千一夜物語 6
佐藤正彰 訳
目 次
漁師ジゥデルの物語または魔法の袋
アブー・キールとアブー・シールの物語
『匂える園』の道話
三つの願い
若者と風呂屋《ハンマーム》の按摩
白にもいろいろ
陸のアブドゥラーと海のアブドゥラーの物語
黄色い若者の物語
「柘榴の花」と「月の微笑」の物語
モースルのイスハークの冬の一夜
エジプトの百姓《フエラーハ》とその色白の子供たち
貧乏カリーフの物語
ハサン・アル・バスリの冒険
訳註
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千一夜物語 6
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
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漁師ジゥデルの物語または魔法の袋
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、昔オマールという名前の商人がおりまして、子孫と致しましては三人の子供がございました。ひとりはサーレムと呼ばれ、二番目のはサリームと呼ばれ、一番末はジゥデルと呼ばれました。彼は子供たちがいずれも成人の年齢《とし》に達するまで育て上げましたが、しかし末のジゥデルをば兄たちよりもずっとずっと可愛がりましたので、兄たちはこの依怙《えこ》贔屓《ひいき》に気がついて妬みを覚え、ジゥデルを嫌いぬきました。そこで、商人オマールは、もう既に齢《よわい》を重ねた老人でしたが、自分のほうでも、このふたりの息子の弟に対する憎しみに気がつくと、自分が死んだら、ジゥデルはさぞ兄たちにいじめられることだろうと、たいへん心配しました。それゆえ、彼は家族の人々と、数名の学識者と、また法官《カーデイ》の命令で財産相続のことに従事しているいろいろの人たちを集めて、まず申しました、「私の全財産と私の店の反物全部を持って来てくれ。」そしてその全部が持ってこられると、そのとき言いました、「おお皆の衆、この財産と反物を、法に従って、四つに分けて下され。」一同はこれを四つに分けました。すると老人は子供たちめいめいに、それぞれそのひとつを与え、四番目の分を自分の手許に残して、言いました、「これらすべては私の財産であるが、子供たちが今後私に何も求めることなく、またお互い同士で何も求め合うことがないように、そしてわが死後、子供たちが不和にならずに済むようにと思って、私は生きているうちに、これらを子供たちに頒けました。この私の取った四番目の分は、子供たちの母親たる私の家内が、困ることのないように、家内のところに行くべきものです。」
ところで、その後間もなく、老人は死にました。然るに息子のサーレムとサリームは、前に行なわれた分配に少しも満足しようとせず、ジゥデルに対して、彼のものになった分の一部をよこせと要求して、言いました、「家《うち》の親父《おやじ》の身代はお前の手にはいってしまったのだ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十六夜になると[#「けれども第四百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでジゥデルは、兄たちに対して裁判官の力を借り、分配に立会った回教徒《ムスリムーン》の証人たちに出廷してもらわざるを得ませんでした。証人たちはみな自分の知るところを証言しましたので、それゆえ裁判官は、ふたりの兄がジゥデルの分を要求することを許しませんでした。けれどもその訴訟費用は、ジゥデルと兄たちに、それぞれ持っている分の一部を失わせました。ところが、それでもなお兄たちは、しばらくたつと、またジゥデルに対して悪だくみをめぐらすことをやめなかったので、ジゥデルはまたもや、これを裁判官たちに訴えざるを得ませんでした。それでまたぞろ彼ら一同は、裁判費用として、財産を多分に失わせられました。ところが兄たちはそれでもなおやめず、そして三番目の裁判官の前に出て、次には四番目、五番目という風にして、とうとう彼らは裁判官たちに遺産全部を食われてしまい、三人とも貧乏になって、パン菓子と玉葱ひとつ求める一枚の銅貨もない有様となりました。
ふたりの兄弟サーレムとサリームはこういうていたらくになって、もうジゥデルは自分たちと同様赤貧になってしまって、何も要求できないとなると、今度は母親に対して悪だくみをめぐらし、散々母をいじめたあげく、首尾よくだまして、全部捲きあげてしまいました。気の毒な女は、泣きながら息子のジゥデルに会いに来て、訴えました、「お前の兄さんたちは、私にこれこれのことをしたのだよ。そして私の遺産の分け前を全部捲きあげてしまいました。」そして兄たちに呪いを浴びせかけはじめました。けれどもジゥデルは母に言いました、「おおお母さん、兄さんたちに呪いを浴びせかけたりなすってはいけません。アッラーが兄さんたちめいめいを、それぞれの行ないに従って、きっと始末して下さるでしょうから。ところで、私にしても、私はもう法官《カーデイ》やほかの裁判官の前で、兄さんたちを相手にすることはできません。何しろ訴訟には費用がかかるし、私は裁判で、自分の全財産をなくしてしまったのですからね。だからいっそ私たちはふたりとも、あきらめて黙っているほうがましです。それに、おおお母さん、あなたは私のところにいなさりさえすればいいことです。私の食べるパンは、お母さんに差し上げましょう。おお私のお母さん、あなたはただ、私のためにせいぜい祈って下さい。そうすれば、アッラーは私がお母さんを養うために、必要なものを授けて下さいましょう。兄さんたちのほうは、至高の審判者から、自分たちの行ないの報いを受け取るままにまかせておいて、次の詩人の言葉で、お心を慰めなさいまし。
[#ここから2字下げ]
無法者汝を圧せば、忍耐強くこれを耐えよ。しかして、復讐するにただ『時』をのみ頼むべし。
されど暴虐を避けよ。何となれば、山を圧する山は、それよりも更に逞ましき山によってやがて打ち砕かれ、微塵となって飛散すべければ。」
[#ここで字下げ終わり]
そしてジゥデルは母親にいろいろ親切な言葉を言い、優しくし、なだめつづけて、こうしてうまく心を慰め、自分のところに来る決心をさせました。そこで彼は、自分たちふたりの糧《かて》を得るために、魚網を手に入れて、毎日、あるいはブーラクのナイル河に、あるいは方々の大きな池に、あるいはそのほかの水の満ちた場所に、漁をしに出かけはじめました。このようにして、ある時は銅貨(1)十枚、ある時は二十枚、ある時は三十枚を稼いで、全部を母と自分のために遣いました。こうしてふたりは十分に飲み食いしておりました。
さてふたりの兄のほうは、商売も、売りも、買いも、何もありません。貧窮と零落とあらゆる災厄に圧し潰されてゆきました。母から捲きあげたものも、じきに使い果たしてしまって、もうこの上なくみじめな境遇に陥り、何ひとつない素裸の憐れな乞食に成り下がりました。そこでやむを得ず母親に縋りにゆき、母親の前に三拝九拝して、身をさいなむ飢《ひも》じさを訴えざるを得ませんでした。ところが、母親の心というものは、慈しみ深く憐れみ深いものでございます。それで母親はふたりの窮迫ぶりに哀れを催して、残り物の、なかにはもう黴《かび》だらけになっているのもあるパン菓子を与え、昨日の食事の残りも出してやって、ふたりに言いました、「早く食べて、弟が帰ってこないうちに行っておしまいよ。ここにお前たちがいるのを見れば、弟はきっと気を悪くして、私に対して心を冷たくするだろう。そうなると、お前たちのため私まで弟に工合が悪くなるからね。」そこでふたりはいそいで食べて立ち去りました。ところが、日々のうちのある日のこと、ふたりが母親のところにはいって、母がいつものように、料理とパンを前に出して食べさせようとすると、そこに突然ジゥデルがはいって参りました。母親はたいそう面目なくまごついてしまい、弟が自分に腹を立てはしまいかと案じて、息子のほうに恐縮した眼差《まなざし》を向けながら、頭を床《ゆか》のほうに垂れました。ところがジゥデルは、不愉快そうな様子を見せるどころか、兄たちの顔に微笑《ほほえ》みかけて、これに言いました、「これはよくいらっしゃいました、兄さん方。おふたりの日が祝福されてありますように。いったいどういうことがあって、ようやくこの祝福された日に、私たちに会いに来る決心をなさったのですか。」そして彼は兄たちの首に飛びついて、真心こめて接吻しながら、言いました、「まったく、兄さんたちに絶えてお目にかからず、こうして私を淋しさに悩ませなすったとは、兄さんたちはいけませんね。おふたりはもうあれきり、私の様子とお母さんの様子を見に、ずっと私のところに見えませんでしたよ。」ふたりは答えました、「アッラーにかけて、おお弟よ、おれたちだって、お前に会いたい気持にずいぶん悩まされたものだ。おれたちをここに来るのを控えさせたのは、ただ、おれたちとお前との間に起ったことを恥じる気持からだけだった。だが今おれたちは無上に後悔しているよ。それに、こうしたすべては悪魔(称《ほ》めらるるアッラーによって、呪われんことを)の仕業《しわざ》だったので、今はおれたちは、お前とお母さんの外に祝福を持たないよ。」するとジゥデルはこの言葉に大いに感動して、ふたりに言いました、「私も、わが兄上おふたりの外に祝福を持ちません。」すると母親はジゥデルのほうを向いて、言いました、「おおわが子よ、どうかアッラーはお前の顔を白くし、お前の繁栄《さかえ》を増して下さるように。それというのも、私たち全部のなかで、お前が一番寛大です、おおわが子よ。」ジゥデルは言いました、「兄さん方、よくいらっしゃった、私の家にお住みなさい。アッラーは寛大にましまして、福楽はこの家に満ちあふれております。」そして彼は兄たちとすっかり仲直りして、一緒に夕食をし、兄たちは彼の家でその夜を過ごしました。
翌日になると、みんなで一緒に朝の食事をとってから、ジゥデルは網を担いで、「開きたもう者(2)」の寛仁を頼みながら出かけ、一方ふたりの兄もまた出かけ、昼まで留守をして、昼になると母親と食事をしに戻ってきました。ジゥデルのほうは、夕方になってようやく、肉や野菜や、自分の一日の稼ぎで買ったものすべてを携えて、帰ってきました。こうして彼らはひと月の間、ジゥデルが魚をとってそれを売り、その上りを母と兄たちのために費して、暮らしましたが、兄たちは食べては遊んでいるばかりでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十七夜になると[#「けれども第四百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、日々のうちのある日のこと、ジゥデルは河に網を打って、上げてみると、網は空《から》でした。今一度打ちましたが、上げてみるとやはり空です。そこで心のなかで言いました、「この場所には魚がいないな。」そして場所を変えて、網を打ち、上げてみると、またもや空です。二度、三度と、それからそれへと、朝から晩まで場所を変えてみましたが、ただ一匹の河《かわ》沙魚《はぜ》さえもとれません。そこで彼は叫びました、「おお不思議なことだ。もう水のなかに魚がいないのかしらん。それとも原因は別にあるのかな。」そして、折から日が暮れかかったので、彼は背中に網を担いで、心を痛め、悄然として、兄たちと母の憂い悲しみを一緒に運びながら、どうしたらみんなにこれから夕食を食べさせてやれるかわからずに、とぼとぼと帰ってきました。こうやって、いつも帰りみちに、夕方のパンを買うことになっているパン屋の店先にさしかかりました。見ると大勢のお客が、手に手に銭《かね》をもって、パンを買おうと殺到していて、パン屋はひとりひとりにあまり注意も払わずに売っています。そこでジゥデルはひとり離れてしょんぼりと立ち止まって、買う人たちを眺めながら、溜息を吐いておりました。するとパン屋は彼に言いました、「これはようこそいらっしゃった、おおジゥデルさん。パンが御入用ですか。」けれどもジゥデルは黙っていました。パン屋は言いました、「もし今お持合せがないのなら、かまわないから御入用のものを持っていらっしゃい。お払いは後《あと》で結構ですから。」するとジゥデルは言いました、「銅貨十枚分だけパンを下さい。そして抵当《かた》に私の網を取っておいて下さい。」けれどもパン屋は答えました、「それはいけない、おお気の毒な方よ、あなたの網はあなたの稼ぎの門なのだから、もし私がそれを取ったら、あなたに生計《たつき》の門を閉ざしてしまうというもの。さあ、ここにいつもあなたの持ってゆくだけのパンがある。それからこの銅貨十枚は私からの志だ、きっと何かと御入用でしょう。そして明日、やあ、ジゥデルさん、銅貨二十枚分の魚を持ってきて下され。」するとジゥデルは答えました、「わが頭と眼の上に。」そしてパン屋に厚くお礼を述べてから、そのパンと銅貨十枚をもらって、それで肉と野菜を買いにゆきながら、心中で思いました、「明日は、主《しゆ》は私に何とか借金を返す手段《てだて》を授けて下さるだろう。主《しゆ》は私の心配を晴らして下さることだろう。」そして自宅に戻ると、母親はいつものように料理をしました。そしてジゥデルは夕食を食べて、眠りました。
翌日になると、彼は網を取り上げて、出てゆこうとしました。けれども母親はこれに言いました、「お前は朝のパンを食べずに、出てゆくのかい。」彼は答えました、「お母さん、私の分はあなたが兄さんたちと一緒に食べて下さい。」そして河に行って、一度、二度、三度と網を打ち、いくたびも場所を変え、それを午後の礼拝の時刻までつづけましたが、やはり何ひとつ取れません。そこで彼は網を収めて、この上なく悲しんで帰りかけましたが、家《うち》に戻るには他に道がないので、例のパン屋の店先を通らざるを得ませんでした。するとパン屋は彼の姿を見つけて、また新たに十個のパンと十枚の銅貨を数えて、彼に言いました、「さあ、これを持っていらっしゃい。運命の定めたところが今日来なかったのなら、明日は来るでしょうよ。」そしてジゥデルが言い訳をしようとしますと、パン屋は言いました、「さあさあ、おお気の毒な方よ、何も私に言い訳をなさる必要はない。もし何か漁があったのなら、あなたは私に払う代《しろ》があったわけなのだから。明日もまた不漁だったら、恥ずかしがらずにここにいらっしゃい。払いはいつだってかまわないし、いくらでも貸してあげます。」
ところがちょうど翌日も、ジゥデルは全然漁がなく、またもやパン屋のところに行かざるを得ませんでした。そして引き続き七日というもの、同じ不運に見舞われ、八日目には彼は非常な心の悩みに陥って、心中独りごとを言いました、「今日はひとつカールーン湖(3)に出かけてやってみよう。ひょっとすると、あそこにおれの天命があるかも知れない。」
そこで彼は、カイロの町から程遠からぬところにあるカールーン湖に行って、そこで網を打とうと構えていると、その時ひとりのマグリブ人(4)が牝騾馬に乗って、自分のほうに来るのを見かけました。その男は並みはずれて美しい着物を着、頭巾付外套《ブールヌース》と頭巾にすっかりくるまっていて、片方の眼しか出していませんでした。牝騾馬も同様に金の天鵞絨《ビロード》と絹布で包まれ飾られていて、臀のところには、色のついた毛糸で作った旅嚢が置いてありました。
そのマグリブ人はジゥデルのすぐそばまでくると、騾馬から降りて、言いました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おおジゥデルよ、オマールの息子よ。」そこでジゥデルは答えました、「して、御身の上にも平安《サラーム》あれ、おおわが御主人巡礼様(5)。」マグリブ人は言いました、「おおジゥデルよ、私はぜひお前の力を借りたいのだが。もし私の言うとおりにしてくれれば、お前は非常な利益と莫大の富を収めることになろう。そして私の友人となり、私の事務一切をとりしきるようになるであろう。」ジゥデルは答えました、「おおわが御主人巡礼様、お心にあることをおっしゃいませ、私はどのようなことでもお言葉に従いましょう。」するとマグリブ人は言いました、「まず最初にコーランの序章を誦えなさい。」そこでジゥデルはその男と一緒に、コーランの開扉《フアーテイハー》を誦えました。するとマグリブ人は旅嚢のなかから、絹紐を取り出して、彼に言いました、「おおオマールの息子ジゥデルよ、この絹紐でもって、できるだけきつく私の両腕を縛ってもらいたい。その上で、私をこの湖に投げ込んで、しばらく待っていなさい。そしてもし私の手が身体《からだ》よりも先に水の上に出てきたら、いそいでお前の網を打って、私を岸辺に引き上げてくれ。だがもし私の足が水の外に出てきたら、それは私が死んだものと思いなさい。その節は、もう私のことは気にかけないでよい。この騾馬を旅嚢をつけたまま曳いて行って、商人の市場《スーク》に行けば、そこにシャマヤーアという名前のユダヤ人がいる。その男に騾馬を渡すと、百ディナールくれるから、お前はそれを受け取ってお前の道を立ち去るがよい。だがしかし、こうしたすべてについては、固く秘密を守ってもらいたい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十八夜になると[#「けれども第四百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでジゥデルは答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」そしてそのマグリブ人の両腕を結《ゆわ》きますと、「もっときつく、きつく」と言うのでした。いよいよしっかり縛り上げると、彼はその男を持ち上げて、湖のなかに放り込みました。それから、しばらく待って、どうなることかと見ておりました。
ところが、しばらくたつと、突然マグリブ人の両足が同時に水中から出てきて、浮かび上がるのを見ました。
そこで、その男は死んだのだとわかりましたから、もう彼のことは気にかけずに、牝騾馬を曳いて、商人の市場《スーク》に行きますと、果たしてくだんのユダヤ人が、自分の店の入口に、椅子に坐っておりまして、その騾馬を見ると叫びました、「もう疑いない。あの男は死んでしまったわい。」次に付け加えて言いました、「貪欲の犠牲になって、死んでしまったわい。」そしてそれ以上一言も付け加えずに、ジゥデルの手から騾馬を受け取り、くれぐれも秘密を守るように言いながら、彼に百ディナールの金貨を数えました。
そこでジゥデルはユダヤ人から金子《かね》を受け取って、いそぎパン屋に会いにゆき、いつものようにパンをもらってから、一ディナールを差し出しながら、言いました、「これでお借りしている分を取って下さい、おおわが御主人よ。」するとパン屋は勘定をして、彼に言いました、「あと二日分のパンをお預りしていることになります。」ジゥデルはパン屋を去って、肉屋と八百屋のところにゆき、それぞれ一ディナールずつやって、言いました、「私の入用な品を下さい。そして残りの金子《かね》は、そちらにお預けしておきます。」そして肉と野菜をもらって、全部を家《うち》に持って帰りますと、家では兄たちがひどくお腹《なか》をすかして、母親がふたりに、弟の帰るまで辛抱しなさいと言っているところでした。そこで兄たちの前に食物を出すと、ふたりは悪鬼《グール》のようにそれに飛びついて、料理ができるまで、まずパン全部を貪り食いました。
その翌日、ジゥデルは出かける前に、持っている金貨全部を母親に渡して、言いました、「これをお手許にしまっておいて、兄さん方が何ひとつ不自由しないように、兄さん方にすこしずつ差し上げて下さい。」そして漁の網を携えて、カールーン湖に戻りました。それからいよいよ仕事をはじめようとすると、その時また前のマグリブ人とよく似た第二のマグリブ人が、ずっと立派な服装《なり》をして、ずっと美々しく飾った牝騾馬に乗って、自分のほうに進んでくるのが見えました。その男は地に降りて言いました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おおオマールの息子ジゥデルよ。」彼は答えました、「して、御身の上にも平安《サラーム》あれ、おおわが殿巡礼様。」その男は言いました、「お前は昨日、ちょうどこんな騾馬に乗ったマグリブ人が、お前のところに来るのに会わなかったかな。」けれどもジゥデルは、昨日の男の死んだことを咎められては困ると思って、これは、飽くまで知らないことにしておいたほうがよいと考え、そこで答えました、「いえ、誰にも会いませんでしたが。」第二のマグリブ人は微笑して言いました、「おお憐れなジゥデルよ、いったい起ったことで私の知らぬことなど何ひとつないのを、お前は知らないのか。お前が湖に投げ込んで、その騾馬をユダヤ人シャマヤーアに百ディナールで売ったあの男は、実の私の兄弟だったのだ。なぜ知らぬ顔をしようとするのか。」彼は答えました、「委細御承知とあらば、なぜ訊ねなさるのですか。」その男は言いました、「それというのは、おおジゥデルよ、実は私もお前に兄弟同様の世話をぜひ頼みたいからだ。」そう言って、立派な旅嚢のなかから太い絹紐を取り出して、それをジゥデルに渡しながら、言いました、「兄弟を縛ったと同じくらいきつく私を縛って、私を水に投げ込んでくれ。もし私の足が先に出てくるのが見えたら、私は死んだのだ。その節はこの騾馬を曳いて行って、例のユダヤ人に百ディナールで売りなさい。」ジゥデルは答えました、「では、こちらにお進み下さい。」するとマグリブ人は進み出ましたので、ジゥデルはその両腕を縛り、身体を持ち上げて、湖のなかに放り込むと、ぶくぶくと沈んでゆきました。
ところで、数分たつと、両足が水から出るのが見えたのでした。そこで、このマグリブ人が死んだとわかりました。彼は独りごとを言いました、「あの男は死んだわい。もう二度と戻ってくるなよ。災いのうちに行ってしまえ。インシャーラー(6)、こいつは毎日マグリブ人がおれのところにやってきて、水に放り込めば、百ディナール儲けさせてもらえるといいがなあ。」そして騾馬を曳いて立ち去り、ユダヤ人に会いにゆくと、ユダヤ人は彼の姿を見て叫びました、「二番目の男も死んだな。」ジゥデルは答えました、「どうかあなた様のお首は生き永らえますように。」ユダヤ人は付け加えました、「大望を抱く輩《やから》の報いはこんなものだ。」そして騾馬を受け取って、ジゥデルに百ディナールくれましたので、ジゥデルは母親の許に帰って、その金子《かね》を渡しました。すると母親は訊ねました、「だが、おおわが子よ、こういう金貨全部は、いったいどこからお前の手にはいるのかい。」そこで彼は自分に起ったところを話すと、母はたいそう怖がって、申しました、「もうカールーン湖には行かないがいいだろうよ。マグリブ人たちがお前に何をするか、私は怖くてならないよ。」彼は答えました、「けれども、おおお母さん、私はなにも当人の承諾なしで、水に放り込んでいるわけではありません。それに溺らせてやる商売は日に百ディナールになるときては、こいつはやめられませんからね。アッラーにかけて、こうなっては、私は毎日カールーン湖に出かけて、マグリブ人の最後のひとりまで、私の手で溺らしてやり、もうマグリブ人の痕形《あとかた》もなくなるまでつづけたいと思いますよ。」
そこで三日目もジゥデルはカールーン湖に戻ると、その途端に、やはり前のふたりと驚くほど似ているけれども、着物の立派さと、乗っている牝騾馬を飾る装いの美しさでは、遥かに前のふたりを凌ぐ第三のマグリブ人が、やってくるのを見ました。そして後ろの旅嚢のなかには、蓋のついたガラスの大きな広口罎が、ひとつずつ両側にはいっていました。その男はジゥデルに近づいてきて、彼に言いました、「御身の上に平安《サラーム》あれ、おおオマールの息子ジゥデルよ。」彼はこれに挨拶《サラーム》を返しながら、考えたのでした、「みんながおれを知っていて、おれの名前まで知っているとは、いったいどうしたことなのだろう。」マグリブ人は彼に訊ねました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十九夜になると[#「けれども第四百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……マグリブ人は彼に訊ねました、「お前はマグリブ人がここを通りかかったのを見たことがあるか。」彼は答えました、「ふたり見ました。」その男は訊ねました、「その人たちはどこへ行ったかね。」彼は言いました、「ふたりとも私が両腕を縛って、この湖に投げ込んだら、溺れ死んでしまいましたよ。もしあなたも彼らの運命がお望みとあらば、御同様な運命にあわせて差し上げます。」この言葉に、そのマグリブ人は笑い出して、答えました、「おお気の毒な人よ、お前は、あらゆる生命《いのち》にはあらかじめ定められた期限があるということを知らぬか。」そしてその男は騾馬から下りて、悠然と付け加えました、「おおジゥデルよ、私もお前が彼らにしてやったことをしてもらいたいと思う。」そして旅嚢から太い絹紐を取り出して、それを渡しました。するとジゥデルはこれに言いました、「では両手をお出しなさい、後ろ手に縛ってあげますから。早くして下さいよ、私はたいへんいそいでいて、一刻もぐずぐずしてはいられないから。それに私はこの道にかけては詳しいから、私の溺らす腕前を信用なすって大丈夫ですよ。」するとマグリブ人は両腕を委せました。ジゥデルはそれを後ろ手に縛り上げ、次に身体を持ち上げて、湖のなかに投げ込みますと、沈んで行って姿を消すのが見えました。そして騾馬を連れて立ち去る前に、マグリブ人の両足が水から出るのを待っていましたが、この上なく驚いたことには、水を分けて出てきたのは、両手で、つづいて頭とマグリブ人の全身が出てきました。そして彼に叫びます、「おれはまるっきり泳げないのだ。いそいでお前の網でおれをつかまえてくれ、おお気の毒な人よ。」ジゥデルはその男に網を投げかけて、首尾よく水際まで手繰り寄せました。すると、初めは気がつかなかったのですが、その男は両手に、珊瑚のように赤い色をした二匹の魚を、片手に一匹ずつ持っているのでした。そしてマグリブ人はいそいで騾馬のところに行って、例の二つのガラスの広口罎を取り、それぞれの罎に一匹ずつ入れて蓋をし、罎をまた旅嚢のなかにしまいました。それが済むと、ジゥデルのほうに戻って来て、彼を腕に抱いて、右の頬と左の頬に、熱烈に接吻しはじめました。そして言うのでした、「アッラーにかけて、あなたがいなかったら、私はもう生きてはいまい。またこの二匹の魚もつかまえることができなかったろう。」
こうした次第でございます。
ところでジゥデルは、驚きのあまりもう身動きもしないでいましたが、やっと最後に言いました、「アッラーにかけて、おおわが御主人巡礼様、もしもあなたが助かったこととその魚を捕えたことに、私が何かお役に立ったと、本気で思っていらっしゃるなら、どうかお礼の代りに、取りいそぎ、あの溺れ死んだふたりのマグリブ人について御承知のことと、くだんの二匹の魚と市場《スーク》のユダヤ人シャマヤーアについての真相を、伺わせて下さいまし。」するとそのマグリブ人は言いました。
「おおジゥデル殿、実はあの溺死したふたりのマグリブ人は、私の兄弟なのです。ひとりはアブド・アル・サラームといい、今ひとりはアブド・アル・アハドといいました。この私はアブド・アル・サマドといいます。また、あなたがユダヤ人と思っている男は、全然ユダヤ人などではなく、れっきとしたマーリク派(7)の回教徒です。その名はアブド・アル・ラヒームで、同じく私の兄弟です。ところで、やあ、ジゥデル殿、われわれの父はアブド・アル・ワドゥドといったが、これは大魔術師で、あらゆる神秘学の蘊奥を極め、われわれ四人の息子に、魔法と、妖術と、もっとも深く隠された秘宝を、発見し開く術を、教えて下さった。されば、われわれは一心にこれらの学を修めることを励み、遂には魔神《ジン》、魔霊《マーリド》、鬼神《アフアリート》をば、わが命に従わせるに到るほどの学識の程度に達しました。
父上が亡くなった時、われわれに非常な財産と莫大な富をお遺しになった。そこでわれわれは、遺された財宝とさまざまの護符と学問の書物をば、公平に四人の間で分配したが、しかしある写本類の所有については、われわれの意見が一致しなかった。それらの写本中もっとも重要なのは、『古人列伝』と題された一書で、これはまことに価いも値うちも測り知れぬもの、それだけの目方の宝玉をもってしても、購うことのできない書物でした。事実そのなかには、地中に秘められたあらゆる宝についての正確な指示と、もろもろの謎と神秘な記号についての解が記されているのであった。そしてあたかもこの写本のなかから、父上はその通暁する全知識を汲み取っていられたのでありました。
われわれの間にようやく不和が際立ちはじめたとき、われわれはひとりの尊ぶべき老翁《シヤイクー》がわが家にはいってくるのを見た。まさに、父上を育てて、これに魔術と占術をお教えになったその人です。そして、この老翁《シヤイクー》は『深知のコーヘン』と呼ばれていたが、彼はわれわれに言いなすった、『その書物を持ってきなされ』と。そこで『古人列伝』を持ってくると、彼はそれを手に取ってわれわれに申された、『おおわが子たちよ、お前たちはいずれもわが息子の息子たちで、わしはほかの子たちを退けて、ひとりだけに贔屓をするわけにはゆかぬ。されば、お前たちのうちでこの書物をわが物にしたいと望む者は、アル・シャマルダル(8)と呼ばれる秘宝を開き、そこから天球儀と瞼墨《コフル》の罎と剣《つるぎ》と印璽を、わが許に持ってこなければならぬ。何となれば、これら四品はすべて、その秘宝のなかにはいっているのじゃ。それらの霊験たるや並々ならぬ。事実、その印璽は、名を口にするだに恐ろしき一|魔神《ジンニー》に護られておる。「轟く雷電の鬼神《イフリート》」という魔神じゃ。そしてこの印璽の所有者となる人間は、世の王者と帝王《スルターン》の権勢に、恐るることなく立ち向うことができ、欲するときに、縦横の支配者となることができる。剣《つるぎ》といえば、これを所有する者は、ただこれを振うのみにて、意のままに、よく大軍を壊滅させることができる。というのは、剣を振えば直ちに、火焔と電光を発して、あらゆる戦士を滅ぼし尽くすのじゃ。また天球儀といえば、それを所有する者は、己が望みに応じて、いながらにして世界のあらゆる地点に旅し、東洋より西洋にわたるあらゆる国々を、訪れることができる。そのためには、自分の行きたいと思う地点と、経めぐろうと望む地域を、指で触りさえすればよい。するとその天球儀は廻り出して、くだんの国のあらゆる興味ある事物と共にその住民を、眼下に展開し、さながらそれらのものが己れの掌中にあるがごとしじゃ。そしてもし時おり、どこぞの国の土着人のもてなしが悪いとか、町々のうちのある町の歓迎ぶりが面白くないというようなことがあったら、その仇《あだ》なす地域のある地点をば、太陽のほうに向けさえすれば、直ちにその地は火焔の餌食となり、全部の住民諸共に炎上してしまうのじゃ。さてまた瞼墨《コフル》の罎にいたっては、その罎にはいっている瞼墨《コフル》をもって己が瞼を擦る者は、即座に、地中に秘められたるあらゆる宝が見えるのだ。以上のような次第じゃ。さりながら、この書物は、己れの企てに首尾よく成功した者の手にのみ、当然帰し、失敗せし者は、何らの要求をもなし得ぬであろう。お前たちはこの条件を承知するかな。』われわれは答えた、『一同承知致します、おおわれらの父の長老《シヤイクー》よ。けれども、そのシャマルダルの秘宝とやらいうものについては、私どもは何ごとも存じませぬが。』するとわれわれに申された、『さらば、わが子らよ、そのシャマルダルの秘宝というのは……』
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十夜になると[#「けれども第四百七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
『……そのシャマルダルの秘宝というのは、「紅王(9)」のふたりの王子の支配下にあるのじゃ。昔お前たちの御尊父は、この宝を奪おうと試みたものだ。しかしこの秘宝を開くには、それに先立って、「紅王」の王子らを捕えねばならなかった。ところが、いよいよ御尊父がつかまえようという瀬戸際に、ふたりは逃《のが》れて、赤い魚に変形《へんぎよう》して、カイロの近くのカールーン湖に飛び込んでしまった。その湖自体がまた魔法にかけられていたので、御尊父もいかんともなし得ず、その二匹の魚を捕えるに到りかねた。そこでわしに会いにきて、企ての不首尾を訴えなすった。わしは直ちに占星学上の計算をして、星占いをしてみた。するとそのシャマルダルの秘宝というのは、カイロの若者で、漁夫を業とするジゥデル・ベン・オマールという名の男の仲介により、その男の顔を借りるのでなければ、開かれないことが判明した。そのジゥデルという男には、カールーン湖のほとりで遭うことができる。そしてこの湖の魔法は、そのジゥデルという男による以外に解けぬのであって、その男が、湖底に下《くだ》る天命の人間の両腕を縛した上で、これを水に投げ込まなければならぬ。投げ込まれた男は、「紅王」の魔法にかかったふたりの王子と格闘しなければならず、もしも彼の運勢が王子らに打ち勝ってこれを捕えるものであるならば、彼は溺るることなく、その手のほうが先に水上に浮かび上がるであろう。そしてジゥデルが、彼をば網をもってすくい上げるであろう。しかし、命をおとす者は、両足から先に水上に上がって、そのまま打ち棄てられねばならぬのじゃ。』
この『深知のコーヘン』老翁《シヤイクー》の話を聞いて、われわれは答えた、『いかにも、私どもはたとえ一命を賭しても、この大業を試みたいと存じます。』ひとりわれわれの兄弟アブド・アル・ラヒームだけは冒険を好まず、われわれに言った、『いや、私はしたくない。』それでわれわれは彼にユダヤの商人に身をやつしてもらうことにして、われわれが万一この試みで落命した場合には、騾馬と旅嚢を彼のところに送り届けさせて、漁師から買い取ってもらうことに申し合わせたのであった。
ところで、おおジゥデル殿、起ったことの次第は既に御承知のとおりです。私のふたりの兄弟は、『紅王』の王子らの犠牲となって、この湖で命をおとしてしまった。そして私の番になると、私はあなたに湖中に投げ込まれた時、彼らと闘ってすんでのことに危うくなったが、しかし心中呪文を唱えたお蔭で、うまくわが身のいましめを脱し、湖の破り得ない魔法を解き、『紅王』のふたりの王子を首尾よく捕えることができた。その王子とは即ち、いま御覧の、あの旅嚢の罎のなかに閉じこめた、珊瑚色の二匹の魚です。ところで、この魔法にかけられた二匹の魚、つまり『紅王』の王子は、実はふたりの有力な鬼神《アフアリート》にほかならず、彼らを捕えたお蔭で、私は遂にいよいよシャマルダルの秘宝を開くことができるというものです。
だがしかし、この秘宝を開くには、あなた自身が立会って下さることが絶対に必要です。何せ『深知のコーヘン』の卜した星占いによれば、事はただあなたのお顔を借りてのみ成ることができると、予言されているのだから。
されば、おおジゥデル殿、ひとつ私と一緒にマグリブの地の、ファースとミクナース(10)から程遠からぬさる場所に来て、シャマルダルの秘宝を開くのに力を貸してくれることを、承知してはもらえまいか。御要求は何なりと承知します。そしてあなたは永久に、アッラーにおけるわが兄弟となるでしょう。その旅を終えれば、あなたは悦び勇んで御家族の間にお戻りになるがよい。」
この言葉を聞くと、ジゥデルは答えました、「おおわが殿巡礼様、私は自分の母親と兄たちをわが首に持っております。彼らを生きて行かせる世話は、私がみているのでございます。もし私が御一緒に出かけるのを承諾すれば、彼らを養うパンはいったい誰が与えてくれるでしょうか。」マグリブ人は答えました、「あなたの行かない理由は無精にすぎない。もしも本当に、金子の不足で出発できない、母上が御心配というだけのことならば、あなたのお帰りまで、四月に満たぬお留守中の母上の費用として、私は今すぐ金貨一千ディナールを差し上げて苦しゅうない。」一千ディナールと聞いて、ジゥデルは叫びました、「では、おお巡礼様。その一千ディナールを頂戴して、私はそれを母に届けた上で、御一緒に出発すると致しましょう。」するとマグリブ人はすぐにその一千ディナールを渡したので、ジゥデルはそれを母に渡しに行って、言いました、「お母さんと兄さんたちの費用に、この一千ディナールをお納め下さい。それというのは、私はこれからあるマグリブ人と一緒に、マグリブまで四カ月ばかりの旅に出かけます。そして、おおお母さん、私の留守中、どうか私のためにせいぜい祈って下さいまし。そうすれば、私はお母さんの私への祝福によって、恩恵に満たされるでありましょう。」母親は答えました、「おおわが子よ、お前がいなくてはどんなにか私は淋しくてたまらないことだろう。それにお前の身が案じられてなりません。」彼は言いました、「おお私のお母さん、およそアッラーの御加護の下にある人は、何も恐れることはありません。それにそのマグリブ人というのはとても立派な人です。」そしてしきりにそのマグリブ人のことを誉めました。すると母親は言いました、「どうかアッラーがその財産家のマグリブ人の心を、お前のほうに傾けて下さるように。では、息子よ、その人と一緒にお出かけなさい。多分その人はお前によくしてくれるでしょう。」そこでジゥデルは母親に別れを告げて、マグリブ人に会いに立ち去りました。
彼が来たのを見ると、マグリブ人は訊ねました、「母上に御相談なすったかな。」彼は答えました、「いかにも致しました。母は私のために祈って、私を祝福してくれました。」その男は言いました、「では私の後ろに乗りなさい。」ジゥデルはマグリブ人の後ろに、牝騾馬の背に乗り、こうして、正午から午後の半ばまで旅をしました。
ところで、旅はジゥデルに非常な食欲を催させて、無上にお腹《なか》が空いてまいりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十一夜になると[#「けれども第四百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、旅嚢のなかに何ひとつ食糧が見当らないので、そこで彼はマグリブ人に言いました、「おおわが殿巡礼様、どうやらあなたは旅行中食べる食糧をお持ちになるのを、忘れなすったようですね。」その男は答えました、「もしやお腹が空いたのかな。」彼は答えました、「ええ、ワッラーヒ(11)。」するとマグリブ人は騾馬を停めて、ジゥデルとともに地に下りて、これに言いました、「ここにあの袋を持ってきて下さい。」そしてジゥデルがその袋を持ってくると、訊ねました、「あなたの魂は何をお望みかな、おおわが兄弟よ。」彼は答えました、「何でも結構です。」マグリブ人は言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、食べたいと思うものを言って下さい。」彼は答えました、「パンとチーズをいただきたいです。」その男は微笑して言いました、「おおお気の毒な人よ、パンとチーズですか。これは何ともあなたの御身分にあまりふさわしくない。何か特に結構なものを所望していただきたい。」ジゥデルは答えました、「今ならば、私は何でも結構と思うことでしょう。」マグリブ人は聞きました、「焼いた雛鳥はお好きかな。」彼は言いました、「やあ、アッラー、好きです。」更に聞きました、「蜜をかけた米はお好きかな。」彼は言いました、「大好きです。」相手の男は更に聞きます、「挽肉を詰めた茄子はお好きか、トマト煮の小鳥の頭は、パセリでまぶした菊芋と蓮芋は、天火で焼いた羊の頭は、搗いて、膨らせて、調理した大麦は、挽肉を詰めた葡萄の葉は、捏粉菓子は、またこれこれしかじかの物は?」こうしてその男は二十四種の料理の名を挙げるのでしたが、その間ジゥデルは考えました、「この男は気違いなのかしらん。だってこうしていろいろの料理の名を挙げるけれど、ここには料理場もなければ料理人もいないのに、いったいどこから持ってくる気だろう。もうたくさんだと言ってやるとしよう。」そして彼はマグリブ人に言いました、「もうたくさんです。こんないろいろな料理を、ひとつも眼の前に見せもせずに、いったいいつまで私に食べたい気ばかり起させなさるのですか。」けれどもマグリブ人は答えました、「御身の上に歓迎あれ、おおジゥデル殿。」そしてその男は袋のなかに手を突っ込んで、焼き立ての雛鳥二羽を載せた金の皿を、中から取り出しました。それからまた手を突っ込んで、仔羊の串焼を載せた金の皿を取り出し、以下次々に、自分で挙げただけの二十四の皿を、きっかり取り出したのでございました。
これを見ると、ジゥデルはびっくり仰天してしまいましたが、マグリブ人は彼に言いました、「召し上がれ、お気の毒な友よ。」けれどもジゥデルは叫びました、「ワッラーヒ、おおわが殿巡礼様、あなたはきっとこの袋のなかに、料理道具と料理人たちもろとも、料理場をお入れになったにちがいありませんね。」マグリブ人は笑い出して、答えました、「おおジゥデル殿、この袋は魔法の袋なのです。これには鬼神《イフリート》が仕えていて、われわれの望みとあらば、千のシリアの料理でも、千のエジプトの料理でも、千のインドの料理でも、千のシナの料理でも、即座に持って来るのです。」ジゥデルは叫びました、「おお、何とこの袋は大したものでしょう。何という不思議がはいっているのでしょう、何という豪勢でしょう。」それからふたりは腹いっぱい食べて、御馳走の残りは棄ててしまいました。マグリブ人は金の皿を袋に戻し、次にその旅嚢のもう一方の隠《かく》しに手を突っ込んで、こんどは冷たい甘露の水を満たした、金の水《みず》差瓶《さし》を取り出しました。そしてふたりで水を飲み、洗浄《みそぎ》をして、午後の祈りを唱えて、次に、水差瓶を袋のなかの、片方の広口罎のそばに戻し、袋を騾馬の背中につけ、自分たちも騾馬にまたがって、旅をつづけました。
しばらくたつと、マグリブ人はジゥデルに訊ねました、「おおジゥデル殿、カイロからここまで、われわれはどのくらいの道程《みちのり》を進んだか御存じかな。」彼は答えました、「アッラーにかけて、存じませんね。」その男は言いました、「この二時間で、われわれは少なくともひと月の旅を要する道程《みちのり》を、きっかり歩きましたよ。」彼は訊ねました、「どうしてそんなことができますか。」その男は言いました、「されば、おおジゥデル殿、われわれの乗っているこの牝騾馬は、実は魔神《ジン》たちの間のひとりの女魔神《ジンニーヤ》にほかならぬ。これは一日のうちに、普通一年分の道程《みちのり》を歩くのです。しかし今日は、あなたが疲れてはと思って、ゆっくりと並み足で歩いたのです。」それからふたりはマグリブの地を指して道をつづけましたが、毎日朝夕には、例の袋がふたりの用を弁じてくれました。ジゥデルが何か料理を所望しさえすれば、この上なく手の込んだ、この上なく珍しい料理であろうとも、すぐに袋の底に、すっかり出来上がって金の皿に盛った、その料理があるのでした。こうしてふたりは五日後にはマグリブに到着して、ファースとミクナースの町にはいりました。
さて、街々を行くとその先々で、通行人はひとりひとりこのマグリブの殿様を見知って、これに平安《サラーム》を祈り、あるいは近よってその手に接吻し、こうして最後にある屋敷の門に着くと、そのマグリブ人は騾馬を下りて、戸を叩きました。すぐに戸が開いて、敷居の上に、月さながらの、渇きに悩む羚羊《かもしか》のように美しくすらりとした、ひとりの若い娘が現われて、歓迎の微笑を浮かべてふたりを迎えました。そしてマグリブ人は、父親らしい様子で、その娘に言いました、「おおラハマー(12)よ、わが娘よ、いそいでわれわれのために宮殿の大広間をあけておくれ。」若い娘のラハマーは答えました、「頭の上と眼の上に。」そしてふたりの先に立って、腰を揺すりながら、御殿の奥に案内しました。ジゥデルの分別は飛び去って、心中独りごとを言いました、「間違いない、この若い娘はきっと、どこぞの王様のお姫様にちがいない。」
例のマグリブ人のほうは、まず騾馬の背中から袋を取り上げて、そして言いました、「おお騾馬よ、汝の来たりしところに帰れ。アッラーの汝を祝福したまわんことを。」するといきなり、大地が開いて、その牝騾馬を懐に入れ、すぐにまた塞がってしまいました。そこでジゥデルは叫びました、「おお『庇護者』よ、われわれを救いたまい、われわれが騾馬の背にあった間、身を守りたもうたアッラーに、讃えあれ。」けれどもマグリブ人はこれに言いました、「なぜ驚きなさるのか、おおジゥデル殿。あの騾馬は鬼神《アフアリート》の間のひとりの女魔神《ジンニーヤ》だと、かねてお話ししておいたではありませんか。まあとにかく、取り敢えず宮殿にはいって、大広間に上がると致しましょう。」そしてふたりは若い娘のあとに従いました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十二夜になると[#「けれども第四百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
いよいよジゥデルが御殿のなかにはいりますと、そこにある豪奢な品々の輝きと数の多いことと、また銀の枝附燭台と金の釣燭台の美しさと、それに宝石と金物《かなもの》類のおびただしさに、すっかり眼が眩んでしまいました。そして、ふたりが敷物の上に腰を下ろすと、マグリブ人は娘に言いました、「やあ、ラハマー、お前の知っているあの絹の包みを、すぐ持ってきておくれ。」すると若い娘はすぐに走ってくだんの包みを持ってきて、父親に渡しますと、父親はそれを開いて、なかから、少なくとも一千ディナールはする着物を取り出し、それをジゥデルに与えて、言いました、「これをお召しなさい、おおジゥデル殿。そしてこの家《や》で歓迎される客人となって下され。」そこでジゥデルはそれを着ると、まるで西アラビア人の王たちの間の、どこかの王さながらに、立派な様子になりました。
それが済むと、例の袋を前に置いていたマグリブ人は、袋のなかに手を突っ込んで、なかから皿をいくつもいくつも取り出し、それをば若い娘の拡げた食布《スフラ》の上に並べ、こうして色とりどりの、さまざまの料理の皿四十種を並べるまで、やめませんでした。それからジゥデルに向って言いました、「お手を延ばして召し上がれ、おおわが御主人よ。お供えする品の乏しきを、われらにお恕《ゆる》し下さい。それというのも、まことのところ、われらは未だあなたの御嗜好と、料理についてのお好みを、一向に存じ上げぬ。さればもっともお好きなものと、魂のお望みのものをば、おっしゃって下さりさえすれば、われらは遅滞なくその品を差し上げるでござりましょう。」ジゥデルは答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主人巡礼様、私はどんなお料理でも例外なく好きで、ひとつとして嫌いなものはございません。されば、もう私の好みなどお訊ね下さるまでもなく、何なりと思いつくままにお出し下さい。それというのは、この私は、ただ食べることよりほかに能がなく、それが世の中で何よりも好きなことでございます。私はよくいただきます。それだけのことです。」そしてその夜彼はよく食べ、それがまた毎日毎日のことでしたが、そのためには、ついぞ料理場に煙が立つのが見えたことはありません。事実、マグリブ人は、何か料理を考えて、袋のなかに手を突っ込みさえすれば、すぐにその品が金の皿に盛られて出てくるのです。果物や捏粉菓子についても同様です。こうしてジゥデルは、二十日の間、毎朝着物を更えて、このマグリブ人の御殿で暮らしましたが、着物は日ごとに、その姉妹の着物よりもすばらしいものでございました。
