムの娘の父親に暇を告げて、自分の部族指して出発した。しかし彼は次の諷詩をもって、この無情な女に報復したのであった。
[#ここから2字下げ]
君は宣す、わが親しき君よ、ドライドは老いたり、余りにも老いたりと。さらば、彼は君に言いしや、われは昨日生まれたりと。
君が夫に迎うるを願うは、おおハンサよ、――いかにも、そは道理《ことわり》なれ、――夜、家畜の群の糞尿を扱うを知る、脚太き頓馬《とんま》なり。
然り、われらが神々は、わが娘よ、われのごとき夫をば、君に与えたまわざれかし。何となれば、われは別人にして、別事をなす者なればなり。
事実、人は知る、わが何者たるか、また、わが手の逞ましきは、自ずから異なって由々しき業のためなるを。
あまねく人は知る、一朝大事あらば、緩慢はわれを繋がず、性急はわれを駆らず、われは何事においても慎重と思慮を備うるを。
あまねく人は知る、わが部族にあって、われを憚って、何ぴともわがかくまう客に物問わず、わが保護下にある者は、かつて不安の夜を持ちたることなきを。
最後に、人は知る、旱魃《かんばつ》の飢饉《ききん》の月々なりと、乳母すらもその嬰児を忘るる時といえども、わが天幕《テント》には食糧溢れ、わが竈《かまど》は煮えたぎってあるを。
されば、心してわれのごとき夫を迎えて、わが子らを産むことなかれ。
君は、おおハンサよ、君が夫に迎うるを願うは、――いかにも、そは道理《ことわり》なれ、――夜、家畜の群の糞尿を扱うを知る、脚太き頓馬《とんま》なり。
何となれば、君は宣す、わが親しき君よ、ドライドは老いたり、あまりにも老いたりと。されば、彼は君に言いしや、われは昨日生まれたりと。
[#ここで字下げ終わり]
この詩が諸方の部族に伝わりひろまったとき、人々は四方八方からトゥマーディルに、この物惜しみしない手の、ならびなき詩想の、ドライドをば、夫とするのを承知するように勧めた。しかし彼女は己が決心を翻さなかった。
さて、こうしている折から、ムール族の敵部族との流血の合戦で、トゥマーディルの弟の一人、豪勇の騎士ムアーウィヤは、ムール族の首長で、昔この同じムアーウィヤによって辱しめられた美しい娘アスマの父なる、ハシェムの手にかかって、斃《たお》れたのであった。トゥマーディルが次の弔歌で嘆いたのは、まさしくその弟の死のことである。その節《ふし》は、第一の軽低の律《リズム》と、薬指絃の主調音《トニツク》で詠唱されるものであった。
[#ここから2字下げ]
泣けよ、わが眼《まなこ》、溢れて尽きぬ涙を注げ。あわれ、この涙を注ぐは、失いし弟を泣く姉なり。
今よりは、この姉弟の間には、もはや掲げらるることなき面衣《ヴエール》、墳墓《おくつき》の新しき土あり。
おお弟よ、御身は、なべての人のいつの日かその苦さを味わう、かの貯水《ためみず》へと出で立ちぬ。御身は汚れなくそこに赴きて、曰く、「むしろ死するに如《し》かず。生は槍の穂先にとまる熊蜂の、一閃の光にすぎず。」
わが心思い出でては、おおわが父母の子よ、われは夏草のごと打ち萎《しお》る。われは自失の裡に閉じこもる。
彼は死せり、われらが部族の楯にして、われらが一家の礎《いしずえ》たりし男子《おのこ》、彼は災厄《わざわい》の裡に出で立ちぬ。
彼は死せり、大剛の人々の灯台にして、亀鑑たりし男子《おのこ》、彼らにとって、山々の頂きに点《とも》る炬火《たいまつ》にも似たる男子《おのこ》なりき。
彼は死せり、衣裳を着けて眩《まば》ゆくも、値高き牝馬に乗りし男子《おのこ》なりき。
未だ無鬚にすぎぬ頃、すでにわが部族の王たりし、長き肩帯つけし勇者、武勇と美貌の青年、
高邁の手そのもの、高邁なる双手のわが弟。今や亡し。今は冷たく、巌《いわお》と石の下に閉ざされて、墳墓《おくつき》の下にあり。
胸前《むなさき》見事なる愛馬アルウァに言えよ、「泣け、放浪の旅に呻《うめ》け。汝《な》が主人はもはや汝に跨ることなからん。」
おおアムルの息子よ、光栄は御身のかたわらを疾駆してありし時、猛り狂う戦いは、その長き陣羽織を太腿まで捲《たく》しあげ、
戦火は兵《つわもの》を組打ちせしめ、御身は兄弟らと共に、悪鬼の跨る食人鬼《グール》と禿鷹《はげたか》さながら、駒と駒相触れて、過ぎ行けり。
まこと、御身は一命を軽んじたり、一命を軽んずることのさらに偉大にして、さらに記憶に値する時、合戦の日に。
そも幾たび御身は、鉄兜林立し、二重の陣羽織に身を固めし渦中に、突進せしことか、嵐の瀝青《チヤン》を流したる風雲のごとく、陰暗の戦慄のさ中に、従容《しようよう》として。
|沙漠の木《ルーダイナ》の旗竿さながら、逞しくのびのびと、御身は黄金の腕輪に似し胴の上に、御身のことごとくの青春をもて輝きてありし時、
御身の周囲に、混戦のさ中に、死はその外套《マント》の裾を、鮮血の裡に曳きて来りぬ。
御身はそも何頭の駒を、群がる敵の騎兵に突入せしめしか、おおわが弟よ、合戦の赤き砥臼《とうす》は、両軍の最も猛き荒武者らの上に、恐ろしくも転《まろ》び行きし折から。
その時、御身は、臓腑腹中に躍って轟く御身の駿馬の上に、御身の燦《さん》たる陣羽織の裾を掲げぬ。
御身は槍に生気を与え、それらを駆ってその閃光を混ぜしめたり、槍飛んで戦士らの腰深く、臓腑を探る時。
御身は果敢の猛虎なりき、暴風のただ中に双の武器、牙と爪を提《ひつさ》げて、餌食に襲いかかる虎。
いかばかり数多《あまた》の悲しみまた悦ぶ俘虜の女を、御身は御身の前に引き来りしか、群なして、あたかも降りそむる雨の滴に、あわて奔《はし》る美しき羚羊《かもしか》のごとく。
いかばかり数多の色白き美女を、御身は朝《あした》、接戦のみぎり救いしか、面衣《ヴエール》も乱れ、恐怖と驚愕に逆《のぼ》せ、さまよいてありしを。
いかばかり数多の不幸を、御身はわれらより避けしか、その凄まじき様を見ば、或《ある》はただその語るを聞くも、妊婦らは流産せしならん。いかばかり数多の母は、もし御身の剣なかりせば、わが子を持たざりしならん。
また、おおわが弟よ、いかばかり数多の戦いの歌を、御身は動乱の裡に、苦もなく歌い出でしか、御身が槍の刃のごとく鋭く、永久《とわ》にわれらが間に生くらん歌を。
ああ、アムルの高邁なる息子|逝《ゆ》きし後は、諸星《もろぼし》は失せよかし、太陽はその光を消せよかし。彼こそはわれらの太陽にして星なりき。
すでに御身亡き今は、わが弟よ、陰惨の北方より、木霊《こだま》にざわめく寒風|飆々《ひようひよう》と吹く時、誰か異国の人を家に容《い》れんや。
あわれ、おお旅人よ、己が家畜をもて汝らを養い、己が武器をもて汝らを護りし人を、汝らは砂塵のうちにその墓穴を掘って、これを埋め、置き去れり。
立ち繞《めぐ》らせし数本の杭のただ中、恐ろしき住居のうちに、汝らはこれを埋めたり。訣別《サラマー》の暗き小枝、その上に投げられたりき、
すでに久しき以前より、そが上を幾多の歳月の過ぎ行きし、われらが祖先の墳墓《おくつき》の間に。
おおわが弟よ、スライム族随一の美しき子よ、御身を失いしは、いかばかりわが身には切なき苦しみぞ。そはわが裡に、決意と勇気を消す。
否、単峰牝駱駝《メハリ》の己が赤児を奪われて、その愛を紛らさんとて人に与えられし子の似姿の周囲を、悲嘆と悲鳴をあげつつめぐり、
不安に駆られ、至る処に赴きては探し、記憶目ざめてはもはや牧場に草|食《は》まず、ただ呻き怯《おび》えて跳ぬるばかりなる、
これとても、わが身にのしかかる苦しみをよく彷彿《ほうふつ》たらしむるに足らず、おおわが弟よ。
おお、御身のためのわが涙、ついに尽くることあらざらん。わが嗚咽《おえつ》とわが苦悩の調べ、ついに止《や》むことあらざらん。泣けよ、わが眼、溢れて尽きぬ涙を注げ。
[#ここで字下げ終わり]
あたかもこの詩篇について、例年、アラビアの全部族の前で自作の詩歌を朗読するため、ウカーズの大市《おおいち》に集まった、詩人ナービガ・エル・アドゥビヤーニ(6)をはじめ他の詩人たちが、トゥマーディル・エル・ハンサの真価について質問を受けると、異口《いく》同音に答えたのであった、「彼女は詩歌において、男子たちと|魔神たち《ジン》を凌ぐものである、」と。
トゥマーディルは、アラビアにおける祝福せられたるイスラム宣教以後まで生きた。そしてシドナ・ムハンマード――その上に祈りと平安あれ。――の聖遷《ヒジユラ》第八年、彼女は当時スライム族の最高首長となった息子アッバースと共に来って、預言者に帰依し、イスラムを奉じた。預言者はこれを重んじられ、詩人たちをさして尊重なさらなかったとはいえ、彼女が自作の詩を誦するのを聞くのを悦ばれた。そしてその詩的感興と名声を祝しなされた。なお、このお方が詩の韻律をお感じにならぬことを窺わせたのは、トゥマーディルの一句を御自身繰返して誦しなされた時のことです。というのは、最後の二語を互いに入れ代えて、その句の音節の長短をたがえなすったものだ。すると尊ぶべきアブー・バクルは、この詩法上の規則違反を聞いて、転倒した二語の位置を訂正しようとなさったところ、預言者――その上に祈りと平安あれ。――はおっしゃった、「どうでもよかろう、同じことだ。」するとアブー・バクルは答えた、「いかにも、おおアッラーの預言者よ、御身はアッラーがその聖なるコーランにおいて御身に啓示したもうたあのお言葉を、完全に証明なさる次第です。曰《のたまわ》く、『われらはわれらの預言者に作詩法を教えざりき。預言者はこれを要せず。コーランは教えなり、簡単明瞭なる読み物なり、』と。」
さあれ、アッラーはさらに多くを知りたもう。
――次に青年は聴衆に申しました、「次に今一つ、無道時代《ジヤーヒリーヤ》のわれらがアラビアの父祖の生活の、見事なる事蹟がある。」
そして彼は言いました。
詩人フィンドとその二人の娘、女丈夫日輪オファイラと月輪ホゼイラ
われらの聞き及ぶところでは、バクル一門の大部族の分派、ラビーア家の始祖から出た、バニ・ズィムマーン部族の首長にして、当時百歳の詩人フィンド(7)は、二人の若い娘を持っておりまして、姉のほうは「日輪オファイラ」、妹のほうは「月輪ホゼイラ」と呼ばれていました。その時分、バクル一門の全部族は、数多く強力なサアーラブ一門と戦っていた。そしてフィンドはその高齢にもかかわらず、その部族随一の高名の騎士なるをもって、割当てられた兵員総数七十名の騎士を率いて、バクル一門挙げての遠征に馳せ参ずるよう、仲間によって派遣されるにふさわしいものと判断された。その娘なる二人の乙女も、その七十名のなかにはいっていた。使者はバクル一門の総会に、バニ・ジムマーン族の割当兵員到着を報じに行って、先方の人々に告げた、「わが部族は諸君の許に、七十名の武士に加えて、一千の割当戦士をお送り申す。」そういったのは、フィンドただ一人にて、よく一千人の軍勢に匹敵するという意味であった。
次に、バクル諸部族の全兵員が相会すると、戦いは大旋風のごとく爆発した。「髪切りの日」と呼ばれた、万人の記憶にその名も高き、あの戦闘が交えられたのは、その時のことである。それは戦勝のバクル一門の人々が、捕虜を解き放って送り帰し、彼らの敗北をサアーラブ一門の天幕《テント》の兄弟たちに見せにやるに先立って、彼らの額髪《まえがみ》を切って、一大恥辱を与えたがために、そう呼ばれたのである。そして、フィンドの二人の娘が、元気一杯の小妖精、当日の花形として、永久に赫々《かつかく》たる名を揚げたのは、まさにこの記憶すべき一戦のおりのことでありました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十五夜になると[#「けれども第九百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それというのは、戦いの真最中、勝敗いまだ定まらずと見えるや、この二人の乙女は突如馬から飛び降りて、またたく間に着物を脱ぎ棄て、着衣と陣羽織を遥かに投げやり、二人の娘は丸裸で、両腕を突き出し、一人はバクルの軍勢の右翼のただ中に、一人は左翼のただ中に、頭上に緑色の飾りを残すのみにて、身を戦《おのの》かせ、丸裸で躍り入った。そして混戦の裡に、彼女らはめいめい即興の軍歌をば、声高々と呼ばわった。その軍歌は爾来、重いラマルの律《リズム》と四絃の中央絃の主調音《トニツク》とで歌われ、四角太鼓《ダフ》によって鈍く打たれる第二の律を欠いて歌われた。
さて次にまず、日輪オファイラの軍歌をお目にかけよう。
[#ここから2字下げ]
敵に向え、敵に向え、敵に向え。
合戦を熱せしめよ、バクルとズィムマーンの子ら、格闘を激せしめよ。
丘々に荒々しき騎兵氾濫す。
いざ、進め、敵に、敵に。
誉れあれ。この朝《あした》、赤き外套《マント》を着る者にこそ、誉れあれ。
いざ、われらが戦士よ。襲いかかれ。さらばわれらは君らを腕一杯に抱き締めん。
傷口広く、荒れ狂う狂女の服の裂目に似せよかし。
さらばわれらは君らに、柔らかき褥《しとね》の床《とこ》を用意せん。
されどもし君ら退かば、われらは君らを避くるべし、愛にふさわぬ男子として。
いざ、進め、敵に、敵に。
進め、バクルとズィムマーンの子らに誉れあれ。
合戦を熱せしめよ、格闘を激せしめよ。
殺して、生きよ、わが種族の子ら。いざ、進め。
[#ここで字下げ終わり]
また次に、月輪ホゼイラの憤怒によって雄哮《おたけ》びされた軍歌を、お目にかけよう。これは、断じて一歩も退かじと、己が駱駝の飛節《ひせつ》を切った父親フィンドのかたわらに、バニ・ズィムマーン族の旌旗をかこむ人々の、熱情を湧き立たせようとて歌われたものだ。
[#ここから2字下げ]
奮え、ズィムマーンの子ら、奮え、高貴のバクル族、
叩き斬れ、君らの利剣もて、叩き斬れ。
赤き戦《いくさ》の千の藁火《わらび》を、彼らの頭上に振り廻せ。
いざ屠らん、いっさいを屠らん。
奮え、君らの母と君らの妻の防衛者よ。
われらは暁星《あけぼし》の美しき娘たち。
麝香《じやこう》はわれらの髪を馨らし、真珠はわれらの頸《うなじ》を飾る。
屠れ、いっさいを屠り去れ。さらばわれらは君らをば、われらの腕に抱き締めん。
奮え、奮え、ラビアーの雄々しき騎士たちよ。
随一の勇者に、われはわが処女の花をば捧ぐべし。
敵にかかれ。随一の勇者に、月輪ホゼイラぞ。
屠れ、いっさいを屠り去れ。
されど、退く怯者あらば、われらはこれをさげすまん、
侮蔑に伴うかの唇と心とのさげすみをもて。
されば君らの利剣もて、叩き斬れ。彼らの血汐は、われらの足下の絨緞となれ。
屠れ、いっさいを、君らの利剣もて叩き斬れ。屠り去れ、いっさいを。
[#ここで字下げ終わり]
この双《ふた》つの死の歌に、新しい感激がバクル一門の熱情を沸きたぎらせ、奮激は倍加して、彼ら側の勝利は決定的となり、不動のものとはなった。
かくのごときが、われらの無道時代《ジヤーヒリーヤ》の父祖の戦った模様です。またかくのごときが、彼らの娘たちの為人《ひととなり》でした。願わくは地獄《ジヤハンナム》の業火の、彼らにあまりにも苛酷ならざらんことを。
――次に青年は熱狂した聴衆に申しました、「こんどは、王女ファーティマと詩人ムラキースとの恋の冒険[#「王女ファーティマと詩人ムラキースとの恋の冒険」はゴシック体]をお聞きあれ。この両人は共にやはり無道時代《ジヤーヒリーヤ》に生きていた人です。」
そして彼は言いました。
王女ファーティマと詩人ムラキースとの恋の冒険
語り伝えるところでは、イラク地方はヒラーの国王ヌーマーンは、ファーティマと名づくる、熱烈であると等しく美わしい王女を持っておられた。ヌーマーン王は若い王女の油断ならぬ性分を心得ていられたので、一門の不面目とか災厄を防ぐため、これを遠く隔たった宮殿に閉じこめておく配慮をめぐらした。そして、わが娘の名誉のためとまた慎重から、その宮殿の周囲を、日夜武装した衛兵に監視させる用心をもなされた。それで王女の侍女一人のほかには誰一人、ファーティマの操を全うするこの隠れ家に入る権利がなかった。それのみか、さらに思慮と警戒の念から、毎夕、日が暮れると、その宮殿のまわりに、大きな毛織の外套を曳き廻させて、砂地の表面を平らに均《な》らし、王女に仕える若い娘の小さな足跡を消し去り、また、翌日、艶事《つやごと》を求めてうろつき歩く男の足跡が残っていないかを、調べる便りとしたのであった。
さて、美しい囚《とら》われの女は、毎日しばしば、むりやり入れられた僧院の頂上に登って、そこから遥かの通行人たちを眺めては、溜息を吐《つ》いていた。一日、王女はこうして、イブナト・イジラーンと呼ばれる自分の若い侍女が、一人の風采の立派な若者と話しているところを見た。そして結局その若い娘から、その惚れている若者は、有名な詩人ムラキース(8)であり、すでに何度もその愛を楽しんだということを聞き出した。実際に美しくもあり快活でもあったその侍女は、女主人に向って詩人の美男子ぶりと見事な髪とを讃めそやし、それが一と方ならぬ讃め言葉であったので、熱烈なファーティマは、自分もまたその詩人とぜひ会い、侍女と同様に彼を楽しみたいものと切に望んだ。しかし彼女はまず、王女としての繊細な雅《みや》び心から、果たしてその美貌の詩人が多少の家柄を持つかどうか、確かめたいと思った。その点まさに彼女は、自分の生まれついた高い血統のまことのアラビア人としてのたしなみを発揮したわけです。かくて彼女は、自分よりも身分低く、従って、無頓着で気むずかしくない侍女とは、おのずと異なった。
さればその目的で、姫の意中ではのるかそるかの決定的な試みが、この蟄居《ちつきよ》の王女によって要求されたのであった。それというのは、詩人がこの城内にはいって来られる見込みがあるかどうか、若い娘といろいろ話した末、王女は最後に侍女にいった、「よくお聞き。明日その若者がお前と落合ったら、まず香木で作った小楊枝《アラーク》を出し、次に香炉を出して、それにお香を少々くべなさい。そうしてから、その方に、衣の下に香炉を置いて、香を焚きしめるから、立って下さいとおたのみ。ところでもしその方が、小楊枝《アラーク》の端を切って、その先を少々柔らげることをしないで使ったり、或いは小楊枝《アラーク》をことわったりしたら、それははしたない庶民階級の人です。また香炉の上に身を置くとか、或いはそれをことわったりしたら、これまた身分卑しい人です。そうとすれば、よしんばどんな大詩人にせよ、たしなみのないような男は、王女たちにはふさわしくありません。」
そこで翌日さっそく、若い娘は恋人に会いに行ったとき、試さずにはいなかった。というのは、部屋のまん中に火を入れた香炉を置いて、そこに香をくべてから、娘は若者にいった、「こちらに寄って香を焚きしめなさいな。」けれども詩人はそのまま動かず、答えた、「お前自身でここに持ってきてくれ、私のすぐそばに。」そこで若い娘はそうしたが、しかし詩人は香炉を己が衣の下に置きはせず、ただ鬚《ひげ》と髪に香を焚きしめるだけにとどめた。そのあとで、愛人の差し出す小楊枝《アラーク》をば受けとって、先を少々切り捨て、端を切り込んで柔らかい刷毛《はけ》とし、こうして自分の歯を磨き、歯茎に香りをつけた。そうしてから、詩人と若い娘との間には、起ったことが起った。それから小娘は警戒厳しい宮殿に帰ると、元気旺盛な主人に試みの結果を語った。するとファーティマはすぐにいった、「その身分高いアラビア人を連れてきておくれ。早くですよ。」
しかし番人たちは厳重で、武器を持って、間断なく見張っていた。毎朝、姫の父君ヌーマーン王の卜者《うらないしや》たちは、その場所に来て、砂上に印された足跡を見、鑑定した。そして卜者たちは主君の許に戻って申し上げる、「おお当代の王よ、われわれは今朝は、若い娘イブナト・イジラーンの小さな足形《あしがた》しか認めませんでした。」
ところで、通った跡を残さずに、詩人を王女の許に連れ込むに、その小賢《こざか》しい侍女は、どうしたかというと、こうです。御主人の定めた夜に、娘は若者のところに出かけて、ためらわず彼をわが背に負い、男の腰の下に外套を巡らし、それをば自分の身体の前に結《いわ》きつけて、しっかりと男を背に乗せ、こうして露顕するおそれなく、誘惑者をば誘惑された女の許に連れ込んだ。そして詩人はかしこで、猛烈な王女と共に、祝福された夜、純白と甘美と熱烈の夜を過ごした。そして夜明け前に、はいった時と同じ工合に、すなわち若い娘の背に運ばれて、帰ったのであった。
さて、翌朝はいかになったか。王の卜者《うらないしや》たちは毎朝のように、砂上にしるされた足形を調べに来た。次に彼らは王女の父王に言上に行った、「おお、われらが殿よ、われわれは今朝は、イブナト・イジラーンの小さな足跡しか認めませんでした。しかしあの若い娘はかの御殿で著しく肥えたに相違ありませぬ。と申すは、その足形は砂中にさらに深くなっておりますれば。」
されば事はしばらくの間、このように運びつづけた。二人の若者は愛し合い、若い侍女は恋人を運び、卜者たちは肥満を言上しつつ。そしてもしも詩人自らわれとわが手をもって、己が幸福を破壊しなかったならば、この事態が止む理由は何らなかったであろうが。
事実、美男のムラキースには一人の熱愛する友人がいて、彼はこれにかつて何ひとつことわったことがなかった。それで、彼がこれに自分の奇妙な情事を知らせると、その若い友は、自分を同じ工合にファーティマ姫の許に連れて行き、夜の闇と、身の丈や物腰が友とそっくりなのを幸い、自分をムラキースその人の身代りにしてくれと、強《た》って頼むのであった。ムラキースもついにこの青年の懇望に負けて、承諾を誓ってしまった。そして夜になると、その若い友は若い娘の背に乗って、王女の許に入れられた。
暗闇のなかで、始まるべきことが始まった。けれどもすぐに、闇にもかかわらず、手練のファーティマは、固さあるところに柔らかさ、燃えさかる熱烈あるところに微温《なまぬる》さ、溢るる豊かさあるところに貧しさあるを認めて、替玉に気づいてしまった。そこで即刻即座に起き上がって、闖入者《ちんにゆうしや》を軽侮の足蹴を与えて追い出し、侍女に拾わせ、侍女はこれをいつもの運搬法で外に運び出した。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十六夜になると[#「けれども第九百七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして爾来、詩人は王女に振られた。王女は断じてその裏切りを許すことを肯《がえ》んじなかった。詩人は自分の苦しみと未練を吐露するため、次のような抒情詩篇《カシーダ》(9)を賦した。
[#ここから2字下げ]
さらば、麗しのバクルの姫よ。われ行くとも、幸《さち》は御身のかたえに止まれよかし。
あわれ、いまだ先の日まで、不幸のムラキースよ、汝のファーティマは、ナブク樹の枝のごとく高雅の腰により、駝鳥のそれのごとく調べよき足どりにより、
その腰により、足どりにより、池水のごとく透き通る麗しさによりて、
その麗しさにより、清らけき露にも似たる、爽やかの唾液に濡るる、
透き通る皓歯《こうし》によりて、また銀《しろがね》の面《おもて》のごとくなめらかに艶《つや》めく頬により、愛らしき手とその腕輪により、その髪の黒き波濤によりて、
かの女《ひと》は汝の夜々を魅し、汝の心臓を刺してありしを。あわれ、さらばよ。いっさいは消え失せぬ。
友の気まぐれのため、おお情|篤《あつ》きムラキースよ、汝はいっさいを消え失せしめぬ。
絶望にわが身を噛め。美貌の友の気まぐれゆえに、汝が歯をもて汝が十指を噛み切れよ。
あわれ、いっさいは消え失せぬ。そは一場の夢ならず、汝は目覚めてあれば。しかして夢は眠りの美しき幻にして、永遠に汝に禁じられたるものなれば。
[#ここで字下げ終わり]
かくて詩人ムラキースは焦《こが》れ死にした人々の一人でありました。
――次に青年は聴衆に申しました、「イスラム時代に入るに先立って、まず雄族キンダの王とその妃ヒンドの物語をお聞きあれ。」
そして彼はいいました。
フジル王の復讐
われらの遠き父祖の物語によって、われらに語り伝えられているところでは、キンダ諸部族の首長で、無道時代《ジヤーヒリーヤ》最大の詩人イムルール・カイス(10)の父、フジル王は、その獰猛と豪胆な向う見ずとで、アラビア人の間で最も恐れられている人物であった。王は自分の一家の人々に対してさえも厳格を極め、そのため、わが子イムルール・カイス王子は、己が詩才を存分に伸ばし得るためには、父親の天幕《テント》を脱出せざるを得ないほどであった。というのは、フジル王は、詩人の称号など公然と身につけることは、自分の子息にとって、高貴と己が高位とに反することと心得ていたのです。
さて、ちょうどフジル王が一日、離心を抱いたバニ・アサード部族を討ちに出征して、自分の領土を遠く離れていたとき、ジャード(11)の率いる宿敵コダイ一家が、突如、彼の領土を急襲して掠奪《ラージヤ》を行ない、莫大な戦利品、干棗椰子《ほしなつめやし》の多量の貯蔵、多数の馬、駱駝、家畜、および多数のキンダの婦女子を掠め去った。そのジャードに囚《とら》えられた女のなかに、フジル王の最愛の妻、部族の宝玉、美女ヒンドがいた。
されば、その事件の報至るや、フジルは急遽全軍を率いて引っ返し、ヒンド強奪者、仇敵ジャードに遭遇できると思《おぼ》しき場所に急行した。果たしてやがて、コダイ一家の陣から程遠からぬところに到着した。そこで王は直ちに、サリおよびサードゥスという名の、老練な二人の間者を放って、その場所を偵察し、ジャードの軍勢について能う限り多くの情報を収集させることにした。
二人の間者は見破られずに首尾よく陣地に忍び込んだ。そして敵の兵数と布陣の模様について、貴重な偵察を収集した。万端視察して数時間を過ごした後、間者サリは仲間のサードゥスにいった、「俺たちの今見とどけたところでもう、ジャードの計画についての概略と情報としては、俺には十分に思える。俺はこの足でフジル王のところに行って、俺たちの目撃したことを報告しようと思うが。」けれどもサードゥスは答えた、「この俺は、もっと重要で正確な詳細を手に入れないうちは、行くまい。」そして彼独りコダイの陣地に残った。
さて、全く夜に入ると、ジャードの配下たちは、首長の天幕《テント》の近くに警備をしにやってきて、あちこちに群を成して位置に就いた。するとフジルの間者サードゥスは、露見を恐れつつも、大胆にやってのけ、折から他の連中と同様地に腰を下ろした一人の衛兵に、敢然と寄って、その肩を手で叩いて、いきなり命令的な口調で呼びかけながら言った、「お前は誰か。」衛兵は答えた、「某の子、某です。」するとサードゥスはきっぱりとした落着いた声で語を継いだ、「よろしい。」次に彼は首長ジャードの天幕《テント》のすぐそばに腰を下ろしに行ったが、誰一人彼に不安を覚えさせることなど思い寄らなかった。
すると程なく、天幕《テント》の内部《なか》で話し声のするのが聞えてきた。それはジャード自身の声で、彼は美しい俘虜《とりこ》ヒンドのそばに坐って、彼女を抱き、共に戯れているのだ。そしていろいろの事がらのうち、サードゥスは以下の対話を聞いた。ジャードの声がいった、「お前の考えでは、ヒンドよ、どうだ、お前の夫フジルは、今こうして俺がお前のそばに、睦じく差し向いでいると知ったら、どうするかな。」するとヒンドは答えた、「死に懸けて! あの人は狼のように、あなたを探して駈けまわり、赤い天幕《テント》の前でなければ、走るのをやめますまい、煮えくりかえって、憤怒と激怒に溢れ、復讐に心焦り、苦い草を食うさかりのついた駱駝のように、口に泡を一杯吹きながら。」するとジャードは、このヒンドの言葉を聞いて、嫉妬に襲われ、俘虜《とりこ》の女の横面を張って、いった、「ふむ、わかったぞ。あの野獣のフジルは、きさまの気に叶い、きさまはあいつを慕って、俺に恥をかかせようという気だな。」けれどもヒンドはいそいで打ち消していった、「われわれの神々ラートとオザットにかけて誓います、私は夫フジルを嫌うほど、嫌った男はついぞありません。お訊ねなさるからには、どうして私の気持をお隠し申しましょう。全くのところ、フジルほど、寝ても覚めても、油断なく用心深い男を私は見たことがございません。」ジャードは聞いた、「どうしてだ、言ってみろ。」するとヒンドはいった、「お聞き下さい。フジルは眠気に襲われると、片方の眼を閉じるけれど、片方の眼は開けています。そして全身の半分は起きているのです。これは全く本当のことで、夜々のうちの或る夜、あの人が私の横に眠って、私がその眠りを見張っていると、どうでしょう、そこに突然、一匹の黒い蛇が茣蓙《ござ》の下から現われて、あの人の顔にまっすぐ向って行きます。するとフジルは眠りながらも、本能的に顔をそむけました。すると蛇は手のほうに滑って、開いた掌《てのひら》に向います。するとフジルはすぐ手を握りました。そうなると蛇ははぐらかされて、延ばした足に向ってゆきます。けれどもフジルは、相変らず眠ったまま、脚を曲げて足を持ち上げました。蛇はあわてて、もうどこに向ってよいかわからず、やがて牛乳の鉢めがけて滑って行くことにしました。それはいつも牛乳を満たして寝床のそばに置くように、フジルが私に言いつけておくのです。蛇はその鉢に行き着くと、がつがつとその牛乳を吸って、次にそれを鉢のなかに吐き出しました。私はこれを見て、心中悦びながら、思いました、『何て思いがけない仕合せだろう。フジルが眼を覚ませば、きっとこの今は毒のはいった牛乳を飲んで、即座に死んでしまうだろう。ああ、やっと私はこの狼からのがれられる。』しばらくたつと、フジルは喉が渇いて眼を覚まし、牛乳を求めました。そして私の手から鉢を受けとったけれど、ちゃんとまずその中身を嗅《か》いでみるのでした。するとたちまちその手が震え、鉢は落ちて、引っくりかえってしまいました。それで命が助かりました。万事、どういう場合でも、あの人はこういう風にするのです。何事も抜からず、何事も前もって用心し、決して不意を打たれることなどございません。」
間者のサードゥスはこの言葉を聞いた。次には、両人の接吻と吐息の音よりほかは、ジャードとヒンドの間にいわれたことは、もはや何ひとつ聞きとれなかった。そこで彼はそっと立ち上がって、逃げ出した。そして一とたび陣地の外に出ると、大股で歩いて、夜の明けぬうちに、主君フジルの許に達し、自分の見聞きしたことすべてを告げた。報告を終るに当って、こういった、「私が二人のところを去ったとき、ジャードは頭をヒンドの膝に凭れかけ、唯々諾々と応ずる俘虜《とりこ》の女と、戯れておりました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十七夜になると[#「けれども第九百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
フジルはこの言葉に、唸りを発する溜息を胸中に転がして、すっくと立ち上がり、出発を命じ、直ちにコダイ方の陣地襲撃の命を下した。そこでキンダ方の騎馬隊全軍は進発した。そしてジャードの陣地に不意打をかけた。ここに混戦は凄まじく開始された。ジャードのコダイ勢はやがて打ち倒され、敗走した。そして攻め落された陣地は掠奪され、焼き払われた。人々は殺した人々を殺し、残るいっさいを憤怒の風に舞い上がらせた。
ジャードについては、逃げる者どもを戦いに引き戻そうと懸命になっている時、群衆のなかでフジルに見つかった。するとフジルは唸《うな》り吼《ほ》え立てながら、猛禽のようにこれに躍りかかり、馬上にいるその胴を掴んで、空中に持ち上げつつ、しばし手頸《てくび》の力でそのまま支え、次にこれを大地に叩きつけて、骨を打ち砕いてしまった。そしてその首を斬って、わが馬の尻尾《しつぼ》に吊るした。ジャードについての復讐をとげると、彼はこんどは奪いかえしたヒンドのほうに向った。そして女を二頭の馬に結びつけ、馬に鞭を呉れて、二頭を互いに反対側に駈け出させた。こうして女が四裂《よつざき》の刑にされ、ばらばらに引き裂かれる間、彼はこれに向って呼ばわった、「くたばれ、おお、舌はかくも甘ったるく、心の秘密はかくも苦い女よ。」
――この残忍な復讐を語り終えると、青年は聴衆に申しました、「われわれはいまだ祝福せられたイスラム以前の時期にいるのであるからには、当時のアラビア女性の風俗について、預言者――その上に祈りと平安あれ。――その最愛の妻、われらがアーイシャ夫人のわれわれにお伝えになっている話をば、お聞き下され。これぞ原始イスラム随一の美女にして最高の女流、叡智と情熱と情愛と勇気の女性《によしよう》、その絢爛たるお言葉は逞しき青年の雄々しい活気あり、雄弁な語法は清らかな処女の健全清新な美を備えておられたのであります。」
そして彼は次のアーイシャのなされた話をいたしました。
夫君の品定め
日々のうちの或る日、数人のヤマン族(12)の高貴な女性が私の住居に寄り合いました。そして皆様お互いに、よきにせよ悪しきにせよ、御自分の夫がどうであるか、ありのまま、何ひとつ包み隠さず、話し合おうと、誓いを立てて申し合わせなさいました。
最初の女性が口をきって、申しました、「宅の主人でございますか。それはもう見苦しく、寄りつけないような男で、まるで嶮しい山の天辺《てつぺん》に住んででもいる鈍重な駱駝の肉みたい。おまけに、痩せてひからびて、骨のなかには一とかけの髄も見つかるまいというほどですわ。すれきれた菰《こも》ねえ。」
二番目のヤマン女性はいいました、「宅の主人ときては、本当は私は一と言もいうべきでございますまい。だって、夫の話をするだけでも、いやなのですもの。手におえない獣《けだもの》で、一と言私が返答すれば、すぐと離縁だとおどかすし、そうかといって黙っていれば、突きとばして、まるで槍の刃の抜き身の穂先を突きつけるみたいですの。」
三番目はいいました、「私はと申しますと、宅の立派な亭主はこうなのです。物を食べれば、皿の底まで甞《な》めるし、飲めば、最後の一滴まで吸う。しゃがめば、荷物みたいに自分の上にどっかりかがんで、うずくまる。動物を殺して食べさせようなんていうことがあれば、いつだって一番痩せ細って肉の落ちたのを殺す。そのほかのことといったら、あるかなし。私の身体《からだ》に手を延べて、私が達者でいるかどうか見るだけだってしはしません。」
四番目はいいました、「私の伯父の息子など、まっ平ですわ。私の眼と心の上の、重たい塊まりです、夜も昼も。欠点、無法、狂気の水槽よ。何でもないことで頭を撲《ぶ》つとか、さもなけりゃ、お腹を突いて、怪我をさせる。さもなけりゃ、飛びかかる。さもなけりゃ、一どきに、殴る、痛める、傷つけるです。危険千万な狼、死んでくれるといいわ。」
五番目はいいました、「おお、私の夫は、ティハーマ(13)の夜々の晴れた一夜のように、優しく美しく、雨雲の恵み深い雨のように恵み深く、わが国の武士全部から敬われ、恐れられています。家を出れば、凛々《りり》しく逞しい獅子です。豪《えら》い人で、その気前よさのため、万人に開かれたその竈《かまど》の灰はいつもおびただしいものでございます。その名声の柱は高く、光栄満ちております。小食で、饗宴の夜もお腹をすかしているし、用心深く、危険の夜は決して眠らないし、お客あしらいよく、旅人を接待するため、わざわざ住居を広場のすぐ近くに定めました。全く、なんと豪くて立派な人でしょう、なんと好ましい人でしょう。柔らかくふっくらした肌をして、気持よく人をくすぐる兎の毛のよう。息の香りは香木の馨《かぐ》わしい香気です。あの人にどんなに力と権力があろうと、すべて私はあの人に対しては勝手気ままにいたしておりますの。」
最後に六番目のヤマン族の奥方は、しとやかに微笑して、自分の順番になっていいました、「おお私は、私の夫というのは支配者《マーリク》アブー・ザル、私たちの全部族に知られている、申し分ないアブー・ザルでございます。私が貧家の子で、困窮貧苦にあるのを見て、私を自分の色彩《いろどり》美しい天幕《テント》に伴い、私の耳には貴い耳飾り、胸には見事な胸飾り、両手と踝《くるぶし》には美しい環、両腕には丸々とした太り肉《じし》を、飾ってくれました。主人は私を妻として敬い、私をば屋形に移しましたが、そこには絶えず竪琴《テオルブ》のにぎやかな歌がひびき、立派に作った柄《え》のついたサムハル(14)産の見事な槍がきらめき、広大な囲場《かこいば》に集めた牝馬のいななき、牝駱駝のうなり声、穀類を踏んで叩く人々の物音、数多《あまた》の家畜の群の雑然とした叫び声などが、絶えず聞えております。主人のそばで、私は好きなことを話しますけれど、決して叱られたり、咎められたりいたしません。私が横になれば、決して冷淡に放ってはおきません。私が眠れば、朝寝をさせておいてくれます。私の胎《はら》を身ごもらせて、一人の男の子を授けてくれましたが、何という立派な子でしょうか。愛くるしくて、そのかわいらしい小さな寝床は、まるで茣蓙《ござ》の編目から抜き取った一本の軽い藺草《いぐさ》の残す虚《うつ》ろな跡のよう。お行儀がよくて、仔山羊の一と口分もあればお腹は十分でしょう。きれいな子で、歩いて、小さな鎖《くさり》帷子《かたびら》の環のなかでいかにもあどけなく身を揺するときには、見る人々の分別を奪ってしまいます。また、アブー・ザルの授けてくれた娘ときては、それはもう、好ましい、ええ、ほんとうに好ましい娘《こ》ですよ、アブー・ザルの娘は。これは一族の宝玉です。丸ぽちゃで、編んだ髪のように半外套にぴったりくるまって、うっとりするほどよく着物を着こなします。お腹《なか》は形がよく、突き出してはおりません。胴は細く半外套の下で波打っています。お臀《しり》は豊かでゆったりと、腕はまるみがあり、眼は大きくぱっちりと、瞳は漆黒、眉毛は細く、愛らしい弓形、鼻は立派な剣の切先のように反《そ》り気味、口は美しく偽りなく、手はきれいで物惜しみせず、率直快活な明るさ、木蔭のように爽やかな話しぶり、息吹《いぶき》は絹よりも柔らかく、魂をさらってゆく麝香《じやこう》よりも馨《かぐ》わしいのです。ああ、どうぞ天はアブー・ザルと、アブー・ザルの息子と、アブー・ザルの娘をば、末永く私に残しておいて下さいますように。願わくは私の愛情と悦びに、末永く残しておいて下さいますように。」
