千一夜物語 9
佐藤正彰 訳
目 次
アリ・ババと四十人の盗賊の物語
バクダード橋上でアル・ラシードの出会った人たち
白い牝馬の主人の若者の物語
インドとシナの曲を奏する人々を従えた馬上の若者の物語
気前のよい掌の老人の物語
口の裂けた片輪の学校教師の物語
橋上で頬を殴ってもらう盲人の物語
スレイカ姫の物語
のどかな青春の団欒《まどい》
頑固な頭の少年と小さな足の妹
足飾り
王女と牡山羊の物語
王子と大亀の物語
エジプト豆売りの娘
解除人《ときびと》
警察隊長《ムカツダム》
誰が一番寛大か
去勢された床屋
ファイルーズとその妻
生まれと性根
魔法の書の物語
金剛王子の華麗な物語
滑稽頓知の達人の奇行と戦術から
訳註
[#改ページ]
千一夜物語 9
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
[#改ページ]
アリ・ババと四十人の盗賊の物語
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、今をさる遥か昔の歳月と遠い過去の日々のこと、ペルシアの町々のなかのひとつの町に、ひとりはカシム、今ひとりはアリ・ババという名の、ふたりの兄弟がおりました。――その御前《みまえ》にては、ありとあらゆる姓も名も異名も消え失せ、もろもろの魂をばその裸形のうちに、良心をばその奥底のうちに見そなわす御方《おんかた》、至高者、運命の御主《おんあるじ》こそ、讃《たた》えられよかし。アーミーン。
しかして次。
カシムとアリ・ババの父は庶民階級のごく貧しい男でございましたが、その父親が主《しゆ》の御慈悲のうちに往生を遂げますと、ふたりの兄弟は、遺産として手に入ったわずかのものを、まったく公平に折半して分け合いました。けれども兄弟はほどなく、彼らの分け前の全部であった乏しい飼料を食い尽し、たちまちにして、パンもチーズもなくなり、彼らの鼻と顔とはたいそう長くなってしまいました。若い年頃に愚かであって、賢人の忠告を忘れるというと、このようなことになるのでございます。
けれどもやがて兄のカシムは、自分が栄養不良のために皮膚のなかで溶けつつあるのを見ると、何か金《かね》になる口を探しにかかりました。そして元来抜け目なくたいへんずるい男だったので、ほどなく、ひとりの周旋女と知合いになりました、――悪魔は遠ざけられよかし。――その女は、彼の乗り手としての能力と、飛びかかる雄鶏《おんどり》としての元気と、交合者としての力量を試験した末に、彼をば、よい住家とよいパンと申し分ない筋骨を持った、ひとりの若い女と結婚させました。この女はまったく尤物《ゆうぶつ》でございました。「報酬者」は祝福されよかし。こうして彼は、妻持つ悦びのほかに、商人の市場《スーク》の中心に、りっぱな飾りつけの一軒の店を持ったのでした。それというのは、生れ落ちるとともに、その額に記《しる》された運命が、かようなものであったからです。兄のほうはこうした次第でございます。
さて二番目のアリ・ババについてはいかにと申しますと、こちらは生れつき、野心がなく、控え目な好みを持ち、多くを求めず、空っぽの眼を持っていなかったので、木を切る人夫になって、貧困と勤労の生活を送りはじめました。しかし彼は苦しい経験の教えのおかげで、万難を排して、せっせと倹約して暮すことができたので、やがていくらかの金子を貯えるようになり、それをば賢明に、初めは一頭、次に二頭、次に三頭と、驢馬《ろば》を買い求めることに使いました。そして毎日その三頭の驢馬をひいて森に行きはじめ、以前は自分が背負わなければならなかった薪や柴の束を、驢馬に積むようにしました。
さて、こうして三頭の驢馬の持主となると、アリ・ババは同業者の、いずれも貧しい樵夫《きこり》の人たちの間に、非常な信用を博して、とうとうそのうちの一人は、彼に自分の娘をもらってくれれば光栄だと申し出ました。そしてアリ・ババの三頭の驢馬が、法官《カーデイ》と証人の前で、その若い娘の全結納金、全寡婦資産として契約書に記入されました。娘のほうは貧乏人の娘でしたので、夫の家に、なんの支度も、それに類したものも、何ひとつ持ってきませんでした。けれども貧富はひとときしか続かず、ひとり賞《ほ》められたもうアッラーのみ、永遠の「生者」にまします。
そしてアリ・ババは祝福のおかげをもって、樵夫《きこり》の娘のその妻から、自分たちの「創造主」を祝福する、月のような子供たちを得ました。そして家族一同とともに、慎ましく正直に、自分の薪や柴を町で売る収入で暮し、自分の「創造主」に、この単純な静かな幸福より以上のものを、何ひとつ願いませんでした。
ところで、日々のうちの或る日のこと、ちょうどアリ・ババは、まだ斧のはいったことのない森の茂みで、一心に木を伐《き》り倒していて、三頭の驢馬はいつもの積荷を載せられるまで、その近所で草を食い放屁《おなら》をしながら、ぶらぶらしていたとき、運命の訪れが森のなかでアリ・ババのために、聞えてきたのでございました。しかしアリ・ババは、自分の運命は永年来相も変らぬものと思っていて、そんなことは少しも知りませんでした。
それは最初は、遥か遠方の鈍い物音でしたが、すみやかに近づいてきて、やがて地上にはっきりと聞きとれるようになり、何かたくさんの、しだいに大きくなってくる馬の疾駆するような音でした。アリ・ババは穏やかな人柄で、冒険やごたごたを嫌ったので、こんな淋しい所に、たった一人で、連れといえば三頭の驢馬きりいないのを見て、たいそうこわい気がいたしました。そして彼の用心深さは、彼にすぐさま、小さな丘の頂上に突っ立って森じゅうを見下ろしている、一本の大きな太い木のてっぺんに、よじ登るように勧めました。こうして枝の間に場所を占め、身を隠して、いったい何ごとであるか、とくと見定めることができました。
ところで、これはうまくやったわけでした。
というのは、彼はそこに上りついたとたんに、ものすごい武装をした騎馬の人々の一群が、ちょうど彼のいる方角に、馬を疾駆させて進んでくるのが見えたのです。彼らの黒い顔つき、新しい銅貨のような目、肉を食らう烏の両の翼のように、まん中ですさまじく二つに分れた鬚を見ると、彼らはもっともおぞましい種類の盗賊の山賊、追剥ぎであることを、彼は疑いませんでした。
その点、アリ・ババはまちがっていませんでした。
そこで彼らは、アリ・ババが人からは見えず自分は見ながら、木に登っていたその岩だらけの丘のすぐそばまで来ると、頭《かしら》の大男の合図で、地におり、それぞれ自分の馬の馬勒《ばろく》をはずし、鞍のうしろの臀《しり》の上に乗せておいた大麦の詰まった秣袋《まぐさぶくろ》を、それぞれの馬の首にかけてやり、頭絡《おもがい》で付近の木々に繋ぎました。それがすむと、雑嚢をはずして、それを自分たちの肩にかつぎました。それらの雑嚢はたいそう重たかったので、山賊たちは重さに身を曲げて、歩いて行きました。
そして一同はきちんと列を作って、アリ・ババの下を進んでゆきましたので、アリ・ババはたやすく数えることができ、彼らはみんなで四十人きっかり、それより一人も、多くも少なくもないことがわかりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは、朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十二夜になると[#「けれども第八百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうして彼らは荷物を背負いながら、その丘の裾にある大きな岩の下に着きますと、きちんと整列して止まりました。すると行列の先頭にいた頭《かしら》は、自分の重い雑嚢をしばし地上におろし、岩に面と向って精いっぱい反身《そりみ》になって、響き渡る声で、人か物か、誰の眼にも見えない何かに向って、呼ばわりました。
「開け、胡麻《ごま》(1)。」
するとすぐに、その岩は広々と開《あ》きました。
すると山賊の頭《かしら》はちょっと身を避けて、まず部下の者どもに自分の前を通らせました。そして全部がなかにはいり終ると、ふたたび自分の雑嚢を肩にかついで、最後にはいってゆきました。
次に、否応ない命令の音声で、呼ばわりました。
「閉じよ、胡麻。」
すると岩は、魔法の呪文の力で、まるで山賊の魔術によって分たれたことなどなかったかのように、ぴたりと合わさって、閉まってしまいました。
これを見ると、アリ・ババは魂の中ではなはだしく驚いて、ひとりごとを言いました、「やつらの魔術の知識によって、おれの隠れ場所を見つけ出し、おれの縦をおれの横のなかに押し入れてしまわれなければよいが。」そして茂みのなかでのんびりと跳ねまわりつづけている驢馬のことが、いかにも心配でならなかったのですが、ちょっとでも身動きしないようによくよく気をつけました。
四十人の盗賊のほうは、彼らが洞穴のなかに消えてゆくのをアリ・ババが見てから、だいぶ長いこと出てきませんでしたけれど、やがて何か遠雷に似た地下の響きによって、ふたたび出てくる気配を見せました。そして岩はとうとうふたたび開いて、頭《かしら》を先頭に、めいめい空《から》の雑嚢を手にさげて、四十人を吐き出しました。それから各自自分の馬のところに戻り、ふたたび馬勒《ばろく》を着け、雑嚢を鞍にしっかりと結びつけてから、馬の背に乗りました。そのとき頭は洞穴の口のほうを向いて、声高く呪文を唱えました、「閉じよ、胡麻。」すると両方に分れた岩はふたたび合わさり、割れた跡形もなく、ぴったりとくっつきました。そして一同は、瀝青《チヤン》の顔つきと豚の鬚をしながら、さっき来た道を戻ってゆきました。彼らのほうはこういう次第でございます。
さて、アリ・ババのほうはと申しますと、アッラーの賜物《たまもの》のなかで彼に分け与えられた用心深さは、自分の驢馬のところに駈けつけたい気持でいっぱいだったにかかわらず、なおしばらく彼を隠れ場所にじっとひそませておきました。それというのは、彼はひとりごとを言ったのです、「あの恐ろしい盗賊の山賊たちは、ひょっとすると、洞穴に何か忘れものをして、ふいに引っ返してきて、おれをこの場に見咎めないともかぎらない。そうなれば、やあ、アリ・ババよ、お前みたいなけちなやっこが、あんな偉い殿様方の道の上にわが身を置けば、どんな目にあうか、思い知ることになろうぞ。」そこで、こう思案して、アリ・ババは恐ろしい騎馬の連中がすっかり見えなくなるまで、じっとしてただ見送るだけにしました。そして彼らが姿を消してから長いことたち、森じゅうがまたもとの安心できる静けさに返ってから、彼はやっといよいよ木からおりる決心をしましたが、それも用心に用心を重ね、高い枝から低い枝に移るにつれ、右と左をよく振りむきながらのことでした。
地上におりると、アリ・ババはごくそっと、爪先で歩き、息を殺しながら、件《くだん》の岩のほうに進み寄りました。その前に、何しろ自分の驢馬は自分の全財産であり、子供たちの飯種であったから、まずそれを見に行って、安心したいと思ったのですが、さっき木の上から見聞きしたすべてに対して、いまだかつて覚えたことのない好奇心が、心中に点《とも》されたのでした。それに、彼の運命が、彼をどうにもならずこの冒険のほうに、駆り立てたのでございます。
さて、その岩の前に着いて、アリ・ババはそれを上から下までよく調べてみましたが、岩は滑らかで、針の先の忍び込めるほどの窪《くぼ》みもありません。そこでひとりごとを言いました、「だがしかし、あの四十人がはいったのは確かにこの内《なか》だし、おれはまさに自分のこの眼で、彼らが内に姿を消すのを見たのだが。やあアッラー、なんとも合点のゆかぬ妙なことだわい。この洞穴に、いったいやつらは何をしにはいったのやらわからんぞ。ここはおれなんかその最初のひと言も知らぬ、あらゆる種類の呪《まじな》いで護られているのだ。」それからさらに考えて、「アッラーにかけて、しかしおれは開ける呪文と閉める呪文は、はっきり覚えているぞ。はて、ちょっとやってみようかな。ただ、あの文句がおれの口からでも、あのものすごい大男の山賊の口からでも、同じ利《き》き目があるものかどうか見るためだけのことだ。」
そして、昔からの小心もすっかり打ち忘れ、かつは自分の運命の声に駆り立てられて、樵夫《きこり》のアリ・ババは岩のほうに向って、言いました。
「開け、胡麻。」
するとこの魔法の言葉は、おっかなびっくり心もとない声で言われたにもかかわらず、岩はすぐに分れて、広々と開きました。そこでアリ・ババは無性にこわくなって、こうしたすべてに背中を向けて、脚を風にまかせて逃げ出したいと思いましたが、しかし彼の運命の力が、その入口の前に彼をじっと立ち尽させ、彼にどうしてもなかを見るようにと強《し》いました。すると、そのなかには、暗闇と恐怖の洞穴が見えるかわりに、彼の前には、ひと筋の広い廊下が開いていて、それが坦々と、自然の石をじかに穹窿形《きゆうりゆうがた》にくりぬいた広い部屋に向っていて、上のほうにしつらえた角形のいくつもの明り窓から、たっぷりと光を受けているのを見たときには、もう驚きの極みに達しました。それで彼も一歩一歩踏み込み、打ち見たところ何も特別恐ろしいところもないこの場所に、分け入る決心をしたのでした。そこで彼は御加護の文句、「寛仁にして慈悲深きアッラーの御名《みな》において、」を唱えますと、それですっかり元気がつき、あまりびくびくものでなく、円天井の広間まで進みました。そこに着いたと思うと、二つに分れた岩は音もなくふたたび合わさって、すっかり入口を塞いでしまうのが見えました。それはともかくも、彼を不安にせずにはおきませんでした、何しろ確固不動の勇気を持ち続けることは、彼の得手ではないのでしたから。しかしながら彼は、もう魔法の呪文のおかげで、今後はどんな扉でも、ひとりでに自分の前に開かせることができるだろう、と考えたのでした。そこで安心して、自分の眼の前に拡げられているところを、心置きなく眺めることにしました。
すると、四方の壁に沿ってずっと円天井のところまで、累々《るいるい》と積み重なって、豪奢な商品のうずたかい山また山や、絹と錦の梱《こり》や、糧食の袋や、それから、口もとまでぎっしり貨幣の詰まった大箱や、銀塊のいっぱいはいった大箱、ディナール金貨と金塊を互いちがいに詰めた大箱などが、見えました。そしてさながらこれらの箱や袋全部には、寄せ集めた財宝がはいりきらないかのように、地面にも、黄金や宝石や金銀細工の山が一面に散乱していて、足を踏み入れれば何か宝玉にぶつかるとか、ぴかぴかしたディナール貨幣を積み上げた山につまずかずにすまないというありさまでした。アリ・ババは、生れてから黄金のほんとうの色を見たことがなく、またその匂いさえも知っていなかったので、こうしたすべてに、驚嘆の限り驚嘆いたしました。そして、あちらにひと塊りこちらにひと塊りと、そこに積み上げられているこれらの宝物と、そのちょっとしたものでも王様の御殿をりっぱに飾りそうな、これらの数知れぬ豪勢な品々を見て、きっとこの洞窟は、バビロンの掠奪者たちの子孫たる、幾代も幾代もの盗賊の子の盗賊たちの、贓品の置場とともに、隠し場となってから、もう幾年どころか、幾百年にもなったにちがいないと、考えたのでございました。
アリ・ババはいくらか驚嘆からわれに返ると、ひとりごとを言いました、「アッラーにかけて、やあ、アリ・ババよ、いよいよお前の運命は白い顔になってきて、お前をお前の驢馬と薪束のそばから、スライマーン王や双角のイスカンダール大王(2)ぐらいしか御覧になったことのない、黄金の風呂のただ中に運んでくれたぞ。そしてついにお前は魔法の呪文を知り、その霊験を用いて、岩の扉とお伽話のような洞窟を開かせるのだ、おお祝福された樵夫《きこり》よ。お前をこうして、幾代もの盗賊や山賊の罪悪が寄せ集めた財宝の主人としてくださるとは、まったく『報酬者』の大きな御恵《みめぐ》みだ。こういうことになったのは、まさに、窃盗掠奪の黄金を善用して、お前が今後家族とともに貧窮を避けることができるようにとのためなのだ。」
こう分別して、自分の良心を安んじさせると、貧乏人のアリ・ババは、食糧袋の一つのほうに屈《かが》んで、その中身をあけ、銀とかそのほかの高価な品々には目をくれず、ディナール金貨やそのほかの金貨だけを、その袋に詰めこみました。そしてその袋を肩に載せて、廊下のはずれまで運びました。それから円天井の広間に戻って、同じようにして第二の袋を、次に第三の袋を、その他多くの袋を、自分の三頭の驢馬が、へたばらずに運べると思った程度に、満たしました。それがすむと、彼は洞窟の入口のほうに向って、言いました、「開け、胡麻。」すると即座に、岩の戸口の双の扉はさっと広々と開いたので、アリ・ババは走り出て自分の驢馬を集めて、入口近くに連れてきました。そして例の袋を積み、用心深くその上に木の枝をあしらって、巧みに隠しました。その仕事をすっかりしあげてから、閉める呪文を唱えると、開いた岩はすぐにふたたび合わさりました。
そこでアリ・ババは黄金を積んだ驢馬を、敬意あふれる声で励ましながら、自分の前に進ませました。平常驢馬が足をひきずって歩くときは、呪いの言葉や声高い罵詈《ばり》を浴びせるのですが、今日は少しもそんな言葉を浴びせかけません。それというのは、アリ・ババもやはりすべての驢馬をひく人たちと変りなく、「おお、陰茎《ゼブ》教徒め」とか、「貴様の妹のあれ」とか「尻抜《けつぬ》かれ者の倅」とか、「周旋婆の売り立てめ」というような呼び方を、獣《けもの》に食らわせてはいたものの、彼は自分の獣をわが子同様にかわいがっていたから、それはけっして獣を怒らせるためではなく、単に聞き分けさせるためのことでした。けれども今回は、何しろ驢馬どもは、帝王《スルターン》のお手箱にあるよりもたくさんの黄金を載せているのであってみれば、とてもそんな形容の言葉を加えることは不当をまぬがれないと、感じたのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十三夜になると[#「けれども第八百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それで彼はさして驢馬どもを責め立てないで、いっしょに町への道を戻りました。
さて、わが家の前に着くと、アリ・ババは戸が内側から木の大きな掛金で閉ざされているのを見て、ひとりごとを言いました、「はて、ひとつこの戸に、呪文の利き目をためしてみるかな。」そして言いました、「開け、胡麻。」するとすぐに戸は、掛金から離れてぱっと開きました。そこでアリ・ババは格別自分の帰ったことを知らさずに、驢馬といっしょにわが家の小さな中庭にはいりました。そして、戸のほうを向いて、言いました、「閉じよ、胡麻。」戸はひとりでに回って、音もなくまた掛金がかかりました。こうしてアリ・ババは、今後自分は或る神秘な威力を授けられた、類《たぐい》ない秘密の所有者となった、しかもそれを得るには、むしろ四十人の男の恐ろしい面相とその頭《かしら》のものすごい形相のために覚えた、ほんのわずかのあいだの怖い思いのほかには、ほとんどさしたる苦しみもなく手に入ったのだ、ということが納得されました。
アリ・ババの妻は中庭に驢馬がいて、アリ・ババが盛んにその荷物をおろしているのを見ると、驚いて手の平を打ち合せながら駈けつけてきて、叫びました、「おお旦那よ、まああんたったら、どうやって戸を開けたのです、私が自分で掛金をかけておいたのに。私たち一同の上にアッラーの御名《みな》がありますように。いったいあんたは、祝福された今日の日に、そんな重そうな大袋に、何を詰めて持ってきたのですか、家《うち》にはそんな袋はついぞ見かけなかったがね。」するとアリ・ババは、最初の問いには答えずに、言いました、「この袋はアッラーからの授り物だよ、なあ女房。まあ、とにかく、戸とか掛金とか訊ねておれを悩まさずに、ここに来て、袋を家に入れる手伝いをしなさい。」そこでアリ・ババの妻は、聞きたいのを我慢して、主人が袋を肩にのせて、次々に家のなかに運びこむ手伝いをしました。そしてそのつど袋に触ってみると、どうも中には貨幣がはいっている感じがするので、きっとその貨幣は古い銅貨か、何かそれに似たものだろうと思いました。そしてその発見は、まるで不十分で、はるかに真相以下のものではありましたけれども、彼女の心をたいそう不安に投げ入れました。それでしまいには、これを夫はきっと盗賊かそれに類した人たちとぐるになったにちがいないと、思い込んでしまいました。そうでもなければ、どうしてこんなにたくさんの、ずっしりと重い貨幣の袋があるわけがありましょうか。ですから、全部の袋を家のなかに運びおえると、彼女はもうこらえきれず、急に爆発して、われとわが頬を両手で打ちはじめ、自分の着物を引き裂きはじめて、叫び出しました、「おお、私たちの災いだ。おお、家《うち》の子供たちの助かるすべのない破滅だ。おお、絞首台だ。」
妻の叫びと嘆きを聞くと、アリ・ババは腹立ちの極に達して、妻をどなりつけました、「お前の眼のなかに、絞首台あれかし、おお呪われた女め。なんだってそんなにめちゃくちゃにがなり立てやがるのだ。なぜおれたちの頭上に、泥棒の受ける罰を招き寄せたいのだ。」妻は言いました、「不幸がこのお金袋といっしょに、家のなかにはいってこようとしているのです、おお伯父の息子よ。お前さんの上の私の命にかけて、いそいでこの袋をみんなもとの驢馬の背中に戻して、どこか遠くに運んで行っておくれ。それというのは、これらが私たちの家にあるうちは、私の心は落ち着かないから。」彼は答えました、「物のわからない女どもを、アッラーは懲《こ》らしめてくださるように。おお伯父の娘よ、わかった、お前はおれがこれらの袋を盗んだものと想像しているのだな。さあ、では間違いから覚めて、お前の眼を爽やかにするがいい。なぜって、これらは『報酬者』から授かったもので、『報酬者』は今日おれに森のなかで、おれの運命に出会わせてくださったのだ。その出会いがどんなふうに起ったかこれから聞かせてやろうが、まずその前に、これらの袋をあけて、中身をお前に見せてやってからのことにしよう。」
そしてアリ・ババは、袋の片端をつかんで、次々に蓆《むしろ》の上にあけました。すると、金貨の塊りが続々と、樵夫《きこり》の粗末な部屋のなかに、何千ときらめきを放ちながら、音を立てて崩れ落ちました。このありさまに茫然としている妻を見て、アリ・ババは大得意で、黄金の山の上に腰をおろし、両脚をからだの下に引き寄せて、さて言いました、「では聞け、女房よ。」そして自分の冒険談を、一部始終、細大もらさず話して聞かせました。けれどもそれを繰り返しても、詮なきことでございます。
アリ・ババの妻はその冒険談を聞きますと、自分の心のなかで、恐れは非常な悦びに入れかわるのを覚えて、晴ればれとして朗らかになり、申しました、「おお乳の日よ、おお白さの日よ。その四十人の追剥ぎ山賊の不正に得た富を、私どもの住居にはいらせ、こうして不正当なものを正当にならしめたもうたアッラーに、讃《たた》えあれ。アッラーこそ『寛仁者』で、『報酬者』にまします。」
そして即刻即座に立ち上がって、その黄金の山の前に、踵《かかと》の上に坐って、数知れぬディナール金貨を一枚一枚数えようとしはじめました。けれどもアリ・ババは笑い出して、これに言いました、「何をするのか、おお憐れな女よ。これを全部数えようなんて、思いもよるまいが。むしろ立ち上がって、おれが家の台所に穴を掘って、できるだけ早くこの黄金全部を隠し、そうやって影も形も見えなくしてしまうのを、手伝いに来なさい。さもないと、近所の人たちと警察の役人どもの貪欲を、おれたちの上に招きよせる恐れが多分にあるからな。」けれどもアリ・ババの妻は、万事きちんとすることが好きだったので、今日の祝福された日に転がりこんできた富の分量を、ぜひ一応はっきり見当をつけておきたいと思って、答えました。「そりゃいかにも、この金貨をいつまでも、ぐずぐず数えちゃいられませんが、しかし、せめてこの目方を量るとか、枡《ます》で計るとかしないで、そのまま隠すわけにはゆきません。そういうわけだから、どうぞお願いです、おお伯父の息子よ、ちょっと近所へ行って、木の枡を探してくる暇をおくんなさい。お前さんが穴を掘っている間に、私は枡で計りましょう。そうやっておけば、私たちはちゃんと承知の上で、子供たちのために、必要な分と余分の分を使うことができるわけだから。」
アリ・ババは、どうもそんな用心は少なくとも余分なことに思えたとは申せ、自分たち皆にとってこんなに悦び溢れた際に、しいて妻の気に逆らうのもどうかと思って、言いました、「よろしい。だが早く行って、帰ってこい。わけても、おれたちの秘密を口外したり、またそれについてちょっとでも洩らしたりしないように、よく気をつけろよ。」
そこでアリ・ババの妻は、問題の枡を探しに外に出ましたが、いちばん手っ取りばやいのは、そこから遠からぬところに家のある、アリ・ババの兄カシムの妻に、借りにゆくがよかろうと、こう考えました。それでカシムの妻の家にはいりました。金持で、うぬぼれに満ちている女、アリ・ババ夫婦は財産もなければよい縁故もないので、自分のところの食事なんかには、ついぞ貧乏なアリ・ババもその妻も呼んでくれたことなどない女、お祭や誕生日などのときも、アリ・ババの子供たちに菓子ひと切れ届けたことなく、またごく貧しい人々でも、ごく貧しい人々の子供たちに、エジプト豆のひとつかみぐらい買ってやるものですが、それすら買ってやったことのないような女です。そして礼儀の挨拶《サラーム》のあと、アリ・ババの妻はこれに、ちょっとのあいだ木の枡を一つ拝借したいと頼みました。
カシムの妻はこの枡という言葉を聞くと、たいへんびっくりしました。それというのは、アリ・ババ夫婦は非常に貧乏なことを知っているので、枡などという道具をいったい何に使う気なのか、わかりかねたのです。これは普通大量の穀物の貯えを持った人たちしか用いないもので、他の人々は毎日の、また毎週の穀物を、そのつど穀類商人から買うだけで満足しているのです。ですから、これがほかの場合だったら、この女はきっとなんとかかんとか口実を設けて、一切ことわったにちがいないところでしたが、今度ばかりは、納得をゆかせるこの機会をのがすには、あまりに好奇心が燃えるのを覚えたのでした。そこでこの女は言いました、「どうぞアッラーはあなたがたの頭上に御恵《みめぐ》みを増したまいますように。けれどその枡は、おおアフマードのお母さんよ、大きいのをお望みか、それとも小さいのですかね。」アリ・ババの妻は答えました、「どっちかと言えば、小さいのが結構です、おおわがご主人様。」そこでカシムの妻は、くだんの枡を取りにゆきました。
さて、この女が周旋の売買の産物であったということは、はたしてそれだけのことがありました、――願わくは、アッラーはこの種の代物《しろもの》には恩寵をお拒みになり、あらゆるあばずれ女を懲《こ》らしめたまいますように。――それというのは、この貧乏な親戚の女が、どんな種類の穀物を計るつもりか、ぜがひでも知りたいと思って、この女は、売女の娘どもがいつも指の間に持ち合せているようないんちきを、思いついたのでございます。はたしてこの女は、走って脂《あぶら》を取りにゆき、それを巧みに枡の底に、ちょうどこの道具が置かれる外側の下に、塗りつけました。次に、親戚の女のもとに、待たせたことを詫びながら戻って、これに枡を渡しました。アリ・ババの妻は恐縮してお礼を述べ、いそぎわが家に戻りました。
そして彼女はまずその枡を、うずたかい黄金の山のまん中に置きました。それから、枡を満たしては少し離れたところにあけはじめ、一方、壁の上に、炭の切れ端でもって、枡をからにした回数だけ黒い線を引いてゆきました。こうしてちょうど自分の仕事をし終ったところに、アリ・ババもまた台所に穴を掘りあげて、戻ってきました。妻は悦び勇んで、壁の上に炭で書いた線を夫に見せて、全部の黄金を隠す手配は夫にまかせ、自分は大急ぎで枡を、待ちかねているカシムの妻に返しにゆきました。そして、かわいそうに彼女は、一枚のディナール金貨が、裏切りの脂のおかげで、枡の下にくっついていたことを、少しも知りませんでした。
そこで彼女はその枡を、周旋女の売り物だった金持の親戚に渡して、厚くお礼を述べて言いました、「私はあなたに対しては几帳面《きちようめん》に、すぐお返ししたいと思いました、おおわが御主人様、また今度というとき、あなたの御親切が私に対して挫けることがないようにと存じまして。」そして彼女は自分の道に立ち去りました。アリ・ババの妻のほうは、こういう次第でございます。
さて、あばずれカシムの妻のほうでは、この親戚の女が背中を向けるのを待ちかねて、木の枡をひっくり返して、その底を見ました。そして、何か蚕豆《そらまめ》とか大麦とか燕麦《からすむぎ》とかの粒のかわりに、脂《あぶら》に貼りついた一枚の金貨を見たときには、もうたまげきってしまいました。そしてその顔の肌はサフラン色になり、その眼の色は真黒々の瀝青色《チヤンいろ》になりました。またその心は、妬みと焼けるような羨やみで、いっぱいになりました。そして叫び出しました、「あいつらの住家なんぞぶっつぶれてしまえ。いったいいつからあの碌でなしどもは、こんなふうに、秤《はかり》で計ったり、枡で計ったりするほど、黄金を持っているのかしらん。」そしてなんとも言えないほどいまいましかったので、この女は夫が店から帰ってくるまで待ちきれず、下女に大急ぎで夫を呼びにやりました。そして、カシムが息を切らして家の敷居を越えるやいなや、まるで亭主がどこかの若い少年を押しつぶしている現場を押えたみたいに、えらい権幕でどなりつけて迎えました。
次に、夫がこの暴風雨《あらし》のなかで方角がわかる暇も与えず、女は夫の鼻の下に、例のディナール金貨を突きつけて、どなり立てました、「ほら見なさい。いいかね、これはあの碌でなしどものほんのお余りですよ。まったく、お前さんは自分が金持のつもりで、弟は分け前としてわずか驢馬が三匹あるきりなのに、自分には店もお客もあるなんて、毎日悦に入っているのにねえ。眼を覚ましなさいよ、ねえ、親方《シヤイクー》。なぜって、アリ・ババは、あの粗朶《そだ》作り、空《す》きっ腹男、吹けば飛ぶ男は、自分の金貨をお前さんみたいに勘定するだけじゃおさまらないで、枡で計るんですよ。アッラーにかけて、あいつは穀物屋が穀物を計るみたいに、金貨を枡で計るんだよ。」
そして言葉と叫びとわめきの暴風のなかで、彼女は一件を詳しく教え、どういう計《はかりごと》を用いて、このアリ・ババの富の呆然とするような発見をしたかを説明しました。そして付け加えました、「何もこれだけのことじゃないんだよ、ねえ、親方《シヤイクー》。さあ今度はお前さんが、あの碌でなしの弟の、身代の源《もと》を突きとめてきなさい。うわべは貧乏づらをしていて、実は金貨をいく枡とかいく抱えとかで扱っている、呪われた猫被り野郎だよ、あいつは。」
この妻の言葉を聞くと、カシムは弟の身代が事実なことを疑いませんでした。そして自分の父と母の息子が、今後はあらゆる窮乏からまぬがれたことを知って、大いに悦び、弟の幸福を祝うどころか、彼はいまいましい妬《ねた》みを抱き……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十四夜になると[#「けれども第八百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼はいまいましい妬《ねた》みを抱き、胆嚢《たんのう》が口惜しさに破裂するのを覚えました。そこで即刻即座に立ち上がって、自分自身の眼で、見るべきものを見ようと、弟の家に駆けつけました。
アリ・ババはちょうど黄金を隠し終えて、まだ手に鶴嘴《つるはし》を持っているところでした。彼は弟に挨拶《サラーム》もせず、その姓も名も呼ばず、弟扱いさえもしないで、――というのは、彼は周旋女の金持の産物を妻にしてからというもの、この近親関係を忘れてしまっていたのでした、――いきなりこれに近づいて言いました、「ふん、こんなふうにして、おお驢馬の親父《おやじ》よ、お前はおれたちに向って頬かぶりをして、何食わぬ顔をしているんだな。いいさ、まあせいぜい、人前じゃ貧乏難儀なような面《つら》をして、乞食ぶりつづけ、虱《しらみ》や南京虫だらけのてめえの家じゃ、穀物屋が穀物を計るみたいに、枡で金貨を計っているがいいさ。」
この言葉を聞くと、アリ・ババは狼狽《ろうばい》と困惑の極に達しました。それはけっして彼が吝嗇《りんしよく》だとか利己主義だとかいうためではなく、兄と兄の妻との性の悪さと欲ばりの眼を、大へん恐れたからでした。彼は答えました、「御身の上なるアッラーにかけて、兄さんは何をあてこすっていらっしゃるのか、どうもよくわかりかねます。いっそ、早く説明してくだされば、私は兄さんに対してけっして隠し立てをしたり、悪い気持を持ったりはいたしますまい、兄さんは幾年も幾年も前から、血のつながりをお忘れになり、私の顔と私の子供たちの顔から、あなたの顔をそむけていらっしゃるとはいえ。」
すると横柄なカシムは言いました、「そんなことはみんなどうでもいいことだ、アリ・ババよ。ただ、おれに対して知らんふりだけはよしてもらいたいのだ。お前がおれに隠しておくが肝心と思っているものがあるのを、おれはちゃんと知っているぞ。」そしてまだ脂《あぶら》のついているディナール金貨を出して見せて、弟をじろりとにらみながら言いました、「こいつと同じディナール金貨を、いったい何杯お前は物置にしまってあるんだい、おい、ぺてん師。して、そんなにたくさんの金貨を、いったいどこから盗んできやがったのだ、おおわが家の恥さらしめ。」それから、手短かに、自分の妻がどうやって、貸した枡の底に脂を塗ったか、どんな工合にこの金貨がそこにこびりついていたかを、話して聞かせました。
アリ・ババはこの兄の言葉を聞くと、もう失敗はできてしまって取り返しがつかないことが、わかりました。そこで、もうこれ以上長々と問いたださせるまでもなく、また発覚したことに、ほんの少しの驚きとか悲しみとかの色も兄に見せることなく、申しました、「アッラーは寛仁にまします、おお兄さん。アッラーはその賜物をば、それを望む前にすら、われわれに授けたまいます。その讃《たた》えられんことを。」そして彼は森のなかでの冒険を、委細兄に話しました、もっとも魔法の呪文だけは洩らしませんでしたが。そして付け加えました、「私たちは、おお兄さん、同じ父と同じ母の子です。ですから、私のものはすべて兄さんのもので、私は、もし兄さんが収めてくださいますならば、洞窟から持ち帰った黄金の半分を、兄さんにさしあげたいと存じます」
ところが悪人のカシムは、腹黒さに劣らず貪欲だったので、答えました、「いかにも、それはそうしてもらおう。だがおれはやっぱり、もしおれがそうしたくなった場合、どうやったら自分がその岩のなかにはいれるのかも、知りたい。いいか、それについてはおれをだまそうなんてするなよ。さもないと、おれはこの足でお上《かみ》に訴えに行って、お前は盗人の仲間だと申し出てやるぞ。そうすりゃ、この手にかかっちゃ、お前は身を滅ぼすよりほかあるめえ。」
すると、善良なアリ・ババは、訴え出られた場合の、自分の妻子の身の上を思い、また野蛮な魂を持った兄のおどかしを恐れるよりも、いっそう人の好い性分に駆り立てられて、とうとう兄に魔法の呪文の文句を、扉を開く分も閉じる分も、教えてやりました。するとカシムは、弟にお礼のひとことさえ言わずに、自分ひとりで洞窟の宝物をせしめにゆこうと決心して、ぷいと出て行ってしまいました。
そこで、翌日は、夜明け前から、彼は第一回の遠征の獲物を満載するつもりで、大きな箱を背負わせた騾馬《らば》十頭を自分の前に追い立てながら、森のほうに出発しました。それに、ひとたび洞窟に積まれている貯蔵品と財宝を十分見極めたあかつきには、もっとたくさんの騾馬を連れて、また必要とあらば、駱駝《らくだ》の輸送隊一隊を引き連れてでも、再度の旅をするつもりでいました。そしてアリ・ババが親切にも、自分が案内してもいいとまで申し出たのですが、カシムと、周旋の結果の女であるその妻との、疑いぶかい二対《につい》の眼によって、すげなく退けられることとなり、ただひとりで、万端アリ・ババの指図に従って、進んで行ったのでございました。
するとまもなく、例の岩の裾に着きますと、それは近所のすべての岩の間で、まったく滑らかな様子と、その頂には一本の大木がそびえていることとで、見分けがつきました。そこで彼は両腕を岩のほうにあげて、言いました、「開け、胡麻。」すると岩は突然まん中から二つに割れました。カシムは前もって騾馬を木に結びつけておいて、洞窟のなかにはいり、閉じる呪文のおかげで、すぐに入口はうしろにふたたび閉まりました。ところで、彼はそこで自分を待っているものを、知らなかったのでございます。
最初、これほどたくさんの積み重ねられている財宝や、いくつもの山に積んだ黄金や、累々《るいるい》とした宝玉を見たときには、すっかり目がくらんでしまいました。そして、このお伽話のような宝の主《あるじ》になりたい望みは、ますます募《つの》ってまいりました。このすべてを運び出すには、駱駝の一隊なんかではとても足りず、シナの境からイランの国境まで旅している全部の駱駝を、寄せ集めなければなるまいということが、よくわかりました。そこで、今回は連れてきた十頭の騾馬の持てるだけの袋に、金貨を詰めるにとどめておいて、この次はほんとうの分捕りの大遠征隊を組織するに必要な手段を講ずることにしようと、考えました。そして袋に金貨を詰め終えると、閉ざしている岩に通ずる廊下のほうに戻って、叫びました。
「開け、大麦。」
というのは、眼のくらんだカシムは、この宝の発見でまったく心を奪われてしまって、言うべき言葉をすっかり忘れてしまったのです。こういうことになって、彼は助かるすべなく破滅したのでございます。彼は幾度も幾度も言いました、「開け、大麦。開け、大麦。」けれども岩は閉じたままです。そこで彼は言いました。
「開け、燕麦《からすむぎ》。」
だが、岩はびくとも動きません。
そこで言いました。
「開け、蚕豆《そらまめ》。」
けれども、ひと筋の裂け目も現われません。
そこでカシムは辛抱しきれなくなって、ひと息に、叫びました。
「開け、裸麦。――開け、粟。――開け、豌豆《えんどう》。――開け、玉蜀黍《とうもろこし》。――開け、蕎麦《そば》。――開け、麦。――開け、米。――開け、やはず豌豆。」
けれども、花崗岩の扉は閉じたままです。そこでカシムは、自分が呪文を忘れたために閉じこめられてしまったことに気がついて、恐怖の極に達し、泰然として動かぬ岩の前で、かつて「種|蒔《ま》く者」の御手が世界の初めに、野の面《おもて》に投げたもうた穀物とさまざまの穀類の変種の名前を全部、並べ立てはじめました。けれども、花崗岩はびくともしません。それというのは、アリ・ババの似つかわしからぬ兄は、あらゆる穀類のうち、ただひとつの穀物、ちょうど魔法の霊験の結びついている、あの神秘な胡麻だけを、忘れていたからです。
ところでこのようにして、遅かれ早かれ、また往々にして遅くなってよりもむしろ早いうちに、天運は、果てしなき「権力者」の御命令によって、悪人どもの記憶を盲《めくら》にし、彼らからあらゆる光明を取り上げ、彼らから視力と聴力を奪うのでございます。なんとなれば、「預言者」は、――その上に祝福と平安《サラーム》のうちもっともえり抜きのものとあれかし。――悪人どもについて申されました、「アッラーは彼らよりその光明の贈物を撤回し、彼らをば暗黒のうちに摸索せしめたもうべし。しかるとき、眼しい、耳しい、唖となり、彼らはもはや引き返すことあたわざるべし」と。またほかの所でも、「使徒」は、――何とぞアッラーはこの御方に最上のご恩寵を垂れたまわんことを。――彼らについて申されました、「永久に、彼らの心と耳とはアッラーの御印璽をもって封ぜられ、彼らの眼《まなこ》は眼隠しもて蔽われたり。彼らのために、慄《おそ》るべき刑罰は充《あ》てられてあり。」
それゆえ、悪人カシムは、こんな不幸な事件は全然思いがけなかったのですが、自分がもう霊験のある呪文を握っていないのに気がつくと、それをふたたび見つけようとして、脳漿《のうしよう》をあらゆる方向に揺《ゆす》ぶりはじめましたが、少しもかいがありません。それというのは、もう永久に、彼の記憶はその魔法の名を忘れてしまったからでした。そこで、恐ろしさと忿怒に襲われて、彼はその場に金貨を満たした袋を置き、どこか出口はないかと、洞窟じゅうを四方八方駆けずりまわりはじめました。けれどもどこへ行っても、手のつけられぬほどのっぺりした、花崗岩の内壁ばかりにしか出会いません。それで、まるで猛獣か、なんかさかりのついた駱駝みたいに、彼は唾《つばき》と血の泡を吹いて、絶望にわが指をかみました。けれどもけっしてこれで彼の罰は全部ではございませんでした。なぜなら、彼にはまだ死ぬことが残っていたからです。それもまたほどなく来ることになっておりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十五夜になると[#「けれども第八百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
はたして、正午の時刻になると、例の四十人の盗賊が、日々の仕来りに従って、自分たちの洞窟のほうに戻ってまいりました。そしてにわかに、大きな箱を積んだ十頭の騾馬が、木に結びつけられているのを見たのでした。そこですぐに、頭《かしら》の合図の下に、猛々《たけだけ》しく剣を抜き放って、洞窟の入口に向って全速力で駒を飛ばしました。そして地におり立ち、岩の回り一帯をめぐって、その騾馬の持主とおぼしい人間を探しはじめました。しかも捜査も空《むな》しかったので、頭《かしら》は決心して洞窟にはいることにしました。そこで頭《かしら》は、呪文を唱えながら、見えざる扉のほうに剣を挙げると、岩は半分に分れて、それぞれ反対の向きにすべりました。
ところで、閉じこめられていたカシムは、馬の足音と盗賊山賊たちの驚きと怒りの叫喚を聞くと、助かるすべのない身の破滅を疑いませんでした。さりながら、わが魂は彼にとって大切であったので、彼は魂を全《まつと》うすることを試みてみようと思いました。そこで、片隅に身をひそめて、最初の瞬間に外に飛び出そうと、身構えました。ですから、「胡麻」という言葉が発せられ、彼が自分の物覚えの悪いことを呪いながら、その言葉を聞き、そして入口が開くのを見るやいなや、彼は頭を下げて、牡羊のように、外に突進しましたが、あまり勢い激しく、また見境いなく飛び出したので、ちょうど四十人の頭《かしら》その人にぶつかって、相手は地上にどっとばかり転がってしまいました。けれども、転がりながらも、その恐ろしい大男は、カシムをいっしょにひきずり倒して、一方の手を口中に、今一方の手を腹に突っこみました。と、同じ瞬間に、ほかの山賊たちが、助けに駆けつけて、攻撃者侵害者の身体《からだ》の、つかみうるものはなんでもつかんで、彼らの剣でもって、つかまえたものはなんでも、手当り次第に斬ってしまいました。こうして、またたくひまもなく、カシムは脚と腕と頭と胴体とに分けられ、自分の魂と相談する前に、魂を吐き出してしまいました。それというのも、これが彼の運命だったからです。彼のほうは、こうした次第でございます。
盗賊はと申しますと、彼らはそれぞれ剣をぬぐってすぐ、自分たちの洞窟のなかにはいると、カシムの仕立てた袋が、出口のそばに並んでいるのを見つけました。そこでとりあえず、それぞれ袋に詰めこんだ場所に袋の中身をあけましたが、アリ・ババが持ち出した不足の分には、気がつきませんでした。次に、一同車座に坐って評定《ひようじよう》を開き、今の事件について長いあいだ協議しました。しかし、何せアリ・ババにのぞかれたことを知らなかったので、いったいどうしてここに人が潜りこむことができたのか突きとめることができず、「なんとなれば」を持たない「何ゆえ」について、それ以上長いあいだ思案をめぐらすのを嫌いました。そして、持参の自分たちの新たな獲物をそこにおろし、しばらく休んでから、洞窟を出て、ふたたび馬にまたがって、街道を擁《よう》して隊商《キヤラヴアン》を掠奪しに行くほうを、好んだのでございます。それというのは、これらは活動的な人間で、長々しい議論や談義などは好きでない人たちでした。けれどもやがてその時機になると、ふたたび彼らが現われることになるでございましょう。
さて、こうしたすべてのその後はいかにと申しますと、次のようでございます。まず、カシムの妻です。ああ、この呪われた女、これこそ自分の夫の死の原因でした、もっともこの男も、こういう最期《さいご》を遂げるだけのことはあったのでしたが。実に、あのくっつく脂《あぶら》を考え出したこの女こそ、最後の惨殺の出発点だったわけです。そこで、この女は夫がまもなく帰ってくるにちがいないと疑わず、夫をもてなすために、特別な食事の用意をしておきました。ところが、夜になっても、カシムの影も、カシムの臭いもしないのを見ると、極度に心配になってきました。それは夫を無性に愛していたためではなくて、夫は自分の暮しと貪欲にぜひ必要だったからです。そこで、心配がぎりぎりの極みに達すると、彼女はアリ・ババに会いに行く決心をしました。それまでは一度だって、彼の家の敷居をまたぐことなど承知あそばしたことはなかったくせに。まったく娼婦の娘です。彼女は顛倒した顔をしてはいって来て、アリ・ババに言いました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おお、わが夫の選ばれた弟よ。兄弟は兄弟に尽さねばならず、友達は友達に尽さなければなりません。さて、私はあなたの兄さんの身の上について、安心させていただきたくてまいりました。あの人は御承知のように、森に出かけましたが、もう夜もふけたのに、まだ帰ってまいりません。御身の上なるアッラーにかけて、おお祝福のお顔よ、どうぞ急いで、あの森であの人の身に何が起ったのか、見に行ってくださいまし。」
すると、アリ・ババはわけても憐れみ深い魂を授けられていたので、カシムの妻の心配をともにして、これに言いました、「どうかアッラーは、姉さんの夫の頭から、不幸を遠ざけてくださいますように。ああ、もしもカシムが私の兄弟としての忠告を聴いてくれたなら、きっと私を案内人としていっしょに連れて行ってくれたでしょうに。けれども、兄さんの遅いことを、あんまり心配しすぎなさるな。というのは、きっと兄さんは、通行人の注意を惹《ひ》くまいとして、ずっと夜がふけてからでなければ町に帰らないほうが、工合がよいと考えたのかもしれませんからね。」
ところで、これはまあほんとうらしい点もありました。もっとも実は、カシムはもはやカシムではなくて、二本の腕と、二本の脚と、一個の胴と、一個の頭という、六片《むきれ》のカシムになって、盗賊どもによって、何ぴとであろうと大胆にもこの禁制の敷居をまたいだ者をば、それを見てふるえ上がり、その臭気に閉口させるため、岩の戸口のうしろに、ちょうど廊下の内側に並べておかれていたのでありました。
そこでアリ・ババはまあできるだけ、兄と妻を安心させ、真暗な夜中に探したところで、何にもなるまいと、言い聞かせました。そして、どこまでも真心こめて、自分たちといっしょに夜を過すように誘いました。そしてアリ・ババの妻は兄嫁を自分自身の寝床に寝かし、一方アリ・ババは、夜が明けたらすぐに、森に出かけるからと、保証しました。
事実、曙光が射し初めると早くも、善人のアリ・ババはすでに、自宅の中庭に、三頭の驢馬のそばにおりました。そして自分の妻(3)に、姉さんを大切にして、何ひとつ不自由させないようにと、注意したうえで、驢馬といっしょに猶予せずに出発しました。
さて、岩に近づきますと、アリ・ババは、カシムの騾馬の姿が見えないので、これは何か重大なことが起ったにちがいない、森のなかで何にも出会わなかっただけいっそう心配だと、認めないわけにゆきませんでした。そして彼の不安は、岩の裾の地面が、血に塗れているのを見ては、増さざるをえません。ですから、戸を開く魔法の言葉を言って、洞窟のなかにはいったのは、けっして非常な胸さわぎを覚えずにではありませんでした。
そしてカシムの六片《むきれ》の光景は、彼の眼をおびえさせ、彼の膝をがたがたさせました。今にも気絶して地上に倒れそうになりました。けれども、兄に対して抱いていた気持は、彼を自分の動顛に打ち勝たせ、兄になんとかして最後の弔いをしてやろうと、できるかぎりのことをするのをためらいませんでした。要するに兄も回教徒《ムスリム》であり、同じ父と母の息子でしたから。そしていそいで、洞窟のなかから、二つの大きな袋を取り出して、そのなかに兄の六片を、一つの袋には胴、もう一つには頭と四肢を入れました。それからそれを、切った木と枝で丁寧にくるみ、驢馬の一頭に積みました。次に、せっかく来たのだから、やっぱりこの機会を利用して、幾袋かの金貨を持ってゆき、荷鞍をからっぽのまま、驢馬を引っ返させないほうがいいと考えました。そこで、他の二頭に金貨を満たした袋を積み、最初のときと同じように、その上に木と木の葉を載せました。そして岩の扉に、ふたたび閉じるように命じてから、心中で兄の非業《ひごう》の死を悼《いた》みながら、ふたたび町への道につきました。
さて、いよいよ自宅の中庭に着くとすぐ、アリ・ババは驢馬の荷をおろすのを手伝わせようと、女奴隷のマルジャーナ(4)を呼びました。ところで、マルジャーナというのは、アリ・ババとその妻が幼いときに引き取って、まるで自分たちがその子のほんとうの両親であるのと同じ注意と心づくしをもって、育ててやった若い娘でした。その子は家庭で養母の手助けをし、十人前の仕事をしながら、この家で大きくなりました。そのうえ、この娘は感じがよく、やさしく、器用で、利口で、この上なくむつかしい問題を解き、この上なく困難なことを首尾よく成功させる工夫に富んでいるのでした。
そこで、娘は家から出てくるとすぐに、養父が帰宅するごとにいつもそうするように、まずその手に接吻し、歓迎の言葉を述べました。するとアリ・ババは言いました、「おお、マルジャーナ、私の娘よ、今日こそはひとつお前の利発と忠勤と思慮の程を、私に見せてもらうときだ。」そしてこれに兄の横死を話して聞かせて、つけ加えました、「さて今、兄さんは六片《むきれ》になって、あの三番目の驢馬の上にいるのだ。そこで、私はこれから家に上がって、お気の毒な後家さんに悲しい知らせを伝えにゆくから、その間にお前は、誰ひとり真相を感づくことができずに、兄さんをまるで自然の往生を遂げたみたいに埋葬する方法を、ぜひ工夫しておいてもらいたい。」すると娘は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」それでアリ・ババは、この娘にその場の対策を考えさせておいて、自分はカシムの後家のいる部屋に上がってゆきました。
ところが、彼がはいってくるのを見ると、すでにその顔つきだけで、カシムの妻は、もうめちゃくちゃに泣きわめきだした始末でございました。そして今にもわれとわが頬をすりむき、髪の毛をむしり、着物を引き裂きそうにしました。けれどもアリ・ババはごく加減して事件を話したので、うまく泣き叫ぶのを防ぐことができました。そんな叫び声をあげたら、近所の人たちを寄せ集め、界隈《かいわい》一帯を騒がせたことでしょう。そして彼女が泣きわめいたらよいか、或いは泣きわめいてはいけないか、分別する暇も与えずに、彼はつけ加えました、「アッラーは寛仁にましまして、私に必要以上にたくさんの富をくださいました。だから、あなたの身に及んだこのどうにもならない不幸に際して、もし何ごとかまだあなたを慰めることのできることがあるとすれば、私は、アッラーの送りたもうた私の財産と、あなたの持っている財産とを一つに合わせ、あなたをば今後二番目の妻として、わが家に入れてもよいと、申し出ましょう。こうしてあなたは、私の子供たちの母親には、優しく、よく気のつく妹を見つけるでしょう。そして私たちはいっしょに、故人の徳を語りながら、みんなで安らかに暮すようになるでしょう。」こう話して、アリ・ババは返事を待って、口をつぐみました。このときアッラーは、元の周旋女の売り物の心をお照らしになり、その点をお除きくださいました。それというのは、アッラーは全能者にましますからでございます。そこでこの女も、アリ・ババの親切さとその申し出の寛大さをさとり、第二の妻になることを承知いたしました。この女は実際、この祝福された男との結婚の結果、正しい女となりました。この女については、このような次第でございます。
さて、アリ・ババのほうは、こういう方法で、うまく、鋭い叫び声と秘密の漏洩《ろうえい》を防いで、新しい妻を古い妻の手の間に残して、自分は若いマルジャーナにふたたび会いにおりてゆきました。
ところで、この娘はちょうど戸外《おもて》に使いに行って帰ってきたところでした。それというのは、マルジャーナは無駄に時間を費すことなどせずに、早くも、この難関に際して、一切の対策を立ててしまったのです。事実彼女は、向いに住んでいる薬屋の店にゆき、生命《いのち》にかかわる重病の治療に用いる、一種の特別な阿片剤《テリアカ》を注文しました。商人は、娘のさし出した金子《おかね》に対して、その阿片剤《テリアカ》をくれましたが、あらかじめ、お前の主人の家で誰か病気なのかと、訊ねないわけではありませんでした。それに対して、マルジャーナは、溜息を吐きながら答えました。「おおわが家の災いです。赤い病気(5)が家《うち》の御主人アリ・ババの兄様に取りついて、もっとよく看病してあげられるようにと、私どもの家に運ばれてきなすったのです。けれどその方の御病気は、誰にも皆目わかりませんの。サフラン色の顔をして、身動きひとつなさいません。口もきかなければ、眼も見えず、耳も聞えません。どうかこの阿片剤《テリアカ》が、おお長老様《シヤイクー》、あの方を悪い御容態から救い出してくれますように。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは、朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十六夜になると[#「けれども第八百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こう言って、娘は、実はもうカシムの用いる由もない件《くだん》の阿片剤《テリアカ》を持って帰って、主人のアリ・ババにふたたび会いに行ったのでございます。そして手短かに、自分のしようと思っていることを主人に知らせました。すると主人はその案をほめて、お前の工夫に富むのにはほとほと感じ入ったと、娘に申しました。
事実、翌日になると、まめやかなマルジャーナは同じ薬屋のところに行って、顔を涙にぬらし、たくさんの溜息を吐き、幾度も溜息を止《と》めながら、普通はもう見込みのない危篤の病人にしか与えない、ある種の練薬《ねりぐすり》を注文しました。そして、「私たちの上になんという悲しみでしょう。もしこの薬が利かなかったら、万事休すです、」と言いながら、立ち去りました。そしてそれと同時に、界隈《かいわい》の人たち全部に、アリ・ババの兄カシムの、いわゆる絶望の容態をふれまわる手配をいたしました。
ですから、その翌日の明け方、界隈の人たちは、けたたましい嘆きの叫び声に、不意に眼を覚めさせられたとき、みんなはこの叫び声が、カシムの妻や、カシムの弟の妻や、若いマルジャーナや、近親の全部の女たちによって、カシムの死を知らせるために、挙げられたのだということを、少しも疑いませんでした。
さて、この間にも、マルジャーナは自分の案を実行しつづけておりました。
事実、彼女はひとりごとを言ったのでした、「私の娘よ、急死を自然の死と言いふらすだけでは、事は終りませんよ。もっと大きな危険を防ぐことが問題です。それは、亡くなった人が六片《むきれ》になっているのを、人々に気づかせないようにすること。さもなければ、冷水壜は罅《ひび》なしではいないというものですよ。」
そこで、時を移さず、自分のことを知らない界隈の年とった靴直しのところに駆けつけ、平安《サラーム》を祈りながら、その手にディナール金貨を一枚握らせて、言いました、「おお長老《シヤイクー》ムスタファ様、わたしたちは今日、お手を拝借したいのですが。」すると、年とった靴直しは、元気と陽気溢れる爺さんでしたが、答えました、「おお、お前さんの白い(6)お出でに祝福された日じゃ、おお、月の顔《かんばせ》よ、言ってくだされ、おおわが御主人よ、さすればわしは、わが頭上と眼の上に、お答え申そう。」マルジャーナは言いました、「おお、私のムスタファ小父《おじ》様、黙って立ち上がって私といっしょに来てくださいな。けれどその前に、およろしかったら、皮を縫うのに必要なものを全部、持ってくださいまし。」そして靴直しが言われたとおりにすると、彼女は眼隠しを取り出して、いきなり老人の両の眼を隠してしまって、言いました、「これが必要条件なの。こうしないことには、何もできません。」けれども、靴直しは文句を唱えて、言いました、「おお若い娘よ、お前は一ディナールでもって、わしに先祖代々の信仰を棄てさせようとするのか。それとも何か窃盗とか、大それた罪でも働かせようというのかい。」けれども彼女は言いました、「悪魔《シヤイターン》は遠ざけられよかし、おお長老《シヤイクー》様、どうぞ良心を安らかにしてくださいまし。こうしたことすべては少しも恐れることはございません。なに、ただほんのちょっとした針仕事ですから。」こう言って、その手に二枚目の金貨を滑り込ませると、それで靴直しは、あとからついてゆく決心をしました。
そこでマルジャーナは、その手をとって、両眼を眼隠ししたまま、これをアリ・ババの家の穴倉に連れてゆきました。そこで彼女はその眼隠しを取り去り、前もって六片《むきれ》をそれぞれの場所に置いて元のようにしておいた死人のからだを見せながら、言いました、「今はおわかりでしょうが、わざわざあなたの手をひいてお連れ申したのは、ここにあるこの六片を、いっしょに縫い合せていただきたいためなのです。」すると、老人《シヤイクー》は仰天して尻込みしたので、心利いたマルジャーナは、また新たに金貨一枚をその手に滑り込ませて、もし仕事を手早く片づけてくれたら、さらにもう一枚さし上げると約束いたしました。それで靴直しは決心して仕事にとりかかりました。いよいよ縫い終えると、マルジャーナはまたその両の眼に眼隠しをして、約束の報酬を与えたうえで、穴倉から連れ出して、その店の戸口まで送り返し、そこで眼隠しをはずして、自分は立ち去りました。そして、ときどきうしろを振り返って、靴直しが自分を監視していないかを見ながら、いそいで家に帰りました。
そして家に着くとすぐに、元どおりにしたカシムのからだを洗って、香をくゆらし、芳香剤を振り注ぎ、アリ・ババの手を借りて、経《きよう》帷子《かたびら》を着せました。それがすむと、注文した柩台《ひつぎだい》を届けてきた人々に、何も気どられないですむようにと、自分自身でその柩台を受け取りに出て、たっぷりと金子《きんす》与えました。それから、やはりアリ・ババの手を借りて、屍体を木の棺に納め、この際買い求めた柩掛けと布切れで、全部を蔽いました。
こうしているうちに、導師《イマーム》をはじめ、その他の寺院《マスジツト》の格式高い人々が到着しました。そして集まった隣人のうち四人が、柩台を肩にかつぎました。まず導師《イマーム》が行列の先頭に立ち、聖典《コーラン》の読誦者たちがあとにつきました。そしてマルジャーナは、柩をかつぐ人たちのあとから、涙に暮れて、悲しみの悲鳴をあげつつ、わが胸を激しく打ちつつ、髪を引きむしりつつ、進んでゆき、一方、アリ・ババは一行のしんがりになって、そのあとに近所の人々が従い、その人たちは順々に、ときどき列を離れては、柩をかつぐ人々と交代して休ませるようにし、こうして墓地に着くまで進み、その間、アリ・ババの家では、葬儀のために駆けつけた女のひとたちは、みんないっしょに悼《いた》み悲しんで、界隈《かいわい》一帯に、恐ろしい悲鳴を溢れさせました。このようにして、この死の真相は、念入りに、少しも他に洩れないようにされ、誰もこの悲しい出来事について、いささかの疑念も持つことができませんでした。この人たちすべてについては、このようでございました。
さて四十人の盗賊のほうは、洞窟に棄てておいたカシムの六片《むきれ》が朽ち果てるまでというので、ひと月のあいだ彼らの巣窟に帰ることを差し控えておりましたが、いざ洞窟に帰ってみると、もはやカシムのばらばらの屍体も、カシムが朽ち果てていることも、そのほかなんなりと、近くも遠くもそれに類したことは全然見当らないのには、驚きの極みに達しました。そして今度こそは、一同真剣に情勢をよく考えてみて、さて四十人の頭《かしら》は言いました、「おい野郎ども、おれたちは見つかったぞ、もう疑う余地はない。おれたちの秘密も覚られた。おれたちが早急に手を打たずにいようものなら、おれたちや御先祖さまが、あんなに骨折り苦労して積み上げた財宝はそっくり、前におれたちがこらしめてやったあの盗人《ぬすつと》の相棒の野郎に、やがて掻《か》っ払われてしまうぞ。だから、ぐずぐずしちゃいられねえ。一方のやつを殺《ばら》したからには、すぐに、もう一方のやつも殺《ばら》してしまわなけりゃならん。さて、そうなると、目的に達する道はただひとつで、つまり、誰か胆がすわっていると同時に気の利いた野郎が、外国の修道僧《ダルウイーシユ》に身をやつして町にもぐりこみ、精いっぱい腕をふるって、おれたちが六つに切った男の噂が出たことがないかどうかを調べ、あの男がどこの家に住んでいたかを突きとめるのだ。だが、こういうすべての詮索は、用心の上にも用心を重ねてせにゃならん。というのは、ひと言でも余計なことを言えば、事をそこなって、おれたちを助かるすべなく破滅させかねないからだ。だから、この仕事を引き受ける者は、その役目を果たすに当って、もし軽はずみなまねをしたら、死刑を食らっていいと約束しなければならんものと、おれは考える。」するとすぐに盗賊の一人が叫びました、「そいつはおれにさせてくれ。おれはその条件を承知だ。」すると頭《かしら》と仲間はその男に慶《よろこ》びを述べて、ほめちぎりました。そこで、その男は修道僧《ダルウイーシユ》に身をやつして出発しました。
さて、その男は町にはいりこみましたが、まだ朝の時刻のこととて、どこの家も店も全部閉まっていました。だが靴直しの老人《シヤイクー》ムスタファの店だけ開いていました。そしてムスタファ老は、大針を手に持って、早くもサフラン色の皮草履《パープジ》を作っている最中でした。老人は眼をあげて見ると、修道僧《ダルウイーシユ》が感心しながら自分の仕事ぶりを眺めていて、いそいで平安《サラーム》を祈るのを見ました。そこでムスタファ老も挨拶《サラーム》を返しますと、修道僧《ダルウイーシユ》は、老人がそんな年齢《とし》で、実にいい眼を持ち、実に器用な指先をしているのを驚嘆しました。老人はすっかり悦に入って、反身《そりみ》になって答えました、「アッラーにかけて、おお修道僧《ダルウイーシユ》さんや、わしは今でもいっぺんで針に糸を通すことができるし、穴倉の奥の、暗いところで、六片《むきれ》になった死人を縫い合せることだってできまするわ。」盗賊の修道僧《ダルウイーシユ》はこの言葉を聞いて、嬉しさに飛び立ちそうになって、自分を望みの目的にいちばん近道で導いてくれた自分の運命を、祝福しました。ですから、この機会をのがさず、びっくりしたふりをして、叫びました、「おお祝福の顔よ、六片になった死人だって? それはいったいなんのことですかね。ひょっとしたらこの国では、死人を六片に切って、次にそれを縫い合せるというような、習慣でもあるのですかい。中に何かあるか見ようと思って、そんなふうにやるのかな。」ムスタファ老は、この言葉に笑い出して、答えました、「いや、いや、アッラーにかけて、それは何もここの国の習慣じゃない。だがわしはね、わしだけ知っていて、誰もけっして知ることのないとわしにわかっていることを、知っていますのじゃ。それにはいろいろのわけがあって、どのわけもいずれ劣らず重大というものさ。それに、けさはわしの舌は短くて、わしの記憶《おぼえ》の動くがままに動きませんわい。」すると盗賊の修道僧《ダルウイーシユ》は、靴直しの老人《シヤイクー》がこうした御託《ごたく》を並べるその様子もおかしかったが、またこの爺さんの機嫌を取るためもあって、自分も笑い出しました。次に、老人の手を握るようなふうをして、手の中に一枚の金貨を滑り込ませて、つけ加えました。「おお雄弁な人々の息子さん、おお小父さんよ、何とぞアッラーは、私が自分に関係のないことにかかりあおうなどという気を起こすことを、させないでくださいますように。さりながら、何しろ私はいろいろと聞き知ることの好きな外国人の身として、ひとつあなたにしたいお願いがあるとすれば、それは、そのあなたが綴《つづ》り合せた死人の六片があったという穴倉のある家は、いったいどこにあるのか、お情けで教えていただきたい、ということでございます。」すると年とった靴直しは答えました、「だがどうしてわしにそんなことができようかい、おお修道僧《ダルウイーシユ》のお首長《かしら》よ。何しろ、このわし自身が知らないのだからね、その家を。実際こうなのじゃ。わしは両方の眼を眼隠しされて、まるで魔法使いみたいな若い娘に連れられて、そこに行ったのさ。その娘はまあ無類のすばしっこさで、どんどん事を運んだもんじゃ。だがね、わが息子よ、もしまたもう一度わしの両方の眼に眼隠しをしてくれれば、わしはあのとき歩きながら、途中の物をひとつひとつ手で探りながら行って、だいたい見当をつけといたから、そいつを頼りにたどってゆけば、まあたいがいその家が見つかると思うがね。それというのも、なあ物識りの修道僧《ダルウイーシユ》さんや、お前さんも御承知にちがいないが、人間というものは自分の眼とまったく同様に、指でもって物が見えるもんだ、わけても、鰐の背中みたいに固い皮を持っていない人間にはね。わしのことを言えば、わしが御足《おみあし》の履物を作ってさしあげているお顧客《とくい》がたのなかには、毎週の金曜日に、わしの頭を剃ってからに、皮に無残な切疵《きりきず》をつけやがる床屋の畜生なんかよりは、一本一本の指先に持っていなさる眼のおかげで、ずっとよく眼の見えるお盲目《めくら》がたくさんいなさるよ、――あんな床屋なんざあアッラーの罰を受けるがいいや。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十七夜になると[#「けれども第八百五十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると盗賊の修道僧《ダルウイーシユ》は叫びました、「あなたに乳をあげた胸は祝福されよかし。そしてあなたがまだまだ末長く、針に糸を通して、尊い御足《おみあし》の履物を作って差しあげることができまするように、おお吉兆の長老《シヤイクー》よ。いかにも私は、あなたのおっしゃるとおりにさせていただいて、その穴倉でそんな不思議なことが起ったという家を、ひとつ見つけていただければ、それに越したことはありません。」するとムスタファ老は立ち上がる決心をしたので、修道僧《ダルウイーシユ》はこれに眼隠しをして、手をひいて通りに出、そのそばについて、或るときは案内し、或るときは手探りしてゆく老人に導かれて、進んでゆき、とうとうちょうどアリ・ババの家まで来ました。するとムスタファ老は言いました、「確かにここで、ほかのところじゃない。この家から洩れる驢馬の糞の臭いと、わしがあの節けつまずいたこの杭《くい》で、あの家とわかりますわい。」そこで盗賊は悦びの極みに達し、いそいで、靴直しの眼隠しを取る前に、まず携えてきた白墨で、家の戸口に印《しるし》をつけました。次に連れてきた老人に眼が見えるようにしてやってから、さらに一枚の金貨をとらせて、厚く礼を述べ、これから一生かならず皮草履《パーブジ》はお宅で買うと約束したうえで、老人を帰しました。そして自分は、四十人の頭《かしら》に自分の発見を知らせようと、ふたたび森への道を急ぎました。けれどもこの男は、やがてわかるように、自分の首が肩から飛ぶのを見るために、直行しているのだということは、知りませんでした。
事実、行き届いたマルジャーナは、外に買物に出かけたとき、市場《スーク》から帰ると、戸口に、その盗賊の修道僧《ダルウイーシユ》がつけておいた白い印を見つけました。そこで注意してよくよくそれを調べて、注意深い魂のなかで、考えました、「この印は何もひとりでにこの戸の上についたわけはないわ。これをつけた手は、仇をなす手よりほかにありようがない。では、この襲いかかるのをはぐらかして、その呪いを祓《はら》わなくてはいけない。」そして走って白墨を取りに行って、その通りの家という家、右も左も全部の家の戸口に、そっくり同じ場所に、同じ印をつけました。そしてひとつひとつ印をつけるたびに、最初の印をつけた犯人に向って、心中で唱えました、「わが五本の指を汝の左の眼に、またわが他の五本の指を汝の右の眼に」と。それというのは、この娘は、眼に見えない力を祓い、呪いを避け、遂げられた或いは差し迫った災いをば、呪いをかけた者の頭上に落ちかかるようにするには、これ以上利き目のあるお呪いの文句はないことを、知っていたからでございます。
ですから、翌日、仲間の知らせを得た盗賊どもは、記号のついた家を襲おうと、二人ずつ皆で町中にもぐりこんだとき、その界隈の家全部に、そっくり同じ印《しるし》がついているのを見ては、まったく途方に暮れて困りきってしまいました。そこで、頭《かしら》の合図に従って、通行人の注意をひかないようにと、いそいで森の洞窟に引き上げました。そしてふたたび一同が集まると、彼らは一同が円くなって集るそのまん中に、することに大へん抜かりがあった案内人の盗賊を引っ立ててきて、ただちにこれを死刑に処することにし、頭《かしら》の与えた合図とともに、その首を刎ねました。
ところで、こうしたすべての事件の最初の張本人に復讐するということは、今までよりもいっそう緊急事になったので、今度は二番目の盗賊が、様子を探りにゆこうと申し出ました。その志願が頭《かしら》に許可されて、その男は町にまぎれ入り、ムスタファ老と渡りをつけて、縫い合せた六片《むきれ》の家とおぼしき家の前に案内させ、戸口のあまり眼につかない場所に、赤い印《しるし》をつけました。それから、洞窟に戻りました。ところがこの男も、宿命によって飛ぶように定められた首は、飛ぶそのことしかできず、ほかのことはできないのを、知らなかったのでございます。
事実、盗賊たちが仲間に案内されてアリ・ババの通りに着いたときには、あらゆる戸口に、そっくり同じ場所に、赤い記号がついているのを認めました。それというのは、心利いたマルジャーナは、何かあると感づいて、前と同じように、抜かりがなかったからです。そして洞窟に戻ると、その案内人は、彼の首については、前の男と同じ運命を受けなければなりませんでした。けれどもそうしたところで、この事件について、盗賊たちに何事か明らかになる上にはとんと助けにならず、ただこの一隊から、いちばん勇気のある二人の剛の者を減らすに役立っただけでございました。
ですから、頭《かしら》は今の場合についてしばらくの間とくと考え込んだあげく、やおら頭を上げて、ひとりごとを言いました、「今後はおれは自分ひとりしか頼りにすまい。」そして単身、町に出かけました。
ところで、頭《かしら》は今までの者みたいにはいたしませんでした。というのは、彼はムスタファ老によってアリ・ババの家を教えられると、赤とか白とか青とかの白墨で、戸口に印《しるし》をつけたりなんかして暇をつぶさず、その家は外から見ると、近所のすべての家と同じ様子をしていましたので、まず注意をこめてよくよくその家を見て、自分の記憶のなかに十分その場所をとどめるようにしました。そして、ひとたび調べを終えると、彼は森に戻って、残っている三十七人の盗賊を集めて、一同に申しました、「おれたちに損害を与えた犯人は見つかったぞ、おれは今はそいつの家をよく知っているのだから。アッラーにかけて、そいつの罰は恐ろしい罰になるぞ。お前《めえ》たち、威勢のいい野郎どもは、いそいでここに、内側に釉薬《うわぐすり》をかけた素焼の大甕《おおがめ》で、首が広く腹のふくらんだやつを、三十八持ってこい。それでその三十八の甕は、ひとつだけ橄欖《オリーブ》油をいっぱいつめて、そのほかは全部からにしておけ。どれにも罅《ひび》がはいっていないように、よく気をつけて見ろよ。そしてとっとと帰ってこい。」すると盗賊たちは、ふだんから頭《かしら》の命令を考えることなく実行するには慣れているので、承わり畏まって答え、いそいで瀬戸物屋の市場《スーク》にその三十八個の甕を買い求めにゆき、めいめいそれを二個ずつ馬に載せて、頭《かしら》のところに持って来ました。
すると盗賊の頭《かしら》は部下の者どもに言いつけました、「お前たち着物を着て、それぞれ武器と捲頭巾《ターバン》と皮草履《バーブジ》しか身につけずに、ひとりずつ甕のなかにはいれ。」そこで三十七人の盗賊は、ただのひとことも言わずに、甕をつけている馬の背中に、二人ずつはい上がりました。そして一頭の馬にそれぞれ右にひとつ、左にひとつと甕が二つついていたので、盗賊は各自ひとつの甕のなかに潜《もぐ》り込んで、すっぽりと身を隠しました。こうして彼らは、甕のなかで、身を折り曲げ、脚を腿につけ、膝を顎の高さに置いて、まるで抱いて二十日目の卵のなかの雛《ひよこ》みたいな恰好でございました。このように身を落ち着けて、彼らは、皮草履《バーブジ》を大切に尻の下に敷いて、片手には新月刀を、片手に棍棒を携えました。そして三十七人目の盗賊は、こうして、油を満たしたたったひとつの甕と対《つい》になって、釣合を保ちました。
盗賊たちがそれぞれいちばん窮屈でない姿勢で甕のなかに落ち着きますと、頭《かしら》は進み出て、ひとりひとり検査し、そして甕の口を棕櫚《しゆろ》の繊維でふさぎ、中身を隠すと同時に、部下の者が楽に呼吸ができるような工合にいたしました。また、道行く人々の心中に少しでも中身についての疑念が浮ばないようにと、頭は、油の詰まっている甕から油を取り出して、新しい甕全部の外側一面に念を入れて塗《なす》りつけました。万事このように用意をととのえてから、盗賊の頭は油商人に変装して、急ごしらえの商品を運ぶ馬を自分の前に追い立てながら、町へと向い、自分はこの一隊《キヤラヴアン》の指揮者となりました。
さて、アッラーはこれに安泰を記《しる》したまい、彼はつつがなく夕方頃、ちょうどアリ・ババの家の前に着きました。すると、さながら一切の障害がおのずから取り除かれるかのように、彼は彼をここまで連れてきたもくろみを実行するのに、わざわざ戸を叩くまでもありませんでした。それというのは、アリ・ババ当人が、敷居の上に腰をおろして、夕《ゆうべ》の礼拝の前に、静かに涼んでいたからでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十八夜になると[#「けれども第八百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで盗賊の頭《かしら》はいそいで全部の馬を停め、アリ・ババの両手の間に進み出て、挨拶《サラーム》と会釈のあとで、言いました、「おおわが御主人様、あなたさまの奴隷は油商人で、今夜、誰ひとり知る人もない町で、どこに泊りに行ってよいやら、わからずにおります。そこで御寛大にすがって、アッラーのために、あなたさまが明朝まで彼におもてなしを賜い、彼の獣《けもの》をばお宅の中庭に置いてくださることを、望んでおりまする。」
この頼みを聞くと、アリ・ババは自分が貧しくて、気候の厳しさに悩んだころを思い出し、すぐに心動かされました。そして、この間森のなかで自分が見もし、聞きもした盗賊の頭《かしら》とはつゆ知らず、敬意を表して立ち上がり、答えました、「おお、油商の方よ、わが兄弟よ、何とぞこの住居があなたに憩いを与え、あなたはここに寛《くつろ》ぎと家族を見出すことができますように。ようこそいらっしゃった。」こう言って、彼はその手をとって、馬といっしょに、これを中庭に案内しました。そしてマルジャーナともうひとりの男奴隷を呼んで、アッラーのお客様に手伝って甕《かめ》をおろしてさしあげ、獣《けもの》には食物を与えるように命じました。甕が中庭の奥にきちんと並べられ、馬が、それぞれ首に大麦と燕麦《からすむぎ》を満たした袋を下げて、壁沿いに繋がれますと、アリ・ババはやはりまめまめしさと親切に溢れて、ふたたび客人の手をとって、自分の家のなかに案内し、上席に坐らせて、自分もそのそばに坐って、夕食をとることにしました。そしてふたりで食べかつ飲み、アッラーにその御好意を感謝しおわると、アリ・ババは客人に窮屈な思いをさせたくないと思って、こう言って、引きとりました、「おおわが御主人よ、この家はあなたの家で、この家にあるものは、あなたのものです。」
彼が立ち去ろうとすると、油商人実は盗賊の頭《かしら》は、これを呼び返して言いました、「御身《おんみ》の上なるアッラーにかけて、おおわが御主人様、御尊宅のどのあたりで、私の腹中に寛ぎを与え、また小用を足すを許されるでしょうか、その場所をお教えください。」そこで、アリ・ババは、ちょうど家の角にあって、甕の並んでいる場所のすぐ近くに当る厠《かわや》を教えて、言いました、「ここでございます。」そして、油商人の消化作用の邪魔をしてはと、いそいでその場をはずしました。
事実、盗賊の頭《かしら》は自分の果たすべきことを果たさずにはいませんでしたが、しかし、すむと、彼は甕に近づいて、そのひとつひとつの上に身をかがめて、低い声で言いました、「おいきさま、なんの某《なにがし》、きさまのはいっている甕に、おれは泊っている場所から小石を投げつけるから、石が当った音を聞いたらすぐに、必ず飛び出して、おれのほうに駆けつけろよ。」こうして手下の者どもに、なすべきことを命令しておいて、頭《かしら》は家のなかに戻りました。すると、台所の戸口で、油をともすランプを手にして待っていたマルジャーナは、彼を自分のしつらえた部屋のほうに案内して、引き下がりました。頭《かしら》は、計画実行の際に十分活躍できるようにと、夜のなかばまで眠るつもりで、いそいで寝床の上に横になりました。そしてじきに、洗濯女の大鍋のように鼾《いびき》をかきはじめました。
そのとき起るべきことが起ったのでございます。
事実、マルジャーナが台所で、御馳走の皿と鍋の類を一所懸命洗っておりますと、突然、ランプの油が尽きて、火が消えてしまいました。ところがちょうど、家《うち》の油の貯えが切れていて、マルジャーナは、昼間新しい油を買い求めておくのを忘れたので、この不時の故障にたいへん困って、新しく来たアリ・ババの男奴隷アブドゥラーを呼んで、このあいにくなことと困っていることを知らせました。ところが、アブドゥラーは大笑いをして、彼女に言いました、「あんたの上のアッラーにかけて、おおマルジャーナ姉さん、家に油がないなんてどうして言えますかい、ちょうど今、中庭には、橄欖《オリーヴ》油のいっぱい詰まった甕が三十八も、壁の前に並んでいるのに。油のはいっている外側の匂いから推すと、きっとこの上なく上等の油にちがいない。まったく、姉さん、おれの眼には、今夜は、かいがいしい、利口な、策の溢れたマルジャーナらしい人が見えないねえ。」次に彼はつけ加えました、「おいらはあした夜明けに起きるから、帰って寝るよ、姉さん。御主人アリ・ババのお伴をして風呂屋《ハンマーム》に行かなければならないからね。」そしてその奴隷は、彼女に別れて、油商人の部屋から程遠からぬところに行って、沼の水牛のような鼾をかいて寝てしまいました。
そこでマルジャーナは、アブドゥラーの言葉にすこし恥かしい気がして、油壺を持って、どれかの甕からそれを一杯にしようと思って、中庭にゆきました。そして最初の甕に近づいて、蓋を取り、大きく開いた甕の口に油壺を突っこみました。――すると、――おお、臓腑《はらわた》がひっくり返り、おお、眼が大きく見開き、おお、喉がふさがることよ。――壺は油のなかにはいるかわりに、何か固いものにごつんと激しくぶつかったのでございます。そしてその何かは動きました。そしてそこから声が出て来て、こう言うのです、「アッラーにかけて、お頭《かしら》の投げた小石というやつは、少なくとも岩だわい。さあ、時が来たぞ。」そして彼は頭を出して、身をちぢめて甕から出ようとしました。
こうした次第です。ところで、いったいどんな人間被造物が、甕のなかに油を見つけるかわりに、生きた人間を見つけては、いよいよ天運の最後の時が来るのを見る思いがいたさないでございましょうか。ですから、年若いマルジャーナも、最初はすっかり仰天して、こう思わずにはいられませんでした、『私はもう生命《いのち》がない。家じゅうの人もみんな、助かるすべなく生命がない。』けれどもここに突然、彼女の動転の激しさは、彼女にすべての勇気とすべての機転を取り戻させたのでございます。それで、すさまじい叫びや大騒ぎをおっ始めるかわりに、彼女は甕の口に身をかがめて、言いました、「ちがいますよ、ちがいますよ、おお元気な男衆。あなたの御主人はまだ眠っておいでです。お目覚めまでお待ちなさいよ。」というのは、マルジャーナは、頭のいい女だったので、一切を見抜いてしまったのです。それで、事態の由々しさを突きとめるために、そんなことをしてみることは危険がなくはなかったけれど、ほかの全部の甕を改めてみたいと思いました。そしてひとつひとつに近づいて、覆いを取るとすぐ飛び出す頭をさわってみては、ひとつひとつの頭に、「ちょっとお待ち、もうすぐだから、」と言いました。こうして、鬚のある盗賊三十七人の頭を数えて、三十八番目の甕だけに、油が詰まっていることがわかりました。そこで彼女はまったく落ち着いて自分の油壺を満たし、走ってランプに火をつけにゆき、やがて戻って、今、さし迫った危急によって、心の中に思い浮かんだ切抜け策を、実行することにいたしました。
そこで、中庭に来るとただちに、彼女は洗濯に使う大釜の下に盛んに火を焚《た》いて、油壺でもって、甕の中身を汲み込んで、釜を油でいっぱいにしました。火は強く燃え上がったので、油はほどなくぐつぐつと煮え立ってきました。
そこでマルジャーナは、驢馬の小屋のいちばん大きな桶に、この煮えかえる油を満たして、甕のひとつに近づき、その覆いを持ちあげ、出てくる頭上に、一気に、その息の根を絶つ液を浴びせかけました。するとその頭の持ち主の山賊は、もう取り返しがつかず火傷《やけど》をして、叫び声も出ずに、死を呑みこんでしまいました。
そしてマルジャーナは、しっかりした手で、甕のなかに潜《ひそ》んでいた男全部に同じ運命を受けさせ、彼らは皆窒息し煮え上って死んでしまいました。それというのは、どんな人間でも、よしんば七重《ななえ》の壁の甕のなかに潜んでいても、おのれの首に結びつけられている天命をば、のがれることは叶わぬでございましょうから。
さて、その大業を成就すると、マルジャーナは大釜の下の火を消し、全部の甕にふたたび椰子の繊維の蓋をかぶせて、台所に帰り、灯火を吹き消して、事の成行を監視しようと思い定めて、そのまま暗がりにじっとしていました。こうして待ち伏せておりますと、長くは待たされませんでした。
果して、夜もたけなわのころになると、油商人は目を覚まして、中庭に臨む窓まで来て、首を出してみると、どこにも明りひとつ見えず、物音ひとつ聞えないので、これは家中がもうぐっすり眠り込んだにちがいないと判断しました。そこで、部下に言った言葉に従って、携えていた小石を取りあげ、それを次々に投げつけました。彼は眼が確かで手は巧みでしたから、いちいち目標に当りました。それが小石がぶつかる甕の反響でわかりました。それから彼は、やがて部下の壮漢が得物を振り回して現われるのを見ることを少しも疑わずに、待ちました。ところが、何ひとつ動き出しません。そこで、これはやつらが甕のなかで眠っているのかと思って、改めて小石を投げてみましたが、ひとつの頭さえ現われず、ひとつの動きさえ起りません。盗賊の頭《かしら》は、部下のやつらがみなぐっすり眠りこんでいるものと思って、ひどく腹を立てました。そして「犬の倅どもめ、やつらはなんの役にも立たん、」と考えながら、彼らのほうにおりてゆきました。そして甕のほうに勢いこんで向ってゆきましたが、それは後退《あとしざ》りするためでした。それほど、甕から立ちのぼる煮え返った油と焼けたからだの臭いは、すさまじいものでした。さりながら、頭《かしら》は改めて甕に近づいて、甕に手をやってみると、その外側は竈《かまど》の側と同じくらい熱いのを感じました。そこでひと束の藁《わら》を拾い集めて、それに火をつけ、甕のなかをのぞいて見ました。そして次々に、部下の男どもが魂のない身体を持って、煮られて湯気が立っているのを見たのでございます。
これを見ると、盗賊の頭《かしら》は、自分の三十七人の仲間がどんなにむごい死に方で死んでしまったかをさとって、中庭の土塀のてっぺんまでみごとに跳ね上がって、街路に飛びおり、自分の脚を風に任せました。そして飛び去って、闇のなかにわけ入りました、足の下に、距離をなくしてゆきながら……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十九夜になると[#「けれども第八百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして飛び去って、闇の中にわけ入りました、足の下に距離をなくしてゆきながら。かくて自分の洞窟に着くと、彼はこれから復讐しなければならぬ一切を復讐するためには、どうすることが残っているかについて、腹黒い熟考に耽ったのでございました。さしあたり、彼については以上のような次第でございます。
さて、主人の一家とそこに身を寄せていた多数の命を救ったマルジャーナについては、彼女は贋《にせ》の油商人の逃走によってあらゆる危険が祓《はら》われたことがわかると、静かに、日が出るのを待って、主人アリ・ババを起しにゆきました。アリ・ババは、こんなに早く起されたのは、ただ風呂屋《ハンマーム》に行かせるためかとばかり思って、着物を着て出てゆくと、マルジャーナは彼を甕《かめ》の前に連れて行って、言いました、「おおわが御主人様、現初の蓋を取って、なかを御覧ください。」アリ・ババはのぞいてみて、恐怖と戦慄の極みに達しました。そこでマルジャーナは起った一切を、一部始終、細大洩らさず、いそぎ話しました。けれどもそれを繰り返しても詮なきことです。また彼女は、戸口の白い印《しるし》と赤い印《しるし》の話も、あのときは話すのに時宜を得ていないと思って控えたのですが、今度は話して聞かせました。しかしこの話とてまた、繰り返しても詮なきことでございます。
アリ・ババは女奴隷マルジャーナの話を聞くと、感激して涙を流し、娘をやさしく胸に抱き締めて、申しました、「おお祝福の娘よ、お前を身ごもった腹は祝福されよかし。なるほど、お前がわれわれの住居で食べたパンは、忘恩によって食べられたのではなかった。お前はわが娘で、わが子たちの母親の娘だ。今後お前にはわが家の采配《さいはい》をふるって、わが子たちの姉になってもらおう。」そして彼はいろいろとやさしい言葉を言って、彼女の勇敢と明敏と精励に厚く感謝しつづけました。
その後で、アリ・ババはマルジャーナと奴隷アブドゥラーに手伝わせて、盗賊たちを土中に埋めることに取りかかりました。よく考えた末、隣近所の注意を呼び起さないために、一切式など行わずに、庭に大きな穴を掘って、そこへ彼らをごちゃごちゃに放り込んで、片づけてしまおうと、決心したのです。このようにして、この呪われた輩《やから》を始末してしまったのでございます。ほんとうにいい気味でした。
そしてアリ・ババの家では、一同の歓びと祝いのただ中に、幾日かが過ぎました。家ではみんなが、アッラーに救いを謝しながら、厭きずに、この驚くべき事件の仔細を語り合い、それにつけられるだけのあらゆる説明をつけて倦みませんでした。マルジャーナは今までよりもいっそう大切にされました。アリ・ババはじめそのふたりの妻と子供たちも、彼女に感謝と情愛を示すのにいろいろ努めました。
さて、アリ・ババの長男は、元のカシムの店で売買の仕事を取りしきっておりましたが、或る日のこと、市場《スーク》から帰ってきて、父親に言いました、「おお、お父さん、私の隣人の商人フサインは、最近われわれの市場《スーク》に店を構えて以来、私にひっきりなしに懇切の限りを尽してくれるのですが、それに対して、私はどう返礼をしてよいかわからない次第です。もうこれで五回も、いっしょに昼御飯をいただくのを承知しながら、私はまだお返しをしていません。それで私は、おお、お父さん、たった一度でもいいから、ぜひあの方に御馳走をしてさしあげたいと思うのです。そのたった一度で、ごく盛大な饗応をして、あの方が私のためにかけた費用全部を埋め合せさえすればいいのですから。だってお父さんだって、あの方が私に対してしてくれた心づかいに返礼するのを、これ以上延ばすことは、きっと作法にかなうことではないとお考えになるでしょう。」するとアリ・ババは答えました、「もとよりだ、おおわが息子よ、それはいちばん普通の務《つと》めだよ。もっと早く私に気づかせてくれるべきだったくらいだ。ところでちょうど、明日は休息日の金曜だ。この日を幸い、お前のお隣りのハッグ・フサイン(7)に、私たちといっしょに夕方のパンと塩を共にしにお出でなさいと、お誘いしたらよかろう。もしその方が遠慮して、何かと逃口上を探すようだったら、強《た》ってと言ってわが家にお連れ申すをはばからぬがよい。家《うち》では、きっとその方の雅量にあまりにふさわしからぬものではない御馳走を、見出しなさることと思うからね。」
そこでほんとうに、翌日、アリ・ババの息子は、礼拝をすましてから、新しく市場《スーク》に店を構えた商人、|フサイン殿《ハツグ・フサイン》に、ちょっと散歩をするからいっしょに来てくれるようにと誘いました。そしてその隣人と連れ立って、ちょうど自分たちの住居のある界隈の方向に、足を向けました。するとアリ・ババは敷居のところで待ち受けていて、にこやかな顔をしてふたりを迎えに進み出て、そしてお互いに挨拶《サラーム》と辞令を交してから、彼はフサイン殿に、息子に過分の敬意を表してくれることに対して謝意を述べ、ぜひわが家にはいって休息し、自分や息子といっしょに、夕方の食事を共にしてくれるようにと、言葉を尽してすすめて、誘いました。そしてつけ加えました、「私にどんなことができましょうとも、愚息への御厚志にはとうてい御恩返しできませぬことは、よく存じております。けれども、ともかくも、わが家の歓待のパンと塩とを受けていただくことを、私どもは希望する次第でございます。」けれどもフサイン殿は答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主人様、あなたの御歓待はいかにも非常な御歓待でございますが、しかし、私はすでに久しい以前より、塩で味をつけた食物にはけっして手を触れない、この調味料はけっして味わわないとの誓いを立てた身でございますから、どうしてこれをお受けするわけにまいりましょうか。」するとアリ・ババは答えました、そんなことはなんでもないこと、おお祝福された殿《ハツグ》よ、私が台所にひと言申しつけさえすれば、料理は塩とかその類いのもの一切抜きで調理されましょう。」そして商人に強《た》ってすすめて、無理に家のなかにはいらせました。そして自分はすぐにマルジャーナのところへ駆けて行って、食物には塩を混えないようにしなければいけない、今夜は特別に、どの料理も詰肉も肉パイも、この普通の調味料の助けを借りずに、作るようにと、言い含めました。するとマルジャーナは、新来の客の塩を忌むことにこの上なく驚いて、こんな変った好みはなんのせいか見当がつかず、このことについて深く考えはじめました。とはいえ、料理番の黒人の女に、御主人アリ・ババの不思議な命令に従わなければならない旨を、知らせるのを怠りはしませんでした。
食事の用意ができると、マルジャーナはそれを盆に盛って、奴隷アブドゥラーに手伝って盆をひとつひとつ、集《つど》いの間《ま》に運びました。そして元来たいそう好奇心の強い性分でしたので、その塩を好まぬとかいう客を、ときどきちらりちらりと見ずにはいませんでした。そして食事がすむと、主人アリ・ババが心置きなく、招いたお客と語り合えるようにと、マルジャーナは部屋を出てゆきました。
ところが、ひと時もたつと、この若い娘は改めて広間にはいってきました。そしてアリ・ババの非常に驚いたことには、娘は舞姫の服装《なり》をして、額にはヴェネツィア金貨を連ねた飾りをめぐらし、首には琥珀《こはく》の粒の頸輪を飾り、腰には黄金の網目の帯を締め、手頸と踝《くるぶし》には金の鈴のついた環をつけております。そして帯からは、本職の舞姫の習慣に従って、舞いの所作を振りつけるのに役立つ、硬玉の柄のついた、溝を彫り切先鋭い長い刃の短剣が、垂れていました。恋する羚羊《かもしか》のような彼女の眼は、もともと大きく深々と輝いているのですが、さらに黒い瞼墨《コフル》でもって、引き絞った弓形に張った眉毛とともに、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》のところまで、きびしく長くひいてあります。このように装い飾り立てて、彼女は、まっすぐに身を起し、胸乳《むなぢ》を突き出して、歩調を取りながら進み出ました。そのうしろには、年若い男奴隷アブドゥラーが、左手で、顔の高さに、金属のカスタネットのついた手太鼓を持ちながらはいってきて、連れの舞姫の歩調を調子づけるように、拍子をとって、けれどもごくゆっくりと、その手太鼓を打っています。そしてマルジャーナは主人の前までくるとすぐに、優美に身をかがめてお辞儀をし、こんなふうに思いがけなくはいってきたので、主人があっけにとられているその驚きから立ち直る暇も与えず、若いアブドゥラーのほうに向いて、眉毛でもって軽く合図をしました。するとにわかに、手太鼓の律動《リズム》は、力強い調子の旋法に従って速くなり、マルジャーナは、鳥のように滑りつつ、舞いました。
そして彼女は諸国の王様方の宮殿で、本職の舞姫も、ついぞ舞ったことのないくらいに、疲れを知らず、あるゆる歩調を舞い、あらゆる振りを描きました。おそらくは今までただひとり、悲しみに黒いサウル王の前で、牧童ダヴィデだけが踊ったように舞いました。
そして彼女は、肩掛の舞いと、手巾《ハンケチ》の舞いと、棒の舞いを舞いました。それからユダヤ女の舞いと、ギリシア女の舞いと、エチオピア女の舞いと、ペルシア女の舞いと、ベドウィン女の舞いとを、すばらしい身軽さでもって舞いました。きっと、今までただひとり、スライマーンに恋する女王バルキス(8)が、これに類する舞いを舞うことができただけでございましょう。
そして彼女がこうしたすべてを舞い、主人の心と、主人の息子の心と、主人の客の商人の心は、彼女の足取りにつなぎとめられ、彼らの眼はそのからだのしなやかさに吸いつけられたとき、彼女は今度は波打つ剣《つるぎ》の舞いを描きました。事実、金色の武器をその銀の鞘《さや》から突然抜き放ち、優美と姿態をもって強く人の心を動かしつつ、手太鼓の速くなった律動《リズム》に合せて、彼女は短剣を擬《ぎ》し、身をそらし、しなやかに、烈しく、荒々しく、猛く、両眼を電光のように輝かせ、人の眼に見えない翼に持ち上げられて、飛び跳ねました。武器のおどしは、或るときは何か空中の見えざる敵のほうに向けられ、また或るときは切先から、激した乙女の美しい胸乳のほうに向いました。並みいる人たちはこのときには、長い怖れの叫びをあげました。それほど舞姫の心臓は、死の切先の間近に見えるのでした。それから、しだいに手太鼓の律動《リズム》はゆるやかになり、調子がおだやかになって、ついには鳴る皮が黙ってしまうまで弱まりました。そしてマルジャーナは胸を海の波のようにはずませて、舞い終ったのでございます。
そして彼女は奴隷のアブドゥラーのほうに向き直って、新たに眉毛で合図をすると、少年は自分のいる場所から、手太鼓を投げてよこしました。彼女はそれを宙で受けとめ、それを裏返しにして、お椀がわりにして、歌姫や舞姫の慣わしに従って、三人の見物のところに行ってそれをさし出し、彼らの喜捨を乞いました。するとアリ・ババは、自分の女中の思いがけない振舞いに、いささか気色を悪くしたものの、これほどの魅力とこれほどの芸には逆らいきれず、手太鼓のなかにディナール金貨一枚を投げ入れました。マルジャーナはうやうやしい敬礼と微笑でもってこれに感謝し、今度はアリ・ババの息子に手太鼓をさし出すと、これもまた父より気前が悪かったわけではありませんでした。
すると彼女は、やはり左手で手太鼓を持ちながら、今度はそれを塩の嫌いな客にさし出しました。フサイン殿は、自分の財布を取り出して、このこれほど好ましい舞姫にお金をやろうと、財布からそこばくの金子を出そうとすると、そのとき突然、マルジャーナは二足あとにさがって、野生の猫のような勢いで前に躍り出し、右手に振りかざした短剣をば、金具の鍔元《つばもと》まで、商人の心臓深く突き刺しました。それでフサイン殿は、両の眼がいきなり眼窩《がんか》のなかに落ちくぼんで、口を開けまた閉じて、半分の溜息も吐きかね、次に、頭のほうが足よりも先に落ち、すでに魂なき身体となって、敷物の上にがっくりと倒れてしまいました。
そこでアリ・ババとその息子は、驚愕と憤りの極に達して、今は心の激動にふるえながらも、血まみれの短剣を絹の肩掛でぬぐっているマルジャーナのほうに、飛び出しました。そして親子は彼女が逆上と狂気に襲われたものと思って、その手を捉えて武器を取り上げようとすると、彼女は落着いた声でこれに言いました、「おおわが御主人様方、あなたがたの敵の頭《かしら》を討つのに、かよわい乙女の腕をさし向けたもうたアッラーに、讃《たた》えあれ。この死んだ男こそ、実は油商人で、彼自身の眼を持った盗賊の頭目その人、歓待の神聖な塩を味わおうとしなかった男でないかどうか、まず御覧あそばせ。」こう言いながら、彼女は横たわる屍《しかばね》の外套をはいで、その長い鬚と、今の際まとった変装の下に、この一家の絶滅を誓った敵の姿を示しました。
アリ・ババはこうして、フサイン殿の生命《いのち》のない身体のうちに、甕の持主で盗賊の頭《かしら》である油商人を認めると、自分はまたもや、わが身の救いと一家全部の救いを、ひとえに年若いマルジャーナの行きとどいた献身と勇気のおかげで得たことがわかりました。そこで、彼女を胸に抱き締めて、その両の眼の間に接吻して、両眼に涙を浮べて、申しました、「おおマルジャーナ、わが娘よ、私の仕合せをその極みに達しさせるために、ひとつ、ここにいる立派な若者であるこの私の息子と結婚して、いよいよほんとうにわが家の人となってはくれまいか。」するとマルジャーナはアリ・ババの手に接吻して、答えました、「わたくしの頭上と眼の上に。」
そしてマルジャーナとアリ・ババの息子との結婚は、時を移さず、法官《カーデイ》と証人の前で、一同の歓びと楽しみのただ中で、とり行なわれました。盗賊の頭《かしら》の屍は、前に昔の泥棒仲間の墓場となった共同墓穴に、ひそかに葬りました、――このような男は、呪われてあれ。
そして、息子は結婚ののち……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十夜になると[#「けれども第八百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして、息子の結婚ののち、アリ・ババは今は用心ということを学んで、今後はマルジャーナの忠告に従い、彼女の意見によく耳を傾けて、しばらくは例の洞窟に戻ることを差し控えておりました。まだ、残りのふたりの盗賊は行方が知れないので、彼らに出くわすといけないと思ってのことでしたが、おお幸多き王様、わが君の御存じのとおり、実際はそのふたりは、頭目の命令によってすでに斬られてしまったのでございました。そしてようやく一年たって、この方面にまったく心配がなくなったとき、彼は息子と心利いたマルジャーナと連れ立って、洞窟を訪れようと決心いたしました。マルジャーナは、途々万事をよく調べ、岩に着くと、灌木と丈高い草が、岩をめぐる小径《こみち》をすっかりふさいで、一方、地上には、ただひとつの人間の足跡もなく、馬の蹄の跡もないのを見ました。それで、これはもう久しい前から、誰もここに来ていないと結論を下しました。そして彼女はアリ・ババに言いました、「おお伯父さま、さしつかえございません。私たちは危険を冒す心配なく、このなかにはいることができます。」
そこでアリ・ババは、石の扉のほうに手を延ばして、魔法の呪文を唱え、「開け、胡麻、」と申しました。すると昔と同じように、扉はこの言葉に応じて、見えない召使たちに動かされるかのように、岩そのものから開いて、アリ・ババと息子と若いマルジャーナを自由に通しました。そしてアリ・ババは、事実この前最後の宝庫訪問以来、何ひとつ変っていないことを確かめて、今後は自分だけが持主となった、まるでお伽話のような財宝を、マルジャーナとその夫に、得意になって見せてやったのでございました。
彼らは洞窟のなかをすっかり調べ上げると、携えてきた三つの大袋に黄金と宝石を詰めこんで、扉を閉ざす呪文を唱えてから、わが家に戻りました。彼らはそれ以来、ただひとり偉大にして、寛仁なる御方《おんかた》にまします「贈与者」の授けたもうた財宝を、適度に大切に使いながら、平和と至福のうちに暮しました。このようにして、全財産として三頭の驢馬の持主にすぎなかった樵夫《きこり》のアリ・ババは、自分の運命と祝福とのおかげで、生れ故郷の町でいちばん金持で、いちばん尊敬を受ける人間となったのでございます。さても、地の心貧しき人々に、惜しみなく与えたもう御方に、栄光あれ。
[#ここから1字下げ]
――「これが、おお幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「アリ・ババと四十人の盗賊の物語について、わたくしの知っている全部でございます。けれども、アッラーは更に多くを知りたまいまする。」
するとシャハリヤール王は言った、「いかにも、シャハラザードよ、この物語は驚くべき物語じゃ。そして年若いマルジャーナは、当節の女のなかには、その比を見ぬ。余はそのことをよく知っておる。わが宮殿の放埓なる女どもすべての、首を刎《は》ねさせざるを得なかった余じゃからな。」
けれどもシャハラザードは、王がこの思い出に、すでに眉をひそめて、これらの過ぎた事がらについて苦しく心|昂《たか》ぶっているのを見て、いそいで次のような言葉で、物語を始めたのであった。その物語は……
[#ここで字下げ終わり]
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バグダード橋上でアル・ラシードの出会った人たち(1)
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは、シャハリヤール王が昔の懊悩の思い出に、すでに眉をひそめているのを見て、いそいで新しい物語を始めて、言った。
