千一夜物語 8
佐藤正彰 訳
目 次
カマールと達者なハリマの物語
羊の脚の物語
運命の鍵
巧みな諧謔と楽しい知恵の集い
減らない草履《バーブジ》
アル・ラシードの道化役バハルル
世界平和への招待
床入り封じの呪《まじな》い
二人の麻酔薬《ハシーシユ》飲みの物語
屁の父|法官《カーデイ》の物語
法官《カーデイ》驢馬
法官《カーデイ》と仔驢馬
名|法官《カーデイ》
女知りの教え
麻酔薬《ハシーシユ》飲みの判決
ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語
真珠華の物語
帝王《スルターン》マハムードの二つの生涯
底なしの宝庫
気の毒な不義の子のこみ入った物語
若者の猿の物語
第一の狂人の物語
第二の狂人の物語
第三の狂人の物語
九十九の晒首の下での問答
細君どもの性悪さ
菓子屋の話した物語
八百屋の話した物語
肉屋の話した物語
竪笛《クラリネツト》楽長の話した物語
訳註
[#改ページ]
千一夜物語 8
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
[#改ページ]
カマールと達者なハリマの物語
語り伝えまするところでは、遠き古《いにしえ》の世に――さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする、――アブド・エル・ラーマーンという名前の、たいそう世に重んじられている商人がおりまして、寛仁なるアッラーは、これに一男一女をお授けなさいました。彼は娘には、その欠くるところのない美しさのゆえに、「暁星《あけぼし》(1)」という名をつけ、男の子には、全く月のようであったゆえに、「カマール(2)」という名をつけました。けれども二人が長ずるに及んで、商人アブド・エル・ラーマーンは、アッラーが魅力と完全の点で二人に授けたもうたすべてを見て、羨む輩《やから》の凶眼と遊蕩児らの悪だくみを、子供たちのために限りなく恐れて、十四歳の年齢《とし》まで、二人をわが家から一切外に出さず、小さい時から世話をしていた奴隷の婆《ばあ》や以外には、誰にも見せませんでした。ところが、或る日商人アブド・エル・ラーマーンが、平生とちがって胸中を打ち明けたいような気持になっている時のこと、子供たちの母親である妻が、彼に言うのでした、「おおカマールのお父さん、いよいよ家《うち》の息子のカマールはちょうど年頃に達して、これからは大人《おとな》なみに振舞えるようになりました。けれどもあなたは、いったいどう思っていらっしゃるの。あの子は女の子ですか、男の子ですか、それを聞かせて下さいな。」すると商人アブド・エル・ラーマーンは、すっかり驚いて答えました、「そりゃ男の子さ。」妻は言います、「そうとすれば、それじゃなぜ、あなたは飽くまであの子をまるで女の子みたいに、世間の人たちの眼から隠しておいて、一緒に市場《スーク》にも連れて行きなさらず、店のおそばに坐らせて、あの子に世間を知らせ、また世間にもあの子を知らせ、せめてそうやって、あなたには後を継いで、売買の仕事をちゃんとやってゆける息子があるということを、皆さんにわからせようとなさらないのですか。さもないと、御長命の果てに(どうぞアッラーは、あなたに限りない長命をお授け下さいますように)、誰もあなたの跡取り息子のいることなぞ思いもかけず、跡取り息子が『私は商人アブド・エル・ラーマーンの息子です』と、いくら皆さんに言っても、『われわれはお前なんかついぞ見たことがない。それに、商人アブド・エル・ラーマーンが息子を遺したとか、或いは、遠くも近くも、息子に似たものを遺したなんぞということは、かつて聞いたことがないね』と、憤然《むつ》として信じない風に、しかももっとも至極に、答えるのを聞くばかりでしょう。そうなれば、おお、私たちの頭の上には災厄《わざわい》です、政府《おかみ》はあなたの財産を取りにやってきて、あなたの息子が当然受くべきものを、横領してしまうでしょうよ。」そして妻は、たいそう意気込んでこのように話してから、やはり同じ口調で続けました、「家《うち》の娘の暁星《あけぼし》についても同じこと。私としては、あの娘《こ》を親戚たちに知らせて、誰か身分相応の若い人の母親から嫁にと所望され、今度は私たちの番が来て、私たちの娘の婚礼を悦ぶことができればと思っているのです。それというのは、おおカマールのお父さん、世の中は生死《いきしに》から出来ていて、私たちは私たちの天運の日を知りはしないのですからねえ。」
この妻の言葉に、商人アブド・エル・ラーマーンはひと時の間考えに耽って、次に頭をあげて答えました、「おお伯父の娘よ、いかにも、誰もわが首に結びつけられている天命を、脱れることはできない。だが、わしがこうして子供たちを家から出さなかったのは、ただ子供たちのために、凶眼を恐れたからにすぎないことは、お前もよく知っているわけだ。今さらどうしてわしの用心を咎め、わしの心尽しを忘れるのか。」妻は言いました、「魔性の悪魔は遠ざけられよかし。預言者の上にお祈りをなさい、おお長老《シヤイクー》よ。」商人は言いました、「願わくはアッラーの祝福、彼とそのすべてのお身内の方々の上にあれかし。」妻は言葉を続けました、「さて今となっては、アッラーを御信用なさいまし。アッラーは悪い影響と不吉な目から、私たちの子をお護り下さることを知りたもうでしょう。それにここに、私がカマールのために拵《こしら》えておいた、モースルの白絹のターバンがあります。これには、一切の呪《のろ》いを防ぐ聖句の巻軸が中に収めてある銀の小筒《こづつ》を、私はちゃんと縫いこんでおきました。ですから、今日はカマールをお連れになって、市場《スーク》を見物させ、いよいよ父親のお店を見せてやりなさっても、全く大丈夫ですよ。」そして夫の同意も待たずに、妻はかねていちばん立派な衣服を着せておいた少年を、早速呼びに行って、父親の手の間に連れてきますと、父親はこれを見て、胸が拡がり、喜色に溢れて、呟きました、「マーシャーアッラー(3)、お前の上と周囲に、アッラーの御名《みな》あれかし、やあ、カマールよ。」次に、妻に説き伏せられて、彼は立ち上がり、わが子の手をとって、一緒に外に出ました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十一夜になると[#「けれども第七百八十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、親子がわが家の敷居を跨いで、街を五、六歩歩きだすとすぐに、二人は通ってゆく道に足を停める往来《ゆきき》の人々に、取り巻かれてしまいました。人々は皆、この若人ともろもろの魂にとって責苦に満ちたその美貌に、心を乱される限り乱されるのでした。けれども親子が市場《スーク》の入口に着いた時には、これとは全く事変りました。そこでは、通行人たちは全然往来をやめてしまって、或る者は父親に挨拶《サラーム》をしてから、カマールの手に接吻しようと寄って来ますし、或る者はこう叫ぶのでした、「やあ、アッラー、今朝は太陽が二度も出るぞ。第九月《ラマザーン》の若々しい三日月が、アッラーの創りたもうた物の上に輝いている。今日は、新月が市場《スーク》の上に出てきた。」そしてみんな、感嘆に心を奪われて、到る処でこのように叫び、若者のまわりに群れをなして犇《ひしめ》き寄せながら、その幸《さち》を祈るのでした。父親は鬱積する怒りと狼狽に満ちて、一同を叱りつけ手荒くあしらうけれどもききめなく、みんなはこの祝福の日に、不思議にも市場《スーク》にはいってきた並々ならぬ美しさに、ただただ見入って、そんなことは一向構いません。彼らはこうして、詩人の言葉を彼ら自身にあてはめて、詩人に道理があることを示しました。
[#ここから2字下げ]
主《しゆ》よ、御身はわれらの理性を奪わんがために「美」を創りたまえり。しかして御身はわれらに言いたもう、「わが咎めを恐れよ」と。
主よ、御身は一切の美の源《みなもと》にして、美わしきものを愛したもう。そもいかにして、御身に創られし人々は、美を愛するを慎しみ、または、美しきものの前にて己が欲望を制すべき。
[#ここで字下げ終わり]
商人アブド・エル・ラーマーンはこうして、自分の手の間に立って、わが子を見て立ち尽す男女の詰めよせる列のまん中にいる自分を見ると、困惑の極に達して、こんなに明らかに厄介なことが持ち上がったのは、全く妻のせいだと思い、魂の中で、自分の妻に呪詛を浴びせかけ、これらのうるさいやつらに投げかけてやりたいあらゆる罵詈で、妻を罵詈しはじめました。次に、口で言っても駄目なので、彼は取り巻く人々を荒々しく押し退けて、いそいで自分の店に辿りつき、店を開けて、通行人のうるささが、遠くからしか息子に及ばないような工合に、すぐにカマールを中に落ち着かせました。するとその店は市場《スーク》じゅうの立ちどまる場所になりまして、大人子供の弥次馬は、刻々とますますひどく集まってきます。それというのは、既に見た人々はもっと見ようとするし、まだ見ない人々は、何か見ようと必死になるからです。
こうしているうちに、そこに一人の恍惚とした眼付きの修道僧《ダルウイーシユ》が、店のほうに進み出てきました。そして父親のそばに坐っている美しい、こんなにも美しいカマールを認めるとすぐに、深い溜息を吐きながら足を停めて、この上なく感動した声で、次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》の茎の上に揺れ、そこに第九月《ラマザーン》の月輝く、|かりろく《バーン》の木の若枝を、われは見る。
われはこれに問う、「君が名は何ぞ、君が名は。」彼答えて、「ルー・ルー。」われは叫ぶ、「リー、リー。」されど彼は言う、「ラー、ラー(4)」と。
[#ここで字下げ終わり]
その後で、年とった修道僧《ダルウイーシユ》は、自分の長い白い鬚を撫でながら、その高齢に敬意を表して、通ってゆく道の両側に並んだ人々の列をわけて、店先に近よりました。そして眼に涙をいっぱい浮べて少年を見つめ、これに甘いめぼうきのひと枝(5)を差し出しました。それから、店先の腰掛の、少年にいちばん近い場所に坐りました。この老人のこういう有様を見ては、人は次の詩人の言葉をあてはめても、少しも良心に恥じるところはありません。
[#ここから2字下げ]
顔美しき少年座を占め、その美しき顔は、第九月《ラマザーン》の断食者たちに現われし月(6)なりしとき、
見よや、容貌尊ぶべく禁欲者のごとき老人《シヤイクー》一人、しずしずと進みいづ。
永きに亘り、彼は日夜勉励して、恋愛を極めたり。しかして正しきと正しからざるとにおいて、稀有の造詣を獲たり。
彼は同時に青年男女を試み、ために爪楊枝よりも痩せたり。老膚の下の老骨なり。
常に己が稚児を従うる、マグリブ人《びと》のごとき男色家(7)の老人《シヤイクー》なり。
されど女色に関しては、甘酸両性の研究に通ずるとはいえども、むしろ皮相なるもののごとし。
何となれば、或る時にあっては、若きザイドと若きザイナブ(8)との間に、彼は全く差を見ざればなり。
心は和《やわ》らかにして爾余は花崗岩のごとく固く、まことに驚くに耐えたる男なり。牡山羊にも牝山羊にも、無鬚にも有鬚にも、常に立つ。
男色家なり、この老人《シヤイクー》は、マグリブ人《びと》のごとく。
[#ここで字下げ終わり]
驚嘆して店の前に犇《ひしめ》き寄った人々は、この修道僧《ダルウイーシユ》の恍惚とした有様を見ると、こう言いながら、互いに自分たちの考えを伝え合ったのです、「ワッラーヒ(9)、修道僧《ダルウイーシユ》といえばどれもこれも似たり寄ったりだ。あいつらは、蓮藷屋《はすいもや》の庖丁みたいで、牝も牡もおかまいなしだ。」また他の人たちは叫びました、「悪魔《シヤイターン》は遠ざけられよかし。この修道僧《ダルウイーシユ》はあの美少年に思いを焦しているぞ。アッラーはあんな種類の修道僧《ダルウイーシユ》どもを、懲らしめて下さるように。」
少年カマールの父親、商人アブド・エル・ラーマーンはと申しますと、彼はこうしたすべてを見て、思いました、「いちばん利口なことは、いつもより早く、さっさとわが家に帰ることだわい。」そしてその修道僧《ダルウイーシユ》に立ち去る決心をつけさせるため、彼は帯からいくらか小銭を取り出して、それを遣りながら言いました、「お前さんの今日の廻《めぐ》り合せをお取り、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん。」そして同時に、息子カマールのほうを向いて言いました、「ああ、わが息子よ、アッラーはお前のお母さんをそれ相応の目に遭わせて下さるように。何しろ今日は、お蔭でわれわれはさんざん不愉快な思いをしたからねえ。」けれども、修道僧《ダルウイーシユ》は一向に自分の場所から動かず、出された銭を受けとるため手を出しもしないので、商人はこれに言いました、「お立ちなさい、小父さん、私たちは店を閉めて、自分の道に立ち去るから。」こう言いながら、商人はすっくと立ち上がって、二枚の扉を閉めに掛りました。それで修道僧《ダルウイーシユ》も、釘づけになっていた腰掛からやむなく立って、街に下りて行きましたが、しばしも眼を少年カマールから離すことができません。そして商人とその息子が、店を閉めてから、群衆を掻き分け、出口の方角に向って行くと、僧は市場《スーク》の外まであとをつけて、彼らの足の後から自分の足を運び、自分の杖をわが足に合せて打ち鳴らしながら、とうとう彼らの家の戸口まで、歩いてきました。すると、商人は修道僧《ダルウイーシユ》のしつこさを見たけれど、宗教に対する遠慮から、また自分たちを眺めている人々の手前もあって、これを罵るわけにもゆかず、そこで僧のほうを向いて、訊ねました、「どういう御用です、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん。」僧は答えました、「おおわが御主人よ、わしは今夜ぜひお招きを受けたいのじゃ。招かれる客はアッラー――その讃《ほ》められよかし――の客なことは、御承知の筈。」するとカマールの父は言いました、「アッラーの客は歓迎されよかし。ではおはいりなさい、おお修道僧《ダルウイーシユ》さん。」けれども、自分では独りごとを言いました、「アッラーにかけて、いったいどういうことなのか、やがてわかるぞ。もしこの修道僧《ダルウイーシユ》がおれの息子に対して、不埓な考えを抱いてからに、己れの悪運に押されて、仕種《しぐさ》でなり言葉でなり、何ごとか試みるに到った節は、おれは必ずこいつを殺して、その墓に痰をかけながら、庭に埋めてしまおう。何はともあれ、まず食べ物を与えよう、それはアッラーの道に見出されるあらゆる客の幸運なのだから。」そこで商人は僧を家に入れて、黒人女に、洗浄《みそぎ》用の水差と盥《たらい》と、食べ物と飲み物を運ばせました。すると修道僧《ダルウイーシユ》は、ひとたびアッラーの御名《みな》を念じながら洗浄《みそぎ》を終えると、礼拝の姿勢をとって、『牝牛の章』全体を唱し、それに『食卓』の章と『改悔』の章を続けた上で、はじめてやめました。それが済むと、「ビスミッラーヒ(10)」を唱えて、皿に出された食物に手をつけましたが、至って控え目で品位を保っていました。そしてアッラーに御恵《みめぐ》みを謝しました。
商人アブド・エル・ラーマーンは、修道僧《ダルウイーシユ》が食事を終えたと、黒人女から聞いたとき、独りごとを言いました、「いよいよ事を明らかにする時になったぞ。」そして息子のほうを向いて、言いました、「おおカマール、お前お客様の修道僧《ダルウイーシユ》に会いに行って、もう何か御入用なものはないか伺って、しばらくあの方とお話をしなさい。それというのは、地を縦横に経めぐる修道僧《ダルウイーシユ》の言葉は、しばしば聞いていて心地のよいもので、あの人たちの物語は、聴き手の精神に為になるものだから。だからあの御僧《ごそう》のすぐそばに坐って、もしあの方がお前の手をとるようなことがあっても、手を引っこめてはいけない。教える人というものは、自分と弟子との間に、直接の繋がりを感ずるのを好むもので、それはいっそうよく教訓を伝える助けとなるのだ。何事につけても、あの御僧に対しては、お客様という資格と、高齢ということに払わなければならない敬意と服従を、持ちなさいよ。」こう説教しておいて、商人は息子を修道僧《ダルウイーシユ》のそばに遣って、自分はいそいで二階に行って、こちらは見られずに、修道僧《ダルウイーシユ》のいる広間のなかの全部を見、全部が聞けるような場所に、身を置きました。
さて、敷居の上に美少年が現われるやいなや、その修道僧《ダルウイーシユ》は、非常な感動に襲われて、両眼から涙が迸り、さながらわが子を失って再びめぐり会った母親のように、溜息を吐きはじめました。するとカマールは彼に近づいて、没薬《もつやく》の苦味をも蜜に変ずるばかり甘い声で、何か不足なものはないか、被造物《つくられしもの》へのアッラーの賜物《たまもの》の分け前をいただいたかどうかを、訊ねました。そして愛想よく優雅に、そのすぐそばに行って坐り、坐る際に、わざとしたのではなく、巴旦杏の練り粉のように、白く柔らかい太腿を露わしました。このときこそ、詩人はいかにも偽りなく、ちがうと言われる恐れなく、言うことができたでもございましょう。
[#この行2字下げ] 腿なり、おお信徒らよ、ことごとく真珠と巴旦杏より成る腿なり。されば今日ぞ「復活」の日なりとも、驚くことなかれ。何となれば、腿露わなる時にもまして、浮び上がる時はなければ。
ところが修道僧《ダルウイーシユ》は、自分がこの若人とただ二人きりなのを見ると、少年に対して、およそどんな種類の馴れ馴れしさにも陥るどころか、今までいた場所から数歩退いて、少し離れた茣蓙の上に、異論の余地のない謹厳と自重の態度で、坐りに行くのでした。そしてその場で、眼にいっぱい涙を浮べ、さきほど店頭の腰掛の上で身動きできなくなった、あの同じ感動をこめて、黙って少年を見つめ続けます。カマールはこの修道僧《ダルウイーシユ》の振舞い方にたいそう驚いて、いったいどうして自分を避けるのか、何か自分に対してとか、この家の歓待ぶりとかに、不満があるのかと、訊ねました。すると修道僧《ダルウイーシユ》は、返事の代りに、次の美しい詩人の言葉を、たいそうしみじみと誦するのでした。
[#ここから2字下げ]
わが心は「美」に溺る。何となれば、「美」の愛によってこそ、人は完成の頂に達するなれ。
されど、わが愛は欲情なく、およそ官能に繋がる一切を脱するものなり。しからざる愛し方をなす者すべてを、われは嫌う。
[#ここで字下げ終わり]
こうした次第です。カマールの父は見もし聞きもして、怪訝《けげん》の極に達しました。そして独りごとを言いました、「私はあの賢い修道僧《ダルウイーシユ》に、とんだ怪しからぬ思惑の疑いをかけて、失礼をしたことを、アッラーの御前《みまえ》で平伏し奉ります。自分の同胞に対して、人間にこのような考えを吹きこむ『誘惑者』を、アッラーは挫《ひし》ぎたまいますように。」そして修道僧《ダルウイーシユ》に対して感服して、大急ぎで下に降りて、広間にはいりました。そしてアッラーの客に挨拶《サラーム》と祈願をして、最後にこう言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが兄弟よ、切にお願いしますが、どうかあなたの感動と涙のわけと、なぜ私の息子を見てそんなに深い溜息を吐きなさるかを、お話し下さいませ。このような結果には、定めし何か原因がございましょうから。」修道僧《ダルウイーシユ》は言いました、「いかにも仰せのとおりです、おお歓待の父よ。」彼は言いました、「それならば、その原因を伺わせて下さるのを、これ以上遅らせないで下さい。」僧は言いました、「おおわが御主人よ、何ゆえ私に、閉ざした傷口を掻き立て、わが肉の裡に再び刀を入れることを、強いなさるのか。」彼は言いました、「歓待の既得権によりまして、何とぞ、おおわが兄弟よ、私の好奇心を満たしていただきたいものです。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は言いました、「さらばお聞き下され、おおわが御主人よ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十二夜になると[#「けれども第七百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……すると修道僧《ダルウイーシユ》は言いました。
「さらばお聞き下され、おおわが御主人よ、私ことは絶えずアッラーの地と国々を遍歴して、昼夜の創造主の御業《みわざ》に驚嘆致しておる、一介の貧しい修道僧《ダルウイーシユ》でございまする。
さて或る金曜日の朝のこと、わしはわが天命によって、バスラの町に導かれました。そして町にはいってみまするというと、市場《スーク》と商店と商家はみな開かれていて、あらゆる食品類と共に、あらゆる商品は店頭に並べられ、総じて、売られたり買われたりするもの、食われたり飲まれたりするものは、すべて出ているのを認めましたが、しかるに、諸方の市場《スーク》にも店々にも、商人にせよ買手にせよ、女にせよ小娘にせよ、往く者にせよ来る者にせよ、およそ影も形もないことも、また認めたのでした。すべてが全く見棄てられ荒涼として、どこの街にも、犬一匹、猫一匹、子供の遊んでいるのすら、全く見えません。到るところ、淋しくひっそりと静まり返り、ただアッラーの在《まし》ますのみ。こうしたすべてに私は驚いて、魂の中で言った、『この町の住民たちは、猫や犬まで引き連れて、いったいどこに行ってしまったのだろう、こんな風に、これら全部の商品を並べたまま、放り出して行くとは。』しかるに、何しろ非常な飢《ひも》じさがわが腹中を悩ましていたので、わしは永い間このような考えにぐずぐずしてはいないで、菓子屋のいちばん見事な店先を見かけて、存分に食ったが、これはわが幸運であり、菓子についてのわが欲望の満足であった。それが済むと、わしは焼肉屋の店先に赴いて、脂ののった仔羊の串焼を二本か、三本か、四本か、まだ竈《かま》にはいっている熱い雛鳥の焼肉を一つ、二つ、ふくらして焼いた軽いパン菓子と一緒に頂戴したが、それはわが巡礼の修道僧《ダルウイーシユ》の生涯で、わが舌のかつて味わったこともなければ、わが鼻の嗅いだこともないようなものでござった。そしてわしはアッラーに、己が貧しい人々の頭上に下さるるその賜物に対して、感謝致しました。それからわしは、シャーベット商人の店に上がって、竜涎香《ナード》と安息香の香りのついたシャーベットをひと罎か、ふた罎飲んだ。まことにかくも久しく、富んだる都会人の飲み物に接しなかったわが喉の最初の渇望を、ようやく医するに足るものであった。そしてわしは、己が信徒たちをお忘れなく、天国の泉サルサビールの前味を、地上にして彼らに授けたもう恩恵者に、謝し奉ったのでした。
こうしてわが腹中に多少の平静を置くと、わしは再びこの町の奇怪な状態について、考えをめぐらしはじめました。これは疑う余地なく、ほんの数分前に、住民が立ち去ったものに相違なかった。わしの怪訝《けげん》は、考えれば考えるほど増大した。それで、この森閑としたなかで、わが足の木魂《こだま》までも非常に恐ろしくなりはじめたとき、ふと何か楽器の音の響くのが聞えて、よく耳を傾けてみるに、まさしくそれは、わしのほうにやってくる。
そこでわしは、ただわし一人が立ち会ったこうした驚くべき事がらによって、いささか精神混乱して、これは自分は魔法にかかった町に来たのだ、今聞える合奏は、てっきり悪事を働く鬼神《アフアリート》や魔神《ジン》――アッラーはこれらを挫《ひし》ぎたまわんことを、――その輩《やから》の奏するものだということを、もう疑わなんだ。それでたいへんな恐怖に襲われて、わしは穀物商の店のずっと奥に飛びこんで、空豆《そらまめ》の袋の蔭に身を隠した。しかしわしは性来、おおわが御主人よ、好奇心という欠点の支配下を脱しきれなかったので――願わくはアッラーの許したまわんことを、――そのくせ、わが袋の蔭から、往来が見え、こちらが見られずに見ることができるような場所に、身を置いたものでした。そしていちばん楽な位置にやっと身を落ち着けたと思う間もなく、往来に、目の眩むような行列が近よってくるのを見ました。それは魔神《ジン》や鬼神《アフアリート》の行列ではなく、まさに天国の天女《フーリー》の行列であった。そこには四十人の、月の顔《かんばせ》の乙女がいて、面衣《ヴエール》をつけずに美しさを見せながら、二列に並んで、それだけでも立派に音楽になっている足どりで、進んで来るのでした。その前には一群の女楽手と舞妓が先立って、音楽に合せて、彼らの小鳥の運動を調子づけています。それというのは、その女たちは、全く偽りなく、小鳥でした、鳩よりも白く、たしかにもっと身軽でした。なぜなら、人間の娘ならば、よくこのようになだらかで、軽やかであり得ましょうか。むしろこれらは、地上に滞在して地を恍惚たらしめようとて、『円柱のイラム(11)』の御殿か、それともエデンの園から来た、何かの一種ではなかったのでしょうか。
それはともかくとして、おおわが御主人よ、その乙女らの最後の一対《いつつい》が、空豆のうしろにわしの隠れている店を通り過ぎたと思うと、二人の若い黒人娘が轡をとる、額に星のついた牝馬に乗って、あまりの若さとあまりの美しさに装われた、一人の貴女が進んでくるのが見え、それを見て、もうわしは全く理性を破壊しつくされ、呼吸がとまり、もう少しで空豆の袋のうしろで、仰向けに引っくり返りそうになりました、おおわが御主人よ。その貴女は、着物には宝石を鏤《ちりば》め、その髪や首や手首や踝《くるぶし》は、金剛石の輝きの下や、真珠宝石の首飾りや腕輪の下に、埋もれているだけに、なおさら、目も眩むばかりであった。その右には、|※[#「木+霸」、unicode6b1b]《つか》がただ一個の翠玉で出来た抜身の剣を手に持つ、一人の女奴隷が歩いています。貴女を乗せた牝馬は、さながら頭上に戴く冠を誇る女王のように、進んで行く。そして絢爛の幻は足並そろえて、遠ざかって行ったのです。情熱によって突き刺された心臓と、永久に奴隷の境涯に落ちた魂と、思い起してはあらゆる美に向って、『汝はあれに比ぶれば何するものぞ』と言い放つ眼を、わしに残して。
その行列がすっかり見えなくなり、楽器を奏でる女たちの音楽は、遥かな音となってしかわが許まで達しなくなると、わしは意を決して空豆の袋の蔭から出て、店から街へと出ましたが、これはよかった。というのは、それと同時に、極度に驚いたことに、市場《スーク》はにわかに活気づき、全部の商人が、まるで地下から出るように出てきて、再びそれぞれ自分の店先の己が場所に就き、わしの身を隠した店の持主の穀物商も、どこから現われたのか、姿を見せ、家禽を飼う人々やその他の買手に、穀物を売るのに従事するのを見た。わしはますます思い惑って、遂に意を決して通行人の一人に近づき、いったいわしの目のあたり見た光景は、何を意味するのか、額に星のついた牝馬に乗る、あのすばらしい貴女の名前は何というのかと、訊ねました。しかるに何とも驚いたことには、その男はわしに呆然とした一瞥をくれて、顔色がすっかり黄色になり、着物の裾をたくし上げて、後ろを向くなり、脚を風に委せて、まるで自分の天運の時刻に追いかけられているというよりも早く、駈け出したものじゃ。そこでわしはもう一人の通行人に近づいて、同じ問いを持ち出した。しかしその男は返事をする代りに、わしを見もしなければ、聞きもしなかったというような風をして、そっぽを見ながら、道を続けて行ってしまった。わしはそのほか、更に大勢の人々に訊ねてみたが、誰一人わしの問いに答えてくれようとはしない。そして誰しも、まるでわしが糞溜から出てきたみたいに、或いはわしが首を刎ねる剣でも振りまわしているみたいに、さっさとわしから逃げ出してしまう。そこでわしは、自分自身に言った、『おお修道僧《ダルウイーシユ》の某《なにがし》よ、こうなっては事を明らかにするには、もう床屋の店にはいって、頭を剃らせながら、それと同時に床屋に訊ねるより手がない。それというのは、お前も知ってのとおり、この商売をやっている連中は、舌がむずむずしていて、いつも言葉が口先まで出かかっているものだ。ただ床屋だけが、お前の知りたがっているものを、たぶん教えてくれるだろう。』こう考えて、わしはと或る床屋にはいって、持ちあわせているだけ全部さらけ出して、気前よく金を払ってやった上で、知りたくてならぬことを床屋に話し、あのこの世のものならぬ美しさの貴女は誰なのかと、問うた。すると床屋は、やや慄え上がって、眼を左右にきょろきょろさせたが、やっと答えてくれた、『アッラーにかけて、おお修道僧《ダルウイーシユ》の小父さんよ、もしあんたが頭を首の上に乗っけたまま、首を無事安泰にしておきたいと思うなら、あんたがあいにくと見たものをば、誰であろうと決して誰にも言いなさんなよ。そればかりか、もっと安全のためには、今すぐわれわれの町を退散するがいいですぜ。さもないと救いの由なく身の破滅だ。これについて私の言えることは、これだけだぜ。それというのは、こいつはバスラの町じゅうを苦しめ抜いてる不思議で、町の人たちは万一不幸にも、あの行列の来る前に身を隠さなかった場合には、蝗《ばつた》のように死んじまうんでさ。現に、その抜身の剣を持っている奴隷女というのが、行列の通るのを眺めようなんて物好きな心を起したり、行列が通る道筋で身を隠さなかったりする不謹慎者がいようものなら、すぐ首をちょん斬ってしまうのですよ。私のあんたに言えることは、これだけですよ。』
そこでわしは、おおわが御主人よ、床屋が頭を剃り上げると早速、店を出て、いそいで町を離れ、城壁の外に出るまでは、安き思いもなかった次第であった。そしてわしは、地方と沙漠をいくつも通って旅し、あなた方の町に着きました。わしの魂には、いつもこの垣間見た美女が住んでいて、わしは昼も夜もこればかり思って、しばしば飲み食いも忘れるほどでした。こうした気分を抱きながら、今日わしは貴殿のお店の前に到り着き、御令息カマールのお姿を認めたが、この御令息の美貌は、まさしくバスラなる、この世のものならぬ乙女の美貌を、思い起させましたのじゃ。御令息は兄が弟に似ているごとく、その乙女に似ておられる。わしはこの酷似に感動のあまり、涙を禁じ得なかったが、このような真似は、愚か者の仕業に相違ござらぬ。これが、おおわが御主人よ、わが溜息と感動の原因じゃ。」
修道僧《ダルウイーシユ》はこのように彼の話を語りおえると、少年カマールを眺めながら、またしても涙に掻き暮れました。そして嗚咽のただ中で、付け加えて言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが御主人よ、お話し申すべきところを既にお話し申した今となっては、あなたがアッラーの下僕《しもべ》にお授け下さった歓待に、狎《な》れたくはござりませぬゆえ、どうぞわしに出口の扉を開いて、わが道のまにまに立ち去らせて下さりませ。して、もしわが恩恵者たちの頭上に祈るべき願いがわしにありとせば、願わくは、御令息とバスラの乙女のごとく、かくも完全な二人の被造物《にんげん》をお創りなされたアッラーは、この御両人の相結ばるるをお許し下さって、その御業《みわざ》を完成したまわんことを。」
こう語って修道僧《ダルウイーシユ》は、カマールの父親がぜひ止《とど》まるようにと強《た》っての頼みにもかかわらず、立ち上がって、今一度、主人たちの上に祝福を祈って、来た時のように、溜息をつきながら、立ち去ってしまいました。僧のほうは、このようでございました。
少年カマールのほうはと申しますと、彼はその夜ひと晩じゅう、眼を閉じることができませんでした。それほど、修道僧《ダルウイーシユ》の話が気にかかり、それほど、その乙女の叙述が印象深かったのです。そして翌日になると未明に、彼は母のところにはいって行って、母を起して、言うのでした、「おお、お母様、私に衣類の包みをこしらえて下さい、私はこれからすぐに、バスラの町に立たなければなりません。そこに、私の天命が私を待っているのです。」母親はこの言葉に、泣きながら嘆きはじめ、夫を呼んで、こんなに思いもかけない驚かれる消息を伝えました。するとカマールの父親は、一所懸命息子を説得しようと努めましたが、甲斐なく、息子はどんな理屈にも耳を藉さず、結論として言うのでした、「すぐさまバスラに立たなければ、私はきっと死んでしまいます。」それでカマールの父母も、この断乎とした言葉と、ここまで思いつめた決心の前には、天命によって記《しる》されたところを承知して、ただ溜息をもらすばかりでした。カマールの父は、妻の忠言に従って、カマールを市場《スーク》に連れて行った時以来、自分たちの身に起った面倒なことすべてを、妻のせいにせずにはおきませんでした。そして自分に言いました、「お前の心尽しと用心の末はこうだ、やあ、アブド・エル・ラーマーンよ。全能のアッラーのほかには頼みも力もない。記《しる》されたところは行なわなければならぬし、何ぴとも運命の定めに叛いて、争うわけにはゆかぬ。」そしてカマールの母は、こうして夫の非難の的にはなるし、息子の計画によって惹き起された苦しみのせいもあって、二重に心を痛めながらも、息子のために、出発の支度をしてやらないわけにゆきませんでした。そして、小さな袋に、紅玉《ルビー》だの、金剛石だの、翠玉《エメラルド》だのといった、大粒の宝石四十個を入れて、それを息子に与えながら言いました、「この小さな袋を大切に身につけてしまっておおき、おお息子よ。もしお金がなくなった時には、きっと役に立つだろうから。」また父は旅費と外国滞在費として、金貨九万ディナールを与えました。そして両親は涙を流して、息子に接吻し、別れを告げました。父はこれを、イラクに向って出発する隊商《キヤラヴアン》の頭《かしら》に頼みました。そしてカマールは、父と母の手に接吻してから、両親の祈念に伴われて、バスラを指して立ちました。アッラーはこれに安泰を記したまい、彼は事なくその町に着いたのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十三夜になると[#「けれども第七百八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところがたまたま、彼の着いた日は、ちょうど金曜日の朝でございました。それでカマールは、あの修道僧《ダルウイーシユ》の話して聞かせたことすべては、全くそのとおりなことを、確かめ得ました。事実、市場《スーク》はみな空っぽで、街頭には人気なく、店は開いているけれども、売手も買手もいないのを見ました。彼はちょうど空腹だったので、適当なものを飽き足りるまで、食べて飲みました。そして食事を終ったと思うと、音楽が聞えたので、いそいで修道僧《ダルウイーシユ》のしたとおりに、身を隠しました。するとやがて四十人の侍女を連れた、その乙女の貴女が現われるのが見えました。その美しさを見ると、彼は激しい感動に捉われて、自分のいる片隅で、気を失ってしまいました。
彼が再び正気に返った時には、市場《スーク》はどこも活気づいて、往来《ゆきき》の人々が溢れ、さながら商業生活はかつて途絶えたことがないという風でした。そこで彼は、心の中で、乙女のこの世ならぬ魅力をいちいち細かに思いながら、まず美々しい着物を買いに行き、主な商人たちのところで見つけられるだけの、いちばん立派な、いちばん豪奢なものすべてを求めました。それから風呂屋《ハンマーム》に出かけて、長く念入りな入浴を済ませ、さながら若い王のように光り輝いて、そこを出ました。その時はじめて、彼は昔あの修道僧《ダルウイーシユ》の頭を剃った床屋の店を探しにかかりましたが、それも程なく見つかりました。そこでその店にはいって、互いに挨拶《サラーム》を交してから、彼は床屋に言いました、「おお軽い手の父よ、私は実はあなたに、内密でお話ししたいことがあるのです。それで、平生ここに見えるお客様方に対して、この店を閉めていただきたく、ついてはこれで、あなたの時間を潰《つぶ》す償いをしてもらいたい。」そしてディナール金貨のいっぱい詰った財布を渡すと、床屋はちょっと手を動かして重さを見てから、いそいでそれを帯の中にしまいこみました。そして店に自分たち二人きりになると、彼は床屋に言いました、「おお軽い手の父よ、私はこの町ははじめての他国者《よそもの》です。それでただ、今日この金曜日に、市場《スーク》が朝|空《から》になるいわれを、あなたから伺いたいと思うだけなのだが。」すると床屋は、この若者の気前のよさと、その貴公子《アミール》然とした様子に惹かれて、彼に答えました、「おおわが御主人様、そいつは、私も決して探ってみようとしたことのない秘密です、もっとも私も皆さんと同じようにして、毎金曜日の朝には、ちゃんと身を隠しちゃいますがね。だがその一件が、そんなにお気にかかるとおっしゃるからには、ひとつあなたのために、自分の兄弟にだってしてやらないようなことを、してさしあげましょう。それじゃ、あなたを私の女房に御紹介申しましょう。こいつは町で起ることは何でも知ってまさ。何しろ女房は、バスラの町全部の婦人部屋《ハーレム》と、お偉方や帝王《スルターン》の御殿出入りの、香水商ですからね。お見受けするところ、あなたはこの一件を明らかにしたいと待ちきれない御様子だし、かたがた私の申し出がお気に召してるようだから、早速これからひと走り、伯父の娘に会いに行って、相談して来ましょう。私の帰るまで、この店におとなしく待っていらっしゃい。」
そして床屋はカマールを店に残して、いそいで自分の妻に会いに行って、自分の帰ってきたわけを説明しました。そして同時に、ディナール金貨の詰った財布を渡しました。この床屋のお上《かみ》さんというのは、才智に富んだ、世話好きな心の女でしたが、彼女は答えました、「その方はよく私たちの町にいらっしゃったこと。私はいつでもその方に、私の頭と眼で、御用を足してあげましょう。じゃその方にまた会いに行って、ここに連れていらっしゃい、その方の知りたがってることを教えてあげますから。」そこで床屋は店に戻ると、カマールは坐って待っていたので、これに言いました、「おおわが息子よ、立って、私と一緒にあなたのお母《つか》さんのところに行きなさい。私の伯父の娘は、あなたに『それは何とかなりますよ』と、伝えてくれと言ってます。」そして床屋はその手をとって、自分の家に案内しますと、お上《かみ》さんはいかにも親切そうな、人好きのする様子で、歓迎の言葉を述べて、彼を長椅子《デイワーン》の上席に坐らせて、言いました、「嬉しいお客様に、家族と心易さがありますように。この家はあなたの家、家の主《あるじ》たちはあなたの奴隷でございます。あなたは私たちの頭上と、眼の上にあります、お言いつけ下さいまし。承わることは、従うことでございます。」そして細君はいそいで、銅の盆に載せて、接待の冷たい物と砂糖煮を出し、各種をひと匙取らせては、そのつど「私たちのお客様のお心の上に歓びと力づけあれ」という、その場の挨拶《サラーム》を述べました。
するとカマールは、ディナール金貨を手にいっぱいひと掴みとり出して、それを床屋のお上《かみ》さんの膝の上に置いて、言いました、「僅かだが御容赦下さい。けれども、インシャーラー(12)、いずれ私はこれよりもずっと、あなたの御親切を感謝することができるでしょう。」次に彼は言いました、「さて今は、お母さん、どうか御存じのことについて御存じの一切を、話して聞かせて下さいまし。」すると床屋のお上《かみ》さんは言いました。「お聞き下さい、おおわが息子よ、おお目の光、頭の冠よ、さればバスラの帝王《スルターン》は或る時、インドの帝王《スルターン》から、まことに見事な真珠一顆を贈物にもらいなさいましたが、それは、何か海の不思議な卵の上に凝《こご》った太陽の光線からでも、生れたにちがいないほど、見事なものでございました。それを眺める工合によって、白くもあれば同時に金色《こんじき》でもあり、さながらその内部に、牛乳の中の火事を動かしているように見えました。それで王様は、一日じゅうずっとその真珠に見入りなされ、それをいつも肌身離さず持っているため、絹のリボンでお首に結びつけていたいと、お望みになりました。ところが、その真珠は処女で穴を穿けられていないので、王はバスラじゅうの宝石細工師全部を召し出して、仰せられました、『この無上の真珠に、ひとつ巧みに穴を穿けてもらいたい。この霊妙なる品を少しも損ぜずに、それをなし得た者あらば、その者は何なりと望みのものを所望するがよい。そは叶えられ、しかもそれ以上であろう。さりながら、もし完全に成功しないとか、またその非運が、ほんの些《いささ》かなりともこれを損じさせるがごときことあらば、その者は死中最悪の死を期して待つべし。何となれば、余はこれに、その冒涜の拙技の値するあらゆる刑罰を耐え忍ばせた末に、その首を刎ねるであろうからじゃ。これをどう思うか、おお宝石細工師どもよ。』
この帝王《スルターン》のお言葉を聞き、どういうことに自分の魂を曝《さら》しているかを見ますと、宝石細工師たちは、非常な恐れに動かされて、お答えしました、『おお当代の王様、このような真珠と申せば、まことに微妙な品でございます。すでに普通の真珠に穴を穿けるのでも、ずいぶん稀な巧みと熟練を要しまして、上手といわれる細工師でも、何か避けがたい事故なしに、よい結果に到る者は少ないことを、われわれは承知しておりまする。されば何とぞ、私どもの微力をもってしては耐え得ないようなことを、私どもに御命じ下さるまじく、伏してお願い申し上げます。それと申しますは、われわれの発揮しなければならないような巧みさは、到底私どもの手から出ることは叶うまいと、一同認める次第でございます。さりながら、かかる妙技をよく成し遂げ得る或る人物を、お知らせ申すことができまする。それは私どもの長老《シヤイクー》(13)でございます。』すると王様はお訊ねになりました、『そのお前たちの長老《シヤイクー》というのは誰じゃ。』一同答えました、『宝石細工師のオベイド師匠でございます。師匠は私どもよりも遥かに名人で、指一本一本の先に目があり、そのひとつひとつの目に、この上ない鋭敏さがあるのでございます。』すると王様はおっしゃいました、『その男を呼んでまいれ、ぐずぐず致すなよ。』そこで細工師たちはいそいで仰せに従い、彼らの長老《シヤイクー》オベイド師匠を連れて、戻ってきました。師匠は王様の御手の間の床《ゆか》に接吻してから、お言いつけを待って立っておりました。すると王様はこれに、どのような仕事をお望みになっているか、そして成功または不成功に従って、どういう御褒美または罰が待っているかを、お話しになりました。そして同時に、その真珠をお見せになりました。すると宝石細工師オベイドは、そのすばらしい真珠を受けとって、ひと時の間よくよく調べて、さて答えました、『これにうまく穴を穿けられないようだったら、私は死んでも苦しゅうございません。』そしてその場で、王様のお許しを得て、しゃがみこみ、帯から二つ三つ鋭い道具を取り出しながら、近よせた両足の足指の間に真珠をはさんで、信じられないほどの巧みさと軽さでもって、ちょうど子供が独楽《こま》を扱うように、道具を操って、卵に穴をあけるのにかかる時間もたたないうちに、一点のひびも、こればかりの亀裂《われ》も残さずに、左右等しい穴をあけて、一方から一方に真珠を貫き通しました。次に師匠は袖口の裏でそれを拭いて、王様に差し出しますと、王様はお喜びと御満足で、身をお顫わしになりました。そしてそれを絹紐でもって、お首にお懸けになって、玉座に上がってお坐りになりました。王様はお悦びに眼を輝かせて、四方を御覧になると、一方、真珠はお首に吊した太陽のようでございました。
そのあとで、王様は宝石細工師オベイドのほうにお向きになって、おっしゃいました、『おおオベイド師匠よ、今度はその方が所望致す番じゃ。』すると細工師はひと時の間じっと考えて、お答えしました、『アッラーは王様の御寿命を永くしたまいますように。さりながら、不随の両手が霊妙な真珠に触れ、御希望に従って、それに穴を穿ってわれらの御主君にお返し申すという、無上の光栄に浴しましたる奴隷には、一人のごく若い妻がござりまして、これを大いに尊重しないわけに参りませぬ。何しろこちらはすこぶる年老いたる身にて、およそ老境に入りし人々にして、己れの妻に悦ばれぬのを欲しない者は、あらゆる種類の尊重をもってこれを遇し、何事もこれに相談せずにはいたさぬ必要がござりまする。してこれぞまさしく、君の奴隷の場合なのでございます、おお当代の王よ。されば君の奴隷はこれより、われらが寛容なる御主君の許したもうお願いの筋について、己が妻の意見を徴しに参り、果たして妻自身に、私の考えることのできるものよりも好ましい所望がなきや否や、問い合せとう存じます。それと申すは、アッラーはわが妻に、若さと容色を授けたもうたのみならず、豊かにして鋭い才智と、十分に信用できる判断力を、お授け下さいましたからでございます。』すると王様はおっしゃいました、『さらばいそいで、オスタ・オベイドよ、その方の妻に相談に参って、戻って余に返事をもたらせよ。余は約を果たさぬうちは、心安んじないであろうから。』そこで宝石細工師は御殿を出て、妻に会いに行き、相談しました。すると若々しい奥さんは叫びました、『未だ時到らぬうちに、わが日を到来させて下さるアッラーは、讃《ほ》め称《たた》えられよかし。実際私には、申し出たい一つの望みと、変った考えにはちがいないけれど、実行したい一つの考えがあるのです。私たちはもう、アッラーのお恵みとあなたの商売繁昌のお蔭で、お金持になり、これから先も不自由することはございません。ですから、その方面は何ひとつ望むことはないので、私の叶えたい望みというのは、お上《かみ》のお金が一ドラクムもかかることではございますまい。こういうことです。どうぞ王様にお願いして、毎金曜日、王様方のお姫様のような行列を作って、バスラじゅうの市場《スーク》と街々の間を私に散歩させ、そのときは誰も街々に姿を現わしてはいけない、背くものは首を失うことにして下さるよう、こういうお許しを賜わるだけで結構です。真珠に穴を穿ける件についてのあなたのお仕事の御褒美として、私から王様にお願いしたいことは、これだけです。』
自分の若い妻のこうした言葉を聞いて、宝石細工師は驚きの限りに達して、思いました、『アッラー・カリーム(14)。女の脳味噌のなかで、いったいどんなことが起るかを知っていると自慢できるやつは、全くたいしたものだなあ。』だけど何しろその男は奥さんを愛していたし、当人は年とって、おまけにたいそう醜い人ですから、奥さんに逆らおうとはせず、ただこう答えるだけでした、『おお伯父の娘よ、お前の希望は頭上と目の上にある。だがもし市場《スーク》じゅうの商人が、行列の通る際、自分の店を放り出して身を隠しに行ったら、犬猫が店頭を荒らして、いろいろ被害を起し、それがおれたちの良心を重くするだろうが。』奥さんは言うに、『そんなことは何でもありません。住人全部と市場《スーク》の番人に命令を出して、その日は全部の犬と全部の猫を、閉めこんでおくようにすればいいでしょう。それというのは、私は私の行列が通る時には、店を開けたままにしておいてもらいたいのです。貴賤上下すべての人は、回教寺院《マスジツト》に隠れに行くことにして、寺院の扉を閉ざし、誰も頭を出して眺めることができないようにしてもらいましょう。』
そこで宝石細工師オベイドは、王様にお目にかかりに行って、すっかり恐縮しながら、自分の妻の願いを言上しました。すると王様はおっしゃいました、『仔細ない。』そしてすぐに触れ役人に、毎金曜日、礼拝の二時間前に、店を開けたまま、回教寺院《マスジツト》に身を隠しに行き、街に首を出すのは固く慎しむよう、背けば首がその肩から飛ぶのを見るであろうという命令を、町じゅうの住民に布告させなさいました。また、犬と猫、驢馬と駱駝、その他|市場《スーク》のなかを歩きまわるおそれがあるあらゆる荷馬荷牛の類を、閉めこんでおくように、通告させなさいました。
その時から、その宝石細工師の妻は、こうして毎金曜日、正午の礼拝の二時間前に、人間も犬も猫も、街に現われさせないで、散歩をすることになったのです。あなたが、やあ、カマール旦那《シデイ》、今朝、乙女の行列のただ中で、誰でも敢えて通って行くのを見ようなんてする者の首を刎ねるため、抜身の剣を持った若い女奴隷を先に立て、まったくこの世のものならぬ美しさのうちに、御覧になったというのは、まさしくこの女《ひと》なのでございます。」
床屋のお上《かみ》さんは、カマールの知りたがっていることをこのように語って、しばらく口を噤《つぐ》みましたが、微笑しながら彼を見やって、付け加えました、「けれど私にゃよくわかりますよ、おお美しい顔の持主、おお祝福された御主人様よ、このお話だけじゃ足りなくて、あなたはほかにもっと私にお望みがありなさる。例えば、その年とった宝石細工師の奥さんの、すばらしい別嬪を、何とかもう一度見る手段《てだて》を教えるといったようなことが、お望みでしょう。」カマールは答えました、「おおわが母よ、いかにも、それが私の内心の希望なのです。というのは、私が自分の家を去り、留守をして私を深く愛している父親と母親を、涙のうちに置き去りにしてまで、わざわざ国から出てきたのは、その女《ひと》を見るためなのですから。」すると床屋のお上《かみ》さんは言いました、「それじゃ、わが息子よ、あなたは値の張る貴重品といえば、どんなものを持っているか、まあ言ってごらんなさい。」彼は言いました、「おおわが母よ、私はほかの立派な品々と一緒に、特に四種の宝石を、身につけて持っています。最初の種類の石は、ひとつが金貨五百ディナール、二番目の種類のは、ひとつが金貨七百ディナール、三番目のものは、八百五十、四番目のは、少なくとも、ひとつが金貨一千ディナールはしますよ。」お上《かみ》さんは聞きました、「それであなたの魂は、その石の各種類ひとつずつ、四つを手放す覚悟はありますか。」彼は答えました、「私の魂は、私の持っている石全部と、手許にあるもの全部を、悦んで手放す覚悟がありますよ。」お上《かみ》さんは言いました、「結構です。それじゃお立ちなさい、おお息子よ、おお、この上なく気前のいい人たちの頭上の冠よ、そして宝石商と金銀細工師の市場《スーク》に、宝石細工師オスタ・オベイドに会いにいらして、これから私の言うことを、そのとおりになさいまし。」
そして床屋のお上《かみ》さんは、望みの目的に彼を行きつかせるために、指図したいと思うところを全部指図した上で、言い添えました、「何事においても、用心と辛抱が肝心ですよ、わが息子よ。だけどあなたは、今私の教えてあげたことをしたら、そのあとで私に報告に来ることと、家の主人の床屋のために、金貨百ディナールを持ってくることを、忘れないで下さいよ、何しろ主人は貧乏人ですからね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザード(15)は朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十四夜になると[#「けれども第七百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとカマールは承わり畏まって答えて、床屋のお上《かみ》さんの、香水屋の指図を、十分記憶に刻みつけるため、繰り返し心中で言ってみながら、床屋の家を出ました。そして自分の途上に、道しるべの石として、この親切な女を置いて下さったアッラーを、祝福したのでございました。
こうして彼は宝石商と金銀細工師の市場《スーク》に着くと、みんなはすぐに彼に、宝石細工師の長老《シヤイクー》、オスタ・オベイドの店を知らせてくれました。そこでその店にはいると、弟子たちのまん中にその細工師が見えたので、彼はこの上なく敬意をこめて、手をわが胸に、唇に、頭にやり、「御身の上に平安あれ」と言いながら、挨拶しました。オスタ・オベイドも彼に挨拶《サラーム》を返して、慇懃に迎え、坐るように言いました。そのときカマールは、財布のなかから、選り抜きの宝玉、といっても、持っているなかでいちばん美しくない種類のものですが、それをひとつ取り出して、親方に言いました、「おお親方よ、ひとつこの宝玉に、あなたの腕前にふさわしい台金《だいがね》をぜひ作っていただきたいと思うが、ごくあっさりした、ミスカール金貨一枚以上の重さ(16)のないものに、お願いしたい。」そして同時に金貨二十枚を渡しながら、言いました、「これは、おお親方よ、ほんの僅かにすぎないが、あなたにしていただく仕事のお礼に差しあげるつもりでいる分の、前金です。」そして大勢の弟子一人一人に、祝儀といった風に、同様に金貨一枚ずつくれ、また、豪奢な服装《なり》をした若い外国人がこの店にはいるのを見ると、さっそく往来に姿を見せた大勢の乞食にも、それぞれ、金貨一枚をくれてやりました。こういう工合に振舞ってから、その鷹揚と、美貌と、上品な挙措に驚嘆する一同をあとに残して、彼は引き上げました。
オスタ・オベイドのほうは、その指環を作るのをすこしでも遅らそうとは思わず、何しろたいした名人で、世界じゅうのどんな宝石細工師も持っていないような腕前を、自在に揮《ふる》えるのでしたから、早速始めて、その日の終りにももう、すっかり彫り上げて綺麗にして、作り上げてしまいました。そして、若いカマールは明日でなければ来ない筈なので、彼は夕方それを携えて、問題の若い女である自分の妻に見せようとしました。それほどその石は見事にでき、それでもって口を濡《しめ》したい気持を覚えるほど、清らかな光沢《つや》と思えたのでありました。
オスタ・オベイドの妻の若い女は、その指環を見ると、まことに美しいと思い、そして訊ねました、「どなたのですか。」細工師は答えました、「この見事な宝玉よりも、もっと目映ゆい、遥かに目映ゆい、異国の若者のものだ。実際、まあ聞くがよい。この指環の主人は、これまでのどんな仕事でも貰ったことのないくらいの前金を、既にわしに払ってくれたが、これは実に美男で優男だよ、たまらなくなるような眼、素馨《ジヤスミン》で埋めた花壇の上の、アネモネの花弁《はなびら》のような頬、スライマーンの玉璽のような口、光玉髄の血のなかにひたした唇、羚羊《かもしか》の首さながらの首、それがちょうど茎が花冠を載せているように、花車な頭を優美に載せているのだ。まあ、あらゆる讃め言葉も及ばないところを、かいつまんで言ってみれば、その男は美男だな、全くもって美男だし、美男だと同じくらい優男だ。そういうわけで、その男は申し分なく美しい点からばかりか、若い年頃からも顔立ちからも、お前にそっくりだよ。」
こうして宝石細工師は、自分の言葉がこの若い女の胸中に、突然の情熱を、その相手が目に見えないだけになおさら激しい情熱を、点火したということも知らずに、自分の妻に若いカマールの姿を描いて見せたのでした。そして彼は、肥料をやった土地に胡瓜が生えるみたいに、やがてそこには角《つの》が生えようとしている額《ひたい》のこの持主は、およそ自分の妻の前で、結果も考えずに、未知の男の長所や美貌を讃める夫の取り持ちほど、最悪のものはないし、成功疑いないものもないことを、忘れていたのでした。まことにこのようにして、至高のアッラーが、その被造物《つくられしもの》について定められた命令を進行させようとなさるときには、盲目の闇の中に彼らを手探りさせたもうのでございます。
さて宝石細工師の若妻は、これらの言葉を聞いて、それを心の奥深く留めましたが、自分をゆさぶる想いは、少しも洩らしませんでした。そして平気な口調で夫に言いました、「その指環を見せて下さいな。」オスタ・オベイドが指環を渡すと、彼女はさりげない様子で眺めて、あっさりとそれを自分の指に嵌《は》めました。それから言いました、「まるで私の指に誂らえたみたいだわ。ごらんなさい、ぴったり合うでしょう。」すると細工師は答えました、「天女《フーリー》の指万歳じゃ。アッラーにかけて、おおわが主人よ、この指環の持主は広い気持と親切心を授けられているから、明日早々、いくらでもいいからこれを売ってくれと頼んで、お前に持ってきてあげよう。」
こうしている間に、カマールは床屋のお上《かみ》さんに、その指図に従って自分のした遣り方を、報告に行ったのでした。そして、あの貧乏人の床屋に、金貨百枚を土産として、お上《かみ》さんに渡しました。そしてその保護者に、これからどうすればよいか訊ねました。するとお上《かみ》さんは言いました、「こうするのです。あの宝石細工師にお会いになったら、あなたに作った指環を受けとってはいけません。あなたの指には小さすぎるといった風《ふり》をして、その指環は彼に贈るのです。そして前のよりかずっと立派な、一個七百ディナールする口の別な宝玉を出して、これを念を入れて細工してくれとおっしゃい。同時に、親方には金貨六十ディナールをやって、職人たちめいめいには、心付けとして二ディナールずつおやりなさい。また戸口の乞食たちのことも忘れないように。そうやっておけば、事はあなたの満足するようになるでしょうよ。それに、おお息子よ、また私のところに様子を報告にやってきて、そのとき、家の主人の床屋にも、何か持ってくるのを忘れないで下さいよ、あの貧乏人にね。」するとカマールは答えました、「お言葉承わり、お言葉に従います。」
そこで床屋のお上《かみ》さんのところを出て、翌日、市場《スーク》に宝石細工師のオスタ・オベイドに会いに行くのを怠りませんでした。細工師はその姿を見かけるとすぐに、敬意を表して立ち上がり、挨拶《サラーム》と辞令の後に、指環を差し出しました。するとカマールは、それをためしてみるような風《ふり》をして、それから言いました、「アッラーにかけて、おおオベイド親方よ、この指環はたいへんよくできたが、しかし私の指にはちょっと小さすぎるようだ。さて、これはあなたに差し上げるから、あなたの婦人部屋《ハーレム》の大勢の女奴隷の、誰にでもいいからやって下さい。それで、ここに別な宝玉がある。私は前のよりかこのほうが好きで、あっさり細工をしてもらったら、ずっと美しくなることでしょう。」こう言って、金貨七百ディナールの宝石を渡し、それと同時に、親方には金貨六十ディナールをやり、弟子の一人一人には二ディナールずつやりながら、言いました、「ほんの少しだがシャーベットでも飲んでもらおう。だが、仕事が早く出来上がったら、そのお礼は、皆さんにも満足してもらえるようにしよう。」そして店の門口の前に集まった乞食たちに、右左に、金貨をばらまきながら、外に出ました。
宝石細工師はこの若いお客にこれほどの鷹揚を見ると、すっかり驚いてしまいました。そして夕方、家に帰ると、妻の前で、この気前のいい外国人をいくら讃めても讃めきれない有様で、言うのでした、「アッラーにかけて、あの男は、どんな美男子もかつて及ばないくらい美男なだけでは気がすまないで、その上、王様方の王子の開いた掌《たなごころ》を持っているわい。」そして彼が話せば話すほど、妻の心中に、若いカマールに対する恋慕の情を、ますます深く刻みつけるのでした。そして彼がお客から贈られた指環を渡すと、妻はゆっくりとそれを自分の指に嵌めて、そして聞きました、「それでその人は、二番目の指環を注文しませんでしたか。」彼は言いました、「いや、したとも。おれは一日じゅうそれに掛って、このとおり、もう出来上がったよ。」妻は言いました、「見せて下さいな。」そしてそれをとりあげ、微笑《ほほえ》みながら眺めて、やがて言いました、「私これも欲しいわ。」彼は言いました、「何ともわからないさ。あの方は、この姉妹《きようだい》の指環にしたように、これもずいぶんおれにくれかねないよ。」
この間にカマールは、起ったところとこれからすべきところについて、床屋のお上《かみ》さんと相談に行きました。そして彼は亭主の床屋の、あの貧乏人のために、金貨四百ディナールを渡しました。するとお上《かみ》さんは言いました、「わが息子よ、あなたの件はこの上なくうまく捗《はこ》んでいますよ。こんどあの細工師に会ったら、やはり注文した指環は受けとりなさるな。むしろ大きすぎるみたいな風《ふり》をして、贈物にしてくれてやるのです。次に別な宝石、一個九百ディナール近くする口のものを、ひとつ渡しなさい。そして細工が出来上がるまで、さしあたり、親方には百ディナール、弟子たち一人一人には、三ディナールおやりなさい。そしてわが息子よ、私に事の成り行きを報告に来るときには、家の主人の床屋、あの貧乏人にも、一片《ひときれ》のパンを買うだけのものを持ってくるのを、忘れないで下さいよ。アッラーはあなたを守って、あなたの貴いお命を延ばしたまいますように、おお寛大の息子よ。」
さてカマールは、香水屋の忠告に正確に従いました。すると宝石細工師はもう、美貌の外国人の鷹揚振りを妻に述べるのに、言葉も言い方も見当らない有様でした。すると妻は、新しい指環を拭きながら、言いました、「あなたは恥かしく思わないのですか、おお伯父の息子よ、あなたに対してこんなに気前のいい態度を見せた人を、未だに自分の家にお呼びしないなんて。といってあなたは、アッラーの御恵みのお蔭で、けちん坊でもなければ、けちん坊の子孫でもないけれど、とにかく、どうもあなたは、時々礼儀作法を違《たが》えなさることがあるようですよ。ですから、その外国の方に、明日、あなたのもてなしの塩を味わいに来て下さるようお願いするのは、絶対にあなたの義務というものです。」
こちらはカマール、彼は床屋のお上《かみ》さんに相談にゆき、あの貧乏人の床屋のために、一片《ひときれ》のパンを買うだけの分として、八百ディナールの礼金を渡した上で、それから三番目の指環をためしに、宝石細工師の店に行かずにいませんでした。そこで、それを指に嵌めてみた上で、外《はず》して、ちょっと軽蔑したような風でしばらく眺めてから、言いました、「まあこれは工合はいいが、しかしどうもこの石が全然気に入らん。それでは、これはあなたの女奴隷の一人のために取っておきなすって、この別な宝玉を、適当に細工をして下さい。ここに親方の分として、前金二百ディナール、お弟子たち一人一人に、四ディナールあります。どうもいろいろ御迷惑をおかけして相済まない。」こう言いながら、彼は金貨千ディナールする、白い見事な宝玉を渡しました。すると細工師は、恐縮の極に達して、彼に言いました、「おおわが御主人様、ひとつ拙宅に御光来下さって、今夜、御一緒に食事をするお情けを垂れてはいただけないでしょうか。それというのは、御恩恵わが上にあり、私の心はあなた様の物惜しみなさらぬ御手《おんて》に、惹きつけられてしまいましたから。」カマールは答えました、「わが頭上とわが眼の上に。」そして自分の投宿している隊商宿《カーン》の住所を教えました。
さて、夕方になると、宝石細工師は自分の招客を迎えに、くだんの隊商宿《カーン》に出向きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十五夜になると[#「けれども第七百八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼はお客をわが家に案内し、豪奢な接待と贅を尽した饗応で、これを持てなしました。そしてお料理と飲み物の盆を下げてから、一人の女奴隷がシャーベットを出しましたが、これは若い女主人の手ずから拵《こしら》えたものでした。しかし女主人は、出たくてならなかったのですけれど、食事には一切女が加わらない接待の習慣に背こうとはせず、婦人部屋《ハーレム》に止まっていました。そしてそこで、じっと自分の計《はかりごと》が効果を現わすのを、待っていなければならなかったのです。
ところで、カマールと主人とが、その結構なシャーベットを味わったと思うと、二人ともすぐに深い眠りに陥ってしまいました。それというのは、若い女はあらかじめ杯のなかに、眠り薬の粉を入れておいたのです。二人にそれを出した女奴隷は、二人が身動きもせずに延びてしまったのを見るとすぐに、引っ込みました。
すると若い女は、ただ肌着一枚きりで、そして婚礼の床入りの時のように全身装って、帳《とばり》を掲げて、饗応の広間にはいって来ました。誰であろうと、男殺しの色に満ちた眼をした、美しい姿のこの若い女を見たら、心は粉々になり、分別は飛び去るのを覚えたことでしょう。そこで女はカマールのところまで歩み寄り、それまでは、家にはいりしなに窓から垣間みただけだったので、改めてこれをつくづく眺めはじめました。そしてこれが全く自分の意に叶うのを見ました。そこでまずそのそばにぴったり坐って、その顔を手で静かに撫ではじめました。そして突然、この飢えた若い雌鶏は、青年の上に貪るように躍りかかって、その唇と頬を、血がふき出すほど激しく啄《ついば》みはじめました。この凄まじい啄みがしばらく続いて、次に取って代ったのは、怪しい運動でございましたが、それは、眠った若い雄鶏の上に跨った雌鶏の、こうしたすべての興奮の下に、いったいどういうことが起ったかは、ただアッラーのみ知りたもうような、運動でございました。
そして一夜全体がこの戯れのうちに経ちました。けれども朝の光が射すと、この熱烈な若い女は、思い切って立ち上がることにしました。そして自分の懐《ふところ》から、四個の仔羊の小骨を取り出して、それをカマールの衣嚢《かくし》に入れました。そうしておいて、立ち去って婦人部屋《ハーレム》に戻りました。それから、平生自分の言いつけを果たしている腹心の女奴隷を、彼のもとに遣りました。これはバスラの市場《スーク》を通る行列行進の際、抜身の剣を携えているあの奴隷です。さてその女奴隷は、若いカマールと年寄りの宝石細工師の眠りを払うために、二人の鼻孔に強い解眠剤を吹きこみました。その粉の利き目は、やがてすぐ現われました。それというのは、二人の眠っていた男は、嚏《くしやみ》をしてからすぐに目を覚ましたからです。すると若い女奴隷は、宝石細工師に言いました、「おお御主人様、女主人ハリマ(17)様は旦那様を起しに私をおよこしになって、『もう朝の礼拝のお時間で、告知僧《ムアズイン》が光塔《マナーラ》の上で信徒たちを呼び集めています。それから、ここに洗浄《みそぎ》用の盥《たらい》と水がございます』と申し上げよと、おっしゃいました。」すると老人は、まだ寝呆けて叫びました、「アッラーにかけて、何とこの部屋ではぐっすり寝込んでしまうのだろう。ここに寝るといつもわしは、日が高くなってからでないと目が覚めん。」カマールは何と答えていいかわかりません。けれども、洗浄《みそぎ》をしようとして起き上がってみると、見えないところはさて措き、唇と顔が、火のように焼けつくのを感じました。それでこの上なく驚いて、宝石細工師に言いました、「どうしたことかわからないが、どうも唇と顔が火のように焼けついて、燃える炭のようにひりひりします。これはいったいどうしたことでしょう。」老人は答えました、「おお、それは何でもありませんよ。ただ蚊が刺しただけです。それというのは、私たちは不注意にも、蚊帳を釣らずに寝てしまったからです。」カマールは言いました。「そうですね。だが、あなたのお顔には、少しも蚊に刺されたあとが見えないのは、どうしたことでしょう、あなたも私のそばにお休みになったのに。」老人は答えました、「アッラーにかけて、そのとおりですね。だが、おお美しい顔よ、蚊というやつは毛のない若々しい頬っぺたが好きで、鬚もじゃの顔は嫌うということを、お心得にならなければいけません。あなたの美しいお顔の下には、どんなにおいしい血が通っていて、私の両頬からは、どんな長さの鬚が垂れているかは、よくおわかりじゃろう。」こう言ってから、二人は洗浄《みそぎ》をし、礼拝を済まして、一緒に朝食を食べました。その後で、カマールは主人に暇《いとま》を告げて、外に出て、床屋のお上《かみ》さんに会いに行きました。
さて、行ってみると、お上《かみ》さんは彼を待っているところでした。そして笑いながら彼を迎えて、言いました、「さあ、おお息子よ、昨晩の濡事を話して聞かせなさい、お顔の上にたくさんの記号《しるし》で、ちゃんと書かれているのは見えますがね。」彼は言いました、「このしるしというのは、ただ蚊に刺されただけで、おおわが母よ、それだけのことですよ。」床屋のお上《かみ》さんは、この言葉にいっそうひどく笑って、言いました、「本当に、蚊に刺されたのですかね。せっかく惚れた女の家を訪ねて、外に首尾はなかったの。」彼は答えました、「なかった、アッラーにかけて。子供がおもちゃにする、この四つの小骨があっただけですよ。どうしてはいったのかわからないけど、これが私の衣嚢《かくし》のなかにあったのです。」お上《かみ》さんは言いました、「見せてごらんなさい。」そしてそれを取って、しばらく見つめて、やがてこう言いながら、続けました、「どうもあなたはおめでたいですね、わが息子よ、自分の顔の上に未だに、蚊に刺された跡ではなくて、惚れた女の熱烈な接吻の跡をつけているのを察しないとは。この小骨は、御本人があなたの衣嚢《かくし》に入れたものだが、これは、せっかくもっとよく一緒に時間を使えるものを、あなたは眠って時間を過してしまったという、女のひとのあなたに対する恨み言です。これでもって、あなたにこう言いたかったのですよ、『あなたは眠って時間を過す子供です。この小骨は、ほかの遊びを楽しむことを知らない、子供たちにちょうどよいものです。』これこそ、この小骨の意味ですよ、わが息子よ。まあ最初としては、ずいぶんはっきり言ってるほうです。それに、あなたは今夜すぐに試してみればいいことです。実際、宝石細工師はもう一度、あなたに夕御飯を食べに来るように勧めるにちがいないから、その招待を利用して、今度は自分も満足し、相手も満足させ、あなたを愛しているこのお母《つか》さんも悦ばせるように振舞うのを、忘れないように、しっかり頼みますよ、わが子よ。そして、おお目の瞳《ひとみ》よ、今度私のところに来る時には、あのひどい貧乏人の、家の主人の床屋の憐れな身分を、考えてやって下さいよ。」するとカマールは、「頭上と目の上に」と答えて、泊っている隊商宿《カーン》に帰りました。彼のほうは、このようでございます。
さて若いハリマはと申しますと、夫の年とった宝石細工師が婦人部屋《ハーレム》に会いに来ると、これに訊ねました、「お客様の、あの若い外国人に対して、あなたはどんな風に振舞いなさいましたか。」彼は答えました、「あらゆる慇懃と鄭重を尽したよ、おお何某(18)よ。けれどもあの方はよく眠れなかったにちがいない。蚊にひどく刺されなすったからね。」妻は言いました、「それは全くあなたの罪ですよ、あなたは蚊帳の中にお寝かししなかったのですもの。けれどもこの次の夜は、きっともっと楽にお過せになれましょう。というのは、あなたはもう一度、あの方をお招きなさるでしょうからね。あの方に対してそれぐらいなさったところで、とてもあの方があなたにして下さったすべての御親切のしるしに、報いきれは致しませんもの。」すると宝石細工師は、彼もやはり、あの青年に対して非常な親しみを感じていただけに、なおのこと、承わり畏まって答えるほかありませんでした。
ですから、カマールが店に来ると、宝石細工師は彼を招待せずには措かず、そして蚊帳があったけれども、その夜もすべては前夜と同様に過ぎました。それというのは、ひと晩じゅう、ひとたび催眠の飲み物が利き目を現わすと、若いハリマは日頃にまして熱烈で、寝入った若い雄鶏の上に跨って、前よりももっと猛烈に、身を揺すり、腰を動かすことをやめませんでした。それで朝になって若いカマールが、鼻孔に吹きこまれた粉のお蔭で、昏睡から覚めると、顔が焼けつくようで、身体が、情炎の女の吸ったり、噛んだり、その他それに似たことで、傷だらけなのを覚えました。けれども、寝工合はどうだったと訊ねる宝石細工師には、少しもそんな様子は見せずに、暇を告げてから、起ったところを床屋のお上《かみ》さんに報告に行くため、外に出ました。そして衣嚢《かくし》をしらべてみると、小刀がはいっているのを見つけました。彼はお上《かみ》さんに、亭主の床屋のあの貧乏人に、お礼の金貨五百ディナールを渡しながら、この保護者にその小刀を見せました。お婆さんは、彼の手に接吻してから、その小刀を見て叫びました、「アッラーはあなた方を不幸から守りたまえ、おおわが子よ。いよいよあなたの恋人は腹を立てて、この上まだあなたが眠っていたら、殺してしまうと威《おど》していますよ。それというのは、これこそ、衣嚢《かくし》にはいっていたこの小刀の意味ですからね。」するとカマールはたいそう困って、訊ねました、「だけど、眠りこんでしまわないためには、いったい私はどうすればいいのでしょう。昨夜だって、何が何でも眠るまいと固く決心していたのですが、やっぱり駄目だったのです。」お上《かみ》さんは答えました、「いいかね、そのためには、ただ宝石細工師だけに飲ませるようにしさえすればいいのですよ。そしてシャーベットの杯を干したような風《ふり》をして、中身を後ろに捨ててしまい、女奴隷の前で眠った真似をするのです。そうすれば、あなたの本望は遂げられるでしょう。」そこでカマールは承わり畏まって答え、この妙案にそっくり従わずにいませんでした。
さて、事はお婆さんの予想どおりになりました。それというのは、宝石細工師は妻の勧《すす》めに従って、客は三晩引き続いて招くという習慣どおり、カマールを三度目の夕食に呼んだからです。そしてシャーベットを持ってきた女奴隷は、二人の男が寝入ったのを見ると、退いて女主人に、利き目が現われたことを知らせました。
この知らせに、情炎のハリマは、若者が自分の警告をまるでさとらないのを見て激怒して、手に小刀を持ち、このうっかり者の胸許に突き刺してやろうと構えながら、饗応の広間にはいりました。ところがいきなりカマールは、笑いを含んで、すっくと立ち上がり、若い女の前で床《ゆか》まで身を屈めてお辞儀をすると、女は彼に訊ねました、「おや、誰があなたにこんな計略を授けてくれましたの。」するとカマールは、床屋のお上《かみ》さんの忠告によってしたことを、包まず言いました。すると女は微笑《ほほえ》んで、言いました、「したたかものですわ、あのお婆さんは。けれどもこれからは、あなたはただこの私だけを相手になさるがいいわ。決して後悔なさりはしないでしょう。」こう言いながら、女はまだ一切女に触れたことのない肌のこの若者を、自分のほうに引きよせて、実に達者な腕前でいじりまわしたので……
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[#地付き]けれども第七百八十六夜になると[#「けれども第七百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……実に達者な腕前でいじりまわしたので、たちまち彼はためらわず、すべての格に語尾変化をすることを覚え、受動補語を目的格に置き、直接補語をその能動的役割に据えることを覚えました。そしてこの脚と腿の戦いにおいて、彼はまことに天晴れに、往きと復《かえ》りの衝き加減よろしきを得て振舞いましたので、その夜はわけても、雄鶏の夜となったのでございました。鳥の最初飛び立つに当って翼を与え、仔山羊を生れ落ちると共に踊らせ、仔獅子の首を太らせ、岩を離れると水流を奔騰させ、信徒の心中に、明け方の鶏鳴のようにやむにやまれぬ美しい本能を置きたもう、アッラーに称讃《たたえ》あれかし。
達者なハリマは、卵から孵《かえ》ったばかりのこの勇敢な闘士によって、身を焼く情火を鎮めますと、彼女はくさぐさの愛撫の間に、彼に言いました、「ねえ、おおわが心の果実よ、私はもうあなたなしではすまされませんわ。ですから、一晩《ひとばん》や二晩《ふたばん》、一週間や二週間、一カ月や二カ月、一年や二年で、私に事足ると思ってはいけません。私はあんな醜い年寄りの夫なんか棄てて、あなたのお国にお伴して、一生涯あなたと御一緒に過したいのです。そこで聞いて下さいませ。そしてもしあなたが私を愛していて、今夜の経験がお気に召したら、これから申し上げることを実行して下さいな。こういうことなの。もし私の年寄った夫がもう一度あなたをお招きしたら、こう答えて下さい、『アッラーにかけて、おおわが小父よ、イブン・アーダム(19)というものは元来たいそう鈍《にぶ》いもので、たいそう血のめぐりが悪いものです。それで人様のところにたびたび訪問を繰り返すと、相手が金持でも貧乏でも、人様に嫌われるものです。ですから、せっかくの御親切なお申し出ですが、お断わりするのをお許し下さい。それというのは、こうしてあなたを引きつづき三晩も四晩も、婦人部屋《ハーレム》の外にお引きとめして、とんだ失礼を犯しはしないかと案じられますから。』そして主人にそのようにお話しになってから、あなたのため、私どもの近所に家を一軒借りてくれるよう、主人にお頼みなさいまし。そうすれば、あなた方は双方気軽に会えるし、どちらにも厄介をかけずに、交る代る夜の一部を一緒に過せるからという口実でね。そうすると夫は、それについて私に相談にやってくるのはわかっていますから、私は夫にその計画をぜひ勧めます。そこまで漕ぎつければ、あとはアッラーが引き受けて下さるでしょう。」すると若いカマールは答えました、「お言葉承わることは、お言葉に従うことです。」そして自分はどんなお望みにも従うと誓って、その誓いを固めるために、彼は女を相手に、前よりももっと詳細に、補語に関する復習を致しました。たしかにこの夜は、巡礼の杖は、既に騎手の最初の行進によって平らにされた道の上で、熱心に活躍したのでございました。
それが済むと、カマールは恋人の勧めに従って、何事もなかったかのように、宝石細工師のそばに横になりに行きました。そして朝になって、細工師は解眠の粉で目が覚めると、カマールはいつものように、暇《いとま》を告げようとしました。けれども細工師は無理に引きとめ、今日もまた夕食を共にするようにと誘いました。カマールは恋人の注意を忘れず、細工師の招きを受けようとしませんでした。そして昨夜打ち合せた計画を知らせて、これこそ今後お互いに邪魔をしない唯一の道だと言いました。すると、年とった宝石細工人は答えました、「異存はありません。」そして時を移さず立ち上がって、自分の家と隣り合せの家を借りにゆき、それに立派な家具を入れて、若い友人をそこに住まわせました。一方、達者なハリマは、極秘の裡に、仕切りの壁に穴をあけさせて、その両側に箪笥を置いて隠す配慮をしました。
そこで翌日、カマールは、まるで見えざる国から出て来たみたいに、恋人が自分の部屋にはいってくるのを見た時には、非常に驚きました。けれども恋人は、彼に愛撫の限りを尽したあとで、箪笥の秘密を打ち明け、そして即座に、雄鶏の務めを果すようにと、合図をしました。カマールは悦んで早速それに従い、巡礼の杖を続けさまに七度振いました。それが済むと、若いハリマは、満された情火にぐったりしながら、懐からひと振りのすばらしい短刀を取り出しました。それは夫の宝石細工師のもので、彼が自身非常に念を入れて細工をし、その|※[#「木+霸」、unicode6b1b]《つか》には見事な宝石を鏤めたものです。女はそれをカマールに渡しながら、言いました、「この短刀を帯に差して、家の主人のオスタ・オベイドの店にいらっしゃい。そしてこの短刀を見せて、自分に似合うと思うかと訊ね、どのくらいの値段だろうとお聞きなさい。すると主人は、どこから手に入れたのかと訊ねるでしょうから、そうしたらこうおっしゃい。武器商人の市場《スーク》を通りかかったところが、ふと二人の男が一緒に話しているのを聞くと、一人が今一人にこう言っていた、『まあおれの情婦《いろおんな》からもらった贈物を見てくれよ。女は自分の年とった亭主の物を、いろいろおれにくれるんだ。年とった亭主のなかでもいちばん見っともなく、いちばん嫌らしいやつだがね。』そして付け加えて、そう話していた男が、こちらに近づいてきたから、それでこの短刀を買ったのだと。それからすぐに店を出て、大急ぎで家にお帰りになれば、私がこの箪笥のなかにいて、短刀を返していただきますからね。」そこでカマールはその短刀を受けとって、宝石細工師の店に行き、恋人に言われたとおりの役を演じました。
宝石細工師はその短刀を見て、カマールの言葉を聞くと、すっかり取り乱して、まるで気が変になった男みたいに、途切れ途切れの言葉で答えるばかりでした。カマールは宝石細工師の有様を見た上で、店から出、走って短刀を恋人に返しに行くと、女はもう箪笥のなかで待っていました。そこで夫の宝石細工師の陥った惨澹たる有様と逆上振りを、話して聞かせました。
さて気の毒なオスタ・オベイドのほうは、嫉妬の苦しみに悩まされ、猛り狂う蛇のようにひゅうひゅう言いながら、家に駈けつけました。そして頭から両眼を飛び出させて、「おれの短刀はどこにあるか」と叫びながら、はいってきました。するとハリマは、およそ無邪気な様子で、びっくりした眼を見張って答えました、「箱のなかのいつもの場所にありますわ。だけど、アッラーにかけて、おお伯父の息子よ、あなたはどうも気が変になったようにお見受けするから、短刀をお渡しするのはやめにしますわ、誰かに切りつけたりなさるといけませんもの。」すると宝石細工師は、誰にも切りつけたりしないと誓って、強《た》ってと申します。そこで妻は箱を開けて、短刀を出してやりました。すると叫びました、「おおこれは不思議。」妻は訊ねました、「いったい何が変なのですか。」夫は言いました、「たった今、この短刀を、あの若い友人の帯に、見たような気がするのだがねえ。」妻は言いました。「わが命《いのち》にかけて、あなたは自分の妻に、何かあらぬ疑いをかけたのじゃありませんか、おお、男のなかでいちばん見下げはてた男よ。」すると宝石細工師は許しを乞うて、妻の怒りをなだめるのに、一所懸命でした。
さて翌日ハリマは、恋人と七回に分けて将棋を指してから、年とった宝石細工師に、何とか自分と離縁させるような方法について工夫し、カマールに言いました、「御覧のとおり、最初の方法はうまく行きませんでしたわ。それで今度は、私が奴隷の服装《なり》をしますから、私を主人の店に連れて行って下さい。そして、私を今|市場《スーク》で買ってきたからと言いながら、私の面衣《ヴエール》を掲《あ》げて下さい。そうすればあの人の眼が開くかどうか、わかりましょう。」そして立ち上がって、実際に奴隷の服装《なり》をして、恋人について夫の店に行きました。そしてカマールは年とった宝石細工師に言いました、「これは今、金貨一千ディナールで買ってきた女奴隷です。あなたのお気に召すかどうか、ひとつ御覧下さい。」こう言いながら、その面衣《ヴエール》を持ち上げました。すると宝石細工師は、自分自身が細工をした美々しい宝石を飾り、カマールが自分に贈ってくれた指環を指に嵌めて、そこに自分の妻がいるのを見て、危うく気を失いそうになりました。そして叫びました、「この奴隷は何という名前ですか。」カマールは答えました、「ハリマです。」この言葉に、宝石細工師は、喉がからからになるのを覚えて、後ろに引っくりかえってしまいました。その間にカマールと若い女は、その気絶を機《しお》に引き上げました。
オスタ・オベイドは気絶から覚めると、すぐ精いっぱい走って、わが家に駈けつけましたが、見ると自分の妻が、今見たのと同じ装いでいるので、こんどは驚きと怖れで死にそうになりまして、叫びました、「全智のアッラーのほかには力も庇護もない。」すると妻は言いました、「おや、おお伯父の息子よ、いったい何をそんなに驚いていらっしゃるの。」夫は言いました、「アッラーは悪魔を拉《ひし》ぎたまわんことを。おれは今、あの若い友人が買った女奴隷を見てきたが、それがまるで、もう一人のお前みたいなのだ。それほどそっくりだよ。」するとハリマは、怒りに息が詰ったみたいに、叫びました、「何ですって、おお白鬚の災厄《わざわい》の男よ、あなたはそんな恥かしい疑いをかけて、私を辱かしめようとするのですか。それじゃ御自分の眼で確かめに行って、お隣に駈けつけ、その奴隷がいないかどうか見ていらっしゃい。」夫は言いました、「それはもっともだ。こんな証拠がある以上、どんな疑いだってはれないことはない。」そして階段を下りて、友人のカマールのところに行こうと、自分の家を出ました。
ところがハリマは、箪笥を抜けて、夫がはいってきた時には、もうそこにいました。そこで不幸な男は、こんなにひどく似ているのに呆然として、ただ呟くばかりでした、「アッラーは偉大じゃ。途方もないものを創り出したもうし、何でもお好きなものを創りなさることだわい。」そして混乱と困惑の極で、自宅に戻りまして、さっき残したままに妻がいるのを見て、讃め言葉の限りを尽して、許しを乞うばかりでした。それから自分の店に帰りました。
ハリマのほうは、箪笥を抜けて、再びカマールのところに来て、これに言うのでした、「御覧のように、あの恥かしい鬚の親爺ときては、眼を開いてやる法がありません。もう私たちは、ぐずぐずしないでここを立ち退くよりほかに、仕方がありません。もう私の準備はできていますし、荷を積んだ駱駝も、馬と一緒に、用意してあります。隊商《キヤラヴアン》は出発するのに私たちを待っているばかりです。」そして立ち上がり、面衣《ヴエール》で身を包んで、彼を促し、隊商《キヤラヴアン》のいる場所に連れて行く決心をさせました。そして二人は待っている馬に乗って、出発しました。アッラーは彼らに安泰を記《しる》したまい、何の煩わしい事故もなく、両人はエジプトに着きました。
二人がカマールの父親の家に着き、尊ぶべき商人が息子の帰宅を知ると、悦びが家中すべての心を広々とさせ、カマールは幸福の涙のただ中に迎えられました。そしてハリマが家のなかにはいると、すべての眼はその美しさに眩《くら》まされました。カマールの父親は息子に訊ねました。「おおわが息子よ、これは王女様か。」彼は答えました、「いえ、王女様ではございませんが、その美しさが私の旅の原因となった女です。というのは、あの修道僧《ダルウイーシユ》が私たちに話したのは、まさにこの女《ひと》のことです。それで今私は、この女《ひと》を、行録《スンナ》と法《のり》に従って、妻にするつもりでおります。」そして彼はこれまでの由来を、始めから終りまで、全部父に話しました。しかしそれを繰り返すまでもございません。
息子のこの恋愛事件を聞くと、尊ぶべき商人アブド・エル・ラーマーンは叫びました、「おおわが息子よ、もしお前が飽くまでこの地獄から出てきた女を、妻にしたいというのならば、この世でもあの世でも、お前の上にわが呪いあれかし。ああ、わが子よ、その女は他日お前に対しても、最初の夫に対してしたと同様に、破廉恥な振舞いに出でかねないのを恐れよ。むしろ私にまかせて、この地で、良家の若い娘のなかから、お前の妻を探させてくれよ。」そして父親は長々と説諭をし、理非を尽して話したので、カマールも答えました、「お望みのように致しましょう、おお、お父様。」すると尊ぶべき商人は、この言葉に、息子を接吻して、さっそく命じて、とかくの決定をするまでさしあたり、ハリマを奥まった離れに閉じこめておくことにしました。
そのあとで、商人は自分の息子に似合った妻を、町中に探しにかかりました。そして、カマールの母親が名士と豪商の夫人たちの間を散々奔走したあげく、法官《カーデイ》の娘とカマールとの婚約の式が挙げられました。これはたしかに、カイロきっての美しい娘でした。この機会に、まる四十日の間、祝宴も、照明も、踊りも、遊びも、少しも惜しみませんでした。そして最終日は、特に貧しい人々のために宛てられた祝宴でして、たっぷりと彼らのために供される皿のまわりに、みんな洩れなく席を占めるようにと、念を入れて誘われました。
ところでカマールは、この祝宴の間、自身給仕人の監督に当っておりましたが、ふと貧しい人々の間に、一番の貧乏人よりももっと粗末な服装《なり》をして、日に焼け、顔の上には、長い疲労と激しい悲しみの跡のある、一人の男を認めました。そして呼ぼうとしてその男に目をとどめますと、それはあの宝石細工師のオスタ・オベイドだと、わかりました。そこで彼は走って、その発見を父親に知らせに行くと、父親は言いました、「今こそ、わしが閉じこめておいたあの淫奔女《うかれめ》に唆《そその》かされて、お前の犯した悪事を、われわれの力の及ぶ限り、償う時じゃ。」そこでカマールは、まさに遠ざかろうとしている、その年とった宝石細工師のほうに進み寄って、その名を呼びながら、優しく抱擁して、こんな赤貧の有様に立ち到らされたわけを、問いただしました。するとオスタ・オベイドは、自分の事件が世間に洩れないように、そして敵たちに馬鹿にされる種を供しないようにと、バスラを出発したところが、沙漠で、アラビア人(20)の追剥の手中に陥って、持ち物全部剥がれてしまったと語りました。すると尊ぶべきアブド・エル・ラーマーンは、いそいで彼を浴場《ハンマーム》に案内させ、浴後、立派な着物を着せて、それから彼に言いました、「あなたは私の客人であって、私はあなたに真実を申し上げねばなりません。実は、あなたの奥さんのハリマはここにいて、私の命令で、奥まった離れに閉じこめてあります。私はバスラまで、護衛をつけてあなたの許に送り返そうと思っておりましたが、アッラーがあなたをここまでお導き下さったからには、あの女の運命は、あらかじめ記《しる》されていたわけです。されば私はこれから、あなたをあの女のところに御案内申しますから、これをお許しになるなり、当然受けて然るべきように処分するなり、何とでもなさるがよい。それというのは、私はあの心苦しい事件をすべて承知していることを、お隠し申すわけに参りませぬ。あの件にあっては、ただあなたの奥さんだけに罪があります。なぜならば、女に誘惑される男には、何ら自ら咎めるがものはない、男はアッラーが己れの裡に置きたもうた本能に、逆らい得ないのでありますからな。しかし女は決してこれと同じ工合に出来てはいないので、女が男たちの近よるのや襲ってくるのを斥けないとすれば、それは常に罪があるのです。ああ、わが兄弟よ、一人の女を持っている男には、非常な知恵と忍耐の貯えが必要ですなあ。」すると宝石細工師は言いました、「ごもっともです、おお兄弟よ。いかにもこの件において罪があるのは、わしの家内だけです。だが、あれはどこにおりますか。」するとカマールの父親は言いました、「あなたの前に見えるあの離れにいます。ここにその鍵があります。」すると宝石細工師は、たいそう悦んで鍵をとり、その離れに行って、戸を開け、妻のところにはいりました。そしてひと言も言わずに、妻のほうに歩み寄り、いきなり両手で、その首を締めあげて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十七夜になると[#「けれども第七百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……「きさまみたいな淫奔女《うかれめ》どもはこんな風にくたばるのだ」と叫びながら、締め殺してしまいました。
さて商人アブド・エル・ラーマーンは、宝石細工師に対する、わが子カマールのあやまちを残りなく償うためには、カマールの婚礼の当日、オスタ・オベイドに、わが娘「暁星《あけぼし》」と結婚させるのが、至高のアッラーの御前で、公正でもあり功徳にもなると、思ったのでございました。さあれアッラーは更に偉大にして、更に寛大にましまする。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、この物語をこのように話して、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は叫んだ、「願わくはアッラーは、おおシャハラザードよ、あらゆる淫奔なる女どもはこの宝石細工師の妻の運命を受けるよう、なしたまえかし。何となれば、そちの余に聞かせた物語のうちで、多くの物語は、まさにこのように終るべきであったのだ。事実、しばしば、或る女どもは余の考えと余の嗜好とに反する終りを持ったのを見ては、余はわが魂の中で腹立しく覚えた次第じゃ、シャハラザードよ。それというのは、余としては、かくも邪悪にして破廉恥なる妻を、――アッラーは決してこれに御憐れみを垂れたまわざれかし、――その不忠の女奴隷全部ともろともに、どのように処分したかは、そちもよく知るところだ。」けれどもシャハラザードは、王が永い間このような思いに立ちどまることを望まず、これについては答えるのを控えて、いそいで次のように、羊の脚の物語[#「羊の脚の物語」はゴシック体]を始めたのであった。
[#改ページ]
羊の脚の物語
語り伝えまするところでは、――さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする、――昔カイロに、この国の王たちの間の一人の王の御代に、非常な計略と腕前とを授けられている女がおりまして、水をひと口飲むのも、いちばん小さい種類の針の孔《めど》をくぐるのも、この女にとっては、同じように造作のないことでございました。ところで、アッラーは、――御自らの欲したもうところに、長所と短所を配りたまいまするが、――この女にたいそう旺盛な体質を置きたまいまして、もしも一人の信徒の四人の妻の一人になって、夜々をそれぞれに一夜ずつ、公平に四分しなければならないようなことになったとしたら、この女は欲望がたまって、死んでしまったことでしょう。ですから、女は巧みに事を運んで、一人の男のただ一人の妻になるばかりか、同時に二人の男、それも二人とも、次々に二十羽の牝鶏を満足させてやることのできるような、上エジプトの雄鶏の人種の男と、結婚するように漕ぎつけました。そして抜け目なく立ちまわって、ちゃんと策を講じていたので、その二人のどちらも、真の信徒たちの掟と習慣にこんなに悖《もと》る掛持ちを、少しも気付かずにいました。それに、この遣り繰りは、その二人の亭主のやっている仕事そのものにも、助けられていました。というのは、一人は夜の泥棒で、もう一人は昼の掏摸《すり》でしたから。そのため、一方が自分の仕事を終えて、夕方、家に帰って来る時には、もう一方は、何か目星い稼ぎを求めて、家を出ているということになりました。二人の名前はと申しますと、泥棒はハラム、掏摸はアキルといいました。
そして日々と月々が過ぎまして、泥棒ハラムと掏摸アキルとは、家にあっては雄鶏商売を、外にあっては狐商売を、申し分なく果たしておりました。
ところが、日々のうちの或る日のこと、泥棒ハラムは、親父《おやじ》の後継ぎが、常にもまして申し分なく、伯父の娘を満足させたあとで、女房に言うに、「えらく大切な仕事のため、おい女房よ、おれはしばらく家を空けなけりゃならねえ。できるだけ早くお前のそばに帰ってこられるように、アッラーが上首尾を書いて下さるといいがなあ。」すると女房は答えました、「お前さんの上とお前さんのまわりに、アッラーの御名《みな》あれかし、おお人間たちの頭《かしら》よ、だが剛の者の留守中、かわいそうな女はいったいどうなるのさ。」そしてひどく嘆いて、恨み言を散々言い、愛情の最も熱烈なしるしを示した上でなければ、出発させませんでした。そして泥棒ハラムは、若い女が途中のため用意してくれた食糧袋を持って、悦に入り、満足で舌打ちしながら、自分の道を立ち去りました。
さて、この男が出て行ってまだひと時もたたないうち、掏摸のアキルが帰ってきました。運命のめぐり合せで、彼は町を去らなければならないわけができて、ちょうど女房に自分の出発を告げに来たのでした。若い女はこの二番目の亭主に、不在のため感ずるあらゆる辛さを述べずにはおかず、ひと通りでない熱情の様々の数々の証拠のあとで、旅のための食糧袋を詰めてやり、頭上にアッラー――その称《たた》えられよかし――の祝福を祈りながら、別れを告げました。そして掏摸アキルは、こんなに好き者で注意の行き届く女房を持ったことにほくほくして、満足で舌打ちしながら、家を出ました。
人間めいめいの天命というものは、普通どこかの道の曲り角で人を待っているものでございますから、この二人の亭主は、自分たちのいちばん思いもかけないところで、自分の天命を見出すことになりました。果たしてその日の終りに、掏摸アキルは、途上の一軒の隊商宿《カーン》に、そこで夜を過すつもりではいりました。そして隊商宿《カーン》にはいると、たった一人きりしか旅人がいないので、お互いに挨拶《サラーム》と辞令ののち、やがて話を交しました。ところがそれこそまさに、泥棒ハラムで、彼も自分の知らない相棒と同じ道を来たのでした。そして最初の男は二番目の男に言いました、「おお仲間よ、お前さんは大分お疲れのようだが。」すると相手は答えました、「アッラーにかけて、私は今日はカイロから一気に突っ走ったんでさ。だけどお前さんは、仲間よ、いったいどこから来なすった。」彼は答えました、「やっぱりカイロでさ。全く、旅を続けるのに、私の道の上にこんな気持の好い道連れを置いて下すったアッラーは、讃められよだ。預言者――その上に祈りと平安あれ――もおっしゃった、『道連れこそは何よりの旅の糧食《かて》』とね。だがまあさしずめ、お付き合いを固めるために、同じパンを一緒に裂き、同じ塩を嘗《な》めようじゃありませんか。ここにある私の食糧袋には、おお仲間よ、取り立ての棗椰子《なつめやし》と韮《にら》入りの焼肉があるから、進上しよう。」相手は答えました、「アッラーはお前さんの財産を殖やして下さるように、おお仲間よ。悦んで御馳走になりましょう。だが私の分も出させて下さいよ。」そして最初の男が袋から食糧を取り出している間に、彼も一緒に坐っている茣蓙の上に、自分の分を拡げました。
いよいよ二人とも茣蓙の上に出すべきものを載せ終ると、二人は自分たちが全く同じ食糧を持っているのに気がつきました。胡麻入りのパン菓子と、棗椰子《なつめやし》と、羊の脚の半分です。そしてやがて、その羊の脚の両方の半分がぴったりと隙間なく合うのを確かめた時には、二人は驚きのぎりぎりの極に驚きました。そして一緒に叫びました、「アラーフ・アクバル(1)、この羊の脚は、死んでも、焼かれても、味をつけられても、両方の半分がやがて出会うように、記《しる》されていたのだな。」次に掏摸は泥棒に訊ねました、「お前さんの上のアッラーにかけて、おお仲間よ、この羊の脚の肉片《にくぎれ》はどこから持ってきなすったのか、伺えますかね。」すると泥棒は答えました、「伯父の娘が出発の前に持たせてくれたのですがね。だがお前さんの上のアッラーにかけて、おお仲間よ、今度は私からも、この脚の半分はどこで手に入れなすったのか、伺えますかい。」すると掏摸は言いました、「やっぱり伯父の娘が、袋に入れてくれたんだがね。だが、お前さんの結構なお住居は、どこの区にあるのか聞かせてもらえますか。」相手は言いました、「勝利の門のそばでさ。」今一人は叫びました、「私もそこだが。」そしてやがて、問いを重ねてゆくと、この二人の盗賊は、そもそも結婚の日から、そうとは知らず、同じ寝床と同じ燃え木を共にしている相棒だという、確信を得るに到りました。そこで二人は叫びました、「悪魔退散。こいつはおれたちは、あの、呪われた女に騙《だま》されていたぞ。」次に、この発見で最初は危うく何か腕力沙汰に及びそうになったけれども、二人とも気の利く利口な男だったので、結局、最上の策はやはりこれから引っ返して、自分自身の眼と自分自身の耳で、このあばずれと、はっきりさせるべきことをはっきりさせるに如《し》かぬと、考えました。これについてそう意見が一致して、二人は一緒にまたカイロへの道を取って、やがて共同の住居に着きました。
戸を開けて、自分の二人の亭主が一緒なのを認めると、若い女はこれは自分の奸策がばれたということを、疑い得ませんでしたが、元来利口で気が利いた女だったので、今度はもう、何か逃げ口上を探して、これ以上真相を隠そうとしたところで駄目だと考えました。そして考えました、「いちばん頑固な男の心だって、惚れた女の涙にはかなわない。」それでいきなり、わっと泣き出し、髪をほどいて、女は慈悲を乞いながら、二人の亭主の足許に身を投げ出したものです。
ところで、二人ともこの女に惚れていて、彼らの心は女の魅力に結びつけられていました。ですから、明らかな不実にもかかわらず、二人は共に、自分の女に対する愛着は、少しも衰えていないのを感じました。そこで女を起き上がらせて、赦してやりましたけれども、それは、眼を剥き出して、散々意見をした上のことでした。次に、女がすっかり悔悛した様子で、じっと黙っていると、二人は女に向って、これで済んだわけではない、こんな信徒の風俗習慣に悖《もと》った状態は、ぜひさっそくやめなければいかんと言うのでした。そして二人は付け加えました、「お前はぜひとも、即刻、おれたちの二人のなかで、亭主にしておきたいほうの者を選ぶ、決心をつけなけりゃいけねえぞ。」
この二人の亭主の言葉に、若い女は頭を垂れて、深く考えこみました。そして二人がいくらさっそく決心しろと急き立てても駄目で、好きなほうを女に名指させることは、どうしてもできません。それというのは、女には二人とも、元気も力も手応えも、全く同じだと思えるからです。けれども、女が黙っているのに業《ごう》をにやして、二人は威し声で、どうでも選ばなければいかんと怒鳴るので、女はとうとう頭をあげて、言いました、「至高全能のアッラーのほかには頼みも慈悲もございません。おお男たち、お前さん方は、ぜひ私に二人のうちから選んで、二人とも同じように愛している私には、つきかねる決心をしろと言いなさるのであってみれば、また、つくづく考え、後々のこともよく考えてみても、何も私には一方を棄てて一方を採るという動機《いわれ》はないのだから、いっそ私はこういう風にしたらと思います。お前さん方は二人とも自分の腕で生きていて、その点じゃお前さん方の良心は安らかで、人間たちの行ないをば、御自分が人々の心の中に置きなすった能力に従って、お裁きなさるアッラーは、きっとお前さん方を、その御好意の懐《ふところ》から斥けなさりはしないでしょう。アキル、お前さんは日中掏摸をし、ハラム、お前さんは夜中に泥棒をしてなさる。それで私はアッラーの前とお前さん方の前で、はっきり申します、私はお前さん方のうち、いちばん見事な腕前を見せ、いちばん天晴れな手柄を立てたほうを、亭主にしましょう。」すると二人とも、その申し出に直ちに賛成して、承わり畏まって答え、すぐ腕競べの用意をしました。
さて、最初にやるのは掏摸アキルで、相棒のハラムと一緒に、両替屋の市場《スーク》に出かけました。そこで、彼は合棒に、店から店へとゆっくりと歩き廻っている、一人の年とったユダヤ人を指さして、言いました、「おいハラム、あの犬の倅が見えるだろう。ところでおれは、あいつが両替の店廻りの終らねえうちに、きっとあいつの金貨の詰った両替屋の袋を、ちゃんとおれに渡させて見せる。」こう言っておいて、彼は羽のように身軽に、店廻りをしているユダヤ人に近づいて、その持っているディナール金貨の詰った袋を、すりとってしまいました。そして相棒のほうに戻ってきましたが、こちらは初め、ひどく怖気づいて、一緒に共犯として捕えられてはたまらないから、逃げようと思いましたが、次には、こんなに巧みな仕業に感心して、彼の今見せた腕前をほめはじめて、言いました、「アッラーにかけて、こいつはおれなんぞには、とてもこんな華々しい手柄を立てることはできねえに相違ないよ。ユダヤ人のものを盗むなんて、およそ信徒の力にゃ及ばんことだと、おれは思ってた。」しかし掏摸は笑い出して、言いました、「情けねえ野郎だな、こいつはほんの序の口だぜ。何もこれだけで、このユダヤ人の袋をせしめるつもりじゃねえからね。このままじゃ、そのうちいつかその筋の手が廻って、くすねた金を吐き出させられないものでもない。ところがおれは、ちゃんと法官《カーデイ》自身が裁きをつけて、この金のうなってるユダヤ人の財産を、おれのものときめるようにやって、中身ごとそっくり、この袋のれっきとした持主になろうって気なんだ。」こう言って、彼は市場《スーク》の奥まった片隅に行って、その袋をあけ、中にはいっている金貨を数え、そのうち十ディナールを抜きとって、代りに自分の銅の指環を入れました。それが済むと、念を入れて袋を閉じ、盗まれたユダヤ人に追いすがって、何事もなかったみたいに、その外衣《カフターン》のポケットに、巧みに袋を滑りこませました。巧妙ということは、アッラーの賜物でございます、おお信徒の方々よ。
ところで、このユダヤ人が数歩歩いたと思うと、掏摸は再び彼のほうに飛んでゆきましたが、今度はおおっぴらに飛び出して、喚き立てました、「この不届きなハールーン(2)の子め、今に罰を受けるぞ。おれの袋を返せ、それとも一緒に法官《カーデイ》のところに行くか。」するとユダヤ人は、父親からも母親からも聞いたこともなし、生れてから見たこともない男に、因縁をつけられるのを見て、驚きの極に達し、最初は争《いさか》いを避けるため、どぎまぎして言いわけをして、イブラーヒームとイスハークとヤアクーブ(3)にかけて、言いがかりをつけるのは人違いだ、自分としては、他人《ひと》の袋を奪《と》るなんて、およそ思ったことはないと誓いました。けれどもアキルは、そんな抗議などてんで聞こうともせず、市場《スーク》じゅうの人を呼び集めて、最後には「おれとお前で法官《カーデイ》のところに行こう」と怒鳴りながら、その外衣《カフターン》を掴まえました。相手が逆らうと、その鬚を捉えて、大勢のがやがや罵るただ中を、法官《カーデイ》の前まで曳きずってゆきました。
すると法官《カーデイ》は訊ねました、「いったいどういう事件か。」アキルはすぐに答えました、「おお、われわれの御主人|法官《カーデイ》様、今ここに正義を分配なさる御手の間に引っ張ってきた、ユダヤ人の部族のなかのこのユダヤ人こそは、この御決定の広間にかつてはいってきた、一番の図々しい泥棒にちがいありません。何しろ、こやつは私の金貨の詰った袋を盗んだ上で、一点やましいところのない回教徒《ムスリム》のように落ち着き払って、のめのめと市場《スーク》のなかを歩き廻っていやがるのでございます。」すると半ば鬚を|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》りとられたユダヤ人は、呻きました、「おお、われわれの御主人|法官《カーデイ》様、私には異議がございます。この男は、市場《スーク》の人々を呼び集めて、私の信用を永久にめちゃめちゃにし、一点やましいところのない両替屋としての私の評判を、ぶち壊したあげく、乱暴狼藉を働いて、私をこのような情けない有様に陥れましたが、私はかつてこの男を見たことも、知ったこともないのでございます。」けれどもアキルは叫びました、「この呪われたイスラエルの子め、きさまの種族の犬が信徒の言葉に勝るなんてことは、いったいいつからあるんだい。おお、われらの御主人|法官《カーデイ》様、このいんちき野郎は、まるであのインドの商人そっくりに厚かましく、てめえの泥棒の白《しら》をきりやがるのです、殿様がもしこの商人の話を御存じないなら、お話し申し上げますがね。」すると法官《カーデイ》は答えました、「インドの商人の話というのは聞いたことがない。いったいどんなことが起ったのか。手短かに話すがよい。」するとアキルは言いました、「わが頭上と目の上に。おお、われわれの御主人様、手短かに申し上げますと、そのインドの商人というのは、市場《スーク》の人々に首尾よくすっかり信用される身となり、或る日のこと大枚の金をあずけられましたが、相手は受取りを出せとも申しませんでした。やつはこの事情を利用して、その持主が金を取りに来たとき、預りなんぞしないとぬかしやがった。何しろ証人も証文もないのだから、やっこさん、まんまと他人様《ひとさま》の財産を平気で使いこめるところだったが、どっこい、町の法官《カーデイ》様がちゃんと上手に、やつに本当のことを白状させなすった。それで白状させてしまうと、法官《カーデイ》様はやつの足の裏に鞭を二百加えさせて、町から追放してしまったというわけです。」次にアキルは続けました、「さて今は私は、おお、われわれの御主人|法官《カーデイ》様、慧眼と明敏満ちたお殿様も、たやすくこのユダヤ人の二枚舌を証明する手段をお見つけに相成ることと、アッラーに期待申しまする。そしてまず、こやつの盗みを証明するため、この泥棒の身体検査をする御命令を下しなすっていただきたく願い出ることを、殿様の奴隷にお許し下さいませ。」
法官《カーデイ》はこのアキルの弁舌を聞くと、警吏にユダヤ人の身体検査を命じました。すると永くかかるまでもなく、くだんの袋を持っているのを見つけました。被告は呻きながら、その袋は自分の正当な所有物だと主張しました。一方アキルは、これこそたしかに自分の盗まれた袋にちがいないと、数々の誓いと、異教徒に対する罵詈讒謗《ばりざんぼう》をもって、断言しました。すると法官《カーデイ》は、思慮ある裁判官として、それぞれの側から、この係争の袋のなかに入れて置いたはずの金額を、申し立てるように命じました。するとユダヤ人は申し立てました、「私の袋のなかには、おお、われわれの御主人様、今朝私の入れておいた金貨五百ディナールあって、それより一ディナールも、多くも少なくもございません。」アキルは叫びました、「嘘つけ、おお、ユダヤ人どもの犬め、きさまの人種のやつらの習慣と反対に、きさまが人に借りたより多く返すとでもいうのなら別だが。ところでおれは言うが、この袋の中には四百九十ディナールしかなく、それより一ディナールも、多くも少なくもありはしねえ。それに、おれの印形のついている銅の指環も、そこにはいってるはずだ、きさまがもう抜き出してしまってるなら別だが。」そこで法官《カーデイ》は証人たちの前で袋を開けてみると、中身は掏摸の申し立てが正しいとより外に、言いようがありません。そこですぐ法官《カーデイ》は、その袋をアキルに渡して、呆気《あつけ》にとられて口も利けずにいるユダヤ人に、直ちに笞刑《むち》を加えるように命じたのでございました。
泥棒ハラムは仲間のアキルの早業の成功を見ると、これにお祝いを述べて、自分がこれを凌ぐことはとてもむずかしかろうと言いました。しかしとにかく、自分も何か、今見たようなすばらしい芸当に、あまり見劣りしないような手柄を試みてみるから、今夜、帝王《スルターン》の御殿のそばで、落ち合おうと申し合せました。
そこで夜になると、二人の相棒は早くも定めたとおり落ち合いました。そしてハラムはアキルに言いました、「仲間よ、お前はユダヤ人の鬚と法官《カーデイ》の鬚を、まんまと笑いおおせた。ところでおれは、帝王《スルターン》自身を相手にしたいと思うんだ。ほら、ここにある縄梯子を使って、おれはこれから帝王《スルターン》のお部屋に忍びこんでゆくぜ。だがぜひお前に一緒に来て、これから起ることに立ち会ってもらいたい。」アキルは単に掏摸だけで、窃盗のほうは慣れていないので、最初はこの企ての大胆不敵に大分怖気づいたのですが、自分の相棒の前で尻込みするのも恥かしく、そこで宮殿の城壁の上に、縄梯子を掛けるのを手伝いました。そして彼らは二人でその梯子を攀じて、反対側に降り、庭々を横切り、闇に乗じて、宮殿そのもののなかに潜り入りました。
そして両人は廊下を通って、帝王《スルターン》のお部屋そのものにまで、忍び入りました。するとハラムは、帳《とばり》を掲げて、お眠りになっている帝王《スルターン》を連れの男に見せましたが、おそばには一人の少年が、お足の裏を揉《も》んでおります。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十八夜になると[#「けれども第七百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この少年は、このようにすることによって、王様のお眠りをお助け申しているのでしたが、当人自身眠くてたまらないらしく、うとうとしてしまってはならぬと思って、一片の噛み薬を噛んでいました。
