千一夜物語 7
佐藤正彰 訳
目 次
陽気で不作法な連中の集い
歴史的な放屁《おなら》
二人の悪戯者
女の策略
眼が覚めながら眠っている男の物語
ザイン・アル・マワシフの恋
無精な若者の物語
若者ヌールと勇ましいフランク王女との物語
詩十三篇
寛仁大度と処世の道の談話会
サラディンとその大臣《ワジール》
比翼塚
ヒンドの離婚
処女の鏡の物語
アラジンと魔法のランプの物語
人の世のまことの知恵の譬え話
薔薇の微笑のファリザード
訳註
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千一夜物語 7
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
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陽気で不作法な連中の集い
歴史的な放屁《おなら》
語り伝えますところでは、――されどアッラーはさらに多くを知りたまいまする――ヤマーン地方はカウカバーンの都に、ファズリ族のベドウィン人で、アブール・ホセインと呼ばれる男がおりました。彼は既に永年来、ベドウィン人の放浪生活を棄てて、上品な都会人となり、最も富裕な商人たちの間の一人の商人となっていました。そして若い頃に一度結婚したのでしたが、結婚一年後に、アッラーはその妻を御慈悲の裡に召しなさいました。そこでアブール・ホセインの友人たちは、次の詩人の言葉を繰り返し聞かせては、彼にしきりに再婚をすすめることをやめませんでした。
[#ここから2字下げ]
立て、友よ、しかして春の季節を空しく過ぎゆかしむることなかれ。
乙女あり。身を固めよ。家に女あるは、一年を通じてのよき暦なるを知らずや。
[#ここで字下げ終わり]
そこでアブール・ホセインも、最後には友人たちのあらゆる懇望にもはやさからいきれず、結婚周旋の老婆たちと交渉を開始する決心をしました。そして結局、海上に輝くときの月のように美しい乙女と、結婚することになりました。その婚礼のために、彼は盛大な祝宴を張り、友人知己全部を、学者《ウラマー》、托鉢僧《フアキール》、修道僧《ダルウイーシユ》、行者《サントン》たちと共に招きました。わが家の戸をすべて広々と開け放ち、お客様方にはあらゆる種類の御馳走を供しましたが、わけても、異なる七色の米とか、シャーベットとか、榛《はしばみ》、巴旦杏、ピスタチオ、乾葡萄を詰めた仔羊とか、丸焼きにして一匹ごと出した仔駱駝などがございました。そして一同は食べて飲んで、楽しみ、歓び、満足しました。新婦は引きつづき七度《ななたび》、そのつど前よりも更に美しい別な衣裳を着けて、席上を廻って華々しく披露されました。そればかりか、花嫁姿を十分堪能できなかった客人を満足させるため、八度も会衆のただ中を連れ廻されたほどでした。これがすむと、|年寄り《シヤイクー》の婦人たちは新婦を婚姻の間《ま》に連れて行って、玉座のように高い寝床に寝かし、新郎を迎える準備を万端整えさせました。
そこで、アブール・ホセインは行列のただ中を通って、しずしずと、重々しく新婦のところにはいって行きました。そして、どんなに如才なく万事心得ているかを、自分自身にはっきり示し、新婦と附添いの婦人たちにも見せるため、しばし長椅子《デイワーン》の上に坐りました。次に、乙女が淑やかに待っている寝床に近づくに先立って、婦人たちの祝辞を受けて引きとらせるため、悠然と立ち上がったのですが、そのとき、何と、おお災いよ、不消化な肉類と飲み物で満腹した腹から、一発、音高き限り音高い、すさまじい大きな放屁《おなら》を洩らしたものです。悪魔は遠ざけられよかし。
この大音響に、婦人たちはめいめい隣の人のほうを向いて、声高にしゃべり、何も聞えなかったようなふりをし、乙女もまた、笑ったり嘲ったりせずに、自分の腕輪を鳴らしはじめました。けれどもアブール・ホセインは狼狽の限り狼狽して、ちょっと便所に行ってくるからと言って、心中に恥を覚えつつ、中庭に下り、自分の牝馬に鞍を置き、その背に飛び乗って、わが家も婚礼も花嫁も棄てて、夜の闇にまぎれて逃げ出しました。そして町を出て、砂漠に分け入りました。こうして海岸に出ると、ちょうどインドに出帆しようとしている船がありました。そこでそれに乗って、マラバール海岸に着きました。
その地で、彼はヤマーン生れの多くの人と知り合い、彼らからその国の王様に推挙されました。王様は信用した人に任せる役を下さって、彼を近衛兵の隊長に任命なさいました。それで彼はこの国で、尊ばれ重んじられて、楽しい生活の安穏の裡に、十年を過しました。そして放屁の思い出が記憶に浮ぶごとに、ちょうど人々が悪臭を払うように、それを追い払っていました。
ところがこの十年が過ぎますと、彼は懐郷病の憂いに捉えられ、そのうち次第に憔悴してきました。絶えずわが家と故郷の町を思っては溜息を洩らし、その無理に抑えた欲望のため、もう死にそうになりました。ところが或る日、もう自分の魂にさからいきれず、王様に休暇を願う暇さえなく、脱走して、ヤマーンのハドラムートの国に再び辿りつきました。そこで、修道僧《ダルウイーシユ》に変装して、徒歩でカウカバーンの町に到りつきました。こうして彼はわが名と事情を秘めながら、町を見下ろす丘の上に着きました。そして眼に涙をいっぱいためて、昔のわが家の露台と、近所の家々の露台を眺め、心中思いました、「誰にもおれだとわからなければよいが。どうかアッラーは、みんながおれの一件を忘れてしまっているようにして下さいますように。」こう考えながら、彼は丘を降りて、廻り道を通ってわが家に行こうとしました。すると途中で、一人の婆さんが、戸口の敷居に坐って、十歳ばかりの小娘の頭の虱をとっているのを見かけました。その小娘は婆さんに言っていました、「おお、お母さん、私の年齢《とし》はいくつなのかしら。お友達の一人が私の未来を星占いしてくれるっていうの。私は何年に生れたのか教えてよ。」すると婆さんはちょっと考えて、答えるのでした、「お前はね、娘や、ちょうどあの放屁《おなら》の年に、生れたのだよ。」
不幸なアブール・ホセインはこの言葉を聞くと、そのまま引っ返して、脚を風にまかせて走り出しました。そして彼は自分に言いました、「何とお前の放屁は、史上の日付になっているぞ。そいつは、棕櫚の木に花がつく限り永く、世々を通じて言い伝えられるだろうよ。」そして彼はインドの国に着くまで、走り通しに、旅をしつづけました。それから死ぬまで、異郷で味気なく暮したのでございました。彼の上に、アッラーの御慈悲と御憐《おんあわ》れみとあれかし。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは、その夜はさらに言った。
二人の悪戯者
同じようにわたくしの聞き及びましたところでは、おお幸多き王様、昔シリアはダマスの町に、悪戯《いたずら》と剽軽と無躾《ぶしつけ》で聞えた男がおり、また一方カイロにも、おなじ点でそれに劣らず名代の男がおりました。ところでそのダマスの道化者は、そのカイロの同類の噂をよく聞いて、ぜひ会ってみたいと望んでいました。贔屓の常客がいつも彼に、こう言っていただけに、なおさらのことでした。「それはもう疑いない。そのエジプト人のほうが、お前よりかずっとしたたか者で、利口だし、天分があって、いたずら者にちがいないよ。その男と一座するほうが、お前といるよりかずっとおもしろい。それでもお前がおれたちの言うことを本当にしないというなら、カイロに出かけて、やつのやっているところを見て来さえすればいい。やつのほうが上手《うわて》なことがはっきりわかるだろう。」そのうちあまり何度も言われるので、とうとうその男は思いました、「アッラーにかけて、こうなっちゃおれはもうカイロに出かけて、そいつについて他人様《ひとさま》の言うことを、自分の眼で見るよりほかに手はないぞ。」そこで彼は荷物をととのえて、自分の町のダマスを立ち、カイロに向って出発すると、アッラーの御同意を得て、つつがなく到着致しました。そしてすぐさま好敵手の住居を聞いて、訪ねて行きました。すると手厚いもてなしのあらゆる敬意をもって迎えられ、この上なく懇ろな歓迎の挨拶の後、鄭重に扱われ、その家に泊められました。つぎに二人は互いに世間の重要問題を語り合いはじめ、その夜は愉快に語らって過しました。
さて翌日、ダマスの男はカイロの男に申しました、「アッラーにかけて、おお仲間よ、実はこうしてダマスからカイロくんだりまで来たのはほかでもない。あんたが絶えず町なかでやっている悪戯と道化を、この自分の眼で拝見するためなのだ。私は教えを受けた上でなければ、国に戻りたくはない。ひとつ、私がこんなに熱心に見たがっているものを、目の前で見せていただけまいか。」相手は言いました、「アッラーにかけて、おお仲間よ、その私のことを話した人たちは、でたらめを言ったにちがいない。この私ときちゃ、自分の左手と右手の区別もようつかん男だからね。どうして私にあんたみたいな立派なダマスのお方を、機転や頓智のことで教えるなんてことができようか。だがとにかく、あんたにわれわれの町の美しい物をお目にかけるのは、私の主人としてのつとめだから、まあ外に出て歩きましょうや。」
そこで彼は客と一緒に外に出て、やがてダマスの住民に当地の学問教育の驚異を話してやれるようにと、何よりもまずアル・アズハールの回教寺院《マスジツト》を見せに連れて行きました。途中、花売りたちのそばを通ると、彼は、石竹、薔薇、羅勒《めぼうき》、素馨、薄荷と花薄荷の枝を求めて、花や香草の束を作りました。こうして二人は寺院へ着いて、中庭に進み入りました。さてそこにはいって行くと、洗浄《みそぎ》用の泉水の真向いに、大勢の人たちが厠《かわや》にしゃがんで、用を足しているのが見えました。するとカイロの男はダマスの男に言いました、「どうだね、仲間よ、今仮りにあの列になってしゃがんでいる人たちに、何かふざけてやるという段になったら、あんただったらどうしますかね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十八夜になると[#「けれども第六百十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
相手は答えました、「そいつはもう決ってまさ。私はちかちかの箒《ほうき》を持ってあの人たちの後ろにまわり、掃いてるうちにうっかりしたふりをして、みんなの尻を突ついてやりまさ。」カイロの男は言いました、「そんなやり方は、仲間よ、あんまり垢抜けがせずしゃれ気がない。それにそんなふざけをするのはいかにも柄が悪い。私ならこうするね。」こう言って彼は、厠にしゃがんでいる人たちのところに、愛想よく愛嬌のある様子で近づいて、一人一人に次々に花束を差し出しては、「卒爾《そつじ》ながら、おお御主人様」と言うのでした。すると誰もが困惑と怒りのかぎり、答えました、「アッラーは貴様の家を潰して下さるように、おお牛太郎の息子め。ここはいったい宴会の席かい。」すると寺院の中庭に集まっていた人たちは全部、くだんの人々の憤った顔つきを見て、大笑いを致しました。
そこで、ダマスの男は自分自身の眼でこの様を見たとき、カイロの男のほうを向いて申したことでした、「アッラーにかけて、こいつはたしかに負けました、おお、おどけものの長老《シヤイクー》よ。ことわざに、針孔《めど》を抜けるエジプト人のように利発だと申しますが、いかにもそのとおりですわい。」
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは、その夜は、さらに言った。
女の策略
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、町々のうちの或る町に、身分高い一人の若い女がおりましたが、その夫は遠近の旅行に出てしきりに留守をするので、しまいには悶えの懇望にもはやさからいきれなくなって、そこで鎮痛の香油として、当時の青年の間に類《たぐい》のない一人の青年を選びました。そして二人はもうひと方ならぬ愛情で愛し合い、食べるために起き、寝るために食べ、交わるために寝て、お互いに全く楽しく全く安らかに満足させ合っておりました。そして二人は永い間このような有様で暮しました。
ところが或る日、その青年は、一人の白髯の老人《シヤイクー》に怪しからぬ誘いを受けました。これは芋屋の庖丁みたいに二道かけての不届者です。けれども青年は老人の言うことを聞こうとはせず、喧嘩をしはじめて、相手の顔を散々殴りつけ、その狼狽の髯を|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》りとってやりました。すると老人《シヤイクー》は町の奉行《ワーリー》に、ひどい目に遭ったことを訴えに行きますと、奉行《ワーリー》は青年を召し捕って牢屋に放り込ませました。
そうしているうちに、若い女は恋人の身に起ったことを聞いて、恋人が牢屋にいると知り、非常な悲しみを覚えました。そこで時を移さず友を救う計《はかりごと》を定め、まずいちばん美しい衣裳を着て飾り立て、奉行《ワーリー》のお屋敷に行き、謁見を願うと、審理の間《ま》に通されました。ところで、アッラーにかけて、この女はこうしてただしゃなりしゃなりと出てくるだけで、もうあらかじめ、縦横の世界のあらゆる勝訴を得ることができるようなところがありました。果たして、挨拶《サラーム》の後、女は奉行《ワーリー》に言いました、「おお御奉行《ワーリー》のお殿様、あなた様が牢屋にお入れになった某という青年は、わたくしの実の弟でございまして、一家の支えでございます。弟はあの老人《シヤイクー》の証人たちと老人《シヤイクー》自身から讒言されましたが、あれは不届きな、道楽者の老人《シヤイクー》です。それでわたくしはあなた様のお裁きによって、弟の釈放をお願いに参った次第でございますが、そうしていただかないことには、わたくしの家は潰れてしまい、わたくしは餓え死することでございましょう。」ところで奉行《ワーリー》はこの乙女を見るやいなや、その心は女のことで一杯になって、すっかり惚れこんでしまいました。そこで奉行《ワーリー》は女に言いました、「いかにも、その方の弟を釈放してもよい。しかしその前に、わが家の婦人部屋《ハーレム》にはいってもらいたい。後刻審理が終ったら拙者はそこに行って、その件についていろいろお話ししようほどに。」けれども女は奉行《ワーリー》が自分に望んでいることを察して、心中思いました、「アッラーにかけて、おお松脂《まつやに》の髯め、お前は杏子《あんず》の頃にならなけりゃ、わたしに触れることはできまいよ。」そして答えました、「おお御奉行《ワーリー》のお殿様、いっそあなた様が御自身わたくしの家にお越しになるほうが望ましゅうございます。ここではわたくしは他家《よそ》の女にすぎないので、家のほうがずっと落ち着いて、ゆっくりその件をお話し申す暇がございましょうから。」すると奉行《ワーリー》は悦びのかぎりで、訊ねました、「その方の家はどこにあるか。」女は言いました、「しかじかのところでございます。今夜日暮れ方に、お待ち申し上げております。」そして女は奉行《ワーリー》をば荒れ海に落ち込ませて、奉行《ワーリー》のところを出て、それから町の法官《カーデイ》に会いに行きました。
そこで私は法官《カーデイ》の家にはいりましたが、それは|年寄り《シヤイクー》の男でした。そしてこれに言いました、「おおわれらの御主人|法官《カーデイ》様。」相手は言いました、「何じゃ。」女は続けました、「どうぞわたくしの事情にお目をとめて下さいまし、さすればアッラーはあなた様に御満足なさるでございましょう。」相手は訊ねました、「誰があなたを迫害したのかな。」女は答えました、「或る不届きな老人《シヤイクー》が、贋の証人たちのお蔭で、わたくしの一家のただ一人の支えとなっている弟を、首尾よく牢屋に入れてしまったのでございます。そこでどうか御奉行《ワーリー》様にお取りなしくださって、弟を放していただきたく、お願いに参りました。」ところで法官《カーデイ》はこの乙女を見もし聞きもすると、もう夢中に惚れこんでしまいまして、これに言いました、「いかにも、悦んで弟さんの面倒を見て進ぜよう。だがまず家の婦人部屋《ハーレム》にはいって、わしの来るのを待っていてもらいたい。その上でこの件の話をしよう。万事お望みのようになるでしょう。」すると乙女は心中思いました、「ああ女衒《ぜげん》の息子め、お前は杏子の頃にわたしを手に入れるだろうよ。」そして答えました、「おおわれらの御主人様、わたくしの家でお待ち申し上げるほうがよろしゅうございます、誰にも邪魔をされませんから。」法官《カーデイ》は訊ねました、「お宅はどこかな。」女は言いました、「しかじかのところです。今夜、日が暮れたあとで、お待ちしております。」そして女は法官《カーデイ》のところを出て、それから王様の大臣《ワジール》に会いに行きました。
大臣《ワジール》の前に出ると、女は青年を自分の弟と言って、その入牢の件を話して、ぜひ釈放の命令を出していただきたいと願いました。すると大臣《ワジール》は言いました、「仔細ない。だがその前に、まず婦人部屋《ハーレム》にはいりなさい、あとから行ってその件の話をするから。」女は言いました、「御首《おんこうべ》の生命《いのち》にかけて、おおわれらの御主人様、わたくしは元来たいそう内気で、閣下の婦人部屋《ハーレム》になぞお伺いすることさえ致しかねます。けれどもわたくしの家のほうがこの種のお話には都合よろしく、今夜すぐに、日が暮れてから一時間の頃、お待ち申し上げております。」そして女は自分の家のある場所を教えて、大臣《ワジール》のところを出て、町の王様の御殿に出かけました。
さて女が玉座の間《ま》にはいると、王様はその美しさに驚嘆して、心に思いました、「アッラーにかけて、空腹《すきばら》に熱いところをいただくにはこたえられぬ御馳走じゃ。」そしてお訊ねになりました、「誰がその方を迫害したのか。」女は言いました、「いえ、わたくしは迫害されてはおりません、わが君の公正がございますからには。」王様は言いました、「ひとりアッラーのみが公正にまします。じゃが余はその方に何をしてやれるのか。」女は言います、「不当に牢に入れられているわたくしの弟を、釈放せよとの御命令を賜わりとうございます。」王様は言いました、「造作ないことじゃ。まずわが娘よ、後宮《ハーレム》に行って余を待つがよい。決して悪いようにはならぬ。」女は言いました、「それならば、おお王様、それよりかわたくしは自宅でわが君をお待ち申し上げましょう。王様も御承知のように、こうした事柄のためには、沐浴《ゆあみ》とか、清潔とか、そのほかそのたぐいのことに、たいへんな準備が必要でございます。そうしたすべては、わたくしは自分の家でなければよくできない次第で、わが家は私たちの王様の御足《おみあし》に踏まれますれば、永久に光栄と祝福を授けられることでございましょう。」王様は言いました、「しからばそのように致せ。」そして両人は落ち合う時刻と場所について話がまとまりました。そこで乙女は御殿を出て、それから指物師に会いに行きました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百二十夜になると[#「けれども第六百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そこで乙女は御殿を出て、それから指物師に会いに行って、これに言いました、「今夜、家に大きな箪笥を一つ届けていただきたいけれど、それは上下四段に仕切って、一段ごとに別々の扉がつき、それぞれ南京錠でしっかり閉まるようにして下さいな。」指物師は答えました、「アッラーにかけて、おお御主人様、今から夕方までじゃ、ちょっと無理ですが。」女は言いました、「お礼はいくらでもしますわ。」指物師は言いました、「それじゃ間に合せましょう。だが代金としては、金貨も銀貨もいただきません、おお御主人様、ただあなたの御存じのことで結構。まあ奥の間におはいり下さい、御一緒にお話ししましょう。」この指物師の言葉に、乙女は答えました、「おお祝福の指物師さん、あなたは何て気の利かない人でしょう。アッラーにかけて、このお店のみすぼらしい奥の間なんぞ、あなたの話したい種類のお話に、都合がいいでしょうか。いっそ今夜、箪笥を届けた上で、わたしの家にいらっしゃいな。朝までお話し相手をしてあげますよ。」すると指物師は答えました、「親しみをこめて心から悦んで、当然の敬意として。」すると乙女は続けて言いました、「結構だわ。だけどそれじゃ四段の箪笥じゃなく、五段のものを作っていただくことにしましょう。わたしの仕舞いたいもの全部を仕舞うには、五段のが入用だから。」そして自分の住所を教えてから、女は指物師と別れて、自分の家に戻りました。
家に帰ると、女は長持から、それぞれ色と形のちがう五枚の着物を取り出して、それを丁寧にならべ、料理と飲み物の用意をさせ、花をならべ、香を焚かせました。こうして招いた人たちの来るのを待っていました。
さて夕方近くになると、指物師の人足どもがくだんの箪笥を持ってきました。若い女はそれを集《つど》いの間《ま》に据えさせました。次に人足を帰して、箪笥の南京錠をためしてみようとすると、その暇もなく、誰か扉を叩きます。そしてやがて、最初のお客がはいってきましたが、それは町の奉行《ワーリー》です。女は敬意を表して立ち上がり、その両手の間の床《ゆか》に接吻して、まず坐らせ、茶菓を出しました。次に、女はそちらのほうに長さ六、七寸もの流し目を送り、燃えるような眼差を投げはじめたので、奉行《ワーリー》はたまらず、身を起して、いろいろな身振りをしぶるぶる顫えながら、すぐに女をわがものにしようとしました。けれども乙女はその手を抜け出て、言いました、「おお御主人様、あなたはほんとに野暮ですわ。まずはじめに着物をお脱ぎになって、身ごなしを自由になさいまし。」すると奉行《ワーリー》は言いました、「仔細ない。」そして自分の着物を脱ぎました。すると女は、普通に放蕩者の宴会でするように、地味な色合の着物の代りに、黄色い絹の変った恰好の衣服と、同じく黄色の帽子を差し出しました。すると奉行《ワーリー》はその黄色い衣服と黄色い帽子を着こんで、いよいよ楽しもうとしました。ところがその瞬間、誰か激しく扉を叩きます。奉行《ワーリー》はひどくがっかりして、聞きました、「誰か近所の女か御用聞きの女でも、来ることになっているのかな。」女は、怖気立って答えました、「いいえ、アッラーにかけて、けれどわたくし、忘れていたけれど、主人がちょうど今夜、旅先から帰ってくることになっていましたの。今、戸を叩いているのは、あの人自身です。」奉行《ワーリー》は聞きました、「じゃ、このわしはいったいどうなるのか。どうすればいいか。」女は言いました、「あなた様の救いの途はただひとつ、それはこの箪笥のなかにはいるのです。」そして女は箪笥の一段目の戸を開いて、奉行《ワーリー》に言いました、「このなかにおはいり下さい。」奉行《ワーリー》は、「はてどうやってはいるか。」女は、「なかにしゃがんでいらっしゃい。」そこで奉行《ワーリー》は、身を二つに折り曲げて、箪笥のなかにはいり、そこにしゃがみこみました。若い女はその戸に鍵をかけて、叩く人に扉を開けに行きました。
さて、それは法官《カーデイ》でした。で、女は奉行《ワーリー》を迎えたようにこれを迎えて、程よい時機に、これに変った形の赤い衣服と、同じ赤色の帽子を着けさせました。そして彼がいよいよ襲いかかろうとすると、女はこれに言いました、「いけません、アッラーにかけて、弟の釈放を命ずる一札を書いて下さらないうちはだめ。」そこで法官《カーデイ》はくだんの一札を書いてやって、それを渡すと、その瞬間に、扉を叩く音が聞えました。若い女は、怖気立った様子で叫びました、「主人が旅先から戻ってきたのですわ。」そして法官《カーデイ》を箪笥の二段目に這いあがらせて、自分は家の扉を叩く人に、戸を開けに行きました。
それはまさしく大臣《ワジール》でした。そしてこれにも前の二人に起ったことが起りました。大臣《ワジール》は緑の衣服と緑の帽子を着けて、箪笥の三段目に押し込まれると、そのときちょうど、こんどは町の王様が来ました。そして王様も同じ工合に、青い衣服と青い帽子を着けさせられて、いよいよしにきたことをしようとする瞬間に、門を叩く音が鳴り響き、若い女の怖れを前にして、王様も箪笥の四段目に這いあがらざるを得なかったのですが、何しろたいへん太っていらっしたので、ひどく窮屈な姿勢で中にしゃがみこんだのでした。
そのとき指物師がはいってきて、食いつくような眼をして、箪笥の代金として、いきなり若い女に襲いかかろうとしました。しかし、女はこれに言いました、「おお指物師さん、お前さんはどうして、あの箪笥の五段目をあんなに小さく作ったのですか。小さな長持の中身さえはいりかねるほどですよ。」指物師は言いました、「アッラーにかけて、この段は私を入れても、なおその外に、私よりも大きな男が四人はいれますよ。」女は言いました、「じゃためしに、はいってごらんなさい。」そこで指物師は、腰掛を積み重ねてよじのぼって、その五段目にはいりこみますと、すぐに鍵をかけて閉じこめられてしまいました。
すぐさま若い女は、法官《カーデイ》にもらった書付を持って、牢番に会いに行くと、牢番は文字の下に押した印章を検査したあとで、青年を釈放しました。そこで両人は大急ぎで家に戻り、再会を祝う悦びの裡に、盛んに音を立て息遣いも荒く、永い間したたか交合《まじわ》りました。箪笥のなかでは、閉じこめられた五人はそのすべてを聞きましたが、敢えて身動きもせず、また身動きできません。そして段のなかで互いに上にしゃがみながら、いったいいつになったら引き出されることができるのか、わからない有様でした。
さて若い男女はその嬉戯《たわむれ》を終りますと、二人で家中の貴重品を、集められるだけ集めて、それを箱に詰め、残りは全部売り払って、この町を去り、他の町と他の王国に行ってしまいました。二人はこのような次第でございます。
ところで、五人のほうはと申しますと、こうです。そこにはいったまま二日になると、五人ともどうにも小便がしたくてたまらなくなりました。それで最初にやったのは指物師です。こうして小便をすると、尿は王様の頭の上に落ちました。すると同時に、王様は家来の大臣《ワジール》の頭の上に小便をし、大臣《ワジール》は法官《カーデイ》の頭の上に、法官《カーデイ》は奉行《ワーリー》の頭の上に、小便をしてしまったのでした。そこで、王様と指物師を除いて、全部が声をあげて、「おお汚ない」と叫びました。すると法官《カーデイ》は大臣《ワジール》の声とわかり、大臣《ワジール》は法官《カーデイ》の声とわかりました。それで一同互いに言い合ったのでした、「われわれはみんな罠《わな》にかかった。王様がまぬがれなすったのは幸いだった。」ところがそのとき、それまで品位を重んじて黙っていた王様が、彼らに怒鳴りました、「一同黙れ。余はここにおるぞ。わが頭上に小便をしたのは何ものなるぞ。」すると指物師は叫びました、「アッラーは王様の御位《みくらい》を高めたまえ。どうもこれはてっきり私でございます。私は五段目におりますから。」次に付け加えました、「アッラーにかけて、こうしたすべての原因《もと》は私にございます。この箪笥は私が作ったものですから。」
とかくするうちに、若い女の夫が旅先から帰って参りました。そして若い女の出奔に気づかなかった近所の人たちが出てみると、夫が帰ってきていくら扉を叩いても応《いら》えがない様子です。夫は一同になぜ誰も内部《なか》から答えないのか訊ねましたが、それについては誰も明らかにできません。それでみんな待ちきれなくなって、一緒に戸を破って、家のなかにはいりました。ところが家は空っぽで、家具といえばただ例の箪笥がひとつあるきりです。しかもその箪笥の内部《なか》からは、人間の話し声が聞えます。それで一同、この箪笥には魔神《ジン》が住みついていることを疑いませんでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話した時、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百二十二夜になると[#「けれども第六百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで一同は、これはこの箪笥に火をつけて、なかにはいっているものもろとも焼いてしまおうと、大きな声で提案しました。そして、いよいよその案を実行しようとすると、法官《カーデイ》の声が箪笥の奥から聞えてきて、こう叫びました、「待ってくれ、おお皆の衆。われわれは魔神《ジン》でもなければ、泥棒でもない。これこれしかじかの人間だ。」そして言葉短かに、自分たち一同が引っかかった策略を一同に知らせました。そこでその夫をはじめ近所の人たちは、南京錠を壊して、五人の閉じこめられた男を出してやりましたが、見ると彼らはみな、若い女に着せられた妙な衣類を着けております。これを見ると、誰もこの出来事を笑わずにはいられませんでした。そして王様は、妻の出奔を慰めるため、その夫に言いました、「お前をわが第二の大臣《ワジール》に任じて遣わそう。」これがこの物語でございます。さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは、かく話してから、シャハリヤール王に言った、「けれども、おお王様、こうしたすべて眼がさめながら眠っている男の物語[#「眼がさめながら眠っている男の物語」はゴシック体]に、比べることができるとはお思い遊ばすな。」そしてシャハリヤール王は、自分の知らぬこの表題を聞いて、眉を寄せたので、シャハラザードはそれ以上時を移すことなく、言った。
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眼が覚めながら眠っている男の物語(1)
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、昔バグダードに、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代《みよ》のころ、アブール・ハサンと呼ばれる、独身の若い男がおりまして、たいへん奇妙な変った生活をしていました。事実、その隣人たちは、彼が引きつづいて二日、同じ人とつき合っているのを見たこともなければ、バグダードの住人を自宅に招くのを見たこともありませんでした。それというのは、彼のところに来る人は、全部異国の人たちばかりでしたから。そこでその界隈の人たちは、いったい彼が何をしているのやらさっぱりわからず、彼をば「放蕩者アブール・ハサン(2)」と綽名《あだな》をつけたのでありました。
毎夕きまって、彼はバグダードの橋のたもとに出張しにゆくならわしで、ここで異国の人が通りかかるのを待っていました。そしてその一人を見かけるが早いか、それが金持であろうが貧乏であろうが、若かろうが年とっていようが、彼はにこやかに溢れるばかり雅《みや》びやかに、そのほうに歩み寄って、挨拶《サラーム》と歓迎の辞《ことば》のあとで、バグダード滞在の第一夜として、自分の家の歓待を受けてくれるようにと招くのでした。そしてこれをば自宅に連れていって、できるかぎりのもてなしをしましたが、元来陽気で、愉快な性質の男のこととて、ひと晩じゅう客の相手をして、自分の気前のよさを十分にわからせるためには、何ものも惜しまないのでした。けれども翌日には、彼は客に言いました、「おお客人よ、この都ではあなたを知るはただアッラーだけというおりに、私があなたをわが家にお招きしたというのは、それには、私をそのように振舞わせる私なりの理由がいろいろあったものと、御承知下さい。けれども私は、同じ一人の異国の方とは、たといそれが人間の子の間でいちばん愛すべく、いちばん気持のよい人であろうと、けっして続いて二日とはおつき合いしないという誓いを立てたのです。そういうわけで、私は今からあなたとお別れしなければならぬ次第です。そればかりか、もしひょっとあなたがバグダードの街々で、私にお会いになるようなせつには、どうか私とは分らなかったようなふりをなすって、私にあなたから顔をそむけるような羽目に立ち到らせないでいただきたいものです。」そしてこう語っておいて、アブール・ハサンはその客を都のどこかの隊商宿《カーン》に案内し、必要としそうなあらゆる事情を教えてやってから、別れを告げて、もはや二度と会うことがないのでした。そしてもしその後、たまたま市場《スーク》のなかなどで、かつて彼が自宅に迎えた異国の人の一人に、出会うようなことがあると、彼は誰か分らないようなふりをしたり、あるいは、近づいて行くとか挨拶するとかせずにすむようにと、そっぽを向いてしまうことさえあるのでした。こうして彼は、ただの一夜も、自宅に新たな異国の人を連れてくるのを欠かさずに、このように振舞いつづけておりました。
さて一夕、日暮れ方、彼がいつものように、バグダードの橋のたもとに坐って、誰か異国の人の来るのを待っておりますと、モースルの商人風の身なりをして、背の高い堂々とした様子の奴隷を一人従えた、金持らしい一人の商人が、自分のほうに歩みよってくるのを見ました。ところで、それは教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシード御自身が、バグダードに起っていることを、御自身の眼で見たり調べたりなさるため、毎月そうなさる習慣に従って、身をやつしていらっしゃったのでございます。そしてアブール・ハサンはこれを見て、それがどなたであるか見抜くことなど叶わず、自分の坐っている場所から立ち上がって、そのほうに歩みより、この上なく鄭重な挨拶《サラーム》と歓迎の辞《ことば》のあとで、申しました、「おお、わが御主人よ、われわれの間への御到着に幸あれかし。今夜は、隊商宿《カーン》に行ってお休みになる代りに、何とぞ私のおもてなしをお受け下さいますように。そして明朝が、御随意に宿をお探しになるべき時でございましょう。」そして自分の申し出を承知する決心をさせるため、彼は言葉短かに、自分は久しい前から、橋の上を通りかかるのを見かけた最初の異国の方を、ただ一夜だけもてなしてさしあげる習慣になっている旨を話しました。次に付け加えて、「アッラーは寛大にまします、おお、わが御主人よ。拙宅に、あなたは手厚いもてなしと、熱いパンと、澄んだ葡萄酒を、御覧ぜられるでしょう。」
教王《カリフ》はアブール・ハサンの言葉をお聞きになると、この事件を大そう不思議に、またアブール・ハサンをたいそう奇人に思し召されて、この男を知ってみたいお望みを満足させるのに、一瞬も躊躇なさいませんでした。そこで、形ばかり、躾《しつけ》のよくない人間らしく見えないため、ちょっと一応辞退してから、申し出を承諾なすって、おっしゃいました、「わが頭上と目の上に、何とぞアッラーはあなたの上に御恵《みめぐ》みを益したまいまするように、おお、わが御主人よ。ではお後《あと》について参りましょう。」するとアブール・ハサンは、自分の客人に道を示し、たいそう愉快に一緒に談笑しながら、これを自宅に連れて行きました。
ところで、ハサンの母親は、その夕は、たいそう結構な料理を調えておきました。母親は一同にまず、バタで焼き、細かく刻んだ肉と松の種を詰めたパン菓子を出し、次に、四羽の肥えた雛鳥のまん中に据えた、よく油の乗った去勢※[#「奚+隹」、unicode96de]、次に、乾葡萄とピスタチオを詰めた鵞鳥一羽,最後に鳩のシチューを出しました。こうしたすべてはまことに、舌においしく、見た目に快いものでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百二十四夜になると[#「けれども第六百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ですから主客二人とも、皿の前に坐って、非常な食欲をもって食べました。そしてアブール・ハサンは、いちばんおいしいところを選んで、客人に差し上げました。次に、両人食べおわると、奴隷は水差しと盥《たらい》を差し出しました。二人が手を洗うと、その間にハサンの母親は料理の皿を下げて、乾葡萄、棗椰子、梨を盛った果物の皿を供え,それと一緒に、ジャム、砕いた巴旦杏の捏物をはじめ、あらゆる種類のおいしいものを満たした壺をのせた、他の何枚もの皿を出しました。かくて両人満腹するまで食べ、それから酒を飲みだすことにしました。
そこでアブール・ハサンは、饗宴用の杯に葡萄酒を満たし、それをば手に持ちながら、客人のほうをむいて、言いました、「おお、お客様、|雄※[#「奚+隹」、unicode96de]《おんどり》はまず小さな呼び声をあげて、|雌※[#「奚+隹」、unicode96de]《めんどり》たちを呼び、一緒に飲みに来いと誘った上でなければ、決して飲まないことは、御承知のとおりです。ところで私も、もしもたった一人きりで飲むために、この杯をわが唇に運ばなければならないとすれば、酒はわが喉元につっかえて、私はきっと死んでしまうことでしょう。ですから、今夜のところは、節制などは気むずかしい性分の人たちにまかせなすって、私と一緒に杯の底に悦びを求めて下さるよう、お願い申します。それというのは、私は本当のところ、おお、お客様よ、あなたのように立派なお方を、わが家にお迎えして、わが幸いはもうぎりぎりの極に達しておりますから。」すると教王《カリフ》は、主人の意に逆らうことを望まれず、それに彼にしゃべらせたいと思っていらっしゃったので、杯を拒みなさらず、一緒に飲みはじめなさいました。そしていよいよ酒が両人の魂を軽くしはじめると、教王《カリフ》はアブール・ハサンにおっしゃいました、「おお、わが御主人よ、われらの間にパンと塩とがあった(3)今となっては、御存じない異国の人々に対して、あなたがこのような振舞いをなさる、その理由を聞かせて下さり、さだめし驚くべきものであるにちがいないお身の上を、お話しあって、承わらせていただきたいものですが。」するとアブール・ハサンは答えました、「おお、お客様よ、私の身の上はすこしも驚くべきものではなく、ただ教訓となるだけのものと御承知下さい。私はアブール・ハサンと申し、商人の子で、父が亡くなると、われわれの都バグダードで、全く裕福に暮せるだけのものを、残してくれました。ところが私は、父の存命中非常にやかましく監督されておりましたので、空しく過した青春の時間を、僅かの間に取り戻そうと、自分の自由になることは何でもしようといそぎました。しかし私は、生れつき思慮に富んでおりましたので、用心深く、もらった遺産を二つに分け、一部分を現金に変え、一部分を資金としてとっておくことにしました。そして最初の部分でもって現金にした金を携えて、同じ年配の若者たちと付き合いをし、手のひらを開いて、これを使いはじめ、彼らを王侯《アミール》の鷹揚と気前よさを以って、自分の楽しみのため御馳走し、養ってやっていました。私はわれわれの生活を歓びと楽しみに満ちたものにするためには、何ものも惜しみませんでした。ところで、このように振舞っていると、私は一年たつと、もはや金箱の底に、ただの一ディナールも残っていないのを見て、そこで友人たちのほうに向いてみましたが、彼らは姿を消してしまっていました。それで彼らを探し求めに行って、こんどは私のほうから、自分の陥っている苦しい立場に際し、援助をしてくれるように頼みました。けれども全部の者が次々に、私を助けるわけにゆかない口実を設けて、彼らのうち誰ひとり、ただの一日なりと、生きてゆくだけのものを私にくれようとはしませんでした。そこで私はみずから省みて、亡き父が私をきびしく育てたのはどんなにもっともなことか、よくわかりました。そして自宅に戻り、今後はどうしたらよいか思案しはじめました。それ以来ずっと弱気を起さずに守りつづけた決心を固めたのは、その時のことです。事実、私はアッラーの御前で、もう自分の国の連中とは交際をせず、わが家では異国の人しか歓待しまいと、誓ったのでした。けれどもその上、経験によって、短く熱い友情は、長くて終りの悪い友情よりも、はるかに好ましいことを、教わりましたので、わが家に招いた異国の人が、たとい人間の子らの間で最も好ましく、最も気持のよい人であろうと、二日つづけて同じ人と交際することはけっしてしないとも、誓いを立てました。それというのは、愛着の絆《きずな》はどんなにむごいものか、そして友情の悦びを満喫するのにどんなに妨げになるものかを、私は痛感したからです。こういう次第ですから、おお、お客様よ、友情が最も心を惹く姿でわれわれの前に現われている今夜のあと、明朝になって、私があなたにお別れを告げることを強いられるとしても、どうかお驚きにならないで下さい。また、今後たとえバグダードの街々で私にふと出会いなさる折があろうと、私はもう知らぬ顔をしていても、どうぞ悪しからずお思い下さい。」
教王《カリフ》はこのアブール・ハサンの言葉を聞きなさると、これにおっしゃいました、「アッラーにかけて、あなたの振舞いはまことに立派な振舞いじゃ、私は生れてから、およそ放蕩者があなたほどの知恵分別を以って振舞うのは、かつて見たことがない。さればあなたに対する私の感歎の念は、ぎりぎりの極に達しました。つまりあなたは、遺産の第二の部分から取っておいた資金でもって、毎夜、新しい人と付き合うことができるだけの、賢明な生活を送ることができなさったのであり、新しい人となら、いつも御自分の楽しみと談笑とを千変万化させることができ、相手に倦くことも不快を感ずることも、なくてすみなさるというわけですな。」次に言い添えなさいました、「けれども、おお、わが御主人よ、われわれの明日のお別れについておおせられたことは、私に無上の心痛を覚えさせます。それというのは、私としては、私の上への御恩恵と今夜の御歓待とを、どこかでお礼申し上げたいものと存じます。それではどうか今直ちに、何か御所望を言い出していただきたく、私はそれを必ず叶えることを、聖なるカアバにかけて誓います。されば全く腹蔵なくおおせあれ、そして大きな望みを持ち出すことを恐れなさるな。なぜなら、アッラーの御恵《みめぐ》みは商人たる私の上に数しげく、どのようなことでも私には、アッラーのお助けを得て、実現がかたくはないでしょうから。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百二十五夜になると[#「けれども第六百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
商人に身をやつしなされた教王《カリフ》のこのお言葉を承わると、アブール・ハサンは自若として、いささかの驚きの色をも示さず、答えました、「アッラーにかけて、おお、お客様よ、私の眼はお姿を拝見して既に十分楽しんでおりますから、あなたの御親切はおまけと言うもの。されば、私に対するお志にはお礼を申し上げますが、しかし私は満たしたい望みも、叶えたい大望も、ひとつもございませんので、お申し入れにお答えするには、はたと当惑する次第です。なぜなら、私は自分の運命で足り、誰も要《い》らず、今生きているままに生きることよりほかに、もはや何ごとも願いませんから。」けれども教王《カリフ》は言葉を継ぎなすって、「御身《おんみ》の上なるアッラーにかけて、おお、わが御主人よ、私の申し出をお退《しりぞ》けなく、あなたの魂に所望を言い出させて、私にそれを叶えさせていただきたい。さもないと私は、心たいそう悩みたいそう面目を失って、ここを出ることになりましょう。それというのは、蒙った恩恵は悪行よりも重荷であり、生れのよい人はいつも善を倍にして報いなければなりません。ですから、どうかおっしゃって、私を困らせることを恐れないで下さい。」
するとアブール・ハサンは、どうも言わないわけにはゆかないのを見て、頭を垂れ、持ち出さざるを得ない羽目になった所望のことを、深く思案しはじめました。次に突然、再び頭を上げて、叫びました、「さよう、見つかりました。しかしこんなことは、全く気違いの望みにちがいありません。それで、私についてそんな悪い御印象を残して、お別れするには忍びませんから、こんなことは申し上げないほうがよかろうと存じます。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「わが頭《こうべ》の命《いのち》にかけて、いったい誰があらかじめ、一つの考えが気違いじみているか、分別があるかなど、言うことができましょう。この私は、実際のところ、一介の商人にすぎませんけれども、それでも、私の商売柄できそうに思えるところよりも、はるかに多くできる身です。ですから、いそいでおっしゃって下さい。」アブール・ハサンは答えました、「それでは申しますが、おお、わが御主人よ、しかし私はわれらの預言者(その上に平安と祈りあれ)の御功績にかけて誓います、私の望むところを叶えさせることのできるのは、教王《カリフ》のほかにはいらっしゃいません。あるいは、ともかくもこの私が、ただの一日なりと、われらの主君信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードに代って、教王《カリフ》にならなければなりますまい。」教王《カリフ》はお尋ねになりました、「それはそうとして、やあ、アブール・ハサンさん、あなたはただの一日だけ教王《カリフ》になったら、いったいどんなことをなさるのですか。」彼は答えました、「こういうことです。」そしてアブール・ハサンはちょっと言葉を切って、次に言いました。
「されば、おお、わが御主人よ、このバグダードの都は多くの区に分かれていて、各区は、区長《シヤイクー・アル・バラート》と呼ばれる一人の首長《シヤイクー》をいただいております。ところで、今私の住んでいるこの区は、不幸にして、その区長《シヤイクー・アル・バラート》というのが全くもって醜く、ぞっとするような男で、疑いなく、こいつははいえな[#「はいえな」に傍点]の牝と牡豚が番《つが》って出来た子にちがいありません。こやつが近づいてくることは、疫病みたいなもの。というのは、やつの口は普通の口ではなくて、便所の穴にもくらべられる不潔な尻ですから。その眼は魚の色をして、両側にはみ出し、今にも足許に落っこちそう。その腫れ上がった唇は、悪性の傷口みたいで、しゃべるときには、唾《つばき》の噴水を飛ばす。耳は豚の耳。たるんでだらりと下がった頬っぺたは、年寄り猿の尻同然。顎は汚穢《おわい》ばかり噛んでいたため、歯がなくなってしまった。身にはあらゆる病《やまい》がたかっている。やつの尻の穴ときては、もう無くなっています。驢馬曳きだの、汚穢屋だの、掃除夫だのの道具を入れる穴にさんざ役立ったため、腐ってしまい、今じゃ毛糸の詰め物をして、やっと腸《はらわた》の落っこちるのを防いでいる始末です。
ところで、まさにこの汚らわしい悪党が、今すぐお話ししますが、ほかの二人の悪党に手伝われて、この区全体に、勝手にいざこざを蒔き散らしているのです。事実、こやつの犯さない卑しい行ないはなく、こやつのばらまかない中傷はなく、そしてこやつは糞尿の魂を持っているので、やつの糞婆《くそばばあ》のような意地悪が及ぶのは、おもに正直な、穏やかな、清潔な人たちに対してです。けれども、やつの疫病で全区を毒するには、どこにもここにも行くわけにはゆかないので、こいつは自分と同じくらい不届きな助手を、二人使っております。
その不届者の第一の男は、宦官のように毛のない顔をし、黄色い眼で、驢馬の尻から出る音と同じくらい不愉快な声をした、奴隷です。そしてこの売女と犬の息子の奴隷は、身分高いアラビア人だと触れまわっているけれど、実はこの上なく卑しく、この上なく低い素性のルーム人(4)にすぎません。やつの商売は、王国の大臣《ワジール》や代官《ナワーブ》のところの、料理人、召使、宦官どもの相手をしに行って、その主人たちの秘密を嗅ぎ出し、それを親分の区長《シヤイクー・アル・バラート》に報告し、居酒屋や悪所じゅうに言い触らすことです。どんな仕事だって嫌がらず、尻をなめてそこに一ディナール金貨が見つかると言えば、尻でもなめます。
第二の不届者というのは、こいつは目玉の大きい大男の、道化者みたいなやつで、方々の市場《スーク》で冗談地口を言って暮しており、市場《スーク》では、赤味がかった黄色の禿げ頭と、口をきくごとに、まるで腸を吐き出しそうな気がするほど、ひどい吃りで知られています。それに商人は誰一人、やつを自分の店に坐りに来いとは誘いません。何しろやつはひどく重く、図体《ずうたい》が大きいから、やつが椅子に坐れば、椅子はすぐその重みで木葉微塵《こつぱみじん》になる始末ですから。ところで、こいつのほうは前のやつほど極道者ではないが、しかしずっと馬鹿野郎です。
そこで、おお、わが御主人よ、もし私がたった一日だけ信徒の長《おさ》になったとしたら、私は自分を富ませたり、親戚を富ませたりなどしようとはせず、さっそくわれわれの区から、この三匹の悪漢を追っ払うようにして、やつらをそれぞれ破廉恥の度に応じて罰した上で、汚穢穴に掃き入れてやるでしょう。こうして私はわれわれの区の住民に、平穏を返してやります。これが私の望む全部です。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百二十七夜になると[#「けれども第六百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
教王《カリフ》はこのアブール・ハサンの言葉をお聞きになると、これにおっしゃいました、「まことに、やあ、アブール・ハサンさん、あなたのお望みは、正しい道にある人と、すぐれた心である心との望みです。なぜなら、罰を受けないことが悪人に付き物であることを我慢ならぬのは、正しい人々とすぐれた心に限りますからね。けれどもあなたのお望みは、あなたが私に思わせなすったほど叶えがたいものとは、思いなさるな。なぜなら、もし信徒の長《おさ》がそれをお聞きになったら、何せ変った事件ほどお好きなものはないお方ですから、さっそく、一日一夜の間、大権をあなたの手中にお渡しなさることと、私は固く信じます。」けれどもアブール・ハサンは笑い出して、答えました、「アッラーにかけて、私たちがここで話していることは全部、ただの冗談にすぎないことが、今となって私によくわかりました。私は私で、もし教王《カリフ》が私の常軌を逸した願いをお聞きになったら、私を気違い病院に監禁させてしまいなさることと、信じますね。ですから、もしひょっとして、あなたのお付き合いの関係で、どなたか宮殿のお偉方の前にお出になるようなことがあったら、今私たちが酒の勢いで言ったことを、けしてお洩らし下さらないように、お願い申します。」すると教王《カリフ》は主人の意に逆らうまいとして、これにおっしゃいました、「このことは誰にも洩らさないと誓います。」けれども、教王《カリフ》は心中ひそかに、あらゆる姿に身をやつして御自分の都を歩き廻られてこの方、ついぞなすったことのないこのようなお慰みの機会をば、必ずやりすごすまいと決心なすったのでした。そこでアブール・ハサンにおっしゃいました、「おお、おもてなしの主《あるじ》よ、今度は私のほうから、お酌をしてさしあげなければなりません、今まであなたばかりが、私に注ぐ労をとって下さっていたから。」そして瓶と盃をおとりになり、盃に葡萄酒をお注ぎになりましたが、そこに巧みにクレータ産の生粋《きつすい》の麻酔剤《バンジ》をそっとお入れになり、その盃をアブール・ハサンに差し出しながら、おっしゃいました、「どうぞこれが御身《おんみ》によろしく、おいしくありますように。」するとアブール・ハサンは答えました、「お客様の手がわれわれに差し出しなさる飲み物を、おことわりすることなどできましょうか。けれども御身の上なるアッラーにかけて、おお、わが御主人よ、私は明朝起きて、あなたをわが家の外までお送りいたしかねるでしょうから、どうか家をお出になる際には、後ろの戸をよく閉めることをお忘れなきよう、お願い申します。」教王《カリフ》はこれをも約束なさいました。アブール・ハサンは、この点についても安心して、盃を受け、ひと息で飲み干しました。けれども麻酔剤《バンジ》はすぐに利き目を現わし、アブール・ハサンは、教王《カリフ》が笑い出されたほど早く、頭を足の前にのめらせて、床《ゆか》に転がってしまいました。そのあと、教王《カリフ》は御命令を待っていた奴隷を呼んで、お言いつけになりました、「この男を汝の背に負って、余に従え。」奴隷は仰せに従って、アブール・ハサンを背に負って、教王《カリフ》に従うと、こうお命じになりました、「この家の所在をよく覚えておいて、わが命令あらば、ここに戻ってこられるようにいたせ。」そして主従は街に出ましたが、しかしよく注意されたにかかわらず、戸を閉めるのを忘れてしまいました。
王宮に着くと、主従は秘密の門からはいって、御寝所のある特別の御殿に行きました。そして教王《カリフ》はその奴隷におっしゃいました、「この男の衣服を取って、余の寝衣《ねまき》を着せ、余自身の床《とこ》に寝かせよ。」奴隷が御命令どおりにしますと、教王《カリフ》はこれに王宮の高位高官全部と、大臣《ワジール》、侍従、宦官、それに後宮《ハーレム》の婦人全部を、呼びにやりなされました。そして一同全部が御手の間にまかり出ますと、一同に仰せられました、「汝ら一同は、明朝全部この室に控えていて、今ここにわが床上に横たわり、わが寝衣を着ているこの男の命令に、各自まめまめしく仕えなければならぬぞよ。この男に対し、余自身へと同じ敬意を払い、何ごとにあれ、この男に対しては、あたかもこの男が余自身であるとそっくりに振舞うことを、怠るなかれ。そしてこの男の問いに答える際には、信徒の長《おさ》という称号を呈せよ。そして一同この男の望みは一つとして逆らわぬよう、十分心せよ。何となれば、もし汝らのうち一人なりと、よしんば余自身の子なりとも、ただ今申し聞かせた意向を、敢えて無視するがごときことあらば、その者は即刻即座に、王宮の大門にて絞首に処せられるであろうぞ。」
この教王《カリフ》のお言葉に、並みいるすべての人々はお答え申しました、「お言葉承わるは、お言葉に従い奉ることでござりまする。」そして宰相《ワジール》の合図に従って、一同黙々と退出しましたが、教王《カリフ》はこうしたお指図をお下しになって、並々ならぬお慰みをなさろうとの御意向と、すぐに察したのでございます。
一同立ち去りますと、アル・ラシードは、お部屋に残っていたジャアファルのほうと、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールのほうをお向きになって、両人におっしゃいました、「両人とも余の言葉を聞いたであろう。では、明日はその方たちがまっ先に起きて、この部屋にまいり、これなる余の身代りの、指図のままに動かねばならぬぞよ。そしてこの男の言うことは何なりと、怪しんではならず、あくまでこの男を余自身と思いちがえているふりをいたせ、この男がその方たちの装った迷妄を醒まそうとて、何と申そうと耳をかすことなく。そしてよしんば王国の全財宝を使いつくそうと、この男の名指すあらゆる人々に惜しみなく施しをせよ。この男がなせと命ずるところに従ってそのまま、賞し、罰し、絞首にし、殺し、任命し、罷免せよ。そのためには、その方たちいちいちあらかじめ余に相談に来るに及ばぬ。それに余自身も、近くに身を潜めていて、起るところすべてを見聞するであろう。わけても、この男が自分の身に起る一切は、余の命令によって仕組まれた慰みごとにすぎぬなどとは、一瞬も気《け》どり得ぬよう、抜かりなくいたせよ。以上である。さらばかくあれかし。」次に言い添えなさいました、「さりながら、その方たち目覚めた折には、朝の礼拝の時刻に、来たって余をもわが眠りより引き出すことを忘るるなかれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百二十九夜になると[#「けれども第六百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、翌朝、定刻になりますと、ジャアファルとマスルールは教王《カリフ》をお起し申しに来ることを忘れず、教王《カリフ》はすぐに走って、アブール・ハサンの眠っている部屋そのものの、垂幕の蔭にお身を忍ばせなさいました。そこからは、アブール・ハサンからも、またそこにいる人々からも見つかるおそれなく、これから起ること全部を聞いたり見たりすることが、おできになるのでございました。
するとジャアファルとマスルールをはじめ、全部の高位高官の人々と、貴婦人たちと奴隷たちがはいってきて、それぞれ位階に従って、定めの席に就きました。そして信徒の長《おさ》のお目ざめの場合と全くそっくりに、厳粛と静粛が部屋じゅうに漲りました。こうして一同整然と並びますと、かねて指令されていた奴隷が、ずっと眠りつづけているアブール・ハサンに近づいて、その鼻の下に、酢に浸した綿球《めんきゆう》を置きました。するとすぐにアブール・ハサンは、一度、二度、三度とくしゃみをして、麻酔剤《バンジ》の利き目のためにできた長い筋を何本も、鼻からとび出させました。奴隷はこの鼻汁を黄金の盆に受けて、寝床や絨氈の上に落ちないようにしました。次にアブール・ハサンの鼻と顔を拭いて、薔薇水をふりかけました。するとアブール・ハサンは遂に半睡状態から出て、目ざめながら、両眼を開きました。
すると彼はまず、自分が壮麗な寝床にいて、その夜具は、真珠と宝石をちりばめた、純金の錦襴で蔽われているのを見ました。眼をあげて見ると、自分は繻子張りの壁と天井の大広間におり、扉には絹の帳《とばり》が下がっていて、隅々には黄金と水晶の器《うつわ》が置いてあります。自分のまわりに眼を投じてみると、すばらしい美貌の若い女と若い奴隷たちが、頭を下げて自分を取り囲んでおります。そしてその後ろには、大臣《ワジール》、貴族《アミール》、侍従、黒人奴隷、それに楽器を奏する女たちが、調べのよい絃《いと》を奏でて、壇上に輪形に並んだ歌姫たちの伴奏をしようと待ち構えて、ずらりと居ならんでいるのを認めました。そして自分のすぐかたわらには、床几の上に信徒の長《おさ》のお召物と外套とターバンがあるのが、その色から見てわかりました。
アブール・ハサンはこうしたすべてを見ると、眼を閉じて再び眠ろうとしました。それほど、自分は夢の影響の下にあるものとばかり信じたのでした。けれどもその瞬間に、大|宰相《ワジール》ジャアファルが彼に近づいて、三たび床《ゆか》に接吻してから、うやうやしい口調で、彼に申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、君の奴隷に御目《おんめ》を覚し奉ることをお許し下さりませ、朝の礼拝の時刻にござりますれば。」
このジャアファルの言葉に、アブール・ハサンはいくたびも眼をこすり、次に悲鳴をあげるほどひどくわが腕をつねって、独りごとを言いました、「いや、アッラーにかけて、おれは夢を見ているのじゃない。今はおれは教王《カリフ》になったぞ。」けれどもまだ躊躇して、声高く言いました、「アッラーにかけて、こうしたすべては、昨日モースルの商人と飲んだ飲み物すべてのため、おれの分別が乱れたせいだし、それにまた、あの商人と馬鹿げた話をしたためだぞ。」そして壁のほうに向き直って、再び眠ろうとしました。彼がもう身動きしないでいると、ジャアファルはまたも近づいてきて、彼に申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、君の奴隷に、わが殿が礼拝のためお起き遊ばさるる御習慣に反せらるるを拝し、怪しみ奉ることをお許し下さりませ。」そしてその瞬間、ジャアファルの合図の下に、女楽師たちは竪琴《ハープ》と琵琶《ウーデイ》と六絃琴《ジーターラ》の合奏を響かせ、歌姫たちの声は調べも妙《たえ》に鳴り渡りました。するとアブール・ハサンは歌姫たちのほうに向き直りながら、声高く独りごとを言いました、「いったいいつから、やあ、アブール・ハサンよ、眠っている者どもが、今お前の聞いているものを聞き、今お前の見ているものを見るだろうか。」そして彼は仰天と恍惚の極に達して、寝床の上に起きあがりましたが、やはりこうしたすべての現《うつつ》なことを疑っています。それで自分の見聞きするところをもっとよく見極め、自分に証明するために、眼の前に両手をかざして、こう独りごとを言うのでした、「ワッラーヒ(5)、奇妙じゃないか。呆れるじゃないか。いったいお前はどこにいるのか、アブール・ハサン、おお、お前の母親の息子よ。お前は夢を見ているのか、それとも夢を見ているのじゃないのか。この宮殿、この寝床、この高位高官たち、宦官たち、美しい女たち、女楽手たち、うっとりするような歌姫たち、このすべてとあのすべて、いったいこれらはいつからはじまったのか。」けれどもこのとき、合奏はやみ、そして御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールが寝床に近づいて、そのつど別々に三度繰り返して床《ゆか》に接吻し、起きあがりながら、アブール・ハサンに申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、君の奴隷の末席の者に、言上することをお許し下さいませ。礼拝の時刻はすでに過ぎ、今は国務のため、政務所《デイワーン》に御出御《ごしゆつぎよ》遊ばさるる時でござりまする。」アブール・ハサンはますます仰天し、思い惑って今はどう思い定めてよいやらわからず、最後にマスルールの顔をまともににらみつけ、怒りをこめてこれに言いました、「誰だ、お前は。そして誰だ、このおれは。」マスルールはうやうやしい口調で、答えました、「君はわれらの御主君信徒の長《おさ》、バニー・アッバースの第五代、預言者(その上に祈りと平安あれ)の叔父君の後裔、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードにおわしまする。して、かく申す奴隷は、憐れなる、卑しむべく、数ならぬ微臣マスルール、われらの殿の御意《みこころ》の御太刀《おんたち》を捧持し奉るやんごとなき大役によって、誉れを授けらるる者にござりまする。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百三十夜になると[#「けれども第六百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
このマスルールの言葉を聞いて、アブール・ハサンはどなりつけました、「嘘をつけ、千人の寝取られ男の息子め。」けれどもマスルールは少しも騒がず、答えました、「おおわが殿、たしかに、私ならぬ余人でございましたら、教王《カリフ》がそのようなことを仰せになるのを承われば、苦痛のあまり死なんばかりでもございましょう。けれどもこの私は、君の昔からの奴隷で、君にお仕え申すこと年久しく、君の御恵《みめぐ》みと御慈《おんいつくし》みの蔭に永らえておりますれば、預言者の御名代《ごみようだい》は、ただ私の忠節をお試み遊ばすがために、そのようなことを仰せなさるだけということを、承知いたしておりまする。されば後生でございます、おお御主君様、もはやこれ以上長く私めをお試みなされませぬよう、伏してお願い申し上げまする。あるいはまた、もし昨夜悪夢のためお眠りが悩まされたのならば、悪夢を追い払って、おののく君の奴隷を安んじさせたまいませ。」
このマスルールの弁舌に、アブール・ハサンはもうこれ以上自分を抑えかねて、どっとけたたましい笑い声をあげ、寝床の上に引っくりかえって、夜具にくるまり、両脚を頭の上に投げあげながら、くるくる廻りはじめました。そして垂幕の蔭では、こうしたすべてを見聞きなさっていたハールーン・アル・ラシードは、御身を揺する笑いをこらえなさるため、両頬をふくらましておいででした。
アブール・ハサンはひと時の間、こういう姿勢で笑い転げると、遂には少しく気が静まって、床の上に起きあがり、黒人の奴隷に近づくように合図をして、これに言いました、「お前、言ってみろ、お前はおれがわかるか、おれが誰だか言えるか。」黒人少年は、うやうやしくつつましく眼を伏せて、答えました、「君はわれらの主君信徒の長《おさ》、預言者(その祝福されんことを)の後継者《カリフ》にして、天地の君主の地上における御名代、ハールーン・アル・ラシードにましまする。」けれどもアブール・ハサンはどなりつけました、「嘘をつけ、おお松脂《まつやに》の面《つら》、おお千人の女衒《ぜげん》の小倅め。」
そこで今度は、居合わせた若い女奴隷の一人のほうに向いて、近寄るように合図をしながら、一本の指を差し出して、これに言いました、「この指を噛んでくれ。おれが眠っているか、目をさましているか、よくわかるだろうからな。」その乙女は、教王《カリフ》がここに起っていることを全部見聞きしていらっしゃることを知っているので、心の中で言いました、「これこそ私にとっては、信徒の長《おさ》をお慰め申すため私にどんなことができるか、お目にかける絶好の機会というもの。」そこで力いっぱい歯を喰いしばって、その指を骨まで噛みつきました。するとアブール・ハサンは悲鳴をあげて、叫びました、「痛い。ははあ、これでおれは眠っていないことがよくわかった。こいつはたしかに、おれは眠ってはいないぞ。」そしてその同じ娘に尋ねました、「お前は言えるかな、おれがわかるかどうか。おれは本当に皆の言っているような人間かどうか。」すると女奴隷は、両腕を延ばしながら、答えました、「教王《カリフ》の上とそのまわりに、アッラーの御名《みな》のあれかし。君は、おおわが殿、信徒の長《おさ》、アッラーの御名代ハールーン・アル・ラシードにあらせられまする。」
この言葉に、アブール・ハサンは叫びました、「お前は今や一夜のうちに、アッラーの御名代になったぞ、おおアブール・ハサン、おお、お前の母親の息子よ。」次に思い直して考えを変え、娘をどなりつけました、「嘘をつけ、おお小娘。このおれは、自分が誰だかよく知らぬと言うのか。」
けれどもこのとき、宦官長が寝床に近づいて三たび床《ゆか》に接吻してから、起きあがり、二つに身をかがめて、アブール・ハサンに向って申しました、「われらの御主君のお許したまわんことを。さりながら、今は御主君におかれましては、厠《かわや》に御用を足しにお出で遊ばさるる常の時刻にござりまする。」そして彼の腋の下に自分の腕をさし入れて、寝床を出るのを手伝いました。そして彼が両足の上に立つや、すぐに広間と御殿は、そこにいる一同が御挨拶申し上げる叫び声で、鳴り響きました、「アッラーは教王《カリフ》を勝利者たらしめたまえかし。」そこでアブール・ハサンは考えました、「アッラーにかけて、実に不思議なことではないか。昨日はおれはアブール・ハサンだった。それが今日はおれはハールーン・アル・ラシードだ。」次に独りごとを言いました、「今は小便に行く時刻だというのなら、小便に行くとしよう。だが、はて、もう一方の用も足す時刻なのかどうか、その辺がよくわからんぞ。」けれども彼はこうした物思いから、宦官長によって引き出されました。宦官長は、金と真珠の刺繍を施した、突っ掛けの履物を一足差し出しましたが、これは踵の高い、特に厠で履くためのものでした。けれどもアブール・ハサンは、こんなものは生れてから見たことがなかったので、履物を受け取ると、何か自分に贈られた貴重な品かと思って、これを着物の長い袖の片方のなかにしまいこんでしまいました。
これを見ると、今まで何とかうまく笑いをこらえていた並みいる一同は、もうこれ以上哄笑を抑えることができなくなりました。それで、ある者は顔をそむけ、一方他の者は、教王《カリフ》の威厳の前に床に接吻するようなふりをしながら、笑いこけて、絨氈の上に転げる有様でした。垂幕の蔭では、教王《カリフ》はたいへんな忍び笑いに襲われなすって、疲れきって、床の上に倒れなすったほどでございました。
この間に、宦官長はアブール・ハサンを肩の下から支えながら、厠に案内しましたが、宮殿のほかのお部屋はすべて豪奢な絨氈で蔽われているのに、ここだけは白大理石を敷きつめてあります。それがすむと、宦官長は彼を、ずらりと二列に並ぶ高官と婦人たちのまん中を、もとの御寝所に連れ戻しました。すぐに他の奴隷たちが進み出て、これはお着付け専門の係であったので、彼の寝衣類を脱がせて、洗浄《みそぎ》のための、薔薇水を満たした金の盥を差し出しました。そして彼がたいそう気持よく、香り高い水を鼻を鳴らして吸いながら、顔を洗い終えると、奴隷たちは王衣を着せ、王冠をかぶらせ、その手に黄金の王笏を渡しました。
これを見ると、アブール・ハサンは考えました、「さて、いったいおれはアブール・ハサンであるのか、ないのか。」そしてちょっと考えこんでいましたが、やがて断乎とした口調で、満座に聞えるように、声高く叫びました、「おれはアブール・ハサンではないぞ。おれがアブール・ハサンだなどと言う者は、串刺しにしてしまえ。われこそはハールーン・アル・ラシードその人なるぞ。」
この言葉を宣言してから、アブール・ハサンは、まるで自分が玉座の上に生れたみたいに、自信のある命令の口調で、命じました、「進め。」するとすぐに行列が作られました。アブール・ハサンは殿《しんがり》に立って、行列の後からついてゆくと、玉座の間《ま》に案内されました。マスルールは彼を助けて玉座に上らせ、彼は並みいる一同の歓呼のうちに、玉座に就きました。そして膝の上に王笏を置いて、自分の周囲を見渡しました。すると、四十の扉のついた大広間に、一同整然と並んでいるのが見え、またきらめく剣を持った衛兵や、大臣《ワジール》たちや、貴族《アミール》たちや、将帥たちや、帝国のあらゆる人民の代表者たちや、その他の人々が、数知れぬ群を成しているのが見えました。そしてひっそりとした一同のなかには、彼のよく知っている顔も見分けられました、宰相《ワジール》ジャアファル、アブー・ヌワース、アル・イジリー、アル・ラカーシー、イブダーン、アル・ファラザドク、アル・ラウズ、アル・サカール、ウマル・アル・タルティス、アブー・イスハーク、アル・カーリア、それにジャディームなど。
さて彼がこうして一人一人の顔をじろじろ見まわしている間に、ジャアファルは、いずれも豪華な衣服を着用した重立った高官を従えて、進み出ました。そして玉座の前まで来ると、一同床に顔をすりつけて平伏し、彼が立ち上がるように命ずるまで、そのままの姿勢でいました。立ち上がると、ジャアファルは自分の外套の下から大きな包みを取り出して、それを拡げ、中から書類の束を取り出して、次々に読みはじめましたが、それらは恒例の請願書でした。アブール・ハサンは、このような要件を聞くことなど未だかつてできなかったにもかかわらず、一瞬もまごつきませんでした。提出された要件ひとつひとつに、いかにも如才なく、公正に意向を述べたので、玉座の間《ま》の垂幕の蔭にお出でになって、身を潜めていらっした教王《カリフ》も、すっかり感服なさったほどでした。
ジャアファルが報告を終わると、アブール・ハサンはこれに尋ねました、「警察長《ムカツダム》はどこにおるか。」ジャアファルは警察長《ムカツダム》蛾のアフマードを指し示して、言いました、「この者でございます、おお信徒の長《おさ》よ。」すると警察長《ムカツダム》は自分が名ざされたのを見て、すぐに自分の場所を離れ、重々しく玉座に近づき、玉座の足下に、顔を床につけて平伏しました。アブール・ハサンは、これに立ち上がることを許してから、言いました、「おお警察長《ムカツダム》よ、その方十名の警吏を引き連れて、直ちにしかじかの区の、しかじかの街の、しかじかの家に赴け。そこには、その区の区長《シヤイクー・アル・バラート》なるすさまじい豚野郎がおり、そやつは、その二人の相棒で、それに劣らず汚らわしい下種《げす》野郎の間に、坐っているであろう。その方やつらの身柄を捕え、続いて受ける刑罰に慣らすため、まず手はじめに、各自に棒四百を、足の裏に加えよ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百三十二夜になると[#「けれども第六百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……各自に棒四百を、足の裏に加えよ。それから、彼らにぼろを着せ、顔を駱駝の尻尾のほうに向けて、疥癬病《かいせんや》みの駱駝に乗せ、都の全区を引き廻し、触れ役人にこう触れさせよ、『中傷をするやつら、女を汚すやつら、隣人の平和を乱し、正直な人々を悪しざまに言うやつらの、刑罰の始まり、始まり』と。そうした上で、区長《シヤイクー・アル・バラート》の口から串刺しの刑に処せよ。やつが罪を犯したのは口によってであり、またやつにはもはや尻の穴がないからな。そしてその腐った屍体は、犬に投げ与えて食わせてやれ。次に黄色い目の鬚なし男、区長《シヤイクー・アル・バラート》の卑しい仕事を手伝った二人の相棒のうち、最も汚らわしいやつをつかまえて、やつをその隣人アブール・ハサンの家の糞溜に突っこんで、溺れ死にさせよ。次には第二の相棒の番だ。こやつは道化者で滑稽な馬鹿じゃが、これには次のような刑罰以外に、罰を受けさせてはならぬ。即ち、上手な指物師に命じて、くだんの男が坐りに来るごとに、めちゃめちゃにこわれてしまうような椅子をひとつ作らせて、やつを一生この椅子に坐る刑を申し渡すのじゃ。行って、わが命令を実行せよ。」
この言葉を聞くと、警察隊長《ムカツダム》蛾のアフマードは、かねてジャアファルから、アブール・ハサンの下す命令はすべて実行せよと申しつかっていたので、頭上に手を置いて、もし自分の受けた御命令をきちんと実行しなかったら、自分自身頭を失う覚悟だということを、それによってはっきり示しました。次に、再びアブール・ハサンの手の間の床に接吻して、玉座の間を出て行きました。
こうした次第です。教王《カリフ》は、アブール・ハサンがこのように威厳をもって、王国の大権をぴしぴしやってのけるのを御覧になって、この上ない悦びをお覚えになりました。そしてアブール・ハサンは、裁きをしたり、任命したり、罷免したり、未決の事務を片づけたりして、警察長《ムカツダム》が玉座の足許に帰ってくるまで、これを続けました。すると彼は警察長《ムカツダム》に尋ねました、「その方わが命令を実行いたしたか。」警察長《ムカツダム》はいつものように平伏した後、懐中から一通の書状を取り出して、それをアブール・ハサンに差し出したので、彼はそれを拡げ、全部を読みました。それはまさしく、三人の相棒の刑執行の調書で、それには法定の証人たちとその区の知名の人たちの署名がしてありました。それでアブール・ハサンは言いました、「よろしい。余は満足じゃ。中傷をするやつら、女を汚すやつら、また他人の事に口出しするやつらはすべて、永久にかくのごとく罰せられるべきじゃ。」
それが済むと、アブール・ハサンは財務官長に近づくよう合図をして、これに命じました、「直ちに国庫より金貨一千ディナールの袋を一個取り出して、先に警察長《ムカツダム》を派したあの区にまいり、通称放蕩者ことアブール・ハサンなる男の家はどこかと尋ねよ。そのアブール・ハサンなる者は、放蕩者とはもってのほか、むしろ申し分のない、育ちのよい人物であり、その区内では有名な男であるゆえ、誰でも進んで、その家を教えてくれるであろう。そこでその方、家にはいったら、彼の尊ぶべき母上にお話し申したいと、取次ぎを頼め。そして挨拶《サラーム》とその申し分ない老女に当然払うべき敬意ののち、こう申せ、『おおアブール・ハサン殿の母君よ、ここにわれらの主君|教王《カリフ》からあなた様に贈りたもう、金貨一千ディナールの袋がございます。この贈物とてもあなた様の御功績にくらべれば、何ものでもございません。けれども、現在国庫は空《から》でございまして、教王《カリフ》は今日のところ、これ以上あなた様にして差し上げられないことを、遺憾に思し召されておりまする。』そしてそれ以上待つことなく、その袋をお渡し申して、その方は戻って余に使命の報告をするように。」財務官長は仰せ承わり畏って答え、いそぎ命令を実行しに行きました。
こうしておいて、アブール・ハサンは、大|宰相《ワジール》ジャアファルに合図をして、政務所《デイワーン》を閉じよと命じました。ジャアファルはその合図を、大臣《ワジール》、貴族《アミール》、侍従、その他並みいる人々に伝えますと、一同玉座の足許に平伏した上で、はいったときと同じ順序で、退出しました。そしてアブール・ハサンのそばには、ただ大|宰相《ワジール》ジャアファルと御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールの二人だけが残りまして、二人は彼に近づいて、一人は右腕の下を、今一人は左腕の下を支えながら、彼を助けて立ち上がらせました。そして奥の婦人部屋《ハーレム》の戸口まで案内しましたが、そこには当日の饗宴の用意ができているのでした。するとすぐに給仕の婦人たちが出てきて、ジャアファルとマスルールに代って、彼を饗宴の間《ま》に案内しました。
直ちに、琵琶《ウーデイ》と大琵琶《テオルブ》と六絃琴《ジーターラ》と横笛《フルート》と縦笛《オーボエ》と竪笛《クラリネツト》の合奏が、乙女たちの爽やかな歌声に和して聞えてきましたが、それがいかにも美わしく、調べよく、律呂正しく、アブール・ハサンは恍惚のかぎり恍惚として、もはやどう思い定めてよいのかわからない有様でした。そして最後に独りごとを言うのでした、「今はもう疑えぬ。おれはたしかに本物の信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードだ。なぜって、こうしたすべては一場の夢ではあり得ない。さもなければ、自分が今しているように、見たり、聞いたり、感じたり、歩いたりすることが、どうしておれにできようぞ。あの三人の相棒の処刑調書の書類は、ちゃんとこの手に持っているし、この歌、この声は、ちゃんと聞いているし、そのほかの一切も、この栄誉も、この尊敬も、まさにおれのためだ。おれは教王《カリフ》だぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百三十四夜になると[#「けれども第六百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼は自分の右を眺め、自分の左を眺めました。彼の見たところは、ますます自分が王の身分であるという考えを固めました。豪華な大広間のまん中にいて、四方の壁の上には黄金が輝き、この上なく快い色彩《いろどり》が、壁布と絨氈の上にさまざまに浮き出て、紺碧の天井に吊された、七本の枝のついた、七つの黄金の釣燭台は、類《たぐ》えるもののない光輝を放っております。その広間のまん中には、低い床几の上に、見事な御馳走を盛った、七つの金無垢の大皿があって、その匂いは竜涎香と香辛料をもって、空気を香わしくしています。そしてそれらの皿のまわりには、類えるもののない美しさの七人の乙女が、それぞれ色と形のちがう衣服を着けて、合図を待ちながら、立っております。乙女たちはめいめい、手に扇《うちわ》を持って、アブール・ハサンのまわりの空気を、涼しくしようと待ち構えているのです。
そこでアブール・ハサンは、前夜来まだ何も食べていなかったので、皿の前に坐りました。すぐに七人の乙女が一斉に扇を動かしはじめて、彼のまわりに風を送りました。けれども彼は、食事をしながらこんなにたくさんの風を受けるのに慣れていなかったので、愛想のいい微笑を浮べつつ、乙女たちを次々に見やって、一同に言いました、「アッラーにかけて、おお女子《おなご》衆よ、私を扇いでくれるには、ただの一人でたくさんだと思う。だからみんな私のまわりに坐りに来て、相手をしておくれ。そしてあすこにいるあの黒人娘に、こちらへ来てわれわれに風を送るように、そういっておくれ。」そして強《た》って一同に、自分の右と左と前に来て座を占めさせ、こうしてどちらを向いても、自分の眼の前に快い眺めが見られるようにしました。
そこで彼は食べはじめたのですが、しばらくすると、乙女たちは自分に敬意を払って、敢えて食物に手を触れようとしないのに気づきました。そこで繰り返し、気がねせずに各自料理を取るように誘い、自分でも手ずから、選りぬきの食べ物をとってやりさえいたしました。それから順繰りに、めいめいの名を尋ねますと、一同答えました、「わたくしたちは『麝香の粒』、『雪花石膏の項《うなじ》』、『薔薇の花びら』、『柘榴の心《しん》』、『珊瑚の口』、『肉豆蒄《にくずく》』、『砂糖黍《さとうきび》』と申します。」こんなに風情のある名前を聞くと、彼は叫び出しました、「アッラーにかけて、それらの名はいかにもそなたたちに似つかわしい、おお若い娘たちよ、なぜなら、麝香も、雪花石膏も、薔薇も、柘榴も、珊瑚も、肉豆蒄も、砂糖黍も、そなたたちの優美を通じて、その美質を失わないからな。」そして食事中、一同にまことに上手な言葉を言いつづけたので、垂幕の蔭に潜んで、非常に注意深く彼を見守っていらっしゃった教王《カリフ》は、このような気晴しを仕組んでほんとうによかったと、ますますお悦びになったことでした。
食事が終ったとき、乙女たちは宦官に知らせますと、彼らはすぐに手を洗うものを持ってまいりました。乙女たちはいそいで宦官の手から、黄金の盥と、水差しと、香りをつけた手拭いを受けとり、アブール・ハサンの前に膝をついて、両手に水を注ぎました。次にみんなで彼を助け起しました。そして宦官たちが大きな帳《とばり》を開けると、第二の広間が現われ、そこには黄金の皿の上に果物が並んでいました。すると乙女たちは、彼をその広間の戸口まで見送って、引き退《さが》りました。
そこで、アブール・ハサンは二人の宦官に支えられて、この広間の中央まで歩きましたが、これは前の広間よりもいっそう美しく、いっそうよく飾られていました。そして彼が坐るとすぐ、女楽師と歌姫の一群の奏する新しい合奏が、見事な調べを聞かせました。すっかりうっとりしたアブール・ハサンは、皿の上に、この上なく珍しくこの上なく結構な果物が、互い違いに十列に並んでいるのを認めました。そしてその皿は七枚あり、おのおのの皿は、それぞれ天井から吊り下げられた釣燭台の下に置かれ、おのおのの皿の前には、先刻の乙女たちよりも美しく、いっそう着飾った乙女が、一人ずつ控えておりましたが、この乙女たちもやはり扇を持っていました。アブール・ハサンは一人一人よく眺めて、その美しさに恍惚としました。そこで一同を自分のまわりに坐るように誘い、元気を出して食べるようにと、みんなに給仕をさせる代りに、自分がみんなに給仕をしてやることを忘れませんでした。そして乙女たちに名前を尋ね、ひとりひとりに、無花果とか、葡萄ひと房とか、西瓜ひと片とか、バナナとかを勧めながら、適当なお世辞を言うことができました。それで教王《カリフ》はこれをお聞きになって、この上なくお楽しみになり、そのつど彼の見せることのできる腕前がいっそうよくおわかりになって、いよいよ御満足でいらっしゃいました。
アブール・ハサンは、皿の上にある果物全部を、乙女たちにも味わわせ、自分も味わいおわると、二人の宦官に助けられて立ち上がり、こんどは、前の二室よりもたしかに美しい、第三の広間に案内されました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百三十六夜になると[#「けれども第六百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、それは果物の砂糖煮の間《ま》でした。事実、そこにはそれぞれ釣燭台の下に、七枚の大皿があり、それぞれの皿の前には、乙女が一人ずつ立ち、皿の上には、水晶の広口壜と赤玉宝石の鉢の中に、まことに結構な果物の砂糖煮がはいっておりました。あらゆる色と、あらゆる種類がありまして、液状のものもあれば乾《ほ》したものもあり、薄くはがれる捏粉菓子もあれば、何でもあります。そしてアブール・ハサンは、声と楽器の新しい合奏のただ中で、香りのよい甘いもの全部を少々味わい、前と同じように、乙女たちに自分の相手をするように誘って、みんなに味わわせました。そしてひとりひとりに、名を聞いては、気持のよい言葉を答えることができました。
それがすむと、第四の広間に案内されましたが、これは飲み物の間《ま》で、前の三部屋を遥かに凌《しの》ぐ、いちばん驚くべき、いちばんすばらしい部屋でした。天井の黄金の釣燭台の下には、七枚の皿があり、そこにはあらゆる形とあらゆる大きさの酒瓶が、左右対称にずらりと並んでおりました。女楽師と歌姫とが、見る者の目に見えないところで、音楽を聞かせていました。そして皿の前には、七人の乙女が立っていますが、ほかの広間の姉妹たちのように、ずっしりとした衣服を着こんではいないで、ただ絹の肌衣一枚に包まれているだけでした。乙女たちはそれぞれ色もちがえば、様子もちがっていて、第一の乙女は浅黒く、第二は黒く、第三は白く、第四は金髪、第五は太って、第六は痩せ、第七は赤毛でした。アブール・ハサンは、軽羅の透き通った下で、一同の形と色っぽさをたやすく判断できただけ、いっそうの楽しみと注意をこめて、乙女たちをよく眺めました。そして無上の楽しさを覚えながら、一同に自分のまわりに坐って、お酌をするようにと誘ったのでした。彼は乙女が杯を差すにつれ、順々に一人ずつその名を尋ねはじめました。そして一杯乾すごとに、その乙女に接吻したり、咬んだり、お尻をつねったりしました。こうして乙女たちと戯れつづけているうち、とうとう後継《あとつぎ》の息子が泣きわめき出しました。そこでこれを静めるため、彼は七人の乙女に尋ねました、「わが命にかけて、そなたたちのうち誰が、このうるさい息子を引き受けてくれるかね。」すると七人の乙女はこの問いを受けて、返事をする代りに、皆一斉に乳呑子に飛びかかって、乳を呑ませてやろうとしました。そしてめいめい、笑い声と叫び声をあげながら、あちこちから自分のほうに息子を引き寄せるので、そのため息子の父親は、今は誰の言うことを聞き、誰の望みを叶えてよいやらわからず、息子を懐《ふところ》に戻しながら、言ったのでした、「また眠ってしまったよ。」
こうした次第でございます。
教王《カリフ》はずっとアブール・ハサンの行く先々についていらっしゃって、垂幕の蔭に身を潜《ひそ》めていらっしゃいましたが、御覧になりお聞きになることを、無言のうちにたいそう面白がりなされ、このような男の道の上に御自分を置いてくれた天命を、祝福なさったのでした。けれどもとかくするうちに、かねてジャアファルから必要な指図を受けていた乙女のうちの一人は、杯を取って、昨夜|教王《カリフ》がお用いになってアブール・ハサンを眠らせた、あの催眠の粉をひとつまみ、手際よく杯の中に投げ入れて、彼に言いました、「おお信徒の長《おさ》よ、どうかぜひもう一杯この杯をお乾し下さいませ、きっと大切なお子様がお目ざめになるでしょうから。」するとアブール・ハサンは大笑して、答えました、「よしよし、ワッラーヒ。」そして乙女の差し出す杯を取って、ひと息で飲み乾しました。次に、自分に酌をした乙女に話しかけようと、向き直りましたが、ただ口を開けてもぐもぐ言うことだけしかできず、頭を足の前にのめらせて、ごろりと転がってしまいました。
そのとき、今までこうしたすべてに御興《ごきよう》のかぎり興じられて、もはやこのアブール・ハサンの眠り入るのをお待ちになるばかりであった教王《カリフ》は、さんざんお笑いになったため、もう立っていらっしゃれなくなって、垂幕の蔭から出て来なさいました。そして駈け寄った奴隷たちのほうをお向きになって、アブール・ハサンに今朝着せた王衣を脱がせ、彼の普段の着物を着せるように、御命じになりました。その命令が果たされると、昨夜アブール・ハサンをさらって来た奴隷を召し出して、もう一度彼を肩に担《かつ》いで、その自宅に運び、寝床に寝かしてくるように命じなさいました。それというのは、教王《カリフ》は御心中でこうお考えになったのです、「これ以上こんなことを続けていたら、余が笑い死するか、さもなければあの男が気違いになるか、どちらかじゃ。」それで奴隷はアブール・ハサンを背中に担いで、秘密の門から出て、王宮の外に運び出し、走ってその自宅の寝床の上に置き、こんどは帰り際に、注意して家の戸を閉めました。アブール・ハサンのほうは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百三十七夜になると[#「けれども第六百三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……アブール・ハサンのほうは、翌日の正午まで、深い眠りのうちに昏々と眠って、麻酔剤《バンジ》の頭脳への利き目がすっかりなくなったとき、はじめて目を覚したのでした。そして眼を開くことができる前に、彼は考えました、「つらつらおもんみるに、全部の乙女たちの間でおれの好きな子は、たしかにあの若い『砂糖黍』で、その次は『珊瑚の口』、昨日おれに最後の杯をお酌した、あの金髪の子『真珠の花束』は、まあせいぜい三番目だな。」そして声高く呼びました、「さあ、みんな来い、おお若い娘たち。砂糖黍、珊瑚の口、真珠の花束、曙《あけぼの》、暁《あけ》の星、麝香の粒、雪花石膏の項《うなじ》、月の面《おも》、柘榴の心《しん》、林檎の花、薔薇の花びらや。さあ、駈けて来い。昨日は私は少々疲れていたが、しかし今日は息子は健在だよ。」
そしてしばらく待ちました。けれども彼の声に誰も答えもせず、駈けつけもしないので、彼は大いに怒り、眼を開けて、床《とこ》の上に起き直りました。すると自分は、前の日住んでいて、全土に君臨していた豪壮な王宮にはもう全然いないで、自分の部屋にいるのを見ました。それで夢を見ているのだと想像して、夢を消すために、力いっぱい叫びはじめました、「これこれ、ジャアファル、おお犬の息子め、また汝マスルール、女衒《ぜげん》め、お前たちはどこにいるのじゃ。」
彼の叫び声に、年とった母親が駈けつけて来て、彼に言いました、「どうしたんだい、息子や。お前の上とお前のまわりにアッラーの御名《みな》あれ。いったいどんな夢を見たんだい、おお息子や、おおアブール・ハサンよ。」するとアブール・ハサンは、枕もとに老婆が見えるのに腹を立て、これをどなりつけました、「お前は誰だ、婆《ばばあ》め。またそいつは誰だ、アブール・ハサンとは。」老母は言いました、「アッラー、私はお前の母親だよ。そしてお前は私の息子、お前はアブール・ハサンだよ、おおわが子よ。何とも変な言葉を、私はお前の口から聞いたようだが、お前はこの私がわからないみたいだね。」けれどもアブール・ハサンはどなりつけました、「退《さが》れ、おお呪われた婆め。きさまは信徒の長《おさ》、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードに口をきいているのだぞ。地上のアッラーの名代の面前より、とっとと立ち去れ。」この言葉に、かわいそうな老婆はわれとわが顔を激しく打ちはじめて、叫びました、「お前の上にアッラーの御名《みな》あれ、おお、わが子よ。後生だから声を張りあげて、そんな気違いじみた言葉を言っておくれじゃないよ。近所の人たちに聞きつけられるよ。そしたら、もう私たちは頼るすべなく身の破滅だ。どうか安全と落着きが、お前の分別の上に下ってくれますように。」アブール・ハサンは叫びました、「即刻退散いたせと申しつけるぞよ、おお忌《いま》わしい婆め。きさまには余を自分の息子と一緒にするなど、狂気の沙汰じゃ。余は信徒の長《おさ》、東洋と西洋の主《あるじ》ハールーン・アル・ラシードなるぞ。」老婆は自分の顔をぴしゃぴしゃ打ち、嘆きながら言いました、「どうかアッラーは悪魔《シヤイターン》を懲らしめて下さいますように。そして至高者の御慈悲が、お前を悪魔《シヤイターン》憑きから救って下さいますように。おお、わが子よ。どうしてそんな気違いじみたことが、お前の心のなかにはいってくることができたのだろう。お前の今いるこの部屋は、教王《カリフ》の御殿どころの沙汰じゃなく、お前は生れてからずっとこの部屋で暮していて、ここより外に住んだことなんかなく、お前をかわいがっている年とったこのお母さんよりほかに、誰とも一緒にいたことなぞないのが、お前にはおわかりでないのかえ、私の息子、やあ、アブール・ハサンよ。私の言うことを聞いて、昨晩お前につきまとった、たわいない危険な夢なんぞ、お前の思いから追っ払ってしまい、この冷水壺の水でも少々飲んで、気を静めておくれ。」
そこで、アブール・ハサンは母親の手から冷水壺を取って、水をひと口飲み、少し気が静まって言いました、「実際おれは、いかにもアブール・ハサンかも知れんな。」そして頭を垂れて、頬杖をつき、ひと時の間じっと考えこんでいて、頭をもたげずに、まるで深い眠りから覚めた人のように、自分に向って話しかけながら、言うのでした、「そうだ、アッラーにかけて、いかにもおれはアブール・ハサンかも知れんぞ。いや、おれがアブール・ハサンなことは、全く疑いない。この部屋はおれの部屋だ、ワッラーヒ。今はよくわかった。そしてあなたはおれのお母さんで、おれはあなたの息子だ。そうだ、おれはアブール・ハサンだ。」そして付け加えました、「だがいったいどういう妖術で、おれの分別はこんな妄想に襲われたのかしらん。」
この言葉を聞いて、かわいそうな老婆は、もう息子の気がすっかり静まったことを疑わず、嬉し泣きに泣きました。それで、涙を乾してから、では息子に食事を持って来て、その見た奇妙な夢の細かい点を尋ねるとしようと思っていると、そのとき、しばらく前からじっと自分の前方を見つめていたアブール・ハサンは、突然気違いのように躍り上がって、かわいそうな老女の着物を捉え、どなりつけながら、老女をゆす振りはじめました、「ああ、不届きな婆《ばばあ》め、余に締め殺されたくなかったら、直ちに申せ、余の王位を奪った敵は何者なるぞ、して余をこの牢獄に幽閉したのは何やつか、またこのむさくるしい陋屋で余の張番をしている汝自身は誰か。よいか、余が玉座に戻った暁の、わが逆鱗《げきりん》の結果を恐れよ。汝のやんごとなき君主、依然として教王《カリフ》たる余、ハールーン・アル・ラシードの復讐を、恐懼《きようく》せよ。」そして老婆をゆす振りながら、最後にやっと自分の手から放したのでした。老婆はむせび泣き、嘆きながら、茣蓙の上にべったり坐りました。アブール・ハサンは、狂乱の極に達して、また自分の寝床に身を投げて、立ち騒ぐ自分の思いに悩まされつつ、両手で頭を抱えていました。
けれども、しばらくたつと、老婆は再び立ち上がり、何しろ息子に対して心優しいもので、ぶるぶるふるえながらも、ためらわず息子に薔薇水のシロップを少々持って行ってやり、ひと口飲むことにさせ、それから、考えを変えさせようとして、これに言いました、「まあお聞き、息子や、私の話してあげることを。これはきっと、お前をたいへん悦ばせることまちがいなしだよ。だって、こうなんだよ、昨日|警察長《ムカツダム》が、教王《カリフ》に遣わされて、ここの区長《シヤイクー・アル・バラート》と二人の相棒を召し捕りに見えてさ、めいめいに足の裏に棒四百を食わせてから、疥癬病みの駱駝にあべこべに乗っけて、女子供の罵りと痰唾を浴びせかけられながら、町じゅうの区を引き廻されたのだよ。そのあと、区長《シヤイクー・アル・バラート》は口から串刺しにされ、第一の相棒は私たちの家の糞壺に放りこまれ、第二の相棒はたいへんややこしい罰を食わされたよ。坐ると砕ける椅子に、一生涯坐らせるというんだからね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百三十九夜になると[#「けれども第六百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
アブール・ハサンはこの話を聞くと、親切な老母の考えでは、息子の魂を曇らせている混乱を追い払うのに、役立つにちがいないと思ったのですが、彼はかえって今までよりももっと、自分の王位と信徒の長《おさ》の世襲の位とを、固く信じてしまいました。そして母親に言いました、「おお、忌わしき婆よ、汝の言葉は、余を諌《いさ》めるどころか、いよいよ余がハールーン・アル・ラシードであるという考えを、固めさせるばかりじゃ、もっとも余はかつてその考えを棄てたおぼえはないがな。そしてそのことを汝に証明するため申し聞かせるが、実はこの区の三名の悪漢を罰するよう、わが警察長《ムカツダム》蛾のアフマードに命令を下したのは、この余自身であるぞよ。されば、余が夢を見ておるとか、悪魔《シヤイターン》の息吹《いぶ》きに憑かれておるなんぞと申すことは、速やかにやめよ。わが御《み》稜威《いず》の前に平伏し、わが両手の間の地に接吻し、汝が余についてほざきおった軽率なる言葉と疑念に対し、速やかに余に許しを乞え。」
この息子の言葉に、母親はもうアブール・ハサンの発狂について、少しも疑わず、息子に言いました、「どうか慈悲深いアッラーは、お前の頭上に祝福の露を下《くだ》したまいますように、おおアブール・ハサンや、そしてお前をお許しになって、また元の常識分別のある人間にお戻し下さいますように。だけど、お願いだよ、おお息子や、教王《カリフ》のお名前を言いだして、それを自分のことだとするのはやめておくれ。隣の人たちがひょっと聞きつけて、お前の言葉を御奉行《ワーリー》様に告げ口しかねないからね。そうすりゃお前は御用になって、宮殿の門に縛り首にされてしまうだろうよ。」次に、自分の心痛に耐えきれなくなって、老母は嘆きはじめ、絶望のあまり、われとわが胸を叩きはじめました。
ところがこの有様は、アブール・ハサンの気を鎮める代りに、ますます猛り立たせるばかりでした。彼はすっくと立ち上がり、棒をつかむや、憤怒に逆上して、母親に飛びかかり、物すごい声でどなりつけました、「おお呪われた女め、このうえ余をアブール・ハサンと呼ぶことは、きっと相成らぬぞ。余はハールーン・アル・ラシードその人であり、汝この上ともそれを疑うとあらば、棒を加えてその信念を汝の頭に打ち込むであろうぞ。」老婆はこの言葉に、恐ろしさと心痛にぶるぶる顫えながらも、アブール・ハサンが自分の子であることを忘れないで、母親がわが子を眺めるようにこれを眺めつつ、優しい声で言いました、「おお息子よ、胎内に九カ月|宿《やど》して、その乳と愛情でもって養ってくれた母親に対して、息子たるものが払わなければならない尊敬の気持を、お前はもうすっかり忘れてしまうというほど、アッラーとその預言者の掟が、お前の心から引き揚げてしまったとは、私は思いませんよ。これを最後に、いっそ言わせておくれ。お前はお前の分別をこんな奇妙な夢のような思いに陥らせてしまい、私たちの御主君であり御領主である、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシード以外のお方のものではない、教王《カリフ》というやんごとない御称号を、畏れ多くも自分のものとするなどとは、とんでもないことですよ。ことに、教王《カリフ》が私たちにお恵みのかぎりを尽して下された日のちょうど翌日に、お前は教王《カリフ》に対し奉り、たいへんな忘恩の罪を犯すことになるのですよ。というのは、こういうわけです、御殿の財務官長が昨日、教王《カリフ》御自身から遣わされて、私たちの家に見え、御命令によって金貨千ディナールの袋を私に賜わり、金額が些少だがと申し訳まで添え、これが君の御寛仁の最後の贈物ではないであろうと、お約束なすったのですよ。」
母親のこの言葉を聞いて、アブール・ハサンは、自分の昔の身分についてまだ多少抱いていた最後の疑念を、今はすっかり失って、自分はずっと教王《カリフ》であったと確信してしまいました。何しろ、アブール・ハサンの母親に千ディナール入りの袋を届けたのは、自分自身だったのですから。そこで彼はこわい目をして、あわれな老婆をにらみつけて、どなりました、「汝は不幸にも、おお禍いの婆《ばばあ》よ、汝の許に金貨の袋を送ったのは、余ではないと称するのか。して余の財務官長が昨日汝に袋を届けに来たのは、余の命令によるのではないと申すか。かかることがあってもなお敢えて、汝は余をわが息子と呼び、余は放蕩者アブール・ハサンだと言って憚《はばか》らぬか。」そして母親はこんな滅相もない言葉を聞くまいとして、両の耳を塞ぎましたので、アブール・ハサンは激怒の極にまでいきり立って、もはや自分を制することができず、手に棒をもって母親に飛びかかり、これを打ちのめしはじめました。
するとあわれな老婆は、自分の痛さとこんな目にあわされる憤りをもう黙っていられなくなって、近所の人たちに助けを呼び、こう叫びながら、喚きはじめました、「おお、私の災いだ。駈けつけて下さい、おお、回教徒《ムスリムーン》の方々。」するとアブール・ハサンは、この叫び声にますますいきり立って、老婆に棒を振り下ろしつづけ、時々叫びました、「これ、余は信徒の長《おさ》であるか、それともそうではないか。」母親はぶたれても、やはり答えます、「お前は私の息子だよ。放蕩者アブール・ハサンだよ。」こうしているうちに、隣近所の人たちが、叫び声と騒ぎを聞いて駈けつけ……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十夜になると[#「けれども第六百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……部屋の中まではいって来て、すぐに親子の間にはいって二人を分け、アブール・ハサンの手から棒をもぎとり、こんな息子の振舞いに腹を立て、彼をつかまえて身動きできないようにして、詰問しました、「いったいお前は気がちがったのか、アブール・ハサンよ、こんな風に、お気の毒なお年寄りの、自分の母親に手をあげるとは。お前は聖典《アル・キターブ》の戒律を忘れ果てたというのか。」けれどもアブール・ハサンは憤怒に眼をぎらぎらさせて、一同に叫びました、「誰のことじゃ、そのアブール・ハサンとやらは。その名で誰を指しているのか。」近所の人たちは、この問いに、この上なく面くらって、最後に尋ねました、「何だって。お前は放蕩者アブール・ハサンではないのか。そしてこの善良な|お年寄り《シヤイクー》はお前のお母さん、お前を育て、その乳と愛情で養った人ではないのかい。」彼は答えました、「ああ、犬の息子どもめ、目通り叶わぬ。われこそは汝らの主君、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードなるぞ。」
このアブール・ハサンの言葉を聞いて、近所の人たちは、てっきり彼は発狂したことと信じこみました。そして、さっきこの男がめくら滅法に怒り猛っているのを見たこととて、もはや自由に暴れさせておいてはいけないと思って、みんなで彼の両手両足を縛り、その中の一人に、瘋癲病院の門番を呼びにやりました。ひと時たつと、瘋癲病院の門番が、二人の岩乗な看守を従えて、鎖と手錠の道具一式を持ち、手には牛の脚筋を乾し固めて作った鞭を携えながら、やってまいりました。アブール・ハサンはこれを見て、身の縛《いまし》めをのがれようと大あばれをし、居合わす人たちに悪態を浴びせかけると、門番はまず彼の肩に、その牛の筋肉の鞭を二つ三つ食わせました。そのあとで、彼の抗議も、自称する称号も、いっこうお構いなしに、これに鉄の鎖をかけ、そして通行人が大勢たかって、これを狂人扱いにし、ある者は拳骨を、他の者は足蹴《あしげ》を食わせるただ中を、瘋癲病院まで運んで行ったのでした。
瘋癲病院に着くと、彼は猛獣のように鉄の檻《おり》の中に押しこめられ、最初の手当てとして、牛の筋肉の鞭五十の滅多打ちを見舞われました。そしてこの日以来、朝一度と夜一度、この鞭五十の滅多打ちを受け、そのためこの手当てを十日受けると、もう蛇のように皮膚が変ってしまいました。そのとき彼はつらつら反省して、思いました、「はて今は、おれはなんというていたらくになってしまったことか。皆がおれを気違い扱いしているところを見れば、これはやっぱりおれが悪いのにちがいない。とはいえ、王宮でおれの身に起った全部が、夢のせいにすぎないということは、どうもあり得ないことだなあ。とにかく、おれはこの問題をこれ以上穿鑿しようとか、この上わかろうと試みたりすることは、御免蒙りたい。さもないと、本物の気違いになってしまうだろう。それに、人間の理性でわかり切れないことは、何もこのことばかりじゃないのだから、この解決はアッラーにおまかせ申すことにしよう。」
さて、彼がこのような新たな考えに耽っているところに、母親は涙に暮れながら、息子はどんな様子か、もっと分別ある気持に立ち戻ったかしらと、見にやって来ました。見ると息子はいかにも痩せ衰えているので、母親はわっと泣き崩れましたが、しかし自分の苦しみをよく抑えて、最後にやさしく息子に挨拶することができました。するとアブール・ハサンは、分別ある人なみに、落ち着いた声で挨拶《サラーム》を返しながら、答えました、「あなたの上に救いとアッラーの御慈悲とその祝福あれ、おお、私のお母さん。」母親はこうして自分を母の名で呼ぶのを聞いて大悦びで、これに言いました、「お前の上にアッラーの御名《みな》あれ、おお、わが子よ。お前に分別を返して下さり、お前の引っくり返った脳味噌を元の普通の位置に戻して下さったアッラーは、祝福されよかし。」するとアブール・ハサンはいたく後悔した口調で、答えました、「私はアッラーと母上とのお許しを乞います、おお、お母さん。全くのところ、私は自分の言ったようなあらゆる気違い沙汰を、どうして言うことができたのか、また狂人だけがすることのできる乱暴を、どうして働けたのか、われながらわかりかねます。これはきっと悪魔《シヤイターン》が私に取り憑《つ》いて、私をああいう常軌を逸した振舞いに押しやったにちがいありません。私以外の人だったら、もっともっとひどい無茶苦茶を働いたことは、疑いありません。けれども、こうしたすべては一切終りました。そして今では私は、こうして乱心から元に戻りました。」母親はこの言葉に、苦しみの涙が仕合せの涙に変るのを覚えて、叫びました、「私の心は、おお、わが子よ、まるでたった今もう一度お前を産み落したと同じくらい、嬉しいよ。アッラーは永久に祝福されよかし。」次に付け加えました……
[#この行1字下げ] ――このときシャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十一夜になると[#「けれども第六百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……次に母親は付け加えました、「たしかに、お前は自分を責めなければならない過ちなんて、すこしもないのだよ、おお、わが子よ。なぜって、私たちに振りかかった悪いことはみんな、お前が前の晩に誘って一緒に飲み食いした、あの異国の商人のためなのです。あの商人は翌朝、骨惜しみをして後ろの戸を閉めずに行ってしまったものね。ところで、日の出前に家の戸を開け放しにしておくと、いつでも、悪魔《シヤイターン》がその家にはいり、家に住む人たちの心に乗り移ってしまうことは、お前も知っているにちがいない。そうなると起ることが起るのです。だから、もっとひどい不幸を私たちの頭上にお許しにならなかったアッラーに、感謝するとしましょうね。」アブール・ハサンは答えました、「おっしゃるとおりです、おお、お母さん。これは悪魔《シヤイターン》が憑いたための仕業です。私はちゃんとモースルの商人に、悪魔《シヤイターン》が私たちの家にはいるのを防ぐため、後ろの戸を閉めることを忘れないように、くれぐれも言っておいたのですが、あの男はそうする手間を省き、それでこうしたすべての迷惑を私たちにかけたわけです。」それから彼は付け加えました、「今では私は、自分の脳味噌がもう引っくりかえっていず、滅茶苦茶な所業は終ったことが、はっきり感じられるから、どうか、おお優しいお母さん、瘋癲病院の門番に話して、私がこの檻と、ここで毎日受けている折檻から、放されるようにして下さい。」それでアブール・ハサンの母は、それ以上ぐずぐずせず、自分の息子が分別を取り戻した旨を、門番に知らせに駈けつけました。それで門番は母親と一緒に、アブール・ハサンを診察し、尋問をしに来ました。そして答えはみな正常で、自分はアブール・ハサンであって、もうハールーン・アル・ラシードではないと認めましたので、門番はこれを檻から出して、鎖を解いてやりました。そしてアブール・ハサンは、殆んど足腰立たぬ有様でしたが、母親に助けられて、そろそろとわが家に辿りつき、それから、体力が回復して、殴られた響きが多少薄らぐまで、何日か寝ておりました。
少々よくなると、彼は独りきりで退屈しだしたので、また昔の生活に戻り、日暮れに橋のたもとに坐りに行って、天命の送り届けることのできる異国の客人の来るのを待つことに、決心いたしました。
ところで、ちょうどその夕は、朔日《ついたち》の日でした。それで教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、毎月月始めに、商人の姿に身をやつして出かけなさる御習慣に従って、その夕も、何か冒険を求めて、ひそかに王宮をお出になりましたが、それはまた、都にお望みどおりきちんと秩序が行なわれているかどうか、御自身御覧になるためでもございました。こうして橋の上にお着きになりますと、その外《はずれ》にアブール・ハサンが坐っていました。アブール・ハサンは異国の人たちの現われるのを見張っていたこととて、前に持てなしたことがあり、この前と同様に、奴隷の大男を一人従えて、自分のほうに向ってくる、モースルの商人の姿を認めるのに暇どりませんでした。
これを見ると、アブール・ハサンは、このモースルの商人こそ、自分の不幸のそもそもの原因と見ていたからにしろ、または一度自宅に招いた人たちは、決して知っているような素振りをしないことを習慣としていたからにしろ、とにかく、この昔の客に挨拶する羽目に陥るまいとして、いそいで河の方向に頭をそむけてしまいました。けれども教王《カリフ》は、間諜を使って、アブール・ハサンが王宮を出て以来、その身に起ったこと全部と、瘋癲病院で受けた手当てを、すっかり御承知になっていたので、こんな変った男を肴《さかな》にして、もっとお慰みになるこの機会をば、そのままやりすごしたくないものとお思いになりました。それに、寛仁大度の御心《みこころ》をお持ち遊ばす教王《カリフ》とて、いつかはお力の及ぶかぎり、アブール・ハサンの受けた損害を償ってやり、彼と一緒にいらっしゃってお覚えになったお悦びを、何らかの方法で御恩恵を垂れて報いてやろうとも、思い定めていらっしゃったのでございました。そこで、アブール・ハサンの姿をお認めになると、さっそく彼に近よりなすって、アブール・ハサンがあくまで顔を河のほうに向けていたので、その肩越しにのぞきこみなすって、じっとその眼を見つめながら、彼におっしゃいました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おお、わが友アブール・ハサンさん。私の魂はあなたに接吻したいと望んでいます。」けれどもアブール・ハサンは、見向きもせず、身動きもしないで、答えました、「私からあなたへの平安《サラーム》はありません。歩いて行きなされ。私はあなたを存じ上げない。」すると教王《カリフ》は叫びなさいました、「何だって、アブール・ハサンさん。あなたはまる一夜お宅で持てなしなすった客が、おわかりにならないのですか。」彼は答えました、「いいや、アッラーにかけて、私にはわからない。あなたの道を行きなされ。」けれどもアル・ラシードは彼を口説いて、おっしゃいました、「けれどもこの私は、あなたをよく見知っていて、あなたが私をそんなにすっかり忘れてしまったとは、信じられません、私たちが先だってお会いし、私があなたと差し向いでお宅で過した心地よい夜以来、まだひと月も経っていないというのに。」それでもアブール・ハサンはやはり返事をしないで、立ち去るように合図をしているだけなので、教王《カリフ》はその首のまわりに両腕を投げかけ、接吻なさりはじめて、おっしゃいました、「おお、兄弟アブール・ハサンさんよ、私にそんな悪ふざけをなさるとは、何ともお人が悪い。私としては、あなたがもう一度お宅に私を連れて行って、私に対するお恨みの原因を話して下さらぬうちは、あなたと別れまいと固く決心しましたのじゃ。それというのは、私を追いやる御様子から見て、あなたは何か私を責める節《ふし》がおありなことが、よくわかりますから。」アブール・ハサンは憤った口調で、叫びました、「この私が、もう一度あなたをわが家に連れて行くって? おお、兇兆の顔よ、あなたが家に来たばかりに、散々よくないことが起ったというのに。さあ、背中を向けて、あなたの肩幅の広さを見せなさい。」けれども教王《カリフ》はもう一度彼に接吻して、これにおっしゃいました、「ああ、わが友アブール・ハサンさんよ、なんとあなたはつれないのだ。私がお宅に伺ったことが、あなたにとって不幸の一因となったというのが真《まこと》ならば、私は今、心ならずもあなたにおかけした損害をば、全部償う覚悟でいることを、十分信じていただきたい。だからひとつ、起ったこととあなたの蒙った禍いを、私に聞かせて、私に何か処置を講じられるようにして下さいな。」そしてアブール・ハサンの異議にもかかわらず、教王《カリフ》は橋の上で、彼のそばに蹲《うずくま》りなさり、兄弟が自分の兄弟にするように、その首に腕をめぐらして、返事を待ちなさいました。