わたくしの聞き及びますところでは、おお当代の王、おおわが頭上の冠よ、――教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシード――どうぞアッラーはこの君に御寵愛を垂れたまいますように。――におかれましては、日々のうちの或る日のこと、大臣《ワジール》ジャアファルと御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを従えて、御自身はじめ、両人も、都の身分高い商人に身を窶《やつ》して、王宮をお出ましになりました。そして打ち揃って、ティグリス河の両岸を繋ぐ石の橋のところにはやお着きになると、そのとき、ちょうど橋の袂《たもと》に、脚を組んで地上に坐り、寛仁の路上の通行人たちに、アッラーのために施しを乞うている、大そう高齢の一人の盲人《めくら》を、御覧になりました。そこで教王《カリフ》はこの年とった病弱者の前に、散策の足をおとどめになって、その差しのべる掌中に金貨一ディナールを置いてやりなさいました。するとその乞食は、教王《カリフ》が道をおつづけになろうとしているところを、突然手を延ばしてお引きとめ申して、言うのでした、「おお、気前よく施したもうお方様、どうかアッラーは、あなた様の憐れみ深い魂のこの行いをば、その祝福の最も選りぬきのものをもって、お返し下さりますように。さりながら、立ち去りなさる前に、何とぞ私のお頼み申し上げるお願いをば、お拒みにならないで下さいませ。お腕を挙げて、わが耳朶《みみたぶ》の上に、拳骨《げんこつ》或いは平手打を一発お見舞い下さいまし。」こう言って乞食は、この見知らぬ人が自分に件《くだん》の平手打を加えることができるようにと、自分の捉えている御手を離しました。けれども、自分に満足を与えずにそのまま通りすぎて行ってしまってはと思って、油断なくその長い衣の垂れを掴まえていました。
これを御覧になりお聞きになって、教王《カリフ》はいたく御当惑遊ばして、盲人《めくら》に仰しゃいました、「おお小父よ、アッラーはわしにお前の命令に従わせないで下さるように。それというのは、アッラーのために施しをする者が、その施しの恩恵に浴する者を虐げて、せっかくの功徳を無にしてはならぬからじゃ。それにお前のわしに加えよと命ずる虐待は、一信徒にふさわしからぬ振舞いじゃ。」
こう言って、教王《カリフ》は力をこめて盲人《めくら》を振り切ろうとなさいました。ところがそれは盲人ほど抜かりなく予測なさっていなかった次第で、こちらはちゃんと教王《カリフ》のなさることを見越していて、もっと力をこめてお放ししまいとしました。そして言いました、「おお、わが気前のよい旦那様、私のしつこさと、やり口の図々しさを御容赦下さい。そしてどうかもう一度、私の耳朶《みみたぶ》の上に平手打を賜わるよう、お願い申させて下さいませ。さもなければ、むしろあなた様の施しを取り返して下さるほうが結構です。それというのは、私はただこの条件をもってしか、それをお受けするわけにゆかないのでございまして、さもないとアッラーの御前で偽誓し、あなた様を見、私を見たまう御方の御面前で、私の立てた誓いに背くことになりまする。」次に付け加えました、「もしあなた様が、おおわがお殿様、私の誓いの理由を御承知になったら、きっと無理なきことと思いなさるに躊躇遊ばしますまい。」
そこで教王《カリフ》はお考えになりました、「このめくらの老人《シヤイクー》のしつこさに対しては、全能のアッラーにお頼み申すより外に仕方がないわい。」そしてこれ以上永く、通行人たちの好奇心の的《まと》になっていたくはないと思し召されたので、いそいで盲人の頼むことをなさると、盲人は平手打を受けるとすぐに、御礼を言い、相手の頭上に祝福を呼ぶために、天に両手を挙げながら、手を放しました。
アル・ラシードは、こうして逃がれて、二人のお伴と一緒に遠ざかりましたが、するとジャアファルに仰しゃいました、「アッラーにかけて、あの盲人の身の上は定めて驚くべき身の上に相違なく、彼の場合はすこぶる奇怪な場合にちがいない。されば、あの男の許に戻って、信徒の長《おさ》よりと申し、明日、午後の礼拝の刻に王宮に参れと、申し付けよ。」そこでジャアファルは盲人の許に戻って、主君の御命令を伝えました。
それから引き返して教王《カリフ》に追いつきましたが、御三方が数歩も歩かないうちに、橋の左側に、ほとんどさきの盲人《めくら》の正面に坐っている、両脚が片輪で、口の裂けた第二の乞食を、お認めになりました。主君の御合図に応じて、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールは、その口の裂けた両脚片輪の男に近づいて、その日彼の幸運に記《しる》されていた施しを、与えてやりました。するとその男は頭をあげて、笑い出しながら言いました、「ほう、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、私の学校教師の生涯を通じて、ただ今御寛仁の御手より頂戴したほど、稼いだことはかつてございません、おおわが御主人様。」アル・ラシードは、この答をお聞きになって、ジャアファルのほうを向いて仰しゃいました、「わが頭《こうべ》の生命《いのち》にかけて、もしこれが学校教師にして、路上に物を乞うに立ち到ったとすれば、その身の上は定めて奇怪なものにちがいないわけだ。いそぎ行って、明日、盲人と同じ刻に、わが王宮の門に参れと、申し付けよ。」御命令は実行されました。そして御一同散策をおつづけになりました。
ところが、片輪からまだ遠ざかる暇もなく、その片輪が大声で、彼に近づいた一人の老人《シヤイクー》の頭上に、盛んに祝福を祈っているのが聞えました。そこでいったいどうしたことかと、そちらを向いて御覧になりました。するとその老人《シヤイクー》は、自分に浴びせられる祝福と賞讃にすっかり当惑して、早く逃げ出そうとしているところでした。そして片輪の言葉によって、その老人《シヤイクー》の与えた施しは、マスルールの施しよりももっと大枚なもので、その貧乏人はいまだかつてそんな施しを貰ったことがないほどのものであることが、わかりました。それでハールーンは、単なる一個人が御自身よりももっと大きな掌の広さを示すのを御覧ぜられる驚きを、ジャアファルに仰せられて、言い添えなさいました、「余はあの老人《シヤイクー》を知って、その寛仁の動機《いわれ》を窮めたいと思う。されば、おおジァアファルよ、彼に明日の午後、盲人と片輪の刻に、わが手の間に罷り出でよと申せ。」御命令は実行されました。
そして更に道をつづけようとなさると、そのとき橋の上を、国王とか帝王《スルターン》でなければ普通見せることができないほど、美々しい行列が進んでくるのが見えました。馬上の触《ふ》れ役人《やくにん》たちが先に立って、ふれております、「退《ど》いた、退いた、われらの御主君のお通りじゃ。シナの強大なる王の姫君、並びにシンド(2)とインドの強大なる王の姫君の、御夫君なるぞ。」そして行列の先頭には、歩きぶりのうちに自ずとその血統のうかがわれる一頭の馬上に、輝やかしく気品溢れる容貌の、一人の貴人《アミール》か或いはおそらく国王の王子かが、輪乗《わの》りをしています。そのすぐ後には、すばらしい装備を凝らして、背に轎《かご》をのせた一頭の駱駝を、青絹の頭絡《おもがい》で曳いている、二人の馬丁《サイス》が進んできます。轎には、右方に一人、左方に一人、紅錦の天蓋の下に、橙色《だいだいいろ》の絹の面衣《ヴエール》に顔を蔽って、騎馬の公子の妻たちである、二人の若い貴女が坐っております。そして行列は、見知らぬ形のさまざまの楽器で、インドとシナの曲を奏する楽師の群で、終っております。
ハールーンは、感嘆すると同時に驚きもなすって、お伴に申されました、「これはわが都にもめったに来ない歴とした異国人じゃ。さりながら、余はすでに地上の最も誇らかな王侯|貴族《アミール》たちを迎えている。欧州人《フランク》の国の首長らや極西の地域の首長らをはじめ、海の彼方の異教徒らの首長も、わが許に大使や使節をよこした。しかるにわれらのかつて見た者すべてを通じて、豪華美麗今の公子に比べ得るものは、一人もなかった。」次に御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールのほうに向いて、仰しゃいました、「いそぎ、おおマスルールよ、今の行列の後をつけて行き、見るべきものを見、遅るることなく王宮に戻って委細報告致せ。さりながら、かの高貴の異国人に、明日、盲人と片輪と鷹揚なる老人《シヤイクー》との刻に、わが手の間に出頭せらるるよう誘うことを抜かるなよ。」
そしてマスルールが御命令を実行しに出かけると、教王《カリフ》とジャアファルは漸やく橋をお渡りになりました。けれども向うの端《はし》にお着きになったと思うと、前面に開けている馬上試合と野試合に用いる馬場《マイダーン》のまん中に、大勢の見物人が集っているのが見えました。それは一頭の白い美しい牝馬に乗った若者が、全速力であちこちと馬を走らせ、鞭と拍車を休みなく激しく加え、馬はすっかり泡を吹き血を流し、四肢も全身もぴくぴく打ち顫えるほどに酷使しているところを、眺めているのでございました。
これを御覧になると、もともと馬がお好きで、馬が虐待されるのを見ていられない教王《カリフ》は、御憤りの極に達して、見物人にお訊ねになりました、「なぜあの若者は、あのおとなしい美しい牝馬に対して、かくも乱暴な振舞いに出でるのか。」彼らは答えました、「存じませんねえ、アッラーだけが御存じですよ。とにかく毎日、同じ時刻に、あの若者はあの牝馬と一緒にここにやって来て、私たちはあの没義道《もぎどう》な訓練を見かけるのです。」そして付け加えて、「まあ結局、あの人は自分の牝馬の正当な主人なのですから、どう扱おうと勝手でさあ。」そこでハールーンはジャアファルのほうに向いて、仰しゃいました、「おおジャアファルよ、あの若者の許に行って、あのように自分の馬を虐待するに到る原因を問いただすことは、その方にまかせるぞよ。もし彼が理由を明かすことを拒む場合は、その方の身分を告げて、明日の午後、盲人と片輪と鷹揚なる老人《シヤイクー》と異国の騎手の刻に、わが手の間に出頭致すよう命ずるがよい。」するとジャアファルは仰せ畏まってお答え申しましたので、教王《カリフ》は彼を馬場《マイダーン》に残して、その日はただお独りで、王宮にお帰りになりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十一夜になると[#「けれども第八百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、翌日、午後の半ばの礼拝(3)の後で、教王《カリフ》は謁見の間《ま》におはいりになりますと、大|宰相《ワジール》ジャアファルはすぐに御前に、昨日、バグダード橋上で出会った五人の人物をはいらせました。すなわち、頬を殴らせた盲人《めくら》、学校教師の片輪、気前のよい老人《シヤイクー》、インドとシナの曲を奏でさせていた高貴な馬上の人、それから白い牝馬の主人の若者です。そして五人揃って玉座の前に平伏し、御手の間の床《ゆか》に接吻しますと、教王《カリフ》は一同に立ち上がるよう頭で合図をなすったので、ジャアファルは一同を、玉座の足下の、敷物の上に、互いに隣り合ってきちんと整列させました。
するとアル・ラシードはまず、白い牝馬の主人である若者のほうを向きなすって、これに仰しゃいました、「おお若者よ、その方は昨日、わが乗るあのようにおとなしい美しい白馬に対して、かくも没義道なる態度を見せたが、罵詈《ばり》には罵言を、打擲には打擲をもって答えるを得ない物言わぬ獣《けだもの》に対して、その方の魂を駆ってかくも乱暴な振舞いに出でさせるその動機《いわれ》を、余に言って聞かせることはできないか。己れの牝馬を仕込まんがためとか、馴らさんがため、かくしたなどとは言うなかれ。それというのは、余が生涯において、余自身も、多数の種馬や牝馬を飼い馴らしもし、仕込みもしたことがあるが、しかし、その方のしていたように、わが訓練する獣《けだもの》たちを虐待する必要は断じてなかったのである。また、観衆を興じさせんがために、あのようにわが牝馬を責めたとも言うなかれ。それというのは、かの没義道なる光景は彼らを興じさせはしないのみか、彼らを顰蹙《ひんしゆく》させ、また余自身をも彼らと共に顰蹙させたのであった。アッラーにかけて、今少しで余は公然と名乗り出でて、その方に相当の処罰を加え、かくも不快なる光景に終りを告げさせようかと思ったくらいじゃ。されば、嘘偽りなく、何ごとも包み隠すことなく、その方の行いの動機を語れよ。それが余の怨みをまぬがれて寵を得る、その方に残されたる唯一の方法であるからな。のみならず、もしその方の物語が余を得心させ、その方の言葉が行いを恕《ゆる》す節《ふし》あらば、余は直ちにその方を許し、その方の遣り方に認めたる不届きなる点一切を、忘れてとらするであろう。」
白い牝馬の主人である若者は、この教王《カリフ》のお言葉を聞くと、顔色がすっかり黄色くなって、明らかに非常な困惑と果しない悲しみに襲われた態《てい》で、沈黙したまま頭を垂れました。こうして、ただの一と言も言い出すことができずに、じっと立ち尽し、一方、涙は両眼から流れて胸の上に滴りつづけていると、教王《カリフ》は彼に対して態度をお変えになり、今までよりも更に訝りなすって、優しい声でこれに申されました、「おお若者よ、その方は信徒の長《おさ》の面前にあることを忘れて、あたかも友人たちのただ中にあるかのごとく、ここで少しも遠慮なく語るがよい。その方の身の上はすこぶる奇怪なる身の上であり、その方の行いの動機はすこぶる奇怪なる動機に相違ないことが、余によくわかるがゆえに。して余は、わが栄光満てる父祖の御功績にかけて誓う、その方に対しては、何らの危害も加えられぬであろう。」一方ジャアファルも、頭と眼でもって、若者に断乎たる励ましの合図をしはじめましたが、それは明らかに、「少しも心置きなく話すがよい。何らの懸念も要らぬ、」という意味の合図でした。
すると若者も、一度失った息を再び取り戻しはじめ、頭を擡げて、今一度、教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して、申しました。
白い牝馬の主人の若者の物語(4)
さればでございます、おお信徒の長《おさ》よ、私は界隈《かいわい》ではネーマーン(5)の旦那《シデイ》と呼ばれて、知られている者でございます。御意によって、これよりお話し申し上げまする私の身の上話である話は、回教信仰の神秘でございます。もしこれが針でもって眼の内側の一隅に書かれたならば、誰でもこれを注意深い魂で読む者には、教訓となることでございましょう。
そして若者は、自分の精神のほうにわがすべての思いを引き寄せるために、しばらく口をつぐんで、さて言葉を続けました。
父が亡くなりましたとき、父はアッラーが私に遺産として記したもうたものを残してくれました。調べてみますと、私の頭上へのアッラーの御恩恵は、私の魂がかつて願ったよりも、遥かに数多く、また選りぬきのものでございました。その上、私は僅かのうちに、私の界隈で一番金持で、一番重んじられる人物となっているのを見ました。しかし私の新しい生活は、私に己惚《うぬぼ》れとか傲慢とかを与えるどころか、ますます私の裡に、平穏と孤独に対する非常に際立った好みを、発達させるばかりでした。そして私は、アッラーの毎朝、何ら家庭の煩いなく、責任もないことを自ら悦びつつ、ずっと独身で暮らしつづけました。そして毎夕、独り思っておりました、「やあ、シディ・ネーマーン、何とお前の生活は地味で平穏であろう。何と独身の孤独は気楽であろう。」
ところが、日々のうちの或る日のこと、おおわが君よ、私は突如生活を一変しようとの、了解に苦しむ激しい欲望を抱いて、目覚めました。その欲望は私の魂の裡に、結婚という形の下にはいって参りました。そして私はわが心の内奥の衝動に動かされて、こう考えながら、即刻即座に起き上がりました、「お前は恥ずかしくないのか、やあシディ・ネーマーンよ、こんな風に自分の屋敷にたった一人で暮らしているとは。まるで自分の巣のなかにいる金狼《きんろう》じゃないか、傍らには何ひとつ優しい姿があるじゃなし、お前の眼を爽やかにするための、いつもみずみずしい女の身体《からだ》ひとつなく、お前が本当に創造者の御息吹《みいぶき》で生きていることを、お前にしみじみ感じさせる愛情もなしでさ。いったいお前は、われわれの若い女たちの取りえを知るのに、歳月がお前を不能者にして、せいぜいのところ、できずに見るだけぐらいしか役に立たなくするのを待っている気かい。」
生まれてはじめて私の心に浮んできた、こうしたごく自然の考えに対して、私はもう自分の魂の勧めに従うのを躊躇しませんでした、――何せ魂は貴いもので、そのあらゆる望みは叶えるだけのことがございますので。けれども、私の界隈の名士や市場《スーク》の金持の商人の娘たちの間から、私の妻を見つけてくれるような世話好きの女に知り合いはなかったし、それに、私はちゃんと一切心得て、――ということはつまり、わが妻の容色と性質を、自分自身の眼でよく理解した上で、慣習では、契約を認《したた》め結婚式を終ってからはじめて、妻の顔を知ることになっているが、ああいう慣習に従わずに、――結婚しようと固く決心してもいましたので、そこで私は自分の妻を、単にあの売り物買い物の美しい女奴隷の間から、選ぶことにしようと思い定めました。そして早速わが家を出て、奴隷|市場《スーク》に向いながら、考えました、「やあ、シディ・ネーマーンよ、歴とした娘との縁組など求めずに、奴隷の乙女の間から妻を迎えようとするお前の決心は、まことに結構だ。なぜなら、そうすればお前は多くの煩いと多くの苦労をまぬがれるからな。お前の背の上に、女房の新しい一家をしょいこんだり、お前の胃の上に、きっと災厄《わざわい》の婆さんにちがいない女房の母親の、いつも敵意のこもった眼付を持ったり、お前の肩の上に、女房の大小の兄弟や、老若の親戚や、女房の父親たるお前の伯父の、面倒臭くうっとうしい交際関係などの重荷を持ったり、そういうことを全部避けられるばかりか、名士たちの娘の将来の口答えも、わが身から遠ざけることができるというものだ。何しろ、名士の娘ときたら、自分は出がいいので、亭主なんか自分に対して何の権利も権威もありはしない、自分に対しては義務があるだけで、あらゆる敬意と責任を持つのが当然だというようなことを、何かにつけてお前に感じさせずにはおくまい。そうなると、お前は独身生活を懐しがって、血の出るほどわが指を噛むということになりかねない。それに反して、わが眼と指とでちゃんと検査した上で、係累なく、自分の美しさだけを持った一人きりの妻を、お前自身で選べば、お前は生活を簡単にすることになり、いざこざを避け、何も不都合なしに結婚のあらゆる利益を持てるというものだ。」
その朝、こうした新しい考えを抱いて、おお信徒の長《おさ》よ、私は、あらゆる種類の愉快とお互いの愛と祝福のうちに同棲すべき、快い妻を選ぼうとして、女奴隷の市場《スーク》に著いたのでございます。それというのは、私は生まれつき愛情深い質《たち》でしたから、わが選ぶ乙女のうちに、これまでただ一人の生者にもほんの一片も置いたことのない情愛の、積り積った蓄積を置くことのできるような、心身の美質を見出したきものと、精一杯願っていた次第でございました。
さてその日はちょうど市《いち》の立つ日でありまして、シルカシーや、イオニヤや、極北の島々や、エチオピアや、イランや、ホーラサーンや、アラビアや、ルーム人の国や、アナドル海岸や、セレンディブや、インドや、シナなどの、若い娘たちの新しい到着が、最近バグダードに来たところでした。そして私が市場《スーク》の中心に着いた時には、仲買人と競売人たちは、これらのさまざまな人種を一緒に混ぜては混乱が起きかねないので、それぞれ組に分け、そのさまざまの組を別々に、既にそこに集めていたのでした。そしてそのめいめいの組で、一人一人の若い娘はよく見えるように置かれ、あらゆる方面を調べることができ、一々の取引がきちんと誤魔化しなしに行われるような工合になっていました。
すると天運は――何ぴとも己が天運をのがれることは叶いますまい。――私の最初の歩みがおのずと、極北の島々から来た乙女らの群に向うことを望みました。それに、私の眼のいきなり眺めたのがそちらの方でなかったとしたら、私の歩みも決しておのずとそちらの方に向いはしなかったでございましょう。というのは、その一群は、燦とした明るさのため、また、ま新しい銀の白さの身体の上に、黄金のように黄色な、ずっしりとした髪の毛が崩れ落ちているために、近所のもっと暗い群々から、くっきり浮き上がって見えていたのでした。そしてその群を成す、立っている乙女たちは、全部が奇妙に似ているのです。ちょうど姉妹が同じ父と同じ母の時には、自分たちの姉妹と似ると同じようです。全部の乙女が、まだ岩の潤いを帯びている時の、イランのトルコ玉のように、碧い眼をしておりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十二夜になると[#「けれども第八百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それで私は、おおわが君、生まれてから、このように異様な美しさの若い娘を見る機会がなかったもので、驚嘆いたしまして、魂がわが胸から飛び出して、その感ずべき光景のほうに行くのを覚えました。そして、一と時たっても、何せいずれ劣らず美しいので、そのうちの一人に自分の選択をきめるに到ることができないままに、一番年の若そうに見える娘の手を掴んで、値切りもせず、けちけちもしないで、早速それを買い求めました。それというのは、優美がその娘の全身を包み、さながら銀坑のなかの銀のごとく、皮を剥いた巴旦杏《はたんきよう》のごとく、極度に透き通って蒼白く、それに、ふさふさした黄絹の髪の毛、新月刀の刃のように反った暗い睫毛の下に碧く、海の和《なご》やかさの眼差《まなざし》を宿す、大きな魔術師の眼をしていました。これを見ると、私は次の詩人の句を思い浮べました。
[#ここから2字下げ]
おお君よ、貴き顔色は、仏桑華《ぶつそうげ》の花色のごとく、琥珀《こはく》の色合いを帯び、
歯を容るる小さき口は、二列の霰《あられ》の上に花咲く、緋のかみつれ、
おお、風信子《ひやしんす》の花弁の蔭射して、古えのエジプト王女の眼よりも長き、双の瑪琥《めのう》の眼の持ち主よ、
おお、耀《かが》よう君よ。われらの愛する無上の美女らとて、君をこれに比《たぐ》えなば、われは過たん、君は比《たぐ》いなく美わしければ。
何となれば、君が口許の愛らしき凹みに住まう黒子《ほくろ》のみにても、ここに、人間は狂気のうちによろめかん。
君が裸足の鏡に、立って己が姿を眺むる、君が嫋《たお》やかの脚のみにても、ここに、水に己れを映す藺草《いぐさ》は、及びもあらず。
君が輝やかしさの律《しらべ》に従う、君が腰のみにても、訶利勒《バーン》の木の若枝は、妬みてあり。
また、海賊の乗る、海上の巨船にまさる君が威風のみにても、ここに、あらゆる心は、君が瞳に傷つけられてあり。
[#ここで字下げ終わり]
そこで私は、おおわが君、その透き通った乙女の手をとって、その裸身を私の外套でかくまってから、自分の住居に連れて行きました。その乙女は、柔和と、無口と、慎ましさで、私の気に入りました。その異様な美しさ、蒼白さ、融けた黄金のように黄色い髪、疑いもなく内気から常に私の眼を避ける、いつも伏せた碧い眼、これらによって私はどんなにこの乙女に惹きつけられるかを、感じました。そして乙女は全くわれわれの言葉を話さず、私は全く彼女の言葉を話さないので、私は答を得られぬにちがいない問をかけて、徒らに彼女を疲れさせるのは避けました。そして私は、ただその姿を見るだけで、既に自分にとっては大いなる歓びである一人の女性を、わが住居に導きたもうた「贈与者」に、感謝いたしました。
けれども、この乙女がわが家にはいったその夕から、私はどんなにその態度が変っているかに、気づかずにはいられませんでした。それというのは、夜になるとすぐ、その碧い眼は更に暗くなって、眼差《まなざし》は、昼間は柔和さにひたっていたのから、いわば内側の火に煌めくようになりました。そして彼女は一種の興奮に襲われてきて、それは、更に一段と増した蒼白さと、唇のかすかな顫えとによって、その顔だちに現われました。時々、さながら外に出て風に当りたいとでもいう風に、扉のほうを見やりました。けれども夜の時刻はあまり散歩に向かないし、それに夕食をとる時間でもあったので、私は坐って、彼女をも自分のそばに坐らせました。
私たちの食事がでるまでの間、私は差向いの機会を利用して、彼女の来たことがどんなに私にとって祝福であるか、彼女を見てどんなに優しい感情が私の心中に芽ぐんだかを、彼女にわからせたいと思いました。そして静かに私は彼女を撫でてやって、彼女をあやし、その異国の魂を馴らしてやろうと試みました。そして静かに、その手をとって、それをわが唇と胸にあてました。私はさながらちょっと触れてもばらばらになってしまいそうな、何か大へん古い布切れにさわるみたいに気をつけて、その髪の心を惹く絹に、軽くわが指をさし入れました。こうして触れたとき私の感じたところは、おおわが君、もはや決して忘れないでありましょう。生きた髪の毛の温《ぬく》もりを感ずる代りに、それは、さながら編んだ髪の黄色い毛は、何か凍った金属で作られたか、或いはこの毛髪に触れた私の手は、溶ける雪のなかに浸けた絹に触れるかのようでございました。そして私はこの髪全部が、生まれつき金の線条細工の網で織り成されていることを、疑いませんでした。
そこで私はわが魂の中で、われわれの風土では、わが乙女らに夜の翼のように黒く熱い毛髪を贈りたまい、北国の透き通った娘の額には、こうした凍った焔の冠をかぶせたまう、被造物の主《しゆ》の限りない全能を思いました。
それで私は、おおわが君、自分がこのように珍しく、またわが風土の女とはこのようにちがった被造物の夫になれると知っては、同時に喫驚と歓喜のまじった感動で、感動させられるのを禁じ得ませんでした。この女は私の血でもなければ、われわれと共通の素姓でもないという感すら覚えました。そしてにわかに、この女には超自然の才能と未知の徳性があると思うに近い次第でした。それで感嘆と茫然たる思いを以って、この女に眺め入ったことでございました。
けれどもやがて奴隷たちが、頭上に盆を載せてはいってきて、私たちの前に、御馳走を盛ったそれらの盆を置きました。するとすぐに、これらの御馳走を見ると、妻の困った様子はいっそう募って、赤味と蒼味がかわるがわるその艶のない繻子《しゆす》の両頬に射し、見るともなく物を見据える眼は膨れてくるのに、気がつきました。
私はこうしたすべては、小心とわれわれの習慣を知らぬせいだろうと思って、出されたお料理に手をつけるよう励ましてやろうと、まず自分から、バターでいためた米の皿に手をつけて、私どもが普通にするように、それを指でとりながら、食べはじめました。
ところがこれを見ると、妻の魂を食欲に誘う代りに、疑いもなく、嘔気ではないまでも嫌悪に近い情を、惹き起したにちがいありません。それで私の手本に倣うどころか、頭をそむけて、何か探すみたいに周囲を見まわしました。次に長い間躊躇してから私の眼付がぜひ料理に手をつけるよう頼んでいるのを見ると、妻は懐ろから、子供の骨で作った薄っぺらな小箱を出して、われわれが耳掻きに使うあの細軸に似た、非常に細いはまむぎの軸を取り出しました。その尖った小さな軸を二本の指で上手に持って、ゆっくりと米を刺し、もっとゆっくりと、一粒一粒口に持ってゆきはじめました。そのごく僅かの一口一口ごとに、ずい分長い合間《あいま》を置きました。こういう風にして、私はもう食事を終ってしまったのに、妻はこんな工合にやって、まだ十粒ばかりの米も食べていない有様でした。そしてその夜妻が食べる気になったのは、それが全部でした。漠とした仕ぐさでもって、それで満腹したことが、私にはわかるような気がしました。そこで、何か他の食物を食べさせようと強いて、その窮屈さを増したり、おじけさせたりはすまいと思いました。
これによって私は、わが異国の妻はわれわれの国々の住人とはちがった人間であるという信念が、ますます強まるばかりでした。そして心中で思いました、「身を養うのに小鳥の食料ぐらいしかいらないこの乙女は、当地の女たちとどうしてちがっていない節がなかろうか。身体の要求がこうとしたら、魂の要求のほうはいったいどんな工合かしらん。」そして私は到底窺い知るべからざるものに思えるその魂を、何とか見抜いてやることに打ち込もうと決心しました。
そしてその夜は、自分自身に妻の振舞いの何かもっともらしい説明をつけてやろうと思って、これはきっと妻は男の人たちと一緒に、ましてや夫と一緒に食事をする習慣はないのだ、夫の前では慎しみ深くしなければいけないと、教えられているのだろうと、こう想像しました。そして私は自分に言いました、「そうだ、まさにそれにちがいない。妻は単純で世慣れないので、あまり慎しみ深くしすぎたわけだ。或いは、もう食事をすませているのかも知れん。それとも、まだ食事前なら、自分ひとりで自由に食べる機《おり》を待っているのだろう。」
そこですぐに私は立ち上がって、限りない注意を払ってその手を執り、妻のために用意させた部屋に連れて行きました。そして好きなように振舞えるため、そこに独り置いてやりました。私は遠慮深く引きとりました。
そしてその夜は、妻の邪魔をしたり、うるさく思わせたりしてはいけないと思って、婚礼の夜に普通男のするように、妻の部屋にはいることはやめにしました。そしてこうすれば、私は私の控え目によって妻の好意を得るだろう、これによってわれわれの国々の男は、乱暴者であったり、行儀作法をわきまえない人々であることから遠く、必要の際には、思いやりが厚く、慎しみ深い態度を示すのを知っていることを、妻に証明するであろうと、考えたのでありました。とはいえ、おお信徒の長《おさ》よ、君の御《おん》生命《いのち》にかけて、その夜私は、わが透き通る妻、北国の人々の娘たるこの乙女の許にはいってゆく欲望を、覚えなかった次第では決してございません。わが目に快く、その異様《ことざま》な優雅と、その行動の神秘によって、わが心を魅し得たのでございますから。けれども、事をいそいでぶちこわすには、私の悦びはあまりに尊いものであり、私はまず地固めをして、果実の酸味を抜き、おもむろに好適な新鮮さの裡に十分の成熟に到らしめれば、ただ得るところのみで失うところがないわけでございます。しかしながら、私はその夜は、わが住居を匂わす若い異国娘の金髪の美しさを思い、その浄めの肉体は、朝露の下に摘んだ巴旦杏のように味わいよく思われ、またそのごとく産毛《うぶげ》多く、そのごとく好ましく思われたので、不眠のうちに過ごしたのでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十三夜になると[#「けれども第八百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
翌日、食事のため私たちが再び相会した時、私はにこやかな顔をして、昔、西洋の貴族《アミール》たちが当地に来たり、或いは欧州人《フランク》の王に遣わされて来たりしたとき見たように、乙女の前にお辞儀をしながら、これを迎えました。そして自分のわきの、御馳走の盆の前に坐らせましたが、そのなかには、前夜のように、米をバターでいため、その一粒一粒が、見事に焼けて肉桂の香りがつけられ、ばらばらになっている一と皿がありました。ところが妻は、前夜そのままに振舞い、他のすべての料理には手をつけず、その米の皿だけをとって、例の耳掻きでゆっくりと一粒一粒突き刺しては、口に運ぶのでございました。
私はこの食べ方に、前夜よりも更に驚いて、考えました、「アッラーにかけて、この女はいったいどこで、こんな米の食べ方を教わったのであろう。ひょっとすると、自分の国のただ中で、家庭で教えられたのかしらん。それとも、小食なので、こうするのかな。それとも、毎食同じだけしか食べないために、米粒を数えようと思っているのかな。だがもし倹約心からこうやって、私に経済を教え、無駄づかいをしないように戒める気だとすれば、アッラーにかけて、それは余計なことだ。なぜって、私たちはその方面に何ら心配する必要がなく、そちらの側から、破産するなどということは決してないのだから。それというのは、私たちは『報酬者』のお蔭を以って、必要なものも余分なものも倹約することなく、たっぷり楽に暮らして行けるだけのものがあるのだ。」
けれども妻は、私の考えや当惑を察してか察しないのか、とにかく相変らずこの不可解な食べ方を続けました。そればかりか、さながらいっそう私に心配をかけたいとでもいうように、もう長い間《ま》をおいてでなければ米粒を突き刺さなくなり、のみならずついには、ただ一と言も言わず、私のほうを見もしないで、その尖った軸を拭って、それを骨の箱に納めてさえしまったものです。それがその朝、私の見た妻のしたことすべてでした。ところが夕方、夕食でもまたそっくり同じことでございまして、その翌日も、私たちが一緒に食事をするため、拡げた食布《スフラ》の前に就く度ごとに、やはり同じことです。
いったい女が、この妻の食べるくらい僅かの食事で生きられるとは、あり得ないのを見ると、私はもう、ここには妻の存在そのものよりももっと不思議な神秘が、何かあることを疑いませんでした。それで私は、時と共に、妻も私の魂が願うように私と一緒に暮らすのに慣れるであろうとの望みを抱いて、この上とも辛抱しようと、腹をきめました。けれども程なく、私の望みは空しく、われわれの生き方とは全く似もつかぬこの生き方の説明を、万難を排して見つけようと決心しなければならぬと、はっきりわかりました。ところがその機会は、私の待ち設けぬうちに、おのずと現われました。
果して、私の辛抱と遠慮の半月後に、私ははじめて、婚姻の間《ま》を訪れてみようと思い定めました。そこで一夜、もう妻はずっと前から寝入っていると思われる頃、私はごくそっと、私の部屋と反対側にある妻のいる部屋のほうに出かけて、眠りを妨げてはいけないと足音をひそめて、その室の戸口に着きました。それというのは、妻の眠っている姿は、閉じた瞼と反《そ》った長い睫毛を持って、きっと天国の天女《フーリー》のように美しいだろうと想像して、それを心ゆくまま眺めたいものと思って、あまりいきなり妻を目覚ませまいとしたからです。
さてその戸口に着くと、内に妻の足音が聞えるのです。夜もこんなに遅くなって、まだ目を覚ましている妻の意中がわからないので、私は好奇心から、扉の垂幕の蔭に蹲《うずくま》って、いったい何ごとなのか見ようという気になりました。
やがて扉が開いて、妻は外出著を着て、大理石の敷石の上をこればかりも音を立てずに滑りながら、敷居に現われました。闇の中を、私の前を通ってゆくとき、私はその顔を眺めましたが、もう愕然として私の血は心臓の中で凍りました。虎の眼は暗中で燃えて、殺人殺戮《さつじんさつりく》に赴く道を照らすとか申しますが、ちょうどその虎の眼にも似たその両眼の、二つの燠火《おきび》に照らされて、妻の顔全体が闇のただ中に浮び出ました。そして、悪い魔神共《ジン》がわれわれにたくらむ災害を、あらかじめわれわれに知らせようとするとき、睡眠中に恐ろしい姿を送りますが、妻はちょうどあれらの姿とそっくりです。それどころか、妻自身既に私には、蒼白い顔といい、火を発する眼といい、頭上に物凄く逆立つ黄色の髪といい、もうこの上なく惨酷な魔女《ジンニーヤ》に思えました。
それで私は、おおわが君、腮《あご》は砕けんばかりに噛み合い、唾液《つばき》は口中で乾上《ひあ》がり、息は無くなってしまうのを感じました。それに、よしんば身動きできたにしても、私は自分の居場所ではないこんな場所に、垂幕の蔭に自分がいることを、ちょっとでも気どらせるような真似は固く慎しんだことでしょう。そこで私は妻の遠ざかるのを待って、失った息を再び取り戻して、隠れ場所から立ち上がりました。そして家の中庭に臨む窓のほうに行って、金網《かなあみ》越しに眺めました。すると中庭に臨む一つの窓から、妻は往来に出る戸を開けて、裸足《はだし》がほとんど地を踏まぬ態《てい》で、外に出るのを認める暇がありました。
私はしばらく妻を遠ざからせておいて、それから、妻が半開きのままにしておいた戸に駈けつけ、自分の草履《サンダル》を手に持って、遠くから妻のあとをつけました。
戸外《おもて》は下弦《かげん》の月に照らされ、全天はおののく光を湛えて、毎夜のごとく壮厳に拡がっておりました。それで私は心の動揺にも拘わらず、被造物の主《しゆ》のほうにわが魂を高めて、心中で言いました、「おお主よ、高揚と真理の神よ、私はかの異国人の娘たるわが妻に対しましては、あくまで慎しみ深く正直に振舞いましたことを、照覧あれ、かの女の一切は私にとって知られざるところであり、かの女は恐らくは、主よ、御面に逆らう不信の民に属しているとは申せ。して今私は、今宵《こよい》、御身の御空《みそら》の懇《ねんご》ろなる光の下に、あの女が何をするやら存じませぬ。けれども、願わくは、私は遠くも近くも、あの女の行為の共犯者と思われますることのござりませぬように。それと申しまするは、もしその行為が御掟《おんおきて》と御使徒《おんしと》――その上に平安と祈りあれかし。――その御教《みおし》えとに反するものであれば、私はあらかじめそれを否認する者でございますから。」
このようにわが不安を鎮めた上では、私はもう妻がどこに行こうと、そのあとをつけてゆくのをためらいませんでした。
今や妻は、さながらわれわれの間に生まれ、この界隈で育ったかのように、少しも迷わずにずんずん進んで、町の往来を全部横ぎってしまいました。私は、夜の闇に禍々《まがまが》しく後ろになびいているその髪の揺めくのをたよりに、遠くからつけてゆきました。妻は最後の家々に着いて、町の城門を横ぎり、もう何百年も前から死人の住家となっている、人住まぬ野原に分け入りました。そして非常に古い墓のある最初の墓地を後に残して、今でも日々人を葬りつづけている墓地のほうに急ぎます。そこで私は考えました、「これはきっと、妻にはここに、一緒に異国からやって来た女で、友達とか姉妹とかの、死んだ女がいるにちがいない。そしてその女《ひと》のために、自分の義務《つとめ》を果すのに、孤独と沈黙を幸い、夜中を好むというわけだろう。」けれどもそのとき突然、あの物凄い様子と燃え立つ眼を思い出して、またもや私の血は心臓のほうに逆流するのでした。
さて見ると、墓の間から、一つの物影が立ち上がって、未だそれが何やら察せられませんでしたが、それが妻のほうに向ってゆきます。そのうち顔付の恐ろしさと、肉食の瘋狗《ハイエナ》の頭とで、私はこの墓の底から出てきた物影に、一人の女食人鬼《グーラー》(6)を認めました。
それで私は、両脚が私の下で震えながら逃げてしまい、一つの墓の後ろに、倒れてしまいました。この事情のお蔭で、恐ろしい驚きに陥っていたにも拘わらず、私はその女食人鬼《グーラー》に見られずに、そちらを見ることができました。奴は私の妻に近づいて、手を執り、一つの墓穴のほとりにつれてゆきました。そして二人の女はその墓穴のほとりに、向い合って共に坐りました。すると食人鬼《グーラー》は地面のほうにかがんで、何か円い物を両手で持って身を起し、それを黙って私の妻に渡しました。見るとその品は、生命のない死体から切りとったばかりの、人間の頭蓋とわかりました。妻は猛獣の叫びを一と声あげて、その死んだ肉にじかに歯を刺しこみ、凄まじくかぶりつきはじめました。
そこで私は、おおわが君、これを見ては、空がすべての重さでわが頭上に崩れ落ちるのを感じました。そして恐怖のあまり、きっと一と声戦慄の叫びをあげて、自分のいることをわからせてしまったにちがいありません。それというのは、私は突如妻が、私をかくまっていた墓の上に、立っているのを見ましたから。妻は、餌食に襲いかかろうとしている飢えた牝虎の眼を以って、私を見据えています。私はもう逃れる術《すべ》のない身の破滅を疑いませんでした。そして私が身を守ろうとか、呪いを避ける呪文を唱えるとか、少しでも身動きする暇もあらせず、妻は私の上に片腕を延ばし、まるで沙漠で聞く動物の吼え声のような調子で、知らない言葉の二言三言《ふたことみこと》を叫びました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十四夜になると[#「けれども第八百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして妻がその悪魔じみた二言三言を発したと思うと、突然私は犬に変じてしまったのでございました。そして妻は、恐ろしい女食人鬼《グーラー》と一緒に、私に飛びかかってきました。二人は私を散々に蹴とばしまして、どうして私はその場に伸びて死んでしまわなかったのかわからないくらいです。けれども、自分の陥った非常な身の危急と、生に対する魂の執著とは、私に四足《よつあし》で飛び跳ね、妻と女食人鬼《グーラー》に同じ猛烈な勢いで追いかけられながらも、腹の下に尻尾を捲いて逃げ出す力と勇気を与えました。漸く私を追って墓地からずっと遠くまで出ると、二人は私をいじめるのをやめ、私はもう苦しくて悲しげに吠え、十歩ごとに、引っくりかえっていましたが、やっとそこで追いかけるのをやめました。そして二人は墓地のほうに戻って行きました。私はみじめな迷い犬のように、いそいで町の城門を越えました。
その翌日、町中をびっこをひきひきうろつきまわり、私を闖入者と見て追っかけまわす界隈の犬に咬まれないようにしながら、一夜を過ごしたあとで、私は犬どもの惨酷な攻撃をのがれるため、どこかに身を寄せようと思いつきました。そこで、朝のこの時刻に開いた最初の店に、勢いよく飛びこみました。そして片隅にもぐりこんで、犬どもの目から隠れました。
ところでそれは、羊の頭と足を売る店でした。そこの店主ははじめは私に味方をしてくれて、私を追っかけて店のなかまでもはいってこようとする攻撃者を防いでくれました。そしてうまく彼らを追っ払い、遠のけましたが、さて次には明らかに私を立ちのかせる目的で、私のほうに帰ってきたのです。事実、私は決して自分の望んだ避難所と庇護を期待すべきでないことが、よくわかりました。それというのは、この臓物商人はあのむやみに形式主義者で、迷信というほど狂信的な連中の一人でして、この連中は犬を不潔な獣《けだもの》と見て、犬がふと彼らのそばを通って触れでもしようものなら、もう彼らの着物を洗うに十分な、水も石鹸もないと思うのであります。そこで店主は私に近づくと、身ぶりと声で、できるだけ早く自分の店から立ち去るように、厳重に命じました。しかし私は、悲しげな声で訴え、許しを乞うような眼付で、彼を下から見上げながら、いっそう身を丸めて転げまわりました。すると主人も多少|不憫《ふびん》になって、威《おど》していた棒を放しましたが、やはり何としても店から私の姿を追い出したいと思って、あの焼いた足の匂いのいいうまそうな肉を一と切れ取りあげて、私によく見せるような工合に指先で持ちながら、往来に出ました。それで私は、おおわが君、そのうまそうな肉片の香気に惹かれて、自分の片隅から立ち上がって、臓物商人のあとから出て行くと、彼は私が店から出たと見ると、すぐにその肉片を私に投げ与えて、自分は店にはいってしまいました。そこで私はこの結構な肉片を呑みこむとすぐに、急いで自分の片隅に戻ろうと思いました。ところが私は、この店主、羊の頭屋を考えに入れずに、胸算用をしていた次第で、彼は果して私の挙動をちゃんと察して、節くれ立った恐ろしい棒を手に持って、無慈悲な様子で、敷居に頑張っています。私は哀願者の姿勢で、尻尾を振りながら、どうかこの身の寄せ場の恵みを授けてくれるようにひたすら願っていることを、はっきり彼にわからせるような工合に、じっとその顔を見つめました。しかしそんなことには屈せず、棒さえも振りまわしはじめ、もう彼の意向については疑う余地のない声で、私に叫びました、「あっちに行け、おお女衒《ぜげん》め。」
そこで私は、すっかり辱かしめられ、また他方、早くも市場《スーク》の八方から私を狙いはじめている界隈の犬の襲撃を恐れて、脚を風に委ね、臓物商人の店のすぐそばの、開いているパン屋の店のほうに、大いそぎで逃げ出しました。
さて一と目見たとき、このパン屋は、小心に食われ、迷信に憑《つ》かれている羊の頭屋とはま反対で、快活で吉兆の男のように見受けられましたが、事実、その通りでした。私がその店先に著いた際には、彼はちょうど茣蓙《ござ》に坐って、朝食をしている最中でした。するとすぐさまその同情深い魂は、私のほうから少しも食べたい気持を示したわけではないのに、トマト・ソースに浸した大きなパン切れを、私に投げ与えさせ、大へん親切な声で言いかけるのでした、「おや、かわいそうに、おいしく食えよ。」しかし私は、普通他の犬どもがするように、いきなりアッラーの恵みにさもしくがつがつ飛びつくような真似をせず、まずこれに謝意を表するため、頭で合図をし、尻尾を動かしながら、気前のよいパン屋をじっと見ました。彼もきっと私の礼儀に心打たれ、多少それを満足に思ったのでしょう、私にやさしく微笑をするのが見えましたから。それで私は、今は飢えに悩まされていないし、格別食べたくもなかったのですが、ただただ彼を悦ばせたいと思って、そのパン切れを歯でくわえて、彼に対する敬意と尊敬からそうするのだということがわかるくらいゆっくりと、それを食べずにはいられませんでした。パン屋もそうしたすべてに気づいて、私を呼び入れ、店のそばに坐るようにと合図をしてくれました。それで私は、悦びの小さな唸り声を聞かせながら、また往来のほうを向いて、さしあたり自分の求めているのはただ保護だけだということを示しながら、坐りました。すると、彼に才智を授けたもうたアッラーのお蔭で、パン屋は私の意向を全部察して、私を撫でてくれたので、私は励まされ、安心を覚えました。そこで思いきって、その家のなかへはいりました。けれども私は上手に振舞って、主人の許しを得ないではしかねるということを、彼に感じさせました。すると彼は、私のはいるのを阻まないばかりか、親切に満ちて、私が身を落着けても邪魔にならないような場所を、示してくれました。私はその場所を占領して、その後、この家にいる間中ずっと、そこにおりました。
私の主人は、この時から、私に非常な愛着を覚えて、この上なく親切に取り扱ってくれました。朝飯も、昼飯も、晩飯も、私がそばにいて、飽き足る以上お相伴しないことには、食事ができない有様でした。私のほうでも、およそ犬の最も美しい魂の能う限りの、あらゆる忠実と献身とを、主人に捧げました。大切にしてくれるのを感謝して、私は絶えず主人から眼を離さず、後ろから忠実に従うことなくしては、家でも往来でも、一歩も歩かないようにしました。それは、私の配慮が主人の気に入っていて、もしふとしたことから、前以って何かの合図で私に知らせずに外出しようというようなことがあると、主人は必ず、口笛を吹いて、私を親しげに呼ばずに措かないことに気づいたので、尚さらでした。すると私はすぐに、自分の場所から往来に飛び出して、跳びまわり、またたく間に何度も駈け、店の前を何度も往ったり来たりしながら、おどり跳ねまわります。そして、こうしたふざけを、主人がいよいよ往来に出てしまうまでやめません。主人が往来に出ると、私は後についたり、先を走ったりし、時々主人を眺めて自分の悦びと満足を示しながら、全く几帳面にそのお伴をするのでした。
ところで、私が主人のパン屋の家にきてから既にしばらく経ったとき、日々のうちの或る日、一人の女が店にはいってきて、ちょうど膨れ上がって竈《かま》から出たばかりの、パン菓子を買い求めました。その女は、主人に代金を払って、パンを取り、戸口のほうに行きました。ところが主人は、貰った貨幣が贋金なのに気づいて、その女を呼び戻して、言いました、「おお小母さん、アッラーはあなたの命《いのち》を長くして下さるように。けれども、もしおいやでなかったら、この貨幣《おかね》じゃなく、別のものをいただきたいですがね。」そして同時に家《うち》の主人は、件《くだん》の貨幣をその女に差し出しました。ところがその女というのは、頑固な婆さんでして、その貨幣は本物《ほんもの》だと言い張って、いろいろ文句を並べて、それを引っこめるのを拒んで、言うのでした、「それにこれを作ったのは、何も私じゃなし、お金といえばどれも同じで、水瓜と胡瓜と選りわけるみたいなものじゃないのだよ。」しかし主人は、この婆さんの根拠のない理窟に説き伏せられるどころではなく、おだやかな声で、多少の軽蔑をこめてこれに言いました、「あなたの貨幣《おかね》が贋なことは一目瞭然で、ここにいる家《うち》の犬だって、こいつは見分ける力もない、物言わぬ動物にすぎないけれど、きっと見あやまりはしないでしょうよ。」そしてただこの厄介女を凹ませるだけの目的で、自分のしようとする行為の結果など少しも信じないで、主人は私の名を呼んで呼びました、「バハトや、バハトや、来い、ここに来い。」私はその声に、尾を振って、そちらに駈けつけました。するとすぐに主人は、銭を入れてある木の抽斗《ひきだし》を取り出して、それを地上にあけ、なかにはいっている貨幣を全部私の前に拡げました。そして私に言いました、「ここだよ、ここだよ、ほらこのお銭《あし》をごらん。この貨幣《おかね》を全部よく見て、このなかに贋金が一枚ないかどうか言ってごらん。」そこで私は一枚一枚足先で軽く押しやりながら、次々に全部の貨幣を注意深く調べて、そのうちじきに贋金に行き当りました。そこでそれをば積んだ山からどけて別にし、その上に前足を置いて、見つけたということを主人にはっきりわからせるようにしました。そして小さい叫びをあげ、尾を振りながら、主人を見つめました。
これを見ると、主人は、私のような種類の動物がこんな眼識を発揮しようとは思いもかけなかったので、驚きと感心のぎりぎりの極に達して、叫びました、「アッラーは至大にまします。アッラーの外には全能はない。」そして婆さんは、こんどは自身の眼で見た結果には文句をつけられず、それに自分の見たところにすっかりびっくりして、いそいでその贋金を引っこめ、代りに本物を一枚出しました。そして引裾に躓《つまず》きながら、引きあげました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十五夜になると[#「けれども第八百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
主人のほうは、私の眼識について感激からさめやらず、近所の人たちと市場《スーク》の全部の店主を呼んできました。そして、まあそれだけでも相当に驚くべき私の手柄を、更に誇張を混えて、今起ったことを、感心しながら一同に話しました。
主人のこの話に、並いる一同は、こんな不思議な犬には嘗つて出会ったことがないといいながら、私の利口さに感嘆の叫びをあげました。そして決して主人の正直を疑うわけではなく、ただ私をいっそう誉めあげようというほかに他意なく、主人の言葉を自分たちで確かめるため、私の炯眼《けいがん》を証拠立てたいと思いました。それで自分たちのところにある贋金全部を取りに行って、他の品質のよい貨幣と一緒にまぜて、私に見せました。私はこれを見て思いました、「やあアッラー、この人たち全部のところには、何とたくさん贋金があるのか、驚き入ったことだ。」
それにもかかわらず、私がするのをさし控えて、近所の人の前で家の主人の顔を黒くさせてはいけないと思い、眼の下に置かれた貨幣全部を、注意深く調べました。そして贋金のなかでただの一枚なりと、その上に前足を載せて、他のものと別にしなかったものはありませんでした。
それで私の評判は町のあらゆる市場《スーク》を通じて拡まり、主人の細君のおしゃべりのお蔭で、諸方の婦人部屋《ハーレム》にまでもひろがりました。そして朝から夕方まで、パン屋の店には、贋金を鑑別する私の伎倆《ぎりよう》を試みようとする物見高い人の群が、押し寄せました。私はこうして一日中忙しく、町の一番遠い地区から家の主人のところにやってくる、日々ますます数をます顧客《おきやく》を、満足させなければなりませんでした。こういう次第で、私の噂は私の主人に、町中全部のパン屋を寄せ集めたよりも、多くの客を得させました。私の来たことは、主人にとって宝物に劣らず尊いものであったわけで、主人は祝福することをやめませんでした。憐憫の情のお蔭で得た主人の好運は、羊の頭の商人を悲しませずにおかず、彼はがっかりして臍《ほぞ》を噬《か》みました。そして嫉みから、私に対していろいろ罠を張って、或いは私を攫《さら》おうとしたり、或いは、私が外に出るとすぐに界隈の犬をけしかけて、私をいやがらせようとしたり、せずにはいませんでした。けれどももう私はこわがる必要はありません。なぜなら、一方では主人が十分守ってくれますし、他方では、私のささやかな知識に感心する店主たちがみな、よく庇ってくれましたから。
このように、皆さんの尊重に囲まれて暮らして、既にしばらくたち、私はもし記憶のなかに、元の人間被造物の身分の思い出が絶えず戻ってこなかったとしたら、自分の生活に本当に幸福を覚えたことでございましょう。私をとりわけ苦しめたのは、犬のうちの一匹の犬であるということよりもむしろ、言葉を使うことができず、ただ眼付だけとか、脚を動かすとか、呂律《ろれつ》の廻らない叫びとかで、自分の意を現わさなければならぬ羽目に陥っていることでありました。またいくたびか、あの墓地の恐ろしい夜を思い出すと、毛は背中で逆立って、身ぶるいするのでございました。
ところが、日々のうちの或る日のこと、一人の品のよい様子の老女が、皆さんと同じく、私の噂に惹かれて、店にパンを買いに来ました。そして皆さんと同じく、パンを受け取って支払いをする段になると、わざと一枚の贋金をまぜた何枚かの貨幣を、私の前に投げて、実験してみることを忘れませんでした。それで私はすぐに、品質の悪い貨幣を他のものと見わけて、その上に足を載せ、どうか調べてくれといわんばかりに、老女を見つめました。すると老女は「お見事、たしかにそれが贋です、」と言いながら、その貨幣を引っ込めました。そして大そう感心して私をじっと見つめ、買ったパン代を主人に払って、そして出しなに、私に向ってほとんど気づかないほどの合図をしましたが、それは明らかに、「ついておいで、」という意味の合図でした。
さて私は、おお信徒の長《おさ》よ、私はこの御老女が全く特別に、私に関心を覚えていることを察しました。それというのは、私を調べたその注意振りは、他の人たちの私を眺める様子とは全然ちがっていたからでございます。しかしながら、慎重を期して、私はただそちらを見やるだけにして、そのまま立ち去らせました。しかるに御老女は、数歩行くと、私のほうを振り返って、私が自分の場所を動かずに、見やっているばかりなのを見ると、前よりもいっそうせき立てるような二番目の合図をしました。そこで私は、慎重よりも一段と強い好奇心に動かされて、主人が店の奥でパンを焼くのに没頭しているのを幸い、往来に飛び出して、その御婦人のあとを追いました。そして時々躊躇を覚えては立ちどまりながら、尾を振ってあとから歩いてゆきました。けれどもその婦人に励まされて、遂にはためらいに打ち勝って、私は一緒にその家の前に着きました。
するとその婦人は家の扉を開けて、まず自分がはいり、大そう優しい声で、私に自分のする通りするようにと誘って、言いました、「おはいり、おはいり、かわいそうに。お前はきっと後悔しはしませんよ。」そこで私もそのあとからはいりました。
するとその婦人は、扉を閉めて、中の部屋のほうに私を連れてゆき、一室の戸を開けて、私をそこに入れました。すると、月のような一人の若い娘が、長椅子《デイワーン》に坐って、刺繍をしているのが見えました。その娘は私を見ると、あわてて顔を蔽いました。御老女は言いました、「おお娘や、あの評判のパン屋の犬を連れてきましたよ、贋金と本物とをあれほど上手に区別できるという、あの犬ですよ。この犬についての噂が最初に立つとすぐ、私はどうもおかしいという疑いをあなたに話したことは、もう御承知ですね。それで今日、その主人のパン屋の店にパンを買いに行ってみたら、たしかにその事実にまちがいはありませんでした。それで私は、バグダードを感嘆させているこの珍しい犬を、ここまでついてこさせたから、ひとつあなたの考えをすっかり聞かせておくれ、おお娘よ。私の推量はまちがっていたかどうか、どんなものだろうね。」すると若い娘はすぐに答えました、「アッラーにかけて、おおお母様、やっぱりまちがってはいませんでした。今すぐ証拠をお目にかけましょう。」
そして若い娘は即刻即座に立ち上がって、水を満たした銅の盥《たらい》を取りあげ、その上に二言三言《ふたことみこと》何か私のわからぬ言葉を呟き、その水の数滴を私に振りかけながら、言いました、「汝もし犬に生まれしならば、犬のままにてあれ。されど汝もし人間に生まれしならば、この水の功徳によって、身を揺すって、元の人間の形に還れ。」すぐに私は身を揺すりました。すると魔法は破れて、私は犬の姿を失い、生まれた時の状態に従って、再び人間となりました。
そこで、感謝の念一杯になって、私はこのような大恩を謝するため、救いの乙女の足許に平伏しました。そしてその着物の裾に接吻して、言いました、「おお祝福された乙女よ、願わくはアッラーは、その最上の賜物を以って、私のあなた様に負う比類なき御恩に報いたまいますように。あなた様は見知らぬ男、お宅には他処人《よそびと》に、御恩を施したもうを躊躇なさいませんでした。あなた様に然るべく御礼を申し上げ、祝福申し上げるには、いかにせば私は言葉を見出すことができましょうか。せめては、わが身はもはやわが物ならず、あなた様は私をば、わが価いを遥かに越えた値段を以って、お買い取りなされたものと、思し召せ。そして、今やあなた様の持ち物となり所有となった奴隷をば、あやまたずお見知りおき願いたく、私は、お耳の苦痛とならずまたお心の疲れとならぬように、手短かにわが身の上をお話し申し上げとう存じます。」
そこで私は、自分が何者か、そしてどのようにして、独身の身からにわかに妻を迎える気になり、わが都バグダードの名士の娘の間からではなく、売り物買い物の異国の女奴隷の間から、妻を選ぶ決心をしたかを、話しました。そして救いの乙女とその母親が、熱心に聞き入っている間に、自分が北国の乙女の異様な美しさに心を誘われた次第、その乙女との結婚、それに対する私の親切と敬意、思いやりある振舞い、その変った挙動を我慢した辛抱なども、同様に話しました。それから、夜の恐ろしい発見とそれに続く一切を、一部始終、どんな細部も包まずに、物語りました。しかしそれを繰り返すまでもございません。
救いの乙女とその母親は、私の物語を聞き終ると、私の妻の北国の乙女に対して、憤慨の極に達しました。そして救いの乙女の母は、私に言いました、「おお、わが息子よ、あなたの迷いは何という不思議な迷いでしたろう。いったいどうしてあなたの魂は、異国人の娘のほうなどに傾くことができたのでしょう、私たちの都には、あらゆる色とりどりの乙女たちがこんなにたくさんいるものを。また、私たちの若い娘の頭上へのアッラーの御恵みは、こんなに選り抜きのものでもあり、数々でもあるものを。これはきっと、あなたがそんな風に迂闊に選んで、血からも、人種からも、言葉からも、産地からも、御自分とちがう人の手に、わが運命を委ねなすったとは、あなたは妖術にかけられたものにちがいありません。こうしたすべては、私にはよくわかっています、それは悪魔《シヤイターン》、悪霊、石もて打たれし者の唆《そそのか》しでした。けれども、私の娘を介して、あなたを異国女の悪心から救い出して、元の人間の姿に還したもうたアッラーに、感謝し奉りましょう。」そこで私は、その両手に接吻したあとで、答えました、「おおわが祝福された母君、私はアッラーの御前と、敬うべきあなた様の御面《みおもて》の前で、私の軽はずみな振舞いを悔悟いたします。私としては、あなた様の御慈悲の中にはいったように、あなた様の御一家の中にはいることができますれば、これ以上の願いはございません。さればもし私をば、魂気高いお嬢様の合法の夫として御承知下さいますなら、ただ承知のお言葉を仰せありさえすれば結構でございます。」すると母親は答えました、「私としては異存ありません。しかし、娘よ、あなたはどう思いますか。アッラーが私たちの路上に置きたもうたこのすぐれた若者は、あなたの気に入りますか。」すると若いわが救い主は答えました、「はい、アッラーにかけて、気に入ります、おお私のお母様。けれどもそれですべてが済むわけではありません。まず私たちは、今後この方を、あの昔の奥様の悪い仕打と悪心を蒙らないように、してあげなければなりません。なぜって、あの女がこの方を人間社会から追い出してしまった、その魔法を破るだけでは、十分ではないので、もう永久に害を加えることができない状態に、あの女《ひと》を封じ込んでしまわなければいけません。」そう言って乙女は私たちのいる部屋から出ましたが、すぐに、指の間に小壜をひとつ持って、戻ってきました。そして私にその水のつまっている小壜を渡して、言いました、「シディ・ネーマーン、私はいま私の古書を繰ってみますと、あの悪い異国女は、現在あなたのお宅におりませんけれど、おっつけ帰ってくると出ています。あの陰険な女は、あなたの召使たちの前では、あなたのお留守を大へん心配しているようなふりをしているとも、出ております。ですから、あの女が外に出ている間に、あなたはいそいで、今お手許に差し上げた小壜を持って、お宅に帰って、中庭で待ち、あの女が戻ってくると、だしぬけにあなたと顔を突き合わせるようになさいませ。すると予期に反して、あなたに再び出会って仰天して、あの女は後ろを向いて逃げ出そうとするでしょう。そうしたら、あなたはすぐにこの壜の水をあの女に振りかけて、呼ばわりなさい、『汝の人間の形を棄てて、牝馬となれ。』と。するとすぐにあの女は、牝馬のなかの一匹の牝馬に変ずるでありましょう。あなたはその背に飛び乗って、たてがみを掴み、抵抗してもかまわずに、ごく丈夫な二重の轡《くつばみ》を口に噛ませなさい。そしてあの女に相当した罰を加えてやるため、もうお腕が疲れて続かなくなるまで、激しく鞭を加えて懲らしておやりなさい。そしてアッラーの毎日、同じ目に遭わせてやるのです。そうすれば、あなたはあの女を抑えつけておけるでしょう。そうしないことには、あの女の悪心が遂には勝を制するのです。そしてあなたはその害を蒙りなさることになるでしょう。」
そこで私は、おお信徒の長《おさ》よ、私は承わり畏まって答え、いそいでわが家に、昔の妻の来るのを待ちに帰り、女が来るのが遠くから見えるように、そしてだしぬけに飛び出して顔を突き合わせることができるように、身を隠しました。するとやがて女は姿を現わしました。私はその姿を見て、またその心を動かす美しさを見て、はっといたしましたけれども、ここに来た目的のことを、致さずには措きませんでした。そして私はこの女を牝馬に変ずるのに十分成功しました。
そしてその時以来、私はわが血とわが人種のあの救いの乙女と、合法の絆《きずな》で相結ばれた上で、おお信徒の長《おさ》よ、わが君が馬場《マイダーン》で御覧遊ばしたあの牝馬に、惨酷な虐待を加えることを怠りません。いささかの疑いもなく、あのような虐待は、お目障りではござりましょうが、その弁明は、異国女のかくも危険な悪心のうちにあるのでございます。これが私の物語でございます。
教王《カリフ》はこのシディ・ネーマーンの話をお聞きになると、御心中で大そう驚いて、その若者に仰しゃいました、「なるほど、その方の物語は尋常でなく、その方があの白い牝馬に加える扱いも当然である。さりながら余としては、その方から妻に取り做して、あの牝馬はあのまま牝馬の姿にしておきながら、日々あれほど厳重に罰しないでもいいような手段を見出すように、計らってもらえればと思う。しかし、それが不可能とあらば、アッラーは至大にまします。」
こうお述べになって、アル・ラシードはこんどは第二の人物のほうをお向きになりました。それは、歩きぶりのうちに自ずと血統のうかがわれる駿馬に乗って、行列の先頭に立っていた立派な騎手、貴人《アミール》かどこかの王子のように輪乗《わの》りして、その行列のあとには、二人の貴女の坐っている轎《かご》と、インドとシナの曲を奏する楽師たちとが従っていた、あの騎手でございます。そして教王《カリフ》はこれに仰しゃいました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十六夜になると[#「けれども第八百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 小さなドニアザードは叫んだ、「おおお姉さま、お願いでございます、教王《カリフ》が、後ろにインドとシナの曲を奏する人々を従えた、若い騎上の人のほうをお向きになったとき、どんなことが起ったのか、はやく私たちに聞かせて下さいまし。」するとシャハラザードは答えた、「親しみこめて心からよろこんで。」そして次のように続けた。
教王《カリフ》は、御手の間に立っている美しい騎手、歩きぶりのうちに自ずとその血統のうかがわれる駿馬に乗って、輪乗《わの》りしているところに、昨日お会いになった男のほうに、お向きになると、これに仰しゃいました、「おお若者よ、その方の顔付より察するに、その方は定めし高貴の身の異国人であろうと思われた。そしてわが王宮に近よる便《よすが》を与えんがため、余はその方をわが面前に来たらせて、その方によって我らの耳と目を楽しませたいと思った次第じゃ。さればもしその方に、何ごとか我らに願いの筋があるとか、何ごとか我らに語るべき感嘆に値することあらば、これ以上遅延することなかれ。」するとその若者は、教王《カリフ》の御手の間の床に接吻してから、身をかがめて、答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、私がバグダードにまいりました動機は、使節とか代表とかの動機ではなく、ましてや物見遊山の動機ではございません。ただ私の生まれた国を再び見、世を終えるまでそこに暮らしたき望みからでございます。さりながら、私の身の上は極めて驚くべきものあり、我らの主君信徒の長《おさ》に、これをお聞かせ申し上げるを、躊躇致したくはございません。」
そして彼は言いました。
インドとシナの曲を奏する人々を従えた馬上の若者の物語(7)
されば、おお、わが御主君にして我らの頭の冠よ、私の昔の生業《なりわい》は、それはまた私の父と、父の父との生業でもございましたが、樵夫《きこり》でございまして、しかもバグダードの樵夫のなかでも、一番貧しい樵夫でありました。そして私の貧窮は甚だしく、それはわが家に、伯父の娘、即ち私自身の妻がおりますことによって、日毎に激しくなってゆきました。これがまた、口やかましく、慾張りで、喧嘩早く、虚《うつろ》な目とさもしい心を授けられている女でございました。おまけに、全然何の役にも立たず、まあわれわれの台所の箒ならば、この女とやわらかさとしなやかさを比べることも叶いましょうか。それで、この女は馬の蠅よりもしつこく、目隠しされた牝※[#「奚+隹」、unicode96de]よりも騒々しいもので、私は散々言い争い、失望したあげく、もういっさい口を利かず、そのあらゆる気紛れを文句なく実行して、一日の骨の折れる労働から帰った時、多少の休息を得ることにしようと、こう決心致しました。そのため、贈与者が何ドラクムかの銭《ぜに》で私の労を報いたもう時には、この呪われた女は、敷居を跨ぐとすぐに、駈けつけてそれを取り上げるのを、決して欠かさないことになりました。このようにして、私の生活は過ぎて行ったのでございます、おお信徒の長《おさ》よ。
ところが、日々のうちの或る日、それまで使っていた薪束を括る綱が、もうすっかりぼろぼろになったので、これを買い求める必要が生じ、そこで、妻に口を利くと思うとあらゆる恐怖を覚えたにも拘わらず、思い切って、新しい綱を買う必要があるということを、妻に知らせました。すると、買うという言葉と、綱という言葉が私の口から出たと思うと、おお信徒の長《おさ》よ、私はわが頭上に、暴風雨《あらし》のあらゆる扉が開かれるのを聞く思いでございました。もう悪態《あくたい》と咎め立てのとめどない雷雨で、それをわれらの御主君の御前で繰り返すことなど、決して急を要することではございません。そして妻はこう言って、そのすべてにきりをつけました、「この、やくざ者と悪者のなかでも一番悪い奴めが。きっとその金をよこせというのは、バグダードの淫売どもと一緒にむだ使いしに行こうというのにちがいない。だが安心するがいい、わたしゃお前さんのやることを、ちゃんと目を開いて見ているからね。もしその金をよこせというのが、本当に綱を買うためなら、それじゃ、私も一緒に出かけるから、私の目の前で買いなさい。それにもうこれからは、私を連れずには家の外に出してやらないからね。」こう言って、妻は乱暴に私を市場《スーク》に引っぱって行って、私の稼ぎに必要な綱の代金を、自分で商人に払うのでした。しかしそれも、この大騒ぎの買物がまとまったのは、どんなに値切った末か、また、私のほうとびっくりした商人のほうとをかわるがわる、どんなに睨みつけた末かは、ひとりアッラーのみ知りたまいます。
しかし、おおわが君、こうしたすべても、その日、私の不運の序の口にすぎなかったのでございます。それというのは、市場《スーク》を出て、私は自分の仕事に行くため、妻と別れようとしますと、妻は言いました、「いったいどこに行くのさ、どこに。わたしゃ一緒に行きますよ、お前さんを離れはしませんよ。」そしてそのまま、私の驢馬の背に飛び乗って、言い添えました、「お前さんは毎日山で薪を作って過ごしているとか言ってるが、これからはいつも、わたしゃ山までついて行って、お前さんの仕事振りを監督するとしよう。」
私は、この悲報に、おおわが君、世界中が私の顔の前で暗くなるのを見て、もうこれは死ぬよりほかないとわかりました。そして独りごとを言いました、「おお憐れな男よ、今はもうこの厄女は、お前の修道生活に息つく暇も与えないということになったぞ。少なくとも、前には、森に独りでいる間は、多少の安まる折もあった。それが今は、もうおしまいだ。お前のみじめさと絶望のうちに死ぬがいい。慈悲深いアッラーの外には、頼りも権力もない。われわれはアッラーから来て、アッラーに帰るのだ。」そして私は、一とたび森に着いたら、うつ伏せに寝て、そのまま黒い死によって死ぬにまかせようと決心しました。
こう考えて、一と言も返事をせず、私の魂と私の生命《いのち》の上にのしかかる重荷を、背に運んでいる驢馬のうしろから、私は歩いてゆきました。
ところが途中で、生命《いのち》にとっては大切な人間の魂は、死を避けるために、私に一つの計画を暗示してくれましたが、それは今まで全然思いもかけなかったものでありました。そして私はすぐにそれを実行せずには措きませんでした。
事実、私たちが山の麓に着いて、妻が驢馬の背から下りるやいなや、私はこれに言いました、「実はな、おお女房よ、こうなったら何も隠しちゃおけないから、白状するが、さっき買った綱は、俺のつもりじゃ、薪を縛るためのものじゃないのだ。あれは俺たちを末長く金持にするのに、役に立つはずのものだ。」そして妻がこの思いがけない告白を聞いて、呆気《あつけ》にとられている間に、私は妻を、もう何年も前から水の涸れている、一つの古井戸の口のほうに連れて行って、言いました、「ここに井戸があるだろう。いいか、ここに俺たちの運命がはいっているのだ。あの綱でもって、俺はこれからそれを取ってきてやる。」すると伯父の娘はますます思いまどっているので、私は付け加えました、「そうなんだ、アッラーにかけて、もうずっと前から俺は、この井戸のなかに隠れた宝があって、それが俺の運命の上に記《しる》されているという、お告げを受けたのだ。今日がいよいよ、それを探しに下りなければならない日なのだ。そのため俺は、お前にこの綱を買ってくれと頼む決心をしたわけだ。」
ところで、この宝と井戸に下りるという言葉を私が言い出すやいなや、私の予想したことは、十二分に実現したのでした。というのは、妻は叫び出しました、「いけないよ、アッラーにかけて、この私がなかに降りて行きますよ。お前さんなんか、決して宝を開いて、手に入れることなぞできはしないから。それに、お前さんの正直というのが、どうもあてにならないんだからねえ。」そして妻はすぐに面衣《ヴエール》をかなぐり棄てて、私に言いました、「さあ、いそいで私をこの綱に結《いわ》いつけて、この井戸のなかに下ろしておくれ。」そこで私は、おおわが君、形ばかり、多少難色を見せ、ためらったためいくらか悪態をつかれたあげく、溜息をついて言いました、「それじゃアッラーの御心《みこころ》に従い、お前の心に従って、するがいい、おお正直な人たちの娘よ。」そして私は、綱を妻の両腋に通して固く結んで、妻を井戸に沿って滑り下ろしてやりました。いよいよ妻が底に着いたと感じたとき、私は全部放して、綱を井戸の底に投げこみました。そして私は満足の吐息を吐きましたが、それは母親の胎内から出て以来、嘗つて私の胸から出たことのないような、吐息でありました。それから厄女にどなってやりました、「おお正直な人たちの娘よ、俺がお前を引き出してやりに来るまで、済まないがそこにいてくれよ。」そして返事なぞかまわずに、私は安らかに自分の仕事に戻って、歌を歌いながら薪を作りはじめました。こんなことは絶えて久しくないことでした。私は嬉しくて、何だか羽が生えたような気がしました。それほど、さながら鳥のように身軽さを覚えた次第でございます。
こうして、難儀の種から解放されて、私はやっと平静と平和の味を、味わうことができました。しかし二日たちますと、私はわが魂のなかで考えました、「やあ、アハマードよ、アッラーとその使徒――その上に祈りと祝福あれ――の掟《おきて》は、そのお姿にかたどられた一人の被造物の命を奪うことを、被造物にお許しにならぬ。然るにお前は、伯父の娘を井戸の底に置き放しにして、みすみす餓え死にさせかねない。たしかに、あんな被造物は最悪の待遇が相応だ。しかしお前は、女房の死のことで良心が咎めるようなことがあってはならぬから、井戸から引き上げてやるがいい。それに、この懲らしめで、女房の悪い性質がすっかり直るという見込みもあるのだ。」
この良心の意見に逆らうことができなくて、私は井戸に出かけて、新しい綱を下ろしてやりながら、伯父の娘に叫びました、「さあ、いそいで身体を結《いわ》いつけろ、引き上げてやるから。この懲らしめでお前も直ったろう。」すると、綱が井戸の底でつかまえられたように感じたので、しばらく待って、女房がしっかり身を結びつける時間を与えました。その上で、用意ができたとわからせるため、綱を揺すった模様なので、私は大骨折って綱を捲き上げました。全く綱の先についている目方は何とも重かったのです。ところが、おお信徒の長《おさ》よ、私の愕きはいかばかりだったでしょうか、この綱にくっついていたのは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十七夜になると[#「けれども第八百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……この綱にくっついていたのは、伯父の娘である代りに、見るからに物騒な巨人の魔神《ジンニー》なのを見たときには。するとその魔神《ジンニー》は、地上に出てくるとすぐに、私の前に身を屈《かが》めて、言うのでした、「何とも御礼の申しようがございません、やあ、殿《シデイ》アハマード、ただ今は大そうお世話になりました。それというのは、お聞き下さい。私は元来|魔神《ジン》のなかで空中を飛ぶ力がなく、地上を這うことしかできないほうのものでございます、もっともそうやってもその速度は非常に早く、空中の魔神《ジン》と同じくらい速やかに行けるのではありますが。そこで地の魔神《ジンニー》である私は、永年来この古井戸を選んで、自分の住居としておりました。そして至極平穏に暮らしておりましたところ、二日前のことです。この私の家に世界一の悪女が下りてきたのです。こいつが私の同棲者となってからというもの、私はもういじめられ通しで、永年来、独身暮らしで交合《まじわり》の習慣をなくしていたところに、その間中ずっと、ひっきりなしに相手をさせられづめでした。やあアッラー、あなたがこの厄女から私をのがれさせて下さったとは、何ともありがたいことです。いや、たしかに、こんな大した恩義というものは御礼なしではすまされません、それはその値打を知っている者の魂に、授かったのですからね。だから、そのお方のために、私のできもし、して差し上げたいとも思うことがあります。」
ここで魔神《ジンニー》は息をつくため、ちょっと口をつぐみましたが、一方私は、この魔神《ジンニー》が私に対して悪意のないことに安心して、考えました、「アッラーにかけて、あの女は全く恐ろしい代物だわい、|魔神たち《ジン》さえも、また魔神《ジン》のうちでも一番巨人の仲間さえ、ふるえ上がらせずにおかないとは。どうして俺はあんなに永い間、あいつの性悪《しようわる》と意地悪に、よく辛抱できたのだろうかなあ。」そして自分自身と、不幸の仲間とに対してそぞろ憐愍《れんびん》に溢れつつ、既につづけはじめたこの仲間の話に聞き入りました、「そうだ、やあ、殿《シデイ》アハマード、私はあなたを現在の樵夫の身分から、最も強大な王たちと同じ身分にしてあげたいと思う。それはこうするのです。私の知っているところでは、インドの帝王《スルターン》に独り娘があって、これは第十四夜の月のような乙女だ。ちょうど今十四歳と三カ月の、妙齢《としごろ》で、真珠母《しんじゆも》のなかの真珠のように処女だ。父王はその娘を自分の生命よりも愛しているが、そこで私はあなたを、そのインドの帝王《スルターン》の婿にしてあげようと思う。その計画を成功させるため、私はこの足で、最大の速力で、インドの帝王《スルターン》の王宮に行って、その王女の身体のなかにはいり、一時王女の精神に取《と》り憑《つ》いてやります。こうすれば、王女は憑かれた身となって、周囲の人たち全部に発狂したものと見えるから、父王はインド中の上手な医者に治させようと努めるだろう。だが医者は一人として姫の病気の真因を見抜けまい、それは姫の体内に私がいるせいなのです。それで彼らの一切の手当も、私の息の下で、また私の意志によって、失敗するだろう。そこでそのとき、あなたが俄然現われて、王女を全快させるという寸法です。そのためには、これからその手段を教えてあげましょう。」こう言って、魔神《ジンニー》は懐ろから何か知らない木の葉を数枚取り出して、それを私に渡して言い添えました、「あなたは病気の若い王女のそばに案内されたらすぐ、いかにもその病気が全然不明といった風によく診察し、首を傾《かし》げて考えに耽るような恰好をして、側近の人にもっともらしく見せる。そして最後に、この葉を一枚取り出して、水にひたし、それでもって若い娘の顔を撫でるのです。すると私はすぐに、姫の体外に飛び出さずにいられなくなるから、即刻即座に、姫は正気を取り戻して、元のようになります。そこで今度は、治してくれた褒美として、あなたはその王女の乙女の夫となるというわけです。このようにして、やあ、殿《シデイ》アハマード、あなたが私をあの恐ろしい女から救い出して下さった大恩に対して、お報い申したいと思うのです。あいつが来たため、せっかく隠遁して日々を過ごすつもりでいた、あの申し分ない静かな場所である井戸にいることが、もうできないことになってしまったのでした。どうかアッラーはあの厄女を呪いたまいますように。」
このように語って、その魔神《ジンニー》は、ぜひ私にすぐインドの国に出発するようにせき立てつつ、別れを告げ、私に無事の旅を祈り、さながら暴風雨に押しやられる船のように、地の表《おもて》を駈けながら、私の眼から見えなくなってしまいました。
そこで私は、おおわが君、自分の運命はインドで私を待つと知って、ためらわず魔神《ジンニー》の指図に従うことにして、すぐにその遠国指して旅立ちました。アッラーは私に安泰を記《しる》したまい、それを御主君にお話し申し上げても全く詮なきことでございますが、数々の疲労、難儀、危険に満ちた長旅の末、恙《つつが》なく、インドの国、わが未来の花嫁の王女の父君、帝王《スルターン》の治めていられる地に、到着致しました。
こうして旅の終点に行き着きますと、果して、既にしばらく前から、王女の狂気が発表されて、宮中と全国をこの上ない驚愕に投じ、一番の名医たちの学識を用いてもその甲斐なく、今は帝王《スルターン》は姫を治した者には姫を賜わるという約束をなされた由、承知しました。
そこで私は、おお信徒の長《おさ》よ、魔神《ジンニー》の授けた指図を心あてにし、成功について何の不安も抱かずに、一日に一度、王女の精神に治療を試みたい人々に、王が謁見《えつけん》を賜わることになっているので、そこに出頭しました。そして若い姫の閉じこめられている部屋に、自信たっぷりではいり、魔神《ジンニー》の教えを実行するのを忘れず、あらゆる勿体ぶった恰好をつけて、人々に真に受けさせるようにしました。そしていったん側近の人全部に十分もっともらしく見せかけるとすぐに、病人の病状については何ひとつ訊ねずに、私は持っている葉を一枚濡らして、それでもって王女の顔を撫でました。
その瞬間に、若い姫君はけいれんを起して、一と声大きな叫びをあげ、気絶してしまいました。ところでそれは、魔神《ジンニー》が姫君の身体から激しい勢いでいきなり飛び出したため、そういうことになったので、これが私以外の者であったら、さぞびっくりしたことでしょう。けれども私は少しも騒がず、姫君の顔に薔薇水を振りかけて、正気づかせました。そして姫はすっかり正気を取り戻して目が覚め、まわりにいる人々をちゃんとわかって、めいめいをその名で呼んで、賢く、優しく、落着いて、みんなに言葉をかけはじめました。
それで王宮でも全市でも、大へんな喜びでございました。インドの帝王《スルターン》は、私の労を感謝して、約束を取り消さず、王女を私に賜わりました。婚礼は即日、全人民の歓びと幸福のただ中で、この上なく盛大に取り行われました。
このようにして私は、インド王の王女たる姫の夫となったのでございます。
また轎《かご》の左側に坐っているのを御覧遊ばした二番目の姫につきましては、おお信徒の長《おさ》よ、次のような次第でございます。
その巨人の魔神《ジンニー》は、われわれ二人の間で結んだ契約のため、インドの王女の身体を去ると、もう住居はなし、あの井戸は相変らず私の伯父の娘の厄女が占領しているので、今後はどこに住みに行ったものかと、心中でいろいろ考えたのでありました。それに、乙女の身体に滞在しているうちに、結局この種の隠れ家も悪くないと思うようになってきて、ここから出たらまた別な乙女の身体を探しに行こうと思い定めていたのでした。そこでしばらく考えこんでから、魔神《ジンニー》は飛び出して、暴風雨に追われる巨船のように、全速力でシナの王国に向いました。
そして魔神《ジンニー》は、シナの帝王《スルターン》の王女で、十四歳と三カ月、第十四夜の月のように美しく、真珠母のなかの真珠のように処女の、乙女の身体のなかに住みに行くのが、何よりと思いました。それで途端に、取り憑かれた姫は、つづけさまに身をよじらせ、変な動作をしはじめ、とりとめない言葉を口走りはじめて、どうしても発狂としか思われません。そこで不幸なシナの帝王《スルターン》は、シナで一番の名医たちを王女の許に呼んでもその甲斐なく、どうしても首尾よく元のような身体に戻してやれません。何しろ姫は独り娘であり、麗わしく美しいと等しく、優しい乙女であったので、帝は宮中と王国の人々と共に、悲嘆と絶望に陥りました。けれども最後に、アッラーは帝を憐れみたもうて、私の妻になったインドの王女が、私の手当で不思議に全快したという噂を、帝のお耳にまで達しさせたもうたのでした。そこですぐに帝は、私の妻の父王の許に、使節を派して、私にシナの王女たる姫君を治しに来ていただきたい、成功の節は姫を妻に差し上げるとの約束を申し出たのでした。
そこで私は、インドの帝王《スルターン》の娘である私の若い妻に会いに行って、その依頼と申し出を知らせました。そして首尾よく妻を説き伏せて、成功の節は私の妻にするというそのシナの王女を、自分の妹として迎えて少しも差支えないということになりました。そこで私はシナに出発しました。
ところで、おお信徒の長《おさ》よ、ただ今お話し申し上げたシナの王女に魔神《ジンニー》が憑いたということは、これは私がシナに着いてはじめて、しかも件《くだん》の魔神《ジンニー》の口から直接聞いたことなのでございます。それというのは、それまで私は、シナの王女の患っている病気の性質をはっきりとは知らず、私の持っている木の葉でもって、何だって治せるだろうと思っていた次第でした。それゆえ、まさか私の旧友の、巨人の魔神《ジンニー》が、帝王《スルターン》の姫の身体を住居に選んだので、それが病因になっているとはつゆ知らず、自信満々出発したのであります。
ですから、病人と二人だけにしておいてくれるように要求して、ひとたびシナの王女の部屋にはいって、友人の巨人の魔神《ジンニー》の聞き覚えのある声を聞いたときの、私の驚きはこの上ないものがございました。魔神《ジンニー》は王女の口を通じて、こう言うのでした、「おや、あなたではないか、やあ、殿《シデイ》アハマード。おれがせっかく晩年のために選んだ住居から、おれを追い出そうとて来たのは、おれが恩恵の限りを尽してあげたあなたなのか。善に報いるに悪を以ってしようとは、あなたは恥ずかしくはないか。もしあなたが強いておれをここから立ちのかせる気なら、おれはこれからまっすぐインドに行って、あなたの留守中、あなたのインドの奥さんをつかまえ、さまざまの激しい交合《まじわり》に耽って、そのあげく殺してしまうが、それでも恐くはないか。」
この威《おど》しに私は少なからず恐れをなしていると、魔神《ジンニー》はそれに乗じて、私のインドの妻の身体を出た時からの、自分の身の上を話して、自分の選んだ新しい住家に、自分を安らかに暮らさせておいてくれとしきりに頼み、そのほうが私の身のためだと言うのでした。
そこで私は大いに困り、要するに私の好運の因《もと》となったこのありがたい魔神《ジンニー》に対して、恩義に背くような真似はしたくないと思い、もうシナの帝王《スルターン》の許に帰って、私の学識では、王女の御病気を追い払うことはできない旨おことわりしようと、いよいよ覚悟をきめようとすると、そのときアッラーは私の精神に或る戦略を吹きこんで下さいました。そこで私は魔神《ジンニー》のほうを向いて、これに言いました、「おお魔神《ジン》の首長、彼らの冠、おお親切なお方よ、私がここに来たのは、シナの王女を治すためではないのです。私がはるばる旅をして来たのは、それどころか、実はあなたの御助力をお願いしたいためです。あなたはきっと、あの井戸のなかで、一緒にいてしばらく不快な時をお過ごしになった女を、覚えていらっしゃいましょう。ところで実はあの女は、私の妻、伯父の娘だったのです。あれを井戸に放りこんだのは、平安を得たいと思って、この私がしたことでした。ところが、災厄《わざわい》が今私を追いかけて来ています。誰か知らないが、あの犬の娘をあそこから引き出してしまったからです。とにかくとうとうあいつは自由の身になって、私のあとを追いかけてきます。どこまでもついてきて、おお我らの不幸かな、今にもこの場にやって来るでしょう……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十八夜になると[#「けれども第八百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……はや王宮の中庭に、あいつがあのたまらない声で怒鳴りちらしているのが聞えます。後生です、おおわが友よ、私を助けて下さい。御助力を切にお願い申します。」
魔神《ジンニー》は私の言葉を聞くと、何とも言えない恐怖に襲われて、叫びました、「御助力だと、やあアッラー、御助力だって! どうかおれの兄弟の|魔神たち《ジン》が、おれがまたあんな女と面《つら》つき合わせる羽目になるのを、防いでくれるように。わが友アハマードよ、まああなたはせいぜい何とか自分で切りぬけてくれ。おれとしては、何とも手の施しようがない。おれはこのまま御免を蒙る。」
魔神《ジンニー》は言って、王女の身体からどたばたと出て行って、脚を風に委ね、足下に距離を無くしました、さながら、海上の、暴風雨に追われる巨船のように。
かくてシナの王女は正気に返りました。そして私の第二の妻になったのであります。
爾来私はこの二人の王家の娘と共に、あらゆる種類の歓楽と、妙《たえ》なる快楽の裡に暮らしました。
そこで私は、やがてインド或いはシナの帝王《スルターン》となって、旅をすることができない身となる前に、自分が生まれて樵夫《きこり》をして暮らした国、平安の都このバグダードの町を、今一度見ようと思い立ちました。このような次第で、おお信徒の長《おさ》よ、君はバグダード橋上で、私が行列の先頭に立ち、わが二人の妻、インドとシナの王女を乗せた轎《かご》を従え、王女たちに敬意を表するために楽手がそれぞれの楽器で、インドとシナの曲を奏しているところに、お出会いなされたのでございます。
これが私の身の上話でございます。さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする。
教王《カリフ》は馬上の貴公子の話をお聞きになると、これに敬意を表して立ち上がり、おそば近く玉座の褥《しとね》の上に坐るように、お誘いになりました。そして彼に、全能者の神命によって、元の貧しい樵夫の身から、インドの王座とシナの王座の世継の身となるべく選ばれたことを、祝辞を述べなされました。そして付け加えなさいました、「願わくはアッラーは、我らの友誼を固めたまい、御身の未来の王国の福祉のため、御身を守り、永らえさせたまえかし。」
そのあとで、アル・ラシードは第三の人物、気前のよい掌《たなごころ》の尊ぶべき老人《シヤイクー》のほうにお向きになって、これに仰しゃいました、「おお御老人《シヤイクー》、余は昨日バグダード橋上にて、その方に出会ったが、余の見たるその方の寛仁と、謙譲と、アッラーの御前にての謙遜とは、余にその方を更に近く知りたい念を覚えしめた。報酬者がその賜物を以ってその方に報いたまわんがため、お用い遊ばしたる道は、定めし並々ならぬものであろうと、余は信ずるのじゃ。余はそれをその方自身から親しく聞きたくてならぬ。わざわざ呼び出したるは、その満足を余に与えてもらいたいためにほかならぬ。されば、更に事情をよく知って、その方の幸福を共々悦びたく、どうか包まず話してもらいたい。たとい何ごとを言おうとも、その方はあらかじめ余の保護と庇護の手巾《ハンケチ》を以って蔽われていることを、疑うなかれ。」
すると気前のよい掌の老人《シヤイクー》は、教王《カリフ》の御手の間の床《ゆか》に接吻してから、答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、私はわが生涯において語るに値することをば、さながらにお話し申し上げましょう。しかし私の物語が驚くべきものとしても、宇宙の御主《おんあるじ》の権力と寛宏とは、更にいっそう驚くべきものがございまする。」
そして彼は次のように、その物語を語ったのでございます。
気前のよい掌の老人の物語(8)
されば、おお、わが君、一切の仁慈の君よ、私は私以前わが父と父祖のしておりましたと同じように、生涯、苧《お》のなかで働きつつ、貧しい縄作りの業を営んでおりました。この商売で私の稼ぐところは、妻子を抱えて衣食をしてゆくのに足らぬ勝ちでございました。けれども、他の職業を営む力もないままに、私は報酬者の私どもに授けたまう僅かのものに、あまり不平も申さず満足して、自分の貧困は、ただ自分の知識の不足と精神の鈍さのせいとしか思いませんでした。その点、私は思い誤ってはいなかったので、私はそれを、叡智の御主《おんあるじ》の御前にて、全くへり下って、白状しなければなりませぬ。さりながら、おおわが君、叡智は決して、苧のなかで働く縄作りどもの領分であったためしはなく、その好みの場所は、苧のなかで働く縄作りの捲頭巾《ターバン》の下には、あり得なかったのでございます。それゆえに、いずれにせよ私は、カフ(9)の山の頂きを一と飛びで跨ぐというよりも実現困難な望みなど言い出すことなく、ただアッラーのパンを食べてさえいればよい次第でございました。
さて日々のうちの或る日のこと、私は自分の店に坐って、足指に苧縄を結びつけ、ちょうどそれが出来上ろうとしているとき、そこにこの町内の二人のお金持の住人で、いつも私の店の前に坐りに来て、夕方の空気を吸いながら、四方山の話をしていらっしゃる方が、こちらにお出でになるのが見えました。この私の町内の二人の名士は、親交を結んでいらして、お二人同士で、琥珀《こはく》の珠数《じゆず》を爪繰りながら、或る時はこのこと、或る時はあのことと、論じ合うのがお好きでした。けれども決して、議論が激して、相手よりも威丈高の言葉を発するとか、人の世の交際で、友人が友人に払うべき温厚を棄てるなどということは、お二人にはありませんでした。それどころか、一方が話している時は、他方は聴き入り、お互いにそうなさるのでありました。そのため、お二人のお話はいつも道理に叶っていて、私自身も、知慧足らぬにも拘わらず、このように立派なお言葉には、裨益されることができました。
さてその日も、お二人が私に挨拶《サラーム》をなさり、私も然るべくそれにお返ししますと、お二人は私の店先のいつもの場所にお就きになり、既に散歩中から始めていなすったお話を続けなさいました。その一人でシ・サアード(10)と仰しゃる方が、今一人のシ・サアーディと仰しゃる方に言うには、「おおわが友サアーディよ、お言葉にそむくわけではないが、しかしアッラーにかけて、人間この世では、誰であろうと他人の掣肘を受けずに生きられるだけの、財産と十分な富がないことには、仕合せであることはできませんよ。それに貧乏人といっても、親子代々貧乏に生まれついたがゆえに、もしくは金持に生まれたが、濫費だの、放蕩だの、何かの事業に失敗するだの、或いは単に人間にはどうしようもない宿命だのによって、富を失ったがゆえに、貧乏であるにすぎない。いずれにせよ、おおサアーディよ、私の意見は、貧乏人といっても、十分の資金を掻き集めて、ちょうどうまい時期に何か商売上の事業を企て、それで以って決定的に金持の身になることができないがゆえに、貧乏であるにすぎぬ、とこういったものだ。そして私の気持は、こうして金持になって、自分の富を適当に用いるならば、彼らも単に金持であるだけに止まらず、時と共に非常な大尽の身ともなるだろう、とまあこういったものですね。」
それに対して、シ・サアーディはこう答えるのでした、「おおわが友サアードよ、お言葉にそむくわけではないが、しかしアッラーにかけて、遺憾ながら私は意見がちがう。まず最初に、一般に、貧乏にあるより安楽にあるほうがよいのは、これはきまっている。しかし富そのものはだね、これは元来、野心のない魂を誘うことのできるようなものは何ひとつない。せいぜい、われわれの周囲に惜気なく施しをするに役立つぐらいのものだ。しかし富には何と多くの不都合があることだろうか。私たち自身も、それについては多少の覚えがありはしないか、日々これほど色々の厄介と苦労のある私たちはねえ。それで、私たちの友人の、ここにいる縄作りのハサンの境遇のほうが、畢竟、私たちのそれよりも望ましいものではないかしらん。それにまた、おおサアードよ、あなたの言う、貧乏人を金持にする方法も、私にはあなたほど確かな方法とは思えない。事実考えてごらんなさい。この方法は実にあてになりませんぜ。だってそいつは、その方法そのものと同じくらいあてにはならない、多くの事情と運次第なわけで、そういう事情や運なぞは、論じていたらきりがない。まあ私としては、手持ちの金が全然ない貧乏人だって、少なくとも、多少の金のある場合と同じだけの、金持になる機会はあるものと、こう思う。という意味は、その男は、最初の投資がなくとも、日ましに大へんな大金持にもなり得る、それも少しも骨折らずに、単にそれが彼の運命のうちにあるというだけのことでね。それだから、悪い日に備えて倹約しておくなんていうことは、全然無駄だと思うな。悪い日も好い日も、アッラーからわれわれに来るのだからね。報酬者が日々われわれにお授けになる福利を、けちけちしてからに、残りを貯えておこうなんて心懸けるとは、とんでもない誤算です。その残りは、おおサアードよ、もしあるなら、アッラーの貧乏人たちのところに行くべきだ。そいつをわが身のためにしまっておくとは、報酬者の寛仁に対する信頼が足りないのだ。私についていえばだね、おおわが友よ、私は毎朝こう言いながら目覚めない日は一日もない、『楽しめよ、やあサアーディ。お前の主の恵みは今日はどういうことになるか、わかりはしないからな、』と。それで私の報酬者に対する信は、嘗つて裏切られたことはない。それだからこそ、私は生涯一度も働いたこともなけりゃ、明日をくよくよ思ったこともない。これが私の気持ですよ。」
このお友達の言葉を聞くと、名士のシ・サアードは答えました、「おおサアーディ、今日のところは、あなたの御意見に反対して、あくまで私の意見を主張してみたって、全くはじまらないことがよくわかります。それだから、空しく議論を戦わせる代りに、むしろ私は、私の人生観のよさをあなたに納得させることができるような実験を、ひとつしてみたいと思う。これからすぐ、父親も当人と同じくらい貧民であった、本当に赤貧な男を誰か探しに行って、私はその男に、最初の資金となるだけの相当の金額を、全く無償でくれてやろう。それで私の選ぶ男は、必ず自分の正直なところを示してくれるだろうから、その実験でもって、私たち二人のうちどっちが正しいか、証拠立ててくれるでしょう。一切を運命に待つあなたか、それとも、自分の家は自分で建てなければならぬと考える私か、どっちかをですな。」
するとシ・サアーディは答えました、「そう、まさにそれがいい、おおわが友よ。それに、仰せの貧乏で正直な人間を見つけるには、何も私たちは遠くまで出かける必要はない。ここに私たちの友人、縄作りのハサンがいる。この人なら必要な条件にうってつけだ。あなたの施しは、これ以上適当な頭上に落ちることはできますまい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六十九夜になると[#「けれども第八百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとシ・サアードは答えました、「アッラーにかけて、その通りだ。われわれの手近にあるものを、わざわざ他処《よそ》に探しに行こうなどと思ったのは、単に私としてふと失念しただけのことでした。」
次に彼は私のほうに向いて、言いました、「やあ、ハサン、お前さんには家族がたくさんあって、それがまたたくさんの口とたくさんの歯を持ち、贈与者のお授けになった五人の子供のうち、まだ一人も、こればかりもお前さんの手助けをできる年頃じゃないことは、私も承知している。それに一方、原料の苧《お》も現在の市場《スーク》の相場でさして高くはないとはいえ、それを買うにはやはり多少の金子《かね》がいることも、私は承知している。そして金子を持つには、貯金をしておかなければならぬ。だが貯金といっても、出資が出銭よりも少ないお宅のような家庭じゃ、ほとんど無理だ。そこで、やあハサン、ひとつお前さんを貧困から脱れるのにお力添えをするため、私は金貨二百ディナールの金額を進呈して、それをお前さんの縄作り商売を拡張する資金にしてあげたいと思う。どうだ、お前さんはその二百ディナールの金額でもって、上手に抜け目なく金を利殖させて、首尾よく切り抜けることができると思うかね。」
そこで私は、おお信徒の長《おさ》よ、答えました、「おお、わが御主人様、どうかアッラーはあなたのお命を長くし、あなたの御仁慈が私に賜わるものを百倍にして回収させて下さいますように。せっかくお尋ね下さるからには、敢えて申し上げますが、穀粒は私の地面で肥えた地層に落ちるわけでございまして、自分の働きをあまり己惚《うぬぼ》れなくとも、もっとずっと少ない金額でも、私の手の中にあれば、同業の主だった縄作りの人たちと同じくらい金持になるばかりか、このバグダードの都が、どんなに人が多く、どんなに広大だろうと、都中の縄作り全部を寄せ集めたよりも、私ひとりだけで、もっと大尽の身になるのにさえ、十分でございましょう、――もしアッラーがお恵み下さりさえすれば、――|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》。」
するとシ・サアードは、私の返事に大そう満足して、私に言いました、「いや大そう頼もしいお言葉だ、やあハサン。」そして懐中から財布を取り出して、それを私の手の間に置いて、言いなさいました、「この財布をおとりなさい。ここにはその二百ディナールがはいっている。どうか幸いな分別ある使い方をして、ここに富の芽生《めば》えを見出すことができなさるように。私と友人シ・サアーディとは、他日、お前さんが富み栄えて、窮乏にあるよりも仕合せの身になったということを承われば、悦びこの上ないであろうことを、くれぐれも覚えておいてもらいたい。」
そこで私は、おおわが君、その財布を受け取って、もう有頂天の極に達しました。私の感激は甚だしく、このような場合言うにふさわしい感謝の言葉を、わが舌に言わせることもできないほどでした。まあやっと、地面までお辞儀をして、恩人の着物の縁《へり》を掴まえてわが唇と額に持ってゆく落着きを持つのが、せいぜいでございました。しかし恩人は謙遜にいそいで私の手を振りきって、暇《いとま》を告げました。そして友人シ・サアーディと連れだって、途切れた散歩を続けようと立ち上がりました。
さて私は、お二人が遠ざかると、私の心に自然と浮んできた最初の考えは、この二百ディナールの財布を、どこにしまったら全く安全か、そのしまい場所を探すことでした。何しろ一と間きりしかない私の貧しい小屋のなかには、箪笥も、箪笥の嗅いも、抽斗《ひきだし》も、長持も、およそ隠さなければならぬ品を隠せるような、それに類したものは何ひとつないので、私はすっかり困ってしまい、一時は、利殖させる方法が見つかるまで、さしあたりこの金を、町の外のどこか人気のない場所に、埋めに行こうかとも考えました。しかしその隠し場所が運悪く人に見つけられたり、或いは私自身が誰か農夫などに見咎められたりしかねないと思って、これは思い止まりました。するとすぐに、まあとにかく一番よい処置は、この財布を、自分の捲頭巾《ターバン》の襞のなかに隠しておくことだという考えが浮びました。それで即時即刻、立ち上がって、店のなかにはいって戸を閉めきり、自分の捲頭巾《ターバン》を長々とほぐし拡げました。そしてまず財布から金貨十枚を取り出して、当座の用に別にして、残りを財布と一緒に、捲頭巾《ターバン》の布の端を持って、布の襞の中にくるみました。その端を財布にくくりつけて帽子にぴったりあてがい、改めて、きちんと揃えて四つ巻にして、捲頭巾《ターバン》をととのえました。そうすると私はやっと楽に息ができるようになりました。
さて、この仕事を終ると、私は再び店の戸を開けて、入用なもの全部を仕入れに、いそいで市場《スーク》に出かけました。まずはじめに苧をたっぷり買って、店に運びました。それがすむと、もう永いことわが家では肉を見なかったので、私は肉屋に行って、仔羊の肩肉を買いました。そしてこの仔羊の肩肉を女房のところに持って行って、トマトで料理させようと思い、わが家の道を行きました。このおいしい御馳走を見て子供たちの悦ぶのを、私は今から楽しみにしておりました。