これを見ると、アキルはもう怖くなって、仰向けに引っくりかえりそうになりますと、ハラムはその耳許で言いました、「なぜそんなにおっかながるのだい、仲間よ。お前は法官《カーデイ》に物を言ったんだから、おれはひとつ王様に物を言ってみたいんだ。」そして仲間を垂幕の後ろに残して、彼は驚くばかりすばしこくその少年に近づいて、猿轡をはめ、細綱をかけて、荷物みたいに、天井に吊してしまいました。次にその少年の席に坐って、風呂屋《ハンマーム》の按摩みたいに上手に、王様のお足の裏を揉みはじめました。そしてしばらくすると、帝王《スルターン》のお目が覚めるような工合に揉んだので、王様は欠呻《あくび》をしはじめなさいました。するとハラムは、少年らしい声を作って、帝王《スルターン》に言いました、「おお当代の王様、陛下におかれましてはお寝《やす》み遊ばされぬとあらば、何かお話でも申し上げましょうか。」すると帝王《スルターン》は「苦しゅうない」とお答えになったので、ハラムは言いました、「おお当代の王様、むかし町々の間の或る町に、ハラムという名の泥棒と、アキルという名の掏摸がおりまして、共に大胆と腕前を競いました。ところで、或る日、その二人は、それぞれ次のようなことを企てました。」そして彼はアキルの芸当を詳しく帝王《スルターン》にお話し申し、大胆にも更に、ただ帝王《スルターン》のお名前と舞台の場所を変えただけで、御自身の御殿で起っているところを、お知らせしてしまいました。そして自分の話を終ると、申しました、「さて今は、おお当代の王様、この二人の仲間のうちどちらをば、お殿様はいっそう達者だと思し召されますか。」すると帝王《スルターン》はお答えになりました、「それは異論なく、王の宮殿に忍び入った盗賊のほうじゃ。」
このお答えを聞いたとき、ハラムは急に小便が出たくてならないという口実を設けて、厠《かわや》に行くみたいな風をして、外に出ました。そして仲間と落ち合いに行きましたが、こちらは話の続いている間じゅうずっと、怖さのため、魂が鼻から飛び出すような思いがしていました。それから、さっき通った道を再びとって、はいった時と同じように無事に、宮殿を出ました。
さて翌日、お気に入りの少年が厠に入ったまま、とうとう姿を現わさなかったのにたいそうびっくりなすった帝王《スルターン》は、前夜お聞きになった物語そっくりに、少年が天井の上から吊りさがっているのを見て、驚きの極に達しなさいました。そしてやがて御自身が、大胆不敵な盗賊に一杯食わされなすったことが、たしかにおわかりになりました。けれども、こうして御自分を引っかけた男にお腹立ちになるどころか、どんな男か知りたいとお望みになり、その目的で、触れ役人に命じて、夜間王宮に忍び入った者を許してつかわす、その男が御前に出頭すれば、たっぷり褒美をとらせると、触れさせなさいました。そこでハラムは、このお約束を信じて、宮殿に出向いて、帝王《スルターン》の御手の間に出頭しますと、帝王《スルターン》はその勇気を大いにお讃めになって、これほどの手腕の褒美として、即座に彼を王国の警察長《ムカツダム》に取り立てなさいました。また一方若い女も、それと聞いて、ハラムのほうを、一人だけの夫に選ばずには措かず、彼と共に歓楽と悦楽のうちに暮しました。さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、その夜は、王をこの物語の印象のままに残しておくことを望まず、引きつづき直ちに、次の不可思議な物語を語りはじめた。
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運命の鍵
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、エジプトの帝王《スルターン》で、教王《カリフ》ムハンマド・ベン・テイルンは、その父テイルンが残忍で圧制者であったと等しく、賢明で善良な君主であられました。それと申しますのは、父王が臣民に同じ租税を三度も四度も払わせるために、これを責めさいなんだり,臣民が収税吏を恐れて地中に埋めておく数ドラクムを、無理矢理掘り出させるために、笞刑を加えさせたりしたのを、この帝はそのように振舞うどころか、人民の間に平穏を復活させ、正義を回復することを、急ぎなさったのでした。そして父王テイルンが暴力を以って積んだ財宝をば、詩人と学者を保護し、勇者を賞し、貧者と不幸な人々を助けることに用いました。ですから、報賞者はこの祝福された御治世下では、何もかも成功させなさいました。それというのは、ナイル河の増水は、これまでにないほど規則正しく豊富で、収穫は、これまでにないほど豊かで数々で、馬肥《うまごやし》と羽《は》団扇豆《うちわまめ》の畑は、これまでにないほど緑で、商人たちは、自分の店にこれほどの黄金が溢れるのを見たことは、かつてない有様でございました。
さて、日々のうちのある日、帝王《スルターン》ムハンマドは、王官の高位高官者を全部|御前《ごぜん》に召し出して、一人ずつ順番に、それぞれの役目と、今までの勤務ぶりと、国庫から受けている扶持とについて、問い質《ただ》すことになさいました。それというのは、帝はこうして御自身で、彼らの行状と生活ぶりを検査なさろうと望まれ、こうお考えになったのでした、「もし何ぴとか辛い勤めと軽少な扶持の者を見出したらば、余はその役目を減らして、俸禄を殖やしてやろう。しかしもし莫大な扶持と楽な勤めの者を見出したらば、その俸禄を減らして、仕事を殖やしてやると致そう。」
御手の間にまかり出た最初の人々は、大臣《ワジール》たちでございまして、その数四十、いずれも敬うべき老人で、長い白鬚と知恵のしるしを帯びた顔を持っておりました。彼らは頭上に、宝石を鏤《ちりば》めた、ターバンになっている冠をかぶり、彼らの権力の徴《しるし》である、琥珀の石突きのついた長い杖をついておりました。次に来たのは、諸国の奉行《ワーリー》、軍の大将、及び遠くあるいは近く、平穏を維持し、裁判をする全部の人たちでした。そして次々に、彼らは跪いて、教王《カリフ》の御手の間の床に接吻しますと、教王《カリフ》は一人一人を永い間尋問なさって、それぞれの功績についてお目にとまったところに従って、賞しあるいは罷免なさいました。
そして最後にまかり出たのは、正義の執行者、御《み》佩刀持《はかせもち》の宦官でございました。彼は、何もすることがなくて、美味《おい》しいものを十分に食べている人のように、でっぷりとしてはいましたが、いかにも悲しげな様子をして、抜き身の剣を肩に颯爽と歩く代りに、首を垂れて、剣は鞘におさめてありました。そして帝王《スルターン》ムハンマド・ベン・テイルンの御手の間に来ると、彼は床《ゆか》に接吻して、申しました、「おお、われらの御主君にしてわれらの頭上の冠よ、今やついに正義の日が、わが君の正義の執行者たる奴隷のために、輝き出ようとしておりまする。おおわが殿、おお当代の王よ、亡き御父君《おんちちぎみ》、帝王《スルターン》テイルンの崩御以来、――願わくはアッラーはかの君に御慈悲を垂れたまわんことを、――私は日々にわが役目の任務の減るのを見、そこから得る私の利益も、消え失せてゆくのを見ました。そして私の生活は、昔は仕合せでございましたが、今は一向に冴えず、用もなく過ぎておりまする。もしエジプトがこのように、太平と豊饒を享受しつづけるならば、私はわが屍衣を買い求むるだけのものすら残さずに、飢死しかねまじき大いなる危険に瀕している次第でございます、――願わくはアッラーはわれらの御主君の御齢《おんよわい》を永からしめんことを。」
帝王《スルターン》ムハンマド・ベン・テイルンは、御《み》佩刀持《はかせもち》のこの言葉をお聞きになると、ややしばらくお考えになって、なるほどこの訴えは正当であるとお認めになりました。それというのは、彼の役目柄の最大の利益は、たいしたものではないその扶持からではなく、彼の処刑する人たちから、贈与または遺産相続として得る分から、あがるのでございましたから。そこで帝は叫びなさいました、「われらはアッラーより出《い》でて、アッラーの方《かた》へと帰るであろう。されば万人の幸福とは迷妄にすぎず、一方の悦びとなるものは、他方の涙を流させ得るということは、まことに真実じゃ。おお太刀取《たちとり》よ、汝の魂を安らかにし、汝の眼を爽やかにせよ。何となれば今後は、汝の職務は殆んど報わるることなき今となっては、汝の生活を助くるため、毎年二百ディナールの食禄をとらするであろう。何とぞアッラーは、わが治世のつづく限り、汝の太刀は現在のごとく無用にとどまり、休息の平和なる錆に蔽われてあるようになしたまえかし。」そして御《み》佩刀持《はかせもち》は、教王《カリフ》の御衣《ぎよい》の裾に接吻して、列中に戻りました。さて、こうしたすべてのことは、帝王《スルターン》ムハンマドが、どんなに正しく寛仁な君主であられたかを、証拠立てるものでございます。
さて、いよいよ御前会議が閉ざされようとしたとき、帝王《スルターン》は高位高官者たちの列の後ろに、顔に多くの皺がより、背中の曲った、一人の高齢の老人《シヤイクー》で、まだ御下問なかった男に、気づかれました。そこで、近づくように合図をなさり、王宮での彼の役は何かと、お尋ねになりました。するとその老人《シヤイクー》はお答えしました、「おお当代の王よ、私の役と申せば、御父上の先帝より保管を命じられましたる、小箱ひとつを監視する、ただそれだけのことでございまする。そしてこの役のため、私は国庫より、毎月金貨十ディナールを支給されておりまする。」帝王《スルターン》ムハンマドはこれには驚きなさって、おっしゃいました、「おお老人《シヤイクー》よ、そのように造作ない役に、それはいかにも巨額の俸禄じゃ。しかし、その小箱のなかには何がはいっているのか。」老人は答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主君よ、既に四十年来私はそれを保管しておりまするが、中身は何かは存じませぬ。」すると帝王《スルターン》は言われました、「行って、速やかにその箱を持ってまいれ。」老人《シヤイクー》はいそぎ御命令を実行しました。
ところで、老人《シヤイクー》が帝王《スルターン》の御前に持参したくだんの小箱は、金無垢でできて、豪奢な細工が施されておりました。老人は帝王《スルターン》の御命令で、はじめてそれを開けました。ところが、そこには、緋色に染めた羚羊《かもしか》の皮の上に、光り輝く文字で記された原稿が一枚、はいっているばかりでした。そして箱の底深くに、少量の赤土がありました。帝王《スルターン》は、光り輝く字体で書いてある羚羊皮の原稿をとりあげ,何と書いてあるのか読もうとなさいました。けれども、帝は文字と諸学にはたいそう精通していらっしゃったにもかかわらず、そこに記《しる》されている未知の字体のただ一語も、解読することがおできになりませんでした。居合せた大臣《ワジール》も学識者達《ウラマー》も、それ以上には成功しません。そこで帝王《スルターン》は、エジプト、シリア、ペルシア、インドのあらゆる高名な学者を、次々に呼び寄せなさいましたが、一人として、その原稿がいったい何語で書かれているかさえも、言うことができませんでした。それというのは、学者などといっても普通は、身につけたものとては、大きなターバンだけで、それでごまかしている憐れな無知者にすぎないからでございます。
そこで帝王《スルターン》ムハンマドは、この未知の文字を解読できるほど学識ある人を、ただ教えてくれることができるだけでも、その人に最大の褒美をとらせる旨を、全帝国に公布させなさいました。
ところで、この通達を公布してしばらくたつと、白いターバンをかぶった一人の老人が、帝王《スルターン》の謁見に出頭して、発言の許可を得てから、言いました、「願わくはアッラーは、われらの御主君|帝王《スルターン》の御齢《おんよわい》を永からしめたまいますように。御手の間におりまする奴隷は、先君、亡き帝王《スルターン》テイルンに元お仕え申した者で、あたかも今日、かつてお咎めを蒙った流罪から、戻ってまいったのでございます。願わくはアッラーは、私をこの流刑に処しなされた亡き帝に、御慈悲を垂れたまわんことを。ところで、私が御手の間にまかり出ましたるは、おお、われらの御主君御領主様、ただ一人の人間が、かの羚羊皮の原稿を読むことができるということを、言上するためでございます。それは、その原稿の正当の持主たる、アル・アシャールの子、長老《シヤイクー》ハサン・アブドゥッラーでございまして、彼は四十年前に、亡き帝の命によって、土牢に投獄仰せつかったのでございます。今なお牢中に呻吟しているか、それともすでに亡くなったかは、アッラーが御存じでいらっしゃいます。」すると帝王《スルターン》はお尋ねになりました、「そもそもいかなる理由で、長老《シヤイクー》ハサン・アブドゥッラーは土牢に幽閉されたのか。」老人は答えました、「亡き帝は、その原稿をお取りあげになった上で、暴力によって長老《シヤイクー》に強いて、これを読ませようとなすったゆえでございます。」
この言葉に、帝王《スルターン》ムハンマドは、すぐに警吏の長たちを派して、全部の牢獄を点検させるようになさいましたが、これは、長老《シヤイクー》ハサン・アブドゥッラーがまだ牢獄で生きているのを見出し、これを出獄させられるかもしれぬと希望なされてのことでした。そして運命は、この長老《シヤイクー》がまだ生きていることを望みました。それで警吏の長たちは、帝王《スルターン》の御命令に従って、これに誉れの衣を着用させ、主君の御手の間に連れてまいりました。すると帝王《スルターン》ムハンマドは、これが敬うべき風采の男で、苦悩にやつれた顔をしているのを見ました。帝は彼に敬意を表して立ち上がり、これに父君|教王《カリフ》テイルンが加えなすった不正な待遇を、許してくれるようにと、お頼みになりました。それから、これをおそばに坐らせて、羚羊皮の原稿を手渡しなされながら、これに申されました、「おお尊ぶべき長老《シヤイクー》よ、余はわが物ならぬこの品を、これ以上長く手許に置こうとは思わぬ、よしんばこれが地上のあらゆる宝物を余に所有させようとも。」
帝王《スルターン》のこのお言葉を聞くと、長老《シヤイクー》ハサン・アブドゥッラーはおびただしい涙をこぼして、両手の掌を天のほうに向けて、叫びました、「主《しゆ》よ、汝こそは一切の知恵の源《みなもと》、汝は同じ地に毒と薬草とを生じさせたもう。土牢の奥にわが生を過すことここに四十年、今や私が天日の下に死すことができるのは、まさにわが迫害者の御子息のお蔭です。主《しゆ》よ、神慮測り知れぬ汝に、称讃と栄光あれ。」次に彼は帝王《スルターン》のほうに向き直って、申しました、「おお、われらの御主君御領主よ、私は暴力に対して拒んだところを、親切に対して承諾致しまする。この原稿は、これを所持しているために私は幾度《いくたび》か一命を危うく致しましたが、これは今後は正当な所有物として、わが君に属しまする。これこそは、一切の智の初めにして終りであり、私がシャッダード・ベン・アードの町、いかなる人間も入りこみ得ぬ神秘の都、円柱のイラム(1)より持ち帰った、唯一の財産でございまする。」
すると教王《カリフ》は老人に接吻して、これに仰せられました、「おおわが父よ、お願いじゃ、この羚羊皮の原稿ならびに、シャッダード・ベン・アードの町、円柱のイラムについて、その方の知るところを、いそぎ聞かせてくれよ。」すると長老《シヤイクー》ハサン・アブドゥッラーはお答えしました、「おお王よ、この原稿の物語は、即ちわが全生涯の物語でございます。もしこれが目の内側の片隅に針を以って記されますれば、これを恭々《うやうや》しく読む者にとっては、教訓として役立つことでもござりましょう。」そして彼は語りました。
されば、おお当代の王よ、私の父は、カイロで最も裕福で、最も尊敬された商人の一人でございました。して私はその一人息子でございます。父は私の教育のためには何ものも惜しまず、エジプト最上の師匠たちをつけてくれました。ですから、二十歳にして、私はすでに学識者《ウラマー》の間で、私の知識と古人の典籍に対する造詣とで、聞え高かった身となりました。そして父母は、私の婚儀を悦びたいと思いまして、星に満ちた眼、しなやかで優美な腰を持ち、優雅と軽快な点で羚羊の、一人の若い処女を、妻として私に与えました。そして私の婚儀は盛大なものでありました。かくて私は、妻と共に、晴れやかな日々と幸福の夜々を送りました。このようにして私は、結婚初夜と同じくらい美しい十年を過しました。
けれども、おお御主君よ、そも何ぴとが、翌日の運命が自分にとっておくものを知り得ましょうぞ。さて私は、静かな一夜のように過ぎたこの十年の後に、天命の餌食となりはて、あらゆる災難が、わが家の幸福の上に襲いかかってまいりました。それというのは、数日の間に、ペストが私の父を斃《たお》し、火がわが家をなめ尽し、海水が、私の財貨を遠方で取引する船舶を、呑みこんでしまったのであります。かくして、貧しく、母の胎内から出た子供のように裸で、私は切り抜ける手段としては、ただアッラーの御慈悲と信徒たちの情けばかりでした。私はアッラーの乞食たちと一緒に、諸方の回教寺院《マスジツト》の中庭に出入りしはじめ、立派な言葉を申される行者《サントン》たちの仲間にはいって、暮しておりました。最悪の日々には、一片のパンもなく住居に戻り、終日絶食したあげく、夜には何も食うものがないというようなことも、しばしばございました。そして私は、自分自身の貧窮と、母と妻と子らの貧窮に、この上なく苦しんだのでありました。
さて、ある日、アッラーはその乞食に何ひとつ施しを送りたまわなかったので、私の妻はその最後の着物を脱いで、泣きながらそれを私に渡し、言うのでした、「家の子供たちにパンを一片《ひときれ》買ってやるため、これを市場《スーク》に売りに行ってみて下さい。」そこで私は妻の着物を受けとって、家の子供たちのために、これを売りに行こうと外に出ました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十九夜になると[#「けれども第七百八十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして市場《スーク》のほうに向ってまいりますると、私は赤い牝駱駝に乗った、一人のベドウィン人に出会いました。そのベドウィン人は私の姿を認めると、突然駱駝をとめて跪かせ、私に言いました、「御身の上に平安あれ、おおわが兄弟よ。アル・アシャールの子、長老《シヤイクー》ハサン・アブドゥッラーという名の、金持の商人のお宅を、教えていただけないでしょうか。」私は、おお御主君よ、貧は富と同様、アッラーよりわれらに来たるとは申せ、私は自分の貧を恥じ、頭を垂れながら、答えました、「して御身の上にも平安とアッラーの祝福あれ、おおアラビア人たちの父よ。けれども、私の知るかぎり、カイロには、今おっしゃったような名前の人はおりません。」そして私は自分の道を続けようとしました。ところがベドウィン人は、駱駝の背から飛び降りて、私の両手を自分の両手に握りながら、非難の調子で言いました、「アッラーは偉大にして寛仁にましまする、おおわが兄弟よ、だがあなたこそ、アル・アシャールの子、長老《シヤイクー》ハサン・アブドゥッラーではないのですか。あなたはお名前を隠して、アッラーの遣わしたもう客を追い返すなどということが、あってよいものでしょうか。」そこで私はもう困惑の極に達して、わが涙を抑えることができず、許しを乞いながら、その両手をとって接吻しようとしました。ところが彼は私にそうはさせておかず、兄弟が兄弟にするように、私を腕に抱きしめました。それで私は、彼を自分の家のほうへ案内しました。
こうして、ベドウィン人は自分の駱駝の頭絡《おもがい》を曳いて、私と一緒に歩いてゆきましたが、私の心と精神は、客人をもてなすものが何ひとつないと思って、悩むのでした。いよいよ着くと、私はいそいで伯父の娘に、今起った出会いのことを知らせました。妻は私に言いました、「他処《よそ》のお方はアッラーのお客であり、子供たちのパンでさえ、その方のものです。だから、さっきお渡しした着物を売りに戻って、そして手に入れたお金でもって、私たちのお客様の召し上がるものをお買いなさいまし。もし余りをお残しになったら、私たちはそれを頂戴しましょう。」私は、外に出るためには、ベドウィン人を待たせておいた玄関を通らなければなりませんでした。私が着物を隠していると、彼は私に言いました、「わが兄弟よ、あなたの衣服の下に何を持っていらっしゃるのか。」私は困惑のため頭を垂れながら、答えました、「いや、何でもありません。」けれども彼は重ねて言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが兄弟よ、お着物の下に何を持っていらっしゃるのか、ぜひ伺わせていただきたい。」私はすっかり困って、答えました、「伯父の娘の衣類でして、衣類直しを商売にしている隣の女のところに、持ってゆくのです。」するとベドウィン人はなおもせがんで、私に申しました、「その衣類を見せて下さい、おおわが兄弟よ。」私は顔を赤らめつつ、その衣類を見せました。すると彼は叫びました、「アッラーは慈悲深く寛仁にまします、おおわが兄弟よ。あなたは今、他処人《よそびと》に対する歓待の義務を果たすため、あなたの奥様、子供たちの母親の衣類を、競売《せりう》りに出しに行かれようとしていなさるのだ。」そして彼は私に接吻して、言いました、「さあ、やあハサン・アブドゥッラー、ここにアッラーのお手許の、金貨十ディナールあるから、これを使って、われわれの用とお宅の用に必要なものを、これで買ってきて下さい。」私は客人の申し出をことわりきれず、その金貨を受けとりました。そして豊富と安楽が再びわが家に帰ってきました。
さて、毎日私の客人のベドウィン人は、私に同額の金子を渡し、私はその命令どおりに、同じようにそれを使いました。これが十五日間つづきました。私は「報酬者」を讃えて御恩恵を謝しました。
ところが、十六日目の朝、客人のベドウィン人は、挨拶《サラーム》の後、私に申しました、「やあハサン・アブドゥッラー、あなたはこの私にあなたを売っては下さらぬかな。」私は答えました、「おお御主人様、私はすでにあなたの奴隷で、私は感謝の念によってあなたの有《もの》です。」けれども彼は言いました、「いや、ハサン・アブドゥッラー、私の言う意味はそんなことではないのです。あなたを私に売ってくれとお願いするのは、私はほんとうにあなたを買い取りたいのです。されば、私はあなたを値切ろうなどとはすこしも思わず、あなたが御自分を売りたいと思う値段は、御自身できめて下さるようおまかせします。」私は彼が冗談にこんなことを言っているのだということを、一瞬も疑わず、笑うつもりで、答えました、「自由な人間の相場は、おお御主人様、一撃で殺される場合は、千ディナールと聖典に定められています。しかし何度もかかって、二つか三つか四つの傷をつけて殺すとか、またはいくつもに切り刻むような場合は、その際は相場は千五百ディナールとなりますね。」するとベドウィン人は私に言いました、「別に差し支えない、ハサン・アブドゥッラーよ、もしあなたが自分を売るのを承知しなさるなら、私はその後のほうの金額をお払いしましょう。」私は、そこで客人は冗談を言っているのではなく、本気で私を買う決心をしていることがわかって、自分の魂のなかで考えました、「お前の子供たちを飢えと悲惨から救うために、あのベドウィン人を遣わしたもうたのは、アッラーなのだ、やあハサン老よ。もしお前の天命が、ばらばらに切り刻まれるということにあるのならば、お前はこれをのがれることはできないのだ。」そして私は答えました、「おおアラビア人の兄弟よ、私は私を売ることを承知します。だが、これについて家族に相談することだけは、お許し下さい。」彼は私に答えました、「そうなさい。」そして彼は自分の用事をしにゆくため、私と別れました。
さて私は、おお当代の王よ、私は母と妻と子供たちに会いに行って、一同に申しました、「アッラーはお前たちを悲惨から救って下さるぞ。」そして一同に、ベドウィン人の申し出を話して聞かせました。私の言葉を聞くと、母と妻は、顔と胸を掻きむしりながら、叫びました、「おお私たちの頭上の災厄《わざわい》よ。あのベドウィン人はお前をどうする気だろう。」子供たちは私のところに駈けよって、私の着物にすがりつきました。そして皆泣きました。妻は利口で分別のある女でしたが、さらに言葉を続けました、「もしあなたが御自分を売るのに反対したら、あの呪われたベドウィン人は、ここで今まで使ったものを返せと言い出さないとも限りません。ですから、備えのないところをいきなり言われないように、あなたに残っている最後の財産である、この見すぼらしい家を買って下さるという人を、誰かできるだけ早く、見つけに行って下さらなければなりません。そしてこの家で手に入るお金でもって、あのベドウィン人に対する借りをお返しなさい。そうすれば、あの男に何の借りもなくなるわけで、あなたは自由の身でいられます。」そして妻は、早くもわれわれの子供たちが、宿もなく路頭に迷うのを見る思いがして、泣き伏しました。私はこの現状について深く考えはじめたが、困惑の極に達しました。そして私は絶えず考えていたのでした、「おおハサン・アブドゥッラーよ、アッラーがお前に送りたもう機会を軽んずるなよ。お前を買うと言ってベドウィン人の申し出る金額を以ってすれば、お前は一家のパンを確保できるのだ。」次に私は考えました、「そうだ、そうだ、だがあの男はなぜお前を買いたいのか。お前をどうするつもりなのか。お前が若くて、鬚もないならまだしものこと。ところがお前の鬚ときたら、アガル(2)の引き裾みたいで、これでは上エジプトの土人だって、気をひかれはしまい。それじゃつまりは、幾度もかけてお前を殺すことを望んでいるわけだな、二番目の条件で、お前に金を払うというのだから。」
さりながら、夕方ベドウィン人が家に戻ってきたとき、私の考えはきまり、決心はついていました。私は彼をにこやかな顔で迎え、挨拶《サラーム》の後、彼に言いました、「私はあなたの有《もの》です。」すると彼は帯を解き、中から金貨千五百ディナールを取り出し、それを算えながら言いました、「預言者の上に祈りなさい、やあハサン・アブドゥッラー。」私は答えました、「預言者の上に祈りと平安とアッラーの祝福あれ。」すると彼は言いました、「さて、わが兄弟よ、今やあなたは売られたのであるが、あなたは心配なさらぬでよい。それというのは、あなたの一命は安全だし、あなたの自由は少しも損なわれないから。私はただ、あなたを買いとって、私が企てたいと思っている長途の旅行のために、気持のよい忠実な道連れを持ちたいと望んだだけだ。それというのは、御承知のように、預言者――願わくばアッラーはこの君に恩寵を垂れたまえかし――も仰せられた、『道連れこそは道中何よりの糧食《かて》』と。」
そこで私は、大いに悦んで、母と妻のいる部屋にはいって、二人の前の茣蓙《ござ》の上に、自分を売った千五百ディナールを置きました。二人はこれを見ると、私の説明を聞こうともせず、まるで死人の棺に向ってするように、髪を引きむしり、嘆き悲しみながら、高い叫び声をあげはじめました。そして叫ぶのでした、「これは血の代金です。おお不幸なこと、おお不幸なことよ。私たちは決してあなたの血の代金などに、手を触れますまい。それよりはいっそ、子供たちと一緒に飢え死します。」私は、二人を鎮めようと努めても無駄と見て、しばらくは苦しみを吐露するがままにしておきました。それから、あのベドウィン人は善良な男で、立派な意図を持った人だと、断言しながら、二人に道理を説き聞かせはじめ、遂にはいささか二人の嘆きを減らすに到りました。そこで私はこの小康を利用して、子供たち共々二人に接吻し、皆に別れを告げました。そして心を痛めながらも、一同を悲嘆の涙のうちに残し、自分の主人のベドウィン人に伴われて、わが家を去ったのでありました。
そしてわれわれが家畜|市場《スーク》に着くとすぐに、私は主人の指図によって、その早さで有名な一頭の牝駱駝を買いました。そして主人の命令に従って、長途の旅行に必要な食糧を、袋に詰めこみました。かくて一切のわれわれの準備が終ると、私は主人がその牝駱駝に乗るのを助け、自分も自分の牝駱駝に乗り、そしてアッラーの御名《みな》を念じて後、われわれは旅路につきました。
われわれは引きつづき旅して、やがて砂漠に着きましたが、そこにあるものといえば、ただアッラーが在《いま》すばかり、動く砂の上には、旅人の足跡はひとつも見られませんでした。そして私の主人のベドウィン人は、この茫漠たる境のなかを、ただ彼だけとその駱駝が知っている目じるしによって、道を辿ってゆきました。こうしてわれわれは、焼けつく太陽の下を、十日の間進みましたが、その一日一日は、私には悪夢の一夜よりも長く思われました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十夜になると[#「けれども第七百九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、第十一日目の朝になると、われわれは広大な平野の入口に到着しましたが、その燦《きら》めく地面は銀片でできているように思えました。そしてその平野の中央には、非常に高い花崗岩の柱が一本聳えていました。その柱の天辺には、赤銅の若者が一人立っていて、その右手を差し伸べ開いて、五本の指おのおのに、ひとつずつ鍵を下げているのでした。第一の鍵は金、第二のは銀、第三のは青銅、第四のは鉄、第五のは鉛でした。そしてこれらの鍵のひとつひとつは、護符でありました。そしてこの鍵のどれかひとつの持主となることのできる人は、それについている運命を受けなければならなかったのです。それというのは、これらは運命の鍵であったので、金の鍵は悲惨の鍵、銀の鍵は病苦の鍵、青銅の鍵は死の鍵、鉄の鍵は光栄の鍵、鉛の鍵は知恵と幸福の鍵(3)でございました。
けれども私は、おおわが殿、その頃はこれらのことを知らず、ただ私の主人だけが知っていたのでした。この私の無知が、私のあらゆる不幸の原因となりました。けれども不幸は幸福と同じく、報酬者アッラーからわれわれに来るのであります。そして被造物《つくられしもの》はへり下ってこれを受け取らねばなりません。
されば、おお当代の王よ、われわれがその柱の下に到着しますと、私の主人のベドウィン人は、自分の駱駝を跪かせて、地に降り立ちました。私も同じようにしました。そこで、私の主人は箱の中から奇妙な恰好の弓を取り出し、矢を番《つが》えました。そして弓を引き絞り、赤銅の若者のほうへ矢を放ちました。けれども、ほんとうに拙《つたな》かったのか、あるいはわざと拙いふりをしたのか、矢は的の高さまで届きませんでした。するとベドウィン人は、私に言いました、「やあ、ハサン・アブドゥッラーよ、今こそお前は私に対する借りを返し、望みとあらば、お前の自由を取り戻すことができる時だ。事実、お前は力が強くて上手なことを私は知っているから、ただお前だけがあの的まで届くことができるのだ。だから、この弓を取って、あの鍵を打ち落すようにやってくれ。」
そこで私は、おおわが殿、この代償で、自分の借りを返し、身の自由を取り戻せるのを悦び、主人の命に従うことをためらいませんでした。そして弓を取って、調べてみると、それはインド製のもので、上手な職人の手に成ったものとわかりました。そこで、私の知識と腕前のほどを主人に見せてやりたいと思い、力いっぱい弓を引き絞り、柱の若者の手を狙いました。そして第一の矢で、ひとつの鍵を落しましたが、それは金の鍵でした。そこで大いに得意になって喜んで、私はそれを拾って、主人に差し出しました。ところが主人はそれを取ろうとせず、辞退しながら言いました、「これはお前が取っておきなさい、おお気の毒な男よ、これはお前の腕前の報いだ。」それで私は礼を述べて、その金の鍵を自分の帯のなかにおさめました。それが悲惨の鍵とは知らなかったのでございます。
次に、第二の矢を以って、私はさらにひとつの鍵を落しましたが、それは銀の鍵でした。ベドウィン人はこれに触《さわ》ろうともせず、私はこれをも帯のなかに、第一の鍵とならべておさめました。それが病苦の鍵とは知らなかったのでございます。
その後で、別な二本の矢でもって、私はさらに二本の鍵、鉄の鍵と鉛の鍵を外《はず》しました。一方は光栄の鍵、他方は知恵と幸福の鍵でした。しかし私は、そんなこととは知らなかったのでございます。私の主人は、私がそれを拾ってやる暇も与えず、歓声をあげて鷲掴みにしながら、叫びました、「お前を宿した胎《はら》は祝福されよかし、おおハサン・アブドゥッラーよ。お前の腕を鍛え、お前の眼力を練磨した者は祝福されよかし。」そして彼は私を腕に抱きしめて、言いました、「今後はお前はお前自身の主人だ。」私は彼の手に接吻して、改めて彼に金の鍵と銀の鍵を返そうとしました。しかし彼はことわって、言いました、「その二つはお前のものだよ。」
そこで私は、箱から第五の矢を取り出して、最後の鍵、死の鍵とは知らなかった青銅のものを、打ち落そうと身構えました。けれども主人は、私の意向に強く反対し、私の腕を押えて、叫びました、「何をするのか、不幸な者よ。」それで私は、すっかりびっくりして、うっかり矢を地に落してしまいました。それはちょうど私の左足に当って、それを貫き、ひどい怪我をさせました。これが私の一連の不幸のはじまりでございました。
私の主人はこの事故に心を痛めて、できるだけ上手に怪我の手当てをすると、私を助けて駱駝に乗せてくれました。そしてわれわれは道を続けました。
さて、私の怪我をした足にとってはたいそう難儀な旅の、三日と三晩の後、われわれはとある草原に着き、そこに足をとめて夜を過すことにしました。この草原には、私のついぞ見たことのない種類の木々がありました。そしてそれらの木々は、美事な熟した果実をつけていて、そのいかにもみずみずしくおいしそうな様子は、手を延ばして摘みとる気を起させるのでした。私は渇きにせき立てられて、その木の一本のほうに足を曳きずって行って、いそいでその果実を一個摘みとりました。それは金色《こんじき》の赤い色をして、芳香を放っておりました。私はそれを口に運んで、かぶりつきました。するとです、何と、私の歯はそこにしっかりとくっついてしまって、もう顎を弛めることができなくなったのでした。私は叫ぼうとしたが、口から不明瞭なかすかな音しか出ません。そしてひどく息がつまりました。私はちんばの片足を曳きずり、食いしばった両顎の間に果実をくわえたまま、あちらこちらと駈けまわり、気違いのように手足を動かしはじめました。それから、眼を顔から飛び出させて、地上を転がりまわりました。
すると私の主人のベドウィン人は、私のこの有様を見て、最初はすっかりおびえました。そして私の苦しみの原因がわかると、近づいてきて、私の顎を放してやろうと試みました。しかしその努力は、いよいよ私の痛みをますばかりでした。それを見ると、主人は私を置いて、木々の下に行き、そこに落ちている果実をいくつか拾いました。そして注意ぶかくそれらを眺め、最後に一個を選んで、他を棄てました。そして私のほうに戻ってきて、言いました、「この実をよく見ろ、ハサン・アブドゥッラー。ほらここに、実を食ってだんだん穴をあけてゆく虫がいるだろう。ところで、お前の痛みを治してくれるのは、これらの虫だ。しかし落ち着いて、辛抱しなければいけないぞ。」そして付け加えました、「事実、私の計算したところだと、お前の口をふさいでいる果実の上に、この虫を何匹か置けば、そいつらが実を食いはじめて、せいぜい両三日のうちには、お前は救われるだろう。」主人は経験豊かな人でしたから、私はこう考えながら、するなりにまかせました、「やあアッラー、こんな拷問が三日三晩か。おお、死ぬほうがどんなにましか。」すると主人は、私のそばの木蔭に坐って、呪われた果実の上に救いの虫を置き、言ったとおりのことをしてくれました。
そして実を食う虫が仕事を始めている間に、私の主人は食糧袋から、棗椰子の実と乾パンを取り出して、食べ出しました。時々手をとめて、私を辛抱するように励まして、言うのでした、「なあ、わかるだろう、やあ、ハサン・アブドゥッラー、どんなにお前の食吝坊《くいしんぼう》のため私が途中で引きとめられ、計画の実行が遅れるか、わかるだろう。だが私は賢明だから、こんな手違いにも、やたらに心を悩ますことなどしない。私を見ならえよ。」そして眠る準備をして、私にもそうするように勧めました。
しかし私は、悲しいことに、その夜と次の日を責苦のうちに過しました。それに、顎と片足の痛みのほかに、飢えと渇きにさいなまれたのでした。ベドウィン人は私を慰めるため、虫の仕事は着々進んでいると請け合ってくれました。こうして、彼は私に三日目まで我慢させました。するとこの三日目の朝、私はようやく顎が弛むのを感じました。それで、アッラーの御名を念じ、祝福しながら、私は呪われた果実を、救いの虫もろとも放り出しました。
こうして救われると、そのとき私の最初に気を配ったことは、食糧袋を探り、水のはいっている革袋を触ってみることでした。けれども私は、主人が私の拷問の三日の間に、それらを残らず空にしてしまったことがわかり、私の苦しみはあなたのせいだと主人を責めながら、泣きはじめたのでした。けれども主人は少しも騒がず、優しく私に言いました、「お前が正しいかな、ハサン・アブドゥッラーよ。私も一緒に飢えと渇きで死ぬままになっているべきであったというのか。むしろ、アッラーとその預言者を信じ奉って、立ち上がって、渇を医せる泉を探しにゆくがよい。」
そこで私は立ち上がって、水とか、何か正体の知れている果実とかを、探しはじめました。しかし果実については、もう結果試験ずみの危険な種類のものしか、そこにはありませんでした。ようやくのこと、探しに探したあげく、最後に岩の窪みに、小さな泉を発見しましたが、そのきらめく冷やかな水は、渇を医すことを誘っていました。私は(4)跪いて、飲みました、飲みました、飲みました。そしてちょっと休んでは、また改めて飲みました。
その後で、いささか落ち着いて、私も出発する気になり、既に赤い駱駝に乗って遠くに行ってしまった、主人の後を追いました。けれども私の乗用駱駝が百歩も歩かないうちに、私は体内に猛烈な腹痛が起るのを覚え、臓腑に地獄のあらゆる劫火がはいったような思いがしました。私は叫びはじめました、「おお、お母さん。やあ、アッラー。おお、お母さん。」そして駱駝の足を緩めようとしてみましたが、その甲斐なく、やつは大股で全速力を出して、自分の足早な仲間の後を走るのでした。やつがぴょんぴょん飛び跳ねて、上へ下へと揺れるので、私の責苦はもうまったく甚だしくなって、私はすさまじい吼え声をあげ、自分の駱駝に対し、自分自身に対し、ありとあらゆるものに対して、ひどい呪詛を投げかけはじめたもので、ベドウィン人もとうとうこれを聞きつけ、私のほうに戻ってきて、私を助けて駱駝をとめ、地に下りさせてくれました。私は砂の上にしゃがんで、――君の奴隷の狎々《なれなれ》しい言い草をお許し下さりませ、おお当代の王よ、――私の内部の発出物の堰を切りましたが、あたかもわが臓腑全部が流れ出るごとき気持が致しました。そして一大暴風雨が、天地開闢の際のあらゆる雷鳴を伴って、私の憐れな腹中に荒れ廻ったのでございますが、その間、主人のベドウィン人は私に言い聞せるのでした、「やあ、ハサン・アブドゥッラー、我慢しろよ。」私はこうしたすべてのため、気を失って地上に倒れてしまいました。
私の気絶がどのくらいの間続いたのか、私は存じません。しかし気がついてみると、私はまたもや、仲間の後を追う駱駝の背の上におりました。夕方でした。太陽は高い山の蔭に沈みかかっていましたが、われわれはその山の麓に着いていました。そしてわれわれは休息のため、足を停めました。すると私の主人は私に言いました、「今日われわれが何も食わぬままでいることを許したまわざるアッラーは、讃められよかし。しかしお前は何も心配せずに、じっとしているがよい。というのは、私は沙漠と旅の経験から、お前だったら毒しか拾い上げることができないような場所からでも、身体にもよく、元気をつける食物を、見つけ出せるであろうからな。」こう言ってから彼は、厚い葉のついた、多肉性の、棘《とげ》だらけの植物の茂みのほうに行って、その数本を刀で切りはじめました。そしてその皮を剥《む》いて、黄色く甘い果肉を取り出しましたが、それは味から言うと、無花果の果肉に似ていました。主人はそれを私の欲しいだけくれましたので、私は満腹し、元気がつくまで食べました。
そこで私はいささか自分の苦痛を忘れかけまして、これでようやく、もうあんなに久しい前から、その味を忘れかけていた眠りのなかで、安らかに夜を過せる希望を抱きました。そして月が出ると、私は駱駝の毛の外套を地に敷いて、既に眠るつもりでおりますと、そのとき主人のベドウィン人が、私に申しました、「やあ、ハサン・アブドゥッラー、今こそお前はほんとうに私に対して多少の感謝の念を持っているかどうか、証明することができる時だぞ。……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十一夜になると[#「けれども第七百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……なぜなら私は、今夜お前がこの山に登り、その頂上に行き着いて、日の出を待ってもらいたいのだ。そのときお前は、東のほうを向いて立ち、朝の祈祷を唱え、それから降りてくるのだ。これがお前に頼みたい骨折りだ。しかしくれぐれも気をつけて、おおアル・アシャールの息子よ、眠りに襲われないようにしてくれよ。というのは、この土地の瘴気《しようき》はこの上なく有害で、お前の健康は頼むすべなく損われかねないからな。」
そこで私は、おおわが殿、自分の甚だしい疲労状態とあらゆる種類の苦痛にもかかわらず、承わり畏まって答えました。それというのも、ベドウィン人はかつて子供たちと、妻と、母にパンを与えてくれたことを、私は忘れはしなかったからですし、また、もし私がこの奇妙な用事を足すのを断わったら、主人は私をこの荒地に棄てて行ってしまうかもしれないとも考えたのでした。
そこでアッラーを信じ奉って、私は山を攀じのぼり、足と腹の工合にもかかわらず、真夜中頃頂上に達しました。そこの地面は白くて、むき出しで、一木一草もありませんでした。そして頂上を激しく吹きまくる寒風と、この災厄の日頃の疲れとは、私をすっかり麻痺状態に陥れてしまい、地上に倒れるのを我慢しかね、あらゆる意志の努力にもかかわらず、そのまま眠ってしまったのでありました。
目が覚めると、太陽が地平線に現われたばかりのところでした。それで私は、すぐにベドウィン人の言いつけを果たそうと思いました。そこで跳び上がって両足で立とうと努力をしましたが、しかしすぐにぐったりと、地上に倒れてしまいました。それというのは、私の両脚は象の脚のように太くなって、ぶよぶよして疼《うず》き、皮袋のように膨れあがった私の身体と腹を、絶対に支えようとはしないのです。そして頭は、まるで全部鉛でできているよりも、肩に重くのしかかり、きかなくなった両腕を持ち上げることもできませんでした。
そのとき、私はベドウィン人を立腹させることを恐れて、むりやり自分の身体を自分の意志に従わせ、恐ろしい苦痛を感ずるにもかかわらず、何とか立ち上がることができました。そして東のほうを向いて、朝の祈祷を唱えました。昇る太陽は私の憐れな身体を照して、途方もなく大きい影を、西のほうに長々と投じました。
さて、こうして自分の義務を果たすと、私は山を下ることを思いました。けれどもその勾配はたいそう急でしたし、私はたいそう弱っていたので、私の試みた第一歩で、脚は身の重さに耐えきれず、私は倒れて、球のように恐ろしい勢いで転がりました。私は絶望的に石や棘《とげ》にすがりつこうと試みましたが、それは私の転落を止めるどころか、ますます私の肉と着物の切れはしを剥ぎとるばかりでした。こうして私は地上にわが血を滴らせながら、転がりつづけて、山のずっと麓の、主人のベドウィン人のいる場所に着くまで、止まりませんでした。
ところが、主人は地面のほうに身をかがめ、非常な注意を集中して砂の上に何本も線をひいていたので、私のいることも殆んど気づかず、どんな風にここまで来たかも全然見ませんでした。そして私の繰り返す呻吟で、熱中していた仕事から引き離されると、彼は私のほうに振り向きもせず、私に目もくれず、叫びました、「アル・ハムドゥ・リッラーヒ(5)。われわれは幸福な運勢の下に生れてきて、万事成功じゃ。今やお前のお蔭で、やあ、ハサン・アブドゥッラーよ、山の天辺からお前の頭の落した影を測って、永年来探していたものを、遂に発見することができた。」
次に彼は、相変らず頭もあげずに、付け加えました、「いそいで来て、私が槍を立てておいた場所の、地面を掘るのを手伝ってくれ。」けれども、私は無言のまま、時々情けない呻吟を洩らして答えるだけなので、主人もとうとう頭をあげて、私のほうに向き直りました。そして私が地上に身動きもせず、球のように丸くなりながら、どんな態《てい》たらくでいるかを見ました。すると彼は私のほうに歩みよって、私を怒鳴りつけました、「不注意なハサン・アブドゥッラーよ、お前は私のいうことを聞かないで、山の上で眠ったな。それで有害な瘴気がお前の血のなかにはいって、お前の身に毒が廻ったのだ。」そして私ががたがたと歯を鳴らし、見るも憐れな様子をしていたので、彼は気を静めて、私に言いました、「そうだ、しかし、といってもう私の心遣いを得られないものと、あきらめることはない。私が治してやろう。」こう言って、彼は帯から、薄い鋭い刃の小刀を取り出し、私が彼のもくろみに反対できる暇もなく、私の腹と腕と腿と脚との、数カ所を深く切開しました。するとすぐにそこからどくどくと水が出て、私は空になった革袋のようにしぼんでしまいました。皮膚は骨の上にぶよぶよになり、まるで競売で買っただぶだぶの着物みたいでした。けれどもまた、やがて幾分か楽にもなりましたので、私は弱っているにもかかわらず、起き上がって、主人の命ずる仕事を手伝うことができました。
そこで私たちは、ベドウィン人の槍が埋められている、ちょうどのその場所の土を掘りにかかりました。するとほどなく白大理石の棺を発見しました。ベドウィン人は棺の蓋を持ち上げますと、そこには何本かの人骨と、緋色に染められた羚羊の皮の原稿があり、それが今、おお当代の王よ、君のお手許にあるものでございますが、その上には輝く金文字が記されていたのでございます。
すると私の主人は、震えながら、その原稿を取りあげ、未知の言葉で書かれていましたけれども、彼はそれを注意をこめて読みはじめました。そして読んでゆくにつれて、その青白い額は嬉しさに色づき、その眼は悦びに輝きました。そして最後に叫びました、「今は神秘の都の道がわかったぞ。おおハサン・アブドゥッラー、悦べよ、やがてわれわれは、いかなるアーダムの子もかつてはいったことのない、『円柱のイラム』にはいるだろう。その地でわれわれは、大地の財宝の根源、一切の貴金属の素《もと》、赤硫黄を見出すであろうぞ。」
ところで私は、このさらに旅をするという考えに、怯《おび》えのぎりぎりの極に怯えまして、この言葉を聞くと、叫びました、「ああ殿よ、あなたの奴隷を御容赦下さい。それと申しますのは、彼はあなたのお悦びを共に頒《わか》つとは申せ、宝物などはあまり利益になるものとは思わず、円柱のイラムで金持になって、あらゆる悲惨を苦しむよりは、カイロで貧しく達者で暮すほうが、好ましゅうございます。」すると私の主人はこの言葉に、私を不憫そうに見やって、言いました、「おお憐れなやつめ。私は自分の幸福と同じように、お前の幸福のために骨折っているのだ。そして今までも、私はいつもそうしてきているのだぞ。」私は叫びました、「いかにもそのとおりです、アッラーにかけて。けれども遺憾ながら、悪い分け前にあずかったのは、この私だけで、天運は私に対して荒れ狂っております。」
すると私の主人は、私の苦情や咎め立てなどにそれ以上耳を貸さずに、味が無花果の果肉に似た果肉の植物を、たくさんに貯えまして、それから自分の駱駝に乗りました。それで私も仕方なく、それに倣いました。そしてわれわれは、その山の山腹を迂回しながら、東の方面に向って道をつづけたのでございます。
そしてわれわれはさらに三日と三晩の間旅をしました。すると四日目の朝、前方の地平線に、太陽を反射する大きな鏡のようなものを認めました。近よってみると、それはわれわれの行手を遮っている、水銀の大河とわかりました。そしてそれには、手すりのない水晶の橋がかかっていましたが、それはいかにも狭く、急で、つるつるしていて、分別ある人ならば、とても渡ってみようなどという気にはなれない橋でした。
けれども私の主人のベドウィン人は、一瞬もためらわず、地に下りて、私にも同様にさせ、二頭の駱駝の鞍をおろして、自由に草を食べさせてやるようにと命令しました。次に彼は自分の頭陀袋から、羊毛製の草履《バーブジ》を取り出して履き、私にも一足与えて、自分に倣うように命じました。そして右も左も見ずに、自分の後についてこいと言いました。そしてしっかりとした足どりで、水晶の橋を渡りました。そこで私もぶるぶる震えながらも、その後についてゆかざるを得ませんでした。アッラーは、このたびは、私に水銀のなかに溺れて死ぬことを記《しる》したまわなかったので、私はそっくり自分自身と一緒に、向う岸に着きました。
さて、数時間黙々と歩いた後、われわれは黒い谷の入口に着きましたが、そこは全面黒い岩に囲まれ、黒い樹木しか生えていませんでした。そして黒い葉の茂みを通して、黒い鱗に被われた恐ろしい黒い大蛇が滑っているのが見えました。私は恐怖に捉えられて、この恐ろしい場所から逃げようと、背を向けました。しかし自分がはいって来た方向が見つかりません。それというのは、私のまわりにはどこもかしこも、黒い岩が井戸の壁のように聳え立っていたからです。
この有様に、私は泣きながら、地面に崩折れて、主人に叫びかけました、「おお善き人々の御子息よ、あなたはどうして私を、病苦と悲惨の道を通って死へと導きなすったのですか。悲しや、私はもう二度と、子供たちとその母親と私の母親に、会うことはありますまい。ああ、どうしてあなたは私を、貧しいけれども、あんなに平穏な生活から、引き出したのですか。いかにも私は、アッラーの路上の乞食にすぎなかったけれども、私は方々の回教寺院《マスジツト》の中庭に出入りして、行者《サントン》様方の立派な文句を承わっておりました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十二夜になると[#「けれども第七百九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると私の主人は、怒りもせずに、私に言いました、「男らしくしろ、ハサン・アブドゥッラーよ、そして勇気を取り戻せ。それというのは、お前はここで死ぬようなことはなく、やがてカイロに帰るだろう、もう貧乏人の間の貧乏人ではなく、王のなかでもいちばん富裕な王のように大金持になってな。」
こう語ってから、私の主人は地面に坐って、羚羊の皮の原稿を開き、親指をなめながらそれをめくりはじめ、まるで自分の婦人部屋《ハーレム》のまん中にでもいるように、落ち着き払って読みはじめました。それから、ひと時たつと、彼は頭をあげて、私を呼び、言いました、「お前は、やあ、ハサン・アブドゥッラー、われわれができるだけ早くここを出て、旅の目的地に行きたいと思うかな。」私は叫びました、「やあ、アッラー、行きたいかって、そりゃもうもちろんです。」そして付け加えました、「後生ですから、そのためには私はどうすればよいか、それだけはおっしゃって下さい。コーランの全章を誦しなければならないか。それとも、アッラーのあらゆるお名前とあらゆる神聖な属性とを、繰り返さなければならないか。それとも、十年間毎年つづけて、メッカとメディナに巡礼に行くと、誓いを立てなければならないか。さあ、言って下さい、おお御主人様、私は何でもします、何でも以上のことでもします。」
すると私の主人は、相変わらずやさしさをこめて私を見やりながら、申しました、「いや、ハサン・アブドゥッラーよ、そうではない。私がお前に頼みたいことは、そんなことよりもずっとやさしいことなのだ。ただここにあるこの弓矢を持って、この谷を歩き廻り、黒い角を持った大蛇に出会いさえすればよい。お前は上手だから、一発でそれを仕とめて、その頭と心臓を持ってきてくれ。もしお前がこの荒涼たる場所を出たいというなら、これだけしてくれさえすればよいのだ。」私はこの言葉に、叫びました、「やれやれ、そんなに造作ないことですか。じゃなぜ、おお御主人様、夫子みずからなさらぬのですか。私としては、もう自分のみじめな生活から動きなどせず、このままここにじっとして死んでしまうことにすると、はっきり申します。」けれどもベドウィン人は、私の肩に手をかけて、申しました、「思い出すがよい、おおハサン・アブドゥッラーよ、お前の妻の着物と、お前の家のパンのことを。」私はこれを思い出すと、涙に暮れ、私の家と私の家の人々とを救ってくれた人間には、何ごとも拒んではならぬことを、自分の魂のなかに認めたのでした。そこで私は震えながら弓矢を取りあげて、ぞっとするような爬虫類がのた打っているのが見える、黒い岩のほうに向いました。自分の求めるやつを見出すには、たいして暇どらず、その黒く醜い頭上に突っ立っている角で、それとわかりました。そこでアッラーの御名を念じながら、私は狙い定めて矢を放ちました。すると蛇は傷を受けて躍りあがり、見るも恐ろしくのたうちまわりながらあばれ、そのうちだらりとなって、次に地上に落ちて動かなくなりました。まちがいなくたしかに死んだとわかったとき、私は小刀でその首を切り、腹を開けて心臓をとり出しました。そしてこの二品を、主人のベドウィン人のところに持ってゆきました。
私の主人は愛想よく私を迎え、蛇の二品を受けとって、私に言いました、「今度は、火を起すのを手伝いに来てくれよ。」そこで私は枯草と小枝を集めて、主人のところに持ってゆきました。すると彼は、それを堆高《うずたか》く積みあげました。次に、胸から一個の金剛石を取り出して、折から天の最高点にあった太陽のほうにそれを向け、そこから一条の光線を迸り出させると、直ちに枯木の山に火がつきました。
さて、火がつくと、ベドウィン人は衣服の下から、小さな鉄の器《うつわ》と、ただ一つの紅玉《ルビー》の塊をくり抜いた小壜《こびん》を取り出しましたが、その壜のなかには赤いものがはいっていました。そして私に言いました、「この紅玉の壜はお前にも見えるだろう、ハサン・アブドゥッラー、しかし中にはいっているものが何か、お前にはわかるまい。」そしてちょっと言葉をとぎらせてから、付け加えました、「これは不死鳥の血なのだぞ。」こう話しながら、彼は壜の栓を抜き、中身を鉄の器にあけ、そこに角のある蛇の心臓と脳味噌を加えました。そして器を火にかけ、羚羊皮の原稿を開いて、私の理解力にはとんとわからぬ言葉を読み上げたのでした。
そして彼は突然すっくと立ち上がり、メッカ巡礼者が出発の時やるように、諸肌《もろはだ》を脱いで、蛇の脳味噌と心臓とに混ぜた不死鳥の血のなかに、自分の帯の端を浸し、それでもって背中と両肩を擦《こす》るように、私に命じました。それで私はその命令を実行しに取りかかりました。そしてその身体を擦るにつれて、背中と両肩の皮膚が膨れて破裂し、そこから徐々に翼が出てくるのが見られ、翼は見る見る大きくなって、やがて地までとどきました。するとベドウィン人は、力をこめて翼を動かして、じかに地面を打ち、突如飛び立って、空中に浮び上がりました。私は、こんな不気味な場所に置き去りにされるよりは、千の死のほうがましと思い、自分に残っている力と勇気を振い起して、幸い主人の帯の端が垂れ下がっていたので、それに力いっぱいすがりつきました。そして私は主人と一緒に、もう出られないものと観念していたこの黒い谷の外に、運ばれたのでありました。そしてわれわれは雲の境に到達したのでした。
ところで、私は、おおわが殿、われわれの空中飛行が何時間つづいたのか、申し上げることができません。けれども、われわれはやがて、水平線が遥かに青水晶の囲壁で閉ざされた、広漠とした平原の上にいたことは、存じておりまする。この平原の地面は金粉でできていて、その小石は宝石らしゅうございました。そして平原のまん中には、宮殿と庭園がぎっしりと立ち並ぶ町が、建てられておりました。
すると私の主人は叫びました、「これが『円柱のイラム』だ。」そして両翼を動かすのをやめて、それをじっと大きく張りながら、降りるにまかせ、私も主人と一緒に降りました。かくてわれわれは、アードの子シャッダードの都のまさに城壁の裾に、着陸したのでした。すると私の主人の翼は次第に小さくなって、なくなってしまいました。
ところでこの城壁は、金の煉瓦と銀の煉瓦を互いに組み合せて作られていて、天国の門に似た、七つの門が開かれていました。第一の門は紅玉《ルビー》、第二の門は翠玉、第三の門は瑪瑙、第四の門は珊瑚、第五の門は碧玉、第六の門は銀、第七の門は金でありました。
そしてわれわれは金の門から都にはいり、アッラーの御名を念じながら進みました。そして雪花石膏の列柱に立つ宮殿に縁どられた街々と、吸う空気は牛乳で、細流《せせらぎ》は芳わしい水でできている庭々を、横切って行きました。そして町を見下ろす宮殿に着きましたが、それは想像もつかぬ巧みさと壮麗さで建てられており、その露台は千本の金の柱で支えられ、色水晶で作られた欄干と、翠玉緑玉を鏤めた壁を持っておりました。宮殿の中央には、すばらしい庭園が美を誇り、その麝香のように香る地は、生粋の葡萄酒と薔薇水と蜜との三条の川に、潤されていました。その庭園のまん中には、一軒の亭《ちん》が建っていて、その円屋根はただ一個の翠玉で作られ、紅玉と真珠を鏤めた純金の玉座を蔽っておりました。そしてその玉座の上に、一つの金の小箱がございました。
ところで、おお当代の王よ、今|御手《おんて》の間にあるのは、まさにその小箱でございまする。
私の主人のベドウィン人は、その小箱をとって、開けました。するとそこに赤い粉末を見つけて、叫び出しました、「これが赤硫黄だ、やあ、ハサン・アブドゥッラー、これこそ、学者や哲学者たちの仙丹《キミヤ》で、彼らはいずれも、これを発見することなく死んでしまったのだ。」しかし私は言いました、「そんなつまらん粉なぞ棄ててしまって、おお御主人様、むしろこの宮殿に満ちあふれている宝石を、この小箱に詰めることにしましょう。」すると主人は憐れみをこめて私を見やって、言いました、「おお憐れな男よ、この粉こそは、地のあらゆる富の源《みなもと》そのものなのだ。この粉のほんのひと粒があれば、最も卑しい金属をも、黄金に変えるに十分なのだ。これぞ仙丹《キミヤ》だ。これぞ赤硫黄だ、おお憐れな無智の男よ。この粉末を以ってすれば、私がそうしたいと思えば、私はこの宮殿よりも美しい宮殿をいくつも建て、この町よりも豪奢な町をいくつも建設し、人々でも、信仰純粋な人々の良心でも買え、徳そのものさえも誘惑し、みずから王者の子ともなるだろう。」私はこれに言いました、「そして、おお御主人様、この粉末を以ってすれば、あなたは御自分の生命をただの一日でものばすなり、御自分の過ぎた生活の一時間たりと消すなり、おできになるでしょうか。」すると彼は答えました、「ひとりアッラーのみ偉大にましまする。」
それで私は、この赤硫黄の霊験の利き目があまり確実とは思えぬままに、むしろ宝石や真珠を拾うほうを悦びました。そして既にそれらを帯と衣嚢《かくし》とターバンにいっぱい詰めこんだとき、私の主人は私をどなりつけました、「汝の上に禍いあれ、おお粗野な精神の男よ。いったい何をしているのか。お前は知らないのか、万一われわれがこの宮殿とこの土地の宝石をただ一個でも盗もうものなら、われわれはたちまち殺されてしまうということを。」そして彼は小箱を持って、大股で宮殿を出て行きました。そこで私は、たいへん残念ながら、衣嚢《かくし》と帯とターバンを空《から》にして、主人の後に従いましたが、これらの数えきれない財宝のほうを、幾度《いくたび》も振り返らずにはいられませんでした。そして庭園で主人に追いつくと、主人は、私が眼の前に見えていて、私の指の届くところにあるすべてのものに、つい誘惑されることを恐れて、私の手を掴んで、町を通り抜けることにしました。そしてわれわれは紅玉の門から町を出ました。
それからわれわれが青水晶の地平線に近づくと、地平線はわれわれの前で開いて、通してくれました。これを越えたとき、われわれは最後にもう一度、この奇蹟の平原とイラムの都を眺めようと、振り返ってみましたが、しかし平原も都も、既に消え失せていました。そしてわれわれは水銀の河のほとりに出て、それをばこの前のときのように、水晶の橋を渡って横切りました。
河の向う岸には、われわれの牝駱駝が、二匹揃って草を食んでいるのを見つけました。私は旧友のほうに行くように、自分の駱駝のほうに行きました。そして友がわれわれの鞍の皮帯を締めた後、われわれはそれぞれの動物に乗りました。すると私の主人は言いました、「われわれはエジプトに戻るのだ。」私はこの吉報をアッラーに謝しながら、両腕を挙げました。
けれども、おおわが殿、金の鍵と銀の鍵とは、ずっと私の帯のなかにあって、私はそれが悲惨と病苦の鍵とは、知らなかったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十三夜になると[#「けれども第七百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それゆえ、われわれがカイロに着くまで、全旅行を通じて、私は幾多の悲惨、幾多の苦難を蒙り、健康を害したために起るあらゆる苦痛を忍びました。けれども、私にはずっとその原因がわからぬ宿命によって、旅の事故にさらされるのは私だけで、一方私の主人は、平穏で、上機嫌で、晴れ晴れの極みにあり、私を試みるあらゆる苦難によって、自分が栄えているという風でした。彼は危険と災害を微笑しながら通りすぎ、絹の敷物の上を歩くように、人生を歩いて行くのでございました。
われわれはこのようにしてカイロに着きましたが、私の最初に気を配ったことは、直ちに自分の家に駈けつけることでした。見ると家の扉は毀《こわ》れて開いていまして、野良犬が私の住居を住み家としているのでした。そして私を迎える者は誰もありません。母も、妻も、子供たちも、跡形も見えません。そこに一人の隣人が、私のはいる姿を見、絶望の叫びを聞きつけて、自分の扉を開けて、私に言いました、「やあ、ハサン・アブドゥッラー、どうかあなたの日々が、あの人たちの失った日々をもって、永くなりますように。お宅では皆さん亡くなってしまいました。」私は、この知らせを聞くと、死んだようになって、地に倒れてしまいました。
さて私が気絶から回復すると、そばに主人のベドウィン人がいて、私を介抱し、顔に薔薇水をかけているのを見ました。私は自分の涙と嗚咽にむせびながら、今度こそは、彼に向って呪いを浴せかけ、私の一切の不幸の原因を成したと言って咎めずにはいられませんでした。そして永い間、彼にこそ、私に重くのしかかってしつこくつきまとう苦難の責任があるとして、あらゆる悪態を吐いてやりました。しかし彼はその晴朗を少しも失わず、その平静を少しも棄てずに、私の肩に手をかけて、申しました、「一切はアッラーよりわれわれに来たり、アッラーの方《かた》に一切は逝くのじゃ。」そして私の手をとって、私の家の外に連れ出しました。
それから彼は、ナイル河畔にある壮麗な御殿に私を連れてゆき、無理やりそこに一緒に住まわせました。そしてどんなことも、私の魂をその苦難と懊悩から紛らすことができないのを見ると、彼は何とか私を慰めようと願って、自分の持つすべてのものを、全部私と共有しようと思いました。そして気前のよさをそのぎりぎりの果てまで押し進め、私に神秘な学問を教えはじめ、錬金術の書物を読んだり、降神術《カバラ》の原稿を解読したりすることを教えてくれました。またしばしば私の前に、鉛を何|斤《キンタル》も持ってこさせ、それを溶かし、それからそこに小箱の赤硫黄を少々加えて、その卑しい金属をこの上なく純粋な黄金に変ずるのでございました。
しかし私は、宝物のただ中にあり、私の主人が連日催してくれる歓楽と饗宴に取り囲まれつつも、身は苦痛に悩み、魂は不幸でした。そして彼がむりに私に着せてくれる豪奢な衣服や、貴重な織物の重さにも、接触にも、耐えるようにすらなりかねるのでした。この上なく結構な料理や、この上なく美味《おい》しい飲物を出してくれましたが、それも何の甲斐もありません。それというのは、私は一切に対して、味気なさと嫌悪しか覚えなかったのです。いくつものすばらしい部屋と、いくつもの香木の寝台と、いくつもの緋色の長椅子《デイワーン》も持っていましたが、しかし眠りはわが眼を閉ざしませんでした。ナイル河の微風涼しい、われわれの御殿の庭園には、インド、ペルシア、シナ、アンチル諸島から、多額の費用をかけて取りよせた、世にも珍奇な木々が植えられていましたし、巧みに築かれた機械によってナイル河の水を汲み上げて、大理石と雲斑岩の泉水のなかに、涼しい水束となって注ぎこまれてもおりました。しかし私はこれらすべてのものに、何の魅力も味わいませんでした。それというのは、解毒剤のない一つの毒が、私の肉体と精神に充満していたからでございます。
私の主人のベドウィン人はと言うと、その日々は快楽と逸楽のただ中で流れ、その夜々は天国の歓楽の前触れでした。彼は私のところから遠からぬ、黄金を織り込んだ絹布を張った亭《ちん》に住み、そこでは明りは月光のように柔らかでした。この亭は、素馨と薔薇の入りまじる、オレンジとシトロンの木の茂みのまん中にありました。そしてそこで、毎夜、新たな陪食者たちを呼んでは、豪奢にもてなすのでした。一同の心と官能とが、美酒と音楽と歌によって、逸楽に誘われる頃ともなれば、主人は彼らの眼前に、エジプト、ペルシア、シリアの市場で、非常な高価で買い求めた、天女《フーリー》のように美しい乙女たちを、呼び出すのでした。そして陪食者の一人が、その乙女のひとりに欲望の一瞥を投じれば、私の主人はその乙女の手をとって、それを望む男に引き合せながら、彼に言うのでした、「おおわが殿、この奴隷女をお宅にお連れになって、私を悦ばせて下さい。」こうして主人に近づく人はみなその友人となり、人々はもう主人のことを、「豪奢|公《アミール》」としか呼ばなくなったのでありました。
ところがある日のこと、私が苦悩のためやむなくただ独り暮している亭《ちん》に、主人はそれまでもしばしば私を訪ねに来てくれていましたが、その日は不意に、新たに手に入れた若い娘を一緒につれて、やってまいりました。その面は酔いと楽しさに輝き、眼は昂奮して、異常な焔に燃えておりました。そして私のすぐそばに坐りに来て、若い娘を膝に乗せて、私に言いました、「やあ、ハサン・アブドゥッラー、私はひとつ歌ってやろう。お前はまだ私の声を聞いたことがなかったな。まあ聞いてくれ。」そして私の手をとり、頭を軽く振りながら、恍惚とした声で、次の詩句を歌いはじめました。
[#ここから2字下げ]
乙女よ、来たれ。賢人とは、ただ悦びのみに己が生を占めさする者の謂《いい》なり。
信仰篤き人々は祈祷のために水を取り置くがよし、
汝は、われにこの酒を注げ、汝の頬の赤らみをさらにいみじきものとするこの酒を。
われは理性を失うまでにこれを飲まんと欲す。
されどまず飲め、恐るることなく飲めよ。しかして汝の唇もて香る杯をわれに与えよ。
われらに立ち会うものとては、吹く風にその香を乗するオレンジの木と、逃れ去る笑いさざめく細流《せせらぎ》のみ。
汝《な》が声は熱き思いのくさぐさをわれに歌えかし。されば鶯は妬みて口をつぐむべし。
されど恐るることなく歌え、熱き思いのくさぐさをわれに歌えよ、汝を聴くはただわれ一人のみ、
聞らく薔薇の響きと、わが心のときめきと、汝はその他の響きを聞かざるべし。
汝を聴くはただわれ一人、汝を見るはただわれ一人、おお、汝《な》が面衣《ヴエール》を棄てよ、
われらの快楽に立ち会うものとては、ただ月とその伴侶のみ、
身をかがめて、汝《な》が額に接吻《くちづけ》させよ。汝が口と、汝が眼と、雪のごと白き汝が胸に、接吻させよ。
ああ、恐るることなく身をかがめよ、われらに立ち会うものとては、ただ素馨と薔薇のみぞ、
わが腕に来たれ、恋情はわれを焼き、今は耐えがたや。
されど、何よりもまず、汝が面衣《ヴエール》を下ろせ。アッラーもしわれらを見たまわば、妬みたもうべければ。
[#ここで字下げ終わり]
このように歌い上げると、私の主人のベドウィン人は、深い幸福の溜息を吐き、頭を胸の上に垂れ、寝入ったような様子でした。すると膝の上にいた乙女は、主人の休息を乱さないようにと、その腕から抜け出して、そっと逃れ去りました。そこで私は、蒲団をかけ、頭に座褥《クツシヨン》をあてがってあげようと思って、近づいてみると、その息は絶えていることに気づきました。私は心配の極に達し、のぞきこんでみますと、主人は救いを予定された人々のように、人の世に微笑みかけながら、身まかっていたことがわかったのでございます。アッラーはこれに御慈悲を垂れたまわんことを。
何はともあれ、私に対しては、常に明朗と好意に満ちた人であった主人の逝去に、私は心を締めつけられ、彼に出会った日からというものは、あらゆる不幸が私の頭上に重くのしかかったことも打ち忘れて、私は彼のために豪奢な葬儀を営むように命じました。私は自身で彼の身体を香気の高い水で洗い、自然に穴のあいている個所全部には、香らせた綿を丁寧に詰め、毛を抜き、鬚は念入りに梳り、眉毛を染め、睫毛を黒くし、頭を剃ってあげました。それから、屍衣として、あるペルシアの王様のために織られたすばらしい織物で身を包み、それをば金を象眼した伽羅木の柩に納めました。
それがすむと、私は主人の気前のよさのためできた数多の友人を呼び集め、五十人の奴隷に、いずれも喪服を着せて、交代で柩を肩に担いで運ぶように命じました。そして葬列を組んで、われわれは墓地に向って家を出ました。このために傭っておいた大勢の泣き女は、嘆きの叫びをあげ、頭上に手帛を振り動かしながら、葬列に従い、一方コーランの読誦者は聖句を歌いながら、先頭に立って進むと、群衆はこれに答えて、繰り返しました、「アッラーのほかに神はなし。しかしてムハンマドはアッラーの使徒なり。」そして通りがかりのあらゆる回教徒《ムスリムーン》は、たとい手を触れるだけでも、いそいで柩を運ぶのを手伝いにやってきました。そしてわれわれは大勢の哀悼のただ中で、これを葬りました。そして私はその墓上で、羊と子駱駝の一群をそっくり屠《ほふ》らせました。
さて、こうしてわが亡き主人に対する私の勤めを果たし、葬儀の饗応を指揮し終えると、私は相続事務を整理しはじめるため、御殿にひとり引きこもりました。そして私の最初に気を配ったことは、まずはじめに金の小箱を開けて、まだ赤硫黄の粉がはいっているかどうかを調べることでした。けれどもそこに見出したのは、今でも残っているそのほんの僅かだけでして、それは今、御目《おんめ》の下にございまする、おお当代の王よ。それと申しまするのは、私の主人は、その前代未聞の濫費のお蔭で、何|斤《キンタル》も何|斤《キンタル》もの鉛を黄金に変ずるために、既にすっかり使い果たしてしまったのでありました。けれども、今に小箱に残っている少量でも、王中最も強大な王をも、富裕にするに足るものでした。ですから、これについては私は少しも不安を覚えませんでした。それに、私は自分の陥っていた情けない状態にあっては、財宝などはもう格別望みませんでした。さりながら、私は羚羊の皮の神秘な原稿の内容を、知りたいと思いました。私の主人は呪《まじな》いの文字を解読することを教えてくれたにもかかわらず、こればかりは、どうしても私に読ませようとはしなかったのでした。それで私はこれを開いて一読しました。そしてその時はじめて、おおわが殿、これはそのうちお話し申しまするが、いろいろな世の常ならぬ事どもの間に、五つの運命の鍵の、吉凶の霊験を知ったのでございます。そしてベドウィン人が私を買い求めて、自分と一緒に連れまわったのは、金と銀の二つの鍵の不祥な性質からまぬがれ、その悪い力を、私の上に及ぼすようにするためであったことがわかりました。そして私は、ベドウィン人を呪って、その墓上に唾《つばき》することをしないためには、預言者――その上に祈りと平安あれ――のあらゆる立派な思想に、助けを求めなければなりませんでした。
それゆえ、私はいそいで帯から二つの不吉な鍵をとり出し、永久に片付けてしまおうと、これを坩堝に投げこみ、溶かして蒸発させるため、火をつけました。同時に、光栄の鍵と知恵と幸福の鍵の二つを、探しはじめました。しかし御殿じゅう、隅の隅まで隈なく探しましたが空しく、見つかりませんでした。そこで坩堝のほうへ戻って、二つの呪われた鍵の溶けるのを見守りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十四夜になると[#「けれども第七百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、私がこの仕事に気をとられ、二つの凶の鍵をなくなしてしまえば、永久に自分の悪運からまぬがれるだろうと期待している間に、そしてこの破壊作業がなかなか思いどおりに捗《はかど》らないので、早めようとして火力を盛んにしていますと、そこに突然、教王《カリフ》の警吏たちが宮殿を襲うのが見えて、彼らは私に躍りかかって、私を彼らの御主君の御手の間に、引っ立ててゆきました。
そして、おおわが殿、御父君《おんちちぎみ》、教王《カリフ》テイルンは、私が錬金術の秘法を所持していることを御存じゆえ、即刻それを明かして利用させよとの厳重な仰せ。しかし私は、遺憾ながら、人民の圧迫者|教王《カリフ》テイルンは、この知識を正義に反して、悪のために用いなさるであろうことを承知しておりましたので、お話し申すことを拒みました。すると教王《カリフ》は逆鱗の極、私を鎖につながせ、土牢のうち最も暗い土牢に投げこませなさいました。そして同時に、われわれの宮殿をことごとく掠奪破壊させ、羚羊の皮の原稿と、赤い粉末の少量若干のはいっている金の小箱を、奪いなされました。そして小箱の保管をこの尊ぶべき長老《シヤイクー》に託しなされ、この方がそれを御手の間に持参なされた次第でございます、おお当代の王よ。そして先王は日々、私を拷問にかけさせ、かくして私の肉体の弱みによって、私の秘法を白状させようとの御所存でした。けれどアッラーは私に忍耐の徳を授けたまいました。そして幾年も幾年もの間、私は死にわが解放を待ちつつ、このように生きてきたのでございます。
さて今は、おおわが殿、私は心慰んで死ねるでござりましょう、私の迫害者は、アッラーにその御所行を御報告に行きなされ、私は今日、王中最も公正にして偉大なる王に、お近づき申すことができたのでござりますれば。
帝王《スルターン》ムハンマド・ベン・テイルンは、この尊ぶべきハサン・アブドゥッラーの話をお聞きになったとき、玉座から立ち上がって、老人に接吻なさりながら、お叫びになりました、「その下僕《しもべ》に、不正を償い、苦難を鎮めるを許したもうアッラーに、称讃《たたえ》あれ。」そして直ちにハサン・アブドゥッラーをば総理|大臣《ワジール》に任じて、御自身着ていらっしゃった王者の外套を、お着せになりました。そして老人を、王国で最も上手な医者たちの看護に委せられて、その恢復を助けるようになさいました。そして王宮で最も巧みな右筆たちに命じて、この稀代の物語を金文字で丁寧に書き記させ、これを王国の御文庫のなかに保存させなさいました。
それがすむと、教王《カリフ》は、赤硫黄の霊験を疑いなさらず、時を移さず、その効力をためしたいとお望みになりました。そしていくつもの素焼きの大釜のなかに、千|斤《キンタル》の鉛を投げ入れて溶かさせ、尊ぶべきハサン・アブドゥッラーの口授してくれた、魔法の言葉を唱えつつ、それに小箱の底に残っていたいくらかの赤硫黄の少量を、混ぜました。するとたちまち、全部の鉛は最も純粋な黄金に変ったのでした。
そのとき帝王《スルターン》は、この宝すべてがつまらぬことに費されてしまうことを望まれず、これをば至高者の御意に叶うような事業に用いようと、決心なさいました。そしてあらゆる回教国にその比を見ないような、回教寺院《マスジツト》の建立を発心なさいました。それで帝国で最も名の高い建築家たちを召し出して、御自分の指示にもとづいて、その寺院の設計図を引くことを命じられ、施工上の困難も、施工に要する金額の点も、意に介することないようにと仰せられました。建築家たちは、町を見下ろす丘の麓に、広大な方形を描き、そのおのおのの面は、天の主要な四点の一つに向くように致しました。そしておのおのの隅に、釣合い見事な塔を一基ずつ置き、塔の頂上は廻廊で飾り、黄金の円蓋《ドーム》を載せました。寺院《マスジツト》の四面おのおのには、流麗堅固な曲線の拱門《アーチ》を支える千本の柱を立て、そこに露台を設け、すばらしい透し彫りを施した金の欄干をつけました。伽藍の中心には、広大な円屋根を建てましたが、その作りは軽やかに空中に浮び、支えなしで天地の間に置かれているかに見えるほどでした。円屋根の天井は、瑠璃色の七宝で覆われ、金の星が鏤められていました。そして珍奇な大理石が石畳を成し、壁の寄木細工《モザイク》は、碧玉、雲斑岩、瑪瑙、真珠母、宝玉類でできていました。柱と拱門はすべて、組み合され、彫りつけられ、清らかな色彩を施された、コーランの章句で埋まっていました。そしてこの善美を尽した建物が、火災を受けないようにと、その建築には、木材は一切使われませんでした。そしてまる七年と、七千人の人間と、七千|斤《キンタル》のディナール金貨が、この回教寺院《マスジツト》竣功のために使われたのでした。人々はこれを帝王《スルターン》ムハンマド・ベン・テイルンの回教寺院《マスジツト》と呼び、今なおこの名で知られているのでございます。
尊ぶべきハサン・アブドゥッラーのほうは、ほどなく健康と体力を回復し、百二十歳の齢まで、尊ばれ敬せられて生きました。それが彼の天運によって定められた寿命でございました。さあれアッラーはさらに多くを知りたもう。これぞ唯一の生者にましまする。
[#ここから1字下げ]
――シャハラザードは、この物語をかく語り終えると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は言った、「いかにも、何ぴとも己が天命を逃れることはできぬ。しかし、おおシャハラザードよ、何ともこの物語はわが心を悲しましめた。」するとシャハラザードは言った、「王様はどうぞわたくしをお許し下さいませ、けれども、そのゆえにこそ、わたくしは時を移さず、長老《シヤイクー》マジド・エッディン・アブー・タヘル・ムハンマドの――アッラーは御慈悲をもって彼を包み、彼によき御恩寵を垂れたまえ――巧みな諧謔と楽しい知恵の集い[#「巧みな諧謔と楽しい知恵の集い」はゴシック体]から取り出した減らない草履《バーブジ》[#「減らない草履《バーブジ》」はゴシック体]の物語を、お話し申す次第でございます。」
そしてシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
巧みな諧謔と楽しい知恵の集い
減らない草履《バーブジ》
語り伝えますところでは、昔カイロに、アブー・カスィム・エル・タンブリという名前の薬種商で、吝嗇坊《けちんぼう》でたいへん名高い男がおりました。さて、アッラーは彼の売り買いの商売に、富と繁栄をお授け下さったにもかかわらず、彼は乞食のなかでもいちばん貧乏な乞食のような暮しをし、身なりをしておりました。その身に着けている着物といったら、もうちぎれちぎれでぼろぼろで、そのターバンは古く、汚なく、今は色も見わけかねるほどでした。けれども、彼の服装全部のなかで、その草履《バーブジ》こそは、彼の吝嗇振りを際立てるものでした。それというのは、それは太い釘で固められて、戦具のように頑丈で、裏皮は千回も修繕されて、河馬の頭よりも厚くなっているばかりか、甲は幾重にも継《つぎ》はぎされて、この草履《バーブジ》が草履《バーブジ》となって以来二十年、カイロでいちばん上手な靴屋と皮鞣屋《かわなめしや》たちも、この切れっ端を寄せ集めるには、もう技術が種切れになってしまったというほどでした。こうしたすべてのため、アブー・カスィムの草履《バーブジ》はすっかり重たくなって、久しい前から、これはエジプトじゅうでの諺《ことわざ》となってしまっていました。それというのは、何か重いものを言い表わそうと思う時には、いつもこれが引き合いに出されていたのです。例えば、招かれた客があまりいつまでも主人の家にねばっていたりすると、その人のことを、「あの男はアブー・カスィムの草履《バーブジ》のように、重い血を持っている」と、言うのでした。また、知ったか振りを振りまわす学校の先生といった類いの、ある学校の先生が、才智を見せびらかそうとしたりすると、その先生のことを、「悪魔退散、あの人はアブー・カスィムの草履《バーブジ》のように、鈍重な才智を持っているわい」と、言うのでした。また、荷担ぎ人足が、荷物の重さにまいったりすると、「アッラーはこの荷物の持主なんぞ呪ってくれるといい。こいつはアブー・カスィムの草履《バーブジ》のように重いわい」と言いながら、溜息をつくのでした。また、しかめ面《つら》の婆といった呪われた類いの、年とった女官|頭《がしら》が、後宮《ハーレム》で、御主人の若い妻女たちが、お互い同士で遊ぼうというのを、いけないと言ったりすると、「アッラーはこの厄介婆なんぞめっかちにして下さるといい。あの婆さんたら、アブー・カスィムの草履《バーブジ》みたいに重たいわ」と、言うのでした。また、あまり不消化なお料理が腸をつまらせて、お腹の中に暴風雨《あらし》を生じたりすると、「アッラーが助けて下さるように。あの呪われた料理は、アブー・カスィムの草履《バーブジ》のように重い」と、言うのでした。そのほかも同様で、とにかく重さがその目方を感じさせるような場合は、いつでもそう申しました。
さてある日のこと、アブー・カスィムは、普段よりもずっと得な売り買いの商売をして、たいへん御機嫌でした。ですから、アッラーが取引きで上首尾を恵んで下さった商人たちの習わしに従えば、大なり小なり、何か祝宴を張るのですが、彼はそんなことはせず、代りに風呂屋《ハンマーム》に行って、ひと風呂浴びるほうが得だと思いました。人の記憶するかぎり、彼はそんなところに足を踏み入れたことはないのでした。そこで、店を閉めて、彼はその草履《バーブジ》を穿く代りに、背中に背負って、風呂屋《ハンマーム》に向いました。というのは、履物の減るのを倹約するために、もうずっと前からこうしているのでした。風呂屋《ハンマーム》に着くと、彼は習慣に従って、敷居の上にずらりと並んでいる履物と一緒に、自分の草履《バーブジ》を置きました。そして入浴しに中にはいりました。
ところが、アブー・カスィムの皮膚にはもうすっかり垢がこびりついていたので、流しの男と按摩たちは、これを落すのにこの上なく骨を折りました。それで、日暮れ方、もう全部の浴客が立ち去った頃に、やっと何とか済みました。アブー・カスィムもようやく風呂屋《ハンマーム》を出られることになって、自分の草履《バーブジ》を探しました。けれども、それはもうその場になく、その代りには、レモン色の皮製の美しいスリッパが一足ありました。するとアブー・カスィムは思いました、「これはきっと、おれがずっと前から、こういった品を買いたいと思っているのを御承知になって、アッラーが贈って下さったものにちがいない。さもなければ、誰かがうっかりして、これをおれのやつと取りかえてしまったのかもしれん。」そして、もう自分が別な靴を買う心配がなくなったのにすっかり悦んで、それを穿いて、立ち去りました。
ところで、このレモン色の皮のスリッパは、まだ風呂屋《ハンマーム》にいた法官《カーデイ》のものでございました。アブー・カスィムの草履《バーブジ》はというと、下足番に当っていた男が、悪臭を放って風呂屋《ハンマーム》の入口を不快にしている、このひどい代物を見て、急いでこれをつまみ上げて、片隅に隠してしまったのでした。そのうち、日が暮れて張り番の時間が過ぎたもので、これを元の場所に戻すのを忘れて、帰ってしまったのでした。
ですから、法官《カーデイ》が入浴を済ますと、風呂屋《ハンマーム》の奉公人たちは、彼の命令にいそいで従って、そのスリッパを探しましたが、見つかりません。そして最後に、片隅に突拍子もない草履《バーブジ》を見つけますと、これはアブー・カスィムのものと、すぐわかりました。そこで一同彼を追っかけて飛び出し、引っつかまえると、犯罪物件を肩に担がせて、風呂屋《ハンマーム》に連れ戻しました。すると法官《カーデイ》は、自分の所有物を受け取ってから、彼にその草履《バーブジ》を返させ、そして彼が文句を言うのもかまわず、牢屋に送ってしまいました。それでアブー・カスィムは、獄死しないためには、全くいやいやながら、牢番や警察官たちに、たっぷりと|心付け《バクシーシユ》をはずまないわけにゆきませんでした。というのは、彼は吝嗇で満ち満ちていると同じくらい、金で溢れていることを、誰でも知っているので、なかなか安くは放してくれなかったのです。
こうして、アブー・カスィムは牢屋を出ることができました。けれども、もうこの上なく悲しみ、くやしがり、自分の不幸はこの草履《バーブジ》のせいだとして、こんなものは厄介払いをしてしまえと、ナイル河に走って行って、放りこんでしまいました。
ところが数日後、漁師たちがいつもよりもずっと重い網を、やっとこさ引き上げてみると、そこには例の草履《バーブジ》がかかっていて、これはアブー・カスィムのものと、すぐわかりました。そしてそれについているたくさんの釘が、自分たちの網の目を破ってしまったことを確かめて、すっかり腹を立てました。そこで彼らはアブー・カスィムの店に駈けつけて、持主を呪いながら、その草履《バーブジ》を店のなかに乱暴に投げこみました。力いっぱい投げられた草履《バーブジ》は、棚の上にあった薔薇水その他の香水の罎に当り、引っくり返して、粉微塵に壊してしまいました。
これを見ると、アブー・カスィムの辛さはぎりぎりの極に達して、彼は叫びました、「ああ、呪われた草履《バーブジ》め、おれの尻《けつ》の娘め、きさまはもうおれに損害をかけられないようにしてくれるぞ。」そしてこれを拾って、庭に行き、埋めてしまおうと、穴を掘りはじめました。ところが、隣人の一人で彼に恨みのある男が、復讐の機会とばかり、さっそく奉行《ワーリー》の許に駈けつけて、アブー・カスィムは自分の庭で、宝物を掘り出しているところだと、言いつけました。奉行《ワーリー》はかねて薬種屋の富と吝嗇を知っているので、この知らせが本当なことを疑わず、すぐさま警吏を派して、アブー・カスィムを引っ捕え、自分の前に連れてこさせました。不幸なアブー・カスィムが、自分は宝物なぞ見つけたわけじゃない、ただ自分の草履《バーブジ》を埋めようと思っただけだと、いくら誓って言っても、奉行《ワーリー》は、被疑者の伝説的な吝嗇とはおよそ反する、そんな奇妙なことは、信じようとしませんでした。そして、何としてでも金にしてやろうというつもりだったので、奉行《ワーリー》は悲しむアブー・カスィムに、自由の身になりたいなら、たいへんな巨額の金を納めろと強いました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十五夜になると[#「けれども第七百九十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてアブー・カスィムは、こうした切ない手続きを済まして釈放されると、絶望に鬚を掻きむしりはじめ、自分の草履《バーブジ》を取り上げて、是が非でも厄介払いしてやると誓いました。そこで、うまく行く最上の手段を思い耽りながら、長い間さまよったあげく、最後に、ずっと遠くの田舎にある運河まで行って、放りこんでやろうと決心しました。そして今度こそは、もう自分の草履《バーブジ》の話は聞かずにすむだろうと思いました。けれども運命の欲するところ、運河の水は草履《バーブジ》を流して、この運河によって水車が廻っている水車小屋の入口まで、曳いてゆきました。すると草履《バーブジ》は水車の間にひっかかって、廻転を狂わせ、水車をぶち壊してしまいました。それで水車小屋の主人たちは、故障の修繕に駈けつけると、その原因は、歯車に引っかかっているばかでかい草履《バーブジ》のせいと判明し、それはアブー・カスィムの草履《バーブジ》と、すぐわかりました。そして不幸な薬種屋は、またもや牢屋に放りこまれ、今度は、水車小屋の持主たちにひき起した損害に対し、巨額の賠償金を払えと申し渡されました。その上、自由の身を取り戻すためには、莫大な|心付け《バクシーシユ》も払わなければなりませんでした。けれども釈放と同時に、その草履《バーブジ》は彼に返されました。
そこで、当惑の極に達して、彼はわが家に帰り、露台に上がって、肱をつき、さて今はどうしたらよかろうかと、深く考えこみはじめました。そのとき彼は草履《バーブジ》を、露台の身近に置いていたのでしたが、見たくないので、これに背を向けておりました。するとちょうどそのとき、近所の人たちの犬が一匹、この草履《バーブジ》を見つけて、主人の露台からアブー・カスィムの露台の上に飛び移り、草履《バーブジ》の片方を口にくわえて、じゃれはじめました。こうして犬が戯れているうちに、その草履《バーブジ》は突然遠くに飛んで行って、不吉な天運はこれを、折から街を通りかかった老婆の頭上に、露台から落しました。鋲だらけの草履《バーブジ》のすさまじい目方は、老婆を押しつぶし、縦を横にめりこませてしまいました。そして老母の身内の人たちは、これがアブー・カスィムの草履《バーブジ》とわかって、法官《カーデイ》のところに訴えにゆき、身内の血の代価か、あるいはアブー・カスィムの死を要求しました。それで不幸な男は、法律に従って、血の代価を払わざるを得ませんでした。その上、入牢をまぬがれるためには、警吏と警察官たちに、大枚の|心付け《バクシーシユ》を払わなければならなかったのです。
けれども、今度こそは、彼の決心は定まりました。そこで彼は家に戻り、二つの宿命の草履《バーブジ》を取りあげ、法官《カーデイ》のところに戻るや、その二つの草履《バーブジ》を頭上高く挙げて、法官《カーデイ》と証人たちをはじめ、並いる人々残らず笑い出すほど勢いこんで、叫んだのでした、「おお法官《カーデイ》のお殿様、こいつが私の悩みの種でございます。この分では、やがて私は回教寺院《マスジツト》の中庭で、乞食をする羽目に追いこまれることでしょう。ですから折入ってお願い申し上げます。アブー・カスィムはもはやこの草履《バーブジ》の持主ではない、彼はこれを希望者に贈呈するから、将来これが惹き起す不祥事に、彼はもはや責任がない旨宣告する判決を、どうかお下しくださいませ。」こう言って、彼はその草履《バーブジ》を法廷のまん中に放り出し、裸足《はだし》のまま逃げて行ってしまいましたが、一方並いる一同全部は、あまり笑って、尻餅をついたのでございました。――さあれアッラーはさらに多くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、話すのをやめることなく、さらに語った。
アル・ラシードの道化役バハルル
わたくしの聞き及びましたところでは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、王宮に御一緒に住んでいて、御機嫌麗わしからぬおり、お心を紛らす役を勤める一人の道化役を、お抱えになっていらっしゃいました。この道化役は、「賢人バハルル」と呼ばれておりました。さてある日、教王《カリフ》は彼におっしゃいました、「やあバハルル、お前はバグダードにいる馬鹿者の数を知っておるか。」バハルルはお答えしました、「おおわが殿、その一覧表はちと長すぎることになりましょうな。」ハールーンはおっしゃいました、「それを作るようお前に託するぞ。正確であって欲しいな。」するとバハルルは咽喉から長い笑いを洩らしました。そこで教王《カリフ》はお尋ねになりました、「どうしたのじゃ。」バハルルは申しました、「おおわが殿、私は何でも疲れる仕事は大嫌いでございます。それゆえ、御満足を得るためには、これより直ちに、バグダードにいる賢人の一覧表を作るといたしましょう。なぜというに、それならば、水をひと口飲む時間もかからない仕事でございますから。そしてこの表を御覧になれば、これはごく短いものでしょうが、わが君は、アッラーにかけて、御領土の首都の馬鹿者の数がどのくらいか、お分りになることでございましょう。」
またこれも同じバハルルが、ある日、教王《カリフ》の玉座に坐ったところ、不届き至極と、守衛たちから、棒で散々に殴られました。この際に彼のあげた物すごい叫び声は、全王宮を驚かし、教王《カリフ》御自身までその場にお出でになりました。ハールーンは、御自分の道化役がさめざめと泣いているのを御覧になると、慰めてやろうとなさいました。ところがバハルルは申し上げたのでした、「悲しいかな、おお信徒の長《おさ》よ、私の苦痛は慰めようがございません。なぜなら、私が泣いているのは、わが身のことではなく、御主君|教王《カリフ》の御身《おんみ》のことでございますから。事実、私がただ一瞬玉座を占めたからといって、こんなに打擲を受けたとすれば、何年も何年も玉座を占めなさったお方には、今に何という打擲の雨霰のおそれがあることでござりましょうか。」
またこれもやはり同じバハルルは、賢明にして結婚を忌み嫌ったのでございます。ハールーンは彼に悪戯をしてやろうとなすって、この女ならきっとお前を幸福にする、それは御自分が引き受けるからと請け合いなすって、御自分の奴隷のなかの一人の乙女と、むりやり結婚させなさいました。それでバハルルも御意に従わないわけにゆかず、婚姻の部屋へとはいりましたが、そこにはとびきりの美しさの若妻が、彼を待っていました。ところが、そのそばに横になったかと思うと、彼は突然恐れ戦いて起き上がり、まるで目に見えない敵たちに追いかけられているみたいに、部屋の外に逃げ出し、王宮じゅうを気違いのように走りはじめました。教王《カリフ》は、起ったことをお聞きになると、バハルルを御前に呼びつけなすって、お尋ねになりました、「何ゆえお前は、おお呪われた者よ、お前の妻にこのような侮辱を与えたのか。」バハルルはお答えしました、「おおわが殿、恐怖ばかりは薬のない病でございます。ところで私は、それはもうたしかに、君が寛大にもお授け下された妻に対しては、何ら非難するものはございません、美しくもありしとやかでもありますれば。けれども、おおわが殿、私は婚姻の床にはいるやいなや、わが妻の胸から一時に出てくるたくさんの声を、はっきりと聞いたのでございます。一つの声は私に着物をくれと申し、もう一つの声は絹の面衣《ヴエール》をねだり、こちらの声は草履《バーブジ》、あちらの声は刺繍をした上着、また別な声はほかの品々、といった工合です。そこで私は、自分の恐怖を制しかね、君の仰せと若い乙女の色香にもかかわらず、今の私よりももっと馬鹿に、もっと不幸になっては大変と、一所懸命逃げ出した次第でございます。」
またこれも同じバハルルは、ある日、教王《カリフ》が重ねて二度、お贈りになった一千ディナールの贈物を、御辞退申しました。教王《カリフ》はこの無欲ぶりにすっかり驚きなすって、彼にその理由を尋ねなさると、片足を伸ばし、片足を曲げて坐っていたバハルルは、御返事代りにただ、アル・ラシードの御面前に、おおっぴらに、両足を同時に伸ばしただけでした。教王《カリフ》に対するこの無上の無礼と不敬を見て、宦官長は、これに暴力を加えて罰しようと思いました。けれどもアル・ラシードは、合図をなすってこれを押しとどめ、バハルルにこの無作法の理由をおただしになりました。するとバハルルは答えました、「おおわが殿、もし私が賜わり物をお受けしようとて手を伸ばしたならば、私は両足を伸ばす権利をば、永久に失ってしまうことでござりましょう。」
また最後にこれもやはりバハルルその人のこと、ある日、折しも遠征から帰って来られた、アル・ラシードの天幕《テント》の下にはいりますと、教王《カリフ》はお喉が渇いて、大声で一杯の水を求めていらっしゃるところでした。バハルルはいそいで一杯の冷水を持って駈けつけ、それを差し上げながら申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、まずお飲みになる前に、どうか伺わせていただきとう存じますが、万一この一杯の水が、たまたま見つからぬとか、手に入りかねるとかいう場合でしたら、この一杯を、何ほどの値いでお買い上げなさいましょうか。」アル・ラシードはおっしゃいました、「これを手に入れるためには、必ずやわが帝国の半ばを与えたであろう。」するとバハルルは申しました、「ではお飲み下さいませ。何とぞアッラーは、これをば御心《みこころ》の上に快味満ちたものとなされますように。」そして教王《カリフ》が飲みおえなさると、バハルルは申し上げました、「そして万一、おお信徒の長《おさ》よ、これをお飲みになった今、この一杯の水が、やんごとなき膀胱での尿閉塞のために、玉体より出でるを拒むようなことがあったら、これを外に出す方法を、何ほどの値いでお買い上げなさいましょうか。」アル・ラシードはお答えになりました、「アッラーにかけて、その場合には、たしかにわが帝国縦横全土を与えるであろう。」するとバハルルは、にわかに悄然として、申しました、「おおわが殿、秤《はかり》にかけて、一杯の水や一回の尿よりも重からぬ一帝国とあらば、わが君におかけ申すあらゆる御心労と、われわれに惹き起す流血の戦争なぞを、要すべきではございますまいが。」ハールーンはこれをお聞きになって、泣き出されたのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、その夜は、さらに言った。
世界平和への招待
語り伝えられまするところでは、むかしある敬うべき村の長老《シヤイクー》が、自分の農園に、立派な鶏小屋を持っていて、あらゆる面倒をみてやり、そこには雄の鶏と雌の鶏がたくさんいて、見事な卵とすばらしい食用の雛を産んでくれていました。さて、彼はその雄の鶏の間に、冴えた声をし、輝かしい金色の羽を持った、大きな実に見事な「雄鶏」を一羽持っていましたが、これは外側《そとがわ》のあらゆる美質と共に、世間の事柄や、時代の変化と、人生の裏面についての、警戒と知恵と経験を授けられておりました。この雄鶏は自分の妻たちに対しては、公正と懇切に溢れ、熱意と等しく公平を以って、妻たちへの義務を果たし、彼女たちの心中に嫉みを、眼中に憎しみを、はいらせることのないようにしておりました。ですから、鶏小屋の全員の間で、恩威の点で、夫たちの亀鑑《かがみ》と仰がれておりました。主人はこれを「暁の声」と呼んでいました。
さてある日のこと、「暁の声」は、妻たちが子供の世話を見たり、羽をつくろったりしている間に、農園の地所の見物に出ました。そして自分の見るものに感嘆しながらも、行く先々で、小麦や、大麦や、とうもろこしや、胡麻や、蕎麦や、粟などの穀粒に出あうにつれて、地面からじかに突っついて啄《ついば》んで行きました。そして、見つけものと探しものに引かれて、思わず遠くまで行ってしまい、気がついてみると、村と農園の範囲外に出て、かつて見たことのない荒れた土地に、全く一人ぽっちになっておりました。右を見、左を見ても空しく、一人の友人の顔も、一人の親しい人も見当りませんでした。そこで困りはじめて、短い不安の叫びをいくつかあげました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十六夜になると[#「けれども第七百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼が今来た道を引っ返そうと用意をととのえているところに、ふとその視線は、遠くから大股でこちらにやってくる一匹の「狐」の上にとまりました。これを見ると、彼は生命を気づかって身ぶるいして、敵に背を向けると、翼を拡げて力いっぱい飛び立ち、崩れた壁の天辺に飛び上がりました。そこにはちょうど鳥がとまれるだけの場所しかなく、「狐」は何としても、そこまでは来られないのでした。
すると「狐」は、鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、啼き立てながら、息せき切って、壁の下まで着きました。けれども、自分の食べたい鶏のところまでよじ登る術《すべ》はないと見ると、彼は鶏のほうへ頭を上げて、話しかけました、「御身の上に平安あれ、おお吉兆の顔よ、おおわが兄弟、おお愛すべき仲間よ。」けれども「暁の声」はこれにその挨拶《サラーム》を返さず、目をくれようともしませんでした。「狐」はこれを見て、言いました、「おおわが友、おお優しい方、おお美しい方よ、なぜあなたは私にただのひと言の挨拶も、ただの一顧もして下さらないのか、私は一大情報を知らせてあげたいと、こんなに思っているのに。」けれども「雄鶏」は、何も言わないことでもって、あらゆる申し出とあらゆる世話を断わったので、「狐」は言葉を継ぎました、「ああ、わが兄弟よ、もしあなたが、私のお知らせするように仰せつかっていることを、御存じでさえあったら、あなたは大急ぎで下りてきて、私を抱き、私の口に接吻なさるでしょうがねえ。」けれども「雄鶏」は依然無関心と上の空を装いつづけて、何とも答えずに、円く動かない眼で遠くを眺めておりました。すると「狐」はさらに言葉を継ぎました、「こういうことなのですよ、おおわが兄弟よ、百獣の帝王《スルターン》、即ち『獅子』の殿様と、百鳥の帝王《スルターン》即ち『鷲』の殿様とが、たった今、花と細流《せせらぎ》に飾られた緑の草原のただ中で、会見なされ、お二人のまわりに、天地のあらゆる禽獣の代表者をお集めになった、虎、ハイエナ、豹、山猫、黒豹、金狼、羚羊、狼、兎、家畜、禿鷹、隼《はやぶさ》、烏、鳩、雉鳩、鶉、鷓鴣《しやこ》、家禽、その他あらゆる鳥など。そしてわれわれの二人の君主は、臣下全部の代表者が御手の間にまかり出たとき、勅令によって、次のことを布告なされたのです。今後は居住し得る地の全面に亘って、安泰と友愛と平和が主人となって支配しなければならぬ、愛情と同情と友誼と愛こそが、野獣、家畜、鳥類の諸部族の間に、許された唯一の感情とならねばならぬ、忘却が各種族の宿怨と憎悪を消し去らねばならぬ、全体と各自の幸福こそ、あらゆる努力の向うべき目的であるとね。そして両王は、かかる事態に背く者は何者たりとも、即刻最高裁判所に召喚せられ、裁判され、上訴権なしに刑を申し渡されるであろうと、決定なされました。そして両王は私を、現在の勅命の伝令使に任命なされ、この会議の決定を全地に布告しに行くよう仰せつけられ、反抗者あらばこれをその反抗の由々しさに応じて罰するべく、その名を報告せよとの御命令を受けました。そのゆえにこそ、おおわが兄弟『雄鶏』さんよ、今私はこうして、あなたのとまっているこの壁の下にいるわけです。それというのは、実際のところ、私こそ、私自身の眼を持った私、余人ならぬこの私こそは、われわれの支配者御領主方の代表者で、代理者で、勅使で、全権大使なのですからね。そのゆえにこそ、先ほど、私は平安の祈りと友情の言葉をもって、あなたに近づいたわけです、おおわが兄弟よ。」
こうした次第です。けれども「雄鶏」は、この大演説すべてを、まるで聞いていないみたいに、てんで注意を払わずに、相変らず無関心な様子で、円いうつろな眼を時々閉じては、頭を軽く振りながら、遠くを眺めつづけておりました。「狐」は、この獲物をおいしくかぶりつきたい望みに心を燃やしつつ、言葉を継ぎました、「おお私の兄弟よ、どうしてあなたは、私に返事を賜わるなり、ひと言かけて下さるなり、ちょっと私のほうに目をくれるなりして下さらないのですか、私は百獣の王、われらの帝王《スルターン》『獅子』君と、百鳥の王、われらの帝王《スルターン》『鷲』君と、両君の密使であるのに。ところで、失礼ながら御注意させていただきたい。もしあなたが私に対してあくまでも口をつぐんでいらっしゃるなら、私としてはやむを得ず、このことを閣議に報告しなければなりませんぞ。そうなるとあなたは、新しい法律の適用を食らう恐れが多分にありますぜ。何しろこれは、たとい生き者の半数の首を刎ねさせるに到ろうとも、世界平和を確立しようとの熱意を断じて枉げないのですからねえ。されば、これを最後にお願いしますが、おおわが愛すべき兄弟よ、あなたはなぜ私に答えて下さらないのか、せめてそれだけでも伺わせていただきたい。」
すると、その時まで傲然と無関心にとじこもっていた「雄鶏」は、首をのばして、頭をかしげながら、自分の右の眼の視線を「狐」のほうに落して、これに言いました、「まことに、おおわが兄弟よ、お言葉はわが頭上と眼の上にあります。そして私は心中であなたを、われらの帝王《スルターン》『鷲』君の使節、代理者、使者、全権、大使として、尊敬いたしております。けれども、私がお答えしないとしても、それは傲慢とか、反抗とか、その他の咎むべき感情によるものとは、お思いにならないで下さい。否、あなたの御一命にかけて、そうではありません、それはただ、向うに、私の前に、さっきから見えているし、今も見えつづけているものに、私はたいへん不安を覚えていたからにほかなりません。」すると「狐」は尋ねました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが兄弟よ、いったいあなたにはそんな風に、何が見えていたし、今も見えつづけているのですか。悪魔の遠ざけられんことを。何も大したことではないし、災いのことでもないでしょうね。」すると「雄鶏」は、いっそう長く首をのばして、言いました、「何ですって、おおわが兄弟よ、あなたには私の見ているものが見えないのですか、アッラーはあなたの尊敬すべきお鼻の上に、少々藪睨みとはいえ――こう申しては失礼ながら、――鋭い二つの眼をつけて下さったというのに。」すると「狐」は不安げに尋ねました、「だが要するに、何が見えるのですか。後生だから、言って下さい。それというのは、私はいかようにも藪睨みの覚えはないとはいえ――こう申しては何ですが、――今日は少々眼の工合が悪いもので。」すると鶏「暁の声」は言いました、「実際のところ、私には砂煙が舞い上がって、空中に、一群の狩猟用の鷹が、輪を描いているのが見えるのです。」この言葉に、「狐」は震え出して、不安の極で尋ねました、「あなたに見えるのはそれだけですか、おお吉兆の顔よ。地上には何も走っているものが見えませんか。」すると「雄鶏」は、首を右と左に動かしながら、長いこと地平線をじっと見つめて、そのあげく言いました。「いかにも、何か地上を四つ足で走っているものが見えます、足の上に丈《たけ》が高く、長身で、すらりとし、細く尖った頭に、長い耳が垂れている。そしてその何かは、こっちにどんどん近づいて来ますよ。」すると「狐」は、全身を震わせながら、尋ねました、「あなたに見えているのは、兎猟犬じゃありませんか、おおわが兄弟よ。アッラーはわれわれを守りたまえかし。」すると「雄鶏」は言いました、「はたしてこれが兎猟犬かどうか、私にはわかりませんね。私はまだそんな種類のものを見たことがないので、ただアッラーだけが御存じですからね。けれどもいずれにせよ、それが犬にはちがいないと思いますよ、おお美しい顔よ。」
「狐」はこの言葉を聞くと、叫びました、「私は、おおわが兄弟よ、これであなたにお暇《いとま》を告げなければなりません。」こう言うと、彼はくるりと背を向けて、「安全の母」に身をゆだねながら、脚を風にまかせて逃げ出しました。すると「雄鶏」はこれに叫びかけました、「おーい、おーい、兄弟よ、私は降りますよ、降りますよ、どうして私を待って下さらないのですか。」すると「狐」は言いました、「というのは、おわかりだろうが、私は兎猟犬が元来大嫌いでね。あいつは私の友達でもなければ、縁故でもないのです。」「雄鶏」は言葉を継ぎました、「けれども、おお祝福の顔よ、たった今あなたは言ったところじゃありませんか、あなたは、われわれの部族の代表者大会で決定された、世界平和の勅命を布告するために、われわれの御主君からの代理者として、勅使として見えたのだと。」すると「狐」は、ずっと遠くから答えました、「いかにもそのとおり、そのとおりですよ、おおわが兄弟『雄鶏』さん、ただあの牛太郎の兎猟犬めは――どうかアッラーはやつを呪って下さるように、――会議に出席するのを見合せて、あの種族は代表を派遣しなかったもので、世界平和加盟部族の共同宣言の際にも、やつの名は洩れていたのです。ですから、おお優しさ満てる『雄鶏』さんよ、私の種族とやつの種族との間には、いつも反目があり、私個人とあいつ個人との間には、反撥があるのです。どうかアッラーは、私がここに戻ってくるまで、あなたを達者の身でいさせて下さるように。」
「狐」はこう語って、遠くに姿を消してしまいました。こうして「雄鶏」は、その機転と明敏のお蔭で、敵の歯をまぬがれました。そして壁の上からいそいで降りて、自分の鶏小屋に無事連れ戻して下さったアッラーを讃えつつ、農園に辿りつきました。そしてすぐさま妻たちと隣人たちに、先祖代々の仇敵に、見事ひと泡吹かせてやったことを話しました。すると鶏小屋の雄鶏は皆、大気のうちに彼らの悦びの朗々たる凱歌をあげて、「暁の声」の勝利をことほいだのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、その夜は、さらに語った。
床入り封じの呪《まじな》い