さて、六番目のヤマン族の奥方がこのように話しなさったとき、私は皆様にお話を楽しく伺わせて下さったことをお礼申し上げてから、こんどは私が口を切って、皆様に申しました、「おお姉妹たちよ、どうぞ至高のアッラーは祝福された預言者を、私たちに末永く残しておいて下さいますように。このお方は私には父母の血よりもたいせつでございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十八夜になると[#「けれども第九百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……このお方は私には父母の血よりもたいせつでございます。けれども私の口は、このお方をお讃め申し上げるには、たしかに、十分清らかではございませぬ。それゆえ私は皆様に、かつてこのお方が私ども女性についておっしゃったところを、ただ繰り返し申し上げるにとどめるといたしましょう。私ども女性は、地獄《ジヤハンナム》で、赤い劫火《ごうか》の焼き尽す最も数多い燃木《もえぎ》なのでございます。実際或る日のこと、私が天上の道において私の役に立つような、忠言とお言葉を与えて下さいとお願いいたしますと、あの方はこうおっしゃいました。
『おおアーイシャ、わが親しきアーイシャよ、どうか回教徒《ムスリムーン》の妻たるものは、自分自身よく注意しわが身を慎しみ、苦にあっては忍耐、楽にあっては感謝を抱き、夫には数多《あまた》の子を与え、親切と配慮をめぐらし、夫を通じてのアッラーの御《み》恩恵《めぐみ》を決して忘れることのないように。というのは、おお、わが最愛のアイーシャよ、報酬者はその御親切を忘れた女を、御慈悲から放逐したもうのです。そして、自分の夫に無礼な眼差《まなざし》を注いで、夫の前であろうと後ろであろうと、「なんてあなたの面《おもて》は醜いのでしょう。なんてあなたは見苦しい、いやな人間でしょう、」などというような女、そんな女は、おおアーイシャよ、アッラーはその目を捩《よじ》って藪《やぶ》にらみとなさり、その身体《からだ》を延ばして歪《ゆが》め、動作鈍く人前に出られず、しわだらけの、たるんだ、だぶだぶの肉のお臀の上に、きたならしくうずくまった、いとわしいしまりのない肉塊としてしまいなさるだろう。また、夫婦の臥床《ふしど》のなかであろうと、その他の所であろうと、およそ夫に敵対したり、角《かど》のある言葉で夫を怒らせたり、夫の機嫌を損なったりする女は、おお、そのような女は、報酬者は審判の日に、その舌を引っ張ってきたない肉の革紐とし、七十|腕尺《わんしやく》に引き延ばし、それが、気味の悪い鉛色をした肉の、罪の女の首に捲きつくであろう。けれども、おおアーイシャよ、自分の夫の平静を決して乱すことなく、少なくともあらかじめ許可を受けないでは、決してわが家の外で夜を過ごすことなく、凝った着物とか高価な面衣《ヴエール》など着こまず、腕や脚に高価な環などはめず、信徒の眼をひこうなどと決して努めず、創造主によってわが裡に置かれた自然の美しさをもって美しく、言葉優しく、善行に富み、夫には親切でまめまめしく、子供たちには優しく慈《いつく》しみ深く、隣人にはよい相談相手、あらゆるアッラーの被造物には懇《ねんご》ろな有徳の女、おお、おお、こういう女は、わが親しいアーイシャよ、これは預言者たちと主《しゆ》の選ばれた人たちと共に、天国に入るであろう。』
そこで私はすっかり感動して、叫んだことでした、「おおアッラーの預言者よ、あなたは私には父母の血よりもたいせつなお方でございます、」と。
「――さてわれわれはイスラムの祝福された時代に至り着いた今となっては、」と青年は続けました、「教王《カリフ》オマル・イブヌル・ハターブ(15)――願わくはアッラーはこれに恩恵の限りを尽したまえ。――その御生涯の事蹟二、三をお聞き下され。これこそはこの清純にして峻厳な時代の、最も清純にして最も峻厳な人物、あらゆる信徒の長《おさ》を通じて最も公正な首長《アミール》であらせられた。」
そして彼は言いました。
両断者オマル
語り伝えるところでは、信徒の長《おさ》オマル・イブヌル・ハターブは、――イスラム随一の公正な教王《カリフ》にして私心なき人物であられたが、――エル・ファルルーク、すなわち「両断者」と渾名《あだな》されていた。それは、預言者――その上に祈りと平安あれ。――によって宣せられたる己れに不利な宣告に従うことを拒むあらゆる者をば、すべて一刀の下に両断する習慣があられたからであった。
その淡泊恬淡ぶりは例えば次のようであられた。一日、ヤマンの諸王の財宝を手に入れた後、教王《カリフ》は全鹵獲品を回教徒《ムスリムーン》の間に、差別なく分配させた。そして各自分け前として、いろいろな品のなかで、ヤマンの縞の布地を一反ずつもらった。オマルも最下位の一兵卒と全く等しく、御自分の分け前をとった。そして割り前としてお手に入ったそのヤマンの縞の布切れをもって、新しい服を作らせなすって、それを召されて、メディナの演壇にお登りになり、新たな邪教徒討伐行のため、回教徒《ムスリムーン》に訓示をなすった。ところがそこに、会する者の一人が立ち上がって、御訓示をさえぎって、申し上げた、「われらは御命《ごめい》に従いますまい。」そこでオマルはこれにお訊ねになった、「何ゆえじゃ。」その男はお答えして、「それと申しまするは、わが君がヤマンの縞の布地を等分に分配なすった折、回教徒めいめいは一反ずついただき、わが君御自身も同じくただ一反だけお取りになった。ところがそれだけの布地では、今日お召しになっている一着の服全部をお作りになるに、足るはずはございません。されば、もしわが君がわれわれの知らぬまに、われわれに賜わった分よりももっと多くの分け前をお取りになったのでなければ、そのお召し物を作れる道理はありませぬ、わけてもわが君は長身にいらせられますれば。」するとオマルは御子息アブドゥラーのほうを向いて、おっしゃった、「おおアブドゥラーよ、あの男に答えてやれ。かの言い分はもっともなれば。」そこでアブドゥラーは立ち上がっていいなすった、「おお回教徒たちよ、さらば聞かれよ。信徒の長《おさ》オマルは、御自分の布切れをもって衣服を縫わせたいと思われたとき、布切れは不足であった。従って、折から本日着用なさるに適当な御衣をお持ち合わせないゆえに、私が自分の布切れの一部を差し上げて、御服の不足分を補うこととしたのだ。」次に王子は坐った。すると、オマルを詰問した男はいった、「アッラーに称えあれ。今となっては、われわれは御命に従うでございましょう、おおオマルの君よ。」
――また或る時、オマルは、シリア、メソポタミヤ、エジプト、ペルシアおよびルーム人の全土を征服し、イラクにバスラとクーファの町を建てた後、メディナに還られたが、都では、十二の継ぎはぎがあるほど着古した衣服を召されて、毎日|回教寺院《マスジツト》に至る階段の上にお出ましになって、臣民の末の末に至るまでその訴えをお聴きになり、貴族《アミール》も駱駝曳きも同様、万人に差別ない裁きをお下しになった。
ところが、その頃、コンスタンティニアのルーム人を治めていた|東ローマ皇帝《カイサル》ヘラクリウス(16)は、ここに一人の使節を派して、彼自身の眼でもって、このアラビア人の首長《アミール》の手腕、力量、行動を見てまいれと、ひそかに命じた。そこで、その使節はメディナにはいると、まず住民に問うた、「あなた方の王はどこにおいでか。」住民は答えた、「われわれには王はありません、われわれには首長《アミール》がいらっしゃるから。そしてそれは信徒の長《おさ》、アッラーの後継者《ハリーフア》、オマル・イブヌル・ハターブ様です。」使節は問うて、「そのお方はどこにおいでか。そちらに案内してもらいたい。」一同答えて、「お裁きをしていらっしゃるか、それともお休みになっているかも知れません。」そして住民は回教寺院《マスジツト》の道を教えた。|東ローマ皇帝《カイサル》の使節が寺院に着くと、オマルは、寺院の焼けつくような階段の上に、お頭《つむ》を直接《じか》に石の上に載せて、午後の日射しを受けて眠っていらっしゃった。額からは汗が垂れて、お頭《つむ》のまわりに大きな水溜りとなっていた。
これを見ると、|東ローマ皇帝《カイサル》の使節の心中に恐怖が下り、叫ばずにいられなかった、「全地の諸王がその前に頭を垂れ、当代最大の帝国の主君たる者が、こうして乞食のような有様をして、ここにいるとは。」そして使節は戦慄に襲われて立ち尽した。というのは、次のように思ったがためであった、「一国民がこの人のような人物に治められていては、他の諸国民はまさに喪服を着なければならぬわい。」
ペルシア征服の際、イスタクハルのヤズデゲルド王(17)の宮殿で奪ったいろいろのすばらしい品々のなかに、一枚の縦横六十|腕尺《わんしやく》の絨緞があり、それには宝石で作った花一輪一輪が、黄金の茎の上に立っている花壇の図が、描かれていた。回教徒軍の大将サアド・ベン・アブー・ワッカスは、貴重品の売買価格についてはあまり通じていなかったとはいえ、かかる珍品の全価値をとにかく覚って、|ペルシア王《ホスロー》らの宮殿掠奪からこれを買い取り、オマル王への献上品とした。しかし峻厳な教王《カリフ》――願わくはアッラーは恩寵をもってこの君を包みたまえ。――は、すでにヤマン征服の際、被征服国の戦利品のなかで、衣服一着を作るに必要となさる以上の、大幅の縞布を取ろうとはなされなかったくらいであるから、このような贈物を受けて、人民への影響をいたく軫念《しんねん》なさる奢侈の風を、助長しようとはお望みにならなかった。そこで即座にその貴重な絨緞を、当時メディナにいた回教徒の将帥の数だけに、切り刻ませなすった。そして御自身の分としては一片もお取りにならなかった。ところで、その豪奢な絨緞の価格たるや、切り刻まれてさえも、アリー(18)――その上に最も選ばれたる恩寵あれ。――は、割り前としてお手に入った断片を、シリアの商人たちに二万ドラクムで売ることがおできになったほどであった。
――また同じくペルシア侵入の折のこと、回教武士に最も勇敢に抵抗した太守《サトラプ》ハルモザーンは、降服を承諾したが、ただし自分の一身の運命を決するは、教王《カリフ》御自身に御一任申すというのであった。ところがオマルはメディナにいらっしゃった。そこでハルモザーンは、信徒のなかで最も武勇すぐれた二人の大将の率いる護送隊の監視の下に、この都に連れ行かれた。メディナに着くと、その二人の大将は、自分のペルシア捕虜の身分と大立物であることを、オマルの御眼にさらに際立たせようと思って、ペルシア太守《サトラプ》たちが国王《ホスロー》の宮廷で着用する、金の刺繍をした外套と燦然とした円錐形の大王冠《テイアラ》を、これに着けさせた。こうして己が高位の標章を着飾って、ペルシアの首領は、教王《カリフ》が柱廊の蔭に、古茣蓙《ふるござ》の上に坐っていらっしゃる、回教寺院《マスジツト》の階段の前に引き行かれた。人民のざわめきによって、誰かが来たことがおわかりになり、教王《カリフ》はお眼を上げなさると、御自分の前に、ペルシア諸王の宮殿で常用される、あらゆるきらびやかな装いをしている太守《サトラプ》を御覧になった。一方、ハルモザーンのほうでもオマルを見たが、しかし、つぎはぎだらけの着物を着て、回教寺院《マスジツト》の中庭に、古茣蓙《ふるござ》の上にただ独り坐っているこのアラビア人に、教王《カリフ》を、新たな大権の主《あるじ》を認めることを、拒んだのであった。だがやがてオマルは、この捕虜に、かくも久しきにわたって、彼らの一|顰《ぴん》一笑をもって、アラビアの最も勇猛な諸部族をも震え上がらせていた、かの傲慢な太守《サトラプ》の一人をお認めになって、叫びなされた、「汝と汝の同類を屈伏せしめんがために、祝福せられたるイスラムを興したまえるアッラーに讃えあれ。」そしてペルシア人の金色の衣服を剥《は》ぎ取らせ、沙漠の粗末な布で被わせなすった。次にこれに仰せられた、「汝ここに汝の真価相当の着物を着せられた今となっては、ただその御方にのみいっさいの偉大の属する主《しゆ》の御手を、汝は認むるであろうか。」するとハルモザーンは答えた、「いかにも、難なく認められます。何となれば、神が中立であった間は、われわれはあなた方を打ち破った。それはわれらの過去のあらゆる勝利と、われらのあらゆる光栄が、その明らかな証拠であります。されば、仰せの主《しゆ》はあなた方に味方して戦ったにちがいない、このたびはあなた方がわれらを打ち破ったからには。」オマルは、同意があまりにも皮肉に近いこの言葉を聞いて、眉をひそめなすったが、その御様子で、ペルシア人は、この対話が死刑の判決をもって終るのではないかと恐れた。そこで、激しい喉の渇きを装って、水を所望し、差し出された土器を受けとりつつ、じっと教王《カリフ》に眼を注いで、それを唇に持ってゆくのをためらう様に見えた。それでオマルはお訊ねになった、「汝は何を恐れているか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七十九夜になると[#「けれども第九百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとペルシアの首領は答えた、「私の恐れているのは、私が水を飲む機に乗じて、私に死が授けられはしまいかということであります。」けれどもオマルはこれにおっしゃった、「願わくはアッラーは、そのような猜疑に値することより、われらを守りたまえかし。その水が汝の唇を爽やかにし、汝の渇を医すまでは、汝は安泰であるぞ。」この教王《カリフ》のお言葉に、抜け目のないペルシア人は、その器《うつわ》を地に擲《なげう》って、砕いてしまった。オマルは御自身のお言葉に縛られなすって、これを心配させることを寛大にも断念なすった。ハルモザーンはこの心魂の偉大に打たれ、イスラムを奉じた。そしてオマルはこれに二千ドラクムの食禄を定められたのであった。
――またエルサレム奪取の折、――これはマリアムの子(19)、われらの主《しゆ》ムハンマード(その上に祈りと平安あれ。)の御到来以前の最大の預言者、イーサーの聖都であり、もとはわが信徒もその聖堂に向って礼拝していたのであった、――そのときこの民の首領|総主教《パトリアルケース》ソフロニオスは、開城を承諾したが、しかし教王《カリフ》御自身が親しく来られて聖都を占拠なさることという条件をつけた。条約と条件の通知を受けなさると、オマルは出発なすった。地上におけるアッラーの後継者《ハリーフア》たる人間、イスラムの旗の前に専制君主らを叩頭せしめた人物は、警護の者なく、供をもつけず、駱駝に乗って単身メディナを去りなすった。駱駝には二つの袋がついていた。一方はこの獣《けもの》用の大麦、他方には棗椰子《なつめやし》がはいっていた。御前には一枚の木の皿、御後ろには水を満たした革嚢《かわぶくろ》。そして、礼拝をするためか、或いは御道筋で出遭った或る部族の真中でお裁きをする以外には、お足をとどめず、日夜進んで、こうしてエルサレムに御到着になった。そして降服条約に調印なすった。町の城門は開け放たれた。そしてオマルはキリスト教徒の教会の前にお着きになると、折から礼拝の時刻が迫っているのにお気づきになった。それで総主教《パトリアルケース》ソフロニオスに、どこでこの「信徒」の義務《つとめ》を果たせるかと、お訊ねになった。キリスト教徒はその教会そのものではいかがかと答えた。けれどもオマルは反対なすって、おっしゃった、「余は決してこの教会に礼拝しにはいるまい。それはお前たちキリスト教徒のためを思ってである。何となれば、もし教王《カリフ》が拝礼した場所とあらば、|回教徒たち《ムスリムーン》は直ちにその場所を占領し、お前たちから永久にそこを奪ってしまうであろう。」そして神聖なる聖殿《カアバ》のほうに向って、祈祷を誦《とな》えなすってから、総主教《パトリアルケース》におっしゃった、「さて今は、今後回教徒がお前たちの礼拝の勤めを妨げずに、祈祷のために相会し得る回教寺院《マスジツト》を建てる場所を、余に見せてもらいたい。」するとソフロニオスは、スライマーン・ブニ・ダーウド(20)の神殿の跡、あたかもイブラーヒームの子ヤアクーブ(21)のお眠りになった場所に、御案内申した。一個の石がその場所のしるしに置いてあったが、それは市の塵埃の集め場になっていた。そしてそのヤアクーブの石も塵埃に埋まっていたので、オマルは自ら職人に範を垂れなすって、御衣の垂れに汚物を満たして、遠方に捨てに行かれた。こうして回教寺院《マスジツト》の敷地を清掃させなすったのであるが、その寺院は今にその御名を持ち、地上随一の美しい回教寺院《マスジツト》となっておりまする。
――またオマルは――願わくはアッラーはこれに選り抜きの賜物の限りを尽くしたまえ。――平生御手に棒を携えられ、穴のあいた、方々継ぎだらけの御衣を召して、メッカとメディナの市場《スーク》と街々を歩きまわりなされ、買手をごまかしたり、商品に掛値をしたりする商人どもを、厳重に仮借なく説諭し、またその場で棒を振って懲《こら》しめさえもなさるを常とせられた。さて或る日、新鮮な牛乳と凝乳の市場《スーク》をお通りになっていると、前にいくつも牛乳の鉢を置いて売っている一人の老婆が、お眼にとまった。しばらくの間その老婆のしぐさを御覧になってから、そのそばにお寄りになって、おっしゃった、「おお女よ、見ればお前は回教徒《ムスリムーン》をごまかしているが、今後はそのような真似は慎しみ、お前の牛乳に水を割るようなことは心していたさぬよう。」老婆は答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする、おお信徒の長《おさ》さま。」そこでオマルは通り過ぎなすった。ところが翌日、牛乳|市場《スーク》の方面を巡回なさると、その牛乳屋の老婆に近づきなすって、これにおっしゃった、「おお禍いの女よ、お前の牛乳に水を割ってはならぬと、すでに注意したではないか。」すると老婆は答えました、「おお信徒の長《おさ》さま、私はそんなことはもうしはしなかったと保証します。」ところが老婆がこの言葉を言いも終らず、内から、腹立たしげな若い娘の声が聞えてきて、いった、「なんということです、母様。母様は憚《はばか》りもなく信徒の長《おさ》の御面前で嘘をつき、こうして詐欺《さぎ》に嘘を、嘘に教王《カリフ》に対する不敬を、付け加えなさるとは。どうかアッラーはあなた方をお許し下さいますよう。」オマルはこの言葉を聞かれて、感に耐えず立ちどまりなすった。そして老婆には何らお咎めがなかった。しかし御巡回のお供をしていた、その二人の王子アブドゥラーとアシムのほうにお向きになって、二人におっしゃった、「お前たち二人のうちどちらか、この有徳な若い娘を妻とする気はないか。アッラーはその恩寵の馨《かぐ》わしき御息吹《おんいぶき》によって、この女児に自分と同様有徳な子孫を授けたもう、あらゆる望みがある。」するとオマルの御次男アシムが答えた、「おお父上、私がこれを妻といたしましょう。」そして牛乳屋の娘と信徒の長《おさ》の令息との結婚が、なされたのであった。そしてこれは祝福された結婚でありました。というのは、お二人の間に一女が生まれ、それは後にアブドゥル・アズィーズ・ベン・マルワーンに嫁した。そしてこの後者の結婚から、ウマイヤ朝の王座に登り、王朝第八代となり、イスラムの五大|教王《カリフ》の一人となられた、オマル・イブン・アブドゥル・アズィーズが、お生まれになったのであります。御心《みこころ》に叶う者をば高めたもう御方に讃えあれ。
――またオマルは常々いっておられた、「余は断じて一人の回教徒《ムスリムーン》の殺人をも復讐せずにおくことはしない。」ところが一日、回教寺院《マスジツト》の階段で裁判を開いていらっしゃるところに、一人の青年の屍体が御前に運ばれた。いまだ鬚もなく、若い娘の頬のように、柔らかな、なめらかな頬をしていた。この青年は不明の手によって暗殺され、路面に投げ出されている遺体が発見されたと、申し上げた。オマルは種々情報を求めて、殺人についての詳細を集めようと努力なされた。しかし皆目わからず、犯人の跡形《あとかた》も発見することができない。そこで裁判者としての御心中で、捜索の空しいのを見て御心痛になった。そして至高者に祈願なすって、おっしゃった、「おおアッラーよ、おお主よ、首尾よくこの殺人犯人を発見することを許したまえ。」この祈りをしばしば繰返していらっしゃるのが拝聞せられた。さて翌年の初め、一人の生まれたばかりの小さな赤子が御前に連れてこられた。ちょうど青年の屍体が投げ出されていたその場所に、捨てられていたのであり、まだ生きていた。するとオマルはすぐに叫びなされた、「アッラーに讃えあれ、今や被害者の血がわが手に入った。罪人も見つかるであろう、アッラーの思し召しあらば。」そしてオマルは立ち上がって、一人の信用できる婦人に会いに行かれ、これにその赤子を渡して、おっしゃった。「この憐れな小さな孤児《みなしご》の面倒を見てもらいたい。所要のものの心配は無用じゃ。しかし、お前の周囲でこの子について言われることすべてを、努めて聞くようにいたし、この子を取られたり、誰かがお前の眼のとどかぬところに連れて行ったりしないように、抜かりなく気をつけよ。また、もしこの子に接吻して、胸に抱き締めるような女に出遭ったら、静かにその住居を突きとめ、直ちに余に知らせよ。」その乳母は信徒の長《おさ》のお言葉をば、よく記憶にとどめた。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十夜になると[#「けれども第九百八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
爾来、その子はよく育って、大きくなった。そしてちょうど二歳になったとき、或る日一人の若い女奴隷が来て、乳母に近づいて言葉をかけた、「私の御主人がちょっとお子様を拝借して家に連れてくるよう、お願い申し上げよと私を遣わしました。それというのは、御主人は妊娠していらっしゃって、このお子様の美しさゆえに、――どうぞアッラーは末永くあなたにこのお子を残して下さり、害を与える目を遠ざけて下さいますように。――胎内の子がお子様にあやかるよう、しばらくお子様を眺めて過ごしたいとおっしゃるのです。」すると乳母は答えた、「ようございます。家の子を御主人のところに連れていらっしゃい。けれども私も一緒にまいりましょう。」そしてそうすることとなった。そこで若い女奴隷は子供と一緒に女主人のところにはいった。すると貴婦人はその子を見るや、涙を流して飛びついて、子供を腕に取りあげ、接吻で埋め、感動の極に達してじっと抱き締めた。乳母のほうは、いそぎ教王《カリフ》の御手の間に出頭して、今起ったことをお話し申し、付け加えた、「そしてその貴婦人とは、すなわち至純のサーリハにほかなりません。かの忠実な弟子として、われらの祝福された預言者――その上に祈りと平安あれ。――にお会いしその御後《みあと》に従った、尊敬すべきアンサール人《びと》(22)サーリフ長老《シヤイクー》の御息女でございます。」
オマルは沈思なすった。それから立ち上がり、御剣を取って、それを御衣の内に隠し、教えられた家にお出かけになった。アンサール人は住居の戸口に坐っていたので、挨拶《サラーム》の後、これにおっしゃった、「おお尊敬すべき長老《シヤイクー》よ、御息女サーリハはどうなすったかな。」長老《シヤイクー》は答えた、「おお信徒の長《おさ》よ、娘のサーリハでござるか。アッラーは娘の善行を賞したまえかし。わが娘はその敬虔と模範的なる操行、アッラーと父親とに対する義務を果たす良心、礼拝およびわれらの宗教の課すあらゆる責務を履行する熱心、信仰の純粋をもって、万人に知られておりまする。」オマルはいわれた、「結構じゃ。しかし余は御息女と会見して、その裡に善に対する愛を増大し、称讃すべき業《わざ》の実践を更に励ましてあげたいと思う。」すると長老《シヤイクー》はいった、「娘に対する御厚志、願わくはアッラーは君に御恩恵の限りを尽くしたまわんことを、おお信徒の長《おさ》よ。わしの戻るまで、しばらくここにおいで下され、御意向を娘に伝えて来まするほどに。」そしてはいって、サーリハに教王《カリフ》にお目にかかるようにと通じた。オマルは招じ入れられた。
さて乙女のそばに着くと、オマルはそこにいる人々に退出するよう命じなすった。人々は即座に外に出て、教王《カリフ》とサーリハとを二人だけに、全く二人だけにした。するとオマルは、突如御剣を取り出して、乙女におっしゃった。「余は昔路上に見出された若い男の殺人の件につき、その方より正確なる消息を聞きたいのじゃ。その消息は、その方の知るところ。もしその方余に真実を隠さんと試みるならば、その方と余との間に、この剣があるであろうぞ、おおサーリハよ。」すると乙女は騒がず答えた、「おお信徒の長《おさ》よ、君はお探しの件にあやまたず行き当りなさいました。私は、至高のアッラーの御名の偉大にかけ、また祝福された預言者――その上に祈りと平安あれ。――その功徳にかけて、真実を剰すなく申し上げましょう。」そして声を低めていった。
「さればでございます、おお信徒の長《おさ》よ、以前、私には一人の老女がございまして、その女はいつも私の家にいて、私の外出の際にはどこにでも一緒にまいりました。私はこれを敬し、娘が母親を愛するように愛しておりました。先方も、私に係わりあり利害あることにはすべて、並々ならぬ注意と気づかいを寄せました。永い間、私はこれをたいせつにし、尊敬と敬意をもってその言葉を聞きつつ、このようにしておりました。ところが或る日が来て、その老女は私に申しました、『おお、わが娘よ、私は近く旅に出て近親のところに行かなければなりません。ところが私に一人の娘があります。そしてその娘《こ》が今いる場所では、何か取り返しのつかない不幸に遭いはしないかと案じられるのです。それでどうかその娘をここに連れてきて、私の戻るまで、おそばに置いていただけないものか、折入ってお願い申す次第です。』そこで私はすぐに承諾しました。そして老女は出て行きました。
翌日、老女の娘が私の家に来ました。それは好ましい様子をし、態度も立派で、丈高く恰好のよい、若い娘でした。私はこれに非常な愛情を抱きました。そして自分の寝る部屋に、一緒に寝かしてやりました。そのうち或る午後のこと、私は眠っていると、突然寝込みを襲われ、一人の男に害を加えられるのを覚えました。そやつは全身の重みで私の上に乗りかかり、私の両腕を押えて、身動きもさせません。そして辱しめられ、汚されてから、私はやっとその抱擁から脱れ出ることができました。私は気も顛倒して、小刀を掴み、そのけがらわしい襲撃者の腹に突き立てました。見ればその男は、私と一緒にいたあの若い娘にほかなりません。その鬚のない若い男は、苦もなく娘と見せかけていたわけで、私はその変装に欺かれたのでした。その男を殺すと、私は屍体を取り片づけさせ、それをばあの見つかった場所に棄てさせました。ところがアッラーはその男の不正な所行によって、私が母親になることを許したまいました。それで子供を産みおとすと、私は自分の同意なく生まれた子供を育てるのを、アッラーの御前で引き受ける気になれず、これをも同じく、父親を投げ棄てた路上に遺棄させました。以上が、おお信徒の長《おさ》よ、あの二人の人間の真相でございます。私は真実を申し上げました。アッラーが私の保証人にましまする。」
するとオマルは叫びなすった、「いかにも、その方は真実を告げたに相違ない。アッラーはその方の上に恩寵を下したまえかし。」そしてこの娘の徳と勇気に感心なすって、この上とも善行にいそしむようお励ましになり、この娘のために天に祈念なすった。次にお出ましになり、去るに臨んで父親におっしゃった、「願わくはアッラーは御身の一家に祝福の限りを尽くしたまうように。御息女はまことに有徳な娘じゃ。その祝福されんことを。余は激励と勧告を呈してきた。」すると尊敬すべきアンサール人《びと》の長老《シヤイクー》は答えた、「願わくはアッラーは君を幸福《さいわい》に導き、おお信徒の長《おさ》よ、君の御魂《みたま》の願う御好意と御恩恵とを授けたまいまするように。」
――次に金持の青年は、しばし休んでから、続けました、「こんどは話を変えて、歌姫|空色《そらいろ》のサラーマー[#「歌姫|空色《そらいろ》のサラーマー」はゴシック体]の物語をお話しいたしましょう。」
そして彼は言いました。
歌姫空色のサラーマー
立派な詩人、音楽家にして歌手であったクーファ人《びと》ムハンマードは、次のように語っております。
わしが音楽と歌の稽古をしてやった若い娘と女奴隷のなかで、「空色のサラーマー」よりも美しく、元気で、魅力あり、才気に富み、天賦豊かな女弟子はついぞいなかった。この小麦色の乙女をば、われわれは「空色の女」と呼んでいた。それはその口辺《くちもと》に、青味がかったおびただしい口髭の愛らしい痕跡《あと》が、さながら巧みな書記の筆か、彩色工の軽妙な手かが、そこに風情豊かに引いたとでもいうような、細い麝香《じやこう》の線にも似て、うっすらとあったからである。わしが稽古をつけてやった頃、彼女はまだ全く子供で、花咲いたばかりの少女、小さな両の胸乳《むなぢ》は大きくなりはじめ、その軽い衣をもたげて、少しばかり押しやり、胸から衣を離しているのであった。彼女を眺めることは、法楽であり、精神《こころ》を覆すばかり、眼を眩《くら》ますばかり、分別を飛び去らすばかりであった。集《つど》いに出ると、よしんばそれがクーファで最も名うての美女たちの寄り集まりであろうと、人々はもうサラーマーしか見なかったものだ。彼女がただ姿を現わしさえすれば、「ああ、空色が来たぞ、」と人々は叫んだ。彼女はこれを知るすべての人から熱烈に慕われ、このわし自身からも夢中に慕われたが、しかし誰も何らの首尾に至らなかった。わしの弟子とはいえ、私は彼女にとっては微々たる臣下、恭順な下僕、その命にこれ従う忠実な奴隷であった。たとえ彼女が人骨に生じた松蘿《さるおがせ》(23)を所望したとて、わしは世界中のあらゆる縊死者《くびくくり》の頭蓋に、あらゆる苔むす骨に、それを探しに行ったことであろう。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十一夜になると[#「けれども第九百八十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼女の抱え主イブン・ガミーンが巡礼に出発し、他の女奴隷たちと共々彼女を連れて行ってしまったとき、彼女を偲んで、次の歌の曲と文句を作ったのは、ほかならぬこのわしである。
[#ここから2字下げ]
おおイブン・ガミーンよ、何たる悲境ぞ、いまだ身は生くるとはいえ、すでに死して、汝の残せる不幸なる恋人の様こそは。
汝はこれに二つの恐るべき苦渋、コロシントと黒海産の苦艾《にがよもぎ》をば、飲料として与えたり。
おお、隊商《キヤラヴアン》を率《ひ》きゆくヤマンの駱駝曳きよ、汝はわれを打ち砕きたり、凶《まがつび》の男よ。
汝はかつてそのためしなきばかりに、人々の心を別け隔て、汝の野生の水牛ごとき面貌をもって、人々の心を茫然たらしめたり。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、わが恋の悲しみはともかくとして、わしの運命は、今一人「空色」に焦れた男、両替屋のイェジード・ベン・アユーフの運命とは、暗さにおいて所詮比ぶべくもない。
事実、一日サラーマーの抱え主は彼女に敢えてこんなことを言ったのだ、「おお空色よ、お前を空しく慕った男たち全部のなかで、誰かお前から、密会とか、接吻とかを得た男はいるかな。包み隠さず言ってもらいたい。」この思いがけない質問に、サラーマーは、自分が口さがない目撃者たちの前で何かちょっとした放埓でもしでかしたと、主人に最近告げ口されたのではないかと案じて、答えた、「いいえ、本当に、私から何か得た人は一人もおりません、両替屋のイェジード・ベン・アユーフを除いては。この人にしても、たった一度私に接吻しただけですわ。それに、その接吻をしてあげると承知したのは、接吻と引き代えに、見事な真珠二つを口移しにしてくれたからのことで、私はそれを八万ドラクムで売り払いました。」さてこれを聞くと、サラーマーの抱え主はただ、「よし、」と言っただけであった。そしてそれ以上一と言も付け加えないで、まあそれほど奴は心中に嫉みの怒りがはいるのを覚えたわけだがな、奴はイェジード・ベン・アユーフの跡をつけまわし、追いかけまわして、とうとううまい時機に彼を引っ掴まえ、鞭打って殺してしまったのだ。
「空色」のこのただ一度の致命の接吻がイェジードに与えられたその事情というのは、こうだ。或る日わしがいつものように、「空色」に歌の稽古をつけてやりに、イブン・ガミーンのところに出かけると、途中でひょっこりとイェジード・ベン・アユーフに出遭った。そこで挨拶《サラーム》の後、わしはこれに言った、「どこへ行くのだね、おおイェジード、そんなにめかしこんで。」彼は答えた、「お前さんの行くところへ行くのだ。」わしは言った、「そいつは豪気だ。行こう。」われわれはイブン・ガミーンの住居に着いてなかにはいると、集会の間《ま》に腰を下ろした。するとやがて「空色」がオレンジ色の半外套と、すばらしい赤と薔薇色の毛裏長外套《カフタン》をまとって、姿を現わした。われわれはこの目《ま》ばゆい歌姫の頭と足の間に、燃え立つ太陽を見る思いであった。後ろには、竪琴《テオルブ》を携えた若い女奴隷を従えていた。
「空色」はわしの指図に従って、わしの教えておいた新しい節廻《ふしまわ》しで歌った。その声は豊富で、荘重で、深く、感動的であった。そのうち或る時になると、抱え主はわれわれに失礼しますと言って、われわれだけを残して、食事を命じに行った。するとイェジードは歌姫に対する恋情に心を捉えられて、眼差《まなざし》で嘆願しつつ、彼女に近づいた。すると歌姫は活気づいた様子で、歌いつづけながら、返事のこもった眼差を彼に呉れた。イェジードはこの眼差に酔《え》い痴《し》れて、懐中に手を入れ、姉妹のないようなすばらしい真珠二|顆《か》を取り出し、しばし歌をとぎらせたサラーマーにいった、「御覧、おお空色よ。この二つの真珠はちょうど今日、六万ドラクムで買ったものだ。もし欲しければ、進上しよう。」彼女は答えた、「それであなたをお悦ばせするには、私はどうしたらいいの。」彼は答えた、「私のために歌ってもらいたい。」するとサラーマーは同意のしるしに、手を額にやってから、楽器を合わせ、次の詩を歌った。文句も曲も自作のもので、軽低の第一|律《リズム》、薬指絃の単純音を主調音《トニツク》とするものだ。
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空色サラーマーはわが心を傷つけぬ、時の続くがごと消えやらぬ深傷《ふかで》をもて。
世の最高の医術もこれを縫い合わすこと能わじ。何となれば、人は心の奥に、恋の深傷《ふかで》を縫い合わすことなければ。
空色サラーマーはわが心を傷つけぬ。おお回教徒らよ、来ってわれを助けよ。
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イェジードを見やりながら、この心を奪う優しい旋律を歌いおえると、彼女は付け加えた、「さあ、こんどはあなたが私に下さるはずのものを下さる番です。」すると彼はいった、「いかにも、御所望はすなわちわが所望だ。」だが、お聞き、空色よ。私は私の良心を縛る誓いを立てて誓ったのだが、――それにあらゆる誓いは神聖だ、――この二つの真珠は、私の唇からあなたの唇に口移しするのでなければ、渡さないことにしている。」このイェジードの言葉に、サラーマー付きの女奴隷は、かっとなって、勢いよく立ち上がり、手を挙げて懸想男を戒めようとした。だがわしは、その腕を抑えて、女奴隷に余計な口出しをさせまいとして、これにいった、「まあ騒ぐな、おお娘御よ、放っておきなさい。見らるるように、二人は取引の交渉をしているので、めいめい一番損をしないで利益を挙げようというわけさ。邪魔をしてはいけない。」
サラーマーのほうでは、イェジードがこうした希望を述べるのを聞くと、笑いだした。そして突如、意を決して、彼にいった、「ええ、結構よ。ではお好きなようなやり方で、その真珠を下さいまし。」するとイェジードは、その二|顆《か》の見事な真珠を唇の間にはさみ、両膝と両手をついて匐《は》いながら、彼女のほうににじりよった。サラーマーのほうでは恐れの小さな叫びを挙げながら、着物を捲《たく》しあげ、イェジードの触れるのを避けつつ、退《すさ》りはじめた。そして右に左に、走りながら逃げまわり、息を切らして元の場所に戻ると、それによってイェジードのほうではますますそそのかされて更に幾度びも試み、幾度びもじゃれつくのであった。こんな戯れがかなり永いこと続いた。しかし何はともあれ、承知した条件で真珠を手に入れなければならぬのであるから、サラーマーは女奴隷に合図すると、女奴隷はやにわにイェジードに飛びかかり、両肩を捉えて、その場にじっと押えつけた。するとサラーマーはこの遣り方で、自分が負けたのではなく勝ったことを証拠立てた上で、こんどは自身いささか恥じらい、額に汗を浮かべて、その愛らしい唇で、イェジードの唇の間にかたく閉じこめられている見事な真珠を取りに来て、イェジードはこうしてそれを一度の接吻と交換したのであった。サラーマーはそれをわがものとすると直ちに、たちまち落着きを取り戻して、笑いながらイェジードにいった、「アッラーにかけて、あなたは腰に剣を刺され、徹頭徹尾負けましたよ。」するとイェジードは慇懃《いんぎん》に答えた、「あなたの生命《いのち》にかけて、おお空色よ、負けたことは、私の意に介することではない。あなたの唇の上に私の摘んだ甘美な香りは、わが生きる限り、永遠の芳香として、わが心に残ることでしょう。」願わくはアッラーはイェジード・ベン・アユーフに御憐《おんあわ》れみを垂れたまえかし。彼は恋に殉ずる者として死んだのであった。