けれども、おおわが君、私の好い気さ加減は罰を受けないですむにはあまりに、誰の目にも明らかに見えたのでした。というのは、その肩肉をば、私は頭の上に乗せて、両腕をぶらぶらさせ、心は大尽の夢に耽りながら、道を歩いていたのです。するとそこにいきなり、飢えた鳶《とび》(11)がこの羊の肩肉めがけて襲いかかり、私が腕をあげるとか、その他、ほんの少しの行動をする暇もなく、中身入りの捲頭巾《ターバン》もろとも、肉を攫《さら》って、嘴に肩肉をくわえ、爪に捲頭巾《ターバン》を掴みながら、飛び去ってしまったのでございます。
そこで私はこれを見て、物凄い叫び声をあげはじめ、それがあまり激しかったので、近所の男も女も子供も憐れを催して、私の叫びに彼らの叫びを合わせて、泥棒を威《おど》し手放させようとしてくれました。けれども私たちの叫びは、そういう結果を生ずる代りに、ますます鳶《とび》の羽搏きを速めさせるだけのことでした。そしてやがて鳶は、私の財産と運を持ったまま、空中に没してしまいました。
私はすっかり口惜しく悲しんで、とにかく別な捲頭巾《ターバン》を買う決心をせざるを得ず、そのため、かねて財布から取っておいた分《ぶん》、今や私の全財産となった金貨十ディナールは、更に減ったわけです。ところで、その金も既に、苧の貯えを買い入れるのに大部分を使ってしまったので、残った分は今後、私の大尽の未来について確実な希望を私に抱かせるには、到底足りぬものでした。しかしたしかに、私にとって一番心苦しく、眼の前の世界を暗くすることは、恩人のシ・サアードが、御自分のお金の投資ともくろんだ実験の成功を委ねる人間の、選択を全く誤ったと感じ、さぞ御不満を覚えなさるだろうという思いでありました。それにまた、あの方はこの不運な事件を知ったら、おそらくは私の作りごとと見なして、私に軽蔑を浴びせなさることであろうとも思ったのでした。
それはともかくとして、おおわが君、鳶に攫《さら》われた後、手許に残った数ディナールの続く間は、私どもは家であまりみじめな状態ではありませんでした。けれども、その最後の小銭も尽き果てると、私どもはやがて以前と同じ貧困に再び陥って、私は自分の状態から依然のがれ出ることができませんでした。さりながら、私は至高者の神慮に対して不平をこぼすことは固く慎しんで、こう考えました、「おお憐れな男よ、報酬者はお前がほんの少しもあてにしていなかった時、財を賜わり、ほとんど同時に、それをお前から取りあげなすった。それはかくのごときがその御意であり、その資本はその御方のものであったがゆえだ。神命の前にあきらめて、神意に従い奉れよ。」私はこういう気持でいたのでありましたが、まあ女房にも自分の蒙った損失と、それがどうして自分に降りかかったかを知らせないわけにゆかなかったところ、女房のほうは全く慰めきれないものがございました。またかてて加えて不運なことには、何しろ思い乱れておりましたもので、つい口がすべって、近所の人たちにもやはり、捲頭巾《ターバン》を無くして、一緒に金貨百九十ディナールの価格をも無くしたと、洩らしてしまいますと、彼らはずっと前から私の貧乏はよく知っていたので、私が捲頭巾《ターバン》紛失のため気が変になったのだと思って、自分の子供たちと一緒に、ただ私の言葉を嘲笑《あざわら》うだけでした。女どもは私が通って行くと、笑いながら言うのでありました、「自分の捲頭巾《ターバン》と一緒に、正気まで飛び立たせてしまった男がいるわ。」
こうした次第でございます。
さて、おお信徒の長《おさ》よ、鳶がこの不幸を惹き起してから約十カ月たちますと、あの二人の友人の殿方シ・サアードとシ・サアーディは、二百ディナールの財布を私がどう使ったか、その消息を私に訊ねに来ようと思い立ちなすったのです。そして私のほうにやって来ながら、シ・サアードはシ・サアーディに言っていました、「もう数日前から、私はわれわれの友ハサンが、われわれの実験の成功をあなたに目《ま》のあたり証明して、私に非常な満足の悦びを与えてくれるだろうと、考えていた次第です。きっとあの男はすっかり変って、私たちはたやすくあの男とはわからないくらいでしょうよ。」そしてお二人が既に店のすぐ近くまで来ると、シ・サアーディは微笑しながら答えるのでした、「どうやら、アッラーにかけて、おおわが友サアードよ、あなたはまだ実らぬうちに胡瓜を食べているらしい。この私には、私自身の眼に、既にハサンが今まで通り、足の指に苧を結びつけて、坐っているのが見えるが、彼の身にはこれといって何ひとつ変った様子が、わが眼を驚かすこともない。なぜといって、あの男はあそこに昔と同じように貧しい身装《みなり》をしていて、あの男に見受けられるちがった点といえば、ただ捲頭巾《ターバン》が六カ月前よりか少しはひどくなくなり、小汚なくなくなったというだけですからね。まああなた御自身でごらんなさい。私の言うことは反対の余地がないことがおわかりだろう。」
そこで既に店の前まで来たシ・サアードは、私をつらつら眺めてみると、彼もまた、私の状態に変りはなく、私の様子がよくなった模様もないのを見ました。二人の友は私のところにはいってきて、慣例の挨拶《サラーム》ののちに、シ・サアーディは私に言いました、「どうした、ハサン、なぜそんなやつれた顔付と浮かぬ顔をしているのか。きっとお前さんの仕事が心労多く、生活が変って何か面白くないことがあるのだね。」そこで私は眼を伏せて、答えました、「おお、わが御主人様方、どうか、アッラーはあなた様方のお命を永くして下さいますように。だが天命はいつも私に非でございまして、現在の苦労は過去の苦労よりもひどうございます。わが御主人サアード様がその奴隷にお置き下された信頼は、見事裏切られてしまいました、その奴隷の所為《せい》ではなくて、天運の敵意の所為《せい》なことは事実でございますけれど。」そしてお二人に私の事件をば、おお信徒の長《おさ》よ、先ほどわが君にお話し申し上げました通りに、委細話しました。しかしそれを繰り返すまでもございません。
私が自分の話を終えると、シ・サアーディは、大そう失望したシ・サアードを見やりながら、意地悪く微笑するのでした。しばらく一同無言でおりましたが、やがてシ・サアードは私に言いました、「いかにも、成功は私の期待通りにはゆかなかった。しかし私はお前さんを咎めまい。どうもその鳶の話は少々妙で、私としては文句をつけて、お前さんは、全く別に使わせるつもりで私のあげた金でもって、楽しんだり、遊んだり、御馳走を食ったりしたのじゃないかと、疑いをかけて然るべきふしもあるけれどもな。まあそれはともかく、私はもう一度、お前さんで実験をし、前と同じ金額を今一度渡してみたい。私のほうのただ一回の試みで、わが友サアーディに議論に勝たせたくはないからね。」
こう申されて彼は二百ディナールを数えながら、私に言いました、「こんどはこの金額を、捲頭巾《ターバン》のなかに隠してもらいたくないね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十夜になると[#「けれども第八百七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして既に私がその手をとって唇にあてようとすると、彼は立ち去って、御友人と一緒に行ってしまいました。
さて私は、お二人が行かれたあと、もう仕事をつづけず、いそいで店を閉めて、わが家に帰りました。この時刻には、家で妻子に会うおそれがないことを知っておりましたので。そして二百ディナールのうち、十ディナールだけ別にして、残りの百九十ディナールをば、麻布にくるんで、しっかり結びました。あとはこの品を隠す安全な場所を探すだけが問題です。ですから、永いこと考えた末、私はこれを糠《ぬか》の詰まった甕の底にしまおうと思いつきました。これならば誰も探してみることなど思いもかけまいと、想像したわけです。そしてその甕をもとの片隅に戻して、外へ出ました。折から女房が食事の支度に戻ってきたところでしたので、私は出がけに、苧を買いに行くが食事時には戻ってくると、言い置きました。
ところが、私がその買い物をしに市場《スーク》に行っている間に、あの女たちが風呂で使う髪洗いの粘土を売る男が、たまたま街を通りかかって、大声あげて触《ふ》れまわりました。すると女房は長いこと髪を洗わなかったので、その販売人を呼びました。ところが金子《かね》を持ち合わせていなかったので、どうやって払ったらよいかわからず、心の中で独りごとを言いながら、こう考えました、「この糠甕はずっと昔からここにあるけど、さしあたり私たちには何の入用もない。ひとつこれを、髪洗いの粘土と引きかえに、あの男にやろう。」そして実際にそういうことになりました。その販売人もこの交換を承知して、取引が成立しました。そしてその男は、中身もろとも、甕を持って行ってしまったのです。
一方私は、食事時間になると、持てるだけの苧を持って家に戻り、かねて家に設けておいた物置場所に、それをしまいました。次にいそいで、私の運がはいっている甕のほうに、それとなく一瞥を投じに行きました。すると見たところを見た次第です。私は大あわてで女房に、なぜ甕をいつもの場所から持ち出したのかと訊ねました。すると女房は落着いて、件《くだん》の物々交換の話をして答えたわけです。途端に、赤い死が私の魂のなかにはいりました。私はめまいに襲われた人のように、地上にぶっ倒れました。そして叫びました、「石もて打たれし者(12)は遠ざけられよかし、おお女房よ。お前は俺の運命と、お前の運命と、俺たちの子供らの運命を、少しばかりの髪洗い粘土と代えてしまったのだ。もう今度こそ、俺たちは救われる術《すべ》なく、一家破滅だ。」そして私は手短かに、女房に事情を知らせました。女房は絶望のあまり、嘆いて、我とわが胸を打ち、髪を引きむしり、着物を引き裂きはじめました。そして叫ぶのでした、「おお、私の落度から、とんだことになった。見も知らないあの髪洗いの粘土売りに、子供たちの運を売ってしまった。あの男がこの街に来たのはこれがはじめてで、とてもあの男を見つけることはできますまい。今となっては財布を見つけたろうから、尚さらのことです。」次によくよく考えているうちに、女房はこんなに重大な事がらに当って、私が女房を信用しないことを咎めはじめて、もし私が秘密を打ち明けてくれさえしたら、この不幸はきっと避けられたのに、と言うのでした。それに、おおわが君、女どもは悲しみにあってはどんなに雄弁になるかということは、決して御承知あらせられぬところではないわが君に、切なさがそのとき私の女房の口に言わせたところすべてを、ここでお伝え申していては、きりがございますまい。私は女房を鎮めるのに、どうしてよいかわからない始末でした。私は言い聞かせてやりました、「おお伯父の娘よ、後生だ、落着いてくれ。そんなに喚いたり泣いたりしては、今に近所の人が全部寄ってくるのがわからないか。近所の人たちにこの第二の不体裁を知らせることは、全然無用のことだ、前の鳶の件で、もうさんざん馬鹿にした言葉と嘲笑《あざわら》いで、俺たちを笑いものにし、恥を掻かせているものをさ。それにまた今度、俺たちの迂闊《うかつ》さを嘲けることができれば、奴らは楽しみを倍にするだろう。だから、もう奴らの嘲けりを味わわされた俺たちとしては、こんどの損害はひた隠しにしておいて、至高者の神慮に従って、辛抱強くこらえているほうがずっといい。それに、至高者はその賜物のうちから、百九十枚しかお取り上げにならず、十枚を残しておいて下さったことを、祝福し奉ろうじゃないか。この十枚を使えば、俺たちは多少助かることまちがいなしだよ。」しかし私の理窟がどんなによかろうと、女房はなかなかそれに従いません。まあだんだんに、こんな風に言ってやって慰めることができました、「俺たちは貧乏人にはちがいない。だが要するに、金持だって、世の中で俺たちよりも何をもっと持っているかね。俺たちだって同じ空気を吸っていはしないか。同じ空を、同じ光を、享《う》けていはしないか。金持だって結局のところ、俺たち自身と同じように死んでしまうのじゃないか。」こういう風に話しているうちに、おおわが君、私は結局女房ばかりか、私自身までも、説き伏せてしまったのでございます。それで私は、まるでこの二つの情ない事件など身に起きなかったみたいに、のびのびとした心境で、自分の仕事を続けていました。
さりながら、ただひとつのことが、依然私を悲しませつづけました。私の恩人シ・サアードが、あの金貨二百ディナールの使途の行方を訊ねに来られたとき、私はどうやってお目にかかっていられようかと、自分自身に問うと、私はいつも不安を覚えました。この考えが私の顔の前に、世界と人の世を黒くするのでございました。
遂に、かくも恐れていたその日が来ました。私を二人の御友人の前に置く日です。シ・サアードは、このようにいつまでも私の消息を問いに来なかったからには、シ・サアーディに、こう言っていらっしたことはもう疑いありません、「縄作りハサンに会いに行くのを、何も急ぐことはない。われわれが訪ねて行くのを延ばせば延ばすほど、あの男はますます豊かになって、私の覚える満足はいよいよ大きくなるだろうからね。」すると、きっと、シ・サアーディは、微笑を浮べながら、これに答えたことでしょう、「アッラーにかけて、御意見に賛成できれば、これに越したことはない。しかし、憐れなハサンは、裕福が彼を待つ場所に到り着くまでには、まだまだずいぶんの長道をしなければならんのじゃないかと、私は思えてならない。だがちょうど私たちは着いた。どんな工合か、当人が私たちに話すでしょう。」
さて私は、おお信徒の長《おさ》よ、私はもう恥じ入って、ただひとつの望みしかない有様でございました。それはお二人に見えないように、どこかに隠れに行くことでした。そして大地が開いて、私を呑みこんでくれればと、ひたすら念じました。ですから、お二人が店の前に来られたとき、私は気がつかないようなふりをして、自分の縄作りの仕事に熱中している様子をしつづけました。そしてお二人が私に挨拶《サラーム》をなさって、こちらがどうしてもそれをお返ししなければならない羽目になって、やっと目をあげて、お二人の顔を見たのでした。それで私の苦痛と窮屈を長く続けさすまいと、私はもうお二人から問いかけられるのを待ちたくさえなく、思い切ってシ・サアードのほうを向いて、一気に、私に降りかかった第二の不幸をお話し申し上げました。つまり、私が財布を隠しておいた糠の甕を、女房がわずかの髪洗いの粘土と代えてしまった、あの交換の話です。こうしていささか肩の荷をおろして、私は眼を伏せ、元の場所に戻り、改めて苧の束を左の足指に結びつけて、自分の仕事にかかりました。そして思ったことでした、「俺は言うべきことを言った。あとはどうなるかは、アッラーだけが御存じだ。」
ところがシ・サアードは、私を嘘つきとか不正直者扱いにして、私に対して腹を立てたり罵ったりするどころか、運命がこれほど頑強に自分を非とするのを見る無念さを少しも外に現わさずに、よく御自分を抑えることができなさったのでした。そしてただ私にこう言うだけでした、「まあ要するに、ハサンよ、お前さんの聞かせることは全部本当のことで、二番目の財布も、その姉妹の財布が無くなったように、本当に無くなってしまったかも知れない。さりながら、実際のところ、鳶と髪洗いの粘土屋が、ちょうどお前さんがうっかりしていたり、留守だったりしている時にわざわざ出てきて、そんなに十分に隠してあったものを取って行くということは、いささか驚くに足ることだね。それはともかくとして、私はもう新しい実験を試みることは、打ち切りにしよう。」次に彼はシ・サアーディのほうを向いて、言いました、「けれども、おおサアーディよ、私はやはり飽くまでも、金銭《かね》がなくては何ごともできず、貧乏人は自分の働きによって、無理やり天運を好転させるようにしない限りは、いつまでも貧乏でいるだろうと考えますよ。」
けれどもシ・サアーディは答えました、「あなたのおまちがいは何というまちがいだろう、おお気前のよいサアードよ。あなたは御説を勝たせたいばかりに、四百ディナールを、半分は鳶に、半分は髪洗いの粘土屋に、投げ与えるのをためらいなさらなかった。ところで、私としては、あなたのなさったほどそんなに気前よくはしますまい。ただ今度は私が、天運の戯れこそわれわれの人生の唯一の規則で、天運の命ずるところが、われわれの当てにすることのできる唯一の運不運の要素《もと》だということをば、あなたに証明してみたいと思う。」次に彼は私のほうに向いて、今しがた道で拾ってきた大きな鉛の塊まり(13)を見せながら、言いました、「今までは運がつかなかったハサンよ、私もわが寛大な友サアード氏のしたように、お前さんを何とか援助してあげたいと思う。だがアッラーは私にそれほどの富を恵みなさらなかったから、私がお前さんに上げることのできるものといえば、この鉛の塊まりだけだ。これはきっとどこかの漁師が、網を地に引きずっているうち、落して行ったものだろう。」
このシ・サアーディの言葉に、お友達のシ・サアードは、これは私を何かからかおうとしているのだろうと思って、声をあげて笑い出しました。けれどもシ・サアーディはそんなことに頓着せず、重々しい様子で、その鉛の塊まりを私に差し出しながら、言うのでした、「これを取って、サアード氏は勝手に笑わせておくがよい。それというのは、この鉛の塊まりが、もしそれが天運の命ずるところとあらば、お前さんにとっては、銀山のあらゆる銀よりも役に立つような日が、来るであろうからな。」
私は、シ・サアーディがどんなに立派な方で、その知恵がどんなに博大かということを承知していましたので、ほんの少しでも文句を言って、お気を悪くするようなことは望みませんでした。それで差し出された鉛の塊まりを受け取って、それを一枚の銭《ぜに》もない私の帯のなかに、大切にしまいました。そしてその御親切な御希望と御好意に対して、厚く厚く感謝せずにはいませんでした。それから二人のお友達は散歩を続けるために、私と別れ、私は再び仕事をはじめました。
さて夕方家に帰って、食後、寝ようと思って着物を脱ぎますと、突然何かが床《ゆか》に転がるのを感じました。探して拾ってみますと、それは例の鉛の塊まりが、帯から滑り落ちたものでありました。そこでそんなものは少しも大切なものとも思わず、私はそれを行きあたりばったりの場所に置いて、敷蒲団《マトラー》の上に横になって、間もなく眠ってしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十一夜になると[#「けれども第八百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところがその夜、私の隣人の一人の漁師が、いつもの通り非常に早く目を覚まして、肩に網を担いで出かける前にそれを調べてみますと、鉛が一箇なくなっているのに気がつきましたが、それがちょうど、鉛がなくては商売道具をうまく使うのに大そう困るという場所なのでした。ところがあいにく手許に代品がなく、まだ全部の店が閉まっているから、市場《スーク》に行っても買える時刻ではなかったので、夜の明ける二時間前に漁に出かけないとすれば、翌日は一家を養うものがないことを思うと、漁師は非常に困ってしまいました。そこでとうとう決心して、自分の細君に、時ならぬ時刻で迷惑ではあろうが、一番近所のお隣りのところに行ってお起しした上で、事情を訴え、網に不足している分の代りになるような鉛を、探してみていただくようにお願いしてこいと、言いつけたのでした。
するとちょうど私たちがその漁師の一番近い隣りであったので、漁師の細君は私たちのところの戸を叩きに来ましたが、きっとこう考えていたにちがいありません、「そりゃ縄作りのハサンに、鉛をお願いしてみるのもいいけれど、あの人のところに行くのは、何にも欲しいものがない時にかぎるということは、私は経験でよく知っている。」そして私が目覚めるまで、戸を叩きつづけました。私は叫びました、「どなただね。」答えて、「私です、隣りの漁師|誰某《たれそれ》の伯父の娘です。おおハサンさん、おやすみのところをとんだお邪魔をして、私の顔は黒くなりますけど、実は子供たちの父親の稼ぎにかかわることなので、私は無理に自分の魂に、こんな不作法な真似をさせたわけでございます。どうぞ御勘弁下すって、これ以上長くあなたを寝床の外にお引きとめ致したくござんせんから、さっそく伺いますけど、ひょっとして、家の主人が網を繕うのに貸していただけるような、鉛の塊まりのお持ち合わせはございませんでしょうか。」
そこで私はすぐにシ・サアーディがくだすった鉛の塊まりを思い出して、考えました、「アッラーにかけて、あれを使うには、お隣りの子供たちの父親に役立ててあげるほど、いい使い道はあるまい。」そこで私は隣りの女に、ちょうどそれに間に合いそうな品を持っていると答えて、例の塊まりを手探りで探しに行き、それを私の女房に渡して、女房から隣りの女にやるようにしました。
すると気の毒な細君は、無駄足を踏んで空しく自分の家に帰らないで済んだのに非常に悦んで、私の女房に言いました、「おお御近所のお上《かみ》さん、どうも今夜はハサン長老《シヤイクー》に、とんだ御厄介になりました。ですからこのお礼には、家の主人が最初に網を打ってとれたお魚全部は、お宅の分ということにして、明日、頭に乗せてお届けすることに致しましょう。」そして細君はいそいで、私たちの隣りの漁師にその鉛の塊まりを渡しに行き、漁師はそれですぐに網を繕って、いつものように夜明けの二時間前に、漁に出かけました。
ところが、私たちの分というその最初の一と網には、たった一匹の魚しかかかりませんでした。けれどもその魚というのは、長さ一腕尺(14)以上もあって、大きさもそれに応じたものでした。そこで漁師は、それを私たちのため魚籠に別にしておいて、漁を続けました。しかし彼の獲《と》った魚全部のなかで、一匹もこの最初の魚ほど見事なものも、大きなものもありません。そこで彼は漁がすむと、市場《スーク》に漁獲を売りに行く前に、まずしたことは、この別にしておいた魚を、香いのよい葉を敷いた上にのせて、私たちのところに持ってきて、私たちに「どうかアッラーはあなた方にこの魚をおいしく結構にして下さるように、」と言うことでした。漁師は更に付け加えました、「どうぞこのお土産をお収め下さい、十分でなくお気に召さないかも知れませんが。それにほんの少々で相すみません、おお隣りの方々よ。というのは、これがあなた方の分で、私の最初の一と網はこれっきりだったのです。」そこで私は答えました、「これじゃあなたは引き合いませんよ、おお隣りの方よ。だって、銅銭一枚の値《あたい》もないくらいの鉛の塊まりでもって、こんなに見事で高価な魚を売るなんてことは、これまで聞いたことがない。だけれど、せっかくのお志を無にしても何だから、あなたからの頂戴ものとしてありがたくいただいておきます、あなたは御親切な鷹揚なお気持から下さろうと仰しゃるのだからね。」私たちは更にいくつか挨拶《サラーム》を交わしてから、漁師は立ち去りました。
そこで私はその漁師の魚を女房に渡しながら、言いました、「なあ女房、やっぱりサアーディ様の仰しゃる通りだったな、鉛の一と塊まりだって、アッラーの思し召しがあれば、スーダン地方の全部の黄金よりも、お前に役に立つかも知れないと言いなすったが。見ろ、こいつは王様方や貴族《アミール》たちの皿にだって、載ったためしがないほどの魚だ。」すると女房は、この魚を見て大へん悦んだものの、やはりこう答えずにはいませんでした、「全くだね、アッラーにかけて。だけどこれを料理するには、いったい私はどうしたらいいでしょう。家には魚を焼く網はなし、これを丸ごと煮るほど大きな器《うつわ》だってありはしないし。」私は答えました、「そんなことはかまいはしない。丸ごとであろうとぶつ切りであろうと、味に変りはないさ。外見《みば》をだめにすることなんぞ心配することはない。かまわずぶつ切りにして、とろ火で煮ておくれ。」そこで女房は魚の腹を裂いて、臓腑《はらわた》を取り出すと、その臓腑のなかに、何かきらきら光る物がはいっていました。女房はそれを取り出して、桶で洗ってみますと、それは鳩の卵ほどの大きさで、水晶のように透き通ったガラス玉でした。女房と二人でしばらく眺めてから、それを子供たちに呉れてやって、玩具《おもちや》にさせ、大切な魚を作っている母親の邪魔をしないようにさせました。
さて夕方、飯時になって、女房が気がついてみると、まだ灯油のランプをつけないにもかかわらず、自分が点《とも》したのではない光が、部屋を明るくしているのでありました。それでどこからその光が出てくるのかと、四方を見まわしますと、それは子供たちが床《ゆか》の上に置いて行ったガラス玉から、射して来ているとわかりました。そこでその玉をとって、いつもランプを置く、棚の端《はし》に置きました。私たちはそこから出る鮮やかな光を見て、驚きの限りに達し、私は叫びました、「アッラーにかけて、おお伯父の娘よ、こいつはサアーディ様の鉛の塊まりは、俺たちの腹を作ってくれるばかりか、明りまでつけてくれ、もう俺たちは灯油を買わないですむだろうぜ。」
そしてこのガラス玉のすばらしい明るさに照らされながら、家中で、祝福された今日の思いがけない二重の儲けものを話し合い、報酬者の御恵みを讃えながら、結構な魚を食べました。そしてその夜は、一同自分たちの境遇にすっかり満足し、こういう事態がこのまま続いてくれさえすれば、他に望みはないと思いつつ、寝たのでございました。
さて翌日、私たちが魚の腹のなかからこの光るガラスを見つけたという噂は、伯父の娘のおしゃべりのお蔭で、間もなく近所界隈にひろまりました。するとやがて、やはり近所の女で、亭主が市場《スーク》で宝石商をしているユダヤ人が、家の女房を訪ねてきました。そしてお互いに挨拶《サラーム》と儀礼を交わしたあとで、ユダヤ女は長いことガラス玉を見てから、家内に言いました、「おお、お隣りのアーイシャーさん、今日私をお宅に寄こしなすったアッラーにお礼を仰しゃいよ。それというのは、このガラス玉は大へん私の気に入ったし、ちょうど私はこれとほとんど同じようなガラス玉をひとつ持っていて、時々身につけているけど、それとこれではうまく対《つい》になりそうだから、これを譲っていただきたいと思いますよ。それで私は文句なしに、正金十ディナールという大枚を差し上げます。」ところが家の子供たちは、自分たちの玩具《おもちや》を売るという話を聞いて、母親に売らずにおいてくれと頼みながら、泣き出したものです。それで母親も、子供をなだめるため、またこの玉がランプ代りにもなるので、ずいぶん気が惹かれる申し出だったがやめにすると、ユダヤ女は大へん残念がって、がっかりして立ち去りました。
こうしているうちに、私が仕事から戻ってくると、女房は今起ったことを私に知らせました。そこで私は答えました、「きっと、おお伯父の娘よ、もしこのガラス玉がいくらかの値打があるものでないとしたら、あのユダヤ人の娘が、そんな十ディナールなんていう金額を持ち出すはずはない。だからあの女はもう一度やってきて、もっと金を出すと言うだろうと思うな。だが成り行きを見て、俺はなかなかうんと言わずに、せり上げてやるとしよう。」そしてそれはすぐに、一と塊まりの鉛も、もし運命がそうとあらば、必ず一人の人間の産を成させることができると予言なすった、シ・サアーディの言葉を、私に考えさせたのでありました。私は自分の運命が、こんなに長い間私を逃れていたあげく、遂に姿を現わすのを、信じ切って待っておりました。
さてその夕すぐに、私の予想にたがわず、宝石商の妻のユダヤ女は、再び私の妻を訪ねてきました。そして慣例の挨拶《サラーム》と儀礼のあとで、家内に言いました、「おお、お隣りのアーイシャーさん、あなたはどうして報酬者の賜物を大切にしないのですか。だって、ガラス玉ひとつのため私が差し上げようというパンをことわるなんて、賜物を大切にしないことじゃありませんか。だけどそれがお子さんたちのためを思ってだと仰しゃるなら、実は家の主人にあの玉の話をしたら、何しろ私は妊娠していて、孕《はら》み女《おんな》の望みは叶えずに引っこませちゃいけないのだから、それなら、あのガラス玉と引き代えに、金貨二十ディナールを、正金で差し上げていいと、こう承知してくれたのですよ。」
けれども家内は、これについてはかねて私の指図を受けていたから、答えました、「まあ、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、おお隣りの奥さん、私はすっかり考えさせられてしまいます。だけど私は家じゃ、からっきし物が言えないんで、一家と家中のことの主《あるじ》は伯父の息子ですから、主人に話して下さらなければだめです。どうぞ主人の帰るのを待って、話して見て下さいまし。」
そこで私が帰ると、ユダヤ女は私の家内に言ったことを繰り返し言って、付け加えました、「私は、おお旦那、ガラス玉ひとつのため、お子さん方のパンを持って来てあげるわけです。だけど、孕み女の私の望みは満足させなければならず、家の主人は孕み女の望みを引っこませてしまったりして、良心を咎めたくないというのです。それだもので主人も、自分としてはまるで大損だけれど、その交換と取引を私が申し出ていいと、承知してくれた次第です。」
私のほうは、おおわが君、このユダヤ女に言いたいだけのことを黙って言わせておいて、ゆっくり返事をすることにし、最後に返事の代りに、ただ頭を振って、一と言も言わずに、じっと相手を見据えてやりました。
これを見ると、ユダヤ人の娘は顔色がまっ黄色になって、いかにも胡散くさいというような眼で、私を見つめて言いました、「あなたの預言者にかけてお祈りなさいよ、おお回教徒《ムスリム》さん。」私はすぐ返事をしてやりました、「その上に祈りと平安あれかし、おお不信女よ、そして唯一の神の最も選ばれたる祝福あれかし。」相手は語を継ぎました、「なぜそんな虚《うつ》ろな眼をし、頭を横に振りなさるのですか、おお、お子さん方の父親よ、せっかく私たちの仲立《なかだ》ちで、お宅の上に報酬者のお恵みがあるというのに。」私は答えました、「信徒の上へのアッラーのお恵みは、おお不信者たちの娘よ、今までにももう無量だ。正しい道の外をさまよう人たちの仲立ちなんぞなしに、アッラーの讃えられんことを。」すると女は私に言いました、「ではあなたは、金貨二十ディナールでもことわりなさるのですか。」私は改めてことわる合図をすると、女は言いました、「それじゃ、おおお隣りの旦那、私はあのガラスに金貨五十ディナール差し上げます。それで御満足ですか。」そこで改めて、私はこの上なく澄ました様子で、頭を横に振りました。そしてそっぽを向きました。――
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十二夜になると[#「けれども第八百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると宝石商の女房は、立ち去るみたいに、面衣《ヴエール》を元に戻して、戸口に向い、戸を開ける仕ぐさをしましたが、突然思い返したみたいに、私のほうを向いて、言いました、「これが最後。金貨百ディナール! それにしても主人がこんな大金を私にくれるかどうか、わからないけれどね。」
そのとき私はいよいよ返事をしてやることにして、やっぱり全く澄ました様子をして、言ってやりました、「何も私はあんたを不機嫌で帰らせたいわけじゃないのだがね、おお隣りの奥さん、だが仰しゃるようじゃ、てんで話にゃなりませんよ。何しろあのガラス玉は、あんたは百ディナールなんて無茶な安値を言い出しなさるが、あれはどうして大した品で、来歴だってあの品そのものと同じほど大したものなんでさ。だからね、まああんたとお隣りの旦那の気を悪くしたくはないし、孕《はら》み女《おんな》の望みを引っこませても悪いから、ごく遠慮して、あの光る玉の代金としては、金貨十万ディナール、それよりか一文も多くも少なくもなく、きっかりこれだけの金額を頂戴して我慢しましょう。それだけ出すか、さもなけりゃおやめなさい。ほかの宝石商で、お宅の旦那よりか、二つとない立派な品々の本当の値打をよく知っている人たちが、もっと出すでしょうからね。私としちゃ、全知のアッラーの御前で誓いまさ、この言い値をもう絶対に変えない、殖やしもしなけりゃ、減らしもしない、とね。|さらば《ワーサラーム》。」
ユダヤ人の女房はこの言葉を聞いて、その意味がわかると、もう返す言葉がなく、立ち去りながら私に言いました、「私は売り買いはいたしません。きめるのは主人です。もし主人がいいと思えば、きっと主人からお話しするでしょう。けれど、ほかに口をかけなさる前に、一応主人が自分であのガラス玉を拝見するまで、辛抱して待って下さるとだけ、お約束願います。」そこで私は約束してやると、女は立ち去りました。
ところで、私は、おお信徒の長《おさ》よ、この掛け合いのあと、自分ではガラスと思っていたこの玉が、実はどこかの海の王の王冠から落ちた、海の宝玉のなかの一つの宝玉であることを、もはや疑いませんでした。それに誰でも知っていることですが、海底深くには、海の娘や海の女王たちが飾りにするどんな宝物が横たわっているかは、私もかねて知っておりました。このたびの掘出し物は、いっそう私のその信念を固くしました。それで私は、漁師の魚を通じて、海の乙女らの装身具のこんなすばらしい見本を、私の手中に入れさせて下さった報酬者を、讃え奉った次第でした。そしてもうユダヤ人の細君に向って自分の定めた十万ディナールという数字を、決して翻すまいと決心しました。もっとも、ひょっとしたらユダヤ人の宝石商にもっと出させることができたかも知れないから、こうしていそいで自分の値踏みを定めてしまわないほうがよかったかしらんとも思いましたが。けれどもとにかく一旦正式にこの数字を定めてしまったからには、もう二言はすまいと思い、あくまで自分の言い出した通り守ろうと思い定めました。
すると私の予想した通り、程なくユダヤ人の宝石商が自身で、私の家に出向いてまいりました。ずるそうな様子をした男で、見るからにろくなことはありそうもなく、むしろ、豚の息子があらゆる術策《たくらみ》を弄して、あたかも何ごとも起らなかったように、私から宝石をちょろまかしてしまいそうな感じがしました。そこで私のほうでも、至極にこやかな愛想のいい様子を見せながらも、おさおさ油断なく、まず茣蓙《ござ》の上に坐るようにすすめました。すると慣例の挨拶《サラーム》と儀礼ののち、相手は私に言いました、「おお隣りの方よ、近ごろは苧《お》があまり高くなくて、お店の商売は祝福されているでしょうな。」そこで私も同じ調子で答えます、「アッラーの祝福は信徒には少しも不足しておりません、おお隣りの方よ。御同様に、宝石商の市場《スーク》での御商売も御繁盛でしょうな。」すると相手は言いました、「イブラーヒーム(15)とヤアクーブの御《おん》生命《いのち》にかけて、おお隣りの方よ、だめです、てんでだめです。私たちがパンとチーズを食べるのもやっとこさっとこですよ。」こうして私たちは、実はそれだけが肝心な問題には一向触れずに、しばらくの間話しつづけていましたが、そのうちユダヤ人は、そんなことをしていても私に何の手ごたえもないのを見て、とうとう向うから先に切り出しました、「家の伯父の娘の話じゃ、おお隣りの方よ、何か別に大した値打のものでもなく、お宅のお子さんの玩具になっているガラス玉がおありだとか。御承知のように、家のやつがそうなんですが、女が妊娠していると、ずいぶん変った奇妙な望みがいろいろ出てくるものです。ところが困ったことに、私たちはそういった望みを、よしんば無理であろうと、一々満足させてやらにゃならん。さもないと、その欲しがる品が胎児の身体に跡を残して、子供を片輪にするおそれがありますからね。それでさしあたって今の場合、家のやつの望みがそのガラス玉に向ったので、もしこいつを満足させてやらないことには、その玉がそっくりそのままの大きさで、私たちの子供が生まれた時、その鼻の上とか、憚りあって申しかねるが、そのほかもっと微妙な場所の上なんぞに、現われたりされちゃ大変だと思うのです。そこでどうか、おお隣りの方よ、まずそのガラス玉を一応拝見させていただいて、市場《スーク》でそれと同じような品を手に入れることが、とてもできないとわかった節には、まああまり弱味につけこまないで、仰しゃっていただく適当な値段でもって、ひとつ譲っていただきたい次第です。」
このユダヤ人の言葉に、私は答えました、「仰せ承わり、仰せに従う。」そして立ち上がって、折からその玉を持って庭で遊んでいた子供たちのほうに行き、叫んで不服を唱えるのもかまわず、子供たちの手から玉を取り上げました。次に、ユダヤ人が茣蓙の上に坐って待っている部屋に戻って、そんなことをするのを詫びながら、戸と窓を全部閉めきって、部屋中まっ暗になるようにしました。そうした上で、懐中から玉を取り出し、ユダヤ人の前に、よく見えるように、それを床几の上に置きました。
するとすぐに部屋は、さながら四十の炬火《たいまつ》が燃やされたように、煌々と輝きました。ユダヤ人はこれを見ると、思わず叫ばずにいられませんでした、「こりゃ、スライマーン・ブニ・ダーウド(16)の宝玉だぞ。その王冠を飾っている宝石の一つだ。」こう叫んでから、これは言いすぎたと気がついて、取りつくろって言い添えました、「だが今までにも、これと似たような品をいくつか手に入れたことがある。ところがこういう品は普通には売れないので、損をして、いそいで転売したっけ。全く何だって、伯父の娘は孕みやがってからに、こんな売り物にならないものを俺に買わせやがるんだろう。」次に私に言いました、「いったい、おお隣りの方よ、この海の玉をいくらでお売りなさるのかね。」私は答えて、「これは売り物じゃない、おお隣りの方よ。あなたの伯父の娘の望みを引っこませないために、あなたに譲ってあげてもいいというのです。お譲りする代金はもう先刻きめた通りだ。それに二言はない、アッラーが私の証人です。」すると相手は言いました、「無茶を仰しゃらないで、おお正しい人々の子よ、どうか私の一家を潰さないで下さい。たとい私が自分の店と家を売ったって、また競売屋の市場《スーク》で、妻子もろともわが身を売ったところで、あなたのきめた途方もない数字を調達することは、とてもできますまい。仰しゃったのは、きっとまあ御冗談のつもりにちがいない。金貨十万ディナールか、やあ、アッラー、金貨十万ディナールねえ、おお長老《シヤイクー》、それより一文も多くも少なくもなくとは。そいつは私に生命《いのち》をくれと仰しゃることだ。」そこで私は戸と窓をまた開けて、落着いて答えてやりました、「十万ディナールきっかり、それより一文も多くはいらない。増すのは不法でしょう。だが一文も少なくてもいけない。それだけ出すか、さもなけりゃおやめなさい。」そして言い添えました、「それにこういうこともある。万一私が、このすばらしい玉はスライマーン・ブニ・ダーウド――お二人の上に祈りと平安あれかし。――その王冠の、海の宝玉中の一つの宝玉だと知っていたら、私のくれというのは決して十万ディナールなんかじゃなく、十万のまた十倍に、その上、家の女房がこの発見を言いふらして、話の糸口をつけたのだから、女房にもお店の頸飾りと宝石をいくつか進呈しなさいぐらいのことを言ったでしょう。だから、こんな無茶な安値ですんだんだから、あなたも勿怪《もつけ》の幸いと思って、ねえ大将、金を取りに行っておいでなさい。」
するとユダヤ人の宝石商は、すっかり鼻を長くして、もうどうにもならぬと見、ちょっと考えこんでいたが、やがてきっとなって私の顔を見つめ、大きな溜息を洩らしながら、言いました、「金は戸口にあります。宝石を下さい。」こう言って窓から顔を出し、往来に止まって、たくさんの袋を積んだ牡騾馬の轡をとっている黒人の奴隷に、叫びかけました、「おい、ムバーラク、ここにその袋と秤を運んでくれ。」
すると黒人が私の家にディナール金貨の詰まった袋を運び入れると、ユダヤ人はそれらをひとつひとつ裂いて、私の請求したとおり、きっかり十万ディナール、一文も多くも少なくもなく秤りました。私の伯父の娘は、家にあったたったひとつの大きな木箱を、中にはいっている襤褸《ぼろ》を全部出して空《から》にし、私たちはそれにユダヤ人の金貨を詰めました。そこではじめて私は、今まで大切に懐中にしまっていたスライマーンの宝石を、懐ろから取り出して、ユダヤ人に渡しながら言いました、「どうかいまお買いなすった十倍も高く、よそに売れますように。」するとユダヤ人は口を耳まで開けて笑い出して、私に言うのでした、「アッラーにかけて、おお長老《シヤイクー》、こいつは売り物じゃありませんよ。家の孕んだ女房の望みを満足させてやるためでさ。」そして私に暇を告げて、肩幅の広さを見せたのでありました。
ユダヤ人のほうはこのようでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十三夜になると[#「けれども第八百七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、シ・サアードと、シ・サアーディと、魚を通じての私の運命はと申しますると、次のようでございます。
こうして私は一と晩のうちに、私の魂の願ったところよりも更に豊かになり、黄金と富裕に埋まるのを見ましたが、しかし私は自分が要するに、縄作りの息子の、昔は貧しい縄作りにすぎない身であることを忘れず、報酬者にその御恵《みめぐ》みを感謝して、今後自分の富をどう使うべきか、思い耽りました。しかし私としては第一に、シ・サアーディに感謝の意を表しに、その手の間の地を接吻しに行きたい、また、シ・サアードに対しても結局のところ、こちらはシ・サアーディのように、私に寄せて下さった御好意が成功しなかったとは申せ、私の今日あるはやはりそのお蔭なのですから、この方にも同様に敬意を表したいと、こう思ったのでした。けれども臆病さのためそれを果さず、それに、お二人がどこに住んでいらっしゃるのかも、はっきり存じませんでした。ですからむしろ、お二人が自発的に貧しい縄作りハサンの消息を訊ねにお出でなさるのを、待つことにいたしました。――どうかアッラーはこの貧しい縄作りハサンに、お憐れみを垂れたまいますように。というのは、この男はもう今は死んでしまい、その若い頃はまことにみじめでございましたから。
そこでさしあたり、私は自分に記《しる》されていた幸運を、できるだけよく活用しようと思い定めました。私の最初にいたしましたことは、豪勢な着物や豪奢な身の廻り品などを買い求めることではなく、バグダード中の貧しい縄作り全部に会いに行くことでありました。彼らはいずれも、私があんなに永い間暮らしていたと同じ貧窮状態に暮らしている者です。さて彼らを集めると、私は一同に言いました、「今や報酬者は私に安楽を記《しる》したもうて、私なんぞはそれに値する一番末席の者なのに、その御恵《みめぐ》みを私にお送り下さいました。さればこそ、おお回教徒《ムスリムーン》の兄弟たちよ、私は至高者の恩沢が、同じ頭上にばかり積み重なることがないようにしたく、皆さんもそれぞれ必要に応じて、その恩恵にあずかることができるようにしたいと思う。そこで今日からさっそく、私はあなた方全部を抱えて進ずるから、ひとつ私のために縄作りの仕事に励んでもらいたい。それぞれの腕に応じて、一日の終りには十分に支払ってあげることを確約します。こういう風にすれば、皆さんは決して明日の心配なく、一家のパンをたっぷり稼げることまちがいない。こういう次第で、皆さんにこの場所にお集り願ったのだ。皆さんに申し上げたいことはこれだけです。さあれアッラーは更に寛大にして寛仁にまします。」
すると縄作りたちは私に感謝し、彼らに対する私の好意を誉めたたえ、私の申し出を承知しました。そしてそれ以来、自分たちの生活と子供たちの生活を確保できることを悦びながら、安穏に、私のために働きつづけました。そして私自身も、こういう仕組みのお蔭で、ますます私の収入を殖やし、私の地位を固めるばかりでありました。
ところで、私が元の貧しい家を棄てて、庭園のまん中に、大金を投じて建てさせた別な家に落着いて、はやしばらくたった頃、そのときシ・サアードとシ・サアーディはやっと、御存じの貧しい縄作りハサンの消息を訊ねに行ってみようと思いなさいました。私の店がまるで私が死んでしまったかのように閉まっているのを見て、昔の近所の人たちに聞いてみると、私はまだ生きているばかりか、今ではバグダードで一番金持の商人の一人になって、庭園のまん中の立派なお屋敷に住んでいて、もう世間では縄作りのハサンとは呼ばず、「長者のシ・ハサン」と呼んでいると、こう知らされた時の、お二人の驚きはもう一方ならぬものがありました。
そこで、私の屋敷のある場所を詳しく教えてもらって、お二人はそちらに向い、間もなく庭園に通ずる正面大玄関の前に着きました。門番はお二人を、実の一杯ついたオレンジとシトロンの木の森を横切らせました。その木々の根は、水を河から引いてくる溝のなかを絶えず流れる湧き水に、冷やされておりました。お二人が応接の間に着いた時には、早くも涼しさと、木蔭と、水のざわめきと、鳥の歌に、うっとりとなさいました。
私は奴隷の一人に、御両人の見えたことを告げられると、すぐにいそいそとお出迎えに出て、まず着物の端《はし》を取って接吻しようとしました。ところがお二人はそうはさせず、まるで兄弟のように私を抱擁なさいました。私は庭に突き出ている亭《ちん》に御案内して、お二人には当然上席に坐って下さるようにお願いしました。そして自分はまさにあるべきように、そこから少しく下って坐りました。
そしてまず氷菓《シヤーベツト》と茶菓を供してから、私はお二人にわが身に起ったところ全部を、細大洩らさず逐一お話し申し上げました。しかしそれを繰り返すまでもございません。するとシ・サアーディはこの上なく悦んで、お友達のほうに向いて言いました、「おわかりでしょう、おおサアード氏。」そしてそれ以上一と言も仰しゃいませんでした。
さてお二人が私の話を聞いて感嘆久しく、まだそれが覚めきれないでいるところに、庭で遊んでいた私の子供が二人、手に大きな鳥の巣を持って、突然はいってきました。それは子供の遊びを見守っていた奴隷が、子供に与えようと、棗椰子《なつめやし》の木の天辺から、はずしてきたものでした。巣のなかには数羽の鳶の子がはいっていましたが、それが捲頭巾《ターバン》のなかに設けられているのを見て、私たちは大そうびっくりしました。私はその捲頭巾《ターバン》を更によくよく調べてみますと、それは疑いを入れる余地なく、昔あの泥棒の鳶に攫われた、私の捲頭巾《ターバン》そのものであることがわかりました。そこで私はお客様方のほうを向いて、言いました、「おおわが御主人様方、あなた方は、サアード様が最初の二百ディナールを私に下さった日に、私のかぶっていた捲頭巾《ターバン》を、まだ覚えていらっしゃいましょうか。」お二人は答えました、「いや、アッラーにかけて、どうもはっきり覚えていないが。」そしてシ・サアードは付け加えました、「しかし、もしそれにあの百九十ディナールがはいっていたとしたら、たしかにあの捲頭巾《ターバン》に相違ないわけだがね。」私は答えました、「おおわが御主人様方、きっとあるに相違ありませぬ。」そして私は雛を出して子供たちに与え、その巣をほぐして、捲頭巾《ターバン》をすっかり長く延ばしてみました。するとその端《はし》に、私が結《いわ》えた通りそっくり結かれたまま、中身のディナール金貨もろとも、シ・サアードの財布がぶらさがったのでございました。
二人のお客様がまだ驚きから覚めきらないでいるところに、私の馬丁の一人が、手に糠甕《ぬかがめ》をひとつ持ってはいってきました。私はすぐにそれが、昔家内が髪洗いの粘土屋に譲った品とわかりました。馬丁は私に言いました、「おお御主人様、今日私は、乗って出た馬の食糧を持参するのを忘れたので、市場《スーク》でこの甕を買いましたところ、なかに結えた袋がはいっておりましたので、御手の間に持ってまいりました。」そこで私たちはシ・サアードの二番目の財布を見つけたわけでございます。
その時以来、おお信徒の長《おさ》よ、私たち三人は、今は運命の威力を信じ、運命がその決定を成就するためにとる道に感嘆しつつ、友人として睦じく過ごしてまいりました。
そして、アッラーの財は彼の貧者たちに返さねばなりませぬから、私はそれを用いて、定められた施しと喜捨をすることを怠りませんでした。そのゆえに、わが君は、バグダード橋上で、私があの乞食に施しをするのを御覧遊ばした次第でございます。
これが私の物語でございます。
この気前のよい長老《シヤイクー》の話をお聞きになると、教王《カリフ》はこれに仰しゃいました、「いかにも、おおハサン老よ、運命の道は玄妙不可思議じゃ。そしてその方の語ったところを証する証拠として、その方にちょっとお見せしたきものがある。」そして財務|大臣《ワジール》のほうをお向きになって、その耳許に何か仰しゃいました。大臣《ワジール》は外に出ましたが、しばらくすると、手に小箱を持って戻ってきました。教王《カリフ》はそれを受け取って、開き、その中身を長老《シヤイクー》にお見せになると、それはユダヤ人の宝石商に譲ったあのスライマーンの宝玉ということが、彼にすぐわかりました。アル・ラシードはこれに仰しゃいました、「これはその方がユダヤ人に売った即日、わが宝蔵にはいったのじゃ。」
次に教王《カリフ》は第四の人物、即ち口の裂けた片輪の学校教師のほうをお向きになって、これに仰しゃいました、「その方の我らに語るべきところを語れよ。」
するとその男は、教王《カリフ》の御手の間の床《ゆか》に接吻してから、申しました。
口の裂けた片輪の学校教師の物語(17)
お聞き下さい、おお信徒の長《おさ》よ、この私は学校教師(18)として人生に踏み出したのでございまして、私の手許には約八十名の少年をあずかっておりました。これらの少年と私との物語は、まことに驚くべきものがございます。
まず最初申し上げなければならぬのは、おおわが君、私は生徒に対しては厳格の限り厳格、且つは厳重峻厳で、休憩時間といえども、勉強を続けよと要求し、日が没して一時間後でなければ、帰宅させないほどでありました。その時でさえも、生徒を監視することを怠らず、市場《スーク》と町々をずっと後からついて行って、彼らを堕落させるおそれある年少無頼の徒と、共に遊ばせないように気をつけました。
ところで、やがておわかりになりますように、まさしくこの私の厳しさこそ、私の頭上に災厄を惹きよせたのでございました、おお信徒の長《おさ》よ。
果して、日々のうちの或る日、全部の生徒が集まったとき、講堂にはいってゆきますと、突然全生徒がすっくと立ち上がって、異口同音に叫ぶのでした、「おお僕らの先生、今日は何て先生のお顔は黄色いのでしょう。」私はこれを聞くと大へん驚きました。しかし、そんな風に私の顔色を黄色くするような体内の不快を、少しも覚えませんので、そんなことを言われてもさして度を失うようなことなく、いつものように、一同に叫びながら授業を開始しました、「さあ始めた、始めた、ろくでなし共、勉強の時間だぞ。」ところがこんどは級長が、いかにも心配そうな様子で、私のほうに進み出て、言うのでした、「アッラーにかけて、おお先生、先生は今日は大そうお顔が黄色くいらっしゃいます。どうかアッラーは一切の病気を遠ざけて下さいますように。先生があまり御気分が悪いなら、今日は僕が代って授業をしますけど。」それと同時に、全生徒が非常に案じた様子で、まるで私がもう今にも息を引きとりそうとでもいう風に、同情を浮べてじっと私を見つめるのでした。そこで私も遂には非常に心を動かされて、心中で言いました、「おお何某よ、お前は自分じゃそれと知らないうちに、きっと非常に工合が悪いにちがいない。およそ一番悪い病気は、あまりはっきりした不快の徴候を示さずに、ひそかに体中に忍び入るやつだ。」そこで私は即時即刻立ち上がって、指導を級長にまかせ、自分は婦人部屋《ハーレム》にはいって、長々と横になり、妻に言いました、「黄疸《おうだん》にかからないように、手当すべきことを手当してくれ。」私はそれを、まるでもう本当にあらゆるペストや赤い病の類に襲われてでもいるみたいに、いくつも溜息をつき、呻きながら、言ったのでありました。
こうしているところに、級長が戸を叩いて、はいる許可を求めました。そして私にこう言いながら、八十ドラクムの金額を渡すのでした、「おお僕らの先生、先生のいい生徒たちは今お互い同士醵金して、先生にこれをお贈りし、先生の奥さまが費用の心配をなさらずに、これでゆっくり先生の看病をしていただきたいと言うのです。」
私はこの生徒たちのやり方に大そう感謝して、私の満足の意を示すため、一日お休みを与えました、こうしたすべてはただこの目的で仕組まれたとは思いもかけずに。けれども、子供たちの胸に潜んでいるあらゆる悪賢さを、誰が見抜くことなどできましょうか。
さて私のほうは、こんなに思いがけなく金がはいってきたのを見て、多少嬉しくはあったものの、その日一日を非常な不安のうちに過ごしました。翌日になると、級長がまた私を見にきて、私の顔を見ると叫びました、「どうかアッラーは先生から一切の病気を遠ざけて下さいますように、おお僕らの先生。だけど先生は、昨日の昼間よりか、ずっと顔色が黄色くなっていらっしゃる。お休み下さい、どうぞお休み下さい。ほかのことなんかお気にかけないで。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十四夜になると[#「けれども第八百七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私は、この悪賢い子供の言葉に強く心を動かされて、心中で言いました、「養生しろよ、おい先生、生徒の費用でよく養生しろよ。」そう考えながら、私は級長に言いました、「お前が授業をやってくれよ、私がいると同じにね。」そして私はわが身のために呻き、悲しみはじめました。するとその少年は、私をそのままに残して、いそいで他の生徒たちのところに行って、一同に事情を知らせることにしました。
こういう事態がまる一週間続いて、その時になると、級長はまたもや八十ドラクムの金額を持ってきて、私に言うのでした、「これは奥さまが十分先生の看病をして差し上げられるようにと、先生のよい生徒たちが醵金した分です。」そこで私は最初のときよりも強く心を打たれて、心中で言いました、「おお何某よ、お前の病気は全くのところ幸いな病気だ。苦労も骨折りもなくて、こんなにたくさん金がはいるし、結局のところ、ほとんど痛くも何ともないのだし。どうかこの病気がもっと永くつづいてくれれば、お前のこの上ない仕合せだ。」
そしてこの時から、私は仮病をつかうことにきめました。時の経つにつれて、私の身体の中は本当に病気にかかってなどいないと確信されたのですが、自分にこう言って聞かせたのです、「お前の授業は決してお前の病気ほどの実入りになることはあるまいぞ。」そしてこの時から、実際にないことを信じさせるのは、こんどは私の番になりました。そして級長が私を見にやってくるごとに、私はこれに言いました、「私は餓え死にしそうだよ。胃が食物を受けつけないのでね。」ところがそれは嘘なので、これほど食が進んだこともなく、身体の調子がいいこともかつてなかったのです。
こうしてしばらくの間暮らしつづけていますと、或る日、ちょうど私が卵を食おうとしているところに、例の生徒がはいってきたのでした。その姿を見て、私がはっとしてまずしたことは、その卵を自分の口の中に押しこむことでした。私が物を食べられるのを見て、生徒に真相を疑われ、私の二枚舌に気がつかれてはと思ったのです。その卵は焼けるばかり熱かったので、耐えがたい苦しみを覚えさせられました。ところがこの不良生徒は、この場合どうすればよいか、無論十分承知しているにちがいないくせに、行ってしまう代りに、いつまでも私を見ていて、同情に耐えないといった様子をして、私に言うのでした、「まあ先生、頬がすっかり腫《は》れて、さぞお痛いでしょう。これはきっと悪い腫物《おでき》にちがいありません。」次に、私は苦しくて眼が頭から飛び出し、返事ができないでいると、生徒は言いました、「これは膿《うみ》を出さなければいけませんね、膿を出さなければ。」そしてつと私のほうに寄ってきて、頬に太い針を突き刺そうとします。けれどもそのとき私はあわてて飛び起きて、台所に駈けこみ、卵を吐き出したものの、すでに両の頬は大《おお》火傷《やけど》をしていました。そしてその火傷の結果、おお信徒の長《おさ》よ、本当の腫物が一方の頬に出来て、私に赤い死を見させたのでございます。そこで腫物に口をつけるため、床屋を呼んでくると、彼は頬を切りました。私の口が裂けて歪んだのは、その手術の結果でございます。
私の口の裂けたのと歪んだのは以上のような次第ですが、片輪になったのは、次のような仔細でございます。
火傷の予後しばらく休養しますと、私は再び学校に戻り、生徒の喧騒癖はよろしく取り締らなければならぬと思い、彼らに対して、旧にもまして、厳格厳重にいたしました。生徒の一人の素行に多少とも遺憾なふしがあると、私は太い棒を振ってこれを矯正せずには措きませんでした。そのため遂には非常に私を尊敬するように仕込んで、私が嚏《くさめ》をするようなことがあると、生徒らはたちまち本と帳面を措いて、両腕を組んでつと立ち上がり、私の前に最敬礼をして、声をそろえて一斉に、「祝福あれ、祝福あれ、」と叫ぶほどになりました。すると私は当然のことながら、「そしてお前たちの上に御許《みゆる》しあれ、そしてお前たちの上に御許しあれ、」と答えるのでした。また同様に、その他幾多のいずれ劣らず有益にして且つ教訓的な事どもを教えました。それというのは、子弟の教育のため親が私に払う金を、空費させてはならぬと思ったからでした。こうして私は生徒たちをば、良民とし、立派な商人とするつもりでおりました。
さて或る日、外出日のこと、私は生徒をいつもよりも少しばかり遠方まで、遠足に引率してまいりました。そして永い間歩いたので、私たちは皆非常に喉が渇きました。するとちょうど井戸の前に行き着いたので、私は井戸に下りて、そこにある冷水にわが渇を医し、できることなら、生徒らのために、手桶一杯の水を汲んできてやろうと決心しました。
そこで綱がないので、私は全生徒の捲頭巾《ターバン》をぬがせて、それでもってかなり長い綱をつくってから、その綱をわが胴に結びつけ、私を井戸に下ろすように生徒に命じました。一同すぐに私の言に従いました。私は井戸穴に吊るされました。生徒たちは私の頭が石にぶつからないように、慎重に私を下ろしました。ところがそのとき、暑気から冷気に、明るみから暗がりに移ったために、私は嚏《くさめ》を催しました。その嚏を私は制しきれませんでした。するとわが学校生徒たちは、無意識にか、習慣的にか、悪意からか、とにかく一斉に綱を放して、そして学校でしていたように、腕を組んで異口同音に、「祝福あれ、祝福あれ、」と叫んだのでございます。しかしこの際、私はほとんど答える暇もありませんでした。井戸の底にずしんと落ちてしまったものですから。まあ水はさして深くなかったので、溺れこそしなかったけれど、私は両脚と肩を折ってしまい、一方生徒どもは、自分たちの悪事か粗忽かその辺はわかりませんが、とにかくそれに恐れをなして、脚を風にまかせて逃げてしまいました。私は非常な悲鳴をあげたもので、数人の通行人がこちらに引き寄せられて、私を井戸から出してくれました。私は何しろ惨憺たる態でしたので、彼らは私を驢馬に乗せ、自宅に送り届けてくれましたが、私は相当の期間、呻吟しました。しかし二度とこの怪我《けが》から回復しませんでした。そして再び学校教師の職に戻ることは、到底できかねることでございました。
さればこそ、おお信徒の長《おさ》よ、私は妻子の口を糊するために、やむなく乞食をせざるを得なかったのでございます。
このようにして、わが君はバグダードの橋上で、私を御覧遊ばし、寛大に私をお助け下さいました次第。
これが私の身の上話でございます。
口の裂けた片輪の学校教師が、自分の不具癈疾の身の原因をこのように語り終えると、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールはこれを元の列に帰らせました。すると橋上で頬を殴ってもらう盲人《めくら》が、手探りしながら、教王《カリフ》の御手の間に進み出て、下された御命令に従って、自分の語るべきことを、次のように語ったのでございます。彼は申しました。
橋上で頬を殴ってもらう盲人の物語(19)
さればでございます、おお信徒の長《おさ》よ、この私は若い頃は駱駝曳きでございました。そして働きと辛抱のお蔭で、ついには私自身の持ち物として八十頭の駱駝の所有主となりました。私はそれらを国々の間の商用のためと巡礼の時期とに、隊商《キヤラヴアン》に貸し、それによって莫大な利益をあげ、毎年毎年、資本と利子が殖えてゆきました。そして、もっと金持になりたいという私の望みは、利益と共に日増しに募ってゆき、もうイラクの駱駝曳ききっての大金持になることよりほかには考えない有様でした。
ところが、日々のうちの或る日、折から私は、インド行の商品を積んだ八十頭の駱駝を曳いてバスラに行き、そこから空身《からみ》で帰る途中、駱駝に水を飲ませ、近所で草を食べさせようと、或る貯水池のほとりで休止をしていますと、そこに一人の修道僧《ダルウイーシユ》が私のほうにやってくるのを見ました。その修道僧《ダルウイーシユ》は親しげな様子で寄ってきて、双方|挨拶《サラーム》ののち、私のそばに坐りました。そして私たちは自分たちの食糧を共同にし、沙漠の習慣に従って、食事を一緒にとりました。食後には、四方山の話をしはじめ、お互いに旅と行先について訊ね合いました。その坊さんはバスラのほうに向うと私に言い、私はバグダードに行くと彼に言いました。そのうち打ちとけた気分がわれわれの間に湧いてきたので、私は自分の商売と儲けの話をし、私の金持と大尽のもくろみを知らせたのでした。
すると修道僧《ダルウイーシユ》は黙って終りまで聞いていてから、微笑を浮べながら、じっと私を見て言いました、「おおわが御主人ババ・アブダラーよ、あなたは何と大骨を折って、そんなに労して効ない結果に達しようとなさるのか。往々にしてちょっと道の曲り角がありさえすれば、運命は人をまたたくまに、イラクのあらゆる駱駝曳きよりも金持にするばかりか、地上のあらゆる王を寄せ集めたよりも強大な身にさえするものを。」次に付け加えました、「おおわが御主人ババ・アブダラーよ、あなたはこれまで、隠れた宝と地下の財宝の話を聞いたことがおありかな。」私は答えました、「いかにも、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん、隠れた宝と地下の財宝のことはよく聞きました。それに、われわれめいめいは、もしそれが天命の定めるところとあらば、或る日、あらゆる王様よりも豪勢な身になって目が覚めることができるということは、誰しも知っています。自分の土地を耕しながら、何かすばらしい宝物を封じてある石にぶつかる日が、いつか来るに相違ないと考えないような百姓は一人もいないし、水に網を打ちながら、いつか真珠か海の宝玉を引き揚げて、それが自分をこの上ない豪勢に行き着かせるような日も来るだろうということを、知らないような漁師は一人もいはしません。ですから、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん、私は決して無知な人間じゃありませんし、それで、あなた方の教団の方々は、大へんな威力のある秘密や言葉を御存じのことと信じておりますよ。」
この言葉に、修道僧《ダルウイーシユ》は杖で砂を掻くのをやめ、改めてじっと私を見て言いました、「おおわが御主人ババ・アブダラーよ、今日あなたは私と出会って、決して損な出会いをしなかったことと私は思うし、この日はまさにあなたにとって、あなたが御自分の運命に直面する、道の曲り角に当る日と私は信ずる。」そこで私は言いました、「アッラーにかけて、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん、私は眼を見張って、しっかりと自分の運命を迎えましょう。そして運命が私に何を齎らそうと、私は感謝の心をもって受け入れるでありましょう。」すると坊さんは言いました、「では立ち上がって、おお憐れなる者よ、私のあとについてきなさい。」
そして坊さんはすっくと立ち上がって、私の前を歩きました。私は、「たしかに、俺が自分の運命を待ちかまえている時以来、今日こそはいよいよわが運命の日だ、」と思いながら、あとからついてゆきました。そして一時間ばかり歩くと、かなり広い谷間《たにあい》に着きましたが、その入口は大そう狭く、私の駱駝が一頭ずつやっと通れるくらいでした。けれどもやがて地形は谷と一緒に広くなって、山の麓に出ました。それはどんな人間も、こちらがわに、われわれのところまで来る心配など決してないくらい、とても越えられない山でした。すると修道僧《ダルウイーシユ》は私に言いました、「さあ、われわれは、着かなければならないところに着いた。あなたはあなたの駱駝を停めて、やがてあなたの見るものを積み込む時機が来たとき、造作なく積めるように、駱駝を腹這いに伏させておきなさい。」私は承わり畏まって答え、この山の麓に拡がっている広い地面に、全部の駱駝を、次々に腹這いに伏させることに取りかかりました。
それがすんで、修道僧《ダルウイーシユ》のところに行きますと、彼は手に燧《ひうち》を持って、枯木の山に火をつけているところでした。そして木の山から焔が迸り出すやいなや、修道僧《ダルウイーシユ》は私にはまるで意味のわからない言葉を唱えながら、乳香の粒を一と掴み火中に投げ入れました。するとすぐに空中に一条の煙の柱が立ち騰り、修道僧《ダルウイーシユ》はそれを杖でまっ二つに断ち割りました。するとすぐに、私たちのいた正面の大きな岩が二つに裂けて、一瞬前までは、すべすべの切り立った岩壁のあった場所に、大きな割れ目を見せたのでありました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十五夜になると[#「けれども第八百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてその中には、金貨と宝石のうずたかい山々が、あの海岸で見られる塩の山のように、横たわっているのです。そこで私はこの宝を見ると、鳩に襲いかかる鷹の速さで、最初の金の山に飛びかかって、早くも用意していた袋のなかに、それを詰めこみはじめました。ところが修道僧《ダルウイーシユ》は笑い出して、私に言うのでした、「おお憐れな男よ、あんたはあまり儲けにならぬ仕事をしているね。あんたの袋に金貨を詰めたのでは、駱駝に積むには重すぎてしまうのがわからないかな。むしろ、その少し先にある、あの積みあげた宝石を詰めるがいい。その一個だけでも、これらの金の一と山一と山よりも高価だし、それでいて、この金貨一枚より百倍も軽いから。」
そこで私は答えました、「なるほど異存はない、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん。」というのは、いかにもその注意は正しいと思いましたので。そして私は自分の袋に次々とこの宝石を詰め、それを二袋ずつ駱駝の背につけました。こうして私が八十頭の駱駝に荷をつけ終ると、その場を動かず、微笑を浮べながら私のすることを眺めていた修道僧《ダルウイーシユ》は、立ち上がって私に言いました、「今はこの宝処を閉めて、引き上げるばかりだ。」こう言って、坊さんはその岩のなかにはいりましたが、見ると、白檀の木の台の上に載っている、一つの金銀細工の大きな甕のほうに向ってゆきました。それで私は、心の中で独りごとを言ったのでした、「アッラーにかけて、俺の持っているたった八十頭の代りに、ここに八万頭の駱駝を持って来て、これらの宝石と金貨と金銀細工の品々を積み込めないとは、何という残念なことだろう。」
さて見ると修道僧《ダルウイーシユ》は、件《くだん》の貴い甕に近づいて、その蓋を上げました。そして中から小さな金の壺を取り出して、それを懐ろに入れました。私がいわば眼に不審の色を浮べてじっと見ていると、坊さんは言いました、「何でもない、これは。眼につける少々の煉脂《ねりあぶら》だよ。」そしてそれ以上何も言いません。それで私は好奇心に駆られて、自分もその眼に利く煉脂というのを取ろうと、進み出ると、坊さんは私を遮って言いました、「今日のところはこれで十分だ。もうわれわれはここを出る時分だよ。」そして私を出口のほうに押しやって、私のわからない言葉を何か唱えました。するとすぐに、岩の両方の部分が合わさって、ぱくっと開いていた割れ目の代りに、岩壁が出来て、それはたった今、山の石にじかに刻まれたかのように、すべすべとしておりました。
すると修道僧《ダルウイーシユ》は私のほうに向いて、私に言いました、「おおババ・アブダラーよ、われわれは今はこの谷から出よう。そして先に出会った場所に着いたら、われわれはこの獲物を全く公平に両分して、仲よく分配することにしよう。」
そこで私は駱駝を立たせました。そしてきちんと行列をつくって、この谷にはいってきたところを通って、いよいよわれわれが別れて、私はバグダードへ、修道僧《ダルウイーシユ》はバスラへと、それぞれ自分の道を行くことになっている、隊商《キヤラヴアン》の道まで一緒に歩きました。ところが私は途々、その分配の件を思いながら、自分に言ったのでした、「アッラーにかけて、この坊主は、自分のしたことの割にしては、慾張りすぎてるぞ。いかにも俺に宝処を教えて、聖典のお咎めになっている奴の幻術の知識のお蔭で、それを開いたのはあいつだ。だが、俺の駱駝がなかったら、やっこさん何ができたか。そればかりか、ひょっとすると、この俺がいないことには、事がうまくゆかなかったのかも知れん、あの宝はきっと俺の名で、俺の運と俺の運命の上に、記《しる》されているにちがいないからな。だからこいつは、この宝石を載せた四十頭の駱駝を坊主にやったんじゃ、俺の儲けを横取りされるというわけだ、俺は袋を積みこむのにさんざん骨を折ったのに、あいつはにやにやしながら休んでいやがったし。それに結局のところ、この駱駝は俺の物じゃないか。だからこの分配の時、あの坊主の言いなりに、勝手にやらせておくわけにはゆかん。俺はちゃんと道理をわからせてやろう。」
ですからいよいよ分配の時になると、私は修道僧《ダルウイーシユ》に言ってやりました、「おお聖なる方よ、あなたの教団の主義そのものからして、浮世の福利などというものはとんと気にかけなさらないはずのあなたが、荷を積んだ四十頭の駱駝なんぞ、いったいどうなさろうというのですか。あなたは教えてやった教え代として、それだけよこせと仰しゃるが、これは全く不当ですよ。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は私の予期に反して、私の言葉に憤ったり腹を立てたりするどころか、落着いた声で答えました、「ババ・アブダラーよ、お前さんは、私が浮世の福利なぞとんと気にかけない男のはずだと仰しゃるが、それはいかにもその通りじゃ。だから、公平に分配して私の分になるべき分け前を請求するのは、決して自分のためではなく、広く世を渡って、あらゆる貧者と恵まれない人々に分け与えるためなのだ。お前さんは不当とか言っているが、よく考えてみよ、やあ、ババ・アブダラーよ、私があげた分の百分の一だって、お前さんはもうバグダードの住民のなかで一番の金持なのだよ。私は何もお前さんにこの宝の話をしなければならない義理はなく、秘密をただ自分一人の胸におさめておくことだってできたことを、お前さんは忘れていなさるよ。だから慾張りはやめにして、われわれの申し合わせを今さら翻そうなどとせずに、アッラーの与えたもうたところに満足するがよい。」
そこで私は、自分の主張に分がないことはわかっているし、自分の不正当も確かと思いつつも、こんどは問題の方面《むき》と形を変えて、答えました、「おお修道僧《ダルウイーシユ》さん、いかにも私の悪いことはわかりました。けれども失礼ながら、あなたは駱駝を曳いてゆく術《すべ》など心得がなく、ただ至高者にお仕えすることしか御存じない、立派な坊様でいらっしゃることを、思い出して下さいまし。つまりあなたは、主人の声を聞き慣れたそんなにたくさんの駱駝を曳いて行こうとなされば、どんな厄介なことになるか、それを忘れておいでだ。私の言葉を信じなさるなら、駱駝はできるだけ少なくお連れになるほうがいい。何ならあとから、また宝石を積みに宝処に戻りさえすればいいことだ、あなたはあの洞穴の入口を、自在に開けたり閉めたりできるのだから。だから私の意見に従って、平常慣れていない煩いや屈托に、あなたの魂をさらさないようになさいまし。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は、まるで私には何ごともことわりきれない羽目にあるとでもいうように、答えました、「なるほど白状するが、おおババ・アブダラーよ、今お前さんの思い出させてくれたことを、私ははじめに全然考えなかった。これらの駱駝全部を連れて、一人で旅をすればどうなることやら、もう今から大へん案じられるて。それじゃ私の分の四十頭の駱駝のうち、お前さんの好きなもの二十頭を選んで、残りの二十頭を置いて行って下され。その上で、アッラーのお護りの下《もと》に行くがよい。」
私はこの修道僧《ダルウイーシユ》が、こんなに簡単に言いくるめられるのを見て、ひどくびっくりしましたが、とにかくいそいで、まず自分の分の四十頭を選び、次に修道僧《ダルウイーシユ》の譲った二十頭を選びました。そしてそのお世話に礼を述べてから、暇を告げて、私はバグダードの方角に出発し、坊さんは二十頭の駱駝をバスラの方角に向わせました。
ところが、私がバグダードの道を数歩も行かないうちに、悪魔《シヤイターン》は私の心の中に羨やみと忘恩を吹きこんだのでした。そこで私は自分の二十頭の駱駝を無くしたことと、それにもまして、その背に積んである財宝を、惜しみはじめました。そして自分に言いました、「あの糞坊主め、何だって俺の二十頭の駱駝を横領しやがるのだ。あいつはあの宝の主人で、あそこから欲しいだけいくらだって、財宝を取り出すことができやがるくせに。」そこですばやく私は自分の動物共を停まらせて、修道僧《ダルウイーシユ》を精一杯呼びつつ、動物を停めて私を待てと合図をしながら、その後を追いかけました。すると坊さんは私の声を聞きつけて、足を停めました。追いつくと、私は言いました、「おおわが兄弟|修道僧《ダルウイーシユ》さん、お別れするとすぐに、私はあなたのことがどうも気になってたまらなくなりました。あなたが安らかに行けるかどうか心配なものでねえ。それで、二十頭の駱駝といえば曳いて行くのにどんなに難儀か、ことに、あなたのように、おおわが兄弟|修道僧《ダルウイーシユ》さん、こんな商売とこういった仕事に不慣れな方には、なおさらなのだから、ここのところをもう一度お考え願わないことには、どうにもこのままお別れする気になれなかった次第です。悪いことは言わない、あなたはせいぜい十頭の駱駝しか連れてゆかないで、あとの十頭は、私みたいに、一頭の面倒を見るのも百頭の面倒を見るのも同じことという男に任せて、荷を軽くしなされば、きっとそのほうがずっと工合がいいにちがいありませんぜ。」すると私の言葉は、望み通りの利き目がありました。それというのは、修道僧《ダルウイーシユ》は少しも逆らわずに、私の言うだけの十頭の駱駝を譲ってくれて、そっちにはもう十頭しか残らず、私は今は、地上の王様全部を寄せ集めた富をも凌ぐ値打の荷物をつけた、七十頭の駱駝の主人となったのでした。
さてこうなったからには、おお信徒の長《おさ》よ、もう私も満足してよさそうなものだと思えます。ところが、そうはゆきません。私の眼は昔にましてではないにしろ、昔と同様、やはり虚《うつ》ろで、私の慾張りは得るにつれていっそう昂じるばかりでした。そこで私はますます激しく泣きつき、頼み、しつこくせがみはじめて、修道僧《ダルウイーシユ》に残りの十頭の駱駝も私に譲るのを承知して、その寛大を徹底させる決心をつけさせようとしました。抱きついたり、両手を接吻したり、まああらゆる手を尽したので、とうとう坊さんもことわる力がなくなって、それもくれると告げて、私に言いました、「おおわが兄弟ババ・アブダラーよ、報酬者からお前さんのところに来た財宝を、必ずよく使いなさいよ。そしてお前さんの運命の曲り角で出会った、修道僧《ダルウイーシユ》のことを忘れなさんな……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十六夜になると[#「けれども第八百七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……おおわが兄弟ババ・アブダラーよ、報酬者からお前さんのところに来た財宝を、必ずよく使いなさいよ。そしてお前さんの運命の曲り角で出会った、修道僧《ダルウイーシユ》のことを忘れなさんな。」
ところで私は、おおわが君、宝石の積荷全部の持ち主になったことに、もう満足の極みであるべきものを、更に私の眼の慾張りに駆られて、その上なおほかのものまで求めたのでした。そしてそれがわが身の破滅を惹き起すことになったわけでございます。果して、修道僧《ダルウイーシユ》が洞穴から出る前に、尊い甕から取り出した、あの煉脂《ねりあぶら》のはいった金の小壺も、ほかのものと同様、自分のものにしなければならないという考えが、思い浮びました。それというのは、私は考えました、「あの煉脂の効能はいったいどんなものかわからんぞ。それに俺にはたしかにあの壺をとる権利がある。この坊主はいつでも好きな時、洞穴へ行っていくらでも同じ品を手に入れることができるんだからな。」そうした考えは私に、こいつはひとつ話してやれと決心させました。そこで、坊さんは別れを告げて私に接吻したところでしたが、私はこれに言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが兄弟|修道僧《ダルウイーシユ》さん、あなたが懐中に隠しなすったあの小さな煉脂の壺は、いったい何に使いなさるのですかね。修道僧《ダルウイーシユ》といえば普通、煉脂も、煉脂の匂いも、煉脂の影も使いはしないものだが、それをあの煉脂をどうするんです。いっそあの小壺も私に下さいな。あなたの記念として、ほかのものと一緒に持ってゆきたいから。」
ところで、こんどこそはてっきり、さすがの修道僧《ダルウイーシユ》も私のしつこさに腹を立てて、あっさり件《くだん》の壺をことわるものと、予期していました。そこで私は、相手はことわるものと覚悟して、何しろてんで私の敵じゃないのだから、腕ずくで奪ってやろう、万一抵抗しやがったら、あたりに人はなし、その場で撲殺《ばら》してやろうと、気構えておりました。ところが、あらゆる予期に反して、修道僧《ダルウイーシユ》は優しく微笑《ほほえ》んで、壺を懐ろから取り出し、愛想よくそれを私に差し出して、言うのでした、「さあ、ここに壺がある。おおわが兄弟ババ・アブダラーよ、どうかこれでお前さんの最後の望みが叶えられるように。それにこの上とも何か私がしてあげられると思うなら、何なりと言うがよい。いつでも叶えてあげよう。」
さて私は壺を手に入れると、それを開けて、中身をよくよく見ながら、修道僧《ダルウイーシユ》に言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが兄弟|修道僧《ダルウイーシユ》さん、この煉脂の使い方と効能はどんなものか、私は知らないから、それを教えて御親切の仕上げをして下さいな。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は答えました、「親しみこめて心から悦んで。」そして付け加えました、「聞くとあらば知らせよう。この煉脂は地下の|魔神たち《ジン》の指で煉られたもので、霊験が盛りこまれている。事実、もしこれを少々左の眼のまわりとその上の瞼につければ、これを用いた者の前に、地の宝のある諸方の隠し場所が直ちに現われてくるのじゃ。しかし万一この煉脂を、不幸にして、右の眼につけたら、途端に両眼一度に潰れてしまう。これがこの煉脂の効能であり、使い途じゃ、おおわが兄弟ババ・アブダラーよ。|さらば《ワーサラーム》。」
こう語って、坊さんは改めて私に別れを告げようとしました。けれども私は袖を引きとめて、言いました、「あなたの生命《いのち》にかけて、ひとつ最後の面倒をみて、あなた御自身で、私の左の眼にこの煉脂をつけて下さいな。あなたのほうが私よりか上手につけられるでしょうし、私は自分が持ち主になったこの煉脂の霊験も、もうためしてみたくてうずうずしているんですから。」すると修道僧《ダルウイーシユ》はあまりせがまれるまでもなく、相変らず愛想よく静かに、指の先に煉脂を少々とって、それを私の左の眼のまわりと、左の瞼の上につけながら、私に言いました、「ではこの左の眼を開けて、右の眼を閉じてごらん。」
私は煉脂をつけた左の眼を開けました、おお信徒の長《おさ》よ、そして自分の右の眼を閉じました。するとすぐに、いつもの私の両眼に見えるあらゆるものが消えて、その代りに、地下と海底の洞穴や、根元に穴をあけられた大木の幹や、巌のなかに穿たれた部屋や、あらゆる種類の隠し場所などの、累々と重なった層が現われました。そしてそれらすべてには、宝石、金銀細工、宝玉細工、宝石細工、銀器等、あらゆる色とあらゆる形の宝物が、ぎっしり詰まっております。鉱山にあるもろもろの金属、純銀と自然金、母岩のなかに結晶している宝石、大地の孕んでいる貴い鉱脈なども見えます。それで私は、じっと閉じていなければならない右の眼が、いよいよ疲れて開けずにいられないのを覚えるまで、眺めては驚嘆することをやめませんでした。そこで右の眼を開くと、すぐにまわりの景色の品々が、自然といつもの場所に戻ってきて、魔法の煉脂の利き目による一切の層は、遠ざかりつつ消えてしまいました。
こうして、この煉脂を左の眼につけた場合の、実際の効能について、本当のところを確かめますと、私はこれを右の眼につけた場合の効能について、怪しいと思わずにいられませんでした。私は心中で言いました、「どうもこの坊主は奸智にたけた食えない男にちがいなく、俺に対してこんなに気軽に親切だったのも、最後の土壇場で俺をだます気に相違ない。だって、同じ煉脂がただ場所がちがうというだけのために、同じ条件でまるっきり反対の二つの利き目を現わすなんて、あり得ないことだからな。」そこで私は修道僧《ダルウイーシユ》に、笑いながら言いました、「おい、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、奸智の父よ、どうもあんたはてっきり、今私をからかっていなさるね。だって、同じ煉脂がそんなにまったく別な反対の利き目を現わすなんて、あり得ないことだ。あなたは自分でつけてみたことがないからかも知れないが、私はむしろこう考える。この煉脂は右の眼につければ、左の眼が見せてくれる宝を、こんどは自分の思うままにできるという霊験があるのじゃないかと。どんなもんです? 何も隠し立てなさらずともいい。それに私がまちがっているにしろ合っているにしろ、とにかく私は自分の眼に、この煉脂の右の眼への利き目をためしてみたい。不確かでいるのはいやだからね。どうかひとつ、さっそくこれを私の右の眼につけてみて下さい。日の落ちないうちに出発しなけりゃなりませんからね。」
ところが、私たちが出会ってからはじめて、修道僧《ダルウイーシユ》は苛立った気色を見せて、私に言いました、「ババ・アブダラーよ、お前さんの頼みは無理だし、害を及ぼすことになる。私はせっかくお前さんに善を施してやったあとで、今さら害を加える気にはなれない。だから私にしつこくせがんで、お前の言葉に従って、お前が生涯悔やむようなことを、私にさせないでもらいたい。」そして付け加え申しました、「私たちは兄弟として別れることにして、それぞれ己が道に行くとしよう。」しかし私は、おおわが君よ、私はいっかな離さず、坊さんが難色を見せるのは、私の左の眼の見ることのできる宝を、私が手に入れて完全に自分の物にすることを邪魔するより外に他意ないものと、ますます信じこみました。そこで私は言ってやりました、「アッラーにかけて、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん、もしあなたが、大したことを散々私に許して下さったあげく、しかもこんなつまらぬことで、私に不満足な心を抱いてあなたと別れさせたくないとお望みなら、ほんのこの煉脂を私の右の眼に塗って下さりさえすればいいのだ。私にはうまくできまいからね。それに、そうしてくれないことにゃ、私はあなたを離しませんよ。」
すると修道僧《ダルウイーシユ》はまっ青になって、その顔は今まで見なかったいかつい様子を帯び、そして私に言いました、「お前はわれとわが手でめくらになるのだぞ。」そして煉脂を少々とって、私の右の眼のまわりと右の瞼の上につけました。すると私はもう自分の両眼で暗闇しか見ず、御覧のようなめくらになってしまったのでございます、おお信徒の長《おさ》よ。
そこで私は自分がこの恐ろしい有様に陥ったのを感じて、急に反省して、修道僧《ダルウイーシユ》のほうに両腕を伸ばしながら、叫びました、「めくらになるのをお助け下さい、おおわが兄弟よ。」けれども何の返事もありません。私の嘆願と叫びには耳を藉《か》さず、修道僧《ダルウイーシユ》は駱駝を歩かせ、私の分け前と運命であったものを運び去りながら、遠ざかってゆくのが、聞えました。
そこで私は地上に打ち倒れて、長い間そのまま打ち砕かれておりました。もしもその翌日、バスラからの帰りの隊商《キヤラヴアン》が私を拾いあげて、バグダードに連れ戻してくれなかったら、私はきっと苦しみと恥ずかしさのあまり、その場で死んでしまったことでしょう。
その時から、大身代と権力がわが手の届くところを通り過ぎるのを見たあとで、私は寛仁の路上で物乞う今の身に零落いたしました。そして自分の慾張りと報酬者の御恵みにつけ入ったこととの悔悟の気持が、私の心中にはいってきて、私は我とわが身を罰するため、自分に施しをして下さるすべての方の手から、平手打を頂戴するという仕置きを、自分に課したのでございました。
これが私の身の上でございます、おお信徒の長《おさ》よ。私はわが身の不徳と自分の根性の卑しさとを、何ひとつ隠さず、お話し申し上げました。そして今も、ここに並いる尊ぶべき皆様方お一人ずつの御手から、平手打を賜わるつもりでございます、それくらいでは決して十分な罰ではございませぬけれども。さあれアッラーは限りなく慈悲深くましまする。
教王《カリフ》はこの盲人の物語をお聞きになると、これに仰しゃいました、「おお、ババ・アブダラーよ、いかにも汝の罪は大罪であり、汝の眼の貪慾は許すべからざる貪慾である。さりながら思うに、慈悲深き御方の前にての汝の悔悟と謙譲とは、すでに汝に赦免を得しめたであろう。そのゆえに、余は今後は、汝が自らに課したるかの公衆の面前にての仕置きを、汝が受くるを見ざるため、汝の生活を余の内帑にて保証してやりたいと思う。したがって、財務|大臣《ワジール》は汝の衣食のため、日々わが手許金十ドラクムを与えるであろう。願わくはアッラーは汝に御慈悲を垂れたまえかし。」また教王《カリフ》は、口の裂けた片輪の学校教師にも、同額をとらするよう御命じになりました。そして、白い牡馬の主人の若者と、長老《シヤイクー》ハサンと、インドとシナの曲を奏する人々を従えた馬上の若者をば、おそばにとめおかれ、それぞれその身分に従い、御自身の日頃のあらゆる豪奢をもって、遇することとなさったのでございました。
[#この行1字下げ] ――「けれども、おお幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「この物語は、スレイカ姫[#「スレイカ姫」はゴシック体]のそれとは、遠くも近くも比べられようとはお思い遊ばしますな。」するとシャハリヤール王はこの物語を知らなかったので、シャハラザードは言った。
[#改ページ]
スレイカ姫の物語(1)
おお当代の王様、わたくしの聞き及びましたところでは、ダマスの教王《カリフ》の王座に、ウマイヤ朝の一人の王様がいらっしゃいまして、その大臣《ワジール》として、知恵と学識と弁舌を授けられた方がおりました。この方は古人の典籍や史伝や詩人の作品を読破しては、読んだところを記憶し、必要の際には、御主君に、人生を快適にし、時間を楽しくする物語を、いろいろ語ってさしあげることができました。さて、日々の中の或る日のこと、主君の王様が何か御屈託あり気なのを拝したので、大臣《ワジール》はお気を晴らしてさしあげようと決心して、申し上げました、「おおわが殿、君はしばしば私の生涯の様々な出来事につき、私が君の奴隷となり御配下の大臣《ワジール》となる以前に、この身に起ったところについて、御下問あらせられました。しかし私はこれまで常に、煩わしい人間とか己惚れに陥っている人間などと見られることを恐れて、御遠慮いたし、私以外の他の人々の身に起ったところを、お話し申し上げることを選びました。けれども今日は、自分自身を引き合いに出すことを礼節はわれわれに禁じているとはいえ、私の全生涯に跡をとどめ、またそのお蔭で、君の偉大の敷居まで私が辿り着くことのできた奇妙な冒険を、お話し申し上げたく存じまする。」そして主君がすでに注意を凝らしていらっしゃる様を拝し、大臣《ワジール》は次のように自分の身の上話を物語りつつ、申しました。
私は、おお、わが殿にしてわが頭上の冠よ、この幸《さきわ》うダマスの都に、アブドゥッラーと名乗る父より生まれましたが、父はシャーム(2)全国で最も重んじられていた商人の一人でございました。それで私の教育のためには、何ひとつ物惜しみしませんでした。それというのは、私は神学、法学、代数、詩歌、天文学、書道、算術及びわれらの信仰の伝承の研究において、それぞれ最も通暁した師匠たちから授業を受けたからでございます。また、二つの海に跨がる君の御領土全域にわたって話されているあらゆる国語も、同様に教えられ、もし他日旅を愛して世界を遍歴することになったら、人間の国々で私の役に立つようにと計らわれました。このようにして、私はわが国語のあらゆる方言の外に、ペルシア人、ギリシア人、韃靼《だつたん》人、クルド人、インド人、それにシナ人の言葉を学んだのです。そしてわが師匠方はこれらすべてを実に立派に教えることができ、私は学んだことはすべて覚え、素直ならぬ学生たちには、私が模範に挙げられるくらいでありました……。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十七夜になると[#「けれども第八百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 小さなドニアザードは自分の蹲《うずくま》っていた敷物から立ち上がって、姉に接吻して、これに言った、「おおシャハラザード姉様、後生ですから、お始めになった物語を、いそいで私たちにお話して下さいませ。それはスレイカ姫の物語ですわ。」するとシャハラザードは言った、「親しみこめて心から悦んで、そして雅びな挙措を授けられたもうたこの王様に対する、当然の敬意として。」そして彼女は言った。
ダマスの王の大臣《ワジール》は、主君にお話申していた物語を、次のように続けたのでございます。
おおわが殿、私はわが師匠方の授業のお蔭で、現代の学問一切を学び、それと共にわが国語のあらゆる方言と、ペルシア人、ギリシア人、韃靼人、クルド人、インド人、それにシナ人の言葉を学び、そして師匠方のすぐれた教授法のお蔭で、学んだことはすべて覚えてしまいますと、私の父は、私の身の将来については安堵いたし、各々の被造物の生命の期限として記《しる》されている時期が、自分のために近づいてくるのを、淡々と眺めたのでした。そこで己が主《しゆ》の御慈悲の裡に逝くに先立って、父は私を傍らに呼んで、申しました、「おおわが息子よ、今や『離別者』が、わが生命の絆《きずな》を断たんとしており、お前は指導してくれる首長《かしら》なく、出来事の海に取り残されんとしている。しかし私は、お前が受けた教育のお蔭で、幸いな天命の到来を速めることもできようと思えば、お前をただ独り残すのも心慰まる節がある。さりながら、おおわが児よ、およそアーダムの子のうちの何ぴとも、運勢が己れに取り置くところを知る能わず、いかなる用心も、『天命の書』の判決に打ち勝つを得ぬ。されば、おおわが息子よ、もし時お前に利あらず、お前の生活が黒くなる日が到ったならば、お前はそのときこの家の庭にゆき、お前も知るあの老木の一番太い枝に、吊り下がりさえすればよろしい。そうすればお前は救われることであろう。」
そして父はこの奇妙な言葉を言い終わると、それ以上詳しく聞かせてくれる暇も、こうした忠告を再び言い出す暇もなく、主《しゆ》の平安の裡に亡くなってしまいました。私は、葬式と服喪の日の続く間ずっと、父は全生涯を通じて賢明な、アッラーを畏れ奉る人であったのに、こういう奇怪な言葉を残したことについて、深く思いめぐらさずにはいられませんでした。そして絶えず自問しました、「父上は、聖典の掟に反して、非運の際には被造物の御主《おんあるじ》の御配慮に身をおまかせするよりも、むしろ自ら首を吊って死ねと忠告なすったとは、いったいどうしたことであろうか。これは何としても理解できぬことだわい。」
そのうち次第に、この言葉の記憶は私の心中に消え去り、そして私は快楽と浪費を好むこととて、自分の分け前として多大の遺産を自由にできる身となったのを見るや、やがて自分のあらゆる好みに耽るようになりました。そして数年間乱行と贅沢三昧のただ中に暮しているうちに、とうとう遺産全部を使いはたし、或る日、目を覚ますと、母の胎内から出たときのように、丸裸になっておりました。そこで私はいたく後悔しながら、自分に言いました、「おおアブドゥッラーの息子ハサンよ、今やお前は時節の裏切りからではなく、自分の過ちから、貧窮に陥ってしまった。もはや全財産としては、この庭のついたこの家しか残っていない。この上しばらく永らえるためには、これらもいずれ売り払ってしまわないわけにゆくまい。その後では、お前は乞食の身に成り下がるだろう。友人たちもお前を見棄てるだろうし、われとわが手で自分の家を潰してしまったような者など、誰も信用してはくれまいからな。」
するとそのとき、私は父の最後の言葉を思い出し、今度はそれがまことにもっともであると思い、自分に言いました、「たしかに、路上で施しを乞うよりは、いっそ首を縊って死んでしまうほうがましだわい。」
こう考えて、私は太い縄を取りあげて、庭に下りました。そして首を縊る決心をして、くだんの大木のほうへ赴き、一番太い枝を探し、老木の根元に二つの大きな石を置いて、その枝に手を届かせ、縄の一端を枝に結《いわ》いつけました。そして別の一端で輪差《わさ》を作り、それを首に通し、わが行為をアッラーにお許しを乞いつつ、二つの石の上から空中に飛び上がりました。そしてすでに首を締められて身体を左右に揺らしておりますと、そのとき枝は私の体重のため撓い、ぽきんと鳴って、幹から離れてしまいました。そして私は生命《いのち》が身体を去る前に、枝もろとも地上に落ちました。
こうして私は気を失っていた状態から正気に帰って、自分が死んでいないことがわかると、結局こんな失敗に終わるため、かくも意志の努力を費したことを大そう口惜しく感じました。そして自分の罪ある行為をまた繰り返そうとしてすでに立ち上がったとき、ふとその老木から小石がひとつ落ちるを見ましたが、その小石は燃え上がる炭火のように地上で燃えているのに気がつきました。そして非常に驚いたことには、さっき私が墜落した場所には、地上一面にこの燦めく小石がばら撒かれ、ちょうど枝が折れた木のその個所から、なおも小石がこぼれ出ているのを認めました。そこで私は二つの大きな石の上に再び上がって、その割れ目をもっと間近から眺めてみました。すると、その個所は木が詰まってはいないで空洞《うつろ》になっていて、その空洞からこれらの小石がこぼれているのを見ましたが、この小石というのが金剛石や、翠玉《エメラルド》や、その他あらゆる色の宝石だったのでございます。
これを見て、おおわが殿、私は亡父の言葉の真意を悟り、真の値打がわかってこれを思い浮べ、亡父は何も私に縊死を勧めたどころか、単にこの木の一番太い枝にぶらさがれと勧めただけのことで、父は私の体重で枝が折れ、私の不如意の日を見越して、老木の幹をくり抜いたなかに、私のために御自身埋めておいて下さった財宝が、外に露われるだろうと、あらかじめ御承知あっての上であったことを、思い出したのでございました。
そこで悦びに心をふくらせ、私は斧を取りに家に駈けこみ、その割れ目を大きくしました。すると老木の大きな幹全体が中をくり抜かれていて、根元まで、紅玉《ルビー》や、金剛石や、トルコ玉や、真珠や、翠玉《エメラルド》や、地と海のあらゆる種類の宝玉が、ぎっしり詰まっているとわかりました。
そこで私は、その御恩恵に対してアッラーを讃め称《たた》え、その知恵をもって、私の乱行を見越して、この思いがけない救いを用意しておいて下さった亡父の名を心中で祝福した後で、つくづく自分の昔の生活と放縦濫費の習慣がいやになり、品位ある堅実な人物になろうと決心いたしました。その手始めに、私の無軌道な生活に立ち会った町にはこれ以上長く暮したくなくなり、ペルシア王国に向って立ち退こうと決心しました。有名なシーラーズの町(3)は打ち勝ちがたい力で私を惹きつけたのであり、精神のあらゆる優雅と生活のあらゆる愉楽が集っている都として、父がしばしば話しているのを、聞いた覚えがあったのでございます。そこで私は自分に言いました、「おおハサンよ、そのシーラーズの町で、お前は宝石商人となって落ち着き、地上随一の快い人々と知り合いになるがよい。お前はペルシア語を話せるのだから、それも何のむつかしいこともあるまい。」
そこで私は直ちにしようと決心したことをいたしました。アッラーは私に安泰を記したまい、長旅の末|恙《つつが》なく、当時大王サブール・シャー(4)の君臨していらっしゃる、シーラーズの都に着きました。
そして私は都で最も設備のよい隊商宿《カーン》に投宿して、立派な一室を借りました。それから休む暇も惜しんで、旅の衣を新しい大そう立派な着物に着替えて、このすばらしい町の街々と市場《スーク》を散歩しに出かけました。
ところで、私は瀬戸物で作った大|回教寺院《マスジツト》の美しさに心を打たれ、礼拝の恍惚境に投じられて、そこを出たとき、サブール・シャー王の大臣《ワジール》の間の一人の大臣《ワジール》が、私のほうに来るのを認めました。先方もやはり私を認めて、まるで私が天使でもあるかのように、しげしげと私を見つめながら、私の前に立ち止まりました。それから私に近づいて、申しました、「おお若人《わこうど》のなかでも最も美しい若人よ、あなたはどこの国の者かな。それというのは、あなたの着物から見て、あなたはわが町の人ではないことがわかるからな。」私は身をかがめて、答えました、「私はダマスの者でございまして、おおわが御主人様、この町の住人の許で勉強したいと存じ、シーラーズに参りました。」すると大臣《ワジール》は私の言葉を聞くと、大そう晴々として、私を双の腕に抱き締めて、申しました、「おお、あなたの口のよい言葉かな、おおわが息子よ。何歳になるかな。」私は答えました、「あなた様の奴隷は第十六年にさしかかっております。」すると相手はますます一段と晴々としました。彼はルート(5)の一族の後裔だったからです。そして私に言いました、「美しい年頃じゃ、おおわが児よ、それは美しい年頃じゃ。もし他に格別よい仕事がないならば、わしと一緒に王宮に来なさい。わが王に御紹介してあげよう。王様は美しい容貌を好みなさるから、あなたを侍従に列して下さるだろう。たしかにあなたは、侍従たちの誉《ほまれ》となり、彼らの冠ともなろう。」私はこれに言いました、「わが頭上と目の上に。仰せ承わり、仰せに従いまする。」
すると大臣《ワジール》は私の手をとりました。そしてわれわれは四方山の話をしながら、一緒にそちらに向いました。彼は私が自分の言葉ではないペルシア語を、楽に正しく話すのを聞いて、甚だしく驚きました。そして私の容貌と優雅振りに驚嘆して、言うのでした、「アッラーにかけて、もしダマスの青年が皆あなたのようであったら、その町は天国の一劃であり、ダマスの上にある空の部分は、天国そのものだね。」こうして私たちはサブール・シャー王の王宮に着いて、大臣《ワジール》が私を王の御許に連れて行くと、王は果して私の顔に御満足あって、仰せられました、「ダマスの顔《かんばせ》はわが宮殿によくぞ来てくれた。」そして仰しゃいました、「名前は何というか、おお美青年よ。」私はお答えしました、「君の奴隷ハサンでございまする、おお当代の王よ。」そして私がこのように話すのを聞かれて、王は晴々となされ、御機嫌麗わしく、私に仰しゃいました、「いかなる名もかかる顔《かんばせ》にこれ以上似つかわしきはなかったぞよ、おおハサン(6)。」そして付け加えなさいました、「余はそちをわが侍従に任命いたし、わが眼が毎朝そちを眺めて楽しむようにしよう。」そこで私は王の御手に接吻して、お示し下された御厚意に御礼申し上げました。大臣《ワジール》は私を伴なって行って、着ていた着物を脱がせ、手ずから小姓の装束を着せてくれました。そして私にわれわれ侍従職の行儀の手解《てほど》きをしてくれました。私はそのすべての心尽しに対し、どのように謝意を表してよいかわからない有様でした。こうして大臣《ワジール》は私の後ろ楯となってくれ、私はその友となりました。一方、他の侍従たちはいずれも年少で大へん美貌の人たちでしたが、彼らも全部私の友となりました。かくて、早くも私にかくも多くの悦びを与え、かくも多くの洗練された楽しみを約束するこの王宮で、私の生活はすこぶる好ましい前途を前触れしておりました。
ところで、今までは、おおわが殿、女性というものは私の生活に全く何の関係もございませんでした。しかるにやがてそれは姿を現わすこととなり、それと共にわが生活には、紛糾がはいってくることと相成っていたのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十八夜になると[#「けれども第八百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
事実、私は取りいそぎ申し上げねばなりませんが、おおわが殿、私の保護者の大臣《ワジール》はそもそも最初の日から、私を戒めたのでした、「よいかな、おおわが愛する児よ、十二室付きのすべての侍従に対しては、王宮のすべての役職者、役人衛兵に対してと同様に、夜間一定の時刻以後は、王宮の御苑を散歩することは、禁止されている旨、心得よ。それというのは、その時刻以降は、御苑はただ後宮《ハーレム》の女性たちのみの用に宛てられ、その女たちがそこに出かけて空気を吸い、お互い同士談笑することができるようにされている。万一誰か男が、不幸にしてその時刻に御苑で見つかるようなことがあったら、その首《こうべ》は危ういのだ。」私は決してそんな危険は冒すまいと、心に固く期していたのでありました。