語り伝えまするところでは、ある日、王様方の間の一人の王様が、その政務所《デイワーン》のまん中の玉座にお坐りになって、臣下たちを謁見していらっしゃると、そこに、頭の上に、季節のはしりの美しい果物とさまざまの野菜の籠をのせた、農夫を業とする一人の老人《シヤイクー》がはいってまいりました。彼は王様の御手の間の床に接吻して、王様の御上《おんうえ》に祝福を祈り、はしり物の籠を、献上品として捧げました。王様はこれに挨拶《サラーム》をお返しになってから、お尋ねになりました、「葉に蔽われたこの籠のなかには何があるのか、おお老人《シヤイクー》よ。」農夫は申しました、「おお当代の王様、これは私の土地にできた初物の、新鮮な野菜と果物でございまして、私は季節のはしりとして、これをお届け申しまする。」すると王様はおっしゃいました、「親しみこめて悦んで。これは嘉納されるぞよ。」そして王様は、籠の中身を凶眼から防ぐ木の葉を取りのけなさると、中にはすばらしい縮れた胡瓜や、柔らかいゴンボや、バナナや、茄子や、レモンや、その他さまざまの季節はずれの果物と野菜があるのを御覧になりました。それで「マーシャーアッラー(1)」とお叫びになって、縮れた胡瓜を一本お取りになって、大悦びでお噛りになりました。次に宦官たちに、残りを後宮《ハーレム》に持ってゆくようお言いつけになりました。宦官たちはいそいで御命令を実行しました。すると婦人たちもまた、これらのはしり物を食べて、たいそうおいしさを感じました。そしてお互いに慶し合いながら、めいめい自分の好きな品を取りながら、言いました、「どうか来年のはしりの物が、わたくしたちに健康をもたらし、わたくしたちを達者と美しさのなかに見出しますように。」次に籠に残っている分を奴隷たちに配り、彼女たちは異口同音に申しました、「アッラーにかけて、このはしり物は何とも結構ですわ。これを持ってきてくれた爺さんには、たしかに|心付け《バクシーシユ》をあげなければいけませんね。」そして宦官たちを介して、百姓《フエラーハ》に金貨百ディナールを贈りました。すると王様もやはり、召し上がった縮れた胡瓜にこの上なく御満足で、婦人たちの贈物に、さらに二百ディナールを付け加えなさいました。こうして百姓《フエラーハ》は、そのはしり物の一籠に対し、金貨三百ディナールを受け取ったわけでございます。けれどもそればかりではありません。というのは、帝王《スルターン》は農業の事をはじめ、その他いろいろの事について、彼に質問なさってみて、この男がすっかりお気に召して、その答えが御意に叶ったのでございました。それというのは、この百姓《フエラーハ》は雅びやかな言葉と、雄弁な舌と、口をついて出る応答と、豊かな機智と、躾けのよい動作と、礼儀正しく上品な言葉づかいを持っていたからです。それで帝王《スルターン》は、これをさっそく陪食者にしたいと思いなさり、これにおっしゃいました、「おお老人《シヤイクー》よ、お前は王者のお相手の致し方を知っているかな。」百姓《フエラーハ》はお答えしました、「存じておりまする。」すると帝王《スルターン》は仰せになりました、「よろしい、おお老人《シヤイクー》よ。では早くお前の村へ戻って、アッラーが今日お前の分としてお授けなされたものを、家族に届けた上で、大急ぎで余に会いに戻ってきて、今後はわが陪食者となってくれよ。」百姓《フエラーハ》は承わり畏まってお答えし、アッラーの贈りたもうた三百ディナールを、家族に届けに行った後、王様にお目にかかりに戻ってみると、王様はちょうどその時、夕食をとっていらっしゃいました。そして王様は彼をおそばの、大皿の前に坐らせなすって、彼の頂戴できるだけ、飲み食いさせなさいました。そして彼を最初の時よりもさらに面白い男とお思いになり、すっかりお好きになって、これにお尋ねになりました、「お前は定めし、語るも聞くも面白い物語を、いろいろと知っているにちがいない、おお老人《シヤイクー》よ。」すると百姓《フエラーハ》は答えました、「はい、アッラーにかけて。では明晩、それをば王様にお話し申し上げましょう。」すると王様は、このお約束に、御満悦の極に達しなされ、御満足に身を揺りなさいました。そしてこの陪食者にお心尽しと御友情のしるしを与えようとて、御自分の後宮《ハーレム》から……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十七夜になると[#「けれども第七百九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……御自分の後宮《ハーレム》から、女帝《スルターナ》の侍女のうち、いちばん若くていちばん美しく、処女で封印をされた乙女をお呼び出しになって、これを彼に贈物としてお与えになりました、実はこれをお買いになった日から、御自分のために別にとっておかせ、特別の御馳走として、御自分用にあてていらっしゃったにもかかわらず。そして御自分の御殿のそば近くの御殿にある、美しい一室で、豪華な家具を入れ、あらゆる便宜の備えてあるお部屋を、新婚夫婦に自由にお使わせになりました。そして二人にその夜のあらゆる歓楽をお祈りになってから、そこに二人だけを残して、御自分の後宮《ハーレム》にお戻りになったのでした。
さて、乙女は着物を脱いで、横になりながら、自分の新しい主君が来るのを待ちました。農夫の老人《シヤイクー》は、生れてから白い肉身を見たことも、味わったこともなかったので、自分の見るものに驚嘆し、白い肉身を形づくりたもう御方《おんかた》を、心中で讃えました。そして若い娘に近づいて、このような際に普通に行なわれるあらゆるふざけを以って、これとふざけはじめました。ところが、どうした加減かどうしたわけか、当人にもわからないが、「父親の息子」は頭をもたげようとはせず、元気のない眼をして、下を向いたまま、まどろんでいるのでした。そして果物作りがいくらこれを叱咤激励してもだめで、全く聞きわけがなく、言うことを聞かず、あらゆる励ましに対して、何ともわけのわからない無気力と強情を以って抵抗するのでした。憐れな果物作りは恥じ入りの極に達して、叫びました、「全く、こいつは驚き入った事件じゃわい。」すると若い娘も、子供の欲望を目覚めさせる目的で、これと戯れはじめ、一緒にぶちっこ遊びをしたり、あらゆるかわいがりでかわいがったり、あるいは撫で、あるいは撲って、道理を聞かせはじめましたが、やはりこれに首尾よく目を覚ます決心をさせるには至りませんでした。そしてしまいには叫びました、「おお御主人様、どうかアッラーが進歩を遂げさせて下さいますように。」そして何ごとも何にも役に立たないのを見ると、彼女は言いました、「おお御主人様、あなたもなぜ『父親の息子』が目を覚まそうとしないのか、きっとわけがわからないにちがいないと存じますが。」彼は言いました、「そうだよ、アッラーにかけて、わからないよ。」彼女は言いました、「それはてっきり、子供の父親に、床入り封じの呪《まじな》いがかけられているからですよ。」彼は尋ねました、「では、おお賢《さか》しい娘よ、その呪いを解《と》くためには、どうすればよいのかね。」彼女は言いました、「どうぞ御心配なく。私が心得ておりますから。」そして娘は即刻即座に立ち上がり、乳香を取り上げ、それを香炉に投げ入れながら、死者の屍体の上にするように、夫に燻蒸《くんじよう》を施しはじめて、唱えました、「願わくはアッラーは死者たちを目覚ましたまわんことを。眠れる者どもを目覚ましたまわんことを。」それが終ると、水を満した壺を取り上げ、死者の屍体を経帷子で包む前にするように、「父親の息子」に水を振りかけはじめました。こうして水を浴せた上で、彼女はモスリンの肩掛けを取り上げ、死者を経帷子で包むように、眠った息子をそれで包《くる》みました。そして、これらの埋葬前の予備の儀式万端を真似て済ませると、彼女は帝王《スルターン》が自分と夫につけて下さった大勢の女奴隷を呼んで、一同に憐れな果物作りの身体の、一同に見せたところを見せましたが、農夫は身体を半ば肩掛けで蔽われ、香煙に包まれて、じっと横たわっているのでした。これを見ると、女たちは、大笑いの叫びと爆笑をあげながら、御殿じゅうを逃げまわり、自分たちが今見たところを、見なかった女全部に、話して聞かせたのでございました。
さて翌朝、帝王《スルターン》は平生よりも早くお起きになって、陪食者の果物作りをお呼びになり、朝の挨拶をなさってから、これにお尋ねになりました、「お前の夜はどのように過ぎたかな、おお老人《シヤイクー》よ。」すると百姓《フエラーハ》は自分の経験したこと全部を、細かい点もお隠し申さず、帝王《スルターン》にお話し申しました。これをお聞きになって、帝王《スルターン》はたいそう笑い出しなされ、尻餅をおつきになったほどでした。それからお叫びになりました、「アッラーにかけて、お前の床入り封じの呪《まじな》いを、そのように正しく取り扱ったあの娘は、まことに学問と機智と才気を授けられた娘じゃ。それでは余はあれを取り戻して、わが個人用に致すとしよう。」そして娘を召し出して、起ったことを話すようにお命じになりました。すると若い娘は、事を起ったとおりそのまま王様に繰り返し、強情な「父親の息子」の眠りを追い払うために自分のした努力と、最後にこれに加えたが、効なく終った手当てをば、委細詳しくお話し申し上げました。王様は御満悦の極で、百姓《フエラーハ》のほうを向いて、お尋ねになりました、「本当かな、これは。」百姓《フエラーハ》はうなずいて肯定して、眼を伏せました。王様は声を限りに大笑なさりながら、これにおっしゃいました、「汝の上なるわが生命《いのち》にかけて、おお老人《シヤイクー》よ、起ったことを今一度語ってくれ。」そして憐れな男が自分の話を繰り返しますと、帝王《スルターン》は涙を流して面白がられ、叫びなさいました、「ワッラーヒ、これぞまことに不思議なことじゃ。」次に、折から告知僧《ムアズイン》が光塔《マナーラ》の上から礼拝の時刻を告げたので、帝王《スルターン》と果物作りは創造主に対するお勤めを果たし、それから帝王《スルターン》はおっしゃいました、「今は、おお心地よき人々の長老《シヤイクー》よ、わが悦びを全きものとするために、いそぎ約束の物語を語り聞かせよ。」果物作りは申しました、「親しみこめて心から悦んで、また、われらの寛仁なる御主君に対する当然の敬意として。」そして、王様の御前に、両脚を曲げて坐ると、彼は語りました。
二人の麻酔薬《ハシーシユ》飲みの物語
されば、おおわが殿、わが頭上の冠よ、むかし町々の間のある町に、職業は漁師でございましたが、仕事は麻酔薬《ハシーシユ》飲みという、一人の男がおりました。さて、この男は一日の労働の産物を売り上げますと、儲けの一部は食糧として食べ、残りは、精製して麻酔薬《ハシーシユ》にするあの催笑の薬草として食べておりました。そして彼は一日に麻酔薬《ハシーシユ》を三服用いました、朝の食事前に一服呑み、昼に一服、夕方に一服と。こうして彼は、陽気と無茶のうちに生活を送っておりました。けれどもそれによって、漁という自分の仕事を怠けるわけではなく、しばしば妙な工合に仕事をしていたのでございます。例えばこういうことがございました。ある夕、いつもよりも多量の麻酔薬《ハシーシユ》を飲んでから、まず油蝋燭に火をともして、その前に坐り、自分自身に話しかけて、いろいろ自問自答をしながら、夢と静かな楽しみとのあらゆる快味を満喫しておりました。長いことこうしていまして、そのうち夜の冷気と満月の光によって、やっとその楽しい夢想から引き出されました。すると彼は自分自身に話しかけながら、言いました、「おい、何某よ、見てごらん。街はひっそりして、微風《そよかぜ》は涼しく、月の光は散歩に誘っている。人の行き来がなくて、お前の楽しみと独りの贅沢を誰にも邪魔されないうちに、ひとつ涼みに出て、世間の顔を眺めてきたらいいじゃないか。」こう考えて、漁師は自分の家を出て、河の方角に散歩の足を向けました。折から月は第十四日目で、夜は煌々と照されていました。それで漁師は、敷石の上に映る銀色の円盤を見ると、この月光を水と思いこんでしまって、彼の突拍子もない想像力は彼に言ったのでした、「アッラーにかけて、おお漁師何某よ、お前はちょうど河辺《かわべ》に着いたぞ。お前のほかには、漁師は一人も河岸にいない。早く釣竿を取りに戻って、引っ返し、今夜お前の好運が授けてくれるものを、釣りはじめたらよかろうぜ。」狂気のうちに、彼はこのように考え、そしてこのように致しました。そして釣竿を取ってきて、車除けの石の上に行って坐り、敷石に映る白い水面に、釣針のついた糸を投げこみながら、月光のただ中で釣をしはじめたものでございます。
ところが、そこに一匹の大犬が、餌に使っていた肉の臭いに引き寄せられて、糸に食いついて、これを呑みこんでしまいました。すると釣針が喉にひっかかって、たいへん邪魔になったので、犬は何とかして離そうと、糸を必死に揺すぶりはじめました。漁師のほうでは、でかい魚がかかったと思って、力いっぱい引き寄せます。犬のほうも、痛さに耐えきれなくなって、むやみに吠え立てながら、強く引っぱります。そのため、獲物を逃すまいとする漁師は、とうとう引きずられて、地面に転がってしまいました。すると漁師は、麻酔薬《ハシーシユ》に見せられている川に溺れてしまうと思って、助けを呼びながら、物すごい叫び声をあげはじめました。この騒ぎに、区の番人たちが駈けつけてきますと、漁師は彼らの姿を見て、叫びかけました、「助けてくれ、おお|回教徒の方々《ムスリムーン》よ。手を貸して、私が引きこまれそうになっている川の深みから、このでかい魚を引き上げて下さい。ヤッラー、ヤッラー、助けてくれ、屈強な衆よ。私は溺れてしまうよ。」番人たちはすっかり驚いて、尋ねました、「いったいどうしたのだ、おお漁師よ。川というのはどこの川かね。魚とは何のことだ。」すると彼は言いました、「アッラーはお前たちを呪って下さるように、おお犬の息子たちめ。今はふざける場合か、それともおれの魂を溺れ死から救って、魚を水から引き上げるのに、手を貸してくれる場合か、どっちなんだ。」番人たちは、はじめはこの突拍子もない言いぐさを笑っていましたが、自分たちを犬の息子扱いにするのを聞いては、腹を立て、彼に襲いかかって、袋叩きにしたあげく、法官《カーデイ》のところに引っ立てて行きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十八夜になると[#「けれども第七百九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、この法官《カーデイ》がやはり、アッラーのお許しにより、たいへんな麻酔薬《ハシーシユ》好きでした。それで、漁師をひと目見ただけで、番人たちが地区の安眠を乱したとの罪を負わせているこの男は、自分もたいそう愛用する催笑の薬草の力に動かされているとわかると、すぐに番人たちを厳重に説諭して、追い返してしまいました。そして自分の奴隷たちに言いつけて、鄭重に漁師を扱い、心安らかに夜を過す上等な寝床を与えるように、申しつけました。そして心中ひそかに、この男を、明日自分が耽るつもりの楽しみの相手にしようと、思いさだめました。
事実、漁師はひと晩じゅうを休息と平静のうちに過し、翌日一日じゅうを大御馳走に過した後、夕方に、法官《カーデイ》のもとに呼ばれると、法官《カーデイ》は慇懃を尽して迎え、兄弟のように遇しました。そして一緒に夕食をすませてから、法官《カーデイ》は火をともした燭台の前で、漁師のすぐそばに坐り、麻酔薬《ハシーシユ》を差し出して、一緒に服用しはじめました。そして二人でもって、百歳の象をも四本の足を宙に向けて引っくりかえしてしまうことができるほどの分量を、用い尽しました。
いよいよ麻酔薬《ハシーシユ》が彼らの分別のなかに十分廻りますと、それは彼らの性格の本然の素質を奮い立たせました。それで着物を脱いで、二人とも素っ裸になり、踊ったり、歌ったり、数々の馬鹿騒ぎをおっぱじめました。
ところがこのとき、帝王《スルターン》と大臣《ワジール》が、お二人とも商人に身をやつして、町のなかを散歩していらっしゃいました。そして法官《カーデイ》の屋敷から起ってくる騒がしい音を、すっかり聞きつけなすって、ちょうど扉が閉まっていなかったので、お二人はなかにはいってごらんになると、法官《カーデイ》と漁師が喜びに酔い痴れております。そして法官《カーデイ》とその相手は、天命の客人たちがはいってくるのを見ると、踊りをやめて、客人に歓迎の辞を述べ、鄭重に坐らせましたが、それだけのことで、客人がいても別に困った様子もありません。それで帝王《スルターン》は、都の法官《カーデイ》が、このように素っ裸で、これまた同様に素っ裸で、べら棒な長さの、大きな黒い陰茎《ゼブ》を振り立てている男の面前で、踊っているのをごらんになると、お目を見張りなすって、大臣《ワジール》の耳もとに身をよせて、申されました、「アッラーにかけて、わが法官《カーデイ》はあの黒い相手ほど、よい道具を備えてはいないな。」すると漁師はそちらを向いて、言いました、「その方、そのように今一人の男の耳もとに、何をぼそぼそ話しているのか。両名とも坐れ、余が命ずるぞ、われこそは汝らの主君、都の帝王《スルターン》である。命に従わざれば、即座に、ここに踊っているわが大臣《ワジール》をして、汝らの首を刎ねさせてやるぞ。それというのは、思うに汝らとても知らなくはあるまい、われこそは帝王《スルターン》その人であり、これなるはわが大臣《ワジール》にして、余は全世界をば一匹の魚のごとく、わが右手の掌中に握っておるからじゃ。」この言葉に、帝王《スルターン》と大臣《ワジール》は、御自分たちは二人の最も並外れた変種の麻酔薬《ハシーシユ》食らいの前にいることが、お分りになりました。そこで大臣《ワジール》は、帝王《スルターン》のお慰みにと思って、漁師に言いました、「していつから、おお御主君様、あなた様は都の帝王《スルターン》におなり遊ばしましたか。そしてあなた様の前任の、われわれの元の御主君は、どうおなりになったか、伺わせていただけましょうか。」漁師は言いました、「実際のところ、余はこれに『行ってしまえ』と申して、やめさせたのじゃ。すると彼は行ってしまった。そこで余が代って王位に就いたわけじゃ。」大臣《ワジール》は聞きました、「それで帝王《スルターン》は異議をお唱えにならなかったのですか。」彼は答えました、「とんでもない。それどころか、治世の重荷を余に押しつけることを、たいへん悦んでさえおった。そこで余もその好意に報いるため、これをそのままわがそばに置いて、余に仕えさせることにした。もし彼が帝位を辞したことを悔やむようなことがあったら、余はこれにいろいろの物語を話してやるつもりでおる。」
こう話した上で、漁師は付け加えました、「余は小便がしたくてならぬぞ。」そしてその果てしない長さの道具を持ち上げて、帝王《スルターン》に近より、その上にひっかけそうな素振りをしました。一方|法官《カーデイ》も言いました、「おれもとても小便がしたくなった。」そして大臣《ワジール》に近より、これまた漁師のようにしようと致しました。これを見なさると、帝王《スルターン》と大臣《ワジール》は、抱腹絶倒、飛びあがって逃げ出しながら、お叫びになりました、「アッラーはお前たちのような種類の麻酔薬《ハシーシユ》食らいを、呪いたまわんことを。」そしてお二人とも、この突拍子もない二人の仲間から脱れるのに、たいそう手こずりなされたのでした。
さて翌日、前夜の集いのお慰みの仕上げをなさろうと思し召した帝王《スルターン》は、警吏たちに命じて、都の法官《カーデイ》にその家《や》の客人と一緒に参内するように、通告させなさいました。そこで法官《カーデイ》は、漁師を連れて、さっそく帝王《スルターン》の御手の間に到着しますと、帝王《スルターン》はこれにおっしゃいました、「その方を呼んだのはほかでもない、おお法の代表者よ、小便をする最も適当な方法はいかなるものか、その方の仲間と共に、その方に教えてもらいたいと思ってである。事実、慣習の命ずるごとく、衣服と衣類をば注意深く掲げて、しゃがむべきか。それとも、立ち小便をする不潔なる無信者どものなすごとく、致すほう好ましきか。それとも、素っ裸になって、同胞に向って放尿すべきかな、昨夜、余の知る二人の麻酔薬《ハシーシユ》食らいがやったようにな。」
法官《カーデイ》はこの帝王《スルターン》のお言葉を聞くと、かねて帝王《スルターン》は夜、身をやつして散歩なさる習慣がおありになることを知っておりましたので、自分の前夜の乱暴狼藉と錯乱には、帝王《スルターン》御自身がお立会いになったことがわかり、帝王《スルターン》と大臣《ワジール》に礼を失したと思うと、恐懼の極に達しました。そこで跪いて、叫びました、「アマーン(2)、アマーン、おおわが殿、私を粗野と非礼に陥れましたのは、麻酔薬《ハシーシユ》でございます。」ところが漁師は、毎日の麻酔薬《ハシーシユ》の分量のせいで、まだ酩酊状態にありつづけ、帝王《スルターン》に申しました、「それでどうしたというんだい。あんたが今は自分の御殿にいなさるというなら、昨日の晩は、おれたちだっておれたちの御殿にいたんですぜ。」すると帝王《スルターン》は、漁師の態度をこの上なくお悦びになって、これにおっしゃいました、「おお、わが王国随一の面白い粗忽者よ、その方が帝王《スルターン》であり、余もまた同様にそうだとあるからには、今後はわが宮殿で余の相手をつとめてもらいたい。そしてその方はいろいろの物語を話せるということだから、その一つをもって、われらの耳を甘くしてくれることを望む次第じゃ。」漁師は答えました、「親しみこめて心から悦んで、また当然の敬意として。けれども、あんたの足下に跪いているわが大臣《ワジール》をば、お許し相成らぬうちは、叶いませぬぞ。」そこで帝王《スルターン》は、さっそく法官《カーデイ》に立ち上がるように命じなされ、前夜の乱暴狼藉をお許しになり、自宅と職務に復するようにと仰せになりました。そしておそばに漁師だけをおとどめになると、漁師はそれ以上待つことなく、次のように屁の父|法官《カーデイ》の物語[#「屁の父|法官《カーデイ》の物語」はゴシック体]を、お話し申し上げたのでございました。
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[#5字下げ]屁の父|法官《カーデイ》の物語
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語り伝えますところでは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代、シリアはトラブルスの町に、一人の法官《カーデイ》がおりまして、その役目上の務めを、この上なく厳重苛酷に行なっておりました。それはもう世の人々の間に有名なものでした。
さて、このいまいましい法官《カーデイ》には、ナイル河の水牛の皮みたいに、粗っぽい厚い皮膚をした一人の黒人の婆が、傅《かしず》いておりました。そして彼が自分の婦人部屋《ハーレム》に持っている女といえば、これっきりでした。どうかアッラーはこんな男に御慈悲をはねつけて下さいますように。それというのは、この法官《カーデイ》のひどい吝坊《しわんぼう》ときたら、彼の下す判決の厳しさのほかには、比べものがない有様でした。どうかアッラーはこんな男を呪いなさるように。それでこいつは金持のくせに、食うものは固くなったパンと玉葱ばかり。それにもってきて、えらい見栄っ張りで、恥かしい欲張り根性の男でした。なぜというに、食う物のなくなった駱駝曳きみたいに、けちけち暮していながら、いつでも豪勢と気前よさを見せびらかしたがっていたのです。それで、彼の家は知りもしない贅沢を、人に信じさせるため、いつもちゃぶ台に、金の総のついた卓布をかける習慣でした。こうして、誰かがたまたま用事で食事の時間にはいってくると、法官《カーデイ》は必ず黒人の婆を呼んで、大声あげて言いつけるのでした、「金の総の卓布をかけよ。」こうやって人々に、彼の食卓は豪奢なもので、料理は上等さと分量の点で、金の総の卓布の立派さに等しいものと、思わせるつもりでいたのです。ところが、未だかつて誰ひとり、その見事な卓布の上に出された食事に、いっぺんだって呼ばれたことはありはしません。反対に、誰ひとり、法官《カーデイ》のさもしい強欲についての真相を知らないものはなかったのです。そのため、宴会なんぞでろくなものが出ない時には、普通にこう言うのでした、「今日は法官《カーデイ》の卓布の上に料理が出たよ。」こうしてこの男は、アッラーに財産と名誉を授けられながら、往来の犬でも満足しないような生活を送っていました。こんな男は永久にひどい目にあうように。
ところで、ある日、数人の人が裁判で有利にしてもらいたいと思って、彼に言いました、「おおわれらの御主人|法官《カーデイ》様、なぜあなたは奥様をお迎えにならないのですか。お宅に置いていらっしゃるあの黒人の婆さんでは、あなたのお偉さには不相応ですからね。」すると彼は答えました、「あなた方のうちどなたか、わしに妻を見つけて下さるかな。」居合せたうちの一人が答えました、「おおわれらの御主人様、私にはたいへん美しい娘が一人ありますが、もしこれを妻にして下さるとあらば、あなたはあなたの奴隷に名誉をお授け下さるでしょう。」すると法官《カーデイ》は申し出を承知して、そこでさっそく結婚式を挙げ、若い娘はその夕直ちに、夫の家に連れて行かれました。そして女は、自分に一向食事の用意がされもせず、そんな話が出もしないのに、たいへんびっくりしました。しかし慎しみ深く、たいそう遠慮勝ちな女だったもので、何にも請求せず、夫の習慣に合せたいと思って、努めて気を紛らしたのでした。結婚の証人と招待客のほうでも、この法官《カーデイ》の縁組には、何か祝宴か、せめて食事ぐらいのことはあるだろうと、思っていましたが、彼らの希望と期待は空しく、法官《カーデイ》の招待がないままに、時間が経って行きました。そこでめいめい、吝坊《しわんぼう》を呪いながら、引き上げてしまいました。
ところが花嫁のほうはというと、こんなに厳しい長い空腹にひどく苦しんだあげく、やっと夫が水牛の皮膚の黒人婆を呼んで、ちゃぶ台を用意して、金の総の卓布をはじめ、いちばん美しい装飾品をのせるようにと、命ずるのを聞きました。そのとき、不幸な娘は、これでやっと、今まで苦しめられていた空腹の埋め合せをつけることができることと思いました。彼女はこれまでずっと、父親の家で、豊富と贅沢と安楽のさなかに暮していた身でした。ところが、この女の上の残念よ、黒人女がありったけの御馳走として、黒パン三切れと玉葱三個のはいった鉢をひとつ持ってきたときの、彼女の驚きはいかばかりだったか。そして彼女は身動きさえもならず、何のことやらさっぱりわからないでいると、法官《カーデイ》は真面目くさってパンひと切れと玉葱一個を取りあげ、同じ分け前を黒人女に与え、そして若妻に十分に御馳走を食べるように誘って、言いました、「アッラーの賜物を頂戴しすぎることを恐れるなよ。」そして自身まずこれをぱくぱく食べはじめ、それを見れば、どんなにこの食事のうまさを味わっているかよくわかりました。黒人女もやはり、これが今日のただ一度の食事だもので、あっというまに玉葱をぺろりと食べてしまいました。がっかりした憐れな若妻は、二人みたいにしようとやってみたものの、何しろこの上なくおいしい料理に馴れている身だから、ひと口も呑みこめなかった。そして結局は、魂のなかで自分の天運の黒さを呪いながら、空腹《すきつぱら》のまま、食卓を立ってしまった。こうして三日というもの、食事の時間に同じように呼ばれ、卓上には同じ立派な装飾品、金の総のついた同じ卓布、黒パンと情けない玉葱というお膳立てで、食うや食わずに過ぎたのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九十九夜になると[#「けれども第七百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが四日目になると、法官《カーデイ》は婦人部屋《ハーレム》から出る、すさまじい叫び声を聞きました。そして黒人婆が両腕を天にあげながらやってきて、女主人は家中のみんなに逆らって、今自分の父親を呼びにやったところだと、知らせました。そこで法官《カーデイ》は憤然として、眼光爛々、妻のところにはいり、ありとある悪態を吐き、きさまはあらゆる種類の道楽に耽ったと咎めながら、無理やりその髪を切って、離婚を言い渡して、申しました、「きさまは三度離婚されたぞ。」そして乱暴に妻を追い出し、その後から戸を閉めてしまいました。アッラーはこやつを呪いたまえ。こやつは呪いに値いします。
ところで、その離婚から幾日もたたぬうちに、この吝坊《しわんぼう》な吝坊《しわんぼう》の息子は、その役目柄多くの人たちに必要な人物だったため、また別な訴訟依頼人で、自分の娘を結婚させると申し込む男を見つけました。そして若い娘を妻にしましたが、この娘も同じような食事を出されて、玉葱食制度には三日以上耐えきれず、逆らって、やはり離婚されてしまいました。しかるに、それも他の人たちの教訓にはならなかったのです。なぜというに、法官《カーデイ》はさらに何人も結婚する若い娘を見つけ、次々に妻としては、一両日後には、黒パンと玉葱に対する反抗の理由で、みな離婚してしまったからです。
けれども、離婚もこうむやみに度重っては、法官《カーデイ》の吝坊《しわんぼう》の噂は、それまで聞いたことのない耳までも達し、彼の妻に対する仕打ちは、あちこちの婦人部屋《ハーレム》で、あらゆる話の種となりました。それで彼は取持ち女のところで、もう一切信用を失ってしまい、全然結婚することのできない身となり果てました。
さてある晩、法官《カーデイ》はもう相手をしてくれる女が一人もないもので、自分の父親の遺産によって悩まされ、町の外を歩きまわっておりますと、そのとき、連銭葦毛の牝騾馬に乗った、一人の貴婦人が来るのを見かけました。そしてその優美な恰好と、豪奢な衣裳に驚かされました。ですから、口髭の先をぴんとひねり上げて、気取った慇懃な様子でそちらのほうに歩み寄り、恭々しく一礼して、挨拶《サラーム》の後、これに言いました、「おお高貴の御婦人よ、どこからお出でなされましたか。」女は答えました、「わたくしの後ろの道からでございます。」すると法官《カーデイ》は微笑して、言いました、「なるほど、いかにもさよう、それは私も存じておりますが、どこの町からで。」女は答えました、「モースルからでございます。」彼は尋ねました、「あなたはお独りですか、それとも結婚しておいでですか。」女は言いました、「わたくしまだ独りですの。」彼は尋ねました、「それでは、あなたは今後は私の妻の役目を果たし、代りに私はあなたの夫となるということにして下さいませんか。」女は答えました、「あなたはどこにお住いか、おっしゃって下されば、明日さっそく御返事を差し上げましょう。」そこで法官《カーデイ》は自分が何者で、どこに住んでいるかを説明しました。しかしこの女は、そんなことは先刻承知だったのです。そして彼女は眼の片隅から、微笑のなかでも最も人を惹きつける微笑を、男のほうに流しながら、別れたのであります。
さて翌朝になると、その乙女は法官《カーデイ》に使いをやって、五十ディナールの結納金という条件で、結婚を承知する旨知らせました。すると吝坊《しわんぼう》は、この若い娘にのぼせ上っていたため、自分の吝嗇心を猛烈な努力で抑えて、その五十ディナールを数えて、使いの者に渡し、黒人女に乙女を迎えにやりました。すると乙女は約束を違えず、事実|法官《カーデイ》の家に来まして、結婚はすぐさま証人の前で取り決められたが、証人たちはそれがすむとすぐ、別にほかの御馳走にもあずからずに、立ち去りました。
すると法官《カーデイ》は、自分の食制度を忠実に守り、黒人女に大げさな調子で、言いました、「金の総の卓布を拡げよ。」そして、いつものように、華々しく飾られた卓上には、ありったけの御馳走として、何もつかないパンだけが三切れと玉葱三個が出されました。すると若妻はたいそう満足げに、三分の一の分け前を取って、これを食べおわると、言いました、「アル・ハムドゥ・リッラーヒ(3)、アッラーに讃えあれ。ほんとうに結構なお食事をいただきましたこと。」そしてこの感嘆の叫びに、この上ない満足の微笑を添えたものです。法官《カーデイ》はこれを聞きもし見もして、叫びました、「あらゆる完全を一身に集め、多きにせよ、少なきにせよ、常に創造者に感謝しつつ、現在に満足するを知る妻を、寛仁のうちに、遂にわれに授けたまいし至高者は、讃め称えられんことを。」けれども盲《めくら》の吝坊《しわんぼう》、豚めは――アッラーはこやつを懲しめて下さるように、――運命が彼のために、この若妻の意地悪な脳味噌のなかに何を命令したか、知らなかったのであります。
さて翌朝、法官《カーデイ》は奉行所《デイワーン》へ出かけますと、その乙女は留守のまに、家の部屋全部を次々に見まわりはじめました。こうして一室に着くと、その戸は念を入れて閉められ、三つの大きな南京錠をかけられ、三本の丈夫な鉄棒で固められているので、彼女に強い好奇心を起させました。そこで長い間まわりをぐるりと廻ってみて、調べるべきをよく調べた末、とうとう刳形《くりがた》の一つに、約指一本ほどの幅の隙間を見つけました。そしてこの隙間からのぞいてみると、そこには法官《カーデイ》の金銀の財宝が、床の上に置いた銅の大甕《おおがめ》にしまって、積み重ねられているのを見て、この上なく驚きもし、悦びもしました。そしてすぐに、この思いがけない発見をさっそく活用してやろうという考えが、思い浮びました。そこで彼女は、一本の長い棒、椰子のひと枝を探しに走って、その先に鳥もちを塗りつけ、それをば刳形《くりがた》の隙間を通して、なかに差し入れました。そしてこの棒をぐるぐる廻していると、何枚かの金貨がくっついたので、すぐにそれを引き出しました。そして自分の部屋に戻ると、黒人女を呼んで、これにその金貨をさし出しながら、言いました、「さっそく市場《スーク》に行って、竈《かま》から出したての、胡麻をのせたパン菓子と、サフラン入りのお米と、柔らかい仔羊の肉と、それから果物とお菓子のほうは、お前の見つけられるいちばんいいものを全部、買ってきておくれ。」黒人女はびっくりして、承わり畏まって答え、いそいで女主人の命令を実行すると、女主人は、黒人女が市場《スーク》から帰ってくると、お盆を並べさせ、買ってきたおいしい品々を、一緒に分けて食べました。黒人女は生れて初めて、こんな結構な食事を食べながら、叫びました、「どうかアッラーはあなた様を無事に養って、おお御主人様、あなたを悪肥《わるぶと》りさせずに、今私の食べさせていただいたようなおいしい品々を、お手に入れさせて下さいますように。あなた様のお命にかけて、あなた様は掌《たなごころ》の気前のよさのお蔭によるこのたった一度のお食事で、私が法官《カーデイ》様のところに御奉公してからずっと、その間ついぞ味わったことのないような結構なものを、いろいろ食べさせて下さいました。」すると乙女はこれに言いました、「そうかい、もしお前が毎日これと同じような、いや、今日のよりももっと上等な食べ物が欲しいと思うのなら、私の言うことには何でも従って、法官《カーデイ》様の前では、お前の舌を口のなかに閉じこめておきさえすればいいのだよ。」すると黒人女は彼女の上に祝福を祈り、お礼を言って、服従と献身を約束しながら、その手に接吻しました。それというのは、一方では鷹揚と美食、他方では窮乏とさもしい節約とあらば、そのどちらを選ぶかは、一瞬もためらうことはなかったからです。
そして昼ごろ、法官《カーデイ》は帰宅しますと、黒人女にどなりました、「おお奴隷よ、金の総の卓布を拡げよ。」そして彼が坐ると、妻は立ち上がって、自分で、さっきの上等な食事の残りを出してやりました。彼はえらい食欲で食い、こんなおいしい御馳走に満悦して、聞きました、「こんな食糧はどこから来たのか。」妻は答えました、「おお御主人様、私にはこの町にたくさん親戚の女がいて、そのうちの一人が、今日この御馳走を届けてくれたのですけれど、こんなものは、ただ御主人様と御一緒にいただこうと思えばこそ、ありがたく思うだけでございます。」すると法官《カーデイ》は、魂のなかで、こんな得がたい親類たちを持っている女と結婚したのに、大いに満足しました。
さて翌日も、椰子の枝の棒は前のときのように働いて、法官《カーデイ》の財宝から数枚の金貨を取ってきて、それでもって法官《カーデイ》の妻は、ピスタチオを詰めた仔羊をはじめ、すばらしい食糧を買わせて、近所の女を何人か招き、一緒に結構な食事をしました。そして一同、法官《カーデイ》の帰る時刻まで、お互い同士でこの上なく楽しい時間を過しました。その時刻になると、女たちは、この祝福の日は心から悦んでまた繰り返しましょうと約束されて、別れました。法官《カーデイ》ははいってくるなり、黒人女にどなりました、「金の総の卓布を拡げよ。」そして食事が出ると、この吝坊《しわんぼう》は――アッラーはこやつを呪いたまいますように、――幾枚もの皿の上に、前日よりももっとおいしく、もっと凝った肉類や食糧を見て、すっかり驚きました。そして不安でたまらなくなって、聞きました、「わが首《こうべ》にかけて、こんなに高価な品々が、いったいどこから来たのか。」自分自身で給仕をしていた乙女は答えました、「おお御主人様、あなたの魂を安んじ、お眼を爽やかになすって、アッラーが私たちに送って下さる福については、これ以上お心を悩まさずに、おいしく召し上がって、お腹を悦ばせることしか、考えなさいますな。それというのは、これらのお料理の皿は、私の伯母の一人が届けてくれたものでして、もし御主人様が満足して下されば、私は嬉しゅうございます。」すると法官《カーデイ》は、こんなによい親戚を持って、こんなに優しく、こんなに注意の行き届く妻を持つ悦びの極に達して、こんなに多くの無料《ロハ》の仕合せを、でき得るかぎりせいぜい利用することよりほか、もう考えないのでした。ですから、この食養生が一年たつと、彼はすっかり肥えて、腹は目立つほど大きくなり、町の住民は、何か大きなものの比較の基《もと》としたいときには、「これは法官《カーデイ》の腹みたいにでかい」と言うほどになりました。けれども、この吝坊《しわんぼう》は――悪魔《シヤイターン》は遠ざけられよ、――何が自分を待っているかを知らず、自分の女房が何を誓ったかを知らないのでした。実はこの女は、彼が結婚をしては、殆んど餓死させんばかりにして、髪の毛を切って、三度の決定的な離婚によって縁を切ったあげく、追い出してしまった気の毒な女たち全部の、仇《かたき》をとってやろうと誓ったのであります。ではこの乙女が、その目的を達し、翻弄してやるために、どのように振舞ったかというと、次のようです。
彼女が毎日食事を出してやっていた近所の女の間に、すでに五人の子供の母親でありながら、またも妊娠している憐れな女がおりまして、その亭主は荷担ぎ人足で、一家の差し迫った必要に応じかねるくらいの稼ぎしかありませんでした。それで法官《カーデイ》の妻はある日、その女に言いました、「おお隣の方よ、アッラーはあなたに大勢の家族をお与えになったのに、御亭主にはそれを養うだけのものがありなさらないのね。それなのにあなたはまたも、至高者の思し召しで妊娠なすったわ。それじゃ、こんど赤ちゃんを産みなすったら、私にその赤ちゃんを下さらないこと。私はアッラーが子供をお恵みにならないから、その子を自分の子のように面倒を見て、育て上げてみたいの。その代り、あなたには今後何ひとつ不自由させないで、繁栄がお宅を恵むことを、お約束します。けれども、このことは誰にも口外しないで、お子さんをこっそり私に渡し、この区内の誰にも真相を気《け》どられないようにして下さるように、それだけお願いしますよ。」荷担ぎ人足の女房は、この申し出を承知して、秘密を守ることを約束しました。そして極秘の裡に行なわれたその出産の日に、彼女は生れたばかりの子供を法官《カーデイ》の妻に渡しましたが、その子は、その種の男の子二人分ぐらい大きな男の子でした。
ところでこの日には、乙女は食事時間のために、自分自身で料理をこしらえましたが、それはそら豆と、えんどう豆と、白いんげんと、キャベツと、レンズ豆と、玉葱と、にんにくと、さまざまの粉類と、あらゆる種類の不消化な種子と、挽き砕いた香辛料を、混ぜ合せたもので作ってありました。そして法官《カーデイ》が、すっかり空《から》っぽになった太鼓腹のため、たいへんひもじくなって帰ってきたとき、妻はこのシチューにおいしく味をつけて差し出しますと、彼はうまがって、がつがつと食べました。そして何度もお代りをして、結局この料理を一皿全部平らげてしまって、言いました、「こんなに喉をするする通ってゆく料理は、これまで食ったことがないよ。おお女房や、わしは毎日、これをこの皿よりも大きな皿に、一杯作ってもらいたいね。お前の親戚たちは、その気前のよさをやめることはあるまいと思うからね。」すると乙女は答えました、「どうかこれがあなたにおいしく、よくこなれますように。」すると法官《カーデイ》はその祈念を妻に感謝して、今一度、こんなに申し分なく、こんなに自分の悦びに気を配ってくれる妻を持つことに、大いに満足しました。
ところが、食後一時間もたたないうちに、法官《カーデイ》の腹はみるみる膨れあがって、大きくなりはじめまして、暴風雨《あらし》の響きのような大音響が、体内に聞えました。そして険悪な雷のような、陰にこもった轟きが、腹壁を揺がし、やがて物すごい腹痛と、痙攣と、苦痛を伴ってきました。彼は顔色が真黄色になり、両手で腹を抱えながら、呻きはじめ、甕のようにごろごろ床を転がり出して、叫びました。「やあ、アッラー、わしの腹の中に暴風雨《あらし》が起ったぞ。ああ、誰かわしを助けてくれ。」そのうちまもなく、今は水を満した革袋よりもふくれ上がった腹の、いっそう強い発作が頻々と起ってきて、もうわめき声をあげずにはいられなくなりました。彼の立てる叫びに、妻は駈けつけて、その痛みを軽くしてやろうと努め、やがて利いてくるはずだと言って、アニスと茴香《ういきよう》の粉をひと掴み嚥み下させました。それと同時に、彼を慰め励ますために、病気の子供を撫でてやるように、全身を撫ではじめ、痛む場所に規則正しく手をやって、静かに揉みはじめました。そのうち突然、揉む手をとめ、ひと声甲高い叫びをあげ、続いて繰り返し驚きあわてた叫びを洩らして、言いました、「ヤーフー(4)、ヤーフー、奇蹟だわ、不思議だわ、おお御主人様、おお御主人様よ。」そこで法官《カーデイ》は、身体がねじ曲るほどの激しい痛みにもかかわらず、尋ねました、「どうしたのか。いったい何が奇蹟なのだ。」妻は言いました、「ヤーフー、ヤーフー、おお御主人様、御主人様よ。」彼は尋ねました、「どうしたんだ、言いなさい。」すると妻は答えました、「あなたの上とあなたのまわりに、アッラーの御名《みな》あれかし。」そして改めてその大|暴風雨《あらし》の腹の上に手をやってみて、付け加えました、「至高者は讃めたたえられよかし。至高者はその望みたもうことは何なりとおできになり、何なりとなしたまいます。どうか至高者の秘密が成就しますように、おお御主人様。」すると法官《カーデイ》は、わめき声とわめき声の間で、尋ねました、「どうしたのか、おお女房よ。話すがいい。そんな風にわしをじらすとは、アッラーはお前を呪いたもうがいい。」妻は言いました、「おお御主人様、おお御主人様、アッラーの御心《みこころ》が成就しますように。あなたは妊娠しておいでです。そして出産はもう間近に迫っていますよ。」
妻のこの言葉に、法官《カーデイ》は腹痛と痙攣にもかかわらず、起き上がって、叫びました、「お前は気が狂ったのか、おお女房よ。いったいいつから男たちが妊娠するようになったのだ。」妻は言いました、「アッラーにかけて、存じませんわ。けれどもとにかく、あなたのお腹《なか》の中で、子供が動いておりますよ。私は子供が足で蹴っているのを感じるし、子供の頭が私の手に触れますよ。」そして付け加えました、「アッラーはお望みのところに、繁殖の種をお蒔きになります。その讃め称えられんことを。預言者の上にお祈り遊ばせ、おお御亭主よ。」すると法官《カーデイ》は、痙攣に悩まされながら、言いました、「その上に祝福とあらゆる恩寵あれかし。」そしてますます苦痛が募って、彼はまたも、やたらに唸りながら、転げまわりはじめました。そして両手をねじらせて、もう息もできない。それほど腹中で行なわれている合戦は猛烈だったのです。ところが突如、収《おさ》まった。長く音高い、物すごい放屁一発、その体内から洩れ出て、家鳴り震動させ、その衝撃の激しい圧力のもとに、法官《カーデイ》を気絶させてしまった。そしてほかの屁がいくつもいくつも、だんだん弱くなりながら続いて出て、家の打ち震う空気を通して、轟きつづけた。それから、雷鳴に似た最後の殷々《いんいん》たる一発が鳴ると、住居は再びひっそり閑となった。そして法官《カーデイ》も次第に正気づきましたが、すると自分の前に、産着《うぶぎ》に包まれた赤ん坊が、小さな蒲団《マトラー》の上に寝て、しかめっ面をしながらおぎぁおぎぁと泣いているのが、目に入りました。そして妻は、「この安産を授けなされたアッラーとその預言者に、称讃あれ。アル・ハムドゥ・リッラーヒ、おお御亭主よ」と言っているのを見ました。そして彼女は赤子の産褥の上と夫の頭の上に、あらゆる神聖な名をぶつぶつ唱えはじめました。法官《カーデイ》はいったい自分が眠っているのか、目ざめているのか、それとも、さっき感じた苦痛のために、自分の知力が壊されてしまったのか、わからない有様でした。とはいうものの、自分の感覚に訴えた結果を否定することはできず、この生れたばかりの赤ん坊の姿と、自分の苦痛が収まったことと、自分の腹から出た暴風雨《あらし》の記憶は、彼に有無なく自分の驚くべき分娩を信じさせたのでありました。それに母性愛が何よりも強く、結局彼にこの子供を承認させて、言わせました、「アッラーは望みたもうところに種を蒔いて、創造したもうのだ。それでたとえ男子たちであろうと、かくと予定されているならば、妊娠の身となり、月満ちて産み落すということもあり得ることだ。」次に彼は妻のほうを向いて、これに言いました、「おお女房よ、お前はこの子の乳母を手に入れることを引き受けてくれなければならんぞ。それというのは、このわしには、これに乳をやることはできんからな。」妻は答えました、「それはもうちゃんと考えてありますわ。乳母はもう婦人部屋《ハーレム》にいて、待っております。けれども、おお御主人様、あなたのお乳は大きくならず、この子に乳をやることができないのは、たしかですか。なぜって、御承知のとおり、母親の乳にまさるものはございませんからね。」すると法官《カーデイ》は、ますますあわてて、心配げに胸をさぐってみて、答えました、「たしかだ、アッラーにかけて、わしの乳は前のとおりで、なかには何もはいっておらん。」
すべてこうした次第。そこで意地の悪い若い妻は、魂のなかで、自分の作戦の成功を喜んだのでした。それから、その計略をどこまでもやり抜こうと思って、法官《カーデイ》をむりに床に就かせて、産後の女たちのように、四十日と四十夜の間、床を離れずに寝かしておきました。そして、普通産婦に与えるような飲み物を作り、あらゆる手を尽して看護をし、大切にしてやりはじめました。法官《カーデイ》は、以前に覚えた激しい腹痛と、体内の大混乱すべてに、この上なく疲れきっていたもので、間もなく深い眠りに陥り、ずっと後になってやっと目が覚めましたが、体は治ったものの、心はひどく病んでおりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百夜になると[#「けれども第八百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼が最初に気を配ったことは、自分の妻に、この事件の秘密を用心深く守ってくれるように頼むことでありまして、妻にこう言いました、「万一世間の人々が、法官《カーデイ》は人並みの赤ん坊を産んだなどということを知るようになったら、おお、われわれの災厄《わざわい》じゃ。」すると意地の悪い女は、この点について安心させてやるどころか、その不安をますます募らせるのを悦んで、言いました、「おお御主人様、この不思議な祝福された事件を知っているのは、私たちばかりではございません。それというのは、御近所の女たちは全部、乳母から聞いて、もうこれを知っているのです。乳母にはくれぐれも言ったのですが、やっぱりこの奇蹟をすっぱぬきに行って、右や左にしゃべり散らしてしまいました。いったい乳母のおしゃべりを防ぐことは、今となってこの噂が町じゅうに拡がることをとめるのと同様、とてもむずかしいことですわ。」
すると法官《カーデイ》は、自分があらゆる人の話の種になり、多少とも口さがなくとやかく言われる的《まと》となると知って、この上なく屈辱を感じつつ、寝床のなかで産後安静の四十日を過しましたが、併発症と出血を恐れて敢えて身動きせず、眉をしかめて、自分の情けない立場を考えこんでいました。そして思うのでした、「まちがいない、わしの敵は多いから、あいつらの悪意はきっと、多かれ少なかれ馬鹿ばかしい事を被《き》せて、わしを咎めるに相違ない。例えばわしがとんでもない工合にお釜を掘らせたなんぞと咎めて、言うだろう、『あの法官《カーデイ》はお釜掘られ野郎だ。たしかに法官《カーデイ》は掘られ野郎以外のものじゃないぜ。結局掘られてお産をするのがおちだとすりゃ、何も裁判で、ああ厳しい態度を見せたって始まらないことだ。アッラーにかけて、おれたちの法官《カーデイ》は、実際奇妙な掘られ野郎だわい。』ところがわしは、アッラーにかけて、もうあんなことはずっと前からやっとらんし、今さらこの年齢《とし》になって、好き者どもを唆《そそのか》すことなんぞ、できはしないわい。」
法官《カーデイ》は、めぐりめぐってこんなことを身に招くのは、ただ自分の吝坊《しわんぼう》のせいとは知らずに、このように考えたのでした。そして深く考えれば考えるほど、世の中は彼の顔前でますます暗くなり、自分の立場はますます滑稽で、情けないものに見えてきました。ですから、妻がもう産後の併発症の恐れもないから、起きてよいと判断するとすぐ、彼はいそいで床から出て、身体を洗ったが、しかし思いきって家を出て、風呂屋《ハンマーム》に行く気にはなれませんでした。そして、この町に住みつづければ、今後必ず聞くに相違ない嘲笑やあてこすりを避けるために、彼はトラブルスを立ち退く決心をして、この計画を妻に打ち明けると、妻は、夫が自分の家から遠く離れ、法官《カーデイ》の地位を棄てるのを見るのは、いかにも悲しいという振りをしながらも、それは全く同意見だと言って、立ち去ることを励まさずにはいないで、言いました、「いかにも、おお御主人様、こんな悪口屋どもの住んでいる呪われた町を立ち退こうとおっしゃるのは、ごもっともです。ですけれど、それもほんのしばらく、この事件が忘れられるまでのことです。そのときにはまた帰っていらっしゃって、あなたが父親でもあり、同時に母親でもあるこの子を、お育てなさいませ。私たちはこの子を、もしおよろしかったら、その不思議な誕生を記念して、『奇蹟の泉』と名づけることにいたしましょう。」すると法官《カーデイ》は答えました、「差し支えない。」そして彼は夜のうちに、家には妻を残して、「奇蹟の泉」や家具家財の面倒を見させることにして、ひそかにわが家を逃れ出ました。そして人通りの多い通りを避けながら、町を出て、ダマスを指して出発しました。
そして彼は難儀な旅の末、ダマスに着きましたが、しかしこの町では、誰も自分を知る者はなし、自分の身の上を知る者もないと思うと、心を慰められました。けれども不運なことに、ここでも彼の話は既に話し家たちの耳に達していて、あらゆる公開の場所で、自分の話が話し家たちに語られているのを聞いたのでした。そして彼が恐れていたとおり、この町の話し家たちは、その話を語るごとに、必ずそこに何か新しい尾ひれをつけて、聞き手を笑わせるため、法官《カーデイ》にいろいろと人並はずれた代物を持たせたり、それにトラブルスのあらゆる騾馬曳きの道具を引き受けさせたり、彼のあんなに怖れていた名を彼につけて、彼のことを、息子とか、孫とか、曽孫《ひまご》とか、自分自身にも言うを憚るような名でもって、呼んだりせずにはいないのでした。けれども彼にとって幸いなことに、誰も彼の顔を知ることなく、こうして彼は人目につかずに済むことができました。そして夕方になって、話し家たちがたむろしている場所を通る時には、彼は足をとめて自分の物語を聞かずにはいられなかったが、それは彼らの口にかかると、とんでもないものになっています。というのは、彼が産んだのはもう一人の子供なんかではなく、ひと腹の子供を次から次へと続々産んだのです。それで彼自身も遂には、満座のなかで何ともおかしくてたまらず、他の人たちと一緒に、自分自身の話に笑ってしまったのですが、自分が人に見破られないのを悦んで、独りごとを言うのでした、「アッラーにかけて、何とでも好きなようにわしを取り扱うがいいさ。ただわしと見破られないでもらいたいな。」こうして彼は、すっかり身をひそめて、昔よりもさらに輪をかけてつましく暮しました。しかし何としようと、結局は携えて行った持金の貯えを使い果たし、生きるためには、自分の着物までも売り払ってしまいました。それというのは、飛脚を出して、妻に金を求めるとなれば、どうしても自分の財宝のある場所を、妻に明かさなければならないことになるのがいやさに、それを決心しようとはしなかったからでした。なぜなら、かわいそうに、彼はその財宝がずっと前から見つけられているとは、てんで知らなかったのです。そして自分の妻は、かねて妻が自分にそう信じさせていたように、相変らず妻の親戚と近所の女たちにおんぶして暮しているものとばかり、思っておりました。やがて彼の貧窮状態は、昔の法官《カーデイ》ともあろうものが、漆喰運びの人足として、日雇いで、石工に傭われる羽目となるほどのひどさに、達したのでありました。
こうして数年が経ちました。そしてこの不幸な男は、彼の裁判の被害者たちと吝坊《しわんぼう》の被害者たちから投げられた、あらゆる呪いの重さに耐えつつ、まるで屋根裏に忘れられた猫のように、痩せてしまいました。そのとき彼は、もう年月が自分の事件の記憶を消してくれたろうと思って、トラブルスに戻ることを思いました。そこでダマスを立って、衰えた身体にはたいそう難儀な旅をした末に、故郷の町トラブルスの入口に到着しました。そして城門を越えようとしたとき、子供たち同士で遊んでいるのを見かけたが、その中の一人がもう一人に言っているのが聞えました、「お前なんか勝負に勝てるもんか。お前は『屁の父』法官《カーデイ》の厄年に生れたんだもの。」すると不運な男は、これを聞くと悦んで、考えました、「アッラーにかけて、お前の事件は忘れられたぞ。今子供たちに諺に使われているのは、お前とは別な法官《カーデイ》のことなのだからな。」そして彼は、「屁の父」法官《カーデイ》の年と言ったその子供に近よって、聞きました、「お前の言うその法官《カーデイ》とはどういう人で、なぜその人は『屁の父』なんて呼ばれるのだね。」するとその子は、法官《カーデイ》の妻の悪企みの物語全部を、一部始終、細大洩らさず話しました。しかしそれを繰り返しても詮なきことです。
年老いた吝坊《しわんぼう》は、この子供の話を聞いたとき、もはやわが身の不幸を疑わず、自分が妻の悪企みの玩具《おもちや》と笑いものになったことをさとりました。そこで、遊びをつづける子供たちと別れて、かんかんに怒って、自分をこんな無残にからかった不届きな女を、きっと懲しめてやろうと思いながら、自分の家の方角に駈け出しました。けれどもわが家に着いてみると、戸は皆開いて吹きさらしになっており、天井は落ち、壁は半ば崩れ、もうすっかり荒れ果てております。彼は財宝の場所に駈け寄ってみたが、もう財宝も、財宝の跡形も、財宝の匂いも、何ひとつありません。彼が着いたのを見て駈けつけてきた隣人たちは、一同抱腹絶倒しながら、もうとっくの昔、彼の妻は夫が死んだものと思って、行ってしまい、家にあったもの全部を持って、どこかしら遠い国に立ち退いてしまったということを、彼に知らせました。こうして自分の不幸を残りなく知り、自分が世間の笑い草の中心となっているのを見ると、年老いた吝坊《しわんぼう》は、後をも見ずに、いそぎ自分の町を立ち去ってしまいました。その後もはや彼の噂を聞くことはなかったのでした。
「これが、おお当代の王様よ」と麻酔薬《ハシーシユ》飲みは続けました、「私の聞き及んだ『屁の父』法官《カーデイ》の物語であります。さあれアッラーはさらに多くを知りたまいまする。」
帝王《スルターン》はこの物語をお聞きになって、お喜びと御満足に身を揺りなされ、漁師に誉れの衣一着を賜わって、これにおっしゃいました、「汝の上なるアッラーにかけて、おお砂糖の口よ、さらにその方の知っている物語のうちひとつの物語を、語り聞かせよ。」すると麻酔薬《ハシーシユ》食らいは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして彼は語りました。
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[#5字下げ]法官《カーデイ》驢馬
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私の聞き及んだところでは、おお幸多き王よ、エジプトの国のさる町に、税金徴集を本職とし、従って、しばしば家をあけないわけに行かない男がおりました。そして彼は、いわゆる逞しい連れ合いという点では、とんと逞しさを授けられていなかったので、その細君は夫の留守に乗じて、自分の情夫を呼びこまずにはいなかったが、その情夫というのが、月のような若衆で、いつでも女の欲望を満足させる用意ができているのでした。ですから女はこれを無上に愛して、その与えてくれる快楽の返礼としては、自分の花園にあるよきもの一切を、彼に味わわせてやるだけでは満足せず、その男が金持でなく、まだ売買の商売で金を儲けることもできなかったので、必要なだけすべてを貢いでやり、愛撫とか、肉交とか、その他それに類したこと以外には、決してその返済を求めませんでした。そして二人はこうして、腹いっぱい食っては、おのおのその力倆に応じて互いに愛し合いながら、二人ともこの上なく楽しい生活を送っていました。ある人々には有能を授け、他の人々には不能を悩ませしめたもうアッラーに、栄光あれ。神慮は測り知れぬものがありまする。
さてある日のこと、この若い女の夫の税金徴集人は、仕事のため出かけなければならぬことになって、自分の驢馬の支度をし、頭陀袋に書類と衣類を詰めこみ、細君に、頭陀袋のもう一方の側に、道中の食料を詰めこむように言いつけました。若い女は亭主を追い払えるのが嬉しく、欲しいというものは何でもいそいで与えましたが、ところがパンが見当りませんでした。それというのは、一週間分の貯えがすっかり切れて、ちょうどそのとき、黒人女が来週の分のパンを捏ねている最中だったからです。そこで税金徴集人は、家のパンが焼き上がるまで待っていることができなくて、パンを手に入れるため市場《スーク》に出かけました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百一夜になると[#「けれども第八百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼はさしあたり、すっかり荷鞍をつけた驢馬を、厩《うまや》のなかの秣桶《まぐさおけ》の前に置いて行きました。そして細君は彼が帰って来るまでそこにいるため、そのまま中庭にいると、突然情夫が、もう税金徴集人は出発したものと思って、はいってくるのを見ました。そして彼は若い女に言いました、「急に金がいることになった。すぐに三百ドラクムぜひ下さいな。」女は答えました、「預言者にかけて、私は今日はそんなに持ってないし、どこに取りに行ったらいいかもわからないわ。」若衆は言いました、「驢馬がいるじゃないの、おお、お姉さん。あなたの旦那の驢馬が、あそこに、すっかり荷鞍をつけて、秣桶《まぐさおけ》の前にいるのが見えるから、あれをいただいて、売ってもいいでしょう。そうすりゃたしかに、私の必要な三百ドラクムになるでしょう、何しろその金は絶対に必要なんです。」若い女はたいそう驚いて、叫びました、「預言者にかけて、あなたは自分で何を言ってるかわからないのよ。夫がやがて帰ってくれば、自分の驢馬が見つからないじゃないの。あなたそれを考えないの? 夫はここに居ろと私に頼んで行ったのだから、きっと驢馬を失くしたといって責めて、私を撲《ぶ》つでしょうよ。」けれども若衆はいかにも困った様子をして、その驢馬をくれるように弁舌を振って頼むので、女はその頼みに逆らいきれなくなり、夫の徴集人に対して覚えるあらゆる恐怖にもかかわらず、彼に驢馬を連れて行かせてしまいましたが、しかし彼はその前に、驢馬の馬具は外して行きました。
さて、しばらくたつと、夫は食糧のパン菓子を小腋に抱えて帰ってきて、それを頭陀袋に入れ驢馬を引き出すため、厩《うまや》に行きました。すると動物の頭絡《おもがい》は釘にかかっており、荷鞍と頭陀袋は藁の上に置いてあるのを見たが、驢馬は、驢馬の跡形も、驢馬の臭いも見えません。それですっかりびっくりして、細君のほうに戻って、これに言いました、「おお女房よ、驢馬はどうなったのか。」細君は少しもあわてず、落ち着いた声で答えました、「おお伯父の息子よ、驢馬は今しがた出て行ったところで、戸口の敷居で、私のほうに向いて、これから町の奉行所《デイワーン》に行って法廷を開いてくると、私に申しました。」この言葉を聞くと、徴集人はひどく腹を立てて、細君に向って拳《こぶし》を振りあげ、どなりました、「おおふしだら女め、よくもおれを馬鹿にしおるな。お前なんぞはおれが一発殴れば、縦を横にめりこませてやることができることを知らないのか。」すると女は、落ち着きを少しも失わないで、言いました、「あなたの上と私の上に、あなたのまわりと私のまわりに、アッラーの御名あれかし、どうして私があなたを馬鹿になぞ致しましょうか、おお伯父の子よ。それにどんなことであろうと、私があなたをだますことなど、いつからできるようになったでしょう。その上、よしんば私がそんな大それたことをしようと思ったところで、あなたの鋭い眼力と機敏な頭にかかったら、私の拙い下手な作りごとなんぞ、とっくに裏をかかれてしまうことでしょう。けれども、あなたのお許しを得て、おお伯父の息子よ、こうなったら、そんなことを明かしたら私たちの身に、取り返しのつかない不幸を招きはしないかと恐れて、今まで思いきってお話ししかねたある事を、申し上げなければなりません。実はね、あなたの驢馬は魔法にかけられていて、時々|法官《カーデイ》に変形《へんぎよう》するのですよ。」これを聞くと、徴集人は叫びました、「やあ、アッラー。」けれども若い妻は、それ以外の叫び声をあげる暇も、考える暇も、話す暇もあらせず、同じ落ち着いた自信のある口調で、続けました、「事実、私がはじめて、突然厩から、そこにはいるのを見もしなければ、今まで見かけたこともなかった見知らぬ男が、出てくるのを見たときには、私はもうひどく恐ろしくて、その男に背を向け、そのときは頭に面衣《ヴエール》をかけていなかったもので、着物の裾を持ち上げて、それであわてて顔を隠しながら、脚を風にまかせて、逃げ出して身の安全を求めようと思いました、何しろあなたは家にいらっしゃらないのでしたから。ところが、その男は私に近づいてきて、私の羞恥心を傷つけることを恐れて、私のほうには眼をあげずに、重々しさと優しさに満ちた声で、私に言いました、『あなたの魂を安んじなさい、わが娘よ、そしてあなたの眼を爽やかにしなさい。わしはあなたにとっては、決して見知らぬ者ではない、わしはあなたの伯父の御子息の驢馬だからね。そしてわしの本性は、人間であり、法官《カーデイ》を職とする者だ。しかるにわしは、妖術魔術に通じた敵どもによって、驢馬に変形《へんぎよう》されてしまったのです。わしは彼らの玄妙学を知らぬゆえ、彼らに対しては、施す術《すべ》も、武器もない有様です。しかし、彼らはともかくも信徒の身であるによって、時々、開廷の日には、わしが今まであった驢馬から、元の人間の形をとって、奉行所《デイワーン》に法廷を開きに行くことを許してくれる。わしはこうして、至高のアッラーがわが敵の魔法からわしを解き放して下さり、彼らがわしに記《しる》した妖術を打ち砕いて下さるまで、あるいは驢馬、あるいは法官《カーデイ》となって、生きなければならぬ身です。けれども、後生じゃ、おお救いの人よ、あなたの父上、母上、その他あらゆるお身内にかけて、折入ってお願いしたいが、どうかわしの身分を、誰にも、あなたの伯父の御子息、わしの主人の税金徴集人様にすら、決して話して下さいますな。なぜなら、御主人が万一わしの秘密を知りなすったら、何しろ事理に明るい信仰の方であり、宗教の厳格な信奉者であられるから、魔法使どもの勢力下にある人間など、わが家に留め置かないために、わしを追い払ってしまいなさるかも知れません。わしをどこぞの百姓《フエラーハ》にでもお売りになれば、百姓《フエラーハ》は朝から晩までわしを虐待し、腐った空豆などを食わせられることになりかねません、ここではあらゆる点ではなはだよろしくいられますのに。』それから彼は付け加えました、『わしはもうひとつお願いがあります、おお御主人様、おお親切なお方、救いの人よ、わしの御主人の徴集人様、あなたの伯父の御子息に、お急ぎのとき、あまりひどくわしの尻を突棒で突きなさらないように、頼んでいただきたい。それというのは、あいにくと、わが身のこの部分はたいへん感じやすく、想像できないほどのひ弱さに悩んでおりますから。』
こう話しおえると、法官《カーデイ》になった家の驢馬は、私をすっかり思い惑わせたまま置いて、奉行所《デイワーン》で裁判長となるため、立ち去りました。もしお望みなら、そちらにいらっしゃればお会いになれましょう。
ところで私は、おお伯父の息子よ、私としてはもうこれ以上長く、こんな重大な秘密を、ひとりきりで守っていることはできなくなりました、わけても、私が疑いをかけられ、あなたのお腹立ちと御不興を受けるおそれもある今となっては。そして私は、お気の毒な法官《カーデイ》に、その驢馬の状態については誰にも決して口外しないと約束しながら、今こうして約束を破っていることを、アッラーにお許し願う次第です。だけど、もうしてしまったからには、おお御主人様、あなたにひとつ忠告をさせて下さいな。それは、この驢馬を手放しなさらないようにということです。これは熱意に満ち、大食いをせず、決して屁《おなら》をせず、よく礼儀を心得、人の見ているところではめったに自分の道具も見せないような、とてもいい動物であるばかりか、いざという場合には、法律上の難問や、あれこれの訴訟手続が適法かどうかなどについて、あなたにたいへんよい忠告を与えることもできるでしょうから。」
税金徴集人はますますびっくり仰天した様子で、じっと聞いていましたが、この細君の言葉を聞くと、思い惑いの極に達して、言いました、「なるほど、アッラーにかけて、この件は驚き入ったことだ。だが、さしあたりおれは手許にもう驢馬はなし、近隣のしかじかの村の税金を徴集には行かなければならんし、はてどうしたものかなあ。しかしお前はせめて彼が何時に帰ってくるか、それくらいは知っているだろう。それとも、そのことについては何も言っていなかったかな。」若い女は答えました、「いいえ、その時間ははっきり言いませんでしたわ。ただこれから奉行所《デイワーン》に行って開廷すると言っただけでした。でも私ならば、もし私があなただったらどうするかぐらいは、ちゃんと心得ておりますわ。けれども、私よりか利口で、もう明らかに機敏で眼力の鋭い方に、今さら私が忠告するなんて必要はございませんわ。」すると人の好い男は言いました、「とにかくお前の持っているものを出すがいい。お前がまるっきり馬鹿じゃないかどうか、おれによくわかるだろうからな。」女は言いました、「それじゃ申しましょう。私がもしあなただったら、法官《カーデイ》が開廷している奉行所《デイワーン》にまっすぐ参ります。そして手に空豆をひと掴み持って行って、奉行所《デイワーン》で裁判長をつとめている魔法にかけられた不幸な男の前に出たら、手に持っている空豆を、遠くからその男に見せます。そして合図をして、私に驢馬としての彼の勤めが必要だということを、分らせてやります。すると彼は私の意味が分るでしょう、そして彼は責任感を持っているから、奉行所《デイワーン》を出て来て、好物の空豆を見るのでなおのこと、私についてきて、私のあとから歩いて来ずにはいられないでしょうよ。」
さて、税金徴集人はこの言葉を聞くと、細君の考えはいかにももっともと思って、言いました、「それこそおれのなすべき最上のことと思うね。たしかに、お前はいい忠告をしてくれる分別のある女だよ。」そして彼は空豆をひと掴み持った上で、家を出ましたが、これはもし説得によって驢馬を連れ戻すことができなかったら、少なくとも、驢馬の主な悪癖である大食らいで釣って、意に従わせることができるだろうという考えでした。そして彼が出かけようとすると、細君はさらに彼に向って叫びました、「わけてもね、おお伯父の息子よ、どんな場合にでも、あれに腹を立てたり、乱暴したりなどなさらないように気をつけて下さいね。御承知のように、あれは怒りっぽいし、その上、驢馬と法官《カーデイ》と両方なんだから、二倍に頑固で執念深いんですからね。」この細君の最後の忠告を受けて、税金徴集人は奉行所《デイワーン》の方角に出かけ、法廷の広間にはいりますと、壇上には法官《カーデイ》が坐っておりました。
そこで彼は広間のずっとはじの、列席者の後ろに立ちどまって、空豆を持っているほうの手をあげながら、もう一方の手で、法官《カーデイ》に至急来るように、おいでおいでの合図をしはじめて、「いそいで来い。ぜひ話したいことがある。早く来い」という意味を、明らかに示しました。すると法官《カーデイ》はとうとうこの合図に気がつき、合図をしている男は、頭株の税金徴集人とわかったので、これは重要なことを二人だけで話したいとか、奉行《ワーリー》からの何か緊急な通達があるとかいうのだと思いました。そこで一時休憩を宣して、すぐに立ち上がり、玄関まで徴集人のあとからついてゆくと、彼は法官《カーデイ》をいっそうよくおびき出すために、ちょうど驢馬に向ってするように、空豆を見せびらかし、手ぶりと声で誘いながら、先に立って歩いてゆきました。
さて、二人とも玄関に着くと、徴集人はさっそく法官《カーデイ》の耳許に身をよせて、これに言いました、「アッラーにかけて、おお友達よ、お前を魔法にかけている妖術には、おれもまったく困り、心配し、気の毒に思っているよ。それで、今おれがここにお前を呼びに来たのは、むろんお前を困らせるつもりはさらにないのだが、とにかくおれは勤めの仕事で、ぜひともすぐに出かけなければならなくて、お前がここで一日の仕事を終るのを、待っているわけにゆかないんだよ。そこで、どうかすぐに驢馬に変って、おれを背中に乗せてもらいたい。」すると法官《カーデイ》は話を聞いてゆくにつれて、恐れをなしてだんだん後じさりしてゆくのを見て、徴集人はさも同情に耐えんという口調をして、付け加えました、「おれは預言者――その上に祈りと平安あれ――にかけてお前に誓うが、もし今すぐおれの後についてきてくれるなら、これからは決してお前の尻を突棒で突くようなことはしないよ。お前は身体のその部分については、たいへん感じやすく、たいへん弱いことを、おれは知っているからね。さあ、おいで、おれのかわいい驢馬よ、仲のいい友達よ。今夜は、空豆と新しい馬肥しを倍あげるよ。」
こうした次第です。法官《カーデイ》は、これはどうも瘋癲病院《マリスターン》から逃げ出してきた、どこぞの気違いを相手にしているのだと思って、びっくりと恐ろしさの絶頂に達し、|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》よりも黄色くなって、広間の入口のほうにますます後じさりしました。けれども徴集人は、相手が逃げ出そうとしているのを見ると、すばやく身を翻して、彼と奉行所《デイワーン》の間に立ち塞がり、こうして逃げ道を封じてしまいました。すると法官《カーデイ》は、守衛も、助けを呼べるような人も、誰も見当らないので、温和に、用心深く、手心を加えて扱う決心をして、徴集人に言いました、「おお御主人よ、どうやらあなたは自分の驢馬を失くしなさって、その代りを欲しがっておいでのようじゃ。いや、これは愚見によれば、ごもっとも千万。されば、あなたが別な驢馬をお買いになれるように、このとおり、私から三百ドラクムさしあげましょう。ちょうど今日は家畜|市場《スーク》で市《いち》の立つ日だから、この値段でもって、いちばん立派な驢馬をお選びになるのは、造作ないことでしょう、ワァサラーム。」こう言って、彼は帯から三百ドラクムを取り出して、それを徴集人に渡すと、相手はその申し出を承知したので、彼はさも非常に重大な用件の通達を受け取ったみたいに、まじめくさった、考えこんだ様子をしながら、法廷の広間に戻りました。そして心中独りごとを言いました、「アッラーにかけて、こんな風に三百ドラクム損をしたのは、これはわしの落度だ。しかし、わしの管下の裁判を受ける者たちの前で、物議を醸《かも》したよりは、まだましだ。それに、わしの訴訟人どもから搾り取って、ちゃんと自分の金を取り返すこともできるわけだ。」そして彼は自席に坐って、法廷を続行しました。彼のほうは、このようでした。
徴集人のほうはと申しますと、次のようです。驢馬を買おうと、家畜|市場《スーク》に着きますと、彼は全部の動物を次々に一匹ずつ、注意ぶかくゆっくりと、調べはじめました。そして最後に、あらゆる条件に叶っているように見える、たいへんよい驢馬を見つけたので、仔細に調べようと近よってみますと、突然、それは自分自身の驢馬であることがわかりました。驢馬のほうでも主人とわかって、耳を後ろへ垂れて、喜んで鼻を鳴らし、鳴き立てはじめました。けれども徴集人は、すべてこうしたことが起ったあとで、驢馬がこんなに己惚《うぬぼ》れているのにすっかり怒って、両手を振りながら後じさりして、叫びました、「いやなこった、アッラーにかけて、おれに忠実な驢馬が要るとすれば、きさまなんぞは買うものか。ある時は法官《カーデイ》、ある時は驢馬じゃ、とてもきさまじゃ用は足りないからな。」そして彼は、自分を連れて行くように促す驢馬の図々しさに、すっかり腹を立てて、遠ざかってしまいました。そして別なやつを買いに行って、いそぎわが家に帰り、わが身に起ったことすべてを細君に話した上で、その驢馬に馬具をつけ、それに乗って行きました。
このようにして、徴集人の妻の若い女の知謀に満ちた機転のお蔭で、皆が満足して、誰も損害を与えられませんでした。情夫は必要な金を手に入れれば、夫は懐から一ドラクムも出さずに、もっとよい驢馬をせしめたし、法官《カーデイ》はやがて、感謝する自分の管下の裁判を受ける人たちから、徴集人に与えたものの二倍を、正当に儲けて、自分の金を取り返してしまったのですから。
これが、おお幸多き王よ、法官《カーデイ》の驢馬について、私の知っているすべてでございます。さあれアッラーはさらに多くを知りたまいまする。
帝王《スルターン》はこの物語をお聞きになると、叫びなさいました、「おお、砂糖の口よ、おお、相手のうちの最も快い相手よ、余はその方をわが侍従長に任命いたす。」そして彼に直ちにその職の徽章を着けさせなさり、これをもっとおそば近くに坐らせなすって、仰せになりました、「汝の上なるわが生命《いのち》にかけて、おおわが侍従長よ、その方は定めし、さらにひとつの物語を知っているに相違ない。それを余に話して聞かせてもらいたいものじゃ。」すると、天運の命令によって今は宮廷の侍従となった麻酔薬《ハシーシユ》飲みの漁師は、答えました、「親しみこめて心から悦んで、また当然の敬意と致しまして。」そして頭を軽く振りながら、彼は語りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二夜になると[#「けれども第八百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして頭を軽く振りながら、彼は語りました。
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[#5字下げ]法官《カーデイ》と仔驢馬
[#1段階大きい文字]
[#ここで字下げ終わり]
おお幸多き王よ、私の聞き及びましたところでは、町々のうちのある町に、貧乏人で、焼き玉蜀黍《とうもろこし》の行商をしていた、ひとりの男とその妻がおりまして、嫁に行く年頃の、月のような娘を一人持っていました。そしてアッラーは、一人の法官《カーデイ》がこの娘を嫁に所望して、両親から娘を手に入れることをお望みになりましたが、この法官《カーデイ》ときたら、針鼠の棘《とげ》のように粗《あら》い鬚を持った非常な醜い男で、片目は藪睨みだし、その若い娘の父親といってもよいくらい年をとっていたにもかかわらず、両親はこれを快諾してしまったのでした。しかしこの男は金持で、非常な尊敬を受けていました。それで娘の両親は、この結婚によって、自分たちの身分と生活状態がきっとよくなることと、そればかりを目ざして、富は幸福に与《あずか》って力あるにせよ、幸福の土台を成しはしないということを、殆んど考えなかったのでした。もっともこれは法官《カーデイ》が、やがてあらゆる危ないひどい目にあって、これを体験することになったのでありました。
そこで法官《カーデイ》は、老いと醜さとによって、わが身についている不利にもかかわらず、何とか気に入られるようになろうと努めて、まずはじめに、自分の若い妻に毎日新たな贈物の限りを尽し、そのどんなちょっとした気紛れをも満足させてやりました。けれども彼は、贈物だの気紛れの満足だのは、欲情を消す血気の情愛には及ばないことを、忘れておりました。それで彼は魂のなかで、妻に期待しているものを一向に見出せないことを嘆いていましたが、妻のほうはまだ経験がないので、経験不足のため自分の知らないものを、彼に与えることはできなかったわけです。
ところで法官《カーデイ》は手許に、ひとりの若い書記を抱えておりましたが、これを彼は非常にかわいがっていて、時々妻にもこの男のことを話さずにいられませんでした。また同様に、これはたいへん風習に反することとはいえ、この若者に自分の妻の美しさや、自分が妻に覚える愛情や、妻のためにいろいろしてやっているにもかかわらず、妻は自分に対して冷ややかなことなどを、話さずにいられませんでした。それというのも、アッラーはこのようになさって、破滅に値いする人間を盲目にしたもうからです。そればかりではない。神意が成就されるために、法官《カーデイ》はその狂気の沙汰と盲目をさらに押し進めて、遂にはある日窓から、その青年を自分の若妻に見せるまでに到りました。すると、何しろ美男で好ましい男だったので、若い女は若い男を恋してしまいました。そして求め合う二つの心は常に、あらゆる障害を越えて、最後には相会い相結ばれるものでありまするから、この二人の若者も法官《カーデイ》の監視の目をくらまして、目を覚ます嫉妬心を眠らせてしまうことができました。そして若い女は若い男を、わが眼の瞳よりも愛し、自分の魂を与えると共に、自分の全身をあげて彼に委せました。若い書記もこれに同様に報い、年とった法官《カーデイ》がかつて首尾よく生ずることのできなかったところを、女に味わわせました。こうして二人ともども、しきりに会い、日々にますます愛し合って、幸福の限りに暮しました。そして法官《カーデイ》も、自分の妻が若さと健康とみずみずしさに、いよいよ美しくなるのを見て、至極満足のていでした。かくてすべての人が、それぞれ自分なりに幸福だったのであります。
ところで若い女は、自分の恋人と全く安全に会うことができるようにと、庭に臨む窓に下っているハンケチが白いときには、はいって相手をすることができる、しかしハンケチが黒いときには、その合図は法官《カーデイ》が在宅なことを意味するわけだから、見合せて立ち去らなければいけないと、かねて恋人と申し合せておきました。
ところが天命の欲するところ、ある日、夫が奉行所《デイワーン》に出かけた後、彼女が白いハンケチを拡げたところに、あわただしく扉を叩く音と、叫び声が聞えました。そして間もなく、夫が宦官たちの腕に支えられて、真黄色になり、顔色も様子もすっかり変って、はいってくるのを見ました。そして宦官たちは彼女に説明して、法官《カーデイ》は奉行所《デイワーン》でにわかに不快に襲われて、いそいで家に戻り、手当てを受け、休息することにしたというのでした。事実、気の毒な老人はまことに憐れな様子をしているので、とんだ番狂わせを生じ、面倒を起したにもかかわらず、妻の若い女は、薔薇水を振りかけて、いろいろと手当てを尽しはじめました。手伝って着物を脱がせ、自分で寝床を用意して、そこに寝かせてやりますと、彼は妻の手当てによって楽になり、やがて寝入りました。すると若い女は、夫が急に帰宅したため暇になってしまったので、この暇を利用して、風呂屋《ハンマーム》に風呂を使いに行こうと思いました。ところが、面白くなくぷりぷりしていたもので、逢い引きの白いハンケチを引っこめ、差し支えのハンケチを拡げることを忘れてしまいました。そして香りをつけた衣類の包みを持って、彼女は家を出て、風呂屋《ハンマーム》に行きました。
さて若い書記は、窓の白いハンケチを見て、足取り軽く隣の露台に行きつき、そこから、いつものように、法官《カーデイ》の露台の上に飛び移って、平生、自分の恋人が、寝床の掛け蒲団の下で素裸になって自分を待っているのを見出せる部屋に、忍び入りました。ところが、その部屋の窓々はすっかり閉めきってあって、ちょうど法官《カーデイ》の眠りを助けるため、部屋じゅう真暗でありましたが、この若い女はしばしば、戯れに黙って彼を迎え、まるでいる気配を見せないことがありましたので、彼はにやにやしながら寝床に近づくと、掛け蒲団を持ちあげて、女を擽《くすぐ》るためのように、若い女の代物と覚しきところへ、いきなり手をやったものです。ところが、何たることぞ、彼の手の落ちたところは――悪魔《シヤイターン》は遠ざけられよ、――茂みのまん中に漂っている、何かぐにゃぐにゃした柔らかい物の上でしたが、これこそ法官《カーデイ》のしなびた道具にほかなりませんでした。これに触れると、彼は慄然としてふるえ上がって手を引っこめたが、既におそく、法官《カーデイ》ははっとして眼を覚し、急に不快も治ってしまい、自分の腹をまさぐったその手を掴むや、その手の持主に、憤然と襲いかかりました。そして怒りは彼に力を与えるし、一方、手の持主は茫然として釘づけになって立ち尽しているうちに、彼はこれに足搦《あしがら》みをかけて部屋のまん中に倒し、暗がりのなかで、掴みかかって、両腕で腰を捉えて差し上げながら、大きな箱のなかに放りこんでしまいました。この箱は昼間は蒲団《マトラー》をしまっておくのですが、今日は蒲団《マトラー》を出したため、開け放して、空になっていたのです。それから彼はいそいで蓋をおろし、閉じこめた男の顔を改める暇もなく、箱に鍵をかけてしまいました。それがすむと、この興奮が彼の血のめぐりを速めて、体によい反応を生じ、すっかり元気を回復いたしまして、着物を着ると、宦官に妻の行った先を問い合せ、走って風呂屋《ハンマーム》の入口の前に行って、妻の出てくるのを待ちました。というのは、彼はこう思ったのです、「あの闖入者を殺す前に、果たしてあいつはわしの家内と共謀《ぐる》になっているかどうか、突きとめなければならん。そのため、わしはここで、家内の出てくるのを待つことにして、家内を家に連れ戻し、その上で証人たちの前で、閉じこめた男と対決させてやろう。それというのは、わしは法官《カーデイ》である以上、事は合法的に行なわなければならんからな。さすれば、果たして犯罪人はただ一人なのか、それとも二人の共犯者がいるのか、はっきりわかるだろう。最初の場合には、閉じこめた男を、わし自身の手で、証人の前で処分してやるし、第二の場合には、双方をわが十本の指で締め殺してやろう。」
このように思い耽り、これらの復讐計画を脳味噌のなかで繰り返しながら、彼は風呂屋《ハンマーム》にはいって行く女の浴客を、順繰りに引きとめはじめて、一人一人に言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、わしの家内のこれこれいう者に、すぐに出てこいと伝えて下され。ぜひ話があるのじゃ。」けれども彼はその言葉を言うのに、ひどく突慳貪に興奮して言い、眼は爛々と輝き、顔色は黄色く、態度は取り乱し、声は顫え、様子にはいかにも憤怒の色が現われているので、女たちは怖気をふるって、これは気違いだと思い、甲高い叫びをあげつつ、逃げ出しました。その女たちのうちの最初の女が、風呂屋《ハンマーム》の浴室のまん中で、声高くその伝言を伝えると、法官《カーデイ》の妻の若い女の記憶に、窓に出したままの白いハンケチをば、うっかり忘れていたことが、にわかに思い出されました。彼女は思いました、「たしかに、もう私は取り返しがつかなくだめだわ。そして私の恋人の身に起ったことも、アッラーだけが御存じだし。」そして彼女はいそいで沐浴《ゆあみ》をすましましたが、その間にも、浴室では、はいって来る女たちの伝言が続々とどんどん伝えられ、今はびっくりした女たちの会話は、夫の法官《カーデイ》のことで持ちきりになっていました。けれども幸いなことに、その女たちの誰もこの若い女を知っている者がなく、それに彼女も、まるでそんなことにはかかわりがないみたいに、言われていることにてんで興味を持たないような振りをしていました。そして着物を着て、入口の部屋に行きますと、そこには一人のあわれなエジプト豆を売る女が、浴客に売るエジプト豆を積み上げた前に、坐っているのを見かけました。そこで彼女はその婆さんを呼んで、言いました、「親切な小母さん、この金貨一ディナールあげるから、あんたの青い面衣《ヴエール》と、そばに置いてある空の籠を、しばらく私に貸してもらえないかしら。」すると老婆は、この意外の儲けにすっかり悦んで、彼女に柳の籠と荒い布の粗末な面衣《ヴエール》をくれました。若い女はその面衣《ヴエール》をまとい、籠を手にとり、このように変装して、風呂屋《ハンマーム》を出ました。
通りに出ると、彼女は、戸口の前を身振り手振りをしながら、行きつ戻りつしている自分の夫を見かけましたが、彼は声高にあらゆる風呂屋《ハンマーム》を呪い、風呂屋《ハンマーム》に行く女を呪い、風呂屋《ハンマーム》の持主を呪い、風呂屋《ハンマーム》を建てる人を呪っていました。眼は顔から飛び出し、口からは泡を吹いています。彼女は彼に近よると、声を作って、行商女たちの声を真似、彼にエジプト豆を買ってくれないかと聞きました。すると彼は、エジプト豆を呪い、エジプト豆売りの女を呪い、エジプト豆栽培者を呪い、エジプト豆を食う人を呪いました。若い女はその気違い振りを笑いながら、変装を見やぶられることなく、わが家の方角に遠ざかりました。そして家にはいって、足早に自分の部屋に上がると、呻き声が聞えました。いそいで窓々を開けましたが、部屋には誰も見えないので、こわくなって、もう少しで宦官を呼んで安心させてもらおうとすると、そのとき、呻き声は蒲団《マトラー》箱から出てくるのが、はっきり聞えました。そこでその箱に走り寄りますと、鍵がまだ差したままになっていたので、箱を開けました、「寛仁にして慈悲深きアッラーの御名《みな》において」と叫びながら。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してきたので、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三夜になると[#「けれども第八百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると彼女は、自分の恋人が、空気不足でまさに息絶えんとしているのを見つけました。そこで彼女は非常な心痛を覚えたにもかかわらず、見当違いのほうを見すえて、ぐったり折れ曲っている男の姿を見ては、思わず吹き出さずにはいられませんでした。けれども彼女はいそいでこれに薔薇水をかけて、甦えらせました。そして彼がすっかり元気になり楽になったのを見ると、起ったことを手短かに説明させて、すぐに万事をうまく落着させるための手筈をきめました。
ちょうどそのとき、彼らの厩には、牝驢馬が一匹いて、昨日、小さな仔驢馬を一匹産み落したところでした。そこで若い女は厩に駈けつけ、そのかわいらしい仔驢馬を抱き上げて、自分の部屋に運んでくると、それを恋人の閉じこめられていた箱のなかに入れ、蓋をしめて鍵をかけました。それから、恋人に接吻した上で、白いハンケチの合図を見るまでは、来てはいけないと言いふくめて、彼を帰らせました。そして自分はいそいで風呂屋《ハンマーム》に引っ返しますと、夫は相変らず、風呂屋《ハンマーム》とそれに関係あるものすべてを呪いながら、縦横に歩きまわりつづけているのでした。そして彼女がはいって行くのを見ると、夫は呼びとめて言いました、「おおエジプト豆売りよ、わしの家内のこれこれいう者に伝えてくれ、もしこの上ぐずぐずして出てこないとあらば、わしはアッラーに誓って、夜にならないうちにやつを殺してしまい、その頭上に風呂屋《ハンマーム》を崩れ落ちさせてやるとな。」すると若い女は、魂のなかで笑いながら、風呂屋《ハンマーム》の玄関にはいり、面衣《ヴエール》と籠をエジプト豆売りの女に返すと、それからすぐに、自分の包みを小腋に抱え、腰をふりながら、外に出ました。
さて、夫の法官《カーデイ》は彼女を見つけるとすぐさま、そちらに進みよって、言いました、「お前はどこにいたんだ、いったいどこにいたんだ。わしはここで、もう二時間も待っていたぞ。さあ、わしについてこい。さあ、来い、おお悪者め、性悪女《しようわるおんな》め、来い。」すると若い女は、立ちどまって、答えました、「アッラーにかけて、どうなすったの。私の上にアッラーの御名《みな》あれ。どうなすったの、おお旦那様。町の法官《カーデイ》たるあなたとしたことが、こんな風に往来で醜聞を捲き起すような真似をなさるとは、急に気違いにでもおなりになったのですか。それとも、あなたの病気が理性を塞《ふさ》いで、判断を狂わせてしまい、往来のなかで公然と、御自分の伯父の娘に失礼な振舞いをさせるのでしょうか。」法官《カーデイ》はやり返しました、「無用の言葉はもうたくさんじゃ。言いたいことは家で言え。とにかくわしについてこい。」そして彼はさかんに身振りをしながら、叫びながら、癇癪玉を破裂させながら、妻の前を歩きはじめましたが、しかし十歩後から、黙ってついてくる妻に対しては、直接何も言葉をかけませんでした。
二人が家に着きますと、法官《カーデイ》は妻を上の部屋に閉じこめて、自分は区長と四名の適法の証人をはじめ、隣近所の人たちについては、出会えるだけの人全部を、呼びに出かけました。そして彼ら一同を、大箱のある、妻の閉じこめられている部屋に連れてきて、これから起ることに立ち会ってもらおうと思いました。
法官《カーデイ》をはじめ同行の人たち全部が部屋にはいったとき、若い女はまだ面衣《ヴエール》をつけたまま、部屋の一隅のずっと奥に引っこんで、独りごとではあるけれど、みんなに聞えるように言っているところでした。こう言っておりました、「おお私たちの災い、情けないこと、気の毒な夫だわ。あの病気で気違いになってしまった。たしかに全く気違いになりなすったにちがいない、こんな風に私に悪口雑言を浴びせかけ、婦人部屋《ハーレム》によその男たちをはいらせるなんて。おお私たちの災い。家《うち》の婦人部屋《ハーレム》に、よその男たちを入れて、私を見せるとは。情けない、情けない、あの人は気違いになった、すっかり狂ってしまったわ。」
事実、法官《カーデイ》はもう全く憤怒と黄疸《おうだん》と異常興奮の状態に陥っていたので、鬚はふるえ、眼は爛々として、いかにも高熱と錯乱に襲われているような様子でした。ですから、一緒にきた人たちの何人かは、彼を落ち着かせようと努め、正気に戻るようにと忠告もしたのですけれど、そういう言葉はいっそう彼を興奮させるばかりで、彼はその人たちにどなりました、「おはいりなされ、おはいりなされ。こんなあばずれ女の言うことなどお聞きなさるな。不貞な女の泣き言などに、ほろりとなすっちゃいけませんぞ。いまにわかります。いまにわかります。これぞこの女の最後の日じゃ。これぞ裁きの時じゃ。おはいりなされ。おはいりなされ。」
さて一同はいると、法官《カーデイ》は戸を閉めて、蒲団《マトラー》箱のほうに進みよって、いよいよ蓋をあけました。するとそこには、小さな仔驢馬が頭を出して、耳を動かし、黒いやさしい大きな眼でみんなを眺め、騒がしく息をつき、そして尻尾をあげてぴんと立てながら、再び日の目を見たことを悦びながら、母を呼んでいななきはじめたというわけです。
これを見ると、法官《カーデイ》は激怒と憤怒のぎりぎりの極に達して、痙攣とひきつりに襲われました。そしていきなり妻にとびかかって、締め殺そうとしました。妻は部屋じゅうを逃げまわって、叫びはじめました、「預言者にかけて、この人は私を締め殺そうとします。気違いを押えて下さい、おお|回教徒の方々《ムスリムーン》よ。助けて下さい。」
すると並いる人たちも、事実、法官《カーデイ》の唇の上に発作の泡が出ているのを見て、もはやその狂気を疑わず、彼と妻との間に割ってはいって、彼を抱きとめ、力ずくで絨氈の上に抑えつけましたが、一方|法官《カーデイ》はわけのわからぬ言葉を口走って、何とか一同の手をのがれて、妻を殺してやろうとあがいていました。区長は、町の法官《カーデイ》ともあるものがこんな有様になったのを見て、この上なく心を痛めながらも、とにかくその躁暴性の狂気を見ては、並いる人たちに言わずにはいられませんでした、「遺憾ながら、アッラーがこの人の気を鎮めて、理性を取り戻させて下さるまでは、このままじっと身動きさせずに、厳重に監視していなければなりませんな。」そして一同叫びました、「どうかアッラーが治して下さるように。あんなに立派な人なのに。何という悪病だろう。」またある人たちは言いました、「どうして仔驢馬なんかに焼餅をやくことができるのだろう。」ほかの人たちは聞くのでした、「どうしてこの仔驢馬が、この蒲団《マトラー》箱のなかにはいったのかしらん。」するとほかの人たちが言いました、「遺憾ながら、この仔驢馬を男と思いちがえて、箱のなかに閉じこめたのは、この御当人さ。」すると区長は結末をつけるため、付け加えました、「どうかアッラーがこの方をお助け下さって、悪魔《シヤイターン》を遠ざけたまいますように。」一同答えました、「悪魔《シヤイターン》は遠ざけられよかし。」そして法官《カーデイ》を絨氈の上に取り押えている人たちを除いて、みんな引きあげました。しかし残った人たちも、長くはそこにとどまらなかった。というのは、法官《カーデイ》は突然、ひどい激怒の発作に襲われ、わけのわからない言葉をわめき散らし、えらい勢いで暴れ出して、相変らず妻へ飛びかかろうとするのですが、妻のほうは遠くから、彼に向って、こっそりしかめっ面をしたり、嘲りの表情をして見せたりするので、ついに首の血管が破れて、おびただしい血を吐いて、死んでしまったからです。アッラーは彼に御憐れみを垂れたまわんことを。それというのは、彼は廉潔な法官《カーデイ》であったばかりでなく、自分の妻のくだんの若い女に、十分な財産を残して、彼女は安楽に暮すことができ、愛し愛されている若い書記と結婚することもできたからであります。
こうしてこの物語を語りおえると、麻酔薬《ハシーシユ》飲みの漁師は、王様が恍惚として自分の話に聞き入っていらっしゃるのを見て、思いました、「王様にもうひとつ別な話をして差し上げるとしよう。」そして彼は言いました。
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[#5字下げ]名|法官《カーデイ》
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語り伝えられるところでは、むかしカイロに一人の法官《カーデイ》がおりましたが、彼はあまりに背任行為が多く、私利私欲ばかりの判決を下したため、その職を免ぜられてしまい、餓死しないためには、やりくり算段をして暮さなければならぬ羽目になりました。ところがある日、彼はもういくら頭のなかを探しても駄目で、金策の道が全然見つかりません。それというのも、ちょうど自分の生活の資金を種切れにしてしまったように、才覚のあらゆる資金も使い尽してしまったからでした。自分がこうした窮地に陥ったのを見ると、彼はまだ自分の手許に残っていたたった一人の奴隷を呼んで、これに言いました、「おお何某よ、わしは今日はたいへん加減が悪くて、家から出られないが、お前なんとかして、われわれに何か食う物を見つけてきてくれるか、または誰か法律上の相談を求めている人たちを、わしのところによこすようにしてくれ。そうすれば、わしはその人たちに、わしの骨折料を払わせてやれるからな。」するとこの奴隷は、手練手管にかけては、主人に劣らずしたたかなやくざ者でしたし、このもくろ見の成否には、主人と同じく利害関係があることとて、こう思いながら、家を出てゆきました、「こいつはひとつ何人かの通行人に、次々に突っかかって行って、喧嘩を吹っかけてやるとしよう。おれの御主人が馘《くび》になったことは、世間じゃまだ知らないから、おれは話をつけようという口実で、やつらを御主人のところに引っ張って行って、御主人の手の間に、やつらの帯をすっからかんにさせてやろう。」こう考えて、彼は自分の前にいる散歩者に目をつけました。その男は顎のあたりに両手で杖によりながら、静かに歩いていましたが、彼は巧みな足搦《あしがら》みで、この男を泥のなかに転ばしてしまいました。気の毒な男は、着物はよごれ、古靴は皮が剥がれてしまったので、襲いかかったやつを懲らしめてやるつもりで、憤然と立ち上がりました。けれども、見れば法官《カーデイ》の奴隷とわかったので、こんなやつと争いたくはなく、困りきって、さっさと引きあげながら、ただこう言っただけでした、「アッラーは悪魔《シヤイターン》を懲らしめて下さるように。」
そこでこの悪賢い奴隷は、最初の仕事が不首尾なのを見て、道をつづけながら、思いました、「この手じゃ駄目だな。おれたちは何かほかの手を探すとしよう。何しろ世間じゃみんな、おれの御主人を知っているし、おれを知っているからな。」そしてどうしたらよいかと工夫していると、そのとき一人の下男が、肉を詰めたすばらしい鵞鳥一羽と、そのまわりにぐるりと、トマトと長南瓜と茄子をあしらい、全部が手際よく整えられてのせてある盆を、頭の上にのっけて運んでいるのを見かけました。そこで彼はその運搬人のあとをつけてゆくと、その男は鵞鳥を焼かせるために、竈《かま》を持って賃焼きをしている所のほうに向ってゆきました。見ると、その男ははいっていって、主人にその盆を渡し、言っていました、「一時間たったら取りに来るよ。」そして立ち去りました。
そこで法官《カーデイ》の奴隷は思いました、「これだぞ」と。そしてしばらくたつと、彼は賃焼所にはいって、言いました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、やあ、ハージー(5)・ムスタファよ。」賃焼所の主人は、法官《カーデイ》の奴隷とわかりましたが、何しろ法官《カーデイ》の家には、蒸焼きを頼むようなものはあったためしがなかったので、もうずっと前からこの男に会わなかったのでした。けれども主人は答えました、「して御身の上にも平安《サラーム》あれ、おお兄弟ムバーラク(6)よ。どうしてわざわざお見えかね。家の竈《かま》がわれわれの御主人|法官《カーデイ》様のために燃えなくなってから、ずいぶんになるよ。今日はどういう御用をしてさしあげられるか。何を持ってお出でかね。」奴隷は言いました、「もうとっくに来ているものよりほかには、何もないよ。というのは、おれはその竈にはいっている、肉を詰めた鵞鳥をとりに来たのだからね。」すると竈の持主は答えました、「だけどさ、おお兄弟よ、この鵞鳥はあんたのものじゃないよ。」彼は言いました、「そんなことを言うもんじゃない、おお長老《シヤイクー》よ、この鵞鳥はおれのものじゃないと、おっしゃるのかい。だけど、この鵞鳥が卵から出るのを見たのも、これを育てたのも、これを締め殺したのも、肉を詰めたのも、拵《こしら》えたのも、みんなこのおれなんだぜ。」主人は言いました、「アッラーにかけて、そりゃそうでしょうよ。だけど、これを持ってきた人が戻ってきたら、私は何と言えばよいのかね。」彼は答えました、戻ってきっこないよ。いずれにしろ、その人には冗談めかして、ただこう言っておやりなさればいいさ、そいつはとても愉快な男で、笑うことが好きな人だからね。『ワッラーヒ(7)、おお兄弟よ、私があの盆を竈のなかに突っこんだとたんに、鵞鳥はいきなりけたたましい叫びをひと声あげて、飛んで行ってしまいましたよ』とね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四夜になると[#「けれども第八百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼は付け加えました、「じゃ鵞鳥はもう十分焼けているはずだから、もらっていこう。」すると賃焼屋は、今聞いた言葉に笑いながら、竈から盆を引き出して、信用しきって法官《カーデイ》の奴隷に渡したので、彼はいそいでこれを主人に持って行って、主人と一緒に、舌鼓を打ちながら、鵞鳥を平らげました。
こうしているうちに、鵞鳥を持ってきた男は賃焼所に戻ってきて、自分の盆を求めて、言いました、「鵞鳥は今ごろはちょうどよく焼けているはずだね、おお主人よ。」すると主人は答えました、「ワッラーヒ、私があれを竈に入れたとたんに、あいつはけたたましい叫びをひと声あげて、飛んで行ってしまったよ。」ところがこの男は、実に愉快なやつどころじゃなかったもので、賃焼屋は自分をからかう気だとばかり思いこんで、かんかんに怒って、叫びました、「こいつ、何だっておれの鬚に向って笑おうなどとしやがるのか、この碌でなしめ。」そして言葉から言葉に、罵りから罵りにということになって、二人の男は殴り合いになってしまいました。するとこの叫び声を聞きつけて、まもなく群衆が外に集まり出し、そのうち賃焼所に侵入してきました。そして人々は互いに言い合いました、「肉を詰めた鵞鳥が生き返ったということがもとで、ハージー・ムスタファはひとりの男と殴り合っているのだよ。」すると大部分の者は、竈の持主の誠実と正直はずっと前から聞えているので、こちらを弁護しましたが、一方、数人の人たちだけは、この生き返ったということはいささか疑わしいと、敢えて言い出すのでした。
ところで、この掴み合いをしている二人の男のまわりに、こうして押しよせた人々のなかに、一人の妊婦がおりまして、この女は好奇心につられて、最前列まで出てしまいました。ところが、これがこの女の不運でした。それというのは、賃焼屋が相手をもっとよく仕とめようと、後ろにさがったとたんに、彼女は全く別人にむけられた物すごい打撃を、腹のまん中に受けてしまったからです。それで女は、襲いかかられた雌鶏みたいな叫びをあげながら、即刻即座に流産をしてしまいました。
ところで、くだんの女の夫は、近所の果物屋の店に住んでいたので、すぐに知らせを受けると、大きな棍棒を持って馳せつけ、呼ばわりました、「おれは賃焼屋と、賃焼屋の親父《おやじ》と、やつの祖父《じじい》のお釜を掘ってやって、やつの一家を根絶やしにしてくれるわ。」すると賃焼屋は、もうはじめの格闘でへとへとになっていたところに、新たに怒り猛った男が、物すごい棍棒をひっさげて、自分をめがけてやってくるのを見ると、これはたまらんと思って、脚を風にまかせて、中庭に逃げこみました。そしてなおも追っかけてくるのを見ると、壁の片隅を乗り越えて、隣の露台の上にはい上がりましたが、そこから地上に墜落してしまいました。そして天運の望むところ、彼はちょうど、おりからその家の下で、掛蒲団にくるまって眠っていた一人のマグリブ人の上に、落ちたのでありました。賃焼屋は高みから落ちた上に、たいへん目方が重かったので、その男の肋骨《あばらぼね》を全部砕いてしまい、マグリブ人はためらわず、とたんに息絶えました。するとその近親全部や、市場《スーク》のほかのマグリブ人たちが駈けつけてきて、袋叩きにしながら、賃焼屋を捕えて、これを法官《カーデイ》の前に引っ立ててゆこうとしました。一方、鵞鳥を持ってきた男は、賃焼屋が捕えられたのを見て、自分もいそぎマグリブ人の仲間入りをしました。そして叫喚と怒号のさなかに、この連中一同は奉行所《デイワーン》指して出発しました。
ところがこのとき、鵞鳥を食った法官《カーデイ》の下男は、群衆にまじって、どうなることか見に引っ返してきていたので、告訴人たち一同に言いました、「私のあとについていらっしゃい、おお正直な衆よ、私が皆さんの御案内をいたしましょう。」そして彼は一同を、自分の主人のところに連れてゆきました。
すると法官《カーデイ》は、重々しい様子をして、まずはじめに全部の告訴人に、二倍の訴訟費用の負担を払わせました。それから、皆の指が向けられている被告のほうへ向いて、これに言いました、「鵞鳥の件について、その方は何と答弁いたすか、おお賃焼屋よ。」するとこの人の好い男は、現在の場合は、法官《カーデイ》の奴隷がいることだから、自分の最初の断言を主張するほうがよいとさとって、答えました、「アッラーにかけて、おおわれらの御主人|法官《カーデイ》様、あの動物はけたたましい叫びをひと声あげて、肉を詰められたまま、付け合せの間から起きあがって、飛んで行ってしまったのでございます。」すると鳥を持ってきた男は、これを聞いて、叫びました、「この犬の息子め、きさまは法官《カーデイ》の殿様の前でも、まだ図々しくそんなことを言い張っているな。」すると法官《カーデイ》は、憤ったような様子をして、鳥を持ってきた男に言いました、「汝、おお不信者よ、おお無信の徒よ、復活の日には、全地の表《おもて》に散らばった彼らの骨を取り集めさせなさって、あらゆる被造物を蘇らせたもうであろう御方ともあるものが、ただ羽毛を欠くのみにて、全部の骨を備えている一羽の鵞鳥を、生き返らせることがおできにならぬなどと、どうしてその方敢えて信ずるのであるか。」この言葉に、群衆は叫びました、「死者たちを蘇らせたもうアッラーに、栄光あれ。」そしてみな鵞鳥を持ってきた不幸な男をやじったので、その男は自分の信仰の足りないことを、すっかり後悔しながら、立ち去りました。
それがすむと、法官《カーデイ》は流産した女の夫のほうへ向いて、これに言いました、「してその方は、この男に対していかなる言い分があるのか。」そして訴えを聞きおわると、彼は言いました、「弁論を終り、判決を下すが、事件は遅滞を許さぬ。いかにも、賃焼屋は流産の原因たる罪がある。彼には反坐法《はんざほう》が厳重に適用さるべきである。」そして彼は夫のほうへ向いて、これに言いました、「法はその方を正しいとする。よって本官は、その方のため妻を妊娠させるべく、妻を有罪者のところに連れてゆく権利を、その方に与えるぞよ。して流産は六カ月目に起ったとあらば、その方は妻を、妊娠の最初の六カ月の間、彼の扶養に委ねるがよい。」すると夫は、この判決を聞くと、叫びました、「アッラーにかけて、おお法官《カーデイ》の殿様、私は私の告訴を取り下げます。どうかアッラーはわが敵を許したまわんことを。」
すると、法官《カーデイ》は死んだマグリブ人の親類たちに言いました、「さて、その方たち、おおマグリブ人らよ、これなる賃焼屋を業とする男に対する、その方たちの告訴の理由は何であるか。」するとマグリブ人たちは、多くの身振り手振りとおびただしい言葉でもって、彼らの告訴を説明してから、血の代価を要求しながら、自分たちの親類の屍体を示しました。すると法官《カーデイ》は彼らに言いました、「いかにも、おおマグリブ人らよ、血の代価はその方たちに支払わるべきである。何となれば、賃焼屋に不利な証拠が数々あるゆえじゃ。従って、その方たちはその代価が、現物で支払われること、すなわち血には血を以って支払われることを望むか、あるいは賠償金で支払われることを望むか、それを本官に申しさえすればよい。」すると、兇暴な種族の子のマグリブ人たちは、口を揃えて答えました、「現物でございます、おお法官《カーデイ》の殿様。」すると彼は一同に申しました、「さればそのように致せ。この賃焼屋を捕えて、その方たちの死んだ親類の掛蒲団にくるみ、これを帝王《スルターン》ハサンの回教寺院《マスジツト》(8)の光塔《マナーラ》の下に置け。そうした上で、被害者の兄弟が光塔《マナーラ》の上に登って、賃焼屋めがけて天辺《てつぺん》から落ち、この者が兄弟を押しつぶしたごとく、これを押しつぶすがよい。」そして付け加えました、「では、どこにおるか、おお被害者の兄弟よ。」この言葉に、一人のマグリブ人がマグリブ人たちの間から出てきて、叫びました、「アッラーにかけて、おお法官《カーデイ》の殿様、私はこの男に対する私の告訴を取り下げます。どうかアッラーはこの男を許したまわんことを。」そして彼はほかのマグリブ人たちを従えて、立ち去りました。
すると、これらの公判すべてに立ち会った群衆は、法官《カーデイ》の法律的知識と、その公平な精神と、その能力と、その明敏とに感嘆して、引きとりました。そしてこの話の噂が帝王《スルターン》のお耳まで達して、法官《カーデイ》は御不興を許され、その職務に復されましたが、一方彼の後任となった人は、免職になるようなことは何もしなかったのですが、もっぱら、鵞鳥を食った男の才気縦横ぶりがなかったというだけのことで、罷免されたのでありました。
そして麻酔薬《ハシーシユ》飲みの漁師は、王様が相変らず、同じようにうっとりと注意をこらして、自分の話に聞き入っていらっしゃるのを見て、この上なく自尊心を満足させられるのを覚えて、さらに語りました。
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[#5字下げ]女知りの教え
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おお幸多き王よ、私の聞き及びましたところでは、むかしカイロに二人の若者がいて、一人は結婚し、もう一人は独身だったが、たいそう仲好く交わっておりました。結婚している男は、アフマドと呼ばれ、していない男は、マフムードと呼ばれました。ところで、マフムードよりも二つ年上だったアフマドは、この年齢の差の与える威光を笠に着て、自分の友人に対し、ことに女の知識となると、教育者と先生を以って任じていました。そしてしょっちゅうこの問題について話して聞かせ、自分の経験の数々の事実を語っては、いつも結論としてこういうのでした、「今は、おおマフムードよ、君は君の生涯で、こうした意地の悪い女どもというものを、底の底まで知りつくしたある男と知り合ったと、言うことができるよ。僕という友達がいて、彼らのあらゆる手管をあらかじめ知らせてもらえるのだから、君は大いに仕合せと思わなければならんね。」そしてマフムードは日に日に、ますます自分の友達の造詣に感心して、もうどんなにずるい女であろうと、この友達をだますことはおろか、その油断に乗じることすらできまいと、信じるようになりました。そしてしばしば友達に言うのでした、「おおアフマド、なんて君は天晴れな男だろう。」するとアフマドは、保護者然として、反身になり、友達の肩を叩いて、言うのです、「君がおれみたいになるように、だんだん教えてあげるよ。」
さてある日のこと、アフマドがまたも繰り返して、「君がおれみたいになるように、だんだん教えてあげるよ。というのは、経験のある人のところでこそ学べるというもので、経験もなくて教える人のところでは、だめだからね」と言ったとき、年下のマフムードは友達に言いました、「アッラーにかけて、僕に女たちの悪知恵の裏をかくにはどうすればよいかを教えてくれる前に、おおわが友よ、女たちの一人と交際を結ぶにはどうすればよいか、教えてくれるわけにはゆかないものだろうか。」
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[#地付き]けれども第八百五夜になると[#「けれども第八百五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアフマドは、学校の先生然とした口調で、答えました、「アッラーにかけて、それはこの上なく簡単なことさ。君は明日、ムレド・エル・ナビーのお祭の天幕《テント》の下に行って、そこにいっぱいいる女たちを、よく観察しさえすればいいのだよ。そしてその女のなかから、小さな子供を一人つれている女で、同時に美しい容姿と、顔の面衣《ヴエール》の下に輝く美しい眼を持った女を一人選ぶんだね。こうして君の選ぶのがきまったら、君は棗椰子《なつめやし》の実と、砂糖をまぶしたエジプト豆を買って、これを子供にやり、そしてその子と遊ぶのだが、母親のほうに目をあげることは禁物だ。そして子供をやさしく撫でてやり、接吻してやる。いよいよ子供が君によくなついたら、そのときはじめて、その母親に、しかし顔を見ずにだよ、子供を家まで送りとどけさせていただきたいと頼むのだ。そして道々ずっと、子供の顔から蠅を追ってやり、子供の言葉で話しかけて、子供にいろいろ面白い話をしてやる。そのうちしまいには、きっと母親は君に言葉をかけるだろう。もし母親がそうしたら、君は雄鶏になることまちがいなしだよ。」するとマフムードは、友達に対し感嘆の極に達して、その夜はずっと、今聞いた教えの復習をしながら過しました。