――次に金持の青年は申しました、「さてこんどは、トファイル流の手柄話をひとつ、お聞きあれ。先刻御承知のごとく、わがアラビアの父祖は、この言葉によって、――これは大食漢トファイルから出ているのだが、――自分から他人《ひと》の宴会などに押しかけてゆき、頼まれもしないのに、食事や飲み物を貪り食らう、或る人々の常習を意味していたのであります。まずお聞きあれ。」
そして彼は言いました。
押しかけ客
語り伝えるところでは、ウマイヤ朝のヤズィードの御子、信徒の長《おさ》アル・ワリード(24)は、名うての大食漢、御馳走とあらゆる酒肴の香りの愛好者で、「宴会のトファイル」と呼ばれた男を、お相手となさることを無上にお好みになった。この男の名はそれ以来、婚礼とか宴会とかに自分から押しかけてゆくお客のことを、いうようになったのであります。それに、このトファイルなるその道にかけての大食通は、物識りで、人が悪く、嘲笑的な才人であり、応答機敏、当意即妙の人であった。なお、その母親は姦婦《かんぷ》と認められていた。押しかけ客の教義を、実践的であると同時に、簡単な数カ条の規則にまとめ上げたのは、まさにこの人だ。それは以下のような事項に要約されているのです。
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およそ婚礼の御馳走に押しかける者は、うさん臭い態《てい》にてあちこち眺むるは、固く禁物のこと。
彼はしっかりとした足取りにてはいり、何ぴとをも見つめることなく、最上席を選ぶこと。そは招客および会食者に、第一級の大物と思わせんがためなり。
その家《や》の門番が頑固にて難物なる際は、これを叱りとばし、その場所に平身低頭させて、一言も敢えて文句を言い得ざるようにすること。
ひとたび食布《スフラ》の前に坐れば、直ちに飲食物に飛びつき、焼串そのものよりも焼肉に没頭すること。
挽肉入りの若鶏《わかどり》と肉類は、たとえひからびたるものなりとも、刃金《はがね》よりもよく切れる指をもって、片づけること。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十二夜になると[#「けれども第九百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
クーファの町でトファイルの制定した、完全な碾臼男《ひきうすおとこ》の法典は、かようなものであった。まことに、トファイルこそは、碾臼男《ひきうすおとこ》の元祖であり、押しかけ客の冠冕《かんべん》であった。なお次に、彼の遣り方について、千のうちの一つの事実があります。
町の名士が幾たりかの友人を招いて、すばらしく作った魚の料理を、一緒に賞味しようとしていた。するとそこに、戸口に当って、門番の奴隷に話しかけている、トファイルの聞き慣れた声が聞えた。会食者の一人は叫んだ、「アッラーはわれわれに碾臼男《ひきうすおとこ》を近づけたまわぬように。皆さんいずれも、トファイルの前代未聞の健啖ぶりは御存じだ。こいつはいそいで、これらの見事な魚をあいつの歯牙《しが》に荒らされないようにし、これをば部屋の片隅に安全にしまって、食布《スフラ》の上には、このごく小さな魚だけを残しておくことにしようではないか。奴がこの小魚《こざかな》をすっかり平らげて、もう何も食べ食《く》らうものがなくなれば、立ち去ってしまうだろうから、そのときわれわれはあの大きな魚を御馳走になることとしよう。」そしていそいで、人々は大きな魚をみな取り片づけてしまった。そこにトファイルがはいってきて、にこやかに悠然と、一同に挨拶《サラーム》を送った。そして「|アッラーの御名において《ビスミラーヒ》」の後、皿のほうに手を延ばした。ところが、どっこい、皿には姿の悪い雑魚《ざこ》しかはいっていない。会食者たちは自分らのうまい計略に大悦びで、彼にいった、「どうじゃ、トファイル先生、この魚はいかがでござるかな。この料理は全くお口に合うようにはお見受けしないようだが。」彼は答えた、「私はね、久しい前から、魚族とは友好関係になくて、奴らに対しては大いに憤っておる。それというのは、わがお気の毒な父上は、海で溺死なされて、奴らに食われなすったからだ。」すると会食者たちはいった、「それはいいあんばいだ。ちょうど、こんどはあなたがこれらの小魚を食べる番になって、父上の敵《かたき》をとってやる絶好の機会ですわい。」するとトファイルは答えた、「いかにもさようじゃ。だがちょっとお待ちあれ。」そして彼はその小魚を一匹取りあげて、自分の耳のすぐそばに持って行った。彼の押しかけ客の眼は早くも、隅に片づけた大きな魚のはいっている皿を、ちゃんと見つけていたのだ。そこで、揚げた小魚に注意深く耳傾けているようなふりをしたあげく、突然叫び出した、「おやおや、この雑魚《ざこ》の端くれが今私にいったことを、皆さん御存じかな。」会食者たちは答えた、「いや、アッラーにかけて、どうしてわれわれが知るものかね。」するとトファイルはいった、「そうか、それじゃお聞かせしよう。こいつはこういった、『私やあなたのお父様の亡くなったとき、――どうぞアッラーはその方に御慈悲を垂れなさるように。――居合わせませんでした。何しろその頃はまだ生まれちゃいなかったから、お目にかかるわけにはいかない理屈です。』それからこいつは、また別に次のような言葉を私の耳にささやきましたぜ、『むしろ片隅に隠してあるあの大きな見事な魚どもを食べて、父上の仇《あだ》を討ちなさい。というのは、昔あなたの亡くなったお父様に飛びついて、食べてしまったのは、あいつらですからね、』と。」このトファイルの言葉を聞いて、招客とその家《や》の主人とは、自分たちの計《はかりごと》も、この押しかけ客の鼻で嗅ぎつけられてしまったとわかった。それゆえ一同いそいでその見事な魚のほうをトファイルに出させることにし、笑いで引っくりかえりながら、彼にいったことであった、「じゃ、これを召し上がれ。どうかこれらがもういやになるほどあなたを十二分に堪能させるように。」
――次に青年は聴衆に申しました、「こんどは美しい薄命の女奴隷の悲話をお聞き下され。」
そして彼は言いました。
薄命の寵姫《ちようき》
年代記編者と編年史家たちの語り伝えるところでは、アッバース朝第三代の教王《カリフ》、信徒の長《おさ》アル・マハディーは、御臨終の際、御長子アル・ハーディーに王座をお譲りになったが、この御子をば愛されず、むしろ非常にお嫌いにすらなっていた。さりながら、このアル・ハーディーが亡くなったら、直系相続者はアル・ハーディーの長子ではなく、お気に入りの次子ハールーン・アル・ラシードたるべきことと、あらかじめ明記しておかれた。しかるに、アル・ハーディーは信徒の長《おさ》と宣せられるや、弟ハールーン・アル・ラシードをば募りゆく嫉みと嫌疑をもって監視し、ハールーンの相続権を無効にせんものと、あらゆる手段《てだて》を講じなすった。けれどもハールーンの母君、聡明で献身的なハイズラーンは、わが子に企まれるあらゆる隠謀を、絶えず挫折させてしまった。さればアル・ハーディーもついにはこの母君を弟と等しく嫌い、母子を同じように排斥していじめなされた。そして両人を亡きものにする機会をひたすらねらっておられた。
さてこうしているうちに、アル・ハーディーは或る日御苑の、各々東西南北に臨む四つの入口のついた、八本の円柱で支えられる豪奢な円屋根の下に、坐っていられた。その足許には、つい四十日前に手に入れたばかりの、お気に入りの美しい女奴隷ガーデルが坐っていた。またそこには、音楽家モースルのイスハーク・イブン・イブラーヒームもいた。そして寵姫はそのとき、イスハーク自身の琵琶《ウーデイ》の伴奏で、歌っていた。教王《カリフ》は悦びにわくわくなさり、恍惚と感激の極、お足をふるわしていらっしゃった。外は、日が暮れかかり、月は樹間に昇りつつあった。水はところどころにある物蔭の間を呟やきながら走り、一方微風が静かにこれに和していた。すると突如、教王《カリフ》は色を変えて、打ち沈み、眉をひそめなすった。今までの快活さはすべて消え失せ、御心の想いは墨壺の底の詰物のように黒くなった。そして永い沈黙の末、教王《カリフ》は低い声でおっしゃった、「人各々に己が運勢が定まっている。『永遠の生者』以外何ぴとも残りはせぬ。」そして改めて凶兆の沈黙に沈みなすったが、やがて突然沈黙を破って、お叫びになった、「至急|御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを呼んでまいれ。」これぞまさしく、アル・ラシードの御幼少時の守護者、これをわが腕の間と肩の上にお載せした、かの教王《カリフ》の復讐と逆鱗の執行者マスルールその人であった。彼がやがてアル・ハーディーの御前に到着すると、教王《カリフ》はこれに命じなすった、「直ちにわが弟アル・ラシードの許に行って、御《み》首級《しるし》を持ってまいれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十三夜になると[#「けれども第九百八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
自分がお育て申した方の死刑判決であるこのお言葉を聞くと、マスルールは仰天し、茫然として、雷に打たれたようであった。そして彼はつぶやいた、「われらはアッラーのもの、われらはアッラーに帰る。」そして酔った人さながら、やっと退出した。そして彼は激動の極に達して、アル・ハーディーおよびハールーン・アル・ラシードお二人の母君、ハイズラーン王妃に、お目にかかりに行った。母君は彼が取り乱し顛倒しているのを御覧になって、お訊ねになった、「どうしたのです、おおマスルール。そも何事が起ったのですか、夜もたけた今頃、ここに姿を現わすとは。どうしたのか、おっしゃい。」そこでマスルールは答えた、「おおわが御主人様、全能のアッラーのほかには、頼《たよ》りも力もござりませぬ。今やわれらの御主君、御子息の教王《カリフ》アル・ハーディー様は、私に次のような御命令を下しなさいました、『直ちにわが弟アル・ラシードの許に行って、御《み》首級《しるし》を持ってまいれ、』と。」
ハイズラーンはこの御《み》佩刀持《はかせもち》の言葉に、慄然となすった。恐怖が御魂の裡に下り、激動が御心を砕かんばかりに締めつけた。母君はお首を垂れて、しばし沈思なすった。次にマスルールにおっしゃった、「いそいでわが子アル・ラシードの許に行って、一緒にここにお連れしてきておくれ。」マスルールは承わり畏まって答え出て行った。彼はハールーンのお部屋にはいった。ちょうどそのとき、ハールーンはすでにお召物を脱いで、寝床で、両脚に蒲団《ふとん》をかけていらっしゃった。マスルールはいそいで申し上げた、「お起きあそばせ、アッラーの御名《みな》において、おお御主君様。そして私と一緒にすぐさまわが御主君、母君様のところにお出で下さいまし、お召しですから。」そこでアル・ラシードは起き上がって、大いそぎでお召物を着て、マスルールと一緒に、妃《シート》ハイズラーンのお部屋に通った。
さて母君は愛児の姿を見なさるとすぐに、立ち上がって、走り寄り、一と言もおっしゃらずに接吻なさり、小さな隠し部屋に押しこんで、後ろから扉を閉めてしまったが、お子様は不服を唱えようとか、一言説明を求めようなど、てんで思いもなさらなかった。こうしておいて、ハイズラーン妃は、貴族《アミール》はじめ教王《カリフ》の宮中の主だった人々を、それぞれ眠っている家に、呼びにやりなすった。そして彼ら全部が御自分のところに集まると、王妃は後宮《ハーレム》の絹の帷《とばり》の蔭から、次の簡単な言葉を一同に寄せなすった、「全能、至高のアッラーの御名において、また祝福されたその預言者の御名において、諸卿にお訊ね申しまするが、わが子アル・ラシードが教王権の敵や、或いは異端の|無信の徒《ザナーデイカ》などと結んで、何か共謀、関係、連合等をいたしたとか、或いは彼がわが子にして諸卿の主君たる君主アル・ハーディーに対し奉り、いささかなりと抵抗や叛逆の意図を抱いたとかいう噂を、かつて耳になさったことがござりましょうか。」すると一同異口同音に答えた、「いえ、断じてござりませぬ。」するとハイズラーンはすぐに語を継ぎなすった、「それではお聞き下さい。ただ今、この時刻に、わが子アル・ハーディーは人を遣わして、弟アル・ラシードの首級を求めてきました。諸卿はこの理由を私に説明して下さることができますか。」すると並みいる人々はすっかり狼狽驚愕して、誰ひとり敢えて一語も言い出せなかった。しかし大臣《ワジール》ラビアは立ち上がって、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールにいった、「御身即刻即座に、教王《カリフ》の御手の間にまかり出られよ。御身を御覧になって、『事は済んだか、』とお訊ねあったら、御身はこう答えられよ、『われらの御主人ハイズラーン、御母君にして、故父王アル・マハディーの王妃、御令弟の母君は、私がアル・ラシードを襲い奉ろうとしたとき、私の姿をお認めあり、私を押しとどめて、追いかえしなさいました。それで御命令を果たす能わずして、御前に推参仕りました、』と。」そこでマスルールは出て、すぐに教王《カリフ》の御許に赴いた。
アル・ハーディーはその姿を認めなさるや、これにおっしゃった、「どうじゃ、その方に命じたところはいかになったか。」マスルールは答えて、「おお御主君様、わが御主人ハイズラーン王妃様が、私が弟君に飛びかかろうとするところをお認めになって、私を押しとどめ、追いかえしなされ、私の任務を果たすのをお妨げになりました。」すると教王《カリフ》は激怒の極に達しなされ、立ち上がって、イスハークと歌姫ガーデルにおっしゃった、「ここに、お前たちの今いる場所に、余の戻ってくるまでそのままおれよ。」そして教王《カリフ》は母上ハイズラーンのところにお着きになると、そこに全部の大官と貴族《アミール》が集まっているのを御覧になった。王妃はお姿を見るや、つと立ち上がった。そこにいた人物全部も同じく立ち上がった。すると教王《カリフ》は、母君のほうを向いて、お怒りにむせ返る声でおっしゃった、「そも何ゆえ、私が一事を欲し、命じるのに、わが意志にそむきなさるのですか。」するとハイズラーンは叫ばれた、「どうぞアッラーは、おお信徒の長《おさ》よ、どのような御意志にそむくことなど、私におさせになりませぬように。けれども私はただ、あなたがどういう理由から、わが子アル・ラシードの死を要求なさるのか、それを承わりたいと思った次第です。あれはあなたの弟で、あなたの血です。あなたと同様、お父上から出た魂であり、生命です。」するとアル・ハーディーは答えなすった、「知りたいとおっしゃるならば、お聞かせしよう。私は昨夜見て、恐ろしさ身に徹した夢ゆえに、アル・ラシードをば亡き者にしたいと思うのだ。事実その夢のなかで、私はアル・ラシードがわが代りに王座に就いているのを見た。そしてわが気に入りの奴隷ガーデルも、そのそばにいる。弟はこの女を相手に酒を飲み、戯れている。私は自分の主権と、王座と、寵姫を愛するがゆえ、これ以上永くわが身辺に、危険なる敵手が、災厄《わざわい》のごとくかたわらに絶えず生きているのを見るは、到底忍べぬ、たといそれが弟なりとも。」するとハイズラーンは答えた、「おお信徒の長《おさ》よ、それは眠りの迷い、間違いというもの。刺戟性の料理の惹き起した悪夢です。おお、わが子よ、夢が本当のことはめったにありませんよ。」そして王妃は満座の眼差《まなざし》に賛成されつつ、このように話しつづけなされた。そして上手に説きつけて、首尾よくアル・ハーディーを宥《なだ》め、その杞憂を晴らしてしまわれた。そこで王妃はアル・ラシードを現われさせ、いまだかつて御自分の考えのなかで、いささかなりと謀叛の企てや野心などを抱いたことなく、今後断じて教王権に対して異心を起さぬ旨、兄上に誓いを立てさせなすった。
この釈明の後、アル・ハーディーのお怒りはとけた。そして教王《カリフ》はイスハークと共に寵姫を置いてきた円屋根に、お戻りになった。そして音楽家に暇を出し、美しいガーデルと二人きりになって、うきうきし、楽しみ、夜と愛との入りまじった歓楽を身に沁み入らせなすった。するとにわかに、両足の蹠《あしうら》に激痛をお覚えになった。そこですぐに疼《うず》くお痛みの場所に手をおやりになって、そこをこすりなすった。数分たつと、そこに小さな腫物《はれもの》ができて、やがて榛《はしばみ》の実ほどの大きさにまでなった。そして耐えがたいむずがゆさを伴なう痛みを生じた。教王《カリフ》はまたそれをこすりなさると、こんどは胡桃《くるみ》ほどの大きさまで腫れ上がり、最後に破れた。するとすぐにアル・ハーディーは、お生命《いのち》絶えて、仰向けに倒れなすった。ところで、この原因は、教王《カリフ》が和解後何分かお部屋にとどまっていらっしゃった間に、ハイズラーンが羅望子《ちようせんもだま》の実入りの氷菓《シヤーベツト》をお飲ませになったのだ。これに運命の判決がはいっていたのであった。
さて、アル・ハーディーの崩御を最初に知ったのは、あたかも宦官マスルールであった。直ちに彼はハイズラーン王妃のところに駈けつけて、言上した、「おお教王《カリフ》の御母君《おんははぎみ》、願わくはアッラーの御齢《おんよわい》を永からしめたまえ。わが御主君アル・ハーディーはただ今おかくれになりました。」するとハイズラーンはおっしゃった、「よろしい。けれども、マスルールよ、この報は固く秘して、この急変を決して洩らしてはなりません。さて今は大至急、わが子アル・ラシードのところに行って、ここに連れて来て下さい。」そこでマスルールはアル・ラシードのところに行くと、もうお眠《やす》みであった。そこでお起しして言った、「おお御主君様、わが御主人様が即時お召しでございます。」するとハールーンは動顛なすって、叫んだ、「アッラーにかけて、兄上アル・ハーディーはまた母上に己《おれ》を中傷して、何か己の思いもかけない隠謀を、己がたくらんだとでも告げ口なすったのか。」けれどもマスルールはお言葉を遮って、申し上げた、「おおハールーン様、すぐにお起き遊ばして、私に従《つ》いていらっしゃいまし。御心《みこころ》を静め、御眼を爽やかになさいませ。万事は栄えの道にあり、成功と悦び以外見出しなさらぬでございましょうから。」
そこでハールーンは起き上がって、着物を召された。するとすぐさまマスルールは、御前に平伏し、御手の間の床《ゆか》に接吻しつつ叫んだ、「君の上に平安《サラーム》あれ、おお信徒の長《おさ》、信仰の下僕《しもべ》らの導師《イマーム》、地上におけるアッラーの後継者《ハリーフア》、聖なる掟とその課するところとの守護者よ。」するとハールーンは驚きと半信半疑に満ちて、これに訊ねた、「その言葉はどういう意味か、おおマスルール。つい今し方まで、お前は己《おれ》をわが名のみで呼んでおきながら、今は己に信徒の長《おさ》の称号を付しているが。こうした矛盾した言葉と、かくも思いがけざる言葉遣いの変化とは、そもそも何のせいとすべきか。」するとマスルールは答えた、「おお、わが御主君よ、あらゆる生命にはその運命があり、あらゆる生涯にはその時節がございます。願わくはアッラーは御齢《おんよわい》を永からしめたまえ、御兄君はただ今崩御遊ばされました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十四夜になると[#「けれども第九百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアル・ラシードはいった、「願わくはアッラーは兄上に御憐《おんあわ》れみを垂れたまえ。」そして今は恐れも憂いもなく、いそいで出て行って、母君のところにはいると、母君はその姿を見て叫びなすった、「悦びと幸いよ。信徒の長《おさ》に幸いと悦びあれ。」そして立ち上がって、アル・ラシードに教王《カリフ》の外套を着せ、権力の王笏と国璽と徽章とをお渡しになった。ちょうどそのとき、後宮《ハーレム》の宦官の長がはいってきて、アル・ラシードにいった、「おお、われらの御主君様、吉報をお受けなさいませ。君の奴隷マラーヒルに男子御出生でございまする。」するとハールーンは重ねてのお悦びを面《おもて》にあらわに示して、そのお子様にアル・マームンの呼名と共にアブドゥラーという名を、お与えになった。
アル・ハーディーの崩御とアル・ラシードの教王《カリフ》位登極とは、夜の明けぬうちに、早くもバグダードの民に知れた。そしてハールーンは、至上権の荘重のただ中で、貴族《アミール》、重臣をはじめ、集まった人民の服従の誓いを受けられた。そして即日、エル・ファズルとジャアファルを大臣《ワジール》位に昇《のぼ》せた。両人共にバルマク家のヤハヤーの息子である。帝国の全国全地方、イスラムの全住民、アラビア人も非アラビア人も、トルコ人もダイラム人も、新しい教王《カリフ》の権威を認め、これに恭順を誓った。かくて新しい教王《カリフ》は順調に華々しく治世を始め、新しい光栄と権勢の裡に、輝かしく腰を下ろされた。
その腕に抱かれてアル・ハーディーが息絶えなすった、寵姫ガーデルについては、次のようであった。王座に登ったその夕直ちに、かねてその美貌を知っているアル・ラシードは、寵姫に会ってわが最初の眼差《まなざし》を注ぎたいと思いなすった。そしてこれにいわれた、「余は、おおガーデルよ、余とその方と打ち揃って、兄上アル・ハーディー――アッラーは兄上に御憐れみを垂れたまえかし。――その好んで楽しみ寛ろぎなすったかの御苑と円屋根を、訪れたいと思う。」するとすでに喪服を着けていたガーデルは、頭を垂れて答えた、「妾《わらわ》は信徒の長《おさ》の従順な奴隷でございます。」そして喪服を脱いで、適当な身の装いに着かえるため、しばし退出した。それから円屋根にはいると、ハールーンはこれをかたわらに坐らせなすった。そしてこのすばらしい乙女から眼を離さず、その風情をあかず眺めていなすった。悦びにお胸はひろびろと呼吸し、お心は晴々とした。次に、ハールーンのお好みの酒類が出ると、ガーデルは教王《カリフ》の差す杯を辞退した。そこで教王《カリフ》は驚いて問いなすった、「なぜ受けぬのじゃ。」彼女は答えた、「音楽のない酒は、その恵みの半ばを失いまする。されば、われわれのそばに、イブラーヒームの子、讃むべきイスハークがいらっしゃって、私たちの調べよき相手をして下されば、大そう嬉しゅう存じまする。」するとアル・ラシードは答えた、「仔細ない。」そしてすぐにマスルールを遣わして音楽家を呼びにやると、間もなく伺候した。そして教王《カリフ》の御手の間の床《ゆか》に接吻して、敬意を表し奉った。アル・ラシードの御合図によって、彼は寵姫の正面に坐った。そしてその時から、杯は手から手へと廻り、一同数繁く杯を重ね、暗い夜までこのように続けた。するとにわかに、酒が人々の分別を醗酵させたとき、イスハークは叫んだ、「おお、諸々《もろもろ》の出来事を御意のままに変じ、その継起と変遷をば導きたもう御方に、永遠の讃えあれ。」するとアル・ラシードは問われた、「何を思って、おおイブラーヒームの子よ、そのような嘆を発するのか。」イスハークは答えた、「あわれ、おお、わが殿よ、昨日この時刻には、御兄君がこの円屋根の窓に倚《よ》られ、花嫁にも似たる月の下、ざわめく水が夜の歌姫たちの甘く軽やかな声をもって喞《かこ》ちつつ逃がれ行くのを、御覧になっておられました。そして表面《うわべ》の至福の光景を眺めなすって、御自分の天命に慄然となすった。そこでわが君に屈辱の飲料を注《つ》ごうとお思いになったのでありました。」するとアル・ラシードはいわれた、「おおイブラーヒームの子よ、被造物の生命は運命の書に記されている。されば兄上は、何とて余よりこの生命を奪うを得ようか、いまだその期至らずとせば。」そして美しいガーデルのほうをお向きになって、これにおっしゃった、「してその方は、おお乙女よ、何と申すかな。」するとガーデルは、わが琵琶《ウーデイ》を取り上げ、調子を整えてから、深く感動した声で、次の詩を歌った。
[#ここから2字下げ]
人の生には二つの生あり、一は晴朗、一は曇天の生。
時には二種の日あり、安らかの日と危うき日と。
時をも、生をも、信ずることなかれ。何となれば、こよなく晴れし日々に次いで、暗く曇りし日々の至れば。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの詩を歌いおわると、アル・ハーディーの寵姫は突如失神し、がばと地に打ち伏し、知覚を失い身動きもしない。人々助け揺すり起した。しかしすでに彼女はこの世のものならず、至高者の御胸《みむね》にのがれた。するとイスハークはいった、「おお、わが殿、この婦人は亡君を慕っておりました。愛の欲するいとせめてもの望は、墓掘り人足が墓をしあげる刹那まで、生き永らえることでございます。願わくはアッラーは、アル・ハーディーと、その御寵姫と、いっさいの回教徒《ムスリムーン》の上に、御慈悲を垂れたまえ。」一滴の涙がアル・ラシードの御眼より落ちた。そしてみまかった女の身体《からだ》を洗って、これをアル・ハーディーの御墓《みはか》そのもののうちに安置するよう、御命じになった。して仰せになったことである、「さようじゃ。願わくはアッラーは、アル・ハーディーと、その御寵姫と、いっさいの回教徒《ムスリムーン》の上に、御慈悲を垂れたまえ。」
――この薄倖の乙女の物語をこう語りおえると、金持の青年は感動した聴衆に申しました、「さて今度は、運命の仮借なき戯れの別な現れとして、悲しき首飾り[#「悲しき首飾り」はゴシック体]の物語をお聞きあれ。」
そして彼は言いました。
悲しき首飾り
一日、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、音楽家にして歌手の、ハーシェム・ベン・スライマーンの才能を人々が讃めそやすのを聞かれて、これを呼びにやりなすった。歌手が連れられて来ると、ハールーンはこれを御自分の前に坐らせ、何か自作を聞かせてくれと御所望になった。ハーシェムは三句の吟詠歌(25)を歌ったが、それがまことに巧みをきわめ美声であったので、教王《カリフ》は感激と恍惚の極に達しなされて、お叫びになった、「まことに見事であった、おおスライマーンの子よ。アッラーはその方の父の魂を祝福したもうように。」そして御感《ぎよかん》斜めならず、お首から、麝香梨《じやこうなし》大の翠玉《エメラルド》の瓔珞《ようらく》のついたすばらしい首飾りをおはずしになり、それをば歌手の首にかけておやりになった。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十五夜になると[#「けれども第九百八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとハーシェムはこの宝玉の様子を打ち眺めて、満足と悦びの色を見せるどころか、双眼を涙にかき曇らせるのであった。そして悲しみはその心中に下り、顔色を黄色にした。このような表示はおよそ待ち設けなさらなかったハールーンは、いたくお驚きの色を示して、これはこの宝玉は音楽家の意に満たなかったのかと思われた。そこでお訊ねになった、「その涙と悲しみは何ゆえか、おおハーシェムよ。もしこの首飾りがその方の意に叶わぬならば、何ゆえ、余にとってもその方にとっても心結ぼるる、沈黙を守っているのか。」すると音楽家は答えた、「願わくはアッラーは、王者中最も寛仁なる王者の御頭上に、御恩恵を増したまわんことを。さりながら、わが涙を流さしめ、わが心を悲しみもて圧する所以は、君のお考え遊ばすがごときものではござりませぬ、おおわが御主君よ。もし幸いにしてお許し下さりますれば、私はこの首飾りの由来と、何ゆえにこれを見て私が御覧のごとき有様に陥ったか、その仔細をお話し申し上げるでございましょう。」ハールーンはお答えになった、「いかにも差し許す。何となれば、余が父祖より譲り受けたこれなる首飾りの由来は、定めし無上に驚くべきものに相違ない。これについてその方の知り、余の知らぬところを、余はぜひ知りたく思う。」すると歌手の音楽家は、記憶を呼び集めた上で、いった。
さればでございます、おお信徒の長《おさ》よ、この首飾りにちなむ事件は、私のごく若い頃に溯りまする。その頃私は、わが首《こうべ》の祖国、わが生まれし地、シャーム(26)の国に暮らしておりました。さて一夕私は、黄昏時《たそがれどき》、或る湖の畔《ほとり》を散歩していましたが、その時は、シャームの沙漠のアラビア人の衣装を着用し、覆面布《リサム》をもって眼のほとりまで面《おもて》を蔽っておりました。するとそこで、美々しい服装をした一人の男に出会いましたが、その男はあらゆる習慣《ならわし》に反して、類い稀なる優雅の、すばらしい乙女を二人従えております。携えている楽器より察するに、些かの疑いなく歌姫でございましょう。私は突如この散歩者に、首都ダマスを去って、このタバリヤ湖方面のわれらの水辺に、羚羊《かもしか》狩りにお出でになった、ウマイヤ朝の教王《カリフ》アル・ワリード二世を、拝見いたしました。一方|教王《カリフ》は私を御覧遊ばすと、二人のお供のほうを向いて、彼女らだけにしか聞えないおつもりでおっしゃいました、「あそこに沙漠から来た、まだ全く下賤と野蛮そのままのアラビアの男がいる。アッラーにかけて、ひとつあの男を呼んで、われわれの相手をさせ、嬲《なぶ》りものにしていささか楽しむとしよう。」そしてお手で私に合図をなさいました。私が近づきますと、教王《カリフ》はおそばの草の上に、二人の歌姫の向いに私を坐らせなさいました。
すると、私を少しも御存じなく、かつて御覧になったこともない教王《カリフ》の御所望によって、乙女の一人は琵琶《ウーデイ》を合わせ、心を動かす声でもって、私の作った朗吟歌を一曲歌いました。しかしまことに巧みとは申せ、その乙女は二、三軽微な誤りを犯し、そればかりか数カ所で節《ふし》を脱《ぬ》かしさえしました。そこで私は、折から教王《カリフ》の待ちかまえていらっしゃる嘲りを、わが身に招かぬため、あくまで控え目な態度をとろうと自ら戒めていたにもかかわらず、思わず叫び出して、その歌姫に言葉をかけずにはいられませんでした、「おっとまちがった、おお御主人よ、おまちがいになった。」すると乙女は私の注意を聞くと、嘲りの笑いで笑い出して、教王《カリフ》のほうを向きながら、いいました、「お聞き遊ばしましたでしょう、おお信徒の長《おさ》よ、この駱駝曳きの、ベドウィンのアラビア人が、今私たちにいったことを。失礼にも、私たちがまちがったと咎めて憚《はばか》らないのでございます。」するとアル・ワリードは、嘲りと同時に私に賛しがたい御様子で、私を御覧になっておっしゃいました、「いったいお前の部族では、おおベドウィン人よ、お前に歌と楽器の微妙な弾き方とを教えたのであるか。」私は恭しくお辞儀をして、お答えしました、「いえ、君の御《おん》生命《いのち》にかけて、おお信徒の長《おさ》よ。けれども、もし強《た》って御異存なくんば、私はこの讃むべき歌姫に、まことに立派な腕前にもかかわらず、二、三の演奏上の過ちを犯しなすったことを、立証してお目にかけましょう。」するとアル・ワリードは試みにお許しになったので、私は乙女にいいました、「二の絃《いと》を四分の一だけ締めて、四の絃《いと》を同じだけ弛めてごらんなさい。そして旋律の下《さが》った調子から始めなさい。そうすれば、あなたの歌の表情と色合とは工合がよくなるし、あなたがちょっと脱《ぬ》かしなすった数節も、おのずから元どおりになるのがおわかりでしょう。」
若い歌姫はベドウィン人がこんな風に話すのを見て意外を覚え、琵琶《ウーデイ》を私のいったような調子に合わせ、歌を歌いなおしてみました。するとそれはいかにも美しく、いかにも完璧なので、自分自身も深く心を動かされ、同時に驚かされたのでした。すると乙女は突如立ち上がり、私の足許に身を投げて、叫びました、「あなたこそはハーシェム・ベン・スライマーン、私は聖殿《カアバ》の主《しゆ》にかけて誓います。」私も乙女に劣らず心を動かされ無言でおりますと、教王《カリフ》は私にお訊ねになりました、「その方はまこと、この女のいう人物なりや。」私はそのとき顔を現わして、答えました、「さようでございます、おお信徒の長《おさ》よ、私こそは君の奴隷、タバリヤ人ハーシェムにござりまする。」すると、教王《カリフ》は私を識りなすったことにいたく御満足遊ばされて、私に仰せられました、「その方をわが道の上に置きたもうたアッラーは讃められよかし、おおスライマーンの子よ。この娘は当代のあらゆる音楽家にまして、その方を讃美し、余にその方の歌と作より以外のものは決して歌って聞かせぬのじゃ。」そして付け加えなすって、「今後はその方、わが友となり伴侶となってもらいたい。」私はお礼を言上して、御手に接吻しました。
それから、歌を歌った乙女は、教王《カリフ》のほうを向いて、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、この仕合せな機会のため、ひとつお願い申し上げたいことがございます。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「申すがよい。」乙女はいいました、「私はお師匠様に、私の感謝の証拠を捧げて、敬意を表することを、君にお許し願いたく存じます。」教王《カリフ》はお答えになりました、「いかにも、そうせねばなるまい。」すると愛すべき歌姫は、自分の懸けている、かつて教王《カリフ》から賜わったすばらしい首飾りをはずして、それを私の首に懸けながら、いいました、「これをば私の感謝の贈物としてお収め下さい。些少ながらお許し下さいませ。」それこそまさに、今日改めてわが君の寛仁の引出物として私の頂戴いたしましたる、これなる首飾りでございます、おお信徒の長《おさ》よ。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十六夜になると[#「けれども第九百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて次には、いかにしてこの首飾りがわが手を離れ、今日再び戻ってまいったか、また何ゆえこれを見て私が泣かされたかと申しますると。
というのは、われわれは湖上に微風爽やかなるままに、しばらく歌って時を過ごしてから、アル・ワリードは立ち上がりなすって、われわれにおっしゃいました、「舟に乗って、湖上を散策いたすとしよう。」すぐに、遠くに控えていた御家来たちが駈けつけて、一隻の小舟を曳いてきました。まず最初に教王《カリフ》が、次に私自身が乗った。さて私に首飾りを贈ってくれた乙女の番になると、彼女は小舟に移ろうとして、片足を出した。ところが、漕手たちに見られないようにと、被衣《かつぎ》を身のまわりに引き下ろしていたため、それがまとわりついて、足を滑らし、彼女は湖中に落ちてしまい、救う暇もあらばこそ、水中深く沈んでしまった。われわれのあらゆる捜索も空しく、ついに彼女を見出すに成功しませんでした。願わくはアッラーは彼女に憐れみを垂れたまいますように。アル・ワリードの御悲《おんかな》しみ御心痛は深甚なるものあり、御涙は御面《みおもて》を濡らしました。私もまたこの不運な乙女の運命に、苦い涙を注いだことでございました。この椿事の後永い間無言でいらっしゃった教王《カリフ》は、やがて私に仰せられました、「おおハーシェム、わが苦しみに対するせめてもの慰めは、かの憐れなる娘の首飾りをば、余の手中に持って、その短き生涯の間、この娘が余にとっていかなるものであったかを偲ぶよすがとすることにあろう。さりながら、われらがその方に一旦与えしものを取り返すがごときことは、アッラーは余にさせたまわぬように。さればどうかこの首飾りを余が買いとることを、承諾してもらいたい。」
私は直ちに首飾りをば教王《カリフ》にお返し申し上げますと、教王《カリフ》はわれわれが町に着くと、私に銀三万ドラクムを賜わり、貴重な引出物の限りを尽したまいました。以上が、おお信徒の長《おさ》よ、今日私を泣かしめた原因でございます。至高のアッラーは、その後ウマイヤ諸|教王《カリフ》から、至上権を召し上げなされ、わが君が赫々《かつかく》たる後裔《こうえい》にましますアッバース王家に、これを授けなさいましたが、これなる首飾りも、高貴なる御先祖の伝世品と共にわが君の御手に入り、かくてめぐりめぐって私のところに帰ってまいることを、アッラーは許したもうた次第でございました。
アル・ラシードはこのハーシェム・ベン・スライマーンの話に、深く御心《みこころ》を動かされなすって、おっしゃった、「願わくはアッラーは、憐れみに値する人々に御憐《おんあわ》れみを垂れたまわんことを。」こうした漠然とした言い方をなすって、打倒した敵方王朝のお一方《ひとかた》のお名前を、あらわに口になさることをお避けになったのであります。
――次に青年は申しました、「われわれは音楽家や歌姫たちの門を訪れているところであるからには、私はあらゆる時代を通じて最も高名なる音楽家、モースルのイスハーク・ベン・イブラーヒームの生涯の、数多《あまた》の事蹟のうちひとつをば、皆さまにお話し申し上げたいと思う。」
そして彼は言いました。
楽匠にして歌手なるモースルのイスハーク・ベン・イブラーヒームの手に成る、われらに伝わっているくさぐさの著作のうちに、次のごときものがあります。
モースルのイスハークと新曲