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十三夜になると[#「けれども第六百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアブール・ハサンは、厚い友情にほだされて、とうとう言いました、「それでは、あの私たちの夕以来わが身に起った不思議な事どもと、それに続いたいろいろの不幸を、話して進ぜましょう。こうしたすべては、あなたが自分の後ろの戸を閉めることを怠ったためなので、その戸から『悪魔憑き』が侵入したのですよ。」そして彼は、自分が現実《うつつ》に見たと信じたけれども、どうも疑いなく悪魔《シヤイターン》の作りなした幻《まぼろし》にちがいないと思われる一切と、瘋癲病院で受けた一切の不幸と虐待と、このすべての事件のため界隈にひき起した醜聞と、近隣の人々全部に、もう抜きがたく得てしまった悪評を、話しました。そして細かい点までひとつも抜かさず、その話にひどく熱をこめ、そのいわゆる「悪魔憑き」の話を全く本気にしながら語りましたので、教王《カリフ》は思わず声をあげて大笑なさらずにいられませんでした。するとアブール・ハサンは、何のためにそんな大笑いをするのかよくわからず、相手に尋ねました、「そんな風に私を馬鹿にするとは、あなたは私の頭上に襲いかかった不幸を、不憫とは思わないのか。それとも、私が根も葉もない話をして、こちらがあなたを馬鹿にしているとでも想像なさるのかな。もしそういうわけなら、あなたの疑いを晴し、私の言うことの証拠をお目にかけよう。」そう言って、彼は肌を脱いで、両肩と背中と尻を露わにし、こうして、牛の筋肉で叩かれて傷ついた肌の傷痕《きずあと》と痣《あざ》を、教王《カリフ》に見せたのでした。
これを見なさると、教王《カリフ》は不幸なアブール・ハサンの運命に、本当に同情なさらずにいられなくなりました。ですからもう彼については、嘲りのお気持を持つことはやめなさり、今度はまことの愛情にあふれて彼に接吻して、おっしゃいました、「御身の上なるアッラーにかけて、兄弟アブール・ハサンさんよ、どうか今夜もう一度、ぜひお宅に私を連れて行っていただきたい。私はあなたの歓待でもって、わが魂を楽しませたいものと願うからです。明日には、アッラーはあなたに御恩を百倍にして返して下さるのを、御覧になるでしょう。」そしてたいへん優しい言葉をかけ、愛情こめて接吻しつづけなすったので、彼も遂には、同じ人を決して二度とは迎えない決意にもかかわらず、この人を自宅に連れてゆく決心をいたしました。けれどもその途々、彼は言いました、「私はあなたの折り入っての頼みに負けるものの、全く不承不承なのです。そしてその代りに、私のお頼みすることといえば、ただ一つだけです。それは明日の朝、私の家を出て行くとき、今度こそは戸を閉めるのを忘れないことです。」すると教王《カリフ》は、アブール・ハサンが相変らず、開け放した戸から悪魔《シヤイターン》が自分のところにはいってくるものと信じこんでいるのに、お笑いがこみあげてくるのを、じっと内に抑えながら、よく注意して戸を閉めようと、誓って約束なさいました。こうして二人は家に着きました。
二人がなかにはいって、しばらく休息すると、奴隷が食事を供え、食後に、酒類を持ってまいりました。そして杯を手にしながら、二人は楽しく四方山話をしはじめ、そのうち酒が二人の分別のなかで醗酵してきました。すると教王《カリフ》は巧みに話を色恋のことに向けなすって、この主人に向って、かつて激しく女どもに惚れこんだことがあったか、そして既に妻帯の身であるか、それともずっと独身をつづけているかなど、お尋ねになりました。するとアブール・ハサンは答えて、「おお、わが御主人よ、申し上げなければならないが、私は今日まで真に好きだったのは、ただ愉快な仲間と、おいしい御馳走と、飲み物と香りだけでした。そして人生で、杯を手にして友達と談笑するにまさることは、何ひとつ見つかりませんでした。と申しても、何も私がその機会さえあれば、女の取り得を認めることができないという意味じゃありませんよ、わけてもその女が、例の私を気違いにならせた幻想の夢のなかで、悪魔《シヤイターン》が私に見せたあのすばらしい乙女たちの一人にでも、似ているような場合にはですね。その乙女たちときては、いつも機嫌がよく、歌も歌えれば、楽器も弾け、舞いもできれば、われわれの受け継いでいる息子を取り鎮めることもでき、自分たちの生涯をわれわれの快楽に捧げ、もっぱらわれわれを悦ばせ、娯しませるのに努めているのです。いかにも、万一私がそういった乙女に出あったなら、私はさっそくこれを父親から買いとって、これと結婚し、これに深い愛着を寄せることでしょう。だがそんな種類の女は、信徒の長《おさ》のところか、せいぜい大|宰相《ワジール》ジャアファルのところででもなければ、いはしません。そういう次第で、おお、わが御主人よ、私は、不機嫌といろいろな欠点で私の生活を害なうおそれのある女なんかに行き当るよりか、いっそ行きずりの友人とここにある古酒の瓶と付きあうほうが、どのくらい好ましいかわからぬと思っているのです。こうしておれば、私の生活は平穏で、もし貧乏になったら、その節は独りで貧困の黒いパンを噛《かじ》るといたしましょう。」
この言葉を言いながら、アブール・ハサンは、教王《カリフ》の差し出しなすった杯をひと息で乾し、そしてすぐさま、頭を足の前にのめらして、絨氈の上に転がりました。というのは、教王《カリフ》は今度もまた、クレータ産|麻酔剤《バンジ》の粉を少々、葡萄酒にお混ぜになる御配慮をなすったからでした。そしてすぐに奴隷は、御主君の合図に応じて、アブール・ハサンを背ににない、家を出ますと、教王《カリフ》は今度は、もうアブール・ハサンを自宅に送り返すお積りがなかったので、後ろの戸を念を入れて閉めることをお忘れにならないで、奴隷について行かれました。そして王宮に着くと、秘密の戸から殿内に、音を立てずに潜り入って、そしてお住居の御殿のなかにおはいりになりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十四夜になると[#「けれども第六百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そしてお住居の御殿のなかにおはいりになりました。すると教王《カリフ》は、最初の時のように、アブール・ハサンを御自身のお寝床の上に寝かさせ、前と同じように御寝衣を着せさせなさいました。そしてこの前と同じ御命令を下し、マスルールには、朝早く、礼拝の時刻の前に、起しに来るようにと、申しつけなさいました。そして御自分は隣室にお寝《やす》みにいらっしゃいました。
さて翌朝、定刻になりますと、教王《カリフ》はマスルールに起されなさって、アブール・ハサンがまだまどろんでいる部屋にお出かけになり、最初のおり、アブール・ハサンの通ったいろいろの広間に居合わせた乙女たち全部を、女楽師と歌姫全部と共に、御前にお召しになりました。そして一同をきちんと並ばせて、お指図を与えなさいました。それから、アブール・ハサンに酢を少々吸わせさせると、彼はすぐにくしゃみをして、鼻から少し鼻汁を出しました。教王《カリフ》は垂幕の蔭にお潜みになって、定めの合図をなさいました。
すぐに歌姫たちはその快い美声を、竪琴《ハープ》と横笛《フルート》と縦笛《オーボエ》の音に混えて、合唱し、天国の天使の合奏にも似た合奏を聞かせました。このとき、アブール・ハサンは半睡状態から出まして、眼を開ける前に、この妙なる楽の音を聞くと、今はすっかり目を覚ましました。そこで眼を開けてみると、かつて自分が四つの広間で七人ずつ出会った、あの二十八人の乙女に取り囲まれているのを見ました。彼はその乙女たちを、寝床、部屋、壁掛、装飾と共に、ひと目見て、それとわかりました。また最初のおりに自分を恍惚とさせた同じ声をも、すぐそれとわかりました。すると彼は眼を大きく見張って、寝床の上に坐り、自分が目を覚ましていることをよく確かめるため、何度も何度も顔を手でこすりました。
この瞬間、かねて申し合せてあったとおり、合奏ははたとやみ、大きな沈黙が部屋に漲りました。そして全部の宮女は、自分たちを御覧になるやんごとなき御眼《おんめ》の前に、慎しみ深く眼を伏せました。するとアブール・ハサンは、驚愕の極に達して、わが指を噛み、沈黙のただ中で叫びました、「汝に禍いあれ、やあ、アブール・ハサン、おお、お前の母親の息子よ。今のは、これは幻だ。だが明日は、牛の筋肉の鞭と、鎖と、瘋癲病院と、鉄の檻だぞ。」次にさらに叫びました、「ああ、怪しからんモースルの商人め、きさまなんぞは地獄の底で、きさまの主人の悪魔《シヤイターン》の腕の中で、窒息して死んでしまえばいいのに。またもやきさまは、戸を閉めずに行って、悪魔《シヤイターン》をおれの家に入り込ませ、おれに取っ憑かせやがったにちがいない。それで悪鬼めは、今おれの脳味噌を引っくりかえし、おれに途方もないものを見せやがっているのだ。どうかアッラーはお前を懲らしめて下さるように、おお悪魔《シヤイターン》め、お前をはじめ、お前の手先どもとモースルの商人全部もろともだ。モースルの町がそっくりその住民の上に崩れ落ちて、住民を残骸の下に窒息させてくれればいいのに。」次に彼は眼を閉じては開け、また閉じてはまた開け、何度もこれを繰り返して、そして叫びました、「おお、憐れなアブール・ハサン、お前のなすべき最上のことは、また静かに眠って、悪鬼がお前の身体から出て、お前の脳味噌が元の普段の場所に戻ったことが、はっきり感じられるようになるときまで、目をさまさないことだ。さもないと、危ないぞ、明日になって、お前の知っていることが起るぞ。」そしてこの言葉を言いながら、彼は再び寝床に身を投げて、頭の上まで夜具をすっぽりかぶり、自分自身眠っているような気になるため、さかりのついた駱駝か、水中の水牛の群れみたいに、大いびきをかきはじめたものでした。
さて、教王《カリフ》は垂幕の蔭で、これを御覧になりお聞きになって、もうすこしで窒息してしまいなさるほど、笑いに揺すられなさったのでした。
アブール・ハサンのほうは、彼は首尾よく眠ることができませんでした。それというのは、彼のお気に入りの「砂糖黍《さとうきび》」が、受けた指図に従って、彼が眠りもしないでいびきをかいている寝床に近づき、寝床の縁《へり》に坐って、優しい声で、アブール・ハサンにこう言ったのです、「おお、信徒の長《おさ》よ、おそれながら陛下にお知らせ申し上げます。今は朝の礼拝のため、お目覚めになる時刻でございます。」けれどもアブール・ハサンは、籠《こも》り声で、夜具の下から叫びました、「悪鬼は懲らしめられよかし。退《さが》れ、おお悪魔《シヤイターン》。」砂糖黍は少しも騒がず、語をついで、「信徒の長《おさ》におかれましては、きっと悪夢を御覧遊ばされていらっしゃいます。かく申しておりますのは、悪魔《シヤイターン》ではございません。おお、お殿様、小さな砂糖黍でございます。悪魔退散。わたくしは小さな砂糖黍でございます、おお信徒の長《おさ》よ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十五夜になると[#「けれども第六百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉に、アブール・ハサンは夜具をはねのけ、眼を開けてみると、なるほど、寝床の縁《へり》には、自分の気に入りの小さな砂糖黍が坐っているし、自分の前には、三列に並んで他の乙女たちが立っていて、その一人一人がちゃんとわかります、「薔薇の花びら」「雪花石膏の項《うなじ》」「真珠の花束」「暁《あけ》の星」「曙《あけぼの》」「麝香の粒」「柘榴の心」「珊瑚の口」「肉豆蒄《にくずく》」「心の力」その他。これを見ると、彼は両の眼を、頭蓋骨のなかに押しこむばかりに強くこすって、そして叫びました、「お前たちは誰か、そしておれは誰か。」すると乙女たち一同は別々の音調で、声を揃えて答えました、「信徒の長《おさ》、世界の王、われらの御主君|教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードに、栄光あれ。」アブール・ハサンは驚愕の極、尋ねました、「それじゃおれは放蕩者アブール・ハサンではないのか。」一同は別々の音調で、声を揃えて答えました、「悪魔退散。わが君はアブール・ハサンではなく、アブール・ホスン(6)でいらっしゃいます。われらの君主、われらの頭上の冠にましまする。」するとアブール・ハサンは考えました、「今度こそは、おれは眠っているのか、目が覚めているのか、よくたしかめてみよう。」そして砂糖黍のほうに向きながら、これに言いました、「小さな子よ、こっちに来なさい。」そして砂糖黍が頭を差し出すと、アブール・ハサンはこれに言いました、「おれの耳を噛んでくれ。」それで砂糖黍は小さな歯を、アブール・ハサンの耳朶《みみたぶ》にさしこみましたが、それがひどくきつかったので、彼は物すごく、わめき散らしはじめました。それから叫びました、「たしかに、われこそは信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードその人であるぞ。」
すぐに楽器がそれと同時に、心を浮き立たせるような調子で、踊りの一曲を奏しはじめ、歌姫たちは活溌な歌謡を、合唱で歌い出しました。そして全部の乙女たちは、手を取りあって、室内で大きな輪をつくり、足を軽々とあげながら、元《もと》になる歌に繰り返しを入れて答えつつ、寝床のまわりを踊りはじめましたが、それがいかにも景気よく、羽目をはずして浮きうきとしていたので、アブール・ハサンは突如興奮し、熱狂に襲われて、夜具も座褥《クツシヨン》もはねのけ、夜帽を空中に放りだし、寝床から飛び出し、着物をむしりとりながら素っ裸になり、そして陰茎《ゼブ》を突き出し、尻をまる出しにして、乙女たちの間に飛びこんで、いろいろさまざまに身をひねりながら、一緒に踊り出し、けたたましい笑いとますます高まるさざめきのただ中で、お腹《なか》と陰茎《ゼブ》とお尻を振り振り踊るのでした。そしてさんざんおどけ散らし、いかにも身振り手振りを面白おかしくやってのけたので、垂幕の蔭の教王《カリフ》は、もう哄笑の爆発をこらえきれなくなられ、高々と呵々大笑を発しつづけはじめなされて、そのお笑い声は、踊りの騒ぎも、歌も、タンバリンや絃楽器や管楽器の響きも、圧してしまったほどでした。そして教王《カリフ》はしゃっくりに襲われて、尻餅をおつきになり、もうすこしでお気を失いそうになられました。けれどもどうやらお立ち上がりになり、そして垂幕をかき分けて、お頭《つむ》をお出しになり、叫びなさいました、「アブール・ハサン、やあ、アブール・ハサンよ、いったいその方は、余を笑いで窒息死させようと誓ったのであるか。」
教王《カリフ》のお姿を拝し、お声を聞くと、踊りははたとやみ、乙女たちはそれぞれ自分のいる場所に、じっと立ち尽し、物音は完全にとだえて、床に針の落ちる響きさえ聞えるばかり。それでアブール・ハサンはびっくりして、他の人たちのように立ちどまって、声のする方向に頭をめぐらしました。そして教王《カリフ》のお姿を認めますと、同じひと目で、そこにモースルの商人を見つけました。すると、きらめく電光のように速やかに、今までわが身に起ったすべての原因の理解が、さっと彼の頭に浮びました。そしてとたんに、一切の冗談を見抜きました。ですから、あわてたりふためいたりするどころか、彼は教王《カリフ》の御身《おんみ》が一向わからないようなふりをしました。そして今度は自分もひとつ楽しんでやれと思って、教王《カリフ》のほうに進みよって、これにどなりました、「あっはっは、ここにいたな、おお、おれの尻《けつ》の商人よ。待っていろ、正直な人々の家の戸を開け放しにする方法を、どうやっておれがお前に教えてやるか、これからお目にかけるからな。」すると教王《カリフ》は、声を限りに笑い出されて、お答えになりました、「わが聖なる祖先の御功績にかけて、おお、わが兄弟、アブール・ハサンよ、われらがその方に惹き起したるあらゆる苦難を償うため、余は誓約いたす、その方の魂の望み得る何なりと、すべて授けとらするぞよ。してその方は今後、わが王宮において、わが兄弟として遇せらるるであろう。」そして彼をば、お胸にぴったりと引きよせながら、心をこめて接吻なさいました。
そのあとで、教王《カリフ》は乙女たちのほうを向かれて、御専用の衣裳箪笥から衣服を取り出したなかでいちばん立派でいちばん豪奢なものを選んで、わが兄弟アブール・ハサンに着せよと、御命じになりました。乙女たちはいそぎ御命令を果たしました。そしてアブール・ハサンがすっかり着おえると、教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「さて今は、アブール・ハサンよ、申すがよい。その方の余に求むるところは、何なりと即座に授けとらするであろう。」するとアブール・ハサンは、教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して、お答え申しました、「われらの寛大なる御主君に、私のお願い申すことはただひとつ、それは私が終生、君の御蔭《おんかげ》に暮す御厚情を賜わることでございます。」教王《カリフ》はアブール・ハサンの気持のこまやかさに、この上なく御感《ぎよかん》あって、これに仰せられました、「その方の清廉珍重いたすぞよ、やあ、アブール・ハサン。されば、余は今よりして、その方をわが酒杯の相手ならびにわが兄弟として選ぶのみならず、昼夜時を分たず、謁見退出の許可なく、出入勝手たるべき許しをも授けとらせる。のみならず、わが伯父の娘ゾバイダ妃の部屋さえも、余人と異なり、その方には禁止されぬことといたす。余がそこに入るときには、昼夜いずれの時をも問わず、その方、余と共にあって苦しゅうない。」
同時に、教王《カリフ》はアブール・ハサンに、王宮内にすばらしい住居を当てがわれ、まず最初の俸禄として、金貨一万ディナールを賜わりました。そして彼にけして何ひとつ不自由させないように、御自身で見守ってやろうと、お約束なさいました。そのあとで、政務所《デイワーン》に国務を見にいらっしゃるため、彼のそばからお離れになりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十六夜になると[#「けれども第六百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると、アブール・ハサンは、今わが身に起ったところすべてを、母親に知らせに行くのを、これ以上おくれさせたくないと思いました。それで母親に会いに駈けつけ、これまで起った不思議な事実を、一部始終、こまかに話して聞かせました。しかしこれを繰り返しても益なきことでございます。そして彼は、母親の頭では、ひとりでそれがわかるようには到りかねそうだったので、これは教王《カリフ》御自身が、単にお慰みになりたいばかりに、こうしたすべての悪戯《いたずら》を彼になさったのだということを、説明せずにはいませんでした。そして付け加えて言いました、「けれども、結局万事は私の工合のいいようになったのだから、恩恵者アッラーのたたえられんことを。」次に彼は、きっと毎日会いに戻って来るからと約束しながら、いそいで母親と別れて、再び王宮への道をとりましたが、一方彼の教王《カリフ》との事件、またその新しい地位の噂は、その区全体に拡がり、区からバグダード全体に行きわたり、次には遠近の州にまで達したのでした。
さてアブール・ハサンのほうは、教王《カリフ》から御寵愛を受けても、尊大になったり、不愉快な男になったりするようなことはなく、いよいよ上機嫌と、快活な気象と、陽気さをますばかりでした。そして彼が教王《カリフ》をはじめ、王宮のあらゆる人々、大官も小官も、その才気縦横の機智と冗談で、楽しませないという日は、一日もございませんでした。それで教王《カリフ》ももう彼のお相手なしではすごされなくなられ、どこにでも、御専用の部屋部屋や、お妃シート・ゾバイダのところにまでも、彼をお連れになるのでした。これは大|宰相《ワジール》ジャアファルにすら、ついぞ賜わらなかった特別の恩典でございます。
ところで、ゾバイダ妃はまもなく、アブール・ハサンが教王《カリフ》と御一緒に婦人部屋《ハーレム》に来るごとに、いつも侍女のうちの一人、まさしく「砂糖黍」と呼ばれる女に、じっと目を注いでいて、その少女も、アブール・ハサンの注目を受けると、嬉しさに真赤になるのを、お気づきになりました。それゆえお妃はある日、御夫君に申されました、「おお信徒の長《おさ》よ、わが君もきっとわたくし同様、アブール・ハサンと少女砂糖黍の交わす、まぎれもない愛のしるしに、お気づきでございましょう。されば、この二人を結婚させたら、いかがなものでしょうか。」教王《カリフ》はお答えになりました、「それはよかろう。別に差支えはあるまい。それに余自身、ずっと前からそのことを考えてやるべきであったが、国事多端でその配慮を忘れておった。これは怪しからぬことであった。というのは、余はアブール・ハサンに、彼の家にまいった二度目の夜のおり、きっと選り抜きの妻を見つけてやると約束したのだからな。ところで、余は砂糖黍ならば十分その資格ありと思う。されば、今はわれらは両人に問いただして、果たして結婚が両人の好みに合うかどうか、見さえすればよかろう。」
すぐにお二人はアブール・ハサンと砂糖黍をお召しになって、両人双方結婚する気があるかどうか、お尋ねになりました。すると砂糖黍は、返事の代りに、この上なく真赤になるだけで、ゾバイダ妃の足許に身を投げて、感謝のしるしに、御衣の裾に接吻しました。しかるにアブール・ハサンは、お答えしました、「いかにも、おお信徒の長《おさ》よ、君の奴隷アブール・ハサンは、君の御寛仁に溺れる者でございます。けれども私としましては、その名が既に美質をよく現わしているこの愛らしい女子《おなご》を、妻としてわが家に迎える前に、お許しを得て、わが御主人ゾバイダ様から、これにひとつの問いをかけていただきたいものと存じまする……。」するとゾバイダ妃は、微笑なすって申されました、「して、その問いというのはどういうこと、おおアブール・ハサンよ。」彼はお答えしました、「おお、わが御主人様、私はわが妻が私の好むところを好むかどうか、知りたいと存じます。ところでこの私は、ありていに申し上げなければなりませぬが、おお、わが御主人様、私の珍重するただひとつの事どもは、酒による陽気と、御馳走による楽しみと、歌と佳詩による悦びでございます。さればもし砂糖黍が、これらの事どもを好み、その上、情けあり、御承知のことを決していやとは言わぬならば、おお、わが御主人様、私はこれを非常な愛情で愛することを承諾いたします。さもなくば、アッラーにかけて、私は独身を通します。」ゾバイダ妃は、この言葉に、お笑いになりながら砂糖黍のほうを向きなすって、お尋ねになりました、「お聞きだね……。お前の返事はどう。」すると砂糖黍は、頭で承知の意味の合図をして、お答え申しました。
そこで教王《カリフ》は、時を移さず、法官《カーデイ》と証人たちをお呼びになり、結婚契約書を認《したた》めさせました。そしてこの機会に、王宮では、三十日と三十夜にわたって大宴会と大祝典が催され、それが済むと、夫婦両人は心静かに、お互いに楽しみ合うことができました。そして夫婦は、食べ、飲み、笑いさざめいて、惜しみなく金を費《つか》いながら、生活を送りました。数々の御馳走の皿、果物、菓子、飲み物は、彼らの家では決して空《から》になることなく、彼らのあらゆる刻々は、悦びと歓楽に印《しるし》づけられました。ですから、しばらくたちますと、有金を宴会と遊楽に使い果たしたため、もう彼らの手中には一物も残っていないことになりました。そして教王《カリフ》は、国事|御軫念《ごしんねん》のため、アブール・ハサンのきまった俸禄を定めるのをお忘れになったので、彼らはある朝一文なしで目覚め、その日は、いつもすべて後払いにしてくれる仕出屋たちに、支払いができませんでした。そこでたいへん困ってしまいましたが、教王《カリフ》やゾバイダ妃に、何ごとであれお願いに行くことは、御遠慮から、いたしかねるのでした。それで両人頭を垂れて、今の立場について思案しはじめました。けれども一番にアブール・ハサンが、頭をあげて言うには、「なるほど、われわれは浪費しすぎたよ。だが私は、乞食みたいに、黄金《こがね》をもらいに行く恥をさらしたくはない。ましてや、お前自身がゾバイダ様に頂戴に行くなどもってのほかだ。だから私は、われわれに残されたとるべき手段を、とくと考えてみたのだよ。おお砂糖黍よ。」砂糖黍は溜息をつきながら、答えました、「おっしゃって下さいな。あなたの計画にいつでもお力添えしますわ。だって私たちは物乞いしにゆくわけにはゆかないし、それかといって、今さら暮し向きを変え、出費を削るわけにもいきませんもの、他の人たちが私たちを、今までよりか尊敬をこめずに見るおそれがありますからね。」するとアブール・ハサンは言いました、「おお砂糖黍よ、われわれが天運の定めによって、いろいろな羽目に陥ることになっても、お前は決して私に力添えをすることを辞さないだろうとは、私はかねてよく知っていた。いいかね、われわれにとって窮地を脱する手段は、もうただひとつしかないと知るがよい、おお砂糖黍よ。」彼女は答えました、「早くそれをおっしゃって下さい。」彼は言いました、「われわれが死んでしまうことだね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十七夜になると[#「けれども第六百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉に、若い砂糖黍は、おじけをふるって、叫びました、「いやよ、アッラーにかけて、私は死にたくはありません。そんな手段はあなたひとりだけで、おとりになるがいいわ。」アブール・ハサンは、動じもせず、怒りもせず、答えました、「ああ、女の娘よ、私は独身だったとき、独りにまさるものはないことを、よく知っていた。そして今お前の判断の浅はかさは、常にもまして、そのことをよくよく私に分らせるね。もし、そんなにあわてて私に返事をする代りに、私に説明を求める労を惜しまなかったら、お前は私の持ち出した、また今もう一度持ち出す、この死というものを、この上なく悦んだことだろうが。これは、われわれの余生を通じて要る黄金《こがね》を手に入れるために、いつわりの死を死ぬことで、決して本当の死を死ぬことじゃないのが、お前にはわからないのかね。」この言葉に、砂糖黍は笑い出して、尋ねました、「それで、どうするの。」彼は言いました、「まあ、お聞き。そして私の教えることを何ひとつ忘れてはいけないよ。こうするのだ。最初に死ぬのは私だからね、いったん私が死んだら、というよりはむしろ、いったん私が死んだふりをしたら、お前は屍衣を持ってきて、それに私をくるむ。それがすんだら、お前は私を今われわれのいるこの部屋のまん中に、定めの位置に安置する。顔の上にターバンをのせ、顔と足をメッカのほうに、聖なる聖殿《カアバ》の方角に向けてね。それからお前はけたたましい叫び声をあげ、めちゃくちゃに喚きたて、普通の涙も臨時の涙も流し、着物を引き裂き、髪をかきむしる真似をしはじめる。そしてお前が十分こうした有様になったら、今度は涙にかきくれ、髪をふり乱して、お前の御主人ゾバイダ様のところにまかり出て、むせび泣きといろいろの気絶に言葉をとぎれさせながら、切々たる文句で私の死をお話し申し上げ、次には床《ゆか》の上にぶっ倒れて、ひと時の間そのままでいれば、きっと薔薇水をふりかけてくれるから、それでびっしょりにならないうちは、正気に返らないというわけだ。そうすれば、おお砂糖黍よ、どういう工合にわれわれの家に黄金《こがね》がはいってくるか、お前にわかるだろう。」
この言葉に、砂糖黍は答えました、「なるほど、そういう死ならば差支えないわ。私はそれをうまく仕とげるように、お手伝いするのを承知します。」次に付け加えて、「けれどもこの私のほうは、いつどんな工合に、死ななければならないのでしょう。」彼は言いました、「まあ最初、今私の言ったことをするとしなさい。それから先は、アッラーがよしなにして下さるだろう。」そして付け加えました、「さあ、私は死んだよ。」そして彼は部屋のまん中に伸びて、死んだふりをしました。
そこで砂糖黍は、その着物を脱がせ、屍衣にくるみ、足をメッカの方角に向け、顔の上にターバンをのせました。それがすむと、けたたましい叫び声とか、めちゃくちゃの喚き声とか、普通の涙や臨時の涙とか、着物を引き裂くとか、髪をかきむしるとか、頬を引っ掻くとか、それらについてアブール・ハサンにするように言われたこと全部を、実演しはじめました。そして言いつけられたとおりの有様になると、|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》のように黄色い顔をして、髪をふり乱し、ゾバイダ妃のところにまかり出て、まず、巌《いわお》の心をもはり裂けさせるばかりの呻き声をあげながら、御主人の足許にばったりと倒れることからはじめました。
これを御覧になると、ゾバイダ妃は、既に砂糖黍が遠くであげたけたたましい叫び声と愁嘆の喚き声を、お部屋から聞きつけていらっしゃったので、お気に入りの砂糖黍がこんな有様になったのを御覧になって、死が彼女の夫アブール・ハサンにその業《わざ》を及ぼしたことを、もうお疑いになりませんでした。それゆえ、お嘆きの限りお嘆きになって、彼女の状態の必要とするあらゆる介抱を、御自身手を尽してなされ、彼女をお膝の上にのせて、何とか正気づかせなさいました。けれども砂糖黍は、泣き濡れて眼にいっぱい涙を湛え、そしてむせび泣きの間に、アブール・ハサンの名を洩らしながら、呻き、体を引っ掻き、髪を引っぱり、頬と胸を叩きつづけるのでした。そして最後に、とぎれとぎれの言葉で、夫が夜の間に食当りで死んだ旨を申し上げました。そして胸に最後のひと打ちを加えながら、付け足しました、「わたくしに残されたことはもう、今度は自分が死ぬばかりです。けれどどうかアッラーは、わたくしたちの御主人様のお命を、その分だけお延ばし下さいますように。」そして彼女はもう一度ゾバイダ妃の足許に崩折れて、苦しみのあまり気絶してしまいました。
これを見ると、全部の婦人たちが彼女のまわりで嘆きはじめ、生前自分たちを冗談と上機嫌であれほど楽しませてくれた、あのアブール・ハサンの死を惜しみはじめました。そして女たちは自分たちの涙と嘆息でもって、薔薇水を振り注がれたため気絶から回復した砂糖黍に、自分たちがその愁嘆と苦しみを共にしていることを示しました。
ゾバイダ妃のほうは、侍女たちと一緒に、やはりアブール・ハサンの死を泣いていらっしゃいましたが、このような際に普通言われるあらゆる悔みの言葉をお述べになってから、最後に財務の女官を召して、申しつけなさいました、「いそいで私専用の内帑金《ないどきん》から、一万ディナールの金貨ひと袋をとりに行って、このかわいそうな、泣き沈む砂糖黍のところに届け、夫のアブール・ハサンのお葬式を、立派に取り行なうことができるようにしてあげなさい。」女官は取りいそぎ御命令を実行し、宦官の背に金貨の袋を背負わせて、それをアブール・ハサンの住居の戸口に置かせにやりました。
それからゾバイダ妃は、わが侍女に接吻して、さらに優しいお言葉をいろいろかけて慰めなさり、出口までお見送りになりながら、申されました、「どうかアッラーはお前の悲しみを忘れさせて下さり、おお砂糖黍よ、そしてお前の痛手をお治しになって、故人の失ったすべての歳月だけ、お前の命を延ばしたまいますように。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十八夜になると[#「けれども第六百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして泣き濡れた砂糖黍は、泣きながら御主人様のお手に接吻して、ただひとり自分の住居に戻りました。
そこで彼女は部屋にはいりますと、そこにはアブール・ハサンがずっと死人のように横たわり、屍衣に包まれて、自分を待っておりましたが、彼女は、はいりながら戸を閉めて、まず幸先のよい高笑いをいたしました。そしてアブール・ハサンに言いました、「さあ死人たちの間から立ち上がりなさい、おお策略の父よ、そして私と一緒にこの黄金の袋、あなたの計《はかりごと》の果実を、引っ張りにきて下さい。アッラーにかけて、まだ今日のところは、私たちは餓え死しないでしょうよ。」そこでアブール・ハサンは、妻に手伝わせて、いそいで屍衣を脱ぎ棄て、両足で跳び起きながら、黄金の袋のところに駈けつけ、それをば部屋のまん中に引いて来て、そのまわりを一本足で踊りまわりはじめました。
そのあと、彼は妻のほうに向いて、事の成功を祝い、そして言いました、「だがこれで終りではない、おお妻よ。今度はお前が、私のしたように死ぬ番で、私が金袋をせしめる番だ。そうすれば、お前がゾバイダ様のところでうまくやったに劣らず、私が教王《カリフ》のところでうまくやれるかどうか、わかるというものだ。それというのは、教王《カリフ》は昔私をひどい目にあわせて散々お慰みになったのだから、今度は何も教王《カリフ》ばかりが悪戯《いたずら》で成功なさるわけではないことを、よく知らせてさしあげなければならないからね。しかし無駄話で時間を潰《つぶ》すのは無用だ。さあ、お前は死んだんだぜ。」
そしてアブール・ハサンは、さっき妻が手ずから自分をくるんだ屍衣のなかに、今度は妻を納め、これを部屋のまん中に、ちょうどさっき自分の寝かされた場所に置き、足をメッカの方向に向けて、もう何ごとがあろうと、生きている素振りを見せるなと注意しました。そうしておいて、彼は自分も平生の身なりとは全く逆の様子をつくろい、ターバンを半ばほどき、玉葱で眼をこすってひどく涙が出るようにし、そしてわが着物を引き裂き、鬚をかきむしり、胸を拳《こぶし》ではげしく叩きながら、教王《カリフ》にお目にかかりにかけつけると、折から教王《カリフ》は、政務所《デイワーン》のまん中で、大|宰相《ワジール》ジャアファルや、マスルールや、大勢の侍従にかこまれていらっしゃいました。そして平生はあんなに快活で呑気なことを御承知の、あのアブール・ハサンが、このように悲しみ取り乱している様を御覧になると、教王《カリフ》は驚きと悲しみの極に達しなされて、政務会議を中止なすって、席をお立ちになり、アブール・ハサンの許に駈けよって、彼の苦しみの原因を話すようにとせき立てなさいました。けれどもアブール・ハサンは、眼にハンカチをあて、涙とむせび泣きをますます激しくして答えるばかり、そのうちやっと、千の溜息と千の気絶の振りの間に、砂糖黍という名を口から洩らして、申しました、「悲しや、おおかわいそうな砂糖黍、悲しや、おお薄倖の女よ。お前がいなくては、私はどうなることやら。」
この言葉と溜息に、教王《カリフ》は、アブール・ハサンが自分の妻砂糖黍の死を告げに来たとおわかりになり、この上なくお心を痛めなさいました。お目に涙が浮んできて、アブール・ハサンの肩にお腕をおかけになりながら、おっしゃいました、「アッラーはこれに御慈悲を垂れたまわんことを。そしてあの優しく愛すべき奴隷女から取りあげられたすべての日々を以って、その方の日々を延ばしたまわんことを。われらはあの女を、その方にとって悦びの種たらんがために、その方に与えたのに、今やかえって、愁傷の因《もと》となってしまった。憐れな女じゃ。」そして教王《カリフ》はさめざめとお泣きにならずにいられませんでした。そしてハンケチでお眼を拭《ぬぐ》われました。それでジャアファルはじめその他の大臣《ワジール》も、並みいる人たちも、同じくさめざめと泣いて、教王《カリフ》のなされたように、みな眼を拭いました。
次に教王《カリフ》はゾバイダ妃と同じお考えをお持ちになり、財務官を召して、申しつけなさいました、「即刻アブール・ハサンに、その亡き妻の葬儀費として、一万ディナールを数えよ。そしてそれを彼の住居の戸口に届けさせよ。」財務官は承わり畏まってお答えし、いそぎ御命令を果たしに行きました。アブール・ハサンは、前にもまして泣き濡れて、教王《カリフ》のお手に接吻し、むせび泣きながら退出しました。
砂糖黍がずっと屍衣に包まれて、自分を待っている部屋に着きますと、彼は叫びました、「どうだ、お前はお前ひとりが、自分で流した涙だけの金貨を儲けたつもりでいるかな。さあ、私の袋を見るがいい。」そして彼はその袋を部屋のまん中に引っ張ってきて、手を貨して砂糖黍を屍衣から出してやってから、これに言いました、「そうだ、しかしこれで終りではない、おお妻よ。今度は、われわれの計《はかりごと》がばれたおりに、われわれの身に、教王《カリフ》とゾバイダ妃のお怒りを招かないですむようにすることが問題だよ。
そこでつまり、われわれはこうするのだ……。」そして彼はこれについての自分の意中を、砂糖黍に知らせることに取りかかりました。彼ら二人については、以上のようでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四十九夜になると[#「けれども第六百四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼ら二人については、以上のようでございます。ところで教王《カリフ》におかれましてはどうかと申しますと、その日は政務会議を早くお切り上げになって、これを終えなさると、さっそくマスルールをお連れになって、ゾバイダ妃の御殿に、お妃《きさき》のお気に入りの奴隷の死について、お悔みを述べにいらっしゃいました。そしてお妃のお部屋の扉を半ば開けて見なさると、お妃はお寝床の上に横になって、侍女たちに取りまかれ、お目の涙を拭かれ、慰められていなさるのでした。それで教王《カリフ》はこれにお近づきになって、おっしゃいました、「おお叔父の娘よ、憐れなお気に入りの砂糖黍の失った歳月を、どうかそなたが生きることが叶うように。」このお悔みの御挨拶に、ゾバイダ妃は、御自分からアブール・ハサンの死についてお悔みの御挨拶を申し上げようと、教王《カリフ》のお出でを待っていなすったおりとて、この上なくお驚きになり、これは教王《カリフ》が聞きちがえなすったものと思われ、お叫びになりました、「わたくしの気に入りの砂糖黍の生命が、守られまするように、おお信徒の長《おさ》よ。むしろこのわたくしこそ、君の御愁傷を共にいたさねばなりませぬ。どうかわが君は恙《つつが》なく、お相手の今は亡きアブール・ハサンよりも、末永く生きながらえ遊ばすことが叶いまするように。事実、わたくしがこのように悲しんでいるのを御覧遊ばされるにせよ、それは君の御友人の死のためにほかなりませず、決して砂糖黍の死のためではございません。あの子は、アッラーは祝福されてあれ、達者でおりまする。」
このお言葉に、教王《カリフ》は、およそ真相をまちがいなく知っていると信じなさる、あらゆる最上の理由をお持ちのこととて、御微笑を禁じ得ない次第で、マスルールのほうに向いて、おっしゃいました、「アッラーにかけて、おおマスルール、この汝の女主人の言葉をどう思うか。この女性《によしよう》は、平生はあのように分別あり聡明であるが、今や他のあらゆる女と少しも変りなく、ぼんやりしておるわい。要するに、女はいずれも皆同じことというは、いかにもまことじゃ。余は妃を慰めに来たのに、妃は自から偽りと承知の知らせを余に告げて、余を苦しませ、余を欺こうと試みておるぞ。まあとにかく、汝自身、話してお聞かせ申せ。そして余と同様に汝の見聞したところを、申し上げよ。おそらく、さすれば、妃も言を改め、もはやわれらをだまそうとは試みまいぞ。」そこでマスルールは、教王《カリフ》のお言葉に従うため、王妃に申し上げました、「おお、わが御主人様、われらの御主君信徒の長《おさ》は正しくあらせられまする。アブール・ハサンは元気にて至極達者でございますが、しかしその妻の砂糖黍、あなた様のお気に入りの侍女が、昨夜食当りで亡くなり、それを失ったことを泣き、嘆いておりまする。事実、アブール・ハサンは、自身その妻の死を私たちに報じに政務所《デイワーン》にまいって、つい先ほど出て行ったところでございます。彼はわれらの御主君の寛仁に浴して、葬儀費一万ディナールの金貨の袋を賜わって、すっかり悄然として自宅に戻りました。」
このマスルールの言葉も、ゾバイダ妃を御納得させるどころか、教王《カリフ》がおふざけになるのだとばかり信じなさるお気持を、ますます強めるばかりでして、お叫びになりました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、今日はいつもなさるように、御冗談を遊ばす場合ではございません。わたくしは自分で申すことはよくわかっております。わたくしの財務官は、アブール・ハサンの葬式のためいくらかかったか、申し上げるでございましょう。われわれはむしろ、もっとわれわれの女奴隷の愁傷を共にしてやって、今しているように、漫然と節度なく、笑ってなどいるべきではございますまい。」教王《カリフ》はこのお言葉に、お腹立ちに襲われるのを感じなすって、お叫びになりました、「何を申すか、おお叔父の娘よ。アッラーにかけて、そなたは気でも狂ったのか、そのようなことを言うとは。余はきっぱり申す、死んだのは砂糖黍であるぞ。かつわれわれがこの件につき、これ以上永く論議するは無用のこと。余はわが申すところの証拠を見せてやろう。」そして長椅子《デイワーン》の上にお坐りになって、マスルールのほうに向かれ、これにおっしゃいました、「汝いそぎアブール・ハサンの住居に赴き、余としては余の知る証拠以外に必要ないとは申せ、夫婦のうちいずれが死したるか見届けてまいれ。そして速やかに戻って、われらに様子を告げよ。」そしてマスルールがいそいで御命令を果たしに行っている間に、教王《カリフ》はゾバイダ妃のほうをお向きになって、おっしゃいました、「おお叔父の娘よ、やがてわれわれ二人のうちいずれが正しいか、判明するであろう。しかしそなたが、かくも明白な事を、そのように言い張るからには、余はそなたの賭けたいものは何でも、そなたに対して賭けてやろう。」お妃は答えました、「賭けを承知いたします。わたくしは自分の持っている世の中でいちばん大切なものを、即ちわたくしの絵画館を、わが君のお申し出になるもの何なりと、それがどのように値《あたい》僅かなものでも、それと賭けとう存じます。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「そなたの挑戦に対し、余も自分の持っている世の中でいちばん大切なもの、即ち余の歓楽殿を、申し出る。思うにかくすれば、余はいかさまをせぬことになろう。何となれば、余の歓楽殿は、そなたの絵画館よりも、はるかに値も美しさもまさるからな。」ゾバイダ妃は、この上なく御不快に思われ、答えなさいました、「何も今、わが君の宮殿のほうがわたくしの館《やかた》よりもまさるかどうか、詮議立てして、これ以上争うこともございません。それについては、わが君の後ろで人々の申していることを、お聞きになりさえすればよろしゅうございましょう。問題はむしろ、わたくしたちの賭けに認証を与えることでございます。されば、わたくしたちの間にコーランの開扉《フアーテイハ》がありますように。」すると教王《カリフ》はおっしゃいました、「よろしい、われらの間にコーランの開扉《フアーテイハ》があるように。」そしてお二人は、お互いの賭けを確約するため、御一緒に聖典《キターブ》の序章を誦しなさいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五十夜になると[#「けれども第六百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてお二人はお互いの賭けを確約するため、御一緒に聖典《キターブ》の序章を誦しなさいました。そして睨《にら》みあいの沈黙のうちに、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールの戻るのをお待ちになりました。御両人のほうは、以上でございます。
さてアブール・ハサンのほうは、彼は今後起りそうなすべてを見守るために、見張っておりますと、そこにマスルールがやって来るのを遠くから見つけたので、彼が自分に会いに来る意中を察しました。それで砂糖黍に言いました、「おお砂糖黍よ、ほらマスルールがまっすぐわが家を指してやって来る。これはもう疑いなく、教王《カリフ》とゾバイダ様の間に、われわれの死について、悶着が持ち上がったにちがいないため、われわれのところに遣わされたのだ。だからまずは、教王《カリフ》が正しくて、ゾバイダ様がちがっていなさることにする必要があろう。お前はいそいで、もう一度死んだ振りをしなさい、すぐさま屍衣に包んでやるからな。」そこで砂糖黍はすぐに死んだ振りをして、アブール・ハサンはこれを屍衣に包み、前のように部屋に安置して、自分はすぐに、ターバンをほどき、しょげた顔をし、眼にハンカチを宛てて、そのかたわらに坐りました。
その瞬間に、マスルールがはいって来ました。そして部屋のまん中に屍衣に包まれた砂糖黍と、絶望にひたるアブール・ハサンを見ると、彼も感動を禁じ得ず、こう述べました、「アッラーのほかに神はなし。あなたの身の上に対する私の悲嘆は、一方ならぬものがある、おお、憐れな砂糖黍、われらの妹、おお、昔はあんなにおとなしくて優しかったあなたよ。あなたの天命はわれわれすべてにとって痛ましい。あなたを創《つく》りたもうた御方《おんかた》の許へと帰る御命令は、あなたにとって何と速やかであったことか。せめては、報賞者によって御憐《おんあわ》れみと御寵愛を辱《かたじけな》くすることができますように。」次に彼はアブール・ハサンに接吻し、心も悲しくいそぎ別れを告げ、自分の確かめたことを教王《カリフ》に御報告申しにまいりました。こうしてゾバイダ妃に、教王《カリフ》にお逆らいになって、どんなに強情でまちがっていらっしゃったかを、おわからせ申すことは、彼には決して面白くないことではありませんでした。
そこで彼はゾバイダ妃のところにはいり、床に接吻してから、申しました、「願わくはアッラーはわれらの御主人様の御齢《おんよわい》を永からしめんことを。亡き女は部屋のまん中に屍衣に包まれ、その身体は既に屍衣の下にふくれあがり、悪臭を放っております。憐れなアブール・ハサンにつきましては、けだし妻よりも生き永らえること覚束《おぼつか》ぬことと存じまする。」
このマスルールの言葉に、教王《カリフ》はお悦びに心晴れ、御満足に清々なさいました。次に、お顔色がすっかり黄色くなったゾバイダ妃のほうに向かれて、おっしゃいました、「おお叔父の娘よ、絵画館を余の名に書き改めさせるはずの書記を呼び出すのに、何をぐずぐずしているのかな。」けれどもゾバイダ妃は、マスルールを罵りはじめなさって、御憤慨の極、教王《カリフ》に申されました、「この宦官の言葉なぞ、どうして御信用になれますか、嘘つきで、嘘つきの息子めが。ここでひと時前に、わたくしの気に入りの砂糖黍が、泣き濡れてアブール・ハサンの死を悼《いた》むのを、このわたくし自身見はしなかったでしょうか、またわたくしの奴隷たちも、わたくしと一緒に、見はしなかったでしょうか。」そして御自分の言葉に興奮なさって、お妃は御自分の|スリッパ《バーブジ》をマスルールの頭に投げつけ、彼をどなりつけなさいました、「ここを出て行け、おお犬の息子よ。」そこでマスルールは、教王《カリフ》よりももっとびっくり仰天して、これ以上御主人様をいらだたせようとはせず、身を二つに折りまげて、頭を左右に振りながら、いそいで逃げ出しました。
するとゾバイダ妃はお怒り満ちて、教王《カリフ》のほうに向かれて、申されました、「おお信徒の長《おさ》よ、いつの日かわが君が、あの宦官と示し合わせて、わたくしをこんなに悲しませ、ありもしないことをわたくしに信じさせようとなさるなど、わたくしは夢にも考えたことがございません。それと申すのは、あのマスルールの報告は、わたくしを苦しめるため、あらかじめ打ち合せてあったことは、もう疑えませんから。いずれにせよ、わたくしは、正しいのはわたくしであることを、はっきり証拠立てるため、今度はわたくしのほうから誰かやって、賭けに負けたのはわたくしたちのどちらであるか、見届けてこさせたいと存じます。そしてもしわが君のおっしゃるほうが真実とあらば、わたくしは気違いでございますし、わたくしたちの侍女も全部、その女主人と同じく気違いでございます。けれども反対に、もしわたくしが正しかったら、賭けの勝ちのほかに、あの失礼な松脂の宦官めの首を、賜わりとう存じます。」教王《カリフ》は、お従妹《いとこ》がどんなにいらだちやすいか、経験で御承知でしたので、すぐさまそのお望みすべてに御同意を与えなさいました。するとゾバイダ妃はすぐに、昔御自分を育てた、全幅の御信頼を置いていらっしゃる、年とった老女を召して、これに申されました、「おお乳母《ばあや》よ、時を移さず、われらの御主君|教王《カリフ》のお相手、アブール・ハサンの家に出かけて、その家で死んだのは誰か、アブール・ハサンか、妻の砂糖黍か、それだけ見届けておいで。そしてさっそく戻って、お前の見て知ったところを、わたくしに報告しておくれ。」乳母は承わり畏まってお答えし、年とった脚にもかかわらず、アブール・ハサンの家の方角指して、足を速めはじめました。
さて、わが家の前の人の往来を、注意深い眼で見守っていたアブール・ハサンは、難儀そうにやってくる年とった乳母の姿を、遠方に見かけました。彼は乳母がここに寄こされた動機を察して、妻のほうに向いて、笑いながら、叫びました、「おお砂糖黍よ、私は死んだよ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五十一夜になると[#「けれども第六百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……おお砂糖黍よ、私は死んだよ。」そしてぐずぐずしてはいられないので、彼は自分で屍衣に包《くる》まり、足をメッカの方角に向けて、床《ゆか》の上に横になりました。砂糖黍はその顔の上にターバンを載せ、髪を振り乱して、愁傷の叫びをあげながら、両頬と胸を叩きはじめました。ちょうどこのとき、年とった乳母がはいってまいりまして、そして見たところを見ました。それでたいそう心悲しく、乳母は泣き濡れた砂糖黍に近よって、これに言いました、「どうぞアッラーは、故人の失った歳月を、あなたの頭上に移して下さいますように。ああ、私の娘砂糖黍よ、今はあなたは、若い身空のただ中で、やもめとなって、たった独りにおなりだね。アブール・ハサンがいなくなって、いったいあなたはどうなることやらねえ、おお砂糖黍よ。」そして乳母はしばらくの間、一緒に泣きはじめました。それから彼女に言いました、「ああ、わが娘よ、私は行かなければならないのだよ、とても行きづらいのだけれど。私は大急ぎで御主人のゾバイダ様のところに戻って、あの恥知らずの嘘つき、宦官マスルールめのせいで、お心を痛める御不安に陥っていらっしゃるのを、救ってさしあげなければならないのだよ。宦官めは、死があなたの夫のアブール・ハサンではなく、その代りにあなたを襲ったと、きっぱり申し上げたものだよ。」砂糖黍は、呻きながら言いました、「おお、私のお母さん、その宦官の言ったことが本当ならばよいのに。そうすれば何も私は、今しているように、夫の死を悲しんでこうしていないでよいものを。だけど、そうなるのもそんなに先のことじゃないでしょう。せいぜいおそくとも、明日の朝には、私は苦しみのあまり死んでしまって、地下に葬られることでしょう。」そしてその言葉を言いながら、ますます涙と溜息と嘆きを激しくしました。それで乳母は、前よりもいっそうほろりとして、もう一度彼女に接吻し、邪魔をしまいと、ゆっくり引きとって、後ろの戸を再び閉めました。そして御主人様に、自分の見聞きしたことを報告しに行きました。乳母は話し終ったとき、高齢の身をそんなに努めたもので、息を切らして坐りました。
ゾバイダ妃は乳母の報告を聞きなさると、威猛高《いたけだか》に教王《カリフ》のほうに向きなすって、申されました、「何よりもまず、君の奴隷マスルール、あの無礼な宦官を、絞首刑にしなければなりませぬ。」教王《カリフ》は困惑の極に達しなされ、すぐに御前にマスルールを来らせて、お怒りをこめて彼を見やり、その嘘を責めようとなさいました。けれどもゾバイダ妃はその暇も与えなさらず、マスルールの姿を見て激昂なさり、乳母のほうに向いて、申されました、「おお乳母《ばあや》よ、この犬の息子の前で、さっきお前が私たちに言ったことを、繰り返しおっしゃい。」すると乳母はまだ息切れがおさまらずにいましたけれど、マスルールの前で、報告を繰り返さないわけにはゆきませんでした。するとマスルールは、その言葉にかっとなって、教王《カリフ》とゾバイダ妃の御前にもかかわらず、乳母をどなりつけずにいられません、「ああ、この歯抜け婆め、よくもそう空々《そらぞら》しく嘘をついて、お前の白髪の品位を落すことができるものだ。私がこの眼で砂糖黍が死んで、屍衣に包まれているのを見なかったと、お前は私に信じさせる気かな。」すると乳母は息をつまらせ、かんかんに怒って頭を突き出し、どなりつけました、「嘘つきはお前ひとりしかいない、おお黒い黒人よ、お前の死刑は絞首なんぞじゃ足りない、こま切れにして、われとわが肉をお前に食わせてやらなければならないよ。」マスルールは言いかえしました、「黙れ、耄碌婆め。お前のでたらめ話なんぞ、後宮《ハーレム》の娘どもに話しに行きやがれ。」けれどもゾバイダ妃は、マスルールの無礼に我慢しきれなくなられ、突然泣きじゃくり出されて、彼の頭めがけて座褥《クツシヨン》やら、器《うつわ》やら、水差しやら、床几やらを投げつけ、その顔に唾をかけなさり、遂には疲れ果てて、お泣きになりながら、御自身お床《とこ》の上に、お身を投げ出されたのでした。
教王《カリフ》はこうしたすべてを見聞きなさったとき、困惑の極に達しなさって、両手を打ち合せて、おっしゃいました、「アッラーにかけて、マスルールばかりが嘘つきではないわ。余もまた嘘つきならば、乳母もまた嘘つき、またそなたも嘘つきじゃ、おお叔父の娘よ。」次に首《こうべ》をお垂れになって、それ以上何もおっしゃいませんでした。けれどもひと時たつと、首をあげて、申されました、「アッラーにかけて、われらは直ちに真相を知らねばならぬ。われらとしては、今はただアブール・ハサンの家にまいって、われら一同のうち誰が嘘つきで、誰が真実を語ったか、自身でたしかめて見るよりほかにいたし方ない。」そしてお立ち上がりになり、ゾバイダ妃にも同行をお頼みになり、マスルールと乳母と大勢の女官を従えて、アブール・ハサンの住居へと向われました。
さてこの行列がやってくるのを見ると、砂糖黍は、かねてアブール・ハサンに、きっとこのようなことになりかねないと、聞かされてはいたものの、たいそう心配げな、おろおろした態度を見せずにはいられず、叫びました、「アッラーにかけて、冷水罎は何度投げても、そのつど割れずにすむというわけにはゆかないわ。」けれどもアブール・ハサンは笑い出して、言いました、「二人とも死ぬとしよう、おお砂糖黍よ。」そして妻を床《ゆか》に寝かし、屍衣に包《くる》み、自分も長持から絹の布を取り出して、それに包まり、祭式に従って、顔の上に自分のターバンを載せることも忘れずに、妻のかたわらに横たわりました。彼が準備を終るやいなや、御一行が部屋にはいってまいりました。
教王《カリフ》とゾバイダ妃は、御眼《おんめ》の前に現われた喪の光景を御覧になると、じっと立ち尽して、お言葉もありませんでした。次に突然、ゾバイダ妃は、ほんの僅かの間に、これほど多くの激動を受けなすって、すっかり顛倒なされ、蒼白になり、お顔色を変え、侍女たちの腕の中に、お気を失って倒れてしまいなさいました。そして正気にお戻りになると、おびただしい涙をお流しになって、叫びなさいました、「悲しいことよ、おお砂糖黍よ。お前は夫より生き永らえることができずに、苦しみのあまり死んでしまったのね。」けれども教王《カリフ》は、これをそのように解釈なさりたくなく、それにやはり友のアブール・ハサンの死をお悼みになりつつ、ゾバイダ妃のほうにお向きになって、おっしゃいました、「いや、アッラーにかけて、苦しみのあまり死んだのは、砂糖黍ではないぞよ。憐れなアブール・ハサンこそ、妻の死よりも生き永らえることができなかったのじゃ。それはもうまちがいない……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五十三夜になると[#「けれども第六百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……教王《カリフ》は、これをそのように解釈なさりたくなく、それにやはり友のアブール・ハサンの死をお悼みになりつつ、ゾバイダ妃のほうにお向きになって、おっしゃいました、「いや、アッラーにかけて、苦しみのあまり死んだのは、砂糖黍ではないぞよ。憐れなアブール・ハサンこそ、妻の死よりも生き永らえることができなかったのじゃ。それはもうまちがいない。」そして言い添えなさいました、「それはそうなのじゃ。しかるにそなたは泣いたり、気を失ったりして、それでもって自分が正しいつもりでおるな。」するとゾバイダ妃はお答えになりました、「そしてわが君は、あの呪われた奴隷が嘘を申し上げたがゆえに、わたくしに対して御自分が正しいおつもりでいらっしゃいます。」そして言い添えなさいました、「それはそうでございます。けれどもいったいアブール・ハサンの召使たちは、どこにいるのでしょう。早く彼らを探してきておくれ。彼らが自分の主人たちを屍衣に包んだのであってみれば、彼らならばきっと、この夫婦のうちどちらが先に死んだのか、そして苦しみのあまり死んだのはどちらなのか、われわれに言うことができるでしょう。」すると教王《カリフ》はおっしゃいました、「いかにもそのとおりじゃ、おお叔父の娘よ。そして余は、アッラーにかけて、この消息を余に告げる者には、金貨一万ディナールを約束いたすぞよ。」
ところで、教王《カリフ》がこのお言葉を言い出されるやいなや、右側の屍衣の下から、ひとつの声が聞えて、こう申しました、「私にその一万ディナールを数えて下さい。私はわれらの御主君|教王《カリフ》にお知らせ申します。この私、アブール・ハサンが、二番目に、たしかに苦しみのあまり、死んだのでございます。」
この声に、ゾバイダ妃と女官たちは、恐怖に襲われて、戸口のほうに駈け出しながら、大きな叫び声をあげましたが、一方、反対に教王《カリフ》のほうは、すぐにアブール・ハサンのした悪戯をおさとりになって、たいへんな笑いに襲われなさり、部屋のまん中に尻餅をおつきになって、お叫びになったのでございます、「アッラーにかけて、やあ、アブール・ハサン、今度は余が笑いのあまり、死にそうじゃ。」
次に、教王《カリフ》がお笑いをやめ、ゾバイダ妃が恐怖からお立ち直りなさったとき、アブール・ハサンと砂糖黍とは、屍衣から抜け出して、一同どっと笑っているただ中で、自分たちがこんな冗談をするに到った動機を、お話しすることにいたしました。そしてアブール・ハサンは教王《カリフ》の御足下《おんあしもと》に身を投げ、砂糖黍は御主人様の御足《おみあし》に接吻して、二人ともたいそう神妙な様子で、お許しを願いました。そしてアブール・ハサンは付け加えました、「私が独身だったうちは、おお信徒の長《おさ》よ、私は金銭などには軽蔑の念しか持ちませんでした。ところが、君の寛仁のお蔭で賜わったこの砂糖黍は、まことに食欲旺盛にて、いくつもの金袋をその中身ごと食べてしまい、アッラーにかけて、教王《カリフ》の国庫をも、その財務官もろとも、全部食いつぶしてしまうこともできまする。」教王《カリフ》とゾバイダ妃は、改めて、大笑いなさいました。そしてお二人はこの両人をお許しになり、その上、アブール・ハサンの御返事によってせしめた一万ディナールと、さらに、両人が死から救い出されたからというので、別に一万ディナールを、その場で数えさせなさいました。
それが済むと、教王《カリフ》は、この小《ささ》やかな詐欺によって、アブール・ハサンの出費と入用についておわかりになって、友に今後定まった支給がないことを、お望みになりませんでした。そして財務官に、月々大|宰相《ワジール》の俸禄と同額のものを、彼に給するよう御命じになりました。そして今までにもまして、アブール・ハサンが御心友として、酒杯のお相手としてあることを、お望みになりました。そして一同すべて、友を分ち隔てる者、宮殿を壊《こぼ》つ者、墳墓を築く者、峻厳なる者、避け得ざる者の到るまで、この上なく楽しい生活のうちに、暮したのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、その夜は、こうしてこの物語を語りおえると、シャハリヤール王に言った、「これがおお王様、『眼が覚めながら眠っている男』につきまして、わたくしの知っている全部でございます。けれども、もし君のお許しあらば、わたくしは今ひとつ別の、ただ今お聞き遊ばされた物語を、はるかに、またいかようにも、凌ぐ物語をば、お話し申し上げとう存じまする。」するとシャハリヤール王は言った、「それをさし許す前に、まずその物語の表題を聞かせてもらいたい、シャハラザードよ。」彼女は言った、「それはザイン・アル・マワシフの恋[#「ザイン・アル・マワシフの恋」はゴシック体]の物語でございます。」王は言った、「その物語とはどのようなものか。余はそれを知らぬが。」シャハラザードは微笑して、言った。
[#改ページ]
ザイン・アル・マワシフの恋
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、非常に昔の時代と年月に、アニスという実もって美しい青年がおりまして、これはたしかにその時代でいちばん金持で、いちばん気前がよく、いちばん上品で、いちばん優秀で、いちばん気持のよい若者でございました。そのうえ彼は、女、友人、美食、詩歌、音楽、芳香、緑野、山水、散歩、その他ありとあらゆる愉楽など、およそ地上で好ましいものはすべて好みましたので、まことに幸多い生活の花盛りのうちに暮しておりました。
さて或る午後のこと、美男のアニスは、いつものように、自分の庭のいなごまめの木の下に横たわって、快い午睡をとっておりました。すると夢を見て、自分が四羽の美しい鳥と、目ばゆいばかり真白な一羽の鳩と一緒に、遊び楽しんでいるのでした。鳥を撫でたり、羽毛を整えてやったり、抱いたりして、ますます興が乗ってくると、そのとき突然、一羽の醜い大きな鴉《からす》が、嘴を突き出して、その鳩に飛びかかり、仲間の優しい鳥を追い散らして、鳩を攫《さら》ってゆきました。そこでアニスはすっかり悲しんで目が覚め、誰かこの夢を解き明してくれる人はいないかと思って、家を出ました。ところが長い間歩きまわっても、誰にも会いません。そこでもう自宅に帰ろうと思っていると、そのときふと、たいそう立派な構えの屋敷のそばを通りかかりました。そして近づいてゆくと、中から、美しい愁いを帯びた女の声が洩れるのが聞えて、次の詩句を歌っておりました。
[#ここから2字下げ]
爽やかの朝《あした》の快き香は、恋人らの心を揺する。されど捕われのわが心は、恋人らの自由の心なりや。
おお朝々《あしたあした》の爽やかさよ、しなやかの|かりろく《バーン》の小枝よりなお嫋《たお》やかの若鹿を恋う、わが心の思いにたぐうべき恋を、汝かつて鎮めしことありや。
[#ここで字下げ終わり]
アニスは、この声の調べが魂に滲み入るのを覚えました。それでこの声の持主を知りたい気持に促されて、半ば開いている門に近づいて、内部《なか》をのぞきました。すると見事な庭が見え、眼路《めじ》の及ぶ限りただ一面に、色どり快い花壇と、咲き乱れる棚と、薔薇、素馨、菫、水仙、その他千々の花の茂みがあるばかりで、そこにはアッラーの御空《みそら》の下に、歌う百千鳥《ももちどり》が住んでおりました。ですから、この場所の清らかな趣きに心惹かれて、アニスは門を越えて、庭に立ち入ることをためらいませんでした。すると緑氈の突き当りのところ、三つの拱門《アーチ》に断たれた小道のはずれに、寛《くつろ》いだ姿の乙女たちの、白い一群れが見えました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五十五夜になると[#「けれども第六百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……すると緑氈の突き当りのところに、三つの大きな拱門《アーチ》に断たれた小道のはずれに、寛《くつろ》いだ姿の乙女たちの、白い一群れが見えました。彼はそちらに向って行くと、第一の拱門の下に着きましたが、そこには朱色の文字で刻まれた、次の銘が読まれました。
[#ここから2字下げ]
おお家よ、願わくは、悲しみは汝の敷居を越ゆることなく、時は汝の住者の頭上にのしかかることなかれ。
願わくは、おお家よ、汝永久に存して、汝の戸を歓待に開き、友らをして汝を狭きに過ぐと思わしむることなかれ。
[#ここで字下げ終わり]
彼が第二の拱門に着くと、ここには金文字で刻まれた、次の銘を読むことができました。
[#ここから2字下げ]
おお幸福の家よ、願わくは、汝末長く存せよかし、汝の茂み、汝の鳥の調べを悦ぶに到るまで。
友情の馨り、末長く汝を薫《くゆ》らしめよかし、汝の花、己がかくも美しきを知りて窶《やつ》るるに到るまで。
しかして汝の所有主ら、末長く晴れやかに生きよかし、汝の木々、己が果実の熟るるを見、蒼穹に新しき星辰の輝くに到るまで。
[#ここで字下げ終わり]
こうして彼が第三の拱門の下に着くと、そこには群青色の文字で刻まれた、次の詩句を読むことができました。
[#この行2字下げ] おお豪華と栄光との家よ、願わくは、汝、熱き光の下、快き闇の下に、時節と転変とにかかわらず、さながらに美しく永遠に在れよかし。
さて、この第三の拱門を越えますと、彼は小道のはずれに着きました。すると彼の前に、住居に通ずる洗い清めた大理石の階段の裾に、一人の乙女が見えました。十四歳を出てはいるのでしょうけれど、間違いなく、まだ十五歳にはなっていないでしょう。その乙女は天鵞絨《ビロード》の敷物の上に横になって、座褥《クツシヨン》にもたれています。そして他に四人の乙女がそのまわりを囲んで、かしずいていました。その乙女は月のように美しく白く、ほっそりとした眉毛は、貴い麝香で作った弓ほども細《ほそ》らかで、大きな黒い眼は、人殺し男殺しの色を帯び、珊瑚の口は、肉豆蒄《にくずく》の実ほども小さく、頤《あご》は完璧に向って、「われここに在り」と言っていました。たしかにこの乙女は、これほどの色香をもって、この上なく冷たく、この上なく無情な心をも、恋情で燃え立たせたに相違ありません。
ですから、美男のアニスはその美女のほうに進んで、地まで身をかがめ、わが手を胸と唇と額にあてて、言いました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おお、汚れなき女性の女王よ。」けれども乙女は彼に答えました、「おお、無礼なお若い方よ、あなたはどうして、御自分のものでもない禁じられた場所に、臆面もなくはいって来たのですか。」彼は答えました、「おお、わが御主人様、罪は私にはなく、あなたとこのお庭にございます。半ば開いた御門から、花壇や素馨や桃金嬢や菫のあるこのお庭を拝見し、花壇と花々と共にお庭全部が、ちょうど今あなた様のいらっしゃるこの場に坐る、美の月の前に、身をかがめているのを拝見しました。すると私の魂は、花と鳥と共に、ここに来て身をかがめ、敬意を表するようにと促す欲望に、逆らうことができませんでした。」すると乙女は笑い出して、彼に言いました、「お名前は何とおっしゃいますの。」彼は言いました、「あなた様の奴隷アニスと申します、おお、わが御主人様。」乙女は言いました、「あなたはとてもわたくしの気に入りました、やあ、アニス様。いらっしゃって、わたくしのそばにお坐りなさいませ。」
そこで乙女は彼を自分のそばに坐らせて、彼に言いました、「やあ、アニス様、わたくしちょっと気晴しがしたくてなりませんの。あなたは将棋がおできになりますか。」彼は言いました、「できますとも。」すると乙女は若い娘の一人に合図をすると、その娘はすぐに、黒檀と象牙造りで、四隅が金の将棋盤を持ってきました。駒は紅と白で、紅い駒は紅玉《ルビー》細工で、白い駒は水晶細工でした。そして乙女は彼に聞きました、「紅をお取りになりますか、それとも白になさいますか。」彼は答えました、「アッラーにかけて、おお、わが御主人様、白をいただきましょう。赤は羚羊《かもしか》の色で、その点からも、またその外いろいろの点からも、それはあなたにこそ、全くふさわしいですから。」乙女は言いました、「そうかも知れませんね。」そして駒を並べはじめ、いよいよ勝負が始まりました。
ところがアニスは、将棋の駒よりも、相手の魅力のほうにずっと注意を払って、巴旦杏の捏粉のように思えるその手の美しさと、白樟脳のようなその指の華奢《きやしや》と細さに、うっとりと心を奪われていました。そして遂には叫び出しました、「おお、わが御主人様、どうして私はこのような指を相手に、無事に勝負ができましょうか。」ところが乙女のほうは、勝負に一所懸命で、彼に答えました、「王手です。王手ですよ、やあ、アニスさん。あなたの負けよ。」次に、アニスが一向勝負に身を入れないのを見て、彼に言いました、「アニスさん、あなたがもっと勝負に本気になるように、私たちは一番百ディナールずつ、賭けることにしましょう。」彼は答えました、「結構です。」そして駒を並べました。すると乙女のほうでは、その名をザイン・アル・マワシフと申しましたが、彼女はそのとき、髪を蔽っていた絹の面衣《ヴエール》を取り去って、輝かしい光の柱のように現われ出ました。それでアニスは、どうしても自分の眼を相手から引き離すことができないで、相変らず自分が何をしているかわからない有様です。或る時は、白い駒を動かす代りに赤い駒を動かしたり、或る時は、筋をちがえて駒を進めたりで、とうとう一番百ディナールずつで、五番続けさまに、負けてしまいました。すると、ザイン・アル・マワシフは彼に言いました、「やっぱり前と同じように、あなたは本気になりませんね。ではもっと大きい賭けをいたしましょう。一番千ディナールにしましょう。」ところがアニスは、大金が賭かっているにもかかわらず、やはりまずくやって、その一番も負けてしまいました。すると、彼女は言いました、「ではあなたのお金《かね》全部と、わたくしのお金全部を賭けましょう。」彼は承知して、負けてしまいました。そうすると彼は、自分の店も家々も庭も奴隷も賭けて、次々に皆負けました。そして今は手の間に一物も残っていません。
するとザイン・アル・マワシフは、彼のほうに向いて言いました、「アニスさん、あなたはお馬鹿さんです。でもわたくしは、あなたがこの庭にはいって、わたくしと知ったことを、あなたに後悔させたくはございません。ですから、お負けになった分は全部お返し申します。アニスさん、お立ちになって、お出でになったところから、安らかにお帰り下さいませ。」けれどもアニスは答えました、「いいえ、アッラーにかけて、おお、わが女王様、私は自分の失くしたものなど、少しも惜しいと思いません。もしあなたが私の生命を欲しいとおっしゃるなら、即座に差し上げましょう。けれども、どうかお願いです、私を行かせてしまわないで下さい。」彼女は言いました、「あなたがお負けになったものは、もう取り返したくないとおっしゃるのなら、ではせめて、法官《カーデイ》と証人たちを呼びに行って、ここに連れて来た上で、わたくしのとった財産の法規通りの贈与証書を、調製させて下さいまし。」そこでアニスはすぐに、法官《カーデイ》と証人たちを呼びにゆきました。そして法官《カーデイ》は、ザイン・アル・マワシフの美しさを見て、思わず蘆筆《カラーム》を指から取り落しそうになりましたけれども、とにかく贈与証書を認《したた》めて、二人の証人に判を捺させました。そして立ち去りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五十六夜になると[#「けれども第六百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして法官《カーデイ》は、ザイン・アル・マワシフの美しさを見て、思わず蘆筆《カラーム》を指から取り落しそうになったけれども、とにかく贈与証書を認めて、二人の証人に判を捺させました。そして立ち去りました。すると、ザイン・アル・マワシフはアニスのほうを向いて、笑いながら、これに言いました、「さあ、ではアニスさん、もうお帰りになってもよろしゅうございます。わたくしたちはお互いに他人ですわ。」彼は言いました、「おお、わが女王よ、ではあなたは私の望みを遂げさせずに、私を行かせてしまいなさるのですか。」彼女は言いました、「アニスさん、あなたのおっしゃることを満足させてあげたいとは思いますけれど、まだわたくし少しお願いしたいことがございます。この外に、混り物のない麝香の嚢四腹《ふくろよはら》、竜涎香四オンス、最上等の金襴四千反、それに馬具をつけた牝騾馬四頭を、持って来て下さらなければなりません。」彼は言いました、「わが頭上に、おお、わが御主人様。」彼女は訊ねました、「どうやってそれらを買って下さいますの。あなたはもう何ひとつ持っていらっしゃらないのに。」彼は言いました、「アッラーがよしなにして下さるでしょう。私にはいくらも友達がいますから、入用なだけ金を貸してくれるでしょう。」彼女は言いました、「では、いそいでお願いしたものを持ってきて下さい。」それでアニスは、友人たちが助けてくれるものと少しも疑わず、友人に会いにゆくため、外に出ました。
するとザイン・アル・マワシフは、侍女の一人の、フーブーブ(1)という女に言いました、「あの方のあとをつけて、おおフーブーブよ、あの方の足取りをお探りなさい。そしておっしゃるお友達全部があの方を助けるのを断わって、何かと口実を設けて体よく追い払うのを見たら、お前はあの方に近づいて、こうおっしゃい、『おお、御主人アニス様、家《うち》の御主人ザイン・アル・マワシフ様は、今すぐあなたにお目にかかりたいからとお伝え申すため、私をおよこしになりました。』そして、御一緒にお連れ申して、応接の間に御案内しなさい。それから先はなるようになるでしょう。」フーブーブは承わり畏まって答え、いそぎアニスのあとをつけて、その足取りを追いました。
ザイン・アル・マワシフのほうは、自分の家にはいって、まず浴場《ハンマーム》に行って沐浴《ゆあみ》をすることにしました。浴後、侍女たちは彼女に、特別なお化粧に心要なあらゆる世話をいたしました。それから、脱毛すべきは脱毛し、擦《こす》るべきは擦り、薫らすべきは薫らし、延ばすべきは延ばし、縮めるべきは縮めました。それから、純金の刺繍をした衣服を着せ、頭には銀の薄板を置いて真珠の豪奢な宝冠を支え、宝冠は後ろのほうで合さって長く垂れ、両端は、それぞれ鳩の卵ほどの大きさの紅玉《ルピー》で飾られて、純銀のようにまばゆい両肩の上に垂れかかりました。それからその美しい黒髪を、麝香と竜涎香で馨らせて、これを二十五|編《あみ》に編み上げ、踵まで垂れさがらせました。女主人を飾り終え、さながら花嫁のようになると、侍女たちはその足許に身を投げて、感嘆に顫える声で、言いました、「どうぞアッラーは、あなた様を長くこの輝かしさのままに置いて、おお、私たちの御主人ザイン・アル・マワシフ様、そしてあなた様から永久に妬む人の眼差《まなざし》を遠ざけ、凶眼からお守り下さいますように。」そして、女主人が部屋のなかをしずしずと歩いてみている間にも、侍女たちは魂の奥底から、数々の讃辞を寄せることをやめませんでした。
こうしているうちに、若いフーブーブは、美男のアニスが友人たちに助けを断わられて追い払われると、彼を連れて一緒に戻ってきました。そしてこれを、女主人ザイン・アル・マワシフのいる広間に案内しました。
美男のアニスは、まばゆいばかりの美しさのザイン・アル・マワシフを認めると、目がくらんで立ちどまって、自問しました、「はてこれはたしかにあの女《ひと》か、それとも、天国にしかいない花嫁の一人かしらん。」けれどもザイン・アル・マワシフは、アニスに感じさせた感銘に満足して、微笑を浮べながら彼のところに来て、その手をとり、広い長椅子《デイワーン》まで連れて行って、そこに坐り、彼を自分のそばに坐らせました。それから合図をすると、侍女たちはすぐに、全部銀だけでできている低い大きな食卓を持ってきましたが、その上には、次の美食についての詩句が刻んでありました。
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匙《さじ》を携えて、大いなるソース皿のうちに深く没し、これらの見事なる様々の料理をもて、汝の眼を悦ばせ、汝の心を悦ばしめよ。
シチューとフリカッセ、焼肉と茹肉《ゆでにく》、ジャムとジェリー、揚げ物と天日《てんじつ》の下或いは蒸し鍋にて煮たる果物の砂糖煮。
おお、鶉よ、おお、雛鳥よ、おお、食用鶏よ、おお、感激の鳥肉よ、われは汝らを熱愛す。
また、汝仔羊よ、永くピスタチオに養われ、今はこの皿に葡萄を詰められてある、おお、珍味よ。
汝は、鶉、雛鳥、食用鶏のごとく翼なしといえども、われは汝を珍重す。
おお、|羊肉の串焼《カバーブ》よ、アッラー汝を祝福したまえかし。汝の金色はわれかつてこれを否むを見ることなかるべし。
また、汝、|馬歯※[#「くさかんむり/見」、unicode83a7]《すべりひゆ》のサラダ、この鉢にあって橄欖の魂そのものを飲む汝、わが精神は汝のものなり、おおわが友よ。
おおわが心よ、皿の底、新鮮なる薄荷の上に坐る、この一対の魚を見て、わが胸中にて悦びに顫えよ。
しかして汝、幸いなるわが口よ、今は黙して、永く史伝の言い伝うらむこの珍羞《ちんしゆう》を食《くら》うを思え。
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すると侍女たちは、香り高い料理をいろいろ出しました。そこで二人は一緒に飽き足りるまで食べて、口を甘くしました。すると酒罎を持ってきたので、二人は同じ杯で飲みました。そしてザイン・アル・マワシフは、アニスのほうに身をかしげて、彼に言いました、「今私たちは一緒にパンと塩とを食べましたから、こうしてあなたは、わたくしのお客様になりました。ですから、今となってはどんな小さなものでも、かつてあなたの物であったものならば、それをわたくしが自分の物にしておけるなどとは、お思い遊ばすな。ですから、あなたの思し召し如何にかかわらず、わたくしがあなたに勝って取ったものは、全部お返し申します。」それでアニスは、前に自分の物であった財産全部を、贈物として受け取らないわけにまいりませんでした。彼は乙女の足下に身を投げて、厚く感謝しました。けれども乙女は彼を立ち上がらせて、彼に言いました、「もしあなたが、アニスさん、本当にこの贈物をわたくしに感謝したいとお思いになるのなら、わたくしの寝床までついてきて下さりさえすればよいのです。そこで、あなたが上手な将棋さしかどうか、今度こそ本気で、わたくしに見せて下さいませ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五十八夜になると[#「けれども第六百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアニスは、すっくと飛び起きて、答えました、「アッラーにかけて、おお、わが御主人様、あなたは寝床のなかで、白の王がどんな桂馬よりも強いことを、御覧になるでしょう。」こう言いながら、彼は乙女を腕に抱えて運び、この月を抱いて寝室に駈けこむと、侍女のフーブーブは室の戸を開けました。そこで彼は、練達した技術のあらゆる規則に従って、乙女と将棋を一番さし、更に二番、三番、以下十五番まで続け、王をあらゆる攻撃に於いて実に勇敢に活躍させたので、相手の乙女は、驚嘆すると同時に息を切らして、たしかに負けたと認めて、叫びました、「とても敵いませんわ、おお、槍と騎手の父よ。」次に付け加えました、「御身の上なるアッラーにかけて、おお、わが御主人様、王様にお休息なさるよう申し上げて下さい。」そして笑みをたたえて立ち上がって、その夜は、将棋を打ち切りました。
そこで、身も心も歓楽の大洋を泳ぎながら、二人はしばらく、お互いの腕のなかで休息しました。ザイン・アル・マワシフは、アニスに言いました、「これはたしかに勝ちいくさの休憩時間ですわ、おお、無敵のアニスさん。けれどもわたくしは、この上ともあなたの値打をよくわからせていただくため、あなたは詩歌の術にも将棋と同じように秀でていらっしゃるかどうか、承わりたく存じます。ひとつ私たちの邂逅《であい》と勝負のいろいろな挿話を、調べよく詠じて、よくそれを私たちの記憶にとどめるようにしていただけるでしょうか。」アニスは答えました、「それは造作もないこと、おお、わが御主人様。」そして彼は馨《かぐ》わしい臥床《ふしど》に坐って、ザイン・アル・マワシフが首のまわりに腕をめぐらし、やさしく愛撫している間に、次のすばらしい抒情歌を即吟いたしました。
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起き出でて、天国に於いてわがめぐり会いし、十四歳三カ月の乙女の物語を聞きたまえ。アッラーの御空《みそら》のあらゆる月よりも美わしき乙女なり。
乙女は羚羊《かもしか》、身を揺すり園を行けば、木々のしなやかなる瑞枝《みずえ》は乙女の方に身を屈《かが》め、小鳥らは乙女を讃えて歌いぬ。
われは姿を現わしてこれに言いたり、「君が上に平安《サラーム》あれ、おお頬なめらかの君、おお女王よ。われに告げて知らせたまえ、明眸によってわが狂気を起す女《ひと》の御名《みな》を。」
盃中の真珠の響きにまさる快き音色もて、乙女は言いぬ、「聞かずして君はわが名を自ら見出し得ずや。わが美質はかくも埋もれてありや。わが面《おも》の、そを君が眼《まなこ》に映し得ざるほど。」
われは答えぬ、「否、否。されば君は、疑いなく、『美質の飾り(2)』とこそ呼ばれたもうべし。われに施し物を授けたまえ、おお『美質の飾り』の君よ。
その御礼《おんれい》には、おお乙女よ、ここに麝香あり、竜涎香あり、真珠あり、黄金と宝玉とあらゆる宝石と絹物あり。」
そのとき乙女の微笑は一閃その若き皓歯の上に輝きて、乙女はわれに言いぬ、「ここにわれあり。われあり、わがいとしき眼よ。」
わが魂の恍惚、おおその解《ほど》かれし帯、おお現われし下着、おお裸形となりし肉身。おお金剛石。わが欲情《のぞみ》の飽き足るよ。接吻のさい立ちのぼる馨わしき薫り。無上の肌の香、凹《くぼ》みの熱気、おお爽やかさ、数々の接吻。
さあれ汝ら、われを咎むる誹謗者よ、ああ、汝らにしてこの乙女を知らば。さらば、われは汝らに、わがあらゆる陶酔を語らん、恐らくは汝ら解するならん。
その無量の髪は、夜の色なして、誇らかに、背の白き上に拡がって、地まで垂る。されど、その燃ゆる頬の薔薇は、地獄にも火を放つべし。
その細き眉は貴き弓なり。矢を孕むその瞼《まぶた》は人を殺《あや》め、その視線はひと条《すじ》ごとにひと振りの剣《つるぎ》なり。
その口は古酒の罎。その唾液は泉の水。その歯は海より取りしばかりの真珠の首飾りなり。
その項《うなじ》は、羚羊《かもしか》の項のごとく、優雅にして見事に刻まる。その胸は大理石の卓にして、その上に二つの伏せたる盃休らう。
その腹には、最も豊かなる香を薫らす凹みあり。その下は、わが待望の国境、ふっくらと肥え、王の玉座のごとく高く、栄えの二本の円柱の間に鎮座するは、いかなる賢人をも狂気せしむる者なり。
或いは滑らかに、或いは鬚あり、極めて感じやすくして、人これに触るれば、騾馬のごとく、怖気立つ。
その眼は赤く、その唇は肉厚く柔らかし、その鼻面《はなづら》は爽やかにして心地よし。
もし汝、雄々しくこれに近づかば、そは熱く、逞しく、果敢にして豪奢、疲れも、突撃も、交戦も辞さざるを見ん。
かくて君は、おおザイン・アル・マワシフよ、魅力と慇懃に欠くるところなし。さればこそわれは、われらの夜の歓びも、われらの恋の美わしさをも、遂に忘るることあらじ。
[#ここで字下げ終わり]
自分を讃えて即吟したこの抒情歌を聞くと、ザイン・アル・マワシフは、嬉しさにうっとりとして、喜びの限り喜びに溢れました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五十九夜になると[#「けれども第六百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……自分を讃えて即吟したこの抒情歌を聞くと、ザイン・アル・マワシフは、嬉しそうにうっとりして、喜びの限り喜びに溢れました。そしてアニスを抱きながら、これに言いました、「おおアニスさん、何とお上手なのでしょう。アッラーにかけて、わたくしはもうあなたと一緒でなければ、生きていたくございません。」そして二人は残りの夜を、さまざまの嬉戯《たわむれ》や、愛撫や、交合《まじわり》や、その他そういったことをして、朝まで一緒に過しました。次の昼間はお互いにそばを離れず、或る時は休み、或る時は食べ飲み、夕方まで楽しみながら過しました。そして二人はこのようにして、ひと月の間、悦びと快楽の有頂天のうちに、暮しつづけました。
ところでひと月たつと、若いザイン・アル・マワシフは、実は人妻だったのですが、夫から手紙が来て、やがて帰るという知らせでした。それを読むと、彼女は叫びました、「あんな人は脚でも折ってくれればいい。醜さは遠ざけられるがよい。私たちの今の楽しい生活は、あの凶兆の顔が来ることで、乱されることになるわ。」そしてその手紙を友に見せて、彼に言いました、「私たちはどういう風にしたものでしょうか、おおアニス。」彼は答えました、「それは全くあなたに一任します、おおザイン。それというのは、計《はかりごと》や手管にかけては、女のほうがいつも男よりも上手《うわて》でしたからね。」彼女は言いました、「それはそう。だけど家《うち》の主人はとても乱暴な男で、その嫉妬《やきもち》ときたら果てしがないのです。私たちがあの人に少しも疑いを起させないというのは、とてもむずかしいことです。」そしてひと時考えに耽っていましたが、やがて言いました、「あの人の呪わしい帰宅のあとで、あなたをこの家にはいらせる手段《てだて》といえば、あなたを香水香料の商人ということにするより外に考えつきません。だからこの商売のことをよくお考えになって、とりわけ掛け引きのとき、何なりとあの人の気に逆らわないように、よく気をつけて下さい。」そして二人は、夫を騙すため用いる手段について、意見が一致しました。
こうしているうちに、夫は旅から戻ってきましたが、妻を見ると、足から頭まで真黄色なので、驚きの極に達しました。ところでこのずるい女は、あらかじめ|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》を身体《からだ》になすりつけて、自分でこういう有様にしておいたのです。それで夫はすっかり心配して、いったいどういう病気なのかと訊ねました。妻は答えて、「ああ、わたしがこんなに真黄色になったのは、それは病気のせいではなく、あなたのお留守中ずっと、わたしは淋しくて心細くてならなかったせいです。後生ですから、これから先旅行に出なさるときは、必ずあなたの身を守ったり、世話をしたりしてくれるようなお連れを、一緒に連れて行くことにして下さい。そうすれば、わたしはあなたのことを、これほど案じないですむでしょうから。」夫は答えました、「悦んでそうすることにしよう。わが生命《いのち》にかけて、お前の考えは全くもっともだ。どうぞお前の魂を安んじて、せいぜい昔のような輝かしい色艶に戻るようにしてくれ。」次に夫は妻に接吻して、自分の店にゆきました。というのは、彼はユダヤ教を奉ずる大商人だったからです。またその妻のあの乙女も、やはり同じくユダヤ人でありました。
さて、アニスは、やがて自分のする新しい商売について、あらかじめあらゆることを調べておいてから、その夫を店の戸口で待っておりました。そしてすぐさま近づきになるために、これに香料と香水を、相場よりもずっと安い値段で提供しました。ザイン・アル・マワシフの夫は、ユダヤ人共通の冷酷な魂を持っていましたが、この取引と、アニスの遣り方と行儀にすっかり満足して、その常《じよう》顧客《とくい》となりました。そして何日かたつと、十分な資本さえ出すなら、一緒に商売をしてもよいと申し出るまでになりました。アニスは、きっと愛するザイン・アル・マワシフに近づく機会が得られると思って、早速この申し出を承知し、自分も同じ希望を持っている、このように立派な御商人のお仲間になることは、まことに願わしいと答えました。そして両人は時を移さず、共同事業の契約書を認めて、市場《スーク》の顔役の二人の証人の前で、それぞれ捺印いたしました。
さてその当夜、ザイン・アル・マワシフの夫は、その共同事業契約を祝うため、自分の新しい仲間に、わが家に来て食事を共にしてくれるようにと招待しました。そして仲間を連れてゆきましたが、この男はユダヤ人なので、元来ユダヤ人たちは恥を知らず、自分の妻をよその人の眼から隠すことをしませんから、彼は客人に自分の妻を紹介しようと思いました。そこで妻に、自分の新しい仲間のアニスが来る旨を知らせに行って、妻に言いました、「これは金持で行儀のよい若者だ。お前も会いに来てもらいたい。」するとザイン・アル・マワシフは、この知らせに内心小躍りしたのですが、それでも自分の気持を見せないようにと、わざとこの上なく腹を立てたふりをして、叫びました、「アッラーにかけて、どうしてあなたは憚りもなく、おお鬚の父よ、よその人たちをわが家の奥深く入れたりなさるのですか。またどういう目でもって、あなたはわたしに、顔を出してにせよ隠してにしろ、よその人の前に出なければならないなどという、つらいことを強《し》いなさるのですか。あなたの上とわたしのまわりに、アッラーの御名《みな》のあれかし。あなたがお仲間を見つけたからといって、わたしは若い女としてふさわしい慎しみを、忘れなければならないのですか。いっそわたしは切り刻まれたほうがましです。」けれども夫は答えました、「何という無分別なことを、お前はいうのか、おお妻よ。それにいったいおれたちは何時《いつ》から、自分の妻を隠すことを掟とする、あの|回教徒たち《ムスリムーン》の真似をするように決心したのか。何という見当違いの恥らいか、何という場違いの慎しみか。われわれはモーゼ教徒だから、これについてのお前の心づかいは、モーゼ教徒としては行きすぎというものだ。」彼はこのように話しました。けれどもその魂のなかでは、彼はこう考えていたのです、「こんなに貞淑で、慎しみ深く、おとなしくて、遠慮深い女房を持つとは、わが家の上に何というアッラーの祝福があることか。」次に彼は言葉巧みに妻を説きはじめて、とうとう、妻自身が新しい仲間に歓待の勤めを果たしに出て来ることを、納得させてしまいました。
ところで、アニスとザイン・アル・マワシフは、会ったとき、自分たちが知合いなことを気取られないように、十分気をつけました。アニスは、食事中ずっと、物堅く眼を伏せて、非常な慎しみを装い、夫のほうしか見ません。それでユダヤ人は心中、「何という立派な若者だろう」と考えました。ですから、食事が終ると、彼はアニスに、明日もまた食事をつき合いに来てくれるように、誘わずにいませんでした。そこでアニスは翌日また来たし、その翌る日も来ました。そしてそのつど彼は、万事あっぱれ如才なく慎しみ深く、振舞いました。
けれども既にユダヤ人は、アニスが家に来るごとに起る、不思議な一事にびっくりしました。事実、この家には一羽の飼いならした鳥がいて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十夜になると[#「けれども第六百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……事実、この家には飼いならした一羽の鳥がいて、それはこのユダヤ人に育てられて、自分の主人がわかり、主人をたいそう慕っておりました。ところが、ユダヤ人の留守中に、この鳥は愛情をアニスに移して、その頭や肩にとまって、いろいろじゃれる癖がついてしまい、とうとう主人のユダヤ人が帰ってきても、もうよその人扱いにして、知らんふりをするようになってしまいました。そして今ではもう、主人の商売仲間の若いアニスのためにしか、歓びの囀りや、羽ばたきや、じゃれつくことをしないのです。そこでユダヤ人は心中考えました、「ムーサーとハールーン(3)にかけて、この鳥はおれを忘れてしまったわい。おれに対するこの鳥の仕打ちは、女房の気持をいっそう貴いものに感じさせるな、あいつときては、おれの留守の苦しみで、病気になったのだから。」このように彼は考えました。ところが今ひとつ不思議な一事が、間もなく彼をびっくりさせ、いろいろな悩ましい思いをさせたのでございます。
事実、彼は自分の妻が、アニスのいる前ではあれほど控え目で慎しみ深いのが、いったん眠りに入ると、実に妙な夢を見るのに気づきました。アニスの名前を呼び、この上なく熱烈な恋人たちが話すように話しかけながら、両腕を延し、息を弾ませ、溜息をつき、さまざまに身をくねるのです。ユダヤ人は幾夜もつづけてこの有様を認めて、すっかり驚き入って、思いました、「ムーサーの五書にかけて、これは、女というものはいずれも同じで、女のなかの一人が、おれの女房のように、操正しく、淑やかで、貞操を守っていると、たとえ夢を見ながらにすぎないにせよ、何とかして自分の悪い欲望を満さずにはいられないということを、おれに証明するものだ。悪魔退散。地獄の焔で作られたこういう人間どもは、何という災厄《わざわい》か。」次に彼は独りごとを言いました、「こいつはひとつ、女房をためしてみなければならん。もしあいつが誘惑を斥けて、やっぱり操正しく慎しみ深いとすれば、あの鳥の出来事と夢の出来事は、さしたることもない偶然の暗合のうちの、ひとつの暗合にすぎないわけだ。」
さて、いつもの食事の時刻になると、ユダヤ人は妻と商売仲間とに向って、自分は大口の商品の注文のため、奉行《ワーリー》のところに来るように呼ばれているからと告げ、自分が帰るまで、食事を待ってくれるように頼みました。次に彼は二人を残して、庭に出てゆきました。けれども奉行《ワーリー》のところにゆく代りに、彼はいそぎ引っ返して、わが家の二階に上《のぼ》りました。そこの、窓が集《つど》いの間《ま》に臨んでいる一室から、やがて下で起る様子を、窺うことができました。
ところで、その結果は永く待つまでもなく、二人の信じられないほど猛烈で熱烈な、接吻と愛撫の形をとって、明らかに現われました。彼は自分が姿を現わすことも、自分が奉行《ワーリー》のところへゆかなかったことを、二人に察しさせることも好まなかったので、やむなく、ひと時の間、二人の恋人ののぼせ上がった愛の表示を、黙って見ていなければなりませんでした。けれども、時間がたつのを辛い思いで待ってから、彼は二人に会いに下りて行って、まるで何事も知らないみたいに、笑顔を浮べて広間にはいりました。そして食事の間もずっと、努めて二人に自分の気持を気取られないように用心して、若いアニスに対しては、一段と鄭重に気を配りましたが、アニスは、いつもよりもっと、遠慮深く慎しみ深い態度を見せました。
ところがいよいよ食事が終って、若いアニスが帰ってしまいますと、ユダヤ人は心に思いました、「われらの主ムーサーの角《つの》にかけて、おれは二人の間を引き裂いて、やつらの心を焼き尽してやろう。」そこで懐中から一通の書状を出して、開いて読みました。次に叫びました、「これはまたもおれは、長旅に出なければならんことになった。というのは、この手紙は外国の取引先から来たのだが、大口の商売の話をつけるため、彼らに会いに行かなければならないのだ。」するとザイン・アル・マワシフは、この知らせを聞いて覚える悦びを少しも洩さず、言いました、「おお、わたしの大切な旦那様、それではお留守中、わたしをひとりでおいて、死なせなさるおつもりですか。せめてどのくらいの間、あなたはわたしから離れていらっしゃるのか、お聞かせ下さいまし。」夫は言いました、「まあ三年か、ひょっとすると四年になろうか。それよりも早くも遅くもなるまい。」妻は叫びました、「ああ、かわいそうなザイン・アル・マワシフ、いつまでたっても夫がそばにいて下さらないとは、お前の運命は何という運命でしょう。おお、わたしの魂の絶望よ。」けれども夫はこれに言いました、「いや、今度はもう絶望しないでもらいたい。それというのは、今度は、お前をひとりぼっちにして置いて、病気や悲しみに遭わせるといけないから、お前に一緒に行ってもらいたいと思うのだ。だからすぐ立ち上がって、侍女のフーブーブ、クートゥーブ、スークーブ、ルークーブ(4)に手伝わせて、出発の荷物や梱《こり》の荷造りをするがよい。」
この言葉に、がっくりとしたザイン・アル・マワシフは、顔色がすっかり黄色くなり、眼は涙に濡れて、ただのひと言も言い出せませんでした。夫のほうは、内心満足ですっかり晴々したのですが、たいそうやさしい口調で、妻に訊ねました、「どうしたのだい、ザイン。」妻は答えました、「何でもございません、アッラーにかけて。もうおそばを離れることもないと知って、この嬉しい知らせに少々動転しただけです。」
次に彼女は立ち上がって、侍女たちに手伝われながら、夫のユダヤ人の眼の下で、出発の準備をしはじめました。それでこの悲報を、どうやってアニスに知らせたものかわかりませんでしたが、やっとちょっとの間《ま》を利用して、入口の扉に、次のような友への別れの詩句を書きつけることができました。
[#ここから2字下げ]
名残り惜し、君、アニスよ。君は今ただひとりなり、心は深傷《ふかで》に血を流しつつ。
われらを相隔てしは、必要よりも嫉妬なり。わが苦痛と絶望を見て、悦びは妬む者らの魂の中に入れり。
さあれ、われはアッラーにかけて誓う、アニスよ、君ならで他の何ぴとも、われを得ることなかるべし、たとい千人の仲人《なこうど》を率いて、わが許に来るとも。
[#ここで字下げ終わり]
その後で、彼女は自分のために用意された駱駝に乗り、もはや再びアニスを見ることはあるまいと知って、家と庭に別れの詩を寄せながら、轎《かご》に潜り入りました。そして一行は、先頭にユダヤ人、まん中にザイン・アル・マワシフ、殿《しんがり》に侍女たちの順で、出発いたしました。ザインとその夫のユダヤ人のほうは、以上のようでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十二夜になると[#「けれども第六百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……ザインとその夫のユダヤ人のほうは、以上のようでございます。
ところで若いアニスのほうはと申しますと、次のようでございます。翌日、自分の商売仲間のユダヤ商人が、いつもとちがって、市場《スーク》に一向やってこないのを見ると、彼はたいそう驚いて、夕方まで来るのを待ちました。しかしやはり来ません。そこで彼は、こうした不参の原因を、自分で見にゆく決心をしました。そして入口の扉の前に着くと、あのザイン・アル・マワシフが自身で刻んだ銘が読まれました。そしてその意味がわかると、絶望に襲われて、動転して地に倒れてしまいました。やがて、愛人の出発によってひき起された感動がやや鎮まると、彼は近所の人たちに彼女の消息を訊ねました。こうして、その夫のユダヤ人が、妻を連れ、侍女たちとたくさんの荷物や梱《こり》を携え、非常な長旅のための食糧を持って、十頭の駱駝に乗って行ったということがわかりました。
この知らせに、アニスは気違いのように、淋しい庭のなかをさまよいはじめました。そして次の詩を即吟したのでした。
[#ここから2字下げ]
ここに佇みて、愛人を偲《しの》んで涙せん。ここに、かの人の庭の木々境を劃し、懐しき家聳え、かの人の残せし跡は、わが心中の跡と共に、北風も、南風も、これを消し去ること能わず。
かの人は出で立ちぬ。されどわが心はかの人と共にあり、駱駝の歩み急《いそ》がする刺棒に繋がれて。
ああ、来たれ、おお夜よ、来たってわが燃ゆる頬を冷やし、わが心を焼き尽す火を鎮めよ。
おお砂漠の微風よ、汝《な》が息吹はかの人の息に馨る。かの人は汝に、わが涙を乾かすための目薬を、凍《こご》ゆるわが身を再び燃やすための薬石を、伝えざりしや。
あわれ、あわれ、一行の指揮者は、夜の闇の間に、出発の合図を与えたり、朝風の息吹来たって、谷間を活気づけざるうちに。
駱駝は膝を折り、人々荷を作り、かの人は轎《かご》に入り、出で立ちぬ。
あわれ、かの人は出で立ちて、われをしてその足跡《あのと》の上をさまよわす。われはわが涙をもて砂塵を濡らしつつ、遥かにかの人の後を追うなり。
[#ここで字下げ終わり]
次に、こうして物思いと追憶に耽っていると、庭の棕櫚の木の一つに巣を作っている鴉が啼くのが、聞えました。そこで彼は次の詩節を即吟しました。
[#この行2字下げ] おお鴉よ、わが愛《いと》しき人の庭にて、汝なお何事のなすありや。来たって汝が不吉なる声をもて、わが恋の悩みを嘆くや。汝、わが耳に嗚呼、嗚呼と叫べば、疲れ知らぬ木魂《こだま》は、絶えず繰り返すなり、嗚呼、嗚呼、と。
次にアニスはこれほどの苦しみ、悩みにもう耐えかねて、地上に横たわると、眠りに襲われてしまいました。すると愛人は夢に現われて来ました。彼は彼女と一緒で仕合せでした。そして腕に彼女を抱きしめると、彼女も同じように抱きしめました。ところが突然夢破れて、幻は消え失せました。彼は次の詩句を即吟して、自ら慰めずにいられませんでした。
[#ここから2字下げ]
めでたし、恋人の姿よ。汝は夜の闇のただ中に現われて、しばしわが恋の激しさを鎮む。
ああ、夢こそは不幸の人々に残る唯一の幸福なり。さあれ、楽しき幻の消え失するとき、目覚めの涙はいかばかり更に苦き。
かの人はわれに語り、われに微笑み、くさぐさの優しき愛撫を尽す。われは地のあらゆる至福を手中に握る。しかしてわれは涙のうちに目覚むなり。
[#ここで字下げ終わり]
若いアニスはこのように嘆き悲しむのでした。そしてずっと人無き家の蔭に暮しつづけ、多少の食物をとりに自分の家に帰るだけで、あとはそこを離れませんでした。彼のほうは、このようでした。
さて出発した一行のほうは、くだんの町から一カ月の距離のところに達すると、停まりました。そしてユダヤ人は、海に臨む町から遠からぬところに、天幕《テント》を張らせました。そこで、妻の豪奢な着物を脱がせて、よくしなう長い木の鞭を掴んで、妻に言いました、「この賤しいふしだら女め、きさまの汚れた膚は、こいつでもってでなければ清められはしまい。さあ、あの野郎、来れるものなら来て、きさまをおれの手から救い出すがいい。あの釜掘られの若僧アニスめ。」そして妻の叫びと抗議にもかかわらず、ユダヤ人はあらん限りの力をこめて、痛々しく打ち据えました。次に彼は妻に、ちくちくする馬の毛の古外套を投げかけて着せ、そして町に蹄鉄工を探しに行って、さて蹄鉄工に言いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十三夜になると[#「けれども第六百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……さて彼は蹄鉄工に言いました、「ひとつこの女奴隷の両足に、しっかり蹄鉄を打ってもらいたい。それが済んだら、両手にもやってくれ。こいつをおれの乗り料にするのだから。」蹄鉄工は呆れ返って、この老人《シヤイクー》を見やって、言いました、「アッラーにかけて、人間に蹄鉄を打ってくれと頼まれたのは、これが初めてだ。そんな罰を受けるとは、いったい何をしたんですかい、この若い女奴隷は。」老人《シヤイクー》は言いました、「ムーサーの五書にかけて、おれたちユダヤ人は、おれたちの女奴隷の身持に文句がある時は、こういう罰を加えるのだ。」けれども蹄鉄工は、ザイン・アル・マワシフの美しさに目がくらみ、その器量にすっかり感じ入って、ユダヤ人を軽蔑と憤りをこめて見やり、その顔に唾を吐きかけて、乙女に手を触れる代りに、次の詩節を即吟しました。
[#この行2字下げ] おお騾馬よ、このかよわき足のさいなまるるに先立って、まず汝の全身に蹄鉄の打たれよかし。汝にもし分別あらば、まさに黄金の環をもって、この美わしき足を飾るならむ。何となれば、疑うなかれ、かくも美しき人間は、至高の審判者の御前《みまえ》に出頭せば、青天白日を宣せらるべし。
次にその蹄鉄工は、その町の奉行《ワーリー》に会いにかけつけて、ザイン・アル・マワシフの驚くべき美しさと、その夫のユダヤ人がこれに加えようとする惨酷な仕打ちを述べて、自分の見たところを訴え出ました。すると奉行《ワーリー》は警吏に、直ちに天幕《テント》に赴いて、その美しい女奴隷とユダヤ人と一行の他の女たちを、自分の前に連れて来るように命じました。警吏はいそいで命令を実行しました。そしてひと時たつと、戻ってきて、法廷に、奉行《ワーリー》の前に、ユダヤ人と、ザイン・アル・マワシフと四人の侍女、フーブーブ、クートゥーブ、スークーブ、ルークーブを入れました。奉行《ワーリー》はザイン・アル・マワシフの美しさに目がくらんで、これに訊ねました、「お前の名は何というか、わが娘よ。」女は腰をくねりながら、言いました、「あなた様の奴隷ザイン・アル・マワシフと申します、おお、われらの御主人様。」奉行《ワーリー》は訊ねて、「してそれなる、かくも醜き男は、何者か。」女は答えて、「これはユダヤ人でございまして、おお、わが御主人様、わたくしを父母から奪って、わたくしに暴行を加え、あらゆる種類の虐待をして、むりやりわたくしに、父祖たちの回教徒《ムスリムーン》の聖なる信仰をば、棄てさせようといたしました。そして毎日、拷問を加えて、そうやってわたくしの抵抗を打ち負かそうとするのでございます。わたくしの申しまするところの証拠には、おお、われらの御主人様、ここにしょっちゅうわたくしの受けている傷跡がございます。」そして彼女はたいそう慎しみ深く、両腕の上のほうを出して、そこについている条《すじ》を見せました。次に付け加えて、「それに、おお、われらの御主人様、尊敬すべきこの蹄鉄工さんは、このユダヤ人がわたくしに加えようとした野蛮な仕打ちを、証明して下さいましょう。またわたくしの侍女たちも、わたくしの言葉を確かめてくれましょう。わたくしはと申せば、わたくしは回教徒で、信徒でございます。そしてアッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なることを証言いたします。」
この言葉に、奉行《ワーリー》は侍女のフーブーブ、クートゥーブ、スークーブ、ルークーブのほうに向いて、一同に訊ねました、「お前たちの女主人の申すところは、まことなりや。」一同答えました、「そのとおりでございます。」そこで奉行《ワーリー》はユダヤ人のほうに向いて、眼をきらめかせて、怒鳴りつけました、「汝に禍いあれ、アッラーの敵め。何ゆえ汝はこれなる若き女を、その父母と家と祖国より引き離し、これを責めさいなみ、われらの聖なる宗教を棄てしめて、汝の呪われたる信仰の慄るべき誤謬のうちに、突き落さんとせしや。」ユダヤ人は答えました、「おお、われらの御主人様、ヤークーブとムーサーとハールーンの御首《おんこうべ》の生命にかけて、誓言いたします、この女は私の合法の妻でございます。」すると奉行《ワーリー》は叫びました、「こやつに笞《むち》を加えよ。」そこで警吏たちはユダヤ人を地に転ばして、足の裏に棒を百加え、尻に棒を百加えました。それでもなお、ザイン・アル・マワシフは自分の合法の妻だと抗弁し、主張しながら、叫びよばわり続けると、奉行《ワーリー》は言いました、「まだ白状しないとあらば、両手両足を切って、笞刑に処せ。」
この恐ろしい宣告を聞くと、ユダヤ人は叫びました、「ムーサーの神聖なる角《つの》にかけて、それ以外にわが逃がるる道はないとあらば、やむを得ない、白状します。この女は私の妻ではなく、その親許から攫《さら》ってきたものです。」すると奉行《ワーリー》は言い渡しました、「白状したからには、こやつは牢に入れよ。終生入牢じゃ。異教のユダヤ人輩は、かくのごとく罰せらるるがよい。」そこで警吏はすぐさま、その命令を実行しました。そしてユダヤ人を牢に引いてゆきました。この男はその異教と醜さのまま、きっと牢で死ぬことでございましょう。何とぞアッラーは、この男を決して御《おん》憐れみを垂れたまいませぬように。そしてこやつは、そのユダヤ人の魂を、地獄の最下層の劫火のなかに、沈めますように。けれども私たちは、信徒であります。私たちは、アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なることを、認めるものでございます。
さてザイン・アル・マワシフはと申しますると、彼女は奉行《ワーリー》の手に接吻してから、四人の侍女フーブーブ、クートゥーブ、スークーブ、ルークーブを連れて、天幕《テント》に戻り、駱駝曳きに命じて野営を撤し、愛するアニスの国を指して、出発することにしました。
さて、一行は恙《つつが》なく旅をつづけ、三日目の夕方になると、あるキリスト教の修道院のところに着きましたが、そこには四十人の僧と総大主教《パトリアルカ》とが住んでいました。この総大主教《パトリアルカ》はダニスといい、彼がちょうど修道院の門前に坐って涼んでおりますと、そこにこの美しい乙女が、駱駝に乗って、轎《かご》の外に頭を出しながら、たまたま通りかかったのでした。総大主教《パトリアルカ》は、この月の顔《かんばせ》を見ると、わが既に死んだ老骨が甦るのを感じて、両足と、背中と、心臓と、頭が、顫えてきました。そこで席から立ち上がって、この一行に停まるように合図をし、ザイン・アル・マワシフの轎の前に、地面まで身をかがめ、乙女に、下りて皆さんと一緒にお休み下さいと誘いました。そして夜道は追剥強盗が出没するからと断言して、しきりにその夜は修道院で過すようにとすすめました。ザイン・アル・マワシフは、たといキリスト教徒と修道士からでも、この歓待の申し出をことわるのは悪いと思って、轎を下り、四人のお供を従えて、修道院にはいりました。
さてダニス総大主教《パトリアルカ》は、ザイン・アル・マワシフの美しさと色香のため、恋情に燃え上がったものの……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十五夜になると[#「けれども第六百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……さてダニス総大主教《パトリアルカ》は、ザイン・アル・マワシフの美しさと色香のため、恋情に燃え上がったものの、自分の思いを打ち明けるのに、どうやったらよいかわかりませんでした。事実、事はなかなかむずかしいのです。最後に、彼は妙案を見つけたと思いましたが、それはこの修道院の四十人の僧のうち、いちばん雄弁な僧を、乙女のところに遣るということでした。そしてその僧は、総大主教《パトリアルカ》のために弁ずるつもりで、乙女の許に参りました。ところが、この美の月を見ると、彼はわが舌が口中で千本の紐で結ばれるのを覚え、反対に、腹の指が象の鼻のように持ち上がってきて、着物の下で雄弁に語る始末でした。これを見ると、ザイン・アル・マワシフは、フーブーブ、クートゥーブ、スークーブ、ルークーブと共に、喉いっぱいに笑い出しました。次に、僧が言葉なく、道具を突っ立てたままでいるのを見て、彼女は侍女たちに合図をすると、侍女たちはすぐ立ち上がって、僧を部屋の外に押し出してしまいました。