さて二十一日目の朝になりますと、マグリブ人が彼に会いにきて、申しました、「立ち上がって下さい、おおジゥデル殿。いよいよシャマルダルの秘宝を開く、定めの日となりましたぞ。」そこでジゥデルは立ち上がって、マグリブ人と一緒に外に出ました。そしてふたりが町の城壁の外に着くと、突然二頭の牝騾馬が出てきてふたりを乗せ、またふたりの黒人の奴隷が現われて、騾馬の後からついてきました。こうして一行は正午まで進むと、とある流れのほとりに着きました。するとマグリブ人は騾馬を下りて、ジゥデルに言いました、「お下りなさい。」ジゥデルが下りると、ふたりの黒人に、「さあはじめよ」と言いながら、手で合図をしました。すぐに、ふたりの黒人は二頭の騾馬を曳いて姿を消し、やがて、一張の天幕《テント》と敷物と座褥《クツシヨン》を携えて、河のほとりに戻ってきて、天幕《テント》を張り、敷物を敷き、座褥《クツシヨン》と枕をまわりにぐるりと並べました。それが済むと、例の袋と、珊瑚色をした二匹の魚のはいっている、二個の広口罎を持ってきました。それから、食布《スフラ》を拡げて、袋のなかから二十四品の食事を取り出して、供えました。それが済むと、黒人ふたりは姿を消してしまいました。
するとマグリブ人は立ち上がって、二個の広口罎をば、腰掛の上に乗せて自分の前に据え、それに向って魔法の文句と呪文を呟きはじめると、最後にその二匹の魚は、罎のなかから、「私どもはここにおりまする。おお至上の魔術師様、私どもを憐れみたまえ」と叫びはじめました。そして二匹の魚は、呪文を唱えている間中、歎願しつづけます。そのうち突然、二個の罎は同時に破裂し、微塵に砕けると、一方、マグリブ人の前に、ふたりの人物がうやうやしく腕を組んで現われ出て、言いました、「御庇護と御容赦を乞い奉ります、おお強大なる占者様。あなた様は私どもをばどうなさるおつもりでしょうか。」その男は答えました、「おれはお前たちを絞め殺し、焼き殺すつもりだ、お前たちがシャマルダルの秘宝を開くと、約束せぬとあらば。」両人は言いました、「お約束申します。いかにもかの秘宝を開いて差し上げまする。けれどもそれにはぜひとも、カイロの漁師ジゥデルを、この場に呼んできていただかねばなりませぬ。というのは、その秘宝はジゥデルの顔を借りる以外に開かれ得ぬ旨、『運命の書』に記《しる》してあるからでございます。オマールの息子ジゥデルをおいては、何ぴとも宝のある場所にはいることが叶いませぬ。」相手は答えました、「お前たちの言うその男は、おれが既に連れてきているわい。まさにここにおるぞ。この男だ。現にお前たちを見、お前たちを聞いているぞ。」するとそのふたりの人物は、ジゥデルをじろじろ見て、言いました、「今は一切の障礙は取り除かれました。きっとお引き受け致します。私どもは『御名《みな》』にかけて誓いまする。」そこで、マグリブ人は、両人に行くべきところに行くことを許しました。そして両人は河の水の中に姿を消しました。
するとマグリブ人は、一本の中空の大きな葦を取って、その上に紅瑪瑙の板を二枚載せました。そしてその板の上に、炭をいっぱい入れた黄金の香炉を置き、その上に、ただの一度だけ、息を吹きかけました。するとすぐさま、その炭に火がついて、燃えさかる熾火《おきび》となりました。そのときマグリブ人は、熾火の上に香をぱらぱらと撒いて、さて言いました、「おおジゥデル殿、今や香の煙が立ち昇っている。私はこれより引き続き、秘宝を開く魔法の呪文を唱えます。しかし、ひとたび呪文をはじめれば、もはや、巫呪の威力を空しくするおそれなくしては、中途でやめるわけにはゆかぬゆえ、その前に、われわれがわざわざマグリブの地まできて、志した目的を達するためには、あなたがどうしたらよいかを、あらかじめお教え申しておきましょう。」ジゥデルは答えました、「どうぞお教え願います、おおわが至上の御主人様。」するとマグリブ人は言いました、「されば、おおジゥデル殿……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十三夜になると[#「けれども第四百七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……されば、おおジゥデル殿、私が立ち昇る香煙に向って、魔法の文句を誦えはじめるというと、この河の水はだんだんにひきはじめて、最後にはすっかり干上がり、河床を露わにさらすだろう。すると、干上がった河床の坂の上に、町の城門ほどの高さの大きな黄金の扉に、同じく黄金の環が二つついた門が、現われるのを御覧になるでしょう。あなたはその門のほうに進んで行って、まず両の扉についている環の一方をもって、ごく軽く門を叩き、しばらくお待ちなさい。次に、前よりも強く今一度叩いて、またお待ちなさい。それから三たび、前の二度よりも更に強く叩いて、あとはじっとしておいでなされ。こうしてつづけて三たび門を叩くと、なかから誰かが『宝蔵の扉を叩きながら、呪縛を解くすべも知らぬは何奴じゃ』と叫ぶのが聞えるでしょう。あなたは答えるのです、『われこそはオマールの息子、カイロの漁師ジゥデルだ』と。すると扉が開いて、敷居にひとりの人物が立ち現われ、その男は剣を提げて、あなたに言うでしょう、『汝がまことにその人とあらば、頭《こうべ》を断ち切ってやるから、素首《そつくび》を延べよ。』あなたは少しもさわがず首を延ばしなさい。その男はあなた目がけて剣を振りあげるであろうが、しかしたちまちあなたの足許にばったり倒れます。もはや魂なき身体《からだ》を見らるるのみじゃ。そしてあなたは疵ひとつ負いませぬ。しかしもし、心ひるんで、その男の言に従うことを拒めば、あなたは即刻即座に殺されてしまいます。
こうして、この最初の魔力を破りなすったら、なかに進み入ると、第二の門が見えますから、こんどはただ一度だけ、しかしごく強く、お叩きなさい。すると、肩に大きな槍をかついだひとりの騎馬の男が出てきて、いきなり槍を振り廻して威しながら、あなたに言います、『いかなるいわれにてこの所に来たりしぞ。ここは人間の群れも魔神《ジン》の族《やから》も、かつて出入することなく、足を踏み入るることなき所なるぞ。』あなたは、返事の代りに、ただ、恐るる色なく胸を露わにして差し出し、突き刺させなさい。その男は槍で突きます。しかしあなたはそれで疵ひとつ負わず、かえってその男のほうが、ばったりあなたの足許に倒れ、魂なき身体《からだ》を見らるるのみ。しかし、もし尻込みなされば、あなたは殺されてしまいます。
すると、次には第三の門に着くが、そこからは、ひとりの射手が出てきてあなたに出会い、矢をつがえた弓を擬するでしょう。しかしあなたは恐るる色なく、胸をば標的《まと》に差し出しなさい。その男は、ばったりあなたの足許に倒れ、魂なき身体《からだ》となります。ところが、もしためらいなされば、あなたは殺されてしまいます。
更に深く進み入れば、あなたは第四の門に着く。そこからは、物凄い形相の一頭の獅子があなたに躍りかかり、口をかっと開いて、あなたを喰《くら》おうとする。だが、恐れてはならぬ。逃げてはならぬ。これに向って手をお出しなさい。手を噛む暇もなく、獅子は御身に害を加えることなく、ばったりあなたの足許に倒れてしまいます。
かくて第五の門にお向いなさい。そこからはひとりの黒人が出てきて、あなたに『どなたか』と訊ねます。『おれはジゥデルだ』とお答えなさい。黒人は『あなたがまことにその人ならば、では、第六の門を開けて見なされ』と答えるでしょう。
そこですぐさま、まっすぐ第六の門に行って、こう叫びなさい、『おお、イーサよ、ムーサー(13)に命じて、門をあけさせたまえ』と。すると、あなたの前の門があいて、二頭の巨きな竜が、一は右に、他は左に、現われ出て、大口開いて、あなたに躍りかかるでしょう。だが、すこしも恐るることはない。おのおのの竜に、片手ずつ差し出しなさい。彼らは噛みつこうとするが、徒労じゃ。というのは、既に彼らは力無く、あなたの足許にのたうち廻るのみであろうから。わけても、恐るる色を見せなさるよ。さもなくば、あなたの死は必定じゃ。
かくて最後に、第七の門に達するから、これを叩きなさい。すると、門をあけて、敷居に現われ出る人は、何と、あなたの母上であろう。そしてあなたに言う、『息子よ、よく来てくれました。こちらにお出で、お前に平安を祈ってあげるから。』だがあなたは答えなされ、『その場を動かず、着物を脱げ』と。その老女は言います、『おおわが子よ、私はお前の母親ですよ。お前は乳を飲ませ、教育をしてもらったそのお礼に、いくらかは私をありがたく思い、敬わなければならない身です。その私を、どうして裸にしようなんぞと思うのかい。』あなたはこう叫んでそれに答えなさい、『着物を取り去らぬとあらば、殺してしまうぞ。』そして右手の壁に一振りの剣が吊してあるから、それを握って言いなさい、『さあ、はじめろ』と。その老女は、何とかあなたの気持を動かそうと試み、わが身を嘆いてあなたを欺こうとする。だが、油断なくその態度に心動かされぬよう気をつけて、その老女が着物を一枚脱ぐごとに、『残りも脱ぐのだ』と怒鳴りつけ、そして丸裸になるまで、殺すぞと威しながらおつづけなさい。だがいよいよ丸裸になると、その老女は忽然と消え失せ、姿を掻き消すでありましょう。
このようにして、おおジゥデル殿、あなたは一命を全うしつつ、あらゆる魔力を破り、呪縛を解くであろう。そしてあとは、己が労苦の結実《みのり》を摘むことが残るのみ。
それがためには、その第七の門を越えなさりさえすればよい。すると内側には、堆高《うずたか》く積み上げた黄金があるが、そんなものには目もくれず、この宝蔵の中央にある、小さな天幕《テント》にまっすぐ向いなされ。その天幕《テント》には幕が張りめぐらしてある。その幕を掲げれば、そこには、黄金の玉座に横たわって、大魔術師シャマルダル、まさにこの宝の持主そのひとを見るであろう。その頭のかたわらには、月のように、何か円いものが煌めいているが、それが即ち天球儀じゃ。また大魔術師は例の宝剣を佩《は》き、指に印璽を嵌め、瞼墨《コフル》の瓶をば、黄金の鎖をもって首に懸けておる。あなたはそのときためらってはならぬ。直ちにこの四つの珍宝を奪って、いそぎ宝蔵を抜け出で、私にその品々を渡しに来ていただきたい。
さりながら、おおジゥデル殿よ、くれぐれも心して、ただ今私のお教え申したところを、何ごとなりともお忘れなきよう、また、私の注意に反した行動をなされぬよう。さもなくば、後に悔いるところあるべく、御身の一大事ともなるでありましょうぞ。」
このように語り終えると、マグリブ人は十分にジゥデルの頭にはいるようにと、更に一度、二度、三度、四度と、その注意を繰り返して聞かせ、最後にはジゥデルのほうから、言いました、「もうすっかり覚えました。けれども、いったい人間の身で誰が……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十四夜になると[#「けれども第四百七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……けれども、いったい人間の身で誰が、仰せのようなそんな恐ろしいさまざまの魔力に立ち向い、そんな物凄い危険に耐えることができるでしょうか。」マグリブ人は答えました、「おおジゥデル殿、それについては御懸念は一切無用じゃ。おのおのの門で出会うさまざまの人物と言っても、実は、魂なき空《むな》しい幻《まぼろし》にすぎぬ。されば全く心を安んじて可なりです。」するとジゥデルは申しました、「私はアッラーを信じ奉りまする。」
マグリブ人は直ちにその魔法の護摩を修しはじめました。香炉の熾火の上に、改めて香を投げ入れ、呪文の文句を唱え出しました。すると、見る見る、河の水は次第に減って流れ去り、干上がって河床が、宝蔵の大きな門とともに現われ出ました。
これを見ると、ジゥデルはもはや躊躇なく、河床に歩み入って、その黄金の門のほうに進み、一度、二度、三度と、軽く門を叩きました。するとなかから、声が聞えてきて、言いました、「呪縛を解くすべも知らぬくせに、宝蔵の扉を叩くとは、そも何奴じゃ。」彼は答えました、「われこそはジゥデル・ベン・オマールだ。」するとすぐに、扉があいて、敷居にひとりの人物が立ち現われ、抜身の剣を提げて、叫びました、「素首《そつくび》を延べよ。」そこでジゥデルは首を延ばすと、相手の男は剣を振り下ろしたが、その瞬間、ぱったりと倒れてしまいました。第七の門に到るまで、次々の門でも同様、マグリブ人があらかじめ言い、注意したとおり、寸分ちがいません。そのつど、ジゥデルは大勇をふるって全部の呪縛を破り、こうして最後に、第七の門から母親が出て来て、彼の前に現われました。その老女は彼を見て、言いました、「お前の上に一切の平安《サラーム》あれ、おおわが子よ。」けれどもジゥデルは、怒鳴りつけました、「お前はいったい何者だ。」老女は答えます、「私はお前の母親ですよ、息子や。お前を九カ月の間胎内に宿し、お乳をのませ、今のように教育を授けてあげたその人です、おおわが子よ。」彼は叫びます、「お前の着物を脱げ。」老女は答えます、「お前は私の息子なのに、なんだって私を裸にしようというのだい。」彼は言います、「脱げったら。さもないとこの剣で首を刎ねるぞ。」そして壁のほうに手を延べて、そこに下がっている剣をつかみ、それを振り廻しながら、叫びました、「着物をとらぬとあらば、殺してしまうぞ。」すると老女は、決心していく枚か着物を脱ぎ去りましたが、彼は更に言いました、「残りも脱げ。」またいく枚か脱ぎました。彼は「もっと、もっと」と言って責めつづけ、とうとう全部を脱ぎ去り、今は下穿きだけしか身に着けなくなると、老女は恥ずかしそうに、言いました、「ああ、息子よ、お前を育て上げるため私の使った時間は、全部|徒《あだ》でした。何という情ないことか。お前はいったい石の心を持っているのかい。私にいちばん内証の裸を見せろと強いて、私に恥ずかしい目を見せたいのかい。おおわが子よ、これは道にそむくことで、神聖を涜《けが》す振舞いではないかい。」彼は言いました、「いかにもそうだ。では下穿きは穿いていてかまわない。」けれどもジゥデルがこの言葉を発したと思うと、その老女は叫びました、「この男は承諾したぞ。さあ、殴りつけろ。」するとすぐに八方から、宝蔵の眼に見えない番人全部の拳固が、雨の雫のように繁《しげ》くおびただしく、彼の両肩に降りかかりました。まったくこれはジゥデルにとっては、かつて受けたことのない袋叩きで、一生忘れられないほどのものでした。それから、眼に見えない|鬼神たち《アフアリート》は、めった打ちにして、またたく間に彼をば、宝蔵の部屋部屋から追い出し、最後の門の外に放り出して、また以前のように、その門を閉ざしてしまったのでございます。
ところで、マグリブ人は、彼が門の外に放り出された時、これを見て、いそいで駈けつけて彼を抱き起しました。それというのは、その時既に、水は轟々と捲き返して河床に押し寄せ、途絶えた流れを再びはじめようとしていたのです。マグリブ人は気を失った彼を岸に運び、彼の上に聖典《コーラン》の唱句を唱しはじめて、正気に返るまでつづけました。正気に返ると、彼に言いました、「どうなされた、おお、お気の毒な方よ。情ないことだ。」彼は答えました、「私は既に一切の障礙を乗り越え、一切の魔力を破ったのでした。ところがあたかも、私の母親の下穿きが、それまで得たところ一切を失わせることとなり、私にとって、この身体に傷痕のついている袋叩きの原因とならねばならぬことと相成りました。」そして宝蔵のなかで、わが身に起った一切を語り聞かせました。
するとマグリブ人は彼に言いました、「だから、決して私の言葉にそむくなと、くれぐれも御注意したではないか。おわかりでしょう。あなたは私に対して損害をかけ、また御自身に対しても損害を招いたが、こうしたすべては、あなたが老女に下穿きを脱ぐことを強いようとしなかったがゆえじゃ。今年はもうだめだ。われわれは再び試みを繰り返すには、来年まで待たねばならぬ。今からそれまでは、あなたは私のところに住んでいただきたい。」そして彼が、例のふたりの黒人を呼ばわると、ふたりはすぐに姿を現わして、天幕《テント》を畳み、寄せ集むべきものを寄せ集めて、しばらく姿を消したと思うと、二頭の牝騾馬を連れて出てきて、ジゥデルとマグリブ人を乗せて、直ちにファースの町に引き返したのでございます。
そこでジゥデルはまる一年の間、毎日、新しい高価な着物を着、自分の望みと願いに応じて、例の袋のなかから出てくるものすべてを、よく食らい、よく飲んで、マグリブ人のところに滞在したのでした。
さていよいよ、新年のはじめに定まっていた、試みる日が参りました。するとマグリブ人はジゥデルに会いに来て、申しました、「お起きなされ、そしてわれらの行くべき地に出発致しましょう。」彼は答えました、「無論のこと。」そして両人は町を出ると、例のふたりの黒人が出てきて、二頭の牝騾馬を勧めたので、すぐにそれにまたがり、河を指して騾馬を駆り、ほどなく河の岸辺に到着しました。天幕《テント》が張られ、敷物が敷かれ、食事が供えられたのは、この前と同様でした。そして食事が済むと、マグリブ人は中空の葦と、紅瑪瑙の台と、熾火《おきび》と香を満たした香炉を設《しつ》らえ、魔法の護摩を修するに先立って、ジゥデルに言いました、「おおジゥデル殿、私はまず御注意を申し上げたいと思うが。」ジゥデルは叫びました、「おおわが殿巡礼様、まことにそれには及びませぬ。万一私があの袋叩きを忘れたならば、昨年のあなたのねんごろな御注意をも忘れてしまっているかも知れませぬが。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十五夜になると[#「けれども第四百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
マグリブ人は訊ねました、「では実際によく記憶していなさるかな。」彼は言いました、「いかにも、大丈夫です。」その男は言いました、「しからばよろしい、ジゥデル殿よ、あなたの魂を大切になされよ。わけても、二度と、あの老女があなたの母親だとは想像なさらぬよう。実はあれは幻《まぼろし》にすぎず、ただあなたを迷わせるために、仮に母親の姿をとっただけのものなのだから。ところで、第一回は、あなたは自分の骨を携えてあそこから出られたが、こんどというこんどは、万一仕損じたら、骨をあの宝蔵に遺すは必定じゃ。」彼は答えました、「この前は仕損じました。けれどももしこんど仕損じたら、私は焼き殺されて然るべきです。」
するとマグリブ人は熾火《おきび》に香をくべて、呪文を唱えました。そしてすぐに河の水は干上がって、ジゥデルは黄金の門のほうに向うことができました。その門を叩くと門は開き、彼は次々の門のさまざまの呪縛を首尾よく破って、最後に母親の前まで着きますと、母親は言いました、「よく来たね、おおわが子よ。」彼は答えました、「いったいいつから、どうして、おれがお前の息子になったのだ、おお呪われた女め。きさまの着物を脱げ。」するとその女は、何とか欺そうとしながらも、ゆっくりと一枚一枚と着物を脱ぎはじめ、最後にもう下穿きしか身につけないところまでになりました。そこでジゥデルは怒鳴りました、「それも脱げ、おお呪われた女め。」そしてその女が下穿きを脱ぐと、すぐに魂なき幻となって、消え失せてしまいました。
ジゥデルはそこで難なく宝蔵に踏み入って、見ると、ぎっしりと列をなして積み重なった黄金の山があります。けれどもそんなものには目もくれず、小さな天幕《テント》のほうに進んで、幕を掲げますと、大占者アル・シャマルダルが、黄金の玉座の上に横たわり、霊剣を佩き、指に印璽を嵌め、首に黄金の鎖で瞼墨《コフル》の罎を下げ、またその頭上には、月のように円く輝く天球儀があるのでございました。
そこで、彼は躊躇せず、進み寄って、腰帯から剣を外し、護符の印璽を抜き取り、瞼墨《コフル》の罎を取り、天球儀をつかんで、身をひるがえして外に出ました。するとすぐに、眼に見えぬ奏楽が、身辺に鳴りひびいて、出口まで盛大に彼を送り、一方、地下の宝蔵の行く先々の地点から、番人たちの声が立ち昇って、彼を祝して叫びました、「おおジゥデル、御身の首尾よくかち得たところによって、多幸なれかし。おめでとう、おめでとう。」そして最後に彼が地下の宝蔵の外に出るまで、楽の音は鳴りやまず、ことほぐ声はやまなかったのでございました。
霊器を携えて来る彼の姿を見ると、マグリブ人はその護摩と呪文をやめ、立ち上がって、彼をば固く胸に抱きしめ、鄭重な挨拶《サラーム》をしながら、彼を抱擁しはじめました。そしてジゥデルがその四品の霊器を渡すと、空中の奥から例のふたりの黒人を呼び出し、ふたりが来て、天幕《テント》を片づけ、二頭の騾馬を連れてきましたので、ジゥデルとマグリブ人はそれにまたがって、ファースの町に帰りました。
両人は御殿に着くと、例の袋から取り出した数知れぬ皿を供えて、拡げられた食布《スフラ》の前に坐りました。そしてマグリブ人はジゥデルに申しました、「おおわが兄弟ジゥデル殿、召し上がれよ。」ジゥデルは食べて、満腹致しました。そこで空《から》の皿を袋に戻し、食布《スフラ》を取り片づけ、さてマグリブ人アブド・アル・サマドは、言いました、「おおジゥデル殿、あなたは私ゆえに生国と故郷を去りなすった。そして首尾よくわがことを成し遂げて下さった。かくして私は、あなたが私に対して取得なされた権利を、遂行する義務がある。あなたの権利の評価は、御自身これを定めなさりさえすればよろしい。なぜならば、アッラーは(その讃えられよかし)われらの仲立ちによって、あなたに寛仁であられるであろうからじゃ。されば何ごとなりと、お望みのことを求めなされ。おめず臆せず仰せられよ、あなたにはそれだけの功績があるのだから。」ジゥデルは答えました、「おおわが殿、私はアッラーとあなた様に、ただその袋を賜わりたいとお願い申します。」するとマグリブ人は、すぐにその袋を彼の手の間に置いて、言いました、「いかにもあなたはこれを得るだけのことをなされた。何なりと余のものを御所望なされたにせよ、かならず叶えられたことでござろう。さりながら、おおお気の毒な方よ、この袋は、食物以外にはお役に立ち得まいが。」彼は答えました、「それにまさるものは、何を望み得ましょうぞ。」相手は言いました、「あなたは私とともに幾多の難儀を忍ばれた。そして私はかつて、お心を十分に満ち足らわせて、再び故国にお帰し申すと約束しました。しかるに、この袋はただあなたの糧《かて》を供給し得るのみで、あなたを富ませることはない。私としては、その上、あなたを富ませてさしあげたいと思う。されば、この袋を持って行って、お望みの馳走を何なりと取り出しなされよ。しかし私は別に、黄金とあらゆる種類の宝石を満たした袋をひとつ進上致しますから、ひとたびお国に戻った上は、大商人になって、決して倹約をすることなどに気を使わずに、あなたのあらゆる必要と御家族の必要を弁じて、余りあるようになっていただきたい。」それから更に付け加えました、「この食糧袋につきましては、このなかから希望の馳走を取り出すにはどのようにすればよいか、その用い方をお教えしましょう。そのためには、このなかに手を突っ込んで、こう唱えさえすればよいのじゃ、『おおこの袋に仕うる者よ、願わくは汝の上に一切の権力を持つ「強大なる魔法の御名」の功徳により、しかじかの料理を持ち来たれ』と。さすれば立ちどころに、この袋の底に、あらゆる御所望の料理が見出されるでしょう、たとえ、日毎に、色異なり味異なる千の料理であろうとも。」
次にマグリブ人は、ふたりの黒人のうちのひとりと、二頭の牝騾馬のうちの一頭を呼び出して、その食糧袋に似た、隠しの一つついた大きな袋を持ってきて、一方の隠しには金貨と金塊を満たし、今一方の隠しには宝玉と宝石を満たして、それを騾馬の背中に乗せ、その上に、全く空っぽなように見える例の食糧袋をかぶせて、そしてジゥデルに言いました、「この騾馬にお乗りなさい。黒人が先に立って歩いて、行くべき道をお示し申し、かくてカイロのお宅の門口まで、御案内するでしょう。そしてあちらに着いたら、この二つの袋をば取って、騾馬は黒人に渡せば、連れて帰ってくれます。われわれの秘密については、何ぴとにも明かしてはなりませぬ。では今は私は、アッラーの裡におさらばを申し上げまする。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十六夜になると[#「けれども第四百七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ジゥデルは答えました、「願わくはアッラーは、あなた様の御繁栄と善行を弥増《いやま》したまいますように。本当にありがとうございました。」そしてふたつの袋を下に敷いて、騾馬に乗り、黒人を先に立てて、途に就きました。
さて牝騾馬は、夜昼ずっと、案内の黒人のあとから忠実について行きはじめました。そして今度は、マグリブからカイロまでの旅を終るのに、たった一日しかかかりませんでした。それというのは、翌朝になると、ジゥデルはもうカイロの城壁の前にいて、「勝利の門」を潜って故郷にはいったのでした。そしてわが家に着きました。見ると母親は敷居に坐って、道行く人に手を差し延べて、「アッラーのために、どうぞ何か下さいまし」と言いながら、物乞いをしているのです。
これを見ると、ジゥデルの正気は飛び立ってしまい、騾馬から下りて、両腕を拡げて、母親のほうに飛びついて行くと、母親はその姿を見て、泣きはじめました。彼はふたつの袋を取り、牝騾馬を黒人にあずけて、マグリブ人の許に連れ帰ってもらうことにした上で、母親を家のなかに引き入れました。そういう風にしたのは、この牝騾馬は実は魔女《ジンニーヤ》であり、黒人は魔神《ジンニー》だったからです。
ジゥデルは母親を家にはいらせると、まず茣蓙の上に坐らせて、自分の母親が街頭で物乞いなんかしているのを見て、すっかり心を痛めていたので、すぐ聞きました、「おおお母さん、兄さんたちは御丈夫ですかしら。」母親は答えました、「ええ、丈夫ですよ。」彼は訊ねました、「どうしてお母さんは、往来で物乞いなんかしていらっしゃったのですか。」母親は答えました、「おお息子よ、ひもじいからです。」彼は言いました、「どうしてそんなことが。私は立つ前に、最初の日に百ディナール、次の日に百ディナール、また出発の日には千ディナール、差し上げておいたでしょう。」母親は答えました、「おおわが子よ、お前の兄さんたちは私をたばかって、うまくあのお金を全部捲き上げて、次には家から私を追い出してしまったのです。そこで私は、飢え死にしないためには、街々《まちまち》を物乞いして歩かないわけにゆかなかったのだよ。」彼は言いました、「おおお母さん、もう私が帰ってここにいるからには、すこしも苦労をなさることはありません。ですから、もう何の御心配もなさいますな。ここに黄金と宝石のいっぱい詰まった袋があるし、この住居には福が満ちあふれておりますよ。」母親は答えました、「おおわが子よ、お前は全く生れつき祝福され、運がいいね。どうかアッラーはお前に御贔屓を授け、お前の上にお恵みを増しなさいますように。では、息子や、私たちふたりの食べるパンを、すこし買ってきておくれ。何しろ私は、昨日は何ひとつ食べ物をとらずに寝て、まだ今朝から何も食べていないのだから。」ジゥデルはこのパンという言葉に、微笑を浮かべて、言いました、「おおお母さん、あなたの上に歓迎ともてなしあれ。何でもお望みの御馳走を私におっしゃってさえ下されば、別に市場《スーク》に買いに行ったり、台所で煮焚きなんかするまでもなく、即座に出してさしあげますよ。」母親は言いました、「おおわが子よ、だけど、お前はそんなものは何ひとつ持っていないじゃないの。荷物といえば、この二つの袋きりしか持ってこなかったよ、そのひとつは空っぽだし。」彼は言いました、「お望みのものは何でも、どんな色のものでも、持っていますよ。」母親は言いました、「わが子よ、何でも間に合います、結構ひもじさを鎮めてくれるでしょう。」彼は言いました、「いかにもそのとおりですね。窮乏の折には、人間はほんの僅かのもので満足します。けれども万事豊富だと、いろいろ選り好みをして、いちばんおいしいものでなければ食べたがらないものです。ところで、私は万事豊富に持ち合わせているから、お母さんは選り好みしさえすればいいというわけです。」母親は言いました、「わが子よ、それじゃ、温かいパン菓子とチーズをひと切れもらおうか。」彼は答えました、「お母さん、それでは御身分にふさわしくありませんよ。」母親は言いました、「お前のほうが、ちょうど程よいものを、私よりかよく知っているのだから、何でも程よいと思うものを、出してくれさえすればいいよ。」彼は言いました、「おおお母さん、私は焼いた仔羊と、それから焼いた雛鳥と唐辛子で味をつけた米が、適当でもあり、御身分にふさわしいと思いますね。また、詰物をした臓物、詰物をした南瓜、詰物をした羊肉、詰物をした肋肉《あばらにく》、巴旦杏と蜂蜜と砂糖で調理した糸素麺《クナフア》、ピスタチオを詰め、竜涎香の匂いをつけて膨らした軽焼煎餅、それから菱形|巴旦杏菓子《バクラワー》なぞも、御身分に合うと思いますよ。」こうした言葉を聞くと、憐れな老母は、息子が自分をからかっているのか、それとも分別を失ったのかと思って、叫びました、「ユーフ、ユーフ(14)、どうしたんだね、おお息子や、ジゥデルや。お前は夢でもみているのか、それとも気違いになったのかい。」彼は言います、「どうしてですか。」母親は答えます、「だって、お前の名を挙げる御馳走は、とんでもない種類のものばかりで、とても値段も高く、作るのもたいへんで、そんなものを手に入れるのは容易なことじゃないからね。」彼は言います、「私の生命《いのち》にかけて、私は今挙げたもの全部を、ぜひともお母さんに食べさせてさしあげずにはおきませんよ。」母親は答えます、「だってそんなものは、ここには何ひとつ見当りはしないじゃないか。」彼は言いました、「あの袋を持っていらっしゃい。」そこで母親はその袋を持ってきて、触ってみると、空っぽです。けれどもとにかく、それを息子に渡すと、息子はすぐに、なかに手を突っ込んで、まず最初に、香りも高く、しっとりとして、おいしそうな液《つゆ》のなかに浮かんだ、詰物をした臓物が積み重なっている、黄金の皿を取り出しました。次にもう一度、それからいく度もいく度も手を突っ込んでは、さっき挙げた品全部と、挙げなかったほかの品々までも、次々に取り出したのでした。すると母親は言いました、「わが子よ、この袋はほんの小さい上に全然|空《から》なのに、お前はこのなかから、この御馳走とお皿を全部取り出しましたね。これはみんな一体全体どこにあったのだい。」彼は言いました、「おおお母さん、実はこの袋は、あのマグリブ人から貰ったものなのです。そしてこれは魔法の袋です。これにはひとりの魔神《ジンニー》がついていて、これこれの文句を言って命令を下すと、それが言いつけに従うのです。」そしてその文句を教えました。すると母親は訊ねました、「じゃ、もし私だって、その文句を言って御馳走を注文して、この袋のなかに手を入れれば、ちゃんとそれがはいっているかしらん。」彼は言いました、「もちろんですよ。」そこで、母親は袋に手を突っ込んで言いました、「おおこの袋に仕うる者よ、願わくは、汝の上に一切の権力を持つ『魔法の御名』の功徳により、今ひとつ二番目の、詰物をした肋肉《あばらにく》を持ち来たれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十七夜になると[#「けれども第四百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとすぐに母親は、手の下に皿を感じたので、それを袋から取り出してみました。それはすばらしい詰物をして、丁子《ちようじ》の蕾や、そのほかの上等な香料で香りをつけた肋肉でした。すると母親は言いました、「私はこの外にやっぱり、熱いパン菓子とチーズが欲しいね。何しろ食べつけていて、何を食べてもこれがなくては気が済まないからね。」そして手を突っ込んで、例の文句を唱えると、その二品が出てきました。その時ジゥデルは言いました、「おおお母さん、これを食べ終ったら、空いた皿を袋に戻さなければいけません。この魔法の品は、そこまでしなければならないことになっていますから。またわけても、この秘密を口外してはなりません。この袋はお母さんの箱のなかに大切に隠しておいて、必要な時でなければお出しにならないように。だからといって、すこしも遠慮するには及ばず、誰にでも、隣りの人たちや貧しい人たちに対して、気前よく振舞いなさい。また兄さん方には、私がいてもいなくても、どんな御馳走でも出してさしあげて下さい。」
ところが、ジゥデルが言葉を終る間もなく、例のふたりの兄がはいってきて、このすばらしい食事を見たのでございます。
事実、ふたりの兄は、その地区の息子たちのなかのひとりの男から、ジゥデルが帰ったという便りを聞いたところでした。その男はふたりに知らせました、「今しがた弟さんが、騾馬に乗って、黒人を先に立て、比べるものもないような着物を着て、旅から戻りましたぜ。」そこでふたりは言い合いました、「おれたちはおふくろを虐待しなければよかったっけなあ。今となっちゃきっと、おれたちにひどいめに会わされたと、弟に話すにちがいないからな。そうなると、おれたちは弟に会わす顔がないぞ。」けれども一方の兄は付け加えました、「なあに家《うち》のおふくろは甘いさ。どっちにしろ、まあ万一お袋がそれを話したところで、あの弟はお袋よりも甘くて、人を咎めないよ。だからおれたちの振舞いに何とか口実をつけさえすれば、弟はその口実を聞き入れて、おれたちを勘弁するだろうぜ。」そこでふたりは、弟に会いにゆくことにしたのでした。
さて、兄たちがはいって、ジゥデルがその姿を見ると、彼はすぐに兄たちを迎えて立ち上がり、この上なく敬意をこめて平安を祈ってから、ふたりに言いました、「どうぞお坐りになって、一緒に召し上がれ。」そこでふたりは坐って食べました。ふたりは飢えと不自由な暮らしで、すっかり痩せ衰えていたのでございました。
兄たちが食べ終えて満腹しますと、ジゥデルはこれに言いました、「おお兄さん方、この食事の余りを持って行って、近所の貧しい人たちと乞食に分けてやって下さい。」ふたりは答えました、「おお弟よ、夕食のためにしまっておいたほうがよくはないか。」彼は言いました、「夕食の時刻には、今の全部よりももっとたくさん出しますから。」そこでふたりは食べ残しを集めて、おもてに出て、それを通りがかりの貧乏人と乞食に、「さあこれをやるから食べろ」と言いながら、配ってやりました。それが済むと、ふたりは空の皿をジゥデルに返し、ジゥデルは「これをあの袋に入れて下さい」と言いながら、それらを母親に渡しました。
夕方、食事の時刻になると、ジゥデルは袋を取り上げて、なかから四十種類の皿を取り出し、それを母親が次々に食布《スフラ》の上に並べました。それから兄たちに、はいって食べるように言いました。兄たちが食べ終ると、兄たちの口を甘くしてあげようと、捏粉菓子を取り出しました。兄たちは口を甘くしました。すると彼はふたりに言いました、「私たちの食事の余りを持って行って、貧しい人たちと乞食に分けてやって下さい。」そして翌日も、同じようにすばらしい食事を兄たちに出してやり、こうして引きつづき十日の間、同じ有様でございました。
さて、十日たつと、サーレムはサリームに言いました、「おい、お前は家《うち》の弟がいったいどうやって、毎日、朝に一度、昼に一度、夕方に一度、また夜には菓子を一度と、毎日こんなすばらしい食事を出すのか、わけがわかるか。全く帝王《スルターン》たちと変りがないぞ。こんな財産と豪勢は、いったいどこから弟のところに転がり込んだのかな。あの驚くほどの御馳走と菓子全部を、あいつがどこから出してくるやら、おれたちにはとんと合点がゆかぬ。あいつは決して何ひとつ買いにゆく様子もなし、火も起さず、料理もせず、料理人もいないらしいのになあ。」サリームは答えました、「アッラーにかけて、おれはまるっきり知らん。だが兄さんは、誰かこの一件の真相をおれたちに教えることのできるやつの、心当りはないかい。」兄は答えました、「これについて教えることのできるのは、おふくろだけだな。」そして即座にふたりは、計りごとをめぐらし、弟の留守をねらって母親のところにはいって行って、これに言いました、「おおお母さん、おれたちはひどく腹が減ったんだがなあ。」母親は答えました、「たんとおあがりよ、すぐに食べさせてあげるからね。」そして母親は袋のある部屋にはいって、袋に手を突っ込んで、袋に仕える魔神《ジンニー》にいく品か温かい料理を頼み、それをすぐ引き出して息子のところに持って行くと、息子どもは言いました、「おおお母さん、この御馳走は温かいが、お母さんは決して料理をしたり、火を吹いたりした様子がないねえ。」母親は答えました、「袋から取り出したのだよ。」ふたりは訊ねました、「その袋というのは、いったい何です。」母親は答えました、「それは魔法の袋でね。これに頼めばどんな注文だって、その袋に仕えている魔神《ジンニー》が叶えてくれるのだよ。」そして母親はふたりにその文句を教えてやってから、言いました、「袋の秘密を洩らすでないよ。」ふたりは答えました、「大丈夫です。秘密を洩らしたりなんぞしませんよ。」そしてふたりは自分でこの袋の霊験を試してみて、首尾よくいくつも料理を取り出した上で、その夜はおとなしくしていました。
ところが翌日になると、サーレムはサリームに切り出しました、「おい弟よ、おれたちはいつまで便々と、ジゥデルのところにいて、こんな下男みたいな身分で、あいつの施し物を食っていようというんだい。こいつはひとつ計りごとをめぐらして、あの袋を奪い、おれたちふたりだけであの袋を持つようにしたほうが、気が利いているとは思わないか。」サリームは答えました、「どういう計りごとで工夫できるんだい。」兄は言いました、「なあに、弟のやつをスエズの海の船長の親方に、売りとばしちまうだけのことさ。」弟は訊ねました、「あいつを売りとばすにはどうするんだい。」サーレムは答えました、「お前とおれとであの船長に会いに行くさ、ちょうど今カイロにいるから……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十八夜になると[#「けれども第四百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……それでおれたちは、船長と部下の水夫ふたりを、一緒に飯を食おうと誘うのだ。あとは細工はりゅうりゅうだ。お前はただ、おれがジゥデルに言う言葉に、合槌を打ってさえいればいい。そうすりゃ、今夜が明けないうちに、おれの手際を拝見させてやらあ。」
ふたりはこの弟を売りとばす計画についてすっかり意見がまとまると、スエズの船長の親方に会いに行って、挨拶《サラーム》をしてから、言いました、「おお船長さん、私たちは定めしあなたの悦びなさるような件で、お目にかかりに来ました。」船長は言いました、「結構ですな。」ふたりは言いました、「実は私たちふたりは兄弟ですが、もうひとり、何の役にもたたぬ碌でなしの、三番目の弟がおります。家の親父《おやじ》が死んだ時、私たちに遺産を残したので、それをわれわれ三人で分けました。弟は分け前をとりますと、さっそく放蕩に身を持ち崩して、使ってしまいました。そしていよいよ一文なしになると、私たちに対してとんでもない没義道《もぎどう》な振舞いに及び、最後には、私たちが弟の遺産の分け前を横領したと訴え出て、私たちを裁判官どもの前に呼び出したものです。あの連中は不公平で、圧制者ですからね。そこで不公平で腐った裁判官どもは間もなく、私たちに親父《おやじ》の遺産を全部、訴訟費用に使わせてしまいました。ところが、弟はこの最初の悪事だけで我慢しません。またもや私たちを圧制者どもの前に呼び出し、こうしてまんまと、私たちをぎりぎりの素寒貧に陥れてしまいました。そして今だって、弟は私たちにこの上何をひそかに企んでいるかわかりません。そこで私たちは、ひとつあなたにこの弟を買っていただいて、お持ちになっている船のひとつに漕手に使ってもらい、どうか私たちの厄介払いをしていただきたく、お目にかかりに参った次第です。」
船長の親方は答えました、「じゃ何とか弟さんを騙《だま》して、ここまで連れてくる工夫がおありかな。そうして下されや、すぐさま海まで運ばせるほうは、私が引き受けるが。」ふたりは答えました、「ここまで連れてくることは、どうも骨です。しかし今夜、あなたがわが家のお客様になることを承知して下さい。そして御一緒に部下の方ふたりを、私方にお連れ下さい、ふたりだけですよ。そして弟が眠ったら、われわれ五人総掛りで、弟をつかまえ、口に猿轡《さるぐつわ》をして、あなたにお引き渡し致しましょう。そこであなたは夜陰に乗じて、弟を家の外に運び出し、あとは御勝手になすって下さい。」船長は答えました、「よく承わり、承知しました。で、弟さんは四十ディナールで譲って下さるかな。」ふたりは答えました、「そいつは全くえらくすくなすぎる。だが、まああなたのことだから、まけておきましょう。では夜になったら、しかじかの回教寺院《マスジツト》のそばの、しかじかの通りまで来て下さい。その寺院《マスジツト》に、私たちのうちどちらかがお待ちしています。なお、部下の方ふたりをお連れになるのを、お忘れなきよう。」
それから両人は弟のジゥデルに会いに行って、四方山《よもやま》の話をして、しばらくたつと、サーレムはいかにも物を頼む人のような様子をして、弟の手に接吻しました。するとジゥデルはこれに言いました、「どういうお頼みでしょうか、おお兄さん。」サーレムは答えました、「おお弟、おおジゥデルよ、実はおれにひとりの友達があって、その人には、お前の留守中何度もお宅に招《よ》ばれ、いつもたいへん鄭重にもてなされ、たいそうお世話になった。そこで今日お礼を言いに、その人を訪ねて行ったところが、一緒に食事をするように誘われた。だがおれは、『弟のジゥデルを、たったひとり家に残しておくわけにはまいりませんから』と言うと、その人は、『では一緒に弟さんをここに連れてきなさい』と言う。私は答えて、『弟は承知致しますまい。けれどもあなたのほうなら、御兄弟も御一緒に、今夜私たちの御招待を承知していただけるでしょう』と言った。ちょうどその兄弟たちもその場にいたので、そちらも誘ったのだ。実は心中では、先方は招待を受けまい、こうやっておれは礼儀にそむかずにことわれるわけだと思って、そう言ったのだ。ところがあいにく、先方は、一も二もなく受けてしまった。弟も兄たちが承知するのを見て、やはり承知して、私にこう言うのだ、『では、寺院《マスジツト》の門のそばの、お宅の路地の入口で私をお待ち下さい。そうすれば、兄たちと一緒にそこに落ち合いに参りましょう』と。ところで、今ごろはだね、おお弟ジゥデルよ、きっとみんなはもうあすこにいる頃で、おれは勝手にこんなことをして、お前に対してまことに面目ない。だが万一お前が末長くおれに恩を着せようと思うなら、どうか今夜この人たちをお客にするのを、承知してくれないか。おれたちはもうお前には散々世話になっているが、お前のところは溢れるばかりの豊かさだ、なあ弟よ。だがもし、何かの理由からして、この人たちをこの家《や》の客にしたくなかったら、隣りの家《うち》に呼ぶのを許してもらいたい。隣りの家で、おれが自分で御馳走するから。」ジゥデルは答えました、「どうしてお隣りの家に呼んだりするのですか、おおサーレム兄さん、わが家が狭すぎるとか、客をもてなさないとでもいうのでしょうか。それとも、差し上げる夕飯がないとでもいうのでしょうか。全くこんなことを私に御相談なさるとは、兄さんは恥ずかしくありませんか。兄さんはその方々にはいっていただき、料理と菓子をば、けちけちせず、食べきれないほど、どっさり出してあげさえすればよいことです。これから後も、もし私の留守中に、兄さんが友達を呼びたければ、お母さんに、入用な料理全部のほかに余分なものまで、お頼みになればよいことですよ。さあ、兄さんの今夜のお友達を迎えにいらっしゃい。そのようなお客様を通じて、祝福がわれわれの上に下ってきます、おお兄さん。」