さて翌日になると、彼は朝早くから、いそいでムレドにゆき、彼がどんなに友達の経験を信用しているかを証明するような忠実さで、前日の忠告をそのまま実行しました。すると驚きいったことに、その結果は予期以上でした。そして運命は、彼が肩に子供をのせて、家まで送って行った女というのが、まさに友達のアフマドの細君そのひとであることを望みました。しかし彼は、女の家に行ったとき、まさか自分が友達を裏切っていようとは、思いもかけませんでした。それというのは、一方では、彼はかつて友達の家に来たことはなかったし、他方では、その細君の面衣《ヴエール》をかぶったところもかぶらないところも、ついぞ見たことがないので、この女がアフマドの細君とは、とても見抜けなかったからです。若い女のほうでは、いつも夫に、女についての造詣と女の悪知恵についての知識で、やはり悩まされていたので、とうとう夫の眼力のほどを試してみることになって、大喜びでありました。
さて、若いマフムードとアフマドの細君との間の、この最初の邂逅は、二人にとってはなはだ愉快に行なわれました。まだ童貞で経験のない若者は、斯道に精通したエジプト女の腕と脚の間に抱かれる快楽を、十二分に満喫しました。二人はお互いにすっかり相手に満足したので、次々の日の営みを幾度《いくたび》も繰り返しました。そして女はこうして夫が知らぬまに、いい気になっている夫を凹《へこ》ましてやるのを楽しんでおりましたが、夫のほうでは、友達のマフムードに、今までいつも出会うことになっている時刻に、ぱったり出会わなくなったのに驚いて、こう思っておりました、「あいつはおれの教えと忠告を活用して、女を見つけたに相違ないぞ。」
そうしているうちに、しばらくたってから、ちょうど彼がある金曜日、回教寺院《マスジツト》に行ったとき、中庭で、洗浄《みそぎ》の泉水のそばに、友達のアフマドの姿を見かけた。そこでこれに近づいて、平安《サラーム》と挨拶の後、いかにも心得顔で、女探しはうまくいったか、その女はきれいかねと、尋ねました。するとマフムードは、友達に心を打ち明けることを無上に悦んで、叫びました、「やあ、アッラー、きれいどころの段じゃない。バタとミルクだ。それに肥えていて、色白で。麝香と素馨だ。それに何と利口でしょう。私たちが会うたびに、何という料理をつくって、僕に御馳走してくれることか。だけどその亭主というのは、おおわが友アフマドよ、どうも手のつけられない馬鹿で、牛太郎みたいな男らしいですよ。」するとアフマドは笑い出して、言いました、「アッラーにかけて、大方の亭主というものはそんなものさ。よしよし、君は僕の忠告を十分活用できたことが、僕によくわかった。せいぜいそういう風に続けたまえ、おおマフムードよ。」そして礼拝のため、二人そろって回教寺院《マスジツト》にはいりましたが、そのうちお互いにはぐれてしまいました。
さてアフマドは、回教寺院《マスジツト》から出ると、その日は金曜日のこととて、店はみな閉っているし、どうやって時間を過したらよいかわからず、そこで隣り合せに住んでいる隣人のところに訪ねて行って、その家にあがり、往来に面した窓辺に、隣人と一緒に坐りました。すると突然、自分の友達マフムードその人が、彼自身の身と彼自身の眼を持って、やって来るのを見た。そして戸を叩きさえもしないで、すぐに家のなかにはいってゆきましたが、これこそ、家のなかでは彼とぐるになって、彼の来るのを待っているということの、否《いな》めない証拠です。そこでアフマドは、今見たことにびっくり仰天して、最初は、いきなりわが家に飛びこんで、自分の妻といる友達の不意を襲い、二人もろとも懲らしめてやろうと考えました。けれどもよく考えてみると、自分が戸を叩く音を聞きつければ、細君は食えない女だから、きっと若者を隠すとか、露台から逃がすとかできるだろうと思いました。そこで彼は別なやり方で、気《け》どられずにわが家にはいろうと決心しました。
事実彼の家には、底のつながっている貯水槽があって、半分ずつに折半され、一半が彼のもので、自分の中庭にあり、他の一半は、彼が今坐っている隣人のもので、そこの中庭に口を開いておりました。そこで、アフマドは思いました、「そうだ、あそこから行って、やつらの不意を襲ってやろう。」そして隣の男に言いました、「アッラーにかけて、お隣の方よ、今思い出したのですが、私は今朝あの井戸のなかに、財布を落してしまいましたっけ。あなたにお許し願って、井戸に下りて財布を探したいと思います。それから、私の中庭にある側《がわ》から、自分の家にあがろうと思っていますがね。」すると隣の男は答えました、「一向かまいませんよ。明りで照してさしあげてもよござんす、おおわが兄弟よ。」けれどもアフマドは、井戸から明りが洩れて、自分の家に警告を与えるといけないと思って、暗闇のなかに下りるほうを選び、この力添えを受けようとはしませんでした。そして友達に暇を告げた上で、彼は井戸の中に下りました。
さて、下りてゆく間は、万事たいへんうまく行きましたが、向う側で上がらなければならない段になると、宿命がまことに奇妙な工合に妨害したのでありました。事実、アフマドが両腕と両脚を使って、既に半分の高さまでよじのぼったとき、井戸に水を汲みに来た黒人の女中が、井戸穴に何か物音を聞きつけて、身をかがめてのぞきこんだのでした。すると、薄暗がりにうごめいているその黒い形を見て、わが家の主人とわかるどころか、すっかり恐ろしくなってしまい、手から釣瓶《つるべ》の綱を放しながら逃げ出し、狂気のように叫びました、「鬼神《イフリート》だ、鬼神《イフリート》だ。鬼神《イフリート》が井戸から出てくる、おお|回教徒の皆さん《ムスリムーン》、助けてくれえ。」そしてこのようにして手を放れた釣瓶は、アフマドの頭の上にずっしりと落ちかかって、彼を半殺しにしてしまいました。
こうして黒人女によって警告を与えられると、アフマドの細君は、いそいで恋人を逃がして、中庭に下りてゆき、井戸の縁石の上に身をかがめながら、尋ねました、「井戸のなかにいるのはどなたなの。」すると、夫はその災難にもかかわらず、井戸に対し、井戸の持主たちに対し、井戸に下りる人たちや井戸から水を汲む人たちに対して、すさまじい悪口雑言の数々を投げつけるだけの力があったので、これが自分の夫の声とわかりました。そこでこれに聞きました、「アッラーにかけ、預言者《ナビー》にかけて、いったい井戸の底で何をしていらっしゃったの。」彼は答えました、「黙れ、おお呪われた女め。今朝ここに落した財布を探しただけだ。いろいろ問いただしてなんかいないで、このなかから出る手伝いをしてくれるほうがましだぞ。」すると若い女は、井戸のなかに下りた本当の理由がわかっていたので、魂のなかで笑いながら、近所の人たちを呼びにゆくと、その人たちが来て、綱をおろして不幸なアフマドを引きあげてくれましたが、彼はもう身動きができない有様でした。それほど釣瓶にやられたのが痛かったのでした。そして彼は自分の寝床に運んでもらいましたが、このような場合には、怨みごとなど言わずにおくほうが、ずっと賢明だということを心得ていたので、ひと言も言いませんでした。そしてひとり自分の威厳ばかりではなく、わけても自分の女についての経験と女の悪知恵についての知識の点でも、非常な屈辱を感じたのでした。そこで、この次にはもっと慎重にやろうと決心を固め、この悪知恵の女の不意をつくには、どういう手段を用いるべきか思案しはじめました。
ですから、しばらくたって、起きられるようになると、彼はもう復讐の機会をうかがうことしか、念頭になくなりました。そしてある日、往来の一隅に隠れていると、友達のマフムードが家に忍び入り、半ば開いた戸は、彼がはいったあと、すぐに閉ったのを見かけました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百六夜になると[#「けれども第八百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで彼は飛んでいって、立てつづけに戸を叩きはじめました。すると彼の細君はためらわず、マフムードに言いました、「起きて、私のあとについていらっしゃい。」そして彼と一緒に下におりると、彼を片隅に、往来に面した戸そのもののま後ろに立たせておいてから、夫に戸を開けてやって、言いました、「アッラーにかけて、そんな風に戸を叩くとは、いったいどうしたというの。」けれどもアフマドは、細君の手をつかんで、はげしく家のなかに引っ張ってゆき、わめき立てながら、上の部屋に駈けあがって、マフムードを捕えてやろうとしましたが、こちらはその間に、後ろに隠れていた戸をそっと開けて、逃げてしまいました。アフマドは、いくら探しても無駄なのを見ると、怒りで死なんばかりになり、その場で妻を離縁してしまおうと決心しました。それから考えて、もうしばらく辛抱したほうがよいと思い、自分の怨みを黙って呑みこみました。
ところが、この事件の数日後、彼の求めていた機会は、やがて自然と現われたのでした。事実、彼の妻の父にあたるアフマドの伯父が、晩年にもうけた子供の割礼を機会に、祝宴を催すことになりました。そしてアフマド夫婦も、そちらで夜と昼を過しに来るようにと、招待されていました。そこで彼は、かねて立てておいた計画を、実行しようと考えました。そして友達のマフムードを探しにゆきましたが、マフムードは相変らず、自分が友達を欺いているとは知らぬただ一人の男でしたので、これに出会うと、自分と一緒に行って、伯父の祝宴に列なるようにと誘いました。そして一同は、明るく照らされ、絨氈を敷き、旗や吹流しで飾られた中庭のまん中に、御馳走を盛った皿を前にして坐りました。こうして女たちは、婦人部屋《ハーレム》の窓から、中庭で行なわれるすべてを、見られずに見ることができ、そこで言われることを聞くことができるようになっていました。さてアフマドは食事中に、自分の妻の父親が格別に大好きな猥談に、話を持ってゆきました。そしてめいめいがこの笑わせる話題について、知っていることを話しおわると、アフマドは友達のマフムードを指しながら、言いました、「アッラーにかけて、ここにいる私たちの兄弟マフムードは、むかし私に、彼自身が主人公の、実話を話してくれたことがありますが、これは私たちが今伺ったどれとも、また違って面白い話です。」すると、伯父は叫びました、「それをわれわれに話して下さいな、おおサイード(9)・マフムードよ。」全部の列席者も付け加えました、「そうそう、御身の上なるアッラーにかけて、それをわれわれに話して下さい。」するとアフマドは彼に言いました、「そうだ、君はよく知っているだろう、あのバタのように肥えた色白の若い女の話さ。」するとマフムードは、こうしてみんなの所望の的になって得意になり、ムレドで、天幕《テント》の下にいた、子供を連れた若い女との最初の出会いを、語りはじめました。そしてその若い女とその家について、たいへん正確な詳細を話しはじめたので、アフマドの伯父には、やがてそれは自分自身の娘のことということがわかりました。そしてアフマドは、これでやっと証人たちの前で、妻の不貞を証拠立てることができ、妻の結婚持参金に対する権利を剥奪して、これを離縁することができることになったと信じて、早くも心中で大喜びでした。伯父は眉をひそめて、今にも立ち上がって何ごとかしようとしていると、そのとき、つねられた子供の叫びといったような、甲高い痛がる泣き声がひと声聞えました。するとマフムードは、この泣き声ではっと現実に引き戻されて、機転をきかせ話の筋を変え、次のように結んだものでした、「さて私は、その若い女の子供を肩に乗せてつれて行ったとき、ひとたび中庭にはいると、子供と一緒に婦人部屋《ハーレム》に上がってゆこうとしました。ところが――悪魔は遠ざけられよかし、――私は不幸にして、身持ちのいい女にぶつかったわけでして、相手は私の図々しさを察して、子供を私の腕からひったくって、私の顔に拳固を一発見舞ったので、私は未だに顔にその跡が残っている次第です。そして女は、近所の人たちを呼ぶぞとおどかして、私を追っ払ってしまいました。アッラーはあんな女を呪いたもうように。」
すると若い女の父親である伯父は、この話の終りを聞いて、列席者一同と共ども、大笑いしはじめました。けれどもひとりアフマドだけは、笑う気にならず、なぜマフムードがこのように話の終りを変えたのか、どうしてもその動機がわかりかねて、怪しんでおりました。そして食事がおわると、彼は友達に近よって、尋ねました、「君の上なるアッラーにかけて、君はどうしてあのことを、起ったとおりに話さなかったのか、わけを聞かせてもらえるかね。」するとマフムードは答えました、「それはね、あのとき皆が聞いたあの子供の泣き声で、僕はその子供と母親が婦人部屋《ハーレム》にいるということがわかり、従って、夫もやはり招待客の間にいるにちがいないことがわかったからだよ。それで僕は、僕ら二人の身に面白くない事件を招いてはいけないと思って、いそいで女を無罪にしてやったわけだ。だけど、おお兄弟よ、僕の話は、ああいう風にまとめたら、たいへん君の伯父さんを面白がらせたのじゃないかい。」けれどもアフマドは、すっかり黄色くなって、その問いには答えずに、友達と別れてしまいました。そして翌日さっそく、妻を離縁して、巡礼たちと一緒に身を聖なるものとするために、メッカに旅立ちました。
こうしてマフムードは、法律上の期限が過ぎると、自分の恋人と結婚して、彼女と幸福に暮すことができました。それというのは、彼は女についての知識とか、女の策略の裏を掻いて、女の悪企みを封じる法などには、何の己惚れも持っていなかったからです。さあれアッラーは唯一の知者にましまする。
そしてこの物語をこのように語り終えると、今は侍従になった麻酔薬《ハシーシユ》飲みの漁師は、口をつぐみました。
すると帝王《スルターン》は、恍惚の極に達しなされて、叫びなさいました、「おおわが侍従よ、おお蜜の舌よ、余はその方をわが総理|大臣《ワジール》に任命いたす。」そしてちょうどそのとき、二人の訴訟人が謁見の間にはいってきて、帝王《スルターン》にお裁きを願い出ましたので、総理|大臣《ワジール》となった漁師は、その場で即刻、両人の訴えを聞き、その争いを解決し、この件に判決を下すように、仰せつけられました。そこで新任の総理|大臣《ワジール》は、その役職の徽章を佩用して、二人の訴訟人に申しました、「近くによって、その方どもを、われらの御主君|帝王《スルターン》の御手の間に連れ来たった理由をば、話してみよ。」
彼らの話は次のようなものでございます。
麻酔薬《ハシーシユ》飲みの判決
おお幸多き王様よ、――と、胡瓜を持ってきた農夫は続けたのでございます。――新任の総理|大臣《ワジール》が、二人の訴訟人に話せと命じますると、最初の男は言いました、「おお、お殿様、私はこの男を訴え出るのでございます。」大臣《ワジール》は尋ねました、「してその方の訴えとはどのようなことか。」彼は言いました、「おお、お殿様、私はこの下の、政務所《デイワーン》の入口のところにいる、一頭の牝牛とその子牛を飼っております。ところで、今朝、私はこの二匹をつれて、草を食わせに、自分の馬肥し畑に行きました。牝牛は私の前を歩き、子牛はぴょんぴょん跳ねながら、そのあとからついて行きますと、そのとき、ここにいるこの男が、牝馬に乗って、こちらに来るのを見ました。その牝馬は、自分の娘の、出来損ないの貧弱な小さな牝馬で、月足らずのやつを連れておりました。
ところで、私の小さな子牛は、その子馬を見ると、走って行って、そいつと近づきになり、そのまわりを跳び廻ったり、鼻面で腹の下を撫でたり、鼻を鳴らして嗅いだり、いろいろそいつと遊びはじめて、あるいは遠ざかって優しく後脚で蹴ってみたり、あるいは小さな蹄《ひづめ》で、道の小石を空中に蹴り上げたりしていました。
するといきなり、おお、お殿様、ここにいる乱暴者のこの男、牝馬の持主は、自分の馬から下りて、ぴちぴちした、かわいらしい私の子牛に近づいて、その首のまわりに綱をつけて、私に言いました、『おれはこいつを連れて行くぞ。それというのは、お前の牝牛の娘で、その子孫にあたる、こんな見すぼらしい、ちっぽけな牝馬と、おれの子牛が遊んでからに、悪くされては困るからな。』そしてこの男は私の子牛のほうに向いて、これに言いました、『さあ来な、おお、おれの牝馬の息子で、その後裔よ。』そして私の驚きの叫びと抗議にもかかわらず、私の子牛を連れて行き、私のところには、この下に、母親の牝馬と一緒にいる、見すぼらしいちっぽけな子馬を残し、そして、われわれを見たもうアッラーの御前と、人々の前で、たしかに私の財産であり、私の所有であるものを、もし私が取り返そうとでもしようものなら、私をぶっ殺してやるぞと脅迫するのでございます。」
すると、麻酔薬《ハシーシユ》飲みの漁師であった新任の総理|大臣《ワジール》は、もう一人の訴訟人のほうを向いて、これに申しました、「してその方、おお男よ、ただ今聞いた言葉について、その方の言い分はいかに。」するとその男は答えました、「おお、お殿様、全くのところ、その子牛は私の牝馬の子で、牝の子馬はこの男の牝牛の子孫であることは、世間周知のことでございます。」大臣《ワジール》は言いました、「今は牝牛が子馬を産み落すことができ、馬が子牛を産み出すことができるということは、いったい確かなことなのか。なぜというに、さようなことは、今日まで、およそ良識ある人間には承認され得ないところであったからな。」するとその男は答えました、「おお、お殿様、アッラーには何ごとなりと不可能なことなく、欲したもうものを創り、欲したもうところに種を蒔きたもうのであり、被造物はただお辞儀をして、これを讃め称《たた》え奉るだけだということを、御承知ないのですか。」すると大臣《ワジール》は言いました、「いかにも、いかにも、その方の申すところはまことであるぞ、おお男よ、至高者のお力には何ごとなりと不可能なことなく、牝馬から子牛を、牝牛から子馬を、生じさせたもうこともおできになるのじゃ。」次に彼は付け加えました、「されども、その方の牝馬の息子の子牛を、その方に渡し、その方の告訴人には彼に属するものを返す前に、余もやはりその方たち両名に、至高者の全能のまた別な効力の証人になってもらいたいと思う。」
そして大臣《ワジール》は、一匹の二十日鼠と大きな小麦袋をひとつ持ってくるように命じました。そして二人の告訴人に言いました、「これから起るところをよく見ておれよ、そしてもはや一語も発してはならぬ。」それから彼は二番目の告訴人のほうを向いて、これに言いました、「その方、おお牝馬の息子の子牛の主人よ、この小麦袋をとって、それをこの二十日鼠に背負《せお》わせよ。」するとその男は叫びました、「おお、お殿様、二十日鼠を押し潰さずに、こんな大きな小麦袋をのせることなど、どうして私にできましょうか。」すると大臣《ワジール》はこれに申しました、「おお信仰薄き男よ、牝馬から子牛を生れさせたもうた至高者の全能を、その方はどうして敢えて疑うのか。」そして彼は警吏に命じて、この男を無知と不信のゆえに捕えて、これに笞刑《ちけい》を加えさせました。そして最初の訴訟人に、子牛とその母親を返してやり、さらに子馬とその母親をも、同じく与えたのでございます。
「以上が、おお当代の王様よ」と、果物籠を持ってきた農夫は続けました、「帝王《スルターン》の総理|大臣《ワジール》となった、麻酔薬《ハシーシユ》飲みの漁師の物語全篇でございます。そしてこの最後の事績は、どんなに彼の知恵が広大であったか、どのようにして彼が帰謬法によって真理を現わすことを知っていたが、またどんなに帝王《スルターン》は、彼を総理|大臣《ワジール》に任命なさり、御陪食者に取り立て、栄誉と特典の限りを尽しなさったのが、当然であられたかを、証明するに足るものでございます。さあれアッラーはさらに寛仁にしてさらに賢く、さらに大度にしてさらに恵み深くましまする。」
帝王《スルターン》は果物作りの口から、このひと続きの逸話をお聞きになったとき、御満悦の極、つとお立ち上がりになって、叫びなさいました、「おお快き人々の長老《シヤイクー》よ、おお砂糖と蜜の舌よ、その方こそは正しく考え、耳に快く話し、風味よろしく、深く楽しませ、完全に語るすべを心得たる者、さればそも何ぴとが、その方にまして総理|大臣《ワジール》たるに値いしようぞ。」そして帝王《スルターン》は即刻彼をば総理|大臣《ワジール》に任命なさり、御自分の親しい陪食者となさり、「友垣を分け隔てる者」と「交友を打ち壊す者」の到るまで、もはや彼とお別れにならなかったのでございました。
[#この行1字下げ] ――「そしてこれが」とシャハラザードはシャハリヤール王に話しながら、続けた、「おお幸多き王様、『巧みな諧謔と楽しい知恵の集い』のなかで、わたくしの読んだところすべてでございます。」すると妹のドニアザードは叫んだ、「おお、お姉様、あなたのお言葉は、なんと優しく、味わい深く、楽しく、面白く、みずみずしいうちに心地よいことでございましょう。」するとシャハラザードは言った、「けれども、明日、美しいヌレンナハール姫[#「美しいヌレンナハール姫」はゴシック体]についてわたくしのお話しするものに比べれば、これなど何ものでもございません。と申しても、もしもわたくしになお生命《いのち》があって、わたくしどもの御主君の王様のお許しあればのことでございますが。」するとシャハリヤール王は思った、「たしかに、余は余の知らぬその物語を、ぜひ聞きたいものじゃ。」
[#地付き]けれども第八百七夜になると[#「けれども第八百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 小さなドニアザードは姉に言った、「おお、お姉様、お願いでございます、どうかいそいでわたくしたちに、そのお約束の物語をおはじめ下さいまし、わたくしたちの御主君、生れながら挙措みやびのこの王様のお許しがございますのですから。」するとシャハラザードは言った、「親しみこめて心から悦んで、また、このお育ちよろしき王様に対する当然の敬意として。」そして彼女は語った。
[#改ページ]
ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語(1)
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、時の古え、時代と世々の過ぎし昔、武勇に富んだ権勢ある一人の王がおられて、寛仁者アッラーより、月のような三人の男子を授けられました。長男はアリ、次男はハサン、末子はフサイン(2)と申しました。そしてこの三人の王子は、伯父君の娘ヌレンナハール(3)姫と一緒に、父王の御殿で育てられました。この姫は父君も母君も亡くなった孤児《みなしご》で、美しさの点でも、才智の点でも、魅力の点でも、完全の点でも、人間の娘の間で並ぶもののない方でした。眼は怯えた羚羊《かもしか》に、口は薔薇の花冠と真珠に、頬は水仙とアネモネに、腰は訶利勒《バーン》の木のしなやかな若枝に、似ています。そして姫は、叔父君の三人の幼い王子と一緒に、共に遊び、共に食い、共に眠りつつ、あらゆる悦びと幸いの裡に、長じてゆきました。
ところで、ヌレンナハールの叔父君の帝王《スルターン》は、姫が妙齢に達した暁には、誰か近隣の王のなかの王子と結婚させようと、常々心の中で思っておられました。ところが、いよいよ姫が成人の面衣《ヴエール》を着けますと、御自分の子の三人の王子が、いずれ劣らぬ愛情で熱烈に姫を慕って、おのおの心中で姫をかち得て我がものにしようと望んでいるのに、やがてお気づきになりました。そこで大いに御心を悩まし、お困りになって、考えました、「もし己《おれ》が他の二人を差しおいて、特に従兄《いとこ》のうちの一人に、ヌレンナハール姫を授ければ、その二人は快よからず、わが決定に不平を唱えよう。わが心は二人が悲しみ、傷つけられるのを見るに忍びまい。といって、姫をどこか他処《よそ》の王子と結婚させれば、わが三児は悲嘆と苦悩の極に達し、彼らの魂はそのため暗くされ、痛みを覚えるであろう。そのような場合には、彼らは絶望のあまり自害したり、われらの住居をのがれて、遠国に戦争などを求めたりしないとも限らぬ。まことにこの問題は、不安と危険に満ち、解決はすこぶる容易ならぬわい。」そして帝王《スルターン》はこの件について長い間考えはじめましたが、突然頭をあげて叫びなさいました、「アッラーにかけて、問題は解けた。」そして直ちに三人の王子、アリとハサンとフサインをお召しになって、一同に仰しゃいました、「おおわが子たちよ、お前たちはわが眼から見るに、長所は全く同じであって、余としては、お前たちのうち他の兄弟を斥けて、特に一人を選んで、これにヌレンナハール姫を授けるなどということは、決心がつきかねる。といって、姫をお前たち三人と同時に結婚させるわけにもまいらぬ。されば余は、お前たちのうち一人をも傷つけることなく、等しく皆を満足させ、お前たちの間に和合と親愛を保つに都合よき、一策を案じた。それゆえ、お前たち、よくわが言葉に耳傾けて、これから聞くことを実行するように致せよ。さて、わが心の決した案とは次のようなものだ。即ち、お前たちはそれぞれ相異なる国に旅に出かけて、自から最も稀代にして尋常ならぬと思う珍稀な品を、余の許に持ち帰れよ。余は、最も驚くべき霊宝を持って帰った者に、お前たちの伯父君の娘たる姫を授けよう。されば、もしお前たちが、余の持ち出すこの案を実行するに同意するならば、お前たちの旅と、お前たちの選ぶ品を買いとるのに必要なだけの金子を、何時《なんどき》なりと取らせよう。」
ところで三人の王子は、かねがねいつも従順で恭しい息子でありましたので、一同口を揃えてこの父王の計画に賛成しましたが、めいめい自分こそは、一番すばらしい珍稀な品を持ち帰って、従妹ヌレンナハールの夫になれるだろうと確信していたのです。それで帝王《スルターン》は一同のそういう気組みを見て、三人を宝蔵に連れて行って、望むだけの黄金の袋を与えました。そして外国にあまり長く滞在しないようにと注意した上で、めいめいに接吻し、頭上に祝福を祈ってやりながら、別れを告げました。三人は旅の商人に身をやつして、それぞれただ一人の奴隷を連れて、血統正しい駿馬に乗って、アッラーの平安の裡に、己が住居を出ました。
三人は一緒に旅を始めて、ちょうど道が三筋に分れている場所にある隊商宿《カーン》まで赴きました。そこで、奴隷たちの仕度した御馳走を満喫してから、旅の期間は一年きっかり、それより一日も多くなく、一日も少なくないことにしようと、話がまとまりました。そして帰国の節は、この同じ隊商宿《カーン》に落ち合う約束をし、最初に着いた者は他の兄弟を待って、三人打ち揃って父上|帝王《スルターン》の御前に罷り出られるようにするという条件にしました。それで食事を終って、手を洗い、抱擁しあって、互いに無事の帰還を祈ってから、再び馬に乗って、おのおの違った道をとりました。
さて、三人兄弟のうちの長男アリ王子は、野山を越え、草原と沙漠を越えて三カ月の旅の末、インド海岸の一国に着きましたが、それはビスシャンガール(4)王国でした。王子は外国商人用の大きな隊商宿《カーン》に泊りに行って、自分と奴隷のために、部屋のなかで一番広く一番清潔な一室をとりました。そして旅の疲れを休めるとすぐに、外に出て町の様子を調べると、それは三つの城壁に囲まれ、四方の広さおのおの二パラサング(5)の町でした。早速|市場《スーク》のほうに向ってみると、中央の広場に達する幾条もの大きな街路があって、広場には中央に美しい大理石の泉水があり、なかなか見事なものでした。それらの街路はすべて、円屋根で覆われて涼しく、上部に窓を明けて明るくなっております。その街筋《まちすじ》はそれぞれ違った種類の商人たちが占めておりますが、しかしそれぞれ同業者仲間が集っています。それというのは、或る街には、インドの上等な切れ地とか、動物や風景や森や庭や花を描いた模様のついた、鮮やかで清らかな色を塗った布とか、ペルシアの錦とか、シナの絹などしか見られないし、一方他の街には、美しい磁器とか、よく光った陶器とか、形美しい容器とか、細工を施した盆とか、あらゆる大きさの茶碗などが見られます。又、そのそばの街には、一度畳めば掌中にはいってしまうくらい、薄く柔かい布地でできているカシミアの大きな肩掛とか、礼拝用の絨緞とか、あらゆる裁ち方の絨緞などが見られるし、更に進んだ左側には、鋼鉄の扉で両側を閉めた宝石商と貴金属商の街が、驚くばかり夥しい宝玉、金剛石、金銀製品で輝やいております。そして王子は、これらの光まばゆい市場《スーク》を歩きまわっていると、店先に犇めいているインド人男女の群のなかで、下層民の女たちさえも、首飾り、腕輪をつけ、又、脚や足や耳や鼻にまで飾りを帯びているのに気づいて、喫驚しました。そして女の肌色が白ければ白いほど、その身分は高く、その宝石類は値高く煌《きら》らかなものでした、もっとも他の女たちの黒い肌色は、宝玉類の光彩と真珠の白さを際立たせるという取り柄があるのでしたけれども。
けれどもとりわけアリ王子を悦ばせたのは、薔薇と素馨を売っている大勢の少年と、少年たちが花を勧める好ましい様子と、少年たちが街々にいつも密集している群衆の間を分けてゆく澱みなさでした。王子はインド人の特別な花好きには感心しました。彼らは、髪にも手にも、到るところに花をつけるばかりか、耳や鼻孔にまでつけるほど、甚だしいものがあります。それに店という店には全部、これらの薔薇と素馨を山盛りにした花瓶が備えつけられていて、市場《スーク》中がその香りに満ち、さながら吊り花壇のなかを散歩するようでございました。
アリ王子はこうして、これらすべての美しい物を眺めて眼を楽しませたあげく、少しく休みたくなって、折から店先に坐って、身振りと微笑で、はいって坐るようにすすめる商人の招きに、応じることにしました。王子がはいるとすぐに、商人は上席に招じ、茶菓をすすめ、何ひとつ無駄な、或いは不躾けな問もかけず、強いて買物を勧めるようなことをしません。それほどその商人は鄭重を極め、よい躾けを授けられていました。そこでアリ王子はこうしたすべてにすっかり感心して、心に思いました、「何という愛すべき国だろう。何という気持のよい住民だろう。」そこで即刻、それほど王子はこの商人の礼儀と行儀作法に心を惹かれたわけですが、この店にあるもの全部を買い取ってやろうかと思いました。しかし考えてみると、これら全部の商品を買っても始末に困るので、さしあたり、この商人といっそう深く近づきになることで我慢しました。
さて王子が商人と雑談を交わし、インド人の風俗習慣について質問をしていると、ふと店の前に、一人の競売人が、六尺四方ほどの小さな絨緞を腕に持って、通りかかるのが見えました。そしてその競売人は突然立ちどまって、頭を右左に廻して叫びました、「おお市場《スーク》の衆よ、おお買い手の方々よ、お買いの方に御損はござらぬ。この絨緞、金貨三万ディナール。礼拝用の絨緞だ、おお買い手の方々よ、金貨三万ディナール。お買いの方に御損はござらぬ。」
この競売《せりうり》を聞いて、アリ王子は思いました、「何と驚いた国だ。礼拝用の絨緞が金貨三万ディナールとは、未だかつてこんな話を聞いたことはない。ひょっとしたら、あの競売屋は冗談をいっているのかな。」次に競売人が,自信ありげな様子で、こちらを向いて、叫びを繰り返しているのを見て、王子はこちらに来いと合図をして、その絨緞をもっと間近に見せてくれと言いました。すると競売人は一言も言わずに、その絨緞を拡げました。アリ王子は永い間それを調べて、最後に言いました、「おお競売屋よ、アッラーにかけて、どうもこの礼拝用の絨緞が、どうしてお前の言い値のような無茶な値段だけのことがあるのか、わかりかねるが。」すると競売人は微笑して言いました、「おおわが御主人様、この値段に早まってお驚きになってはなりません。この品の真の値いに比べれば、これは決して法外な値段ではございません。それに、実は私はこの値段を金貨四万ディナールまで競り上げた上で、その金額を現金で払ってくれる者にしか、この絨緞を渡してはならぬと命じられていることを申し上げますれば、お驚きは更に甚だしきものがござりましょう。」アリ王子は叫びました、「なるほど、おお競売屋よ、アッラーにかけて、この絨緞がそのような値段に値いするとあらば、何か私の知らない、又はわからない点で、定めしすばらしいものがあるにちがいない。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百八夜になると[#「けれども第八百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると競売人は言いました、「まさに仰せの通りです、殿よ。お聞き下さい、事実、この絨緞には見えざる霊験が授けられていて、この上に坐れば、すぐに行きたいところに運ばれてゆき、しかも片目を閉じ、片目を開ける暇《ひま》もないほどの速さで行けるのでございます。そしてどのような障害物も、その進行を阻むことはできません。それというのは、この絨緞のゆくところ、暴風雨は遠ざかり、雷雨は逃げ、山々と城壁は開き、堅牢この上なき錠も、そのこと自体によって、無効で空しきものと相成りまする。これが、おおわが殿よ、この礼拝用絨緞の見えざる霊験でございます。」
そして競売人はこう語り終ると、それ以上一言も附け加えずに、立ち去るかのようにその絨緞を畳みはじめました。そのときアリ王子は悦びの極に達して叫びました、「おお祝福の競売人よ、もしこの絨緞に真に、お前の言葉が今聞かせるような霊験ありとすれば、私はお前の要求する金貨四万ディナールは勿論、更に手数料として、お前に一千ディナールを謝礼に支払ってやろう。ただし、私は自分の目で見、自分の手で触れてみなければならぬ。」すると競売人は、心を動かす様子なく、答えました、「その四万ディナールはどこにありますか、おおわが御主人様。又惜しみなく私に約束して下さるそのおまけの千ディナールというのは、どこにございましょう。」アリ王子は答えました、「私が奴隷と一緒に泊っている、大きな商人宿に置いてある。ひとたび私が見て、触わったならば、その宿にお前と一緒に行って、勘定をしてあげよう。」競売人は答えました、「わが頭上と眼の上に。あの大きな商人宿は大分遠うございますから、私たちは歩いて参るよりも、この絨緞に乗って行くほうが、ずっと早く着くでございましょう。」そしてその店の主人のほうを向いて、競売人は言いました、「ちょっと御免を蒙ります。」そして店の奥に行って、そこに絨緞を展べて、王子にその上に坐るように願いました。それから自分もそのそばに坐って、王子に言いました、「おおわが殿よ、お心の中で、あなたのお宿の、御自身おいでの場所に、運ばれたいという御所望を御念じ下さい。」そこでアリ王子は心中にその所望を念じました。すると、あのように慇懃に迎え入れてくれた店主に、暇を告げる暇もなく、王子はもう自分の部屋に運ばれていました、揺れもせず、不快もなく、坐ったままの状態で、いったい空中を渡ったのか地下を通ったのか、何もわからずに。そして競売人は依然王子のそばに、微笑を浮べて、満足げにおります。奴隷は早くも王子の手の間に駈けつけて、御用を承ろうとしています。
絨緞の霊験をこうして確かに知ると、アリ王子はその奴隷に申しつけました、「この祝福された方に、即刻、千ディナール入りの財布四十を数え、又一千ディナールの財布一つを、その別の手にお渡し申せ。」奴隷はその命令を果しました。すると競売人は絨緞をアリ王子の許に残して、王子に「よいお買物をなさいました、おおわが御主人様、」と言いおいて、自分の道に立ち去りました。
アリ王子はこうして魔法の絨緞の持ち主となると、このビスシャンガールの都と王国に着くと早々、このような稀代の珍品を見つけたことを思って、満足と悦びの極に達しました。王子は叫びました、「|占めた、かたじけない《マーシヤー・アツラ・アルハムドウリツラー》、今や俺は苦もなく、わが旅の目的を達したぞ。これで弟たちに対する勝は疑いない。伯父上の娘ヌレンナハール姫の夫になるのは、この俺だろうさ。それに、この霊験ある絨緞の世にも稀な仕業を皆にしかとわからせてやったら、父上のお悦びと弟たちの驚きはさぞかしであろう。なぜというに、弟たちの運命がどんなに恵まれようと、この品に遠くも近くも及ぶことのできる品物を、首尾よく見つけるなどということは、到底不可能なことだ。」こう思いながら、王子は独りごとを言いました、「だが要するに、今は俺にとっては距離などもう問題にならんのだから、このまますぐ故国に帰ったらどんなものかな。」次に、つくづく考えてみると、弟たちと申し合わせた一年の期間のことを思い出して、今すぐ出発すると、あの落ち合う場所になっている三本道のところの隊商宿《カーン》で、あまり永い間待たなければならないおそれがあることがわかりました。それで独りごとを言いました、「ただ待つために待つのなら、あの三本道の淋しい隊商宿《カーン》でよりか、ここで時を過ごすほうが好ましい。それではこの見事な国で気晴らしをし、かたがた、自分の知らないことを学ぶとしよう。」そしてその翌日から、ビスシャンガールの町中の市場《スーク》見物と散歩をまた始めたのでございました。
こうして王子は、インドのこの国の本当に変った諸方の名所を、探ることができました。いろいろ珍しい事のなかで、王子は例えば、全部青銅で作った偶像の寺を見ました。その寺には、露台の上に建った、高さ五十腕尺(6)ばかりで、大そう色鮮やかな洗練された趣味の絵画が三列刻まれ、着色されている円蓋《ドーム》がついておりました。そして寺全体が、精巧な細工の薄浮彫と、組合わせた模様で飾られています。そして寺は、薔薇その他、匂いもよく見ても美しい花の植わった広い庭のまん中にあります。けれども、この偶像の寺――願わくは、それらの偶像などは打ち壊され、打ち砕かれまするように。――その主な見物《みもの》と申せば、それは等身大の金無垢の像一基で、その両眼は二つの動く紅玉《ルビー》でできているのですが、それが巧妙を極めてあんばいされ、さながら生ける眼のようで、前にいる人のあらゆる動作を追って眺めるように見えるのでした。そして朝夕、その偶像の祭司は寺で、彼らの異端の礼拝の儀式を営み、そのあとにいろいろの遊戯や、奏楽や、軽業師の曲芸や、歌妓の音曲や、舞妓の舞いや、祝祭などを行なうのでした。それにこの祭司たちは、巡礼の群が最も遠い国々の奥から、引きも切らず持ってくる供物だけで、暮らしているのでありました。
又アリ王子は、ビスシャンガール滞在中、この国で毎年行なわれる大祭を見物することができました。それには全国の代官《ワーリー》と軍の首長と、偶像の祭司であり、異端宗教の首長である波羅門たちと、無数の民衆の群が参列するのでした。この全会衆は広々とした大平原に集まり、そこには国王と廷臣を容れるおそろしく高い建物が聳えていて、それは八十本の柱で支えられ、外側には風景、鳥獣、虫、蠅や蚊などまで、すべてが実物大に描かれています。その大建築のそばに、非常に大きな面積の台が三つ四つあって、そこに民衆が坐ります。そしてこれら全部の建物は、廻転するようになっていて、刻々に表面と装飾を変えつつ、千変万化させられてゆくという、不思議なものでした。見世物はまずこの上なく上手な曲芸師の軽業と、手品師の手品と、修道僧《ダルウイーシユ》の舞いで始まります。次には、千頭の象が、美々しく装いを凝らし、それぞれ金色の木材で作った四角い塔を載せ、その塔にはそれぞれ道化師と楽器を弾く女たちを乗せて、戦闘隊形をとって互いにあまり距離を置かずに並んで、進み出るのが見られます。それらの象の鼻と耳は、朱と辰砂《しんしや》で塗られ、牙は全部金色に染められ、体躯には、或いは恐ろしく或いは奇怪に捩れゆがんでいる幾千もの手足を持った画像が、鮮やかな色彩で描かれています。そしてこの物凄い一群が見物人の前に着くと、塔を載せていないで、千頭のなかで一番巨きい二頭の象が、列から離れて、台を連ねて出来ている輪のまん中まで進み出ました。そしてそのうちの一頭は、楽の音につれて、或いは両足で、或いは両手で、立ち上がりながら、踊り出しました。それから、その象は、まっ直ぐに突き立てた杭《くい》の天辺まで巧みに攀じのぼって、その端《はし》に両手両足を同時に載せながら、楽器の節奏《リズム》に合わせて、鼻で空を打ち、耳を翻し、頭を四方に動かしはじめると、一方二番目の象は、中央を支柱で支えて水平に置いた別な杭の端に棲《とま》って、反対の端に載せた途方もなく大きな巨石で釣合いをとりながら、或いは上がり、或いは下がりつつ、平均をとって揺れ、その間、頭でもって音楽の拍子を取るのでした。
アリ王子はこうしたすべてや、その外いろいろな事に驚嘆させられました。そこで、ますます募りゆく興味を覚えつつ、自分の国の人々とはこんなにもちがうこのインド人たちの風習を研究しはじめ、散歩と、商人やこの王国の名士たちへの訪問を続けました。けれどもやがて、王子は絶えず従妹ヌレンナハール恋しさに悩んでいたので、まだ一年は経たないにも拘わらず、もうこれ以上自分の国から遠ざかっていられなくなり、従妹とこんなに遠い距離を隔てていないと感じられれば、もっと仕合せな気持になろうと信じて、インドを去って自分の思いの対象《まと》に近づこうと思い定めました。そこで、奴隷が部屋代を門番に支払った上で、王子は奴隷と一緒に魔法の絨緞の上に坐り、三本道の隊商宿《カーン》に運ばれたいと心をこめて念じながら、思いを凝らしました。そして、沈思しようとしてちょっと閉じた眼を開けますと、既に例の隊商宿《カーン》に着いているのを認めました。そこで王子は絨緞から立ち上がって、商人の着物を着た姿で隊商宿《カーン》にはいり、そこで静かに弟たちの戻りを待つことに致しました。彼のほうはこのようでございます。
三人兄弟の二番目のハサン王子はと申しますと、次のようでございます。
王子は道に就くとすぐに、ペルシアに向う隊商《キヤラヴアン》に出会いました。そこで王子はこの隊商《キヤラヴアン》に加わって、野山を越え、沙漠と草原を越えて、長い旅を続けた後、王子は一行と共にペルシアの王国の都に着きました。それはシーラーズ(7)の町です。そこで王子は、仲よくなった隊商《キヤラヴアン》の商人たちから教わって、町の大きな隊商宿《カーン》に投宿しました。そして到着の翌日から、昨日までの旅の道連れたちが梱を開き、商品を並べている間《ま》に、王子は見るべきものを見ようと、いそいで外に出ました。そして王子は、この国でバジスターン(8)と呼んでいる市場《スーク》に案内させましたが、ここでは宝石、宝玉、錦、美しい絹織物、上等な布地など、あらゆる貴重な商品を売っておりました。王子は店々で見つける美しい品の、おびただしい量に驚嘆しながら、バジスターンのなかを散歩しはじめました。到るところに、仲買人と競売人が四方八方に往来し、美しい切れ地や、美しい絨緞や、その他美しい品々を、競売《せり》にかけて呼ばわっているのが見られました。
ところで、これらすべての忙しい人々のなかに、ハサン王子は、長さ約一尺、太さ一寸ばかりの象牙の筒を持っている、一人の男を見かけたのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話した時、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百九夜になると[#「けれども第八百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてその男は、ほかの競売人や仲買人みたいに、がつがつしたあわただしい様子をしないで、その象牙の筒を、さながら国王が自分の国の王笏を持つみたいに、いやもっと威風堂々と、持ちながら、ゆっくりと重々しく、歩きまわっておりました。それでハサン王子は思いました、「あの仲買人は何か信用できるような気がするな。」そして王子が、そんなに恭しく捧げ持っている筒を見せてもらおうと、そちらに向って行きかけたら、そのときその男が呼ばわるのが聞えました。しかし非常に誇らしげな、臆する色もない大音声で言うのでした、「おお買い手の衆よ、お買いの方に御損はござらぬ。この象牙の筒、金貨三万ディナール。これを作った仁は既に亡く、もはや二度と姿を見せることはない。これは象牙の筒じゃ。これはその見せるところを見せまする。お買いの方に御損はござらぬ。見んと欲する者は、見るを得ましょうぞ。これはその見せるところを見せまする。これは象牙の筒じゃ。」
この呼び声を聞くと、ハサン王子はすでに一歩踏み出したところでしたが、驚いて退き、背を凭せていた店の主人のほうに向いて、これに言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが御主人よ、いったいあの小さな筒にこんな法外な値段を吹っかけるあの男は、気がたしかなのでしょうか。それとも全く分別を失っているのでしょうか。或いはただふざけてあんなことを言っているのでしょうかねえ。」店主は答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主人様、あの男はわれわれの競売人きっての律儀で賢い男なことは、私が保証できます。商人たちは、あの男の懐かせる信用のために、又その道で一番古参でもありますので、一番多くあの男に頼んでいます。あの男の分別も保証します、まあ今朝から分別をなくしたとでもいうならとにかく。だがそんなことは考えられません。ですから、あの男がその値をつけるというなら、あの筒には三万ディナールの値打がある、いやそれより以上の値打があるものと、思わなければなりません。どこか表《おもて》に現われないところに、それだけの値打があるにちがいありません。それにもしお望みなら、あの男をここに呼んでさしあげましょう。御自身で訊ねてごらんなさい。では私の店に上がってお坐りになり、ちょっとお休み下さい。」
そこでハサン王子はこの商人の親切な申し出を承知しました。王子が坐ったと思うと、競売人は自分の名を呼ばれたので、店に近づいてきました。すると商人は彼に言いました、「おお競売屋|何某《なにがし》さん、実はここにおいでの豪商様が、この小さな象牙の筒に三万金の言い値をつけなさるのを聞いて、大へん驚いていらっしゃる。この私だって、もしあなたが元来|真《まつ》正直な仁だということを知らなかったら、やっぱり驚いたことでしょうよ。ですから、あなたからこの殿様に直接返事をして、あなたに対する好ましくない疑念を晴らしておあげなさい。」すると競売人はハサン王子のほうに向いて、言いました、「まことに、おおわが御主人様、見たことのない方には、お疑いも無理はござんせん。しかし御覧になった暁には、もはやお疑いになりますまい。この筒の値段につきましては、三万ディナールというのは、最初の附け値でございまして、実は四万ディナールです。それ以下で手放してはならぬ、しかもそれを現金で払う人にしか譲ってはならぬと、命じられているのでございます。」ハサン王子は言いました、「いかにも私はお前の言葉をそのまま信じたいと思う、おお競売屋よ。だがそれにしても、この筒はいかなる点でそのように珍重に値いし、どういう特異な点で注目を促すのか、知らせてもらわなければならぬ。」すると競売人は言いました、「お聞き下され、おおわが御主人様、もしあなたがこの水晶のはまっている端《はし》のほうから、この筒をお覗きになれば、見たいと思いなさるものは何なりと、立ちどころに叶えられて、見ることができまする。」ハサン王子は言いました、「お前の言うことが本当ならば、おお祝福の競売人よ、私はお前の求めるだけの代金を払ってあげるばかりか、更に手数料として、一千ディナールをお前に進呈しよう。」そして言い添えました、「いそいで教えてもらいたい、どの端を私の眼にあてなければならないのかね。」競売人はその端を示しました。そこで王子は、ヌレンナハール姫を見たいと念じながら、覗いて見ました。すると突然、姫の姿が見えました。浴場《ハンマーム》の浴槽に坐って、姫のお化粧をしている奴隷たちの手の間にいる姫の姿が。姫は水と戯れながら笑い、自分の手にする鏡を見ております。このように美しく、又このように間近に、姫を見て、ハサン王子は感動の極、大きな叫び声をあげずにはいられず、思わず筒を手から取り落しそうになりました。
こうしてこの筒こそは世界にある最も不思議な品であるという証拠を得、王子は、たとえこの旅を十年続けようと、全世界を駈けめぐろうと、旅から持ち帰るべきこのような珍品には、決して出会うことはあるまいと信じて、これを買うのに一瞬も躊躇しませんでした。そこで競売人についてくるように、合図をしました。そして商人に暇を告げて、泊っている隊商宿《カーン》に行き、奴隷に命じて、四万金を競売人に渡し、更に手数料として別に一千金を添えました。こうして王子はこの象牙の筒の持ち主となりました。
ハサン王子はこの貴い品を手に入れると、兄弟たちに対する自分の優位と勝利と、従妹ヌレンナハール獲得を疑いませんでした。そして悦び勇んで、まだ先に時日もあるので、ペルシア人の風俗習慣を知り、シーラーズの町の名所を見ようと思いました。そして眺めつつ、聞きつつ、歩きまわって日々を過ごしました。王子は恵まれた精神と敏感な魂とを持っていたので、教育のある人たちや詩人と交って、最も美しいペルシアの詩も暗《そら》んじました。その上ではじめて、故国に戻る決心をして、一緒に来た同じ隊商《キヤラヴアン》が出発するのを幸い、一行の商人たちに加わって、旅立ちました。アッラーは王子に安泰を記《しる》したまい、事なく、落ち合う先の、三本道の隊商宿《カーン》に着きました。するとそこには兄のアリ王子がいました。それで兄と一緒に、三番目の弟の帰るのを待って、そこに止まりました。この王子については以上のようでございます。
ところで、三人の王子のなかで最年少の、フサイン王子はと申しますると、何とぞ、おお幸多き王様よ、お耳をわたくしのほうにお傾け下さいますように。というのは、次のようでございますれば。
さして珍しいことも何ひとつない長旅の末、王子は或る町に着きましたが、聞けばサマルカンドということです。これは実際、即ちただ今わが君の光輝ある弟君シャーザマーンのしろしめさるる都、サマルカンド・アル・アジャムでございました、おお当代の王様よ。フサイン王子は到着の翌日から、その国の言葉で「大市場《バーザール》」と言っている、市場《スーク》に出かけました。そしてこの大市場《バーザール》は大そう美しいと思いました。王子は自分の両の眼であちこち眺めながら、一心に歩きまわっておりますと、そのとき突然、自分の前二歩のところに、林檎をひとつ持った競売人を見かけました。その林檎は、一方は赤く、他方は金色で、西瓜ほどの大きさがあって、いかにも見事なので、フサイン王子はすぐにこれを買いたくなり、持っている男に訊ねました、「その林檎はいくらだね、おお競売屋よ。」競売人は言いました、「最初の附け値は、金貨三万ディナールです、おおわが御主人様。けれども、四万で、それも現金でなければ譲るなと、命じられております。」それでフサイン王子は叫びました、「アッラーにかけて、おお男よ、なるほどこの林檎はいかにも美しく、私も生れてからついぞこのようなものを見たことはない。しかし、そんな法外な値段を要求するとは、お前はきっとふざけているにちがいない。」すると競売人は答えました、「いえいえ、アッラーにかけて、おおわが殿よ、私の要求するその値段は、この林檎の真価に比べれば、何ものでもございません。それというのは、打ち見たところこれがどんなに美しく見事であろうとも、それはこの匂いに比べれば、何ものでもございません。またその匂いは、おおわが御主人様、いかに快よく好ましいものであろうとも、その霊験に比べれば、これまた何ものでもございません。してまたその霊験は、おおわが頭上の冠よ、おおわが美貌の殿よ、いかにくすしきものであろうとも、人々の幸いのためにここから取り出す効力と用途に比べれば、それは何ものでもないのでございます。」そこでフサイン王子は言いました、「おお競売屋よ、そういう次第ならば、いそぎ私にまずその匂いを嗅がせてくれ。それから、その霊験、用途、効力がどんなものか承わろう。」すると競売人は手を延べて、その林檎を王子の鼻の下に出したので、王子は匂いを吸いました。その匂いはまことに身に沁み入る馥郁とした香でございましたので、王子は叫びました、「やあ、アッラー、わが旅の疲れはすべて忘れた。さながら母の胎内から今出てきたようだ。ああ、何という得も言えぬ匂いだろう。」競売人は言いました、「それでは、殿よ、お聞き下さい。今この林檎の匂いを嗅ぎなすって、全く思いがけぬ効力を御自身の身に経験なさったからには、申し上げましょう。実はこの林檎は自然のものではなく、人間の手によって作られたものなのです。盲目非情の木に成った果実ではなくて、さる大学者、きわめて高名な哲学者の、研究と不眠の果実なので、そのお方は全生涯を、草木鉱物の効験についての探索と実験に過ごしなされた。そして最後にこの林檎の製作に到達せられたので、この林檎のなかには、あらゆる薬草、あらゆる有用植物、あらゆる薬用鉱物の精髄が、含まれておりまする。事実、ペストでも、猩紅熱でも、癩病でも、およそ何なりと何か災厄にかかった大病人で、よしんば瀕死の者なりと、ただこの林檎を嗅いだだけで、直ちに健康を回復しないような者はないのでございます。かつ、あなた様御自身も、旅のお疲れがこの匂いを嗅いで消散したと仰しゃるからには、ただ今いささかその効き目を感じなすったわけです。けれども私は、そのことをいっそう確証するため、誰か不治の病いにかかった病人を、御目の前で治して御覧に入れ、それによって、現在この町のすべての住人が然るがごとく、あなた様にもこの効験と特性についてお疑いなきように致したいと存じます。現に、ここに集っている商人たちにお訊ねなさりさえすれば、自分たちがまだ生きているのは、ひとえに御覧のこの林檎のお蔭だと、大方の者は申すでありましょう。」
さて、競売人がこのように話している間に、すでに何人かの人が足を停めて、競売人を取りまきながら言うのでした、「そのとおりだ、アッラーにかけて、これは全部本当のことです。この林檎こそは林檎の女王で、薬のなかで随一の妙薬です。もう全く望みのない病人たちでも、死の門から帰らせてくれるのです。」するとちょうどその人たちの言うあらゆる御利益《ごりやく》を確かめるかのように、一人のめくらの中風病みの憐れな男が、運搬人の背の上の負籠に乗って、たまたま通りかかりました。競売人は、つとそちらに進み寄って、その鼻の下に林檎をさし出しました。すると急にその病人は負籠の中で起き上がって、小猫のように運搬人の頭上を乗り越えて飛び下り、両眼を燠火のように見開いて、脚を風にまかせました。一同それを見て、それを証言しました。
そこでフサイン王子は、この不思議な林檎の効能を今は確信して、競売人に言いました、「おお吉兆の顔よ、どうか私の宿までついてきてもらいたい。」そして自分の泊っている隊商宿《カーン》に連れて行って、これに四万ディナールを払い、仲買のお礼として、一千ディナールの財布を与えました。こうして不思議な林檎の持ち主となると、王子は早く自分の国に帰ろうと、どこかの隊商《キヤラヴアン》の出発を待ちかねていました。それというのは、この林檎さえあれば、自分はたやすく二人の兄に打ち勝って、ヌレンナハール姫の夫になれるだろうと、信じていたからです。そして隊商《キヤラヴアン》の用意がととのうと、王子はサマルカンドを出発し、長途の疲れにも拘わらず、アッラーの御許《みゆる》しを得て、二人の兄アリとハサンの待っている、三本道の隊商宿《カーン》に無事着きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十夜になると[#「けれども第八百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで三人の王子は、大そう情をこめて相擁し、互いに無事な到着を祝し合ってから、一緒に食事をするため坐りました。そして食後、まず長男のアリ王子から口を切って、言いました、「おお弟たちよ、われわれはそれぞれ自分の旅の委細を語り合うには、この先一生あるわけだ。今はまず、われわれの今度の企ての目的でもあり成果でもある持ち帰った珍品を、お互いに見せ合って、われわれ同士であらかじめ判決を下し、父上|帝王《スルターン》がわれわれの従妹《いとこ》ヌレンナハール姫について、われわれのうち誰を特に選びなさるか、およその見当をつけてみることにしようではないか。」
そして王子はしばらく口をつぐんでから、付け加えました、「自分としては、俺は長男だから、まず俺から掘出し物をお前たちに披露してやろう。聞くがよい、俺の旅は、インド海岸のビスシャンガール王国に行ったのだ。そこから俺の持ち帰ったものといえば、ここに今俺の坐っている、普通の羊毛で出来た、一見何の奇もないこの礼拝用の絨緞だけだ。しかし俺はこの絨緞のお蔭で、わが従妹《いとこ》をかち得るつもりなのだ。」そして王子は弟たちに、この飛行の絨緞の由来全部と、その霊験と、またこれを使って瞬く間にビスシャンガール王国から帰って来た次第を、語り聞かせました。そしてわが言葉にいっそうの重みを加えるために、王子は弟たちに、絨緞の自分のそばへ坐るように頼んで、一瞬の間の空の旅をさせましたが、それはほかの乗物を使ったら、成しとげるのに数カ月もかかるような旅でした。次に付け加えました、「さて今は、お前たちの持ち帰ったものが、果して俺の絨緞に比べることができるかどうか、聞かせてもらうとしよう。」そして王子は、自分の持つ品の卓越さを、このように吹聴し終って、口をつぐみました。
すると今度はハサン王子が口を切って、言いました。
「まことに、おお兄上、この飛行の絨緞は驚くべきもので、私も生れてからこのようなものを見たことがございません。さりながら、いかにそれが感嘆すべきものとはいえ、世には他にも注目に値いする品々があるものだということを、お二人も私と共に、お認めになるでしょう。その証拠には、ここに一見したところ、さして稀代の珍品とも見えない象牙の筒がございます。さりながら、これこそ私に代償を払わせただけのものを払わせたのであり、その見栄えのしない外見にも拘わらず、まことに不思議な品なのです。お二人が、この筒の端《はし》の、これなる水晶のあるほうに目をおあてになれば、私の言葉を信ずるに躊躇なされますまい。さあ、私のするように、して御覧なさい。」
そして王子は、左の眼を閉じて、右の眼にその象牙の筒をあてて、言いました、「おお象牙の筒よ、すぐにヌレンナハール姫を見せてくれよ。」そして水晶を通して覗きました。すると、王子に目を注いでいた二人の兄弟は、王子が突然色を変え、さながら非常な痛心に打たれたように、顔色が黄色くなるのを見て、驚きの極に達しました。そして兄弟が問いただす暇もなく、王子は叫びました、「アッラーのほかには力も頼りもない。おお兄弟よ、われわれ三人が幸福を期待して、こんな辛い旅を企てたのは無駄でした。あわれ、あと何分かの後には、われわれの従妹《いとこ》はもうこの世にいますまい。それというのは、今見ると、従妹は病床にあって、涙に暮れる侍女たちと、絶望した宦官たちに囲まれている。なおお二人御自身で、従妹の陥っているふびんな有様を御覧になるがよい、おお我らの災厄《わざわい》かな。」こう言って王子は、心の中で姫を見たいと念じなさいと教えながら、象牙の筒をアリ王子に渡しました。アリ王子は水晶を通して覗きますと、やはり弟と同じように心を痛めて、後しざりしました。するとフサイン王子が兄の手から筒を取って、同じ悲しい光景を見ました。けれどもこの王子は、兄たちほど心痛した様子を見せるどころか、笑いを浮べて言いました、「おお兄上方、お眼を爽やかにして魂をお鎮めなさい。それというのは、われわれの従妹の病気は打ち見たところ非常に重いようでありますが、それもこれなるこの林檎の霊験には敵し得ますまい。この匂いを嗅いだだけで、死者をもその墓の底から連れ戻すくらいですから。」そして王子は、その林檎の由来とその霊験と、その霊験のあらたかさを、手短かに語って、これは必ず従妹を治すであろうと、兄上たちに保証しました。
この言葉を聞いて、アリ王子は叫びました、「そうとあらば、おお弟よ、われわれは俺の絨緞を使って、大至急我らの御殿に赴きさえすればよい。そしてお前は我らの愛する従妹《いとこ》に、その林檎の救いの霊験を試みよ。」
そこで三人の王子は、自分たちの奴隷に、馬に乗って後から落ち合うように命じて、暇を出しました。次に三人で絨緞の上に坐って、ヌレンナハール姫の部屋に運ばれたいと、同じ願いを一緒に念じました。すると瞬く間に、三人は絨緞に坐ったまま、姫の部屋のまん中に自分を見出したのでございます。
ですから、ヌレンナハールの侍女と宦官たちは、いったいどうやってやって来たのかわからぬのに、突然部屋のまん中に三人の王子を見かけますと、恐れと驚きに襲われました。宦官たちは最初は三人の王子とはわからず、他処《よそ》の男だと思って、今にも飛びかかろうとしましたが、そのとき自分たちの見あやまりに気づきました。三人の兄弟はすぐに絨緞の上から立ち上がりました。そしてフサイン王子はいそいで瀕死のヌレンナハールの横たわっている寝床に近づき、その鼻孔の下に不思議な林檎を置きました。すると姫は両の眼を開き、まわりにいる人たちを驚いた眼で眺めながら、あちらこちらに頭をめぐらし、床《とこ》の上に起き直りました。そして従兄《いとこ》たちに微笑《ほほえ》みかけ、無事の到着を祝いながら手を与えて接吻させ、旅の様子を訊ねました。兄弟たちは、アッラーのお助けを得て、姫の快癒に力を貸すのにちょうど間に合って到着できて、どんなに嬉しいかということを知らせました。すると侍女たちは、王子たちがどんな工合にここに見えたか、フサイン王子がどんな工合に林檎の匂いを吸いこませて、姫を甦らせたかを、話しました。ヌレンナハールは一同に、わけてフサイン王子に篤くお礼を述べました。次に、姫は着物を着更えたいというので、従兄たちは姫に長命を祈りつつ、別れを告げて辞去しました。
三人兄弟は、従妹を侍女の介抱にまかせて、そのまま父上の帝王《スルターン》の足下に平伏しに行って、敬意を表しました。すでに宦官から王子たちの到着と姫の快癒の知らせを受けていた帝王《スルターン》は、三人を立ち上がらせ、接吻し、みな恙なく帰ったことを共々に大そうお悦びになりました。こうして一同互いの愛情を吐露し合って後、三人の王子は、めいめい持ち帰った珍品を、帝王《スルターン》のお目にかけました。そしてそれについて各自父上に御説明すべきことを御説明した上御意見をお述べになって誰を選ぶかお洩らし下さるようにと、父上にお願い申し上げました。
帝王《スルターン》は王子たちがそれぞれ自分の齎らしたものを誇って、申し上げたいと思うところすべてをお聞きになり、三人が従妹の快癒についてお話し申すところを言葉を挿むことなくじっとお聞き取りになった上で、しばらく深く考えにお耽りになりながら、黙っていらっしゃいました。そのあとで、王はやおら頭をあげて、一同に仰せられました、「おおわが子らよ、事はすこぶる微妙にて、お前たちの出発の前よりも、更に解決困難と相成った。それというのは、一方、お前たちの持ち帰った珍品は、当然それぞれ相匹敵するものであるし、他方、それらはおのおの分に応じて、お前たちの従妹の快癒に与って力あったものと、余は思う。事実、最初に姫の病状をお前たちに明らかにしたのは、象牙の筒であるし、姫の許にお前たちを大至急運んだのは、絨緞であるし、姫を癒したのは、林檎である。けれどもこの不思議な結果も、もしこれらの珍品の一つを欠いたならば、アッラーの御同意を得て、生じはしなかったであろう。さればお前たちは、父がその選択を明らかにするのに、以前よりも更に当惑しているのを見る次第じゃ。お前たち自身も、もともと公平の観念を授けられておるからには、余と同じように当惑し、困却しておるに相違ない。」
このように分別と公平をもって話しなされてから、帝王《スルターン》はこの場合について再び思案しはじめなさいました。そしてひと時たつと、お叫びになりました、「おおわが子らよ、困惑を脱する唯一の手段が残っておるぞよ。それをお前たちに聞かせよう。こうするのじゃ、おおわが子らよ。幸いまだ夜になるまでには暇があるによって、お前たちは各自、弓矢を携えて、町の外に出《い》で、騎手の野仕合に使う馬場《マイダーン》に行け。余も一緒に出向くであろう。して、お前たちのうち最も遠く矢を放った者に、ヌレンナハールを妻に授ける旨、余は宣言する。」すると三人の王子は承わり畏まってお答えしました。そして一同打揃って、王宮の役人を大勢従えて、馬場《マイダーン》へと赴きました。
まずアリ王子が、長男ゆえ、弓と矢を取って、最初に射ました。ハサン王子が次に射ると、その矢は兄よりも遠くに落ちました。三番目に射たのは、フサイン王子です。ところが、非常に長い道筋に亘って、距離を置いて配置した役人の誰一人も、直線を描いて空中を横ぎり、遥かに消え失せたその矢の、落ちるのを見なかったのです。そこで駈けまわり、探しまわりましたが、あらゆる捜索にも拘わらず、どんなに注意深く探しても、矢を見つけ出すことができませんでした。
そこで帝王《スルターン》は、集まる全部の役人の前で、三人の王子に申し渡しました、「おおわが子らよ、お前たちの見るとおり、運命は定まった。一番遠くまで放ったのは、おおフサインよ、どうもお前らしく見えるとはいえ、しかもお前が勝者ではない。勝利を明白確実ならしめるには、矢が発見される必要があるからじゃ。そこで余は何としても、矢が兄のそれよりも遠くに落ちたわが次男ハサンをば、勝者と宣言せざるを得ぬ次第じゃ。されば、おおわが子ハサンよ、伯父君の女《むすめ》ヌレンナハール姫の夫となるのは、異議なくお前である。何となれば、それがお前の宿運であるがゆえに。」
このように決定して、帝王《スルターン》は直ちに、次男のハサンとヌレンナハールとの婚儀の仕度と式典の命を下しました。そして数日後、極めて盛大に婚儀が取り行なわれました。ハサン王子と花嫁ヌレンナハールとについては、このようでございます。
長男アリ王子はと申しますと、王子は結婚式には列席しようとせず、従妹に対する情熱は非常に激しいけれども、今後はもう行きつくところがないので、どうしても王宮に住む決心がつかず、そこで公の席上で、父王の王位継承を自から進んで放棄しました。そして修道僧《ダルウイーシユ》の法衣を着け、その聖徳と学識と模範的生活をもって聞えた長老《シヤイクー》の霊的指導の下に、僻地の中でもこの上なく僻遠の地の奥に隠遁しに行きました。長男の王子はこのようでございます。
ところで、矢が遥かに消え失せてしまった、フサイン王子はどうかと申しますると、次のようでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十一夜になると[#「けれども第八百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
兄のアリ王子がハサン王子とヌレンナハール姫との婚儀に列席するのを控えたと同様に、フサイン王子もまた参列するのを控えました。けれども王子は兄上のように修道僧《ダルウイーシユ》の法衣など着けず、現世の生活を放棄するどころか、自分は当然得べきものを横取りされたのであることを証明しようと決心して、その目的のため、矢の捜索を始めることにしました。あの矢がもう見出す由なく紛失してしまったものとは思われないのでした。そこで時を移さず、婚儀に際して王宮で祝典が続いている間に、王子は家来の目をのがれて、あの試みの行なわれた馬場《マイダーン》の場所に出向きました。そしてそこで、矢の飛んで行った方向に、一と足ごとに、注意深く右と左をよく見ながら、自分の前をまっすぐ歩きはじめました。こうして王子は、何ひとつ見つからずに、大そう遠くまで行きました。けれども落胆するどころか、王子は相変らず一直線に、どこまでもどこまでも歩きつづけて、とうとう、地平線をすっかり塞いでいる岩石の山に達しました。そこで、もし矢がどこかにあるものならば、ここより外にはない筈だ、矢は到底この岩石を貫ぬき通すわけはないから、とこう思いました。そして心の中でこうした考えを言葉に出したと思うと、地上に、地へ刺さってではなく、矢尻を先に横たわって、自分の名のはいった矢を、認めました。まさしく王子わが手で射た矢であります。そこで王子は独りごとを言いました、「おお不思議千万、ワッラーヒ(9)、俺にしろ、世界中の誰にしろ、自分自身の力でもって、こんなに遠くまで矢を射ることは、できるわけがない。それに見れば、矢はこんな前代未聞の距離に達しているばかりか、こうしてぶつかって弾ね返されているところでは、岩に激しく突き当ったものにちがいない。まことに奇怪千万。こうしたすべてにはどんな神秘がないとも限らんぞ。」
そして矢を拾い上げて、或いは矢を調べたり、或いは矢のぶつかった岩を眺めたりしていますと、そのうちその岩に、扉の形に刻まれた窪みがあるのに気づきました。そこで近づいてみると、それは実際に隠れた扉で、錠も鍵もなく、直接岩に掘り抜いてあって、岩のまわりをぐるっと少しばかり刳《く》ってあるので、やっとそれとわかるような入口でした。それでこのような場合ごく自然の勢いで、王子は別に押したからとてすぐに開くだろうなどとはあまり思わずに、その扉を押してみました。すると扉は、さながら油を差したばかりの肱金の上にとりつけられているかのように、押す手の下で動いて、ぐるっと廻るのを見て、王子は大そう驚きました。そして自分のすることをさして深く考えもせずに、王子は矢を手に持ったまま、その扉の先にある緩い勾配の廊下に踏み入りました。ところが、閾居を跨ぐとすぐに、扉は自分の力で動くみたいに、元に返って、廊下の入口をぴったりと閉ざしてしまいました。それであたりはまっ暗闇になりました。王子はいくら扉を再び開けようとしてもだめで、徒らに手を痛め、爪を剥がすばかりです。
そこで、今さら出ようと思ってももうだめだし、元来勇敢な心を授けられていましたので、王子は躊躇なく、廊下の緩い勾配に従って、暗闇のなかを前に突き進むことにしました。するとやがて、一条の光が射すのを見たので、そちらに急ぎますと、廊下の端《はず》れに出ました。すると突然、裸の空の下に出て、前には青々とした野原があり、そのまん中に壮麗な御殿が聳えております。そして王子がこの御殿の建築を眺め入る暇もなく、そこから一人の貴婦人が出てきて、他の婦人の一群に囲まれて、こちらに進み寄ってまいりましたが、その驚くばかりの美しさと、威厳のある風采からだけで判断しても、疑いなくその貴婦人が主人にちがいありません。身には全くこの世のものと思われぬ織物をまとい、髪は解《と》いてあって、足まで波打って垂れています。その婦人は足どり軽く、廊下の入口まで進み、そして真心の溢れた身振りで手を延ばしながら、言いました、「ようこそおいで遊ばしました、おおフサイン王子さま。」
若い王子は、その婦人を見ると深く身をかがめて会釈をしましたが、こうして、未だかつて会ったこともなく、又自分たちの王国の都からこんなに近くにあるとはいえ、これまでかつて噂も聞いたことのない国に住んでいる貴婦人に、わが名を呼ばれるのを聞くと、驚きの極に達しました。そして既に口を開いて自分の驚きを述べようとすると、その不思議な乙女は言うのでした、「何もお尋ねなさいますな。わたくしの館《やかた》におはいりになった上で、わたくし自身から、あなたさまのごもっともな御不審をお晴らし申し上げましょう。」そしてにこやかに、乙女は王子の手をとって、並木道を通って案内し、大理石の柱廊伝いに庭に面している応接の間《ま》のほうに、連れてゆきました。そしてこのすばらしい部屋のまん中の、長椅子の上に、自分の傍らに王子を坐らせました。それから王子の手を自分の両手に包んで、乙女は言いました、「おお、美わしいフサイン王子さま、わたくしはあなたがお生れになった時から存じ上げていて、あなたの揺籃の上で微笑《ほほえ》みかけたと申し上げますれば、お驚きは失せるでございましょう。実は、わたくしは魔神《ジン》の王女の魔女《ジンニーヤ》でございます(10)。そしてわたくしの運命はあなたの上に記されております。サマルカンドであなたのお求めになった不思議な林檎も、ビスシャンガールで兄君アリさまのお持ち帰りになった礼拝用の絨緞も、シーラーズで兄君ハサンさまのお見つけになった象牙の筒も、みなこのわたくしが、売らせたのでございます。こう申し上げれば、あなたの御身についてわたくしの知らないことはひとつもないということが、おわかりになるに十分でございましょう。わたくしは、わたくしの運命があなたの運命に結びつけられているからには、あなたはお従妹《いとこ》ヌレンナハールの夫におなりになる仕合せよりも、もっと大きな仕合せにふさわしいと、そう思いました。それゆえわたくしはあなたの矢を行方不明にして、ここまで誘い、あなた御自身をここまで辿り着かせようとしむけたのでございます。今となっては、お指から仕合せをのがれさせるもさせないも、ただお心次第でございます。」
そしてこの最後の言葉を、非常に愛情のこもった口調で口にすると、美しい魔女《ジンニーヤ》の姫君は、すっかり赧くなって、眼を伏せました。その若々しい美しさは、そのため一段と風情を添えるばかりでした。フサイン王子は、今はもう従妹のヌレンナハールが自分のものになることができないのをよく知っていましたし、少なくとも、今見たところと、今いる宮殿の壮麗さから推しはかることのできた限りでは、魔女《ジンニーヤ》の姫君のほうが、美しさも、魅力も、色香も、才智も、富も、どんなに従妹よりもまさっているかを見て、自分をこんなに近くまたこんなに知らずにいた場所に、手を取るようにして導いてくれたわが運命を、ただ祝福するばかりでした。それで美しい魔女《ジンニーヤ》の前に身をかがめて、これに言いました、「おお魔神《ジン》の王女、おお美の貴女、おお女王さま、あなたの御眼の奴隷となり、あなたの完き美に繋がれた者となる仕合せが、私のほうから何の功績もなくわが身に来《きた》ったとは、これはまさに私のごとき人間の分別を奪うに足るものでございます。ああ、どうして、いやしくも魔神《ジン》の王女ともあろうお方が、及びもつかぬアーダムの子の上に眼差《まなざし》を投げ、空《そら》の国と地下の境を治める見えざる王者たちを差し措いて、これを選ぶなどということができましょうか。或いはもし、おお姫君よ、あなたは御両親と仲違いなされて、お拗ねになってこの御殿に来てお住いになり、魔神《ジン》の王たる御父上や、魔神《ジン》の女王たる御母上や、その他のお身内の御同意なくして、私をここにお呼びになったのではございますまいか。もしやそのような場合には、私はあなたにとって今後面倒の因《もと》となり、煩いとお邪魔の種になるのではございますまいか。」こう話しながら、フサイン王子は床《ゆか》まで身をかがめて、魔女《ジンニーヤ》の姫の衣の裾に接吻しますと、姫は彼を立ち上がらせて、その手をとりながら言いました、「お聞き下さい、おおフサイン王子さま、わたくしはわが身の唯一の主人でございまして、いつでも自分の思いのままに振舞い、決して魔神《ジン》たちの誰もに、自分のすることやするつもりのことに立ち入らせないように致しております。ですからそのことについては、御心配に及ばず、わたくしたちには仕合せなこと以外何ごとも起らないでございましょう。」そして付け加えました、「あなたはわたくしの夫になって、わたくしを深く愛して下さいますか。」フサイン王子は叫びました、「やあ、アッラー、私がですか。あなたの夫としてどころか、あなたの奴隷の末席としてでも、一日を過ごすことができれば、私は一生涯を捧げても苦しゅうございません。」こう言って、王子は美しい魔女《ジンニーヤ》の足下に身を投げますと、姫は立ち上がらせて言いました、「そういう次第ならば、わたくしはあなたを夫として迎え、以後わたくしはあなたの妻でございます。」そして付け加えました、「では今は、きっとお腹が空いていらっしゃいましょうから、これから御一緒に、わたくしたちの最初の食事をとると致しましょう。」
そして姫は王子を第二の広間に案内しましたが、それは最初の広間よりも更にすばらしく、見た目に快よい対称に置いた、竜涎香の香のする数知れぬ蝋燭に、明々と照らされていました。そして王子と一緒に、見るからに心の楽しくなるような御馳走を盛った、見事な金の盆の前に坐りました。するとすぐに、楽器の音につれて、天そのものから降ってくるように思われる女声の合唱が聞えてきました。美しい魔女《ジンニーヤ》は手ずから新らしい夫にお給仕をしはじめ、御馳走の名前を次々に聞かせては、その一番おいしそうなところを差し出すのでした。王子は話にも聞いたことのないこれらの御馳走をはじめ、葡萄酒も、果物も、菓子も、砂糖煮の果物も、人間の宴会や婚礼ではかつてこのようなものを味わったことのないすべてのものを、まことに結構だと思いました。
さて食事が終ると、美しい魔女《ジンニーヤ》王女とその夫は、穹窿形に刳った、前よりも更に美しい第三の広間に、行って坐りました。二人は、さまざまの色の大きな花模様のついた、驚くばかり精巧に針で縫いとった絹の座褥《クツシヨン》に、背を凭せました。するとすぐに、大勢の魔神《ジン》の娘の舞姫が部屋にはいってきて、小鳥のように身軽く、うっとりするような舞いを踊りました。同時に、目には見えないけれどもさやかに、音楽が上から下《くだ》って、聞えてきました。そして舞踊は、美しい魔女《ジンニーヤ》が夫と共に立ち上がるまで、続きました。すると舞姫たちは、なだらかな舞いの拍子に合わせて、あたかも肩掛が翻るように広間を出て、婚姻の寝床の仕度がしてある部屋の戸口まで、新夫婦の前を進んでゆきました。そして両側に堵列して、新夫婦をはいらせ、寝るも眠るもあとは新夫婦の随意にまかせて、引き取りました。
そして二人の若い夫妻は、馨わしい寝床に寝ましたが、それは決して眠るためではなく、楽しむためでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十二夜になると[#「けれども第八百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてフサイン王子はこのようにして賞翫し、また比較することができました。王子はこの処女の魔女《ジンニーヤ》の裡に、人間のどんなすばらしい若い娘たちも、遠くも近くも及びつかない妙趣を見出しました。そして改めてそのたぐいない魅力を再び味わおうと思うと、その場所はまるで触れられなかったのと同じように、元のままです。それで王子は、魔神《ジン》の娘たちにあっては、処女性は次々に再び元どおりになることがわかりました。王子はこの発見を、楽しみの限り楽しみました。そして、自分をこの思いがけない逸物に手を曳いて導いてくれたわが身の運命に、ますます満足を覚えました。王子はその夜を、そして多くの他の夜々と他の日々とを、救いを予定された選ばれた人々の歓喜の裡に過ごしました。王子の愛情は、わが有《もの》として減るどころか、自分の美しい魔女《ジンニーヤ》王女の、その身の麗質と同じくその心の魅力のうちに、絶えず新らしく見出すものによって、いよいよ増すばかりでございました。
さて、この幸福な生活が六カ月続くと、フサイン王子は、これまでもいつも父君に対して篤い孝心を抱いていましたが、自分がこうして長い間留守をしていることは、仔細がわからないだけに、ひとしお父君を果しない御心配に陥れているにちがいないと思って、お目にかかりたい激しい望みを覚えました。そこで王子は妻の魔女《ジンニーヤ》に、率直に心中を打ち明けますと、妻ははじめはこの決心を大そう心配しました。それは自分を棄てる口実ではないかと恐れたのでした。けれどもフサイン王子は妻に、十分の愛着の証拠と熱烈な情熱のしるしを、これまで示しもし、又示しつづけてもいましたし、また年とった父君について非常な思いやりと雄弁をもって話したので、妻ももうその孝心に逆らおうとは思わなくなりました。そして王子に接吻しながら、言いました、「おお愛《いと》しい方よ、たしかに、もしわたくしが自分の心だけにしか耳を貸さないとしたら、それはもう、ただの一日たりとも、またもっと僅かの間なりとも、あなたがこの住居から遠ざかるのを見る決心は、つきかねることでございましょう。けれども今はわたくしは、わたくしに対するあなたの愛着を深く信じ、あなたの愛情の揺ぎなさとお言葉の真実を固く信用しますので、父君の帝王《スルターン》にお目にかかりにいらっしゃるのを、おことわり申したくはございません。けれどもそれには、お留守があまり長い間に亘らないようにしていただきたく、それを誓って、わたくしを安心させて下さらなければなりません。」するとフサイン王子は、妻の魔女《ジンニーヤ》の足下に身を投げて、自分に対する好意をどんなに身に沁みて感謝しているかを示し、そして言いました、「おおわが女王、おお美の貴女よ、あなたの賜わる御厚情のすべての値いを私は知っています。そして私はそれを口に出して感謝することができるとはいえ、心の中ではもっと思っていることを御信じ下さい。私の留守は長くないことを、私はわが頭《こうべ》にかけて誓います。それに、私があなたを愛しているように愛しているからには、父上のところに行って戻ってくるのに必要な時間以上に、留守を長びかせることができるでしょうか。されば、魂を安んじて、眼を爽やかになさい、私はいつもあなたのことを思っていますから。面白からぬことは何ひとつ、わが身に起ることはありますまい、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》。」
フサイン王子のこうした言葉は、美わしい魔女《ジンニーヤ》の心配をすっかり鎮め、そこで改めて夫に接吻しながら、答えました、「それでは、おお愛《いと》しい方よ、アッラーの御庇護の下に、行っていらっしゃいませ。そしてお元気でわたくしのところに帰ってきて下さい。けれどもその前に、あなたが父君の御殿に行っていらっしゃる間、どんな風にお振舞いにならなければならないかということについて、ちょっと御注意申し上げるのを、どうぞ悪くお思いにならないで下さいまし。まず第一に、わたくしたちの結婚のこと、わたくしの魔神《ジン》の王女という身分のこと、わたくしたちの住んでいる場所、ここに来る道、それらは一切、父君の帝王《スルターン》にも、御兄弟にも、お話しなさることをお慎しみにならなければいけないと思いますの。そして皆さまに、あなたは申し分なく仕合せな身で、何ひとつ満たされない望みとてなく、現在暮らしている仕合せに、そのまま暮らすことより外に何の望みもない、皆さま方のおそばに帰ったただひとつの動機《いわれ》は、自分の運命について皆さま方が案じていらっしゃるかも知れないから、それを除くにあるだけです、どうかあとはお聞き下さいますな、とこう申し上げるだけになさいませ。」
そう言って、魔女《ジンニーヤ》は夫に、立派な武装をし、立派な馬に乗り、立派な装備をした二十人の魔神《ジン》の騎兵を与え、父王の王宮はじめ王国の誰もそのような馬は持っていないほどの美しい馬を、曳いて来させました。フサイン王子は準備万端ととのうと、妻に接吻し、絶えず忘れないという先刻の約束を今一度しながら、魔女《ジンニーヤ》の王女の妻に別れを告げました。それから、身を顫わす美しい馬に近より、手で軽く叩き、耳許で話し、接吻してやり、そして優美に鞍に飛び乗りました。妻はその様を見て、ほれぼれと見入りました。それから最後の別れをし合ってから、王子は騎兵の先頭に立って出発しました。
父君の都に到る道は遠くなかったので、フサイン王子はやがて町の入口に到着しました。人民は王子とわかって、再びお姿を見るのを悦び、歓呼をもって王子を迎え、歓声をあげながら、帝王《スルターン》の御殿までついてきました。父王は王子を見てお悦びになり、こんなに長く理由のわからない留守のため陥った苦しみと悲しみを、親の慈愛心から訴えなさりながら、涙を流して、両腕のなかに王子をお迎えになりました。そして仰せられました、「ああわが子よ、儂はもう再びお前を見る慰めは得られないとばかり思っていた。事実、お前の兄ハサンに幸いした運命の決定の結果、或いはお前が何か絶望の挙に出でかねないと、案じられる節《ふし》があったからな。」フサイン王子は答えました、「いかにも、おお父上、従妹《いとこ》ヌレンナハール姫を失ったことは辛うございました、姫を得ることこそわが願いのただひとつの的《まと》でしたから。そして恋は、棄てたい時に棄てられるとはゆかぬ情熱です、わけても、それがわれわれを支配し、征服し、理性の忠告に耳を貸す暇《いとま》あらせぬ感情である際には。けれども、おお父上、父上はよもやお忘れではございますまい、馬場《マイダーン》における兄上たちとの競争の折、わが矢を放ちますると、坦々とした広野で、父上はじめ居並ぶ人々の面前で放ちましたるわが矢は、あらゆる捜索も空しく、遂に見出し得ないという、不可解な珍事が私には起りました。ところで私は、こうして運拙なく敗れましたけれども、自分に合点のゆかぬこの出来事について、休らわぬわが心を十二分に納得させぬうちは、徒らに歎いて時を空費したくはございませんでした。そこで、兄上の御婚儀の間に、何ぴとにも気づかれず、脱れ出て、私はわが矢を探してみようと、ただ独り馬場《マイダーン》に戻りました。そして矢の赴いたと覚しき方角を指して、まっすぐに進み、あち、こち、右、左と、あらゆる方向に眼を配りつつ、矢を探しはじめました。しかし一切の捜索は空しかった。だが、私はなおも気を落しません。そして、ずっとかなたこなたに眼を投じつつ、およそ遠くも近くも矢に似たものは、どんなものでもよく見分け、見届ける労を厭わず、前進を続けてゆきました。こうして非常に長い距離を踏破し、遂には、たとえわが腕に千倍する強腕によって射られたとて、矢がこんなに遠く達することはあり得ないと考え、自分はわが矢と同時に、わが全分別をも失ってしまったのではないかと、自問するに到ったのでありました。そして既に、わけても今は地平線をことごとく塞いでいる一列の岩山に行き着いたのを見て、もう自分の計画を放棄しようと覚悟しますと、このとき突然、それらの岩山の一つのちょうど麓に、私は自分の矢を認めたのでした。矢尻を地に突き刺してではなく、ぶつかったと覚しき場所から、多少の距離を置いて、地に横たわっているのです。この発見は私を悦ばせる代りに、非常な困惑に投じました。なぜなら、道理として、私は自分がこんなに遠くまで矢を射ることができようとは、到底思えなかったからです。実にその時のことです、おお父上よ、私はこの神秘と、サマルカンド旅行の際わが身に起った一切とが、釈然とわかったのでございます。けれども、遺憾ながら、これはわが誓いを破ることなくしては、お打ち明けできない秘密です。これについて申し上げることのできるすべては、おお父上よ、その時以来、私はわが従妹《いとこ》をも、わが敗北をも、また一切のわが憂いをも忘れ去って、幸福の平坦な道に入ったということでございます。そして私にとっては歓楽の生活がはじまり、心にかかるものといえばただ、この世で何よりも懐しい父君から自分が遠く離れているということと、父君は私の身の上を定めし御案じになっているであろうとの念のみでありました。そこで私は、父上にお目にかかって御心《みこころ》を安んじに参るのが、子としてのわが義務と考えました。これが、おお父上よ、私の参ったただひとつの動機《いわれ》でございます。」
帝王《スルターン》はこのわが子の言葉を聞いて、こうしてわが子が幸福の身であって、他に何事も変りはないとおわかりになると、お答えになりました、「おおわが子よ、慈父たるものがわが子にこれ以上何を望み得ようか。いかにも、位置はおろか、有無さえもわが知らぬ場所にお前がいるよりは、わが老年に際して、お前が儂のそばで、その幸福の裡に暮らすのを見るほうが、遥かに好ましいにはちがいない。しかしせめて、わが子よ、今後頻々とお前の消息を得て、今までお前の留守のため陥った不安の状態にもはや在らぬためには、どこに問い合わせればよいか、それを聞かせてくれるわけにはまいらぬか。」するとフサイン王子は答えました、「父上の御安心の点につきましては、おお父上よ、私自身怠りなく、ほとんどうるさく思われるおそれあるほど、頻々とおそばに参るものと、思し召されよ。しかし、私の消息を得ることができる場所をお知らせする点につきましては、何とぞ明かすのを御容赦下さいませ。それは私の誓約した真実と、ぜひ守らねばならぬ誓いとの神秘でござりますれば。」すると帝王《スルターン》は、これについてはそれ以上|強《た》って問いただすことを好まれず、フサイン王子に申されました、「おおわが子よ、何とぞアッラーは、儂に、お前の意に反して、これ以上秘密に立ち入らせたまわぬように。お前は好きなときに、そのお前の住んでいる歓楽の住居に戻るがよい。ただ、このお前の父である儂にも、同様にひとつの約束をしてもらいたく思う。それは、お前の言うように、儂をうるさがらせるとか、邪魔をするなどという心配なく、毎月一度は儂に会いに帰ってきてくれるということじゃ。それというのは、情篤き父として、わが子らに触れて心を温め、わが子らに接して魂を爽やかにし、わが子らを眺めて眼を楽しますことを措いて、それにまさる好ましい仕事があり得ようか。」そこでフサイン王子は承わり畏まってお答え申し、仰せの誓いを立てて、まる三日王宮にとどまり、その上で父君にお暇を乞い、四日目の朝、明方に、来た時と同じように、魔神《ジン》の子らの騎兵の先頭に立って、出発致しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十三夜になると[#「けれども第八百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王子は父君にお暇を乞い、四日目の朝、明方に、来た時と同じように、魔神《ジン》の子らの騎兵の先頭に立って、出発致しました。
王子の妻の美しい魔女《ジンニーヤ》は、限りない悦びをもって夫を迎え、こんなに早く帰ってこようとは予期していなかっただけに、ひとしお嬉しさ深いものがありました。そして共に睦み合いながら、最も楽しく、最もさまざまな工合に、この仕合せな帰宅を一緒に祝いました。
その日から、美しい魔女《ジンニーヤ》は、この魔法の住居の滞在をできる限り夫の心を惹くものにするために、あらゆる手段を尽しました。大気を吸い、散歩をし、食べ、飲み、遊び、舞姫の舞いを見、歌姫の歌を聞き、奏楽に耳傾け、詩歌を誦し、薔薇の香を嗅ぎ、庭の花で身を飾り、枝からじかに熟した美しい果実を摘み、さては、床上の将棋という、この微妙な勝負事に可能なあらゆる巧みな指手を工夫しながら指す、恋人たちのたぐいない勝負をするなど、こうしたすべてのやり方に、絶えず千変万化という有様でした。
さてこの楽しい生活の一カ月が終ると、フサイン王子はかねて父君の帝王《スルターナ》との約束を妻に知らせておきましたが、ここに二人の快楽を中断して、悲しむ魔女《ジンニーヤ》に別れを告げなければならないことになりました。そしてこの前よりももっと美々しく装い、用意をととのえて、自分の美しい馬に乗り、父君の帝王《スルターン》を訪れるため、騎兵の魔神《ジン》の子らの先頭に立って出かけました。
ところが、王子がこの前、最初に父王の御殿から出発すると、その留守中に、帝王《スルターン》のお気に入りの顧問官たちは、王子が御殿で過ごした三日間に、その片鱗を示したところから見て、フサイン王子の権勢と未聞の富を察し、帝王《スルターン》にいつでも直接お話し申してよいという自由を許されているのと、その御心《みこころ》に有力な影響力を得ているのにつけこんで、王に王子に対する疑念を起させ、王子に異心があるように思わせずには措きませんでした。そして彼らは王に申し上げて、まず第一歩の用心として、少なくとも王子の隠れ家のある場所ぐらいは突きとめておかなければならない、また、王子の滞在中使ったような費用や、好んで見せびらかした豪奢のために必要な金子すべてを、いったいどこから得てくるのかも突きとめなければいけない、ああした見せびらかしは、専ら、父君を蔑《なみ》して、何も自分が王者の生活をするのに、父君のお世話や御庇護などはいらないということを示すつもりでなさったのだ、と言上するのでした。そして、王子が人民の人気を博して、忠義な臣民を君主に叛かせ、王座を奪って自分がその座に就くのではないか、甚だ案じられる次第だと、申し上げました。
しかし帝王《スルターン》は、これらの言葉に既にいささか心を動かされなすったとはいえ、お気に入りのわが子フサインが、そんな不届きな意図を抱いて、御自分に叛逆を企てることができようなどとは、信じようとなさいませんでした。そしてお気に入りの顧問官たちにお答えになりました、「おお疑惑と猜疑を分泌する舌の汝らよ、そもそもわが子フサインは余を愛し、余はいまだかつて彼に、余に対して不満を抱くがごときいささかの種をも与えしことなきだけに、一段と彼の愛情と忠義を信ずる者なることを、汝らは知らざるか。」けれども寵臣のうち一番御信用の厚い男が、更に続けました、「おお当代の王よ、願わくはアッラーは君に御長命を授けたまえかし。さりながら、フサイン王子は、例のヌレンナハール姫についての運命の決定に関し、わが君側の不公正とお信じになっているところを、そのように速やかにお忘れになってしまったものと、わが君は思し召されまするか。して、一見明らかなごとく、フサイン王子は兄上の範に倣わずして、天運の命に謹しんで従う分別をお持ちにならなかったとは、お考えなさりませぬか。兄君は、記《しる》されたるところに叛くよりも、修道僧《ダルウイーシユ》の僧衣をまとい、聖典の知識に通ずる聖なる長老《シヤイクー》の霊的指導下にお入りになることを選びなさいましたが。それに、おお我らが御主君よ、フサイン王子御到着の節に、王子様はじめ御家来たちもお疲れの色なく、お着物も飾りも馬の鞍敷も、たった今職人の手を離れたばかりとでもいうような色艶をしていたことは、我らに先立って、既に君のお認めになったところではございませぬか。一行の乗馬そのものも乾いたつやつやした毛並みをして、あたかも単に散歩をしてきた以上の疲れた様子もないのに、お気づきになりませんでしたか。ところでかかる一切は、おお当代の王よ、フサイン王子が、大それた企てを実行し、人民の間に反乱を煽動し、顛覆の謀略に従事するに、より好便ならんがため、御首都のほど近くに秘密の居所を設けなされたことを、わが君に証するものでございます。されば、おお大王よ、もし彼らが重かつ大であると等しく微妙なる問題について、御注意を促し奉るという忍びがたき義務を敢えて身に引受け、もってわが君に、御一身の御安泰並びに君が忠良なる臣民の福祉を見そなわす御決意を願わずとせば、我らとして己が本分にもとることでござりましょう。」
寵臣がこの悪意と猜疑に満ちた演説を述べ終った時、帝王《スルターン》はこれに仰しゃいました、「余は実際のところ、このように驚き入ったる事柄について、自から信ずべきところと信ずべからざるところとを知らぬ。いずれにせよ、汝ら一同の忠言を多とするぞよ。そして将来は、更に刮目すると致そう。」そして、御心中ではどんなに彼らの言葉に感銘を受け不安を覚えなされたかを、あまり一同にお見せにならずに、一同を引き取らせました。そして他日、或いは彼らを凹ませるにせよ、或いはその善意ある忠告を感謝するにせよ、とにかくこんどわが子フサインが来たときには、王子の挙動とやり口をよく監視しようと決心なさいました。
さてフサイン王子は、約束に従って、ほどなくやってきました。父君|帝王《スルターン》は、王子を亡きものにしようと企らむ大臣《ワジール》たちが御心中に目ざました猜疑を気どられないように十分用心しながら、最初のときと同じ悦びと満足をもって、王子をお迎えになりました。けれどもその翌日、王は一人の老婆をお呼びになりました。それは魔術と奸智で王宮中に名高く、蜘蛛の巣の糸でも、断《き》らずにほぐせるという女でした。その女が御手の間に参ると、王はこれに仰しゃいました、「おお祝福の老女よ、いよいよその方が、その方の王の利害に対する忠誠のほどを示し得る日が来《きた》った。されば聞くがよい。余はわが子フサインと再会して以来、王子がいかなる場所に居を定めているか、遂に教えてもらうことができなかった。余としてはわが権威に訴えて、王子の意に反してその秘密を明かさせるがごとき真似をして、王子を苦しませるを欲しなかった。そこで余はその方を呼んだ次第である、おお魔術師の女王よ、その方ならば、王子にせよその他宮中の誰にせよ、何事にあれ一切感づき得ることなく、余の好奇心を満足させるよう、巧みに立ちまわれるものと思うがゆえじゃ。さればひとつ、比肩するものなきその方の手腕と知恵を傾けて、王子の出発の際よくこれを観察してもらいたい。王子は明朝、未明に出発するであろう。それとも時を徒費せず、今日直ちに、王子が矢を見つけた場所という、東方の野を塞いでいる一列の岩山のほとりに、出向いたほうが、よいかも知れぬ。それというのは、王子が矢と同時に、己が宿運を見出したのは、その地であるからじゃ。」すると魔術師の老婆は、承わり畏まってお答えし、岩山のほとりに行って、見られずに全部が見えるような工合にそこに隠れていようと、外に出ました。
さて翌日、フサイン王子は、役人と通行人の注意をひかないために、夜の明けると早々、騎兵と共に王宮を立ちました。そして石の扉のある窪《くぼ》みの前に着くと、従う者全部と共に、その中に姿を消してしまいました。魔術師の老婆はこうしたすべてを見てとって、驚きのぎりぎりの極点に驚きました。
老婆はその動顛から我に返ると、隠れ場から出て、さきほど人馬が姿を消した窪みに、まっすぐ行きました。けれどもその熱心にも拘わらず、何度も行きつ戻りつしてあらゆる方面をよく見てみたけれども、どんな隙間も、どんな入口も、見当りません。それというのは、その石の扉は、フサイン王子が最初に来た時には王子の眼に見えたのですが、それは美しい魔女《ジンニーヤ》にとってその姿が心に叶うような或る人々にだけにしか明らかに見えないので、決して、いかなる場合にも、この扉は女には、わけても醜くて見るもおぞましい老婆などには、断じて見えないのでございました。それで老婆は、自分の調査をそれ以上進めることのできない腹立ちまぎれに、小石を跳ね飛ばし砂煙りを捲き上げるような放屁《おなら》を一発ぶっ放して、気を晴らすよりしかたがありませんでした。そして鼻を足まで長くして、老婆は帝王《スルターン》の許に帰り、見たところすべてを報告しながら、言い添えました、「おお当代の王様、こんどこそはもっと首尾よくやる成算《あて》が十分ございます。いささか御辛抱を賜りまして、私の用いるつもりの手段《てだて》をお訊ね相成りませぬよう、それだけお願い申し上げまする。」帝王《スルターン》はこの最初の結果に既に十分満足なすって、老婆に答えなさいました、「その方の思うがままに、存分に致して苦しゅうない。アッラーの御庇護の下に、参れ。余はここで辛抱強く、その方の約束の結果を待つと致す。」そしてよく勤めるのを励ますために、老婆にすばらしい金剛石を一個贈物に与えて、仰しゃいました、「余の満足のしるしとして、これを収めよ。しかしながら、その方の成功の暁に褒美としてとらするつもりでいるものに比べれば、これなど物の数ではないと知れよ。」すると老婆は、王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、己が道に立ち去りました。
さてこの事件の後一と月たつと、フサイン王子は美々しく装った二十人の騎兵の供《とも》をつれて、この前のように石の扉から出ました。そして岩山に沿ってゆくと、一人の憐れな老婆が地に横たわって、何か激しい痛みを起した人のように、みじめに唸っているのを認めました。身には襤褸をまとって、泣いています。それでフサイン王子は憐れみを覚えて、馬を停め、老婆に優しくどこが痛いのか、どうすれば痛みを軽くしてあげられるかと訊ねました。すると老獪な老婆は、自分のもくろんだ目的を達するため、まさしくここに来て待ち伏せしていたのですが、頭をあげずに、呻きと息切れに途切れる声で、答えました、「おお、わがお助けの殿様、アッラーはあなた様に私の墓を掘らせようとて、あなた様をお遣わしになりました、私はもうだめですから。ああ、魂が出て行きそうです。おお、お殿様、私は町に行こうと村を出たのですけど、途中で猩紅熱にかかって、人里離れ、助けられる望みもなく、ここに力なく放り出されてしまったのでございます。」すると憐れみの心の深いフサイン王子は、老婆に言いました、「小母さんよ、失礼ながら、私の家来二人に抱き起させて、私自身これから戻ってゆく場所に、お前を運ばせてくれ、そこで看病させるから。」そして家来二人に老婆を抱き起すように合図しました。二人はそうして、次にそのうちの一人が老婆を自分の馬の後ろに乗せました。王子は道を引き返して、騎兵と一緒に石の扉に着くと、扉は開いて、彼らを通しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十四夜になると[#「けれども第八百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……二人はそうして、次にそのうちの一人が老婆を自分の馬の後ろに乗せました。王子は道を引き返して、騎兵と一緒に石の扉に着くと、扉は開いて彼らを通しました。
魔女《ジンニーヤ》の王女は、一同が全部このように戻ってくるのを見て、なぜそうしなければならなかったのかそのわけがわからないので、いそいで夫のフサイン王子を迎えに出ると、王子は馬に乗ったまま、二人の騎兵が両腕を支えながら地に下ろした、瀕死の態《てい》の老婆を指さし示しながら、妻に言いました、「おおわが女王よ、この憐れな老婆は、御覧のようにかわいそうな有様で、アッラーによってわれわれの道の上に置かれたのです。われわれはこれを助け、救ってやらなければなりませぬ。必要とお思いになるあらゆる手当を加えさせて下さるようお願いして、何とぞよろしくお頼みします。」すると魔女《ジンニーヤ》王女はじっと老婆を見ておりましたが、やがて侍女たちに、老婆を騎兵の手から受けとって、別室に連れて行くよう、自分自身を扱うと同じように鄭重に粗忽なく取り扱いなさいと命じました。そして侍女たちが老婆を連れて遠ざかると、美しい魔女《ジンニーヤ》は声をひそめて、夫に言いました、「気高い心から出ているあなたの同情を、アッラーはあなたに報いたまいますように。けれども、今となってはもうあの婆さんについては、御心配御無用です。それというのは、あの女はわたくしの眼ほども病気ではございませんから。あの女がここに来た理由《わけ》も、ここにあれをよこしたのがどういう人たちかも、またあれがあなたの道に待ち伏せしてもくろんだ目的も、みんなわたくしは知っています。けれどもそれについては御案じなく、人々があなたを苦しめて害を加える目的で、どんなことをたくらむことができようと、あなたに対してかける陥穽《おとしあな》などすべて無駄にして、どこまでも御身を守ってさしあげられるということを、固く御信じになっていて下さいませ。」そして改めて王子に接吻して、言いました、「ではアッラーの御庇護の下に、お出かけなさいまし。」そこでフサイン王子は、妻の魔女《ジンニーヤ》にはあまり穿鑿《せんさく》立てしないのに既に慣れていて、別れを告げて、父君の都に向って再び道をとり、やがて供の者と一緒に到着しました。帝王《スルターン》は、王子の前でも顧問官たちの前でも、お心を動揺させている気持をすこしも現わさずに、いつものとおり王子を迎えなさいました。
さて魔術師の老婆のほうは、美しい魔女《ジンニーヤ》の二人の侍女がこれを美しい別室に案内して、刺繍した繻子の敷蒲団《マトラー》、上等な絹の敷布、金糸の毛織物の掛蒲団といった寝床に、手を貸して寝かしてやりました。そしてそのうちの一人が「獅子の泉」の水を満たした茶碗を差し出しながら、言いました、「これは獅子の泉の水で、これを一杯飲めばどんな頑固な病気も治り、瀕死の人たちも健康に返ります。」そこで老婆はその一杯を飲みますと、二、三分後に、叫び出しました、「おお、すばらしい水だこと。私はもう治りましたよ、まるで鋏《やつとこ》で私の病気を引きぬいたみたい。お願い申します、いそいで私をあなた方の御主人様のところに連れて行って下さいまし、御親切のお礼を申し、感謝の気持を申し上げたいから。」そして老婆は、実は痛みも何もしなかった病気が治ったみたいな風をして、床《ゆか》の上に起き上がりました。そこで二人の侍女は、いずれも次のは前よりも立派な部屋をいくつも通って、御主人のいる広間まで、老婆を案内しました。
さて美しい魔女《ジンニーヤ》は、宝石を鏤めた金無垢の玉座に坐って、いずれも美わしく、女主人と同じように美々しい装いをした大勢の女官に、取り囲まれておりました。魔術師の老婆は、見るものすべてに眼が眩んで、お礼の言葉を呟やきながら、玉座の足許に平伏しました。すると魔女《ジンニーヤ》はこれに言いました、「おおお婆さん、お治りになって結構でした。今はいつまででも好きなだけ、存分にこの館にいてかまいません。侍女たちがいつでもあなたに、この館を御覧に入れるでしょう。」すると老婆は、今一度|床《ゆか》を接吻してから、立ち上がって、さきの二人の侍女に連れて行ってもらいますと、二人はすばらしい御殿の様子を隈なく見物させはじめました。二人が引き廻しおわると、老婆はもう見たいものを見てしまった今となっては、退散するに如《し》かずと思いました。そこで親切を謝して後、二人の若い女にその希望を告げました。するとその女たちは、旅の無事を祈りながら、老婆を石の扉から送り出しました。老婆は岩山のまん中に出るとすぐに、後を振り向いて、扉の場所をよく見届け、すぐにそれとわかるようにしておこうとしました。ところがこの扉はこの種の女たちには見えないので、いくら探しても無駄です。やむなく、扉の道を見つけるには遂に成功しないで、戻らざるを得ませんでした。
そして帝王《スルターン》の御前に着くと、老婆は自分のしたことすべてと、見たことすべてと、その御殿の入口を見つけることが自分にできなかったことを、御報告申し上げました。帝王《スルターン》は老婆の説明に十分満足なさって、すぐに大臣《ワジール》たちと寵臣たちを召し出して、事態を知らせ、彼らの意見を徴されました。すると或る者はフサイン王子を、王位を狙う者と申し上げて、死刑に処すようにと進言し、また或る者は、王子を捉えて余生をずっと幽閉しておくほうが恐らくまさろうという意見でした。帝王《スルターン》は老婆のほうを向いて、お問いになりました、「してその方は、何と考えるかな。」老婆は言いました、「おお当代の王様、私としては、これは、王子様があの魔女《ジンニーヤ》と結んでいらっしゃる関係を利用して、あの御殿にあるようないろいろなすばらしい品々を、魔女《ジンニーヤ》に所望させて手に入れるに如《し》くはないと思います。そして王子が断わるとか、または魔女《ジンニーヤ》が王子に断わるとかしたら、そのときはじめて、ただ今|大臣《ワジール》方の仰しゃったような、強行手段を考えるべきでございましょう。」すると王は言いました、「それに異存はない。」そこで王子をお呼びになって、仰しゃいました、「おおわが子よ、お前は今は父よりも豊裕、強大と相成ったからには、こんど来るときには、何か儂を悦ばせるようなものを、持ってきてくれぬか。例えば、狩猟とか戦争の際、儂の役に立つ立派な天幕《テント》というような品じゃ。」するとフサイン王子は、それについて自分は悦んで父君を満足おさせ申す旨断言して、然るべく御返事申し上げました。
そして王子は、妻の魔女《ジンニーヤ》の許に帰ると、父君の御所望を妻に伝えました。すると妻は答えました、「アッラーにかけて、その帝王《スルターン》が私たちに御所望になる品は、ずい分つまらない物ですね。」そして宝蔵係の女官を呼んで、言いつけました、「わが宝蔵にある一番大きな天幕《テント》を取っておいで。そして番人のシャイバール(11)に、それをここに持ってくるようにお言いなさい。」宝蔵係はいそいで命令を実行しました。そして数分後に、女官はその宝蔵の番人を連れて戻ってきましたが、その番人というのは、全く特別な種類の魔神《ジンニー》でした。実際、彼は身の丈は一尺五寸ばかりで、三丈もの鬚をはやし、口髭は濃く両の耳まではね上がり、両眼は豚の眼のようで、身体と同じくらい大きな頭のなかに、深く落ち窪んでいます。そして肩には、わが身よりも五倍も重い鉄棒を載せ、片手には畳んだ小さな包みを持っていました。さて魔女《ジンニーヤ》はこの男に言いました、「おおシャイバールよ、お前はすぐにわが夫フサイン王子のお供をして、王子の父君|帝王《スルターン》のところまで行きなさい。そしてお前のするべきことをするのです。」するとシャイバールは承わり畏まって答えてから、訊ねました、「それからまた、おおわが御主人様、この手に持っている天幕《テント》も、持って行く必要がござりましょうか。」魔女《ジンニーヤ》は言いました、「いかにも。けれどもその前に、それをここに拡げて、フサイン王子のお目にかけなさい。」するとシャイバールは庭に行って、手に持っている包みをほどきました。すると中から、一つの天幕《テント》が出てきましたが、それはすっかり拡げると、一軍の軍隊全部をも蔽うことができるほどのもので、包むべきものに従って、大きくもなれば小さくもなるという特性を持ったものです。番人はそれをこのように拡げて見せてから、再び畳んで、自分の手の奥にはいってしまうほどの一つの包みにしました。そしてフサイン王子に言いました、「それでは帝王《スルターン》のところに参りましょう。」
さてフサイン王子が、徒歩のシャイバールを先に立てて、父王の都に到りますと、道行く人は皆、鉄の刃物を肩に引っ担いで進んで行くこの矮人《こびと》の魔神《ジンニー》を見て、慄え上がり、家や店のなかに駈けこんで身を隠し、いそいで戸を閉めてしまいました。そして二人が王宮に着くと、門番も、宦官も、衛兵も、恐れの叫びをあげながら、逃げ出してしまいました。二人は王宮にはいって、帝王《スルターン》の前に罷り出ますと、折から帝王《スルターン》は大臣《ワジール》と寵臣たちに囲まれて、あの魔術師の老婆と話をしているところでした。シャイバールは王座の足許まで進み寄り、フサイン王子が父君に挨拶をするのを待ってから、言いました、「おお当代の王よ、例の天幕《テント》を持って参りました。」そして大広間のまん中に、それを拡げ、自分は少しく間を置いて立ちながら、それを大きくしたり小さくしたりしはじめました。次に突然、彼は鉄棒を振りあげて、それを総理|大臣《ワジール》の頭上に喰らわせ、いきなり叩き殺してしまいました。次に同じようにして、ほかの大臣《ワジール》どもと寵臣全部を叩き殺しましたが、彼らは恐怖に身動きもならず、腕をあげて身を守る力もない有様でした。次に彼は、「瀕死の病人の真似の仕方を教えてやろう、」と言いながら、魔術師の老婆を叩き殺しました。こうして全部の人を叩き殺してしまうと、彼は鉄棒を肩に戻して、王に言いました、「俺はこれらの奴ばらの不届きな進言を罰するために、みんな懲らしめてやった。ところであなたは、おお王よ、まあ頭が鈍くて、ただこれらの奴ばらに煽動されたがために、フサイン王子を亡きものにしようとか閉じこめようとか思ったのであるからして、同じ運命に会わせるのは容赦してやろう。しかし王位は罷免じゃ。してもし町の誰ぞがこれに異議を唱えようなどと思うなら、俺はそいつを叩き殺してやる。もし町全体が、フサイン王子を王と認めるのを拒むなら、俺は町全体でも叩き殺してやろう。では今は、そこを下りて、行ってしまえ、さもなくば叩き殺してしまうぞ。」そこで王はいそいで言いつけに従って、王座を下りて、王宮から出て、長男アリのそばに行って、聖なる修道僧《ダルウイーシユ》の下に服従して、隠遁して暮らすことにしました。