ところが一夕、爽やかさも手伝い大気のなごやかさもあって、私は御苑の腰掛の上で、ついうとうとと眠りこんでしまいました。そしてどのくらいの間眠っていたのか存じません。そして夢寐の裡に、女たちの言う声を聞いたのでした、「おお、これは天使だわ、まあ、天使よ、天使だわ。まあ何て美しいこと、何て美しい、何て美しいのでしょう。」そこで私は突如目が覚めましたが、見えるのはただ暗闇ばかり。そこで私は今夢を見たのだとわかりました。また同じく、もし自分がこんな時刻に御苑で見つけられでもしたら、王と大臣《ワジール》にどんなに覚えめでたいにせよ、首《こうべ》を失うおそれが極めて大だということもわかりました。こう思うと気も狂わんばかりになって、私はつと両足の上に立ち上がって、この禁断の場所で人に見咎められないうちに、王宮に駈け入ろうとしました。ところがそのとき、突然暗がりと静けさから女の声が洩れて来て、声色《こわいろ》笑いに溢れて、私に言うのでした、「どこへ行くの、どこへ行くの、おお目の覚めた美男子さん。」すると私は、後宮《ハーレム》の護衛全部に追いかけられたよりも動転して、王宮に駈け込むことより念頭になく、足を風にまかせようといたしました。けれども二、三歩も歩かぬうちに、私は小路の曲り角に、折しも雲の下から出て来た月光のもとに、一人の美貌と純白の貴婦人が、恋する羚羊《かもしか》の切れ長な双の眼をもって、私の前に立ち、微笑を浮べて現われるのを、見たのでした。その風姿は威厳あり、態度は王者の趣きがあります。そしてアッラーの空に輝く月とても、その顔ほど輝かしくはございません。
そこで私は、疑いなく天国から降ってきたこの出現の前に、足をとめるより外になすすべがありませんでした。そして狼狽しきって、私は眼を伏せ、恭しい態度を保ちました。するとその婦人は優しい声で言いました、「そんなに急いでどこへいらっしゃろうとなさったの、おお眼の光よ。いったい誰があなたをそんなに駈けさせるのでしょう。」私は答えました、「おお貴婦人様、もしあなたがこの宮中のお方ならば、私がこのようにあわただしくこの場を立ち去るよう駈り立てる理由を、御存じないわけはございません。事実あなたは、一定の時刻を過ぎれば、御苑にぐずぐずしていることは男子に禁じられており、その禁止にそむくことは首《こうべ》を失うおそれがあることは、御承知に相違ありません。されば、お願いでございます、どうか護衛の者に見咎められないうちに、私を立ち去らせて下さいませ。」すると若い貴婦人は笑いつづけながら、言いました、「おお心の微風よ、あなたは引き上げることを思いつくのが、少々遅すぎましたよ。あなたの仰しゃる時刻は、もうとっくの昔に過ぎてしまいました。逃げ出そうとなさる代りに、ここであなたの夜の残りをお過ごしになったほうが、ずっとましでしょう。あなたの夜はあなたにとって、祝福された一夜、白い一夜となるでしょうから。」けれども私は、前にもまして動転し、身を顫わして、ただ逃げ出すことしか思わず、嘆き悲しんで申しました、「おお、逃れるすべなきわが身の破滅です。おお善き人々の娘、おおわが御主人様、あなたがどなたでいらっしゃろうとも、あなたの色香の魅力によって、私の死を惹き起さないで下さいませ。」そして私は逃れようといたしました。しかし婦人は左の腕を伸ばして私を遮り、右手でもって面衣《ヴエール》をすっかり投げ棄てて、こんどは笑うのをやめて、私に申しました、「まあわたくしを御覧なさいな、若いわからずやさん。そしてあなたは毎夜、わたくしよりも美しくわたくしよりも年若い女たちに出会うことができるかどうか、仰しゃって下さい。わたくしはまだやっと十八で、どんな男の人もわたくしに触れたことはございません。わたくしの顔は、決して見た目に醜くはないはずですが、これまであなた以外の男は誰も、これを垣間見たと得意になることはできませんでした。ですから、もしもあなたがこれ以上わたくしから逃れようとなさるとすれば、それはわたくしを激しく侮辱なさることになるでしょう。」私はこれに言いました、「おおわが女王様、いかにも、あなたは美の満月でいらっしゃいます。そして嫉み深い夜は私の眼から、あなたの魅力の一部を隠しているとはいえ、私の拝見するところだけで、私を恍惚とさせるに十分でございます。けれども、お願い申し上げます、暫らく私の身にもなって下さいませ。さすればこれがいかに情なく、微妙な立場であるか、おわかりになりましょう。」相手は答えました、「あなたの立場がなるほど微妙なことは、おお心の核《かく》よ、あなたと御一緒に認めますけれど、その微妙さは、あなたの冒している危険から来るのではなく、その危険の原因となっている当の人自身から来ているのです。それと申しますのは、あなたはわたくしが誰であるか御存じないし、宮中でのわたくしの身分がどのようなものかも、御存じないのですから。そしてあなたの冒している危険ということにつきましては、あなた以外の人なら誰にとっても、いかにも本当のことでしょう。けれどあなたはわたくしの保護と庇護の下にある身ですからね。さあ、お名前と、どういう方で、宮中でどういう職に就いていらっしゃるか、伺わせて下さい。」私は答えました、「おおわが御主人様、私はダマスのハサンと申し、サブール・シャー王の新しい侍従、サブール・シャー王の大臣《ワジール》の御愛顧を蒙る者でございます。」すると婦人は叫びました、「まあ、あなたが、あのルートの後裔の脳を顛倒させてしまった美男のハサンですか。おお、今宵《こよい》わたくしただ一人で、あなたを独り占めできるとは、何というわが身の仕合せ、おお愛《いと》しい人よ。いらっしゃい、私の心よ、さあ、いらっしゃい。そして和やかさと優しさの時間を、辛い物思いで毒することなどおやめなさいまし。」
このように語って、その美しい乙女は無理やり私を自分に引きつけ、自分の顔を私の顔にすりつけ、情熱こめて自分の唇を私の唇の上に押しあてました。そこで私は、おおわが殿、このような事件が身に起ったのはこれが最初であったとは申せ、この接触により、私の身内に父親の息子が勢い激しく生きて来るのを覚え、そこで悶絶する乙女を恍惚と掻き抱きながら、私は息子を取り出して、これを巣のほうへと差し出しました。ところが、それを見ると、煽り立てられて身を動かす代りに、その乙女は突然私の腕から抜け出して、一と声警戒の叫びをあげながら、手荒く私を突きのけました。そして私が息子を元のところに戻す暇もろくにないくらいすぐに、薔薇の茂みから十人の乙女が出てきて、死ぬほど笑いこけながら、私たちのほうに駈けよってくるのが見えました。
この乙女たちを見ると、おおわが殿、私は乙女たちは一切を見もし、聞きもしたことがわかり、相手の若い女は私をなぶり者にして興じたのであり、自分の仲間たちを笑わせる明らかな目的を持って、からかって私を弄んだにすぎないことを悟りました。それに瞬く間に、全部の若い娘たちは既に私のまわりを取り囲んでいました、笑いさざめき、飼い馴らされた牝鹿のように跳びはねながら。そしてけたたましい笑いのただ中で、娘たちは悪戯心《いたずらごころ》と好奇心に燃えた眼でもって私を眺め、さっき私に近よった娘に言うのでした、「おお私たちの妹カイリヤよ、あなたはほんとうにお上手よ、まあ、ほんとに上手だったわ。何と見事だったでしょう、あの子供は。それにぴちぴちして。」すると別の一人は言いました、「それにすばしっこいし。」また別の一人は言います、「それに怒りっぽいし。」また別の一人は言います、「それに粋《いき》だし。」また別の一人は言います、「それにかわいらしいし。」また別の一人は言います、「それに大きいし。」また別の一人は言います、「それに達者だし。」また別の一人は言います、「それに猛烈だし。」また別の一人は言います、「それに凄いし。」また別の一人は言います、「帝王《スルターン》だわ。」
そう言ってから、娘たちは長いことけたたましく笑い出し、一方私はもう窮屈と当惑の極にありました。なぜなら、私はいまだかつて、おおわが殿、面と向って女の顔を見たこともなければ、女たちと交際したこともありませんでしたから。そしてこの娘たちときては、淫りがわしさの史録類のなかにも例のないほどの厚顔無恥、大胆不敵振りでございました。そこで私は娘たちの有頂天のさ中で、馬鹿のように、度を失い、恥じ入り、鼻を足の先まで延ばして、茫然としていたのでした。
ところが突然、薔薇の茂みから、昇り際の月のように、第十二番目の乙女が出てまいりました。その姿が現われるや、すべての笑いもからかいも、はたとやみました。そしてその乙女の美しさは無上のもので、通り行く先々、花の茎にも頭を下げさせるほどでした。そして乙女は私たちの群のほうに進み寄りますと、近づくにつれ私たちは道を開きました。乙女はしげしげと私を眺めて、私に言いました、「たしかに、おおダマスのハサンよ、あなたの大胆は大へんな大胆で、ここにいる若い婦人に加えたあなたの乱暴は、罰に値します。わが生命にかけて、まだ若くて美しい身なのに、何と残念なことでしょう。」
そのとき、この事件すべての原因となった、カイリヤと呼ばれる乙女が、進み出て、今のように述べた乙女の手に接吻して、これに申しました、「おお、私たちの御主人スレイカ様、貴い御《おん》生命《いのち》にかけまして、先刻のこの男の行動を許してあげて下さいませ。それはこの男の気性の激しさの証拠にすぎないのでございますから。この男の運命はあなたのお手の間にあります。私たちはこの男を見殺しにしなければならないでしょうか。それともこれに救いの手をのべてやらなければならないでございましょうか、この美男の襲撃者に、この若い処女たちに対する暴力犯人に。」するとスレイカと呼ばれる乙女はしばらく考えに耽ってから、答えました、「よろしい、今度のところは、許してやりましょう、その暴力を受けた当のあなた自身が、味方して取りなすというのならば。その首《こうべ》は無事であるように。また今陥っている危険から救い出されるように。そればかりか、自分を救ってくれた若い娘たちを覚えていてもらうために、私たちはこの男に、今夜の事件をいささかいっそう快いものにしてやるよう、努めなければなりません。ですから、私たちと一緒にこの男を連れて行って、これまでどんな男も立ち入ったことのない、私たちの私室に入れてやるとしましょう。」こう語って、仲間の若い娘の一人に合図をすると、その娘はすぐに、身も軽く糸杉の蔭に姿を消し、一瞬後には、両腕に絹織物をこぼれるほど載せて、戻ってまいりました。そしてその絹織物を私の足許に拡げましたが、それは一揃いの美しい婦人の衣服になっておりました。そして娘たち皆で、私を助けてそれを私の着物の上に重ねさせました。このように女装して、私は見分けがつかないように、一同の群に、紛れ入りました。そして木々の間を抜けて、私たちは皆の私室に行き着きました。
さて、真珠とトルコ玉をはめこんで、透し彫りを施した大理石造りの、後宮《ハーレム》専用の応接の間《ま》にはいりしなに、若い娘たちは私の耳許で、この広間は王の独り娘の姫君が平生、女の訪問客とお友達を迎えることになっているお部屋だと、聞かせてくれました。また、王の独り娘の姫君とは、スレイカ姫御自身に他ならないことも、同様に教えてくれました。
かくも美しくかくも何も置いてないこの広間のまん中には、大絨緞の上に、車座に配置した二十枚の錦の大きな四角な座布団があるのを、私は認めました。全部の若い娘たちは、今までこっそりと私に媚態を呈したり、燃える秋波を投げたりすることを、片時もやめなかったのですが、ここでこの錦の座布団に整然と坐りに行き、私をば無理やり一同のまん中に、スレイカ姫に寄り添って坐らせました。姫は私の魂を刺し貫く眼で、私を眺めていられました。
するとスレイカは茶菓を命じました。六人のいずれも劣らず美しく、美々しい服装をした新たな女奴隷が、即座に現われて、黄金の盆に載せた絹のナプキンを先ず私たちに差し出し、それに続いて十人の女奴隷が、ただ見るだけでもすでに喉を潤すような大きな磁器類を持って、はいってまいりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百七十九夜になると[#「けれども第八百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてその女たちは、雪を入れた氷菓《シヤーベツト》、凝乳、シトロンの砂糖煮、胡瓜の薄片、それにレモンを詰めた磁器を、私たちに出しました。スレイカ姫が最初に召し上がって、御自分の唇に運んだその同じ黄金の匙で、私に少々の砂糖煮とひと切れのシトロンを差し出し、次に新たに凝乳をひと匙勧めて下さいました。次にその同じ匙がいくたびも手から手へと渡り、全部の若い娘がこれらの結構な品をとり、何度も繰り返して、とうとう磁器の中にはもう何もなくなりました。すると、女奴隷たちは水晶の杯に入れた大そう美しい水を、私たちに差し出しました。
そして座談は、まるで私たちが葡萄酒の酵母《もと》をすべて飲み尽したかのように、弾《はず》んでまいりました。私はこれらの若い娘の口から出る話の大胆なのには、驚き入りました。「父親の息子」を見たことが途方もなく一同の気になっていて、誰か一人がそれについて何か内容のあるひどい冗談を言い出すごとに、そのつどけたたましく笑い出すのでした。そして乱暴な振舞いがあったとすれば、そのいわゆる乱暴を私がしかけた当のかわいらしいカイリヤは、今ではもう私に何の怨みも含まず、私と向い合った場所を占めておりました。そして微笑を浮べながら私を見やり、眼の言葉でもって、園での私の血気を許しているということを、私にわからせました。私はまた私で、時々彼女のほうに眼をあげ、次に、彼女が私を眺めているのを見るとすぐに、いそいで眼を伏せるのでした。それというのは、私はあらゆる努力を尽して、自分の顔の上に多少の落ち着きの色を浮べようとするにもかかわらず、これらの並外れた若い娘たちのただ中にいては、やはり大そうばつが悪い素振りを持ちつづけていたからです。一方スレイカ姫をはじめその仲間も、よくそれに気がついていて、あらゆる手段を講じて、私に大胆な気分にならせようと努めました。そのうちスレイカはとうとう私に申されました、「いったいいつになったら、おお私たちの友ハサン、おおダマス人《びと》よ、あなたは寛ろいだ様子をし、のびのびなさるの。この罪のない若い娘たちは、人間の肉を食べる女とでも思っていらっしゃるの。王女の私室にいれば、あなたの身には何の危険もないことを、御存じないのですか。ここには、許可がなくては、一人の宦官もあえて立ち入ることはございません。ですからしばらくは、スレイカ姫相手に話ししているということなど打ち忘れて、シーラーズの小商人どものただの小娘とおしゃべりする席にいるものと、お考えなさい。さあ、頭を挙げて、おおハサンよ、そしてここにいる若いかわいらしい人たち全部を、真向《まつこう》から御覧なさい。そしてこの上なく注意をこめて一同をよく吟味した上で、全く率直に、私たちの気を悪くすることなど心配せずに、私たちのなかで誰が一番あなたの気に入るのか、はやく伺わせて下さいな。」
ところが、このスレイカ姫の言葉は、おお当代の王よ、私に勇気と自信を与えるどころか、ただ私の混乱と当惑を増すばかりで、動顛の赤面が顔に上がってくるのを感じながら、しどろもどろの言葉を口ごもることしかできませんでした。そのときには、地が裂けて私を呑み込んでくれればと願うほどでした。するとスレイカは私の困惑を見てとって、私に言われました、「おおハサン、どうやら私はあなたを困らせることを求めているようですね。なぜなら、あなたはきっと、誰か一人を特に好むとはっきり言えば、他の人全部の気持を悪くさせ、あなたに悪意を持たせはしまいかと、懸念しているでしょうから。ところが、もしそのような懸念があなたの理性を黒くしているとしたら、それはあなたのまちがいというもの。ほんとうのところ、私と私の仲間たちは全く仲睦じく、お互いに固い愛情の絆で結ばれていますから、一人の男が私たちのうちの一人と何をしようと、決して私たちの互いの気持を変えるなどということはできないものと、御承知下さい。ですから、あなたの心をそんなに用心深くする懸念を、お心から追い払い、思う存分私たちをよく吟味して下さい。もし私たちがあなたの前で丸裸になって欲しいとさえお望みになっても、私たちは自分の頭上と眼の上に押し戴いて、仰せの通りにいたしましょう。とにかくただ早く、あなたの選ぶ意中の女《ひと》は誰か、仰しゃって下さい。」
そこで私は、おおわが殿、こうした励ましを前にして、立ち戻ってきた勇気を振い起しまして、スレイカの仲間たちはいずれも申し分なく美しく、この上なく熟練した目にも優劣をつけることは大へんむずかしいことであったでしょうが、また他方スレイカ姫御自身も、少なくともお付きの若い娘たちに劣らずすばらしい美女であったけれども、それにもかかわらず、私の心は、最初に御苑であのように激しく心をときめかされた女、きびきびした快いカイリヤ、「父親の息子」の愛《いと》しい女を、切に望んでいたのでありました。けれども、あらゆる願望にもかかわらず、そうした気持を洩らすことは、固く慎しみました。スレイカの大丈夫だからという言葉はあるにせよ、それは私の頭上にこれらの処女全部の恨みを招くおそれが、多分にあったからです。そこで全部の乙女を最上の注意をこめて、よく見調べた後で、私はスレイカ姫のほうに向いて、姫にこう言うだけで満足しました、「おおわが御主人様、私はまず最初に、あなた様の魅力はお仲間御一同のそれに比べられない旨を、申し上げなければなりません。それと申しますのは、月の輝きは星の燦めきに比ぶべくもないからでございます。あなた様のお美しさは、眼はただこれにのみ視線を向けずにいられないというほどのものがございます。」そしてこの言葉を言いながら、私は好もしいカイリヤに、打ち合わせの一瞥を投じ、ただ礼儀作法のために姫に対するこのお世辞を言わせられているのだということを、彼女にわからせるようにせずにはいられませんでした。
私の返事を聞くと、スレイカは微笑しながら私に言いました、「お上手ですわ、おおハサン、お世辞なことは見え透いてはいるけれど。今は前よりかもっと自由にお話しになっていいわけですから、早くあなたの心の底を打ち明けて、ここにいる若い娘全部のなかで、一番あなたの心を捕らえる娘はどの人か、私たちに言って下さいな。」また一方若い娘たち全部も、姫の頼みに口を合わせて、私が誰を選ぶか明かすように、強《た》って私に促すのでした。皆のなかで、とりわけカイリヤは、すでに私の密かな思いを見抜いていて、一番熱心に私に言わせたがっている様子を見せました。
そこで私は、おおわが殿、今は私の臆病心の残りを追い払って、若い娘たちとその女主人の繰り返し言うこのあらゆる懇望に黙しがたく、スレイカのほうに向いて、手を振って若いカイリヤを指しながら、姫に申しました、「おおわが女王様、私の望むのはまさにこの女《ひと》です。さよう、アッラーにかけて、私の最大の願望の向うのは、この愛らしいカイリヤです。」
ところが、私がまだこれらの言葉を言い終らないうちに、全部の若い娘たちは一斉に長い間、けたたましい笑い声をあげましたが、その晴れやかな顔の上へは、微塵も口惜しさの色は現われていません。私は娘たちが互いに肱で突き合い腹を抱えて笑っているのを眺めながら、心中で考えました、「この事件は何と驚いた事件だろう。ここにいるのは女たちの間の女かしらん、若い娘たちの間の若い娘かしらん。なぜって、いったいいつから、女性の被造物がこんな淡白な気持とこれほどの美徳を持つようになって、自分たちの同類の一人の成功を前にしても嫉まず、顔を引掻き合うような真似をしないことが、できるようになったのであろう。アッラーにかけて、姉妹同士だって、自分の姉妹に対し、これほどの見上げた優しさとあっさりした気持をもって、振舞いはしないだろう。これは理解を絶することだわい。」
けれどもスレイカ姫は、私に長い間このような不審な思いに沈ませていずに、私に申されました、「おめでとう、おめでとう、おおダマスのハサンよ。私の生命《いのち》にかけて、あなたのお国の若い人たちはよい趣味を持ち、お眼が肥え、利発ですわ。私は、おおハサンよ、私の気に入りのカイリヤを選んでくれたことは、大へんうれしく思います。これは私の心の大好きな娘《こ》、一番愛している娘《こ》ですもの。あなたはその選択を後悔なさることはないでしょうよ、おおいたずらっ子さん。それにその選ばれた女《ひと》の値打と真価のすべては、あなたの全く知らないところなのです。なぜなら、私たちは皆、御覧の通りで、魅力と身体《からだ》の完全と才智の力の点で、遠くも近くも、あの人に比べられようなどとはとても望めないのです。実際のところ、私たちはあの人の奴隷なのよ、見かけはそう見えないかも知れないけれど。」
次に一人一人、全部の娘は次々に麗わしいカイリヤに慶《よろこ》びを述べ、その得た勝利について冷やかしはじめました。カイリヤは返答に窮することなど決してなく、仲間の一人一人に対して然るべき返事をし、その間私は驚きの極に達している有様でした。
それが済むと、スレイカは自分の側《そば》の琵琶《ウーデイ》を取り上げて、それをお気に入りのカイリヤの手の間に置きながら、言いました、「私の魂の魂よ、あなたはあなたを慕う男に、あなたの御存じのことを少しばかり見せてあげて、私たちがあなたのすぐれていることを大げさに言ったのではないと、思わせてあげるがいいわ。」すると好もしいカイリヤはスレイカの手から琵琶《ウーデイ》を取って、調子を合わせ、うっとりするような前奏を奏でてから、伴奏をつけながら、声をひそめて歌いました。
[#ここから2字下げ]
われは愛の教え子。愛はわれによき礼節を教えたり。
愛はわが魂の裡に数々の財宝を忍ばせぬ。われはこれをかの若き仔鹿のために蔵《しま》いおかん、
その美しき|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》の黒き蠍《さそり》もて、わが心を貫きし若き仔鹿のために。
わが生くる限り、われはわが心の選びし若人《わこうど》を愛さむ、われはわが愛を注ぐ人に忠実《まめやか》なる女なれば。
おお恋人よ、愛すべき者を選び定めし上は、そを深く愛していやしくも別るることなかれ。一旦失いし物は再び見出さるることなきなり。
われとしては、われは姿優美なるこの若き仔鹿を愛す。この眼差《まなざし》は鋭き刃物の刃《やいば》よりなお深くわが心を貫けり。
美はその若き額に、意義簡明なる愛すべき文言を書き記せり。
その妖術の眼差は魅惑に溢れ、その黒き矢の輝く引き絞る弓によってあらゆる心を魅す。
おお君よ、われはもはや君なくして叶わず、わが内心に君に代るものあらじ。
われと共に浴室《ハンマーム》へ行かむ。甘松香燻じて、その香気は部屋に満つるべし。しかしてわれは君が胸の上にてわれらの愛を歌うべし。
[#ここで字下げ終わり]
歌い終ると、彼女は私のほうに愛情切々と眼を向けましたので、私は突如自分のあらゆる臆病さも、王女とそのいたずらな仲間のいることも打ち忘れ、恋情に熱狂し、嬉しさの極に達して、カイリヤの足許に身を投げ出してしまいました。その薄衣《うすぎぬ》から立ち昇る香気と私の上のその肉身の熱気を感じて、私はもう全く酔い痴れ、いきなり彼女を両腕に抱き、できるかぎりの到るところを猛烈に接吻しはじめると、彼女は雉鳩《きじばと》のように茫としているのでした。そして、若い娘たちが、発情期以来飢えている牡羊のように競い立った私を見て、けたたましく笑う声を聞いて、私ははじめて現実《うつつ》に返ったのでありました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十夜になると[#「けれども第八百八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで一同は食べたり、飲んだり、ばかげたことを言ったり、お互いにそっと愛撫やおべっかを交したりしはじめているうちに、一人の年とった女奴隷がはいってきて、やがて夜が明けようとしている旨を、一座に告げ知らせました。すると全部の娘は口を揃えて答えました、「おお私たちの御主人様の乳母《めのと》様、御注意は私たちの頭《かしら》と眼の上にございます。」そしてスレイカは立ち上がりながら、私に申しました、「今は、おおハサン、休みに行く時です。あなたは恋する人と首尾よく結ばれることになるよう、私の保護をあてにすることができます。私はあらゆる手を尽して、あなたに望みを叶えさせてあげるようにしますからね。けれどもさし当っては、私たちはあなたをこの後宮《ハーレム》からそっと抜け出させてあげましょう。」
そして姫は年とった乳母《めのと》に二言三言耳打ちすると、乳母はちょっと私の顔を見つめてから、私の手をとり、後についてくるようにと言いました。そこで私は、この鳩の群の前に一礼して、好もしいカイリヤに情熱こめた一瞥を投じてから、老婆に案内されて出て行きますと、老婆はいくつもの廻廊を渡り、数知れず曲りくねったあげく、自分が鍵を持っている扉の前に、私を行き着かせました。そしてその扉を開けました。私は外に忍び出てみると、自分が王宮の囲いの外にいるのに気づきました。
さて、すでに夜は明けておりましたので、私は公然と、番兵によく見えるようにして大門をくぐって、いそぎ王宮へ戻りました。そして自分の部屋に駈けつけ、敷居を跨いだと思うと、私の保護者、ルートの後裔の大臣《ワジール》が、焦慮と不安の極に達して、私を待っているのを認めました。大臣《ワジール》は私がはいってくるのを見ると、つと立ち上がり、私を両腕に抱きしめ、優しく接吻して、言いました、「おおハサンよ、わしの心はお前の許にあった。そして私はお前の身について非常に案じていた。シーラーズでは異国の者とて、お前は街々を毒しているごろつき共のために、夜陰危い目に会っていないかと思うと、わしは一晩中眼を閉じなかった。ああ、愛する児よ、わしから遠く離れて、どこに行っていたのか。」私は自分の出来事を打ち開けるとか、女たちと一緒に夜を過ごしたなど言うことを固く慎しんで、バグダードに落ち着いたダマスの商人に出会い、この人は先刻一家をあげてエル・バスラに向って出発したところであるが、その男のところに一夜引きとめられたとだけ、答えることにいたしました。すると私の保護者はその言葉を信じないわけにゆかず、ただいくつか溜息を洩らして、私を温く叱るだけにとどめました。大臣《ワジール》のほうは、このようでございました。
私はと申すと、私は自分の心も精神も好もしいカイリヤの魅力に縛りつけられているのを感じ、その日とその夜はずっと、私たちの出会いの事情の隅々までも思い出して過ごしたのでした。すると翌日、まだわが思い出に耽っているところに、一人の宦官が私の戸を叩きに来て、言いました、「ダマスのハサン殿、われらの主君サブール・シャー王の侍従のお住居は、たしかにここでございますね。」私は答えました、「あなたはその人のところにおいでです。」すると彼は私の手の間の床《ゆか》に接吻して、立ち上がると、懐中から一通の巻紙を取り出して、私に渡しました。そして来たごとく立ち去りました。
そこで私は、すぐに紙を拡げてみると、複雑な書体で認《したた》められた次の文言が含まれているのを見ました。「シャームの国の仔鹿にして、今宵、月光に乗じて、枝々の間にそのしなやかさを遊歩させに来たまわば、恋の病いを病んですでにその接近に悶絶する若き牝鹿に、行き会いたもうべし。牝鹿は己が言葉にて、森の牝鹿らの間にて選ばれし者となり、同輩の間にてわけて気に入りの者となりしことを、いかばかり心中にて感激するものかを、申し上ぐるならむ。」
そして、おおわが殿、この文《ふみ》を読んで、私は酒なくして酔い心地を覚えました。それと言いますのは、好もしいカイリヤは私に対し多少の愛情を抱いたことは、最初の夜にわかったとは申せ、このような執心の証拠《しるし》を私はほとんど予期していなかったからでございます。さればわが感動を制することができるとすぐに、私は保護者の大臣《ワジール》の許に出向いて、その手に接吻しました。こうして私に十分好意を持つようにしておいてから、私の国の修道僧《ダルウイーシユ》が最近メッカから当地に来て、自分と一緒に一夜を過ごそうと誘ってくれたので、会いに行く許可をいただきたいと頼みました。許可が得られたので、私は自室に戻り、自分の持っている宝石の中から、最も美しい翠玉《エメラルド》や、最も純粋な紅玉《ルビー》や、最も純白な金剛石や、最も大きな真珠や、最も上等なトルコ玉や、最も完全な青玉《サフアイア》などを選び、それらを黄金の糸で数珠形に繋ぎました。そして夜が御苑に下るやいなや、身を麝香で薫らせて、隠し小門からこっそりと茂みに行き着きましたが、この小門の道は知っていましたし、門は私のために開いておりました。
そして最初の夕、その根方でつい眠ってしまった糸杉の木立の下に着いて、私は息をはずませながら、愛する女の来るのを待ちました。期待は私の魂を焼き、私たちの相逢う時はもう決して来ないように私には思えました。そこに突然、月光の下に、軽やかな白さが糸杉の間に動いて、好もしいカイリヤが私の恍惚とした眼の前に姿を現わしました。私はその足下にひれ伏し、顔を地につけ、一言も口がきけず、彼女が流れる水のような声で私にこう言うまで、そのままの状態でおりました、「おお、わが愛のハサン様、立ち上がって、この優しい情熱のこもった沈黙の代りに、わたくしに対するあなたの愛情のまことの証拠《あかし》を見せて下さいませ。おおハサン様、あなたがわたくしを仲間の娘たち全部よりも、あの快い若い娘たち、穴をあけられない真珠全部よりも、またスレイカ姫さえよりも、美しく望ましいと本当にお思いになったなどいうことは、いったいあるものでしょうか。わが耳を信じるためには、わたくしはもう一度それをあなたのお口から承わらなければならない次第です。」こう言って、彼女は私のほうに身をこごめて、起き上がるように手を貸してくれました。そこで私はその手を取って、情熱こもる唇に押しあてて、申しました、「おお、女王のうちの女王よ、まずここにあなたのために、わが国の数珠がございます。どうかこれをあなたに捧げた奴隷を思い出しながら、あなたの幸福な生活の日々の続く間、この数珠玉を爪繰って下さいませ。そして貧者のつまらぬ贈物のこの数珠と共に、愛の告白をもお受け下されませ。この告白はすぐにも、法官《カーデイ》と証人たちの前で合法のものとするつもりでおります。」すると彼女は私に答えました、「あなたにそれほどの愛を吹き入れたとは、何と嬉しいことでしょう、おおハサン様、あなたゆえ今宵の危険にわが魂を曝したお方よ。けれども、悲しいことに、わたくしは果してわが心がその征服を悦んでよいやら、それとも、わたくしたちの遭遇をわが生の災厄と不幸との始まりと見なしてはいけないのかどうか、どうもわからないのでございます。」こう語って、彼女は私の肩に頭をもたせかけましたが、溜息がその胸を膨らませているのでした。そこで私はこれに申しました、「おおわが御主人様、この白い夜に、あなたはどうしてお顔の前の世界を、そんなに黒く御覧になるのですか。どうして、そのようなまちがった予感を抱いて、あなたの頭上に災厄をお呼び寄せになるのですか。」すると彼女は言いました、「どうかアッラーは、おおハサン様、この予感をまちがったものにして下さいますように。けれども、こんなに待ち望んだわたくしたちの逢瀬の折に、わたくしたちの悦びを乱しに来るこの懸念が、道理のないものとはお思いになりますな。残念ながら、わたくしの心配はあまりにも根拠のあるものですの。」そしてしばらく口をつぐんでから、私に言いました、「実はこうなのです、おお、恋人のなかで一番愛されている恋人よ、スレイカ姫がひそかにあなたを愛していらっしゃって、今にもあなたに御自分の愛を打ち明けようとしていらっしゃるのです。そこであなたは、このような告白をどうお受けになるでしょうか。わたくしに対して抱いていると仰しゃる愛は、王様方の姫君のなかで一番美しく、一番権力のある王女を恋人に持つという光栄に、逆らいきれるでしょうか。」けれども私はその言葉を遮って、叫びました、「ええ、そうですとも、あなたの生命にかけて、おお好もしいカイリヤ様、あなたは永久に私の心中で、スレイカ姫にまさります。アッラーがあなたにもっと恐ろしい競争相手を与えて下さればよいが。そうすれば、あなたの魅力の奴隷となった私の心の変りなさは、何ものにも損なわれ得ないことが、おわかりになるのに。たとえスレイカの父君、サブール・シャー王に、後嗣ぎの王子がなく、王女の夫たるべき人に、ペルシアの王座を譲りなさるということであろうとも、私はあなたのためにこのような天命を犠牲にいたします、おお、若い娘のうち最も愛すべきお方よ。」するとカイリヤは叫んで、言いました、「おお、不運なハサン様、あなたは何とお目が見えなさらないのでしょう。このわたくしはスレイカ姫にお仕えする一人の奴隷の身にすぎないことを、あなたはお忘れですの? もしあなたが姫の愛の告白に対して拒んでお答えになったら、あなたはわたくしの頭上とあなたの頭上とに姫の恨みを招きよせ、わたくしたちは二人とものがれるすべなく破滅してしまうでしょう。ですから、わたくしたち二人の身のために、あなたは一番有力な女の方になびくほうが、よろしゅうございますよ。それが唯一の救いの道。アッラーはやがて悲嘆に沈む人々の心の上にその香油を塗って下さいましょう。」しかし私はその忠告に従うどころか、そのような打算に屈するほど意気地なしとの嫌疑をかけられただけでも、心外の至りと感じて、好もしいカイリヤをわが両腕に抱き締めながら、叫びました、「おお、創造主の最も美しい賜物を一身に集めた粋よ、そのように切ない話で、私の魂を苛《さいな》まないで下さい。危険があなたの愛らしい頭に迫っているとあらば、一緒に私の国へと逃げ去りましょう。彼処《かしこ》には、沙漠があり、誰にもわれわれの足跡を見つけることはできますまい。そして私は、報酬者のお蔭をもって、たとえ人の住む世界の果でなりと、あなたを栄華の裡に暮らさせることができるくらい、豊かな身です。」
この言葉に、私の友は淑やかに私の腕の中に身を託して、私に言いました、「それでは、ハサン様、わたくしもうあなたの愛情を疑いません。そしてあなたのお気持を試みるつもりで、わざとあなたに思い違いをおさせしたのですけれど、今はその誤解をといてさしあげたく思います。実は、わたくしはあなたの思っていらっしゃるような女ではなく、スレイカ姫のお気に入りのカイリヤではございません。スレイカ姫とはこのわたくし自身のこと、そしてあなたがスレイカ姫と思っていらっしゃったのが、まさしくわたくしの気に入りのカイリヤです。わたくしがこのような計略を設けたのは、ただあなたの愛をもっと確かめたいばかりだったため。それに今すぐわたくしの言葉の佯りでない確証をお目にかけましょう。」
こう言って、彼女がひと声呼ぶと、糸杉の蔭から、私がスレイカ姫と思っていたが、実はお気に入りのカイリヤである娘が、出てまいりました。そして女主人の手に接吻しに来て、私の前で儀式張って身をかがめました。すると好もしい姫は私に言いました、「おおハサン様、わたくしがスレイカという名前で、カイリヤでないことがおわかりになった今でも、あなたは同じくらいわたくしを愛しなさいますか。ただの王女の気に入りの女に対してお抱きになったと同じ優しいお気持を、王女に対してもお抱きになれましょうかしら。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十一夜になると[#「けれども第八百八十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私は、おおわが殿、然るべく返事をせずにはおかず、スレイカ姫に向って、過分のわが身の幸福は理解しかねるところであり、いったいどういう点で、私のような奴隷まで御目《おんめ》を下げてくださり、それによって私の運命を最大の王様方の王子たちのそれよりも羨やむべきものとして下さるに、自分が値し得たのかも、理解しかねる旨、申し上げました。しかし姫は私の言葉を遮って、申しました、「おおハサン様、わたくしがあなたのためにしてあげることを、意外に思いなさいますな。わたくしは一夜、木立の下で、月光を浴びて眠る、あなたのお姿を見なかったでしょうか。ところで、あの時からすぐに、わたくしの心はあなたの美しさに征服されて、わたくしとしては、わが心の激情を制しかねて、ただあなたに身を委ぬるより外、どうにもできませんでした。」
そこで、愛らしいカイリヤがわれわれから遠からぬところを歩き廻って、あたり一帯を見張っている間に、われわれ二人は己が熱情の河を思うさま流れさせましたが、しかし不合法なことは何一つ行なわれませんでした。そしてわれわれは、お気に入りの侍女がわれわれの別れる時到った旨知らせに来るまで、優しく相抱き語り合って、夜を過ごしました。けれどもスレイカの許を去る前に、姫は私に言いました、「おおハサン様、どうかわたくしの思い出があなたと共にありますように。わたくしはお約束申しますが、あなたがどれくらいわたくしにとって大切な方か、ほどなくきっとお知らせいたします。」
そこで私はその足許に身を投げ出して、姫のあらゆる好意を感謝しました。そしてわれわれは眼に情熱の涙を浮べて、別れました。私は最初のときと同じ廻り路をして、御苑の外に出ました。
ところで翌日、御苑での新たな逢瀬を当てにすることができるような何かわが愛人の合図を、私は衷心から望んでいました。しかるに私の最も大切な希望の実現を齎らすことなく、一日は過ぎてしまいました。そこで私はこの音沙汰のない動機について不安を覚え、その夜は眼を閉じることができませんでした。その次の日は、そばに保護者がいて、私の気苦労の原因を何とか突きとめようと努め、私の気を晴らそうといろいろ言ってくれる言葉にもかかわらず、私は眼前のすべてを黒く見て、どんな食物にも手をつける気にはなりませんでした。そのうち夕方になると、まだ退去の刻限にならないうちに、御苑のほうに下りて行ってみると、びっくり仰天したことには、茂みという茂みは全部衛兵に占領されているのが見られ、そこで何か重大事件が起ったらしいと思って、いそぎ自室に再び上がりました。自室に着くと、姫君付きの宦官がいて、私を待っておりました。そしてその宦官はぶるぶる顫えて、まるで部屋の隅々から武器を持った男どもが飛び出して来て、自分を粉微塵にしてしまうとでもいう風に、私の部屋にいることがいかにも不安げな様子です。そしていそいで、この前渡したと同じような紙の巻物を私に渡して、そそくさと逃げ去りました。
私はくだんの巻物を拡げてみると、次のような文言を読みました。「おお優しさの核よ、若き牝鹿は優雅なる仔鹿と別れしとき、危うく猟師どもに捕われかけしものと御承知あれ。して今は、森全体を占むる猟師どもに、見張らるる身なり。されば、心して、夜、月光の下に、行きて君が牝鹿に再会せんと試みたもうことなかれ。むしろ警戒して、われらの迫害者らの罠より身を守りたまえ。わけても、近日中に何事の起り得るとも、何事を聞きたもうとも、いささかも絶望に沈みたもうことなかれ。妾《わらわ》が死すらも、君をして慎重を忘るるまでに、理性を失わしめざらんことを。以上《ワアサラーム》。」
この文《ふみ》を読みまして、おお当代の王よ、私の憂慮と胸騒ぎはぎりぎりの極に達し、私は混乱した物思いの奔流に弄ばれました。それゆえ、その翌日、スレイカ姫の突然であると同じく不審な御逝去の噂が、梟《ふくろう》の羽搏《はばた》きのように、王宮に拡まったときには、私の苦痛はすでに絶頂に達し、私は驚くことさえなく、頭のほうが足よりも先に、わが保護者の腕の中に倒れて、悶絶してしまいました。
こうして私は七日と七夜の間、死に近い状態に陥っていましたが、その後、保護者の至れり尽せりの手厚い看護のお蔭で、生に戻ったものの、魂は哀悼に満ち、心は抜きがたく生への嫌悪に捉えられてしまいました。そしてわが愛人の喪によって暗くなったこの王宮に、これ以上永く止まるに耐え得ず、私は機会あり次第密かに逃げ去って、あるものといえば、ただアッラーと野草あるのみの寂寥の地に引き隠《こも》ろうと決心いたしました。
そして、夜の闇の濃くなるや直ちに、私は金剛石その他宝石類で持っている最も貴重なものをまとめながら、考えたのでした、「昔ダマスで、父上の庭の老木の枝に首を吊って死ぬ運命であったほうがよかったなあ、今後|没薬《もつやく》よりも苦い喪と苦痛との生を生きるよりは。」そしてわが保護者の不在に乗じて、人里離れた寂寥の地を求め、王宮とシーラーズの町の外に忍び出ました。
かくて私はその夜一夜と次の日一日、つづけさまに歩きつづけまして、その夕方頃、道ばたの、淡《ま》水の目(7)のほとりにひと休みしていますと、背後《うしろ》にあたって、馬の駈ける音が聞え、数歩のところに、すでに私の近くに、一人の若い騎士を見かけましたが、その顔は、沈もうとする太陽の赤さに映えて、天使リズワーン(8)の顔よりも、美しく見えました。彼は貴族《アミール》や王子方でなければ着ないような、美々しい服装をしておりました。そして回教徒《ムスリムーン》同士の日常|挨拶《サラーム》の慣用文句を言わずに、ただ片手だけで、礼儀の会釈をしながら、じっと私を見つめました。私のほうでも、同じやり方でその会釈を返した上で、こう思いました、「このすばらしい若者が無信仰者とは、何とも残念なことだな。」それはともかくとして、私は彼に休息して馬に水を飲ませるように勧めて、言いました、「殿よ、夕《ゆうべ》の爽やかさが御身によろしく、この水が貴殿の血統正しい駿馬の疲労に快くありますように。」騎士はこの言葉に微笑を浮べ、地に飛び降りて、自分の馬を水の目のそばに手綱でつなぎ、私に近づくや、突然腕を私のまわりに繞らして、ただならぬ熱烈さで私に接吻したものでした。私は驚くと同時に深く悦ばされ、更に注意をこめて相手を見つめると、ひと声大きな叫びをあげました。この青年の裡に、墓石の下にいるものと信じていた、最愛のスレイカを認めたのでございます。
さて今は、おおわが殿、スレイカに再び会って、わが魂を満たした幸福感を、どのように申し述べることができましょうか。わが舌は、この至福の刹那にわれわれの心を満たした喜びの激しさをいくらかお伝えすることができる前に、むしろ毛だらけになってしまうでございましょう。われわれは永い間お互いの腕の中にあった後に、スレイカは私の近頃の苦痛の日々全部の間に起ったこと一切を、つぶさに私に知らせたとだけ申し上げて、事足らせていただきます。そこで私には次のことがわかったのでございます。姫は父王に密告されて、厳重な監視を受ける身となり、そこで、自分の生きさせられている生活よりはどんなことでもましと思い、死んだ振りをし、お気に入りの侍女と牒《しめ》し合わせて、王宮から逃れ出ることができ、私のあらゆる動静を監視して、遠くから警戒の目を離さず、かくして、もはや私の愛を確信できたので、栄耀栄華を遠く離れて、私と一緒に暮らし、私を幸福にすることにことごとく身を捧げようと思ったのでありました。さてそこで、われわれは空の目の下で、相共にする歓楽の裡に、二人の夜を過ごしました。そして翌日、われわれはひとつ馬に相乗りして、私の故国に到る道をとりました。アッラーはわれわれに安泰を記したまい、われわれは元気でダマスに着き、この都で運命は私を君の御前に置き、おお当代の王よ、そして御権力の大臣《ワジール》たらしめたのでございました。以上が私の身の上話でございます。そしてアッラーは更に多くを知りたまいまする。
[#ここから1字下げ]
――「けれども、おお幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「このスレイカ姫の物語が、のどかな青春の団欒《まどい》[#「のどかな青春の団欒《まどい》」はゴシック体]から取り出した物語のうち、最もとるに足らないものにも比べることができるとは、お思い遊ばしますな。」
そして、シャハリヤール王が、スレイカ姫の物語についての意見を洩らす暇もなく、彼女は言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
のどかな青春の団欒《まどい》(1)
頑固な頭の少年と小さな足の妹
語り伝えますところでは、――さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする。――むかし国々の間のひとつの国の、村々の間のひとつの村に、正直者で至高者の思し召しに恭順な一人の男がおりまして、全能者を恐れ奉る申し分ない妻を持ち、夫婦の間に――祝福のお蔭で――男の子と女の子との、二人の子供がありました。男の子はわがままで頑固な頭をもって生まれ、女の子は優しい魂とかわいらしい小さな足をもって生まれました。二人の子供が或る年齢《とし》に達したとき、父親が亡くなりました。けれども、臨終のとき、父親は母親を呼んで、これに言いました、「おお何某よ、お前にくれぐれも申しつけておくが、我らの眼の瞳《ひとみ》、うちの息子の面倒をよく見てやって、何をしようとも決して叱らず、何と言おうとも決してさからわず、とりわけ、生涯のどんな場合にも、何なりとあの子の好きなようにさせておいてくれよ、――どうかあの子の生涯が永くそして栄えますように。」そして妻が泣きながら、その約束をしますと、父親は仕合せに亡くなって、そのほか何も望みませんでした。
母親は亡くなった夫の最後の申しつけに従わずにはいませんでした。その後しばらくたつと、母親は床《とこ》について死ぬことになり、――ひとりアッラーのみ永遠の生者にまします。――少年の妹のわが娘を呼んで、これに言いました、「娘や、お聞き、亡くなったお父さま、――どうかあの方が寛仁者の御慈悲のうちにありますように。――お父さまは、御臨終のとき、けっしてお前の兄さんの気にさからわないようにと、私に誓わせたのです。ところで、こんどはお前が、この申しつけに従いますと、私に誓って、安らかに往生させておくれ。」そして若い娘が母親にその誓いをすると、母親は満足して、主《しゆ》の平安のうちに亡くなりました。
さて母親の埋葬がすむとすぐ、少年は妹に会いに行って、言うのでした、「聞いてくれ、おお、お父さんとお母さんの娘よ。僕は今すぐ即座に、僕らの手に持っている家具とか、収穫物《とりいれもの》とか、水牛とか、小羊とか、ひと口でいうと、お父さんが残してくれたもの全部を、家のなかに集めて、容《い》れものも中身もそっくり焼いてしまいたいのだ。」少女はあっけにとられて、眼を見張り、母の申しつけも忘れて叫びました、「まあお兄さん、でもそんなことをなすったら、私たちはいったいどうなるの。」兄は答えました、「とにかくそうするんだ。」そして自分の言った通りしました。全部を家のなかに積みあげておいて、家に火をつけたのでした。これで、財産も資本も、一切が燃え上がってしまいました。また少年は妹がいろいろな品物を隣りの人たちのところに隠して、難をのがれさせおおせたのに気づいて、その家々を探しはじめ、妹の小さな足跡を辿って、それらの家を見つけました。それらを見つけると、一軒一軒、容《い》れものも中身も、次々に焼き払ってしまいました。ところが、その家の持ち主たちは、物凄い目つきをして、熊手をつかみ、兄妹を追いかけはじめて、これを殺してしまおうとしました。少女は恐しさに死にそうになって、兄に言いました、「おお兄さん、あなたは自分のしたことがどういうことかわかったでしょう。逃げましょう、さあ、逃げましょう。」そして二人は一緒に、脚を風にまかせて逃げだしました。
兄妹は一日一夜走って、こうして自分たちを殺そうとする人びとから、首尾よく逃げおおせました。そして農夫たちが、ちょうど収穫《とりいれ》をしている立派な地所に着きました。そこで生きてゆくため、兄妹は二人を手伝いに使ってくれと申し出ました。愛嬌のある顔をしていたので、採用されました。
さて数日後、少年は家で、ちょうど親方の三人の子供たちだけと一緒になったのを見て、いろいろとかわいがってやって、子供たちを手なずけ、そして言いました、「麦打ち場に行って、麦打ちごっこをして遊ぼうよ。」それで四人そろって手をつないで、その麦打ち場のほうに行きました。少年は遊戯をはじめるため、まず最初自分が麦になって、子供たちはこれを打って遊びましたが、しかし痛くするほどでなく、ちょうど遊びができるぐらいに打ちました。そのうち子供たちが麦になる番になって、みんな麦になりました。すると少年はそれを麦なみに打ちました。子供たちが捏粉《こねこ》になってしまうほど、強く打ったものです。それで子供たちは麦打ち場で死んでしまいました。子供たちのほうはこういう次第でした。
ところで、少年の妹の少女のほうは、兄がいないのに気がつくと、これはまた何かひどいことをしでかしているにちがいないと思いました。そこで探しはじめて、やっと見つけると、兄はちょうど地主の息子たち三人の子供を、伸《の》しおえたところです。これを見て、妹は言いました、「はやく逃げましょう、おお兄さん、はやく、はやく。またこんなことをしでかしたのね。私たちはこの土地で、とても工合がよかったのにねえ。でもとにかく、はやく逃げましょう、逃げましょうよ。」そして兄の手を掴んで、むりやり一緒に逃げ出させました。少年はもともとそうする気でいたので、引かれるままになりました。そして兄妹は出発しました。さて子供たちの父親が家に戻ってきて、子供たちを探すと、麦打ち場で捏粉になっているのを発見し、そして兄妹が姿を消したのを知ると、父親は使用人たちのほうに向きながら、叫びました、「おれたちはあの二人の悪人を追っかけなければならん。あいつらはおれの三人の子を殺して、われわれの恩義と歓待に報いたのだから。」そこで一同、弓矢と棍棒をもって物凄く武装し、兄妹と同じ道をとって、二人のあとを追いました。そして夜になると、彼らは大そう大きく大そう高い一本の木のところに着いて、その根元に寝て、夜明けを待つことにしました。
ところが、兄妹はちょうどその木の天辺《てつぺん》に隠れていたのでございました。それで明方、目がさめてみると、その木の根元に、自分たちを追っかけてきた男たちが全部いて、まだ眠っているのを見ました。すると少年は、三人の子供の父親である親方を指しながら、妹に言うのでした、「ほら、あそこに大男が眠っているだろう。いいかい、僕はこれからあいつの頭の上に、大小便をひっかけてやろう。」妹はふるえ上がって、自分の口を手の甲で打って、兄に言いました、「おお、私たちはこれっきりもう助かりませんよ。どうかそんなことはしないで下さい、ねえ、お兄さん。あの人たちはまだ私たちが頭の上に隠れているとは知らないから、兄さんがおとなしくしていれば、やがて行ってしまって、私たちは救われますよ。」けれども兄は言います、「いやだ。」そして付け加えて、「どうあっても、僕はあの大男の頭の上に、大小便をひっかけてやる。」そして一番高い枝の上に蹲《しやが》んで、親方の頭と顔の上に、小便をかけ、また大便を落して、じゃあじゃあ浴びせかけました。
こうした次第です。
するとその男は、これらのものを感じて、はっとして目がさめ、木の天辺に、あの少年が悠然と木の葉で拭いているのを見つけました。そこで怒りのぎりぎりの極に達して、弓をとり、兄妹めがけて矢を放ちました。けれども何しろ木がとても高いので、矢はどれも届かず、枝々にひっかかってしまいます。そこで彼は部下を起して、言いつけました、「この木を伐り倒せ。」少女はこの言葉を聞くと、兄の少年に言いました、「ごらんなさい。私たちはもうだめよ。」兄は言いました、「そうともかぎらないさ。」妹は答えました、「ひどい目にあうわ、兄さんがあんなことをしたからよ。」兄は言いました、「まだ僕らはあいつらの手につかまったわけじゃないよ。」
ちょうどその瞬間、一羽の巨鳥ロクが、そこを通りかかって二人の姿を見つけ、二人に襲いかかって、二人をもろとも爪に掛けてさらってしまいました。そしてロクが兄妹を連れて飛び立つと、一方、大木は斧に切られて倒れたが、親方はあてがはずれて、抑えに抑えた激怒と鬱憤を一度に爆発させるのでした。
ロク鳥のほうは、兄妹を爪に掴んだまま、空中に上がりつづけました。そして今は、いよいよ大陸のどこかに兄妹を下ろそうとして、そのためには、いま上を飛んでいる入江を横ぎりさえすればよいという時になって、少年は妹の少女に言うのでした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十二夜になると[#「けれども第八百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……少年は妹の少女に言うのでした、「妹よ、僕はこの鳥の尻をくすぐってみるよ。」すると少女は、こわさに胸をどきどきさせて、震える声で叫びました、「おお、後生です、お兄さん、そんなことはしないで下さい、よして下さい。鳥は私たちを放して、私たちはおっこちてしまいますよ。」兄は言います、「この鳥の尻をくすぐることは、僕はどうしてもしたいのだ。」妹は言います、「だって私たちは死んでしまいますよ。」兄は言いました、「だめだ。とにかくそうするんだ。」そして言ったとおりをしてしまいました。するとくすぐられた鳥は、気持が悪くてたまらなくなって、横ざまにはね上がり、持っていたもの、つまり兄妹を、放してしまいました。
兄妹は海に落ちました。そして海の底まで沈みましたが、それはとても深うございました。しかし二人とも泳げたので、水面まで浮び上がって、岸に辿りつくことができました。ところが、そこはさながら暗い夜のただ中にいるように、何ひとつ見えず、何ひとつ見分けられません。それというのは、兄妹の着いた国は、闇の国だったからです。
すると少年は躊躇なく、手さぐりで小石を探して、二つの石を擦りあわせて、火花を出させました。そしてたくさんの木を拾い集めて、うずたかく積みあげ、その二つの石でもって、それに火をつけました。木の山が燃え上がると、よく見えるようになりました。ところがその瞬間、恐しい唸り声が聞えました。野生の水牛の声が千も集って、ひとつになったような声です。そして火の明りで見ると、まっ黒な、とほうもなく大きな女の食人鬼《グーラー》が、こちらに進んできて、竈《かまど》のような口を開けて叫ぶのでした、「わたしが永久に闇に定めた国で、明りをともす無法者はどいつだ。」
これには妹はこわくてたまりません。それで消え入る声で、兄の少年に言いました、「おお、お父さまとお母さまの息子よ、こんどこそは私たちはたしかに死ぬでしょう。おお、あの食人鬼《グーラー》、私こわい。」そして死にそうになり、もう気を失って、兄にぴったり寄り添いました。しかし少年は少しもあわてず、すっくと立ち上がって、食人鬼《グーラー》に立ち向い、薪の燃えさかる大きな燠《おき》を一本一本とっては、これを食人鬼《グーラー》の大きく開けた口のなかに、まっすぐに投げこみはじめました。このようにして、最後の大薪を放りこんだときには、恐しい食人鬼《グーラー》は、まん中から裂けてしまいました。そして太陽が再び、この永久に闇に定められた国を照らしました。それというのは、今まで食人鬼《グーラー》が、そのとほうもなく大きな尻を太陽に向けていて、この地を照らすのを妨げていたからでした。食人鬼《グーラー》のお尻については、このような次第でございます。
ところで、この地の王様については、こうです。この国を治めていた王様は、長年の間暗闇のうちにすごした末に、再び太陽が輝きだしたのを見ると、あの恐しい食人鬼《グーラー》の死んだことがわかり、そこで、この国を圧迫と闇夜から解放してくれた勇者を探すために、護衛を従えて宮殿を出なさいました。海岸に着くと、遠くから、まだくすぶっている木の山が見えたので、王様はそちらに歩みを進めました。妹は、先頭に輝く王様につづく、武装に身を固めたこの一隊が、進みよってくるのを見ると、非常な恐怖に襲われて、兄に言いました、「おお、お父さまとお母さまの息子よ、逃げましょう。さあ、逃げましょうよ。」兄は聞きます、「なぜ逃げるのさ。誰がこわいのだい。」妹は言いました、「あなたの上のアッラーにかけて、行ってしまいましょうよ、こっちに向ってくるあの武装した人たちが、私たちのところまで来ないうちに。」しかし兄は言いました、「いやだ。」そして動きません。
そのうち王様は一隊を連れて、くすぶる木の山のそばに着いて、食人鬼《グーラー》がこなごなに砕けているのを見ました。そしてそのそばに、少女用のごく小さな草履《サンダル》の片方を、見つけなさいました。ところでそれは、兄が丘の蔭に行って、しばらく横になって休むというので、自分も兄のそばに隠れに行こうと駈けだしたとき、その小さな足から脱げ落ちた、妹の草履《サンダル》の片方でございました。王様は部下におっしゃいました、「これこそ食人鬼《グーラー》を殺して、われわれを暗闇から解放してくれた女の草履《サンダル》に相違ない。よく探してみよ、きっと見つかるであろう。」少女はこの言葉を聞きつけて、思いきって丘の蔭から出て、王様に近づきました。そして王様の足下に身を投げ出して、御保護を願いました。王様はこの少女の片足に、先ほど見つけた草履《サンダル》の姉妹をごらんになりました。そこで少女を起き上がらせて、これを抱いて、おっしゃいました、「おお祝福された乙女よ、あの恐しい食人鬼《グーラー》を殺したのは、たしかにそなたであるか。」少女は答えました、「いえ、私の兄でございます、おお王様。」王様はお訊ねになりました、「して、その勇者はどこにいるか。」少女は、「ひどい目にあわされないでしょうか。」王様は、「それどころではない。」そこで少女は岩蔭に行って、少年の手をとると、少年はそのままついてきました。少女は兄を王様の前に案内しますと、王様はこれにおっしゃいました、「おお、勇者らの首領にして彼らの冠よ、余は独り娘をその方に遣《つか》わす。そして余は、草履《サンダル》を見出したこの小さな足の乙女をば、妃《きさき》に迎えることといたす。」すると少年は言いました、「さしつかえござりませぬ。」
こうして一同、満足し繁栄して、歓楽のうちに暮らしたのでございました。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは言った。
足飾り
言い伝えられているところの間で、言い伝えられているところでは、むかし或る町に、父は同じだけれども母のちがう、三人の若い姉妹がいて、一緒に暮らし、麻糸を紡《つむ》いで生活を立てておりました。三人とも月のようでございましたが、一番末の妹が一番美しく、一番優しく、一番かわいらしく、一番手が器用でした。それというのは、その末の妹ひとりだけで、二人の姉を合わせたよりも多く紡ぐし、また紡いだ糸の出来栄えもよく、たいがいの場合非のうちどころがないのでしたから。そのため、母のちがう二人の姉は妬《ねた》ましくてならないのでした。
さて或る日、その妹娘は市場《スーク》に行って、自分の麻を売って貯めておいたお金でもって、白大理石の小さな壺をひとつ買い求めました。自分の好みに合った品だったので、それに花を挿して、麻を紡ぐ間、自分の前に置こうと思ったのです。ところが、その小壺を手にして、家に帰ると、二人の姉は彼女とその買物を嘲笑《あざわら》って、むだづかい屋だの、突飛な女だのと言うのでした。妹はすっかりしょげ、恥じ入って言う言葉も知らず、ひとり心を慰めるために、一輪の薔薇をとって、それを小壺に挿しました。そしてその壺の前と薔薇の前に坐って、麻を紡ぎはじめました。
ところが、この若い紡ぎ女の買った白大理石の小壺は、魔法の壺でございました。それで、持ち主が食べたいときには、結構な御馳走を出してくれるし、着たいときには、見事な着物を与えるし、ちょっとでも欲しいと思えば、すぐに望みを叶えてくれるのでした。けれどもその娘は、母のちがう姉たちを、もっと妬み深くするのを恐れて、自分の白大理石の壺の霊験を、姉たちに明かすのはさしひかえました。そして姉たちの前では、姉たちと同じように暮らし、同じように着るばかりか、もっとつましくしているようなふりをしていました。けれども姉たちが外に出ると、妹はただひとり自分の部屋に引きこもって、自分の前に白大理石の小壺を置き、壺を優しく撫でて、言うのでした、「おお私の小壺、私の小壺よ、今日はこれこれのものが欲しいわ。」するとすぐに白大理石の小壺は、美しい着物でも、甘いものでも、欲しいと言うものは何でも得させてくれます。そこで娘は自分自身とたった二人きりで、絹や金の着物を着、宝石で身を飾り、全部の指に指輪を、手首と足首には飾《かざ》り環《わ》をはめ、結構な甘いものを食べるのでした。それがおわると、白大理石の小壺は、全部を消え失せさせます。そして娘はまた壺を持って、姉たちのいるところで、薔薇を挿した小壺を前に、麻を紡ぎに行くのです。
このようにしてその娘は、妬み深い姉たちの前では貧しく、自分自身の前では豊かに、しばらくの間暮らしていました。
ところで、日々のうちの或る日、町の王様は御自分の誕生日のおり、宮中に大宴会を催して、住民全部をお招きになりました。三人の若い娘も同じように招かれました。すると二人の姉は持っている一番上等なものを着飾って、妹に言いました、「お前はここに残って、留守番をおしよ。」
けれども、姉が出てゆくとすぐ、末の娘は自分の部屋に行って、白大理石の壺に言いました、
「おお私の小壺よ、今晩私は、緑の絹の着物と、紅い絹の胴着と、白い絹の外套と、お前の持っている一番贅沢で一番美しいもの全部と、それから指にはきれいな指環、手首にはトルコ玉の腕環、足首には金剛石の足環が欲しいの。そのほか、私が今晩、御殿で一番美しい女になるために、入用なもの全部をちょうだいな。」すると頼んだものが全部手に入りました。そこでそれを着飾って、王様の御殿に出かけ、婦人のために一般とは別の宴会が催されている後宮《ハーレム》にはいりました。すると彼女は諸星《もろぼし》のただ中の月のようでした。誰も、姉たちさえも、彼女とはわかりません。それほど服装のすばらしさは、彼女の持って生まれた美しさを引き立たせたのでした。婦人方は全部、彼女の前にきてうっとりとし、濡れた眼でもって彼女を見つめました。そして女王のように、みんなの敬意を優しく丁寧に受けたので、彼女はすべての人の心を掴んで、全部の婦人に慕われるようになりました。
けれども、祝宴が終りに近づくと、この娘は、姉たちが自分より先に家に帰るのをきらって、歌姫たちが満場の注意をひいている隙をねらって、後宮《ハーレム》の外にのがれ出し、御殿から出ました。けれどもいそいでのがれたので、走ったおりに、足首の金剛石の環の片方を、王様の馬の水飼場《みずかいば》になっている、地面とすれすれに置かれた水槽のなかに、取り落してしまいました。しかし自分では足飾りを落したことに気づかないで、家に帰ると、姉たちはまだ戻っていませんでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十三夜になると[#「けれども第八百八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて翌日、馬丁たちは王子様のお馬をひいて、水飼場に水を飲ませに行くと、王子様のお馬は一頭も、水飼場に近よりたがりません。どれもそろって、鼻の孔をふくらまし、鼻息をあらくし、おじけづいて後じさりします。それというのは、馬は、何か水底で光って、きらめいているものを見たからです。馬丁はしきりに鞭を鳴らしながら、再び馬を水に近づけますが、馬はどうしても承知しません。なぜなら、後脚で立ち、跳ね上がって、手綱をひっぱるのでしたから。そこで馬丁たちは水飼場を取り調べてみると、若い娘が足首から落した金剛石の環を見つけました。
王子様はいつものように、人びとが御自分の馬の手入れをし、櫛を入れるのに立ち会っていらっしゃいましたが、馬丁たちのお渡しした金剛石の足飾りを調べてみなさると、その環のはまるはずの足首の細さに感心して、考えました、「わが首《こうべ》の命にかけて、女の足首で、こんなに小さな環のなかにはいるほど、細いものはありようがないな。」そしてそれをあちこちひっくりかえしてみると、その宝石はとても見事なもので、そのうちの一番小さなものでも、父王様の王冠を飾る宝玉全部をよせあつめたくらいの、値打ちがあることがおわかりになりました。そこで独りごとをおっしゃるに、「アッラーにかけて、こんなに愛らしい足首の持ち主で、この足飾りの主《ぬし》である女を、私はぜひ妃《きさき》に迎えなければならない。」そして即刻即時、父王様を起しに行き、その足飾りをごらんにいれて、申し上げました、「こんなに愛らしい足首の持ち主で、この足飾りの主《ぬし》である女を、私は妻に迎えたく存じます。」すると王様はお答えになりました、「おおわが子よ、別にさしつかえはないが、しかしその問題はお前の母親の裁量することだから、そちらに持ってゆきなさい。それというのは、余は知らぬが、母上は知っているからな。」
そこで王子様は母君に会いに行って、足飾りをごらんにいれ、用件を話した上で、申しました、「おお母上、私をこのように愛らしい足首の持ち主と、結婚させて下さることのできるのは、母上です。私の心はもうその女が好きになりました。父上のお言葉では、母上が御承知で、父上は御承知ないとの仰せです。」すると母君はお答えになりました、「仰せ承わり仰せに従います。」そしてすぐお立ち上がりになって、侍女たちを呼び、一緒に足首飾りの主《ぬし》を探しに、お出かけになりました。
御一行は町の家々全部をめぐり、全部の婦人部屋《ハーレム》にはいって、すべての女、すべての娘の足に、その足首飾りをはめてみました。けれどもどの足も、その環の狭さには大きすぎるのでございました。そして空しく探し、空しく試みて十五日目に、御一行は三人姉妹の家に着きました。女王様はお手ずから、三人の娘の足首に、金剛石の環をおためしなさいましたが、それが一番末の娘の足首に、ぴったりはまるのを確かめなさると、大きな歓声をおあげになりました。
女王様はその娘に接吻なさり、女王に従うほかの貴婦人たちも、同様に娘に接吻しました。そしてみんなで娘の手をとって、御殿につれてゆき、王子との結婚がすぐに取りきめられました。そこで婚礼の儀式がはじめられましたが、それは四十日と四十夜にわたることになっていました。
さていよいよ最後の日、娘は浴場《ハンマーム》に案内されたあと、わが悦びをわかち、宮中で貴婦人にならせようと思って、二人の姉を呼びよせて、着付《きつけ》をし、髪を結《ゆ》ってもらいました。その前に姉たちの示す愛情に心を許して、妹は白大理石の小壺の秘密と霊験を姉たちに明かしておいたので、姉たちが魔法の壺から、未だかつてどんな王様の娘も帝王《スルターン》の娘も飾られたことのないように、この花嫁を飾るために必要なすべての衣裳、すべての装飾品、すべての宝石類を取り出すことは、わけないことでございました。そしていよいよ妹の髪を結《ゆ》いあげたとき、二人の姉は妹の見事な髪のなかに、鳥の冠毛の形をした、大きな金剛石の針《ピン》をいく本もさしました。
ところが、その最後の針《ピン》がさしこまれたと思うと、とたんに花嫁は突然、頭に冠毛のはえた雉鳩に変ってしまいました。そして翼をひろげて、御殿の窓からすっと飛び立ちました。
それというのは、姉たちが髪にさした針《ピン》は、実は魔法の針《ピン》で、若い娘たちを雉鳩に変えてしまう力を持つものだったからです。
そしてこういう針《ピン》を白大理石の小壺に出させたのは、二人の姉の妬みでございました。
二人の姉は、そのとき妹と三人きりだったのをさいわい、王子様に真相を話すことはかたくさしひかえました。そしてただ、妹はちょっと外に出て、それきり帰ってこないのだとだけ申し上げました。王子様は娘が再び姿を現わさないので、町中と国中を捜索させましたが、捜索は何のかいもありません。そして娘の行方不明は王子様を衰弱と苦悩に陥れました。愛にやつれた、悲しみの王子様については、このようでございました。
さて雉鳩のほうはというと、雉鳩は朝な夕な、わが若い背の君の窓辺にとまりにきて、永いこと、永いこと、悲しげな声で鳴くのでした。王子様はその鳴き声が、御自身の悲しみにちょうど釣合うとお思いになって、この鳥を大そうかわいがりなさいました。或る日のこと、王子様は近よっても鳥が飛びたたないのを見て、手をのばして、鳥をつかまえました。すると鳥は、王子の手のなかで、悲しげに鳴きつづけながら、ばたばたと跳ね、身を揺すりはじめました。王子様はやさしく撫で、羽をつくろい、頭を掻いてやりはじめました。すると、鳥の頭を掻いてやっているうち、指の下に、何か針《ピン》の頭のような小さな固いものが、感じられます。そこでそれらを次々に、冠毛の下から抜いてやりました。こうして最後の針《ピン》を抜きとると、雉鳩は身を揺すって、元の若い娘になりました。そしてお二人は、満ち足り栄えて、歓楽のうちに暮らしました。二人の悪い姉は、妬みと血の内攻のあまり死んでしまいました。アッラーは恋人たちに、両親と同じように美しい、たくさんの子供をお授けになったのでございました。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードは、その夜、さらにこう語った。
王女と牡山羊の物語
語り伝えられているところの間で、語り伝えられているところでは、むかしインドの町に一人の帝王《スルターン》がいらっしゃって、偉大にして寛仁なアッラーは、これを月のような三人の姫の父親となしたまいました。この三人はいずれも、どの点からも申し分なく、見る者の眼の法楽でございました。父君の帝王《スルターン》はこの上なくおかわいがりで、姫たちが妙齢《としごろ》に達するとすぐに、娘たちを正当に評価して、これを幸福にするだけの力ある婿《むこ》を、探してやりたいものと考えなさいました。その目的で、帝はお妃《きさき》の女王を召して、おっしゃいました、「今やわれらの三人の娘、父親の大切な愛児たちは、妙齢に達した。およそ樹木はその春に到れば、美しき果実を告ぐる花をつけねばならぬ。さもなくば枯れ絶えるであろう。さればわれらとしては、わが娘たちに、これを幸福ならしめる夫を見つけてやらなければならぬ。」女王は言いました、「お考え至極結構でございます。」そこで、お二人の間で、この目的に到達する最上の手段をいろいろ御協議なすったあげく、触《ふ》れ役人たちに、王国全土にわたって、三人の姫君が御結婚の年齢に達したから、あらゆる王侯貴族の子弟をはじめ、さらに、単なる個人や庶民の子弟さえも、定めの日に、王宮の窓の下に参集するようにと、布告させることに決定なさいました。それというのは、女王は御夫君に申されたのです、「結婚の幸福は、貧富にも貴賤にもよりませぬ。ただ全能者の神慮によるばかりでございます。ですから、私たちの娘の婿選びは、いっそ天命自身にまかせておくほうが、よろしゅうございます。いよいよ選ぶ日がきたら、娘たちはめいめい、求婚者の群の上に、自分の手巾《ハンケチ》を窓から投げさえすればよい。そしてその三つの手巾《ハンケチ》が落ちかかった人たちが、私たちの三人の娘の夫となることにいたしましょう。」すると帝王《スルターン》は答えました、「その考えは至極結構じゃ。」それでそういうことになりました。
ですから、触《ふ》れ役人によって定められた日となり、王宮の裾に拡がっている馬場《マイダーン》が、求婚者の群衆で一杯になると、窓が開かれて、月のような王の長女がまず最初に、手巾《ハンケチ》を手にして現われました。そしてその手巾《ハンケチ》を空中に投げました。すると風がそれを運んで、輝かしい美貌の若い貴公子《アミール》の頭上に落ちました。
次には次女が月のように、窓に現われ、手巾《ハンケチ》を投げると、それは第一の公子に劣らず美貌で魅力ある、若い王子の頭上に落ちました。
それから、インドの帝王《スルターン》の第三女が群衆の上に手巾《ハンケチ》を投げました。すると手巾《ハンケチ》はしばらくぐるぐる廻り、しばらくじっと停まって、落ちたと思うと、折から求婚者の間にいた一匹の牡山羊の角のところに行って、ひっかかりました。けれども帝王《スルターン》は、手巾《ハンケチ》の落ちかかった見物人には、何ぴとといえども、王女を与えると厳粛に約束したにもかかわらず、その試みは無効と見なして、やりなおさせました。若い王女は改めて自分の手巾《ハンケチ》を空中に投げますと、それは馬場《マイダーン》の上の中空に停まってから、すばやく一直線に、やはり同じ牡山羊の角の上に落ちました。帝王《スルターン》は困惑の極に達して、この運命の二番目の選択をも無効とし、王女に今一度試みをやりなおさせました。すると手巾《ハンケチ》は三たび、しばらく空中を飛びまわってから、まっすぐに牡山羊の角のついた頭の上に行って、とまったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十四夜になると[#「けれども第八百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これを見ると、乙女の父君、帝王《スルターン》の不興はぎりぎりの極点に達して、叫びなさいました、「ならぬ、アッラーにかけて。姫がけがらわしい山羊|風情《ふぜい》の妻になるのを見るよりは、むしろわが宮殿にて、処女のまま老いるを見るほうがましじゃ。」けれどもこの父君のお言葉に、乙女は泣き出し、涙は点々と頬を伝いました。そして最後に、咽び泣きの合間《あいま》に、言うのでした、「これがわたくしの天命とあらば、おおお父様、どうしてお父様はその行なわれるのをお妨げあそばしますの。わたくしとわたくしの運勢の間に、どうして割って入りなさいますの。被造物はみな、それぞれ自分の首に結びつけられた天命を持っていることを、御存じないのですか。そしてわたくしの天命があの牡山羊に結びつけられているとあらば、どうしてその妻になることを、お妨げになるのでございましょうか。」また一方、二人の姫君も、実は妹君が一番若くもあり一番きれいでもあるので、ひそかに大そう妬んでいたので、妹君と山羊の結婚が成立すれば、もう願ってもない復讐ができるわけですから、妹君の不服に一緒になって不服を唱えました。そして三人そろって、一所懸命かきくどいたので、父君|帝王《スルターン》もついには、こんないかにも奇怪でいかにも並外れた結婚に、御同意を与えてしまいました。
そしてすぐに、三人の姫君の婚礼が、望ましいあらゆる華々しさをもって、慣例の儀式に従って行なわれるよう、命令が下されました。全市は四十日と四十夜にわたって、明りをつけられ旗を飾られ、その間《かん》、踊りと歌の奏楽のついた、盛大な祝祭と華やかな宴会とが催されました。歓びはすべての人の心中にみなぎることをやめず、もしも招かれた人たちめいめいが、打ちみたところすべての牡山羊の間の恐しい一頭の牡山羊にすぎない、牡山羊と処女の姫君との間の、このような縁組の結果を、いくらか心配しなかったとしたならば、歓びは欠けるところなかったでございましょう。そしてこの婚姻の夜の準備期間中、帝王《スルターン》と王妃は、大臣《ワジール》や高官の妻女ともども、姫君に対し、いやらしい悪臭、ぎらぎらした目、凄まじい道具を持った獣《けだもの》との床入りなど、思いとどまらせようとして、舌を疲れさせました。けれども、すべての男と女に対して、姫君はそのつど、こういう言葉で答えるのでした、「誰でもそれぞれ自分の首に結びつけられた天命を持っています。そしてもし私の天命が山羊の妻になることにあるならば、どなたもそれにさからうことはできますまい。」
さていよいよ初夜が来ると、人びとは姉君たちと一緒に、姫を浴場《ハンマーム》に連れてゆきました。それがすむと、姫君たちは化粧され、飾られ、髪を結われました。そしておのおの、自分にあてられた婚姻の間《ま》に案内されました。それから、天命によって記《しる》された夫君が、めいめいの姫君の許に、連れられてきました。二人の姉君については、起ったことが起った次第でございます。
ところで、末の姫君とその夫君の山羊とについては、次のようです。牡山羊は乙女の部屋に連れてこられ、二人を残して扉が閉められたと思うと、山羊はわが妻の手の間の床《ゆか》に接吻してから、突然身をふるわし、その山羊の皮を投げ棄てて、天使ハールート(2)のように美しい若者と変りました。そして彼は乙女に近づいて、両方の眼の間、次に顎、次に首、次にやや到るところに接吻して、乙女に言いました、「おお、魂たちの生命《いのち》よ、私が何者か知ろうとなさいますな。私はお父上の帝王《スルターン》よりも、姉上たちの夫である二人の伯父のお子たちよりも、もっと強大で、もっと豊かな者だということを、知るだけで足るとしていただきたい。あなたへの愛が私の心中にあってから年久しく、漸く今にしてはじめて御許《みもと》に到ることができました。もし私があなたの御意に叶って、私をここに置いて下さろうと思し召すならば、私にひとつの約束をして下さりさえすればよいのです。」すると乙女は、この美しい青年が全く自分の意に叶って、完全に好みに合うと思って、答えました、「それでわたくしのしなければならないお約束というのは、どういうことでしょうか。おっしゃって下されば、どんなにむつかしいことでも、あなたへの愛ゆえに、おっしゃるとおりにいたしましょう。」青年は言いました、「事はむつかしくはありません、やあ貴婦人《シツテイ》よ。私が意のままに姿を変える力を持っていることを、決して誰にも明かさないと、ただこう約束していただきたいのです。それというのは、万一誰かにうすうすでも、私が或る時は牡山羊に、或る時は人間になると感づかれたら、私はたちまち姿を消してしまって、あなたが再び私の足跡を見つけだすことはむつかしくなるでしょうから。」そこで乙女は固く保証してそれを約束し、付け加えました、「わたくしはあなたのようなこんな立派な夫を失うくらいなら、死ぬほうがましです。」
そこで、今はもう疑いを抱いて然るべき理由はなくなったので、二人は自然の性の赴くままにまかせました。そこで二人は非常な愛情をもって愛し合い、その夜は、唇に唇、脚に脚を重ねて、まじりない歓楽と楽しい交歓のうちに、祝福の一夜を過ごしました。そして夜明けと共に、漸くその嬉戯と仕事をやめました。そのときになると、青年は乙女の白さの間から立ち上がり、最初の山羊の姿に戻りました。角や、叉のある蹄《ひづめ》や、大一物《おおいちもつ》や、その他これらに伴なうすべてのものを持った、鬚《ひげ》の生えた牡山羊です。そして昨夜起ったすべてから残ったものといえば、ただ誉れの手拭の上の血の汚点《しみ》いくつかだけで、他には何ひとつございませんでした。
さて朝になって、姫の母君が、習慣に従って、わが子の様子を見、わが眼をもって誉れの手拭を調べるため、はいってきなさると、若い姫の名誉は手拭の上に明らかで、成就された事柄は異論の余地がないのを確かめて、茫然の極に達しなさいました。そしてわが子は元気で幸福そうで、その足許には、絨緞の上に、牡山羊が坐って、おとなしく反芻しています。これを見て、母君は背の君であり、姫の父君である帝王《スルターン》を、走って呼びにいらっしゃると、帝もごらんになったところをごらんになり、母君に劣らず茫然となさいました。そして姫におっしゃいました、「おおわが娘よ、これは本当か。」姫は答えました、「本当でございます、父上様。」父君は訊ねました、「お前は死ぬほど恥しく、辛くはなかったか。」姫は答えました、「アッラーにかけて、どうして死ぬほどのことなどございましょうか、夫はとても慇懃《いんぎん》で優しかったのですもの。」すると姫の母君がお訊ねになりました、「それではお前は不満はないのですね。」姫は言いました、「全然ございません。」そのとき帝王《スルターン》はおっしゃいました、「この子が夫に不満がないというなら、夫と共にあって幸福なわけじゃ。それこそ、われわれとして自分の娘のために望み得るすべてである。」そして御両親は、王女をその夫の山羊と一緒に、安らかに暮らさせておきました。
さてしばらくたつと、王は御自分の祝日に当って、王宮の窓の下の、馬場《マイダーン》の広場で、盛大な野試合を催されました。そして王女の二人の夫をはじめ、宮中の高官全部を、この野試合にお招きになりました。しかし山羊は、見物の笑い草になる目に遭ってはと、帝王《スルターン》に招待されませんでした。
いよいよ野試合がはじまりました。騎士たちは大気を貪り食らう駿馬に乗って、投槍《ジエリード》を投げつつ、大音声《だいおんじよう》をあげて相戦いました。そして全部の騎士のなかでも群を抜いていたのは、王女の二人の夫です。見物の群《むれ》はすでに競って両人を喝采していると、そのとき馬場《マイダーン》に、一人のすばらしい騎士が乗りこみ、その威風だけで早くも戦士たちの額を下げさせました。その騎士は勝ち誇る二人の王族《アミール》に、次々に試合を挑み、投槍《ジエリード》の一撃をもって、二人を落馬させてしまいました。それでこの騎士が当日の第一人者として、群衆の喝采を博しました。
ですから、習慣の求めるところに従って、その若い騎士が、自分の投槍《ジエリード》を振って王に御挨拶申し上げつつ、王宮の窓の下を通ると、二人の王女はこれに憎しみのこもった眼差《まなざし》を投げました。けれども一番末の王女は、この騎士が自分の夫とわかりましたが、秘密を洩らすまいとして、顔には少しもそんな様子を現わしませんでした。しかし髪のなかから一輪の薔薇を抜いて、それを騎士に投げました。王と女王と姉君たちはそれを見て、この上なく気を悪くしました。
二日目、再び槍仕合が馬場《マイダーン》で行なわれました。またもやその何者とも知れぬ美青年が、当日の第一人者となりました。そして彼が王宮の窓の下を通ると、一番末の王女は、髪から抜いた一輪の素馨《ヤサミーン》の花を、あからさまにこれに投げました。王と王女と二人の姉君はこれを見て、この上なく息をつまらせました。そして王は心中言いなさいました、「今やこの恥知らずの娘は、他国の男に公然と己が思いを打ち明けておる、罰あたりの山羊など夫として、われわれに世界を暗く見させただけではあきたらずに。」女王も姫を睨みつけるし、二人の姉君も、姫を見やりながら、身ぶるいして着物を揺すりました。
三日目、最後の試合の勝利者は、やはり同じ美男の騎士でしたが、彼が王宮の窓の下を通ると、山羊の妻の、末の姫君は、髪から藻玉《もだま》の花一輪を抜いて、これに投げました。わが夫のこのように天晴れな姿を見ては、もう我慢できなかったのでした。
これを見ると、帝王《スルターン》のお怒りと、女帝《スルターナ》のお憤《いきどお》りと、二人の姉君の憤慨は、大へんな勢いで爆発しました。帝王《スルターン》の御眼《おんめ》は赤くなり、御耳はふるえ、お鼻の孔はぴくぴくとわななきました。帝は王女の髪を掴み、これを殺して、跡を消してしまおうと思いました。そして怒鳴りつけなさいました、「ここな、呪われたる淫乱女め、汝はわが血統に山羊を入れるのみではあきたらず、今や公然と他国の男どもに挑み、汝の身に彼らの欲望を惹きよせておるな。死んでしまえ。そして我らを汝の恥辱から解き放て。」そして今にも大理石の石畳にぶつけて、その頭を打ち砕こうとなさいました。かわいそうな姫は、眼の前に死を見て恐怖に捉われ、叫ばずにはいられませんでした、何しろ魂は貴重なものでございますから。「本当のことを申し上げます。どうぞお許し下さい、本当のことを申し上げますから。」そして息もつかずに、父君、母君、姉君に、牡山羊と自分との間に起ったこと、山羊が何者であるか、またどういう工合に山羊が或るときは山羊、或るときは人間となるか、これらを話しました。そして試合の勝利者となった立派な騎士こそ、自分の夫であることを、皆さまに言いました。
こうした次第です。
それで帝王《スルターン》はじめ、帝王《スルターン》のお妃と末の姫の姉に当る帝王《スルターン》の二人の王女は、非常に驚いて、姫の天命に感嘆しました。その方々については、以上のようでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十五夜になると[#「けれども第八百八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが牡山羊のほうはと申しますと、これはもうふっつり姿を消してしまいました。そしてもう牡山羊も、美青年も、牡山羊の臭《にお》いも、青年の跡形もありません。若い姫君は、いく日もいく夜も空しく待って、夫はもう再び姿を現わさないことがわかりました。そこで心悲しく、痛ましく、泣き沈み、希望のない身となりました。
こうして姫はしばらくの間というものは、あらゆる慰めと寛《くつ》ろぎをしりぞけて、絶えまない涙と衰えのうちに暮らしました。身の不幸を忘れさせようと試みる人たちには、すべて答えるのでした、「むだなことです。わたくしは被造物の間で、一番不運な女です。きっともうじき死ぬでしょう。」
けれども、姫は死ぬ前に、アッラーの地全域にわたって、果たして自分自身と同じくらい運命に見棄てられ、同じくらい不幸な女がいるものかどうか、自身で確かめてみたいと思いました。それではじめは旅に出て、行く先ざきの町のあらゆる女に、問いただしてみようと決心しましたが、次にはその最初の考えを棄てて、インドの全領土を通じて比類のないような立派な浴場《ハンマーム》を、莫大な費用を投じて建てさせることにしました。そして触《ふ》れ役人に、ここに入浴に来たい婦人はすべて、浴場《ハンマーム》の入場は無料であるが、但し受益者はめいめい、王女様をお慰め申すため、かつて自分の生涯を苦しめた一番大きな不幸、或いは一番大きな悲しみを、王女様にお話し申し上げなければならぬと、全国に布告させました。お話し申し上げるようなそのたぐいのことは何ひとつ持ち合わせない女は、浴場《ハンマーム》に立ち入ることが許されないのです。
それで間もなく、王女の浴場《ハンマーム》には、王国のあらゆる心悲しむ女、運命に見棄てられた女、あらゆる色の不幸な女、あらゆる種類の哀れな女、やもめの女、離縁になった女、時の移り変りとか世の裏切りによって、何かと傷つけられたあらゆる女たちが、つめかけてまいりました。そしてめいめいが入浴に先立って、自分の生涯で感じた一番辛かったことを、王女にお話し申し上げました。夫に浴びせかけられた打擲《ちようちやく》の数を語る女たちもいれば、やもめ暮らしの話をしながら涙をこぼす女たちもあり、またほかの女たちは、夫が自分よりも、どこかの凄まじい年とった競争相手の女とか、駱駝の唇を持った黒人女なんかを好くのを見る苦々しさを話しました。また、独り息子や最愛の夫の死を話して、心を打つ言葉を言う人たちさえもおりました。こうして一年が、黒い身の上話と愁傷のただ中に、浴場《ハンマーム》で過ぎました。けれども王女は、会った何千人の女のなかにも、その不幸が激しさと深刻さの点で、わが身の不幸にくらべられるような女を、一人も見出しませんでした。それで王女はますます、悲しみと絶望に深く沈んで行ったのでございました。
するとそこに或る日のこと、一人の貧しげな老婆が、すでに死の息吹のもとに身をふるわして、杖にすがって歩きながら、浴場《ハンマーム》にはいってきました。そして王女に近づき、手に接吻して、言いました、「私の身にとっては、やあ奥方《シツテイ》、私の不幸は私の年齢《とし》の数よりも数多く、私の舌は、それらをお話し申しおわらぬうちに乾いてしまうでございましょう。それゆえ、私は身に到った最後の不幸だけを、申し上げることといたしましょう。それに、それだけはわけも動機《いわれ》もわからないただ一つの不幸ですから、すべての不幸のうち一番大きなものでもございます。そしてその不幸はちょうど昨日、昼に起ったことです。私が御前《おんまえ》でこんなにふるえておりますのは、やあ奥方《シツテイ》、私の見たものを見たせいです。こういう話でございます。
やあ奥方《シツテイ》、私の全財産といっては、今着ている、ごらんのこの青い綿布《めんぷ》の肌着一枚きりしかないものと御承知下さい。あなた様の御慈悲の浴場《ハンマーム》に、失礼でなく伺うことができますためには、これを洗濯しなければならないわけなので、私は川岸に行って、どこか人に見られずに、着物を脱いで、肌着を洗ってさしつかえないような、淋しい場所を探そうと決心しました。
事はうまくいって、私は早くも肌着の洗濯をすませ、日なたの砂利の上に拡げていますと、そこに一匹の騾馬が曳く人もなく、水を満たした革袋を二つ載せて、こちらに進んでくるのが見えました。私は、やがて騾馬曳きが出てくるものと思って、まだ半乾きの肌着をいそいで着こみ、騾馬をやりすごしました。ところが、騾馬曳きも、騾馬曳きの影も、一向に見えないので、私は、主人なしで、ちゃんと自分の道と行く先を心得て、頭を振りながら、川辺を歩いてゆくこの騾馬のことを考えて、すっかり思いまどってしまいました。それで好奇心に駆られて、私はつと立ち上がって、遠くからそのあとをつけてみました。騾馬はやがて川岸から遠からぬ丘の前に着いて、立ちどまって土を蹄で打ちました。こうして三度、右足の蹄で土を打つと、三度目に、丘が開いて、騾馬はゆるい坂を下って、その中に降りました。私は非常な驚きにもかかわらず、騾馬のあとからついてゆくことを、魂にとめることができませんでした。そしてそのあとから地下にはいりました。
こうして私は間もなく広い料理場に着きました。それはきっとどこか地下の御殿のお台所にちがいありません。そこには、立派な赤いお鍋がずらりと焜炉《こんろ》の上にきちんと並び、とびきりの匂いをあげながら歌い、その匂いは私の心臓の団扇《うちわ》をひろげ、私の鼻の孔の膜を元気づけるのでした。
そこで非常な食慾が私のお腹《なか》をへらし、私の魂はこの上等なお料理を味わいたいと、しきりに望みました。私は魂のたっての願いにさからいきれなくなりました。だが料理人も、下働きも、アッラーのために何かお願いするような人が一人も見当らないので、私は一番うまそうな匂いをあげているお鍋に近よって、その蓋を持ちあげました。すると、いい匂いの大きな雲が私を包んで、ひとつの声が突然お鍋の底からどなりました、『こら、こら、これは家《うち》の女主人様のだぞ。触ってはならん、さもないと殺されるぞ。』私はびっくりして、そのままお鍋の上に蓋を取り落して、台所から逃げだしました。すると、それよりか少し小さな二番目のお部屋に着いたが、そこにはお皿の上に、上等な捏粉菓子や、いい匂いのパン菓子や、そのほかおいしそうなとびきりの品々の山が、ずらりと並んでいました。私は魂のたっての願いにさからいきれず、お皿のひとつに手を出して、まだしっとりと温かいパン菓子をひとつつまみました。するといきなり手をぴちゃんと叩かれて、パン菓子を放させられました。そしてお皿のまん中から、声が出てきてどなりつけます、『こら、こら、これは家《うち》の女主人様のだぞ。触ってはならん、さもないと殺されるぞ。』私のこわさはぎりぎりの頂上に達して、私は自分の下にすくむよぼよぼの足の上にふるえながら、前にまっすぐ走りだしました。廊下また廊下といくつも駈け抜けると、突然円天井形に作った大広間に出ましたが、その美しいことと豪勢なことといったら、どこの王様方の御殿だって羨やましくはない。それどころか、及びもつかないですよ。その広間のまん中には、湧き水の大きな泉水があって、その泉水のぐるりに、王座が四十あり、なかのひとつがほかのよりも、ひときわ高くて、ひときわ立派でした。
さてその広間には誰も見かけず、ただ涼しさと調和《ととのい》だけが住んでいました。私はしばらくそこにいて、こうしたすべての美しさを眺めていると、そのとき、静けさのただ中に、まるで砂利の上を群《むれ》をなして歩く山羊の蹄の立てるような音が、私の耳を打ちました。いったいこれは何事なのかわからないので、私はあわてて壁ぎわにある長椅子《デイワーン》の下にもぐって、見られずに見ることができるような工合にうずくまりました。地を蹴る蹄の音は広間に近づいてきて、やがて長い鬚の牡山羊が四十匹はいってくるのが見えました。最後の一頭は、最後から二番目の山羊の上に乗っていました。そして一同は、めいめい泉水のまわりの王座の前に行って、きちんと整列しました。すると仲間に跨っている山羊は、その背中から下りて、あの特別の王座の前に行って、席につきました。それからほかの全部の山羊は、その山羊の前にお辞儀をして、頭を地につけ、しばらく身動きせず、そのままにしていました。次に全部一斉に起き上がって、その頭《かしら》と同時に、三度身を揺すりました。その刹那、一同の山羊の皮がずり落ちまして、月のような四十人の若者が見えましたが、一番の美男子は頭《かしら》でした。それから、頭《かしら》を先頭に、一同泉水に下りて、水につかりました。そして創造主を祝福する素馨《ヤサミーン》のような身体《からだ》を見せながら、水から出まして、一同美しさをさらした丸裸で、それぞれ王座に坐りに行きました。
私は大王座に坐っている若者をつくづく眺めて、その男振りに心のなかで感心していると、突然、その眼から大粒の涙がぽろぽろとこぼれるのを見ました。ほかの若者たちの眼からもやはり涙が落ちたけれども、それほどたくさんではなかった。そしてみんなが、『おお我らの女主人様、おお我らの女主人様よ、』と言いながら、嘆きはじめるのでした。頭《かしら》の若者は、『おお優雅と美の女王よ、』と嘆きます。すると嘆き声が、地から湧き、円天井から下り、壁や扉や全部の家具から洩れ出て、慕わしげな切なそうな口調で、同じ言葉を繰りかえしながら、聞えました、『おお我らの女主人様、おお優雅と美の女王よ、』と。
そして一同ひと時の間、泣き、嘆き、呻くと、若者は立ち上がって、言いました、『いつあなたは来るというのか。私は外に出られない身だ。おおわが女王よ、いつあなたは来ようというのか、私は外に出られない身であってみれば。』そして王座から下りて、自分の山羊の皮のなかに戻りました。すると皆も同じようにそれぞれ王座から下りて、自分の山羊の皮のなかに戻り、さっき来たように立ち去りました。
私はみんなの蹄の音が地上にもう聞えなくなったとき、隠れ場所から起き上がって、私もまた来たように立ち去りました。そして地下室のそとに出てはじめて、ゆっくりと息がつけた次第でした。
これが、おおお姫様、私の身の上話でございます。ところで、私の生涯での一番大きな不幸というのはこれなのです。なぜというに、私はお鍋とお皿についての自分の望みをとげることができなかったばかりか、その地下室で見たふしぎなこと全部も、何がなんだかひとつもわからなかったのですからね。これこそほんとうに、私の生涯で一番大きな不幸でございますよ。」
老婆がこのように自分の話を終ったとき、胸をときめかしてこれを聞いていた王女は、その仲間に跨っていた一番美男子の山羊というのが、自分の最愛の人であることを疑わず、感動のあまりもう死にそうになりました。それでやっと口がきけるようになると、王女は老婆に言いました、「おおわが母よ、慈悲深いアッラーがあなたをここに導いて下さったのは、あなたの老後が私の仲立ちで仕合せになるようにとの、思し召しにほかなりません。なぜなら、今後あなたは私の母親のようになり、私の手の持つものはすべて、あなたの手許にあるでしょうから。けれども、お願いです、もしあなたが頭上のアッラーのお恵みに対して、いく分なりと感謝の気持があるならば、今すぐ即座に立ち上がって、その二つの革嚢をのせた騾馬のはいって行ったのを見たという場所に、私を案内しておくれ。私と一緒に来て下さいとまではお頼みしません。ただその場所を教えてくれさえすれば結構です。」老婆は承わり畏まって答えました。そこで、月が浴場《ハンマーム》の露台の上に昇ると、二人は一緒に外に出て、川岸に行きました。
するとやがて、水を満たした二つの革嚢を背負った騾馬が、二人のほうにやってくるのが見えました。そこで二人は遠くからあとをつけて行くと、騾馬は丘の麓で、土を蹄で打ち、その前に開いた地下にはいってゆくのが見えました。王女は老婆に言いました、「あなたは、ここで私を待っていなさい。」けれども老婆は、王女をひとりではいって行かせたくないと思って、こわかったけれども、後について行きました。
二人は地下にはいって、台所に着きました。焜炉《こんろ》の上にきちんと並んで、調子よく歌っている、立派な赤い鍋全部から、まったくとびきりの匂いが立ち上がっていて、心臓の団扇《うちわ》をひろげ、鼻の孔の膜を元気づけ、悩める魂の憂いを消すのでした。そして二人が通ってゆくと、鍋の蓋が自然に持ち上がって、声がそこからよろこばしげに出て、言いました、「ようこそ、家の御主人様、ようこそいらっしゃいました。」二番目の部屋では、皿がずらりと並んで、上等な捏粉菓子や、ふっくらしたパン菓子や、見る者の目を満足させるおいしく柔らかそうなものが、盛り上げられていました。そして全部の皿と、新しいパンのはいって並んでいる捏槽《こねおけ》の底から、よろこばしげな声が、二人の通ってゆく先ざきで、叫ぶのでした、「ようこそ、ようこそいらっしゃいました。」二人のまわりの空気さえも、幸福のおののきに揺り動いているようで、歓声にどよめいていました。
老婆はこうしたすべてを見聞きして、王女に円屋根の広間に通ずる廊下の入口を示しながら、言いました、「おおわが御主人様、ここからおはいりになるのでございます。私はここでお待ちします。なぜって、下女たちの場所は台所で、王座の間《ま》にはございませんから。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十六夜になると[#「けれども第八百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで姫はただひとり、廊下を渡って、老婆の話した大広間にはいってゆきますと、行くにつれ、仕合せそうな声が歓迎の合唱を聞かせるのでした。姫は老婆のしたみたいに長椅子《デイワーン》の下に身を隠すことなどするどころか、泉水のほとりの、最上席にしつらえてある大王座に坐りにゆきました。そして万一の用心にただ小|面衣《ヴエール》を顔の上に下ろしただけでした。
さて、姫がこうして王座に坐る女王のように、身を落ちつけたと思うと、ごく静かな音が、地を蹴る蹄の音ではなく、駈けよる軽やかな足音が、その主《ぬし》を先ぶれしながら、聞えてまいりました。そして金剛石のように、あの若人《わこうど》がはいってきました。
そして起ったことが起りました。
二人の恋人の心のうちに、苦しみの後に悦びがつづいて到りました。二人は恋人が恋人に結びつくように、相結ばれ、一方、円屋根から、壁から、部屋の隅々から、歌の妙《たえ》なる調べが聞え、帝王《スルターン》の王女を迎える下僕《しもべ》たちの声が湧き上がりました。
歓楽と楽しい快楽のうちに、そこでしばらく時を過ごしてから、恋人たちは帝王《スルターン》の宮殿に引きかえしますと、二人の到着は、御両親はじめ上下の人びとによって、祝賀と歌と、住民による町中の飾りつけのただ中に、歓呼をもって迎えられました。
そのときから、両人は満足し栄えて、暮らしたのでございました。さあれアッラーは至大にましまする。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、その夜は疲れを覚えなかったので、更に言った。
王子と大亀の物語
語り伝えられているところの間で、語り伝えられているところでは、時の古《いにし》え、時代と時節の往時《むかし》、一人の権勢ある帝王《スルターン》がいらっしゃって、報酬者はこれに三人のお子様を授けたまいました。この三人のお子はいずれも不屈の猛者《もさ》で、雄々しい武士でございましたが、長男は、シャテル・アリー、次男は、シャテル・フサイン、末弟は、シャテル・モハンマードと申しました。そしてこの末弟が、三人兄弟のうち群を抜いて、一番美男で、一番剛勇で、一番寛闊でした。父君は三人を全く等しい愛情で愛しなされ、そのため、御自分の死後には、三人にそれぞれ、財産と領土を等分に遺《のこ》そうと決心なさいました。それというのも、この帝は公正で法に忠実なお方であったからでした。それで、他の者を犠牲にして一人だけに利を得させたり、他の者に得をさせて一人だけに損をさせたりすることを、お望みにならなかったのです。
さて、三人がいよいよ結婚する年頃になると、父王は思いなやみためらわれて、意見を聞こうと、清廉で慎重に溢れた賢い人物の、大臣《ワジール》をお召しになって、おっしゃいました、「おおわが大臣《ワジール》よ、余はいよいよ結婚すべき年齢となった三人のわが子に、ぜひとも妻を見つけてやりたいと思うが、この件につきその方の意見を徴したく、呼び出した次第である。」すると大臣《ワジール》はひと時の間、考えに耽ってから、再び頭をあげて答えました、「おお当代の王よ、これはいかにも微妙な問題でございます。」次に付け加えて、「運も不運も不可見の裡にあって、何ぴとも天命の命ずるところに従わぬわけにまいりますまい。さればこそ私の考えでは、我らの御主君の王子様御三方におかれては、おのおのお妃を選ぶのを、御自分の天命におまかせ相成ってはと存じまする。そのためには、三人の王子様のなさるべき最善のことは、まずそれぞれ弓矢を携えて、王宮の露台にお上がりになる。そこで、目隠しをなさって、何度もぐるぐるお廻りになります。その上で、ごめいめいが、ちょうどおとまりになった方角で、矢を放ちます。そしてそれらの矢の落ちた家々を訪れまして、我らの御主君|帝王《スルターン》は、それらの家の持ち主を一人一人お呼び出しの上、その娘をば、矢の持ち主の王子様のお妃に御所望なさるのです。けだしその乙女こそ天命によって、己が御運の上にかくと記《しる》されてあるのでございましょうから。」
帝王《スルターン》は大臣《ワジール》のこのお言葉をお聞きになると、これにおっしゃいました、「おおわが大臣《ワジール》よ、その方の進言はすぐれた進言であり、その方の意見は嘉納せられたぞよ。」そして帝は直ちに、狩から帰ってきたばかりの三人の王子を呼び出し、王子の件につき、御自分と大臣《ワジール》の間で決定した取りきめを知らせ、各|大臣《ワジール》はじめ全部の重臣を従えて、王子たちと御一緒に、王宮の露台にお上がりになりました。
弓と箙《えびら》を携えて露台に上がった三人の王子は、それぞれ一本の矢を選んで、弓を張りました。そして目隠しをされました。
最初に王の御長男が、ぐるぐる廻ってから、ちょうど自分の向った方角に、自分の矢のねらいを定めました。猛烈な勢いで弦を離れた矢は、宙を飛んで、一人の大貴族の屋敷の上に行って落ちました。
次は王の御次男の番で、矢を射ると、それは王国の軍隊の大将の露台の上に行って落ちました。
王の御三男、シャテル・モハンマード王子が、自分の向った方角に矢を放ちました。するとその矢は、持ち主不明の家の上に行って落ちました。
そこで人びとはくだんの三軒の家を訪れました。するとちょうどよく、大貴族の娘と軍の大将の娘は、二人とも月のような乙女でございました。その両親はいずれも、娘を王子と結婚させることに、満足の極でした。ところが、シャテル・モハンマードの矢の落ちた、第三の家を訪ねてみると、そこには一匹の大きな亀がたった独り住んでいるだけとわかりました。
それでシャテル・モハンマードの父君|帝王《スルターン》はじめ、大臣《ワジール》と貴族《アミール》と侍従たちは、その家にひとりきりで住んでいる大亀を見て、非常に驚き入りました。しかしこれをシャテル・モハンマード王子のお妃にするなどということは、一瞬も思いもよらないことでしたから、帝王《スルターン》はもう一度試みをやりなおすべきだと決定なさいました。従って、若い王子は自分の弓と箙《えびら》を肩にしながら、再び露台に上がって、並いる一同の前で、わが運めがけて第二の矢を放ちました。すると矢は天命に導かれて、まさしく、ひとりきりの大亀の住んでいる家の上に行って落ちました。