この言葉に、サーレムはジゥデルの手に接吻して、近所の小さな寺院《マスジツト》の門まで、例の人たちを呼びに行き、いそぎ家に連れてきました。ジゥデルは彼らに敬意を表して立ち上がって、言いました、「あなた方の上に歓迎あれ。」それから、彼らを自分のそばに坐らせて、彼らを手先とする天運のなかに、果たしてわが身にとってどのようなことが隠されているかつゆ知らず、打ちとけて彼らと話しはじめたのでございます。そして母親に、食布《スフラ》をひろげて、色のちがう四十皿の食事を出してくれるように頼んで、言いました、「これこれの色と、これこれの色と、またその上しかじかの色のものを、持ってきて下さい。」すると彼らは、このすばらしい食事は、兄のサーレムとサリームの振舞いだと思いながら、食べ、満腹しました。次に、夜の三分の一が過ぎた頃には、いろいろの菓子と捏粉菓子が出て、一同夜中まで食べました。その時、サーレムの合図によって、まず水夫ふたりがジゥデルに飛びかかり、それから皆で寄ってたかって押えつけ、猿轡をはめ、両腕をしっかりと縛り、両足を括って、夜陰に乗じて家の外に運び出し、そのまますぐにスエズに向って出発し、スエズに着くと直ちに、持船のうちのひとつの船底に、足枷を嵌めて、ほかの奴隷と徒刑囚のまんなかに放り込み、まる一年の間、漕手の腰掛《ベンチ》の上で、苦役を勤めることを強いたのでありました。ジゥデルのほうは、このような次第でございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七十九夜になると[#「けれども第四百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてその兄たちのほうは、翌朝目が覚めると、こんなことは全く知らずにいた母親のところにはいって行って、申しました、「おおお母さん、ジゥデルはまだ起きてきませんね。」母親は言いました、「じゃ、起しに行っておくれ。」ふたりは答えました、「どこに寝ていますか。」母親は言いました、「お客様方の部屋にいるよ。」ふたりは更に言葉をつづけて、「あの部屋には誰もいない。ひょっとすると弟は昨日の夜、あの船乗りたちと立ったのかも知れない。それというのは、お母さん、弟のジゥデルはもう遠い旅の味を知っているからね。それに、弟があの異国の男たちと話しているのを聞いたら、『私たちはあなたを連れて行くから、ひとつ私たちの知っている秘密の宝を開いて下さい』なんて、弟に言っていたからね。」母親は言いました、「それじゃ、もしかすると、あの子は私たちにことわりなしに、あの船乗りたちと立ってしまったのかも知れないね。だが、あの子については、私たちは案ずることはない。きっとアッラーがよい道に案内して下さるだろうから。あの子は生れつき仕合せで運が好いから、やがてどっさり身代を持って帰ってくるだろうよ。」次に、そうは言っても、母親の身にとっては息子の留守はつらいものですから、母親は泣きはじめたのです。すると兄弟は母親に怒鳴り散らしました、「おお呪われた怪しからん婆《ばばあ》だ、お母さんはジゥデルばかりをそんなに深く可愛がっているんだな。このおれたちだって息子なのに、おれたちが留守をしようと帰ってこようと、悲しみもしなけりゃ悦びもしないくせに。いったいおれたちは、ジゥデルとはちがった息子だというのかい。」母親は答えました、「そりゃお前たちだって私の息子だけれど、お前たちふたりは悪人だよ、悪者だよ。お父さんが亡くなった日以来、お前たちは私に何ひとつ碌なことをしない。お前たちと一緒にいて、一日だって仕合せだったためしはなし、お前たちから何か尽くしてもらったためしがない。それに引きかえ、ジゥデルのほうは、私はあの子にとてもよくしてもらったし、あの子はいつも私を悦ばせ、大切にし、親切に扱おうと、気をつかっていてくれた。たしかにあの子は、私があの子の身を思って泣くだけのことはあるよ、あの子の恩は、私の上にも、またお前たちふたりの上にもあるからね。」気の毒な母親のこの言葉を聞くと、ふたりの悪者は母親を罵り、撲《ぶ》ちはじめました。それから、ふたりで別室にはいって、魔法の袋と貴重品の袋を部屋中探しまわり、とうとうこの二品を手に入れて、取り上げてしまい、二番目の袋からは、片方の隠しにあった黄金全部と、もう一方の隠しにあった宝石類全部を奪いながら、言いました、「こいつはたしかに親父《おやじ》の財産だ。」けれども母親は叫びました、「いいえ、アッラーにかけて、これはお前たちの弟ジゥデルの財産です。あの子が自分でマグリブ人の国から持ってきたものです。」ふたりは怒鳴りつけました、「嘘をつけ、親父《おやじ》の財産だ。だからおれたちはこれを勝手に使う権利があるのだ。」そしてすぐに、兄弟はこれをふたりの間で分け合おうとしました。けれども両人は魔法の袋を誰のものにするか、どうしても話がまとまりません。というのは、サーレムも「これはおれがとる」と言うし、サリームも「これはおれがとる」と言って、ふたりの間に議論が起り、そして喧嘩がはじまったのです。すると母親が言いました、「おお子供たち、お前たちは黄金と宝石の袋をふたりで分け合ったが、こっちの袋は、どうも分け合ったり、割き合ったりするわけにゆかない。さもないと袋の魔力が破れて、霊験を失ってしまうだろうよ。だからいっそのこと、これは私の手許に残してお置き。私は毎日、お前たちの欲しい料理を、欲しいだけ何度でも、取り出してあげるからね。そしてこの私のほうは、お前たちの残してくれるパンなりパイなりの切れはしで、きっと我慢するつもりだよ。またもしお前たちがその上、私に着る物で入用なものをくれてやろうという気だったら、それはひとえにお前たちの恵みの気持に縋るので、決して無理にとは言わないよ。こうして、お前たちはめいめい、何の差し支えもなく、自分の好きな商売ができるだろう。私は決してお前たちふたりが自分の子供であって、自分がお前たちの母親だということを、忘れません。お前たちの弟が帰ってきた時、お前たちがすこしも心に咎めるふしがなく、弟の前で自分たちの振舞いを恥じないでいいように、みんな仲よく喧嘩をしないがいいよ。」けれどもふたりは母親の意見を受けいれようとせず、声を張りあげて言い争い、大喧嘩をして夜を過ごしていたので、折から、隣りの家に招かれていた王様の捕手《とりて》が、ふたりの言うことを全部聞き、争いの動機全部を、逐一知ってしまいました。そこで翌日になるとすぐ、さっそく宮殿に行って、シャムス・アル・ダウラー(15)というお名前の、エジプト王にお目通りを願い、自分の聞いたところすべてを言上しました。すると王様は、すぐにジゥデルのふたりの兄を呼びにやり、両人が残らず白状するまで、拷問を加えさせました。そして王様はふたつの袋を取り上げて、両人をば土牢に放り込みました。その上で、ジゥデルの母親には、日々の用に足りるだけのお手当を下されました。こちらの人々一同は、このような次第でございます。
さてジゥデルのほうはと申しますと、ちょうどスエズの船長の親方の持船で、奴隷を勤めてはや一年になったとき、ある日暴風が船を襲って、船をすっかり壊した上、とある断崖絶壁に打ち上げて砕いてしまい、全部の人を溺れさせましたが、ひとりジゥデルだけは、泳いで岸辺に辿りつくことができました。そして彼はその国の内部《なか》にはいって行くことができましたが、こうして、漂泊のベドウィン人たちの野営のまんなかに着いたのでした。彼らは彼の身分について問いただし、水夫なのかと訊ねました。そこで自分は実際水夫で、乗りこんでいた船が難破したのだと話し、自分の身の上について詳しく知らせました。
ところが、たまたまこの野営地を通りかかった商人で、ジェッダ(16)生れの男がいて、その男がジゥデルの運命に憐れみを覚え、これに言いました、「お前さんはこの私に奉公するつもりはないか、おおエジプト人よ。その代り、私はお前さんに着物をあげて、一緒にジェッダに連れて行ってあげるが。」ジゥデルはこの男に奉公することを承知し、一緒に出発し、ジェッダに着くと、商人は大切にしてくれ、恩恵の限りを尽くしてくれました。それからしばらくたつと、商人はメッカ巡礼に出かけ、やはりジゥデルも連れて行きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十夜になると[#「けれども第四百八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ふたりがメッカに着くと、ジゥデルはいそいで、定めの七廻りのお勤め(17)をするために、聖殿《カアバ》の聖域のまわりの行列に加わりに行きますと、ちょうどそこで、行列の巡礼者のまんなかに、やはり七廻りをしている、知友のマグリブ人、アブド・アル・サマド長老《シヤイクー》に、出会ったのでございます。マグリブ人のほうでも、彼の姿を見つけて、懐しげな挨拶《サラーム》を送り、彼の近況を訊ねました。するとジゥデルは泣きました。そしてわが身に起ったところを話しました。マグリブ人はその手を執って、自分の泊っていた家に案内し、親切に遇して、類のないすばらしい着物を着せた上で、さて申しました、「不幸は今は全く、あなたの身から遠ざかりました。おおジゥデル殿。」次にジゥデルの星占いをして、それによって兄たちに起ったところすべてを見て、彼に言いました、「されば、おおジゥデル殿、あなたの兄たちには、これこれしかじかのことが起って、彼らは現在、エジプト王の土牢のなかに閉じこめられておる。しかしあなたはわが家に歓び迎えられる方であり、定めの巡礼の儀式が済むまで、この家にお止まり下され。さすれば以後は万事好転するのを御覧になるでしょう。」ジゥデルは答えました、「どうぞ、おおわが御主人様、当地に一緒に参った商人に会いに行って、彼に同意を求め、暇乞いをしてくることを、お許し下さい。その上で直ちに御許に戻って参りまする。」相手は訊ねました、「あなたはその商人に金子を借りておられるのかな。」彼は答えました、「いいえ。」相手は言いました、「それでは行って、その同意を求めて、すぐに暇乞いをしてきなされ。それというのは、まことに、正しい人々にあっては、一飯の恩もおろそかにしてはならぬからな。」そこでジゥデルは、主人のジェッダの商人に会いに行き、その同意を求めて申しました、「私はただいま、自分にとっては兄よりも親しい友人に会ったのです。」商人は答えました、「ではその人を呼んできなさい。その人のために御馳走をしてあげよう。」ジゥデルは言いました、「アッラーにかけて、その人に御馳走などすることはございません。それは富裕な子のなかのひとりで、大勢の召使を持っている身ですから。」すると商人は二十ディナールを出して、彼に言いました、「これを取って、私の良心と責任を自由にしてくれ。」ジゥデルは答えました、「どうぞアッラーはあなたの私に対するすべての負い目を、これで無いものにして下さいますように。」そして商人に暇乞いをして、外に出て、友達のマグリブ人に会いに行くことにしました。ところがその道で、ひとりの貧乏人に出会ったので、その二十ディナールを施してやり、それからマグリブ人の許に着き、こうして巡礼のすべての儀式と勤めを果たすまで、この人と一緒に住みました。
参拝が済むと、マグリブ人は彼に会いに来て、そして、ジゥデルが昔シャマルダルの宝蔵から取ってきた印璽を、自分の指から外して、それを彼に与えながら、言いました、「この印璽を取りなさい、おおジゥデル殿、これはあなたのあらゆる望みを叶えるであろう。事実、この印璽には『轟く雷電』と名づけらるる一|魔神《ジンニー》が仕えておって、あなたがこれに何ごとを求めるとも、命令に従うでござろう。それがためには、この印璽の宝石を擦《こす》りさえすれば、直ちに『轟く雷電』があなたの前に現われて、あらゆる御希望を実行することを引き受け、これにお頼みあらば、御所望の世界の財宝をばことごとく、直ちにもたらすでありましょう。」そして彼にその扱い方を教えるため、彼の前でその印璽を拇指で擦りました。すぐに鬼神《イフリート》「轟く雷電」が現われて、マグリブ人の前にお辞儀をして、申しました、「これに控えまする、やあ、殿《シデイ》よ。御下命あらば、従いまする。お求めあらば、御手に入りまする。廃墟となった都を再興致しましょうか、それとも殷盛な都を壊滅致しましょうか。生命を奪い、殺《あや》めましょうか。どこかの王の魂を引き抜きましょうか、それともただその軍隊を粉砕致しましょうか。仰せあれ。」マグリブ人は答えました、「おお雷電よ、今後はこのお方が汝の主人じゃ。くれぐれもよろしく頼む。よくお仕え申してくれよ。」それから、魔神《ジンニー》を帰して、ジゥデルのほうに向きなおって、言いました、「おおジゥデル殿、この印璽によって、あなたはこれから一切の敵を滅ぼし、仇を打つことができることを、お忘れあるな。この威力の程をよく心得られよ。」ジゥデルは言いました、「さようならば、おおわが御主人様、私はぜひわが故国とわが住居に戻りたく存じます。」マグリブ人は答えました、「されば印璽を擦りなさい。そして鬼神《イフリート》雷電が現われて、『ここに控えまする。お求めあらば、獲らるるでござりましょう』と言ったならば、あなたはこれに、『お前の背に乗らせてもらいたい。今日中におれを故国に運んで行ってくれ』とお答えなさい。直ちに命に従うでありましょう。」
そこでジゥデルは、マグリブ人アブド・アル・サマドに別れを告げて、印璽を擦りました。とたんに「轟く雷電」が現われ出て、彼に言いました、「ここに控えまする。お求めあらば、獲らるるでござりましょう。」ジゥデルは答えました、「おれを今日中にカイロに連れて行ってくれよ。」雷電は「いとやすきこと」と言って、身を二つに折り曲げて、彼を背中に乗せ、そのまま飛び立ったのでございます。旅は正午から夜半までつづき、そして鬼神《イフリート》は、ちょうどカイロの母親の家にジゥデルを下ろして、姿を消しました。
ジゥデルの母は息子がはいってくるのを見ると、立ち上がって、息子に平安を祈りながら、泣きました。それから、兄たちの身に起ったことを話し、どのようにして王様は兄たちに笞刑を加え、魔法の袋と黄金宝玉の袋を取り上げてしまったかを話しました。ジゥデルはこれを聞いて、兄たちの身を放っておく気になれず、母に言いました、「それについては御心配に及びません。私は即刻、私に何ができるかお目にかけ、兄さん方をここに連れてきて差し上げましょう。」それと同時に、印璽の宝石を擦ると、すぐに下僕《しもべ》が現われて申しました、「ここに控えておりまする。お求めあらば、獲らるるでござりましょう。」ジゥデルは言いました、「おれは命ずる、おれの兄たちを、王の土牢から引き出して、ここに連れてこい。」すると魔神《ジンニー》は命令を果たしに、姿を消しました。
ところで、サーレムとサリームは、責苦を受け不自由な目に遭わされたため、非常な苦痛とこの上ない悩みと苦しみに捕われて、もうわが身の禍いから脱れてきりをつけるのに、死を願うばかりになって、土牢のなかに横たわっておりました。そしてちょうど、このような気持で、今は死を祈りつつ、非常に切ない気持でふたりで話しあっていたところに、突然、足許の地面が割れて、「轟く雷電」が現われ、彼らが正気に戻る暇も与えず、ふたりをさらって、そのまま地の底に姿を消し、一方ふたりは、その腕に抱えられて恐ろしさに気絶して、自分たちの母親の家でやっと気がつき、弟のジゥデルと母親の間の敷物の上に寝かされて、一心に介抱されているのを見たのでした。そしてジゥデルは、兄たちが眼を開くのを見ると、これに言いました、「一切の平安《サラーム》がおふたりの上にありますように、おお兄さん方。もう私がわかりませんか、私を忘れましたか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十一夜になると[#「けれども第四百八十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
兄たちは頭を垂れて、黙って泣きはじめました。するとジゥデルは言いました、「泣きなさるな。それというのは、あなた方のなさったように、あんな風にあなた方を振舞わせたのは、『悪魔』であり、羨やみだからです。ただどうして兄さん方は、私を売る決心などできたのでしょうか。だがもう泣きなさるな。実際この点私は、兄弟たちに売られたヤアクーブの子ユースフに似ていると考えると、心が慰められます。それにユースフの兄弟は、あなた方が私にしたよりも、もっとひどい目にあわせたわけだ、そればかりか、ユースフを穽《あな》の底に放りこみさえしたのですからね。だが、前非を悔いて、ただただアッラーにお許しを乞いなさい。そうすればアッラーは、私があなた方を許してあげるように、あなた方を許して下さるでしょう、――アッラーこそは涯しなく寛仁にして、大いなる赦免者であらせられますから。さればあなた方の上に歓迎あれかし。そして今後はすこしも案ずることなく、御遠慮なさいますな。」そして彼は兄たちが心を安んずるまで、慰め、励ましつづけました。それから、自分がメッカでアブド・アル・サマド長老に出遭うまで、耐え忍んだあらゆる試煉と苦しみを、兄たちに話して聞かせました。そして魔法の印璽も見せてやりました。
すると兄たちは彼に答えました、「おお弟よ、こんどはどうかおれたちを許してくれ。もしおれたちが再び昔のような振舞いに戻ったら、おれたちをどうなりとお前のいいようにしてくれ。」彼は答えました、「では、もうすこしも後悔にも、心配にも及びません。とりいそぎ、いったい王様はあなた方に何をしたか、話して下さい。」兄たちは言いました、「王様はおれたちに笞刑を加えさせて、もっとひどい目にあわせると威かした。それから結局あの二つの袋を捲き上げたのだ。」彼は、「では、目に物見せてやろう」と言って、印璽の宝石を擦りました。すぐに鬼神《イフリート》「轟く雷電」が現われました。
これを見ると、ふたりの兄たちは慄え上がって、心のなかで、これはきっとジゥデルが自分たちを殺すために、呼び出したのだろうと思いました。そこで母親の部屋に飛び込んで、母に向って叫びました、「おお、私たちのお母さん、私たちはあなたの寛大な庇護の下に身を置きます。おお私たちのお母さん、私たちのために取りなして下さい。」母親は答えました、「おお子供たち、怖がることはないよ。」
こうしている間に、ジゥデルは「雷電」に言いました、「おれは命ずる。国王の宝庫にある、宝その他貴重な品々を全部、一物も残さずここに持って来い。同時に、わが兄より奪い取った、魔法の袋と貴重品の袋をも、持って来るように。」すると印璽の魔神《ジンニー》は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして直ちに命令を実行しにゆき、やがて戻ってきて、ジゥデルの手の間に、すこしも手を触れられぬ、元どおりの二つの袋と、王様の宝物類を差し出して、言いました、「やあ、殿《シデイ》よ、王の宝庫には何ひとつ残して参りませぬ。」そこでジゥデルは母親に、貴重品の袋と王様の宝物を渡して、大切にしまっておくように頼み、自分の前に魔法の袋を置きました。次に印璽の魔神《ジンニー》に言いました、「おれは命ずる。今夜のうちに、おれのために、宏壮な宮殿を建て、それをば黄金の水をもって飾り、豪奢な壁飾りと家具を設《しつ》らえるように。夜の明けるまでに、万事終了してもらいたい。」すると印璽の魔神《ジンニー》「轟く雷電」は答えました「御命令は行なわれるでありましょう。」そして地中に姿を消しました。一方ジゥデルは、魔法の袋から結構な御馳走を取り出して、母と兄たちと満足のかぎりで一緒に食べ、次に朝まで眠りました。
印璽の魔神《ジンニー》のほうでは、すぐに自分の仲間の、地下の|鬼神たち《アフアリート》を集めに出かけ、彼らの間でいちばん普請の上手な者をよりすぐりまして、一同仕事に取りかかりました。ある者は石を切り、ある者はそれを組み立て、ある者は壁を塗り、ある者は彫刻を施し、またある者は部屋部屋に壁飾りをし、家具を設《しつ》らえはじめて、こうして夜の明けないうちに、宮殿はすっかり出来上がり、飾りつけを終ってしまいました。そこで印璽の魔神《ジンニー》は、ジゥデルが目覚めるとすぐ、その前に罷り出て、言いました、「やあ、殿《シデイ》よ、宮殿は出来上がり、飾りつけも終りました。見にお出でになって、御視察に相成ってはいかが。」そこでジゥデルは立ち上がって、母親と兄たちを誘い、一同揃って宮殿を視察しますと、それは全く類のないものに思われ、その建築の美しさと整然とした秩序は、茫然とさせるばかりのものでございました。ジゥデルはそのまことに堂々とした正面を眺めて、うっとりとして、こうしたすべてが何の苦もなく手にはいったことを思うと、驚嘆致しました。そして母親のほうに向いて、訊ねました、「この御殿に住むのはいかがですか。」母親は「たいへん結構だね」と答えて、息子のために幸いを祈って、その頭上にアッラーの祝福を願いました。
そこでジゥデルは護符の印璽を擦って、すぐに現われ出た魔神《ジンニー》に申しました、「おれは命ずる。十分に美しい、白人の若い女奴隷四十名と、体格のよい、若い黒人女四十名と、少年四十名と、黒人男四十名を、即刻連れてくるように。」魔神《ジンニー》は答えました、「そのすべてはお手にはいりまする。」そして四十人の自分の仲間と一緒に、インドとシンドとペルシアの国に飛び立ち、彼らみんなで、申し分なく美しいと思うあらゆる美しい娘と、申し分なく美しいと思うあらゆる少年を、さらいはじめました。こうして彼らは各種類の四十人を集めました。それが済むと、美しい黒人女四十人と、美しい黒人男四十人を選び、それぞれを全部、ジゥデルの宮殿に運びました。そして「雷電」はこれを一人ずつ、ジゥデルの前を練り歩かせますと、ジゥデルは全部好ましく思って、言いました、「さてこんどはこの男女おのおのに、およそもっとも美しい衣服を与えねばならぬ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十二夜になると[#「けれども第四百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
魔神《ジンニー》は答えました、「畏まりました。」ジゥデルは言いました、「更に、おれの母君のための一着と、おれのための一着を、持ってこなければならぬ。」「雷電」は全部持ってきて、自身で白人と黒人の若い女奴隷たちに、その着物を着せてやって、彼らに言いました。「では、お前たちの女主人の御手を接吻しに行け。そのお方は、お前たちの御主人の母君だ。そのお方の言いつけなさる御命令によく従い、そのお方から、お前たちの眼を離してはならぬぞ、おお白い女と黒い女たちよ。」次に魔神《ジンニー》「雷電」は、同じように少年たちと黒人たちのところに行って着物を着せてやり、彼らにジゥデルの手を接吻させにやりました。それから魔神《ジンニー》は、特別に念を入れて、サーレムとサリームに着物を着せました。そして全部の人たちが着物を着たときには、ジゥデルはまったく王様のように見えましたし、兄たちは大臣《ワジール》のように見えたのでございます。
宮殿はたいそう広かったので、ジゥデルは、一方の翼に、兄のサーレムとその男女の召使を住まわせ、もう一方の翼には、兄のサリームを男女の召使と一緒に住まわせました。そして自分は、母親と一緒に宮殿の母屋《おもや》に住みました。こうして彼らはめいめい各自の場所で、さながら帝王《スルターン》そっくりでした。彼らのほうはこのようでございます。
さて王様のほうはと申しますと、宝蔵の係長がその朝、宝蔵の宝庫から、王様の御用の品二、三を取りに行って、お庫を開けてみますと、何と、もう一物もございません。次の詩人の言うところは、まさにこの宝庫にあてはめることができました。
[#2字下げ] この老樹の幹は、羽音高き蜜蜂の巣と金色《こんじき》の蜂窩を以って、豊かにして美しかりき。されど、蜂の群れ飛び立って蜜房消え失せしとき、そはもはや空虚《うつろ》満ちし古き空洞に外ならざりき。
そこで宝蔵の係長は、これを見て、大きな叫び声をあげ、気を失って倒れてしまいました。そして正気に戻ると、両腕を挙げて、宝蔵の部屋の外に飛び出し、シャムス・アル・ダウラー王にお目にかかりに駈けつけて、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、私は御宝蔵が昨夜のうちに空《から》になってしまったことを、お知らせに参りました。」王様は叫びました、「この不届者めが、余の宝蔵に収められし財宝を、何と致したのか。」係長は答えました、「アッラーにかけて、私はどうも致しませぬ。財宝がどうなったのやら、またどうして御宝蔵が空になったのか、一向に存じませぬ。昨夕までは、私は習慣どおり、御宝蔵を検査致しましたが、いっぱいつまっておりました、しかるに今朝行ってみますると、空になっていて、なかにはひと品もございません。さりながら、扉はどれもこじ開けられた様子なく、いずれも穴をあけられたり、壊されたりした形跡なく、ちゃんと閉められ、錠も毀されず、鍵もかかっておりまする。されば御宝蔵を空にしたのは、決して盗人の仕業ではござりませぬ。」王様は訊ねました、「してあの二つの袋も、やはり消え失せたるか。」係長は答えました、「さようでございます。」この言葉に、王様の分別はお頭《つむ》から飛び立ちました。そして王様はすっくと立ち上がって、宝蔵の係長を怒鳴りつけました、「余の前を歩け。」係長は宝蔵に向って進み、王様はあとからついていらっしゃって、宝蔵に着くと、なるほど、外はそっくりそのままで、内は全然空っぽです。王様は仰天し茫然として、おっしゃいました、「さては何者か、わが権勢と逆鱗《げきりん》をも憚らず、余の宝蔵を荒らしおったな。」そして王様は非常な憤りをもってお憤りになり、直ちに御前会議《デイワーン》を召集なさいました。貴族《アミール》と宮廷の大官たちは政務所《デイワーン》にはいってきて、めいめい自分が王様の御憤りの原因ではないかと思って、びくびくものでした。けれども王様は一同に申されました、「おお汝ら一同よ、実はわが宝蔵が昨夜荒らされたのだ。そして、かかる所業を犯し、わが逆鱗をも恐るることなく、かかる侮りを余に加え、かかる辱しめをもって余を辱しめし者が、そも何ぴとなるや知られぬのじゃ。」すると一同は訊ねました、「だがどうしてそのようなことが。」王様は答えました、「皆の前におる、その宝蔵の係長に尋ぬれば、明らかじゃ。」一同は係長に尋ねますと、彼は言いました、「まだ昨日までは宝蔵は満ちておりましたが、今日私が行ってみますると、空でございました。中にはもはや一物もなく、しかも外は、扉に穴をあけた様子も、壊した様子もござりません。」そこで一同はたいそう驚いて、どう御返事申してよいやらわからず、王様の爛々とした眼差《まなざし》の前に首を垂れて、沈黙を守っていました。
けれどもちょうどそのとき、以前にサーレムとサリームを王様に告発したあの捕手《とりて》がはいって来て、申し上げました、「おお当代の王よ、私は昨夜はひと晩中、眠らずに過ごしました。それほど世にも不思議なことを見たのでございます。」すると王様は訊ねました、「して、いったい何を見たのか。」捕手は申しました、「されば、おお当代の王よ、私は昨夜は、石工たちが家を建て、槌や鏝《こて》やその他あらゆる道具を使っているところを眺めながら、愉快に気晴らしをし、楽しんで、ひと晩中過ごしました。そして夜が明けると、その場所に、世界にその比を見ないような立派な宮殿が、すっかり落成しているのを認めました。そこで、問い合わせに行きますと、『これはオマールの息子ジゥデル様が、旅から帰って、この宮殿を建てたのだ。その方は数々の奴隷と、たくさんの少年を連れて来なさった。そして富に満ち、財産に溢れている。また兄様方をも、土牢から救い出した。今は自分の宮殿に、まるで帝王《スルターン》のように坐っていなさるところだ』と言って、教えてくれました。」
この捕吏《カワース》(18)の言葉に、王様は言いました、「誰ぞ直ちに土牢に行って見て参れ。」そして土牢に見に行った男は、帰ってきて、果たしてサーレムとサリームはもういないと報告しました。すると王様は叫びました、「盗人はわかった。サーレムとサリームを牢獄より引き出した者こそ、まさにわが宝を盗んだ犯人じゃ。」すると総理|大臣《ワジール》が訊ねました、「ではそれは誰でございましょうか。」王様は答えました、「彼らの弟ジゥデルじゃ。二つの袋を盗んだのも同じくきゃつだ。とにかく、おおわが大臣《ワジール》よ、汝はこれより直ちに、彼ら一同のところに、五十名の武士をつけて貴族《アミール》を一名差し向けよ。そして彼らを引っ捕え、彼らの全財産に封印をした上で、ここに彼らを連れて来させよ、絞首《しばりくび》にしてやるから。」
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十三夜になると[#「けれども第四百八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして王様はいっそう憤りを増して、叫びました、「そうじゃ、速やかに彼らを連れて参れ。余はぜひ殺してやりたいによって。」総理|大臣《ワジール》は答えました、「おお王様、寛仁大度にわたらせられませ。何となれば、アッラーは寛仁にましまして、過ちを犯し反抗する彼の奴隷を罰するを、いそぎたまいませぬ。それにでございます。ただ一夜にして、よく宮殿を建て得た人間ともあろうものは、世界中に何ぴとも怖いものなどある筈がございません。私は、差し向けられる貴族《アミール》の身を大いに案ずるのであり、彼のために、ジゥデルの恨みを恐れる次第です。されば、私が、この件についての真相を知るに到る最上の策を見つけて差しあげまするまで、何とぞ御辛抱あれ。その節はじめて、わが君は、実行せんと御決心遊ばしたるところを、支障なく実行なさることがおできになりましょう。」すると王様は答えました、「では、おお大臣《ワジール》よ、余はいかがなすべきかを告げよ。」大臣《ワジール》は言いました、「まず彼の許に貴族《アミール》を一名差し立てて、王宮に参内せよとお招きなさいまし。あとはどうあしらえばよいか、この私が心得ております。彼にせいぜい友情を見せておいて、巧みに、彼のできることとできないこととを、問い質してやりましょう。その上でよしなに計らうと致しましょう。もしも彼の威力が真に大なりとせば、われわれは術策を用いて捕えましょうし、その権力が微力なりとせば、力ずくで捕えましょう。そして彼をわが君にお引き渡し申し上げます。君はこれをお好きなようになさいませ。」王様は言いました、「彼をば招け。」そこで総理|大臣《ワジール》はオトマン公という貴族《アミール》に、ジゥデルを呼びに行き、「王様は今日王宮で、賓客のなかにあなたを御覧になりたき思し召しです」と言って、彼を招くようにとの命令を授けました。王様自身も付け加えて、おっしゃいました、「わけても、彼を伴わずして戻ることなかれ。」
ところが、このオトマンという貴族《アミール》は、馬鹿で、高慢で、己惚れの強い男でした。宮殿の門の前に着いてみると、彼はひとりの宦官が立派な竹の椅子に坐って、戸口にいるのを認めました。そこで宦官のほうに進み出ましたが、宦官は彼のために立ち上がりもせず、まるで目に入らないみたいに、てんで身動きもしません。とはいえ、オトマン公はよく目に見える筈ですし、それに、よく目に見える五十人の部下を連れているのです。それでもとにかく、公は近づいて、宦官に訊ねました、「おお奴隷よ、お前の主人はどこにいるか。」宦官は頭を向けさえせず、その知らんふりとのんびりした姿勢を変えもせず、答えました、「御殿のなかだ。」するとオトマン公はひどく憤って、怒鳴りつけました、「おお災いの松脂《まつやに》の宦官よ、貴様はおれが話しているのに、やくざ者みたいに、だらしのない恰好で、そんなところに寝そべっているとは、恥ずかしいと思わないのか。」宦官は答えました、「あっちへ行け。これ以上ひと言も言うな。」この言葉に、オトマン公は憤怒の極に達して、自分の鎚矛《つちほこ》をふるって、宦官を打ち据えようとしました。ところが彼は、この宦官こそ実は、ジゥデルから宮殿の門番の役を言いつかった、印璽の鬼神《イフリート》「轟く雷電」にほかならぬことを、知らなかったのです。ですから、この贋の宦官は、オトマン公の仕ぐさを見ると、片目をつぶったまま、一方の目だけでじろりとこれを見やりながら、立ち上がり、公の顔に息を吹きかけると、その息で、相手は地上に引っくりかえってしまいました。それから、公の両手から鎚矛を奪って、それでもって公に四撃を加えて、手をとめました。
これを見ると、貴族《アミール》の部下の武士五十人は大いに怒って、自分たちの大将に加えられた侮辱を黙って見ていられず、めいめい剣を抜いて、宦官に飛びかかって、これを惨殺しようとしました。ところが宦官は平気で微笑して、一同に言いました、「ほう、お前たちは剣を抜いたな、おお犬どもめ。まあちょっと待て。」そして数人をつかまえて、彼ら自身の剣を彼らの腹に突き通し、彼ら自身の血のなかに彼らを溺らせたものです。そして彼らを片っ端からこなごなにしつづけましたので、ほかの者どもは慄え上がって逃げ出し、大将の貴族《アミール》を先頭にして、王様の前に着くまで足をとめませんでした。一方「雷電」はまた椅子の上に、のんびりした姿勢で坐りに行ったのでございます。
王様はオトマン公から、今の様子を聞くと、激怒の極に達して、言いました、「百名の武士をその宦官に差し向けよ。」そしてその百人の武士も、宮殿の門前に着くと、宦官に鎚矛をもって邀《むか》えられ、散々な目にあって、またたく間に追い散らされてしまいました。そして彼らは戻って、王様に申し上げました、「私どもは宦官に追いまくられ、恐ろしい目にあいました。」すると王様は言いました、「では二百名が赴いて立ち向え。」そして二百人が赴きましたが、やはり宦官に粉砕されてしまいました。そのとき、王様は総理|大臣《ワジール》に叫びました、「今となっては汝自身、五百名の武士を率いてそやつに立ち向い、直ちにそやつをわが前に引っ立てて参れ。なおその主人ジゥデルとふたりの兄をも、同様にこれに連れて参れ。」けれども総理|大臣《ワジール》は答えました、「おお当代の王よ、私はむしろ一名の武士も伴わず、武器を携えず、単身その宦官に会いに行くほうが好ましゅうござります。」王様は言いました、「行け、そして汝に最善と思わるるように致せ。」
そこで総理|大臣《ワジール》は自分の武器を放り出して、長い白衣(19)をまといました。それから手に大きな数珠を持って、その数珠を爪繰りながら、ジゥデルの御殿の門のほうに、ゆっくりと向いました。そしてくだんの宦官が椅子に坐っているのを見ると、微笑を浮かべてこれに近づき、その真向いに、ごく鄭重に地上に坐って、言いました、「あなた様[#「あなた様」に傍点]の上に平安《サラーム》あれ。」宦官は答えました。「貴様[#「貴様」に傍点]の上にも平安《サラーム》あれ、おお人間よ。何の用だ。」総理|大臣《ワジール》はこの「人間」という言葉を聞くと、この宦官は魔神《ジン》のなかのひとりだということがわかって、恐ろしさに顫え上がりました。それから大臣《ワジール》はうやうやしく聞きました、「あなた様の御主人ジゥデル殿様は、もしやここにいらっしゃいましょうか。」宦官は答えました、「うん、御殿においでだ。」大臣《ワジール》は言葉を継ぎました、「やあ、殿《シデイ》よ、どうかひとつ御主人様に、お取次ぎを願いたい次第です。『やあ、殿《シデイ》よ、シャムス・アル・ダウラー王はあなた様に御来駕下さいますようお招き申し上げます。王はあなた様のために宴をお張りになりますから、そして王御自身が親しくあなた様に御挨拶《サラーム》を伝え、王の歓待をお受け下さって、御光来を辱《かたじけな》くしたいとお願い申しているのでございます』と、こう申し上げて下さいまし。」「雷電」は答えました、「ここに待っておれ、行って思し召しを伺ってきてやるから。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十四夜になると[#「けれども第四百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで総理|大臣《ワジール》はごく鄭重な態度で、待っておりますと、一方|魔霊《マーリド》はジゥデルに会いに行って、言いました、「されば、やあ、殿《シデイ》よ、王は最初ひとりの力の強い貴族《アミール》をここによこしたが、私はこれをやっつけました。その貴族《アミール》は五十人の武士を率いてきたが、これも皆負かしてやりました。次に、百人の武士を私に差し向けたが、これもやっつけ、次に二百人をよこしたが、これも皆負かして追い散らしました。すると王は、総理|大臣《ワジール》を、武器も持たず、白衣を着けて遣わし、あなた様に歓待の馳走を召し上がっていただきたいと言ってよこしました。いかが遊ばしまするか。」ジゥデルは答えました、「行って、総理|大臣《ワジール》をここに連れてこい。」そこで「雷電」は下におりて、彼に言いました、「おお大臣《ワジール》よ、御主人に話しに来い。」彼は答えました、「頭上に。」そして宮殿に上って、応接の間にはいると、ジゥデルが、どこの王様よりかもっと威風堂々と、どんな帝王《スルターン》もそれに並ぶものを持つことのできないような玉座の上に坐り、その足許には、全くすばらしい敷物が敷かれているのを見ました。それで彼はびっくり仰天し、宮殿の美しさ、飾りつけ、装い、彫刻、家具調度に、たまげもし、あきれもし、目が眩みも致しました。そしてそれに比べると、わが身などは、こんな見事な品々のそばで、またこの場所の主人の前では、乞食よりもつまらない人間に見えました。ですから大臣《ワジール》は身をかがめ、主人の両手の間の床《ゆか》に接吻して、その繁栄を祈りました。するとジゥデルは訊ねました、「頼みの筋はどのようなことか、おお大臣《ワジール》よ。」彼は答えました、「おおわが殿様、あなた様の御友人シャムス・アル・ダウラー王は、あなた様に御挨拶《サラーム》をお伝え申し上げまする。王は御尊顔を拝して御目を悦ばせたいと切に望んでおられ、その目的にて、あなた様のために宴をお張りになります。されば、それを御承引下さって、王を悦ばせていただけましょうか。」ジゥデルは答えました、「王がわが友人とあらば、王にわが挨拶《サラーム》を伝えよ、そしてむしろ王のほうから、拙宅にお出であれと申し上げよ。」大臣《ワジール》は言いました、「頭上に。」そこでジゥデルは印璽の宝石を擦って、「雷電」が出てくると、これに言いつけました。「世に最も美しい衣裳を一着持ってこい。」「雷電」が衣裳をもってくると、ジゥデルは大臣《ワジール》に言いました、「これをお前に取らせる、おお大臣《ワジール》よ。着るがよい。」そして大臣《ワジール》がその衣裳を着ると、ジゥデルはこれに言いました。「行って王に、お前の聞いたところと見たところをば、申し上げよ。」そこで大臣《ワジール》は、この世界で、誰もこのようなものを着たことのない衣裳を着て退出し、王様に会いに行って、ジゥデルの様子を詳しく知らせ、その宮殿の模様と中にある品々を、讃めそやしながら述べ立ててから、王様に申し上げました、「ジゥデルがわが君をお招き申しておりまする。」王様は言いました、「いざ、者ども。」そこで一同立ち上がりますと、王様は命じました、「汝ら、馬に乗れ。余はジゥデルに会いに行くによって、余の軍馬を曳いて参れ。」次に王様は馬に乗って、警吏と兵士を従えて、ジゥデルの宮殿さして出かけました。
ジゥデルは、王様がお伴を連れてやってくるのを遠くから見ると、印璽の鬼神《イフリート》に言いました、「汝の仲間から|鬼神たち《アフアリート》を連れてきてもらいたい。彼らに人間の姿をして、宮殿の広庭に並び、王の通り道に立っていてもらいたいのだ。王はきっと、その数と質とを見て、恐れおののき、その心臓は顫えるであろう。さすれば、王はわが威力が自分の威力を凌ぐことをさとり、それによって王の身のためとなろう。」すると即座に、鬼神《イフリート》「雷電」は、かつは物凄くかつは途方もなく大男の、武装をして立派な甲胄に身を固めた警吏の恰好をした、二百人の鬼神《アフアリート》を召集して、出現させました。
そこに、王様が庭にはいってきて、この二列の兵士の間を通りました。そして彼らの物凄い様子を見て、心臓が顫えるのを覚えました。次に王様は宮殿に上がり、ジゥデルのいる広間にはいりました。見ると彼は、実際どんな王も帝王《スルターン》も、かつて持ったことのないような態度と様子で、坐っています。そして王様は彼に挨拶《サラーム》を投げ、彼の両手の間に腰をかがめ、辞令を述べましたが、ジゥデルは、これを迎えて立ち上がりもせず、敬意を表しもせず、お坐りなさいとも言わず、てんで相手にしません。彼はこうして自分に重みをつけるために、王様を立たせておくと、そのうち王様はすっかり狼狽してしまい、もうその場に止まったらよいか、立ち去ったらよいか、わからなくなってしまいました。するとジゥデルは、しばらくたってから、やっと王様に言いました、「まことに、貴殿のなしたるごとく、身を護るすべきなき人々を圧迫し、彼らの財を奪うとは、そもそも身を処する道であろうか。」王様は答えました、「おおわが殿よ、何とぞ余をお許し下され。余があのように振舞うに到らせられたのは、羨望と野心のためであり、かつはそれがわが天命であったがゆえじゃ。かつ、過ちなくんば、宥恕もないと申すもの。」そして王様は、過去に自分の犯したすべてを謝《あやま》って、ひたすら寛容と赦しを乞いつづけ、そればかりか、いろいろの謝罪のうちに、次のような詩句まで誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお君よ、寛大の性《さが》よ、赫々たる祖先と高貴なる種族より出でし子よ、過去において、君に対しわが犯し得しところを、咎めたもうことなかれ。
君にもし何事か悪行の罪ありせば、われらは欣然として直ちに君を赦すべし。同様に、もしわれらに罪あらば、われらを赦したまえかし。
[#ここで字下げ終わり]
こうして王様は、ジゥデルの両手の間でいつまでもへり下ることをやめなかったので、とうとうジゥデルも、「アッラーは貴殿をお赦し下さるように」と言って、王様に坐ることを許し、王様は坐りました。するとジゥデルは王様に赦免の衣を授け、兄たちに、食布《スフラ》を拡げて世に珍な数々の御馳走を出すように、命じました。そして食事が終ると、彼は王のお供の全員に、見事な衣服を与え、一同を鄭重に手厚くもてなしました。その後ではじめて、王様はジゥデルに暇を告げて、宮殿を出ました。けれども、それから毎日ここに来て、一日中ジゥデルと一緒に過ごし、そればかりか、政務会議《デイワーン》までここで開いて、国事を司ったのでございました。そして彼ら両人の間の友情と好誼《よしみ》はいよいよ増し、固くなるばかりです。両人はこうして、しばらくの間暮らしました。
ところがある日のこと、王様は総理|大臣《ワジール》とふたりきりでいた時、これに申されました、「おお大臣《ワジール》よ、余はジゥデルが余を亡きものに致し、余を王位から退けはしまいか、それが心配でならぬが。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十五夜になると[#「けれども第四百八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
大臣《ワジール》は答えました、「おお当代の王よ、わが君の王位につきましては、ジゥデルが君をお退けになることなど、全然心配御無用でござります。何となれば、ジゥデルの権力と富裕ぶりは、国王のそれよりも遥かに強大でございますから。わが君の王位など、彼が何と致しましょうぞ。それにこの王位などは、彼の現在の身分から致しますれば、彼にとっては、むしろ失墜のしるしにすぎますまい。しかし、わが君を亡きものにするということにつきましては、もしもまことにそれを御懸念遊ばさるるとあらば、わが君にはお姫様がおありになります。されば、彼にお姫様と御縁組させなさるにしかず、かくしてわが君は、彼と共に最高権力を相頒つこととなられましょう。そして御両人は、共に同じ御身分とならるるわけでござります。」王様は答えました、「おお大臣《ワジール》よ、しからば、汝が余と彼との間の仲介者になってくれよ。」大臣《ワジール》は言いました、「そのためには、彼を王宮にお招きなさりさえすればよろしく、われわれは王宮の大広間で、一夕を過ごすことに致しましょう。そのときわが君は、お姫様にいちばん見事な飾りをもって身を飾って、広間の扉の前を、電光のごとく、通りすぎるよう、御命じ遊ばせ。さすれば、ジゥデルはそれを認め、そして彼の好奇心は、それによっていたく湧き立ち、彼の心は、垣間みた姫君について思い悩むでございましょうから、かならずや物狂おしく、姫君に恋慕致しましょう。そしてあれはどなたかと私に訊ねます。そのとき私は、仔細ありげに彼のほうに身をかがめて、『あれは王女様でございます』と言ってやります。そして私は、これについて彼と話を交わしはじめ、わが君が事情を御存じとは気取らせずに、こちらが話したり、向うに話させたり、彼と共に言葉のなかに出たり、はいったり致しまして、彼がわが君に、姫を賜うように願い出る決心をさせるところまで、漕ぎつけて御覧に入れまする。こうして彼をお若い姫君と結婚させた暁には、わが君と彼との間柄は、以後動かしがたきものと相成り、彼の死後には、彼の所有するものの大部分は、わが君の相続なさるところとなりましょう。」すると王様は答えました、「いかにもそのとおりじゃ、おお大臣《ワジール》よ。」そこで王様は饗宴を催して、ジゥデルを招きなさると、ジゥデルは御殿に参上して、大広間の、華やかさと御馳走のただなかに坐って、日の暮れ方に及びました。
ところで、王様はかねてお妃《きさき》に伝言《ことづて》して、若い王女に、いちばん美しい装身具で身を装い、いちばん美しい装飾品で身を飾らせて、そして饗宴の間《ま》の扉の前を、すばやく通らせるようにと、言い含めておきました。乙女の母君は、するように命じられたとおりに致しました。ですから、乙女が装いを凝らして美しく、輝くばかりあでやかに、饗宴の間の前を電光のように通りすぎると、ジゥデルはその姿を認めて、感嘆の叫びをあげ、深い吐息を吐いて、「あっ」と言いました。そして手足の力が抜け、顔色が黄色くなってしまいました。恋しさと慕わしさと欲情と熱情が、心中に入り込んで、彼を支配しました。そのとき、大臣《ワジール》は彼に言いました、「一切の憂いと苦しみの御身より遠ざからんことを、おおわが殿よ。あなた様は、にわかにお変りになり、お苦しげで、お悩みの模様に拝見致しまするが、何ゆえでございましょう。」彼は答えました、「おお大臣《ワジール》よ、あの乙女だ。あれはどなたの娘御か。あの乙女は私を奴隷にし、わが理性を奪ってしまった。」大臣《ワジール》は答えました、「あの乙女は、御友人たる王の王女でございます。もしもまことに姫君が、あなた様のお気に召したならば、この私が王にお話し申し上げて、姫君を賜わるように、口を利いてさしあげましょう。」彼は言いました、「おお大臣《ワジール》よ、王にお話し申し上げてくれ。わが生命《いのち》にかけて、私はあなたにお望みのものを何なりと差し上げる。また王にも、王女の結納として要求なさるものを、何なりと差し上げよう。そしてわれわれは縁組によって、末永く味方となり、身内となるであろう。」大臣《ワジール》は答えました、「お望みのことを叶えてさしあげるために、ひとつ私の全勢力をふるってみましょう。」そして大臣《ワジール》はこっそり王様に話して、言いました、「おおシャムス・アル・ダウラー王様、今や御友人ジゥデル殿は、御縁組によって、わが君に近づきなさりたいお望みでございます。そして王女エル・シート・アジアーとの御結婚をお許し下さるよう、わが君に話してくれよと、私に力添えをお頼みになりました。されば、何とぞ私を退けず、私の斡旋をお受け入れ下さいませ。王女様への結納として御要求遊ばすことは何なりと、ジゥデル殿はお出しになるでございましょう。」王様は答えました、「いや、結納は既にことごとく払い済み、受領済みじゃ。わが娘は彼に仕うる奴隷であるぞよ。余は娘を彼に妻として与うるにより、彼が娘を余から受け取ってくれれば、余はこの上ない光栄じゃ。」そしてこの夜は、それ以上何ごとも話を進めずに、過ごしました。
けれども翌朝になると、王様は御前会議《デイワーン》を召集し、大官小官、主長家来を呼び集めました。そしてこの際には、「イスラムの長老《シヤイクー》(20)」を呼びました。その上で、ジゥデルが結婚申込みを提出し、王様がそれを受理しておっしゃいました、「結納に関しては、余は既に受領済みじゃ。」そこで契約書が認《したた》められました。
そのとき、ジゥデルは例の宝玉宝石の袋を取り寄せて、それを王女の結納として、王様に贈りました。するとすぐに、鐘鼓と太鼓が鳴りひびき、笛と竪笛《クラリネツト》が奏され、祝祭と婚礼がたけなわになると、ジゥデルは婚姻の間《ま》にはいって、乙女をわがものと致しました。
こうしてジゥデルと王様とは、数多くの日々の間、非常に睦じく一緒に暮らしました。そのあとで、王様は亡くなりました。
すると、軍隊はジゥデルに帝位に即《つ》くように願い出て、ジゥデルがことわると、彼らは引き受けるまで、いつまでもうるさく申しつづけました。そしてとうとう彼を帝王《スルターン》に推戴しました。
さて、帝王《スルターン》としてジゥデルが最初にしたことは、シャムス・アル・ダウラー王のお墓の上に、回教寺院《マスジツト》を建立することでした。そしてそこに多大の寄進を致しました。寺院《マスジツト》の敷地としては、自分の宮殿がヤマーニヤ区に聳えているので、ブンドゥカーニヤ区を選びました。それでその時から、その寺院《マスジツト》の区と寺院《マスジント》そのものも、ジゥデリヤー(21)という名になりました。