するとダニス総大主教《パトリアルカ》は、僧がすっかり悄然として帰ってくるのを見て、思いました、「こいつは口説きおとせなかったにちがいないな。」そこで第二の僧を差し向けました。第二の僧もザイン・アル・マワシフのところへ行ったものの、これにも、第一の僧に起ったとそっくり同じことが起きました。これまた追い出されて、頭を垂れて総大主教《パトリアルカ》のところに戻ったので、総大主教《パトリアルカ》は第三の僧、第四の僧、第五の僧と、以下第四十の僧まで遣わしました。だがそのつど、掛け合いにやられた僧はみな、総大主教《パトリアルカ》の用向きを述べることができず、父祖伝来の品をおっ立てる以外に、自分のいることを示さずに、空しく引き上げてくるのでした。
総大主教《パトリアルカ》はこうした有様を見ると、「自分自身の爪でもってわが身を掻くより仕方がなく[#「自分自身の爪でもってわが身を掻くより仕方がなく」に傍点]、自分自身の足でもって歩くより仕方がない[#「自分自身の足でもって歩くより仕方がない」に傍点]」という諺を、思い出しました。そしてこれは自分自身でやろうと、決心しました。
そこでおもむろに立ち上がって、重々しくゆったりとした歩調で、ザイン・アル・マワシフのいる部屋にはいりました。そして、次のような首尾でございます。部下の僧たちの場合そのままに、千本の紐に結ばれた舌と、道具の雄弁とについて起ったこと全部が、総大主教《パトリアルカ》にも起ったのであります。そして若い女とそのお供たちの笑いと嘲りの前に、彼もまた、鼻が足の先まで延びて、部屋を出ました。
さて総大主教《パトリアルカ》が出てゆくとすぐ、ザイン・アル・マワシフは立ち上がって、お供の女たちに言いました、「アッラーにかけて、私たちは少しも早く、この修道院を立ち退かなければいけません。あの恐ろしい僧たちと臭い総大主教《パトリアルカ》は、今夜私たちを犯しにやってきて、私たちは卑しい奴らに触れられて、身を汚すようなことがあっては大変ですから。」そこで闇に乗じて、五人とも修道院の外に忍び出て、再び駱駝に乗って、故国への道を続けました。彼女たちのほうは、このようでございます。
ところで総大主教《パトリアルカ》と四十人の僧につきましては、翌朝一同目が覚めて、ザイン・アル・マワシフが姿を消したのに気づくと、彼らは腸が絶望で捩じれるのを感じました。そして一同習慣通り、驢馬みたいに歌を誦えるため、彼らの教会に集まりました。けれどもいつもの聖歌と祈祷を唱う代りに、彼らの即吟したのは、次のようなものでした。
第一の僧は歌いました。
[#ここから2字下げ]
いざ、集まりたまえ、兄弟たちよ、わが魂、御身らと別るる前に。わが臨終の時は来たれり。
恋の火焔《ほむら》はわが骨を焼き、熱情はわが心を啖《くら》う。しかしてわれは、この地に来たって、その瞼《まぶた》の睫毛《まつげ》に投げられし死の矢をもて、われらすべてを射たる美女ゆえに、身を焦がす。
[#ここで字下げ終わり]
すると第二の僧は、次の歌でこれに答えました。
[#ここから2字下げ]
われを離れて遠く旅する君よ、何ゆえに、わが憐れなる心を奪いしに、われを伴いて共に行きたまわざりし。
君は去りぬ、わが静心を運びつつ。ああ、君やがて帰り来たって、御腕《みうで》のうちにわが玉の緒の絶ゆるを見たまわばや。
[#ここで字下げ終わり]
第三の僧は歌いました。
[#ここから2字下げ]
おお、御姿《みすがた》わが眼に輝き、わが魂を満し、わが心に住まう君よ、
君が思い出はわが心に甘し、蜜の小児の唇に甘きにまして。しかして、わが夢寐《むび》に微笑む君が皓歯は、アズラーイール(5)の剣よりも輝かし。
影のごと君は過ぎ行きぬ、わが臓腑に、身を焼く焔を注ぎつつ。
もし夢に、君わが臥床《ふしど》に近よりたまえば、臥床は涙にしとど濡るるを見たもうべし。
[#ここで字下げ終わり]
第四の僧は答えました。
[#ここから2字下げ]
われら口を噤まん、わが兄弟よ、しかして徒らの言葉を洩らすをやめよ、われらの痛む心を悲しましむるのみなれば。
おお美の満月よ。君への思慕はその輝く光をわが暗き頭上に拡げ、君はわれに限りなき情熱の火を放ちたり。
[#ここで字下げ終わり]
第五の僧は、啜り泣きながら、歌いました。
[#ここから2字下げ]
わが唯一の欲望《のぞみ》は、わが愛する女《ひと》。その美は月の輝きを消し、その唾は葡萄の尊き液よりも甘く、その腰の豊満はそを創りたまいし主を頌う。
今やわが心は、君を慕う恋の焔に焼き尽され、わが涙は、縞瑪瑙の雫のごとく、わが眼《まなこ》より流る。
[#ここで字下げ終わり]
すると第六の僧が続けました。
[#この行2字下げ] おお花咲き乱るる薔薇の瑞枝よ、おお御空の星よ、かの女《ひと》は今いずこ、われらの地平に現われ出で、致命の感化をもって、武器を借りず、ただその一瞥により、人を死なしむるかの人は。
それから第七の僧は、次の歌を歌い出しました。
[#ここから2字下げ]
わが眼《まなこ》は、かの君を失いて、涙に満つ。思いは募り、忍ぶる力は衰う。
おお、われらの路上に現われし、やさしき魅惑者よ。思いは募り、忍ぶる力は衰う。
[#ここで字下げ終わり]
こうして次々に、他の全部の僧も、順ぐりに即吟を歌い、最後に総大主教《パトリアルカ》の番になりますと、彼はそのとき啜り泣く声で、歌いました。
[#ここから2字下げ]
わが魂は乱れ騒ぎ、希望はわれを棄てぬ。
絶世の美女、われらの空を過ぎ、わが静心を奪いたり。
今や眠りはわが瞼《まぶた》よりのがれ、悲哀はわが瞼を焼き尽す。
主《しゆ》よ、われはわが苦悩を御身に訴え奉る。主よ、願わくは、わが魂魄去って、わが身を影のごとく消え失せしめたまえ。
[#ここで字下げ終わり]
一同それぞれ自分の歌を終えると、僧たちは顔を彼らの教会の敷石に押しあてて、永い間泣きました。それが済むと、一同で、記憶を辿って、逃げ去った女の肖像を描いて、それを彼らの異教の祭壇に掲げようと思い定めました。けれども、彼らはその計画を仕遂げることができませんでした。それというのは、彼らがその修道院のなかにわれとわが墓穴を掘って後、死が彼らを襲って、彼らの悩みにきりをつけたからでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十六夜になると[#「けれども第六百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼らがその修道院のなかにわれとわが墓穴を掘って後、死が彼らを襲って、彼らの悩みにきりをつけたからでございます。四十人の僧と彼らの総大主教《パトリアルカ》については、以上のようでございました。
さて旅の一行のほうは、アッラーの御注意はこれに安泰を記《しる》したもうて、不祥事のない旅ののち、恙《つつが》なく故国に到着いたしました。そしてザイン・アル・マワシフは、侍女に助けられて、轎《かご》を下り、わが家の庭に下り立ちました。そして住居にはいり、フーブーブをやって最愛のアニスに帰国を知らせるに先立ち、まずすぐに万端の準備をととのえ、寝台に貴重な竜涎香を馨らせました。
さてこの時、日々と夜々を涙のうちに暮しつづけていたアニスは、うとうとしながら、臥床《ふしど》に横になっていますと、夢を見て、愛人が帰ったのをはっきりと見ました。彼は元来夢を信じていたので、すっかり感動して起き上がり、夢が果たして正夢かどうかを確かめるため、すぐにザイン・アル・マワシフの家へと向いました。そして庭の門を越えました。するとすぐに、空中に、愛人の竜涎香と麝香の匂いを感じました。それで住居のほうに飛んでゆき、部屋にはいると、そこには既にザイン・アル・マワシフが、すっかり身支度をととのえて、彼の来るのを待っていました。二人はお互いの腕のなかに倒れて、長い間、思いの熱烈なしるしを互いに振りまき合いながら、抱き合っておりました。そして悦びと感動で気を失わないようにと、砂糖とレモンと花の水のはいった清涼飲料を満した、冷水壜から飲みました。その後で、二人は互いに、留守中起ったことすべてを話し合って、思いのたけを吐露しました。二人は互いに優しく愛撫し、相擁する時以外には、言葉をとぎらないのでした。その夜の愛の証拠の数と激しさは、ただアッラーのみが御存じでございます。翌日、二人はフーブーブに法官《カーデイ》と証人を呼びにやり、その場で、両人の結婚契約書を認《したた》めてもらいました。そして両人は共に、あの男女の若人を刈り倒す破壊者の到るまで、幸多い生活のうちに暮したのでございます。さあれ、その公正のうちに、美と快楽を配り与えたもう御方に、栄えと讃えあれ。して、その信徒に天国を取り置きたもうた、使徒たちの主《しゆ》の上に、祈りと平安あれかし。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードがこうしてこの物語を語り終えると、小さなドニアザードは叫んだ、「おお、お姉様、お言葉のなかには、何という味わい、何という楽しさ、何という清らかさ、何というすぐれたものがございましょうか。」するとシャハラザードは言った、「けれども、こうしたすべても、万一王様のお許しがございますれば、わたくしがさらに『無精な若者』について、お話し申したいと存じておりまするところに比べれば、そもそも何でございましょうか。」するとシャハリヤール王は言った、「いかにも、シャハラザードよ、今夜はさらに語るを許してとらせよう。何となれば、今のそちの言葉はわが意にかなったし、余は無精な若者の物語[#「無精な若者の物語」はゴシック体]を知らぬからな。」するとシャハラザードは言った。
[#改ページ]
無精な若者の物語(1)
他の多くの事どもの間で――語り伝えられまするところでは,ある日、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードが、玉座に坐っていらっしゃると,一人の年若い宦官がはいってまいりましたが、その手の間には、真珠や紅玉《ルビー》や、およそ最も値知れぬ、あらゆる種類の宝玉宝石をちりばめた、純金の王冠を一つ、捧げ持っておりました。そしてその少年の宦官は、教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して、申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、われらの御主人ゾバイダ妃は、わが君に御挨拶《サラーム》と敬意とをお伝え申し、あわせて、これなる、君もよく御存じの宝冠には、未だにその頂《いただき》に大いなる宝玉一|顆《か》を欠き、この空所を埋めるに十分美しい品を、遂に見出すことができなかった旨言上いたすため、私をお遣わしになりました。王妃はあらゆる所の商人の許で探ね求めなさり、御自分の宝物庫をもくまなくお探しになりましたが、しかし今日まで、未だにこの冠の上に載るにふさわしい石をば、見つけ出すことがおできになりませんでした。それゆえ、わが君御自身これについてお探し下され、希望を叶えて下さるようとの、お望みにございまする。」
すると教王《カリフ》は、大臣《ワジール》、貴族《アミール》、侍従、代官《ナワーブ》たちのほうをお向きになって、一同に申されました、「一同その宝玉を探し求めよ、ゾバイダの望むごとく大きく、見事な品を。」
さて、彼らはみんなでその宝玉を、自分たちの妻の宝石類の中から探してみましたが、しかしゾバイダ妃のお望みのようなものは、ひとつも見つかりませんでした。それで教王《カリフ》に、自分たちの捜索が無駄であったことを御報告申し上げました。その知らせに、教王《カリフ》はたいそうお胸せばまりなされて、一同に申されました、「いやしくも余は教王《カリフ》であり、地上の王中の王であるのに、たかが一個の石のごときつまらぬ物を手に入れるのが、余に叶わぬとは、いかなることじゃ。汝らの頭《こうべ》に禍いあれ。商人たちのもとにまいって、探し求めよ。」そこで彼らはあらゆる商人のところで探し求めましたが、商人たちは口をそろえて答えるのでした、「これ以上お探しなさいますな。われらの主《しゆ》教王《カリフ》におかれては、バスラの若者で、『ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマド』と呼ばれる男のところ以外では、その宝玉を見つけなさることはできますまい。」そこで一同|教王《カリフ》に、自分たちのしたことと聞いたことを御報告に行って、申し上げました、「われらの主|教王《カリフ》におかれましては、バスラの若者で、ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドと呼ばれる男のところ以外では、その宝玉を見つけなさることはできますまい。」
すると教王《カリフ》は、宰相《ワジール》ジャアファルに命じて、バスラの太守《アミール》に使いを派し,直ちにこのぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドなる者を探し出し、これを至急バグダードの、教王《カリフ》の御手の間に差し向けるよう、通告せよと仰せられました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十七夜になると[#「けれども第六百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでジャアファルは、すぐにこれについて書面を認《したた》め、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールに託して、これを大いそぎでバスラへ、町の太守《アミール》エル・ゾベイディ公のところに、自身持って行ってもらうようにいたしました。そしてマスルールは、時を移さず、その使命を果たすために出発しました。
バスラの太守《アミール》エル・ゾベイディ公は、教王《カリフ》の御書面に接すると、承わり畏まってお答え申しまして、教王《カリフ》の使節に、しかるべきあらゆる栄誉と敬意を表してから、衛兵をつけて、これをぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドのところに案内させました。そしてマスルールは程なく、この若者の住む御殿に着きますと、門口で,一群の立派な服装をした奴隷に迎えられましたので、これに言いました、「お前たちの御主人に、信徒の長《おさ》がバグダードにお召しである旨、伝えてもらいたい。」すると奴隷たちは、この旨を彼らの主人に伝えにはいりました。
ちょっとたつと、若いアブー・モハンマド自身が住居の敷居に現われて来て、教王《カリフ》の使節がバスラの太守《アミール》の衛兵と一緒にいるのを見ました。そこで彼は使節の前に、地面まで身をかがめて、申しました、「信徒の長《おさ》の御命令畏まってござりまする。」それから付け加えました、「さりながら、おお、いとも敬すべき方々よ、しばし入ってわが家に光栄あらしめていただきたく、お願い申し上げます。」マスルールは答えました、「貴殿のバグダード到着をひたすら待っておらるる信徒の長《おさ》の、火急の御命令ゆえ、われらはあまりここに永居するわけにはまいりませぬ。」彼は言いました、「ともかくも私に、旅支度をするに必要な時間ぐらいは、与えて下さらなければなりません。まあ入ってお休み下され。」マスルールとその一行は、形ばかり、なおも多少の難色を示しましたが、結局若者のあとからついて行きました。
すると、早くも玄関から、純金で織った青|天鵞絨《ビロード》の見事な垂幕や、貴重な大理石や、木彫細工や、あらゆる種類の珍奇なものが見られ、また到るところに、壁掛の上にも、家具、壁、または天井にも、貴金属類と宝石のきらめきが見えました。この家の主人は一同を浴室に案内させましたが、これはまばゆいばかり清潔で、薔薇の木の心材のように馨《かぐ》わしく、教王《カリフ》の宮殿にもこれほどのものはないほど、華麗なものでした。そして浴後、奴隷たちは一同全部に、真珠と金糸と、あらゆる色の宝石で描かれた模様を散らしてある、緑色の金襴の豪奢な衣服を着せました。そして一同に浴後の挨拶《サラーム》をしながら、奴隷たちは、金色の磁器の皿にのせて、シャーベットの杯と茶菓を勧めました。それがすむと、天使ハールート(2)のように美しい、五人の少年がはいって来て、一人一人に、主人からと言って、浴後の挨拶《サラーム》の後、五千ディナールの財布を、引出物に贈りました。するとそこに、浴場《ハンマーム》に連れて行った最初の奴隷たちがはいってきて、一同にあとからついてきてくれるように乞い、集会の間《ま》に案内しますと、そこにはアブー・モハンマドが、絹の長椅子《デイワーン》の上に坐り、真珠で縁をかざった座褥《クツシヨン》に両腕をもたれさせかけて、一同を待っておりました。そして彼は皆に敬意を表して立ち上がり、自分のかたわらに坐らせて、皆と共に、あらゆる種類の結構な料理と、|ビザンチン帝《カイサル》の宮殿にしかないような飲み物を、食べそして飲みました。
すると、若者は立ち上がって、言いました、「私は信徒の長《おさ》の奴隷でございます。支度ができましたから、われわれはバグダードに出発することができます。」そこで(3)一同バスラを出て、バグダードへの道を辿りました。そして恵まれた旅路の末に、「平安の都」に到着して、信徒の長《おさ》の宮殿にはいりました。
教王《カリフ》の御前《ごぜん》に案内されますと、彼は御手の間の床に三たび接吻して、謙譲と尊敬あふるる態度をとりました。教王《カリフ》はこれに坐るようにとおすすめになりました。すると彼は座席の端《はし》に恭々しく坐り、そして非常に上品な言葉でもって、申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、君の恭順なる奴隷は、大君の御前に呼び出《い》だされた動機《いわれ》を、人に言わるるまでもなく、承知仕りました。さればこそ、ただ一顆の宝玉の代りに、運命が己れに定めしところをば、信徒の長《おさ》に持参し奉ることを、己が微臣たる義務と心得ました次第でござりまする。」そして、この言葉を述べてから、付け加えました、「もしわれらが主君|教王《カリフ》のお許しあらば、忠節なる一臣下の大君に奉る献上品として、自ら携え来たりましたる櫃《ひつ》をば、開かせまするでございましょう。」すると教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「苦しゅうないぞよ。」
するとアブー・モハンマドは、引見の間《ま》にそれらの櫃を上げさせました。そして第一の櫃を開けて、中から、分別を奪うばかりの他のいろいろな珍品のうち、なかんずく、三本の黄金の木を取り出しましたが、その木の幹は黄金、枝と葉は翠玉《エメラルド》と藍玉、果実は、オレンジ、林檎、柘榴の代りに、紅玉《ルビー》、真珠、黄玉《おうぎよく》というものでした。次に、教王《カリフ》がこの木の美しさに驚嘆していらっしゃる間に、彼は第二の櫃を開きまして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十八夜になると[#「けれども第六百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして、他のいろいろな見事な品々のうち、なかんずく、真珠、風信子石、翠玉《エメラルド》、紅玉《ルビー》、青玉《サフアイア》、その他名の知れぬ数多《あまた》の宝玉をちりばめた、一張の絹と金の天幕《テント》を、取り出しました。その天幕《テント》の中心の棒は、インド産の伽羅木《きやらぼく》でできており、この天幕《テント》のあらゆる垂れ布には、あらゆる色の宝玉が縫いつけられ、その内側は、動物の優美な嬉戯と鳥の飛んでいる様を現わした至芸の図柄で、飾られていました。そしてその動物と鳥は全部、黄金、橄欖石、柘榴石、翠玉、その他多くの各種の宝石と貴金属で、作られておりました。
若者アブー・モハンマドは、櫃からこれらさまざまの品を取り出し、出すにつれて絨氈の上に、ごちゃごちゃに置いて、出しおえますと、つと立ち上がり、そして頭を動かすことなく、ただ眉毛を上下しました。するとすぐに、天幕《テント》全体がひとりでに、広間のまん中に、そっくり張られ、さながら二十人の手馴れた人に取り扱われるのと同じように、速やかに、整然と、均整をもって、組み上げられたのでした。そして三本の不思議な木も、ひとりでに天幕《テント》の入口まで来て突っ立ち、その木蔭をもって天幕《テント》をかくまうのでした。
すると、アブー・モハンマドは、再び天幕《テント》を見やって、そしてごく軽く口笛を吹き鳴らしました。するとすぐに、内側の宝玉の鳥が全部歌い出し、黄金の動物はそれに、声を和して優しく、答えはじめました。そしてアブー・モハンマドが、少したって、二度目の口笛を吹き鳴らしますと、合唱全体は最初の調子に戻って、はたとやみました(4)。
教王《カリフ》は、かつてこれに類するものは御覧になったことのないような、これらのものを御覧遊ばして陥りなすったお驚きから、いささか回復なさると、この若者におっしゃいました、「おお若者よ、その方はわが臣下のうちの一介の臣下にすぎぬ身であるのに、これらすべての物はいったいどこからその方の手に入ったのか、聞かせてもらえるかな。その方は『ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマド』という名で知られており、その方の父は一介の浴場《ハンマーム》の吸い玉師にすぎず、その方に一文の遺産も残さずに世を去ったのを、余は承知いたす。されば、かくも僅かの間に、しかも未だうら若い身空で、この程度の富と、高貴と、権勢とに達したとは、そもそもいかなる仔細か。」するとアブー・モハンマドは答えました、「しからば私の身の上を申し上げましょう、おお信徒の長《おさ》よ。それはまことに驚くべく、世にも稀なる不可思議千万の事実に充ち溢れている物語でござりますれば、もしそれが入墨用の針を以って、目の内側の片隅に書き記されましたならば、それは、利せんと欲する者にとっては、利するところ豊かな教訓ともなるでございましょう。」するとアル・ラシードは、いたく気をひかれなすって、おっしゃいました、「さらばいそぎ、その方のわれらに言うべきところを、われらに聞かせよ、やあ、アブー・モハンマド。」すると若者は申しました。
「されば、おお信徒の長《おさ》よ(何とぞアッラーはわが君をば、権勢と光栄のうちに高めたまいまするように)、私は仰せのごとく、ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドという名で、一般に知られており、元の貧しい浴場《ハンマーム》の吸い玉師の息子で、父は私と私の母に、二人の生計に事足るものを残すことなく、世を去りました。かくて、これらの仔細をわが君にお知らせ申した人々は、真実を申し上げた次第でございますが、しかし彼らは、この渾名《あだな》が、何ゆえに、またいかにして、私についたのかは、すこしも申し上げておりませぬ。ところで、それは次のような次第でございます。幼少以来、おお信徒の長《おさ》よ、私はおよそ地の面《おもて》で出会うことのできる最も無精で、最も怠惰なる子供でございました。まことに、私の無精と怠惰の甚だしさたるや、もし私が地上に臥せっていて、太陽が真昼になって、私の何もかぶらぬ頭蓋の上に、そのことごとくの熱火をあげて降り注いだとしても、私は日蔭に身を置くために場所を変えるだけの勇気なく、片脚なり片腕なりを動かすくらいならば、むしろ蓮芋《はすいも》のように、焼かれるにまかせておくというほどでございました(5)。
さて、亡くなった父が世を去ったとき(アッラーはこれに御慈悲を垂れたまわんことを)、私は十五歳の少年でしたが、それはあたかも二歳も同然でした。なぜなら、私は相変らず働くことも、自分のいる場所から動くことも、きらいつづけていたからでございます。そこで私の憐れな母親は、私を養うために、同じ区の人々のところに女中働きに出るのやむなく、一方私は寝そべって日々を過し、私の顔のあらゆる窪みに住みついた蠅を追うために、手をあげる力さえない有様でございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六十九夜になると[#「けれども第六百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、ある日、暗合のうちでも稀なる暗合によって、私の母は、働かせてくれる人たちに雇われて、まるひと月、さんざん苦労したあげく、その全労働の結実である銀貨五枚を手に握りながら、私のところにはいってまいりました。そして私に言うに、「おおわが子よ、さっき聞いたが、私たちのお隣の長老《シヤイクー》ムーザファルは、近くシナに出発なさるそうだよ。ところで、息子や、お前も知ってのとおり、この尊敬すべき長老《シヤイクー》はたいそうよいお方で、私たちみたいな貧乏人も軽蔑なさらず、追い払いもなさらない立派なお方です。だからこの五枚のドラクム銀貨をお取り。そして、起き上がって私と一緒に長老《シヤイクー》のお宅へ行きなさい。お前はあの方にこの五ドラクムをお渡し申して、これでもって、シナで、商品を仕入れて下さるようにお願いし、それをこの土地で売れば、きっと(どうぞアッラーは私どもをお憐れみになって、そうお望み下さいますように)、お前は莫大な儲けをあげるにちがいない。これこそ、私たちにとって、おお息子や、金持になるいい機会だよ。アッラーのパンを拒む者は不信の徒だよ。」
ところで、私はこの母親の説教を聞くと、ますます無精振りを増して、全く死んだふりをいたしました。すると母親は私に折り入って頼み、あらゆる手を尽して、アッラーの御名《みな》にかけ、父の墓にかけ、あらゆる物にかけて、懇願いたしました。けれどもその甲斐がありませんでした。それというのは、私は鼾《いびき》をかいているふりをしたからです。すると母は私に言いました、「故人の功徳にかけて、私は誓います、おお、ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドや、もしお前が私の言うことを聞こうとせず、一緒に長老《シヤイクー》のところに行こうともしないのなら、私はもうお前に食わせも飲ませもせず、お前を放っておいて餓死《うえじに》させてしまいますよ。」母はこの言葉をいかにも断乎たる口調で申しましたので、おお信徒の長《おさ》よ、私も、今度は母はその言葉を実行する気だということが、わかりました。そこで私は、「手を貸して坐らせてくれ」という意味の、かすかな呟きを発しました。すると母は私の腕をつかんで、私を助け起し、坐らせました。そうすると私は、もう疲労|困憊《こんぱい》して、泣き出し、呻き声の合間に、言葉を洩しました、「私の古靴をくれ。」すると母はそれを持ってきたので、私は言いました、「足に穿《は》かせてくれ。」母は私の足に穿かせました。私は言いました、「手を貸して立たせてくれ。」母は私を持ちあげて、立たせました。私は息も絶えなんばかりに呻きながら、言いました、「歩けるように身体を支えてくれ。」すると母は私の後ろへまわって、私を前に進ませるため静かに押しながら、私を支えました。そこで私は、ゆっくりゆっくり歩きはじめ、ひと足ごとに立ちどまっては、息を入れたり、肩の上に頭を落しては、息を引きとりそうな恰好をしたりしました。そしてとうとう、こんな有様で、海岸に着き、長老《シヤイクー》ムーザファルの許にまいりますと、長老《シヤイクー》は近親と友人に囲まれながら、これから乗船して出発しようとしているところでした。私が着くと、居合せた人一同は、びっくり仰天して迎え、私をじろじろ見ながら、叫ぶのでした、「おお不思議だ。ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドが歩くのを見るのは、これがはじめだ。やつが自分の家を出るのも、これがはじめだな。」
ところで私は、長老《シヤイクー》の許に着きますと、彼に申しました、「おおわが小父《おじ》よ、あなたはムーザファル長老《シヤイクー》でいらっしゃいますか。」彼は言いました、「御用あらば何なりと承わろう、おおアブー・モハンマド、おおわが友亡き吸い玉師(アッラーはこれに御恩寵と御憐憫を垂れたまえかし)の息子よ。」私は彼に五枚の銀貨を差し出しながら、言いました、「この五ドラクムをお取り下さい、おお長老《シヤイクー》よ、そしてこれでもって私にシナの商品を買って下さい。こうしてあなたの御仲介を得れば、これが私たちの金持になる機会となるかもしれません。」するとムーザファル長老《シヤイクー》は、この五ドラクムを取るのをすこしも拒まず、「アッラーの御名において」と言いながら、それを帯のなかにしまい、私には「アッラーの祝福にかけて」と言いました。そして私と私の母に暇を告げ、彼と一緒になって旅をする多くの商人を引き連れて、シナへと出帆いたしました。
さて、アッラーはムーザファル長老《シヤイクー》に安泰を記《しる》したまい、彼は恙《つつが》なくシナの国に着きました。そして、彼は、同行の商人全部と共に、買うべきものを買い、売るべきものを売り、取引をし、なすべきことをしました。それがすむと、仲間と一緒に、バスラで傭ったのと同じ船に再び乗りこんで、帰国の途に就きました。そして彼らは帆をあげて、シナを去りました。
航海して十日になると、ムーザファル長老《シヤイクー》は、ある朝突然立ち上がり、絶望して両手を打ち合せて、叫びました、「船を返してくれい。」商人たちはたいへん驚いて、彼に尋ねました、「どうしたというのです、おおムーザファル長老《シヤイクー》よ。」彼は言いました、「われわれはシナに戻らねばなりませぬわい。」一同仰天の極に達して、尋ねました、「それはまたどうしてか、おおムーザファル長老《シヤイクー》よ。」彼は言いました、「実はわしは、ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドが、銀貨五ドラクムを渡して頼んだ注文の商品を、買い求めるのを忘れてしまったのだ。」すると商人たちは彼に言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわれらの長老《シヤイクー》よ、さんざんあらゆる疲れを蒙り、さまざまな危険を冒し、既にこんなに長く故国を留守したあげく、そんな些細なことのため、またぞろシナに戻ることなどわれわれに強いないでくれ。」彼は言いました、「いやわれわれはぜひともシナに戻らなければならぬ。なぜというに、アブー・モハンマドとその気の毒な母親、わが友、亡くなった吸い玉師の妻と約束した以上、わしの誓いを破るわけにゆかぬからな。」一同言いました、「どうかそれに引きとめられないように、おお長老《シヤイクー》よ。なぜというに、われわれはめいめい金貨五ディナールずつ、ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドがあなたに渡した銀貨五枚の利子として、あなたにお払いするつもりでいるから。われわれが着いたら、あなたはその金貨全部を彼に与えることになされ。」彼は言いました、「皆さんの申し出を彼のために承知しよう。」そこで商人たちはめいめい金貨五ディナールを、私の名義で、ムーザファル長老《シヤイクー》に払い、そして一同旅をつづけました。
ところで、旅の途中で、船は食料を買い入れるため、島々のうちのある島に停まりました。そして商人たちとムーザファル長老《シヤイクー》は、船を下りて陸を散歩しに出かけました。さて長老《シヤイクー》は散歩をし、この島の空気を吸ってから、乗船しようと戻りかけますと、そのとき海岸に猿商人がいて、この動物を二十匹ばかり売りに出していました。けれどもその全部の猿のなかに、たいへん見すぼらしい様子で、毛が抜けてぶるぶる震え、眼に涙をためている猿が、一匹おりました。そしてほかの猿どもは、主人がお客の相手をするために頭をわきにむけると、そのつど、必ずその憐れな仲間に飛びかかって、噛んだり、引っ掻いたり、頭の上に小便をひっかけたりせずにはいませんでした。ところでムーザファル長老《シヤイクー》は、いつくしみ深い心を持っていたので、このかわいそうな猿の有様に心動かされ、商人に聞きました、「この猿はいくらかね。」商人は言いました、「こいつは、おお御主人様、お安くしておきます。厄介払いしたいから、ただの五ドラクムでお譲りします。」すると長老《シヤイクー》は独りごとを言いました、「それはちょうど、あの父親のない子が私によこした金額だ。ひとつあの男にこの動物を買ってやって、これを使って、方々の市場《スーク》で見せものにし、あの子のパンと母親のパンを稼ぐことができるようにしてやるとしよう。」そこで彼は商人にその五ドラクムを払い、船の水夫の一人に、猿を持たせました。それがすむと、仲間の商人たちと一緒に、出発するため、船に乗りこみました。
ところが、出帆する前に、彼らは数人の漁師が海底まで潜って行って、そのたびごとに、真珠の詰った貝をいくつか手に持ちながら、水中から上がってくるのを見ました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十夜になると[#「けれども第六百七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして猿もやはり、これを見たのでありました。するとすぐに、猿はひと跳び跳んで、海中に躍り入りました。そして水底まで潜って、しばらくたつと、手の間と口の中に、すばらしい大きさと美しさの真珠が詰った貝を、いくつも持って、出てまいりました。そして船によじのぼって、その採取した分を長老《シヤイクー》に渡しに来ました。次に、手でもって彼にいろいろの合図をしましたが、それは「自分の首に何か結《いわ》いつけてくれ」という意味でした。それで長老《シヤイクー》はその首に袋をひとつ結いつけてやると、猿はふたたび海中に躍り入り、こんどは前の時よりももっと大きく、もっと美しい真珠がぎっしりはいっている貝を、その袋にいっぱいに満たして、海から出てきました。それから、さらに引きつづいていくたびも、海中に躍り入っては、そのつど、そのすばらしい採集物のぎっしりはいった袋を、長老《シヤイクー》に渡しに戻って来るのでした。こうした次第。それで長老《シヤイクー》はじめ全部の商人は、仰天の極に達しました。そして互いに言い合ったのでした、「全能のアッラーのほかには権力も力もない。この猿はわれわれの知らない秘密を心得ておるわい。しかしこうしたすべては、吸い玉師の息子、ぐにゃぐにゃ骨のアブー・モハンマドの運がひらけるためのことだ。」そのあとで、彼らは真珠の島を立ち去りました。そして申し分ない航海の末、バスラに到着しました。
さて、ムーザファル長老《シヤイクー》は、上陸するやいなや、私どもの戸を叩きに見えました。私の母は内部《なか》から尋ねました、「どなただね。」すると彼は答えました、「わしじゃ。開けて下され、おおアブー・モハンマドの母御どの。シナから帰ってきましたわい。」すると母は私に叫びました、「お起き、ぐにゃぐにゃ骨よ。ムーザファル長老《シヤイクー》がシナから帰ってお出でだよ。お前戸を開けに行って、御挨拶申し上げ、歓迎の辞《ことば》を奉りなさい。それから、アッラーが長老《シヤイクー》を仲立ちにして、私たちの入用を満たすものを、お前に送って下さったことを念じて、何を持ってきて下さったかお尋ねするがよい。」そこで私は母に言いました、「手を貸して起き上がらせ、歩かせてくれ。」すると母はそうしました。私は着物の裾に足をとられながら、戸のところまでよたよたとゆき、戸を開けました。
するとムーザファル長老《シヤイクー》は、奴隷たちを従えて、玄関にはいって、私に申しました、「あの五ドラクムが、われわれの旅に幸運をもたらした人の上に、平安《サラーム》と祝福あれ。これが、おおわが息子よ、その金でもってお前の手に入れたところじゃ。」そして彼は玄関に、真珠の袋を並べさせ、商人たちがよこした金貨を私に渡し、私の手に、猿をつないである紐を持たせました。それから私に言いました、「あの五ドラクムでお前が手に入れたものは、これが全部だ。この猿については、おおわが息子よ、これを大切にしてやりなさいよ。これは祝福の猿だからね。」そして長老《シヤイクー》は私どもに暇を告げて、奴隷たちと共に立ち去りました。
そこで私は、おお信徒の長《おさ》よ、私は母親のほうに向いて、これに言いました、「どうです、おお、お母さん、私たち二人のうち、どっちが正しいかわかるでしょう。お母さんは毎日、『起きな、ぐにゃぐにゃ骨よ、そしてお働き』と言って、私の生活を悩ました。それで私はお母さんに言ったものだ、『おれを創《つく》ってくれたお方は、おれを生きさせてくれるだろうよ』とね。」すると母は答えました、「お前のほうが正しいね、息子よ。めいめい、自分の天命を首に結びつけられて運んでいて、どんなことをしようと、天命からのがれられはしまいよ。」次に、母は私に手伝って真珠を数え、その大きさと美しさに従って、区別しました。そして私はもう無精と無為を棄てまして、毎日|市場《スーク》に行って、商人たちに真珠を売りはじめました。そして私は莫大な巨利を得て、それで数々の土地、家、庭園、宮殿、男の奴隷、女の奴隷、少年などを、買うことができました。
さて、例の猿はどこへでも私についてきて、私の食べるものを食べ、私の飲むものを飲み、そして決して私から眼を離しませんでした。ところがある日、私が自分の建てさせた宮殿のなかで坐っておりますと、猿は私に、墨壺と紙と蘆筆《カラーム》が欲しいという合図をいたしました。私はその三品《みしな》を持ってきてやりました。すると猿は紙を取り、それを書記のするように左手の上にのせ、蘆筆《カラーム》を取りあげて墨壺に浸《つ》け、そしてこう書きました、「おおアブー・モハンマドよ、白い雄鶏を一羽わがために探しに行け。そして庭にいるから来たれ。」私はこの文を読んで、白い雄鶏を探しに行き、それを猿に与えようと庭に駈けつけますと、猿は手の間に一匹の蛇をつかまえているのでした。そして猿は雄鶏を受けとると、それを蛇めがけて放しました。するとすぐに二匹の動物は互いに格闘し、最後に雄鶏が蛇に勝って、これを殺してしまいました。次に、普通雄鶏がするのとは反対に、その雄鶏は蛇をきれいに食ってしまいました。
すると猿は雄鶏をつかまえて、羽根を全部むしりとり、それを次々に庭に挿しました。次に雄鶏を殺して、その血を全部の羽根にかけました。そして雄鶏の砂嚢を取り出し、きれいにして、それを庭のまん中に置きました。それがすむと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十一夜になると[#「けれども第六百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] ――小さなドニヤザードは、姉に言った、「おお、お姉様、お願いでございます。アブー・モハンマドの猿は、雄鶏の羽をお庭に挿し、それに雄鶏の血をかけてから、何をしたのか、早くわたくしたちに聞かせて下さいませ。」するとシャハラザードは言った、「親しみこめて、心から悦んで。」そして次のように続けた。
……それがすむと、猿は一枚一枚の羽根の前に行って、私にはわからない叫び声をいくつもあげながら、両顎を打ち鳴らし、そして私のそばに戻ってきたと思うと、ひと跳び驚くばかり跳び上がって、宙に浮かび、そのまま空中に姿を没して、私の眼に見えなくなってしまいました。それと同時に、全部の雄鶏の羽根は、私の庭のなかで、黄金の木と変じ、翠玉《エメラルド》と藍玉の枝と葉をつけ、それには果物として紅玉や、真珠や、あらゆる種類の宝石が成っているのでした。そして雄鶏の砂嚢は、この見事な天幕《テント》と変りまして、これを今、おお信徒の長《おさ》よ、私は敢えて私の庭の木三本と共に、献上仕りました次第でございます。
そこで私は、この一個一個の宝石が一つの宝物の値打がある、値知れぬ財産を、今後たっぷりと自分のものとして、今は至楽と幸福のうちに暮しておりまする。そしてすべてこうなりましたのも、私が若い頃、その信徒をば決して窮乏の裡に放っておきたまわぬ、「報酬者」の際涯なき寛仁を信頼し奉ったがゆえでございまする。
教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、この物語をお聞きになると、驚嘆のかぎり驚嘆なすって、お叫びになりました、「アッラーの御恵《みめぐ》みは無限であるのう。」そしてこの物語を王宮の右筆《ゆうひつ》たちに口述させることができるようにと、アブー・モハンマドをおそばにお引きとめになりました。それから、これに栄誉の数々を尽し、この客人が御自分に対して示したと等しい豪華さのお土産を、十二分にお授けなされた上でなければ、彼にバグダードを出発させなさらないのでございました。さあれ、アッラーはさらに寛仁にして、さらに力強くましまする。
[#この行1字下げ] ――シャハリヤール王はこの物語を聞くと、シャハラザードに言った、「おおシャハラザード、この物語はその教訓によって余を満足させたぞよ。」するとシャハラザードは言った、「はい、おお王様、けれどもこれなどは、今夜、わたくしがお話し申し上げたいと存じておりまするものに比べれば、何ものでもございません。」
[#改ページ]
若者ヌールと勇ましいフランク王女との物語
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは言った。
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、時の古《いにしえ》、時代と時期の過ぎし世に、エジプトの国に、冠氏(1)と呼ばれる、名士の間の一人の人がおりまして、この人は陸と海、島と砂漠、人の知ると知らぬ国々を旅して、生涯、危険も疲れも艱難も恐れず、ただ聞くだに、子供たちさえも、髪が真白になるほど恐ろしい危難を物ともせずに、生涯を過したのでございました。けれども、もう金もでき、仕合せの身となり、人に尊敬もされ、商人冠氏は、そこで旅をやめて、自分の御殿のなかで、安らかに長椅子《デイワーン》の上に坐って、純白なモスリンのターバンを額にめぐらして、平穏に暮すことにしました。その望みを満足させるには、何ひとつ事欠くものはありません。それというのは、その部屋部屋、後宮《ハーレム》、箪笥、長持には、豪華な品々がぎっしり詰っております。モルディーンの衣服、バアールベックの布、ホムスの絹、ダマスの甲胄、バグダードの錦、モースルの紗、マグリブの外套、インドの刺繍など、諸国の王や帝王《スルターン》の宮殿にも、豪奢その比を見ないものです。また、黒人と白人の奴隷、トルコの白人奴隷《ママリク》、妻妾、宦官、名馬、騾馬、バクトリヤの双峰《ふたこぶ》駱駝、乗用の単峰《ひとこぶ》駱駝、ギリシアとシリアの少年、シルカッシヤの少女、アビシニアの少年宦官、その他あらゆる国々の女など、数多《あまた》所有しております。こうして彼はいささかの疑いもなく、当代随一の満ち足りた、尊敬されている商人でございました。
けれども、商人冠氏の持ついちばん尊い宝、いちばん見事な品と申せば、それは彼自身の息子、当年十四歳の少年で、これはたしかに第十四日目の月よりも、遥かに美しい児です。それというのは、春の爽やかさも、|かりろく《バーン》のしなやかな小枝も、萼《うてな》の薔薇も、透明な雪花石膏も、何ものも、この幸ある若盛りの艶やかさ、その挙措のたおやかさ、その顔のほんのりとした色合い、その美わしい身体の汚れない白さには、及びもつきません。それに、この少年の美質に興を得た詩人は、これを次のように詠いました。
[#ここから2字下げ]
かくばかり美貌の、わが若き友の、われに曰く、「おお詩人よ、君の雄弁は窮するごとし。」われはこれに言えり、「おおわが殿よ、われらの場合、雄弁は関知するところなし。君は美の王者にして、君にあっては、一切は等しく完全なり。
されど――もしわが好みを選ぶを許さるれば――おお、いかに美しき、君が頬の小さな黒子《ほくろ》、白大理石卓上の、竜涎香の一滴ぞ。しかして、そこに君が瞼《まぶた》の剣ありて、無関心なる人々に、戦いを宣す。」
[#ここで字下げ終わり]
また、今一人の詩人は言いました。
[#この行2字下げ] 戦闘|喧《かま》びすしきうちにあって、われは殺し合う人々に問えり、「何ゆえの流血ぞ。」彼ら答えて曰く、「若人の意を迎えんがため。」
また、第三の詩人は言いました。
[#この行2字下げ] 少年自らわれを訪れ来たり、わが感激し心乱るるを見て、われに言えり、「いかにせしぞ、君、いかにせしぞ。」わが曰く、「君が少年の眼の飛箭《ひせん》を遠ざけたまえ。」
また、別な詩人は言いました。
[#この行2字下げ] さまざまの月と羚羊《かもしか》、少年と妍を競い、美を争わんとて来たる。されど、われ彼らに言う、「おお羚羊よ、速やかにのがれ、かの若き仔鹿と、汝らを比ぶるをやめよ。また、汝ら、おお月よ、立ち去れよ。汝らの労はことごとく徒らなり。」
また、別な詩人は言いました。
[#ここから2字下げ]
たおやかの少年。その髪の黒きとその額の白きによって、世界はこもごも夜と昼に投げ入れられぬ。
おお、その頬の黒子《ほくろ》を軽んずることなかれ。やさしきアネモネ、紅く華やぎて美しきは、ただその花冠を飾る黒き雫のゆえのみぞ。
[#ここで字下げ終わり]
また、別な詩人は言いました。
[#ここから2字下げ]
美の水は、少年の面《おも》に触れて清めらる。しかしてその瞼《まぶた》は、射手に矢を供して、慕い寄る者の心を貫く。さあれ、三つの完全こそ讃められよ、その美と、その風情と、わが恋と。
その軽衣は姿よき尻の形を浮き上がらす、透く雲の、快き月の姿を窺わしむるがごとく。この三つの完全こそ讃められよ、その軽衣と、姿よき尻と、わが恋と。
その眼の瞳《ひとみ》は黒し、頬を飾る小《ち》さき黒子《ほくろ》も黒く、また、わが涙も黒し。これらのものこそ讃められよ、その完全なる黒さのゆえに。
その額と、妙《たえ》なる顔立と、思いに焦るるわが身とは、妙なる三日月にさも似たり、二つはその輝きゆえに、わが焦るる身はその形によりて。その完全こそ讃められよ。
その瞳は、いかにわが血を満喫するも、赤らむことなく、天鵞絨のごとく爽やかなり。その瞳こそ、三度《みたび》讃められよ。
かの君は、われら結ばれし日、その唇と微笑との清らかさもて、わが渇を医せり。ああ、われはこれに報ゆるに、わが財と、わが血と、わが命を与え、憚りなく用いしめん。その清らかの唇と、その微笑こそ、永久に讃められよ。
[#ここで字下げ終わり]
最後に、彼を歌った他の凡百の詩人のうちの一人は、言いました。
[#ここから2字下げ]
その眼を守る。弧をなす弓により、また、その流盻《ながしめ》の魔の矢を投ぐる眼によりて、
その妙《たえ》なる形により、その眼差《まなざし》の鋭《と》き新月刀により、その挙措のこよなき優美により、その黒髪《くろかみ》の色によりて、
眠りを奪い、愛の国の掟定むる、その悩ましき眼によりて、
人々の胸に、絶望の矢を射込む、蠍《さそり》に似たる、その髪の捲毛によりて、
双頬に咲く、薔薇と百合とにより、微笑輝く唇の紅玉《ルビー》により、目眩ゆき真珠の歯によりて、
その髪の快き香により、語るときその口より流れ出づる、酒と蜜の河によりて、
その撓《しな》やかなる腰の瑞枝《みずえ》により、その軽き足取りにより、歩むおりにも、憩うおりにも、打ち顫う豪奢なる臀によりて、
その杏子《あんず》の肌の練絹により、その歩みに伴う優美と高雅によりて、
その物腰の柔和、その言葉の味わい、その誕生の高貴、その財の大によりて、
これらあらゆる稀有の天与によりて、われは誓う、真昼の太陽も、その面より輝かしからず、新月も、その爪の一片の削屑にすぎず、麝香の香も、その息吹より甘からず、馨《かぐ》わしき微風も、己が匂いを、その髪より盗むものなるを。
[#ここで字下げ終わり]
さて、この目ざましい若人、商人冠氏の息子が、父親の店に坐っていた或る日のこと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十二夜になると[#「けれども第六百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そこに友達の若者数人が話しにやってきて、そのうちの一人が所有している庭園に、散歩に行かないかと申し出て、彼に言うのでした、「おいヌール、全くその庭はどんなに美しいか、見るがいい。」ヌールは彼らに答えました、「それは行きたいね。だが、その前にお父さんの許しを受けなくてはならない。」そこで彼は父の許しを受けにゆきました。すると商人冠氏は、さして難色も示さず、ヌールに許可を与えて、その上、朋友の負担にならないようにと、金貨を満した財布を与えました。
そこでヌールと若人たちは、牡騾馬と驢馬に乗って、とある庭に着きましたが、そこにはおよそ眼を悦ばせ、口を楽しませることのできるものは、何でもありました。一同は、天国の門のように美しく、交互に連ねた色大理石の列から出来て、赤と黒、白と金色の葡萄をたわわにつけて這っている葡萄の蔓に飾られた、穹窿形の門から、庭のなかにはいりました。それはちょうど詩人の言ったように、
[#ここから2字下げ]
おお、氷菓のごとく甘美にして、鴉のごとく黒衣を着けし、酒に膨らむ葡萄の房よ、
汝の輝きは、暗き葉蔭を透して、指甲花《ヘンナ》もて染めしばかりの、女《おみな》の若き爪にも似たる、汝が姿を示す。
ともかくも、汝はわれらを酔わすかな。株の上に艶やかに垂るれば、われらの魂は、汝の美によりて奪われ、圧搾器《しぼりき》の底に憩えば、汝ここに酔わしむる甘露と変ず。
[#ここで字下げ終わり]
一同はいってゆきますと、その穹窿形の門の上方に、次の詩句が美しい碧色の文字で、刻まれているのを見ました。
[#ここから2字下げ]
来たれ、友よ、君もし苑囿の美を楽しまんと欲せば、来たってわれを見よ。
君の心はその憂いを忘るべし、わが小道伝いにさまよう微風に、爽やかに触れ、また、われに美しき衣を着せて、花弁の袖のうちに微笑む花々を見なば。
空は惜しみなく、果実の重荷の下に枝|傾《かし》ぐわが樹木に、豊かに水を注ぐ。しかして瑞枝《みずえ》、軽風の指の下に舞いつつ揺らぐ時ともならば、昴《すばる》は歓びてこれに、滴り落つる黄金と、叢雲《むらくも》の真珠とを、心ゆくまで投げ与うるを、君は見む。
またもし軽風、瑞枝と戯るるに倦じて、これを去り、走り迎うる流水の漣《さざなみ》を撫づるべく行くとも、やがてはまた漣を棄てて、わが花々の口に接吻《くちづ》くるべく行くを、君は見む。
[#ここで字下げ終わり]
彼らはこの門を越えると、庭の番人が、這い上がる葡萄棚の下の木蔭に坐って、天国の宝を番する天使リズワーンのように美しく、控えているのを認めました。その庭番は彼らに敬意を表して立ち上がり、迎えに出てきて、挨拶《サラーム》と歓迎の辞を述べてから、一同が乗用の動物から下りるのに手を貸して、自身案内役をつとめてこの庭の美しさを、残る隈なく見せてくれました。彼らはこうして、花の間を縫ってうねり、名残り惜しげに流れ去る美しい水や、己が匂いのしっとりと立ちこめる草木や、己が宝石に疲れた木々や、鳴く鳥や、花の茂みや、香料のとれる灌木や、その他このすばらしい庭を、楽園《アドン》の庭をひとつ切り離して持ってきたように見せているものすべてを、嘆賞することができました。けれども、あらゆる言葉を絶して彼らを悦ばせたのは、かわるがわるすべての詩人に歌われた、あの驚嘆すべき果樹の、無類の眺めでありました。それは数多あるなかで、例えば以下のいくつかの詩が、よく立証しております。
[#ここから2字下げ]
柘榴
艶《つや》めく皮も好ましく、笑み割るる柘榴《ざくろ》、銀の隔壁のうちに収められたる紅玉《ルビー》の鉱石よ、汝らは処女の血の凝《こご》れる雫なり。
おお肌なめらかの柘榴、男《お》の子《こ》らの前に、胸張って立つ、乙女《おとめ》らの胸乳《むなぢ》。
円屋根ぞ、汝らを眺むれば、われは建築の術《すべ》を学び、汝らを食らえば、われは一切の病《やまい》より癒ゆ。
林檎
妙《たえ》なる面《おもて》も美しく、おお甘くして麝香の香りの林檎よ、汝らは、かつ赤くかつ黄なるその色彩《いろどり》のうちに、めぐまれし恋人の顔色と、めぐまれぬ恋人の顔色を示しつつ、微笑む。しかして汝らは、その二重の容色のうちに、羞恥の色と、希望《のぞみ》なき恋の色とを、合せ持つ。
杏子
その実《み》風味よろしき杏子《あんず》よ、汝のすぐれしを、誰か疑い得んや。未だ若かりし時、汝らは星に似し花なりき。円《つぶ》らかにして金色に、葉のうちに、熟れし果実となっては、人は汝らを小さき太陽とも見|紛《まが》わむ。
無花果
おお白く、おお黒く、おおわが皿の上に、よくぞ来し無花果よ、われは汝を好む、ギリシアの白き処女らを好むに等しく、エチオピヤの熱き娘らを好むに等しく。
おおわが好みの友よ、汝らは、汝らを見てわが心の嗜欲騒然たるをよく知って、敢えて身装《みなり》に意を用いず、おお投げやりの者よ。
われかくも汝らを好むは、汝らの老成の味を解する識者乏しきがゆえなり、おお経験豊かの者よ。
高き枝々の上にあって、風吹くごとに揺すられ、既に幻滅を重ねて皺よりし優しき友よ、汝らは、かみつれの色褪せし花のごとく、甘くして香り高し。
しかして、汝らの姉妹すべてのうち、ただ汝らのみおお汁気満ちし者よ、嗜欲の際に、蜜と太陽《ひ》より成る甘露の雫を、煌めかすを知るものぞ。
梨
おおうら若き娘ら、未だ処女にして、いささか味の酸き、おおシナイの娘、おおイオニアの娘、おおアレッポの娘よ、
いとも細き胴に懸る豊満の腰を揺りつつ、恋人を待つ汝らよ、疑うなかれ、恋人は必ず汝らを食うべし。
おお梨よ、汝ら、黄なりとも緑なりとも、肥ゆるとも細長くとも、枝の上に二人して並ぶとも、独りなりとも、
汝らは、われらの舌に常に好ましく、美味なり、おお蕩《とろ》くる者よ、佳き者よ、われらその肌に触るれば、そのつど、新しき驚きをわれらがために貯うる汝らよ。
桃
われら綿毛《わたげ》もて頬を守り、厳しき寒暑の気を避く。われらの面上ことごとく天鵞絨にして、永く処女の血のうちに転《ころ》びしゆえに、面《おもて》は円く紅なり。
さればこそ、われらの色合いは美妙にして、われらの肌は細《こま》やかなり。いざ、われらの肉を味わい、ひたぶるに噛みつけよ。されど、われらの心の髄に触るることなかれ、そは君を毒すべければ。
巴旦杏
そはわれに言えり、「羞らう処女、われらは三重の緑の外套をもて、身を包む、貝殻のなかの真珠のごとく。
肉はいと甘けれど、また、われらの抗《あらが》いに打ち勝つ者にはかくも美味なれど、われら若き年月を、表面《うわべ》は苦く、固く、過すを好む。
されど齢《よわい》進めば、厳《きび》しきはもはや無用。すなわちわれら爆《は》ぜて、汚れなく真白なるわれらが心は、みずみずしく、道行く人に捧げらる。」
されば、われは叫びぬ、「おおあどけなき巴旦杏、おおわが掌の凹みに居並ぶ小娘、おお愛らしき少女らよ、
汝らの緑の産毛《うぶげ》は、わが友の未だ鬚《ひげ》なき頬、わが友の切れながき眼は、汝らの双の片身のうちにあり、かの爪は汝らの果肉にそが形を借る。
不実すら、汝らにあってはまた一長所となる。何となれば、汝らの心は、しばしば二重にして相分たるるも、なおかつ真白なり、硬玉の殻に嵌められし真珠と等しく。」
棗《なつめ》
見よ棗の実の房を、花の鎖もて枝々に懸かる。女らの踝《くるぶし》に接吻《くちづく》る黄金の鈴さながらに。
そは、アッラーの玉座の右手《めて》に聳ゆる、シドラー(2)の樹の果実なり。天女《フーリー》らはその木蔭に憩う。その材はモーゼの律法の板を作るに役立ちしもの。また、天国の四つの霊泉迸り出づるは、この根元なり。
オレンジ
丘の上に、微風《そよかぜ》吹けば、オレンジの木々、小枝を顫わして揺るぎ、その花と葉をざわめかして、艶やかに笑《えま》う。
祭の日、金襴の錦の美服もて、若き身を飾りたる女にも似て、おおオレンジよ、
汝らは、香りは花にして、味は果実なり。しかして、火の玉の汝らは、雪の冷気を内に蔵す。火中にあって融けざる奇《くす》しき雪。焔なく、熱気なき、奇しき火なり。
また、汝らのかくも艶めく肌を見つむれば、われはわが友、黄金の臀の肌理粗《きめあら》き、豊頬の乙女を思わざるを得んや。
シトロン
シトロンの木々の枝は、己が富の重きに撓《たわ》み、地へと垂る。
葉に抱かるる、シトロンの黄金の香炉は、心を奪う薫りあり、瀕死の者に魂魄を還す香を放つ。
レモン
熟《う》れ初《そ》むるかのレモンを見よ。そは|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》の色に染まる雪、黄金に変ずる白銀、太陽と変る月なり。
おおレモン、黄玉《こうぎよく》の球《たま》、処女の乳房、混《まじ》りなき樟脳、おおレモンよ、レモンよ……。
バナナ
形状《かたち》大胆なるバナナ、菓子のごとくバタ塗りし肉、
若き娘らに眼を見張らしむる、肌滑らかにして甘きバナナよ、
バナナよ、われらの喉に滑り入るとき、汝は、汝を感じて恍惚たるわれらの口中に、いささかも閊《つか》えることなし。
汝の母の多孔質なる幹の上に、金塊のごとく重く、垂るるとも、
或いは、われらの天井に、徐《おもむ》ろに熟すとも、おお匂い満てる小罎《こびん》よ、
汝は常にわれらが官能を悦ばしむるを得るなり。あらゆる果実のうち、ひとり汝のみ、惻隠の心を授けられたり、おお、寡婦と出戻り女の慰安者よ。
棗椰子《なつめやし》
われらは棗椰子の健やかなる娘、肌は茶色のベドウィン娘。われらの髪に笛吹きすさぶ微風を聞いて、生いし身なり。
われらの父、太陽は、幼き頃より、光もてわれらを養えり。しかしてわれらは久しくも、われらの母の、慎ましき乳房を吸えり。
われらは、広き天幕《テント》の自由の民の寵児なり、都人の門戸を知らぬ民、
駿馬と、痩せし駱駝と、美わしき処女と、惜しみなき歓待と、屈強の新月刀の民なり。
かくて何ぴとも、かつてわれらが木蔭に休息を味わいしことあらば、己が墳墓の上に、われらの囁きを聞くを願うなり。
[#ここで字下げ終わり]
さて、無慮幾千とあるなかで、果物についての詩篇のいくつかは、このようなものでございます。けれども、このすばらしい庭にある花、素馨、ヒヤシンス、水百合、桃金嬢、石竹、水仙、あらゆる変種の薔薇など、このような花についての詩句を挙げていたら、一生かかることでございましょう。
けれども既に庭番は、若人たちを、小径を通って、緑のただ中に埋もれている一軒の亭《ちん》に案内しております。そして庭番は一同に、そこにはいって休むように誘い、泉水のまわりに、錦の座褥《クツシヨン》の上に坐らせ、若いヌールには、中央の席に就くようにと乞いました。そして庭番は彼に……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十三夜になると[#「けれども第六百七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして庭番は彼に、顔に涼風を当てるため、駝鳥の羽根の扇《うちわ》を勧めましたが、それには次の詩句が記《しる》されておりました。
[#この行2字下げ] 疲れを知らぬ白き翼、馨《かぐ》わしきわが息吹は、わが愛する者の面《おもて》を撫で、天国の微風の前味を与う。
それから若人たちは、それぞれ外套とターバンをぬいで、共に談笑しはじめましたが、みな美しい友人ヌールから、眼を離すことができませんでした。そして番人は自身で一同に食事を給仕してくれまして、それは若鶏や、鵞鳥や、鶉や、鳩や、鷓鴣や、詰物をした仔羊などからできていて、そのほかに枝から摘みとった果物の籠もあり、たいそう豪奢な食事でありました。食後、若人たちは麝香のまじった石鹸で手を洗い、金糸で刺繍した手拭いで手を拭きました。
すると、庭番は見事な薔薇の花束を持ってはいってきて、言いました、「おお、わが友よ、飲み物に手を触れるに先立って、あなた方はまず、薔薇の色と香でもって、魂を悦楽に向わせなさるがよろしいでしょう。」一同は叫びました、「そのとおりだ、おお庭番よ。」番人は言いました、「さようです。しかし私は、この見事な花についての美しい詩一篇と引き替えでなければ、この薔薇を皆さんに差し上げたくありませんね。」
すると、この庭の所有主《もちぬし》の若人は、その薔薇の花籠を庭番の手から取って、その中に首を突っこみ、長い間、香を吸っておりましたが、やがて、手でもって静かにしてくれと合図して、即吟しました。
[#ここから2字下げ]
薫《かぐ》わしき処女、さあれ、若きおり、美しき汝《な》が面《おも》の赧《あか》らみを、袖の緑の絹に隠せし頃は、いと羞らいし汝、
おお女王なる薔薇、汝《なれ》こそは、百花のうちにありて、侍《かしず》く奴隷のただ中の女帝《スルターナ》、配下の武士に囲まるる美わしき貴公子《アミール》なり。
汝は香油満てる花冠のうちに、あらゆる香水罎の精髄を含む。
おお恋の薔薇よ、微風《そよかぜ》の息吹のもとに綻ぶ汝《な》が花弁《はなびら》は、今や友に接吻《くちづけ》を与えんとする、若き佳人の唇なり。
汝は、おお薔薇よ、若き少年の鬚なき頬よりも、みずみずしきうちに快く、無瑕の乙女の溌刺たる口よりも、好まし。
汝《な》が幸多き肉身を彩るほのかなる血は、汝を、金色の条《すじ》ある曙に、真紅の酒を満せる杯に、翠玉《エメラルド》の小枝の上なる紅玉《ルビー》の花盛りに、擬《なぞら》わしむ。
おお快楽《けらく》の薔薇よ、されど、心なく汝に触るるあらけなき恋人には、かくも無情の汝よ、汝は彼らをば、汝《な》が黄金の箙《えびら》の矢もて罰す。
おお奇《く》しく、おお楽しく、おお快き者よ、されど汝は、汝を賞翫する風流の士を、引きとどむるすべをも知る。彼らがためには、己が風情に、色とりどりの衣を着せ、かくて汝は、人の遂に倦くることなき恋人たり。
[#ここで字下げ終わり]
この見事な薔薇の讃美を聞いて、若人たちは感激を押えることができず、数々の感嘆の叫びをあげ、頭は揺りながら、「かくて汝は人の遂に倦くることなき恋人たり」という言葉を、異口同音に繰り返しました。すると、今この詩を即吟した若者は、すぐに花籠を空《から》にして、客人たちを薔薇の花で埋めました。次に、大盃に酒を満して、廻し飲みをすることにしました。さて若いヌールは、自分の番がくると、ちょっと当惑を覚えながら盃をとりました。それというのは、彼はまだ一度も酒を飲んだことがなく、ちょうど彼の肉体が婦女子の接触を知らぬように、彼の味覚は醗酵飲料の味を知らないのでした。事実、彼は童貞でありまして、両親は若年ゆえに、まだ彼に妾を授けていなかったのです、名士の家では、結婚前に、年頃の息子に、こうした問題について、経験と知識を与えておこうと思って、そうするのが習慣ですが。彼の仲間たちは、ヌールの童貞の事情を承知していて、実は彼をこの庭園の行楽に誘って、そちらの方面を目覚めさせてやろうという肚だったのでございます。
ですから、彼が盃を持って、さながら禁じられたことの前でのように、ためらっているのを見ると、若人たちは一斉に大声をあげて笑いはじめたので、ヌールもむっとしていくらか癪にさわり、とうとう思い切って盃を唇に近づけて、最後の一滴まで、ひと息で飲み乾してしまいました。すると若人たちはこれを見て、歓声をあげました。そして庭の持主は、改めて酒を満した盃を持って、ヌールに近づいて、そしてこれに言いました、「おおヌールよ、君がもうこれ以上、この貴い陶酔の液を断つのをやめることにしたとは、全くもって当然だよ。これこそ徳の母、一切の憂いの良薬、あらゆる心身の病いの万能薬だ。貧しき者には富を与え、臆病者には勇気を、弱き者には力と元気を与える。おおヌールよ、愛すべき友よ、僕も、またここにいる僕ら全部も、君の召使だし、奴隷だよ。まあとにかく、お願いだ、この盃を受けて、この酒を飲んでくれたまえ。この酒も君の眼ほど人を酔わせはしないよ。」そこでヌールも断わりかねて、主人《あるじ》のさし出す盃を、ひと息で飲み乾しました。
すると、酒気が彼の分別のなかに廻りはじめましたが、そのとき、青年の一人が主人《あるじ》に向って叫びました、「これもたいそう結構だ、おお寛大な友よ、しかしだね、女性の唇の歌と音楽なくして、僕らの快は完きを得ようか……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十四夜になると[#「けれども第六百七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……君は詩人の言葉を知らないかね。
[#ここから2字下げ]
いざ、酒をめぐらさむ、大盃と小盃に盛りて。
君よ、わが友よ、月に似し佳人の手より酒をとれ。
さあれ、杯を乾すには、音楽を待て。われは常に見たり、馬はかたわらに人あって口笛を鳴らすとき、悦んで水飲むを(3)。」
[#ここで字下げ終わり]
庭の主人の若者は、この詩句を聞くと、微笑をもってこれに答え、すぐに立ち上がって、集《つど》いの間《ま》を出たと思うと、しばらくすると、青絹ずくめの着物を着た一人の乙女の手をひいて、戻ってきました。ところでこれは、アリフの文字のようにまっすぐで、バビロン風(4)の眼、闇のような黒髪を持ち、地中の銀のように、或いは皮を剥いだ巴旦杏のように真白な、見事な姿の、たおやかなエジプト娘でした。濃い色の着物を着て美しく、輝かしく、冬の夜のさなかの夏の月とも見まごうばかり。かくある上は、この乙女が、白象牙の乳房、なだらかな腹、栄光《はえ》ある腿、座褥《クツシヨン》のように充実した尻、またその下には、滑らかな、薔薇色の、馨り高い、何か大きな包みのなかに畳んだ小さな袋に似た或るもの、これらを持っていなかったはずはございません。詩人が言ったのは、まさしくこのエジプト娘のことではないでしょうか。
[#ここから2字下げ]
牝鹿のごとく、かの君は進み出《い》づ、弓なす眉の流盻《ながしめ》に、打ち破られし獅子どもを、後《しり》えに従えて。
その髪の美しき夜は、柱なき天幕《テント》、奇《くす》しき天幕《テント》を、その上に拡げて、かの君の身を護る。
かの君は、その衣の袖もて、頬の赤味さす薔薇を隠す。されど、人々の心、その馨《かぐ》わしき肌の麝香に酔うを、よく妨げ得んや。
もしかの君にして、その面《おもて》を隠す面衣《ヴエール》を掲げんか、汝に恥あれ、美しき碧空よ。また、汝、水晶よ、その宝石の眼《まなこ》の前にへり下るべし。
[#ここで字下げ終わり]
そこで庭の若い主人は、その乙女に言いました、「おお、諸星《もろぼし》の美わしい女王よ、われわれがあなたにこの庭に来てもらったのは、ほかでもない、これなるわれらの客人にして友人、ヌール君を悦ばせたいがため。この方は今日はじめて、われわれを訪ねて下さったのです。」
すると若いエジプト娘は、並々ならぬ流し目を送りながら、ヌールのそばに行って坐りました。次にその面衣《ヴエール》の下から、緑の繻子の袋をとり出しました。そしてそれを開けて、なかにある三十二の小さな木片を、二つずつ、ちょうど雌に雄を、雄に雌を組み合せるように、組み合せ、結局美しいインド琵琶《ウーデイ》を組み立てました。それから両袖を肱まで捲《たく》しあげて、手首と腕を露わにし、母が子を掻き抱くように、琵琶《ウーデイ》を胸に抱きしめ、指の爪で琵琶《ウーデイ》を掻き撫でました。爪が触れると、琵琶《ウーデイ》は顫え、響きを立てて呟きました。そして琵琶《ウーデイ》は、突然自分自身の生い立ちと自分の運命を思わずにいられませんでした。木として植えられた土地、養われた水、幹となってじっと立ち尽して暮した場所、宿りを貸した鳥たち、自分を切り倒した木樵、楽器に仕上げた巧みな細工師、艶を添えてくれた塗師、自分を運んだ船、それから自分が渡り歩いたすべての美しい手などを、思い起したのでした。そしてこれらの思い出を思い浮べると、楽器は呟き、調べよく歌い出し、問いかける爪に対して、楽器の言葉で、次の律呂ととのった対聯をもって、答えるかのようでした。
[#ここから2字下げ]
そのかみ、われは鶯の住む小枝にして、鶯ら歌う時、これを愛《いと》おしく揺すりたりき。
かくて鶯はわれに調べの念を授けたり。われは敢えてわが葉を動かすことなく、心を凝《こ》らしてこれに聞き入れり。
されど、一日、荒々しき手は、われを地上に打ち倒し、見たもうごとく、われをか弱き琵琶《ウーデイ》に変えたりき。
さあれ、われはわが運命を託《かこ》たず。何となれば、細き爪われに触るれば、われはすべての絃を顫わして、美しき繊手の打つを快く忍ぶなり。
わが隷属の報いには、われは乙女らの胸に憩い、天女《フーリー》らの腕は、愛《いと》おしげに、わが胴のまわりに絡む。
われは、楽しき集いを好む友らを、わが調べによって魅するを得。しかしてそのかみのわが小鳥らのごとく歌いて、われは酌人の助けを借りずして、よく人を酔わすなり。
[#ここで字下げ終わり]
琵琶《ウーデイ》が、ただ魂にのみ感得できる言葉で自分の思いを述べた、この言葉なき前奏のあとで、美しいエジプト娘はしばし弾くことをやめました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十五夜になると[#「けれども第六百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……次に、若いヌールのほうに眼差《まなざし》を向けて、伴奏をつけながら、次の詩を歌い出しました。
[#ここから2字下げ]
夜は明るく澄みて、鶯は近き藪にて、熱烈なる恋人のごとく、思いをこめて己が恍惚を歌う。
ああ、目覚めよ。空の裸形と清涼は、われらの魂を快楽に誘《いざな》い、月は今宵、魔術に満ちたり。いざ、来たれ。
妬む者を恐れまじ。難ずる者の眠りに乗じ、われら心置きなく、逸楽のただ中に沈み入らん。夜は常に星満ちて馨《かぐ》わしきものと限らず。いざ、来たれ。
君は長閑《のどか》なる快楽を味わうに、桃金嬢と、薔薇と、金色の花と、香りを持ちたまわずや。また、理想の歓楽に必要の、四つのものを持ちたまわずや、友と、恋人と、満ちし財布と、酒と。
幸福《さいわい》に、この上、何をか要すべき。いそぎこれを利したまえ。明日ともなれば、一切は消え失せむ。快楽の盃は、ここにあり。
[#ここで字下げ終わり]
この詩を聞くと、若いヌールは、酒と恋に酔って、美しい奴隷に燃える眼差《まなざし》を投げますと、娘もこれに愛想のよい微笑をもって答えます。そこで彼は、欲望に駆られて、娘のほうに身を傾けますと、娘はすぐに、乳房の先を彼にぴったりと押しつけて、彼の眼の間に接吻し、全身を彼の手にまかせました。ヌールは、官能の乱れと、身を燃やす熱情に打ち負けて、わが唇を乙女の口にぴったりとくっつけ、薔薇を吸うように口を吸いました。けれども乙女は、他の若人たちの眼差《まなざし》に呼び戻されて、青年のこの最初の抱擁から身をのがれて、再び琵琶《ウーデイ》をとって歌いました。
[#ここから2字下げ]
君が美貌にかけ、薔薇の花壇なる君が頬にかけ、君が唾《つばき》の美酒にかけて、
われは誓う、君こそはわが霊の霊、わが眼の光、わが瞼の香油、わが慕うはただ君のみぞ、おお魂らの生命《いのち》よ。
[#ここで字下げ終わり]
この熱烈な恋の告白を聞くと、ヌールは恋に夢中になって、彼もまた次の即吟を歌いました。
[#ここから2字下げ]
おお君よ、海上の海賊船の威容のごとく、風姿堂々として、鷹の眼差《まなざし》持つ美女よ、
口は、二列の真珠に飾られ、頬は、囲い固くして越えがたき花壇の薔薇の花咲く、おお優美に囲まるる乙女よ、
右に、左に、長々と垂れ、競売のただ中の若き黒人のごとく黒き、おお輝かしき黒髪の持主よ、
君はわが魂の暴圧の思いとはなれり。君が色香を見て、恋はわが心中にひと筋に入りて、わが心を、洋紅の濃き色、およそ消えがたき色合をもて、染めたり。しかしてわが心の火は、狂おしきまで、わが肝《きも》を燃《や》き尽したり。
かくてわれはわが財とわが魂を、挙げて君に与えまほし。君もしわれに、「わがために、君は眠りを犠牲《いけにえ》にしたもうや」と問わば、われは答うべし、「然り、然り、たとえわが両の眼なりとも、おお魔術師よ。」
[#ここで字下げ終わり]
庭の主人の若者は、友人のヌールのこの有様を見ると、これは美しいエジプト娘に、恋の悦びの手ほどきをさせる時期が到ったと判断しました。そこで一座の若人たちに合図をすると、一同次々に立って、饗宴の間《ま》から引き上げ、ヌールを美しいエジプト娘と差し向いにしました。
乙女は美しいヌールと二人きりになったと見ると、すっくと立ち上がって、装身具と着物を脱ぎ棄て、丸裸となり、身を蔽うものは、ただその髪の毛ばかりになりました。そしてヌールの膝の上に坐りにきて、彼の眼の間に接吻し、彼に言いました、「おお、わたくしの眼よ、贈物はいつも贈主の気前のよさに準ずるものでございます。ところで、わたくしは、あなたの美貌ゆえ、またあなたはわたくしの気に入ったので、自分の持っているもの全部を、あなたにお贈り申します。わたくしの唇をおとり遊ばせ、わたくしの舌をおとり遊ばせ、わたくしの乳房を、お腹《なか》を、そのほかの全部を、おとり遊ばしませ。」するとヌールはこのすばらしい贈物を悦んで受け、その代りに、自分もそれよりもっとすばらしい贈物をしました。乙女は、悦びもし同時に、彼の気前のよさと知識に驚きもして、二人が終ったとき、彼に訊ねました、「ですけれど、おおヌール様、お連れの方々は、あなたは童貞だとおっしゃいましたけれど。」彼は言いました、「それは本当ですよ。」彼女は言いました、「まあ、何て不思議でしょう。はじめてなのにとてもお上手でしたわ。」彼は笑って、言いました、「燧石《ひうちいし》を擦れば、常に火は迸り出るものです。」
このようにして、薔薇と微醺と様々の嬉戯のただ中で、若いヌールは、雄鶏の目のように美しく健やかで、皮をむいた巴旦杏のように色白の、エジプト娘の腕のなかで、恋を知ったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十六夜になると[#「けれども第六百七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、彼の恋の手ほどきについては、このような次第であらねばならぬということは、彼の天命の中に書き記されていたのでございました。なぜというに、そういうわけでないならば、更にこれから、幸福な生涯の坦々たる道に、その足跡を印そうとするいっそう驚くべき事柄は、どうして理解されましょうか。
さて、ひとたび彼らの嬉戯が終りますと、若いヌールは立ち上がりました。それというのは、はや星は空に輝きはじめ、夜風のなかに神の息吹が立ちはじめていたからです。そして彼は乙女に言いました、「御免を蒙ります。」そしてたって引きとめようと頼み入るにもかかわらず、彼はそれ以上遅くなるのを好まず、乙女と別れて、再び牝騾馬に乗って、大急ぎでわが家に戻ると、家では父親の冠氏と母親が、心配して待っておりました。
さて、彼が敷居を跨ぐとすぐに、息子の珍しい留守にすっかり不安を感じていた母親は、彼を迎えにかけつけ、両腕に抱きしめて、言いました、「どこに行っていたの、可愛い子よ、こんなに遅くまで、家を空けるとは。」けれどもヌールが口を開くとすぐに、母親は彼が酒に酔っているのを認めて、その息の臭いをかぎました。そして彼に言いました、「ああ、困ったヌールよ、お前は何をしたのです。ひょっとしてお父様がお前の臭いをかぎなすったら、大変ですよ。」それというのは、ヌールはエジプト娘の腕にいる間は、酒気に耐えていましたが、戸外《おもて》の強い風に当ったので、乱れた理性が、酔いどれのように右、左に足をよろめかせるのでした。そこで母親は、いそいで彼を寝床のほうに連れて行って、暖かに蒲団をかけて、寝かしてやりました。
ところがこのとき、その部屋に商人冠氏がはいってきました。彼は信徒に醗酵飲料を禁ずるアッラーの掟の、忠実な遵奉者であります。それで、息子が青くなって疲れた顔をして、臥せっているのを見ると、妻に問いました、「どうしたのか、この子は。」妻は答えました、「この子は、あなたがお友達と一緒に散歩に行くことをお許しになったあの花園で、風に当ってひどい頭痛を訴えているのです。」商人冠氏は、この妻の非難と息子の不快に、たいそう困って、ヌールのほうに身をかしげて、工合はどうかと訊ねようとしました。ところが息子の息をかいで、大いに憤って、ヌールの腕を揺ぶって、怒鳴りつけました、「何としたことか、極道息子め。お前はアッラーとその預言者の掟を犯し、口も清めずに、臆面なく家にはいりおったな。」そして彼はきびしく叱責しつづけました。
するとヌールは、今は前後不覚に酔っていて、自分のすることもはっきりわからずに、手をあげて、父親の商人冠氏を殴りつけますと、拳《こぶし》は右の眼に当り、それがあまり激しかったので、父親は床《ゆか》に引っくり返ってしまいました。すると老人冠氏は憤怒の極に達して、明日早々に、息子ヌールの右手を切った上で、家から追い出すことを、三度目の離縁にかけて(5)、誓いました。そして部屋を出て行ってしまいました。
ヌールの母親は、もうどうにも取りかえしもつかず、処置もないこの恐ろしい誓言を聞くと、絶望のあまり、自分の着物を引き裂き、酔いに陥っている息子の寝床の足元で、ひと晩じゅう、嘆きかつ泣いて過しました。けれども、とにかく事態は切迫していますので、母親は息子に十分に汗を出させ小便をさせて、うまく酒気を払うことができました。そして息子は起ったことすべて何一つ記憶がないので、その犯した行ないと、父親の冠氏の恐ろしい誓言とを、話して聞かせました。それから言いました、「私たちは悲しいことになりました。もう悔いても詮ないこと。今となってお前に残っているただひとつの取るべき手段は、天命が事態の模様を変えるまで、一刻も早く、おおヌールや、お前はお父様の家から遠ざかることです。息子や、アル・イスカンダリヤーの町を指して出発なさい。ここに金貨一千ディナールと百ディナール入りの財布があります。このお金子《かね》がなくなったら、また私のところに貰いによこしなさい、そのときお前の消息を知らせることを、忘れないようにするのですよ。」そして母親は、息子を抱きながら、泣きはじめました。
そこでヌールもまた、さんざん後悔の涙を流したあとで、帯にその財布を結《いわ》きつけ、母親に別れを告げて、ひそかに家を出、すぐにブーラクの港に辿りつき、そこから、船に乗ってナイル河を降って、アル・イスカンダリヤーまで行き、そこに無事上陸いたしました。
さて、アル・イスカンダリヤーは実にすばらしい町で、まことに好ましい人々が住み、心地よい気候、果物と花の満ちた庭園、美しい街々、立派な市場《スーク》を授けられた地と、ヌールは思いました。そして彼はこうして町の方々の地区と全部の市場《スーク》を、次々に歩き廻るのを楽しみとしました。そしてちょうど、わけても気持のよい、花と果物の商人たちの市場《スーク》を歩いておりますと、そのとき……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十七夜になると[#「けれども第六百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そのとき、牝騾馬に乗った一人のペルシア人が、好ましい姿をした、せいぜい腰五掌尺のすばらしい美女を、後ろに乗せて、通りかかるのが見えました。その女は、殻のなかの樫《かし》の実のように、泉水の銀鱗鯉《パルテイヤー》のように、砂漠のゼルボア(6)のように、色白です。その顔は太陽の輝きよりも眩しく、眉毛の引き絞った弓に護られて、バビロン産の大きな黒い双の眼が輝いております。そして身を包む透き通った布越しに、他にまたと比を見ない見事さが察せられるのでした。この上なく美しい繻子のように艶やかで、薔薇の植えられた双の頬、二つの真珠の首飾りの歯ならび、突き出て人に迫るような乳房、波打つ腰、シリアの羊の丸々とした尻尾に似た腿、その雪の頂のほうには、比類ない宝をかくまい、真珠と薔薇と素馨の捏粉でもって、そっくり形づくられている臀を支えています。その創造者に栄光あれかし。
ですから、若いヌールは、あの花園の褐色のエジプト娘を凌ぐ見事さのこの乙女を見ると、これを乗せている仕合せな騾馬のあとをつけずにはいられませんでした。こうして彼はその後ろから歩き出して、とうとう「奴隷|市場《スーク》」の広場に着きました。
するとペルシア人は、騾馬から下りて、乙女に手を貸して下ろしてやった上で、その手をとって、これを競売人《せりうりにん》に渡して、市場《スーク》で競売にかけさせました。競売人は、群衆をかきわけて、広場の中央の、黄金で飾った象牙の腰掛に、乙女を坐らせました。次にまわりの人々をぐるっと見廻して、おもむろに呼ばわりました。
「おお御商人衆、おお買手の方々、おお裕福な旦那方。町の方々並びにベドウィンの方々よ。近く、遠く拙者を囲むお立会いよ、いざ競売をお始め下され。競売口切りのお方に咎《とが》はない。値《あたい》を定めて、お声をおかけ下され。アッラーは全能にして全智にまします。さあ競売をお始め下され。」
するとそのとき、一人の老人《シヤイクー》が第一列に進み出ました。それはこの町の商人総代でして、この老人《シヤイクー》の前では、誰も敢えて競《せり》の声をあげないのです。老人《シヤイクー》は乙女の坐っている腰掛のまわりをゆっくりと廻って、注意深く乙女を調べてから、言い出しました、「おれは九百二十五ディナールで、競を始めよう。」
すぐに競売人は、声を限りによばわります。「競は九百二十五ディナールで始まったり。おお、口切りのお方よ。おお、全智の方よ。おお、天晴れ気前のよい旦那よ。たぐいなき真珠の付け値は、まず九百二十五ディナールじゃ。」次に、尊ぶべき総代に対する遠慮から、誰も競り上げようとはしないので、競売人は乙女のほうに向いて、訊ねました、「おお月の女王よ。あなたはわれらの尊ぶべき総代のものになるのに、御異存はないかな。」すると乙女は、面衣《ヴエール》の下から答えました、「お前は気がちがっているのですか、おお競売屋よ、それともただ病気で舌がもつれただけですか、私にそんな申し出を言い出すとは。」競売人は呆気にとられて、聞きました、「それはまた何として、おお美人たちの女王よ。」すると乙女は、微笑のうちに口中の真珠を現わしながら、言いました、「おお競売屋よ、いったい私ほどの若い娘を、この人のような|年寄り《シヤイクー》に引き渡そうとは、お前はアッラーの御前で、また自分の鬚に対して、恥しくないのですか。こんな人は老いぼれで元気もなく、奥さんもきっと、激しい怒りの言葉で、その冷たさを咎めたことが、一度や二度ではないにちがいない。あの詩人の文句は、ちょうどこういった|年寄り《シヤイクー》に当てはまることを、お前は知らないのですか。
[#ここから2字下げ]
われはわが自らの有として、厄《わざわ》いの陰茎《ゼブ》を持つ。そは融くる蝋にて作らる。何となれば、触るるに従いて、いよいよ萎《な》ゆればなり。
われこれに理を説くも徒《あだ》なり。すべからく目覚むるを要するとき、頑として眠る。こは怠け者の陰茎《ゼブ》なり。
されど、いったんわれとただ二人、差し向いにあれば、そは突如として、天晴れなる戦意に燃え立つ。ああ、こは厄いの陰茎《ゼブ》なり。
寛闊を示すべき時に当って吝嗇にして、節約すべき時に当って惜し気なし。犬の息子よ。われ眠れば、直ちに目覚め、われ目覚むれば、直ちに寝入る。こは厄いの陰茎《ゼブ》なり。これを憐れむ者あらば,呪われよかし。」
[#ここで字下げ終わり]
並いる人々は乙女のこの言葉と詩を聞くと、総代に向って示された無礼と不敬のために、非常に気を悪くしました。そして競売人は乙女に言いました、「アッラーにかけて、おお御主人様、あなたは御商人たちの前で、私の顔に墨を塗りなさる。われわれの総代、敬うべきお方で、賢人で、学者でさえあられる仁のことを、どうしてそんなふうに言いなさるのか。」けれども乙女は答えました、「あら、もし学者なら、それこそ幸いです。どうかこの教訓が、あの人に何かお役に立ちますように。陰茎《ゼブ》のない学者なんて、いったいそれが何になりますの。さあ、あんな人なぞ、いっそ、さっさと消えてなくなっていただきましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十八夜になると[#「けれども第六百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで競売人は、乙女が年とった総代を、これ以上罵りつづけることができないようにと、いそいで声を張りあげて、再び競売を始め、呼ばわりました、「おお、御商人衆、おお、買手の方々よ、競《せり》は始まり、まだ終りませぬ。さあいちばん高値をつけたお方には、王様のお姫様《ひいさま》だ。」すると、今起ったことを見なかった男で、この女奴隷の美しさに目が眩んだ、一人の別な商人が進み出て、言いました、「おれにくれ、九百五十ディナール出す。」ところが乙女はその男を見ると、けたたましく笑い声をあげて、その男がもっとよく見ようとそばに寄ってくると、これに向って言いました、「おお御老人《シヤイクー》、ちょっとお伺い申しますが、あなたはお宅によく切れる庖丁を持っていらっしゃいますか。」男は答えて、「いかにも、アッラーにかけて、おお御主人よ。だが庖丁をどうしようというのか。」乙女は答えました、「それじゃあなたは、お鼻のところに持っておいでの大《おお》茄子《なすび》を、何はさておき、まず切ってしまわなければならないことが、おわかりになりませんか。あの詩人の言葉は、誰にもまして、あなたにいちばんぴったりあてはまるのを、御存じありませんか。
[#この行2字下げ] その男の面上には、広大なる光塔《マナーラ》聳え立つ。そは二つの門より、よく全人類を呑み込み得べし。しかして今は遂に、全地に人跡絶ゆるべし。」
その大鼻の商人は、乙女のこの言葉を聞くと、ひどく怒り出して、大きな嚔《くしやみ》を響かせました。次に競売人の襟首を掴まえて、首筋をしたたか打ち捉えながら、怒鳴りつけました、「呪われた競売屋め、きさまはこんないけ図々しい奴隷を引っ張ってきて、おれたちに悪口雑言をあびせかけ、おれたちを笑いものにしようという腹だな。」すると競売人は、すっかりしょげて、乙女のほうを向いて言いました、「アッラーにかけて、私はこの商売をはじめてから、今日ほど忌々しい日に会ったことはない。もうすこし舌の動き放題を抑えて、私たちの稼ぎを邪魔しないではもらえませんかい。」そして騒ぎを打ち切るために、競売を続けました。
すると、第三のひどく鬚だらけの商人が現われて、美しい女奴隷を買おうとしました。ところが、その男が口を開いて申し出をする間もなく、乙女は笑い出して、叫びました、「まあ、ごらんなさい、競売屋さん。この人は、自然の順序が逆《さか》さになってますよ。これは尻尾のふさふさした羊だけど、その尻尾が頤《あご》に生えちゃったわ。まさかお前さんは、こんな長い鬚の男に、つまりたいへん心の狭い人に、私を譲りはしないでしょうね。知恵分別は、鬚の長さと逆なことは、お前さんも知ってるだろうから。」
この言葉に、競売人は絶望の極に達して、もうこの売立てはやめにしようと思いました。そして叫びました、「やめた、アッラーにかけて、今日はもう商売はやらん。」そして、びくびくしながら乙女の手をとって、これを旧《もと》の主人のペルシア人に渡しながら、言いました、「この女《ひと》は手前どもには売りきれません。どうかアッラーは、あなたのため、ほかのところに売買の門を開いて下さいますように。」するとペルシア人は、驚きもあわてもせず、乙女のほうに向いて言いました、「アッラーはこの上なく寛仁にまします。おいで、わが娘よ。いつかはきっと、お前に似つかわしい買手が見つかるだろうよ。」そして乙女を連れて、片手でその手を曳いて立ち去り、片手で騾馬の轡をとって行くと、乙女は自分を眺める人々に、黒く鋭い長い矢を、眼から射かけるのでした。
さて、そのとき初めてのことである、おお妙《たえ》なる乙女よ、お前が若いヌールを認め、その姿を見て、欲情がお前の肝を噛み、恋情がお前の臓腑を引っくり返すのを感じたのは。そしてお前は突如立ちどまって、主人のペルシア人に言った、「あの人こそ望ましい。私をあの人に売って下さい。」するとペルシア人は振り返って、彼もまた、若さと美しさのあらゆる魅力に飾られ、干李色《ほしすももいろ》の外套に優雅にくるまった、その若者を認めた。そして乙女に言うに、「あの若い男はさっき集まった人たちのなかにいたが、出てきて競売に加わる模様は一向なかった。そうとすれば、気の向かぬものを、わしがあの男に勧めに行ったとて仕方あるまい。そんな真似をすると、お前は市場《スーク》の値段ががた落ちになることを知らないかね。」乙女は答えて、「そんなことは一向かまいません。私はあの美しい若者より外はいやです。あの人以外、誰も私をわが有《もの》とすることはできません。」そして女は思い切って自分でヌールのほうに進みよって、誘《さそ》いに満ちた一瞥をくれながら、彼に言いました、「わたくしは美しくはないのでしょうか、おおわが御主人様、あなた様は競売で一向申し出をして下さらなかったとは。」彼は答えました、「おおわが女王よ、世界を通じて、あなたに比べられる美人がおりましょうか。」乙女は訊ねます、「ではなぜわたくしをお求めにならなかったのですか、いちばん高値をつけた人に、わたくしを譲ると言っていたのに。それはきっと、わたくしがお気に召さなかったのにちがいありません。」答えて、「アッラーはあなたを祝福なさるように、おおわが御主人様。いかにも、もし私が自分の故国にいるのだったら、私はわが手の持つあらゆる富、あらゆる財産を傾けて、あなたを買ったでしょう。けれどもここでは、私は異国の者にすぎず、全財産としては、千ディナールの財布があるきりなのです。」乙女は言いました、「それを出してわたくしをお買いなさいまし、決して後悔なさらないでしょう。」若いヌールは、彼を見つめる眼差《まなざし》の魔力に逆らうことができないで、その千ディナールのしまってある帯をとき、ペルシア人の前で、勘定をし、金貨を秤りました。そして二人で、法官《カーデイ》と証人を呼んで、売買契約の証明を済ました上で、取引を終えました。すると乙女は、行為を確認するために、宣言しました、「私の主人のペルシア人に渡した一千ディナールによって、私はこの美しい若者に売り渡されることに同意いたします。」居合せた人々は互いに言い合いました、「ワッラーヒ(7)、二人はまったく似合った同士だ。」そしてペルシア人はヌールに言いました、「どうぞこの女が、あなたにとって祝福の因《もと》でありますように。二人で御一緒に、若さをお楽しみあれ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七十九夜になると[#「けれども第六百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……あなた方は共に、あなた方を待つ幸福に値するものじゃ。」
そこで若いヌールは、波打つ腰の乙女を連れて、町の大きな隊商宿《カーン》のほうに向い、いそいで宿るべき一部屋を借りました。そして乙女に、もっとよい待遇ができないことを詫びて、言いました、「アッラーにかけて、おおわが御主人よ、もし私が自分の町のカイロにいるなら、あなたにふさわしい御殿に住まわせてあげたろうが。しかし繰り返し言うが、ここでは私は異国の者にすぎません。そしてわれわれの必要を弁ずるのに、ちょうどこの宿賃を払うだけのものしか、持ち合せがないのです。」乙女は微笑しながら、答えました、「それについては御心配なさいますな。」そして彼女は、指から非常な値打の紅玉を嵌めた指環を抜きとって、彼に言いました、「これを持って、市場《スーク》に売りにいらっしゃい。そして私達二人分の御馳走に入用なものを、全部買って下さい。惜しまず使って、食べ物も飲み物も、いちばん上等なものをお買いなさいまし、花や果物も香水も忘れずにね。」ヌールはいそいで言いつけを果たしに出かけ、やがて各種の必要品を携えて、戻ってきました。そして両袖と着物を捲《たく》しあげて、食布《スフラ》を拡げ、念入りに御馳走をととのえました。それから、微笑しながら彼の働くのを見ていた乙女のそばに、坐りました。そしてまずよく食べ、よく飲むことからはじめました。両人十分に満腹し、酒が廻ってくると、若いヌールは、わが女奴隷の輝く眼にいささか気圧《けお》されて、自分を動かす騒がしい欲情に身を委せる前に、まずこの乙女の郷国と出生を問いたいと思いました。そこで乙女の手をとって接吻してから、言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおわが御主人よ、今はあなたの名前と郷国を言ってはいただけまいか。」乙女は答えました、「ちょうど今、おおヌール様、わたくしのほうから申し上げようと思っていたところです。」そしてちょっと口を噤んで、やおら言いました。
「されば、おおヌール様、わたくしことはマリアムと申し、コンスタンティニヤの都を治める強大な欧州人《フランク》の王の、独り娘でございます。ですから、わたくしは幼ない頃、この上なく立派な教育を受け、あらゆる種目について先生を持ったとお聞きになっても、お驚き遊ばすな。わたくしはまた、針と紡錘《つむ》を扱い、軽羅を作り刺繍をし、絨氈や帯を織り、銀地の布に金糸でも、金地の布に銀糸でも、自由に縫い取るすべも学びました。そしておよそ心を飾り、美しさを増すことのできるものは、何でも学びました。こうしてわたくしは、父王の宮殿のただ中で、あらゆる人目を離れて、大きくなりました。御殿の女たちは、わたくしを優しい眼で眺めては、わたくしこそ当代の奇蹟だと申しました。それで、諸方の地と島を治める大勢の王侯が、わたくしに求婚しに来ないではいませんでしたが、わたくしの父王は、たった独りの娘、御自分の生命よりも、また、わたくしの兄弟にあたる、他の大勢の男の子よりも、いつくしんでいる娘と、別れるのがいやさに、それらの申し込みを全部斥けてしまいました。
こうしているうちに、わたくしはふと病気になって、そのとき、もし健康が回復した暁には、フランク人の間でたいそう崇《あがめ》られている修道院に、巡礼に行くという願《がん》を立てたのでした。そして治ったとき、私はその誓いを果たそうと思って、父王の宮廷の、大官のうちの一人の大官の娘であった、わたくしの女官の一人を連れて、船に乗りました。ところが、陸が見えなくなったと思うと、わたくしたちの船は、回教徒の海賊に襲われて、掴まってしまいました。そしてわたくし自身も、お供のもの全部と一緒に、奴隷にされて引っ張ってゆかれ、エジプトに連れられて、そこでわたくしは,あなたの御覧になったあのペルシア商人に売られました。しかしわたくしの処女にとって幸いなことに、あの商人は不能者でございました。それにやはり幸運なことに、またわたくしの天命がかく望んだがために、その主人は、わたくしを家に連れてゆくと早々に、重い長患《ながわずら》いにかかって、その間ずっと、わたくしはこの上なく行きとどいた看護を尽してあげたのでした。そこで、商人は健康が回復しますと、病中わたくしの示した誠心《まごころ》への感謝を表したいと思って、わたくしの魂の願うことを何なりと望みなさいと言いました。それでわたくしは商人に、ではお言葉に甘えて、誰かわたくしの裡で活用すべきものを活用できるような人に、わたくしを売っていただきたい、けれどもわたくしを譲るのは、ただわたくしが自身で選んだ相手に限るということにしてくれるように、頼みました。ペルシア人は即座にそれを約束して、いそいでわたくしを市場《スーク》の広場に売りに行き、こうしてわたくしは、わたくしを欲しがる全部の|年寄り《シヤイクー》の老いぼれ共を斥けて、おおわが眼よ、あなたの上に選択をきめることができた次第でございます。」
こう話して、その若いフランク女は、誘惑の黄金の燃え上がる眼で、ヌールを見つめて言いました、「このようなわたくしですもの、どうしてあなたより外の男のものになれたでしょう、おお若人よ。」そして、すばやい身ごなしで、面衣《ヴエール》をすべてかなぐり棄て、着物を全部脱ぎ棄てて、生れながらの裸身で現われ出ました。この乙女を宿した腹は、祝福されよかし。このときはじめてヌールは、自分の頭上に下った祝福を、さとることができました。この王女は、亜麻織物のように柔らかく色白の美女で、みずから本来の自分の香りを分泌する薔薇さながらに、竜涎香の甘美な匂いを、全身いたるところから放っているのを見ました。そして彼女を両腕で抱き締めて、その内奥の深みを探ってみると、未だ手の触れられていない真珠を見出しました。彼はこの発見に、歓喜の限り歓喜して、燃焼の限り燃え上がりました。それでまずわが手を、彼女の愛らしい手足と華奢な首の上にさまよわせ、水中に落ちて鳴る小石のように、接吻を双の頬に響かせながら、次にはその手を、髪の波と捲毛の間に迷わせはじめました。そしてその唇に甘味を満喫し、尻のよく弾む柔らかさの上に、掌《てのひら》を鳴り響かせました。まことに、こうした有様でございます。すると姫のほうも、自分の持つ天禀の才と、身に備わる絶倫の才との、少なからぬ部分を見せずには措きませんでした。それというのも姫は、ギリシア女の肉欲にエジプト女の恋の手練を、アラビア娘の淫蕩な身ごなしにエチオピヤ女の熱っぽさを、フランク娘のおじけ立ったあどけなさにインド女の完全な知識を、シルカッシア娘の熟練にヌビヤ女の好色を、ヤマーン女の色っぽさに上《かみ》エジプト女の逞しい激しさを、シナ女の道具の小ささにヘジャス娘の腎腸を、イラク女の旺盛さにペルシア女の巧妙を、併せ持っていたのです。ですから、ひと晩じゅう、抱き合いは抱擁に、接吻は愛撫に、交接は交合に、続くことをやめませんで、最後にやっと、二人が恍惚と数々の嬉戯にいささか疲れ、お互いの腕の中で、歓楽に酔って眠るまで、続いたのでございます。逸楽の歓喜に酔い痴れた後、腕組み交し、手を合せ、心臓を相和して鼓動させつつ、臥床《ふしど》に憩う、二人の幸福な恋人の光景にもまして、心を魅する光景をかつて創りたまいしことなきアッラーに、栄光あれ。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百夜になると[#「けれども第七百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて翌日、二人は目を覚すと、前夜したよりも更に一段と、激しさ、熱、多数、繰り返し、旺盛、経験をもって、再び嬉戯を始めずにはいませんでした。そこでフランク王女は、回教徒《ムスリムーン》の子らに、これほどの徳が相集っているのを見て驚嘆し、感嘆の極に達して、心中思いました、「きっとそうだわ、ひとつの宗教がその信者たちのうちに、これほどの勇ましさと雄々しさと徳との振舞いを吹きこんで、発揮させるとすれば、その宗教こそはもちろん、すべての宗教のなかでいちばんよく、いちばん人間的で、ただひとつ真の宗教にちがいないわ。」そして王女はその場で、回教《イスラーム》の誉れを得たいと望みました。そこでヌールのほうに向いて、訊ねました、「おおわが眼よ、わたくしが回教《イスラーム》の誉れを得るには、いったいどうすればよろしいでしょうか。それというのは、わたくしもあなたのように、回教徒《ムスリム》になりたいのです、恐ろしい禁欲に徳を置いて、去勢した司祭ほど偉いものはないと思っているようなフランク人のところには、わたくしの魂の平和はございませんから。あの人たちは、人生の測り知れない値をまるで知らない、邪《よこしま》な人たちです。太陽が光線で暖めることのない、不幸な人たちです。ですから、わたくしの魂はこの地に止まりとうございます、ここならば、魂はそのすべての薔薇でもって花咲き、そのすべての鳥でもって歌うでしょうから。そこで、回教徒《ムスリム》になるには、いったいどうすればよいか、教えて下さいませ。」するとヌールは、こうして自分のできる範囲で、フランク王女を改宗させるのに寄与したのに、たいそう幸福を覚えて、これに言いました、「おおわが御主人よ、われわれの宗教はごく簡単で、すこしも外面的な面倒はいらないのです。晩かれ早かれ、いずれすべての異教徒は、われわれの信仰のすぐれたことを認めて、自然にわれわれのほうに歩み寄ってくるでしょう、ちょうど人々が闇から光に、不可解から明瞭に、不可能から自然に、移るように。それであなたとしては、おお祝福の姫よ、あなたはキリスト教の垢《あか》を雪《すす》ぎ終るためには、次の二言《ふたこと》を宣言(8)しさえすればよいのです、『アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり』と。そうすれば即座に、あなたは信徒となり、回教徒《ムスリム》となるのです。」この言葉に、フランク人の王の娘マリアム姫は、指を挙げて、宣言しました、「わたくしはここに証言《シヤハーダ》し保証します、アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なることを。」そして即座に、姫は回教《イスラーム》の誉れを得たのでございます。簡単なる手段《てだて》によって、盲者の眼を開き、聾者の耳を感じ得るものとし、唖者の舌を解《と》き、邪なる者の心を高貴にしたもう御方、諸徳の主、恩寵の分配者、己が信徒に優しき御方に、栄光あれ。アーミーン(9)。
この大切な信仰証言《シヤハーダ》をこのように済ました上で(アッラーは讃められよかし)、二人は逸楽の床《とこ》から起きて、厠《かわや》に行き、次に定めの洗浄《みそぎ》と礼拝をしました。そのあと、二人は食べて飲んで、たいそう楽しく雑談をし、打ちとけて語りはじめました。ヌールは王女の数々の知識と、知恵と、利発さに、ますます感嘆したのでした。
さて、午後になって、日傾時《アスル》の礼拝の時刻近くなると、若いヌールは回教寺院《マスジツト》のほうに出かけ、マリアム姫は「檣の柱(10)」の方面に、散歩に行きました。二人のほうは、このようでございました。
ところで、マリアムの父、コンスタンティニヤのフランク人の王のほうはと申しますると、王は王女が回教徒の海賊に捉えられたと聞くと、悲しみの限り悲しんで、死ぬほど絶望しました。必要な捜索を行ない、王女の身代金を出し、是が非でも、略奪者の手中から王女を救い出すために、王は騎士と貴族《バトリキウス》を八方に派しました。けれども、捜索を言いつかった人々は全部、しばらくたつと、何ひとつ手がかりもなく戻ってきました。すると王は警察長《ムカツダム》の大臣《ワジール》を呼びましたが、これは右の眼がつぶれて、左の足が跛の、年とった小男ですけれど、密偵のなかの真の悪魔です。それというのは、彼は蜘蛛の巣のこんがらかった糸を、壊さずに解きほぐすことができ、眠った男の目を覚まさせずに歯を抜くことができ、腹の空いたベドウィン人の唇の間から、口中の食物を抜きとることができ、黒人が後ろを振りむくことさえできぬまに、三度続けさまにお釜を掘ることができる男です。王はこの大臣《ワジール》に、あらゆる回教徒国を廻り歩いて、王女を連れ戻さぬうちは、わが許に帰ってくるなと命じました。そして帰ってきた時には、あらゆる種類の栄誉と特権を約束しましたが、不首尾の節は、串刺しの刑だと仄めかしました。そこで眇《すがめ》で跛の大臣《ワジール》は、いそいで出発しました。そして変装をして、味方と敵の国々を旅しはじめましたが、何の足跡も見つからず、とうとうアル・イスカンダリヤーに到着したのでございます。
そしてあたかもその日、彼は連れてきた奴隷たちと一緒に、「檣の柱」に遊山に行ったのでした。こうして運命は、彼が、やはりその方面に空気を吸いに行ったマリアム姫に出遭うことを望みました。ですから、姫の姿を認めるや、彼は悦びに躍り上がって、さっそく姫のほうに駈け出しました。そして姫の前に着くと、片膝を地に埋めて、姫の手を接吻しようとしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百一夜になると[#「けれども第七百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれども、今では回教徒のあらゆる徳と、男子に対する礼儀を身につけた姫は、こんなに醜いフランクの大臣《ワジール》の横面に、したたか平手打ちを食わせて、これに言いました、「呪われた犬め、お前は回教徒の地に、いったい何をしに来たのか。このわたくしをお前の思いのままにするつもりなのか。」フランク人は答えました、「おお王女様、この件につきましては、私は全く罪がないのでございます。あなた様の父王をこそ、お咎めあって然るべく、父君は万一私があなた様を見つけ出さぬ節は、串刺しに処するとの仰せでした。されば、私がこの恐ろしい刑をのがれるためには、是が非でも、あなた様はわれわれと一緒にお戻り下さらなければなりませぬ。それに父君は、あなた様が邪教の徒に捕われの身となったとお聞きになって、絶望のあまり瀕死の態《てい》となられ、また母君も、これら悪党の穴穿け野郎どもの手中に陥ちて、あなた様のお受けになったにちがいない虐待を思って、涙に暮れておいでになりまする。」けれどもマリアム姫は答えました、「全然そんなことはない。わたくしの魂の平和は、あたかもこの地で見つけました。わたくしはこの祝福の地を決して去りませぬ。されば、お前は出て来たところに帰りなさい。さもないと、わたくしがちょうどこの場所で、この『檣の柱』の天辺に、お前を串刺しにしてあげますぞ。」
この言葉に、跛のフランク人は、王女を自発的についてこさせる決心をさせる見込みはないとさとって、姫に言いました、「御免を蒙りまして、おおわが御主人様。」そして奴隷たちに姫を捕えるようにと合図をすると、奴隷たちはすぐに姫を囲んで、猿轡をはめ、姫が抵抗して、ひどく引っ掻くのもかまわず、背中にひっかついで、夕闇にまぎれて、コンスタンティニヤに渡る船に、運びこんでしまいました。眇《すがめ》で跛の大臣《ワジール》と,マリアム姫のほうは、このようでございます。
さて若いヌールのほうでは、いつまでたってもマリアム姫が隊商宿《カーン》に帰ってくるのが見えないが、いったいどういうわけで遅くなるのか、わけがわかりません。夜は次第に更けてくるし、不安は増してくるので、彼は隊商宿《カーン》を出て、どこかに姫がいないかと、人気《ひとけ》のない街々をさまよいはじめて、とうとう港に着きました。そこで、二、三の船頭に聞いてみると、一艘の船が今立って、自分たちはその船に一人の乙女を連れて行ったが、それはちょうどおっしゃる人相にぴったり符合するというのでした。
愛人のこの出発を聞くと、ヌールは嘆きはじめ泣きはじめて、ただ「マリアムよ、マリアムよ」という叫びで、啜り泣きを途切らすだけです。するとそこに一人の老人《シヤイクー》が、このように嘆く彼の様を見て、その美貌と絶望に憐れを催し、近づいてきて、その涙の原因を親切に訊ねました。ヌールはわが身に起った不幸を打ち明けました。すると老人《シヤイクー》は言いました、「もう泣くな、わが子よ、絶望することはない。今立った船はコンスタンティニヤに向ったのだが、ちょうどわしも海の船長で、これから、百人の回教徒《ムスリムーン》をわしの船に乗せて、今夜その都に向うところだ。だからお前さんも、わしと一緒に乗船しさえすればいい。そうすれば、お前の望みの人にめぐり会えるだろうよ。」そこでヌールは、眼に涙を浮べて、海の船長の手に接吻して、いそいで船長と一緒に船に乗りこむと、船は全帆をあげて、海上を飛び立ちました。
さてアッラーは一同に安泰を書き記《しる》したもうて、五十一日の航海の末、一同はコンスタンティニヤの前に到着し、ほどなく陸に近づきました。ところがいきなり、全員が、海岸を警備するフランクの兵士に逮捕され、王の命令に従って、裸にされ、牢屋に投げこまれてしまいました。王はこうして、あらゆる外国商人に対して、わが娘が回教国で受けた侮辱の復讐をしようと、思ったのでございます。
事実、マリアム姫は、ちょうどこの日の前日に、コンスタンティニヤに到着しました。そして王女のお帰りの知らせが町に拡がると、すぐに人々は敬意を表して全部の街々を飾り、全市民がお迎えに出たのでした。王と王妃は、宮中の大官高官を全部従えて馬に乗り、王女の上陸を出迎えに来ました。そして王妃は、娘をやさしく抱いてから、何よりもまず、まだ処女のままでいるか、それとも、一身の不幸と家名の恥辱にも、値知れぬ尊い印璽を失ってしまったかを、心配げに訊ねました。ところが王女は、並いる人々一同の前で、声をあげて笑いながら、答えたものです、「何ということをお訊ねになりますの、おお、お母様。いったい回教徒《ムスリムーン》の国で、いつまでも処女の身でいられるとお思いになりますの。回教徒《ムスリムーン》のすべての書物には、こう言われていることを御存じありませんか、『いかなる女性も回教《イスラーム》にあっては処女のまま老ゆることなかるべし』と……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二夜になると[#「けれども第七百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……いかなる女性も回教《イスラーム》にあっては処女のまま老ゆることなかるべし、と。」
王妃は、――実は公衆の前で王女にこうした問いを発したのは、到着早々に、王女の処女性は傷つけられず、王家の名誉は無事だという評判を拡めようとのつもりに、ほかならなかったのですから――こんな思いもかけない返事を聞くと、しかもそれが宮中全部の人の前でのことですし、もう顔色がすっかり黄色くなって、やはりこんな大変な醜聞に取り乱した侍女たちの腕のなかに、気を失って倒れてしまいました。王も同様に、この出来事と、わけても王女が隠しもせず身に起ったところを認めるその率直さに、すっかり腹を立てて、胆嚢が肝臓のまん中で破裂するのを感じ、憤りの限り憤って、王女を引っ立てて、一同茫然とし、高官たちは鼻白み、息のつまった刀自《とじ》たちは渋い顔をしているなかを、大急ぎで王宮に戻りました。そして王宮で、緊急御前会議を召集して、大臣《ワジール》と総大主教《パトリアルク》たち(11)の意見を徴しました。諮問を受けた大臣《ワジール》と総大主教《パトリアルク》たちは、答えました、「われわれの意見では、姫君の御身を回教徒《ムスリムーン》どもの汚れより清めるには、ただひとつの手段しかござりませぬ。それは姫君をば、彼らの血に浸《つ》けて洗うことでございます。されば牢獄より、一人も多くも、少なくもなく、きっかり百人の回教徒《ムスリムーン》を引き出して、彼らの首を刎ねなければなりませぬ。そして彼らの首の血を取り集めて、それをもって、あたかも新たなる洗礼を受けるがごとく、姫君の御身を浴《ゆあ》みおさせ申すがよろしい。」
その結果、王は今しがた牢屋に放りこんだ百人の回教徒《ムスリムーン》を、連れてこいと命じました。その中には、さきに申したように、若いヌールもおりました。そしてまず最初海の船長の首を刎ね、次に全部の商人の首を刎ねました。そしてそのつど、頭のない首から迸り出る血を、大釜に取り集めました。いよいよ若いヌールの番になりました。彼は処刑の場所に連れ行かれ、目隠しをされ、血まみれの敷物の上に据えられ、処刑人は彼の頭を首から飛ばそうと、太刀を振りあげたそのとき、一人の老婆が王に近づいて、申し上げました、「おお当代の王様、はや百の首が斬られて、釜は血がいっぱいになりました。ですから、あの残っている若い回教徒《ムスリム》はお赦しあって、むしろ私に賜わって、教会の御用を勤めさせるがよろしゅうございます。」すると王は叫びました、「救世主《メシア》にかけて、いかにもそのとおりである。百の首はかしこに転がり、釜はいっぱいじゃ。さればあの者を連れて、教会の用に用いるがよい。」そこでその老婆は、教会の修道院長でしたが、王に御礼を言って、王が次に王女の血の洗礼に取りかかるため、大臣《ワジール》たちを従えて引き上げている間に、若いヌールを伴って行きました。そしてその美貌にうっとりして、時を移さず、教会に連れて行きました。
教会に着くと、老婆はヌールに命じて着物を脱がせ、長い黒衣と、司祭の高い帽子と、その帽子にかぶせる大きな黒布と、頸垂帯《ストラ》と、幅の広い帯を与えました。そして、これらをどう使えばよいかを教えるため、自身ですっかり着せてやりました。それから、教会の勤めを立派に勤めるように、種々指図を与えました。そして引きつづき七日の間、彼の仕事振りを監督して、上手にするように励ましましたが、その間彼は信徒としての心の中で、異教徒のためにこんな仕事をしなければならぬ羽目になったことを、深く嘆いていました。