これを見て、帝王《スルターン》はすっかり御機嫌を損なって、王子におっしゃいました、「アッラーにかけて、おお息子よ、お前の手は今日はその上に全く祝福を持たぬな。預言者に祈れよ。」そこで若い王子は答えました、「願わくは、救いと祝福と一切の恩寵の、その御上《おんうえ》と、そのお仲間の上と、その信者の上にあれかし。」帝王《スルターン》は更に言葉をついでおっしゃいました、「アッラーの御名《みな》を念ぜよ。然る上に、矢を放って三たび試みよ。」若い王子は言いました、「果てしなく寛仁にして慈悲深きアッラーの御名《みな》において。」そして目隠しをして、三たび矢を放ちますと、矢は天命に送られて、今一度、大亀がひとりきりで暮らしている家の上に行って落ちました。
帝王《スルターン》はもう疑う余地なく、試《ため》しがこんなに明らかに、こんなに動かしがたく大亀に幸するのをごらんになると、末の王子シャテル・モハンマードは独身のままでいるがよいと、決定なさいました。そして王子におっしゃいました、「おおわが子よ、この亀は我らの民族でも、我らの種族でも、我らの宗教でもないのだから、お前はいっそ、アッラーがわれわれに恩寵をお返し下さるまで、全然結婚しないでいるほうがよい。」けれどもシャテル・モハンマードは反対を叫んで、言いました、「預言者――その上に祈りと平安あれ。――その御功績にかけて、私の独身時代は過ぎました。そしてこの大亀が天命によって私に記《しる》されているとあらば、私はこれと結婚するのを承知いたしまする。」そこで帝王《スルターン》はお驚きの限りで、答えなさいました、「いかにも、おおわが子よ、この亀は天命によってお前に記されていた。しかしいったいいつから、アーダムの子らが、亀を妻とすることなどあるのか。これこそ途方もないことじゃ。」けれども王子は答えます、「私が妻としたいのは、まさにこの亀で、他の女ではござりませぬ。」
すると帝王《スルターン》は王子を愛していなさるので、その気にさからったり、苦しませたりしたくないと思し召し、決定を翻して、この奇怪な結婚に同意をお与えになりました。
そして舞踊、歌、奏楽のついた、盛大な祝典、盛大な饗宴が、帝王《スルターン》の上の二人の王子、シャテル・アリーとシャテル・フサインの婚礼の記念に催されました。そしてそれぞれの婚礼のための祝祭のつづく四十日と四十夜が過ぎると、二人の王子は、婚姻の夜のため、それぞれの妻のところにはいって、幸福と剛勇を尽して床入りをすませました。
けれども若い王子シャテル・モハンマードと、その妻のひとりきりの大亀との婚礼の番になりますと、二人の兄と二人の兄の妻をはじめ、親族の貴婦人たちも、貴族高官の妻女たち全部も、儀式への出席をことわり、あらゆる手を尽してこの祝祭を淋しく陰気にするというありさまでした。そこで若い王子は魂の裡で屈辱を感じ、眼差《まなざし》によっても、また薄笑いや、後ろをむいた背によっても、あらゆる種類の侮辱を受けた次第でした。けれども、婚姻の夜のおり、王子が妻のところにはいったとき、起ったところについては、誰も何が起ったか知る由もございません。すべては、ただアッラーの御眼《おんめ》のみが貫くことのできる面衣《ヴエール》の蔭で行なわれたのですから。次の夜についても同様、またその他の夜々についても、同様でした。そして誰もがこのような縁組が行なわれることができたのに、びっくりいたしました。そしていったいどうやって、アーダムの子が、たとい貯水甕ほど大きくあろうと、亀と同棲することなどできるのか、誰にもわかりませんでした。シャテル・モハンマードとその妻の亀との婚礼については、以上のようでございます。
ところが、帝王《スルターン》のほうはというと、年月と、世を治める煩《わずら》いと、また末子の結婚によってひき起された悲しみを別としても、あらゆる種類の心の激動は、帝のお背中を曲げ、お骨を細くしました。お痩せになって、黄色くなり、食慾がなくなられました。お眼も体力と共に弱り、ほとんど全然見えなくなってしまわれました。
三人の王子は、父君が愛して下さると同じように父君を愛していたので、父王の御容態を見ると、これはもう、無智で迷信的な後宮《ハーレム》の女たちに、父王の御健康のお世話をまかせてはおけぬと決心しました。それで三人寄って、父君に健康と共に体力を回復させてさしあげるため、とるべき最善の策を協議しました。そして一同父君に会いに行って、御手に接吻してから、申し上げました、「おお我らの父上、今や父上のお顔色は黄色くなり、食慾は減退し、視力も衰えなさいました。もしかくのごとき事態がつづきますれば、われわれは父上の裡に我らの支えと道を失った嘆きに、衣類を引き裂くよりもはや致し方なきにたち到るでございましょう。されば、われわれは父上の子であり、父上はわれわれの父君であるがゆえに、父上はわれわれの忠告をお聞きいれ下さらなければなりませぬ。ところでわれわれの意見では、今後は父上のお食事の用意は、後宮《ハーレム》の女たちでなく、われわれの家内がするがよろしかろうと存じます。それというのは、われわれの家内は大そう料理に堪能で、父上のために、まず食慾を回復し、食慾によって体力を、体力によって健康を、そして健康によって視力の調子と眼の御病気の快癒をもたらすような、お料理を作ってさしあげるでございましょう。」帝王《スルターン》はこの王子たちの心づかいに大そう感激なすって、お答えになりました、「願わくはアッラーはお前たちに御恩寵を浴びせたまわんことを、おおお前たちの父の子らよ。しかしそれはお前たちの妻女にとって、大へん迷惑になりはしないかな。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十七夜になると[#「けれども第八百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
しかし一同反対を叫んで、言いました、「迷惑ですって! だがわれわれの妻は、父上の奴隷ではございませんか。それに、妻たちには、父上御回復のため料理を作ることにもまして、緊急な仕事が他にありましょうか。われわれは考えたのです、おお父上よ、父上のため最上のことは、われわれの家内めいめいが、自身調理した一と皿ずつの料理を準備し、そのなかから、父上の魂が、見た目からも、香気からも、味からも、一番お気に召すものを、お選びになることができるようにするのがよかろうと。こうすれば、健康が御身に立ちかえり、お眼も治ることでございましょう。」すると帝王《スルターン》は一同を接吻して、おっしゃいました、「わしに何がよいかは、わしよりもお前たちのほうがよく知っているのじゃ。」
この取りきめに一同満悦の限り満悦して、その結果、三人の王子はそれぞれ自分の妻のところに行って、見た目も匂いも申し分ない一と皿の料理を、めいめい作るように註文しました。王子はみなそれぞれの妻の競争心を煽って、妻に言いました、「われわれの父上が、兄弟たちの家《うち》のものよりも、わが家《や》の料理を選びなさるように、ぜひしてもらいたい。」
その間にも、二人の兄は末の弟に、いったい大亀の妻が、父上の食慾を回復し、お口を甘くするために、何を届けることができるのかと、皮肉たっぷりに訊ねて、弟をからかうのをやめませんでした。しかし弟は、兄たちの質問や追究に、ただ静かな微笑で答えるだけでした。
独《ひと》り住居《ずまい》の大亀、シャテル・モハンマードの妻はというと、実は自分の腕前を示すため、こういう機会をひたすら待っていたのです。そこで即時即刻、仕事にとりかかりました。まず最初、自分の腹心の侍女に、御主人の亀のため、お宅の鼠や二十日鼠の糞《ふん》を全部集めさせていただきたい、御主人の亀は、米、挽肉《ひきにく》、その他の料理に、それでもって味をつけなさるので、大至急それが欲しく、それ以外の薬味は決して使わないのだからと、そう頼むよう言い含めて、長男の王子の奥方のところに遣わしました。するとシャテル・アリーの奥方はこれを聞いて、思いました、「いけない、アッラーにかけて、あのみじめな亀がくれという鼠や二十日鼠の糞《ふん》など、決してやらないことにしよう。私だって亀なんかよりももっと上手に、薬味としてそれを使うことができるだろうから。」そこで侍女に答えました、「お気の毒だがおことわりします。何しろ、アッラーにかけて、私の手許の糞《ふん》がもう私の使う分に足りないくらいなのですからね。」それで侍女は戻って、御主人の亀にこの返事を伝えました。
そこで亀は笑いだして、嬉しくて身をふるわせました。そしてこんどはその腹心の侍女に、お手許にある牝鶏と鳩の糞《ふん》を全部頂戴したい、御主人の亀が、帝王《スルターン》のために作ってさしあげるお料理にそれをふりかけたく、至急入用なものでと、こう言い含めて、次男の王子の奥方のところに遣わしました。けれども侍女は、手には何も持たず、舌に、シャテル・フサインの奥方からの、無愛想な言葉を持って、御主人のほうに帰ってきました。すると亀は、侍女の手には何も見かけず、舌にのせて運んできた、帝王《スルターン》の御次男の奥方からの無愛想な言葉を聞いて、喜びと満足に身を揺すって、ひどく笑いだして後ろにひっくりかえったほどでした。
それがすむと、亀は自分の知識に従って料理をこしらえ、それらを盆の上に並べ、柳の蓋を盆にかぶせ、全部を薔薇の香をつけた亜麻《あま》の風呂敷でくるみました。そして忠実な侍女にそのお盆を帝王《スルターン》の御許《みもと》に届けさせると、一方、二人の王子の妻もめいめい自分のお盆を、奴隷に運ばせました。
そのうちいよいよ食事の時刻になって、帝王《スルターン》は三つの盆の前にお坐りになりました。ところが、第一の奥方の盆の蓋をとるやいなや、象をも窒息させかねない、鼠の糞《ふん》のひどい、胸の悪くなるような悪臭が立ちのぼりました。帝王《スルターン》はその臭いにすっかりあてられて、頭がくらくらし、気を失って倒れ、顎《あご》を両足の上にのせてしまいなさいました。王子方はそのまわりに駈けつけて、薔薇水をふりかけ、風をあてて、やっと正気に返してさしあげました。すると御不快の原因を思い出して、帝は嫁に対するお怒りを爆発させ、呪いを浴びせかけずにはいられない次第でした。
しばらくたってから、一同でどうにかお気を鎮めさせ、言葉を尽しておすすめしたので、帝も二番目のお盆を味わおうと決心なさいました。ところが、その蓋をとると、まるで町中の全部の家禽の糞《ふん》をその場で焼いたみたいな、猛烈なくさい臭いが部屋を満たしました。その悪臭が、お気の毒な帝王《スルターン》の喉、鼻、病気の眼のなかにしみ入って、帝はもう今度は全く目がつぶれて、死ぬだろうとお思いになりました。一同あわてて窓々を開け、すべての害悪の原因《もと》のお盆を片づけ、空気を清め、悪臭を追うため、香《こう》と安息香を焚いたのでした。
胸のむかついた帝王《スルターン》は、いくらかよい空気を吸って、お口がきけるようになると、叫びました、「いったいわしはお前たちの嫁に、どんな悪いことをしたというのか、おおわが子らよ、嫁たちがこんな風に老人をひどい目にあわせ、生きながらその墓穴を掘るとは。これこそアッラーにおかれても罰しなさる罪じゃ。」二人の王子、料理をこしらえた婦人の夫たちは、まことにこれは何とも解《げ》しかねる事柄と、お答え申し上げました。
こうしているところに、末の王子のシャテル・モハンマードが、父上のお手を接吻しに出て、どうぞ今までの御不快をお忘れあって、三番目の盆についてやがてお覚えになる愉快のみをお考え下さるようにと、切にお願い申し上げました。帝王《スルターン》はこれを聞くと、お怒りお憤りの極に達して、叫びなさいました、「何を言っているのか、おおシャテル・モハンマード。お前は年とった父をからかう気か。このわしが、こんどは亀の作った料理に手を触れるというのか、人間の女どもの指の作ったものすら、すでにあのようにおぞましく凄まじいものであるのに。わしにはよくわかったぞ、お前たち三人一緒になって、わしの肝を破裂させ、わしに死をひと呑みに飲ませようと約束したことが。」けれども若い王子は父君の足下に身を投げて、わが生命《いのち》と信仰の聖なる真理にかけて、三番目の盆はきっと父君にお悩みを忘れさせるにちがいなく、もしそれらの料理が父君のお好みに合わなかったら、全部の料理を、自分が、シャテル・モハンマードが、呑みこむことも承知すると、誓言しました。王子はお願いし、お頼みし、言葉を尽し、そのお盆のため熱心に辞をひくくして取りなしたので、王もついには折れて、「我は保護者アッラーのうちにのがれ奉る、」という文句を唱えながら、奴隷の一人に三番目の盆の蓋をとるよう合図をなさいました。
ところが、蓋をとりのぞくと、その亀のお盆からは、この上なく結構ないろいろの料理の香りの合わさった香気が立ちのぼり、いかにも好ましく、いかにも快く滲みいる香気なので、その瞬間たちまち、帝王《スルターン》の心臓の団扇《うちわ》がふくらみ、肺の団扇がひろがり、鼻孔の団扇が顫え、もう永いことなくなっていた食慾が戻ってきて、両眼は開《あ》き、物がはっきりと見えるようにおなりになりました。お顔色は薔薇色となり、お顔付は生き生きとしてきました。そしてひと時の間、休みなく召し上がりはじめました。そのあとは、麝香と雪片を入れた結構な氷菓《シヤーベツト》を飲み、おいしくて、何度も、満足した胃袋の底から上がってくるおくびをいくつもお出しになりました。そして好いお気持と御満足の極、報酬者に御恵《みめぐ》みを謝して、おっしゃいました、「|御馳走さまでした《アル・ハムドリラー》。(3)」
帝は末の王子に、その妻の大亀が料理した御馳走についての御満足を、どう言いあらわしてよいかおわかりにならない有様でした。するとシャテル・モハンマードは、兄上たちを妬《ねた》ませて、自分に悪感情を抱かせてはと思って、お褒《ほ》めの言葉を遠慮深く受けました。そして父君に申し上げました、「これは、おお父上、私の家内の才能のほんの一端にすぎません。けれども、もしアッラーの思し召しあらば、そのうち、家内がもっと父上のお褒めにあずかることのできる日が、来るでございましょう。」そして御満足を得たとあらば、今後は、亀だけがひとりで、毎日お料理の盆を差しあげるのを受け持つことにしていただきたいと、お願いしました。帝王《スルターン》は承知なすって、おっしゃいました、「父として情愛深い心から悦んで、おおわが子よ。」
そしてこの食養生で帝は全快なさいました。お眼も同じく治りました。
そこで御本復と視力回復のお祝いに、帝王《スルターン》は宮中で盛大な宴をお張りになり、豪奢な饗応をなすって、それに三人の王子と奥方をお招きになりました。奥方たちは、背の君に面目を施させ、父君の前で顔を白くさせるようにと、全力を尽して、帝王《スルターン》の御前に出る用意をしました。
大亀もやはり、自分の服装《みなり》の美しさと着付《きつけ》の雅《みやび》やかさで、人前で夫の顔を白くしてあげようと用意しました。そして自分の望むように身を飾りおえると、亀は腹心の侍女を、一番上の義姉のところにやって、御主人の亀に、お宅の家禽《とり》を飼う場所にいる大きな鵞鳥を拝借させていただきたい、御主人の亀は、その立派な乗用《のりもの》に跨って参内したいからと、頼ませました。けれども奥方は、その侍女の舌を通じて、自分がこんな立派な鵞鳥を持っているのは、自分自身の乗り料にするために使うのだからと、返事をさせました。亀はこの返事に、あまり笑って後ろにひっくりかえりました。そして侍女を二番目の奥方のところにやり、奥方お持ちの大きな牡山羊を、たった一日だけ拝借させていただくよう言い含めました。けれども侍女は、苦々しい言葉と不愉快な言いわけのついたことわりを、舌の上に持ちかえりつつ、主人の許に帰ってきました。すると亀はそれを聞いて身をふるわし、揺すぶって、朗らかと嬉しさの極に達しました。
さていよいよ祝宴の時刻となり、女帝《スルターナ》付きの婦人たちが、御主人の命令のもとに、王子の三人の奥様を迎えるため、後宮《ハーレム》の外の門の前にきちんと整列しますと、そこに突然万丈の黄塵がまき起って、速やかに近づいてくるのが見えました。そしてその黄塵のまん中に、やがて一羽の途方もなく大きな鵞鳥が現われ、脚を死にもの狂いに動かし、首をのばし、両の翼をばたばたさせながら、地面とすれすれにまっしぐらに駈けてきて、その上には、背中に行儀わるくつかまり、こわさに気も転倒した顔をして、一番上の奥方が乗っています。そのあとにすぐ続いて、薄ぎたなくほこりだらけの、鳴き声をあげ飛び跳ねる牡山羊に跨って、二番目の奥方が、現われてきました。
これを見ると、帝王《スルターン》と王妃はすっかり御気色を悪くして、お顔といえば、恥ずかしさと腹立ちにまっ黒におなりになりました。帝王《スルターン》は二人の奥方に、叱責と非難をぶちまけて、おっしゃいました、「お前たちは窒息と中毒で余の死を望んだだけでは足りず、今や余を人民の物笑いとし、われら一同の名誉を危うくし、公衆の面前で辱しめようという気か。」そして女帝《スルターナ》もやはり、お怒りの言葉と睨みつけるお眼で、二人を迎えなさいました。それで、もしそこに三番目の奥方の行列が近づいてくるという知らせが来なかったら、いったいどういうことになるかわからない有様でございました。だが帝王《スルターン》と王妃のお心は、御心配で一杯になりました。それというのは、お二人はお考えになったのです、「われわれ人間仲間である最初の二人の女の一行が、この始末であるとしたら、亀の種族の三番目の女の一行は、果してどんなものであろうか。」そしてお二人はアッラーの御名《みな》を念じながら、申されました、「偉大にして力強いアッラーのほかには、頼るところなく、逃《のが》るるところもない。」そしてお二人は息をとめて、災厄《わざわい》を待ちなさいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十八夜になると[#「けれども第八百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとそこに、先供《さきとも》の第一陣が馬場《マイダーン》に現われて、シャテル・モハンマード王子夫人の到着を知らせました。そしてまもなく、錦を羽織り、長い袖の見事な胴着をきた四人の美々しい馬丁《サイス》が、手に長い杖を持って、「下がりおれ、王女のお出でなるぞ、」と呼ばわりながら、進んできます。すると美しい色とりどりの貴重な布に包まれたお輿《こし》が、四人の黒人の肩にかつがれて現われ、入口の踏段の下まで来てとまりました。そして中から、光輝と優美をまとった一人の姫君が出てきましたが、誰も知らないお姫様です。それで、一同は亀も同じく下りてくるものと待ちもうけていたので、このお姫様は女官だろうと思いました。ところが、お姫様はひとりだけで踏段をのぼって、輿は遠ざかってゆくのを見ると、一同この姫君こそシャテル・モハンマードの奥方と認めないわけにゆかず、その位に対して払うべきすべての栄誉を尽し、また望ましいすべての鄭重さを尽して、これを迎えないわけにゆきませんでした。帝王《スルターン》のお心は、その美しさ、優雅、如才なさ、立派な挙措、全身と最も些細な仕ぐさや身ごなしからも立ちのぼるすべての魅力をごらんになって、御満足にはればれとなさいました。
いよいよ祝宴に出る時刻となると、帝王《スルターン》は王子たちと王子の妻たちに、御自分と女帝《スルターナ》のまわりに、席につくよう招じなさいました。そして食事がはじまりました。
さて、お皿に出た第一のお料理は、習慣通り、バターでふくらした米の大皿でした。ところが、まだ誰もそれを一と口もとる暇もあらせず、美しいお姫様はお皿を持ちあげて、そっくり自分の髪の上に注ぎました。同時に、全部の米粒は真珠玉と変って、お姫様の美しい髪を伝って流れ落ち、身のまわりに飛び散って、妙《たえ》なる音を立てて床《ゆか》に落ちたのでございました。
そして、並いる人たちがこのようにすばらしい不思議の前で、驚きからさめやらぬうちに、お姫様は、青豆《ムルーヒーヤー》の緑色の濃いポタージュのはいっている、大きなスープ鉢を取りあげて、そのまま自分の頭の上に注ぎました。すると緑色のポタージュはすぐに、無数のこの上なく上等な翠玉《エメラルド》と変って、髪と衣服を伝って流れ落ち、身のまわりに飛び散って、その美しい色彩を、真珠の純白に混ぜながら、床にしたたり落ちました。
重なる不思議の光景は、帝王《スルターン》はじめ会食者一同を、この上なく驚嘆させました。給仕の女たちはいそいで、宴会の食布《スフラ》の上に、別な米と青豆《ムルーヒーヤー》のポタージュのお皿を運んできました。すると他の二人の奥方は、妬《ねた》みにすっかり黄色くなって、義妹の成功でこんなに影が薄くなって黙っている気になれず、こんどは二人が料理の皿を取りあげました。上の姉は米の皿を、次の姉は緑色のポタージュの皿を取ります。そしてめいめいそれを自分の頭の上に注ぎました。するとひとりの髪の上で、お米はやはりお米のままで、頭にべっとりくっついて、頭はバターだらけになりました。緑色のポタージュもポタージュのままで、二番目の姉の髪と頭と衣服の上にしたたり、まるでねばねばしてとてもやりきれない牛の糞のように、全身を緑色に塗りこめてしまいました。
帝王《スルターン》はこれをごらんになると、御不興の限り御不興になって、上の二人の嫁に、席から立って、部屋を出、わが目から遠く去れと、お叱りです。そして両人に、今後は目通りかなわぬ、その臭いさえかぎたくないとの御意向を伝えました。それで両人は即刻即時立ち上がって、恥じ入り、面目なく、胸の悪くなるような様子で、夫と一緒に、御前から引き下がりました。二人の義姉のほうは、このようでございます。
ところが、すばらしいお姫様とその夫シャテル・モハンマード王子のほうは、帝王《スルターン》と広間に三人きりになり、帝は二人に接吻なさり、真心《まごころ》こめて二人を胸に抱きしめて、おっしゃいました、「お前たちだけがわが子じゃ。」そしてその場で、王座を末子の名義に書きかえたいと思し召し、貴族《アミール》と大臣《ワジール》を召集させて、彼らの前で、他の後継者たちを除いて、シャテル・モハンマードの頭上に、相続継承すべきものとして、王位を書き記《しる》しなさいました。そして二人におっしゃいました、「今後二人はわしと一緒にこの王宮に住んでもらいたい。お前たちがいなくては、わしはきっと死んでしまうだろうからな。」二人は答えました、「仰せ承わることは、仰せに従うことでございます。父上のお望みは私どもの頭上と目の上にござりまする。」
そこですばらしいお姫様は、亀の姿ではお年を召した帝王《スルターン》に、何か御不快な激動をお与えしかねないと思って、もうそんな姿をまとう気を誘われないため、自宅においてきた甲羅を持ってくるように、侍女に命じました。そして甲羅が手の間に来ると、それを焼き捨てて、なくなしてしまいました。それからは、いつでもお姫様の姿でいました。この女性に、非のうちどころない身体、眼にとっての驚嘆を、授けたもうたアッラーに、栄光あれ。
そして報酬者は二人に恩寵の限りを尽しつづけたまい、これにたくさんのお子さまをお授け下さいました。それで両人は満足し栄えて、暮らしたのでございます。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、王が不興の色なく聴き入っているのを見て、その夜さらに語った物語は、
エジプト豆売りの娘
私の聞き及びましたところのなかで、私の聞き及びましたところでは、昔カイロの都に、一人の正直な尊敬すべきエジプト豆売りの男がおりまして、贈与者はこれに子孫として、三人の娘だけを授けたまいました。それで普通は娘たちというものは祝福を携えて来ないにもかかわらず、この豆売りはその創造主の授け物を天命に安んじて頂戴し、自分の三人の娘を非常な愛情で愛しておりました。それにこの娘たちは月のようでありまして、わけて一番末の娘は、美しさ、魅力、優雅、聡明、利発、完全の点で、二人の姉を凌いでおりました。この末娘はゼイナと申しました。
ところで、この三人の若い娘は毎朝、絹と天鵞絨に刺繍をする手芸を教わりに、女の先生のところに通っておりました。それというのは、父親のエジプト豆売り、この立派な人物は、天命が娘たちの結婚の道に、自分のような豆売り風情《ふぜい》の息子ではなく、商人の息子を置いてくれるようにと、娘たちに立派な教育を受けさせたいと思っていたからでした。
そして毎朝、刺繍の先生のところに通う際、若い娘たちは帝王《スルターン》の王子の窓の下を通って行くのでした、腰を波打たせ、王女のような歩き振りで、顔の面衣《ヴエール》の外にそれだけが現われて、あらゆる美しさを示している三対のバビロン風(4)の眼を見せて。
帝王《スルターン》の王子は朝毎に、娘たちが来るのを見ると、窓から娘たちに誘いの声をかけて叫ぶのでした、「エジプト豆売りの娘さんたちの上に平安《サラーム》あれ。三つの字母《アルフアベツト》(5)のまっすぐな文字の上に、平安《サラーム》あれ。」すると上と中の娘はいつも、眼の軽い微笑でもって、帝王《スルターン》の王子の挨拶《サラーム》に答えましたけれど、末の娘はこれに全然答えず、頭を挙げることさえしないで、自分の道を行きました。けれどももし帝王《スルターン》の王子がしつこく、例えばエジプト豆だの、エジプト豆の相場だの、エジプト豆の売れ行きだの、エジプト豆の良否《よしあし》だの、エジプト豆売りの近況だのについて模様を聞くことがあると、そのときはこの末の娘が、王子の顔を見むきさえもしないで、ただ独り答えるのでした、「豆とあなたとの間にどういう因縁《いんねん》があるのですか、おお松脂《まつやに》の顔よ。」そして三人一緒にけたたましく笑って、自分の道に立ち去るのでした。
ところで、帝王《スルターン》の王子は、エジプト豆売りの娘のなかで一番末の、小さなゼイナに夢中になって惚れていたのですが、彼女の皮肉や、軽蔑や、自分の望みに答えるのに一向気乗りがしないことを、絶えず思い悩んでおりました。そこで或る日彼女が自分の問に答えて、日頃にまして自分を馬鹿にしたとき、王子はお世辞では遂に何事も彼女から得られないとわかって、父親を身代りにして、彼女を辱しめ懲らしめて、仇を打ってやろうと決心しました。それというのは、若いゼイナは自分の父を愛情の無上の極に愛していることを、王子は知っていたのでした。そして独り言を言いました、「こうしてやれば、あの娘に首尾よくおれの威力を感じさせることができるだろう。」
そこで、とにかく帝王《スルターン》の王子の身であり、住民に対してあらゆる権力を振っていることとて、王子はエジプト豆売りを召し出して、これに言いました、「お前はたしかに三人の若い娘の父親だな。」豆売りは震えながら答えました、「さようで、アッラーにかけて、やあ殿《シデイ》よ。」すると帝王《スルターン》の王子は言いました、「よろしい、おお男よ、明日、礼拝の時刻に、またここに、わが手の間に来てもらいたい。衣服を着て同時に裸で、笑いながらそれと共に泣きながら、獣《けもの》に乗りつつ一方足で歩きながら来るのだ。もし不運にして、その方がわが条件をすべて満たさないで、そのままわが許に来るとか、条件を一つだけ果たして他の二つは果たさなかった場合は、その方の身の破滅はのがるるすべなく、その方の首は肩から飛ぶであろう。」憐れなエジプト豆売りは床《ゆか》に接吻して立ち去りつつ、思いました、「こいつは全くひどい難題だ。わが身の破滅はどうにも助かるすべがないわい。」
そして彼は、胃袋を裏返し、鼻を足の先まで延ばして、娘たちの許に、すっかり黄色な顔色で着きました。
すると娘たちは父の不安と困惑を見ましたが、一番末の若いゼイナは父に尋ねました、「なぜ、おお私のお父様、お顔色が黄色くなり、世界がお顔の上に黒くなるのを、お見受けするのですか。」すると父は答えました、「おおわが娘や、私はわが心の内奥に災厄《わざわい》を持ち、わが胸中に胸狭まる思いを持つのだよ。」するとその娘は言いました。「その災厄《わざわい》を聞かせて下さいまし、おおお父様、なぜなら多分そうすれば、その胸狭まる思いもやんで、お胸が拡がるでしょうから。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八十九夜になると[#「けれども第八百八十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで父親は一部始終、細大洩らさず、娘に事を話して聞かせました。しかしそれを繰り返しても詮なきことでございます。
若いゼイナは父親の事件の話を聞き、その悲しみと顔色の変ったことと胸の狭まる思いとの動機《いわれ》がわかりますと、もうひどく、ひどく笑い出して、気を失ってしまいそうになるほど笑いました。次に父親のほうに向いて、申しました、「たったそれだけのことですの、おおお父様。アッラーにかけて、そういうことなら不安も心配もいりません、この件は私の忠告に黙って従って下さいませ。そうすれば、後悔して、口惜しさに破裂するのは、こんどは帝王《スルターン》の王子、あのろくでなしの番でしょうよ。こうするのです。」そしてちょっと考えこんでから、言いました、「第一の条件については、お隣りの漁師のところへいらっしゃって、網をひとつ売ってくれと頼みなさりさえすればすむことです。そしてその網を持っていらっしゃれば、私がそれで衣を作ってあげますから、着物を全部お脱ぎになってから、その衣を身にお着けなさい。このようにすれば、裸で同時に衣服を着ていることになりましょう。」
「また第二の条件については、帝王《スルターン》の御殿に行く前に、玉葱を一個持っていらっしゃりさえすればすむことです。そして敷居のところで、玉葱で両方の目をおこすりなさい。そうなされば、笑いながらそれと共に泣くことになりましょう。」
「最後に第三の条件については、おおお父様、お隣りの驢馬曳きのところにいらっしゃって、今年生まれた驢馬の子を貸してくれとお頼みなさい。それを一緒に連れて行き、帝王《スルターン》の王子のあのならずもののところに着きなすったら、その驢馬の子にお乗りなさい。足は床《ゆか》に着きますから、驢馬の子が進むにつれて、一方では御自分の足で歩きなさるのです。そうなされば、乗りながら一方歩くことになりましょう。」
「これが私の意見でございます。そしてアッラーはさらに権力あり、ただ一人知者にまします。」
工夫に富むゼイナの父のエジプト豆売りは、娘のこの言葉を聞き終わると、その両眼の間に接吻して、これに言いました、「おお、お前の父と母の娘、おおゼイナよ、お前のような娘たちを産む者は死にっこないね。お前の額の下にこれほどの利発をおき、お前の精神《こころ》の中にこれほどの賢さをおきたもうた御方に、栄光あれ。」そして即刻即座に、世界はその顔前に白くなり、心配はその心から飛び去り、その胸は拡がりました。そこで軽い食事をし、水冷し壺の水を飲み干し、娘の教えたこと全部をするため、外に出ました。
そして翌日、万事然るべく用意がととのいますと、エジプト豆売りは王宮に出かけ、要求された通りの姿と様子で、衣服を着て同時に裸で、笑いながらそれと共に泣きながら、歩きつつ一方獣に跨りながら、帝王《スルターン》の王子のところにはいって行きました。一方驢馬の子は怯えて接見の間《ま》のまん中で、鳴き出し、放屁《おなら》をしはじめたのでございました。
これを見ると、帝王《スルターン》の王子は憤懣と失望の極に達しました。何しろ要求された条件を皆満たしていることとて、エジプト豆売りを、昨日脅かしたような目に遭わせるわけにはゆかず、王子は自分の胆嚢が今にも肝臓の下で破裂しそうになるのを感じました。そしてこんどはあの若い娘自身をやっつけ、取り返しがつかないほど打ちのめしてやろうと、心中で誓いました。そこでエジプト豆売りを追い返して、若い娘に対する悪計《わるだくみ》を練りはじめました。王子のほうはこのようでございます。
けれども若いゼイナのほうはどうかと申しますと、これは先見の明溢れて、その目は遠くを見、その鼻は事件の近づくのを嗅ぎつけましたから、父親が帝王《スルターン》の王子の憤怒の有様を話して聞かせたその模様から見て、この若いろくでなしはやがて自分に危険な攻撃を加えてくることと察しました。そこで独り言を言いました、「向うが私たちを攻めて来る前に、こちらから攻めてやりましょう。」そしてすっくと立ち上がって、大へん腕のよい鎧作りの名人に会いに行って、これに言いました、「おお妙手たちの父よ、ひとつ私の身丈《みたけ》に合わせて総鋼鉄作りの鎧と、同じ金属の脛当《すねあて》と籠手《こて》と兜《かぶと》を作っていただきたいの。けれどもこの品々全部を、ほんのちょっと歩いても、ほんのちょっと触っても、耳が聾《つんぼ》になるほどの音と物すごくやかましい響が出るような工合に、作って下さらなければなりません。」鎧作りは仰せ承わり畏まって答え、程なく註文通りのくだんの品々を、娘に届けました。
さて夜になると、若いゼイナは、その鉄の装束《しようぞく》を着込んで、見るも恐ろしく変装し、衣嚢《ポケツト》に一丁の鋏と剃刀を忍ばせ、手に尖った熊手を握り、こうした扮装《いでたち》で、王宮へと向いました。
この恐ろしい武者が遥か遠くからやってくるのを見るや、王宮の門番と衛士たちはすぐあらゆる方向にちりぢりに逃げてしまいました。そして王宮の内部でも、鉄の装束のあちこちの部分から発する聾《つんぼ》になるほどのやかましい響と、それをまとっている人物の物すごい様子と、その男の振り廻す熊手に、震え上がった奴隷たちは、門番と衛士の例に倣って、大急ぎでめいめいどこか安全な片隅に隠れに行きました。こうしてエジプト豆売りの娘は、何ひとつ障害に遭わず、ほんの少しの抵抗の気配にも遭わないで、帝王《スルターン》の王子の若いろくでなしがふだんいる部屋の中に、無事到り着きました。
帝王《スルターン》の王子は、この恐ろしい物音全部を聞き、その物音を立てている人物がはいってくるのを見て、いよいよその姿を見ると、非常な恐怖に捕われて、自分は人々の魂を強奪する鬼神《イフリート》が現われ出るのを見ているものと思いました。そしてすっかり黄色くなって、震え出し歯をがたがた鳴らしはじめ、床《ゆか》に倒れて、叫びました、「おお、魂を強奪する力強い鬼神《イフリート》様、私を見逃して下さい。そうすればアッラーもあなたを見逃して下さるでしょう。」けれども若い娘は物すごい声をして、答えました、「汝の両唇と両顎をぴったりと閉じ合わせろ、おお女衒《ぜげん》め、さもないとこの熊手を汝の目に突き刺すぞ。」怯えた青年は自分の両唇と両顎をぴったり閉じ合わせ、もうあえて一言も言い出さず、身動きひとつしませんでした。するとエジプト豆売りの娘は、王子が床に横たわり、身動きもせず、気を失っているうちに、これに近づいて、鋏と剃刀を取り出し、王子の若々しい口髭の半分と、左側の鬚半分と、右側の髪の毛半分と、両方の眉毛を一度に、削り落してしまいました。それが済むと、王子の顔に驢馬の糞《ふん》をなすりつけ、その一塊りを口の中に押しこみました。娘はこうしたことをしおわると、あえて通路を阻む人もなく、来たときのように立ち去りました。そして無事に家に帰って、いそいで鉄の装束を脱ぎ、姉たちの傍に横になって、翌日までぐっすりと安眠いたしました。
翌日も、いつもと同じように、三人姉妹は顔を洗い、髪を結い、身仕度を整えてから、刺繍の先生のところに行くため、家を出ました。そして毎朝と同じように、帝王《スルターン》の王子の窓の下を通りました。すると王子はいつもの通り窓辺に坐っているのを見ましたが、しかし顔と頭を薄絹ですっぽり包んで、両の眼だけが出ているようにしています。すると三人とも、王子に対するいつもの振舞いとは打って変って、まじまじと媚を含んで王子を見つめました。それで帝王《スルターン》の王子は独り言を言いました、「はて、どうしたことか、あの娘たちはどうやら懐《なつ》いたようだ。多分この頭と顔を包《くる》んでいる薄絹が、おれの眼をいつもより美しく見せているせいかも知れん。」そこで王子は姉妹に叫びました、「おい、三つの字母《アルフアベツト》のまっすぐな文字、おお、わが心の娘たちよ、あなた方三人の上に平安《サラーム》あれ。今朝はエジプト豆の工合はどうかね。」すると三人姉妹の末の娘、小さなゼイナは、王子のほうに頭を挙げて、姉たちに代って答えました、「おや、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、あなたの上に平安《サラーム》あれ、おお、すっぽり包まれたお顔よ。今朝は、あなたのお鬚《ひげ》と口髭の左側の工合はいかが。またお頭《つむ》の右半分の工合はいかがで、お美しい眉毛の工合はいかがでいらっしゃいますか。そして驢馬の糞はお口に合いましたか、おお愛するお方よ。どうかそれはお腹の中でおいしく消化《こな》れましたように。」
こう言っておいて、娘は姉たちと一緒に、けたたましく笑いながら駈け出し、遠くから帝王《スルターン》の王子に嘲りと苛立たせるような身振りをするのでした。こうした次第でございます。
これを聞きもし見もして、帝王《スルターン》の王子は、昨夜の鬼神《イフリート》とはエジプト豆売りの娘に外ならないことが、もう疑いなくわかりました。そこで激怒の極、わが胆嚢の胆汁が鼻まで上ってくるのを感じ、もうあの若い娘をやっつけるか、自分が死ぬかだと、誓いを立てました。そして計略《はかりごと》を案じて、鬚と口髭と眉毛と髪の毛が延びるまでしばらく待ってから、若い仇の父親のエジプト豆売りを、自分の前に召し出しました。父親は王宮指して行きながら、独り言を言いました、「こんどはあの女衒《ぜげん》の持ちかける、どんな災厄《わざわい》が俺を待つやらわかったもんじゃないて。」そして大へんびくびくして帝王《スルターン》の王子の手の間に着きますと、王子は言いました、「おお男よ、その方の三番目の娘におれは狂おしいほど惚れているのだ。ぜひ嫁にもらいたい。もしその方あえて不承知とあらば、その方の首は肩から飛ぶであろうぞ。」するとエジプト豆売りは答えました、「仔細ありません。けれどもわが御主君|帝王《スルターン》の王子様は、私にしばし猶予を賜わりますよう。結婚させるに先立ち、娘の意向を聞いて参りますゆえ。」王子は答えました、「娘の意向を聞いて参れ。しかしもし娘が不承知とあらば、その方と共々娘も黒い死を味わうものと、きっと心得よ。」
そこで仰天したエジプト豆売りは、娘に会いに行って、事情を知らせた上で、言いました、「おおわが娘よ、こいつは免《まぬが》れられない災厄《わざわい》だよ。」ところが若い娘は笑い出して、言いました、「アッラーにかけて、おおお父様、そこには災厄《わざわい》もなければ、災厄の匂いもありはしませんよ。なぜって、この結婚は私のためにも、お父様のためにも、姉様方若い娘たちのためにも、天の冥加《みようが》ですもの。私は同意いたしますわ。」
そこでエジプト豆売りは娘の返事を帝王《スルターン》の王子に伝えに行きますと、王子は喜びと満足でそわそわいたしました。そして時を移さず婚礼の準備をするよう命令を下し、それはすぐに始められました。王子のほうはこのようでした。
けれども若い娘のほうはどうかというと、娘は砂糖人形を作る技術に通じた糖菓作りの名人に会いに行って、申しました、「あなたに全身お砂糖でできたお人形をひとつ作ってもらいたいのですけど、私の身丈で、私によく似て、私の色と同じで、そして糸にしたお砂糖の髪の毛と、黒い美しい眼と、小さな口と、可愛らしい小さな鼻と、ほっそりした長い眉毛を持ち、そのほかそれぞれの場所に必要なもの全部をつけて下さいな。」すると大そう指先の器用な糖菓作りは、顔立から何から娘とそっくりな人形を砂糖で作ってくれましたが、それは物さえ言えれば全くアーダムの娘というほどの出来映えでした。
さて、いよいよ床入りの婚姻の初夜となると、若い娘は、自分の御付《おつき》になった二人の姉に手伝ってもらって、人形の身体《からだ》に自分自身の肌着を着せ、それをば自分の身代りに寝床に寝かして、その上に蚊帳を下ろしました。そして姉たちに必要な指図をしておいて、自分はその部屋の、寝床の後ろに隠れに行きました。
そして床入りの時がまいりますと、ゼイナの姉の二人の若い娘は新夫を迎えに行って、婚姻の間《ま》に案内しました。それから慣例の辞令を述べ、自分たちの妹についてくれぐれも注意をした上で、「あの娘《こ》は花車でございますから、よろしくお願いいたします。優しくておとなしい娘《こ》ですから、御不満はございますまい、」と言って、新夫に暇乞《いとまご》いをし、部屋にただ一人残しました。
すると帝王《スルターン》の王子は、エジプト豆売りの娘から受けたあらゆる侮辱、娘に対して積もるあらゆる鬱憤、自分のあらゆる屈辱、浴びせかけられたあらゆる軽蔑を、そのとき思い起しながら、蚊帳の中に横たわって、じっと自分を待っているはずの若い娘に近づきました。そして突如自分の大剣の鞘を払い、満身の力をこめてこれに一撃を加えますと、首は粉微塵になって四方に飛び散りました。そしてその一片は、大口開いて犠牲者に向って罵詈讒謗を浴びせていた、王子の口の中にはいりました。するとお砂糖の味がしたので、もうすっかり魂消てしまって、叫びました、「わが生命《いのち》にかけて、こいつは生きてはおれに苦い驢馬の糞《ふん》を食わせたあげく、死んではおれに自分の肉の妙《たえ》なる甘さを味わわせるわい。」
そしてこのように甘美な被造物の首を刎ねてしまったと信じて、王子は自分の絶望を爆発させて、さっき人形を粉砕するのに使った大剣で、こんどはわが腹を刺し貫こうといたしました。
けれども突然、本物の若い娘が隠れ場所から出て来て、後ろから王子の腕を押さえ、王子に接吻しながら申しました、「お互いに許し合うことにいたしましょう。そうすればアッラーは私たちを許したまいましょう。」
すると帝王《スルターン》の王子は、自分があれほど望んだ妙《たえ》なる乙女の微笑を見ては、あらゆる苦悩を打ち忘れました。そしてこの乙女を許して、これを愛しました。
かくて二人は数多の子孫を残して、繁栄の裡に暮らしたのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、その夜は少しも疲れを覚えなかったので、さらにシャハリヤール王に、次の物語を語った。それは「解除人《ときびと》」の物語である。
解除人《ときびと》(6)
語り伝えられまするところでは、昔シャームの国はダマスの町に、一人の若い商人が店を持っておりましたが、この男は第十四夜の月のようで、市場《スーク》の女客は一人もそのすばらしい美貌に抵抗できないほど、美しくて心を惹きつける若者でありました。それと申しますのは、まことにこれは姿を見る眼にとっては悦びであり、見る者の魂にとっては堕地獄であったからです。詩人がこう申したのは、この男のことでございます。
[#ここから2字下げ]
わが殿は美の王にして、創造主の御業《みわざ》たるその身には、一隅たりと顧るに足らざるところなし、すべては等しく完璧なれば。
その姿は、その心の固きと同様に優し。切れ長の眼は冷淡なる人々に戦を宣し、最も冷やかなる心中にも火災を点ず。
髪は蠍《さそり》のごとく捲きて黒く、訶梨勒《バーン》の木の若枝のごとく嫋やかの腰は、竹の幹のごとく細《ほそ》らかなり。
されどその臀は際立ち、腰を振って歩けば、ベドゥイン人の椀中の凝乳のごとく打ち顫う。
[#ここで字下げ終わり]
さて、日々のうちの或る日のこと、この若者はいつものように、黒い大きな眼と顔の魅力とを見せて、店頭に坐っておりますと、そこに一人の貴婦人が何か買物をしにはいってまいりました。若者は品位を保ってこれを迎え、二人の間に売買について会話が始まりました。けれどもしばらくたつと、貴婦人は若者の容色に全く参ってしまって、これに言いました、「おお月の顔《かんばせ》よ、明日またお目にかかりにまいります。そうすればあなたは私に満足なさるでしょう。」そして何か買って、値切りもせず金を払ってから、別れて自分の道に立ち去りました。
そして約束どおり、その婦人は翌日同じ時刻に、また店にやってきました。けれどもこんどは、自分よりか年もずっと若く、きれいでもあり、ずっと魅力もあり、好ましい一人の乙女の手を曳いておりました。若い商人はこの新来の乙女を見ると、もうそれにかかりきりで、最初の婦人など目に入らぬかのように、てんで注意を払いません。するとその婦人はとうとう商人の耳許で言いました、「おお祝福された顔よ、アッラーにかけて、あなたの選択はまちがっていませんよ。もしお望みなら、あなたとこの乙女との間に立って、私が仲人役を勤めてあげましょう。これは私自身の娘ですからね。」すると若い男は言いました、「あなたのお手の中には祝福がございます、おお選ばれた貴婦人様。いかにも、預言者にかけて、――その上に祈りと平安あれ。――お嬢様のこの乙女に対する私の望みは、もうこの上ないものでございます。けれども、悲しいことに、望みと実際とはちがいます。もし表面《うわべ》から判断いたしますればお嬢様は私にはあまりお金持すぎます。」けれどもその婦人は打ち消して叫びました、「預言者にかけて、おおわが息子よ、そんなことはどうでもいいこと。なぜって、私たちは夫が妻の名で記入しなければならない結納金《マハル》を、あなたには特に免除してさしあげ、婚礼の費用全額と一切の出費はすべて私たちが持ってあげることにしますから。ですからあなたは黙ってまかせてさえおけばよく、そうすれば、いい住居と、暖いパンと、引きしまった肉と、安楽が手に入るというもの。それというのは、あなたのような美男子が見つかれば、着のみ着のまま迎え入れて、ただ御承知のことの際、勇ましく振舞い、したたかに、きつく、長く、すること以外何も求めはしないものですからね。」すると若者は答えました、「それなら異存はございません。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十夜になると[#「けれども第八百九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで即刻その場で、あらゆる問題について意見が一致して、婚礼はできるだけ早く行なうことにし、儀式も招待もなく、楽手も舞妓《まいひめ》も歌妓《うたひめ》もなく、練り歩くことも行列もなしにしようと、話がまとまりました。
そして定日に、法官《カーデイ》と証人たちを呼び、「法」の定めるところに従って、契約書が認《したた》められました。そして母親は法官《カーデイ》と証人たちの目の前で、若者を婚姻の部屋に案内し、彼をひとりだけ花嫁と一緒に残して、言いました、「あなた方の運命をお楽しみなさいよ、おおわが子たちよ。」その夜は、シャーム国のダマス全市を通じて、この二人の相抱く若者夫婦よりも、美しい夫婦はございませんでした。二人はお互いに同じ巴旦杏の半分ずつのように、ぴったりと合いました。
翌日、歓楽の裡に一夜を過して後、青年は起きて、風呂屋《ハンマーム》に沐浴をしにまいりました。その後で、いつものように自分の店に行き、市場《スーク》の閉まるまで、店におりました。それから立ち上がって、妻に会いに自分の新居に戻りました。
そして婦人部屋《ハーレム》にはいり、昨夜あれほどたっぷりいいことを味わった婚姻の部屋に、まっすぐ行きました。ところが何と、蚊帳の下に妻は髪を乱して眠っていましたが、それが、頬に毛のない若い男の子と並んでいて、その男は愛《いと》おしげにぴったりと女を抱きしめているのでした。
これを見ると、世界は青年の顔の上に暗くなって、彼は母親を呼びに行って、見せるべきものを見せようと、部屋の外に飛び出しました。するとちょうど部屋の敷居のところにいた母親と出会い、母親は顔色を黄色くしひどく動顛している彼の様子を見て、これに言いました、「どうしたの、おおわが息子よ。預言者の上にお祈りなさいな。」すると彼は答えました、「その上に祈りと平安あれ。いったい何でしょう、おお伯母様。寝床の上に見えるのは、いったい何でしょうか。私は石打たれし者の悪行に対し、アッラーの裡に逃《の》がれ奉ります。」そして自分の足許にいる誰かに唾するかのように、激しく床《ゆか》に唾を吐きました。すると母親は言いました、「どうして、おおわが息子よ、そんなに怒って動顛しているのですか。あなたの妻が誰か他の人と一緒にいるからですか。けれども、預言者の御功績にかけて、いったいあなたは霞を食べて生きてゆけるものとでも思っているの。私はあなたに結納金《マハル》と寡婦資産として何ひとつ請求しないで、私の娘を妻に上げたのは、今となってあなたに臆面もなく私の娘の品行を非難し、その浮気に文句をつけさせるためだったとでも思っているのですかね。それはあなたのとんでもない思い上がりというものよ、わが息子よ。なぜって、私たちのような女二人は、自分の行動の自由がなかったら、とても生き永らえてはゆけまいと、あなたとしては考えなければならないところですからね。さあ今はおわかりでしょう。」青年は聞くところすべてに呆気《あつけ》にとられ、ただこう呟やくことしかできませんでした、「私はアッラーの裡に逃がれ奉ります。アッラーは慈悲深くましまする。」すると母親は言葉を継いで、「何ですって、あなたはまだ不平を鳴らしてるのですね。けれど、わが息子よ、もし私たちの生き方がお気に召さないというのなら、あなたは私たちに肩幅の広さを見せさえすればよいことです。」
この言葉に、若者は怒りの極に達し、母親にもその娘にも聞えるような工合に、叫びました、「私は離縁する。アッラーにかけ、預言者にかけて、私はきっぱり離縁する。」
それと同時に、蚊帳の下から、若い女は伸びをしながら起きて来て、離縁の文句を聞きつけたので、いそいで顔の上に面衣《ヴエール》を下ろし、今後は再び他人に返った男の前に、素顔を見せないようにしました。そして若い女と共に、今まであんなに愛《いと》おしそうに抱き合っていた人物も、蚊帳の下から出て来ました。ところで、この人物は、遠くからでは髭のない若い男子に似ていましたが、突然振りほどかれて、踝《くるぶし》に触れているふさふさした髪の毛を見ただけでも、明らかに若い娘なのでございました。
不幸な若い男が茫然として身動きもしないでいるうちに、母親がかねて垂幕の蔭に隠しておいた二人の証人が、姿を現わして、彼に言いました、「私たちは離縁の文句をしかと聞きました。そしてここにあなたは奥様と離縁なすったことを証言いたします。」すると母親は笑いながら言いました、「では、わが息子よ、今はあなたは出て行くばかりです。そしてあなたに悪い感じを抱いて立ち去らせないためお知らせしますが、あなたの妻と一緒に寝ていたこれなる若い娘は、実は私の末娘です。そしてあなたの信じたことは、あなたの良心上の罪です。けれども同じくお知らせしておきますが、あなたの妻は実は最初、愛し愛されていた若者と結婚していたのです。ところが或る日二人は喧嘩をして、口論にのぼせ上がって、その婿は私の娘に言ったものです、『お前は三たび離縁だぞ。』ところでこれこそは、御承知のように、一番厳かな離縁の文句で、一番正式のものです。そしてこの文句を発した男は、たといいつか最初の妻と復縁したいという気になっても、その妻が新たに第二の夫と結婚を終了し、その第二の夫がこれまた離婚してくれないことには、もはや復縁することが叶いません。だから私たちは解除人《ときびと》が必要だったのです、わが息子よ。そこで私は長いことその解除人《ときびと》を探していたのですが、なかなか見つからなかった。そのうちとうとうあなたに出遭ったのです。そしてあなたを見て、これこそ申し分ない解除人《ときびと》とわかったので、そこであなたを選んだのです。そして起ったことが起ったのでした。|さらば《ワアサラーム》。」
そう言って、母親は彼を家の外に突き出し、戸を閉めましたが、一方最初の夫は、同じ法官《カーデイ》と同じ証人たちの前で、最初の妻に対し第二の結婚契約書を認めたのでございました。
以上が、おお幸多き王様、解除人《ときびと》の物語でございます。けれどもこれは、警察隊長《ムカツダム》の物語と同じくらい面白いとは、とてもまいりません。
警察隊長《ムカツダム》
昔カイロの都に、勝利のサラディン大王(7)の御代――アッラーは王に御寵愛を垂れたまわんことを。――エジプトに来た、一人のクルド族の男がおりました。このクルド人は、太い口髭と、眼までも届く鬚と、眼の上に垂れ下がる眉毛と、鼻と耳から出ている毛の房を持った、物凄い恰幅《かつぷく》の男でした。その様子はいかにも荒々しく取っつきにくいので、やがて警察隊長《ムカツダム》になりました。界隈の腕白小僧どもも、遠くからその姿を見ただけで、食人鬼《グーラー》が現われるのを見たというよりも早く、脚を風にまかせて逃げ出すのでした。母親たちも子供たちが始末におえない時は、クルド人の隊長《ムカツダム》を呼ぶといって、子供を威かすのでした。一言で言うと、この男は界隈と町の案山子《かかし》でございました。
さて、日々のうちの或る日、彼は孤独が重くのしかかってくるのを感じて、夕方自分の家に帰った時、口に入れる新鮮な肉があったら、さぞよいことだろうと考えました。そのため彼は周旋業の女に会いに行って、これに言いました、「俺は女房をもらいたいのだ。だが俺にはいろいろ経験があって、女どもというものは普通どんな煩いを一緒に持ちこんでくるか、よく知っている。それだから、俺はまあできるだけいざこざを少なくするのが好きだから、ひとつあんたに、今まで自分のお母《つか》さんの傍を離れたことがなく、俺と一緒にたった一間《ひとま》きりの家に住む気のある、処女の若い娘を見つけてもらいたいと思う。条件と言っては、決してその家とその一間《ひとま》から出ないということだね。そういう若い娘を見つけてもらえるものか、もらえないものか、そいつはあんたに考えていただこう。」すると周旋女は答えました、「できますとも。手付を置いていらっしゃい。」そこで警察隊長《ムカツダム》は手付として一ディナールを渡して、自分の道に立ち去りました。すると周旋女はすっくと立ち上がって、注文の若い娘を探しにかかりました。
そして捜索と奔走、問合せと返事の数日後、その女は遂に、若い娘でただ一間きりの家から決して外に出ないで、クルド人と一緒に住むことに同意する女を見つけました。周旋女は自分の奔走の成功を警察隊長《ムカツダム》に知らせに行って、言いました、「あんたに見つけてさしあげた女は、今まで母親と別れたことのない処女の娘で、私が条件を持ち出すと、こう答えたものです、『雄々しい隊長《ムカツダム》と一緒に暮らそうと、お母さんと一緒にここに閉じこもっていようと、同じことですわ』とね。」クルド人はこの返事に大そう満足して、周旋女に訊ねました、「それでその娘はどんな様子かね。」女は答えました、「太っていて、丸々として、色白ですよ。」隊長《ムカツダム》は答えました、「それこそ俺の好むところだ。」
そこでその若い娘の父親も同意したし、母親も同意したし、当の娘も同意し、クルド人も同意しましたので、婚礼はすぐに挙げられました。太い口髭の父クルド人は、太って、丸々として、色白の若い娘を、一間きりのわが家に連れて行って、娘と彼女の運命と共に閉じこもりました。その夜起ったことは、ただアッラーのみ知りたまいまする。
翌日、クルド人は警察の用務を執りに出かける際、自宅から出ながら思いました、「俺はわが好運をあの娘でしとめたわい。」そして夕方自宅に帰ってみると、ただのひと目で、わが家では万事きちんと整理されていることがわかりました。そして毎日彼は思いました、「俺の夕飯に鼻を突っこむことのできる子供は、まだ生まれちゃいないわい。」彼の平穏は申し分なく、安泰は完全でありました。そして彼はそのあらゆる経験にもかかわらず、女というものは生まれつきずるいもので、女が何事か望んだら最後、何ものもこれを阻むことはできないことを、知らないのでした。やがて彼はそれを体験しなければならぬことになりました。
事実往来のその家の窓の向いには、羊の肉を売る肉屋がありました。この肉屋には息子が一人あって、それは全く屈強な男で、元気と陽気さ溢れ、朝から晩まで、ひっきりなしに、大へん美声で歌を歌っておりました。クルド人の隊長《ムカツダム》の若妻は、この肉屋の息子の魅力と美声に参ってしまって、二人の間には、起ったことが起りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十一夜になると[#「けれども第八百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとクルド人の御亭主は、その日は平常よりも早く帰宅して、鍵を鍵穴に入れて、戸を開けようとしました。若妻はその時交合に耽っていましたが、鍵の軋む音を聞きつけ、すべてをさしおいて、つと飛び起きました。そして部屋の片隅の、夫と自分自身の衣類全部を吊してある紐の後ろに、いそぎ愛人を隠しました。それから、平生身を包んでいる大面衣《イザール》を取り上げて、夫の隊長《ムカツダム》を迎えに小さな階段を降りましたが、隊長《ムカツダム》は階段を半分登って、早くも自分の家に何事か平生は起らないようなことが起っているのを感じました。そこで女房に言いました、「どうしたんだ。なぜそんな面衣《ヴエール》を持っているのだ。」すると女は答えました、「この面衣《ヴエール》の話は、おおわが御主人様、もしこれが針でもって眼の内側の一隅に書かれたならば、恭《うやうや》しく読む人には教訓として役立つような話なのです。けれどもまずいらっしゃって、長椅子《デイワーン》にお坐りなさい、お話してあげますから。」そして夫を長椅子《デイワーン》のほうに引っ張って行って、坐るように頼み、次のように続けました、「こういうことなのです。実際に、カイロの都に一人の警察隊長《ムカツダム》がいて、これは焼餅焼きの恐ろしい男で、絶えず自分の女房を見張っておりました。そして不実を恐れて、妻をばちょうどこの家みたいに、一間だけの家に閉じこめておきました。けれども夫のあらゆる用心にもかかわらず、その若い女房は悦んで亭主に角《つの》を生やさせ、隣りの肉屋の息子と、亭主の気づかない角《つの》の上で交合をしつづけ、ひどくやりつづけていたので、とうとう隊長《ムカツダム》は、平生よりも早く帰った或る日のこと、何かあるなと勘づいてしまいました。事実、女房は夫の帰ってくるのを聞きつけると、さっそく自分の恋人を隠しておいて、ちょうど今私があなたにしたとそっくりに、亭主を長椅子《デイワーン》に引っ張って行きました。その上で、自分の手にする布切れを亭主の頭上に投げかけ、力まかせにその首を締めつけました。ほら、こんな工合にね。」こう話しながら、若い女はその布をクルド人の頭上に投げかけて、笑いながらその首を締めつけ、さらに次のように話を続けました。「そして犬の息子が頭と首をすっぽり布に包《くる》まれると、その若い女は、亭主の衣類の蔭に隠れていた自分の恋人に叫んだものです、『さあ、可愛い人、早く、早く、お逃げなさい。』そこで若い肉屋はいそいで隠れ場所から出て、往来に出る階段をあたふた駈け下りました。以上が私の手に持つ布の話です。やあ殿《シデイ》よ。」
この物語をこのように語り終え、そして自分の愛人がもう安全になったと見るや、若い女は夫のクルド人の首のまわりにきつく巻きつけていた布を放して、笑い出し、尻餅をつくほど笑いこけました。
こうして絞首《しばりくび》からまぬかれたクルド人の隊長《ムカツダム》は、女房の物語と悪戯を笑うべきか、怒るべきかわからない有様でした。それに、この男はクルド人でしたから、やはりクルド人のままでいました。ですから、彼はこの事件については、遂に何ひとつわからずじまいでした。その口髭と毛はそのため元気がなくなるようなこともございませんでした。そしてたくさんの子供を残して、満足し繁昌し、福者のように世を去ったのでございます。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードはその夜は、さらに次の物語をした。それはちがった種類の三人の人物、すなわち夫と恋人と盗賊の間での、寛大さ競《くら》べである。
誰が一番寛大か
語り伝えられまするところでは、バグダードに、子供の頃から無上の愛情で愛し合っていた、従兄妹《いとこ》同士の男女がおりました。二人の両親も二人を互いに許婚《いいなずけ》にして、いつも言っておりました、「ハビブ(8)が大きくなったら、ハビバと一緒にしてやろう。」そして二人は一緒に暮らし、大きくなり、二人と共にお互いの情愛も大きくなったのでした。ところが両人いよいよ結婚する年頃になると、天命は二人の結婚を命令しませんでした。それというのは、両親が時利あらず、大へん貧乏になってしまい、ハビバの父母は娘のために、ちょうど結婚を申込んだバグダードの最も裕福な商人の一人の、尊敬すべき長老《シヤイクー》を夫に迎えるのを、これ幸いと思ったのでした。
その長老《シヤイクー》との結婚がこのようにしてきまったとき、若いハビバは、これを最後に従兄のハビブに会いたいと思って出かけ、泣きながら彼に言いました、「おお伯父様の息子、おお私の最愛の人よ、起ったことは御承知のとおりで、私の両親は、私がついぞ見たこともなく、また私をついぞ見たこともない或る長老《シヤイクー》に、私をお嫁にやることにしました。そこで今はこの結婚によって、私たちは永久に二人の恋を奪われてしまいました、おお、お従兄《いとこ》様。おそらく私たちは生きているよりか死ぬほうがましです。」するとハビブも咽び泣きながら、答えました、「おお最愛の従妹《いとこ》よ、僕たちの運命は苦々しく、僕たちの人生はこれから先意味がなくなった。僕たちはお互い離れ離れになっては、どうしてこの上人生の味を味わい、地上の美しさを楽しむことができよう。悲しいことだ、悲しいことだ、おお従妹《いとこ》よ、これからどうやって僕たちの天命の重さに耐えて行こうか。」そして二人は互いの身を泣き合って、苦しさのあまり気を失わんばかりになりました。そのうち人が来て、花嫁を新夫の家に連れて行こうと一同待っているからと言って、二人を引き離しました。
そして悲嘆に暮れるハビバは、行列を作って長老《シヤイクー》の家に連れて行かれました。それから慣例の儀式と祝辞と祝福の祈願の後、婚礼は終え、花嫁を新夫の許に残して、一同立ち去りました。
いよいよ床入りの時が来ると、長老《シヤイクー》は婚姻の間《ま》にはいって来ましたが、花嫁が座褥《クツシヨン》の中で泣いており、胸は嗚咽にむせんで膨らんでいるのを見ました。そこで彼は考えました、「きっとこの娘も、母親の許を離れるすべての若い娘が泣くのと同様に、泣いているのにちがいない。だが幸いにして、これは普通永くは続かぬ。油をもってすればこの上なく固《きつ》い南京錠も開くし、優しさをもってすれば獅子の子でも手なずけられるのだ。」そして彼は泣いている娘に近づいて、これに言いました、「やあ、シッティ・ハビバ、おお魂の光よ、なぜあなたは眼の美しさをそのように損じておられるのか。あなたの苦しみは、お傍に新しい人のいることすら忘れさせているが、それはどのような苦しみなのかな。」けれども若い娘は、夫の声を聞くとますます涙と嗚咽を激しくして、頭をいっそう枕に埋めるのでした。そこで長老《シヤイクー》は狼狽してこれに言いました、「やあ、シッティ・ハビバ、もしあなたが母親と別れたせいで、母親のため泣いているのならば、そう言いなされ。すぐさま呼んできてあげるほどに。」すると若い娘は返事代りに、いっそう激しく泣いて、ただ枕の中で頭を振るばかり、ただそれだけです。夫はこれに言いました、「そのように痛々しく泣いているのが、父親とか、姉妹の一人とか、乳母とか、または雄鶏、猫、羚羊といったような何か手飼いの動物などのためならば、そう言いなされ。アッラーにかけて、呼んで来てあげるほどに。」けれども枕の中で頭を振る打消しのしるしだけが、返事でありました。長老《シヤイクー》はちょっと考えてから、言いました、「おそらくあなたの泣いているのは、あなたが子供の頃と青春の頃を過ごした、あの御両親の家そのもののためであろうか、おおハビバよ。そのため泣いているのならば、そう言いなされ。手を曳いて連れて行ってあげるほどに。」すると若い娘は、夫の優しい言葉にいく分気持が鎮まって、すこし頭を挙げましたが、その美しい両眼は涙に溢れ、愛らしい顔は焔のようでありました。そして顫える涙声で答えるのでした、「やあ、殿《シデイ》よ、母のため泣くのでもなければ、父や、姉妹や、乳母や、手飼いの動物のためでもありません。ですからどうか、私の涙と悲しみの動機《いわれ》をお打ち明けするのは、御容赦下さいませ。」この上なく善良な長老《シヤイクー》は、初めてわが妻の素顔を見て、その美しさと、全身から発するあどけない魅力と、その話し振りの優しさとに、大そう心を動かされました。そしてこれに言いました、「やあ、シッティ・ハビバ、おお、若い娘たちの間で一番美しい娘、娘たちの冠よ、あなたをそのように苦しませるのが、家族とわが家を離れることでないとすれば、何か別の動機《いわれ》があるわけだ。ぜひそれを聞かせて下され、何とか手段を講じるから。」娘は答えました、「後生ですから、お話しするのは御容赦下さい。」長老《シヤイクー》は言いました、「それではその動機《いわれ》とは、あなたがわしを嫌うとか厭だとかいう気持を抱いていること以外にはない。ところで、あなたの生命にかけて、もしあなたが母上を通じて、わしの妻になりたくないとさえ言ってくれたら、わしは決してあなたの気持に反して、わが家にはいることなど強いはしなかったものを。」すると娘は言いました、「いいえ、アッラーにかけて、おおわが御主人様、私の悲しみの動機《いわれ》は、嫌いとか厭とかいう気持などにはさらさらございません。一度も見たことのないどなたかに対して、どうしてそのような気持を持てましょうか。これは全く別なことによるので、それはお打ち明け申すわけにはまいりませんの。」けれども長老《シヤイクー》は強《た》って尋ね、いかにも親切にせがみつづけたので、若い娘も遂に、眼を伏せて、自分の従兄《いとこ》への恋を白状して、申しました、「私の涙と悲しみの動機《いわれ》は、家に残っている懐しい人でございまして、それは私の伯父の息子で、一緒に大きくなり、子供の頃から私を愛し、私も愛している人なのです。そして愛とは、おおわが御主人様、根が心の中にまで張っている植物で、これを引き抜くには、それと一緒に心まで引き抜かなければならないでございましょう。」
妻のこの打ち明け話を聞くと、長老《シヤイクー》は一言もなく、頭を垂れました。そしてひと時の間思い耽って、それから頭を挙げて、若い娘に申しました、「おおわが御主人よ、アッラーとその預言者――その上に祈りと平安あれ。――このお二方《ふたかた》の掟《おきて》は、何ごとにあれ信徒から暴力によって得ることを、信徒に禁じておられる。もし一片のパンも信徒から力によって取ってはならぬとすれば、その心を取り上げるとあらば、いかなることと相成ろうか。されば、魂を安らかにし、眼を爽やかにしなさい。あなたの天命に書かれていること以外、何ごとも起らぬでありましょうぞ。」そして付け加えました、「さあ、起きなさい、おおわが一時《ひととき》の妻よ、そしてわしの同意と全くの好意ずくから、あなたに対しわが権利よりも本当の権利を持つ男に会いに行き、自由に彼に身を委ねなさい。そして朝と共に、召使いたちが眼を覚ましてあなたの戻ってくるのを見咎めないうちに、ここに戻っていらっしゃい。なぜならば、今よりして、あなたはわが肉と血を分けた、わが娘のようなものだからね。父親はわが娘に手を触れはしない。そしてわしが死んだら、あなたがわが後継ぎとなるのじゃ。」そしてさらに言い添えました、「起きなさい、わが娘よ、ためらわずに。そして従兄《いとこ》を慰めに行きなさい。きっと人が死者たちを泣き悲しむように、あなたを泣き悲しんでいるに相違ない。」
そして長老《シヤイクー》は娘が起きるのに手を貸して、自身その晴着を着せ、婚礼の宝石類をつけてやり、戸口まで送って行きました。そして娘は晴着と宝石をつけて、さながら祭日に、無信徒共が引き廻す偶像のような姿で、往来に出ました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十二夜になると[#「けれども第八百九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、夜のこんな時刻にはただの一人の人も通っていない往来に娘が出て、やっと二十歩も歩かないうちに、突如一つの黒い姿が物蔭から躍り出て、娘のほうに迫って来ました。ところで、これは何か夜の獲物を待ち構えていた盗賊で、娘の宝石類の輝くのを見て、独り言を言ったものです、「こいつは一生金持にしてもらえるわい。」そこで荒々しく娘を遮り、身ぐるみ剥ごうと構えて、押し殺した恐ろしい声で言いました、「口を開けて叫び立てようなんどとしたら、きさまの縦は横にのめりこむぞ。」そしてすでにその首飾りに手をかけたとき、盗賊の視線は娘の顔の美しさに出会いました。賊はすっかりあわてて、考えました、「アッラーにかけて、こいつはこの娘ごとそっくり掻っ払うことにしよう。この娘は宝物全部よりか値段があるからな。」そして娘に言いました、「おおわが御主人よ、あなたの身には何の危害も加えはしないよ。俺に逆らわずに、自分から進んで俺と一緒にお出で。そうすれば、俺たちの夜は祝福された夜となるだろうぜ。」それというのは、賊は考えたのです、「これは舞妓《まいこ》だな。夜中にこんなに美々しく着飾って外に出るのは、舞妓《まいこ》のほかにありはしないから。この娘はどこぞの大殿様の婚礼からの帰りにちがいない。」
すると若い娘は、返事の代りにただ泣き出すばかりでした。すると盗賊は言いました、「アッラーにかけて、なぜ泣くのか。俺は誓言するぜ、もしあなたが自分のほうからおれに身を委せてくれさえすれば、決してひどいこともしなければ、身ぐるみ剥いだりなどもしないと。」そして同時に、娘の手をとって、連れて行こうとしました。すると娘は涙まじりに、自分の素性を知らせて、夫の長老《シヤイクー》の寛大さを語り、身の上を何ひとつ隠しませんでした。そして付け加えました、「さて今は、私はあなたの手中にあります。どうなりとお好きなようにして下さい。」
この盗賊はバグダードの全盗賊仲間を通じて随一の腕利きの辻強盗でありましたが、この若い娘の不思議な物語を聞きまして、その夫たる長老《シヤイクー》の寛大な処置の立派さすべてを理解しますと、彼はしばし頭を垂れて、沈思黙考いたしました。次に頭を挙げて、乙女に言いました、「そしてあなたの伯父の息子、あなたの愛している男は、どこに住んでいるのかね。」乙女は言いました、「これこれの区の、これこれの街で、そこの家の庭にある部屋に住まっております。」すると盗賊は言いました、「おおわが御主人よ、二人の恋人が盗賊によって恋を奪われたなどということがあってはならぬ。どうかアッラーは、あなたがその従兄《いとこ》と一緒に過ごそうとしている今夜のために、その御恵《みめぐ》みの最も選り抜きのものを、あなたに授けたまいますように。この俺は、俺以外の盗賊どもと折悪しく出遭うといけないから、これからあなたを連れて行って護衛してあげる。」そして付け加えました、「おおわが御主人よ、風は万人のものにせよ、笛は俺のものじゃないよ。」
このように語ってから、盗賊は乙女の手をとって、女王に対して示すようなあらゆる敬意を払って、その恋人の家まで護衛して行きました。そして衣の裾に接吻して後、別れを告げて、自分の道に立ち去りました。
若い娘は庭の戸を押し、庭を横切って、まっすぐ従兄《いとこ》の部屋に行きました。従兄はただ独り、彼女のことを思いながら、咽び泣いているのが聞こえました。娘が戸を叩きますと、従兄の涙溢れる声が尋ねました、「戸口にいるのはどなたですか。」彼女は言いました、「ハビバです。」すると内部《なか》から叫びました、「おや、ハビバの声だ。」そしてさらに言いました、「ハビバはもう死んでしまった。あなたは誰です、ハビバの声で私に物言うあなたは。」彼女は言いました、「私はハビバ、あなたの叔父の娘です。」
すると戸口が開いて、ハビブは従妹《いとこ》の腕の中に気を失ってしまいました。そしてハビバの介抱のお蔭で、彼が正気に返るとハビバはこれを自分の傍に休ませ、その頭を自分の膝の上に乗せて、夫の長老《シヤイクー》並びに寛大な盗賊との間に起ったところを語り聞かせました。ハビブはこれを聞くと、もう感動しきって、最初は一言《ひとこと》も言い出せませんでした。それから突然立ち上がって、従妹《いとこ》に言いました、「お出で、おお最愛の従妹《いとこ》よ。」そして従妹《いとこ》と関係を結ぼうともしないで、その手をとり、一緒に往来に出て、ただの一言も言わずに、その夫の長老《シヤイクー》の屋敷まで連れて行きました。
長老《シヤイクー》はわが妻が従兄の若いハビブと一緒に戻って来たのを見、こうして二人揃って自分の屋敷までやって来た理由がわかりますと、彼は二人を自分自身の部屋に通して、父親が自分の子供たちに接吻するように、二人に接吻し、そして厳粛さ溢れる声で、二人に言いました、「およそ信徒たる者が自分の妻に向って、『お前はわが肉と血を分けた、わが娘である』と言ったからには、いかなる権力も彼をその言葉から解き放つこと能わぬ。されば、おおわが子たちよ、お前たちはわしに何の負い目もない。何となれば、わしは自分自身の言葉に縛られているのであるから。」
このように語ってから、彼は自分の家と財産を二人の名に書き変えて、自分は別の町に住みに立ち去ったのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、このことについては何も王に尋ねずに、結論を出す配慮はシャハリヤール王にまかせた。そしてその夜は、さらに言った。
去勢された床屋
語り伝えられまするところでは、昔カイロに美貌と長所にかけては並ぶ者のない、一人の若衆がおりました。彼には一人の若い女友達があって、彼を非常に愛し彼もこれを愛しておりましたが、その夫は百人隊長《ユーズバーシー》(9)で、警吏百人の頭《かしら》でございまして、指一本でこの若者などひねりつぶすに十分なくらいの手を持った、血気と剛勇溢れた男でありました。この百人隊長《ユーズバーシー》は自分の婦人部屋《ハーレム》の女たちを満足させるだけの力ある、あらゆる美質を備えていたのですけれども、この若衆には鬚もなく、この細君は仔羊の肉のほうが好きな女の部類で、何よりも特に、若者に跨られているのを感ずることが好きな牝馬の中の一頭でした。
さて日々のうちの或る日のこと、百人隊長《ユーズバーシー》はわが家にはいると、細君の若い女に言いました、「おお某女よ、俺は今日の午後は、友人たちといい空気を吸いに、庭園のしかじかの場所に行こうと誘われている。もし何かの用事で、俺に用があったら、そこに呼びによこしてくれ。」すると細君は言いました、「あなたが楽しく満足していらっしゃると承わるより以外のことを、あなたに願う人などおりません。庭園に遊びにいってらっしゃいませ、おおわが御主人様。どうかそれで晴々《はればれ》し、清々《すがすが》しくなりなすって、私たちを悦ばせてくれますように。」そこで百人隊長《ユーズバーシー》はこのように気を配ってくれる、才|長《た》けて、従順で、鄭重な細君を持ったことを、今一度喜びながら、自分の道に立ち去りました。
さて夫が背を向けるとすぐさま、細君は叫びました、「今日の午後、あの猪を私たちから遠ざけたもうアッラーに称讃《たたえ》あれ。それではこれから私の心に吊るされている人を呼びにやるとしましょう。」そして自分の使っている宦官少年を呼んで、言いつけました、「おお小僧よ、早く私のため、何某に会いに行っておくれ。もし自分の家にいらっしゃらなかったら、見つかるまでどこまでも探して、こう伝えておくれ、『御主人様はあなたに挨拶《サラーム》を送り、今すぐ家に会いに来て下さいと言っておられます、』とね。」そこで宦官少年は女主人の許を出ましたが、若衆が自分の家にいなかったので、彼を探して、彼が平生坐りに行く市場《スーク》の店全部を、駈け廻りはじめました。そしてやっと、彼が頭を剃らせにはいった或る床屋の店で、これを見つけました。そこで若衆に近づきましたが、それはちょうど床屋が首にきれいな手拭を巻いて、こう言っているところでした、「どこかアッラーは、さっぱりすることがあなたにお気持ちよくあるようにして下さいますように。」宦官少年はそこで若衆に近づいて、彼のほうに身を傾《かし》げ、耳打ちしました、「私の御主人某女はあなたに飛び切りの挨拶《サラーム》を送り、今日は岸辺は明るく、百人隊長《ユーズバーシー》は庭園に行っているとお伝えするように言いつかりました。ですからもし有《もの》になさりたいとお望みなら、すぐさま時を移さず、お出でになりさえすればよろしいです。」若衆はこれを聞くと、もうそこに一瞬でも永くとどまっているのに耐えられず、床屋に叫びました、「早く頭を拭いて、出て行かしてくれ。またこんど来るからな。」この言葉を言いながら、彼はまるで床屋がすでに頭の仕事を済ませたかのように、一ドラクムの銀貨をその手に握らせました。すると床屋はこの気前のよさを見ると、思いました、「この人はまだ全然剃らないのに、一ドラクムも下さるぜ。もし頭を剃り上げていたら、どうなることだろう。アッラーにかけて、このお客様からは目を離すまい。この頭を剃り終われば、ひと掴みのドラクム銀貨を下さること疑いなしだ。」
こうしているうちに、若衆はす早く立ち上がって、通りに出ました。床屋は店の敷居まで見送りながら、言いました、「アッラーはあなた様と共にありますように、おおわが御主人様。私の望みは、お済みにならないお仕事を片づけなすった節に、またこの店に来て下さること。おはいりになった時よりか、ずっと立派になってお出ましになるでしょう。アッラーはあなた様と共にありますように。」若衆は答えました、「合点《タイエーブ》だ、間違いなく、また来るよ。」そしてそこそこに逃げ出して、街角を曲って姿を消しました。
そして彼は女友達、百人隊長《ユーズバーシー》の細君の家の前に着きました。そしてまさに戸を叩こうとすると、無上に驚いたことに、あの床屋が通りの向うの端から出て来て、自分の前に姿を現わすのを見ました。床屋は遠くから自分を呼ぶいろいろな身振りをしていますが、いったいどういう用件で、こんな風に床屋が駈けつけてくるのかわかりかね、彼は戸を叩くのをやめました。すると床屋は言いました、「おおわが御主人様、アッラーはあなた様と共にありますように。どうか私の店をお忘れなく。店はお出でによって馨りに満ち、輝き渡りました。そして賢人は申しました、『一個所において甘き目を見しからには、他の場所を探すことなかれ』と。また、アラビア人たちの大医アブー・アリー・アル・フサイン・イブン・シーナー(10)――その上に至高者の御寵愛あれ。――この方も申された、『いかなる乳も、幼児にとって、母の乳に比ぶべくもなし。しかして巧みなる床屋の手にまして、頭に快きものはなし、』とね。ですからどうかあなた様に、おおわが御主人様よ、市場《スーク》の他の床屋たち全部の店の中で、手前の店をちゃんと見分けていただきたいもので。」そこで若衆は言いました、「うむ、ワッラーヒ、きっと間違いなく、見分けてやろう、おお床屋よ。」そしてすでに内側から開かれていた扉を押してはいり、いそいで自分の後ろに再び閉めました。それから、一緒にいつものことをしようと、恋人と落ち合いに上がりました。
床屋のほうは、奴は自分の店に引っ返さないで、扉のまん前で、通りに突っ立ったまま、独り言を言いました、「この場であの思いがけないお客様を待っていて、俺自身で俺の店に案内するに越したことはない。俺の店を隣近所の店とまちがえるといけないからな。」
そしてその扉から一瞬も眼を離さず、もうびくともせずに立ち尽してしまいました。
ところが百人隊長《ユーズバーシー》のほうはどうかと申しますと、彼が約束の場所に着きますと、招待したその友人は彼に言うのでした、「やあ、殿《シデイ》よ、どうも君に類のない失礼をする羽目になって、何とも申しわけない。実は僕の母が死んで、これから埋葬の準備をしなければならんのだ。それで、済まないが今日は御一緒に楽しむことができない次第で、どうか僕の無礼を許していただきたい。アッラーは寛仁にましますから、近いうちわれわれはまた一緒にここに来ることがあろう。」そして友人は、さらに幾重にも詫びながら、別れを告げて、自分の道に立ち去りました。そこで百人隊長《ユーズバーシー》はすっかり鼻を長くして、心の中で言いました、「折角の娯しみの日々をこんな風につまらなく黒くしてしまう災厄の婆どもを、アッラーは呪いたまうように。そして悪魔《シヤイターン》はこうした婆どもを、第五地獄の穴の一番深い穴にぶちこんでくれるように。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十三夜になると[#「けれども第八百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こう言いながら、憤然として天に唾をし、鬚の中でもぐもぐ言いました、「きさまの上ときさまを埋める地の上に、俺は唾をしてやるぞ、おお災厄の母よ。」そして再び家路を行き続けて、怒りに眼をぐるぐる廻しながら、自分の街に着きました。すると床屋が、家の窓のほうに顔を向けて、まるで骨を投げてくれるのを待っている犬みたいに、じっと立ち尽しているのを見かけました。そこで彼はこれに近づいて、言いました、「どうしたんだ、おお男よ。きさまとこの家の間にどういうかかわりがあるのか。」床屋は地面まで頭を下げて、答えました、「おお百人隊長《ユーズバーシー》の殿よ、私はここで店の最上のお客様を待っているのです。何しろ私のパンはその人の手中にあるのですから。」すると百人隊長《ユーズバーシー》はひどくびっくりして、尋ねました、「何を言ってやがるんだ、おお鬼神《アフアリート》の手先め。俺の家は、今はきさまみたいな種類の床屋のお客たちの、集会所になっているというのか。歩いて行け、おお女衒《ぜげん》め。さもないと俺の腕の重さを知るだろうぞ。」床屋は言いました、「あなた様の上にアッラーの御名《みな》あれ、おおわが御主人|百人隊長《ユーズバーシー》様、またあなた様のお宅の上と、正直と一切の徳の集まるところなる御尊家の住人様方の上にも。けれども、あなた様の貴いお生命《いのち》にかけて、私の最上のお客はまさにここにおはいりになったことは、誓って申します。それで、もうはいりなすってからずいぶん長いことたち、私の仕事と店の都合で、これ以上長くお待ちしているわけにはまいりませんので、どうかあの方にお会いになったら、これ以上遅くならないようにと、お伝え下さいまし。」すると若い女の夫は言いました、「で、そいつはどんな風な男だ、きさまのお客というのは、おお、牛太郎の息子で取り持ち野郎の後裔め。」床屋は言いました、「美男子でさ、こういった眼で、こういった身の丈で、その外もそれに似つかわしい。全く伊達男《シヤラビ》で、粋《いき》で、態度も物腰も垢抜けして、それに気前がいいし、気分がいいし、お砂糖のひとかけでさ、やあ殿《シデイ》よ、蜂蜜の塊まりだね、ワッラーヒ。」
警吏百人の長は、自分の家にはいった男のこの讃辞と形容を聞くと、いきなり床屋の襟首を捉えて、何度も揺すぶりながら、これに言いました、「この女衒どもの子孫で、ぼろ切れの息子めが。」すると揺すぶられる床屋は叫びました、「何の差しさわりもないじゃござんせんか。」すると百人隊長《ユーズバーシー》は続けました、「まだきさまはぬけぬけと、俺の家についてそんな言葉をぬかすか。」床屋は言いました、「おおわが御主人様、あなた様が私のお客様に、『気持のいい手の床屋が戸口でお待ちしてますよ、』と言いなすったら、その方が何と仰しゃるかおわかりになりますわ。」泡を吹く百人隊長《ユーズバーシー》は怒鳴りつけました、「よし、ここにいろ、きさまの言葉を確かめに行ってくるから。」そして彼は自分の家に飛びこみました。
ところで、こうしている間に、若妻は窓の後ろから、通りで起ったこと全部を聞きもし見もして、すでに愛人を家の雨水溜の中に隠す暇がありました。それで百人隊長《ユーズバーシー》が部屋部屋にはいってきた時には、もう若衆もいなければ、若衆の匂いもなく、遠くも近くも若衆に似たものは何ひとつありません。百人隊長《ユーズバーシー》は細君に尋ねました、「おい、アッラーにかけて、おお女房よ、誰か男が俺たちのところにはいりこんだと思える節《ふし》が、本当にあるのか。」すると細君は、この推測にこの上なく気を悪くしたという風に、叫びました、「おお、私たちの家と私自身の上の何という恥でしょう。どうして、おおわが御主人様、男がここにはいってくることができましょうぞ。悪魔は遠ざけられよかし。」すると百人隊長《ユーズバーシー》は言いました、「通りにいる床屋が、自分のお客の中の一人の若者が、俺たちの家から出てくるのを待っていると、俺に言ったんだ。」細君は言いました、「そんな奴は壁にぶつけてひねり潰してしまわなかったの。」彼は言いました、「よし、じゃ行ってくる。」そして下に降りて、床屋の襟首を捉えて、振り廻しながら、叫びました、「おお、自分のお袋と女房を世話する取り持ち野郎め。よくもきさまは一人の信徒の婦人部屋《ハーレム》について、ぬけぬけとあんな言葉をぬかしおったな。」そして彼は勿論、一撃の下に、その縦を横にのめりこませようとしましたが、そのとき床屋は叫びました、「預言者がわれわれに明かしたもうた真理にかけて、おお百人隊長《ユーズバーシー》様、私はこの眼で若衆がこの家にはいるのを見たんですぜ。だが家から出てくるのは見なかった。」すると相手は振り廻すのをやめて、この男が死を前にしてもその事を言い張るのを聞いて、当惑の極に達しました。そしてこれに言いました、「きさまが嘘を吐いたということを、ちゃんと証明してやらないうちは、きさまを殺したくないぞ、おお犬め。俺と一緒に来い。」そして床屋を家の中に引っ張って行って、一緒に全部の部屋を、下も上も到る所を、見廻りはじめました。残らず検査し残らず調べ尽すと、二人は再び中庭に降りて、あらゆる隅々まで探しましたが、何も見つかりません。すると百人隊長《ユーズバーシー》は床屋のほうに向いて言いました、「何もいないぞ。」相手は言いました、「いかにもそのとおりだが、しかしまだここに雨水溜があって、こいつは調べてない。」
こうした次第です。若衆は二人の行ったり来たりする音と、言葉を聞いておりました。この雨水溜と雨水溜を調べるという最後の言葉を聞くと、魂の中で床屋を呪いつつ、考えました、「ああ、この恥辱の売女どもの倅め。いよいよ俺はつかまりそうだわい。」ところが一方細君は、雨水溜を調べようと言っている床屋の話を聞くと、大急ぎで下へ降りて行きながら、夫に叫びました、「いったいいつまで、おお旦那よ、この汚《けが》らわしさの千人の寝取られ男の息子に、自分の家と婦人部屋《ハーレム》を歩き廻らせようとなさるの。この男みたいな種類の見も知らぬ男を、こんな風に自分の住居の奥に立ち入らせることを、あなたは恥しいと思わないのですか。その男を罪に応じて懲らしめるのに、何をぐずぐず待っていらっしゃるの。」すると百人隊長《ユーズバーシー》は言いました、「そのとおりだ、おお女房よ、こいつを罰しなければならん。しかしお前があらぬことを言われたのだから、こいつを懲らしめるのは、お前のすることだ。その中傷のひどさと性質に応じて、こいつを罰してやれ。」
すると若い女は台所に庖丁を取りに上がって、それを白熱して白くなるまで焼きました。そして、すでに百人隊長《ユーズバーシー》が一撃の下に地に倒していた床屋に、近づきました。そしてその熱した庖丁でもって、百人隊長《ユーズバーシー》が地上に押えつけている間に、床屋の輸精管を焼灼し、細い筋を焼き切ってしまいました。それが済むと、床屋を通りに放り出しながら、怒鳴りつけました、「律気者の婦人部屋《ハーレム》のことをとやかく言うと、こんな目に遭うぞ。」そして不運な床屋は、情け深い通行人たちが抱き起して、店に運んでくれるまで、そこに伸びておりました。床屋のほうはこのようでございました。
けれども雨水溜に閉じこめられていた若者はどうかと申しますと、彼は家内にあらゆる物音がやむや否や、いそいで隠れ場所から逃がれて、脚を風にまかせました。そしてアッラーは蔽い隠すべきことを蔽い隠したもうたのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、シャハリヤール王にさらにファイルーズとその妻[#「ファイルーズとその妻」はゴシック体]の物語を語らずには、その夜をやり過ごそうとはしなかった。
ファイルーズ(11)とその妻
語り伝えられまするところでは、或る王様が或る日王宮の露台に坐って、新鮮な空気を吸いつつ、頭上の大空と足下の美しい庭園に、御眼《おんめ》を楽しませていらっしゃいました。すると王の視線は突然、王宮の真向いにある家の露台の上にいる一人の女性に出会いましたが、それは美しさこれに類するものはいまだかつて御覧になったことのないような女性でした。そこで王は周囲にいる者たちのほうに向いて、お尋ねになりました、「あの家は誰のものか。」すると一同答えました、「君の御家来ファイルーズのものでございます。そしてあの女は彼の妻にございます。」すると王は下にお降りになりましたが、情熱はすでに王を葡萄酒なくして酔わせてしまい、恋情が御心中に宿りました。そこで王はその家来ファイルーズを召して、仰せられました、「この書面を持って、しかじかの町にまいり、返書を携えて帰ってまいれ。」ファイルーズはその書面を受けとって、自宅に行き、その書面を頭の下に置いて、こうしてその夜を過しました。そして朝になると、起き出でて、妻に別れを告げ、主君が自分に対して抱いておられる企らみなどつゆ知らず、くだんの町を指して出かけました。
王のほうでは、夫が出発するやいそいで立ち上がり、変装してファイルーズの家へと向い、戸口を叩きなさいました。するとファイルーズの妻は尋ねました、「戸口にいらっしゃるのはどなたですか。」王は答えなさいました、「余はその方の夫の主君たる王じゃ。」そこで妻は開けました。王ははいって、坐り、仰しゃいました、「われらはそなたを訪ねにまいった。」すると妻は微笑して、答えました、「妾《わらわ》はこの御訪問よりアッラーの裡に逃《の》がれ奉りまする(12)。それと申しますのは、まことに、妾はこの御訪問に何のよいことも期待致しませんから。」けれども王は申されました、「おお、人々の心の欲望《のぞみ》よ、余はそなたの夫の主君であるが、そなたは余を知らぬと思う。」すると妻は答えました、「勿論存じ上げております、おおわが殿御主君様、そして君のお企らみも存じており、お望みのことも承知し、君が夫の主君であらせられることも承知仕ります。そして御用の筋は十分にわかっていることを証明申し上げるため、おおわが君、御魂《おんたましい》を高きに持されて、次の詩人の詩句を御自身にあてはめてごらん遊ばされますよう、お勧め申し上げまする。
[#ここから2字下げ]
我は泉に通ずる道を踏まじ、もし他の行人ら、わが渇を医すらむ泉の水に濡るる石に、彼らの唇をつけ得るとあらば。
不潔なる蠅《さばえ》の喧びすしき群わが皿に襲いかかるとき、我を悩ます空腹のいかならんとも、我は直ちに、我を悦ばせんとて用意せられし馳走より、わが手を逸らす。
獅子は水辺に通ずる道を避けざらんや、犬共も意のままに同じ場所に水を嘗《な》むるを得るときは。」
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦してから、ファイルーズの妻は付け加えました、「そしてわが君は、おお王様、君より前に他の者どもが唇をつけた泉で、水をお飲み遊ばしましょうか。」王はこの言葉を聞いて、呆気《あつけ》にとられて、妻女を見つめなさいました。そしてすっかり感心なすって、一言《ひとこと》の返事も見当らずに、背を向けてしまいなさいました。そして逃げ出すのをいそがれたあまり、片方の鞋《サンダル》をその家にお忘れになりました。王の首尾はこのようでございました。
けれどもファイルーズのほうはと申しますと、次のようでございます。王に派せられたところに行こうとして、自宅を出たとき、彼は衣嚢《かくし》に書面を探してみたところ、見当りませんでした。そしてこれを枕の下に置いてきたことを思い出しました。そこでわが家に引返して、ちょうど王が立ち去られたその時に、家にはいりました。そして敷居の上に王の鞋《サンダル》を見かけました。それですぐに、自分が都を出て遠国に派される動機を悟りました。彼は思いました、「わが主君の国王が私を遠くかの地に派遣するのは、他でもない、言うを憚る情欲を恣《ほしいまま》にせんがためなのだ。」さりながら、彼は沈黙を守り、音を立てずに自分の部屋にはいって、置き忘れた場所から書面を取って、自分のはいったことを妻に気づかれないようにして、外へ出ました。そしていそいで都を去り、主君の国王に托された使命を果しに行きました。アッラーは彼に安泰を記したまい、彼は宛先へ書面を届けて、必要な返書を携えて、王の都に戻りました。そしてわが家に休みに行く前に、いそぎ王の御手の間に罷り出ますと、王はその忠勤を賞して、百ディナールを賜いました。そして両人の知っていることについては、何ごとも言われもせず、口に出されもしませんでした。
するとファイルーズは、その百ディナールを頂戴して、宝石商と金銀細工商の市場《スーク》に行き、その全額でもって、婦人用の装身具類の美事な品々を買い求めました。そしてそのすべてを妻に持って行って、言いました、「私の帰宅のお祝いだよ。」そして付け加えました、「これと、ここにあるお前のもの全部を持って、お前の父親の家に帰りなさい。」すると妻は聞きました、「どうしてですの。」夫は言いました、「まことに御主君の王様は、私に御親切の限りを尽して下さった。それで皆の人にそのことを知ってもらいたく、お前の父親に、こうした装身具すべてをお前がつけているのを見て喜んでいただきたいし、私もお前が私の行けというところに行くのを見たいと思うからだ。」妻は答えました、「愛情こめて、心から悦んで。」
そして妻は夫が持ってきてくれたもの全部と、今までに持っていたもの全部を身に飾って、父親の家にまいりました。すると父親は娘の来たことと、身につけている美しいもの全部を見て、大へん悦びました。そして妻はまる一月の間父親の家におりましたが、夫のファイルーズは一向妻を呼びに来ることを思わず、その消息を尋ねに人をよこすだけのこともしてくれませんでした。
ですから、この別居の一月《ひとつき》が終ると、若い妻の兄がファイルーズに会いに来て、言いました、「おおファイルーズよ、もしあなたが妻に対するお怒りと、妻を放っておくお見捨ての動機を、打ち明けたくないというのならば、一緒に行って、われらの御主君国王の御前で、この件を訴え出なされ。」するとファイルーズは答えました、「あなた方は訴え出たいにせよ、私は訴え出ますまい。」すると若い女の兄は言いました、「まあとにかくいらっしゃい。そして私の訴え出るのをお聞きあれ。」そして兄は彼と一緒に王の御前に出かけました。
王は裁きの間《ま》にいらっしゃり、お傍には法官《カーデイ》が坐っておりました。若い妻の兄は王の御手の間の床《ゆか》に接吻してから、言いました、「おおわれらの御主君よ、私は或る訴訟事件のために訴えにまいりました。」すると王はこれに仰しゃいました、「すべて訴え出る事件は法官《カーデイ》殿の役目じゃ。この殿にこそ、その方は申し述べるべきであるぞ。」そこで若い妻の兄は法官《カーデイ》のほうに向いて、申しました、「願わくはアッラーはわれらの法官《カーデイ》殿のお仕事を助けたまわんことを。ところで、われらの件とわれらの訴えは、次のようなものでございます。われわれはこの男に、高く壁を廻らして保護せられた美しい庭園を、単なる貸地として貸しました。申し分なく手入れされて、花と果樹の植えてある庭園でした。ところがこの男は、花を全部摘み取り、果実を全部食べ尽した挙句、壁を取り壊《こぼ》ち、庭園を四方の風に吹きさらさせ、到る所を荒廃させてしまいました。そして今となってこの男は賃貸借契約を解除して、われわれの庭園をこのような状態に立ち到らしめて、われわれに返したいというのでございます。これがわれわれの訴えであり、われわれの件でございます、やあ法官殿《シデイル・カーデイ》。」
すると法官《カーデイ》はファイルーズのほうに向いて、これに言いました、「してその方は、申し立つべきことありや、おお若者よ。」すると彼は答えました、「実際のところ、私はその庭園を以前にまさる状態で、彼らに返すのであります。」すると法官《カーデイ》は兄に言いました、「ただ今この者の言明したごとく、庭園を旧にまさる状態で返すというのは、真なりや。」兄は言いました、「いいえ、そうではありません。しかし私はこの人から、庭園をわれわれに返すに到らしめた動機を、承わりたく存じます。」そこで法官《カーデイ》はファイルーズのほうに向いて、尋ねました、「申し立つべきことありや、おお若者よ。」するとファイルーズは答えました、「私はそれを自ら進んで、かつは心ならずも、彼らに返すのです。してこの返却の動機は、彼らが知りたいと望むからには申しますが、それは或る日、私がくだんの庭園にはいったところ、その地上に獅子の通った足跡を見たからであります。そこで私は、もし私が再びそこに立ち入るような真似をすれば、獅子に食われてしまうであろうと恐れた次第です。そのゆえに、私はその庭園を所有者たちに返しました。それはただ獅子に対する敬意と、わが身のための憂慮から、そうしたまでにすぎません。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十四夜になると[#「けれども第八百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
王は座褥《クツシヨン》の上に横になって、そしらぬ風で耳を傾けておられましたが、家来ファイルーズの言葉を聞いて、その真意と意義を悟りなさると、上半身を起しなすって、若者に仰しゃるには、「おおファイルーズ、その方の心を静め、心配を捨てて、自分の庭園に帰れよ。なぜならば、回教《イスラム》の真理と神聖とにかけて、その方の庭園は、余が生涯で遭った最もよく防禦せられ、最も守り固いものであり、その牆壁《しようへき》はあらゆる襲撃を遮り、その木々と果実と花は、余のかつて見た最も健全、最も美しいものであるぞよ。」
そこでファイルーズはわかりました。そして妻の許に帰りました。そして妻を愛しました。
このようにして、法官《カーデイ》はじめ、裁きの間《ま》にいた多数の列席者も、誰一人、この件については何ごともわかることができず、これは王と、ファイルーズと、妻の兄との間の、秘密に終りました。されどアッラーは全智にましまする。
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは言った。
生まれと性根
昔シリア生まれの一人の男がおりましたが、アッラーはこれにその人種のあらゆるシャーム人(13)と同様、廻《めぐ》りの悪い血と働きの鈍い頭を授けなさいました。それというのは、アッラーは人類にその賜物を頒ちたもうたとき、各地にそれぞれ長所と短所を置きたまい、それがその地に生まれるすべての人に、受け継がれて行くことになったからです。こうして、カイロの住人には才気と明敏、上エジプトの住人には交合力、われらアラビアの父祖には詩歌愛、中部地方の騎手には武勇、イラクの住人には開化した風習、流浪の部族には客人に対する誠意、その他多くのいろいろの国々にはその他多くのいろいろの賜物を、授けたまいましたけれども、しかしシリア人には、利欲と商才しか与えたまわず、好ましい賜物をお頒ちのときには、彼らのことはすっかりお忘れになりました。そのゆえにこそ、塩からい海からダマスの沙漠の辺境までにかけてのシャーム人に属するシリア人は、何をしても、常に血の廻りのわるいのろまで、その性根は儲けの下卑た誘いといんちきな取引以外には、決して応じることがございますまい。
そこでくだんのシリア人は、日々の中の或る日のこと、カイロにひと儲けしに行こうとの欲望をもって、眼を覚ましました。地上で一番気持よく、一番気の利いた人々の間に暮しに行こうなどというこの考えを、彼に起させたのは、少しの疑いもなく、彼の悪運にちがいありません。けれどもその人種のすべての人々と同様、この男も己惚れに満ちていて、自分はいろいろ美しい品物を持って行くから、かの地の人々の眼を眩ませることだろうと考えました。事実、彼は、絹織物や、貴重な布地や、細工を施した武器、その他これに類した品物で、自分の持ち合わせる一番豪奢な品々を、いくつもの大箱に入れて携え、そして護られたる都ミスル(14)・アル・カーヒラー、カイロへとやって来ました。
彼はまず最初、自分の商品のために一部屋を借り、自分自身のためには、市場《スーク》の中心にある、都の隊商宿《カーン》に一室を借りました。それから毎日、顧客や商人のところに行きはじめ、自分の商品を見に来るように誘いました。そしてしばらくの間、こうして仕事をしつづけているうち、日々の中の或る日、散歩に出かけて右や左を見ていると、ふと三人の若い女に出会いました。その女たちは身を屈《かが》め揺すりながら進んできて、他愛のないことを言い合いながら、笑いさざめいておりました。いずれも負けず劣らず美しく、心を惹きつけ、魅力のある女でした。彼はこの女たちを見かけると、その口髭はぴんと張り、ぴくぴくと動きました。ちょうど女たちが彼に秋波を送ったので、彼は近よってこれに言いました、「ひとつ皆さんで私の宿《カーン》に来て、愉快に私と付き合って、今夜皆で面白く遊ぶわけにはまいりませんかね。」女たちは笑顔で答えました、「結構ですわ、ほんとに。そして私たちはあなたがしろと仰しゃることをして、御機嫌を取り結びましょう。」すると彼は尋ねました、「私のところにしますか、それともあなた方のお宅ですか、おおわが御主人様方。」一同言いました、「そりゃ、アッラーにかけて、あなたのところですわ。まさかあなたは、私たちの夫が私たちに、他処《よそ》の男たちを自分の家に連れてこさせるなんぞと、思ってはいらっしゃらないでしょうね。」そして付け加えました、「今夜私たちはあなたのところにまいりましょう。どこにお泊りか伺わせて下さいまし。」彼は言いました、「これこれの街の、これこれの宿《カーン》の一室に泊っています。」女たちは言いました、「それでは、あなたは私たちのために夕御飯の支度をして、冷《さ》めないようにしておいて下さいね。私たちは夜の礼拝の時刻が過ぎたら、お訪ねしますわ。」彼は言いました、「たしかに間違いありませんね。」そして女たちは彼と別れて、自分たちの道を続けました。一方彼は買出しに出かけて、魚や胡瓜や牡蠣や葡萄酒や香料を買い、全部を自分の部屋に持ちこみ、米と野菜の外に、肉を基《もと》にした料理五種類を作って、自身で調理し、全部を最上の状態に揃えました。