余は一日常のごとく、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードの御許に参上すると、わが君は大臣《ワジール》エル・ファズルと一人のヘジャズ地方の長老《シヤイクー》と一緒に、坐っておられた。その長老《シヤイクー》は大そう美しい容貌で、高貴重厚の趣きある風があった。そこで互いに挨拶《サラーム》を交して後、余はそっと大臣《ワジール》エル・ファズルのほうに身を傾《かし》げて、わが意に叶った、ついぞ見たことのないこのヘジャズの長老《シヤイクー》の名を訊ねた。すると大臣《ワジール》は答えて、「これはヘジャズの古い音楽家で歌手の詩人、マアバド(27)の孫にあたる方じゃ。あなたもその名声は御承知のはず。」余は若き頃かくも心酔したかの古人マアバドの孫を知るのを、すこぶる満足の色を示すと、エル・ファズルは余の耳許でささやいた、「おおイスハークよ、ここにおられるヘジャズの長老《シヤイクー》は、もしあなたがこれに対して愛想のよい態度を見せれば、きっとその祖父のあらゆる創作を、あなたに教えるばかりか、歌って聞かせさえするであろう。鄭重な仁で、非常な美声を授けられていなさる。」
そこで余は、その唱法を実地に見、わが若き歳月を魅了した古歌を再び思い出でたいと思い、そのヘジャズ人《びと》に対し慇懃《いんぎん》溢るる態度をとった。そしていろいろの事について和気|靄々《あいあい》談笑してから、余はこれにいった、「おお、きわめて高貴なる長老《シヤイクー》よ、あなたの御祖父、ヘジャズの誉れたる高名のマアバドは、いくつ歌を作りなすったか、願わくは私に思い起させていただけましょうか。」彼は余に答えて、「六十きっかり、それより一曲も多からず、一曲も少なからず。」余は訊ねた、「それら六十曲のうち、或いはその韻律のゆえ、或いはその他の動機《いわれ》からして、あなたの最もお好みになる曲を、承わらせていただきたいとお願いするのは、あなたの御忍耐にあまりにもはなはだしくおすがり申すことでしょうか。」彼は答えた、「異議なく、かつ、あらゆる点で、それは次の句で始まる第四十三歌ですね。
[#この行1字下げ] おお、わがモライカの頸《うなじ》の美わしきかな、胸美しきわがモライカよ。」
そしてあたかもただこの一句を誦するだけで、身内に霊感を湧き立たす効験があったかのごとく、彼はいきなり余の手から琵琶《ウーデイ》を取って、調子を合わせるごく軽い前弾きの後、驚嘆すべき美声でくだんの吟詠曲を歌い、名状しがたき技術、魅力、雅致、感動をもって、この新しくまたかくも古き音楽の感情を表現した。これを聞いて、余は快感に身ぶるいし、感激の極、眼がくらみ、夢中になった。余はもともとどんなに混み入ったものであろうと、新曲を覚えることにかけては自信があったので、今聞かせてもらったこの甘美な、また余にとっては全然初耳の吟詠曲を、ヘジャズの長老《シヤイクー》の前で、直ちに自分で繰返してみて、聞いてもらおうなどとは思わなかった。そこでただお礼を述べるのみにしておいた。そして彼は故郷のメディナに帰り、一方余はその旋律に酔いつつ、王宮を出た。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十七夜になると[#「けれども第九百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
自宅に戻ると、余はさっそく壁にかかっているわが琵琶《ウーデイ》をとり、絃とねじを最も細かな点まで整え、調子を合わせた。ところが、アッラーにかけて、あれほど余を感動させたあのヘジャズの曲の音楽を、いざ繰り返そうと思ったら、余はそのただの一音符を思い出すこともできず、どんな旋法で先刻歌われたかさえも、思い浮かべるに至り得なかった。平生は百聯の吟詠曲だとて、さして耳を凝らして聞かずとも覚えてしまう余であるものを。然るにこのたびは、貫き得ざる木綿の面衣《ヴエール》が、余の記憶とこの音楽との間に垂れ下がり、わがあらゆる呼び返しの努力にもかかわらず、かくばかりわが心の惹かるるものをば、繰り返し得なかった。
そのとき以来、余は日夜懸命に、この音楽についてのわが記憶をかき立てようと努めたが、一向に効なかった。そこで絶望のあまり、余はわが琵琶《ウーデイ》と稽古を抛《なげう》ち、バグダードを歩き廻りはじめ、次にはモースルおよびバスラ、次には全イラクを歩いて、この音楽と歌をあらゆる最も老いた歌手と最も古い歌姫とに訊ね廻った。けれどもその曲を知っている者にも、またこれを発見する手立てを教えてくれる者にも、誰ひとりめぐり会うことができなかった。そこで、わがいっさいの探索も徒労なるを見て、余はこの執念を振り払わんがため、一と思いに沙漠を過《よぎ》ってヘジャズに旅し、メディナに行って再びあのヘジャズの長老《シヤイクー》に見《まみ》え、これに乞うて今一度その祖父の吟詠曲を歌ってもらうことにしようと決心した。
この決心を固めたとき、余はバスラにあって、河辺を散歩していた。するとそこに、目立たぬが立派な衣服を着け、上流の婦人らしく見える二人の若い婦人が、近づいてきた。そして二人は余の驢馬の手綱を掴んで、余に挨拶しつつ、余の驢馬をとめた。余は、怏々《おうおう》として、例のヘジャズの吟詠曲のことしか念頭になかったので、厳然たる調子でこれに「放せ、放せ、」といった。そして驢馬の手綱を取り返そうと思った。ところがそのとき、二人のうちの一人が、その面《おもて》の面衣《ヴエール》を掲げることなく、面衣《ヴエール》の下からほほ笑みかけて、余にいうのであった、「さてさて、おおイスハークさま、ヘジャズ人《びと》マアバドの美しい吟詠曲、おお[#「おお」に傍点]、わがモライカの頸《うなじ》の美わしきかな[#「わがモライカの頸《うなじ》の美わしきかな」に傍点]、あれに対する御執心は、今はどうなりましたか。あれを求めて世界を馳せめぐることは、もうおやめになりましたの。」そして余が驚きから覚めずにいる間に、付け加えた、「おおイスハークさま、かつて教王《カリフ》とエル・ファズルの御前で、ヘジャズの長老《シヤイクー》が歌いなさり、古曲の魅力があなたを躍り上がらせ、生なき事物をあなたのまわりに踊らせたあのおり、私は後宮《ハーレム》の金網の蔭から、あなたのお姿を拝見したのでした。何という恍惚に、あなたはひたっていらっしゃったことでしょう、おおイスハークさま。あなたは頭を揺すり、静かに身を動かしながら、手で拍子をとっていらっしゃいました。まるで酔いなすったよう。狂気の人さながらでしたこと。」
余はこの言葉を聞くと、叫んだ、「ああ、わが亡き父イブラーヒームの名声にかけて、私は今は常にもまして、あの豊かにして美しい歌を狂気のように求めているのだ。やあアッラー、あれを聞くためならば、私は何ものも惜しまない、たとえまちがっていようと、損《そこ》なっていようとかまわぬ。あの歌の一節《ひとふし》のために、わが生命十年と代えてもよい。今あなたはあの曲のことを言い出して、おお、わが愛する婦人よ、改めてわが愛惜の焔を無残に燃やし、わが絶望の燠火《おきび》を吹き立てなすったわい。」そしてさらに付け加えた、「後生じゃ、放して下され、放して私を行かせて下され。私はヘジャズを指して即刻旅立つ用意をし、仕度をととのえるに、心せいているによって。」乙女はこの言葉に、余の驢馬の手綱を放さずに、けたたましい笑い声をあげはじめて、余にいうに、「もし私自身があのヘジャズの吟詠曲、おお[#「おお」に傍点]、わがモライカの頸の美わしきかな[#「わがモライカの頸の美わしきかな」に傍点]を歌ってさしあげるとしても、あなたはやはりあくまでヘジャズにお立ちになりますか。」余は答えて、「あなたの父と母にかけて、おお正しき人々のお娘よ、狂気にねらわれている或る男を、これ以上いじめなさるな。」
そう言うとその乙女は、相変らず余の驢馬の手綱を押えながら、突如として、わが狂気の吟詠曲を歌い出したものだ。しかも、余が昔かのヘジャズ人《びと》の口より聞いたところよりも、千倍も美しい声と唱法をもってである。とはいえ、低唱したのみにすぎぬのだ。恍惚と幸福の極に達し、余は大いなる安らぎがわが懊悩の魂を鎮むるを覚えた。そこで余はあわただしく驢馬から降りて、その乙女の足下に身を投げ、両手と衣の裾に接吻した。そしてこれにいった、「おお、わが御主人様、私は御身の奴隷、御身の寛仁に購《あがな》われた者でございます。わが歓待を受けては下さいませぬか。そしてあなたがモライカの吟詠曲を歌って下されば、私はそれを日ねもす夜もすがら、歌ってさしあげましょう。いかにも、日ねもす夜もすがら歌いましょう。」けれども乙女は答えた、「おおイスハークさま、私どもは御自作についてのあなたのあまり好ましからぬ御気性と、物惜しみなさることを、よく存じております。そうです、あなたのお弟子の女は誰一人、あなたから、またあなたによって、ただひとつの歌も、かつて頂戴したこともなければ、教わったこともないことを、私どもは知っておりますよ。お弟子たちであなたの歌を知っているのは、例えばアラウィヤ、ワージ・エル・カラー、ムハーリクというような他処人《よそびと》を通じて、お弟子たちに伝えたり、教えたりなすったものだけです。そして直接あなたからは、おお、あまりに惜しむこと深いイスハークさま、誰も何ひとつ教えられたことはございません。」次に付け加えて、「ですから、あなたは私たちを適当に待遇なさるほど御親切な方ではないことを、私はちゃんと知っておりますから、お宅に伺っても詮ないこと。それにモライカの曲を覚えたいというのなら、どうしてそんなに遠くまで行くことがありましょう。あなたがすっかり覚えなさるまで、私悦んで歌ってさしあげますわ。」そこで余は叫んだ、「そのおかえしには、おお天の娘よ、私はあなたのためにわが血を流しましょう。けれども、いったいあなたはどなたですか。お名前は何とおっしゃる。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十八夜になると[#「けれども第九百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると乙女は答えた、「葉の茂みが鳥に言い、微風が葉の茂みに言うところを解する女歌手たちのうちの、一介の女歌手でございます。〔(28)けれども私はワーバ。私の名を持つ吟詠曲のなかで、詩人の述べている女でございます。」そして乙女は歌った。
[#ここから2字下げ]
おお、ワーバよ、歓楽と悦楽はただ君がかたわらにのみ住まう。
おお、ワーバよ、君が唾《つば》のいかに馨《かぐ》わしかりしよ、そを味わいしは、ただひとりわれのみ。
沙漠に泉の稀なるごとく、君も稀にして、ただ一とたび来って、君が唇の杯をわれに薦《すす》めしのみ。
おお、ワーバよ、生涯にただひとつの卵より産まぬ雄鶏《おんどり》を、真似ることなかれ。来って住居を馨《かお》らしめよ。
われにもたらせ、砂糖よりも甘き歓楽、光のごとく透明にして、カルカーファとハンダリース(29)より軽《かろ》きかの神酒をば。
[#ここで字下げ終わり]
この愛すべき吟詠曲の歌詞は詩人ファルルージのものであったが、曲はワーバの自身作曲した微妙なものであった。彼女はこの歌によってわが分別を余すなく奪った。〕そこで余は極力嘆願して、ついに妹と共にわが家に来ることを承知させた。そしてわれわれは日ねもす夜もすがら、歌と音楽の三昧境に日夜を過ごした。余はこの女に、異議なく、かつて余の聞いた最も感嘆すべき女流歌手を認めた。この女への思慕はわが心魂に徹した。そしてついには、その美声を余に贈りしごとく、その肉体をも余に贈ってくれた。そしてこの女は、報酬者が余に授けたまいし多幸なる年月の間、わが生活を飾ってくれたのであった。
――次にその金持の青年は申しました、「さて次は、歴代|教王《カリフ》の舞姫についての逸話をひとつ申し上げよう。」
そして彼は言いました。
二人の舞姫
教王《カリフ》アブドゥル・ヤリク・ベン・マルワーン(30)の御代、ダマスに、その名をイブン・アブー・アティクという詩人音楽家がおったが、彼はその芸とダマスの貴族《アミール》富者の寛仁大度によって得る全部を、いつもめちゃくちゃの濫費で使い果たしてしまうのでした。それで多額の稼ぎにもかかわらず、いつも窮乏していて、大勢の家族の衣食を賄《まかな》うのに大苦しみであった。それというのは、およそ詩人の手中の金子《かね》と恋する者の魂の辛抱とは、篩《ふるい》のなかの水のようなものだからです。
ところでこの詩人は、教王《カリフ》の御心友の一人、侍従アブドゥラーを、友としていた。アブドゥラーは、今までもすでに幾たびも、詩人のために都の歴々の引立てを得させていたが、こんどは教王《カリフ》の御《ご》贔屓《ひいき》そのものを詩人に招いてやろうと思い定めた。そこで或る日、信徒の長《おさ》の御機嫌よろしい時を見計らって、アブドゥラーはこの件を切り出し、ダマスとシャーム全土が当代随一の感嘆すべき詩人音楽家と見なしている人物の、貧乏と困窮ぶりを、こまかにお話し申し上げた。するとアブドゥル・マリクはお答えになった、「彼を余の許によこして差支えない。」そこでアブドゥラーはいそぎ吉報を友に知らせにゆき、今自分が教王《カリフ》に申し上げた話を、繰り返し伝えてやった。詩人は友に礼を述べ、宮殿に伺候しに行った。
案内されてみると、折から教王《カリフ》は二人のすばらしい舞姫の立っている間に、坐っていらっしゃった。その舞姫はそれぞれ棕櫚の葉の団扇《うちわ》を、愛すべき優美さで動かして、御主君に涼風を送りつつ、そのしなやかな腰の上に、あたかも二本の訶利勒《バーン》の若枝のように、静かに身を揺すっていた。そして一方の舞姫の団扇の上には、次のような詩句が、金と紺青の文字で描かれていた。
[#ここから2字下げ]
わがもたらす息吹《いぶき》は涼しく軽く、われはわが掻い撫ずる女《おみな》らの、薄紅の羞恥《はじらい》と戯る。
われは恋する口の接吻《くちづけ》を隠すあどけなき面衣《ヴエール》なり。
われは口を開く歌姫の、はた詩を吟ずる詩人《うたびと》の、尊き援助《たすけ》なり。
[#ここで字下げ終わり]
また二番目の舞姫の団扇の上には、次のような詩句が、やはり金と紺青の文字で描かれていた。
[#ここから2字下げ]
われは美女の手の中にありてまことに美わし。さればこそわが特に好みの場所は、教王《カリフ》の宮殿なれ。
優美と高雅と折合わざる女《おみな》は、われを友とするをあきらめよかし。
されどわれは、美しき女奴隷のごとくしなやかにして直《すぐ》なる男《おのこ》にも、悦んでわが愛撫を送る。
[#ここで字下げ終わり]
詩人はこの艶《あて》やかな二人の乙女をつくづく見たとき、目まいを覚え、深い身ぶるいを覚えた。そしてとたんに、己れの貧困も、悲しみも、家族の窮状も、むごい現実も打ち忘れてしまった。そして身は天国の歓楽のただ中、選り抜きの二人の天女《フーリー》の間に、運ばれた思いであった。乙女の美しさは、今なお彼の記憶にあるあらゆる過去の女をば、醜い阿呆のように見させたのであった。
さて教王《カリフ》のほうは、敬意と御挨拶《サラーム》が終ると、詩人に仰せられた、「おおイブン・アブー・アティクよ、その方の心許ない状態と一家の陥っている貧困とについて、アブドゥラーの述べしところを聞いて、余はすこぶる感銘を覚えた。されば何なりとその方の欲するところを所望せよ。即刻即座に与えられるであろう。」すると詩人は、二人の舞姫を見て覚えた感動の裡にあって、教王《カリフ》のお言葉の意味すら解さなかった。またたとえ解したにせよ、金銭とか財宝などを所望することは、てんで念頭に浮かばなかったであろう。それというのは、そのとき、彼の精神《こころ》を占めていたのはただ一つの思いのみで、それはこの二人の舞姫の美しさと、二人を自分ひとりでわが有《もの》とし、彼女らの眼と感化に酔いたい望みであった。
されば、教王《カリフ》の寛大なお申し出に対して、詩人はお答えした、「願わくはアッラーは信徒の長《おさ》の宝寿を永からしめたまえ。さりながら君の奴隷は、すでに報酬者の御恵《みめぐ》みの限りを賜わっておりまする。富裕にして何不自由なく、さながら貴人《アミール》のごとく、その眼は満足、その精神は満足、その心情は満足。かつ現在私がここに、太陽の御前と、この二つの月の間におりまする状態では、よしんば私が貧困中最も黒い貧困と絶対の無一物にありましても、私は己れをば帝国随一の分限者と見なすでござりましょう。」教王《カリフ》アブドゥル・マリクはこのお答えにこの上なく御満足遊ばし、詩人の眼は彼の舌の言い出さぬところを熱烈に言い現わしているのを御覧ぜられて、立ち上がって彼におっしゃった、「おおイブン・アブー・アティクよ、ここにおるこれなる二人の娘は、今日はじめてルーム人の王より贈られて受けとったものであるが、この二人はその方の法律上の所有であり、その方の畑であるぞよ。その方は随意己が畑に入るがよい。」そしてお出ましになった。そこで詩人はその舞姫を連れて、わが家に伴なった。
けれどもアブドゥラーが王宮に戻ると、教王《カリフ》はこれにおっしゃった、「おおアブドゥラーよ、汝が友なるかの詩人音楽家の窮乏と貧困について、汝の得々と余に述べたところは、まことに誇張のきらいがあるぞよ。かの男は、自分は欠くるところなく幸福にて、何ひとつ全然不自由しておらぬと、余に断言したからな。」そこでアブドゥラーは己が顔が狼狽に覆われるのを覚え、それらの言葉を何と考えてよいかわからない次第であった。しかし教王《カリフ》は更に語を継がれた、「まことにさようじゃ、わが生命《いのち》にかけて、おおアブドゥラーよ、それにかの男は、いかなる被造物にもその比を見たことがないくらい、仕合せな身分にあったぞよ。」そして詩人音楽家の言上した誇張の言辞を、繰り返しお聞かせになった。そこでアブドゥラーは半ば気を悪くし、半ば笑いながら、お答えした、「御首《おんこうべ》の御《おん》生命《いのち》にかけて、おお信徒の長《おさ》よ、彼は嘘いつわりを申したのでございます。のめのめと嘘を申したのです。あの男が裕福だとは! あの男が満足だとは! いえあれこそは、一番みじめで、一番万事に事欠いている男でございます。あの男の妻子を見れば、誰でも瞼《まぶた》の縁《ふち》に、涙をおののかせられるでございましょう。どうぞ、おお信徒の長《おさ》よ、全帝国を通じて、何ぴともあの男にまして、わが君の御恩恵の最も些細なものなりと必要としている者はないと、思し召されよ。」すると教王《カリフ》はこの言葉に、いったいこの詩人音楽家をどう考えたものか、今はおわかりにならぬのであった。そしてアブドゥラーは教王《カリフ》の御許から出るとすぐ、いそぎイブン・アブー・アティクのところに出向いた。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八十九夜になると[#「けれども第九百八十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると彼は二人の美しい舞姫を相手に、一人を自分の右膝に、一人を左膝に乗せ、飲み物を満載した盆を前に、大機嫌であった。侍従は不機嫌な口調で彼を詰《なじ》って、いった、「いったい君は何を考えていたのだ、おお狂人よ、教王《カリフ》の御前で、君についての折角の私の言葉を打ち消してしまうとは。君は私の顔をこの上なく暗い色にまで黒くしたね。」すると満悦の極にある詩人は答えた、「ああ、わが友よ、私があの時にわかに移し置かれた事態にあったら、そもそも誰が貧乏を訴えたり、窮乏をわめいたりできようぞ。万一私がそんな真似をしたら、自分自身の利害にとってはともかく、少なくともこの二人の天女《フーリー》にとって、無上の非礼となるだろうよ。」こういいながら、彼は友に、麝香《じやこう》と樟脳の香りのついた液体のほほ笑んでいる大杯を差し出して、これにいった、「飲みたまえ、おおわが友よ、黒い眼の下で。黒い眼は私の無二の好物だよ。」そして二人のすばらしい舞姫を指しながら、付け加えた、「この二人の至福の女は、私の財産でもあれば財宝でもある。報酬者の御寛大を傷つけるおそれなくして、これ以上私は何を願うことがあろうか。」
〔(31)アブドゥラーもこれほどの淡泊ぶりの前では微笑せざるを得ず、杯を唇に近づけると、詩人音楽家は自分の竪琴《テオルブ》を取って、活溌な序奏で景気づけながら、歌った。
[#ここから2字下げ]
快活の、嫋《たお》やかの、雅《みや》びやかの乙女ら。見事なる羚羊《かもしか》、脇腹|直《すぐ》なる牝馬なり。
美しき円《まろ》き胸乳《むなぢ》は、胸の上に張る。輝かしき空の上の、硬玉の杯ふたつ。
いかんぞわれ歌わざらんや。さあれ、この羚羊《かもしか》らの我に飲まするものをば、もし禿山に飲ませたらんには、禿山も歌い出《い》づべし。〕
[#ここで字下げ終わり]
そして以前と同様、この詩人音楽家は、天命と被造物の御主《おんあるじ》とに己れを委ねつつ、翌日を思い煩わず、暮らしつづけた。その二人の舞姫は面白からぬ日々には彼の慰めとなり、生涯を通じて彼の幸福となったのでありました。
――次に青年は申しました、「今宵《こよい》、私は更にピスタチオ油のクリーム[#「ピスタチオ油のクリーム」はゴシック体]の物語をお聞かせいたそう。」
そして彼は言いました。
教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代、バグダードの最高|法官《カーデイ》はヤアクーブ・アブー・ユースフであって、これは当代切っての碩学《せきがく》、最も深遠にして俊敏な法律家でした。彼は教長《イマーム》アブー・ハニーファ(32)の高弟で最愛の伴侶であった。最も見識ある博識を授けられ、その師たる教長《イマーム》によって創始された見事な教義を、最初に、記録し、集成し、秩序立った理論的な全体に整頓したのは、実に彼であった。かくして編纂されたこの教義が、今後ハニーファ派の正統祭式の指針となり、根本となったのであります。彼は自分の幼少期と栄えない人生への踏み出しの身の上話と共に、ピスタチオ油のクリームおよび重大な法学上の難問を解決したことについて、自分自身でわれわれに語っております。こういっている。
ピスタチオ油のクリームと法学上の難問解決
父上が亡くなられたとき、――願わくはアッラーは父上に御慈悲を垂れたまい、選ばれし席を授けたまえかし。――余はいまだ母上の膝の上にいる、ごくいとけない子供にすぎなかった。そしてわれらは貧民で、余が唯一の一家の支えであったゆえ、母上は余が長ずるに及ぶや、取りあえず余をば界隈の染物屋のところに、徒弟に出した。かくて余は夙《つと》に母上と自分とを養うに必要な料《しろ》を稼ぐことを得た。けれども至高のアッラーは余の天命に、染物屋の職を記したまわなかったので、余は毎日毎日を染物桶のかたわらで過ごす決心をいたしかねた。それでしばしば余は店を脱け出して、教長《イマーム》アブー・ハニーファ――願わくはアッラーは師の君に最上の賜物の限りを尽したまえかし。――その法話を謹聴する、熱心な会衆に立ち混じりに行ったものだ。しかし母上はわが行状を監視し、たびたび余のあとについて来られ、この外出を激しく咎めて、敬すべき師を謹聴する会合者のまん中より、余を拉致《らち》しに来ることしばしばであった。余を叱りつつ打ちつつ、余の手を引っぱって、無理矢理染物屋の店に連れ戻すのであった。
しかし余は、この母上の根気よい追いかけと悩ましにもかかわらず、常に何とか工面して、崇むる師の授業を欠かさず聴聞する方法を見出した。老師はすでに余に注目せられ、余の学識を求める熱心、誠意、熱意の点で、余の名を挙げてさえおられた。それで或る日のこと、母上は余の染物屋脱走を激怒して、顰蹙《ひんしゆく》する聴衆のただ中に怒鳴り込みに来て、アブー・ハニーファに激しく食ってかかりながら、罵っていわれた、「おお長老《シヤイクー》様、旦那こそ、この児の破滅の因《もと》、この何ひとつよるべのない父無《ててな》し児《ご》が、まちがいなく浮浪児に堕《お》ちてしまう因《もと》です。何しろ私は私の紡錘《つむ》じゃとても儲けが足りないので、もしこの父無《ててな》し児《ご》が自分でも何か稼いでくれないことには、私たちはやがて飢え死にしてしまうでしょう。私たちが死んだら、その責任《せめ》は審判の日に旦那に振りかかりますよ。」するとわが崇むる老師は、この猛烈な問責を前にして、毫も平静を失わず、なだめるような声で母上に答えなすった、「おお憐れな女よ、願わくはアッラーはあなたに恩寵の限りを尽したもうように。けれども、行くがよい、何も案じなさることはない。この父無《ててな》し児《ご》は今ここで、他日、ピスタチオ油でこしらえた上等の小麦粉のクリームを食べることを、学んでいるのだよ。」すると母上はこの返事を聞いて、この尊い教長《イマーム》は理性薄弱なのだと思いこんで、次のような捨てぜりふを投げて立ち去った、「どうかアッラーは旦那の寿命を短くして下さるように。旦那はたわごとをいう老いぼれで、分別が無くなってしまったのだ。」だが余は教長《イマーム》のこのお言葉をよく記憶にとどめた。
さて、アッラーは余の心中に篤い好学心を置きたもうたゆえ、この情熱はいっさいに耐えて、ついに万障に打ち勝った。そして余は熱誠をもってアブー・ハニーファに傾倒した。「贈与者」は余に学識と学識の得さする成功を授けたまい、かくて余は漸次位階昇進し、ついにはバグダードの最高|法官《カーデイ》の重職に到達した。そして信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードの知遇を賜わり、しばしば陪食のお招きにあずかった。
ところで或る日、教王《カリフ》と御一緒に食事をしていると、食事の最後に、奴隷たちは、ピスタチオの実の粉を振りかけた、すばらしい白クリームの打ちふるえている、大きな磁器を持ってきたが、その匂いだけですでに楽しい思いがした。そして教王《カリフ》は余のほうをお向きになって、おっしゃった、「おおヤアクーブよ、これを味わってみよ。この料理はいつでも上手に出来るとはゆかぬ品じゃ。今日は申し分ない。」そこで余はお尋ねした、「このお料理は何と申しますか、おお信徒の長《おさ》よ。これはいったい何でこしらえたのでございましょう、見た眼にすでにかくも美しく、香りかくも快いとは。」教王《カリフ》はお答えになった、「これはクリームと、蜜と、上等の精製小麦粉と、ピスタチオ油でこしらえた、バルーザである。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十夜になると[#「けれども第九百九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
余は、これを承わって、余の身に起るべきところをかくのごとく予言なされた、わが崇むる老師のお言葉を思い起した。そしてこの思い出に、快心の微笑を禁じ得なかった。すると教王《カリフ》はおっしゃった、「そもそも何がその方の微笑をいざなうのか、おおヤアクーブよ。」余はお答えした、「何でもござりませぬ、おお信徒の長《おさ》よ。幼少の頃のちょっとした思い出がふと私の心中を掠め、その過ぎゆく思い出に対して微笑したのでございます。」すると教王《カリフ》は仰せられた、「さらば、いそぎそを余に語り聞かせよ。それを聞くは益あることに相違ない。」そこで余は教王《カリフ》のお望みを満たすため、わが勉学の最初や、アブー・ハニーファの教えを受ける精励ぶりや、余が染物業を棄てるのを見ての憐れな母上の絶望や、クリームとピスタチオ油のバルーザについての教長《イマーム》の予言などを、お話し申し上げたことであった。
するとハールーンは余の話を大いにお悦びあり、結論なすった、「まことに然り、勉学と学問とは常にその成果をもたらし、その利益は人事の領域と宗教の領域とにおいて数々ある。たしかに、敬すべきアブー・ハニーファは正しい予言をなし、その精神の眼《まなこ》をもって、余人がその頭《かしら》の眼をもっては見えざるところを、見ていたのじゃ。願わくはアッラーは師に御慈悲と、恩寵の最も馨《かぐ》わしきものとの、限りを尽したまえかし。」クリームとピスタチオ油のバルーザについては、以上のような次第である。
さて法学上の難問解決については、以下のようである。
一夕、疲労を覚えて、余は早く寝に就いた。そして深く眠っておると、そのとき余の門を激しく叩く者があった。それで余は物音にいそぎ起き上がり、羊毛の被衣《イザール》で腰を包み、自ら門を開けに行った。見ると信徒|長《おさ》の御信任厚き宦官ハルサマーである。そこで余は挨拶をした。ところが彼は余に挨拶を返す暇さえ惜しみ、そのため余は非常に心配に陥り、わが一身について険悪な事件を予想させられた次第であったが、とにかく彼は断乎たる口調で、いきなり余にいった、「速やかにわれらの御主君|教王《カリフ》の御許に参上せよ。御主君がお話なされたいとの仰せである。」そこで余はわが不安を制せんと努め、この件について何か見当をつけようと試みつつ、答えた、「おお、わが親しきハルサマーよ、私のような病人の老人《シヤイクー》に対しては、もうすこし敬意を払ってもらいたいものだね。夜はすでにたけなわだし、私がこんな時刻に教王《カリフ》の御殿にぜひとも出向かなければならんというほど、そんな重大な事件など実際にあるとは思えんがな。さればどうか明日まで待っていただきたい。今からそれまでには、信徒の長《おさ》もその事件をお忘れになるとか、御意見をお変えになるとかなさるだろう。」しかし彼は答えた、「ならぬ、アッラーにかけて、私は下された御命令の実施を、明日まで延ばすわけにはゆかぬ。」私は問うた、「せめて、おおハルサマー、なぜ私をお召しか、そのわけを聞かせてもらえんか。」彼は答えて、「御家臣マスルールが息せき切って走りながら、私に会いに来て、何の説明も与えず、即刻あなたを教王《カリフ》の御手の間に連れてこいと、私に命じなすったのですわ。」
そこで余は困惑の極に達して、宦官にいった、「おおハルサマー、せめて私に手ばやく身を洗い、少しく身を匂わすことを許していただけようか。というのはかくすれば、もし何か重大事件の際には、私は適当に身の始末をしているわけだし、またもし至善のアッラーが、私の希望するごとく、かなたにて私の一身には何のさしさわりもない用件を見出させて下さるならば、こうした清潔の配慮は、私に害があるどころではあるまいからな。」すると宦官は折れてわが希望を容れてくれたので、余は上にあがって身を洗い、適当な衣類を着け、できるだけよく身を匂わした。次に再び下りて宦官と落ち合い、共に足を早めて歩いた。王宮に着くと、マスルールがわれわれを戸口で待っていた。ハルサマーは余を指さしながら、彼にいった、「法官《カーデイ》が見えました。」するとマスルールは余にいった、「来られよ。」余はあとに従ったが、道々彼にいった、「おおマスルールよ、貴殿は御主君|教王《カリフ》への私の奉公ぶりを御承知だし、私のような年頃と職掌の人間に対して払うべき敬意も御存じじゃ。また私が常々貴殿に抱いてきた友情も御承知なくはあるまいが、どうぞ教王《カリフ》が何ゆえ夜もこんなおそい時刻に私をお召し出しになるのか、わけを話しては下さるまいか。」するとマスルールは答えた、「いや私自身も知らないのです。」そこで余は前にもまして不安を覚え、彼に訊ねた、「ではせめて、わが君のところにはいったい誰がいるのか、いってもらえまいか。」彼は答えた、「あそこにはただ一人の人しかいない。侍従のイッサで、また隣室には侍従の夫人がいるだけです。」
そこで余はもうわかろうとは思わず、申したことだ、「アッラーにわが身を委ね奉る。全能全知のアッラーのほかには、頼りも力もない、」と。そして平生|教王《カリフ》のいなさるお部屋に先立つ一室に着くと、自分の歩行の模様と足音とが聞えるようにした。すると教王《カリフ》は内部《なか》からお訊ねになった、「戸口にいるのは誰か。」余はすぐに答えた、「君の下僕《しもべ》ヤアクーブにござりまする、おお信徒の長《おさ》よ。」すると教王《カリフ》のお声がかかった、「入れ。」余ははいった。するとハールーンはお坐りになっていて、その右手に侍従のイッサがいた。余は平伏しながら進み寄り、まず御挨拶《サラーム》を申し上げた。すると大いにほっとしたことに、ハールーンは挨拶《サラーム》をお返しなされた。次に、微笑を浮かべつつ余に仰せられた、「われらはその方を乱し、騒がし、或いはおびえさせはしなかったか。」余は答えた、「いや、おお信徒の長《おさ》よ、ただ私と私が自宅に残した者どもとを、おびえさせなされたのみでございます。御首《おんこうべ》の御《おん》生命《いのち》にかけて、われら一同気も顛倒いたしました。」すると教王《カリフ》はやさしくおっしゃった、「坐るがよい、おお法の父よ。」そこで余は憂慮と不安から放たれて、心も軽く坐った。
少時《しばらく》たつと、教王《カリフ》は余におっしゃった、「おおヤアクーブ、われらは何ゆえその方をばかかる深更の時刻にここに呼んだか、知っておるか。」余はお答えした、「存じませぬでござりまする、おお信徒の長《おさ》よ。」すると仰せられた、「さらば聞け。」そして侍従のイッサを指さしつつ、余におっしゃった、「その方を来らしめたのは、おおアブー・ユースフよ、その方をばこれより余の立てんとする誓言の証人とせんがためじゃ。事実知るがよい、これなるイッサには一人の女奴隷がおる。ところで余はイッサに、その女奴隷を譲ってくれと頼んだが、しかし彼はことわりおった。そこで余は然らば売ってくれと頼んだが、やはり撥《は》ねつけた。さて、おおヤアクーブよ、余は最高|法官《カーデイ》たるその方の前で、讃められたもう至高のアッラーの御名にかけて誓う。万一イッサがなお飽くまでその女奴隷を、いかようにせよ余に譲るを肯《がえ》んぜずとせば、余は即刻これを、救いの道なく、亡きものといたす。」
そこで余は、己が一身については全く安堵し、厳しき態度でイッサのほうに向って、これにいった、「いったいアッラーは、その方の奴隷なるその娘に、そもそもいかなる並はずれた長所なり徳なりを頒《わか》ち与えたもうたというのか、その方がいやしくも信徒の長《おさ》にこれをお譲り申し上げるを肯《がえ》んじないとは。さらばその方は、己れの拒むことによって、身を最も屈辱の境に置き、体面を汚し、身を卑しくすることがわからぬのか。」するとイッサは余の諌言に少しも動ずる色なく、余にいった、「おお、われらの法官《カーデイ》の殿よ、判断に性急は禁物でござる。私を叱責なさるに先立って、まず私にかかる挙動を命じた動機を御詮議あって然るべしと存じます。」そこで余はいった、「それもそうじゃが、しかし、およそかかる拒絶に対して、受理され得るごとき動機が世にあり得ようか。」彼は答えて、「いかにもござりまする。そもそも誓言は、自ら進んで十分に正気の精神状態でなされた際には、いかなる場合でも無効を宣言され得ませぬ。ところが私には、仰せに従い得ざる動機として、厳粛なる誓言の力がございます。と申すは、私は誓いました、三たびの離婚にかけ、わが手許にある男女の奴隷全部を解放する誓約をいたし、わが全財産財宝を貧民と寺院《マスジツト》に分配する約束の下に、くだんの娘に、決してお前を売ることも与えることもしないと、たしかに誓ったのでございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十一夜になると[#「けれども第九百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
教王《カリフ》はこの言葉に、余のほうを向いておっしゃった、「おおヤアクーブよ、この難題を解決するすべありや。」そこで余はためらわず答えた、「いかにもござりまする、おお信徒の長《おさ》よ。」すると、お訊ねあって、「してそれはいかにしてか。」余のいわく、「簡単なこと。イッサは誓約をたがえぬためには、その娘、君の御所望なさるる奴隷の半分を、君に献上し、残り半分をば、君にお売り申すがよろしい。かくすれば、彼は己が良心にもとるところはござりますまい。彼は実際上わが君に娘を奉ったわけでもなし、お売り申したわけでもありませぬから。」
イッサはこの言葉に、はなはだためらいがちに、余のほうに向いて、いった、「そのようなやり方は、おお法の父よ、果たして法に叶うでしょうか。法によって受理されるでしょうか。」余は答えた、「いささかの疑いなし。」すると彼は直ちに片手をあげて、余にいった、「然らば私は、おお法官《カーデイ》ヤアクーブよ、貴殿を証人として、かくてわが良心を解放し得るからには、ここにわが女奴隷の半分をば、信徒の長《おさ》に献上し、残りの半分をば、これに要せし総費用たる銀貨十万ドラクムの額にて、お売り申し上ぐることといたします。」するとすぐにハールーンは叫びなすった、「余は進物を嘉納いたすが、しかし残り半分は金貨十万ディナールにて買い取ろう。」そして付け加えて、「その娘をこの場に連れ来れ。」イッサは直ちに控えの間《ま》にいる女奴隷を呼びに行き、それと同時に金貨十万ディナールのはいった袋が持ち運ばれた。そしてやがて娘は持主に案内されてはいって来たが、持主はいった、「さらばお取り下さい、おお信徒の長《おさ》よ。して願わくはアッラーは、わが君をこの女の傍らにて祝福もて包みたまいまするように。この女は君の御持物、御所有物でございまする。」そして十万ディナールを受けとって、彼は出て行った。
すると教王《カリフ》は余のほうを向かれて、憂わしげな御様子にておっしゃった、「おおヤアクーブよ、今ひとつ解決しなければならぬ別の難題がある。これはいかにも至難事に思えるが。」余はお訊ねした、「その難題とはどのようなものでございましょう、おお信徒の長《おさ》よ。」仰せらるるに、「この若い娘は他の男の奴隷であったからには、余の所有となるに先立って、規定された日数を待ち、もって最初の主人の影響下に母親となっていないことをば、確かめられねばならぬ。しかるに余は、今宵《こよい》直ちにこの娘と一緒にならぬことには、もどかしさに肝《きも》が破裂してしまうに相違なく、必ずや一命を失ってしまうであろうぞ。」そこで余は、しばし思い耽って、お答えした、「この難問の解決は至極簡単でござる、おお信徒の長《おさ》よ。この掟は奴隷女性のみを対象としているのであって、自由女性に対しては格別待たねばならぬ日数をあらかじめ規定してはおりませぬ。されば直ちにこの奴隷を解放なすって、自由女性としてのこの娘と御結婚なさりませ。」するとアル・ラシードは、悦びに面《おもて》を輝かせて叫びなすった、「余はわが奴隷を解放いたす。」次に突如不安を覚えなすって、余に訊ねられた、「だが、このように深更となっては、誰がわれらを合法的に結婚させてくれるかな。というのは、ただ今、即刻、余はこれと一緒になりたいのじゃ。」余は答えた、「この私自身が、おお信徒の長《おさ》よ、即刻、お二人を合法的に結婚させて進ぜましょう。」