帝王《スルターン》ジゥデルは次には、いそいで自分のふたりの兄を大臣《ワジール》に任命し、サーレムを右|大臣《ワジール》(22)、サリームを左|大臣《ワジール》と致しました。こうして、彼らは平和に暮らしましたが、それもただ一年だけで、それ以上はつづきませんでした。
一年たつと、サーレムはサリームに言ったのです、「おお弟よ、いったいいつまで……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十六夜になると[#「けれども第四百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……いったいいつまで、おれたちはこのままの有様でいようというのか。おれたちは一生涯、ジゥデルの下に仕え、ジゥデルの生きている限りは、威光と幸福を楽しむ番が廻ってこずに過ぎるのか。」サリームは答えました、「あれを殺して、印璽と袋を奪うには、どうしたらよかろうかな。何とかあれを首尾よく殺す計略をめぐらすことのできるのは、兄さんだけだろう。兄さんはおれよりか経験を積んでいるし、利口だからな。」サーレムは言いました、「もしおれがあいつを殺す計略をめぐらしたら、お前を右大臣にして、おれが帝王《スルターン》になって、それでお前は異存がないか。そうしておれは印璽を持ち、お前は袋を持つことにしよう。」弟は言いました、「異存はない。」こうして両人は主権にありついて、王となってこの世の仕合せを楽しむために、ジゥデル暗殺に意見が一致したのでございます。
いよいよ計略をめぐらすと、ふたりはジゥデルに会いに行って、申しました、「おお弟よ、お前がおれたちの歓待の敷居をまたぐのを見なくなって久しいから、ひとつ今夜はおれたちの食布《スフラ》を賞味しにやってきて、おれたちを悦ばせてくれることを、ぜひ承知してもらいたいと思うが、どうか。」彼は言いました、「御心配なさるな。どちらの兄さんのほうに、御招待にあずかりに伺えばよいでしょうか。」サーレムは答えました、「まずおれのところだ。そしておれの歓待の馳走を賞味してから、弟の招待を受けに行ってくれ。」彼は答えました、「それで少しも差し支えありません。」そして彼はサーレムと一緒に、兄の住む宮殿の翼に行きました。
ところが、彼は自分を待つものを知らなかったのでございます。それというのは、彼は饗応の最初のひと口を食べたと思うと、全身ばらばらとなって倒れ、一方に肉、一方に骨となってしまいました。毒が利き目を発揮したのです。
するとサーレムは立ち上がって、弟の指から印璽を抜きとろうとしました。ところが印璽はどうしても離れようとしないので、彼は短刀で指を切り落しました。それから印璽を取り上げて、宝石を擦りました。すぐに印璽に仕える鬼神《イフリート》「轟く雷電」が現われて、申しました、「ここに控えまする。お望みあらば、叶えられまする。」サーレムはこれに言いました、「おれは命ずる、わが弟サリームを捕えて、これを殺せ。それから彼を運び、あれにこと切れているジゥデルをも運んで、毒殺せられた者と殺害せられた者の二つの屍体をば、軍隊の主だった首長たちの前に投げ出せよ。」すると鬼神《イフリート》「雷電」は、誰であろうと、印璽の持主に下された命令にはことごとく従うのですから、サリームを捕えに行って、これを殺してしまいました。それから、こと切れた二つの屍体をば持ち上げて、折からちょうど食堂に集まって、食事をしていた軍隊の首長たちの前に、それを投げ出したのでございます。
軍隊の首長たちは、ジゥデルとサリームのこと切れた屍体を見ると、食べるのをやめて、仰天し顫えながら、両腕を空中に挙げ、魔霊《マーリド》に訊ねました、「いったい誰が、王と大臣《ワジール》の御身にこのような害を加えたのです。」魔霊《マーリド》は答えました、「兄のサーレムだ。」その瞬間に、サーレムがはいってきて、一同に言いました、「おおわが軍隊の首長たちよ、また汝らわが兵士一同よ、食事をして満足せよ。おれはこの印璽を弟ジゥデルより奪って、その主人となった。して、汝らの前におるこれなる魔霊《マーリド》は、魔霊《マーリド》『轟く雷電』と申し、この印璽の下僕《しもべ》だ。王位の競争者をなからしめんため、これに命じて弟サリームを亡きものとしたのは、かくいうおれである。かつこの弟は裏切者であったから、おれは彼に裏切られることを心配する必要があった。それに、ジゥデルは死んだゆえに、おれだけがただひとり帝王《スルターン》なわけだ。されば汝らは、おれを王として承認することを望むか、それとも、おれが印璽を擦って、鬼神《イフリート》によって汝らを大小となく、最後のひとりまで、皆殺しにさせることを望むか。」
この言葉に、軍隊の首長たちは、非常な怖れに捉えられて、敢えて抗弁せず、答えました、「われわれはあなた様を、王とし帝王《スルターン》として、承認します。」
すると、サーレムは弟たちの葬式をするように命じました。それから御前会議《デイワーン》を召集して、一同が葬式から帰ってくると、自分が玉座に坐り、王として臣下一同の敬意を受けました。それが済むと、彼は言いました、「今は余は、弟の妃《きさき》との婚姻契約書を認《したた》めたいぞ。」人々は答えました、「それも差し支えございませんが、しかし、四カ月と十日の寡婦生活が済むまで、お待ちにならなければなりません。」彼は答えました、「余はそんな形式上の手続きや、その他それに類したことなぞ知らん。わが首《こうべ》の生命《いのち》にかけて、余は今夜のうちに、弟の妃のところにはいらなければならぬ。」そこで、一同やむを得ず結婚契約書を認《したた》め、そしてそのことをジゥデルの妻エル・シート・アジアーに知らせに参りますと、お妃は答えました、「ではお出で下さい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十七夜になると[#「けれども第四百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでサーレムは日が暮れると、ジゥデルの妻のところにはいって行くと、お妃はたいそういそいそと悦ばしげな様子を見せて、歓迎の辞令を述べて、彼を迎えました。そして、喉を潤おすために、一杯のシャーベットをすすめたので、それを飲みますと、彼は直ちにこなごなになり、魂なき身体《からだ》となって、倒れてしまいました。サーレムの最期はこのようでございました。
するとエル・シート・アジアーは魔術の印璽を取り上げて、これを粉微塵に打ち砕いて、今後何ぴとも悪い用に使えないようにし、また、魔法の袋をも二つに裂いて、こうして、袋の持っていた呪縛を破ってしまったのでございます。
そのあとで、お妃は人をやって、「イスラムの長老《シヤイクー》」に起った一切の顛末を知らせ、また王国の主だった人々に、新しい王を選ぶべき旨を告げさせ、彼らにこう伝えさせました、「汝らを治めるために、新しい帝王《スルターン》をお選びなさい。」
[#この行1字下げ] ――「以上が」とシャハラザードはつづけた。「ジゥデルとその兄たちと魔法の袋と印璽の物語について、わたくしの存じているすべてでございます。けれども私は同じように、おお幸多き王様、別な驚くべき物語を存じております。その題は……」
[#改ページ]
アブー・キールとアブー・シールの物語
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、むかしイスカンダリア(1)の町に二人の男がおりまして、一人は染物屋でアブー・キールと申し、一人は床屋でアブー・シールと申しました。その二人は市場《スーク》で、お互いに隣人同士でした。二人の店が軒を並べて隣り合っていたからでございます。
ところで、染物屋のアブー・キールは名うての悪漢で、まったくいやな嘘つきで、道楽者でした。まあこんなあんばいでございます。その|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》はもうたしかに、何かかちんかちんの御影石でもって刻まれ、その頭は疑いもなく、どこかのユダヤ人の教会の階段の小石でもって、作られたに相違ありません。さもなければ、悪事とあらゆる卑しい所業をのめのめとやるあの大胆さが、どうしてこの男にやってきましょうか。いろいろな詐欺|騙《かた》りのなかで、例えば、彼は染料を買うのに金子《かね》がいるからという口実で、大概のお客にいつも前金を支払わせるのでしたが、染めてくれと持ってきた布地を決して返しはしません。それどころか、あらかじめ受け取った金を、勝手放題に飲み食いして使ってしまうばかりか、お客が自分のところに預けて行った布地をひそかに売り払って、こうしてあらゆる種類の最上等の遊びと楽しみを、自分に奮発するのでございました。そしてお客が自分の品を請求しに戻ってくると、彼は何とかごまかして、あれやこれやと口実を設けて、際限なく待たせる工夫をするのでした。例えば、こんな風に言います、「アッラーにかけて、おお御主人様、昨日は家内がお産を致しまして、私は一日中、右に左に駈けずりまわらないわけにはまいりませんでした。」あるいはまた言います、「昨日はお客がありまして、私はずっとお客様方のおもてなしの勤めにかかりきりでございましたが、しかし二日後にお出で下されば、もう夜明けから、あなたの布地はすっかり出来上がっておりましょう。」そして自分のお客の仕事をいつまでも長引かせておくと、最後に誰かがしびれを切らして、叫びます、「おいおい、いい加減に、おれの布地をどうしたのか、本当のことを言わないか。返してくれ。もう染めてなんぞもらいたくないわい。」すると答えます、「アッラーにかけて、何ともはや申しわけございません。」そして、では本当のことを申し上げますと、あらゆる種類の誓いをしながら、両手を天に挙げます。それから、嘆き悲しみ、両手を拍ち合わせて、叫びます、「まあ考えてみて下さいませ、おお御主人様、あの布地を染めると、私はあれを綱の上に張り拡げて、店の前に乾しておき、ちょっと小便にゆこうと、留守を致しました。戻ってみますると、あの布地は誰か市場《スーク》のごろつきに盗まれていて、消えてなくなっておりました。いや、ひょっとすると、隣りのあの災いの床屋のやつが、盗んだのかも知れません。」この言葉に、もしそのお客が穏やかな人々のなかの正直者であれば、「アッラーがいつか埋め合わせをして下さるだろう」と答えるだけにとどめて、立ち去ってしまうのでした。けれどもそのお客が怒りっぽい人間だと、かんかんに怒って、染物屋に悪口を浴びせ、往来で、人だかりのまんなかで、殴り合いをはじめ、大っぴらに争いはじめます。そしてそれにもかかわらず、また法官《カーデイ》の権威にすらかかわらず、何しろ証拠がなく、また他方、染物屋の店には、差押えて売り立てることができるようなしろものは何ひとつないので、結局、そのお客は自分の品を取り戻せるようなことは、まずありませんでした。そこでこの商売はこういう工合にうまく行って、市場《スーク》中の商人全部とその区の住人全部が、次々に騙される間、かなり長い期間続きました。しかしその頃になると、染物屋のアブー・キールは、自分の信用が救いがたくなくなってしまい、未だに剥ぎ取られるような人は、もうひとりもいなくなったため、商売は全然だめになったのを見ました。そして彼は万人の警戒の的となり、人々は不正な人たちの詐欺瞞着を話そうという折には、いつも彼を引合いに出す有様でした。
染物屋のアブー・キールはいよいよ貧窮に陥りますと、隣人の床屋のアブー・シールの店の前に、坐りに出かけて、自分の不景気な状態をこまかく知らせ、もう今は餓え死にするよりないと言いました。すると床屋のアブー・シールは、これはアッラーの道を歩いている男で、貧乏ながらも、謹直な正直者だったので、自分よりも貧しい人間の困窮に不憫を覚えて、答えました、「隣人は自分の隣人に尽くさなければなりません。ここにいて、ましな日々が来るまで、食べては飲み、アッラーの財産をお使いなさい。」そして親切にこれを迎え入れて、ずいぶん永い間、あらゆる入用なものを支給してやりました。
さて、ある日、床屋のアブー・シールは、染物屋のアブー・キールに向って、当節の世智辛いことを訴えて、言いました、「まあ、見て下さい、おお兄弟よ。おれは決して腕の悪い床屋じゃなく、自分の商売は心得ており、おれの手はお客様方の頭の上で軽いものだ。それなのに、おれの店が貧しいし、おれ自身も貧しいばかりに、誰もおれのところに鬚を剃りにやってこない。まあせいぜい、朝、浴場《ハンマーム》で、どこかの人足か風呂焚きが、おれを呼びとめて、腋の下を剃らせるとか、鼠蹊《ももね》に毛抜きの煉薬を塗らせるぐらいのものだ。それで、こうした貧乏人たちが貧乏人のおれにくれる、何枚かの銅貨でもって、おれはどうやらわが身を養い、お前さんを養い、おれの首が支えている家族の入用を弁じているわけだよ。だがまあ、アッラーは偉大にして寛仁にましますさ。」染物屋のアブー・キールは答えました、「お前は、おお兄弟よ、貧乏と世智辛い世の中を、こんなに辛抱強く我慢しているとは、全くよっぽど世間知らずだ。金持になって、ゆったり暮らす道があるのになあ。お前はお前で、ちっとも実入りにならない自分の商売に、飽きがきているし、おれはおれで、意地の悪いやつだらけのこの国じゃ、おれの商売をやってゆけない。これじゃつまり、おれたちはもうこんなむごい国を見放して、どこか無駄骨折らずに気持よく、おれたちの腕をふるえるような町を探して、ここから旅に出かけるよりほか、しようがない。それに、旅からはどんなに利益をあげられるかは、お前も知ってのとおりだよ。旅をするとは、愉快になることだし、いい空気を吸うことだし、この世の憂さを忘れることだし、新しい国々と新しい土地を見ることだし、学問をすることだし、また、おれやお前の職みたいに立派な結構な職で、とりわけ、どこの土地でも、あちらこちらいろいろさまざまの国民の間で、世間にちゃんと認められている職を、手に持っているときには、非常な利益と、名誉と、特権を手に入れて、職を営むことでもあるよ。それに、旅について詩人の言ったことは、お前も知らないわけじゃあるまい。
[#ここから2字下げ]
汝もし志大ならば、汝の祖国の家居を去り、汝《な》が魂を旅に委ねよ。
新しき地の門口には、快楽と選りぬきの友情、汝を待つなり。
『友よ、いかばかりの労苦と憂いと危険を、君は遥かなる地にて忍ばんとするや』と、人もし汝にかく言わば、答えよ、『もし羨やむ輩《やから》と間諜どもの間に、食い入る虫のごとく、常に一所に住まざるを得ずとせば、生きてあらんよりは、死するにしかず』と。
[#ここで字下げ終わり]
だから、なあ兄弟、おれたちはいっそおれたちの店をたたんで、もっとましな運勢に向って、一緒に旅に出ることくらい、いいことはないぜ。」
そして彼はたいそう弁舌巧みな言葉で話しつづけたので、床屋のアブー・シールも説き伏せられて、早速出発するほうがよいと思い、いそいで準備をしましたが、準備といっても、自分の盥《たらい》と剃刀と鋏と革砥《かわど》と、その他二、三の小道具を、つぎはぎだらけの古い布切れにくるむことと、それから、家族に別れを告げに行って、店に引き返し、そこで自分を待っているアブー・キールと落ち合うことでした。すると染物屋は彼に言いました、「さて今は、おれたちのすることといえば、コーラン巻頭の開扉《フアーテイハー》を誦して、おれたちが兄弟になったことを証《あかし》し合い、これからはおれたちの儲けを、一つの手箱に共同に入れて、おれたちがイスカンダリアに戻った暁には、それを全く公平に二人で山分けにしようという約束を、一緒にすることだけだ。またそれと同時におれたちは、おれたちのうちで仕事を見つけた者は、全然稼ぎのない者の扶養を引き受ける義務があるということも、約束し合わなければなるまい。」床屋のアブー・シールは、これらの条件がもっともなことを認めるのに、何の異存もありませんでした。そこで二人とも、お互いの約束を固めるために、コーラン巻頭の開扉《フアーテイハー》を誦しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八十八夜になると[#「けれども第四百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それが済むと、正直者のアブー・シールは自分の店を閉め、その鍵を家主に返し、家賃をそっくり払いました。次に二人で港への道をとって、何の食糧も持たずに、折から出帆しようとしていた船に、乗り込みました。
天運は旅行中彼らに幸いして、二人のうちの一人を通じて、彼らを助けてくれました。実際に、船客と乗組員の数は、船長を別にして、全部で百四十人に達しましたが、そのなかにはアブー・シールより外に床屋がいませんでした。従って、ただ彼だけが、毛を剃ってもらいたい人々を、適当に剃ってやることができるのです。ですから、船が出帆するとすぐに、床屋は連れの男に言いました、「兄弟よ、今おれたちは海のまんなかにいるのだが、おれたちはぜひとも、何か飲み食いするものを見つけなければならん。だからおれはこれから、船客と船員に、御用を承わりますと申し出てみよう。誰かおれに、『おい床屋さん、ひとつおれの頭を剃ってくれ』と言ってくれるかも知れないからな。そしたらおれは、ひと切れのパンとか、いくらかの銭《ぜに》とか、ひと口の水とか、とにかくおれとお前とが何か得になるようなものと引き代えで、その人の頭を剃ってやろう。」染物屋のアブー・キールは、「そりゃ別に何の文句もないね」と答えて、床屋は仕事を探す用意をしているのに、自分は甲板の上にごろりと横になり、できるだけ工合よく頭を置いて、それなり眠ってしまいました。
アブー・シールはその目的で、自分の道具を取り上げて、何しろ貧しかったので、手拭代りに、雑布の切れ端を肩に投げかけて、船客の間を廻りはじめました。すると、その一人が言いました、「おい親方、ひとつ当ってくれ。」そこで床屋はその頭を剃りました。終ると、その船客はいくらかの小銭を出しましたので、床屋はこれに言いました、「おお御兄弟、ここじゃこんなお金の使いようがありません。もしもそれよりか、パン菓子を一個《ひとつ》いただけたら、私にはこの海のなかでいっそう役に立つし、幸いですがね。というのは、実は旅の道連れが一人いまして、われわれの食糧が甚だ心細い次第なのでして。」するとその船客は、彼にパン菓子一個と、それにチーズひと切れをくれ、茶碗に一杯水を入れてくれました。そこでアブー・シールはそれをもらって、アブー・キールのそばに戻って、これに言いました、「このパン菓子をとって、このチーズの片《きれ》と一緒に食べなさい。それから、この茶碗の水を飲みなさい。」するとアブー・キールは全部を受け取って、食べて飲みました。
そこで床屋のアブー・シールはまた道具を持って、肩に雑布を投げかけ、手に空《から》の茶碗を持ち、船を歩き廻りはじめ、あるいはしゃがみ、あるいは横になっている船客の間を歩いて、一人をパン菓子二個で剃り、今一人をひと切れのチーズとか、胡瓜一本とか、西瓜ひと切れとか、または小銭でさえも、剃りました。そして相当の収入を挙げて、その日の終りには、パン菓子三十個と、三十枚の半ドラクム銅貨と、たくさんのチーズと、橄欖の実いくつかと、胡瓜何本かと、エジプトの乾したしらこ、あのダミアート(2)の上等な魚から取ったしらこを、固めて板にしたもの何枚かが、集まりました。それにまた、旅客たちにたいそう気に入られて、何を頼んでも、それをもらうことができたのでした。それにすっかり人気者にさえなって、腕のいいことが船長の耳に達して、船長もやはりこの床屋に頭を剃ってもらいたいと申しました。そしてアブー・シールは船長の頭を剃りながら、運命の酷《むご》さと、自分の陥っている窮乏と、持っている食糧の乏しいことを、これに訴えずにはいませんでした。また自分には、旅の道連れが一人あることも申しました。すると船長は、元来広く開いた掌《てのひら》の男でしたし、それにこの床屋の行儀のよいことと手先の器用に感心していたこととて、答えました、「それじゃいつでもお出でなさい。毎晩、その連れの人と一緒に、私と食事をしにきてもらいたい。われわれと一緒の旅のつづく限りは、おふたりとも、何ごとであろうと、もう心配することはない。」
そこで床屋は染物屋に会いに行きますと、染物屋はいつものように、眠りつづけていましたが、起されて、自分の枕もとに、こうしたたくさんのパン菓子や、チーズや、西瓜や、胡瓜や、乾ししらこを見ると、びっくりして叫びました、「これはまたどこから出てきたんだい。」アブー・シールは答えました、「アッラーの広大なお恵みからだよ(アッラーの称められよかし)。」すると染物屋は、それらを自分の大切な胃袋に、みんな呑み込みたいというような身ぶりで、一度にその全部の食糧に飛びつきました。けれども、床屋はこれに言いました、「兄弟よ、これらは食べずにおきなさい、困ったときに何か役に立つかも知れないからね。そしてまあ聞くがいい。実はおれは船長を剃ってあげてな、おれたちの食糧の乏しいことを訴えたのだ。すると、『いつでもお出でなさい。そして毎晩、連れの人と一緒に、私と食事をしにきなさい』という返事だ。それでちょうど今夜は、船長と一緒に、最初の食事を頂戴に行こうというわけだよ。」ところがアブー・キールは答えました、「船長なんぞはどうでもいい。おれは船酔いで、とてもこの場から起き上がれない。だからおれにはこの食糧で腹をつくらせておいて、お前ひとりで、船長と食事をしに行ってくれ。」すると床屋は言いました、「それに別に文句はないよ。」そして夕食の時刻を待ちながら、彼は連れの男の食いぶりを眺めはじめました。
ところで、染物屋は、まるで石截り人夫が石截場で石の塊りを切り出すみたいに、食物に飛びかかってぱくつきはじめ、何日も何日も物を食わずにいた象が、腹を鳴らし、ぐうぐう音を立てて呑み込むような騒ぎで、呑み下ろすのでした。そして後から後から、ひと口が助けに来て、前のひと口を喉《のど》の門のなかに押し込んでやるような具合で、前のものが下りないうちに、もう次のものがはいってきます。染物屋の両の眼は、一々の食物の上に、食人鬼《グール》の眼のようにかっと見開き、眼光で食物を熱しながら焼いている有様、まるで空豆《そらまめ》と乾草の前でもうもう鳴く牛みたいに、鼻息荒くぶうぶう言っております。
こうしているうちに、一人の船員が現われて、床屋に言いました、「おお床屋の親方よ、船長が『お連れと一緒に夕飯にお出でなさい』と言っています。」そこでアブー・シールはアブー・キールに訊ねました、「どうだい、おれと一緒に来る気になったかい。」彼は答えました、「おれはとても歩く元気がないよ。」そこで床屋はひとりで行って、見ると船長は大きな食布《スフラ》を前にして、床《ゆか》に坐っていて、食布《スフラ》の上には、色さまざまの二十もの、いやそれよりもたくさんの御馳走がありました。そこには同船のいろんな人たちがやはり招かれていましたが、もう食事をはじめるばかりになって、ただ彼の来るのを待っているのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ
[#地付き]けれども第四百八十九夜になると[#「けれども第四百八十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼がひとりきりなのを見ると、船長は訊ねました、「お連れはどうしたのかね。」彼は答えました、「おおわが御主人様、船酔いですっかりまいっております。」船長は言いました、「それは何でもない。船酔いはすぐ治りますよ。さあ、私のそばにお坐りなさい、アッラーの御名《みな》において。」そして一枚の皿をとって、あらゆる色の御馳走を、ひとつひとつ、どれもたっぷり十人前に間に合うほど、気前よく皿に盛り上げてくれました。そして床屋が食べおわると、船長は更に二番目の皿を差し出して、言いました、「この皿をお連れのところに持って行ってあげなさい。」そこでアブー・シールは、いそいでその山盛りの皿をアブー・キールに持って行ってやると、彼は歯でもって食物を粉にし、駱駝みたいに腮《あご》を動かしている最中で、大きな食物の塊りが後から後から、えらい勢いで、口のなかに流れ込みつづけているのでした。そこでこれに言いました、「さっきこの食糧でお前の食欲を閉ざしてしまわないようにと、言っておいたじゃないか。まあ見ろ。ここに船長がお前に届けてくれた結構な品々があるぞ。ここの船長の食卓から来た、この上等な仔羊の肉の串焼《カバーブ》はどうだい。」アブー・キールは、唸り声をあげながら言いました、「出しな。」そして彼は、床屋の差し出す皿の上に飛びついて、狼の強欲か、獅子の猛烈か、鳩に襲いかかる禿鷹の荒々しさか、飢えて死ぬ瀬戸際にあって、猛烈に詰め込むには、見栄も外聞もかまわぬ飢えた人の激しさかという態《てい》で、両手でもって全部を、がつがつむしゃぶりつきはじめました。そしてちょっとの間に、きれいに平らげ、皿をなめて、一物も残さず空にして、皿を放り出しました。そこで床屋は皿を拾い上げ、船員のところに届け、それから船長と一緒に何か飲みに行って、次にアブー・キールのそばに夜を過ごしに帰ってきましたが、やつはもう、船にぶつかる水ほども騒々しく、鼻や口や穴という穴から、大鼾をあげておりました。
翌日もまた次の日々も、床屋のアブー・シールは、乗客や船員を剃りつづけて、食料や必要品を稼ぎ、夕方は船長と一緒に食事をし、あくまで寛大に連れの男の世話をしてやりましたが、その連れの男のほうは、食べるためか用を足すために目を覚ますだけで、ただ眠るばかりでした。こうして二十日間の航海がつづきましたが、とうとう二十一日目の朝に、船は見知らぬ町の港にはいったのでございます。
するとアブー・キールとアブー・シールは上陸して、とある隊商宿《カーン》に小さな一室を借りに行き、床屋は一枚の新しい茣蓙《ござ》を市場《スーク》の茣蓙屋から買ってきて、それと二枚の羊毛の毛布を、いそぎ備えつけました。それが済むと、床屋は、まだ幻暈《めまい》がすると訴えつづけている染物屋の、あらゆる用を足してやってから、これを隊商宿《カーン》に寝かしておいて、自分は道具を持って、町に出かけ、通りの片隅で、露天で自分の商売をし、あるいは人足、あるいは驢馬曳き、あるいは掃除夫、あるいは行商人、あるいは彼の上手な剃刀に惹きつけられてきた、かなりれっきとした商人たちさえも、剃りました。そして夕方に帰って、連れの前に御馳走を並べてやりましたが、こっちはやはり眠っていて、仔羊の串焼の匂いをかがせてやったら、やっと目を覚ましたのでした。
こうした有様が、まる四十日間の間つづきましたが、アブー・キールは相変らず、船酔いの名残りがぬけないと訴えるのです。そして床屋は毎日、お昼に一度、日暮れに一度と、隊商宿《カーン》に帰ってきて、その日の天運と彼の剃刀との授けた儲けを挙げては、染物屋の面倒を見、食べさせてやっていました。染物屋は、大切な胃のほうは全然疲れを見せずに、パン菓子や、胡瓜や、生葱や、仔羊の串焼《カバーブ》を、貪り食いました。そして床屋がいくらこの見知らぬ町のたぐいのない美しさを賞めたたえ、市場《スーク》や庭園に一緒に散歩に行こうと誘ってもだめで、アブー・キールはきまって、「船酔いがまだ頭に残っている」と答え、いろいろなげっぷを出し、いろいろな質《たち》のいろいろな放屁《おなら》をして、また昏々と眠りに沈んでしまうのでした。この上なく親切で正直な床屋のアブー・シールは、この大食らいの連れに、少しでも非難がましいことを言ったり、不平や口論などでいやがらせたりすることを、固く慎みました。
ところが、その四十日が経つと、この床屋は気の毒に病気になってしまい、もう外出して仕事にとりかかることもできず、隊商宿《カーン》の門番に、連れのアブー・キールの世話をし、入用なものは何でも買ってやってくれと頼みました。ところが数日後には、床屋の病状はすっかり悪化して、かわいそうに意識不明となり、ぐったりと、まるで死んだようになってしまいました。そこで、もう染物屋に食べさせてくれたり、必要品を買わせてくれたりする人がいなくなったので、染物屋は最後には焼けつくようなひもじさを激しく感じ、やむなく自分で起き上がって、何か口に入れるものを、右や左に探しました。けれども、何しろもう部屋にあるものは全部、自分がきれいに片づけてしまっていたので、全然何ひとつ食べるものが見当りません。そこで彼は、ぐったりと床《ゆか》の上に延びている連れの男の着物のなかを探ってみると、そこには、この貧しい男が、航海と町での四十日間の仕事の間、銅貨一枚ずつ貯めた、その儲けのはいっている財布が見つかったので、それを帯の間に挟み、そして、病気の連れなどはまるでいないみたいに、もうてんで気にとめないで、戸外《おもて》に出て、自分たちの部屋の戸を掛金で閉めて、行ってしまいました。ちょうど隊商宿《カーン》の門番がそのとき留守をしていたので、誰にも出て行くのを見咎められず、行く先を聞かれもしませんでした。
さて、アブー・キールの最初の心遣いは、まず菓子屋に駈けつけて、糸麦麺《クナフア》のまるひと皿とパイ・サブレーのひと皿を、自分に奮発することでした。それから麝香入りのシャーベットをひと壺と、竜涎香《りゆうぜんこう》と棗《なつめ》の実のはいったひと壺を飲みました。それが済むと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十夜になると[#「けれども第四百九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それが済むと、彼は商人たちの市場《スーク》のほうに向って、立派な衣類と立派な品々を買い求め、そして豪勢な扮装《いでたち》をして、街々をゆっくりと散歩しはじめ、一歩ごとにこの町で見出す、見たことのない物事に打ち興じ楽しみはじめ、こんな町は世界中に類がないと思いました。けれども、いろいろな事柄のなかで、ひとつの奇妙な事実が、特に彼を驚かしました。実際、町の住民は全部、例外なく、色の点では全く一様の布を、同じように身につけているのを認めたのでした。目に入るのはただ青と白だけで、他のものがありません。商人たちの店にさえも、白布と青布があるだけで、それ以外はただひと色もございません。香水を売る店に行っても、白と青しかなく、瞼墨《コフル》さえも、明らかに青色をしています。シャーベット商人のところにも、罎のなかには白いシャーベットしかなく、赤とか薔薇色とか菫色とかのものは、てんでありません。この発見は彼を極度に驚かしました。けれども彼の喫驚が最後の極に達したのは、ある染物屋の戸口に行ったときです。染物屋のいろいろの大桶のなかには、実際、紺の染料しか見当らず、それっきりです。
そこでもう自分の好奇心と驚きを抑えきれなくなって、アブー・キールはその店にはいって、懐中から白いハンケチを取り出し、それを染物屋に差し出して言いました、「おお親方よ、このハンカチをいくらで染めてもらえますか。どんな色をつけてもらえますかね。」染物屋の主人は答えました、「このハンケチをお染めするには、二十ドラクムのお代しか頂戴致しません。色と申せば、それはもう申すまでもなく、紺でございます。」アブー・キールは法外な値段にびっくりして、息を詰まらせて、叫びました、「何だって、お前さんはこのハンケチを染めるのに、二十ドラクム呉れというのかい、しかも青く染めるだけなのに。私の国じゃ、こんなものは半ドラクムもしやしないよ。」染物屋の主人は答えました、「それじゃ、お国に帰って染めなさるがいい、阿呆らしい。ここじゃ二十ドラクム、銅貨一枚もまけられませんよ。」アブー・キールは言葉を継ぎました、「そうか。だが私はこれを青く染めてもらいたくない。赤くしてもらいたいのだ。」相手は訊ねました、「どこの国の言葉で話しておいでなのか。赤とはどういうことですかい。赤い染料なんて、いったいありますかね。」アブー・キールはあっけにとられて、言いました、「じゃ緑に染めてくれ。」相手は訊ねます、「緑の染料とはいったい何のこったね。」彼は言います、「じゃ、黄色だ。」相手は答えます、「そんな染料は知りませんね。」アブー・キールは、次々にいろいろな染料の色を並べつづけましたが、染物屋の主人には、何のことやら一向わかりません。そこでアブー・キールは、ここの他の染物屋の連中も、やはり同じように何も知らないのかと訊ねますと、相手は答えました、「この町には、私ども染物屋は四十人いて、ひとつの同業組合を作って、外の住民は一切はいれないのです。そしてわれわれの技術は父子相伝で、それもわれわれのうちひとりが死んだ場合に限る。青以外の染料を使うなんぞということは、われわれはこれまで聞いたことがありませんね。」
この染物屋の言葉に、アブー・キールは言いました、「実は、おお親方よ、この私も染物屋ですが、私は布を青ばかりか、あなたの思いもかけないような無数の色に、染めることを知っております。だからひとつ私に給料を払って、私を使って下さい。そうすれば、私は自分の技術を委細詳しくあなたに教えて差しあげるから、あなたは染物屋組合全部の人の前で、あなたの知識を自慢することができるというものです。」相手は答えました、「われわれの同業組合と職業のなかに、異国の人を入れるということは、絶対にできないことです。」アブー・キールは訊ねました、「それじゃ、もし私が自前で染物屋の店を開いたら?」相手は答えました、「それもまず御無理でしょうな。」それでアブー・キールもそれ以上|強《た》って言わず、その店を出て、二番目の染物屋のところに行き、次に、三番目、四番目、そのほか町中の染物屋のところに行ってみました。しかしどこでも同じようにあしらわれ、同じ返事をされ、師匠としても弟子としても、迎えてくれません。そこで同業組合の総代の長老《シヤイクー》に不平を訴えに行きますと、こういう返事でした、「わしは何とも致しかねる。われわれの習慣と伝統が、異国の人をわれわれの間に入れることを禁じているのだからな。」
全部の染物屋に異口同音にことわられた、こうしたあしらいを前にして、アブー・キールは肝臓が憤怒に膨れ上がるのを感じて、そこで王宮に出かけてゆき、都の王様の御前に罷り出て、申し上げました、「おお当代の王様、私は異国の者でございまして、染物屋を業と致しまする。そして私は布をば、四十通りの別々の色をもって染めることができまする……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十一夜になると[#「けれども第四百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……それなのに、この都の染物屋は、青でもってしか染めることができないくせに、私との間に、これこれしかじかのことが起ったのでございます。この私は、一枚の布に、この上なく美わしい数々の色気と暈《ぼか》しをつけることができます。赤と赤のさまざまな色合い、例えば、薔薇色や棗色《なつめいろ》(3)とか、緑と緑のさまざまの色合い、例えば、草木の緑やピスタチオの緑や、オリーヴの緑や、雌鸚鵡の翼の緑とか、黒と黒のさまざまの色合い、例えば、炭の黒や、瀝青の黒や、瞼墨《コフル》の青黒とか、黄と黄のさまざまの色合い、例えば、仏手柑の黄、オレンジの黄、レモンの黄、黄金の黄とか、その他世に稀なるくさぐさの色でございます。かかる次第にござりまする。それなのに当地の染物屋たちは、私をば師匠としても、有給の弟子としても、受けつけてはくれませぬ。」
このアブー・キールの言葉を聞き、またかつて話を聞いたこともなければ、この世にあるとも思っていなかった数々の色を、ずらりと並べるのをお聞きになると、王様は驚嘆して、そわそわなさって、叫びなさいました、「やあ、アッラー、何と天晴《あつぱ》れなることじゃ。」次にアブー・キールにおっしゃいました、「もしその方の言に偽りなくば、おお染物屋よ、して、その方がまことにその技術によって、かくも数多《あまた》の妙《たえ》なる色をもって、われらの眼を楽しませ得るとあらば、その方は一切の憂いを追い、心を安んじて可なりじゃ。余は直ちにその方のために、余自ら染物工場を開いて、莫大の資金を遣わそう。またかの組合の者どもも、何ら恐るるに及ばぬ。何となれば、彼らのうちの何ぴとかが、不幸にして敢えてその方を苦しむることあらば、余はこれをその店の戸口に、絞首に処するであろうからな。」そしてすぐに御殿付きの建築師たちを呼んで、言いつけなさいました、「この天晴れなる師匠の伴をして、一緒に全市を廻り、師匠が気に入った場所を見つけた折は、それが店舗なりと、隊商宿《カーン》なりと、住居なりと、庭園なりと苦しゅうない、即刻そこより持主を追い払い,その敷地に大至急、一大染物工場を建て、ごく大ぶりの桶四十と、それより小ぶりの桶四十を備えよ。そして万事、この染物屋の大師匠の指図に従って致せ。その命令に一々|違《たが》うことなく従い,何事なりと、言いつけに背くような素振りをなさぬよう、くれぐれも注意せよ。」次に王様はアブー・キールに美しい誉れの衣と、千ディナール入りの財布をお贈りになって、これにおっしゃいました、「新しき工場の用意成るまで、この金子をその方の楽しみに使うがよい。」そしてその上、彼に仕える二人の少年と、青|天鵞絨《ビロード》を張った見事な鞍と、同じ色の絹の鞍敷を置いた、すばらしい馬一頭をお贈りになりました。更に、御自身の御配慮による立派な家具を備え、大勢の奴隷の仕える大きな家をも、自由に住むようにと下しおかれました。
ですから、アブー・キールは、今や錦をまとい、見事な自分の馬に乗って、さながら貴族《アミール》の子の貴族《アミール》のように、輝かしく威風堂々と現われ出たのでございます。そしてその翌日は、やはり自分の馬に乗り、二人の建築師と二人の少年を先に立て、少年に行く先々の群衆を掻き分けさせながら、方々の街と市場《スーク》とを歩き廻って、自分の染物工場を建てる敷地を探さずにいませんでした。そして最後に、市場《スーク》のまんなかに建っている、広大な円屋根の店を選ぶことにきめて、言いました、「この場所が誂え向きだ。」するとすぐに建築師と奴隷たちは、その持主を追い立てて、直ちに一方では取り壊しをはじめ、他方では建築をはじめ、馬上にあって、「ここにはこれこれしかじかのこと、あそこには別にこれこれしかじかのことをせよ」と言いつけるアブー・キールの命令の下に、その仕事の仕上げを非常に精出して励んだので、ほんの僅かの間に、地上のどこにも類のないほどの染物工場の建設を終りました。
すると王様は彼を召し出して、おっしゃいました、「さて今となっては、染物工場を運転させるばかりじゃ。しかし金子なくしては、何ごとも運ばぬ。されば、まず手はじめに、最初の投資分として、ここに金貨五千ディナールある。余は今や、その方の染色技術の結果を見るを、待ちかねておるぞよ。」そこでアブー・キールはその五千ディナールを頂戴して、それをば自分の家に大切にしまいこみ、そして必要な染料の原料《もと》は全く安いもので、てんで売れずにいたので、僅か数ドラクムでもって、薬種屋に行って、その店にまだ手のつかない袋にはいったまま、積み重ねられていたあらゆる染料を買い、それらを染物工場に運ばせて、自分で調製し、大桶小桶のなかに手際よく溶《と》きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十二夜になると[#「けれども第四百九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そうしているうちに、王様は彼のところに、腕をふるって染めるようにと、絹と羊毛とリンネルの白生地《しろきじ》五百反を、送ってきました。そしてアブー・キールは、あるいは一切混りけのない正色《せいしよく》を着け、あるいは間色《かんしよく》を着けて、別々な工合に染め、似た色の布は一枚もないように致しました。それから、それらを干すために、自分の店からはじまって、往来の一方の端から他方の端まで達するいく筋もの綱の上に、掛け拡げました。色をつけられた布は、乾くにつれて驚くばかり鮮かになり、太陽の下で、燦爛とした光景を見せたのでございました。
町の住人たちは、彼らにとっては全くはじめてのこの品を見ると、びっくり仰天してしまいました。商人は、駈けつけてよく見ようと、みんな店を閉めてしまうし、女子供は感嘆の叫びをあげるし、みんながアブー・キールに訊ねます、「おお染物屋の親方よ、この色の名は何というのですかね。」彼は答えました、「これは柘榴石の赤、これはオリーヴ油の緑、これは仏手柑の黄だ。」そして彼は、果てしない感嘆を証するために挙げた腕と喚声のただなかで、全部の色の名を、一々教えました。
ところが俄かに、王様は布がいよいよ準備ができたと知らされて、群衆を掻き分ける先駆を先立て、儀仗隊を従えて、馬で市場《スーク》のただなかにお出ましになりました。そして白熱する大気のうちに色布をひるがえさせる微風の下に、これほどさまざまの色にきらめく布を御覧になっては、恍惚の限りに恍惚となられ、永いこと、息もつかずに、眼を大きく見開いてすっかり白眼《しろめ》になすって、じっと立ち尽くしなされました。馬さえも皆、この見慣れない光景に怯え立つどころか、美しい色どりに感じ入った態《てい》で、横笛と竪笛《クラリネツト》の音に勇み立つのと同じように、大気に穴を穿ち、風にはためくこのすべての栄光《はえ》に酔って、右や左に躍りはじめたのでございました。
王様はというと、どうして染物師に面目を施させてやってよいかわからなくなられて、総理|大臣《ワジール》を馬から下ろして、その代りにアブー・キールを乗せて、御自分の右に置き、布を集めさせた上で、再び御殿にお帰りになり、アブー・キールに黄金と、贈物と、特典の限りを尽くしなさいました。それから、その染めた布で、御自分と、奥方たちと、御殿の大官たちの着物を裁たせ、またアブー・キールに新たに千反の布を渡して、同じように麗わしく染めるようにと命じなさいました。それで、しばらくたちますと、まず全部の貴族《アミール》が、つづいて全部の役人が、色染めの着物を持つようになりました。そして、王室御用の染物師に任命されたアブー・キールのところには、注文が物凄く殺到して、彼はやがて町一番の金持となりました。ほかの染物屋たちは、組合の頭《かしら》を先頭に立てて、自分たちの以前の振舞いを謝りに来て、どうか自分たちを無給の弟子として、彼のところで使ってくれるようにと頼みました。けれども彼はその詫びを聞き入れず、みんなを面目なく追い返してしまいました。そしてもう今では、どこの街にも市場《スーク》にも、王様の染物師アブー・キールの染めた、色とりどりの豪華な布を着た人たちしか、見られないようになりました。彼のほうは、このようでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十三夜になると[#「けれども第四百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで床屋のアブー・シールのほうはどうかと申しますと、次のようでございます。
染物屋が無一物にした上で置き去りにし、部屋に閉じこめて出て行ってしまいますと、彼は三日の間、半死の状態で横たわっていましたが、三日後に、とうとう隊商宿《カーン》の門番は、誰ひとり外に出てこないのを怪しみまして、独りごとを言いました、「あの人たちはきっと部屋代を踏み倒して、出発してしまったのかも知れん。あるいはひょっとすると、死んでしまったのかな。それとも、あるいは別なことかも知れん、おれにはどうもわからんわい。」そこでふたりの部屋の戸口のほうに行ってみると、下りている掛金に木の鍵がさしこんであって、内には何か弱々しい呻き声が聞えます。そこで戸をあけて、はいってみると、床屋が黄色くなって見る影もなく、茣蓙《ござ》の上に延びています。門番は彼に訊ねました、「兄弟よ、どうしたのですか、そんなに呻いているとは。お連れはどうしたんです。」憐れな床屋は、弱々しい声で、答えました、「アッラーのみが御存じです。私はやっと今日はじめて、眼を開けるようになったのです。いったいいつから、こうしているのやら。とにかくたいへん喉が渇く。お願いだから、おお兄弟よ、私の帯に吊してある財布をとって、何か元気をつけるものを買ってきて下さい。」門番は帯をあちこち引っくりかえしてみましたが、お金など全然ないので、これは連れの男が盗んで行ったのだとわかって、床屋に言いました、「何も心配なさるな、おお気の毒な仁よ。アッラーはめいめいの人を、その仕業《しわざ》に従って待遇なさるでしょう。この私があなたの面倒をみて、わが眼をもって世話をして進ぜよう。」そして門番は、いそいで彼のために肉汁《スープ》を作りに行って、それをお椀に盛って、持ってきてくれました。そして彼を助けてそれを呑み下ろさせ、毛布で彼を包んで、汗をかかせました。
このようにして、門番は二カ月の間、床屋の費用《かかり》を全部自分がしょってやってくれたので、二カ月後には、アッラーはこの門番を通じて、平癒を授けて下さったのでした。そこでアブー・シールは起きることができて、この親切な門番に言いました、「もし他日至高者が私にその力を与えて下さった暁には、私は、あなたが私のために使いなすった全部の埋め合わせをし、あなたのお世話と御親切の恩返しをすることができるでございましょう。けれども、あなたの正しい功徳に従ってあなたに報いることは、ただひとりアッラーのみおできになるところでございましょう、おお選ばれた人の子よ。」隊商宿《カーン》の年とった門番は、これに答えました、「あなたのお治りのためにアッラーに称《たた》えあれ、わが兄弟よ。私があなたに対してこういう風に振舞ったのは、ただ寛仁なるアッラーの御顔を願ってのことだけですよ。」次に床屋はその手を接吻しようとしましたが、門番は押しとどめてことわるのでした。そしてふたりは、お互いの上にあらゆるアッラーの祝福を願いながら、別れたのでございます。
そこで床屋は、いつもの自分の道具を携えて、隊商宿《カーン》を出て、方々の市場《スーク》を歩き廻りはじめました。ところが彼の天命はその日彼を待っていて、彼をばちょうどアブー・キールの染物工場の前に導きました。そこにはたいへんな人だかりがしていて、店の前の綱の上に拡げた染めた布を眺め、驚嘆して、がやがやと感嘆の声をあげておりました。そこで彼は見物人の一人に訊ねました、「この染物工場はどなたの物ですか。またなぜこんなに人が寄っているのですか。」聞かれた男は答えました、「これは帝王《スルターン》の染物師アブー・キール殿様のお店です。この方が、世にも稀なやり方でもって、ここにあるような見事な色で、布を染めるのですよ。全く染色術の大名人ですね。」
この言葉を聞いて、アブー・シールは、昔の道連れのために心中大いに悦び、考えました、「あの男に富貴の戸を開きたもうたアッラーに称《たた》えあれ。やあ、アブー・シールよ、お前は昔の連れのことを悪く考えたのは、まったく悪かったぞ。あの男がお前を置き去りにしたまま忘れていたのは、仕事がたいへん忙しかったからのことだ。また、お前の財布を奪《と》ったのは、染料を買うのに、なにも持ち合わせがなかったからだ。しかし今に、あの男がお前とわかったら、むかしお前に世話になったことと、困っていたおり助けてもらったことを思い出して、どんなにねんごろにお前を迎えるかわかるだろう。お前にめぐり合って、あの男はどんなに悦ぶことだろう。」次に床屋は、うまく群衆の間をすり抜けて、染物工場の入口の前まで行き着きました。そしてなかをのぞいてみました。するとアブー・キールが高い長椅子《デイワーン》の上に無造作に横になり、積み上げた座褥《クツシヨン》にもたれかかり、右腕を座褥《クツシヨン》に載せ、左腕を座褥《クツシヨン》に載せ、王様方のお召物のような着物を着こみ、その前には、豪奢な服装をした、四人の年若い黒人奴隷と四人の年若い白人奴隷《ママリク》がいるのが見えました。こうして彼は床屋の眼に、大臣《ワジール》と同じように威風堂々と、帝王《スルターン》と同じように豪《えら》く見えたのでございます。そして職人が十人いて、仕事にかかっており、彼がただ身振りだけで与える言いつけを、一々実行しているのが見えました。