いよいよ夕食の時間になると、三人の女は約束どおり、青布の長外套《カバービート》(15)にくるまって、誰だか分らないようにして、やってまいりました。けれどもはいりしなに、皆この上に羽織る外衣を脱ぎ棄てて、さながら月のような姿で坐りに行きました。するとシリア人は立ち上がって、三人の前に料理を盛った盆を並べてから、女たちの正面に水壺みたいに坐りました。そして一同それぞれ食べられるだけ食べました。すると彼は次に葡萄酒の小卓を持って来まして、一同の間に盃がめぐりました。シリア人は皆の強《た》っての勧めのままに、廻ってくるごとに一度も盃を拒まず、したたか飲んで、頭はあらゆる方角に漂い行くほどになりました。そうなってくると、いささか大胆になって、彼は相手の女たちの顔をじろじろ見据えはじめまして、その美しさに見とれ、完全さに感嘆することができました。彼は当惑と喫驚の間を旅しました。そして無分別と狼狽の間を右往左往しました。もはや雌雄《めすおす》の区別もつかなくなりました。その状態は人々の記憶に値するものであり、その運命は惨澹たるものでした。眺むれど見えず、食らえども飲まずです。足で食べ、頭で歩きます。眼をぐるぐる廻して、鼻をぴくぴく動かします。洟《はな》をかんで、くしゃみをします。笑って、泣きます。それが済むと、彼は三人の中の一人のほうに向いて、聞きました、「あなたの上のアッラーにかけて、やあ奥様《シツテイ》、いったいあなたのお名前は何と仰しゃるかな。」その女は答えました、「あたしみたいなものを何か見たことがある[#「あたしみたいなものを何か見たことがある」に傍点]? という名よ。」すると彼の分別はいよいよ飛び去って、彼は叫びました、「いや、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、私はあなたみたいなものは何も見たことございませんや。」次に床《ゆか》に長くなって、両肱をついて身を支え、二番目の女に聞きました、「それであなたは、やあ奥様《シツテイ》、私の心の生命の血よ、お名前は何と仰しゃる。」その女は答えました、「あたしに似たような人はあんたついぞ見かけたことなし[#「あたしに似たような人はあんたついぞ見かけたことなし」に傍点]、です。」すると彼は叫びました、「インシャッラー、アッラーの望みたもうところ、おおわが御主人あたしに似たような人はあんたついぞ見かけたことなし[#「あたしに似たような人はあんたついぞ見かけたことなし」に傍点]様や。」次に三番目の女のほうに向いて、聞きました、「それであなたは、やあ奥様《シツテイ》、おお私の心の火傷《やけど》よ、御尊名は何と仰しゃるかな。」その女は答えました、「あたしを見ればおわかりでしょう[#「あたしを見ればおわかりでしょう」に傍点]っていうのよ。」この三番目の答えを聞くと、シリア人は床《ゆか》に転げ落ちながら、声を張りあげて叫びました、「一向に差支えありませんな、おおわが御主人あたしを見ればおわかりでしょう[#「あたしを見ればおわかりでしょう」に傍点]様や。」
そして三人の女は盃を廻らしつづけ、男の喉に盃を明《あ》けつづけて、とうとう彼は頭のほうが足よりも先に落ち、血のめぐりが止まって、倒れてしまいました。すると、男がこんな態《ざま》になったのを見て、三人は立ち上がり、彼の頭巾《ターバン》を脱がせて、これに気ちがい用の帽子(16)を被《かぶ》らせました。次に自分たちのまわりを見廻して、金銭《おかね》や高価な品々など、あたるを幸い見つかった物全部を、失敬してしまいました。そして獲物をたくさん抱えて、心も軽く、三人は男を水牛のように鼾をかかせて隊商宿《カーン》に残し、住居をその持ち主にまかせて退散しました、そして蔽い隠す者は、蔽い隠すべきものを蔽い隠しました。
さて翌日、シリア人はその酩酊から覚めると、自分は自分の部屋に独りいるのを見ましたが、自分の部屋には、今まであったもの全部がそっくりきれいになくなっているのを認めるのに、手間どりませんでした。途端に彼は完全に正気に帰って、叫びました、「光栄ある、至大のアッラーのほかには尊厳も権力もない。」そして気ちがいの帽子を被ったまま、隊商宿《カーン》の外に飛び出して、あらゆる通行人をつかまえては、これこれ、かくかく、しかじかの名の女たちに出会わなかったかと尋ねはじめました。そして彼は三人の若い女が自分に教えた名前を言ったものです。すると人々は、彼のこんな妙な風態《ふうてい》を見て、謗癲病院《マーリスターン》から逃げ出して来た男と思い、答えるのでした、「いや、アッラーにかけて、私たちはあんたみたいなものは何も見たことなかったっけ。」また他の人たちは言うのでした、「あんたに似たような人は私たちついぞ見かけたことなかったっけ。」また他の人たちは答えるのでした、「私たちはあんたを見るけれど、実際のところ、誰だかわからないですな。」
ですから、彼はもう尋ねることもできなくなって、今は誰に縋ったらよいやら、誰に訴えたらよいやらわからなくなっていると、最後にやっと一人の慈悲深い、よい忠告をしてくれる通行人に出会って、その人は言いました、「まあお聞きなさい、おおシリア人よ。この際あなたのするべき最善のことは、時を移さずすぐさま、シリアに引返すことですよ。それというのは、カイロでは、おわかりかな、人々は固い頭脳でも軽い頭脳と同じくきりきり舞いさせることができるし、石と同じように卵を手玉にとることができるのですからね。」
そこでそのシリア人は、鼻を足の先まで延ばして、自分の国のシリアに引返し、もう二度とそこから出ないこととなりました。
シリア生まれの人々がエジプトっ子を大口開けて悪しざまに言うのは、このような出来事がしばしば彼らの身に起ったからでございます。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、この物語を語り終えて、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王はこれに言った、「おおシャハラザードよ、これらの逸話はこの上なく余の気に入った。余はこれを聞いて一段と教えられ、啓発せられるところがあった。」するとシャハラザードは微笑して言った、「ひとりアッラーのみ教育者であり、啓発者であらせられまする。」そして付け加えた、「けれどももしこれを魔法の書の物語[#「魔法の書の物語」はゴシック体]に比べましたならば、これらの逸話などどうなることでございましょう。」するとシャハリヤール王は言った。「その魔法の書とはいかなるものか、おおシャハラザードよ、そしてその物語とはいかなるものか。」彼女は言った、「それをお話し申し上げるのは、おお王様、明夜まで取っておきましょう。もしアッラー望みたまわば、そしてもし君の御満足がかくありまするならば。」すると王は言った、「いかにも、余は明夜、余の知らぬその物語を聞きたく思うぞよ。」
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[#地付き]けれども第八百九十五夜になると[#「けれども第八百九十五夜になると」はゴシック体]
小さなドニアザードは蹲《うずくま》っていた敷物から起き上がって、言った、「おお私のお姉様、魔法の書の物語[#「魔法の書の物語」はゴシック体]を、いつ私たちに始めて下さいますの。」するとシャハラザードは答えた、「時を移さず今すぐに。私たちの御主君王様が、そのように望みたまいますからには。」
そして彼女は言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
魔法の書の物語(1)
諸々の民族の記録と古き世々の書物に伝えられているところでは、――さあれひとりアッラーのみ過去を知り、未来を見たまいまする。――夜々のうちの或る夜、アッバースの後裔《こうえい》の正統|後継者《フラフア》の御子なる教王《カリフ》、バグダードにあって世をしろしめされたハールーン・アル・ラシードは、胸苦しくおなりになって、お床《とこ》のなかで起き上がりなされ、夜の御衣《ぎよい》を召して、お気に入りの御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールをおそばに召すと、彼は直ちに御手の間に伺候しました。するとこれにおっしゃいました、「おおマスルール、今宵《こよい》はわが胸の上にのしかかって重い。その方にわが不快を晴らしてもらいたい。」するとマスルールは答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、さらばお立ち遊ばし、露台に行って、我らの眼もて星を点綴した大空の天蓋を眺め、明月のさまようを見るといたしましょう。ざわめく水の音楽と、かの詩人の詠じた歌う水車の愁訴とが、我らのほうに立ちのぼるでございましょう。
[#この行2字下げ] 呻きつつ、各々の目より涙を流す水車は、恋する者にさも似たり。その心に魔力充ち満ちてあれど、単調なる愁訴に己が日々を過ごす。
同じ詩人は、おお信徒の長《おさ》よ、流るる水を語って、かく詠じました。
[#ここから2字下げ]
わが好むは若き乙女。我は酒飲む労なくして心楽しむ。
そは美しき花園。双の眼はその泉にして、声はその流水。」
[#ここで字下げ終わり]
ハールーンは御《み》佩刀持《はかせもち》の言葉をじっと聞き入りなされて、さて頭を振っておっしゃいました、「今宵《こよい》はそのようなものは欲しくはない。」するとマスルールは言いました、「おお信徒の長《おさ》よ、わが君の宮殿には、いずれも月と羚羊《かもしか》に似、花のような美衣をまとった、あらゆる色の三百六十人の乙女がおりまする。いざお立ち遊ばし、われわれは見られないようにして、その一人一人をそれぞれの部屋に見廻りにまいりましょう。わが君は彼らの歌を聞き、彼らの遊びを見、彼らの嬉戯を見物遊ばしましょう。さすれば、恐らくは君の御魂《みたま》はそのうちの一人に惹かるるを覚えなさいましょう。わが君はその乙女を、今宵のお相手となされば、その乙女はわが君との遊びに耽るでございましょう。そう致せば、なお御不快の跡をとどめるかどうか、よくわかるでございましょう。」けれどもハールーンはおっしゃいました、「おおマスルール、直ちにジャアファルを呼んでまいれ。」彼は仰せ畏まって御返事申し上げました。そしてジャアファルの自宅に行って、これに言いました、「信徒の長《おさ》の御許に参上なされよ。」ジャアファルは答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」そして即刻即座に立ち上がり、着物を着て、マスルールに従って参殿しました。彼は相変らず御床《おとこ》にいらっしゃる教王《カリフ》の御前に伺候して、御手の間の床《ゆか》に接吻してから、申し上げました、「願わくはアッラーは、何事か不祥事のためのお召しではないようになし下されまするように。」ハールーンはおっしゃいました、「いやよきことばかりじゃ、おおジャアファルよ。しかし余は今宵疲労を覚え、疲れて息苦しい。そこでマスルールを遣《つか》わして、その方ここにまいって余の気を晴らし、憂《うさ》を払うようにと、申し伝えさせた次第じゃ。」するとジャアファルはちょっと考えて、答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、我らの魂が、空の美にも、庭園にも、微風の快にも、花の光景にも、浮き立とうとしない時には、もはやただ一つの良薬あるのみ。それは書物でございます。それと申しまするは、おお信徒の長《おさ》よ、最も美しい庭園と申せば、やはり書庫でございます。書棚の間を行く散策は、およそ散策のうち最も楽しく、最も快いものです。さればお立ち遊ばし、数々の書庫のうち、行きあたりばったりの書棚に、何か書物を探しにまいりましょう。」するとハールーンは答えなさいました、「いかにもさようじゃ、おおジャアファルよ、それぞ憂《うさ》の最上の良薬じゃ。余はそれに想い到らなかった。」そして教王《カリフ》は立ち上がって、ジャアファルとマスルールを従えて、書庫のある広間にいらっしゃいました。
そしてジャアファルとマスルールはそれぞれ灯火を持ってお伴し、教王《カリフ》は壮麗な書庫と香木の箱のなかから、書物を取り出しては開け、また閉じなさいました。こうして何段もお調べになって、最後に一冊の非常に古い本を手にして、行きあたりばったり開けてごらんになりました。すると何か非常に面白いことに行きあたりなすったようです。なぜなら、やがてすぐその書物を置きなさる代りに、お腰を下ろして、一枚一枚と繰りはじめ、熱心に読みはじめなすったものです。すると突然、後ろに引っくりかえりなすったほど笑い出されました。次にまたその書物を取り上げて、読書をお続けになります。するとこんどは、涙が御目から滴りました。そして激しく泣き出され、お鬚全部がしとどに濡れ、涙はお鬚の間を伝って、お膝の上にのせている本まで流れるほどでした。次にその本を閉じ、それをお袖のなかに入れて、立ち上がって外にお出になりました。
ジャアファルは教王《カリフ》がこのように泣いたり笑ったりなさるのを拝見すると、御主君に伺わずにはいられませんでした、「おお信徒の長《おさ》にして両世界の御主君様、わが君をほとんど同時に笑わせ且つ泣かせ奉るとは、そもそもどのような仔細でござりましょうか。」教王《カリフ》はこれをお聞きになると、御立腹の限り御立腹になり、いら立ったお声で、ジャアファルを怒鳴りつけなさいました、「おおバルマク一族の犬どものなかの犬めが、その汝の無礼はいったい何事か。いらざるところに口を出すな。汝は大気《おおけ》なくもでしゃばり自惚《うぬぼ》るる権利を我が物とし、汝の分際《ぶんざい》を過ぎたるぞ。今一歩で教王《カリフ》をないがしろにせんばかりじゃ。ところで、わが眼にかけて、汝は汝にかかわりなきところに啄《くちばし》を容れたからには、余はこの件に伴なうあらゆる結果を生じさせずにはすまさぬ。されば余は汝に命ずる。誰か余がこの書を読んで何ゆえに笑って泣いたかを言うことができ、この書巻の第一頁より最終頁に至るまで、ここに書かれてあることを推察できるような男を、探してまいれ。汝がその男を見つけなかった節は、余は汝の首を刎《は》ね、その上で、余を笑わせ泣かせたところを、汝に見せて遣わそう。」
ジャアファルはこのお言葉を聞き、お怒りを見ると、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、たしかに私は過《あやま》ちを犯しました。そして過ちは私ごとき者どものなすところでございますが、しかし容赦は陛下のごとき魂を持つ方々のなさるるところでございます。」ハールーンは答えなさいました、「ならぬ。余はその誓いを立てたのだ。汝は誰かこの書物の全内容を余に説き明かす者を、ここに連れてこなければならぬ。さもなければ即時即刻汝の首を刎ねるぞ。」ジャアファルは言いました、「おお信徒の長《おさ》よ、アッラーは六日のうちに天地を創りたまいましたが、もしお望みとあらば、一刻のうちに創りたもうたことでございましょう。そうなさらなかったと申すは、何事にあれ、たとい善をなすためにも、忍耐強く適度に振舞えよということを、被造物《にんげん》たちに教えたもうためでした。いわんや善の反対をなすべき際とあらば、なおさらのことでございます、おお信徒の長《おさ》よ。さりながら、もしわが君があくまでも、君を笑わせ且つ泣かせ奉ったことを推察すべきくだんの人間を、私が探してくることをお望みとあらば、君の奴隷にわずか三日間の猶予を賜りませ。」すると教王《カリフ》は言いました、「万一汝がその男をここに連れて来ない節は、汝は死のうちでも最も恐るべき死をもって殺されるであろうぞ。」それに対して、ジャアファルは答えました、「さらばその任務のためお暇《いとま》仕りまする。」そこで彼は顔色を変え、魂を掻き乱され、心に苦渋と悲しみを湛えて、退出しました。
そして彼は苦い心を抱いて、わが家に行き、父のヤハヤーと兄のエル・ファズルに永の訣《わか》れを告げ、泣き沈みました。父と兄は言いました、「なぜお前はそのように取り乱した悲しい有様でいるのか、おおジャアファルよ。」そこで彼は自分と教王《カリフ》との間に起ったことを話し、課された条件を知らせました。そして付け加えました、「鋭い針先を弄《もてあそ》ぶ者はわが手を刺し、獅子と闘う者は殺されるでしょう。私としては、もう教王《カリフ》のおそばにはわが席はありません。それというのは、今後は君のおそばに止まることは、私にとって、またあなた方、父上と兄上にとっても、最大の危険ですから。されば、私は君の御眼《おんめ》から遠く離るるに如《し》かず。なぜなら、生命《いのち》を永らうるは計り知れぬ尊きことにて、その真価をいかに重く見るも重すぎませぬ。遠ざかることこそは、我らの首をつなぐ最上の策。且つは詩人も言いました、
[#この行2字下げ] 汝《な》が一命を脅《おび》やかす危険より生命《いのち》を守り、家をしてその建てし者に不在を難ぜしめおくべし。」
それに対して、父と兄とは答えました、「出て行くなよ、おおジャアファル、大方|教王《カリフ》もお前を許して下さるであろうから。」けれどもジャアファルは言います、「いや、わが君は条件を課しなすった。ところで、教王《カリフ》を笑わせて泣かせたいわれと、あの災いの書物の内容を始めから終りまで、ひと目で推察することのできるような者など、どうして私に探し出すことが叶いましょうぞ。」するとヤハヤーは答えました、「いかにもそうじゃ、おおジャアファル。人々の首を安泰にするには、出発以外にない。最善は、お前はダマスに出発して、この衰運が終り、再び幸運が戻るまで、その地に止まることだ。」するとジャアファルはたずねました、「それで私の留守中、妻とわが後宮《ハーレム》はどうなることでしょうか。」ヤハヤーは言いました、「行け。その他のことは構うな。それらはお前の開いている暇のない扉じゃ。ダマスに立てよ、それがお前にとって天運の命ずるところなのだから。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十六夜になると[#「けれども第八百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして父は付け加えました、「お前の出発後、起り得るところについては、アッラーが面倒を見て下さるであろう。」
ですから、宰相《ワジール》のジャアファルは父親の言葉に耳を傾けて、猶予も遅延もなく、一千ディナール入りの袋を携え、帯と剣をつけ、父と兄に暇を告げて、伴の奴隷も召使もつれずに、ダマスに向って出発しました。そして沙漠を越えてまっすぐに旅し、十日目、かの楽しきダマス町の入口となっている、緑野エル・マルジ(2)に着くまで、旅を続けました。
そして彼の見たのは、土台から天辺《てつぺん》まで金色《こんじき》の瓦をまとって、四辺の緑氈から浮び出ている美しい「花嫁」の光塔《マナーラ》、幾群れもの花の暮らしている流水の注ぐ庭々、さては、桃金嬢《てんにんか》の畑、菫《すみれ》の山、夾竹桃の野でございました。彼は足を停めて、木々の間に歌う鳥に聞き入りながら、こうしたすべての美観を眺めました。そしてこれこそは、地の表に二つと創《つく》られたことのない都市と思いました。彼は右を見、そして左を見ているうちに、最後に一人の男を認めました。そこでその男に近よって、これに言いました、「おおわが兄弟よ、この都の名前は何と言いますか。」するとその男は答えました、「おおわが殿よ、この都は、その昔は、ジュラーグと呼ばれました。詩人が次の詩で詠じているのは、この都のことです。
[#ここから2字下げ]
わが名はジュラーグ、我は人心を捉う。わが裡《うち》に、美しき水は流る、わが裡に、はたわが外に。
地上のエデンの園にして、一切のR耀《げんよう》の祖国、おおダマスよ、
我は汝が美を忘るることあらじ、何ものをも汝に等しく愛することあらじ。
祝福されよ、汝が露台と、汝が露台に煌めく生々《せいせい》たる驚異の数々と。」
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの詩を誦した男は、付け加えました、「この都はまたシャーム(3)、すなわち黒子《ほくろ》とも申します。地上の、神の黒子《ほくろ》というわけです。」
ジャアファルはこの説明を聞いて、深い悦びを覚えました。そしてその男に礼を言って、牝騾馬から下り、その手綱をとって、家々と回教寺院《マスジツト》の間に分け入りました。そして自分が通って行く先々の美しい家を、次々によく眺めながら、ゆっくりと散歩しました。こうして見て行くうちに、ふとよく掃除をして水を打った通りの奥に、大きな庭のただ中にある荘麗な屋敷を認めました。その庭には、模様のついた絹の天幕《テント》があって、ホーラサーン産の美しい絨緞を敷き、豪奢な幕を張り、絹の座褥《クツシヨン》や椅子や休み台がしつらえてあります。そして一人の若者が天幕《テント》の中央に坐っていますが、それは第十四夜のときの、昇り際の月のような男でした。頭には薄絹だけ、身体には薔薇色の長衣だけという、軽装をしています。その前には、気を配って立ち働く一座の人々と、あらゆる上等な種類の飲み物があります。ジャアファルはしばし足を停めてこの光景に見入り、この若者のうちに見受けられるものに大そう満足を覚えました。さらに注意をこめて見ると、その若者のかたわらには、晴れ渡る空の太陽のような、一人の若い婦人を認めました。その婦人は一張の琵琶《ウーデイ》を、母親の腕のなかの子供のように、胸に抱いていました。そして次の詩を誦しつつ、琵琶《ウーデイ》を弾じています。
[#ここから2字下げ]
己が心を、愛する人の手に渡す者は禍いなるかな。取り戻さんと欲すれば、すでに生命《いのち》絶たれし心を見出すべければ。
彼らは己が心の恋い慕うを感ぜしとき、そを愛する人の手に委ねたり。しかして、その心いよいよ恋い慕うに到れば、彼らはこれを棄てざるを得ず。
乳呑子《ちのみご》のごと、彼らはこれを己が臓腑の底より引き離す。おお鳥よ、繰りかえせ、「乳呑子のごと、彼らはこれを引き離せり、」と。
むごくも生命《いのち》絶たれしなり。愛《いと》しき人は、慎ましく恋う者を弄《もてあそ》ぶのみ。
我は恋の履行を求むる者、我は恋にして、恋の兄弟《はらから》なり。されば我は嘆じて言う、
「恋により老いし者を見よ。その心変らざりしも、彼らはこれを葬り去れり。」
[#ここで字下げ終わり]
ジャアファルはこの詩と歌を聞くと、限りない悦びを覚え、全身の器官はこの声の響きに動かされて、彼は言いました、「アッラーにかけて、これはいかにも美しい。」けれどもすでにその乙女は膝に琵琶《ウーデイ》をのせて、別な節廻《ふしまわ》しで前奏を弾じ、次の詩を歌っていました。
[#ここから2字下げ]
かかる思いに満ち、君は恋う。されば、われ君を愛すとも、怪しむに足らず。
我は君が方へとわが手を挙げて、わが降伏に対する慈悲と憐愍《れんびん》を乞う。願わくは、慈悲深き態度《さま》を示せかし。
わが生涯は君の承諾を懇望して過ぎたり。されど我はついにわが内裡に、君の慈悲深きを感じたることなし。
愛をかち得んがため、我は奴隷の身となり、わが心は毒せられ、わが涙は流る。
[#ここで字下げ終わり]
この詩の歌が終ったとき、ジャアファルは歌う乙女を聞き眺める楽しみにすっかり気を取られて、ますます身を乗り出しました。すると突然、天幕《テント》の下に横になっていた若者は、彼の姿を認めて、なかば身を起し、少年の奴隷の一人を呼んで、言いました、「われわれの前に、あそこの入口のところに、一人の男がいるのが見えるだろう。」すると少年は言いました、「はい。」若者は言いました、「あれは異国の方に相違ない。いかにも旅の様子が見えるからな。走って行ってあの方を呼んできなさい。失礼のないようによく気をつけてな。」少年は「嬉しく悦んで、」と答えて、いそいでジャアファルに会いに行くと、ジャアファルはその近づくのを認めました。そして少年は彼に言いました、「アッラーの御名《みな》において、おおわが殿、どうぞ御寛大に私どもの主人に会いに来て下さいまし。」そこでジャアファルはその少年と一緒に門を跨《また》ぎ、天幕《テント》の入口の前に着くと、まめやかな奴隷たちに自分の牝騾馬を渡して、敷居《しきい》を跨ぎました。若者はすでに彼に敬意を表して立っておりました。そして両手を大きく拡げて、こちらに進みより、まるで昔からの旧知のように挨拶《サラーム》をして、彼をよこして下さったことをアッラーに感謝してから、歌いました。
[#ここから2字下げ]
おおわが訪客よ、よくぞ来たまいし。君はお姿を以て我らを楽しませ、この縁《えにし》を以て我らを甦《よみがえ》らしむ。
君が御面《みおもて》にかけて我は誓う、君|御姿《みすがた》を現わせば、我は生き、君御姿を消さば、我は死すなり。
[#ここで字下げ終わり]
ジャアファルのためにこう歌ってから、若者は彼に言いました、「どうぞお坐り下さいませ、おおわが優しき殿よ。幸いなる御来着、アッラーに讃えあれ。」そしてアッラーの御《み》差遣《つかわし》の祈りを誦《とな》えて、次のように自分の歌を続けました。
[#ここから2字下げ]
君の来ますを、前に知りなば、
御足《みあし》の敷物に我ら延べたらむ、我らが胸の清き血と、眼の黒き天鵞絨《ビロード》を。
君の座席は、我らの瞼《まぶた》よりも上《かみ》なれば(4)。
[#ここで字下げ終わり]
この歌を終ると、若者はジャアファルに近づいて、その胸の上に接吻し、その徳を讃えて、彼に言いました、「おおわが御主人よ、今日は幸いな日でございます。仮りに今日がすでに祭日でなかったとしたら、私は今日を祭日として、アッラーに感謝することでございましょう。」そしてすぐに奴隷たちが二人の手の間に駈けつけると、若者は言いつけました、「用意してある品を持ってきなさい。」奴隷たちが、御馳走や、肉や、その他あらゆる結構な品々の盆を持ってくると、若者はジャアファルに言いました、「おおわが殿、賢人たちは申されました、『汝招かれたる節は、汝の前にあるものをもって、汝の魂を満足させよ、』と。ところで私どもは、もしあなたが今日御来臨を賜うと知っていましたならば、我らの身体の肉をもお供えし、我らの小さな子供たちをも犠牲にしたことでございましたろう。」ジャアファルは答えました、「では手をつけさせていただき、満ち足りるまで頂戴仕りましょう。」すると若者は手ずから、一番おいしい食物を給仕しはじめ、慇懃《いんぎん》を尽し歓を尽して、話を交わしはじめました。次に水差しと盥《たらい》が運ばれて、手を洗ってくれました。それがすむと、若者は彼を飲み物の広間に通らせて、さきの乙女に歌うようにと言いつけました。乙女は琵琶《ウーデイ》を取り上げ、調子を合わせ、胸に抱え、しばらく微吟してから、歌い出しました。
[#ここから2字下げ]
そは来臨の万人に敬せらるる客人《まろうど》なり、才智よりも、はた希望《のぞみ》よりも、快き人。
暁《あかつき》に向いてその髪の闇を拡ぐれば、暁は恥じて、現われず。
わが運命我を殺さんとせし時、我はこの君の保護を求めたり。君来って、死の求むる魂を、甦《よみがえ》らせたまえり。
我は「恋人らの王」の奴隷となり、恋の治下に住まうことこそ、わが事とはなりぬ。
[#ここで字下げ終わり]
ジャアファルは、主人の若者と同じように、非常な悦びに心を動かされました。さりながら、教王《カリフ》との件については、決して心の安まることがありませんでした。それでその不安は顔と態度にはっきりと見えました。それは若者の眼にも隠しきれず、若者は客が落ちつかず、おびえていて、物思いに耽り、何か心が安んじない態《てい》なのを、はっきり見てとりました。一方ジャアファルのほうも、若者が自分の様子に気づき、ただ遠慮して、自分の悩みの原因を訊ねるのを控えているのが、わかりました。けれども若者はとうとう彼に言いました、「おおわが殿、賢人たちの申されたところをお聞き下さい。
[#ここから2字下げ]
到るべき事どもを恐るるなかれ、悲しむなかれ。むしろこの葡萄酒の盃を挙げよ、憂いと煩いを遠く追いやる毒なり。
この飲み物の衣の上に、手は美しき花々を描きしを見ずや。
葡萄の小枝の獲物、百合《ゆり》と水仙、菫《すみれ》(5)とヌウマーン王の縞の花。
煩いあって心乱さば、煩いを揺りあやし、酒と花と寵姫のただなかに、これを眠らしめよ。」
[#ここで字下げ終わり]
次に若者はジャアファルに言いました、「お胸を締めつけたり、縮《ちぢ》めたりなさいますな、おおわが御主人よ。」そして乙女に言いつけました、「歌いなさい。」すると乙女は歌いました。ジャアファルはその歌に恍惚として感嘆し、ついには言い出しました、「日が閉じて、夜が闇と共に来るまで、或いは歌により、或いは言葉によって、われら歓を尽すことをやめますまい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十七夜になると[#「けれども第八百九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると若者は次に、奴隷たちに馬を曳いてくるように命じました。彼らは直ちに従って、主人の賓客に王者の牝馬を献じました。そこで二人はそれぞれ乗馬の背に飛びのり、ダマスをめぐり、諸方の市場《スーク》や街々の光景を眺めはじめ、最後に、煌々と明るく、あらゆる色の提灯《ちようちん》に飾られた家の正面に着きました。昇降口の扉の前には、彫り物を施した銅の大きなランプがひとつ、金の鎖で吊ってあります。その屋敷の中には、見事な像に囲まれ、あらゆる種類の鳥とあらゆる品種の花を入れた小亭がいくつもあって、それらすべての亭の中央に、銀の窓のついた円蓋の広間があります。若者はその広間の扉を開けました。広間は鳥の歌と、花の香と、細流《せせらぎ》のざわめきとに活気づけられて、さながら天国の美しい園のように現われ出ました。家全体にこれらの鳥のさまざまの言葉が響き渡り、そこには絹の絨緞が敷き詰められ、錦と駝鳥の羽の座褥《クツシヨン》が程よくしつらえられています。またあらゆる種類の豪奢な品物と高価な品々の、数えきれないほどの数を入れ、花と果実の匂いで馨っています。そのほか銀の盆とか、銀の器《うつわ》とか、貴重な盃とか、香炉とか、竜涎香《りゆうぜんこう》や沈香の粉や乾した果物の貯えなどと言った、見事な品々の想像もつかないほどの数も含んでおります。一言で言いますと、それは次の詩人の句に描かれている屋敷そのままでございます。
[#この行2字下げ] この館《やかた》は欠くるところなく壮麗にして、絢爛燦として輝き出でたり。
そしてジャアファルが坐ると、若者はこれに言いました、「御光来によって、おおわが殿にして賓客よ、我らの頭上には千もの祝福が天から降《くだ》りました。」若者はそのほかいろいろと懇ろなことを言って、最後に訊ねました、「われわれの町に光栄にもお出で遊ばしたのは、そもそもどういう動機からでございましょうか。この地にあなたは、全く真心《まごころ》こめた、家庭と気やすさを見出しなさいましょう。」するとジャアファルは答えました、「私は、おおわが御主人よ、軍人を業とする者で、一中隊の兵を指揮しております。元来バスラの町の出身で、ただ今そこからここにまいりました。当地にまいった原因は、教王《カリフ》に納めるべき年貢を払うことができかねて、一命の危惧を覚え、恐怖のあまり、うな垂れ悄然と逃げ出してまいりました。そして野と沙漠をいくつも越えて、天命があなたのところに導くまで、走りつづけたのでございました。」すると若者は言いました、「まことに祝福された御来着。してお名前は何とおっしゃいますか。」彼は答えました、「私の名はあなたのお名前と同じです、おおわが殿よ。」すると若者はこれを聞くと、微笑を洩らし、笑いながら言いました、「おおわが殿、それではあなたはアブール・ハサンというお名前ですね。ともかくも御願い申します、どうぞもう、少しもお胸を締めつけることなく、お心を悩ますことをなさいますな。」そして若者は自分たちに食事を出すように命じました。するとあらゆる種類の上等なおいしい物を盛った、数々の皿が持ってこられて、二人は食べ満腹しました。すむと、食膳を下げ、水差しと盥《たらい》が運ばれました。二人は手を洗い、立ち上がって、申し分なく花と果物の満ちた、飲み物の広間に行きました。そして若者は音楽と歌について乙女に、言いました。乙女は二人を恍惚とさせ、その完全な芸で満悦させました。住居そのものもその四方の壁と共に、感動し揺り動かされたのでございました。ジャアファルは感激のあまり、自分の着物を脱ぎ、引きちぎってから、遠くに投げ捨てました。若者は彼に言いました、「|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、どうか着物をお裂きになったのは、楽しみのせいであって、悲しみや苦しみのせいではございませんように。アッラーはわれわれから憂いの苦さを遠ざけたまわんことを。」そして奴隷の一人に合図をすると、その奴隷はすぐに百ディナールもするような新しい衣服を持ってきて、手を貸してそれを着せました。すると若者は乙女に言いました、「琵琶《ウーデイ》の調子を変えなさい。」乙女は調子を変えると、次の詩句を歌いました。
[#ここから2字下げ]
わが妬みの眼差《まなざし》は、かの人に注がる。かの人は他の者を見つめ、
われは切なし。
われはわが願いとわが歌を終るに臨んで叫ぶ、「御身へのわが友愛は変らじ、わが心に死の到るまで。」
[#ここで字下げ終わり]
この歌が終ると、ジャアファルはまたも叫びながら、自分の着物を脱ぎ棄てました。すると若者は言いました、「願わくはアッラーはあなたの生活をよりよく改めて、その始めを終りとなし、その終りを始めとなしたまいますように。」すると奴隷たちは、先のよりももっと立派な新しい着物を、ジャアファルに着せました。乙女はひと時の間もう何事も言わず、その間、二人の男子は話をしておりました。次に若者はジャアファルに言いました、「お聞き下さい、おおわが殿、我らの幸いにも、天命がこの祝福された日にあなたを導いた国について、詩人の詠じたところを。」そして乙女に言いました、「われわれの谷についての、詩人の言葉を歌っておくれ。その昔、ラブワットの谷と呼ばれた、あの谷の歌だ。」すると乙女は歌いました。
[#ここから2字下げ]
おお、ラブワットの谷の、我らが夜の恵み深さよ。妙《たえ》なる微風は谷の香を齎らす。
そは、美しきこと頸飾りのごとき谷ぞ。木々と花々とこれを囲む。
その野はありとある品種の花に織り成され、鳥はその花の上を飛ぶ。
その木々は、樹下に我らの坐るを見れば、みずから我らの上にその果実を落す。
我らそのほとりに坐して、談笑と詩歌の溢るる盃を交わしてあれば、
谷は我らに恵み深く、その微風は、花々の我らに送るところを、我らに齎らす。
[#ここで字下げ終わり]
乙女が歌い終ると、ジャアファルは三たび、わが着物を脱ぎ棄てました。すると若者は立ち上がって、その頭に接吻し、すぐにまた別な衣服を着させました。というのは、やがて示されるように、この若者は当代きっての気前よく天晴れな男で、その掌《たなごころ》の広さと魂の高さとは、どんなに少なく見ても、あのターイー族の族長ハーティム(6)と等しい大きさでございました。若者はさらにジャアファルと、近頃の出来事や、いろいろの話題や、逸話や、すぐれた詩作などについて、話しつづけました。そして言いました、「おおわが殿、憂いや屈託でお心を悩ましなさいますな。」ジャアファルは言いました、「おおわが御主人よ、私は飲食の暇さえなく、故郷を去りました。気散じをし、世間を見たいと思って、そうしたのでした。けれどももしアッラーが私の帰国を許したまい、家族や友人や隣人たちが私に問い訊ねて、どこに行ってきた、何を見てきたかと聞きましたならば、私は彼らに、シャームの国はダマスの町で、あなたの下したもうた恩恵と、わが頭上にお積み下さった御好意をば、必ず語り聞かせるでございましょう。また私のここで見たところ、かしこで見たところを彼らに伝え、あなたの町で、あなたのおそばで、私の精神の学び得たすべてについて、堂々と説き、教訓となる談話をしてやりましょう。」すると若者は答えました、「私はアッラーの裡にのがれて、傲慢の考えを避けます。アッラーのみひとり寛大にましまする。」そして付け加えました、「どうぞお好きなだけいつまででも、私と一緒にいらっしゃって下さい、十年でも、それ以上でも、お気の向くままに。この家は、主人と家にあるすべてのものと共に、あなたの家でございますから。」
こうしているうちに、夜も更けて、宦官たちがはいってきて、ジャアファルのために、広間の上手《かみて》の上席に、柔らかい寝床を設けました。そしてジャアファルの寝床のそばに、二番目の寝床を延べました。それから万端支度をととのえきちんと揃えると、引き取りました。宰相《ワジール》のジャアファルはこれを見ると、心中で言いました、「大方この主人は独身者なのだろう。それだから、その寝床をわしの寝床のそばに設けたわけだな。質問を敢えてしてみても差支えあるまい。」その結果、彼は思い切って質問してみて、主人に訊ねたのでした、「おおわが御主人よ、あなたは独身ですか、妻帯していらっしゃいますか。」すると若者は答えました、「妻帯しております、おおわが殿よ。」その言葉に、ジャアファルは問い返しました、「それではどうして、妻帯していらっしゃるのならば、婦人部屋《ハーレム》にはいって、世の妻帯者たちのようにお寝《やす》みにならずに、私のそばで寝なさるのですか。」すると若者は答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主人よ、婦人部屋《ハーレム》はその中にいる者と共に、何も飛んで行ってしまうわけではなく、後になって私はいくらでもそこに寝《やす》みに行く折がございましょう。けれども今、あなたのような方を、お客様を、アッラーの賓客を、ただひとり置いて、自分は婦人部屋《ハーレム》に寝に行くとしますれば、それは私として床《ゆか》しからず、見苦しく、非礼であり、何という失礼でしょうか。そのような振舞いは慇懃《いんぎん》と歓待の務めとに、まことに反《そむ》くことでしょう。実際のところ、おおわが御主人よ、御光臨がわが家を幸いして下さる限りは、私は婦人部屋《ハーレム》でわが頭を休ませることなく、またそこに寝《やす》むことはいたしますまい。そしてそれは、御都合よき日をお選びなすって、あなたと私との間にお訣別《わかれ》が生じない限り、あなたがお国の御自分の町に安らかに御無事にお戻りなさりたい時まで、そのようにいたしましょう。」そこでジャアファルは自分自身に言いました、「これはまた実に驚き入ったる、大へんなことだわい。」そしてその夜は両人は一緒に寝ました。
翌日、二人は朝早く起きて、風呂屋《ハンマーム》に行くと、そこにはすでに若者が――その名は実は「仁者アタフ」と申しましたが、――客人の用にと、見事な衣服の包みを届けてありました。そして二人はこの上なく気持のよい風呂を使ってから、鞍《くら》を置いて万端用意して、風呂屋《ハンマーム》の門口に置いてあったすばらしい駿馬に乗って、伯母君の御廟(7)を見物に墓地の方角に向い、その日は一日、いろいろな人々の生と死を偲んで過ごしました。そして二人は毎日、このようにしつづけて或いはこちらの場所、或いはあちらの場所と見物しながら、夜は、前に申したような工合に一緒に並んで眠りながら、四カ月に及びました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十八夜になると[#「けれども第八百九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて四カ月たつと、ジャアファルの魂は悲しく、精神は銷沈《しようちん》してきまして、日々のうちの或る日、彼は坐って泣いておりました。仁者アタフは涙に暮れる彼を見ると、こう言って彼に訊ねました、「どうかアッラーはあなたから心痛と悲しみを遠ざけて下さいますように、おおわが御主人よ。どうしてお泣きの様を拝見するのでしょうか。いったい何があなたに悲しみを覚えさせることができるのでしょう。もしお心が重いのならば、なぜお心を重くし魂を苦々しくする原因を、私に打ち明けて下さらないのでしょう。」ジャアファルは答えました、「おおわが兄弟よ、私はこの上なく胸が狭《せば》まるのを覚えますので、ダマスの街々を足にまかせて歩いてみたく、またウマイヤ王家の寺院《マスジツト》(8)を眺めて、わが精神を鎮めたく存じます。」すると仁者アタフは答えました、「誰がそれをおとめできましょうか、おおわが兄弟よ。あなたは御所望のように、お好きなところに散歩に出かけ、魂を爽やかにして、お胸を拡げ、お精神を寛ろげ楽しませることが、今は勝手におできにならないとでもいうのでしょうか。実際のところ、おおわが兄弟よ、こうしたすべては何でもないことです、全く何でもないことですよ。」そこでジャアファルは外に出ようと立ち上がると、主人は引きとめて言いました、「おおわが殿、どうぞちょっとお待ち下さい、家人におとなしい牝馬に鞍をおかさせますから。」けれどもジャアファルは答えました、「おおわが友よ、私は徒歩のほうが結構です。馬に乗っている人は、自分のまわりを眺めたり観察したりして楽しむことがほとんどできかねて、むしろ人々が馬上の人を眺めたり観察したりして、楽しんでいるわけですから。」すると仁者アタフは言いました、「なるほど。だがせめてこのディナールの袋をお収め下さい。道々施しをしてやり、金子《かね》を掴んでは群衆に投げて、配ってやっていただきたい。」そして付け加えました、「さあ、では散歩に行っていらっしゃい。どうかそれであなたの精神を鎮め、落ちつき、悦びと満足の裡にわれわれの許にお戻りなさることができますように。」
因《よ》ってジャアファルはその物惜しみしない主人から、三百ディナールの袋を受けとって、友の祈念に伴なわれて、住居を出ました。
そして彼は、教王《カリフ》に課された条件についていろいろと思いを抱き、何の解決も見つからず、どんな出来事も未だ例の問題を見抜くことも、またそれを見抜くことのできる人を見出すことも、させてくれなかったのにすっかり絶望を覚えつつ、ゆっくりと進んでゆきました。こうして彼はあの壮麗な寺院《マスジツト》の前に着いて、正門の大理石の階段三十段を上がり、美しい陶製の化粧張りや、金泥や、宝石や、到るところを飾っている壮麗な大理石や、目に見えないほど清らかな水の流れている美しい数々の泉水などを、感嘆して眺め入りました。彼は黙想して、祈祷をし、説教を聴問し、非常な爽やかさが魂の裡に下《くだ》り、心を鎮めるのを覚えつつ、正午までそこに居つくしました。次に寺院《マスジツト》を出て、門前の乞食に、次の詩を誦しながら、施しをしました。
[#ここから2字下げ]
われはジュラーグの寺院《マスジツト》に集められし、数々の美を見たり。その囲壁の上に、美の意義は説かれてあり。
民もし寺院に通わば、これに告げよ、諸方の寺院の門は、常に広々と開け放たれてありと。
[#ここで字下げ終わり]
この美しい寺院《マスジツト》を立ち去ると、彼は眺め観察しながら、諸方の地区と街々を通って散歩をつづけているうち、いかにも王侯の大邸宅らしく、分別を奪うばかりの金の縁《ふち》のついた銀の窓に飾られ、ひとつひとつの窓に絹の窓掛のついている、堂々とした屋敷の前に着きました。門の前には、敷物を敷いた大理石の腰掛《ベンチ》がありました。折からジャアファルはすでに散歩の疲れを覚えていたので、その腰掛《ベンチ》に坐って、わが身のこと、現在の状態、近頃の出来事、また自分の留守中バグダードで起っているであろうことなどを、考えはじめました。すると突然、前の窓のひとつのところに、窓掛が左右に開いて、真白《まつしろ》な手と、続いてその持ち主が、小さな金の如露《じよろ》を持って、現われ出たのでございます。それは分別を奪う眼差《まなざし》と、兄弟《るい》のない顔を持った、満月のような女人でした。その女は窓の棚にある自分の花、めぼうき、八重咲《やえざき》の素馨《ジヤスミン》、石竹、においあらせいとうの花に、しばらく水をやっていました。手ずから香り高い花に水をやっているその優美な様子は、釣合と均整と調和のあふれたものでした。ジャアファルはこれを見ると、心が恋に傷つけられるのを感じました。そこですっくと立って、地面まで身をかがめてその女に敬礼しました。乙女は草に水をやりおえると、通りを眺め、地面まで身をかがめているジャアファルを認めました。最初は窓を閉めて、姿を消そうとしましたが、そのうち思い返して、窓の縁《ふち》に身をかしげて、ジャアファルに言いました、「この家はあなたの家ですか。」彼は答えました、「いえ、アッラーにかけて、おおわが御主人様、この家は私の家ではございませんが、御門前にいる奴隷はあなた様の奴隷で、謹んで御命令を待っておりまする。」すると乙女は言いました、「この家が御自分の家でないとあらば、あなたはそこで何をしているのです、なぜ立ち去らないのですか。」彼は答えました、「それは、やあ貴婦人《シート》よ、私はあなたを讃えて数行の詩を作ろうと、ここに足を停めたのでございます。」乙女は訊ねました、「その詩で、わたくしについてどんなことをおっしゃられたのですか、おお男の方よ。」するとすぐにジャアファルは、即席で作った次の詩を誦しました。
[#ここから2字下げ]
かの女《ひと》は、驚異の眼差《まなざし》と瞼《まぶた》を以て、白めける衣をまとい現われぬ。
われはこれに言えり、「来たれ、おお唯一の君よ、ただ君が眼《まなこ》の挨拶《サラーム》のみ携えて来たれ。君と共にあらば、我は幸いならむ。わが心の裡までも、幸いならむ。
君が頬を薔薇もて装いたまいし御方《おんかた》の、祝福されよかし。彼は己が欲したもうものを、妨げらるることなく創《つく》りたまい得るなり。
君が衣は白きかな、御手のごとく、はた君が運命《さだめ》のごとく。そは白の上の白なり、白の上の白なり。
[#ここで字下げ終わり]
次に、この詩句にもかかわらず、乙女は引っこもうとしたので、彼は叫びました、「お待ち下さい、後生です、おおわが御主人様。次に別な詩がございます、あなたの容姿と表情を詠じたわが作です。」すると乙女は言いました、「それについてはどんなことがおっしゃられたのですか。」そこで彼は次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
かの君の御面《みおもて》現われ、面衣《ヴエール》はあれど、地平の月のごとく、かくも輝き出ずるを、汝は見るや。
その光輝は、この君を拝《おろが》む殿堂の蔭を照らし、この君の行くところ、太陽闇の裡に入る。
その額《ひたい》は薔薇を、頬は林檎を、光無からしむ。しかして表情溢るる眼差《まなざし》は、民を動かし、民を魅す。
人間にしてこの君を見れば、この君ゆえに、恋の生贄《いけにえ》となり、欲望《のぞみ》の火中に焼かるべし。
[#ここで字下げ終わり]
若い貴婦人はこの即吟を聞くと、ジャアファルに言いました、「お上手ですこと。けれどもこの詞《ことば》はあなたには出来すぎですね。」そして乙女は相手を突き通す流し目をくれて、窓を閉め、さっと姿を消してしまいました。宰相《ワジール》のジャアファルは、もう一度窓が開いて、もう一度あの麗人を一瞥《いちべつ》できないものかと、希望を抱き待ちつづけて、じっと腰掛《ベンチ》の上で辛抱していました。そして彼が立ち上がって立ち去ろうと思うごとに、彼の好き心は彼に言うのでした、「坐っていろよ。」とうとう夕方になるまで、このように振舞うことをやめませんでした。そこでやっと、恋いこがれる心を抱いて立ち上がり、仁者アタフの家へと戻りました。見るとアタフ自身が、家の入口の敷居の上に待っていて、彼の姿を見るや叫びました、「おおわが殿よ、今日はあなたのお留守で私はこの上なく淋しかった。永いことお待ちして、お帰りが遅かったので、私の思いはあなたの許にありました。」そして胸に飛びついて、眼の間に接吻しました。しかしジャアファルは一と言も答えず、茫《ぼつ》としています。アタフは彼を見つめて、実際顔色がすっかり変り、黄色くなり、憂わしげなのを見て、面上に多くの言葉を読みとりました。そして彼に言いました、「おおわが殿、お顔色すぐれず、心気衰えなすったように拝見しますが。」ジャアファルは答えました、「おおわが殿、お別れした時から今まで、私は激しい頭痛と神経の発作に悩まされました、昨夜安眠しなかったもので。寺院《マスジツト》でも、信徒たちの誦《とな》える祈祷が、まるでわかりませんでした。どうも散々の有様で、惨澹たる状態です。」
すると仁者アタフは、客人の手をとって、いつも二人が楽しく語り合う広間に連れてゆきました。奴隷たちは夕食の料理の皿を運んできました。しかしジャアファルは何ひとつ食べることができないで、手を挙げました。それで若者は訊ねました、「どうして、おおわが殿、あなたは手を挙げて、その手を料理から遠ざけてしまいなさるのですか。」彼は答えました、「実は今朝の食事がお腹《なか》にもたれて、夕食をいただきかねるのです。だが、そんなことは全く何でもないことです。なに一時間も眠れば治って、明日はもう胃は空《から》になってしまうでしょうから。」
そのため、アタフは平常よりも早くジャアファルの寝床をとらせて、ジャアファルはすっかり意気銷沈して横たわりました。そして身体の上に夜具を引き寄せて、さきの乙女と、その美しさ、雅《みや》びやかさ、物腰、めでたい均整、その他、贈与者――その讃えられよかし。――の授けたもうた美と華麗と光輝のすべてを考えはじめました。それでもう過去の日々にわが身に起ったことすべて、教王《カリフ》との事件も、課された条件も、家族も、友人も、故郷も、今は全部忘れてしまいました。さまざまの思いざわめきは、眩暈《めまい》に襲われるのを感じたほどであり、身体はくたくたになったほどでした。そして熱に浮かされて、朝まで寝床で輾転反側するのをやめません。まるで恋の海に道を失った人のようでございました。
そのうちいつも二人の起きる時刻になりますと、アタフは最初に起きて、彼の上にのぞきこんで、聞きました、「お工合はいかがです。昨夜は私の思いはあなたを離れませんでした。一と晩中、あなたは眠りを味わわなかったことがよくわかりました。」するとジャアファルは答えました、「おお兄弟よ、どうも加減が悪く、快気《カイフ》(9)がありません。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九十九夜になると[#「けれども第八百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞くと、親切この上ない仁者アタフは、心痛のぎりぎりの限り心痛して、すぐに白人奴隷《ママルーク》に医者を呼びにやらせました。奴隷は大いそぎで命を果たしに行き、間もなくダマスで一番の医者で、当代随一の名医を連れて戻ってきました。
その医者、大|名医《ハキーム》は、うつろな眼をして寝床に横たわっているジャアファルに近づき、じっとその顔を見てから、彼に言いました、「私の姿を見ても案ずることはない、どうか健康の賜物があなたの上にあるように。どれ、お手を出しなさい。」そして手をとって、脈を見ると、万事異常なく、どこも故障なく、苦しみも、痛みもない、そして脈搏《みやくはく》はしっかりしていて、鼓動は規則正しく断続的であるのを認めました。こうしたすべてを確かめると、医者《ハキーム》は病気の原因を察し、この病人は恋の病いだとわかりました。そしてアタフの前では、病人にその診断を話したくないと思い、そこで事を粋《すい》に慎しみ深くするため、一枚の紙をとって、処方を認《したた》めました。医者《ハキーム》はジャアファルの頭の下に、そっとその紙を置きながら言いました、「薬はあなたの頭の下にあります。下剤を処方しておきました。これを服用なされば、治りましょう。」こう言って、医者《ハキーム》はジャアファルに別れを告げ、大勢いる他の病人を診《み》に立ち去りました。アタフは戸口まで見送って、これに訊ねました、「おお、お医者《ハキーム》様、どうでしょうか。」医者《ハキーム》は答えました、「委細は紙に書いておきました。」そして行ってしまいました。
アタフは客人の許に戻ってみますと、客人はちょうど次の詩を誦し終ろうとしているところでした。
[#ここから2字下げ]
一日、医師《ハキーム》わが許に来たり、わが手をとってわが脈を見たり。されどわれはこれに言いぬ、「わが手を措《お》けよ、火はわが心中にあり。」
医師《ハキーム》われに言えらく、「薔薇の舎利別《しやりべつ》をば、舌の水とよく混じて服《の》め。しかしてそを何ぴとにも洩らすことなかれ。」
われは答えて、「薔薇の舎利別は、われよくこれを知る。わが心を痛めつけしは、頬の水なり。
さあれいかにして、おお医者《ハキーム》よ、われは舌の水を入手し得ん。またいかにして、わが裡深く住む烈火を、冷やし得んや。」
医者《ハキーム》われに言えり、「汝は恋に陥れり。」われはこれに言えり、「然り、」と。答えて曰わく、「唯一の良薬は、ここに相手を居らしむるにあり。」
[#ここで字下げ終わり]
アタフは詩全体を聞かず、ただ意味がわからずに最後の一句を耳にしただけなので、枕許に坐って、客人に医者《ハキーム》が何と言い、どんな処方をしたかと問いました。するとジャアファルは言いました、「おおわが兄弟よ、医者《ハキーム》は紙に書いて、ここに、座褥《クツシヨン》の下に置いて行きました。」そこでアタフは座褥《クツシヨン》の下から紙片を取り出して、読んでみました。そこには医者《ハキーム》の手で認《したた》められた、次のような文がありました。
[#この行2字下げ]「治療と良き保養の主、快癒者アッラーの御名において。――アッラーの神助と祝福を得て、服用すべきもの次のごとし。愛する女の純粋なる姿、三。多少の慎重と妬む人々に狙《ねら》わるる心配とを混ぜ合わせしもの。加うるに、不在と疎遠少量をもって薄めたる上質の結合、三。加うるに、別離の木を加えし、純粋の愛情と混りなき慎しみ、二匁。以上を、歯と中央より取りし接吻の香《こう》の精《エキス》少量と共に、調合すること。各種類、二。加うるに、人の知るかの二個の美しき柘榴《ざくろ》の実に、接吻百匁うち五十は、鳩の流儀に従って、唇を経て甘味を付け、二十は、小鳥の流儀によるべきこと(10)。次いで、アレッポの運動とイラクの溜息の等量、二。次いで、口中と口外に、舌先二|封度《オーク》、よく混ぜ合わせ、摺《す》りつぶすこと。次には、エジプトの穀物二ドラクムに良質の脂肪を加えて炉にかけ、恋の水中にて沸騰させ、欲情の舎利別《しやりべつ》を快楽の木の火にかけ、熱烈の隠れ家にて沸騰させること。その後、全部を、柔らかき長椅子《デイワーン》上にて上澄をとり、唾液の舎利別二|封度《オーク》を付加し、三日間空腹時に飲むこと。第四日目には、昼食として、欲情のメロン一と切れを、琴瑟《きんしつ》相和《あいわ》の巴旦杏《はたんきよう》の乳とレモン汁と共に、また最後に、腿のまめやかなる運動、三と共に、摂取すること。仕上ぐるに、健康増進のため、入浴のこと。以上《サラーム》。」
仁者アタフはこの処方箋を読み終ると、笑いを抑えることができず、両手を打ち合わせずにいられませんでした。次にジャアファルをじっと見て、言いました、「おおわが兄弟よ、あのお医者は名医で、その診断は名診断です。ところであの医者によると、あなたは恋患《こいわずら》いということですね。」そして付け加えました、「ではいったいあなたは誰に懸想し、誰に惚れこんだのか、おっしゃって下さい。」けれどもジャアファルは頭を垂れて、何とも返事をせず、一と言も言おうとしません。するとアタフは、彼が自分に対して今も、また今までも、打ち明けてくれないのを大そう悲しんで、自分を信用してくれないのを大そう切なく思って、彼に言いました、「おおわが兄弟よ、あなたは私の友以上のものではないのですか。あなたは魂が身体にあるごとく、私の家にいて下さるのではないのですか。私とあなたの間には、愛情と、親交と、談笑と、清らかな友愛の裡に過ごした、四カ月がありはしなかったですか。いったいどうして御自分の様子を私に隠しなさるのか。私としては、あなたがこのような微妙な件にあって、ただ独り、道案内もなしにいるのを見ることは、心痛に耐えないし、心配でなりません。事実あなたは異国の方で、この首府の人ではないが、私はこの都の子で、有効適切に力をお貸しして、あなたの煩悶と不安を消してさしあげることができる身です。あなたのものであるわが生命《いのち》にかけ、またわれわれの間にあるパンと塩にかけて、どうかぜひあなたの秘密を打ち明けていただきたいものです。」そしてとうとう口を開く決心をさせるまで、このように説くことをやめませんでした。そこでジャアファルは頭を挙げて、言いました、「ではこれ以上私の煩悶の動機を隠し立ていたしますまい、おおわが兄弟よ。私はこれからはもう、不安と焦燥に病む恋する者たちを咎めますまい。それというのは、私としては、わが身に起ろうとはついぞ思っていなかった、断じて思っていなかったような事件が、今や起ったのです。これについてはいったいどんなことになるのやら、一向わかりません。何しろ私の容態は実に厄介な、一命にかかわる余病を併発する容態ですから。」
そして彼は起ったところを話しました、大理石の腰掛に坐っていたら、前の窓が開いて、当代一の美人というような若い女が姿を現わして、窓辺の花壇に水をやった次第を。そして付け加えました、「今や私の立ち騒ぐ心は、その婦人への思慕で乱れているのです。その女は私のいた表通りのほうにただ一瞥《いちべつ》をくれただけで、いきなり窓を閉め、しかも、さながら他処《よそ》の男に素顔を見られたかのように、あわてて窓を閉めてしまいました。私は今では、この上ない動揺とその婦人に対する思慕の熱情のため、何事も手がつかず、飲み食いも叶わぬ有様です。私の眠りも、わが心中に住みついてしまった女への、わが欲情の力によって、打ち砕かれてしまった次第です。」そして言い添えました、「これが私の容態です、おおわが兄弟アタフよ。そして私は身に起った一切を、何ひとつ隠し立てせず、お話し申し上げました。」
仁者アタフは客人のこの言葉を聞き、その言葉の意味がわかると、頭を垂れて、一と時の間、思いに耽っておりました。それというのは、今聞いたところでは、その聴取したあらゆる情報と徴候、家と窓と街の模様によれば、もう疑う余地なく、くだんの乙女というのは、自分自身の妻、叔父の娘(11)、自分が愛しもし愛されてもいる女で、別な家に自分の奴隷たちと自分の女中たちと一緒に住んでいる、わが妻にほかならぬとわかったからです。彼は自分自身に言いました、「おおアタフよ、至高至大のアッラーのほかには、頼みも力もない。われらはアッラーより来たり、アッラーへと帰るのだ。」そして彼の魂の寛仁と高邁とが直ちに打ち勝って、彼は考えました、「おれはわが友情において、かの砂上や水上に家を建てる者に、類する者ではあるまい。寛仁大度の神にかけて、おれは自分の魂と資産をもって、わが客人に奉仕しよう。」
こう考えた上で、彼はにこやかな落ちついた顔をして、客人のほうに向いて、これに言いました、「おおわが兄弟よ、お心を鎮めて眼を爽やかになさい。あなたの件をきっとお望みの方向に行き着かせることは、わが頭上にお引き受けいたしますから。事実私は、おっしゃる乙女の一家を知っていて、その乙女は数日前に、夫と離縁した婦人です。ではこれからさっそく口をきいてみましょう。あなたは、おおわが兄弟よ、全く安心して私の帰るのを待っていらっしゃい。大丈夫です。」そしてさらに落ちつかせるような言葉をいろいろ言って、彼はわが家を出ました。
そして彼は自分の妻、ジャアファルの見たあの乙女の住んでいる家に行って、着物も着がえず、誰にも言葉をかけずに、男子の間《ま》にはいり、若い宦官の一人を呼んで、言いつけました、「わが叔父上、お前の女主人の父君のところに行って、ここに来ていただくように申し上げよ。」すると若い宦官はいそいで義父のところに行って、義父を主人の家に連れてきました。
アタフは敬意を表して立ち上がって義父を迎え、接吻して、坐らせてから、これに言いました、「おお叔父上、万事は決して悪いようにはなりません。アッラーがその下僕《しもべ》たちに御恵みを送りたもうときには、同時に進むべき道をも示したもうものと、思し召されよ。ところで、私の道は見出されたのです。それというのは、私の心はメッカに向い、アッラーの御家《おんいえ》を訪ねて、聖殿《カアバ》の黒石に接吻し、それからエル・メディナに行って預言者――その上に祈りと平安と恩寵と祝福あれ。――そのお墓に詣でたいものと、願っております。それで私は今年これらの聖地にお参りして、巡礼をし、完全な巡礼《ハジ》を終了して帰る決心をいたしました。ですから私はわが後《あと》に、繋累とか、負債とか、義務とか、自分の気がかりになるようなものを、一切残して行ってはならない次第です。何ぴとも翌日は己が運命の友であるかどうか、わからないのですから。それゆえ、おお叔父上、私はお娘の私の妻の離縁状をお渡し申したく、お呼び立てした次第でございます。」
寛仁なアタフの叔父、その妻の父親は、この言葉を聞き、アタフが離婚したい旨がわかると、この上なく心を痛め、心中でこの問題の重大さを一と方ならぬものと考えて、言いました、「おお、わが息子アタフよ、何もそのような措置に訴えなければならないこともあるまいに。もしお前がここに妻を残して出発することになっても、たとえ留守がどんなに永く、妻をどれだけ待たせようと、お前の妻は依然引きつづきお前の妻であり、お前の従属物であり、お前の所有物であることに、変りはあるまい。何も強いて離縁しなければならぬわけは全然ない、おおわが息子よ。」するとアタフは、両眼から涙を流しながら、答えました、「おお叔父上、私はそうするように誓いを立てましたし、記《しる》されてあることは行なわれなければなりません。」
若い女の父親は、このアタフの言葉に仰天して、心のなかに悲嘆がはいってくるのを感じました、またアタフの若い妻は、この知らせに接すると、死んだようになり、その状態は惨澹たる状態となって、魂は闇夜のなかを、苦渋のなかを、懊悩《おうのう》のなかを泳ぎました。それというのも、彼女は子供の時から、伯父の息子である夫のアタフを愛し、それに対する愛情はこの上ないものがあったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百夜になると[#「けれども第九百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
アタフのほうは、叔父にこの知らせを告げると、いそいで客人に会いに戻って、これに言いました、「おおわが兄弟よ、私はあの離婚した若い女について口をきいてみましたら、アッラーは私の斡旋を首尾よくゆかせて下さいました。だからお悦び下さい。あの女とあなたが結ばれることは、今は造作ありませんからね。起き上がって、あなたの悲しみと不快を払い落しなさい。」するとジャアファルはすぐ起き上がり、不快は失せ、食慾をもって飲み食いして、創造主に感謝しました。そのときアタフは言いました、「さて今はお聞き下さい、おおわが兄弟よ、私がもっと有効にお世話してあげられるようにするには、あなたの慕っている女の父親に、私はこれからあなたとの結婚話をもう一度持ち出しますが、その父親にあなたが異国の人であるとわかって、こう言われてはまずいのです、『おおアタフよ、いったい世の父親が異国の男に、自分の知りもしない男に、娘を結婚させるなどということは、いつからあることなのだ。』ですから私の考えでは、あなたがその乙女の父親に最も有利に紹介されるようにしようと思うのです。その目的から、私はあなたのために、郊外に天幕《テント》を設け、立派な敷物や、座褥《クツシヨン》や、豪奢な品々や、馬などを備えてあげましょう。そしてあなたは、誰にも知られないようにここから出て、そのあなたの旅の天幕《テント》ということになる、美しい天幕《テント》に行ってお住みになり、その上でわれわれの町に華々しく都入りをなさい。私は私で、あなたはバグダードの非常な豪い人物だという噂を、町中にひろめる手配をしておきます。そればかりか、あなたはジャアファル・アル・バルマキその人で、信徒の長《おさ》から、われわれの町の視察に遣わされたのだとさえ、申しておきましょう。すると、ダマスの太守《ワーリー》も、法官《カーデイ》も、教王代理《ナーイブ》(12)も、私自身行って宰相《ワジール》ジャアファルの御到着の旨を知らせておきますから、進んであなたをお出迎えに出て、御挨拶《サラーム》をして、あなたのお手の間の地に接吻するでありましょう。そうしたらあなたはそれぞれに適当な言葉を言って、その身分に従って待遇なさい。私もまたあなたの天幕《テント》にお訪ねしますから、あなたはわれわれ一同にこうおっしゃい『私は転地をして、自分の好みに合った妻を見つけようと思って、あなた方の町に来たのだが、アムル公の御息女の美貌の噂を聞いたので、その女《ひと》を妻に迎えたいものと思う、』と。そうすれば、おおわが兄弟よ、お望み通りのことにしかならぬでしょう。」
寛仁なアタフは名前も身分も全然知らぬ自分の客人にこう語ったのですが、その客こそは、彼自身の眼を持ったジャアファル・アル・バルマキにほかならないのでございました。彼がこのように振舞ったというのは、ただそれが自分の客人であり、自分の歓待のパンと塩を味わったからという、ただそれだけのことからでした。それというのは、寛仁なアタフは寛仁な魂と崇高な心事を授けられていたがゆえです。彼の先に、彼に比べ得られるような人間は、かつて地上にいなかったし、彼の後にも、ついにいないでありましょう。
ジャアファルのほうでは、友のこの言葉を聞くと、すっくと立ち上がって、アタフの手をとって、それに接吻しようとしますと、アタフはそれを避けて、いそいで自分の手を引っこめました。ジャアファルはやはり自分の名を秘め、大|宰相《ワジール》の身で、バルマク一族の筆頭であり、一族の冠である自分の高位を隠しつづけて、真心《まごころ》こめて主人に感謝し、その夜は主人と共に過ごし、ひとつ床《とこ》に寝ました。翌日は未明に二人とも起き出でて、身を浄めて、朝の祈祷を唱えました。次に一緒に家を出て、アタフは郊外まで友を送ってゆきました。
そのあとで、アタフは天幕《テント》をはじめ、その他馬や、駱駝や、驢馬や、奴隷や、白人奴隷《ママリク》や、人々に配るあらゆる種類の土産の品をおさめた長持や、金銀の袋を入れた大きな箱など、必要なもの全部を用意させました。これらすべてを彼はひそかに郊外に送り届けて、再び友に会いにゆき、これに豪奢を極めた高価な大|宰相《ワジール》の服を着せました。また主な天幕《テント》のなかに、大|宰相《ワジール》の座を設けさせて、そこに友を坐らせました。そして彼は、今後自分が大|宰相《ワジール》ジャアファルと呼ぼうとしている人物が、実際にジャアファル自身、バルマク家のヤハヤーの息であるとは、知らずにいたのでございます。こうして手筈ととのうと、彼はダマスの教王代理《ナーイブ》に奴隷の使者たちを遣わして、教王《カリフ》に派遣された大|宰相《ワジール》ジャアファルの到着を、知らせさせました。
ダマスの教王代理《ナーイブ》はこの出来事を知らされるとすぐに、自分の職権と統治下の町の名士を従えて、町の外に出て、宰相《ワジール》ジャアファルを出迎えにゆき、その手の間の地に接吻して、言いました、「おおわが殿、なぜもっと早く祝福された御来着をわれわれにお知らせ下さって、御高位にふさわしき歓迎の準備をわれわれにさせていただけなかったのでございましょうか。」するとジャアファルは答えました、「そんなことは全然必要なかった。願わくはアッラーは卿に恵みを垂れ、卿の健康を増したまわんことを。されど余はただ転地をし、この都を見物するつもりで、ちょっとここに立ち寄っただけだ。それに、余はここにほんのわずかの間、結婚するに要するだけの期間しか、滞在いたすまい。というのは、余はアムル公に一人の高貴の血統の御息女があると承わり、卿にその件を父親に話してもらい、父親から御息女をわが妻に請い受けてもらいたきものと思うのじゃ。」するとダマスの教王代理《ナーイブ》は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。あたかもその婦人の夫は、巡礼のためヘジャズ地方に行きたいというので、最近離婚したところでございます。されば離別の法定期間が過ぎさえすれば、閣下の婚約式を取り行なうに、もはや何の支障もございますまい。」
そして教王代理《ナーイブ》はジャアファルに暇を乞うて、即刻即座に、寛仁なアタフの離婚した妻である若い婦人の父親に会いにゆき、これを天幕《テント》に来させて、大|宰相《ワジール》ジャアファルが、高貴の後裔《こうえい》たる御息女との婚儀を御所望の旨を伝えました。それでアマル公も承わり畏まって答えざるを得ませんでした。
するとジャアファルは誉《ほま》れの衣と袋の黄金を持ってきて、それを一同に配るように命じました。そして法官《カーデイ》と証人を呼びよせて、時を移さず、結婚契約書を認《したた》めさせました。若い婦人への結納と寡婦資産としては、豪奢な品々十箱と黄金の袋十個を、認《したた》めさせました。そして大小の土産の品々を取り出させて、並いる富めると貧しき人々に、万人が満足するように、バルマク家の人の寛闊振りでもって、それらを頒《わか》ち与えました。契約書が繻子《しゆす》の布の上に認《したた》められ終ると、砂糖水を持ってこさせ、招客の前に、お料理と結構な品々の食膳を設けさせました。そして一同食べて、手を洗いました。次に、菓子と果物と冷たい飲み物が出ました。いよいよ万事終了して、契約が結ばれると、ダマスの教王代理《ナーイブ》は宰相《ワジール》ジャアファルに言いました、「ではこれより御住居と令夫人をお迎えするための、お屋敷を準備いたしましょう。」するとジャアファルは答えました、「それは成らぬ。余は目下信徒の長《おさ》の公用を帯びて遣わされている身であり、わが妻は共にバグダードに伴なってゆかねばならぬ。婚礼はかの地で挙行されるべきで、他の地であってはならぬのじゃ。」すると花嫁の父親は言いました、「では婚儀を行なって、およろしい時に出発なさいませ。」ジャアファルは答えました、「それも成らぬ、そうするわけにはまいらぬ。というのは、まず御息女の衣裳をととのえなければならないから、それが出来あがったら、その節はじめて、出発するとしよう。」父親は答えました、「それに異存はございません。」
いよいよ衣裳も出来て、万事事なく捗《はか》どりますと、花嫁の父親は轎《かご》を進み出させて、娘をそのなかに坐らせました。そして一行は大勢の人たちと一緒に、天幕《テント》へと向いました。すると互いに訣別《わかれ》を交わしてから、出発の合図が下されました。ジャアファルは馬上に、花嫁は見事な轎《かご》のうちに、整然と並んだ大勢の伴と一緒に、バグダードへの道をとりました。
こうしてしばらくの間旅しました。そして早くも、ダマスから半日行程のところにあたる、ティニヤト・エル・イカーブ(13)と呼ばれる場所に着きますと、そのときジャアファルは振り返ってみると、遥かかなたダマスの方角にあたって、こちらに馬を走らせてくる一人の騎手を認めました。そこで何事かしらと思って、すぐに一行を停めさせました。その騎手がすぐそばに来たとき、ジャアファルは見ると、それは仁者アタフが「お停まりなさるな、おおわが兄弟よ、」と叫びながら、あとを追ってくるのでした。彼はジャアファルに近づいて、接吻して、言いました、「おおわが殿、おそばを離れていては少しも安らかな思いがありませんでした。おおわが兄弟アブール・ハサンよ、私にとっては、あなたを見も、知りもしなかったほうがましでした。今となっては、あなたの御不在に耐えかねるものがありますから。」ジャアファルは彼に感謝して、そして言いました、「あなたに賜った数々の御恩恵すべてを、私は御辞退申すことができませんでした。けれども私はアッラーに、私たちの近き再会を計らいたまい、もう二度と私たちの別れることのないようにして下さることを祈ります。アッラーは全能者にましまし、お望みのことがおできになりまする。」次にジャアファルは馬から下りて、絹の敷物を敷かせて、アタフのそばに坐りました。人々は焼いた雄※[#「奚+隹」、unicode96de]や、雛鳥や、菓子や、その他のおいしいものを盛った盆を出しました。そこで二人は食べました。すると乾果物や、水気のない果物の砂糖煮や、熟した棗椰子《なつめやし》などを持ってきました。次に二人は一と時の間酒を飲んでから、再び馬に乗りました。そしてジャアファルはアタフに言いました、「おおわが兄弟よ、すべての旅人は自分の出発点に向って出発しなければなりません。」アタフは彼を胸に抱きしめて、両眼の間に接吻して、これに言いました、「おおわが兄弟アブール・ハサンよ、われわれの上にお手紙を下さるのをと切らさず、われわれの心の上に御不在を長びかせないで下さい。そして御身に起ることは全部お知らせになって、私にさながらあなたのおそばにいる思いあらしめて下さいまし。」両人は更にいろいろと他の訣別の言葉を言い合い、お互いに別れを告げて、それぞれ己が道に立ち去りました。その友のほうではジャアファル自身とは思いもかけずにいた大|宰相《ワジール》ジャアファルと、仁者アタフとは、以上のような次第でございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百一夜になると[#「けれども第九百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで離婚された乙女、ジャアファルの新妻のほうはと申しますると、次のようでございます。駱駝と旅の一行が歩みを停めたのに気がついたとき、彼女は轎《かご》の外に頭を出してみると、従兄《いとこ》のアタフが地面の敷物の上に、ジャアファルのそばに坐って、二人が一緒に飲み食いし、互いに暇乞いをしているのを見ました。そこで心中考えたのでした、「アッラーにかけて、こっちにいるのは従兄のアタフで、あっちにいるのは、窓辺で私を見た男だわ。私が窓の花壇に水をやっていたとき、あの男にはたしか水をかけてやったとさえ思うけれど。あの男はきっと、従兄のお友達にちがいない。これはあの男が私に懸想して、従兄のアタフに訴えたのだ。そして私の様子を話し、私の家の様子を話したわけ。すると従兄の寛仁と見上げた心持とが打ち勝って、お友達が私を妻にできるようにと、離婚なさったわけだわ。」こう考えて、彼女は轎《かご》のなかでただ独り泣きはじめ、自分たちの身に起ったこと、自分の愛する従兄や、両親や、故郷の町と別れたことについて、嘆きはじめました。そして自分の今の有様とかつての有様すべてを思い浮べました。熱い涙が両眼から滴り落ちて、次の詩句を吟じたことでありました。
[#ここから2字下げ]
わが愛したる処と、わが失いし美を思い出でて、われは涙す。おお、焦るる人のいつの日か狂うとも、咎むることなかれ。
何となれば、その地、その処には、愛する懐しき人々住まうなり。おお、アッラーに讃えあれ、彼らの住居の、いかばかり楽しきか。
御身らの間に過ごせし日々を、アッラーの守りたまえかし、おおわが懐しき友どちよ。しかして願わくは、同じ館《やかた》にて、幸いの再びわれらを結ばんことを。
[#ここで字下げ終わり]
この吟誦を終ると、彼女は涙を流して、嘆いて、さらに吟じました。
[#ここから2字下げ]
御身らなくして、われらを圧するあらゆる憂いのただ中に、なおわが生くるを自ら怪しむ。
御身らのため、われは望む、最愛の懐しき不在の人々よ、わが傷つきし心の、なお御身らと共にあらんことを。
[#ここで字下げ終わり]
そのあとで、彼女はさらに涙を流して咽《むせ》び泣き、次の詩句を思い出さずにいられませんでした。
[#ここから2字下げ]
おお、わが魂を与えし御身らよ、戻りたまえ。われは御身らよりわが魂を奪い返さんと望みしも、遂に能わざりき。
また、君よ。君に捧げしわが生命《いのち》の、その余生を憐れみたまえ、死の時到って、われ最後の眼差を投ぜざるうち。
御身ら悉く滅ぶとも、われは驚かじ。もしかの人の運命にして他の人の有ともならば、わが驚きのありもせめ。
[#ここで字下げ終わり]
新妻のほうは、このようでございました。ところで大|宰相《ワジール》ジャアファルはと申しますると、次のようでございます。
旅の一行が再び行進しはじめるとすぐに、大臣《ワジール》は轎《かご》に近づいて、新婦に言いました、「おお轎《かご》の御主人よ、そなたは余を殺したぞ。」けれどもこの言葉に、新婦は優しく淑やかに彼を見つめて、答えました、「わたくしはあなた様に口をきいてはならない身でございます。なぜなら、わたくしはあなた様の御友人でありお仲間であるアタフ、寛仁と献身の王者アタフの、従妹《いとこ》にあたる妻でございますから。あなた様の裡に、いささかなりと人間の情がありますれば、あなた様は彼に対して、彼自身が献身の心からあなた様に対してしたことを、なさることでございましょう。」
ジャアファルはこの言葉を聞くと、魂がすっかり乱れてしまいましたが、しかし事態の天晴れなことがわかって、そこで若い婦人に言いました、「おおそなたは、それではまことに、彼の従妹妻《いとこづま》なのか。」彼女は言いました、「さようでございます。そのわたくしを、あなた様はしかじかの日に窓辺で御覧になり、これこれしかじかのことが起り、お心がわたくしに繋がれたのでございます。そしてあなた様はその一切を従兄にお話しになりました。そこで従兄は離婚をいたしました。そして法定期間の満了を待って、従兄はその間に、現在わたくしにこんなに苦しい思いをさせているすべてのことを、準備したのでございます。事の次第を御説明申し上げた今となっては、あなた様のなさるべきは、ただ人間らしく振舞いなさることのみでございます。」
ジャアファルはこの言葉を聞くと、声をあげて涕泣《ていきゆう》しはじめて、言いました、「我らはアッラーより出で、アッラーの御許《みもと》に帰るのだ。おおそなたよ、今やそなたは余に禁じられた女性《によしよう》で、そなたの好む指定の場所にそなたが戻るまで、そなたはわが手の間の、神聖な預り物となった。」そこでジャアファルは従者の一人に言いました、「お前の女主人の護衛をお前に託するぞよ。」そして彼らはこのようにして日夜旅をつづけました。彼らのほうはこのようでございます。
さて教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードのほうはと申しますると、次のようでございます。ジャアファルの出奔のあとすぐに、教王《カリフ》はお心楽しまず、彼の不在に大そう淋しさをお覚えになりました。それで、いても立ってもいられず、彼に会いたいお望みに悩まされなさいました。そして彼に実現不可能な条件を課して、こうして放浪者のように沙漠と草原をさまよわせ、窮地に陥れて、故国を立ち去らざるを得なくしたことを、大そう後悔なさいました。それで八方に使者を派してその行方を探させましたが、しかし杳《よう》として消息が知れず、もはや彼をおそばに置けないのを、非常にお困りになりました。こうして彼を懐しんで、待ちわびていらっしゃいました。
ところが、ジャアファルとその一行がバグダード近くに来ると、教王《カリフ》はその報に接して、御心中お悦びになり、お心が軽くなり、お胸が拡がるのを覚えなさいました。そこで親しくお出迎えに行かれ、彼がおそばにまいるとすぐに、接吻してお胸に抱きしめなさいました。そして打ち連れて王宮に還られると、信徒の長《おさ》は宰相《ワジール》をおそばに坐らせて、おっしゃいました、「さて今は、その方がこの王宮を去って以後の成行と、不在をした間にその方の身に起った一切を、語り聞かせよ。」そこでジャアファルは出奔から帰国までの間に、わが身に起った一切をお話し申し上げました。けれどもそれを繰りかえしても詮なきことでございます。教王《カリフ》はいたくお驚きになって、おっしゃいました、「|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、その方は留守をして大いに余を悲しませた。しかし今は余はぜひ、その方の友を知りたく思う。またその轎《かご》の佳人については、余の意見では、その方直ちに離婚をいたし、確実な侍者をつけて、帰路に就かしむべきものと思う。それというのは、その方の朋友がその方に敵を見出すならば、彼は我ら一同の敵となるであろうが、その方に味方を見出すならば、また我ら一同の味方となるであろう。そして我らは彼を我らの間に来たらしめ、彼に会い、その話を聞いて悦び、彼と共に楽しく時を過ごすといたそう。かかる人物は放っておいてはならぬ。その寛仁から、我らは大いなる教訓と、その他数多の有益な事どもを得るであろう。」するとジャアファルは答えました、「仰せ承わるは、仰せに従うことでござりまする。」そこで彼はくだんの佳人のために、快適な園の中に大そう美しい家を用意させ、大勢の奴隷と侍者を仕えさせました。その上、絨緞や磁器やその他入用そうなあらゆる品々を届けました。けれども自分は一切その婦人のそばには立ち入らず、決して会おうとはしませんでした。そして毎日|挨拶《サラーム》を寄せ、帰国と従兄との再会について、安心させるような言葉を伝えさせました。その生活費としては、月々一千ディナールを仕送りました。ジャアファルと、教王《カリフ》と、轎《かご》の乙女のほうは、このようでございました。
ところがアタフのほうはと申しますると、事は全く別様になったのでございます。というのは、彼がジャアファルに別れを告げて、自分の道に戻りますとすぐに、彼を妬《ねた》むやから全部が、この事件に乗じて、ダマスの教王代理《ナーイブ》の心中に彼の身の破滅を企てたのでありました。彼らは教王代理《ナーイブ》に言いました、「おおわが殿よ、殿がアタフのほうにお目を向けないとは、解《げ》せぬこと。宰相《ワジール》ジャアファルは彼の友人であったことを、御存じないのですか。我らの配下一同が帰ってから、アタフは別れを告げるため宰相《ワジール》のあとを追い、カティファまで同行したことを、御存じないのですか。そのときジャアファルは彼に言ったのです、『何か私があなたの手に入れてさしあげられるようなもので、欲しいものはないかな、おおアタフよ。』するとアタフは答えて、『ええ、ちょっと欲しいものがあります。それはダマスの教王代理《ナーイブ》を罷めさせる教王《カリフ》の勅書です。』と、こう申したことを、御存じないのですか。これは二人の間で言われ、約束されたのです。だからこの際一番賢明なことは、彼が殿を夕食の食布《スフラ》に招く先手を打って、殿のほうから彼を朝食の食布《スフラ》に招くことです。それというのは、成功は機会の裡にあり、先んずれば人を制すです。」するとダマスの教王代理《ナーイブ》は彼らに答えました、「その言やよしじゃ。では直ちに彼をここに引っ立ててまいれ。」そこで彼らはアタフの家に出かけますと、アタフは誰かが何事かを自分に対して企《たく》らみ得ようなどとはつゆ知らず、静かに家で休んでいました。そして彼らは剣や棒を携えて、彼に躍りかかり、血まみれになるまで、彼を打ち据えました。それから教王代理《ナーイブ》の前に引きずって行きました。教王代理《ナーイブ》は彼の家の掠奪を命じました。それで彼の奴隷も、財宝も、家族全部も、暴徒どもの手に渡りました。アタフは訊ねました、「私の罪状は何だ。」彼らは答えました、「おお瀝青《チヤン》の顔よ、きさまはアッラー(その賞められよかし。)の正義をそんなに知らないのか、我らの殿様、我らの父親たるダマスの教王代理《ナーイブ》に事を企《たく》らんでからに、のほほんと自分の家で眠っていられる気でいやがるとは。」そして太刀取に即刻即座に彼の首を刎《は》ねよとの命令が下りました。そこで太刀取は彼の着物の端《はし》をちぎって、それで目隠しをしました。そしてすでに剣を首の上に振りあげたとき、そのとき、処刑に立ち会っていた首長《アミール》の一人が立ち上がって、言いました、「おお教王代理《ナーイブ》よ、この男の首を刎ねさせるのを、それほどおいそぎあるな。何となれば、せくことは悪魔《シヤイターン》の忠告、諺にも言っている、『己が心中に忍耐を抱く者のみ、よく目的を達す。これに反し、過ちはいそぐ者の業なり、』と。さればこの男の首については、いそぐをやめたまえ。というのは、ひょっとすると彼を悪く言った人々は、嘘《うそ》つきにすぎぬということもなしとしない。何ぴとも妬みをまぬがれぬもの。さればここは辛抱なされよ。或いはあとになって、不当に彼の生命を奪ったことを悔いなさることになるかも知れぬから。それに、万一|宰相《ワジール》ジャアファルが御自分の友人であり仲間である者に、殿が加えた待遇を御承知相成った節は、どのようなことになろうともはかり知れぬ。そうなっては、殿の頭《こうべ》はもはや双肩の上に安泰ではいられますまい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二夜になると[#「けれども第九百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ダマスの教王代理《ナーイブ》はこの言葉を聞くと、眠りから覚めて、手を挙げ、アタフの一命を脅やかす寸前の剣を、押しとどめました。そしてアタフをば単に投獄して、首に鎖をかけておくようにと命じました。そこで叫びと哀願にもかかわらず、彼は町の牢屋に引っ立てられ、命じられたところに従って、首に鎖をかけられました。そしてすべての夜とすべての日を、アタフは泣いて、アッラーを証人に立て、わが悲しみと不幸より救いたまわんことを懇願して過ごしました。彼はこのような工合に三カ月を暮らしました。
ところが夜々のうちの一夜、彼はふと目が覚めて、アッラーの御前に畏り、鎖の長さだけわが獄中を歩きまわりました。すると自分は獄中にただ独りきりで、前日彼にパンと水を持ってきた牢番は、出て行ったあと戸を閉めるのを忘れていたことを認めました。一条の微光がその半ば開いている戸から射しこんでいます。アタフはこれを見ると、俄かに筋肉が並々ならぬ力に膨れ上がるのを感じて、〔(14)それでアッラーの御空《みそら》の方角に眼をあげ、力を振り絞って、〕一ぺんに身を縛っている鎖を断ち切ってしまいました。それから手さぐりで、用心に用心を重ねつつ、眠り入る牢獄のこみ入った道を通って進み、ついに往来に通ずる扉そのものの前に出ました。片隅に吊るしてあるその扉の鍵は、苦もなく見つかりました。そこで全然音を立てずにその扉を開けて、往来に出て、夜にまぎれて逃げました。アッラーの暗闇は朝まで彼の身を護ってくれました。そして町の城門が開くとすぐに、民衆に入りまじって町の外に出て、アレッポを指して道をいそぎました。長い間歩いた末、恙《つつが》なくアレッポの町に到着すると、彼は中心の回教寺院《マスジツト》にはいりました。見るとそこには一群の外国人がいて、明らかに旅立とうとしている模様です。そこでどこに行くのか訊ねると、「バグダードへ、」という返事です。アタフはすぐに、「では私も御一緒に、」と叫ぶと、彼らは言いました、「われらの身は大地に属しているけれども、われらの糧《かて》はただアッラーのおそばにありまする。」そして彼らはアタフをまじえて出発しました。歩いて二十日たつと、クーファの町に達し、さらに旅をつづけて、とうとうバグダードに着きました。アタフは堅牢な建築物の都、かつは優美、かつは空に聳える壮麗な宮殿と好ましい庭園に富む都を見ました。またそこには識者と無知者、貧者と富者、善人と悪人とがおりました。彼は貧者の着物を着、汚れてちぎれた捲頭巾《ターバン》を頭上にかぶり、伸び放題の鬚と眼に垂れ下がる伸びすぎた髪をして、町にはいりました。まことに哀れな有様でございます。こうして彼は行き当った最初の寺院《マスジツト》の門を跨《また》ぎました。もう二日前から物を食べておりません。片隅に坐って、休みながら悲しく物思いに耽っていると、そこに、アッラーの門口に物乞いをする種類の浮浪者の一人が、寺院《マスジツト》にはいってきて、ちょうどその正面に来て坐りました。その男は肩にかけていた古い頭陀袋を肩からはずして、それを開け、中からパンと、次に若鶏と、次にまたパンと、次に砂糖煮と、次にオレンジ一個と、次にいくつかの橄欖《オリーヴ》の実と、次に棗椰子《なつめやし》の実のはいった菓子と、次に一本の胡瓜を取り出しました。お腹のすいたアタフは、わが眼で見、わが鼻で嗅ぎました。すると浮浪人は食べはじめ、アタフはその男が悠々とその食事を呑み下ろしている間、それを見つめはじめましたが、この食事はマリアムの子イーサー(15)(お二方の上に平安とアッラーの祝福あれかし。)の食膳そのもののように思えました。二日以来食べなかったばかりでなく、四カ月以来ろくろく物を食べていないアタフは、心のなかで独りごとを言いました、「アッラーにかけて、あのうまそうな若鶏の一と口でも、あのパンの一片でも、せめてあのおいしそうな胡瓜の一と切れでも、食いたいものだが。」そして彼のパンと若鶏と胡瓜に対する欲望は、その両眼の裡に強く輝きでたので、浮浪人はじっと彼を眺めました。アタフは極度の空腹のあまり、涙を流さずにいられませんでした。すると浮浪人はまじまじと彼を見つめながら頭を振り、口中一杯の御馳走の一と口を呑み下ろすと、口を切って言いました、「いったいどうしてお前は、おお汚ない鬚の親父よ、まるで主人の食っている食べ物を眼で欲しがる飢え犬や、外国人たちみたいな真似をするのか。アッラーの御庇護にかけて、たとえお前が涙を流して流して、ヤクサルト河、バクトロス河、ダジラー河、それにユーフラテス河、バスラの河、アンティオシュの河、また、オロンテス河とエジプトのナイル河、その上、塩からい海やありとあらゆる大海の深みまで、涙で一杯にしようと、この俺は俺の食っている物の一とかけだって、お前になんぞくれてやりはしないぞ。だが、もしお前が白い若鶏や、熱いパンや、柔らかい仔羊や、アッラーのあらゆる砂糖煮と菓子を食いたいというのなら、バルマク家のヤハヤーの子、大|宰相《ワジール》ジャアファル様のお屋敷の、門を叩きさえすればいいのだ。というのは、宰相《ワジール》様はダマスでアタフとかいう人の歓待を受けなすったので、その人の記念とその人に敬意を表するため、宰相《ワジール》様はこうしてひろく善根を施していなさるのだ。宰相《ワジール》様はその人のことを話さずには、起きも寝もなさらないのだ。」
こんなに御馳走を一杯詰めた頭陀袋を持った浮浪人の、この話を聞くと、アタフは天に眼をあげて言いました、「おお思し召し測り知れぬ汝よ、ここに汝は再びその下僕《しもべ》の上に御恵みを拡げたもう。」そして彼は次の詩句を誦しました。
[#この行2字下げ] 汝《な》が事紛糺せば、直ちにこれを創造主に委ね奉れよ。次に汝は己が労苦の傍らに坐して、汝が物思いに暇を出《いだ》して遠く放《はな》て。
次に彼は紙屋のところに行って、紙の切れ端を恵んでくれるように頼み、ほんの一筆書く間|蘆筆《カラーム》を貸してくれるように頼みました。商人は快く頼みを聞いてくれました。そこでアタフは次のように書きました。
[#この行1字下げ]「アッラーの知りたもう貴殿の兄弟アタフより。世界を領する者も、心|傲《おご》るなかれ。何となれば、いつの日か倒されて、その苦き天運と共に、ただ独り塵埃の中に止まるべければ。貴殿小生を見たもうとも、小生をば見分けたまわざるべし、貧苦と困窮のゆえに。何となれば、逆運と飢えと渇えと長旅は、わが身心を困憊の状態に到らしめたり。今や小生当地にたどり着きて、貴殿に再会す。願わくは平安貴殿と共にあれかし。」
次に彼は紙片を畳んで、厚く御礼を言いながら蘆筆《カラーム》を持ち主に返しました。そしてジャアファルの屋敷はどこにあるか訊ねました。場所を教えてもらうと、彼は足をとどめて、少しく距離を置いて、門前に立ち尽しました。すると門番たちは、彼がこうして立ったまま、一と言も言わないでいるのを見ましたが、彼らもまた彼に言葉をかけませんでした。こうした羽目に大そう当惑を覚えはじめますと、そこに立派な着物を着て金の帯を締めた一人の宦官が、そばを通りました。そこでアタフはその宦官のところに行って、その手を接吻してこれに言いました、「おおわが殿、アッラーの使徒(その上に祈りと平安あれ。)は仰せられました、『善行の仲介者はなお善行をなす者のごとく、善行をなす者は、天上のアッラーの至福者たちに属す、』と。」すると宦官は訊ねました、「お前は何が欲しいのか。」彼は言いました、「御好意を賜って、このお屋敷の御主人にこの紙片を届けて、『あなたの兄弟アタフが門口におります、』と、伝えていただきたいのでございます。」
宦官はこの言葉を聞くと、ひどく腹を立てて、眼が顔から飛び出し、怒鳴りました、「この図々しい嘘つきめ、きさまは宰相《ワジール》ジャアファル様の兄弟だと吐《ぬ》かしやがるのか。」そして金の石突きのついた棒を握った手で、アタフの顔をなぐりつけました。するとアタフの血がその顔から迸り出て、彼はそのまま地上に長く伸びてしまいました。何しろ疲れと飢えと涙でもう衰えきっておりましたので。けれども聖典《キターブ》に言われているように、「アッラーは或る奴隷たちの心中に悪意の本能を置きたまいしと同様、或る他の奴隷たちの心中に善意の本能を置きたまえり、」でございます。それですから、遠くからこの様を見ていた今一人の第二の宦官は、第一の宦官のただ今の仕打ちに対しては怒りと憤りに、アタフに対しては憐れみに溢れて、その宦官に近づきました。すると第一の宦官はこれに言いました、「こいつは宰相《ワジール》ジャアファル様の兄弟だと吐《ぬ》かしやがるのを、聞かなかったのか。」すると第二の宦官はそれに答えました、「おお意地悪の男よ、意地悪の息子よ、意地悪の奴隷よ。おお呪われた男、おお豚よ。それじゃジャアファルはわれらの預言者の一人ででもあるのか。宰相《ワジール》だってわれわれと同じく地の犬ではないか。あらゆる人間は、アダムとイヴを父母とする兄弟ではないか。詩人も言いはしなかったか。
[#この行2字下げ] 人々は比較的に言えば悉く兄弟なり。その父はアダムにして、母はイヴなり。
そしてちがいと言えばただ、心根の善良の多少にあるだけではないか。」
こう言って、その宦官はアタフの上にかがみこんで、彼を起して坐らせてやり、顔の上に流れる血をぬぐって、洗い落し、着物の塵を払ってやって、彼に訊ねました、「おおわが兄弟よ、あなたは何をお望みなのか。」アタフは答えました、「私はただこの紙片をジャアファル様に届けて、そのお手の間に渡していただきたいだけでございます。」すると親切な心を持った召使は、アタフの手からその紙をとって、大|宰相《ワジール》バルマク家のジャアファルのいる広間にはいりました。宰相《ワジール》は、或る者は右に、或る者は左に坐っている、配下の官吏や親戚や友人のまん中に坐っておりました。そして一同は酒を汲み、詩を誦し、琵琶《ウーデイ》と快い歌との音楽を楽しんでいました。宰相《ワジール》のジャアファルは杯を手にしながら、まわりの人々に言っているところでした、「おおお集りの皆さんよ、眼の前にいなくとも心の裡にいることを妨げはしない。私が兄弟アタフを考え、彼の噂をすることを、何ものも阻《はば》むことはできぬ。あれこそは当代当節随一の天晴れな男じゃ。彼は私に馬や、白人黒人の若い奴隷や、若い娘たちや、美しい布や、その他豪奢な品々をば、わが妻の結納と寡婦資産として十分なだけ、たっぷりと贈ってくれた。もし彼がこのようにしてくれなかったならば、私はたしかにすっかり参ってしまって、助かるすべなく身を亡ぼしてしまったことであろう。彼こそはわが恩人であった。しかも私が何者であるとも知らず、何ら利益とか利害とかの念なく、寛仁であったのだ。」
よい人物の召使は御主人のこの言葉を聞くと、心のなかで悦び、進み出て、御主人の前に首と頭を下げて、紙片をさしだしました。ジャアファルはそれを受けとって、一読すると、全く気が顛倒《てんとう》してしまい、まるで毒を飲んだ人のように見えました。自分が何をしているのか、何を言っているのか、もうわからない有様です。そして手にまだ水晶の杯と紙片を持ったまま、うつぶせにばったり倒れてしまいました。すると杯は微塵に砕けて、額をひどく傷つけました。血が流れて、紙片はその手から飛びました。
召使はこれを見ると、成行を恐れて、あわてて脚を風にまかせました。宰相《ワジール》ジャアファルの友人たちは主人を起して、血を止めました。そして叫びました、「至高全能のアッラーのほかには頼りも力もない。どうもああいう怪しからぬ召使どもは、いつも同じ悪い癖がある。奴らはせっかく王侯の楽しんでいなさる時にその生活を乱し、御機嫌よろしい折に邪魔を入れる。アッラーにかけて、この紙片を書いた奴はこれだけで、奉行《ワーリー》のところに引っ立てて、棒五百を加え、牢屋に放りこむだけのことがある。」
その結果、宰相《ワジール》の奴隷たちはこの紙片を書いた者を探しに外へ出ました。するとアタフは探すまでもなく、自分で「それは私です、おおわが御主人方よ、」と名乗り出ました。そこで一同彼を捉えて、奉行《ワーリー》の前に引っ立ててゆき、棒五百を要求しました。奉行《ワーリー》はそれを承知しました。その上さらに、牢屋の鎖に「終身刑」と記《しる》させました。彼らは仁者アタフに対し、このようにしたのでございます。そして改めて入牢申しつけ、彼は土牢に二カ月止まり、もう彼の行方は皆目わからなくなってしまいました。
さてその二カ月が経つと、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードにお子がお生まれになって、その機会に、一般に施し物を配り、すべての人に御祝儀を賜り、囚人は牢獄土牢から出してやるようにと、御命じになりました。こうして大赦《たいしや》を受けた人々のなかに、仁者アタフがおりました。
アタフは衰え、飢え、身体をこわし、裸で牢屋から放たれますと、彼は天を仰いで叫びました、「主《しゆ》よ、いかなる時にも汝の感謝せられよかし。」そして咽《むせ》び泣いて言いました、「私がこうしたすべての苦しみを受けるのは、きっと、過去において私の犯した何かの過ちのせいにちがいない。それというのはアッラーは私に最上の御恵みを垂れたもうたのに、私はこれに不従順と反抗をもって答え奉ったのだ。けれども私はアッラーにお許しを乞い奉る。私はあまりに放埓とわがいとわしい行状に耽ったのであるから。」次に彼は次の詩を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお神よ、礼拝者はなすべからざるところをなす。彼は憐れなる身にてただ思し召し次第の者なり。
生の快楽にあって、彼は己れを忘る。その無智ゆえに、彼の過ちを許したまえ。
[#ここで字下げ終わり]
彼はさらにいくらかの涙を流して、心中で独りごとを言いました、「さて今はどうしたものか。故郷に向って出発すれば、何しろ弱っているから、行き着く前に死んでしまうだろう。それに幸いにして行き着いたところで、教王代理《ナーイブ》がいるからには、わが一命は少しも安泰とはゆくまい。またこの地に止まって乞食の中にまじって、わが身も乞食をしながらいても、私を知っている者はいないのだから、乞食は誰も私を仲間に入れてはくれまい。それで私は自分自身にとって、何の助けにも足しにもなりはしまい。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百三夜になると[#「けれども第九百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……そういう次第なら、私は自分の運命の心配は運命の主《あるじ》におまかせするとしよう。ここに万事は我に利あらず、万事はわが期待に反した。詩人がこう言ったとき、その言や真なりだ。
[#ここから2字下げ]
おお友よ、我は東洋より西洋にかけて、世界をへめぐりぬ。わが遭遇せし一切は、ただ艱苦と疲労なり。
我は当代の人々と交われり。されど我は一人の快き友をも、わが同志をも、見出すことなかりき。」
[#ここで字下げ終わり]
そして改めて涙を流して叫びました、「おお神よ、私に忍耐の徳を授けたまえ。」そのあとで、彼は立ち上がって、回教寺院《マスジツト》のほうに向って、そこにはいりました。そして午後までそこにいました。するとひもじさがますます募ってきて、彼は言いました、「汝の大度と御《み》稜威《いつ》にかけて、主《しゆ》よ、私は誓い奉ります、あなた様以外の余人には一切物を乞いますまい。」そしてどんな信徒にも手をさし出さないで、夜になるまで寺院《マスジツト》におりました。夜になると、彼はこう言いながらそこを出ました、「私は預言者――その上にアッラーの祝福と平安あれ。――のお言葉を知っている。『アッラーは汝を聖殿に眠らせたもうであろう。さりながら、汝は聖殿を礼拝者に委《ゆだ》ねよ。何となれば聖殿は礼拝のためにあるものにして、睡眠のためにはあらず、』と、こう仰せられた。」そして彼はしばらく町々を歩いて、最後に荒廃した荒家《あばらや》に行き着いたので、そこで夜を過ごし、眠ろうと思ってはいりました。すると暗闇で、彼はつまずいてうつぶせにころびました。そしてちょうど自分をつまずかせたその障害物の上に、転んだような気がしました。見ると、それは今殺されたばかりの男の屍体でした。殺人の刀がそばの地上に落ちております。
アタフはこれを発見すると、あわてて立ち上がりましたが、その襤褸《ぼろ》は血に塗《まみ》れています。そして彼は身動きせず、茫然とそこに立ち尽していましたが、いったいどうすればよいかわからず、独りごとを言いました、「はて、ここにいたものか、それとも逃げたものか。」こうした有様でいるところに、奉行《ワーリー》とその配下の警察官たちが、たまたまこの廃址の入口の前を通りかかったので、アタフはこれに叫びかけました、「ここに来て見て下さい。」すると彼らは松明《たいまつ》を持ってはいってきて、被害者の屍体と、傍らに刀と、血に汚れた襤褸を着て、屍骸《しがい》の頭のところに立っている憐れなアタフとを見ました。そして一同彼に叫びました、「この不届者め、きさまがこの男を殺したのだな。」するとアタフは一と言も答えませんでした。そこで彼らは彼を捕え、奉行《ワーリー》は言いました、「この男を縛って、われわれが大|宰相《ワジール》ジャアファル閣下にこの件を報告するまで、土牢に放りこんでおけ。もしジャアファル閣下が死刑を御命じになったら、処刑するとしよう。」そして彼らは言ったとおりにいたしました。
果たして翌日、文書を担当している男は、ジャアファルに次のように認《したた》めた報告書を提出しました、「われらこと廃址に入りしところ、他人を殺害せる男に遭遇致し候。これに訊問せしところ、口を緘《かん》して、殺害犯人たることを承認致し候。仍《よ》って御命令を仰ぎ奉る。」すると宰相《ワジール》は死刑に処せと命じました。その結果、アタフは牢から引き出されて、絞首と斬首の行なわれる広場に引っ立てられ、着ている襤褸の端をちぎって、それで目隠しをされました。そして太刀取に引渡されました。太刀取は奉行《ワーリー》に訊ねました、「おおわが殿、この男の首を刎ねまするか。」奉行《ワーリー》は答えました、「首を刎ねよ。」そこで太刀取は研ぎ澄した太刀を振りまわすと、太刀はきらめいて、空中に火花を発しました。彼はそれをぐるりと振りかざし、すでに首を刎ねようと、前に下ろしたとき、突然その後ろから、一と声叫び声が聞えました、「その手をとめよ。」それは散歩から戻った大|宰相《ワジール》ジャアファルの声でした。