そして余は証人として、教王《カリフ》の二人の御家来、マスルールとフサインを呼ばしめた。両人罷り出ると、余は祈祷と祈願の文句とを誦し、式辞を述べ、至高者に感謝し奉って後、縁組の辞《ことば》を唱えた。そして教王《カリフ》は、習慣に従って、婚約者に結納金《マハル》を支払うべき旨を余が規定して、余はそれを二万ディナールの金額に定めた。次に、いよいよその金額が持ってこられ、花嫁に渡されたので、そのとき余は退出しようとした。ところが教王《カリフ》は御家来マスルールのほうに頭をおあげになったので、マスルールはすぐにいった、「お申しつけ下さいませ、おお信徒の長《おさ》よ。」するとハールーンはこれにおっしゃった、「法官《カーデイ》ヤアクーブの許に、直ちに二十万ドラクムの金額と二十着の誉れの衣を届けよ、われらとんだ迷惑をかけたによって。」そして余は御礼を申し上げてから、歓喜の極にあられるハールーンを後に残して、退出した。余は金子《かね》と衣と共に、自宅まで送り届けられた。
さて、余が自宅に着くと早々、そこに一人の老女がはいってきて、余にいうのであった、「おおアブー・ユースフ様、あなた様のお蔭をもちまして自由の身となって、教王《カリフ》と相結ばれ、こうして信徒の長《おさ》のお妃《きさき》という称号と地位を授かった果報者は、今はあなた様の娘となり、御挨拶《サラーム》と御福祉の祈願とを呈するため、私を遣わしました。そして教王《カリフ》がお渡しになった御結納金の半分を、どうぞ御嘉納下さいますようにとのことでございます。さしあたり、お尽し下さいましたところに対してもっと十分御礼できないことを、申しわけなく存じておりまするが、しかし、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、他日、あなた様にもっと手厚く感謝の気持を表することができるでござりましょう。」こういって、老女は余の前に、乙女に支払われた結納金の半額にあたる、金貨一万ディナールを置いて、余の手に接吻して、己が道に立ち去った。
かくて余は報酬者に御恩恵を謝し奉り、その夜、わが精神の困惑を、喜悦と満足とに変じたもうたことを、謝し奉った。そして心中にて、わが亡き師アブー・ハニーファの芳名を祝福したことであった。その御教育によって余は宗規と民法とのあらゆる微妙事に通じ得たのである。願わくはアッラーはこの師の君をば、賜物と恩寵をもって覆いたまえかし。
――次に金持の青年は申しました、「さて今度は、おお、わが友御一同よ、泉のアラビア娘[#「泉のアラビア娘」はゴシック体]の物語をお聞き下され。」
そして彼は言いました。
泉のアラビア娘
教王《カリフ》権がハールーン・アル・ラシードの御子アル・マアムーンの御手に入った時は、全帝国の祝福でありました。それというのは、アル・マアムーンこそは異論なく、アッバース王朝を通じて最も華々しく最も明智の教王《カリフ》にましまし、回教諸国を平和と公正によって富ませ、学者と詩人を適切に保護し、優遇し、われらアラビアの父祖をば学問の角逐場《マイダーン》裡に投じなすったのでありました。そして果てしなき御用向と御精励御勉強に満ちた日々とにもかかわらず、よく遊楽、愉楽、祝宴のための余暇を見出しなすった。それで音楽家や歌姫らも、教王《カリフ》の御微笑と御恩恵との大きな分け前を賜わった。また当時最も聡明にして、見識ある、美貌の女性たちを選んで、御自分の合法のお妃方とし、お子様の母親とすることがおできになった。アル・マアムーンが一人の女性に白羽の矢を立て、これをお妃に選びなされたそのやり方は、いろいろあるが、ここにそのうちの一例がありまする。
実際、一日、供廻りの騎手を従えて騎馬の狩猟からお帰りの途中、たまたま泉のほとりに着かれた。そこには一人の若いアラビア娘がいて、ちょうど泉の水を満たした革嚢《かわぶくろ》を、肩にかつごうとしていた。その若いアラビア娘は、創造主から、四尺ばかりの愛らしい身の丈《たけ》と、完全の鋳型で型どられた胸許を授かっていた。そしてその他全部については、満月の夜の満月さながらであった。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十二夜になると[#「けれども第九百九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてその乙女はこのきらびやかな騎馬武者の一行が来るのを見ると、いそいで革嚢《かわぶくろ》を肩にのせて、引き上げようとした。ところがあわてていたので、革嚢の口許をしっかり結《いわ》く暇がなく、二、三歩歩くと、紐がはずれて、水がどくどくと革嚢からこぼれ出した。そこで乙女は、わが家の建っている方向を向いて、叫んだ、「お父さま、お父さま、来て下さいませ、革嚢の口を取り押えて下さい。口は私に背《そむ》きました。私はもう口を取り押えることができませんの。」
父親に向って叫んだこの三つの文句は、教王《カリフ》が感に耐えず、思わずお足をとどめなすったほど、雅びやかな言葉づかいと愛すべき抑揚で、この若いアラビア娘によって言われた。そして乙女は父親の来るのが見えないので、身を濡らすまいと革嚢を手放すと、そこに教王《カリフ》は進み寄って、これに申された、「おお若い子よ、お前はどこの部族の者か。」すると乙女は爽やかな声で答えた、「|キラブの子孫《バニ・キラブ》の部族でございます。」このキラブの子孫の部族というのは、アラビア人の間で最高の名家の一つであることをよく御承知のアル・マアムーンは、この娘の性格を試みるため、言葉の洒落《しやれ》をしてやろうと思し召されて、いいなすった、「おお美しい子よ、『|犬の子孫《バニ・キラブ》』の部族に属すると知って、お前はどんな気がしたか。」すると乙女はさげすむように教王《カリフ》を見やって、答えた、「おや、おや、それではあなたは言葉の本当の意味を御存じないのですか。ではお聞かせ申しましょう、おお異国のお方よ、わたくしの出身の|キラブの子孫《バニ・キラブ》の部族とは、寛大であって非難の余地なくあることができ、異国の方方に対しては天晴れであることができ、一朝事あらば、堂々と剣を振うことのできる人々の、部族でございまする。」次に乙女は付け加えた、「けれども、おお、この土地のお方ならぬ騎士よ、あなたのお家柄はどのようで、また御系譜は?」すると教王《カリフ》はこのアラビア娘の物の言い方にますます感心なすって、微笑を浮かべながら、おっしゃった。「それではお前はひょっとすると、おお美しい子よ、お前の色香にかてて加えて、系譜のことにも造詣があるのかね。」すると乙女はいった、「わたくしのお訊ねに答えてごらん遊ばせ、さすればおわかりになりましょう。」するとアル・マアムーンは興をお覚えになって、お思いになった、「果たしてこのアラビア娘がわれらの祖先を知っているかどうか、実地に試みてみよう。」そしておっしゃった、「さらば、聞くがよい、私は赤皮ムダール族の血統じゃ。」若いアラビア娘は、ムダール族のこの名称の起源《はじまり》は、その昔、ムダール族全部の先祖たるムダールの持っていた、皮の天幕《テント》の赤色にもとづくものであることを、よく知っていたので、教王《カリフ》のお言葉に少しも動ずる色なく、いったのであった、「わかりました。けれども、ムダール族のどういう御一家の方か、おっしゃって下さいませ。」教王《カリフ》は答えて、「最も赫々たる一族、父系母系共に最上にして、名声高き祖先最も数多く、赤皮ムダール族中最も尊敬せらるる一族じゃ。」すると乙女はいった、「それではキナーナ御一族でいらっしゃいます。」アル・マアムーンは驚いてお答えになった、「いかにもそのとおり、私は|キナーナの子孫《バニ・キナーナ》の豪族の者じゃ。」すると乙女は微笑して訊ねた、「けれどもキナーナ御一族のどの御枝《おんえだ》に属していらっしゃいますか。」教王《カリフ》は答えられた、「子孫は最も高貴の血にして、出生最も純血、寛闊なる掌《たなごころ》の主《あるじ》たちにして、兄弟の間で最も畏敬せらるる者たちの枝じゃ。」すると乙女は言った、「そう伺いますると、どうやらクライシュ族のお方のように、思われまする。」それでアル・マアムーンはますます感嘆なすって、お答えになった、「まさに然り、私は|クライシュの子孫《バニ・クライシユ》じゃ。」すると乙女は語を継いで、「けれどもクライシュ族と申しても多うございます。どの小枝でいらっしゃいましょうか。」教王《カリフ》は答えて、「その上に祝福の下った小枝じゃ。」乙女は叫んだ、「アッラーにかけて、あなたさまは、預言者――その上に祈りと平安あれ。――その曽祖父、クライシュ族ハーシムの後裔でいらっしゃいまする。」アル・マアムーンは答えなすった、「それは真《まこと》である、私はハーシム家の者じゃ。」乙女は訊ねた、「けれどもハーシム家のどの御一門にわたらせられまするか。」教王《カリフ》はお答えになった、「最高に位し、ハーシム家の栄誉と光栄をなし、およそ地上にある信徒ら全部によって崇められておる一門じゃ。」すると若いアラビア娘はこの御返事を聞くや、にわかに平伏して、アル・マアムーンの御手の間の地に接吻して、叫んだ、「信徒の長《おさ》、宇宙の主《しゆ》の代理者、栄え満てるアッバース王家のアル・マアムーンさまに、敬礼と尊崇あれかし。」
すると教王《カリフ》は深く感動なすって茫然となさり、名状すべからざるお悦びにひたされて、お叫びになった、「聖殿《カアバ》の御主《おんあるじ》と、純正の信徒、わが赫々たる祖先の御勲《おんいさおし》とにかけて、余はこの天晴れなる女児をば、妃に迎えたい。この女児こそは、わが運命の裡に記されたる最も貴き財である。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十三夜になると[#「けれども第九百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして教王《カリフ》はすぐに乙女の父親を呼ばせたが、父親はちょうどその部族の長老《シヤイクー》であった。教王《カリフ》はこれにその天晴れな女児を所望した。同意を得ると、息女に対する結納金《マハル》として、父親に金貨十万ディナールの金額を呈し、向う五カ年間のヘジャズ全地の税収入をその名に書き記した。かくてアル・マアムーンとその高貴の乙女との婚儀は、アル・ラシードの治世下にも類を見ないほどの盛大さをもって行なわれた。婚礼の夜には、アル・マアムーンは、美しい女児の頭上に、黄金の盆に盛った千顆の真珠玉を、その母親の手で振り注がせた。そして婚姻の間《ま》には、ペルシアの一年分の税額をもって購《あがな》った、五キログラムほどもある竜涎香を、煌々と焚かせたものである。してアル・マアムーンはこのアラビアのお妃に対しては、ことごとく愛し、ことごとく惹かれていなすった。お妃は一人の男子を挙げ、その王子はアッバースの名を付けられた。このお妃は、イスラムで最も驚くべく、最も教養あり、最も雄弁な女性のうちに、数えられたのでありました。
――この物語を語り終えると、金持の青年は「書閣」の下に集まった聴衆に向って、申しました、「今ひとつアル・マアムーンの御生涯の一事蹟ではあるが、これとは全然別な話題の事がらをお話し申し上げよう。」
そして彼は言いました。
しつこさの報い
ハールーン・アル・ラシードとゾバイダの御子、教王《カリフ》ムハンマード・エル・アミーンが、敗北の後、アル・マアムーン軍の総指揮官の命によって弑《しい》せらるるや、それまでなおエル・アミーンに味方していた地方全部は、その弟、アル・ラシードとマラヒルという名の女奴隷の御子、アル・マアムーンに、いそぎ降伏したのであった。アル・マアムーンは昔の敵一同に対し、極めて寛大な処置をもって、治世を始めた。次のようにいうを常とせられた、「もしもわが敵どもが余の心中の慈愛をことごとく知ったならば、彼らは皆己が罪を認めて、来って余に一身を委ぬるであろうが。」
ところで、父君アル・ラシードと兄君エル・アミーンの御在世中に、アル・マアムーンの忍ばなければならなかったあらゆる不快事を操っていた頭と手は、ほかならぬ、アル・ラシードの|妃ゾバイダ様《シート・ゾバイダ》その人であった。さればゾバイダ妃は、わが子の悲惨な末期を聞かれたとき、まずメッカの聖地に遁れて、アル・マアムーンの復讐を避けようかと思いなすった。そして長い間いかになすべきかためらった。そのうち突然、お妃は己が運命を、まさに御自分が廃嫡した者、御自分が長きにわたって没薬《もつやく》の苦さを味わわせた者の手中に、委ねようと意を決した。そして次のような書状を認《したた》めなすった。
[#この行2字下げ] あらゆる過失も、おお信徒の長《おさ》よ、よしいかに大なりとも、御身の仁慈に対しては些細事となり、あらゆる罪過も御身の宏量の前にては、単なる誤謬と化す。この嘆願状を呈する女は、懐しき記憶を想起したまわんことを乞い、今日の嘆願者に優しかりし御方に免じて、お許しあらんことを乞い奉る。さればもし御身にして、妾《わらわ》が無力と窮迫を憐れみ、慈悲に値せぬ者に対して慈悲深き態度をとるを望みたまわば、御身は、もしなお世に在《いま》さば、必ずや御身の許に妾の仲介者となりしならん御方の精神に則って、行動したもうことと相成るべし。おお御身の父上の子よ、御身の父上を思い出でたまえ。しかして寄る辺なき寡婦の祈願に、御心《みこころ》を閉ざしたもうことなかれ。
ところで、教王《カリフ》アル・マアムーンはこのゾバイダのお手紙を閲読なさると、御心は憐れみに動かされ、深く感銘なすった。そして兄君エル・アミーンの悲運とエル・アミーンの母君の悲境に、涙を濺《そそ》がれた。次に立ち上がりなすって、ゾバイダに以下のようにお答えになった。
[#この行2字下げ] 貴翰は、おお母上よ、正に至るべかりし場所に至り、御身の御不幸につき遺憾に粉砕せらるるわが心を、見出し候。その記憶のわれらに神聖なる御方の未亡人に対するわが情は、己が母に対する子息の情にほかならざるは、アッラーの照覧せらるるところに候。およそ被造物は運命の判決に対し何らなす能わず。されど小生は御身の苦痛を軽減すべく最善を尽し候。事実、没収せられし御領地、動産、不動産をはじめ、逆運によって奪われたまいしいっさいをば、おお母上よ、御手許に還付すべき命令を下し候。もし御身われらのただ中に戻りたき御意向あらば、全くの旧態と全御家来の敬意と尊崇を、見出したもうべく候。しかして、おお、わが母上よ、御身の失いたまいしは、ただアッラーの御慈悲の裡に逝きたまいし御方の御面《みおもて》のみなりと、くれぐれも思し召されよ。何となれば、御身にはなおわが裡に一人の子あり、そは御身の望み得る以上にまめやかなる子息に候えば。願わくは平安と安泰御身の上にあれかし。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十四夜になると[#「けれども第九百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それゆえ、ゾバイダが両眼に涙をたたえて、絶え入るばかりの御様子で、足下に身を投げに来なすったとき、アル・マアムーンは敬意を表して立ち上がり、その手に接吻して、その胸のなかでお泣きになった。それから、アル・ラシードの王妃、アッバース家の血のつながる王女としての、あらゆる旧《もと》の特権をお返しして、全く御自身がそのお胎《はら》の子であるかのように、終生これにお仕え申した。けれどもゾバイダは、権力のあらゆる幻《まぼろし》にもかかわらず、かつての御自分の身分と、エル・アミーン弑逆《しいぎやく》の報に接したお心の苦悩をば忘れられなかった。そして世を終えるまで、胸奥に一種の怨みを懐かれ、それはいかに注意深く隠そうと、アル・マアムーンの炯眼《けいがん》をのがれなかった。それに、いくたびも、アル・マアムーンは、何とも不平はおっしゃらなかったが、この眠れる敵意の状態に、悩ませられなければならなかった。次に述べる事蹟は、あらゆる注釈にまして、何ものも慰めることのできなかったこのお妃の、不断の遺恨をよく証するものであります。
例えば或る日のこと、アル・マアムーンはゾバイダのお部屋にはいると、お妃が突然唇を動かして、じっと教王《カリフ》を見据えながら、何か呟くのを御覧になった。こうして唇の間でもぐもぐおっしゃっていることが、教王《カリフ》には聞きとれなかったので、いいなすった、「おお、わが母君、どうやら母君は、異端のペルシア人どもに暗殺されなすった御令息と、その占めていらっしゃった王座に私が登ったことをばお考えになって、私を呪っていらっしゃったように拝見します。しかしながら、ただアッラーのみがわれわれの天命を統《す》べたもうたのです。」けれどもゾバイダは叫んでいわれた、「いえ、いえ、君の御父上の聖なる記憶にかけて、おお信徒の長《おさ》よ、そのような性癖は私から遠ざけられますように。」するとアル・マアムーンは聞かれた、「では、今私を見つめながら、何を唇の間で呟やきなすったのか、伺わせていただけましょうか。」けれどもお妃は、相手に対する敬意から、口を開きたくない人のように、首を垂れて、答えなすった、「信徒の長《おさ》は何とぞ御容赦下さって、お訊ねの謂《いわ》れを申し上げることを御免じ下さいますように。」けれどもアル・マアムーンは強い好奇心を覚えて、強《た》ってせがみ、ゾバイダを質問責めになさりはじめたので、ついにはお妃は追いつめられておっしゃってしまった、「それでは、申し上げます。実は私はしつこさということを呪って、こう呟やいていたのでした、『どうかアッラーはしつこさの悪癖に陥った執念深い人々を懲らしめたまいますように、』と。」アル・マアムーンは訊ねなさった、「だがどういう件に、或いはどういう思い出に対して、その非難を浴びせていらっしゃったのか。」するとゾバイダは答えた、「ぜひともそれを知りたいとのお望みあるからには、申し上げます。」そしてこういわれた。
「さればでございます。おお信徒の長《おさ》よ、或る日のこと私は、お父上なる信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードの将棋のお相手をして、負けました。するとお父上は私に、深夜、丸裸で、宮殿と御苑を一とまわりしてこいという罰をお課しになりました。そして私の重ねてのお頼みとお願いにもかかわらず、この負け代を私に支払わせなさるのに特別しつこくこだわりなさり、外の罰では御承知なさいません。やむなく私は裸になって、言い渡されたことをしないわけにまいりませんでした。やっとしおえた時には、私は腹立ちで物狂おしく、疲れと寒さで半死半生の態《てい》でした。ところが翌日は、こんどは私が将棋に勝ちました。それで、さあ、私がお父上に条件を出す番です。私はしばらく考え、何が一番御不快なことかしらと心の中で求めた末、自分のすることをよく承知の上で、お父上に、台所の女奴隷のなかで一番醜く、一番汚ならしい奴隷の腕の中に、一夜を過ごしにいらっしゃいませと申し渡しました。この条件を兼ね備える女は、マラヒルという名の奴隷でしたので、私は賭の目当てとしお負けになった罰として、その女を名指しました。それで、ごま化しなさらずちゃんとお果たしになることを確かめようと、私は自身でお父上を奴隷マラヒルの臭い部屋にお連れして、そのそばにお寝かし申し、私がいくたびもお贈りした美しいお妾たちと、なさることが大好きでいらっしゃったことを、一と晩中、その女奴隷となさるようにむりに計らいました。翌朝は、もう惨澹たる有様で、悪臭芬々としていらっしゃいました。ところで、今は申し上げなければなりませんが、おお信徒の長《おさ》よ、君はまさしく、お父上とこの凄まじい女奴隷との御同衾から、台所の隣室で、この女奴隷を転ばしなすったことから、お生まれになったのでございます。
こうして私はそれと知らずして、君の御誕生により、わが子エル・アミーンの破滅の因《もと》となり、近年われわれの一族に襲いかかったあらゆる不幸の因《もと》となった次第でございます。ところでこうしたすべては、もし私がお父上に対して、あれほどしつこくあの女奴隷を転ばすことをお強《し》いしなかったら、また、もしお父上もお父上で、あれほどしうねく、先ほどお話し申したことを私におさせ遊ばさなかったら、何も起らなかったことでございましょう。以上が、おお信徒の長《おさ》よ、先ほどしつこさと執念深い人々とに対して、私に呪詛を呟やかせた謂《いわ》れでございます。」
アル・マアムーンはこれを聞きなさると、御自分の恥ずかしさを隠すため、あわててゾバイダに別れをお告げになった。そしてこうお考えになりながら、お引き取りになったことでした、「アッラーにかけて、余は王妃が今余に加えた意見に、まさに値するわけだ。余がしつこく問いたださなかったら、この不快な件を今さら思い出さずにすんだものを。」
――「書閣」の主《あるじ》の青年は、こうしたすべてを聴衆と客人に語りおえると、一同に申しました、「どうぞアッラーは、おお、わが友御一同よ、この私が、学識と皆さま方のお耳との間の、仲介者として役立ち得たということに、なしたまいまするように。さて、以上は、書物に親しみ勉学を積むことによって、経費もかからず危険もなく貯えることのできる財宝の、ほんの一端であります。今日のところは、これ以上もはやお話し申し上げますまい。されど、他日、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、われらの父祖の最も貴重な遺産として、われらの許に伝えられたる数々の玄妙驚異の、他の一面をば御披露申すでありましょう。」こう語って、青年はその場にいる人々めいめいに、金貨百枚と高価な切地一反を配って、一同の謹聴をねぎらい、好学の熱意を謝しました。それというのは、青年は思ったのでした、「よい性情は激励の要があり、善意ある人々には道を容易にしておく必要があるのだ。」次に、およそ美味なものは何ひとつ洩れていない、結構な食事を一同にふるまった上で、青年は平安の裡に解散いたしました。彼ら一同はこのようでございました。さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする。
[#ここから1字下げ]
――シャハラザードはこの長い一聯の見事な物語を語りおえると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王はこれにいった、「おおシャハラザードよ、なんとそちは余を啓発してくれたことか。さりながら、そちは余に大臣《ワジール》ジャアファルのことを話すを、失念しておるにちがいない。余としては、彼についてそちの知るすべてを、語ってもらいたいと望むことすでに久しいのじゃ。それというは、まことにこの大臣《ワジール》は、その美質の点で、余の総理|大臣《ワジール》、すなわちそちの父と驚くばかり酷似している。さればこそ、余はそちより、その史伝の真実を、微細にわたってぜひ知りたいと思う。そは定めし感嘆すべきものにちがいないからな。」けれどもシャハラザードは首を垂れて、答えた、「どうかアッラーは私どもから不幸と災厄を遠ざけたまいますように、おお当代の王様よ。そしてアッラーはバルマク家のジャアファルとその一族全体を、お憐れみ下さいますように。お願いでございます、その史伝をお話し申し上げるのは、御容赦下さいませ。それは涙に満ちておりまするから。あわれ、ジャアファルと、その父ヤハヤー、またその兄エル・ファズル、および全バルマク一家の最期の物語を聞いて、そも誰が泣かずにおられましょうか。たしかに、彼らの最期は痛ましく、花崗岩《みかげいし》すら哀れを催すでございましょう。」するとシャハリヤール王はいった、「おおシャハラザードよ、ともかくも語り聞かせよ。願わくはアッラーは、悪魔と不幸をばわれらより遠ざけたまえかし。」
そこでシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
ジャアファルとバルマク家の最期(1)
されば、おお幸多き王様、涙に満ちたその物語は、次のようなものでございます。これこそは教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代に、四つの大河もすすぎえない、血の汚点を印するものでございます。
おお、わが御主君さま、君もすでに御承知あらせられるように、宰相《ワジール》ジャアファルは、ヤハヤー・ベン・カーリド・ベン・バルマクの四人の子息のうちの一人でした。その長兄はアル・ラシードの乳兄弟、エル・ファズルでございます。それというのは、ヤハヤーの一家とアッバース王朝御一家とを結ぶ、非常な友誼と際涯ない忠誠のゆえに、アル・ラシードの御母君ハイズラーン妃と、エル・ファズルの母、高貴なるイタアバーとは、これまたもっとも厚い親交ともっとも深い情愛とに相結ばれて、ほぼお年ごろ同じきお互いの嬰児《みどりご》を交換なさり、御自身の子息にアッラーの定めたまいし乳をば、それぞれわが友の子息に与えなすったからでした。それゆえに、アル・ラシードはいつもヤハヤーを「わが父」と呼び、エル・ファズルを「わが兄弟」と呼んでいらっしゃったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十五夜になると[#「けれども第九百九十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
バルマク家の起源につきましては、もっとも名声高く、信を置くに足る年代史家たちは、これをホーラサーンのバルフの町に置いており、その町で、すでにこの一家は高位を占めていたと申します。そしてこの名門が、ウマイヤ朝諸|教王《カリフ》の御代に、ダマスへ来て定住したのは、われらの祝福せられたる預言者――その上に祈りと平安あれ。――その聖遷《ヒジラー》ののち、ほぼ百年のことでございます。この一族の長は、それまで拝火教帰依者でありましたのが、真の信仰に改宗し、回教《イスラム》によって清められ、高められたのは、このときのこと。それはちょうど、ウマイヤ朝のヒシャム(2)の御代に起こったのでございます。
さりながら、バルマク一門が閣議に列なることを許され、一族の光輝を全土に輝かしたのは、アッバースの後裔が教王《カリフ》位に即《つ》かれたあとにすぎません。というのは、一門のなかから出た最初の宰相《ワジール》は、カーリド・ベン・バルマクでございまして、彼はアッバース朝初代アブール・アッバース・アッ・サッファーハによって、大|宰相《ワジール》に選ばれました。そしてアッバース朝第三代アル・マハディーの御代、ヤハヤー・ベン・カーリドは、教王《カリフ》の御愛児ハールーン・アル・ラシード、すなわち、ヤハヤーの息エル・ファズルのわずか七日後にお生まれになった、かのハールーンの、御養育を託されました。
ですから、兄君アル・ハーディーの不慮の御逝去の後、ハールーン・アル・ラシードが教王《カリフ》の至上権の御《み》印綬《しるし》を帯びなすったとき、ヤハヤーとその二人の子息を召し出して、御自分の最高権を共になさるのに、何もバルマク一族の幼い子らのそばでお過ごしになった、御幼少のころの思い出にまで、立ち帰りなさる必要はございませんでした。ただ御幼少のみぎり、ヤハヤーの尽してくれた配慮と、彼から受けなすった教育と、このあらゆる忠義の臣が、アル・ハーディーの恐ろしい脅迫を物ともせず、御主君の王位継承を確保して、まざまざと示した忠誠とを、御想起あそばされさえすれば、よかったのでございます。アル・ハーディーは、あたかもヤハヤーとその子供たちの首を刎《は》ねさせようとした夜に、亡くなったのでありました。ですから、ヤハヤーが夜中にマスルールと共に、ハールーンをお起こしにまいって、いよいよ帝国の主《あるじ》となり、地上のアッラーの後継者《ハリーフア》となられた旨お知らせ申し上げたとき、ハールーンはただちにこれに大|宰相《ワジール》の位を授け、その二人の子息エル・ファズルとジャアファルをば、宰相《ワジール》に任じなさいました。かくてハールーンはこのうえなく幸先よくその治世をお始めになりました。
そしてそのときから、バルマク家のその世紀におけるは、なお額《ひたい》の上の装飾、頭の上の冠のごときものがございました。天運はこの一門に、およそその恵みにあるもっとも快いいっさいを惜しみなく与え、もっとも選りすぐったその贈物の限りを尽しました。そしてヤハヤーとその子息たちは、輝く星辰、寛仁の渺茫《びようぼう》たる大洋、恩恵の猛然たる奔流、慈雨と相成りました。世界は彼らの息吹きによって活気づき、帝国は光輝の絶頂に達しました。彼らは悲しめる者の避難所であり、不幸なる者の逃がれ路でありました。詩人アブー・ヌワースが幾多の詩のなかのひとつで詠じたのは、彼らのことでございます。
[#この行2字下げ] おおバルマクの子らよ、世界の卿らを失いてより、道々は、黎明と黄昏に、今や旅人に覆わるることなし。
まことに彼らは、賢明な名|宰相《ワジール》であり、感嘆すべき大経世家として、国庫を満たし、雄弁にして教育あり、剛毅にして分別があり、ハーティム・ターイー(3)と等しく寛闊でありました。至福の源泉《みなもと》、豊饒《ほうじよう》をもたらす雲を持ち来る、慈しみの風でありました。ハールーン・アル・ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグリブおよびアンダルシアからシナおよび韃靼《だつたん》の辺境の果に至るまで、鳴り渡ったのは、わけても彼らの威光のお蔭であったのでございます。
それがここに一朝にして、バルマクの子らは、およそアーダムの子の達しえられる最高の幸運から、もっとも恐ろしい悲運のまっただ中に転落し、災厄の「分配者」の苦杯を飲むこととは相成りました。それと申しまするは、おお時世と時節よ、バルマクの高貴の子らは、歴代|教王《カリフ》の大版図を統治する宰相《ワジール》であったばかりでなく、国王の御親友であり、切っても切れぬ伴侶でありました。わけても、ジャアファルは親しい御陪食者で、彼がいることはアル・ラシードにとっては、御眼の光よりも必要なことでした。そして彼はアル・ラシードのお心とお考えのなかに、どんな広い席を占めるようになったかは、或る日アル・ラシードは、二人分の襟あきのついた外套をお作らせになり、さながらお二人がただ一人の人であるかのように、友のジャアファルと共に、その外套にくるまりなすったというほどのことがあったのからも、わかりまする。そしてアル・ラシードは、その恐ろしい最後の破局まで、ジャアファルに対して、そのようにふるまいなすったのでございました。
ところで、おお、わたくしの魂の痛みますることよ、回教《イスラム》の空を暗くし、破壊の空の雷電《いかずち》のとどろきとして、万人の胸中にこの上ない悲しみを投げ入れた、その暗澹たる出来事の突発した次第は、次のようなものでございます。
或る日のこと――この日のごとき日々は、願わくはわれらより遠からんことを。――アル・ラシードはメッカ巡礼の帰途、ヒーラからアンバールの町に、水路おもむかれました。そしてユーフラテス河畔の、アル・ウムルという名の僧院に、足をおとどめになりました。その夜も、やはり他の夜々と同じく、饗宴と歓楽の最中《もなか》に、教王《カリフ》のために来ました。けれどもこのときは、御陪食者ジァアファルはお相手をしていませんでした。それというのは、ジャアファルは数日前から、河近い野に狩りに出ていたのでした。けれどもアル・ラシードの御下賜品と贈物は、宰相《ワジール》の行く先々に届きました。一日の刻々に、宰相《ワジール》は自分の天幕《テント》の下に、だれか教王《カリフ》のお使いが、親愛のしるしとして、いつも先のものよりも一段と見事な、高価な進物を携えて、到着するのを見たのでございました。
ところがその夜は、――願わくはアッラーはかかる夜々をわれらに知らしめたまわざることを。――ジャアファルは医師ジブライル・バフティアスーと一緒に、天幕《テント》の下に坐っておりました。これはアル・ラシードの御侍医ですが、アル・ラシードは親愛なるジャアファルに随行させるため、特にお手放しになったのでした。またその天幕《テント》には、アル・ラシードのお気に入りの詩人、盲目のアブー・ザッカルもおりました。これまたアル・ラシードは、親愛なるジャアファルが狩りから戻ったおりに、その即興詩で楽しませるようにと、特にお手放しになったのです。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十六夜になると[#「けれども第九百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてそれは食事の時刻のことでありました。盲人アブー・ザッカルは、マンドラで伴奏しながら、人間の運命の無常についての哲学的な詩を歌っておりました。するとそこにだしぬけに、教王《カリフ》の御《み》佩刀持《はかせもち》、逆鱗《げきりん》の執行者マスルールが、天幕《テント》の入口に姿を現わしました。ジャアファルは彼がこうしてあらゆる礼節にそむいて、取次ぎを頼みもせず、来訪を告げることさえしないで、はいってきたのを見ると、さっと顔色を黄色くして、この宦官に言いました、「おおマスルールか、よく来た、わしは貴殿に会えばいつも新たな悦びを覚えるからな。だが、わしはまことに意外じゃ、おお、わが兄弟よ、貴殿があらかじめだれか召使をよこして、訪問をわしに告げぬなどということは、われわれの生涯でこれがはじめてであった。」するとマスルールは、ジャアファルに挨拶《サラーム》を投ずることさえなく、答えました、「わしをここに来たらしめた理由は、それらの無益な礼式などしているには、あまりにも重大なのだ。いざ立ち上がって、おおジャアファルよ、最後の信仰証言《シヤハーダ》を誦《とな》えよ。なんとなれば信徒の長《おさ》は貴殿の御《み》首級《しるし》を御所望じゃ。」
この言葉を聞くと、ジャアファルはすっくと立ち上がって言いました、「アッラーのほかに神なく、ムハンマードはアッラーの使徒なり。われらはアッラーの御手《みて》よりいで、おそかれ早かれ、その御手のあいだに帰る。」次に昔からの仲間、長年の常住の友である宦官長のほうを向いて、これに言いました、「おおマスルールよ、そのような御諚はありようはずがない。われらの御主君、信徒の長《おさ》は、御酩酊の際、貴殿にそんな御下知をなされたのにちがいない。どうかお願いじゃ、おお、わが永久の友よ、われらの共にした散歩と、日夜の共同生活を思い出して、いったん教王《カリフ》の御もとに帰って、はたしてわしが思い誤っていないかどうか、確かめてもらいたい。定めし教王《カリフ》は、そのようなお言葉はすでにお忘れになっていることを、貴殿は確認されるであろう。」しかしマスルールは言いました、「わが首《こうべ》は貴殿の首を受け合ったのじゃ。貴殿の御首級を携えずしては、わしは教王《カリフ》の御前にふたたびまかり出ることがかなわぬ。されば貴殿の遺言をしたためられよ。これがわしとして旧交のよしみをもって、貴殿に授けることのできる唯一の恩恵です。」するとジャアファルは言いました、「われらはことごとくアッラーに属し奉る。わしはしたたむべき遺言なぞない。願わくはアッラーは、わしから奪われた日々をもって、信徒の長《おさ》の宝寿を長からしめんことを。」次に宰相《ワジール》は天幕《テント》を出て、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールが地に敷いた、血の敷き皮の上にひざまずきまして、自身の手をもってわが眼に目隠しをしました。そして斬首されました。願わくはアッラーは彼に御憐れみをたれたまえ。
そのあとで、マスルールは教王《カリフ》のお泊まりになっている場所にもどって、楯の上にジャアファルの首級を載せて、御前にはいりました。するとアル・ラシードは旧友の首級をじっと見つめて、突如それに痰《たん》を吐きかけなさいました。けれどもその御怨恨と報復は、それにとどまりませんでした。さらにジャアファルの首無し屍体はバグダード橋上の一方の端に磔《はりつけ》にし、首級は他方の端にさらすようにと、お命じになりました。これは不面目と恥辱の点で、もっとも下等な悪人ばらの刑をもしのぐ極刑です。また同時に、六カ月過ぎたならば、ジャアファルの遺骸をば家畜の糞の上で焼き払い、厠《かわや》のなかに投げ棄てるようにとも、命じなさいました。こうしたすべてはそのとおり行なわれました。
それゆえ、おお不憫《ふびん》や情《つれ》なや、書記官のアムラニは国庫会計簿の同じページに、次のように記入することができました、「一、美衣一着、信徒の長《おさ》よりヤハヤー・アル・バルマキーの子、宰相《ワジール》ジャアファルに御下賜、金貨四十万ディナール。」その直後、なんの書き足すこともなく、同じページに、「一、揮発油《ナフサ》、蘆および汚穢、ジャアファル・ベン・ヤハヤーの屍体焼却用、銀貨十ドラクム。」
ジャアファルの最期は以上のようでございました。その父、アル・ラシードの養父ヤハヤーと、その兄、アル・ラシードの乳兄弟エル・ファズルとにつきましては、両人は翌日ただちに逮捕され、それと共に、さまざまの官職公職についていた、約一千名に達するバルマク一族も全部捕えられました。一族みな不潔な牢獄の奥にごちゃごちゃに放りこまれ、一方彼らの莫大な財産は没収され、妻子は寄るべなく路頭に迷い、誰一人あえてこれを正視するものがございませんでした。そして或る者は餓死し、或る者は縊死《いし》しましたが、ただヤハヤーと、その子エル・ファズルと、ヤハヤーの弟ムハンマードとは、拷問のうちに亡くなりました。願わくはアッラーは彼らすべてに御憐れみをたれたまえ。彼らの失寵はまことに慄然とするものがございました。