ハサン王子とその妻ヌレンナハールについては、二人はこの隠謀に全然加わらなかったので、国王となったフサイン王子は、この夫妻に、王国の一番美しい地方を采地として授け、この上なく睦じい交際を続けました。そしてフサイン王子は、妻の美しい魔女《ジンニーヤ》と、歓楽と繁栄の裡に暮らしました。そして二人はたくさんの子孫を残し、その子孫が、二人の死後にも、幾年も幾年も世を治めたのでございました。されどアッラーは更に多くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、この物語をかく語りおえて、口をつぐんだ。すると妹のドニアザードはこれに言った、「おお、お姉さま、お言葉はなんと楽しく、味わい深く、興味尽きないことでございましょう。」するとシャハラザードは微笑して言った、「けれども、もし王様のお許しあらば、更にあなた方にお聞かせ申すものに比べれば、これなど何でございましょう。」するとシャハリヤール王は思った、「この上、己の知らぬようなことを、いったい何を聞かせることができるのであろうか。」そしてシャハラザードに言った、「許してとらするぞよ。」
[#改ページ]
真珠華の物語
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードはシャハリヤール王に言った。
学者たちの年代記と過ぎし世の書籍に語られておりますところでは、ハールーン・アル・ラシードの御令孫アル・ムタワッキルの御孫君、アッバース家の第十六代|教王《カリフ》にまします、信徒の長《おさ》アル・ムータディド・ビルラー(1)は、高潔な魂と、剛毅な心と、高邁な感情を授けられた君主で、魅力と典雅、高貴と優美、勇猛と武勇、威厳と叡智に溢れ、剛力と勇気の点では獅子に等しく、それに加えて、当代最大の詩人と見られたほど洗煉された天才を備えていらっしゃいました。そしてその首都バグダードには、広大な帝国の政務を執られる補佐をするため、疲れを知らぬ熱誠に満ちた六十名の大臣《ワジール》を配せられ、彼らは御主君と同じ倦むを知らぬ活動振りで、民の利害に心を配っておりました。そのため、シャームの沙漠からマグリブの境まで、ホーラーサーンの山々と西方の海から、インド、アフガニスターンの奥地の果までに亘る国々において、およそその治下に起こる一切は、一見最も些細な出来事すら、何ひとつ御承知なきはない有様でございました。
さて或る日、お心やすくお気に入りの盃の友、話し家のアフマード・イブン・ハムドゥン(2)と御一緒に散策しておられた折、――これこそまさに、あの私たちにあのようにたくさんのわが昔の父祖の美しい物語と見事な詩を口伝えしてくれた方ですが、――教王《カリフ》は庭園のまん中に奥床しく埋もれている、一見大名屋敷風の屋形の前にお着きになりました。その調和のとれた建築は、最も雄弁な舌が語るよりももっと巧みに、持主のよい趣味を語っておりました。それというのは、この教王《カリフ》のように、感じ鋭い眼と注意深い魂を持つ方にとっては、この屋形は雄弁そのものでございましたから。
そしてお二人とも屋形に向き合う大理石の腰掛《ベンチ》にお坐りになり、屋形から吹いてくる百合と素馨《そけい》の魂によって馨らされた微風を吸いながら、散策の足を休めていらっしゃると、そこに十四日目の月のように美しい若者が二人、庭の蔭から出て来て、お二人の前に現われるのを御覧になりました。そしてその二人は、大理石の腰掛の上に坐っている二人の他所人《よそびと》のいることに気づかないで、お互い同士話し合っていました。一人は相手に言いました、「天はどうか、おおわが友よ、こんなすばらしい日には、たまたまの客人方がわれわれの御主人を訪ねに来させて下さるように。御主人は食事時になっても誰もお相手してくれる方がいないと、淋しがりなさるのでなあ。ふだんはいつもお傍に友人方や他所《よそ》の方々がいて、大悦びで饗応なさり、手厚くお泊め申すのだが。」すると今一人の若者が答えました、「たしかに、こんなことはこれがはじめてだね、われわれの御主人が宴会の間《ま》にたった一人でいなさるなんて。この心地よい春の日というのに、ふだんなら田舎の奥からわざわざ見物に来るくらい美しいわれわれの庭を、憩いの目的に選ぶ散歩者が一人もなかったとは、全く奇妙なことだねえ。」
この二人の若者の言葉を聞かれながら、アル・ムータディドは、御自分の都に、屋形を御存じない高位の貴人がいるばかりか、その貴人がこんな変った生活を送り、食事中独りでいることを好まないなどということまでお知りになって、極度に驚きなさいました。そしてお考えになりました、「アッラーにかけて、余といえば教王《カリフ》の身であるが、余はしばしばただ自分独りきりで思いに耽けるのを好み、仮りにわが生活の傍らに誰か他人の生活を永久に感じなければならぬとしたら、すぐにも死んでしまうことであろう。孤独は時として、かくも値知れぬ尊いものだからな。」
次に教王《カリフ》は忠実な陪食者に仰せられました、「おおイブン・ハムドゥン、おお蜜の舌持てる話し家よ、その方は過去のあらゆる物語を知り、現代の出来事を一つとして知らざるはないが、果してこの屋敷の持主たる男の存在を知っていたかな。われわれの臣下の一人で、余人の生活とはかくも異なった、孤独の栄華のかくも驚くべき生活を送っている者と、われわれが知り合いになることは、まさに緊急事と、その方思わぬか。かつまたそれは、わが高貴の臣下の一人に対し、彼がたまたまの客人を遇しておるに相違ない鷹揚ぶりよりも、余としては更に天晴れでありたき鷹揚さを発揮する機会を、余に与えるものではあるまいか。」すると話し家イブン・ハムドゥンは答えました、「信徒の長《おさ》におかれましては、われらの存ぜぬこの殿をお訪ね遊ばしたのをお悔みなさるようなことは、よもござりますまい。されば私は、御主君のお望みがかくとあるからには、この二名の美童を呼んで、この屋敷の持主にわれらの来訪を取り次がせ申しましょう。」そして彼は慣例に従って商人に身を窶《やつ》していられるアル・ムータディドと共に、腰掛から立ち上がりました。そして二人の美少年の前へ姿を現わして、これに申しました、「お前たち二人の上なるアッラーにかけて、お前たちの御主人のところに行って知らせてもらいたい。御門前に二人の異国の商人がお屋形に立ち入るお許しを乞い、御手の間にまかり出る栄誉を求めておりますると。」二人の若者は、この言葉を聞くや否や、屋形のほうに悦んで飛んで行き、やがてその敷居の上に、この場所の主人当人がみずから姿を現わしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十五夜になると[#「けれども第八百十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それは顔色冴え、ほっそりして上品な顔立の、様子優雅で、好意溢れた態度の人物でした。彼はニシャープール(3)産の絹の寛衣を着て、金の総飾りのついた外套を肩に羽織り、指には紅玉《ルビー》の指環をはめていました。そして唇に歓迎の微笑を浮べ、左手を心臓にあてて、お二人のほうに進み寄って申しました、「御光来によってわれらに無上の御厚情を恵みたもう御親切な殿方に、平安《サラーム》と懇篤あれ。」
そこでお二人は屋形にはいりなさいましたが、その絶妙な結構を見なすっては、これは天国の一隅そのものかと思いなさいました。それというのは、その内側の美しさは外側の美しさを遥かに凌ぎ、少しの疑いもなく、懊悩する恋人にも愛する女の思い出を忘れさせてしまうものがございました。
そして集会の広間には、金剛石の噴水の歌う雪花石膏の泉水に、小さな庭が影を宿し、その庭は小さく限られていること自体のために、涼やかな法楽であり歓喜でございました。それというのは、大きな庭は、アッラーの地を飾るあらゆる花とあらゆる茂みをもって、屋形の帯となって取り囲んでいるとすれば、またその華麗さによって、草木の狂乱であったとすれば、この小さな庭は明らかに草木の知恵でございましたから。その庭を作っている植物は四輪の花、そうです、本当にただ四輪の花だけでございますが、しかし人間の眼は大地の最初の日々にしか見入ったことのないような花でございました。
さて、第一の花は薔薇の花、茎の上に傾《かし》いでただ一輪、そこらの薔薇の木に咲くものにはあらず、そもそもの初めの薔薇、その姉妹は天使が怒って降りて来た以前に、楽園《アドン》に咲いていた花です。それは自分自身に照らされて、赤金の焔、内より煽られる篝火、鮮やかな、薄桃色の、天鵞絨《ビロード》のような、みずみずしい、処女の、無垢な、目もくらむばかりの、豊かな曙でございました。その花冠の中には、国王の寛衣のために必要なような緋色を含んでおりました。その匂いと申せば、それはひと吹きの匂いをもってよく心臓の扇《おうぎ》を開かしめ、魂に「酔えよ」と言い、身体に翼を貸して、「飛び立てよ」と言うのでございました。
また第二の花はチューリップ、茎の上にすらりと立ってただ一輪、どこぞの王宮の花壇のチューリップにはあらず、竜の血を注がれた古代のチューリップ、今は絶えたその品種は「円柱のイラム(4)」に花咲いていたもの、その色は古酒の満ちた杯に、「唇われに触れずして、われは酔わしむ」と言い、燃えさかる燃え木に、「われは燃ゆれども焼き尽くされず」と言うのでございました。
第三の花はヒヤシンス、茎の上にすらりと立ってただ一輪、諸方の庭園のものにはあらず、百合の母なるヒヤシンス、純白のもの、美妙にして、馨わしく、脆く、光り輝やくヒヤシンス、水から出る白鳥に、「われは汝よりも白し」と言うのでございました。
そして第四の花は石竹、茎の上に傾《かし》いでただ一輪、夕べ若い娘らの水注ぐ露台の石竹にはあらず、否、あらず、白熱の球、西方に崩れる太陽の小片、胡椒の飛び立つ魂を閉じこめる香水壜、その兄弟は魔神達《ジン》の王によって、バルキス(5)の髪を飾るため、スライマーンに献上され、スライマーンはこれをもって不老不死の「霊薬《アル・イクシール》」と霊の「香油」と王家の「曹達《アル・カリ》」と「解毒剤《テリアカ》」を調製なされた、あの石竹そのものでございました。
そして泉水の水は、たとえそれが花の面影だけにすぎないにせよ、この四輪の花に触れるただ一つのものであるがゆえ、噴水の楽の音《ね》黙し、金剛石の雨やむ時すら、数繁き感動の戦《おのの》きに顫えるのでした。そして四輪の花は、己れがかくも美しきを知って、それぞれの茎の上に微笑して身を傾しげ、互いにじっと見交わすのでございました。
そしてこの泉水の上の花四輪の外には、この白大理石と清涼の広間を飾るものは、何ひとつありません。そして眼差はこれ以上何ものも求めることなく、恍惚としてここに注がれるのでございました。
さて、教王《カリフ》とそのお連れが、ホーラサーンの毛氈を敷いた長椅子《デイワーン》にお坐りになると、主人は改めて歓迎の辞を述べてから、召使たちが金の盆に載せて運んで来て、竹製の台の上に置く結構な品々からなる食事を、一緒に召し上って下さるようにと誘いました。そして食事は友人が友人のために尽す真心をこめて行なわれ、そして主人の合図の下にはいってきた、四人の月の顔を持つ乙女によって、賑々しくなりました。第一の乙女は琵琶《ウーデイ》奏者、第二の乙女はシンバル奏者、第三は歌姫《うたひめ》、第四は舞姫でございます。そして音楽と歌と舞いの妙とによって、乙女たちは四人でもって、この広間の調和を補い、空気を恍惚たるものとしている間に、主人と二人の招客は杯に盛った葡萄酒を味わい、天国の木々から取ってきたものとしか思えないほど見事な、枝のついたまま摘んで来た果物で、口を甘くしました。
すると話し家イブン・ハムドゥンは、御主君の豪奢なもてなしにあずかることには慣れておりましたけれども、強い葡萄酒とこれほど多くの美が集まっていることによって、魂がすっかり高揚されるのを感じ、霊感を覚えた眼をして教王《カリフ》のほうを向き、酒杯を手に、自分の持つ或る若い友の思い出を掻き立てられて心中に浮んだ一詩を、誦したのでした。音律ととのった美声で、彼は吟じました。
[#ここから1字下げ]
おお、頬は野薔薇に型どられ、支那の偶像の頬のごとく鋳られし汝よ、
おお、黒玉炭《ゼツト》の眼持ち、天女《フーリー》の姿せる若人《わこうど》よ、汝の懶惰《らんだ》なる姿勢を棄てて、帯を締め、杯中にこの新しきチューリップの色せる葡萄酒を笑《え》ましめよ。
何となれば、知恵のための時刻もあれば、狂乱のための時刻もあり。今日はわれにこの酒を注げ。何となれば、われは壺の喉より取り出す血の、汝の心のごとく醇乎たるとき、これを好むは、汝の知るところなれば。
しかして、この液は危うしなど我に言うなかれ。生れながら酔う者に、酔《えい》は何するものぞ。わが願いは今日汝の捲き毛と等しく錯雑たり。
また、酒は詩人に幸いせずとも言うなかれ。何となれば、天の寛衣の今日のごとく碧く、地の衣の緑なる限り、われは死ぬばかり飲まんと欲す、
やがてわが墓を訪るる見目《みめ》よき若者たちをして、わが遺骸《なきがら》より立ちのぼる、大地に打ち勝つ酒の香を吸いて、ただこの香の利き目のみにて、既に酔心地を覚うるを得しめんがために。
[#ここで字下げ終わり]
この一詩を即吟し終って、話し家イブン・ハムドゥンは、教王《カリフ》のほうに眼を挙げて、詩句の生じた効果をお顔の上に読み取ろうとしました。ところが、拝見されるものと期待していた御満足の代りに、非常な御不興御立腹を抑えていらっしゃる御表情を認め、思わず酒の満ちた杯を、わが手から取り落してしまいました。そして彼は心中で慄え上がり、もしも教王《カリフ》は誦された詩句をお聞きになった御様子がないことに同時に気づかなかったならば、またもしも御眼が測り知れぬ問題の解決に、お心乱れいわば思い耽っている御模様なことをお見受けしなかったならば、助かる術《すべ》なく、身の破滅を信じたことでありましょう。そして彼は思いました、「アッラーにかけて、つい今し方までは、お顔は晴れ晴れとしていたのに、今やこんなに険悪な御様子はかつて拝見したことがないほど、御不興で黒くなっておられる。さりながら、己《おれ》は御顔立の表情によってお考えを読み取り、お気持を察するには慣れているのに、この突然の変化は何のせいやら、とんとわからんわい。どうか、アッラーは悪魔を遠ざけたまい、その呪いからわれらを守りたまわんことを。」
彼がこのように、何とか御立腹の動機《いわれ》を見極わめようと心を悩ましておりますと、そのとき教王《カリフ》は突然この家の主人に疑惑満ちた視線を投じなされ、あらゆる歓待の規則に反し、主客は決して相手の姓名身分を訊ね合わぬことになっている習慣にも拘わらず、教王《カリフ》はこの場の主人に、爆発をこらえていらっしゃるお声で、問いなさいました、「あなたはどなたか、おお男よ。」この問に、主《あるじ》は突如すっかり顔色を変え、無上に侮辱を覚えましたが、しかも返事を拒もうとはせず、申しました、「世間では普通、私はアブール・ハサン・アリ・ベン・アフマード・アル・ホーラサーニ(6)と呼ばれておりまする。」すると教王《カリフ》は語を継ぎなされて、「して私が誰か御存じかな。」すると主《あるじ》はさらにいっそう蒼白となって、答えました、「いいえ、アッラーにかけて、私はその名誉を持ちませぬ、おおわが御主人よ。」
そのときイブン・ハムドゥンは形勢いよいよ面白からぬのを感じ、立ち上がって、若い男に申しました、「おおわれらの主《あるじ》よ、あなたはアル・ムタワッキル・アラッラーの御《おん》孫、信徒の長《おさ》、教王《カリフ》アル・ムータディド・ビルラーの御前におられるのですぞ。」
この言葉を聞くと、この場の主人は感動の極に達して、今度は自分も立ち上がり、わななきながら教王《カリフ》の御手の間の床《ゆか》に接吻して、申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、君の敬虔なる御父祖功績者方の御功徳にかけて、君の奴隷が知らず知らず、やんごとなき御身に対し奉り、犯しかねざりし非行、もしくは陥りかねざりし非礼、もしくは敬意の欠如、もしくは些の疑いもなくお持てなしの不足をば、何とぞお許し下されたく、切に願い奉りまする。」すると教王《カリフ》は答えなさいました、「おお男よ、余はその方に対しその種の違反は何ら咎むべきものがない。それどころか、その方はわれらに対し、王者の間にても最も寛闊の王たちも羨やむばかりの持てなし振りを示した。されど、余がその方に問い質したるは、余としてはその方の家に余の見た美しきこと一切に対し、厚く謝すること以外に思わざりし折から、打ち見たところ極めて重大なる原因が、突如余を駆って問うに到らしめたがゆえである。」すると主《あるじ》は、色を失って申しました、「おおわが至高の御主君よ、願わくは君の奴隷に、その罪を確認せしむることなくして、お怒りの重さを身に感ぜしめたもうことなかれ。」すると教王《カリフ》は仰しゃいました、「余は突然気づいたるが、おお男よ、この家《や》にあっては、家具類より汝の身につけておる衣類に至るまで、一切がわが祖父君アル・ムタワッキル・アラッラーの御名をつけておるぞよ。ところでその方、かくも奇怪なる事実を余に釈明し得るや。わが聖なる祖先の宮殿より、ひそかに掠め来《きた》りしものかと思うは、当らざるところなりや。腹蔵なく申せ。然らずは死は直ちにその方を待つぞよ。」
すると主人は動ずる気色なく、その愛想のよい様子と微笑を取り戻して、およそ落着いた声で申しました、「願わくは全能者の恩寵と御庇護君の上にあれかし、おおわが殿よ。いかにも……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十六夜になると[#「けれども第八百十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……いかにも、私は腹蔵なく申し上げましょう。何となれば、真実は君の内なるお召物にして、率直は外なる御衣、何ぴとも君の御前にては、誠実をもって以外に申し述べ得ないでござりましょう。」
すると教王《カリフ》はこれに仰しゃいました、「然らば腰を下ろして語るがよい。」
そこでアブール・ハサンは、教王《カリフ》の御合図の下に、自分の席に坐って、さて申しました。
「さればでございます、おお信徒の長《おさ》よ、――願わくはアッラーはわが君に勝利と御愛顧を続けたまいまするように。――私は、世人のとかく想像なさりかねないのとは事変り、王子でも、貴人《シヤリーフ》(7)でも、大臣《ワジール》の息子でもなく、およそ何らか高貴の出生とは、遠くも近くも縁ある者ではございません。けれども私の身の上話はまこと不思議なる物語なれば、もしこれが針をもって眼の内側の一隅に書かれたならば、尊敬と注意をこめてこれを読む者には、教訓として役立つことでございましょう。それというのは、私は貴族でも、貴族の子息でも、授爵された家柄の子息でもないとは申せ、もしわが殿が私のほうにお耳を傾けたまいまするならば、この物語は殿を御満足おさせ申し、殿にお話し申し上ぐる奴隷に対する積もるお怒りを解くことであろうと、実際のところ、断言申し上げることができるかと存じまする。」
そしてアブール・ハサンはしばし話すことをやめ、自分の記憶を集中し、それを考えのうちに正確にし、こうして話を続けました。
私はバグダードに生まれまして、おお信徒の長《おさ》よ、父母には私より外に子孫がございませんでした。父は一介の市場《スーク》の商人でした。さりながら、父は商人の間で最も富裕で、最も尊敬されていたことは、事実でございます。ただ一個所だけの市場《スーク》の商人ではなく、両替屋の市場《スーク》にも、薬種商のそれにも、また呉服屋のそれにも、それぞれの市場《スーク》に、最も立派な店を持っておりました。そしてその店の一軒一軒に、売買の取引の上手な代理人を置いておりました。また一軒一軒の店裏部屋に面する個人用の別室を所有していて、そこで人々の往来を避けて、暑い時期にはゆっくり寛ろいで、午睡をすることができるようになっており、その間睡眠中に涼しくするために、一人の奴隷が団扇をもって風を送る役目をつとめ、わけて父の睾丸を恭しく扇ぐのでした。父の睾丸は暑気に感じやすく、団扇の微風ほどそれによろしいものはなかったからでございます。
さて、私は独り息子のこととて、父は愛情こめて私を可愛がり、何ひとつ不自由させず、私の教育のためにはどんな出費も惜しみませんでした。それに父の富は、祝福のお蔭で年を追って殖える一方で、もう数えるのもむずかしいほどになりました。ちょうどその頃、父の運命の刻限がまいって、父は亡くなりました、――願わくはアッラーは御慈悲をもって父を包みたまい、その平安の裡《うち》に父を許したまい、故人の失った日々だけ、信徒の長《おさ》の聖寿を永からしめたまわんことを。
私はと申しますると、父の莫大な財産を相続致しまして、やはり父の生前のごとく、市場《スーク》の商売を経営しつづけました。かつ、私はしたい放題をし、自分の選んだ友人たちと一緒に、自分にできるだけ、食い、飲み、楽しんでおりました。そして人生は申し分ないものと思って、他の方々にも、私にとってと同じように人生を愉快にしてあげようと努めました。それゆえ、私の幸福は非難すべき点なく、苦難なく、私は毎日の自分の生活にまさるものなど、何ひとつ望みませんでした。なぜなれば、人々の野心と称するものや、虚栄の徒が光栄と呼ぶものや、才智乏しき輩が名声とか栄誉とか評判とか称するものなど、こうしたすべては私にとっては耐えがたい感情でございましたから。私はこうしたすべてよりも、自分のほうを採りました。外部の満足よりもわが生活の平穏を採り、似て非なる権勢よりも、面《おもて》優しきわが友人たちのただ中に隠れたわが平凡な幸福を採りました。
けれども、おおわが殿、一個の生活というものは、いかに単純清澄であることができようとも、決して波乱を蒙らずに済むわけには参りません。私自身、わが同類に倣って、やがてそれを体験しなければならぬ次第でした。そして私の生活に波乱がはいってきたのは、この上なく魅力ある姿をとってでありました。それと申すは、アッラーにかけて、およそ地上に美の魅力に比べ得る魅力がございましょうか、美が発現するために、十四歳の乙女の顔と容姿を選ぶとき。そして、おおわが殿、待ち設けていない乙女ほど心を惹く乙女がございましょうか、われらの心を燃やすために、その乙女が十四歳の少女の顔と容姿を借りるとき。それと申しますのは、永久に私の理性にその支配の印璽を押すことと相成る女性が、おお信徒の長《おさ》よ、わが前に現われましたのは、まさにかかる姿をとってであって、他の姿をとってではございませんでしたから。
事実、私は或る日、自分の店の前に坐って、日頃の友人たちと四方山の話をしておりますと、そのとき私の面前に、バビロン風の両眼に飾られた、踊るような足取りの、微笑を浮べた一人の若い娘が、立ち止まるのを見ました。その娘は私に一瞥をくれ、ただの一瞥、それきりでした。ところが、私は鋭い矢に刺されたかのように、魂のなかと肉のなかで身を震わし、自分の幸福の到来そのものの前でのように、全存在が動揺するのを覚えました。するとその若い娘は一瞬後、私のほうに進み寄って、私に言いました、「こちらは、アブール・ハサン・アリ・イブン・アフマード・アル・ホーラサーニ殿の私有のお店でございましょうか。」それを、おおわが殿、娘は泉の水の声で私に尋ねるのでした。私の前にすらりと、優美のうちにしなやかに、そしてモスリンの面衣《ヴエール》の下の、その処女の子供らしい口は、霰粒《あられつぶ》の濡れた二列の上に開く、緋色の花冠でありました。そこで私は、敬意を表して立ち上がりながら、答えました、「さようでございます、おお御主人様、ここはあなた様の奴隷の店でございます。」すると私の友人たちは遠慮して、皆立ち上がって、行ってしまいました。
すると若い女性《によしよう》は、おお信徒の長《おさ》よ、私の理性をその美しさの後ろに曳きながら、店のなかにはいりました。そして長椅子《デイワーン》の上に女王のごとく坐って、私に尋ねました、「その方はどこにいらっしゃるの。」私は「この私自身です、やあ、淑女様《シツト》、」と答えたものの、もうしどろもどろ、動揺のあまり言いまちがえてばかりいるほどでした。すると女性はその口の頬笑みを頬笑んで、私に言いました、「それでは、ここにいるあなたの使用人に、金貨三百ディナールをわたくしに支払うよう申し付けて下さいまし。」そこで私は即座に、帳場の番頭のほうに向いて、三百ディナールを秤って、この超自然の貴婦人に渡すように命じました。その女性は使用人の渡す金貨の袋を受けとり、立ち上がって、一言のお礼の言葉もなく、別れの身振りひとつせずに、立ち去ってしまいました。たしかに、おお信徒の長《おさ》よ、私の理性はもうその乙女の歩みに縛りつけられて、その後を追いつづけることより外にはできない有様でございました。
さて乙女が姿を消すと、私の使用人は恭しく私に申しました、「おおわが御主人様、前払いした金額は、どなた様の名義でつけておけばよろしいでございましょう。」私は答えました、「どうしておれが知ろうか、おお何某よ。それにいったいいつから、人間が会計簿に天女《フーリー》の名前を記入するようになったか。もしお前がそうしたいのなら、こう記入しておけ、一金三百ディナール、『男心を盗む女』に、前払い、と。」
帳場の番頭はこの言葉を聞くと、思いました、「アッラーにかけて、家の御主人は平生至って慎重な方だから、こんな無茶な振舞をなさるのは、ただこの俺の機敏と手腕を試してみようというのに相違ない。ではひとつあの見たことのない女の後を追って、名前を尋ねてやろう。」それでその件については私に相談なく、勢いこんで店の外に飛び出し、もう見えなくなっていた若い娘の後を追いはじめました。そしてしばらく経つと、彼は店に戻って来ましたが、左の眼を片手で押え、顔は涙で濡れていました。そして頭を垂れて、両頬を拭いながら、帳場の自分の場所に坐りに行きました。そこで私は尋ねました、「どうしたのだ。」彼は答えて、「悪魔退散、おおわが御主人様。私はここにいた若い御婦人の名前を聞くつもりで、後をつけて行き、自分ではぬからずやった気でいました。ところが、御婦人は後をつけられていると感づくと、いきなり私のほうを振り向いて、左の眼にしたたか拳固を一発食わせ、もう少しで私の頭をぶち抜いてしまうところでした。それで私は今、鍛冶屋の手よりか頑丈な手で、片目を潰されてしまった始末です。」
こうした次第でございます。さても、おおわが殿、羚羊《かもしか》の手の中にこれほどの力を潜め、その身ごなしにこれほどの敏捷を置きたもうアッラーに、称讃《たたえ》あれ。
そして私はその日は一日、精神はこの暗殺の眼《まなこ》の思い出に繋がれ、魂はわが理性の誘b者の通り過ぎたことによって、悩まされると同時に爽やかにされていた次第でございました。
ところが翌日、同じ時刻になると、私が思慕の情に茫然としているところに、その魔法の女が店の前に立って、微笑を浮べながら私を見やっているのを、見つけました。その姿を見ると、私に残っていた僅かの理性は、喜びのあまり飛び立たんばかりでした。そして私が口を開いて歓迎の言葉を述べようとしますと、乙女は私に言うのでした、「やあ、アブール・ハサン様、あなたはわたくしのことを考えて、お心のなかで、『とるものだけとって、さっさと逃げてしまうとは、あの女は全くとんでもないあばずれ女だ』と独りごとをおっしゃったにちがいありませんね。」けれども私は答えました、「御身の上と御身の周囲にアッラーの御名あれ、おおわが女王様。あなた様は御自分の物をお取りになっただけでございます、ここにあるものはすべて、内容《なかみ》もろとも容器《いれもの》まで、みなあなたの持ち物なのですから。あなたの奴隷はと申せば、その魂はあなたのおいでになって以来もう自分のものではなく、この店のつまらぬ品々一式と共に、お持ち物のなかに含まれておりまする。」若い娘はこれを聞くと、顔の小|面衣《ヴエール》を掲げて、百合の茎に咲く薔薇のごとく身をかがめ、環飾り類と絹織物の響きを立てて、笑いながら、坐りました。乙女と共に、店にはあらゆる庭園の馨わしい香がはいってまいりました。
それから乙女は私に言いました、「そういうわけならば、やあアブール・ハサン様、わたくしに五百ディナール払って下さいな。」私は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして五百ディナール秤らせて、これを与えました。それを乙女は受け取って、立ち去ってしまいました。それだけです。そして私は、前日と同様、乙女の魅力の囚人、美しさの俘虜と自分を感じつづけるのでした。いったいどのような妖術が、自分をこのようにすっかり思慮もなく、分別する力もなくしてしまったのかわからぬままに、私は自分の陥っている麻痺状態を脱するために、採るべき方針も、努力することさえも、決心できない有様でした。
けれどもその翌日、私は前にもまして蒼白と無為に陥っていると、そこにその乙女は、焔と闇の切れ長の眼と、正気を失わせる微笑を携えて、私の面前に姿を現わしました。そして今度は、一言も発しないで、値い知れぬ宝玉がいくつも下がっている天鵞絨の四角な切れの上に、指を置いて、ただその微笑をひと際目立させるばかりでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十七夜になると[#「けれども第八百十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると私は直ちに、おお信徒の長《おさ》よ、その天鵞絨の四角な切れを取り外して、それについているもの全部と一緒に畳み、それをば魔法の女に渡すと、女は受け取って立ち去ってしまい、それ以上のことは何もございませんでした。
ところで今度は、女が姿を消すのを見ると、私はこれ以上じっとしている気になれず、家の帳場の若者が受けたような侮辱を蒙りはしまいかと恐れる気おくれを抑えて、私は立ち上がり、女の足跡を辿って行きました。こうして女の後を歩んで、ティグリス河のほとりに出ますと、その女は一艘の小舟に乗り、舟は橈《かい》を早めて、信徒の長《おさ》アル・ムタワッキルの、おおわが殿、君の御祖父の、大理石の御殿に行き着くのを見とどけました。これを見て、私は不安の極に達し、わが魂の中で考えました、「お前は今や、やあアブール・ハサンよ、冒険に巻きこまれて、波乱の水車にさらわれてしまったぞ。」そして私は意に反して、次の詩人の言葉を思い出しました。
[#この行2字下げ] 愛《いと》しき女のかくも快よき真白の腕は、汝の額を休《やす》らわしむるに、白鳥の綿毛よりも柔らかに思わるるも、よくよく調べて、油断するなかれよ。
私は河の水を見るともなく眺めて、永い間思いに耽っておりましたが、何事もなく、かくも快よく単調であったわが過去の全生涯が、わが眼前に、相次ぐいずれも相似た軽舟に乗って、水流に沿って次々に去り行くのでございました。すると突然、眼前に、先ほど若い娘が乗って、今は大理石の階段の下に、漕ぎ手たちの姿なく舫ってある、緋布を敷いた小舟が、再び現われ出ました。そこで私は叫びました、「おい、アッラーにかけて、お前は自分のうつらうつらしている生活が恥しくないのか、やあアブール・ハサン。そんな情ない生活と、波乱を物ともしない人々の送っているあの熱烈な生活との間で、どうしてお前はぐずぐず迷ってなどいられるのだ。あの今一つの詩人の言葉を、いったいお前は知らぬのか。
[#この行2字下げ] 立てよ、友よ、しかして汝の昏迷を振り払え。幸福の薔薇は睡りの裡に花咲かず。この生の刹那刹那をば、燃え上がらすことなく、やり過ごすなかれ。次いで汝の眠らむには幾世紀もあるものを。」
この詩句と、また心躍る若い娘の思い出とに元気づけられ、その女がどこに住んでいるかわかった今となっては、私は百方手を尽して女の許まで到り着こうと思い定めました。この計画で一杯になりながら、私は家に戻り、愛情を傾けて私を愛している母の部屋にはいり、私の生活に突如起ったところを、何ひとつ隠さず打ち明けました。母は怖気をふるって、私を胸に抱き締めて申しました、「どうかアッラーはお前を保護したまい、おおわが子よ、お前の魂を波乱から守りたまいますように。ああ、息子アブール・ハサン、私の生命《いのち》のただ一つの絆《きずな》よ、お前は自分と私の安息をどこで危なくしようというの。もしその若い娘が信徒の長《おさ》の御殿に住んでいるというなら、どうしてお前はあくまでその娘に会おうなどと望むことができますか。たとえ考えるだけでも、私たちの御主君|教王《カリフ》様のお住居のほうに恐れ気もなく出向こうなんて、お前とんでもない奈落に駈け込んでいるのがわからないのかい。おお息子よ、私がお前の生命《いのち》を宿した九カ月間にかけて、お願いします、どうぞその知らない女にまた会おうなんてもくろみは棄てて、お前の心中に不幸な恋心を刻みつけることなどしないで下さいよ。」私は母を安心させようと努めて、答えました、「おお私のお母様、あなたの大切な魂を鎮め、お眼を爽やかにして下さい。起らなければならないことの外は何ごとも起りますまい。そして記《しる》されたことは行なわれなければなりません。アッラーは至大にましまする。」
その翌日、私が宝石商の市場《スーク》の自分の店に行ったところ、薬種商の市場《スーク》の私の店の事業を取り仕切っている、私の代理人の訪問を受けました。それは年寄りの男で、私の亡父が絶大の信頼を寄せ、困難な問題とか面倒な問題は、何でも相談していた人です。さて、慣例の挨拶《サラーム》と辞令の後、彼は言いました、「やあ殿《シデイ》よ、お顔つきに拝見するその変化や、お顔色のその蒼白さや、その憂わしげな御様子は、何としたことか。何とぞアッラーは損な取引と悪意の得意先とから、私どもを守って下さるように。しかし起り得た不幸がどんなものであろうと、それは決して取り返しのつかないものではない、お達者でいられるからには。」私はこれに言いました、「さよう、アッラーにかけて、おお尊ぶべき伯父よ、私は決して損な取引をしたわけでもなければ、他人の悪意にひっかかったわけでもない。ただ私の生活の様子が変っただけのことです。つまり十四歳の別嬪が通り過ぎると共に、波乱が私のところにはいってきたのです。」そして私はわが身に起ったところを、一つの細部も忘れずに、これに語りました。あたかもその娘がそこにいるかのように、わが心を奪った女の姿をまざまざと描いて見せました。
すると尊ぶべき長老《シヤイクー》は、しばらく考えこんでから、私に言いました、「なるほど、事は面倒じゃ。しかし何もあなたの昔馴染みの奴隷の手に余るというほどではありません、おおわが御主人よ。事実わしの知り合いの間に、ちょうど教王《カリフ》アル・ムタワッキルの御殿そのものに住んでいる男が一人おる、役人と宦官の仕立屋なものでね。だからこれからその男にあなたを紹介して進ぜるから、何か仕事を頼みなすって、それに気前よく礼金を払ってやりなされ。そうすれば、その男はあなたに大へんお役に立つことじゃろう。」そして時を移さず、彼は私を宮殿に案内して、私と一緒にその仕立屋のところに行くと、鄭重に迎えられました。そこで私はこれから衣類の注文を始めようと思って、途々わざと綻びさせておいた一方の衣嚢《かくし》を見せて、これを至急繕ろってもらいたいと頼みました。すると仕立屋は悦んでしてくれました。そこで私は仕事のお礼にと、金貨十ディナールをその手にそっと握らせ、少ないがと詫び、この次注文するときはたっぷりと償いをするからと、約束しました。すると仕立屋は私のやり方をどう考えてよいやらわからなかったけれど、呆気にとられて私を見つめながら、言いました、「おおわが御主人様、あなたは商人のような服装《なり》をしていらっしゃるが、やり口は全く商人臭くない。普通商人といえば、金を出すのにけちけちしていて、十ドラクム儲かることが確かでなければ、一ドラクムも出しやしません。それなのにあなたは、つまらん仕事に、貴族《アミール》の衣裳の代金を下さるんだから。」次に言い添えました、「こんなに鷹揚なのは恋をしている人たちに限りまさあ。あなたの上のアッラーにかけて、おおわが御主人様、あなたは惚れてでもいなさるんですか。」私は眼を伏せて答えました、「私の見たものを見た後では、どうして惚れられずにいられようか。」相手は聞きました、「それであなたのお悩みの種はどなたですか。若い仔鹿か、それとも羚羊《かもしか》ですか。」私は答えて、「羚羊だよ。」相手は言いました、「子細ない。おおわが御主人様、もしその住居がこの御殿だというなら、いつなりと私が案内役を勤めて進ぜましょう、羚羊だと仰しゃるなら、ここにはその手の一番見事な種類がいろいろいますからね。」私は言いました、「そうなのだ、ここに住んでいるのだよ。」相手は言いました、「してその名前は何といいますか。」私は、「アッラーだけが御存じだが、多分あんた自身も知っているかも知れない。」相手は、「では、その方の様子を述べてごらんなさい。」そこで私は精一杯その様子を話して聞かせますと、相手は叫びました、「おや、アッラーにかけて、それは手前どもの御主人真珠華様、信徒の長《おさ》アル・ムタワッキル・アラッラー様の琵琶《ウーデイ》奏者ですわ。」そして付け加えました、「今ちょうどその方の宦官少年がこちらにやって参ります。あなたは、おおわが御主人様、この機会をのがさず少年の心を惹きつけ、その女主人真珠華様へのあなたの案内人となさるように。」
そして実際に、おお信徒の長《おさ》よ、仕立屋のところに、第九月《ラマザーン》の月のように美しい、一人のごく年少の奴隷がはいってくるのが見えました。そして私たちに愛らしく挨拶してから、仕立屋に小さな錦の上衣を指しながら、言いました、「この錦の上衣はおいくらなの、おお長老《シヤイクー》アリ。御主人真珠華様の外出のお伴をするので、今ちょうどこれが要るのだが。」そこで私はすぐにその上衣を、かかっている場所から外して、少年に渡しながら言いました、「代金は済んだ、これは君の物だよ。」すると少年は、その女主人そっくりに、微笑しつつ横目を使って、私の手を引いて一緒に離れたところに行きながら、言いました、「あなたはきっとアブール・ハサン・アリ・イブン・アフマード・アル・ホーラサーニ様にちがいありません。」私はこんな子供に早くもこれほどの賢《さか》しさが見られて、私のことを私の名で呼ぶのを聞いて、驚きの極に達し、自分の指から高価な指環を抜いて、少年の指にはめてやり、答えました、「そのとおりだよ、おお愛らしい若者よ。けれども誰が君に私の名を教えたのかね。」少年は言いました、「アッラーにかけて、どうして僕が知らずにいましょうか。僕の御主人様は、鷹揚な殿様アブール・ハサン・アリに恋してからというもの、僕の前で一日に何度となくその名を仰しゃるのですもの。預言者――その上に恩寵と祝福あれ、――の御功績にかけて、もしもあなたが僕の御主人様があなたに恋していると同じように、御主人様に恋していらっしゃるのならば、僕はいつでもあなたにお力添えして、あの方のところまで行き着かれるように骨を折ります。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十八夜になると[#「けれども第八百十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私は、おお信徒の長《おさ》よ、自分は少年の女主人に狂おしいばかり恋している、時を移さず会わないことには命絶えてしまうにちがいないと、最も神聖な誓約によって、少年に誓ったのでございました。すると少年宦官は私に言いました、「そういうわけなら、おおわが御主人アブール・ハサン様、僕は心からあなたに忠勤を誓う者です。そしてお力添えして僕の御主人様にお会いになるのを、これ以上延ばしたくはございません。」そして「今すぐ戻って来ますから、」と言いながら、立ち去りました。
果して、少年は間もなく仕立屋のところに、私に会いに戻ってきました。少年は持ってきた包みを拡げて、中から純金の刺繍を施した亜麻の寛衣と、教王《カリフ》御自身の外套の一つである外套一着を取り出しましたが、それは特に区別する徽章と、金文字で横糸の上に記されたお名前、アル・ムタワッキル・アラッラーというお名前によって、教王《カリフ》の御外套と知ることができました。そして少年宦官は私に言いました、「おおわが御主人アブール・ハサン様、僕は教王《カリフ》が夕方|後宮《ハーレム》にお出向きになるとき召す御衣服を、持ってきてあげました。」そして私にむりやりこれを着せて、言いました、「いったん宮殿の内側の長い廻廊に着きなすったら、そこには寵姫たちの私室がありますから、通る際抜かりなくここにあるこの罎の中から麝香を一粒とり出して、一室ごとの扉の前にそれを置きなさるよう。それが後宮《ハーレム》の廻廊を横切りなさるときの、毎夕の教王《カリフ》の御習慣ですからね。そしてひとたび敷居が青大理石でできている扉の前に着いたら、扉を叩かずにお開けなさい。そうすればあなたは僕の御主人様の腕の中にいなさるでしょう。」次に付け加えて、「御会見が終って、そこから外に出なさるときのことは、アッラーがよしなにして下さるでしょう。」これらの指図を与えて、少年は成功を祈りながら私と別れ、姿を消しました。
そこで私は、おおわが殿、この種の冒険には不慣れであり、またそれは私の波乱への第一歩であったにも拘わらず、教王《カリフ》のお召物を着ることをためらわず、まるで一生涯王宮に住んでいてここで生まれたかのように、中庭と列柱を横切って敢然と歩きはじめ、後宮《ハーレム》に宛てられている部屋部屋の廻廊に着きました。そしてすぐに、麝香の粒のはいっている罎を衣嚢《かくし》から取り出して、宦官少年の指図どおり、寵姫の扉の前に着くごとに、そのためにそこに置かれている小さな磁器の皿の上に、麝香を一粒のせることを忘れませんでした。こうして私は敷居が青大理石の扉の前に着きました。そこでこれまで誰にも見咎められずに済んだことを悦びながら、いよいよ扉を開けて、あれほど待ち望んだ女のところにはいろうと身構えますと、そのとき突然大きなざわめきが聞え、同時にたくさんの炬火《たいまつ》の光を認めました。ところでそれこそ、大勢の廷臣たちといつものお付きの者に囲まれた、教王《カリフ》アル・ムタワッキル御自身であられました。私は心臓が激動に掻き立てられるのを覚えながら、やっと引き返す暇がありました。そして廻廊を横切ってのがれつつ、室内で叫ぶ寵姫たちの声を聞きました、「アッラーにかけて、何という驚いたことでしょう、今日は信徒の長《おさ》は二度お廊下をお通りになるわ。ついさっき、めいめいの小皿の中にいつもの麝香の粒をおのせになりながら、通って行かれたのは、たしかに教王《カリフ》でいらっしゃったのに。それに私たちは、御衣の匂いで、教王《カリフ》でいらっしゃることがよくわかったのですもの。」
私は狂気のように逃げつづけましたが、やがて人々の注意を呼び起すおそれなしには、これ以上廻廊を行けなくなって、はたと立ち止まらざるを得ませんでした。ところが、護衛の人たちのざわめきは相変らず聞え、炬火《たいまつ》が近づくのが見えました。そこでたとえ死のうとも、この有様とこの変装のまま見つかりたくはないと思い、私は手に触れた最初の扉を押して、自分が教王《カリフ》に変装していることも、それから後のことも全部忘れて、室内に飛びこみました。すると私は、おびえた切れ長の眼の若い婦人の前に出ました。その婦人は、横になっていた絨緞から飛び起きて、恐怖と困惑の大きな叫びを一と声あげ、素早い動作で、モスリンの衣服の垂れを持ちあげて、それで顔と髪を蔽いました。
さて私はすっかり精神朦朧とし途方に暮れて、その婦人の前に立ち尽しましたが、魂の中では、この窮地をのがれるためには、大地が私の足許に割れて、そこに没してしまいたいと願った次第でした。ああ、たしかに、私はそれをわがために熱烈に願ったのであり、それに、あの滅亡《ほろび》の宦官少年に寄せた軽率な信頼を呪ったのでありました。きゃつは疑いなく、私の溺死刑か串刺しの刑による死の原因となろうとしているのです。そして私は息を殺して、このおびえた乙女の口から、私をば波乱の愛好者たちのための憐れみの的とし見せしめとしようとしている、人を呼ぶ叫びが出るのをじっと待っていました。すると若い唇はモスリンの垂れの下に動いて、そこから出てくる声は愛らしく、そして私に言いました、「わたくしの部屋にようこそお越しになりました、おおアブール・ハサン様、あなたはわたくしの妹真珠華を愛し、また妹に愛されている方ですもの。」私はこの思いがけない言葉を聞いて、おおわが殿、乙女の手の間の床《ゆか》に顔をすりつけ、その着物の裾に接吻して、その保護の面衣《ヴエール》でわが頭を包みました。すると婦人は言いました、「気前のよい人たちに歓迎と長命がありますように、やあアブール・ハサン様。妹の真珠華に対するあなたのなさり方は、何とお見事でしたろう。そして妹の受けさせた試煉をば、何と首尾よく切り抜けなすったことでしょう。ですから、妹はたえずあなたのこととあなたに吹きこまれた情熱のことを、わたくしに話しておりますの。そこであなたは、あなたをわたくしの許によこした御自分の天命を、祝福なさることができます。あなたはその教王《カリフ》の御衣裳を召して変装していらっしゃるから、天命はあなたを破滅に導びくこともできたのですもの。でもあなたはこのことについては御安心なさってよろしゅうございます。わたくしは繁栄の刻印を印《しる》されたこと以外には何も起らないように、万事を取計らってさしあげますから。」私は何とお礼を申してよいやらわからず、ただ黙ってその寛衣の垂れに接吻しつづけるだけでした。すると婦人は付け加えました、「ただね、やあアブール・ハサン様、わたくしはあなたのためにお力添えする前に、妹に対するあなたの御意向をはっきり伺っておきとうございます。これについて誤解があってはなりませんから。」そこで私は両腕をあげて答えました、「アッラーはあなたを守り、あなたを公正の道に置きたまいますように、おお、わが救いの御主人様。それはもう、あなたの御《お》生命《いのち》にかけて、私の意向は、清く欲得ずくのないものである以外にあり得ましょうか。事実私はただ一事しか望みません。それは、ただ私の眼があの姿を見て悦び、私の憔悴した心臓が蘇えらんがためにのみ、あなたの多幸なお妹真珠華様にもう一度お目にかかりたいことで、ただそれだけ、それ以上の何ごともございません。一切を見たまうアッラーが私の言葉の証人であられ、私の意中のすべてを御存じにましまする。」すると彼女は私に言いました、「それならば、やあアブール・ハサン様、わたくしは何事もいとわずに、あなたをお望みの法に叶った目的に、行きつかせてさしあげましょう。」
こう言って、彼女は手を叩いて、この合図を聞いて駈けつけた奴隷少女に申しつけました、「お前の御主人真珠華様に会いに行って、こう伝えて下さい。姉の『巴旦杏の捏物』はあなたに挨拶《サラーム》を送り、どうかすぐに会いに来て下さるようお願いします。今夜は胸が狭まるのを覚え、胸を晴らすには、あなたがいらっしゃって下さるよりほかに途がございませんから。それにあなたと姉との間には或る内密の話があるのです、と。」すると奴隷娘はいそいで命令を果しに行きました。
間もなく、おおわが殿、あの乙女がその優美さをそっくり携えて、美しい姿ではいってくるのが見られました。着物といえば、ただ青絹の大|面衣《ヴエール》に包《くる》まれているだけで、裸足《はだし》で髪を振り乱しておりました。
ところが、彼女は最初私に気がつかず、姉の巴旦杏の捏物に言いました、「参りましたわ、いとしい方。浴場《ハンマーム》から出たばかりで、まだ着物を着る暇がなかったの。けれどもわたくしとお姉様の間にある内密の話って何なの、早く聞かせてちょうだい。」すると返事をする代りに、私の保護者は私に近づくよう合図をしながら、真珠華に私を指し示しました。そこで私は立っていた暗がりから、出て行きました。
私の姿を見ると、わが愛人は恥しい様子も困った色も見せずに、蒼白に感動して私のほうに寄ってきて、子供が母親の腕に飛びこむように、私の腕に飛びこみました。私は天国のあらゆる天女《フーリー》をわが胸に抱く思いがいたしました。そして、おおわが殿、彼女はもうどこもかしこも柔かく、とろけるばかりでございましたので、果してこの乙女は純良なバターの塊りか、砕いた巴旦杏の捏物でないかどうか、私にはわからない有様でした。この女を形づくりたまいし御方は祝福されてあれ。私の腕は、敢えてこの子供らしい身体を強く抱きしめることをいたしかねました。そして百年の新しい生命が、彼女の接吻と共に私の身内にはいってまいりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百十九夜になると[#「けれども第八百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうして私たちは抱き合ったままでおりましたが、それがどのくらいの間か知りません。それというのは、私は恍惚境か、または何かそれに近い境に、陥っていたにちがいありませんから。
けれども私はいささか現実《うつつ》に戻ると、彼女のために自分が忍んだすべてを話して聞かせたいと思いましたが、そのとき廻廊に一際高まるざわめきが聞えました。それは教王《カリフ》御自身が、真珠華の姉の、寵姫巴旦杏の捏物に会いに見えなすったのでした。私は立ち上って大きな長持に飛びこむ暇がやっとあり、姉妹は、その長持の蓋を閉めて、何事もなかったかのように、いたしました。
そこに、おおわが殿、御祖父の君、教王《カリフ》アル・ムタワッキルが御寵姫の部屋にはいって来られ、真珠華の姿をお見かけになると、これに仰しゃいました、「わが生命《いのち》にかけて、おお真珠華よ、今日姉の巴旦杏の捏物のところで、そちに会えたとは大へん嬉しい。近頃ずっといったいどこにいたのか、宮殿のどこにもとんと見かけず、あれほど余の好きなそちの声をとんと聞かなかったが。」そして返事を待たずに、付け加えなさいました、「そちの手にしなかった琵琶《ウーデイ》を早く取り上げて、伴奏をつけながら、何か情熱的な歌を聞かせてくれよ。」真珠華は、教王《カリフ》がベンガという名の若い奴隷に、甚だしく恋着していらっしゃることを知っていたので、適当な歌を見つけるのに少しも苦しみませんでした。それというのは、彼女自身も恋していたので、ただ自分の気持の流れに身をまかせさえすればよく、そこで琵琶《ウーデイ》の調子を合わせ、教王《カリフ》の御前に一礼して、歌いました。
[#ここから1字下げ]
わが慕ういとしき人よ――ああ
産毛《うぶげ》生うるその頬は――おお夜よ
柔らかさまさる――おお眼よ
薔薇の仄かの頬よりも――おお夜よ
わが慕ういとしき人は――ああ
瑞々《みずみず》しき若人《わこうど》――おお夜よ
その恋の眼差しは――ああ
悩殺せしならむ――おお眼よ
バビロンの王たちをも――おお夜よ
かくのごときが――ああ
わが慕ういとしき人ぞ
[#ここで字下げ終わり]
教王《カリフ》アル・ムタワッキルはこの歌をお聞きになるといたく感動なさり、真珠華のほうに向かれて、仰しゃいました、「おお若い娘よ、おお鶯の口よ、そちにわが満足の証拠を与えたいから、余に何か所望を述べてもらいたい。して――余はわが赫々たる祖先、功績者の方々の御功績にかけて誓うが、――たとえわが王国の半ばなりとも、そちにとらせるであろうぞ。」すると真珠華は、眼を伏せながら、お答えしました、「何とぞアッラーはわが御主君の聖寿を永からしめたまいますように。けれども妾《わらわ》はわが頭上と姉巴旦杏の捏物の頭上に、信徒の長《おさ》の御寵愛が続きますことより外には、何の望みもございません。」すると教王《カリフ》は言いなさいました、「ぜひとも、真珠華よ、何ごとか余に望まなければならぬぞよ。」すると彼女は言いました、「御主君の御命令とあらば、お願い申し上げましょう。妾を自由の身となし、全財産として、このお部屋の家具類とこのお部屋にある全部の品を賜わりますように。」すると教王《カリフ》はこれに仰しゃいました、「そちはこれらのものの主人であるぞ、おお真珠華よ。して姉の巴旦杏の捏物は今後、王宮の最も美しい別棟を、自室とするであろう。またそちは自由の身となったるゆえ、ここに止まっても外に出て行っても苦しゅうない。」そして教王《カリフ》は立ち上がって、この寵姫の許を出て行かれ、その時の寵姫の若いベンガに会いに行かれました。
ところで、教王《カリフ》がお立ちになるとすぐに、わが友は宦官をやって、人足と運送屋を呼び、この部屋の家具類全部と、反物、長持、絨緞を、拙宅に運ばせました。そして私の潜んでいた長持は、一番に人足の背に乗せられて外に出、恙なく――「安泰」のお蔭で――わが家に到着しました。
その同じ日、おお信徒の長《おさ》よ、私はアッラーの御前で、法官《カーデイ》と証人たち立会いの下に、真珠華と結婚いたしました。爾余のことは回教信仰の神秘でございまする。
そして以上が、おおわが殿、君の赫々たる御祖父、教王《カリフ》アル・ムタワッキル・アラッラーの御名《ぎよめい》を記されたこれらの家具、反物、衣類の由来でございます。そして――私はわが首《こうべ》にかけて誓いまするが、――この物語には、一言半句も加えず、また一言半句も減じはいたしませんでした。信徒の長《おさ》こそは、一切の寛仁の泉であり、一切の恩恵の鉱脈にましまする。
このように語り終えて、アブール・ハサンは口をつぐみました。すると教王《カリフ》アル・ムータディド・ビルラーはお叫びになりました、「その方の舌は雄弁を分泌いたした、おおわれらの主人よ、してその方の物語は絶妙なる物語ではある。されば、余の覚えた悦びをその方に示すため、どうか一本の蘆筆《カラーム》と一葉の紙を与えてもらいたい。」そこでアブール・ハサンが蘆筆《カラーム》と紙を持ってまいりますと、教王《カリフ》はそれを話し家イブン・ハムドゥンに渡して、これに仰しゃいました、「わが口授《くじゆ》の下に記《しる》せよ。」そしてこう口授なさいました、「慈悲深く慈愛遍きアッラーの御名《みな》において。われらの手もて署名し、われらの印璽もて封印せられしこの勅許により、われらの忠良なる臣アブール・ハサン・アリ・ベン・アフマード・アル・ホーラサーニに、全生涯に亘り、租税を免除す。かつこれをわれらの侍従長に任ずるものなり。」そしてこの勅許に封印をした上で、これを彼にお渡しになって、言い添えなさいました、「して余はその方をわが忠実なる陪食者としわが友として、王宮にて会いたく思うぞよ。」
そしてその時から、アブール・ハサンは教王《カリフ》アル・ムータディド・ビルラーの切っても切れぬお相手となりました。そして、この上なく立派な宮殿に住む方々をさえも、墳墓に住まわせる避け得ざる別離まで、御一同すべて歓楽の裡にお暮しになりました。あらゆる水準の上にある宮殿に住みたまう至高者に栄光あれ。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、このようにその物語を語り終ると、帝王《スルターン》マハムードの二つの生涯の物語[#「帝王《スルターン》マハムードの二つの生涯の物語」はゴシック体]を語り出さずに、この夜をやり過ごすことは望まなかった。
[#改ページ]
帝王《スルターン》マハムードの二つの生涯(1)
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
わたくしの聞き及びましたところでは、おお幸多き王様、エジプトの帝王《スルターン》のなかで最も英明、最も赫々たるお方の一人であられた帝王《スルターン》マハムードは、しばしば故知れぬ悲しみの発作に悩まされて、王宮のなかでただ独り坐っていらっしゃることがあり、その間は、全世界がお顔の前でまっ暗になるのでございました。そういう折には、人生はまことに味気なく、あらゆる意味を失って見えなさるのでした。と申しても、帝には、被造者の幸福を成す事柄が何ひとつ欠けているわけではございません。なぜなら、アッラーは健康も、若さも、権勢も、栄誉も、惜しみなく授けたまい、帝国の首府としては、世界随一の快よい町を授けたもうて、帝の御魂《おんたましい》と官能を楽しませるために、地の美しさと、空の美しさと、ナイル河の水のように金色に輝やく女たちの美しさとの眺めを、お持ちになっていらっしたのですから。けれどもこうしたすべても、その王者の悲しみの間は、御目《おんめ》に映らなくなり、そうなると田畑に身を曲げている百姓《フエラーハ》の境遇や、水なき沙漠に没している流浪の民の境遇を、お羨やみになるのでございました。
ところで或る日、夢想の闇に御眼を溺らせ、常よりもひときわ甚しい銷沈に陥りなされ、食べることも、飲むことも、政務に携わることもお拒みになり、もう死のほかにお望みにならない有様でいらっしゃると、そこに総理|大臣《ワジール》が、お頭《つむ》を両手に抱えて横になっていらっしゃるお部屋にはいってまいり、敬意を表し奉ってから、申し上げました、「おおわが至上の御主君よ、ただ今門前に、極西の国から、遠きマグリブ地方の奥から出て来た、一人の老翁《シヤイクー》がまいって、拝謁を願っておりまする。そして彼と話を交わし、その口から聞いたいくつかの言葉によってこれを判断しなければならぬといたしますれば、これこそはいささかの疑いもなく、かつて人間の間に生きた最も非凡な学者、最も並外れた名医、最も驚くべき魔術師でございます。それで、わが君が御悲しみと御銷沈に悩まされていらっしゃることを承知仕りますゆえに、この老翁《シヤイクー》を近づけることによって、われらの大王の御眼にのしかかる想念を追い払う一助ともなればと存じ、これに引見をお許し下されたい次第でござりまする。」すると帝王《スルターン》マハムードは、頷きなさったので、すぐに総理|大臣《ワジール》はその異国の老翁《シヤイクー》を玉座の間《ま》に通しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十夜になると[#「けれども第八百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
たしかに、はいってまいった男は、被造物のなかの一人の生きた被造物というよりは、むしろ人間の影でございました。そしてもしこれに年齢が与えられ得るとしたならば、数百歳を数えなければならなかったでしょう。衣服といえば、驚くばかりの鬚がその厳かな裸身の上に漂っているだけで、一方柔かな皮の太い帯が、黄ばんで皺のよった老いたる腰のまわりに結ばれて一線を引いておりました。もしも面上に、恐ろしい眉毛の下に、叡智の宿る両眼が爛々と燃えていなかったならば、これはエジプトの農夫が時として花崗岩質の墓所から掘り出すものに似た、何か非常に古い屍体と、見誤まられたことでもありましょう。
その全くの老人《シヤイクー》は、帝王《スルターン》の前で頭を下げることもなく、この世の声らしいところはすこしもない陰にこもった声で、申しました、「御身の上に平安あれ、帝王《スルターン》マハムードよ。わしはわが兄弟たち、極西の行者《サントン》たちから、君の御許へと派遣されました。わしは君の頭上の報酬者の御恩恵を、君に御自覚させて進ぜるため、推参仕った。」
そして身振りひとつしないで、重々しい足どりで王のほうに進み寄り、王のお手をとって無理に立ち上がらせ、玉座の間《ま》の窓のひとつまで、王をお連れしました。
ところでこの玉座の間には四つの窓があり、その窓の各々が天文学上の一点の線上にありました。そして老翁《シヤイクー》は帝王《スルターン》に申しました、「窓を開けなされ。」すると帝王《スルターン》は子供のように言われるままに、第一の窓を明けました。すると老翁《シヤイクー》はただ一言申しました、「御覧あれ。」
帝王《スルターン》マハムードは窓から頭をお出しになりますと、騎馬の大軍が、抜身の剣を携えて、マカッタム丘の砦の上のほうから、まっしぐらに殺到してくるのを見なさいました。そしてこの大軍の最初の縦隊は既に王宮の下まで達し、地上に下りて、戦《いくさ》と死の雄叫《おたけ》びをあげながら、王宮の城壁を攀じ登りはじめていました。帝王《スルターン》はこれを見て、配下の軍隊が反乱を起して、自分の王位を奪いに来たことを、さとりなさいました。そこでさっと顔色を変えて、叫びなさいました、「アッラーのほかに神はなし。今やわが命運の秋《とき》であるわい。」
すぐに老翁《シヤイクー》は再び窓を閉めましたが、一瞬後には自分で再びそれを開けました。すると全軍は消え失せていました。そしてただ砦だけが、その光塔《マナーラ》をもって真昼の空に穴を穿ちつつ、遠方に平穏に聳えておりました。
すると老翁《シヤイクー》は、王に深刻な激動から立ち直る暇《いとま》もあらせず、広大な都を見下ろす第二の窓にお連れして、申しました、「窓を開けて、御覧あれ。」帝王《スルターン》マハムードはその窓を開けると、御眼《おんめ》に映った光景は、慄然として後ずさりさせるものがありました。立ち並ぶ回教寺院《マスジツト》の上に聳《そそ》り立つ四百の光塔《マナーラ》、回教寺院《マスジツト》の円屋根、宮殿の円蓋、地平の果まで幾千と重畳する露台、これらはもはや煙をあげて燃えあがる一塊の燠火《おきび》にすぎず、そこから、太陽の目を失明させるばかりの黒雲が、恐怖の轟きをあげて、中空のほうに砕け散っております。荒々しい風が焔と灰をこの王宮のほうに吹き送り、王宮はやがて火の海に包まれて、もはや僅かに御苑の涼やかな緑地帯に隔てられているばかりです。帝王《スルターン》はわが美しい都が壊滅したのを見る苦痛の極に達しなされ、両腕を垂れて、叫びなさいました、「ひとりアッラーのみ偉大にまします。もろもろの事物にも一切の被造物と同様に、それぞれ己が命運がある。明日は、全地の間でその名高かったこの地の一角も野となり、沙漠がこの名もなき野を渡って沙漠に相連なることであろう。唯一の生者に栄光あれ。」そして王はわが都のためとわが身のために涙を流しなさいました。けれども老翁《シヤイクー》はすぐに再び窓を閉め、一瞬後に再び開けました。すると一切の火災の跡は消え失せておりました。そしてカイロの町は、その果樹園と椰子の木々の真中に、栄耀を損なわれることなく拡がっており、告時僧《ムアズイン》の四百の声が、信徒に礼拝の時刻を告げ、一つに相混じて宇宙の御主《おんあるじ》の方へと立ち昇って行くのでありました。
すると老翁《シヤイクー》はすぐさま王を伴なって、ナイル河に臨む第三の窓へと御案内し、王に窓を開けさせました。すると帝王《スルターン》マハムードは、河が氾濫し、波は都を襲ってやがて最も高い露台をも越え、王宮の城壁に押しよせてすさまじい勢いでぶつかっているのを御覧になりました。そのうち前の波よりひときわ強い巨波が、行く手のあらゆる障害を一挙に押し潰し、王宮の階下に流れ入りました。そして建物は、水中の一片の砂糖のように溶けつつ一角が沈下し、波にほとんど崩壊するばかりになると、そのとき老翁《シヤイクー》は突如窓を閉め、そして再び開けました。するとおよそ氾濫などはあたかもなかったかのようでした。美しい大河は昔ながらに、河床に眠りつつ、際涯のない馬肥しの野の間を、悠然と流れ続けているのでした。
すると老翁《シヤイクー》は王に、驚愕から我に返る暇《いとま》もあらせず、第四の窓を開けさせました。ところでこの第四の窓は、流水と幸福な家畜の群に満ちあふれつつ、都の城門から見渡す限り拡がっている、あの見事な緑滴たる平原を見晴らしておりました。ウマル(2)以来あらゆる詩人に歌われた平原、薔薇と羅勒《めぼうき》と水仙と素馨のいくつもの地域が、オレンジの木立と交錯して連なり、木々には愛の愁訴のため失神した雉鳩と鶯が住み、地は「円柱のイラム」の古えの庭園の中と同じくらい肥沃で飾り粧われ、楽園の芝生《アドン》と同じくらい馨わしい平原でございます。ところが草原と果樹の林の代りに、帝王《スルターン》マハムードの御覧になったのは、もはや苛烈な太陽に焼かれる赤と白の恐ろしい沙漠、ハイエナと金狼《きんろう》の避難所となり、蛇と害獣の競走場となっている、石と砂だらけの沙漠ばかりでした。しかしこの陰惨な幻《まぼろし》も前の幻と同様、老翁《シヤイクー》が自らの手で窓を閉め再び開けたときには、程なく消え去ってしまいました。そして再び、平原は壮麗に復し、その庭園のすべての花を挙げて、空にほほ笑みかけておりました。
こうした次第でございまして、帝王《スルターン》マハムードは御自分が眠っているのか、覚めているのか、それとも何か妖術とか幻覚などに弄ばれているのか、おわかりになりませんでした。
けれども老翁《シヤイクー》は、王にただ今感じなさったすべての激しい感銘を鎮める間もなく、再び御手をひいてお連れ申せば、王はほんの僅かの抵抗を示そうとお思いにすらならないでそのまま、この広間を水のざわめきで涼やかにしている、小さな泉水のほとりに行きました。すると老翁《シヤイクー》は申しました、「泉水の上に身をかがめて、御覧なされ。」帝王《スルターン》マハムードは泉水の上に身をかがめて、御覧になろうとすると、その時、老翁《シヤイクー》は突然手を伸ばして、王のお頭《つむ》を水中にすっぽりと沈めてしまいました。
すると帝王《スルターン》マハムードは、海上に聳えたと或る山の麓に、難破に会って辿りついている御自分を見ました。そして未だ栄耀の時代のように、頭上に王冠を頂き、王の装束《しようぞく》をまとっていらっしゃいました。そこから程遠からぬ所には、百姓《フエラーハ》共が王を何か新奇な代物《しろもの》のように眺めて、大笑いしながら、お互い同士、王を指していろいろ合図をし合っておりました。帝王《スルターン》マハムードはこれを見られて、百姓《フエラーハ》共に対してよりもこの老翁《シヤイクー》に対して、大へんに激怒なさり、お叫びになりました、「ああ、わが難破の因《もと》たるこの呪われた魔術師めが。願わくはアッラーは余をわが所領に返したまい、汝をその罪に応じて罰するを得るように。何ゆえ余をかくも卑劣に裏切ったるか。して余はこの異国にあっていかに相成ることか。」次に思い直して、百姓《フエラーハ》共に近づき、厳かな口調で彼らに申されました、「余は帝王《スルターン》マハムードであるぞ。退《さが》りおれ。」けれども彼らは、口を耳まで開いて笑いつづけます。まあ、何という口でしょう、洞穴《ほらあな》です、洞穴です。そこで生きながらそこに呑みこまれてしまうのを避けようと、帝は御自身のほうが逃げ去ろうとなさいますと、そのとき百姓《フエラーハ》の親分と覚しき男が、帝に近づいて、その王冠はじめ装束を取り去って、海中に投げ入れつつ、言いました、「おお憐れな男よ、なぜこんながらくたをいろいろ身に着けているのだ。そんなものを着込んでいたら暑くてたまらんぞ。さあ、おお憐れな男よ、ここに俺たちと同じような着物があるわい。」そしてその男は帝を裸にして、青い木綿の衣服を着せ、河馬の革底の黄色い古靴《バーブジ》一足を両足にはかせ、椋鳥色のフェルトのごく小さな帽子を被らせました。そして帝に言いました、「さあ、おお憐れな男よ、お前はここで飢え死したくないなら、俺たちと一緒に働きに来い。ここじゃ誰でも働いているんだ。」けれども帝王《スルターン》は仰しゃいました、「余は働くすべを知らぬ。」すると相手の百姓《フエラーハ》は言いました、「それなら、お前は人足と驢馬の役目をかけもちで勤めろ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十一夜になると[#「けれども第八百二十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼らはちょうどもう一日の仕事を終ったところでしたので、自分たちの背でなく別人の背に、重たい農具を負わせることを大そう喜びました。帝王《スルターン》マハムードは、鍬《くわ》や耙《まぐわ》や鶴嘴《つるはし》や熊手の重荷の下に御身を曲げて、ほとんど足を曳きずることも叶わないながら、余儀なく、百姓《フエラーハ》共の後についていらっしゃいました。そして彼らと共に、疲れ切ってほとんど息もつけないほどの有様で、村にお着きになりましたが、そこでは小さな悪童たちに後を追われ、皆素裸で、散々に侮辱を浴びせかけながら、後から駈けてくるのでした。そして夜を過ごすためには、見棄てられた家畜小屋に押しこめられて、黴びたパン一片と玉葱一個を、食事として投げ与えられました。そして翌日になると、帝は本当に驢馬になってしまいました、ちゃんと尻尾も、蹄《ひづめ》も、耳もある驢馬です。そして首には綱をかけ、背には荷鞍を置き、畑で鋤《すき》を曳かせに連れて行かれました。ところが、この驢馬は言うことをきかなかったので、人々はこれを村の粉挽き屋に頼みに行きますと、粉挽き屋は驢馬に目隠しをした上で、水車小屋の挽き臼を廻させて、間もなくちゃんと道理に服させるように致しました。そして五年というもの、水車小屋の挽き臼を廻しましたが、休むのはただ空豆の飼料を食い、一桶の水を飲むその時間だけでした。棒で打たれ、突き棒で突かれ、辱しめの悪口雑言と困苦窮乏の五年でした。そして残された慰めと気休めといえば、挽き臼を廻しながら、悪口雑言に対する返事として、朝から晩まで放つぶっつづけの放屁《おなら》しかない有様でございました。ところが、そのとき突然水車小屋が崩れてしまって、帝は再び最初の人間の姿となり、もはや驢馬ではなくなっていました。そこで、どこか知らない町のあちこちの市場《スーク》を歩き廻っておりましたが、どこに行ったものかよくわからない有様でした。そしてもう歩き疲れていたので、どこか休む場所を目で探しておりますと、そのとき一人の年とった商人が、その様子から異国の人であることを察して、自分の店にはいるように、鄭重に勧めてくれました。商人はこの異国の人が疲れているのを見て、腰掛けに坐らせ、そしてこれに言いました、「おお異国の方よ、あなたはお若いから、われわれの町では不仕合せになることはござるまい。ここでは若い人たちは、ことにあなたのように屈強な元気者であれば、大へん大切にされ、引張り凧ですからな。さればあなたはわれわれの町にお住みになる気かどうか承わりたい。この町の風習は、ここに住みつこうとなさる異国の人々には、大そう都合がよろしいですよ。」すると帝王《スルターン》マハムードは答えました、「アッラーにかけて、ここに住まわせてもらえば願ったり叶ったりです、ここで空豆以外の食べ物にありつけることができさえすればね。私は五年間というもの空豆ばかり食べさせられていました。」すると年とった商人は言いました、「空豆とはまたどうしてそんなことを仰しゃるのか、おお憐れな方よ。ここではあなたは、果さなければならぬ仕事のために、おいしい精のつく物を食べさせられますよ。それでは、わしの言うことをよっく聞いて、忠告をしてあげるからそれに従いなされ。」そして付け加えました、「この足でいそいで町の公衆浴場《ハンマーム》の戸口に張りに行きなされ、あそこに、この通りの曲り角にあるから。そして出てくる女一人一人に近づいて、夫があるかどうかお尋ねなさい。夫がないと答える女は、この国の風習に従って、即座にあなたの妻になるのです。わけてもよく気をつけて、浴場《ハンマーム》から出てくる女を見たら、全部一人の例外もなく、この問をかけるのを忘れないように。さもないとあなたは、われわれの町を追われる危険が多分にありますわい。」そこで帝王《スルターン》マハムードは公衆浴場《ハンマーム》の戸口に張りに行きまして、そして永く待たないうちに、すばらしい十三歳の少女が出てくるのを見ました。これを見て、帝は考えました、「アッラーにかけて、この娘とならば、わが一切の不幸も十分慰められよう。」そこでその少女を呼びとめて、聞きました、「おおわが御主人様、あなたは結婚しておいでですか、それとも独身でいらっしゃいますか。」相手は答えました、「去年から結婚しています。」そして自分の道を続けました。するとこんどは恐ろしく醜い老婆が、公衆浴場《ハンマーム》から出て来ました。帝王《スルターン》マハムードはこれを見て慄然《ぞつ》として、思いました、「たしかに、この老いぼれの古物を妻とするくらいなら、むしろ餓死したり、再び驢馬なり人足なりになるほうがましじゃ。しかしあの老商人は全部の女に問をかけよと言った以上、決心してこの災厄《わざわい》の女にも尋ねてみなければなるまい。」そしてその女に近づいて、頭をそむけながら、聞きました、「あなたは結婚しておいでか、それとも独身でいらっしゃるか。」すると恐ろしい老婆は、涎を垂らしながら答えました、「私ゃ結婚しているよ、おおわが心や。」ああ、何とほっとしたことか。帝は言いました、「それは大へん結構なことで、おおわが小母さんよ。」そして思いました、「アッラーは余よりも前にここに来た不幸な異国の者に、御慈悲を垂れたまわんことを。」そしてその老婆は自分の道を続けましたが、すると今度は公衆浴場《ハンマーム》から、今の奴よりももっと胸の悪くなるような、もっと凄まじい古物が出てまいりました。帝王《スルターン》マハムードは身震いしながらこれに近よって、尋ねました、「あなたは結婚しておいでか、それとも独身ですか。」すると相手は手鼻をかみながら、答えました、「独身じゃよ、おおわが眼や。」帝王《スルターン》マハムードは叫びました、「これは、これは、私は驢馬ですよ、おおわが小母さん、驢馬なんです。私の耳を、尻尾を、陰茎《ゼブ》を見て下さい。これは驢馬の耳や尻尾や陰茎《ゼブ》ですよ。驢馬なんぞと結婚する人はありはしませんよ。」けれども凄まじい老婆は帝に近づいてきて、接吻しようとしました。帝王《スルターン》マハムードは嫌らしさと恐ろしさの極に達して、叫び出しました、「これは、これは、私は驢馬ですよ、やあ、御婦人《シート》よ、驢馬なんです。後生だから、私と結婚などしないで下さい。私は憐れな水車小屋の驢馬なんですから、これは、これは。」そして超人的な力を振って自分を制しつつ、帝は頭を泉水の外に出しました。
すると帝王《スルターン》マハムードは自分がわが王宮の玉座の間のただ中にいて、右手に総理|大臣《ワジール》、左手に異国の老翁《シヤイクー》がいるのを見ました。そしてわが前には、寵姫の一人が、老翁《シヤイクー》のはいるちょっと前に所望した氷菓《シヤーベツト》の杯を、金の盆にのせて、捧げているのでした。これは、これは、自分はやっぱり帝王《スルターン》なのだ、やっぱり帝王《スルターン》なのです。そしてあの痛ましい出来事はすべて、お頭《つむ》を泉水の中に突っこんで再び引き出す間しか、続かなかった次第でした。帝はこんな不可思議を信ずることはおできにならなかった。そして御自分の体に触ってみたり、眼をこすってみたりなさりながら、身のまわりを眺めはじめなさいました。これは、これは、御自分はまさしく帝王《スルターン》であり、帝王《スルターン》マハムードであられた。そして憐れな難破者でもなければ、人足でもなく、水車小屋の驢馬でもなければ、恐るべき古物の夫でもありませんでした。まあ、アッラーにかけて、こうしたひどい目にあった後で、再び帝王《スルターン》のわが身を見出すことは、何と快よいことでしたろう。そこでお口を開いてこのように不思議な珍事の説明を求めようとなさると、そのとき、かの全くの老人の陰にこもった声があがって、帝に申しました。
「帝王《スルターン》マハムードよ、わしは極西のわが兄弟の行者《サントン》たちから派遣せられて、君の頭上の報酬者の御恩恵を、君に御自覚させて進ぜるため、君の御許へ推参仕ったのですぞ。」
かく語って、マグリブの老翁《シヤイクー》は姿を消しましたが、戸口から出たのか、それとも窓から飛び立ったのか、誰も知りませんでした。
さて帝王《スルターン》マハムードは、お心の激動が鎮まると、主の御戒めを悟りました。御自分の生涯は楽しいけれども、御自分は人間のうち最も不幸な者ともなり得たことを、悟りなさいました。そしてあの老人の威圧的な視線の下で御自分の垣間見たあらゆる不幸は、もし命運が望んだならば、わが生涯の現実の不幸でもあり得たことを悟りなさいました。そして帝は涙に暮れて跪きなさいました。爾来、帝はお心から一切の悲哀を追い払ってしまわれました。そして幸福裡に生きて、御身の周囲に幸福を撒きひろげなさったのでありました。これが帝王《スルターン》マハムードの現実の御生涯であり、またこれが単なる命運の一転によって、帝の送りかねなかった御生涯でございました。何となれば、アッラーこそは全能の御主《おんあるじ》にましますれば。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、この物語をこのように語り終えると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は叫んだ、「余にとって何たる教訓であろう、おおシャハラザードよ。」大臣《ワジール》の娘は微笑して、そして言った、「けれどもこの教訓も、おお王様、底なしの宝庫[#「底なしの宝庫」はゴシック体]のそれに比べますれば、何ものでもございません。」するとシャハリヤールは言った、「余はその宝庫を知らぬぞよ、シャハラザードよ。」
[#改ページ]
底なしの宝庫(1)
[#この行1字下げ] するとシャハラザードは言った。
おお幸多き王様、おお雅《みや》びやかの挙措を授けられし君よ、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、当代随一の寛仁鷹揚な君公であられましたのに、時として、お話しの際に、およそ生者の間には寛仁と掌《たなごころ》の広さにかけては、何ぴとも御自分に比肩するものはないとお洩らしになる欠点をお持ちでございました、――ひとりアッラーのみ欠点がおありになりません。
さて或る日のこと、やはり教王《カリフ》がこうして、要するに、まさしく寛仁な心をもってそれを用いなさらんがためにのみ、報酬者の授けたもうた天賦の美質を、ついうかうかと自讃なさった折、大|宰相《ワジール》ジャアファルは、その洗煉された魂の中で、御主君がこれ以上永い間、アッラーに対する謙遜の義務に背きつづけなさることを好まなかったのでございました。それで面《おもて》を犯して、御眼《おんめ》を開いてさしあげようと決心いたしました。そこで御手の間に平伏して、三たび床《ゆか》に接吻してから、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》、おおわれらの頭上の冠よ、君の奴隷が御前にて敢えて声を高めて、信徒たる者の主要なる徳は、アッラーの御前《みまえ》での謙遜であり、それこそおよそ被造物の誇り得る唯一のものである旨、言上いたしましても、何とぞお許し下さりまするよう。それと申すは、地上のあらゆる財と、精神のあらゆる天賦と、魂のあらゆる美質は、人間にとっては、至高者から、――その称えられんことを。――単に拝借した物にすぎませぬゆえ。そして人間はこの拝借物を自慢すべきでなきことは、木が果実をつけることを、或いは海が空から水を受けることを、自慢できないのと同様でございまする。君の物惜しみなさらぬ御気性の当然受くべき讃辞につきましては、これをむしろ臣下におまかせ遊ばしませ。臣下はいずれも、自分を君の御領国に生まれさせてくれたことを絶えず天に感謝し、君の御名をありがたく口にする以外に他の悦びを持たぬ有様でございますれば。」次に付け加えて申しました、「かつ、おおわが君、アッラーがその測り知れぬ天与の数々を賜うたのは、わが君|御一方《おんひとかた》ばかりとは心得たもうなかれ。事実、バスラの町には、一介の市民とは申せ、最も強大な王者たちにもまして、豪奢と鷹揚振りをもって暮しておる一人の若者がいることを、御承知あれ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十二夜になると[#「けれども第八百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「その名をアブールカセムと申し、世界のいかなる王侯も、そこに信徒の長《おさ》御自身をも含めて、何ぴとも掌《たなごころ》の広さと寛仁の点で、これに比肩する者はござりませぬ。」
教王《カリフ》はわが宰相《ワジール》のこの最後の言葉を聞きなさると、この上なく口惜しく覚えなされ、両眼を燃え立たせ、顔色紅潮なさいました。そして傲然とジャアファルを見やりながら、これに仰しゃいました、「汝に禍いあれ、おお大臣《ワジール》の中の犬め、何として汝の主君の前をも憚らず嘘を申すか、かかる振舞いは、救いの道なく汝の死を来らすことを打忘れて。」するとジャアファルは答えました、「御首《おんこうべ》の御命《おんいのち》にかけて、おお信徒の長《おさ》よ、御前《おんまえ》にてわが敢えて申し出でましたる言葉は、真実の言葉にござりまする。もし私が御心中にて一切の信用を失ってしまったとあらば、これをお取り調べさせなされて、その上で、もしわが言葉に偽りありと思し召さるれば、その節は私をお罰し下されて結構でございまする。私と致しましては、おおわが御主君、私は臆せず断言申し上げまするが、先にバスラに旅した際、その若者アブールカセムの眩惑された客となったのでございます。わが眼はその見たところを、わが耳はその聞いたところを、わが心はこれを魅したところを、いまだ忘れませぬ。それゆえにこそ、御主君の御不興を身に招くおそれを冒してまで、私はアブールカセムこそ当代随一の天晴れな人物と、公言いたさずにはおられないのでございまする。」
ジャアファルはかく語って、口をつぐみました。すると教王《カリフ》は憤怒の極に達して、警吏の長《おさ》にジャアファルを逮捕するよう合図をなさいました。その命令は直ちに実行されました。それが済むと、アル・ラシードは広間をお出ましになって、お怒りのやり場にお困りになり、お妃の妃《シート》ゾバイダのお部屋へいらっしゃると、お妃はその黒い日々のお顔を拝して、恐ろしさに蒼白となられました。
アル・ラシードは、眉をひきつらせ、眼を見開いて、一語も発せず、長椅子《デイワーン》の上へ横になりにいらっしゃいました。ゾバイダ妃は、御機嫌斜めの折はどのようにお迎えすべきか心得ていらっしゃったので、余計なことをお尋ねしておうるさがらせ申すことは、かたくお慎しみになりました。そしていかにもこの上なく心配そうな御様子をなすって、薔薇の香りの水を満たした杯をお持ちして、これを捧げながら、申されました、「御身の上にアッラーの御名《みな》あれ、おお伯父君の御令息よ。何とぞこの飲み物がお気持を爽やかにし、鎮めてくれますように。人生は白と黒の二色より成ります。どうか白色のみが君の長き日々を色づけまするように。」するとアル・ラシードは仰しゃいました、「われらの祖先、光栄ある方々の御功績にかけて、わが生を色づくるは黒色であろうぞ、おお伯父の娘よ、わが眼前にバルマク家の息、かの呪わしきジャアファル奴《め》を見る限りはな。きゃつはよい気になってわが言葉に文句をつけ、わが行動をとやかく申し、余をさしおいて、わが臣下の中の名も知れぬ市民どものほうが好ましいなど申しおるのじゃ。」そして今起ったことをお妃に知らせ、宰相《ワジール》への不平をお洩らしになりましたが、そのお言葉遣いから、ジャアファルの首はこのたびは最大の危険に瀕していることが、お妃におわかりになりました。そこでお妃はまず、宰相《ワジール》がいやしくも主君に対しかかる出すぎたことをあえてするのを見るは不届きと、御憤慨の念をお述べになって、全く同意見である旨申し上げずにはおきませんでした。次に大そう言葉巧みに、誰か人をバスラに遣わして事の真相を確かめるその期間だけ、所罰をお延ばしになったほうがよろしかろうとお諌め申しました。そして言い添えなさって、「その節には、ジャアファルのお話し申し上げたことの真偽をお確かめになることができ、それに従って御処分なさることがおできになりましょう。」するとハールーンはお妃の思慮溢れるお言葉ですでに半ばお気持が鎮まって、お答えになりました、「そのとおりじゃ、おおゾバイダよ。いかにも、余はわが下僕《しもべ》ヤハヤーの子息のごとき人間にも、かかる公正を尽さねばならぬ。のみならず、余はバスラに遣わす者の齎らす報告には十分の信を置きかねるゆえ、自身その町に赴いて、事を調べたい。そして自からそのアブールカセムとやらに接してみよう。かくてもしジャアファルがその若者の寛仁を余に誇張して申したとか、余に嘘をついたとあらば、きゃつは首を失うであろうと、余は誓言いたすぞ。」
そしてその企てを実行することをこれ以上遅らせなさらず、ハールーンは即刻即坐に立ち上がりなさり、ゾバイダ妃がこの旅をただお独りでなさらぬようお勧めして仰しゃることなど聞こうともなさらず、イラクの商人に身を窶しなさって、お妃にお留守中国事万端を見るようお申し付けになり、忍びの門から王宮を抜けて、バグダードをお去りになったのでした。
アッラーは安泰を記《しる》したまい、教王《カリフ》は恙なくバスラに着かれ、商人の大|隊商宿《カーン》に投宿なさいました。そして宿で、休息し一口召し上がる時間すら惜しんで、その前にまず急いで隊商宿《カーン》の門番にお心にかかることを問いただすことにして、挨拶《サラーム》の辞を述べてからすぐ、お尋ねになりました、「おお御老人《シヤイクー》、この町にアブールカセムという若者がいて、この人は寛仁と掌の広さと鷹揚の点では、王様方をも凌ぐというが、これは本当でござるか。」すると年とった門番は、確信に満ちた様子で頷《うなず》きながら、答えました、「アッラーはあの方の上に御祝福を下したまいますように。あの方の寛仁なお気持の感銘を受けなかった人がおりましょうか。わしとしては、やあ旦那《シデイ》よ、わしの顔に百の口があり、その一つ一つに百の舌があり、その一つ一つの舌に雄弁の宝庫があろうとも、アブールカセム殿の御立派な寛仁振りを、然るべくお話し申すことなどできないでありましょうな。」次に、他の旅人たちが荷物を持って到着したもので、隊商宿《カーン》の門番はそれ以上詳しく話す暇がございませんでした。それでハールーンはやむを得ず遠ざかって、その夜は元気を回復して多少の休息をなさるため、部屋にお上がりになりました。
けれども翌日は早朝に、隊商宿《カーン》をお出になって、あちこちの市場《スーク》を散歩なさりにいらっしゃいました。そして商人たちが店を開けると、商人のうち一番有力らしく見える一人に近づいて、アブールカセムの住居に行く道を教えてもらいたいとお頼みになりました。するとその商人は大そう驚いて、申しました、「アブールカセム殿のお住居を御存じないとは、どこの遠国からお出でになったのかな。あの方は当地では、かつてどんな王様が御自身の領国のただ中で人に知られていたよりも、もっとよく知られておられるのじゃ。」ハールーンは、事実大そう遠いところから着いたには相違ないが、しかし自分の旅の目的は、まさにアブールカセム殿と知り合いになることにあるのだと、申されました。するとその商人は小僧の一人に御案内するようにと命じて、言いました、「この敬うべき異国の方を、我らの天晴れな殿の御殿にお連れしなさい。」
さてその御殿はまことに見事な御殿でありました。それは全体が模様のついた大理石の石材で建てられ、緑色の硬玉の扉がついておりました。ハールーンはその建築の調和のとれた姿に驚嘆なさいました。そして庭にはいると、優雅な服装をした白人黒人の若い奴隷が大勢、主人の命令を待ちながら、遊び興じているのを御覧になりました。そこでその一人に近づいて、仰しゃいました、「おお若者よ、どうかアブールカセム殿にこう通じていただきたい。おおわが御主人様、今お庭に一人の異国の者が来て、あなたの祝福されたお顔に接して眼を楽しませたいばかりの目的で、バグダードからバスラまで旅をして来たと申します、と。」するとその若い奴隷はすぐに、自分に言葉をかけた人の言葉と様子で、これは常人ではないと判断しました。そして主人に知らせに走りますと、主人は庭まで、異国の客を迎えに出てまいりました。そして歓迎の挨拶《サラーム》と辞令の後、主人は客の手をとって広間に案内しましたが、その広間はそれ自身の美しさとその完全な建築とで美しい部屋でございました。
広間のぐるりに巡らされた金の刺繍のしてある絹のゆったりした長椅子《デイワーン》に、主客が坐るやすぐに、十二人の大そう美貌の白人奴隷《ママリク》が、瑪瑙と水晶の器《うつわ》を持ってはいってくるのが見られました。そしてその器は宝石と紅玉《ルビー》で飾られ、結構な飲物に満たされております。次に、十二人の月のような若い娘がはいって来て、或る娘は果実と花を盛った瀬戸物の鉢を、他の娘はすぐれた味の削り雪を入れた氷菓《シヤーベツト》を盛った大きな金杯を、運んでまいりました。そしてこれらの若い奴隷と若い娘は、飲物や氷菓《シヤーベツト》やその他の茶菓を、御主人の賓客に供する前に、まずその毒見をいたしました。ハールーンはこのさまざまの飲物を召し上がってみましたが、全東洋の一番美味なものに慣れていらっしゃったにも拘わらず、これに比べられるようなものはかつてお飲みになったことがないと、お認めになったのでございました。
それがすむと、アブールカセムは会食者を第二の広間にお通ししましたが、そこには何枚もの金無垢の皿に盛った、この上なく味のすぐれた料理を一杯に並べた一台の食卓が、用意されていました。そして主人は手ずから選り抜きのところを取って勧めました。ハールーンは、これらの料理の調味の仕方は格別のものとお思いになりました。
次に食事がすむと、その若者はハールーンのお手をとって、前の二室よりもさらに豪奢な家具を置いた第三の広間に案内しました。そして前よりももっと美しい奴隷たちが、宝石を象眼して、あらゆる種類の葡萄酒を満した、驚くばかり多数の黄金の壺を、砂糖煮の乾果を盛り上げた瀬戸物の大きな碗と、味よろしい捏粉菓子を山盛りにした大盆と一緒に、運んでまいりました。そしてアブールカセムが会食者にこれらを勧めている間に、歌姫と女楽師たちがはいって来て、御影石をも感じ入らせるばかりの合奏を始めました。ハールーンは恍惚の極に達して、独語なされました、「たしかに、わが王宮にも、見事な声をした歌姫たちがおり、芸道の技術については何一つ知らぬことのないイスハークのごとき歌手たちさえもいるが、ここの歌姫たちと比較に耐えるなどと称し得るものは、誰もいまい。アッラーにかけて、そもそもいかにして、一介の市民、バスラの一住民の身で、完全な事物ばかりをこのように選りすぐって、寄せ集めることができたのであろうか。」
そしてハールーンが一人の舞妓の声にとりわけ注意をひかれ、その甘美さに魅されていらっしゃる間に、アブールカセムはその広間を出て、やがてすぐ戻って来ましたが、片方の手には一本の琥珀の棒を、片方の手には茎が銀、枝と葉は翠玉《エメラルド》、果実は紅玉《ルビー》の小さな木を一本携えておりました。その木の梢には、それを作った人の名誉となるような美しさの、黄金の孔雀がとまっております。アブールカセムはその木を教王《カリフ》の足許に置いてから、その棒で孔雀の頭を叩きました。するとすぐに美しい鳥は両の翼を張り、その尾の華麗を拡げ、早い速度でくるくる廻り出しました。廻るにつれて、鳥に詰めてあった竜涎香と甘松香と伽羅の精、その他の香りが、四方に薄っすらと噴き出し、広間全体を馨らせたのでございます。
ところが突然、ハールーンが一心にその木と孔雀を見つめ、驚嘆していらっしゃる間に、アブールカセムはいきなり木も鳥も手に取って、持ち去ってしまいました。ハールーンはこの思いがけない行動に大へん御気色を損じなすって、御心中で言いなさいました、「アッラーにかけて、何と奇怪なことか。こうしたすべてはどういう意味であろう。主人たるものが招客に対しかかる振舞いをしてよいものか。この若者は見たところ、どうも、ジャアファルが余に考えさせたほど物事を立派にするすべは知らぬようだ。この男は余がまさに一心に眺め入っているのを見たとき、あの木と孔雀を取り上げてしまった。些の疑いなく、余があれを土産にくれと頼みはしまいかと、心配したのに相違ない。ああ、わが大臣《ワジール》によれば、世界中に類いないとやら言う、かの大した寛仁振りを、余自身で調べに来たことは、全くよかったわい。」
このような思いがお心に浮んでいる間に、若いアブールカセムは再び広間にはいって来ました。そして一人の太陽ほども美しい奴隷少年を伴なっておりました。その愛すべき少年は、真珠と金剛石をあしらった金襴の衣服を着ております。そしてその手に、緋色の葡萄酒を満した、ただ一顆の紅玉《ルビー》で作った杯を持っています。少年はハールーンに近づき、その御手の間の床に接吻してから、その杯を差し出しました。ハールーンはそれをとって、唇に持ってゆかれました。けれども、その中身を飲み干した後、これを美しい奴隷にお返しになる際に、その杯はまだ縁《ふち》までなみなみと酒が満ちているのにお気づきになった時の御驚《おんおどろ》きは、いかばかりでございましたろう。それゆえ再び美童の手から杯をお取りになって、お口に運び、最後の一滴まで乾しなさいました。それから杯を奴隷少年にお渡しになると、やはり誰も何も中に注《つ》がないのに、再び杯が満ちるのを、たしかにお見届けなさいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十三夜になると[#「けれども第八百二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これを見て、ハールーンは驚愕の極に達しなされ、どうしてこのようなことが行なわれ得るのか、お尋ねにならずにいられませんでした。するとアブールカセムは答えました、「殿よ、これには何の不思議もございません。この杯は、地のあらゆる秘密を握っていた或る昔の碩学の作なのです。」そしてこの言葉を述べると、若者は美童の手をとって、あわただしく広間を出てしまいました。すると御気性激しいハールーンは、こんどはお憤りになりました。そしてお考えになりました、「わが首《こうべ》の生命《いのち》にかけて、この若者は正気を失ってしまったのか、さもなくば、これはもっと悪いことであるが、およそ客人に払うべき敬意と礼儀作法とを、全く心得ていなかったに相違ない。余が頼みもせぬのに、これらのあらゆる珍品を持ってきては、余の眼に見せ、余がそれをこの上なく楽しんで見ていると知るや、それをさっさと取りあげてしまうのじゃ。アッラーにかけて、かくも非礼、粗野なることは、余はかつて見たためしがない。呪われたるジャアファル奴《め》、余は間もなく汝に、もしアッラーの思し召しあらば、人間をもっとよく判断し、物を言う前に汝の舌を口中で廻して考える術《すべ》を、きっと教えて遣わそうぞ。」
アル・ラシードがこの家の主人の性格についてこうした考察を独りなさっている間に、主人は三たび広間に戻ってくるのを御覧になりました。こんどは楽園《アドン》の園以外には見出せないような乙女を一人、数歩後に従えておりました。その乙女は真珠宝石の類に蔽われていましたが、その装飾品よりも自分の美しさで、遥かに多く飾られております。ハールーンはその姿を見なさると、木も、孔雀も、尽くることなき杯も打ち忘れ、魂が魅惑に貫ぬかれるのをお覚えになりました。若い娘は客に深いお辞儀をしてから、御手の間に坐りに来て、蘆薈の木と象牙と白檀と黒檀とで作った琵琶《ウーデイ》で、二十四通りの異なった奏法で弾きはじめ、まことに完璧な技術をもってしたので、アル・ラシードは感嘆の念を抑えかねて、お叫びになりました、「おお若いお方よ、何とあなたの運勢は羨望に値するものでしょう。」けれどもアブールカセムは、自分の会食者がこの乙女に魅されていることを認めるや、直ちに乙女の手をとって、あたふたと広間の外に連れ出してしまいました。
教王《カリフ》はここの主人のこのやり口を御覧なったとき、極度に侮辱を感じなされて、お恨みの念を爆発させてしまうことを恐れ、御自分をこのように奇怪なやり方で接待する住居に、これ以上長居はしたくないとお思いになりました。そこで若者が広間に戻ってくるとすぐ、立ち上がってこれに申されました、「おお寛仁なアブールカセム殿、私の地位も身分も御存じなくして、私に対してなされた御厚遇、まことに痛み入ります。さればこれ以上長く御宏量に甘えることなく、引き取り、あなたをお休ませ申すことを、お許し下さい。」すると若者は客に迷惑をかけることを恐れ、その意志に逆おうとはせず、愛想のよい様子でお辞儀をしてから、応わしく立派にお持てなししなかったことを詫びながら、宮殿の戸口まで見送りに出たのでございました。
さてハールーンは苦々しくこうお思いになりながら、隊商宿《カーン》へと引き返されました、「あのアブールカセムという奴は、何と衒気に満ちた男だろう。自分の誇りと虚栄心を満足させるために、異国人の眼に、わが富を見せびらかして悦に入っているのだ。もしあれを掌《たなごころ》の広さというものなら、余などはもはや馬鹿者であり、盲人にすぎぬわけじゃ。いや、余はそんな者では断じてない。事実は、あの男は吝嗇漢にすぎぬ、最も厭わしい種類の吝嗇漢だ。やがてジャアファルは、最も卑俗な嘘を吐いて己が主君を欺けば、どのような目に遭うかを思い知ることであろうぞ。」
このように思い耽りながら、アル・ラシードは隊商宿《カーン》の門前に着きなさいました。すると入口の庭に、大勢の行列が半月形に並んでいるのを認めなさいましたが、これはおびただしい数の白人と黒人の若い奴隷で、一方の側には白人、他の側には黒人という工合に、出来ておりました。その半月形の中心には、先刻アブールカセムの宮殿で御自分を魅了した、琵琶《ウーデイ》を持つあの美女が立っており、その右には紅玉《ルビー》の杯を携えた愛らしい美童が、左には翠玉《エメラルド》の木と孔雀を携えた、それに劣らず愛らしく美しい今一人の少年が、控えております。
さて、教王《カリフ》が隊商宿《カーン》の門を越えなさるや否や、全部の奴隷は地上に平伏し、上品な若い娘が御手の間に進み出て、錦の小蒲団の上に絹張りの巻物を載せて、捧げました。アル・ラシードはこうした有様にいたく驚きなされたけれども、その紙葉を取り、拡げてみると、次の文言が認《したた》められているのを御覧になりました。
[#この行2字下げ]「御光来によりわが住居に光栄あらしめ、これを香らしたまえる好ましき賓客の上に、平安と祝福あれ。次に。願わくは、おお優雅なる会食者らの父よ、我らの力乏しき手より殿へとお届け申す若干の粗品の方に御眼を下げたまい、われらの屋根を輝やかしたまいし御方に対するわれらの忠誠の微意のしるしとして、これらを御嘉納下されたし。事実われらは、この行列を成すさまざまの奴隷、二名の若き小童とこの若き娘は、この木と杯と孔雀と共に、格別にわれらの招客の御意に叶わざりしにはあらざる旨を、拝見仕り、そのゆえに、これらの粗品を以前より常に御自身の所有せられしものとお心得下されたく、願い奉る次第。かつ一切はアッラーより来たり、アッラーの方へと一切は帰るもの。ワァーサラーム(2)。」
アル・ラシードはこの書面を読み終えなさり、すべての意味とすべての所以をお覚りになると、このような掌の広さに無上に驚嘆なすって、叫びなさいました、「わが祖先の御功績にかけて、――アッラーは彼らの玉顔に栄誉を与えたまえかし。――余はまことに若いアブールカセムを見損ったることを自から認めるわい。アル・ラシードの気前のよさよ、汝はかかる気前のよさに比べれば、そもそも何だ。おおわが宰相《ワジール》ジャアファルよ、至高者の祝福汝の頭上にあらんことを。汝こそは、余が己れの誤った誇りと己惚れより醒《さ》める原因であるぞ。事実今や、一介の市民が、いささかの苦もなく、何らかの困惑を覚える様子もさらになくして、高邁と鷹揚の点で、地上随一の富裕な君主をば、見事打ち負かしたわい。」教王《カリフ》はそう仰しゃいました。それから急に思い直しなされて、お考えになりました、「そうじゃ、アッラーにかけて、しかし一介の市民の身で、かかる贈物をすることができるとは、いったいどうしたことであろう。あれほどの財宝を、どこから手に入れるとか見つけるとかできたのであろう。わが所領の中で、一人の男が王侯よりも豪奢な生活を送り、しかも彼がいかなる手段によってかかる富裕の度に達したるかを余が知らぬとは、どうしてあり得ることか。たしかに、よしんば煩さい奴と見られるおそれあろうとも、時を移さず、直ちに行って、いかにして彼がかくも驚くべき巨富を成し得たか、余に打ち明けるよう決心させなければならぬ。」
そこですぐにアル・ラシードは、好奇心を早く満足させたくてならず、御自分の新たな奴隷たちと彼らの持参したものを、そのまま隊商宿《カーン》に残して、アブールカセムの御殿に戻りなさいました。そして若者の前にお出になると、挨拶《サラーム》の後、これに仰しゃいました。
「おおわが寛仁の御主人よ、アッラーは御身の上にその御恩恵を増したまい、御身の満喫しておられる御寵愛を永く続かせたまいまするように。けれどもあなたの祝福された掌《たなごころ》が私に賜った贈物は、まことに莫大なものにて、これらを頂戴いたせば、私の会食者としての資格とあなたの無比の高邁とに甘えすぎはしないかと、恐れられる次第です。されば、お気を損ずる憂いなく、私が勝手にかの品々をお返し申し上げ、御歓待をこの上なく悦んで、私がわが町バグダードにまいって、あなたの鷹揚振りを吹聴申すことを、何とぞお許し下さいませ。」けれどもアブールカセムは大へん情なそうな様子をして、答えました、「殿よ、そのように申されるとは、あなたはさだめし私の御接待振りにあきたらぬ節がおありとか、或いはひょっとすると、私の御進物がつまらぬものであるため、お気に召さなかったのでしょうか。そうでもなければ、私にこのような侮辱を受けさせるため、わざわざお宿から戻ってこられることはなかったでしょうに。」すると、相変らず商人の振りをしておられるハールーンは、仰しゃいました、「そのようなやり方にて、御歓待にお答えすることなど、アッラーは私にさせたまいませぬ、おお、あまりにも寛仁なるアブールカセム殿。私がここにまいった原因はひとえに、あなたがはじめて会われた異国の人々に、かくも稀有な珍品の数々を、このように惜し気もなく与えなさるのを拝見して私の覚える心配と、あなたが当然得て然るべき御満足をいまだ得ざるうちに、宝庫がいかに無尽蔵であり得ようとも、それには底があるにちがいないから、それが尽きてしまうのを見る私の懸念とによるものに外なりません。」
アル・ラシードのこのお言葉に、アブールカセムは微笑を禁じ得ず、答えました、「御心配を鎮めて下さい、おおわが御主人よ、もしもまことにそのような動機が御来訪の悦びを私に得させたのならば。事実、私はアッラーのあらゆる日々に、わが門を叩く方々に、あなたの御手の間にあるような品々と同等の値いのお土産品を一つ、二つ、三つお贈りして、創造主に対し奉る――その讃められ称《たた》えられんことを。――私の負債を弁済しているものと、御承知あれ。それというのは、財宝の分配者の私に授けたもうた宝庫は、底なしの宝庫なのでございます。」そして大きな驚嘆が自分の客人の面上に印されるのを見ると、付け加えました、「どうやら、おおわが御主人よ、私は自分の生涯の出来事のいくつかをあなたに打ち明け、この底なしの宝庫の由来を聞かせて差し上げる必要があるようでございますが、この物語は実に驚くべく、実に世の常ならぬものでありまして、もしこれが針を以って眼の内側の一隅に書かれたならば、これを注意深く読む者には、教訓として役立つことでございましょう。」
かく語って、若いアブールカセムは客人の手をとって、涼味溢れる広間に案内しましたが、そこには大層心地よいいくつもの香炉が空気を馨らし、贅沢な足載せの敷物のある大きな黄金の玉座が置いてありました。そして若者はその玉座にハールーンを昇らせ、自分はその傍らに坐って、次のように自分の身の上話を始めたのでございました。
されば、おおわが御主人よ、――アッラーはわれら万人の御主人にあらせられまする。――私ことはアブデルアズィズと呼ばれていたカイロ出身の、大宝石商の息子でございます。けれども私の父は、その父や祖父と同じくカイロに生まれたとはいえ、終生故郷の都で暮らしたのではございません。それというのは、父はあまり莫大な富を持っておりましたので、何せ当時エジプトの帝王《スルターン》は、手のつけられない暴君でしたから、帝王《スルターン》の羨望と貪欲を身に招くことを恐れて、やむなく自分の国を棄てて、このバスラの町に来て、|アッバース《バニー・アツバース》王家――アッラーはこの御一族の上に御祝福を降り注ぎたまわんことを。――その御庇護の蔭に、居を定めざるを得なかった次第でした。そして父は程なく町随一の豪商の一人娘を娶りまして、私はこの祝福された結婚から生まれたのです。そして私の先にも後にも、他の結実はひとつも、来って家系に付け加わることがございませんでした。従いまして、父母の死後には――何とぞアッラーは二人に救いを授けたまい、二人に御満足あらせられまするように。――両親の全財産をもらいまして、私はいまだ全く若くして、あらゆる種類の動産不動産と財宝より成る一大財産を、管理すべき身と相成りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十四夜になると[#「けれども第八百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
しかるに私は金を使うことと浪費を好みましたので、むやみと気前よく暮しはじめたため、二年足らずのうちに、私のもらった遺産は残らず蕩尽されてしまいました。それというのは、おおわが御主人よ、一切はアッラーよりわれわれに来たり、一切はアッラーに帰りまするゆえ。そこで私は、自分が完全な無一物の状態にあるのを見て、自分の過去の行状を反省し始めました。そして自分がバスラであのような生活をし地位を占めていた後では、わが故郷の町を去って、どこか他の地に行って、みじめな日々を碌々と送ろうと決心いたしました。貧困は異国の人たちの眼前でのほうが、耐えやすいものですから。そこで自分に残っている唯一の財産である家を売り払い、商人の隊商《キヤラヴアン》に加わって、一緒にまずモースルに、続いてダマスに行きました。それから、沙漠を渡ってメッカを巡礼しにまいりまして、その地から、私どもの一門一家の発祥地である大カイロへと赴きました。
さて、美しい家並と数知れぬ回教寺院《マスジツト》のこの都にまいりましたとき、私はこここそ正に富裕な宝石商のアブデルアズィズの誕生の地であることを想起し、この思い出に、長嘆久しくし、落涙を禁じ得ませんでした。そしてもし父が後継ぎの一人息子の情ない境遇を見たならば、父の苦痛はいかばかりかと想像いたしました。そして万感交々のこうした想いに耽りつつ、歩き廻っているうちに、ナイル河のほとりの、帝王《スルターン》の宮殿の裏手に出ました。するとそのとき、一つの窓辺に、若い婦人か若い娘かわかりませんが、心を奪うようなひとつの顔が現われて、私を身動きさせず眺め入らせました。けれども突然顔は引っ込んでしまい、もはや何も見えません。しかし私は、再び現われるのを空しく待って、夕方まで恍惚とその場に立ち尽しました。そして最後には、はなはだ残念ながら、引き上げて、泊っていた隊商宿《カーン》に夜を過ごしに行きました。
けれども翌日には、その乙女の顔立が絶え間なく私の心中に浮ぶので、私はくだんの窓の下に出かけずにはいませんでした。けれども私の希望と期待は全然はずれました。それというのは、その窓の窓掛はちらりと顫え、格子戸の後ろにバビロン風の一対の眼を見届けたような気がいたしましたものの、好ましい顔は現われなかったのです。このように顔を見せてくれなかったことは私を大そう悲しませましたけれど、といって私を思いとどまらせたわけではなかった。なぜなら、次の日も、私はこの同じ場所に戻らずにはいなかったからです。
ところが、その格子戸が半ば開き、窓掛が開けられて、乙女の顔の満月を現わすのを見たときの、私の感動はいかばかりでしたろう。そこで私は急いでひれ伏して地に顔をつけました。そして再び立ち上がってから、申しました、「おお至上の貴婦人よ、私はつい数日前にカイロに着いて、あなた様の美しさを拝することによって当市に入ることを始めた、異国の者でございます。願わくは私の手をとってこの地まで導いた命運は、あなた様の奴隷の願望に従って、その業《わざ》を仕上げてくれまするように。」そして私は返事を待って、口をつぐみました。するとその乙女は返事をする代りに、大そう恐れおののいた様子をしまして、私はここに止まるべきか、それとも脚を風にまかせるべきか、わからないほどでございました。しかし私は自分の冒すことになるかもしれぬあらゆる危険も気にもかけず、なおもその場に止まる決心をしました。ところで、それがよかったのです。というのは、突然乙女はその窓の縁《へり》から身を乗り出して、顫える声で私に言いました、「真夜中頃またいらっしゃい。とにかくできるだけ早くお逃げになって。」こう言って、あたふたと姿を消し、私を驚きと恋情と悦びの極に残しました。私はたちまちわが身の不幸も逼迫も忘れてしまいました。そして急いで隊商宿《カーン》に戻って、町の床屋を呼ばせ、頭と腋の下と鼠蹊部を剃り、化粧し、美しくすることに打ち込ませました。次に貧乏人の行く風呂屋《ハンマーム》に行って、端銭《はしたがね》で、十分な風呂を使い、身を香らし、さっぱりし、羽のように身も軽く、すっかり爽快になって、そこを出ました。
ですから、定めの時刻になると、私は闇に乗じて王宮の窓の下に赴きました。するとその窓には、絹の縄梯子が地まで垂れ下っているのが見えました。そこで私は躊躇なく、かつは、今では何の係累も何の意味もない一命を失う以外、失うものとて何もないので、その梯子を攀じて、窓から室内に忍び入りました。素早く二つの部屋を横切って、第三の部屋に着くと、そこに銀の寝台の上に、わが望みの女がにこやかに横わっておりました。ああ、わが客人、商人の殿よ、この創造者の御作《おんさく》には、何という魅力があったことでしょう。何という眼と何という口。その姿を見ると、私はわが正気が飛び立つのを覚え、一言《ひとこと》も言い出せませんでした。けれども乙女は半ば身を起して、氷砂糖よりも甘い声で、銀の寝台の自分の傍に並んで坐るように申しました。それから、私がどういう人であるかを、興味ありげに尋ねました。私は自分の身の上を、全く腹蔵なく、一部始終、細大洩らさず話して聞かせました。しかしそれを繰り返しても詮なきことです。
さて乙女は、大そう注意深く私の話に耳傾けておりましたが、命運が私を陥らせた境遇に、ほんとうに心を動かされた模様でした。そこで私はそれを見て、叫びました、「おおわが御主人様、私がどのように不幸な身であろうと、あなたが御親切に私の不幸に同情して下さるからには、もはや憐れな身ではございません。」これに対して乙女は然るべく答え、かくていつとはなしに、私たちのはじめた語り合いはますます情愛濃やかに、打ちとけたものになってゆくのでした。そして乙女は最後には、自分としても私を見て、私のほうに心惹かれるものがあったと、告白いたしました。そこで私は叫びました、「羚羊《かもしか》の心を優しくし、その眼を和らげたもうアッラーに、称讃《たたえ》あれ。」これに対しても彼女は同様に、然るべく返事をして、付け加えました、「あなたがどういう人であるか教えて下さったからには、アブールカセム様、わたくしとしてもこれ以上、わたくしがどういう女であるかあなたが御存じないことはいやでございます。」
そしてしばらく沈黙していて後、申しました、「実は、おおアブールカセム様、わたくしは帝王《スルターン》のお気に入りの妃《きさき》で、名を妃《シート》ラビバと申します。ところで、わたくしはここで贅を尽して暮しておりますものの、幸福ではないのでございます。それというのは、妬み深く、わたくしを破滅させようと、手ぐすねひいている競争相手の女たちに取り囲まれているばかりでなく、帝王《スルターン》はわたくしを愛していらっしゃるけれども、雄鶏に精力を分配したもうアッラーは、分配の際、帝王《スルターン》をお忘れになったとみえて、わたくしを十分満足させることがおできにならないのです。それですから、わたくしがこの窓の下であなたをお見かけして、あなたは勇気溢れて危険を物ともなさらぬ方と拝見し、あなたこそ逞しい男と存じました。そしてためしてみるためにあなたをお呼びしましたの。ですから今は、わたくしの選択に狂いがなかったことを証明して、あなたの剛勇振りはあなたの向う見ずに匹敵することを、実際に見せて下さる番ですよ。」