さて、七日目の夕方になると、老婆はヌールに言いました、「実は、わが息子よ、やがて間もなく、血の洗礼によって清められた王女マリアム姫が、この教会にお出でになって、ここにひと晩じゅうお籠りをして、御自分の過去の所行のお許しを願いなさる。そこで王女様の御入来を今お前に知らせておいて、私が寝に行ってしまったとき、お前は戸口にいて、王女様が何かお頼みになったら御用を足すとか、または王女様が昔の罪ゆえに悔悟のあまり、卒倒なさるというような場合には、私を呼んでもらいたいと思う。よくわかりましたか。」するとヌールは、眼を輝かせて答えました、「はい、わかりました、おおわが御主人様。」
こうしているうちに、マリアム姫は、頭から足まで黒ずくめの上、顔を黒い面衣《ヴエール》で蔽って、教会の玄関に到着し、ヌールをその着物のため司祭だと思って、その前にうやうやしくお辞儀をしてから、修道院長の老婆が戸を開けた教会のなかにはいり、ゆっくりとした足どりで、外観が真暗な、奥の礼拝堂のようなもののほうに向いました。すると老婆は、お籠りの妨げをしてはと思って、いそいで引き取りました。そしてヌールに、戸口で見張りをしているように、くれぐれも注意してから……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三夜になると[#「けれども第七百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……老婆は自分の部屋に寝に上がりました。
ヌールは、年とった修道院長が寝入って、喰人鬼《グール》みたいに鼾をかくのをよく確かめると、教会のなかに忍び入って、マリアム姫のいる場所に向って行きましたが、そこは、不信の聖像の前に燃えている小さなランプに照らされた、礼拝堂でした。(これらの聖像は、火に焼き亡ぼされよかし。)そして彼はそっとこの礼拝堂にはいって、顫える声で、言いました、「私はヌールです、おおマリアム。」すると姫は愛人の声とわかって、最初は夢を見ているのかと思いましたが、最後にその腕のなかに飛びこみました。二人とも、感動の極に達して、長いこと無言で抱き合いはじめました。そしてやっと口がきけるようになると、別れた日以来、わが身に起ったことを、こもごも語り合いました。そして自分たちの再会を許したもうたアッラーに、相共に感謝しました。
それが済むと、姫はこの再会の時を歓喜によって祝うため、母親の王妃が、処女を失ったことを絶えず思い起させるため無理に着せた喪服を、いそいでかなぐり棄てました。そして全部着物を脱ぎ去って、これまた、キリスト教司祭の服をはじめ、衣類を全部脱ぎ棄ててしまったヌールの、膝の上に坐りました。そして両人は、大変な愛撫を繰り拡げはじめましたが、それはこの異教の魂どもの滅びの場所が、未だかつてこのようなものの演じられるのを見たためしのないほどのものでした。両人は夜通しずっと、互いに猛烈な愛情の最も明らかな証拠を示し合いながら、どんな種類の束縛もなく、最もさまざまな肉の享楽に、耽りつづけました。そしてヌールはこの時、非常な強さで自分が甦るのを感じ、千人の司祭でも、その総大主教《パトリアルク》ども諸共、休みなしに片端から、首を斬ってしまうことができそうな気がしました。願わくは、アッラーは不信の者どもを鏖殺《みなごろ》しにし、その真の信徒には力と勇気とを授けたまえかし。
明方近くなって、異教徒らを最初に呼び集める教会の鐘が鳴ると、マリアム姫はいそいで――けれども何という名残りを惜しむ涙をもってでしょう――その喪服を着ました。またヌールも同様に不信の衣服を着けました。(良心の奥底を見たもうアッラーは、この無情なやむを得ぬ場合に際して、何とぞ彼を許したまえ。)けれども、姫は引き上げる前に、今一度最後に彼を抱いてから、ヌールに言いました、「あなたは今となっては、おおヌール様、この町にもう七日以来いらっしゃるのですから、この教会の場所と近所は、十分御存じでしょうね。」ヌールは答えました、「ええ、わが御主人様。」姫は言いました、「それでは、わたくしの言葉をよく聞いて、忘れないで下さいまし。わたくしはさっき心の中で、私たちが永久にこの地をのがれられるような計《はかりごと》をめぐらしましたの。それには、明夜初更になったら、あなたは海側に臨む教会の戸を開けて、時を移さず海岸にいらっしゃりさえすればよろしゅうございます。海岸には、十人の船員の乗り組んでいる小船が一艘待っていて、その船長は、あなたが見えると、いそいで手をさしのべるでしょう。けれども船長があなたのお名前を呼ぶまで、お待ちなさい。わけても何ごとも急《せ》いてはなりません。わたくしのことは、どうぞ少しも御心配下さいますな。わたくしはきっと恙《つつが》なくお会いできます。そしてアッラーは私たちを彼らの手中から救い出して下さるでございましょう。」次に、別れる前に、姫は更に言い添えました、「それにまた、ヌール様、教会の宝蔵に行って、そこにある値は重く、目方は軽いものを全部盗み出し、それから、不信心者どもが自分たちの迷妄《まよい》の首領《かしら》に捧げる、黄金《こがね》の供物を入れておく献金箱を、お立ちになる前に、空《から》にして、総大主教《パトリアルク》たちを凹ませてやることも、お忘れにならないように。」そして姫は、今言った指図を、ひと言ひと言、ヌールに繰り返させてから、教会を出て、いかにも悔悛したような眼をして、宮殿に帰ると、母親は悔悟と禁欲の説教をしてやろうと、待ちかまえていました。願わくは、信徒たちは、汚らわしい禁欲など永久にさせられないで、隣人に対して犯した悪以外には、悔悟を持ちこませぬように。アーミーン。
そこで、夜の初更になると、ヌールは教会の年とった喰人鬼《グール》の鼾を見届けてから、地下の宝蔵のあらゆる貴重な品々を奪い、総大主教《パトリアルク》の献金箱にはいっている金銀を全部、自分の司教服の帯のなかに空けるのを忘れませんでした。そしてこれらの異教徒からの分捕品を携えて、大急ぎで教えられた戸口を通って、海岸に出かけました。そこには、姫が言ったとおり、船があり、船長は彼に手を延べ、その名を呼んだ上で、ごく鄭重にその貴重な荷物と一緒に、彼を迎え入れました。そしてすぐに出発の合図が下されました。
ところが、水夫どもは、その船長の命令に従って、船を海岸の杭に繋いでいる舫索《もやいづな》を解く代りに、ぶつぶつ言いはじめ、そのうちの一人が声を張りあげて、言うのでした、「おお船長、あんただって先刻御承知のはずだ、おいらは御主君の王様からは、全く別な御命令を受けたんですぜ。明日《あした》、大臣《ワジール》様をこの船に乗せて、マリアム王女様を掻っさらおうとした回教徒《ムスリムーン》の海賊どもを、探しに行けとの仰せじゃないか。」けれども船長は、この反抗の前で怒りの極に達して、叫びました、「恐れ気もなく、おれの命令に逆らうのは何奴だ。」そして剣を振って、今口をきいた男の首を、一撃の下に打ち落しました。剣は暗闇のなかで、血に染って赤く、松明《たいまつ》のように燃え上がりました。しかしこの断乎たる振舞いも、頑固な男たちである他の水夫どもの、不平の呟きをやめさせません。それで彼らも全部、またたく間に、電光のように速い剣の下で、先の仲間と運命を共にし、十人が十人次々に、自分の肩から首を失ってしまいました。そして船長は彼らの死骸を海中に蹴落しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四夜になると[#「けれども第七百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それが済むと、船長はヌールのほうに向いて、口答えを許さぬ命令の口調で、叫びました、「ヤッラー、さあ、舫索《もやいづな》を解き、帆を拡げ、綱を操れ、おれは舵を引き受けるから。」ヌールは、恐ろしい船長の権幕に押され、それに抵抗して陸にのがれようとするにも武器がなく、やむを得ず命令に従って、海のことにはいっこう不案内でしたけれども、まあできるだけ、操縦につとめました。そして小船は、舵をとる船長のしっかりした手に導かれて、全帆をあげて、沖のほうに遠ざかり、順風に恵まれて、針路をアル・イスカンダリヤーにとりました。
この間、憐れなヌールは、ぎらぎらする眼で自分を見つめている鬚の船長の前で、表向きに不平を言うのも恐ろしく、魂の中で嘆いておりました。こう思いました、「いよいよおれの難儀も終りだと思っていた瀬戸際に、何という災難が頭上に降りかかったことか。しかも禍いはそのつど、先立つ禍いよりも悪い。せめてこうしたすべてについて、何かわかりさえすればいいのになあ。この乱暴な男相手に、おれはいったいどうなることやら。この男の手中から、生きて出られることはよもやあるまい。」そして彼は、帆と船具に気を配りながら、ひと晩じゅう、こうした情けない思いに耽りつづけていました。
朝になって、一つの町が見え、そこに上陸して新しい乗組員を何名か傭おうということになると、突然船長は何か非常な興奮に襲われたかのように、まず自分のターバンを足下に投げはじめたものです。次に、ヌールが呆気にとられて、何が何だかわからずに船長を見つめていると、船長は大声で笑って、両手でもって口と腮《あご》の鬚を※[#「手へん+毟」、unicode6bee]りとると、途端に、船長は海上に昇る月のような乙女と変ったのでございます。ヌールはマリアム姫とわかりました。それで、ひとたび感動が鎮まると、彼は感嘆と悦びの極に達して、姫の足下に身を投げ、あんなに易々と、水夫どもの首を肩から刎ねとばした恐ろしい船長は、怖くてたまらなかったと白状しました。マリアム姫は彼の恐怖をたいそう笑って、両人相抱いてから、おのおのいそいで操縦を続け、町の港にはいりました。上陸すると、両人は何人かの水夫を傭って、再び海に出ました。マリアム姫は、航海には非常に通じていて、海路のことも、風向きのことも、潮流のことも、よく知っていましたので、航海の間ずっと、昼間は必要な指図を与えつづけました。しかし夜の間は、最愛のヌールのそばに寝に行って、彼と共に、爽やかな海上で、裸の空の下で、恋のあらゆる快楽を味わうことを欠かしませんでした。願わくは、アッラーは二人を守り、永らえさせ、二人の上に御恵《みめぐ》みを増したまわんことを。
さて、アッラーは二人に旅の終るまで、恙ない航海を授けたまい、やがて二人は「檣の柱」を認めました。そして船が港に繋がれ、乗組員たちが上陸したあとで、ヌールはマリアム姫に言いました、「これでやっと回教徒の地に着きました。だがちょっとしばらく、ここで私を待っていらっしゃい。あなたがきちんとした服装《なり》で町にはいられるように、必要な品全部を買ってきますから。見ればあなたは着物も、面衣《ヴエール》も、草履《バーブジ》もない。」マリアムは答えました、「ええ、ではそれらを買ってきて下さいませ。けれどもあまり遅くならないように。」そこでヌールはその品々を買いに、陸に下りました。二人のほうは、このようでございます。
さてコンスタンティニヤのフランク人の王はと申しますると、次のようでございます。マリアム姫の夜の出奔の翌日、人々は王女の失踪を王に知らせましたが、王女は総大主教《パトリアルク》の大教会にお籠りに行かれたということ以外、何の詳しいことも申し上げられませんでした。しかし同時に、|年寄り《シヤイクー》の修道院長が来て、教会の新参の使用人の失踪を告げましたし、その直後には、船が出発し、十人の水夫が殺されて、首無し屍体が海岸で見つかったという報告も参りました。そこでフランク王は、腹中に鬱積する激怒に煮えくり返って、ひと時の間考えこんでいましたが、そのうち言いました、「わが船が姿を消したとあらば、船にはわが娘が乗っていたに相違ない。」そして即座に、港の取締りとあの眇《すがめ》で跛の大臣《ワジール》を召し出して、二人に言いました、「起ったところは汝らも承知のはず。ところで、わが娘は、一点の疑いなく、再び穴穿け野郎どもを尋ねて回教徒《ムスリムーン》の国に立ったに相違ない。さればもし汝らが、生死にかかわらずわが娘を連れ戻さぬ節は、今度は、汝らを待つ串刺しの刑から、何ものも汝らを救うこと叶わぬであろうぞ。行け。」
そこで、年とった眇《すがめ》で跛の大臣《ワジール》と港の取締りとは、いそいで船を艤装し、時を移さずアル・イスカンダリヤーに向って出帆し、ちょうど二人の脱走者と同時に、そこに到着しました。そしてすぐに、両人は港に繋いである小船を見つけました。そして甲板に積み重ねた綱具の上に坐っているのが、間違いなく、マリアム姫と認めました。それですぐに、小舟に一隊の武装した男を乗せて、王女の船を不意に襲わせ、首尾よくいきなり王女を掴まえ、猿轡をはめ、その小船に火を放った上で、王女を自分の船に運びました。そして時を移さず沖に出て、針路をコンスタンティニヤにとって、やがて幸いにして、恙なくその地に着きました。両人はいそいでマリアム姫を父王に引き渡しに行きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五夜になると[#「けれども第七百五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
フランク人の王はわが娘がはいってくるのを見、その眼が娘の眼と合うと、自分の激する感情を抑えることができず、玉座の上から身を乗り出し、拳を前に突き出して、怒鳴りつけました、「汝に禍いあれ、呪われた娘よ。汝はこのように父親の住居を見捨てて、汝の封を破った異教徒どもを求めて行くとは、汝は定めし、汝の祖先の信仰を棄てたにちがいない。確かに、汝の死も、キリスト教徒の名とわれら一門の名誉とに加えし侮辱を、雪《すす》ぐに足りぬ。ここな呪われた女め、いざ教会の門前で、絞首に処せらるる覚悟をせよ。」けれどもマリアム姫は少しも騒がず、答えます、「お父様はわたくしの率直なことは御承知でいらっしゃいます。ところで、わたくしはお思いになっていらっしゃるような罪人ではございません。太陽がその光線をもって温め、男子たちは健やかで徳のある男性であるような地に、わたくしが戻ろうと思ったのが、どういう罪を犯したことになりましょうか。こんな地に止まって、僧侶と宦官のただ中で、わたくしは何をすることができましょう。」この言葉に、王の怒りはその最後の極に達し、処刑人たちに向って叫びました、「わが面前より、これなる恥辱の娘を除け。これを連れ行きて、最も惨《むご》たらしき死をもて亡き者とせよ。」
処刑人たちが王女を捉えようとすると、そこに年とった眇《すがめ》の大臣《ワジール》が、跛をひきひき王座の前まで進み出て、王の両手の間の床《ゆか》に接吻してから、言いました、「おお当代の王よ、王女様の御処刑に先立って、わが君の奴隷に、お願いを申し出《い》だすをお許し下さりませ。」王は言いました、「申せ、おお、わが忠義の老|大臣《ワジール》、おお、キリスト教国の柱石よ。」大臣《ワジール》は言いました、「実は、おお王よ、君の不束《ふつつか》なる奴隷は、久しい以前より、王女様の御色香《おんいろか》に心惹かれておりまする。されば私は、ここに姫君の命乞いをお願い申し上げたく、そして、わが君の王座とキリスト教国との利害に対する私めの忠勤の、度重なる証左に対するただひとつの恩賞として、何とぞ姫君をわが妻に賜わりたく、願い奉る次第でございます。かつは、私めは至って醜いがため、この結婚は、私にとっては特別の思し召しでございますし、また同時に、姫君の過ちに対しての懲罰に役立つことができましょう。かつ私は必ず、姫君をばわが館《やかた》の奥深く閉じこめて、今後あらゆる逃亡や、回教徒《ムスリムーン》らの誘惑などの企て及ばぬように致しますることを、お約束申し上げまする。」
老|大臣《ワジール》のこの言葉を聞くと、王は言いました、「それに異存はない。だがその方は、おお憐れなる者よ、地獄の業火によって点火されたるかの余燼を、何とするつもりじゃ。この結婚の、角《つの》を生じさする結果を、その方は恐れぬのかな。救世主《メシア》にかけて、余がその方ならば、かくも重大な件についてとくと思案するには、長い間、わが指を口に銜《くわ》えるであろうが。」けれども大臣《ワジール》は答えました、「救世主《メシア》にかけて、これについては私は格別迷いを抱いてはおりませぬし、事情の重大を弁えぬわけではござりませぬ。されど私は、十分慎重に振舞って、わが妻を咎むべき放埓に赴かしめるのを、よく防止することができるであろうと存じまする。」するとフランク人の王は、この言葉に哄笑して、王座の上で身を揺って、老|大臣《ワジール》に言いました、「おお、跛|親爺《おやじ》よ、余としては、その方の頭上に、二本の象の牙が生ずるのを見るのは、一向かまわぬ。されど、万一その方がわが娘を汝の館《やかた》より逃れ出させるとか、或いは、われらの名にとってかくも恥多きもろもろの出来事に、更に一つの出来事を加えるを、防ぎ得なかった暁には、その方の首は肩より飛ぶであろうことを、きっと申しておくぞ。ただこの条件においてのみ、余はその方に同意をしてとらする。」すると年とった大臣《ワジール》はその条件を承知して、王の両足に接吻しました。
すぐに、司祭と修道士と総大主教《パトリアルク》たちが、キリスト教国のあらゆる高位高官の人々と共に、この結婚の通知を受けました。そしてこの機会に、王宮で大饗宴が催されました。いよいよ儀式が終了すると、おぞましい老|大臣《ワジール》は、王女の部屋にはいりました。願わくはアッラーは、醜悪が光輝を害するのを阻みたまいますように。そしてどうかこの臭い豚めは、清らかな事どもを汚さぬうちに、魂を吐き出してしまいますように。
けれども、私たちはまた後で、この男にめぐり会うでございましょう。
さて姫の身仕舞いに必要な品々を買いに、陸に下りたヌールのほうは、面衣《ヴエール》と、着物と、レモン色の黄皮の草履《バーブジ》一足を持って、帰ってきますと、大勢の人々が港を行ったり来たりしています。それでこんな騒ぎの原因を訊ねますと、フランク人の船の乗組員が、そこから遠からぬところに碇泊していた船を不意に襲って、乗っていた若い娘を攫った上で、その船を焼いてしまったところだということです。この知らせに、ヌールはすっかり顔色が変って、そのまま気を失って地上に倒れてしまいました。
しばらくたって、気絶から回復すると、彼はそこにいる人々に、自分の悲しい出来事を話しました。しかしそれを繰り返し申すまでもございません。すると皆、彼の遣り方を咎めて、さんざん非難を浴びせはじめて、言うのでした、「それは当り前さ。なぜお前さんは女をおいてきぼりにしたんだね。面衣《ヴエール》とレモン色の黄皮の新しい草履《バーブジ》なんぞ買いに行く必要が、どこにあったのか。古い着物を着せたままで、また差し当り、帆布とかそのほか何でもいいから、ありあわせの布切れで顔を蔽って、陸に降すわけにはゆかなかったのかね。そうだよ、アッラーにかけて、それは当り前さ。」
こうしているうちに、そこにたまたま、この前ヌールと王女がはじめて出会ったとき、二人を泊めた隊商宿《カーン》の持主の、老人《シヤイクー》が来合せました。老人《シヤイクー》は憐れなヌールに見覚えがあったので、彼がこんなみじめな有様でいるのを見ると、その訳を訊ねました。そして事情がわかると、老人《シヤイクー》は言いました、「なるほど、面衣《ヴエール》も新しい着物や黄色い草履《バーブジ》も、全くもって余計なことであった。だがそんなことをこれ以上くどくど言ってるのは、もっと余計なことだろうさ。まあわしと一緒に来なさい、わが息子よ。お前さんは若いのだから、一人の女のことを悲しんで絶望なんぞしていないで、むしろ自分の若さと健康を活用しなければいけない。来なさい。美女の血統はまだわれわれの国では絶えてはいない。大丈夫、そのフランク王女を失くしたことを埋め合せて、お前さんを慰めてくれるような、綺麗で上手なエジプト娘のひとりぐらい、きっと見つけてあげられるだろうよ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六夜になると[#「けれども第七百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……きっと見つけてあげられるだろうよ。」けれどもヌールは、泣きつづけながら、答えました、「いいえ駄目です、アッラーにかけて、親切な小父さん、何をもってきたところで、王女を失くした埋め合せはつきはしないし、私の苦しみは忘れられはしません。」老人《シヤイクー》は訊ねました、「それじゃお前さんは、これからどうしようというのじゃ。船は王女を乗せて遠くへ行ってしまったし、お前さんが泣いたところではじまるまいが。」彼は言いました、「だからこそ、私はフランク人の王の都に引っ返して、恋人をひったくってきたいと思うのです。」老人《シヤイクー》は言います、「ああ、息子や、お前さんの向う見ずな魂の差金《さしがね》なんぞ聞くものじゃない。最初の時はうまく連れ出せたからって、二度目にやろうとするのは十分気をつけるがいい。『冷水壜を投げればいつでも、そっくり壊れずにすむわけじゃない』という、あの諺を忘れなさんな。」けれどもヌールは答えます、「小父さん、用心しろとの御忠告はありがたいけれど、私はどんなことだって怖くはないし、どんなことがあったって、恋人をもう一度取り返しに行かずにはいません、たとえ私の大切な魂を死にさらすことがあろうとも。」そしてちょうどそのとき、運命の意志によって、港にフランク人の島々に向って出帆しようとしている船があったので、若いヌールはいそいでそれに乗りこみました。人々はすぐに錨をあげました。
ところで、隊商宿《カーン》の持主の老人《シヤイクー》が、ヌールに対して、これから無分別に飛びこもうとしている危険について警告したことは、まことにもっともなことでございました。事実、フランク人の王は、この間の王女の事件以来、救世主《メシア》と不信の経典にかけて、地上と海上で、回教徒《ムスリムーン》の種族を絶滅してやろうと誓ったのでありました。そして百艘の軍船を仕立てて、回教徒《ムスリムーン》の船舶を追撃し、海岸を掠奪し、到る処に、壊滅と殺戮と死を撒き散らさせようとしました。ですから、ヌールの乗った船が、島々の海にはいるといきなり、その軍艦の一艘に遭遇し、拿捕《だほ》されて、フランク人の王の港に連行されましたが、それはちょうど、眇《すがめ》の大臣《ワジール》とマリアム王女との婚姻を祝うために催された祝宴の日の、第一日目のことでした。そして王は、この祝宴を更に盛大に祝い、己が復讐心を満足させるために、回教徒の囚人全部を、串刺しの刑に処すようにとの命を下しました。
そこでこの残忍な命令が実行され、囚人は全部次々に、婚礼の行なわれている王宮の門前で、串刺しにされました。そしてもう今は串刺しにされるのは、若いヌールただひとりになったとき、宮中全部を従えて処刑に臨んでいた王は、注意をこめて彼を見つめて、そして言いました、「はてな。だが救世主《メシア》にかけて、どうもあの若いやつは、しばらく前に、教会の修道院長に与えた男のようじゃ。最初に脱走してからに、今ここにいるとはそもそも何としたわけかな。」そして付け加えました、「やい、やい、脱走せる廉によって、こやつも串刺しに致せ。」ところが、このとき、眇《すがめ》の大臣《ワジール》が進み出て、王に言いました、「おお当代の王よ、私もまた願《がん》を立てたのでございます。それは、私の結婚に祝福の下るように、わが館《やかた》の門口《かどぐち》で、三人の若い回教徒《ムスリムーン》を犠牲に捧げることでございます。されば何とぞ、囚人の船荷のなかから、三人の囚人を私に選ばせて、わが願を果たす手段をお授け下さりとう存じます。」王は言いました、「救世主《メシア》にかけて、余はその方の願を少しも知らなんだ。さもなければ、余は三名はおろか、三十名の囚人を与えたであろうに。今はこの者一名しか残っていないが、他の者が来るまで、さしずめこれを取っておけ。」それで大臣《ワジール》は、その血を自分の館の敷居に注ぐつもりで、ヌールを連れて行きました。けれども、三人の回教徒を一緒に犠牲に供えないことには、自分の願は完全に満されないことを考えて、大臣《ワジール》はヌールを縛ったまま、館《やかた》の厩舎《うまや》に放りこませて、さしあたり、飢えと渇きで責めさいなむつもりでおりました。
ところで、眇《すがめ》の大臣《ワジール》は自分の厩舎に、不思議なほど見事な、二頭の双生の馬を持っておりました。アラビアの最高の名馬の血統で、その系図は、トルコ玉と黄金の鎖で吊した小袋に収めて、首に結びつけてありました。一頭は鳩のように白くて、サビクといい、今一頭は鴉《からす》のように黒くて、ラヒク(12)といいます。この二頭の駿馬は、フランク人とアラビア人の間で名高く、諸国の王と帝王《スルターン》の羨望をそそっておりました。ところが、中の一頭は目に白い斑点がついて、最も上手な獣医たちの知識も、これを首尾よく取り除くことができませんでした。眇の大臣《ワジール》自身もこれを治そうといろいろやってみました。彼はいろいろの学問や医学に通じていたからです。けれども徒らに病気を重らせ、斑点の翳《かすみ》を増すばかりでした。
ヌールは大臣《ワジール》に連れられて、厩舎に着くと、この馬の目の斑点に気づいて、微笑しはじめました。大臣《ワジール》はこのように微笑する彼を見ると、これに言いました、「おお回教徒《ムスリム》よ、お前はなぜ笑うのか。」彼は言いました、「この斑点のためですよ。」大臣《ワジール》は言いました、「おお回教徒《ムスリム》よ、お前の種族の連中は馬のことは非常に精しく、われわれよりもよく馬の手当の法を知っているのは、わしも承知じゃ。お前が笑うのは、そのせいででもあるのか。」すると、ちょうど獣医術を非常によく心得ているヌールは、答えました、「仰せのとおりです。キリスト教徒の王国全体を通じて、この馬を治せる者は誰もいはしませんね。だが私なら治せます。もし明日、あなたの馬が羚羊《かもしか》の目と同じように健やかな目をしているのを見なすったら、あなたは私に何を下さいますか。」大臣《ワジール》は答えました、「わしはお前に生命《いのち》と自由をくれて、そのうえ即座に、わが厩舎の長と王宮の獣医に取り立ててやろう。」ヌールは言いました、「それならば、私の縛《いまし》めを解いて下さい。」すると大臣《ワジール》は、ヌールの両腕をしばっている縛めを解きました。ヌールはすぐに、獣脂と蝋と石灰と韮《にら》をとって、それらを玉葱の濃い汁で混ぜ合せ、それでもって膏薬を作って、それを馬の悪いほうの目に塗りました。それを終えると、彼は厩舎の粗末な寝床に横になって、治療の世話をばアッラーにおまかせしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七夜になると[#「けれども第七百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
翌朝、眇《すがめ》の大臣《ワジール》は自身、跛をひきながら、膏薬を剥がしにやってきました。そして彼の驚きと悦びは、その最後の極に達しました、馬の目が朝の光と同じほど澄んでいるのを見たときには。大臣《ワジール》の感激はひと方ならず、ヌールに自分自身の外套を着せ、即座に、これを自分の厩舎の長と王宮の首席獣医に取り立てたほどです。そして住居としては、厩舎の上にある部屋で、大臣《ワジール》の部屋部屋のある館《やかた》の真正面、大臣《ワジール》の部屋とは中庭ひとつ隔てているばかりの一室を与えました。その上で、大臣《ワジール》は王女と自分の婚礼のため催されている、祝宴に臨もうとて帰りました。しかしこの男は知らなかったのでございます、人間というものは決して己が天命をのがれることなく、後々の人の見せしめとなるために予《あらかじ》め取り置かれた人々に、運命はどのような配剤を取って置くかを。
さて、こうして今や祝宴の第七日目となり、いよいよその夜、この醜い老爺は、王女をわがものとしにはいってくるはずです。(悪魔は遠ざけられよかし。)ところで、ちょうどそのとき、王女は窓辺に肱をついて、最後のざわめきと、遠くで自分のために挙げている歓呼の声を、聞いておりました。そして心悲しく、あの自分の処女の花を摘みとった、逞しく美貌のエジプトの若人、愛人ヌールを思っていたのでした。この思い出に、大きな侘《わび》しさが魂をひたし、眼に涙を浮ばせました。そして王女は独り思いました、「もちろん、私は断じてあのいやらしい老人《シヤイクー》など、近よらせまい。いっそあれを殺した上で、窓から海に身を投げてしまいましょう。」こうした想いの苦々しさを身に沁みて感じていると、そのとき窓の下に、夕闇のなかで、恋人の別離についてのアラビアの詩を歌う、若者の美しい声が聞えました。ところで、それはヌールでございまして、そのとき彼は、二頭の駿馬に最後の世話をし終って、自分の部屋に上がり、やはり窓辺に肱をついて、愛人を思っていたのでありました。彼は詩人の次のような文句を歌っていました。
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おお消えし幸《さち》よ、われは汝を求めて、われらの住居を離れ、無情の国に来たれり、せめて汝に巡り合う幻なりと覚えんとて。あわれ悲しきわが身かな。
わが迷いし耳目は、およそ多少の雅致あるもの、惹きつくる魅力あるものに接すれば、何ものにも好んで汝を認めんとす。あわれ悲しきわが身かな。
遠き彼方に、笛その節を嘆かい、琵琶《ウーデイ》そのなだらかの調べもてこれに答うれば、われら二人の身の思われて、涙はわが眼を濡らす。あわれ悲しきわれら二人よ。
[#ここで字下げ終わり]
マリアム姫は、わが心の愛人が、己れの変らぬ恋の思いを述べるこの歌を聞くと、すぐにその声を聞き分けて、感動の限り感動しました。けれども姫は賢く気の利く女でしたから、まわりにいる腰元たちの前で、うっかり気取《けど》られるようなことがあってはと、よく自分を押えることができ、まず腰元たちを退《さ》がらせました。次に一枚の紙と蘆筆《カラーム》を取って、次のように認《したた》めました。
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寛仁にして慈悲深きアッラーの御名に於いて。次いで、願わくは、アッラーの平安御身の上にあれ、おおヌール様、その御慈悲とその御祝福と共に。
御身の奴隷マリアムは御身に敬礼し、御身と相合したき念に燃ゆるものなる旨、申し上げたく存じ候。されば、ここに御身に申し上ぐるところを聞き、御身に命ずるところを為し下されたく候。
今夜初更、恋する人々に幸いなる時刻ともならば、二頭の駿馬サビクとラヒクを曳きて、町を出で、王門《スルタニエ》の後ろにて、妾をお待ち下されたく候。馬を曳きて何処へと人問わば、運動のためひと巡りさするところと、お答え相成るべく候。
[#ここで字下げ終わり]
次に姫はその書状を畳んで、それを絹のハンケチにしっかりと包み、そのハンケチを、窓からヌールの方角に向って振りました。そして彼が自分を見つけ近よってきたのを見ると、姫はそのハンケチを窓から投げました。ヌールはそれを拾い、開けてみると、書状があるので読み、次にそれをば、同意のしるしに、唇と額に当てました。そしていそいで厩舎に引っ返して、この上なく待ち遠しい思いで、初更を待ちました。いよいよその時刻になると、彼は二頭の名馬に鞍を置き、途中誰にも怪しまれずに、町の外に出ました。そして王門《スルタニエ》の後ろで、二頭の馬の轡をとりながら、王女を待ちました。
さて、ちょうどこの頃、祝宴も果てて夜となり、あのように醜くいとわしい眇《すがめ》の大臣《ワジール》は、いよいよ果たすべきことを果たすために、王女の部屋にはいったのでございました。マリアム姫は彼がはいってくるのを見ると、ぞっとして身顫いしました、それほど彼の様子はいやらしいものでした。けれども姫は、運んでゆかなければならない筋書があって、それを失敗させたくなかったので、努めて自分の嫌悪の情を抑え、彼を迎えて立ち上がりながら、長椅子《デイワーン》の上に、自分のそばに坐るように招じました。すると年とった跛は、これに言いました、「おおわが女王様、あなた様は東洋と西洋の真珠じゃ。わしはむしろあなたの足下にこそ、平伏すべきでしょう。」王女は言いました、「結構です。まあお世辞はやめにいたしましょう。夕食はどこにございますの。わたくしお腹が空きましたから、何よりもまず、はじめに一緒にお食事をしなければなりますまい。」
すぐに老爺は奴隷を呼びますと、たちまち、この上なく珍しく結構なお料理を盛った皿が出されました。およそ、空を飛ぶもの、海を泳ぐもの、地を歩くもの、果樹園の木々と園の灌木類に成るもの全部から、出来ております。そして両人は一緒に食べはじめました。王女は我慢して、大臣《ワジール》にいろいろと食物を勧めてやりました。それで老爺は王女の心遣いにすっかり満悦して、胸が広がり、思っていたよりもずっとたやすく目的を達したわいと、得意になっていました。ところが突然、彼は気を失って、頭のほうが足よりも先に、引っくり返ってしまったのです。それというのは、王女は盃のなかにひそかに、モロッコ産の麻酔剤《バンジ》をひと摘み、うまく投げ入れたからでございます。それは一頭の象をも、その縦《たて》を横にめりこませて、倒してしまうことのできるほどの麻酔剤《バンジ》でした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八夜になると[#「けれども第七百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
醜悪が清純を汚すことを決して許したまわぬ、アッラーに讃《たた》えあれ。
マリアム姫は、大臣《ワジール》がこのようにして、まるで膨れ上がった豚みたいに転がるのを見ると、即刻即座に立ち上がって、二つの袋を取って宝石宝玉の類を詰め、刃《やいば》を獅子の血に浸《ひた》した剣を外《はず》して帯に佩き、大きな面衣《ヴエール》で身を包み、それから綱を伝って窓から中庭に滑り降り、誰にも見咎められずに館《やかた》を出て、王門《スルタニエ》の方向指して駈け、無事そこに行き着きました。そしてヌールの姿を見つけるや、走り寄り、接吻する暇さえ与えずに、ラヒク号に飛び乗って、ヌールに叫びました、「サビクに乗って、後にお続きなさい。」ヌールは考えることは一切やめにして、彼もまた二番目の馬に飛び乗って、既に遠くに行った愛人に追いつこうと、ひたすら馬を疾駆させました。こうして二人は夜通し、夜の明けるまで駈けました。
王女は、自分たち二人と、追跡するかもしれない追手との間に、もう十分の距離を置いたと判断すると、しばらく停って休息し、また二頭の名馬にも息をつかせてやることにしました。そして二人の到着した場所は、緑の草原、木蔭、果樹、花、流れる水があって快く、爽やかな時刻が静かな悦楽に誘《いざ》なったので、二人はようやくこの場所の安らかさのうちに相並んで坐って、別離の間忍んだ事どもを、互いに語り合うことができるようになったのを、心から悦びました。そして流れの水を直接《じか》に飲み、木々から直接《じか》に摘みとった果実で喉を潤してから、二人は身を浄め、爽やかに、すがすがしく、愛《いと》おしく、お互いの腕のなかに横たわりました。そして一度の同席のうちに、禁欲して空しく過した時間全部の償いをしました。それから空気の暖かさと静けさに引きこまれて、二人は朝の微風になぶられながら、寝入ってしまいました。
ところで両人はこうして日の半ば頃まで眠っていて、目が覚めたのは、大地がさながら数千の蹄《ひづめ》に蹴られるかのように、鳴りひびくのを聞いたためでした。眼を開けてみると、太陽の目は砂塵の旋風で暗くされ、その濛々たるなかから、電光がさながら嵐の空のように迸り出ているのが見えました。そのうち、軍馬の響きと触れ合う干戈の音が聞き分けられました。ところで、それは一軍こぞって二人を追ってきたのであります。
というのは、その日の朝、フランク人の王は、自身でわが子王女の様子を見とどけ、それについて安心したいと、早朝に起き出たのでした。骨の髄《ずい》など、もうとっくの昔溶けてしまったにちがいないあの老爺との、王女の結婚の成行については、王は少なからず不安なしとしなかったのです。それにしても、わが娘の姿は見えず、大臣《ワジール》は気を失って、頭を足の間に入れて、床《ゆか》に伸びているのを見ては、王の驚きはその最後の極に達しました。そして何はともあれ、まず王女の行方を知りたいと思って、王は大臣《ワジール》の鼻のなかに酢を流しこませると、大臣《ワジール》はすぐに正気を取り戻しました。王は物凄い声で、怒鳴りつけました、「おお呪われたる者よ、汝の妻の、わが娘マリアムはどこにいるか。」大臣《ワジール》は答えました、「おお王様、存じませぬ。」すると王は激怒に溢れて、佩剣を抜き放ち、一撃の下に、大臣《ワジール》の頭を真二つにしまして、刃は一閃して、顎《あご》を抜けました。なにとぞ、アッラーはこの無信の魂をば、地獄《ジヤハンナム》のどん底の段に、永久に宿らしめたまえ。
それと同時に、馬丁どもが顫えながら来て、王に、新参の獣医と二頭の馬サビク及びラヒクの失踪を告げました。それで王はもはや娘と厩舎の長との駈落を疑わず、すぐに総|大将《パトリキウス》のなかから三人を呼び出し、娘を捜索に行くから、おのおの兵三千を率いて、供をせよと命じました。そして王はこの軍隊に更に、総大主教《パトリアルク》たちと宮中の大官を加え、自ら軍勢の先頭に立って、逃亡者の追跡を始め、こうして先刻の草原で、これに追いついたわけでございます。
マリアムはこの軍隊が近づくのを見ると、すぐさま馬に飛び乗って、ヌールに向って叫びました、「おおヌール様、あなたは後ろにとどまっていて下さい。われらの敵は真砂《まさご》のように数知れずおりますけれど、わたくしはただ独りで、敵に襲いかかり、あなたを守り、自分を守りたいと存じますから。」そして剣を振りかざしながら、王女は次の詩を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
今日こそは、われはわが武勇と剛毅の程を示し、独力をもって、敵の聯合軍を粉砕せんと欲す。
われはフランク軍の城砦を根底より覆えさむ。わが利剣は、彼らの首長らの首《こうべ》を断たむ。
わが駒の色は夜の色にして、わが豪勇は日のごとく明らけし。
わが言うところ、人々はその註解を今日ぞ見む、われこそは人類無二の女騎手なれば。
[#ここで字下げ終わり]
こう言って、そして王女は父王の軍隊の正面に躍り出ました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百九夜になると[#「けれども第七百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王は王女が、両の眼を眼窩のなかに水銀のように転《まろ》ばしながら、こちらに来るのを見ました。それで王は叫びました、「救世主《メシア》の信仰にかけて、あいつは無分別にも、われわれに襲いかかろうとしているわい。」そして軍勢の進行を停めて、ただ独り娘のほうに進み出て、呼ばわりました、「おお邪悪の娘よ、汝は恐れ気もなく余に立ち向い、フランク軍に打って掛らんずる気勢を見せておるな。おお愚か者よ、さらば汝は一切の慎しみを棄て、汝の父祖の宗教を放棄せしか。もし汝にしてわが寛仁に身を委ねずば、疑いなき一死の汝を待つを、知らざるか。」王女は答えました、「過ぎしことは過ぎて返すに由なく、それこそは回教教理の奥儀。妾《わらわ》は唯一神アッラーと、その使徒、アブドゥッラーの子、祝福せられたるムハンマドとを、信じ奉ります。して妾はわが信仰と、エジプトの若人に対するわが愛情の忠節とは、決して棄てはいたしませぬ、たとえわが身の滅亡の盃を仰がねばならぬとしても。」かく言い放って、フランク軍の真正面で、泡吹く乗馬を旋回させ、燦《きら》めく剣で虚空に穴を穿《うが》ちつつ、次の軍歌を歌いました。
[#ここから2字下げ]
快きかな、戦いの日に戦うは。ならば出会え、烏合の衆よ。来たれ、キリスト教徒ども、打ち砕くわが刀を受けてもみよ。
われは汝らの斬り首を砂塵に埋め、汝らの力の核心を衝かむ。烏は汝らの屋上に鳴き、汝らの潰滅を告げむ。
汝らは我が剣の刃に、胡蘆《コロシント》の汁のごとき苦汁を飲まむ。しかしてわれは汝らの王に災厄の盃を勧めて、もって永久に清き水を厭《いと》わしめむ。
いざ、出会え、汝らのうちに勇者あらば。来たってわが憂《うさ》を軽くし、汝らの血のうちに、わが苦を癒さしめよ。
進み出でよ、汝らの魂にして、怯懦もて作られずんば。しかして砂塵の蔭に、わが剣の切先は、いかに汝らを迎うるやを見よ。
[#ここで字下げ終わり]
雄々しい王女は、このように歌いました。そして乗馬のほうに身を傾けて、その首に接吻し、手で軽く叩いてやって、耳許で言いました、「おおラヒクよ、今日こそはお前の一族とお前の高貴の日ですよ。」するとアラビア人の子は身顫いして嘶《いなな》き、鼻孔から火を噴きながら、朔風よりも速く躍り上がりました。マリアム姫は、凄まじい喚声をあげながら、フランク人の左翼を襲撃し、駿馬を駆って、騎手の首十九を、剣で薙ぎ落しました。次に、戦場のまん中に戻ってきて、大音声でフランク人に挑戦しました。
これを見ると、王は軍隊を率いる三人の大将《パトリキウス》の一人、バルブートと呼ばれる男を呼びました。ところでこれは、火のように元気な、老巧な武士でありました。フランク王の王座の最も有力な支柱、臂力と剛勇をもって、王国と宮廷の高官の筆頭、武の道がその本領です。大将《パトリキウス》バルブートは王の召しに応じて、飛節《ひせつ》逞しき血統正しい馬に乗り、勢い猛に進み出ました。一面に飾りをつけて、蝗《ばつた》の翼のように目の詰んだ網目の、金の鎖鎧に身を固め、武器はといえば、鋭く物騒な剣、船の帆柱にも似て、一撃よく山をも覆《くつがえ》すばかりの長槍、曽った投槍四筋、釘だらけの恐ろしい鉄棒です。こうして鎧と攻守の武器に身を固めた様子は、さながら塔のようでした。
さて、王はこれに言いました、「おおバルブートよ、あの非道なる娘のなせる殺戮は、その方の見るところ。その方、あれを打ち破って、生死いずれにせよ、余の許に引っ立ててまいれ。」次に王は彼を総大主教《パトリアルク》たちに祝福させました。雑色の衣に身を包んだ総大主教《パトリアルク》たちは、頭上に十字架を捧げ、大将の頭の上で福音書を読みあげ、彼らの誤謬と不信の偶像に、加護を祈りました。けれどもわれわれ回教徒《ムスリムーン》は、御力と御稜威溢るる唯一なるアッラーに、縋り奉りまする。
大将《パトリキウス》バルブートは、十字架の旗に接吻しおわるとすぐに、怒り狂う象のように叫びながら、そして自分の国の言葉で信徒らの宗教に対して、聞くも慄ろしい罵詈を浴びせながら、戦場に躍り出しました。こやつは呪われよかし。けれども一方、王女は彼が向ってくるのを見ると、仔獅子の母の牝獅子のように、吼えました。そして唸り、咆え、猛禽のように素早く、相手をめがけて乗馬ラヒクを駆ります。そして両人、動く二つの山のようにぶつかり合い、悪魔の勢いで喚《よ》ばわりつつ、猛然と相対峙しました。次に両人相分れ、かなたこなたに身を転じ、激しく退いてはまた攻め、驚くばかり巧みに素早く、互いの突きを躱《かわ》して、衆目を茫然とさせます。馬蹄の下に捲き上がる砂塵は、時々両人の姿を隠します。酷暑は石を叢《くさむら》のように燃え上がらせるばかり、戦いは、いずれ劣らぬ武者振りにて、ひと時続きました。
しかし、最初に息を切らして、大将《パトリキウス》バルブートは、一挙に片をつけてしまおうと思いました。そこで右手に持ったる棍棒を左手に移し、四筋の投槍の一本を掴んで、雷の轟くような掛け声もろとも、王女目がけて投げつけた。武器は目を眩ます電光のごとくその手を離れます。けれども王女は、投槍の来るのを見て、その近づくを待ち、剣の峰でひらりと躱す。投槍は唸りを立てて、遥かの砂に突き刺さりました。全軍これを見て、驚き入りました。
するとバルブートは第二の投槍を取りあげて、「突き刺さって殺してくれよ」と叫びながら、勢い激しく投げます。けれども王女は、避けて空しく終らせる。第三と第四の槍も同じ運命。すぐにバルブートは怒りに煮えたぎり、屈辱に逆上して、鉄棒を右手に取りなおし、獅子のように吼えて、相手を目がけて、腕の限りの力を絞って投げつけます。大鉄棒は重たげに宙を横ぎり、マリアムの上に落ちかかり、王女は術《すべ》なく押し潰されるところであったが、女丈夫はこれを宙でさっと受けとめ、手に掴み取った。アッラーはかねて王女に手練と策略と膂力を授けたもうたからです。そして今度は王女が大鉄棒を振り廻した。誰しもこれを見た人の眼は、感嘆のため盲目《めくら》になってしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十夜になると[#「けれども第七百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして王女は牝狼のごとく、大将《パトリキウス》めがけて走り寄り、さながら角《つの》ある蝮の軋るように鼻息を鳴らしつつ、これに向って叫びました、「汝に禍いあれ、呪われし者。いざ棍棒のあしらい方を教えて遣わそう。」
大将《パトリキウス》バルブートは、相手がこうして棍棒を空中で受けとめるのを見ると、天地は眼前に消え失せるような思いがしました。そして、のぼせ上がり、勇気も冷静もことごとく忘れ果て、背を向けて、楯で身を護りつつ、逃げ出しました。けれども雄々しい王女は、そば近く詰め寄って、その重い棍棒をぐるぐると振り廻し、その背を目がけてはっしと投げつけた。すると棍棒は響きをあげて、投石機で打ち出された岩よりも重く、楯の上にずしんと落ちる。そして四枚の肋《あばら》をへし折って、大将《パトリキウス》を落馬させた。彼は砂塵のなかをのたうって、血のなかで|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》き、爪で地を引っ掻く。そして断末魔の苦しみもなく、死んでしまいました。それというのは、死の天使アズラーイールが、最期の時と共に彼に近づいて、その魂を引き抜き、魂は己が誤謬《あやまち》と無信とを、秘密を知り、情を看破したもう御方に、告げに行ったのでございます。
するとマリアム姫は馬を駆って、すばやく馬の腹に沿って地面まで身を沈め、討ち取った敵の長槍を拾いあげて、少しく遠ざかりました。そしてそこに、その槍を地中深く突っ立てて、再び父王の全軍の正面を向きながら、意のままに動く乗馬をにわかに止め、その長槍に背をもたせかけて、その姿勢で、頭を昂然とあげ、挑むがごとく、じっと立ち尽しました。かくして馬と地に突き刺した槍とただ一体となり、山のごとく小揺ぎもせず、「天運」のごとく微動もせぬ姿であります。
フランク王は、このように大将《パトリキウス》バルブートが斃れてしまったのを見ると、苦しみにわれとわが顔を打ち、衣服を引き裂き、同じく軍隊を率いる第二の大将《パトリキウス》、バルトゥスと呼ばれる男を召し出しました。これは一騎討にかけての勇猛果敢をもって、フランク人の間に聞えた豪傑です。王はこれに言いました、「おおバルトゥス大将《パトリキウス》よ、いざ、その方の軍《いくさ》の兄弟、バルブートの死の仇を討て。」すると大将《パトリキウス》バルトゥスは、身を屈めて答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして戦場に馬を走らせて、王女に迫りました。
けれども女丈夫は、同じ姿勢のまま、動きません。駿馬は橋のように、足の上にしっかと身を支えています。見るまに、大将《パトリキウス》は馬の手綱を弛め、姫を目がけて殺到し、穂先は蝎《さそり》の針にも似た槍を擬して、駈け寄った。相打つ干戈の音は、戞々《かつかつ》と鳴る。
その時、全部の武士は、彼らの眼が未だかつてこのようなものを目睹したことのないこの戦いの、恐ろしい驚異をよりよく見ようとして、一歩前に乗り出しました。そして感嘆の戦慄が、すべての軍列に走りました。
けれども既に、濛々たる砂塵に埋まっていた二人の敵手は、荒々しく相衝突し、空《くう》を鳴らす打ち合いを交わしています。かくて両人は永い間、魂荒立ち、凄まじい罵倒を投げ合いながら、戦っていました。そのうち大将《パトリキウス》は、相手の勝《まさ》るを認めずにはいられず、心中に思った、「救世主《メシア》にかけて、もうわが全力を発揮すべき時だ。」そこで、死の使者たる槍を掴んで、振り廻し、敵を狙って、「これを喰らえ」と叫びながら、投げつけた。
けれども、マリアム姫といえば、東洋西洋きっての無双の女傑、地と砂漠の騎手、野と山の女武者であることを、彼は知らなかった。
さて、姫は早くも大将《パトリキウス》の身ごなしを見てとって、その意中を看破してしまった。それで、敵の槍がこちらに向って放たれると、それが来たってわが胸許を掠めるのを待って、いきなり宙で受けとめ、肝を潰した大将《パトリキウス》のほうに向き直って、そのままその槍で、腹のただ中を突くと、槍は一閃脊骨を貫きました。そして相手は崩れ落ちる塔のように倒れ、その武器の響きは、音高く木魂《こだま》しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十一夜になると[#「けれども第七百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼の魂は、永久に戦友の魂の後を追って、至高の審判者の御怒りによって点火《ひとも》された、消し得ざる焔の中に赴きました。
するとマリアム姫は、改めて乗馬ラヒクを敵軍のまわりに旋回させながら、叫びました、「奴隷どもはいずこ、騎手どもはいずこ、勇者らはいずこにありや。眇《すがめ》の大臣《ワジール》、あの跛の犬はいずこぞ。汝らのうち最も武勇ある者、もし勇気あらば、現われよ。たかが一女性の腕の前に、震え上がる汝ら一同の上に恥辱あれ、おおキリスト教徒どもよ。」
こうしたすべてを聞きもし見もして、フランク人の王は無念やる方なく、また二人の大将《パトリキウス》を失って憤りに耐えず、第三の大将《パトリキウス》を呼び出しました。それはファシアーン、即ち屁っぴり男と呼ばれていて、すかし屁や放屁で名高く、また著名な男色家でありました。王はこれに言いました、「おおファシアーンよ、その方は男色をもって主なる取得《とりえ》としておるが、今度はその方行って、あれなる放埓女と戦い、その死をもって戦友らの死の仇をとれ。」すると大将《パトリキウス》ファシアーンは、承わり畏まって答え、後ろに轟き渡る放屁の雷鳴を放ちつつ、馬を駆って出て行きました。それは揺籃の赤子を怯えさせて髪の毛を白くし、また大船の帆を膨らませることのできるほどの、放屁でありました。
けれども既に、マリアム姫のほうでは、十分に距離を置いて、閃めく電光よりも、落ちる霰《あられ》よりもなお早く、ラヒクを駆って進みました。そして両人、二頭の牡羊のように互いに躍りかかって、さながら二つの山嶽がぶつかり合うと思えるほどの激しさで、衝突します。大将《パトリキウス》は王女に襲いかかり、ひと声大声を発して、猛烈な一撃を加えます。しかし王女はひらりと身を躱し、敵の槍を巧みに叩いて、真二つに折ってしまった。次に、ファシアーン大将《パトリキウス》が、勢い余って王女のそばを通り過ぎようとした瞬間、王女はすばやく転回して突如反転し、自分の槍の石突で、敵の両肩の間をしたたか打てば、相手はどっと落馬した。そして敵が仰向けに転がっているところを、恐ろしい掛け声もろとも襲いかかって、ひと突きで、わが槍を敵の口中に突き刺し、貫き通す穂先を深く地に刺して、首を地に釘付けにしてしまいました。
これを見ると、全部の武士は最初茫然として言葉がなかったが、そのうちにわかに、頭上に恐慌の戦慄《おののき》が通り過ぎるのを感じたのでありました。それというのも、このような武勲を立てたこの女傑は、果たして人間やら悪魔やら、今はわからなくなったからです。それで一同背を向けて、足を風にまかせながら、逃亡のうちにわが身の救いを求めたのでした。けれどもマリアム姫は、足下に距離を無にしつつ、彼らの後から飛んで行きます。そして或いは束《たば》にして、或いは一人一人、彼らに追いついて、剣を振り廻して打ってかかり、彼らに死をひと口で飲ませ、天運の大海に沈めます。その心はいとも愉しく、世界もわが心を容《い》れきれないと思えるばかり。そして姫は殺した人々を殺し、傷つけた人々を傷つけて、地上縦横に、死人を撒き散らしました。フランク人の王は、絶望のあまり腕を天に挙げ、配下の武士ともども、四散する軍隊と総大主教《パトリアルク》と司祭のまん中を走りつつ、逃げのびましたが、その様はさながら、羊飼いが暴風雨に追われて、羊の群れのただ中を走るようでした。王女は、太陽が薄明の外套でことごとく身を包むまで、こうして一同の後を追い、大殺戮を行なうことをやめませんでした。
そのときようやくマリアム姫は、勝利の長駆をやめることを思いました。そこで引き返して、愛人ヌールと落ち合いに行きましたが、ヌールはそろそろ、姫の身をたいそう案じはじめているところでした。姫はその夜は愛人の腕の中で休み、愛人を救い、キリスト教徒の迫害者から永久にまぬがれるために冒した労苦と危険を、共に交わす愛撫と恋の快楽のうちに、忘れたのでございました。そして翌日、二人して、今後どこがいちばん住心地がよかろうかと長い間協議してから、結局ダマスの地を試みに行こうと定めました。そしてその快い町を指して旅立ちました。二人のほうは、このようでございます。
ところでフランク人の王はと申しますと、王はバルブート、バルトゥス、ファシアーンと三人の大将《パトリキウス》の死と、また自軍の敗北のために、鼻をたいそう長くし、胃袋をすっかり裏返されて、コンスタンティニヤの王宮に帰ると、御前会議を召集して、つぶさに自分の不興を述べてから、どういう手段をとるべきかを下問しました。そして付け加えました、「あの不潔の千人の寝取られ男の娘め、きゃつはそもそもいずこに行きおったか、今はわからぬ。さりながら、回教国の男子どもは逞しく疲れを知らぬ男性だと申しおったから、恐らくはその地に行ったに相違ないと思われるのじゃ。何となれば、あの娼婦の娘は、地獄に生れた燃えさかる余燼だからな。そしてキリスト教徒は、きゃつの不断の欲情を鎮めるだけの、逞しき一物がないと見ておった。されば余は、おお総大主教《パトリアルク》らよ、この面白からぬ事態に際して、いかになすべきかを、卿らに告げてもらいたく思う。」そこで総大主教《パトリアルク》と修道士と王国の大官たちは、ひと時の間熟考いたしまして、次に答えました、「われら思うに、おお当代の王よ、かくなりし上は、君の取るべき手段はただひとつしかござりませぬ。それは回教徒《ムスリムーン》の強大なる首長《シヤイクー》、かの二人の駈落者の落ち行く先の地と国々の主、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードに宛てて、多くの進物と共に、一書をお寄せになることでございます。その書面は、わが君御自らの手でお認《したた》め相成って、これにあらゆる種類の約束と友誼の誓約をなされ、駈落者を逮捕し、コンスタンティニヤに護送するを承諾させるようになさりませ。そういたしたところで、この異教徒らの首長《シヤイクー》に対し、わが君もわれわれも、何ら拘束せらるるところはござりますまい。何となれば、駈落者をわれらに引き渡した暁には、直ちにわれらは急遽護送してきた|回教徒ども《ムスリムーン》を鏖殺《みなごろ》しにし、当方の誓約と約束なぞは忘れてしまえばよろしい、われらはムハンマドを信奉する彼ら不信の徒と約を結ぶ時は、いつもそうするを常としておりますれば。」フランク人の王の総大主教《パトリアルク》と顧問官どもは、このように語りました。なにとぞ、彼らはその無信と裏切りによって、今生《こんじよう》と他生《たしよう》にあって呪われまするように。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十二夜になると[#「けれども第七百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてコンスタンティニヤのフランク人の王は、元来その総大主教《パトリアルク》たちほど卑しい魂を持ってはいなかったのですけれども、この不実に満ちた忠言に従わずにいませんでした。しかし王は、不実は早晩その当人に禍いして、アッラーの御眼は常にその信徒を見守りたまい、臭気紛々たる敵どもの罠《わな》よりこれを護りたもうことを、知らなかったのでございます。
そこで王は紙と蘆筆《カラーム》を取りあげて、ギリシア文字で教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードに親書を認《したた》め、最も鄭重な、最も讃美と友誼に溢れた前置きの後に、次のように申し送りました。
[#ここから1字下げ]
「おお、われらが兄弟|回教徒《ムスリムーン》の強大なる指揮者《アミール》よ、余にマリアムと呼ぶ淪落の一女あり。カイロなる若き一エジプト人に誘惑せられて、誘bされ、御治下御領下の国々へ連れ行かれ候。従って、おお回教徒《ムスリムーン》の強大なる指揮者《アミール》よ、何とぞ所要の捜索を御命じの上、娘を発見し、確実なる警護を付して至急御返送相成りたく、懇願仕り候。
当方と致しては、これに報うるに、わが娘と共に御派遣下さるべき警護の方々には、名誉と尊敬の限りを尽すべく、更に何なりと御意に叶う一切を致すべく候。されば、わが謝意を表し、友誼の念を証せんがため、特に、わが首都に、御指定の建築師により一宇の回教寺院《マスジツト》を建立せしむる旨、御約束申し上げ候。更に何人も未だ類を見しことなきが如き、筆舌の尽しがたき財宝をも御贈り申すべく候。天女《フーリリ》にも似たる若き娘、月の如き無鬚の小童、火も焼き得ざる宝物、真珠、宝玉、馬、牝馬と若駒、牝駱駝と仔駱駝、わが国の最も見事なる産物を収めたる、貴重なる騾馬の荷数駄等。なお、以上すべてをもって未だ足らずば、わが領土の境界を減じて、貴領と貴国境を増すも苦しからず。以上の誓約、われはわが玉璽をもってこれにツ《けん》す、われは十字架礼拝者の王、皇帝《カエサル》なり。」
[#ここで字下げ終わり]
そしてフランク人の王は、この親書に封をした上で、前の眇《すがめ》で跛の老人《シヤイクー》の代りに任命した、新しい大臣《ワジール》にそれを渡して、次の言葉を寄せました、「もしその方、かのハールーンに謁見叶わば、次のごとく言上せよ、『おお威力絶大の教王《カリフ》陛下、某《それがし》はわれらが王女を賜わりたく、御許に参じました。それと申すは、われらに託されし重要使命の目的は、そこにござりますれば。もしわれらの所望を御快諾下さらば、われらの主君なる王の感謝は御期待あって然るべく、この上なく見事なる数々の献上品を奉るでござりましょう』と、かく申せ。」次に、こうして大使として派する大臣《ワジール》の熱意を更に煽るために、フランク人の王は大臣《ワジール》にも同様に、首尾よく大使の任を果たした暁には、王女を妻に賜わって、財宝と特典の限りを授けると、約束しました。次に大臣《ワジール》を引きとらせ、親書を教王《カリフ》自身に、直接渡すようにと、くれぐれも注意しました。大臣《ワジール》は、王の両手の間の床《ゆか》に接吻してから、道に就きました。
さて長い旅のあげく、大臣《ワジール》は供の者とバグダードに着くと、まず三日間休息することにしました。次に、教王《カリフ》の宮殿の所在《ありか》を聞いて、教えられると、早速出向いて、信徒の長《おさ》に謁見を乞いました。そして接見の間《デイワーン》に案内されると、大臣《ワジール》は教王《カリフ》の足下に身を投げて、御手の間の床《ゆか》に三度《みたび》接吻し、自分に託された使命の目的を手短かに言上してから、主君たるマリアム姫の父王、フランク人の王の親書を捧呈しました。するとアル・ラシードは封を開いて、お読みになり、その趣意が全部おわかりになると、これは異教徒の王から参ったものとはいえ、そこに記された所望に対して、御好意をお示しになりました。そして直ちに回教国全地方の太守《アミール》に書を発して、マリアム姫とその連れの男の人相書を廻し、特命を下して、必要なあらゆる捜索を行なって両人を見つけ出すよう、不首尾或いは怠慢の節は厳罰に処する、発見したならば遅滞なく、警護を固めて宮廷まで送り届けよと、命じなさいました。そこで、馬に乗ったり、或いは乗用単峰駱駝の背に乗ったりした飛脚が、めいめい地方の代官《ワーリー》宛の書面を携えて、あらゆる方向に出発しました。そしてさしあたり、教王《カリフ》はフランク大使とその供奉全員を、宮殿のおそば近くに、止めおかれました。これらそれぞれの両王とその談判については、以上のようでございます。
ところで、二人の恋人同士はどうかと申しますと、次のようでございます。王女は単身で父のフランク人の王の軍隊を潰走させ、自分と力を競べた三人の大将《パトリキウス》たちを、禿鷹の餌食にしてしまうと、ヌールと相携えてシリアに向い、無事ダマスの城門に行き着きました。ところが二人は美しい場所ごとに足を停めて、愛の表示に耽りながら、道を急がず旅をつづけ、そして敵の罠《わな》など少しも気にかけなかったので、二人がダマスに着いたのは、教王《カリフ》の早飛脚よりも数日遅れ、飛脚は先に着いて、町の代官《ワーリー》に、両人に関する命令を伝えたあとのことでした。それで、何が自分たちを待ち受けているかなど少しも疑わず、警察の探偵どもに、懸念なくわが名を名乗ったので、すぐにわかって、代官《ワーリー》の警吏に逮捕されてしまいました。警吏は二人の入市を許さず、猶予なく道を引き返させ、脅しの武器で取り囲みながら、バグダードまで同行を強い、砂漠をよぎって強行十日の後、二人は疲れ果てて、バグダードに着きました。そしてそのまま、王宮の警吏に囲まれて、謁見の間《デイワーン》に入れられました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十三夜になると[#「けれども第七百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしていよいよ両人、教王《カリフ》の大気《おおけ》なき御前《みまえ》に出ますと、御前《ごぜん》に平伏し、御手の間の床《ゆか》に接吻しました。すると、そのとき侍御していた侍従は、言上しました、「おお信徒の長《おさ》よ、これなるはフランク人の王の女《むすめ》マリアム姫と、その誘b者、カイロの商人冠の息子、ヌールにござります。ダマス市において、かの市の代官《ワーリー》の命により、この両人を共々逮捕致した次第でござりまする。」すると教王《カリフ》は、マリアムの上に御眼を投げられまして、その姿の優雅と顔立の美しさに、お心を奪われなさいました。そしてお訊ねになりました、「フランク人の王の女《むすめ》、マリアムと呼ばるるは、たしかにその方なりや。」姫は答えました、「さようでございます、わたくしこそはマリアム王女、ただわが君のみの奴隷でございます、おお、信仰の保護者、アッラーの使徒の君主の後裔にまします、信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》はこの返事にたいそう驚きなすって、次にヌールのほうをお向きになり、やはりその若さの雅致と立派な顔貌《かおかたち》とに、お心を魅せられました。そして彼に仰せられました、「してその方は、カイロの商人冠の子、青年ヌールなりや。」彼は答えました、「さようでございます、たしかに私、わが君の奴隷でございます、おお、帝国の支柱《みはしら》、信仰の擁護者にまします、信徒の長《おさ》よ。」すると教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「何とてその方は敢えて掟を軽んじて、これなるフランク王女を誘bせしか。」そこでヌールは、お話し申し上げるお許しを得て、自分の冒険全部を細大洩らさず、教王《カリフ》にお話し申しますと、教王《カリフ》はいとも御興深げに、その話をお聴きになりました。けれどもそれを繰り返したとて、益なきことでございます。
すると教王《カリフ》はマリアム姫のほうを向いて、おっしゃいました、「実はその方の父君、フランク人の王は、御直筆の親書を授けて、ここにおるこれなる大使を派せられた。そして余がその方を送還帰国せしむるを諾わば、必ず厚く謝して、首都に回教寺院《マスジツト》を建立しようとの御意向じゃ。ところで、その方として、返事はいかに。」マリアムは頭をもたげ、毅然《しつかり》とした同時に爽やかな声で、答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、わが君は地上におけるアッラーの代行者にましまし、その預言者、ムハンマド(その上に永久に平安と祈りあれかし)の掟を護持したもう御方にまします。ところでわたくしは、回教徒《ムスリム》と相成りまして、アッラーの唯一性を信じ奉り、わが君の大気《おおけ》なき御前にて、それを表明いたします。わたくしは申します、アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり。されば、おお信徒の長《おさ》よ、畏くもアッラーに等しき者どもを認め、人の子イエスの神性を信じ、偶像を礼拝し、十字架を敬い、不信の裡に死して、アッラーの御怒《みいか》りの焔の中に墜ちしあらゆる種類の人々をば、妄《みだ》りに拝んでいるような無信の徒の国に、わが君は、このわたくしを送り還すことなどおできになれましょうか。もし君がそのようにお振舞い遊ばして、わたくしをば、これらのキリスト教徒にお引き渡しになるようなことがございましたら、わたくしは、一切の権勢も物の数ならず、ただ汚れなき心のみ見られるであろう審判の日に、アッラーの御前と、わが君の御《おん》従兄《いとこ》、われらの預言者(その上に祈りと平安あれかし)の御前にて、わが君のその御所行を、訴え申し上げるでございましょう。」
このマリアムの言葉とその信仰告白をお聞きになると、教王《カリフ》は御心の中で、このような女傑が回教徒《ムスリム》であるのを知りなされて、いたくお悦びになり、御眼に涙を浮べて、お叫びになりました、「おおマリアム、わが娘よ、願わくはアッラーは、アッラーの唯一性とその預言者を信ずる回教徒《ムスリム》をば、余が無信の徒に引き渡すを、永久に許したまわざれ。アッラーはそちを守り、永らえしめ、そしてそちの信仰の鞏固をいよいよ増大しつつ、そちの上に御慈悲と御祝福を注ぎたまわんことを。して今は、そちの武勇と剛勇に免じて、何なりと余に所望して苦しゅうない。余は何ものも拒まぬことを誓うぞよ、よしんばわが帝国の半ばなりとも。さればそちの眼を悦ばせ、心を晴し、一切の不安を追えよ。そして、必要の処置をしてとらするゆえ、そちは果たして、この若者、カイロの商人にしてわれらの下僕《しもべ》冠の子をば、正式の夫とするに不服はなきか、聞かせてもらいたい。」するとマリアムは答えました、「どうしてそれを望まぬことがございましょうか、おお信徒の長《おさ》よ。わたくしを買い取ったのは、この方ではございませんか。わたくしにあって摘み取るべきを摘み取ったのは、この方ではございませんか。わたくしのためにあのようにたびたび一命を賭したのは、この方ではございませんか。最後に、わたくしに回教信仰の清らかさを教えて、わたくしの魂に安らぎを与えたのは、この方ではございませんか。」
すぐに教王《カリフ》は法官《カーデイ》と証人を呼んで、即座に結婚契約書を作製させなさいました。次にフランク人の王の大使の、大臣《ワジール》を進み出させて、仰せられました、「その方は汝自身の眼をもってよく見、汝自身の耳をもってよく聞いたごとく、王女マリアムは回教徒《ムスリム》となって、われらに属する以上、余はその方の主君の求めを容れることは致しかねる。さもなくんば、余は審判の日に、アッラーとその預言者に対し奉って、責《せめ》を負わねばならぬ行為を犯すこととなる。何となれば、アッラーの書に記《しる》されておる、『無信の徒にして信徒に打ち勝つことは、断じて許されざるべし(13)』と……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十四夜になると[#「けれども第七百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……さればその方は主君の許に帰って、その方の見かつ聞きしところを、お知らせ申し上げよ。」
大使はこうして、教王《カリフ》がフランク人の王の娘を引き渡す御意のないことがわかると、口惜しさと傲りに溢れて、臆面もなく激昂しました。それというのは、アッラーは、彼に己が言葉の結果について盲目にしたもうたからです。そして叫びました、「救世主《メシア》にかけて、たとえ姫が更に二十度も回教徒《ムスリム》になったにせよ、某《それがし》は姫をば、わが主君たる父君《ちちぎみ》の御許に連れ戻さなければなりますまい。さもなくば、わが王は貴領に襲来して、麾下の軍隊をもって、ユーフラテス河よりヤマーンの地に至るまで、貴国を埋め尽すでござろう。」
この言葉に、教王《カリフ》は憤怒の極に達して、叫びなさいました、「何じゃと、このキリスト教徒の犬めは憚りもなく、威《おど》し文句をほざきおるな。きゃつの首を刎ねて、都の城門に曝《さら》し、屍体を十字架にかけ、もって今後、無信の徒の使節に対する見せしめとせよ。」けれども、マリアム姫は叫びました、「おお信徒の長《おさ》よ、この犬めの血をもって、光輝ある御剣《みつるぎ》をお汚し遊ばしますな。このわたくしが自身で、この者をばそれにふさわしきよう片づけとうございます。」そう言って、姫はフランクの大臣《ワジール》が腰に佩いていた剣を奪うなり、さっと振りあげて、一刀の下に首を打ち落し、窓から首を放り投げてしまいました。そして足で屍骸を押しやって、奴隷に運び去るように合図しました。
教王《カリフ》はこれを御覧になると、王女が処刑を片づけるその手際のすばやさに驚嘆なすって、これに御自身の外套をお着せになりました。そしてヌールにも同じく誉れの衣をお着せになって、両人に見事な贈物の限りを尽しなさいました。そして両人の申し上げた希望に従って、美々しい供を授けて、カイロまで送らせ、また、エジプト代官《ワーリー》と法学者《ウラマー》たちに宛てて、御推挙状を賜わりました。こうしてヌールとマリアム姫は、エジプトの年とった両親の許に帰りました。商人冠氏は、わが家に嫁として王女を連れてきた息子に再会して、得意限りなく、ヌールの昔の仕打ちを許しました。そして息子のために、大祝宴を催して、カイロのあらゆる高位高官を招くと、一同若夫婦に対し、競って他を凌ぐ贈物の限りを尽しました。
かくて若いヌールとマリアム姫とは、晴々しさと清々しさとの限りに、長い間、何ひとつ不自由なく、よく食べ、よく飲み、盛んに、激しく、長い間交合しつつ、栄耀栄華のただ中に、またなく平穏で、またなく楽しい生活のうちに暮して、遂にかの至福の破壊者、友垣と交友を分ち隔てる者、家々と宮殿を覆《くつがえ》しては墳墓の腹を肥やす者が、参ったのでございます。さあれ、ひとり死を知らず、御手の裡に、「可見」と「不可見」との鍵を握りたもう「唯一の生者」に、栄光あれかし。アーミーン。
[#ここから1字下げ]
――シャハリヤール王はこの物語を聞くと、突如半ば身を起して叫んだ、「ああ、シャハラザードよ、この雄々しき物語は、まことに余を感激させた。」こう言ってから、再び座褥《クツシヨン》の上に肱をついて、独りごとを言った、「この話のあとには、もうほかに己に話して聞かせる物語も定めし尽きたであろう。では己はこれから、この女の首について、これを何としたらよいか、考えるとしよう。」けれどもシャハラザードは、王が眉をひそめるのを見て、独りごとを言った、「これは一刻もぐずぐずしていてはいけない。」そこで彼女は言った、「さようでございます、おお王様、この雄々しい物語は見事ではございますが、しかし、万一お許しがござりますれば、更にお聞かせ申し上げたいと存じまするものに比べては、これなど何ものでもございません。」すると王は訊ねた、「何と申すか、シャハラザード。そもそもいかなる物語を、そちは更に余に聞かせるつもりであるか、これにもまして見事であるとか、驚くべきとかいう物語とは。」するとシャハラザードは微笑して、言った、「それは王様の御判断におまかせ申しましょう。けれども今夜、わたくしたちの夜を明かすには、聞いていて疲れないようなものの中から、短い逸話を一つ選んで、お話し申すにとどめたいと存じます。これは寛仁大度と処世の道の談話会[#「寛仁大度と処世の道の談話会」はゴシック体]のなかから、抜き出した逸話でございます。」
そしてすぐさま彼女は言った。
[#改ページ]
寛仁大度と処世の道の談話会
サラディン(1)とその大臣《ワジール》
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、勝利王、帝王《スルターン》サラディンの大臣《ワジール》(2)は、気に入りの奴隷たちの間に、自分のものとして、一人の申し分なく美貌のキリスト教徒の少年を持っていて、これをこよなく愛しておりましたが、その優美なことは、人間の眼はかつてこれにたぐえられるものを見たことがないほどでした。さて、ある日|大臣《ワジール》は、もう片時も離れていられないこの稚児を連れて、散歩をしておりますと、帝王《スルターン》サラディンに見つかって、近づくようにと合図をされました。そして帝王《スルターン》は、稚児をうっとりと一瞥なさってから、大臣《ワジール》にお尋ねでした、「この若い少年はどこから手に入れたのか。」大臣《ワジール》はいささか困ったていで、答えました、「アッラーの御許《みもと》からでございます、おおわが殿よ。」すると帝王《スルターン》は微笑して、道をおつづけになりながら、申されました、「さて今は、おおわれらの大臣《ワジール》よ、その方は、星の美によってわれらを征服し、月の魔力によってわれらを俘虜とする術《すべ》を、見出したな。」
ところで、このお言葉は大臣《ワジール》を深く考えこませまして、彼は思いました、「全くのところ、帝王《スルターン》のお目にとまったからには、もはやこの子をわが手許に置くことは、おれにはできないことじゃ。」そこで彼は立派な御進物を用意して、キリスト教徒の美童を呼び、これに言いました、「アッラーにかけて、おお若者よ、必要に迫られさえしなければ、わが魂は決してお前と離れることはなかったろうになあ。」そして少年に御進物を渡しながら、言いました、「われらの御主君に、私からのこの御進物をお届けしてくれ。そしてお前自身もこの御進物の一部となってくれ。それというのは、ただ今かぎり、私はお前をわれらの御主君にお譲り申すのであるから。」そして大臣《ワジール》は同時に、次の二節を記した文《ふみ》を持たせて、サラディン帝にお渡し申させました。
[#ここから2字下げ]
ここに、おおわが殿よ、君が地平のために満月あり。君が地平にまさりてこの月にふさわしきは地上にあらざれば。
君が御意にかなわんがため、われはわが貴き魂と別れて、これを君に贈るをためらわず。――おお類いなき稀有よ――われからと己が魂を手放すを肯ぜし人の例《ためし》を、われは知らざれど。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、この御進物は全く一方ならず、サラディン帝のお気に召しまして、帝は常のごとく寛仁大度で高邁にあらせられ、大臣《ワジール》のこの犠牲を償わずにはいらっしゃいませんでした。財宝と愛顧のかぎりを尽し、機会あるごとに、大臣《ワジール》がどんなに御寵愛と御友誼を辱《かたじけの》うしているかをわからせなさいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十五夜になると[#「けれども第七百十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうしておりますうちに、大臣《ワジール》は彼の後宮《ハーレム》の乙女たちの間に、当代で最も好ましく最も申し分ない若い娘たちのうちの、一人の若い娘を手に入れました。そしてこの若い娘は、着くとすぐに、大臣《ワジール》の心を動かすことができました。けれども大臣《ワジール》は、さきの少年に対してしたようにこの娘に愛着する前に、思ったのでございました、「この新しい真珠の評判が、やがて帝王《スルターン》のお耳に達しないとは測りがたい。さればおれとしては、わが心をこの若い女奴隷に愛着させる前に、これをもやはり、帝王《スルターン》に献上するに如《し》かぬ。かくすれば、犠牲はより少なく、失うことはおれにとってより辛くないであろう。」こう考えて、彼は乙女を呼び、この前よりももっと立派な帝王《スルターン》への御進物を託して、これに言いました、「お前自身も御進物の一部となってくれ。」そして彼は次の詩句を記した文を持たせて、帝王《スルターン》にお渡し申させました。
[#ここから2字下げ]
おおわが殿よ、君が地平には既に一の月現われたり。この度はここに太陽あり。
かくして、同じ天空に、これら光芒の星二つ相合し、以って君が治世のため、星座のうち最も美わしき星座を成さん。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、こういう次第で、大臣《ワジール》の御信任はサラディン帝の御心中にいや増して、帝は今ではひとつの機会ものがさずに、宮廷満座の前で、大臣《ワジール》に対してお覚えになる御尊重と御友誼を示しなさいました。そのために、大臣《ワジール》はこうして大勢の敵と羨望者を作ることとなり、彼らはこれを亡きものにしようと謀って、まず帝王《スルターン》の御心中に御覚《おんおぼ》えをそこなってやろうと決心しました。そこで彼らは、いろいろなほのめかしやら断言やらを使って、大臣《ワジール》はいまだに相変らず、あのキリスト教徒の少年に対する思いを抱きつづけ、わけても北の涼風が立って、昔ともにした散歩の思い出をかき立てる頃ともなれば、切々と少年を求め、心の底からこれを呼ぶことをやめないと、サラディンのお耳に入れました。そして彼らは、こういう次第で、大臣《ワジール》は自分が献上したことを苦々しくわが身に咎め、口惜《くちお》しさと後悔から、わが指を噛み、わが臼歯を引き抜いてさえいるとも、申し上げました。けれどもサラディン帝は、信頼なすっている大臣《ワジール》にふさわしからぬこれらの中傷に、お耳を傾けるどころか、このような言辞を弄する者どもを、お憤りの声で、叱咤《しつた》なさいました、「大臣《ワジール》に対し汝らの滅びの舌を動かすは、好い加減にせよ。しからずば、汝らの首《こうべ》は即刻肩より離れるであろうぞ。」次に、思慮あり公正なお方とて、帝は彼らに申されました、「さりながら、余は汝らの嘘言中傷を証拠立て、汝ら自身の武器をして汝らにはね返らせたく思う。されば余は、わが大臣《ワジール》の魂の廉直を試みるといたそう。」そして帝はくだんの稚児を呼んで、これに尋ねなさいました、「その方文字を書けるかな。」稚児は答えました、「はい、おおわが殿。」帝は言われました、「しからば、紙と蘆筆《カラーム》を取って、余の口授するところを筆記せよ。」そして稚児自身が自分で書いたもののように、大臣《ワジール》に宛てた次のような手紙を、口授なさいました。
[#この行1字下げ]「おお、お懐しき昔の御主人様、あなた様御自身私に対して感じなされたはずのお気持からして、私のあなた様に対して抱く愛情と、われわれのその上《かみ》の歓楽が私の魂に残した思い出とは、あなた様の御承知のところでございます。さればこそ、私は王宮での私の現在の運命を、あなた様に訴え申す次第でございます。ここにあっても、何ものも私をして御厚情を忘れさせるに成功いたしませず、なかんずく、ここにあっては、帝王《スルターン》の御威光と帝王《スルターン》に対して私の覚え奉る敬意とは、その御寵愛を満喫するを妨げるのでございます。されば何とぞ、何らかの手段によって、私を再び帝王《スルターン》より取り戻す策を講じて下されたく、お願い申し上げます。なお、帝王《スルターン》は現在まで、私と差し向いになられたことなく、あなた様は私を手放された時そのままの私を、御覧ぜらるることでござりましょう。」
そしてこの手紙を書き上げると、帝王《スルターン》はこれを王宮の奴隷少年に持たせてやりなさり、その奴隷はこれを大臣《ワジール》に渡しながら、言いました、「これは閣下の昔の奴隷、キリスト教徒の少年が、彼からと言って、この手紙を閣下にお渡しするよう、私に頼んだのでございます。」大臣《ワジール》は手紙を受けとり、しばらくこれを眺めておりましたが、やがて封を切って中を読みさえもしないで、次の文句をその裏に認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
そもいつの日より、経験に富む人にして、無分別者のごとく、己が首《こうべ》を獅子の口中に差し出すらん。
われは理性を恋情に服せしめ従わしむる輩《ともがら》にはあらず、また腹黒き策略をめぐらす嫉む族《やから》にあざ笑わるる輩にもあらず。
われわが魂を犠牲に供せし所以は、魂にしてひとたび出でゆかば、もはや再び抜け殻となりし身体に戻らざるべきを、熟知しいたればなり。
[#ここで字下げ終わり]
この返事を受け取りなされて、サラディン帝はいたくお悦びなされて、嫉望者共の浮かぬ顔の前で、これを読み上げなさらずにおきませんでした。次にその大臣《ワジール》をお召しになり、また改めて御友誼のしるしを数々賜わってから、これにお尋ねになりました、「おお知恵の父よ、その方かくも己れ自身をよく制し得るとは、そもそもどのようにいたすのか、われらに告げてくれようか。」すると大臣《ワジール》は答えました、「私は自分の情熱に、決してわが意志の敷居まで、来させぬことにしておりまする。」
さあれ、アッラーはさらに賢くあらせられまする。
[#ここから1字下げ]
――次にシャハラザードは言った、「けれども、おお幸多き王様、今わたくしは、どのようにして賢人の意志が彼を助けて情熱に打ち勝たせるかを、お話し申し上げましたからには、こんどは情熱的な恋愛についての物語をひとつ、お話し申し上げたく存じます。」
彼そして彼女は言った。
[#ここで字下げ終わり]
比翼塚
アル・カイスィの子アブドゥッラー(3)は、その著述のなかで、次の物語をわたくしたちに伝えております。
彼は申しました。
私はある年、アッラーの聖殿に巡礼に出た。そして巡礼者の一切の勤めを果たしたとき、私は今一度預言者――その上に平安とアッラーの祝福あれ、――の御墓に詣でようとて、メディナに戻った。ところで、一夜、崇《あが》めらるる御墓にほど遠からぬ、ある庭のなかに坐っていると、静寂のうちに静かに歌っている声を聞きつけた。うっとりとして、私はすべての注意を傾け、こうして聞き入っていると、その声の歌う次の詩句を聞いたのであった。
[#ここから2字下げ]
愛《いと》しき人の思い出に、汝《な》が歌洩らすおおわが魂の鶯よ……。おおかの人の声持てる雉鳩よ、そもいつか汝はわが呻吟に答うらん。
おお夜よ、焦燥の発熱に悩まさるる者、不在の憂に苛《さいな》まるる者には、いかばかり汝は長々しきことよ。
おお姿現わせし光輝く女よ、わが路上に灯台のごとく君のきらめきしは、直ちに消えて、われをば闇のうちに手探りもてさまよわしむるためのみなりしか。
[#ここで字下げ終わり]
次にひっそりとした。そこで私は、今この情熱的な文句を歌った男を見ようと、四方を眺めていると、そのとき私の前に、その声の持主が現われたのである。夜空から落ちる明るさをすかしみると、それは魂を奪うばかりの美貌の青年で、顔が涙に濡れているのを見た。私は彼のほうに向いて、叫ばずにはいられなかった、「やあ、アッラー、何という美貌の若者だろう。」そして私はそちらの方角に両腕を差し出した。すると彼は、私を見つめて尋ねた、「あなたはどなたで、私に何の御用がおありですか。」私は彼の美しさの前に低頭しながら、答えた、「あなたを眺めつつアッラーを祝福すること以外に、私はあなたに何を求めることができましょうぞ。私と私の名はと申せば、私ことはあなたの奴隷、マアマル・アル・カイスィの子、アブドゥッラーと申します。おおわが殿よ、いかばかり私の魂は、あなたとお知り合いになることを望んでいることでしょう。先ほどのあなたの歌は、この上なく私を掻き乱しましたが、今お姿を拝しては、私は恍惚としてしまいました。私はあなたのために一命をも犠牲にする覚悟でおりまする、もし私の一命があなたのお役に立つとあらば。」すると青年は私を見つめたが、ああ、何という眼を以ってか。そして彼は言った、「さらば私のそばにお坐り下さい。」そこで私はわが魂を戦《おのの》かせつつ、そのすぐそばに坐ると、彼は私に言った、「私のことにお心を煩わして下さるとあらば、ではただ今私の身に起ったところをお聞き下さい。」そして次のような言葉で続けたのである。「私ことは、教友《アンサール》(4)アル・ジャムーの子、アル・ムンディールの子、アル・フバッブの子、オトバーと申します。さて昨日の朝、私の部族の回教寺院《マスジツト》で勤行をしておりますと、死ぬばかり美しい女数人が、胴と腰の上に波打ちながら、そこにはいってきましたが、それと連れ立って、一人のごく若い乙女がいて、その色香は、連れの女たちの色香を影薄くしておりました。そしてある時間になると、その月は、人に気づかれずに、信者の群れのただ中にいる私に近寄ってきて、私に言うのでした、『オトバー様、わたくしはもう久しい前から、こうしてあなたに話しかける機会をうかがっておりましたの。おおオトバー様、あなたはあなたを恋い慕って、あなたの妻になりたいと望んでいる女と、結婚なさるのをいかがお思いでしょうか。』それから、私が口を開いて答える間もあらせず、彼女は立ち去って、連れの女たちのただ中に姿を消してしまいました。そして一同連れ立って、回教寺院《マスジツト》を出て、巡礼者の群れに紛れ入ってしまいました。そして私は、その乙女を見つけ出そうとあらゆる努力をいたしましたが、そのとき以来、遂に再び会うことができませんでした。そして私の魂と心とは、もはやその乙女の許にあるのです……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十七夜になると[#「けれども第七百十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして私の魂と心とは、もはやその乙女の許にあるのです。再び会うことが叶わぬうちは、たとえ天国の歓楽のただ中にあろうとも、私は何の幸福も味わえないことでしょう。」
彼はこのように語って、そのうぶ毛の生えた頬はそれにつれて紅潮し、私の彼に対する愛情もそれだけ強まった。それで、彼が口をつぐむと、私はこれに言った、「おおオトバー、わが従弟《いとこ》よ、あなたの希望をアッラーのうちに置き、あなたの過失のお許しを授けたもうようお祈りなさい。この私は、わが一切の力と手段を挙げて、あなたの思いの的たるその乙女に、あなたをめぐり合せるために、お力添えする覚悟です。というのは、あなたをお見かけすると、私は自分の魂がおのずと、美わしいあなたのほうに赴くのを感じたのであり、今後私があなたのためにしてさしあげることは、もっぱら、あなたの満足した眼が、私のほうに伏せられるのを見るためばかりでありましょう。」こう語って、私は親しみこめて彼をぴったり抱き締め、兄が弟に接吻するように彼に接吻した。そして夜をこめて、私は彼のいとしい魂を鎮めることをやめなかった。たしかに、私は生涯、彼のかたわらで親密に過したこの甘美な、満たされぬ数刻を、忘れることはあるまい。
さて翌日、私は彼と共にその回教寺院《マスジツト》に行き、彼に敬意を払って、まず彼から先にはいらせた。そして朝から昼、女たちが通常|回教寺院《マスジツト》に来る時刻まで、二人で一緒にそこにいた。ところが、大いに失望したことには、女たちは全部この回教寺院《マスジツト》に来たけれども、その乙女はその間にはいないのを認めた。そこで私は、この発見がわが若い友に惹き起した悲しみを見て、これに言った、「こんなことで気を落してはいけない。乙女は昨日はあの女たちと一緒にいたというからには、ひとつあの女たちのところに行って、あなたの恋人のことを探ってきてあげよう。」
そしてすぐに私はその女たちのところまで潜り入って、くだんの乙女は、名門の出の処女の娘で、リヤという名前、|スライム族《パニ・スライム》の族長アル・ギトリフの娘ということを、首尾よく聞き出した。そして私はその女たちに尋ねた、「おお善い女たちよ、どうしてその方は今日、あなた方と一緒にここに来られなかったのですか。」女たちは答えた、「どうしてそんなことができましょう。あの方のお父様は、巡礼者たちの、イラクからメッカまでの砂漠横断を保護していらっしゃいましたが、昨日部下の騎手と一緒に、ユーフラテス河の畔《ほとり》の、御自分の部族のほうにお戻りになり、娘のリヤも一緒に連れて行かれたのですもの。」そこで私はこれらの情報を与えてくれたことを、一同に感謝して、オトバーの許に帰り、これに言った、「私のお知らせする消息は、遺憾ながら、私の希望どおりのものではなかった。」そして私は、リヤが父と共に、その部族の許に出発したことを知らせた。次に私はこれに言った、「しかしあなたの魂を安らかにしなさい、おおオトバー、わが従弟《いとこ》よ。それというのは、アッラーは私に数多《あまた》の富を授けたまったが、私はあなたに目的を達しさせるため、これを使い果たす覚悟でいるから。今よりして直ちに、私はあなたの件に没頭して、アッラーのお助けを得て、首尾よく成功させるようにしましょう。」そして付け加えた、「ただ私について来るだけの労をおとりなさい。」すると彼は立ち上がって、彼の身内の教友《アンサール》たちの回教寺院《マスジツト》まで、私と同行した。
そのところで、私たちは人びとの集まるのを待った。そして私は会衆に挨拶して、こう言った、「おお、ここにお集まりの教友《アンサール》の信徒たちよ、オトバーとオトバーの父親についての、皆様の御意見はどのようでしょうか。」一同は異口同音に答えた、「彼らは名門の、高貴な一族のアラビア人であると、われわれは一人残らず申します。」そこで私は彼らに言った、「さらば御承知願いたい、アル・フバッブの御子息オトバーは、激しい恋情に身を焼き尽されておいでです。そして私はまさに、彼の幸福を揺ぎないものとするために、皆様のお力を私の力に合せて下さることを、お願いに参った次第です。」彼らは答えた、「友情こめて心から悦んで。」私は言った、「しからば、皆様はスライム族の天幕《テント》に向い、彼らの族長、長老《シヤイクー》アル・ギトリフのところまで、私と同行して下さり、皆様の従兄弟《いとこ》アル・フバッブの御子息オトバーのため、彼の娘リヤを所望しなければなりません。」すると一同承わり畏って答えた。そこで私は馬に乗り、オトバーも同様、全会衆もこれにならった。そしてわれわれはぶっ通しに、全速力で馬を進めた。こうしてわれわれは首尾よく、メディナから六日の行程で、長老《シヤイクー》アル・ギトリフの騎手たちの天幕《テント》に達した。
長老《シヤイクー》アル・ギトリフはわれわれの到着を見ると、自分の天幕《テント》の入口まで、われわれを迎えに出てきた。そしてわれわれは、挨拶《サラーム》の後、彼に言った、「われわれは貴殿に歓待を乞いにまいりました、おおアラビア人の父よ。」彼は答えた、「われらの天幕《テント》の下にようこそこられた、おお高貴の賓客方よ。」こう言いながら、彼は直ちに奴隷たちに、われわれをもてなすため、必要な命令を下した。そして奴隷たちはわれわれのために莚《むしろ》と敷物を延べ、人々はわれわれに盛大な饗応を供するため、数頭の羊と駱駝を屠《ほふ》った。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十八夜になると[#「けれども第七百十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれどもいよいよ饗応のため坐る段になると、われわれは一同まだ坐るを肯《がえん》じなかった。そして私は会衆一同の名において、長老《シヤイクー》アル・ギトリフにこう言明した、「パンと塩との神聖な功徳にかけ、アラビア人の信仰にかけて、われわれは貴殿がわれわれの所望を叶えて下さらぬうちは、御馳走の一皿にも手を触れぬでありましょう。」するとアル・ギトリフは言った、「してその御所望とは。」私は答えた、「われわれはアル・ジャムの子息、アルムンディールの子息、教友《アンサール》アル・フバッブの子息オトバーと、貴殿の高貴の御息女リヤとの縁組を、貴殿に懇請すべくまいった次第。勇敢、善良、高名、勝利、卓越の男でござる。」するとリヤの父親は、突如さっと顔色と眼色を変えたが、平静な声でわれわれに言った、「おおアラビアの兄弟たちよ、各々方はアル・フバッブの御子息、高名なるオトバーのために、光栄にも拙者に縁組を所望せられるが、これはひとりその当人のみが、随意にお答えできることでござる。拙者は娘の意志に逆らいますまい。されば娘が意を表すべきことでござる。拙者直ちに会いにまいって、その意見を徴すことといたそう。」そして彼は真黄色になって、怒りに鼻をつまらせ、顔だけ見ても、その言葉の意味とは裏腹の顔つきをして、われわれの間から立ち上がった。
そこで彼は娘リヤの天幕《テント》に会いに出かけて行ったが、娘はその顔の表情に恐れをなして、尋ねた、「おお、わたくしのお父様、どうして怒りがそんなに激しくお父様の内《うち》の魂を動かすのですか。」すると彼は無言のまま、娘のそばに坐って、後になってわれわれの聞いたことであるが、最後に娘にこう言った、「聞くがいい、おおわが娘リヤよ、おれはいま教友《アンサール》一族の人々に歓待を授けたところだが、彼らは自分たちのうちの一人のために、お前を嫁にもらい受けたいとて、おれのところに来たのだ。」娘は言った、「おお、お父様、教友《アンサール》の一家といえば、アラビア人の間でも最も名家の一つです。ですから、お父様の歓待は、たしかに、当然でございます。けれども、教えて下さいませ、その人たちのうちの誰のために、わたくしをもらいに来たのでしょうか。」彼は答えた、「フバッブの息子オトバーのためだ。」娘は言った、「それは名のある若者です。その方ならば、お父様の一族のなかにはいるにふさわしい人です。」けれども彼は憤然として、叫んだ、「何という言葉を申すか。お前は既にその男と関係でも結びおったのか。ところでこのおれは、アッラーにかけて、おれはむかしわが弟に誓って、お前を弟の息子に与えることにしたのじゃ。わが家系に入るにふさわしいこと、お前の叔父の息子にまさる者は、一人もいはしないぞ。」娘は言った、「おお、お父様、それでお父様は教友《アンサール》一族には、何とお答えになりますの。あの人たちはとても気位高く、席次とか名誉とかの問題にかけては、たいそう激しやすいアラビア人です。だからその身内の一人に、縁組をおことわりになどなったら、お父様はお身の上と部族の上に、あの人たちの恨みと復讐行為をお招きになるでしょう。なぜって、あの人たちはお父様の軽蔑を受けたと思って、そのままでおきはしないでしょうから。」彼は言った、「いかにもそのとおりだ。だがおれは、お前の値《あたい》として、法外な結納金を請求して、こちらの拒絶の意を取り繕ってやるとしよう。諺にも言うからな、娘を嫁にやりたくなかったら、結納金を大きく吹っかけろ、とな。」
彼はそこで娘と別れて、われわれの許に戻ってきて、こう切り出した、「部族の娘(5)は、おおわが賓客方よ、貴殿らの御所望に異議はござらぬ。ただし娘は、己が長所にふさわしい結納金を要求しておりまする。貴殿らのうちどなたが、この類い無き真珠の代価を拙者に与え得ようか。」この言葉に、オトバーは進み出て、言った、「拙者でござる。」彼は言った、「よろしい、わが娘の求むるのは、純金の腕輪一千箇、ハジャル(6)の極印付の金貨五千枚、真珠玉五千の首飾り一箇、インド絹一千反、黄皮の長靴十二足、イラクの棗椰子《なつめやし》の実十袋、家畜一千頭、アナーズ王族(7)の牝馬一頭、麝香五箱、薔薇香精五罎、それに竜涎香五箱、以上でござる。」そして彼はオトバーのほうを向いて、付け加えた、「貴殿はこの要求に応じ得る男かな。」するとオトバーは答えた、「おおアラビア人の父よ、お疑いなさるかな。拙者は要求せられた結納金に応ずるばかりか、さらにそれに付け加えて進ぜましょう。」
そこで私は、友人オトバーと共にメディナに帰り、多くの捜索と労苦を重ねずにではなかったが、ともかく要求された品々全部を調達するのに成功することができた。そして私は、われわれの買物全部を、自分自身のために費すよりももっと欣然として、次から次へと自分の金を使った。こうしてわれわれは、われわれの買物全部を携えて、スライム族の天幕《テント》に引き返し、いそぎこれを長老《シヤイクー》アル・ギトリフに引き渡した。すると長老《シヤイクー》も、かくなっては今さら前言を翻すわけにゆかず、彼の娘の結婚に祝詞を呈しに集まった教友《アンサール》の一族全部を、賓客として招待せざるを得なかった。そして祝宴が始まり、四十日に亘った。多数の羊と駱駝が屠《ほふ》られ、あらゆる種類の馳走の大鍋が煮られ、部族の全員、めいめい腹いっぱい食べることができたのであった。
さてこの期間が果てると、われわれは前後二頭立ての駱駝の背の上に、豪奢な轎《かご》を用意して、そこに花嫁を乗せた。そして一同、贈物を満載した駱駝の一隊全部を従えて、悦びの極で出発した。わが友オトバーは、やっとのことで愛人と二人きりになれる到着の日を期待して、今は喜色満面であった。そして旅行中も、一刻も愛人のそばを離れず、轎のなかで相手をし、そこから降りるのは、あらゆる友情と信頼と感謝を以って、私としばし談笑しに来る場合に限るのであった……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百十九夜になると[#「けれども第七百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして私は、わが魂のなかで大いに悦んで、思うのであった、「おおアブドゥッラーよ、今やお前は永久にオトバーの友となったぞ。それというのは、お前は自分自身の私情を忘れて、彼をリヤに結びつけてやり、彼の心を動かすことができたからだ。いつの日か、それを疑うことなかれ、お前の犠牲は報いられようし、しかもそれ以上にもなろう。そしてお前もまた、オトバーの愛情を、その最も望ましく最も微妙な点において、知ることとなろう。」
さて、われわれはもはやメディナから、わずか一日行程のところに来て、日暮れに、小さな緑地《オアシス》に停まって、休むこととした。平穏は欠くるところなく、月光はわれわれの宿営の悦びに微笑みかけ、頭上には、若い娘たちのような十二本の椰子の木が、枝々のざわめきをもって、夜の微風の歌に伴奏をつけていた。そしてわれわれは、遠い昔の日々世界を創った人たちのごとく、静穏溢るる一刻と、清水や葉の厚い草の爽やかさと、大気の甘さを満喫していた。しかし悲しいかな、たとい翼を以って逃れようとも、人は天命をまぬがれることはあたわぬ。そして避け得ざる杯をひと飲みに、飲み乾さなければならなかったのは、わが友オトバーであった。事実、われわれは突然、叫喚咆吼をあげながら、われわれに襲いかかってきた、武装した騎手の恐るべき襲撃によって、安息から引き出された。ところでこれはスライム族の騎手たちであり、娘を奪いとるために、長老《シヤイクー》アル・ギトリフのさしむけたものであった。それというのは、彼は自分の天幕《テント》の下では、歓待の掟を敢えて破りかねたので、われわれの遠ざかるのを待って、砂漠の習慣に背くことなく、かくのごとくわれわれを襲わせたのである。しかし彼は、オトバーとわれらの騎手たちの武勇を、勘定に入れていなかった。わが味方は大勇を以ってスライム族の攻撃によく耐え、その多数を殺して後、遂に彼らを潰走せしめた。けれども乱戦の最中《もなか》に、わが友オトバーは槍の一撃を受け、野営に引きあげて来ると、わが腕のなかでばったりと息絶えた。
これを見ると、若いリヤはひと声大きな叫びをあげ、走りよって恋人の身体の上に崩折《くずお》れた。そして夜通し悲嘆のうちに過した。朝になったとき、われわれは彼女が絶望のあまり息絶えているのを見出した。アッラーはこの両人に御慈悲を垂れたまわんことを。そこでわれわれは二人のために、砂中に一つの墓を穿ち、そこに二人を並べて葬った。そして魂は喪に服しつつ、われわれはメディナに戻った。私は片づけるべきことを片づけてから、自分の故郷に帰った。けれども、その七年後、私は再び聖地巡礼の望みに襲われたのであった。そして私の魂は、オトバーとリヤの墓に詣でに行くことを願った。いよいよ墓に着いてみると、墓は名の知れぬ種類の美しい一樹の蔭に蔽われていた。それは教友《アンサール》族の人々が、心をこめて植えたものであった。私は悲しむ魂をもって、樹蔭《こかげ》の石上に、涙を垂れつつ坐った。そして私は同行の人々に尋ねた、「おおわが友よ、私と共にオトバーとリヤの死を悼《いた》んでいるこの木の名前を、告げてもらえようか。」すると彼らは答えて言った、「これは比翼の木と申します。」ああ、願わくは、おおオトバーよ、汝の墓上で嘆き悲しむ樹蔭に、汝の主の平安の裡に休らわんことを。
[#この行1字下げ] ――「これが、おお幸多き王様、『比翼塚』について、わたくしの知っているところでございます。」それから、シャハリヤール王がこの物語で顔を曇らせているのを見たので、その夜は、いそいでさらに『ヒンドとその離婚と結婚の物語』を語った。
ヒンドの離婚
語り伝えられておりますところでは、アル・ヌマーン王(8)の王女、若いヒンドは、当代の乙女の間でいちばん美しい女で、眼といい、すらりとした姿といい、魅力といい、全く羚羊《かもしか》でございました。さてその美貌の評判は、イラクの太守《アミール》アル・ハジャージの耳まで達しまして、彼はこれに結婚を申し込みました。けれどもヒンドの父王は、結納金として、銀貨二十万ドラクムを結婚前に払い、かつ離婚の場合には、別に二十万ドラクムをさらに払うという条件付きでなければ、娘をくれないというのでした。するとアル・ハジャージはすべての条件を承知して、ヒンドをわが家に連れてまいりました。
ところが、アル・ハジャージは、彼の悩みと災いなことには、陰萎でありました。彼はその陰茎《ゼブ》については全く片輪で、塞がれた肛門をもって、生れ落ちたのでした。このような身体の出来なので、子供は死にそうになっていると、悪魔が人間の姿をして母親のところに現われ、もしもわが子を生き延びさせたいのならば、母乳の代りに、二頭の黒い仔山羊と、一頭の黒い牡山羊と、一匹の黒い蛇の血を、吸わせてやれと、命じました。それで母親はこの命令に従って、望みの結果を得ました。ただ陰萎と片輪ばかりは、これは悪魔の授け物で、寛仁なアッラーのそれではないので、子供が大人になっても、やはりその付物《つきもの》でした。
ですから、アル・ハジャージは、ヒンドを自分の家に連れて来たものの、昼間以外は敢えてこれに近づかず、触れたくてたまらなかったけれども、その身体に触れずに、永い間たちました。それでヒンドもやがてはこの禁欲の動機《いわれ》を知って、女奴隷と一緒にたいそうこれを嘆きました。
ところである日、アル・ハジャージは、いつものように、彼女の美しさで眼を楽しませようとて、彼女に会いにきました。すると彼女は戸口に背を向けて、次の詩句を歌いながら、一心に鏡を見つめておりました。
[#ここから2字下げ]
アラビアの高貴の血より生れし牝馬ヒンドよ、今や汝は惨めなる牡騾馬と共に暮す羽目とはなりぬ。
おお、この豪奢なる緋衣を脱がしめて、わが駱駝の毛の粗衣をわれに返せかし。
われはこのおぞましき宮殿を棄てて、わが砂漠の風に、部族の黒き天幕《テント》のはためき鳴る地へと戻らん。
かしこ、笛と西風は、天幕《テント》の穴越しに、かたみに歌を交わし、琵琶と太鼓の楽の音《ね》よりも、われに快し。
かしこ、獅子の血に養われし部族の若者は、獅子のごとく逞しく、美わし。
ここにあっては、ヒンドは惨めなる牡騾馬の傍らにて、子孫もなくて死なん。
[#ここで字下げ終わり]
ヒンドが自分のことを牡騾馬にたとえているこの歌を聞いたとき、アル・ハジャージは失望落胆にあふれ、自分の来たことも去ったことも妻に気づかれないうちに、こっそり部屋を出て行って、離婚を宣言させるため、すぐさま法官《カーデイ》、タヘルの子アブドゥッラーを迎えにやりました。そこでアブドゥッラーはヒンドの許にやって来て、これに言いました、「おおアル・ヌマーンの王女よ、ここにアル・ハジャージ・アブー・ムハンマドは、あなたに銀貨二十万ドラクムを送り、同時に、彼の名において、あなたと彼との離婚の手続きを果たすようにと、私にお託しになったのでござる。」するとヒンドは叫びました、「アッラーの御加護で、これでわたくしの願いは叶えられ、今は自由に父の許に帰れる身となりました。おおタヘルの息子よ、わたくしがあのうるさい犬から解放されたと知らせて下さることにまさる快い知らせを、あなたはわたしに告げて下さることはできませんでした。では、この二十万ドラクムは、わたくしに齎《もたら》して下さった吉報の御褒美として、お収め下さいまし。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十夜になると[#「けれども第七百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そうこうしているうちに、教王《カリフ》アブドゥル・マリク・ビン・マルワーン(9)は、ヒンドの比類ない美貌と才智の噂をお聞きになって、彼女をお望みになり、結婚をお申し込みになりました。けれども、彼女はこれに書面を以ってお答え申し、アッラーへの称讃《たたえ》と恭敬の文言ののち、こう申し上げました、「されば、おお信徒の長《おさ》よ、犬が器《うつわ》を嗅がんとて、鼻を以ってこれに触れ、器を汚《けが》せしものと御承知相成りたく候。」教王《カリフ》はこの書面を受けとられて、呵々大笑なさり、直ちに次の御返事を認《したた》めなさいました。「おおヒンドよ、もし犬が鼻を以ってこれに触れ、器を汚せしとあらば、われらはこれを七たび洗い、これを使用して、以って清むべし。」
そこでヒンドは、御辞退したにもかかわらず、なおも教王《カリフ》がいたく御執心なさりつづけるのを見て、今はお従い申すよりほかにいたしかたございませんでした。そこでお受けしましたが、しかし二番目の書面で書き送ったように、そこにひとつの条件をつけてのことでした。称讃《たたえ》と極まりの文言ののち、申し上げるには、「されば、おお信徒の長《おさ》よ、妾《わらわ》の出発には、ただ一つ条件あるものと御承知相成りたく候。そは、この旅行中、アル・ハジャージが裸足にて、わが駱駝の手綱をとって、王宮まで曳き行くことに候(10)。」
ところで、この書面は先の書面にもまして、教王《カリフ》をお笑わせしたのでした。そして直ちにアル・ハジャージに、ヒンドの駱駝の手綱を曳くように、命令を発しなさいました。それでアル・ハジャージは、満腔の口惜《くちお》しさにもかかわらず、教王《カリフ》の御命令とあらば、是非なく従うよりほかないことを、よく知っていました。そこで、彼は裸足でヒンドの住居まで出向いて、駱駝の手綱をとりました。ヒンドは輿《こし》に乗って、道々ずっと、自分の駱駝曳きをからかって、心の底から笑わずにはいませんでした。そして乳母を呼んで、これに言いました、「おお乳母《ばあや》や、ちょっと轎《かご》の引幕を開けておくれ。」乳母が引幕を開けると、ヒンドは帳《とばり》から首を出して、泥のまん中にディナール金貨を一枚放りました。そして元の夫のほうを向いて、これに言いました、「おお駱駝曳き(11)よ、あの銀貨をとっておくれ。」アル・ハジャージは貨幣を拾って、ヒンドに返しながら、言いました、「これはディナール金貨で、銀貨ではないが。」するとヒンドは声をあげて笑って、叫びました、「泥の汚《よご》れにもかかわらず、銀を金に変えたもうアッラーに、称讃《たたえ》あれ。」それでハジャージはこの言葉に、これもまた、自分を辱しめるための、ヒンドの悪戯だということが、よくわかりました。そして恥と怒りで真赤になりました。けれども彼は頭を垂れて、今は教王《カリフ》のお妃《きさき》となったヒンドに対するわが怨みは、隠さないわけにゆかなかったのでございます。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードはこの物語を語り終えると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王はこれに言った、「これらの逸話は、シャハラザードよ、わが意に叶った。しかし余は今は不思議極まる物語を聞きたく思う。もはやそのようなものを知らぬとあらば、その旨申して余に知らせるがよいぞ。」するとシャハラザードは叫んだ、「万一わが君のお許しがございますれば、ちょうど今これからすぐに、王様にお話し申し上げまする物語よりも、不思議極まる物語は、そもそもどこにございましょうか。」するとシャハリヤールは言った、「苦しゅうない。」
[#改ページ]
処女の鏡の物語
そしてシャハラザードはシャハリヤール王に言った。
おお幸多き王様、おお妙想を恵まれたまいし君よ、わたくしの聞き及びましたところでは、時のいにしえと時代時世の過ぎし世に、バスラの町に、一人の帝王《スルターン》がいらっしゃいましたが、それは寛仁と武勇、高貴と権勢に溢れた、感じのよい天晴れな青年で、帝王《スルターン》ゼインと呼ばれていました。けれどもこの若く愛すべき帝王《スルターン》ゼインは、縦横の世界を通じて、比類のない人物たらしめている、非常な長所とあらゆる種類の天賦にもかかわらず、全く並みはずれた富の浪費者、とめども程も知らぬ濫費家でございまして、この上なく強欲《ごうよく》な若い寵臣たちに開かれた、その掌《たなごころ》の鷹揚さにより、またいくつもの豪奢な宮殿に抱えていた、ありとある色と身丈《みたけ》の数知れぬ女たちの費用により、また毎日、法外な値段で処女の身を送りとどけ、その歯牙に供する新顔の乙女の絶え間ない買入れによって、遂には、何世紀以来、祖先の代々の帝王《スルターン》と征服者によって積み重ねられた莫大な財宝を、ことごとく使い果たしてしまったのでございました。そしてその大臣《ワジール》は、ある日、御手の間の床に接吻した後、金庫の金は底を尽き、王宮の御用商人は明日の分の支払いを受けていない旨、言上しました。そしてこの凶報をお知らせすると、大臣《ワジール》は串刺しの刑を恐れて、草々に来たと同様に立ち去ってしまいました。
若い帝王《スルターン》ゼインはこうして、自分の財宝全部が蕩尽されてしまったことを知ると、天命の黒い日々のため、その一部を取っておく考えを持たなかったことを悔いて、その魂のなかで、悲しみのかぎり悲しみました。そしてこう思いました、「かくなる上は、帝王《スルターン》ゼインよ、もはやここをひそかに逃がれて、かくも愛した寵臣や、若い妻妾や、政務は、それぞれの運命に委ねつつ、汝の父祖の王国の今や失墜した王座をば、これを奪わんと欲する者にまかせるより致し方ない。何となれば、富と威光なき王たらんよりは、アッラーの道に乞食となるほうが好ましいし、貧困の中にあるよりは、墓の中にあるがまさるという諺は、汝も知るところだ。」こう考えながら、彼は身を窶《やつ》して、人に見とがめられずに、王宮の秘密の門から出るために、日の暮れるのを待ちました。そしていよいよ杖を持って、出発する覚悟をきめたときに、そのとき一切を見、一切を聞きたもうアッラーは、彼に父王の最後の言葉と注意を、思い出させたもうたのでございます。それというのは、父王は御逝去の前に、彼をお呼びになって、いろいろのことをおっしゃったなかで、なかんずくこうおっしゃったのです、「わけても、おおわが子よ、万一いつの日か天命非となったら、お前は書類の文庫の中に、あらゆる非運にお前を耐えさせてくれるような、一つの宝物を見出すであろうことを、忘れるなかれ。」