さて今は、おお当代の王様、もし君がこのバルマク一族の失寵とその痛ましい最後の動機《いわれ》を知りたいとおぼしめすならば、それは次のようでございます。
或る日、アル・ラシードの妹君アリヤーは、バルマク家|終焉《しゆうえん》の何年かのちに、教王《カリフ》が撫でてやっていらっしゃるときに、言い出されました、「おお、わが殿、君はジャアファルの死とその一家の滅亡以来、もはや一日として、ほんとうの安らかさと静けさの御模様を拝しませんが、いったいどのような歴とした動機から、彼らは御不興を買ったのでございましょう。」するとラシードは、にわかにお顔を曇らせて、お若い姫君を押しやって、これにおっしゃいました、「おお、わが児よ、わが生命《いのち》よ、余に残る唯一の幸福よ、そんなものを知ってそちになんの役に立つか、その動機など。事実、もしわが下着がその動機を知るとわかったならば、余はその下着を千々に引き裂いてやろうぞ。」
そこで、歴史家たちも年代記の大家たちも、この破局の原因については、まったく説がまちまちでございます。なお彼らの記録に伝えられておりまする種々の解釈は、次のようなものでございます。
或る人々によりますると、ジャアファルとバルマク一族の数知れぬ寛闊ぶりの話は、その恩沢に浴した人々の耳さえも疲れさせるほどでございましたが、これが彼らに味方と恩顧者よりも、敵と羨望者のほうをずっと多く作り出し、結局アル・ラシードに猜疑の念を起こさせることになったと申します。事実、彼ら一家の光栄《ほまれ》ばかりがもっぱら評判で、直接にせよ間接にせよ、彼らを通じないで引立てにあずかれず、バグダードの宮廷でも、軍隊でも、司法職でも、地方でも、すべてその家中の人々が最要職を占め、都近くのいちばん立派な領地は彼らの所領で、その館《やかた》の周囲は、教王《カリフ》のお住居の付近よりも、廷臣と嘆願者の群れで雑踏しておりました。それに、これについては、アル・ラシードの御侍医、あの宿命の夜、ジャアファルの天幕《テント》のなかにいたジブライル・バフティアスー当人が、どのような言葉で述べているかと申しますると、彼は言いました、「或る日私はアル・ラシードのお部屋にはいった。当時はバグダードの、カスル・エル・フールドという名の御殿にお住まいであった。バルマク一族のほうは、ティグリス河の向う側に住んでいて、彼らと教王《カリフ》の御殿とのあいだは、ただ河幅を隔てるのみであった。そしてその日、アル・ラシードは、寵臣の邸前にとどまる無数の馬と、その門口にひしめく群衆とをお認めになって、わが前で、ひとり言のようにおっしゃったのであった、『アッラーはヤハヤーとその子エル・ファズルならびにジャアファルを賞したまえかし。彼らはいっさいの事務の煩を一手に引き受けて、余のかかる配慮を軽くし、余におのが周囲を眺め、好き勝手に暮らすいとまを残しておいてくれるわい。』その日仰せられたことはこのようであった。しかし、また別のおり、ふたたび御許へ召し出された節には、教王《カリフ》はすでに、もはやその寵臣を同じ眼では御覧ぜられなくなりはじめていらっしゃるのに、私は気づいた。事実、御殿の窓から外を眺められ、この前と同じ人馬の雑踏を見てとられると、仰せられた、『ヤハヤーとその子らはいっさいの国務を掌握して、余よりいっさいを取り上げてしまった。教王《カリフ》の権力を行使しているのは、実際は彼らであって、余はわずかにその外見を保つのみじゃ。』これは私の確かに聞いたところだ。そのとき以来、彼らはいつか御不興に陥るであろうとわかったが、それははたして事実となった。」
他の年代記編者たちによりますると、アル・ラシードのひそかな御不満、つねにつのりゆく御嫉み、或いは読み人知れぬ讒謗《ざんぼう》の詩とか、或いは不実な文とかをもって、教王《カリフ》の御許に彼らをあしざまにいう、恐るべき大敵と匿名の中傷者を数多く作り出した彼らの豪勢なやり口、あらゆる栄耀《えいよう》、あらゆる栄華、およそ普通に、王者たちのとうてい競争を黙視してはいられないようなあらゆる事柄、これらにかてて加えて、ジャアファルのしでかした一大軽率があったというのでございます。或るとき、アル・ラシードは、アリーと預言者の令嬢ファーティマの後裔で、エル・サイード・ヤハヤー・ベン・アブドゥラー・エル・フサイニという方を、ひそかに亡き者にせよと、彼にお託しになりました。ところがジャアファルは、憐憫と温厚のため、アル・ラシードによって、その勢力がアッバース王家の将来に危険なものと判断されたこのアリー家の子孫を、脱走させてしまったのでした。しかるに、このジャアファルの寛大な行為は、まもなく世間に洩れ、その結果をますます重大ならしめるように仕組まれたあらゆる尾鰭《おひれ》をつけて、教王《カリフ》のもとに伝わらずにいませんでした。そこでアル・ラシードの御意趣は、これを機に、胆汁の雫となって、逆鱗《げきりん》の盃をあふれさせました。それで教王《カリフ》はこれについてジャアファルに問いただされますと、彼はきわめて率直に、自分の所業を白状して、つけ加えたものでした、「私はわが御主君信徒の長《おさ》の御光栄と御名声のために、かくはふるまいました。」するとアル・ラシードは蒼白になられて、おっしゃいました、「よくしてくれた。」けれども、こうつぶやきなさるのを、人々は聞いたのでした、「もし余にして汝を亡ぼさざれば、おおジャアファルよ、アッラーの余を亡ぼしたまえかし。」
他の歴史家たちによりますると、バルマク一族の御不興の原因は、これを回教正統派に対する、彼らの異端説のうちに求むべきであろうと申します。事実、彼らの一家は、回教《イスラム》改宗以前、バルフにおいて、拝火教を奉じていたことは、忘れられませぬ。そしてこの寵臣の最初の発祥地たる、ホーラサーン遠征のみぎり、ヤハヤーとその子らは、全力を尽くして拝火教の神殿堂宇の破壊を防いだのを、アル・ラシードはお気づきになったと、いわれております。そのとき以来、教王《カリフ》は彼らの信仰についてお疑いを持たれたが、その後、バルマク一族があらゆる機会に、あらゆる種類の異端者に対し、特に、御一身の仇敵である、ゾロアスター教徒や|無信の徒《ザナデイカ》をはじめ、その他の離教派、地獄|堕《お》ちどもに対して、温情を示すのを御覧になっては、このお疑いはその後いよいよつのるばかりでした。前にあげました他の諸動機に加えて、さらにこの説をも採りたくなるのは、アル・ラシード崩御の直後、前代未聞の重大な宗教的紛擾(4)が、バグダードに勃発して、あやうく回教正統派に致命的打撃を加えるところであったという点からでございます。
けれどもこれらのすべての動機のほかに、バルマク家終焉のもっともありそうな原因が、年代記編者イブン・ハッリカーン(5)と、イブン・アル・アスィール(6)とによって、われわれに伝えられておりまする。彼らはこう申します。
それは、バルマク家のヤハヤーの子ジャアファルが、信徒の長《おさ》の御心《みこころ》にいと近く、教王《カリフ》はあの二つ並んだ襟あきのついた外套をお作らせになり、さながらお二人がただ一人の人であるかのように、ジャアファルと共にその外套にくるまりなすった頃のことでございます。その御親密はひとかたならず、教王《カリフ》はもはやその寵臣から離れがたく、絶えずこれをおそばに見ていたく思しめされるのでした。ところが、アル・ラシードは一方、御自分の御妹アッバーサをも同じく、並みはずれた非常に深い情愛をもって愛しておられました。これはあらゆる天賦をもって飾られた若い姫君で、当代でもっとも優れた女性であらせられました。この御妹君は、御一家と後宮《ハーレム》の全部の女性のなかで、アル・ラシードの御心にとってもっとも親しいお方でして、さながら女のジャアファルとでもいったように、兄君はこの方のそばでなければ暮らせないありさまでした。そしてこのふたりの友情がその御幸福を成しておりましたが、しかしこの双方相合して、同時に楽しみをお味わいになる必要がございました。というのは、一方が欠けることは、他方からお覚えになる魅力を損うことになるのです。ジャアファルか、或いはアッバーサが御一緒にいなければ、もはやお悦びは全からず、苦痛をお感じになります。ですから、この二人の友双方が御入用なわけでした。ところがわれわれの聖なる律法は、近親でない男子が、自分の妻でない女子を眺めることを禁じているし、女子が、他人である男子に自分の顔を見せることを禁じております。この禁制を犯すことは、非常な不名誉であり、恥辱であり、女性の貞淑への侮辱でございます。そこで、御自分の守護なさる律法の、厳重な遵奉者であられたアル・ラシードは、この二人の友をおそばに置こうとなされば、いきおい二人は非常に窮屈な束縛と、礼儀に反する工合の悪い立場に、置かれざるをえないことになります。
そのために、御窮屈でお気に召さぬ事態を改めたいとお思いになって、アル・ラシードは一日、意を決してジャアファルに仰せいだされました、「おおわが友ジャアファルよ、余はその方と共にあらねば、またわが最愛の妹アッバーサと共にあらねば、真の、衷心よりの、全き悦びを覚えぬのじゃ。しかるにその方たち両人の相互の立場は、余に窮屈を覚えしめ、かつその方たちにも窮屈を覚えさするによって、余はその方をアッバーサと結婚させ、もって今後は、不都合なく、悪評の因《もと》なく、かつ罪を犯すことなく、その方たち両人が二人そろって、わが許にいることができるようにいたしたいと思う。さりながら、余は特に念を押して両人に所望するが、その方たちはけっしてたとい一瞬間たりとも、わが面前以外において、相会うことのなきように。なんとなれば、余はその方たち両人のあいだに、法定の結婚の形式と外見のみを望むのであって、結婚の結果は望まぬ。そはアッバースの高貴なる子らの教王《カリフ》位継承に、支障を及ぼしかねぬからじゃ。」するとジャアファルは、御主君のこの御希望の前に身をかがめて、仰せ承わり畏まってお答え申し上げました。そしてこの奇怪な条件をも承知しなければなりませんでした。かくて結婚が宣言され、法に従って認可されました。そこで、課された条件に従って、二人の若い夫妻は教王《カリフ》の御前でしか出会うことなく、それだけのことでございました。またその御前ですらも、両人の視線は時々ちょっと交わるばかりでした。アル・ラシードのほうは、この両人に覚えなさる二重の激しい友情をば、心ゆくばかり堪能なさいましたが、実はそれからというもの、この両人を責めさいなんでいらっしゃったわけで、少しもそれにお気づきの模様がなかったのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十七夜になると[#「けれども第九百九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それと申しまするは、そもそもいつから、恋は非難者たちの要求に従うことができましたろう。また、このような束縛が、二人の若く美しい人間のあいだに、恋の感動と欲情をうながしもせず、そそりもしないすべがございましょうか。
ここにはたして、この当然愛し合う権利があり、かくも正当な相思の誘惑に身を委ねる権利のあるこの二人の夫妻は、今や互いに恋い焦がるる状態に陥れられ、胸に心熱をこもらせるこの秘められた陶酔に、日を追ってますます酔ってゆくこととは相成りました。そして今やアッバーサは、この不法に隔てられた妻の状態に苦しめられつつ、その夫に夢中になったのでございます。そしてついにジャアファルに、自分の抱く恋情を打ち明けました。彼女はあらゆる手を尽くして、彼を自分のところに呼び、ひそかに彼を誘ないました。けれどもジャアファルは、律義な慎重な人間として、あらゆる誘ないによく耐え、けっしてアッバーサのところに出かけませんでした。アル・ラシードにお誓い申した誓約の手前があると感じていたからです。それに、教王《カリフ》はその復讐の遂行をどんなにいそぎなさるかということも、誰にもましてよく知っていたのでございます。
そこでアッバーサ姫は、自分の誘ないも頼みも効《き》かないのを見ると、他の方法に訴えました。女というものは、普通そのようにするものでございます、おお当代の王よ。はたして姫は計略を用いて、ジャアファルの母、気高いイタアバーに、使いをやって伝えさせました、「おお、われらの母よ、どうか私をば、あなたが日々令息のため手に入れてあげなさる、あの女奴隷の一人であるかのように、私の合法の夫、令息ジャアファルのところに、さっそくに送り入れてくださらなければなりませぬ。」こういうわけは、毎週金曜日に、気高いイタアバーは最愛の息子ジャアファルのところに、大勢のなかから選び出した、無疵の申し分なく美しい、若い処女の女奴隷を一人、届けてやる習慣になっていたのです。ジャアファルは散々御馳走を食べ、強い酒にひたったあとでなければ、その娘に近づかないのでした。けれども気高いイタアバーは、この伝言を受けると、アッバーサの望むこの種の裏切りを承諾することは断然おことわりし、この件はどんなに万人にとって危険が多いかを、姫君にほのめかしました。けれども恋にのぼせた若妻は、脅迫がましいまでにしいて頼み、つけ加えました、「おお、われらの母よ、あなたがおことわりになることの結果を、とくとお考えください。私としては、もう決心が定まっていますから、どのような犠牲を払おうとも、御意向のいかんにかかわらず、かならずやりとげます。ジャアファルとあの方に対する私の権利とをあきらめるくらいならば、私はいっそ生命《いのち》を失うほうがましでございます。」そこで涙に暮れるイタアバーは、このような容易ならぬ覚悟を前にしては、自分の仲立ちで、最善の安全な条件でもって事が行なわれるほうが、まだしも好ましいと考え、折れざるをえない次第でした。そこで、このように罪のない、けれども危険極まる計りごとを、首尾よく運べるように、アッバーサに力を貸すことを約束しました。そしてすぐに息子のジャアファルのところに行って、ほどなく優美、高雅、美貌、比類のない一人の女奴隷をよこしてあげると、知らせました。それに口を極めて讃め称えてその容姿を述べ聞かせたので、息子は少しも早くと、その約束の贈物を熱心に懇望したのでした。イタアバーは非常に上手に事を運び、ジャアファルは欲情に逆《のぼ》せ上がって、かつてないもどかしさを覚えつつ、夜を待ちはじめました。そこで母親は頃合いよしと見て、人をやってアッバーサに伝えさせました、「今夜のためにお仕度なさい。」
そこでアッバーサは身仕度をし、女奴隷風に装身具と宝石で身を飾り、ジャアファルの母のところに来ると、母は日暮れ方、息子の部屋に、姫君を案内しました。ところが、ジャアファルは酒の酔いにいささかぼっとして、自分の手のあいだに立っている女奴隷の乙女が、自分の妻のアッバーサであるとは気づきませんでした。それに、彼はアッバーサの顔立ちをしっかり心中に刻みつけてはいなかったのです。それというのは、それまで、二人一緒に教王《カリフ》の御許に坐っていても、彼は妻をちらりと見ただけで、アル・ラシードのお気に召さないのを恐れて、けっしてあえて妻のアッバーサにじっと眼をとめたことなく、またアッバーサのほうでも、慎しみから、ジャアファルが盗み見するごとに、いつも頭をそむけていたのでした。
そこで、いよいよ結婚が事実上完了し、相愛の恍惚のうちに一夜を過ごしたのち、アッバーサは出て行こうとして立ち上がり、引きとるに先立って、ジャアファルに言いました、「あなたは王者たちの娘をばどうお思いですか、おお、わが御主人様。王の娘たちは、売り買いされる女奴隷たちとは、その態度がちがいますかしら。あなたはどのように思われますか、伺わせてください。」するとジャアファルは驚いて、聞きました、「その言葉はいったいどういう王女たちを指すのか。お前自身その一人ででもあるのか。或いは、われわれの勝軍《かちいくさ》で囚《とら》われた、どこぞの王女でもあろうか。」彼女は答えました、「おおジャアファル、妾《わらわ》は御身《おんみ》の囚われの女、御身《おんみ》の下女、妾《わらわ》はアル・ラシードの妹、祝福された預言者の叔父、アッバースの血統、アル・マハディーの娘、アッバーサです。」
この言葉を聞くと、ジャアファルは茫然の極に達し、にわかに陶酔の眩暈《めまい》から覚め果てて、叫びました、「御身は御自身を破滅させ、またわれわれを破滅させなすった、おお、わが御主君様方の王女よ。」そしてあわただしく、彼は母のイタアバーのところにはいって、母に言いました。「おお母上、母上よ、母上は私を安くお売りになりました。」すると悲しみに沈んだヤハヤーの妻は、自分たちの一家にさらに大きな不幸を招きよせないためには、ぜひなくこうした計略に訴えるの余儀なかった次第を、わが子に語り聞かせました。この母についてのことは、以上のようでございました。
さてアッバーサにつきましては、彼女は母親となり、一人の男子を産みました。そしてそのお子をば、リヤシュと呼ばれる忠義な家来の監督に委ね、バッラーと呼ばれる女の母としての世話にまかせました。次に、きっと万全の策を講じても、やはり事が世間に洩れて、アル・ラシードのお耳に達することを恐れたのでしょう、アッバーサはジャアファルの息子を、二人の召使をつけてメッカにやりました。
ところで、ジャアファルの父ヤハヤーは、その特権のなかに、アル・ラシードの宮殿と後宮《ハーレム》の守護および監督の権を握っておりました。そして夜分何時か以後には、宮殿の通路の扉をみな閉めて、その鍵を持っていってしまう習慣でありました。しかるに、この厳格さはついには教王《カリフ》の後宮《ハーレム》にとって、わけても|ゾバイダ妃《シート・ゾバイダ》にとって、いかにも窮屈なこととなり、王妃は御《お》従兄弟《いとこ》であり御夫君である、アル・ラシードのところに行きなすって、敬うべきヤハヤーとその不適切な厳重ぶりを呪いながら、恨めしくこれを訴えなさいました。それでアル・ラシードは、ヤハヤーがまかり出たとき、おっしゃいました、「父よ、ゾバイダがその方のことで不平をいうようなことが、何かあるのか。」ヤハヤーは尋ねました、「後宮《ハーレム》の向きについて何か私に苦情が出ましたのでしょうか、おお信徒の長《おさ》よ。」アル・ラシードは微笑して、おっしゃいました、「いや、そういうわけではない、おお父よ。」ヤハヤーは言いました、「それならば、私についていろいろお聞きなさることなど、お取り上げあそばしますな、おお信徒の長《おさ》よ。」そしてそれからというもの、彼はさらにますます厳重にしたので、ゾバイダ妃はまた改めてアル・ラシードに、手きびしく恨みをこめて訴えなさると、アル・ラシードはおっしゃいました、「おお叔父の娘よ、後宮《ハーレム》に関する何事についても、わが養父ヤハヤーをとがむるは、まったく当を得ない。それというのは、ヤハヤーはただ余の命を実行し、おのが義務を遂行しているだけのことだからな。」するとゾバイダは勢い激しく返答なさいました、「まあ、アッラーにかけて、それでは、あの方はわが子ジャアファルの軽はずみを防ぐという御自分の義務に、なぜもう少し頓着しないのでしょうか。」そこでアル・ラシードはお聞きになりました、「どういう軽はずみか。どうしたというのか。」するとゾバイダはアッバーサの一件をお話ししたのですが、それは格別たいしたことともお思いにならないでのことでした。するとアル・ラシードはお顔をくもらせて、お尋ねでした、「して、それには証拠があるか。」お妃は答えました、「ジャアファルの子をお産みになったというにまさる証拠がございましょうか。」お尋ねになって、「どこにいるのか、その子は。」お答えになって、「われわれの祖先の発祥地の聖都にでございます。」お尋ねになって、「そち以外の人々もそれを知っているか。」お答えになって、「わが君の後宮《ハーレム》と御殿で、女奴隷の端くれに至るまで、これを知らない女はただ一人もおりませぬ。」アル・ラシードは、それ以上一言もつけ加えなさいませんでした。けれども、その後しばらくして、メッカ巡礼の御計画を仰せ出されました。そして御一緒にジャアファルを連れて、御出発になりました。さて一方アッバーサは、ただちにリヤシュと乳母に書を送って、即刻メッカを立ちのき、子供を連れてヤマン地方に移るように命じました。そこで両人は大急ぎで退散しました。
教王《カリフ》はメッカに到着なさいました。するとすぐさま腹心の隠密数人に、その子を捜索し詮議するようお命じになりました。やがて事実が確かめられ、その子が実在し、健在なことがおわかりになりました。そして首尾よくその子をヤマンで捕え、ひそかにバグダードに送還することができました。そのときのことでございます、巡礼の帰途、ユーフラテス河畔、アンバールのほとりの、アル・ウムル僧院に宿舎をとられて、ジャアファルとバルマク一族についての、くだんのおそろしい御命令を発しなされたのは。そして起ったことが起りました。
薄倖のアッバーサとそのお子につきましては、お二人は、あたかも姫君のお住まいになっていたお部屋のちょうど下にうがった穴のなかに、お二人とも生き埋めになったのでございます。アッラーはこの方々御一同に御憐《おんあわ》れみを垂れたまえかし。
最後に、なお申し上ぐべきことと申せば、おお幸《さち》多き王様、そのほかの信をおくことのできまする年代記編者たちは、ジャアファルとバルマク一族はこのような失寵に値するようなことは何ひとついたさず、この痛ましい終焉は、それがただ彼らの天命に記されていたがゆえに、そして彼らの権勢の時世が過ぎたがゆえに、彼らに下ったのであるとも、語っていることでございます。さあれアッラーはさらに多くを知りたまいまする。
〔(7)終りに臨んで、ここにダマスの高名な詩人ムハンマードによって、われわれに伝えられている事蹟がございます。彼はこう申しました。
私は或る日、風呂を使おうと思って、或る村里に入った。すると風呂屋の主人は、一人のたいそう美男の少年に、私の世話を命じた。私は、その少年が私の面倒を見ているあいだに、どうした気まぐれからか、ふと、昔わが恩人エル・ファズル・ベン・ヤハヤー・エル・バルマキーの令息誕生を祝うため作った、自作の詩を、自分自身に向って微吟しはじめたものであった。すると突然、私の世話をしていたその少年が、気を失ってぱったりと倒れてしまった。それからしばらくすると、少年は起き上がって、満面涙に濡れてすぐさま逃げ出し、私を水中にただ一人置き去りにして行った。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十八夜になると[#「けれども第九百九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
私は驚いて風呂から出て、風呂屋《ハンマーム》の主人に、私の流しをするのに、癲癇《てんかん》の男をつけるとはけしからぬと、激しく責めた。しかし主人は、これまでかつて、その若い使用人にそんな病気を認めたことはないと、誓言した。そして自分のいうことを証明しようと、その少年を私の前に呼んできたものだ。そしてこれに尋ねた、「いったいどうしたんだ、この殿さまはお前の勤めぶりにたいへん御不満だが。」するとその少年は、どうやら惑乱から立ち直ったらしく、首を垂れたが、次に、私のほうに向き直って、私に言った、「おお、わが御主人様、あなたが御入浴中に吟じなすった詩の作者はだれか、御存じですか。」私は答えた、「アッラーにかけて、それはこの私自身さ。」少年は私に言った、「それならば、あなたは詩人ムハンマード・エル・ダメシュジーです。あなたはこの詩をば、バルマク家のエル・ファズルの息子の誕生を祝うため、お作りになったのですね。」そして私が呆気にとられているところに、つけ加えて言った、「お許しください、おお、わが御主人様、あなたの詩を伺っているうちに、私の心がにわかに締めつけられ、感動に耐えず倒れてしまいましたけれども。実は私自身が、あなたのかくも見事に誕生を歌ってくださった、当のエル・ファズルの息子その人なのです。」そしてまたも少年は、われらの足もとに、気絶して倒れてしまった。
そのとき私は、このような非運を前にして憐憫に心動かされ、わが今持ついっさいを、またわが詩人としての名声さえも、これに負う寛仁な恩人の息子ともあろうものが、これほどまでの悲境に陥っているのを見ると、私はこの子を起き上がらせ、わが胸に固く抱きしめて、これに言った、「おお、アッラーの被造物のうちもっとも寛仁な人間の令息よ、私はすでに年老いたが後継ぎがない。さあ私といっしょに法官《カーデイ》の前に行きなさい、おお、わが子よ。私は証書を作ってあなたを養子にしよう。こうしてわが亡きあとの全財産をば、あなたに残してさしあげよう。」
しかるにバルマク家の子供は、涙を流しながら私に言った、「アッラーはあなたの上に御祝福を注ぎたまいますように、おお義人の子よ。しかし私が、どのようであろうとともかくも、わが父エル・ファズルがあなたに与えた鐚《びた》一文でも、取りもどすことなど断じてありませんように。」
その後、あらゆる私の懇請も嘆願もむなしかった。その父上に対するわが感謝の念のどんなささやかなしるしをも、その少年に受納させることはできなんだ。まことにこれは純血の人であった、その高貴なるバルマク家の子息こそは。願わくはアッラーはこの一族の方々全部を、まことに大いなるものであったその功績に従って、報いたまわんことを。〕
教王《カリフ》アル・ラシードのほうは、アッラーに次いでただ御自分ひとりだけが御存じの、そしてひとかたならぬものであったにちがいない侮辱を、このように無残に復讐なすってから、バグダードにお戻りになったけれど、ただその地を通り過ぎなすっただけでした。事実、長年にわたってひたすら美化することをお悦びになったこの都に、今後もはやお住みになることができず、教王《カリフ》はラッカーの地に居を定めに行かれて、もはや二度と平安の都にはおもどりになりませんでした。教王《カリフ》のお供に加わっていた詩人アッバース・イブン・アル・アフナフ(8)が、次の詩で嘆じたのは、まさにこのバルマク一族の失寵ののち、突如としてバグダードをお棄てになったことを詠じたのでございます。
[#ここから2字下げ]
われら駱駝に膝を折るを命ぜしと見るまに、早くもわれらふたたび発足せざるべからざりき、われらの友らは、われらの到着と出発を弁ずるあたわずして。
おおバグダードよ、われらの友ら来たってわれらの消息を問い、帰還の祝辞を述ぶるも、われらはこれに訣別をもて答えざるをえざりき。
おお平安の都よ、東洋より西洋に亘り、われは汝にまさる幸多く、豊かにして、麗わしき都を知らずという言葉に、まこといつわりなし。
[#ここで字下げ終わり]
それに、これらの御友人の失われて以来、アル・ラシードはもはやけっして御安眠を味わいなさることがございませんでした。お悔みは切々たるものとなり、ジャアファルをふたたび甦らせるためならば、全領土を擲《なげう》ちなされたでもございましょう。そしてふと廷臣たちが不幸にして、いささかなりともあしざまに、バルマク一族の名を思い出させるようなことがあると、アル・ラシードはおさげすみとお怒りをもって、彼らを叱りとばしなさいました、「アッラーは汝らの父祖を地獄に堕《おと》したまえかし。汝らのとがむる人々をとがむるをやめよ。むしろ、その人々の残せる空虚を埋むるに努めよ。」
そして、アル・ラシードは崩御に至るまで依然全能であられたとは申せ、爾来心許せぬ人々に取り囲まれている感を覚えなさいました。教王《カリフ》は御自分の王子たちとのお間柄が面白くなく、つねに王子たちに毒害されはしないかと恐れていらっしゃいました。ホーラサーンに動乱が勃発して遠征におもむかれ、ついにふたたびお還りにならぬことと相成りましたが、その遠征の初めに、教王《カリフ》は廷臣の一人に、痛々しくお疑いとお苦しみを打ち明けなすったことでした。それは修史官エル・タバリで、教王《カリフ》はその暗い思いを打ち明けるお相手として、彼をお選びになったのです。それというのは、エル・タバリは教王《カリフ》に襲い来る死の予感について、努めて御心《みこころ》を安んじようと骨折っていますと、教王《カリフ》は彼をひとり連れ出されまして、扈従《こじゆう》の人々から遠ざかり、繁った木蔭によって穿鑿《せんさく》好きの人眼から隠されると、教王《カリフ》はお召物を開いて、お腹《なか》を包む絹の腹帯をお見せになって、おっしゃいました、「ここに医薬のすべなき、深い病があるのじゃ。いかにも、この病を知る者は誰もないが、しかしよく見よ。余の周囲には、わが子エル・アミーンとエル・マアムーンによって、余になお残る生命《いのち》を狙うよう託された、間者《まわしもの》がたくさんいる。というのは、子らは父親の生命が永すぎると思っているのである。してその間者をば、わが子らはこれを、あたかも余のもっとも忠臣と思い、その忠節を信頼できると思っている者どものなかから、選んだのであった。まず第一にマスルールじゃ。いいか、きゃつはわが愛児エル・マアムーンの間者だ。またわが侍医ジブライル・バフティアスーじゃ。きゃつはわが子エル・アミーンの間者じゃ。その他のやつらもすべて以下同断だ。」そしてつけ加えなさいました、「わが子らの君臨の渇望がどこまで昂じているか、その方は知りたいかな。しからばこれから余は、乗馬を引いてまいれと命じてみせよう。温和にして同時にたくましい馬を余にさし出すかわりに、歩みぶり不規則にして余の苦痛を増さしめるような、廃馬を引いてくるのを、その方は見るであろう。」事実、アル・ラシードが馬をお命じになると、打ち明け相手にお述べになったとおりの馬を引いてきました。すると教王《カリフ》はエル・タバリに悲しげな一瞥をお投じになって、さし出された乗馬にあきらめてお召しになったのでした。
この事件の数週後、ハールーンは御睡眠中に、お頭《つむ》の上に手が延びるのを御覧になりました。その手はひとつかみの赤い土を握っていました。そして一つの声が叫びました、「これはハールーンの廟に使わるべき土である。」すると今一つの声が尋ねました、「その廟の場所はいずこか。」最初の声が答えました、「トゥースの町だ。」
さてこの数日後、御病気の進行は、アル・ラシードをトゥースにとどまらざるをえなくしました。そこで激しい御不安をお示しになって、マスルールをつかわして、町の付近からひとつかみの土をとってこさせました。するとこの宦官長は、ひとときたつと、赤色の土をひとつかみ携えて戻ってまいりました。アル・ラシードは叫びなさいました、「アッラーのほかに神なく、ムハンマードはアッラーの使徒なり。ここにわが幻影は実現した。死は余より遠からず。」はたして、教王《カリフ》はもはやふたたびついにイラクを御覧になりませんでした。それというのは、その翌日、教王《カリフ》は御身の衰えるのをお感じになって、周囲の人々におっしゃいました、「いよいよ恐るべき刹那は近づいた。かつて余はあらゆる人間にとって羨望の的であったが、今はそも何ぴとにとって憐れみの的でないであろうか。」
そして、まさにトゥースの地で、崩御なさいました。時に回教紀元《ヒジユラ》一九三年|六月第三日《ジユマーダ・ウツサーニー》。アブールフェダの伝えるところでは、御年《おんとし》四十七歳五カ月五日でございました。願わくはアッラーはそのあやまった御所行をお許しあって、御憐れみをたれたまいますように。これは正統の教王《カリフ》であられましたゆえに。
[#ここから1字下げ]
――次にシャハラザードは、シャハリヤール王がこの話で深く心悲しむのを見て、いそぎ素馨《ヤスミーン》王子と巴旦杏《はたんきよう》姫との優しい物語[#「素馨《ヤスミーン》王子と巴旦杏《はたんきよう》姫との優しい物語」はゴシック体]を語った。
彼女は言った。
[#改ページ]
素馨王子と巴旦杏姫の優しい物語(1)
語り伝えられまするところでは、――さあれ讃められたもうアッラーはさらに多くを知りたまいまする。――回教国の間の一国に、一人の年老いた国王がいらっしゃいましたが、御心《みこころ》は大洋のごとく、叡智はアフラトゥーン(2)のそれにも等しく、天資は賢人たちのそれであり、栄誉はファリードゥーン(3)のそれを凌ぎ、星回りはイスカンダール(4)の星そのもの、幸福はホスロー・アヌーシルワーン(5)のそれでございました。そして王は昴宿《すばる》の七星さながらの、七人の輝かしい王子をお持ちでした。けれども、一番末の王子が一番輝かしく、一番美しゅうございました。その王子は薔薇色で色白く、素馨《ヤスミーン》王子と申しました。
まことに、百合と薔薇もこの王子の前では色を失って消えてしまうのでした。それと申しまするは、王子は糸杉の胴、咲き出でたチューリップの顔、菫の髪、千の闇夜の見本といった麝香《じやこう》の薫《かお》りある捲き毛、金色の琥珀《こはく》の顔色、反った投槍の睫毛《まつげ》、水仙の切れ長の眼をしていて、二つのピスタチオの実がその愛らしい唇でございました。その額と申せば、その輝きによって、満月の顔に青い墨を塗ってしまって満月を恥じさせるのでした。宝石の歯を持ち、薔薇の舌持つ口は、砂糖黍をも忘れさせる甘い言葉を滲み出させました。天成かくのごとく、かつは活溌かつは奔放、王子は恋人たちの眼にとって、誘惑の偶像でございました。
ところで、素馨《ヤスミーン》王子は七人兄弟のなかで、国王ヌージューム・シャーの水牛の数知れぬ群の番をする王子でした。そしてその住居は、広漠たる寂寥の地と牧場のなかにございました。一日、王子は笛を吹きながら、自分の獣《けもの》を見張って坐っておりますと、そこに一人の人品卑しからぬ修道僧《ダルウイーシユ》が、自分のほうに進んでくるのが見えました。僧は挨拶《サラーム》の後、王子に乳を少々|搾《しぼ》ってくれるように乞いました。すると素馨《ヤスミーン》王子は答えました、「おお聖なる修道僧《ダルウイーシユ》よ、お望みを叶えてさしあげられない激しい苦痛が、わが裡にございます。それと申すは、私は今朝がたわが水牛の乳を搾ったもので、ただ今は貴僧の渇をいやしてあげる術《すべ》のないことが、私には切のうござりまする。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は言いました、「ともかくも、時期を待つことなく、アッラーの御名《みな》を念じて、今一度水牛の乳を搾りに行きなされ。さすれば祝福が下《くだ》るでござろう。」すると水仙さながらの王子は、承わり畏って答え、祈願の文句を唱えながら、自分の一番美事な獣《けもの》の乳房のところに参りました。すると祝福は下りました。器《うつわ》には青く泡立つ乳が満ちました。美貌の素馨《ヤスミーン》はこれを修道僧《ダルウイーシユ》の前に置きますと、僧は心ゆくまで飲んで、満足致しました。
そしてそのとき、僧は微笑を浮べて年若い王子のほうに向いて、申しました、「おお、心|濃《こま》やかの子よ、あなたは決して不毛の地に乳を与えたわけではなく、ただ今起ったことほど、あなたにとっておためになることはござらぬ。事実、拙僧は愛の使者として、あなたの許に参ったものと御承知あれ。して、あなたこそはまことに愛の賚《たまもの》にふさわしき人と拝見仕った。これぞ、次の詩人の言葉によれば、賚《たまもの》中の最初にして最後のもの。
[#ここから2字下げ]
何ものも在らざりしとき、ひとり愛は在りき。しかして、もはや何ものも存せざるときも、ひとり愛は存すべし。愛は最初にして最後のものなり。
愛は真理の懸橋《かけはし》なり。人の言い得る一切の上にあり。愛は墳墓の隅の伴侶なり。
愛は樹木に絡む常春藤《きづた》にして、己れの喰《くら》う心のうちに己が美しき緑の生を仰ぐ。」
[#ここで字下げ終わり]
次に年老いた修道僧《ダルウイーシユ》は続けて言いました、「さよう、わが息子よ、拙僧は愛の使者としてあなたの心の許に参ったものじゃ。されど、われ自身以外の何ぴとも、拙僧を派したるわけではござらぬ。拙僧が野を越え沙漠を渡ったるは、或る朝、或る園を通りかかった折、ふと垣間《かいま》見るを得た仙女のごとき若い女性《によしよう》に、近づくに足るほど完全なる人間を、絶えず探し求めていたがゆえにほかなりませぬ。」ここでしばらく話すのをやめて、それから語を継ぎました、「事実、おお微風よりも軽き人よ、お父上ヌージューム・シャーのこの王国と境を接する王国に、月を恥じしむる仙女の顔持てる、一人の王族の天女《フーリー》、卓絶の宝石箱中の無双の真珠、爽涼の春、美の壁龕《へきがん》が、己れの夢の若人《わこうど》を待って、おお素馨《ヤスミーン》殿、あなたを待っておられるものと御承知あれ。その白銀《しろがね》の色の花車《きやしや》な身体は、黄楊《つげ》のごとく像《かたど》られ、毛筋ほどの細さの胴、太陽のごとき風姿、鷓鴣《しやこ》の挙措じゃ。その髪は菫青《ヒヤシンス》色、魔法使いの眼はイスパハーンの剣《つるぎ》に似て、双の頬は、『コーラン』の中の『美』の節のごとく、弓なりの眉毛は『筆《カラーム》』の章《スーラ》のごとく、紅玉《ルビー》の中に刻まれた口は、驚くべきものあり、靨《えくぼ》を穿《うが》たれた小さな林檎はその顎《あご》、顎を飾る黒子《ほくろ》は邪視を防ぐ薬でござる。そのいとも小さな耳は、耳にはあらずして可憐の宝庫、耳輪として、恋い焦れる人々の心を吊るしておる。鼻――榛《はしばみ》の実――を飾る環は、満月をして首に奴隷の頸輪をめぐらさしめる。小さな足の蹠《あしうら》はというに、愛らしきこと限りなし。その心情は封印を施された香水罎にして、その精神は叡智の至上の天賦を授けられておる。一たび進み出でれば、物みな復活の喧騒でござる。これはアクバル(6)王の女《むすめ》にて、巴旦杏《はたんきよう》姫と呼ばれる。おお、かかる被造物たちを示す名は祝福されてあれかし。」