そこで私は、おおわが御主人よ、何しろ私はただ行動のためそこに来ているのであってみれば、行動するのに励まされる必要はいささかもなく、こうした際には、いろいろ詩など歌うのが習慣ですが、そんなことをして貴重な時間を潰したくなどなく、直ちに突撃の用意をしました。ところが私たちの腕が絡み合ったその瞬間に、荒々しく部屋の戸が叩かれました。すると美しいラビバは慄え上がって、私に言いました、「帝王《スルターン》でなければ、誰もこんな風に戸を叩く権利はありません。わたくしたちは裏切られたので、助かるすべなくもうだめです。」
すぐに私は窓の梯子を思い、登ってきたところから脱れ出ようと思いました。ところが運勢の望むところ、帝王《スルターン》はまさしくそちらのほうから来たのでした。それで私には逃る機会は絶無です。ですから、残されたただ一つの決心を固めて、帝王《スルターン》の寵妃が起き上がって、戸を開けに行っている間に、私は銀の寝台の下に身を潜めました。
戸が開かれるとすぐに、帝王《スルターン》は宦官を従えてはいって来られましたが、これからどうなることか私にわかる暇もなく、私は二十本の恐ろしい黒い手によって、寝台の下で捉えられるのを感じ、その手は私を小荷物のように曳きずり出し、地上に持ち上げてしまいました。そしてこれらの宦官は私を携えたまま、窓まで駈けより、一方他の黒人宦官どもは、寵妃を携えて、別の窓に向って、同じ動作をいたしました。そして全部の手は一斉にその荷物を放し、われわれ二人をば、王宮の高みからナイル河へと放りこみました。
さて、私は溺死からまぬがれることになっている旨、わが命運に記《しる》されておりました。それゆえ、墜落によって茫としていたものの、私は河床の底まで達して後、首尾よく水面に浮び上がって、闇にまぎれて、王宮と反対側の岸に辿りつくことができました。自分はこのような大難をまぬがれたが、私の軽率が因となって、身の破滅を招いた女を救い上げようとも試みないで立ち去るに忍びず、私は水から出てきたとき以上の懸命さで再び河中に戻り、いくたびか潜りまた潜って、かの女を見つけようと試みました。けれども私の努力も甲斐なく、もう体力が続かず、自分の魂を救うためには、再び陸に上がらなければならぬ必要に迫られました。そして全く銷然として、私はこの麗しい寵妃の死を悼みつつ、自分はあたかも不運に見舞われていた身で、不運は感染するものであるからには、あの女に近づくべきではなかったのにと、独り思ったのでございました。
ですから、苦痛に貫ぬかれ悔恨に打ちのめされて、私はいそぎカイロとエジプトを立ち退いて、平安の都バグダードへの道をとりました。
ところで、アッラーは私に安泰を記したまい、恙なくバグダードに着いたけれど、実に惨澹たる有様でした。何しろ金はなし、過去の全財産から残るものは、帯の底にきっかりディナール金貨一枚きりでしたから。そこで両替屋の市場《スーク》に行くとすぐに、私はそのディナール金貨を小銭《こぜに》に替え、生計の資を稼ぐため、大きな柳の盆一枚と、砂糖菓子、よい匂いの林檎、香油、砂糖煮の乾果、薔薇などを買い求めました。そして自分の商品を店々の戸口で小売りしはじめ、毎日毎日売っては、翌日一日分の間に合うだけのものを稼ぎました。
ところで、この小さな商売はうまく当りました。それというのは、私はいい声をしていたので、バグダードの商人のように商品を小売りせず、品々を呼び売りする代りに、歌って売り捌いたからです。すると或る日のこと、常よりも一段と音吐朗々と、商品を歌いあげておりますと、そこに市場《スーク》で一番美しい店の持主の、敬すべき老翁《シヤイクー》が、私を呼びとめ、盆の中から匂いのよい林檎を一個選び出し、注意深く私を眺めながら、いく度も繰り返してその香りを吸ってから、自分の傍に坐るようにと私を誘いました。私が坐ると、私がどういう人か、名を何と呼ばれているかなど尋ねながら、いろいろの質問をいたしました。けれども私はその質問を迷惑至極に思って、答えました、「おおわが御主人様、私としては漸やく時が塞ぎはじめた傷口を、掻き立てることなくしては思い出せない事どもを、お話し申すのは御容赦下さい。それと申すは、私の持って生まれた名前を口にするだけでも、私にとっては苦痛でございましょうから。」私は溜息を洩らしながら、大そう悲しげな口調でこの言葉を言い出さねばならなかったので、老人《シヤイクー》はこれについてはこだわりもせず、強《た》って聞こうともしませんでした。そしてすぐに話頭を転じて、私の砂糖菓子の売買の問題についての話に移りました。それから、私に別れを告げながら、財布から金貨十ディナールを取り出して、大そう心遣いこまやかにそれを私の手の間に置き、さながら父親が息子に接吻するように、私に接吻しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十五夜になると[#「けれども第八百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて私は、この気前のよさは不如意の折から一段と私には貴いものでしたから、魂の中でこの敬すべき老翁《シヤイクー》を称えて、私が平常柳の盆を差し出している最も地位高い殿様方でも、この手から今頂戴した分の百分の一もついぞ下さったためしがないことを思い、尊敬と感謝をこめて、この手に接吻せずにはいませんでした。それで翌くる日、前日の恩人がどういう積りなのかはっきりわからなかったとはいえ、私はその市場《スーク》に行かずにはいませんでした。すると老人《シヤイクー》は私の姿を見かけるとすぐに、近づくよう合図をし、私の盆からお香《こう》を少々求めました。それから、私を自分のすぐ傍に坐らせて、二、三問答をしてから、私の身の上話をぜひ聞かせるようにと大へん興味をもって誘うので、こんどは私も相手の気を悪くせずには断れない次第でした。そこで私は自分がどういう男かということから、わが身に起ったことを全部、何ひとつ隠さずに知らせました。そしてこの打明け話を聞かせ終ると、老人《シヤイクー》は声に非常な感動をこめて、私に申しました、「おおわが息子よ、お前はアブデルアズィズよりも――何とぞアッラーはこの方に御満足遊ばされまするように。――もっと金持だし、そして実父に劣らず今後お前に愛情を抱く父親を、わしに再び見つけているのじゃ。わしには全然子供がなく、子供ができる望みもないからして、わしはお前を養子にしよう。したがって、おおわが息子よ、お前の魂を鎮めて、眼を爽やかにせよ。もしアッラーの御心ならば、お前はわが傍にあって、過ぎ去った不幸の数々を忘れるであろうからな。」
こう語って、彼は私に接吻して、胸に抱き締めました。次に無理矢理私に柳の盆を中身ごと棄てさせ、自分の店を閉め、そして私の手をとって自分の住居に案内した上で、私に言いました、「明日、われわれはバスラの町へ出発するとしよう。これもやはりわしの町だから、今後はそこでお前と一緒に暮らすことにしたい、おおわが子よ。」
事実、翌日、私たちは一緒にわが生まれた町バスラへ向けて出発し、アッラーの安泰のお蔭で、恙なく安着いたしました。私と出会って、私とわかった人々は皆、私がこのように豊かな商人の養子となったのを見て、悦んでくれました。
私はと申せば、殿よ、申し上げるまでもなく、私は自分の全知能全知識を傾けて、この老人《シヤイクー》の意を迎えようと心を配りました。それで老人も自分に対する私の心尽しを大そう悦んで、しばしば私に言うのでした、「アブールカセムや、われわれがバグダードで出会った日は、何と祝福された日であろう。お前をわしの路上に置いてくれたわが命運は、何ともよかったのう、おおわが子よ。わが愛情と、信頼と、わしがお前のためにしてやりもし、お前の将来のためにしてやろうと思っているところに、お前は何とふさわしい男であろう。」また私も、養父が私に示してくれる気持に深く心を打たれたので、年齢の違いにも拘わらず、心底これを愛し、悦ばれそうなことは何でも、言われぬ前にするようにいたしました。ですから、例えば、同じ年配の若者たちと遊びに行く代りに、自分のためにされたものでない事柄なり動作なりは、どんな些細なものでも、老人《シヤイクー》は心安からぬ思いをするであろうことを、承知していたので、私はいつも老人《シヤイクー》のお相手をつとめていました。
ところが、一年たちますと、私の保護者は、アッラーの御命令によって、病気にかかり、あらゆる医者も匙を投げ、臨終が迫りました。そこで老人はいそいで私を傍に呼び寄せて、私に言いました、「祝福はお前の上にある、おおわが息子アブールカセムよ。大部分の人は、全生涯を通じて、幸福な日は辛うじて一日を数え得るにすぎないのに、お前はわしに丸一年の間も幸福を与えてくれた。されば今こそ、『人々を分かち隔てる者』がわが枕頭に来って佇む前に、わしとしてお前に対する大きすぎる負債を済すべき秋《とき》じゃ。さればよいかな、わが息子よ、これを手に入れさえすればお前は地上のあらゆる王よりも金持となれるという秘密を、お前に明かしてやらなければならぬのだ。実際のところ、もしわしには全財産として、この家とそれに含まれておる財宝以外になかったとすれば、わしはあまりにも僅かな財産しかお前に残さぬ気がするであろう。しかしわが生涯の間にわしの貯えた全財貨も、一商人としては莫大なものとはいえ、わしがお前に明かしたいと思っている宝庫に比べれば、物の数でない。その宝庫がいつ頃から、誰によって、またどのようにしてわれらの家にあるのかについては、お前に言わぬ。なぜならば、わしも知らぬからな。わしの知るすべては、それが大へん遠い昔のものだということきりじゃ。わしの祖父は亡くなる間際にそれをわが父に明かし、わが父もまたその死の数日前に、同じくわしにそれを打ち明けなされたものじゃ。」
こう語って、私も生命が老人から立ち去ろうとしているのを見て泣いている間に、老人《シヤイクー》は私の耳許に身をかしげて、この屋敷のどういう場所にその宝庫があるかを教えてくれました。次に老人《シヤイクー》は、そこに蔵されている財宝について私がどんなに大したものと想像し得ようとも、実際には考えるよりももっと遥かに莫大なものとわかるであろうと、断言いたしました。そして付け加えました、「今やお前は、おおわが息子よ、その全部を全く思いのままにできる主《あるじ》となった。どうかお前の掌《たなごころ》は広々と開かれているように、底のないものをいつか汲み尽すに到るなどとの懸念は無用じゃ。幸福に暮せよ、ワァサラーム。」この最後の言葉を言って、老人《シヤイクー》は平安の裡に逝きました、――アッラーはこれに御慈悲を垂れたまい、その上に御祝福を注ぎたまわんことを。
さて私は、ただ一人の相続人として、養父の葬儀を営んでから、その全財産を譲り受け、そして時を移さず、その宝庫を見にまいりました。驚き入ったことには、亡くなったわが養父はその甚大さを少しも誇張していなかったことを、確かめることができました。そこで私は、これを能うかぎり最善の使い方をしようと覚悟しました。
私を知っていて、私の最初の破産を目撃した人たちは全部、私がもう一度破産するものと、途端に確信してしまいました。お互い同士で言い合ったものです、「あの浪費家のアブールカセムのことだ、よしんば信徒の長《おさ》の全宝蔵を手に入れたところで、躊躇なく使い果してしまうさ。」ですから、私の稼業にこればかりの乱れも見受けられないどころか、反対に日々ますます繁盛してゆくのを認めたときの、彼らの驚きはいかばかりでしたろう。そして私がますます途方もない金使いをし、バスラを通る異国人全部を、王様方のように持てなして、自分の費用で賄っているのを見ていただけにいよいよ、私がどうやって財産を浪費しながら殖やしてゆけるのか、皆どうにも合点がゆかぬ有様でした。
ですからやがて、私は宝庫を見つけたという噂が町中に拡がって、その筋の貪慾をわが身に招き寄せるには、長くかかりませんでした。果して間もなく、或る日|警察長《ムカツダム》が会いにやってきて、ゆっくり話しこんでから、言うのでした、「アブールカセム殿様、私の眼は見え、耳は聞こえますぞ。けれども私は生きるために役目を勤めています、大勢の他の連中は役目を勤めるために生きていますがね。ですから私はあなたの送っていらっしゃる豪勢な生活振りの弁明を求めたり、あなたとしてはぜひ隠しておきたく思いなさる財宝について、尋問したりしにまいったわけではござんせん。私がまいったのはただ、もし私が抜け目のない男だとしたら、それはアッラーのお蔭でありまして、別にそれを自慢しはしないということを、申し上げるためだけです。ただ何しろパンはお高いし、家の牝牛はもう一向乳を出さなくなりましてね。」私はこの男のやって来た目的がわかったので、これに言いました、「おお才人たちの父よ、御家族のパンを買い、お宅の牝牛が出さなくなった乳を埋め合わせるには、一日いくら御入用かな。」相手は答えました、「せいぜい一日に金貨十ディナールというところです、おおわが殿様。」私は言いました、「それでは十分とはゆくまい、あなたに一日百ディナール進呈したい。そのためには、毎月月初めにここに来なさりさえすればよい。私の会計係があなたの暮しに必要な三千ディナールをお支払いします。」そこで彼は私の手に接吻しようとしましたが、私は一切の施物はアッラーのお貸し下さるものということを忘れず、それを断りました。すると警察長《ムカツダム》は、私の上に祝福を念じながら、立ち去りました。
ところが、警察長《ムカツダム》の訪問の翌日、こんどは法官《カーデイ》が私を自宅に呼び出して、申しました、「おお若者よ、アッラーは財宝の主《あるじ》にましますから、五分の一は正当の権利をもってアッラーに帰属する。さればお前の財宝の五分の一を支払うべし。さすればお前は、残りの五分の四を安らかに所有しておられるであろう。」私は答えました、「われらの御主人|法官《カーデイ》様が、その召使にどういうことを仰しゃりたいのか、私にはあまりよくわかりません。しかし私はアッラーの貧しい人々のために、毎日金貨一千ディナールを法官《カーデイ》殿に進上することをお約束いたします、但し私をそっとしておいて下さるという条件で。」すると法官《カーデイ》は私の言葉を大そう讃めて、この申し出を承諾しました。
しかるにその数日後、一人の警吏がバスラの奉行《ワーリー》から遣わされて、私を迎えに来ました。そして私がその面前に着きますと、奉行《ワーリー》は愛想のよい様子で私を迎えて、申しました、「お前はもし私に自分の宝庫を見せたら、それを取り上げてしまうほど、この私を不公正な人間と思っているかな。」私は答えました、「どうかアッラーは、われらの御主人|御奉行《ワーリー》様の齢《よわい》を千年も永くしたまいまするように。しかし私はたとえ焼け釘抜で自分の肉を※[#「手へん+毟」、unicode6bee]りとられるような目に会おうと、事実私の持っている宝庫を、断じて人には見せませぬ。さりながら、私はわれらの御主人|御奉行《ワーリー》様に対し、その御存じの貧しい人々のために、日々金貨二千ディナールをお支払い申すことを承諾いたしまする。」すると奉行《ワーリー》は彼には莫大と思われたその贈物を前にして、私の申し出を承知することをためらわず、私に数々親切を尽した上で、帰宅させました。
そしてこの時以来、私はこの三人のお役人に、約束した日々の納付金を、きちんきちんと支払っております。その代り彼らは、私が生来生まれついている鷹揚と寛仁の生活を、勝手にさせておいてくれます。以上が、おおわが殿、あなたを驚かすかに拝見する、そしてあなた以外の誰もどのくらい大きなものか思いもかけぬ、財産の由来でございます。」
若いアブールカセムが語り終えたとき、教王《カリフ》はその不思議な宝庫を御覧になりたい欲望の極に達して、相手の主人に仰しゃいました、「おお寛仁なるアブールカセム殿、いったいこの世に、あなたの寛仁をもってしても、やがて使い果すことができないというような宝庫などがあるとは、実際にあり得るものでしょうか。否、アッラーにかけて、私には到底信じられませぬ。それでもしも、あなたにあまりにも勝手を申すことにならなかったならば、何とぞそれを拝見させていただきたいもので、私はわが頭上の歓待の神聖な権利にかけ、また誓言を犯すべからざるものとなし得るすべてのものにかけて、私は決して御信頼につけ入るような真似はいたさず、遅かれ早かれ、私はこの類いない御恩顧を謝するを得るであろうことを誓って申し上げます。」
教王《カリフ》のこのお言葉に、アブールカセムはその顔色相貌を一変いたしまして、悲しげな口調で答えました、「何とも申し上げにくいことですが、おお殿よ、あなたがそういう好奇心を抱かれても、私は大そう不愉快な条件をつけなければ、それを満足させてさしあげられないのです、私としてはあなたを、欲望を抑え願望を叶えずにわが家からお出しするのは、何としても意を決しかねる次第ですから。したがって、私はあなたに目隠しをして、あなたは素手で頭に何も被らず、私は手に新月刀を携え、万一あなたが歓待の掟を破ろうとなさったら、直ちにあなたを斬ろうと身構えて、その上で御案内しなければなりますまい。それに、このような行動をとってすら、私は非常に軽はずみな真似をするのであり、あなたのお望みに従うべきでないことも、自分でよくわきまえております。要するに、この祝福せられた日に、われわれのために記《しる》されているところに従って、事が行なわれまするように。あなたは私の条件を受け入れなさるおつもりですか。」教王《カリフ》はお答えになりました、「仰せの通りにいたしましょうし、その条件でも、また他の類似の千の条件でも承知いたします。天地の創造者にかけてお誓いするが、あなたは私の好奇心を満足させて下さったことを、決して後悔なさらないでしょう。それに私はあなたの御用心をごもっとものことと思い、それに対してあなたに不満を抱くことなど思いもよりません。」
そこで、アブールカセムは客の両眼に目隠しをし、その手を曳いて、忍び梯子から、大へん広々とした庭に下りさせました。そこから、入り組んだ小路をいくつもいくつもぐるぐる曲ってから、地面とすれすれのところに一つの大きな石で入口が塞がれている、深く広い地下室にはいらせました。まず最初は下り坂になっている長い廊下で、それはよく反響する大広間に通じていました。するとアブールカセムは教王《カリフ》の目隠しを取りますと、天井と共に全部の壁に鉄礬《てつばん》柘榴石《ざくろせき》が鏤められ、その宝石の閃光だけに照らされているこの部屋を、教王《カリフ》は驚嘆して御覧になったのでした。そして周囲百尺の真白な雪花石膏の泉水が、この広間のまん中に見えましたが、それはおよそ最も昂奮した頭脳が夢みることのできるあらゆる宝石類と金貨を、満々と湛えておりました。そしてこの泉水のぐるり一面には、十二本の黄金の円柱が、十二色の宝石でできた同数の立像を支えて、奇蹟の地面から生え出た花のように、迸しり出ておりました。
さてアブールカセムは教王《カリフ》をその泉水のほとりへお連れして、申しました、「このディナール金貨の山と、あらゆる形とあらゆる色の宝石の山は、御覧のとおりです。ところで、この泉水の深さは測り知れないものですが、しかるにこの山はまだ指二本の幅しか減っておりません。だがこれだけではありません。」そして教王《カリフ》を第二の広間に案内しましたが、これは壁の燦めきでは第一の広間に似ていますが、それよりもずっと広く、中央には泉水があり、切子玉に作った宝石とカボション風の宝石を満々と湛え、さきに若者が贈り物にした木と似た木が二列に並んで、影を落しておりました。そしてこの広間の穹窿のまん中には、輝やかしい文字で、次の記銘が走っておりました。「この宝庫の主人たる者はこれを汲み尽すを恐るることなかれ。使い果たすを得ざるべければ。むしろこれを用いて快適なる生を送り、友を得るに宛てよ。何となれば、生は一度にして再び帰らず、また友なき生は生に非ざれば也。」
このあと、アブールカセムはなお客人に、前の二室に少しも劣らぬ他の広間を、いくつも見物させました。それから、客人がこれほど目も眩むばかりの事物をたくさんに見て、すでに疲れたのを見て、これを再び地下室の外に連れ出しました、両眼に目隠しをした上ではありましたが。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十八夜になると[#「けれども第八百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
一たび宮殿に戻ると、教王《カリフ》は御自分の案内者に向って仰しゃいました、「おおわが御主人よ、ただ今拝見いたしたところにより、また私に賜った若い女奴隷と二人の愛すべき美童によって判断いたしますると、あなたこそは地上随一の豊裕な人物であるばかりか、またたしかに随一の幸福な人物に相違ございません。それと申すは、あなたはこの宮殿に、東洋の最も美しい娘たちと海の島々の最も美しい乙女たちを、お持ちにちがいありませんから。」すると若者は悲しげに答えました。「いかにも、おおわが殿、私はこの屋敷に美しさ際立った女奴隷を多数持っております。けれども、消え失せた懐しい女のことで記憶が一杯になっているこの私に、その女たちを愛することができましょうか、優しい、魅力ある、私ゆえにナイル河の水中に放りこまれたあの女です。ああ、私はこの女なくしてわが全財宝と全|後宮《ハーレム》を持って暮らしているよりは、全財産として、バスラの荷担ぎ人足の帯の中にはいっているものしかなくとも、帝王《スルターン》の寵妃ラビバを、わが物としているほうがましでございます。」教王《カリフ》はアブデルアズィズの息子の気持の変らぬことに感服なさいましたけれど、全力を尽して、その哀惜の念を棄て切るように、激励なさいました。それから、もてなしてくれた豪奢な接待を謝して、隊商宿《カーン》にお戻りになるため、別れを告げなさいましたが、このようにして、土牢に投獄させなすった宰相《ワジール》ジャアファルの断言の真実なことを、御自身で確かめなさった次第でした。そして翌日には、アブールカセムの比類のない寛仁の賜物である召使全部と、乙女と、二人の美童と、全部の引出物を携えて、再びバグダードへ向けて出発なさいました。
さて、王宮に御帰還になるとすぐ、アル・ラシードはいそぎ大|宰相《ワジール》ジャアファルを再び自由の身となさり、これを容疑者として罰したことをどんなに遺憾に思っているかを証明なさるため、例の二人の美童を贈物とされ、全信頼を復しなさいました。それから、御旅行の結果をお話しなさった上で、これに仰しゃいました、「さて今は、おおジャアファルよ、アブールカセムの立派な態度を謝するため、余としてはいかになすべきか、申してくれよ。その方も知るとおり、王者の感謝は他人から受けた悦びを凌駕するものでなければならぬわけじゃ。気前のよいアブールカセムに、余の宝蔵にある最も珍奇貴重なものを贈るだけにとどめるとしたら、彼にとってはいたって些細なものにすぎまい。さればいかにせば、余は寛仁の点で彼を打ち負かすことができようか。」するとジャアファルはお答えしました、「おお信徒の長《おさ》よ、君の感謝の債務を支払うためお用いになれる唯一の策は、アブールカセムをばバスラ王に任命なさることでございます。」するとアル・ラシードはお答えになりました、「いかにもそのとおりじゃ、おおわが宰相《ワジール》よ、それこそアブールカセムに報ゆる最上の策じゃ。ではその方直ちにバスラに向けて出発いたし、彼に任命の証状を渡し、次に、彼をばここに案内して、われわれがこの王宮において彼のために祝宴を張り得るようにいたせ。」するとジャアファルは仰せ承わり、畏まってお答え申し、時を移さずバスラへ向けて出発いたしました。さてアル・ラシードはゾバイダ妃をそのお部屋に訪ねてゆかれ、若い娘と木と孔雀をお土産に贈って、お手許には杯だけしかお残しになりませんでした。ゾバイダ妃はこの若い娘を大そう好ましくお思いになり、御夫君に微笑を浮べながら、他のどのお土産にもまさってこの娘を悦んで頂戴する旨、申し上げたほどでした。それからこのたびの驚くべき御旅行の詳細を、語っていただいたのでございました。
さてジャアファルのほうは、予めアブールカセムに、起ったことと、その屋敷でおもてなしした客人がどなたであったかを、抜かりなく知らせた上で、これを連れて程なくバスラから戻りました。そして若者が玉座の間《ま》にはいりますと、教王《カリフ》は敬意を表して立ち上がりなされ、微笑を浮べてこれを迎えに進み寄り、息子のようにこれに接吻なさいました。そして御自身彼と一緒に浴場《ハンマーム》に行こうと思し召されましたが、これは御即位以来、いまだ何ぴとにも授けなされたことのない光栄です。浴後、氷菓《シヤーベツト》や白ジェリーや果物をお二人に差し上げている間に、最近王宮に来たばかりの女奴隷が、歌を歌いにまいりました。ところがアブールカセムは、この女奴隷の顔を眺めるや否や、一と声大きな叫びをあげて、気を失ってしまいました。アル・ラシードはさっそくこれをお助けになって、お腕の間に抱かれ、次第に正気に復させなさいました。
ところで、この若い歌姫こそは、元のカイロの帝王《スルターン》の寵妃に外ならなかったので、一人の漁師がナイル河から救いあげて、奴隷商人に売り払ったのでありました。その商人は長い間自分の婦人部屋《ハーレム》に隠しておいてから、これをバグダードに連れて行って、信徒の長《おさ》のお妃のところに売ったのでございました。
かくして、アブールカセムはバスラの王となって、その最愛の女に巡りあい、爾来、快楽の破壊者、冷酷なる墳墓の建設者の到るまで、その女と共に歓楽の裡に暮らすことができたのでございます。
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――「けれども、おお王様、」とシャハラザードは続けた。「この物語は遠くも近くも、気の毒な不義の子のこみ入った物語[#「気の毒な不義の子のこみ入った物語」はゴシック体]と同じくらい驚くべきものとも、教訓的な効用に満ちたものとも、お思い遊ばしますな。」するとシャハリヤール王は、眉をひそめて、尋ねた、「どこの『不義の子』のことを話そうというのか、シャハラザードよ。」すると大臣《ワジール》の娘は答えた、「まさしく、これから私が、おお王様、その波瀾万丈の生涯をお話し申そうとしている、不義の子のことでございます。」
そして彼女は言った。
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気の毒な不義の子のこみ入った物語(1)
語り伝えまするところでは、――さあれアッラーはさらに多くを知りたまいまする。――むかしわれらがアラビアの父祖の町々のあいだの一つの町に、系譜学者を本職とする三人の友がおりました。さてその職のことは、いずれ解き明かされることでございましょう、アッラーの思し召しあらば。
この三人の友は、また同時に、快男児のなかの快男児であり、機敏者のなかの機敏者でもありました。彼らの機敏さときては、遊んでいるうちに、吝嗇漢《けちんぼ》から財布をまきあげて、当人にはいっこう気づかせないことができるというほどのものでございました。それで毎日三人は、人里離れた隊商宿《カーン》の一室に落ち合うのをつねとし、そのためにわざわざその一室を借りきって、そこで、町の住人たちにしてやるおもしろい悪戯《いたずら》とか、一日を愉快に過ごすためたくらむめざましい手柄などを、他人にじゃまされずに、ゆっくりと相談するのでした。けれども、それは申しておかなければなりませんが、彼らの行動はいったいに、むしろ悪意なく、たいそう道理にかなったもので、それに彼らの挙措も上品で、顔も人好きのするふうでございました。三人はまったく兄弟の誼《よし》みで結ばれていて、儲けは共通にし、多額であろうと僅少であろうと、いつも公平に分け合っておりました。そしていつもその儲けの半分は、糧食の買い入れに使い、あとの半分は、むだなく過ごした一日のあとで、夜、陶酔するための、麻薬《ハシーシユ》の買い入れにあてました。ともした蝋燭の前での彼らの酔い振りは、いつも上等なもので、けっして喧嘩や争論などに陥ることなく、まったく反対でした。それというのは、麻薬《ハシーシユ》はむしろ彼らの本来の長所を発揮させ、彼らの才智を活気づけたからです。そういう際には、彼らはまことに聴く者を深く悦ばせたであろうような、縦横の機略を見いだすのでございました。
さて或る日、彼らの分別に利き出した麻薬《ハシーシユ》は、彼らに先例のない大胆至極な一策を暗示しました。それというのは、ひとたび計りごとが成ると、彼らは早朝に、国王の宮殿を囲む御苑の前に出かけたものです。そしてそこで大っぴらに喧嘩をおっぱじめ、ののしり合いはじめ、いつもとちがって、互いにこの上なく猛烈な呪いを浴びせ合い、身振りたっぷり、目をむきながら、殺してしまうぞとか、少なくとも、お釜を掘ってやるぞとか、おどし合うのでした。
御苑を散歩なすっていた帝王《スルターン》は、彼らの叫び声と、立ちのぼる騒ぎをお聞きになると、おっしゃいました、「あの騒ぎをしておる者どもをここに連れてまいれ。」そこですぐに、侍従と宦官は彼らを捉えに駆けつけ、散々なぐりつけながら、三人を帝王《スルターン》の御手の間に引っ立ててきました。
さて、三人が御前に出るとすぐに、帝王《スルターン》は時ならぬ彼らの叫びに、朝の御散歩を妨げられたので、お怒りをもって尋ねなさいました、「汝らは何者じゃ、おお、ならず者め。何ゆえに、汝らの王の宮殿の壁の下にて、はばかりもなく争っていたのか。」すると三人は答えました、「おお当代の王様、私どもはそれぞれ斯道《しどう》の大家でございます。そして私どもはめいめい別な専門に従っております。私どもの争論と申しまするは、――願わくは私どもをお許しくださりませ。――その原因は、まさしくわれわれの斯道《しどう》のことでございました。それと申すは、私どもはそれぞれおのが専門の仕事の卓越を論じておりましたが、何しろ私どもはおのが技術の蘊奥《うんおう》を極めておりまするから、いずれも自分のほうが余の二人よりもまさっていると言い張りました。そして言い募っておりますうちに、一同怒りに襲われてまいりました。そこから罵詈雑言《ばりぞうごん》に至るまでの距離は、ただちに通過されてしまいました。かくのごとくして、われらの御主君|帝王《スルターン》のいらせらるることも打ち忘れ、私どもは互いに相手を、お釜を掘られた野郎めだの、売女《ばいた》の息子だの、陰茎《ゼブ》食らいだのと、罵しった次第でございます。いや、悪魔は遠ざけられよかし。怒りは悪しき助言者にて、おおわが御主君よ、躾けよき人々にも、おのが品位の念を失わさせまする。いやはや、なんという私どもの頭上の恥辱でござりましょうか。私どもは、もちろん、われらの主君|帝王《スルターン》によって、寛大ならぬ御処分を受けるに値いいたしまする。」すると帝王《スルターン》はお尋ねになりました、「いったい汝らの専門は何か。」三人の友の最初の男は、帝王《スルターン》の御手の間の床《ゆか》に接吻し、やおら身を起こして、言いました、「私ことは、おおわが殿よ、私は宝石についての系譜学者でございまして、私が宝石系譜学の学問にかけては、もっとも卓絶した才能を授けられたる学者であることは、かなり広く世の認めるところでございます。」すると帝王《スルターン》はたいそう驚きなすって、これにおっしゃいました、「アッラーにかけて、汝はそのやぶにらみの様子より察すれば、学者よりもむしろやくざ者というところじゃ。同一人のうちに、学識と悪ふざけとを兼備するを見るとは、余もおそらくこれがはじめてであろう。しかしそれはともかくとして、せめて、その宝石系譜学とはいかなることをするのか、説き明かしてもらえるかな。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十七夜になると[#「けれども第八百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると彼は答えました、「それは宝石類の起原と品種の学であり、最初の一瞥《いちべつ》をもってよくそれらを贋物から区別し、見ることと触るることによって、それらを互いに識別する術でござりまする。」
すると帝王《スルターン》は叫びました、「なんと異なことじゃ。だが余はいずれ、こやつの学識を試み、才能を判断してやることができようぞ。」そして二番目の麻薬《ハシーシユ》食らいのほうを向いて、お尋ねになりました、「して汝は、専門は何じゃ。」すると第二の男は、帝王《スルターン》の御手の間の床に接吻してから、やおら身を起こして、言いました、「私はと申しまするに、おお当代の王よ、私ことは馬匹《ばひつ》の系譜学者にござりまする。私は馬の品種と起原の知識にかけては、アラビア人中、最高の学者と、世人は一致して見ておりまする。それと申すは、私は最初の一瞥をもって、しかもけっしてあやまつことなく、或る馬が、アナゼー族(2)から出ているか、ムーテイル族からか、ベニ・ハーレッドのところからか、それともダフィル族か、ジャバル・シャマンマールからかを、判断することができまする。また、その馬が、ネジェド地方の高原で育てられたか、ネフゥドの牧場のまん中でか、またそれがケヒラーン・エル・アジゥーズ種か、セグラウィ・ジェドラーン種(3)か、セグラウィ・シェイフィ種か、ハムダニ・シミル種か、それともケヒラーン・エル・クルーシュ種かということも、確実に見抜くことができまする。またその馬が一定時間のうちに、襲歩《しゆうほ》にせよ、|※[#「足+包」、unicode8dd1]足《だくあし》にせよ、速歩にせよ、駆けることのできる正確な距離をば、何フィートとはっきり言うことができまする。またこの動物の隠れた病いと将来の病いを明かし、父と母と祖先五代までさかのぼって、いかなる病いで倒れたるかも言えまする。また、不治と称される馬の諸病をいやし、瀕死の馬をもふたたび立ち上がらせることもできまする。以上は、おお当代の王よ、私の心得ているところのほんの一端にすぎませぬ。それと申すは、わが功績を大げさに吹聴するを恐れて、私はあえてわが学識の他の詳細を数え立てるをはばかるがゆえにござります。さあれ、アッラーは更に多くを知りたまいまする。」こう言って、彼は帝王《スルターン》の前にお辞儀をしながら、つつましやかに目を伏せたのでございます。
帝王《スルターン》は、聞きもし聴き入りもして、叫びました、「アッラーにかけて、学者であって同時にならず者であるとは、なんたる驚くべき不思議かな。だが余はいずれ、こやつの言いぐさを吟味し、系譜学の知識を試してやることができようぞ。」次に三番目の系譜学者のほうを向いて、お尋ねになりました、「して汝、第三の男よ、汝の専門は何じゃ。」
すると第三の麻薬《ハシーシユ》食らいは、三人のなかでもいちばん機敏な男でしたが、敬意を表してから、答えました、「おお当代の王よ、この私の専門はもちろんもっとも高等なるものにて、またもっとも至難のものでございます。それと申すは、私の仲間の、これなる二人の学者は、宝石と馬匹の系譜学者とは申せ、私ことは人類の系譜学者でござりますれば。この仲間たちは、もっとも卓越せる学者の間にいるにせよ、私こそは、異論の余地なく、彼らの頭上の冠と、世に見られておりまする。なんとなれば、おおわが主にしてわが頭上の冠よ、私はわが同胞の真の起原、間接の起原にあらずして直接のもの、子の母親のほとんど知りえず、父親のおおむね知らずにいる起原を、知る力を持っておりまする。現に、一人の人間を一見するのみにて、またその声の音色を聴くのみにて、私は遅疑なくこれに、彼が嫡出の子か、不義の子かを言い、さらに、その父母は嫡出なりしか、道ならぬ交合《まじわり》の産物なりしかを言い、かつ、その家の諸員の誕生を、われらの祖イスマーイール・ベン・イブラーヒーム(4)――このお二人の上にアッラーの恩寵ともっとも選ばれし祝福とあれかし。――までさかのぼりまして、その合法ないし不合法をば、説き明かすことができまするものと、思し召されよ。かくして私は、報酬者の――その讃《ほ》められよかし。――授けたまいし学識のおかげをもちまして、数多《あまた》の大貴族に彼らの出生の高貴についての蒙を啓《ひら》き、彼らも実は、或いはらくだ曳き、或いはろば曳き、或いは料理人、或いは贋の宦官、或いは黒ん坊、或いは奴隷中の一奴隷とか、またそれに類したものとの、彼らの母親との交合の結果にすぎぬことを、もっとも昭々として明らかな証拠の数々によって、彼らに立証してやることができました。またもし、おおわが殿よ、私の調べまする人物が女性とあらば、私は同じく、ただその顔の面衣《ヴエール》ごしに眺めるだけで、その血統、起原、さらにはその両親の職業までも、言ってやることができまする。以上は、おお当代の王よ、私の心得ているところのほんの一端にすぎませぬ。それと申すは、人間系譜学の学はきわめて広汎にわたり、ただそのさまざまの部門を列挙いたしまするのみにても、この場にて、われらの主君|帝王《スルターン》の御眼の上に、私の重苦しき姿のまる一日を、過ごさなければなりますまい。かくて、おおわが殿よ、私の学は、わが仲間のこれなる二人の学者のそれよりも、さらに、しかもはるかに感嘆に値するものなることを、御覧あそばされましょう。なんとなれば、地上何ぴとも、私ただ一人以外にこの学を有せず、私以前に誰もかつてこの学を有した者はござりませぬ。さあれ、いっさいの学はアッラーよりわれわれに至り、いっさいの知識はその寛仁の貸したもうところ、その賜物の最上は、依然として謙譲の美徳でござりまする。」
こう語って、第三の系譜学者は、改めてお辞儀をして、つつましやかに眼を伏せ、王の前に並んでいる自分の仲間のまん中に退きました。
すると王は、驚きの極に達して、ひとり言をおっしゃいました、「アッラーにかけて、何とも途方もないことじゃ。もしこの第三の男の断言が偽りならずとせば、これこそいささかの疑いなく、当代及びあらゆる時代を通じて、随一の稀代の大学者だわい。さればこの三人の系譜学者をば、彼らの驚くべき学識を試みうる機会至るまで、しばらくわが宮殿にとめ置くとしよう。もし彼らの広言に根拠なきことが証せられたあかつきには、串刺しの刑が彼らを待つぞ。」
帝王《スルターン》はこのように御自身と語りなすってから、総理|大臣《ワジール》のほうを向いて、命じなさいました、「この三人の学者に、宮殿中に一室を与え、日々一人前のパンと肉の割当てと、求めるだけの水を与えつつ、厳重に監視いたせ。」命令は即時即刻実行されました。そこで三人の友は顔見合わせ、眼で言い合ったものでした、「豪気なものだぜ。およそ王様ってものが、この王様くらい鷹揚で、英明だったという話は、おれたちはついぞ聞いたことがなかったわい。だが、アッラーにかけて、おれたちはだてに系譜学者なわけじゃない。いずれはおれたちの時節到来さ、いそいで来るか、ゆっくり来るか知らんが。」
けれども帝王《スルターン》のほうはと申しますと、その望んでいらっしゃった機会は、遠からず現われました。事実、隣国の王からたいそう珍しい贈物がいろいろ届きまして、そのなかに、白く透き通った、驚くばかり美しく、雄鶏の目よりも清らかな光沢の、宝石がひとつありました。すると帝王《スルターン》は、宝石系譜学者の言葉を思い出して、彼を呼びにやり、その石をお示しになってから、これを検査して意見を申せと御所望になりました。ところが宝石系譜学者は答えました、「われらの御主君王様の御命《おんいのち》にかけて、この石を透かしてみたり、照らしてみたりして、そのあらゆる面を調べなどするは申すに及ばず、それを手に取ってみるまでもなく、眺めるにさえ及びませぬ。それと申すは、その価値と美を判定するには、両眼を閉じて、わが左手の小指の先をもって、ちょいとさわってみるだけにて十分。」
それで王は、最初のときよりも驚いて、ひとり言をおっしゃいました、「いよいよ、こやつの広言のほどを測り知ることのできる時機至ったぞ。」そして王は宝石系譜学者にその石をさし出しなさると、彼は両眼を閉じて、小指を出して、それにさわりました。するとすぐに、彼はあわててあとしざりをして、まるで噛まれたとかやけどをしたとでもいうふうに、その手を振って言いました、「おおわが殿、この石はなんの値打ちもござりませぬ。これは宝石の純粋種に属さぬばかりか、その中心には虫が一匹はいっておりまする。」
帝王《スルターン》はこの言葉に、激怒がお鼻を満たすのを感じて、叫びました、「何をほざくか、おお周旋屋の息子めが。この石は、一点の不足なく透き通り光輝満ち、美事なる光沢を備えており、かつは王中の一王より、進物として贈り来たりしものなるを、汝は知らぬか。」そして御自分のお憤りにしか耳傾けず、串刺し刑の役人を呼び出して、これに命じました、「このふらちなる嘘つきめの肛門を刺し貫け。」この串刺し役人は並みはずれた巨漢《おおおとこ》でしたが、そこで彼は系譜学者をつかまえて、小鳥のように持ち上げ、貫くべきを貫いて、串刺しにすることに取りかかりますと、そのとき、慎重と穏健と分別に満ちた老人の総理|大臣《ワジール》が、帝王《スルターン》に申し上げました、「おお当代の王よ、いかにもこの男は、おのが手柄を誇張いたしたに相違ござりませぬ。万事につけ、誇張はとがむべきこと。されど或いは、彼の申し出したところは全然真実がないとも限らず、その場合には、彼の死は、宇宙の御主《おんあるじ》の御前にて、十分に弁明の余地がないやもしれませぬ。ところで、おおわが殿、いかなる人間にせよ、およそ人間の生命は、もっとも貴い宝石よりもさらに尊く、計りたもう御方《おんかた》の秤のなかにて、よりいっそう重いのでございます。かるがゆえに、この男の処刑は、証拠のあがるあとまで、延期するにしかず。しかるにその証拠は、ただこの石を二つに割る以外には得られませぬ。そのとき、もしこの石の中心に虫が見いだされるならば、この男は正当とせられましょう。されどもしこの石が無瑕《むきず》にて中をむしばまるるところなくば、この男の処罰は、串刺し役人によって、長きにわたり、激しく行なわるるでございましょう。」
帝王《スルターン》は総理|大臣《ワジール》の言葉の正しさを認めて、おっしゃいました、「この石を二つにいたせ。」そして石はただちに割られました。すると帝王《スルターン》はじめ並みいる一同は、その石の中心そのものから、一匹の白い虫が出るのを見て、驚きのぎりぎりの極みに達しました。そしてその虫は、空気に当たるとすぐに、ひとりでに燃え出して、一瞬のうちに燃え尽くし、その存在のほんのわずかの跡形も残しませんでした。
さて、帝王《スルターン》はその感動から立ち直りなさると、系譜学者にお尋ねになりました、「いかなる方法をもって、汝はこの石の中心に、われわれの何ぴとも見得ざりしかの虫の存在を、認めえたか。」すると系譜学者は謙遜に答えました、「私の小指の先に持っておりまする目の鋭敏な視覚により、また、この石の熱気と冷気に対するこの指の感度によりまして。」
帝王《スルターン》はこの男の学識と鋭敏に驚嘆なされて、串刺し役人におっしゃいました、「その男を放て。」そしてつけ加えました、「今日はこの男に、パンと肉の割当て倍量と、求むるだけの水を与えよ。」
宝石系譜学者については、このようでございました。
ところで、馬匹系譜学者はと申しますと、次のようでございます。
この虫のいた宝石事件のしばらくあと、帝王《スルターン》はアラビア内地の、或る部族の有力な首領からの忠節のしるしとして、見事な美しさの黒鹿毛の駒一頭を受け取りました。王はこの献上物を非常に悦ばれて、お厩舎《うまや》で幾日も幾日もこれを眺めて過ごしました。そして御殿に馬匹系譜学者がいることをお忘れにならなかったので、御前に出頭する命を伝えさせました。その男が御手の間にまいりますと、王はこれにおっしゃいました、「おお男よ、汝は相変わらず、先だってわれわれに語ったごとく、馬匹に精通すると称するか。そして汝の馬匹の起原と品種の学を、われわれに証する用意ありや。」すると第二の系譜学者は答えました、「いかにもそれに相違ござりませぬ、おお当代の王よ。」帝王《スルターン》は叫びました、「その下僕《しもべ》たちの首の上に、余を元首としてすえたまい、存在と事物に向かって、これを在らしむべく『在れ』とのたまいし御方の真理《まこと》にかけて、余は誓うぞ、汝の申し立てにいささかたりとも誤謬、虚偽、或いは錯誤ありせば、余は汝を最悪の死もて死なしめるであろう。」するとその男は答えました、「承わり、御意に従いまする。」すると帝王《スルターン》は命じました、「この系譜学者の前に、かの馬を曳いてまいれ。」
その名馬が自分の前に来ると、系譜学者はこれにちらりと一瞥、ただ一瞥だけを投じ、次に顔をばひきつらせ、微笑をもらし、そして帝王《スルターン》のほうを向いて、言いました、「拝見し、わかりました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十八夜になると[#「けれども第八百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで帝王《スルターン》はお尋ねになりました、「何を見たのか、おお男よ、して何がわかったのじゃ。」すると系譜学者は答えました、「拝見いたしましたるは、おお当代の王よ、この馬は事実まれなる美しさにて優秀な品種であり、体躯の釣り合いもよろしく、歩きぶりも堂々としておる。能力きわめて大、動作は理想的、肩はすらりとして、頸はすばらしく、鞍高く、脚は鋼鉄、尻尾は上がって申し分なき弓形を成し、たてがみはずっしりとして濃く、地を払う。また頭部はと申せば、およそアラビア人の国の馬匹の頭部特有の、あらゆる特徴を具備し、広くして狭からず、上部発達し、耳から眼への距離大にして、眼から眼への距離も大、そして耳から耳への距離はきわめて小。この頭部の前面は中高、両眼はとび出していて、羚羊《かもしか》の眼のごとく美しい。両眼のまわりの空間《あきま》は毛なくして、眼のすぐ近隣に、黒く、薄く、艶《つや》ある膚《はだ》を、そのままに見せておる。頬の骨は大きく細く、顎《あご》の骨は浮き上がる。面《おもて》は下のほうに至ってただちに狭くなり、ほとんどとがって唇の先端に達する。鼻孔は静止しているときは、面《おもて》と水平を成し、閉じ合わせた裂け目ぐらいにしか見えない。口には上唇よりも広い下唇がつき、両の耳は大きく、長く、薄く、羚羊《かもしか》の耳のように上品に切り立っている。要するにこれはあらゆる点で、まことにすばらしい逸物でござる。その黒鹿毛色の色は、色のなかの女王です。この獣《けもの》こそ地上随一の名馬にて、いずこにもその比を見いだせぬものたることに、いささかの疑いもござりませぬ、もしわが眼の発見したる一つの瑕瑾《きず》さえなかりせば、おお当代の王よ。」
帝王《スルターン》はお好みのこの愛馬の描写を聞かれたとき、最初は驚嘆なさいました。わけても、この系譜学者は無造作にちょっと獣を眺めただけなのでございましたから。けれども瑕瑾と言うのを聞くと、お眼は燃え、お胸はせばまり、お怒りにふるえる声で、系譜学者に詰問なさいました、「なんと申すか、おお呪われたるいんちき者め。かくも見事にして、アラビア最高血統の最後の末裔《まつえい》たる名馬をつかまえて、瑕瑾とはそもそも何事じゃ。」すると系譜学者は、騒がず答えました、「帝王《スルターン》はその奴隷の言葉に、御心《みこころ》平らかならざるものあらるるからには、奴隷はもはや何事も申しますまい。」帝王《スルターン》は叫びます、「汝の言いたきところを申せ。」男は言葉を継いで、「わが王がはばからず言う自由を私にお与えくださらぬうちは、申しますまい。」王は言います、「申せ、何事も隠しては相ならぬ。」すると彼は言いました、「されば、おお王よ、この馬は、父方は純粋真正の品種でござりまするが、ただ父方のみです。母方はといえば、あえて申しかねまする。」王はお顔を痙攣《けいれん》させて、叫びました、「その母方とはいったい何者じゃ、すみやかに申し聞かせよ。」すると系譜学者は言いました、「アッラーにかけて、おおわが殿、この駿馬の母は、まったく別種の動物でございます。なぜというに、それは牝馬ではなくして、海の水牛の牝でござりますれば。」
この系譜学者の言葉に、帝王《スルターン》はお怒りのぎりぎりの極みにお怒りになって、腫れ上がり、次にふくれ上がって、最初はひと言も言い出せません。そのうちやっと叫びなさいました、「おお系譜学者どもの犬め、汝の死のほうが汝の生よりもましじゃわい。」そして串刺し役人に合図をしながら、命じました、「これなる系譜学者の肛門を刺し貫け。」そこで串刺しの係長の巨漢《おおおとこ》は、系譜学者を両腕で持ち上げて、いよいよ件《くだん》の貫き通す曽端の上にその尻を乗せ、全身の重みをかけてその曽端の上に突き落としてから、巻き上げ繰子《くりこ》をまわそうとしますと、そのとき、あの総理|大臣《ワジール》、正義感を授けられた人物は、しばらく処刑を延ばすよう王に切に願って、申し上げました、「おおわが君、御主君よ、この系譜学者は、このように、これなる純血の馬をば海の水牛の牝なる母よりいでしものと称するとは、定めし軽率なる精神と、薄弱なる判断をわずらうものに相違ございませぬ。されば、これにその処刑が当然なる旨十分に証明してやるには、アラビア部族の首領よりつかわされて、この馬をひき来たった伯楽《ばくろう》を、ここにお呼び出し相なるにしかず。そしてこの系譜学者の面前において、御主君|帝王《スルターン》より伯楽にお尋ねのうえ、この馬の出生証を納め、血統と起原とを証する、例の小袋をお求めあそばすがよろしい。それというのは、血統正しい馬はすべて、おのが証書と系譜を納めてある筒型《つつがた》の小箱を、首につないで持っているはずなることを、われら知っておりますれば。」すると帝王《スルターン》は「苦しゅうない」と言って、その伯楽を御前に連れてくるよう、命令なさいました。
伯楽は帝王《スルターン》の御手の間に来て、求められるところを聞き、合点しますと、答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。ここにその筒《つつ》がございます。」そして懐中から、細工を施し、トルコ玉をはめた皮の小袋を取り出して、帝王《スルターン》にお渡しすると、帝王《スルターン》はすぐにそのひもを解き、中から、この馬の生まれた国の部族の首領全部の印章と、母馬と父馬の交尾に立ち会った証人全部の証明とが刻印されている、一葉の羊皮紙を取り出しました。その羊皮紙に記《しる》されていることは、要するに、この問題の若駒は、父はセグラウィ・ジェドラーン種の純血の種馬、母は、この種馬が海岸を旅している或る日偶然出会った海の水牛の牝で、種馬が有無を言わせぬ調子でいななきかけたあと、三度くり返して交尾したものだということです。なお、その海の水牛の牝は、騎手たちに捉えられて、月満ちてこの黒鹿毛の駒を産み落とし、その部族のところで一年間、自身哺乳した云々とも、書かれていました。その羊皮紙の内容のあらましは、このようでございました。
総理|大臣《ワジール》自身がこの資料を読み上げて、それに封印した長老《シヤイクー》と証人たちの名前を次々にあげるのを聞き終えると、帝王《スルターン》はこのように奇怪な事実にこのうえなく呆然とし、それと同時に、馬匹系譜学者のあやまたぬ明察の学識に、ほとほと感嘆なさいました。そこで串刺し役人のほうを向いて、命じなさいました、「繰子の板の上から、その者をおろせ。」そして彼が御手の間に改めて立ちますと、これにお尋ねになりました、「いかにして汝は、ただの一瞥をもって、この若駒の品種、起原、性質、出生を判断することができたのか。それというのは、汝の断定は、アッラーにかけて、真であったし、反駁の余地なく立証せられたのじゃ。いかなる徴《しるし》によって、汝はこの逸物の瑕瑾《きず》を認めたのか、すみやかに余に説き明かしてくれ。」すると系譜学者は答えました、「造作なきことでござりまする、おおわが殿。私はただこの馬の蹄《ひづめ》を見さえすればよかった。御主君も私のようになさりさえすればよいのでございます。」そこで王は獣《けもの》の蹄をよく見ると、それは馬の蹄みたいにくっついて、軽く、円くはなくて、水牛の蹄のように、偶蹄で、厚ぼったく、長いのでした。帝王《スルターン》はこれを見て、叫びなさいました、「アッラーは全能じゃ。」そして家来たちのほうを向いておっしゃいました、「今日はこの博学なる系譜学者に、二個のパン菓子と共に肉の割当て倍量と、求むるだけの水を与えよ。」
彼のほうはこのようでございます。ところが、人類系譜学者はと申すと、これはまったく話は別でございました。
事実、中心に虫のはいった宝石と、純血の種馬と海の水牛の牝から生まれた若駒と、これを二人の系譜学者が看破したという、この二つの稀代な事件が起こるのを御覧になり、御自身この二人の男のたいした学識を見届けなさると、帝王《スルターン》はお思いになりました、「アッラーにかけて、なんともわからぬが、しかし、あの第三のやくざ者は、もっとたいした学者かもしれんぞ。あいつはわれわれの知らぬどんなことを看破するか、測り知れぬ。」そこでただちにその男を御前に連れてこさせて、これにおっしゃいました、「汝はよく覚えているであろう、おお男よ、かつて汝は余の面前にて、人類に関する系譜学の知識について、人間たちの直接の起原、子の母親のほとんど知らず、父親のおおむね知らぬ起原を、よく看破しうると申し出《い》でたことを。また汝は、女子についても同様の主張を申し出でたことも、覚えているはずじゃ。そこで、汝は今もその断言を曲げざるや、また、それをわれらの眼前にて証明する用意ありやいなやを、汝より聞きたいと思う。」すると、第三の麻薬《ハシーシユ》食らいの、その人類系譜学者は答えました、「確かにそのように申しました、おお当代の王よ、して今もその断言を曲げませぬ。さあれアッラーは至大にましまする。」
すると、帝王《スルターン》は玉座より立ち上がって、この男におっしゃいました、「わがあとよりまいれ。」男はおあとからまいりますと、帝王《スルターン》は習慣に反して、彼を後宮《ハーレム》にお連れになりました。もっとも、あらかじめ宦官に、女たちはおのおの大小の面衣《ヴエール》をもって身を包み、顔を隠すようにと、通知させなさいましたが。そして両人いよいよ、現在の愛妾に当てた一室に着くと、帝王《スルターン》は系譜学者のほうに向いて、おっしゃいました、「汝の女主人の前にて床《ゆか》に接吻し、これをよく見て、次に汝の見たるところを余に申せ。」麻薬《ハシーシユ》食らいは、寵姫の手の間の床《ゆか》に接吻してから、帝王《スルターン》に申し上げました、「拝見つかまつりました、おお当代の王よ。」ところが彼は愛妾をひと目、ただひと目みただけで、それっきりでした。すると帝王《スルターン》はこれにおっしゃいました、「それでは、わがあとよりまいれ。」そして出て行かれたので、系譜学者はおあとからまいって、玉座の間《ま》に着くまで歩きました。すると帝王《スルターン》は人払いをして、ただ総理|大臣《ワジール》と系譜学者だけを残して、お尋ねになりました、「汝の女主人のうちに何を看破したるか。」すると彼は答えました、「おおわが殿、私は優美と、魅力と、高雅と、みずみずしさと、貞淑と、その他美のあらゆる特質と完全とに飾られたる、お一方《ひとかた》を拝しました。確かに、そのお方にはこれ以上何一つ望ましきものはござりますまい。なぜというに、およそ心を魅し、眼をさわやかにしうる天稟《てんぴん》はことごとく備え、どちらから眺めようと、釣合いと調和に満ちておられまする。確かに、そのお見かけより、また眼差を活気づけている御聡明ぶりより、判断いたしますれば、その方は内なる中心には、俊敏と理解のあらゆる好ましき長所をば、ことごとく所有しておらるるにちがいありませぬ。以上が、かのやんごとなき貴女のうちに、私の拝見つかまつったところでござりまする、おおわが殿よ。しかしてアッラーは全智にましまする。」ところが帝王《スルターン》は叱咤《しつた》して、おっしゃいました、「そんなことではない、おお系譜学者よ……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百二十九夜になると[#「けれども第八百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……しからずして、汝の女主人、わが尊ぶべき愛妾の出身について、汝の看破したるところを申せというのじゃ。」すると系譜学者は、にわかに遠慮した慎重な態度をとって、答えました、「それは微妙な事柄でございまして、おお当代の王よ、私としては申すべきや、黙すべきや、わかりかねまする。」帝王《スルターン》は叫びました、「こりゃ、アッラーにかけて、汝を呼んだるはほかでもない、言わせんがためじゃ。いざ、汝の持つところを出《い》だせ、慎重に物申せよ、おお、ならず者めが。」すると系譜学者は騒がず、言いました、「われらが御主君の御命《おんいのち》にかけて、かの貴女こそはアッラーの被造物のうちもっとも完全なるお方でもござりましょう、もしもその個人的完全を損ずる、一つの先天的欠点さえおありにならなかったならば。」
この最後の文句と、この欠点という言葉を聞くと、帝王《スルターン》は眉をひそめ、激怒に襲われ、いきなり御自分の新月刀を抜いて、系譜学者に飛びかかり、その首を刎ねようとして、叫びました、「おお犬め、犬の息子め、きさまはきっと、わが愛妾はどこかの海の水牛の後裔だの、眼かどこかに虫がいるだのと、ぬかすのじゃろう。ここな、淫猥の千人の寝取られ男の息子め、この刃《やいば》によってきさまの縦を横にめりこませてくれるわ。」もしこのとき慎重賢明な大臣《ワジール》が居合わせて、王のお腕をそらして口をきいてくれなかったら、王はまちがいなく、これに死をひと呑みに飲ませなすったことでしょう。大臣《ワジール》は言いました、「おおわが殿、この男におのが罪を納得させぬうちは、一命を奪わぬほうがよろしゅうございます。」すると帝王《スルターン》は、ひっくりかえしてお膝の下に押えつけている男に、尋ねました、「それでは、言ってみろ。きさまがわが愛妾に見いだしたその欠点とは何じゃ。」すると人類系譜学者は、同じように落ち着いた口調で、答えました、「おお当代の王よ、わが女主人、尊ぶべき御愛妾は、確かに美と完全の逸品ではございまするが、その母親は一般相手の舞妓で、ガージヤー(5)の流浪の民の独身女、売女の娘でございます。」
この言葉に、帝王《スルターン》の激怒ははなはだしく、叫び声が喉の奥から出ないほどです。だいぶんたってからようやく物が言えるようになって、総理|大臣《ワジール》におっしゃいました、「すみやかに行って、わが愛妾の父親をここに連れてまいれ。父親は王宮の執事じゃ。」そして、第三の麻薬《ハシーシユ》食らいである系譜学者を、依然お膝の下に押えつづけています。そのうち愛妾の父親が着くと、王はこれに叫びました、「かの串刺しの道具が見えるであろうな。よいか、この串の先端《さき》の上に自分を見るを欲せぬならば、わが愛妾たる汝の娘の誕生について、いそぎありていに申せ。」すると愛妾の父親、王宮の執事は答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」そして言いました。
「されば、おおわが君、御主君様、ではありていに申し上げます、それのみが救いでございますれば。私は若いころ、沙漠の自由な生活を送り、私の部族の領分を通る通行料を取って、隊商《キヤラヴアン》を護衛して旅しておりました。ところが或る日、われわれがゾバイダの井戸――このお妃の上にアッラーの恩寵と慈悲とあれかし。――そのほとりに野営しましたおり、そこにガージヤーの流浪の民の女の一群が通りかかりました。この民の娘たちは、ひとたび年ごろに達しますと、沙漠の男たちに春をひさぎ、一部族から一部族へ、一野営地から一野営地へと旅して、彼女らの色香と恋の技巧を、若い乗り手たちに提供するのでございます。さてその女の群れは、数日間私どもの間にとどまりまして、次に隣りの部族の男たちを求めて、私どものところを去りました。するとその出発後、もう一行の姿が見えなくなったころに、私は一人の五歳ばかりの女の子が、木蔭にうずくまっているのを見つけました。きっと母親のガージヤー女が、オアシスのゾバイダの井戸のほとりで見失ったか、置き忘れたかしたのでございましょう。そして実際のところ、おおわが君、御主君様、その小娘は熟れた棗椰子《なつめやし》の実のように褐色で、いかにもかわいらしくきれいなので、私はその場ですぐ、これは自分が引き取ると言明しました。その子供は、まるではじめて林に出た仔鹿みたいにおびえていましたが、私は首尾よく手なずけて、これを私の子供たちの母親にあずけると、母親はまるでわが子のように育ててくれました。そしてその子は私たちの間で大きくなって、たいそう美しく発育し、妙齢になると、どんなにすばらしい沙漠の娘であろうと、これに比べられるものはいないというほどになりました。それで私は、おおわが殿、私はわが心がこの娘にほれこむのを覚えまして、不合法に契るを好まず、卑賤な出であるにもかかわらず、結婚して正妻といたしました。そして祝福のおかげで、この妻は女の子を産みまして、それが、わが君の御愛妾としてお選びたもうた娘でございます、おお当代の王よ。これが私の娘の母親並びに、その人種と起原についての、真相でございます。われらの預言者ムハンマド――その上に祈りと平安とあれかし。――その御生命にかけて、私は真相に一言半句もつけ加えず、一言半句も削らなかった旨を、誓います。さあれアッラーはさらに真実にして、ただひとり無謬《むびゆう》にましまする。」
このありのままの告白をお聞きになったとき、帝王《スルターン》は悩ましい心配と苦痛に満ちた不安を軽くされたのを感じなさいました。それというのは、愛妾はガージヤー娘のなかの一人の売女の娘だと想像していらっしゃったところ、今聞けば、母親はガージヤーとはいえ、王宮執事と結婚するまでは処女の身であったとすれば、まさにその反対であったからです。そこで王は今は心おきなく、この炯眼《けいがん》な系譜学者の学識によってひき起こされた驚きに、身を委ねなさいました。そしてお尋ねになりました、「いったいどのようにして、おお学者よ、汝はわが愛妾がガージヤー娘で、自身売女の娘なりし舞妓の娘であったことを、見抜きえたのか。」すると麻薬《ハシーシユ》食らいの系譜学者は答えました、「こういうわけです。第一に、この発見の道に私を置いたのは、わが学識でございます、――アッラーはさらに多くを知りたもう。次には、元来ガージヤー族の女はすべて、御愛妾のごとく、両の眉毛が非常に濃く、鼻の根元で相接しておりますし、またやはり御愛妾のごとく、このうえなく強度に黒いアラビアの眼を持っているという、この事実でございます。」
すると王は、今聞かれたところに驚嘆し、御満足を立証するだけのしるしを与えずには、系譜学者を引き取らせようとなさいませんでした。そこで、ふたたびはいってきた家来たちのほうを向いて、おっしゃいました、「今日はこのすぐれた学者に、肉の割当て倍量と一日分の二つのパン菓子を、求めるだけの水と共に与えよ。」
人類系譜学者のほうはこのようでございます。けれどもこれだけではございません、これで終りではないのですから。
事実、翌日|帝王《スルターン》は、この三人の仲間のしたことと、系譜学の各部門にわたっての彼らの学の深いことについて、いろいろお考えになって夜を過ごした末、御自分に向かっておっしゃったのでした、「アッラーにかけて、わが愛妾の人種の起原について、あの人類系譜学者の申したところを聞いたあとでは、もはや彼こそわが国内随一の大|碩学《せきがく》と宣するよりほかない。しかしその前に、わしとしては、代々の王の正真正銘の後裔たる、このわれ、帝王《スルターン》の起原について、彼がなんというか知りたいものじゃ。」そして王のお考えはただちにすぐ行動となって、改めて、人類系譜学者を御手の間に連れてこさせ、これにおっしゃいました、「おお学識の父よ、余としてその方の言葉を疑うなんの動機もなき今となっては、余はぜひわが身の起原とわが王族の起原とについて、その方の言うところを聞かせてもらいたいものと思うのじゃ。」すると彼は答えました、「わが頭上と眼の上に、おお当代の王よ。さりながら、まず私に安泰のお約束を賜わったうえでなくてはなりませぬ。諺《ことわざ》にも申しまする、『帝王の逆鱗と汝の首の間には[#「帝王の逆鱗と汝の首の間には」に傍点]、空間《へだたり》を置けよ[#「を置けよ」に傍点]。そしてむしろ欠席で処刑されよ[#「そしてむしろ欠席で処刑されよ」に傍点]』と。ところでこの私は、おお御主君様、いたって感じやすく、ひよわでござりますれば、血統の問題のために、人の割れ目にはめこんで向う側まで突きぬける本物の串刺しよりは、欠席の串刺しのほうがまだ好ましゅうございます。」すると帝王《スルターン》はこれにおっしゃいました、「わが首《こうべ》にかけて、余はその方に安泰を授ける。何事を言おうと、その方はあらかじめ許されておるぞよ。」そして王は彼に保証の手巾《ハンケチ》を投げ与えました。系譜学者はその保証の手巾《ハンケチ》を拾って、言いました、「それでは、おお当代の王よ、どうかこのお部屋には、われわれ両人以外、余人のいないようにしてくださいまし。」すると王は尋ねました、「なぜじゃ、おお男よ。」彼は言うに、「そのゆえは、おおわが御主君様、全能のアッラーは、漏洩が有害のおそれある事柄をば、神秘の面衣《ヴエール》をもって蔽うを好みたもうがために、かずかずの祝福せられた御名の間に『隠蔽者(6)』という別名を持ちたまいますれば。」そこで帝王《スルターン》は、全員に、総理|大臣《ワジール》にさえ、座をはずすようお命じになりました。
そのとき系譜学者は、帝王《スルターン》と二人きりになるや、そちらに進み寄って、お耳の上に身をかがめて、申し上げました、「おお当代の王よ、君は実は不義の子にほかならず、しかも筋よろしからぬお子ですぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十夜になると[#「けれども第八百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この前代未聞の大胆なる、恐ろしい言葉を聞くと、帝王《スルターン》は顔色がまっ黄色になって、様子が一変してしまわれました。手足はぐったりとし、耳も眼もきかなくなり、酒も飲まないで酔いどれみたいになり、唇に泡をふいて、よろめきました。最後には失神して床《ゆか》の上に倒れてしまい、長い間この状態でいられたので、系譜学者には、はたして王がそれきり亡くなったのか、半死半生なのか、それともまだ生きていらっしゃるのか、はっきりわからないありさまでした。けれどもついにはわれに返られ、起き上がってすっかり正気にお戻りになると、王は系譜学者のほうに向いて、おっしゃいました、「今は、おお男よ、余をばその下僕《しもべ》らの首の上に置きたもうた御方の真理《まこと》にかけて、もしその方の言葉の真実なることが証せられ、動かすべからざる諸証拠によって、その点につき余が確信を得たあかつきは、余は、かならず永久に、確実に、余にはふさわしからぬものとなる王座を譲り、その方のためにわが王権を辞したいと思う。なんとなれば、その方こそ最適者であり、何ぴともその方のごとく、この地位にふさわしきはあるまいからじゃ。しかし、もしその方の言葉の端に虚偽《きよぎ》を見いだしたる節は、余はその方の首を刎ねるぞ。」すると系譜学者は答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。それに異存はござりませぬ。」
すると帝王《スルターン》はすっくと立ち上がって、猶予も遅延もなく、手に剣を携えて、元の女帝《スルターナ》母君のお部屋に駆けつけ、母君のところに飛びこんで、言いました、「天を高めて水と分かちたまえる御方にかけて、もし母上が、これからお尋ね申すところについて、ありていにお答えなくば、これをもってきれぎれにお刻み申すでござろうぞ。」そして王は、火炎の両眼をぎょろぎょろさせ、激怒によだれを垂らしながら、武器を振りまわします。すると母君の女帝《スルターナ》は、このようにいつもにない言葉に、おびえると同時に息をつまらせて、叫びなさいました、「御身の上と御身の周囲にアッラーの御名のあれかし。まあ落ち着きなさい、おおわが子よ、そしてなんなりと知りたいことをばお尋ねなさい。私はかならず、『真実をのたもう御方』の掟に従ってよりほかに答えませぬから。」すると帝王《スルターン》は言いました、「では、前置きも序論もいっさい抜きにして、手っとり早くお聞かせください、いったい私は父上|帝王《スルターン》の子息かどうか、またわが祖先の王族から出ているのかどうかを。これを私に明かすことができるのは、ただ母上ばかりですから。」すると母君は答えました、「それでは前置きを抜いて、言ってあげましょう。そなたはまぎれもなく、或る料理人の息子です。もしその次第を知りたいというのならば、次のようなことです。
そなたの先君の帝王《スルターン》、そなたが今の今まで父君と信じていたお方は、私を妃にお迎えあそばしたとき、習慣に従って私と同居なさいました。ところが、アッラーは王に子種をお恵みにならず、それで私は、お悦びをもたらし、御血統に王位を保証するような子孫を、お授け申すことができませんでした。王はお子様がないのを御覧になると、非常なお悲しみに陥られて、食欲も眠りも健康も、失ってしまいなさいました。それで母君にそそのかされて、私のほかにもう一人妻を迎えるようにすすめられ、私のほかに二番目のお妃を迎えました。けれどもアッラーは王に子種をお恵みになりません。そこでまたもや母君に、第三の妻をすすめられなすったのでした。そのとき私は、これでは結局自分が末席に追いやられてしまうことになるし、それに、そうしたところで帝王《スルターン》の御事態を少しもよくしはしないのを見て、自分の勢力をも救い、同時に王位継承をも救おうと、こう決心いたしました。そして私はこの妙案を実現するため、ただ好機を待つばかりでした。
ところが、或る日、相変わらず少しも食欲がなく、ますます痩せつづけていなされた帝王《スルターン》は、挽き肉を詰めた若鶏を、たいそう召し上がりたくなられました。それで料理人に、御殿の窓の下にある鳥籠に入れてある家禽を一羽、屠《ほふ》るように命じなさいました。そこでその男は籠のなかの鳥を取りにやって来たのです。そのとき私は、その料理人の男をよくよく見ると、これこそ、かねてのもくろみにまったく打ってつけの男と思いました。若いし、頑丈だし、大男の元気者でしたからね。そこで窓辺で身をかがめて、その男に秘密の戸から上がってくるように合図をしました。そして私は自分の部屋にその男を迎えたのです。私とその男との間に起こったことは、ほんのわずかの時間しかつづきませんでした。それというのは、その男が用をすますとすぐに、私はその心臓に短刀を突き刺したのです。その男は頭のほうが足よりも先に落ち、あおむけに引っくりかえって死にました。私は忠実な侍女たちに屍体を収容させ、侍女たちが庭に掘った穴のなかに、ひそかに埋めさせました。その日、帝王《スルターン》は挽き肉を詰めた若鶏を召し上がれず、料理人のわけのわからない失踪に非常なお腹立ちでした。けれども、日を重ねて九カ月後に、私は達者なそなたを産み落とし、それからずっとそなたは達者でおいでです。そなたの誕生は、帝王《スルターン》にとってお悦びの種で、それからはまた御丈夫になり、食欲も出なさり、それを機会に、大臣《ワジール》や寵臣をはじめ宮中全部の人々に、お恵みと御下賜品の限りを尽くして、四十日と四十夜にわたる、盛大な祝宴と一般の祭礼をお催しになりました。これがそなたの誕生と血統と起原についての真相です。預言者にかけて、――その上に祈りと平安あれ。――私は自分の知っていること以外言わなかったことを、誓います。そしてアッラーは全智にまします。」
この話を聞くと、帝王《スルターン》は立ち上がって、泣きながら母君のもとを出なさいました。そして王座の間《ま》にはいって、第三の系譜学者の真向かいに、床《ゆか》の上に坐ったまま、ひと言もおっしゃいません。涙はお眼から流れつづけ、たいそう長いお髯の隙間にすべり入りました。やがてひとときたつと、王は頭をあげて、系譜学者におっしゃいました、「その方の上なるアッラーにかけて、おお真実の口よ、いかにしてその方は、余が筋よろしからぬ不義の子だということを、看破しえたのか、教えてくれ。」すると系譜学者は答えました、「おお御主君、私ども三人がめいめい、自分の有する才能を証し、君ははなはだしく御満足なされたとき、君は褒美として、肉とパンの割当て倍量と、求むるだけの水を与えよと命じなさいました。そこで私は、このような施しぶりのけち臭さと、その気前の性質そのものにかんがみて、これは君は単なる料理人のせがれ、料理人の子孫、料理人の血に相違なしと、判断したのでございます。それというのは、王者の子の王者ならば、功労を認むるに、肉とかその他それに類するものの授与などをもってする慣習はなく、功労者たちを賞するには、豪奢な引き出物とか、誉れの衣とか、数も数えぬ財宝をもってするものです。されば私としては、この抗弁の余地なき証拠によって、君の不義による低い家柄を推測する以外、いたし方なかった次第で、この看破には、なんら手柄はないのでございます。」
系譜学者が語り終わると、帝王《スルターン》は立ち上がって、これにおっしゃいました、「その方の着衣を脱げ。」系譜学者がそのとおりにすると、帝王《スルターン》は御自分の着衣と王としての持ち物を脱ぎ去って、お手ずからそれらを系譜学者に着せました。そして彼をば玉座に就かせて、その前に身を屈し、両手の間の床に接吻して、君主に対する臣下の礼をとりました。そして即刻即座に、総理|大臣《ワジール》はじめその他の諸|大臣《ワジール》と王国の大官全部を入場させて、一同に彼を自分たちの正統の王と認めさせました。すると新しい帝王《スルターン》は、すぐに自分の友の麻薬《ハシーシユ》食らいの、他の二人の系譜学者を呼びにやって、一人をわが右の守護、今一人をわが左の守護に任命しました。また元の総理|大臣《ワジール》は、その正義感のゆえに、留任させました。こうして彼は大王となりました。
三人の系譜学者については以上のようでございます。
けれども元の帝王《スルターン》はと申しますと、その物語はまだ始まったばかりです。それというのは、次のような次第でございますから……
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――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
すると妹の小さなドニアザードは、日ごと夜ごとに、ますますきれいになり、ますます発育し、ますます理解力を増し、ますます注意深く、ますます寡黙となってきたが、自分の蹲っている敷き物からなかば身を起こして、姉に言った、「おおお姉さま、なんとお言葉は楽しく、味わい深く、面白く、興尽きないのでございましょう。」するとシャハラザードはこれにほほえみかけ、接吻して、言った、「そうですね。けれどもこれなどは、明晩お話ししようと思っているものに比べれば、何物でもございません、もっとも、私たちの御主君の王様がそれをお許しくださればのことですけれど。」するとシャハリヤール王は言った、「おおシャハラザード、あやぶむには及ばぬ。そちは確かに、明日、今ようやく始まったばかりのこの不思議な物語のつづきを、われわれに話して苦しゅうない。のみならず、そちは疲れてさえおらずば、今夜ただちにつづけても苦しゅうない。それほど余は、元の帝王《スルターン》、その不義の子の身に、いかなることが起こるか、知りたくてならぬ。アッラーは憎むべき女どもを呪いたまえかし。さりながら、この場合は、不義の子の母なる帝王《スルターン》の妃は、良き目的をもって、料理人と密通いたしたにすぎず、おのが内の誘《いざな》いを満足させんがためではなかったことを、余は認めざるをえない。アッラーはこの妃の上に御慈悲を拡げたまえかし。されど、かの呪われし女、乱行の女、黒人マサウドとなしたることをなせし犬の娘に至っては、けっして余の後裔に王位を確保せんがためにしたことではなかった、呪われし女めが。願わくはアッラーは断じてかやつを御憐れみたまわざることを。」そしてシャハリヤール王は、こう語って、眉をはなはだしくしかめ、白眼《はくがん》をもって横目でにらみながら、つけ加えた、「だが、そちについては、シャハラザードよ、余はようやく思い始めたが、そちは或いは、余が首を刎ねしめたかの破廉恥な女どもすべてとは、同様ではないかもしれぬな。」するとシャハラザードは、人嫌いの王の前に身をかがめて、言った、「どうぞアッラーはわが御主君の聖寿を長からしめ、わたくしに明日まで生きることをお許しくださって、この『お気の毒な不義の子』の身に起こったところを、君にお話し申し上げさせてくださいますように。」そしてこう語って、彼女は口をつぐんだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]けれども第八百三十一夜になると[#「けれども第八百三十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 小さなドニアザードはシャハラザードに言った、「御身の上なるアッラーにかけて、おおお姉様、もしお眠くなかったら、お願いです、どうか早く私たちに、料理人の不義の子の、元の帝王《スルターン》の身に起こったところを、聞かせくださいませ。」するとシャハラザードは言った、「心から悦んで、そしてわれらが御主君、この大度の王様に、当然払い奉るべき敬意として。」そして彼女は次のような言葉で、その物語をつづけた。
……元の帝王《スルターン》はと申しますると、その物語はまだ始まったばかりです。それというのは、次のような次第でございますから。
ひとたびわが王位と権力を、第三の系譜学者の掌中に譲ると、元の帝王《スルターン》は巡礼の修道僧《ダルウイーシユ》の衣を着けて、もう御自分にとってはまったくどうでもよいこととなった、人々への訣別などに暇どることなく、一物も携えずに、エジプトの国に向かって発足しました。その地でわが天命について思いふけりながら、忘却と孤独のうちに暮らそうというおつもりでした。アッラーは安泰を記《しる》したもうたので、疲労と危険に満ちた旅の末、元の王はカイロの壮麗な都に着きました。御自分の国の町々とはかくも異なった大都市で、ひとまわりするには、少なくとも歩いて三日半を要する町でございます。元の王は、これこそまことに、サンジャの橋(7)、アル・イスカンダリヤ(8)の灯台、ダマスのウマイヤ王廟の寺院《マスジツト》と並んで、世界の四不思議の一つであるのを、見ました。そしてかの詩人は、この町とこの国の美しさを、いささかも誇張していないと思いました。詩人は言いました、「エジプトよ、その砂塵は黄金にして、その河は祝福、その住民は快き、いみじき地、汝は汝を征服しうる勝利者の所領なり」と。
かつは歩き、かつは眺め、かつは驚嘆しつつ、倦むことを知らず、元の帝王《スルターン》は、貧しい修道僧《ダルウイーシユ》の衣の下で、主権の煩いと負担を振り棄てて、心ゆくまで見物し、好きなように歩き、意のままに立ちどまることができるのを、たいそう仕合せに感じました。そして考えました、「報酬者アッラーに讃《たた》えあれ。アッラーは、或る人々には、重荷と憂いと共に権力を、他の人々には、無憂と心の軽みと共に貧困を、与えたもう。もっとも恵まれてあるのは、この後者である。アッラーは祝福されよかし。」こうして彼は、心を魅する眺めを数多《あまた》得て、カイロの帝王《スルターン》の王宮そのものの前に行き着きました。当時それは帝王《スルターン》マハムードでございました。
彼は王宮の窓の下に立ちどまって、自分の修道僧《ダルウイーシユ》の杖にもたれつつ、国王がこの壮大な住居のなかで送ることのできる生活につき、また王たちの行為を見そなわし裁きたもう至高者の御前での、王の責務ということを別として、国王の絶えず投じられているに相違ない屈託と不安とさまざまの煩いとの行列について、思いに耽りはじめました。そして、わが出生のあばかれたおかげで、こんなに重苦しく錯綜した生活をのがれることに思い至り、それと交換するに、全財産と全収入としては、ただ自分の肌着と、羊毛の外套と、杖しか持たぬ、野天と自由の境涯をもってしたことを、魂のうちで深く悦びました。それで非常な晴朗な気持を覚え、それが魂を爽やかにし、おのが過去の心の激動をすっかり忘れさせたのでございました。
ところがちょうどこのとき、帝王《スルターン》マハムードは狩りからもどって、御殿にお帰りになるころでした。そしてこの修道僧《ダルウイーシユ》が杖に寄って、あたりのものには目もくれず、眼差《まなざし》はじっとはるかな事柄を凝視しているのを、お認めになりました。王はこの修道僧《ダルウイーシユ》の高貴な風姿と、高雅な態度と、超然とした様子に打たれなさいました。そしてひとり言をおっしゃいました、「アッラーにかけて、富裕な王侯の行く手にあって、手をさし出さぬ修道僧《ダルウイーシユ》は、これが初めてだわい。疑いなく、あの僧の身の上は、なみなみならぬ身の上に相違ない。」それで王は、お伴の貴族の一人を僧のもとにつかわして、話をしたいゆえ、王宮にはいるようにと誘わせました。修道僧《ダルウイーシユ》は帝王《スルターン》の乞いに応ずるよりほかいたし方ありませんでしたが、これは彼にとって、天命の第二の曲り角となりました。
さて帝王《スルターン》マハムードは、しばらく狩りの疲れを休めなすってから、修道僧《ダルウイーシユ》を御前に召し出し、ねんごろに迎えて、親切に様子を尋ねて、おっしゃいました、「その方の上に歓迎あれ、おおアッラーの尊ぶべき修道僧《ダルウイーシユ》よ。様子より察するに、その方は定めしヒジャーズ或いはヤマンの国の、身分高きアラビア人の子であろう。」修道僧《ダルウイーシユ》は答えました、「ひとりアッラーのみ身分高くましまする、おおわが殿よ。私は一介の貧者、乞食にすぎませぬ。」すると帝王《スルターン》マハムードは言葉を継がれて、「仔細ない。しかしながら、そもそもその方がこの国に来て、この宮殿の壁の下にいる動機《いわれ》は、どのようなものか、おお修道僧《ダルウイーシユ》よ。そはかならずや、驚くべき物語であろう。」そしてつけ加えなさって、「その方の上なるアッラーにかけて、おお祝福されたる修道僧《ダルウイーシユ》よ、何ひとつ包まず、その方の身の上を聞かせてくれよ。」すると修道僧《ダルウイーシユ》はこの帝王《スルターン》のお言葉に、眼より一滴の涙をこぼさずにはいられず、大きな感動がその心を締めつけました。そして答えました、「私の身の上を、おお殿よ、何ひとつ包まず申し上げましょう、そは私にとって苦渋と苦痛満ちた思い出とは申せ。けれども、公衆の面前にてお話し申すは御容赦くださりませ。」すると帝王《スルターン》マハムードは王座を立って、僧のほうに降り、僧の手をとって奥まった一室に伴ない、そこに二人で閉じこもりました。次に王はおっしゃいました、「今は心おきなく話すがよい、おお修道僧《ダルウイーシユ》よ。」
すると元の帝王《スルターン》は、帝王《スルターン》マハムードと向かい合って絨緞の上に坐り、言いました、「アッラーは至大にまします。されば私の身の上はこうでございます。」
そして元の王はその身に起こったことを、始めから終りまで、一つの細部も忘れずに物語り、どのようにして王位を譲り、修道僧《ダルウイーシユ》に身をやつして、旅によってわが身の不幸を忘れんと努めたかを話しました。しかしそれをくり返すまでもございません。
帝王《スルターン》マハムードは、この仮りの姿の修道僧《ダルウイーシユ》の波瀾を聞くと、その首に飛びついて、真心こめて抱きしめ、これにおっしゃいました、「その御《おん》知恵とその全能との神命によって、或いは低め或いは高め、或いは恥ずかしめ或いは誉れあらしめたもう御方に、栄光《さかえ》あれ。」次につけ加えて、「まことに、おおわが兄弟よ、御身の物語は偉大なる物語にて、その教訓は偉大なる教訓ではある。さればそれをもってわが耳を高尚ならしめ、わが悟性を豊かならしめてくれたことは、謝せられよかし。苦悩は、おおわが兄弟よ、浄化する火であって、時の推移は誕生の盲目の眼《まなこ》をいやすものじゃ。」次におっしゃいました、「今や知恵が御身の心を住居と選び、アッラーの御前での謙遜の徳が、王者の子らに千年の治世が与え得るよりも多くの高位の資格を、御身に与えたからには、ここに一つの願いを述べることが余に許されるであろうか、おお至大の人よ。」すると元の帝王《スルターン》は言いました、「わが頭上とわが目の上に、おお大度の王よ。」帝王《スルターン》マハムードは言いました、「余は御身の友となりたきものじゃ。」
こう言って、王は修道僧《ダルウイーシユ》となった元の帝王《スルターン》をふたたび抱いて、言われるに、「今後われわれの生活はいかばかり楽しき生活となるであろう、おおわが兄弟よ。われらは共に出《い》でては、共に帰り、夜は、身をやつして、町のさまざまの街区を経めぐって、それらの散策のわれわれに与えうる心性上の利を収めるであろう。してこの王宮にあって、あらゆるもののなかばは快く御身のものであろう。願わくは、余に拒むなかれ、拒絶は吝嗇《りんしよく》の形式の一つであるからな。」
修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》が感動した心をもって、この友情の申し出を承諾すると、帝王《スルターン》マハムードは付け加えました、「おお、わが兄弟にしてわが友よ、こんどは御身が、余もまた生涯において一つの物語を持つものと、心得られよ。してその物語はまことに驚くべきものにて、もしこれが針をもって眼の内側の一隅に録されたならば、これを謹しんで読む者にとっては、有益な教訓として役立つであろう。余は、我らの友情の第一歩に当って、余が何者であるかまた何者でありしかを、御身に知ってもらうため、これ以上それを御身に語るを遷延致したくない。」
そして帝王《スルターン》マハムードは、御自分の記憶をただ一点へと集めて、今は友人となった修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》に、言いなさいました。
若者の猿の物語(9)
されば、おおわが兄弟よ、わが生涯の発端は、あらゆる点で、御身の経歴の最後と相似たものであった。それというのは、御身は最初まず帝王《スルターン》であって次に修道僧《ダルウイーシユ》の衣を着けたが、余はその正反対にしたからじゃ。それというのは、余は最初|修道僧《ダルウイーシユ》、しかも修道僧《ダルウイーシユ》中極貧の修道僧《ダルウイーシユ》で、次に王となり、エジプトの帝位の王座に坐るに到った次第である。
余は事実、街頭で撒水夫の業を営んでいた極めて貧しい父から生まれた。父は毎日、水を満たした山羊の皮の革嚢を背に担いで、その重味に身を曲げつつ、ごく僅かの賃銀をもらって、店々と家々の前に水を撒いていた。余自身も働く年頃になると、父の仕事を助け、体力に相当した、というよりもむしろ体力以上に重い、水の革嚢を背に担いだものだ。そして父がその主《しゆ》の御慈悲の裡に世を去ったとき、わが得た全遺産、全相続財産、全財物といえば、撒水用の大きな山羊の皮の革嚢ひとつであった。それで余は糊口の資を得るためには、父の職を営まざるを得なかった。父は店先に水を撒いてやった商人たちと、富裕な貴人の門番たちから、大そう重んじられていた。
しかるに、おおわが兄弟よ、その息子の背は決して父の背ほど頑丈でなく、余はやがて、父の大きな革嚢の重きあまり、わが背中の骨を折ったり、生まれもつかぬ佝僂《せむし》になったりすまいがためには、その撒水の辛い業を棄てなければならなかった。だが財産も、所有物も、またそんなものの匂いだになかったので、余は乞食の修道僧《ダルウイーシユ》となって、回教寺院《マスジツト》の中庭や広場などで、通行人に手を延べなければならなかった。そして夜となれば、わが界隈の寺院《マスジツト》の入口に、長々と寝そべって、一日の僅かの稼ぎを食した後、自分のごときあらゆる不幸な人々と同じく、「明日の日は、アッラーの思し召しあらば、今日の日よりは景気がよかろう、」と独語しつつ、眠ったものじゃ。しかも余は、あらゆる人間は宿命的に地上において己が時を得るものであって、わが時も早晩、わが欲すると否とに拘わらず、到るはずであるということも、忘れなかった。肝要なことは、その時の通過する際に、うっかりしていたり、微睡《まどろ》んでいたりしないことじゃ。そのゆえに、わが時という思いが余の念頭を去らず、余は獲物を見つけて身構える犬のごとく、それを狙って怠らなかった。
しかしそれまでは、余は赤貧と窮乏の裡に、何ひとつ生の快楽を知らずに、貧者の生活を暮らしていた。されば、さる貴族の婚礼の日に、その戸口に物乞いに行ったとき、思いがけずその寛大な貴族のくれた五ドラクムの銭《ぜに》を、生まれてはじめて掌中に持ち、自分がこの金額の持ち主となったのを見るや、余はこれはひとつ御馳走を食い、何か結構な楽しみを自分に奮発してやろうと決心した。そこでその幸多き五ドラクムを手に握りしめつつ、目抜きの市場《スーク》のほうへと飛んで行った、自分の買うべきものにわが選択を定《さだ》めようと、八方をわが眼をもって眺め、わが鼻をもって嗅ぎまわしながら。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十二夜になると[#「けれども第八百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとそこに突如、市場《スーク》のなかにけたたましい哄笑が聞え、見ると大勢の人々が、顔を綻ばし口を開けて、鎖の先に、一匹の尻の赤い若い大猿を操っている男のまわりに、集っているのであった。その猿は、斜《はす》かいに歩きまわりながら、明らかに人々をからかってはピスタチオの実やエジプト豆や榛《はしばみ》の類を貰おうという目的で、眼と顔と手でもって、取り巻く人々に対して、いろいろの所作をしておった。
余はこの猿を見ると自分に言った、「やあマハムードよ、お前の運命がこの猿の首に結びつけられていないとは測り知れぬ。今お前はここに銀貨五ドラクムを持っていて、それを己が口腹のために、一度か二度かせいぜい三度、使おうとしている。むしろこの銭を用いて、この猿を主人より譲り受けて、猿廻しとなり、アッラーの戸口でのこの乞食生活を送りつづける代りに、確実に日々の食を稼ぐようにしたほうが、まさるのではあるまいか。」
余はこう考えて、群衆がまばらになった頃合いを見て、その猿の持ち主に近づいて言った、「この猿を鎖つきで、銀貨三ドラクムで売ってくれないか。」その男は答えて、「こいつに俺は現金《げんなま》で十ドラクムとられたが、お前さんには八ドラクムで譲ってあげよう。」余は、「四だな。」彼は、「七だ。」余は、「四半。」彼は、「ぎりぎりのところ五だ。それで預言者にかけて祈れ。」余は答えた、「その上にアッラーの祝福と祈りと平安あれ。それで承知した、ここに五ドラクムある。」そして五ドラクムをば鋼鉄の手箱のなかに収めるよりも安全に、わが掌の凹みにしっかと握りしめていたわが指を弛めて、余はわが全財産、全資本である金額をその男に渡し、引き代えに、その若い大猿を受け取って、鎖の端をとって曳いて行った。
ところがそうなって余は考えた。自分には猿を置く住居もなければ小屋もないし、まさか、日頃野天で住んでいる寺院《マスジツト》の中庭に、猿を一緒に連れてはいるわけにはゆかぬ。そんな真似をすれば、番人に、余と猿は散々罵言を浴びせられて、追い払われてしまうであろう。そこで余は、朽ち果てて今は三方の壁しか立っていない一軒のあばら家に赴いて、そこに落ち着いて、猿と共に夜を過ごすことにした。そのうちひもじさが犇々と余をさいなみはじめ、そのひもじさの上に更に、市場《スーク》の甘《うま》いものを食う望みを遂に果し得ず、しかも猿を購って無一物となったがため、今後とて静むること能わぬ空しき望みが、これに来たり加わった。わが困却はすでに甚だしかったところに、今はわが連れ、今後の商売道具をも、養わねばならぬ心配が重なった次第じゃ。そして早くもわが買物を悔いはじめたとき、にわかにわが猿がいくたびか奇妙な運動をしつつ、身を揺するのを見た。それと同時に、事情を了解する暇もなく、光った尻の醜い動物の代りに、十四日目の月のごとき青年を見たのであった。生まれてから余はかつて、美貌、優美、高雅、これに比べ得るような被造物を見たことがなかった。そして心を魅する態度で立って、彼は砂糖のごとく甘い声で、余に向って話しかけた、「マハムードよ、お前は私を買うために、お前のありたけの資本、ありたけの身代の銀貨五ドラクムを費やしてしまい、その途端に、われわれ、私とお前に足りるだけの食糧を何か手に入れるのに、どうしてよいかわからないことになったのだね。」余は答えた、「アッラーにかけて、いかにもそのとおりだ、おお若者よ。だがこれはいったいどうしたことか。お前は誰だ。どこから来たのか。どうしようというのだ。」すると青年は微笑を浮べて言った、「マハムードよ、質問は一切するな。それよりむしろこのディナール金貨を持って、われわれが腹をつくるに必要な御馳走すべてを買ってきなさい。そしてマハムードよ、お前の運命は、事実お前の考えたとおり、私の首に結びつけられていて、私は幸運と幸福の使者として、お前のところに来たものと心得なさい。」次に付け加えて、「ともかくも、おおマハムードよ、いそいで食べ物を買ってきてくれ。私もお前も、われわれはすっかり腹が減ってしまった。」そこで余はすぐにその命令を果して、程なく申し分なく上等な食事を共にした。この種の食事は余が生まれてからはじめてであった。そして夜もすでに大分更けたので、われわれは互いに相寄って横たわった。余は、この青年のほうが余よりもか弱いに相違ないと見て、わが駱駝の皮の古外套を掛けてやった。青年は一生こうする以外したことがないかのごとく、余にぴったりくっついて眠った。そこで余は、これを怯えさせたり、或いは余として疑わしき意図あるかに思わせて、また最初のつるつるの尻をした大猿の形に戻らせたりしてはと心配で、ほんの少しの身動《みじろ》ぎも敢えてしなかった。そして、わが一命にかけて言うが、この青年の身体《からだ》の快よい接触と、わが誕生以来枕代りになっていた革嚢の山羊の皮との間には、まことに差のあることと、余は思った次第じゃ。そこで余のほうは、自分はわが天運のかたわらに眠っているのだと考えつつ、眠ったのであった。そして余は、天運をばかくも美しく心惹く姿の下に余に授けたまう贈与者を、祝福した。
さて翌日、青年は余よりも早く起きて、余を起して言った、「マハムードよ、固い床《とこ》に寝た昨夜のあとには、こんどはまさにお前はわれわれのために、この町の宮殿のなかで一番美しい宮殿を借りに行くべき時だ。金に糸目をつけず、家具や絨緞には、市場《スーク》で一番高価な、一番上等なものを見つけて買うがよい。」余は聞き承知して答え、時を移さずその命令を実行した。
さて、いよいよわれわれが金貨千ディナールの袋十個をもって、家主から借りた、カイロ切っての豪壮な新居に納まると、青年は余に言った、「マハムード、お前はそのようにぼろをまとい、身はあらゆる種類の蚤虱の住処《すみか》となって、私に近より、私のそばに暮らすのを、どうして恥じないのか。風呂屋《ハンマーム》に行って身を清め、ましな風体になるのに、お前は何を待っているのか。それというのは、金銭《かね》のことなら、お前には、帝国の主《あるじ》の帝王《スルターン》たちに必要なよりも、もっとたくさんあるぞ。また着物のことなら、ただ選択に苦しむだけだ。」そこで余は、聞き承知して答え、いそぎびっくりするような入浴に出かけ、風呂屋《ハンマーム》から身も軽く、香りも高く、美々しくなって出て来た。
青年は余が、見ちがえるばかりになり、この上なく豪奢な衣服を着て、その前に再び現われたのを見ると、長い間しげしげと余を見つめ、余の風采に満足したらしい。次に余に言った、「マハムードよ、お前にはまさにこのようにしてもらいたかったのだ。それでは私のそばに来て坐りなさい。」そこで余はそのそばに坐った、「ははあ、これはいよいよ時機到ったようだわい、」と心中に思いつつ。そしてどのようにも、またどんな点でも、決して遅れまいと覚悟した。
さて間もなく、その青年は親しげに余の肩を叩いて、言った、「マハムードよ。」余は答えた、「やあ、殿《シデイ》よ。」彼は言った、「どうだ、第九月《ラマザーン》の月よりも美しい一人の王の若い娘が、お前の妻になるとすると、お前はどう思うか。」余は言った、「それは悦んで迎えることと思いますよ、おおわが御主人様。」彼は言った、「それならば、立ち上がって、マハムードよ、ここにあるこの包みを持ち、カイロの帝王《スルターン》のところに行って、その御長女に結婚を申し込むがよい。そのお方がお前の運命に記されているのだから。すると父王はお前を見て、お前こそ王女の夫となるべき男とおわかりになるだろう。けれどもお前は、はいって御挨拶《サラーム》を済ましたらすぐに、帝王《スルターン》にこの包みを、贈物として献上するのを忘れてはならぬ。」余はそこで答えた、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてかくのごときがわが運命とあらば、一刻もためらわず、途中その包みを持ってゆく一人の奴隷を連れて、帝王《スルターン》の王宮に赴いた。
王宮の警吏も宦官も、余がかくも美々しく装っているのを見ると、恭しく余の希望を訊ねた。余が帝王《スルターン》にお話し申し上げたく、じきじきにお渡し申したき献上物ある旨を告げると、彼らは余の名において拝謁を願い出《い》で、直ちに余を御前に案内するに、何の難色もなかった。余は、あたかも生涯国王たちの陪食者ででもあったかのごとく、落ち着き払って、極めて恭しくしかし阿《おも》ねるところなく、帝王《スルターン》に御挨拶《サラーム》を投ずると、帝王《スルターン》もにこやかに愛想よく答礼なされた。そこで余は奴隷の手より例の包みをとって、それを献げつつ言った、「この細《ささ》やかなる御進物を御嘉納遊ばされませ、おお当代の王よ。これは決して君の御勲功の路上にあるがごときものに非ず、わが無能の卑しき小径《こみち》の上にあるものではござりまするが。」すると帝王《スルターン》は総理|大臣《ワジール》にその包みを取って開けさせ、その中を御覧になった。そこには、決してこれに類するものなど一つとして見なすったことがないに相違ないくらい、信じられぬほど立派な、宝玉と装身具と装飾品の類いがあった。帝は驚嘆せられ、この進物の美しさに感嘆して、余に仰しゃった、「受け取り置く。さりながら、その方の願いの筋と、これと引き代えに余の取らせ得るものをば、取りいそぎ申すがよい。王たるものは、施与と行儀作法において、決して後《おく》れをとってはならぬからな。」それで余はそれ以上時機を待たず、答えた、「おお当代の王よ、わが願いは、かの秘められし真珠、かの萼《うてな》にひそむ花、かの封ぜられし処女、かの面衣《ヴエール》のうちに閉じこもる貴女、御長女を通じて、君が御近親と御縁者とに相成りたき儀にござりまする。」
帝王《スルターン》はわが言葉を聞き、わが願いの筋を解されると、ひと時の間じっと余を見つめて、やがてお答えになった、「苦しゅうない。」次に大臣《ワジール》のほうに向かれて仰せられた、「その方は、この卓抜なる殿の御所望をどう思うか。余としては、全く似つかわしく思うのじゃ。その人品骨柄の或るしるしを見るに、この仁はわが婿たるべく、天運によって派せられたるものと余は認めるが。」御下問に接した大臣《ワジール》は答えた、「王の御言葉《みことば》はわれらの頭上にござりまする。この殿はいささかもわが御主君にふさわしからぬ御近親にも非ず、斥くるべき御縁者でもござりませぬ。それどころではございませぬ。さりながら、或いは、この御進物以外に、その権力と有力の更に一つの証拠をお求め遊ばすほうが、よろしかろうとも存じまする。」すると帝王《スルターン》はこれに言われた、「この件につき余は何と致したものであろう。進言致せ、おお大臣《ワジール》よ。」大臣《ワジール》は言った、「私見を申せば、おお当代の王よ、御宝蔵の最も美しい金剛石をお示しになって、それと同じ値《あたい》の金剛石一顆を、婚礼の引出物に持参するという条件に非ずば、王女たる姫君との結婚は叶わぬと致すことでござりまする。」
そのとき余はこうしたすべてに内心激しく動揺致したが、帝王《スルターン》に訊ねた、「もし私がこの宝石の姉妹にして、あらゆる点で相似たる宝石一顆持参致しますれば、必らず姫君を賜わりましょうか。」帝は余に答えた、「もしその方が実際にこれと同一の宝石を持参すれば、わが娘はその方の妻であろうぞ。」そこで余はその宝石をとくと吟味し、あらゆる方向にまわしてみて、それをばわが眼の中にしかと収めた。次にそれを帝王《スルターン》にお返し申し、明日再び参上するお許しを乞いつつ、お暇《いとま》を告げた。
そしてわれわれの館《やかた》に着くと、かの青年は言った、「首尾はどうだった。」そこで余はこれに起ったところすべてを知らせ、かの宝石をさながらわが指の間に持つもののごとく、描き聞かせた。すると彼は言った、「それはわけないことだ。もっとも今日のところはもう遅すぎるが、しかし明日、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、私は今お前の聞かせた宝石と、寸分たがわぬ金剛石を、十個持たせてやろう……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十三夜になると[#「けれども第八百三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それはわけないことだ。もっとも今日のところはもう遅すぎるが、しかし明日、|アッラーの思し召しあらば《インシヤーラー》、私は今お前の聞かせた宝石と、寸分たがわぬ金剛石を、十個持たせてやろう。」
そして実際、翌朝、その青年は館《やかた》の庭に出て、一と時たつと、その十個の金剛石を持ってきた。いずれも帝王《スルターン》のそれと全く美しさ等しく、鳩の卵形に刻んだ、太陽の目のように清らかなものであった。余はそれを帝王《スルターン》に呈しに行って、言った、「おおわが御主君、些小ながら御容赦下さい。けれども私は金剛石をただ一顆持ってくることができず、十顆ばかり束《たば》にして持参せざるを得ませんでした。このなかでお選び下さった上、お気に召さぬ分は、お棄て下さって差支えござりませぬ。」そこで帝は総理|大臣《ワジール》に、それらを収めてある七宝の小箱を開かせ、そしてその光輝と美しさに驚嘆し、実際に、すべて御所蔵のものとそっくり、寸分たがわぬ宝石が十個あるのを見られては、お驚き甚だしきものがあった。
帝は驚きから返ると、大臣《ワジール》のほうを向き、言葉をかけなさらずに、手でもって、「いかにすべきか、」という意味の身振りをされた。すると大臣《ワジール》も同様、「王女を賜わるべきでございます、」という意味の身振りで答えた。
そして直ちに、われらの結婚の準備を万端ととのえるようにとの、命令が下された。法官《カーデイ》と証人が呼ばれ、その場で、結婚契約書が認《したた》められた。この法律文書が調製せられると、慣習の儀式に従って、それは余に渡された。そして余は、かねてかの青年をわが近親として帝王《スルターン》に紹介しておいたが、ぜひこの際この青年を儀式に参列させたいと望んでいたので、とりあえず彼にこの契約書を示し、余自身は読み書きを知らぬゆえ、代って青年に目を通してもらうことにした。彼は端から端まで声高に読み上げてから、余にそれを渡しながら言った、「これは法規に従い、慣習に従って出来ています。あなたはこれで合法的に、帝王《スルターン》の王女と結婚しなさったわけです。」次に彼は余を傍《かた》えに連れて行って言った、「万事これで結構だ、マハムードよ、しかし今はお前に一つの約束をしてもらわなければならぬ。」余は答えた、「ほう、アッラーにかけて、わが一命はすでにお前にあずけてあるが、それをお前に与えるというよりも大きなどんな約束を、今さらお前は私に求めることができるのか。」彼は微笑して余に言った、「マハムードよ、私がお前に王女のうちに分け入る許しを与えないうちは、お前に結婚を完了してもらいたくないと思うのだ。その前に私のしなければならぬ或ることがあるから。」余は答えた、「承わるは従うこと。」
そこで、いよいよ分け入りの夜が来ると、余は王女の許にはいった。しかしかかる際新郎のするところをなす代りに、余は、欲望にも拘わらず、王女より遠く離れて、わが一隅に坐った。そして遠くから眺めて、わが眼をもってその麗質を仔細に見るのみで、満足した。こうして余は第二夜も第三夜も、同様に振舞った、毎朝、わが妻の母は習慣に従って、昨夜の模様を訊ねに来ては、「アッラーのお蔭で、何のさしさわりもなく、お前の処女性の証拠が立てられたことでしょうね、」と問うにも拘わらず。しかしそれに対して、わが妻はいつも、「まだ何もなさいません、」と答えた。そのゆえに第三夜の朝、わが妻の母は悲しみの限り悲しんで、叫んだ、「おお、私たちの災厄《わざわい》です。どうしてお前の夫は、私たちをそのように不面目な扱いをなさって、いつまでもお前に分け入るのを控えていなさるのでしょう。私たちの身内の婦人方や奴隷たちは、この振舞いをどう思うことでしょう。こうしてさし控えているとは、何か打ち明けにくいわけがあるとか、はっきりされない理由があると思われても、致し方ないではありませんか。」そして不安に溢れて、母君はその三日目の朝、帝王《スルターン》に事情を話しに行かれると、帝は言った、「万一、今夜も処女を破らないようであったら、あの男の首を刎ねてしまおう。」そしてこの話は、わが妻なる乙女の耳に達し、妻はそれを余に伝えに来た。
そこで余は躊躇なく、その次第を青年に知らせた。すると彼は言った、「マハムードよ、いよいよ時機到った。しかしその処女を破る前に、もうひとつ条件がある。それは、花嫁と二人きりになったら、お前は、花嫁が右腕にはめている腕輪を下さいと頼むのだ。そしてそれをもらったら、すぐに私のところに持ってきなさい。そのあとで、お前は分け入りを果し、父母を満足させて差支えない。」余は答えた、「仰せ承わり、仰せに従う。」
夜となって、余が新婦と一緒になると、余はこれに言った、「御身の上なるアッラーにかけて、あなたは本当に、私が今宵あなたに悦びと楽しみを与えることをお望みでしょうか。」新婦は答えた、「実際に望んでおります。」余は言葉を続けた、「それでは、あなたの右腕にしているその腕輪を下さい。」新婦は叫んで、「それはよろこんで差し上げますけれど、わたくしがほんの子供のとき、乳母のくれたこのお守りの腕輪を、あなたのお手に渡したら、その結果どんなことになるかしら。」そう言いながら、腕からそれを外《はず》して、余にくれた。余は直ちに外に出て、それを友の青年に渡しに行くと、彼は言った、「そうだ、まさにこれが欲しかったのだ。今はお前は分け入りのため戻ってかまわぬ。」そこで余は、占有に関するわが約束を果し、かくして万人を悦ばせるため、いそいそと婚姻の間《ま》に引き返した。
ところが、用意をととのえて床中で余を待っていたわが妻の許にはいった時以来、おおわが兄弟よ、余はわが身に何が起ったのか、全く知らぬのじゃ。余の知るすべてと言えば、余は突如わが部屋とわが宮殿が、さながら夢中のごとく崩れるを見、自身は先に猿を買い受けた際これを連れて行ったあの廃屋のただ中に、露天の下に、横たわっているのを見たということのみ。そして余はあの豪奢な衣服は剥がれ、昔の貧窮の襤褸をまとって半ば裸であった。余はあらゆる色の布片のつぎはぎだらけのわが古い胴着と、わが乞食僧の杖と、穀物商人の篩《ふるい》のように穴だらけのわが捲頭巾《ターバン》を、認めた。
これを見て、おおわが兄弟よ、余はこれがそもそも何のことやら一向わからず、自らに問うた、「やあマハムード、お前はいったい覚めているのか、眠っているのか。お前は夢をみているのか、それとも実際に乞食僧のマハムードなのか。」そのうちすっかり意識を取り戻すと、余は立ち上がり、昔、猿がするのを見たように、身を揺すってみた。だが余は依然あるがままの自分、貧者の貧しい息子であって、それだけのことじゃ。
そこで魂は思い悩み、精神は覚束かぬ状態にて、余は自分をかかる境遇に陥らしめた不可解なる宿命を、あれこれ考えつつ、いずこへ行くとも知らずさまよいいだした。このようにさまよいつつ、余は人通りのない或る街に着いたが、見ると、地面に敷いた小さな敷物の上に坐り、己が前に、何やら記した書類とさまざまの占い用具を一杯載せた小さな莚《むしろ》を置いた、バルバル地方の一人のマグリブ人がいる。
余はこの出遭いを悦んで、余の運勢を占い、星占いをしてもらうつもりで、そのマグリブ人に近づき、挨拶《サラーム》を投げると、彼はそれに答えた。そこで余は脚を組んで地に坐り、その向いに蹲《うずくま》って、わがために、「見えざる者」に諮《はか》ってくれるように乞うた。
するとマグリブ人は、短刀の刃の閃めく両眼をもって、じっと余を視つめたあげく、叫び出した、「おお修道僧《ダルウイーシユ》よ、お前こそはたしかに、お前をお前の妻から引き裂いた、憎むべき宿命の犠牲になった男であろうが。」そこで余は叫んだ、「そう、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、そうだ、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、それこそこの俺その人だ。」男は言った、「おお気の毒に、お前が銀貨五ドラクムで買って、そしていきなり優美と美しさ溢れた青年に変身したあの猿は、実はアーダムの子らのうちの人間ではないのだ、あれは性《たち》の悪い魔神《ジンニー》なのだ。彼はただ自分の目的に達しようがため、お前を道具に使ったにすぎぬ。事実こういうことなのだ。彼は久しい前から、帝王《スルターン》の王女にぞっこん惚れこんでいた。それがすなわち、彼がお前と結婚させたあの王女その人だ。ところが、彼のあらゆる威力に拘わらず、王女は護符《まもり》の腕輪を身につけているがゆえに、どうしても王女に近づけないので、そこでお前を介して、その腕輪を手に入れ、支障なく王女をわが有《もの》にしようとしたわけだ。だがわしは程なく、あの悪漢の危険な魔力を打ち破れると思う。あいつはわれらの主スライマーン――その上に祈りと平安あれかし。――その掟に叛逆した、不義の魔神《ジン》のうちの一人じゃ。」
こう語って、そのマグリブ人は一葉の紙を取り上げ、そこに混み入った文字を書きこみ、こう言いながら、それを余に渡した、「おお修道僧《ダルウイーシユ》よ、汝の天運の偉大を疑うなかれ。勇気を取り戻して、これからわしの言う場所に行け。そしてそこで、一団の人物の通行を待って、その人々を注意深くよく見るがよい。そしてそのうちの首領と覚しい者を認めたら、この一札を渡すのだ。そのお方がお前の望みを叶えてくれるであろう。」次に彼は、件《くだん》の場所に行き着くための、必要な指図を与えてくれて、言い添えた、「お前がわしに払うべき報酬の件は、お前の天運が成就した暁に、払うがよい。」