ゼインは、今まで完全に記憶から消えていたこの言葉を思い出すと、時を移さず御文庫に駈けつけ、悦びにふるえながら、それを開けました。けれどもいくら見ても、探しても、調べても、無駄です。書類や帳簿類をひっくりかえし、治世の記録をひっかき廻してみましたが、その文庫の中には、黄金も、黄金の匂いも、銀も、銀の匂いも、宝石も、宝玉も、およそ何であろうと、こうした品と遠くも近くも似たものは、何ひとつ見つかりません。それで、彼の狭《せば》まった胸にはいることのできる絶望以上に絶望し、期待を裏切られたことにすっかり腹を立てながら、全部を引っくりかえし、治世の書類を四方八方に投げちらし、憤りをこめてそれらを足で踏みにじりはじめますと、そのとき突然、自分の荒らしまわる手に、何か金物のように堅い品の手応えを感じました。それでそれを引き出して、よく眺めてみると、それは赤銅製の重い手箱であるとわかりました。いそいで開けてみましたが、中には畳んで父王の印璽を捺して封をした、小さな書状一札があるだけでした。そこでたいへん口惜しがったものの、とにかく封を切って、紙上に父王の御親筆の次の言葉を読みました。「おおわが子よ、鶴嘴《つるはし》を携えて、王宮のしかじかの場所に行け。しかしてアッラーを念じつつ、汝自身己が手を以って地を掘るべし。」
この書状を読むと、ゼインは思いました、「やれやれ、今は余は労働者の苦役をしなければならぬことになったぞ。けれども、とにかくこれが父上の御遺言とあらば、背くわけにはまいらぬ。」そこで彼は王宮のお庭に降りて、園丁の家の壁に立てかけてある鶴嘴を取り、指定された場所に行きましたが、それは王宮の下にある地下室でございました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十一夜になると[#「けれども第七百二十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードの妹の、小さなドニアザードは、うずくまっている敷物から立ち上がって、叫んだ、「おお、わたくしのお姉様、何とあなたのお言葉は心地よく、やさしく、みずみずしいうちに、味わい深いのでございましょう。」するとシャハラザードは、小さな妹の眼の上に接吻しながら、言った、「ええ、けれどもこれなどは、今夜これからお話しするものに比べれば、物の数ではございません、もっとも万一このお育ちよろしく、挙措雅びな王様が、お許し下さればのことではございますが。」するとシャハリヤール王は言った、「苦しゅうない。」そこでシャハラザードは次のように続けた。
……若い帝王《スルターン》ゼインはそこで鶴嘴を取って、王宮の下にある地下室に出かけました。そして松明《たいまつ》をつけ、その光をたよりに、初めにまずその鶴嘴の柄で地下室の地面を叩いてみて、こうしてついに奥深い反響を聞きつけました。そこで独りごとを言いました、「ははあ、ここを掘らなければなるまいぞ。」そして熱心に鶴嘴を振いはじめまして、敷きつめた板石の半分以上も起しましたが、宝物のこればかりの気配も見られませんでした。そこで彼は仕事をやめて休むことにし、壁にもたれながら、考えました、「アッラーにかけて、いったいいつから、帝王《スルターン》ゼインよ、汝は天命の後《あと》を追って、地の深みのなかまで、天命を探りに行かなければならぬこととはなったのか、憂いなく、煩いなく、労働もなくして、悠々と天命を待つ代りに。過ぎ去りしことは過ぎ去ったのであり、記《しる》されたるところは記されてあり、行なわれなければならぬことを、そもそも汝は知らぬのか。」それにもかかわらず、彼は少しく休むと、もうあまり希望もなく、板石を剥《はが》しながら仕事をつづけていますと、そこに突然一枚の白い石が出てきたので、持ちあげてみました。するとその下には、一枚の扉があり、その上に鋼鉄の南京錠がかかっていました。彼はその錠を鶴嘴を振ってこわし、その扉を開けました。
すると彼は、自分が白大理石のすばらしい階段の上にいるのを見ました。その階段は、シナの白磁と水晶ずくめの、広い四角な広間のほうに下りておりまして、広間の壁石と天井と列柱は、空色の青金石で出来ていました。そしてその広間のなかには、四基の螺鈿《らでん》の壇があり、その各々の壇上に、ひとつおきに、雪花石膏と斑石の大甕十個が戴っているのでした。そこで彼は自問しました、「これらの見事な甕のなかには、何がはいっているかわからぬわい。定めし亡き父上はこれらに古酒を満たしなすって、今ごろはそれが極上飛び切りになっているかもしれぬ。」こう考えながら、その四壇のうちの一つに上って、甕のひとつに近づいて、蓋を取りました。すると、おお驚き、おお悦び、おお舞いよ、彼はそれが口許まで、ぎっしり金粉が詰っているのを見たのでした。そしてもっとよく確かめてみようと、中に腕を突っこみましたが、底までは届かず、腕を引き出してみると金色燦然と輝いております。そこでいそいで第二の甕の蓋を取ってみますと、それは大小さまざまのディナール金貨と|ヴェネツィア《シツキー》金貨に満ちているのを見ました。そしてその四十個の甕を次々に調べますと、すべて雪花石膏のものには、ぎっしり金粉が、すべて斑岩のその姉妹には、ぎっしりディナール金貨とヴェネツィア金貨がはいっていることがわかりました。
これを見ると、若いゼインは胸拡がり晴ればれとし、激しく身を動かし震わせました。それから歓声をあげはじめ、松明を水晶の壁の凹みに差し入れてから、雪花石膏の甕の一つを自分のほうに傾《かし》げて、頭の上、肩の上、お腹の上と、全身に金粉を流しかけ、この上なく心地よい風呂でも、かつて感じたことのないほどの快味を味わいながら、金粉を浴びました。そして叫んだのでした、「あはは、帝王《スルターン》ゼインよ、汝は既に修道僧《ダルウイーシユ》の杖をとって、物乞いしつつ、アッラーの道を歩きまわる気でいたな。しかるに今や祝福が汝の頭上に下ったぞ。それというのも、汝は贈与者の寛仁をつゆ疑わず、その授けたもうた最初の財貨をば、掌《たなごころ》を広く開けて、使い果たしたからだ。されば汝の眼を爽やかにして、大切なる汝の魂を安んぜよ。そして汝を創りたもうた御方の絶えざる賜物から、改めて、汝の能力に応じて、直接汲みとることを恐れるなかれ。」それと同時に、彼は他の斑岩の甕を全部傾けて、白磁の間《ま》に中身をあけました。そして他の雪花石膏の甕も同様にしますと、ディナール金貨とヴェネツィア金貨は、その音高く流れ落ちる響きと鏘々《そうそう》たる音でもって、白磁の反響と戞々《かつかつ》と鳴る水晶とを震わせました。そして彼はこの黄金の堆高く積まれたただ中に、惚れぼれとわが身を沈め、一方、松明のもとに、白と青の広間は、その妙《たえ》なる壁の輝きを、この冷たい火事のさ中から迸り出る、燦々たる火花と赫々たる光の束に、合せておりました。
こうして若い帝王《スルターン》は、彼の生活を脅やかして、今にも父祖の王宮を棄てさせようとした貧窮の思い出を忘れようと、熱狂しながら黄金を浴びてから、全身燃え上がる流れを滴らせつつ、再び起き上がり、もっと冷静になって、極度の好奇心をもってすべての物を調べはじめ、父王が、王宮で一人としてかつてそんな話を聞いたことがないほど秘密裡に、この地下室を掘らせ、この見事な広間を建てさせなさったのに、驚嘆するのでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十二夜になると[#「けれども第七百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そのうち彼の注意をこらした眼は、最後に、水晶の二本の小円柱にはさまれて蔭になった片隅に、さきほど御文庫のなかに見つけたのとあらゆる点でそっくりの、ただもっと小さいだけの、ごく小さな小箱を、見つけたのでした。開けてみると、中には、宝石をちりばめた金の鍵がひとつありました。彼は独りごとを言いました、「アッラーにかけて、この鍵は、さっき余の壊した南豆錠を開ける鍵に相違ない。」次にさらによく考えてから、こう思いました、「だがそうとすると、あの南豆錠が外からかけられていたというのは、どうしてであろう。従って、この鍵は何か他の役に立つものに相違ない。」そしていったいこの鍵がどういう役に立つものか発見できないかと、到るところを探しはじめました。そして極度の注意をこめて、部屋の壁を全部調べてみると、最後に一枚の壁石のまん中に、一つの錠前を見つけました。そこで、これこそ自分の持っている鍵に合うものにちがいないと判断して、即座にためしてみました。するとすぐに、一枚の扉が開いて、広々と開け放たれました。こうして彼は第二の広間にはいることができましたが、これは前の広間よりも、もっとすばらしいものでした。事実、床から天井まで、全部緑陶でできていて、黄金をちりばめた光沢を帯び、さながら海中の翠玉のなかに彫りこまれた部屋とでもいった様子でした。一切の装飾がないうちにまことに美しく、どんな夢も、これに類するものなどかつて想像しなかったでありましょう。そしてこの広間の中央には、円屋根の下に、月のような六人の乙女が立っていて、それ自身が光を放ち、広間全体が明るく照らされているばかりの輝きでした。そして乙女たちは金無垢の台の上に立ったまま、口をききませんでした。ゼインは、うっとりすると共に仰天して、もっと近くで見、挨拶《サラーム》をしようと、乙女たちのほうに歩みよりますと、その乙女たちは生きているのではなく、それぞれただ一つの金剛石でできているのを認めました。
これを見ると、ゼインは驚きの極、叫びました、「やあ、アッラー、亡き父上がこのような珍品を手に入れなすったとは、いったいどうなさったのであろう。」そしてさらに注意をこらして調べると、乙女たちはこうして台の上に立ちつつ、金剛石の乙女がのっていない第七番目の台を取り囲んでおり、その台の上には、一枚の絹の緞帳が置かれていて、そこには次の言葉が書かれておりました。
[#この行2字下げ] おおわが子ゼインよ、これらの金剛石の娘はこれを入手するに多大の労を要せしものと知れ。されど、これらは美の驚異なりといえども、これらが地上にある見事なるものの極とは信ずることなかれ。事実、さらに輝かしく遥かに美わしき第七の乙女が存在し、そはこれらを凌ぎ、それ一人にてよく、汝の見るごとき乙女千人にもまさる値あり。さればもし汝その乙女に会い、その所有者となり、以ってそれをこの第七の台上に据えんと願わば、死によってわが果たし得ざりしところを、汝行なうあるのみ。即ち、カイロの町に赴き、ムバラク(1)と呼ばるるわが元の忠実なる奴隷の一人を探せよ。かつこの者は発見にいささかも難《かた》からざるべし。しかして挨拶《サラーム》の後、これに汝の身に起りし一切を語り聞かせよ。さらば彼は汝をわが王子と知り、その比類なき美女のある地に、汝を案内すべし。以って汝はその獲得者たらん。かくてその乙女は汝の余世を通じ、汝の眼を楽しますべし。ワァサラーム(2)、やあ、ゼイン。
若いゼインはこの文句を読むと、思いました、「必ずや、余はこのカイロ旅行を延期することはいたすまい。事実、この七番目の乙女こそは絶品に相違ない、父上が、それ独りのみで優に、ここに集まっている乙女たちや、これに類する他の千名に匹敵すると、断言しておられるからには。」こうして出発の決心をかためると、彼はちょっと地下室を出て、籠《クーフア》を一つ持って戻ってきて、それにディナール金貨とヴェネツィア金貨を満たしました。そしてそれを自分の部屋に運びました。それから、誰にも自分の往き来を見とがめられずに、自室にこの黄金の一部を運ぶことに、夜の一部を過しました。そして地下室の扉を締めて、多少の休息をとるため、寝に行きました。
さて翌日になると、彼は大臣《ワジール》、貴族《アミール》、王国の大官を召集して、自分は転地のためエジプトに行くつもりであると、一同に知らせました。そして総理|大臣《ワジール》、凶報をお知らせ申したため串刺しの刑を恐れた、ちょうどあの大臣《ワジール》に、留守中の国の政治をまかせました。旅行中お伴をする護衛は、念入りに選んだ選り抜きの奴隷少数で編成しました。そして盛大なことも、行列を作ることもせずに、出発しました。アッラーはこれに安泰を記《しる》したまい、彼はつつがなくカイロに着きました。
そこで、彼は取りあえずムバラクの消息を尋ねました。すると、カイロでその名で知られているのは、市場《スーク》の総代の、大金持の商人きりであり、その人は、自分の館《やかた》でたいそう気前よく鷹揚に暮し、その扉は貧者と異国の人々に開かれているとのことでした。そこでゼインは、そのムバラクという人の館《やかた》に案内してもらうと、その門には大勢の奴隷と宦官がいて、主人に取り次いだ上で、いそぎ歓迎の言葉を述べました。そして広い中庭を通らせ、見事な飾りつけをした広間を横ぎらせると、そこには絹張りの長椅子《デイワーン》の上に坐って、この家の主人が待っておりました。そして一同退出しました。
そこでゼインはその主人のほうに進むと、主人は敬意を表して立ち上がり、挨拶《サラーム》の後、自分のそばに坐るように乞いながら、言いました、「おおわが御主人よ、祝福はあなたの一歩一歩と共に、わが家にはいってまいりました。」そして彼は、客の名前を尋ねたり、ここに来た動機をなす意向を尋ねたりして、歓待の義務に外《はず》れるようなことは、十分に慎しんで、鄭重を極めて、言葉を交わしていました。そこでゼインのほうから、主人にこう尋ねて、切り出したのでした、「おおわが御主人よ、御覧のごとき私は、ムバラクと呼ばれる人を探して、ただ今故国バスラから、到着しました。その男はむかし亡き先王の奴隷のなかにいたので、私はその王の子息でござる。もしわが名はとお尋ねあらば、私はゼインと申すとお答えしよう。それというのは、かくいう私自身こそ、目下バスラの帝王《スルターン》でござるがゆえに。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十三夜になると[#「けれども第七百二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞くと、商人ムバラクは感動の極に達し、長椅子《デイワーン》の上から立ち上がって、ゼインの膝下に身を投げ出しながら、その手の間の床に接吻して、叫びました、「おおわが殿、主人と奴隷との再会を許したまいしアッラーに、称讃《たたえ》あれ。御命じ下さいまし。私は承わり畏ってお答え申しましょう。なぜと申すに、御《おん》父君、亡き王の奴隷の、そのムバラクとは、まさに私自身でございますから。子を産む者は決して死なず。おお、わが御主君の王子よ、この館《やかた》は君の館、私は君の所有物《もちもの》でございまする。」するとゼインは、ムバラクを立たせてから、わが身に起ったことすべてを、一部始終、細大洩らさず話しました。しかしそれを繰り返しても無益でございます。そして付け加えました、「されば余は、その金剛石の絶世の美女を見出すのに、その方の力を借りようとて、エジプトにまいった次第だ。」するとムバラクは答えました、「忠義をこめて心から悦んで、当然の敬意として。私は未だ解放されていない奴隷でございますから、私の一命と財産は正当の権利を以って、わが君の有《もの》でございます。しかし、その金剛石の乙女を探しに行く前に、おおわが殿、まず旅の疲れをお休めなされ、わが君のため盛宴を張ることをお許し下さるるがよろしゅうございます。」けれどもゼインは答えました、「おおムバラクよ、その方の奴隷の身分については、今後その方は自分を自由の身と心得て苦しからぬと知れよ。余はその方を解放し、わが財産と所有からその方の一身を除外するによって。さて金剛石の乙女については、猶予なく、われわれはこれを求めに行かねばならぬ。それと申すは、旅は余を疲れしめず、わが陥る焦慮は、いささかの休息も余に味わわさせぬおそれがあろうからな。」そこでムバラクは、ゼイン王子の決心が断乎たるものであるのを見て、御意に逆らおうとは思わず、再びその手の間の床に接吻してから、立ち上がって、ゼインに言いました、「おおわが殿、君はこの遠征に際して冒しなさろうとしている危険を、いささかなりと、お考えになったことがあられましょうか。事実、金剛石の乙女は、『三つ島の老翁《シヤイクー》』の宮殿におるのでございまして、その『三つ島』は、通常の人間には入るを禁じられている国に、位しておりまする。さりながら、私はそこに御案内申すことができまする。私はそこに入るために唱えるべき文句を、知っておりまするから。」するとゼイン王子は答えました、「その金剛石の美女を獲んがためには、余はあらゆる危難をも物ともせぬ覚悟である。起るべきところ以外何事も起らぬであろうからな。余はこのとおり、三つ島の老翁《シヤイクー》に会いに行くべく、あらゆるわが勇気がわが胸を膨《ふく》らしておるぞ。」
そこでムバラクは奴隷たちに、出発のため用意万端をととのえておくように命じました。そして洗浄《みそぎ》と礼拝をしてから、一同馬に乗って道に就きました。そして幾日も幾夜も、平原と砂漠を越え、草とアッラーの在《いま》すばかりの淋しい場所のなかを、旅しました。この旅行中、彼らは絶えず、生れてからはじめて行き会うような、いよいよ出でていよいよ不思議な物を見て、驚かされたのでした。そして最後にたいそう快い草原に着いて、一同馬を下りました。するとムバラクは、従ってきた奴隷のほうを向いて、申しました、「お前たちはわれわれの戻るまで、この草原にとどまって、馬と食糧の番をせよ。」そしてゼインに、自分についてくるように乞うて、言いました、「おおわが殿、全能のアッラーのほかには頼りも権力もござりませぬ。今やわれわれは、金剛石の乙女のいる禁断の地の、入口にさしかかりました。われわれは今からは一瞬の躊躇もなく、二人きりで前進しなければなりません。今こそ、われわれの精神力と勇気を発揮すべき時でございます。」そこでゼイン王子はこれについて、両人長い間、足をとめずに進んでゆくうち、とうとう切り立った高山の麓まで着き、その山は厳として聳える絶壁を以って、一帯の地平線を遮っております。
そこで、ゼイン王子はムバラクのほうに向いて、言いました、「おおムバラクよ、今やどのような権勢が、われわれをしてこの近づき得ない山を攀じ登らせるであろうか。何ぴとがこの山頂に達するため、われわれに翼を与えるであろうか。」するとムバラクは答えました、「この山を越えるのに、われわれは攀じ登る必要もなければ、山頂に達する必要もござりませぬ。」そして彼は懐中から一巻の古書を取り出しましたが、それには蟻の足のような、見知らぬ文字が、逆向きに書かれておりました。ムバラクは山に向って、頭を軽く振りながら、不可解な言葉で、唱句を朗々と誦しはじめました。すると直ちに、山は同時に両側に転がり出して、二つに裂け、地上すれすれに、わずか一人の人が通れるくらいの広さの隙間を残しました。するとムバラクは王子の手をとって、先に立って、この隙間に断乎足を踏み入れました。こうして二人は前後して、ひと時の間進み、通路の向うの端《はし》まで着きました。そして二人がそこを出るとすぐに、二つに分れた山は再び近づいて、ぴったりと合さり、もうその間には、針先さえも通る隙間がないほどになりました。
さて両人はそこを出てみると、海のように広い大湖の畔《ほとり》にいて、その湖心遥かに、草木に蔽われた三つの島が、浮んでおりました。二人のいる湖畔は、水中に影を宿して、この上ない快い香りで大気を匂わせている樹木と灌木と花で、眼を楽しませ、一方、鳥はさまざまの調べで、精神を恍惚とさせ、心を捕える朗吟歌を、歌っておりました。
そこでムバラクは湖畔に坐って、ゼインに言いました、「おおわが殿、君は私と同じく、遥かにかの島々を御覧ぜられましょう。ところで、まさにあそこに、われわれは行かねばならぬのでございます。」そこでゼインは大いに驚き、尋ねました、「どうしてわれわれは、この海のごとく広大な湖を渡って、かの島々に赴くことができようか。」彼は答えました、「その点については御心配無用。事実、しばらくたてば、一隻の小舟がまいってわれわれを乗せ、アッラーによってその信徒に約束せられている地のごとく美しいかの島々に、われわれを運んで行ってくれるでしょう。それと申すは、金剛石の乙女の持主たる『老翁《シヤイクー》』は、かしこにいるのでございます。ただ、おおわが殿、くれぐれもお願い申しまするが、どのようなことが起り、どのようなことをご覧遊ばされようと、およそちょっとでもお考えなさることは、一切なさりませぬように。わけても、おおわが殿、その船頭の顔形《かおかたち》がいかほど奇怪に見えようと、またいかに彼に尋常ならぬものをお認めなされようとも、身動き遊ばすことは、きっとお慎しみ下さいませ。それというは、ひとたび乗船なされてから、不幸にしてただの一語なりとお発し相成ることあらば、小舟はわれわれを乗せたまま、水中に没してしまいまするゆえ。」するとゼインはこの上なく感銘して、答えました、「余はわが舌は歯の間に、わが考えは精神の中に、しまっておくであろうぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十四夜になると[#「けれども第七百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、彼らがこのように話していると、そこに突然湖上に、一人の船頭の乗った小舟が現われるのが見られ、しかも二人のすぐそばに現われたので、それが水中から出てきたのか、それとも空の奥から降ってきたのか、わからないほどでした。そしてその小舟は赤色の白檀の木でできていて、中央には、極上の琥珀の帆柱が一本立っており、絹の綱具を備えていました。船頭はというと、それはアーダムの子、人間の身体《からだ》をしていますが、その頭は象の頭に似て、両耳は地まで垂れ、身体の後ろに、アガール(3)の引裾のように下がっておりました。
その小舟がもはや岸から五腕尺というところになると、小舟はとまって、象の頭の船頭がその鼻を空中に立て、この二人の仲間を一人ずつ捉え、まるで二本の羽根を扱うように、無造作に二人を小舟に運んで、ごくそっと置いてやりました。そしてすぐに、その鼻を水中に突っこみ、それを同時に櫂と舵のように使いながら、岸を離れました。それから、その引きずるような途方もない大きな両耳を突っ立てて、頭の上の風のなかに拡げると、風はそれを帆のように、ばたばたと音をたてながら、膨らましました。船頭はそれを風向きに従って右左に廻し、船長が自分の船の帆を操作するよりも確かな手腕で、操縦しました。小舟はこうして風に押されて、巨鳥のように、湖上を飛んでゆきました。
いよいよ二人が島のうちの一つの岸辺に着きますと、船頭は一人ずつ次々に鼻で持ち上げて、砂の上に静かに下ろし、すぐにその小舟と共に姿を消してしまいました。
するとムバラクは再び王子の手をとって、小石ではなく、あらゆる色の宝石類を敷きつめた細道を通りながら、島の内部に一緒に分け入りました。こうして二人は歩いて行って、最後に広い濠をめぐらした、全部が翠玉作りの宮殿の前に着きました。その濠端には、所々に、高い高い木が植わっていて、宮殿全体がその樹蔭になっておりました。そして金無垢の大門と向い合って、貴重な魚鱗(4)でできている橋があり、少なくとも長さ六|尋《ひろ》、幅三尋はあります。するとムバラクは、敢えてこの橋を渡ろうとはせず、立ちどまって、王子に言いました、「われわれはこれより先にはまいれません。しかし、もし『三つ島の老翁《シヤイクー》』に会いたいというならば、われわれは魔法の呪ないをしなければなりません。」こう言いながら、彼は着物の下に隠し持っていた袋のなかから、黄絹の帯四本を取り出しました。そしてその一本を自分の胴に巻きつけ、今一本を背中にかけました。次に残りの二本を王子に与え、王子も同様に用いました。するとムバラクは、自分の袋のなかから、軽い絹の礼拝用の敷物を二枚取り出し、それを地上にひろげ、呪文の文句を呟きながら、その上に麝香と竜涎香の粒をいくつかばら撒きました。それから、その敷物の一つのまん中に、両脚を折り曲げて坐り、王子に言いました、「二枚目の敷物のまん中に、お坐り下さい。」ゼインは命令どおりにしました、するとムバラクはこれに言いました、「私はこれより、この宮殿に住む『三つ島の老翁《シヤイクー》』を念じまする。ところで、願わくはアッラーは、彼を怒らしめずにわれわれのところに来させたまいますように。というのは、実を申せば、おおわが殿よ、私は、彼がどのような風にわれわれを迎えるかについては、確たる自信なく、またわれわれの企ての結果についても、不安なしとはしないのでございます。事実、もしこの島へのわれわれの到着が、彼の意に叶わぬ節には、彼は恐るべき怪物の姿をして、われわれの眼前に現わるべく、またもしわれわれの来着に不快を覚えぬ節は、立派なるアーダムの子の姿にて、現われ出るでありましょう。されどわが君は、彼がわれわれの前に出て来たら直ちに、敬意を表して立ち上がり、そして敷物の中央を離れることなく、最も恭々しい挨拶《サラーム》を呈して、これにこう仰せられなさいませ、『おお強大なる御主《おんあるじ》、君主のなかの君主よ、われわれはここに君の大権の域内に立ち、君の御庇護の門下にはいっておりまする。さて君の奴隷たる私ことは、バスラの帝王《スルターン》ゼインと申し、その主《しゆ》の平安の裡に身まかりし後、死の天使に運び去られし、故|帝王《スルターン》の子息でございます。して私は、君の寛仁と御《み》稜威《いつ》にすがり、君の下僕《しもべ》たりしわが亡父に授けたまいしと同じき御寵愛をば賜わりたく、ここに参じました。』そして彼がどのような恩恵を授けてほしいのかとお尋ねあったならば、こうお答えなさいませ、『おおわが大君よ、私は第七番目の金剛石の乙女をば、君の寛仁にすがって賜わりたく、ここに参じたのでございます』と。」するとゼインは答えました、「仰せ承わり、仰せに従う。」
するとムバラクは、このようにゼイン王子に教え終わると、いろいろと呪ないをしたり、香を焚いたり、読誦したり、祈祷をしたり、呪文を唱えたりしはじめましたが、これらはゼインには、何ひとつ意味がわかりませんでした。するとその直後に、太陽は湧き起る黒雲の蔭に埋没して、全島は濃い暗闇に包まれ、長い電光が一閃して、つづいて雷鳴が轟きました。そして一陣の烈風が起って、彼らの方角に吹きつけました。すると、物すごい叫び声が大気をどよめかすのが聞え、大地は、審判の日に天使イスラーフィール(5)が起すはずの地震のように、大きく揺れました。
ゼインはこうしたすべてを見聞きしたとき、非常な感動に襲われるのを感じましたが、しかしよく抑えて、外に現わさないようにしました。そして心中で思いました、「アッラーにかけて、これはどうも甚だ不吉な前兆だわい。」しかしムバラクは、王子の感じていることを察して、微笑を浮べはじめて、これに言いました、「お恐れあるな、おおわが殿。これらの前兆は、反対に、われらの心を安んぜしめるはず。アッラーの御加護によって、万事上乗でございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十五夜になると[#「けれども第七百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
果たして、彼がこれらの言葉を口にしたその瞬間に、「三つ島の老翁《シヤイクー》」は、尊ぶべき様子をした一人のアーダムの子の姿をとって、二人の前に現われ出ましたが、その美しいことと申せば、完全さにおいてこれを凌駕するのは、一切の美、一切の長所、また一切の栄光が所属する御方(その讃められよかし)のほかにはないというほどでございました。そして翁は、父親がわが子にほほ笑みかけるように、ほほ笑みかけながら、ゼインに近寄ってきました。ゼインはいそいでこれに敬意を表して立ち上がりましたが、しかし敷物の中央を離れることなく、そしてつづいて、その前に身を屈め、翁の手の間の地に接吻しました。そしてムバラクに教えられたとおりの挨拶《サラーム》と辞《ことば》を呈することを、忘れませんでした。その上ではじめて、自分がこの島に来た動機を申し述べました。
「島の老翁《シヤイクー》」はゼインの言葉を聞き、よくその意味がのみこめると、さらに心をひく微笑で微笑して、ゼインに申しました、「おおゼインよ、事実わしは御親父をば、非常な愛情で愛したものであった。そしてわしを訪ねて来らるるごとに、そのつど、金剛石の乙女を一人贈呈していた。駱駝曳きどもが破損してはならぬと思って、いつもわし自身でそれをバスラにお届けするよう、気を使ったものであった。しかし、お前に対するわが友情が、それに劣るものとは思うことなかれ、おおゼインよ。事実、実はわし自身が、みずから進んで、御親父にお前をわが庇護の下に置くことを約束し、御親父にすすめて、二通の通知を書き、一を文庫に、他を地下の小箱に秘めておかれるようにと、促した次第である。さればわしはいつなりと、それ一人のみで、他の全部の乙女を寄せ集めたものはおろか、これに類した千人の乙女にも匹敵する、その金剛石の乙女を、お前に進呈しよう。ただし、おおゼインよ、わしはこの絶世の贈物をば、お前に所望いたしたき他の一品《ひとしな》と引き換えでなければ、授けるわけにはゆかぬであろう。」するとゼインは答えました、「アッラーにかけて、おおわが殿、私に属するものはことごとく、君の所有物《もちもの》でございますし、この私自身も、君に属するもののうちに含まれておりまする。」すると老翁《シヤイクー》は微笑して、答えました、「さよう、おおゼインよ、しかしわが所望はすこぶる叶えること難《かた》かろうぞ。お前が果たして首尾よくわが意を満たし得るかどうか、疑わしいものじゃ。」王子は尋ねました、「してそれはどのようなことでございましょう。」老翁《シヤイクー》は言いました、「それはこういうことじゃ。全く手つかずの処女にして、同時に比肩する者なき美女の、十五歳の乙女を一人、わがために見つけ出し、この島に連れてこなければならぬのだ。」するとゼインは叫びました、「それが私に御所望の全部とあらば、おおわが殿、アッラーにかけて、御満足を得るは、いとやすきことでございましょう。それと申しまするは、われらの国々においては、処女であると同時に美しい十五歳の乙女というくらい、ざらにあるものはござりませぬゆえ。」
この言葉に、老翁《シヤイクー》はじっとゼインを見つめて、笑い出し、引っくりかえって尻餅をついてしまったほど、笑いました。そして少しく鎮まると、ゼインに尋ねました、「わしの所望するものを見つけることは、そんなにたやすいのかな、おおゼインよ。」するとゼインは答えました、「おおわが殿、私は御所望のごとき乙女を、一人ばかりか、十人でも手に入れてさしあげることができまする。私はと申しますれば、既にわが王宮に、その種の乙女をおびただしく持っておりまして、それらはたしかに全く手つかずの女であり、私は彼らの処女を奪って堪能したものでございます。」すると老翁《シヤイクー》は、この言葉を聞いて、再び大笑せずにいられませんでした。それから、憐れみに満ちた口調で、ゼインに申しました、「聞くがよい、おおわが息子よ、わしがお前に所望しているものは、まことに稀有なものなので、今日まで何ぴともわしにそれを持ってくることができなかった。もしお前がわが有とした乙女たちが、処女だったなどと思っていたら、それはお前の誤りであり、思いちがいというものだ。それというのは、およそ女どもは、自分を処女と信じさせる手段《てだて》など、いくらでも持ち合せていることを、お前は知らず、最も攻撃の経験豊かな男どもをも、まんまと欺き了《おお》せるのじゃ。けれども、お前の言葉の自信たっぷりの様子から見るに、お前は女については何も知らぬことがわかるゆえ、では、指で触れもせず、着物を脱がせもせず、当人に気取られることもなくして、女どもの開閉の状態を検査する手段を、お前に提供してやろう。なぜというに、わしがお前に処女の乙女を所望するからには、いかなる男子もそれに触れたことなく、その眼を以って娘のいみじき器官を見たことがないということが、肝心|要《かなめ》のことじゃからな。」
若いゼインはこの「島の老翁《シヤイクー》」の言葉を聞いたとき、思いました、「アッラーにかけて、この人は気違いにちがいない。もし自分で主張するように、乙女が手つかずであるや否やを知るのが、そんなにむつかしいとあらば、余が見もせず、触りもせずに、そんな乙女を一人見つけてさしあげるなどということは、どうしてできようぞ。」そしてしばらく思い耽っていましたが、突然叫びました、「アッラーにかけて、ただ今わかりました。その手がかりを与えるのは、女の臭いでございましょう。」老翁《シヤイクー》は微笑して、言いました、「処女性には臭いはないよ。」王子は言いました、「では、女の眼をじっと見据えることによってでございましょう。」老翁《シヤイクー》は言いました、「処女性は眼中に読み取られはしないよ。」王子は尋ねました、「しからば、いったい私はどういたしたらよろしゅうございましょう、おおわが殿よ。」老翁《シヤイクー》は言いました、「わしが教えてやろうというのは、まさにそのことじゃ。」
そしていきなり老翁《シヤイクー》は、二人の眼から見えなくなりましたが、しばらくたつと戻ってきて、手に一面の鏡を持っておりました。そしてゼインのほうに向いて、これに申しました、「お前に申し聞かせねばならぬが、おおゼインよ、アーダムの子にとっては、ハウワー(6)の娘が処女であるか、孔をあけられておるかを、その外貌から知ることは、不可能なのじゃ。それはただアッラーと、アッラーの選ばれし人々のみに属する知識である。されば、その点についてわしはお前に任せるわけにゆかぬから、ここにお前にやろうと思って、この鏡を持ってきてやったが、これは人間どものあらゆる推測よりも、ずっと間違いないものであろう。さればお前は、完全に美しい十五歳の乙女を見て、自分で処女と思うなり、あるいは処女と称して届けられた場合には、直ちにこの鏡を眺めてみさえすればよろしい。するとすぐにここに、くだんの乙女の像《すがた》が現われるのを見るであろう。そしてお前は、その像をとくと調べることを恐れるなかれ。と申すは、鏡中の像を眺めることは、直接に身体そのものを眺めるのとはちがって、何ら処女性を傷つけることはないからじゃ。ところで、もしその乙女が処女でないならば、その女のものを調べれば、よくわかるであろう。ものは大きく、深淵のごとくぱっくりと口をあけて、現われてくるであろうから。また同じく、この鏡があたかも湯気を以ってのように、曇るのをも見るであろう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十六夜になると[#「けれども第七百二十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……しかしこれに反して、もしアッラーはその乙女が処女のままであることを望みたもうならば、お前は、皮を剥いだ巴旦杏よりも大きからぬものが、現われてくるのを見るであろう。そして鏡は依然として、明らかで、清らかで、一切の湯気をとどめぬ状態を保っていよう。」
かく語って、「島の老翁《シヤイクー》」はゼインにその魔法の鏡を渡し、さらに言い添えました、「おおゼインよ、天運はお前を、能《あと》うかぎり速やかに、わしの所望する十五歳の処女に、めぐり合させてくれるよう祈る。その処女は完全に美しくなければならぬことを、忘れるなかれ。それというのは、美を伴わずしては、処女性も何の役に立とうか。そしてこの鏡をきっと大切にせよ、これを失ったら、お前にとって償いがたき損失であろうからな。」するとゼインは承わり畏って答え、そして「三つ島の老翁《シヤイクー》」に暇を告げてから、ムバラクと一緒に再び湖水へと向いました。すると象の頭をした船頭が、小舟を持って彼らのところに来て、前に彼らを渡したと同じやり方で、再び渡してくれました。そして山はまた裂けて、彼らを通しました。そして二人はいそいで、馬の番をしている奴隷たちに、落ち合いに行きました。そして一同カイロに戻ったのでございます。
さて、ゼイン王子はこのときやっと、旅の疲れと心労を医すために、ムバラクの館《やかた》で、何日か休息をとることを承知しました。そして考えました、「やあ、アッラー、あの島の老翁《シヤイクー》は、処女のアーダムの子一人と引き代えに、自分の金剛石の乙女のなかで随一の美女を、余にくれることをためらわぬとは、何と世間知らずな方であろう。どうやら、処女の種族は地の表から消え失せてしまったと、思っておられるらしい。」それから、もう必要な休息をとったと判断すると、ムバラクを呼んで、これに言いました、「おおムバラク、では立ち上がって、バグダードとバスラに出かけるといたそう。かしこには、処女の娘は蝗《いなご》のように無数にいるからな。そしてわれらはそれらの間から、最も美しい娘を選んで、それを金剛石の乙女と引き代えに、三つ島の老翁《シヤイクー》に献上しに行くといたそう。」けれどもムバラクは答えました、「そもそも何ゆえに、おおわが殿よ、われわれの手許にあるものを、そのように遠方まで探しに行くのですか。いったいわれわれは、都の中の都、雅びやかな人々の好んで住まうところ、そして地のあらゆる美女の集合地であるカイロに、いるのではないのでしょうか。さればその捜索については御心配なく、私にまかせて、よしなに計らわさせて下さりませ。」王子は尋ねました、「してその方どのようにいたすか。」彼は言いました、「私は知人のなかに、乙女にかけては非常に精しい、一人のしたたかな老婆を知っておりますれば、これがわれわれの望む以上に、いくらでも乙女を手に入れさせてくれるでございましょう。されば私はこれに頼んで、カイロばかりか、エジプトじゅうにいる十五歳の若い娘を、残らずここに連れて来させることにいたします。そして、われわれにとって仕事をさらに容易にするため、まず老婆自身に最初の選択をさせ、ここには、老婆が王侯|帝王《スルターン》に献上するにふさわしいと鑑定した娘だけを、連れてくるように、言い含めておきましょう。そして私はその熱意を扇《あお》り立てるため、これに豪勢な|心付け《バクシーシユ》を約束してやりましょう。かくいたせば、およそエジプトには、一人前の若い娘で、その老婆が、両親の知る知らぬにかかわらず、われわれの許に連れてこなかったような娘は、ただ一人も余さぬようにすることでござりましょう。そこでわれわれは、エジプト娘中随一の美人と思われるものに、われわれの選択を定めて、これを買い求めましょう。あるいは、もしその娘が名家の子女なれば、私はこれをわが君のために所望して、君はただ形ばかり、これと結婚遊ばされませ。と申すは、君がこれに触れなさらぬことは、もとよりでございましょうから。それがすんでから、われわれはダマスに、次にバグダードとバスラにまいり、その地で、同じような捜索をいたさせましょう。そして各々の町で、もちろん、かの鏡をもって処女性を確かめた後に、その美によって最もわれわれに感銘を与えた娘をば、買い求めるなり、見かけの結婚によって、手に入れるなりいたしましょう。その上ではじめて、われわれはかくのごとくにして入手した乙女を全部集めて、その間から、異論の余地なく、最も絶世と思われる一人を選び出します。かくして、わが殿よ、殿は三つ島の老翁《シヤイクー》への約束を果たせば、老翁《シヤイクー》も、十五歳の絶世の処女と引き代えに、金剛石の乙女を殿に授けて、約束を果たしなさることでございましょう。」するとゼインは答えました、「その方の案は、おおムバラクよ、全くの名案である。その方の舌は、知恵と雄弁の言葉を分泌したわい。」
そこで、ムバラクはくだんのしたたかな老婆に会いにゆきましたが、これはあらゆる種類の手練手管にかけては、並ぶもののない女でした。それというのは、この女は魔王《イブリース》そのものにさえ、悪巧みやぺてんや狡智を教えてやることができるくらいでしたから。彼はさしあたり、相当大金の|心付け《バクシーシユ》をその手に握らせてから、ここまで訪ねてきた動機を説明して、付け加えました、「それというのは、私がお前に、今エジプトにいる十五歳の乙女全部の間から、選んでくれと頼む、その類《たぐい》なく美しく、全くの処女の乙女というのは、私の御主人の令息の妻となることになっているのだ。お前の捜索と骨折りには、たっぷりと報酬を与えられることは、決してまちがいない。お前はわれわれの気前のよさに満足しさえすればよいことになろう。」すると老婆は答えました、「おおわが御主人様、あなたのお心を安んじて、お眼を爽やかになさいませ。この私は、アッラーにかけて、ひとつあなたのお頼みなさるところ以上に、御希望を満足させるように、骨折ってみますから。実際のところ、今私の手許に、しとやかさと美しさでは比べるものなく、いずれも歴とした方々や名士の娘さんで、十五歳の若い処女の持ち合せが、いくたりもござんすからね。私はそれらを全部、一人ずつ順々にお宅に連れてまいりましょう。いずれ劣らず、一人はほかの一人よりももっとすばらしいこれらの月全部の間で、一人を選ぶには、あなたはすっかりお困りになることでしょうよ。」
したたかな老婆は、このように話しました。けれどもその抜け目なさと知識にもかかわらず、老婆はあの鏡のことについては、何ひとつ知りませんでした。ですから、いつものように自信満々で、彼女は乙女を探しに、手練手管の大道《おおみち》小路《こみち》のなかに、町じゅうをうろつきに出て行ったのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十七夜になると[#「けれども第七百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして言葉どおり、老婆はやがてムバラクの館《やかた》に、いずれも十五歳、それより多いよりはむしろ少ない年をして、いずれも処女性については手つかずの、選り抜きの乙女の、非常に大量の最初のひと山を、連れてまいりました。老婆は、面衣《ヴエール》に包まれて、しとやかに眼を伏せる乙女たちを、一人ずつ順々に、ゼイン王子が例の鏡を携えて、商人ムバラクのそばに坐って待っている広間に、連れて来ました。まことに、これらすべての伏せた瞼《まぶた》と、あどけない顔と、つつましやかな物腰を見ては、何ぴとも、老婆の連れて来る乙女たちの、清純と処女性を疑うことなどできなかったでしょう。ところが、こうなのでございます。そこには鏡があって、伏せた瞼も、あどけない顔も、つつましやかな物腰も、何ものもこの鏡を欺くことはできなかったのです。事実、乙女が一人はいってくるごとに、ゼイン王子は、一言も言わずに、その検査すべき乙女のほうに鏡の面を向けて、じっと見ました。すると乙女は、身を蔽っている幾枚もの衣類にもかかわらず、丸裸で現われ出ました。そしてその身体のどんな部分でも、見えないところはなく、その娘のものは、さながら透き通った水晶の小箱のなかに置かれたとそっくりに、最もこまかな隅々まで映し出されるのでございました。
ところで、ゼイン王子がはいってくる乙女たちを、鏡にかけて検査するごとに、皮のない巴旦杏の形をした小形のもの[#「もの」に傍点]などは、およそ見られませんでした。そして、魔法の鏡の助けがなかったら、どんな底なしの深淵に、自分がうっかり飛びこむことになりかねなかったか、または三つ島の老翁《シヤイクー》を飛びこませかねなかったかを確かめて、もう非常に驚き入ったことでした。そこで王子は調べた後、はいってきた娘を全部追いかえしましたが、しかし老婆には、自分の棄権の真因は説明しませんでした。なぜなら、アッラーの蔽いたもうたところをあばき、通常隠されているところを暴露して、これらの若い娘を傷つけるのは、好まなかったからです。そして王子はそのつど、映像が現われてから、鏡の面を曇らせてしまう濃い湯気を、黙って袖裏で拭うだけにしておきました。すると老婆は、勇気を落さず、褒美の望みに励まされて、最初の時よりももっとたくさんの第二のひと山、また第三と、第四と、第五のひと山を、連れてきましたが、いずれも最初の時以上の成果をあげませんでした。こうして、おおゼインよ、あなたはエジプト娘、コプト娘、ヌビア娘、アビシニア娘、スーダン娘、マグリブ娘、アラビア娘、それにベドウィン娘の、もの[#「もの」に傍点]を見ました。たしかに、このなかには、飛びきり極上のもの[#「もの」に傍点]で、比べるものなく、美しく好ましい持主に属するもの[#「もの」に傍点]もありました。けれどもあなたはただの一度として、これらすべてのもの[#「もの」に傍点]のなかに、あらゆる接触を受けず、皮を剥いた巴旦杏に似た、まさに必要なもの[#「もの」に傍点]は、見かけなかったのでした。
そういうわけで、王子とムバラクは、エジプトには、上流の娘の間にも庶民の娘の間にも同様に、必要な条件を満たす乙女を、一人も見つけ出すことができなかったので、これはもうこの国を去って、まずシリアに行って、捜索を続けるよりいたし方ないと考えました。そこで二人はダマスに出発し、市中でいちばん立派な地区に、壮麗な屋敷を借りました。そしてムバラクは、媒酌好きな老婆たちと取持ち婆たちに渡りをつけて、説明すべきことを説明しました。すると彼らはすべて承わり畏って答えまして、上層下層の娘の乙女たちと交渉をはじめ、また回教徒の娘にも、ユダヤ教徒やキリスト教徒の娘にも、当ってみました。そして魔法の鏡などは在ることさえ知らず、その霊験など思いもかけずに、娘たちを順ぐりに、検査にあてられた広間に連れてきました。けれども、シリア娘についてもやはり、エジプト娘その他について起ったことが、そっくりそのまま起りました。というのは、つつましげな物腰と、眼差《まなざし》の清浄と、羞らいに赧らむ頬と、十五歳にもかかわらず、娘たちは全部、そのもの[#「もの」に傍点]については、穴を穿けられておりました。そしてこんな工合なので、一人も及第しませんでした。それで取持ち婆やほかの老婆たちも、鼻を足まで延ばして、引きとるより仕方がありませんでした。この老婆たちについては、以上のようでございます。
けれども、ゼイン王子とムバラクはどうかと申しますと、次のようでございます。彼らは、シリアもエジプトと同様、まだ封をされたままのもの[#「もの」に傍点]を持つ乙女は、全然いないことを確かめたときには、もうすっかり呆れかえってしまいました。ゼインは、「これはひどいことだ」と思いまして、ムバラクに申しました、「おおムバラクよ、思うに、われわれはもはやこの国とは、何のかかわりもない。どこか他の国々で、われわれの求めるものを探さねばなるまい。それと申すは、余の心と精神は、第七の金剛石の乙女について大いに苦慮し、その贈物と引き代えに、島の老翁《シヤイクー》に贈るべき十五歳の処女を見つけるため、捜索を続けるとあらば、いつなりと苦しゅうないからな。」するとムバラクは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして付け加えました、「私の意見では、イラク以外の他の地に行くは、無用と存じまする。何となれば、われわれが求めるものにめぐり合う見込みあるは、ただかの地のみでございます。されば隊商《キヤラヴアン》の用意をして、平安の都バグダードに行くといたしましょう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十八夜になると[#「けれども第七百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……されば隊商《キヤラヴアン》の用意をして、平安の都バグダードに行くといたしましょう。」
そしてムバラクは出発の用意をととのえて、隊商《キヤラヴアン》の人数が揃うと、ゼイン王子と共に、砂漠を越えてバグダードに到る道をとりました。アッラーは彼らに安泰を記《しる》したまい、街道の追剥のベドウィン人にも全く遭わないで、つつがなく平安の都に安着しました。
さて彼らは、前にダマスでしたように、まずティグリス河に臨む屋敷を借りましたが、そこの眺望はすばらしく、教王《カリフ》の「歓楽|御苑《ぎよえん》」と似た庭園がありました。二人はそこで並外れた豪勢な暮しをし、他に類のないような大盤振舞いをし、宴会を催しました。そしてひとたび客が飽きるまで飲み食いすると、その残りは貧しい人たちと修道僧《ダルウイーシユ》に配らせました。ところで、その修道僧《ダルウイーシユ》の間に、アブー・ベクルと呼ばれる一人の男がいましたが、これはやくざ者で、本当にいやな下種《げす》野郎でありまして、金持の人々を、ただその人たちは金持で、自分は貧乏だからというだけの理由で、憎んでいるのでした。それというのも、貧困は、高尚な魂を授けられた人の心は、高貴にするものの、卑賤な魂を授けられた人の心は、頑《かたく》なにするからでございます。そしてこの男は、今度来た人たちの住居に、富裕とアッラーのお恵みとを見たもので、もうそれだけで、この二人を束にして忌み嫌うに十分でした。ですから、日々のうちのある日、彼は午後の礼拝のため回教寺院《マスジツト》にやってきて、集まった人々のまん中に立って、叫びました、「おお信徒の皆さん方、今度われわれの区に、二人の異国の男が住みにきて、毎日莫大な金を使いまくり、ただわれわれのような貧乏人の、目ざわりになろうとするほか他意なく、自分たちの富を見せびらかしていることは、皆さんもきっと御存じにちがいない。ところが、われわれはこの異国の男たちが何者か全然知らないし、こいつらが自分の故郷で、大枚の金品を盗んだあげく、自分たちの窃盗の稼ぎや、寡婦《やもめ》だの孤児《みなしご》だのの金をどかんと使ってやろうとて、バグダードにやってきた悪党でないとも限らない。そこでわしは、アッラーの御名《みな》とわれらの主《しゆ》ムハンマド(その上に祈りと平安あれ)の御功績にかけて、皆さんがこの他処者《よそもの》に対して警戒し、彼らの贋《にせ》の気前よさから、何も受け取りなさらないように、とくとお願い申します。それに、ひょっとわれらの御主君|教王《カリフ》が、われわれの区内にこの種の人間がいることを御承知になられたら、このわれわれ一同にも彼らの悪行の責任を負わせなさり、これをお上に届け出なかったことを、われわれにお咎めあるやも知れません。とにかく私としては、私はこの件からは両手を引っこめ、この異国の男たちと、彼らの招待に応じてその家にはいる人たちとは、まるっきりかかわりがないことを、ぜひ皆さんにはっきり申し上げておきたいと思いますわい。」するとそこにいた全部の人たちは、ただひとつの声で答えました、「いかにも、おっしゃるとおりだ、おおアブー・ベクル長老《シヤイクー》よ。じゃ私たちはあなたにおまかせして、ひとつこの件について、教王《カリフ》に訴状を書いていただき、彼らの様子をお取り調べになるようにしてもらいましょう。」それから会衆一同は寺院《マスジツト》を出ました。そこで修道僧《ダルウイーシユ》アブー・ベクルは、この二人の異国の男を困らせてやる方法を思案しようとて、自宅に帰りました。
こうしているうちに、ムバラクは程なく、天命の定むるところにより、回教寺院《マスジツト》で起ったことを知りました。そしてこの修道僧《ダルウイーシユ》の策謀についてたいそう心配し、もしそんな噂がひろまったら、もう取持ち女や媒酌好きの女に、信用を博すことができなくなろうと考えました。それゆえ、時を移さず、金貨五百ディナールを袋に入れて、修道僧《ダルウイーシユ》の家に駈けつけました。そして彼が戸を叩くと、修道僧《ダルウイーシユ》は戸を開けにきて、彼とわかると、怒った口調で尋ねました、「お前は誰だ。して何の用か。」彼は答えました、「私は貴僧の奴隷のムバラクでございます、おお、わが御主人アブー・ベクル導師《イマーム》よ。そして私は、王族《アミール》ゼインの代理として、参上いたしましたので、公《アミール》は貴僧の学識と造詣と都内での御勢力のお噂を承わり、貴僧に敬意を表し、何なりと御用を仰せつけ下さるようにと、私を遣わしたのでございます。そして貴僧に好意のほどを表するために、この五百ディナールの財布をば、君主に対する忠義の臣下の敬意として、お渡し申し上げるよう私に託し、この御進物が貴僧の御功績の絶大さにはあまり釣り合わぬことを、お詫び申してくれとのことでございます。けれども、もしアッラー望みたまわば、来たるべき日々において、わが主人は必ずや、どれほど御恩を蒙り、御親切の際涯なき砂漠の中に迷う者であるかを、さらによくお示し申さずにはいないでございましょう。」
修道僧《ダルウイーシユ》アブー・ベクルは、この金袋を見て、中身を頭の中で勘定しますと、その眼もすっかり穏やかになり、その気持もすっかり和《やわ》らぎました。そして答えました、「おおわが殿よ、あなたの御主人の王族《アミール》様に、私の舌が軽はずみについ言ってしまったことを、どうかお許し下さるよう、切にお願い申します。私は公《アミール》に対する私の非礼を、後悔のかぎり後悔しております。さればどうかあなたが私に代って、過去に対する私の痛恨と、将来に対する私の気持を、御主人によろしくお伝え下さるよう、お願いします。それというのは、今日さっそく、もしアッラー望みたまわば、私は自分の犯した軽はずみを公衆の前で償い、こうして公《アミール》の御ひいきに値するようにいたしたく存じますから。」するとムバラクは答えました、「貴僧のお心に善意を満たしたもうたアッラーに、称《たた》えあれ、おお、わが御主人アブー・ベクル殿。けれども、礼拝がおすみになったら、われわれの敷居に御来臨を賜わり、御交際をもってわれわれの精神を高尚にして下さることをば、どうぞお忘れなきよう願い上げまする。それというのは、貴僧の聖徳の玉歩に伴って、われらの住居に祝福が来たるであろうことを、われわれは承知しておりまするゆえに。」こう語った上で、彼は修道僧《ダルウイーシユ》の手に接吻して、家に戻りました。
アブー・ベクルのほうは、礼拝の時刻に、さっそく回教寺院《マスジツト》に行くことを欠かさず、そこで、集まった信徒のまん中に立って、叫びました、「おお信徒の方々、わが兄弟たちよ、およそ世には自分の敵を持っていない人はないことは、皆さん御存じです。また、羨望は主として、アッラーの御好意と祝福とが下った人々の足跡の上に注がれることも、御存じです。ところで私は今日、わが良心を自由ならしめんがため、皆さんにぜひ申し上げたいが、実は昨日、私が皆さんに軽はずみにお話しした二人の異国の方は、高貴と、明敏と、徳と、並々ならぬ美質を授けられた人物でありました。それに、あの方々について私の得た情報によって、二人のうちのお一方は、高位高徳の王族《アミール》であられることを、明らかにすることができました。だからあの方がおられることは、われわれの区のためになるばかりじゃ。されば皆さんは、どこであの方に出会っても、これを敬い、その高位と御身分とに当然払うべき敬意を、表さなければなりませんぞ。ワァサラーム(7)。」
こうして修道僧《ダルウイーシユ》アブー・ベクルは、聴衆の心中に、自分の昨日の言葉の効力を、すっかり消してしまいました。そして一同と別れて自宅に戻り、衣服を代えて、裾が地まで垂れ、広い袖が膝まで延びている、真新しい頭巾付外套《カバー》を着込みました。そしてゼイン王子を訪問して、訪問客にあてた広間にはいりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百二十九夜になると[#「けれども第七百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして彼は王子の面前で、床まで頭を下げますと、王子はこれに挨拶《サラーム》を返して、慇懃に迎え、長椅子《デイワーン》の上の、自分のそばに坐るようにすすめました。次に飲食物を出させて、彼とムバラクと一緒に食事を共にしながら、彼の相伴をしました。そして彼らは二人の親友のように談笑しました。修道僧《ダルウイーシユ》は王子の立派な態度にすっかり心を惹かれてしまい、これに尋ねました、「おお、わが殿ゼイン公、閣下は永い間滞在せられて、われわれの都を照らして下さるおつもりですか。」するとゼインは、若年にもかかわらず、たいそう思慮あり、天命の提供する機会を利用することを心得ていたので、これに答えました、「はい、おお、わが御主人|導師《イマーム》殿。私の意向では、自分の目的が達成されるまで、バグダードに留まるつもりです。」するとアブー・ベクルは言いました、「おお、わが殿|王族《アミール》閣下、閣下の追求していらっしゃる高貴な目的とは、いかなるものでございますか。閣下の奴隷は、もし何ごとかでお助け申すことができますれば、悦びに耐えず、友情の衷心から、閣下の御為《おんため》に尽すことでございましょう。」するとゼイン王子は答えました、「さらばお聞き下さい、おお、尊ぶべきアブー・ベクル長老《シヤイクー》よ、私の願いは結婚なのです。事実私は、並外れて美しく、同時に全くの処女である、十五歳の若い娘を一人見つけて、これを妻に迎えたい所存です。そしてその美しさたるや、当代の若い娘の間にその比なく、またその処女性は、外にも内にも、品質上等でなければならぬのです。これが私の追求する目的であり、私をしてエジプト及びシリアに滞在させた後に、バグダードに来たらしめた動機であります。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は答えました、「なるほど、おお御主人様、これははなはだ稀有で、見出しがたい一事です。それで、もしアッラーが拙僧を閣下の道の上にお送りなさらなかったら、閣下のバグダード御滞在は遂に終りを見ず、あらゆる世話好きの女たちも、いたずらに捜索に時を空費したことでございましょう。ところが、この拙僧は、閣下がその唯一無二の真珠をどこで見出すことができるか、存じておりまする。拙僧はそれを申し上げましょう。万一お許しあらばのことでござるが。」
この言葉に、ゼインとムバラクは微笑を禁じ得ませんでした。そしてゼインはこれに言いました、「おお、聖なる修道僧《ダルウイーシユ》殿、さればあなたのおっしゃるその娘の処女性は、大丈夫でござりましょうか。また、そうとしたら、どういう風になさって、そういう確信をお持ちになったのでしょう。もしもあなたが御自身で、その乙女のなかに、隠されてあるべきものを見なすったのなら、どうして処女であることができましょうか。なぜならば、処女性というものは、封印の保存にあると同様に、その不可見のうちにもあるものでござれば。」するとアブー・ベクルは答えました、「いかにも、私はその乙女を一見もしてはおりません。けれども、万一その乙女が私の申し上げるようなものでなかったら、私はわが右腕を切り落します。それにまた閣下御自身にせよ、おおわが殿、婚礼の夜の前に、そのように完全な確信を持つためには、いったいどのようになさることができましょうか。」するとゼインは答えました、「それは極めて簡単でござる。私はただ、着物を着たまま、面衣《ヴエール》ですっかり包まれたままで、一瞬乙女を拝見するだけで結構です。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は、この家の主人に対する敬意から、笑おうとはせず、ただこう答えるだけにしました、「われらの御主人|王族《アミール》閣下におかれては、そのように面衣《ヴエール》の後ろの眼を御覧になるだけで、未だかつて御存じない乙女の処女状態をお見抜きになるとは、きっと観相学(8)の類に通じていなさるに相違ござりませんな。」するとゼインは言いました、「さようでござる。そしてもし本当に、事が可能とお考えならば、その乙女を私に一見させて下さりさえすればよいことです。私はあなたの御尽力を謝し、その価《あたい》以上に高く買うことを知っている点、何とぞ御安心あれ。」すると修道僧《ダルウイーシユ》は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして彼はくだんの乙女を探しに出て行きました。
ところで、アブー・ベクルは事実、必要条件に応ずることのできる、一人の若い娘を知っていたのでありまして、それはバグダードの修道僧《ダルウイーシユ》の首長《シヤイクー》の娘にほかならなかったのでございます。そしてその父親は娘を、あらゆる人目から遠く離れて、聖典《アル・キターブ》の崇高な掟に従って、簡素な隠れた生活のうちに、育てたのでした。そして娘は、醜さを知らず、花のように伸びて、屋敷内で大きくなりました。美の鋳型から瑕瑾《きず》なく出たこととて、色白く優雅に、たおやかな姿でございました。身体の釣合いは見事で、眼は黒く、花車《きやしや》な手足は月の一片《ひときれ》のように艶やかでした。そして片側は丸々として、上のほうはまことにほっそりとしています。二本の円柱の間にあるものについては、誰も描き表わすことはできますまい、誰もかつてこれを見たことがないのですから。そのゆえに、ただ魔法の鏡だけが、はじめてこれを映し出して、アッラーの御同意を得て、これを描き現わすことをあとうようにできる、唯一のものとなるでございましょう。
修道僧《ダルウイーシユ》アブー・ベクルはそこで、組合の首長《シヤイクー》の家に出かけて、双方|挨拶《サラーム》と辞令を交わして後、彼は妙齢に達した娘にとって結婚の必要な所以について、聖なる書《キターブ》のさまざまの文句を引きつつ、長々と弁舌を振いまして、最後に今度の縁談を詳しく述べながら、こう付け加えました、「ところで、そのかくも高貴、富裕、気前のよい王族《アミール》は、あなたがお嬢様のため御要求なさるどのような結納でも、直ちにお支払いなさるつもりでいられるが、その代りに、ただひとつの条件として、お嬢様をひと目拝見させてもらいたいと申されます。しかも着物を着たまま、面衣《ヴエール》をつけ、大面衣《イザール》にすっかり包まれたままでよろしいのです。」すると若い娘の父親の、修道僧《ダルウイーシユ》の首長《シヤイクー》は、ひと時の間思案してから、答えました、「差支えない。」そして彼は若い娘の母親である、自分の妻に会いに行って、これに言いました、「おおラティファーの母よ、立ち上がって、われわれの娘ラティファーを連れ、われわれの息子|修道僧《ダルウイーシユ》アブー・ベクルの後について行きなさい。彼は、お前の娘の天命が今日娘を待っている館《やかた》に、お前を案内するであろう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十夜になると[#「けれども第七百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると修道僧《ダルウイーシユ》の首長《シヤイクー》の妻は、すぐに言いつけに従って、面衣《ヴエール》で身を包み、娘の部屋に行って、これに言いました、「おお娘ラティファーよ、お父様は、お前が今日はじめて、私と一緒に外出するのをお望みですよ。」そして、娘の髪をとかし、着物を着せてやってから、娘と一緒に外に出て、十歩の距離を置いて、修道僧《ダルウイーシユ》アブー・ベクルの後から行くと、彼は二人を、謁見室の長椅子《デイワーン》の上に坐って、ゼインとムバラクの待っている館《やかた》に、案内したのでございます。
そしてお前は、おおラティファーよ、顔の面衣《ヴエール》の下で驚いて見張った、大きな黒い眼を持って、中にはいりました。なぜなら、お前は生れてから、お父様の、修道僧《ダルウイーシユ》の首長《シヤイクー》の尊ぶべき顔よりほかに、男の顔を見たことがなかったからです。そしてお前は少しも眼を伏せなどしませんでした。なぜなら、お前は佯《いつわ》りの慎しみぶかさも、佯りの恥らいも、そのほか、男たちの心を捕えるために、人間の娘が普通に教わるようなことは、何ひとつ知らなかったからです。そしてお前はすべてのものを、おののき、ためらう、可憐な羚羊《かもしか》の、美しい黒い眼でもって眺めました。ゼイン王子は、お前が現われると、分別が飛び立つのを覚えましたよ。なぜなら、彼のバスラの王宮のあらゆる婦人の間にも、エジプトとシリアのあらゆる乙女の間にも、お前の美しさに、遠くも近くも及び得るような女は、ひとりも見たことがなかったからです。そしてお前は鏡のなかに、映されて丸裸で、現われました。王子はこうして、円柱の頂にうずくまった、ごく小さな白鳩に似た、スライマーン(その上に平安と祈りあれ)の厳重なる印璽に密封された奇蹟のもの[#「もの」に傍点]を、見ることができました。そしてさらに注意をこらして見つめると、お前のもの[#「もの」に傍点]は、おおラティファーよ、あらゆる点で、皮を剥いた巴旦杏にそっくりであることを確かめ、欣喜雀躍の極に達したのでありました。宝物を保存して、これを信徒たちのために取っておきたもうアッラーに、栄光あれ。
ゼイン王子は、魔法の鏡のお蔭で、こうして自分の求める乙女を見つけると、直ちに求婚しに行くように、ムバラクに託しました。それでムバラクは、修道僧《ダルウイーシユ》のアブー・ベクルを伴って、すぐに修道僧《ダルウイーシユ》の首長《シヤイクー》のところに出かけ、王子の求婚を伝えて、その同意を得ました。そしてこれを館《やかた》に連れてゆき、法官《カーデイ》と証人たちを迎えにやり、結婚の契約を結びました。そして並外れた盛大さを以って、婚儀を挙げ、ゼインは盛宴を張って、区内の貧者たちにたいそうな施しをいたしました。全部の招客が引きとると、ゼインは修道僧《ダルウイーシユ》アブー・ベクルをわが許に引きとめて、これに申しました、「実は、おおアブー・ベクル殿、われわれは今夜直ちに、かなり遠方の国に出発いたします。それで私が自分の国のバスラに帰るまで、さしあたり、あなたのお骨折の謝礼として、ここに金貨一万ディナールございます。されどアッラーは至大なり。そして他日、私はさらに十分に私の謝意をあなたに証することができましょう。」そして他日、領国に着いた折には、これを侍従長に任命するつもりで、彼にその一万ディナールを与えました。そして修道僧《ダルウイーシユ》が彼の両手に接吻してから、王子は出発の下知を下しました。処女の乙女は、駱駝の背の上の、轎《かご》に乗せられました。そしてムバラクが先頭に立って進み、ゼインは殿《しんがり》につきました。かくて供を従えて、彼らは「三つ島」への道をとりました。
ところで、「三つ島」はバグダードからたいそう遠かったので、旅は長い月々に亘り、その間にゼイン王子は、自分の正式の妻となった絶世の処女娘の魅力に、日ごとにますます心をひかれるのを覚えました。そして心中で、彼女が裡《うち》に持つ優しさ、魅力、気高さ、生来の徳の点で、これを愛したのでした。王子は生れてはじめて、今までついぞ思いもかけなかった、まことの愛の影響を感じました。そういうわけで、この乙女をいよいよ「三つ島の老翁《シヤイクー》」に引き渡すときが迫るのを見ると、心中に非常な苦々しさを覚えるのでした。そしていくたびか、道を引き返し、乙女を連れてバスラに戻ろうという気に誘われましたが、しかし自分は、「三つ島の老翁《シヤイクー》」に対してした誓いに縛られていると感じ、彼はその誓いを守らないわけにゆかなかったのでした。
こうしているうちに、彼らは禁断の領土にはいりまして、昔と同じ道と同じ方法で、老人《シヤイクー》の住んでいる島に行き着きました。そして挨拶と辞令の後、ゼインはこれに、面衣《ヴエール》をつけたままの乙女を贈りました。それと同時に、あの鏡も返しました。すると「島の老翁《シヤイクー》」は、鏡を使わずに、注意をこらしてじっと乙女を見つめましたが、その両眼はそれ自身二面の鏡のように見えました。しばらくたつと、老翁《シヤイクー》はゼインに近寄ってきて、その首に抱きつき、心情を吐露して接吻してから、これに申しました、「帝王《スルターン》ゼインよ、わしは実もって、お前がわしを満足させようと努めてくれたことと、お前の捜索の結果に、大いに満足じゃ。それというのは、お前の連れてきた乙女こそは、完全にわしの望んだ乙女である。これぞ感嘆すべく美しく、色香と完全の点で、地上のあらゆる乙女を凌ぐものじゃ。それに品質上等の処女性の処女である、さながら、われらの主君スライマーン・ブニ・ダーウド(9)(御両人の上に祈りと平安あれ)の印璽を以って密封されてあるごとくなれば。さてお前はといえば、今はもはや自分の国に戻りさえすればよい。あの六体の像のある、第二の陶器の広間にはいってみれば、お前はそこに、わしの約束した、それのみで他の千人を合せたよりも値《あたい》のある、第七の乙女を見出すであろう。」そして老翁《シヤイクー》は付け加えました、「今は、お前はこの乙女をここに置いて行って、もはや自分とは何のかかわりがないということを、当人にわからせなさい。」
この言葉に、可憐なラティファーは、彼女もまた美しいゼイン王子がたいへん好きになっていたので、深い吐息を洩らして、泣き出しました。するとゼインも同じように泣き出しました。そして心も悲しく、自分と「島の老翁《シヤイクー》」との間に取りきめられたことすべてを説明して、彼女に申しました、「お前は離婚された。」そしてラティファーが苦しみのあまり気を失っている間に、むせび泣きながら、彼は島の老翁《シヤイクー》のところを出ました。それから、老翁《シヤイクー》の手に接吻した上で、ムバラクと共に再びバスラの道をとりましたが、旅の間ずっと、あんなにも可憐で、あんなにも優しいラティファーのことばかり思いつづけ、彼女を自分の妻になったとばかり信じさせて欺いたことを、苦々しく自分に対して咎めまして、自分こそ、自分たち二人の不幸の原因であると考えました。そして心を慰めかねるのでございました。
さて、このような銷沈状態のうちに、とうとうバスラに着くと、上下こぞって御帰還をたいへん悦んで、盛大な祝祭を催しました。けれどもゼイン王子は、すっかりふさぎこんで、それらの祭典にも全然加わらず、忠義なムバラクのたっての勧めにもかかわらず、あんなに長い間待ち、あんなに長い間望んだ、金剛石の乙女がいるはずの地下室に、降りてゆくのを拒むのでした。それでも最後に、バスラに着くとすぐに大臣《ワジール》に任命した、ムバラクの忠告にさからいかねて、彼は地下室に降りることを承知しました。そしてディナール金貨と金粉のきらめく白磁と水晶の広間を通り抜けて、黄金をはめこんだ緑陶の広間にはいってゆきました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十一夜になると[#「けれども第七百三十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼はそれぞれの場所にある六体の像を見て、第七番目の黄金の台座に、物憂い一瞥を投じました。すると、どうでしょう。そこには、にこやかに立って、金剛石よりも輝かしい、一人の裸女がおりまして、ゼイン王子は、これこそ自分が「三つ島」に連れて行った乙女とわかり、感動の極に達しました。彼は立ちすくんだきり、ただ口を開けることしかできず、ただの一語も発し得ませんでした。するとラティファーはこれに申しました、「さようでございます、これはたしかにわたくし、ラティファーで、あなた様がここに見かけようとは予期なさらなかった女でございます。悲しいことに、あなた様はここに、何かわたくしよりももっと貴重なものを、わが有となさる御希望で、お出でなされたのでした。」するとゼインは、やっと自分の思いを言うことができて、叫びました、「いやいや、アッラーにかけて、おおわが御主人よ、私はここにわが心に反して来ただけで、わが心はただあなたのことのみ思いわずらっていたのだ。けれどもわれわれの再会を許したもうたアッラーは、祝福されよかし。」
そして彼がこの最後の言葉を発したとき、雷鳴が轟いて地下室を揺がし、同時に「島の老翁《シヤイクー》」の姿が現われました。老翁《シヤイクー》は優しく微笑を浮べています。そしてゼインに近づいて、その手をとって乙女の手のなかに置きながら、申しました、「おおゼインよ、お前が生れるとすぐ、わしはお前をわが庇護の下に置いたと知れよ。さればわしは、お前の幸福を揺ぎないものとしてやらねばならなかった。そしてわしはそれをするに、値計り知れぬ唯一の宝を、お前に授けてやるにまさることは、なし得なかった。してその宝、あらゆる金剛石の乙女と、地のあらゆる宝石よりも美しい宝とは、すなわちこの処女の若い娘じゃ。何となれば、身体の美と魂の卓越とに相合した処女性こそは、あらゆる薬剤を不要とし、あらゆる財宝に代る解毒剤《テリアカ》であるぞよ。」こう語った上で、老翁《シヤイクー》はゼインに接吻して、姿を消してしまいました。
かくて帝王《スルターン》ゼインとその妃ラティファーは、幸福の極にあって、非常な愛情を以って愛し合い、そして避け得ざる友垣と交友とを分け隔てる者の来たり訪れるまで、この上なく楽しく、この上なく選り抜きの生活のうちに、長い歳月を生きたのでございました。死を知りたまわぬ「唯一の生者」に、栄光あれ。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードはこの物語を語りおえると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は言った、「この『処女の鏡』は、シャハラザードよ、実もって驚くべきものじゃ。」するとシャハラザードは微笑して言った、「はい、さようでございます、おお王様。けれども魔法のランプ[#「魔法のランプ」はゴシック体]にくらべれば、この鏡など何でございましょうか。」するとシャハリヤール王は尋ねた、「余の知らぬその魔法のランプとは何か。」シャハラザードは言った、「それはアラジン[#「アラジン」はゴシック体]のランプでございます。では今夜、まさしくそれについて、これからお話し申しましょう。」そして彼女は言った。
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アラジンと魔法のランプの物語(1)
おお幸多き王様,おお雅《みや》びの挙措を授けられたまいし君よ、わたくしの聞き及びましたところでは、――されどアッラーはさらに多くを知りたまいまする――時の古《いにしえ》と時代時世の過ぎし世に,シナの町々のなかのひとつの町に,ただ今その町の名を思い出しませんが、仕立屋を業として、身分貧しいひとりの男(2)がおりました。そしてその男には、アラジン(3)という名前の、ひとりの息子がありましたが、これは教育の点では全然人並みでなく、幼ないころから早くも、どうも困った悪戯小僧らしい模様の子でございました。さてこの子が十歳に達しますと、父親は最初、これに何かちゃんとした職業を習わせたいと思ったのでした、けれども、何しろたいそう貧乏だったので、教育費を調達することができず、そこで自分の店に一緒に子供を連れて行って、自分自身の職業、つまり針仕事を教えることで、我慢しなければなりませんでした。ところがアラジンは、横道にそれた子で、今まで界隈の小さな子供たちと遊びつけていたので、ただの一日も、辛抱して店にじっとしていることができませんでした。それどころか、仕事に精を出す代りに、この子は,父親が何かの用事で店を空けるとか、お客の相手をするため背中を向けるとか、しなければならない折をうかがっていて、すぐさま大急ぎで逃げ出し、小路や庭に、彼と似たり寄ったりの悪戯小僧どもと一緒になりに、駈け出すのでした。両親の言いつけを聞こうともせず、店の仕事を覚えようともしない、この腕白小僧の行状は,こんな風でございました。ですから父親は、あらゆる悪癖に向いそうな息子を持ったことをたいへん悲しみ、絶望して、しまいにはもう勝手にしたい放題をさせるようになり、そして悲しみのうちに、病気になって、それがもとで死んでしまいました。しかしそれでも、アラジンの不身持はいっこう直らず、全然だめでした。
そこでアラジンの母親は、夫は亡くなるし、息子はどうにも仕様のない悪戯小僧にすぎないのを見て、店と店の道具全部を売り払い、その売立ての収益《あがり》で、しばらく暮してゆくことにしようと決心しました。けれども、それとてすぐに尽きてしまったので、母親は羊毛と綿を紡いで自分の昼と夜を過す習慣をつけて、何とか自分と息子の腕白小僧を養うものを得ようと、努めなければならぬ羽目になりました。
さてアラジンのほうは、父親を恐れる心配がなくなったとなると、もうどんな種類の自制もしなくなって、ますます悪戯と邪悪《よこしま》に深入りしました。こうして毎日、昼間は家を外にして過し、ちょうど食事の時刻以外には帰らないのでした。気の毒な母親、この不幸な女は、自分に対する息子のあらゆる非道と、全く顧みられずに放っておかれるにもかかわらず、ただひとり苦い涙を流しながら、自分の手仕事と夜なべの稼ぎで、息子を養いつづけました。こうして、アラジンはいよいよ十五歳の年齢に達しました。それは見事な黒い両眼と、素馨の顔色と、全く魅力のある様子をした、姿のよい、まことに美男子でございました。
さて、日々のうちの或る日のこと、ちょうど彼がその区の市場《スーク》の入口にある広場のまん中で、同類の悪童と浮浪者と一緒に、余念なく遊び耽っていると、一人のマグリブ人の修道僧《ダルウイーシユ》(4)がたまたまそこを通りかかって、立ちどまって、子供たちをしつこくじろじろ見ておりました。そのうちとうとうアラジンに目をつけると、もうその仲間の他の子供たちなどは構わずに、ごく特別な工合に、全く格別な注意をこめて、アラジンを観察しはじめました。この修道僧《ダルウイーシユ》は、遥かな奥地の国々の、マグリブ(5)の奥の奥からやってきたのでして、占星学と観相学に深く通暁した、名代の魔法使でありました。彼はその妖術の威力で、最も高い山々をも動かして、互いにぶつけ合せることができました。さて、彼はいつまでもしつこくアラジンを観察しつづけて、考えました、「おれに入用な子供が、やっといたわい……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十二夜になると[#「けれども第七百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……おれに入用な子供が、やっといたわい。永い永い間探し求めて、そのため、はるばる故国のマグリブを出て来たのだが。」そして彼はこっそりと、それでもアラジンを見失わないようにしながら、その子供たちの一人のところに近よって、目立たないようにその子をわきに連れてゆき、その子から、アラジンの父母のことを、名前や身分などと一緒に、詳しく聞きとりました。そしてその身許をすっかり聞いた上で、彼は微笑を浮べながらアラジンに近づき、うまく片隅に引っ張って行って、これに言いました、「おおわが子よ、お前はもしや仕立屋何某の息子の、アラジンではないかね。」アラジンは答えました、「そうです、僕はアラジンです。でもお父さんは、もうずっと前に死んでしまいました。」この言葉に、マグリブの修道僧《ダルウイーシユ》はアラジンの首に飛びついて、彼を両腕に抱え、感動の極みに達して、彼の上に涙を注ぎながら、いつまでもいつまでも、その両頬に接吻しはじめました。それでアラジンはすっかり驚いて、訊ねました、「何だって涙を流しなさるのですか、殿よ。またどうして、亡くなった僕のお父さんを御存じなのですか。」するとマグリブ人は、悲しげな殆んどきれぎれな声で、答えました、「ああわが子よ、これがどうして哀悼と苦悩の涙を流さずにいられようか、わしはお前の叔父で、今お前から、こんなに思いもかけず、お前の亡き父上、お気の毒な兄上の亡くなったことを、聞かされたとあらば。おお兄上の息子よ、実際にこういうわけなのだ。わしは故郷を去り、長い旅のいろいろな危険を冒した末に、ただただお前のお父さんにめぐり会って、帰国と再会の仕合せを御一緒に感じようとの楽しい希望《のぞみ》をかけて、今この国に着いたところなのだ。ところが悲しいことに、今お前から、お亡くなりの由を知らされた次第だ。」そして彼は感動に息がつまったかのように、ちょっと言葉を途切らせました。それから付け加えて言いました、「それにお前に言わなければならないが、おお兄上の息子よ、さっきわしはお前を見かけるとすぐに、わしの血は即座にお前の血のほうに引かれて、お前の友達すべての間で、迷わず、直ちにお前をわからせたのであった。そしてわしがお父さんと別れた際には、お父さんはまだ結婚していられなかったので、お前は生れていなかったにもかかわらず、わしはお前に、兄上の顔立ちと似たところとを認めるに、手間どらなかった。そして、兄上が亡くなったのをいささか慰めるのは、まさにその点だ。ああ、わが頭上の災厄《わざわい》かな。兄上よ、今どこにいらっしゃるのか、こんなに永く留守をした後で、死がわれわれを永久に相分かちに来る前に、せめて一度は相抱きたいと望んでいたのに。ああ、そも何ぴとが成るように成るのを阻《はば》むと己惚れ得ようぞ。何ぴとが己れの天命を逃れたり、至高のアッラーによって定められたところを、避けたりできようぞ。」それからしばらく黙ってのち、彼はまたアラジンを腕に抱いて、ぴったりと胸に抱き締め、これに言いました、「さりながら、おおわが息子よ、お前にめぐり会わせて下さったアッラーは、讃えられよかし。今後はお前がわしの慰めとなり、お前こそは兄上の血であり、後裔である以上、わしの愛情のなかで、お前がお父さんに代ることであろう。子孫を残す者は死なず、と諺にも言うからな。」
それからマグリブ人は、帯の間から金貨十ディナールを取り出して、それをアラジンの手に握らせながら、訊ねました、「おお、わが息子アラジンよ、お前のお母さん、兄上の奥さんは、いったいどこに住んでおいでかね。」するとアラジンは、このマグリブ人の気前のよさと愛想のよい顔付きに、すっかり気を許して、その手を執って、広場の外《はず》れまで連れてゆき、自分の家のほうの道を指さし示しながら、言いました、「お母さんはあそこに住んでいます。」するとマグリブ人は言いました、「お前にやったあの十ディナールは、おおわが子よ、わしの亡き兄の未亡人に、わしの挨拶《サラーム》を伝えながら、渡しなさいよ。そして、お前の叔父さんが、永いこと外国に行って留守をした後で、今旅から戻ってきた、明日の昼間に、もしアッラーの御心ならば、お宅に参上して、兄上の奥様に親しく御挨拶申し上げ、故人が生涯を過した場所を拝見し、お墓に詣でたい希望であると、こう申し上げておくれ。」
アラジンはこのマグリブ人の言葉を聞くと、早速頼まれたことをしてあげようと思って、その手に接吻してから、いそいで悦びながら住居に駈けてゆき、いつもの習慣に反して、食事の頃でもない時刻に家に着き、駈け込みながら、叫びました、「おお、お母さん、僕の叔父さんが永いこと外国に行って留守をした後で、今旅から戻ってきて、お母さんに御挨拶《サラーム》を送りますって言うから、知らせに来ましたよ。」するとアラジンの母親は、この聞いたことのない言葉と、いつもにない時間に帰ってきたのにたいへんびっくりして、答えました、「息子や、まるでお前はこのお母さんをからかう気だという風だよ。実際、そのお前のいう叔父さんとは、いったい何のことだい。お前にまだ生きている叔父さんなんて、どこに、またいつから、いるのかね。」アラジンは言いました、「だって、おお、お母さん、僕にまだ生きている叔父さんだか、親戚だかがいないなんて、どうして言えますか、現にその人が死んだお父さんの弟なんですもの。その証拠には、その人が僕を胸に抱き締め、涙を流して僕に接吻し、この知らせをお母さんにそう言いに行って、わけをよく話してくれって、僕に頼んだのです。」アラジンの母親は言いました、「そう、わが子よ、お前に叔父さんが一人あったことは、私もよく知ってるけれど、その叔父さんはもうずっと前に亡くなっているよ。それで、その後、お前に二番目の叔父さんができたなんてことは、私はまあ聞いたことがない。」そして母親はとても驚いた二つの眼で、息子のアラジンを見やりましたが、こちらはもう外のことをしていて、聞いてはいません。それで母親はその日は、このことについては、もう何も言いませんでした。一方アラジンはアラジンで、マグリブ人からの貰い物のことは、母親に話しませんでした。
さて翌朝、早朝からアラジンは家を飛び出しました。するとマグリブ人はもう彼を探していて、前日と同じ場所で、早くもいつものとおり、同じ年頃の浮浪児たちと遊んでいる最中の彼に、出会いました。彼はいそいで近寄ってきて、その手を執り、胸に抱き締めて、やさしく接吻しました。次に帯の間から二ディナールを取り出して、それを渡しながら、言いました、「お母さんのところに行って、この二ディナールを渡して、こう言いなさい。叔父さんは今夜僕たちと一緒に食事をなさるおつもりで、それだから、このお金をお母さんに上げて、おいしい御馳走の用意をしてもらいたいとおっしゃるのです、とね。」それからアラジンの顔のほうに身を屈めて、付け加えました、「さて、やあアラジン、もう一度お前の家の道を教えておくれ。」アラジンは答えました、「僕の頭と眼の上に、おお僕の叔父さん。」そして彼の前に立って歩いて、自分の家の道を教えました。するとマグリブ人は彼と別れて、自分の道を行ってしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十三夜になると[#「けれども第七百三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでアラジンは家にはいって、母にそのことを話し、「叔父さんは今夜、僕たちと一緒に御飯をたべにいらっしゃるよ」と言いながら、その二ディナールを渡しました。
すると、アラジンの母は、その二ディナールを見て、独りごとを言いました、「きっと私は亡くなった主人の兄弟を、全部は知らないのかも知れないね。」そして立ち上がって、大急ぎで市場《スーク》にゆき、立派な食事に入用な食料品を買い求め、帰ってすぐに、御馳走の支度に取りかかりました。けれども、この貧しい女は炊事道具をまるで持っていなかったので、隣近所の女たちのところに行って、鍋とか皿とか鉢とかについて、入用なものをば借りました。そして一日じゅうお料理をしまして、いよいよ夕方頃になると、アラジンに言いました、「息子や、さあ食事の支度はできましたが、ひょっとすると、叔父さんは家《うち》の道をよく御存じないかも知れない。だからお前がお迎えにゆくとか、通りでお待ちしているとか、するがよかろうよ。」するとアラジンは答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」そしてちょうど表に出ようとしていると、誰か戸を叩きました。駈けつけて、開けました。ところで、それはあのマグリブ人でした。彼は、頭上に果物と菓子と飲み物の荷を載せた、一人の荷担ぎを連れていました。そこでアラジンは二人とも内に入れました。すると荷担ぎは荷物を家のなかに下ろしてから、駄賃を貰って、そのまま行ってしまいました。アラジンはマグリブ人を、母親のいる部屋に案内しました。するとマグリブ人は、ひどく感動した声で、お辞儀をしながら言いました、「平安御身の上にあれかし、おお兄上の奥様よ。」アラジンの母はこれに挨拶《サラーム》を返しました。するとマグリブ人は、声を忍ばせて泣き出しました。次に聞きました、「故人が平生坐っていらっしゃった場所は、どの辺でしょうか。」そしてアラジンの母がその場所を示しますと、すぐにマグリブ人は床に身を投げて、その場所に接吻し、両眼に涙を浮べて、溜息をつき、言い出しました、「ああ、私の運は何という運か。おお兄上、わが目の血管(6)よ、あなたを亡くしたとは、さてもみじめなわが身の上かな。」そして顔付きもすっかり変り、臓腑も引っくりかえるほど、ひどく泣いては嘆きつづけて、もう気絶しそうになり、アラジンの母も、これこそ亡くなった主人の弟当人だということを、一瞬も疑いませんでした。そして母親は彼に近づいて、床から起し、これに向って言いました、「おお、家《うち》の主人の弟さんよ、そんなにお泣きになって、あなたはむざむざとお身体《からだ》をこわしてしまいなさいます。何としても、記《しる》されたところは行なわれなければなりません。」そして少しく水を飲んで心を落ち着け、食事のために坐る決心をさせるまで、いろいろと優しい言葉で慰めつづけました。
さて、いよいよ食布《スフラ》が拡げられると、マグリブ人はアラジンの母親といろいろ話しはじめました。そして話さなければならぬことを、次のように言いながら、話したのでございます。
「おお兄嫁様、あなたがこれまでまだ私に会う機会を得ず、亡くなった兄さんのいらっしゃった頃、全然私を御存じなかったことを、不思議なことと思し召されるな。事実、私がこの国を去り、祖国を見棄てて、外国に出発したのは、三十年前のこと。以来、私はインドとシンドの国々を旅しつづけ、アラビア人の国とその他の諸国民の地を、経廻りつづけました。またエジプトにもいたし、世界の奇蹟である、あのマスルのすばらしい都(7)にも住みました。その都に永らく滞在したあげく、私は中部マグリブ地方に出発し、最後にその地に、二十年の間落ち着きました。
そうしているうちに、おお兄嫁様、日々のうちの或る日、自分の家に坐っていると、私はわが生れ故郷と兄さんのことを考えはじめました。すると心中に、自分の血族に再会したい望みが募りまして、私は自分が異国に滞在しているのに、涙を流して嘆きはじめたのでございます。そのうち遂に、自分にとって懐しい人と別れて遠く相隔っていることの憾みは、どうにも甚だしくなって、そこで私は、かつて私の赤ん坊の頭が現われるのを見た国に向っての旅を企てようと、決心致しました。私は魂の中で考えた、『おお男よ、お前が自分の町と、自分の国と、世界にお前の持っているただ一人の兄弟の住居を、見棄てた日から、どれほどの歳月が流れたことか。されば立ち上がって、死ぬ前に、兄上に再びお目にかかりに出発せよ。それというのは、天運の災厄《わざわい》と日々の災難と時の移り変りは、測り知れぬからだ。そして、お前の兄の姿を見てお前の目を楽しませるに先立って、死ぬようなことがあったら、それこそ無上の悲惨事ではないか、殊に今やアッラーが(その頌《ほ》められよかし)お前に富貴を授けて下さって、お前の兄は恐らくは、相変らず不自由な貧乏な身分にいられるだろうからな。されば、出発すれば、お前は二つの善事をなすことになるということを、忘れるなかれ。即ち、兄上に再び会うことと、兄上をお助けすることとの二つだ。』
さて私は、こう考えると、おお兄嫁様よ、私はすぐさま立ち上がって、出発の覚悟を致しました。そして金曜日のお祈りと聖典《コーラン》の開扉《フアーテイハ》を誦えてから(8)、馬に乗って、故国へと向いました。そして幾多の危険と長途の疲れの末に、アッラー(その頌められ、尊ばれよかし)のお助けをもって、私は遂に恙《つつが》なくわが町、即ちこの町に、到着致しました。そこで直ちに兄上の住居を尋ねて、街々《まちまち》と方々の区を歩きまわりはじめた。するとアッラーは、私がこうして、友達と遊んでいる最中のこの子にめぐり会うことをお許し下さった。すると私は、全能のアッラーにかけて、おお兄嫁様よ、この子を見るが早いか、私の心がこの子のために、感動で張り裂けるのを覚えました。血は血を見分けるものだから、私はもうこの子に、自分の兄弟の息子を見るに躊躇しませんでした。それと同時に、私は自分の疲れも心配も打ち忘れ、喜びのあまり、今にも飛び立ちそうになりました……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十四夜になると[#「けれども第七百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……しかるに、悲しいかな、なぜ私はやがてこの子の口から、兄上が既に至高のアッラーの御慈悲の裡に往生を遂げられたということを、聞かなければならなかったのか。何とも恐ろしい知らせで、私は喫驚と苦痛のため、危うく仰向けにひっくりかえらんばかりでした。さりながら、おお兄嫁様よ、あなたは定めしあの子から、私はあの子を見てそして故人と似ているので、子孫を残す人間は死なず、という諺を思い出して、いささか心を慰められることができた次第をば、お聞きになったことでございましょう。」
マグリブ人はこのように語りました。そして彼は、アラジンの母がこうしたその夫の思い出を呼び起されて、傷ましく泣くのを認めました。そこで母親に悲しみを忘れさせ、その黒い考えを変えさせようと思って、彼はアラジンのほうに向き直り、話を始めるため、まず尋ねました、「わが息子アラジンよ、お前は商売のほうは何を覚えたね。このお気の毒なお母さんを助けて、二人とも衣食をしてゆくため、お前はどんな仕事をしているね。」
これを聞くと、アラジンは生れてはじめて恥しさを覚えて、床を見つめながら、頭を垂れました。そして一言も言い出さないので、母親が代りに申しました、「商売ですって、おお私の夫の弟さんよ、アラジンの商売ですって? とんでもないことです。アッラーにかけて、この子は何ひとつ知りはしません。全くこんな不身持な子供は、ついぞ見たことがありませんわ。この子ときたら一日じゅう、この界隈の子供たちや、この子と同じような浮浪児や腕白小僧や悪戯《いたずら》小僧どもと、駈けまわっているのでございます。父親と一緒に店にじっとしている良い子供を、お手本にすることなぞ、てんで致しませんのよ。現にこの子のお父さんは、おお残念でたまりません、ひとえにこの子ゆえに、亡くなってしまったのです。それに私もまた、今は、情けない有様の身体《からだ》になってしまいました。両方の眼は涙と夜なべで疲れきって、まだすこし物が見えるというのがやっとです。休みなく仕事をし、昼も夜も綿を紡いで過し、何とかして、私たち二人の露命をかつかつにつないでゆくだけの、玉蜀黍《とうもろこし》のパン菓子二つを買うお金を、稼ごうとしているのでございます。これが私の境遇です。それなのに、おお私の夫の弟さんよ、私はあなたのお命《いのち》にかけて、誓って申しますが、この子ときたら、ちょうど食事の時刻にならなければ、家に帰ってきはしません。そして、それっきりです。ですから、もう幾度となく、この子にこんな風に置き去りにされると、母親である私は、いっそ家の戸を閉めきって、もうこの子のために開けてやらず、この子が仕方なく、何か生きてゆく仕事を探しにゆくようにしてやろうかと、考えるのですが、その次には、そうする気力が持てません。何せ母親の心というものは、元来憐れみ深く、慈悲深いものでございますからねえ。けれども年齢《とし》が来て、私もすっかりお婆さんになってしまいました、おお私の夫の弟さんよ。そして私の肩も、もう昔のように疲れに耐えられません。今じゃ指が紡錘《つむ》を廻すことを承知するのも、やっとです。おお私の夫の弟さんよ、あなたの前にいるこのわが子アラジンに、今見棄てられているように、世に裏切られずに、この先いつまで、こんな仕事を続けてゆくことができるやら。」
そして母親は涙にむせびはじめました。
するとマグリブ人は、アラジンのほうを向いて、これに言いました、「おお兄さんの息子よ、全くのところ、私はお前がそんな風とは、すこしも知らなかった。どうしてお前はそんなのらくらの道を歩むのだ。お前の上に何という恥辱だ、アラジンよ。そんなことはお前みたいな人たちにとっては、決してふさわしいことではない。お前は分別を授けられているのだ、わが子よ、またお前は良家の子弟だ。年とった婦人の、お気の毒なお母さんに、そんな風に自分の暮す面倒を見させているとは、お前として実に不面目ではないか。お前は自分で、二人分の暮しを立ててゆけるだけの仕事を見つける年頃の男子なのに……。それに、おおわが子よ、よく見てごらん、アッラーのお蔭で、この町には、いろいろな商売の親方ほどたくさんいるものはない。だから、お前はただいちばん自分の気に入る商売を、自身で選びさえすればよいのだ。お前をそこに世話してやることは、この私が引き受けてあげる。そうすれば、やがてお前が大きくなる頃には、わが息子よ、お前は運命の転変に対して、わが身を護ってくれる確実な商売を、手に持つことになるだろう。だから、何なりというがよい。もしも亡くなったお父さんの商売の針仕事が、お前には向かないというなら、何か他のことを探して、私に知らせなさい。私はできるだけのことをして、お前を助けてあげるだろう、おおわが子よ。」
けれどもアラジンは、返事をする代りに、相変らず頭を垂れて、沈黙を守りつづけ、自分はのらくら者商売以外には、どんな商売もいやだということを、こうして示しました。それでマグリブ人は、この子が手仕事商売を嫌っていることを察して、何か他のことを勧めようと試みました。そこで言いました、「おお兄さんの息子よ、私が強《た》って勧めるのを気を悪くしたり、苦にやんだりしないでもらいたい。ただひと言付け加えさせてもらおう。もし手仕事がお前の気に食わないのなら、私はいつでもお前に、大|市場《スーク》のなかに立派な絹織物屋の店を開いてあげるよ、もっともそれも、お前が紳商になりたい気があればのことだが。そしてその店には、いちばん高価な布地と極上の錦を揃えてあげよう。そうすれば、お前には大商人の社会で立派な交際ができるだろう。そしてお前は売買や取引の習慣をつける。お前の評判は町じゅうに高くなる。そうすれば、お前は亡くなったお父さんの名を揚げることになるだろう。どうだね、おおアラジン、わが息子よ。」
アラジンは叔父さんのこの申し出を聞き、自分がやがて市場《スーク》で大商人となり、美しい服をまとって、絹のターバンと色とりどりの綺麗な帯を着けた、豪い人になれるとわかると、この上なく嬉しくなりました。そこで微笑を浮べ頭を横にかしげて、マグリブ人の顔を見ましたが、これは明らかに、彼の言葉では「承知しました」という意味でした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十五夜になると[#「けれども第七百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……マグリブ人はこうして自分の申し出が受け入れられたことがわかったので、アラジンに言いました、「ではお前がぜひ豪い人物になり、店を持った商人になりたいというからには、今後はお前は努めて、自分の新しい地位にふさわしい態度を示すようにしなさい。そして今からすぐ、おお兄さんの息子よ、大人《おとな》なみになりなさい。私は明日《あした》、もしアッラーの御心ならば、お前を市場《スーク》に連れてゆこう。そしてまず手はじめにお前に、金持の商人たちが着ているような美しい新しい着物と、それに入用な付属品全部を買ってあげよう。その上で、二人で一緒に、どこかお前に住わせる立派な店を探すとしよう。」
こうした次第です。アラジンの母親は、この励ましを聞き、この親切を見て、自分を貧窮から救い、息子のアラジンを正道に置いてくれる親戚の人を、こんなに思いがけなく遣わして下さった恩恵者アッラーを、心から祝福しました。そしてまるで二十歳も若返ったみたいに、心も軽く食事のお給仕をしたのでした。そして一同、この同じ話題についていろいろしゃべりつづけながら、食べかつ飲みました。それほど、このことはみんなの気にかかることでございました。マグリブ人はアラジンに、商人たちの生活と作法の手ほどきをして、その新しい身分にすっかり興味を持たせはじめました。そのうち、もう夜も半ばすぎたのを見て、立ち上がってアラジンの母に別れを告げ、アラジンに接吻しました。そしてまた翌日来るという約束をしてから、外に出ました。その夜アラジンは嬉しくて、目を閉じることができず、自分を待っている楽しい生活を考えることしかしませんでした。
さて翌日になると、早朝に誰か戸を叩きました。アラジンの母親が自身開けにゆくと、それはまさに夫の弟のマグリブ人が、前夜の約束を守って来たのでした。ですけれど、彼はアラジンの母親の強《た》っての勧めにもかかわらず、今頃は人を訪ねる時刻ではないと言い訳して、はいろうとはせず、ただアラジンを一緒に市場《スーク》に連れてゆきたいがと申しました。アラジンはもう立ち上がって着物を着て、いそいそと叔父のところに駈けより、おはようを言って、手に接吻しました。そこでマグリブ人はその手を曳いて、一緒に市場《スーク》に出かけました。そして一番の大商人の店にアラジンを連れてはいって、着物のなかでちょうどその身丈《みたけ》に合う、いちばん美しく、いちばん豪奢な着物を注文しました。商人はいずれ劣らず美しい着物を、いくつも見せました。すると、マグリブ人はアラジンに言いました、「お前の気に入ったのを、自分で選びなさい、わが息子よ。」アラジンは叔父さんの気前のいいことにすっかり悦んで、縞模様の光った絹ずくめの一着を選びました。それと一緒に、純金で飾った絹モスリン製のターバンと、カシミヤ織の帯と、ぴかぴか光る赤皮の長靴も選びました。するとマグリブ人は、値切りもせず全部の代金を払い、その包みをアラジンに渡して、言いました、「さて今度は浴場《ハンマーム》にゆくとしよう。新しい着物を着る前に、身体《からだ》をすっかりきれいにしなければいけないから。」そして浴場《ハンマーム》に連れてゆき、一緒に特別室にはいって、自分自身の手で沐浴《ゆあみ》をさせてやって、自分も同じく沐浴しました。次に、浴後の飲み物を取り寄せて、二人でたいそうおいしく飲み、二人とも満足しました。そこでアラジンは、くだんの縞模様の光った絹の豪勢な着物を着、頭には美しいターバンをかぶり、インド産の帯で腰を締め、赤靴を穿きました。こうしてアラジンは月のように美しく、さながらどこかの王様か帝王《スルターン》の王子のようになりました。このように自分がすっかり変ったのを見て、彼はこの上なく悦んで、叔父さんのほうに進み出て、その手に接吻し、親切を厚く感謝致しました。するとマグリブ人は彼に接吻して、言いました、「こんなことはほんの手はじめにすぎないよ。」それから一緒に浴場《ハンマーム》を出て、今度は方々のいちばん繁華な市場《スーク》に連れて行って、大商人たちの店を見物させました。そしていちばん立派な布類と高価な品々を眺めさせ、いちいちの品の名前を特に教えながら、言って聞かせました、「お前もいよいよ自分が商人になるのだから、売買の細かい点を知ることが必要だよ。」次には、町の著名な建物や、めぼしい回教寺院《マスジツト》や、隊商《キヤラヴアン》の泊る隊商宿《カーン》を見物させました。そして終りに、帝王《スルターン》の宮殿とその周囲にある御苑を見せて、見学を終りました。最後に、彼はアラジンを自分の泊っている大|隊商宿《カーン》に伴って、自分の知人の商人たちに、「これは私の兄の息子です」と言いながら、一同に引き合せました。そしてアラジンのために会食を催して、その人たち全部を招き、選り抜きの料理を御馳走して、夕方まで、その人たちやアラジンと一緒におりました。
夕方になると、彼は立ち上がって、アラジンを自宅に送ってくるからと言って、客人たちに別れを告げました。事実、アラジンをひとりで引き返させようとはしないで、その手を曳いて、一緒に母親の家に向いました。アラジンの母は、息子がこんなに美々しい服装《なり》をしているのを見て、かわいそうに、悦びのあまり危うく分別が飛び立つのを見そうになりました。そして義理の弟に幾度《いくたび》も幾度もお礼を言い、祝福しはじめて、言いました、「おお私の夫の弟さん、たとえ私が一生の間お礼を申し上げても、あなたのお情けに十分感謝することはできないでしょう。」マグリブ人は答えました、「おお兄嫁様、実際私はこんなことをしたとて、何の手柄もございません、全く何の手柄もありませんよ。アラジンは私の息子ですからね、故人に代って私が父親代りになってやるのは、私の義務《つとめ》です。この子についてはもう何の御心配もなさらず、どうか悦んでいて下さい。」アラジンの母は、両腕を天に挙げながら、言いました、「古今の聖人様方の名誉にかけて、私はアッラーにお祈り申します、どうぞあなたをお守り下すって、生き永らえさせ、おお私の夫の弟さんよ、そして私たちのためにいつまでもあなたのお命を延ばして、あなたが翼となって、その蔭にいつもこの孤児《みなしご》を護って下さいますように。この子のほうでも、必ずいつもあなたの言いつけに従い、お命じになることよりほかには致しません。」マグリブ人は言いました、「おお兄嫁様よ、アラジンはもう思慮のある大人になりました、何しろ良家の子弟で、申し分ない子供ですから。この子は父親に恥じぬ子となり、あなたの眼を爽やかにするであろうと、私はことごとく期待しております。」次に付け加えました、「もし私が明日の金曜日に、おお兄嫁様よ、お約束の店をこの子に開いてあげられなくとも、どうか御容赦下さい。それというのは、御承知のとおり、金曜日には、市場《スーク》はどこも閉まっていて、用を弁ずることができないからです。けれども明後日、土曜日には、事が運ばれましょう、もしアッラーの御心ならば。さりながら、私は明日もアラジンを連れに参って、教育を続けると致しましょう。ひとつ富裕な商人たちの散歩にゆく、町の郊外にある一般人の行楽地や庭園などを見物させ、こうして贅沢と社交界の様子に、慣れさせるようにしましょう。それというのも、今日まで、この子は殆んど子供たちよりほかに接したことがなく、もう大人たちを知り、また大人たちに知られる必要がございますから。」そして彼はアラジンの母親に暇を告げ、アラジンに接吻して、引きとりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十六夜になると[#「けれども第七百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
アラジンは夜じゅうずっと、昼間見た美しいもの全部と自分の感じた悦びを、思っていました。そして、また明日の新しい歓びを楽しみにしました。ですから、目を閉じることができずに、夜が明けると早くも起き出でて、美しい衣類を着こみ、長い着物に慣れていないもので足を絡まれながら、縦横に歩きはじめました。次に、待ち遠しさに、マグリブ人はあまりに来るのが遅すぎるように思ったので、戸の前で待とうと外に出ると、やっとその姿が現われるのが見えました。そこで若い種馬のように迎えに駈けつけて、その手に接吻しました。するとマグリブ人は彼に接吻して、撫でたりさすったりしてやりながら、自分が連れてゆくことを、母親に知らせてくるように言いました。次にその手を曳いて、一緒に出かけました。二人は四方山の話をしながら、一緒に歩いてゆき、町の城門を越えましたが、アラジンはまだ一度も、ここから外に出たことがありませんでした。すると彼らの前には、個人の美しい家々と、庭をめぐらした美しい宮殿が現われはじめました。アラジンはそれらを感嘆して眺め、次のは前のよりも美しいと、いつも思うのでした。こうして二人は、マグリブ人の志している目的にますます近づきながら、ずっと平野の奥のほうまで進みました。ところが、或る時間になると、アラジンは疲れ出して、マグリブ人に言いました、「おお叔父さん、まだよっぽど歩くのですか。もう庭園もみんな通りすぎて、前には山しかありませんが。僕大分くたびれちゃって、何かちょっと食べたいのですけれど。」するとマグリブ人は、帯の間から、果物とパン菓子のはいった風呂敷を取り出して、アラジンに言いました、「さあこれで、わが息子よ、お前の空腹と渇きを癒《いや》しなさい。だが、お前に見せてやりたいと思う、世界に比類のないすばらしい場所に着くには、まだもうすこし歩かなければならない。だからお前の力を更に振い起して、勇気を出しなさい、アラジンよ、お前はもう大人なのだから。」そして、将来の身の処し方についていろいろと忠告をし、子供たちとの付合いから離れて、むしろ考え深く思慮のある大人たちに近づくようにと言い聞かせながら、しきりに励ましつづけました。こうして何とかうまくアラジンの気を紛らして、とうとう彼を連れて、いるものといえばただアッラーのいますだけの、寂しい谷の奥にある、山の麓に着きました。
ところで、これこそまさに、このマグリブ人の旅の目的なのでした。はるばるマグリブの奥地から出てきて、このシナの果てまでやってきたのは、ただこの谷に到り着くためだったのでございます。
そこで彼は、疲れてへとへとになったアラジンのほうに向き直って、微笑を浮べながら言いました、「これで目的地に着いたよ、息子のアラジンよ。」そして自分は岩の上に坐り、アラジンをそのそばに坐らせ、たいそう優しく両腕をかけて、言うのでした、「まあすこし休むがいい、アラジンよ。それというのは、未だかつて人間たちの眼が見たことのないものを、いよいよお前に見せてやることができるのだ。そうだ、アラジンよ、お前はやがて、この場で、地上にあるどんな庭園よりも立派な庭園が見られるよ。その庭園のすばらしい光景を眺めれば、その後ではじめてお前は、本当に私に感謝することになり、歩いた疲れも忘れ、私に最初出会った日を、きっと祝福するようになるだろうよ。」そして、こんなごろごろ引っくり返った岩と藪しかない場所に、庭園があるのかと考えて、驚きですっかり眼を円くしているアラジンを、しばらくの間、休ませました。次に言いました、「さて、では立ち上がって、アラジンよ、この藪の間から、いちばんよく枯れた木の幹と、ほかに木片《きぎれ》を見つけて拾い集め、それをここに持ってきなさい。そうすれば、私が見せてあげるという、その見物料なしの見物《みもの》が、すぐ見られるよ。」そこでアラジンは立ち上がって、いそいで藪と草叢の間から、たくさんの枯れた幹と木片を拾い集めにゆき、それをマグリブ人のところに持ってくると、彼は言いました、「これだけあればもう何もいらぬ。今はお前は引き下って、私のうしろにいなさい。」そこでアラジンは叔父さんの言うとおりにして、そのうしろに行って、或る距離を置いて控えていました。
すると、マグリブ人は帯の間から燧石《ひうちいし》を取り出して、火を切り、積み上げた枯れた幹と枝に火をつけると、それらはぱちぱちと音を立てて、燃え上がりました。すぐに彼は衣嚢《かくし》から鼈甲の箱を一つ取り出し、それを開けてひと撮《つま》みの香を取って、火のまん中に投げこみました。するとたいそう濃い煙がもくもくと立ち昇って、彼はアラジンの全然知らない言葉で呪文を呟きながら、両手でもって、その煙を左右に掻き分けました。と、その瞬間、大地は震い、岩は土台の上に揺ぎ出し、地面は割れて、長さ約十腕尺(9)ばかり口を開きました。そしてその穴のずっと奥のほうに、中央に青銅の環のついた、長さ五腕尺の平らな大理石板が、現われ出ました。
これを見ると、アラジンはひどく怖くなってひと声叫び声をあげ、着物の裾を歯の間に銜《くわ》えながら、ぐるりとうしろを向いて、脚を風にまかせて、逃げ出しました。けれどもマグリブ人は、ひと跳びで飛びかかって、つかまえてしまいました。そして物すごい眼でアラジンを睨みつけ、片方の耳を捉えて小突きまわし、手を挙げて、もうすこしで歯もめりこむばかり、したたか平手打を喰わせたので、アラジンはすっかり眼を廻して、地上にへたばってしまいました。
ところで、マグリブ人がこんな手荒なまねをしたというのも、アラジンが自分の計画に欠くべからざる人間であって、彼がいないことには、わざわざここまでやってきた企てを試みることができないので、ここで断然押えつけておこうというより外に、他意なかったのでございます。ですから、アラジンが気が遠くなって地面に伸びてしまったのを見ると、彼はすぐに起してやって、声をひどく優しくしようと努めながら、言いました、「いいかい、アラジンよ、私がこんな手荒なまねをしたというのも、お前に一人前の人間になることを教えようというためなのだよ。なぜといって、私はお前の叔父、お父さんの弟だから、お前は私の言いつけに従わなくてはいけない。」次に、すっかり優しい声で、付け加えました、「さあ、アラジン、私がこれからお前に言って聞かせることをよく聞いて、ひと言も聞き洩らさないようにしなさいよ。それというのは、そうすれば、お前は莫大な利益を得て、身に起るいろいろな憂《うさ》も、すぐさま忘れてしまうだろうからね。」そしてアラジンに接吻してやり、もうすっかり押えつけ従順にならせた上で、さて言いました、「わが子よ、私が香を焚き、呪文を唱えた霊験によって、地面が割れた次第は、今お前が見たとおりだ。ところで、私がこんなことをしたのは、ひとえにお前のためを思ってだということを、よくわかってくれなければいけない。なぜなら、この穴の奥に見える、青銅の環のついたあの大理石板の下には、お前の名前で書かれていて、お前の顔によらずには開かれない、宝物があるのだ。そしてこのお前のために取ってある宝物は、お前をどんな王様よりも金持にしてくれるだろう。この宝物がまさしくお前のために取ってあって、余の人のものでないことを、お前に十分証明するため申せば、よいか、世界じゅうにこの大理石板に手を触れて、これを持ち上げることができるのは、ただお前ひとりきりしかないのだ。というのは、この私自身でも、並はずれた権力を持っているにもかかわらず、よしんば今の千倍も権力を持ち、体力を持っていようと、あの青銅の環に手をかけることも、板を持ち上げることも、到底できないだろう。また、ひとたび板を持ち上げても、宝の場所に踏み入るとか、ただの一段なりと降りることさえも、私には許されぬ。だから、私が自分でできないことをするのは、ただお前だけに限るのだ。そのためにはお前は、私がこれから言うことを、いちいち違《たが》えずに実行しさえすればよい。そうすれば、お前はその宝物の主《あるじ》になれるから、私たちはそれを全く公平に、きっちり両分して、一つはお前、一つは私がとることにしよう。」