そこでアブー・シールは更にひと足進んで、ちょうどアブー・キールの前に立ちどまり、こう考えました、「あの男がおれの上に眼を下ろすのを待って、おれから挨拶《サラーム》をすることにしよう。ひょっとすると、あの男のほうから先におれに挨拶し、おれの首に飛びついておれをかき抱《いだ》き、おれに愁傷の言葉を述べて、慰めるかも知れない。」
ところで、両人の視線が出会い、眼が眼の上に落ちたと思うと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十四夜になると[#「けれども第四百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……ところで、両人の視線が出会い、眼が眼の上に落ちたと思うと、染物屋は飛び上がって、叫びました、「あっ、大悪党、泥棒め、おれの店の前に立ちどまったりしてはいかんと、何べんも言ったじゃないか。貴様はおれの零落と不名誉を望んでいるのか。おい、お前たち、あいつを取り押えろ、ひっつかまえろ。」
そこで黒人と白人の奴隷は、この憐れな床屋に飛びかかって、ひっくりかえし、踏みつけました。そして染物屋自身も立ち上がって、大きな棒を取り上げて、言いました、「こいつを腹這いにさせろ。」そしてその背中に、棒を百食らわせました。次に言いました、「仰向けにひっくりかえせ。」そしてその腹にもまた、棒を百食らわせました。それが済むと、彼は怒鳴りつけました、「おお浅ましい碌でなし、おお裏切り者め。万一今後またもおれの店の前で貴様を見かけたら、おれは貴様を王様のところにやって、生皮を剥いで、王宮の門前で杙刺《くしざし》にしていただくぞ。とっとと行け。アッラーは貴様を呪いなさるように。おお松脂《まつやに》の顔め。」そこで憐れな床屋は、この扱いにすっかり辱しめられ、切なく感じ、心は砕け、魂はちぢこまり、そこから這うようにして歩いて、再び隊商宿《カーン》に向い、無言の裡に泣きながら、彼に対していきり立った群衆の嘲りと、染物師アブー・キールの讃美者たちの呪いに追い縋られて、帰ってゆきました。
自分の部屋に着くと、彼はそのまま茣蓙の上に長々と身を横たえて、先ほどアブー・キールから受けた仕打ちについて、思いめぐらしはじめました。そしてひと晩中、眼を閉じることができないで過ごしました。それほどわが身を不幸に、切なく感じたのです。けれども朝になると、打たれた跡も熱がとれたので、起きることができ、そこで、すっかり身を休め、また病中ずっと身を清めずにいたから、久しぶりで身体を洗おうと思い、浴場《ハンマーム》に行って沐浴《ゆあみ》するつもりで、外に出ることができました。そこで通りがかりの人に訊ねました、「兄弟よ、浴場《ハンマーム》に行くのはどの道でしょう。」その男は答えました、「浴場《ハンマーム》だって? 浴場《ハンマーム》とはいったい何のことですかい。」アブー・シールは言いました、「だってそれは、身を洗い、身体についている、汚《よご》れや垢を取ってもらいに行く場所ですよ。これこそ世の中でいちばん気持のよい場所です。」その男は答えました、「それじゃ海の水に浸《つか》りにいらっしゃい。みんなそこに水浴に行くのです。」アブー・シールは言いました、「私の望んでいるのは、浴場《ハンマーム》での沐浴《ゆあみ》ですが。」相手は答えました、「われわれは、おっしゃる浴場《ハンマーム》とは何のことやら全然知らんね。われわれが水浴したい時は、海に行くからね。王様御自身でも、お身体を洗いたい時は、われわれと同じになさる。つまり海水浴にいらっしゃるのです。」
こうしてアブー・シールは、浴場《ハンマーム》というものは、この町の住民には未知なものであることを聞き、彼らは温浴や、按摩を施すことや、垢を取り去ることや、毛を抜くことなどの利用を知らないことを確かめると、そのまま王様の御殿のほうに向って行って、拝謁を願うと、許されました。そこで王様の御座所にはいって、御手の間の床《ゆか》に接吻し、御身の上に祝福を祈ってから、言上致しました、「おお当代の王様、私は異国の者で、床屋を職業と致しまする。また同じく他のいろいろの業、わけても浴場《ハンマーム》の風呂焚きと、按摩の業をも営むことができます、もっとも私の国ではこの二つの職業はそれぞれ、一生の間それのみしか行なわぬ別々の人間が、営んでおりまするが。そして私は今日、この都にて浴場《ハンマーム》に行きたいと存じましたが、誰ひとり私にその道を教えてくれることができず、誰ひとり浴場《ハンマーム》という言葉の意味がわかりませんでした。ところで、わが君の都のごとく美しい町に、浴場《ハンマーム》がないとは、まことに驚き入ったること、およそ町を楽しく美しくするには、世にこれにまさるものはござりませぬ。真実、おお当代の王様、浴場《ハンマーム》こそは地上の楽園でございまする。」この言葉に、王様はたいへんお驚きになって、お訊ねになりました、「さればその方は、その方の言うその浴場《ハンマーム》なるものを、余に説き明かすことができるかな。何となれば、余とてもまた、かつてそのようなものの話を聞いたことはないのじゃ。」するとアブー・シールは言いました、「さればでございます、おお王様、浴場《ハンマーム》と申すは、これこれしかじかの模様にて建てられた建物で、人はこれこれしかじかの工合にそこで入浴し、これこれしかじかの愉楽を覚えるのでございます。それというのは、そこではこれこれしかじかのことを致しまするから。」そして彼は立派に作られた浴場《ハンマーム》というものの、長所、利益、快楽をば、詳しくお話し致しました。次に付け加えて、「けれども私の舌は、浴場《ハンマーム》とその愉快との正確な模様をお伝え申すより先に、毛だらけになってしまうでござりましょう。わかるためには試してみなければなりませぬ。そしてわが君の都は、浴場《ハンマーム》をひとつ持つような日にならねば、真に完全無欠な都ではござりますまい。」
このアブー・シールの言葉を聞いて、王様は御満足に胸拡がり、快闊を覚えなさって、お叫びになりました、「よくぞわが都に来たった、おお、心|直《すぐ》なる人々の息子よ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十五夜になると[#「けれども第四百九十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして王様は、お手ずから、類いのない誉れの衣を彼にお着せになって、おっしゃいました、「その方の望みのものは何なりと聞き届けられ、かつそれ以上にとらせるであろうぞ。さりながら、いそぎ浴場《ハンマーム》を築造致せ。余の早くそれを見、それを楽しみたき念は、切なるものがあるぞよ。」そして王様は彼に見事な馬一頭と、二人の黒人と、二人の少年と、四人の乙女と、すばらしい家を賜わりました。そして染物師になすったよりも一段と彼を優遇なすって、いちばん腕利きの建築師たちをお渡しになって、彼らにおっしゃいました、「汝らは彼が自身選んだ敷地に、浴場《ハンマーム》を建てなければならぬぞよ。」そこでアブー・シールはその建築師たちを連れて、一緒に全市を歩き廻り、最後に適当と思う敷地を見つけて、そこに浴場《ハンマーム》を建てるように命じました。彼の指示に従って、建築師たちは、世界に類いのないような浴場《ハンマーム》を建て、それをば組み合わせた模様とさまざまの色の大理石と、分別を奪うような世にも稀な装飾でもって、飾りました。これらすべてがアブー・シールの指図によったものでございます。
いよいよ建築が出来上がると、アブー・シールは中央の大浴槽を透明な雪花石膏で、他の浴槽二つを貴重な大理石で作らせました。それから王様にお目にかかりに参って、申し上げました、「浴場《ハンマーム》の用意はできましたが、まだいろいろの附属物と備品類が足りませぬ。」すると王様は一万ディナール下さったので、彼はいそいでそれを使って、リンネルと絹の手拭とか、貴重な香精とか、香水とか、薫香その他といった、いろいろの附属物と備品類を買い求めました。そして彼は一々のものをそれぞれの場所に置き、万事豊富にあるようにするため、何ひとつ惜しみませんでした。次に自分の仕事を手伝ってもらうため、十人の頑丈な助手を王様にお願いしますと、王様は即座に、二十人の体格のよい、月のように美しい少年を下さったので、アブー・シールはいそいで、これらに按摩と流しの術の手《て》ほどきをしてやり、自分で彼らの按摩をし身体を流しては、こんどは自分の身体にいろいろの実験を繰り返させて、仕込みました。そして彼らが十分この術に熟達すると、いよいよ浴場《ハンマーム》開場の日を定めて、王様に御案内申し上げました。
その日、アブー・シールは、風呂と浴槽の水とを沸かさせて、香炉に薫香と香料を焚かせ、泉水の水を流させましたが、その水音はまことに美わしく、そのそばではどんな音楽も騒々しくなるほどでございました。中央浴槽の大噴水と申せば、まことに比類のないすばらしいもので、人々の心をうっとりと奪い去ることは、もうすこしも疑いございません。そして内部では、清潔さと爽やかさが一切のものに漲って、百合と素馨の純白を欺くばかりでございました。
ですから、王様が大臣《ワジール》と貴族《アミール》を従えて、浴場《ハンマーム》の大門をおまたぎになると、その場所の美わしい装飾と、さまざまの香りと、泉水の水盤のなかの水の音楽とに、お眼とお鼻とお耳を、快く感じさせられなさいました。それで御感《ぎよかん》ななめならず、お訊ねになりました、「これは何じゃ。」アブー・シールはお答えしました、「これぞ浴場《ハンマーム》でございます。けれどもこれはほんの入口にすぎませぬ。」そして王様を第一の部屋に御案内して、台の上におのせしてお召物をとり、お頭《つむ》からお足の先まで手拭でくるみ、お足に高い木履《ぼくり》をお穿かせ申し、第二の部屋にお連れして、そこで十分にお汗を出させ申し上げました。それから小童たちに手伝わせて、毛で作った手袋でもってお手足をこすり、皮膚の毛孔にたまっているすべての体内の汚れを、ちょうど長虫みたいな糸状にして、取り出しました。それを王様にお目にかけると、たいへんびっくりなさいました。次に、たっぷりと水をかけ、たっぷりと石鹸を使って、お身体を流し、それから、薔薇の香水を匂わせた水を満たした大理石の湯槽《ゆぶね》にお入れして、しばらくの間|浸《つか》らせてからお出しし、薔薇水や貴重な香精で、お頭《つむ》をお洗い申し上げました。それから今度は、両手両足のお爪を指甲花《ヘンナ》でもって染めて、曙色を与えました。そしてこの支度の間ずっと、香り高い伽羅《きやら》と竜涎香《ナード》があたりにくゆって、一同に芳香を沁み入らせました。
これが終ると、王様は鳥のように身軽になるのを覚え、心臓のすべての扇(4)でもって呼吸するように、お感じになりました。お身体はすっかり滑らかになり引き締まり、手で触れると、響きよい音を発しました。けれども、少年たちが軽やかに調子よく、さながら御自身が琵琶《ウーデイ》か六絃琴《ジーターラ》に変ったかとお思いなさったほどに、四肢を按摩しはじめた時の、よいお心持はいかばかりでございましょう。王様は、類いのない活気が身に漲るのをお覚えになって、もうすこしで獅子のように吼えなさるところでした。そこでお叫びになりました、「アッラーにかけて、未だかつて、余はかくも身に元気溢るるを覚えたことはなかった。これぞ浴場《ハンマーム》なるか、おお床屋の師匠よ。」アブー・シールは答えました、「いかにもさようにござりまする、おお当代の王様よ。」王様はおっしゃいました、「わが頭《こうべ》にかけて、余の都は、この浴場《ハンマーム》を造営致して以来、はじめて都になったわい。」そして、麝香を滲みこませた手拭にくるまって御身を乾かしてから、再び台にお上がりになって、雪を細かにして作ったシャーベットをお飲みになろうというとき、王様はアブー・シールにお訊ねになりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十六夜になると[#「けれども第四百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王様はアブー・シールにお訊ねになりました、「さてその方はかかる沐浴《ゆあみ》はいくばくの値いありと考え、何ほどの料金を支払わせるつもりかな。」彼は答えました、「王様のお定めなさる料金に致しまする。」王様はおっしゃいました、「余はかかる沐浴《ゆあみ》には一千ディナールと定める。それ以下では相成らぬ。」そしてアブー・シールに一千ディナールを払わせなすって、おっしゃいました、「して今後その方は、この浴場《ハンマーム》に入浴に来る客ひとりひとりに、一千ディナールを払わせるがよい。」けれどもアブー・シールは答えました、「恐れながら、おお当代の王様よ、万人ことごとく相等しくはござりませぬ。ある者は富み、ある者は貧しいのでございます。されば、もし私がひとりひとりのお客様から一千ディナールを取ろうといたしますれば、この浴場《ハンマーム》はもはやなすことなく、閉鎖することに相成りましょう。と申すは、一回の入浴に一千ディナール払うことは、貧しい者のよくし得るところではござりませぬから。」王様はお訊ねになりました、「ではどう致す所存じゃ。」彼は答えました、「料金の点は、お客様の思し召しにまかせましょう。かくしてめいめいが自分の資力と魂の寛大に応じて、支払うことと相成りましょう。貧しい者は出すことのできるだけしか出さぬでございましょう。この一千ディナールの料金のごときは、王者の贈物でございます。」すると、貴族《アミール》と大臣《ワジール》たちはこの言葉を聞いて、アブー・シールをたいそう讃めた上で、言い添えました、「この申すところは真実《まこと》でございます、おお当代の王よ、これぞ正しいことです。何となれば、おおわれらの愛慕し奉るわが君よ、わが君はあらゆる人々が御自身のごとくなし得るものと、お思いになっていらっしゃるからでございます。」王様はおっしゃいました、「あるいは然らん。いずれにせよ、この男は異国の者にて極めて貧しい者なれば、これを手厚く寛仁に遇するは、われらが義務《つとめ》じゃ。彼はわれらが都にこの浴場《ハンマーム》なるものを与えてくれ、これはわれらの未だかつて類を見ざりしものにて、これによって、われらが都は無比の貫禄と光彩とを得たれば、そは尚更のことじゃ。さりながら、その方たちが、入浴ごとに一千ディナールを支払うことはとうてい叶わぬと申すからには、この度は、その方たちは各自単に百ディナールを支払い、それに加えて、若い奴隷と黒人と乙女、それぞれ一名を贈るのみに致すことを差し許す。して将来は、この者がかく判断致すからには、その方たちは各自、己が資力と魂の寛大の促すところを支払うべし。」一同は答えました、「いかにも、結構でございます。」それでその日、彼らは浴場《ハンマーム》で入浴すると、めいめいアブー・シールに、金貨百ディナールと、白人奴隷《ママルーク》と黒人と乙女、それぞれ一名ずつ支払いました。ところが、王様のあとから、入浴した貴族《アミール》と大官の数は、四百名にのぼりましたので、アブー・シールは四万ディナールと、四十人の白人少年と、四十人の黒人と、四十人の乙女をもらい、それに王様からは、一万ディナールと、十人の白人少年と、十人の若い黒人と、十人の月のような乙女を頂戴したのでございます。
アブー・シールは、この全部の金貨と贈物を受け取りますと、進み出て、王様の御手の間の床に接吻してから、申し上げました、「おお幸多き王様、おお吉兆の玉顔、おお正当にして公平満てる聖慮の主君よ、いったいこの白人少年と黒人と乙女の全軍を従えて、私はいかなる場所に、宿りを致すことができましょうか。」王様はお答えになりました、「余はその方を十分富裕に致してやりたきものとて、これらすべてをその方に与えさせたのじゃ。それというのは、けだしその方もいつかは、愛する家族に再会したき念を生じ、故国の家族の許に戻ることを思うであろうと、こう考えたからだ。その際、その方はわが家にて、身内とともに不自由なく暮らすに十分の富を携えて、われらが許を出発することができるであろうが。」彼は答えました、「おお当代の王様、願わくはアッラーはわが君を永く栄えさせたまわんことを。けれども、これらの奴隷全部は、王様方にはよろしゅうございますが、私には役に立ちませぬ。自分の家族と一緒にパンとチーズを食べるのに、こうしたすべては、私にはまず用がございませんから。この白人少年と若い黒人と乙女の一軍に、衣食を与えるには、いったい私はどう致しましょうか。アッラーにかけて、彼らはたちまちその若々しい歯でもって、私の儲けを全部食べてしまい、儲けの次には、私を食べてしまうことでございましょう。」王様は笑い出されて、おっしゃいました、「わが生命《いのち》にかけて、なるほどもっともじゃ。これらの者は大軍と成った。これではその方一人では、いかなる場所に行こうとも、とうてい彼らを満足させることはむずかしかろう。しからば、一人を百ディナールずつにて、これを余に売って始末するのはどうじゃ。」アブー・シールは答えました、「その値段にてお譲り申し上げまする。」王様はすぐに出納官をお呼びになると、出納官はアブー・シールに、五百五十人の奴隷の代金を残らず払いました。すると王様は、こんどはこれらすべての奴隷をば、それぞれもとの主人のところに、贈物としてお返しになりました。アブー・シールは王様のお志に厚くお礼申し上げて、言いました、「ただアッラーのみが満腹させることのできなさるような、これらの若い大食の食人鬼《グール》どもの恐ろしい歯の間から、わが君は私をお救いなされて、私の魂を安らかにして下さったように、何とぞアッラーは、わが君の御魂を安らかになしたまいますように。」王様はこの言葉に笑い出されて、更にアブー・シールに対して、たいそう御親切にして下さいました。それから、王国の大官を従えて、浴場《ハンマーム》を出て、王宮にお帰りになりました。
アブー・シールのほうでは、その夜は自分の家で、金貨をいくつもの袋に詰め、袋をひとつひとつ念入りに封印して過ごしました。自分の僕婢としては、二十人の黒人と、二十人の少年と、四人の乙女を持ちました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十七夜になると[#「けれども第四百九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
翌日になると、アブー・シールは触れ役人に、全市を触れまわらせました、「おお、アッラーに創《つく》られし人々よ、皆々入浴をしに、帝室浴場に駆けつけよ。ここ三日は無料であるぞ。」そこでおびただしい群衆が三日の間、「帝室浴場」と名づけられたこの浴場《ハンマーム》に、無代で入浴しに殺到致したのでございます。けれども四日目の朝からは、アブー・シールが自身、浴場《ハンマーム》の戸口の、金箱の後ろに陣取って、入場料を徴収しはじめましたが、それは風呂を出てから、各人の思し召しにまかせました。そして夜になると、アブー・シールは、アッラー(その称《たた》えられよかし)の御同意を得て、金箱にはいるだけの分量の収入を、お客から受け取っておりました。こうして彼は、彼の天命が積み上げてくれる金貨の山を、積みはじめたのでした。
こうした次第でございます。すると、女王様は、御夫君の王様が感激してこの入浴の話をなさるのをお聞きになって、まず最初ためしに、一度入浴してみようと決心なさいました。そして、その御意向をアブー・シールに伝えさせますと、彼は女王様のお気に召し、かつは男子と同様に婦人客をも得たいと思って、それから後は、午前を男子の入浴に、午後を女子の入浴にあてました。そして朝の間は、自分自身金箱の後ろに控えて集金に当り、午後は、一人の女差配をこの役目に任じて、その仕事をまかせました。ですから、女王様が浴場《ハンマーム》におはいりになり、新式のこの入浴の実に快い気分を、御自身体験なさると、女王様はすっかりお悦びになって、これからは毎金曜日の午後、ここにお出でになることに定めなされ、そしてアブー・シールに対して、王様に劣らず、惜しみなくお恵みになりました。一方王様は、毎金曜日午前中ここにお戻りになり、そのつど、贈物の外に、金貨一千ディナールをお払いになる習慣になっておりました。
こうしてアブー・シールは、ますます富と名誉と光栄の道に、深く歩み入って行きました。けれども、それかといって、彼は相変らず謙遜な、あるいは正直な態度を棄てませんでした。それどころか、彼は昔と同じように、顧客に対しては愛想よく、にこやかで、礼儀正しい態度を持し、貧乏な人々に対しては、決してお金を受け取ろうとはせず、寛大な態度を持ちつづけました。そしてこの寛大さこそ、やがて彼の身の救いの因《もと》となったことは、やがてこのお話の進むにつれて、証拠立てられるでございましょうが、しかしこの救いは、ある船長を仲介として来ることになったということは、今からよく覚えておいていただきましょう。その船長というのは、ある日、お金がなかったけれども、それでも全然費用なしで、申し分なく気持のよい入浴ができたのです。その上更に、シャーベットでもって喉を潤おし、アブー・シール自身、親しくでき得る限りのあらゆる敬意をもって、門口まで送ってくれたものですから、そのとき以来船長は、何か贈物をするなり、その外の仕方で、アブー・シールに謝意を表する方法を、いろいろと思案しはじめました。そしてその機会は、見出すに手間どらなかったのでございました。船長については、以上のようでございます。
さて染物屋アブー・キールはと申しますと、町中の人がこの珍しい浴場《ハンマーム》の噂をして、「たしかに、あれこそこの世の天国だ」と言いながら、感嘆して話しているのを、そのうちとうとう聞きつけました。そしてひとつこの天国の歓楽を、自身ためしに行ってみようと決心しましたが、まだその天国の番人の名は知りませんでした。そこで彼はいちばん立派な着物を着こんで、豪華な馬具をつけた牝騾馬に乗り、長い棒をもった奴隷たちを前後に歩かせて、浴場《ハンマーム》のほうへと向いました。門に着くと、伽羅の木の匂いと竜涎香《ナード》の香りがして、無数の人々がはいったり出たりし、たとえ豪《えら》いお歴々の人たちであろうが、貧しい人たちの間でも最も貧しい人たちであろうが、身分の低い人たちの間でも最も身分の低い人たちであろうが、みんな腰掛に坐って、順番を待っているのが見えました。
そこで彼は玄関にはいって行きますと、金箱の後ろには、昔の道連れのアブー・シールが、丸々と肥え、艶々しく、にこやかにいるのを認めたのでございます。アブー・シールとわかるにはちょっと手間どったくらいで、それほど、その顔の昔の窪みは、今はすっかり丈夫そうな脂肪《あぶら》で埋められ、顔色は輝いて、人相がずっとよくなっております。これを見ると、染物屋はびっくり仰天したにかかわらず、さも非常に嬉しいというようなふりをして、もうこの上もなく図々しく、彼を迎えて早くも立ち上がっているアブー・シールのほうに歩み寄って、親しげな非難に満ちた口調で、彼に言ったものでした、「おい、どうしたことだ、やあ、アブー・シール。これが友達ともあろうものの振舞いかい。礼儀作法と慇懃を心得た人間のやり口かい。お前は、おれが王様お抱えの染物師になり、この町でいちばん金持の、またいちばん有力な人物の一人になったということを知っているくせに、決しておれに会いに来もしなければ、様子を問い合わせようともしないね。お前はてんで、『おれの昔の仲間のアブー・キールは、いったいどうなったかしらん』と自問してみさえしない。おれのほうじゃ、到る処でお前のことを聞き、八方におれの奴隷をやって、隊商宿《カーン》や商店全部に、お前を探させたが、誰ひとりお前についての消息を知らせることも、お前の行方を追わせることもできなかったのだぜ。」この言葉に、アブー・シールは、非常に悲しみを覚えながら頭を振り、そして答えました、「やあ、アブー・キール、じゃお前はおれがお前のところに行ったときの、お前の仕打ちを忘れたのか、おれをさんざん殴りつけたことや、公衆の面前で、おれを泥棒、裏切り者、碌でなし呼ばわりして、おれにさんざん恥をかかせたことを、忘れたのか。」するとアブー・キールは、ひどくむっとしたような様子を見せて、叫びました、「何を言うんだ。おれの撲《ぶ》ったあの男が、お前だったとでもいうのか。」彼は答えました、「そうとも、おれだったよ。」アブー・キールはいくたびも誓って、彼とはわからなかったと誓言しはじめて、言いました、「こりゃたしかに、おれはお前を他のやつと取りちがえたのだ、これまでもう何度も、おれの切地を盗もうとした泥棒とねえ。お前はあんまり痩せて黄色くなっていたので、おれにはとてもお前とわかることができなかったのだ。」次に彼は自分の所行を悔いはじめ、両手を打ち打ち言いました、「光栄あるアッラー、称《ほ》められたもう者の裡にしか、頼りも権力《ちから》もない。どうしておれは、あんな風に勘違いすることができたのかなあ。だがまた、落度はとりわけお前のほうにもあったのじゃないかい。お前のほうから初めに、おれとわかったのなら、『おれは誰某《たれそれ》だよ』と言って、おれの前で名乗ってくれればよかったのに。あの日は、おれはどっさり仕事をしょって、全くうわの空で、無我夢中でいたのだから、なおのことだ。だからおれは、お前の上のアッラーにかけて、おお兄弟よ、どうかおれを許して、あの一件を忘れてくれ。あれはおれたちの天命に記《しる》されていたことだからな。」アブー・シールは答えました、「どうかアッラーがお前を許して下さるように、おお仲間よ、全くあれは天命の密《ひそ》かな取極めであった。償いはアッラーの上にある(5)。」染物屋は言いました、「おれをすっかり許してくれ。」彼は答えました、「では、どうかアッラーは、おれがお前を無罪放免にしてあげるように、お前の良心を無罪放免にして下さるように。永遠の奥底で下された取極めに対して、われわれがいったい何ができようぞ。では浴場《ハンマーム》にはいって、着物を脱ぎ、お前にとって歓びと爽やかの満ちた入浴をしなさい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十八夜になると[#「けれども第四百九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアブー・キールは訊ねました、「いったいこの仕合せは、どこから舞い込んだんだね。」彼は答えました、「お前に繁栄の扉を開いて下さったお方は、おれにもまたそれを開いて下さったのだ。」そしてアブー・キールの命令によって鞭打たれた日からの、自分の物語を聞かせてやりました。けれども、それを繰り返したところで、詮なきことでございます。するとアブー・キールは言いました、「お前が王様の御覚《おんおぼ》えめでたいと聞いて、おれはこんな嬉しいことはない。おれからも、お前は永年来のおれの友達だと王様に申し上げて、御寵愛がますます増すように骨折ってあげよう。」けれどももとの床屋は答えました、「天運の取極めに対して、人間どもの口出しが何になろう。ひとりアッラーのみが、寵愛と失寵を御手のうちに握りたもうのだ。まあお前は、いそいで着物を脱いで、浴場《ハンマーム》にはいり、湯と清潔の恩恵《めぐみ》を楽しみなさい。」そして自身でこれを貸切室に案内し、自分の手で擦って、石鹸で流し、按摩をし、最後まで面倒を見てやって、この仕事を助手の誰にもまかせようとしませんでした。次にこれを涼みの間《ま》の台の上に乗せて、自身でシャーベットや強壮剤をお給仕してやり、しかもそれを非常に敬意を払ってしたので、一般のお客はみな、アブー・シール自身親しく染物師にこのような世話をし、異例な尊敬を払うのを見て、呆れてしまいました。普通は王様だけが、このような扱いを受けなさるのですから。
出発の時になると、アブー・キールは、アブー・シールにいくらかのお金を差し出そうとしましたが、アブー・シールは飽くまでも受け取らないで、言いました、「おれはお前の仲間であり、われわれの間には何の別隔《わけへだて》もないのに、おれに金を差し出すとは恥ずかしくないか。」アブー・キールは言いました、「そうか。じゃその代り、おれにひとつ忠告をさせてもらおう、それはお前にたいへん役に立つだろう。この浴場《ハンマーム》はいかにも立派だが、しかしこれが全くすばらしいものになるには、まだひとつだけ欠けたものがあるよ。」アブー・シールは訊ねました、「というと、何だい。」相手は言いました、「脱毛剤だよ。実際むかしおれは見たけど、お前がお客の頭を剃りおわると、お前は身体《からだ》のその外の場所の毛には、やはり剃刀をあてたり、毛抜きを使っていたっけ。だが実は、おれが処方を知っている煉薬の脱毛剤にまさるものはないので、それをおれはお前に無代《ただ》で教えてあげよう。」アブー・シールは答えました、「なるほど、そりゃそうだ、おお仲間よ、その最上の脱毛剤の処方を教えてもらえれば、願ったり叶ったりだね。」アブー・キールは言いました、「こうだ。黄色の砒素と生石灰《せいせつかい》を求めて、それに少々油を加えてふたつを一緒に捏ね、それに少々麝香を混ぜて、悪臭を抜く。こうして出来た煉薬を、素焼の壺にしまっておいて、必要の際に使うがいい。これを使えば首尾がいいことは、保証するぜ、わけても王様が、お毛がまるで魔法のように、何ごともなくするっと、脱け落ちるのを御覧になり、その下から、皮膚がまっ白くお目の前に現われればねえ。」そしてアブー・キールは、こうして昔の連れにこの処方を教えて、浴場《ハンマーム》を出ると、大いそぎで王宮へと向いました。
王様の御前に着いて、御手の間に敬意を表してから、彼は申し上げました、「私は御忠告申し上げようとて参殿致しました、おお当代の王様よ。」王様はおっしゃいました、「してどのような忠告を齎らしたのじゃ。」彼は答えました、「あの悪人、あの王座と宗門の敵、あの浴場《ハンマーム》の主人アブー・シールの邪悪の手より、今日までわが君を護りたもうたアッラーに讃えあれ。」王様はたいそうお驚きになって、おっしゃいました、「いったい何のことじゃ。」彼は言いました、「されば、おお当代の王様よ、万一不幸にして、今一度あの浴場《ハンマーム》におはいり遊ばしたら、わが君は救いの道なく亡びなさるものと、思し召されよ。」王様は言いました、「どうしてじゃ。」アブー・キールは眼に嘘の慄れをいっぱい浮かべて、大げさな恐ろしそうな身振りをして、小声で言いました、「毒によってでございます。きゃつは黄色の砒素と生石灰で作った煉薬を、わが君のために調製しまして、これはほんの皮膚の毛の上につけただけで、火のように毛を焼いてしまうものでございます。そしてきゃつはきっと、『臀部に快く何ごともなく、臀部の毛を落とすには、この煉薬にまさるものはござりませぬ』と申し上げて、この薬をお勧めするでしょう。そしてこの薬をわが君の御居敷《おんいしき》に塗って、この方法によって、わが君を毒害し奉るでございましょうが、これこそ、あらゆる方法のなかで最も苦痛甚だしいものでございます。それというのは、かの浴場《ハンマーム》の主人こそ、実は、かかる手段をもってわが君の御魂を抜き奉らんとて、キリスト教徒の王に傭われた間諜に外なりませぬ。そこで私は、取りいそぎ御注進までに、駈けつけた次第でございます、わが君の御恵《みめぐ》みはわが上にござりますれば。」
この染物師アブー・キールの言葉をお聞きになると、王様は激しい恐怖に襲われるのをお感じになり、もう身顫いして、まるで早くも焼けつく毒に悩まされているかのように、お尻がひりひりなすったほどでした。そして染物師におっしゃいました、「余はこれより直ちに総理|大臣《ワジール》とともに浴場《ハンマーム》に出向き、その方の言葉を調べてみると致そう。されどそれまでは、くれぐれもこの件の秘密を守れよ。」そして総理|大臣《ワジール》を連れて、一緒に浴場《ハンマーム》にいらっしゃいました。
すると、いつものように、アブー・シールは王様を貸切室に御案内して、お身体を擦り、お流ししようとしました。けれども、王様はこれにおっしゃいました、「まずわが総理|大臣《ワジール》よりはじめよ。」そこで総理|大臣《ワジール》のほうに向き直って、言いました、「どうぞお横におなり下さい。」この総理|大臣《ワジール》というのが、丸々と太って、年とった牡山羊のように毛むくじゃらの方でしたが、そこで承わり畏まって答え、大理石の上に横になり、十分に擦り、石鹸をつけ、洗ってもらいました。それが済むと、アブー・シールは王様に申し上げました、「おお当代の王様、私は脱毛の効能が非常に著しく、もはや下《しも》の毛に対しては、一切の剃刀が不要になるような薬剤を、手に入れました。」王様はおっしゃいました、「ではその薬剤をば、わが総理|大臣《ワジール》の下《しも》の毛に試みてみよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九十九夜になると[#「けれども第四百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでアブー・シールは、素焼の壺を持ち出して、くだんの煉薬の巴旦杏ほどの塊りを取り出し、ほんの試しに、それを総理|大臣《ワジール》の下腹の上部に拡げました。するとその薬剤の脱毛の利き目は驚くべきものがあり、王様は、もうこれは恐ろしい毒薬だということを疑いませんでした。そしてこの有様を見て激怒に満ちて、浴場《ハンマーム》の若い者たちのほうを向いて、お叫びになりました、「この不届者を捕えよ。」そして驚きのあまり口も利けず、ほとんど茫然としてしまったアブー・シールを、指でお指しになりました。それから、王様と大臣《ワジール》は大いそぎで着物を着て、アブー・シールを外にいる警吏の手に引き渡させて、御帰館になりました。
そこで王様は港と船舶の長《おさ》を召し出して、言いつけなさいました、「汝はアブー・シールなる謀反人《むほんにん》を引っ捕えて、袋に生石灰を満たして、そのなかにこの者を閉じ込め、それをばそっくりわが宮殿の窓の下の、海中に放り込め。かくしてこの不届者は、かつは溺れかつは薬に焼かれて、同時にふたつの死を死するであろうぞ。」船の長《おさ》は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」
ところが、ちょうどこの港と船舶の長《おさ》というのが、むかしアブー・シールの恩を蒙った船長だったのでございます。そこで船長は、いそいで土牢に行ってアブー・シールに会い、彼を連れ出して小舟に乗せ、都から程遠からぬところにある小島に連れてゆき、そこでようやく思いのまま話すことができました。そして彼に訊ねました、「おお何某さんよ、私はそのむかしあなたが私に尽くして下さった敬意を、決して忘れは致しません。そして私はあなたに、善に報いる善をもってしたいと存じます。ですから、王様とのあなたの事件を私に話し、御寵愛を失って、残酷な死刑に処せられるに値いするという、そのあなたの犯した罪を聞かせて下さい。」アブー・シールは答えました、「アッラーにかけて、おお兄弟よ、私は誓って申します、私には一切の罪なく、このような罰に値いするようなことは、決して何ひとつ致した覚えはありません。」船長は言いました、「それでは、あなたはきっと、王様の御心中にあなたを中傷した敵どもを、持っていなさるのにちがいありません。というのは、あまりに目立つ仕合せと天運の恵みによって、人目を惹く人は誰しも、いつでも羨やむ人たちと妬む人たちを持つものですからね。けれども何も心配なさることはない。ここの、この島にいれば、あなたは安泰です。ようこそいらっしゃった、御安心なさい。あなたはそのうち私がお国に帰してあげられるようになるまで、漁をして時を過ごしておいでなさい。さしあたって王様の御前では、あなたが死んだように見せかけておいてあげましょう。」アブー・シールは船長の手を接吻すると、船長は別れてすぐに、生石灰を満たした大きな袋を携えて、王様の御殿のほうに向い、海に臨む窓の下まで参りました。
王様はちょうど、窓に肱をついて、御命令の実施を待っていらっしゃいました。船長は窓の下に着くと、王様の実施の合図を仰ぐために、眼を上げました。すると王様は、窓の外に腕を出しなさって、袋を海に投げ込むように、指で合図をなさいました。それでそれは直ちに実施されました。ところがその同じ瞬間に、王様は手でもってあまり荒々しい身振りをなすったので、黄金の指環を水中に取り落としてしまったのですが、この指環こそは、王様にとっては、御自分の魂と同じくらい貴い品だったのでございます。
実際、海中に取り落としたこの指環というのは、魔法の護符《おまもり》の指環でして、王様の権威と権力はこの指環にかかっていて、これが人民と軍隊を抑えておく轡に役立っていたのでございます。というのは、王様は罪人を処刑する命令をお下しになりたい際には、ただ指にこの指環をはめた手をあげさえすれば、すぐに指環から突然電光が迸り出て、罪人の首を両肩の間から刎ね落として、これを即死させて地に倒すのでございます。
ですから、こうして御自分の指環が海中に落ちるのを御覧になると、王様は誰にもこのことを話そうとはなさらず、その紛失については、ひた隠しに隠しておおきになりました。そうしないことには、家来たちに、もはやこれ以上畏敬させ、服従させておくことができないようになられたでしょう。王様については、このようでございます。
さてアブー・シールのほうは、島で独りきりになると、船長にもらった魚の網を取り上げ、苦しい思いを紛らし、糧《かて》を得ようと思って、海で漁をしはじめました。そして網を打ってしばらく待ってから、引き寄せてみると、あらゆる色とあらゆる大きさの魚が、いっぱいかかっておりました。そこで独りごとを言いました、「アッラーにかけて、もうずいぶん長いこと、魚をすこしも食べなかったっけ。一匹だけ自分用にして、あの船長の言った二人の御料理所の小使に渡し、油で揚げてもらうとしよう。」実際、港と船舶の長《おさ》は、毎日王様の御料理所に鮮魚を納める役目も、引き受けておりました。ちょうどその日は、自分自身が魚の漁の監督をしにゆけなかったので、その仕事をアブー・シールに頼み、二人の御料理所の小使が来るから、取った魚を王様に差し上げる分として、渡してくれるようにと、言い置いて行ったのでした。アブー・シールは最初のひと網を打つとすぐに、この大漁を恵まれたのです。そこで、やがて取りにくる二人の小使に獲物を引き渡す前に、まず自分用にと、いちばん大きく、いちばん見事な魚を選び出しました。それから、帯に差しておいた大きな包丁を取り出して、ぴちぴち跳ねるお魚の鰓に、ぐさっと包丁を入れました。ところが、包丁の切っ先にひっかかって、その魚が呑み込んだにちがいない黄金の指環が出てくるのを見た時には、彼の驚きは少なからぬものがございました。
これを見ると、アブー・シールは、これこそまさに王様の指から海中に落ちた品でしたが、この護符の指環の恐ろしい霊験を知らず……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百夜になると[#「けれども第五百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……またこれがそうたいしたものとも思いませんでしたが、当然自分の手に入ったものなので、この指環を取り上げて、自分自身の指にはめました。
このとき、王様の御料理所の御用達の小使二人がやってきて、彼に言いました、「おお漁師さん、あの毎日王様に納める魚を渡してくれる港の長《おさ》はどうしたのか、御存じでしょうか。もうずいぶん長い間、あの方のお帰りを待っているのですが。どっちのほうにいらっしたのでしょうか。」アブー・シールは、彼らの方に手を延ばしながら答えました、「あっちのほうへ行きなすったよ。」けれどもその瞬間に、御料理所の小使のふたつの首は、両肩の間から飛んで、首の持主と一緒に、地上に転がったのでございます。
この二人の御用達の小使を斃《たお》したのは、アブー・シールのはめていた指環から出た、電光でございました。
このように二人の小使が生命を落として倒れるのを見て、アブー・シールは不審に思いました、「この両人の首を、こんな風に刎ね飛ばしたのは、いったい何者だろうか。」そして自分のまわりを、空中や足許や、あちこち見廻し、悪い魔神《ジン》どもの隠れた力ではないかと思って、怖くて慄えはじめましたが、そのとき船長が帰ってくるのが見えました。船長はずっと遠くから彼の姿を認め、それと同時に、地上にふたつの屍体が横たわって、そのそばに、それぞれの首が転がっているのを見、またアブー・シールのはめた指環が、太陽の下に煌めいているのを見ました。それでひと目で、起ったことをさとりました。ですから、大いそぎで身を避けながら叫びかけました、「おお兄弟よ、指環をはめている手を、動かしてはいけない。さもないと私は殺されてしまう。後生だから、手を動かして下さるな。」
この言葉を聞くと、アブー・シールは、いよいよ驚いて面食らってしまい、船長を迎えに駈けつけたい気持にもかかわらず、じっと立ち尽くしていますと、船長はそのそばに来て、彼の首に飛びついて、言いました、「すべての人は自分の首に結びつけられた天命を運んでおります。あなたの天命は、遥かに王様の天命を凌ぐものです。だが、その指環はどこから手に入ったのか、聞かせて下さい。それから、私はその霊験を話してあげましょう。」そこでアブー・シールは、一切の話を船長にしましたが、それは繰り返すまでもございません。すると今度は、船長が感嘆しながら、その指環の恐るべき霊験を語り聞かせて、付け加えました、「こうなってはもう、あなたの生命《いのち》は安泰で、王様の生命のほうが危ういのです。あなたは恐れることなく、私について都に行き、指環をはめた指をひと振りすれば、敵どもの首を落とし、また王様の首でも、両肩の間から刎ね飛ばすことができますよ。」そして船長は、自分と一緒にアブー・シールを小舟に乗せ、再び都に連れ帰して、王宮の王様の前に案内しました。
このときちょうど、王様は政務会議《デイワーン》を開いて、大臣《ワジール》、貴族《アミール》、顧問官の群れに取り囲まれていらっしゃいました。そして指環を紛失なさったために、鼻まで憂いと憤りに詰まっていなさったけれども、王座の仇敵《あだかたき》がこの災いを悦ぶのを見ることを恐れて、敢えてそのことを口外することも、また海中を探して見つけさせることも、なさりかねていらっしゃったところでした。けれども、アブー・シールがはいってくるのを御覧になると、もう計られていよいよ破滅ということを少しも疑わず、叫びなさいました、「ああ、ここな不届者め、そもそもいかにして、汝は海の底より戻り、水に溺れ薬に焼かれて死することより、脱がれたるぞ。」アブー・シールは答えました、「おお当代の王様よ、アッラーこそ最も偉大にましまする。」そして、むかし無代で入浴させたお礼に、船長に救われた顛末と、指環を見つけた顛末と、その指環の威力を知らずに、二人の御用達の小使の死を惹き起した顛末をば、王様にお話しして、次に付け加えました、「さて、おお王様、私は、私に垂れたもうた御厚志に対する感謝の念から、かつは、万一私が魂のなかで罪人《つみびと》であるならば、既にこの指環を用いて私の敵を鏖殺《みなごろし》にし、彼らの王をも斃したであろうものをということをお目にかけるために、この指環を御返上申し上げんとて参りました。その代り、何とぞ私の存ぜぬものながら、そのゆえに私を罰しなされた罪をば、いっそう細心に御詮議下され、その上で、もし私が真に罪人なりと認められたら、私をば責苦のうちに一命を召し上げたもうよう、お願い申し上げまする。」そしてこの言葉を言いながら、アブー・シールは自分の指から指環を抜いて、それを王様にお渡しすると、王様はいそいでそれを御自分の指にはめ、安堵と満足でほっと息をつき、御自分の魂がお身体《からだ》に戻るのを感じなさいました。
そこで王様はつと立ち上がって、両腕をアブー・シールの首のまわりに投げかけて、おっしゃいました、「おお天晴《あつぱ》れの男よ、たしかに、その方こそは、よき生れの人々の間の、選り抜きの華じゃ。どうか、余をあまり咎めず、余がその方に加えし危害と、その方にかけし損失をば、許してもらいたい。まことに、その方ならで余人ならば、決して余にこの指環を返すことはあるまい。」床屋は答えました、「おお当代の王様、もし私が御良心を解き放つことを真にお望みなさるならば、今は、私に被《き》せられて、君のお怒りとお恨みを買うに到った罪名を、私におっしゃって下さりさえすればよろしゅうございます。」王様はおっしゃいました、「ワッラーヒ(6)、さようなことは無用であるぞ。余はその方が無実の罪を訴えられたるは、今は信じて疑わぬ。さりながら、その方が被せられたる罪を知りたいとあらば、次のごとき次第じゃ。染物師アブー・キールは、余にこれこれしかじかのことを申したのじゃ。」そして王様は、総理|大臣《ワジール》の下《しも》の毛の上部に試験したあの脱毛剤について、染物師が訴えたところを逐一お話しなさいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百一夜になると[#「けれども第五百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアブー・シールは、両眼に涙を浮かべて、答えました、「ワッラーヒ、おお当代の王様、この私は|ナザレト人《ナサーラ》の王などは全く存ぜず、かつてナザレト人《びと》の国の土など踏んだことは、決してござりませぬ。真実は、次のような次第です。」そして王様に、染物屋と自分とが|聖典の開扉《アル・キターブ・フアーテイハー》を誦えた上で、互いに助け合おうと誓言を交わした顛末、一緒に旅に出て、染物屋が自分に対して加えた、あらゆる悪だくみと悪業の顛末、それに、自分にあわせた鞭打ち沙汰と彼自身教えて行った脱毛剤の処方も含めて、お話ししました。そして付け加えました、「いずれにせよ、おお王様、あの肌に塗る脱毛剤は、非常にすぐれた品でございまして、呑み込みさえしなければ、毒にはなりませぬ。私の国では、男女共に、下《しも》の毛をごく快く落とすには、剃刀の代りに、あれしか用いませぬ。あの男が私に加えた悪業と、私にあわせたあしらいにつきましては、王様は隊商宿《カーン》の門番と、染物工場の徒弟たちをお呼び出しになり、彼らを訊問して、私の申し出る真相をお調べに相成りさえすれば、判明致すでございましょう。」そこで王様は、もう証拠は十分あがっているにもかかわらず、アブー・シールを悦ばせるために、隊商宿《カーン》の門番と、染物工場の徒弟たちを呼び出しました。すると訊問の末、皆が床屋の言葉を裏書きし、一同の明らかにしたところでは、染物師の不正な振舞いは、その言葉以上に甚だしいとわかったのでございます。