そこで余は、マグリブ人に謝してから、その一札を受け取って、教えられた場所に向った。その目的で、余は終夜と翌日一日と次の夜の一部、歩いた。すると人気のない野に行き着いたが、そこにあるものといえば、ただアッラーの見えざる御眼《おんめ》と野生の草のみであった。余はそこに坐って、やがてわが身に起るところを待ち侘びていた。そのうちわがまわりに、余には見えぬ夜鳥の飛ぶごとき音が聞えた。寂寥の恐怖がわが心臓を震わしはじめ、夜の畏怖がわが魂を満たした。すると突如、少しく隔たったところに、多数の炬火《たいまつ》を認めたが、それはひとりでに余のほうに進んでくるらしかった。そしてやがて、炬火を掲げる手を見ることができたが、それらの手の持ち主は夜の奥深くとどまって、わが眼に見えぬ。所有者なき手の掲げる無数の炬火は、こうして二つずつわが前を過ぎて行った。そのうち最後に、多数の明りに囲まれ、輝やかしい衣服を着て、玉座に坐る一人の王が見えた。王はわが前に着くと、余を見やり、じっと見つめたが、その間わが膝は恐ろしさにぶつかり合った。王は余に言った、「わが友、バルバルのマグリブ人《びと》の書状はどこにあるか。」そこで余はわが心を鞏固にし、進み出てその書状を差し出すと、行列は停って、王はそれを拡げて読まれた。そして余には見えない何人《なんぴと》かに向って、叫ばれた、「やあ、アトラシュ、ここに来たれ。」するとすぐに、すっかり身仕度をととのえた一人の使者が、闇から出て来て、王の御手の間の地に接吻した。王はこれに命じて、「速やかにカイロに行って、しかじかの魔神《ジンニー》を搦め捕り、遅滞なくここに曳いてまいれ。」使者は命に服して、直ちに姿を消した。
さて、一と時たつと、使者はあの青年を捕縛して戻ってきたが、青年は見るも怖ろしく、まともに見るとまことに醜怪な姿になっていた。王はこれを怒鳴りつけた、「なぜ、おお呪われたる者よ、貴様はこの|アーダムの子孫《バニ・アーダム》の食物を横取りしたるか。またなぜ貴様はその食物を喰らったるか。」青年は答えた、「あの食物はまだ手をつけませぬが、あれを調理したのはこの私でございます。」王は言った、「貴様は直ちに護符の腕輪をば、このアーダムの子に返さなければならぬ。さもないと余を相手にすることになるぞ。」ところがこの魔神《ジンニー》は頑固な豚であったので、傲然と答えた、「あの腕輪はここに持っているが、誰にも渡すものか。」そう言って、彼は竈《かまど》のような口を開けて、腕輪を口中に放りこみ、その体内に呑みこんでしまった。
これを見ると、夜の王は猿臂《えんぴ》を延ばし、身をかがめてその魔神《ジンニー》の首筋を捉え、石弩《いしゆみ》のごとく振りまわして、「ざまを見ろ、」と叫びながら、地面に叩きつけた。そして一度に、その縦を横にめりこませてしまった。次に王は、炬火を掲げる手の一つに命じて、この生命なき身体《からだ》の体内から、腕輪を引き出して、余に与えるように命じた。それは立ちどころに実行された。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十四夜になると[#「けれども第八百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると、おおわが兄弟よ、その護符の腕輪が余の指の間に落ちるや直ちに、王とその供奉《ぐぶ》の手全部は消え失せて、余は豪奢な衣服を着て、王宮のただ中の、わが妻の部屋そのものにいるのであった。妻は深い眠りに陥っていた。しかし余がその腕に再び腕輪をはめてやったらすぐに、妻は目覚めて、余の姿を見て悦びの叫びをあげた。そこで余はあたかもその間何事も起らなかったかのごとく、妻に寄り添って横たわった。爾余は回教信仰の神秘じゃ、おおわが兄弟よ。
翌日、妻の父母は余が不在から戻ったと知って、悦びの極に達し、そのことについて余に問い質すのも打ち忘れてしまった。それほどわが娘の処女の破られたるを知って、父母の悦びは甚だしかった次第じゃ。爾来、われわれは一同、平安と和合と融和の裡に暮らした。
そして余の結婚後しばらくして、わが伯父、わが妻の父なる帝王《スルターン》は、男子を遺さずに亡くなったが、余が長女と結婚していたので、余に王位を譲った。かくて余は今日の身となったのじゃ、おおわが兄弟よ。しかしてアッラーは至大にまします。われらはアッラーより出でて、アッラーへと戻るであろう。
帝王《スルターン》マハムードは、新しい友の修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》に、このように御自分の物語を語りなさると、友がこのように不思議な冒険に極度に驚いているのを見て、仰しゃいました、「驚くことなかれ、おおわが兄弟よ。何となれば、記《しる》されたる一切は行なわれなければならぬのであり、万物を創りたまえる御方の御意《ぎよい》には、不可能なることはないからじゃ。さて余は御身に、わが卑しき出生を暴露して、御身の眼に低下して見ゆるをも恐れず、またまさにわが実例が御身の慰めとならんがため、かつは御身が位階において、個人的価値において、余に劣ると思わざるように、全くありのままに自身を御身に示したる今となっては、御身は悉く心を安んじて余の友となることができる。なぜなら、御身に語ったところの後では、もう余は、御身に対する余の地位を誇る権利を覚えぬであろうからな、おおわが兄弟よ。」次に付け加えなさいました、「また、御身の地位を更に正式のものとするがために、おお、出身と位階のわが兄弟よ、余は御身をわが総理|大臣《ワジール》に任ずる。かくして御身は余の右腕となり、余の行為の意見番となるであろう。そしてこの王国では、何事も御身を介さずには、御身の経験があらかじめまず是認することなくしては、行なわれぬであろう。」
そしてそれ以上猶予せずに、帝王《スルターン》マハムードは王国の貴族《アミール》大官を召集して、この修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》を総理|大臣《ワジール》として認めさせ、御自身で見事な誉れの衣をお着せになり、国璽をお預けになりました。
新しい総理|大臣《ワジール》は、その日すぐに政務会議《デイワーン》を開き、翌日からずっとそのように続け、自分の職務上の勤めを、非常な正義と公正の精神でもって果して行ったので、人々はこの新しい事態を聞きつけて、奥地からはるばる出てきて、自分たちの紛争の最高の審判者として、この大臣《ワジール》の判決を仰ぎ、決定を信頼する有様でした。大臣《ワジール》はその判定に非常な知恵と穏健を示したので、不利の判決を宣された人々までもの感謝と称讃を得ました。またその余暇は、帝王《スルターン》と親交を結んで過ごし、今は王の切っても切れない伴侶となり、全幅の信頼をおく心友となりました。
さて或る日、帝王《スルターン》マハムードは意気銷沈を覚えなさって、いそぎ御友人に会いに行って言いました、「おお、わが兄弟にしてわが大臣《ワジール》よ、余の心は今日わが裡において重く、余の意気は銷沈している。」すると元アラビアの帝王《スルターン》であった大臣《ワジール》は、答えました、「おお当代の王よ、悲喜はわれわれの裡にあり、それらを分泌するは我ら自身の心でございます。さりながら往々にして、外物を眺めることはわれわれの気分に影響を及ぼすことができまする。今日、君は御眼に外物の眺めをお試み遊ばされましたか。」帝王《スルターン》は答えました、「おおわが大臣《ワジール》よ、余は今日、わが眼に、わが宝蔵の宝石類の眺めを試みて、それらを次々にわが指の間にとってみた、紅玉《ルビー》とか、翠玉《エメラルド》とか、青玉《サフアイア》とか、あらゆる色彩の配列の宝玉を。しかし一向に愉快に誘われず、わが魂は依然鬱し、わが心は狭まっておる。そこで次には後宮《ハーレム》にはいって、わが妻妾のあらゆる配列を検閲してみた、白色とか、褐色とか、亜麻色とか、銅色とか、黒色とか、肥えたるとか、痩せたるとか。しかし一人としてよく余の悲哀を晴らし得ない。それで次に厩舎《うまや》を訪れ、わが馬と牝馬と若駒を眺めた、それらのあらゆる美しさも、わが面《おもて》の前の世界を暗くする面衣《ヴエール》を除き得なかった。それで今、御身にわが容態の薬を見つけてもらうなり、これを癒す言葉を言ってもらおうと思って、おお知恵満ちしわが大臣《ワジール》よ、御身に会いに来た次第じゃ。」すると大臣《ワジール》は答えました、「おおわが殿、それでは狂人の家、瘋癲病院《マーリスターン》見物はいかがでしょう。今まで幾たびか御一緒に見に行こうと思いながら、いまだ行かずにおりまするが。事実思うに、狂人は我らと異なる悟性を授けられている人々であって、彼らは事物の間に、狂人ならぬ者の決して識別しない関係を見、精霊に訪れられておる者でございます。或いはこの見物が御魂《おんたましい》にのしかかる悲哀を去り、御胸を晴らすやも知れません。」すると帝王《スルターン》は答えました、「アッラーにかけて、おおわが大臣《ワジール》よ、瘋癲病院《マーリスターン》の狂人を見物にまいるとしよう。」
そこで、帝王《スルターン》と元の修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》たるその大臣《ワジール》とは、誰ひとり供を連れずに、二人で御殿を出て、気ちがいの家である瘋癲病院《マーリスターン》まで、足を停めずに歩きました。そしてそこにはいって、残らず見物しましたが、非常に驚いたことに、そこには鍵を預る院長と番人たち以外には、ほとんど住む者がおりません。気ちがいにいたっては、影も香もありません。そこで帝王《スルターン》は鍵の長《おさ》に訊ねました、「狂人はどこにおるか。」院長は答えました、「アッラーにかけて、おおわが殿、もうずい分永い間、狂人は見つかりません。この狂人払底の理由は多分、アッラーの被造物にあっての叡智の衰えにあるに相違ござりません。」次に付け加えて、「とは申すものの、おお当代の王様、私どもは、しばらく前からここにいる三人の狂人をお目にかけることができまする。それは身分高き方々が次々に連れて来なすって、貴賤を問わず、どなたにも見せてはならぬと禁じられております。しかしわれらの主君|帝王《スルターン》には、何事もお隠し申すわけにまいりません。」そして付け加えました、「これは些の疑いもなく、大学者たちでございます。彼らはいつも書見をしておりますから。」そして院長は帝王《スルターン》と大臣《ワジール》を離れた別棟にお連れして、中にお入れ申し、それから恭しく退去しました。
帝王《スルターン》マハムードと大臣《ワジール》は、壁に繋がれている三人の若者を認めましたが、その一人が書物を読みあげるのを、他の二人は一心に聴いております。三人とも美男子で、体格もよく、少しも錯乱とか狂気とかの様子が見えません。それで帝王《スルターン》はお連れのほうを向いて仰しゃいました、「アッラーにかけて、おおわが大臣《ワジール》よ、この三人の若者の場合は、すこぶる驚くべき場合に相違なく、彼らの身の上は意外の身の上に相違ない。」そして彼らのほうをお向きになって、仰しゃいました、「お前たちがこの病院《マーリスターン》に閉じこめられたのは、実際に狂気のせいであるか。」すると彼らは答えました、「いいえ、アッラーにかけて、われわれは狂人でもなければ、乱心者でもございません、おお当代の王様、またわれわれは白痴とか馬鹿でさえありません。けれどもわれわれの冒険は至って非凡、われわれの身の上は至って並外れのものでございまして、もしこれが針をもってわれらの眼の角《かど》に刻まれたならば、それを判ずる力ある人々にとっては、有益な教訓となることでござりましょう。」帝王《スルターン》と大臣《ワジール》はこの言葉に、繋がれた三人の若者の向いに、床《ゆか》の上に坐って、言いました、「われらの耳は開かれ、われらの悟性は用意成っておる。」
すると第一の男、書物を読んでいた男は、言いました。
第一の狂人の物語
私の家業は、おおわが殿方とわが頭上の冠よ、私の前に父と祖父とがそうでありましたように、絹織物の市場《スーク》で商人をしておりました。そして商品としては、私はあらゆる種類とあらゆる色彩《いろどり》の、インドの製品しか売りませず、しかもいつも非常に高価な品でございました。そして私は豪商の慣いとして、多額の利益と儲けをあげて、売り買いしておりました。
さて或る日、私はいつものように自分の店に坐っておりますと、そこに一人の年とった貴婦人がきて、私に今日はと言って挨拶《サラーム》をしてくれました。私はその敬礼と会釈を返しますと、御老女は店先の仕切板の縁《ふち》に坐って、私に訊ねて言いました、「おおわが御主人よ、インド産の上等の布地はありますか。」私は答えて、「おおわが御主人様、御満足のゆくような品が、この店にございます。」すると御老女は、「その布地を一つ出して、見せて下さいな。」そこで私は立ち上がって、御老女のために、予備の箪笥から、一番値段の張ったインドの布一反を取り出して、その手の間におきました。御老女はそれを取り上げ、よく吟味して、その美しさに大そう満足して、私に言いました、「おおわが御主人、この布地はおいくら。」私は答えました、「五百ディナールでございます。」すると御老女はすぐに財布を出して、金貨五百ディナールを支払い、次にその布地を持って、己が道に立ち去ってしまいました。それで私は、おおわれらの御主君|帝王《スルターン》様、こうして実はただの百五十ディナールで買った商品をば、その額で売りつけてしまったのでございます。そこで私は報酬者に御恵《みめぐ》みを謝しました。
さて翌日、その御老女はまた見えて、別な布地を求め、やはりそれに五百ディナール払って、その歩み振りと足どりをもって立ち去りました。そしてその翌くる日も、再び別なインドの布地一反を買いに来て、現金で払って行きました。そして、おおわが殿|帝王《スルターン》様、その御老女は引きつづき十五日間このように振舞い、きちんきちんと買っては支払ってくれました。そして十六日目に、やはりいつものように来て、新しい布地を選びました。そして支払おうとすると、そのとき財布を忘れたのに気がついて、私に言いました、「やあ、フワージャさん、私はきっと財布を家においてきたにちがいないよ。」私は答えました、「やあ夫人《シツテイ》よ、少しもいそぎません。もし明日持ってきていただければ、よろこんでお迎えします。持ってきて下さらなくとも、やはりよろこんでお迎え申します。」けれども御老女は反対を唱えて、お金を払わないで品物を持って行くことなんか、どうしても承知できないと言うのですが、私は私で何度も言ったのでした、「御懇意な間柄ですし、あなた様のお頭《つむ》に対する親しみから(10)、どうぞお持ち下さいまし。」そこで先方はことわるし、こちらは差し上げようとするしで、私たちの間にお互いの気前のよさの争いが持ち上がりました。それというのは、おおわが殿様、これほど儲けさせてもらったからには、私としてこのお年寄りに対して、ごく鄭重に振舞うのは当然ですし、もしもの時には、布地の一反や二反ただで差し上げてもいいつもりでさえおりました。けれども最後に、お年寄りは言いました、「やあフワージャさん、こうやっていたのでは、いつまでたってもきりがない。ですから一番簡単なのは、御足労だが家まであなたについてきていただいて、商品の代金を受け取ってもらうことでしょうよ。」そこで私も、御機嫌を損じてはと思って、立ち上がり、店を閉めて、その後について行きました。
そして私たちは、お年寄りが先に立ち、私は後ろから十歩下って、歩いて行って、そのお宅のある街の入口に着きました。するとお年寄りは立ちどまって、懐中から薄絹を取り出して、私に言いました、「この薄絹で、あなたに目隠しをさせてもらわなければなりませんね。」私は、奇妙なことと大そう訝かって、丁寧にそのわけを聞かせて下さいと頼みました。すると言うには、「これから私たちの横切ろうとしている街には、戸が開いていて、女の人たちが顔を出したまま、玄関に坐っている家が、たくさんあるからです。それで、ひょっとあなたの眼が、人妻にしろ若い娘にしろ、とにかくそのうちの一人の上に落ちて、そうなるとあなたの心は色恋沙汰に陥りかねない。それであなたは生活がすっかり乱されるかも知れませんよ。それというのは、町のこの界隈には、人妻にしろ処女にしろ、この上なく信心深い苦行者でも迷わせてしまうくらい美しい顔が、一つ二つじゃきかないのですからね。私はあなたの心の安らぎのため、大へん案じられますよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十五夜になると[#「けれども第八百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで、私は考えました、「アッラーにかけて、このお年寄りの方は、いい忠告をして下さるなあ。」そしてその言うことを承知しました。するとお年寄りは薄絹で私の両眼を目隠しして、見えないようにしました。次に私の手を執って、一軒の家の前に着くまで一緒に歩いて、その戸を鉄の環で叩きました。するとすぐに、内側から戸を開けてくれました。なかにはいるとすぐに、お年寄りの案内人は私の目隠しをとってくれますと、私は自分が、王様方の御殿のようなあらゆる贅を尽して、飾られ、調度を入れたお屋敷にいるのを認めて、びっくり致しました。アッラーにかけて、おおわれらの御主君|帝王《スルターン》様、私は生まれてから、このようなお屋敷を見たこともなければ、何かこんなに美々しいものを夢にみたこともございません。
お年寄りはと申しますると、私のいるその部屋で待っているようにと仰しゃったが、その部屋は、廊下のついたいっそう美しい広間に面していました。そして別室で起ることが全部見えるその部屋に、私をひとり残したまま、行ってしまいました。
するとこうなのでございます。その二番目の広間の入口には、片隅に無造作に積み重ねて、私がお年寄りに売った貴重な布地が全部見えました。やがて二つの月のような二人の若い娘が、めいめい薔薇水を満たした手桶を持って、はいってきました。そして二人は白大理石の敷石の上に手桶を置いて、貴重な布の山に近づき、行きあたりばったりその一つを取って、まるで台所の雑巾でも裂くように、それを二つに切りました。次にめいめいその手桶のほうに行って、腋の下まで袖をまくりながら、その貴重な布の布切れを薔薇水に浸《つ》け、濡らしては敷石を洗い、次に私の貴重な布の別な切れ端で拭いて乾かし、最後に、その一反五百ディナールする布地の残りでもって、敷石を擦《こす》って光らせはじめたのです。そして若い娘たちがその仕事を終り、大理石が銀のようになると、床に実に立派な織物を敷き詰めましたが、それらは私の店をそっくり売っても、そのなかで一番豪奢でないものを買うに必要な額にも足りないほど、立派な織物でした。そしてその織物の上に、麝香をつけた仔山羊の毛で作った絨緞と、駝鳥の毛で膨らした座褥《クツシヨン》をいくつも置きました。それが済むと、娘たちは五十枚の金襴の座蒲団《クツシヨン》を持ってきて、それを中央の絨緞のまわりにきちんと並べ、次に引き取りました。
すると、こうなのでございます。二人ずつ、若い娘が互いに手を執ってはいってきて、めいめい金襴の座蒲団《クツシヨン》の前に整列し、ちょうど五十人いたので、こうしてそれぞれ自分の座蒲団《クツシヨン》の前に、きちんと場所を占めたのでありました。
すると、こうなのでございます。美しい十の月の運ぶ天蓋の下に、一人の乙女が広間の入口に現われ出ましたが、それはその白さと黒い眼の輝きとの裡に目も眩むばかり、私の眼はひとりでに閉じてしまいました。そして私が眼を開くと、そばにあの案内してくれた御老女がいて、その乙女に引き合わせるから、ついてくるようにと誘うのでした。乙女はすでに、金襴の座蒲団《クツシヨン》の上に立っている五十人の若い娘のただ中に、中央の絨緞の上に、無造作に横になっていました。けれども私は、自分がこの五十一対の黒い眼の注視の的《まと》になっているのを見ては、少なからぬ心配なしではいられませんで、独りごとを言ったものです、「光栄ある至高のアッラーのほかには、権力も頼りもない。あの女たちの望んでいるのは、おれの死であることは、もうわかりきっている。」
さて、私がその手の間に出ると、その王女のような乙女は、私に微笑を見せて、歓迎の挨拶をし、自分のそばの絨緞の上に坐るようにと誘いました。私はすっかり度を失い、どぎまぎして、その言葉に従うため、坐りますと、乙女は言いました、「おお若いお方よ、あなたはわたくしとわたくしの美しさをどうお思いですか。わたくしでもあなたの妻になれるとお考えでしょうか。」この言葉に、私は驚きのぎりぎりの限りに驚き入って、答えました、「おおわが御主人様、どうして私は自分がそのような御好意にふさわしいなどと、敢えて信じましょうか。実際のところ、私は自分が御手の間の奴隷とか、またはそれ以下のものになる値打さえあるとも、思っておりませぬ。」けれども乙女は言葉を継いで、「いえいえ、アッラーにかけて、おお若いお方よ、わたくしの言葉には少しのでまかせもはいっていなければ、わたくしの申すところにはいささかのあやふやもございません。まったく真実の言葉でございます。ですから、同じように真実をもってお答え下さって、お心から一切の懸念を追い払って下さいまし、わたくしの心は縁《ふち》まで、あなたへの愛で一杯なのでございますから。」
この言葉に、私はわかりました、おお我らの御主君|帝王《スルターン》様、この乙女は本気で私を夫とする気でいることが、疑う余地なくわかりました。けれどもいったいどういう理由で、何千といる若者のなかで、特に私を選んだのか、またどうして乙女が私を知っているのか、どうしても察することができませんでした。だが私は結局思いました、「おお何某よ、不可解ということは、悩ます思いをいろいろ惹き起さないという長所がある。さればそれをわかろうとは努めずに、物事に勝手にその道を辿らせておくがよい。」そこで私は答えました、「おおわが御主人様、もしあなた様が本当に、私をこれらの敬すべき乙女たちの笑いぐさにしようとしてそう仰しゃるのでないならば、では、あの諺を思い出していただきたく存じます。『刃《やいば》が赤い時には、鉄鎚のために熟している、』と申します。ところで私は、わが心は欲望《のぞみ》に燃え上がって、まさしく私たちの相結ばれるのを実現する好機だと、考えます。されば、あなた様の御命《おんいのち》にかけて、私が結納金《マハル》と寡婦資産として差し上げなければならないものを、仰しゃって下さい。」すると乙女は微笑みながら言いました、「結納金《マハル》と寡婦資産ならば、もういただきましたから、御心配には及びません。」そして付け加えました、「それがあなたのお望みでもあるならば、これからすぐに法官《カーデイ》と証人を呼びにやって、今すぐ私たちが相結ばれることができるように致しましょう。」
そして実際に、おおわが殿様、法官《カーデイ》と証人は間もなくまいりました。そして彼らは法に従って、縁を結びました。私たちは直ちに結婚致しました。式終って、みんな出て行きました。そこで私は自分に訊ねたものです、「おお何某よ、お前は眼がさめているのか、それとも夢を見ているのか。」そのうち乙女が美しい女奴隷たちに、私のために浴場《ハンマーム》の仕度をして、そこに私を案内するように命じた時には、また全く事変りました。若い娘たちは、クムル(11)産の沈香《じんこう》をくゆらした浴室に私をはいらせて、流し女に私を預けると、流し女たちは私の着物を脱がせ、身体を擦《こす》って、風呂を使わせ、私を小鳥よりも軽やかにしました。次に私にこの上なく上等な香水をふりかけ、豪奢な身なりを備え、あらゆる種類の茶菓と氷菓《シヤーベツト》(12)を供しました。それが済むと、私に浴場《ハンマーム》を出させて、新妻の私室に連れて行きますと、新妻は自分の美しさだけを装って、私を待っておりました。
すぐに新妻は私のところにきて、私を捉え、私の上に倒れ、驚くばかり熱をこめて私を擦《こす》りました。それで私は、おおわが殿様、御承知のところに挙げてことごとく宿るわが魂を感じて、私に要求されている仕事と、注文されている勤めを果し、それまでは難攻不落の領分にあったものを攻め落し、打ち破るべきものを打ち破り、奪うべきものを奪い、能うものを取り、必要なものを与え、起き上がり、横たわり、打ち込み、突き破り、突っ込み、押し込み、詰め込み、誘いをかけ、再び押し入れ、じらし、軋らせ、引っくり返し、突き出し、また始め、まことに、おおわが殿|帝王《スルターン》様、その夜は、御存じの「もの」は偽りなく、かの人呼んで、牡羊、鍛冶屋、屠殺人、災いの門《かど》、長物、鉄具、泣き虫、開《あ》け手《て》、角突き者、擦《こす》り手《て》、無敵者、修道僧《ダルウイーシユ》の杖、不思議なる道具、斥候、攻撃するめっかち、戦士の剣、疲れを知らぬ泳ぎ手、囀る鶯、太首《ふとくび》の親爺《おやじ》、筋太《すじぶと》の親爺、大卵の親爺、捲頭巾《ターバン》の親爺、禿頭《はげあたま》の親爺、大騒ぎの親爺、歓喜の親爺、恐怖の親爺、鶏冠《とさか》も声もない雄鶏、親爺《おやじ》の倅、貧乏人の遺産、気まぐれの筋肉、砂糖煮の太筋《ふとすじ》などと申しまする、剛の者でございました。そしてたしかに、おおわが殿|帝王《スルターン》様、その夜は、各々の渾名にその解説が、各々の効能にその証拠が、各々の特性にその証明が、ちゃんと伴なったと存じます。そして私たちが仕事を中止致しましたるは、ただすでに夜は過ぎて、朝の礼拝に起きなければならなかったゆえに外なりません。
こうして私たちは、おお当代の王様、ひきつづき二十夜の間、陶酔と至福の限りに、一緒に暮らしつづけました。その時がたつと、母の思い出が私の心に浮んできたので、私は妻であるその乙女に申しました、「やあ夫人《シツテイ》よ、もう大分長い間、私は家をあけているので、母は私の消息がわからず、きっと大そう私の身を案じていることでしょう。それに、私の商売の仕事も、この過ぎたすべての日々の間、店を閉めているので、滞っているにちがいありません。」すると妻は答えました、「そんなことはどうでもよろしいけれど、あなたがお母様に会いに行って御安心させることは、悦んで承知します。そればかりか、またもしそうなさりたかったら、これからは毎日お店にいらっして、お仕事をなさっても差支えありません。けれども、いつでもあの老女が、そのつどあなたを案内して連れ戻すように、ぜひしていただきたいと思います。」私は答えました、「それに異存はありません。」そこで、老女が出てきて、私の眼を薄絹で蔽い、最初に私の目隠しをした場所まで連れて行って、私に言いました、「夕方、礼拝の時刻にここに戻っていらっしゃい。この同じ場所に私がいて、奥様のところに御案内致します。」こう言って、私の目隠しを外して、別れました。
そこで私はいそいでわが家に駈けつけると、母は悲歎と絶望の涙とに暮れて、喪服を縫っている最中でした。それで私の姿を見るや、私のほうに飛んできて、悦びの涙を流しながら、両腕に私を抱き締めました。私はこれに言いました、「お泣きなさるな、お母さん、お眼を爽やかになさい。それというのは、こんどの留守は、私のついぞ憧れもしなかったほどの幸福に、私を連れて行ったのですから。」そして私は幸運な事件を知らせますと、母は有頂天になって叫びました、「どうかアッラーはお前を庇《かば》って、お守り下さいますように、おお倅や。けれどお前は毎日私を見に来てくれると約束しておくれ、私の慈愛はお前の愛情で報いられる必要があるのだからね。」私は妻にすでに外出の自由を与えられているので、母にこの約束をするのは何でもないことでした。そのあと私は、残りの一日を、市場《スーク》の店で自分の売買をするのに用い、時間になって、指定の場所に戻ると、老女がいていつものように私に眼差しをして、私の妻の御殿に私を案内しながら、言うのでした、「こういう風にするほうが、御身のためですよ。なぜって、もう前にも言ったとおり、わが息子よ、この街には人妻にしろ若い娘にしろ、たくさんの女たちが、自分の家の玄関に坐っていて、その女たちはどれもたった一つの欲望《のぞみ》しか持っていないのです。それは通りすがりの恋を吸い込むことです、ちょうど空気を吸い、流れる水を啜《すす》るようなあんばいに。そうなったら、その女たちの網のまん中で、あなたの心はどうなることでしょうか。」
さて、今は私の住んでいる御殿に着くと、妻は言い現わしがたい熱狂をもって私を迎え、私も鉄床《かなとこ》の鎚に答えるがごとく答えました。そして鶏冠《とさか》もなく声もない私の雄鶏は、この食慾をそそる牝鶏に遅れることなく、雄々しい角突き者の名声を墜《おと》さぬことができました。それというのは、アッラーにかけて、おおわが御主君様、牡羊はその夜、この戦争好きな牝羊に、角《つの》を喰らわせること三十回を下らなかったので、いよいよ相手がアマーン(13)を求めて降参するまで、戦闘をやめなかった次第ですから。
そして三月の間、私は夜の合戦、朝の戦争、昼の攻撃に満ちた、この活動的な生活を暮らしつづけました。私は心中、毎日わが身の運に驚嘆して、独りごとを言ったものです、「おれをあの熱烈な乙女と巡り合わさせ、あれを妻にしてくれたおれの幸運とは、何という幸運だろう。それに、あの新鮮なバターの塊まりと同時に、まるで王様方もお持ちにならないような御殿と富を、おれに授けてくれた運命とは、何と驚いた運命であろう。」そして自分が知りもせず、いったい誰の娘か身内なのかもわからずに、妻とした女の名前と家柄を、女奴隷たちから探り出そうという気を覚えずには、一日も過ぎないのでございました。
ところが、日々のうちの或る日、妻の黒い奴隷のうちの一人の若い黒人娘と、人々と離れて二人きりになったので、私はこの件について、その娘に問い質して、言いました、「お前の上なるアッラーにかけて、おお祝福された娘よ、おお内心は白い女よ、お前の御主人についてお前の知っていることを、聞かせておくれ、お前の言葉は、おれの記憶の一番人知れぬ片隅に、深くしまっておくからな。」するとその若い黒人娘は、怖れに身震いしながら、答えました、「おおわが御主人様、私の御主人様の御身の上は、全く並々ならぬものでございます。けれども万一旦那様にお明かししようものなら、もう術《すべ》もなく、猶予もなく、殺されてしまうおそれがございます。私から申し上げられる全部は、御主人様は或る日|市場《スーク》で旦那様をお見そめなさって、全くの愛だけから、旦那様をお選びになったということだけでございます。」そしてこれらの僅かの言葉以上何ひとつ聞き出せません。そればかりか、私が強《た》ってと言うと、その奴隷は私が慎しみのない言葉を誘い出そうとするのを、女主人に言いつけにゆくとまで威《おど》すのです。そこで私はこれに己が道に立ち去らせてやり、自分は妻の許に、ちょっとした一戦を交えに戻りました。
こうして私の生活は、激しい快楽と恋愛合戦との裡に過ぎてゆきましたが、そのとき或る午後のこと、ちょうど妻の許しを得て自分の店にあって、街のほうを見やっておりますと、一人の面衣《ヴエール》をつけた若い娘を見かけました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十六夜になると[#「けれども第八百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……一人の面衣《ヴエール》をつけた若い娘を見かけました。明らかにこちらのほうにやってきます。そして私の店の前までくると、この上なく愛想のよい挨拶《サラーム》を投げて、私に言います、「おおわが御主人様、ここに金剛石やそのほかの貴い石で飾った金の雄鶏がございますが、私はこれを市場《スーク》の御商人全部に原価でお願いしたけれど、だめですの。あの人たちは趣味もなく、目も利かない方々ですわ。だってこんな宝石細工は容易に売れはしない、有利に売り捌くことはできまいと仰しゃるのですもの。ですから私はこれをあなたにお願いにまいりました、あなたは御趣味のある方ですから。お値段は御自身でおつけ下すって結構です。」それで私は答えました、「別に私だって、こんな宝石細工はいらないがね。しかしせっかくだから、百ディナール差し上げよう、それより一ディナールも多くもなく、少なくもなく。」すると若い娘は答えました、「ではお納め下さい、どうぞお得な買物でありますように。」私は実際、こんな金の雄鶏なぞ買い込みたい気持は全然ございませんでしたけれども、しかしこの像は、妻に私の根本的長所を思い出させて、妻を悦ばせることができるかも知れないと考えましたので、箪笥のほうに行って、約束の百ディナールを取り出しました。ところがその娘に金子を渡そうとすると、娘は辞退して言うのです、「本当のところ、そんなお金は私には何の役にも立ちませんの。お支払いとしては、あなたの頬に、たった一度接吻する権利さえいただけば、その外に何も欲しくはございません。それが私のただひとつの望みなの、おおお若い方。」それで私は心の中で言いました、「アッラーにかけて、金貨千ディナール以上もする宝石に対して、たった一度おれの頬に接吻するだけでいいとすれば、こいつは得と同時にずい分妙な取り引きだわい。」そして承知するに躊躇しませんでした。
するとその若い娘は、おおわが殿様、私のほうに進み寄って、その顔の小|面衣《ヴエール》を掲げて、私の頬っぺたに接吻しました、――どうぞそれが娘にとって、甘く快よいものであってくれるように。――けれども同時に、まるでこうして私の肌を味わったため食慾を覚えたとでもいうように、娘は私の肉のなかまでその若い牝虎の歯を差し込んで、咬傷《かみきず》を作り、いまだにその痕が残っておりまする。それから、私が頬から出る血を拭っている間に、娘は満足げな笑いを笑いながら、遠ざかりました。それで私は考えました、「お前の場合は、おお何某よ、何とも驚いた場合だぞ。今に市場《スーク》中の女がみんなお前のところにやって来て、或る女はお前の頬っぺたの見本を、或る女は頤《おとがい》の見本を、或る女はお前の知っているものの見本をくれと言ってくるぞ。そうなりゃいっそ、お前の商品なんぞ全部売り捌いてしまって、もうお前自身の細切《こまぎ》れしか売らないことにしたほうがましかも知れんな。」
それで夕方になると、半ばにやにやし、半ば腹を立てながら、私は老女のほうに戻ると、老女はいつものように例の街角に待っていて、私の眼に目隠しをしてから、妻の御殿に連れてゆきました。道々、老女は口の中で何かはっきりしないけれど、どうも威《おど》かしらしく思える言葉を、ぶつぶつ呟やくのが聞えましたが、しかし私は思いました、「年寄りの女というものは、ぶつぶつこぼすことが好きで、老いぼれた日々を、万事につけて不平を言い、くどくど文句を並べて過ごす人たちさ。」
さて妻のところにはいってゆくと、妻は応接の広間に坐り、眉をぴりぴり動かし、ちょうど王様方が逆鱗の際に着なさるように、足から頭まで、深紅の色の着物を着ています。その態度は穏かならず、顔は蒼味を帯びています。これを見ると、私は心中で言いました、「おお永らえさせたまう御方よ、わが身を護りたまえ。」そしてこの剣幕はいったい何のせいかわからず、妻に近づきますと、平生とちがって立って私を迎えようとせず、私の顔から頭をそむけます。私はさっき手に入れた金の雄鶏を差し出しながら、言いました、「おおわが御主人様、この貴重な雄鶏はまことに立派な品で、眺めて面白いものだから、どうぞ納めて下さい。お愛想までに買い求めたものですから。」けれどもこの言葉に、その額は曇り、眼は闇となりまして、身をかわす暇もなく、私はきりきり舞いの平手打を受けて、独楽《こま》のようにぶん廻り、危うく左の顎《あご》が粉々になりそうでした。そして妻は私に怒鳴りました、「おお犬の子の犬め、もしお前が本当にその雄鶏を買ったものなら、ではなぜ頬の上にそんな咬傷《かみきず》があるのです。」
私は、その猛烈な平手打の激動ですでにすっかり参って、もう潰れてしまいそうになるのを覚え、ばったりと倒れてしまわないようにするには、非常な努力をしなければなりませんでした。しかしそれは序の口にすぎず、おおわが殿様、それは、あわれ、ほんの序の口にすぎなかったのでございます。それというのは、妻の合図で、突然奥の幕が開いて、老女に連れられた四人の女奴隷がはいってくるのでした。その奴隷たちは、一人の若い娘の屍体を運んできたのでありまして、その首は斬られ、身体《からだ》の中央に載せてあります。その瞬間、私はその首が、私に咬傷《かみきず》と引き代えに宝石細工を与えたあの若い娘の首とわかりました。これを見て私は全くぐにゃぐにゃになり、気を失って、地上に転がってしまいました。
そして我に返ったとき、おおわが殿|帝王《スルターン》様、私はこの瘋癲病院《マーリスターン》に繋がれていたのでございます。番人たちから聞くと、私は気ちがいになったとのこと。そしてそれ以上何ひとつ言ってくれません。
以上が私のいわゆる発狂と、この気ちがい病院監禁の由来でございます。ここに私をこのところより救い出すために、おおわが殿|帝王《スルターン》様、また、おお賢明にして明敏なる大臣《ワジール》様、あなた方お二方をばお遣わしなされたのは、アッラーにあらせられまする。果して私が実際に精霊に住まわれているか、或いは単に錯乱とか躁狂とか痴呆などに冒されているか、それともまた結局私は精神健全であるか、それは私の言葉の論理或いは支離滅裂からして、お二方の御判断を俟つ次第にござりまする。
――帝王《スルターン》と、もと不義の子、修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》であったその大臣《ワジール》とは、この若者の話を聞き終ると、深い沈思に耽って、額を傾《か》しげ、眼を地に注ぎつつ、一と時の間、考えこんでおりました。それから、先ず帝王《スルターン》が最初に頭をあげなすって、お連れに仰しゃいました、「おおわが大臣《ワジール》よ、この王国に治者として余を据えたもうた御方の真理《まこと》にかけて、余は誓う、この若者を夫としたその乙女を発見せぬうちは、余は休息もしなければ、食いも飲みも致さぬであろうぞ。されば、この目的のためには、われわれは何をすべきか、速かに言ってもらいたい。」すると大臣《ワジール》は答えました、「おお当代の王よ、われわれは、一時他の二人の繋がれた若者を措いて、直ちにこの若者を連れ出し、一緒に都の街々《まちまち》を、この若者がその老女に目隠しされるを常とした街の入口を見つけるまで、東から西、右から左へと歩きまわらねばなりませぬ。その入口が見つかったら、われわれはこの男に目隠しをしましょう。するとこの男は老女と連れ立って歩んだ歩数を思い出して、かくしてわれわれを、入口で目隠しを外したというその家の扉の前まで、行き着かせることでございましょう。そこで、アッラーはこの微妙な件において、われわれの執るべき処置を照らし出して下さるでありましょう。」すると帝王《スルターン》は仰しゃいました、「御身の意見に従ってなすように、おお、慧敏満てるわが大臣《ワジール》よ。」そこでお二人とも即座に立ち上がって、若者の鎖を外し、瘋癲病院《マーリスターン》の外に連れ出しました。
すると万事は大臣《ワジール》の予想どおりになりました。それというのは、さまざまの地区のたくさんの街を歩きまわった末、最後に件《くだん》の街の入口に行き着き、若者は難なくそれとわかりました。そして、彼は昔のように目隠しをすると、歩数を数えることができて、お二人をと或る御殿の前に立ちどまらせました。それを御覧になると、帝王《スルターン》は茫然自失に投げ入れられてしまいました。そしてお叫びになりました、「悪魔退散、おおわが大臣《ワジール》よ。この宮殿には、元のカイロの帝王《スルターン》、御子孫に男子がおありにならなかったゆえ、余に王位を伝えなすったお方の、お妃方のうちの一人のお妃が住んでおられるのじゃ。そして余の妃の父なる先代の帝王《スルターン》の、このお妃は、その御長女と一緒にここにお住まいだが、その王女こそ、必らずや、この若者を夫とした乙女に相違ない。アッラーは至大にまします。おお大臣《ワジール》よ。さればおよそあらゆる王者の娘の運命には、全然とるに足らぬ者を夫とするように、記《しる》されているのだ、あたかも我ら自身が然るがごとく。報酬者の神命は常に謂《いわ》れがあるのであるが、しかしわれらはその謂れを知らぬのじゃ。」そして付け加えなさいました、「早くはいって、この事件の結末を見るとしよう。」そこで鉄環で扉を叩くと、扉が鳴りました。若者は言いました、「まさしくこの音です。」扉はすぐに宦官たちによって開けられましたが、彼らは帝王《スルターン》と、総理|大臣《ワジール》と、女主人の夫の若者を認めて、すっかり狼狽《あわて》ました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十七夜になると[#「けれども第八百三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてそのうちの一人は御主人に、国王と二人のお連れの見えたことを知らせに、飛んでゆきました。
すると乙女は身を飾り、身仕舞いして、婦人部屋《ハーレム》を出て、応接の間に、父は同じだけれど母のちがう姉の夫である帝王《スルターン》に、敬意を表し、御手を接吻しに来ました。帝王《スルターン》は実際にお身内とわかって、大臣《ワジール》にうなずきなさいました。次に王女に仰しゃいました、「おお伯父君の娘よ、アッラーは御身の素行について、私がとやかく言うようなことをさせたまわぬように。何となれば、過去は『天の主』に属し、現在のみがわれわれに属するがゆえじゃ。そのゆえに私は現在のところ、御身がこれなる若者、御身の夫と仲直りをすることを望む。これはいろいろ立派な根本的長所を備えた若者で、何ら御身に遺恨を含まず、再び御身の寵を受ければ幸甚と思っています。かつ、御身の父上、わが亡き伯父君|帝王《スルターン》の御功績にかけて、誓って申すが、御身の夫は夫婦間の操に対して、何ら重大なる過失を犯したわけではない。そしてすでに十分厳しく、一時の心の隙の報いを受けた。さればどうか、御身が私の願いを斥けないように希望します。」すると乙女は答えました、「我らの主君|帝王《スルターン》のお望みは、御命令でございますから、われわれの頭と眼の上にございます。」それで帝王《スルターン》はこの解決を大そうお悦びになって、仰しゃいました、「そうとあらば、おお伯父君の娘よ、私は御身の夫を、わが侍従の首席に取り立てよう。今後はわが陪食者となり、盃の友となるであろう。そして今夕すぐに彼を御身の許に遣って、窮屈な証人を抜きにして、御身ら二人の約束の和解を実現させることにしよう。けれどもさしあたり、彼を連れてゆくのを許してもらいたい。それというのは、われわれはこれから一緒に、彼の二人の鎖の仲間の物語を聞かなければならないから。」そしてこう付け加えながら、引き上げなさいました、「もちろん、今後御身は彼に目隠しすることなく、自由に出入させるよう、御身ら二人の間で定めることにし、また一方彼としては、いかなる口実の下にも、もはや人妻にせよ若い娘にせよ、およそ女に接吻させるなどということはしないと、約束をしております。」
[#この行1字下げ] ――「これが、おお幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「第一の若者、瘋癲病院《マーリスターン》で、本を読んでいた男の、帝王《スルターン》と大臣《ワジール》に物語った話の終りでございます。けれども第二の若者、本を読むのを聴いていた二人のうちの一人はと申しますと、次のようでございます。
帝王《スルターン》はじめ、大臣《ワジール》と新しい侍従とが瘋癲病院《マーリスターン》に戻ると、一同第二の若者の向いに、床《ゆか》の上に坐って、言いました、「さてこんどはお前の番じゃ。」すると第二の若者は言いました。
第二の狂人の物語
「おお、われらの御主君|帝王《スルターン》並びに御身、思慮深き大臣《ワジール》、また御身、元のわが鎖の仲間よ、私がこの瘋癲病院《マーリスターン》に閉じこめられた謂《いわ》れは、皆様すでに御承知のそれよりも、遥かに喫驚すべきものと思し召せ。それというのは、ここにおらるる私のお仲間が、狂人として閉じこめられたと致しましても、それはまさしく御自分の過失により、御自分の軽信と自信とのためでありました。然るに私は、罪を犯したとすれば、それは、まさしくそれとは反対の行き過ぎによるものであったからでございます、順を追ってお話し申し上げるのをお許し下さりますれば、これからお聞き遊ばすがごとく。」すると帝王《スルターン》と大臣《ワジール》と元の第一の狂人であった新しい侍従とは、異口同音に答えました、「いかにも苦しゅうない。」そして大臣《ワジール》は付け加えました、「それに、お前がお前の話を秩序整然とすればするほど、われわれはお前が、狂人や錯乱者のなかに不当に入れられたものと見る心持を、強く覚えるであろう。」すると若者は次のような言葉で、その身の上話を始めたのでございます。
さればお聞き下さい、おおわが御主人様方とわが頭上の冠よ、私もまた商人の子の商人でございまして、この病院《マーリスターン》に投ぜらるる前には、市場《スーク》に店を営み、富裕な殿様の奥方に、あらゆる種類の腕輪をはじめ装身具を商《あきな》っておりました。そしてこの物語の始まる頃には、私は僅か十六歳でしたが、すでに私の威厳と正直と重い頭と商売の真面目さで、市場《スーク》に聞えておりました。私は決してお得意の貴婦人方とお話を交わそうとしたことなく、商売の取極めにきっかり必要な言葉以外、口にしたことはございません。かつ私は聖典の掟を守って、決して回教徒の娘たちの間の婦人に、眼を上げたことがありません。それゆえ商人たちは、初めて自分の息子を市場《スーク》に連れてきた時には、いつも私を息子の手本に挙げるのでした。そして私の歴とした結婚について、すでに私の母に口をかけた母親も、一人ならずおりました。けれども母は更によい機会を待って返事を保留し、私の若いことと独り息子の身であることと、蒲柳の質を口実にして、いつも問題をはぐらかしておりました。
さて或る日、私は大福帳の前に坐って、内容を検査しておりますと、そのとき店に一人の愛想のいい、小さな黒人娘がはいってきて、丁寧に私に挨拶してから、言いました、「この店はたしかに商人誰それ様のお店ですね。」私は答えました、「そのとおりでございます。」すると黒人娘は、非常に用心しながら、その黒人女の眼でもって右と左を油断なく眺めながら、懐中から一通の小さな書状を取り出して、私に差し出しながら言うのでした、「これは私の女主人のものでございます。どうぞ御返事を賜わりたいと申しております。」そして私にその紙を渡すと、離れて立って、私の好いようにするのを待っていました。
そこで私は、文《ふみ》を拡げて読んでみますと、それは私を賞め讃える熱烈な詩で書いた恋歌が記されているのでした。そして結びの詩句に、私を恋うという女の名前が織り込まれておりました。
そのとき私は、おおわが殿|帝王《スルターン》様、このやり口にこの上なく気を悪くしまして、これは私の立派な素行に対する重大な毀損だ、ひょっとすると私を危険なまたは紛糾した事件に捲き込むための、何かのたくらみかも知れぬと、思いました。そこで私はこの恋文を取りあげ、引き裂き、足で踏み躙ってやりました。次にその小さな黒人娘のほうに行って、耳を掴まえ、頬っぺたにいくつかの平手打を喰らわせ、したたか打ち据えてやりました。更にこれを蹴とばして、店の外に転げ出させ、懲らしめの仕上げをしました。そして近所の人たち全部に私の動作が見えて、私の品行の方正と徳を疑い得ないようにするため、あからさまにこれに痰を吐きかけて、怒鳴りつけてやりました、「この淫奔の不義密通女の亭主千人の娘め、貴様の女主人、周旋屋《とりもちや》の娘に、この有様すべてをよく伝えろ。」それで近所の人たち全部は、これを見て、感心して互いに囁やき合い、そのうちの一人などは、自分の息子に私を指さし示しながら、言っていました、「あの道徳堅固な若者の頭上に、アッラーの祝福あれ。どうかお前も、おおわが息子よ、あの年頃になったら、美男の若者たちを待ち伏せる悪い女や邪まな女の申し出を、退けることができるように。」
これが、おおわが殿方よ、私の十六歳の年にしたことでございます。実際のところ、この自分の振舞いが、どんなに粗野で、分別を欠き、愚かしい虚栄心と適切ならぬ己惚れに満ち、偽善で、卑怯で、乱暴であったかということが、はっきりわかったのは、漸やくただ今になってのことにすぎません。この愚昧な行為の結果、後になっていろいろと不愉快を覚えたとは申せ、けだし私はもっとそれに値し、それとは全然別な謂《いわ》れによって現在私の首についているこの鎖のごときも、この馬鹿げた第一歩の際に、まさに受けて然るべきものであったと、存ずる次第であります。けれども、それはともかくとして、私は第八月《シヤアバーン》の月を第九月《ラマザーン》の月とごっちゃに致したくはなく、私の身の上の物語に、順を追ってゆくことを続けましょう。
されば、おおわが殿方よ、日々と月々と年々とがこの偶発事件の上を過ぎて、私は全くの大人《おとな》となりました。そして独身ではありましたが、女たちとそれにつづく一切も知りました。そのうちにいよいよ、アッラーの御前で私の妻となり、わが子たちの母になる若い娘を選ぶべき時期が、実際に到来したことを感じました。ところで、やがてお聞きになりますように、私は望みどおり満足させられることになりました。しかし私は一切先走らず、順を追って申し上げます。
果して、或る午後、付き従う五、六人の白人奴隷《ママリク》のまん中に、この上なく貴重な宝石を飾り、手を指甲花《ヘンナ》で染め、編んだ髪を両肩に漂わせた、まことに愛くるしい一人の乙女が、私の店に近づくのを見ました。乙女は上品にしなをつくって、身を揺すりながら、優美に進み寄ってきます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十八夜になると[#「けれども第八百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして乙女はさながら女王のように、女奴隷を従えて、私の店にはいってきて、優雅な挨拶《サラーム》を私に下さってから、坐りました。そして私に言います、「おお若い方、金銀の装身具の選りぬきの品がありますか。」私は答えました、「おおわが御主人様、およそありとあらゆる種類のものと、その他の品も様々ございます。」すると乙女は、踝《くるぶし》につける金の環を見せてくれとの所望でした。それで私は家にある、踝につける金の環で、一番重く美しいものを、持ってきました。すると乙女はそれに無造作な一瞥をくれて、言いました、「私につけてみて下さいな。」すぐに女奴隷の一人が身をかがめて、その絹の着物の裾を掲げ、私の眼に、およそ創造主の御指から出た最も華奢な、最も白い踝を、露わしました。私は環をためしてみましたけれど、完全の鋳型で形づくられたこの脚の愛らしい華奢さに合うほど細い環は、私の店にはございませんでした。乙女は私の困っているのを見ると、微笑して言いました、「そんなことは御心配なく、おお若い方よ。ではほかの品をお頼みしましょう。けれどもその前に伺いたいわ。実際のところ、家では、私のことを象の脚をしていると言うんですよ。本当でしょうか、それは。」私は叫びました、「あなた様の上と、あなた様の周囲《まわり》と、あなた様の踝の完全の上に、アッラーの御名あれ、おおわが御主人様。羚羊《かもしか》はおみ足を見て、嫉みのあまり痩せ衰えてしまうでございましょう。」すると乙女は言いました、「ですけれど、私はその反対だと思っていましたわ。」次に付け加えて、「腕輪を見せて下さいな。」私は、眼にはまだその惚々するような踝と滅びの脚の幻が一杯になりながら、金と七宝の腕輪について持ち合わせている一番上等な、一番細いものを探して、それらを持ってきました。けれども乙女は私に言いました、「あなた自身で私につけてみて下さいな。私今日はとても疲れているから。」そしてすぐに女奴隷の一人が駈け寄って、主人の袖をたくしあげました。すると私の目の前に、腕が現われたが、何と、何と、水晶よりも白く滑らかな白鳥の首、先には手首と手と指があるが、これが、何と、何と、氷砂糖と、おおわが殿様、お砂糖漬の棗椰子《なつめやし》、魂の悦び、法楽、極上|生粋《きつすい》の法楽でございます。私は身を傾けて、この奇蹟のような腕に、私の腕輪をためしてみました。しかし一番細いもの、子供の手のために作った品でも、この透き通った華奢な手首にはひどくぐらぐらで、私はそれらが触れてこの清浄な肌に傷をつけてはと、いそいで取りはずしました。乙女は私のあわてるのを見て、再び微笑して言いました、「何を見たのですか、おお若い方よ。私は腕が片輪でしょうか、それとも家鴨《あひる》の手をしているとか、河馬の腕をしているとかいうのでしょうか。」私は叫びました、「あなた様の上と、あなた様の周囲《まわり》と、あなた様の白い腕の円味の上と、あなた様の子供の手首の華奢の上と、あなた様の天女《フーリー》の指の紡錘形《つむがた》の上に、アッラーの御名あれかし、おおわが御主人様。」すると乙女は言いました、「何ですって? じゃ本当ではないのかしら。だけど家では、いく度も、その反対を聞かされましたけれど。」次に付け加えて、「金の首飾りと胸飾りを見せて下さいな。」私は酒を用いずして千鳥足になって、金の首飾りと胸飾りについて持ち合わせている一番豪奢な、一番軽いものを、いそいで持ってきました。するとすぐに女奴隷の一人が、敬虔な配慮をこめて、御主人の首と同時に、胸の一部をはだけました。これは、これは、両の乳、一度に二つ、おおわが殿様、薔薇色の象牙の二つの小さな乳が、丸々と、しかもぴんと張って、胸の目ばゆい白さの上に、現われ出ました。それらは純粋な大理石の首に、母親の首に縋る二人の美しい双生児《ふたご》のように、吊《さが》っているかに見えます。私はこれを見ては、顔をそむけて、叫ぶのを耐《こ》らえきれませんでした、「蔽って下さい、蔽って。アッラーがその面衣《ヴエール》を拡げたまいますように。」すると乙女は言いました、「何ですって、首飾りと胸飾りをつけてみて下さらないの? けれどまあ御心配なく。じゃ外の品をお頼みしましょう。けれどもその前に伺いたいわ。私は不恰好で、水牛の牝みたいにだぶだぶの乳房をして、まっ黒で毛むくじゃらでしょうか。それとも痩せ細って、乾物《ひもの》の魚みたいにひからび、指物師の仕事台みたいに平べったいでしょうか。」私は叫びました、「あなた様の上と、あなた様の周囲《まわり》と、あなた様の隠れた魅力の上と、隠れた果実の上と、ひと切の隠れたお美しさの上に、アッラーの御名あれかし、おおわが御主人様。」乙女は言いました、「それじゃあの人たちは私をだましたのかしら、私の隠れた形ほど見っともないものは探し出せないと、あんなに幾たびもきっぱり言った大人《おとな》たちは。」そして付け加えて、「まあいいわ。けれど、あなたは、おお若い方よ、これらの金の首飾りと胸飾りを私にためしてみる勇気がないというのなら、せめて腰帯をためしてみていただけないかしら。」私は、金の線条細工の腰帯として一番しなやかで、一番軽い持ち合わせているものを持ってきて、慎しみ深く乙女の足許におきました。ところが乙女は言いました、「いけません、いけません、アッラーにかけて、あなた自身で私につけてみて下さいな。」私は、おおわが殿|帝王《スルターン》様、承わり畏まって答えないわけにはゆかず、そこであらかじめこの羚羊の華奢振りがどんなであろうかを察して、腰帯の中で一番小さく、一番細い品を選んで、その着物と面衣《ヴエール》の上から、腰にまわしてみました。けれども、或るお子様の姫君の御注文で作ったその腰帯も、地上に影も落さぬほど細く、アリーフの文字の書記生の絶望の種となるほど真直で、訶利勒《バーン》の木を口惜しさのあまり枯らしてしまうほどしなやかで、上等なバターの塊まりを妬みのあまり溶かしてしまうほど柔らかで、若い孔雀を恥しさのあまり逃げさせてしまうほどたおやかで、竹の茎を痩せ衰えさせてしまうほどなだらかな、この腰にはなお大きすぎるのでした。私は適当なものがほとんど見つからないのを見て、困り果て、何と詫びたらよいかわからない有様でした。ところが乙女は言いました、「これはきっと私が、後ろには二つの瘤、前にも二つの瘤がついて、卑しい形のお腹と単峰駱駝の背中をしている、畸形の身体《からだ》なのにちがいないのね。」私は叫びました、「あなた様の上と、あなた様の周囲《まわり》と、あなた様のお腰と、それに先立つものの上と、それに伴なうものの上と、その次に来るものの上に、アッラーの御名あれかし、おおわが御主人様。」すると乙女は言いました、「これは驚きますわ、おお若い方。だって私は家では、いく度も、自分の身体《からだ》は全くだめと、はっきり言われているのですもの。それはとにかく、いい腰帯が見当らないというのなら、耳輪と、髪をとめる金の額飾りを見つけて下さることならば、できないことはございますまい。」こう言って、乙女は自分で顔の小|面衣《ヴエール》を持ち上げて、私の眼にその顔を現わしましたが、それは十四夜のほうに進みゆく満月でした。私はそのバビロン風の眼であるところの二つの宝石と、アネモネの頬と、真珠の腕輪を収めた珊瑚の小筥《こばこ》の小さな口と、この感動を与える顔すべてを見ては、呼吸がとまってしまい、注文された品を取りにゆく身動きができない次第でした。すると乙女は微笑して言いました、「わかりましたわ、おお若い方、あなたは私の醜さに驚き入ってしまったのですね。実際私は、幾たびとなく繰り返し聞かされているので、よく知っていますわ。私の顔はすさまじい醜さで、痘痕《あばた》の穴だらけで羊皮紙みたい。右の目は潰れて、左の目は藪睨み、見っともない団子鼻をして、歯茎が丸見えでぐらぐらした歯のついた臭い口、最後に両耳もまた片輪で削がれています。それに疥癬《ひぜん》にかかった膚、ぼろをほぐしたようなかさかさの髪、そのほか内側のあらゆる見えない見苦しさなど、申すに及ばずですわ。」そこで私は叫びました、「あなた様の上と、あなた様の周囲《まわり》と、あなた様の目に見えるあらゆるお美しさの上と、おおわが御主人様、あなた様の目に見えないあらゆるお美しさの上と、おお輝やかしさに飾られたお方様、あなた様の清らかさの上と、おお百合の娘よ、あなた様の匂いの上と、おお薔薇よ、あなた様の光輝と真白さの上と、おお素馨《ヤサミーン》よ、またあなた様の裡に見られ、感じられ、触れられ得るすべての上に、アッラーの御名あれかし。あなた様を見、感じ、触れることのできる者こそ、まことに幸いな人でございます。」
そして私は死ぬほどの酔い心地に酔い痴れて、感動に茫然としてしまいました。
するとその愛くるしい乙女は、その切長の眼の微笑を浮べながら、じっと私を見て、言いました、「悲しいことですわ、どうして私のお父さまは、今私の数えあげたようなこうしたすべての醜さを私に着せるほど、私を嫌っていらっしゃるのでしょうか。それというのは、私の身のこうしたいわゆる見苦しさを、いつも私に信じさせなさったのは、外ならぬお父さま御自身で、余の人ではないのです。けれどもあなたを通じて、その反対を私に証明して下さるアッラーは、讃《ほ》められよかし。なぜって、今となって私は確かにそう思いますけれど、お父さまは何も私をだましなすったわけではなく、お父さまは錯覚に襲われていらっしゃって、それで御自分のまわりのものを何でも醜く御覧になるのですわ。それで私について申しますと、お父さまは私を見るのが苦痛なので、いっそ見ないで済むようにと、屑物《くずもの》の奴隷商人に、私を奴隷として売り払ってしまおうとしていらっしゃるのです。」それで私は、おおわが殿様、私は叫びました、「それでいったい、あなたのお父様というのはどなたでいらっしゃいますか、おお美の女王様。」乙女は答えました、「|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》(14)その人でございます。」それで私はかっとなって、叫びました、「それは、それは、アッラーにかけて、あなた様を奴隷商人に売るくらいなら、いっそあなた様を私と結婚させては下さらないでしょうか。」乙女は言いました、「お父さまは清廉で潔癖な人でございます。それで、娘はいやらしい化物だと思っておりますから、あなたのような方と娘との縁組は、良心が咎めると言って聞かないでしょう。ですけれど、とにかく一応お申込みなさってみてもいいかも知れませんわ。そのためには、一番お父さまを説得する見込みのある方法を、お教えしましょう。」
このように言って、申し分なく愛くるしいその乙女は、しばらく考えて、私に言いました、「こうなさいまし。あなたが私のお父さまの|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》の前にお出になって、結婚の申込みをなさると、お父さまはあなたにきっとこう仰しゃいます、『おおわが息子よ、お前は眼を開かなければいかん。知るがよい、わしの娘は不随癈疾の身で、片輪で、佝僂《せむし》で、また……』けれどもあなたはそれを遮ってお父さまに仰しゃいませ、『私はそれで満足なのです、結構なのです。』するとお父さまは続けなさいましょう、『わしの娘はめっかちで、耳は削がれ、臭く、ちんばで、涎を垂らし、小便垂れで、……』けれどもあなたはそれを遮って、仰しゃいませ、『私はそれで満足なのです、結構なのです。』するとお父さまは続けなさいましょう、『おお気の毒な男よ、わしの娘はたまらぬ女で、悪癖あり、屁っぴりで、洟垂《はなつた》れで……』けれどもあなたはそれを遮って、仰しゃいませ、『私はそれで満足なのです、結構なのです。』するとお父さまは続けなさいましょう、『だがお前は知らないのじゃ、おお気の毒な男よ。わしの娘は濃い口髭が生えて、太鼓腹で、乳房が大きく、腕がもげて、彎脚《かまあし》で、左の目は藪睨み、鼻は油ぎった団子鼻、顔は痘痕《あばた》だらけ、口は臭く、歯は歯茎が丸見えでぐらぐら、内側は満足でなく、頭は禿げ、恐ろしい疥癬《ひぜん》病み、全くの醜女、ひどい呪詛《のろい》じゃ。』それであなたは、お父さまが私の上にこの恐ろしい壺をすっかりあけきるのを待って、こう仰しゃいませ、『さよう、アッラーにかけて、私はそれで満足なのです、それで結構なのです、』と。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百三十九夜になると[#「けれども第八百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私は、おおわが殿様、この言葉を聞いて、こんな物の言い方が父親からこの完全な愛くるしい乙女に加えられるのかと思うだけで、もう憤りと腹立しさに血が頭に上るのを感じました。けれども要するに、この羚羊たちの模範と自分が結婚するに到り着くためには、こうした試煉を経なければならないわけですから、私は乙女に申しました、「試煉は辛く、おおわが御主人様、お父上があなたをそんな風に扱いなさるのを聞いては、私は死にかねません。けれどもアッラーは私に、必要な努力と勇気をお授け下さるでございましょう。」次に私は訊ねました、「それでいつ私は、お父上、貴ぶべき|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》の御手の間にまいって、お願い申し上げることができましょうか。」乙女は答えました、「明日、午前の半ば頃に、まちがいなく。」そして乙女はこう言って立ち上がり、奴隷の若い娘たちを従えて、私に微笑の会釈をして、立ち去りました。私は期待と情熱の苦悶に襲われつつ自分の店に止まっている間、一方私の魂はその足跡を追い、そのあとを追いかけてゆくのでございました。
そこで翌日、言われた時刻に、私は|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》のお屋敷に飛んでゆかずにはいないで、この上なく重大な急用があるからと取り次がせて、面会を求めました。すると長老《シヤイクー》はすぐに私を引見して、鄭重に私の挨拶《サラーム》を返して、坐るように頼みました。それは貴ぶべき容貌の、純白の鬚を生やし、気品と偉大さ溢れた態度の老人でしたが、しかしその面上と眼中には、希望なき悲しみと、救いなき苦しみの様子を湛えているのを認めました。そこで私は考えた、「まさしくこれだな。この方は醜さの幻覚を持っておられる。どうかアッラーは治したまいますように。」次に、その御《お》年齢《とし》と高位に対する尊敬と敬意から、再度誘われて、はじめて私は腰を下ろし、改めて挨拶《サラーム》と会釈をし、そのつど立ち上がりながら、それを三度繰り返しました。こうして自分の礼節と作法のほどを示しておいて、再び腰を下ろしましたが、それも椅子のごく端《はし》のほうに掛けるだけで、そしてまず先方から口を切って、用件の内容について私に訊ねるのを待ちました。
すると果して、給仕|頭《アガー》が慣例の茶菓を出し、|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》が暑気と乾燥について二、三ちょっとした言葉を私と交わしてのち、長老《シヤイクー》は言いました、「おお商人何某よ、どういうことで私はあなたを御満足させてあげられようか。」そこで私は答えました、「おおわが殿よ、私が御手の間に罷り出でましたるは、あなた様の敬うべき御屋敷の純潔の帳《とばり》の蔭に、奥深く隠されたる貴婦人、保全の印璽もて封ぜられし真珠、謙譲の萼《うてな》のうちに秘められたる花、いともかしこき御令嬢、令名高き処女について、折入ってお願い申し、嘆願申し上げたき節あり、願わくは不肖私をば、合法の関係と法定の契約によって、御縁組み下されたく願い奉りまする。」
この言葉に、私は貴ぶべき老人の顔が暗くなり、次に黄色くなり、額は愁わしげに地のほうに垂れるのを見ました。そしてしばらく、疑いもなく、わが娘の場合について心苦しい思いに耽っておりました。次に老人はおもむろに頭をあげて、限りない悲しみの口調で言いました、「願わくはアッラーはお前の若さを保ち、常に恩寵をもってお前を恵みたまわむことを、おおわが息子よ。だが、わが家に、純潔の帳《とばり》の蔭にいる娘は、到底望みがない。如何ともする能わぬし、何物をも取り出す由がない。それというのは……。」けれども私は、おおわが殿|帝王《スルターン》様、私はいきなり遮って、叫びました、「私はそれでよいのです、それでよいのです。」すると貴ぶべき老人は言いました、「願わくはアッラーはお前に御恩寵の限りを尽したもうように、おおわが息子よ。しかしわが娘は、お前のように好ましい長所と力と健康とに満ちた、美しい青年には、到底適しない。それというのは、娘は憐れな病弱の身で、母親が火事の結果、早産した子じゃ。娘は、お前が美しく姿がよいと同様に、不恰好で醜い。わしをしてせっかくのお申込みをことわらせる謂《いわ》れについて、明らかにして差し上げねばならぬゆえ、お望みとあらば、わしは娘のあるがままの姿を、お前に詳しく話してあげてもよい。何となれば、アッラーを畏れ奉る念がわが心中にあり、わしはお前の身を過たせるに力を添えたくはないからな。」けれども私は叫びました、「お嬢様のあらゆる御欠点のまま頂戴致します。私はそれでよいのです、全くよいのです。」けれども老人は言います、「ああ、わが息子よ、室家《しつか》の尊厳を重んずる父親をして、心苦しき言葉をもってその娘をお前に語るを強いるなかれ。しかしお前の強《た》っての望みに、わしはこう言わざるを得ぬ、わが娘を妻とすれば、お前は当代きっての恐ろしい化物を妻とすることになるのだと。それというのは、これこそはただ一と目見るだけで……。」けれども私は、老人が私の耳に浴びせようとしているすさまじい罵言の数々をいたく恐れて、その言葉を遮り、私の魂のすべてと望みのすべてをこめた口調で、叫びました、「私はそれでよいのです、それでよいのです。」そして更に付け加えて、「御身の上なるアッラーにかけて、おお我らの父よ、尊ぶべき御令嬢について、心苦しき言葉にてお話しなさる苦痛を、敢えて冒し遊ばすな。それと申すは、私に何と仰せあろうとも、またお姿について述べなさることがどのように不快なものであろうとも、私は依然令嬢を懇望しつづけるでございましょう。醜さと申しても、御令嬢のお悩みになっておいでのような種類の醜さなれば、私は別して大好きでございますから、繰り返し申し上げますが、私はありのままの御令嬢にて結構で、それでよい、それでよい、それでよいのでございます。」
|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》は私がこのように言うのを聞いて、私の決心が動かすべからざるものあり、私の希望が変え得ざるものあると知ると、驚きと意外に手を拍ち合わせて、私に言いました、「わしはわが良心をアッラーの御前とお前の前で釈き放ったぞよ、おおわが息子よ。そしてお前はもう自分の狂気の沙汰の責を、ただ己が一身に引受けることより外できぬであろうぞ。けれども他方、神の戒律は、所望の満たさるるをわしが妨げるを許さぬから、わしはお前に承諾を与えるより致し方ない。」そこで私は幸福の極に達して、その手を接吻して、結婚は即日取り決められ、行なわれるようにと希望しました。老人は歎息を洩らして言いました、「もはや異存はない。」それで契約は認《したた》められ、証人によって公認されました。そこには、私はわが妻を、その欠点、畸形、病弱、不様、片輪、癈疾、醜貌、その他それに類したことをそのままで、承知である旨が、規定されました。また、何らかの理由によって、私が妻と離婚する場合には、私から慰藉料並びに寡婦資産として、金貨一千ディナールの財布二十個を支払うべきことも、同様に規定されました。私はもちろん大喜びで、そういう条件を承知しました。それにたとえ別の全く不利な条項だとて、いくらでも承知したでございましょう。
さて、契約を認《したた》め終ると、妻の父である私の伯父は、私に言いました、「おお何某よ、結婚を終了して、お前たち夫婦の住居を定めるのは、わしの家のほうがよい。それというのは、お前の病弱の妻を、ここからお前の遠い家まで運ぶことは、重大な不便を生ずるであろうから。」私は言いました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」そして心中期待に燃えて、考えていました、「アッラーにかけて、この俺が、名もなき商人が、あの申し分なく愛くるしい乙女、世に尊ばれている|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》の娘の主人になるなんて、いったい本当にあり得ることなのかなあ。あの乙女の美しさを楽しみ、あの乙女を勝手にし、その秘められた魅力を腹一杯食い、腹一杯飲み、飽き足りるまで満喫するのは、本当にこの俺なのかなあ。」
さていよいよ夜になると、私は夕の祈祷を唱えてから、婚姻の間《ま》にはいり、感動に心をときめかせながら、私は妻に近づいて、その頭の上から面衣《ヴエール》を去って、その顔を露わにしました。そして私は私の魂と眼でもってじっと見ました。
すると、――願わくはアッラーは悪魔を拉《ひし》ぎたまえ、おおわが殿|帝王《スルターン》様、そして、わが眼に映じたものに類した光景には、決してわが君を立会わせたまいませぬように。――私の見たのは、およそ一番胸苦しい悪夢のなかで見られるような、およそ一番|不様《ぶざま》で、一番不愉快で、一番嫌らしく、一番やりきれなく、一番厭わしく、一番胸の悪くなるような人間でした。これこそまさに、あの乙女が私に聞かせたものに遥かにまさる、すさまじい醜悪な代物《しろもの》で、畸形の化物、慄然《ぞつ》とするばかりのぼろぼろで、おおわが殿様、これを言葉で描いてお聞かせするとなれば、吐気を催し、気を失って御足下《おんあしもと》に倒れずにいないことは、不可能でもございましょう。ただこれだけ申し上げることで御容赦願いましょう、私自身の同意を得て私の妻になった女というのは、その嘔吐を催させる一身に、あらゆる合法の欠点とあらゆる違法の耐えがたいもの、あらゆる汚れ、あらゆる悪臭、あらゆる嫌らしさ、あらゆる恐ろしさ、あらゆる不気味、つまり己が身に呪詛のかかっている存在《にんげん》たちの悩み得るあらゆるすさまじいものを、備えていたのだと。それで私は、鼻をつまみ、面《おもて》をそむけながら、その面衣《ヴエール》を再びかぶせ、妻から遠ざかって部屋の一番奥まった片隅に行きました。というのは、私はたとえ鰐を食うテバイード人であったにせよ、これほどまでにその創造主の御面《みおもて》を辱かしめる人間との肉体的接近に、わが魂を到らしめることは、致しかねたでございましょう。
顔を壁のほうに向けつつ、その片隅に坐って、私はあらゆる憂いがわが理性を襲い、世界中のあらゆる苦しみがわが腰に上がってくるのを感じました。そしてわが心の核心の奥底から呻きました。しかし私は自から進んでこれを自分の妻として承諾したのであってみれば、ただ一と言言う権利も、こればかりの不平をこぼす権利もございません。それというのも、まさに自分自身の眼を持ったこの私が、そのつど、父親を遮っては、「私はそれでいいのです、それでいいのです、」と叫んだのですから。そこで私は独りごとを言いました、「そうだ、ここにたしかにいるぞ、あの申し分なく愛くるしい乙女は。ああ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ、ああ、馬鹿者め、ああ、頓馬な牛め、ああ、のろまな豚め。」そして私は黙ってわが指を噛み、腕を抓っていました。そのうち自分自身に対する怒りが刻々に心中に湧いてきて、そして私はこの逆運の一夜全部を、さながらマダイの地かダイラムの地の牢獄で、拷問のただ中にいるとそっくりに、過ごしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十夜になると[#「けれども第八百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ですから、明方になると早々に、私はいそいでわが婚礼の部屋をのがれて、浴場《ハンマーム》に駈けつけ、この慄然《ぞつ》とする妻に触れたのを清めようとしました、そして不浄の場合の、大浄《グスル》(15)の儀式に従って洗浄を済ました上で、少しばかりうとうとしました。それから、自分の店に戻って、目まいに襲われる頭を抱え、酒も飲まずに酔って、店に坐りました。
するとすぐに友人たちと、私の知っている商人たちと、市場《スーク》の一番立派な方々が、或いは一人で、或いは二人で、或いは三人で、或いは一度に数人連れ立って、私のところに訪ねはじめて、私にお祝いを述べ、祝辞を呈しに来るのでした。その人たちは私に言います、「めでたい、めでたい、めでたい。悦び御身と共にあれかし、悦び御身と共にあれかし。」また他の人たちは私に言います、「ほう、御隣人、私たちはあなたがこんなにつましいとは知らなんだ。宴会はどこでなさる、御馳走はどこにある、氷菓《シヤーベツト》はどこ、捏粉菓子はどこ、砂糖菓子《ハラワ》の皿はどこ、しかじかのものはどこ、またかくかくのものは? アッラーにかけて、私たちは、これは奥さんの乙女の色香に脳味噌が茫としてしまって、友達を忘れ、肝心の義理を忘れなすったんだと、思ってますよ。まあそんなことはどうでもいいや。とにかく、悦び御身と共にあれ、悦び御身と共にあれ、ですよ。」
それで私は、おおわが殿様、いったいこの人たちは私のことをからかっているのか、それとも本気で祝ってくれているのか、あまり合点がゆきかねて、どういう恰好をしたらよいかわからず、ただ何とか一時のがれの動作をして、格別意味もないことを二、三答えるだけにしていました。私は、自分の鼻は鬱積した憤怒に詰まり、眼は今にも絶望の涙に溶けそうなのを感じていました。
こうして私の拷問は、朝から正午の礼拝の時刻まで続き、やっと商人は大方|寺院《マスジツト》に行ったり、昼休みをしたりということになりましたが、そのとき、そこに現われたのでございます、私の数歩前のところに、あの本物の、申し分なく愛くるしい乙女、私の災難の張本人と、責苦の因《もと》の女が。しかもその女は、五人の女奴隷のまん中で微笑を湛えながら、私のほうに進み寄って、引裾と絹物を着て、香気高い庭園のただ中の訶利勒《バーン》の若枝のようにしなやかで、たおやかに身を傾《か》しげ、右に左に婀娜《あだ》っぽく身を揺すりながら来ます。前日よりも一段と豪奢な装いを凝らし、まことに心を動かす歩み振りで、市場《スーク》の住人たちは、もっとよくその姿を見ようと、その通り道に堵列するほどでした。そして子供っぽい様子で、私の店にはいってくると、私にこの上なく優美な挨拶《サラーム》を投げ、腰を下ろしながら、私に言いました、「どうか今日の日があなたにとって祝福でありますように、おお御主人オラー・エド・ディーンさま、そしてどうかアッラーはあなたの安楽と幸福をお続け下さって、あなたの御満足を極まらせて下さいますように。何とぞ悦びが御身と共にありますように、悦び御身と共に。」
ところで私は、おおわが殿様、私はその姿を認めるや、すでに眉を顰めて、心中で呪いを呟やきました。然るに、どんなに大胆に私をからかいに来るか、犯行後に、どんな様子で私をじらしにやって来るかを見たとき、もう私はこれ以上我慢ができなくなりました。それで以前身持が堅かった頃の、あらゆる昔の粗野不躾が唇を衝いて出て、私は痛罵して、女に言いました、「おお松脂溢れた釜、おお瀝青溢れた鍋、おお不実の井戸め、いったいおれがきさまに何をしたからといって、おれをばこの腹黒さをもって取り扱い、出口のない深淵に投げこんだのだ。アッラーはきさまを呪い、われわれが出会った刹那を呪い、永久にきさまの顔を黒くして下さるように、おおこの放蕩女め。」ところが向うは、一向心を動かした様子もなく、微笑しながら答えるのでした、「おやおや、太鼓さん、それじゃあなたは私に対する御自分のひどい仕打ちを忘れたのですか、私の韻文で書いた恋歌に対する軽蔑を、私の使いの黒人の小女《こおんな》に加えた虐待を、あの子に浴びせた罵詈雑言を、あの子に見舞った足蹴《あしげ》を、あの子を通じて私に寄こした罵倒を?」こう言って、乙女は面衣《ヴエール》を掻き合わせて、出て行こうと立ち上がりました。
けれども私は、おおわが殿様、そのとき自分が自からの蒔いた種を刈り入れたに外ならなかったことを覚り、過去の自分の粗暴のあらゆる重さを感じ、不景気な徳行などいうものがどんなにあらゆる点で憎むべきものであるか、信心の偽善などというものがどんなに嫌うべきものであるかを、痛感致しました。そこで躊躇なく、私はその申し分なく愛くるしい乙女の足下に身を投じて、私を許してくれるように切に願いながら、言いました、「私が悪うございました、私が悪うございました、本当に、全く、私が悪うございました。」そして私は焼ける沙漠の雨の滴と同じように、優しく心を柔らげる言葉を言いました。それで結局乙女も止まる決心をして、私を容赦してくれて言いました、「こんどだけは許してあげますけれど、二度と繰り返しなさいますな。」それで私は、その衣服の裾に接吻し、それで額を被いながら、叫びました、「おおわが御主人様、私はあなた様の保護の下におります。そしてあなた様を通じて、あの御存じのことから救い出されるのを待っているあなた様の奴隷でございます。」すると乙女は微笑しながら言いました、「それはもう考えてあります。私はあなたを網にかけることができたと同じように、網から出してあげることもできるでしょう。」私は叫びました、「|おおアッラーよ《ヤツラー》(16)、|おおアッラーよ《ヤツラー》、早くして下さい、早く。」
すると乙女は私に言いました、「よく私の言葉を聞いて、私の指図に従いなさい。そうすれば、奥さんからわけなくのがれることができましょう。」私はお辞儀をしました、「おお甘露よ、慈雨よ。」乙女は続けました、「こうするのです。あなたは立ち上がって、砦《とりで》の下に行き、香具師《やし》、辻芸人、手品師、道化師、曲芸師、綱渡り、軽業師、猿廻し、熊遣い、長太鼓たたき、竪笛《たてぶえ》吹き、横笛吹き、太鼓たたき、その他の芸人たちに会って、すぐに、奥さんのお父さまの|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》のお屋敷まで会いに来てくれるように、打ち合わせなさい。そしてあなたは、みんなが来る頃に、中庭の踏段のところで、坐って長老《シヤイクー》と茶菓をとっていらっしゃい。そこに一同はいってくるや、こう叫びながらあなたに御慶《よろこび》を言い、お祝いを述べるのです、『おお、おいらの伯父さんの息子、おいらの血、おいらの目の血管《すじ》よ、お前の婚礼のめでたい今日、おいらはお前の悦びのお裾分けをさせてもらおう。まったく、おお、おいらの伯父さんの息子よ、お前がこんな豪気な身分になったとは、おいらは嬉しいよ。お前が今さらおいらのことを恥しく思ったら、おいらはお前の身内なことを自慢してやろう。そればかりか、お前が自分の親族を忘れて、おいらを追い払おうと、体《てい》よく追い返そうと、おいらはいっかなお前を離れねえぜ。何しろお前はおいらの伯父さんの息子で、おいらの血で、おいらの目の血管《すじ》なんだからねえ。』そのときあなたは、こんな連中と同族のことを吹聴されてはかなわないという振りをして、連中を追い払うために、ドラクムとディナールの貨幣《おかね》を、鷲掴みにして、みんなの上にばらまきはじめます。これを見ると、|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》は、きっとあなたに問いただすにちがいありません。そうしたらあなたは頭を垂れて、答えるのです、『本当のことを申し上げないわけにはまいりません、何しろあそこに親族どもがいては、誤魔化しきれませんから。事実私の父は、軽業師で、熊や猿の見世物師でございまして、それが私の一家の稼業であり、家柄なのでございます。しかしその後、報酬者は私どもに幸運の門を開いて下さり、私どもは市場《スーク》の商人たちとその会頭の尊敬を得るように相成りました。』すると奥さんのお父さまは言うでしょう、『それならば、お前は軽業師の息子で、綱渡りや猿廻しの一族の者か。』あなたは答えます、『お嬢さまのため、またその御名誉のためと申しても、私の出身と家柄を否定する術《すべ》はございません。血は血を否定せず、流水は源《みなもと》を否定致しませぬから。』するとお父さまはこう言うに相違ありません、『そうとあらば、おお若者よ、お前はわれわれに自分の血統、出身を隠したのであるからして、結婚契約には違法があったわけじゃ。お前が依然、|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》の娘の夫のままでいるとは、怪しからぬ。いやしくも法官《カーデイ》の最高長官の身で、法の絨緞の上に坐って、系譜を辿ればアッラーの使徒の縁戚にまで遡る名門《シヤリーフ》、福者《サイード》(17)である。その娘ともあらば、いかに報酬者の恩恵より忘れ去られたる者といえども、大道芸人の子の意のままになるとは、怪しからぬ。』するとあなたは返答します、『これは、これは、やあ大官様《エフエンデイ》(18)、お嬢様は私の正妻でございまして、その髪の毛一筋一筋が千の生命《いのち》に値します。私としては、アッラーにかけて、あなた様が世界中の王国をみんな下さったところで、到底別れるわけにまいりませぬ。』けれども、そのうちだんだんあなたは説き伏せられて行って、いよいよ離婚という言葉が持ち出されたら、だんだん奥さんと別れるのを承諾なさい。そして|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》と二人の証人の面前で、あなたは三度、離婚の文句を唱えるのです。そうやって自由の身になったら、ここに私に会いにいらっしゃい。そうすれば、アッラーはその後まとめるべきことをまとめて下さるでしょう。」
そこで私は、申し分なく愛くるしい乙女のこの言葉を聞いて、心臓の団扇《うちわ》が拡がるのを覚えて、叫びました、「おお聡明と美の女王よ、これより直ちに、わが頭上と眼の上に仰せに従うことと致します。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十一夜になると[#「けれども第八百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……私は心臓の団扇が拡がるのを覚えて、叫びました、「おお聡明と美の女王よ、これより直ちに、わが頭上と眼の上に仰せに従うことと致します。」
そして乙女を店に残したまま暇を告げて、私は砦《とりで》の下にある広場に出かけ、大道芸人、香具師《やし》、手品師、道化師、曲芸師、綱渡り、軽業師、猿廻し、熊遣い、長太鼓たたき、竪笛《たてぶえ》吹き、横笛吹き、木笛《フアイフ》吹き、太鼓たたき、その他あらゆる芸人の組合の親方《モカツデム》に渡りをつけて、これに莫大な報酬を約束して、自分の計画に力を貸してくれるよう、その親方《モカツデム》と打ち合わせました。そして協力の約束を得てから、私は一と足先に、妻の父親の|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》の屋敷に行き、中庭の踏段の上に上がって、その傍に坐りました。
そこで私は氷菓《シヤーベツト》を飲みながら、彼と打ちとけて話してまだ一と時もたたぬうちに、突然、開けてあった大門から、まず先頭には、逆立ちして歩いてくる四人の香具師《やし》と、足の爪先で歩いてくる四人の綱渡りと、手で歩いてくる四人の辻芸人が、途方もないどんちゃん騒ぎのただ中にやって来て、続いて、砦《とりで》の下で一座を開いているあの馬鹿騒ぎの連中の、太鼓をたたき、囃し立て、騒ぎ立て、喚《わめ》きちらし、踊りまくり、しぐさたっぷり、色とりどりの一族全部が、はいってきたのでございます。そこには、連中全部がいました。動物を連れた猿廻しもいれば、一番立派な家来どもを連れた熊遣いもいる。ぴかぴかした物を着けた道化師もいれば、高いフェルト帽をかぶった手品師もいる、それに途方もないどよめきを立てる騒々しい楽器を持った馬鹿囃子の連中もいます。そして一同は、猿と熊をまん中にして、皆それぞれ自分のことをやりながら、中庭にはいって、きちんと整列しました。ところが突然、けたたましい小太鼓《タブル》が一と鳴り高く響くと、一切の騒がしさは、魔法をかけたみたいに、ぴたりとやみました。そして一族の頭《かしら》が階段の足許まで進み出て、そこに集った私の親戚一同の名において、朗々とした大音声で、私に繁栄長寿を祈りつつ、かねて教えておいた演説を述べつつ、一席弁じたものです。
すると果して、おおわが殿様、万事はあの乙女の予想どおりになりました。それというのは、|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》は、この一族の頭《かしら》の口そのものから、この大騒ぎの説明を聞くと、私に確かにそうかと訊ねました。そこで私は、自分は事実この連中すべての、父方からも母方からも、身内で、私自身も辻芸人、猿廻しの息子であると、断言しました。そしてあの乙女に教えられた役割の台詞《せりふ》を全部繰り返しましたが、それは先刻御存じのところです、おお当代の王様。すると|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》は、顔色をはっと変え、大そう憤って、私に言いました、「お前はもう|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》の家と家庭に止まるわけにはゆかぬ。というのは、世人はお前の顔に唾して、キリスト教徒の犬とかユダヤ人の豚に対するよりも、お前を尊敬しないで遇しはしないかと、案じられるからじゃ。」そこでまず初めは、こう答えました、「アッラーにかけて、たとえ私にイラクの王国を下さると仰しゃっても、私は妻とは離婚致しませぬ。」すると|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》は、離婚を強要することは、教法《シヤリアー》(19)によって禁じられているのをよく承知していますから、私を傍らに連れて行って、あらゆる種類の妥協の言葉を尽して、「わしの名誉を蔽えば、アッラーはお前の名誉をも蔽いたもうであろう、」と言いながら、この離婚を承知してくれと頼み入りました。それで私も最後には折れて出て、離婚を承知し、証人たちの前で、|イスラムの長老《シヤイクー・リスラーム》の娘について、宣言しました、「私はこの女と離縁する。一度、二度、三度、離縁する。」これはもう取消不能の離婚の文句です。これを宣言しますと、私のほうが父親自身からこれを懇望されたのでありますから、私としては同時に、賠償金と寡婦資産から解かれたわけであり、また、およそ一人の人間の胸にのしかかった最も慄ろしい悪夢からも、解放されたわけでありました。
そして私は、一と夜私の妻の父であった人に挨拶も碌にしないで、後《あと》をも見ずに脚を風にまかせ、息せき切って、自分の店に着きますと、そこにはずっと、申し分なく愛くるしい乙女が、私を待っていてくれました。そして、この上なく優しい言葉で、私に歓迎の言葉を言い、礼儀を尽した物腰で、私の成功を祝ってから、言いました、「さて今はいよいよ、私たちの相結ばれる時がまいりました。あなたはどうお思いになって、おおわが御主人様。」私は答えました、「それは私の店にしますか、それともお宅で?」すると乙女は微笑して、言いました、「まあ情ない。女というものは、似つかわしく物事をするには、どんなに身仕度をしなければならないか、あなたは御存じないのですね。それはもう、私の家でなければいけません。」私は答えました、「アッラーにかけて、おおわが女王様、いったいいつから百合が浴場《ハンマーム》に行き、薔薇が入浴に行くようになったのでしょう。私の店はあなたを入れるくらいの広さはございます、百合にせよ、薔薇にせよ。またもし私の店が焼けてしまっても、なお私の心がございましょう。」すると乙女はにっこりとして、答えました、「まあ、ほんとにお上手だこと。もうあなたは、あんなに月並な、昔の勿体ぶったやり方から、お抜けになりましたね。そして申し分なく、挨拶《サラーム》を返せるようにおなりになりました。」そして付け加えました、「では立ち上がって、お店を閉めて、私のあとからいらっしゃい。」
ところが私は、この言葉ばかりを待っていたのですから、いそいで答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」そして一番後から店を出て、店に鍵をかけ、乙女と奴隷の一群の後から、十歩の距離を置いて、ついてゆきました。こうして大きな御殿に着いて、われわれが近づくとその扉は開きました。はいるとすぐに、二人の宦官が私のところに来て、一緒に浴場《ハンマーム》に行ってくれるようにと頼みました。私はもう、説明を求めずに何でもしようと覚悟して、宦官に浴場《ハンマーム》に連れて行かれると、さっぱりとした爽やかな入浴をさせてくれました。そのあと、上等な衣服を着て、シナの竜涎香を香らせられて、奥の部屋に案内されると、そこには、金襴の寝床にしどけなく横たわって、わが欲望《のぞみ》の、申し分なく愛くるしいあの乙女が、私を待っていました。
さて私たちが二人きりになると、乙女は私に言いました、「さあ、こっちにいらっしゃい、こっちに、おお太鼓さん。アッラーにかけて、以前にせっかくの今夜と同じような夜を断わったとは、あなたは馬鹿も馬鹿も、馬鹿の骨頂の大馬鹿さんにちがいありませんよ。けれども、あなたを困らせるといけないから、まあ過ぎたことは言い出さずにおきましょう。」私は、おおわが殿様、すでに丸裸になって、真白で、たおやかなこの乙女、いみじき場所の豊かさとふっくらしたお臀の大きさ、さまざまな特性の上等さなどを見て、わが過ぎ去ったあらゆる遅れが心中に取り戻されるのを感じて、一歩退いて飛びかかろうとしました。ところが乙女は、身振りと微笑で私を押しとどめて、言いました、「戦いの前に、おお長老《シヤイクー》よ、あなたは相手の名前を知っているかどうか、伺わなければなりません。相手は何と言いますか。」私は答えました、「優美の泉です。」乙女は言いました、「いいえ、ちがいます。」私は言いました、「純白の父。」乙女は、「いいえ、ちがう。」私は、「おいしい肉。」乙女は、「いいえ、ちがう。」私は、「皮を剥《む》いた胡麻。」乙女は、「いいえ、ちがう。」私は、「橋の羅勒《めぼうき》。」乙女は、「いいえ、ちがう。」私は、「強情な騾馬。」乙女は、「いいえ、ちがう。」私は言いました、「いやはや、アッラーにかけて、おおわが御主人様、それじゃ私はもうそのほか、ひとつしか名前を知らない、それっきりです。それは、親父《おやじ》マンスール(20)の宿。」乙女は、「いいえ、ちがう、」と言って、付け加えました、「おお太鼓さん、それじゃ物識りの神学者や文法学者の先生たちは、いったいあなたに何を教えてくれたの。」私は言いました、「何ひとつ教わりませんでしたね。」乙女は言いました、「じゃよくお聞きなさい。その名前のうちのいくつかはこうです。唖の椋鳥、肥えた羊、物言わぬ舌、言葉なき雄弁家、調節自在の万力、別誂らえの鎹《かすがい》、猛り立った噛み犬、疲れを知らぬ揺り手、引力のある奈落、ヤコブの井戸、子供の揺籃、卵のない巣、羽根のない鳥、汚点《しみ》のない鳩、口髭のない猫、声のない雛子《ひよこ》、それから、耳のない兎。」
こうして私の知恵を飾り、判断を啓発し終ると、乙女はいきなり私をその脚と腕の間に捉えて、言いました、「|おおアッラーよ《ヤツラー》、|おおアッラーよ《ヤツラー》、おお太鼓さん、突撃は速く、襲撃は重く、目方は軽く、抱き締めるのは力強く、そして底深く泳ぎ、隙間なく塞ぎ、休みなく飛び跳ねて下さいよ。一度か二度立ち上がって次には坐るとか、頭を擡げては垂れるとか、立ってはまた倒れるとかいう人じゃ、だめですからね。さあ、しっかり、元気で。」そこで私は、おおわが殿様、私は答えました、「じゃ、あなたの生命《いのち》にかけて、おおわが御主人様、では順序を追って致しましょう、順序を追って。」そして付け加えました、「誰から始めたらいいでしょう。」乙女は答えました、「お好み次第に、おお太鼓さん。」私は言いました、「それではまず唖の椋鳥に穀粒《こくつぶ》をやりましょう。」乙女は言いました、「椋鳥は待っています、待っていますよ。」
そこで私は、おおわが殿|帝王《スルターン》様、私は倅に言いました、「椋鳥を満足させてやれよ。」すると倅は承わり畏まって答え、唖の椋鳥の一日分の餌を、たっぷり惜しみなくやりますと、唖の椋鳥も、こんどは椋鳥の言葉で物を言いはじめて、申しました、「アッラーはあなたの福を増して下さいますように。アッラーはあなたの福を増して下さいますように。」
そこで私は、また倅に言いました、「こんどは肥った羊が待っているから、これに挨拶《サラーム》をしろよ。」すると倅は件《くだん》の羊に、最も丁寧な挨拶《サラーム》をしました。そして羊は自分の身分の言葉で答えました、「アッラーはあなたの福を増して下さいますように。アッラーはあなたの福を増して下さいますように。」
そこで私は、また倅に言いました、「こんどは物言わぬ舌に話しかけろ。」すると倅は物言わぬ舌を指で擦《こす》ると、それはすぐに響きよい声で答えました、「アッラーはあなたの福を増して下さいますように。アッラーはあなたの福を増して下さいますように。」
そこで私は、また倅に言いました、「猛り立った噛み犬を手なずけろ。」倅は件《くだん》の噛み犬を、大そう慎重に撫ではじめて、首尾よくやりましたので、怪我もなく痛みもなくその口から無事に出て、噛み犬も倅の勇気と働きぶりに満足して、言いました、「あなたに敬意を表します、ああ、何ともおいしい飲み物でした。」
そこで私は、また倅に言いました、「ヤコブの井戸を満たせ、おおヨブより辛抱強い男よ。」すると倅はすぐに答えました、「井戸はおれを呑み込むよ、呑み込んじまうよ。」そして件《くだん》の井戸は、骨も折れず文句もなく満たされて、隙間も途切れもなく、塞がれてしまいました。
そこで私は、また倅に言いました、「羽根のない鳥を温《あつ》ためてやれ。」倅は鉄床《かなとこ》の上の鎚のように答えました。そして温《あたた》まった鳥は答えました、「湯気が出る、湯気が出るよ。」
そこで私は、倅に言いました、「おおいい子よ、こんどは声のない雛子《ひよこ》に穀粒《こくつぶ》をやれ。」するといい子は否《いな》とは言わず、件《くだん》の雛子《ひよこ》にどっさり穀粒をやると、雛子《ひよこ》は歌い出して、言いました、「ありがたや、ありがたや。」
そこで私は、また倅に言いました、「あの耳のないいい兎も忘れないで、眠りを覚してやれよ、おお無類の眼の親父《おやじ》よ。」するといつも眼の覚めている倅は、その兎に、耳はないけれど、話してやって、大そうよい忠告をしてやったので、兎は叫びました、「何ともすばらしい、何ともすばらしい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十二夜になると[#「けれども第八百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうして私は、おおわが殿様、倅を励ましてその相手と付き合いをさせつづけました。そのつど付き合いの場所を変え、それぞれの特性に応じて向きを変じ、与えるものに与え、取るものから取り、口髭のない猫も、汚点《しみ》のない鳩も忘れず、大そう熱かった揺籃も、ま新しかった卵のない巣も、擦過傷《かすりきず》も負わずに敢然と立ち向った別誂らえの鎹《かすがい》も、慎しみ深くするため遠廻りに潜って行って、持ち主がとうとう赦しを求めて、「降参、降参、まあ、何て太い棒でしょう、」と言い出した引力のある奈落も、いっそう不死身にいっそう逞しくなって出て来た調節自在の万力も、また、最後に、菊芋《きくいも》よりも太く重くなって出て来た、竈《かまど》よりもなお熱い親父《おやじ》マンスールの宿《やど》も、何ひとつ忘れませんでした。
そして私たちは、おおわが殿|帝王《スルターン》様、朝の光が射してきたとき、はじめて戦いをやめて、祈祷を唱え、入浴することにしました。
さて私たちが浴場《ハンマーム》を出て、朝の食事をするため再び一緒になると、申し分なく愛くるしい乙女は、私に言いました、「アッラーにかけて、おお太鼓さん、あなたはほんとにお上手でしたこと。あなたに眼をつけさせてくれた運勢は、私に幸いしたというものです。さて今は、私たちの結びつきを合法のものにする問題ですけれど、あなたはどうお思いになって? あなたはアッラーの律法《おきて》に従って、私と一緒にいらっしゃりたいか、それともこれきり永久に私に会うのをおやめになりたいか、どちら?」私は答えました、「この純白のお顔をもう拝まないくらいなら、赤い死を受けるほうがいいです、おおわが御主人様。」すると乙女は言いました、「それならば、私たちは法官《カーデイ》と証人を呼びましょう。」そしてその場で法官《カーデイ》と証人を呼ばせて、すぐにわれわれの結婚契約を認《したた》めさせました。それが済むと、私たちは一緒に最初の食事をとって、消化が終り、すべての腹痛の危険が去るのを待って、再び私たちの嬉戯《たわむれ》と楽しみを始め、日に夜を継《つ》ぐことに致しました。
こうして私はこの生活を、おおわが殿様、申し分なく愛くるしい乙女と一緒に、三十夜と三十日の間、鉋《かんな》をかけるべきものには鉋をかけ、鑢をかけるべきものには鑢をかけ、詰めるべきものには詰めて、暮らしておりましたが、とうとう或る日、何か目まいのようなものに襲われて、ふと相手の女《ひと》に口を滑らしてしまいました、「どうしたことかわからないけれど、アッラーにかけて、今日は十二本目の猪槍《ししやり》を刺すことができない。」すると相手は叫びました、「何ですって? けれどその十二本目こそ一番大切なのですよ。外のは数にはいらないわ。」私はこれに言いました、「とてもだめだ、とてもだめだ。」すると乙女は笑い出して、言いました、「あなたは静養しなければいけないのね。では静養させてあげましょう。」そして私はそれ以上もう耳に入りませんでした。それというのは、力がすっかり抜けてしまって、やあ殿《シデイ》よ、私は頭絡《おもがい》のない驢馬のように、床《ゆか》に倒れてしまったのでございます。
そして私が気絶から覚めたときには、見ればこの瘋癲病院《マーリスターン》に、この二人の尊敬すべき若人の仲間と一緒に、繋がれているのでした。そして番人たちに訊ねてみると、言いました、「あなたの御静養のためです、御静養のためです。」ところで私は、御命《おんいのち》にかけて、おおわが殿|帝王《スルターン》様、今はすっかり休養し元気も回復したのを覚えまするので、御寛容に縋って、かの申し分なく愛くるしき乙女との再会を、お計らい願いとう存じます。その名前とか身分とかに至っては、私の知る限りではございません。私は自分の知るだけの一切をお話し申し上げました。そして以上が、その順序と変遷の次第とに従って、起ったままの私の身の上話でございます。さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする。
――帝王《スルターン》マハムードとその大臣《ワジール》、元の修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》が、この第二の若者の物語を聞き終ると、それが実に秩序整然と明快に話されたのに、驚嘆の限り驚嘆しました。そして帝王《スルターン》はその若者に仰しゃいました、「わが一命にかけて、たとえお前の拘禁の動機が不法なものでなかったとしても、お前の話を聞いた上では、余はお前を釈放してやるであろう。」そして付け加えなさいました、「お前はわれわれをその乙女の御殿に案内することができるか。」若者は答えました、「両眼を閉じても、できまする。」そこで帝王《スルターン》と大臣《ワジール》と、元の第一の狂人であった侍従とは立ち上がりました。そして帝王《スルターン》は、若者の鎖を外してやってから、これに仰せになりました、「我らの先に立って、お前の妻のところに到る道を行け。」そして四人揃って外に出ようとしていると、そのときまだ首に鎖をつけられている第三の若者が、叫びました、「おおわが御主人方様、われわれ一同の上なるアッラーにかけて、御出発に相成る前に、私の身の上話をお聞き下さいまし。それは私の二人のお仲間のそれよりも、もっと並外れたものでございますから。」すると帝王《スルターン》はこれに仰しゃいました、「お前の心を爽やかにし、お前の精神を鎮めよ。われわれはじきに戻ってくるであろうゆえ。」
そして一同、若者を先頭に立てて、或る御殿の戸口に着くまで歩きました。その御殿を御覧になると、帝王《スルターン》は叫びました、「|アッラーは至大なり《アラーフー・アクバル》。誘惑者|魔王《イブリース》は拉《ひし》がれよかし。この宮殿は、おおわが友らよ、余の伯父上、亡き王の第三王女の住居じゃ。さても我らの運命は驚くべき運命じゃ。隔てられしを相会さしめ、分解せられしを再建したまう御方に、讃えあれ。」そして帝はお連れを従えて御殿にはいり、伯父君の王女に御来着を取り次がせなさると、王女はいそいで御手の間に出てまいりました。
さて、実際に、それは申し分なく愛くるしい乙女なのでございました。王女は姉の御夫君に当る帝王《スルターン》の御手に接吻して、御命令に何なりと従う旨、申し上げました。すると帝王《スルターン》はこれに言いました、「おお伯父君の娘よ、私は御身の夫を連れてきた。私はこの好漢をば直ちにわが侍従の次席に取り立てて、今後はわが陪食者とし盃の友としよう。それというのは、私は彼の身の上と、御身ら両人の間に起った一時の誤解を知っているからだ。しかし今後は、そのようなことは再びあるまい、彼は今は休養し、元気を回復したからな。」すると乙女は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。あの人が御庇護と御保証の下にあって、またすっかり回復したと仰せられる以上は、もう一度あの人と一緒に暮らすことを承知致します。」すると帝王《スルターン》はこれに仰しゃいました、「御身に感謝せられよ、おお伯父君の娘よ。私が心の上に持っていた重い圧石《おもし》を、御身は取り去ってくれた。」そして付け加えて、「ただし、ひと時の間、彼を連れて行くのを許してもらいたい。それというのは、われわれはこれから、全く並外れたものにちがいない身の上話を、一緒に聞くことになっているから。」そして帝は乙女に暇を告げて、侍従の次席になった若者と、大臣《ワジール》と、侍従の首席と一緒に、外にお出ましになりました。
一同|瘋癲病院《マーリスターン》に着くと、第三の若者の向いに、それぞれの席に坐りに行きました。若者は燃える燠火の上で一同を待っていた次第で、首に鎖をつけたまま、すぐに次のような言葉で、自分の身の上話を始めたのでございます。
第三の狂人の物語(21)
されば、おおわが至上の御主君、また御身、善言の大臣《ワジール》、して御身ら、元のわが二人の鎖の仲間たりし、畏敬すべき侍従よ、私の身の上は、先ほど物語られたる二つのものとは何の類似もなきものと思し召せ。それというのは、わが二人のお仲間は共に女人によって取り計らわれたにせよ、この私は全く別事であったからでございます。かつ、皆さまは私の言をば、御自身の判断によって、御批判遊ばすでありましょう。
されば、おおわが殿方よ、私は父母が報酬者の御慈悲の裡に逝去致しました際には、いまだ幼少でございました。そして私は慈悲深い近所の人々に引き取られましたが、彼らもまた私どもと同様貧しく、衣食にも事欠きましたので、私の教育費を出すことができず、私をば頭には何も被らず、素足のまま、着物といえば青い綿布の肌着半分きりで、街々をうろつかせておりました。だが私は見るに耐えぬ子供ではなかったらしく、道行く人々は私が陽に焼けているのを見ては、しばしば立ち止まって、叫ぶのでございました、「どうかアッラーはこの子を邪視からお守り下さるように。この子は月の一片《ひときれ》ほどきれいだ。」そしていくたびか、そのうちの或る人々は私に、エジプト豆入りの砂糖菓子《ハラワ》とか、黄色でしなしなした糖果《キヤラメル》、あの細紐のように延ばしたものなどを買ってくれ、私にそれをくれながら、頬っぺたを軽く叩いたり、頭を撫でたり、剃った頭のちょうど天辺《てつぺん》に生えている毛の総《ふさ》を、親しげに引っぱったりしたものでした。すると私は大口開けて、その甘いものをそっくり、一と口でぺろりと呑み込んでしまいます。それで眺めている者全部に感嘆の叫びをあげさせ、私と一緒に遊んでいる腕白小僧たちに、羨やみの目を見張らせたものです。こうして私は年齢十二歳に達しました。
さて日々のうちの或る日、私はいつもの遊び仲間と一緒に、崩れた廃屋の天辺に、隼《はやぶさ》と烏の巣を取りに出かけましたが、そのとき、打ち棄てられた或る中庭の奥に、棕櫚の枝に蔽われた小屋のなかに、何か生きものの定かならぬ、動かない姿を認めました。私は人気のない荒屋《あばらや》には、魔神《ジン》や魔霊《マーリド》が住んでいるものだということを知っていたので、「あれは魔霊《マーリド》だな、」と思いました。それで恐怖に捉えられて、廃屋の天辺から転げ落ちてしまい、すぐに脚を風にまかせて、自分とその魔霊《マーリド》の間の距離を無くしてしまおうとしました。ところが、その小屋から大そう優しい声が洩れてきて、私を呼んで言うのでした、「なぜ逃げるのか、美しい子供よ。知恵を味わいにおいで。怖がらずにわしのそばにおいで。わしは魔神《ジンニー》でもなければ、鬼神《イフリート》でもない。孤独と瞑想の裡に生きている人間じゃ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十三夜になると[#「けれども第八百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……おいで、わが子よ。お前に知恵を教えてあげよう。」すると逃げている私は、さからい得ない力に突然引きとめられて、引き返し、そのごく優しい声が、「おいで、美しい子供よ、おいで、」と言いつづけているうちに、その小屋のほうに向ってゆきました。そして小屋にはいってみると、動かない姿というのは、数えきれないほどの齢《よわい》を重ねたとおぼしい非常な年寄りの、老人の姿でございました。その顔は、その非常な高齢にも拘わらず、太陽のようでした。そして老人は私に言いました、「わしの教えの後継ぎに来た孤児よ、よく来たね。」更に言いました、「わしはお前の父とも母ともなってやろう。」そして私の手をとって、付け加えました、「またお前はわしの弟子となるであろう。そして他日、他の弟子たちの師となるのだよ。」こう語って、老人《シヤイクー》は私に平安《サラーム》の接吻を与え、それから自分のわきに坐らせて、すぐさま私の教育を始めました。私はもうその言葉により、またその教えの美しさによって、征服されてしまい、彼のために自分の遊びも遊び仲間も棄ててしまいました。そして老人《シヤイクー》は私の父とも母ともなりました。私はこれに深甚な敬意と、極度の愛情と、際涯のない恭順を示しました。かくて五年が過ぎ、その間に私は実に見事な教育を授けられました。私の精神は、知恵のパンに養われました。
さりながら、おおわが殿よ、一切の知恵も、元来下地の性質よろしき地に種蒔かれぬことには、空しいのでございます。何となればそれは、肥沃な地層を剥ぎとってしまう狂気の耙《まぐわ》の最初の一と掻きと共に、消え失せてしまうからです。そしてその下には、涸渇と不毛しか残りませぬ。
かくて私はやがて、戒律に打ち勝つ本能の力をば、身をもって体験することと相成ったのでございます。
果して、或る日のこと、わが師の老いた賢人は、私を回教寺院《マスジツト》の中庭にわれわれの食を乞いに遣ったので、私はその仕事を果しました。信徒たちの寛仁によって恵まれてから、私は寺院を出て、われわれの淋しい地への道を再び行きました。ところが途中で、おおわが殿、私は一群の宦官とすれちがいましたが、そのまん中には、面衣《ヴエール》を着けた一人の乙女が身を揺すっていて、面衣《ヴエール》の下のその双の眼は、私には大空全体を含んでいるもののように見えたのでございます。宦官たちは長い棒を携えていて、通行人の背中をそれで打っては、御主人の通って行く道から、人々を遠ざけていました。そして四方で人々の呟やくのが聞えました、「帝王《スルターン》の王女様だぞ、帝王《スルターン》の王女様だぞ。」私は、おおわが殿よ、私は魂は動顛し、脳漿は乱れに乱れて、わが師の許に戻りました。そして途端に、わが師の金言をも、わが五カ年の知恵をも、諦念の戒律をも、打ち忘れてしまいました。
私が泣いていると、わが師は悲しげに私を見つめました。そして私たちは互いに傍らに並んだまま、一と言も言い出さずに、終夜を過ごしました。朝になると、私は習慣どおり、師の手に接吻してから、申しました、「おおわが父上にして母上よ、どうぞ不束かな弟子をお許し下さいませ。けれども、私の魂はどうあっても帝王《スルターン》の娘を再び見ずには済みません、たとえただ一瞥を投ずるだけでも。」すると師は言いました、「おおお前の父と母の息子よ、おおわが子よ、お前の魂が欲するとあらば、お前は帝王《スルターン》の王女を見るであろう。しかし、知恵の隠者と地上の王者との間に存する懸隔《へだたり》を思いみよ。おおお前の父と母の息子よ、おおわが慈しみに養われし者よ、そもそも知恵は、アーダムの娘らの交際とはどんなに相容れぬものであるか、お前は忘れたか。わけてもそれが王者の娘である時には尚更じゃ。お前は己が心の平安を擲ったのか。わしの死と共に、孤独の戒律の最後の隠匿者が絶えるであろうと承知しながら、お前はわしに死んで欲しいのか。おおわが息子よ、諦念にまして財宝豊かなるはなく、孤独にまして心満ち足るるはないのじゃ。」けれども私は答えました、「おおわが父上にして母上よ、たとえただ一瞥を投ずるだけでも、もし姫君を見ること叶いませずば、私は死んでしまいます。」