このマグリブ人の言葉に……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十八夜になると[#「けれども第七百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……このマグリブ人の言葉に、憐れな少年アラジンは、わが身の疲れも、受けた平手打も忘れて、答えました、「おお叔父さん、何でもお望みのことを言いつけて下さい、お言葉どおりに致しましょう。」するとマグリブ人は少年を両腕に抱いて、両頬に幾度《いくたび》も接吻して、さて言いました、「おおアラジンよ、お前は私にとっては息子みたいなもの、いやもっと親しいものだ。何しろ私にはお前以外、この世に身内は一人もいないからね。お前こそは、やがて私のただ一人の跡取りとなり、子孫となるだろう、おおわが子よ。何しろ結局、要するにお前のために、私は今いろいろ奔走し、はるばる遠方からやってきたのだからね。さっき私がお前をいささか乱暴に扱ったというのも、お前にお前のすばらしい天命を、便々と待ってなどいない決心をさせようがためだったことは、今はお前もわかったろうね。そこで、お前がこれからするのは、次のようなことだ。まず最初、私と一緒に穴の奥まで降りて行って、そこで青銅の環を握って、大理石板を持ち上げなさい。」こう言って、彼は先に立って穴のなかに飛び込み、アラジンの降りるのを助けるため、手を延べました。アラジンは、ひとたび下に降りると、言いました、「おお叔父さん、こんな重たい板を持ち上げるには、僕はどうしたらいいでしょう、僕はまだほんの小さな子供なんですもの。せめて叔父さんが手伝って下さるというなら、僕も悦んでせいぜいやってみますけれど。」マグリブ人は答えました、「いや、いけない、いけない。ひょっと私がそこに手をつけようものなら、もうお前は何もできなくなり、お前の名は、永久に宝物から消え失せてしまうだろう。ひとりきりでやってごらん。まるで鳥の羽根を撮《つま》みあげるのと同じくらいやすやすと、板が持ち上がるだろうよ。お前はただ、その環を握って、自分の名とお父さんの名とお祖父《じい》さんの名を、唱えさえすればいいのだ。」
そこでアラジンは、身をかがめて、環を握り、「僕はアラジン、仕立屋ムスタファの息子、仕立屋アリの孫だ」と言いながら、環を自分のほうに引っ張りました。するとその大理石板はやすやすと持ち上がりましたので、すぐそれをかたわらに下ろしました。すると一つの穴倉が見え、それは十二階の大理石の階段によって、大きな鋲のついた赤銅《あかがね》の両開き戸のほうに、下《さが》っておりました。マグリブ人は言いつけました、「わが息子アラジンよ、今度はその穴倉のなかに降りなさい。そして十二段目の下に着いたら、その赤銅《あかがね》の扉がお前の前にひとりでに開くから、それを潜ってなかにおはいり。やがて大きな円屋根の下に着くが、これは互いに連絡している三部屋に分れている。ところでその第一室には、液状の黄金の詰った青銅の大桶四杯、第二室には、金粉の詰った銀の大桶四杯、第三室には、ディナール金貨の詰った金の大桶四杯が、見えるだろう。しかしお前は、足を停めずに通りすぎなさい。そして着物をずっと上までたくし上げて、腰のまわりにしっかりとくくりつけ、着物がそれらの桶の表側に触れないようにするのだ。それというのは、万一不幸にして、その桶のどれかひとつとか、その中身とかに、お前が指で触れたり、またはお前の着物が触《さわ》るだけでも、お前は立ちどころに、黒い石の塊りに変えられてしまうからだ。だからお前は第一室にはいったら、すぐに第二室に通り抜け、そこにも一瞬も立ちどまらずに、第三室に移りなさい。そこにはやはり鋲のついた、入口の扉と似た扉があって、それはすぐにお前の前に開く。お前はそれを潜ると、突然、付けた果実《み》の重さに撓《たわ》んでいる木々の植わった、すばらしい庭園のなかに出るだろう。けれども、ここにもやはり足を停めてはいけない。どんどん自分の前をまっすぐ進んで、その庭を横ぎりなさい。すると、円柱の立った、三十段の階段に着くから、それを登ると露台に出る。さて、いよいよその露台に着いたら、アラジンよ、よく気をつけるのだよ。というのは、ちょうどお前の真正面のところに、露天のお廚子《ずし》みたいなものがあって、そのお廚子《ずし》のなかには、青銅の台座の上に、一つの小さな銅のランプが見られるだろう。そのランプには火が点《つ》いているはずだ。ところで、いいか、ここでよく気をつけるのだよ、アラジン。お前はこのランプを取り上げて、火を消し、その油を地面に空け、そしてそのランプをすばやく懐中に隠してしまいなさい。着物をよごすなどと心配することはない。お前の棄てたその油というのは、実は油ではなくて、全く別な液体で、衣服に跡など全然残しはしないから。それからお前は、今来たその同じ道を通って、私のほうに帰って来なさい。だが帰りには、もしそうしたかったら、例の庭園に少々足を停めて、庭の木の果実《み》を好きなだけ摘んでも、差し支えない。そしていよいよ私のところに来たら、そのランプを私に渡してくれるがいい。それこそは、われわれがはるばるやってきた目的であり、動機であり、かつは将来のわれわれの富貴と栄華の原因なのだ、おおわが子よ。」
マグリブ人はこのように語ってから、指にはめていた指環を抜いて、それをアラジンの拇指にはめてやりながら、言いました、「この指環は、わが息子よ、あらゆる危険からお前の身を護り、一切の禍いを防いでくれるだろう。さればお前の魂を大胆にし、お前の胸を勇気で満たせよ。お前はもう子供ではなく,一人前の大人なのだからな。それに、アッラーのお助けを得て、お前の身には悪いことは決して起るまい。われわれはそのランプのお蔭で、全生涯を通じて、富貴と栄誉のうちにいるであろうぞ。」次に付け加えて言いました、「ただし、もう一度言っておくが、アラジンよ、よく気をつけて、お前の着物をずっと上までたくし上げ、ぴったりと身体にくくりつけるようにしなさいよ。さもないと、お前の身は滅び、宝物もお前と一緒に失《う》せてしまう。」
それから彼は、アラジンの両頬を幾度《いくたび》か軽く叩きながら、接吻し、そしてこれに言いました、「では安らかに行っておいで。」
するとアラジンは、この上なく元気づいて、大理石の階段を駈け下り、着物を帯の上までたくし上げて、しっかりと身にくくりつけ、銅の門に近づくと、両扉が自然に開いたので、それを潜りました。そしてマグリブ人の注意をひとつも忘れずに、用心に用心を重ねて、黄金の詰った桶を遠廻りしながら、第一室、第二室、第三室を横ぎり、最後の扉の前に着き、それを潜り、足を停めずに庭園を横ぎり、円柱の立った階段の三十段を登り、露台の上に上がって、自分の真正面にあるお廚子《ずし》のほうに、まっすぐに向いました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百三十九夜になると[#「けれども第七百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると、青銅の台座の上に、火の点《つ》いたランプが見えました。そこで手を延べてそれを掴みました。そして中身を地上に空けると、ランプの内側はすぐに乾いたので、着物が汚れることなどかまわずに、いそいでこれを懐中に隠しました。そこで露台から下りて、再び庭園に着きました。
そのとき、今は心配がなくなったので、アラジンは階段の最後の段にしばらく立ちどまって、この庭園を眺めることにしました。そして改めてこれらの木を見はじめましたが、はじめここに来た時には、この木の果実《み》に気づく暇がありませんでした。見れば実際、この庭の木々は、形といい、大きさといい、色といい、世の常ならぬ果実の重さに、撓《たわ》んでおります。そして果物畑の木とはちがって、ここの木の一本一本の枝にはそれぞれ、色のちがった果物がいくつもついております。まず白いものがあり、それも水晶のように透き通った白さのものや、樟脳のように濁った白さのものや、生蝋《きろう》のように不透明な白さのものなどがございます。また赤いものがあり、それも柘榴の粒のような赤味のものや、血色のオレンジのような赤味のものがございます。また濃緑の、淡緑の、緑色のものもございますし、青や紫や黄があり、種々様々の色と色合いのものもございます。そして憐れな少年アラジンにはわからなかったのですが、実はこの白い果実は、金剛石と真珠と螺鈿と月長石で、赤い果実は、紅玉《ルビー》、柘榴石、風信子石、珊瑚、光玉髄《こうぎよくずい》、緑色のは翠玉《エメラルド》、緑柱石、硬玉、緑石英、藍緑玉、青いのは、青玉《サフアイア》、トルコ玉、瑠璃、天藍石、紫のは、紫水晶、碧玉、紅縞瑪瑙、黄色いのは、黄玉、琥珀、瑪瑙、そしてその外の見たこともない色の果実は、蛋白石、砂金石、貴橄欖石、金緑玉、赤鉄鉱、紅電気石《トルマリン》、橄欖石、黒玉、緑玉髄などでございました。太陽はこの庭の上に、そのすべての光線を降り注いでいました。木々はそれぞれあらゆる果実をつけて、焼け尽されることなく燃え上がっておりました。
そこでアラジンは、嬉しさの絶頂に達して、これらの木の一つに近寄り、いくつか果実を取って食べようと思いました。すると、それらの果物は全然食用には適せず、ただその形が、オレンジとか、無花果とか、バナナとか、葡萄とか、西瓜とか、林檎とか、その他すべてのシナ産のおいしい果物と似ているだけなことが、わかりました。触ってみて、彼は大いにがっかりしました、これらは全然自分の気に入りません。そして、これらは色ガラスの球《たま》にすぎないと考えました。それというのも、アラジンは生れてから、宝石類を見る機会などついぞなかったからです。けれども、ひどくいまいましく思ったとはいえ、彼はいくつかこれを取って行って、昔の遊び友達の少年たちと、また、あの憐れな女、自分の母親にも、お土産にしようと考えました。そこでそれぞれの色のをいくつかずつ取り、それを帯や衣嚢《かくし》や着物の内側や、着物と襦袢の間や、襦袢と肌の間などに、詰めこみました。身体じゅうにぎっしり詰めて、まるで両側に荷物を積んだ驢馬みたいな恰好になりました。こうしたすべてにずっしり重くなって、アラジンは念を入れて着物をたくしあげ、腰のまわりに固く結《ゆわ》いつけ、さて慎重と用心を重ねつつ、身も軽く桶の三室を横ぎって、穴倉の階段のところに戻りつきますと、穴倉の入口には、マグリブ人が心配しながら待っておりました。
ところで、アラジンが銅の扉を越えて、階段の第一段に足をかけるやいなや、ちょうど穴倉の入口のそばに、穴の上にいたマグリブ人は、アラジンが踏段の上まで着いて、穴倉をすっかり出きるまで待っている辛抱ができないのでした。そして言いました、「どうだ、アラジン、ランプはどこにある。」アラジンは答えました、「ここに、懐のなかにあります。」彼は言いました、「さっさと出して、おれに渡せ。」けれどもアラジンは言いました、「とてもすぐになんかお渡しできやしませんよ、叔父さん、だってランプは、僕が着物にいっぱい詰めこんだガラス玉のなかに、埋まっているんですもの。だからまあ僕にこの階段を上がらせておいて、その上で穴から出るのに手を貸して下さいな。そうすれば、僕は安全な場所で、このガラス玉を全部身体から出してしまいます。この階段で出しちゃ、転がって割れちまうといけないから。そういう風にして、このどうにもならない窮屈な荷物がなくなれば、僕はすぐ懐からランプを出して、お渡しできます。それに、ランプはもう背中のうしろのほうに潜りこんで、肌にひどくぶつかります。こいつがなくなってくれれば、僕はとても助かるんだが。」けれどもマグリブ人は、アラジンの反抗にひどく腹を立て、アラジンがこんなに出し渋るのは、ただランプを手放したくないためばかりと思い込んで、まるで悪魔の声のように恐ろしい声で、怒鳴りつけました、「おお犬の息子め、すぐにそのランプをおれによこすか、それとも死ぬほうがいいか。」するとアラジンは、こんな風に叔父さんの態度が一変したのは何のせいなのか、見当がつかず、こんなにも怒っているのを見ては慄え上がり、前よりももっとひどい二番目の平手打を食ってはたまらないと思って、独りごとを言いました、「アッラーにかけて、こいつは叔父さんを避《よ》けたほうがいいぞ。叔父さんの気が静まるまで、まあ穴倉のなかに戻るとしよう。」そして後ろを向いて、着物をたくし上げながら、用心深く地下に戻ってしまいました。
これを見ると、マグリブ人は憤怒の叫びをあげ、立腹の極に達し、魔力によって、この穴倉のなかに立ち入ることは禁じられているので、アラジンを追っかけてゆくことができず、絶望して、鬚を掻きむしりながら、地団駄を踏み、身を痙攣させました。そして叫びました、「ああ、呪われたアラジンめ、きさまにそれ相応の罰を受けさせてくれるぞ。」そして、まだ消え残っている火のところに駈け寄り、口中で呪文を呟きながら、携えていた香の粉を少々火に投じました。すると直ちに、穴倉の入口を閉ざすことになっていた大理石板が、ひとりでに持ち上がって、元の位置に戻り、階段の穴をぴったりと塞いでしまいました。そして大地は震えて再び閉じ、地面は裂ける前と同じように平らになりました。こうしてアラジンは、地下に閉じこめられてしまったのでございます。
ところで、前に既に申しましたように、このマグリブ人は、マグリブの奥からやってきた名代の魔法使でございまして、年若いアラジンの叔父でもなければ、遠くも近くも親戚などではございません。彼は正真のアフリカ生れの男で……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十夜になると[#「けれども第七百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼は正真のアフリカ生れの男で、アフリカと申せば、いちばん性《たち》の悪い魔法使と妖術師の本国であり、原産地です。彼は年若い頃から、妖術と呪術の研究、また土占《つちうらな》い、錬金術、占星術、燻蒸術、魔法等の技術に、凝り固まりました。そして三十年間魔術を試みたあげく、その妖術の功力により、地上の或る誰も知らぬ場所に、不思議極まる魔法のランプがあり、その霊験たるや、幸いにしてその所有者となる幸運な人をば、あらゆる国王や帝王《スルターン》よりも強大にするということを、発見するに到りました。そこで彼は更に燻蒸と妖術を繰り返し、最後の土占《つちうらな》いの試みによって、首尾よく、くだんのランプはシナの国の、コロ・カ・ツェの町(10)付近に位置する地下の一室にあることを、知るに成功致しました(その場所というのが、まさしく、今私たちがつぶさに見たあの場所なのでございます)。そこで魔法使は時を移さず出発し、長い旅の末、コロ・カ・ツェに来て、直ちにその付近を探険しはじめ、とうとうこの宝物を含む地下室の場所を,正確に突きとめました。またかねてからその占いの卓によって、宝物と魔法のランプは、地下の妖霊によって、仕立屋ムスタファの息子、アラジンの名において記《しる》され、ただこの子だけが、地下室を開けてランプを持ち去るのに成功できて、余人はいっさい、万一いささかなりとこのようなことを企てようものなら、必ず一命を失う羽目になるということを、彼は承知していました。ですから、彼はアラジンを探しはじめて、ひとたび見つけ出すと、あらゆる手練手管を用いて、これを手なずけ、子供の疑念も、また母親の疑念も目覚さずに、この無人の場所まで、その子を連れ出そうとした次第でした。そしてひとたびアラジンがこの企てに成功すると、彼があんなにあわただしくランプを請求したというのは、ランプをアラジンから奪った上で、これを永久に地下に幽閉してしまおうという、魂胆からだったに外なりません。ところが、アラジンはまたもや平手打を食うのを嫌って、魔法使のはいって来られない穴倉の内部《なか》に、逃げこんでしまった次第と、そして、魔法使は仕返しに、やはりアラジンを中に閉じこめて、餓えと渇きで死なせてやろうとした次第は、私どもが今見たところでございます。
さて、このような所業をなしおえると、魔法使は泡を吹き、身を震わせながら、多分自分の国のアフリカに向って、己れの道を立ち去りました。彼については、このような次第でしたが、しかし、私たちがそのうちまた彼に出会うことは、確かでございます。
アラジンにつきましては、次のようでございます。
彼は地下の部屋に引き返したと思うとすぐ、マグリブ人の魔術によって惹き起された地震の響が聞えたので、慄え上がり、頭上に円天井が崩れ落ちはしないかと恐れて、いそぎ入口のところに取って返しました。ところが、階段に着いてみると、重い大理石板が口を塞いでいます。そこで、もうこの上なく心を動かし、ぎょっとしました。それというのは、一方では、自分では叔父と信じ、自分をあれほどかわいがり、甘やかしてくれた人の悪意など、彼には理解できなかったし、他方、大理石板に下のほうから行き着くことはできないので、これを持ち上げることなど思いもよらなかったからです。こうした有様で、絶望したアラジンは、叔父を呼び求め、あらゆる種類の誓いをして、すぐさまランプを渡しますからと約束しながら、大声で叫びはじめました。けれども、その叫び声も泣き声も、もうずっと遠くに行ってしまった魔法使には、聞かれはしないことは明らかです。そしてアラジンは、叔父が返事をしてくれないのを見ると、叔父について多少の疑念を持ちはじめました、ことに、自分のことを犬の息子などと呼んだのを思い出し、これはまことにゆゆしい侮辱で、本当の叔父だったら、決して自分の兄弟の息子に、こんな言葉を浴びせることはしない筈ですから。それはともかくとして、彼はそこで、光の射している庭園に行って、この暗黒の場所から逃れ出る出口を探そうと思い定めました。ところが、庭園に通じる扉のところに行ってみると、扉は閉まっていて、もう自分の前に開かないことが、はっきりわかりました。そこで気も狂わんばかりになって、改めて穴倉の扉のところに駈けて行って、泣きながら、階段の踏段の上に、身を投げかけました。そしてもう自分は、黄金がいっぱい詰っているとはいえ、暗闇と不気味に満ちたこの穴倉の四壁の間に、生きながら埋められてしまったのを見ました。そして、苦しみに打ち沈みつつ、長い間咽び泣きました。今度は生れてはじめて、自分の気の毒な母親のあらゆる親切と、自分の送っている不身持と自分の忘恩にもかかわらず、倦むを知らず尽して下さる母親の献身を、考えはじめました。そして、生きている間遂に、多少とも自分の品性を改め、また多少とも感謝の気持を抱いて、母親の心を爽やかにしてさしあげることができなかったという事実からして、この穴倉で死んでしまうということは、一段と彼にとって切ないことに思えました。こう考えると、彼はひどく嘆息を洩らして、もう生をあきらめたような工合に、「アッラーのほかには頼りも権力もない」と言いながら、普通絶望した人たちがするように、両腕をねじり、両手を擦《こす》りはじめました。ところが、この仕ぐさをして、アラジンはする気もなく、先刻の魔法使が地下室の危険に備えるため貸してくれたので、拇指にはめていた指環を、擦ったのでした。あの呪われたマグリブ人は、この指環こそまさにアラジンの生命を救うことになろうとは、少しも知らなかったのです。さもなければ、これを渡すなどということはきっとしなかったか、またはいそいで取り上げたか、または、これを返させないうちは地下室の扉を閉めてしまうことをしなかったか、そんなところでしょう。けれども魔法使というものはみな、彼らの本性上、兄弟分のこのマグリブ人と、似たり寄ったりのものでございます。彼らの妖術と呪われた知識との威力にもかかわらず、彼らはこの上なく簡単な行ないの結果を予想することが一向にできず、一般の人々が見抜くような危険に、あらかじめ備えることを、決して思いません。それというのは、彼らは慢心と自信を持って、決して万物の主《あるじ》にお縋り申すことなく,彼らの精神は絶えず、彼らの燻蒸の煙よりももっと濃い煙によって曇らせられており、彼らの眼は目隠しをもって蔽われ、彼らは闇のなかを手探りしているのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十一夜になると[#「けれども第七百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで、絶望したアラジンが、する気もなく、自分の拇指にはめていて、効能も知らぬ指環を擦りますと、突然自分の前に、まるで地から出てきたかのように、真黒い黒人みたいな、大鍋のような頭をし、恐ろしい顔つきで、赤く、大きく、爛々とした眼をした、途方もなく厖大魁偉な鬼神《イフリート》が、現われ出るのを見ました。その鬼神《イフリート》は彼の前に身をかがめて、雷の轟くように響き渡る声でもって、彼に言いました、「御手の間に[#「御手の間に」に傍点]、ここに[#「ここに」に傍点]、あなた様の奴隷が[#「あなた様の奴隷が」に傍点]、控えておりまする[#「控えておりまする」に傍点]。仰せあれ[#「仰せあれ」に傍点]、何御用でござりましょうか[#「何御用でござりましょうか」に傍点]。私は地の上[#「私は地の上」に傍点]、空の中[#「空の中」に傍点]、水の上にて[#「水の上にて」に傍点]、この指環の下僕でございます[#「この指環の下僕でございます」に傍点]。」
これを見ると、元来勇気のあるほうではないアラジンは、すっかり震え上がってしまいました。これが他の場所とか他の場合だったら、きっと気を失って倒れるとか、脚を風にまかせるとかしたでしょう。けれども、今自分が既に飢えと渇きで死にそうになっているこの穴倉では、この恐ろしい鬼神《イフリート》がはいってきたことは、ことにこれが自分に問いかけた言葉を聞いた時には、非常に助かった思いがしました。それで彼は舌を動かして答えることができました、「おお、空と地と水の|鬼神たち《アフアリート》の大|長老《シヤイクー》様、どうか僕を、早くこの穴倉から出して下さい。」
ところで、アラジンがこの言葉を言いも終らず、大地が動いて、彼の頭上に開き、その身はまたたく間に、穴倉の外に運び出され、ちょうどマグリブ人がさっき火を焚いた場所におりました。鬼神《イフリート》のほうは、いつしか姿を消していました。
そこでアラジンは、未だ動転で震えながらも、自由な大気に戻ったことがたいそう嬉しく、自分を間違いのない死から逃れさせ、マグリブ人の陥穽《おとしあな》から救って下さった恩恵者アッラーに、感謝致しました。そしてまわりを眺めてみると、遥かに、庭園にかこまれた町が見えました。そこでいそいで先ほど魔法使に連れてこられた道を、再び歩き出し、途中ただの一度も、あの谷のほうを振り向きもしませんでした。そして真夜中頃、疲れ切って息も絶えだえに、息子の遅いことをたいへん心配して、母親が嘆きながら待っているわが家に、辿り着きました。母親は駈けてきて、戸を開け、息子をやっと腕に抱いたと思うと、息子は感動に力尽き、そのまま母の腕のなかに、気を失って倒れてしまいました。
介抱の結果、アラジンが気絶からわれに返ると、母親は改めて薔薇水を少々飲ませてやりました。次に、たいへん案じて、気分はどうかと訊ねました。するとアラジンは答えました、「おお、お母さん、僕とてもお腹が空いた。だから何か食べさせて下さいな、今朝から何にも食べていないのです。」アラジンの母親は、走って行って、家にあるものを全部持ってきてやりました。するとアラジンはあんまりいそいで食べだしたので、母親は喉をつまらせはしないかと心配して、言いました、「せくんじゃないよ、息子よ、喉が破裂してしまうよ。お前が一刻もはやく、私に話したいことを話そうと思って、そんなにいそいで食べるというのなら、その暇はいくらでもあるからね。お前の姿を見たからには、もう私は安心だよ。けれども、夜が更けて行っても、一向お前が帰らないのを見た時の、私の心配がどんなだったかは、アッラーが御存じだよ。」次に話を変えて、言い聞かせました、「ああ息子や、お願いだから、もっと落ち着いておくれ。もっとすこしずつお上がりよ。」アラジンは、自分の前にあるものを全部さっさと平らげてしまって、飲み物を求め、水差を取り上げて、一気に喉のなかに飲み干しました。それが済むとやっと満足して、母親に申しました、「これでやっと、おお、お母さん、あの男と僕の間に起ったこと全部をお話しすることができます。お母さんは叔父さんだと思っていたけれど、あの男のお蔭で、僕はすぐ眼の前に死を見せられたのでした。全く、お母さんは御存じなかったけれど、あれは全然僕の叔父さんとか、お父さんの弟なんかじゃないのです。あんなに僕をかわいがり、あんなに優しく接吻していたあの騙者《かたり》、あの呪われた男、あのマグリブ人、あの魔術師、あの嘘つき、あのいんちき野郎、あの極道者、あのごまかし野郎、あの犬、あの汚ならしいやつ、あの地上の悪魔のなかでも類のない悪魔めが。悪魔は遠ざけられよかし。」次に付け加えました、「まあ、聞いて下さい、おお、お母さん、あいつが僕にした仕打ちを。」そして更に言いました、「全くあいつの手から逃れて、僕はどんなに嬉しいか。」次にしばらく口を切って、幾度《いくたび》も息をつき、それから突然ひと息に、自分の身に起ったことを始めから終りまで、平手打のことや、罵りのことや、その他も含め、細大洩さず、話しはじめました。けれどもそれを繰り返したとて、何の益もございません。
話を語り終えると、彼は帯を解いて、床《ゆか》に延べてある蒲団《マトラー》の上に、さっき庭園で摘んだ、透き通って色のついた果物のすばらしい貯えを、ばらばらと落しました。あのランプもやはり、その山の、宝石の玉のまんなかにありました。
そして彼はこう付け加えて、話を結びました、「以上が、おお、お母さん、あの呪われた魔法使との僕の冒険で、これが、僕の地下室旅行で手に入った全部です。」こう話して、彼は母親にそのすばらしい宝玉を見せましたが、しかしそれは、「僕はもうガラス玉なんかで遊ぶような子供じゃない」という意味の、全く馬鹿にした膨《ふく》れ面《づら》をしてのことでした。
ところで、息子のアラジンが話している間ずっと、母親は、話のいちばん驚くべき個所またははらはらさせる個所で、そのつど魔法使に対する怒りの叫びと、アラジンに対する憐れみの叫びをあげながら、じっと聞いておりました。そして息子がこの不思議な冒険を話しおえるや、もうこれ以上こらえきれなくなって、およそ自分の息子をもう少しで失くしようとした母親の憤りと怒りが、加害者の振舞いを形容するために見つけ出すことのできるあらゆる名称で、マグリブ人を呼びながら、これを激しく罵りました。そして少しく気が済むと、息子のアラジンを胸にしっかりと抱き締め、涙を流しながら接吻して、言いました、「おお息子や、あのマグリブの妖術師の手から、お前を恙《つつが》なく救い出して下さったアッラーに、感謝しましょうね。あの裏切り者、呪われたやつめ。あいつは、半ドラクムもしない、こんなけちな銅のランプを手に入れるために、お前を殺そうとしたことは、もう間違いない。ほんとうにいやなやつ、たまらなく憎らしいやつだこと。かわいそうな子、私の息子アラジンよ、私はお前にまた会えたけど、この私が悪かったために、とんだ危ない目に会わせたね。私はあのマグリブ人の藪睨みの眼を見て、あいつはお前の叔父さんでもなければ、それに近い何でもなく、呪われた魔法使で、不信心者だということを、ちゃんと見抜かなければいけなかったのにねえ。」
こうかきくどきながら、母親は息子のアラジンを、蒲団《マトラー》の上にぴったりと抱き寄せて、接吻をし、やさしく揺ぶってやりました。アラジンは、三日以来、マグリブ人との出来事に気をとられて、まるで眠っていなかったので、こうして揺ぶられると、じきに眼をつぶって、母親の膝の上で寝入ってしまいました。すると母親は、注意に注意を重ねて息子を蒲団《マトラー》の上に寝かし、自分もまた、やがてそのそばに横になって、眠ったのでございました。
さて翌日、眼を覚しますと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十二夜になると[#「けれども第七百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……さて翌日、目を覚しますと、母子はまず幾度《いくたび》も接吻し合って、そしてアラジンは母親に、今度の事件で自分はもう永久に腕白と放浪癖が直って、今後は一人前の男として、何か仕事を探すことにすると申しました。それから、またもお腹が空いたので、朝御飯を欲しいと言うと、母親は言いました、「困ったね、息子や、家にあるもの全部は、昨夜お前に上げてしまったので、もうひとかけのパンもないのだよ。だけど、ちょっと辛抱していておくれ。私はこれから、この間じゅう紡いだ少しの木綿糸を売りに行って、その売ったお金で、何かお前に買ってきてあげるから。」けれどもアラジンは答えました、「木綿糸はまた今度になさいな、お母さん。今日は、僕が地下室から持ってきた、あの古ランプを持っていって、銅商人《あかがねしようにん》の市場《スーク》に売りにいらっしゃいよ。きっといくらかになって、それで今日一日は凌《しの》げるでしょう。」アラジンの母親は答えました、「ほんにそうだね、息子や。それで明日《あした》は、お前がやっぱりあの呪われたあの場所から持ってきた、あのガラス玉を持って、黒人街《くろんぼまち》に売りにゆきましょう。黒人たちはきっと普通の商人よりか、いい値で買うだろうからね。」
そこでアラジンの母親は、ランプを取り上げて、売りにゆこうとしました。けれども見るとたいへん汚ないので、アラジンに言いました、「息子や、このランプはどうも汚ないから、まず最初お掃除して、ぴかぴかにし、いちばん上値に売れるようにしましょう。」そして台所に行って、手に灰を少々取って水と混ぜ、ランプの掃除にとりかかりました。ところが、擦《こす》りはじめたと思う間もなく、突然その前に、どこから出てきたのかわからないが、恐ろしい鬼神《イフリート》が現われました。たしかにあの地下室のやつよりも醜く、頭が天井につくくらいの巨人です。その鬼神《イフリート》は彼女の前に身をかがめて、耳を聾せんばかりの声で言いました、「御手の間に[#「御手の間に」に傍点]、ここに[#「ここに」に傍点]、あなた様の奴隷が控えておりまする[#「あなた様の奴隷が控えておりまする」に傍点]。仰せあれ[#「仰せあれ」に傍点]、何御用でござりましょうか[#「何御用でござりましょうか」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]、空中を飛ぼうとも[#「空中を飛ぼうとも」に傍点]、地上を這おうとも[#「地上を這おうとも」に傍点]、このランプの下僕でございます[#「このランプの下僕でございます」に傍点]。」
アラジンの母親は、全く思いもかけないこの出現を見た時には、何しろこのようなことには慣れていませんでしたので、恐ろしさに、その場に釘づけになりました。舌は縛られ、口は開きました。そして驚きと恐れに気違いのようになり、それ以上こんなに醜く物凄い顔を眼の前に見るに耐えられず、気を失ってしまいました。
そのとき、アラジンはやはり台所におりましたが、多分これよりも醜くすさまじいやつを穴倉で見て、それでこの種の顔貌《かおかたち》には既にいささか慣れていたので、母親ほど動転しませんでした。そしてこのランプこそ、鬼神《イフリート》出現の原因だとさとりましたので、ずっと気を失っている母親の手の間から、いそぎランプを取り、十本の指の間にしっかりとランプを持って、さて鬼神《イフリート》に言いました、「おおランプの下僕《しもべ》よ、おれはたいへん腹が空いたので、ひとつこの上なくおいしい品々を持ってきて、食べさせてもらいたいと思うぞ。」すると魔神《ジンニー》はすぐに姿を消しましたが、一瞬後には、頭上に銀無垢の大きな盆を載せて、戻ってきました。その盆の上には、味も見た目も結構な、よい匂いのする料理を盛った金の皿が、十二枚並べられ、それに雪のように白く、中央を金色に塗ったぽかぽかのパン六個と、透き通った上等の古い葡萄酒の大罎二本を添えてあり、そして手の間には、螺鈿と銀を象眼した黒檀の床几《しようぎ》と、銀の茶碗二つを、携えてきました。そして鬼神《イフリート》はその盆を床几《しようぎ》の上に置き、並べるべきものを手早く並べて、慎しみ深く、姿を消しました。
そこでアラジンは、母親がずっと気を失っているのを見て、顔に薔薇水を注ぎますと、その爽やかさと煙の立つ御馳走のおいしそうな匂いとが一緒になって、別れ別れになっていた精気を寄せ集め、この憐れな女をわれに返さずにおきませんでした。そこでアラジンは、いそいで母親に言いました、「さあ、お母さん、何でもありませんよ。起きて食べにいらっしゃい。アッラーのお蔭で、ここに、お母さんの心と正気をすっかり元通りにし、僕たちの空腹《すきばら》を満すものがあります。どうか、この結構な御馳走を冷《さま》さないようにしましょう。」
アラジンの母親は、この見事な床几の上に置かれた銀の盆と、料理を盛った十二の金の皿と、六つのすばらしいパン菓子と、二つの酒罎と二杯の茶碗を見、これらの結構な品々すべてから発する無上の匂いが、嗅覚に触れると、自分の気絶の事情も打ち忘れて、アラジンに申しました、「おお息子や、アッラーは私たちの帝王《スルターン》の御命《おんいのち》をお守り下さいますように。これはきっと帝王《スルターン》が、私たちの貧乏を聞こしめして、誰か御料理番を遣わして、私たちにこの皿を届けて下さったにちがいないよ。」けれどもアラジンは答えました、「おお、お母さん、今はいろいろ推量したり、穿鑿したりしている時ではありません。まずとにかく食べましょう、それから、起ったことをお話しすることにしましょう。」
そこでアラジンの母親は、こんなすばらしい新たな品々の前に、驚きと感嘆に溢れた眼を見張りながら、息子のそばに来て坐り、二人でたいへんな食欲をもって食べはじめました。彼らは非常な悦びを覚えて、いつまでも盆のまわりを離れず、こんなによく調理された御馳走に飽くことを知らず、あまりおいしいので、とうとう朝飯と夕飯とを、兼帯にしてしまったほどでした。そして食べおわると、食事の残りを、明日のためにとっておきました。そしてアラジンの母親のほうが、食品棚に皿と料理をしまいにゆきましたが、やがてすぐに、この豪勢な贈物について、息子の話したいことを聞きに、アラジンのそばに引き返してきました。そこでアラジンは起ったことを打ち明け、ランプに仕える魔神《ジンニー》が、躊躇なく命令を実行した次第を知らせました。
すると、ますます募る恐怖を覚えながら、息子の話を聞いていたアラジンの母親は、非常な不安に捉えられて、叫びました、「ああ息子や、私はお前の子供のとき飲ませてあげたお乳《ちち》にかけて、頼みます。どうか、呪われた|鬼神たち《アフアリート》の授けた、こんな魔法のランプは遠くに投げ棄て、こんな指輪は捨ててしまっておくれ。だって私は、二度とあんな醜く物凄い顔貌《かおかたち》なんか見るに耐えなくて、きっと死んでしまうもの。それに、今たべたあのお料理も、何だか喉にこみあげてきて、息がつまりそうな気がするよ。また私たちの預言者ムハンマド(その祝福されよかし)も、魔神《ジン》や鬼神《アフアリート》の類いにはよく用心して、そんなものと交わってはいけないと、くれぐれも戒めなすったよ。」アラジンは答えました、「お言葉は、お母さん、私の頭と眼の上にあります。だけど実際のところ、僕はランプも指環も、捨ててしまうわけにはゆきません。何しろ、指環は僕が穴倉のなかでもう死ぬにきまっているところを救ってくれて、非常な助けになったし、ここにあるこのランプが、僕たちに尽してくれたところは、お母さん御自身が今御覧になったわけだし、これは、あの呪われたマグリブ人がこれを探しに、あんなに遥々とやってくるのを躊躇しなかったほど、貴いものなのですからね。だけど、お母さん、僕はお母さんを悦ばせるため、またお母さんの顔を立てて、このランプを隠してしまい、もうお母さんの眼にふれないようにし、お母さんの今後の心配の種にならないようにしましょう。」するとアラジンの母親は答えました、「何でも好きなようになさい、息子よ。だけど私としては、きっぱり言っておくが、私はもう、|鬼神たち《アフアリート》とはかかわりたくないし、ランプの下僕《しもべ》も、指環の下僕《しもべ》も、御免です。そしてもうどんなことがあろうとも、こうしたもののことは、二度と聞かせてもらいたくありませんよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十三夜になると[#「けれども第七百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて翌日、あの上等な食料が尽きると、アラジンは、母親にまた新たに怖い目をみせまいとして、あまり無造作にランプの力を借りようとはせず、金の皿を一枚取り上げて、それを着物の下に隠し、それを市場《スーク》で売って、その売った金で、必要な食料を家に持ち帰ろうというつもりで、外に出ました。そして或るユダヤ人の店にゆきましたが、これは悪魔《シヤイターン》よりもずるい男でした。アラジンは着物の下からその金の皿を出して、ユダヤ人に渡すと、ユダヤ人はそれを調べ、爪で引っ掻いてみて、さて何気ない様子で、アラジンに訊ねました、「これでいくら欲しいのかね。」アラジンは生れてから金の皿など見たことがなく、こうした商品の値段をまるきり知らなかったので、答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主人様、この皿がどのくらいの値段かは、僕よりあなたの方がよく御存じです。それについては、あなたの値踏みと正直さを信用します。」するとユダヤ人は、この皿がこの上ない純金なことを見て取って、心中思いました、「この子供は自分の持っている品の値段を知らぬわい。こいつはアブラハムの祝福が今日おれに送って下さる、ありがたい勿怪《もつけ》の儲け物だぞ。」そしてやつは店の壁のなかに隠してある抽斗《ひきだし》を開けて、たった一枚の金貨を取り出して、アラジンに差し出し、それは皿の値いの千分の一にも当らぬものなのに、言いました、「さあ、わが息子よ、これがお前の皿の分だよ。ムーサーとハールーンにかけて、お前以外の人には、決して私はこんな大枚をあげはしないよ。けれどもこれは、この先お前に顧客《おとくい》になってもらいたいためばかりなのだ。」するとアラジンはいそいそとそのディナール金貨を受け取り、後を振りかえることさえ考えずに、すっかり満足して、いそいで脚を風にまかせました。ユダヤ人のほうは、アラジンが悦んでいるのといそいで遠ざかるのを見て、もっと僅かの金を遣ればよかったとたいそう悔み、後から追いかけて、さっきの金貨から幾分か捲きあげようとしましたが、もう追いつきそうにないのを見て、その計画をあきらめた次第でした。
アラジンのほうは、時を移さず、すぐにパン屋に駈けつけて、パンを買い、ディナール金貨を崩して、家に帰り、母親にパンと小銭を渡しながら、言いました、「お母さん、このお金で、僕たちに入用な食料を買ってきて下さいな。僕には何にもわからないから。」そこで母親は立ち上がって、必要なもの全部を買いに、市場《スーク》にゆきました。そしてその日は、二人で食べ、満足しました。その時から、アラジンは家にもうお金がなくなると、そのつど市場《スーク》に行って、金の皿を一枚同じユダヤ人に売り、ユダヤ人はいつも一ディナールを渡しました。最初の時それだけの金額を与えたもので、もし商品を他のユダヤ人のところに持ち込みにゆかれて、そいつらが彼に代って、莫大な取引の儲けを挙げては大変と思って、敢えてそれより少ない額を与えかねたのです。ですからアラジンは、自分の持っている品の値いをずっと知らずにいて、こうして十二枚の金の皿を、その男に売り払ってしまいました。そうなると、今度は銀無垢の大盆を持ってゆこうと思いましたが、その盆はたいへん重たいので、そのユダヤ人を呼びにゆきますと、彼は家まできて、その貴重な盆をよく調べて、アラジンに言いました、「これはまあ金貨二枚かね。」するとアラジンは大悦びで、売るのを承知して、金を取りましたが、ユダヤ人はその外に、二つの銀の茶碗を添えてでなければ、金をよこそうとしませんでした。
こうして、アラジンと母親は更に数日の間、まだ暮してゆく代《しろ》がありました。そしてアラジンはずっと、あちこちの市場《スーク》に、立派な商人や名士たちとまじめに話を交わしに、行きつづけました。それというのは、家に帰って以来、彼は昔の仲間の、界隈の少年たちとの交際を気をつけて慎しみ、今は年をとった人々の話を聞いて、見聞を広めるように努めました。そして元来利発さ溢れていたので、僅かの間に、彼の年配の若者で、そんな知識を獲ることのできる者はいくらもいないほどの、あらゆる種類の大切な知識を獲たのでした。
こうしているうちに、再び家にお金がなくなったので、アラジンは他に致し方なく、母親のあらゆる恐怖にもかかわらず、魔法のランプを用いないわけにはゆかなくなりました。とはいえ、母親はアラジンの計画を聞くと、鬼神《イフリート》の現われる際、家にいるのは耐えきれず、いそいで家を出ました。そこでアラジンは、もう遠慮なく自分の好きなように振舞えるようになったので、ランプを手に取り上げ、触らなければならぬ正確な場所を探すと、これを最初に灰で掃除したおりの跡が残っているので、すぐわかりました。そこでその場所を、急《せ》かずに、ごく軽く、擦りました。するとすぐに魔神《ジンニー》が出てきて、身をかがめ、軽く擦ったまさにそのせいで、ごく穏やかな声で、アラジンに言いました、「御手の間に[#「御手の間に」に傍点]、ここに[#「ここに」に傍点]、あなた様の奴隷が控えておりまする[#「あなた様の奴隷が控えておりまする」に傍点]。仰せあれ[#「仰せあれ」に傍点]、何御用でござりましょうか[#「何御用でござりましょうか」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]、空中を飛ぼうとも[#「空中を飛ぼうとも」に傍点]、地上を這おうとも[#「地上を這おうとも」に傍点]、このランプの下僕でございます[#「このランプの下僕でございます」に傍点]。」するとアラジンはいそぎ答えました、「おおランプの下僕《しもべ》よ、おれはたいへん腹が空いたので、お前が最初に持ってきてくれたのと、すべての点で同じ料理の盆を欲しく思う。」すると魔神《ジンニー》は姿を消しましたが、瞬《またた》くひまもなく、くだんの盆を持って、再び姿を現わし、それを床几の上に置き、どことも知れず引き下りました。
さて、ちょっと経つと、アラジンの母親が戻ってまいりました。そしてその盆と、匂いのよい、まことに好ましい料理を見て、最初の時に劣らず驚嘆しました。それで息子のそばに坐って、お料理に手をつけてみると、この前の盆のものよりも、もっとおいしいと思いました。そしてランプに仕える魔神《ジンニー》に覚える恐怖にもかかわらず、非常な食欲で食べました。母親もアラジンも、どちらもすっかり満腹するまでは、盆の前を離れることができない有様でしたが、しかしその御馳走は、食べればその分だけ食欲を唆《そそ》ったので、母親は日暮方にやっと立ち上がった次第で、こうして、朝食と昼食と夕食を、一緒にしてしまいました。そしてアラジンもまた同様でした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十四夜になると[#「けれども第七百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
盆の食料が尽きてしまうと、最初の時のように、アラジンは金の皿を一枚持って、この前の皿の時に既にしたように、それをユダヤ人に売ろうと、例のとおり市場《スーク》にゆかずにいませんでした。そしてちょうど彼が、回教徒《ムスリム》の尊ぶべき老人《シヤイクー》で、その正直と誠実で非常に尊敬されている、金銀細工商の店の前を通りかかると、自分の名前を呼ばれたので、足を停めました。すると尊ぶべき金銀細工商は手で合図をして、ちょっと店にはいるようにと招きました。そして彼に言いました、「わが息子よ、私はこれまでもう幾度《いくたび》となく、お前が市場《スーク》を通るのを見る折があったが、お前はいつも着物の下に何か持っていて、努めて隠そうとしているのに気づいた。そしてお前は家の隣のユダヤ人の店にはいっては、その隠している品を持たずに出てきたものだ。ところで私は、おおわが息子よ、おそらく若年のため、お前の知らない一事を知らせてあげなければならぬ。事実、聞きなさい、ユダヤ人たちは回教徒《ムスリムーン》の生れながらの仇敵《あだがたき》なのじゃ。彼らは、われらの財物はあとうかぎりの手段を講じて盗んで正当なものと、心得ておる。しかも、あらゆるユダヤ人のなかで、あの男こそはまさにいちばん厭わしく、いちばん狡く、いちばん騙者《かたり》で、唯一神アッラーを信ずるわれわれに対して、いちばん憎しみを抱いている男だ。されば、わが子よ、もしお前が何か売るものがあるのならば、まずそれを私に見せなさい。私は、至高のアッラーの真理にかけて、私はその品を正しい価格に値踏みして、お前がそれを売り払うとき、自分のしていることを正しく知っているようにしてあげる。だから、心配なく疑心を抱かずに、お前が着物の下に隠しているものを、見せてごらん。何とぞアッラーは騙《かたり》どもを呪い、悪魔を懲らしめたもうように。悪魔は永久に遠ざけられよかし。」
この年とった金銀細工商の言葉を聞いて、アラジンは、信用して、ためらわず着物の下から金の皿を取り出して、それを見せました。老人《シヤイクー》はひと目見てすぐ、この品の価格を鑑定し、アラジンに訊ねました、「では今度は、おおわが息子よ、お前はこの手の皿を、今まで何枚あのユダヤ人に売ったか、またいくらで譲ったか、聞かせてくれまいか。」アラジンは答えました、「アッラーにかけて、おお小父さん、僕は今までこれと同じような皿を十二枚、一枚一ディナールで、手放しました。」すると年とった金銀細工商は、この言葉に、憤りの極に達して、叫びました、「ああ、呪われたユダヤ人め、犬の息子、魔王《イブリース》の後裔めが。」そしてそれと同時に、皿を秤に載せて、目方を衡って、言いました、「よいか、わが息子よ、この皿は極上の純金で出来ていて、一ディナールどころか、きっかりと二百ディナールの値いがある。ということは、この市場《スーク》のユダヤ人全部が集って、ただ一日のうちに、回教徒《ムスリムーン》に損失をかけて、盗みとっているだけの分を、あのユダヤ人めは、自分ひとりきりで、お前から掠めとったというわけじゃ。」次に更に付け加えて、「やむを得ぬ、わが息子よ、過ぎたことは過ぎたことで、われわれは証人がないから、あの呪われたユダヤ人を串刺の刑に処させるわけにはゆかぬ。いずれにせよ、今後は、お前はよくわかったわけだ。お望みなら、私は即座にこの皿の代として、二百ディナールを支払って進ぜよう。のみならず、これをお前から買いとる前に、むしろお前がこれをほかの商人たちに持ち込んで、値踏みさせてくれるほうが望ましい。もしほかの商人がそれ以上出すというなら、私はその余分の金を払い、その外に何か色をつけても結構だ。」けれどもアラジンは、この年とった金銀細工商の世に知れ渡った正直さを疑う何のいわれもなく、皿をそんなよい値で彼に譲れることを、たいそう悦びました。そしてその二百ディナールを受け取りました。その後も、他の十一枚の皿と盆を売るにも、この同じ回教徒の実直な金銀細工商のところに行かずにはいませんでした。
さて、こうして金持になっても、アラジンとその母親とは、「報酬者」の御恵《みめぐ》みに決してつけ上がりませんでした。親子は貧しい人々と困っている人々に、自分たちの必要の余分を分け与えてやって、つましい生活を送りつづけました。アラジンはこの間にも、自分の修養を続け、市場《スーク》の人たちや、一流の商人や、市場《スーク》に出入りする上品な人々に接して、自分の精神を磨くような機会を、一切のがしませんでした。こうして彼は僅かのうちに、社交界の行儀作法を身につけ、金銀細工商や宝石商とも絶えず交わるようになって、そこの足繁く出入りする客となりました。こうして、宝石や宝玉を見慣れているうちに、自分の取ってきたあの庭園の果実は、色のついたガラス玉だと思っていたが、実は、最も強大、最も富裕な王や帝王《スルターン》のところにさえも、類うべきもののない、値いの知れぬ絶品だということがわかりました。それで、今はもう非常に利口に賢くなっていたので、彼は用心深く、そんなことは誰にも、母親にさえ、話さずにいました。ただ、これらの宝石の果実を、長椅子《デイワーン》の座褥《クツシヨン》の蔭や、部屋の隅々に散らばらせておく代りに、大切に拾い集めて、わざわざ買い求めた箱のなかにひそめました。ところで彼はやがて、自分の思慮の効能を、最も輝かしく、最も華々しく、感ずることになったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十五夜になると[#「けれども第七百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
果たして、日々のうちの或る日のこと、彼は折から一軒の店の前で、友人の商人二、三人と四方山の話をしていると、帝王《スルターン》の触れ役人二人が、長い棒を携えて、市場《スーク》じゅうを歩きまわっているのを見かけ、そして二人して、次のように、声高に触れているのを聞きました、「おお汝ら一同、商人と住民よ、われらの英邁なる御主君、当代の王にしてもろもろの世紀と時世の大君の御諚により、汝ら直ちに汝らの店を閉め、己が家に閉じこもって、内外のあらゆる扉を鎖《とざ》すべきものと心得よ。何となれば、無二の真珠、あやに畏く、御恵《みめぐ》み遍《あまね》き、われらが妙齢の御主人、バドルール・ブドゥール(11)様、満月中の満月にして、われらが赫々たる帝王《スルターン》の姫君におかれましては、浴場《ハンマーム》にて御《おん》沐浴《ゆあみ》遊ばさるべく、御通行相成る。願わくば、御《おん》沐浴《ゆあみ》の快からんことを。敢えて御諚に違《たが》い、扉或いは窓より外を眺むる者は、剣または串刺、または絞首《しばりくび》によって、罰せらるべし。己が首に己が血を保たんと欲する者は、よろしく注意せよ。」
このお触れを聞くと、アラジンは帝王《スルターン》の姫君、町中の噂になって、その月のような美しさと、欠けるところのない麗質を賞めそやされている、その妙《たえ》なるバドルール・ブドゥール姫のお通りを、何としても見たい、抑えきれない望みに捉えられました。それで、皆のように自分の家に閉じこもりに走る代りに、彼は大急ぎで浴場《ハンマーム》にゆき、大扉の裏に身を潜め、自分は見られずに、隅から隙見ができるようにして、帝王《スルターン》の姫君が浴場《ハンマーム》におはいりになるとき、存分にお姿を拝見しようと、思い立ちました。
さて、アラジンがそこに潜りこんで二、三分も経たないうちに、お姫様の行列は、大勢の宦官を先に立てて、到着致しました。そして女官たちのただ中に、諸星《もろぼし》のただ中の月のように、絹の面衣《ヴエール》をつけたお姫様御自身の姿を、拝見しました。けれども浴場《ハンマーム》の敷居にお着きになるとすぐ、姫はいそいで顔を露わになすったので、もうどんな言葉も及ばない美しさの、太陽のような輝きの裡に現われ出ました。まことに、十五歳に足りないとも越えていることはない乙女で、アリフの文字のようにまっすぐで、|かりろく《パーン》の木の若枝を欺く腰、第九月《ラマザーン》の三日月のように眩しい額、申し分なく引かれた細い眉、喉の渇いた羚羊《かもしか》の眼のように、大きく悩ましい黒い眼、さながら二片の薔薇の花びらのような、慎ましく下った瞼、上等の刃《やいば》のように瑕瑾《きず》のない鼻、桜色の二つの唇のついた、ごく小さな口許、サルサビールの泉(12)の水で洗ったような白さの顔色、にこやかな頤《あご》、粒の揃った霰粒《あられつぶ》のような歯、雉鳩の首、その外の目に見えないところも、すべてこれにふさわしいものでございました。詩人が申したのは、まさしく姫君のことです。
[#ここから2字下げ]
この君の奇《くす》しき眼《まなこ》は、黒き瞼墨《コフル》に勢いを得て、鋭き矢をもて、人々の心を貫く。
この君の双頬の薔薇色よりぞ、花束の薔薇はその色を借るなれ。
しかしてその髪は、その額の輝きによって照らさるる闇夜なり。
[#ここで字下げ終わり]
お姫様はいよいよ浴場《ハンマーム》の戸口に着くと、もう無遠慮な人目を恐れることもなくなったので、顔の小|面衣《ヴエール》を掲げ、こうしてそのすべての美しさの裡に現われ出ました。そしてアラジンはこのお姫様を見ますと、今度は、自分の血が頭の中を三倍も早く廻るのを覚えました。そして彼はこれまで、露わな女の顔を見る機会がありませんでしたが、この時はじめて、世には美女と醜女がいて、どんな女もみんな自分の母親のように、年とっているわけではないのに、気がつきました。こういう発見は、姫君の無類の美しさと相俟《あいま》って、彼を茫然とさせ、戸の蔭に恍惚と立ち尽させたのでございます。もう姫君はずっと前に浴場《ハンマーム》にはいってしまったのに、彼はまだそこに驚き呆れ、感動に身をふるわして、じっとしていました。そしてやっと多少われに返ることができると、隠れ場所からもぐり出て、自宅に戻る決心をしたのですが、しかしそれは何という変り果てた、顛倒した有様でございましょう。彼は考えました、「アッラーにかけて、こんなに美しい人間を、誰が地上に想像することができたろうか。このような人間を作って、完全さを授けたもうた御方の、祝福されよかし。」そして立ち騒ぐさまざまの想いに溢れつつ、母親のところにはいりましたが、背中は感動に割れるばかりで、心はことごとく恋慕の情に捉えられ、そのまま長椅子《デイワーン》の上に崩折《くずお》れて、もう身動きしなくなりました。
ところで、母親は息子がこんないつもにない有様でいるのをすぐ見つけて、息子のそばに寄って、気遣わしげにいろいろ訊ねました。けれども息子は、こればかりも答えようとしません。そこで母親は昼食の御馳走の盆を持ってきましたが、息子は全然食べようとしません。それで訊ねました、「どうしたのだい、おおわが子よ。どこか悪いのかい。いったい何ごとが起ったのさ、ええ?」息子は最後に答えました、「放っておいて下さい。」母親は強《た》って食べるように言い、あまりすすめるので、とにかく御馳走に手を触れましたが、平生とはくらべものにならぬほどしか食べません。そして両の眼を伏せて、黙ったきり、母親の不安げな問いに答えようとしません。そして翌日まで、こうした物思いと真青な顔色と打ち凋れた有様でおりました。
翌日になると、アラジンの母親は心配の極みに達し、目に涙を浮べて、息子に近づいて申しました、「おお息子や、お前の上なるアッラーにかけて、どうかお前の気持を言っておくれ。そしていつまでも黙っていて、これ以上私の心を悩まさないでおくれ。もしどこか病気なら、隠さずにおっしゃいよ。そうすれば、私はすぐに、お医者様を呼んできてあげよう。ほら、ちょうど今日は、私たちの帝王《スルターン》が診ておもらいになるためわざわざお呼びになった、アラビア人の国の有名なお医者様が、この町に寄りなさるところで、その方の学問と霊薬の噂で持ちきりだよ。ひとつお願いに行ってきてあげようか……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十六夜になると[#「けれども第七百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……ひとつお願いに行ってきてあげようか。」するとアラジンは頭をもたげて、たいそう悲しげな声の調子で、答えました、「おお、お母様、実は僕は丈夫で、どこも病気なんかじゃありません。こんな変り果てた有様でいるというのは、僕は今まで、女という女は、みんなお母様みたいなものだと思っていたからなのです。それが昨日になってはじめて、実は全然ちがうのだということに、気がついたわけでした。」するとアラジンの母親は両腕を挙げて、叫びました、「悪魔《シヤイターン》は遠ざけられよかし、お前は何を言ってるんだい、アラジンや。」彼は答えました、「いえ、僕は自分で何を言ってるのかよくわかっています、御心配なく。実は、僕は帝王《スルターン》の王女、バドルール・ブドゥール姫が、浴場《ハンマーム》にはいるところを見たので、そのお姿を見ただけで、僕は、世には美というものがあることを悟りました。もう僕は何ひとつできません。ですから、父王からお姫様をお嫁にいただかない限り、僕は安らかな心を持てず、わが身を反省することなどできません。」
この言葉を聞くと、アラジンの母親は、これは息子は気が変になったと思って、これに言いました、「お前の上にアッラーの御名あれかし、わが子よ、もとのお前の分別にお戻りよ、ああ、かわいそうなアラジン、お前の身分を考えて、そんな気違い沙汰はおやめなさい。」アラジンは答えました、「おお、お母様、僕は全然もとの自分の分別に戻る必要なんかありはしません。だって何も僕は気違いのなかにはいりませんもの。だからお母様のお言葉があったって、僕はあの美しい帝王《スルターン》の王女、エル・シート・バドルール・ブドゥールとの結婚の考えを、決してあきらめはしませんよ。僕の気持は前にもまして、父君にお姫様を下さいとお願いするつもりです。」母親は言いました、「おお息子や、お前の上なるわが生命《いのち》にかけて、そんな言葉を口におしでないよ。ひょっと近所の人の耳に入って、お前の言葉を帝王《スルターン》に言いつけたりされると、大変だからね。帝王《スルターン》はお前を、救うすべなく絞首《しばりくび》にしてしまいなさるだろうよ。それにまた、もしお前が本当にそんな大それた決心をしたにせよ、お前は誰かその申込みをお頼みできる人が、見つかる気でいるのかえ。」彼は答えました、「ここにお母様がいるのに、いったい誰にこんなむずかしい使いを頼めましょう、おお、お母様、いったい誰をお母様より信頼できましょうか。そうです、それはもう、僕のために帝王《スルターン》に結婚申込みをしに行って下さるのは、お母様にきまっています。」母親は叫びました、「どうかアッラーはそんな企てを私に勘弁して下さるように、おお息子よ。私はお前みたいに、狂気の極みにいはしないのだからね。ああ、お前は、自分が町でいちばん貧しく、いちばん名も知れぬ仕立屋風情の息子で、また、母親のこの私にしたって、お父様以上に身分が高いとか、有名だとかいう家柄の出のわけではないことを、忘れてしまっているのが、今となってよくわかったよ。いったいどうしてまあ臆面もなく、父王様が権勢ある王様や帝王《スルターン》方の王子様にも、下さるまいようなお姫様なんかに、想いをかけたのだね。」するとアラジンはしばらく黙っておりましたが、次に答えました、「それは、おお、お母様、僕は今お母様のおっしゃったようなことは全部、もう考え、長いこととっくり考えました。でもそれでも、さっきお話しした決心をやめるどころか、かえって反対でした。ですから、もし本当に僕がお母様の息子で、お母様が僕を愛して下さるならば、どうかぜひ、僕の頼む奔走をして下さるよう、折り入ってお願い申します。さもなければ、僕の死のほうが、僕の生よりも好ましいことでしょう。そしてやがてお母様は、僕を失くしてしまうは必定です。今一度、おお僕のお母様、僕はいつまでもお母様の息子のアラジンだということを、お忘れにならないで下さい。」
息子のこの言葉を聞くと、母親はわっと泣き出して、涙の間に言いました、「おお息子や、そりゃいかにも、私はお前の母親で、お前は私のたった一人の子供、私の心の芯ですよ。それで私のいちばん楽しみにしている願いは、いつでも、いつかお前が嫁をもらうのを見て、死ぬ前にお前の仕合せを喜びたいということでした。だから、お前が嫁をもらいたいというのなら、私はいそいで私たちと同じ身分の人たちの間に、女の人を探しに行ってあげましょう。それにしても、先方の人たちが、お前について、どういう商売をしていて、どのくらい稼ぐか、財産や土地をどのくらい持っているかなどと、いろいろ訊ねれば、それに何と答えなければならないか、ちゃんと自分で承知していなければならないだろう。それだって、なかなか私には楽じゃないのですよ。ところが、事は賤しい身分の人たちのところに行くのじゃなくて、シナの帝王《スルターン》に向って、たったひとりのお姫様エル・シート・バドルール・ブドゥール様を、お前に下さいとお願いするとなると、そんななまやさしいことではないからね。ねえ、息子や、まあ穏やかによく考えてごらん。いかにも私たちの帝王《スルターン》は御親切溢れたお方で、どんな臣民にも、それぞれ願いの筋相当の裁きをなさらずに、追い帰すようなことは決してなさらないのは、私もよく知っています。またたいへん寛大にましまして、何かの手柄とか、天晴れの振舞いとか、大なり小なりの功績とかで、御贔屓を受けるだけのことがあった人には、どんなことでも決してお拒みにならないことも、よく知っています。けれどもお前ときては、お前はこれまでどういうことをして、人にぬきんでたことがあるか、またお前のお願いするそんな比べるもののない恩顧を賜わるだけの、どういう資格がお前にあるのか、私に言えますか。それにまた、御贔屓を乞う者は誰でもそうしなければならないけれど、御主君に対する忠実な臣下の敬意のしるしに、お前が王様に献上しなければならない御進物は、いったいどこにありますか。」息子は答えました、「それですよ。もしも僕の魂がこれほど望むものを手に入れるのに、立派な御進物をするだけでよいのなら、それはもう、地上のどんな人間だって、これにかけては、僕と張り合うことはできないと思うのです。実は、お母様、先だって僕が地下の庭園から持ってきた、あのあらゆる色の果物は、何の値打もなく、たかが子供の玩具《おもちや》ぐらいにしか役立たないガラス玉と思っていたのですが、実際は、地上のどんな帝王《スルターン》もあのようなものは持っていない、値い知れぬ宝石なのです。それは、お母様御自身にもすぐ鑑定がつきます、こうしたことにはあまり御経験がないにせよ。そのためには台所から、あれが盛りきれるくらいの大きさの磁器の皿を一枚、ここに持ってきて下さりさえすればいい。そうすれば、あれのすばらしい見場《みば》がおわかりになります。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十七夜になると[#「けれども第七百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでアラジンの母親は、聞くことすべてにたいへん驚きましたけれども、とにかく台所に、きれいな白磁の大皿を取りに行って、それを息子に渡しました。アラジンは、そのまに例の果物を持ってきていて、それらをそれぞれちがう色と、形と、変化を斟酌して、たいそう手際よく、磁器のなかに並べはじめました。並べおわって、それを母親の目の前に出しますと、母親はその輝きのためからも、また美しさのためからも、全く目が眩んでしまいました。そして宝石類を見ることなどには、殆んど慣れていませんでしたが、叫ばずにいられませんでした、「やあ、アッラー、ほんに見事なこと。」そればかりか、ひと時たつと、眩しさに目を閉じないわけにゆかず、しまいに言いました、「息子や、この御進物はきっと帝王《スルターン》が御嘉納になることは、今はよくわかりました。いかにもそれは間違いない。けれども今度は、むずかしいのはその点じゃなくて、私のしなければならない奔走ですよ。それというのは、私は帝王《スルターン》の御前《ごぜん》の御威光によく耐えきれないで、舌が廻らず、じっと立ち尽すばかりだろうし、ひょっとすると、気が顛倒し取り乱して、気を失ってしまうかもしれないことが、自分でよくわかるのです。それはともかく、せいぜい自分を抑えて、この望みに溢れるお前の魂を満足させてあげるため、私がうまく帝王《スルターン》に、王女バドルール・ブドゥール様についてのお前のお願いを言上できたと、仮りにしてもだよ、さてどういうことになるだろうか。そうです、どういうことになるかです。いいかい、息子や、皆が私を気違いと思って、私を御殿から追っ払うか、さもなけりゃ、帝王《スルターン》はこんなお願いにお腹立ちになって、私たちを二人とも恐ろしいやり方で罰しなさるか、どっちかです。それでもなお、お前は反対の場合を考えて、帝王《スルターン》がお前のお願いを取り上げなさるとしても、やはり帝王《スルターン》は、お前の身分と地位について御下問になるでしょう。こうおっしゃるだろう、『よろしい、この進物は甚だ立派じゃ、おお女よ。さりながら、汝はいったい何者か。またお前の伜アラジンとは何者じゃ。何をしておるか。父親は何者か。稼ぎはどのくらいか。またしかじかのことはどうか、その他しかじかのことは?』そうなると私としては、お前は何の商売にも従っていないし、お父様は市場《スーク》の仕立屋のなかの一人の貧しい仕立屋にすぎなかったと、こう申し上げずにはいられまいよ。」けれどもアラジンは答えました、「おお、お母様、御安心下さい。帝王《スルターン》は、磁器のなかに果物のように並べた、このすばらしい宝石を御覧になれば、お母様にそんな質問をなさることなんか、ありっこありません。だから心配なさらず、起りもしないことに、取越し苦労をなさることはありません。そんなことはやめにして、ただ立ち上がって、中身を盛り上げたこの皿を献上しに行き、王女バドルール・ブドゥールを、僕のお嫁さんに賜わるようにお願いして下さい。こんなにやさしい簡単な事柄について、今から考えを億劫にするようなことはなさいますな。実際、これでも成功覚束ないとお思いなら、僕はランプを持っていて、それが僕にとっては、どんな商売やどんな稼ぎの埋め合せもするということを、忘れないで下さいな。」
そして彼は母親を、いかにも熱と自信をこめて口説きつづけたので、とうとうすっかり説き伏せてしまいました。そこでいちばん立派な着物を着るように急きたてて、白磁の皿を渡すと、母親はいそいでそれを風呂敷に包み、四隅をたばねて、手に下げました。そして家を出て、帝王《スルターン》の御殿のほうに向いました。それから大勢の嘆願者と一緒に、謁見の間《ま》にはいりました。そして最前列に場所を占めましたが、一同腕を組み、目を伏せて、最大の敬意をこめて控えている居並ぶ人たちのまん中で、ごく慎しみ深い態度をとっておりました。いよいよ帝王《スルターン》が大臣《ワジール》、貴族《アミール》、警吏を従えて入御遊ばされると、政務会議《デイワーン》が開かれました。そして帝王《スルターン》の書記の長《おさ》が、請願の順に従って、訴え出た者を次々に呼び出しました。事件はその場ですぐ裁かれました。訴え出た人たちは、或る者は勝訴に満足し、他の者はすっかり鼻を長くして、また他の人たちは、時間がなくて結局呼び出されずに、立ち去るのでした。そしてアラジンの母親は、ちょうどこの最後の人たちのなかにはいっていました。
ですから、会議が終って、帝王《スルターン》は大臣《ワジール》たちを従えてお引き上げなすったのを見ると、彼女は、今は自分自身も立ち去るより仕方がないと、わかりました。それで御殿から出て、自分の家に戻りました。アラジンは待ちかねて、門口で母親を待っていましたが、見ると、母親は相変らず手に白磁の皿を持ったまま、帰ってきました。そこで、たいそうびっくりし思い惑って、何か不時の禍いか凶報ではないかと案じ、往来では一切問いをかけないで、いそぎ家へ引き入れてから、顔色を真黄色にして、心の動揺のため口を開くことができないので、身振りと目付きで、問い訊しました。そこで憐れな女は、起ったことを話して、言い添えました、「まあ今度はお母様を許しておくれ、息子や。何せ私は御殿なんぞに不慣れだからね。帝王《スルターン》を拝見すると、私はすっかり度を失ってしまって、とても進み出てお願いすることなどできなかったのです。だが明日は、もしアッラーの御心ならば、もう一度御殿に戻って、今回よりは勇気が持てることだろうよ。」するとアラジンは、待ち切れぬ思いにもかかわらず、ともかくも、母が手に白磁を持ったまま戻ってきたことに、それ以上何の重大な動機《いわれ》もないと知って、たいそう悦びました。そればかりか、いちばんむずかしい手続きが、面倒もなく、母にも自分にも悪い結果にならずに済んだことに、大いに満足さえしました。そして、遅れたこともやがて埋め合せがつくだろうと思って、心を慰めたことでした。事実、翌日母親は、宝石の献上品を入れた風呂敷の四隅を持って、御殿に出かけました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十八夜になると[#「けれども第七百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして今度は自分の臆病心に打ち克って、申し出をしようと、かたく決心しておりました。そこで政務所《デイワーン》にはいって、帝王《スルターン》の御前の、最前列に場所を占めました。けれども、やっぱり最初の時と同じく、ひと足も進み出ることもならず、書記の長《おさ》の注意を、自分のほうに引くような身振りひとつできません。そのうちに会議は、何の結果もおさめぬまま終ってしまい、母親は頭を垂れて戻り、試みの不首尾をアラジンに報じましたが、この次こそは必ずうまくやると、約束致しました。そこでアラジンは、母親に勇気と決断の不足を咎めながらも、再び辛抱の覚悟をせざるを得ませんでした。けれども、それもまたたいした役には立たなかったのです。というのは、この憐れな女は続けさまに六日、白磁を携えて御殿に行き、いつも帝王《スルターン》の真正面に場所を占めながらも、いつも最初の時以上の勇気も、成功も、持てませんでした。そしてたしかに、もしも帝王《スルターン》御自身が、この女がいつの政務会議《デイワーン》にも最前列にいたので、とうとうこれにお気づきになって、好奇心を起されて、この女とこの女のいるわけとをお尋ねにならなかったとしたら、彼女は更に百回も同じように空しく帰り、アラジンは焦《あせ》りが内にこもって絶望のあまり、死んでしまったにちがいありません。果たして、第七日目、政務《デイワーン》終って後、帝王《スルターン》は総理|大臣《ワジール》のほうにお向きになって、おっしゃいました、「あの手に何か風呂敷包みを持っている老婆を見よ。数日来、あの女は欠かさず政務所《デイワーン》に来て、何も願い出でずにじっとしている。あの女はここに何をしに来るのか、或いは何を望んでいるのか、その方は知っておるか。」総理|大臣《ワジール》はアラジンの母親なぞよく知らなかったのですが、返事に詰りたくはなかったので、帝王《スルターン》に申し上げました、「おお御主君様、あれはつまらぬ事のために政務所《デイワーン》に来るだけの、数多い老婆のうちの一人の老婆でございます。あれなる老婆も、例えば腐った大麦を売りつけられたとか、隣の女が悪口を言ったとか、夫が撲ったとかいうようなことを、訴えに参ったに相違ございませぬ。」けれども帝王《スルターン》は、この御説明ではいっこう承知なさらず、大臣《ワジール》に仰せられました、「何はともあれ、余はあの憐れなる女に訊ねたく思う。他の者どもと共に退出するに先立って、進み出でさせよ。」そこで大臣《ワジール》は手を額にやって、承わり畏まってお答え申しました。そしてアラジンの母親のほうに二、三歩出て、進み出るように、手で合図をしました。憐れな女はぶるぶる顫えながら、玉座の足許まで進み出て、平伏したというよりもむしろ倒れて、他の列席者たちがそうするのを見たのでそれに倣って、帝王《スルターン》の御手の間の床《ゆか》に接吻しました。そして総理|大臣《ワジール》が来て肩に触り、助けて起き上がらせるまで、じっとこうした姿勢でおりました。それから、すっかりわくわくして立っておりますと、帝王《スルターン》がおっしゃいました、「おお女よ(13)、その方が政務所《デイワーン》に来て、何ごとも願い出でずに、じっとしているのを見かけてから、既に数日に相成る。されば、その方をここに来たらしむる所以と、その方の所望とを申して、余をしてその方に対して公平ならしめよ。」するとアラジンの母親は、帝王《スルターン》の御親切なお声に少くし元気づけられて、お答え申しました、「願わくはアッラーは、私どもの御主君|帝王《スルターン》の御頭上に、祝福を下したまいまするように。わが君の下婢《はしため》につきましては、おお当代の王様、何とぞお願いの筋を申し上げまするに先立って、身の安泰のお約束(14)を賜わりたく、切にお願い申します。さもなければ、私のお願いは異様或いは突飛に見えかねませぬので、帝王《スルターン》のお耳にお聞き苦しくはないかと、いたく案ぜられる次第でございます。」ところでこの帝王《スルターン》は、親切で度量の広い方であらせられましたので、すぐさま身の安泰を約束なさったばかりか、この女に全く心置きなく言えるようにしてやろうと、一人残らずこの広間から退出するよう、お命じになりました。そしておそばには、総理|大臣《ワジール》だけしかお残しになりませんでした。そこで女のほうにお向きになって、おっしゃいました、「話すがよい、――アッラーの安泰はその方の上にあるぞよ、おお女よ。」けれどもアラジンの母親は、帝王《スルターン》の温かいあしらいのため、すっかり元気を取り戻してはいましたが、お答え申しました、「私は同じくあらかじめわが帝王《スルターン》に、私の請願にお認めなさりかねぬ不都合の点と、私の言葉の並々ならぬ大胆とに対して、御容赦を乞い奉りまする。」そこで帝王《スルターン》はますます不思議に思って、おっしゃいました、「いそぎ腹蔵なく申せ、おお女よ。アッラーの容赦はその方の上にあり、アッラーの恵みは、その方の言いかつ求むる一切に対してあるぞよ(15)。」
すると、アラジンの母親は、改めて王座の前に平伏し、帝王《スルターン》の上に至高者のあらゆる祝福と恩恵を祈願して後、触れ役人が町の住民に、それぞれわが家に身を潜めて、姫《シート》バドルール・ブドゥールの行列をお通し申すよう、命令を布告するのを聞いた日から、息子の身に起った委細を、お話ししはじめました。そして万一お姫様と結婚できない場合は、自殺をするおそれもあったアラジンの状態をも、申し上げずにはおきませんでした。こうして全部の顛末を、一部始終詳しく語りましたが、それを繰り返しても、益なきことでございます。次に,話しおえて、母親は非常な恐縮に襲われて、頭を垂れ、言い添えました、「さて今は、おお当代の王様、何とぞ私の息子の狂気を私にお咎めあることなく、母親の愛情が私を駆って、このようにだいそれたお願いをお伝え申しに参ったとて、お赦し下さいまするよう、陛下にただ乞い奉るばかりでございます。」
帝王《スルターン》は公平で親切にわたらせられたので、これらの言葉を非常に注意をこめてお聴きになって、いよいよアラジンの母親が口をつぐむのを御覧になると、このお願いにお怒りの色をお示しになるどころか、優しく笑い出しなさって、これにおっしゃいました、「おお憐れな女よ、してその方は、四隅を掴んで携えているその風呂敷のなかに、いったい何を持参しているのか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百四十九夜になると[#「けれども第七百四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアラジンの母親は、無言でその風呂敷をほどいて、それ以上ただのひと言も付け加えずに、宝石の果物の並んでいる白磁の皿を、帝王《スルターン》に差し出しました。するとすぐに政務所《デイワーン》じゅうが、燭台や炬火《たいまつ》で照されるよりももっと、その宝石の輝きで明るくなりました。それで、帝王《スルターン》はその光にお目がくらみ、その美しさに魂消《たまげ》なさいました。それからお婆さんの手から磁器を受けとって、そのすばらしい宝玉を、一つ一つお指の間にはさんで、とくとお調べになりました。そして感嘆の極に達して、永い間それらを眺め、触っていらっしゃいました。最後に、総理|大臣《ワジール》のほうに向きながら、お叫びになりました、「わが首《こうベ》の生命《いのち》にかけて、おおわが大臣《ワジール》よ、何とこのすべては美しく、何とこれらの果物は見事であろう。その方かつてかくのごとき品を見たことがあるかな。或いは単に、地の面《おもて》にかくも立派なる物の存するを、話に聞いたことすらあるか。その方はどう思うか、言ってみよ。」大臣《ワジール》は答えました、「まことに、おお当代の王様、かくも見事な物をば、私はかつて見たこともなく、話に聞いたこともございません。いかにも、これらの宝石は、この種のものとして無双の品。われらが御主君の御納戸《おなんど》の最も尊い宝玉を束《たば》に致しましても、この果物の最も小さいもの一つにも及びませぬ。到底及びもつかぬと、愚考致しまする。」王様はおっしゃいました、「して、おおわが大臣《ワジール》よ、母と共にかくも美しい進物を余の許に届けた、若者アラジンこそは、いささかの疑いもなく、またいかなる王子にもまして、わが娘バドルール・ブドゥールへの求婚を快諾さるるを見るに、値いするものではないか。」
大臣《ワジール》は全く予期していなかったところに、この王様のお訊ねに接し、すっかり顔色が変り、すっかり舌がこわばり、すっかり悲しんでしまいました。というのは、帝王《スルターン》はもうずっと前から、大臣《ワジール》の息子で、子供の時からお姫様に恋い焦れている男以外の者に、決してお姫様をおやりにならぬと、約束なさっていたのです。ですから、永い間思い惑い、動揺し、黙っていたあとで、大臣《ワジール》は最後にたいそう悲しげな声で、お答え申し上げました、「さようにござりまする、おお当代の王様。さりながら陛下は、お姫様をば君の奴隷の息子へとお約束遊ばされたことを、お忘れになっていらっしゃいます。されば私は、もしこの見知らぬ男の献上品がまこと御意に叶うとあらば、何とぞ私にただ三カ月の猶予を賜わりますよう、願い奉りまする。その間に、私はわが息子のために、結納としてわが君に献上致すべき、この進物よりもさらに美しい進物を、私自身探して御覧に入れることをお約束いたしまする。」
ところで王様は、宝石宝玉類についての御造詣ゆえ、地上の何ぴとたりと、よしんば王や帝王《スルターン》の子なりとも、この種のものとして無双のこれらの逸品に、遠くも近くも、及びつく贈物を見つけることなどできないのは、よくわかっておいででしたが、この老|大臣《ワジール》のこいねがうお情けが、どんなに無駄なものであろうと、これを拒んで大臣《ワジール》に不親切にすることは、お好みになりませんでした。そして懇ろな御心《みこころ》から、これにお答えになりました、「いかにも、おおわが大臣《ワジール》よ、その方の求むる猶予を授けてつかわす。さりながら、その三月たって、もしその方が息子のために、わが娘のため余に捧ぐべき結納として、これなる老女が自分の息子アラジンの名において、余に捧ぐる結納を凌ぐ、或いは単にこれに匹敵するものをば、首尾よく見出し得ざりし節は、余はその方の忠勤に免じて、その方の息子のために、及ぶ限りのことを尽したるものである旨、しかと心得よ。」次にアラジンの母親のほうを向いて、極めて愛想よく、おっしゃいました、「おおアラジンの母よ、その方は悦び勇み安泰に、息子の許に戻り、願いの筋は聴き届けられ、わが娘は今後は彼の名においてあると(16)、申し伝えるがよい。されど、わが娘の嫁入支度を調えさせ、王女の身分に恥かしからぬ家具家財を作らせる暇《いとま》をもらいたく、結婚は三カ月後でなければ行なわれ得ぬであろうと、伝えてくれよ。」
そこでアラジンの母親は、極度に感激して、天に両腕を挙げ、帝王《スルターン》の繁栄と長寿を祈願して、お暇乞いをし、御殿を出ると直ちにわが家に向って、悦び勇んで飛んでゆきました。そして家にはいるとすぐに、アラジンは母の顔が仕合せに輝くのを見て、母のところに駈けつけ、わくわくしながら、訊ねました、「どうでした、お母様、僕は生きるべきか、それとも死ぬべきですか。」憐れな女は疲れてへとへとになって、まず長椅子《デイワーン》に腰を下ろし、顔の面衣《ヴエール》を外して、言いました、「吉報を持ってきたよ、おおアラジンや。帝王《スルターン》の王女は、今後はお前の名においてあるよ。そしてお前の御進物は、御覧のとおり、悦びと満足をもって嘉納されました。ただね、お前とバドルール・ブドゥール姫との結婚は、三カ月後でないと取り行なわれることができないのです。こんなに延びたのは総理|大臣《ワジール》のせい、あの災いの鬚め。大臣《ワジール》は王様にこっそりお話しして、どういうわけか知らないが、式を延ばすように入知恵したものですよ。けれども、インシャーラー、悪いようには決してなりますまい。お前の望みは、すべての予想以上に叶えられることでしょうよ、おおわが子よ。」次に付け加えました、「あの総理|大臣《ワジール》については、ねえ息子よ、どうかアッラーが大臣《ワジール》を呪って、いちばんひどい目に遭わせて下さるように。それというのは、あの大臣《ワジール》が何を王様のお耳に入れたのか、私は気になってならないのだよ。あの人さえいなけりゃ、結婚は十中八、九、今日明日のうちに行なわれたことだろう。それほど王様は、あの白磁の皿の宝石でできた果物に、たいへんなお悦びだったのです。」
それから、途中で休みもせず、息もつかずに、母親は政務所《デイワーン》にはいってから出るまでに起ったことを、残らず息子に話し、次のように言って、話を結びました、「どうぞアッラーは、私たちの光栄ある帝王《スルターン》の御命《おんいのち》を永らえ、お前を待つ仕合せのために、お前の身をお守り下さいますように、おおわが息子アラジンよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十夜になると[#「けれども第七百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてアラジンは、母親が今知らせてくれたところを聞くと、嬉しさと満足でそわそわして、叫びました、「おお、お母様、わが家に御恵《みめぐ》みを垂れさせたまい、最大の王族たちの血統の王女をば、お母様に娘として授けたもうアッラーは、頌め讃えられよかし。」そして母親の手に接吻して、こんなむつかしい用件をやり抜くのに払ったあらゆる骨折りに対して、厚くお礼を申しました。すると母親も優しく彼に接吻して、これにあらゆる種類の繁栄を祈り、アラジンの父親の、わが夫の仕立屋がもういなくて、その昔の腕白小僧たる、息子の天命の好運とすばらしい結果とを見せるに由ないのを思って、涙を流したのでした。
そしてその日から親子は、三カ月の満ちるまで、自分たちの期待する仕合せから自分たちを隔てる時間を、この上なく待ち切れない思いで、数えはじめました。そして二人で、いろいろの計画や、お祝いや、貧しい人たちに振舞うつもりの施しのことを、語らいつづけていました。まだ昨日までは、自分たち自身も貧窮にあったことを思い、「報酬者」の御目《おんめ》に最も功績あることは、いささかの疑いもなく、寛仁ということ、と考えたのでございました。
さて、このようにして二月《ふたつき》が過ぎました。アラジンの母親は、毎日、婚礼前の必要な買物をするため外出していましたが、或る日、市場《スーク》に行って、いろいろと大小の買物をしながら、方々の店屋にはいりはじめていると、その時、ここに来たおりには気づかなかった一事に、気がつきました。実際、店という店全部が飾りつけられて、葉のついた枝や、灯籠や、通りの端《はし》から端《はし》に渡した色とりどりの小旗で、飾られていて、すべての店主も、買手も、市場《スーク》の人たちも、金持も貧乏人も、非常な悦びの色を面《おもて》に現わし、通りという通りは、儀式用の金襴の着物をきらびやかに着用し、美々しく馬具をつけた馬に跨った、王宮の役人たちで雑沓し、皆々いつもにない活気を帯びて往き来しているのが、見られました。そこでアラジンの母親は、折から油を買い込んでいたのでその油屋に、この悦ばしげな群衆全部は、自分の知らないどういうお祭を祝っているのか、こうしたすべての現われはどういう意味なのかを、取り敢えず訊ねました。油屋はこんな質問にすっかり機嫌を悪くして、彼女を睨みつけ、そして答えました、「アッラーにかけて、まるであんたは人を馬鹿にしているみたいだ。さもなけりゃ、総理|大臣《ワジール》の御曹司と帝王《スルターン》の王女バドルール・ブドゥール姫との御結婚を、そんな風に御存じないとは、あなたは外国人ででもあるのかな。今はちょうど、お姫様が浴場《ハンマーム》から出なさろうという時刻だ。黄金の服を立派に着こんだこの騎馬の人たちはみな、御殿まで姫の護衛に当る衛兵ですよ。」
アラジンの母親はこの油屋の言葉を聞くと、もうそれ以上聞こうとはせず、物狂わしく泣き沈んで、買物なぞみんな商人のところに置き忘れ、諸方の市場《スーク》を駈け抜けて、わが家につくと、中に飛び込んで、息を切らして長椅子《デイワーン》の上に身を投げかけ、しばらくは、そのままひと言も言い出せずにおりました。やっと口を利けるようになると、彼女は駈けつけたアラジンに言いました、「ああわが子よ、天命はお前のほうにその書物の不吉なページをめくりました。それで今はもう万事休すで、お前が向って進んで行った仕合せは、本当になる前に、消え失せてしまったよ。」アラジンは、母親の有様と、聞いた言葉にたいへんびっくりして、訊ねました、「そんな不吉なことって、いったい何ごとが起ったのですか、おお、お母様。早く言って聞せて下さい。」母親は言いました、「さても、息子よ、帝王《スルターン》は私たちになすった約束を忘れてしまいなすった。そしてちょうど今日、王女バドルール・ブドゥール様をば、総理|大臣《ワジール》の息子と結婚させなさるのです。あの瀝青《チヤン》の顔、私があれほど心配していたあの災厄《わざわい》の大臣《ワジール》め、それで町じゅうが、大祭の時のように、今夜の婚礼のために、飾りつけられているのだよ。」するとアラジンはこの知らせを聞くと、発熱が脳を襲って、彼の血をどきんどきんと激しく廻《めぐ》らせるのを覚えました。そしてまるで今にも倒れて遂に死んでしまうかのように、しばらくは茫然自失の態《てい》でした。けれども、自分が不思議なランプを持っていて、それが今度は日頃にまして、非常な助けになるだろうということを思い出して、程なくよく自分を制するに到りました。そして母親のほうに向いて、ごく落ち着いた口調で、言いました、「お母様の命《いのち》にかけて、おお、お母様、大臣《ワジール》の息子は今夜は必ず、僕の代りに味わうつもりでいるすべての歓びを、楽しむことはあるまいと思います。ですからこれについては、どうぞ御心配なく、それよりかこれ以上時を移さず、立ち上がって僕らの食事の支度をして下さいな。そのあとで、至高者のお助けを得て、僕らがこれからどうしたらよいか、考えるとしましょう。」
アラジンの母親はそこで立ち上がって、食事の支度をすると、アラジンは非常な食欲で食べましたが、食事がすむとすぐに、「僕はひとりきりになって、誰にも邪魔されたくないから」と言って、自分の部屋に引っ込んでしまいました。そして自分の後ろの戸に鍵をかけて閉め、かねて隠しておいた場所から、魔法のランプを取り出しました。そしてそれを取り上げて、知っている場所を擦《こす》りました。するとその瞬間に、ランプの奴隷の鬼神《イフリート》が、彼の前に現われて言いました、「御手の間に[#「御手の間に」に傍点]、ここに[#「ここに」に傍点]、あなた様の奴隷が控えておりまする[#「あなた様の奴隷が控えておりまする」に傍点]。仰せあれ[#「仰せあれ」に傍点]、何御用でござりましょうか[#「何御用でござりましょうか」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]、空中を飛ぼうとも[#「空中を飛ぼうとも」に傍点]、地上を這おうとも[#「地上を這おうとも」に傍点]、このランプの下僕でございます[#「このランプの下僕でございます」に傍点]。」するとアラジンはこれに言いました、「おれの言うことをよく聞いてくれ。おおランプの下僕《しもべ》よ。それというのは、今度はもう飲み食いする物を持ってきてもらうことなどではなく、それとは全く別の大切な要件で、骨折ってもらいたいのだ。実際こういう話だ。帝王《スルターン》はおれから宝玉の果物の賜物を受け取った後、麗わしい王女バドルール・ブドゥール姫との結婚を、おれに約束なすった。そして婚姻の挙式までに、三カ月の猶予を求めたのであった。しかるに今やその約束をお忘れになって、おれの進物を返すことさえ考えずに、王女をば総理|大臣《ワジール》の息子と結婚させようというのだ。だが、決して事がそんな風に行なわれるようなことがあってはならぬ。そこでおれはおれの計画遂行に当って、お前の骨折りを頼みたい次第だ。」すると鬼神《イフリート》は答えました、「仰せつけ下さい、おおわが御主人アラジン様、私にそんなに詳しく御説明下さる必要はございません。御命令相成れば、私は従いまする。」そこでアラジンは答えました、「では今夜、二人の新婚夫婦がその婚姻の床《とこ》に寝るとそうそう、まだお互いに単に触れ合う暇さえあらせず、お前は寝床ごと二人を攫《さら》い、この場に運んできてもらいたい。それからおれがどうしたらよいかは、自分で考える。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十一夜になると[#「けれども第七百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとランプの鬼神《イフリート》は手を額にやって、答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして姿を消しました。アラジンは母親に会いに行って、そのそばに坐り、静かに四方山話をしはじめて、まるでそんなことは何ごとも起らなかったかのように、王女の結婚など気にかける様子がありませんでした。やがて夜になると、彼は母親を自由に寝かしにやって、自分は自分の部屋に戻り、改めて鍵をかけて閉じこもって、鬼神《イフリート》の帰るのを待っておりました。彼のほうは、このようでございます。
さて総理|大臣《ワジール》の息子の婚礼はと申しますと、こうです。いよいよ祝祭と祝宴と儀式と応接と祭礼が果てますと、新郎は宦官の長《おさ》を先に立てて、婚姻の間《ま》にはいりました。そして宦官の長《おさ》はいそいで退出し、出て行ったあとの戸を閉めました。新郎は着物を脱いでから、蚊帳を持ち上げて、寝床に寝にはいり、そこで姫の来るのを待っていました。さて姫はほどなく、母君とその御付《おつき》の女たちに付き添われてはいって来まして、一同はその着物を脱がせて、絹の肌着だけを着せ、その髪をほどきました。それから、みんなでいわばむりやり姫を寝床のなかに入れますと、一方姫は、こういう際の花嫁たちの習慣に従って、どこまでも逆らうようなふりをし、あらゆる方向に身を捩《よじ》って、みんなの手から逃れようと努めます。そしていよいよ姫を寝床に入れてしまうと、女たちは寝床に既に寝ている大臣《ワジール》の息子を、わざと見ないようにして、滞りなく床入りが済むのを祈りつつ、みんな揃って退出しました。母君は最後にお出になって、習慣に従って深い溜息を洩しながら、部屋の戸をお閉めになりました。
さて、この新婚夫婦は、二人きりになったと思うとすぐ、ほんのすこしの愛撫を交わす暇もなく、突然寝床ごと持ち上げられるのを感じましたが、いったい何ごとが起ったのか、わけがわかりません。そして瞬くひまに、そのまま御殿の外に運び出されて、二人の知らない場所に下ろされましたが、そこは外ならぬアラジンの部屋でした。それで二人が恐怖に陥っている間に、鬼神《イフリート》はアラジンの前に来て平伏し、言いました、「おおわが御主人様、御命令まさに果たしました。この上何ごとなりと御命じ相成れば、直ちに致しまする。」するとアラジンはこれに答えました、「この上頼むことと申せば、これなる若い女衒《ぜげん》を引っ攫って、これをひと晩じゅう、厠《かわや》のなかに閉じこめておいてもらいたい。そして明朝、ここに更に命令を受けに戻ってきてくれ。」するとランプの魔神《ジンニー》は承わり畏まって答え、いそいで言いつけに従いました。それで、大臣《ワジール》の息子を手荒に引っ攫って、これを厠《かわや》に閉じこめにゆき、彼の頭を穴のなかに突っこみました。そして彼の上に冷たく臭い息を吹きかけると、彼はそのままの姿勢で、材木のように動けなくなりました。彼のほうは、このようでございます。
さてアラジンはと申しますと、彼はバドルール・ブドゥール姫と二人きりになりますと、姫に対する深い思慕にもかかわらず、ただの一瞬も、この場の成行きにつけこもうなどとは思いませんでした。そしてまず、手をわが胸にあてながら、姫の前に身をかがめて、深く情熱のこもった声で、言いました、「おお姫君様、ここにいらっしゃれば、父君|帝王《スルターン》の御殿にいらっしゃるよりも、御身御安泰と思し召せ。あなた様がこんな御存じもなき場所においでになるのは、ただ、父君の大臣《ワジール》の息子、あの若いたわけ者の愛撫を、お受けなさらぬようにというだけに外なりませぬ。この私は、実は私こそあなた様と結婚のお約束をした者であるとは申せ、慎しんで御身に触れぬように致すでございましょう。時到って、あなた様が聖典《キタープ》と行録《スンナ》によって、わが正妻となられぬうちは。」
このアラジンの言葉を聞いて、姫は何も皆目わかりませんでした。第一、すっかり動転していましたし、第二に、父君の昔のお約束も、この事件の細かいすべての顛末も、一切知りませんでしたから。それで、何と言ってよいやらわからないので、ただ甚だしく泣くだけにしていらっしゃいました。するとアラジンは、姫君に対して何の悪意もないことを、はっきりと証拠立て、姫を安心させるために、着物を着たままで、寝床の、ちょうど大臣《ワジール》の息子が占めていた場所に横たわり、あらかじめ姫君と自分との間に抜身の剣を置く用心をし、それによって、たとい指の先でも姫の身に触れるくらいなら、むしろわれとわが生命を絶つつもりであることを、はっきりと示しました。そればかりか、姫君のほうには背を向けて、どのような点からもお邪魔をしまいとしました。そして、さながらいつもの独り寝の床にただひとりいるのと同じように、あれほど望みに望んだバドルール・ブドゥール姫のいることに一向頓着せず、全く安らかに寝入ったのでございました。
姫のほうでは、こんな不思議な出来事によって惹き起された心の激動と、わが身のある新しい境遇と、ある時は恐怖、ある時は喫驚の、心を揺する騒然とした想いの数々は、夜通し、眼を閉じるのを妨げました。けれども、まちがいなく、姫君のほうは大臣《ワジール》の息子よりも、それはもうずっとましでした。こちらは厠《かわや》で、頭を穴に突っこんだまま、鬼神《イフリート》が身動きできないようにするため吹きかけた恐ろしい息吹のために、身じろぎ一つできない始末でした。何はともあれ、この二人の夫婦の運命は、婚姻初夜としては、まことに痛ましく、まことに多難ということ以外、何もなかったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十二夜になると[#「けれども第七百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
翌朝になると、アラジンが改めてランプを擦るまでもなく、鬼神《イフリート》は、かねて与えられた命令に従って、ランプの主人のお目覚めを待ちに、ひとりでにやって来ました。そして主人がなかなか目を覚さないので、幾度《いくたび》か叫び声をあげて、その姿を認める力のない姫君を、慄え上がらせました。そのうちアラジンは目を開けました。そして鬼神《イフリート》とわかるとすぐに、姫のそばから立ち上がり、すこしわきに行って鬼神《イフリート》だけにしか聞えないようにして、これに言いました、「いそいで大臣《ワジール》の息子を厠から引き出しにゆき、戻って寝床のなかの、元いた場所にこれを下ろしてくれ。次に二人もろとも帝王《スルターン》の御殿に運び、昨夜連れてきたその場所に戻せ。とりわけ、よく二人を見張りして、互いに愛撫したり、また触れ合うだけさえもさせぬように。」するとランプの鬼神《イフリート》は、承わり畏まって答え、いそいでまず待ちぼうけの若い男を厠《かわや》から引き出しにゆき、これを寝床の上の、姫君のそばに下ろし、それからすぐに、目をまたたくに必要な時間よりも少ない時間のうちに、二人がわが身に起ることも、またどういう方法でこんなに早く住居を変えるのか、見ることもわかることもできぬ間に、二人をもろとも帝王《スルターン》の御殿の婚礼の間《ま》に運んでしまいました。もっとも、それこそ彼らの身にとっては、一番ありがたいことだったのです。なぜなら、ランプの下僕《しもべ》の恐ろしい魔神《ジンニー》を見ただけで、彼らはそのため死んでしまうほど慄え上がったことは、もう疑いありませんから。
さて、鬼神《イフリート》が二人の新婚夫婦を御殿のお部屋に運んだと思うと、帝王《スルターン》とお妃《きさき》は、お子様の姫君がどんな工合にこの結婚初夜を過したか、模様をお知りになりたくてならず、また姫にお慶びを申し、誰よりも先に姫に会って、幸福と歓びの久しからんことを祈りたいとお思いになって、お揃いで朝の入御をなさいました。そして激しく感動なさりつつ、王女の寝床に近づいて、やさしく王女の眼の間に接吻しながら、おっしゃいました、「そなたの縁組の祝福されよかし、おおわれらの心の娘よ。願わくは、そなたの胎《はら》より、一門の光栄と高貴を永久に続かしむる、連綿たる美貌高名の子孫の生ずるを見得んことを。さあ、そなたはどのようにこの最初の夜を過したか、そなたの夫はそなたに対してどのように振舞ったか、聞かせてくれよ。」このように言って、お二人は姫のお返事を待って、口を噤みなさいました。すると突然姫は、はればれした、にこやかなお顔を見せる代りに、わっと泣き出して、涙溢れる悲しげな大きな眼をして、御両親を見つめるのでございました。
そこで御両親は新郎に訊ねようと思って、寝床のまだ寝ていると思しきあたりを御覧になりました。しかし新郎は、ちょうどお二人がはいって来なすった時に、部屋を出て、顔中|穢《けが》れにまみれているのを、洗い落しに出かけたところでした。それでお二人は、新郎が床入り終了の後、慣例のお風呂をつかいに、御殿の浴場《ハンマーム》に行ったのだろうと、お考えになりました。そして改めて王女のほうにお向きになって、その涙と悲しみの動機《いわれ》について、身振りと目付きと声でもって、心配げにお訊ねになりました。すると王女はやはり黙りつづけているので、御両親は、これはただ結婚初夜の羞しさのため口が利けないので、涙もその場だけの涙と、お思いになりました。そこであまり強いてはいけないとお考えになり、しばらくそのままそっとしておいてから、訊ねることになさいました。けれども、どうもその状態があまりいつまでも終りそうもなく、姫の涙はますます増すばかりなので、お妃《きさき》はもうこれ以上我慢しきれなくなって、険悪な調子で、とうとう姫におっしゃいました、「さあ、姫よ、もうそろそろ私に答え、お父様にお答えしてはどうです。それとも、この上まだ永い間、私たちに向って、もう永すぎるほどつづいているこんな態度を、とるおつもりかね。私だって、姫よ、むかしはあなたのように、またあなたより以前に、花嫁でした。けれども私は、こんな怒った雌※[#「奚+隹」、unicode96de]みたいな様子を、いつまでも続けすぎないだけの才覚を、持ち合せることができました。その上、あなたは現在、いつまでも両親に返事をしないでいて、私たち両親に当然払わなければならない尊敬を欠いているということを、お忘れですよ。」
この御機嫌斜めの母君のお言葉に、かわいそうな姫君は、一時にあらゆる方面から攻め立てられて、もう今まで守っていた沈黙から出ないわけにゆかなくなり、たいそう悲しげな深い吐息をもらしながら、お答えしました、「お父様とお母様に当然お払い申さなければならない尊敬を、もしわたくしが欠きましたのならば、どうかアッラーはお許し下さいますように。けれども、わたくしの言いわけを申せば、わたくしはもうこの上なく心乱れ、昨夜わが身に起ったことすべてに、すっかり動転し、悲しみ、ぼんやりしてしまっているのでございます。」そして前の晩、わが身に起ったことすべてを話しはじめたのですが、それは実際に事が行なわれたとおりにではなくて、姫が自分自身、ただ自分の眼だけで判断し得たとおりに、話したのでございます。寝床にはいって、新郎の大臣《ワジール》の息子のそばに横になったと思うとすぐに、寝床が自分の下で動き出すのを感じた次第、婚姻の間《ま》から、瞬くうちに、その前かつて知ったことのない家に、自分が運ばれた次第、新郎はいったいどういう工合にして攫ってゆかれ、また元に戻されたのかわからないが、とにかく自分と引き離された次第、そして新郎の代りには、ひと晩じゅう一人の美しい若い男が来て、その男はたいそう恭々しく極度に鄭重で、万一姫に不埓な真似を働くような羽目になってはと、二人の間に抜き身の剣を置き、顔を壁のほうに向けて眠った次第、そして最後に、朝になって、新郎が寝床に戻ると、再び一緒に御殿の婚姻の間《ま》に運ばれ、すると新郎はいそいで起き上がって、そこから浴場《ハンマーム》に駈け出して、顔一面すさまじいものだらけになっているのを、取りのけに行った次第、以上を姫君は話しました。そして付け加えました、「そうしてちょうどこのとき、お二人が、わたくしに朝の挨拶《サラーム》をなさって様子を訊ねに、御一緒にはいっておいでになったのです。わたくしはもう駄目。もう死ぬより外にございません。」こう話して、姫は痛ましい嗚咽に襲われて、頭を枕に埋めました。
帝王《スルターン》と王妃《スルターナ》は、王女バドルール・ブドゥールのこの言葉を聞くと、呆気にとられ、白い眼と浮かぬ顔をして、お顔を見合せ、これは王女がはじめて処女を傷つけられたその夜のために、正気を失ってしまったにちがいないとお思いになりました。そして二人とも姫の言葉は何ひとつ信用なさろうとはしないで……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十三夜になると[#「けれども第七百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして母君は囁くような声で、姫におっしゃいました、「いつでも事はそんな風に運ぶのですよ、姫よ。けれどもよく気をつけて、構えて何ごとも他人にお言いではない。なぜなら、こういうことは、決して話さないことになっているのです。あなたからそんなことを聞くと、人々はあなたを気違いと思うといけませんからね。ですから、さあ起きて、もうこのことは気にかけず、今日御殿であなたのために催される折角の祝宴を、浮かない顔付きで、興ざめにしないようになさいよ。このお祭は私たちの都ばかりでなく、全国でこれから四十日と四十夜にわたって続きます。さあ、姫よ、機嫌をよくして、昨夜のいろいろな出来事など、さっさと忘れておしまいなさい。」
次に王妃《スルターナ》は侍女たちを呼んで、姫君のお化粧の世話を頼みました。それから、たいへん思い惑っていらっしゃる帝王《スルターン》と一緒に、婿の大臣《ワジール》の息子を探しに、出て行かれました。そしてとうとう、彼が浴場《ハンマーム》から戻ってきたところに、出会いました。王妃《スルターナ》は王女の申し立てを確かめたいとお思いになって、この待ち呆けの若者に、起ったことを尋ねはじめました。けれども彼は、昨夜自分の耐え忍んだことを、何ひとつ白状しようとはせず、自分の妻の両親から嘲られ斥けられてはと思って、事件を全部包み隠して、ただこう答えただけでした、「アッラーにかけて、お二方が私にお尋ねになりながら、こんな変な御様子をなさるとは、いったい何ごとが起ったのでございますか。」すると王妃《スルターナ》は、王女が御自分に語ったことすべては何か悪夢のせいだと、ますます固く信じなすって、婿にあまり強《た》って問いたださないほうがよかろうと思い、これにおっしゃいました、「万事とどこおりなく悩みもなく行ったとは、アッラーは讃めたたえられよかし。わが子よ、あなたの妻に対してはくれぐれも優しくして下さいよ、何しろかよわい子ですからね。」
こう言って、王妃《スルターナ》は彼と別れ、御自分のあちこちのお部屋に行って、その日の祝宴と余興の監督をなさいました。王妃《スルターナ》と新婚夫婦については、このようでございます。
さてアラジンのほうでは、御殿で起ったことは大体見当がついていましたので、大臣《ワジール》の息子を見事になぶりものにしてやったことを考え、大いに楽しんで一日を過しました。けれどもそれで決して満足はせず、競争相手の屈辱を、とことんまで玩味してやりたいと思いました。そこで相手に息つくひまも与えぬがこの際得策と考え、夜になるとすぐ、ランプを取り上げて擦りました。すると魔神《ジンニー》は彼の前に現われて、この前の時と同じ文句を言いました。そこでアラジンは言いつけました、「おおランプの下僕《しもべ》よ、帝王《スルターン》の御殿に行け。そして、新婚夫婦が一緒に寝るのを見届けたら直ちに、二人を寝床もろとも引っ攫い、昨日したように、ここに連れてきてもらいたい。」すると魔神《ジンニー》はいそいで命令を実行しにゆき、やがて荷物を持って戻ってきて、それをアラジンの部屋に下ろし、それからすぐに、大臣《ワジール》の息子を攫って、頭から先に厠《かわや》のなかに突っこみました。そしてアラジンはその空いた場所にはいって、姫君の横に寝ずにいませんでしたが、しかし前と同じように、礼儀正しく振舞いました。そして二人の間に剣を置いた上で、壁のほうに向いて、静かに眠ったのでした。その翌日には、事はちょうど前の日とそっくりに行なわれました。つまり、鬼神《イフリート》はアラジンの命令に従って、待ちぼけ男をバドルール・ブドゥールのそばに戻し、二人を寝床もろとも、帝王《スルターン》の御殿の婚姻の間《ま》に運んだという意味でございます。
さて帝王《スルターン》は、昨日にもまして、第二夜を過した王女の様子を知りたくてならず、きっかりその時に、婚姻の間《ま》にお着きになりましたが、今度はただおひとりでした。それというのは、お妃《きさき》の王妃《スルターナ》の不機嫌を、何にもまして恐れていらっしゃったので、御自身で姫君に尋ねるほうが好ましいとお思いになったわけです。さて大臣《ワジール》の息子は屈辱の極みにあって、帝王《スルターン》の蛩音を聞くとすぐに、寝床から飛び降りて、部屋の外に逃げ出し、浴場《ハンマーム》に顔を洗いに駈けつけました。帝王《スルターン》はおはいりになって、王女の寝床まで歩み寄り、蚊帳を掲げなさいました。そして姫に接吻なすってから、おっしゃいました、「いかがかな、姫よ、昨日はそなたは悪夢の途方もない出来事を、私たちに話して聞かせたが、昨夜はまさかあれと同じような、恐ろしい悪夢はみなかったであろうが。さあ、昨夜はどのように過したか、聞かせてもらえようか。」けれども姫はお答えする代りに、わっと泣き出して、顔を両手で隠し、何のことやら一向おわかりにならぬ父君の、御不興の眼を見まいとします。父君は姫に落ち着く暇を与えようと、しばらく待っていらっしゃいましたが、姫はやはり泣きじゃくりつづけているので、とうとうたいそうお怒りになって、剣を抜いて、お叫びになりました、「わが生命《いのち》にかけて、もし今直ちに真相を申さぬとあらば、そちの首《こうべ》は肩より飛ぶであろうぞ。」
するとかわいそうな姫君は、二重に怯えて、涙を押し止めないわけにゆかず、そしてきれぎれの声で、言いました、「おお最愛のお父様、後生です、どうかわたくしにお腹立ち遊ばしますな。それというのは、もしわたくしの言うことをお聞き下さったならば、わたくしに対するお父様のお怒りをかき立てなさるお母様が、今はいらっしゃらないのですから、お父様はきっとわたくしを許して下さって、わたくしを不憫と思し召し、わたくしを恥と恐れで死なせないために必要な、予防の途を講じて下さることでございましょう。それというのは、もうたしかに、万一昨夜遭ったような恐ろしい目にいま一度遭ったなら、わたくしは翌日には、きっと寝床のなかで死んでいるにちがいございません。ですから、どうぞわたくしをお憐れみ下さいまし、おお、お父様、そしてお耳とお心とが、わたくしの苦しみと心配に同情するようになすって下さいませ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十四夜になると[#「けれども第七百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると帝王《スルターン》は、もともと憐れみ深いお心の方であり、かつは今はお妃《きさき》のやかましい姿も見えないので、王女のほうに身を屈めて、掻き抱いてあやして、そのいとしい魂を鎮めてやりなさいました。それからおっしゃいました、「さあ今は、姫よ、そなたの精神《こころ》を鎮め、眼を爽やかにせよ。そしてあくまでも安んじて、昨夜そなたをそのような激動と恐怖の状態に陥れた出来事を、事細かに父に語るがよい。」すると姫は、頭を父君の胸に埋めながら、過した二夜《ふたよ》にわたって起きた面白からぬことすべてを、何一つ落さずに話し、こう付け加えて、話を結びました、「それに、おお最愛のお父様、これは大臣《ワジール》の息子さんに直接お訊ねになって、わたくしの言葉を確かめてもらうようになさるほうが、もっとよろしゅうございます。」
すると帝王《スルターン》は、この不思議な事件の話を聞くと、思い惑いの無上の極に達して、王女の苦しみをともになさり、お眼が涙で濡れるのをお感じになりました。それほど、王女を愛していらっしゃったのでございます。そこでおっしゃいました、「いかにも、姫よ、そなたの身に起る不祥事一切の原因は、ただわが一身にある。そなたを保護して、このような奇怪な出来事からそなたを護ることもできない、まぬけな男と結婚させたのは、余なのだからな。それというのも、実際のところ、この結婚によって、余の望んだのは、そなたの幸福でこそあれ、決してそなたの不幸と衰えではないのじゃ。さて、ではアッラーにかけて、余はこれより早速|大臣《ワジール》の息子のたわけ者を呼びつけて、こうしたことすべてについて、釈明を求めるとしよう。しかしながら、何はともあれ、姫よ、そなたはことごとく安心して可なりじゃ。何となれば、かかる事件は今後決して繰り返されることはあるまい。それはわが頭《こうべ》の生命《いのち》にかけて誓うによって。」次に父君は王女を侍女たちの世話にまかせて、御自分はお怒りに煮えくりかえりながら、お部屋にお帰りになりました。
それからすぐに総理|大臣《ワジール》をお召しになりまして、大臣《ワジール》が御手の間に罷り出るとすぐ、どなりつけなさいました、「汝の息子の女衒《ぜげん》はどこにいるか。そしてやつはこの二夜《ふたよ》の出来事について、何と申しておるか。」総理|大臣《ワジール》は仰天して、答えました、「はてそれは何のことでございますやら、おお当代の王よ。愚息は、わが君のお怒りを私に了解させることのできるようなことは、何ひとつ申しませんでしたが。しかしお許しあらば、これより直ちに愚息に会い、問いただしてまいりまする。」すると帝王《スルターン》はおっしゃいました、「行け。そして速やかに戻って、余に返事をもたらせ。」総理|大臣《ワジール》はすっかり浮かぬ顔をして、背中を曲げながらお部屋を出て、息子を探しにゆきますと、息子はちょうど浴場《ハンマーム》で、全身の汚物を洗っている最中でした。大臣《ワジール》はどなりつけました、「おお犬の息子よ、なぜお前は真相を隠していたのじゃ。万一今すぐにこの二夜《ふたよ》の出来事を委細知らせぬとあらば、この日がお前の最後の日となろうぞ。」すると息子は、頭を垂れて、答えました、「何ともはや、父上様、私はただ恥かしいばかりに今まで父上に、この二夜《ふたよ》の不祥事と、私の遭った何とも申しようのないひどい目をば、打ち明けかねていたのでございました。それはわが身を護る術《すべ》もなければ、また単に、いかにしてまたいかなる仇なる力の威力によって、こうしたすべてがわれわれの寝床のなかで、われわれ両人の身に起ったのか、知る術《すべ》もないのです。」そして彼は一件全部を、何ひとつ忘れず、詳しく父親に話しました。けれどもそれを繰り返しても益なきことでございます。それから付け加えました、「私はと申せば、おお父上、私はこのような生よりは死を選びます。そして、父上の御前で、私は帝王《スルターン》の王女とはきっぱり離縁すると、三重の離婚の誓を致しまする。ですからどうか帝王《スルターン》にお目にかかりにいらっして、王女バドルール・ブドゥールと私との結婚の無効声明を御承認相成るよう、申し上げて下さい。それというのは、ただそればかりが、このひどい目を見なくなって、安らかな思いをする唯一の途ですから。そうなれば私は、厠《かわや》のなかで夜な夜なを過す代りに、自分の寝床で眠ることができますでしょう。」