すると王様は、警吏に叫びなさいました、「あの染物師を無帽裸足、後ろ手に縛って引っ立てて参れ。」そこで警吏たちは、すぐに走って染物師の店を襲いましたが、そこには染物師がおりません。そこで自宅を探すと、彼は坐って、のんびりとした楽しみの悦びを味わい、疑いなくアブー・シールの死を考えているところでした。それで一同彼に殺到し、ある者は襟首に拳固を食わせ、ある者は尻を蹴とばし、ある者は腹に頭突きをくれて、これを踏んづけ、着物を脱がせて肌着だけにし、裸足、無帽で、後ろ手に縛って、王様の王座の前に引きずって来ました。すると彼は、アブー・シールが王様の右に坐り、隊商宿《カーン》の門番が部屋に立っていて、その両側には染物工場の徒弟たちが立っているのを見ました。まぎれもなく、こうしたすべてを見たのです。それで彼は恐ろしさのあまり、この王座の間《ま》のまんなかで、したことをしてしまいました。それというのも、もうのがれる道なく、悪運尽きたことをさとったからです。けれどもそのとき既に王様は、これを睨みつけて、おっしゃいました、「ここにいるのは、汝の昔の連れで、汝が盗み、剥ぎ、虐げ、見棄て、打ち、追い払い、罵り、非難し、結局死なしめた、憐れな男であることを、汝は否認し得まいぞ。」すると隊商宿《カーン》の門番と、染物工場の徒弟たちはみな、手を挙げて、叫びました、「そうだ、アッラーにかけて、貴様はこの一切を否認することはできない。私たちはアッラーと王様の御前で、その証人だ。」王様は言いました、「汝がそれを否認しようとあるいは自白しようと、汝が天運によって記《しる》された罰を受くることに、変りはないぞよ。」そして警吏に叫びなさいました、「こやつを連れ、両足をつかんで全市を曳きずり廻し、次に生石灰を満たした袋のなかに閉じこめて、海に投じ、薬に焼かれ窒息し、二重の死もて死なせてやれ。」すると床屋は叫びました、「おお当代の王様、何とぞ私の取りなしをお聴き入れ下さいまし。私は、この者が私に対して致したこと一切を、許してやりまするから。」けれども王様は言いました、「いや、たとえその方が、その方に対するこやつの罪を許すとも、余は、余に対するこやつの罪を許しは致さぬぞ。」そしてもう一度、警吏にお叫びになりました、「こやつを引っ立ててゆき、余の命令を実行致せ。」
そこで警吏たちは、染物師アブー・キールを捕えて、彼の悪行を触れながら、両足をつかんで全市を曳きずり廻し、最後にこれを、生石灰を満たした袋のなかに閉じこめて、海中に放りこみました。そして彼は溺れ、焼かれて、死んでしまいました。それというのも、これが彼の天命だったからでございます。
さてアブー・シールのほうは、王様は彼におっしゃいました、「おおアブー・シールよ、余は今はその方が、何なりと望みのことを、余に求めてほしいと思う。そは言下に叶えられるであろう。」アブー・シールは答えました、「私はただ王様が、私を故郷に送り返して下さることを望みまする。それと申すのも、今後私は身内の者より遠く離れているのはつらく、もはやこの地に止まりたい気持を覚えませぬので。」すると王様は、実は総理|大臣《ワジール》の職に就いているあの丸々と太った毛むくじゃらに代って、彼をこの職に据えたかったので、その出発を非常に惜しく思いなさったとはいえ、彼のために一艘の大きな船を用意させて、男女の奴隷と豪奢な贈物をいろいろ積み込んで、別れを告げながら、おっしゃいました、「では、その方は余の総理|大臣《ワジール》になる気はないのか。」アブー・シールは答えました、「私はやはりぜひ故国に帰りとうございます。」そこで王様も強《た》ってとはおっしゃらず、船はアブー・シールとその奴隷たちを載せて、イスカンダリアの方向に、遠ざかってゆきました。
さて、アッラーは一行に無事な航海を記《しる》したまい、一同|恙《つつが》なく、イスカンダリアに達しました。ところが、一同が下船したと思うと、奴隷の一人が浜辺に、岸に打ち上げられたひとつの袋を見つけました。アブー・シールはそれを開いてみると、そこには、潮がここまで運んできたアブー・キールの屍骸が、はいっていたのでございます。そこでアブー・シールは、そこから程遠からぬ海岸に、これを埋葬させて、墓碑を建ててやり、これを巡礼場とし、その維持費に、永代供養料を付しました。そしてその建物の戸口には、次の教訓となる碑銘を刻ませました。
[#ここから2字下げ]
悪を慎めよ。しかして邪悪の苦き瓢《ふくべ》に酔うことなかれ。悪人は常に打ち倒されて終るなり。
大洋はその水の面《おもて》に、砂漠の鳥獣の骨漂うを見るも、真珠は海底の砂上に、静かに休らう。
清澄の境には、大気の透明なるページの上に、かく記《しる》されてあり、「善を蒔く者は善を取り入るべし。何となれば、一切物はその起原《おこり》に帰るがゆえに。」
[#ここで字下げ終わり]
そして、これが染物屋アブー・キールの終りで、アブー・シールの今後幸福で憂いのない生活の始まりでございました。またこのゆえに、この染物屋が埋められた湾は、それから後は「アブー・キール湾」と名づけられたのでございます。その「永遠」の裡に生きたまい、その「御旨《みむね》」によって、冬と夏との日々を連綿と続かしめたもう御方に、栄光あれかし。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは言った、「これが、おお幸多き王様、この物語についてわたくしの聞き及びましたすべてでございます。」するとシャハリヤールは叫んだ、「アッラーにかけて、この物語は教化するところがある。それゆえに、今余は、そちが道話一つ、二つ、あるいは三つ、語るを聞きたい念を覚えるぞよ。」するとシャハラザードは言った、「それこそわたくしのいちばんよく知っているところでございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二夜になると[#「けれども第五百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
[#改ページ]
『匂える園』の道話
[#ここから1字下げ]
「おお幸多き王様、道話こそは、わたくしのいちばんよく知っているところでございます。それをば一つ、二つ、あるいは三つ、匂える園[#「匂える園」はゴシック体]より取り出して、お話し申し上げましょう。」するとシャハリヤール王は言った、「そうとあらば、いそぎ始めよ。と申すは、今宵《こよい》余はわが魂が非常なる倦怠に襲わるるを感ずるからじゃ。して、もはやそちの頭《こうべ》が明朝までそちの肩の上に無事保たるるや否や、保証の限りではないぞよ。」シャハラザードは、微笑を浮かべて言った、「今お話し申します。けれども、あらかじめおことわり申しておきますが、おお幸多き王様、これらの小話はいかに教訓的とは申せ、精神偏狭な粗野な人々の眼には、あるいは淫らな小話とも見られかねないものでございます。」するとシャハリヤール王は言った、「そのような懸念に阻《はば》まるることなきように、シャハラザードよ。さりながら、もしそれらの道話が、敷物の上でそちの足許にうずくまって、聞き入っておるその小さな妹に、聞かせてはならぬと思うならば、速やかに引きとるよう申し渡せ。それに、この妹め、いったいここで何をしているのやら、余には明かではないぞよ。」この王の言葉に、小さなドニアザードは、追い払われることを恐れて、姉の両腕のなかに飛びこむと、姉はその両眼の上に接吻し、わが胸に抱きしめて、愛する妹の魂を鎮めてやった。次にシャハリヤール王のほうに向いて、言った、「やはりこの子はおりましても差支えないと存じます。それと申しますのは、腰より下に位する事柄を語るのは、少しも咎むべきことではございません、清潔清浄の魂にとっては万事清潔清浄なり[#「清潔清浄の魂にとっては万事清潔清浄なり」に傍点]でございますれば。」
そしてすぐに彼女は言った。
[#ここで字下げ終わり]
三つの願い
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、昔ある心がけのよい男が、熱烈な信仰を授けられた信徒に対して、聖典《アル・キターブ》が約束しているあの奇蹟の夜を待って、一生涯を過したのでございました。「全能の叶いの夜(1)」と名づけられ、信心深い人はどんな些細な望みでも叶うのを見るという、あの夜でございます。ところで、断食月《ラマザーン》の最後の夜々の一夜のこと、この男は終日厳重に断食を守ったあとで、突然神の恩寵に活気づけられるのを感じまして、そこで妻を呼んでこれに申しました、「おれの言うことを聞け、おお女房よ。おれは今宵『永遠者』の御前《みまえ》で清浄の状態にあるのを感ずるから、たしかに今夜はおれにとって『全能の叶いの夜』となるにちがいない。おれのあらゆる祈願願望はたしかに『報賞者』がお聞きとどけ下さるだろうから、今お前を呼んで、いったいどういうお頼みをしたらよいか、あらかじめお前に相談しようと思うのだ。お前は分別もあり、お前の忠言がおれの為になったこともよくあったからな、ひとつ申し出る願いの知恵を貸してくれ。」妻は答えました、「おお御亭主よ、あなたはいくつ願いごとをする権利があるのですか。」彼は言いました、「三つだ。」妻は言いました、「ではまず三つの望みのうちの第一から、アッラーに申し出でなさいな。御承知のように、男子の完全さとその歓びは、男性としての精力にあるのだから、男子がもし禁欲家だったり、去勢されていたり、不能者だったりしたら、とても完全とはゆきませんわ。ですから、男子の陰茎《ゼブ》が立派なら立派なほど、その精力は大きく、男子を完全の道へと向わせるわけです。だから、アッラーの御面《みおもて》の前につつましく平伏して、こうおっしゃい、『おお恩恵者よ、おお寛仁者よ、わが陰茎《ゼブ》をば壮大に達するまで大きくなしたまえ』と。」そこで男は平伏して、掌《たなごころ》を天のほうにむけて、言いました、「おお恩恵者よ、おお寛仁者よ、わが陰茎《ゼブ》をば壮大に達するまで大きくなしたまえ。」
さてこの望みが言い出されたと思うと、それはすぐに、もう望み以上に、即刻即座に聞き届けられました。というのは、その聖なる男はたちまち、自分の陰茎《ゼブ》が膨れあがり、壮大となり、さながら二つの大きな南瓜《かぼちや》の間に休らう瓢箪と見まごうばかりになるのを、見たからです。そして全体の重さは非常なもので、その持主は立てば再び坐り、寝れば立たなければならぬ有様でした。
そういうわけで、妻はこれを見るとすっかりおびえて、聖なる男が試みようと呼んでもそのつど、身をひるがえして逃げ出してしまうのでした。そして叫びました、「その道具を私に試させようったって、とても無理ですよ。ほんの一発でも、岩をも突き通してしまうことができそうな代物じゃないの。」そこで気の毒な男は最後に言いました、「おお憎らしい女房よ、おれは今となってこれをどうすればいいのだ。これはお前の仕業だ、おお呪われた女め。」妻は答えました、「私の上と私のまわりにアッラーの御名《みな》あれかし。預言者にお祈りなさい、おお明きめくらのお爺さん。この私はね、アッラーにかけて、そんなものなどすこしも要《い》りはしませんよ。そんなにまでお頼みしろなんて、私は言いはしなかったわ。だから、天に祈ってそれを小さくしていただきなさい。それをあなたの第二の願いになさい。」
聖なる男は、そこで眼を天にあげて言いました、「おおアッラーよ、どうかこのじゃまっけな商品を取り払って、このため起こるわずらいから救い出して下さいますよう、切にお願い申し上げまする。」するとすぐに男は、その腹がのっぺりとして、まるで年頃前の小娘みたいに、もう陰茎《ゼブ》と卵の跡形もとどめませんでした。
しかしこの完全な消え方はこの男の意に満たず、妻も同様でして、夫を罵りはじめ、自分の当然受けるべきものを永久に奪ってしまったと言って、咎めはじめました。そこで聖なる男の悩みは甚だしく、彼は妻に言いました、「こうしたすべてはお前のせいで、お前の愚かな忠告から起ったことだ。おお無分別な女め、おれにはアッラーの御前《おんまえ》で三つの願いの権利があったわけで、おれはこの世とあの世の福祉のなかで、いちばん自分の気に入ることを、意のままに選ぶことができたのであった。それが今やおれの祈願のうち、はや二つが聞き届けられてしまったが、しかしこれでは、まるで何もなかったのと同じことだ。しかも今はおれは前よりも悪い有様になってしまったわい。だがまだおれの第三の願いを言い出す権利が残っているから、おれはわが主に、そもそもの最初にわが持っていたところを、元どおりにしていただくようにお願いするとしよう。」
そして主に祈ると、その祈願は聞き届けられました。それで彼は最初に持っていたところに戻ったのでございました。
この小話の教訓は、人は自分の持っているもので満足しなければならないということでございます。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは言った。
若者と風呂屋《ハンマーム》の按摩
語り伝えまするところでは、おお幸多き王様、昔ある風呂屋《ハンマーム》の按摩が町の有力者といちばん裕福な住民たちの子弟を、日頃のお得意としていました。それというのは、彼が按摩業を営んでいた風呂屋《ハンマーム》は、全市でいちばん繁昌していたからでした。さて、日々のうちのある日、彼が浴客を待っている浴場に、まだ毛も生えていないけれども、よく太って、身体《からだ》のどこもかしこも丸々としている、一人の青年がはいってまいりました。そしてこの青年は顔がまことに美しゅうございました。彼はこの都の王の総理|大臣《ワジール》の息子その人でした。ですから按摩は、この華奢《きやしや》な若者のこんなに柔らかい身体を按摩するのをうれしく思って、魂のなかで独りごとを言いました、「この身体《からだ》ときては、脂肪が到るところに絹の座褥《クツシヨン》を置いている。何と形豊かで、よく太っているのだろう。」そして彼は手伝って、青年を熱い湯殿の温かい大理石の上に横たわらせ、特別念入りに、身体を擦《こす》りはじめました。そして太腿のあたりまで来たとき、彼はこの太った青年の陰茎《ゼブ》が、はしばみの実の大きさにも達してないのを認めて、びっくりの極みに達しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三夜になると[#「けれども第五百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼はこれを見て、魂のなかで嘆きはじめ、やりかけている按摩の手をはたととめて、両手を打ち合わせはじめたものでした。
青年は按摩がこのような悲しみに襲われ、絶望に色を失ったその顔付きを見ると、これに言いました、「おお按摩よ、そのようにお前の魂の内側《なかがわ》で嘆き、両手を打ち合わせるとは、いったいどうしたのかね。」按摩は答えました、「それがな、お殿様、私の絶望と嘆きは、あなた様についてなのです。それというのは、あなた様は男子たるものが陥ることのできる最大の不幸にやられなすっているのを、拝見するからでございます。あなた様はお若く、肥えて、美しく、身体《からだ》と顔のあらゆる完全さを備え、報酬者がお選びになる方々に分かちたもうあらゆる恩恵を持っていなさる。ところがちょうど、あなた様は歓びの道具をお持ち合わせない、それがなくては男子ではなく、与えて受ける男性の本領がないという道具をばね。陰茎《ゼブ》とそれに伴うすべてをなくしては、人生果たして人生でしょうか。」この言葉に、大臣《ワジール》の息子は悲しげに頭を垂れて、答えました、「小父さん、いかにもそのとおりだ。お前はまさに、僕のただひとつの悩みの種となっているところを、僕に考えさせてくれた。僕の尊い父上の遺産がこんなに小さいのは、ただこの僕だけが悪いのだ。僕は今日まで、これに利子を挙げさせることを怠っていたのだから。実際、仔山羊だって燃え立たせる牝山羊どもから遠ざかっていたら、逞しい牡山羊になろうたって無理だし、木だって水をやらなければ延びようたって無理だからね。僕も今日まで、女から遠ざかっていたので、どんな欲望もまだ、僕の子供を揺籃《ゆりかご》のなかに目覚めさせに来たことがない。だが思うに、そろそろ眠れる者どもは目覚め、羊飼は自分の杖をしっかりとつくべき時だね。」
大臣《ワジール》の息子のこの話に、風呂屋《ハンマーム》の按摩は言いました、「けれども羊飼がしっかりと杖をつくと言ったって、その杖が小指の先っぽよりかも太くはないとしたら、いったいどうしますかね。」少年は答えました、「その点は、親切な小父さん、お前の寛大な好意をあてにするよ。これから僕の着物が置いてある台の上に行って、僕の帯のなかにはいっている財布を取り出しておくれ。そして財布のなかの金貨でもって、この成長のはずみをつけてくれることのできそうな若い女をひとり、僕のために探してきておくれ。僕はその女と最初の試みをしてみよう。」按摩は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして彼は台の上に行って、財布をとり、風呂屋《ハンマーム》を出て、くだんの若い女を探しに出てゆきました。
途中で、彼は独りごとを言いました、「あの気の毒な若様は、陰茎《ゼブ》とは柔らかい焼砂糖《カラメル》の捏粉《ねりこ》で、手を触れさえすればすぐもりもり大きくなるものと思っている。さもなけりゃ、胡瓜《きゆうり》はひと晩で胡瓜になるとか、バナナはバナナになる前に熟《う》れるものと心得ているらしい。」そしてこの出来事を笑いながら、自分の細君に会いに行って、これに言いました、「おいアリのおっかさんよ、おれは今し方|風呂屋《ハンマーム》で、満月の月のような美少年の按摩をしてきたのだよ。総理|大臣《ワジール》の坊っちゃまでね、何ひとつ申し分ないのだが、かわいそうに、ほかの男たちのものみたいな陰茎《ゼブ》を持っていなさらないのだ。持ってるものときては、はしばみの実の大きさもないくらいさ。それでおれが、お若いのにお気の毒と嘆いたら、この金貨のつまった財布をくれて、御尊父譲りの貧弱な遺産を、たった今成長させてくれることのできそうな若い女を、手に入れてくれとおっしゃる。それというのは、初心《うぶ》な若様で、自分の陰茎《ゼブ》はそんな風にすれば、最初ためせばのっけから、たった今おっ立つものと思っていなさるのさ。そこでおれとしちゃ、この金貨はそっくりわが家に残しておくほうがいいと考えた。それでお前に会いに来て、ひとつ風呂屋《ハンマーム》に一緒に行く決心をしてもらおうと思ったわけだ。なに、かわいそうな若様の埓もない試しに、いかにもお相手をするようなふりをすればいいのさ。これには何の不都合もありはしない。お前は若様の上で、笑って一時間過したって差し支えない、何の危険もなければ、心配もないさ。おれは外からお前たち二人をよく見張っていてやるよ。他の浴客たちが、のぞきこんだりしないように、お前たちを守ってやるよ。」
この亭主の言葉を聞くと、若い女房は承わり畏まって答えて、立ち上がり、身を飾り、いちばん美しい衣服を着けました。それに、めかしたり飾ったりしなくとも、この女はあらゆる頭を振り向かせ、あらゆる心を飛び立たせることができました。何しろ、当時の女のなかで一等の美人でございましたから。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四夜になると[#「けれども第五百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
按摩はそこで細君を伴って、大臣《ワジール》の若い息子のところに連れてゆくと、こちらはずっと熱い湯殿の大理石の上に横たわって、待っておりました。按摩は二人を後に残して出てゆき、うるさい連中が戸越しに頭を突っこむのを防ぐため、外で見張りに立ちました。そして二人に、はいったら内側から再びその戸を閉めるように言いました。
そこで若い女は若様を見ると、その月の美しさにうっとりとし、若様も同様でした。そして女は独りごとを言いました、「この方がほかの男たちの持っているものを持ち合わせないとは、何と残念なことだろう。だって、うちの人の言ったことは本当なのだもの。やっとはしばみの実ほどの大きさもないわ。」けれどもそのとき早くも、若者の股間に眠っていた子供は、若い女に触れてうごめき出していたのでした。そしてその小ささはただ見かけだけにすぎなくて、眠っているときには、父親の膝のなかにすっぽり埋まっている子供たちの一人だったので、この子はまずその惰眠を振り払いはじめました。そして今や突然、驢馬か象のそれにも較べられるようになって、まったく実に大きく、実に逞しく現われ出たものです。按摩の細君はこれを見て、感嘆の叫びをあげ、青年の首玉に飛びつくと、青年は勝ち誇った雄鶏のように、上に乗りました。そしてひと時の間に、彼は一発、次に二発、次に三発と、以下十発まで、貫ぬき、一方女は取り乱して、騒ぎまわり、呻き、夢中で身を揺すりました。こうした次第です。
そして戸口の木の格子の後ろから、按摩はすべての場面を見ていたのですが、人前に恥をさらすのを恐れて、敢えて騒ぎ立てたり、戸をこわしたりしませんでした。ただ小声で細君を呼ぶだけにとどめたが、細君は返事をしません。彼は細君に言いました、「おおアリのおっかさんよ、何をぐずぐずして出てこないのだ。日は暮れかかっているし、お前は家に、乳を待っている乳呑子を置いてきているのだよ。」けれども細君は、若者の下になって、嬉戯《たわむれ》をつづけていて、笑いと喘《あえ》ぎのただ中で、言うのでした、「いやだよ、アッラーにかけて、私はこれからは、この子供よりほかの乳呑子には、乳をやる必要なんぞないわ。」大臣《ワジール》の息子はこれに言いました、「だけど、ちょっと行ってお乳をやり、またすぐ戻ってきたらどう。」彼女は答えました、「私の新しい子供を、ひと時母親のいないみなし児にする決心をさせられるくらいなら、その前にいっそ私の魂を抜け出させてもらいますわ。」
そこで、憐れな按摩は自分の細君が、このように自分から逃げ出して、こんなにしゃあしゃあと、もう戻るのをことわるのを見ると、彼はすっかり絶望し、激しい嫉妬に駆られて、風呂屋《ハンマーム》の露台に上り、往来で頭を割ってしまおうと、そこから身を投げました。そして死んでしまいました。
さて、この物語は、およそ賢い者はけっして外観を信じてはいけないということを、証明するためのものでございます。
[#この行1字下げ] ――「けれども」とシャハラザードはつづけた。「次にお話し申し上げる小話は、外観がどんなにあてにならないか、そして外観に従うことはどんなに危険かを、もっとよく証することでございましょう。」
[#ここで字下げ終わり]
白にもいろいろ
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、男の間のある男が、一人の愛らしく美しい若い女に、もうこの上なく惚れこんでしまいました。ところが、優美と完全の模範であったこの若い女は、一人の男と結婚して、愛し愛されておりました。それにまた貞節で操正しい女であったもので、思いをかけたその男は、これを誘惑する手段《てだて》がどうしても見つかりませんでした。そして彼は空しく辛抱を重ねて既に久しくなったので、女に恨みを晴らすためにせよ、無頓着を思い知らせるためにせよ、とにかく何か策を用いてやろうと思い立ちました。
ところでこの若い女の夫は、自宅に、信用する召使として、子供の時から育ててやった、一人の若い下男を使っておりまして、その子が主人たちの留守の間は、家の番をしていました。そこで振られた恋する男はその下男に会いに行って、いろいろと贈物をしたり親切を尽したりして、これと交りを結び、非常に努めたので、下男も遂にはすっかり忠義立てをし、何事においても文句なしにその言うことを聞くようになりました。
そこで事態このようになると、恋する男はある日、若い下男に言いました、「おお誰それよ、私は今日お前の御主人夫妻が家を出たら、ぜひそのお宅を拝見したいと思うがね。」下男は答えました、「ええ、いいですとも。」そして主人が店に出かけ、女主人が風呂屋《ハンマーム》に行くため外出すると、さっそく友達に会いに行って、その手をとり、家の中に入れてやって、全部の部屋とそこにあるものすべてを見せてやりました。ところで、若い女に恨みを晴らそうと固く決心していたその男は、あらかじめ、してやろうと思う悪戯《いたずら》をちゃんと用意しておいたのでした。それで、寝室にはいると、彼は寝床に近づいて、かねて卵の白身をつめておいた瓶の中身を、そこにこぼしました。彼はごく秘密に事をやったので、下男は全然気づきませんでした。それを済ますと、彼は住居を出て、己が道に立ち去りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五夜になると[#「けれども第五百五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……己が道に立ち去りました。その男のほうは、以上のようでございます。
さて夫のほうは、次のようでございます。彼は日の沈む頃自分の店を閉めて、わが家に戻りましたが、一日中の売り買いで疲れていましたので、自分の寝床に行き、横になってひと休みしようとしましたが、しかし敷布を汚《よご》している大きな汚点《しみ》を認め、びっくりして怪しみのかぎり怪しんで、後じさりしました。次に独りごとを言いました、「いったい、誰がおれの家にはいりこんで、おれの女房とやれたことをやれたのだろう。だって、ここに見えるこいつは、何の疑いもなく、男の精液だからな。」そしてさらに確かめるため、その商人は液体のまん中に指を突っこんでみて、言いました、「まさしくあれだわい。」そこで激怒にあふれて、最初は下男を殺そうと思いましたが、思い直して考えました、「こんなに大きな汚点《しみ》は、あの少年から出るわけがない。なぜって、あいつはまだ卵の膨れる年頃じゃないからな。」けれども、とにかく下男を呼びつけて、激怒に声をふるわして、どなりつけました、「不届きな月足らずめ、お前の女主人はどこにいるのだ。」下男は答えました、「風呂屋《ハンマーム》にいらっしゃいました。」この言葉に、疑いは商人の心中にますます動かせなくなりました、何せ、宗教の掟の命ずるところでは、交接《まじわり》のあった場合はそのつど、男女とも風呂屋《ハンマーム》に行って、全身の洗浄《みそぎ》(2)をすることになっておりますから。それで商人は下男にどなりました、「早く走って行って、女主人にすぐさま帰れとせき立てろ。」下男はいそいで命令を実行しました。
妻が帰ったとき、商人はくだんの寝床のある部屋そのものの中を、右に左に眼をぎょろつかせて、にらめ廻しておりましたが、一言《ひとこと》も言わずに、いきなり妻に飛びかかり、髪を掴んで床に引きずり倒し、まず足蹴にかけ拳固を振って、めった打ちを加えはじめました。それがすむと、その両腕を縛り、大きな包丁をとりあげ、妻を惨殺しようと構えました。けれどもこれを見ると、妻はけたたましい叫びをあげ、でたらめに喚きはじめ、それがあまり激しかったもので、隣近所の男女が全部救いにかけつけてみると、今まさに殺されようというところでした。そこで一同むりやり夫を引き離して、このような罰を必要とする原因を尋ねました。すると妻は叫びました、「私には全然原因がわかりません。」そこで一同は商人に叫びました、「もしあなたが奥さんに不満があるのなら、離婚するなり、静かに穏やかに叱るなり、その権利はいかにもおありだ。しかし殺しなさるわけにはゆかぬ。というのは、貞淑な点では、奥さんは貞淑な人で、私たちも奥さんをそういう人として知っており、それはアッラーの御前と法官《カーデイ》の前で証言しますよ。奥さんはずっと前から私たちの隣りにいらっしゃるが、私たちはその身持について、何ひとつ咎めるべき点を認めたことはない。」商人は答えました、「かまわず殺させて下さい、こんな不身持女は。その不身持の証拠を見たいとおっしゃるなら、この液体の汚点《しみ》を見て下さりさえすればよい、この女が私の寝床に引っぱりこんだ男たちの残したものでさ。」
この言葉に、近隣の男女は寝床に近づいて、めいめい順ぐりにその汚点《しみ》に指を突っこんでみて、言いました、「なるほど、これは男の液体だ。」けれどもこのとき、例の下男が自分の番になって近よって、敷布に滲みこんでしまわなかった液体を、フライ鍋《パン》に入れ、鍋を火に近づけて、中のものを焼きました。それから、焼いたものを取り出して、自分で半分を食べ、残りの半分を並いる一同に配りながら、言いました、「食べてごらんなさい。これは卵の白身ですよ。」一同食べてみると、なるほどこれは実際に卵の白身だということが、こうしてたしかめられました。当の夫さえも、そのとき、妻が潔白の身であり、自分は不当に咎めて虐待したことがわかりました。そこでいそいで妻と仲なおりして、夫婦の和合を誓うため、妻に金貨百ディナールと金の首飾りを贈ったのでございました。
さてこの短いお話は、白にもいろいろあり、何事につけても、違いを見分けることを心得なければならないということを、証明するためのものでございます。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードはシャハリヤール王にこれらの小話を語り終えると、口をつぐんだ。すると王は言った、「まことに、シャハラザードよ、これらの物語は限りなく教訓的である。しかもその上、余の精神を十分にくつろがせてくれたゆえ、今や余は、何か全く世にも稀なる物語を、話して聞かせてもらいたくなったぞよ。」するとシャハラザードは言った、「ちょうどよろしゅうございます。これからお話し申し上げまする物語こそ、御所望のものにござりまする。」
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陸のアブドゥラーと海のアブドゥラーの物語
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードはシャハリヤール王に言った。
語り伝えられまするところでは、――さあれ、アッラーは更に多くを知りたまいまする。――むかしアブドゥラーという、漁師を生業《なりわい》とする男がおりました。そしてこの漁師は、九人の子供と、子供たちの母親を養わなければならぬ身でありましたが、貧しく、たいへん貧しく、全財産としては、自分の網があるきりの始末でございました。こういう次第で、その網が店の代りとなり、商売道具であり、一家にとって唯一の救いの門でした。ですから、彼は毎日海に漁に出かけるのを常としましたが、もし不漁ならば、とれただけの僅かのものを売って、「報賞者」の授けたもう度合に従って、その儲けを子供たちのために使いました。けれどももし大漁ならば、儲けたお金でもって、妻に上等なお料理を料理させ、たくさん果物を買い、少しも手心を加えたり倹約したりしないで、手許にはもう何ひとつ残らないまで、家族のために使い果たしました。それというのは、彼はこう考えていたのでございます、「明日のパンは明日くるだろう。」こうして彼は、翌日の天命は一切お構いなしに、その日暮しを続けておりました。
ところが、或る日、その妻は十番目の男の子を産み落しました。というのは、前の九人の子供も、やはり祝福によって、全部男の子でしたから。ちょうどその日は、漁師アブドゥラーの貧しい家には、もう全然食べ物がございませんでした。そこで妻は夫に言いました、「おお御主人様、家にはもう一人家人が殖えたのに、今日のパンがまだ届きません。あなたは何かこの難場を凌《しの》げるようなものを、探しに行って下さいませんの。」彼は答えました、「今ちょうど、アッラーの御親切を信じて、これから出てゆき、海に漁に出かけて、今度生れた子供の運だめしに網を打ち、こうして、この子の未来の仕合せのほどを見てみようと思っていたところだ。」妻は言いました、「アッラーを信用なさいませな。」そこで漁師アブドゥラーは、網を背にして海に参りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六夜になると[#「けれども第五百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして漁師は、今度生れた子供の仕合せのために、網を投げて水中に沈めて、言いました、「おおわが神様、どうかあの子の生涯が安らかで難渋せず、満ち足りて、少しも不自由でないようにして下さいまし。」そしてしばらく待ってから、網を引き上げてみますと、汚ないものや、砂や、砂利や、海草などが、いっぱいかかっているけれども、大きなのも小さなのも、およそ魚なんかは影も形もなく、全然一匹もいません。そこでびっくりして、魂の中で悲しんで、言いました、「これはいったいアッラーは、あの生れた子を創りなさってからに、あいつに何ひとつ、割り前も食料も授けたまわぬおつもりかな。そんなことはあり得ないし、決してあり得ることじゃあるまいぞ。なぜって、人間の腮《あご》を作り、口のために二枚の唇をお描きになったお方は、何も伊達《だて》にそうなされたわけじゃなく、そのお方は『予見者』であり、『寛仁者』にましますのだから、そういうものの必要を満たして下さることは、ちゃんと御自身責任をもって引き受けなさったわけだ。このお方の称《たた》えられんことを。」次に漁師は網を肩にしょって、海の別な場所に網を打ちにゆきました。
そして長いあいだ辛抱して、大骨を折って、というのは今度は網がとても重かったので、やっと網を引き上げました。見ると、水ぶくれになってとてもひどい臭いを放つ、一匹の死んだ驢馬がかかっています。そこで漁師は嘔《は》き気が魂を襲うのを感じ、いそいで網からこの死んだ驢馬をはずし、できるだけ早く別な場所に向って遠ざかり、道々呟きました、「光栄ある至高のアッラーのほかには、頼りも力もない。ここで起った一切の不運は、おれの呪わしい女房のせいだ。おれは幾度言ってやったか知れない、『もう水の中にはおれのために一物もない。おれはどこかほかに、おれたちの糧《かて》を探しに行かなければならんのだ。おれはもう、この商売はとてもかなわん。本当のところ、とてもかなわん。だから、女房よ、おれに漁師稼業でない、何かほかの稼業をやらせてくれろ』とな。それでおれはこの言葉を舌に毛が生えるほど、幾度も繰り返し言ってやったものだが、あいつはいつもこう答えやがった、『アッラー・カリーム(1)、アッラー・カリーム。アッラーの御恵みは果てしないものです。やけになっちゃいけません、おお、子供たちのお父さんよ』と。だが、これがアッラーの御恵みの全部だというのかい。いったいあの死んだ驢馬が、今度生れたかわいそうな子に定められた割り前かい。それとも、それはあの網にかかった砂利や砂かい。」
そして漁師アブドゥラーは深い悲しみに襲われて、長いあいだ立ち尽していました。それからやっと最後に、今自分が軽はずみに言った言葉を、アッラーにお許しを乞いつつ、もう一度海に網を打ってみようと決心して、言いました、「どうぞ私の漁をお助け下さいまし、おお、創られたものすべてにお助けとお恵みを授けたまい、前もってそれぞれの運命を指定なさる『報賞者』様。そして今度生れた、あの子供をお助け下さいませ。さすれば、あの子はいつか、ただあなた様だけに仕え奉る忠実な行者《サントン》になることを、お約束申し上げまする。」次に、自分に向って言いました、「たった一匹の魚でも捕《と》りたいものだ、それをおれの恩人のパン屋のところに持って行くだけでもいいから。あのパン屋は黒い(2)日々に、おれがあの店先に立ちどまって、戸外《おもて》から、温かいパンの匂いを吸い込んでいるのを見ると、手でもって、おれにはいれと合図をして、九人の子供と母親に要《い》るだけのものを、気前よくくれたものだっけ。」
三回目の網を打つと、アブドゥラーはずいぶん長いあいだ待って、それから網を引き上げようと致しました。ところが、網は前の二度よりもいっそう重く、全く並みはずれた重さでしたので、これを浜辺まで手繰り寄せるには、散々骨をおりました。そして綱を引っぱって、両手を血だらけにしてから、やっとうまく上がりました。すると、この上なくびっくり仰天したことに、網の目の間には、ひとりの人間、すべてのイブン・アーダムと同様な、アーダムの子(3)が引っかかっておりました。ただ違うところは、その身体が魚の尻尾で終っている点だけで、それを除けば、頭も、顔も、鬚《ひげ》も、胴体も、両腕も、すべて地上の人間そのままです。
これを見ると、漁師アブドゥラーは、自分の前にいるのは、その昔、われらの主スライマーン・イブン・ダーウド(4)の御命令に背いたので、銅《あかがね》の器《うつわ》のなかに閉じこめられて、海に投げ込まれた|鬼神たち《アフアリート》のなかの、一人の鬼神《イフリート》だということを、ひと時も疑いませんでした。そして独りごとを言いました、「こいつは確かに、やつらの一人にちがいない。金物《かなもの》が水と年月のため擦《す》り減ったおかげで、やつは封をした器《うつわ》から脱け出して、おれの網に引っかかることができたのだな。」そこで恐怖の叫びをあげながら、着物を膝の上までたくしあげて、息が切れるほど逃げ、「アーミーン(5)、アーミーン。どうか勘弁してくれ、おおスライマーンの鬼神《イフリート》よ」と怒鳴りつつ、漁師は海岸を駆け出しました。
ところが、そのアーダムの子は、網のなかから叫びかけました、「来なさい、おお漁師よ。逃げることはない。それというのは、私もお前と同じく人間の身で、決して魔霊《マーリド》や鬼神《イフリート》の類ではないのだから。むしろ戻ってきて、私に手を貸してこの網から出してくれ、何もこわがることはない。褒美《ほうび》はたっぷりしてあげよう。そしてアッラーは審判の日に、お前の今日の振舞いを覚えていらっしゃることだろう。」この言葉に、漁師の胸は静まって、彼は逃げるのをやめて、網のほうに戻ってきましたが、しかし歩みをゆるめ、片足進んでは片足退くという有様でした。そして網のなかにはいっているアーダムの子に、言いました、「じゃあ、お前さんは魔神《ジン》のなかの一人の魔神《ジンニー》じゃないのかい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七夜になると[#「けれども第五百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
相手は答えました、「ちがう。私はアッラーとその使徒を信ずる人間だ。」アブドゥラーは尋ねました、「ではいったい誰に、海に放り込まれたのだね。」相手は言いました、「誰にも海に放り込まれたりしたわけじゃない。私は海のなかで生れたのだからね。それというのは、私は海の子たちのなかの一人の子なのだ。事実われわれは、海の深みに住んでいる数多い民だ。そしてわれわれは水のなかで呼吸をして生きている、ちょうどお前たちが地上に、鳥たちが空中にいるようにね。そしてわれわれは皆、アッラーとその預言者(その上に祈りと平安あれ)の信者で、地上に住む人間、われわれの兄弟に対しては親切で、好んで助けてあげている。それというのは、われわれはアッラーの御命令と聖典《アル・キターブ》の掟を奉ずる者だから。」次に付け加えました、「それにだ、もし私が悪い魔神《ジンニー》だとか鬼神《イフリート》だとしたら、とっくにお前の網をずたずたにしてしまいはしなかったろうか。この網はお前の商売道具で、ただ一つの一家の救いの門だから、これを壊すまいと思って、手を貸してここから出してくれなどと、頼みなんぞはしないでさ。」反対の余地のないこの言葉に、アブドゥラーは自分の最後の疑いと最後の恐れも消えるのを感じて、そして身を屈めて海の住人が網を出るのを手伝おうとすると、その男は更に申しました、「おお漁師よ、運命はお前の身のためになるように、私が網にかかることを望んだのだ。というのは、私が水中を散歩していると、そのとき、お前の網が私の上に襲いかかってきて、網目のなかに私を捕えてしまった。だから私は、お前の幸いと、お前の家族の幸いを成してあげたいと思う。ひとつ私と契約を結んで、それによってわれわれめいめいが、お互いの友人となり、お互いに贈物をして、またその代りに、別な贈物をもらうという約束をすることにしないか。こうしてお前は例えば、毎日、ここに私に会いに来て、お前たちのところに生えている陸の果物の品々を持ってきてくれる、葡萄、無花果、西瓜、瓜、桃、梅、柘榴、バナナ、棗椰子《なつめやし》、そのほかいろいろな品など。そして私は、この上なく悦んで、お前からその全部を頂戴しよう。で御返礼には、私はそのつど、われわれの深海に生えている海の果物を差し上げるとしよう、珊瑚《さんご》、真珠、貴橄欖石、藍緑玉、翠玉《エメラルド》、青玉《サフアイア》、紅玉《ルビー》、その他いろいろの貴金属や、あらゆる海の宝玉や宝石類など。そしてそのつど私は、お前の持ってきてくれた果物籠を、それらでいっぱいにして進ぜよう。承知するかね。」
この言葉を聞くと、漁師は、このすばらしい名をいちいち挙げられて覚えた悦びと嬉しさに、早くももう片脚でしか身を支えていられなくなって、叫びました、「やあ、アッラー、いったい誰が承知しないでいられましょうか。」次に言いました、「承知しました。だが何よりもまず、私たちの契約を固めるために、私たちのあいだに『開扉《フアーテイハー》』がありますように。」すると海の住人は承知しました。そこで二人は一緒に声高く、コーラン巻頭の「開扉《フアーテイハー》」を誦しました。そしてそのすぐ後で、漁師アブドゥラーは海の住人を網から出してやりました。
そこで漁師は、その海の友に尋ねました、「あなたのお名前は何とおっしゃいますか。」相手は答えました、「私の名はアブドゥラーと言います。だからあなたは毎朝ここに来て、ひょっとして、私の姿が見えないときには、『やあ、アブドゥラー、おお、海の人よ』と、呼んでくれさえすればいい。途端に私はそれを聞きつけて、水の外に現われてくるのを御覧になるでしょう。」次に尋ねました、「だが、あなたは、おおわが兄弟よ、あなたのお名前は何とおっしゃるかな。」漁師は答えました、「私もまたあなたと同じく、アブドゥラーと言いますよ。」すると海の人は叫びました、「あなたが陸のアブドゥラーで、私が海のアブドゥラーか。それじゃわれわれは、名前と友情と両方で、二重の兄弟だ。ではちょっとここで私を待っていなさい。おお友よ、ほんのしばらく、水に潜って最初の海の贈物を持って戻ってくる間です。」そこで陸のアブドゥラーは答えました、「お言葉承わり、仰せに従います。」するとすぐに海のアブドゥラーは浜辺から水中に飛び込んで、漁師の目から姿を消してしまいました。
さて陸のアブドゥラーは、しばらくたっても、もう海の人が姿を現わす模様がないので、これを網から放したことをたいそう後悔して、心の中で言いました、「はておれは、果たしてあの男が戻ってくるかどうか知っているかな。きっとあの男はおれをなめてかかって、自分を放させようとして、あんなことを言ったにちがいないぞ。ああ、どうしていっそつかまえておかなかったか。そうすれば、あの男を町の住民たちに見世物にして、大金を儲けることもできたろうに。おれはまた、身体を動かすことの嫌いな金持たちの家に、あの男を連れて行って、自宅で見せてもやったのに。そうすれば、金持たちはたっぷり褒美をくれたろうになあ。」こうして漁師は自分の魂のなかで嘆き、独りごとを言いつづけておりました、「せっかくのお前の獲物は、お前の手の間から逃げて行ってしまったぞ、おお漁師よ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八夜になると[#「けれども第五百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところがちょうどその瞬間、海の人は何か頭の上に支えながら、水の外に現われ、浜辺の陸の人のそばに坐りに来ました。その海の人の両手には、真珠や、珊瑚や、翠玉《エメラルド》や、風信子石や、紅石や、あらゆる宝石が溢れています。そして彼はその全部を漁師に差し出して、言いました、「これをお取りなさい、おおわが兄弟アブドゥラーよ、どうも些少で相すみません。それというのも、今日は、いっぱいにして差し上げるための籠を持ち合せないので。だがこの次は、あなたが籠をひとつ持ってきて下されば、それにこれらの海の果物をいっぱいにして、お返し致しましょう。」その宝石類を見ると、漁師はもうこの上なく悦びました。そしてそれを受け取って、驚嘆しながら、それをざらざらと自分の指の間を滑らせてみてから、懐中に隠しました。すると海の人は言いました、「われわれの契約を忘れなさるな。毎朝、太陽《ひ》の昇る前に、ここにやって来なさいよ。」そして漁師に別れを告げて、海中に沈み入りました。
漁師のほうは、悦びで夢中になって町に帰り、まず最初、黒い日々にあんなに親切にしてくれたパン屋の店先を通って、これに言いました、「おお兄弟よ、やっと好い目と運がおいらの道の上を歩きはじめたよ。だからひとつ、お前さんに借りている分全部の勘定をしてもらいたい。」パン屋は答えました、「勘定だって? どうしてそんなことをするんだい。おれたちの間で、そんな必要があるかい。だが、もし本当に、お前さんに余分の金があるというのなら、置ける分だけ置いていきなさい。またもし無一物なら、お前さんの一家を養うに入用なだけ、いくらでもパンを持って行って、おれのとこへの払いは、繁昌がしっかりとお宅に住みつくのを待ってからにしなさいよ。」漁師は言いました、「おおわが友よ、アッラーの御親切と御慈みのおかげで、今度生れた赤ん坊の仕合せのために、繁昌はおれのところにどっかと御輿《みこし》を据えたんだ。おれがお前さんに上げることのできる全部だって、貧乏がおれの喉を締めつけているころ、お前さんがおれのためにしてくれたことに比べれば、とても些細なものだ。だがまあ、さしずめこれを取ってくれ。」そして漁師は手を懐中に入れて、ひと掴みの宝石を取り出しましたが、あまりいっぱい掴み出したので、自分には、海の人がくれた分の半分も残らないくらいでした。そしてそれをパン屋に渡しながら、言いました、「ただ、すまないが、この海の宝石を市場《スーク》で売るまでの間、さしあたり少々金を貸してもらいたい。」するとパン屋は、自分が見もし受け取りもしたものにびっくり仰天して、銭箱の引出しを漁師の手の間に空っぽにしてから、自身で漁師の家まで、一家に必要なパンの荷を運んでゆこうと思いました。そして言いました、「私はあなたの奴隷で、召使です。」そして有無を言わせず、頭の上にパン籠を載せて、漁師のあとから歩いて家までゆき、そこに籠を下ろしました。それから漁師の両手に接吻した上で、立ち去りました。漁師のほうは、パン籠を子供たちの母親に渡して、次にいそいで皆に、仔羊の肉や、雛鳥や、野菜や、果物を、買いにゆきました。また妻に、その夜は、いつにもない料理を作らせました。そして子供たちと妻と一緒に、幸運と仕合せをもたらしたその今度生れた子供の到来を、悦びの限り悦びながら、結構な食事を致しました。