すると、私を愛しているわが師は、私の悲しみと悩みを見て、言いました、「子よ、姫君を一瞥すれば、お前の一切の望みは足りるであろうか。」私は答えました、「それにちがいありません。」するとわが師は、溜息を洩らしながら私に近づいて、私の両眼の弓形に膏薬のようなものをなすりつけました。するとその瞬間に、私の身体《からだ》の一部分は見えなくなって、見えるところといえば、半身だけ、運動ができる胴体だけになりました。するとわが師は言いました、「今は町のまん中に行くがよい。こうしてお前は望みの目的に達するであろう。」私は承わり畏まって答えて、またたく間に広場に行きましたが、そこに着くとすぐ、数知れぬ群衆に取り囲まれました。めいめいびっくりして私を見ています。そして八方から、人間の半身しかなくて、それでこんなに敏捷に動きまわる不思議な存在を見ようと、駈け寄ってきます。そのうちこの奇妙な珍物の噂は、間もなく町中に拡がって、帝王《スルターン》の王女が母君と住んでいる宮殿にまで達しました。それでお二人とも、私についての好奇心を満足させたく思って、宦官を遣わして、私を引き立てて御前まで連れて来させることにしました。それで私は御殿に連れ行かれ、後宮《ハーレム》に案内されて、姫君と母君は私についての好奇心を満足なさり、一方その間に私はとくと眺めました。それが済むと、お二人は宦官に私をまかせ、彼らは私を引き立てて行った元の場所に運びました。そして私は、魂は今までよりもいっそう悩み、精神はいっそう混乱して、小屋のなかの、わが師の許に戻りました。
見ると師は、茣座《ござ》の上に横になり、胸は息苦しく、さながら末期の苦しみにあるかのように黄色い顔色をしています。けれども私は、師のことに思い悩むには、あまりに心がよそに占められていました。すると師は力の無い声で訊ねました、「お前は、おおわが子よ、帝王《スルターン》の娘を見たかな。」私は答えました、「はい。けれども見なかったよりも、もっと困ったことになりました。もし私があの姫君のそばに坐って、姫君を眺める悦びを眼に満喫させてやることができなければ、私の魂は今後安息を見出せません。」すると師は長歎息を洩らしながら、言いました、「おおわが最愛の弟子よ、わしはお前の心の平和のために心配で身が戦《おの》のくわ。『孤独』の人々と『権力』の人々との間に、遂にいかなる関係が存在し得ようか。」私は答えました、「おお父上、姫君の頭のそばに私の頭を憩わせ、姫君を眺め、あの美わしい項《うなじ》をわが手で触わらないことには、私はわが身を不幸のぎりぎりの極にあるものと思って、絶望のあまり死んでしまうでございましょう。」
すると私を愛しているわが師は、私の理性のためにも、私の心の平和のためにも、同時に非常に案じて、痛ましく|※[#「口+歳」、unicode5666]《しやくり》に身を揺られながら、私に言いました、「おお、お前の父と母の息子よ、おお、お前の裡に生命を宿しつつ、女性《によしよう》というものがいかに惑乱を与え堕落せしむるものであるかを打ち忘れている児よ、さらば行って、お前のあらゆる望みを叶えよ。しかし、最後の恩恵として、どうかこの場にわが墓穴を掘り、わが休らう場所の上に墓石などおかずに、わしを埋めて行ってくれよ。こちらに身をかがめなさい、わが息子よ、お前が目的を達する方法を授けてあげるによって。」
それで私は、おおわが殿よ、わが師のほうに身をかがめますと、師は大そう細かい黒い粉にした一種の瞼墨《コフル》のようなもので、私の瞼《まぶた》を擦《こす》って、言いました、「おおわが昔の弟子よ、今やお前は、この瞼墨《コフル》の霊験のお蔭で、人々の目には姿が見えなくなった。お前はもう安心して、あらゆるお前の望みを叶えることができるのじゃ。願わくはアッラーの祝福がお前の頭上にあって、『孤独』の選ばれし人々の間に惑乱を投ずる呪われたる女らの陥穽より、可能の範囲において、お前を守りたまわんことを。」
こう語り終ると、私の敬うべき師の君は、かつて世に在《いま》さなかったかのごとくになってしまいました。そこで私はいそいで、師が今まで暮らしておいでになった小屋の下に、穴を掘って、そこに埋めました。――願わくはアッラーはわが師を御慈悲の裡に許したまい、これに最上の席を与えたまいますよう。それが済むと、私はいそいで帝王《スルターン》の王女の御殿に、飛んでまいりました。
ところで、私はどんな人の目にも見えないのですから、見咎められることなく御殿にはいり、道をずんずん進んで、後宮《ハーレム》に分け入り、まっすぐに姫君のお部屋に行きました。すると姫君は臥床《ふしど》に横になって、午睡をしていなすって、身にはモスールの織物の肌着一枚しかつけていませんでした。私は、おおわが殿、生まれてからいまだ婦人の裸体を見る機会がなかったので、感動して、あらゆる知恵も戒律も、ことごとく忘れ果ててしまいました。そして「アッラー、アッラー、」と叫びました。それが大そう強い声で言い出したもので、乙女は目ざめの吐息を洩らし、床の中で寝返りをしながら、半ば眼を開けてしまいました。しかし幸いにして、それだけで済みました。だが私は、おおわが殿、私はそのとき言語を絶するものを見たのでございます。このように華奢でたおやかな若い娘が、このように大きなお臀を持っているとは、全く驚き入りました。私はすっかり驚嘆して、自分が見えないとわかっていますから、更に近づいて、ごくそっとそのお臀に指をあて、これに触ってみて、それについて得心がゆきたいと思いました。それは丸々として、むっちり太り、ふわふわと柔らかく、滑らかなのを感じました。しかし私は、その大きなことにびっくりした驚きから覚めきれないで、「どうしてこんなに大きいのだろう。どうしてこんなに大きいのだろう、」と自問しました。そして、これについていろいろ考えてみたが、満足な答を得られぬままに、いそいで乙女に接触してみようとしました。私はこれを限りなく用心して、眼を覚まさせないようにやりました。そして第一の危険が去ったと判断すると、こんどは或る最初の衝動を敢行しました。静かに、静かに、おおわが殿よ、御承知の倅が、いよいよ仕事にかかりました。しかし倅は、粗暴であることや、いかようにも非難すべき所行に訴えることは、固く慎しみました。そして彼もまた、己れの知らぬことを単に知るだけで満足しました。それだけのことでございました、おおわが殿。われわれは二人とも、まず今回は、判断力を養成したことで十分であると、判断した次第でありました。
然るに、ここに遂に、「誘惑者《あくま》」は、まさに私が起き上がろうとしたその間際に、私を唆かして、乙女のちょうどあの大きさが私を訝からせた驚くべき円味の、その一方のまん中を、抓《つね》らせようとして、私はその誘惑に抗しきれず、ここに遂に、乙女のその円味のまん中をば抓ってしまったのです。それで、――悪魔は遠ざけられよかし。――乙女の覚えた痛みは甚だしく、こんどこそは、はっきり眼が覚めてしまい、びっくりした叫びをあげながら、寝床から飛び下りて、大声あげて母君を呼びました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十四夜になると[#「けれども第八百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、王女の急を知らせる合図と恐怖の叫びと救いを呼ぶ声を聞くと、母君は衣に足を絡まれながら、王女の年とった乳母と宦官たちがすぐおあとについて、駈けつけて来られました。乙女は、抓《つね》られた場所に手をやりながら、まだ叫びつづけています、「石もて打たれし悪魔《シヤイターン》より、私はアッラーの裡に逃《のが》れ奉ります。」母君と年とった乳母とは、同時に訊ねました、「どうしました、どうしました。なぜ大切なところに手をやっているのですか。どうかしたのですか、大切なところが。大切なところに何か起ったのですか。どれ見せてごらんなさい、大切なところがどうなったか。」そして乳母は、宦官たちを睨みつけながらそちらを向いて、怒鳴りつけました、「ちょっと向うに行っていなさい。」宦官たちは、この年とった厄介者を口の中で呪いながら、遠ざかりました。
こうした次第です。それで私は、わが亡き師、――願わくはアッラーはこれに御恵《みめぐ》みを垂れたまえかし。――その先師の瞼墨《コフル》のお蔭で、他人からは見えずに、見ていることができました。
ところで、母君と乳母が首を延ばして、いったいどうしたことかと覗きこみながら、こうしてたたみかけて質問すると、乙女は赧くなり苦痛を覚えて、やっと言い出しました、「ここなの、ここなの、抓ったの、抓ったの。」それで二人の婦人はよく見ると、大切なところに、私の拇指と中指のもう赤く腫《は》れ上がった跡を見ました。それでこの上なくびっくりし、気色を悪くして、叫びました、「まあいやだ、いったい誰がこんなことをしたの、誰がしたのです。」すると乙女は、「知らない、知らない、」と言いながら、泣き出して、言い添えました、「眠りながら大きな胡瓜を食べている夢を見ていたところに、こんなふうに抓られたの。」すると二人の婦人は、この言葉を聞いて、同時に身をかがめて、垂幕の下やら、覆いの下やら、蚊帳の下やらを見ましたが、何も怪しいものは見つからないので、乙女に言いました、「あなたは眠っているうち、自分自身で抓ったのじゃないことは、確かかえ。」乙女は答えました、「こんなにひどく自分の身体《からだ》を抓るくらいなら、死んでしまうほうがましです。」すると年とった乳母は、説をなして言いました、「至高、全能のアッラーのほかには、頼りも力もござりませぬ。私たちのお嬢様を抓ったのは、空中に住んでいる名指し得ないもののうちの、一人の名指し得ないものですよ。それはこの開けてある窓からここにはいったものにちがいなく、お嬢様が大切なところを出して眠っているのを見ると、ちょうどそこを抓りたい望みに逆らいきれなかったのです。それできっと、こういうことになったわけです。」こう言って、乳母は窓と扉を閉めに駈けて行って、付け加えました、「私たちのお嬢様に冷たい水とお酢の湿布をしてあげる前に、とにかくいそいで悪魔を追い払わなければいけません。それには利き目のある法はただ一つで、それはこの部屋で駱駝の糞《ふん》を焚くことです。駱駝の糞は、魔神《ジン》や魔霊《マーリド》や一切の名指し得ないものどもの嗅覚の苦手ですからね。その燻蒸の際唱えなければならない文句は、私がちゃんと知っていますよ。」そしてすぐに、扉の後ろにかたまっている宦官たちに叫びました、「いそいで駱駝の糞《ふん》を一と籠、ここに持っておいで。」
宦官たちが命令を果しに出かけている間、母君は姫に近づいて、お訊ねになりました、「おお娘よ、悪魔《シヤイターン》はそれ以上あなたに何もしなかったことは、大丈夫かい。私の言う意味のことは、あなたは何も感じなかったかい。」姫は言いました、「存じませんの。」すると母君と乳母は頭を下げて、乙女を調べました。そして、おおわが殿よ、先ほど申し上げましたように、すべては異状なく、裏にも表にも暴行の跡はひとつもないことを見ました。ところが乳母の奴めの鼻は鋭敏で、奴にこう言わせました、「お嬢様の上には、どうも男の魔神《ジンニー》の臭いがする。」そして宦官に叫びました、「糞《ふん》はどうした、おお呪われた者どもめ。」ちょうどその時、宦官たちは籠をもってやって来て、ちょっと開けた扉の隙間から、その籠をいそいで乳母に渡しました。
そこで年とった乳母は、先ず床《ゆか》に敷いた絨緞を取りのぞいてから、大理石の石畳の上に糞の籠を空けて、それに火をつけました。そして煙が立ち騰りだすとすぐに、空中に魔法のしるしを描きながら、火の上に何やらわからない言葉を呟やきはじめました。
すると、こうです。焚かれた糞の煙はやがて部屋中に満ちてきて、耐えがたく私の眼に沁み、涙が眼に溢れてくるので、私はやむなく着物の裾で、いくたびも眼を拭わずにいられませんでした。そして私は思い到らなかったのです、おおわが殿よ、この仕ぐさによって、私は、霊験で姿が見えなくなっていた瞼墨《コフル》を、段々に取り除くことになってしまったが、先見の明がなかったため、師の亡くなる前に、それをたっぷり頂戴しておくことを忘れていたことを。
果して、突如、三人の婦人が同時に三つの恐怖の叫びをあげて、私のほうに指を向けながら、「鬼神《イフリート》だ、鬼神《イフリート》だ、鬼神《イフリート》がいる、」と、叫ぶのが聞えました。そして宦官に救いを求めましたので、宦官たちはすぐに部屋に飛びこんできて、私に襲いかかり、私を殺そうとしました。けれども私は、この上なく物凄い声を張りあげて、彼らに叫びました、「もしお前たちがちょっとでもおれの身に危害を加えたら、兄弟の|魔神たち《ジン》の助けを呼んで、お前たちを鏖殺《みなごろ》しにし、この宮殿をば、住んでいる人々の頭上に崩れ落ちさせてしまうぞ。」すると彼らは恐れをなして、ただ私を縛り上げるだけにとどめました。すると老婆は私に叫びました、「お前の右の眼のなかに、私の左の五本の指を、お前の左の眼のなかに、私のもう一方の五本の指を。」私は言ってやりました、「黙れ、おお呪われた妖術師め。さもないと兄弟の|魔神たち《ジン》を呼んで、きさまの縦を、横にぶちこんでやるぞ。」すると老婆も恐れをなして、黙ってしまいました。けれどもそれも束《つか》の間《ま》で、すぐに叫びました、「こいつが鬼神《イフリート》とあらば、殺すわけにはゆかない。だけど、あと一生こいつを縛りつけておくことはできるのですよ。」そして宦官たちに言いました、「こいつを引っ立てて、瘋癲病院《マーリスターン》に連れてゆき、首に鎖をかけ、鎖を壁にしっかりと釘でとめておきなさい。そして番人たちに、万一こいつを逃がすようなことがあったら、生命《いのち》は絶対に無いと、言いなさい。」
するとすぐに宦官たちは、おおわが殿よ、鼻をすっかり長くしている私を引っ立てて、この瘋癲病院《マーリスターン》に放りこみました。ここで私は、ただ今はわが君の敬すべき侍従となっておられる、このお二人の元の仲間に、お会い致しました。以上が私の身の上でございます。そして以上が、おおわが殿、帝王《スルターン》様、私がこの狂人の獄舎に幽閉せられ、わが首に鎖をかけられた謂《いわ》れでございます。私は端から端まで、一切合財お話し申し上げました。それゆえに、アッラーとわが君に、わが過ちが赦され、君の御厚意によってこの牢屋《ひとや》より救い出だされて、いずこにあれこの収容所より外に脱れさせていただきたきものと、ひそかに期待している次第でございます。なお、もし私がのぼせ上がっておりまする姫君の夫ともなれば、これに越したることはございません。そして至高者はわれらの上にましまする。
――帝王《スルターン》マハムードはこの身の上話を聞くと、元の修道僧《ダルウイーシユ》の帝王《スルターン》の、大臣《ワジール》のほうに向き直って、仰しゃいました、「天運がわが一家の出来事を操ることかくの如しじゃ。それというのは、この若者の恋慕する姫君とは、すなわちわが妃の父君、亡き帝王《スルターン》の一番末の王女なのである。今はわれわれはただこの出来事に、それに含まれている結末を与えることあるのみ。」次に帝は若者のほうを向いて、これに仰しゃいました、「まことにお前の話は驚くべき話である。さればたとえお前が余にわが伯父君の王女を妻に所望しなくとも、余はこれをお前に授けて、お前の言葉に覚えるわが満足の意を示すであろうぞ。」そして直ちにその鎖を外させて、これに仰しゃいました、「お前は今後はわが侍従の第三席となるであろう。そして、お前がすでに美質を知っている姫と、お前との婚儀挙行のため、命令を下すと致そう。」
すると若者は寛大な帝王《スルターン》の御手に接吻致しました。そして一同打ち揃って瘋癲病院《マーリスターン》を出て、王宮に行きました。そして先の二つの和解とこんどの若者の姫君との結婚を機として、ここに盛大な祝宴が催され、盛大な一般の祭礼が行なわれました。町の住民は、身分の高下なく全部饗宴に参加するように誘われ、帝王《スルターン》の王女と賢人の弟子との結婚と、かつて運勢によって引き離された人々の再会とを祝って、饗宴は四十日と四十夜に亘りました。
そして一同は、避け得ざる別離の到るまで、親密な歓楽と友情の喜悦の裡に、暮らしたのでございました。
[#この行1字下げ] ――「これが、おお幸多き王様、」とシャハラザードは続けた。「かつて帝王《スルターン》であって、放浪の修道僧《ダルウイーシユ》となり、次に帝王《スルターン》マハムードの大臣《ワジール》に選ばれた、お気の毒な不義の子の物語であり、その御友人と、狂人として瘋癲病院《マーリスターン》に閉じこめられた三人の若者と、彼との間に起った事がらの、こみ入った物語でございます。さあれアッラーは更に偉大にましまし、更に寛大にして、更に多くを知りたまいまする。」次に彼女は、言葉を途切らすことなく、言い足した、「けれども、この物語が、九十九の晒首《さらしくび》の下での問答[#「九十九の晒首《さらしくび》の下での問答」はゴシック体]にまして、見事であるとか、教訓に富むなどとは、お思い遊ばすな。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「その問答とは、シャハラザードよ、またその晒首とは余は知らぬが、どういうことか。」するとシャハラザードは言った。
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九十九の晒首《さらしくび》の下での問答(1)
語り伝えられまするところでは、――さあれ、ひとりアッラーのみ実在と非実在を見分け、過《あやま》つことなく区別することがおできになりまする。――遠い古《いにし》えのこと、昔のルーム人の町々のうちの一つの町に、位高く功著われた一人の王、勢威と権力、兵力と軍隊の主《あるじ》がおりました。そしてこの王には、そのあらゆる財宝よりも貴い、一人の申し分なく美しい年若い王子がありました。この王子である若者は、ただに完全に美しいばかりでなく、世界を驚嘆させるほどの知恵をも授けられていました。それにこの物語こそは、この貴公子の感嘆すべき知恵と美しさのほどを、ただ確証するばかりでございましょう。
これらの美質を試煉に遭わせるために、至高のアッラーは、この公子の父母の国王と王妃の日々の上に、時節を非なる方面におまわしになりました。それでその父母は或る日、今までの権力と富貴を極めていた国王と王妃の身から、寛仁の路上に物乞う乞食よりも、貧しく悲惨に、一物もない王宮に目覚めたのでありました。それというのは、この上なく堅固な王座をも瓦解させ、王宮に猛獣と夜禽を住わせることほど、至高者にとってたやすいことはないからでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十五夜になると[#「けれども第八百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、この時節の反撃と思い設けぬ運命の急変を前にして、公子はわが心が、さながら煙の立つ刃金が水にひたされるように、淬《やき》を入れられるのを覚えまして、御両親の勇気を引き立てて、陥っていらっしゃる状態から脱しさせることを、進んで買って出ました。そして憐れな父王に言いました、「おお父上、アッラーにかけて、仰せ下さい。父上にお話し申し上げたい子供のほうに、お耳を傾けていただけましょうか。」すると王は、頭を挙げて、答えました、「おおわが息子よ、お前は叡智の選ばれたる者、言うがよい。さらば我らはお前の言に従うであろう。」公子は言いました、「お立ち遊ばせ、おおわが殿、そしてわれわれは、人々が我らの名をすら知らぬ地へと出発いたしましょう。それというのは、われわれがいまだ現在の主人である時に当って、返すに由なきことの前に歎いていたとて、何になりましょうぞ。他の地で、われわれは新しい生活と、一新された喜びとを見出すでありましょう。」すると老王は答えなさいました、「おお、孝心厚く、敬意満てる、天晴れのわが子よ、お前の忠告は『知恵の主《あるじ》』の霊感である。この件についての配慮は、アッラーの上とお前の上にあれかし。」
そこで公子は立ち上がって、旅の用意万端を備えてから、父母の手をとって、一緒に、天命の道に出ました。そして三人は野を越え沙漠を越えて旅し、歩きつづけているうちに、立派に建てられた大きな町を望むところに着きました。すると公子は父母を城壁の蔭に休ませておいて、単身その町にはいりました。そして通行人に訊ねると、皆この町は、諸国の国王と帝王《スルターン》の誉れとなっている、一人の正しく高邁な帝王《スルターン》の首府であると教えました。そこで公子は腹案と計画を定めて、すぐに年老いた両親の許に引き返して、言いました、「この町の帝王《スルターン》は豪い帝王《スルターン》と聞きますが、私はお二人をその帝王《スルターン》にお売り申すつもりでございます。いかがなものでございましょう、おお御両親様。」御両親は答えました、「おおわが子よ、お前はわれわれよりもよく事のよしあしを知っている、至高者はお前の心に情愛を、お前の精神にあらゆる叡智を置きたもうたゆえに。それでわれわれとしては、アッラーとお前とに希望を托して、心安んじ打ち委せて、お前に従うより外ない、おおわが子よ。そしてお前がよしと判断することは何事も、我らの諾《うべな》うところであろう。」すると公子は再び年老いた両親の手をとって、一緒に帝王《スルターン》の宮殿のほうに向いました。そして両親をば王宮の中庭に残して、王様にお話し申しあげたいから、王座の間《ま》に案内して欲しいと願い出ました。公子は気品のある美しい様子をしていましたから、すぐに謁見の間《ま》に通されました。そして帝王《スルターン》に敬意を表しますと、帝王《スルターン》は一見して、これは疑う余地なく、地上の貴人の息子にちがいないと見て、仰しゃいました、「どういう望みかな、おお光明の若者よ。」すると公子は、今一度王の御手の間の床に接吻してから、答えました、「おおわが御主君様、私は一人の俘虜で、敬虔にして主《しゆ》を畏れ、実直と名誉の亀鑑と言うべき男を、連れております。また同じく俘虜で、品性よろしく、態度物柔らかく、言葉淑やかで、女奴隷として必要なあらゆる長所に満ちた女をも、一人連れております。両人共にかつては栄えた日々を知りましたが、ただ今は天運に迫害される身でございます。そのゆえに私は両人をば君にお売り申して、われわれは三人ながら君の動産の身でありまするがごとく、両人をば君の御足《おみあし》の間の召使いとし、御自由にお使い遊ばす奴隷としていただきたいと存じまする。」
王はこの青年の口から、爽やかな口調で言われたこの言葉を聞くと、これに言いなさいました、「おお、思うに天より我らが許に来たりし類いなき青年よ、その方の言う二人の俘虜がその方の有とあらば、そは余の意に叶わざるを得ぬ。いそぎここに連れてまいれ、それを見て、その方より買い取るによって。」そこで公子は、わが父である憐れな王と、わが母である憐れな王妃の許に引き返して、唯々として従う二人の手をとって、王の御前に連れてきました。
王は公子の父母に一瞥を投ずると、驚嘆の限り驚嘆して、仰しゃいました、「この二人が奴隷とあらば、国王とはそもそもどのようなものか。」そして二人にお訊ねになりました、「汝らはいずれもこの美しき青年の奴隷であり、所有物であるか。」二人は答えました、「たしかに、すべての覊絆《きずな》によって、その奴隷であり、所有物でございます、おお当代の王様。」すると王は若者のほうを向いて、言いました、「王者らの屋形にも絶えてその比を見ないこの二人の俘虜を売り払うについては、その方自身、適当な値《あたい》を余に申し出でよ。」すると若者は言いました、「おおわが御主君様、およそこの二人の俘虜を手放す損失を、埋め合わせることのできるような財宝はございませぬ。されば私はこれを金銀に代えてはお譲り申さず、ただ、運命の定むるであろう日まで、お預けものとして、御手の間にお渡ししておきたいのでございます。そして、この一時の譲渡の値《あたい》としましては、あたかもこれなる二人の者がアッラーの被造物の間で貴重なると等しいだけ、その種類として貴重な一事をのみ、お願い致しとう存じます。すなわち、この男の俘虜の譲渡分としては、お厩舎《うまや》中で一番美しい一頭の馬に、鞍、大勒、その他馬具一切をつけたもの、また、女の俘虜譲渡分としては、王者の子弟の着用するごとき武装一式を、頂戴仕りたい。それに、私が馬と武装とを再び持ち返った暁には、わが君ならびに君の御領地にとって、祝福となろうこの二人の俘虜を、私にお戻し下さるという条件を、付けさせていただきまする。」すると帝王《スルターン》は答えました、「その方の望みにまかせて行なわるるように。」そして即刻即時に、帝はお厩舎《うまや》から、かつて太陽の目の下でいなないた最も美しい馬を出させて、若者に与えなさいましたが、それは鼻面をひくひくさせ、眼がとび出している、濃い栗毛の駒で、今にも駈けり飛び立とうと、空気を吸い、地を蹴っております。また帝はお蔵から、およそ騎士がかつて馬上試合で着用した最も美しい武装を取り出させて、公子に渡しますと、公子は直ちにそれを着用しました。それでこの新しい騎士はまことに凛々しく見えたので、王は叫びました、「もしその方わが許に止まるとあらば、おお騎士よ、恩恵の限りを尽してとらせよう。」すると公子は言いました、「願わくはアッラーは君の残りの日々を増したまえかし、おお当代の王よ。さりながら、私の天命はここにはございませぬ。私は天命が私を待っているところに、それを見出しに行かねばなりませぬ。」
こう言って、彼は御両親に別れを告げ、王にお暇を乞うて、栗毛の駒を駆って出発しました。そして野と沙漠、河と早瀬をいくつも横ぎって、前の町よりも更に立派に建てられ、更に大きな、今一つの町を望むところに着くまで、旅することをやめませんでした。
ところが、彼がこの町にはいるとすぐに、奇妙な呟やきが行く先々にあがり、驚きと憐れみの叫びが彼の一歩一歩を迎えるのでした。或る者はこう言っているのが聞えます、「若い身空で惜しいことだ。なぜあんな美しい騎士が、いわれもないのに、わざわざ命を危うくしにやってくるのだろう。」また他の者は言っています、「これが百人目になるだろう、百人目にな。今までで一番美しい男だ。これは王子だぞ。」また他の者は言っています、「あれほど大勢の物識りが失敗したところを、こんな優男《やさおとこ》がうまくやれっこあるまいて。」そして町の道々を進むにつれて、呟やきと叫びはますます大きくなるばかりです。そのうち、彼のまわりと前との騒々しい群衆は、いよいよ密集してきて、誰か住民を踏み潰すおそれなしには、馬を進めることができないほどになりました。それですっかり困って、彼は駒をとめざるを得ず、そこで道を塞ぐ人々に訊ねました、「どうして、おお皆の衆よ、あなた方は、異国の者とその馬が疲れを休めに行くのを、邪魔立てなさるのか。またどうしてあなた方は、申し合わせたように、この私に歓待を拒みなさるか。」
すると群衆のただ中から、一人の老人《シヤイクー》が出てきて、若者のほうに進み寄り、馬の轡を抑えて、言いました、「おお美しい若人《わこうど》よ、願わくはアッラーはあなたを災厄《わざわい》からお守り下さるように。天運は我らの首に結びつけられているからには、何ぴとといえども己が天運を避け得ないということは、分別ある人間は誰しも異議を挿み得まいが、しかし、若盛りのただ中にありながら、一人の男が平然と死地に飛びこみに行くということは、これは乱心の域に属することじゃ。さればわれわれはお願い申す、わしは全住民に代ってお願い申すが、おお高貴の異国の方よ、どうか引き返して、そのように御自分の魂を、救いようのない破滅に曝らすことは、やめていただきたいものじゃ。」そこで公子は答えました、「おお尊ぶべき御老人《シヤイクー》よ、私は決して死ぬつもりで、この町にはいってきたわけではございません。私を脅やかしているらしいその奇妙な事件とは、いったい何か。また私の冒そうとしているその死の危険とは、何ですか。」するとその老人《シヤイクー》は答えました、「今のお言葉がわれわれに示したように、あなたがこの道を辿る場合、前途に待っている災厄を、御存じないということが、真なりとせば、よろしい、然らばそれを知らせて進ぜよう。」
そして群衆の鳴りをひそめるただ中で、老人《シヤイクー》は言いました、「されば、おお王者の子よ、おお世界にまたとなき美しい若人《わこうど》よ、我らの王の王女という方は、疑う余地なく、当代のあらゆる女性を通じて、随一の美しい若い姫君であらせられる。ところで姫君は、御自分の出しなさるあらゆる問に満足に答える男とでなければ、結婚しないと決心なさった。しかしその代り、姫君の意中を察することができないとか、適当な言葉で答えることなしに問をやり過ごしてしまう男は、死をもって罰するという条件がついている。こうしてすでに、九十九人の若者が首を刎《は》ねられてしまった。いずれも王侯、貴族《アミール》、名流の子弟で、そのなかには人智のあらゆる部門に通ずる者も、何人かいた。われらの王の王女様は、当日は、町を見下ろす塔の頂上にいなすって、その上から、解答しようとて出頭する青年たちに、問をお出しになる。されば、あなたも油断召さるな。あなたの上なるアッラーにかけて、御自分の若さを憐れみ、あなたを愛する父母の許に、いそぎ戻りなさるがよい、姫君があなたの到着を聞きつけて、御前に呼び出すといけないから。願わくはアッラーは、一切の不幸よりあなたをお守り下さるように、おお美しい若人《わこうど》よ。」
この老人《シヤイクー》の言葉を聞くと、王子の青年は答えました、「その姫君の傍らにこそ、わが天運が私を待っているのです。おお皆様方、私に道を教えて下さい。」するとその群衆すべてから、吐息と呻吟、歎きと悼《いた》みが洩れ出ました。そして貴公子のまわりに、「あの人は死に赴くのだ、死に。これは百人目だ、百人目だぞ、」と言う叫びがあがりました。そしてその場にいる者の波全部が、彼と共に動き出しました。何千人という人が、そのあとについてゆくために自分たちの店を閉め、仕事を放り出して、彼につき従いました。こうして彼は己が天命に到る道を進みました。
やがて彼は塔を望むところに着くと、その塔の露台の上に、王者の緋衣をまとい、同じく緋衣を着けた若い女奴隷に囲まれた、姫君を認めました。姫君のお顔は、やはり紅い面衣《ヴエール》に包まれていて、しかとわからず、ただ内側より照らされた二つの黒い湖にも似た、両の眼《まなこ》、二つの暗い宝石しか見られません。そして露台の周囲にはぐるりと、互いに等しい距離を置いて姫君の下方に吊るされた、九十九の晒首《さらしくび》が、揺れ動いております。
すると貴公子は、姫君を見かつ姫君からも見え、聞きかつ聞かれる程を見はからって、塔から少しく隔たったところに駒をとめました。この光景に、群衆のあらゆるざわめきは、ぴたりとやみました。そしてその沈黙のただ中に、姫君の声が響いて言いました、「その方は百人目とあらば、おお大胆不敵の若者よ、その方は定めてわが問に答える用意があるであろうな。」すると貴公子は馬上に昂然と身を起して、答えました、「いつなりと、おお姫君よ。」
すると、あたりは更にひっそりとして、そして姫君は言いました、「さらば先ず、遅疑なく述べよ、おお若者よ。妾《わらわ》と妾を囲む女たちに眼を注いでのち、この塔の頂きに坐る妾と女たちは、そもそも何に似たるか。」
すると貴公子は、姫君とこれを囲む女たちに眼を注いでのち、遅疑なく答えました、「おお姫君よ、御身は偶像に似、御身を囲む婦人たちは、偶像に侍《かしず》く女に似ております。また御身は太陽に、御身を囲む乙女たちは、陽光に似ております。また御身は月に、これらの乙女は、月に供奉する星々に、似てもおります。最後に私は、御身をば花々の月たる第四月《ナイサーン》に、これらすべての乙女をば、この月がその息吹をもて生気づける花々に、たぐえましょう。」
群衆が感嘆の呟やきをもって迎えたこの答を聞くと、姫君は満足の色を示して、言いました、「天晴れであった、おお若者よ、その方の第一の答は死に値しませぬ。けれども、その方は妾《わらわ》とこれらの乙女をば、まず偶像と偶像に侍く女に、次には太陽と陽光に、続いては月と月に供奉する星々に、最後に、第四月《ナイサーン》と第四月《ナイサーン》に生ずる花々にたぐえて、第一問を解き得たからには、妾《わらわ》はあまりに複雑な問も、あまりに解きがたき問も、かけますまい。先ず、次の言葉は、文字どおり何を意味するか、答えていただきましょう。
西方の花嫁に東方の国王の王子を与えよ。然らば両人より一人の子が生まれ、これは美しき多くの面《おもて》の帝王《スルターン》となるであろう。」
すると貴公子は、一瞬も遅疑なく、答えました、「おお姫君よ、これらの言葉は仙石の全秘密を含んでおりまして、神秘学上次のことを意味します。
西方より来たる湿気によって、東方より来たるアダムの健全なる土を腐蝕せしめよ。然らばその腐蝕より、仙術の水銀生ずべく、それは自然において全能にして、太陽と、太陽の黄金の子と、月と、月の白銀の子を生ずべく、また小石を金剛石に変ずべし。」
この答を聞くと、姫君は肯《うなず》いて、言いました、「その方は、おお若者よ、東方の息子と西方の娘との結婚の、隠れたる意味を釈き得たからには、今回もまた、その方の頭上に懸った死を、のがれました。けれども次に、護符に霊験を与えるものは何であるか、答えることができますか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十六夜になると[#「けれども第八百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると馬上の貴公子は答えました、「おお姫君よ、護符類の至上の霊験とあらたかなる効験とは、それを構成する文字によるものであります。何となれば、およそ文字は霊に関連するものにて、言語における文字にして一の霊に支配せられぬはござりませぬ。また一の霊とは何ぞやとお訊ねあらば、そは全能の霊験及び至高者の属性の、一条の光或いは放射でござると、お答え申しましょう。叡智界に在住する諸霊は、天上界に住まう諸霊に号令し、天上界に住まう諸霊は地上界の諸霊に号令します。そして文字は語を形成し、語は詞を成す。かの奇蹟をなすは、文字によって代表せられ、護符の上に記《しる》された詞のうちに集められたる諸霊に、外なりませぬ。それらの奇蹟は常人を驚かしこそすれ、賢人を周章させはいたしませぬ。賢人たちは語の威力を知らざる者にあらず、語は常に世界を支配するものであり、記され或いは口に出される言葉は、諸王を倒し、彼らの領国を覆《くつが》えし得るであろうことを、知っておりまする。」
群衆が歓びと驚きの叫びをもって迎えたこの貴公子の答を聞くと、姫君は言いました、「天晴れであった、おお若者よ、世界を支配し、あらゆる国王よりも威力ある、語と言葉の威力を、その方よく解き明かしました。けれども、次の問を首尾よく答えられるや否や。二つの永遠の仇敵は何であるか、その方果して告げ得るや。」
すると馬上の貴公子は答えました、「おお姫君よ、二つの永遠の仇敵は、天と地であるとは申しますまい。何となれば、両者を隔つる距離は、決して現実《まこと》の距離ならず、両者の間に穿たるる間隔は、決して現実《まこと》の間隔ではない。如何とあらば、その距離と間隔は、深淵のごとく思わるるとはいえ、一瞬にして埋め尽され得、天は瞬たく間に地に合一し得るのでありまする。何故ならば、その合一を行なうためには、魔神《ジン》や人間の軍勢も、数千の翼も要しはいたさず、単に、魔神《ジン》と人間のあらゆる力よりも威力あって、鷲や鳩の翼よりも軽くして効験を授けられたる一事あらば足る。そはすなわち祈祷でありまする。――また、おお姫君よ、二つの永遠の仇敵は、夜と昼であるとも申し上げますまい。何となれば、交々《こもごも》、朝が両者を結び合わせ、黄昏《たそがれ》が両者を分け隔てますれば。――また、二つの永遠の仇敵は、日と月であるとも申し上げますまい。何となれば、両者は地を照らし、同じ恩恵によって相結ばれておりますれば。――また、二つの永遠の仇敵は、霊魂と肉体であるとも申し上げますまい。何となれば、吾人はその一を知るといえども、他は全然知るところなく、人は己れの知らざるところについて、意見を述べることはできないのであります。されど某《それがし》は断言いたします。おお姫君よ、二つの永遠の仇敵とは、死と生であると。何となれば、両者はいずれ劣らず不祥であるがゆえ。そのゆえは、両者は創《つく》られし存在をば玩具のごとく弄び、その玩具を犠牲にして、休みなく相戦い、その勝負の真の犠牲となり終るのは玩具のほうであって、それら自身は伸び栄ゆるのみであるから。まことに、これぞ二つの永遠の仇敵である。両者それ自体仇敵にして、かつは被造物の仇敵でござる。」
この貴公子の答を聞いて、全群衆は声を一つにして叫びました、「御身にかばかりの知恵を授けたまい、御身の精神にかばかりの分別と知識を飾りたまいし御方に、讃えあれ。」すると、塔の上に、同じく王者の緋衣を着けた若い娘のただ中に坐る姫君は、言いました、「天晴れであった、おお若者よ、両者それ自体仇敵にして、かつは被造物の仇敵なる、二つの永遠の仇敵についてのその方の答は。けれども、次に出す問に、首尾よく答えるであろうか。木あって、十二の小枝を持ち、各々の枝に二つの房をつけ、一方の房は三十の白い果実、他方の房は三十の黒い果実より成る、この木はいかに、その方果して告げることができますか。」
すると貴公子は遅疑なく答えました、「この問は、おお姫君よ、童児もよく解くことができまする。何となれば、その木は一年に外ならず、一年には各々二部、すなわち二房《ふたふさ》より成る十二カ月がある。というのは、各房は、三十夜という三十の黒い果実と、三十日という三十の白い果実をつけておりまする。」
前の答と同様、感嘆をもって迎えられたこの答は、姫君にこう言わせました、「天晴れであった、おお若者よ。けれどもその方は、ただ一とたびしか太陽を見たことのない地はどこか、告げることができると思いますか。」
彼は答えました、「それは紅海の海底であります、モーゼ――その上に祈りと平安あれ。――その命により、イスラエルの子らの通過したおりのこと。」
姫は言いました、「いかにもそのとおり。けれども、銅鑼《どら》を発明したのは誰か、言えますか。」
彼は言いました、「銅鑼を発明したのはノアにほかなりませぬ、方舟《はこぶね》に乗っていた時のこと。」
姫は言いました、「そうです。けれども、なすもなさざるも法に違う行為は何か、言うことができますか。」
彼は答えました、「酒に酔った者の祈祷です。」
姫は問いました、「然らば、地上の場所にして天に最も近きは何処か。それは山か、それとも野か。」
彼は言いました、「メッカの聖殿カアバです。」
姫の曰わく、「天晴れでした。それでは、人の秘めておかねばならぬ苦々《にがにが》しきことは何か、告げることができますか。」
答えて曰わく、「それは貧窮です、おお姫君よ。何とならば、いまだ年歯《とし》若いとは申せ、某《それがし》はすでに貧の味を知り、王の子でありながら、某はその苦さを嘗めました。貧は没薬よりも、苦艾《にがよもぎ》よりも、苦いことを覚りました。そしてこれはあらゆる人の眼に隠さねばなりません。友も隣人も率先してこれを笑うであろうから、して歎きは徒らに軽蔑を齎らすのみであろうから。」
姫の曰わく、「その方は正鵠を射て、かつわが意に従って、述べました。けれども、健康に次いで、最も貴いものは何か、言えますか。」
答えて曰わく、「それは濃やかである場合の友情です。さりながら、情濃やかであることのできる友を見出すには、先ずこれを試み、次いでこれを選ばなければなりませぬ。そして一旦この最初の友を選んだからには、断じてこれを放棄してはならぬ。第二の友も決して永く失わずにいることはあるまいから。さればこそ、友を選ぶ前に、先ず十分に検討して、果して彼が賢者か無智者かを見極めなければなりませぬ。それというのは、無智者が知恵を理解するまでには、烏が白くなってしまうであろうから。賢者の言葉というものは、たとえ賢者はわれわれを棒をもって打とうとも、無智者の賞讃や花々よりも勝るのです。それというのは、賢者は先ず己が心に諮った上でなければ、みだりにわが口から言葉を洩らさぬがゆえであります。」
姫は訊ねて、「矯《た》め直すのに一番むずかしい木は何か。」
すると貴公子は、遅疑なく答えました、「それは悪しき品性です。こういう話がある。好適な地の水辺に、一本の木が植えられたが、実を結ばなかった。その主人は、あらゆる手当を尽してみたが、少しも甲斐ないので、これを伐ろうとすると、その木は主人に言った、『どうか別の場所に移して下さい。そうすれば実をならせましょう。』すると主人はこれに言った、『お前はここで、ちゃんと水辺にいるのだ。然るに何ら実をつけない。よそに移してやったとて、どうしてよく実を結ぶようになろうか。』そしてその木を伐り倒してしまった。」貴公子はしばし口を噤んで、そして言いました、「またこういう話もある、或る時、狼に読み方を教えようと、これを学校に入れた。先生は言葉の基本を教えようとして、狼に言った、『アリフ、バー、ター……。』ところが狼の答えるに、『羊、仔山羊、牝羊……。』そのゆえは、こうしたすべてが狼の意中と本性にあったからである。――またこういう話もある。驢馬に何とか清潔の習慣をつけ、すぐれた趣味を弁まえさせてやろうと思った。そこでこれを浴場《ハンマーム》に連れて行って沐浴をさせ、香水を振りかけ、豪奢な一室に入れて、美々しい敷物の上に坐らせてやった。ところがそやつは、最も不謹慎な音から最も不躾けな曝露に到るまで、およそ牧場で自由に振舞っている驢馬のする、あらゆる不作法な挙に及んだ。そのあとで、灰の詰っている銅製の暖炉をば、頭でもって、敷物の上に引っくりかえし、四本の脚を空中にあげ、耳を後ろに垂らし、背中をこすりつけ、故意に身を汚《よご》しながら、灰のなかを転輾しはじめた。奴隷どもが、驢馬を懲らそうとして駈けつけると、主人は彼らに言った、『転輾させておくがよい。それからあれを小舎に連れて行って、自由にさせてやれ。何としてもあいつの気質を矯め直すことはできまいからな。』――最後にこういう話もある。或る時、一匹の猫に向ってこう言った人があった、『盗みをやめるがよい。そうすればわれわれは、お前に金の首輪をつけてやって、毎日、雛鳥と鼠の、肝だの肺だの腎臓だの小骨だのを食べさせてやろう。』すると猫は正直に答えた、『盗むことは私の父と祖父の商売でございました。今更あなた方のお気に召すために、それをやめろと仰しゃっても御無理です、』と。」
このような次第でございました。……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十七夜になると[#「けれども第八百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……このような次第でございました。
そして貴公子は、人間の品性とその本性について以上のように語り終ると、言いました、「おお姫君よ、これ以上更に付け加えて申すことは何もござりませぬ。」
すると、塔の下に群がったこの群衆のまん中から、幾千もの感嘆の叫びが空に立ち昇りました。そして姫君は言いました、「いかにも、おお若者よ、その方は勝ちました。けれども、問は尽きたわけではなく、条件が満たされるためには、夕の礼拝の時刻まで妾《わらわ》から問をかけなければなりません。」すると貴公子は言いました、「おお姫君よ、御身に解きがたく思わるるごときどのような問なりと、更にお持ち出し相成って苦しくはござらぬ、某《それがし》は至高者の御神助を得て、ことごとく解いて見せましょう。しかしそのゆえにこそ、かくのごとく某に問うて徒らにお声を疲れさせぬようにとお願い申し、そして、むしろこんどは某から御身に一つの問を出すほうが、些の疑いなく好ましかろうと、申し上ぐるをお許し願いたい。もし御身《おんみ》首尾よくそれにお答えあらば、わが首は、わが先人らのそれと同じく、刎ねらるるでありましょう。されどもしお答えなくんば、われらの婚儀は遅滞なく行なわるることと相成りましょう。」すると姫君は言いました、「ではその問をお出しあれ、その条件を承知いたしますから。」
すると貴公子は問いました、「おお姫君よ、御身の奴隷なるこの某《それがし》が、この名馬に跨っていながら、同時にわが父自身に跨っているのであるとは、いかなる仔細であるか。また万人の眼に明《さや》かに見られながら、某はわが母の衣類のうちに隠されているとは、いかにしてあり得ることか。以上、お答え遊ばし得るや。」
姫君は一と時の間考えに耽っていましたが、何の答も見つけることができませんでした。そこで言いました、「御自身お解き明かし下さい。」
すると貴公子は、集る全部の民衆の前で、わが身の上を一部始終、細大洩らさず、姫君に語りました。しかしそれを繰り返しても詮なきことでございます。そして貴公子は付け加えました、「以上の次第にて、わが父なる国王を、この馬に代え、わが母なる王妃を、この武装に代え、もって某《それがし》は己れ自身の父に跨り、わが母の衣類のうちに隠れているわけでござりまする。」
こうした次第でございました。
このようにして、貧しき王と貧しき王妃の子であるこの貴公子は、謎をかける王女の夫となりました。またこうして、お妃の父君が亡くなって国王となり、王子はかつてそれらを借りた町の王に、馬と武装を返却し、父母をわが許にお呼びして、父母とまたお妃と共に、快楽と歓楽の極みに暮らすことができました。以上が、九十九の晒首《さらしくび》の下で、見事な言葉を述べた貴公子の物語でございます。さあれ、アッラーは更に多くを知りたまいまする。
[#ここから1字下げ]
――そしてシャハラザードは、この物語をかく語り終えると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は言った、「余は、シャハラザードよ、この貴公子の美言を好む。さりながら、そちは短かく好もしき逸話類を語らなくなって久しいが、或いはそちは、これについてのそちの知識を語り尽してしまったのではないかと案じられる。」するとシャハラザードはいそいで答えた、「短かい逸話類は、わたくしの一番よく知っているものでございます、おお幸多き王様。それにわたくしは、そのことを証明申し上げるのに手間どりたくはございません。」
そしてすぐに言った。
[#ここで字下げ終わり]
細君どもの性悪さ
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、昔さる王様の宮廷に仕えて、道化役を職業とし、独身の身の或る男がおりました。さて日々の中の或る日、御主君がこれに申されました、「おお知恵の父よ、その方は独身であるが、余はまことにその方が妻帯するのを見たく思うぞよ。」すると道化役は答えました、「おお当代の王様、聖寿にかけて、何とぞその至福ばかりは御容赦下さいまし。この私めは独身の身ですが、実はその仰せの女性なるものを大へん恐れているのでございます。さよう、実際のところ拙者は何か性《たち》の悪い不身持の女とか、不義の子とか、不貞の女とかに当りはしないか、それを大へん恐れておりまして、もしそうなれば、拙者はどんなことになりまするやら。後生でございます、おお当代の大王様、拙者の不束《ふつつか》と無能にも拘わらず、どうでも至福者になれとはお強いにならないで下さいませ。」王様はこの言葉を聞いて大そう笑い出され、尻餅をおつきになったほどでした。そして仰しゃいました、「ならぬ、今日すぐその方は結婚しなければならぬぞ。」すると道化役はあきらめた様子をし、頭を垂れ、胸の上に腕を組んで、溜息を吐きながら答えました、「合点《タイエブ》承知。ようがす、結構でございます。」
すると王様は総理|大臣《ワジール》を召し出して、仰せつけました、「これなるわれらの忠実なる下僕《しもべ》のために、美人で、身持非の打ちどころなく、淑やかと慎ましさに溢れた妻を一人、見つけてやらなければならぬぞよ。」大臣《ワジール》は仰せ承わり畏まってお答えし、即刻王宮の口入れ人の老婆に会いに行って、帝王《スルターン》の道化役に、前にあげたような条件を備えた妻君を一人、直ちに世話するように命じました。するとその老婆は少しも騒がず、即刻即座に立ち上がって、道化役のため、これこれしかじかの若い女を、妻として探してきました。そしてその日のうちに結婚式が挙げられました。王様は御満足で、婚礼に際しては、道化役に贈物と恩恵の限りを尽しなさらずにおきませんでした。
さて、道化役は半年の間、或いは多分七カ月の間は、その妻君と平穏に暮らしました。しかしそれが過ぎると、身に起らなければならぬところが身に起ったのです。何ぴとも自分の命運をのがれないからでございます。
果して、王様が道化役と結婚させた女は、その間にすでに、自分の楽しみのために、夫の外に四人の男を持つ時間がありました。きっかり四人、そして四種類の男です。情夫の中のこの特に愛された男の第一は、菓子屋を商売とし、第二は八百屋、第三は羊肉専門の肉屋、そして第四は最も身分すぐれておりました。それというのは、それは帝王《スルターン》の楽団の竪笛《クラリネツト》首席奏者で、竪笛奏者組合の組合長《シヤイクー》という、重要人物でしたから。
さてそこで、或る日のこと、旧《もと》の独身者、今の角《つの》を生やした親父《おやじ》である道化役は、朝大へん早くから王様の許に呼ばれて、妻君をまだ寝床に残したまま、いそいで王宮に出かけました。すると偶然の一致から、ちょうどその朝、菓子屋は交合の気分を催すこととなり、亭主の外出に乗じて、若い女の戸を叩きに来ました。女は戸を開けてやって、言いました、「お前さん今日はいつもよりかずい分早くに来たのね。」相手は答えました、「うん、|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、そのとおりだ。だが今朝はね、おれはもう大皿の菓子を作るための捏粉の仕度を済まし、それを伸ばして、薄くして、皮を作り終え、もういよいよピスタチオの実と巴旦杏を詰めるばかりになったところが、そのとき気がついてみると、何しろまだひどく朝っぱらで、これじゃまだ買手が来るころじゃないんだ。そこでおれは自分に言ったものだ、『おお何某よ、立ち上がって、着物の粉を払い落し、涼しい朝のうち、某女のところへ行き、女と一緒に楽しみなよ。あれは楽しませてくれる女だからね。』と。」すると若い女は答えました、「いい考えだったよ、アッラーにかけて。」そこで女は男と、麺棒の下の捏粉みたいになり、男は女と捏粉菓子のなかの詰物みたいになりました。そして二人がまだ仕事を終えないうちに、そこに戸を叩く音が聞えました。そこで菓子屋は女に聞きました、「いったい誰だろうかね。」女は答えて、「知らないわ。だけどまあとにかく、便所に行って隠れておいでよ。」菓子屋はそのほうが安全だからと、行けと言われたところに、いそいで行って身をひそめることにしました。
さて女は戸を開けに行くと、自分の前に、第二の情夫の八百屋が、季節の走りの野菜を一束土産に持って立っているのを見ました。そこで女はこれに言いました、「すこしばかり早すぎるね、この時刻はお前さんの時刻じゃないわ。」相手は言いました、「アッラーにかけて、そのとおりだ。だがね、今朝自分の野菜畑からの帰りしなに、おれは自分に言ったものだ、『おお何某よ、どうも市場《スーク》に行くには何しろ早すぎる時刻だから、いっそこの新しい野菜の束を、某女に届けに行ったほうがよかろう。あの女はお前の心を楽しませてくれるだろう。あれは優しい女だからね。』と。」すると女は言いました、「ほんに、よく来てくれたね。」そして女は男の心を楽しませてやり、男は女の何よりの好物、勇壮活発な胡瓜と立派な南瓜を与えました。そして二人がまだ畑仕事を終えないうちに、そこに戸を叩く音が聞えました。そこで男は聞きました、「あれは誰だい。」女は答えて、「知らないわ。だけどお前さんはまあとにかく、早く便所に行って隠れておいでよ。」それで男は、いそいで行って中に身をひそめることにしました。するとその場所はすでに菓子屋が占領しているので、男はこれに言いました、「こいつはいったいどうしたことだ。お前さんそこで何をしていなさるのかね。」相手は答えました、「おれはお前さんと同じことで、お前さんがここにしに来たことをやっているわけさ。」そこで両人は互いにそばに並びましたが、八百屋は、家にこの男がいることが発覚しないように、持って行くようにと女に言われたので、背中に野菜の束を背負っています。
さてこうしている間に、若い女は戸を開けに行きました。するとその前には、第三の情夫の肉屋が、土産として、角《つの》をとってない、縮れ毛のついた立派な羊の皮を持って、来ていました。そこで女はこれに言いました、「すこし早すぎるわ、早すぎてよ。」相手は言いました、「そりゃそうだ、アッラーにかけて、おれはもう売り出す羊の喉を切って、もうそれらを店に吊してしまったところが、そのとき自分に言ったものだ、『おお何某よ、市場《スーク》はまだ空っぽだから、いっそこの角《つの》をつけたまま仕上げた立派な皮を、某女に届けに行ったほうがよかろう。この皮はあの女にふんわりした敷物となろうからな。何しろあれは愛嬌溢れた女だから、今日の朝をいつもよりかもっと白くしてくれるだろうよ、』と。」すると女は言いました、「じゃおはいりよ。」そして女は男にとって、脂の乗った種類の羊の尻尾よりも柔らかかったし、男は女に牡羊が牝羊に与えるものを与えました。そして二人がまだ取ったりやったりし終えないうちに、そこに戸を叩く音が聞えました。それで女は男に言いました、「さあ、早く、角のついた皮を持って、便所へ行って隠れなさい。」男は言われたとおりにしました。すると便所はすでに菓子屋と八百屋が占領しているのでした。そこでその二人に挨拶《サラーム》を投げると、二人もその挨拶《サラーム》を返しました。そこで男は尋ねました、「あなた方がここにいらっしゃるのはどういうわけで。」二人は答えました、「あなたと同じわけで。」そこでその男は、便所のなかで二人のそばに並びました。
その間に女は戸を開けに行くと、自分の前に、第四の愛人、帝王《スルターン》の楽団の竪笛楽長を見ました。女は入れてやりながら、言いました、「ほんとうに、あなたは今朝はいつもよりかずい分早く見えましたね。」男は答えました、「アッラーにかけて、全くそのとおりだ。けれども今朝、帝王《スルターン》の楽師たちに教えに行こうと外に出たところ、気がついてみると、何しろまだ朝が早すぎるのだ。そこで私は自分に言ったものだ、『おお何某よ、いっそ某女のところに行って、稽古の時刻を待つほうがよかろう。あれはかわいらしい女で、お前にこの上なく楽しい一刻を過ごさせてくれるだろう、』と。」すると女は答えました、「名案だわ。」そして二人は竪笛を奏しましたが、まだ歌の最初の調べを終えないうちに、戸をあわただしく叩く音が聞えました。竪笛楽長は愛人に尋ねました、「あれは誰かね。」女は答えました、「アッラーのみ全知でいらっしゃいます。けれどもどうやら亭主らしいわ。あなたは竪笛を持って、便所に走って身をひそめるほうがいいわ。」男はいそいでその言葉に従いましたが、くだんの場所には菓子屋と、八百屋と、肉屋がおりました。そこで一同に言いました、「あなた方の上に平安あれ、おお仲間の衆よ。こんな妙な場所に並んで、皆さんいったい何をしておられるのか。」すると一同答えました、「御身の上に平安とアッラーの御慈悲と祝福あれ。私どもはあなたがここにしに来なすったことをやっているわけです。」そして四番目の男も、三人のそばに並びました。
ところで、戸を叩いた第五の男は、事実、若い女の夫、帝王《スルターン》の道化役でありました。彼は両手で腹を抱えて、言うのでした、「人に寇《あだ》なす悪魔退散。早く大茴香《アニス》と茴香《ういきよう》の煎じ薬をくれ、おお女房よ。腹が鳴るんだ、腹が鳴るんだ。それで帝王《スルターン》のおそばに永くいられなくなって、帰って寝ることにしたのだ。大茴香《アニス》と茴香《ういきよう》の煎じ薬をくれ、おお女房や。」そして彼は女房が震え上がったのも気づかず、まっすぐ便所に駈けこみましたが、戸を開けてみると、四人の男が蹲《しやが》んで、穴の上の、舗石《しきいし》の上に、前後してきちんと並んでいるのが見えました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十八夜になると[#「けれども第八百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これを見ては、帝王《スルターン》の道化役はわが身の不幸の真実を疑いませんでした。けれども、もともと慎重と明敏溢れた男でしたから、考えました、「もしおれがこいつらを威す顔つきをしたら、こいつらはおれを助かるすべなく殺してしまうだろう。だから馬鹿の振りをするのが最上というもの。」こう考えて、彼は便所の戸口にいきなり跪いて、蹲んでいる四人の屈強な男に向って叫びました、「おおアッラーの聖なるお方々よ、私はあなた方がちゃんとわかります。白い癩病の斑点《しみ》だらけのあなた様は、無智蒙昧の輩《やから》の世俗の眼には菓子屋と見えるかもしれないが、あなた様は一点疑いなく、あの潰瘍にかかり、癩を痛み、苔癬《かさ》だらけの、あの聖なる族長《パトリアルカ》アイユーブ(2)様に相違ありません。またあなた様、おお聖なるお方よ、背にその立派な野菜の束を負っておいでのあなた様は、一点の疑いなく、果樹園と野菜園の番人、偉大なるヒズル(3)様に相違なく、木々にその緑の冠を被らせ、逃がれ去る水を走らしめ、牧場の青々とした敷物を拡げ、夕夕《ゆうべゆうべ》にはその緑の外套をまとって、黄昏《たそがれ》の大空を彩る淡《あわ》い色合を混ぜ合わせなさるお方。またあなた様、肩にはその獅子の皮を羽織り、頭にはその二本の牡羊の角を生やしなさる偉大な戦士は、一点の疑いなく、双角の大イスカンダル(4)に相違ありません。また最後にあなた様、右手に光栄ある竪笛を持つ至福の天使は、一点の疑いなく、最後の審判の天使(5)に相違ございませぬ。」
帝王《スルターン》の道化役のこの演説を聞くと、四人の屈強な男は、互いに相手の腿を抓《つめ》って、道化役がすこし遠ざかって跪き、床《ゆか》に接吻しつづけている間に、お互い同士でひそひそと言い合いました、「こいつは運のいいことになってきた。この男はわれわれを本当に聖なる人物と信じているからには、ますますそう信じこませてやるとしよう。何しろわれわれにとっては、それが救いのただ一つの機会だからね。」そして一同直ちに立ち上がって、言いました、「さようじゃ、アッラーにかけて、お前は見損なってはいない、おお何某よ。われわれは事実、お前が今名を言ったとおりの人物だ。われわれは便所からはいって、お前を訪れに来たのだ、家の中で屋外にある場所はここだけだからな。」すると道化役は相変らず平伏したままで、皆に言いました、「おお聖なる高名な方々、癩者のアイユーブ様、季節の父ヒズル様、双角のイスカンダル様、また審判告知の使者あなた様、皆様が私ごときをお訪ね遊ばす一方ならぬ光栄をお授け下さるからには、どうか私に、御手の間にお願いをひとつ申し上げることをお許し下さいませ。」一同答えました、「申せ、申せ。」道化役は言いました、「ひとつ私の御主君であるこの町の帝王《スルターン》の王宮まで、皆様のお伴をして、皆様を帝とお近づきにし、そうやって、帝が私に感謝し、お目をかけて下さるようにしていただきたいものですが。」すると一同大そうためらったものの、答えました、「特にそうしてつかわそう。」
そこで道化役は彼らを帝王《スルターン》の御前に連れて行って、申し上げました、「おおわが至上の御主君、君の奴隷にこれなる四名の聖なる方々を御紹介申し上げることをお許し下さいませ。この第一の粉だらけのお方は、われらの癩者アイユーブ殿、また、背にこの野菜の束を背負っておられるのは、泉の番人、緑の草木の父、われらのキズル殿、また、肩にかの獣《けもの》の皮を羽織り、二本の角を戴くは、戦士の大王、双角のイスカンダル王、最後にこれなる竪笛を携えらるるは、最後の審判の告知者、われらのイスラーフィール殿にあらせられます。」そして帝王《スルターン》は驚きの極に達していらっしゃる間に、付け加えて言いました、「ところで、おおわが殿|帝王《スルターン》様、これらの崇高なる方々の御訪問という大いなる光栄は、君が寛大にも拙者に授けたもうたわが妻の、並々ならぬ聖徳のお蔭でございます。事実、拙者はこの方々を、わが奥の婦人部屋《ハーレム》の便所のなかに、前後してきちんと並んで蹲んでいられるところを、拝見仕りました。最初に蹲んでいたのは預言者アイユーブ――その上に祈りと平安あれ。――そして最後に蹲んでいたのは天使イスラーフィール――その上に平安と至高者の御愛顧あれ。」
道化役のこの言葉を聞かれて、帝王《スルターン》はくだんの四名の人物を注意深く眺めなさいましたが、突然大へんな笑いに襲われなすって、身を捩じり激しくお体を動かし、尻餅をついて引っくりかえりながら、宙に両足をばたばたさせなさったほどでした。それが済むと、帝はお叫びになりました、「その方は、おお不忠者め、余を笑い死させようという気か。それともその方発狂いたしたるか。」道化役は言いました、「アッラーにかけて、おおわが殿、拙者のお話し申すことは、拙者の見たところでございまして、拙者の見たこと全部を、拙者はお話し申しただけです。」すると王様は笑いながら、叫びなさいました、「だがその方にはわからぬのか、その方が預言者キズルと申すのは八百屋にすぎず、預言者アイユーブと申すのは菓子屋、イスカンダル大王と申すのは肉屋、そして天使イスラーフィールと申すのはわが楽団長、竪笛楽長にすぎぬことが。」すると道化役は言いました、「アッラーにかけて、おおわが殿、拙者のお話し申すことは、拙者の見たところでございまして、拙者の見たこと全部を、拙者はお話し申しただけです。」
そこで王様は御自分の道化役の不運の全範囲をお悟りになって、不身持な妻君の四人の相棒のほうを向いて、これに申されました、「おお千人の寝取られ男の息子どもめが、この件についての真相を申し述べよ。さもなくば汝らの睾丸を抜かせるぞよ。」すると四人は震えながら、本当のことと本当でないことを、有体に王様にお話ししました。それほど、自分の父親から相続したものを抜かれてしまうのを恐れたわけです。すると王様は感嘆して、叫びなさいました、「何とぞアッラーは不貞の女性《によしよう》と、姦淫女や裏切女の種族を、絶滅したもうように。」そして道化役のほうに向いて、仰しゃいました、「余はその方の妻女との離縁を認め、おお知恵の父よ、その方再び独身に戻るを差し許す。」そしてこれに立派な誉れの衣を着せなさいました。次に四人の仲間のほうに向き直って、一同に申し渡されました、「汝らについては、汝らの罪はまことに大なれば、汝らを待つ罰をのがれることは相成らぬぞ。」そして太刀取に進み出るよう合図をして、命じなさいました、「この者どもの睾丸を抜き、わが忠義なる僕《しもべ》、この敬うべき独身者に仕える宦官たらしめよ。」
すると有罪の交合者の第一号、菓子屋またの名癩者アイユーブの男が進み出て、王様の御手の間の床《ゆか》に接吻して、言いました、「おお大王様、おお帝王《スルターン》の間で最も寛仁大度の大王様、もし私が、この敬うべき独身者の元の奥様との私どもの話よりも、もっと不思議な話をお聞かせ申し上げまするならば、私の睾丸を特に御容赦下さいますでしょうか。」すると王様は道化役のほうに向いて、この菓子屋の申し出をどう思うかを、合図をしてお尋ねになりました。すると道化役は頭で、「承知」の旨答えましたので、王様は菓子屋に仰しゃいました、「いかにもよろしい。おお菓子屋よ、もし汝がくだんの話を語り、余がそれを並々ならぬとか驚くべしと思うならば、汝の知るところのものを特に容赦してつかわす。」すると菓子屋は言いました。
菓子屋の話した物語
おお幸多き王様、私の聞き及びましたところでは、昔一人の女がいて、これは生まれつき驚くほどの密通女で、災厄《わざわい》の連れ合いでございました。この女は――運命はそう望んだのですが、――帝王《スルターン》の御名における町の総督、清廉な代理官《カーイム・マカーム》(6)、と結婚していました。そしてこの清廉な役人は、女どもの悪性《あくしよう》と不貞については全く思いもよらないのでした、――その運命はそう望んだのでしたが、――全然、てんで思いもよらないのです。その上、もう長いこと、その燃え木の細君とは何もできなくなっていました、もう何も全然、全然だめでした。ですからその女は、自分の不身持と密通を自分に許して、こう思っておりました、「私や見つかるところでパンをとり、ぶら下っているところで肉をとることにしているのよ。」
ところで、この女に恋い焦れる男のなかで、女が一番愛していたのは、夫の代理官《カーイム・マカーム》の別当の若い馬丁《サイス》でした。けれどもしばらく前から、夫は家に閉じこもりきりだったので、二人の恋人同士会うことはますますたまになり、むずかしくなりました。ところが女はじきに、もっと自由を得るための口実を見つけ、そこで夫に言いました、「おおわが御主人様、今聞いたところでは、私の母の近所の女が亡くなったそうで、近所付き合いの礼儀と義理があるから、私はお葬式の三日間を、母の家に行って過ごしたいと思いますが。」すると代理官《カーイム・マカーム》は答えました、「アッラーはお前の寿命を延ばして、その死を償いたまいますように。お前は母親のところに行って、葬式の三日を過ごして来て差支えない。」しかし妻は言いました、「はい、そうします、おおわが御主人様、けれど私は何しろ若くて臆病な女ですから、あんなに遠くの母の家まで、街々を独りで歩いて行くのは大へん怖うございます。」すると代理官《カーイム・マカーム》は言いました、「どうして独りで行くのか。家には、こうした遠出の際にはお前の伴をするために、ちゃんと誠意と親切溢れる馬丁《サイス》がいるではないか。あの男を呼ばせて、お前のために驢馬の上に赤い鞍敷をかけ、お前の伴をして、そばを歩き驢馬の手綱をとるよう申し付けなさい。驢馬が後脚で跳ねてお前が落ちるようなことがあるといけないから、口先や突棒でもってあまり怒らせたりしないように、よく注意してやりなさい。」妻は答えました、「はい、おおわが御主人様、けれどもあなた御自身で呼び出して、そういう注意をしてやって下さいまし、私にはできかねますから。」正直者の代理官《カーイム・マカーム》は、筋骨逞しい若い壮漢の馬丁《サイス》を呼ばせて、指図を与えました。壮漢はこの主人の言葉を聞いて、すっかり悦に入りました。
そこで彼は、代理官《カーイム・マカーム》の妻である自分の情婦を、赤い鞍敷で鞍を包んだ驢馬の上に乗せまして、一緒に出かけました。けれども例の葬式のため、母親の家に行く代りに、この二人の奴め、食糧と上等な葡萄酒を持って、かねて知っている庭園に行ったものです。そして木蔭の涼しいところで、ゆっくり寛ろぎまして、父親からでっかい相続物を授けられた馬丁《サイス》は、惜し気なく自分の商品をまるごと引き出して、女のうっとりとした眼の前に陳列しますと、女はそれを両手に取り上げて、品質を調べるため擦ってみました。そしてそれは極上品と思ったので、持主の同意を得て、無造作にそのままわが物としました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百四十九夜になると[#「けれども第八百四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると長さといい太さといい、それは別誂えの商品よりももっとよく、ぴったりと合いました。そのため女は、この商品の持主をこんなにひどく大切にしていたわけです。そして、女がただのひと時も厭《あ》き気を感じないで、夕方まで商品を取り扱い、細工をし、もう針に糸を通すのがよく見えなくなったとき、はじめてこれを放したそのわけも、これによって説明されます。
そこで二人は双方とも起き上がって、馬丁《サイス》は女を驢馬に跨らせました。そして二人は一緒に馬丁《サイス》の家に出かけ、そこで驢馬に食糧をやってから、二人はまたいそいで自分たちも、糧食をとる姿勢になりに行きました。そして互いに腹一杯になるまで食糧を食べて、ひと時の間眠りました。その後、改めてひどい空腹《すきつぱら》を静めるため眼を覚まし、朝になるまでやめませんでした。しかしそれも起きて、一緒にまた庭に出かけ、前の日の操作と同じ楽しみをはじめるためのことでした。
こうして二人は三日に亘って、休む間もなくのべつ幕なしに、このように振舞い、水で輪を廻し、若者の紡錘《つむ》をひっきりなしにぶんぶん唸らせ、仔羊に母親の乳を吸わせ、指を指輪にはいらせ、子供を揺籠に休ませ、二人の双生児《ふたご》を抱擁させ、釘を万力で締め上げさせ、駱駝の首を突き出させ、雌雀を雄雀に嘴で突つかせ、綺麗な小鳥をぬくぬくとした巣のなかでぴいぴい囀らせ、小鳩に穀粒を腹一杯食べさせ、小兎に草を食わせ、犢《こうし》に反芻させ、仔山羊を飛び跳ねさせ、肌に肌を押しあて、決してやりそこなうことのない突撃の父が、自分から進んで蘆笛を吹くことをやめるまで、これをつづけたのでありました。
そして第四日目の朝になると、馬丁《サイス》は代理官《カーイム・マカーム》の細君の若い女に言いました、「許された三日は経った。起きてあなたの御亭主の家に行くとしましょう。」けれども女は答えました、「よそうよ。三日許されたら、もう三日延ばすものよ。だってさ、私たちはまだお互いほんとに楽しむ時間をちゃんと持ちはしなかった。私はお前をたっぷり堪能し、お前は私をたっぷり堪能しちゃいないわよ。なにあのとんちきな女衒《ぜげん》なんざ、自分を相手にし足蒲団にして、家で独りぽっちで待ちくたびれ、犬がするみたいに、両脚の間に首を突っこんで、体を曲げさせておけばいいさ。」
女はこのように言って、二人はこのようにしました。そしてさらに三日を、楽しみと大喜びの極みで、姦淫し交合して、一緒に過ごしました。七日目の朝、二人は代理官《カーイム・マカーム》の家に行きますと、御亭主は大へん案じ顔で坐っており、その前には黒人の婆がいて何かしゃべっているところでした。人の好い不運な男は、不貞な女房の放埓三昧を思いもかけず、真心こめて手あつく迎えて、言いました、「お前を無事で恙なく戻って来させたもうたアッラーは、祝福されてあれ。どうしてこんなに遅くなったのかね、おお伯父の娘よ。われわれは大へん心配させられたよ。」すると女は答えました。「おおわが御主人様、私は亡くなった女のところで、その家の子供を預けられ、慰めてやって、母親の乳が飲めなくなったのを埋め合わせてやってくれと頼まれたのでした。今まで私が引とめられたのは、その子供の面倒を見てやったためでございます。」すると代理官《カーイム・マカーム》は言いました、「その理由は抗弁の余地なく、わしは信じなければならぬ。お前に再会できて甚だ悦ばしい。」これが私の物語でございます、おお光栄満ちた大王様。
王様はこの菓子屋の物語を聞きなさると、仰向けに引っくりかえるほど笑い出しなさいました。けれども道化役は叫びました、「代理官《カーイム・マカーム》の場合は拙者の場合よりもひどくはないぞ。この話は拙者の話よりも並はずれたものではない。」すると王様は菓子屋のほうを向いて、仰しゃいました、「辱めを受けた者がかく判断する以上は、余は汝に、おお放蕩者よ、ただ一方の睾丸を容赦することしか相成らぬ。」道化役は勝利を得、こうして仇を打ったので、しかつめらしく申しました、「その尻を塞がせるため憚るところなく誰でも乗らする牝騾馬の小さき丘を操《いじ》り、交合する放蕩者共の、正当なる罰と叱責は、かくのごとし。」それから付け加えました、「おお当代の王様、それはともかく、やはりこの男に、今一方の睾丸をも御容赦下されませ。」
そのとき、第二の姦夫の八百屋が進み出て、帝王《スルターン》の御手の間の床《ゆか》に接吻して、申し上げました、「おお大王様、王様方のうち一番寛大な王様、もし私の話に驚嘆なすったら、御存じのものを私に御容赦下さいますでしょうか。」王様は道化役のほうにお向きになると、道化役は合図で同意いたしました。そこで王様は八百屋に仰しゃいました、「もしそれが驚嘆すべきものであったら、汝の望むところを授けてつかわそう。」
すると緑の預言者ヒズルと言われた八百屋は、申しました。
八百屋の話した物語
おお当代の王様、語り伝えられまするところでは、昔天文学者(7)を業として、人々の面相を読み、人相で人の考えを判じることを知っている男がおりました。この天文学者には、すごい美人で、独特の魅力を持った細君がありました。この細君はいつでもどこでも亭主の後ろにくっついていて、自分自身の淑徳の自慢をし、自分の功績をひけらかして、言うのでした、「おお旦那よ、貞節と感情の高尚と操の正しさにかけては、女性の間でこの私と並ぶものはいはしませんよ。」すると天文学者は、人相見の大家でもあったのに、細君の言葉を全く疑いませんでしたが、それくらい、事実、その顔には純真さと潔白さが映っているのでした。そして学者は思いました、「|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、このあらゆる淑徳の小壜たるおれの妻に、比べられるような妻を持った男はいないわい。」そして行く先々で、細君の功績を吹聴し、これを賞めそやし、その行儀と慎ましさに感服しておりましたが、しかし彼としては、他処人《よそびと》の前で自分の婦人部屋《ハーレム》のことなど口に出さないのが、真の慎ましさというものであったでしょう。けれども学者たちというものは、おおわが殿、わけても天文学者は、普通一般人の習慣には従わないものです。ですからこの連中の身に起る出来事は、普通一般人の出来事ではないわけでございます。
そこで、或る日のこと、この男が相変らず、他処の人たちの集りの前で、自分の細君の淑徳を讃めそやしていますと、一人の男が立ち上がって、これに言いました、「あんたはただの嘘つきにすぎぬ、おお某氏よ。」すると天文学者は顔色をすっかり黄色くし、怒りに顫える声で、尋ねました、「ではわしの嘘の証拠はどこにあるか。」相手は言いました、「あんたは嘘つきか、さもなけりゃ馬鹿さ。あんたの女房は売女《ばいた》にすぎんからね。」この無上の侮辱を聞くと、天文学者は相手の男に飛びかかって、首を絞め血を吸ってやろうとしました。けれどもその場にいた人々は二人を引き分けて、天文学者に言いました、「もしこの人が自分の言うことの証拠を見せなかったら、私たちはこの人をあなたにまかせて、血を吸わせてあげよう。」すると侮辱者は言いました、「おお男よ、ではこれから立ち上がって、その淑徳高い細君のところに行き、これから四日間留守をするからと告げなさい。そして別れを告げ、家を出たら、その上で、自分は見られずに全部見ることのできるような場所に、身を隠しなされ。そうすれば見るものを見ることでしょう。|さらば《ワアサラーム》。」居合わせた人たちも言いました、「そうだ、アッラーにかけて、そうやってこの人の言葉を確かめなさい。もしその言葉に偽りあらば、血を吸ってやるがよい。」
そこで天文学者は、怒りと動揺に鬚を顫わしながら、淑徳高き細君に会いに行って、申しました、「おお女房よ、立ち上がって、おれはこれから旅に出るから、その食糧の用意をしてくれ。それでおれは四日か、ひょっとすると六日、留守をする。」すると細君は叫びました、「おおわが御主人様、それではあなたは私の魂を悲嘆に投げこんで、私を悲しみに窶《やつ》れさせようとなさるの。なぜいっそ私をお連れになって、一緒に旅をして、あなたに侍《かし》ずき、もしお疲れになったりお加減が悪くなったりしたら、道中介抱してさしあげるようになさらないのですか。なぜ、お留守の切ない苦しみを抱いて、ここにただ独り私を置いて行きなさるの。」天文学者はこの言葉を聞くと、思いました、「アッラーにかけて、わが妻は女性《によしよう》の選ばれた者の間に、まさに二人とない女じゃわい。」そして細君に答えました、「おお眼の光よ、この留守ゆえに悲しまないでおくれ、ほんの四日か乃至は六日ぐらいのことだからな。ひたすら養生して達者で過ごすことのみ考えよ。」すると細君は涙を流し、呻きはじめて、言うのでした、「おお何と辛いこと、おお私は何と不幸な女でしょう、見棄てられて、愛されないで。」天文学者は一所懸命女の気を鎮めようと努めて、言いました、「お前の魂を鎮め、眼を爽やかにせよ。帰るときには、その代り立派な土産をいろいろ持ってきてあげるからね。」そして悲嘆の涙に暮れ、黒人女たちの胸の中に気を失った細君を残して、学者は自分の道に立ち去りました。
しかし二時間後には、彼は引き返して、庭の小門からそっとはいって、勝手知った場所で、そこならば見られることなく家の中を全部見ることのできる場所へ行って、待ち伏せました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十夜になると[#「けれども第八百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて学者がその隠れ場所に潜んでまだひと時もたたぬうちに、次のようなことが起りました。一人の男がはいってくるのが見えましたが、それは自分の家の前に住みついている、砂糖|黍《きび》売りとすぐにわかりました。その男は手に上等な砂糖黍を一本持っていました。それと同時に、自分の細君が体を左右に揺りながら、この男を迎えに出て来て、笑いながら、これに言うのが見えました、「お前さんが持って来てくれた砂糖黍は、それっきりなの、おお砂糖黍の父よ。」すると男は言いました、「おおわが御主人様、あんたに見える砂糖黍は、見えない代物に比べれば、物の数じゃないでさ。」すると女はこれに言いました、「それをおくれよ、おくれよ。」相手は言いました、「これでさ、これでさ。」次に付け加えて、「承知した、だがいったいおれの尻《けつ》の女衒《ぜげん》、お前さんの亭主の天文学者は、どこにいるのさ。」女は言いました、「アッラーはやっこさんの脚と腕を折って下さるといいよ。四日かひょっとすると六日ばかり、旅に出かけたのさ。光塔《マナーラ》でも落ちて来て生埋めになってくれればいいのに。」そして二人は一緒に笑い出しました。それから男は自分の砂糖黍をとり出して、若い女に与えますと、女はその皮を剥き、絞り、このような際にこの種のあらゆる砂糖黍でするようなことを、これでやらかすことができました。男は女を接吻すると、女も男を接吻し、男が女を抱きしめると、女もまた男を抱きしめ、男はしたたかな容赦のない突撃で女を突撃しました。そして男は十分堪能するまで、女の魅力を楽しみました。その上で女と別れて、自分の道に立ち去りました。
こうした次第です。そして天文学者は見もし、聞きもしました。ところがほんのしばらく経つと、第二の男がはいってくるのを見ましたが、それはこの界隈の鶏屋とわかりました。すると若い女は腰を揺すりながら、これを迎えに出て、言いました、「お前さんの上に平安《サラーム》あれ、おお鶏の父よ、今日は何を持ってきてくれたの。」男は答えました、「闘鶏を一羽ね、おお、わが御主人様、小綺麗でぽってり肥えた上等な代物《しろもの》です、ごく若々しく、ぴちぴちと、どっしりしていて、立派な総《ふさ》飾りのついた赤い帽子をかぶり、若鶏の間に類のない奴だが、もしおさしつかえなけりゃ、進上します。」すると若い女は言いました、「さしつかえないとも、ないともさ。」男は言いました、「じゃあげます、あげますよ。」そして二人は、おおわが殿、さっき合戦用の砂糖黍で行なわれたことをそのまま、鶏屋の闘鶏でもっていたしました。それが済むと、男は立ち上がって、身を揺すり、自分の道に立ち去りました。
こうした次第です。そして天文学者は見もし、聞きもしました。するとまたしばらく経つと、一人の男がはいって来て、それは界隈の驢馬曳きの親方とわかりました。そして若い女は走り寄って、首に抱きつきながら、言いました、「あなたの雌《め》家鴨《あひる》に今日は何を持ってきてくれたの、おお驢馬の父よ。」男は言いました、「バナナを一本持ってきたよ、おおわが御主人様、バナナをね。」女は笑いながら言いました、「まあ、アッラーはあなたに罰を当てて下さるように、おお大頭《おおあたま》さん。そのバナナはどこにあるの。」男は言いました、「おお女帝《スルターナ》よ、おお柔らかい透き通った肌を授かった女よ、そのバナナはね、おれはそいつを親父から貰ったのだ、親父が隊商《キヤラヴアン》の駱駝曳きをしていた頃にね。それはおれの小屋と一緒に、おれの貰ったたった一つの遺産だ。」女は言いました、「だけどあなたの手には、驢馬を駆る杖しか見えないが。バナナはどこにあるの。」男は言いました、「そいつは、おお女帝《スルターナ》よ、俗人の目を恐れる果物で、萎《しお》れるといけないから隠しておくのだよ。だけどほら、空中に浮いて来た、浮いて来たよ。」
こうした次第です。けれどもそのバナナが食われない前に、おおわが殿、すべてを見もし聞きもした天文学者は、ひと声大きな叫びをあげて、生命なき躯《むくろ》となって倒れてしまいました。アッラーの御慈悲その上にあれかし。そして若い女は、砂糖黍よりも若鶏よりもバナナが好きだったので、適法の時期がすぎてから、その界隈の驢馬曳きの親方と結婚いたしました。
これが私の話でございます、おお栄光満てる王様よ。
すると王様はこの八百屋の話を聞かれて、嬉しさに激しく身を揺り、御満足に身を顫わしなさいました。そして道化役に仰しゃいました、「この話は、おお知恵の父よ、その方の話よりも甚だしい。われらとしては、この八百屋に、その両方の睾丸を容赦してやらねばならぬ。」そしてこの男に仰しゃいました、「されば今は退《しりぞ》け。」
八百屋がその仲間の列のまん中に退きますと、第三の姦夫が進み出ましたが、これは羊肉を売る肉屋でした。この男も同じ恩典を求めますと、帝王《スルターン》は公平の手前これをお拒みなされなかったけれど、やはり同じ条件をおつけになりました。
すると双角のイスカンダルであった肉屋は言いました。
肉屋の話した物語
昔カイロに一人の男がおりましたが、この男には、親切と、よい性質と、血の軽さと、主《しゆ》への従順と畏怖で、いい評判をとっている細君がおりました。そしてこの細君は家に、おいしい脂の乗った丸々として重たい鵞鳥|一番《ひとつがい》を持っていましたが、また同じく、その手管と家との奥深く秘めながら、一人の情夫を持っていて、これに全く夢中でありました。
さて或る日のこと、この情夫がひそかに訪ねて来ますと、女の前に二羽のすばらしい鵞鳥を見ました。そこで途端にその鳥に対して食慾が湧き上がり、彼は女に言いました、「おお某女よ、お前は私たちのためこの二羽の鵞鳥を料理して、この上なくいい工合に肉を詰めて、私たちの喉を楽しませることができるようにしてくれなくてはならないね。それというのは、私の魂は今日は猛烈に鵞鳥の肉を望むからね。」女は答えました、「それは全く造作ないこと。あなたの望みを叶えることは、私の悦びだわ。あなたの生命にかけて、おお某よ、私はこの二羽の鵞鳥を殺して、肉を詰めてあげましょう。そしてこれを二羽ともあげますから、それを持って御自分のところに運んだ上で、全くおいしくあなたの心に叶うように召し上がれ。こういうふうにすれば、あの禍いの女衒《ぜげん》の私の亭主には、鳥の味も匂いも知られずにすむでしょう。」男は尋ねました、「それでお前はどういうふうにする気なのかい。」女は答えました、「亭主のためには私独特の悪戯を食べさせて、よく思い知らせてやりましょう。そしてあなたにはあの鵞鳥を二羽ともあげます、あなたほど大切な人はいないのですから、おおわが眼の光よ。そうやって、あの女衒は鵞鳥の味も匂いも知らずじまいよ。」そういって、二人は互いに抱きつきました。そして若者は鵞鳥が手に入るのを楽しみにしながら、自分の道に立ち去りました。
けれども若い女のほうはというと、日の暮れる頃になって、亭主が仕事から帰ってくると、これに言いました、「全くのところ、おお旦那よ、あなたっていえば、人間を本当に人間の名に恥かしからぬものにする、あの気前のよさという徳を、こんなに持ち合わせなくては、いったいどうして人間の肩書を望むことができるの。だってあなたはこれまで、誰かを自分の家に招いたことがありますか。日々のうちの或る日、私に、『おお女房よ、今日は家にお客が一人来るぞ、』と言ったためしがありますか。そして自分自身に、『もしおれがこんなにけちけち暮らしつづけていたら、人様は結局、おれは歓待の道を全く知らない浅ましい奴だと、言いふらすことになるだろう、』と言ったためしがありますかい。」すると亭主は答えました、「おお女房や、その遅れを取り返すほどわけないことはない。明日にも、――|アッラー望みたまえば《インシヤーラー》、おれは仔羊の肉と米を買ってくるから、誰かおれの仲のいい友達の一人を食事に招けるように、お前はそれで、昼飯なり夕飯なり、どっちでもいいから、何かおいしいものを料理してくれ。」すると女房は言いました、「いいえ、アッラーにかけて、おお旦那よ。その肉よりか、こま切れ肉を買って来てくれるほうがいいわ。それでもって鳥に詰める肉を作り、あなたに家の二羽の鵞鳥を殺してもらって、それを中に詰めることにするから。私はそれを焼くとしましょう。何といっても、肉を詰めて焼いた鵞鳥ほど味のいいものはないし、鵞鳥ほど、お客の前で主人の顔を白くできるものはありはしないからね。」亭主は答えました、「わが頭上と目の上に。そうするがよい。」
そこで翌朝明方に、亭主は太った二羽の鵞鳥を屠り、こまぎれ肉一|斤《ラトル》と、米一|斤《ラトル》と、出来立ての香辛料一オンス、その他の薬味類を買いに行きました。そして全部を家に持ち帰って、細君に言いました、「お昼には、焼いた鵞鳥を出せるようにしておいてくれ。その時刻に、お客様方と一緒に帰ってくるからね。」そして自分の道に立ち去りました。
すると女は立ち上がって、鵞鳥の羽を毟り、きれいにして、こま切れと米とピスタチオと巴旦杏と乾葡萄と松の実《み》と上等な香辛料で作ったすばらしい詰め物を、それに詰めてから、申し分なくほどよく焼けるまで、焼け加減を見守りました。そして黒人の小女をやって愛人の若い男を呼ぶと、男は急いで駈けつけました。女は男を抱きしめ、男も女を抱きしめ、両人互いに甘くし合い満足し合った後で、女は二羽のおいしい鵞鳥を全部そっくり、容れ物も中身も、男に渡しました。男はそれを受けとって、自分の道に立ち去りました。男のほうは以上のようで、これっきりのことでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八百五十一夜になると[#「けれども第八百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて若い女の夫のほうは、間違いなく、きちんとその時刻を守りました。正午になると、彼は友人を一人連れて、自宅に着き、戸を叩きました。女は立ち上がって、戸を開けに行き、中にはいるようにすすめ、二人をねんごろに迎えました。次に自分の亭主を傍へ連れて行って、言いました、「私たちは鵞鳥を二羽一どきに殺したのに、あなたは一人しかお連れしなかったのね。この上四人のお客が来て私の料理を味わって下すったって、大丈夫よ。さあ、外に出て、あなたのお友達をもう二人か、三人だっていいから、呼んで来て、鵞鳥を食べていただくようになさい。」男は素直に、女房に命じられたようにするため出て行きました。
すると女はそのお客に会いに行き、心を転倒させたような顔をして近づき、心配に顫える声でこれに言いました、「おお、御身の上の御災難です。あなたは助かるすべなく身の破滅です。アッラーにかけて、こんなふうに、確かな死へと頭を下げて飛び込むとは、きっとあなたにはお子様方も御家族もないのにちがいありません。」招かれたお客はこの言葉を聞くと、恐怖に襲われ、それが深く心中に突き刺さるのを感じました。そこで尋ねました、「いったいどうしたのですか、おお善良な御婦人よ。お宅で私の身に迫っている恐ろしい不幸とは、いったい何ですか。」女は答えました、「アッラーにかけて、私は秘密を隠してはおられませんわ。実はこういうことなのです。家の主人は自分に対するあなたのなさり方を大へんお恨みして、ここにあなたをお連れしたのは、あなたの両方の睾丸《きん》を取ってしまい、あなたを去勢した宦者の身分にしてしまおうという魂胆に外ならないのですよ。その後は、死になさろうと生きなさろうと、とにかく御身の上の御災難で、お気の毒なことです。」そして付け加えました、「家の主人は、あなたの去勢を手伝ってもらおうと、友達を二人呼びに行ったのですよ。」
若い女のこの打ち明け話を聞くと、招かれた客は即刻即座に立ち上がって、街に飛び出し、脚を風に委せました。
その同じ瞬間に、亭主はこんどは二人の友人を連れて、はいってまいりました。すると若い女はこれを迎えて、叫びました、「おお大変、大変、鵞鳥が、鵞鳥が。」亭主は尋ねました、「アッラーにかけて、どうしたんだ、何事だ、何事だ。」女は言いました、「おお面喰った、まあ大変、ああ、困った、鵞鳥が、鵞鳥が。」亭主は尋ねました、「それで、鵞鳥がいったいどうしたんだ。アッラーにかけて、まあ黙って、喉をしゃべらせるな。そしてお前の鵞鳥がどうしたのか、言うがいい。鵞鳥を見せなさい、見せなさい。」女は言いました、「じゃ御覧、御覧よ、あっちよ、あっちよ。あなたのお客が分捕って攫って行き、窓から飛び出して、自分の道を行ってしまったのよ。」そして付け加えました、「さあ、早く御馳走なさいよ、御馳走を。」
細君のこの言葉を聞いて、男は大急ぎで街に出ますと、最初のお客が、長上衣を口にくわえて、全速力で走っているのが見えました。そこでこれに向って叫びました、「君の上のアッラーにかけて、戻りたまえ、戻って来たまえ。君から全部取りあげはしないよ。戻って来たまえ、アッラーにかけて、君から半分だけしか取りあげないから。」彼の言う意味は、おお当代の王様よ、鵞鳥を一羽しか取り返さず、二羽目の鵞鳥はそのまま差しあげるというつもりでした。――ところがこの男がこう叫ぶのを聞いて、逃げ出した男は、自分を呼び戻すのは二つの睾丸《たまご》(8)を取らずに一つだけを取るためとばかり思いこんで、逃げつづけながら叫んだのでした、「おれから睾丸《たまご》を一つとるだって? そいつはあいにくお前の牛みたいな舌には届かないぜ。もしおれの睾丸《たまご》を一つちょろまかしたいというなら、おれの後から追っかけてきな。」
これが私の話でございます、おお栄光満てる王様よ。
王様はこの肉屋の話を聞きなさると、おかしくて気絶しそうになりなさいました。笑いがおさまると、王様は道化役のほうに向いて、お尋ねになりました、「この男からは、その睾丸《たまご》一つを取りあぐべきか、それとも両方ともか。」道化役は言いました、「両方の睾丸《たまご》を残しておいてやるといたしましょう。両方取りあげたところで大したこともありますまいから。それにそれは拙者の望むところではございませんし。」すると帝王《スルターン》はこの男に申されました、「われらの眼前より退りおれ。」
そこでその男が仲間の列のなかに退りますと、第四の姦夫が進み出て、帝王《スルターン》に同じ条件で同じ恩典を賜るよう願い奉りました。帝王《スルターン》はこれに同意を与えなさると、第四の姦夫、竪笛《クラリネツト》楽長で、あたかも天使イスラーフィールと見られた男は、言いました。
竪笛《クラリネツト》楽長の話した物語
語り伝えられまするところでは、昔エジプトの町々の間の或る町に、すでに高齢の男が一人おりまして、年頃の息子が一人ありましたが、これが怠け者で腹黒い屈強な男で、朝から晩まで、父親からの相続物の利子を挙げることしか考えておりませんでした。若い屈強な男の父親だったその老人《シヤイクー》は、その高齢にも拘わらず、家に、申し分ない美人の十五歳の妻を持っていました。そこでその息子は、これに鉄の真の強さを教え、それと柔かな蝋とのちがいを教えてやろうとの魂胆で、絶えず父親の妻のまわりをうろうろしておりました。父親は、息子がこの上なく性の悪いならず者だということを知ってはいましたが、さて自分の若い妻に息子の誘惑を受けさせないようにするには、どうすればよいかわからない有様でした。そして結局、最も確実な防護法は、自分としては、第一の妻の外にさらに二番目の妻を迎えることであり、そうすれば二人の女が互いに傍にいれば、一方が他方に護られることになり、息子の罠《わな》に対してお互いに用心させることができるわけだと思いました。そこで彼は、いっそう美人でもっと若い第二の妻を選んで、第一の妻と一緒に置きました。そして交代に、その一人一人と一緒に暮らしました。
さて若い屈強な男は、父親の算段を覚って、独り言を言いました、「ようし、アッラーにかけて、こうなれば一石二鳥になるわけだ。」けれどもその計画を実現するのは、大へんむずかしいことでした。それというのは、父親は外出しなければならなくなるとそのつど、二人の若い妻に言う習慣をつけたのです、「わしの息子、あのならず者の企らみには、二人ともよく気をつけなさいよ。何しろあいつはえらい放蕩者で、わしの生活を掻きまわし、これまでもわしはお前たちの前に、三人の家内と離縁しなけりゃならん羽目になったものだ。用心しろよ、よっく用心しろよ。」すると二人の若い女は答えました、「|アッラーに誓って《ワツラーヒ》、万一息子さんが私たちにちょっとでも変な真似をするとか、ちょっとでも失礼なことを言ったら、私たちは自分の皮草履《バーブジ》(9)でもって顔を撲《ぶ》ってやりますわ。」すると老人《シヤイクー》はなおも念を押して、言います、「用心しろよ、よっく用心しろよ。」二人は答えました、「私たちは油断しません、決して油断しません。」するとならず者は独り言を言いました、「アッラーにかけて、この女たちが皮草履《バーブジ》でおれの顔を殴るかどうか、まあゆっくり拝見しよう、今にわかるさ。」
さて、或る日、家の麦の買い置きがなくなったので、老人《シヤイクー》は息子に言いました、「麦を一袋か二袋買いに、麦|市場《スーク》に行くとしよう。」そして二人は一緒に外に出ました、父親は息子の先に立って歩いて。二人の妻は二人が出て行くのを見ようと、家の露台に上がりました。
ところが途中で、老人《シヤイクー》はいつも自分の皮草履《バーブジ》を途々手に持つとか、肩に懸けるとかする習慣があったのに、今日はそれを持ってこなかったことに気がつきました。そこで息子に言いました、「早く家に戻ってあれを取って来てくれ。」屈強な男は一気に家に戻って、父親の妻の若い女二人が露台の上に坐っているのを見かけると、下から叫びました、「お父様が用事を言いつけて、僕をあなた方のところによこしましたよ。」二人は聞きました、「何の御用なの。」男は言いました、「ここに戻って、上にあがり、あなた方を好きなだけ抱けと言いつけられました、あなた方両方を、両方をね。」二人は答えました、「何を言うの、おお犬め。アッラーにかけて、お父様はそんな用をあんたに頼みっこないわ。あんた嘘をついているのだわ、おおこの上なく性の悪いならず者、おお豚め。」男は言いました、「ワッラーヒ、嘘なんかつくものか。」そして付け加えました、「嘘をついてない証拠を見せてあげよう。」そして彼は声を張りあげて、遠くにいる父親に向って叫びました、「おーい、お父さん、おーいお父さん、片方だけですか、それとも両方ですか。片方だけ、それとも両方?」すると老人《シヤイクー》は声を張りあげて、答えました、「両方さ、おお放蕩者め、両方一緒にだ。アッラーはお前を呪いなさるように。」ところで、おおわが殿、帝王《スルターン》様、老人《シヤイクー》が息子にそう言ったのは、皮草履《バーブジ》を両方とも持ってこいという意味で、妻を両方とも抱けということではなかったのでございます。
自分たちの夫のこの返事を聞くと、二人の若い女はお互い同士言い合いました、「この屈強な男は嘘をついたのではないわ。じゃ、お父様がしろと命じたことを、私たちにさせてやりましょうよ。」
このようにして、おおわが殿、帝王《スルターン》様、この皮草履《バーブジ》の計《はかりごと》のお蔭で、屈強な男はこの二人の蠅《ムーシユ》の傍に上がって行って、二人と一方ならぬ|小競合い《エスカルムーシユ》を演ずることができました。それを済ますと、彼は父親に皮草履《バーブジ》を持ってまいりました。二人の若い女はこの時以来、絶えずこの息子の口《ブーシユ》に接吻したがっては、これに言うのでした、「|寝てよ《クーシユ》、|寝てよ《クーシユ》。」けれど老人《シヤイクー》の眼は何も見ませんでした。なぜというと、それは|藪睨み《ルーシユ》だったからです。
これが私の話でございます。おお光栄満てる王様よ。
王様はお抱えの竪笛《クラリネツト》楽長のこの話をお聞きになると、御満悦の極に達しなされて、楽長が自分の睾丸のためにお願いしたそっくりの御容赦を、お与えになりました。それから四人の姦夫を引きとらせつつ、一同に申されました、「まず汝らの欺いたわが忠義な家来の手に接吻し、彼に許しを乞え。」そこで一同仰せ承わり畏まって答え、道化役と仲直りをし、その時から、一同彼とこの上なく仲睦じく暮したのでございました。そして道化役も同様でございました。
[#この行1字下げ] ――「けれども、」とシャハラザードは続けた。「『細君どもの腹黒さの物語』は、おお幸多き王様、どうもきりがないほどでございますので、むしろこれからすぐに、不思議なアリ・ババと四十人の盗賊の物語[#「アリ・ババと四十人の盗賊の物語」はゴシック体]をお話し申し上げたいと存じます。」
[#ここで字下げ終わり]
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訳註
カマールと達者なハリマの物語
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(1) Etoile-du-Matin. バートンではKaubab al-Sabh. ペインでは Kaukeb es Sebah.
(2) Kamar.「月」の意。バートン、ペインでは、『ブドゥール姫の物語』(本電子文庫版四巻所収)の王子と同じ名の、カマラルザマーン(世紀の月)とある。
(3) Maschallah.「アッラーが望むように」。「でかした」「よしよし」というような常用句。
(4) 換言すれば、われは問う、「君が名は何ぞ。」彼答えて、「真珠なり。」われは叫ぶ、「われに来れ、われに。」されど彼は言う、「否、否」と(マルドリュス)。――これは東洋人の好む言葉の洒落を含む。Lou-louは「真珠」、Li! li! は「わがもの、わがために」、La! la!(否、否)。(ペイン)
(5) このひと枝はメIrkモ 即ち「根」であるが、ここでは「小枝、若枝」を意味するにちがいなく、めぼうきは東洋では比較的大きく成長する(バートン)。
(6) 月が現われて第九月《ラマザーン》の長い間の断食が終ったことを示すので、回教徒の目には特に月が輝かしく見える(ペイン)。
(7) マグリブ人(西アフリカのモロッコ人、ムーア人等)は、すべて男色人種ということになっている。
(8) Zeid と Zeinab. 太郎と花子のように、男女の一般的の名。
(9)「アッラーに誓って」。
(10)「アッラーの御名において」、食事前に回教徒は必ず唱える。
(11) この伝説の都については、後出『運命の鍵』参照。
(12)「もしアッラーの御心ならば」、希望を現わす。
(13) ここで長老《シヤイクー》というのは、宝石細工師組合の組合長のことである(バートン)。
(14)「アッラーは寛仁なり」。
(15) 十六冊本では、ここに「大臣《ワジール》の娘シャハラザード」とある。
(16) Miskal. 約三ペニーウェイト(ペイン)。約五グラム足らず。
(17) Halima.「優しい女」の意。
(18) バートン、ペインには「おおハリマよ」とあり、マクノーテン本のテキストにはY・Fulnah(おお何某)とあると、バートンは註する。
(19) アダムの子、人間。
(20) Aユrbiyyun(複数Aユrb)は沙漠に住む人のことで、アラビア人たると否とを問わぬ(バートン)。
羊の脚の物語
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(1)「アッラーは偉大なり」。
(2) A詠on (Ha-ru-n). 聖書のアーロン。モーゼの兄。アーロンの子孫の意。
(3) アブラハムとイサクとヤコブ。
運命の鍵
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(1) Aram-aux-Colonnes. イエメンの隣のハドラマウトにいた、伝説の古代民族アード族の王シャッダード(本電子文庫文庫版五巻『青銅の町の物語』註(5)参照)は、天国の話を聞いて、地上にそれに対抗する楽園を造営しようと志し、円柱の立ちならぶ壮麗な宮殿を建て、これをイラムと名づけたと伝えられる。『コーラン』(八十九章五節―七節)にも見える。(井筒俊彦氏による。)
(2) イスマーイールの母。本電子文庫版四巻『博学のタワッドドの物語』参照。
(3) 八冊本では「光栄と幸福の鍵」とあるが、後の文から見て誤植と考えられ、十六冊本に従う。
(4) 以下の一行八冊本に欠く。誤植と思われる。
(5) Al hamdou lillah!「アッラーに栄光あれ」。ありがたやの意で、恩恵を感謝して、回教徒の日常誦える言葉。
巧みな諧謔と楽しい知恵の集い
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(1)「アッラーの望みたもうように」、ここでは「これは、これは」というような、間投詞に用いられている。
(2)「御容赦を」の意。
(3)「ありがたや」の意。
(4) Youh!(Y・Hu-).「おお彼(アッラー)よ」。「ヤー、アッラー」の代りに用いる。
(5) メッカ巡礼を終えた人の意味の敬称。
(6)「祝福された者」の意で、好んで奴隷の名に用いられる。
(7)「アッラーに誓って」。
(8) カイロ市の東南地区、城砦の下にある有名な大寺院。一三五六―五九年に、ナースィル・ディーン・ハサン帝(在位一三四七―五一年)のために建てられた。
(9)「幸福者」の意の敬称。
ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語
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(1) ガランでは『アフメード王子と仙女バリ・バヌーの物語』、バートンでは『アフマード王子と仙女ペリ・バヌー』となっている。
(2) Ali, Hass穎. H冱sein ――ガランでもバートンでも、長男が Houssain (Husayn)、次男が Ali、末子が Ahmed (Ahmad) となっている。
(3) Nourennahar ――ガランでは Nourounnihar(アラビア語で「光」の意)、バートンではNur al-Nihr(昼間の光)とある。
(4) Bischangar ――ガランは Bisnagar としてインドの同名帝国の首府たる大都市と注するが、バートンは Bishangarh としガランのは全くの誤称と注する。十二世紀から十六世紀にかけて南インドを支配した、マドラス地区にあった大都市らしい。
(5) 一パラサングは約五キロ。
(6) 一腕尺は約〇・五メートル。
(7) Schiraz (Chir越) ――現在のイランの南部シーラーズ大平原にある古代伝説以来の古都市であるが、実際に建設されたのはアラビア人征服の直後七世紀末という。ファルス建国以来最重要の町で、九世紀サッファール朝の首府。ハーフィズとサアディの二大詩人の誕生地で、郊外に両詩人の廟があるので、今に有名である。
(8) Bazist穎(ガランではbezestein とあり、普通名詞に扱う。)――アラビア、ペルシアの合成語で、元来は「衣類の市場」の意味であるが、多くの作者は市場 Bazar の意味で用いている。(バートン)
(9)「アッラーに誓って言う。」誓いの言葉。
(10) ガランでもバートンでも、最も名門の妖霊《ジン》の娘でパリ・バヌー(ペリ・バヌー)と名乗っている。ガランには Pari-Banon はペルシアの二語で、女の妖霊、仙女、妖精の意と注がある。バートンによると、バヌーは姫君、高貴の淑女、貴婦人の意で、Peri (Pari) はやや Fairy に似て、イスラムでは美しい女性の霊で、多くアッラーとコーランを信じ、人類の幸を願う由。
(11) Scha秒ar(バートンではShabbar)――ガランでもバートンでも、これは魔女王女の兄弟となっている。なお共にマルドリュスよりも大分長い物語で、かなり異なっている。
真珠華の物語
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(1) Al-M冲azid Biユllah(バートン、ペインそれぞれ多少異なった綴字であるが、「岩波西洋人名辞典」の読み方に従う)――十六代|教王《カリフ》在位は八九二―九〇二。アル・ムタワッキルは第十代(八四七―八六一)、バートンによると、アル・ラシード(五代)の孫で、その父は、異国生れの奴隷側室マーリダーとアル・ラシードの子という。
(2) Ahmad Ibn-Hamdoun ――名門の一つで、父親の代から Nadim すなわち「盃の友」の職に就いた。ここにあるように詩と歴史の口頭の伝達者であった。
(3) Nischabour (Ni-sha-pu-r) ――ホーラサーンの四大都市のうち最も重要な町、中世イランの最大都市の一つ、ウマル・ハイヤームの墓があるので今に到るまで聞えている。
(4) 伝説によると、アラビア南部の古代巨人族、アード族の王が天国に対抗する地上楽園を作ろうと、アダン(アデン)の付近に円柱の立ちならぶ荘麗な宮殿を建てて、イラムと名づけたという。
(5) ソロモンとシェバの女王。
(6) Abouユl Hass穎 Ali ben-Ahmad Al-Khorassani ――同じことであるが、バートンでは、「ホーラサーンのアフマードの子、アブー・アル・ハサン・アリ」Ab・Al-Hasan Ali, son of Ahmad of Khorasan とあり、ペインでは Aboulhusn Ali, son of Ahmed of Khorassan. 共にこの名が本篇の題名となっている。
(7) Ch屍i-f (Shari-f) ――名誉ある者、名門の出身、イスラム以後はムハンマードの後裔をいう。
帝王マハムードの二つの生涯
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(1) これは『千一夜物語』には属さず、『四十人の大臣《ワジール》』Les quarante visirs というトルコ語のトルコ物語集の中の、「シャハベッディン」Chahabeddin(この物語で魔法を使う老人の名)の特殊な形式の物語という(ショーヴァン『書誌』による)。
(2) Omar ――おそらくカイロの大詩人と言われる、ウマル・イブヌル・ファーリズ(一一八二―一二三五)のことであろう。
底なしの宝庫
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(1) これは『千一夜物語』には元来なく、類書『千一日物語』Les Mille et un jours に収められた「アブールカセム・アル・バスリと袋に入れられた貴女」という物語らしい。『千一日物語』全五巻は、Petis de la Cnoix の訳編により、一七一〇―一九一二年にガラン訳の刊行中公刊され、非常に読まれた。しかしそのペルシア語その他の原典があるかどうか疑わしい模様である(ショーヴァン『書誌』による)。
(2)「平安御身の上にあれ」の意で、訣別の辞、「さらば」。
気の毒な不義の子のこみ入った物語
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(1) バートンでは「三人のぺてん師の物語」。
(2) 以下の部族すべて不明。
(3) 北部及び中部アラビアの最上の馬の一つ。他の馬種すべて不詳。
(4) Isma浜 ben-Ibrahim. ――アブラハムの子イシマエル。アラビア人の祖。
(5) Les Ghaziyas. ――エジプトの遊牧民族。ジプシー、ツィガーヌ、ズィンガリ等と同じ。舞妓は多くこの部族から出たため、エジプトの舞妓の階級の名称となった。これは単数形で、このアラビア語の複数は Ghawa-zi の由。
(6) アッラーには尊称として、他に九十九の別名があると言われる。これは原名Sattr という由。
(7) Le pont de Sanja ――バートン注に「北シリアのSanjiaの橋」とあるが詳らかにしない。
(8) アレクサンドリアのこと。
(9) バートンでは「カイロの帝王モハムメッドの物語」。
(10)「あなたに対する愛情から」の意(バートン)。
(11) Comorin (Kumr). インドのコモリン岬をいう。これは最上の沈香とされる。
(12) バートンのよったテキスト(それはこれと大分ちがうが)では、「コーヒーとシャーベット」とあり、そこでこの物語を十七世紀と見ると注する。
(13) Am穎. ――慈悲、容赦と助命の意。
(14) イスラムの宗教上の最高位者。バートンはここでは「回教教会の長」と注している。
(15) Ghosl または Ghusl ――イスラムでは礼拝に先立って身を洗浄する義務があるが、それに小浄 Abdast と大浄がある。大浄は特別の穢れを受けた時全身を洗浄すること。
(16) この場合は急がせる意味の間投詞。
(17) Ch屍if (Shari-f) ――前出のように、名門の出身、ムハンマードの子孫のこと。sa鋲d ――福者、優れた者の義。
(18) Efendi――トルコ語で主人を意味し、役人、学者、高位の僧等に対する敬称。
(19) La Scharia ――イスラム法。イスラムの宗教上の規則。
(20) いわば勝男といった勝利者の意味の人名。
(21) バートンでは「賢人と弟子の物語」とあり、かなりちがう。
九十九の晒首の下での問答
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(1) これは『千一夜物語』には元来なく、前出の類書『千一日物語』に含まれる「カラフ王子とシナの王女」Le Prince Calaf et la Princesse de la Chine とかなり似た物語という。「カラフ」のアラビア語テキストは知られていないらしい(ショーヴァン『書誌』による)。
(2) ヨブのこと。非常な富者であったが、四つの試煉を受け最後に病にかかり、天使の啓示で泉の水を飲み、浴して病癒えた。
(3) 地獄の生命の泉の番人。「緑衣の預言者」と言われる。
(4) アレクサンドル大王のこと。
(5) 四大天使の一人イスラーフィール。
(6) Le Ka鋲m-makam (Ka-ユim-Maka-m) ――地位と役目で、元来は総理大臣不在の時、その宮廷または首府の代理官を言う。
(7) バートンは「天文学者」としメShib al-Haytモ は人相学者をも意味し得るが、ここではおそらくその意味ではあるまいと註す。そしてテキストに人相を見ることは記されていないし、かなりのちがいがある。学者は死なずに離縁する。
(8)「アラビア語の メBayzahモ 卵、睾丸の意。」(バートン)
(9) Bb徊 ――これはアラビア語むしろエジプト語で、ペルシア語メPay-p徭hモ(足を蔽うもの)から由来する。靴やスリッパで打つことは非常な侮辱とされる(バートン)。
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年十月、ちくま文庫に収録された。