この息子の言葉を聞いて、総理|大臣《ワジール》はたいそう悲観しました。それというのは、彼の終生の願いは、自分の息子が帝王《スルターン》の王女と結婚するのを見ることであったので、この一代の名誉をあきらめることは、実もってつらいことだったのです。ですから、このような有様では、離婚は避け得ぬのは重々承知にもかかわらず、なお彼は息子に言いました、「いかにも、おお息子よ、そのような目を更に忍ぶのは不可能事じゃ。さりながら、この離婚によって、お前の棄て去るもののことも考えてみよ。むしろもうひと晩、辛抱してみるがよくはないか。今晩はひと晩じゅう、剣と丸太棒を携えた宦官どもを引き連れて、われわれが皆で婚姻の間《ま》のまわりで見張っていてやるから。どんなものか、わが息子よ。」息子は答えました、「何でもお好きなようにして下さい、おお父上、総理|大臣《ワジール》様。この私はとにかく、もうあの瀝青《チヤン》の間《ま》にははいるまいと、かたく決心しております。」
そこで大臣《ワジール》は息子を残して、王様にお目にかかりにゆきました。そして頭を垂れて、御手の間にじっと立ち尽しました。王様はお訊ねになりました、「いかなる申し分ありや。」大臣《ワジール》は答えました、「わが御主君の御命《おんいのち》にかけて、バドルール・ブドゥール姫のお話しなされたところは、まさにそのとおりでございます。されど咎《とが》は決して愚息にござりませぬ。まあいずれにせよ、おお当代の王よ、姫君が愚息のゆえに、新たなる不快事に曝《さら》されるようなことは、もっての外。されば君のお許しあらば、この二人の夫婦は、今後離婚によって別れて暮すに如《し》かずと存じまする。」すると王様はおっしゃいました、「アッラーにかけて、その方の言うところいかにももっともじゃ。だが万一わが娘の夫がその方の息子ならずとせば、余は死をもって、わが娘を夫から救い出したであろうぞ。さらば両人を離婚させよ。」そしてすぐに帝王《スルターン》は、宮中でも都でも、またシナ全国にわたって、一般の祝宴を中止させるに必要な命令をお下しになり、そして結婚は何ら完了せられず、真珠は処女にして閉塞せるままであった旨を、よく徹底させるようにしながら、王女バドルール・ブドゥールの総理|大臣《ワジール》の息子との離婚を、布告させなさいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十五夜になると[#「けれども第七百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
総理|大臣《ワジール》の息子につきましては、帝王《スルターン》は父親に免じて、これをシナの遠く隔たった一州の太守《アミール》に任命して、遅滞なく出発せよとの命令を下されました。これはすぐに実行されました。
アラジンは、町の住民と同時に、触れ役人の布告によって、床入りの儀なくして、バドルール・ブドゥールの離婚したことと、このまぬけ男の出発したことを聞くと、晴々の限り晴々して、独りごとを言いました、「この不思議なるランプは祝福されよかし。これぞわがすべての繁栄の第一の原因だ。ランプの魔神《ジンニー》のもっと直接の干渉なしで、離婚が行なわれたということは、ともかくよかった。あの魔神《ジンニー》のことだから、きっとあのたわけ者を、永久に滅ぼしてしまったにちがいないからな。」そして誰ひとり、王様も総理|大臣《ワジール》も、母親さえも、この事件全体に彼が加わっていようとは少しも感づかずに、首尾よく自分の復讐がこうした成功を収めたことをも、やはり大いに悦びました。そしてまるで結婚申込みの時以来、何も変ったことなど起きなかったと同じくらいもう気にかけずに、全く心安らかに、帝王《スルターン》の求めた三カ月の猶予期間が過ぎるのを待って、その最後の日の翌日直ちに、いちばん美しい着物を着た母親を、御殿に差し向け、帝王《スルターン》にお約束を思い出していただくことにしました。
ところで、アラジンの母親が政務所《デイワーン》にはいるとすぐに、帝王《スルターン》はいつものように、政務を御覧になっている最中でしたが、そちらのほうに眼を投じて、すぐアラジンの母とわかりました。そして彼女は口をきくまでもありませんでした。それというのは、帝王《スルターン》はかつて御自分のなすった約束と定めた猶予期間を、ひとりでに思い出されたのです。そして総理|大臣《ワジール》のほうを向いて、おっしゃいました、「あすこに、おお大臣《ワジール》よ、アラジンの母親が来たわい。三カ月前に、宝石の満ちた見事な白磁をわれわれの許に持って参ったのは、まさにあの女じゃ。思うに、あの女は猶予期限満了に際して、余が娘に関してなした約束の実行を、余に求めに参ったものであろう。余はその方ゆえに約定を忘れておったが、その方の息子の結婚を許したまわず、余に口約を想起させたもうたアッラーは、祝福されよかし。」すると大臣《ワジール》は魂の中では、起った一切を深く口惜しがっていましたが、答えました、「いかにも、おおわが御主君よ、王者たるもの決して己が約束を忘れてはなりませぬ。しかしながら、実際のところ、誰でも自分の娘を嫁にやるに当っては、その夫については、よく身許を調べなければなりませぬ。しかるにわが御主君、王様におかれましては、かのアラジンとその家族について、殆んど何もお調べになりませんでした。ところがこの私は、あれは貧困のうちに死んだ身分卑しき、憐れなる仕立屋の息子なることを、存じております。仕立屋風情の息子に、そもそもいずこよりして、富が来たり得ましょうぞ。」王様はおっしゃいました、「富はアッラーより来たるのじゃ、おお大臣《ワジール》よ。」彼は答えました、「さようでございまする、おお王様。されど、かのアラジンなる者果たして、彼の献上品がわれわれに信じさせるほど、実際に富裕なりや否や、われわれは存じませぬ。われわれにその点を保証せんには、王様は、姫君の御値《おんあた》いとして、ひとり国王或いは帝王《スルターン》の王子のみよく払い得るくらいの莫大なる結納を、御要求遊ばされさえすれば仔細なきこと。かくして王様は、またも再び、王女様の御真価にふさわしからぬ夫をお与えになる危険を冒すことなく、とくと御承知の上にあらずば、王女様を結婚おさせにならぬがよろしゅうございます。」すると王様はおっしゃいました、「その方の舌は雄弁を分泌致すのう、おお大臣《ワジール》よ。さらばあの女を進み出させよ、余が話すによって。」大臣《ワジール》は警吏の長《おさ》に合図をすると、長《おさ》はアラジンの母親に、玉座の足許まで進み出させました。
すると、アラジンの母親は平伏して、王様の御手の間の床《ゆか》に、三度《みたび》接吻しました。王様はこれにおっしゃいました、「さればじゃ、おお小母よ、余はわが約束を少しも忘れてはおらぬ。されど今まで、余は未だそちに、真価並々ならぬ、わが娘の値いとして要求する結納の話を、していなかった。されば、そちの息子に次のように伝えよ。彼とわが娘エル・シート・バドルール・ブドゥールとの結婚は、わが娘のための結納として余の要求するところを、余に届けたる暁に、直ちに執り行なわれるであろう。即ち、彼の既に白磁の皿に盛って届けたると同じ種類の、あらゆる色とあらゆる截ち方の果物形の宝石をば、縁《ふち》まで盛り上げし、金無垢の大皿四十枚、しかもその黄金の皿をば、月のごとく美しき四十名の乙女の奴隷が、年若く逞しき四十名の黒人奴隷に先導せられて、王宮に運び来たり、一同善美を尽せる服装にて、行列をなして行進し、そしてくだんの四十の宝石の皿をば、わが手の間に置くべし。これぞわが求むるすべてである、わがよき小母よ。それと申すは、そちの息子の既に余に届けし進物に免じ、余はそれ以上要求したいとは思わぬからじゃ。」
そこでアラジンの母親は、この法外な請求にはびっくり仰天したとは申せ、再び玉座の前に平伏するだけにして、退出して、息子に自分の使命の復命をしにゆきました。そして申しました、「だから、わが息子よ、最初から、言わないことじゃないよ、このバドルール・ブドゥール姫との結婚は、考えないほうがいいと。」そしてたくさんの溜息をついて、王様が自分を迎えた様子、これはまあ丁寧なものでしたが、それと、最後的に結婚を承諾するに先立って、王様の持ち出した条件とを、息子に話しました。それから付け加えました、「おおわが子よ、何という気違い沙汰ですか、お前の気違い沙汰は。よこせという金の皿と宝石とはまだしもだ。お前は無鉄砲だから、またあの地下に行って、全部の木から魔法の実をもいで来かねないからね。だけど、その四十人の乙女の奴隷と、四十人の黒人の若者ときては、お前はいったいどうする気だえ、ええ? ああ、息子よ、この請求がこんなに法外だというのも、これまたあの呪われた大臣《ワジール》のせいです。私がはいったとき、大臣《ワジール》が王様の耳許に身を曲げて、そっと何か申し上げているのが見えたからね。私の言うことを信じなさい、アラジン、救いの道なくお前を身の破滅に追いこむ、こんな目論見は思いあきらめなさい。」けれどもアラジンはただ微笑するだけで、母親に答えました、「アッラーにかけて、おお、お母様、あんな変なお顔をしてはいって来なさるのを見ては、僕はこいつはひどく悪い知らせを言われるのかと思いましたよ。だけどお母様はいつも、決して本当にそれには及ばないことを、何でも気に病みなさることが、今はよくわかりました。実際、王様が王女の値いとして請求なさったすべては、僕が王様に本当に差し上げることのできるところと較べたら、何ものでもないと御承知下さい。ですからお眼を爽やかにして、お心を安んじて下さい。そしてお母様としては、僕たちの食事の支度をすることだけ、考えて下されば結構です、僕とてもお腹が空いたから。それで王様を満足させる心配は、まあ僕にまかせておおきなさい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十六夜になると[#「けれども第七百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、母親が入用な食料を買いに市場《スーク》に出かけるとすぐに、アラジンはいそいで自分の部屋にはいって、閉じこもりました。それからランプを取り出して、知っている場所を擦《こす》りました。するとすぐに魔神《ジンニー》が現われて、彼の前に身をかがめてから、申しました、「御手の間に[#「御手の間に」に傍点]、ここに[#「ここに」に傍点]、あなた様の奴隷が控えておりまする[#「あなた様の奴隷が控えておりまする」に傍点]。仰せあれ[#「仰せあれ」に傍点]、何御用でございましょうか[#「何御用でございましょうか」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]、空中を飛ぼうとも[#「空中を飛ぼうとも」に傍点]、地上を這おうとも[#「地上を這おうとも」に傍点]、このランプの下僕でございまする[#「このランプの下僕でございまする」に傍点]。」するとアラジンはこれに言いました、「さればだ、おお鬼神《イフリート》よ、帝王《スルターン》はお前も知る王女、麗わしいバドルール・ブドゥール姫を、このおれに賜わるとおっしゃるが、しかしそれには条件があって、かつておれが、ほれ、お前の仕えているランプを見つけたあの場所で、庭園の木々からもいだ、前の白磁の皿の宝石と同様な宝石でできた果物を、縁《ふち》まで盛り上げた、品質純良な金無垢の皿四十枚をば、できるだけ早くお届けしなければならぬというのだ。しかもそればかりではない。帝は更に、この宝石を盛った黄金の皿を運んでゆくのに、月のように美しい四十人の乙女の奴隷が、美しく、逞しく、善美を尽した衣服を着た、四十人の若い黒人に先導せられて来ることを、要求なさる。そこでこれが、今度はおれからお前に請求することなのだ。されば、おれがランプの主《あるじ》としてお前の上に持つ権力によって、いそぎわが意を叶えるように致せよ。」すると鬼神《イフリート》は「仰せ承わり、仰せに従いまする」と答えて、消えましたが、ひと時後には、もう戻って参りました。
そしてその後ろには、くだんの男女同勢八十人の奴隷を従えて、それをば中庭に、家の壁に沿って並ばせました。女奴隷はめいめい頭上に、真珠、金剛石、紅玉、翠玉、トルコ玉、その他、あらゆる色とあらゆる截ち方の果物の形をした、くさぐさの種類の宝石を、縁《ふち》まで盛り上げた金無垢の大皿を、載せておりました。その大皿には一枚一枚、金の花模様を織り出した絹の紗の覆いがかけられていました。そして実際にその宝石類は、前の白磁に盛って帝王《スルターン》に進上したものよりも見事であり、遥かに見事です。魔神《ジンニー》は壁際に八十人の奴隷を並べ終えると、アラジンの前に来て身をかがめて、訊ねました、「おおわが御主人様、この上まだ、何かランプの下僕《しもべ》にお求めになるものがござりましょうか。」アラジンはこれに言いました、「いや、さしあたり別にない。」するとすぐに鬼神《イフリート》は姿を消しました。
さて、ちょうどこのとき、アラジンの母親は、市場《スーク》で買ってきた食料を携えて、はいってきました。そしてわが家にこんなに大勢の人が押しかけているのを見て、すっかりびっくりして、最初のほどは、帝王《スルターン》がアラジンの身の程をわきまえぬ求婚を懲らしめるため、これを召し捕りに人をよこしたのかと思いました。しかしアラジンはすぐに母に考え直させました。それというのは、母が顔の面衣《ヴエール》を外す暇もなく、アラジンは言いました、「面衣《ヴエール》をとったりなどして、暇を潰さないで下さい、おお、お母様。なぜって、これからすぐ、時を移さずまた外出して、ほら、家《うち》の中庭に並んでいるこの奴隷たちと一緒に、御殿に行っていただかなければなりませんからね。この四十人の女奴隷は、お気づきでしょうが、帝王《スルターン》が王女の値いとして要求なさる結納を、携えています。ですからどうか、食事の支度をなさる前に、御苦労ですが、行列について行って、これを帝王《スルターン》に献上して下さいませんか。」
すぐにアラジンの母親は、この八十人の奴隷を、女の後に男を置き、二人ずつ組にして、整然と家を出させました。乙女の奴隷一人のすぐ前に、若い男奴隷一人を置き、以下最後のひと組までこれに準じて、その各組は、それぞれ前の組と十歩の間隔を置きました。そして最後の組が門を越えると、アラジンの母親は、その行列の後ろにつきました。アラジンは首尾についてはもう安心しきって、門を閉じ、自分の部屋に行って、静かに母の帰りを待ちました。
さて、最初の組が往来に出るとすぐに、通行人たちが群がりはじめまして、行列が出揃った時には、往来は、がやがやいう声と叫び声とに満ちた大群衆に溢れました。そして市場《スーク》の人全部が、行列のまわりに駈けつけて、こんなにすばらしい並々ならぬ光景に眺め入るのでした。それというのは、そのひと組ひと組がそれだけで、もうこの上ない美観なのでございます。というのは、その風情ある豪勢な見事な服装、女の白い美しさと、黒人の黒い美しさとで出来ているその美しさ、その立派な様子、その引き立つ風采、等しい距離を置いて重々しく調子を取ってゆくその行進、めいめいの乙女が頭上に運んでいる宝石の大皿の輝き、黒人たちの金の腰帯に嵌められている宝玉の放つ煌めき、羽根飾りが揺れる錦の帽子から迸り出る閃めき、こうしたすべては、他に全く類のない華麗な光景を成し、そのため民衆は、これはどこぞの大した国王か帝王《スルターン》の王子が、王宮に到着なさったのだということを、ただのひと時も疑わないのでございました。
かくて行列は、民衆全部の喫驚仰天のただ中に、いよいよ王宮に着きました。警吏と門番は、その最初のひと組を見るとすぐに、もうすっかり驚嘆して、尊敬と感嘆に堪えず、自然とその通路に垣を作りました。そして首長《かしら》は、先頭の黒人を見ると、黒人の帝王《スルターン》御自身がわが王様のところに訪問に来られたのだとばかり思い込み、そちらのほうに進み出て、平伏し、その衣《ころも》の裾に接吻しようとしました。ところがそのとき、その後に続くすばらしい縦列を見たのです。それと同時に、その先頭の黒人は、あらかじめ鬼神《イフリート》から必要な訓示を受けていたので、微笑しながらこれに言いました、「私をはじめ、私たち全部は、その時到ればやがてここに見えなさるお方の、奴隷にすぎないのであります。」そしてこう言って、彼は門を越え、その後から、黄金の大皿を持った乙女と、美わしいひと組ひと組の縦列全部が従いました。そして八十人の奴隷は、最初の中庭を越え、同じ高さでそのまま応接の広間《デイワーン》に臨む二番目の中庭に、きちんと整列しに行きました。
さて、そのとき帝王《スルターン》はちょうど国務をとっていましたが、中庭にこの美々しい行列を御覧になって、その華々しさが、御殿に持っていらっしゃる御自分の全部のものの、光輝を消してしまっているのを見なさると、直ちに政務所《デイワーン》から全部人々を退出させて、新来の人々を迎えるように命令をお下しになりました。すると一行は二人ずつ重々しくはいってきて、帝王《スルターン》の御前に、大きな三日月形を形づくりながら、ゆっくりと並びました。そして乙女の奴隷たちは、連れの黒人の男に助けられて、一人一人、絨氈の上に、運んできた大皿を下ろしました。それから八十人が全部揃って平伏し、帝王《スルターン》の御手の間の床《ゆか》に接吻してから、再びすぐに立ち上がって、全部一斉に、同じ巧みな手つきで、溢れるばかりすばらしい果実を盛った大皿の被いを、ぱっと取りました。そして一同胸の上に腕を組んで、この上なく恭々しい姿勢で、立ち尽しました。
その時はじめて、最後に来たアラジンの母親は、男女互いちがいになっている四十組が形づくる、三日月形のまん中まで進み出て、平伏と型通りの挨拶《サラーム》ののちに、この類いない光景に全くお口も利けなくなっていらっしゃった王様に、申し上げました、「おお当代の王様、わが君の奴隷の愚息アラジンは、尊い王女様バドルール・ブドゥール姫の御値《おんあた》いとして、わが君の御要求遊ばした結納を携えて、私を派遣致しました。そして、わが君は姫君の御値打御鑑定を誤り遊ばした、これら一切もなお姫君の真価に遠く及びませぬ、とこう申し上げてくれとことづかりました。けれども、わが君におかれましては、これは些少ながらお恕し下さって、今後また献上致すところを御期待の上、今はこのささやかなる貢物を御嘉納あらせられんことを、愚息は望んでおりまする。」
アラジンの母親はこう申しました。けれども王様は、その申し上げるところがはっきりわかることが殆んどおできにならず、お目に見える光景を前にして、ただあっけにとられ、両の眼を見張っていらっしゃるばかり。そして、四十枚の大皿と、四十枚の大皿の中身と、大皿を運んできた乙女の奴隷と、大皿を携えた乙女についてきた若い黒人を、代るがわる見つめていなさるのでございました。この世でかつて御覧になったうち、最も稀代なものであるこれらの宝石か、それとも、月のようなこれらの乙女の奴隷たちか、それとも、みなみな王様のようなこれらの黒人の奴隷たちか、いったいどれにいちばん感心したらよいものやら、おわかりにならぬていです。こうしてひと時の間というもの、一言も発することもできなければ、御自分の前にある驚異から、視線を離すこともできずにいらっしゃいましたが、ようやく最後に、アラジンの母親に向って、その持ってきたものについての御感想を述べなさる代りに、御自分の総理|大臣《ワジール》のほうに向いて、これにおっしゃいました、「わが生命《いのち》にかけて、かかる豪奢を前にしては、われらの有する財宝のごとき、またわが宮殿のごときは、そもそもいかになろうぞ。そして、これを望むに要する時間よりも僅かの暇《ひま》に、かかる豪華を成就して、われらの許に届けることのできる人物を、われらは何と思ったらよいであろうか。かかるおびただしき美を前にしては、わが娘自身の価値も、いかに相成ることやら。」すると大臣《ワジール》も、息子の身に起ったすべてに覚えるあらゆる口惜しさと恨みにもかかわらず、こう申さずにはいられませんでした、「いかにも、アッラーにかけて、これらすべてはまことに見事でございます。さりながら、依然として、バドルール・ブドゥール姫と申す無二の宝には、及びもつきませぬ。」すると王様はおっしゃいました、「アッラーにかけて、否《いな》これは十分姫の値打に及ぶし、遥かにそれを凌ぐものがあるぞよ。かるがゆえに、われらの息子アラジン殿のごときかくも富裕、かくも寛大、かくも天晴れな人物に、姫をめあわすとも、迂闊な取引を致すとは、余はもはや思わぬ次第じゃ。」そして王様は、まわりに居並ぶ他の大臣《ワジール》、貴族《アミール》、重臣のほうに向いて、一同に眼でお訊ねになりました。すると皆は、主君のお言葉に一同同意する旨をはっきりと示すために、三度地面まで深々と身をかがめて、お答え申しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十八夜になると[#「けれども第七百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで王様はもはや躊躇なさいませんでした。それで、アラジンがいったい王女たる者の夫となるような男として、必要な資格をことごとく備えているかなどということには、もはや頓着なさらずに、アラジンの母親のほうを向いて、おっしゃいました、「おお、尊ぶべきアラジンの御母堂よ、何とぞ御令息にこう御伝言ありたい。今よりして直ちに、令息はわが一族とわが卑属にはいられた、して余は今は、彼に会って、父がわが子に接吻するごとくこれに接吻し、聖典《キターブ》と行録《スンナ》にかけて、これをわが娘バドルール・ブドゥールと相結ぶことを、待つのみと。」
そこでアラジンの母親は、双方|挨拶《サラーム》を交して後、いそぎ退出し、直ちに、風と速さを競いつつ、わが家へと飛んでゆき、わが子に今起ったところを知らせました。そして王様はこの上なく対面を待ちかねていらっしゃるから、いそぎ王様の御前に出るようにとせき立てました。だがアラジンは、こんなに長く待ったあげく、この知らせで今はことごとく宿願を満されたのですが、どんなに歓びに酔っているかを見せたくないと思いました。そこでごく落ち着いた様子と、取り乱さない口調で、答えました、「この仕合せはすべて、アッラーと、それから、おお、お母様、あなたの祝福と倦むを知らぬ熱心とから、私の許に来たのです。」そして母親の両手に接吻し、厚く感謝し、帝王《スルターン》の許に行く支度をするため、自分の部屋に退出する許しを乞いました。
さて彼はひとりきりになると、早速、今まで非常な助けとなった、例の魔法のランプを取り出して、いつものように擦りました。すると即刻|鬼神《イフリート》が現われて、彼の前に身をかがめてから、例の文句で、どのような御用を勤めようかと訊ねました。アラジンは答えました、「おおランプの鬼神《イフリート》よ、おれは風呂を使いたい。そして浴後には、地上最大の帝王《スルターン》たちの許にも、豪奢その比を見ないような衣服を一着、持ってきてもらいたい。目のきく者には、少なくとも金貨百万ディナール以上にも見積られるくらい、見事なものをだ。さしあたっては、それだけで結構。」
するとランプの鬼神《イフリート》は、承諾のしるしに身をかがめてから、脊骨を精いっぱい曲げて、アラジンに言いました、「おおランプの御主人様、どうぞ私の肩にお乗り下さい。」そこでアラジンは鬼神《イフリート》の肩に乗って、両脚をその胸の上に垂れました。鬼神《イフリート》は、アラジンをも自分と同じように眼に見えなくして、これを空中に持ち上げ、と或る浴場《ハンマーム》に連れてゆきましたが、それは国王や皇帝《カイサル》のところにも、その兄弟を見つけることはできないような、まことに立派な浴場《ハンマーム》でした。全部が硬玉と透明な雪花石膏でできていて、薔薇色の光玉髄《こうぎよくずい》と白珊瑚製のいくつもの浴槽《ゆぶね》と、美わしい微妙な細工の翠玉《エメラルド》の石で作った装飾がついておりました。まことに眼と官能とは、ここで心ゆくまで楽しみをほしいままにすることができます。それというのは、全体から言っても、細部から言っても、何ひとつ目ざわりになるようなものはなかったからでございます。そしてそこの涼しさは快く、温かさは斑《むら》なく、熱さは程よく、釣合いを保っておりました。そこにはただ一人の浴客もいず、姿により或いは声によって、白い円天井の平和を乱すようなことがございませんでした。ところが、魔神《ジンニー》が入口の部屋の台上にアラジンを下ろすが早いか、一人のたいそう美しく、少女に似ているけれど、そのうえ更に魅力ある若い鬼神《イフリート》が、彼の前に現われて、手伝って着物を脱がせ、肩によい匂いの大きな手拭をかけて、用心と優しさを尽して彼の身体を支えながら、部屋のなかでいちばん立派な、さまざまに変化ある色どりの宝石を敷きつめた部屋に、案内しました。するとまたすぐに、劣らず美しく、劣らず魅力ある、別な若い|鬼神たち《アフアリート》が、アラジンを仲間の手から受け取りにきて、彼をば大理石の腰掛の上に工合よく坐らせ、幾種《いくいろ》もの香りの水をかけて、擦り、洗いはじめました。そして見事な腕前で按摩をしてから、再び麝香入りの薔薇水で身体を流しました。彼らの巧みな世話で、彼の顔色は、薔薇の花弁と同じようにみずみずしくなり、これ以上は望めぬほどに、かつは白くかつは朱《あか》くなりました。それで彼は、もう鳥のように飛ぶこともできるばかり、身軽くなるのを覚えました。すると最初ここに連れてきた若く美しい鬼神《イフリート》は、再び彼を伴って台上に案内し、そこで飲み物として、竜涎香入りの結構なシャーベットを出しました。そしてそこには、ランプの魔神《ジンニー》が、手の間に比べもののない豪勢な衣類を持って、待っておりました。そしてあんなにもやわらかい手の若い鬼神《イフリート》に手伝ってもらいながら、この豪奢な衣服をまといますと、彼は大王の間のどこかの王の子で、それに更に威厳の加わったという風になったのでございました。そこで鬼神《イフリート》は再びこれを肩に乗せて、揺れもせず、自宅の部屋に連れ戻りました。
するとアラジンはランプの鬼神《イフリート》のほうに向いて、これに言いました、「さて今度は、お前はあと何をすればよいか、知っているかな。」鬼神《イフリート》は答えました、「いいえ、存じません、おおランプの御主人様。しかし御命じ下さい。さすれば、私は空を飛ぼうとも、地を這おうとも、直ちに従いまするでございましょう。」アラジンは言いました、「されば純血種の馬で、ここの帝王《スルターン》の厩舎《うまや》にも、世界で最も強大な君主たちのところでも、美しさの点で兄弟のいないような馬を一頭、ここに曳いてきてもらいたい。その馬具は、ただそれだけで、少なくとも金貨百万ディナールの値いあるものでなければならぬ。それと同時に、見目よく、背丈程よく、優雅溢るる、極めて端正優美富裕な衣裳を着た若い奴隷を、四十八人よこしてもらおう。そのうち二十四人は、十二人の二列に並んで、わが馬の前に先頭に立って行進し、一方他の二十四人は、やはり十二人二列になって、わが後に従うようにしたいのだ。その外、特に母上の御用を勤めるために、それぞれの種類で比類のない、月のような十二人の若い娘を探し、甚だ趣味高く豪華な衣裳を着せ、それぞれ別々の布地と色合いの衣服で、王女とても安んじて身に着けることのできるような衣服を一着ずつ、各自の腋に抱えさせてよこすのを、忘れないでもらいたい。最後に、わが四十八人の奴隷の一人一人に、金貨五千ディナール入りの巾着を与えて首に懸けさせ、それをおれの好き勝手に使うことができるようにしてくれよ。今日のところ、お前に頼みたいことはこれだけだ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百五十九夜になると[#「けれども第七百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、アラジンが話しおえるとすぐに、魔神《ジンニー》は承わり畏まったという返事をしてから、いそいで姿を消しましたが、ひと時たつと、馬と、四十八人の若い奴隷と、十二人の若い娘と、おのおの五千ディナール入りの四十八の巾着と、別々の布地と色合いの十二着の衣服を持って、戻って参りました。その全部は、注文されたよりもずっと上等ではないにせよ、注文通りの質のものでした。アラジンは全部を受け取って、「またお前に用ができたら、すぐに呼ぶから」と言いながら、魔神《ジンニー》に暇をやりました。そして時を移さず、母に暇乞いをして、今一度両手に接吻し、十二人の乙女の奴隷を母に付けて、一同に、どんな骨惜しみもしないで、御主人様をお悦ばせ申し、またそれぞれが持ってきた美しい衣服の着方をお教え申すよう、よくよく言い含めました。
それが済むと、アラジンはいそぎ馬に乗り、自宅の中庭から外に出ました。馬の背に乗るのはこれがはじめてではございましたが、彼はこの上なく練達した騎手《のりて》さえも羨むほど、優雅にしっかりと、よく馬上に身を保つことができました。そして自分で工夫した行列の次第に従って、十二人の二列に並んだ二十八人の奴隷を先に立て、両側には、馬の鞍敷の紐を取る四人の奴隷を従え、その他の奴隷を後ろにつけて殿《しんがり》を勤めさせ、こうして進発しはじめました。
さて、この行列が街々にさしかかりますとすぐに、さっきの行列を出迎えに駈け寄ったのよりも、もっとずっと大勢の大変な群衆が、方々の市場《スーク》にも、窓や露台にも、四方八方に群がりました。すると四十八人の奴隷はそのとき、かねてアラジンに命じられていた言いつけに従って、めいめいの巾着から金貨を取り出し、彼らの後ろに犇《ひしめ》き寄る民衆に向って、或いは右に或いは左に、ひと掴みずつ、ばらまきはじめました。それで歓呼の声は、すばらしい施しをしてくれる人の気前よさのせいからも、また騎手とその見事な奴隷たちの美しさのせいからも、全市にどよめき渡ったのでございます。それというのは、馬上のアラジンは、魔法のランプの霊験によって、日頃よりずっと美わしくなった顔と、王様のような物腰と、ターバンの上に揺れる金剛石の羽根飾りで、全く見るも美しい様子でございましたから。そしてこのような風にして、全民衆の歓呼と驚嘆のさなかに、アラジンは御殿に到着しましたが、御殿にはその前に既に彼の来る噂が届いていて、バドルール・ブドゥール姫の夫たる人に当然払うべき、あらゆる名誉を尽して彼を迎えるために、もう万端の用意ができておりました。
さて帝王《スルターン》はちょうど、二番目の中庭に臨む正面階段の上で、彼をお待ちになっていました。そして、アラジンが鐙《あぶみ》を抑える総理|大臣《ワジール》その人に助けられて、足を地につけるとすぐに、帝王《スルターン》は彼に敬意を表して、階段を二、三段お下りになりました。アラジンは帝王《スルターン》のほうに上ってきて、御手の間に平伏しようとしましたが、帝王《スルターン》はそれを押しとどめ、その威風と、立派な風采と、衣裳の豪勢に驚嘆なすって、腕のなかに彼を迎え、まるで御自分のお子のように、これに接吻なさいました。それと同時に、全部の貴族《アミール》、大臣《ワジール》、警吏のあげる歓呼の声と、喇叭《らつぱ》、竪笛《クラリネツト》、縦笛《オーボエ》、太鼓の音とで、大気はどよめき渡りました。帝王《スルターン》はアラジンの首のまわりに腕をまわして、応接の大広間に御案内なさり、彼をば玉座の台上の御自分のそばに坐らせて、今一度接吻して、これにおっしゃいました、「アッラーにかけて、おおわが子息アラジンよ、余の天命が今日より以前に余をそちに逢わせず、こうして三月もの間、そちの奴隷なるわが娘バドルール・ブドゥールとそちとの婚儀を遅延させたことは、かえすがえす遺憾に思う次第じゃ。」するとアラジンはこれに対して、まことに愛想よくお答えできたので、帝王《スルターン》は彼への愛情がますます募るのをお覚えになって、これにおっしゃいました、「たしかに、おおアラジンよ、どこの王が、そちを己が娘の夫に迎うるを望まずにいられようぞ。」そして非常な親しみをこめて彼と話し、いろいろお訊ねなさりはじめて、その返事の賢さと、雄弁と、その言葉の巧みさに、感心なさいました。そして玉座の間《ま》にそのまま、すばらしい饗宴を用意させて、口惜しさに、浮かぬ限り浮かぬ顔をした総理|大臣《ワジール》をはじめ、貴族《アミール》とその他の高位高官の人たちにお給仕をさせながら、アラジンと二人だけで、御一緒に食事をなさいました。
食事がすむと、帝王《スルターン》はこのうえ約束の履行を延ばすのを望まず、法官《カーデイ》と証人たちを呼んでこさせて、即座に、アラジンと王女バドルール・ブドゥール姫との結婚契約書を、認《したた》めるようお命じになりました。そこで法官《カーデイ》は、証人たちのいる前で、取りいそぎ御命令を実行し、聖典《キターブ》と行録《スンナ》に要求されているすべての形式をととのえて、契約書を認めました。それが出来上がると、帝王《スルターン》はアラジンに接吻して、おっしゃいました、「おおわが子息よ、そちは今夜直ちに婚姻の間《ま》に入って、床入りの儀をすませることに致すか。」アラジンは答えました、「おお当代の王様、いかにも、仮りに私が妻に覚える非常な愛だけに耳を傾けると致しますれば、まさに今夜直ちに、床入りの儀をすませることでございましょう。さりながら私としては、その儀は、王女にふさわしく、かつは王女御自身の有《もの》である宮殿において、行ないたきものと存じます。されば何とぞ、私の幸福の完き成就をば、私が妻に宛てる御殿を建てさせるまで、延期するをお許し下さいませ。してそのためには、妻がお父上とあまり遠からぬところにあり、かつは私自身も常におそば近くあって、お仕えすることができまするように、どうか父上の御殿の真正面にある広大な地面を、賜わりたくお願い申し上げます。さすれば私のほうで、最短期間にその御殿を建てさせるよう、取り計らいまする。」帝王《スルターン》は答えました、「おおわが子息よ、そのような許可をわざわざ求めるまでもないこと。わが宮殿の正面に、いくらでも入用なだけ、地面を取るがよい。さりながら、その宮殿ができるだけ速やかに落成いたすよう、せいぜいいそいでもらいたい。余は世を去る前に、わが血統の子孫をぜひ見せてもらいたいと思うのじゃ。」すると、アラジンは微笑して言いました、「そのことにつきましては、わが君は何とぞ御心《みこころ》を安んじて下さいませ。宮殿は、わが君のお望みなさることのできるよりももっと早く、竣功することでございましょう。」そしてやさしく接吻なさる帝王《スルターン》にお暇を乞い、先ほど従えてきたと同じ行列を率い、人民の歓呼と、幸福繁栄の祈願とのただ中を、わが家へと戻りました。
さて、自分の家に帰るとすぐに、彼は母親に起ったことすべてを知らせてから、いそいでただひとり、自分の部屋に引っ込みました。そして魔法のランプを取り上げて、いつものように擦りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十夜になると[#「けれども第七百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして魔法のランプを取り上げて、いつものように擦りました。すると鬼神《イフリート》は、姿を現わして御用を承わらずにはいませんでした。そこでアラジンはこれに言いました、「おおランプの鬼神《イフリート》よ、おれはまず、お前がおれの用をよく勤めてくれる熱心振りを、あつく賞さなければならぬ。次には、お前の主人たる、このわが有《もの》となっているランプの霊験が、お前に及ぼす威力によって、今度は、お前が今日までおれのためにしてくれた全部のことよりも、思うに、更に実現困難な或る一事を、お前に頼まねばならぬ次第だ。それはこういうことなのだ。実は、あとうかぎりの最短期間内に、ちょうど帝王《スルターン》の御殿の真正面に、わが妻エル・シート・バドルール・ブドゥールにふさわしい宮殿を、建ててもらいたいと思う。そしてそのためには、装飾のあらゆる細部についての配慮と、貴重な材料の選択、例えば硬玉、斑岩、雪花石膏、瑠璃、天藍石、碧玉、大理石、花崗岩等の宝石のごときは、これをすべて、お前のよい趣味と既に試験ずみの知識に、一任する。ただこの宮殿のまん中には、代るがわる金無垢と銀無垢の円柱の上に、大きな水晶の円蓋《ドーム》を建て、それに金剛石、紅玉、翠玉その他の宝玉をちりばめた、九十九の窓をあけてほしいのであるが、その九十九番目の窓だけは、建築は完成しているが装飾は完成せずに残しておくように、気をつけてもらいたい。それについては、おれに考えがあるのだから。また池と泉水と広々とした中庭を、いくつも備えた立派な庭園をつくることも、忘れずにな。とりわけ、おお鬼神《イフリート》よ、どこか地下に、その場所はあとで教えてくれればよいが、そこに、ディナール金貨を満した、ごく大きな宝蔵を設《しつら》えてくれ。そのほかのすべて、例えば料理場とか、厩舎《うまや》類とか、使用人などについては、全くどうなりとよきに計らってくれ、おれはお前の賢《さか》しさと好意を信じて、すべてまかせるから。」そして更に付け加えました、「万端準備ができ上がったら、知らせにきてもらいたい。」すると魔神《ジンニー》は「仰せ承わり、仰せに従いまする」と答えて、消えました。
ところで、翌日、夜明け頃になって、アラジンはまだ寝床にいると、そこにランプの鬼神《イフリート》が彼の前に現われて、慣例の挨拶《サラーム》をしてから、言いました、「おおランプの御主人様、御命令果たしました。どうぞお出でになって、出来栄えを検査して下さいませ。」そこでアラジンはそれを承知しますと、鬼神《イフリート》はすぐに彼をば指定の場所に運んで、帝王《スルターン》の御殿の向いに、見事な庭園のまん中に、二つの広々とした大理石の中庭に続いてある、彼の期待していたよりも遥かに立派な宮殿を、彼に見せました。魔神《ジンニー》はまず、宮殿の建築と概観を眺めさせてから、次に、全部の場所を一々詳しく見せました。そしてアラジンは、すべてが想像にあまる豪華と栄耀と壮麗とを尽して、出来ているのを見出しました。また広大な地下室には、ディナール金貨を満して積み上げた袋で出来た、穹窿まで段々に重なった宝蔵がありました。それからまた料理場、事務所、食糧庫、厩舎《うまや》なども見ましたが、いずれも非常に清潔で、全く自分の好みに合っていました。馬と牝馬が何頭も銀の秣槽《かいばおけ》で食べていると、その間に馬丁たちが手入れをしたり、毛を梳《す》いたりしているのも眺めました。男女の奴隷と宦官が、その役向の重さに従って、整列しているのを、査閲もしました。そして全部を見、全部を検査しおわると、彼は行く先々についてきていて、彼だけにしか見えないランプの鬼神《イフリート》のほうを向いて、この完全無欠な仕事で示した勉強振りと、良い趣味と、頭の良さに、祝意を表しました。それから付け加えて、「ただお前は、おお鬼神《イフリート》よ、わが宮殿の門から帝王《スルターン》の門にかけて、広い敷物を敷くことを忘れたな。それがあると、わが妻がその間を渡るとき、足を疲れさせないで済むが。」すると魔神《ジンニー》は答えました、「おおランプの御主人様、なるほどそうでした。だが今すぐ、それはできまするでしょう。」すると果たして、またたくまに、見事な天鵞絨《ビロード》の敷物が、二つの宮殿を隔てる間に敷かれ、その色どりは、芝生と花壇との調子に、実によくうつり合っているのでした。
そこでアラジンは満足の極に達して、鬼神《イフリート》に言いました、「さてこれで万事申し分ない。おれを家に返してくれ。」すると鬼神《イフリート》は彼を持ち上げて、その部屋に運びますと、一方その頃、帝王《スルターン》の御殿では、家来たちが、それぞれ仕事に取りかかるために、そろそろ方々の戸を開けはじめたのでございました。
ところが、戸を開けるとすぐに、奴隷と門番たちは、まだ前日までは、野仕合と騎馬行列に用いる広大な馬場《マイダーン》が見えた方角は、眺望がすっかり塞がっているのを認めて、びっくり仰天してしまいました。そしてまず見えたのは、見事な天鵞絨の敷物が、爽やかな芝生の間に拡がり、その色どりを花と灌木の自然の色合いと取り合せているさまでした。それから彼らは、この敷物を眼で辿ってゆきますと、奇蹟のような庭園の芝生を通り抜けて、その先に、宝石で建てたすばらしい宮殿があり、その水晶の円蓋《ドーム》が太陽のように輝いているのを認めました。それで、これはいったいどういうことやらわからず、彼らはいっそ総理|大臣《ワジール》にこれを報告しにゆくことにしますと、大臣《ワジール》は大臣《ワジール》で、新しい宮殿のほうをよくよく眺めてから、これを帝王《スルターン》にお知らせに行って、申し上げました、「疑いござりませぬ、おお当代の王様。シート・バドルール・ブドゥールの夫君は、たいへんな魔法使でございます。」けれども帝王《スルターン》はこれに答えなさいました、「その方の申す宮殿が、魔術の仕業《しわざ》だなどと仄めかそうとするとは、おお大臣《ワジール》よ、まことに驚き入ったことじゃ。さりながら、既に余にあのような見事なる進物を贈った人ともあらば、その所有する筈の財宝と、その身代のお蔭にて使用した筈の多数の職人とをもってすれば、一つの宮殿全部を、ただの一夜で建てさせるということも、決して能《あた》わぬところでないのは、その方も知っておろうぞ。彼が自然力を用いて、この結果を得たのであると、何ゆえその方は信ずるをためらうのか。これはむしろ、その方の妬み心がその方を盲目《めくら》となし、その方に事実を謬って判断させ、その方を駆って、わが婿アラジンを誹謗させるのではないかな。」大臣《ワジール》はこのお言葉で、帝王《スルターン》がアラジンを愛していなさることをさとり、下手に言ってわが身に累を及ぼすことを恐れて、敢えて強《た》って言わず、用心して黙ってしまいました。大臣《ワジール》のほうは、かようでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十一夜になると[#「けれども第七百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてアラジンはと申しますと、彼はランプの鬼神《イフリート》に運ばれてひとたび元のわが家に帰りますと、十二人の乙女の奴隷の一人に言いつけて母親を起しにやり、全部の女奴隷に命じて、彼らの持ってきた美しい衣服のうちの一着を母に着せて、できるだけ上手に飾って差し上げるようにと言いました。そして母親が彼の望みどおり身支度ができあがると、彼はこれに、いよいよ帝王《スルターン》の御殿に行って、花嫁を連れ、こんど花嫁のために建てさせた宮殿に案内する時が来たと、申しました。そしてアラジンの母親は、これについてあらゆる必要な指図を受けてから、十二人の女奴隷を従えて、わが家を出ると、やがてまもなく、アラジンは行列のまん中に馬に乗って、その後に続きました。しかし、宮殿から或る距離のところへ着くと、親子は別れて、アラジンは自分の新しい宮殿に、母親は帝王《スルターン》の許に、ゆくことにしました。
さて、帝王《スルターン》の警吏は、随行する十二人の若い娘のまん中に、アラジンの母親の姿を見かけると、さっそく駈け出して帝王《スルターン》にお知らせ申しますと、帝王《スルターン》はいそぎ迎えに出なさいました。そしてその新しい格式にふさわしい尊敬のしるしと敬意とを示して、お迎えになりました。そして宦官の長《おさ》に、後宮《ハーレム》の、シート・バドルール・ブドゥールのそばに御案内申せと命じました。姫はその姿を認めて、これが夫のアラジンの母親であると知らされるとすぐに、敬意を表して立ち上がり、接吻をしにゆきました。それから自分のそばに坐らせて、いろいろの果物の砂糖漬や砂糖菓子の類を御馳走して、そのうち侍女たちに着つけをさせ、夫のアラジンから贈られたこの上なく貴重な宝石を、身に飾りおえました。そのすぐあと、帝王《スルターン》がそこにはいっていらしって、このときはじめて、新たな縁戚となったので、アラジンの母親の素顔を見ることがおできになりました。そしてその顔立の花車《きやしや》なことから推して、この婦人は若い頃には、ずいぶん人好きのする女だったにちがいないし、また、今は美しい衣服を着け、ひときわ引き立って見えるように飾られているので、多くの王侯の奥方や大臣《ワジール》、貴族《アミール》の夫人方よりも、威風堂々としているのを認めなさいました。そしてこれについてたいそうお賞めになったので、これまで永い間不幸であった、今は亡き仕立屋ムスタファの憐れな妻の心は、それに深く感じ入り、動かされ、眼に涙が溢れたのでございました。
そのあとで、三人は心から打ちとけて話しはじめ、こうしていっそう深く知り合っていますと、そこにバドルール・ブドゥールの母君の王妃《スルターナ》が、お出でになりました。ところが、この年とった王妃《スルターナ》は、自分の娘と名も知れぬ庶民の子とのこの結婚を、好意のある目で見ることからは遠いのでした。そして王妃《スルターナ》は総理|大臣《ワジール》側で、この大臣《ワジール》は依然としてひそかに、今回のこと全部が自分にはお構いなしに、着々と運んでゆくので口惜しくてならないのです。とはいえ王妃《スルターナ》は、実はそうしてやりたかったものの、アラジンの母にあまり悪い顔を見せるわけにもゆかず、互いに挨拶《サラーム》を交してから、王妃《スルターナ》はほかの人たちと一緒に腰を下ろしたけれども、会話にはいっこう興味を示しませんでした。
さて、いよいよ新御殿への出発のため、お別れの時になると、バドルール・ブドゥール姫は立ち上がって、こうしたおりとして、接吻に多くの涙をまじえながら、たいそう優しさをこめて、父君と母君に接吻しました。それから、左側に付き添うアラジンの母親に支えられ、礼服を着用した十人の宦官に先立たれ、蜻蛉《とんぼ》のように美々しく装いをした百人の若い女奴隷に付き従われて、新しい宮殿に向って進みはじめましたが、その両側には、四百人の黒と白の若い奴隷が、互いちがいに二列になって、二つの宮殿の間に立ち並び、めいめいが、竜涎香と白い樟脳の大蝋燭の燃えている、黄金の燭台を持っておりました。そして姫は天鵞絨の敷物を渡りながら、しずしずとこの行列のただ中を進み、一方、その通ってゆくにつれ、楽器の妙《たえ》なる合奏が、庭園の並木道の中にも、アラジンの宮殿の露台の上にも、鳴りひびきます。遠くには、二つの宮殿のまわりに駈け集った、人民全部のあげる歓呼の声がとどろき、こうしたすべての栄光に、歓喜のどよめきをまぜております。いよいよ姫は、アラジンの待つ新しい宮殿の入口に着きました。するとアラジンは微笑を浮べながら、迎えに出てきました。彼のこのように美しく輝かしい姿を見て、姫はすっかりうれしくなりました。そして彼と連れ立って、宝石の窓のついた大きな円蓋《ドーム》の下の、宴会場にはいりました。そこで彼ら三人は、ランプの鬼神《イフリート》の心尽しで出された金の皿の前に、坐りました。アラジンを中央に、右手に花嫁、左手に母親が坐りました。そして彼らは、男女の鬼神《アフアリート》の合唱の奏でる、誰にも見えない音楽の調べのうちに、食事をはじめました。バドルール・ブドゥールは、目に見え、耳に聞えるこうしたすべてに恍惚として、心の中で独りごとを言いました、「こんなにすばらしいことは、とても想像したことさえなかったわ。」そればかりか、時には食べるのもやめて、鬼神《アフアリート》の歌と合奏に聞き入ることさえありました。アラジンと母親は、たえずお給仕をしたり、いろいろと飲み物を注いであげたりしましたが、姫はもうすっかり驚嘆に酔っていましたから、飲むものなどいらないくらいでした。これは彼らにとっては、イスカンダルやスライマーン(17)の時代にも、その比を見なかった、すばらしい一日でございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十二夜になると[#「けれども第七百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そのうち夜になると、食事は下げられ、代ってすぐに、舞姫のひと群れが、円蓋《ドーム》の広間にはいってまいりました。それは四百人の乙女から成っていましたが、その乙女たちは魔霊《マーリド》と魔神《アフアリート》の娘で、花のような装いをし、小鳥のように身軽でした。そして空中の音楽の調べにつれて、乙女たちは幾種類かの曲と所作を舞いはじめましたが、それはもう天上の国々でもなければ、決して見られないようなものでした。そしていよいよそのとき、アラジンは立ち上がって、花嫁の手を執り、一緒に歩調を合せて、婚姻の間《ま》のほうへと、向ったのでございます。乙女の奴隷たちは、アラジンの母を先頭に、きちんと並んで二人のあとに付き従いました。そしてバドルール・ブドゥールの着物を脱がせ、その夜のために必要なものだけしか、身にまとわせませんでした。こうして彼女はさながら、萼《うてな》から抜け出た水仙の花のようになりました。そして一同は二人に歓楽と悦びを祈ってから、婚姻の間《ま》に二人だけ置いてゆきました。かくてアラジンは、幸福の極に達して、遂に、王女バドルール・ブドゥールと相契ることができました。彼らの夜は、彼らの昼と同様に、イスカンダルやスライマーンの時代にも、その比を見ないものでございました。
さて翌日、歓楽の一夜ののちに、アラジンは新妻バドルール・ブドゥールの腕から出て、すぐに、昨日の衣服よりも立派な衣服を着せさせて、帝王《スルターン》の許にゆくことに致しました。そしてランプの鬼神《イフリート》の用意した厩舎《うまや》から、駿馬を一頭引き出させて、それに乗り、儀杖隊にかこまれて、新妻の父王の御殿のほうに向いました。すると帝王《スルターン》は、この上なく激しい喜びの色を浮べて、これを迎え、接吻して、彼の様子とバドルール・ブドゥールの様子を、深くお気にかけながら、お尋ねになりました。アラジンはこれについては然るべくお答えしてから、申し上げました、「おお当代の王よ、何とぞ今日わが住居をば御臨席をもって輝かし、婚儀の後最初の食事を、われらと共になし下されたく、取り敢えずお誘いに参った次第でございます。して、どうか総理|大臣《ワジール》はじめ貴族《アミール》の方々をお供に従えて、御息女の宮殿を訪れ下さいますよう、願い上げまする。」帝王《スルターン》は彼に尊敬と愛情を十分に示すため、一も二もなく招待を承諾なされ、即刻即座に立ち上がり、総理|大臣《ワジール》と貴族《アミール》たちを従えて、アラジンと一緒にお出ましになりました。
ところで、帝王《スルターン》は、王女の宮殿に近づくにつれ、感嘆の念はいやまし、驚嘆の叫びはますます強く、ますます大きく、ますます矢つぎ早になるのでした。まだ宮殿の外にいらっしゃるだけのうちに、もうこうした有様でございます。けれども、中にはいられた時には、何という驚嘆でございましょう。到るところ、見えるはただ絢爛、華麗、豪奢、高尚な趣味、調和、壮麗ばかり。そして最後に帝の目を眩惑し終えたのは、あの水晶の円蓋《ドーム》の広間(18)でございまして、帝王《スルターン》はその空中の建築と装飾を、見倦きることがおできになりません。そして宝石をはめこんだ窓の数を数えて御覧になって、その数が実際に九十九あって、それより一つも多くも少なくもないことがおわかりになり、これにはすっかり驚いてしまいなさいました。けれども同時に、その第九十九番目の窓がまだ出来上がっていないで、どんな種類の装飾も施されていないのに、お気づきになりました。それでたいそうびっくりなさって、アラジンのほうを向いて、おっしゃいました、「おおわが子息アラジンよ、これこそはたしかに、かつて地の面《おもて》に存在した最もすばらしい宮殿じゃ。余はわが見る一切に、ただ感嘆の眼を見張るのみ。さりながら、あの窓だけが未だ出来上がらず、他の姉妹の美観を損じておるが、あの窓の仕事をし上げるを、そちが阻まれたのは、そもそもどういう動機《いわれ》か、聞かせてもらえるかな。」するとアラジンは微笑して、答えました、「おお当代の王よ、されば私があの窓をば、御覧のごとく未完の状態に残しておいたのは、失念とか、節約とか、単なる粗忽とかであるとは、決してお思い遊ばしませぬように。あれをあのようにしておいたのは、私にいささか思う仔細あってのことでございますれば。その動機《いわれ》と申せば、実は陛下にこの仕事を仕上げる御配慮をおまかせ致し、かくしてこの宮殿の石の中に、光栄《はえ》ある御名と、御治世の記念をば、刻み残しておきたいとの所存でございました。かるがゆえに、願わくは、御承引によって、この館《やかた》の建造を祝聖していただきたく存じ奉ります。この館はいかに相当のものとは申せ、私の妻たる御息女の真価には、到底ふさわしからぬものではござりまするが。」すると王様は、このアラジンの細かい心遣いに極度に悦ばれて、あつく礼を述べ、直ちにこの仕事を始めたいとお思いになりました。そのために、早速警吏に命じて、時を移さず、いちばん上手で、いちばんたくさん宝石を持ち合せている、宝石細工師たちを御殿に呼びよせて、この窓の象眼を完成させるように、申しつけました。そして細工師の来るまで、王様は王女に会いにいらしって、結婚初夜の模様をお尋ねになりました。王女の見せた微笑とその満足げな様子を見ただけで、これは強いて問いただすまでもないことが、おわかりになりました。それでアラジンにたっぷり祝辞を述べながら接吻なすってから、その場にふさわしいあらゆる善美を尽して、食事の用意のしてある広間に、一緒にお出ましになりました。王様は何でも召し上がり、こんなに結構な御馳走はついぞ賞味したことがないし、お給仕も御自分の御殿よりもずっと行き届いている、銀器その他の附属品も全く見事だと、お思いになりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十三夜になると[#「けれども第七百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
とかくするうちに、宝石細工師と金銀細工師たちが参りました。警吏たちが都中を探しまわって、呼んできたのでございます。王様にその由申し上げますと、王様はすぐに九十九の窓のある円蓋《ドーム》の下に、お上がりになりました。そして細工師たちに、未完成の窓をお指しになりながら、言いつけなさいました、「お前たちは、この窓に必要なる、あらゆる色の真珠と宝石との象眼に関する仕事をば、最短期間のうちに、仕上げなければならぬぞよ。」宝石細工師と金銀細工師は、承わり畏まってお答え申し、さてほかの窓の仕事振りと象眼を、たいそう綿密に調べはじめましたが、驚きに眼を見張って、互いに顔を見合せるのでした。そしてお互い同士協議してから、一同|帝王《スルターン》の許に戻ってきて、平伏してから、言上しました、「おお当代の王様、私どもの持ち合せの宝石全部を集めましても、この窓の百分の一を飾るだけの分も、店にございませぬ。」すると王様は言いました、「入用なだけ余が供してつかわす。」そして、アラジンが御進物に贈った、宝石でできた果実を取りよせて、彼らにおっしゃいました、「必要なだけ使って、残りを返せよ。」そこで細工師たちは寸法を計り、何度も繰り返し計算して、答えました、「おお当代の王様、御下賜の品全部と、私どもの手持ちの分全部を合せましても、あの窓の十分の一を飾るのに足りますまい。」王様は警吏のほうを向いて、言いつけました、「これより大小のわが大臣《ワジール》と、貴族《アミール》と、わが王国の富める者全部の家を襲って、彼らの所持する宝石全部を、有無を言わさず、引き渡させよ。」すると警吏はいそぎ命令を実行しに出かけました。
ところで、彼らの戻るまで、アラジンは王様がこの企ての結果について、そろそろ心配なされはじめたのを見て、魂の中でこれをこの上なく痛快がったのですが、とにかく、合奏でもって、王様のお気を紛らそうと思いました。それで自分の奴隷の若い魔神《アフアリート》の一人に合図をしますと、その奴隷はすぐに歌姫の一群をはいらせましたが、それは実に美しく、その一人一人が月に向って、「さあ立ち上がって、あなたの席をわたしにお譲りなさい」と言うこともできるくらい、また実に美わしい声を授けられていて、鶯に向って、「さあ、だまって、わたしの歌うのをお聞き」と言うこともできるほどでございました。そして果たして、この歌姫たちは、妙《たえ》なる調べで、首尾よく、王様にすこし御辛抱させることができました。
けれども警吏たちが帰ってくると、帝王《スルターン》はすぐに、くだんの金持たちから召し上げてきた宝石類を、宝石細工師と金銀細工師に渡して、おっしゃいました、「どうじゃ、これではいかがじゃ。」一同答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主君様、まだまだとても話はまとまりませぬ。さらに、現在私どもの持つ材料の、八倍を要するでござりましょう。それに、この仕事をうまくなしとげるには、私どもが夜に日をついで働き続けまして、少なくとも、三カ月の期間を要しまする。」
この言葉に、王様は失望と困惑の極に達しなされ、王の自尊心にとってまことにつらい事態にあって、全く無力の有様なのを大いに恥じ、お鼻が足まで延びる思いをなさいました。そこでアラジンは、これ以上永く王様を試みに遭わせようとは望まず、これでもう満足と思って、そこで宝石細工師と金銀細工師のほうを向いて、彼らに言いました、「さあ、お前たちの品物を持って、ここを出てゆきなさい。」それから警吏に言いました、「これらの宝石をば、それぞれ持主に返しなさい。」そして王様に申し上げました、「おお当代の王よ、私がいったん献上しましたものを、また取り返すというのは、穏当なことではございません。されば、この宝石の果実《このみ》は御返却申し、わが君に代って私が、この窓の装飾を成し遂げるため、残りの仕事を致すことを、御承引下されたく願い上げまする。ただし、どうか私を妻バドルール・ブドゥールの居間にて、お待ち下さいますよう。それと申すは、私は人に見られているとわかっている間は、仕事もできず、何ひとつ命令を下すこともできませぬゆえ。」そこで王様は、アラジンの邪魔をすまいと、王女バドルール・ブドゥールのところに引き上げなさいました。
するとアラジンは、螺鈿の箪笥の奥から、魔法のランプを取り出しました。もとの家から宮殿に引っ越す際、忘れないように十分気をつけて、持ってきておいたのです。そしていつもしているように、擦りました。すると即座に鬼神《イフリート》が現われて、アラジンの前に身をかがめて、命令を待っています。そこでアラジンはこれに言いました、「おおランプの鬼神《イフリート》よ、呼んだのはほかでもない。あの九十九番目の窓をば、あらゆる点でその姉妹たちとそっくりにしてもらいたい。」アラジンがこの頼みを口に出したと思うと、鬼神《イフリート》は消え失せました。そしてくだんの窓の上に、数知れぬ鉄鎚《かなづち》の音と鑪《やすり》の響きのようなものが、アラジンに聞えました。そして喉の渇いた人が一杯の冷水を呑みこむに必要な時間よりも僅かの間に、窓の宝石の奇蹟のような装飾が、現われ出て完成するのが見られました。彼には、それと他の窓との区別は殆んどつきかねました。そこで帝王《スルターン》に会いに行って、円蓋《ドーム》の広間にお出で下さいと申し上げました。
帝王《スルターン》は、つい数分前まで全然出来ていなかった窓の向いに着くと、その窓がわからず、方角をまちがえたのかと思いなさいました。けれども、円蓋《ドーム》を幾度も廻ってみた末に、宝石細工師と金銀細工師を全部寄せ集めても、終るまでに丸三カ月を求めたのに、こんなに僅かの間に、その仕事が済んでしまったのを認めると、感嘆の極に達しなさって、そこでアラジンの両眼の間に接吻して……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十四夜になると[#「けれども第七百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そこでアラジンの両眼の間に接吻して、おっしゃいました、「ああ、わが子息アラジンよ、知れば知るほど、そちは天晴れな男じゃ。」そして総理|大臣《ワジール》を呼びにやって、これに御自分を感激させる驚異を指さし示しながら、皮肉な調子でおっしゃいました、「どうじゃ、大臣《ワジール》、これを見ては、どう思うかな。」すると大臣《ワジール》は、宿怨を少しも忘れていず、この件を見てますます、アラジンは妖術師で、異端者で、煉金道士だとの信念を強くしました。けれども、帝王《スルターン》が今度の婿にたいへん愛着を覚えていらっしゃることを知っているので、自分の考えはこればかりも洩さないようによく気をつけて、帝王《スルターン》と言い争いなどせずに、勝手に感嘆させておいて、ただこう答えるだけにしておきました、「アッラーは至大に在《おわ》しまする。」
さて、この日以来、帝王《スルターン》は毎晩、政務《デイワーン》のあとで、婿のアラジンと娘のバドルール・ブドゥールと一緒に、数時間を過して、この宮殿の驚異を見に来ることを欠かしなさいませんでしたが、ここに見えるとそのつど、先のものよりももっと感嘆に値いする、何か新しいものを見つけては、驚嘆し、恍惚とさせられるのでございました。
アラジンのほうは、この新しい生活によって高ぶったり、柔弱になったりするどころでなく、よく気をつけて、妻のバドルール・ブドゥールと一緒に過すのでない時間には、自分の周囲に善根を施し、貧しい人たちのことを問い合せては、これを助けてやることに、身を捧げるのでございました。それというのは、彼は子供の頃の年月《としつき》、母と一緒に送った貧乏暮しと、昔の身分とを、忘れなかったからです。その上、馬に乗って外出する時は、いつも数人の奴隷を供に連れてゆき、彼らは主人の命令に従って、行く先々で、駈け寄ってくる群衆に、ディナール金貨を掴んで投げてやるのを忘れません。それに毎日、昼食と夕食の後には、貧者に食膳の残りを配らせ、それは五千人以上を養うに足りました。ですから、彼のこんなに恵み深い行ないと親切と謙遜とは、彼に全人民の愛情を得させ、全住民の祝福を一身に引き寄せました。彼の名と生命《いのち》にかけて誓言しない住民は、ただの一人もいない有様でした。けれども、彼に人心を得させ、名声を絶頂に達せしめたのは、それは彼が帝王《スルターン》に叛いた部族を討って、大勝を博したことでした。そのとき彼は、世に最も聞えた英雄たちの勲《いさおし》をも、遠く後方《しりえ》に残す、天晴れな勇気と武徳を発揮したのでございます。それでバドルール・ブドゥール姫もますます彼を深く愛し、自分にしんからふさわしいただ一人の男子を、夫に授けてくれたわが身の幸運を、ますます喜んだことでございました。こうしてアラジンは、妻と母との間で、上の人と下の人との愛情と忠誠に取り囲まれ、帝王《スルターン》御当人よりも慕われ敬われて、欠けることのない幸福の数年を送りました。そして帝王《スルターン》も彼を深く尊敬なされ、彼に対して限りない感嘆の念を持ちつづけなさいました。アラジンについては、このようでございます。
さて、こうしたすべての出来事の起りとなり、期せずして、アラジンの幸運の最初の原因となった、あのマグリブ人の魔法使についてはと申しますると、次のようでございます。
彼はアラジンを飢えと渇きで死なせようとして、地下に残すと、そのまま遠いマグリブ地方の奥にある、故国へと帰りました。そしてその間ずっと、せっかくの自分の遠征の不首尾を悲しみ、魔法のランプを手に入れるため、あのように無駄骨に終った苦労と骨折りを後悔して、過しました。そして、自分があれほど念を入れてお膳立てしたそのひと口を、唇の間から取り上げてしまった宿命を思ったのでございました。これらの事柄の苦々しさに満ちた思い出が、彼の記憶に立ち帰り、彼をしてアラジンと、アラジンに出会った瞬間とを呪わせずには、ただの一日も過ぎませんでした。そして最後に、いつもよりいっそうこの根強い怨恨に充ち満ちた或る日のこと、彼はアラジンの最期の詳細を知ってみたい好奇心を起しました。そのために、彼はちょうど土占《つちうらな》いに深く通じていたので、箪笥の奥から、占いの砂の卓を取り出し、赤で描いた円《まる》のまん中に、四角な茣蓙《ござ》の上に坐り、砂をならし、雄の点と雌の点、母と子を並べて、土占いの呪文を唱えてから、言いました、「いざ、いざ、おお砂よ。魔法のランプはどうなったか。して、あの女衒《ぜげん》の息子、アラジンという名の悪党は、どんな工合に死んだか。」そしてこの言葉を言いながら、儀式に従って、砂を揺ぶりました。すると、そこにいろいろの図形《かたち》が生じてきて、卦《け》が立ちました(19)。そしてマグリブ人はこの卦《け》の図形を詳細に検討してみると、アラジンは死ぬどころかぴんぴんしていて、魔法のランプの主人となり、栄耀栄華名誉を極め、シナ王の王女バドルール・ブドゥール姫と結婚して、愛し愛されているし、シナ全土と世界の辺境にまで、今ではもっぱら王族《アミール》アラジン公という名で世に知られているということが、一時《いつとき》も疑う余地なく判明し、もう茫然自失の限りに達しました。
魔法使は、このようにしてその土占いと異端邪説の計算によって、全く思いも設けなかったこうした事がらを知ると、憤怒に泡を吹き、天と地に痰を吐いて、言いました、「おれはきさまの面上に痰をひっかけてやるぞ、おお私生子とぼろ切《ぎ》れの息子め。おれはきさまの頭上に小便をひっかけてやるぞ、おお女衒《ぜげん》のアラジン、おお犬め、犬の伜め、おお絞り首の鳥、おお松脂と瀝青《チヤン》の面《つら》め。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十五夜になると[#「けれども第七百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼はひと時の間、天と地に痰を吐き、想像のアラジンを足下に踏みにじり、種々様々の、あらゆるひどい罵詈讒謗《ばりざんぼう》を浴びせかけはじめ、幾分気が落ち着くまでつづけました。けれどもすこし気が済むと、今度は万難を排して、アラジンに復讐し、魔法使の自分に、散々無駄骨を折らせ骨折損をさせたあの魔法のランプをば、やつがまんまと手に入れて、自分をしりめにかけてのうのうと無上の幸福を享けているのを、償わせてやろうと、固く決心しました。そこで一刻の躊躇もなく、すぐさまシナに向って発足しました。そして憤怒と復讐心とが彼に翼を与えたので、立ちどまりもせずに、アラジンをやっつけてやるにはどういう策を用いれば最上かと、長いこと思案を重ねながら、旅をつづけ、やがてシナの王国の首府に到着致しました。そこで一軒の隊商宿《カーン》に投宿して、一部屋借りました。そして到着の翌日から、公開の場所やいちばん賑やかな場所を歩きまわりはじめましたが、どこに行っても、アラジン公の美貌とか、アラジン公の寛大とか、アラジン公の闊達とか、まあアラジン公の噂でもちきりです。そこで彼は独りごとを言いました、「火と光にかけて、今にこの名は、死刑の宣告のときしか、言い出されなくしてみせるぞ。」こうして彼は、アラジンの宮殿の前に着きましたが、その堂々たる偉容を眺めると、叫びました、「畜生め、仕立屋ムスタファの小伜が一日の終りに食らうひと片のパンもなかったやつが、今住んでいるのはこれか。おのれアラジンめ、やがてきさまにわかるだろう、果たしておれの天命がきさまの天命に打ち勝たぬかどうか、果たしてきさまの母親《おふくろ》が、飢え死しないため、昔のように糸を紡がせられずにすむかどうか、果たしておれがわが手で墓穴を掘ってやり、そこにきさまの母親を、きさまのために泣きにこさせないものかどうかを。」次に彼は宮殿の大門に近よって、門番としばらく話を交えた末、門番から、アラジンは数日の間狩猟に出かけているということを、うまく聞き出しました。そして考えました、「これで早くもアラジン没落のはじまりだ。やつが留守とあらば、その間にずっと楽に、ここで仕事ができるというものだ。だが何よりも先に、アラジンめが狩にランプを一緒に持って行ったか、それとも宮殿に置いて行ったか、そいつを突きとめなければならんぞ。」そこでいそいで隊商宿《カーン》の自分の部屋に引っ返して、土占《つちうらな》いの卓を取り出して、これに尋ねました。卦《け》には、ランプはアラジンが宮殿に置いて行ったと、出ました。
そこでマグリブ人は、悦びに酔って、金物屋の市場《スーク》に出かけ、提灯と銅のランプの商人の店にはいって、言いました、「おおわが御主人、真新しく、よく磨いたランプが、一ダースばかり入用だが。」商人は答えました、「はい、ございます。」そして彼の前に、ぴかぴか光るランプを十二個並べて、代金を求めますと、魔法使は値切りもせずに、いわれるままに払いました。そしてそれを受けとって、笊屋《ざるや》で求めておいた籠のなかに入れました。それから市場《スーク》を出ました。
さてそこを出ると、彼はランプの籠を抱《かか》えて、こう呼ばわりながら、街々を歩きはじめました、「新しいランプ。新しいランプでござい。古いランプを、新しいランプと取り換えて進ぜる。交換御希望の向きは、新しいのを取りにお出でなされ。」こうして彼はアラジンの宮殿のほうに、向って参りました。
ところで、街の悪戯小僧どもがこの聞き慣れない呼び声を聞きつけ、マグリブ人の大きなターバンを見ますと、彼らはみな遊びをやめて、群れをなして駈けつけてきました。そしてマグリブ人のあとから、はやし立て、声を揃えて「やあ、気違いだ。やあ、気違いだ」と叫びながら、はねまわりはじめました。けれども彼は、子供たちの悪戯などには見むきもしないで、子供たちの叫びを圧して、呼ばわりつづけるのでした。「新しいランプ。新しいランプでござい。古いランプを、新しいランプと取り換えて進ぜる。交換御希望の向きは新しいのを取りにお出でなされ。」
かようにして彼は、子供たちのはやし立てる群れを従えて、宮殿の門の前に拡がる広場に着き、その端《はし》から端まで歩きはじめ、また改めて引っ返し、ますます声高く呼び声を繰り返しながら、倦きずに何度でもやりなおすのでした。それでとうとう、ちょうどそのとき九十九の窓の広間にいたバドルール・ブドゥール姫が、このいつもにない騒ぎを聞きつけて、窓のひとつを開けて、広場の上を眺めました。すると、悪戯小僧のはねまわってはやし立てる群れが見え、マグリブ人のこの妙な呼び声が聞えました。それで姫は笑い出しました。お付きの女たちもこの呼び声を聞いて、やはり御主人と一緒に笑い出しました。すると、そのうちの一人が言いました、「おお御主人様、ちょうど今日、御主人アラジン様のお部屋のお掃除をしておりましたら、床几《しようぎ》の上に、銅の古ランプがございましたわ。ですから、あれを取りにまいって、あのマグリブ人の爺さんに見せてやり、あの呼び声を聞くと何だか気が変らしいですけれど、本当に気が変なのか、あの古いランプを、新しいのと取り換えるのを承知するかどうか、ためさせて下さいませ。」ところが、この女奴隷の言った古ランプこそは、まさしく、アラジンの魔法のランプだったのでございます。天命に書き記《しる》された不幸により、アラジンは出発前に、いつもランプを隠しておく螺鈿の箪笥のなかに、これをしまうのをつい忘れて、床几の上に置き放しにしていたのです。けれどもおよそ人として、天命の定めるところに抗らうことなどできましょうか。
ところで、バドルール・ブドゥール姫は、このランプのあることも、またその奇《くす》しき霊験も、全然知らないのでした。ですから、奴隷女の言う交換に何の異存もなく、答えました、「よろしいとも。そのランプを持ってきて、宦官の長《アーガート》に渡し、新しいランプと換えさせにやり、みんなであの気違いを、さんざん笑ってやるとしましょう。」
そこで若い女奴隷はアラジンの部屋にゆき、床几の上の魔法のランプを持ってきて、それを宦官の長《アーガート》に渡しました。長《アーガート》はすぐに広場に下りて、マグリブ人を呼び、手にしたランプを見せて、言いました、「わが御主人様は、このランプをば、お前の籠のなかの新しいの一つと、換えてほしいとおっしゃるのだ。」
魔法使はこのランプを見ると、ひと目みてすぐにあのランプとわかり、感動で顫えはじめました。それで宦官はこれに言いました、「どうしたのだ。大方、このランプじゃあんまり古くて、取り換えかねるというのだろう。」けれども魔法使は、早くも自分の動揺を抑えて、雉鳩に襲いかかる禿鷹の素早さで手を延ばし、宦官の差し出すランプを引っ掴み、自分の懐中に捩じこんでしまいました。それから籠を宦官の前に出しながら、言いました、「どれでもいちばんお気に召したのをお取りなされ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十六夜になると[#「けれども第七百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで宦官は、よく磨いた、出来立てのランプを選んで、大笑いして、マグリブ人の気違いぶりを嘲笑いながら、御主人バドルール・ブドゥールのところに、いそぎそのランプを持ってゆきました。宦官の長《アーガート》と、アラジンの留守中の、ランプ交換の顛末は、このようでございます。
さて魔法使のほうは、彼はすぐと駈け出して、はやし立てつづける悪戯小僧どもの頭上めがけて、籠を中身ごと投げつけて、あとからついてこないようにしました。こうして子供らを追っ払ってしまうと、彼は宮殿と庭園のある区域を越えて、いくつもいくつもぐるぐる廻って、万一あとからついて来ようとする者に、足跡をくらますようにしながら、町の小路を抜けて、どんどん突き進みました。そして全く人気のない界隈に着くと、懐中からランプを取り出して、擦《こす》りました。するとランプの鬼神《イフリート》は、この呼び出しに応《こた》えて、すぐに彼の前に現われて、言いました、「御手の間に[#「御手の間に」に傍点]、ここに[#「ここに」に傍点]、あなた様の奴隷が控えておりまする[#「あなた様の奴隷が控えておりまする」に傍点]。仰せあれ[#「仰せあれ」に傍点]、何御用でござりましょうか[#「何御用でござりましょうか」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]、空中を飛ぼうとも[#「空中を飛ぼうとも」に傍点]、地上を這おうとも[#「地上を這おうとも」に傍点]、このランプの下僕でございます[#「このランプの下僕でございます」に傍点]。」それというのは、この鬼神《イフリート》は、たとえこの魔法使のように、悪逆と滅亡《ほろび》の道におる者なりと、このランプの所有者には誰かれの見境いなく、その言うことを聞くのでございました。
するとマグリブ人はこれに言いました、「おおランプの鬼神《イフリート》よ、おれは命ずる。お前がアラジンのために建ててやった、あの宮殿をば持ち上げて、そこにある一切の生ける者と品物ごとそっくり、これをマグリブの奥にある、お前の知っているおれの国の、庭園の間に運んでゆけ。宮殿とともに、このおれも一緒に運んでゆけよ。」するとランプの奴隷の魔霊《マーリド》は、答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。目を閉じ、目をお開け下さい。さすればあなた様は、御自分の国で、アラジンの宮殿のまん中に、いらっしゃるでござりましょう。」そして実際に、またたくうちに、そのとおり事は行なわれました。マグリブ人は、アラジンの御殿と一緒に、アフリカはマグリブの、自分の国のただ中に、運ばれておりました。彼のほうは、このようでございました。
ところが、バドルール・ブドゥールの父君、帝王《スルターン》のほうでは、翌朝お目覚めになると、いつものように御殿を出て、愛する王女をお訪ねになろうとなさいました。すると、あのすばらしい御殿の聳えていたところには、土台のあった空《から》の溝《みぞ》がいくつもあいている、広い馬場《マイダーン》しか見えません。それで、この上なく思い惑って、御自分は気がくるったのかしらとお思いになりました。そして御自分の見ていることをもっとよくわかろうと、両の眼を擦りはじめなさいました。それでも、昇る日の明るさと、朝の澄んだ光とで見ては、見あやまるわけがなく、宮殿はたしかにもうそこにないことを、はっきりと見極めなさいました。しかし、この気の変になるような事実を、もっとよく確かめたいとお思いになって、上の階に上って、王女の側《がわ》に面した窓を、開けて御覧になりました。それでも、宮殿も、宮殿の跡形も、庭園も、庭園の跡形も見えず、もしその溝さえなければ、騎手たちが楽々と槍試合でもできそうな、ただ広々とした馬場《マイダーン》ばかりでございます。
そこでお気の毒な父王は、不安に駆られて、御自分の不幸の性質と範囲は、よくおわかりにならなかったけれども、両手を打ち合せはじめ(20)、涙を流して、われとわが鬚を引き|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》りはじめなさいました。こうして長椅子《デイワーン》の上に崩折《くずお》れていらっしゃるところに、総理|大臣《ワジール》が、習慣通り、お裁きの会議の開始を言上しに、はいってまいりました。そして大臣《ワジール》は王様の御様子を見て、どうしたことやらわかりませんでした。すると帝王《スルターン》はおっしゃいました、「近う寄れ。」大臣《ワジール》は近寄りますと、帝王《スルターン》は申されました、「わが娘の宮殿はいったいどうなったのじゃ。」大臣《ワジール》は言いました、「願わくはアッラーは帝王《スルターン》を守りたまえかし。はて、仰せのことは何のことやら、げしかねまするが。」帝は言いました、「おお大臣《ワジール》よ、その方はさも悲しき事態を存ぜぬとでもいう風じゃぞ。」大臣《ワジール》は答えました、「一向に、おおわが殿、アッラーにかけて、私は何ごとも、絶対に何ごとも知りませぬ。」帝王《スルターン》は申されました、「しからばその方は、アラジンの宮殿の方角を眺めなかったのじゃな。」大臣《ワジール》は言いました、「昨夜、あの御殿のまわりにある庭園に、散歩に出ましたが、アラジン公御不在のゆえ、大門が閉ざされていたこと以外、特に変ったことは何ひとつ認めませんでした。」帝王《スルターン》は言いました、「さらば、おお大臣《ワジール》よ、この窓より眺めて、その方が昨日大門の閉っているのを見たと申すその宮殿に、果たして特に変ったことを何ひとつ認めぬかどうか、聞かせてもらいたい。」そこで大臣《ワジール》は窓から顔を出して眺めましたが、すると両腕を天に挙げて、叫ぶのでした、「悪魔は遠ざけられよかし、御殿は消えてなくなってしまったわい。」それから帝王《スルターン》のほうに向き直って、申し上げました、「こうなっても、おおわが殿、わが君はあれほど、あの建築と装飾に感嘆なすっていらっしゃいましたが、あの御殿は、最も感嘆すべき妖術の業《わざ》に外ならぬと、御信じ遊ばすに躊躇なされまするか。」すると帝王《スルターン》は頭を垂れて、もののひと時考えに耽っておいでになりました。それから、頭をお挙げになりましたが、そのお顔は激怒に蔽われていました。そして叫びなさいました、「どこにいるか、あの大罪人、あの山師、あの魔法使、あの詐欺師、あの千匹の犬の息子、アラジンと呼ぶやつは。」すると大臣《ワジール》は、勝ち誇って胸ひらけて、答えました、「今は狩猟にでかけて、留守でございまするが、ちょうど今日、正午の礼拝の前に戻ると、申しておりました。お望みとあらば、私自身出向いて、いったい御殿は中身もろともどう相成ったるか、彼に尋ねに参りましょう。」すると王様は怒鳴って、おっしゃいました、「ならぬ、アッラーにかけて。きゃつをば盗賊、嘘言者《うそつき》なみに扱わねばならぬ。警吏どもをやって、鎖をかけて、余の許に引っ立ててまいれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十七夜になると[#「けれども第七百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すぐに総理|大臣《ワジール》は外に出て、帝王《スルターン》の命令を警吏の長《おさ》に伝え、アラジンが彼らの手を逃れおおせないようにするには、どういう風に振舞わなければならぬか、指図を与えました。そこで警吏の長は、百名の騎兵を従えて、アラジンの帰ってくるはずの道を進んで、都を出ますと、城門から五パラサンジュのところで出会いました。そこですぐに騎兵にこれを取り囲ませて、彼に言いました、「アラジン公、おおわれらの御主人様、何とぞわれらを御容赦下さいませ。だが、何せわれらは帝王《スルターン》の奴隷の身、帝はわれらに、あなた様を召し捕り、罪人なみに鎖をかけて、御手の間に引っ立ててまいれとの、御命令でございました。われらは王命に叛くことはできませぬ。されば、今一度お詫び申します、御容赦下さいませ、われら一同御寛仁に溺るる身でありながら、今にしてこのようなお取り扱いを致しますることを、平に御容赦下さりませ。」
この警吏の長《おさ》の言葉に、アラジンの舌は、驚きと感動とに縛られてしまいました。けれどもようやく口がきけるようになると、言いました、「おおよき人々よ、せめてお前たちは、どういう動機で、帝王《スルターン》がそんな命令を下しなすったのか、知らないか。余は帝王《スルターン》に対しても、国家に対しても、およそどんな罪も犯したおぼえはないが。」警吏の長は答えました、「アッラーにかけて、われわれは存じませぬ。」するとアラジンは馬から下りて、言いました、「お前たちは余を、帝王《スルターン》に命じられたとおりにせよ。帝王《スルターン》の命令は頭と眼の上にあるなれば。」すると警吏たちは、ひどくいやいやながら、アラジンを捕えて、両腕を縛り、たいへん太くて、たいへん重い鎖を、首に通し、胴のまわりにも巻きつけ、そしてその鎖の端《はし》をとって彼を曳き、自分たちは馬で道をつづけながら、彼をば徒歩で行かせ、町のほうへと曳いてゆきました。
警吏たちが町の最初の郭外にさしかかると、通行人はアラジンがこんな風な扱いを受けているのを見て、これは帝王《スルターン》が、自分たちの知らない理由から、アラジンの首を刎ねさせようとしているということを、疑いませんでした。ところでアラジンは、その物惜しみしないことと親切なこととで、王国の全臣民の愛情を獲ていたので、彼の姿を見た人たちは、或いは剣を、或いは棍棒を、或いは石や棒切れを持ちながら、いそいで彼の後から歩き出しました。そしてその数は、一行が御殿に近づくにつれて、次第にましてゆき、遂には、馬場《マイダーン》の広場に着いた時には、それは幾百幾千ともなってしまいました。そしてみんなてんでに武器を振りかざし、警吏たちを威しながら、叫びをあげ、抗議を申し立て、警吏たちは彼らを制止し、ひどい目に遭わずに御殿にはいるのに、大骨を折りました。こうして一同が、自分たちの主君アラジンを無事に返せと求めながら、馬場《マイダーン》で怒号し絶叫している間に、警吏はアラジンを鎖つきのまま、帝王《スルターン》が腹を立て焦《じ》れつつ、坐って待っていらっしゃる広間に、連れてゆきました。
さて、アラジンが御前に来るやいなや、帝王《スルターン》は、想像もつかないほどの激怒に捉われて、王女バドルール・ブドゥールのはいっていた宮殿はどうなったかを、彼に尋ねる余裕さえなく、太刀取《たちとり》に叫びなさいました、「直ちにこの呪われた詐欺師の首を刎ねよ。」そしてもうそれ以上ただの一瞬も、彼の言葉を聞くのも、姿を見るのも、おいやでした。そこで太刀取はアラジンを、かまびすしい群集の集まっている、馬場《マイダーン》を見下ろす露台に引っ立ててゆき、目隠しをしてから、アラジンを処刑の赤い皮の上に跪かせ、首と身体のまわりとに巻きつけてある鎖を除き、これに言いました、「死ぬ前に、汝の信仰証言《シヤハーダ》を誦えよ。」そして、彼のまわりを三度まわり、剣を三度空中に煌めかせながら、今にも死の一撃を食らわせようと致しました。ところが、ちょうどその瞬間に、群集は太刀取がまさにアラジンを処刑しようとするのを見るや、すさまじい叫びをあげながら、今にも御殿の城壁を攀じ登って、城門を破りそうな気配を示しました。帝王《スルターン》はこの様を御覧になり、何か不祥事が起りはしないかと、非常な恐怖に襲われなさいました。そこで太刀取のほうに向いて、命じなさいました、「さしあたり、この罪人の首を刎ねるを延期せよ。」そして警吏の長《おさ》におっしゃいました、「人民に向って、この呪われし者の血を免じてつかわすと、触《ふ》れさせよ。」この命令が、直ちに露台の上から触れ出されますと、群集の騒ぎと激昂は鎮まり、城門を破ろうとする人々と御殿の城壁を攀じ登ろうとする人々とに、その企てを棄てさせました。
するとアラジンは、皆によく見えるように目隠しを取り去る配慮をされ、後手《うしろで》に縛りあげていたその縛《いまし》めを解かれて、跪いていた処刑の皮から立ち上がり、帝王《スルターン》のほうに頭をあげて、両眼に涙を湛えて、お尋ね申しました、「おお当代の王よ、願わくは、陛下におかせられましては、私がいかなる罪を犯し得て、かくは逆鱗に触れ、御不興を招いたのか、ただそれだけお聞かせ下さいますよう、乞い奉りまする。」すると帝王《スルターン》は、お顔も真黄色になり、抑えたお怒りの溢れる声で、おっしゃいました、「汝の罪というのか、不届者めが。されば汝はしらをきるのか。されど、余が汝に汝の眼をもってその罪をはっきりと見せてやれば、もはやしらをきるわけにゆくまいぞ。」そして怒鳴りつけました、「ついてこい。」そして彼の先に立って進み、御殿の向うの端《はし》、昨日まで、庭園に囲まれたバドルール・ブドゥールの宮殿が聳え立っていた、第二|馬場《マイダーン》の方角に、彼を連れてゆき、そしておっしゃいました、「この窓から見ろ。そして、汝は知っているに相違ない、わが娘のはいっていた宮殿はいかが相成ったるか、白状せよ。」そこでアラジンは、窓に顔を寄せて、眺めました。すると、宮殿も、庭園も、宮殿の跡形も、庭園の跡形も見えず、ただ、広々とした馬場《マイダーン》が、かつて自分がランプの鬼神《イフリート》に、ここにすばらしい住居を建てよと命じたあの日あったそのままに、あるだけでございました。そこで彼は、全く茫然とし、憮然とし、慄然として、今にも気を失って倒れそうになりました。そしてただのひと言も言い出すことができません。すると帝王《スルターン》は怒鳴りつけなさいました、「どうじゃ、呪われた詐欺師め、宮殿はどこにあるか、して、わが娘、わが心の髄、わがただひとりの愛児は、どこにいるのじゃ。」するとアラジンは大きな溜息を吐いて、涙に暮れました。次に言いました、「おお当代の王よ、私は存じませぬ。」帝王《スルターン》は言いました、「よっく聞け。余はなにも汝の呪われた宮殿を、元通りにせよと求めは致さぬ。ただわが娘を返せと命ずるのじゃ。もし汝、今直ちに娘を返さずば、或いは、娘がいかが相成りしやを、余に言おうとせずば、わが首《こうべ》にかけて、余は汝の首を刎ねさすべし。」するとアラジンは、激動の極に達し、眼を伏せて、ひと時の間、考えに耽りました。それから頭をあげて、言いました、「おお当代の王よ、何ぴとも己が天命を脱れませぬ。そしてもし私の天命が、自ら犯さざりし罪によって、わが首が刎ねられるということなれば、いかなる権力も、私を救い得ぬでござりましょう。ただ私は死ぬに先立って、わが最愛の妻について必要なる捜索を致すべく、四十日の猶予を賜わりたく願い上げます。妻は私の狩に出ている間に、宮殿もろとも行方不明と相成り、しかも私も、そもそもいかにしてこの災厄の突発せしや思いもかけ得ず、これは私は、われらの信仰の真実にかけ、われらの主《しゆ》ムハンマド(その上に祈りと平安あれかし)の功徳《くどく》にかけて、誓言致しまする。」すると帝王《スルターン》は答えました、「よろしい、いかにも汝の求むる猶予を授けてつかわす。されど、その猶予期間が過ぎて、なおわが娘を連れ戻すことなくば、何ものも汝をわが手の間より救うあたわざるものと心得よ。何となれば、汝は地のいかなる場所に身を潜むるとも、余は必ず汝を捕えて、罰するを得るであろう。」このお言葉を聞いて、アラジンは帝王《スルターン》の御前を退出し、頭を低く垂れつつ、高官たちのまん中を通って、御殿を横切りましたが、高官たちはなかなか彼と見分けがつかなかったくらいで、それほど、激動と苦悩で、にわかに一変してしまったのでございました。そして彼は群集のまん中に行き着くと、血走った眼をしながら、訊ねはじめました、「おれの宮殿はどこだ。おれの妻はどこだ。」すると、彼を見、彼を聞いた人たちは皆、言い合いました、「お気の毒に、気がふれてしまった。あの方を気違いにしたのは、帝王《スルターン》の御不興と死を見たためだ。」アラジンは、自分はもうすべての人にとって、憐れみの的《まと》でしかないのを見ると、足早に遠ざかってゆきましたが、誰もあとをついてゆく気持になりませんでした。そして彼は町を出て、自分のしていることがわからずに、野をさまよいはじめたのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十八夜になると[#「けれども第七百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……こうして彼は、絶望に捉えられ、「アラジンよ、お前はどこに行って、自分の宮殿と妻のバドルール・ブドゥールを探す気か、おお憐れな男よ。妻が今なお生きているとすれば、どこの見知らぬ国に、探しにゆくのか。どんな工合に、行方不明になったのかさえ、お前は知っているのか」と独りごとを言いながら、と或る大きな河のほとりに行き着きました。こうした思いで魂は朦朧となり、眼前にはもはや闇と悲しみしか見えず、彼はいっそ河に身を投げて、わが生命と苦しみを溺らせてしまおうと思いました。けれども、ちょうどそのとき、彼は自分が回教徒《ムスリム》であり、信者であり、清純な者であることを、思い起したのでございます。それで彼は、アッラーの唯一なることと、その「使徒」の使命とを、表明致しました。この信仰証言《シヤハーダ》と、至高者の御意《ぎよい》に身をおまかせ申したこととによって力づけられ、彼は、河に身投げをする代りに、夕の礼拝のために、洗浄《みそぎ》をしようと思い立ちました。そこで河辺にしゃがんで、両手の凹みに水を掬《すく》い、水で指と爪先を擦りはじめました。ところが、この動作をしながら、彼は、むかし地下の穴倉でマグリブ人にもらった指環を、擦ったのでした。それで、その瞬間に、指環の鬼神《イフリート》が現われ出て、彼の前に平伏して、言いました、「御手の間に[#「御手の間に」に傍点]、ここに[#「ここに」に傍点]、あなた様の奴隷が控えておりまする[#「あなた様の奴隷が控えておりまする」に傍点]。仰せあれ[#「仰せあれ」に傍点]、何御用でござりましょうか[#「何御用でござりましょうか」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]、地上にても[#「地上にても」に傍点]、空中にても[#「空中にても」に傍点]、水上にても[#「水上にても」に傍点]、この指環の下僕でございます[#「この指環の下僕でございます」に傍点]。」するとアラジンは、その見苦しい顔貌《かおかたち》とすさまじい声とで、これが昔自分を地下から救い出してくれた鬼神《イフリート》だと、はっきりわかりました。そして、今陥っている憐れな状態にあって、まるで思いも設けなかった出現に、たいそう嬉しい驚きを覚えて、そこで洗浄《みそぎ》を中止して、すっくと立ち上がり、鬼神《イフリート》に言いました、「おお指環の鬼神《イフリート》よ、おお救い手よ、おおすぐれた親切者よ。願わくはアッラーはお前を祝福し、御恵《みめぐ》みを垂れたもうように。とにかく早速、おれの宮殿と妻のバドルール・ブドゥールとを、連れ戻してくれよ。」けれども指環の鬼神《イフリート》は答えました、「おお指環の御主人様、あなたの御注文は、だいたい私の縄張りではございません。なぜなら、地上でも、空中でも、水上でも、私はただ指環だけの下僕《しもべ》ですから。そして、この点はランプの下僕《しもべ》の管轄に属するので、残念ながら、満足させて差し上げることができない次第でございます。それについては、あなた様はあの鬼神《イフリート》にお話しなさりさえすればよろしい。彼ならば満足させて差し上げられましょう。」そこでアラジンは、たいそう困って、これに申しました、「それならば、おお指環の鬼神《イフリート》よ、ここにおれの妻の宮殿を運んでくるというような、お前に関係のないことに、手出しをするわけに参らぬとあらば、ではおれは、お前の仕える指環の功徳によって、お前に命ずる。わが宮殿のある地上の場所まで、おれ自身を運んで行って、わが妻バドルール・ブドゥール姫の窓下に、そっとおれを下ろしてくれ。」
ところで、アラジンがこの頼みを言いもおわらず、指環の鬼神《イフリート》は承わり畏まって答え、たった目を閉じ、目を開けるだけの時間のうちに、彼をマグリブの奥の、バドルール・ブドゥールの御殿が、その建築美を見せながら聳えている、壮麗な庭のまん中に、運んだのでございました。そして、姫の窓の下にごくそっと彼を下ろして、姿を消してしまいました。
そこでアラジンは、自分の宮殿を見て、心が拡がり、魂が安らぎ、眼が爽やかになるのを覚えました。そして希望がふたたび、悦びと共に心中に入りました。そして、竈《かまど》で焼いた頭を売る商人に頭をあずけた人は、それが気がかりで眠らないのと同じ工合に、アラジンも、わが身の疲れと悲しみにもかかわらず、すこしも休もうとはしませんでした。ただ自分の魂を、「創造者」の方《かた》へと高めて、その御好意を謝し、神慮のほどは知恵浅い人間どもには測り知れないことを、認めたのでございました。そのあとで、彼は立ち上がり、妻バドルール・ブドゥールの窓の下に、よく目立つように立ちました。
ところで、マグリブ人の魔法使に、宮殿もろとも攫われて以来、姫は、父王と最愛の夫から引き離された苦しみのうちに、また、屈しこそしませんが、呪われたマグリブ人からあらゆる迫害を受けて耐え忍んでいる結果、毎日、夜が明けるとすぐに、寝床を離れる習慣となり、悲しい物思いに満ちつつ、泣いて時を送り、眠らずに夜を過しておりました。そしてもう眠りもせず、飲みもせず、食いも致しませんでした。ところでその夕は、天命の命令によって、侍女が姫の気を紛らせようとして、その部屋にはいっておりました。そして侍女は、水晶の広間の窓の一つを開けて、「おお御主人様、まあこちらにいらっしゃって、今夕は、どんなに木々が美しく、どんなに空気が快いか、御覧あそばせ」と言いながら、外を眺めました。それから突然、侍女はひと声大きな叫びをあげ、叫びました、「やあ、シッティ、やあ、シッティ(21)、あそこにわたくしの御主人アラジン様が、いらっしゃいます、御主人アラジン様が。御殿の窓の下においでです。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百六十九夜になると[#「けれども第七百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この侍女の言葉に、バドルール・ブドゥールは窓に飛んでゆくと、アラジンが見え、アラジンも同じように姫を見ました。そして二人とも、悦びに飛び立ちそうになりました。最初に、バドルール・ブドゥールのほうから、口を開くことができて、アラジンに叫びました、「おお愛するお方、早くいらっしゃい、早く。侍女が下りて行って、秘密の戸を開けますから。ここに上がっていらっしゃっても御心配ありません。呪われた魔法使は、今留守です。」そして侍女が秘密の戸を開けてくれたので、アラジンは妻の部屋に上がって行き、妻をわが胸に迎えました。ふたりは、悦びに酔い、泣いたり、笑ったりしながら、相抱きました。すこし落ち着くと、ふたりは並んで坐り、アラジンは妻に言いました、「おおバドルール・ブドゥールよ、何よりもさきにまず訊ねたいのは、私が狩に出る前に、私の部屋の床几《しようぎ》の上に置き忘れた、あの銅のランプはどうなったかということです。」すると姫は叫びました、「ええ、愛する方よ、それなのです。まさにあのランプこそ、私たちの不幸の因《もと》でございます。けれども、こういうことになったのは、全くわたくしが悪かったので、ただわたくし一人のせいでございます。」そしてアラジンに、その留守中、宮殿で起ったことすべてを話し、ランプ売りの気違いぶりを笑ってやろうと思って、床几のランプを新しいランプと取り換えた次第、それから引きつづいて起ったすべてを、何一つ忘れずに話しました。けれどもそれを繰り返しても、益なきことでございます。そして、次のように言って、話を結びました、「そしてわたくしたちがここに、御殿と一緒に運ばれてきてからはじめて、あの呪われたマグリブ人めは、彼の魔術の威力と、取り換えたランプの功徳によって、わたくしをわがものとするために、首尾よくわたくしをあなたの情愛から奪いとったということを、わたくしに明かしに来たのでございます。そして、自分はマグリブ人であり、わたくしたちは今、自分の故国のマグリブにいるのだと、申しましたの。」するとアラジンは、妻をこればかりも責めずに、訊ねました、「それであの呪われたやつは、そなたをどうしようという気なのか。」妻は言いました、「毎日、一度、一度だけですけれど、わたくしを訪ねてきて、あらゆる手段《てだて》を尽して、わたくしを誘惑しようとしますの。そして、何しろ不実に満ちた男ですから、わたくしの抵抗するのを説き伏せようとして、いつもわたくしにこう言い張りますの、帝王《スルターン》はあなたのことを、詐欺師として首を刎ねさせてしまった、あなたは要するに貧民の子で、ムスタファという名の、賤しい仕立屋の息子にすぎない、あれまでの身代と栄誉に辿りついたのは、ひとえにこの自分のお蔭にすぎないのだ、なんて。ですけれど、今までのところ、わたくしからは、すべての返事代りに、ただ軽蔑の沈黙と顔をそむけることしか、受けとっておりません。そしてそのつど、耳を垂れ、鼻を長くして、引きさがらないわけに参りませんでした。そしてわたくしは、そのつど、彼が暴力に訴えはしないかと、心配でございました。けれども、もうあなたがいらっしゃいました、アッラーは讃《ほ》められよかし。」するとアラジンは言いました、「では、知っていたら、聞かせてもらいたい、おおバドルール・ブドゥールよ、あの呪われたマグリブ人が、私からまんまと奪い取ったあのランプは、この御殿のどういう場所に隠されているのだね。」姫は言いました、「あの男はあれを決して御殿に置いておかず、しょっちゅう自分の懐に入れて、持って歩いています。わたくしの前で、ランプを取り出して、まるで戦利品のように見せびらかすのを、何度見たか知れませんわ。」するとアラジンは言いました、「よろしい。だが、わが生命《いのち》にかけて、きゃつはもう長い間、あれを見せびらかすわけにはゆくまいぞ。」次に付け加えました、「私はあの不実な仇《あだ》を懲らしめる法を心得ているぞ。そのためには、この部屋にほんのひと時、私をひとりきりにしておいてもらうだけでよい。済んだらすぐ呼ぶから。」そこでバドルール・ブドゥールは部屋を出て、侍女たちと一緒になりに行きました。
するとアラジンは、指にはめていた魔法の指環を擦って、罷り出た鬼神《イフリート》に言いました、「おお指環の鬼神《イフリート》よ、お前は各種の麻酔の粉を知っているか。」鬼神《イフリート》は答えました、「それこそいちばん得意でございます。」彼は言いました、「しからば命ずる。クレータ島産の麻酔剤《バンジ》を、一オンス持ってきてくれ、一服もれば、象を引っくりかえすことができるようなやつをな。」すると鬼神《イフリート》は消えましたが、一分たつと、小さな容器《いれもの》を指の間にはさみながら戻ってきて、それをアラジンに渡しながら、言いました、「これぞ、おお指環の御主人様、極上のクレータ産の麻酔剤《バンジ》でござります。」そして行ってしまいました。そこでアラジンは妻のバドルール・ブドゥールを呼んで、これに言いました、「おおわが御主人バドルール・ブドゥールよ。もしもそなたが、あの呪われたマグリブ人にわれわれが打ち勝ちたいと思うならば、これから私の言う勧めに、従ってくれさえすればよい。それは急を要する。そなたはさっき、そなたを誘惑しようとて、あのマグリブ人は今にもここに来ると言っていたから。それで、そなたにぜひやってもらいたいということは、次のようなこと。」そして彼は言いました、「そなたはこれこれしかじか[#「これこれしかじか」に傍点]のことをして、あやつにこれこれしかじか[#「これこれしかじか」に傍点]のことを言いなさい。」そして魔法使に対して振舞うべきやり方を、細かく教えました。それから付け加えました、「さて私は、この箪笥のなかに隠れるとしよう。そして時が来るまで、出ずにいよう。」そして、麻酔剤《バンジ》の小箱を渡しながら、妻に言いました、「今教えてあげた手段を忘れてはいけないよ。」そして彼は別れて、箪笥のなかにひそみにゆきました。
そこでバドルール・ブドゥール姫は、くだんの役割を果たすのに嫌気を覚えはしたものの、魔法使に仇を討つ機会を逸したくはなく、夫アラジンの指図に従う準備にとりかかりました。そこで立ち上がって、お付きの女たちに、髪を梳《くしけず》らせ、彼女の月の顔《かんばせ》にいちばんよく合う形に結わせ、箪笥のいちばん美しい着物を着せさせました。それから、金剛石をちりばめた金の帯でもって、腰を締め、中央《まんなか》の真珠だけが胡桃《くるみ》ほどの大きさで、他はすべて粒の大きさのそろった見事な真珠の首飾りを首に飾り、手首と踝《くるぶし》には、他の飾りの品々の色合いとぴったりと合う宝石をはめた、金の輪をつけました。香りも高く、選りぬきの天女《フーリー》にも似て、最も輝かしい女王や女帝《スルターナ》よりも更に輝かしく、姫はわれと感動しながら、鏡に映る己が姿を眺め、一方、侍女たちはその美しさに驚嘆して、感嘆の叫びをあげるのでした。そして姫は、無造作に座褥《クツシヨン》に倚って横になりながら、魔法使の来るのを待ちました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十夜になると[#「けれども第七百七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、やつは言った時間にちゃんとやってきました。すると姫は、いつもとちがって、これを迎えて立ち上がり、微笑を浮べながら、長椅子《デイワーン》の自分のそばに坐るように招じました。マグリブ人はこのあしらいにたいそう感激し、自分を見やる明眸の輝きと、あれほど渇望の姫の、うっとりするばかりの美しさとに目が眩んで、礼儀と尊敬の気持から、長椅子《デイワーン》の端《はし》にしか、掛けようとしませんでした。姫は、やはりにこやかに、これに言いました、「おおわが御主人様、今日はわたくしがこのように打って変った様子でいるのに、お驚き遊ばしますな。と申すのは、わたくしの気象は、元来まるで陰気とは反対でございますので、とうとうわたくしの悲しみと不安を抑えてしまいました。それに、わたくしは夫のアラジンについてのお言葉を、よくよく考えてみて、今では、父上の恐ろしい逆鱗に触れた結果、夫は死んでしまったものと信じますの。とにかく、記《しる》されたところは、行なわれなければなりませんわ。ですから、わたくしが泣いても惜しんでも、死人に再び生命《いのち》を与えは致しますまい。それゆえ、わたくしは悲しみと悼みはもうやめにして、あなたのお申し出と御親切をもう斥けまいと、決心致しましたの。わたくしの気分の変ったわけは、こういう次第でございます。」それから言い添えました、「けれども、わたくしまだ、あなたに友情の飲み物を、差し上げませんでしたわね。」そして姫は、目ばゆいばかりの美しい姿で立ち上がり、酒類とシャーベット類のお盆が載っている大きな床几《しようぎ》のほうに行って、お盆を出させるため、侍女の一人を呼びながら、その間にお盆の金の杯のなかに、クレータ島産の麻酔剤《バンジ》をひと摘み、投げ入れました。マグリブ人はこの好意に対し、お礼の言葉を知らぬ有様でした。そして若い侍女がシャーベットのお盆を持って進み出ると、彼はその杯を取って、バドルール・ブドゥールに言いました、「おお姫君、この飲み物は、いかにおいしいにせよ、あなたの御目《おんめ》の微笑ほどに、私の渇を癒すことはできますまい。」こう言って、彼は杯を唇に寄せ、息もつかずに、ただひと息で飲み乾してしまいました。しかし、それは即座に、絨氈の上に、バドルール・ブドゥールの足許に、頭を脚の前にのめらせて、転がることとなったのでございます。
さて、彼の倒れる音を聞いて、アラジンはひと声大きな勝利の叫びをあげ、箪笥から出て、すぐに敵のぐったりとした身体のほうに駈け寄りました。そして彼に襲い掛って、着物の上のほうを開け、懐中から、隠し持ったランプを取り出しました。そして、悦びの極に達して彼に接吻しに駈け寄るバドルール・ブドゥールのほうに、向き直って、言いました、「どうかもう一度、私をひとりにしてくれないか。今日じゅうに、万事片づけてしまわなければならないから。」そしてバドルール・ブドゥールが遠ざかると、彼はランプのよく知っている場所を擦ると、すぐにランプの鬼神《イフリート》が出てきて、いつもの文句を言ってから、命令を待ちました。それでアラジンはこれに言いました、「おおランプの鬼神《イフリート》よ、お前の主人たるこのランプの功徳により、おれはお前に命ずる。この宮殿を、なかにあるもの全部と一緒に、そっくり、シナ王国の主都の、お前があそこから攫ってここに持ってきたきっかりあの元の場所に、運んでゆけ。静かに、無事に、揺れずに、運搬するように致せよ。」すると魔神《ジンニー》は、「仰せ承わることは、仰せに従うことでございます」と答えて、消えました。そして同時に、ただ眼を閉じ、眼を開けるだけの間に、誰にも気づかれないうちに、運搬は済んでしまいました。それというのは、出発に一度、到着に一度と、二度だけ、ほんのちょっと揺れたかと思えるくらいのことだったからでした。
そこでアラジンは、宮殿がまちがいなく、帝王《スルターン》の御殿の真正面に、もと占めていた場所に着いて、据えられたことを確かめてから、妻のバドルール・ブドゥールに会いに行って、幾度《いくたび》も接吻して、そして言いました、「さあ、父王の都に着きました。けれども、もう夜だから、帝王《スルターン》に私たちが帰ったことをお知らせにゆくのは、明日の朝まで待つほうがよい。さしあたっては、私たちはただ私たちの勝利と再会を悦ぶことだけを、考えるとしよう、おおバドルール・ブドゥールよ。」そしてアラジンは前日来、まだ何も食べていなかったので、九十九の窓の広間に、二人一緒に坐って、おいしい食事を奴隷たちに出させました。次に、二人は歓喜と幸福の裡に、共にその夜を過したのでございます。
さて翌日、帝王《スルターン》は、習慣通り、今は土台の溝《みぞ》しか残っていない筈の場所に行って、娘の身を悲しもうと、御殿を出なさいました。すっかり心悲しく心痛しながら、お眼をそちらに向けると、馬場《マイダーン》の広場は再びあの壮麗な宮殿に占められて、思っていたように空っぽではないのを御覧になって、茫然と立ち尽しなさいました。最初は、これは何か霧のせいか、それとも、御自分の落ち着かぬ心の迷いのせいかとお思いになって、幾度もお眼を擦ってみました。けれどもいつまでも幻《まぼろし》は消えないので、今はその現《うつつ》なことを疑えなくなり、すると、帝王《スルターン》の御身分も顧みず、両腕を振り、悦びの叫びをあげながら、駈け出して、警吏も門番も突きとばし、御高齢にもかかわらず、息もつかずに、雪花石膏の階段を駈け上がって、水晶の円屋根の下の、九十九の窓の広間に飛びこみなさると、そこにはちょうど、アラジンとバドルール・ブドゥールが、微笑を湛えながら、お出でを待っておりました。そして帝を見ると、二人は一緒に立ち上がって、お迎えに駈け寄りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十一夜になると[#「けれども第七百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで帝は感極まり、嬉し涙を流しながら、姫を抱き締め、姫もまた同様でした。やっとお口を開いて物がいえるようになると、帝はおっしゃいました、「おおわが娘よ、そなたの顔は、身に起った一切にかかわらず、余が最後に見た日と、殆んど変っておらず、或いは顔色が黄色ともなっていないのを見受けるは、驚き入ったことじゃ。さりながら、おおわが心の娘よ、そなたは遠く離れて、さぞかし心痛致したに相違なく、宮殿もろともあちこちと運ばれるのを見ては、大いなる不安と、甚だしい苦悩がないわけにはまいらなかったに相違ない。余自身も、ただそれを思うのみにて、恐怖の戦慄に襲わるるを覚えるくらいじゃからな。さればいそいで、おおわが娘よ、そなたの顔貌《かおかたち》がそのように変らぬ謂《いわ》れを聞かせ、お前の身に起ったところ一切を一部始終、何ごとも隠すところなく、語ってくれよ。」するとバドルール・ブドゥールは答えました、「おお、わたくしの父上様、わたくしの顔がそんなに変らず、顔色も黄色くならずにいますのは、わたくしがお父様と夫アラジン様を遠く離れることによって失ったところを、再び取り戻したゆえと、思し召せ。なぜなら、わたくしに以前の血色と色艶を返してくれるのは、お二人にまたお会いする悦びなのですから。けれども、お父様の愛情と、いとしい夫の愛情から奪い去られたことも、呪わしいマグリブ人の魔法使の勢力の下に陥ったことも、それはもうずいぶん苦しみもし、泣きも致しました。この魔法使こそは、起ったことすべての原因《もと》でございまして、わたくしを攫って行ってから、いやらしいことを申して、言い寄ったのでございました。けれども、こうしたすべてはといえば、わたくしがついうっかりして、自分のものでもないものを、他《ほか》の人に譲ってしまったせいでございます。」そして姫は父王に、自分の話を全部、何ひとつ落さずに、事こまかに、一気に語りました。けれどもそれを繰り返し申しても、何の役にも立ちません。姫が話しおわると、それまで口を開けずにいたアラジンは、びっくりの限りびっくりしていらっしゃる帝王《スルターン》のほうに向いて、垂幕の蔭の、麻酔剤《バンジ》の猛毒で顔が真黒になっている、魔法使の動かない身体をお見せして、言いました、「これこそ、私たちの過去の不幸と、私の御不興の原因《もと》である、詐欺師でございます。けれども、アッラーはやつを罰して下さいました。」