そこで奉行《ワーリー》は宰相《ワジール》をお迎えにゆき、その手の間の地を接吻しました。ジャアファルはこれに問いました、「なぜここにこのように大勢の人が集っているのか。」奉行《ワーリー》は答えました、「されば、ダマスの若い男の処刑のためでございます。昨日私どもが廃址で発見いたしました男ですが、私どもの三たび繰りかえしたあらゆる訊問に対して、身分高き被害者の殺人に関し、ただ口を緘して答えるのみでございました。」するとジャアファルは言いました、「ほほう、ダマスから当地までやってきた男が、そのような悪事を犯すというのか。|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、どうもあり得ないことじゃ。」そして宰相《ワジール》はその男を自分の前に連れてくるように命じました。その男が自分の手の間に来ると、ジャアファルはその男に見覚えがありませんでした。それというのは、アタフの顔付はすっかり変って、その美しい容貌も、立派な風采も、今は消え失せてしまっていたからです。そこでジャアファルはその男に訊ねました、「その方はどこの国の者か、おお若者よ。」その男は答えました、「私はダマスの者でございます。」ジャアファルは問いました、「町中《まちなか》の者か、それとも近隣の村の者か。」アタフは答えました、「|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、おおわが殿、ダマスの都そのものでございまして、私はその都に生まれました。」するとジャアファルは訊ねました、「その方はひょっとしてかの地で、その寛仁と掌《たなごころ》の広さで聞えた、アタフという人を、知ってはいないかな。」すると死刑囚は答えました、「私はその人を知りました、閣下がその人の御友人で、これこれの地区、これこれの街、これこれの家に、お泊り遊ばした時のこと、おおわが御主人様、お二人打ち連れて庭々に散歩にいらっしゃった時のこと。私はその人を知りました、閣下がその従妹《いとこ》の妻と結婚なさった時のこと。私はその人を知りました、お二人がバグダードの道で別れを告げ、同じ杯でお飲みになった時のことでございます。」するとジャアファルは答えました、「さよう、その方がアタフについて言うところは、全部その通りじゃ。しかし彼が余と別れてのちは、いかに相成ったか。」すると彼は答えました、「おおわが御主人様、彼は運命に迫害さるる身となり、これこれしかじかのことが起りました。」そして彼は、バグダードに到る道で一別した日から、太刀取がまさに首を刎ねようとした瞬間まで、わが身に起ったところ全部を話しました。そして次の詩を誦しました。
[#ここから2字下げ]
時は我をばその犠牲者とし、君は栄光の裡に暮らしたもう。狼ら我を啖《くら》わんとし、君や獅子にして、そこにいたもう。
およそ渇せる者来たれば、その渇は君によって医さる。わが渇するとはあり得るところならんや、君は常にわれらの避難所にてあるものを。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの詩を誦し終ると、彼は叫びました、「おおわが殿ジャアファルよ、私はあなたがわかります。」そしてさらに叫びました、「私はアタフです。」するとジャアファルのほうでも、一と声大きな叫びをあげて、すっくと立ち上がり、アタフの腕のなかに飛びこみました。両人の感激は甚だしく、しばらくは二人とも気を失ってしまいました。正気に返ると、二人は相抱き、互いに相手の身に起ったところを、始めから終りまで訊ね合いました。そして二人がまだ打ち明け話をお互いに終らないうちに、そこに大きな叫び声が聞えました。それで一同振りかえってみると、それは一人の老人《シヤイクー》の発した声で、老人《シヤイクー》は、「ここに起っていることは、決して人間らしいことではござらん、」と言いながら、進み出ました。よくその老人《シヤイクー》を見ると、これは鬚を指甲花《ヘンナ》で染めて、頭を青い手巾《ハンケチ》で包んだ年寄りでした。ジャアファルは老人《シヤイクー》を見ると、進み寄らせて、何事かと訊ねました。すると、鬚を紅く染めた老人《シヤイクー》は叫びました、「おお方々よ、無罪の仁を剣の下から遠ざけなされ。この罪はその仁の罪ではない。その仁は誰も殺したわけではないのだから。殺害された若者の屍体は、その仁の所業ではなく、その仁は全然無関係なのです。それというのは、殺人者というのはこのわし自身のほかにない。」そこで宰相《ワジール》のジャアファルはこれに言いました、「然らば、殺害したのはその方か。」老人《シヤイクー》は答えました、「さようでございます。」宰相《ワジール》は問いました、「なにゆえ殺害いたしたのか。その方は心中にアッラーへの畏れを抱かぬのか、かように身分高き子息、ハーシム家(16)の男を殺すとは。」すると老人《シヤイクー》は答えました、「皆様が屍体を御覧になったあの若者は、私の所有物でございまして、私はあれを手塩にかけて育てました。ところが毎日彼は私の金を持ち出して使い果たすのでした。然るにあれは私に一向忠実でありませず、或る時はシュームーシャグとかいう男、或る時はナギーシュとかいう男、またガシースとか、グーバールとか、グーシールとか、その他いろいろのならず者とばかり、遊び廻っております。そして私を放り出して、そういう連中と一緒に日々を遊び暮らしておりました。そして皆が私の面前で、あの男を手に入れたと自慢をする始末でした。汚穢屋のオディースとか、靴直しのアブー・ブートラーンのごときまでが、そんな有様です。そこで私の妬み心は日々募るばかり。私はいくらあれに説教してもだめ、そんな真似をすることを思い止まらせようと試みてもだめ、あれはどんな忠告も、どんな叱責も受けつけません。そのうちとうとう或る夜、私はあれが臓物商人シュームーシャグという男と一緒にいる、現場をつかまえました。これを見ると、世界はわが顔前で暗くなり、つかまえた現場の廃址で、あの男を殺してしまいました。こうして私はあの男のために受けたあらゆる悩みからのがれた次第でございます。以上が私の話でございます。」
次に老人《シヤイクー》は付け加えました、「私は今日まで口を緘しておりました。けれども罪人の代りに無辜の人が処刑されるということを聞きまして、私はわが秘密を黙ってはいられず、無辜の人を剣の下から救い出そうと思って、ここにまいった。私はこうして皆様方の前におります。どうかわが頸を斬って、生命に対しては生命をお取り下さい。しかしまずその罪のない若い方を放してあげて下さい。その仁はこの件に何の関係もないのですからな。」
ジャアファルはこの老人《シヤイクー》の言葉を聞くと、しばらく考えてから、言いました、「この情況はどうも疑わしい。そして疑わしいとあれば、手を引くのみじゃ。おお老人《シヤイクー》よ、アッラーの平安の裡に行け。その方の許されんことを。」そして老人《シヤイクー》を引きとらせました。
それがすむと、宰相《ワジール》はアタフの手をとって、改めてわが胸に抱きしめ、浴場《ハンマーム》に案内しました。そして衰えたアタフがひと休みして元気を回復したあとで、宰相《ワジール》は彼と一緒に教王《カリフ》の御殿に参上しました。宰相《ワジール》は教王《カリフ》の御許にまいって、御手の間の床に接吻して、申しました、「仁者アタフがまいりました、おお信徒の長《おさ》よ。ダマスにて私を客とし、数々の尊敬、厚意、寛仁をもって私を遇し、自分自身の魂よりも私を選んだ人物でございます。」するとアル・ラシードはおっしゃいました、「直ちにここに連れてまいれ。」そこでジャアファルは、衰え、疲れ、今なお感動に打ち震えているままの彼を、呼び入れました。しかしながらアタフは、申し分ない態度で、この上なく爽やかな言葉で、教王《カリフ》に敬意を表せずにはいませんでした。アル・ラシードはその姿を見て、嘆息をお洩らしになって、これにおっしゃいました、「その方を何という有様で見受けることじゃ、おお気の毒に。」アタフは泣きました。そしてアル・ラシードのおすすめに従って、彼は自分の身の上をのこらず、一部始終語りました。彼の話している間、アル・ラシードは、心痛するジャアファルと共に、お泣きになり、お胸を痛めなさいました。
こうしているうちに、そこに先刻ジャアファルに許された、鬚を染めた老人《シヤイクー》がはいってまいりました。教王《カリフ》はその姿を見ると、笑い出されました。
次に教王《カリフ》は仁者アタフに坐るようにおすすめになって、その話をさらに繰りかえさせなさいました。そしてアタフが語り終えると、教王《カリフ》はジャアファルを見やって、これに仰せられました、「おおジャアファルよ、その方は兄弟アタフのためにどうしてやるつもりか、申してみよ。」宰相《ワジール》は答えました、「まず私の血は彼のもので、私は彼の奴隷でございます。次には、私は彼のために、金貨三百万ディナールを入れた金箱と、またそれと同額だけの、血統正しい名馬、小童、黒人白人の奴隷、あらゆる国々の娘、その他あらゆる種類の豪奢な品々を、用意しておりまする。そして彼にはわれわれと一緒にいてもらって、われわれを悦ばせてもらいましょう。」そして付け加えました、「彼の従妹妻《いとこづま》につきましては、これは私と彼との間の事柄でございます。」
教王《カリフ》は今は二人の友を二人だけにしてやる時が到ったとおわかりになって、両人に退出をお許しになりました。そこでジャアファルはアタフをわが家に案内して、彼に言いました、「おおわが兄弟アタフよ、あなたを愛しているあなたの叔父の娘は、あのままにしてあって、我らの別れた日以来、私はその素顔を見たことがありませぬ。
そして今は私はあの方に対する思いを絶ち、あなたのために離婚しました。われわれの間の契約は解消しておきました。そこで私は、あなたが私の手の間に置いて下さった貴重なお預り物をば、元とそっくり同じ状態で、お返し申す次第です。」そしてそのとおりになりました。アタフと従妹《いとこ》とは、同じ情愛と同じ睦じさのうちに、再会いたしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百四夜になると[#「けれども第九百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、アタフのあらゆる苦難の張本人となった、あのダマスの教王代理《ナーイブ》はと申しますると、教王《カリフ》は密使をお遣わしになって、これを拘留し、厳重に鎖をかけて、土牢に投獄させなさいました。そして追って御沙汰あるまで入牢ということになりました。
アタフはバグダードで従妹《いとこ》のそばで、友のジャアファルのそばで、完全な幸福のうちに、またアル・ラシードの御昵懇《ごじつこん》を賜って、数カ月を過ごしました。彼はもう一生バグダードで過ごしたい気持がしきりでしたが、しかしダマスから、親戚と友人からの手紙が頻々と来て、ぜひ故国に戻ってくるようにと請われるので、やはり帰るのが自分の務めだと考えました。そこで教王《カリフ》の御同意を仰ぎに伺いますと、お心のこもった遺憾と嘆息なしではなく、御許可を賜りました。けれども彼に御好意の永く変らぬしるしを授けずには、彼を出発させたく思し召されず、そこで彼をばダマスの太守《ワーリー》に任じ、その職のあらゆる徽章を賜りました。そして見事な御下賜の品々を積んで、騎兵と牡騾馬と駱駝の護衛をつけて下さいました。こうして彼はダマスまで見送られました。
するとダマスの全市は、都の子ら中随一の寛仁な男アタフの帰国に際して、炬火《たいまつ》を点じ、飾りつけをいたしました。それというのは、アタフはあらゆる階級の人民から慕われ敬われ、とりわけ貧しい人々はずっと、彼の不在を心から悲しんでいたのでした。
ところで教王代理《ナーイブ》については、教王《カリフ》の第二の勅書が彼のために到着し、それはその不正のゆえに死刑に処すという御沙汰でした。けれども寛仁なアタフは、アル・ラシードの御許に取《と》り做《な》したので、教王《カリフ》はそこで死刑を減じて終生追放するにとどめなさいました。
さてあの教王《カリフ》を笑わせそして泣かせるような事柄を、教王《カリフ》がお読みになった「魔法の書」につきましては、これはもはや問題となりませんでした。それというのは、アル・ラシードは、宰相《ワジール》ジャアファルに再会なさったお悦びに気をとられて、もう過去のことは覚えていらっしゃらなかったのです。そしてジャアファルのほうでも、その本に書かれていることを推察することも、またそれを推察できる人間を見つけることも、全然不首尾に終ったので、そのことについて話題を向けることは固く慎しみました。それに、そのことを知っても格別何の益もないことでございます。それというのは、その時以来、すべての人は混りない幸福と平穏と友情と、また人生のあらゆる快楽の裡に暮らして、かの悦びの破壊者にして墳墓を建てるを好む者の到るまで、運命の主《あるじ》、唯一の生者、信徒に対しては慈悲深き御方によって、号令される者の到るまで、暮らしつづけたのでございますれば。
[#この行1字下げ] ――「これが、おお幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「ダマスの住人仁者アタフについて、話家たちのわれわれに伝えているところでございます。けれども彼の物語も、次にお話し申し上げようと取ってある物語には、遠くも近くも比べられるものではございません、もしわたくしの言葉がわが君の御心に少しも重く感じられるものでなかったならば。」するとシャハリヤールは答えた、「何を言うのか、おおシャハラザードよ。今の物語は余を教え、啓発し、反省させた。余は今や第一日のごとく、そちの言葉に耳傾けるつもりであるぞよ。」
[#改ページ]
金剛王子の華麗な物語(1)
[#この行1字下げ] するとシャハラザードは言った。
完全なる人びとの書物、貧しさのうちに手探りする人たちに己が叡智の宮殿を開いてやった学者と詩人たちの書物に、語り伝えられまするところでは、――さあれ、大空には、その栄光の御屋形《おんやかた》の天窓たる日輪を、天辺《てんぺん》には、その絶美の夜の御間《おんま》の炬火《たいまつ》たる暁《あかつき》を、置きたまいしと等しく、地にあっては、人間のうちの或る人びとに卓抜を授けたまいし御方《おんかた》、天には潤いある繻子《しゆす》の外套、地には燦《さん》たる緑の外套をまとわせたまいし御方、庭園をば樹木もて、樹木をば緑衣もて飾りたまいし御方、渇する者には水清らかの泉、酔う人びとには葡萄《ぶどう》の葉蔭、女人には美しさ、春には薔薇《ばら》、薔薇《ばら》には微笑、して、薔薇《ばら》を頌《たた》うるに、鶯《うぐいす》の歌喉《うたのど》を授けたまいし御方、男性の眼前に女性を置き、砂礫《されき》のただ中の宝石のごとく、人間の心中に欲情を置きたまいし御方に、数々の選りに選ったる讃《たた》えあれかし。――されば語り伝えられまするところでは、昔、大国のうちの或る王国に、一人の立派な王がおられ、その一歩一歩はことごとく至福、幸運と幸福を奴隷とし、公正の点ではアヌーシルヴァーン帝《ホスロー》(2)を凌ぎ、寛大の点ではハーティム・アッターイーを凌ぐのでございました。
さてこの額《ひたい》晴れやかな王は、御名をシャムス・シャーと申し上げましたが、王には、挙措雅《きよそみや》びやかで人の心を奪う魅力を備え、美貌の点では、海上に輝く際のカノプス星にも似た、一人の王子がございました。
「金剛石」と呼ばれるこの若い王子は、或る日のこと父王に会いに来て、申し上げるには、「おお父上様、私の魂は今日は都で暮らすのを悦ばず、私が狩と散策に出かけて共に気晴らしすることを望みまする。さもなくば、心|鬱《うつ》して、私はわが衣服を裾までも引き裂いてしまうことでしょう。」
シャムス・シャー王はこの王子の言葉をお聞きになると、王子を熱愛しておられることとて、とりいそぎその狩と散策のために必要な命令をお下しになりました。それで狩猟の司《つかさ》たちと鷹匠たちは鷹の用意をし、馬丁たちは山地用の馬に鞍を置きました。そして金剛王子は、逞ましい若者ぞろいの華やかな一群の先頭に立ち、憂晴《うさば》らしに狩をしようと思っている場所に向って、一同と共に進んだのでございます。
かくて勇ましいどよめきのうちに馬を駆っていると、ついに王子は、頂きが天に接する山の麓に着きました。その山の麓には、一本の大樹があり、その大樹の下に、泉が流れていて、その泉に、一頭の鹿が、首を水に近づけて水を飲んでおります。金剛王子はこれを見て躍り上がり、部下の者どもに駒をとめよと命じ、単身この獲物を追って捕えてくるからと申し渡しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百五夜になると[#「けれども第九百五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして王子はわが駿馬《しゆんめ》の全力を駆って、その美しい野獣めがけて突進しますと、野獣は己が生命《いのち》が一瞬にして危ういのを察して、一ととび大きく跳ね上がり、すばやく身をかわして難を避け、立ち直って足下に距離を無きものにして、野を一散に駈け出しました。金剛王子も疾駆の風に身をまかせ、武装の一隊から遠く離れて、沙漠のなかに鹿を追いました。そして砂と石を踏んで追跡をつづけているうちに、とうとう乗馬は泡だらけになって息を切らし、沙漠のなかで、乾いた舌をだらりと垂らしてしまいましたが、ここにはおよそアーダムの子の跡形もなければ、臭いもなく、あるものといえば、ただ「見えざる御方」のお姿ばかり。
さてちょうどそのとき、王子は視野をさえぎる砂丘の前に着いていて、その丘のうしろにさきの鹿が姿を消したのです。そこで絶望した金剛王子はその丘に登って、向う側の斜面の上に行き着いてみると、突如、全くちがった光景が眼前に展開するのが見えました。というのは、沙漠の無慈悲な乾燥とは打って変って、爽やかな緑地《オアシス》がかなたに、細流《せせらぎ》にところどころ断ち切られ、夕焼けと朝焼けに似た紅い花と白い花の自然の地域にかなたこなた飾られて、緑蔭の生を生きているのでした。それで王子は、さながらリズワーン(3)を翼ある番人とする楽園にあるかのごとく、魂がふくらみ、胸が拡まる思いでした。
金剛王子はわが創造主の見事な御業《みわざ》に見入り、馬に水を飲ませ、自分も緑地《オアシス》の甘露の水を手のひらで飲みおえると、身を起こして、仔細に事態を見極めようと眼差《まなざし》を回《めぐ》らしました。するとそこに、根はさだめし大地の内側の扉にまでもぐり入っているとおぼしい非常な老樹の蔭に、ぽつりとひとつの玉座が見えます。その玉座の上には、頭上に王冠をいただいて、素足でいる、年とった王が坐って、物思いに耽っています。そこで金剛王子はうやうやしく、挨拶《サラーム》をしながらこれに近よりますと、老王は挨拶《サラーム》を返して、言いました、「おお王者らの子よ、そもそもいかなるいわれから、御身は荒々しいこの沙漠を渡ってきなすったのか、ここでは鳥すらも翼を動かすこと能わず、猛獣の血も胆汁に変ずるものを。」そこで金剛王子は自分の冒険を語って、付け加えました、「さりながら、わが君、おお尊ぶべき王よ、君がこの荒涼に取り囲まれた風光のうちに滞在せらるるいわれを、伺わせていただけましょうか。それと申すも、君の御身の上話はさぞや不思議なるお話に相違ござりませぬゆえ。」すると老王は答えました、「いかにも、わが身の上話は不思議であり、奇怪なものじゃ。だがそれは甚だしきにすぐるゆえ、むしろ御身はわが口よりその物語を聞くを断念するに如《し》かぬ。さもなくば、そは御身にとって、涙と災厄《わざわい》の種ともなろうぞ。」けれども金剛王子は言いました、「お話し下さって仔細ありませぬ、おお尊者よ、私はわが母の乳に養われ、わが父の子でござりますれば。」そして自分の聞きたい物語を老王が意を決して話してくれるようにと、たってせがむのでした。
すると、樹の下の玉座に坐っていた老王は、言いました、「さらば、わが心臓の殻《から》より出で来たる言葉を聞かれよ。それらを拾い集めて、御身の衣の裾に入れなされよ。」そしてしばし首を垂れ、次に首をもたげて、次のように語りました。
「されば、おお御身若人よ、沙漠のただ中のこの一郭に来る前には、余はわが財宝と宮廷と軍隊と光栄のただ中に、バビルの地域を治めておった。そして至高のアッラーは――その讃《たた》えられよかし。――余に子孫として七人の王子を授けたまい、その子らはいずれも創造者を祝福し、わが心の悦びであった。そしてわが帝国で万事平和と繁栄のうちに打ち過ぎいたところ、一日、わが長子は隊商《キヤラバン》の駱駝御者の口から、シーンとマシーンの遠い地方に、タンムーズの子カームース王の息女で、モホラという絶世の姫がおるということを聞いた。その美の完全は新月の面《おもて》を黒くし、ユースフとズレイハ(4)も姫の前では、奴隷の耳輪をはめるという。一言にして申せば、姫は次の詩人の句に従って形づくられていたのじゃ。
[#ここから2字下げ]
そは人々の心を盗む美女、到るところ燦然として。
その髪の捲き毛は卓絶の園の甘松《かんしよう》にして、その頬は花咲ける薔薇。
その唇は同時に紅玉《ルビー》と氷砂糖とに相似たり。
その歯は驚くべき清らかさにして、怒りにあってすら、なお微笑《ほほえ》む。
そは人々の心を盗む美女、到るところ燦然として。
[#ここで字下げ終わり]
なおその御者はわが長子に、このカームース王にはその多幸な王女以外に子なき旨をも同じく伝えた。そしてその美の園の愛すべき若芽は、発生の春季に達し、蜜蜂がその花開いた身のほとりに群がりはじめたゆえ、世の習いに従い、求婚し夫として迎えられ得る年頃の若い王子をば全国より集めて、婿を選ぶことが緊急と相成った。しかしひとつだけ条件があって、すべて求婚者は姫の出す問に答えなければならぬという規定であった。その問というのは単に次のようなものじゃ。『松毬と糸杉との間の関係いかん[#「松毬と糸杉との間の関係いかん」に傍点]。』それが姫への寡婦資産として求婚者に要求せらるるすべてであったが、しかしこれには、何ぴとといえどもこの問に適切に答え得ぬ者は、首を斬られて、宮殿の尖塔に懸けらるるであろうという条項が付いていた。
さてわが長子は駱駝御者の口からかかる詳細を聞くと、その心臓は網で焼かれた肉のごとくに燃えた。そして暴風雨《あらし》の雲のごとく涙を垂れつつ、余の許に参った。そして呻きつつ、シーンとマシーンの国の姫を得る試みに行きたいからと、余に出発の許可を求めるのであった。余はこの狂気の沙汰の計画に極度に愕然として、極力かかる状態を治癒せんと努めたが甲斐なく、忠言の医薬も恋患らいの激しさには利《き》かなかった。そこで余はわが子に言った、『おお、わが眼の光よ、もしお前が、悲しみのあまり死なずには、モホラ姫の父、タンムーズの子カームース王の治める、シーンとマシーン地方に赴くを思いとどまることができぬというのならば、余もわが軍隊を率いて、お前と同行しよう。そしてもしカームース王がお前のために王女を余に与うるを快諾すれば、万事円満だが、さもなくば、アッラーにかけて、余は王の頭上に王宮の残骸を崩れ落させてやり、その王国を風に吹き飛ばさせてやろう。さすれば、その娘はかくてお前の虜《とりこ》となり、所有物《もちもの》となるであろう。』けれどもわが長子はこの計画が意に満たぬらしくて答えるに、『おお、我らの父上、説得によって我らに授けられぬものを、力ずくで取るということは、我らの品位にかかわります。されば私が自身出むいて所要の答をなし、かくして王女を手に入れるべきでございます。』
そこで余は常にもまして、いかなる被造物も天運の記《しる》すところを消すこと能わぬ、翼ある書記が人々の運命の書に書き入れた文句の、ただ一字すら消すこと能わぬことを痛感した。わが子の運勢のうちに、かくのごとく事が定められてあるを見ては、ついに出発の許可を与えたものの、数多《あまた》の嘆息なしとしなかった。それゆえ、長子は余に暇を告げて、己が運命を求めて出で立った。
かくてわが子はカームース王の治める奥深い地方に到着し、モホラ姫の住まう宮殿に出頭したが、おお異国の者よ、彼は先に話した問に、答えることができなかった。それで姫は容赦なくわが子の首を刎ねさせ、宮殿の尖塔に曝《さら》させた。余はこの報に接して、絶望のあらゆる涙を流した。そして喪服を着て、わが苦痛と共に四十日間、閉じこもった。わが側近も頭に塵をかぶった。我らは忍耐の衣を引き裂いた。全王宮に喪の叫喚と復活の騒音さながらの騒音が鳴りひびいたのであった。
そこにわが次子が、やはり兄のように、死の飲料を仰いで、余の胸に手ずから第二の悲しみの傷を負わせた。というのは、彼も長兄のように、同じ企てを試みんと欲した。続いて順ぐりに他の五人の子も、同様に死の道に向って旅立ち、恋の思いに殉じて亡びてしまった。
そこで余は、黒い天運によって癒《いや》しがたくさいなまれ、希望なき苦悩に打ち倒されて、領土とわが故国を棄て、宿命の路上をさまよいに出た。かくて余は夢遊病者のごとく、野と沙漠を横ぎった。そして見らるるように、頭上に王冠をいただき、裸足《はだし》にて、今いるこの一角に行き着き、この玉座の上にて死を待っている次第じゃ。」
――金剛王子はこの老王の話を聞くと、致命の感情の矢に傷つけられて、火花を発する恋の吐息を洩らしたのでした。それというのは、詩人もいうように、
[#ここから2字下げ]
恋は我が裡に忍び入れり、その姿も見ることなく、ただ耳より聞くのみにて。
しかして未知の恋人と我が心との間に、そも何ごとの起りしか、我は知らず。
[#ここで字下げ終わり]
緑野《オアシス》のなかの玉座に坐る旧《もと》のバビルの王と、その痛々しい身の上については、このような次第でございます。
金剛王子の狩の供の者どものほうでは、王子の行方不明になったことを大そう案じて、しばらくたつと、ついてくるなと命じられたにもかかわらず、王子を探しはじめて、やっと王子が緑野《オアシス》を出てくるところを見つけました。王子は悲しげに頭を胸の上に垂れ、顔は蒼白になっています。一同は蝶が薔薇《ばら》をかこむように、王子を取りまいて、代りの馬を差し出しましたが、それは足早く、身軽いこと微風のごとく、空想よりも速やかに駈ける駿馬でした。王子は最初の馬をお供の人たちに渡して、差し出された金色の鞍と真珠をちりばめた轡《くつわ》をつけた、馬に乗りました。そして一行つつがなく、金剛王子の父君シャムス・シャー王の宮殿に着きました。
王は、この散策と狩の結果、晴々とした顔と広々となった心を持つ王子の姿を見るとは思いのほか、見ればその顔色はすっかり変り、何やら黒い悲しみの大洋に沈んでいるのでした。それというのは、恋の思いが王子の骨まで貫き、王子を弱々しく力なくし、今ではその心臓と肝臓を衰え果てさせているのです。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百六夜になると[#「けれども第九百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで王は折入って願い頼んで、ようやく王子にその痛々しい有様の理由を打ち明ける決心をさせました。そしてこの隠れた道の面衣《ヴエール》が取り去られると、王は王子に接吻し、固く御胸に抱きしめて、仰せられました、「案ずることはない。お前の眼を爽やかにし、お前の大切な魂を鎮《しず》めよ。余はシーンとマシーンの地方を治める、タンムーズの子カームース王のもとに、余の親書を持たせて使節を派し、お前のために王女モホラに求婚してあげるからな。余は王に、高価なる衣服、価尊き宝玉、その他王者にふさわしきあらゆる色の進物の梱《こり》をば、多くの駱駝《らくだ》に積んで届けさせよう。して万一、王の生命にとって不幸にして、モホラ姫の父王が我らの乞いを容れず、かくして我らにとって屈辱と悲嘆の元手とならば、余はこれに荒廃の大軍をさしむけ、その王座を血のうちに覆し、その王冠を風に吹きとばさせるであろう。こうして我らは挙措麗わしき美女モホラをば、鄭重に連れてくるといたそう。」
金色の玉座の上で、シャムス・シャー王は、大臣《ワジール》、貴族《アミール》、法学者《ウラマー》の前で、王子金剛にこのように語りますと、一同うなずいてこの王のお言葉に同意しました。
ところが金剛王子は答えて、「おお世界の避難所よ、それはなりませぬ。むしろ私が自身赴いて、所要の答をいたしましょう。そして私独力の功によって、奇蹟の姫を連れてまいりましょう。」
シャムス・シャー王は王子のこの返事を聞くと、切ない呻きを発しなさって、仰せられました、「おお、お前の父親の魂よ、余は今日までお前ゆえに、わが眼の光とわが身体の生命《いのち》を保ってきた。お前こそわが老いたる王の心の唯一の慰めであり、わが額のただ一つの支えであるがゆえじゃ。いったいどうしてお前は余を棄てて、のがるる術《すべ》なき死のかたへと走ることができるのか。」そして王は王子の心を動かそうと、このようにかきくどきつづけるのでしたが、その甲斐はありません。結局、悲しみ内にこもって生命絶える王子を眼前に御覧になるまいとすれば、王子を思いのままに出発させないわけにゆきませんでした。
そこで金剛王子は妖精の動物のように立派な馬に乗って、カームース王国に到る道をとりました。父君母君はじめ御一家全部の方々は、絶望の揉手《もみて》をし、悲嘆の底なし井戸に沈められました。
さて金剛王子は宿場から宿場へと進み、王子に記された安泰のお蔭で、ついにカームース王国の奥深い都に到着しました。見れば自分は山よりも高い宮殿の正面におります。そしてその宮殿の尖塔には、王侯貴族の首が幾千となく、或いは冠をいただき、或いは露頭|蓬髪《ほうはつ》で、吊るされています。馬場《マイダーン》の広場には、金色のモスリンの幕の垂れた入口がある、金糸とシナ繻子《じゆす》の織物の天幕《テント》が、いくつも立っています。
こうしたすべてを眺めていると、金剛王子は、御殿の正門の上に、宝石をちりばめた太鼓が、撥《ばち》と一緒に吊り下がっているのを認めました。その太鼓の上には、金文字でこう書かれていました、「何ぴとなりと、王統の血を享けて、モホラ姫に会見希望の者は、この撥を以ってこの太鼓を打ち鳴らすべし。」そこで金剛王子は躊躇なく、馬から下りて、断乎としてくだんの城門のほうに進みました。そして宝石をちりばめた撥を取りあげ、力一杯、打ち鳴らす音は町中をふるわせるほど、太鼓を叩きました。
するとすぐに公事係《くじがかり》が現われて、王子をカームース王の許に案内しました。王はその美貌を見ると、心中惹きつけられて、この王子を死から救いたいと思いなさいました。そこでこれにおっしゃいました、「若い身空でかわいそうに、おお、わが息子よ。なぜその方は、わが姫の問に答え得なかったあのすべての人びとと同様に、一命を失うことを望むのか。このような企てをあきらめ、自分自身を憐れみ、わが侍従となるがよい。それというのは、全智のアッラーを除いては、何ぴとも神秘を知る者なく、若い娘の気まぐれな考えを説き明かすことなどできぬからな。」それでも金剛王子がどこまでも志をひるがえさないと、カームース王は更に王子におっしゃいました、「よく聞け、おお、わが子よ。東洋の地のかくも美貌の青年を、むざむざこの光栄なき死に陥らせるのを見るは、余として苦痛に耐えぬ。されば、致命の試練に直面するに先立って、三日の間熟慮し、その上で再び来たって、その方のたおやかな首《こうべ》を、その方の身体の領土から引き離すべき謁見を、求めることにしてもらいたいと思う。」そして王子に引き取るよう合図なさいました。
これには金剛王子もその日は王宮を出ないわけにゆきませんでした。そして暇つぶしに、王子は市場《スーク》と店々の間を歩きまわりはじめましたが、このシーンとマシーンの国の人たちはまことに如才なく、利口なように思えました。けれども王子は、ちょうど磁石が針を惹《ひ》きつけるように、自分を故国の奥から惹きよせた力の持ち主の住む住居のほうへと、逆らいがたく惹きよせられるのを覚えました。そして王宮の御苑の前に行き着き、もしもこの御苑に潜りこめたならば、きっと姫の姿を見られて、目でわが魂を満足させることができるだろうがと考えました。しかし諸方の門番につかまらずに中にはいるには、いったいどうしてよいかわからずにいると、そのとき、ひと筋の運河があって、その水が城壁の下をくぐって、御苑に注いでいるのを認めました。これならば水と一緒に庭にはいれるにちがいないと思いました。それゆえ、いきなりその運河に潜って、こうして王子は難なく御苑のなかにはいりました。そして遠く離れた場所にしばらく坐って、着物を日に干すことにしました。
やがて王子は立ち上がって、繁みの間をゆっくりと散歩しはじめました。細流《せせらぎ》の水に洗われているこの緑の庭を、王子は感嘆して眺めるのでした。地は祭日の富者のように飾られ、白薔薇は妹の紅薔薇にほほえみかけ、恋人の薔薇を慕う鶯の言葉は、優しい歌詞の美しい音楽のように、人の心を打ちます。花壇の花の臥床《ふしど》の上には、さまざまの美が姿を現わしています。薔薇の緋色《ひいろ》の上に滴たる露のしずくは、軽い辱しめを受けた良家の娘の涙のよう。果樹園では、小鳥が悦びに酔って、喉《のど》のすべての歌を歌っていると思うと、水際のまっすぐな糸杉の枝の間には、首に従順の首輪をつけた雉鳩《きじばと》がくうくうと鳴いています。要するに、いっさいが全く申し分なく美しく、イレム(5)の園とてこれにくらべれば、いばらの藪《やぶ》にすぎないでございましょう。
こうしてゆっくりと用心深く散歩しているうちに、金剛王子は突然並木道の曲り角の、白大理石の泉水の前に出ました。その泉水の縁《ふち》には絹の敷物が敷いてあって、その上に、休らう豹《ひよう》のように、ひとりの美しい乙女が無造作に坐っていました。その乙女の光で庭全体が輝くばかりの美しさです。その髪の捲き毛の香りは高く、天上まで届いて天女《フーリー》の頭脳を竜涎香で馨《かお》らせるばかりです。
金剛王子はこの多幸な乙女を見ては、水腫患者がユーフラテスの河水を倦きず飲むにも劣らず、見倦きることができなくて、このような美しさはひとりモホラ、あの数千の魂が焔に飛び入る蛾《が》のように身を犠牲にした乙女、モホラをおいて以外に授けられるはずはないと悟りました。
そこに、王子が恍惚として見入っているうち、モホラの侍女のうちの一人の若い娘が、王子の隠れている場所に近よってきて、手に持った黄金の杯に流れの水を満たそうとしました。ところが突然、娘はひと声恐怖の叫びをあげて、その金杯を水中に取り落してしまいました。そしてふるえながら、胸に手をあてて、仲間のところに走り戻りました。仲間の侍女たちはすぐにこれを御主人モホラのところに連れて行って、杯を水に落した粗忽の次第を、申し開きさせることにしました。
この若い娘は名を「珊瑚《さんご》の枝」と申しましたが、ようやく胸の鼓動をいささか抑えることができると、王女に言いました、「おお、わが頭上の冠、おお、わが御主人様、私が流れに身を傾けておりますと、にわかにそこにひとりの青年の若々しい顔が映っているのが見えまして、それは何とも美しい顔で、いったい魔神《ジン》の子の顔なのか人間の子のものなのか、わからないほどでございました。私は感動のあまり、つい金の杯を手から水中に取り落してしまいました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百七夜になると[#「けれども第九百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この「珊瑚《さんご》の枝」の言葉を聞くと、モホラ姫は、本当かどうかたしかめるため、もうひとり別の侍女に、すぐさま水をのぞきに行くよう命じました。そこですぐに二番目の若い娘が流れのほうに駈け寄って、水中に麗《うる》わしい顔が映っているのを見ると、胸が燃え、恋慕の情に呻きながら、走って女主人に言いにもどりました、「おお、私たちの御主人モホラ様、わかりませんけれど、あの水中の姿はきっと、天使の姿か魔神《ジン》の子の姿です。でなければひょっとすると、月が流れのなかに下りたのかも知れません。」
この侍女の言葉に、モホラ姫は好奇心の熾火《おきび》が魂のなかで火花を放つのを感じ、自分自身で見たい望みが胸のなかにきざしました。そこで愛らしい足の上に立ち上がり、孔雀《くじやく》のように誇らしげに、流れのほうに向いました。そして金剛王子の姿を見ました。真青《まつさお》になり、恋の餌食と相成ったのでございます。
早くもよろめいて侍女たちに支えられながら、姫はさっそく乳母を呼び出して、言いました、「行って、おお乳母《ばあや》よ、水に顔が映っているあの人を連れてきておくれ。さもないと私は死んでしまいます。」乳母は仰せ承わり畏まって、四方に目を配りながら、立ち去りました。
しばらくたつと、乳母の目はとうとう、身体うるわしい王子、太陽の面《おもて》を持つ若者、星々も妬《ねた》む若人の隠れている一隅に、とまりました。一方美貌の王子のほうでは、自分が見つけられたのを見て、わが一命を救うため、狂気を装おうと、急に思いつきました。
ですから、蝶の翼にふれるとき気をつけるあらゆる用心をこめて、乳母が青年の手をとって、無双の御主人の前に連れてゆくと、この太陽の面《おもて》を持つ青年、この身体うるわしい王子は、阿呆のように笑い出し、言い出しました。「ひもじいけれども、食いたかないや。」またこんなことも、「蠅変じて水牛となる。」またこんなことも、「綿の山、水によって土となったぞ。」それから白眼《しろめ》を出して、こんなことも言いました、「蝋が雪の作用で溶けちゃった。駱駝が炭を食っちゃって、鼠が猫を食ったとさ。」そして付け加えて、「余人ではないこのおれさまは、誰かれなしに食っちゃうぞ。」こんな風に、上下|顛倒《てんとう》前後あべこべの言葉を、べらべらと息もつかずにまくし立て続けたので、とうとう姫もこれは狂気にちがいないと思いこんでしまいました。
そこで、姫はもう王子の美しさに見とれるだけの時間があったので、胸の中で感動し、心の中で動揺させられ、悲しみにあふれつつ、侍女たちのほうを向きながら、言いました、「ああ、何という残念なことでしょう。」そしてこの言葉を言い出しながら、心を掻き立てられ、まるで半殺しにされた雛《ひよこ》のように、そわそわして身を動かすのでした。それというのは、生まれてはじめて、恋が姫の胸中にはいって、例の利き目を発揮したからです。
さて、しばらくたつとようやく、姫は若者に見入るのをやめることができて、悲しげにおつきの女たちに言いました、「この若者は精神に魔物《ジン》が住みついているせいで、気がちがっているのは、おわかりでしょう。皆も知ってのとおり、アッラーの狂人たちは大へんな聖人で、いったい聖人たちを敬わないのは、アッラーの存在を疑ったり、コーランが神様から出ていることを疑ったりするのと同じくらい、容易ならぬことです。ですからこの青年は、全く自由にここに置いてあげて、好きなように暮らし、したいことをさせてあげなければなりません。どうか誰もこの人の気に逆らったり、欲しいことや頼むことを、ことわったりなどしないように。」次に姫は、この青年を聖者《サントン》と心得て、彼のほうに向き、敬神の気持をもってその手に接吻しながら、言いました、「おお尊い聖者《サントン》様、何とぞあなた様のお住居としてこの庭を選び、庭に御覧遊ばすあの離れ家をお使い下さいますように。御入用のものはすべて用意いたしますほどに。」すると、自分自身の眼を持った金剛王子その人である若い聖者《サントン》は、両眼を大きく見開いて、答えました、「入用だと。入用、入用か。」そして付け加えました、「何もいらん、何もいらん、何もいらん。」
するとモホラ姫は最後に今一度王子の前に身をかがめて、おつきと年とった乳母を従え、感銘を受け悄然として立ち去りました。
事実、この若い聖者《サントン》は、その時からあらゆる種類の尊敬と細かい配慮に取りまかれました。住居として譲られた離れ家は、モホラの女奴隷のうち最も忠実な女たちにかしずかれ、朝から晩まで、あらゆる種類の御馳走とあらゆる色の果物の砂糖煮《ジヤム》を盛り上げた盆が、所狭く届けられました。この青年の聖徳は王宮全体に感化を与え、皆先を争って、彼の踏んだ地を掃き清め、彼の食事の残りとか、爪の切り屑とか、その他何かそういったものをば、拾い集めて、お守りにするといった工合でした。
さて日々のうちの或る日のこと、「珊瑚の枝」と呼ばれて、モホラ姫のお気に入りであった例の若い娘が、若い聖者《サントン》がひとりきりでいるところにはいってきて、興奮して真青《まつさお》になり、ふるえながら近づいて、彼の足許につつましく頭を置き、溜息と呻き声を洩らしながら、言うのでした、「おおわが頭上の冠、おお完全の御主人様、あなたを際立たせる美しさの御《おん》作者、至高のアッラーは、あなたの御同意さえあれば、このわたくしの仲立ちで、もっとあなたの御身のためを計らって下さいますでしょう。あなたのためにふるえるわたくしの心は打ち沈み、慕わしさに蝋のように融けてしまいます。あなたの眼差《まなざし》の矢が心を貫き、恋の投槍が突き刺さったからですの。どうぞ後生ですから、あなたがいったいどなたで、どうしてこのお庭にいらっしゃったのか、おっしゃって下さいまし。あなたをもっとよく知って、もっとお役に立ちたいものと存じますから。」けれども金剛王子は、これは何かモホラ姫のたくらみではないかと危ぶんで、若い娘の頼み入る言葉にも、燃える眼差《まなざし》にも動かされず、やはり精神が実際に魔神《ジン》の支配の下にある人たちのするように、しゃべりつづけました。すると珊瑚《さんご》の枝は呻き、溜息しつつ、ちょうど夜の蝶が焔のまわりを廻るように、若者に哀願してはそのまわりを廻りつづけました。それでも若者は見当ちがいの返事をして、相変らず本心を洩らさないでいると、娘はとうとうこう言いました、「御身の上なるアッラーにかけ、また預言者にかけて、どうか御心《みこころ》の扇を開き、あなたの秘密を私のほうにあおぎよせて下さいませ。隠れた秘密をお持ちのことは、もう疑いないのですから。この私の心は、閉《し》めたあとで鍵のなくなってしまう手箱です。ですから、もうあなたのためにこの手箱のなかにしまってある愛の思いに免じて、安心して早く私におっしゃって下さいませ。きっと私におっしゃりたいことがおありのはずです。」
金剛王子は好ましい珊瑚《さんご》の枝のこの言葉を聞くと、この言葉には愛の香が感じられ、してみるとこの好ましい娘に、事態を説明しても何の不都合もないと信じました。そこでしばらく言葉なく、じっと若い娘を見つめ、次に自分もほほ笑み、心の扇を開いて、これに言いました、「おお好ましい娘よ、私がさんざん艱難《かんなん》を忍び、大きな危険を冒したあげく、ここまで来たというのは、ほかでもない。それはひとえに、モホラ姫の問、即ち、『松毬《まつかさ》と糸杉の間の関係いかん』というあの問に、答えたい望みからなのだ。だから、おお思いやり深い娘よ、もしあなたがこの難問に対して然るべき正解を知っているならば、どうぞ教えてもらいたい。そうすれば私の心もあなたのためにあわれを催すだろう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百八夜になると[#「けれども第九百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして王子は言い足しました、「それを疑ってはならない。」すると珊瑚《さんご》の枝は答えました、「おお天晴《あつぱ》れの若人よ、いかにも、わたくしは御心《みこころ》の若鹿のあわれを疑いはいたしませぬ。けれども、もしその難題についてわたくしに答えさせたいとお思いならば、まずあなたはこのわたくしを妻に迎え、お国で、お父君の御殿の婦人方全部の筆頭に、わたくしを据えて下さることを、わたくしたちの信仰の真理にかけて、約束して下さいませ。」すると金剛王子は若い娘の手をとって接吻し、婚礼と所望の身分を約束しながら、その手をわが心臓の上にあてました。
若い珊瑚《さんご》の枝はこの金剛王子の約束と保証を得ると、嬉しさと満足に身をふるわして、王子に言いました、「おお、わたくしの生命《いのち》の資本《もとで》よ、お聞き下さい、実はモホラ姫の象牙の寝床の下には一人の黒い(6)黒人がいるのです。この黒人は自分の国、ワーカークの町から逃げてきて、そこに住居を定めたのですが、それは姫君以外誰一人知るものがございません。ところが、わたくしたちの姫君をそそのかして、方々の王様の王子様方にあの難題を吹きかけさせたのは、まさにこの災いの黒人なのです。それでもしもあなたがこの問題の正解を知りたいとおっしゃるならば、その黒人の都、つまりワーカークの町に、いらっしゃらなければなりません。この秘密があなたに明らかになるには、これを措いて外に法がございません。松毬《まつかさ》と糸杉との間の関係について、わたくしの知っていることはといえば、これが全部です。けれどもアッラーはさらに多くを知りたまいまする。」
金剛王子は珊瑚《さんご》の枝の口からこの言葉を聞くと、心中独りごとを言いました、「おお、わが心よ、いったいどんな光明が神秘の幕《とばり》のうしろからわれわれの許に現われてくるかを見るには、もう少し辛抱しなければなるまいよ。というのは、今のところ、おお、わが心よ、お前はその黒人の都、つまりワーカークの町で、お前を悩ます多くのつらい目に遭《あ》わなければならないに相違ないからな。」次に王子は若い娘のほうに向いて、言いました、「おお、助けを好む娘よ、いかにも、私はその黒人の都というワーカークの町に行って、問題の神秘を見きわめない間は、休息は自分に禁じられたものと心得る次第だ。しかし、もしアッラーが私に安泰を許したまい、求める結果を得させたもうたならば、その時は私はお前の望みを果たしてあげよう。それが叶わずば、私はもう復活の日まで、頭を上げないでもよい。」
こう語り終ると、金剛王子は溜息の女、呻きの女、咽《むせ》び泣きの女、珊瑚の枝に別れを告げ、胸の張り裂ける思いで、誰にも見つからずにこの御苑を出て、前に旅の荷物をあずけた隊商宿《カーン》に向い、それから妖精の動物のように立派な馬に乗って、アッラーの路上へと出たのでした。
けれども王子は、ワーカークの町というのがいったいどの方角にあるのか、そこに行き着くにはどの道をとればよいか、どこを通って行けば着けるのか、皆目知らなかったのです。そこで何かわからせてくれるような手がかりがないかと頭をめぐらしはじめると、ちょうどそのとき、緑衣をまとい、足に淡黄色の皮の草履《バーブジ》をはいた一人の修道僧《ダルウイーシユ》の姿を認めました。手には杖を持ち、地獄の生命の泉の番人ヒズルさながらといえるほど、輝かしい顔と物事に明るい精神を持っている様子で、王子のほうに進んできます。そこで金剛王子はこの尊ぶべき修道僧《ダルウイーシユ》ののそばに行き、馬から下りて挨拶《サラーム》をして近づきました。修道僧《ダルウイーシユ》も挨拶《サラーム》を返してくれたので、王子はこれに尋ねました、「いずれの方角に、おお尊者よ、ワーカークの町がございましょうか。そしてそれはどのくらいの距離のところにありましょうか。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は一と時の間しげしげと王子を見てから、言いました、「おお王者らの子よ、出口のない道、恐ろしい路に踏み入ることはやめなされ。狂気の企てを棄て、全然別な配慮に心を用いるがよい。何となれば、たとえお前が一生の間その道を探して首を回《めぐ》らしていたとて、その跡形も見つかりはしまいからな。且つ、ワーカークの町に行こうと望むのは、お前の生存と大切な生命をば、死の風にゆだねるわけじゃ。」けれども金剛王子は答えました、「おお敬すべく尊ばるる長老《シヤイクー》よ、私の用件は重大な用件でございまして、私の目的はまことに重要な目的ゆえ、それを思い切るくらいならば、むしろ私の一命ごときは千も犠牲にするほうが好ましい次第。さればもしあなた様がその道について何ごとか御存じでいらっしゃったら、番人ヒズルのように、私の案内者になって下さいまし。」
修道僧《ダルウイーシユ》はあらゆる種類の有益な忠告を与えつづけても、金剛王子が頑としてその考えを断念しないのを見ると、こう言いました、「おお祝福された若者よ、聞くがよい。ワーカークの町はカーフ山(7)の中心にある。内にも外にも、魔神《ジン》、悪鬼《マーリド》、鬼神《アフアリート》の住まうあの山じゃ。そこに至るには三つの道がある。右の道と左の道と中央の道だ。しかしその右の道を行かなくてはならぬので、左の道はいかん、中央の道をとろうと試みてはならぬと同様にな。且つまた、お前は一日一夜旅をして、真の暁《あかつき》が現われると、一基の光塔《マナーラ》があって、その上にクーファ書体(8)で書いた碑銘のついた大理石板が掲げてあるのを見るであろう。その碑銘こそ正に読まねばならぬもの。そしてそれに基づいて、お前は身の振り方を定めなければならぬのじゃ。」
そこで金剛王子はその老人《シヤイクー》にお礼を述べて、手に接吻しました。次に再び自分の馬に乗って、ワーカークの町に自分を導くはずの、右の道をとりました。
そしてその道を一日一夜進むと、修道僧《ダルウイーシユ》のいう光塔《マナーラ》の麓に着きました。その光塔《マナーラ》は碧《あお》い大空ほども大きいものでした。そこにはクーファ書体を刻んだ大理石板がはめこんであります。その文字は次のように読めました、「おお通行者よ、今汝の前にある三筋の道はすべてワーカーク国に至るものなり。汝もし左の道をとらば、数多の煩いに遭わん。右の道をとらば、悔ゆるところあるべし。しかして中央の道をとらば、まことに恐るべきものあらん。」
この碑銘を判読して、全部の意味がわかると、金剛王子は一と握りの土を取りあげて、それを着物の合せ目のなかに投げこんで、言いました、「この身がたとえ塵芥《ちりあくた》となるとも、願わくは目的にたどりつくように。」そして再び鞍《くら》に乗り、躊躇なく、三筋の道のうち一番危険な、中央の道をとりました。そして断乎として一日一夜進みました。朝になると、広々とした地が見えてきて、そこは枝が天まで届くほどの木々に覆われています。その木々は垣根のように連なっていて、青々とした庭を仕切り、荒い風を避けています。そしてその庭の門は一塊の花崗岩で閉じられていました。そこには、この門と庭の番をする一人の黒人がいましたが、その黒い顔ときたら、庭全体に黒い色合いを投げ、月のない夜はその闇を、この黒人から借りるというほどです。それにこの瀝青《チヤン》の産物はとほうもない大男。上唇は茄子《なす》形をして鼻の孔のずっと先のほうまで延び上がり、下唇は首まで垂れ下っています。胸の上には粉|挽《ひ》きの挽臼《ひきうす》をつけて、それが楯代りになり、シナの鉄の剣を帯に結びつけているが、その帯というのは、ひどく太い鉄の鎖で、その鉄環のひとつびとつを、軍用の象が楽々とくぐり抜けられそうです。そのときこの黒人は獣の皮の上に長々と寝そべっていて、大きくあいた口から、雷の息子のような鼾《いびき》が洩れていました。
だが金剛王子は心おじる様子もなく、地に下り立ち、馬の手綱を黒人の頭近くに結びつけると、花崗岩の門を跨《また》いで、庭のなかにはいりました。
その庭の空気は大そうよろしく、木々の枝は酔った人たちのように揺らいでいました。そして木々の下には、大きな鹿が草を食《は》んでいるが、それらは皆各自の角《つの》に、宝石のついた金の飾りを結びつけ、刺繍《ししゆう》した着物で背中を包まれ、錦の手巾《ハンケチ》が首に結《いわ》かれていました。そしてその鹿全部が、前脚と後脚でもって、また眼と眉毛でもって、金剛王子に向ってあからさまに、はいるなという合図をしはじめました。けれども王子はそんな注意に頓着せず、むしろこれらの鹿は、自分を迎えて悦んでいる気持をよりよく示すために、こんな風に眼や眉毛や四肢を動かしているにすぎないのだと考え、落着いてこの庭の並木道をあちこち廻りはじめたのでした。
こうして散歩をしているうちに、王子は最後に、|トルコ皇帝《ケスラ》や|ビザンチン皇帝《カイサル》帝の宮殿も及ばぬほどの宮殿に行き着きました。その宮殿の扉は恋人の眼のように半ば開いていました。そしてその扉の隙間から、若い乙女の愛らしい首がのぞいていましたが、それは仙女のようで、新月を妬《ねた》みで身悶えさせるばかりです。水仙の眼を恥じさせるような眼を持ったその小さな首は、微笑を浮べながら、あちこち見廻しておりました。
さて乙女は金剛王子を見つけるとすぐに、その美貌に驚き入ると同時に、心を奪われてしまいました。しばらくそういう有様でいましたが、やがて乙女は挨拶《サラーム》を返して、王子に言いました、「どなたですの、おお大胆不敵な若者よ、鳥もあえて翼を動かさないこの庭に、ことわりもなく入りこむとは。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百九夜になると[#「けれども第九百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その名をラティファといい、当代の不穏の種となっているほどにも美しいこの若い女は、金剛王子にこう言ったのでございます。すると金剛王子は乙女の手の間の地まで頭を下げて、再び身を起こすと、答えました、「おお完全の園の若芽、おおわが御主人よ、私ことは某の子、某、これこれしかじかのことにてこのところにまいりました。」そして王子は自分の身の上を一部始終、細大洩らさず語りました。しかしそれは繰り返すまでもございません。
ラティファは王子の話を聞くと、その手をとって、入口の葡萄《ぶどう》の蔓《つる》の下にのべた敷物の上に、自分とならんで坐らせました。次に優しい言葉を使いながら、王子に言いました、「おお美の園の放浪の糸杉よ、お若い身空で何という残念なことでしょう。」次に言います、「おお、困ったお考えだこと。おお、実行困難なもくろみ、おお、危ないわ。」さらに言いました、「もし大切な魂を惜しみなさるなら、そんなことはあきらめなければなりません。いっそわたくしと一緒にここに止まって、祝福されたお手をわたくしの欲情《のぞみ》の首にからませなさいまし。それというのも、わたくしのように、仙女の顔を持った美人と契《ちぎ》ることは、未知のものを探すよりももっと望ましいことですもの。」けれども金剛王子は答えて、「私がワーカークの町に出かけて、質問の課題、すなわち、『松毬《まつかさ》と糸杉との間の関係いかん、』というのを解かない間は、快楽と幸福は私に禁じられているのです。けれども、おお魅力に富むお方よ、私が自分のもくろみを果たした暁には、私はあなたをめとって、契りの首輪をあなたの欲情《のぞみ》の首にかけましょう。」するとラティファは溜息をついて言いました、「おお、見放された心よ。」それから乙女は薔薇の頬持つ酌人たちに、進み出るよう合図をしました。そして日月もこれを見て驚くような、波打つ髪は恋人たちの心に思わず知らず断腸の思いをさせるような、乙女たちを呼び寄せました。それから一同、美しい珍客を迎えるために、音楽と歌のただ中に、歓迎の杯を廻しました。女たちの快さは音楽と歌の快さと相俟って、開かれているも閉ざされているもなく、人びとの心を魅し、うっとりとさせました。
ところで、杯を乾し終えると、金剛王子はつと立ち上がって、乙女に暇《いとま》を告げることにしました。祈願と感謝の言葉を述べてから、王子は言いました、「おお世界の女王よ、今は私はお暇を乞いたく存じます。御承知のごとく、私の踏破しなければならぬ道は長く、もしも私が一刻もこれ以上ここに止まりますれば、あなたの愛の火は私の魂の収穫物のなかに、焔を投ずるでござりましょうゆえに。けれども、もしアッラーの思し召しあらば、私の計画成就ののち、私は再びここに、欲情《のぞみ》の薔薇を摘み、わが渇した心の渇をいやしに戻ってまいりましょう。」
乙女は自分が心を燃やしている金剛王子が、あくまで立ち去る決心を翻さぬと見ると、自分も同じくすっくと立ち上がって、蛇の形をした一本の杖を掴み、その上に何かわからない言葉で二言三言《ふたことみこと》唱えました。そしてやにわに杖を振って、王子の肩を激しく打ったので、王子は三度きりきり舞いをして、地上に倒れたと思うと、そのまま人間の形を失ってしまいました。そして鹿どもの間の一匹の鹿に変ってしまいました。
するとすぐにラティファはその角《つの》に、ほかの鹿のつけていると同じ飾りをつけ、首に刺繍をした絹の手巾《ハンケチ》を結んで、「お前は仲間のなかにお行き。お前は仙女の顔を持った美人をはねつけたのだからね、」と叫びながら、これを庭に放ちました。鹿の金剛王子は四足《よつあし》で立ち去りました。形こそは動物ですが、内側の性質と感じは、アーダムの子たちと同じままで。
こうして四足で、やはり自分のように、変形《へんぎよう》されたほかの動物たちのさまよっている並木道の間を歩きながら、鹿の金剛王子は、わが身に振りかかった新しい事態と、再び身の自由を取り戻して、この魔法使の女の手からのがれる工夫とについて、思案を凝らしはじめました。こうしてうろついているうちに、庭の一角で、壁がほかのどこよりもきわ立って低い場所に、行き着きました。それで、わが魂を運命の主《あるじ》のほうに高めてから、身を翻して、一と飛びで、その壁を飛び越えました。けれども、まるで壁を飛び越えたことなど嘘のように、相変らず同じ庭の中にいることに気づくのに、永くはかかりませんでした。そこでこれは魔法の利き目のつづきというよりほか考えられませんでした。それに、続けて七度、同じ工合に壁を躍り越えてみたのですが、やはり変った結果はなく、いつでも同じ場所にいるだけのことです。こうなっては、王子の困惑はその極に達し、焦慮の汗が蹄から滲み出ました。そして閉じこめられた獅子のするように、壁伝いに行ったり来たりしはじめていると、そのうちにふと、壁にあけた窓形の抜け穴の前に出ました。前にはそれが目に見えなかったのです。そこでその抜け穴のなかにもぐり入って、さんざん骨を折ったあげく、こんどこそ庭の囲いの外に抜け出しました。
そして王子は二番目の庭に出たのですが、そこのよい匂いは頭脳を香《かお》らせます。その庭の並木道のはずれに、御殿が現われました。その御殿の或る窓辺に、チューリップのような薄色の、若く愛らしい顔が見えました。その瞳はシナの羚羊《かもしか》の羨望《ねたみ》を掻き立てたことでしょう。琥珀色《こはくいろ》のその髪は、太陽のすべての光線をつなぎとめたもの、その顔色はペルシャの素馨《そけい》です。その乙女は首をもたげて、金剛王子のほうにほほ笑みかけていました。
さて鹿の金剛王子がその窓のすぐそばまで寄ってくると、その乙女はあわてて立ち上がり、庭に下りました。そして草の束をいくつか引き抜いて、さながら鹿を馴らし、自分が近づいても逃げないようにするかのように、舌を鳴らしながら、遠くからごくやさしくその束を差し出しました。鹿の金剛王子は、この第二の事件はいったいどういうことなのか、わけがわかればこれに越したことはないと思っていたところですから、これ幸いと、飢えた動物みたいに走りながら、乙女に近づきました。するとすぐに、ガミラといって、ラティファの異母妹にあたるその乙女は、鹿の王子の首についている絹の紐を捉えて、それを牽き綱代りにして、王子を御殿のなかに牽いてゆきました。そしていそいで鹿に結構な果物と飲み物を出してやりました。鹿は満腹するまで、飲み食いしました。
それがすむと、鹿は首を傾《かし》げて、乙女の肩の上にのせ、涙を流しはじめました。ガミラはこんな風にこの鹿の眼から涙が流れるのを見て、大変びっくりして、柔らかな手でやさしく鹿を撫でてやりました。鹿は不憫《ふびん》がられているのを感ずると、頭を乙女の足許に置き、さらにひどく泣きはじめました。すると乙女はこれに言いました、「おお、私のかわいい鹿よ、どうして泣くの。私は自分よりもお前がかわいいのよ。」けれども鹿はますます激しく泣き、涙を流して、やさしく憐れみ深いガミラの足に、頭をこすりつけるので、こんどはガミラも、この鹿は自分を人間の形に戻してくれと哀願しているのだということが、疑う余地なくわかったのでした。
そこで彼女は、姉の魔術師ラティファを非常に恐れていたにもかかわらず、立ち上がって、壁の凹んでいるところに、宝石をちりばめた小箱を取りに行きました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十夜になると[#「けれども第九百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして乙女はその場で、儀式の洗滌《みそぎ》を行ない、洗い立ての亜麻布の襲《かさね》七枚を着し、小箱にはいっている煉薬《ねりぐすり》を少々取り出しました。そしてこの煉薬を鹿に食べさせ、同時に、首のまわりの魔法の紐をば、力をこめて引っぱりました。すると鹿は直ちに身をゆすって、動物の姿から出て、元のアーダムの子の外観に戻ったのでございます。
次に王子は寄って来て、若いガミラの両手の間の床《ゆか》に接吻し、乙女に感謝の意を表しながら、言いました、「ここに、おお姫君様、あなた様は私を不幸の爪から救い、私に人間の生活を返して下さいました。私の全身の毛があなた様の御親切と御厚情を賞め讃えている折に、どうして私の舌をもって、あなた様の御功労に応じて御礼を申し上げることが叶いましょうぞ、おお至福の女性《によしよう》よ。」けれどもガミラはいそいで手を貸して王子を立ち上がらせ、王者にふさわしい着物を着せてから、言いました、「白さがお召物を通して顕《あら》われ、美しさがわたくしたちの住居とこの庭を照らす若君よ、あなた様はどなたで、お名前は何とおっしゃいますか。私たちに御光来の栄を授けた動機《いわれ》はどのようなもので、またどうしてわたくしの姉ラティファの網におかかりになったのでございましょう。」
そこで金剛王子はこの救い主に自分の身の上をのこらず話しました。王子が語り終えると、乙女は言いました、「おお金剛王子様、わたくしの眼よ、お願いでございます、どうぞ、お心を占めている危うく甲斐ないお考えをお棄てになって、楽しい青春と、たいせつなお命をば、未知の威力に曝《さら》そうなどとはなさいますな。仔細もなく身を破滅に曝すのは、思慮に外《はず》れることですから。いっそここに止まって、あなたの生活の杯に、快楽の酒を満たしなさいませ。ここにわたくしがひかえて、子供が母親の声に応ずるように仰せに従って、お望みのままにお仕えし、御身の御満足をわが一身の満足よりも先に計らいましょうほどに。」金剛王子は答えて、「おお姫君、私の蒙った御恩義は私の魂の翼の上にかくも重く、私としては猶予なく、わが皮をもって靴を作り、小さな御足《おみあし》におはかせ申さねばならぬ次第でございます。なぜならば、あなた様は私を鹿の皮から抜き出して、魔法使の姉上の策略から解き放し、人間の姿の衣を着せて下さったのでありますれば。さりながら、今日のところは、もしあなた様の寛容が私の方《かた》に降り注いで下さるならば、願わくは直ちに数日のお暇《いとま》を賜わって、私の望みを叶えさせていただきたく存じまする。そして、私が至高のアッラーに期待し奉る安泰のお蔭をもって、ワーカークの町より無事戻りました暁には、再び妙《たえ》なる御足《おみあし》を拝見して、もっぱらあなた様の御意《ぎよい》の方向に振舞うといたしましょう。私はかくしてはじめて、感謝に捉えらるる心の義務を果たすでござりましょう。」
乙女はいくら王子を説き伏せようと口説きつづけても、自分の申し出ることを諾《うべな》わず、あくまで絶望的な考えを棄てないのを見ると、今は出発を許すよりほかに仕方がありませんでした。ですから、嘆息と吐息と呻きを洩らしながら、こう言うのでした、「おお、わたくしの眼よ、誰も自分の首に結びつけられた運命をのがれることは叶わず、あなたの運命には、わたくしたちがめぐり合うとすぐに、わたくしの許をお去りになるということがある以上は、わたくしはあなたの企てにお力添えをし、お帰りを確かにし、あなたのたいせつな魂をお守りするために、遺産としてわたくしの手に入った三つの品をば差し上げましょう。」そして乙女は、壁の別な凹んだところに、大きな箱を取りに行って、それを開け、中から一と張りの黄金の弓と矢と、一と張りのシナの刃金の剣と、硬玉の柄《つか》のついた一と振りの短刀を取り出し、それらを金剛王子に渡しながら、言いました、「この弓と矢は、預言者サーリフ(9)――その上に祈りと平安あれ。――のお持物。この剣は『スライマーンの蠍《さそり》』という名で知られ、これをもって山を裁《た》てば、山も石鹸のように裂けるという名剣。最後にこの短刀は、昔賢人タンムーズのこしらえた品で、これを持つ人には測り知れぬ尊いもの、刃《やいば》にひそむ霊験によって、どんな攻撃からも守ってくれるのです。」次に付け加えました、「ですけれど、おお金剛王子様、ここから七つの大洋に隔てられているワーカークの町には、あなたはわたくしの叔父アル・シムールグ(10)の助けがなくては、行き着くことがおできになりますまい。ですから、お耳をわたくしの唇にぴったりつけて、あなたのためにそこから出るお指図を、よくお聞きなさいまし。」そしてちょっと口をつぐんでから、言いました、「実際こういうわけなのです、おお、わが友金剛王子様、ここから一日行きますと、ひとつの泉がございます。その泉のすぐほとりに、ターク・タークという名の、黒人の王様の宮殿があります。そのターク・タークの宮殿は、血を見ることの好きなエチオピア人四十人に守られていて、それらがめいめい五千人の乱暴な黒人の一軍を率いております。ところで、このターク・ターク王は、わたくしがあなたにお渡しした品々のせいで、あなたに対して好意を持つばかりか、大へん親切にさえしてくれるでしょう。普通は、街道を通る人たちを金網で焼いて、塩も味もつけずに、そのまま食べてしまう習慣ですけれども。あなたは王と一緒にそこに二日お泊りになります。そのあとで、王はあなたをわたくしの叔父アル・シムールグの御殿にお連れします。このひとのお蔭で、あなたは多分ワーカークの町に行き着けて、松毬《まつかさ》と糸杉との間の関係の問題を、解くことがおできになることでしょう。」そして話の結びとして、乙女は言いました、「わけても、おお金剛王子様、わたくしの申し上げたことから、たとえ髪の毛一と筋のちがいでも、外《はず》れることのないように、よくよく御注意下さいませ。」次に乙女は泣きながら、王子を抱いて言いました、「今となっては、あなたの御不在ゆえ、わたくしの生活はわたくしの心にとっての不幸となるのですから、もうお帰りまでは、わたくしは笑いますまい、話しますまい。そして絶えず自分の心に、悲しみの扉を開きましょう。わたくしの心からはいつも吐息が立ちのぼり、わたくしはもうわが身の消息を知らないでしょう。なぜなら、力もなく、内からの支えもなく、わが身は今後はわが魂の蜃気楼《しんきろう》にすぎないでございましょうから。」次に乙女は次の詩節を誦しはじめました。
[#ここから2字下げ]
水仙の恋い慕うその眼より、わが心を遠く退くることなかれ。
おお禁酒家よ、酔う人びとの嘆きを退くることなく、彼らを再び居酒屋に伴いゆくべし。
わが心は、君が生《お》いそめし薄髭《うすひげ》の軍勢より、逃がるること能わじ。また、傷つきし薔薇のごとく、わが衣の破《やれ》は再び繕《つくろ》わるることあらじ。
おお、あらがいがたき美よ、おお、麗わしく、浅黒く、好ましき君、わが心は、君が素馨《そけい》の御足《みあし》の下に、横たわり、
齢未《よわいいま》だ青春に入りそめしばかりの、わがあどけなき乙女心は、人びとの心を盗む盗人の御足《みあし》の下に、横たわる。
[#ここで字下げ終わり]
次に乙女は、王子の上に祝福を呼び、身の安泰を祈りながら、金剛王子に別れを告げました。そして満面の涙を隠すため、いそいで御殿のなかに戻りました。
金剛王子のほうは、魔神《ジン》の子のように凛々《りり》しく、馬に乗って立ち去り、ワーカークの町を尋ねながら、宿場から宿場へと、道を続けました。こうして馬を進めているうちに、事なく泉に着きましたが、それこそまさにあの乙女のいう泉でした。そしてそこには、黒人の王、恐ろしいターク・タークの城砦がそびえていました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十一夜になると[#「けれども第九百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
なるほど、その城の入口は、身の丈十|腕尺《わんしやく》もある、物すごい形相《ぎようそう》のエチオピア人たちに、守られているのを、金剛王子は見ました。王子は胸を恐怖に襲わせることなく、泉の木の下に乗馬をつなぎ、休もうとして木蔭に坐りました。すると黒人たちがお互い同士言うのが聞えました、「ようやっと、久しぶりに、人間が一匹俺たちに生肉を御馳走しにやってきたぞ。さっそくこの鴨をひっつかまえて、王様のターク・タークの舌と口を甘くして差しあげようぜ。」そういうわけで、十人か十二人の一番獰猛なエチオピア人が、王子をつかまえ、串焼きにして王様に進上しようとして、金剛王子のほうに進み寄ってきました。
金剛王子はいよいよ本当に一命が危うくなったのを見ると、帯からスライマーンの剣を抜き放ち、攻撃者どもに飛びかかって、その大半を死の野に旅立たせてしまいました。そしてこれらの地獄の息子どもが行先地に着いた頃、その知らせが飛脚によってターク・ターク王に達すると、王は真赤《まつか》な怒りに入って、この不敵者を捉えるため、家来の黒人の頭《かしら》、真黒々《まつくろぐろ》のマーク・マークを急派しました。それで、音に聞えた災厄《わざわい》の、このマーク・マークは、真黒軍《まつくろぐん》を率いて、蜂の群のなだれこむように、やってきました。黒い死は、犠牲者を求めて、奴の両眼から迸《ほとばし》っています。
さてその姿を見ると、金剛王子はつと立ち上がって、爪先立ってこれを待ちました。そこに災厄《わざわい》のマーク・マークは、角《つの》の生えた蝮《まむし》のようにしゅうしゅうと音を立て、大きな鼻孔を凄まじく鳴らしながら、金剛王子のすぐそばにやってきて、首をはねとばす棍棒を振りかざし、空気もどよめくばかりこれを振り廻しました。しかしその時早く、秘蔵子金剛王子は、タンムーズの短刀を握り締めた腕を延ばし、電光の閃めくごとく、刃《やいば》をエチオピア人の脇腹深く刺しまして、この一千人の寝取られ男の息子に、一と飲みにぐっと死を飲ませました。直ちに死の天使は、最期の時を携えて、この呪われた男に近よったのでございます。
マーク・マークに従う黒人どものほうは、大将が、縦が横にめりこんで、地上に打ち倒れるのを見ると、脚を風にまかせて、大嘴《おおくちばし》の「親方」の前の雀どもさながら、いっせいに飛び立ちました。金剛王子は後を追い、殺した連中を殺しました。そして逃げた連中が逃げたのでした。
ターク・ターク王はマーク・マークの大敗を知ると、怒りが激しく鼻孔を襲い、もう右手と左手の見分けもつかぬ有様。根が馬鹿なものですから、峡谷と峡間《はざま》の騎士、騎士たちの冠たる金剛王子をば、自身討ちに行こうという気を起こした次第です。ところが、雄哮《おたけ》びする英雄を見ると、大鼻の好色漢の黒い倅《せがれ》は、筋肉たるみ、胃袋裏返り、死の風頭上を通るのを覚えました。金剛王子はこやつを的にして、預言者サーリフ――その上に祈りと平安あれ。――その矢を一と筋放てば、王は己が踵の塵を呑みこんで、とたんに、その魂は、禿鷹《はげたか》の「乳母」が荷物を預けた喪の場所に、住みにやられたのでございました。
そのあと、金剛王子は死んだ王のまわりにいる黒人どもを、鳥獣《とりけもの》の餌とし、彼らの魂なき身体を踏み越えて、駒をまっすぐ進ませました。こうして王子は勝利者として、今までターク・タークの君臨していた宮殿の門に着きました。そしてさながら主人がわが家の戸を叩くように、その門を叩きました。すると戸を開けに出て来た人というのは、あの怪《け》しからぬターク・タークに王座と相続を僭奪《せんだつ》された、一人の女性でありました。それは物に怯《お》じた羚羊《かもしか》に似た乙女で、面《おもて》は恋人たちの心の傷に塩を注ぐというほど、刺戟の強い趣きがあります。今この乙女が金剛王子を迎えに、もっと遠くまで出なかったというのは、実際のところ、そのなよやかな胴にかかっている腰の重みに妨げられて行けなかったのですし、さまざまの窪みに飾られたお尻が、自分の意のままに動かせないほど、豊かで祝福されたものであったからです。何しろそれは、ベドウィン人の椀のなかの凝《かた》まった乳のように、安息香に馨らされた皿のまん中の、マルメロのゼリーの一と山のように、おのずから震え動くのでございましたから。
さて乙女は解放者に対する囚《とら》われ人の衷情を吐露して、金剛王子を迎えました。そして亡き王の王座に王子を据えようとしましたが、王子は自分にその権利のない旨を宣言して、乙女の手を取って、乙女の父王がターク・タークに奪われたその王座の上に、彼女自身が登るようにと勧めました。それほどの恩恵を施しながら、王子は代りに何ひとつ求めませんでした。そこでその寛大ぶりにすっかり征服されて、乙女は王子に言いました、「おお美しいお方様、このように報いの望みなく善を施されるとは、いったいどういう宗教にはいっていらっしゃるのでしょうか。」金剛王子は答えました、「おお姫君、回教《イスラーム》の信仰がわが信仰であり、その信念がわが信念です。」乙女はたずねて、「その信仰と信念とは、おお御主人様、どういうことから成り立つのでございますか。」王子は答えて、「それはただ、我らの預言者――その上に祈りと平安あれ。――によって啓示された信仰告白によって、『唯一性』を証言するだけのことです。」乙女はたずねて、「それでは、人間をそんなにも完全にする信仰告白を、あなた様から伺わせていただけるでございましょうか。」王子は言うに、「ただこれだけの言葉を言えばよい、『アッラーのほかに神なく、モハンマードはアッラーの使徒なり。』誰でも確信を以ってこれを唱えさえすれば、即刻即座に、イスラームの誉れを得る。たとえ邪教徒中の最後の者であろうとも、直ちに回教徒中の最高の者と等しくなるのです。」この言葉を聞くと、アジザ姫は自分の心が真の信仰によって動かされるのを感じました。そして自然と手を挙げて、人差指を眼の高さに置き、信仰証言《シヤハーダ》を唱え、かくて直ちにイスラームの誉れを得たのでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十二夜になると[#「けれども第九百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それがすむと、姫は金剛王子に言いました、「おおわが御主人様、お蔭さまでわたくしが女王となり、真直《まつすぐ》の道の上に導かれた今となりましては、わたくしがわが眼を以ってお仕え申し、あなた様の後宮《ハーレム》の奴隷のうちのひとりの奴隷となるつもりで、御手《おんて》の間に控えておりまする。ですから、あなた様からの御芳志として、この国の女王をば妻として容《い》れ、御美《おんうつく》しさの後光のうちに、これを御後《みあと》に従えて、どこなりとお好きな場所で、御一緒に暮らさせていただけましょうか。」すると金剛王子は答えました、「おおわが御主人よ、あなたはいかにも私にとって私自身の命と等しく大切なものではありまするが、しかし、目下のところ、或る非常に重要な用件が私を呼んでいる次第で、そのために私は、父も、母も、住居も、領国も、故国も、棄ててきたのです。おそらく、わが父シャムス・シャー王は、今ごろは、私を死んだものとか、或いはそれよりももっと悪い目に遭っているものと思って、泣いていられることでしょう。さりながら、ともかくも私は、わが運命が私を待っている地、ワーカークの町に、行かなければなりませぬ。そして帰還の上は、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、私はあなたを妻として、わが故国にお連れ申し、あなたの美を満喫いたしましょう。けれども、さしあたっては、もし御存じならば、ラティファ姫の叔父君アル・シムールグはどこにおいでか、教えていただきたい。というのは、ひとりそのアル・シムールグという方のみが、私をワーカークの町に案内することができるのです。然るに私はそのお住居を存ぜず、またそれがいかなる方か、魔神《ジンニー》なのか人間なのかすら、知りませぬ。それでもしあなたが、ガミラの叔父君、そのたいせつなアル・シムールグという方について、何か御承知のことがあったら、さっそくそれを知らせていただいて、お目にかかりに行くことにしたい次第。何かして下さりたいとの仰せとあらば、さしあたり、私のお願いすることはこれだけです。」
アジザ女王は金剛王子の計画を知ると、胸の中で苦しんで、極度に心を痛めました。けれども自分の涙も溜息も、貴公子の決心を翻させることができないのを、はっきり見てとると、王座から立ち上がって、王子の手をとり、黙って御殿の廊下を案内して、一緒に庭に出ました。
それは天使リズワーンが翼ある番人となっている、天国の園にも似た庭でした。薔薇を一面に植えた広がりが、庭の道になっていて、それらの薔薇の上を渡って、麝香《じやこう》を篩《ふるい》にかけているように思える微風が、鼻を馨《かお》らし、頭脳をかぐわしくします。そこには、チューリップが自分自身の血に酔って、半ば開き、糸杉は揺れ動いて呟やけるだけ呟やいて、自分なりに鶯の律《りつ》ととのった歌を賞めそやしていました。そこには、蕾とよく色の合う薔薇の根元に、細流《せせらぎ》が笑いさざめく子供たちのように駈け廻っていました。
さてアジザ姫は、うしろに重たい華麗を曳きながら、このように重い荷を負って押しつぶされるなよやかな胴にもかかわらず、こうして金剛王子と一緒に、一本の大木の下に着きましたが、その鷹揚《おうよう》な木蔭は、この時、一人の巨人の眠りを護っていました。姫は王子の耳に唇を寄せて、小声で言いました、「ここに寝ている方が、まさしくあなたのお探しになっている方、ガミラの叔父君、『飛行のアル・シムールグ』様です。この方がやがて、眠りからお覚めになるとき、あなたの運勢次第で、もし左の眼より先に右の眼を開いたら、あなたに会うのを悦びなさり、あなたの武器を見て、あなたが兄上様の娘からここに寄越されたとわかり、あなたのお願いの筋を叶えて下さるでしょう。けれども、もし御不運と取り返しのつかぬ御運命のため、最初に光に向って開くのが、左の眼であったら、もう御身は助かるすべなく最後です。というのは、いかにあなたに武勇があっても、巨人はあなたをつかまえて、両腕の力で以ってあなたを地面から差し上げ、鷹の爪に捕えられた雀のように宙に吊るし、あなたを地面に叩きつけて、おお愛《いと》しい方よ、あなたの美しい骨を粉々にし、好ましいお身体《からだ》の縦を横にめりこませて、延ばしてしまうでしょう。」次に言い添えました、「さて今は、どうかアッラーが御身を守り、永らえさせて下さいますように。そして、今からもうお留守の嗚咽《おえつ》に襲われている恋する女の許に、お帰りをいそいで下さいませ。」
そして姫は、両眼に涙を一杯ため、頬は柘榴《ざくろ》の花のようになって、王と別れ、大いそぎで遠ざかりました。
そこで金剛王子は、ものの一と時の間、巨人「飛行のアル・シムールグ」が眠りから出るのを、じっと待っていました。そして魂の中で考えました、「なぜこの巨人は、『飛行の』なんていわれるのかしらん。こんな巨人の身で、どうやって翼もなく空中に浮び上がり、象とは別な工合に身動きできるのだろう。」そのうち、アル・シムールグは象の子の群の響きとまさにそっくりの音を立てて、なおも木の下で鼾《いびき》をかきつづけているのを見て、待ちきれなくなり、王子は身をかがめて、その両足の裏をくすぐってみました。すると巨人は、足の裏を触《さわ》られると、突然ぶるっと身をふるわし、両足で空《くう》を打って、物凄い放屁《おなら》を一発しました。そしてその瞬間、両眼を同時に開きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十三夜になると[#「けれども第九百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして巨人は若い王子を見ると、足をくすぐった不快の犯人は、こいつだとわかりました。それなもので、巨人は片足をあげて、王子の真向《まつこう》から、一と時にわたって、つづけさまに放屁《おなら》をひっかけましたが、それはあたり近所四パラサンジュ四方の生きものを全部、毒気にあててしまうほどのものでした。金剛王子がこの地獄の風をのがれたのは、全く身に持っていた武器に備わる霊験のお蔭でした。
さて、巨人アル・シムールグは貯えの風を使い尽してしまうと、どっかと地に坐りましたが、若い王子を見てあっけにとられ、これに言いました、「何としたことだ。お前は俺の尻《けつ》の力で死なないのだな、おお人間よ。」こう言いながら、よくよく王子を見ると、王子の持っている武器を見つけました。すると巨人はつと立ち上がって、金剛王子の前に身を屈《かが》めて、言いました、「おおわが御主人よ、こんな仕打ちをお許しあれ。だがもしあなたが、誰か奴隷をよこして、あらかじめ御光来を知らせてくれたら、わしはあなたの踏む地面に、わが身の毛を敷き詰めたであろうに。されば、わしとしては無意識に、悪いつもりなくしたことを、どうか意に介しないでもらいたい。そしてこんな人間も動物も来ることのできない地まで、わざわざやってこられたとは、どういう当面の重大事があってのことか、どうか承わらせてもらいたい。されば取りあえずあなたの用件を説明なされ。いざという場合、わしが一と肌ぬいで、あなたの企てを成功させてあげたいからな。」
そこで金剛王子はアル・シムルーグに、自分は少しも悪く思っていない旨をよくことわってから、わが身の上を細大洩らさず語りました。次に言いました、「おお『飛行の父』よ、私があなたの御もとまで参ったのはほかでもなく、御助力を願って、越え得ざる大洋を横切って、ワーカークの町まで、行き着きたいためでございます。」
アル・シムールグは金剛王子の話を聞き終ると、手を胸と、唇と、額《ひたい》にあてて、答えました、「わが頭上と眼の上に。」そして言い添えました、「われわれはすぐさまワーカークの町に向って出発しようが、しかしまずわしの食糧を用意しなければならん。そのためには、わしはこれから、ここの森にたくさんいる野生の驢馬を狩りに行って、何匹かつかまえ、その肉で焼肉《カバーブ》を作り、皮で革袋を作るとしよう。そして、二人でこういった必要な品々を携え、あなたは馬に乗るみたいにわしの肩に乗れば、わしは御一緒に飛んで行く。こういう風にして、あなたに七つの大洋を渡らせて進ぜよう。わしが疲れて弱ってきたら、焼肉《カバーブ》と水を与えてもらって、ワーカークの町に着くまで飛びつづけましょう。」
そしてこの言葉通り、巨人はすぐに狩を始めて、ひとつの大洋を渡るのに一匹ずつ、都合七匹の野生の驢馬をとり、それで例の焼肉《カバーブ》と革袋を作りました。それから金剛王子のところに戻って、野生の驢馬の焼肉《カバーブ》を頭陀袋《ずだぶくろ》に詰めて首にかけ、泉の水を詰めた七つの革袋を持った上で、王子を肩に乗せました。
さて、金剛王子はこうして巨人アル・シムールグの肩に乗っかると、心中で独りごとを言いました、「こいつは象よりも大きい巨人のくせに、翼もなくて、おれを連れて空中を飛ぶなんて言っているぞ。アッラーにかけて、これはなんとも不思議なことで、こんなことは今までついぞ聞いたためしがないわい。」王子はこんなことを考えていると、突然、戸の隙間風のような音が聞え、巨人の腹が見る見るふくれ上がり、やがて円屋根ほどの大きさに達するのを見ました。その風の音は、巨人の腹の膨《ふく》れるにつれ、今は鍛冶屋のふいごの音みたいになってきました。そしてアル・シムールグはいきなり足で地を打つと、一瞬のうちに、全部の荷物もろとも、庭の上を飛んでおりました。次に巨人はひき蛙が水中でするように、両脚を動かしながら、どんどん空中を上がりつづけました。やがて適当な高さに達すると、西の方向に一直線に翔《か》けました。風のため意に反して、好む以上の高さに運ばれたと思うと、巨人はいろいろの強さと長さの放屁《おなら》を一発、二発、三発、四発と放ちます。反対に、こうしてガスを漏らす結果、その腹がしなびると、上体のあらゆる穴、すなわち口と鼻と耳でもって、空気を吸いこみます。するとすぐに再び碧空に上がって、鳥の速さで、一直線に翔《か》けるのでした。
二人はこのようにして、二羽の鳥のように、水上を飛びながら、次から次へと大洋を越えて、旅しました。七つの海のうち一つを横切るごとに、二人はしばらく休息するため大陸に降り、野生の驢馬の焼肉《カバーブ》を食べ、革袋の水を飲みました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十四夜になると[#「けれども第九百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それと同時に、巨人は飛行する力を新しく貯えました、もっとも何時間か寝て、旅の疲れをいやしてからのことですが。こうして横断飛行七日ののち、両人は或る朝、庭々のただ中に眠る、ひとつの真白《まつしろ》な町の上方に着きました。すると飛行の巨人は金剛王子に言いました、「あなたはこれからはわしの息子同然で、ここまで運んでくるわしの忍んだ苦労のごときも、わしは何とも思わぬ。さてわしはこれから、この町の一番高い露台の上にあなたを下ろして行くが、これこそはまさしくワーカークの町で、ここで定めし、あなたは探している問題の解決を得ることと思う。あの『松毬《まつかさ》と糸杉との間の関係いかん』という奴だね。」それから言い添えて、「さよう、これこそモホラ姫の象牙の寝台の下にいる黒人の町じゃ。これこそ、どういう筋合いでその黒人が、こうした面倒な事件全体の父親であるかということが、あなたにわかるはずの地じゃ。」こう言った上で、巨人は少しずつ腹をへこましながら降りて行って、金剛王子をくだんの露台の上にそっと静かに下ろしました。そして王子に暇乞いをしながら、髭《ひげ》の毛を一と束渡して、言いました、「このわしの髭の毛を、大切に身につけて持ち、決して肌身から離してはいけない。そして何か困ったことが起きた場合、窮地を救って欲しいとか、今連れてきたところにまた戻してもらいたいとかで、わしを必要とする際はいつなりと、この毛を一本焼きさえすればよい。わしはすぐさまあなたの前に出てくるだろう。」そう言って、巨人は再び身をふくらし、空中に上がり、自分の住居に向って、楽々と速やかに飛び立ったのでございました。
露台に坐った金剛王子は、さてどうしたものかと思案しはじめました。この家に住む人たちに見咎められずに、この露台を下りるには、どうやったらよかろうかと考えていると、そのとき階段のところから、類《たぐい》のない美貌の一人の青年が出てきて、こちらに向って歩みよって来るのが見えましたが、それこそちょうどこの住居の主人でした。青年は王子の顔にほほ笑みかけながら、挨拶《サラーム》をして近より、歓迎の言葉を述べながら、言いました、「どういう輝かしい朝が、私の露台の上に御光来を授けたのでしょうか、おお人間きっての美男子よ。あなたは天使か、魔神《ジンニー》か、それとも人間でいらっしゃるか。」金剛王子は答えました、「おお親しき若人《わこうど》よ、私は人間でして、快いあなたのお姿を見て、今日の日を始めるのを深く悦ぶものでございます。私はわが運命にここに導かれたがゆえに、ここにいる次第。あなたの祝福されたお住居に、私がいることについて、申し上げられることといえば、これがすべてでございます。」こう言って、王子は青年を胸に抱きしめました。そして両人は互いに友情を誓い合いました。それから揃って朋友の間《ま》に下りてゆき、一緒に食べ飲みました。二人の美しい人間を結び合わせ、彼らの路上に、困難を取り去り、紛糾を解きほぐしたもう御方に、称讃《たたえ》あれ。
さて、金剛王子とその青年、それはファラーと呼ばれ、ちょうどワーカークの町の帝王《スルターン》の寵臣でありましたが、この両人の間に友情が固く結ばれると、金剛王子はこれに言いました、「おお、わが友ファラーよ、あなたは帝の寵を受けその親密なお相手の身だし、その事実からして、この王国の事柄については何ひとつあなたにとって秘密のことなどあり得ないのだから、ひとつ友情に免じて、私に御尽力願えないものでしょうか。それはあなたに何ら費《つい》えを煩わすものではありますまい。」すると若いファラーは答えました、「わが頭上と眼の上に、おおわが友金剛王子よ。言って下さい、もしわが皮を売ってあなたの履《くつ》を作る必要があるというのならば、私は悦びと満足をもって断行するでしょう。」そこで金剛王子は友に言いました、「松毬《まつかさ》と糸杉との間にどういう関係があるのか、それだけ伺えないでしょうか。そしてそのついでに、シーンとマシーンの地方の主《あるじ》、タンムーズ・ベン・カームース王の娘、モホラ姫の、象牙の寝台の下に寝ている黒い黒人の役割も、説明していただけましょうか。」
この金剛王子の質問を聞くと、若いファラーは顔がすっかり変り、顔色は黄色になり、眼差《まなざし》は曇りました。そしてまるで死の天使アズラーイールの前にでも出たかのように、震え出しました。金剛王子はこの様を見て、その魂をしずめ、魂の恐怖を洗い落そうと、この上なく優しい言葉を尽しますと、若いファラーはやっと最後に言いました、「おお金剛王子よ、実は王は、およそ『糸杉』とか『松毬《まつかさ》』とかいう名を口に出す者は、住民たると旅人たるを問わず、すべて殺してしまえと命じなさったのです。それというのは、『糸杉』とはまさしく我らの王のお名前であり、『松毬《まつかさ》』とは我らの女王のお名前です。この怖ろしい問題について私の知っていることは、これだけです。糸杉王と松毬女王との関係については、私は何も存じませんし、同様に、この危うい件においての、その黒人の役割についても、私の舌は何ごとも言うことができますまい。おお金剛王子よ、あなたを悦ばせるために、私の申し上げることのできるいっさいは、糸杉王御自身を措いては、誰一人この隠れた秘密を知る者はないということだけです。私は進んであなたを王宮に御案内して、王の御前にお連れ申しましょう。あなたはきっと、王のお気に召さずにはいないでしょうから、そのとき或いは、このむつかしい結び目を直接解くことができなさるかも知れません。」
金剛王子は友にこの斡旋を謝して、その糸杉王訪問の日取りを相談しました。そして待ち設けた日が来ると、両人連れ立って王宮に行きましたが、手をつないでいるさまは、まるで二人の天使のようでした。糸杉王は金剛王子のはいってくるのを見ると、胸がひろがり、晴々となさいました。一と時その姿に見入ってから、王は近く寄れと命じました。そこで金剛王子は王の御手の間に進み出て、敬意と祈願ののち、琥珀《こはく》の数珠に下げていた赤い真珠を、御進物として献上しましたが、これは非常に尊い品で、ワーカークの全国土を以ってしてもその代価を支払いきれまいし、どんなに強大な王とても、その姉妹を手に入れることはできないくらいの品です。糸杉王はいたく御満足で、「これは我らの心によって嘉納せらるるぞよ、」と仰せられながら、その贈り物をお納めになりました。続いて、言い添えなさいました、「おお優美に取り囲まるる若者よ、その方は代りに、余にいかなる恵みを求めても苦しうない。そはあらかじめ獲《え》られておるぞよ。」金剛王子は、待ち望んでいたこの言葉を聞くと、答えました、「おお当代の王よ、何とぞアッラーは私に、君の奴隷たる以外の御恵を乞うことなど、させたまいませぬように。さりながら、もし君がお許し下さって、私に生命の安全を授けたまいますれば、私はわが心にかかっているところをば、申し上げるでござりましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十五夜になると[#「けれども第九百十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして金剛王子は答えました(11)、「おおわが殿、聾者《ろうしや》や盲人は災厄に曝《さら》されることなく、まことに仕合せな身でございます、災厄はわれらの眼とわれらの耳によって、われらの裡《うち》にはいってまいりますれば。それと申すは、私の場合のごとき場合においては、わが耳こそわが身に不運を引きよせたからであります。それと申すは、おお世界の避難所よ、私がこれからお話し申し上げることを、わが前で言わるるのを聞いた凶日よりこの方、私はもはや休息も眠りも持たぬのでございました。」そして王子は王に微に入り細にわたって、自分の身の上をのこらず語りましたが、それをここで繰り返しても、詮なきことでございます。次に王子は付け加えました、「さて、運命が私に君の輝かしいお姿を拝する恵みを授け、おお当代の王よ、君が特別の思し召しをもって、私に御恩恵を乞い奉ることをお許し下された今となっては、私はただ、われらの主君糸杉王と我らの主君松毬女王との間の御関係が、正確なところいかなるものか、またそのついでに、シーンとマシーン地方の君主、タンムーズ・ベン・カームース王の娘、モホラ姫の象牙の寝台の下に、現在寝ている黒い黒人の役割は、いかなるものか、ただそれだけお教え下さることを、お願い申す次第でございます。」
金剛王子はワーカーク町の主《あるじ》、糸杉王に、このように語りました。糸杉王は金剛王子が語るにつれて、著しくその顔色と気持を変えてゆくのでした。そして金剛王子が、その話を終えたときには、もう焔のようになっていまして、両眼には火災が起っていました。内心の沸騰は、あらゆる点で熾火《おきび》の上の鍋の煮えくり返っているのとそっくりに、王の胸のなかで高鳴っています。しばらくは音を出すこともできずにいなさったのでしたが、突然、王は爆発して言い出されました、「汝に禍《わざわ》いあれ、おお異国の者よ。わが頭《こうべ》の命にかけて、その方の一命を全うしてやると約したその誓いによって、その方が余にとって神聖なものとなっていなかったならば、余は今直ちに、その方の首《こうべ》を胴体から切り離していようものを。」すると金剛王子は言いました、「おお当代の王よ、君の奴隷にその不謹慎をお許し下さりませ。されど私のこれを犯したるは、お許しあったればこそでございます。今は、何と仰せあろうとも、お約束の手前、私の望みにお従い下さる以外致し方ございませぬ。何となれば、君は先ほど御手の間に私の所望を申し出だせと仰せあり、してこの御承知の事柄こそ、まさに私の唯一の関心事でござりますれば。」
この金剛王子の言に、糸杉王は困惑と絶望の極に達しなさいました。その魂は、或いは金剛王子の死の希望へと、或いは御自身の約を果たす希望へと、向うのでした。しかし、段ちがいに最も激しいのは、その最初の希望のほうです。けれども王は一時それを抑えることができなすって、金剛王子に言いました、「おおシャムス・シャー王の王子よ、何ゆえにその方は余に、自分の生命をいたずらに風にゆだねるよう強いるのか。むしろ、その心を占むる危うい考えを放棄し、その代り、余に何か他のことを所望するほうが、身のためではないか。たといわが王国の半ばなりともよい。」けれども金剛王子はあくまで翻さず、言います、「わが魂の望むはただこれのみで、他にござりませぬ。おお糸杉王よ。」すると王は言いました、「よし、差支えない。しかしよく心得よ、余はその方の知りたいことを解き明かした上は、その方の首をのがるるすべなく、刎《は》ねさせるからな。」金剛王子は言いました、「わが頭上と眼の上に、おお当代の王よ。私の求める解決、すなわち、我らの主君糸杉王と、我らの主君松毬女王との間の御関係いかん、並びに、黒人とモホラ姫との事件はいかん、ということの答を知った暁には、私は身を洗い浄めて、首を刎《は》ねられて死ぬことといたしましょう。」
すると糸杉王はすっかり困ってしまわれました。御自分の魂よりも大切にしている秘密を、打ち明けざるを得ないはめに立ち至ったばかりではなく、金剛王子が死をまぬかれないせいもあってでした。そこで一と時の間、首を垂れ、鼻を長くしておられましたが、それから、警固の者どもに合図で何ごとかお命じになり、玉座の間を退出させました。一同外に出たと思うとすぐに、白地に栗毛の斑《ぶち》のついた毛並の兎猟犬《グレイハウンド》種の、一匹の見事な兎猟犬を、宝石をちりばめた赤皮の綱でひきながら、戻ってまいりました。それから、四角の大きな錦の敷物を、物々しく敷くのでした。そして犬は敷物の一隅に行って坐りました。それがすむと、数人の女奴隷が部屋にはいってきましたが、そのまん中には、華奢《きやしや》な身体《からだ》つきのすばらしい美女が、後手《うしろで》に縛られて、残忍そうなエチオピア人十二人の監視の眼の下《もと》におります。女奴隷たちはその乙女をば、敷物の反対側の一隅に坐らせ、その前に、黒人の首の載っている盆を据えました。その首は塩と香料のなかにつけてあって、今斬ったばかりのように見えます。次に王は改めて合図をしました。すぐに宮殿の司厨《しちゆう》長が、あらゆる種類の眼と舌に快い御馳走を運ぶ男たちを従えて、はいってきて、それらの御馳走全部を、その犬の前の、茣蓙《ござ》の上に置きます。そして動物が食べて満腹すると、食べ残りを粗末な汚い皿に集めて、両手を縛られている美女の前に置きました。すると美女は最初は泣き出し、次に笑い出しましたが、その両眼から落ちる涙は真珠となり、唇の微笑は薔薇となりました。エチオピア人どもはていねいにその真珠と薔薇を拾い集めて、これを王に捧げました。
これが終ると、糸杉王は金剛王子に言いました、「その方の死期は至った。剣によるか、それとも紐によるか。」けれども金剛王子は言いました、「いかにも承知いたしました、おお王よ。さりながら、ただ今私の見たところの御説明を賜るまでは、なりませぬ。そのあとで、死ぬことといたしまする。」
すると糸杉王は、王衣の裾を左足の上にたくしあげ、右の掌に顎《あご》を乗せて、次のように語ったのでございます。
「さればこういう次第じゃ、おおシャムス・シャー王の王子よ、今その方の見る後手に縛られている乙女、涙と笑いが真珠と薔薇の女は、『松毬《まつかさ》』と呼ばれる。これは余の妃じゃ。そしてかく申す余、糸杉王は、この国とこの都、すなわちワーカークの町の主《あるじ》である。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十六夜になると[#「けれども第九百十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、アッラーの日々のうちの一日、余はわが都を出て狩に行ったとき、野の中で、激しい渇に襲われた。そして沙漠に迷う者のごとく、水を求めて四方に赴いた。幾多の労苦と幾多の憂慮のあげく、ようやくに昔の民の掘った真暗《まつくら》な貯水井戸を見つけた。余はもはや身動きする気力もなかったけれども、この発見を至高のアッラーに謝した。そして勇を鼓し、アッラーの御名《みな》を念じてのち、余は首尾よくその井戸の縁《へり》に手を触れることができた、地崩れと崩壊の跡とで容易に近寄りがたくはあったが。それから、わが帽子をば桶の代りにし、わが捲頭巾《ターバン》に腰帯を添えて綱の代りとし、全部をその井戸のなかに下ろした。わが帽子に当る水音を聞いたのみで、わが心はすでに渇をいやされるのであった。ところが、何たることか、いざこの急ごしらえの綱を引き上げようとすると、何も上にあがってこない。というのは、わが帽子はさながらありとあらゆる災厄《わざわい》を詰めこまれたかのごとく、重くなってしまったのじゃ。余は何とか動かそうと、はてしない骨折りを重ねても、うまく行かぬ。そこで絶望の極、ひりつく渇に耐えかねて、余は叫んだ、「アッラーのほかには、頼みも力もない。おお、この井戸のなかに居を構えた御仁《ごじん》よ、御身らが魔神《ジン》にせよ人間にせよ、渇きに断末魔の苦しみを覚えているアッラーの貧しき者を憐れんで、どうかわが桶を上げさせて下され。おお、この井戸のお歴々の住人たちよ、わが呼気はとぎれ、わが息は口中にとどまってしまいます。」
こうして余は自分の苦痛を叫び、はなはだしく悲鳴をあげはじめていると、そのうちついに、井戸からわが耳に声が達したが、それは次のような言葉を聞かせた、「生は死にまさる。おおアッラーの下僕《しもべ》よ、もしお前さんが私たちをこの井戸から引き出してくれたら、私たちはきっとお礼を差しあげよう。生は死にまさる。」
そこで余は一瞬自分の渇も忘れて、なお残っている余力を集め、渾身の力を絞って、やっと重荷もろともわが桶を、首尾よく井戸から引き上げるのに成功した。見ると、二人の非常に年老いためくらの老婆が、指で余の帽子にしがみついていたが、その腰は弓のように曲り、痩せ細って刺針《さしばり》のめどをも通らんばかりじゃ。瞼《まぶた》は顔のなかに落ちくぼみ、顎《あご》には歯なく、頭は痛ましく揺れ動き、脚はわななき、毛髪は梳いた綿のように白い。それで余は憐れを催し、ついに渇も打ち忘れて、この古い貯水井戸にどういう理由で住みついたのかとたずねると、両人は言った、「おお救いの若者よ、私たちは昔われわれの御主人様、『第一階級』の魔神《ジン》の王の、お怒りを蒙って、目を見えなくされ、この井戸のなかに放りこまれたのですわ。今私たちは、お礼に、お前さんの望むことは何なりと叶えてあげるつもりです。だけれど、まず最初、私たちのめくらを治す方法を教えよう。治った上は、私たちはお前さんの情けに買われた者だよ。」そして続けてこう言った、「ここからちょっと行ったしかじかの所に、川があって、そのほとりに、しかじかの色の牝牛がいつも草を食べに来る。その牝牛のやり立ての糞《ふん》を取ってきて、それを私たちの眼に塗っておくれ。そうすれば立ちどころに、私たちの目は見えるようになるのだよ。けれど、その牝牛が姿を現わしたら、お前さんは身を隠さなければいけない。お前さんを見たら、牝牛は糞をしないからね。」
そこで余はこの言に従って、最初駈けまわった際にそんな川なぞ一向に見えなかったが、とにかくくだんの川のほうに向うと、言われた場所に着いたので、葦の蔭に身をひそめた。すると間もなく、川から一頭の銀のように白い牝牛が出てくるのが見えた。そして空気に当るとすぐに、たっぷりと糞をして、次に草を食いはじめた。食い終ると、牝牛は川に戻って、姿を消した。
直ちに、余は自分の場所から立ち上がって、白い牝牛の糞を集め、貯水井戸に戻った。そして老婆らの眼にこの糞をつけてやると、すぐに両人は目が見えるようになって、あたりをきょろきょろ見廻した。
すると両人は余の手に接吻して、言うのであった、「おお私たちの御主人様や、お前さんは富がほしいか、健康がほしいか、それとも美の破片《かけら》がほしいかね。」余は躊躇なく答えた、「おお小母様方、寛仁なアッラーは、すでに私に富と健康を授けたもうた。しかし美については、未だかつて心を満足させるだけのものを、手の間に持ったことがない。どうかおっしゃるその破片《かけら》をいただきたい。」すると二人は私に言った、「私たちの頭上と眼の上に。では私たちはお前さんにその美の破片《かけら》を差しあげよう。それは私たちの王様の娘その人だよ。その女性《によしよう》はにこやかな庭の薔薇の花弁《はなびら》に似て、もう御自身が庭の薔薇か、野の薔薇か、とにかく薔薇ですよ。その眼は酔った人の眼のように悩ましく、その接吻の一つはこの上なく黒い千の悲しみもしずめます。全身の美しさときては、太陽もかなわないし、月も燃え立ち、すべての人は思いやつれてしまう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十七夜になると[#「けれども第九百十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「御両親もこの上なくおかわいがりで、絶えずお嬢様を胸に押し当てて、まずその美しさに見入ることで、一日をお始めになるのです。それがそっくり、人目に隠し持っておいでのもの全部と一緒に、お前さんのものになるでしょう。お前さんがお姫様を楽しみ、お互いに楽しみ合うようになる。それではこれからお姫様のところに連れて行ってあげるから、お二人でなすべきことをなさるがいい。だけれどね、気をつけて御両親に見つからないようにしなさいよ。ことに抱き合っているところなどはね。御両親はお前さんを、生きながら火に投げこんでしまうだろうからね。だがその禍《わざわ》いも救いがないわけじゃない。それというのは、私たちがずっとそこにいてお前さんを見守ってあげ、死から救ってあげるから。そればかりか、お前さんにいいようにしかならないよ。というのは、私たちはそっとお前さんに会いに行って、お前さんの身体《からだ》に、昔のエジプト王伝来の蛇の油を塗ってあげる。するとたとえお前さんが千年薪の山の上にいようとも、坩堝《るつぼ》のなかにいようとも、お前さんの身体はこれっぽっちの苦しみも覚えず、火はお前さんにとって、イレムの園の泉の水浴びと同じくらい爽やかな水浴びとなるでしょうよ。」