それがすむと、アブドゥラーは、妻にその日わが身に起ったことすべてを話し、漁の最後に海のアブドゥラーをつかまえた次第と、また事件全部を事細かに話してきかせました。そして終りに、海の住人の友からの貴い贈物で、まだ残っている分を、妻の手の間に置きました。妻もこうしたすべてをたいそう悦びましたけれども、しかし言いました、「くれぐれもこの事件の秘密はお守りなさいよ。さもないと、お上《かみ》の人たちが、あなたにとんだ面倒を持ちかけかねませんからね。」漁師は答えました、「よし、よし、おれはパン屋のほかには、誰にも黙っていよう。それというのは、普通自分の仕合せは隠しておかなければならんにはちがいないが、おれの最初の恩人ばかりには、おれは自分の仕合せを秘密にしておくわけにはゆかんからな。」
翌日、朝とても早く、漁師アブドゥラーは、あらゆる種類とあらゆる色の美しい果物をいっぱい詰めた籠を持って、海岸へと出かけ、夜の明けないうちに着きました。そして浜辺の砂の上に籠を下ろして、見るとアブドゥラーの姿が見えないので、両手を打ち合せて、呼ばわりました、「どこにいなさるかね、おお海のアブドゥラーさん。」すると途端に、海の底から、海の声が答えました、「ここですよ、おお陸のアブドゥラーさん。いつでも御用を承わります。」そして海の住人は水から浮かび出て、浜辺に現われました。そこで挨拶《サラーム》と祈願ののちに、漁師は果物の籠を差し出しました。すると海の人はお礼を言いながら、それを受け取り、再び海の底に潜りました。けれども数分たつと、彼は、果物は空になったけれども、翠玉《エメラルド》や、藍緑石や、海のあらゆる宝玉と産物でずっしりと重い籠を、両腕に抱えながら、再び現われ出ました。そこで漁師は、友に別れを告げてから、籠を頭の上に載せ、再び町への道をとり、パン屋の竈《かま》の前を通りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九夜になると[#「けれども第五百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして漁師は昔の恩人に言いました、「平安|御身《おんみ》の上にあれ、おお開いた手の父よ。」パン屋は答えました、「して、御身の上にも、平安とアッラーの御恵《みめぐ》みと祝福とあれ、おお吉兆の顔よ。ただ今私は、あなたのために特別に焼いたお菓子四十個の盆を、お宅にお届けしたところです。その捏粉のなかには、精製したバターも、肉桂も、小豆蒄《しようずく》も、肉豆蒄《にくずく》の実も、薑香《きようおう》も、よもぎも、|※[#「くさかんむり/弓」、unicode828e]※[#「くさかんむり/窮」、unicode85ed]《アニス》も、茴香《ういきよう》も、たっぷり入れておきましたよ。」すると漁師は、きらきらと煌《きらめ》く光の発している籠のなかに、手を入れて、たっぷりと三掴みの宝石を取り出して、パン屋に渡しました。それから道をつづけて、自分の家に着きました。そこで籠を下ろして、中から一種類ずつ、ひと色ずつ、いちばん見事な宝石を選び出し、その全部をぼろ切れに包んで、宝石商の市場《スーク》に行きました。そして宝石商の長老《シヤイクー》(6)の店の前に立ちどまって、彼の前にそのすばらしい宝石を並べて、言いました、「これを買ってくれますか。」宝石商の長老《シヤイクー》は、胡散《うさん》臭そうな目つきで漁師を見やって、聞きました、「このほかにもお持ちかな。」漁師は答えました、「家には籠に一杯あるよ。」相手は聞きました、「してお宅はどこですか。」漁師は答えました、「お宅なんてものは、おれにはありはしない、アッラーにかけて、ほんの、腐った板片《いたぎれ》でできた小屋でさ。魚市場のそばの、これこれの路地の奥にありますよ。」この言葉に、宝石商は小僧たちに叫びました、「こいつを捕えろ。こいつこそは、帝王《スルターン》のお妃《きさき》、女王様の宝石類を盗んだと、われわれにお触れの回っているあの泥棒だ。」そして宝石商は小僧たちに、これに笞刑《ちけい》を加えるように命じました。それに全部の宝石商と商人たちが、彼を取り巻いて罵りました。ある者は言いました、「先月|ハサンさん《ハージー・ハサン》のお店を荒らしたのも、きっとこいつにちがいない。」またある者は言いました、「たれそれの家をごっそりかっ払ったのも、やっぱりこの不届者めだよ。」そしてめいめいが、犯人不明になっている盗難の話を持ち出しては、これをこの漁師のせいにしたのでございます。しかしアブドゥラーはこの間ずっと、固く口を閉ざして、何ひとつ打ち消す挙動をしませんでした。そして前もっての笞刑を受けてから、そのまま宝石商|長老《シヤイクー》に、王様の前に引っ立てられてゆきました。長老《シヤイクー》は彼に自分の罪を白状させ、王宮の御門で絞り首にあわせてやろうと思ったのでした。
一同が政務所《デイワーン》に着くと、宝石商の長老《シヤイクー》は王に申し上げました、「おお当代の王様、かつて女王様の頸飾りが紛失致しましたおり、私どもにお達しがありまして、犯人を見つけよとの厳命でございました。されば私ども全力を挙げまして、ここにアッラーのお助けをもって、首尾よく引っ捕えました。さればここに、御手の間に、犯人と、またこやつの携えていた宝石類がござりまする。」すると王は宦官長に申されました、「これらの宝石を持って、汝の御主人のお目にかけにゆけ。そしてこれこそまさに、紛失した頸飾りの石に相違ないかどうか、伺って参れ。」そこで宦官長は女王にお目にかかりに行き、それらのすばらしい宝玉を御前に並べて、伺いました、「これこそまさに、おお御主人様、かの頸飾りの石に相違ござりませぬか。」
これらの宝石を御覧になると、女王は感嘆の極みに達して、宦官にお答えになりました。「いや、全然ちがいます。私の頸飾りは手箱のなかにありました。この宝石はと申せば、私のよりも遥かに見事なもので、世界中にたぐいのない品です。されば、おおマスルール、王様にこれらの石をお買い上げになって、われらの姫『栄え(7)』のために、これで頸飾りを作って下さるように申し上げよ。姫はそろそろ嫁《とつ》ぐ年頃であるゆえに。」
王は宦官から女王の御返事をお聞きになると、罪なき者をこうして捕え、虐げた宝石商の長老《シヤイクー》に対して、もうこの上もなくお憤りになりました。そして彼をば、アード族とサムード族(8)のあらゆる呪詛をもって、呪いなさいました。すると宝石商の長老《シヤイクー》はぶるぶる顫《ふる》えながら、お答え申しました、「おお当代の王様、私どもはこの男が漁師で、貧乏人だということを知っておりました。それで、この男がこれらの宝石の所有者であるのを見、かつは自宅には更に籠一杯もあると聞きましたもので、私どもは、これはこの貧乏人が正当な手段で手に入れることができたにしては、ちと大きすぎる財産と、こう考えたのでございました。」この言葉に、王のお怒りは増す一方で、そこで宝石商の長老《シヤイクー》とその仲間たちを、怒鳴りつけなさいました、「おお汚れたる下民ども、おお悪しき信仰の異端者ども、凡慮の魂どもよ、そもそも汝らは、いかに突然にして不可思議なる財産なりと、まことの信徒の天命にあっては、何事も不可能ならぬを知らざるか。この極悪人どもめ。して汝らは、この財産はこの者には大きすぎるという誤った口実のもとに、言い分を聞きもせず、事情を吟味することもなくして、このように、この憐れなる者の処断をいそいでおる。汝らはこの者を盗賊呼ばわりして、同胞の間で恥ずかしめるのじゃ。称《ほ》められたもうアッラーは、その御恵みを頒《わか》ちたもう際には、決して吝《やぶさ》かにしたまわぬことを、汝らは一刻も考えぬ。かくのごとく、汝らの泥土より創られし人間のけちくさき胸算用に従って、幸福なる天命の秤《はかり》に載せられる重さの総量を判断するとは、おお無知の馬鹿者どもよ、汝らは、至高者がその恩恵を汲み出したもう、果てしなき泉の豊富なる容量を、知るものなりや。退《さが》れ、不届者めら。目通りかなわぬ。願わくはアッラーは、長く汝らに祝福を授けたまわざるように。」そして王は、彼らを這々《ほうほう》のていで追っ払ってしまいなさいました。彼らのほうは、このような次第でございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十夜になると[#「けれども第五百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで漁師アブドゥラーはと申しますると、こうでございます。王は彼のほうに向き直って、ちょっとでも問いかける前に、まずおっしゃいました、「おお気の毒な者よ、アッラーは、その方に授けたもうた贈物において、その方を祝福したまわんことを。安泰はその方の上にあるぞよ。余はその方に安泰を授けてとらす。」次に付け加えなさいました、「さて、今はその方は余に真実を語り、かくも見事な、地上のどんな王もかかるものを所持しておらぬほどのこれらの宝石が、いかにしてその方の手にはいったのか、打ち明けてはくれまいか。」漁師は答えました、「おお当代の王様、私は更に自宅には、魚籠《びく》に一杯、これらの宝石を持っておりまする。これは私の友人、海のアブドゥラーの贈物でございます。」そして王に、海の人との一件を全部、細大洩らさずお話し申し上げましたが、それを繰り返しても無益でございます。次に漁師は言い添えました。「そこで私はその男と、コーランの開扉《フアーテイハー》の誦読によって固めた、契約を致しました。そしてその契約によって、私は毎朝、明け方に、地の果物を満たした籠を彼に持参する約束をし、また彼は私に、その同じ籠に海の果物を満たす約束をした次第であり、御覧遊ばすこの宝石が、即ちそれでございます。」
この漁師の言葉を聞いて、王は「贈与者」のその信徒に対する寛仁に驚嘆なさって、おっしゃいました、「おお漁師よ、これはその方の天命にあることじゃ。ただ余に次のことだけ言わせてもらいたい。即ち、富は庇護せらるるを要し、富者は高位を持たなければならぬのじゃ。されば余はわが生涯を通じ、いや更に末永くさえも、その方をわが庇護のもとに置きたく思う。と申すは、余は将来を保証するあたわず、余が死ぬとか、あるいは王位を奪わるるに至らば、わが後継者は、果たしてその方の身に、いかなる運命を取り置くやら測り知れぬ。羨望により、またこの世の財貨を愛《いとお》しむあまり、その方を殺すこともなしとはせぬ。されば余はわが在世中に、その方をば運命の転変に対して、安全ならしめておきたく思う。その最上の策は、思うに、その方をば妙齢の乙女なるわが娘『栄え』と結婚させ、その方をわが総理|大臣《ワジール》に任じ、かくして余の存命中に、その方に直接王座を伝えておくことじゃ。」すると漁師はお答え申しました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」
すると王は奴隷たちを呼んで、命じました、「これなる汝らの御主人を、浴場《ハンマーム》にご案内申せ。」それで奴隷たちは、漁師を御殿の浴場《ハンマーム》に案内して、念を入れて沐浴させ、王様がたの召すような着物を着せた上で、王の御前に再び案内しますと、王は即座に、これを総理|大臣《ワジール》に任命なさいました。そしてその新しい職務について必要な心得をお授けになると、アブドゥラーはお答え申しました、「御訓戒は、おお王様よ、わが処世の掟であり、御好意はわが悦ぶ木蔭でござりまする。」
それから王は漁師の家に、使者たちと大勢の警吏を遣わし、それと一緒に、横笛、竪笛《クラリネツト》、|鐃※[#「金+跋のつくり」、unicode9238]《シンバル》、大太鼓、笛の楽手たちと、着付けと装いの術に長じた女たちを添えて、漁師の妻と十人の子供に着物を着せ、装ってやり、妻をば二十人の黒人のかつぐ輿《こし》に乗せて、美々しい行列と楽の音のさなかに、王宮に案内するよう仰せつけられました。そしてこれらの命令が実行され、漁師の妻は懐《ふところ》に生れたばかりの赤子を抱いて、ほかの九人の子供たちと一緒に、豪勢な輿に乗せられ、先に警吏と楽人の行列が立ち、後ろに自分に仕える女たちと貴族《アミール》や大官の妻女たちを従えて、御殿に着きますと、そこには女王が待っておられ、たいへん鄭重にこれを迎え、一方王も子供たちを迎えて、一人一人を代るがわるお膝に載せて、まるで御自身のお子様ででもあるみたいにお悦びになって、父親のように撫でてやりなさいました。また女王は女王で、新しい総理|大臣《ワジール》の妻に愛情をお示しになりたいと思って、これを御自分の局《つぼね》の総|女官頭《ワジラ》に任命なすって、後宮《ハーレム》の女全部の上にお置きになりました。
それがすむと、王は一人娘のお若い「栄え姫」をば、大臣《ワジール》アブドゥラーの第二の妻として賜わり、お約束を守ることをいそぎました。そしてその機会に、全市を飾り立て火をともさせて、人民と兵隊に盛大な祝宴を賜わりました。アブドゥラーはその夜、若い肉体の歓楽を知り、王女たる乙女の処女性と、今まで彼の憩《いこ》っていた年とって古びた肌とのちがいを、知ったのでございました。
さて翌朝、明け方に、ちょうど王は前夜の感動で例刻よりも早く目覚めて、窓辺に寄っていらっしゃると、御息女「栄え姫」の夫の、新しい総理|大臣《ワジール》が、頭上に果物を詰めた魚籠《びく》を載せて、王宮から出てゆくのを御覧になりました。そこで王はこれを呼びとめて、お尋ねになりました、「その方は何を携えておるのか、おおわが婿よ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十一夜になると[#「けれども第五百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……「その方は何を携えておるのか、おおわが婿よ。してどこに赴くのか。」彼は答えました、「これは友人の海のアブドゥラーに持って参る、果物籠でございます。」王は言いました、「だが今は、人々が己が家より出るような時刻ではないがな。それにわが婿ともあるものが、そのように人足の持つような荷を、自身頭上に載せて運ぶとは、あまり似つかわしくないことじゃ。」彼は答えました、「いかにもさようでございます。けれども、私は面会の時刻をたがえて、海の人の目に頼みがたい嘘つきと見られ、『今はお前は世事にかまけて義務をおろそかにし、自分の約束を忘れてしまっている』などと言われて、私の振舞いを咎める言葉を聞くことがあってはと、心配しておりまする。」すると王は言いました、「いかにももっともの儀じゃ。さらば友に会いにゆけよ、アッラーその方と共にあらんことを。」
そこでアブドゥラーは、方々の市場《スーク》を通り抜けて、海への道をゆきました。すると店を開けている早起きの商人たちは、彼とわかって言いました、「あれは王様のお婿さんの、総理|大臣《ワジール》アブドゥラーが、果物と宝石を換えっこしに、海にゆくのだな。」また彼を知らない人たちは、通ってゆく彼の足を止めて、尋ねました、「おお果物屋さん、杏子《あんず》ひと枡《ます》いくらだい。」彼はみんなに答えました、「これは売り物じゃない。約束ずみの品だよ。」そしてこれをごく丁寧に言って、こうして誰の気も損ねないようにしました。このような風にして浜辺に着きますと、波の間から海のアブドゥラーが出てきましたので、それに果物を渡し、あらゆる色の新たな宝石と引き換えました。それから再び町に戻り、友達のパン屋の店の前を通りました。ところが、その店の戸が閉まっているのを見て、たいそう驚き、今に友達がやってきはしないかと、しばらく待ってみましたが、とうとう隣の店主に尋ねました、「おお兄弟よ、お隣のパン屋さんは、いったいどうなったのですか。」その男は答えました、「アッラーがあの人をどうなすったか、確かなことは存じません。きっと自宅で病気になっているにちがいありません。」彼は尋ねました、「その自宅というのは、どこですか。」その男は答えました、「しかじかの小路です。」そこで言われた小路の道を行って、パン屋の家を教えてもらい、戸を叩いて待ちました。するとしばらくたつと、上の天窓に、パン屋のびくびくした顔が現われ出ましたが、いつものように宝石を盛った魚籠を見ると、パン屋は安心して、下りて戸を開けにきました。そしてアブドゥラーの首に飛びついて、目に涙を浮べて抱きしめながら、言いました、「じゃあんたは、王様のご命令で絞り首にされずにすんだのですか。私は、あなたが泥棒だといって捕えられたと聞きました。そこで、今度は私も共犯として、捕えられはしまいかと心配になって、いそいで竈《かま》と店を閉めて、家の奥に隠れた次第です。けれども、おお友達よ、いったいどういうことで、あなたはまるで大臣《ワジール》みたいな装《なり》をしているのか、そのわけを聞かせて下さい。」そこでアブドゥラーは、わが身に起ったところを一部始終話して聞かせて、付け加えました、「そして王様はおれを総理|大臣《ワジール》に任命して、お姫様をお嫁に下さったのだ。今おれには後宮《ハーレム》があって、その筆頭が、子供たちの母親の、あのおれの古女房なのだよ。」次に言いました、「この籠を、中身ごと全部受け取りなさい。これはお前さんのものだ。なぜなら、今日、お前さんの天命にはそう記《しる》されているのだから。」それからパン屋と別れて、空《から》の籠を持って王宮に帰りました。
王は彼が空の籠を持って帰ってきたのを見ると、笑いながら、おっしゃいました、「どうだ、わかったろう。その方の友人海の人は、来はしなかったであろう。」彼は答えました、「とんでもございません。友人が今日籠に満たしてくれた宝石は、他の日々のそれよりも美しさ勝るものでございました。けれども私はそれを皆、昔、私が貧窮に捉えられていたころ、私を養い、わが子とその母親を養ってくれた、友人のパン屋に、くれてやったのでございます。この男がわが貧乏の日に、私に情け深くしてくれたと同様に、今度は、わが繁栄の日に、私は決してこの男を忘れは致しませぬ。なぜなら、アッラーにかけて、私は、彼がかつて私の窮迫した貧乏人の気持を、決して傷つけたことがないということを、はっきりと見せてやりたく存じまするから。」すると王はいたく感じ入って、お尋ねになりました、「その友の名は何と言うか。」彼は答えました、「パン屋のアブドゥラーと申します、ちょうど私が陸のアブドゥラーと申しますように、またちょうど、私の海の友人が海のアブドゥラーと申しますように。」この言葉に、王は驚嘆し、お身体を激しく揺すって、叫びなさいました、「して、あたかも余がアブドゥラー王というがごとく。またあたかもわれわれ一同がみな、アッラーの下僕《しもべ》(9)というがごとくにじゃ。ところで、あらゆるアッラーの下僕はみな、至高者の御前にては平等であり、信仰と生れによって兄弟であるがゆえに、おお地のアブドゥラーよ、これより直ちに、その方の友人パン屋のアブドゥラーを呼んできてもらいたい、これをわが第二の大臣《ワジール》に任命致すによって。」
すぐに陸のアブドゥラーは、パン屋のアブドゥラーを呼んで参りますと、王は即座にこれに大臣職の徽章《きしよう》を授け、陸のアブドゥラーが王の右|大臣《ワジール》であったので、これをば左|大臣《ワジール》に任じなさいました。
そして昔の漁師アブドゥラーは、望める限り立派に、自分の新しい職務を果たすとともに、一方、友人海のアブドゥラーに会いに行って、季節の果物のひと籠を渡しては、貴金属と宝石のひと籠と交換するのを、ただの一日も忘れませんでした。そして果樹園や走りの果物商のところに、もう果物がないときには、乾葡萄や、巴旦杏や、榛《はしばみ》や、ピスタチオや、胡桃や、乾無花果や、乾杏子や、あらゆる種類とあらゆる色の砂糖煮の乾果物を、籠に詰めました。そしてそのつど、いつものように、宝石の詰った籠を、頭に載せて持って帰るのでした。これが一年間に亘ってつづきました。
ところである日のこと、陸のアブドゥラーは、相変らず明け方浜辺に着いて、友人の海のアブドゥラーのそばに坐り、これと海の住人たちの習慣について何かと話しはじめたのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十二夜になると[#「けれども第五百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしていろいろの話のうちに、彼は言いました、「おお兄弟よ、海のお方よ、あなた方のお国はずいぶん御立派ですか。」相手は答えました、「それはそうですよ。もしお望みなら、あなたを御一緒に海の中に入れてあげて、海にあるもの全部をお目にかけ、私の町をも訪れて、拙宅にお呼びし、手厚くおもてなし致しましょう。」すると陸のアブドゥラーは答えました、「おお兄弟よ、あなたは水中で創られ、水はあなたの住居です。だからこそ、あなたは海のなかに住んでも、何ともおありにならない。けれども、お招きに私が御返事する前に、まず伺わせていただきたいが、あなたは陸に滞在するとなると、この上なくつらくはございませんかしら。」相手は言いました、「それはそうです。私の身体は乾いてしまうでしょう。そして地上の風が私に吹きつけて、私を死なせてしまうでしょう。」陸の人は言いました、「私とて同様です。私は陸上で創られ、陸は私の住居です。さればこそ、陸の空気は私に何ともありません。しかし万一、私が御一緒に海のなかにはいりでもしたら、水が体内にはいって、私を窒息させ、私は死んでしまうでしょう。」海の人は答えました、「それについては少しも心配なさることはありません。というのは、私は塗り薬を持ってきてあげますから、それを身体にお塗りになれば、たとえあなたが余生を全部、水中で送ることになろうとも、水はもう全然御身を害する力を失うでしょう。こういう風にすれば、あなたは私と一緒に水中に潜って、海を縦横に歩き回り、海中で眠り、目覚めることができ、どこに行こうと、決してなんの不都合も生じないでしょう。」
この言葉に、陸の人は海の人に言いました、「そうとすれば、御一緒に水中に潜るに、何の異存もございません。それではその塗り薬を持ってきていただいて、それを試みてみましょう。」海の人は答えました、「ではそう致しましょう。」そして彼は、果物の籠を携えて海中に潜り、しばらくすると、牛の脂肪に似た塗り薬の詰った器を、両手で持って戻ってきましたが、その薬の色は黄金の色のように黄色く、その香《にお》いは何とも言えぬよい香いでした。そこで陸のアブドゥラーは聞きました、「この薬は何で出来ているのですか。」彼は答えました、「これは魚類のなかで、ダンダーン(10)という種類の魚の、肝臓の油で出来ています。このダンダーンという魚は、海のあらゆる魚のなかでいちばん巨《おお》きなやつで、これはあなた方陸の人々が、象とか駱駝とか呼んでいるものなどを、ただのひと口で、楽々と呑みこんでしまうほどです。」すると昔の漁師は、びっくりして叫びました、「で、そのこわい獣《けだもの》はいったい何を食べるのですか、おお兄弟よ。」彼は答えました、「これは普通、深海に生れるいちばん小さな獣類を食べています。それというのも、弱肉強食という諺《ことわざ》を御存じでしょう。」陸の人は言いました、「いかにもおっしゃるとおりですね。けれどもあなた方のところには、そのダンダーンというのがたくさんいるのでしょうか。」彼は答えました、「何千何万といて、アッラーのみがその数を御存じです。」陸の人は叫びました、「ではこの訪問は御勘弁下さい、おお兄弟よ。そいつに出会って食べられてはたまらないから。」海の人は言いました、「その御懸念は無用です。ダンダーンという魚は、おそろしく獰猛《どうもう》とはいえ、イブン・アーダムの肉はやつには猛毒なので、ひどくこわがっていますから。」昔の漁師は叫びました、「やあ、アッラー、だが一度私がダンダーンに呑み込まれてしまった暁には、ダンダーンにとって毒だっても、はじまらないじゃありませんか。」海の人は答えました、「いや絶対にこのダンダーンの心配はございません。ただイブン・アーダムを見ただけで、やつは逃げてしまいますよ。それほどこわがっています。それにまた、あなたはそいつの肝油を塗っているのですから、匂いであなたがわかって、決して御身に危害を加えは致しません。」すると陸の人は、友人の保証に納得して、言いました、「私はアッラーとあなたにわが信頼を置きまする。」そして着物を脱いで、砂に穴を掘り、そこに衣類を隠して、留守中誰にも盗まれないようにしました。それがすむと、くだんの塗り薬を頭から足の先まで、ほんの小さな隙間も余さず、全身に塗り、そうしてから、海の人に言いました、「用意はできました、おお兄弟、海のお方よ。」
すると海のアブドゥラーは連れの男の腕をとって、一緒に海の深みに潜り入りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十三夜になると[#「けれども第五百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてこれに言いました、「目をお開けなさい。」すると海の非常な水圧にも、少しも息が詰らず、圧し潰されるような気持も覚えず、海中で、空の下でよりも楽に呼吸ができたので、彼は実際に自分に水が透らないことがわかり、そこで両眼を開けました。そしてそのときから、彼は海の客人となったのでございます。
そして彼は自分の頭上に、海がさながら、地上で水の上に安らう晴れ渡った青空にも似て、翠玉《エメラルド》の天蓋のように拡がっているのを見ました。足許には、開闢以来、どんな陸上の目もかつて侵したことのない、海底の地域が連なっておりました。そして清明の気が、水底の山山と野に漲《みなぎ》っています。光はうっすらとして、いろいろな生き物と品々のまわりに、水の限りない透明ときららかさとのなかに、ひたっております。物静かな風景は、故国の空のあらゆる魅惑よりもまさって、彼の心を魅惑しました。いくつもの赤珊瑚の森と、白珊瑚の森と、薔薇色珊瑚の森が見えて、それらはひっそりと枝を拡げたまま、じっと立ち尽しています。また、紅玉《ルビー》、貴橄欖石、緑柱石、金色の青玉《サフアイア》、黄玉の柱の立ち並ぶ、金剛石の洞穴だの、いくつもの王国ほどもある広い地域に亘って、軽く揺れ動いている途方もない草木だの、銀の砂のただなかに、清澄な水中に煌《きら》めき映じている、数知れぬ形と色の貝殻だのが見え、彼の身辺一帯には、花に似た魚や、果物に似た魚や、鳥に似た魚や、あるいは、金と銀の鱗を着けて、大きな蜥蝪《とかげ》に似た魚や、あるいは、むしろ水牛とか牝牛とか犬とか、時にはアーダムの子の形さえした魚が、電光のように閃き、壮麗な宝石の広大な岩礁が、多彩な幾千もの火を放ち、水によって消されるどころか、いっそう燃えさかっており、また他の岩礁には、純白の真珠と、薔薇色の真珠と、金色の真珠を、いっぱいに含んだ阿古屋貝が、殻を開いているかと思うと、今度は、海底に張った根の上に重々しく揺れ動く、いっぱいに膨《ふく》らんだとても大きな海綿が、左右対称の広大な二列に、大軍団のようにずらりと並んで、さながら海のさまざまの地域の境界を画して、ひっそりした茫漠たる境の、動かぬ番人をもって任じているかのようでございました。
ところが、地のアブドゥラーは、こうしてずっと友人の腕にすがって、深い淵の上を急速度で走りながら、自分の前に、これらすべての壮麗な光景が繰り拡げられるのを見ていましたが、そこに突然、数知れず連なっている、翠玉《エメラルド》の洞穴を認めました。それは同じ緑色の宝石の山の山腹に、じかに掘り込まれていて、その戸口には、琥珀と珊瑚の色の髪の毛をした、月のように美しい乙女たちが、坐ったり、横になったりしているのです。この乙女たちは、お臀《しり》と腿《もも》と脚の代りに、尻尾があるのですが、それさえなかったら、陸の乙女たちそっくりでした。ところでこれこそ「海の娘たち」でございました。そしてこの緑の洞穴の町は、彼女たちの領分でした。
これを見ると、陸の人は海の人に尋ねました、「おお兄弟よ、この乙女たちは結婚していないのですか、間に男子をいっこう見かけないが。」海の人は答えました、「御覧になっているのは、若い処女の娘たちで、みんな自分の住居の入口で、やがて夫がやって来て、自分たちのなかから、気に入った娘を選ぶのを待っているのです。それというのは、海の他の場所には、男と女の住んでいる町々があって、そこから、若い嫁を探す青年が出てくるのです。それというのは、若い娘が滞在する権利のあるのはただこの場所だけでして、娘たちはわれわれの国のあらゆる地点からここにやってきて、夫を待ちながら、お互い同士暮しているのです。」そしてちょうどこう説明しおわったとき、二人は男と女の住んでいるある町に着いたので、陸のアブドゥラーは言いました、「おお兄弟よ、あそこには人の住む町が見えますが、売ったり買ったりする店が、一軒も見当りませんね。それにまた申し上げずにいられないが、住民のただ一人も、身体の隠しておかなければならない個所を守る衣服を、身につけていないのを見るのは、何とも驚き入った次第です。」相手は答えました、「商売ということにつきましては、われわれは全然そんなものを要しません。われわれの生活《くらし》は楽で、われわれの食物といえば、手近に捕《と》れる魚なのですから。だが、われわれの身体のある部分を隠すということにつきましては、第一われわれにはその必要を認められませんし、われわれとあなた方では、その部分については別な構造です。次に、たとえわれわれは隠したいと思ったところで、蔽うべき布を持ち合せませんから、できるわけがございません。」彼は言いました、「いかにもごもっともです。だが、あなた方のところでは、結婚はどのように行なわれますか。」友は言いました、「われわれのところでは、結婚ということは全然行なわれません。それというのは、われわれは自分の欲望や愛情を一定し、取り締るような掟を持ち合せてはいないのです。われわれは一人の女が気に入れば、これを取り、もう気に入らなくなれば、これを捨てて、誰か他の男に任せます。それに、われわれは皆が回教徒《ムスリムーン》ではありません。われわれの間には、また大勢のキリスト教徒とユダヤ教徒がいて、この輩はきまった結婚ということを認めません。何しろ彼らはたいそう女好きで、きまった結婚では困るのです。われわれ回教徒は、無信仰者の侵入することのない別な町に、離れて暮していますが、ただわれわれだけが、聖典《アル・キターブ》の戒律に従って結婚し、至高者と預言者(その上に祈りと平安あれ)によって、御満足の目をもって見られるような、婚姻の式を挙げます。けれども、おお兄弟よ、とにかく私は早く、あなたをわれわれの町にお連れしたいと思うのです。それというのは、仮りに私は、千年かかってわが国の景観をお目にかけたところで、まだ私の仕事を終えはせず、あなたは二十四分の一をも察し得ないでありましょうから。」すると陸の人は言いました、「いかにもそうです、兄弟よ、私は大分お腹が空《す》いてきましたが、あなたのように生の魚を食べるわけにゆかないだけに、なおさらです。」海の人は尋ねました、「ではあなた方陸の人々は、どうやって魚を食べるのですか。」彼は答えました、「われわれはオリーヴ油か、胡麻油で、焼くか揚げるかします。」海の人は笑い出して、言いました、「水のなかに住んでいるわれわれは、オリーヴ油とか胡麻油を手に入れて、消えない火にかけて魚を揚げるには、いったいどうやったらよいことやら。」陸の人は言いました、「なるほどそうですね、兄弟よ。ではどうかその私の知らないあなたの町に、御案内願いましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十四夜になると[#「けれども第五百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで海のアブドゥラーは彼をば、次から次へと目の前に景観の相続くさまざまの地帯を、大急ぎで通り過ぎさせて、他の町々よりも小さな、ひとつの町に行き着かせました。そこの家々はやはり洞穴でしたが、それらは住む人数に従って、あるものは大きく、あるものは小さい洞穴でした。そして海の人は、彼をその洞穴の一つの前に案内して、言いました、「おはいりなさい、おお兄弟よ。これが私の家です。」そして彼を洞穴のなかに入れて、さて叫びました、「おい、娘や、早くここに来なさい。」するとすぐに、薔薇色の珊瑚の叢《むら》の蔭から出てきて、漂う長い髪と、美しい乳房と、見事な腹と、優雅な腰と、黒く長い睫毛の、美しい緑色の目を持った、けれども、すべての他の海の住人なみに、身体が尻尾で終って、それが臀と脚の代りになっている一人の乙女が、近づいてきました。そして陸の人を見ると、びっくりして立ちどまり、限りなく物珍しげにしげしげと見つめ、最後にどっと吹き出して、叫びました、「おお、お父様、お父様の連れていらっした、この『尻尾なし男』はいったい何なの。」父親は答えました、「娘よ、これは私の友達の陸の人で、毎日私が持ってきて、お前が無上に悦んで食べる、あの果物の籠を下さるのは、この方だよ。だから鄭重にお傍に行って、平安と歓迎の言葉を申し上げなさい。」そこでその娘は進み出て、たいそう優しく、吟味した言葉でもって、彼に平安を祈りました。そこでアブドゥラーは、この上なく悦ばしく思って、これに答えようとすると、そこに今度は、海の人の妻が、末の二人の子供を、一人ずつ腕に抱えて、胸に抱きしめてはいってきました。その子供たちはめいめい一匹の大きな魚を持って、ちょうど陸の子供たちが胡瓜にかぶりつくような工合に、むしゃむしゃかぶりついておりました。
さて、海の人のわきに立っているアブドゥラーを見ると、その妻は、二人の子供を下におろしてから、驚いて身動きもせず、敷居の上に立ち尽しましたが、いきなり、精いっぱい笑いながら、叫びました、「アッラーにかけて、まあ、『尻尾なし男』だわ。いったい尻尾がないとは、どうしたことかしら。」そして妻はもっと近く陸の人のほうに進み寄り、その二人の子供と娘も、同様に近づいてきました。そしてみんなこの上なく面白がって、彼を頭から足の先までじろじろ見始め、とりわけその臀部に驚き入りました。なにしろ生れてから、臀とか、何か臀に似たものなど、見たことがなかったからです。そして子供たちと若い娘は、最初のうちこそ、この盛り上った部分を少し気味悪がっていましたが、そのうち大胆になって、そこを何度も、指でさわってみるまでになりました。それほど、そこは不思議でもあり、面白くも思えたのです。彼らはお互いの間で、それをたいそう笑って、「これは『尻尾なし男』だぞ」と言いながら、嬉しがって踊り回るのでございました。ですから、地のアブドゥラーは、しまいにはみんなの遣り口と無遠慮に気を悪くして、海のアブドゥラーに申しました、「おお兄弟よ、あなたはこの私を、お子さんと奥さん方のなぶりものにしようとて、ここまで連れて来なすったのでしょうか。」相手は答えました、「幾重にもお詫び申し上げます、おお兄弟よ、どうぞお許しの上、この二人の女子《おなご》と二人の子供の行儀を、お気に止めなさらぬようお願い申します。何しろ、これらは頭が足りない連中ですから。」次に子供たちの方に向いて、「黙りなさい」と叱りつけました。子供たちは父親がこわいので、黙りました。すると海の人は、お客に言いました、「けれども、御覧のような有様を、あまり意外にお思いなさるな、おお兄弟よ。それというのは、われわれのところでは、尻尾のない者は一人前ではないのです。」
ところが、彼のこの言葉が終る間もなく、大きな、太った、逞しい人たちが、十人やってきて、この家の主人に言いました、「おおアブドゥラーよ、海《わだつみ》の王は、あなたが陸《くが》の尻尾なしどものなかの、一人の尻尾なし男をお宅に呼んだということを、ただいまお聞きになりました。それは本当でしょうか。」彼は答えました、「本当です。それは正に、あなた方が前に見ていなさるこの方です。これは私の友人であり、客人であって、私はこれからすぐに、お連れしてきた浜辺に、またお送りしようと思っているところです。」一同は言いました、「それはうっかりなさらぬがよい。なぜならば、王はその男に会って、身体《からだ》がどんな風になっているか、お調べになりたい思し召しで、私どもを迎えに遣わされたのですから。何でもその男は、後ろに何か変ったものを、また前にも更にもっと変ったものを持っているらしく、王はその二つのものを御覧になり、それが何というものか知りたいとの仰せです。」
この言葉に、海のアブドゥラーは客人のほうに向き直って、申しました、「おお兄弟よ、どうか御容赦下さい、お詫び申さねばならぬことは、もう明らかです。私たちはわれらの王の御命令に背くことは出来ません。」陸の人は言いました、「私はその王様が恐ろしくてなりません。王様は恐らくは、御自分のお持ちにならぬものを私が持っていることに、御機嫌を斜めになすって、そのために、私を亡きものにしようとなさることでしょう。」海の人は言いました、「いや、それは私がついていて、あなたを庇い、どんな危害も御身に起らぬように致します。」陸の人は言いました、「それでは、あなたの取り決めに万事お委せし、アッラーに私の信頼を置いて、あなたの後に従いましょう。」そこで海の人は客人を伴って、王の御前に案内しました。
王は陸の人を見ると、すっかり笑い出して、水中ででんぐり返しを打ちなすったほどでした。次におっしゃいました、「われらの間にようこそ来られた、おお尻尾なし男よ。」すると王のまわりにいる全部の大官も、たいそう笑って、「さよう、アッラーにかけて、これは尻尾なし男だ」と言いながら、互いに陸の人のお臀を指さし合うのでした。王はお尋ねになりました、「いったい何として、その方には尻尾がないのか。」――「いっこうに存じませぬ、おお王様。けれども、われわれ陸の住人はすべて、かようでございます。」王は尋ねました、「して、その方たちの後ろで、尻尾の代りをしているそのものを、その方たちは何と呼ぶか。」彼は答えました、「ある者はこれを尻と呼び、他の者は臀部《うしろ》と呼び、一方他の者は、これが二つの部分になっておりますので、尻っぺたとも言っております。」すると王はお尋ねになりました、「してその臀部とは、その方たちに何の役に立つのか。」彼は答えました、「疲れたときに、坐るに役立つので、それだけのことです。けれども女子にあっては、これはすこぶる珍重される装飾となっておりまする。」王は尋ねました、「然らばその前のほうのものは、それは何と呼ばれるのか。」彼は言いました、「陰茎《ゼブ》と申します。」王は尋ねました、「してその陰茎《ゼブ》とは、その方たちに何の役に立つのか。」彼は答えました、「あらゆる種類の多くの用途に役立ちますが、王の御前をはばかって、御説明致しかねまする。さりながら、それらの用途は甚だ緊要欠くべからざるものにて、われらの世界では、男子にあっては有能な陰茎《ゼブ》ほど尊重せらるるものなきは、あたかも女子にあって、立派な臀部ほど珍重せらるるものはなきがごときものがございます。」すると王と側近の人々は、この言葉に非常に笑い出しましたので、地のアブドゥラーはもう何と言ってよいやらわからず、両手を天に挙げて、叫びました、「一つの世界では名誉となり、別の世界では笑いぐさとなるために、臀部を創りたもうたアッラーに称《たた》えあれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十五夜になると[#「けれども第五百十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼は、このように自分が、海の住人の好奇心を満足させる種になっているのに困り果てて、もうわが身と、自分の臀部と、その他を、持て扱いかねてしまいました。そして魂の中で考えました、「アッラーにかけて、何とかここから遠く離れてしまうか、さもなければ、わが裸か身を蔽うものが欲しいものだ。」けれども王は最後に言いました、「おお尻尾なし男よ、その方はその臀部をもって、いたく余を娯《たの》しませたによって、余はその方のあらゆる望みに、満足を与えてやりたいと思うぞよ。されば何なりと、欲するものを所望せよ。」彼は答えました、「私は二つのことを望みます、おお王様。地上に戻ることと、海の宝玉をあまた持ち帰ることとでございます。」すると海のアブドゥラーも申しました、「おお王様、私の友は、ここに参って以来何ひとつ食わず、生魚《なまざかな》の肉を好まぬ由ゆえ、なおさらのことでございます。」すると王はおっしゃいました、「この者に欲しいだけの宝玉を与え、来た元の場所に連れ戻せよ。」
すぐに全部の海の人たちは、取り急ぎ空《から》の大きな貝殻をいくつも持ってきて、それにあらゆる色の宝石を満たしてから、陸のアブドゥラーに聞きました、「これをどこにお運びしたらよろしいか。」彼は答えました、「あなた方は、私と、私の友、あなた方の兄弟のアブドゥラーの後から、ついてきて下さりさえすればよろしい。私の友は、いつものとおり、宝石を詰めた籠を運んで下さるでしょうから。」次に彼は王にお暇乞いをして、友と連れ立ち、宝石を満たした貝を運ぶ海の人たちを全部引き連れて、海の国を越え、再び空の下に上がりました。
そこで彼は浜辺に坐って、しばらくの間ゆっくり休んで、生れた土地の空気を吸いました。それから、自分の着物を掘り出して、それを着ました。そして友人海のアブドゥラーに、別れを告げて言いました、「どうぞこの浜辺に、この貝全部とその籠を置いて行ってください、人足を呼んできて、これらを運ばせますから。」そして人足を呼んできて、その宝物全部を王宮に運ばせました。それから、王の所に参上しました。
王は婿の姿を御覧になると、非常な悦びを面《おもて》に現わしてお迎えになり、おっしゃいました、「われら一同は、その方の留守をいたく案じておった。」そこでアブドゥラーは自分の海の冒険を、初めから終りまでお話し申し上げましたが、それを再びお話し申しても無益でございます。そして彼は王の御手の間に、宝石を満載した籠と貝を並べました。
すると王は、婿の話と海から持ち帰った財宝とに驚嘆なすったとは申せ、海の人々が自分の婿の臀部と、総じてあらゆる臀部に対して振舞った不作法な態度に、いたく御気色を損じ、御不快を覚えなすって、おっしゃいました、「おおアブドゥラーよ、余はもはやその方が、今後再び、その海のアブドゥラーに、浜辺に会いに行くことを好まぬぞよ。何となれば、いかにもこのたびは、その方が彼の後に従って行って、さしたる禍いも受けなかったにせよ、将来はその方の身に何事が起りかねぬかは、知るべくもない、冷水壺を投げて[#「冷水壺を投げて」に傍点]、そのつど全きわけには行かぬ[#「そのつど全きわけには行かぬ」に傍点]からな。それに、その方はわが婿であり、大臣《ワジール》の身じゃ。その方が、毎朝頭上に魚籠を載せて海に出かけ、次いで、かの多少とも尻尾を持ち、多少とも不作法な人々全部の笑いぐさとなるを見るは、余のいさぎよしとせぬところじゃ。されば王宮にとどまるがよい。かくしてその方は平穏無事にて、われらもその方について、安堵《あんど》していられるであろう。」
そこで地のアブドゥラーは、舅《しゆうと》のアブドゥラー王の御意に逆らおうとはせず、それから友人パン屋のアブドゥラーと一緒に、王宮にとどまり、もう浜辺に、海のアブドゥラーに会いに行かないようになりました。海のアブドゥラーはきっと立腹したのに相違なく、その後もう噂を聞くこともございませんでした。
そして彼らは皆、悦びの破壊者にして友を分け隔てる者が訪れてくるまで、歓楽のただなかに、この上なく仕合せな身分と、徳を履《ふ》み行なうこととのうちに、暮しました。そして皆死にました。さあれ、ただひとり死することなき生者、可見と不可見の世界をしろしめし、万物の上に全能にましまし、その下僕《しもべ》たちの志と要求とを知りたもうて、これに恵みを垂れたもう御方《おんかた》に、栄光《さかえ》あれかし。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードはこの最後の言葉を言い終えると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は叫んだ、「おおシャハラザードよ、この物語はまことに世の常ならぬものじゃ。」するとシャハラザードは言った、「さようでございます、おお王様。けれども、いささかの疑いもなく、またこの物語は幸いにしてお気に召したとは申せ、これはわたくしの更にお話し申し上げたく存じまする物語よりは、感嘆に値するものではございません。それは黄色い若者の物語[#「黄色い若者の物語」はゴシック体]でございます。」するとシャハリヤール王は言った、「いかにも、話して苦しゅうない。」そこでシャハラザードは言った。
[#改ページ]
黄色い若者の物語
おお幸多き王様、さまざまの小話の間に、語り伝えまするところでは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、一夜、宰相《ワジール》ジャアファル、宰相《ワジール》アル・ファズル(1)、お気に入りのアブー・イスハーク、詩人アブー・ヌワース、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルール、それに警察隊長《ムカツダム》蛾のアフマードを従えて、王宮をお出ましになりました。一同みな商人に身をやつして、ティグリス河のほうに向い、小舟に乗って、水の流れのまま、あてどなく舟をやりました。それというのは、ジャアファルは、教王《カリフ》が不眠におかかりになってお心憂わしげなのを拝し、鬱を散じるには、未だ見ざるものを見、未だ聞かざるものを聞き、未だ踏まざる地を訪れるよりも、効あるはござりませぬと、言上したからでございました。
さて、しばらく時がたって、ちょうど小舟が河を見おろす一軒家の窓の下を通りかかりますと、その家のなかに、琵琶《ウーデイ》で伴奏しながら、次の詩句を歌う美しく物悲しい声が、聞こえたのでありました。
[#ここから2字下げ]
酒盃ここにあって、近隣の藪に千声《ハザール》(2)鳥歌うとき、われはわが心に言いたり。
そもいつまでか汝は幸《さち》を斥くるものぞ。目ざめよ、人生は短期の貸付金なり。
盃と酌人、ここにあり。汝の友は美貌にして若き酌人なり。彼を見て、その双手より、汝に差し出す盃を取れ。
その瞼は悩ましげにして、その眼差は汝を誘《いざな》う。かかる事どもをさげすむなかれ。
われはその双頬に若き薔薇を植えたり。ようやく熟して、われこれを摘まんとすれば、われは柘榴を見出したり。
おおわが心よ、かかる事どもをさげすむなかれ。今はその双頬に薄髭生うる時なり。
[#ここで字下げ終わり]