これを見ると、帝王《スルターン》は今はすっかりアラジンの無罪を信じて、彼をお胸に固く抱きしめながら、たいそうやさしく接吻して、おっしゃいました、「おおわが子息アラジンよ、そちに対する余の仕打ちを、あまり咎めないで、余のそちに用いたむごいやり方を、許してくれよ。それというのも、余のただひとりの娘バドルール・ブドゥールに覚ゆる愛情のゆえに、余はいささかそちの容赦を得るに値いするからじゃ。かつは、父親の心というものは情愛に満ちていて、特に余としては、最愛の娘の髪の毛ひと筋よりも、わが全領土を失うほうがよいくらいだということは、そちもよく知っているからな。」アラジンは答えました、「いかにもそのとおりで、おおバドルール・ブドゥールのお父上、まことに御無理ありませぬ。それというのは、私に対して短気な手段をおとりになったのは、ひとえに、私の落度で王女様が行方不明になってしまったものとお思いになり、そのお嬢様への愛情の致すところでございますから。私には何ごとであれ、お咎め申す権利はございません。事実、私として、あの不届きな魔法使の不埓な企図を見越して、あらかじめ警戒しておくべきでありました。あやつの邪悪な心根ときては、いずれ暇のできたおりに、あやつと私とのいきさつ全部を、お話し申し上げた節でなければ、とても本当には御理解になれないでございましょう。」すると帝王《スルターン》は今一度アラジンに接吻して、これに申されました、「いかにも、おおアラジンよ、いずれ近いうち暇を見つけて、そのすべてをぜひ話してもらわなければならぬ。しかし、目下のところは、われらの足許に生命《いのち》なく横たわっているこの呪われた屍体をば、眼前より早々に取り片づけて、共々にそちの勝利を悦ぶことが、さらに緊急事じゃ。」そこでアラジンは、若い|鬼神たち《アフアリート》に、マグリブ人の屍体を持ち去って、馬場《マイダーン》の広場のまん中で、埃屑《ごみくず》の上に寝かせて焼き、その灰を汚穢溜に放りこんでしまうように命じました。それは、町じゅうの人の集まった面前で、そのとおり実行され、市民一同は、この当然な刑罰と、アラジン公が再び帝王《スルターン》の寵を復したことを悦びました。
それが済むと、帝王《スルターン》は触れ役人に、竪笛《クラリネツト》と罐鼓《かんこ》と太鼓の奏者のただ中で、国をあげての祝賀のしるしに、囚人を釈放する旨告示させました。また貧者と困窮者には、多大の御下賜を配らせました。そして夜には、御自分の御殿と、アラジンとバドルール・ブドゥールの御殿と共に、全市に灯火をつけさせました。このようにして、アラジンはその身についた祝福のお蔭で、ここに再び死の危険を逃れたのであります。そしてまたその同じ祝福が、おお、お聴きの方々よ、やがてお聞きになるように、今一度、三たび彼を救うことになるのでございます。
果たして、アラジンが帰ってきて、今は威厳はあるけれども、高ぶったところや横柄な様子は少しもない、尊ぶべき貴婦人になった母親の、慈愛のこもった注意の行きとどく眼に見守られ、妻と一緒にことごとく楽しい生活を送って、既に数カ月になると、その時、ある日のこと、妻がすこし悲しげな沈んだ顔をしながら、彼が庭の眺めを楽しむため平生いる、水晶の円屋根の広間にはいってきて、そばに近よって言いました、「おおわが御主人アラジン様、アッラーはわたくしたち二人にお恵みの限りを尽して下さいましたが、これまでまだわたくしに、子供を持つ慰めをお授け下さいません。わたくしたちが結婚してからもう大分になりますが、わたくしはまだ胎内が生命《いのち》で孕むのを感じないのでございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十二夜になると[#「けれども第七百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……ところで、実は数日前からこの都に、ファーティマー(22)という名の、年とった聖女が来ておりまして、ただ手をあてるだけで、あらたかな療治と恢復を行ない、産《う》まず女《め》たちに子供を授けるというので、皆に敬われているとのこと、どうぞその老女を、この御殿に呼ぶのをお許し下されたく、お願いに参りましたの。」するとアラジンは、いつもバドルール・ブドゥールの気に逆らうのを好まないので、その頼みを聞きいれるのに何の難色も示さず、四人の宦官に、その聖女に会いに行って、御殿に連れてくるように命じました。宦官はすぐに命令を果たして、ほどなく、たいそう厚い面衣《ヴエール》で顔を蔽い、胸の下までも垂れている、非常に大きな三巻きの数珠を首に巻きつけた、老聖女を連れて、帰ってきました。聖女は手に大きな杖を携えて、年齢と信心の勤行《ごんぎよう》とに衰えた歩みを、それに託しておりました。姫は聖女を見ると、いそいで出迎えにゆき、その手に心をこめて接吻して、祝福を乞いました。すると老女は、たいそう勿体ぶった口調で、姫の身にアッラーの祝福と恩寵とを願い、長いお祈りをして、姫に繁栄と幸福を続け、いや増すように、また姫のどんな小さな望みをも叶えて下さるように、アッラーにお願いしました。バドルール・ブドゥールはこれに、長椅子《デイワーン》の上座に坐るようにすすめて、言いました、「おおアッラーの聖女様、御親切なお願いとお祈り、ありがとうございます。アッラーはあなたのお頼みなさることならば、何ひとつお拒みなさるまいということを、わたくしは存じておりますので、ひとつあなたのお取りなしで、アッラーの御恵《みめぐ》みによって、わたくしの魂のいちばん切なるお願いの筋を、叶えていただきたいものと存じます。」すると聖女は答えました、「わたしはアッラーの創《つく》りたまいしもののうち最も微々たるものですが、しかし、アッラーは全能者、至善者にましまする。されば、おおわが御主人バドルール・ブドゥール様よ、あなたの魂の願うところを、恐れず言って御覧なされ。」するとバドルール・ブドゥールは、顔を真赧《まつか》にして、声をひそめ、非常に熱心な調子で言いました、「おおアッラーの聖女様、わたくしはアッラーの寛仁によって、子供がひとり欲しいのでございます。そのためにはどうすればよろしいのか、そうした御恩恵に値いするには、どういう善事と、どういう善行を積めばよろしいのか、お教え下さい。どうぞおっしゃって下さいまし。自分自身の生命《いのち》よりもわたくしには貴いこの幸福を得るためならば、どんなことでも致します。その代りには、あなたにわたくしの感謝の気持を示すため、あなたの願うものなり望むものなり、何でも差し上げましょう、それはもう、おお、われわれ皆のお母様、あなたは弱い人間たちの欲しいものなどお入用がないことは、存じあげておりますから、御自身のためなどではなく、アッラーのお気の毒な人たちと貧しい人たちを慰めるために、お望みなさるものを何なりとも。」
このバドルール・ブドゥール姫の言葉に、今まで伏せていた聖女の眼は、急に見開き、面衣《ヴエール》の下で、並々ならぬ輝きで煌《きら》めき、顔はいわば内部の火で輝き、顔貌《かおかたち》全体が、恍惚としたうれしさの気持を現わしました。そしてしばらくの間、ひと言も言い出さずに、じっと姫を見つめていましたが、やがて両腕を姫のほうに延ばして、いわば心中の祈りをするというふうに唇を動かしながら、姫の頭上に手を置いて、最後にこれに言いました、「おおわが娘、おお、わが御主人バドルール・ブドゥール様よ、アッラーの聖人様方は、あなたの胎内に懐胎が住むのを見るため、あなたの用いるべきまちがいのない策をば、ただ今わたしに口授《くじゆ》して下さりました。けれども、おおわが娘よ、どうもその策は、用いることが不可能ではないにせよ、至難と思われますのじゃ。というのは、それに必要なる力と勇気を実現するには、まことに超人的な権力を要しますからね。」バドルール・ブドゥール姫は、この言葉を聞くと、もう感動を抑えきれず、聖女の膝下に身を投げて、その膝を掻き抱きながら、これに言いました、「後生でございます、おおわたくしたちのお母様、どんなことであろうと、その策をば教えて下さいませ。なぜと申せば、わたくしのいとしい夫アラジン公にとっては、何ごとも実現できないことなどございませんから。どうぞおっしゃって下さい。さもないと、わたくしは叶えられない望みのため、あなたの足許で死んでしまいます。」すると聖女は、一本の指を空《そら》に挙げて、言いました、「わが娘よ、あなたの裡に懐胎が入りこむためには、コーカサスの山(23)の最高頂に住む、ロク鳥の卵を、この広間の水晶の円天井に、吊しておかなければなりません。あなたはこの卵を、毎日毎日できるだけ長い間眺めていると、これを見ているうちに、やがてあなたの内奥の天性が変り、あなたの母親の活動しない本性が動き出すでしょう。わたしの教えてあげたかったことは、これです、わが娘よ。」バドルール・ブドゥールは叫びました、「わが生命《いのち》にかけて、おお、わたくしたちのお母様、ロク鳥というのはどんな鳥か存じませんし、その卵も見たことがございませんけれど、アラジンがその身ごもらせる卵のひとつを、すぐさま手に入れて下さらないことは、よもやないと存じます、たといコーカサスの山の絶頂の巣のなかにあるとしても。」それから、聖女は早くも立ち上がって立ち去ろうとしていましたのを、引きとめようとしましたが、聖女は言いました、「いやいや、わが娘よ、今は行かせてもらいましょう。これから、ほかのいろいろな不幸と、あなたよりももっと大きな苦しみとを、軽くしてやりに行くのでな。しかし明日は、インシャーラー、わたしのほうから自分でお見舞いに参り、御消息を承わりましょう、わたしもたいそう気になることじゃから。」そしてバドルール・ブドゥールは感謝に満ちて、値いしれぬ値打の首飾りと宝石をいくつも贈ろうとしましたが、そのあらゆる骨折りと懇願にもかかわらず、聖女はこの上ひと時も宮殿にとどまろうとせず、贈物も一切ことわって、来た時のように、行ってしまいました。
さて、聖女が去ってしばらくすると、アラジンは妻の許に戻ってきて、いつもただの一瞬間でも留守をすると、そのつどするように、やさしく妻に接吻しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十三夜になると[#「けれども第七百七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……ところがどう見ても、妻はまるで上《うわ》の空《そら》で、よそに気をとられている様子です。そこでたいへん案じて、そのわけを尋ねました。すると、シート・バドルール・ブドゥールは、ひと息に、申しました、「わたくし、もしコーカサスの山の絶頂に住んでいる、ロク鳥の卵をひとつ、できるだけ早く手に入れられなければ、きっと死んでしまいますわ。」この言葉に、アラジンは笑い出して、言いました、「アッラーにかけて、おおわが御主人バドルール・ブドゥールよ、たかがその卵を手に入れるだけで、そなたを殺さずに済むというのなら、眼を爽やかにしなさい。だが、いったいその鳥の卵を、そなたはどうするつもりなのか、それだけは聞かせてもらいたい、知っておきたいから。」バドルール・ブドゥールは答えました、「実はさっきあの年とった聖女が、婦人の不妊症を治すのにもうこの上なくよく利くから、その卵を見なさいと命じたのでございます。それでわたくしは、それを手に入れて九十九の窓の広間の、水晶の円天井のまん中に、吊しておきたいと思いますの。」アラジンは答えました、「わが頭と眼の上に、おおわが御主人バドルール・ブドゥールよ。今すぐに、そのロクの卵を手に入れてあげます。」
すぐに彼は妻と別れて、自分の部屋に引きこもりに行きました。そしてこの間、ふとした粗忽から恐ろしい危険に遭って以来、いつも肌身離さず持っている魔法のランプを、懐から取り出して、それを擦りました。その瞬間、ランプの鬼神《イフリート》が彼の前に現われて、命令を果たそうと待ちかまえました。そこでアラジンはこれに言いました、「おお、お前の主人のランプの功徳《くどく》のお蔭で、おれの言うことを聞いてくれる親切な鬼神《イフリート》よ、水晶の円天井のまん中に吊すのだから、コーカサスの山の絶頂に住んでいる、巨鳥ロクの卵をひとつ、今すぐ持ってきてもらいたい。」
ところが、アラジンがこの言葉を言いも終らず、鬼神《イフリート》は物すごい勢いで身を痙攣させ、眼は燃え上がり、アラジンの顔に、それはそれは慄ろしい叫びを投げつけたので、宮殿はそのため土台から揺れ動き、アラジンは石弩《いしゆみ》の石のように、ふっとんで部屋の壁にぶつかり、あまりの激しさに、すんでのことに、身体の縦が横にめりこみそうでした。そして鬼神《イフリート》は、雷の轟くような声で、怒鳴りつけました、「大それたアーダムの子め、何を図々しく頼むのか。身分賤しいやつらのなかでも、いちばん恩知らず者めが、おれが唯々諾々と尽してやったあらゆる骨折りにもかかわらず、今度は厚かましくもおれに、きさまの宮殿の円天井にぶらさげるから、おれの至上の御主人ロク様の御子を、取りに行ってこいなんぞとぬかしやがるのだな。馬鹿者め、きさまはおれたち、おれもこのランプもまたこのランプに仕える全部の魔神《ジン》もみんな、卵の父、大ロク様の奴隷だということを、知らないのか。えい、きさまは、おれの御主人のランプに護られる身であり、また、救いの霊験満ちたその指環を、指にはめているとは、何とも運のいいやつだ。さもなけりゃ、きさまの縦は、とっくに、きさまの横にめりこんでいるところだ。」するとアラジンは、壁にくっついたまま、茫然として身動きもせず、言いました、「おおランプの鬼神《イフリート》よ、アッラーにかけて、この注文は決しておのれがしたわけではない。これは妻のバドルール・ブドゥールが、懐妊の母、不妊を治す年とった聖女から、入れ知恵されたことなのだ。」すると鬼神《イフリート》は急に鎮まって、いつものアラジンに対する言いぶりに返って、言いました、「ああ、そうとは知らなんだ。ふふん、そうか、じゃ、陰謀はあいつから出たのだな。いや、アラジン様、あなたはこれに全然あずかり知らないということは、全くお仕合せでした。実際、この手段によって実は、あなたの破滅と奥方の破滅とあなたの宮殿の破滅を、得ようとねらったのですよ。おっしゃるその年よりの聖女というのは、聖女でもなけりゃ、年よりの女でもなく、女に身をやつした男です。そしてその男とは、あなたが退治した敵の、あのマグリブ人の、実の弟に外なりません。この男は、空豆《そらまめ》の片われがその姉妹《きようだい》に似ているように、兄そっくりです。諺に、弟の犬は兄の犬よりも汚ならしいというが、全くですよ。犬の孫子《まごこ》はますます質《たち》が悪くなってゆきますからね。そしてこの新手《あらて》の敵は、あなたは御存じないが、こいつは魔術と腹黒さにかけては、兄貴よりももっとうわ手です。それで、やつは土占《つちうらな》いをやってみて、自分の兄があなたに退治され、奥方バドルール・ブドゥールの父上の帝王《スルターン》の命令で、焼かれてしまったということを知ると、あなた方一同に仇討ちをしようと決心し、年とった聖女に身をやつして、マグリブから当地にやってきて、この宮殿まで着いた。そして首尾よく、ここにはいりこんで、私の至上の御主人、ロク様に対する最大の不敬である、この剣呑極まる注文を、奥方に入れ知恵したわけです。されば、やつの腹黒い計画を教えてさしあげますから、くれぐれも御油断なさりますな。ワァサラーム。」鬼神《イフリート》はアラジンにこう話した上で、消えました。
すると、アラジンは憤怒の極に達して、いそぎ九十九の窓の広間に、妻バドルール・ブドゥールに会いにゆきました。そして、いま鬼神《イフリート》から聞いたことは何ひとつ明かさずに、妻に言いました、「おおわが眼《まなこ》、バドルール・ブドゥールよ、ロク鳥の卵を取ってきてあげる前にまず、この薬をそなたに命じたその年とった聖女の言葉を、私自身の耳で聞くことが、絶対に必要なのです。だから、大急ぎで、聖女を呼びにやって下さい。そして私は垂幕の蔭に隠れているから、その間にそなたは、正確な内容を忘れたからという口実で、さっきの命令をもう一度、聖女に繰り返してもらって下さい。」バドルール・ブドゥールは、「わたくしの頭と眼の上に」と答えて、すぐに年とった聖女を迎えにやりました。
さて、聖女が水晶の円天井の広間にはいってきて、相変らず厚い面衣《ヴエール》で顔を包んだまま、バドルール・ブドゥールに近づいたとたんに……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十四夜になると[#「けれども第七百七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……アラジンはその隠れ場所から飛び出し、手に剣を提げて、聖女に躍りかかり、聖女が「ベム」という間もあらせず、一刀のもとに、その首を肩から刎ねてしまったのでございます。
これを見ると、バドルール・ブドゥールは慄え上がって、叫びました、「おおわが御主人アラジン様、何というとんでもないことを。」けれどもアラジンは微笑するだけで、返事代りに、身をかがめて、切った首をまん中の髻《もとどり》を掴んで拾い上げ、それをバドルール・ブドゥールに見せました。すると、この上なく魂消《たまげ》てぞっとしたことには、見ればその頭は、まん中の髻のほかは、男子の頭のように剃ってあって、顔は一面鬚だらけでした。アラジンは、それ以上長く妻をこわがらせたくはなく、その自称ファーティマーという偽の聖女、偽の老婆についての、真相を話して聞かせ、次のように言葉を結びました、「おおバドルール・ブドゥールよ、私たちを永久に仇敵《あだがたき》から救い出したもうたアッラーに、感謝し奉ろう。」そして二人は、アッラーに御恩恵を謝しながら、お互いの腕に身を投げたのでございました。
そしてその時から二人は、優しいお年より、アラジンの母と、バドルール・ブドゥールの父君、帝王《スルターン》と一緒に、まことに多幸な生活を送りました。月のように美しい子供たちも出来ました。そしてアラジンは、帝王《スルターン》がおかくれになると、シナ王国に君臨しました。こうして、歓楽を破壊する者、友垣を分け隔てる者の避け得ない到来まで、彼らの幸福には、もはや何一つ欠けるものがなかったのでございました。
[#ここから1字下げ]
――そしてシャハラザードは、このようにこの物語を語ってから、言った。
「以上が、おお幸多き王様、『アラジンと魔法のランプ』について、わたくしの知っているすべてでございます。さあれアッラーはさらに多くを知りたまいまする……。」するとシャハリヤール王は言った、「この物語は、シャハラザードよ、感嘆に値するものじゃ。しかしこれはその慎しみ深いことには、何とも驚き入るわい。」するとシャハラザードは言った、「それならば、おお王様、わが君の奴隷シャハラザードに、カマールと達者なハリマの物語[#「カマールと達者なハリマの物語」はゴシック体]を、お話し申し上げるのをお許し下さいませ。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「無論のこと、シャハラザードよ。」けれども彼女は微笑して答えた、「はい、かしこまりました、おお王様。けれどもその前に、わが君に忍耐という立派な徳の価値をお知らせ申し、アッラーがわたくしを介して御一族に定めたもう至福満ちた運命を、君の下婢《しもべ》に対してお怒りなく、お待ちになっていただくようにと、わたくしはとりあえず、わたくしたちの父祖の古人たちが、人の世のまことの知恵[#「人の世のまことの知恵」はゴシック体]を獲る手段について、わたくしたちに伝えなされたことを、お話し申し上げたく存じます。」すると王は言った、「おおわが大臣《ワジール》の娘よ、その知識を獲る手段を、いそぎ余に教えてもらいたい。けれども、おおシャハラザードよ、アッラーがそちを介してわが一族に定めたもう運命とは、いったいどんなものか、余には子孫がないものを。」するとシャハラザードは言った、「おお王様、君の御好意によって、不快の気味を静養させていただいた、あの二十夜の沈黙の間に、君の下婢《しもべ》には、君の御運勢の輝かしさが明されたのでございますが、その間に起った神秘のことは、いまだお話し申し上げぬことを、君の下婢《しもべ》シャハラザードにお許し下さりませ。」そしてそのことについては、これ以上何も付け加えることなく、大臣《ワジール》の娘シャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
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人の世のまことの知恵の譬え話
語り伝えまするところでは、むかし町々の間のある町で、あらゆる学問が教えられておりましたが、そこに、一人の美男で勉強好きの若者が、暮しておりました。その生活の至福には、何ひとつ欠けるものはないとは申せ、彼はいつも、もっともっと学びたいという望みに取り憑かれておりました。ところが、一日旅の商人の話のお蔭で、非常な遠方の国に、一人の学者がいて、彼は回教《イスラム》随一の聖人で、世紀の学者全部を寄せ集めたと同じほどの、学識、知恵、徳をば、ただ一身に兼ね備えているということを、知らされました。そしてこの学者は、その名声にもかかわらず、先代の父と祖父が営んでいた、鍛冶屋の職を続けて営んでいるだけだということも、聞きました。こういう言葉を聞くと、彼は自宅に帰って、鞋《サンダル》と頭陀袋《ずだぶくろ》と杖をとり、直ちに自分の町と友人とに別れました。そしてその方の指導を受け、いささかその学問と知恵を獲たいという目的で、その聖なる師の住んでいる遠国指して出かけました。彼は四十日と四十夜を歩き、多くの危険と疲労を重ねたあげく、アッラーの記《しる》したもうた安泰のお蔭で、その鍛冶屋の町に着きました。そしてすぐに鍛冶屋の市場《スーク》に行き、通行人が誰でもその人の店を教えてくれたので、そこを訪ねました。そしてその衣の裾に接吻してから、深い尊敬の態度で、その前に立ちました。すると、高齢の人で、顔に祝福のしるしを帯びた鍛冶屋は、尋ねました、「何の御用かな、わが息子よ。」彼は答えました、「学問を学びたいのでございます。」すると鍛冶屋は、返事の代りに、黙って仕事場のふいごの綱をその手に持たせ、それを引くようにと言いました。新参の弟子は承わり畏って答えて、すぐに仕事場のふいごの綱を引いたり弛めたりしはじめ、到着の瞬間から日没に至るまで、絶え間なしにつづけました。翌日も同じ仕事を果たし、次の日々もそのとおりで、幾週も、幾月も、そしてまる一年に及びましたが、その間、仕事場のなかでは、師匠も、それぞれ同じような辛い仕事を持っている大勢の弟子たちも、誰一人として、ただの一度も彼に言葉をかけることなく、また誰一人として、この黙々としてやっている辛い仕事に、不平を言うはおろか、愚痴ひとつこぼさないのでした。そして五年がこのように過ぎました。すると弟子は一日、恐るおそる思い切って口を開いて、言いました、「師よ。」すると鍛冶屋は仕事の手をとめました。全部の弟子は、心配の極、同じようにしました。そして仕事場の沈黙のうちに、師は若者のほうに向きなおり、これに尋ねました、「何を望むのか。」彼は言いました、「学問を。」すると鍛冶屋は言いました、「綱を引け。」そしてそれ以上一語もなく、鍛冶の仕事を再び始めました。こうしてさらに五年経ちましたが、その間、朝から晩まで、弟子は休みなくふいごの綱を引き、誰一人ただの一度も、言葉をかけませんでした。けれども、弟子のうちの誰かが、どのような領域のことにしろ、ある問題について啓発してもらいたい必要があると、その問いを書いて、朝仕事場にはいるおり、師匠に差し出すことは、さしつかえないことになっておりました。そして師匠はその書いたものをてんで読みもせずに、これを仕事場の火中に投げこんでしまうか、あるいはそれをターバンの折り目にはさむのでした。もし書いたものを火中に投げこむならば、それはきっと、その問いが答えに値しないのでしょう。けれども、もしその紙片がターバンにはさまれるならば、それを提出した弟子は、夕方、自分の独り部屋の壁に、金文字で書かれた師匠の返事を見出すのでありました。
十年が経ったとき、年老いた鍛冶屋は若者に近よってきて、その肩に手を触れました。それで若者は十年以来はじめて、仕事場のふいごの綱から手を放しました。そして大きな悦びが彼の体内に降《くだ》りました。すると師匠は彼に話して、申されました、「わが息子よ、お前は世界と人の世のあらゆる知識をお前の心中に携えて、自分の故国と家に戻るがよい。それというのは、こうしたすべてを、お前は忍耐の徳を獲ることによって、獲たのであるから。」
そして師匠は彼に平安の接吻を与えました。弟子は顔を輝かせて、自国の、友人のただ中に戻りました。そして彼は人の世のことがはっきりと見えるようになったのでございました。
[#この行1字下げ] ――するとシャハリヤール王は叫んだ、「おおシャハラザードよ、何とこの譬え話は見事であるか。いかにこれは余をして反省させる節があろう。」そしてしばらく思いに沈んでいた。次に付け加えて言った、「さて今は、シャハラザードよ、カマールと達者なハリマの物語を早く語り聞かせよ。」けれどもシャハラザードは言った、「おお王様、その物語はさらに先に延ばすことをお許し下さいませ。と申しますのは、わたくしの精神は、今宵《こよい》は、その物語のほうに傾いておりませぬゆえ。そしてむしろ、わたくしの存じているなかでも最も愛らしく、最もみずみずしく、最も清らかな物語を、語りはじめることをお許し下さいませ。」すると王は言った、「いかにもよろしい、おおシャハラザードよ、余はそちの話を聞く意が動いておるぞよ。というのも、余もまた、余の精神は今宵は、愛らしい事どものほうに向っておるからな。それに、こうして待つことは、忍耐についての譬え話を、余も役に立てることができるというものであろう。」するとシャハラザードは言った。
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薔薇の微笑のファリザード
おお幸多き王様、おお雅《みや》びやかの挙措を授けられたまいし君よ、語り伝えまするところでは、昔の日々、今よりは遥か遠いことでございますが、――さあれ、アッラーのみただひとり知りたまいまする、――ペルシアの王様で、王《ホスロー》シャーというお名前の方がいらっしゃいまして、「報酬者」はこれに権勢と若さと美しさを授けたまい、その心中には深い正義感を置きたもうたので、その御代には、虎と仔山羊が並んで歩き、同じ流れの水を飲む有様でございました。そしてこの王は、常に御自身の御眼《おんめ》をもって、治下の町に起ることすべてを理解なさることを好まれて、夜は、異国の商人に姿を窶《やつ》して、大臣《ワジール》とか宮中の顕官の一人を連れて、城下を歩き廻りなさる習慣でございました。
ところで或る夜、ちょうど貧民区を廻っていらっしゃるとき、小路を通りかかると、ずっと突当りに当って聞える、若々しい声を聞きつけなさいました。そこでお伴の者と一緒に、その声の聞えてくる貧しい住家に近よって、戸の隙間にお目をあてて、内をお覗きになりました。すると、一本の灯火のまわりに、茣蓙の上に坐って、三人の若い娘が、食事を終って語らっているのが見えました。その三人の娘は、三人の姉妹が似ているように互いによく似ていますが、いずれも申し分なく美しゅうございます。そしていちばん若い娘が明らかに、また群を抜いて、いちばん美しゅうございます。
そして第一の娘は言うのでした、「私はね、姉妹《きようだい》よ、今望みを言えというのだから言うけど、私の望みは、まあ帝王《スルターン》のお菓子作りの奥さんになることだわ。だって私がどんなにお菓子が好きか、とりわけあの『帝王《スルターン》饅頭(1)』と言われている見事な、結構な、おいしい、薄く剥した捏粉のお饅頭が好きなことは、みんなも知ってるでしょう。あのお饅頭をちょうど工合よく作れるのは、帝王《スルターン》のお菓子作りの長《おさ》にかぎるのよ。そうなりゃ、あんたたちは、この結構なお菓子に身を養われて、どんなに私の姿は白い脂肪《あぶら》がついて丸々とし、綺麗になり、顔色もよくなるかを見て、きっと心の中で私を羨ましがることだろうね。」
二番目の娘は言うのでした、「私はね、姉妹《きようだい》よ、私はそんなに望みが高くはないわ。私はただ帝王《スルターン》のお料理番の奥さんになればたくさん。ほんとうに、そうなりたいわ。そうすれば、今まで我慢していた望みが、満されるのですもの。もうずいぶん前から、御殿でしか食べないような、珍しい御馳走をいろいろ食べてみたいと思っているのよ。わけても、肉を詰めて天火で焼いたあの胡瓜のお皿ときては、帝王《スルターン》のお催しになるお祭の日に、運ぶ人たちの頭に載って通って行くのを見ただけで、私はもう胸がわくわくしてしまうわ。おお、どんなに私は食べることやら。だけど、もし夫のお料理番がいいって言ったら、私はときどきはあんた方を呼んであげるのを忘れないわ。でもいいって言うまいと思うけどね。」
こうして二人の姉がそれぞれ自分の望みを述べ終わると、二人は、黙っているいちばん下の妹のほうを向いて、からかいながら、これに訊ねました、「それでお前は、妹よ、何を望むの。なぜ眼を伏せて、何にも言わないのよ。でも、まあ心配しないでいいわ。私たちが自分の好みの夫を持った暁には、まあ帝王《スルターン》の別当とか、誰か同じくらいの身分の立派な人に、あんたを嫁《とつ》がせてあげて、あんたもいつも私たちのそばにいられるように、きっと骨折ってあげるわよ。まあ言ってごらん、どう思うの。」
すると小さい妹は、困って赧くなりながら、泉の水のようにやさしい声で答えました、「おお、お姉さん方。」そしてもうそれ以上言えません。そこで二人の若い娘は、その内気を笑いながら、問いと揶揄《からかい》を浴せて攻めたて、とうとう妹に言い出す決心をさせました。すると眼を伏せたまま、その娘は言いました、「おお、お姉さん方、私はなれるものなら、私たちの御主君|帝王《スルターン》様のお妃《きさき》になりたいのです。私は祝福された子孫を産んで差し上げますわ。そしてアッラーが私たちの契りから生れさせて下さる男の子たちは、きっと父君に恥しからぬ子でしょう。また、私の眼の前に置いておきたいと思う女の子は、きっと御空《みそら》の微笑そのものでしょう。その髪の毛は、片側は金色で、片側は銀色でしょう。もし泣けば、その涙は、それだけの数の、滴り落ちる真珠でしょう。もし笑えば、その笑いは、響きを立てるディナール金貨でしょう。もし微笑するとしたら、その微笑は、それだけの数の、唇の上に開く薔薇の蕾でしょうよ。」
こうした次第です。
そして帝王《スルターン》ホスロー・シャーとその大臣《ワジール》は、これを見、これを聞きました。けれども、見咎められてはと思って、二人はそれ以上聞かずに、立ち去ることにしました。シャー王はこの上なく興じなすって、この三つの願いを叶えてやりたいという気持が、魂の中に生ずるのを覚えなさいました。それで、お伴の者には何も御意中を伝えなさらずに、よくこの家を覚えておいて、明日、この三人の若い娘を呼び出して、御殿に連れて来るようにと、命じなさいました。大臣《ワジール》は仰せ承わり、畏まってお答えし、翌日いそいで帝王《スルターン》の御命令を実行し、三人の姉妹を御前に連れて参りました。
すると玉座に坐っていらっしゃった帝王《スルターン》は、お頭《つむ》と眼で、これに「近う寄れ」という意味の合図をなさいました。娘たちはぶるぶる顫えながら、貧しい麻織の粗衣に足をとられながら、近寄りました。すると帝王《スルターン》は優しい微笑を浮べて、これにおっしゃいました、「その方たちの上に平安あれ、おお若い娘たちよ。今日はその方たちの運命の日であり、その方たちの願いの叶う日であるぞ。してその願いは、おお娘たちよ、余は知っているぞよ、およそ国王には何ごとも隠れてはいないからじゃ。まず最初、いちばん年長の娘よ、その方の願いは聴き届けられ、菓子作りの長《おさ》は今日直ちに、その方の夫となるであろう。して二番目の娘よ、その方はわが料理長を夫とするであろうぞ。」王はこう言って言葉を途切り、いちばん末の娘のほうに向くと、これはこの上なく感動して、心臓のとまるのを感じ、今にも絨氈の上に崩折れそうな有様でした。すると王はすっくと立ち上がって、娘の手をとり、玉座の台上に、御自分のそばに坐らせながら、おっしゃいました、「そちは王妃である。この宮殿はそちの宮殿で、余はそちの夫であるぞよ。」
そして実際に、三人姉妹の婚礼はその日直ちに行なわれましたが、帝王《スルターン》の婚礼は前古未曾有の盛大さでなされ、料理番の妻と菓子作りの妻のそれは、一般人の結婚なみの普通の習慣に従うものでした。ですから、嫉みと口惜しさが二人の姉の心中に徹して、その時から、二人はひそかに妹を亡きものにしようと企てました。しかしながら、二人は自分たちの気持を少しも外に現わさないようによく気をつけて、妹の女帝《スルターナ》が絶えず自分たちにばらまく愛情のしるしを、いかにもありがたそうな風《ふり》をして、受け入れておりました。妹は王様方の習慣に背いて、姉たちの身分の低いにもかかわらず、自分の内輪に迎え入れていました。姉たちはアッラーが自分に授けたもうた幸福に満足するどころか、妹の幸福を目の前に見て、憎しみと羨みの最悪の責苦を感じていたのでございます。
こうして九カ月が過ぎますと、女帝《スルターナ》はアッラーのお助けを得て、新月の三日月のように美しい、王子を産み落しました。そして二人の姉は、女帝《スルターナ》の頼みに従って、分娩に付き添い、産婆の役目を勤めましたが、自分たちに対する妹の心尽しと、生れた赤子の美しさに、心を打たれるどころか、年若い母親の心を粉々にしてやる、かねて求めていた機会を遂に見出したのでございます。そこで姉たちは、母がまだ産みの苦しみにある間に、子供を受けとって、これを柳で編んだ小さな籠のなかに入れ、しばらく人目に隠して、赤子を死んだ一匹の仔犬に掏《す》り代え、それをば女帝《スルターナ》の分娩の結果と言いふらして、宮中の婦人全部に見せました。それで帝王《スルターン》ホスロー・シャーはこの知らせに、世界がお顔の前で暗くなるのを御覧になり、悲しみの極、政務を見るのを拒んで、御自分の部屋にお引き籠りになってしまいました。女帝《スルターナ》も悲嘆に暮れ、魂は辱しめられ、心は粉々にされました。
赤子のほうはと申しますと、赤子は伯母たちに籠に入れられて、御殿の裾を流れている、お濠の水の流れに棄てられたのでした。そして運命は、濠端を歩いていた帝王《スルターン》の御苑の監督が、水の流れに漂っている籠を見つけることを望んだのでございます。その男は鋤を使って濠の岸辺に籠を引き寄せ、改めてみると、美しい男の子を見つけました。そこで彼は、モーゼを葦のなかに見つけた埃及王《フアラオン》の娘の覚えた驚きに陥りました。
ところで、この御苑の監督はずっと前に結婚して、一人、二人或いは三人の、その創造者を称えるような子供を持ちたいものと、年久しく念じていたのでした。けれども彼の願いも、またその妻の願いも、その時まで、少しも至高者のお取り上げになるところとなりませんでした。それで夫婦は共に、自分たちの暮している子供のない淋しさを、かこっておりました。ですから、御苑の監督は、比類のない美しさのこの子供を見つけると、籠のまま抱いて、悦びの極に達し、わが家のある御苑のはずれまで走ってゆき、妻の部屋にはいって、感動した声で妻に言いました、「お前の上に平安あれ、おお伯父の娘よ。この祝福された日に、寛仁者のお授けものがあった。わしの連れてきたこの子は、どうかわれわれの子となるように、これは天運の子であるから。」そして、籠の中にお濠の水に漂っているところを見つけた次第を、妻に語って聞かせました。彼は、これこそアッラーが、自分たちの祈願の誠をこのような方法で遂にお聞き入れ下さって、自分たちのところに送って下さったものにちがいないと断言しました。御苑の監督の妻は、その子を受けとって、可愛がりました。さても、憐れな雌鶏の心中に、小石を孵《かえ》したいという望みを置きたまいしごとく、石胎女《うまずめ》の胸中に母性の念を入れたまいしアッラーに、栄光あれ。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十五夜になると[#「けれども第七百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、翌年、あのように無残に懐妊の果実を横取りされてしまった憐れな母親は、贈与者のお許しを得て、前の子よりももっと美しい、今一人の息子を産み落しました。ところがあの二人の姉は、外には同情に満ち、内には憎悪に満ちた眼で、お産を見守っておりました。そして最初の時よりももっと、妹にも赤子にも情け容赦もなく、ひそかに子供を奪って、長男にしたと同じく、籠に入れてお濠に棄ててしまいました。そして宮中全部の人の前には、仔猫を示して、女帝《スルターナ》はただ今これをお産みになったと言いふらしました。それで茫然とした驚愕が、すべての心のなかにはいりました。帝王《スルターン》は不面目の極に達して、もしも魂の裡で、測り知れぬ正義の決定の前に、謙譲の美徳をお守りにならなかったとしたら、怨みと激怒の赴くままに、振舞いなされたにちがいありません。女帝《スルターナ》は苦い思いと悲嘆に陥って、心はあらゆる苦痛の涙を流しました。
けれども子供のほうはと申しますると、小児たちの運命を見守りたもうアッラーは、折から濠端を歩いていたあの監督の目の下に、その子を置きたまいました。それで最初の時のように、監督はこの子を水から救い上げて、妻のところに連れて行くと、妻はこれをわが子のように可愛がって、最初の子と同じように世話をして、育てました。
ところで、信徒の願いが決して聴き届けられずにいることがないようにと、アッラーは女帝《スルターナ》の胎に懐妊を置きたまい、ここに三度《みたび》出産を致しました。しかし今度はお姫様でした。すると二人の姉は、憎しみがもう十分満されるどころか、かえって妹の救いようのない破滅をたくらませて、この小さな娘をも同じ目に合せました。けれどもこの子も、兄に当る二人の王子と共に、憐れみ深い心の監督に拾われて、兄たちと一緒に、世話をされ、養われ、可愛がられました。
けれども今度は、二人の姉が仕事をなしおえて、生れた赤子の代りに、盲目《めくら》の仔鼠(2)を示すと、帝王《スルターン》はそのあらゆる寛大さにもかかわらず、もうこれ以上御自分を抑えきれなくなって、叫びました、「アッラーは、余の娶った女ゆえに、わが血統を呪いたもうた。余が子孫の母として迎えたのは、化物であった。あれをわが住居より追い払うには、ただ死あるのみじゃ。」そして王は女帝《スルターナ》に対し、死刑の判決を下して、太刀取に職務を果たすように御命じになりました。けれどもいよいよ御前に、かつて御心《みこころ》の愛した女を、涙と果てしない苦悩に衰えきった女を御覧になると、帝王《スルターン》は非常な憐れみの情が心中に降るのをお感じになりました。そこでお顔をそむけて、この女を遠ざけ、その余生をば、御殿のずっと奥の片隅に閉じこめておくように、命じなさいました。そしてその時以来、この女を涙に残したまま、もうお会いになるのをやめてしまいました。そして憐れな母親は、地上のあらゆる苦しみを知ったのでございました。
それで二人の姉のほうは、憎しみの満足させられたあらゆる悦びを知って、その後はのんびりと、夫の作る料理と菓子を味わうことができました。
かくて日々と年々とは、罪なき者の頭上にも、罪ある者の頭上にも、同じ速さで、双方にそれぞれ己が天命の結果をもたらしつつ、過ぎ去りました。
さて、御苑の監督の養子三人が、いよいよ年頃になりますと、いずれも眼にとっての眩惑となりました。彼らの名前は、長男はファリド、次男はファルーズ、娘はファリザード(3)と申しました。
ファリザードは御空《みそら》の微笑そのものでした。その髪の毛は、片側は金色で、片側は銀色です。泣くとき、その涙は、滴り落ちる真珠です。笑うとき、その笑いは、響きを立てるディナール金貨です。その微笑は、朱唇の上に開く薔薇の蕾でございました。
それゆえ、この娘《こ》に近づくものは誰でも、父母兄弟と同じように、その名を呼んで、「ファリザード」と言う場合に、「薔薇の微笑を持った」と付け加えずにはいられませんでしたが、大概の場合、人々はただ「薔薇の微笑」とだけ呼ぶのでした。
その美しさ、利発さ、優しさ、また馬に乗って兄たちと一緒に狩りに行き、弓を射たり、棒や投槍を投げる時の、技《わざ》の巧みさ、物腰の雅びやかさ、詩歌と玄妙学の嗜《たしな》み、また、片側は金色、片側は銀色のその髪の毛のすばらしさ、これらには誰しも驚嘆しました。そして母親の友達たちは、この娘がこんなに美しいと同時に欠けるところのないのを見て、感動の涙を流すのでございました。
王の御苑監督の養い児たちは、このようにして大きくなりました。そして監督自身も、子供たちの愛情と尊敬に取り囲まれ、彼らの美しさに眼を爽やかにされつつ、やがて非常な老齢に入りました。その妻は、天寿を生き終えて、間もなく報酬者の御慈悲の裡に、夫に先立ちました。するとこの死は彼ら一同にとって、あまりの哀悼と悲嘆の因《もと》となったので、監督はもうこれ以上永く、故人が一同の平穏と幸福の源であったこの家に、住んでいる気になれませんでした。そこで帝王《スルターン》の足下に平伏しに行って、かくも永年来勤めてきたお役目を、わが手の間から免じて下さるのをお許し下されまするよう、切にお願い申し上げました。帝王《スルターン》はこのように忠義な家来が去って行くのをたいへん惜しまれ、いろいろお引きとめになった末、ようやく御聴許になりました。そして町の近くに広大な領地を賜わった上でなければ、立ち去らせなさいませんでした。そこには耕地と森と草原の大きな附属地があり、立派な家具を入れた館《やかた》があり、監督自身の設計した完全な技倆の庭があり、高い壁をめぐらし、あらゆる色の鳥と、野生の或いは飼いならした動物の住んでいる、広い面積の囲《かこ》いがありました。
この正しい人が、養子たちと一緒に隠棲に行ったのは、この地でありました。そして彼が子供たちの手篤い看護に囲まれて、主《しゆ》の平安の裡にみまかったのは、ここでございます。アッラーは彼に御憐《おんあわ》れみを垂れたまわんことを。そして彼は、かつてどんな実父でも涙を流されたことのないほど、養子たちに涙を流されました。こうして彼は、再び開くことのない石の下に、養子たちの誕生の秘密を、彼と共に持ち去ってしまいました。もっともそれについては自身も、生前、よくは知らなかったのですけれど。
二人の若人が、若い妹と一緒に、暮しつづけたのは、このすばらしい領地のなかでありました。彼らは知恵と質樸のうちに育てられたので、生涯を通じて、この完全な和合と平穏な幸福のうちに暮しつづける以外に、格別夢も野心も持たないのでございました。
ところで、ファリドとファルーズは、自分たちの領地を囲む森や野に、しばしば狩りに出かけました。薔薇の微笑のファリザードは、自分の庭々を歩きまわるのが、わけても好きでした。すると或る日、いつものように、庭に行こうと思っているところに、奴隷たちが来て、祝福のしるしある顔の一人のお婆さんが、この美しい庭の木蔭に、一、二時間休ませていただきたいと、頼んでいる旨を告げました。するとファリザードは、その魂が美しいと等しく、またその顔が美しいと等しく、心は人を助けるのが好きでしたから、自身そのお|年寄り《シヤイクー》を迎えることにしました。そしてこれに食べ物と飲み物を勧め、見事な果物や、お菓子や、干した砂糖漬や、お汁《つゆ》に浸した砂糖漬を盛った、磁器のお皿を差し出しました。それが済むと、経験のある人々のお相手をして、知恵の言葉を聞くのは、いつも為になるということを知っているので、そのお|年寄り《シヤイクー》を自分で庭に連れてゆきました。
そして打ち揃って、あちらこちらの庭を散歩しました。薔薇の微笑のファリザードは、お|年寄り《シヤイクー》の歩くのを助けてあげました。そのうち、二人で庭じゅうでいちばん見事な樹下に行き着くと、ファリザードはお|年寄り《シヤイクー》を、その見事な木の蔭に坐らせました。そして次から次へと話しているうちに、彼女は最後に老女に向って、今いる場所をどう思うか、お気に召すかと訊ねました。
すると老女は、ひと時の間考えてから、やおら頭をあげて答えました、「いかにも、おおわが御主人様、私はこれまでアッラーの土地を、縦横に歩き廻って一生を過しましたが、これ以上心地よい場所に憩ったことはございません。けれども、おおわが御主人様、ちょうど日月が空に二つとないように、あなたが地上で二人とないのと同じ工合に、私としては、ここに欠けている三つの類《たぐ》いないものを、この美しいお庭にあなたがお持ちになって、このお庭もまた庭として、世に二つとないものになってほしいと思いますね。」薔薇の微笑のファリザードは、自分の庭に、三つの類いないものが欠けていると聞いて、たいそう驚いて、老女に言いました、「お願いでございます、お婆様、わたくしの知らないその三つの類いないものとはいったい何なのか、急いでおっしゃって、教えていただきとう存じます。」すると老女は答えました、「おおわが御主人様、あなたが見も知らぬ|年寄り《シヤイクー》に対して、こんなに憐れみ深いお心でもてなして下さったそのお志に感謝するために、それでは、その三つのものの存在を、明かしてさしあげるとしましょう。」そしてもう一度しばし口を噤んで、次に言いました。
「それではお聞き下さい。その三つの類いないものの第一は、おおわが御主人様、もしそれがこのお庭にあったなら、このお庭の鳥全部がそれを眺めにきて、それを見れば、声を揃えて歌い出すでありましょう。なぜなら、鶯も河原鶸《かわらひわ》も、雲雀も頬白も、五色鶸《ごしきひわ》も雉鳩も、おおわが御主人様、およそ数限りない鳥の種族全部が、そのものの美しさの至上権を認めるからです。それは、おおわが御主人様、ブルブル・エル・ハザール(4)、『物言う鳥』でございます。
またその類いないものの第二は、おおわが御主人様、もしそれがこのお庭にあったなら、このお庭の木々を歌わせる微風《そよかぜ》は、それに耳傾けるために、足を停めるでありましょう。そしてこのお屋敷の琵琶《ウーデイ》も、竪琴《ハープ》も、六絃琴《ジーターラ》も、その絃が断ち切れるのを見るでしょう。なぜなら、お庭の木々を歌わせる微風《そよかぜ》も、琵琶《ウーデイ》も、竪琴《ハーブ》も、六絃琴《ジーターラ》も、おおわが御主人様、その美しさの至上権を認めるからです。それは『歌う木』でございます。それというのは、木々の微風《そよかぜ》も、おおわが御主人様、琵琶《ウーデイ》も、竪琴《ハーブ》も、六絃琴《ジーターラ》も、その『歌う木』の葉のなかにある見えざる千の口の合奏に、比べられるような調べを発しはしないのです。
またその三つの類いないものの第三は、おおわが御主人様、もしそれがこのお庭にあったなら、このお庭の水全部はその囁く歩みを停めて、それを眺めるでありましょう。なぜなら、あらゆる水は、地の水も海《わだつみ》の水も、泉の水も河の水も、町々の水も庭々の水も、その美しさの至上権を認めるからです。それは『黄金色《こがねいろ》の水』でございます。それというのは、おおわが御主人様、この水のただの一滴なりと、もし空《から》の泉水に注がれれば、たちまち膨れて、金色の水束となって数を増しつつ盛り上がり、そして決して泉水が溢《あふ》れ出すようなことなく、噴き上がっては落ちるのをやめないのです。このことごとく金色《こんじき》で、透きとおる黄玉のように透きとおる水にこそ、あのブルブル・エル・ハザール、『物言う鳥』が、喉を潤すことを好みます。このことごとく金色の、黄玉が爽やかなように爽やかな水にこそ、歌う葉のついた木の、見えざる千の口が、渇を医すことを好みます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十六夜になると[#「けれども第七百七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
このように話して、老女は付け加えました、「おおわが御主人様、おおお姫様、もしこれらの奇《くす》しきものがこのお庭にあったならば、どんなにあなたの美しさは弥《いや》増すことでございましょう、おお輝かしい髪の毛の持主よ。」
薔薇の微笑のファリザードは、この老女の言葉を聞くと、叫びました、「おお祝福のお顔よ、お母様よ、お話のすべては何と見事なことでございましょう。けれどもあなたは、その類いない三つのものがどこにあるのか、その場所をおっしゃって下さいませんでしたね。」すると老女は、もう立ち去ろうと立ち上がりながら、答えました、「おおわが御主人様、あなたのお眼にふさわしいこの三つの珍宝は、インドの辺境のあたりのある場所にございます。そこに到る道は、ちょうどあなたのお住いになっているこの御殿の、後ろを通っています。ですからもしあなたが、それを探しにどなたかをおやりになりたいならば、この道を二十日間行って、二十一日目に、出会った最初の通りかかった人に、『物言う鳥と歌う木と黄金色《こがねいろ》の水はどこにありますか』と訊ねるよう、その方におっしゃりさえすればよい。するとその通行人は、必ずそれについてよく教えてくれるでしょう。どうぞアッラーは、あなたの美しさのために創られたこれらのものを、首尾よく手に入れさせなすって、あなたの寛大な魂に報いたまいますように。ワァサラーム(5)、おお御親切なお方、祝福されたお方よ。」
そしてその老女はこう語って、身のまわりに再び面衣《ヴエール》を掛け終えて、祝福を呟きながら、引き取りました。
さて、このように世にも珍しいものの話を聞いて物思いに沈んでいたファリザードが、われに返って、老女を呼び返すなり、後を追うなりして、それらのものを隠している場所と、それに近づく方法について、もっと詳しく訊ねようと思いついた時には、既に老女は姿を消しておりました。けれども、もう間に合わないと見ると、彼女はさっき聞いたいくつかの指示を、一つも忘れないようにと、一語一語思い出しはじめました。こうして彼女は、もうそんなことは思うまいと努めるにもかかわらず、そのように奇《くす》しきものを手に入れたい、或いは、ただ見るばかりでもというやみがたい望みが、魂の中に大きくなるのを感ずるのでありました。そこで彼女は庭々の並木道と、自分にとってあんなに懐しい馴染みの隅々を歩きはじめたのですが、しかしそれらも魅力なく、退屈至極に思えます。通って行く先々で自分に挨拶する小鳥らの声さえも、煩わしく思えるのでした。
薔薇の微笑のファリザードはすっかり心悲しくなって、並木道を行きながら泣きました。こうして歩きながら、はふり落ちる涙でもって、砂の上に、真珠に凝《こご》る眼の雫を、後ろに残してゆきました。
そうしているうちに、兄のファリドとファルーズが狩りから戻ってきて、いつもなら素馨《ジヤスミン》の棚の下で帰りを待っている、妹のファリザードがそこにいないので、二人は妹の無関心に心を痛めて、これを探しはじめました。すると並木道の砂の上に、妹の眼の凝《こご》った真珠を見たので、言い合いました、「おお、われわれの妹は何と心悲しんでいることか。いったいどういう悩みの種が、その魂のなかにはいったのであろう、このように涙を流させるとは。」そして二人は並木道の真珠を辿って、その跡を追ってゆくと、妹が茂みの奥で、涙に泣き濡れているのを見つけました。兄たちはそちらに駈けつけ、接吻して、愛《いと》しいその魂を静めようと、愛撫してやりました。そしてこれに言いました、「おおファリザード、小さい妹よ、お前の悦びの薔薇と快活の黄金《こがね》はどこに行ったのか、おお小さな妹よ、答えなさい。」ファリザードは兄たちを愛しているので、微笑を見せました。すると、ほんの小さな薔薇の蕾が、突然朱色に、その唇の上に生れました。そして「おお、お兄様方」と兄たちに言いました。が、自分の生れてはじめての望みをすっかり恥じて、それ以上敢えて言えません。すると兄たちは言いました、「おお、薔薇の微笑のファリザードよ、おお、われわれの妹よ、どのような未知の動揺が、お前の魂をそのように掻き乱すのか。ともかくも、お前の心痛をわれわれに話しなさい、もしお前がわれわれの愛を疑わないならば。」ファリザードはやっと話すことに心を定めて、兄たちに言いました、「おお、わたくしのお兄様方、わたくしはもうこの庭が好きでなくなりましたの。」そして泣き崩れると、真珠が眼からこぼれ出ました。兄たちはいたく案じ、こんな重大な知らせに心を痛めて、黙っていると、妹は言いました、「ええ、わたくしはもうこの庭が好きでなくなりましたの。ここには『物言う鳥』と、『歌う木』と、『黄金色の水』がないのですもの。」
そしてファリザードは、にわかに自分の望みの激しさに引きこまれて、兄たちにお|年寄り《シヤイクー》の訪ねてきたことを一気に話し、極度に興奮した調子で、「物言う鳥」と、「歌う木」と、「黄金色の水」とが、どんな点ですぐれたものであるかを、説明しました。
兄たちはその話に聴き入って、驚きの極に達し、言いました、「おお最愛の妹よ、お前の魂を静めて、眼を爽やかにするがよい。それというのは、それらのものはたとえカーフ山(6)の近づきがたい頂上にあろうとも、われわれは行って取ってきてあげるから。けれども、われわれが探すのを容易にするため、せめてどういう場所に見出せるのか、言えないか。」するとファリザードは、こうして自分のはじめての望みを口に出して言ったことを、たいそう赤面しながらも、それらのものの見出される筈の場所について、自分の知っているだけのことを説明してから、付け加えました、「これがわたくしの知っている全部で、それ以上は何も存じませんの。」すると兄たち二人は同時に叫びました、「おお妹よ、われわれはそれを探しに出かけよう。」けれども妹はびっくりして、叫びました、「いいえ、いけません、いけません。お出かけにならないで下さい。」すると長男のファリドは言いました、「お前の望みはわれわれの頭上と眼の上にある、おおファリザードよ。けれどもそれを実現するのは、長男たるこの私のすることだ。私の馬はまだ鞍も置いてあるし、その三つの珍宝のあるというインドの辺境のあたりまで、力尽きずに私を連れて行ってくれるであろうから、もしアッラーの御心ならば、それを取ってきてあげられよう。」そして弟のファルーズのほうを向いて、言いました、「弟よ、お前はここに残って、私の留守中、われわれの妹を見守ってくれ。妹をひとりきりで家に置いておくのは、面白くないから。」そしてそのまま自分の馬のほうに駈けて行き、その背に飛び乗り、身をかがめながら、弟のファルーズと妹のファリザードに接吻しますと、妹はすっかり泣き濡れて、言いました、「おお、わたくしたちの大きなお兄様、後生ですから、危険に満ちた旅はおやめになって、馬から下りて下さい。お兄様のお留守を我慢しなければならないくらいなら、いっそ、『物言う鳥』も、『歌う木』も、『黄金色《こがねいろ》の水』も、見もせず、手に入れもしないほうが、ましでございます。」けれどもファリドは、もう一度妹に接吻しながら、言いました、「おお私の小さな妹よ、お前の心配はいらないことだ。私の留守も永いことではあるまいし、アッラーのお助けを得て、この旅の間、わが身には何の事故も、何の困ったことも起きまいから。それに、私の留守中お前が不安に悩まされないように、ここに小刀があるから、これをお前に置いて行こう。」そして彼は帯からひと振りの小刀を抜き出しましたが、その|※[#「木+霸」、unicode6b1b]《つか》には、赤子の時のファリザードの眼から落ちた最初の真珠玉が、鏤《ちりば》められています。彼はそれを妹に渡しながら言うに、「この小刀は、おおファリザードよ、私の状態をお前に教えてくれよう。時々お前はこれを鞘から抜き出して、その刃を調べてみなさい。もしその刃が、ちょうど今のように曇りなく煌々としているのを見たら、それは私が相変らず生きていて元気だというしるしであろう。しかしもし曇っていたり或いは錆びているのを見たら、重大な事故がわが身に振りかかったのか、或いは私が囚われの身となったと知るがよい。また、もし血が滴っているのを見たら、もはや私は生者の数にないものと確信してよい。その際には、お前と弟と二人で、わが上に至高者の御憐《おんあわ》れみを念じてもらいたい。」そう言い放って、もう何ごとも聞こうとせず、馬を駆って、インドに到る道に出発しました。
そして彼は二十日と二十夜の間、あるものといえばただ緑の草とアッラーのみの、寂寞の地を旅しました。そして旅の二十一日目に、ある山の麓の、草原に着きました。その草原には、一本の樹がありました。その樹の下には、一人の非常に年とった老翁《シヤイクー》が坐っていました。その非常に年とった老翁《シヤイクー》の顔は、長髪の下、眉毛の房《ふさ》の下、新しく梳《す》いた羊毛のように白い、おびただしい鬚の下に、すっかり埋まっております。腕と脚は、この上なく痩せ細っています。手と足の先は、途方もなく長い爪で終っています。そして左の手では数珠をつまぐり、一方、右の手は、至高者の「唯一性」を証するために、礼式に従い食指《ひとさしゆび》を挙げて、額の高さのところにじっと掲げています。これは疑いもなく、知られざる何時《いつ》の頃からともなく、世を遁《のが》れた老いたる苦行者であるにちがいございません。
さてファリド王子は、これこそ今日旅の二十日目に出会った最初の人であったので、地に下り立ち、馬の轡をとりながら、その老翁《シヤイクー》のところまで進み寄って、言葉をかけました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おお聖なるお方よ。」すると老人《シヤイクー》は挨拶《サラーム》を返しましたが、その声は口髭と腮鬚《あごひげ》の厚さに埋もれて、ファリド王子には、何のことかわからない言葉しか聞きとれませんでした。
そこでファリド王子は、ここにわざわざ足を停めたのは、自分の国からかくもはるばると探しにきたものについて、説明を聞くためであったのですから、考えました、「これはぜひこの人の言うことがわからなければ困る。」そこで王子は旅嚢から鋏を取り出して、老翁《シヤイクー》に言いました、「おお尊ぶべき小父様、あなたは絶えず神聖な瞑想に耽っていらっしゃるので、御自身かまっているお暇のない身のまわりのお世話を、私が少々させていただくのをお許し下さいませ。」すると老翁《シヤイクー》は別に断わりもせず拒みもしないので、ファリドは腮鬚《あごひげ》、口髭、眉毛、髪の毛、爪を、じかに切ったり、刈ったり、削ったりしはじめて、十分にいたしましたので、終ると老翁《シヤイクー》は、少なくとも二十歳は若返って見えました。そして老人《シヤイクー》のために用を果たし終えると、王子は床屋の習慣に従って、言いました、「どうかこれによってさっぱりとなさり、お心持がよろしいように。」
老翁《シヤイクー》はこのようにして、わが身の煩いになっていたものを、すっかり取り払われたのを覚えると、この上なく満足した様子を見せて、旅人に微笑みかけました。次に、今では子供の声よりもはっきりとした声で、言いました、「この頽齢の老人《シヤイクー》がお世話になった善行に対しては、おおわが息子よ、アッラーがお前の上に祝福を下したもうように。けれどもまた、お前が何者であろうとも、おお親切なる旅人よ、わしはいつなりともわが忠告と経験をもって、お前を助けて進ぜよう。」するとファリドはいそいでこれに答えました、「私は『物言う鳥』と『歌う木』と『黄金色の水』とを求めて、はるばる遠方より参りました。それらをどこで見つけることができるのか、教えていただけましょうか。それとも、これらについては何ごとも御存じないでしょうか。」
年若い旅人のこの言葉を聞くと、老翁《シヤイクー》は数珠をつまぐるのをやめたほど、激動を覚えた様子です。そして答えません。そこでファリドは訊ねました、「わが親切な小父様、どうして口をおききにならないのですか。私の馬をここで冷えこませると困りますから、どうか早く、私のお訊ね申すことを御存じか、それとも御存じないか、おっしゃって下さい。」すると老翁《シヤイクー》は、ようやく言いました、「いかにも、おおわが息子よ、わしは知っておる、その三つのもののある場所も、そこに到る道もな。けれども、お前がわしに尽してくれた親切は、わが目にはまことに重畳に見えるので、返礼に、そのような企ての恐ろしい危険にお前の身を曝させるのは、意を決しかねる次第じゃ。」次に付け加えて、「ああ、わが息子よ、むしろいそぎ引き返して、お前の国に戻るがよい。お前の前にも、いかに多くの若者がここを通って行ったことであろう。しかもわしは遂に、二度と彼らの戻るのを見たことがないのじゃ。」するとファリドは勇気凛々言いました、「わが親切な小父様、ただ私に行くべき道だけをお示し下さって、その他のことはお構い下さるな。アッラーは私に、持主の身を守るに足る双腕を授けたもうたのですから。」すると老翁《シヤイクー》はおもむろに、訊ねました、「だが、『見えざるもの』に対して、その腕はいかにして守ってくれるかな、おおわが子よ、わけてもその『見えざるもののともがら』が、幾千も幾千もいる場合には。」ファリドは頭を振って、答えました、「讃《ほ》めらるるアッラーのほかには、力も権力もござりませぬ、おお尊ぶべき老翁《シヤイクー》よ。わが天命はわが首《こうべ》にあり、私がそれを逃《のが》るるとも、それは私を追うでございましょう。されば、ご存じとあらば、今後私のなすべきところをお教え下さい。そうして下されば、ありがたき仕合せに存じまする。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十七夜になると[#「けれども第七百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「樹下の翁《おきな》」は、これは到底若い旅人の企てを翻意させる見込みがないと見ると、腰のまわりにつけていた袋のなかに手を入れて、一つの赤い花崗岩《みかげいし》の玉を取り出しました。そしてその玉を旅人に差し出しながら、言いました、「この玉は、お前を導かねばならぬところに、お前を導くであろう。お前は馬に乗って、この玉を前に投げよ。すると玉は転がってゆくから、その後について、玉の止まるところまで行くがよい。そこでお前は地に下りて、馬をば手綱でこの玉に繋いでおけば、馬はお前の帰るまで、その場所にじっとしているであろう。そしてお前は、ここから頂上の見える、この山を攀《よ》じのぼるのじゃ。行く先々、方々に、お前はたくさんの黒い大きな石を見るであろうし、そしていろいろの声を聞くであろうが、それは急流の声でもなければ、深淵を渡る風の音でもない。それこそ、『見えざるもののともがら』の声であろう。それらの声は、人間どもの血を凍らす言葉を、お前に喚き立てるであろうが、それに耳をかしてはならぬ。というのは、その声が或いは近く、或いは遠く、お前を呼んでいる間に、もしもお前が恐れをなして、頭をめぐらして後ろを振り向くならば、お前はその刹那に、山の黒い石と同じような、一個の黒い石に変じてしまうであろう。しかし、もしこの呼び声によく耐えて、頂上に達するならば、そこには一つの籠があって、その籠のなかに『物言う鳥』がいるであろう。お前はそれに向って、『汝の上に平安《サラーム》あれ、おおブルブル・エル・ハザールよ。「歌う木」はどこにあるか。「黄金色《こがねいろ》の水」はどこにあるか』と言えば、『物言う鳥』が答えるであろう。ワァサラーム。」
老翁《シヤイクー》はこう語って、大きな嘆息を洩らしました。そしてそれだけでございました。
そこでファリドはいそいで馬に飛び乗って、力いっぱいその玉を前に投げました。するとその赤い花崗岩《みかげいし》の玉は、ころころころと転がってゆきます。ファリドの馬は、狩猟馬のなかの電光ですが、玉の飛び越えてゆく叢《くさむら》、躍り越えてゆく凹み、乗り越えてゆく障碍物を横ぎって、その後を追いかねるほどです。こうして玉は、少しも疲れない速さで転がりつづけて、とうとう山の最初の岩にぶつかりました。そのとき、はたと停まりました。
そこでファリド王子は馬から下りて、手綱を花崗岩《みかげいし》の玉のまわりに巻きつけました。すると馬は四つ足で立ったまま動かなくなり、地に釘づけにされたよりも揺ぎません。
すぐにファリド王子は山を攀じはじめました。最初は何の音も聞えません。けれども登るにつれて、石と化した人間の形をした、黒玄武岩の塊りで、地が一面に蔽われているのを見ました。それは自分よりも先にこの荒涼の地に来た、若い貴公子たちの身体であるとは、王子は知りませんでした。すると突如、岩山の間から、かつて聞いたことのないような叫び声がひと声聞えてきて、やがてそれに続いて、右にも左にも、人間らしいところの全然ない、ほかの叫び声が起りました。それは寂寥の境の荒々しい風の雄哮《おたけ》びでもなければ、急流の水の咆哮でもなく、深淵に流れ入る滝の瀑声でもありません。というのは、それは「見えざるもののともがら」の声だったからです。或る声は言います、「きさまは何をしに来たのだ、何をしに来たのだ。」他の声は言います、「そいつをひっ捉えろ、殺してしまえ。」また他の声は言います、「押し倒して、突き落してやれ。」また他の声は嘲って、叫びます、「おい、おい、稚児さん、稚児さんや。おい、おい、おいで、さあおいで。」
けれどもファリド王子は、これらの声に気を逸《そ》らされることなく、不撓不屈に昇りつづけました。するとそのうち、声はますます数しげく物凄くなってきて、幾度も幾度も、その息吹きは顔の間近を過ぎ、右にも左にも、前にも後ろにも、その喧《かまびす》しさはすさまじくなり、その声は激しく威《おど》し、その呼び声はひしひしと迫ってきて、さすがのファリド王子も、われにもあらず身震いに襲われ、つい「樹下の翁《おきな》」の注意を忘れて、声のうちの一つのわけても強い息吹きに吹きつけられると、頭を後ろにめぐらしてしまいました。すると同時に、幾千とも知れぬ声の発する慄ろしい咆哮は、ぴたりとやんで、大いなる沈黙があとに来ました。そしてファリド王子は、黒い玄武岩の石と化してしまいました。
また山の下でも、同じことが馬に起って、馬は形のない一塊の石と化してしまいました。そして赤い花崗岩《みかげいし》の玉は、転がりながら、「翁《おきな》の樹」の道を戻りました。
さて、その日、ファリザード姫は、いつものように、絶えず帯に佩いている小刀の鞘を払ってみました。そして、前日まではあれほど曇りなく煌々としていたのに、今はすっかり曇って錆びてしまったその刃を見て、姫は蒼白となり、身顫いしました。呼び声に駈けつけたファルーズ王子の腕のなかに崩折れて、姫は叫びました、「ああ、お兄様、どこにいらっしゃるの。どうしてわたくしはお兄様を立たせてしまったのかしら。あの異国で、お兄様はどうなりなすったのでしょう。いけない女です、わたくしは。おお罪深いファリザードよ、わたくしはもうお前など嫌いです。」そして咽び泣きが息を詰らせ、胸を波立たせました。ファルーズ王子も、妹に劣らず心痛して、妹を慰めはじめ、それから言いました、「起ったことは起ったことだ、おおファリザードよ、記《しる》されたことはすべて行なわれなければならないのだからね。だが今度は私が、兄上を探しにゆき、同時に、今兄上の陥っていらっしゃるに相違ない囚われの原因となった、その三つのものを取ってこなければならぬ。」するとファリザードは、哀願して叫びました、「いけません、いけません、後生ですから、行かないで下さいませ、もしもわたくしの飽くを知らない魂の望んだものを、探しにいらっしゃるためならば。おお、お兄様、もし何かの間違いが御身に起ったならば、わたくしは死んでしまいます。」けれども妹の訴えも涙も、ファルーズ王子の決心を揺がせませんでした。王子は馬に乗って、妹に別れを告げてから、一連の真珠玉の数珠を差し出しましたが、それは、赤子の時のファリザードが流した二番目の涙です。そして王子は言いました、「もしこれらの真珠玉が、おお妹よ、さながらくっついてしまったかのように、順々にお前の指の下で滑らなくなったら、それは私も兄上と同じ運命に遭ったというしるしであろう。」するとファリザードは心悲しく、兄に接吻しながら言いました、「どうぞアッラーは、おお最愛のお兄様、そんなことのないようにして下さいますよう。そしてどうか大きなお兄様と御一緒に、御無事に家にお戻りになれますように。」こうして今度はファルーズ王子が、インドに到る道を取りました。
そして旅の二十日目に、彼は「樹下の翁《おきな》」を見出しました。翁《おきな》はファリド王子が見た時と同じく、右手の食指《ひとさしゆび》を額の高さに挙げて、坐っておりました。そして挨拶《サラーム》の後、老人《シヤイクー》は問われるままに、王子にその兄の運命を教えてやり、その企てを翻意させるよう全力を尽しました。けれども、王子が頑として聞き入れない様子を見ると、これに赤い花崗岩《みかげいし》の玉を渡しました。そして玉は王子を宿命の山の麓に連れて行きました。
そこでファルーズ王子は断乎として山に踏み入ると、声が行く先々にあがりました。しかし王子はそれに耳を藉しません。罵言にも、脅迫にも、呼び声にも、答えません。そしてすでに登攀の半ばに達すると、そのとき突如、後ろで叫ぶ声が聞えました、「弟よ、わが弟よ、おれの前を素通りするな。」するとファルーズは、一切の用心を忘れて、この声に後ろを振り向いて、そのまま一塊の黒い玄武岩と化してしまいました。
彼の館《やかた》では、ファリザードは昼も夜も真珠の数珠を離さず、絶えず指の下に数珠玉を滑らせていましたが、その時すぐに、もう数珠玉が自分の指のままに動かないのに気づき、それらがお互いにくっついてしまったのを見ました。そこで叫びました、「おお、わたくしの気まぐれの犠牲になったお気の毒なお兄様方、わたくしもお後から参ります。」そして姫はすべての苦しみをわが裡に抑えつけて、いたずらな嘆きに時を費すことなく、騎手に身をやつし、武装し、馬具を備えて、兄たちと同じ道を取りながら、馬に乗って出発しました。
そして二十日目に、姫は、道のほとりの樹の下に坐った老翁《シヤイクー》に出遭いました。姫は恭々しくこれに挨拶して、言いました、「おお聖なる御老人《シヤイクー》、わが父よ、あなたは二十日の間を置いて、『物言う鳥』と、『歌う木』と、『黄金色《こがねいろ》の水』を探す、二人の若く凛々しい貴公子が、通りかかったのを御覧になりませんでしたか。」すると老人《シヤイクー》は答えました、「おおわが御主人、薔薇の微笑のファリザードよ、わしはそのお二人を見たし、いろいろ教えてもあげました。だが、残念なことに、そのお二人も、その前に来た多くの他の貴公子と同様、『見えざるもののともがら』によって、企てを阻まれなすった。」ファリザードは、この聖なる人が自分の名を呼ぶのを見て、訝《いぶか》りの極に達しましたが、老人《シヤイクー》は更に言いました、「おお光輝の御主人よ、御身にあの三つの類いなきもののことを話した人々は、決して御身を欺いたのではない。すでに数多の王侯貴族が、これを求めてやってきました。しかし彼らは、御身の追い求めるごとき、そのような世の常ならぬ冒険を試みることにある数々の危険をば、御身に聞かせなかったのじゃ。」そして老人《シヤイクー》はファリザードに、兄たちと三つの珍宝を探しに行くと、どういう目に遭うかを全部知らせました。するとファリザードは言いました、「おお聖者様、わたくしの内なる魂は、お言葉を伺ってすっかり掻き乱されてしまいました、それは本当におびえやすうございますから。けれども、兄たちを見つけるという場合に当って、どうしてわたくしはたじろいでいられましょうか。おお聖者様、情愛深い妹のお願いを聴いて、兄たちの魔法を解く方法を、お教え下さいませ。」すると老翁《シヤイクー》は答えました、「おお王女ファリザードよ、ここに花崗岩《みかげいし》の玉があって、これは御身を兄様方の跡に連れて行ってくれよう。けれども、まずその三つの珍宝の持主となってからでなければ、兄様方を救い出すことはできないのじゃ。そして御身は、兄たちへの愛情ゆえに魂を危きに曝すのであって、不可能を獲んとの野望に駆られてのゆえではないのであってみれば、不可能も御身の奴隷となるであろう。お聞きなされ、およそ人間の子は何ぴとも、『見えざるもの』の声の呼び声に逆らい得ないのじゃ。されば、その『見えざるもの』を征服するためには、これに対してあらかじめ工夫して備えておかねばならぬ。『見えざるもの』には力があるからな。だが人間の子らの工夫は、『見えざるもの』のあらゆる力によく打ち勝つであろう。」
こう言って、「樹下の翁《おきな》」は、ファリザードに赤い花崗岩《みかげいし》の玉を渡して、次に、帯から毛糸のひと束を取り出して、言いました、「この軽い毛糸のひと束をもって、おおファリザードよ、御身は『見えざるもののともがら』全部に、よく打ち勝つであろう。」そして付け加えました、「御身の頭《かしら》の栄光《さかえ》を、わしのほうに傾けなされ。おお、ファリザード。」そこで姫は、髪の毛が片側は金色、片側は銀色の頭を、翁《おきな》のほうに傾けました。すると翁《おきな》は言いました、「願わくはこの軽きひと房をもって、人間の娘の、空の『ともがら』の力と『見えざるもの』の一切の陥穽とに、勝たんことを。」そしてその毛糸の束を二つに分けて、それをおのおのファリザードの耳に詰めてやってから、手で出発するよう合図をしました。そこでファリザードは翁《おきな》と別れて、玉をば大胆に山の方角に投げました。
そして最初の岩に行き着いて、地に降り立ち、上に向って進みはじめると、足の下から、黒い玄武岩の磊塊の間から、すさまじい喧しさで、声が立ちのぼってきました。しかし姫には、かろうじて漠としたざわめきが聞えるだけで、言葉はひとつも聞きとれず、どんな呼び声もわからず、従って、何の恐怖も覚えませんでした。そして姫は、か弱い身にもかかわらず、またその足は、かつて並木道の細かい砂しか踏んだことがないにもかかわらず、停まらずに登って行きました。そして弱らずに山の頂に辿りつきました。するとその山頂の高原のまん中に、わが前に、黄金の台に載った、黄金の鳥籠を認めました。そしてその籠のなかに、「物言う鳥」が見えました。
そこでファリザードは飛んで行って、こう叫びながら、籠の上に手を置きました、「鳥よ、鳥よ、掴まえましたよ、掴まえました。もうお前はわたくしから逃《のが》れられはしませんよ。」それと同時に、今まで「見えざるもの」の叫び声と威かしに耳を塞いでくれたが、今は用がなくなった、毛糸の束を取り外して、遠くに投げ棄てました。それというのは、既に「見えざるもの」の声はすべて黙して、大いなる沈黙が山上に眠っていたからです。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十八夜になると[#「けれども第七百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてこの大いなる沈黙のただ中から、清らかな響きの裡に、「物言う鳥」の声が立ち昇りました。その声は言うのでした、あらゆるなだらかな調べをその中に集めて、――その鳥の言葉で歌いながら、言うのでした。
[#ここから1字下げ]
いかにして、いかにして、
薔薇の微笑の
おおファリザード、ファリザード、
ああ、――ああ、
いかにして、われ
望まんや、
おお夜よ、眼《まなこ》よ、
望まんや
君をのがれんと。
ああ、――おお夜よ、
ああ、――眼《まなこ》よ。
われは知る、われは知る、
君よりも、君よりもよく、
そも君の、何ぴとにおわしますかを、
ファリザード、ファリザード。
ああ、――ああ、
眼《まなこ》よ、おお夜よ、眼よ、
君よりもよくぞ知る
そも君の、何ぴとにおわしますかを、
ファリザード、ファリザード。
眼《まなこ》よ、眼よ、眼よ、
ファリザード、ファリザード。
われは君の奴隷なり、
忠実《まめやか》の奴隷なり、
ファリザード、ファリザード。
[#ここで字下げ終わり]
このように、おお琵琶《ウーデイ》よ、「物言う鳥」は歌いました。それでファリザードは、恍惚の限り恍惚として、そのため自分の辛苦も疲れも忘れてしまいました。そして自分から姫の奴隷と名乗り出た、この不思議な「鳥」の言葉を真《ま》に受けて、姫はいそいでこれに言いました、「おおブルブル・エル・ハザール、おお大気の驚異よ、もしお前がわたくしの奴隷なら、そのことを証《あか》しなさい、証しなさい。」
するとブルブルは、答えて歌いました。
[#ここから1字下げ]
ファリザード、ファリザード、
物|仰《おお》せ、物仰せ、
ファリザード、ファリザード、
承わるは、承わるは、承わるは、
われには、従い奉ることなれば。
[#ここで字下げ終わり]
そこでファリザードは、いろいろ頼みたいことがあるがと言って、まず最初、「歌う木」はどこにあるか、教えてもらいたいと切り出しました。するとブルブルは、歌でもって、山のもう一方の斜面のほうを、振り向くようにと言いました。そこでファリザードは、今登ってきた斜面と反対側の斜面のほうを、振り向いて眺めました。するとその斜面の中央に、その蔭は優に一軍隊全部を蔽えるほどの、非常な大木が見えます。姫は魂の中でたいそう驚いて、こんな大木を引き抜いて持って行くには、いったいどうしてよいかわかりませんでした。するとブルブルは、その困った様子を見て、何もこの老木を引き抜く必要はないので、ほんの小さな枝をひと枝折って、御自分の好きな場所に挿しさえすれば、すぐに根づいて、今見える木と同じような、立派な木になるのだということを、歌いながら述べました。そこでファリザードは、その「木」のほうに行って、そこから立ち昇る歌を聞きました。それで自分がたしかに、「歌う木」の前にいるとわかりました。なぜなら、ペルシアの園の微風も、インド琵琶《ウーデイ》も、シリアの竪琴《ハーブ》も、エジプトの六絃琴《ジーターラ》も、この音楽の「木」の葉にある、幾千もの見えざる口の合奏にたぐえられる調べを、かつて発したためしはないからでございます。
ファリザードは、この音楽を聞いて陥った恍惚からわれに返ると、「歌う木」のひと枝を摘んで、ブルブルの許に戻り、今度は「黄金色《こがねいろ》の水」がどこにあるか、教えてもらいたいと頼みました。すると「物言う鳥」は、では西のほうを向いて、そこにある青い岩の後ろを見に行くようにと言いました。ファリザードは西のほうを向くと、柔らかなトルコ玉でできている岩が見えました。そこでそちらに行ってみると、その柔らかなトルコ玉の岩蔭に、さながら溶けた黄金に似た、小さな細流《せせらぎ》が湧き出ております。このトルコ玉の岩から滲み出る細流の水は、ことごとく黄金色で、ちょうど黄玉の光沢そのもののように、透明で清冽であるだけに、ひとしお見事に見えるのでした。
そしてその岩石の上の、窪みには、ひとつの水晶の壺が置いてありました。ファリザードはその壺を取り上げて、それに霊水を満しました。そして水晶の壺を肩に、歌う枝を手に持ちながら、ブルブルの許に帰りました。
このようにして、薔薇の微笑のファリザードは、類いなき三つのものを手に入れたのでございます。
それから姫はブルブルに言いました、「おお最も美しい者よ、あと一つお前に頼みたいお願いが残っています。それを叶えられたいばかりに、わざわざ私ははるばるお前を求めてやってきたのです。」すると「鳥」はそれを言うようにとすすめたので、姫は震える声で言いました、「わたくしの兄様たちなの、おおブルブル、お兄様たちよ。」
ブルブルはこの言葉を聞くと、たいそう困った様子でした。それというのは、「見えざるもののともがら」とその魔法に対して戦うのは、自分にはできないことで、自分自身もずっと彼らに支配されていることを、知っているからです。けれどもやがて、運命が王女を勝たせたからには、自分も今後は恐れることなく、自分の旧《もと》の主人たちを差し措いて、王女に仕えることができようと考えました。それで返事として、鳥は歌いました。
[#ここから1字下げ]
水晶の壺なる「水」の
滴《てき》、滴、滴、滴をもて
おおファリザード、ファリザード、
滴《てき》、滴、滴、滴をもて
注《そそ》げ、おお薔薇よ、おお薔薇よ、
山の石に、注げ、
滴《てき》、滴、滴、滴をもて、
おおファリザード、ファリザード。
[#ここで字下げ終わり]
そこでファリザードは、片手に水晶の壺、片手にブルブルの黄金の籠と歌う枝とを携えて、再び小道を下りました。そして黒い玄武岩の石に出遭うごとに、「黄金色の水」数滴を、これに振り注ぎました。するとその石は生気を帯びて、人間に変りました。ファリザードは一つの石も洩れなくそうしたので、かくして兄たちに再会できました。
ファリドとファルーズはこうして解き放され、駈け寄って妹を抱き締めました。またすべての貴公子も、姫によって石の眠りから引き出されて、姫の手を接吻しに来ました。そして皆、自分は姫の奴隷と名乗り出ました。そこで一同打ち揃って平原のほうに降り、ファリザードが一同の馬をも魔法から解いてやってから、それぞれ自分の馬に乗りました。そして「樹下の翁《おきな》」の方角に向いました。
ところが「翁《おきな》」はもう草原にいませんし、「樹」もやはり草原にありません。ファリザードが訊ねると、ブルブルは突然たいそう厳粛になった声で、答えました、「どうしてあなたはあの翁《おきな》にまた会いたいと思うのですか、おおファリザード様。彼は人間の娘に、意地の悪い声、憎しみの声、うるさい声、その他すべて内なる魂を掻き乱して、頂上へと到り着くのを妨げる声に打ち勝つ、毛糸の束の教えを授けたのです。それで、師は自分の教えの前に消え失せるのと同じように、『樹下の翁《おきな》』もあなたに自分の知恵を伝えたとき、姿を消してしまったわけです、おおファリザード様。これからは、大部分の人間たちを悩ます憂苦も、あなたの魂に対しては、殆んど力を持たぬでありましょう。それというのは、あなたはもはやさまざまの外部の出来事に、あなたの魂を貸さないことができるでしょうから。そのような出来事は、ただ自分の魂を貸すからこそ存在するにすぎませぬ。かくてあなたは、一切の幸福の母なる、清澄な心境を知ることを学んだのであります。」
この間まで「翁《おきな》の樹」が聳えていた場所で、「物言う鳥」はこのように述べたのでございます。一同はその言葉の美しさと、その考えの深奥なことに、驚嘆いたしました。
ファリザードに供奉する一行は道を続けました。けれども、そのうち一行の数は減りはじめました。それというのは、ファリザードに魔法を解かれた貴公子たちは、次々に、自分がやってきた元の道まで来るに従って、改めて姫に感謝の意を表しに来ては、その手を接吻して、姫と兄たちに別れを告げたのでございます。こうして二十日目の夕方に、ファリザード王女とファリド、ファルーズ両王子は、安らかに自分たちの住居に着きました。
さて、ファリザードは地に下り立つとすぐに、いそいで鳥籠を、庭の青葉の棚の下に吊りました。そしてブルブルがその声の最初の調べを発するとすぐに、鳥という鳥は全部、これを眺めに駈けつけて、これを見ると、声を揃えて挨拶しました。なぜなら、鶯も河原鶸《かわらひわ》も、雲雀も頬白も、五色鶸《ごしきひわ》も雉鳩も、およそこの庭に住む数限りない鳥の種族全部が、直ちにその美しさの至上権を認めたからです。そして高い声でまた低い声で、さながら舞姫たちのように、彼らの囀りで、その独吟の一節《ひとふし》一節に伴奏するのでした。そしてブルブルが巧妙な顫音《トリル》で一曲終るごとに、諸鳥《もろどり》は鳥の言葉で、快い響きに満ちた喝采をもって、自分たちの恍惚を現わすのでございました。
ファリザードは雪花石膏の大泉水に近よりました。そこは平生、片側は金色、片側は銀色のわが髪を映すところです。そしてそこに、水晶の壺にはいっている水の一滴を注ぎ入れました。すると黄金の一滴はたちまち膨れて、盛り上がり、光まばゆい水束となって数を増し、白熱の大気のうちに海の洞窟の涼気を置いて、噴き上がっては落ちるのをやめませんでした。
ファリザードは、「歌う木」の枝を、手ずから植えました。すると枝はすぐに根づいて、数分のうちに、それが着いていた元の木と同じように、見事な木となりました。そして歌声がそこから美しくも立ち昇りましたが、ペルシアの園の微風《そよかぜ》も、インド琵琶《ウーデイ》も、シリアの竪琴《ハープ》も、エジプトの六絃琴《ジーターラ》も、かつてこの天上の調べを発し得たことはありますまい。そして音楽の葉の見えざる千の口を聴こうと、流水はその囁く歩みを停め、鳥たちさえも声を忍ばせ、並木道のさまよう微風は己が薄絹を捲き収めました。
こうしてこの屋敷で、生活は再びその幸福な単調な日々を始めました。ファリザードは再び庭の中の散歩を続け、長い間足を停めては、「物言う鳥」と語り、「歌う木」に耳傾け、「黄金色《こがねいろ》の水」を眺めるのでした。ファリドとファルーズは狩猟と乗馬に耽りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百七十九夜になると[#「けれども第七百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて或る日のこと、この二人の兄は、森の小径《こみち》で、あいにく避けることもできないほど狭い道でしたので、狩りをしておられた帝王《スルターン》と、ばったり出遭ってしまいました。二人は大急ぎで馬から下りて、地に額をつけて平伏しました。すると帝王《スルターン》は、こんな森のなかに、さながら御自分のお伴のような立派な服装をした、御存じない二人の騎手を御覧になって、驚きの極に達し、その面《おもて》を見ようという好奇心をお抱きになり、両人に立つようにおっしゃいました。そこで二人の兄弟は立ち上がって、彼らの恭々しい態度にいかにも似つかわしい、高貴さ溢れる様子をして、帝王《スルターン》の御手の間に控えました。帝王《スルターン》は二人の美しさに打たれ、物もおっしゃらずに、二人を頭から足までしげしげと御覧になりながら、しばし見とれていらっしゃいました。次に何者であって、どこに住むかとお訊ねになりました。それというのは、御心《みこころ》が彼らのほうに惹かれ、動かされなすったのです。兄弟は答えました、「おお当代の王よ、私どもは君の亡き奴隷、旧《もと》の御苑監督の子でございます。そして、ここより遠からぬ、君の御寛仁の賜物たる家に、住まっておりまする。」すると帝王《スルターン》は御自分の忠義な家来の息子たちを知って、たいそうお悦びになりましたが、今日まで御殿に出頭して供奉に加わらないでいるのを、たいそう訝《いぶか》られました。そして差し控えている理由をお訊ねになりますと、兄弟は答えました、「おお当代の王よ、私どもが今日に到るまで、君の寛仁の御手《おんて》の間に罷り出ることを差し控えておりましたのを、お許し下さいませ。されど私どもには一人の末の妹がございまして、それは私どもにとりまして父の最後の頼みであり、私どもは深い愛情をもってこれを見守っておりますゆえ、妹を置いて出て行くなどということは、考えられぬ次第でございます。」すると帝王《スルターン》はこの友愛に極度に感心なさり、ますますここで出遭ったことを満足に思し召され、お考えになりました、「わが領内に、かくも天晴れであると共に、野心なき二人の青年がいようとは、かつて思いもよらなかったわい。」そして、両人の住居に訪れ、彼らを眺めて、御眼をいっそう爽やかになさりたいというお望みが、抗いがたく、起りました。そこですぐに二人の若人にその旨をお打ち明けなさると、二人は承わり畏まってお答えし、いそいでお伴しました。ファリド王子はやがて先に立って、妹のファリザードに帝王《スルターン》のお出でを知らせに行きました。
ファリザードは、人をお迎えするのに殆んど慣れていなかったので、帝王《スルターン》をそれにふさわしくおもてなしするには、どうすればよいかわかりません。そこで思い余って、これは友人の「歌う鳥」ブルブルに相談するに如《し》かぬと思いました。それで友に言いました、「おおブルブルよ、帝王《スルターン》が私たちの家を見にお出で下さるというので、私たちはおもてなししなければなりません。ですから、どうすれば無事勤めを果たして、御満足なすってここをお出ましになるようにできるか、いそいで教えて下さいな。」するとブルブルは答えました、「おおわが御主人様、料理女に命じて、幾皿も幾皿もの御馳走を作らせることは無用です。それというのは、今日のところ、帝王《スルターン》のお口に合うものはたったひと皿しかなく、それを差し上げるべきですから。それは真珠を詰めた胡瓜のひと皿です。」それでファリザードはびっくりして、鳥がつい言いまちがったのかと思って、叫んで言いました、「鳥よ、鳥よ、そうじゃないのでしょう。真珠を詰めた胡瓜なんて、前代未聞の御馳走ですよ。王様が私たちのところでお食事を遊ばされるとすれば、それは召し上がるためで、真珠を呑みこみなさるためではないにきまっていますよ。お前はきっと、『お米の詰めものをした胡瓜のひと皿』というつもりなのでしょう、おおブルブル。」けれども「物言う鳥」は、苛立って言いました、『ちがう、ちがう、ちがう。真珠の詰め物、真珠です、真珠ですよ。お米じゃない、お米じゃない、お米じゃない。』
そこでファリザードは、この不思議な鳥に全幅の信頼を寄せていたので、いそいで年とった料理女に、真珠を入れた胡瓜の料理を作るように命じに行きました。この家にはちょうど真珠に不足はなかったので、そのお料理を調えるぐらいのたくさんの真珠を見つけるのに、別にむずかしいことはありませんでした。
こうしているうちに、帝王《スルターン》はファルーズ王子を従えて、お庭にはいって見えました。ファリドは入口でお待ちしていて、鐙《あぶみ》を押えて、地にお下りになるのをお助け申しました。すると薔薇の微笑のファリザードは、生れてはじめて面衣《ヴエール》をつけて(というのは、ブルブルがそうすすめたもので)、来て御手を接吻しました。帝王《スルターン》はその淑やかさと、姫の全身から発散する素馨《ジヤスミン》の清らかさに、いたく心打たれ、子孫のない御老年を思って、涙を流しなさいました。次に、姫を祝福なさりながら、おっしゃいました、「子孫を残す者は死せず。願わくはアッラーは、おお、かくも美しき児らの父よ、その方に、福者らの間に、御右に、選ばれし席を授けたまわんことを。」次に王は、身を屈《かが》めるファリザードの上に、改めて視線を下ろして、付け加えなさいました、「されど、おおわが下僕《しもべ》の娘よ、おお馨《かぐ》わしき花茎よ、われわれをばどこか暑気の当らぬ快い茂みに、案内してくれよ。」そして帝王《スルターン》は、顫えるファリザードに先立たれ、二人の兄弟を従えて、涼しいほうへと向われました。
帝王《スルターン》ホスロー・シャーの御眼を驚かした最初のものは、黄金色《こがねいろ》の噴水でした。王はしばし立ちどまって感嘆してこれを眺め、そしてお叫びになりました、「まことに目を悦ばせる、奇《くす》しき水かな。」そして更に近づいてよく見ようと進み寄られると、突然、「歌う木」の合奏をお聞きになりました。王は天上より落ち来るこの音楽に、恍惚たる耳を傾けて、長い間、聞き入りました。そしてお叫びになりました、「おお、未だかつて聞きたることなき音楽かな。」そして更によく聞こうと、音楽のあると覚しき方向に進み寄られると、音楽ははたとやみ、大いなる沈黙が庭全体を眠らせるのでした。そしてこの大いなる沈黙のただ中から、「物言う鳥」の声が、ただ独り歌い、嚠喨《りゆうりよう》と狂おしく、立ち昇りました。その声は言いました、「ようこそ――帝王《スルターン》――ホスロー・シャー。ようこそ、ようこそ、ようこそ。」そして、大気を魅するこの声の発する最後の調子に和して、鳥たちの合唱全部が、鳥の言葉で答えました、「ようこそ、ようこそ、ようこそ。」
帝王《スルターン》ホスロー・シャーは、こうしたすべてに驚嘆なさり、御魂《おんたましい》はこれほど僅かの間に感じたすべてのことに、既にたいそう感動なすって、この上ない感慨を覚えなさいました。そして王はお叫びになりました、「これぞ幸福の家じゃ。おお、余はその方たちと共に住むためならば、わが権勢と王位とを抛《なげう》つであろう、おお、わが監督官の息子たちよ。」次に、どうもはっきりと合点がゆかれないこの珍宝の由来を、ファリザードと兄弟たちにお訊ねになろうとすると、一同は「歌う木」と「物言う鳥」をお目にかけました。そしてファリザードは申し上げました、「この珍宝の起原《おこり》につきましては、御主君|帝王《スルターン》様がお寛《くつろ》ぎ遊ばした節、わたくしからお話し申し上げることに致しましょう。」
そして姫は帝王《スルターン》に、ちょうどブルブルに蔭を貸している青葉の棚の真下に、お坐りになるように申し上げましたが、そこにはお食事が大きな皿に盛って運ばれていました。帝王《スルターン》は棚の下の、最上席にお坐りになりました。すると黄金の皿に載せて、真珠入りの胡瓜が捧げられました。
事実、帝王《スルターン》は詰め物をした胡瓜をお好みでしたので、ファリザード自身の差し出す皿の上に、それを御覧になった時、不審にお思いになったけれども、この心遣いを多となさいました。しかしやがてそれが、普通のように米やピスタチオが詰めてある代りに、胡瓜が真珠で調理されているのを見ては、驚きの極に達しなさいました。そこでファリザードと兄弟に、お訊ねになりました、「わが生命《いのち》にかけて、胡瓜の調理に際して、何という新奇なことであろう。そもそもいつから、真珠が米やピスタチオに代ったのであろうか。」そしてファリザードはもう皿を放して、恥しさのあまり逃げ去ろうとすると、そのとき「物言う鳥」は、声をあげて、帝王《スルターン》のお名前を呼んで、言いました、「おお、われらの御主君ホスロー・シャーよ。」帝王《スルターン》は「鳥」のほうに頭を上げなさると、鳥は厳粛な声で続けました、「おお、われらの御主君ホスロー・シャーよ、そしてそもそもいつから、ペルシアの女帝《スルターナ》ともあるもののお子様たちが、誕生のおり、動物に変えられるなどということがあり得ましょうか。さればもし、おお当代の王よ、君がその昔、かくも信じがたき事がらを信じなされたとせば、この今日のごとき単純な事がらの前にて、君は今さらに驚きたもう権利など、お持ちにならぬではござりませぬか。」次に付け加えました、「思い起したまえ、おおわれらの御主君よ、今から二十年前、君が一夜貧しき住居にてお聞きになった言葉を。万一お忘れとあらば、おおわれらの御主君よ、このファリザードの奴隷に、それを今一度繰り返しお聞かせ申し上ぐるをお許し下さい。」
そして「鳥」は、処女たちの優しい話しぶりに似た声で、言いました、「おお、お姉さん方、私は帝王《スルターン》のお妃になったら、私は祝福された子孫を産んで差し上げますわ。それというのは、アッラーが私たちの契りから生れさせて下さる男の子たちは、きっとあらゆる点で父君に恥しからぬ子で、私たちの眼を爽やかにする女の子は、きっと御空《みそら》の微笑そのものでしょう。その髪の毛は、片側は金色で、片側は銀色でしょう。もし泣けば、その涙は真珠、その笑いは、ディナール金貨、その微笑は、薔薇の蕾でしょうよ。」
この言葉に、帝王《スルターン》は両手でお顔を隠して、むせび泣きなさいました。昔のお苦しみは、過去の苦い日々にもまして、激しくなりまさりました。絶望なされた魂の奥底に押しやられていたあらゆる思いは、突然御心中に溢れ出でて、御心《みこころ》を引き裂きました。
けれどもやがて、ブルブルの声は再び、歓びに歌うように、立ち昇りました。その声は言うのでした、「お父上の前で、おおファリザード様、面衣《ヴエール》をお外《はず》しなさい。」
すると、友の声には逆らえないファリザードは、面衣《ヴエール》を外しました。面衣《ヴエール》と共に、髪の毛を束ねていた紐が落ちました。帝王《スルターン》はそれを見ました。そして両腕を前に出して、ひと声大きな叫びをあげながら、立ち上がりなさいました。するとブルブルの声が王に叫びました、「わが君の王女様です、おお王よ。」それというのは、片側は金色で、片側は銀色でありました、その乙女の髪の毛は。そして悦びの二顆の真珠が、その瞼の上に、一輪の薔薇の蕾が、その口の上に、ありました。
王は同じ瞬間に、美貌の二人の兄弟を見ました。王は彼らに、御自分を認めました。するとブルブルの声が王に叫びました、「わが君の王子様方です、おお王よ。」
そして帝王《スルターン》ホスロー・シャーが、未だ感動で身動きもできずにいらっしゃる間に、「物言う鳥」は、王とまたそのお子たちにも、本当の身の上を一部始終、細大洩らさず、手短かにお聞かせ致しました。けれどもそれは繰り返すまでもございません。
「鳥」がまだその物語を語り終えないうちに、早くも帝王《スルターン》とそのお子たちは、お互いの腕のなかに相集って、涙と接吻を混ぜ合ったのでございます。相隔ててのち相合わしめたもうアッラー、至大者、測り知るべからざる者に、称讃《たたえ》あれ。
一同いささかその感動から戻ると、帝王《スルターン》はおっしゃいました、「おおわが子らよ、大急ぎでお前たちの母親に会いに行くとしよう。」けれども、おお、お聴きの方々よ、片隅の奥深くただ独り暮していた憐れな母君が、背の君の帝王《スルターン》に再会し、薔薇の微笑のファリザードと、その兄の立派な二人の若人の母親であると知った時に、起ったところを述べ表わすことは、割愛することと致しましょう。そして、御恵《みめぐ》みは限りなく、正義は遂に過つことなくして、勝利の日に、妬み深い二人の姉をば狂死せしめて、王ホスロー・シャーと、お妃の女帝《スルターナ》と、美わしいファリド王子と、美わしいファルーズ王子と、美わしいファリザード王女とに、友垣を分け隔てる者、交友を破壊する者の到るまで、久しい歓楽とこの上なく幸《さち》満てる生を授けたまいしアッラーの、感謝されよかし。その永遠のうちにあって、変るを知りたまわざる御方に、栄光あれ。
これが、薔薇の微笑のファリザードの、世にも不思議な物語でございます。さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードがこの物語を語り終えると、小さなドニアザードは叫んだ、「おお、お姉様、お言葉は何と楽しく、快く、みずみずしく、味わい深いのでございましょう。また何とこの物語は見事でございましょう。」するとシャハリヤール王は言った、「いかにもさようじゃ。」ドニアザードは王の眼がうるむのを見るように思って、声をひそめて、シャハラザードに言った、「おお、お姉様、王様の左の御目《おんめ》にひと雫の涙のようなものが、そして右の御目にもうひと雫の涙のようなものが、見えますよ。」そこでシャハラザードは王をちらりと盗み見して、微笑を洩らし、妹を抱きながら、言うのであった、「どうか王様は、カマールと達者なハリマとの物語をお聞きなさっても、これに劣らぬお悦びをお覚えなさいますように。」するとシャハリヤール王は言った、「余はその物語を知らぬ、シャハラザードよ。そして余はそれを待ち、それを望んでいることは、そちも承知であろう。」彼女は言った、「もしアッラーの御心ならば、またもし王様がお許し下されば、わたくしは明日それを始めまするでございましょう。」するとシャハリヤール王は、まことの知恵の譬え話を思い出して、独りごとを言った、「その物語を聞くのに、明日までじっと辛抱するとしよう。」
[#この行1字下げ] ――そしてここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七百八十夜になると[#「けれども第七百八十夜になると」はゴシック体]
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小さなドニアザードは叫んだ、「おおシャハラザードお姉様、御身の上なるアッラーにかけて、いそいで私たちにカマールと達者なハリマの物語[#「カマールと達者なハリマの物語」はゴシック体]をお話しして下さいませ。」
するとシャハラザードは言った。
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訳註
眼が覚めながら眠っている男の物語
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(1) ガランによって訳された有名な物語であるが、ブレスラウ本にあるのみとのことで、『千一夜物語』には元来はなかったものと見る人もいる。ペイン、バートンでも補巻に入れ「夜」の区別をしていないが、話の内容もかなりマルドリュスと異なる。
(2) Aboul-Hassa穎 le De暫auch・ ガランでは Abou Hassan. ペインでは Aboulhusn el Khelia「おどけ者アブールフスン」、バートンではAb・al-Hasan-al-Khaliユa 「おどけ者」の意で、古い訳書では「放蕩者」と呼んでいると註す。
(3) 食事を共にした、友情が結ばれたの意。
(4) ビザンスのローマ人。特にギリシア人。
(5)「アッラーに誓って」。
(6)「美の父」の意。
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ザイン・アル・マワシフの恋
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(1) Houboub.「目ざめること」または「はげしく吹きつけること」の意で、後出三人の侍女の名とともに、ユダヤ人の奴隷娘を意図している名前(バートン)。
(2) Zein Al-Mawassif は「美質の飾り」を意味する(マルドリュス)。
(3) モーゼとその兄アーロンのこと。
(4) Khoutoub は「仕事」または「不運」、Soukoub は「流れること」または「血」あるいは「水」を意味するとバートンにあるが、Roukoub はペインにもバートンにも出てこないようだ。
(5) Azra鼠. 回教に於ける死を司る天使。
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無精な若者の物語
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(1) 一九五五年刊の絵入三冊本では、以下物語の順序がちがっている。(従って「夜」の数も、地の文の次の物語へ移る個所も相違する。)以下『若者ヌール』『アラジン』『無精な若者』『寛仁大度』『処女の鏡』となる。理由不明だし、八冊本以後の種々の刊本を見ないとわからないが、これはマルドリュス自身の変更によるものと想像される。
(2) マールートと一対の天使で、地上の生活を試みるため遣わされたが、果たして地上の女の美にまどわされ、殺人まで犯し、罰としてバビロン(バービル)に幽閉され、人々に妖術を教えた。
(3) 十六冊本ではここに八行ほど付け加えられている。
(4) 十六冊本には、以下に十行ばかりの一節がはいっている。
(5) 十六冊本には以下五行ほど付加されている。
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若者ヌールと勇ましいフランク王女との物語
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(1) Couronne. ペインには Tajeddin バートンにはTj-al-D地 とある。
(2) Sidrah. 棗椰子の一種で、第七天のアッラーの玉座の右方にある木。葉の数は地上の人間の数と等しく、人間の姓名を持ち、毎年第九月十五日の日没後、翌年死ぬ人の名の葉が散るという。
(3) 家畜に水を与えるとき、口笛を吹いて呼ぶのが、アラビア人の習慣(ペイン)。
(4) 『無精な若者の物語』註(2)のように、バビロンは魔法の発祥地であり、これは魔法のごとく、魅力あるの意(ペイン)。
(5) 三度の離縁は、決定的な縁切りである。あるいは、実行しなかったならば、妻を決定的に離縁すると誓って、の意か。
(6) Le Zerboa. 不詳。ペインでは単に「羚羊」、バートンでは「牝羚羊」doe-gazelle となっている。
(7)「アッラーに誓って」。
(8) 『貧乏カリーフの物語』(本電子文庫版六巻所収)参照。
(9)「私は信ずる」、キリスト教のアーメンと同じ。
(10) アレキサンドリヤの町にある、花崗岩で作った記念碑で、約百尺の檣状の円柱。
(11) Les patriarches. バートンによると、メBatrikahモ であり、僧を意味するが、ここでは軍人の主長たちの騎士の意という。ペインでは Bitarikeh(bitricの複数)とあり、ほぼ同じ意味の註がある。
(12) Sabik は「先駆者」、Lahik は「打ち勝つ者」(ペイン)。
(13) 『コーラン』第四章、一四節。
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寛仁大度と処世の道の談話会
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(1) Saladin (Salh al-Din). ――「信仰に従う者」の義。大サラディンと言われ、エジプト及びシリアの王(在位一一七四―九三)で、Al-Malik al Nasir(征服王)と称された。クルド人であり、ここにあるように、稚児好みであったが、この倒錯も最も高潔な人物の一人であることを妨げなかった(バートン)。
(2) この大臣の名を、ペインでは Abou Aamir ben Merwan、バートンではAb・輓ir bin Marwn と記している。
(3) Abdallah, fils de Maユ amar Al-Ka不si. ――不明。ペインは Abdallah ben Maamer el Caisi、バートンはAbdullah bin Maユ amar al-Kaysi と記す。
(4) Ansarite.「援助者」の意。メディナに移住したムハンマドらを熱心に援助したメディナの教友たちをいう。使徒と共にメッカからメディナに移住した教友ムハージル(移住者)と共にムハンマドの同志として、約五百人いた。
(5)「わが娘」という代りの婉曲な語法(バートン)。
(6) Hajar. ――ベドウィン族は完全な貨幣を Kirsh hajar または Riyal hajar(石の貨幣)という(バートン)。
(7) Les Anazi (Banu- Anna-z). ――十世紀末から十二世紀初めにかけて、イラクとイランの国境地帯を領して、テント生活を営んでいた半放浪政体の君主族。
(8) 六世紀末、アル・ヒーラのラカム朝最後の有名な王。
(9) サラセンのウマイヤ朝中興の名主と称される第五代の教王《カリフ》(六四五―七〇五)。
(10) これは女性の意趣晴しの好例とバートンは註する。
(11) 十六冊本では chancelier(尚書卿)とある。
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処女の鏡の物語
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(1) Moubarak(ガランではMobarec、バートンはMubrak、ペインはMubarek). ――「祝福された者、または吉兆の者」の意。
(2)「さらば」、「以上」。
(3) イブラーヒームの妻サラの侍女。
(4) En. 残aille pr残ieuse. ガランでは「ただ一枚の魚の鱗」とあり、バートンは「全体が魚の肋骨でできている」とする。
(5) Israfil. 四大天使の一人で、復活の時ラッパを吹くという。ガランは「Asrafyel または Astrafil. この天使は回教徒によると、ラッパを吹き鳴らし、その音によってあらゆる死者が甦って、最後の審判を受ける」と註する。
(6) アダムとイヴ。
(7)「以上」「おわり」の意。
(8) Physionomies. アラビア語のIlm al H誕h で、一般に Astrology(占星学)と訳されているが、ここでは科学的の観相学をいう。手相術もこめて、これらすべての部門は近接している(バートン)。――なおガランでは単数になっている。
(9) ダヴィデの子ソロモン。
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アラジンと魔法のランプの物語
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(1) この有名な物語も、本文中に入れるにはいろいろ問題があるらしく、バートンも、また続いてペインも、補巻に収めている。なおどのテキストも、マルドリュスとは細部に大分の相違がある。
(2) ガランでは、これは Mustafa という名前の仕立屋とある。ここでは後になってその名が出る。
(3) Aladdin. アラビア語ではAl・eddin、信仰の高さまたは栄光の意(マルドリュス)。バートンによると、Aladdeen と発音され、西洋での書き方は五種ある由。ガランの最初の表記が世界じゅうに伝わっているため、マルドリュスもこれに従っているので、この註がある。邦訳者も日本の通称に従った。
(4) 浮世を離れて祈祷三昧に耽る回教の修道僧。家々を托鉢して、喜捨で生活する。
(5) Maghrebは「西方」を意味し、西アフリカをいう。魔法使の産地として聞えていた。
(6)「瞳」の意(ペイン)。
(7) カイロを指す。
(8) 旅行とか計画を始めるに先立って、コーランの第一章を誦することは、回教徒の習慣である(ペイン)。
(9) 五メートルぐらい。
(10) Kolo-ka-ts・ バートンにはAl-Kalユs、ペインには El-Kelass とあり、ガランにはこの地名はない。
(11) Badrouユl Boudour. 次にあるように「満月のなかの満月」の意。バートンはBadr al-Bud徨 とし、これはメBadrooユl-Budoorモ と発音し、従ってガランの Badroulboudour となるわけだと註する。ペインは Bedrul-budour と記す。
(12) 天国の楽園の泉。俗世のけがれをこの泉で天使に洗ってもらうという回教伝説がある。
(13) これは民衆的な言い方で、ぞんざいとか軽蔑の意味はない(バートン)。
(14) 何事を言っても罰せられない約束または保証を言う。
(15)「アッラーの下に、余は汝を許す」の意である(ペイン)。
(16)「婚約された」の意(バートン)。「ただ彼のみに予約されている」の意(ペイン)。
(17) アレキサンデル大王やソロモンの時代。
(18) ガランも、バートンも、ペインも「二十四の窓」とあり、ガランでは「二十四の窓の客間」となっていて、これは有名な個所であるが、バートンはガランの読みを採る旨註し、ペインは、この建物の描写は『夜話』のなかで最も混乱不明瞭な個所の一つで、到底正確な翻訳に耐えぬと詳しく註している。
(19) ペインにこの土占いのやり方が、図入りで詳しく註記されているが、「占いの卓」又は「占いの板」は、細かい砂を満した浅い箱で、砂の上に点々を作ってゆき、点の組合せの図形を得て、それで占ってゆくらしい。(ガランでは「蓋をした箱形の四角なもの」を持ち出し、「蓋をとり、点を投じて、図形を取り出し、卦《け》をつくる」とある。)ここでいう雌雄の点とか、母と子(バートン、ペインでは「母と娘」)などは、その術語であるが、今は詳しく註しない。
(20) 手を打ち合せるのは苦悩のしるし。
(21) Yasetti.「おお、奥様」。
(22) Fatmah.「聖女」と呼ばれるマホメットの第四女の名であり、アラビアでは昔から縁起のよい名として、女児によくつけられた。
(23) カーフ山 al-Qa-f で、世界の果てを取り巻く山、一般にコーカサスの山とされている。
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薔薇の微笑のファリザード
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(1) メBouch仔 du sultanモ 意訳であり、肉パイのようなものらしい。ガランやバートンでは王室のパン屋の女房になりたいとあり、ガランはこれを「帝王のパン」としている。
(2) ガランでは「木片」とあり、バートンにはただ「麝香鼠」とある。
(3) Farid, Farouz, Farizade. ガランとバートンでは Bahman と Perirz (Parwez) とParizade (Per築dah) とある。最後の名は「ギリシアのパリュサティスに当り、美しく生れたの意」とバートンは註する。
(4) Bulbul-el-Hazar. バートンにはヌBulbul-i-hazr-dstn・ とあり、「通常これはH・ar(千、即ち千の物語の鳥)とつづめて言われ、一般には Andalib と呼ばれる」と註す。ペインは「千の声を持つ鳥」と訳している。ガランは Bulbulhezar とする。
(5) 以上、さらば。
(6) Kaf. 『アラジン』ではコーカサスの山となっていた(『アラジンと魔法のランプの物語』註(23)参照)、世界の果てをとりまく山。
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年九月、ちくま文庫に収録された。