このように語って、その老いたる修道僧《ダルウイーシユ》はここで長々と一と息入れ、次に付け加えました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九十九夜になると[#「けれども第九百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……このように語って、その年老いたる修道僧《ダルウイーシユ》はここで長々と呼吸をして、次に付け加えました、「されど申し上げておかねばならぬが、おお好感の泉よ、この愛の安住の地たる若い乙女は、肝臓を悲しみに炙《あぶ》られており、傷心の山がその心の上に載っておる。してその原因は、一夜眠っているうちに見た夢にあるのじゃ。拙僧は痛々しく、スンブル(7)のごとく悲嘆に沈む姫と別れました。」それから言うに、「さて拙僧の言葉があなたの心にとって、愛の種子となったる今は、願わくはアッラーはあなたを護りたもうて、あなたの運命の裡にある女性《によしよう》へとあなたを導きたまわんことを。ワァサラーム。」そしてかく語った上で、修道僧《ダルウイーシユ》は立ち上がって、己が道に立ち去りました。
すると素馨《ヤスミーン》王子の心は、ただこの話を聞いただけで、血に塗《まみ》れました。愛の矢は彼を貫きました。そしてライラーを恋うマジヌーン(8)のように、王子は自分の衣服を襟から帯まで引き裂きました。そして麗わしい巴旦杏姫の捲き毛のなかにひっかかって、叫びと嘆息を発しました。かくて、水牛の群を打ち棄て、酒なくして酔い、心気動揺し、物をも言わず、愛の旋風のなかで茫然としつつ、立ち去りさまよいました。それというのは、知恵の楯はあらゆる手負いを防ぐにせよ、愛の弓に対しては効がないからでございます。諌言忠言の医薬も、一筋の思いに病む者の精神には、爾来もはや利き目がありませんでした。素馨《ヤスミーン》王子のほうは以上のようでございました。
けれども巴旦杏姫はどうかと申しますると、次のようでございます。
一夜、姫は父王の王宮の露台で眠っておりますと、愛の魔神達《ジン》に送られた夢裡に、スライカ(9)の思いびとよりも美貌の若者が、自分の前に現われるのを見たのでしたが、その若者は寸分たがわず素馨《ヤスミーン》王子の麗わしい面影でございました。そしてその処女の魂の眼前にこの美の幻が現われてゆくにつれ、それまで憂いのなかった乙女の心は、その手からすべり落ちて、その青年の絡み合った捲き毛の網の俘虜《とりこ》となってしまいました。乙女は眠りの薔薇に心を掻き乱されて目覚め、鶯のように夜のなかに叫び声を投げつつ、涙で顔を洗いはじめました。そこで腰元たちは大そう心配して馳けつけ、姫を見て呼ばわりました、「やあアッラー、私たちの御主人巴旦杏様の涙を流させるこの不幸は、いったい何でございますか。御寝《おより》のうちに、何ごとが御心中に起ったのでしょう。痛わしや、今や姫の叡智の鳥は飛び立ったようでございます。」そして呻きと溜息は朝までつづきました。明方、父上の王と母上の女王とは起ったことを知らされなさいました。御心中焼かれる思いで、御両親は様子を見に来られると、愛嬢、この麗わしい乙女は、常とは打って変った様子と、異様な有様をしているのを御覧になりました。姫は髪と衣服を乱し、引きつった顔をし、わが身の消息なく、わが心への介意なく、坐っておりました。そして御両親のお尋ねになるどんな問にも、羞《はずか》しげに頭を振って沈黙をもって答えるばかり、こうして父上と母上の魂の上に、不安と悲嘆を注ぐのでございました。
そこで医者と悪魔祓いの学者とを呼ぶことに決し、彼らは姫をこの状態から引き出すためにあらゆる手を尽しました。けれども何の結果も収めず、そればかりか反対のことが起りました。これを見ると、彼らは刺絡《しらく》に訴えざるを得ないと思いました。そこでその片腕を縛って、刺絡針を刺しました。けれども愛らしい血脈からは一滴の血も出ません。そこで彼らは治療から手をひき、治癒の希望を棄てました。そして失望し、恥じ入って、立ち去りました。かくて、このような変化の動機を誰も理解することも、説明するもできずに、この痛ましい状況のまま数日が過ぎました。
されば、心を切なく焼かれる美しい巴旦杏が、今までよりも一段と打ち沈んでいた或る日のこと、腰元たちは姫の気を晴らそうとて、園にお連れしました。けれどもそこでは、どこに眼をめぐらそうと、姫はただわが思い人の顔を見るばかり。薔薇はその人の顔色を見せ、素馨《ヤスミーン》はその衣服の香を放ち、揺れる糸杉はそのしなやかな胴、水仙はその眼を示すのでした。そして茨《いばら》にその人の睫毛《まつげ》を見て、姫はそれをばわが胸へと押しあてるのでした。
けれどもやがてこの園の美しい緑は、その萎《しお》れた心をいささか再び緑にいたしました。そしてさし上げた湧き水は、その脳の乾燥を減らしました。姫と同じ年頃の、腰元の若い娘たちは、この佳人のまわりに輪になって坐り、まず最初は、短調の、長閑《のどか》なラマル(10)の律動《リズム》で、静かに軽快なガザル(11)を歌ってさしあげました。
それが済むと、御主人が前より御機嫌よくなったのを見て、一番目をかけられていた腰元が姫に近づいて、申しました、「おお私たちの御主人巴旦杏様、実は数日前から、私たちの領土に、高貴なハザーラ人《びと》の国(12)から参った、一人の笛吹きの若者が来ておりまする。その妙なる声は、分別の飛び去った鳥をも正気に戻し、流れる水と飛び行く燕をも止《とど》めます。この王子のような若者は色白く薔薇色で、『素馨《ヤスミーン》』と申します。まことに、百合と薔薇もその前では色を失って消えてしまいます。それと申しまするのは、その胴は糸杉の揺れ動く様、その顔は咲き出でたチューリップ、その髪は菫、麝香《じやこう》の薫りある捲き毛は千の闇夜の見本、顔色は金色の琥珀、睫毛は反《そ》った投槍、切れ長の眼は二本《ふたもと》の水仙、そして二つのピスタチオの実がその愛らしい唇でございます。その額と申せば、その輝きによって、満月を恥じさせ、満月の顔に青い墨を塗ってしまいます。宝石の歯を持ち、薔薇の舌持つ小さな口は、砂糖黍をも忘れさせる甘い言葉を滲み出させます。そしてこのような姿で、かつは活溌かつは奔放、彼は恋人たちの眼にとって、誘惑の偶像でございます。」
次にその腰元は、巴旦杏姫が悦びに茫然としているとき、さらに付け加えました、「そしてこの王子のような笛吹きは定めし、自分の国からわが国に来るために、朝の微風のように敏捷に、またもっと軽やかに、いくつもの野山を越え、白鳥自身も身の安全を期しがたく、ただ見たばかりでも、鷭《ばん》や鴨も数々の驚きを感じて、眼が眩《くら》んでしまうような、岸辺もないいくつもの河の恐ろしい水を渡って参ったにちがいありません。彼がこのように幾多の艱難を凌いでここまで参ったのは、或る隠れた動機がその決心をさせたのでございます。そして、王子の若者にこのような試練を試みる決意をさせることのできる動機は、愛を措いてほかにはございません。」
このように語って、巴旦杏姫の若いお気に入りは、御主人に対する自分の話の効果を見守りながら、口をつぐみました。すると突然、アクバル王の気分すぐれぬ王女は、心楽しく踊らんばかりに、すっくとわが両足の上に立ち上がったのでございます。その顔は内裡の火によって明るく照らされ、その酔うた魂はことごとく両眼から迸り出ていました。そして一人の医者もわからなかったその神秘な病《やまい》すべては、今はただひとつの跡形もとどめず、愛について語る一人の娘の単なる言葉が、病をば煙のごとく消え失せさせてしまったのでございます。
そこで羚羊《かもしか》のごとく勢いよく、姫はお気に入りの腰元を連れて、自分の部屋に帰りました。そして喜びの蘆筆《カラーム》と縁結びの紙をとりあげ、わが理性を奪った若者、夢裡に魂の眼で見た果報者、素馨《ヤスミーン》王子に、二枚の白い翼ある次の文《ふみ》を認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
「蘆筆《カラーム》なくして美の園に被造物の存在を描きたまいし御方への称《たた》えの後、
恋に焦るる鶯を喞《かこ》たしめたる薔薇に頂礼《ちようらい》。
御身の美の噂を承わりし時、妾《わらわ》の心はわが手より滑り落ち候。
御身、この世のものならぬ面輪を夢裡に妾に見せたまいし時、そはわが心に深き感銘を与え、ために妾は父も母も打ち忘れ、わが兄弟にも余所人《よそびと》となり果て申し候。自分自身にすら余所人となる時、己が家族にそも何をか致し申すべき。
御身の前には、美女たちは早瀬のごとく掃き立てられ候えども、御身の睫毛の矢はわが心を貫き通し候。
おお、来って御身の麗姿を目覚むる折の妾に示し、妾にわが頭《かしら》の眼をもって見さしめたまえ、おお愛の徴《しるし》に通じ、心の真《まこと》の道は心たることを心得たまう御身よ。
して今は知りたまえかし、御身はわが存在の水にして粘土、わが臥床《ふしど》の薔薇は荊棘《いばら》と化し、沈黙の封印わが唇の上にあり、妾は心|長閑《のどか》に散策するをあきらめしものと、……
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第一千夜になると[#「けれども第一千夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
[#この行2字下げ] して今は知りたまえかし、御身はわが存在の水にして粘土、わが臥床《ふしど》の薔薇は荊棘と化し、沈黙の封印わが唇の上にあり、妾は心|長閑《のどか》に散策するをあきらめしものと。」
そして姫は文《ふみ》の二つの翼を畳み、そこに混り気のない麝香一粒を滑り入らし、これをお気に入りの腰元に渡しました。その若い娘は受け取って、これを唇と額に押しあて、わが胸に納めて、鳩さながらに、素馨《ヤスミーン》王子が笛を吹いている林に出向きました。すると王子は糸杉の下に坐って、笛を傍らに置き、次の短いガザルを歌っているところでした。
[#ここから2字下げ]
わが心を見て、われは何をか言わむ。そは雲なり、稲妻なり、水銀なり、血に染む大海原なり。
不在の夜の果つるとき、われらは白鳥と川のごとく相会することならん。
[#ここで字下げ終わり]
そこで若い娘は素馨《ヤスミーン》王子の手に接吻してから、御主人巴旦杏様の文を渡しました。そして王子は文を読むと、喜びのあまり飛び立たんばかりになりました。もう自分が眠っているのか、目覚めているのか、わからない有様でした。その精神はざわめき立ち、心は火の燃えさかる大窯《おおかま》さながらと相成りました。王子の心がいささか静まったとき、若い娘は自分の御主人のところまで到りつく手段《てだて》を教え、王子に最後の指図を与えて、もと来た道を引返しました。
されば、指定の時刻となり好機至ると、素馨《ヤスミーン》王子は結びの天使に導かれ、巴旦杏姫の園に通じる道を行きました。そして首尾よく、天国の切り離された一隅のような、その場所に入りこみました。折から、太陽は西の地平に没せんとし、月は東の面衣《ヴエール》の下にその顔を現わしております。足取り仔鹿の青年は、若い娘に教えられた木を見つけ、その枝の間に身を隠しに登りました。
足取り鷓鴣《しやこ》の巴旦杏姫は、夜と共に園に来ました。青い衣をまとい、青い薔薇一輪を手に持っておりました。そして柳の葉のようにおののきながら、麗わしい頭をその木のほうに挙げました。感動の裡に、姫、この羚羊《かもしか》は、枝々の間に現われている顔が、果して満月の顔か、それとも素馨《ヤスミーン》王子の輝かしい面《おもて》か、わかりませんでした。けれども、その時のこと。欲情《のぞみ》に熟《う》れた花のように、或いはその尊い重味によって枝を離れた果実のように、菫の髪持つ若人《わこうど》は枝々の間を離れて、蒼白になった巴旦杏姫の足許にありました。そして姫は、自分が希望をかけて慕っていた人の姿を認め、それは夢の中の面影よりもさらに美しいと思いました。一方、素馨《ヤスミーン》王子のほうもまた、修道僧《ダルウイーシユ》は自分を欺かず、この月こそはもろもろの月の王冠であることを見ました。そして二人は共に、自分たちの心は優しい友愛と真実な愛情との絆《きずな》で繋ぎとめられているのを感じました。二人の幸福はマジヌーンとライラーのそれと同じように深く、旧友同士のそれと同じように醇でございました。
かくて、いとも甘い接吻と彼らの愛らしい魂の吐露ののち、両人は完全な愛の御主《おんあるじ》に祈って、決して暴虐な大空が二人の情愛の上に紛争の石を降らせることなく、契合の縫目を引き裂くことのないようにと、念じました。
それから、今後別離の毒をこうむらずに済むように、二人の恋人は差向いで思案に耽り、これは時を移さず、アクバル王御自身に直接お話し申さなければならないと考えました。王は王女巴旦杏を愛して、何ごともお拒みにならぬのでした。
そこで、恋人を樹下に残して、哀願する巴旦杏姫は父王にお目にかかりに行き、手を合わせて申し上げました、「おお二つの世界の子午線よ、君の端女《はしため》がお願いがあって参りました。」父上は無上に驚かれ同時にお悦びになって、両手で愛嬢を起し、お胸に抱き締めて、さておっしゃいました、「いかにも、おお、わが心の巴旦杏よ、そちの願いごとは極めて急を要することにちがいない、そちは夜のさなかに床を出でて、願いを叶えてくれるよう、余に乞いに来るをためらわなかったからには。何はともあれ、おお眼の光よ、恐るることなく、そちの父を信じて、申してみるがよい。」すると愛らしい巴旦杏姫は、しばしためらってから、再び頭を挙げて、父上に次のような巧みな話をして、言うことに、「おお、お父上さま、娘が夜もこのような時刻に、御眼《おんめ》の眠りを妨げに参ったとしても、どうぞお許し下さいませ。けれどもちょうど今、腰元と牧場のなかを夜の散歩を致しましたところ、ここに健康の力が身に立ち帰ってきたのでございます。そこでわたくしは、われわれの牛と羊の群の世話が行き届かず、投げやりに扱われていることに気づいた旨を、申し上げに参ったのです。そしてわたくしは思いました、もし信頼するに足る下僕《しもべ》に出会ったら、これを父上様にお引き合わせ申して、われわれの動物の群の見張りを仰せつけていただこうと。ところが、偶然の幸いで、わたくしは今しがた、そのまめによく働く男を見つけました。年も若く、好意あり、何事にも役に立ち、つらい仕事も苦しい仕事も平気でございます。それというのは、怠惰と投げやりはこの男から何パラサンジュ(13)も遠いのです。ですから、おお、お父上様、どうぞこの男にわれわれの牛と羊をお託し下さいませ。」
アクバル王はこの王女の話を聞きなさると、喫驚《びつくり》のかぎり喫驚なさって、しばらくは眼を見張っておいででした。それからお答えになりました、「わが生命《いのち》にかけて、真夜中に家畜の群の番人を傭うなどということは、かつて聞いたためしがない。このような出来事がわれらに起るのは、これが初めてのことじゃ。けれども、おお、わが娘よ、そちのにわかの平癒によってわが心に与うる悦びゆえに、その願いを聞き届けて、それなる若い男をわれわれの家畜の群の番人として、承諾してあげよう。さりながら、その男にその職務を委ねるに先立って、当人をわが頭の眼をもって、見ておきたいものじゃ。」
この父王のお言葉を聞くとすぐに、巴旦杏《はたんきよう》姫は喜びの翼をもって、多幸の素馨《ヤスミーン》王子のほうに飛び立ち、その手をとって、王宮に連れて参りました。そして王に申し上げました、「これが、おお、お父上様、その申し分ない牧者でございます。その杖は信用がおけ、その心は試験済みでございます。」アクバル王はアッラーに明敏を授けられておられたので、娘の巴旦杏の推薦するこの青年は、家畜の番などする類いの輩《やから》ではないことを、たやすく見て取られました。そして内なる魂のなかで、大そう思い惑いなさいました。さりながら、愛嬢巴旦杏を悲しませまいとして、これらの仔細は捨ておいてよいことではなかったけれども、今は追求しようとも、こだわろうともなさいませんでした。愛すべき巴旦杏姫は、父上の御心中に起っていることを見抜いて、今にも激昂しそうな声でもって、手を合わせて申し上げました、「外《そと》は、おお、お父上様、必ずしも内の標識《しるし》ではございません。わたくしは保証いたします。この若者は獅子の群の牧者でございます。」好もうと好むまいと、巴旦杏姫の父君は、この愛すべき麗わしい姫を満足させるため、御自身の眼の上に、同意の指をお置きになって、素馨《ヤスミーン》王子をば、真夜中に、御自分の家畜群の牧者に任命なさったのでございます……。
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――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつものようにつつましく、口をつぐんだ。
すると妹の年若いドニアザードは、今はあらゆる点で好ましい一人前の乙女となり、日を追い夜を追って、ますます愛すべく、ますます美しく、ますます成長し、ますます理解力豊かに、ますます口数少なく、ますます思慮深くなって行ったが、このとき蹲《うずくま》っていた敷物から半ば身を起して、姉に言った、「おおシャハラザードお姉様、お言葉何と快く、味わい深く、楽しく、好ましいのでございましょう。」するとシャハラザードはこれにほほ笑みかけ、接吻して、言った、「そうです、おお愛《いと》しい妹よ、けれども明晩お話しするこの続きに比べれば、これなぞは物の数ではございません、もっとも私たちの御主君、このお育ちよろしく挙措|雅《みや》びな王様が、私の話をお聞き遊ばすに倦《う》んでいらっしゃらなければでございますが。」すると帝王《スルターン》シャハリヤールは叫んだ、「おおシャハラザードよ、何を申すか、余がそちの話を聞くに倦むというのか。されど、そちはわが精神に教え、わが心を鎮めてくれるぞよ。かつ余がそちと共にあって以来、祝福が国土の上にある。さればそちは、些かの疑いを覚えることもなく、明日はこの心地よい物語の続きを、われらに語って差支えない。のみならず、そち自身疲れていないならば、今宵《こよい》それを続けてすら差支えない。それと申すは、まことに、余は素馨《ヤスミーン》王子と巴旦杏姫の身にいかなることが起こるか、知りたいからな。」するとシャハラザードは、そのつつましさゆえに、許しに甘えようとはせず、微笑し、感謝して、その夜はそれ以上何事も言わなかった。
するとシャハリヤール王は彼女をわが胸に抱き締めて、翌日までその傍に眠った。翌日になると、王は起き上がって、その裁きの用務を司りに出かけた。そしてわが大臣《ワジール》、シャハラザードの父が到着するのを見たが、彼はいつものように、王の女性に関する誓言ゆえ、毎朝、娘は死刑に処せられるを見るものと覚悟して、娘のために用意した経《きよう》帷子《かたびら》を小脇に抱えていた。しかし、シャハリヤール王はそのことについては彼に何事も言わず、政務の会議《デイワーン》を統裁した。そして役人や高位高官や告訴人たちがはいって来た。王は裁きをしたり、役目に任じたり、罷免したり、未決の事務を片づけたり、命令を下したりして、日の暮れるまでこれを続けた。それでシャハラザードとドニアザードの父の大臣《ワジール》は、ますます思い惑いと驚きの極に達した。
シャハリヤール王のほうは、閉廷して、政務会議《デイワーン》を終ると、いそぎ自室の、シャハラザードの許に戻った。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]そしてその夜は第千一夜であった[#「そしてその夜は第千一夜であった」はゴシック体]
[#この行1字下げ] そして、シャハリヤール王がシャハラザードといつものことを終るとすぐに、年若いドニアザードは姉に言った、「御身の上なるアッラーにかけて、おお、お姉様、もしお眠くなかったら、どうぞいそいで、素馨《ヤスミーン》王子と巴旦杏姫の優しい物語の続きを、私たちに話して下さいませ。」するとシャハラザードは妹の髪を撫でてやって、言った、「親しみをこめ心から悦んで、そして私たちの御主君、この大度の王様への当然の敬意として。」そして次のような言葉で、この物語を続けた。
……そして王は素馨《ヤスミーン》王子をば、真夜中に、御自分の家畜群の牧者に任命なさったのでございます。
その時から、素馨《ヤスミーン》王子は外では牧者の職を営み、内では愛を事としておりました。昼は、牛と羊を三乃至四パラサンジュ離れた所まで草を食《は》ませに連れて行き、そして夕となれば、笛吹き鳴らしてこれを集め、王の家畜小屋に連れ戻しました。そして夜は、最愛の巴旦杏姫、この卓越の薔薇と相携えて、園に住まいました。これが王子のいつも変らぬ日課でございました。
けれどもこの上なく秘められた幸福とても、いつまでもやかまし屋共の妬みの眼に触れずに済むとは、誰が断言できるでしょうか。
なぜと申せば、用心深い巴旦杏姫は、林の中の友に、いつも必要な飲み物と食べ物を送り届けるのを常としておりました。ところが或る日のこと、この愛の粗忽者は、果物や、胡桃《くるみ》や、ピスタチオの実など、全部を何枚かの銀の薄板の上にきれいに並べて、彼女の砂糖の唇と同じように甘美な美味の品々の盆を、自分自身でひそかに運んで行きました。そしてこれらの品を友に差し出しながら、言いました、「あなたの上品なお口に合うこの召上り物が、どうかあなたに風味よろしく、消化《こなれ》よろしいように、おお、お砂糖しか噛んではいけない甘い言葉の鸚鵡《おうむ》よ。」姫はそう言って、樟脳のようにかき消えてしまいました。
この皮のない巴旦杏がこのように樟脳のように掻き消えてしまいますと、牧者の素馨《ヤスミーン》は、王女の指で作られたこれらの美味の品々を味わおうといたしました。そのとき、わが愛人の叔父その人が、自分のほうに歩み寄ってくるのを見ました。これはすべての人を嫌って、楽手には演奏させず、歌手には歌わせまいとしてわが日々を過ごしている、敵意を抱く悪意ある老人《シヤイクー》なのでした。そして老人《シヤイクー》は若者のそばに着くと、睨みつけるような不信の眼で若者を見やって、その前にある、王家の盆のなかにあるものは何かと問いました。疑心のない素馨《ヤスミーン》王子は、これは老人《シヤイクー》が食べたがっているのだと思いました。そこで秋の薔薇のように気前よく、胸襟を開いて、美味の盆を全部そっくり進呈してしまいました。
すると災厄《わざわい》の老人《シヤイクー》はすぐに引き取って、これらの美味とその盆を、巴旦杏姫の父君、自身の兄にあたるアクバル王に、見せに行きました。こうして巴旦杏姫と素馨《ヤスミーン》王子の関係の証拠を、王に見せたのでございます。
アクバル王はかくと知るや逆鱗《げきりん》の極に達し、王女巴旦杏を召し出して、おっしゃいました、「おお汝の父祖の恥辱よ、汝はわれら一族の上に不面目を浴せかけたぞよ。今日まで、われらの住居は恥辱の雑草と茨《いばら》とをまぬかれておった。然るに汝は、余の上に詐術の輪差《わさ》を投げて、余を捕えおった。そして余に対して甘えた態度をとることによって、わが叡智の灯火《ランプ》を覆うた。ああ、いかなる人間が、自分は女どもの手練手管に乗せられないことができると言い得ようぞ。女どもについて、祝福せられたる預言者――その上に祈りと平安あれ。――も仰せられた、『おお信徒らよ、汝らは汝らの妻と汝らの娘とに敵を持つなり。この女らは理性の点と宗教の点にて欠くるところあり。これは捩《ね》じ曲りし肋《あばら》より生まれし者。汝らよろしく彼らを叱責せよ。汝らに従わざる女は、これを打て、』と。さて余としては、汝は家畜番|風情《ふぜい》の異国者と、あるまじき戯れを戯れたる今は、汝をいかに遇したものか。彼奴《きやつ》ごときとの縁組は王者の娘には応《ふさ》い得まい。余は汝と彼奴の素首《そつくび》を一刀の下に刎《は》ね、汝ら両名の生涯を死の火中に投じて焼くべきか、いかにやいかに。」そして姫は泣くばかりであったので、王は付け加えなさいました、「むしろわが面前より退《さが》って、後宮《ハーレム》の帳《とばり》の蔭に汝の身を埋めよ。して、わが許可なくして、もはやそこより出ずることなかれ。」
このように王女巴旦杏を罰してから、アクバル王は家畜の番人を消し去るよう命令を下しなさいました。ところで、都の近くに、凄まじい猛獣どもの恐ろしい住家の林がございました。この上なく勇猛な人たちも、この森の名が言い出されるのを聞いては、恐怖に襲われ、縮《すく》んで毛髪を逆立てる有様でした。そこでは、朝も夜かと見え、夜は復活の日の不吉な開幕さながらです。そしてそこには、いろいろの恐ろしいものの中でもわけて、二匹の豚鹿《ぶたしか》がいて、これはすべての四足獣と鳥類の恐怖の的であり、時々は都を荒しに来ることすらございました。
そういうわけで、巴旦杏姫の兄弟たちは王命に従って、不仕合せな素馨《ヤスミーン》王子を、亡きものにする積りで、この禍いの場所に派しました。そこで若者は何が自分を待つかなどつゆ知らず、わが牛と羊をそこに連れて行きました。
若者がこの森にはいったのは、双角の天体が地平線に現われつつある時刻(14)、夜のエチオピア人《びと》が顔を逃がれ去るほうに向けている頃でした。獣《けもの》どもには好むがままに草を食《は》ませておいて、若者は地に白い皮を延べてその上に坐り、陶酔の源たるわが笛を取りあげました。
するとそこに突然、二匹の恐ろしい豚鹿が匂いを嗅ぎつけて、雷雲に倣《なら》って咆吼《ほうこう》しながら、素馨《ヤスミーン》王子のいる空地にやって参りました。すると眼差《まなざし》優しい王子は笛の音の裡にこれを迎え、吹奏の魔力にかけて身動きできなくしてしまいました。それから、ゆるゆると立ち上がり、そして二匹の恐ろしい動物を、一匹は右に、一匹は左に伴い、家畜の全群を後ろに従えて、森を出ました。こうして、アクバル王の窓の下に着きました。人皆これを見て、唖然《あぜん》としてしまいました。
そして素馨《ヤスミーン》王子は、この二匹の豚鹿をば鉄の檻に入れて、これを当然の敬意として、巴旦杏姫の父王に献じました。王はこの勲《いさおし》にはこの上なく思い惑いたまい、そしてこの英雄たちの獅子の処刑からは御手を引いてしまわれました。
けれども恋い焦れる巴旦杏姫の兄弟たちは、恨みを棄てようとは思わず、妹がこの若い男に結ばれるのを防ごうと、これをその意に反して、自分たちの従兄《いとこ》、災厄《わざわい》の叔父の息子と、結婚させようと考えつきました。それというのは、彼らは思ったのでありました、「あの気ちがい女の足をば、結婚の太綱で縛ってしまわなければならぬ。さすれば、わが無分別な愛を忘れることであろう。」そして彼らは直ちに婚礼の行列を組織し、楽手と歌姫《うたひめ》、竪笛《クラリネツト》奏者と太鼓打者たちを呼びました。
そして、これらの暴君どもがこうしてこの強制結婚の儀式に心を配っている間に、悲嘆にかき暮れた巴旦杏姫は、心ならずも、花嫁姿である華麗な衣裳と、黄金真珠の装飾を身につけて、金襴の錦に覆われた優雅な装飾《かざり》寝台《どこ》の上に坐っておりました。灌木の上の花にも似て、しかし悲傷と銷沈を傍えに侍らせ、無言の封印を唇の上に押し、百合のごとく黙々と、偶像のごとく身動きせずに。そして打見たところ生者たちの手中にある若き死者と見えましたが、その心臓は屠られる雄鶏のように動悸を打ち、その魂は黄昏《たそがれ》の衣をまとい、その胸は苦悩の爪に引き裂かれ、その煮え返る精神は、黒い眼で、自分の臥床《ふしど》の伴侶となろうとしている粘土の烏《からす》を思うのでした。姫は苦悶のコーカサスの山巓にあったのでございます。
けれどもそのとき、他の下僕《しもべ》たちと一緒にわが恋人の婚礼に招かれていた素馨《ヤスミーン》王子は、ただ互いに眼を見交わしただけで、姫に苦悩の繋縛脱出の希望を与えました。それと申しまするは、単なる眼差によって、恋人同士というものは、誰にも思いも寄らないようなたくさんの事柄を語り合うことができるのを、知らない人はございません。
それゆえ、夜となって、巴旦杏姫が新妻として婚姻の間《ま》に案内されたとき、そのときはじめて、運命は恋人たちにその幸運な面《おもて》を見せ、彼らの心を八種の香で活気づけました。そして美しい巴旦杏姫は、やがて従兄《いとこ》のはいって来るこの部屋で、ただ独りとなった寸隙に乗じて、黄金の衣服を着たまま音なく外に出て、果報者、素馨《ヤスミーン》王子の方に飛び立ちました。そしてこの祝福された二人の恋人は手に手をとって、桃色の微風よりも軽らかに、樟脳のように掻き消えて、消え失せてしまいました。
爾来、何ぴとも二人の足跡を見出すことができず、何ぴとも二人の噂も、隠棲の地も、聞きませんでした。それと申しまするは、地上にては、人の子の間のただ或る人々だけが、幸福に値し、幸福に至る道を辿って、幸福の潜む家に近づくに値するからでございます。
さても、歓喜と叡智と幸福の御主《おんあるじ》、報酬者に、永久《とこしえ》に栄光と種々《くさぐさ》の称讃とあれ。アーミーン。
[#改ページ]
大団円
そして、シャハラザードは、この物語をこのように語り終えると、つけ加えた、「これが、おお幸多き王様、素馨《ヤスミーン》王子と巴旦杏姫との優しい物語でございます。わたくしは、これを伝え聞いたままに、お話し申しました。けれども、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。」
それから彼女は口をつぐんだ。
すると、シャハリヤール王は叫んだ、「おおシャハラザードよ、この物語はいかにも見事じゃ。おお、まことに感嘆すべきものがある。そちは、余を啓発してくれた、おお、博学にして弁舌爽やかの女よ、そして、余以外の人々の身の上に起ったさまざまの出来事を余に見せ、過ぎし世のもろもろの王と国民《くにたみ》との言葉と、彼らが遭遇した、或いは世の常ならぬ、或いは不可思議な、或いは単に反省に値することどもについて、余に注意深くとくと考えさせてくれた。まことに、今や、この千夜一夜にわたって、そちの話に耳を傾けた結果、余は、深く一変し、心楽しく、生きる幸福の染み入った魂を携えて、現われ出た。されば、おお、わが大臣《ワジール》の祝福せられたる娘よ、そちに、かくばかり数々の選ばれし才を授け、そちの口を香らせ、そちの舌の上には雄弁を、また額の下には叡智を置きたまいし御方《おんかた》に、栄光あれ。」
すると、妹のドニアザードは、蹲《うずくま》っていた敷物から、すっくと立ち上がり、駆け寄って姉の腕に身を投じて、叫んだ、「おおシャハラザードお姉さま、なんとお姉さまのお言葉は、やさしく、楽しく、快く、ためになり、心を動かし、みずみずしいうちにも味わいのあることでございましょう。おお、なんと美しいのでございましょう、お姉さまのお言葉は。」
すると、シャハラザードは、妹のほうに身をかがめて、接吻しながら、ただ妹だけに聞こえるように、二言三言《ふたことみこと》その耳もとでささやいた。すると、若い娘はすぐに、樟脳のように、消え去ってしまった。
かくて、シャハラザードは、しばらくのあいだ、シャハリヤール王と二人きりになった。そして王は満足の極に達して、その天晴な妃を腕に抱こうとすると、そのとき、垂幕が開いて、ドニアザードがふたたび姿を現わしたが、そのあとからは、胸に取りすがる双生児《ふたご》を抱いて、一人の乳母がつづき、一方、もう一人の男の子が乳母のうしろから、四這《よつば》いに這いながらはいってきた。
シャハラザードは、微笑を浮かべてシャハリヤール王のほうを向き、三人の子供を、胸にかたく抱きしめてから、王の前に並べ、そして、涙で眼を濡らしながら、王に言った、「おお当代の王様、これがこの三年のあいだに『報酬者』がわたくしを通じて、わが君にお授けくださった、三人の子供でございます。」
そして、シャハリヤール王が、名状しがたい悦びにひたり、臓腑の底まで揺り動かされて、わが子らを抱いて接吻しているあいだに、シャハラザードは言葉をつづけた、「君の長男は、今は二歳を過ぎ、この双生児は、まもなく一歳の齢《よわい》を迎えることと相成りましょう。――願わくはアッラーはこの三人より、凶眼を遠ざけたまいますように。」そして、彼女はさらにつけ加えた、「事実、わが君は御記憶でございましょうが、おお当代の王様、第六百七十九夜から第七百夜にかけて、ほぼ二十日のあいだ、わたくしの加減が悪いことがございました。ちょうどそのおり、わたくしは、この二人の双生児を産んだのでございます。この出産は、前年の兄のときよりも、はるかに難儀でございました。と申すのは、初産《ういざん》はごく軽うございましたので、そのときいたしておりました『博学のタワッドッド』の物語をば、途切らさずに、つづけてお話し申し上げることができたのでございます。」
このように話して、彼女は口をつぐんだ。
シャハリヤール王は、感動の無上の極に達して、母から子へ、子から母へと、眼を移すばかりで、ただの一語も言いだすことができないのであった。
そのとき、若いドニアザードは、子供たちに二十度目の接吻をしてから、シャハリヤール王のほうを向いて、言った、「さてこれからは、おお当代の王様、わが君は、お子様方の母に当たる、わたくしの姉シャハラザードの首をお刎《は》ねさせになり、この小さな王子様御三方をば、母親のない孤児となさるおつもりでいらっしゃいましょうか。どのような女も、このお子様方を、母親の心をもって愛し、お世話してさしあげることはできますまいものを。」
シャハリヤール王は、嗚咽《おえつ》と嗚咽のあいだで、ドニアザードに言った、「もう何も申すな、おお若い娘よ、案ずることはない。」次に、王はようやく心の激動を幾分か押えることができるようになると、シャハラザードのほうに向いて、言った、「おおシャハラザードよ、憐憫と慈悲の御主《おんあるじ》にかけて、わが子たちの出生以前に、そちはすでに余の心中にあったのだ。なんとなれば、そちは、そちの創造主の飾りたもうた数々の美質によって、わが心を捉え得たからじゃ。余は心中でそちを愛しておった。と申すのは、余はそちのうちに、汚れなく、信仰あつく、貞淑にして、心優しく、およそ人に欺かるることなく、あらゆる点に欠くるところなく、心浄くして、才気に富み、弁舌立って、つつましく、にこやかにして賢い女を、見出したがゆえである。ああ、願わくはアッラーは、そちを祝福し、そちの父と母と、そちの一族と血統とを、祝福したまわらんことを。」
そして、王はさらに言いそえた、「おおシャハラザードよ、今宵は、余がはじめてそちに会ったときより数えて、千一夜目の夜であるが、今宵こそはわれらにとって、白昼《まひる》の面《おもて》よりもさらに真白い夜であるぞよ。」こう言って、王は立ち上がり、彼女の頭に接吻した。
シャハラザードはそのとき、夫なる王の手をとって、わが唇と心臓と額とにあてがい、そして言った、「おお当代の王様、何とぞ年老いた大臣《ワジール》をお呼びくださって、わたくしのことについて、その心を安んじさせ、この祝福された夜を、楽しく過ごさせてやってくださいませ。」
そこでシャハリヤール王は、ただちに大臣《ワジール》を召し出だすと、大臣《ワジール》は今夜こそ娘の運命に記された死の夜と信じて、シャハラザードに着せる経《きよう》帷子《かたびら》を小腋《こわき》にかかえて、到着した。するとシャハリヤール王は、これに敬意を表して立ち上がり、双の眼のあいだに接吻して、言った、「おお、シャハラザードの父よ、おお、祝福された子孫を持つ大臣《ワジール》よ、今やアッラーは、わが人民の救いのために、その方の娘を来たらしめたまい、この娘を通じて、余の心中に悔悟を入らしめたもうた。」すると、シャハラザードの父は、これを見、これを聞いて、歓喜に心も顛倒《てんとう》し、気を失って倒れてしまった。人々はそのまわりにかけよって、薔薇水をふりかけ、正気に返らせた。すると、シャハラザードとドニアザードとが、父の手に接吻しにきた。父は二人を祝福した。そして、一同は皆、恍惚とする歓喜とあふれ出る幸福とのうちに、その夜を過ごした。
そこでシャハリヤール王は取りいそぎ急使を派して、弟のサマルカンド・アル・アジャムの王、シャハザマーンを呼んだ。すると、シャハザマーン王は、お言葉承わり仰せに従う旨答え、兄のもとへと急いだが、兄王は、美々しい行列の先頭に立って、残るくまなく飾り立て、旗を掲げた町のまん中に、弟を迎えに出た。一方、すべての市場《スーク》と街々では、香、樟脳精、伽羅《きやら》、インド麝香《じやこう》、また竜涎香《ナツド》の類を焚き、住民は、改めて、手を指甲花《ヘンナ》で染め、顔にサフランを塗り、太鼓、小笛、竪笛、横笛、青銅双鐘《シンバル》、また鉄線琴《チンバノン》は、大祭日の日々のように、大気をどよめかしていた。
そして再会の思いを吐露し合ってのち、一方で祝祭と祝宴とが、すべて国庫の費用で催されているあいだに、シャハリヤール王は弟シャハザマーン王を一人別にかたわらへ呼んで、この三年間、大臣《ワジール》の娘シャハラザードと自分とのあいだに起ったことをすべて、語り聞かせた。そしてこの女性から教えられたことをすべて、金言、名言、物語、俚諺《りげん》、史話、笑話、逸話、おもしろい警句、怪奇談、詩篇、吟誦など、耳にしたすべてのことを、かいつまんで話をした。また、この女性の美貌、知恵、雄弁、利発、聡明、純潔、篤信、温和、正直、純真、慎重およびその創造主の飾りたもうた心身のあらゆる美質についても、話をした。そして、王はつけ加えた、「さて、この女は、今はわが正妻となり、わが子らの母となったのじゃ。」
すべて、かくのごとき次第である。そこでシャハザマーン王は、いたく驚き、驚嘆の限りに驚嘆した。次に、シャハリヤール王に向かい、言った、「おお兄上よ、かくなる上は、私もまた結婚したいと思います。私は、そのシャハラザードの妹、名前は存じませぬが、その少女を、妃に迎えることといたしましょう。かくしてわれわれは、二人の実の姉妹を妻とする、二人の実の兄弟と相成るでございましょう。」次に弟はつけ加えた、「このようにいたせば、われわれは今後、ともに信頼するに足る正直な妃を持って、昔のわれらの不幸を忘れることとなりましょう。それと申すのは、くだんの旧《ふる》い災厄については、それがまず最初わが身に及ぶことからはじまり、次いで、私ゆえに、兄上の御身《おんみ》にも及んだからです。私の不幸の発見なくば、兄上は御身《おんみ》の不幸に、まったくお気づきなかったでしょう。思えば、おお兄上よ、この三年というもの、わが身の上ははなはだ暗澹たるものでした。私は、ついぞほんとうに愛情を味わうことがかなわなかった。それというのは、私も兄上の範にならって、毎夜処女の娘をめとっては、翌朝これを殺させこうして女性の族《やから》に対し、われら両人の身に及んだ災厄を、償わしめんとしたからなのでした。しかし今は、同じく兄上の垂れてくださる範に従って、私も兄上の大臣《ワジール》の次女と結婚いたしたきものと存じます。」