こうして余の身に起るべきところすべてを、あらかじめ知らせ、前以って事件の結果について安心させておいて、その二人の老婆は、呆然とするばかりの速さで、余をくだんの宮殿に運んで行ったが、それは「第一階級」の魔神《ジン》の王の宮殿であった。途端に、余はいと高き天国にある思いであった。そして連れて行かれた奥まった広間で、余はわが天運によって授けられた女、それ自身の美しさで輝き渡り、見事な枕に頭をもたせて、寝台の上に横になっている乙女を見た。なるほど、その頬の輝きは太陽自身をも恥じ入らしめ、これを余りに長く眺めていては、人は分別と生命から手を洗うことになってしまうであろう。それですぐさま、これと契り合いたい欲情の鋭い矢が、わが心中深く刺し入った。余は口を開けて乙女の前に立ち尽していると、一方、余が親から譲り受けた子は、はなはだしく活気を呈し、今は外に出てしばし風に当ろうとしかしないのであった。
これを見ると、月の乙女は、さながら何か羞恥の感に動かされるかのごとく、眉をひそめたが、一方、悪戯心《いたずらごころ》に満ちたその眼差《まなざし》は、すでに承諾を与えていた。そしてせいぜい怒りをこめた調子で、余に言った、「おお人間よ、お前はいったいどこから来たのです、お前の大胆は何という大胆です。お前は自身の生命《いのち》から手を洗うのを恐れないのですか。」余は余に対するその真意を見抜いて、答えた、「おお、好ましいわが御主人様、今私の魂があなたのお姿を見て楽しんでいるこの刹那にまさる、どのような生活がございましょう。アッラーにかけて、あなたは私の天運に記されていて、私はまさしく自分の天運に従うために、ここに来たのです。されば、あなたの御眼、二つの金剛石にかけて、お願い申し上げます、どうか有益に用いることのできる時間を、よしなき言葉のうちに徒費することのないように。」
すると乙女は突然その無頓着な態度を棄てて、さからい得ない欲情に動かされるもののように、余の許に走りよって、余を両腕にかかえ、熱情こめて余を抱き締め、蒼白となって、余の腕のなかで気を失った。そしてまもなく身を動かし、息を弾《はず》ませ、ぴちぴちしはじめたので、そのためわが子は、一気に、魚が水中に入るがごとく、叫びも苦痛もなく、その揺籃《ゆりかご》の中にはいった。わが精神は、競争者どもに煩わされる憂えから放たれて感激し、今は混りなく欠くるところない享楽にしか、注意を払わなかった。かくてわれらは終日終夜、話しもせず、食いもせず、飲みもせず、脚と腰をねじ曲げることと、それに伴なう運動と反動のすべてのうちに過ごした。角で突く牡羊は戦いを好むこの牝羊を容赦せず、その衝撃は首の太い真《まこと》の親父《おやじ》の衝撃であり、その供する砂糖煮《ジヤム》は太い筋の砂糖煮《ジヤム》、白さの父親は天晴れな道具に劣ることなく、甘肉は襲いかかるめっかちの食糧、強情な騾馬も修道僧《ダルウイーシユ》の杖でおとなしくなり、唖《おし》の椋鳥《むくどり》は節《ふし》面白くさえずる鶯と調子を合わせ、耳のない兎は声のない雄鶏におくれをとらず、気まぐれの筋肉は無言の舌を動かし、要するに一言以って言えば、奪うべきものはいっさい奪われ、陥れるべきものは陥れられたのであった。そして、我らは朝の光の射すに及んでようやく我らの仕事をやめ、祈祷を唱え沐浴に行くことにした。
かくて我らは一カ月をこのように過ごし、余が宮殿にあることも、我らの送っていた、無言の交合やそれに類した事柄に充ちた法外の生活も、何ぴとにも気どられずにすんだ。我らの秘密が父母に発見されはしないかと、わが友の絶えず感じていた大いなる懸念さえなかったら、余の歓喜は欠くるところなかったであろう。しかしこの懸念は、心臓から心臓を引きちぎるばかり、まことに激しかったのじゃ。
ところが、かくも恐れたその日が、ついに来ずにはいなかった。というのは、或る朝、乙女の父親が目をさまして、娘の部屋に行ってみると、その月の美しさとみずみずしさはめっきり衰え、一種深い疲労が、顔立を変え、蒼白さで蔽っているのを認めたのであった。そこで即刻父親は母親を呼んで、言った、「我らの娘の顔色は何ゆえ変ったのであろうか。秋の禍津日《まがつび》の風が娘の頬の薔薇を凋《しぼ》ませたのが、そちに見えないのか。」母親は言葉なく怪訝《けげん》な様子で、永い間、安らかに眠っている娘を見つめていたが、やがて一と言も言わずに、娘に近づくと、いきなり腕を延ばして肌着を捲しあげ、左手の二本の指で、娘の下《しも》の愛すべき二つの半分を両分したのであった。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十八夜になると[#「けれども第九百十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると母親はわが眼を以って、己が見たところを見た。すなわち、この素馨《そけい》の色せる兎の処女が、気化蒸発した明々白々たる証拠を見たわけじゃ。かくと確かめるや、母親は激動に失神せんばかりになって、叫んだ、「おお、娘の操と名誉が奪われてしまった。おお放埓娘《いたずらむすめ》、そのくせこんなに安閑としているとは。おお、貞操の衣服の上の消すことのできない汚点《しみ》。」次に母親は娘をはげしく揺すぶり起こしながら、どなりつけた、「本当のことを言わないと、おお犬よ、お前に赤い死を味わわせてやるよ。」
乙女はこんな風にいきなり叩き起こされ、そして自分に対する黒い怒りに鼻を詰らせた母親を見ると、起こったところをうすうす感づいて、重大な時機の至ったことを、おぼろげに気づいた。そこで、否定しがたいことを否定しようとも、打ち明けがたいことを打ち明けようとも、試みなかった。ただ頭を垂れ瞼《まぶた》を伏せて、沈黙を守る決心をした。そして時おり、母親の投げつける荒れ狂う言葉の波の下に、ちょっと瞼をあげては、すぐさま、驚いた眼の上に引き下ろすだけにとどめた。いかようにせよ返事をするということは、固く慎しんだ。そのうち、問責と威《おど》しと暴風雨《あらし》の騒音尽き果てて、母親はわが声|嗄《か》れ、わが喉音声を拒むのを感ずると、その場に娘を残して、騒々しく室を出て、宮殿を隈《くま》なく捜索の上加害犯人を見出せと厳命した。やがてほんのわずかのうちに、余は見つかった。彼らの鼻にすぐ嗅ぎとれる、余の人間臭をたよりに、余の跡をつけて捜索が行なわれたからじゃ。
されば一同は余を捉えて、後宮《ハーレム》と宮殿の外に引き立てた。そしておびただしい量の薪を集めて、余を裸にし、今にも薪の山に放りこもうとした。あたかもそのとき、さきの井戸の老婆両人が余に近づき、警吏どもに言った、「私たちはこの怪《け》しからぬ人間の身体《からだ》に、この灯油の壺を叩きつけてやろう。火がこいつの手足をいっそうよく嘗《な》め、私たちをこの禍《わざわ》いの姿から早くのがれさせてくれるようにね。」警吏は文句を言うどころか、ふたつ返事であった。そこで二人の老婆は、さきに余に霊験を説いたあのスライマーンの霊油を満たした壺を、余の身体に傾け注ぎ、全身残る隈なく油を塗りつけた。それが終ると、警吏は余を厖大な薪の山のまん中に据えて、火を放った。たちまちにして、余は勢い激しい焔に囲まれた。然るに、余を嘗める赤い舌は、イレムの園の水の愛撫よりも、心地よく涼やかなのじゃ。そして余は朝から晩まで、この猛火のただ中に、母の腹中より出でし日と同じように、疵《きず》ひとつ負わずにいた。
ところで、「第一階級」の魔神《ジン》どもは、火を焚きつけ、余は骸骨の状態となったと思いこんで、主君に余の灰をいかになすべきか伺いをたてた。すると王は、余の灰をとって、改めて火中に投ぜよと命じた。女王は言い添えた、「だがその前に、お前たちみんなでその上に小便をかけよ。」それでこの命に従い、仕える魔神《ジン》たちは、余の灰を拾ってその上に小便をかけようとて、火を消した。ところが彼らは、今申したような有様の、笑みを浮べた無疵の余を見出した次第じゃ。
これを見ては、「第一階級」の魔神《ジン》の王と女王は、余の威力を疑うわけにはゆかぬ。そして心中深く考えて、今後はかくも卓越した人物をば敬うことこそ、己が義務であると思い定めた。そしてこれは、自分たちの娘を余にめあわすが至当と考えた。そこで両人来たって余の手をとり、余に対する自分たちの振舞いを詫び、栄誉と慇懃《いんぎん》を尽して余を遇した。余がワーカーク王の王子なる旨を知らせると、両親は悦びの限り悦び、わが娘をアーダムの子ら中もっとも高貴な人間と、結び合わせてくれた運命を祝福するのであった。そして余とこの薔薇の身体を持つ美女との婚礼を、華々しく賑々しく祝った。
数日後、余は自分の王国に戻りたい望みを覚えたので、わが妻の父なるわが伯父に、その許可を求めた。自分の娘と別るるは、彼らに辛いことではあったが、あえて余の望みにさからおうとはしなかった。
そこで空の魔神《ジン》六|対《つい》のひく黄金の戦車一台を我らのため用意させ、土産として、莫大な数の見事な宝玉細工と宝石類をくれた。告別と祈願ののち、我らは、眼を閉じて開ける間に、わが都ワーカークの町に運ばれた。
さて今は承知せよ、おお若者よ、その方の前に現在|後手《うしろで》に縛られているこの若い女こそ、「第一階級」の魔神《ジン》の王、わが伯父の娘である。これぞまさにわが妃であり、「松毬《まつかさ》」と呼ばれる女じゃ。またこれぞ、現在までの問題となっていた女だし、余のこれより語り聞かすところの眼目となる女である。
果たして、一夜、余の帰還後しばらくたってのこと、余は妻の松毬《まつかさ》のかたわらに眠っておった。すると、はなはだしい暑気のため、余はいつになく目を覚まし、気がつくと、この蒸し暑い夜の気温にもかかわらず、松毬《まつかさ》の手と足は、雪よりも冷たいのであった。余はこの異常な冷たさを感じて慄然とし、てっきり妃が何かただならぬ不快を覚えているのであろうと思い、静かに呼び起して、これに言った、「わが好ましい女よ、お前の身体《からだ》は氷のようだ。どこか苦しいのか、気分は何ともないか。」すると妻は無頓着な様子で答えた、「何でもございません。今しがた用を足しましたが、そのあとで手水《ちようず》をつかったため、手足が冷たいのです。」余はその言葉をまことと信じて、一と言も言わず、再び寝た。
ところが数日後、また同様のことが起ったが、妻は余に問われると、同じような説明を与えた。しかしこんどは余は納得がゆかず、漠とした疑念がおぼろげに余の心中に入りこんだ。爾来余は心安からぬ次第であった。さりながら、余はそれらの疑念を、わが心の小箱のなかにしまい、わが舌の扉に沈黙の錠をおろした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百十九夜になると[#「けれども第九百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして余は自らの不安をまぎらそうと試みて、厩舎《うまや》にわが駿馬を見に行った。ところが見ると、風をも凌ぐ駿足のゆえ、特に余一人の乗用にあてていた馬がみな、すっかり痩せ細り、衰え果てて、骨が皮の上に露《あら》われ、背中はいく個所も擦りむけている。余は一向に合点がゆかず、馬丁どもをわが前に来たらせて、言った、「おお犬の子らめ、これは何じゃ。どうしたことか。」すると一同余の怒りの前に、面を地にこすりつけたが、そのうちの一人が、ふるえながら少しく頭をあげて言った、「おお我らの御主君様、もし私の一命をお助け下さいますならば、私は内々で或ることを申し上げます。」余はこれに安泰の手巾《ハンケチ》を投げてやりながら、言った、「ありていに申し、何ごとも隠すなかれ、さもないと串刺しじゃ。」するとその馬丁は言った、「実は、おお、われらの御主君様、毎夜欠かさず、われらの御主人の女王様が、王衣を着け、お身の飾りと宝石類に飾られて、装いを凝らしたバルキス女王のようなお姿で、お厩舎《うまや》に来なさり、われらの御主君御専用の馬一頭を選び出し、それに乗って、御散歩にお出かけになるのでございます。そして夜明け方、お戻りになる時には、その馬はもう使いものにならず、へとへとになって地にぶっ倒れてしまいます。こういう有様が続いて久しくなりまするが、私どもはついぞ思いきって、われらの御主君|帝王《スルターン》にお知らせ申しかねておりまする。」
ところで余は、この奇怪な仔細を聞くと、心中掻き乱され、わが不安は立ち騒いできて、疑念は深く脳裡に根を張った。そして昼間は余にとってかくのごとき有様で過ぎ、国事を裁くに一瞬の平静をも持ち得なかった。余はひたすら夜を待ちわび、われにもあらず、わが脚と腕がたるんでくるような焦慮を覚えた。さればいよいよ、夜、妻に会いにゆく例刻になると、余は妻の部屋にはいった。すると妻はすでに着物を脱いで、両腕を伸ばしていた。そして余に言った、「私はほんとうに疲れてしまって、もう寝るよりほか望みがございません。それに眠気がさして、眼の上にひろがってまいります。さあ、寝《やす》みましょう。」一方余は、内心の動揺を隠しおおせて、妻よりももっと疲れ切ったようなふりをしながら、妻のそばに横たわり、目覚めきっていたものの、居酒屋で眠っている連中のように、鼾《いびき》をかきながら息をしはじめた。
すると、この悪運の女は、小猫のように起き上がり、余の唇に茶椀を近づけて、その中身を余の口中に注いだ。余はじっとこらえて露顕しないように努めた。しかし、さながら眠りつづけているかのように、少しばかり壁のほうに寝返りを打って、妻が余に注いだ麻酔剤《バンジ》の水を、そっと枕のなかに吐き出した。妻は麻酔剤《バンジ》の利き目を疑わず、今は少しも遠慮なく、部屋のなかを行ったり来たりし、顔を洗い、身なりをととのえ、眼には瞼墨《コフル》、髪には甘松香の香油《においあぶら》、眉にはインド産の眉墨《スルメ》、歯には同じくインド産の|お歯黒《ミツシ》をつけ、薔薇の香水で身を香らせ、一面に宝石を飾って、あたかも酔うがごとく、外に歩き出したのであった。
そこで余は、妻が外に出てしまうのを待って、床より起き出し、頭巾つきの外套《アバイヤ》を肩に打ちかけ、裸足《はだし》で、足音を忍ばせて、妻のあとについて行った。妻は厩舎《うまや》のほうに向って、シリーンの名馬のように見事な軽やかな一頭を選ぶのであった。そしてその上に乗り、出発した。余もまた馬に乗って、あとをつけようと思ったが、蹄《ひづめ》の音がこの恥知らずの妻の耳に達して、かくて妻に知られたくないところを感づかれはすまいかと考えた。そこで馬丁《サイス》や使者のような工合に、帯をばわが腰のまわりにしっかと締め、脚を風にまかせて、妻の馬のあとをそっと追いはじめた。躓《つまず》けば、立ち直り、転べば、勇気を失わず、起き上がった。かくて余は、道の小石に足を傷つけられつつ、疾走を続けた。
ところで知るがよい、おお若者よ、ここにその方の前に立っている、黄金の首輪をつけたこれなる兎猟犬《グレイハウンド》は、余がついて来いと命ずることなど思いもよらなかったのに、余のうしろから出てきて、声も立てずに、忠実に余のかたわらを走っていたのである。
さて、休みなく駈けつづけること数刻に及ぶと、わが妻は草木のない野原に着いたが、そこには、土で造った低い家が一軒あるのみで、それには黒人どもが住んでいた。妻は馬から下りて、その黒人の家にはいった。余もあとから中に入ろうとしたが、余が敷居《しきい》に達する前に、扉は閉まってしまい、余はただ天窓から覗いて、果たしてこの件がいかなることか知るに努めた。
するとこうじゃ。その数七名に達する、水牛のような黒人が、凄まじい罵詈雑言《ばりぞうごん》をもってわが妻を迎え、妻を引っ捉えて、地上に投げ倒し、激しい乱打を加えつつ妻を踏みつけるので、余は妻の骨は砕け、魂は息絶えるかと思った。然るに妻は、今日までも肩、腹、背にその跡の消えやらぬほどの、この乱暴極まる仕打ちに、一向苦し気な様も見せず、ただ黒人どもに言うばかりであった、「おお私の愛《いと》しい人たちよ、あなた方への私の愛の強さにかけて誓います、今夜私が少々遅れたのは、私の夫の王、あの疥癬病《かいせんや》み、あのろくでなしの尻《けつ》が、いつもの時刻よりも永く起きていたからにすぎません。それさえなければ、ここに来て、私の魂に私たちの交わりの飲み物を楽しませてやるのに、私がそんなに永い間待っていたでしょうか。」
余はこの様を見て、もう自分がどこにいるのかも、自分が恐ろしい悪夢に襲われているのかどうかも、わからなくなった。そして魂のなかで考えた、「やあ、アッラー、おれはかつて松毬《まつかさ》を、薔薇でさえも打ったことがない。あれが死にもしないで、あんな打擲《ちようちやく》に耐えるとは、いったいどうしたことだろう。」そして余がこのように思案しているうちに、黒人どもは、余の妻の申しわけで気が静まって、妻の王衣を引き裂き、宝石や飾りをもぎ取って、素裸にし、次に全部がただ一人の男のように、妻に飛びかかり、一どきに八方から妻を襲うのであった。妻はこの乱暴狼藉に、満足の吐息を洩らし、眼を白くし、息をはずませて答えていた。
そこで余は、もはやこれ以上見るに忍びず、天窓から部屋のまん中に躍り出し、そこにあった棍棒のうちの一本の棍棒を拾って、黒人どもが自分たちの間に何か魔神《ジンニー》でも降ってきたのかと思って、茫然としているのに乗じて、奴らの上に飛びかかって、頭上をしたたか打ち据え、叩き殺してやった。こうして奴らのうち五人を、妻の上から離し去り、まっすぐに地獄に突き落してやった。これを見て、残った他の二人の黒人は、自分から余の妻を離れ、身の救いを求めて逃げ出した。しかし余はそのうち一人を首尾よく捉え、一撃の下にこれをわが足下に伸《の》した。だが奴はただ目をまわしただけであったので、余は縄を取って、これをがんじがらめに縛り上げようと思った。それで身をかがめていると、余の妻が突然うしろから駈けよって、力一杯余を突きとばしたので、余は地上にひっくりかえってしまった。すると黒人はその機に乗じて、起き上がり、余の胸の上に乗った。そしてすでに棍棒をふりあげて、一撃の下に余を片づけてしまおうとした瞬間、わが忠犬、この白地に栗毛の斑《ぶち》のついた兎猟犬が、いきなり奴の喉元に食らいつき、もろともに転がりつつ奴を地上に倒した。それで余は直ちにこの好機を逸せず、相手に乗りかかり、手早く奴の両腕両脚を縛り上げた。次は松毬《まつかさ》の番で、余は一と言も言わず、両眼から火花を発しつつ、これを捕えて縛った。
これがすむと、余はその黒人を家の外に引きずり出し、わが馬の尻尾《しつぽ》につないだ。次にわが妻をつかまえて、これを荷物のように、鞍《くら》の上の余の前に、横ざまに置いた。そして余の一命を救った猟犬を従えて、宮殿に戻り、道々ずっと引きずられて、身体《からだ》はすでに息絶え絶えの襤褸《ぼろ》にすぎぬ黒人の首を、手ずから刎ね、肉はわが犬に食わせてやった。余はその首《こうべ》を塩漬にさせたが、それがすなわち、今その方が、この場に、松毬《まつかさ》の前のこの皿の上に見る首じゃ。そして余の妻、この恥知らずの女には、罰として、余は日々にその愛人たる黒人の斬首《きりくび》を見せるのみにとどめた。この二人については以上のようである。
ところで、首尾よく逃がれ去った七番目の黒人については、彼奴《きやつ》は走りつづけて、タンムーズ・ベン・カームース王の支配する、シーンとマシーンの地方に行き着くまで止まらなかった。そして黒人らしい奸策を弄したあげく、首尾よくタンムーズ王の娘モホラ姫の、象牙の寝台の下に潜むのに成功した。そして現在は姫の腹心の相談相手となっている。宮殿では誰一人、姫の寝台の下に彼奴《きやつ》がいることを知る者はない。
以上が、おお若者よ、松毬《まつかさ》との余の経緯《いきさつ》全部である。そしてかくのごときが、シーンとマシーンの王の娘、かくも多数の王侯子弟の殺戮者《さつりくしや》モホラの、象牙の寝台の下に目下寝ている、黒い黒人の役割じゃ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十夜になると[#「けれども第九百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ワーカークの町の主《あるじ》、糸杉王は、若い金剛王子に、このように語りました。次に付け加えて言いました、「さてその方は今、およそいかなる人間も知らぬことを聞いたからには、もはやその方のものならぬ首《こうべ》を延べ、その方の手を生より洗うべし。」
けれども金剛王子は答えました、「おお当代の王よ、わが首が御手の間にあることは私も承知でございまして、もうあまり未練なく首と別るる覚悟をいたしておりまする。さりながら、今に至るまで、このお話の最も重要な点が、私の精神にとって十分に闡明《せんめい》されておりませぬ。それと申しまするは、何ゆえに七番目の黒人が、地の他の場所ではなく、あたかもモホラ姫の寝台の下に身を隠しに行ったのか、またわけても、どういう次第で、この王女が黒人を永住させることを承知したのか、その点未だ私には合点がゆきませぬ。されば何とぞいかにしてさようなことと相成ったか、承わらせていただきたく、一たびそれを知らば、私は身を浄《きよ》めて、死に就きましょう。」
糸杉王はこの金剛王子の言葉を聞くと、すっかり驚いてしまいました。というのは、まさかこんな問は思いもかけず、それに、金剛王子の望むような詳細を、御自身知ろうとの好奇心は、かつて起こさなかったのです。それゆえ、こんな重大な問題を知らないとは思われたくなくて、王は若い王子に言いました、「おお旅の者よ、その方の今尋ぬるところは、国家の機密の領分のこととて、万一余がこれをその方に明かすがごときことあらば、余はわが頭上と領土の上に、最悪の災厄《わざわい》を招くこととなろう。それゆえに、余はむしろその方の一命と頭《こうべ》を特に免じ、その方の不謹慎を許してとらせるといたそう。されば、余がその方を自由に立ち去らせる決心を翻さぬうち、いそぎこの王宮を出でよ。」
金剛王子はこんなに簡単に助かろうとは思っていなかったので、糸杉王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、そして、あれほど知りたかったことが今はよくわかり、安泰を授けたもうたアッラーに感謝しながら、王宮を出ました。それから若い友、美しい青年ファラーに暇乞いにゆくと、友は王子の出発に涙を流しました。次に王子は露台に上がって、シムールグの毛を一本燃やしました。すぐに「飛行の人」は、暴風の息を先触れにして、王子の前に姿を現わしました。そして王子の希望を聞くと、これを肩に載せ、七つの大洋を渡って、王子を懇《ねんご》ろ親切に、自分の住居にはいらせました。そしてそこで数日間の休息をとらせました。そのあと、王子をあの好ましいアジザ女王のそばに、蕾《つぼみ》とよく映り合う薔薇のまん中に、運びました。この好ましい乙女は、王子の留守を嘆いて、その帰りを待ちわび、両頬は柘榴《ざくろ》の花のようになっているのでした。王子が飛行のアル・シムールグに付き添われて、はいってくるのを見ると、その心は絶え入るばかりになり、女王は牡鹿を呼ぶ牝鹿のように、震えながら立ち上がりました。飛行のアル・シムールグは、二人の邪魔をしないようにと、部屋を出て、二人に存分に再会させました。そしてひと時たってから、再びはいってみると、両人はまだ抱き合い、輝かしさの上に輝かしさを重ねておりました。
するとかねて計画をきめていた金剛王子は、アル・シムールグに言いました、「おお私たちの恩人、おお巨人たちの父にして冠よ、今はあなたにお願い申したいが、どうかわれわれをあなたの姪御、美わしいガミラの許に運んで下さいまし。あの女《ひと》は欲情の灼熱した熾火《おきび》の上で、私を待っていますから。」すると親切なアル・シムールグは、一人ずつ肩に載せて、二人を連れ、眼を閉じて開ける間に、優しいガミラの許に運びました。彼女はもはや王子の身についての消息が絶えたので、悲しみに打ち沈み、次の詩節を訴えるように、口ずさんでいる最中でした。
[#ここから2字下げ]
水仙の恋い慕うその眼より、わが心を遠く退くることなかれ。
おお禁酒家よ、酔う人びとの嘆きを退くることなく、彼らを再び居酒屋に伴ないゆくべし。
わが心は、君が生《お》いそめし薄髭の軍勢より、逃がるること能わじ。また、傷つきし薔薇のごとく、わが衣の破《やれ》は再び繕《つくろ》わるることあらじ。
おお、あらがいがたき美よ、おお、麗わしく、浅黒く、好ましき君、わが心は、君が素馨《そけい》の御足《みあし》の下に、横たわり、
齢未《よわいいま》だ青春に入りそめしばかりの、わがあどけなき乙女心は、人びとの心を盗む盗人の御足《みあし》の下に、横たわる。
[#ここで字下げ終わり]
金剛王子は、自分を鹿の皮から引き出し、姉の魔法使ラティファの策略から解き放ってくれた上に、魔法の武器を授けて身に帯びさせてくれたこの救いのガミラに、どんなに恩義を蒙っているかを、決して忘れていなかったので、自分の感謝の気持を熱心に表わさずにいませんでした。そして再会の悦びの感激のあとで、王子はアジザ女王に、ひと時ガミラとただ二人きりにしてくれるように頼みました。アジザはその頼みが正当で、分け前は平等でなければならないと思って、アル・シムールグと一緒に外に出ました。ひと時たって、戻ってくると、ガミラは金剛王子の腕のなかで、晴々としておりました。
すると何ごとも定めた時間にすることを好む王子は、二人の妻とアル・シムールグのほうを向いて、三人に申しました、「今は、やあガミラよ、あなたの姉上であり、おお飛行の父よ、あなたの兄上の娘である、あの魔法使ラティファの件を、片づけるべき時だと思いますが。」一同答えました、「異存はありません。」それからアル・シムールグは、金剛王子の乞いに応じて、姪の魔法使ラティファのところに出向き、手ばやくこれを後手に縛り上げて、金剛王子の前に引っ立ててきました。すると若い王子は、その姿を見て言いました、「ではこの女を裁くため、私たちはここに車座に坐って、とくと刑罰を考えることにしよう。」そして一同互いに向きあって席を占めると、まずアル・シムールグが意見を述べて、言いました、「こんな有害な女は、躊躇なく、人類から取り除いてやるべきだ。わしの意見では、時を移さず、われわれはこれを逆《さかさ》磔刑《はりつけ》にして、次に剥製にするがよい。或いは、絞首《しばりくび》にしてから、その肉を禿鷹《はげたか》や猛禽の餌食《えじき》としてもよいだろう。」すると金剛王子はアジザ女王のほうに向いて、その意見を徴しました。アジザは言うに、「私の意見では、むしろこの女《ひと》の私たちの夫に対する罪を忘れて、祝福された今日、私たちが一緒になった記念に、この女《ひと》を許してあげたらと思います。」またガミラの番になると、彼女の意見は、姉を許してやって、その代り、姉が牡鹿に変えた若者全部を、元の人間の姿に返すことを要求すべきだというのでした。そこで金剛王子は言いました、「よろしい、では赦免と安泰その上にあれ。」そしてこの女の上に自分の手巾《ハンケチ》を投げてやりました。次に言うに、「今はひと時の間、私をこの女と一緒に残しておいてもらいたい。」一同すぐにその希望に従いました。そして一同部屋に戻ってきた時には、ラティファは若者の腕のなかで、許されて満足しておりました。
さてラティファが、魔法によって牡鹿に変えた貴公子その他の人間を、最初の形に返し、それぞれ食物と着る物を与えた上で、全部帰らせ終ると、アル・シムールグは金剛王子とその三人の妻を背に載せ、ちょっとの間に、モホラ姫の父、タンムーズ・ベン・カームース王の都に、一同を運びました。そして一同のために、町の外に、天幕《テント》を張り、そこに一同を置いて少しく休息させることとし、自分自身は金剛王子の頼みに従って、姫のお気に入りの「珊瑚《さんご》の枝」のいる後宮《ハーレム》に出かけました。そしてこの乙女が嘆息と心の悩みのうちに待つ金剛王子の到着を、これに知らせてやりました。恋する男の許に案内してもらう決心を彼女につけさせるのに、巨人は骨を折りませんでした。そして巨人は乙女を金剛王子のまどろんでいる天幕《テント》に運び、三人の他の妻を連れ出して、王子と二人きりにしてやりました。金剛王子は帰ってきた思いを吐露したのち、珊瑚《さんご》の枝に自分の約束を忘れていないことを証拠立てることができまして、その場で、彼女に適当な言葉を語りました。彼女は悦びと満足に心晴れ、そして金剛王子の三人の妻も、これを愛らしい女と思いました。
さて内輪の用向きがこのように、金剛王子とその四人の妻との間で、片づきますと、一同は肝心の計画を果たすことを思いました。そこで金剛王子は天幕《テント》を出て、単身都に向い、モホラの宮殿の前の、馬場《マイダーン》の広場に着きました。あの王侯貴族の首が幾千となく、或いは冠をいただき、或いは露頭蓬髪で、吊るされているところです。そして王子は太鼓のほうに向ってゆき、力をこめて太鼓を打ち鳴らし、自分はモホラ姫が求婚者に要求する答を、姫に申し上げる用意がある旨を通じました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十一夜になると[#「けれども第九百二十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとすぐに警衛兵は王子を、タンムーズ・ベン・カームース王のところに連れてゆくと、王は王子を見て、これはかつてその美貌に心ひかれ、あの時は、「三日の間熟慮し、その上で再び来たって、その方のたおやかな首《こうべ》を、その方の身体の領土から引き離すべき謁見を、求めることにせよ、」と言ってやった、あの若者であることがおわかりになりました。
さて今度は、王は王子に近づくように合図をして、これに言いなさいました、「おおわが息子よ、願わくはその方にアッラーの加護あれかし。その方は依然として、飽くまで神秘を知らんと欲し、若い娘の気まぐれな考えを説き明かそうというのかな。」金剛王子は言いました、「洞察の知識はアッラーより我らに来たり、我らはアッラーの賜物を誇るわけにはまいりませぬ。さて、御息女が心の小箱のなかに秘めて、それを開くことを所望せらるる秘密は、何ぴともこれを知りませぬ。しかしこの私は、その鍵を持っておりまする。」王は言いました、「若い身空でかわいそうに。今やその方は、己が手を生から洗った次第じゃ。」
そしてもうこの若者に、その悲運の計画を思いとどまらせる見込みはなかったので、王は奴隷に命じ、御主人モホラに、一人の異国の公子が、王女の御意に召したい目的で、王女の夢幻《ゆめまぼろし》を説き明かすことを試みに来た旨を、取り次がせました。
ほどなく謁見の間に、香り高い捲毛の匂いを先立てて、挙措|美《うる》わしい公女、多幸なモホラ、あれほど多くの断ち切られた生命の原因《もと》、水腫患者がユーフラテスの河水を飲み倦かぬにもまして、人びとの眺めて倦かぬ乙女、そのために数千の魂が、焔に飛び入る蛾《が》のように身を犠牲にした乙女が、はいってまいりました。そしてひと目見て、金剛王子こそは、あの庭の若い聖者《サントン》、その姿を見てわが心があれほど動顛した、太陽の面《おもて》を持つ、美しい体躯《からだ》の若人であることを認めました。姫は実のところ、驚きの極に達しましたけれども、あの聖者《サントン》はたちまち姿を消して、跡形も残さなかったのであってみれば、自分はこれに騙されたのであったと、すぐに覚りました。それで心中大そう怒って、独りごとを言いました、「こんどこそはきっとのがしはしないから。」そして父王と並んで、王座の褥《しとね》の上に坐って、暗い眼《まなこ》をもって若者をまともに見すえて、これに言いました、「問は、これを知らぬ者はない。お答えなさい。松毬《まつかさ》と糸杉との間の関係はいかに。」すると金剛王子は答えました、「答は、おお姫君、これを知らぬ者はない。それはこうです。松毬《まつかさ》と糸杉との間の関係は、面白からぬ性質のものである。何となれば、松毬《まつかさ》はワーカークの都の王糸杉の妃であって、自らの所行の正当な報いを見出したのであるから。且つその事件には、黒人どもがはいっている。」
この金剛王子の言葉に、モホラ姫は顔色がさっと黄色になり、恐怖がその心を捉えました。さりながら、その不安を抑えて、姫は言いました、「その言葉は明らかでありませぬ。更にくわしく説明をして下されば、御身が真相を知っているか、それとも偽りを言っているのか、妾《わらわ》にわかるでしょう。」
金剛王子はモホラ姫が明白な事実に屈服しようとせず、ほのめかしただけで察するのをこばむのを見て、これに言いました、「おお姫君、もし私が、隠しておくべきことを隠している幕を揚げて、更にくわしくお話し申すことをお望みならば、まずはじめに、あなた御自身がかかる事柄を、いったい誰から聞いたか、それを承わりたい。これは処女たる乙女の知るはずのない事柄でござる.これはここに誰かあなたに智恵をつける者がいて、その者の来たことが、私に先立つあらゆる公子らにとって災いとなったということがなければ、到底あり得ぬことでござる。」
こう述べて、金剛王子は王のほうを向いて、申し上げました、「おお当代の王よ、もはやこれ以上永く、御息女の暮らしておらるる神秘を、御承知なきはよからず、どうか王女に、ただ今私の問うたところにお答えあるよう、御命じ下さいませ。」すると王は美しいモホラのほうを向いて、「話せ」という意味の目配せをなさいました。けれどもモホラは沈黙を守って、父王の再三の目配せにもかかわらず、舌を固く縛っている結びから、わが舌を解こうとしません。
そこで金剛王子は、タンムーズ王の手をとって、一と言も言わずに、これをモホラの居間に伴ないました。そして突然身をかがめるや、一気に、王女の象牙の寝台を持ちあげました。するとここに突然、モホラの秘密の壜は、これを開ける人の石の上で、微塵《みじん》に砕け、姫の相談相手の黒人が、万人の眼の前に、縮れ毛の頭をもって、現われ出たのでございます。
これを見ると、タンムーズ王をはじめ並いる一同は、茫然自失に投げ入れられました。次に一同、恥じ入って頭を垂れ、身体中汗をかきました。老王は、わが不面目が朝臣の前で隈なく曝露されることを好まず、それ以上何もたずねませんでした。そしてそのほかの説明を求めることさえせず、王女を金剛王子の手の間に引き渡して、どうなりと処置を一任しました。その上で言い添えなさいました、「ただ、おおわが息子よ、この恥知らずの娘を連れて、一刻も早くここを立ち去ってもらいたい。もう二度とこの娘の話を聞きたくないし、余の眼はもうその姿を見るに耐えぬから。」――また黒人のほうは、串刺しの刑に処せられました。
金剛王子は老王の言葉に従わずにはいず、恥じ入る姫の手をとって、両手両足を縛ってこれを天幕《テント》に連れてゆき、飛行のアル・シムールグに、女たち全部と一緒に自分を、父君シャムス・シャー王の都の入口まで、運んでくれるように頼みました。それは直ちに行なわれました。親切なアル・シムールグは、感謝の言葉も受けつけようとせず、金剛王子に別れを告げました。そして身をふくらまして、自分の道に立ち去りました。この巨人はこのような次第でございます。
金剛王子の父君シャムス・シャー王はと申しますと、最愛のわが子の到着の知らせがお耳に達すると、留守のため両眼を泉となさっていたのが、今は悲しみの夕は変じて悦びの朝となりました。そして御自身王子をお迎えに出られ、一方吉報の布告は町中にひろまり、喜色は軒並みに溢れました。父王は感動に身をふるわせながら近づいて、王子を胸にぴったりと引きよせ、その口と眼に接吻し、叫びながら王子の上におびただしく涙を流しなさいました。金剛王子は両手を合わせて、しきりにわが涙と吐息を抑えようと努めました。ようやく最初の感激がいくぶん静まって、老王はお口がきけるようになると、お子様の金剛におっしゃいました、「おお、お前の父の家の眼と灯火《あかり》よ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十二夜になると[#「けれども第九百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……おお、お前の父の家の眼と灯火《あかり》よ、お前の旅の物語をつぶさに語り聞かせて、苦しいお前の留守中の日々をば、余に想像の裡に生きさせてくれよ。」そこで金剛王子はシャムス・シャー老王に、わが身に起ったすべてを、一部始終語り聞かせました。しかしそれを繰り返しても詮なきことでございます。それから王子は、自分の四人の妻を次々に王に引き合わせ、最後に、手足を縛ったモホラ姫を、王の前に連れてこさせました。そして王に申し上げました、「今は、おお父上、この女については、御意《ぎよい》にかなうところを、お命じ下さいませ。」
至高者から智慧と聡明を授けられた老王は、心中お考えになるに、王子がこうしたあらゆる辛酸労苦を忍んだのも、この女のためであってみれば、実は王子は心の奥底で、あれほど多数の立派な公子たちの死の因《もと》となった、この禍《わざわ》いの女人を、愛しているにちがいない。だから、もし自分が厳しい判決を下したならば、疑いもなく、大いに王子を悲しませることであろうと、こうお思いになりました。それゆえ、更にしばらくお考えになった末、王は王子におっしゃいました、「おお、わが息子よ、幾多の労苦艱難のあげく、値知れぬ真珠を獲《え》た者は、これをたいせつに保存しなければならぬ。いかにも、この気まぐれな精神の王女は、その盲目によって、咎むべき所業の罪を負うた。しかしそれらの所業は、至高者の御意によってなされたものと見なすべきじゃ。かくも数多《あまた》の若人が、王女の過ちによって、一命を奪われたとしても、それは、天運の記録者が運命の書に、それをばかく書き記したがゆえである。他方、おおわが息子よ、この女人は、お前が聖者《サントン》としてその庭園に潜り入ったときには、深甚な敬意を払ってお前を遇したことを、忘れてはならぬ。最後に、かの黒人にせよ、また世界の誰にせよ、およそ何ぴとの欲情の手も、この女性《によしよう》の若々しい灌木の果実に及んだことなく、何者もその顎《あご》の林檎の風味も、その唇のピスタチオの風味も、かつて味わったことがないことは、お前も知っておることじゃ。」
金剛王子はこの優しい言葉の提言をありがたく感じました。挙措美しい多幸な女たち、王子の四人の妻が、同意を以ってこの説を支持しただけに、ひとしおでした。ですから、好い日と好い時を選んだ上、この太陽の体躯《からだ》の若者は、宝物のかたわらの蛇にも似た、この不実な月と、相結ばれたのでございます。そして王子は、四人の正妻と同様、この女との間にも、立派な子供たちを儲け、その子らの歩みは歩ごとに至福《さいわい》でありましたし、その子らはいずれも、父の金剛華麗王、祖父のシャムス・シャー豪華王と同じく、幸運と幸福をわが奴隷としたのでございました。
これが、その身に起った並々ならぬ事どもすべてを含めた、金剛王子の物語でございます。されば、聡明な人びとに智慧を学ばせんとて、古人の説話をば教訓として今人のため残したまえる御方に、栄光あれかし。
[#この行1字下げ] ――すると、極度の注意をこめてこの物語に耳を傾けていたシャハリヤール王は、このときはじめてシャハラザードに礼を述べて、言うのであった、「そちに讃《たた》えあれ、おお蜜の口よ。そちは余に苦々しき憂慮を忘れさせてくれた。」次に突然、その面《おもて》は再び曇った。シャハラザードはこれを見てとると、いそぎ言った、「さようでございます、おお当代の王様。けれども、滑稽頓知の達人[#「滑稽頓知の達人」はゴシック体]についてこれからお話し申し上げるところに比べますれば、これなど何ものでございましょうか。」するとシャハリヤール王は言った、「おおシャハラザードよ、その滑稽頓知の達人[#「滑稽頓知の達人」はゴシック体]というのは何か、余は知らぬが。」するとシャハラザードは言った。
[#改ページ]
滑稽頓知の達人の奇行と戦術から(1)
おお当代の王様、古えの賢人の年代記と碩学の典籍に語られ、伝承によって私どもに伝えられておりますところでは、むかしカイロの町、この諧謔《かいぎやく》機智の住家に、一人の見かけは馬鹿のような男ですけれど、これこそはまさしく、その時代随一の愉快な、教養ある、また才気煥発の人物ということはさておいて、その途方もない道化者の外見《そとみ》の下に、比類のない繊細と明敏と聡明と智恵の奥底を隠している男がおりました。その名はゴハと申し、その職業は、時に回教寺院《マスジツト》において説教師の役を勤めてはおりましたものの、何もなく、全然何もなかったのでございました。
さて、或る日、友人たちが彼に言いました、「おおゴハよ、君は無為の裡に世を過ごし、十本の指の手を、ただ食物を満たして口に運ぶためにしか使わないことを、恥とは思わないのかね。今こそは君の放浪生活をやめ、世間の人並みの暮し方に倣《なら》うべき時だとは、君は考えないのかね。」ところで、これに対しては彼は何ごとも答えませんでした。けれども或る日、彼は一羽の大きな立派な鸛《こうのとり》を掴まえました。空高く飛べる見事な翼と、他の鳥の恐怖であるすばらしい嘴《くちばし》と、脚としては二本の百合の茎を備えております。これを携えて、彼は自分の家の露台に上がり、先に自分を非難した人々の面前に現われ、庖丁でもって、鳥の翼の見事な羽と長いすばらしい嘴と、あれほど花車《きやしや》な美しい両脚を切り落し、そして鳥を足でもって空中に押しやりながら、これに言いました、「飛んで行け、飛んで行け。」友人たちは眉をひそめて、彼に叫びました、「アッラーは君を呪いたまうように、おおゴハよ。なぜこんな無茶な真似をするのだ。」彼は皆に答えて、「この鸛《こうのとり》は他の鳥みたいじゃなかったので、俺には面白くなく、目ざわりになった。しかし俺は今こいつを世間並みにしてやったんだよ。」
――また、他の或る日、彼は自分を取りまいている人々に言いました、「おお回教徒方《ムスリムーン》よ、ここにいられる皆の衆よ、寛仁者至高のアッラーは――その讃《たた》えられ謝せられんことを。――なぜ駱駝と象に翼をお授けにならなかったか、皆さんは御存じかな。」一同笑い出して、答えました、「いや、アッラーにかけて、そいつは知らないな、おおゴハさん。けれど、あなたは学問と神秘にかけては通ぜざることなしなのだから、さっそく私たちにそれを教えて、啓発してもらいたいものだ。」するとゴハは一同に言うに、「教えて進ぜよう。それはもし駱駝と象に翼があったら、奴らは皆さんの庭の花の上にどさりと飛びかかってきて、花をみんな押しつぶしてしまうだろうからだよ。」
――また、他の或る日、ゴハの友人の一人が彼の戸を叩きに来て、彼に言いました、「おおゴハ、友達甲斐に、君の驢馬を貸してくれ。急用で借りたいのだ。」この友人をあまり信用していなかったゴハは、答えました、「そりゃ喜んでお貸し申したいが、もう驢馬は家《うち》にいないのだ。売っ払っちゃったのでね。」ところがちょうどその時、驢馬は小屋で鳴き出したものです。それで相手の男は、際限なく鳴きつづけるこの驢馬の声を聞きつけて、ゴハに言いました、「あそこにいるぜ、君の驢馬は。」するとゴハは、大へん不興気な調子で答えて言うに、「いやはや、アッラーにかけて、こいつは驚いた、君は驢馬の言うことを信じて、私の言うことを信じないのだね。とっとと行ってしまえ、もう君なんぞ見たくもない。」
また、別の折、ゴハの隣人が会いに来て、彼を食事に招き、言いました、「おおゴハ、私の家に食べに来てくれたまえ。」ゴハはその招待を受けました。そして両人料理の盆の前に坐ると、牝鶏《めんどり》が出ました。ゴハはいくたびか噛んでみようと試みた後で、とうとうこの牝鶏に手をつけるのをあきらめてしまいました。これは一番年とった牝鶏の中の年とった一羽で、肉は革のようにかちかちでした。そして彼はこの鶏を煮た汁《つゆ》を少々飲むだけで満足しました。それが済むと、彼は立ち上がり、その牝鶏を取り上げて、これをメッカの方角に置き、この鶏に向って礼拝をしようと構えました。すると主人は不興気に彼に言いました、「何をしようというのか、この無信者めが。いったいいつから回教徒《ムスリムーン》が牝鶏に礼拝をするようになったのか。」するとゴハは答えて言うに、「おお小父よ、あなたは思いちがいをしていなさる。今私が礼拝しようとしているこの鶏は、実は鶏ではないのですよ。ただ鶏の格好をしているだけのこと。それというのは、実際はこれは牝鶏に変った年とった聖女か、またはどこぞの尊ぶべき聖者《サントン》なのです。というのは、この鶏は火に向って行ったが、火はこれを敬遠したのだからね。」
――また、別の折、彼は隊商《キヤラヴアン》と一緒に出かけましたが、糧食がごく乏しく、駱駝の御者たちの飢《ひも》じさははなはだしいものがございました。ゴハはと申しますと、彼の胃は大へんせがみ立て、もうたとえ駱駝の飼料でも呑みこんでしまったことでしょう。ところで、最初の休止の際、一同坐って食事をする段になると、ゴハは仲間がびっくりするほどの遠慮と控え目ぶりです。そして当然彼の分となっているパンと茹《ゆ》で卵を、取るように促されると、彼は答えて言うに、「いや、アッラーにかけて、どうかあなた方は食べて満足して下さい。しかしこの私は、パンをまるまる一個と茹《ゆ》で卵一個を、私ひとりではとても食べきれまい。だから、どうか皆さんは、それぞれ御自分の分であるパンと茹で卵をお取りになって、それから、もしお差しつかえなくば、皆さん方でそれぞれのパンとそれぞれの卵を半分だけ私に下さいませ。というのは、それくらいが私の胃にはいる全部です、何しろ私の胃は弱いからね。」
――また、別の機会に、彼は肉屋に行って言いました、「今日は家ではお祝いがあるのだ。だから脂《あぶら》の乗った羊の最上の肉をもらいたい。」そこで肉屋は彼のために、相当の目方に達する羊のヒレ肉全部を取り出して、彼に渡しました。ゴハはそのヒレ肉全部を妻のところに持って行って、言いました、「この上等なヒレ肉で、玉葱《たまねぎ》つきの串焼きを俺たちに作ってくれ。俺の口に合うようによく味をつけてくれよ。」それから彼は市場《スーク》をひと廻りしに出て行きました。
ところが、妻はゴハの留守を幸い、大いそぎで羊のヒレ肉を焼いて、自分の弟と一緒に、ひとかけも残さず食べてしまいました。それでゴハが戻ってくると、串焼肉の食欲をそそる香いを嗅いで、鼻の孔はふくらみ、胃は鳴りました。けれどもいざ盆の前に坐ると、女房は彼の食事として、ギリシアのチーズ一片と黴臭《かびくさ》いパン一片《ひときれ》を持ってきただけです。焼肉《カバーブ》に至っては、跡形《あとかた》もありません。この焼肉《カバーブ》のことばかり考えていたゴハは、女房に言いました、「おお伯父の娘よ、焼肉《カバーブ》はどうした。いつ出してくれるんだ。」すると女房は答えました、「あなたの上と焼肉《カバーブ》の上にアッラーの御慈悲があるように。私が便所に行っているうちに、家の猫が食べてしまったのです。」するとゴハは一言も言わずに立ち上がって、猫をつかまえ、これを台所の秤にかけました。そして猫の目方は、自分の買ってきた羊のヒレ肉よりもずっと少ないことを確かめました。そこで女房のほうを向いて、これに言うに、「おお犬の娘、おおあばずれ女め、もし俺の持っているこの猫が、肉を食《くら》ったのなら、猫の目方はいったいどこに行ったんだ。そしてもし俺の持っているものが猫とすれば、あの肉はいったいどこに行ったんだ。」
――また、他の或る日、彼の妻は台所仕事が忙しいので、自分たちの息子の生後三カ月になる乳呑児《ちのみご》を彼にあずけて、言いました、「おおアブドゥッラーのお父様よ、この子を抱いて、私がお鍋のそばについている間、あやしてやって下さい。やがて私が受けとりに来ますから。」ゴハはこんな仕事はあまり好きではなかったけれど、とにかくお守《も》りを快く引き受けました。ところが、ちょうどそのとき、子供は小便がしたくなって、父親の新しい長上衣《カフタン》の上に小便をやりはじめました。するとゴハは不快の極に達して、いそいで子供を床《ゆか》におろし、怒りにまかせて、こんどは自分が子供の上に小便をかけはじめました。妻は彼がこんな真似をするのを見て、彼のほうに駈けつけながら、叫びました、「おお瀝青《チヤン》の顔め、いったい子供に何をしているんです。」彼は答えて言うに、「お前は盲《めくら》か。お前には見えないのか、俺はただこいつに小便をひっかけているだけのことだ、他人の倅《せがれ》扱いにせずにな。なぜって、実際、もしこれが、他人の倅が俺に小便をひっかけたので、俺自身の倅でなかったのだったら、無論のこと、俺の腹の中の全部をその面《つら》の上に出し尽してやったにちがいないさ。」
――また、或る夜、集った友人たちは彼に言いました、「やあ、シ・ゴハよ、君はもろもろの学問に通じ、天文学に精しいのだから、下弦を過ぎた月はどうなるのか、われわれに教えてもらえるかな。」するとゴハは答えて言うに、「小学校の先生のところで君たちは何を習ったのか、おお仲間よ。アッラーにかけて、ひとつの月が下弦になるごとに、そいつは砕かれて多くの星になるのさ。」
――また、他の或る日、ゴハは隣人の一人に会いに行って、言いました、「隣人は隣人に尽すべき義務がありますね。だから鍋をひとつ貸して下さいな、家で羊の頭を煮たいので。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十三夜になると[#「けれども第九百二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでその隣人は件《くだん》の鍋を貸してやりました。そしてそれで煮るものを煮たわけです。翌日、ゴハは鍋を持主に返しに来ました。けれども彼はあらかじめ、その中にもっと小さな二番目の鍋を入れておく配慮をしました。それでその隣人は、自分の品を受け取ってみると、それに利子がついているのを見て、大へんびっくりしました。そこでゴハに言いました、「やあ、シ・ゴハ、私の鍋の中にあるこの小さな鍋はいったい何ですか。」するとゴハは言いました、「知らないけれど、きっとあなたの鍋が昨晩子を産んだんでしょうね。」相手は言いました、「アッラーフ・アクバル(2)、これはあなたを通じて祝福のこぼれ幸《さいわい》というもの、おお吉兆の顔よ。」そして彼は台所の棚の上に鍋とその娘を並べました。
さてしばらくたってから、ゴハはその隣人のところにまたやってきて、言いました、「御迷惑のおそれさえなかったら、おお、お隣りの方よ、今日ちょっと入用なので、ひとつあの鍋をその娘と一緒に拝借したいのですが。」相手は答えました、「親しみこめて心から悦んで、おお、お隣りの方よ。」そして中に小さな鍋のはいった鍋を渡しました。ゴハはそれを受け取って立ち去りました。その後、大分日が経っても、ゴハは借りたものを返しません。そこでその隣人は彼に会いに行って言いました、「やあ、シ・ゴハ、決してあなたを信用しないわけじゃないけれど、今日家であの炊事の道具が入用になったもので、ちょっと。」するとゴハは聞きました、「何の道具かな、おお、お隣りの方よ。」相手は言いました、「先だってお貸しした、例の子供を産んだ鍋ですが。」するとゴハは答えました、「アッラーはあれに祝福を垂れたまわんことを。あの鍋は死んでしまいましたよ。」隣人は言いました、「アッラーのほかに神はなし。何だって、おおゴハ。いったい鍋が死ぬなんてことがあるのですかい。」するとゴハの言うに、「およそ産むものはすべて死す。アッラーより我らは出でて、アッラーへと我らは帰るでありましょう。」
――また、別の折、一人の百姓《フエラーハ》が、ゴハに一羽の脂の乗った牝鶏を贈りました。ゴハは牝鶏を煮させてその百姓《フエラーハ》を食事に招きました。そして二人で牝鶏を食べ、大いに満足しました。さてしばらく経つと、別の百姓《フエラーハ》がやって来て、ゴハの戸を叩き、泊めてくれと頼みます。そこでゴハは戸を開けてやって、言いました、「ようこそ来られた。しかし、あなたはどなたかね。」百姓《フエラーハ》は答えました、「わしはあなたに牝鶏を差し上げた男の隣りの者です。」するとゴハは答えました、「わが頭上と目の上に。」そしてこれを非常に鄭重に泊めてやり、食物を与え、何ひとつ不自由させませんでした。そして相手は満足して立ち去りました。その数日後、三人目の百姓《フエラーハ》が来て戸を叩きました。ゴハは尋ねました、「どなたかな。」その男は言いました、「わしはあなたに牝鶏を差し上げた男の隣りのまた隣りの男です。」するとゴハは言いました、「差支えござらぬ。」そしてその男を入れてやって、食事の盆の前に坐らせました。けれども食物と飲み物といえば、水の上に数滴の脂肪の浮んでいる湯を入れた鍋を一箇、その前に出したきりです。百姓《フエラーハ》は他に何も出て来る様子もないのを見て、尋ねました、「これは何でしょうか、おお御主人様。」するとゴハは答えて言うに、「これかね。いや、これはあの牝鶏を煮た汁《つゆ》の妹のまた妹です。」
――また、ゴハの友人たちは或る日、彼を槍玉に挙げて楽しもうと思い、お互い同士示し合わせて、彼を風呂屋《ハンマーム》に連れて行きました。彼らはゴハに気どられないように、皆卵を持って行きました。一同|風呂屋《ハンマーム》に着いて皆着物を脱ぐと、ゴハと一緒に発汗室にはいり、言いました、「さあ今だぞ。俺たちはめいめい卵を産むとしよう。」そして付け加えました、「俺たちのなかで卵を産めない奴は、ほかの者全部の風呂代を払わなければならんぞ。」そういって、皆牝鶏みたいに、精一杯鳴き声をあげながら、しゃがみました。そしてそれぞれ最後に、自分の下から卵を取り出して見せました。ゴハはこれを見ると、いきなり父親の倅を振りまわして、雄鶏の叫び声を挙げながら、友人たちに飛びかかり、彼らを襲う準備を始めました。そこで一同あわてて立ち上がり、彼に向って叫びました、「何をしようというのだ、おお碌《ろく》でなし。」するとゴハは答えて言うに、「君たちにはわからないのかい。わが生命《いのち》にかけて、この私の前には牝鶏どもがいて、私はたった一羽の雄鶏なのだから、こいつはどうしても掛ってやらなけりゃならんよ。」
同じように私どもの聞き及びましたところでは、ゴハは毎朝自分の家の戸口の前に立って、アッラーに次のような祈祷をするのが習慣になっていたのでございます。「おお寛仁大度の御方様、私に金貨百ディナール、それより一ディナールも多からず、一ディナールも少なからず、お授け下さいませ、私にはそれが必要だからでございます。けれどももし御寛仁の結果、百の金額がたとえただの一ディナールなりと超えますれば、或いはわが功徳《くどく》の不足のゆえ、お願い申す百にただの一ディナールでも不足いたしますれば、私はその授かり物を頂戴致さぬでございましょう。」
ところで、ゴハの隣人の間に、あらゆる種類の不埓な商売で金持になった――富はアッラーより我らに到りまする。――一人のユダヤ人がおりました、――この男などは第五地獄の業火《ごうか》の中に埋められますように。このユダヤ人は毎日、ゴハが自分の戸口の前で声高にこの祈祷を唱えるのを聞いておりました。そして彼は心中で思いました、「イブラーヒームとヤアクーブ(3)の御《おん》生命《いのち》にかけて、ひとつゴハにこの黄金の試験をしてみるとしよう。あの男がこの試煉をどんな風に切り抜けるか、見届けてやれるというものだ。」そこで彼は、新しいディナール金貨九十九枚入りの財布を取り上げて、自分の家の敷居《しきい》の前に立って、いつもの祈祷をしているゴハの足許に、それを窓から投げ落しました。するとゴハはそれを拾い上げましたが、一方ユダヤ人は、いったいどうなるか成行きを見るため、彼を見守っておりました。彼はゴハが財布の紐をほどき、膝の上に中身を明《あ》け、ディナール金貨を一枚ずつ数えるのを見ました。次にゴハは、お願いした百ディナールに一ディナール足りないのを確かめると、創造者のほうに両手を挙げながら、こう叫ぶ声が聞えました、「おお寛仁大度の御方様、御恵みに対し、讃められ、謝せられ、称《たた》えられよかし。けれども授かり物は完全ではございません。それで私の誓願の手前、これをこのまま頂戴いたすわけにはまいりません。」そして付け加えました、「それゆえに、私はこれを隣人のかのユダヤ人に授けることに致します。これは家族を抱えた貧しい男ですが、正直の点では模範となる男でございます。」こう言いながら、彼は財布を取り上げて、ユダヤ人の家の内部に投げ入れました。次に彼は自分の道に立ち去りました。
ユダヤ人はこうしたすべてを見聞きしたときには、びっくり仰天の極に達して、独り言を言いました、「ムーサー(4)の光り輝く双の角にかけて、われらの隣人ゴハは純真と誠意に満ちた人間だわい。しかしわしとしては全くのところ、彼の言うところの二番目のほうも確かめた上でなければ、彼についてわしの意見を保留なく述べるわけにはゆかぬ。」そこで翌日、彼は財布を取り上げて、百ディナールにさらに一ディナールを加え、ゴハが戸口の前でいつもの祈祷をしている際に、その足許に投げ落しました。ゴハは財布がどこから落ちて来るのかちゃんと承知していましたが、至高者の御介入と信じるような振りをしつづけていて、身をかがめて授かり物を拾いました。そしてこれ見よがしに金貨を数えてみて、今度はディナール貨の数が百一であることがわかりました。すると天に両手を挙げて、言いました、「やあ、アッラー、あなた様の寛仁には限りがございません。今やあなた様は、私が全幅の信を置いてお願い申したものを授けたまい、そればかりか私の望む以上を賜わって、希望を叶えて下されました。然らば、この財布には、お願い申したよりも一ディナール余分にございますけれども、御好意を無にしないように、私はこの授かり物をこのまま頂戴いたしまする。」こう申しまして、彼はその財布を帯の中にねじこんで、両脚を代る代る前に進ませました。
往来を眺めていたユダヤ人は、ゴハがこのように帯の中に財布をねじこんで、悠々と立ち去るのを見たときには、顔色がすっかり黄色になり、魂は怒りのため鼻から噴《ふ》き出すのを感じました。そしてわが家を飛び出して、ゴハの後を追って走りながら、怒鳴りました、「待て、おおゴハ、待て。」するとゴハは歩みを停め、ユダヤ人のほうに向いて訊ねました、「どうしたというのか。」相手は答えました、「財布だ。俺の財布を返せ。」ゴハは言いました、「アッラーが俺に授けたもうた百ディナール一ディナール(5)の財布を、貴様に返すって。おおユダヤ人どもの犬め、貴様の分別は今朝頭蓋骨の中で醗酵しちまったのか。それとも貴様は、俺が昨日の財布を貴様にくれてやったように、これも貴様にくれてやるべきだとでも思っているのか。そうとすれば、大まちがいだよ。なぜって、こいつは俺は収めておくぜ、不束《ふつつか》な俺に対して折角寛仁大度をお示し下さったのに、至高者に背《そむ》き奉ってはいけないからね。この財布の中には一ディナール余分にあることは、俺もちゃんと承知だが、それは何も他人様《ひとさま》に迷惑がかかるわけじゃない。貴様なんぞはとっとと行ってしまえ。」そして彼は太い節だらけの棒を掴んで、ユダヤ人の頭上にどしんと落してやる身振りをしました。そこでヤークーブの後裔の憐れな男は、やむなく空手で、鼻を足まで長くして、引き返さないわけにゆきませんでした。
――また、他の或る日、シ・ゴハは回教寺院《マスジツト》で、説教師《ハテイーブ》(6)が説教をするのを聞いていました。ちょうどそのとき、説教師《ハテイーブ》は聴衆に寺院法の一箇所を説明して、言いました、「おお信徒方よ、もし夫たる者日が暮れてから、妻に対する良き夫としての義務を果たすならば、彼は『報酬者』によって羊一頭の犠牲なみに賞せられるであろうと心得なされ。されど、もし合法的交合が昼間行なわれるならば、夫は奴隷一名の解放なみに考慮せられるでござろう。また、もし事が真夜中に実行せられるならば、報奨は駱駝一頭の犠牲によって得らるるところでござろう。」
さて家に戻って、シ・ゴハはこの言葉を妻に伝えました。それから妻のそばに横になって寝ようとしました。ところが女房は激しい欲情に駆られるのを感じて、ゴハに言いました、「起きなさい、おお旦那よ、羊一頭の犠牲の報奨を稼ぎましょうよ。」するとゴハは言いました、「よし、よし。」そして事を行なって、再び横になりました。ところが真夜中頃になると、犬の娘は再び体内に交合的気分を覚え、ゴハを起して言いました、「いらっしゃい、おお旦那よ、私たち二人で駱駝一頭の犠牲分の儲けをしましょうよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十四夜になると[#「けれども第九百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとゴハはぼやきながら眼を覚まし、半分眼を閉じながら、一件をしました。そしてすぐにまた眠ってしまいました。ところが明方になると、妻はまた新たな欲情に襲われて、ゴハを眠りから引き出して、言うのでした、「早く、おお旦那よ、日の出る前に目を覚ましなさいよ。私たちは、報酬者から奴隷一人の解放に授けられる御褒美をいただけることを、いそいで一緒にしましょうよ。」けれども今度は、ゴハも何も聞こうとはしないで、答えました、「おお女房よ、自分の倅を犠牲にすることを強いられる男の奴隷状態とは、何と最悪の奴隷状態だろうか。まあ倅は父親《おやじ》にまかせておいて、まず第一にこの俺を解放してくれや、俺はお前の奴隷なんだからな。」
――また、他の或る日、他の或る回教寺院《マスジツト》で、シ・ゴハは神妙に導師《イマーム》の話を謹聴しておりますと、導師《イマーム》は言うのでした、「おお、稚児《ちご》衆の尻を追いかけて自分の妻女を避ける信徒方よ、信徒がその妻と夫婦の営みを果たす度に、アッラーはそのつど彼のために天国に亭《ちん》を一つ建てて下さるものと心得なされよ。」ゴハは自分の家に帰ると、ただ話の種として、それ以外さしたる意味もなく、このことを妻に伝えました。ところが妻は、第一の耳からはいったことを第二の耳から抜け出させてはしまわないで、子供たちが寝るのを待って、さてゴハに言いました、「さあ、いらっしゃい、家の子供たちの名義で、亭《ちん》を一軒建てていただくことにしましょうよ。」ゴハは答えました、「さしつかえないね。」そして彼は石工道具を漆喰《しつくい》の箱に入れました。それから寝ました。
けれども一と時ほどたつと、虚《うつ》ろな眼をした妻はゴハを起して、言いました、「私たちにはお嫁にやらなければならない娘があることを忘れていたわ。きっとまだ一人で住んでいることでしょう。あの娘のために亭《ちん》を一つ建ててやりましょうよ。」するとゴハは言いました、「そうだ、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》。娘のために男の子を犠牲に捧げよう。」そこで彼は件《くだん》の男の子を、それを求める揺籃《ゆりかご》の中に入れてやりました。次に息を切らしながら、敷布団《マトラー》の上に横になって、再び眠りました。ところが夜中になると、妻は彼の足を引っ張って、またもや自分の母親のために亭《ちん》を要求しました。けれどもゴハは叫びました、「無遠慮にねだる奴らの上に、アッラーの呪いあれ。お前は知らないのか、おお虚《うつ》ろな眼の女よ、もし俺たちがわれわれのためにそんなにたくさんの亭《ちん》を建てて下さいとお強《し》い申したら、アッラーの寛仁もわれわれのところから引き上げてしまわれるだろうよ。」そして彼は再び鼾《いびき》をかきはじめました。
――また、日々の中の或る日のこと、シ・ゴハの近所の女の間の或る信心深い女が、お祈りをしている最中に、うっかりお屁《なら》を一発洩らしてしまいました。ところがその女はそんなことをする癖はなかったので、件《くだん》のお屁は本当に自分から出たのか、それとも、聞えた物音は、何か舗石《しきいし》に自分の足が擦《こす》れたとか、お祈りをしながら声がかすれたとかのため発したものではなかったか、そこがはっきりわかりませんでした。そこで小心翼々の念に駆られて、法学に通暁すると聞くゴハに相談に出かけました。そして彼に説明した上で、意見を徴しました。するとゴハは返事として、すぐに大きなお屁《なら》を一発放ち、信心深い女に尋ねました、「それはこんな音でしたかね、私の伯母さんよ。」信心深いお婆さんは答えました、「もうすこし度の強いものでした。」するとゴハはすぐに、一発目よりももっと大きな二発目のお屁を放って、信心深い女に尋ねました、「こんなものでしたか。」老婆は答えて、「いやもっと強うござんした。」そこでゴハは叫びました、「いや、アッラーにかけて、それじゃ風《へ》ではなくて嵐《あらし》だったわけです。安心してお帰りなさい、おお『風の母』よ。さもないと、あんまり力んで、私は菓子を出してしまうだろうからな。」
――また、或る日、かの怖るべき韃靼《ダツタン》の征服者「欽の跛者《ちんば》」ティムール・レンク(7)が、シ・ゴハの住む町の近くを通りました。そこで住民は相会して、この韃靼の汗《カン》が自分たちの町を荒らすのを防止する策について、千回の長評定を開いたあげく、シ・ゴハに頼んでかくも無残な窮地を脱しさせてもらおうと、衆議一決しました。するとすぐさま、シ・ゴハは諸方の市場《スーク》にある使えるモスリンを全部持ってこさせて、それで車輪ほどの大きさの捲頭巾《ターバン》を一つ作らせました。それから彼は自分の驢馬に乗って、ティムールを迎えに町を出ました。そしてその御前に出ると、韃靼王はこの途方もない捲頭巾《ターバン》に気づいて、ゴハに申されました、「その捲頭巾《ターバン》はいったい何か。」ゴハは答えました、「おお世界の君主《きみ》よ、これは私の夜の帽子でございます。私がこの夜の帽子をかぶって御手の間に罷り出たといたしましても、何とぞお許し下さりませ。しかし、おっつけ私は昼の帽子を被ります。特に傭った四輪荷車に積んで、やがて後から届きまするから。」するとティムール・レンクは町の住民のばかでかい被《かぶ》り物に恐れをなして、この町は通りませんでした。そしてゴハに好感を覚えて、彼をおそばに引きとめ、そして尋ねなさいました、「その方は何者か。」するとゴハは答えました、「私は、御覧の通り、地の神でございます。」すると韃靼民族であったティムールは、この時数名の少年に囲まれていて、その少年たちはその国民の最も美貌の少年でしたが、彼らの人種にふさわしく、眼が大そう小さくて糸を引いたように細うございました。そして汗《カン》はこの美童たちをゴハに見せながら、申されました、「どうじゃ、おお地の神よ、ここにおるこの美少年たちは、その方の好みに合うかな。彼らの美しさに並ぶものがあろうか。」するとゴハは言いました、「決して御意にさからうつもりはございませんが、おお世界の君主《きみ》よ、しかし私は、この少年たちは眼が小さすぎる、従いましてそのため、その顔には雅致がないと存じまする。」するとティムールはこれに申されました、「そのようなことはどうでもよい。その方、地の神であるからには、彼らの眼を大きくして、余を悦ばせてみよ。」ゴハは答えました、「おおわが殿、顔の眼につきましては、これを大きくすることができなさるのは、ひとりアッラーの外にはございませぬ。それと申しまするは、私といたしましては、私は地の神でござりますれば、ただ彼らが帯の下に持っている目を大きくすることしかできませぬ。」するとティムールはこの言葉を聞いて、どういう愉快な男を相手になさっているかおわかりになり、この応答をお喜びになり、彼をばお抱えの道化役として、今後座右にとどめ置かれました。
――また、或る日、ティムールは跛《ちんば》で欽の片足を持っているばかりでなく、片目《めつかち》でこの上ない醜男《ぶおとこ》でしたが、ゴハと四方山《よもやま》の話をしておられました。そうしているところに、ティムールの床屋がはいって来て、そのお頭《つむ》を剃ってから、鏡を差し出して、お顔を御覧に入れました。するとティムールは泣き出されました。それに倣《なら》って、ゴハは潸然《さんぜん》と涙を流し、嘆息と呻吟を重ね、こうして、一時《ひととき》か、二時《ふたとき》か、三時《みとき》に及びました。ですからティムールはすでに泣き終っておられるのに、ゴハは依然として嗚咽《おえつ》し悲嘆しつづけておりました。そこでティムールはびっくりなすって、彼に申されました、「どうしたのか。余としては、泣いたというのは、それはあのいまわしい床屋めの鏡に顔を映して見て、自分がいかにも醜男だと思ったからだ。しかしその方は、いったいどういう動機《いわれ》で、そんなに涙をこぼし、そんなに痛々しく呻吟しつづけるのか。」するとゴハは答えました、「憚りながら、おお我らの君主《きみ》よ、君は鏡でほんのしばらくお顔を眺めなすっただけで、それで二時《ふたとき》の間お泣きになるだけのことがございました。そうとすれば、君の奴隷は、一日中お顔を拝見しているのですから、君よりももっと長い間泣くのに、何の不思議がございましょう。」この言葉に、ティムールは御立腹どころか、尻餅をつくほど笑い出されました。
――また、或る日、ティムールは食事中、ゴハの顔のすぐそばで|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》をなさいました。そこでゴハは叫びました、「おや、おや、おおわが君主《きみ》、|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》を出すことは恥ずべき行ないでございますぞ。」するとティムールは驚いて言いました、「われわれの国では|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》は恥ずかしいことにはなっていないぞ。」ゴハは何とも答えませんでしたが、しかし食事の終り頃になると、彼は一発けたたましいお屁《なら》を放ちました。ティムールはむっとして叫びました、「おお犬の息子め、何をするのか。恥ずかしいとは思わぬのか。」するとゴハは答えて言うに、「おお御主君様、われわれの国ではこれは恥ずかしいこととは見られておりませぬ。それに君はわれわれの国の言葉はおわかりにならぬことを承知しておりますので、私は御遠慮申さなかった次第です。」
――他の或る日、また別の機会に、ゴハは隣り村の回教寺院《マスジツト》で、説教師《ハテイーブ》の代理を勤めました。そして説教を終った後で、彼は頭を振りながら、聴衆に言いました、「おお|回教徒の方々《ムスリムーン》よ、皆様の町の気候は私の村の気候とそっくり同じですね。」一同は言いました、「それはまたどうして。」彼は答えて、「だって私は今自分の陰茎《ゼブ》を触ってみたら、私の村でと同じように、私の睾丸《きんたま》の上にだらりとぶら下っていましたからね。皆様御一同の上に平安《サラーム》あれ、さようなら。」
また、他の或る日、ゴハは回教寺院《マスジツト》で説教をし、結びとして、両手を天に挙げて、さて言いました、「われらは御慈愛に対し、感謝し讃め称え奉る、おお真《まこと》の全能の神よ、よくぞあなた様はわれわれの臀を手の中に置きたまわないで下さいました。」すると聴衆はこの祈念に驚いて、彼に尋ねました、「その妙な祈祷はいったいどういうおつもりですか、おお説教師《ハテイーブ》様。」するとゴハは言いました、「そりゃそうですよ、アッラーにかけて。もしも『贈与者』がわれわれの臀を手の中に作ってわれわれを創造したもうたならば、われわれは日に百度以上も自分の鼻を汚《よご》す始末でしたろうよ。」
また、別の折、またもや説教壇に登って発言し、言いました、「おお|回教徒の方々《ムスリムーン》よ、われわれの前に置かれるものを、後ろに置きたまわざりしアッラーに、讃《たた》えあれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十五夜になると[#「けれども第九百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると一同尋ねました、「それはまたどうして。」ゴハは言うに、「なぜならば、もしも杖の位置が後ろにあったとしたら、誰しも心ならずも、ただひとりロト(8)だけがしないで済んだことをやらかして、ロトの連れ合いたちと同じ目にあいかねないですからね。」
また、或る日、ゴハの妻はたったひとり素裸でいたおり、大へん愛情をこめて、自分のものを撫ではじめて、言うのでした、「おお大切なお宝よ、なぜ私はお前のようなものを二つか、三つか、四つ持っていないのかしら。お前は私の快楽の泉で、いろいろとありがたい利益を手に入れさせてくれるわね。」ところが、こうしているうちにゴハがやって来ることを、運命が望みました。そして彼はこの言葉を聞きつけて、女房が何についてこんな思いを述べているのかがわかりました。すると彼は自分の遺産を引き出して、涙ながらにこれに言うに、「おお犬の息子、おお女衒《ぜげん》め、きさまは何と多くの災厄《わざわい》を俺の頭上に引き寄せたことか。きさまなんぞ決してきさまの親父の倅でなければよかったものを。」
――また、他の或る日、ゴハは隣人の葡萄畑に忍び込んで、狐みたいに葡萄を食いはじめ、房の片端から食っては、実のなくなった芯《しん》を口から出しておりました。するとそこに、にわかに持ち主の隣人が現われて、棒で威《おど》かしながら怒鳴りました、「何をしてやがるんだ、おお呪われた奴め。」するとゴハは答えました、「実は腹が痛んだのでね、腹を空《から》にするためここにはいったのだ。」相手は聞きました、「それが本当なら、じゃ、お前のやったものはどこにあるんだ。」ゴハは一瞬大へん困ったけれど、何とか身のあかしを立てられるものがないかとあちこち眺めてみてから、葡萄作りに驢馬の糞《ふん》を指さして、言いました、「ここに証拠があるぜ。」その男は言いました、「黙れ、おお嘘つきが。いったいいつからお前は驢馬になったんだ。」するとゴハは直ちに自分の陰茎《ゼブ》を出しましたが、これは大へんでかいものでした。そして言うに、「報酬者が俺に、ほれここにある災厄《わざわい》の道具を授けたもうた時からだよ。」
また、或る日、ゴハは河べりを散歩しておりました。すると一隊の洗濯女が布を洗っているのが見えました。その洗濯女どもは彼の姿を見かけるとそばに近よってきて、蜜蜂の群のように彼を取り囲みました。そしてその中の一人は彼の着物を捲《めく》って、肉の餌を丸出しにしました。するとゴハはそれを見ると、頭をそむけて、言いました、「おお羞《はじ》らいの保護者様、私はあなた様の裡に逃がれ奉りまする。」けれども洗濯女どもは怒り出して、彼に言いました、「どうしたのさ、おお太鼓《チンバニー》野郎。お前さんはこの名を知らないのかい、この福者の名を。」彼は言いました、「いやよく知ってるよ、これは『わが禍いの源《もと》』という名だ。」けれども女どもは叫びました、「とんでもない。これは『貧者の天国』さ。」するとゴハは少しばかり脇に離れる許しを求めて、自分の捲頭巾《ターバン》の布で、経《きよう》帷子《かたびら》のように、倅を包んでから、洗濯女どものほうに戻ってくると、皆は訊ねました、「それは何、おおゴハ。」彼は言いました、「これはな、死んだ貧者で、その天国とやらにはいりたいと言ってるのだ。」女どもは転がるほど笑い出しました。しかし同時に、経帷子の外に何かぶら下っているものを見つけましたが、それはゴハのひどく大きな陰嚢《ふぐり》でした。そこで彼に言いました、「そうかい。だけど、駝鳥の二つの卵みたいに、その死人の下にぶら下っているものは何なのさ。」彼の言うに、「この貧者の二人の息子が、親父のお墓詣りに来たのさ。」
また或るとき、ゴハは妻の妹のところを訪れていました。すると妹は彼に言いました、「やあ、シ・ゴハ、私はどうしても風呂屋《ハンマーム》に行かなければならないんです。どうか留守中、家の乳呑子のお守りをして下さいな。」そして行ってしまいました。すると赤ん坊はわめき立て、やかましく泣き出しました。ゴハは大あわてで、なだめに取りかかりました。そこで自分の一物《ラハトルークーム》(9)を取り出して、乳呑子にしゃぶらせてやると、赤ん坊は間もなく眠ってしまいました。そのうち母親が帰って来て、子供が眠っているのを見て、ゴハに厚くお礼を言いますと、ゴハは彼女に言うに、「どう致しまして、おお伯父の娘よ。なぜって、もしあなたにも同じようにしてあげて、私の眠り薬を味わわせたら、あなただって、頭のほうが足よりも先に落ちて、寝入ってしまったろうからな。」
――また、別の折、ゴハは人里離れた回教寺院《マスジツト》の入口で、自分の驢馬と交《つる》んでおりました。そこにたまたま一人の男が、その寺院《マスジツト》で勤行《ごんぎよう》をしに不意にやって来ました。そして件《くだん》のことにひどく懸命になっているゴハを見かけました。そこで嫌気を催して、これ見よがしに地に唾《つばき》を吐きました。するとゴハはこの男を横目で睨んで、これに言うことに、「アッラーにお礼を申し上げろ。なぜって、もし急ぎの用で俺の手がふさがっていなかったら、ここに唾をしろと教えてやるところだからな。」
――また、別のおり、ゴハは暑い日に、白日の下で大道に横になって、自分の粋な棒をむき出しにして手に握っておりました。通りかかった男が彼に言いました、「汝の上に恥あれ、おおゴハよ。いったい何てことをしているのだ。」するとゴハは答えて言うに、「黙れ、おお男よ、さっさと立ち退いて、俺の微風《そよかぜ》の邪魔をするな。俺は倅を風に当てて涼ませてやっているのがわからんか。」
――また、他の或る日、法学上の意見を求めに来られて、ゴハは問われました、「もしも導師《イマーム》が回教寺院《マスジツト》で屁《へ》を洩らしたら、会衆はいかがなすべきであろうか。」するとゴハはためらわず答えて言うに、「なすべきことは明らかさ、答誦しなければならんよ。」
――また、或る日、ゴハは女房と河の増水期に岸辺に沿って歩いておりました。すると突然踏みはずして、女房は足を滑らし、水に落ちました。流れは大そう激しかったので、女房をさらって行きました。するとゴハは女房を救い上げようと、躊躇なく水に飛びこみましたものの、流れに従って下る代りに、上《かみ》のほうに溯《さかのぼ》りはじめました。そこに集った人たちは彼の行動に気づいて、彼に言いました、「何を探しているのか、やあシ・ゴハよ。」彼は答えました、「そりゃ、アッラーにかけて、俺は水に落ちた伯父の娘を探しているのさ。」一同答えました、「だけど、おおゴハよ、流れに引かれて下《しも》のほうに流されたにちがいないのに、お前さんてば、上《かみ》のほうに向って探しているじゃないか。」彼の言うに、「そんなことはない。俺はあんた方よりはあいつをよく知ってまさ、俺の女房だからね。あいつはどこまでも逆らう性分だから、俺には前もってちゃんとわかっている、あいつは上手《かみて》に行ったにきまってまさ。」
――また、他の或る日、その頃|法官《カーデイ》の役目を果たしていたゴハの前に、一人の男が引っ立てられて来ました。人々は彼に訴えました、「これなる男は、往来のまん中で、猫と交《つる》んでいる最中に取り押さえられました。これには事実の証人もおりましたので、この男は否定したところで承認するわけにゆきません。」そこでゴハはこれに言いました、「さあ、申してみよ。その方、真実を申すならば、アッラーの寛容が得られるであろう。されば猫と交《つる》むにどのように振舞ったか申せ。」するとその男は答えました、「アッラーにかけて、おお我らの御主人|法官《カーデイ》様、私は御存じのものを恵みの戸口に近づけて、獣《けもの》の両足をわが両手に持ち、その頭をわが膝の間にはさんで、その戸をこじ開けました。そして最初は事がうまく運んだので、私はもう一度始める過ちを犯しました。私は自分の非を白状します。おお法官《カーデイ》の殿様。」けれどもゴハは叫びました、「嘘をつけ、おお女衒《ぜげん》どもの息子め。何となれば、俺は三十度以上もきさまのようにやってみたが、ついぞ成功したためしはなかったぞ。」そしてこれに笞刑《ちけい》を加えさせたのでした。
――他の或る日、ゴハが町の法官《カーデイ》のところを訪れていた折に、二人の訴訟人が出頭して、言いました、「おお法官《カーデイ》の殿様、私どもの家は、もう触れ合うほど隣り合っております。ところが昨夜、一匹の犬が来て、私どもの二つの戸口の間で、ちょうどまん中に汚物を致しました。そこで私どもは、これを片づける処置は私どもどちらの責任か、それを伺いにお目通しに参りました。」すると法官《カーデイ》はゴハのほうを向いて、皮肉をこめた調子で彼に言いました、「本件審議と判決の扱いは貴殿の裁きにお委せ申す。」そこでゴハは二人の訴訟人のほうを向いて、一人に言いました、「さて、おお男よ、それは見たところその方の戸口にむしろ近いか。」彼は答えて、「ありのまま申して、ちょうどまんまん中にございます。」するとゴハは二番目の男に尋ねました、「今申したことにまちがいはないか、それともそれはどちらかといえば、その方の側に近いか。」その男は答えて、「嘘は御法度《ごはつと》。それはまさに私ども両家の中間の、往来にあります。」するとゴハは判決として言うに、「事は落着した。その処置はその方たちどちらもするに及ばず、それは役目がらの義務として、道路維持に当る者、すなわち我らの御主人|法官《カーデイ》殿のなさることじゃ。」
――また或る日、当時四歳であったゴハの息子は、祝宴があって父親と一緒に近所の人たちのところに行きました。すると子供に見事な茄子《なす》を出して、尋ねました、「これは何だね。」すると小僧は答えました、「まだ眼の開いていないちっちゃな仔牛だよ。」すると皆笑ったが、一方ゴハは叫んで、「アッラーにかけて、この子にそんなことを教えたのは私じゃないよ。」
――また、最後に他の或る日、ゴハは交合をしたい気になって、親父の倅を空気にさらしたものです。ところが偶然、一匹の蜜蜂が飛んで来て道具の頭の上にとまりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九百二十六夜になると[#「けれども第九百二十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとゴハは反身《そりみ》になって、叫んだものです、「アッラーにかけて、お前はおいしいものをちゃんと知っているな、おお蜜蜂よ。なぜって、これこそ蜜を作るには、あらゆる花の間から選ばれて然るべき花だからな。」
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――「以上が、幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「滑稽頓知の達人、好ましく忘れがたいシ・ゴハの、数ある鋭い言行、名言、奇行、戦術のうちの、ほんのいくつかでございます。――アッラーの御慈悲と御容赦その上にあれかし。そして願わくばその死後の名は『報酬』の日まで生き永らえつづけまするように。」
するとシャハリヤール王は言った、「このゴハの言行は余に最もゆゆしい憂をも忘れさせたぞよ、シャハラザードよ。」そして小さなドニアザードは叫んだ、「おおお姉様、お言葉は何と心地よく、味わい深く、みずみずしいのでございましょう。」するとシャハラザードは言った、「けれども乙女 心の傑作、鳥の代官の物語[#「乙女 心の傑作、鳥の代官の物語」はゴシック体]に比べますれば、これなどは物の数ではございません。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「アッラーにかけて、おおシャハラザードよ、余はすでに多くの乙女を知っているし、それよりも更に数多くを見てもいる。しかし、そのような名は全然思い出さぬ。されば『心の傑作』とは何者で、どうして鳥の代官《ナワーブ》になったのか。」
するとシャハラザードは言った。
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訳註
アリ・ババと四十人の盗賊の物語
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(1) メS市ame, ouvre-toi!モ(胡麻よ、開け)―― ガラン以来慣用句となり、マルドリュスもこうなっている。英語の慣用句はメOpen, Sesame!モ らしいが、バートンではメOpen, O Simsim!モ(開け、おお胡麻よ)とあり、または Samsam、穀粒の意で、東洋の胡麻と註する。
(2) ソロモン王とアレクサンドル大王。
(3) 十六冊本のテキストをとらぬ。
(4) Morgane ――「珊瑚」の意、ガランでは、Mongiane。バートンではカシムの女奴隷であり、Morgiana とあり、元来はMarjnah でMargn(紅珊瑚)から出たと註する。第二巻所収『オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語』のアブリザ女王の腰元の奴隷も、この名で呼ばれている。
(5)「赤い病気」は、激しい、ひどい急病の意。
(6)「幸いな」の意。
(7) Le hagg Hussein ―― メッカ巡礼 Hajj を完了した人を意味する。愛尊ハージー(Ha-j・/T-FONT> またはHadj)のことを、カイロでは「ハッグ」という由。―― バートンでは Khwajah Hasan とある。フワージャーは「教師、商人、紳士」の意で、Master Hasan ということらしい。ガランでは Cogia Houssain で、コジアはフワージャーに同じ。
(8) アラビア伝説におけるソロモンに恋するサバア(シェバ)の女王。
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バクダード橋上でアル・ラシードの出会った人たち
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(1) ガランではメLes Aventures du Calife Haroun-Al-Raschidモ(教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシドの奇談)とあり、「盲人ババ・アブダッラの物語」と「シディ・ヌーマーンの物語」「コジィア・ハサン・アルハッバル」の三篇がこの順序で収められている。バートンではメHistory of the Caliphユs Night Adventureモ(教王《カリフ》の夜の冒険の物語)とあり、同じ三篇が同じ順序で収められる。物語にそれぞれかなりの差違がある。
(2) インダス河 (Sindhu) 流域の低い谷間とデルタ地帯より成る地方。
(3) 五回の礼拝のうちの第三回目「午後の礼拝」で、三時に行う。
(4) ガランやバートンでは『シディ・ヌーマンの物語』。共に本文に大分相違がある。
(5) Sid・N士穎 ―― ガラン Sidi Nouman, バートンSidi Nuユumn.
(6) Une goule ―― ガランはここで「goule 又は goul. マホメットの宗教によると、墓地の死骸を貪り食う妖霊共のこと」と註す。バートンではGh徑 とし、「ガランは une Goule 即ちGh徑ah 女食人鬼とするが、これは男の食人鬼」と註する。なおこの妻はガランでは Amine、バートンでは Aminah という名である。
(7) この物語は普通『シンディバードの書』Syntipas (Sindiba-d-Na-me) と呼ばれるインド系の物語集に属する。この書は後に『千一夜物語』に合体されたが、元来は独立したものと見られている。(ジョーヴァンによる。)
(8) ガランではメHistoire de Cogia Hassan Alhabbalモ(ハサン・アルハッバル師匠の物語)、バートンではメHistory of Khwajah Hasan Al-Habbalモ と題され、注にメMaster Hasan the Rope-makerモ(縄作りハサン師匠)の意とある。フワージャー(コジア)は教師、文士、紳士、商人等を意味する。
(9) コーカサスの山。
(10) Si Sa嬰, Si Sa嬰i ―― バートンにはSaユd(繁栄)、Saユdi(繁栄なる)とある。Si. は敬称。
(11) Epervier ―― 辞書に「はいたか(鷂)」とあり、小形の鷹というが、ガランでは le milan(鳶)とあり、バートンも kite とし、実際にあることと註するから、この耳慣れたほうを採った。
(12) 悪魔のこと。
(13) ガランも網の重りとする鉛の一片となっているが、バートンは鉛の貨幣一枚として、その小銭をもらって漁師が網糸を買い網を繕うとあり、ガランに言及している。
(14) 一腕尺は肱から中指の先までで約半メートル。ガランも同じであるが、バートンはガランを引用し、原文はメbilishtモ で拇指の先から小指の先までを張った長さと註し、a full span と訳す。約四分の一メートルぐらいであろう。
(15) アブラハムとヤコブ。
(16) ダヴィデの子ソロモン。
(17) バートンでは「三人の愚かな学校教師とのカイロの帝王《スルターン》モハンメッドの夜の奇談」の物語群に、二つの物語(二人の別な教師の話)となって含まれている。
(18) Ma杯re dユ残ole ―― バートンは Schoolmaster とし、アラビア語ではMuaddib al-Atfl すなわち「子供たちを教える者」の義と註す。
(19) ガランではメHistoire de lユaveugle Baba-Abdallaモ(盲人ババ・アブダラの物語)バートンでも同じく The Story of the Blind Man, Baba Abdullah とあって、Daddy Abdullah(アブドゥラーおやじ)と註す。
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スレイカ姫の物語
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(1) ショーヴァン『書誌』に『シンディバードの書』(本巻『バクダード橋上でアル・ラシードの出会った人たち』註(7)参照)に属する物語とあるが、指定の物語は、父親が宝を隠しておくという以外全く別な話であり、結局明らかでない。
(2) 前出ヤマーンが「右の国」で、それに対する「左の国」、シリアのこと。
(3) シーラーズについては本電子文庫版八巻『ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語』註(7)参照。この物語はウマイヤ朝(六六一―七五〇年)の、国王の大臣《ワジール》の身の上話とあるが、その頃これを首都としたペルシア王朝を詳らかにしない。
(4) Sabour-Schah ―― 前註のように不明。シャーは「王」を意味する。
(5) Loth (Lu-t) ―― 旧約「創世紀」のロトであるが、『コーラン』では預言者である。ユダヤ人の敵たるアラビア、ペルシア、トルコ人らを含む人種の祖先となる。
(6) ハサンは「美しい」の意。
(7) 湧き出る清水の泉のこと。
(8) 天国の番人。
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のどかな青春の団欒
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(1) この最初の七篇は『千一夜物語』とは別な民話集、アルタン・パシャによってアラビア語から訳された『未刊ナイル渓谷民話集』メContes populaires inedits de la Vall仔 du Nilモ, traduits de lユarabe par S. E. Yacoub Artin Pacha, Paris, 1895 に収められている短篇という。(ショーヴァン『書誌』による。テキストに異同があるか否かは不明。)
(2) マールートと一対の堕天使で、人間に魔術を教えたと伝えられる。
(3)「アッラーに栄光あれ」「ありがたや」の意で、この場合は食後の感謝の祈り。
(4)「魔術的な」の意。
(5) アラビア字母の首字「アリフ」をいう。
(6) D四ieur ―― 仮訳であるが、離婚を合法のものとする人の意。なお同じ物語中に回教徒の離婚が説明されている。
(7) Saladin ―― クルド族出身で、アラビアのアイユーブ朝の始祖、一一八七年十字軍主力をティベリア付近で破り、エルサレムを陥れたので有名な、イスラムの代表的名君とされる大サラーフ・ディーン(一一三八―一一九三年)のこと。
(8) Habib ――「友」の意。これが「恋人」を意味する婉曲語法であることは、前にしばしば見られた。
(9) Youzbaschi (Yu-zba-shi-) ―― 百人隊の隊長をいう。
(10) ラテン名アヴィケンナで世界に有名な、十一世紀のアラビアの大医学者、哲学者。
(11) Fa瓶ouz ―― バートンは Firuz とし「F池忝(ペルシアのP池oz)は勝利者の意で、シリアとエジプトでは通常Fayr徭 と発音される」と註す。ペインは Firouz とする。
(12)「願わくは神がそれを禁じたまわんことを」の意。
(13) Schamites ―― 首都ダマス(ダマスクス)をシャームと呼んで、それを中心とするシリアの南部地方一帯の住民を指す。
(14) Misr または Masr は首都の意で、昔はカイロばかりでなくメンフィスとフォスタートにも用いられたとも言われる。
(15) Kababits (Kabb稚) ――Kab徼 の複数でバートンは capotes と訳す。頭巾のついたゆるやかな長外套で一番上に羽織る。(バートンによる。)
(16) Le bonnet de fon ―― バートンでは総のついた高い帽子らしく、註にそれは職業道化師のかぶる帽子とあるが、以下の文によって狂人用とした。
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魔法の書の物語
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(1) Histoire du Livre Magique ―― バートンではメThe Tale of Attafモ(「アタフ物語」)とありテキストは非常に異なるが、ニューヨークの Alexander J. Cotheal という人が「千一夜物語抄」の訳稿を送ってくれた中にこの物語がある。それは一六八五年の日付あるシリア将来の写本によるもので、バートンは Charis の写本によるそうだが、コトヒールのテキストはバートンのそれと比べると細部を除き、全体として非常にマルドリュスに近い。マルドリュスのよった写本は不明。なおバートンでは(ショーヴァン『書誌』中の筋書でも、)これは実際に「魔法書」でここにアタフとジャアファルの物語がすべて記されているらしい。
(2) El-Marj「これはベールートから来る旅行者の最初に見る、バラダー河左岸の広々とした緑野である。」(バートン)
(3) シャームは、シリアとその首府ダマス(ダマスクス)をいう。バートン註に、ダマスをシャームというのは地上のアッラーのほくろShmat であるゆえとある。
(4) この詩は既出している。
(5) 赤いアネモネの花のこと。
(6) Hatim, chef de la tribu de Thay ―― ハーティム・アッターイーは六世紀のアラビヤ詩人で、歓待と物惜しみしないこと、寛大と寡慾の典型的人物。
(7) La tombe de la Dame ―― コトヒール訳にこの個所はないが、テキストの別なバートンにあるヌLadyユs Tombネ はこれに当ると思われる。註して「原語は Kabr al-Sitt モハンマードの伯母に当るシート・ザイナブを葬ると想像されている」とある。
(8) ダマスは七世紀からウマイヤ朝の首府となったが、第六代アル・ワリードは七〇八年に、三世紀に創立されて当時聖ヨハネの聖堂となっていたこの寺院を没収して回教寺院とした。これは回教世界の不思議の一つに数えられる回教寺院となった。
(9) Keif ―― バートンにはメKayfモ とあり、「悦び、生きている楽しさ」と註す。
(10) コトヒールのテキストでは、「うち五十の小さき接吻は砂糖を加えて甘くし、三十は鳩流、二十は小鳥流に従うこと」と数が合っている。
(11) バートン(コトヒールも)では、ここは「父方の叔父」とあり、「従妹妻《いとこづま》」とある。
(12) Na鋲b (naib) ―― 裁判の判決に当って教王《カリフ》やスルターンの代理者となる者。
(13) Tiniat elユ Iqab ―― バートンでは別の地名になっているが、コトヒールのテキストにもこうあり、それをバートンはThan馳yat-al-ユUkb は「禿鷹峠」の意と注する。
(14) この文句八冊本に欠く。
(15) マリアの子イエス。
(16) Haschimite ―― モハンマードの曾祖父ハーシム Hashim の後裔。この一門は寛仁をもって聞えていた。
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金剛王子の華麗な物語
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(1) これも元来『千一夜物語』にはないヒンドスタン語(ウルド語)の物語で、ヒンディー語の大家 Garcin de Tassy によって初訳されているという。メAll使ories, r残its po師iques et chants populaires, traduits de lユarabe, du persan, de lユhindoustani et du turcモ(アラビア語、ペルシア語、ヒンドスタニー語、トルコ語より訳された寓話、詩物語及び民謡集)Paris, Leroux, 1876.(ショーヴァン『書誌』による。)
(2) Khosro市-Anouschirw穎 ―― ペルシア、サーサーン王朝の第一世の通称(在位五三一―五七九年)。「不死の魂を有する者」の義。東ローマと戦い領土を拡げた、公正を以って鳴る名君。
(3) 天国の番人である天使。
(4) 『コーラン』第十二章「ユースフ」(ヨセフ)に見られ、美男ヨセフが兄弟に捨てられ、エジプト人に買われた時、その妻ズレイハに誘惑されたことを指す。
(5) Irem ―― フェニキアのテュロス市の王(前九六九―九三六年)で、港を開きテュロス市の繁栄をもたらし、その西洋杉で建てた宮殿は豪華な建築で有名な、Hirom (Hiram) 一世のことであろうか。
(6)「悪い、不吉な」の意。
(7) 世界の果をとりまく山という。コーカサス山脈ともされる。
(8) Caract屍es koufques ―― 六三九年モハンマード第二代の後継者、教王《カリフ》ウマルによってユーフラテス河西岸に建てられ、徒歩四日行程のバグダードに首都が移るまで、十六代の教王《カリフ》の首都として栄えた。回教学習の中心地となり、クーファ学派はバスラ学派と並んで最も有名であった。モハンマードはこの町で用いられていた書体で綴ったと伝えられるが、これはクーファが首都として栄えて、ずっと後代に付せられた名称で、文字は遥かに古い時代のものという。
(9) Saleh (Sla-ih) ―― サムード族に遣わされた預言者。『コーラン』第七章、七三―七九節。
(10) Al-Simourg (Simurgh) ―― これは神話的霊鳥の名という。
(11) 十六冊本も八冊本も「糸杉王は答えた」とあるが、三冊本(一九五五年刊)による。実際には糸杉王が、生命の安全を保障する文句を答えたのが、挿まれているのであろうか。
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滑稽頓知の達人の奇行と戦術から
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(1) これも『千一夜物語』とは別な『ナスレッディン・ホジャ』の物語集からとられている。ショーヴァン『書誌』によると、本篇の小話は、ドクールドマンシュ Decourdemanche 訳 'Sottisier de Nasr-eddin-Hodja bouffon de Tamerlan.' Bruxelles,1878(『タメルランの道化役ナスレッディン・ホジャ笑話集』)に含まれていて、ドイツのミューレンドルフM殕lendorf 訳Die Schw穫ke des Nassr-ed-dinund Buadem von Mehemed Tewfik(Reclam 版n.○2735)(『ナスレッディンとブアデム・フォン・メヘメド・テヴフィクの笑話集』)にも数篇が収められている由。この書はトルコ原典からの邦訳がある。森雅夫訳『ナスレッディン・ホジャ物語』(平凡社、東洋文庫、昭和四十年刊)。これについての詳細は同書を参照されたい。
(2)「アッラーは偉大なり。」
(3) アブラハムとヤコブ。
(4) モーゼのこと。
(5)「千夜一夜」と言うように、アラビアの言い方で、百一ディナールをかく言う。
(6) Le khateb (Khatib) ―― 金曜日に回教寺院で説教をする人。
(7) Timour-Lenk ―― ティムール朝の祖、帖木児(テムジン)のこと(一三三六―一四〇五年)。これは「跛者ティムール」の意味の由であるが、「欽の」は不明。西洋では一般に訛ってタメルランという。この主人公 Goha(通称ホジャであるが、クーファ生まれのジュハ、十五、六世紀にトルコ語に翻訳され、それが訛ってホジャとなったとも言われる。ホジャはこの伝説的人物を指すが、普通名詞ではトルコで「先生、師」の意という。)はここにも言われているように、後にタメルランのお抱え道化役となり、わが曾呂利新左衛門といった工合に、その名で伝えられているらしい。
(8) ソドムとゴモラの説話で有名な『創世紀』のロト(『コーラン』では預言者の一人となっている)。ソドム滅亡の際救い出されたが、妻は天使の戒めに背いて後ろを振りかえって見たため、塩の柱と化した。
(9) Rahatloucoum ――「陽物」と想像するが確かでない。
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年一二月、ちくま文庫に収録された。