シャハリヤール王は弟のこの言葉を聞くと、悦びに身を揺すり、即刻即座に立ち上がり、妃のシャハラザードに会いに行って、自分と弟とのあいだで今しがた交わされた話を、詳しく知らせた。こうして、シャハザマーン王が妹ドニアザードと、自発的に婚約する旨を、伝えたのであった。
すると、シャハラザードは答えた、「おお当代の王様、わたくしどもは御同意申し上げますが、それには特別の条件がございます。それは、弟君シャハザマーン王が、今後はわたくしどもと御一緒にお住みになるということ。それと申しますのは、このわたくしは、ひとときたりとも、妹と別れていることができないからでございます。あれを育てたのは、わたくしでございますし、わたくしがあれと離れかねるのと同じく、あれもまた、わたくしと離れることができないのでございます。ですから、もし弟君が、この条件を御承諾くだされば、わたくしの妹は、今よりただちに、弟君の奴隷と相成りまする。さもなくば、妹はわたくしどもの手もとにおくことといたします。」
そこで、シャハリヤール王は、シャハラザードの返事を携えて、弟に会いに行った。するとサマルカンドの王は叫んだ、「アッラーにかけて、おお兄上、私もちょうどそのつもりでした。というのは、私もまた、今は、ただのひとときたりとも、兄上と別れていることができぬゆえ。サマルカンドの王位については、アッラーは、望みたもう者を選んで、これにお遣わしになることでしょう。というのは、私としては、もはやかの地を治める意はなく、私はもはやこの地を動かぬつもりなのですから。」
この言葉を聞くと、シャハリヤール王は、もはや悦びのとどまるところを知らず、答えた、「それこそわが願うところじゃ。おお弟よ、長い別離の末、ついにわれらを結び合わせたもうたアッラーは、讃められよかし。」
そしてその場で、法官《カーデイ》と証人たちを呼びにやった。それから、シャハラザードの妹ドニアザードと、シャハザマーン王との結婚契約書が作製された。かくして二人の兄弟は、二人の姉妹と結婚した。
そのときに及んで、祝祭の歓楽も灯明飾りも、絶頂に達し、四十日四十夜にわたって、全市民が国庫の費用で、食い、飲み、楽しんだのであった。
二人の兄弟と二人の姉妹のほうは、いずれも浴場《ハンマーム》に行って、薔薇水と、花の水と、香柳の水と、麝香の香る水で沐浴《ゆあみ》をし、沈香《じんこう》と伽羅とを足もとに焚きしめた。
シャハラザードは、若い妹の髪をくしけずったり、編んだり、真珠玉を飾り立ててやった。次に、|ペルシア王《ホスロー》時代の、赤金錦織りの古代切れで作った衣服を着せたが、その地には、じかに、酔い痴《し》れた動物と恍惚とした鳥とを実物そのままの色で表わした、刺繍が施してあった。それからシャハラザードは妹の首に、この世のものならぬような首飾りをめぐらしてやった。こうして、ドニアザードは、姉の指の下《もと》に、むかしの双角のイスカンダール(1)の妃よりも美しくなった。
こうして、二人の王が浴場《ハンマーム》から出て、それぞれの王座に坐ったとき、貴族《アミール》や大官たちの妻女からなる花嫁の行列は、二つの王座の、一方は右、一方は左と、二列になって、身じろぎもせずに並んだ。すると、二人の姉妹が、満月の一夜の二つの月さながらに、お互いに身を支え合いながらはいってきた。
そうすると、そこにいた貴婦人のあいだでもいちばん身分の尊い婦人たちが、両人のほうに進み出た。そして、ドニアザードの手をとって、その着ている衣裳を脱がせてから、群青色の青|繻子《しゆす》の衣服を着せたが、それは思慮分別を奪うばかりの衣服であった。彼女は、詩人が次の詩句(2)に描いたとおりの姿であった。
[#ここから2字下げ]
この君は群青の碧《あお》き衣をまとい、大空の紺碧より離れ来し一片《ひとひら》ともおぼしきばかりに、進み出《い》づ。
その眼《まなこ》は、名剣にして、その瞼《まぶた》は、魔力に満ちたる眼差《まなざし》を持つ。
その唇は、蜜房、その頬は、薔薇の花壇にして、その身は、素馨《ヤスミーン》の花冠なり。
その腰の細さと、揺るぎなく丸らかのうるわしき臀《しり》とを眺むれば、流砂の丘に突き刺されし竹の茎とも見紛うべし。
[#ここで字下げ終わり]
すると夫のシャハザマーン王は立ち上がり、王座を下りて、衆に先んじてこれを眺めた。このような衣服を着た彼女の姿を、つくづくと眺め終わると、王はふたたび王座へ上った。それは更衣《ころもがえ》の合図であった。そこでシャハラザードは、行列の貴婦人たちの手を借りて、妹に杏《あんず》色の絹の衣服を着せた。それから、妹に接吻して、夫の王座の前を通らせた。かくして、最初の衣服のときよりもさらにうるわしく、彼女はあらゆる点で、まさに詩人の描いた(3)女性であった。
[#ここから2字下げ]
冬の一夜のさ中に出ずる夏の月とても、君の来ますより美しからず、おお乙女よ。
君の踵《かかと》にまつわる暗き編み毛と、君の額をめぐる漆黒の分け髪は、われをして君に言わしむ、
「君は、夜の翼をもて、暁を暗くしたもう。」されど、君は答えて曰く、「否、否、月を隠す一片の雲のみ。」
[#ここで字下げ終わり]
シャハザマーン王は、花嫁ドニアザードを見ようとて下り立ち、四方から眺め入った。こうしてその美しい姿を、衆に先んじて楽しんでから、王はふたたび王座に上って、兄シャハリヤールのかたわらに坐った。すると、シャハラザードは、妹に接吻してから、杏色の衣服を脱がせ、今度は、柘榴色のびろうどの胴着を着せたが、かくて彼女は、詩人の次の二節に、詠じたとおりの姿となった。
[#ここから2字下げ]
おお、優雅あふるる君よ、暗紅の胴着をつけ、羚羊のごとく軽やかに、身を揺する。君が瞼は、身の動くごとに、われらに致命の矢を放つ。
美の星よ、君現わるれば、天と地とを栄光もて満たし、君消ゆれば、世界の面に闇を拡ぐべし。
[#ここで字下げ終わり]
そしてふたたび、シャハラザードと介添えの貴婦人たちは、花嫁に、しずしずと、歩調正しく、広間を一巡させた。シャハザマーンがこれに眺め入って感嘆すると、姉は妹に、上から下まで縞模様のはいった、淡黄色の絹の衣服を着せた。そして妹に接吻して、胸に固く抱きしめた。ドニアザードは、まさに詩人の詠じた(4)女性そのままであった。
[#ここから2字下げ]
この君は、晴れ渡る夜の満月のごとく現われ出で、その魔法の眼差《まなざし》は、われらの道を照らす。
されど、もしわれ、その眼《まなこ》の火に暖まらんとして近づけば、われは、二人の哨兵、張りつめて石のごと、固き双の乳房に、追いやらる。
[#ここで字下げ終わり]
そしてシャハラザードは妹を、二人の王の前と招客一同の前を、ゆるゆると引き回した。新郎は、花嫁を真近に見にきて、満悦して王座へと戻った。すると、シャハラザードは、長いあいだ妹に接吻して、さらにその衣をかえさせ、真珠をちりばめ、金糸の刺繍を施した、緑の繻子《しゆす》の衣服を着せた。そして、衣の襞《ひだ》を左右にきちんとととのえ、翠玉《エメラルド》が流れ連らなる軽やかな王冠型の髪飾りを、額にめぐらしてやった。そして、ドニアザード、この訶利勒《バーン》の小枝、このかぐわしい樟脳の女は、最愛の姉に支えられて、広間を一巡した。それは、まことに恍惚たらしめるものであった。これについて、詩人の詠じた(5)ところは、いささかも偽りではなかった。
[#ここから2字下げ]
柘榴《ざくろ》の紅《くれない》の花を覆う緑の葉の趣きも、おお乙女よ、君を覆う君の緑の胴着の艶なるさまに及ばず。
われは君に言えり、「この衣は、おお乙女よ、その名はいかに。」答えて曰く、「名とてあらず、こはわが肌着なり。」
われは叫びぬ、「おお、われらの肝を貫く、妙《たえ》なる君の肌着よ。われは今よりこれをば、断腸の肌着とや呼ばん。」
[#ここで字下げ終わり]
次にシャハラザードは、妹の腰を抱いて、一緒にゆっくりと、両側の招客のあいだを分け、二人の王の前を進んで、奥の間のほうに向かった。そして、妹の着物を脱がせ、身仕度をととのえて寝かせ、注意すべきことを注意した。次に泣きながら妹を抱いて接吻した。というのは、一夜のあいだ妹と離れるのは、これが最初だったからである。ドニアザードも同様、姉に幾度も接吻しながら泣いた。けれども二人は朝になれば会えるわけだったから、苦しみを堪え忍んだ。そして、シャハラザードは自分の部屋へ引きとった。
その夜は、二人の兄弟と二人の姉妹にとって、喜びと幸いと白さとのうちに、第千一夜のつづきとなった。また、シャハリヤール王の臣民にとっても、新しい御代の始まる日付となった。
さて、この祝福された夜の翌朝となり、二人の兄弟が浴場《ハンマーム》を出て、ふたたび多幸な姉妹と相会し、こうして四人全部が一緒になったとき、シャハラザードとドニアザードとの父親の大臣《ワジール》が、入室の許可を求めたので、すぐに中に招じ入れられた。すると兄弟は二人とも敬意を表して立ち上がり、二人の娘は近寄って、父の手に接吻した。大臣《ワジール》は女婿たちの御長命を祈り、今日の命令を仰いだ。
けれども、兄弟は言った、「おお、われらの父よ、われらは今後、御身が命令を与える身となり、けっして命令を受けないようになることを望むのだ。それゆえに、われらは両人一致して、御身をばサマルカンド・アル・アジャムの王に任ずることといたす。」そして、シャハザマーンは言った、「さようじゃ、なんとなれば、余は王位を放棄したのだから。」すると、シャハリヤールは弟に言った、「しかし、それには条件がある、おおわが弟よ。お前が余と共にこの国の王位を分かち、両人交代で、余が一日治めて、お前が次の一日治めることとするのを承諾し、わが国務を手伝ってくれなければならぬ。」すると、シャハザマーンは、「お言葉承わり、仰せに従いまする」と言いながら、兄王にしかるべく答えた。
すると二人の姉妹は、父親の大臣《ワジール》の首に抱きついた。父親は二人に接吻し、シャハラザードの三人の子にも接吻して、一同に情のこもった別れを告げた。次に、彼は美々しい護衛を従えて、自分の領国へ出発した。アッラーは、彼のために安泰を記し置かれ、これをつつがなくサマルカンド・アル・アジャムに到着させたもうた。サマルカンドの住民は、その到着を非常に悦んだ。そして、彼はきわめて公正に民を治め、諸王中の大王となった。彼については、以上のようであった。
ところで、シャハリヤール王のほうはというに、王は、回教諸国でもっとも能筆な書記たちと、もっとも名声高い年代記編者たちとを、急ぎ呼びよせて、自分と妃シャハラザードとのあいだに起ったことを一部始終、始めから終りまで、ただ一つの細部も洩らさずに、書き記すことを命じた。
そこで、彼らは仕事に取りかかり、こうして、三十巻を、それより一巻も多からず少なからず、金文字で書き記した。そして彼らは、この驚異と不可思議との一連の物語をば 千一夜の書 [#「千一夜の書 」はゴシック体]と呼んだ。
次に、シャハリヤール王の命により、彼らは、それを忠実に書き写した多数の写本を作り、子々孫々の教育の資にもと、それらを全領土のすみずみにまで配った。
その原本のほうは、大蔵|大臣《ワジール》の保管のもとに、王室の黄金の文庫に納めた。
そして、シャハリヤール王と、かの多幸な女性、妃シャハラザード女王、シャハザマーン王と、かのうるわしい女性、妃ドニアザード、並びにシャハラザードの子の三人の王子たちは、幾年も幾年ものあいだ、来たる日々は先の日々よりもさらによろしく、夜々は日々の顔よりもさらに白く、ついに、友を分け隔てる者、宮殿を破壊する者、墳墓を打ち建てる者、免がれ得ざる者、避けえざる者の到来するまで、歓楽と至福と喜悦のうちに暮らしたのであった。
かくのごときが、世にも珍しいことどもと、教訓と、不可思議と、驚異と、驚嘆と、美とをそのうちに含んだ、千夜一夜[#「千夜一夜」はゴシック体]と名づけられた燦然たる物語である。
さあれ、アッラーはさらに多くを知りたもう。また、ひとりアッラーのみが、これらすべてのうちにあって、真なることと真ならざることとを識別するを得たもう。アッラーこそ、全知にまします。
[#改ページ]
さて、その永劫のうちにあって触知するべからず、その御意の
ままに諸々の出来事を変じたまい、御自らは一切の変を蒙
ることなき御方、可見界と不可見界との御主、唯一
の生者に、世の果てにいたるまで、讃美と栄光と
あれかし。また、両世界の至高の主権者より
選ばれし者、われらが主ムハンマード、
使徒たちの王者、宇宙の宝珠の御
上に、祈祷と、平安と、選り抜
き無上の祝福とのあらんこ
とを。この君に、われ
ら縋り奉りて、念
ずるは、幸あ
りて至福
なる
終[#「終」はゴシック体]
[#改ページ]
訳註
乙女 心の傑作、鳥の代官の物語
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(1) Ishak Al-Nadim, de Mossoul ――しばしば出て来たアラビア随一の音楽家であるが、バートンは Ishak bin Ibrahim al-Nadim al-Mausili, ペインは Ishac ben Ibrahimen Nedim el Mausili と書いて、共に Isaac of Mosul と註している。
(2) Younous(バートンY從us ibn Hab鍛ユ ペインYounus ibn Hebib)――当時の有名な文法学者言語学者で、バスラで講義をしていた。文人その他の名士に争って交際を求められた人物で、イスハークの友人であった(ペイン)。
(3)「アッラーの望みたまうように」。「天晴れ」「見事」「でかした」といった意味の間投詞。
(4) Tohfat Al-Kouloub ――バートン、ペイン共に、この実名にちなんだ他の渾名を挙げている。Tohfat al-Kul彙 は「心の最上の贈物」Choice gift of the Hearts の意(バートン)。Tuhfet el Culo彙 は「心の贈物」または「珍奇のもの」(ペイン)。
(5) バートンまたペインによると、これがこの女の名前に当るわけだから、その名のごとくという洒落になっているらしい。
(6) 東洋を通じて、これは下僕又は奴隷の行為で、自由人は生命の危険乃至非常の際しかしない、従って屈辱的な、振舞である(バートン)。
(7)「尊い御訪問」の意(バートン)。
(8) ゾバイダは、アッバース王朝第二代|教王《カリフ》アル・マンスールの息ジャアファルの娘であったから、アル・ラシードの叔父の娘であった(ペイン)。
(9) 回教徒の悪魔に与えた名の一つ。イブラーヒーム(アブラハム)が愛子を殺して神の犠牲に捧げるのを悪魔が妨げようと試みたとき、アブラハムは石を投げてこれを追い払ったと言い伝えられている。(ペインによる。)
(10) 幽鬼、魔王の意。
(11)「アッラーの御名において。」バートン註によると「さあ行こう」の意で、彼女に悪い影響を防ぐための婉曲な文句であり、イブリースは彼女が恐れないようにかく言う。
(12) Gamra(バートンJamrahユ ペインJemreh)「燃える石炭」、―― Scharara(Sharrah, Sherareh)「火花」、Wakhima (Wakh知ah, Wekhimeh)「不健康地」(バートン)。
(13) 明らかに拍手喝采の悪魔的やり方。この悪魔の描写は、回教徒的よりもむしろキリスト教徒的グロテスクの要素がある(バートン)。
(14) 以下のこれらの詩は『千一夜物語』の既知のテキストには載っていないとショーヴァンに記されている。なおバートン、ペインのテキストではこの「微風の歌」以下非常に異なった内容で、時に同題の詩もあるが、いずれも短詩である。
(15) 八冊本にはこの歌を欠く。十六冊本によって補う。
(16) 八冊本に欠く。
(17) 八冊本に欠く。
(18) アラビア半島の中部地方一帯。
(19) ハガル(またはハージャル)は、イブラーヒーム(アブラハム)の妻サラの侍女で、イブラーヒームの子イブマーイール(イスマエル、アラビア人の祖である)を生み、後に生母と共に沙漠に追われるが、この故事不明。
(20) 八冊本に欠く。
(21) 八冊本に欠く。
(22) Kascher ――シリアのカデシュ町の守護女神。右手に花束、左手に蛇を持つ。(渡辺一夫氏註による。)
(23) Jader ――トルコ生れのエジプト女帝シャジャル・ドゥルル(一二五七年没)のこと。嫉妬のため夫アイベッリ帝を殺し、自らも殺さる。(同右)
(24) Saba ――サバアは古代南アラビアの王国で、シェバのこと。女王は有名な「シェバの女王」バルキスで、回教では、スライマーン(ソロモン)にメッセージを送ったことになっている。『コーラン』第二七章「蟻」に、やつがしらがスライマーンの手紙を携えて使いに行く委細が記されている(二十―四十)。
(25) S暫este ――むらさき科植物の実で、プラムに似たもの、熱帯アジアに産し甘味あり、鎮咳剤。和名不詳。
(26) 『モースルのイスハークの冬の一夜』(本電子文庫版六巻所収)参照。
(27) 本電子文庫版九巻『金剛王子の華麗な物語』註(8)参照。
(28)「おおアッラーよ」「さあ」「おい」とかの意。
(29) アダムの妻イヴの娘、女子の意。
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バイバルス一世と警察隊長《ムカツダム》たちの物語
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(1) バートン、ペインはブレスラウ本を原典として『バイバルスと十六人の警察隊長《ムカツダム》』と題する。そのうちほぼ同じなのは、第一の隊長の物語とマルドリュスの第七の隊長の小話のみで、全く異なる。マルドリュスの八篇はスピッタ・ベイの『近代アラビア物語集』に見られる由。'Contes arabes modernse,' recueillis et traduits par Guillaume Spitta-Bey. Leide. E. J. Brill; Paris; Maisonneuve et Cie, 1883. この第二の隊長の物語は出所不明、『運命の鍵』(本電子文庫版八巻所収)と共に、マルドリュス本の典拠不明の二物語とショーヴァンにある。
(2) Baharites ――トルキスタン、ペルシア、アフガニスタンに住むトルコ人をトルコマン人というが、一二五〇年から一三九〇年までエジプトを支配した、創立者がトルコ人奴隷出身であった、いわゆるバハリー・マムルーク王朝。「ナイルの中央」bahr-al-Nil のランダ島に城砦を構えたのでこの名がある。第一代、第五代、第七代等、数名の君主がヨーロッパで有名であった。
(3) Al-Malek Al-Zaher R冖n Al-D馬 Ba秒ars Al-Bondokdari(バートンAl-Malik al-Z・ir Rukn al-D馬 Bibars al-Bundukdri ペインも多少異なるが略)――いわゆるバイバルス一世(一二二三―七七年)、エジプトのバハリー・マムルーク朝第五代のスルターン。キプチャク出のトルコ人奴隷であったが、アイユーブ朝七代アル・サーリフに仕え、一二六〇年バハリー・マムルーク朝第四代クトゥズを殺して即位、十字軍を討伐。ここにあるように、アルメニアからシリアまで平定、広くキプチャック汗国、ビザンティン、シチリア、スペインと外交関係を結んだ。ヨーロッパでは「灰色の豺」と呼ばれて聞え、十字軍討伐の英雄として今日もイスラム圏では有名である。
(4) バートン、ペインの注によると、夜間に物語や小話を話し、詩を誦して王のお相手をする役目の者らしい。
(5) M剳n Al-D馬 ――バートンにはMu, 地 al-Din(ペインにはMu貧eddin)とあり、「信仰の助力者」の意と註す。
(6) Alam Al-D馬 Sanjar ――バートンには「信仰の旗」、Sanjar はペルシア古語で「公、王」の意と註がある。
(7) バートンによると、すでに他の物語にいくつも見られたように、東洋では警察官は主として犯罪者階級から、女賊さえも、募集されたし今も募集されているという。
(8) Capitaine ――これはアラビア語では Mukaddam と、バートンは註する。この原語はこれまでしばしば見えた。
(9)「アッラーはそのようなことを禁じたまう」の意。
(10) アラビア語ではメMaut Ahmarモ で変死、横死又は血なまぐさい死の意。(今までしばしば出たが、ここにバートンの註があるから、付記する。)
(11) Arpent ――昔の面積の単位で、二十乃至五十アール(一アールは百平方メートル)。
(12)「いやがるのに」。
(13) Zeinab (Zainab) ――ムハンマードとハディージャー Khadijah との間に生まれた女子を指すのであろう。
(14) ――ゴッグはマゴッグの地の王。マゴッグは小アジア東北部の国民で、主にスキティア人を指し、黙示録では反キリスト教会の異教同盟国をいう。ゴッグは不信者、拝火教徒の首長を意味する。
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海の薔薇とシナの乙女の物語
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(1) この物語も『千一夜物語』になく、ガルサン・ド・タシーの訳書(『金剛王子の華麗な物語』〈本電子文庫版九巻所収〉の註(1)参照)に「バカワリの薔薇」と題して収められている由。
(2) しばしば出て来たように、十一世紀の大医学者、哲学者で有名な『医学規範』の著者。
(3) ヤコブのこと。帰らぬユースフ(ヨセフ)を思って泣く(『コーラン』第十二、「ユースフ」参照)。
(4) ヨブのこと。「私はシャイターンめに散々痛めつけられ、衰弱しきってしまった」と、大声で主に訴えた(『コーラン』第三十八「サード」四十)。
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蜂蜜入りの乱れ髪菓子と靴直しの災厄の妻の物語
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(1) Les babouches ――原語はメzerabinモ(zerboun の複数)、原義は奴隷の靴またはサンダルであるが、ここでは明らかに頑丈な短靴、または長靴という近代的意味で用いられている(ペイン)。――これまでは大体「皮草履」と訳しているが、ここではペインによる。
(2) M詠ouf ――バートンではMaユaruf とあり、俗語で「善良」を意味すると註す。
(3) メBouse chaudeモ ――ペインはメThe Shrewモ(がみがみ女、悪妻)と訳し、原語 メUrrehモ は文字どおりには dung(牛馬の糞)であり、「がみがみ女」の意味は近代的で転義と註する。バートンは文字どおりに「糞女」と訳す。
(4)「彼女の行状が記録されて、最後の審判の日に彼女に見せられる書のごとく黒い」の意(ペイン)。
(5) ヨブのこと。旧約とコーランに伝えられるこのヘブライの族長大富豪は、神を信ずることあつく、三つの大きな試錬に耐えた忍苦堅忍の鑑。ヨブの忍耐とは最大限度の忍耐の意に東西で用いられる。
(6) 小麦粉で製した素麺で、溶かしたバタでいため、蜂蜜または砂糖で甘味をつけた国民的菓子。「乱れ髪」はその形状の形容であろうが、ペイン、バートンにはこの形容詞はない。
(7) 横死、変死。
(8) Une madrassah ――バートンにはアラビア語の Mudarris で、授業、講義をする人の義であるが、俗語では回教寺院付属の学校の教授をいうとある。
(9) 暗赤色の染め色とレーン註にある(バートン)。
(10) イスラムの宗教上の最高位者。イスラム法学者の長。
(11)「アッラーの御名において。」
(12) Le genni P俊e au Bonheur. ペインには Aboussaadat とあり、バートンにはAb・al-Saユ dt(発音はペインの綴りの由)とあり、the Father of Prosperities「繁栄の父」の意と註す。
(13) 伝説の古代民族アード族は、イェメンのハドラマウトにいたが、王シャッダードは天国に対抗する楽土を地上に作ろうと欲し、円柱の立ちならぶ壮麗な宮殿を建て、これをイラムと名づけたと伝えられる。『コーラン』八十九「暁」に出てくる。
(14) 渡辺一夫氏訳による。詳らかでないが、西洋では鷲に長命の象徴はないらしい。シャッダード王のイラム建設には三百年とか五百年とかを要し、いよいよ王があと一日で入城しようという時、「死の天使の怒りの声」に打たれて王はじめ一行全滅したと伝えられるから、王は非常な長命であったわけである。
(15) レンズ豆はエジプトで最も安価で貧弱な食物で、ホテルの定食などにも決して出ない(バートン)。
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知識と歴史の天窓
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(1) この枠の話は長老《シヤイクー》エル・モホディの写本にあり、それはマルセルによって初めて仏訳され、普通に『エル・モホディの小話集』と言われ、『千一夜物語』とは別である。これは文学的観点からも民話的観点からも、さして重要でないものとショーヴァンにある。'Contes du cheykh El-Mohdy,' traduits de lユ arabedユ apr峻 le manuscrit original par J. J. Marcel, orientaliste, etc. Paris, 1835. Publi・en 15 livraisons. しかしここに含まれている小話は、モホディとは全く別で、第十三と最終を除いて、ペロン『回教以前以後のアラビアの女たち』Perron: 'Femmes arabes avant et depuislユ islamisme.' Paris et Alger, 1858. に見られる。(二、三はその他の集中にもあるが略す。)
(2) Amrou ben El-Ass (ヤAmribnuユl-ヤAs) ――七世紀のアラビア武人、エジプト征服者、クライシュ族の人で回教に帰依。六四〇年エジプトに遠征して、十四カ月のアレクサンドリア攻囲の後これを落し(有名な図書館はこの時炎上したと伝えられる)、エジプト統治の基礎を定め、後のカイロを建設した。
(3) La gentilit・/T-FONT> ――異教徒をいう集合名詞。ここではイスラム発生以前の無明時代 Ja-hiliyah を指す。
(4) Doreid (Durayd ibn as-Simma) ――六世紀頃の東ヘジャーズ群の詩人、父と兄弟の一人も詩人であった。反イスラムで、ベドウィン族の騎士道理想の詩人とされ、約四十の断片、二五〇句が伝わる。
(5) El-Khansa ――六世紀頃の中央アラビアの女流詩人四人に与えられた渾名であるが最も有名なのはここに言われるスライム族出身の本名Toum嬰ir (Tum嬰ir bint Amr) である。ハンサは「鼻の低い」とか、「獅子鼻」の意であるがここに言われる女詩人は美貌の聞え高かったので、これは侮りの意味なく、羚羊(次の詩にも出ている)がしばしば「ハンサ」と呼ばれるので、それに比した讃美の渾名であろうとも言われる。――この詩人は五九〇年頃生まれ、五十歳くらいで死んだと推定されている。古代アラビアの挽歌詩人の典型とされ、ここにでてくる戦死したムアーウィアと今一人の弟サハルの弔歌が有名である。それはきわめて単調で典型的ベドウィン詩という。
(6) Nabigha El-Dhobiani (An-Na-biga ad-Dubya-ni) ―― Al-Malek Al-Zaher 本名はZiya-d ibn Mu ヤa-wiya. これは尊称の渾名で、これに部族名を付し「ドゥビアーン族の詩宗」と称す。ナービガの尊称を受けた詩人は六世紀以来、八名ほどいる由。――無道時代メッカの近くのウカーズ (Okaz) で毎年大市が開かれ、アラビア諸部族代表詩人が集って詩作競技を行ない、最傑作は布の上に金文字で記され、カアバの壁にかけられ、その詩人を「ムアルラカート」(懸けられた者)と称したという伝説がある。この古代アラビアの最高詩人は普通七人を数え、ナービガはその一人で中央アジア詩人群に属す。六十篇と断片計九〇〇行ほど伝わっているが、真偽は確かでない由。――なお回教では、詩人たちは霊感を悪霊から受けるものとされ尊ばれていないらしい。
(7) Al-Find ――「山の牧神」の意。本名は Sahl ibn Sayba-n 六世紀の人で、生年その他不詳で、個人かどうかも確かでない。ユーフラテス右岸下流地帯の人。ズィムマーンはバクル大部族の中の有力二部族の一つサイパーンの支部族。タグリブ族へ対する勝利を歌った三つの断片が伝えられる。
(8) Mourakisch (Muraqqis) ――六世紀ヒラー(クーファ付近)にこの名の詩人伯父と甥二名あり、共に悲歌詩人でいずれを指すか不明。
(9) La kacidah (qasi-da) ――古くからあるこの名称は時代によって形式、主題に変遷があり、後には単に「詩篇」の意に用いられたようだが、六世紀頃には、即興詩ではなく技術的に推敲された比較的長詩を指し、いわば芸術家の専門詩人の作品で、多く抒情的主題であったらしい。
(10) ★Imrou Oul-Ka不 (Imruユl-Qays) ――イエメンのキンダ族の最後の王フジル Hojjr (Hujr) の子で、ムアルラカート七人(註(6)参照)中随一の詩人と言われる。六世紀半に死す。七十篇近くの作品と八十ほどの断片、全体で約千行近い作がその名で伝わる。格調高く、青春讃美の詩人として知られる。
(11) Ziad (Ziya-d) ――イラクの副王、六七五年死。
(12) Y士始ites ――アラビア半島の諸部族を二大別して、「南のアラビア人」をヤマン(イェメン)族といい「北のアラビア人」Adna-nites(Mudarites その他の名称もある)と対立させる。
(13) Tihama ――メッカ (Mekkah) の別名。
(14) Samhar 紅海西海岸地方の古名。
(15) Omar ibn Al-Khattab (ヤUmar ibnuユl-Khattab) 六四四年没。正統派第二代後継者。イスラム帝国の基礎を築いた名君。
(16) オマルは六三六年ヤムルーク河畔でヘラクリウス朝の建設者を破り、シリア征服を完成した。
(17) Jezdejerd (Yazdegerd) ――ペルシアのサーサーン朝の最後の王ヤズデゲルド三世、六三三年来アラブ人の侵入を受け、六三七年敗北した。
(18) アブー・ターリブの子、ムハンマードの娘ファーティマと結婚した正統派第四代の教王《カリフ》を指すのであろう。
(19) マリアの子イエス。
(20) ダヴィデの子ソロモン。
(21) アブラハムの子ヤコブ。
(22) Ansarien ―― Ansa-r は援助者の意。ムハンマードとその一団を援助したメディナの教友をいう。
(23) Usnea ――地衣類植物で、昔治療によく用いられ、特に縊死者の頭蓋に生じたものは、非常に珍重された。
(24) Al-Walid ――第六代、在位七〇五―七一五年。
(25) Cantil熟e ――これはおそらくhid苛 といわれるcantil熟es chameli俊es のことで、隊商《キヤラヴアン》の駱駝曳きが動物の上で、または後から徒歩で行きながら、即吟したごく古い歌謡に発する様式と思われる。
(26) シリアのこと。
(27) Ma叡ad ――前の小話に出るアル・ワリード二世の寵を得た知名の作曲家で歌手。
(28) 〔 〕の間、八冊本に欠く。十六冊本によって補う。
(29) le karkafa et le khandaris ――水晶とガラス。多数に集めて主に天井からつるす釣燭台に用いる。
(30) ウマイヤ朝第五代、中興の名君といわれ、教養と詩才も第一流であった(六四七―七〇五年)。
(31) 〔 〕の箇所、八冊本に欠く。
(32) Abu Hanifah ――イスラム四大法学派中のハニーファ派を創始したイラクの人(六九九―七六七年)。ここにいわれる大法官アブー・ユースフ(七三一―七九八年)はその高弟。
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ジャアファルとバルマク家の最期
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(1) ペロンの『アラビア女性』、『モホディ長老の小話』等に収録されている由。バートン、ペインの補巻に、「アル・ラシードとバルマク家」と題し、ブレスラウ版にある三ページほどの小話の最後に、アッバーサの事件がちょっと言及されている。
(2) Hescham (Hisha-m) ――第十代、治世は七二四―七四三年。
(3) Hatim-Ta・/T-FONT> ――六世紀から七世紀にかけてのアラビアの詩人。歓待と寛闊をもって聞こえ、『ハーティム・ターイー物語』を生んだ。イスラム以前のアラブ社会の理想的伝説的人物。
(4) 自由思想派ムウタズィラ派と正統派(スンニー)とが争い、第七代|教王《カリフ》マアムーン(八一三―八三三年)はこれを国教として正統派を迫害した。
(5) Ibn-Khillik穎 ――有名な『伝記辞典』の作者(一二一一―一二八二年)。
(6) Ibn al-Athir ――三人兄弟がかく呼ばれるが、年代記と辞書等の編者として聞える次男(一一六〇―一二三四年)を指すのであろう。
(7) 〔 〕の中、八冊本に欠け、ここから九百九十八夜となる。
(8) Abbas ben El-Ahnaf (Al-ヤAbba-s ibn al-ヤAhnaf) ――八世紀後半のバスラの代表的抒情詩人。
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素馨王子と巴旦杏姫の優しい物語
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(1) ガルサン・ド・タスィ著『寓話、詩物語及び民謡』一八七六年刊(本電子文庫版九巻『金剛王子の華麗な物語』註(1)参照)所収「ヒールとランジハン」Hir et Ranjhan.
(2) Aflatoun ――プラトンのこと。
(3) Faridoun ――イランの初期の王の一人という伝説的人物。
(4) アレキサンダー大王。
(5) ムハンマードと同時代のサーサーン朝のホスロー一世の通称。
(6) Akbar ――「偉大」の意。
(7) Le sumbul ――「麦の穂」の意で、乙女座の一等星スピカを指すのか。
(8) Majnoun et Leila (Majn柤 et Layl・ ロミオとジュリエットというごとく、八世紀頃に創作されたアラビアの典型的な相思相愛の架空人物。マジヌーンは詩人の名で、「妖霊に憑かれた人」「恋の狂人」の意。従妹ライラーと相愛の仲であったが、金持の男と結婚の余儀なく、詩人は絶望のあまり発狂した。二世紀に亘り多くの詩歌と物語の題材となった。
(9) Suleika ――「創世記」の中で有名な「エジプトのヨセフ」の説話が『コーラン』第十二章「ユースフ」に語られている。ヤアクーブ(ヤコブ)の子、美男のユースフ(ヨセフ)を恋し、誘惑して斥けられるエジプト財務官ポテパルの妻を、回教徒はこの名で呼ぶ。バートンによると、ロミオとジュリエットというごとき恋人同士の組合せの東洋での最初のものは、「ユースフとズライカ」であり、その最後は、右の「ライラとマジヌーン」という。
(10) ramel (ramal) ――アラビア音楽の四つの基本的リズムの一つで、最も主要なリズムという。イスラム以前の詩歌は歌謡曲として音楽と密接な関係を持って発達したが、このリズムは抒情作品に多く用いられたらしい。
(11) ghazal ――四行以上十五行以下の短詩で、八世紀に恋愛詩としてメッカとメディナに行なわれ、ウマイヤ朝時代に栄え、ペルシアで最も愛好されたという。
(12) Hazara ――ヘルマンドとタルナクの谷の山国地方の部族というが不詳。
(13) 昔の距離の単位で、約五二五〇メートル。
(14) 三日月が出て夜が仄明るくなりはじめた頃の意であろうか。
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大団円
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(1) アレクサンダー大王のこと。
(2) 『ハサン・アル・バスリの冒険』にほぼ同じ詩(本電子文庫版六巻)があるが、多少の異文がある。
(3) この二篇についても同上(同)。
(4) 同じく『ハサン・アル・バスリの冒険』に異文をもって初出(同)。
(5) 同じくかなりの異文を持った詩の前半(同)。
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レ
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八九年一月、ちくま文庫に収録された。