この歌をお聞きになると、教王《カリフ》はおっしゃいました、「おおジャアファルよ、何と美しいことか、この声は。」ジャアファルはお答えしました、「おおわれらの殿よ、いかにも、かつてこれ以上美しいまたは好ましい声は、未だわが耳を驚かしたことがござりませぬ。けれども、おおわが御主君、壁の後ろより声を聞くは、半ばしか聞かぬこと。もしわれわれがこれを帳《とばり》の後ろにて聞いたならば、いかがなものでございましょう……。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十六夜になると[#「けれども第五百十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……もしわれわれがこれを帳《とばり》の後ろにて聞いたならば、いかがなものでございましょう。」すると教王《カリフ》は申されました、「おおジャアファル、この家のなかにはいって、この場所の主人に歓待を求めるといたそう、この声をさらによく聞くことを期して。」そこで一同小舟を止めて、陸に上がりました。それからこの家の戸を叩いて、開けに来た宦官に、はいる許しを乞いました。宦官は主人に知らせに行きますと、やがて主人が出て来て、一同を迎えて言いました、「お客様方に、家族とくつろぎと豊富とあれ。この家《や》にようこそお越しなされました、皆様はこの家の持主でございます。」そして一同を、広々とした爽やかな広間に案内いたしましたが、その天井には、金と群青の地《じ》の上に、模様が心地よく彩色されていて、広間の中央には、雪花石膏《アラバスター》の泉水のなかに、一条の噴水が立ちのぼり、妙《たえ》なる音を立てておりました。そして主人は一同に言いました、「おお御主人方よ、私は皆様方のうちどなたが最も尊敬すべきお方であるやら、また最も地位と身分の高いお方であるやら、存じあげません。あなた方皆々様の上のビスミッラーヒ(3)、されば、適当とお思いになる場所に、何とぞお坐り下さいまし。」次に彼は、広間の奥のほうを向きますと、そこには黄金と天鵞絨《ビロード》の椅子百脚の上に、百人の乙女が坐って控えておりましたが、彼はこれに合図をいたしました。するとすぐに、その百人の乙女は立ち上がって、黙ったまま次々に出てまいりました。主人が第二の合図をすると、奴隷たちは、衣を帯までたくしあげて、空中を飛ぶもの、地上を歩むもの、海中を泳ぐものすべてを以って調製した、あらゆる色の御馳走を満たした大皿を、いくつも運んで来ました。それに捏粉菓子や、果物の砂糖煮や、またピスタチオと巴旦杏の実でもって、客人を称《たた》える詩句を書き記《しる》したパイの類なども、運んでまいりました。
そして一同食べて飲み、手を洗い終えたとき、その場所の主人は、一同に尋ねました、「おおわが客人方よ、もし今皆様が何ごとか私に所望して私を悦ばせて下さるため、御光来を辱《かたじけの》うしたのであるならば、何とぞお心置きなくお申し出で下さい。それと申すは、皆様の御希望は、わが頭と目にかけて実行されるでありましょうから。」ジャアファルが答えました、「いかにも、おおわれらの主《あるじ》殿、われらは先ほど水上にて、おぼろげに定かならず拝聴した見事な声を、さらによく拝聴せんとて、お宅に参入したのでございます。」
この言葉に、その家の主人は答えました、「ようこそお越しなされた。」そして掌《たなごころ》を打って、駈けつけた奴隷たちに言いつけました、「お前たちの御主人ジャミラ夫人に、われわれのため何か歌ってくれと伝えよ。」すると数瞬後、奥の大垂幕の後ろから、他にまたと類《たぐい》のない声が、琵琶《ウーデイ》と竪琴《ジーターラ》の軽やかな伴奏で、歌いました。
[#ここから2字下げ]
盃を取って、君が唇に捧げまつるこの酒を飲みたまえ。この酒はかつて男子の心に混じりしことなきもの。
されど、己が恋う人との再会を空しく心ひそかに信ずる女より、時は遠くのがれ去る。
そも幾夜をわれは過ごせしか、驟雨に曇る月の下、ティグリス河の黒ずむ波を見つめつつ。
そも幾たびか東方に、夕月、銀《しろがね》の剣《つるぎ》の形して、真紅の水に没するを見しことぞ。
[#ここで字下げ終わり]
その声は歌い終わると、沈黙し、そしてただ絃楽器だけが音を弱めて、朗々と空中に残る残響に、伴奏をしつづけました。教王《カリフ》は驚嘆恍惚となさって、アブー・イスハークのほうを向いて、仰せられました、「アッラーにかけて、これに類したものはかつて聞いたことがないぞよ。」そして住居の主人に申されました、「この声の持主は定めし恋する女にて、愛人と裂かれているものでござろう。」主人は答えました、「さにあらず、この女の悲しみは、それとは別の由来のものです。例えば、父母から隔てられていて、父母を思い出しながら、このように歌っているのかも知れません。」アル・ラシードは申されました、「両親との離別が、このような悲調をひき起すとは、すこぶる驚くべきことです。」そしてそのときはじめて、相手の面上にもっと納得のゆく説明を読み取ろうとなさるかのように、この家の主《あるじ》をば、注意ぶかく御覧になりました。そしてこれは、顔だちの非常に秀麗な若者ではあるが、顔色はサフランのように黄色いのを、御覧になりました。教王《カリフ》はこの発見にたいそう驚かれて、これに仰せられました、「おおわれらの主《あるじ》よ、われわれはお暇を乞うて、来たったところに立ち去る前に、今ひとつ申し出でたきお願いがございます。」すると黄色い若者は答えました、「お望みはあらかじめ叶えられておりまする。」教王《カリフ》はお訊ねになりました、「私も伺いたく存じますし、また私と共におる一同も同様に伺いたく存じますのは、あなたのお顔のサフラン色の黄色は、世に経るうちに得られなすったものか、それとも、生れながらにして持ち合わせなすった生得のものか、それを承わりたい次第です。」
すると黄色い若者は申しました、「おお皆様、客人御一同よ、私の顔色がサフランのような黄色である原因は、まことに世の常ならぬものにて、もしこれが目の内側の片隅に針でもって記《しる》されたならば、これをうやうやしく読む者にとっては、教訓となるものでもございましょう。されば私に皆様のお耳をお預け下さって、私に皆様の精神《こころ》のあらゆる注意をお授け下さいませ。」一同は答えました、「われわれの耳と精神《こころ》とはあなたのものでございます。そしてわれわれは今や、お話を承わるのを待ちかねておりまする。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十七夜になると[#「けれども第五百十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると黄色い顔色の若者は申しました。
されば、おお御主人様方、私はオマーンの国の出身でございまして、そこで私の父は、海の商人たちの間で最大の豪商で、三十隻の船舶を独占所有し、その年々の収益は三万ディナールありました。父は見聞豊かな人物で、私に文字をはじめ、知る必要のある一切を学ばせました。その後、父は末期が近づいたので、私を呼びよせて、いろいろと注意を垂れ、私はそれを謹聴いたしました。次にアッラーは父を召されて、御慈悲《おんじひ》のうちにお許し下さいました。何とぞアッラーは、おおわが客人方よ、皆様の齢《よわい》を永からしめたまいまするように。
さて私は、父の死後しばらくして、今は父の全部の財貨をわが有《もの》として、ある日自宅で、招客一同のまん中に坐っておりますと、そのとき奴隷の一人が私に告げて言うに、私の使っている船長の一人が戸口にまいっていて、走りの果物を一籠私に持ってきたということでした。それで私はこれをはいらせて、その土産を受納しましたが、それは事実、わが地には見られぬ数々の果物で、まことに見事なものでありました。私はこれに返礼として金貨百ディナールを渡して、自分の悦びを表しました。次に私はこれらの果物を招客一同に分かち、そして船長に訊ねました、「この果物はどこのものかね、おお船長よ。」彼は答えて、「バスラとバグダードです。」この言葉を聞くと、招客はこぞって、バスラとバグダードのすばらしい土地柄について、感嘆の叫びをあげはじめ、そこで送る生活や、気候のよさや、住人の都雅などを、私に讃めたたえはじめました。そして一同これについて、互いに他の人の言葉に輪をかけて、しきりに讃めちぎるのでした。それで私はこうしたすべてにすっかり刺激されてしまい、それ以上訊ねるまでもなく、即刻即座に立ち上がり、旅を熱烈に望むわが魂に少しも逆らわず、私は自分の財産と所有物、商品と船舶、自分用にただ一艘だけ残しましたがこの外全部、それから男の奴隷と女の奴隷などを、競売に付し、全部を金《かね》に換え、こうして、箱におさめた宝玉と宝石と金塊を別にして、百万ディナールの金額を現金にしました。それを終えると、このようにいちばん軽い目方に換えた財宝を携えて、手もとに残した船に乗って、バグダードを指して出帆しました。
さてアッラーは私に幸いな渡航を記《しる》したまい、私は恙《つつが》なく、わが財宝と共に、バスラに到着し、そこから別な船に乗りこんで、バグダードまでティグリス河を溯りました。そこに着いて、住むのにいちばん適当な場所を問い合わせますと、いちばん繁華な地区であり、有力者たちの普通の居住地だと言って、カルク地区を教えてくれました。それで私はこの地区に行き、蕃紅花《ザアフアラーン》街に一軒の立派な家を借り、そこに財宝と持ち物を運ばせました。それがすむと、私は洗浄《みそぎ》をし、そして、わが願望の目的地であり、あらゆる都市の羨望の地である、その名も高いバグダードに、遂に来あわせたことに、魂は悦び、胸は広がって、私はいちばん美しい衣服を着こんで、いちばん繁華な街々を足にまかせて散歩しようと、外に出たのでありました。
さて、ちょうどその日は金曜日のこととて、住民は全部晴れ着を着て、戸外の爽やかな空気を吸いながら、私のように散歩をしておりました。私は群衆について、群衆の向うところに向いました。こうして私は、バグダードの散歩者の普通の目的地である、カルン・アル・スィラートに着きました。そしてこの場所で、たいそう立派なさまざまの建物の間に、他のものよりひときわ立派な、正面が河に面している一軒の建物を見かけました。その大理石の敷居の上には、白衣を着た一人の老人が坐っていましたが、それは白髯が等しい二房《ふたふさ》の銀線細工に分かれつつ、帯まで垂れている、まことに尊ぶべき様子の老人でした。そして彼は、月のように美しく、彼と同じく選りぬきの香水を香らせた五人の美青年に、囲まれておりました。
そのとき私は、この白衣の老人の美しい容貌と青年たちの美貌に心ひかれて、一人の通りがかりの男に訊ねました、「あの尊ぶべき長老《シヤイクー》はどなたですか。またお名前は何とおっしゃるのですか。」答えはこうでした、「あれは若人《わこうど》の友、ターヘル・アブール・オラ老です。あの仁のところにはいる人は誰でも、あの家に住みこんでいる若衆か若い娘か、どちらでも好きなほうを選んで、それを相手に、食べて、飲んで、遊びさえすればよいのですよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十八夜になると[#「けれども第五百十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私はこの言葉を聞いて、有頂天のかぎり有頂天になって、叫びました、「私が船から下りると早々に、私をこの吉兆の顔の老人《シヤイクー》の路上に置きたもうた御方に、栄光あれ。それと言うのは、私が故国の奥からはるばるバグダードに来たのは、この老人のような人を見つける目的からにほかならなかったのだから。」そして私はその老人のほうに進みよって、これに平安《サラーム》を祈ってから、言いました、「おお御主人よ、ちょっとお願いしたいことがあるのです。」彼は父親が息子に微笑するように、私に微笑して、そして答えました、「して、どういうお望みかな。」私は言いました、「今晩はぜひ、お宅の客になりたいものと思います。」彼はさらに私を眺めて、答えました、「ねんごろな友情と寛大さを以って。」次に付け加えて、「今晩は、おおわが息子よ、ちょうど新たに若い娘たちが着いたところで、そのひと晩の値段は、それぞれの取得《とりえ》によってちがいがある。あの娘たちはひと晩十ディナール、他の娘たちは二十ディナールという相場だし、また他の娘たちは、ひと晩五十ディナールや百ディナールまでにも達するのです。お好きなのを選びなされ。」私は答えました、「アッラーにかけて、私はまず最初、ひと晩十ディナールにしか達しない娘の一人で、ためしてみたい。それからは、アッラー・カリーム(4)。」次に私はつけ加えました、「ここにひと月分として三百ディナールある、十分ためすにはひと月かかりますからね。」そして私は彼に三百ディナール算えて、そのわきに置いてある秤《はかり》にかけて、それを秤ってやりました。すると彼はそこにいる若衆の一人を呼んで、言いました、「お前の御主人をお連れしなさい。」そしてその若衆は私の手をとって、まずその家の浴場《ハンマーム》に案内して、心地よい風呂を使わせ、この上なく入念丁寧な世話を惜しみませんでした。それがすむと、彼は私を別棟に案内して、その戸の一つを叩きました。
するとすぐに、にこやかな、吉兆あふれる顔つきの一人の乙女が、開けに来て、美しい身ごなしで私を迎えました。少年はこれに言いました、「あなたのお客様を頼みますよ。」そして引きとりました。するとその乙女は、少年に渡された私の手をとって、驚くばかりの飾りつけの一室に私を案内すると、敷居のところで、その女付きの、二つの星のようにかわいらしい二人の奴隷の少女が、われわれを迎えました。そこで私は、彼らの女主人のその乙女をいっそう注意深く眺めまして、こうして、この女こそはまことに満月のおりの月さながらであることを、確かめました。そのとき乙女は私を坐らせ、自分もならんで坐りました。次に二人の少女に合図をすると、二人はすぐに大きな金の盆を運んできましたが、その上には、焼いた雛鳥《ひなどり》と、焼いた肉と、焼いた鶉《うずら》と、焼いた鳩と、焼いた雷鳥が、乗せられておりました。そして私たちは飽きるまで食べました。私は生れてから、これほどおいしい御馳走を味わったこともなければ、御馳走の盆がいったん下げられると、その乙女が出してくれた飲み物ほど、味のよい飲み物を飲んだこともなく、これほど甘美な花を吸いこんだこともなければ、こんなに上等な果物と砂糖煮と捏粉菓子で、口を甘くしたこともございませんでした。それから乙女は、非常な優しさと、魅力と、官能的な愛撫のほどを見せてくれたもので、私は日々の過ぎ去るのも知らずに、この女と共にまるひと月を過ごしてしまいました。
ひと月たつと、前の少年の奴隷が私を呼びにきて、私を浴場《ハンマーム》に連れて行きましたが、私はそこを出ると白衣の老人《シヤイクー》に会いに行って、これに申しました、「おお御主人よ、私はひと晩二十ディナールの娘が一人欲しい。」彼は私に答えました、「金貨を秤りなされ。」それで私は自分の家に金貨をとりにゆき、戻って、ひと晩二十ディナールの乙女を相手にためすひと月分、六百ディナールを、老人に秤ってやりました。すると彼は若衆の一人を呼んで、これに言いました、「お前の御主人をお連れしなさい。」若衆は私を浴場《ハンマーム》に案内して、最初のときよりももっとよく世話をし、それから私を別棟にはいらせましたが、その戸は四人の少女の奴隷が番をしていて、少女らは私たちを見るとすぐに、女主人に知らせに駈け出しました。そして戸が開くと、最初の女よりもずっと美しく、もっと豪奢な服装をした、フランク人(5)の国の若いキリスト教徒の女が、現われ出ました。その女は私に微笑みかけながら、私の手をとって、自分の部屋に案内しましたが、その装飾と壁掛けの豪奢なのには驚き入りました。そして女は私に言いました、「好ましいお客様には、ようこそお越し遊ばしました……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百十九夜になると[#「けれども第五百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……好ましいお客様には、ようこそお越し遊ばしました。」そして最初のときよりも、もっと並みはずれた御馳走と飲み物を私に供してから、その女は非常な美声を持ち、楽器類で伴奏をするすべを知っていたので、私をもっと酔わせたいと思い、ペルシア琵琶《ウーデイ》を取って、歌いました。
[#ここから2字下げ]
おおバビロンの聳《そそ》り立つ地の甘美なる香りよ、微風と共に行きて、わが愛しき女《ひと》に言伝《ことづて》を伝えよ。
遥かなる不思議の地には、恋する男らの魂を掻き乱し、彼らを燃え立たしめて、欲情を静むる賜物を授くることなき女ぞ住むなる。
[#ここで字下げ終わり]
さて私は、おお御主人様方よ、私はこのフランク人の娘とまるひと月を過ごしましたが、この女は私の最初の敵娼《あいかた》よりも、遥かに運動に堪能な女であったことを、皆様に白状いたさねばなりません。そして私は、第一日から第三十日に至るまで、この女が私に覚えさせてくれた歓楽に対し、けして法外の値《あたい》を支払いはしなかったことを、たしかに認めたのでありました。
ですから、若衆が再び私を連れて、浴場《ハンマーム》に案内しに来たとき、私は白衣の老人に会いにゆき、彼が自分のところの乙女たちを選ぶのにまことに狂いがないことを、讃めずにはおかず、彼に言いました、「アッラーにかけて、おお御老人《シヤイクー》よ、私はいつまでも物惜しみしないお宅に住みたいと思う。ここでは眼の悦びと、官能の法楽と、選りぬきの交際の楽しみが見出されます。」すると老人《シヤイクー》は私の讃辞にたいそう満足して、その満足の意を示すために、私に言いました、「今夜は、おお客人よ、われわれにとっては格別な祝祭の夜じゃ。この祝祭には、わが家の特別のお得意様方だけが、参加する権利がありなさる。われわれはこれを、すばらしい『幻の夜』と呼んでおります。されば、あなたは露台に上って、御自分の眼で判断なさりさえすればよろしい。」そこで私は老人に謝して、露台に上りました。
さて、ひとたび露台に上って、私の認めた最初のものは、露台を二つの部分に仕切っている、大きな天鵞絨《ビロード》の帳《とばり》でした。そしてその帳の後ろには、美しい敷物の上に、月光に照らされて、二人の美しい若人《わこうど》、若い娘とその恋人とが、寄り添って横たわり、唇を合わせて相抱いているのでした。私はその若い娘とその類《たぐい》ない美貌を見て、呆然として感嘆し、その場に永い間、もはや自分がどこにいるのかを知らず、息もせずに見入っていました。やっと身動きができるようになると、いったいこの娘が誰なのか知らないうちは静心《しずごころ》なく、露台を下りて、今まで愛のひと月を過ごした乙女に会いに駈けつけ、今見たところを話しました。その乙女は私の様子を見て、私に答えました、「けれどあなたは何の必要があって、その若い娘のことを気になさるの。」私は答えました、「アッラーにかけて、その娘は私の分別と信仰を奪い去ってしまったのだ。」彼女は微笑しながら、私に言いました、「ではあなたは、その女《ひと》をわが物になさりたいの。」私は答えて、「それこそわが魂の願いだ。その娘は私の心中に君臨してしまったのだからね。」彼女は言いました、「そうですか、実はあの乙女は、私たちの主人のターヘル・アブール・オラ老の娘そのひとで、私たちはみんなあの方の指図に従う奴隷なのです。あの方と一緒に過ごすひと晩は、いくらするか、御存じですか。」私は答えました、「私がどうして知ろうか。」彼女は言いました、「黄金五百ディナールよ。これは王様方のお口にふさわしい果物です。」私は答えました、「ワッラーヒ(6)、ただの一夜なりと、あの女をわが物とするためには、私は全財産を使ってもかまわないよ。」そして私は、その夜はひと晩じゅう目を閉じられないで過ごしました。それほど、私の心はその女について思い悩んだのでした。
そこで翌日になると、私はいそいでいちばん美しい衣服を着こみ、王様のようななりをして、あの女の父親ターヘル老の前にまかり出て、これに言いました、「私は一夜五百ディナールの女が欲しい。」彼は答えました、「金貨を秤りなされ。」そこで私は直ちに、三十夜の値段、総計一万五千ディナールを、彼に秤ってやりました。老人はそれを取って、少年の一人に言いました、「お前の御主人を女主人何某の許に御案内しなさい。」その少年は私を連れて、一室にはいらせましたが、私の目は未だかつて地の面《おもて》の上に、美しさと豪奢とこれに類するものを見たことはありませんでした。そして私は、手に団扇《うちわ》を持って、けだるげに坐っている例の乙女を見て、とたんに感嘆の念に、わが心は茫然としてしまいました、おお尊敬すべきお客様方よ。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十夜になると[#「けれども第五百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それと申しまするは、その乙女はまことに第十四日目の月のようで、私の挨拶《サラーム》に答えるその答えぶりだけでも、琵琶《ウーデイ》の調べよりもなだらかな声の調子によって、私の分別をすっかり奪ってしまいました。まことに美わしく、到るところ風情あり、均整がとれておりました、まったく。次の詩人の句で言われているのは、些《さ》の疑いなくこの乙女のことであります。
[#ここから2字下げ]
美女なるかな。もしこの女にして無信の徒のただ中に現われ出でんには、彼らはこの女のため己が偶像を棄てて、これをば唯一の神として崇むべし。
もし全裸にて海上に、苦く塩からき波浪の海上に、姿を現わさんには、その口の蜜をもて海は甘く変ずべし。
もし西方のあるキリスト教僧侶に、この女東方に姿を見せんには、僧は西方を見棄てて、眼差を東方に転ずるは必定なり。
されどわれは、その眼の照らす闇のうちにこの女を認めて、叫びたり、「おお夜よ、われ何をか見る。
こはわれをたぶらかすかすかなる幽霊なりや。あるいは、交合者を求むる手つかずの処女なりや。」
この言葉を聞くや、女は手をもて己が中央の花を固く抑え、悲しく悩ましき吐息を洩らしつつ、われに言うを見たり。
「美しき歯は香りよき小楊枝《アラーク》に擦《こす》られずば、よく美しく現われ出でざると同じく、陰茎《ゼブ》の美しき陰門に於けるは、なお小楊枝《アラーク》の若々しき歯に於けるがごとし。
おお|回教徒ら《ムスリムーン》よ、助けよ。御身らの許にはもはや、直立し得る尤物《ゆうぶつ》陰茎《ゼブ》はあらざるか。」
そのときわれは、わが陰茎《ゼブ》の、関節上にめりめりと盛り上がり、わが衣をもたげて、勇躍勝ち誇るを感じたり。しかして己が言葉もて美女に言えり、「ここにあり、ここにあり」と。
われはその面衣《ヴエール》を脱がせたり。されど女は恐れて、われに言えり、「君は何ぴとなりや。」われは答えて、「陰茎《ゼブ》立ちて今君が呼び声に答えし、剛の者なり。」
しかしてこれ以上猶予せず、われは女に襲いかかり、腕のごとく太きわが陰茎《ゼブ》は、その股間を孜々と動きたり。
かくして、われ第三の釘を打ちこみ終えんとするや、女言えらく、「もっと近う、おお剛の者よ、もっと近う寄り、打ちこみを。」われは答えたり、「もっと近う、おお御主人よ、もっと近う寄れ。彼は来たれり。」
[#ここで字下げ終わり]
さて私は、乙女に平安《サラーム》を祈ると、彼女は私に痛切な悩ましさの眼差を投げつつ、私に挨拶を返して、言いました、「お客様に友情とくつろぎと手厚さがありますように。」そして、おお御主人様方、彼女は私の手をとって、自分のそばに坐らせたのです。すると美しい乳房の若い娘たちがはいってきて、盆に盛った、歓迎の茶菓や、結構な果物や、上等の砂糖漬や、それに王様方の宮殿でなければ飲まないようなおいしい酒を、私たちに出しました。そして私たちに薔薇と素馨の花を差し出し、一方、私たちの周囲には、芳香を放つ灌木類と、黄金の香炉にくゆる伽羅木とで、甘美な香りが立ちこめておりました。次に、一人の女奴隷が繻子の箱を持ってくると、彼女は中から一張の象牙の琵琶《ウーデイ》を取り出して、調子を合わせ、次の詩句を歌いました。
[#ここから2字下げ]
ただ嫋《たお》やかの若者の手よりのみ酒を飲め、酒は陶酔を得しむるにせよ、若者は酒をよりよきものとなすゆえに。
酌人にして、あどけなくみずみずしく、けがれなき薔薇の輝く双頬を持つにあらざれば、酒はこれを飲む者に歓楽を得さすることなきゆえに。
[#ここで字下げ終わり]
さて私は、客人方よ、この序曲ののち、勇気が出てきて、私の手は大胆となり、私の眼と唇とは彼女をむさぼり食らいました。そして彼女には、知識と美のまことに並々ならぬ長所があると思えましたので、私は支払い済みのひと月を共に過ごしたばかりでなく、引きつづきその父親の白鬚の老人に、他のひと月の後にまたひと月と支払いつづけ、こうして長い期間にわたり、遂にはこの莫大な出費のため、故郷のオマーンの国から携えてきたあらゆる財宝のうち、ただの一ディナールすら、もう手許に残らぬ仕儀となりました。そのとき、やがて自分はこの女と別れざるを得ぬ羽目になることを思って、私はわが涙が頬の上に潸然と流れるのを禁じ得ず、もはや日と夜の区別もつきかねる有様でありました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十一夜になると[#「けれども第五百二十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると乙女は、私がこうして涙に掻きくれているのを見て、私に言いました、「なぜお泣きになるの。」私は言いました、「おお御主人よ、私にはもう金がなく、詩人も言ったことだ。
[#2字下げ] 貧窮はわれらをしてわれら自身の住居にあって異国の人となし、金銭はわれらに異国にあって祖国を与う。
さればこそ私は、おおわが眼の光よ、自分がお前の父上によって、お前から引き離されてしまいはしないかと案じて、泣いているのだ。」彼女は私に言いました、「ではお聞き下さい。この家のお得意様がこの家で破産なすったときには、お父様はそのうえ三日間は、願わしいあらゆる惜しみなさを尽くし、平生の楽しみを何ひとつ不足おさせしないで、手厚くもてなしてさしあげる習慣でございます。そのあとで、ここを立ち去って、もうこの家に姿を現わしなさらぬようお願い申しております。でもあなたは、私のいとしいお方よ、私の心の中にはあなたに対して非常な愛情がございますから、これについては御心配無用です。それというのは、私にはあなたがお望みなだけいつまででも、ここにおとどめしてさしあげる工夫がございます、インシャーラー(7)。実際のところ、私には私自身の手許に自分の財産がひと財産ありまして、お父様もその莫大さを御存じありません。ですから、私は毎日あなたに、一夜の値段五百ディナール入りの袋をさしあげましょう。あなたはそれをお父様に渡して、おっしゃいませ、『今後私は夜々の代金を、一日ごとにお払いすることにしたい』と。するとお父様は、あなたに支払能力があることを知っていますから、この条件を承知するでしょう。そしていつもの習慣通り、お父様は私の当然受けるはずのこの金額をば、私に渡しに来なさるでしょう。すると私は改めてこれをあなたにさしあげますから、あなたはそれでお父様に、またひと晩分をお払いになる。そしてアッラーのお望みになるだけ(8)いつまででも、あなたが私と一緒にいるのがいやになるまで、こういうふうにいたしましょう。」
そこで私は、おお客人方よ、悦び勇んで、鳥たちのように身軽くなり、彼女に感謝してその手に接吻しました。次に私はこの新しい事態のうちに、鶏小屋のなかの雄鶏のように、一年に亘って、この女と一緒に住みました。
ところが一年たつと、不吉な運命は、私の愛人が癇癪を起して、女奴隷の一人に対してむかっ腹を立て、これをひどく打ち据えることを望みました。するとその奴隷は叫びました、「アッラーにかけて、あなたが私の身に傷をつけたように、私はあなたの心にきっと傷をつけてあげますよ。」そしてその女は即刻わが友の父親のところに駈けつけて、この一件全部を一部始終、父親にばらしてしまいました。
年寄りのターヘル・アブール・オラは、女奴隷の話を聞くや、飛び起きて、私に会いに走ってきましたが、私はまだ何事が起ったのか知らぬままに、友のかたわらにあって、上等のさまざまな戯れに耽っている最中でした。老人は私に叫びました、「おい、何某よ。」私は答えました、「何なりと、おお小父よ。」彼は私に言いました、「われわれのここでのならわしは、お得意客が破産したときには、三日間だけ、何ひとつ不自由させずに、そのお客をもてなしてあげることになっている。だがお前は、いんちきをしてわれわれの歓待を受け、好き勝手に食い、飲み、番《つが》いながら、もうはや一年になるぞ。」次に彼は奴隷たちのほうを向いて、彼らに叫びました、「この釜掘られ野郎の息子を、ここから追っ払え。」すると彼らは私を捕えて、手に十枚の小銭の銀貨を握らせ、私の裸体を蔽うため、継《つぎ》だらけでぼろぼろの古合羽《ふるがつぱ》を一枚くれただけで、私をすっ裸にして戸口に投げ出しました。そして白鬚の老人《シヤイクー》は私に言いました、「行ってしまえ、わしは別にお前に棒を加えたり、罵ったりしようとは思わぬ。だが、さっさと消えてなくなれ。もしお前が不幸にして、このわれわれの都バグダードに、この上とどまるようなことがあったら、お前の血はお前の頭上に噴き上がることになろうからな。」
そこで私は、おお客人方よ、わが鼻にもかかわらず、出て行かざるを得ませんでしたが、もう十五カ月前から住んでいるとは申せ、殆んど勝手知らぬこの都で、どちらに向ってよいやらわからぬ次第でした。そしてわが心の上には世界中のあらゆる災厄が、またわが精神の上には絶望と悲しみと憂いが、ずっしりと襲いかかるのを感じたのでありました。私はわが魂の中で言いました、「いったいどうして、黄金百万ディナールも携え、そのうえ持ち船三十艘を売り払った代金まで持って、はるばる海を渡ってこの地に来たこの私が、あの瀝青《チヤン》の災厄《わざわい》の老爺《じじい》の家で、この全財産を使い果たし、今はすっ裸で、心傷つき、魂辱かしめられて、その家を出るというような始末になることができたのだろう。しかし、栄光満てる至高のアッラーのほかには、頼みも権力もないのだ。」そしてこうした悲しい思いに沈みつつ、ちょうどティグリスの河畔に着くと、一艘の船がバスラに下ろうとしているのを見ました。それで私は、自分の船賃を支払うため、船長に水夫として働かせてもらいたいと申し出て、この船に乗りこみました。こうして私はバスラに着いたのでありました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十二夜になると[#「けれども第五百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その地で、私は飢えにさいなまれていたので、時を移さず市場《スーク》へ向いますと、一人の食料品屋が私の姿を認めて、つかつかと私に近より、私の首に飛びついて私を抱き、自分は私の父の旧友であると名乗り出て、次に私の現状を訊ねるのでした。そこで私はわが身に起った一切を、細大洩らさず話して聞かせました。すると彼は私に言いました、「ワッラーヒ、それは分別ある人の振舞いではない。しかし今となっては、過ぎたことは過ぎたこと、あなたはいったい何をなさるおつもりかな。」私は答えました、「自分でもわからないのです。」彼は私に言いました、「私のところにいらっしゃる気はおありにならないかな。あなたは文字を知っていなさるとあらば、私の品物の出入りを書きとめて、そして飲食費を別として、日給銀一ディナールをお取りになってはいかがですか。」私はお礼を述べて承知し、売り買いの出入りを書く書記として、彼のところにとどまりました。こうして私は百ディナールの金額の貯えができるまで、彼のところで暮しました。
そこで私は海のほとりに、自分用に小さな一室を借り、そこで遠方の商品を積んだどこぞの船の来るのを待ち、その船から、自分の金でもって、バグダードで売るによさそうなひと荷物分を、買い求めるつもりでおりました。私はあのわが友に再会する機会を得ることを希望して、バグダードに戻りたいと思っていたのでありました。
ところで、幸運はある日、一艘の船がちょうど私の待っているそういう商品を積んで、遠方から来ることを望みました。そこで私は他の商人たちにまじって、その船のほうに出かけ、船に乗りこみました。するとそのとき、船底から二人の男が出てきて、二脚の椅子に坐り、われわれの前にその商品を並べたのでした。そして何という目のまばゆさか。そこには、宝玉、真珠、珊瑚、紅玉《ルビー》、瑪瑙、風信子石、その他あらゆる色の宝石類ばかりしか見られません。そのとき二人のうちの一人が、陸の商人たちのほうに向いて、一同に言いました、「おお商人のお仲間よ、これらすべては今日のところはお売り申しません、私はまだ海の疲れがぬけませんので。これを陳列しましたのは、ただ明日の売立てがどんなものか、一応お知らせ申したいと存じただけでございます。」けれども商人たちは強《た》ってとせがみましたので、彼も遂にはすぐに売立てをはじめることを承知し、競売人は宝石類の売立てを、一品ずつ呼ばわりはじめました。商人たちはそのつど、互いに競って値段をあげはじめ、とうとう最初の小さな宝石袋ひとつが、四百ディナールの値段に達しました。その袋の持主というのは、昔私の父がオマーンの商業の牛耳をとっていた頃、私を故郷で知ったことのある人でしたが、そのとき彼は私のほうを向いて、私に訊ねるのでした、「なぜあなたは何も言わないで、ほかの商人衆のように値段をせりあげなさらないのですか。」私は答えました、「アッラーにかけて、おお御主人よ、もう私に残っているこの世の財産といえば、百ディナールの額しかないのです。」私はこの言葉を言いつつ、たいそう恥じて、数滴の涙が目からこぼれ落ちました。これを見ると、袋の持主は両手を打ち合わせて、驚きに満ちて、叫びました、「おおオマーン人《びと》よ、どうしてあんなに莫大な財産から、たった百ディナールしか残っていないのですか。」それから彼は同情をこめてじっと私を見つめ、私の苦しみを理解しました。次に突然、彼は商人たちのほうを向いて、一同に申しました、「私はこの若者に百ディナールの金額で、袋一個、中にはいっている宝石、金属その他の貴重品全部と一緒に、売ることにしますから、みなさんその証人になっていただきたい。その本当の値段は、一千ディナール以上に達することは、承知の上です。だからこれは、私からこの方にさしあげる贈物なわけです。」商人たちはあっけにとられながら、自分たちが見もし聞きもしたことを証言しました。そしてその商人は、その袋の中身ごとそっくり私に渡し、そればかりか、敷物と自分の坐っていた椅子まで贈ってくれました。私は彼の寛大を謝して、陸に下り、宝石屋の市場《スーク》のほうへ向いました。
そこに私は一軒の店を借りて、売り買いをはじめ、毎日相当の儲けをあげはじめました。ところで、その袋の中にはいっていた貴重品の間に、濃紅色の赤い石片(9)がひとつありまして、その裏表に彫りつけてある、蟻の足形の呪文の文字から判断すると、お守り作りの術に深く通じた大家の作になる、何かのお守りにちがいありませんでした。目方は半ポンドありましたが、その特別な用途と値段は不明でした。それで私は何度か市場《スーク》で売り立てさせたのですが、人々は十ディナール乃至十五ディナールしか、競売人に申し出ません。私はそれでも、いつか好い機会を見越して、そんな安値で手放すのは好まず、その石片は店の一隅に放り出しておいて、そのまま一年たちました。
ところが、ある日私が自分の店に坐っていると、そこに……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十三夜になると[#「けれども第五百二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そこに一人の異国の男がはいってきて、私に平安《サラーム》を祈りましたが、その石片がほこりだらけになっているにもかかわらず、それを見つけて、叫びました、「アッラーは讃められよ。永年探していたものを、やっと見つけたわい。」そしてその石片を取りあげて、自分の唇と額にあてて、私に言いました、「おお御主人よ、これを売っていただけますか。」私は答えました、「いかにも。」彼は訊ねました、「おいくらでしょうか。」私は言いました、「いくらお出しになりますかな、あなたは。」彼は答えました、「金貨二十ディナール。」私はこの言葉を聞いて、何しろいかにもその金額は大枚に思えたので、これはこの異国の男は私をからかっているのだと信じました。それで私はたいそう無愛想な調子で、言ってやりました、「あなたの道に立ち去りなされ。」すると相手は私がその金額を安いと見たものと信じて、私に言いました、「五十ディナール出しますよ。」けれども私は、ますます彼が私をひやかしているものと信じこんで、返事をしようとしなかったばかりか、相手のほうを見やりもせず、立ち去らせようとして、もうその姿が見えないような振りをしました。すると彼は私に言いました、「一千ディナールだ。」
こうした次第です。それで私は、おお客人方よ、返事をしませんでした。すると彼のほうでは、私の怺《こら》えた怒りでいっぱいの無言を取り合わず、微笑して私に言いました、「どうしてあなたは私に返事をしようとしないのですかね。」それで私はとうとうまた答えてやりました、「あなたの道に立ち去りなされ。」すると相手は、千ディナールにさらに千ディナールずつだんだん増しはじめて、遂には二万ディナール出すとまで言いました。だが私は返事をしませんでした。
こうした次第です。すると通行人や近所の人たちが、この奇妙な取引にひきよせられて、店内にも通りにも、私たちのまわりに群がってきて、声高に私に対してぶつぶつ言い、私について面白からぬ言葉を弄して、言うのでした、「あんなつまらない石のかけらに対して、これ以上請求するなんて、われわれとして許しておけないぞ。」また他の人々は言いました、「ワッラーヒ、石頭で、明き盲だ。どうしても石のかけらを譲らないようだったら、おれたちはあいつを町から追っ払ってやろう。」
こうした次第です。それでも私は、まだ相手がいったいどうしてほしいのかわかりませんでした。ですから、けりをつけるため、私はその異国の男に訊ねました、「あなたはほんとうにお買いになるのか、それとも私をからかいなさるのか、もういい加減に言って下さいな。」彼は答えました、「それであなたは、ほんとうに売る気なのか、それとも私をからかう気なのかな。」私は言いました、「売る気です。」すると彼は言いました、「では私は、ぎりぎりの値段として、三万ディナール出すから、それで売買を取りきめるとしよう。」そこで私は居合わせた人々のほうを向いて、みんなに言いました、「私はあなた方にこの売立ての証人になっていただきます。けれどもその前に、買手の方から、この石片を何に使いなさるのか、それをぜひ承わりたい。」彼は答えました、「まず取引をきめることにしよう。その上で、この品の効能と効用をお話ししましょう。」私は答えました、「たしかにこれをあなたにお売りします。」彼は言いました、「アッラーがわれわれの言うことの証人であらせられる。」そして黄金のつまった袋を取り出し、私に三万ディナールを数え、秤にかけて見せ、お守りを取って、ひと息大きく溜息をつきながら、それを自分の隠しにおさめ、そして私に言いました、「これでたしかに売り渡され、取引はすみましたね。」私は答えました、「売り渡され、取引はすみました。」すると彼は居合わせた人々のほうを向いて、みんなに言いました、「この人は私にこのお守りを売り、取りきめた値段三万ディナールを受け取ったということを、どうか皆さん全部で証人になっていただきたい。」そしてそれがすむと、彼は私のほうに向いて、この上ない憐れみと皮肉の口調で、私に言いました、「おお憐れな男よ、アッラーにかけて、もしあなたがもっとこの売りを遅らせて、売り控えていることができたら、私はこのお守りの値段として、三万とか十万ディナールどころではなく、百万ディナールをあなたに払うまでになったろうに、それ以上とはゆかないまでも。」
ところで私は、おお客人方よ、この言葉を聞き、こうして自分が鼻が利かないばかりに、こんな法外な大金をみすみす取りそこなったのを見ると、自分の内部に大混乱が起るのを感じました。そして私の身体《からだ》の突然な変動によって、私の顔の血が引いて、その代りにこの黄色が上がってきたのでありまして、以来その色がそのままつづき、今夜、皆様方の御注意をひいた次第であります、おお客人方よ。
私はそこで、しばしぼんやりしておりましたが、次にこの異国の男に言いました、「今となっては、この石片の効能と効用をうかがわせていただけますか。」すると異国の男は私に答えました。
「実はこうなのだ。インド王に一人の愛嬢がおありになって、これは地の面《おもて》に並ぶものない美女であられるが、しかし激しい頭痛持でいらせられる。されば父王は、その病《やまい》を軽くすることのできる策も薬も尽き果て、王国の最も有能な博士たちと科学者たちと占者たちを集めなすった。しかし彼らのうち誰も、王女を悩ます苦痛を、王女の頭から取り除くことに成功しなかったのだ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十四夜になると[#「けれども第五百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「このとき私も、その集まりのなかに居合わせたが、私は王に申し上げた、『おお王よ、私はバビロン人《びと》サアダッラーと呼ばれる一人物を存じておりまするが、これは地の面《おもて》にて、かかる薬の知識にかけては、並ぶものも、凌ぐものもなき者。さればもし彼のかたに私を遣わすが適当と思し召さるるならば、さように相なされませ。』王は私に答えなすった、『彼のかたに参れ。』私は申し上げた、『私に百万ディナールと、濃紅色の赤い石片一片を賜わりませ。その上に、土産のひと品をも。』王は私の所望した全部を賜わったので、私はインドからバビロンの国を指して出発した。その地で、私は賢人サアダッラーを問い合わせると、そちらに案内された。私は彼の前にまかり出て、十万ディナールと王の進物を渡した。つぎに石片を与えて、私の使いの目的を打ちあけてから、頭痛にたいする卓効あるお守りをこしらえて下さるよう乞うた。するとバビロンの賢人は、まる七カ月を費して星辰を調べ、その七カ月の終りに、ついに吉日を選んで、石片の上に、神秘満ちた呪文の文字を刻みなすったが、それはあなたが私に売った、あのお守りの裏表に見られるあれじゃ。私はそのお守りをもらって、インド王の許に戻り、これをお渡し申した。
さて、王は愛嬢のお部屋にはいって御覧になると、姫は相変らず、与えられた指図にもとづいて、部屋の四隅に結びつけた四本の鎖でつながれていたが、これは痛みの発作の際に、窓から飛び下りて自殺するのを防ぐためであった。そして王が王女の額の上にそのお守りをのせるが早いか、姫は即刻即座に快癒してしまった。王はこれを見られて、歓喜の極みに歓喜なさり、私には立派な贈物の限りを尽くされ、私をば側近の御心友の間に、留めなさった。そして王女は、このようにして全く奇蹟的にお治りになり、そのお守りを首飾りに結びつけ、もはや御身から離されなかった。
ところがある日、姫は小舟に乗って散歩に出られたおり、お相手の女たちと遊んでおられると、そのうちの一人があいにくなはずみから、首飾りの糸を切ってしまい、お守りを水中に落した。そしてお守りは姿を消してしまった。するとその瞬間に、『取り憑《つ》き』は再び姫のなかに戻って、姫はまたもや恐ろしい『憑《つ》きもの(10)』に取り憑かれ、正気を狂わせてしまったほどの、激しい頭痛を与えられたのであった。
この報に接して、王のお悲しみは一切の言語を絶した。そして私を召し出し、改めてバビロン人《びと》、長老《シヤイクー》サアダッラーの許に使いして、今ひとつ別なお守りを作ってもらうよう托された。そこで私は出発した。しかしバビルに着いてみると、長老《シヤイクー》サアダッラーはすでに亡くなったということである。
爾来《じらい》、私は私の捜索を手伝うため十人の供をつれて、どこかの商人のところか、どこかの売り主とか通行人とかのところで、ひとりバビロンの長老《シヤイクー》サアダッラーのみが、悪魔を祓い治療する霊験を授け得る、あれらのお守りのなかの一個のお守りを見つけ出そうとて、地上のあらゆる国を巡りまわったのであった。すると運命はあなたをわが路上に置くことを望み、もはや再び見つけ出す望みを失っていたこの品をば、私に見出させ、買い取らせたのであった。」
次に、おお客人方よ、その異国の男は、この物語を私に語った上で、帯を締め直して、立ち去ってしまいました。
そしてこれが、すでに申し上げましたごとく、私の顔の黄色になった原因でございます。
私のほうは、自分の店を売って、持っているもの全部を現金に換え、今は金持となって、大急ぎでバグダードに出発し、そこに着くなり、わが愛人の父親、白鬚の老人の屋形に飛んで行きました。それというのは、彼女と別れて以来、日も夜も、この女がわが思いを満たし、これに再会することが、私の望みと生涯の目的であったのです。そして不在はただ私の魂の火をかき立て、私の精神を煽り立てるばかりでございました。
そこで私は、入口の門番をしている一人の少年のもとで、彼女の消息を問い合わせました。すると少年は私に、頭をあげてよく御覧なさいと申しました。見ると、この家は荒れはてて、平生私の愛人の倚っていた窓は取り払われ、悲しみと深い憂いの気が住居の上にみなぎっておりました。そこで私の両眼に涙が浮かび、私はその少年の奴隷に言いました、「アッラーはターヘル老にいったい何をなされたのか、おお兄弟よ。」彼は私に答えました、「アブール・ハサン・アル・オマーニというお名前の、オマーンの国のさる若い方が、私たちのところを出て行きなすってから、喜びはこの住居を見棄て、不幸が私たちに襲いかかりました。その若い商人の方は、ターヘル老のお嬢さんと一年間一緒におられたのですが、一年たつとお金がなくなったもので、私どもの主人の老人《シヤイクー》は、その方を家から追い出してしまったのでした。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十五夜になると[#「けれども第五百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……けれども私たちの女主人の乙女は、深い愛情でその方を愛しておられたので、この出発にすっかり気が顛倒し、たいそう重い病にかかってしまい、死に近づいてしまいなされました。すると私たちの主人ターヘル老は、娘さんの陥った命にかかわる衰弱を見て、自分のしたことを後悔し、そこで若いアブール・ハサンを見つけ出そうと、四方八方あらゆる国に急使を出して、その人を連れ戻した者には、褒美十万ディナールを約束しました。けれども今までのところ、捜索隊のあらゆる努力もむだでした、誰ひとりその手掛りを見つけた者も、消息を得た者もいませんでしたから。そこで老人《シヤイクー》の娘の乙女は、今はもう最後の息をひきとる瀬戸際です。」
そこで私は、苦しみに魂を引き裂かれて、その少年に訊ねました、「それでターヘル老のほうは、いったいどうしているかね。」彼は答えました、「旦那はこうしたすべてのために、すっかり傷心と落胆に陥って、乙女たちと若衆たちを売り払ってしまい、至高のアッラーの御前《みまえ》で切なく悔いています。」そこで私はこの若い奴隷に言いました、「アブール・ハサン・アル・オマーニの居どころを、教えてあげようか。どうだね。」彼は答えました、「御身の上なるアッラーにかけて、おお兄弟よ、ぜひ教えて下さい。そうすれば、あなたは一人の恋する女を生き返らせ、一人の娘を父親に返し、恋する男をその友に返し、あなたの奴隷とあなたの奴隷の身内たちを、貧乏(11)から救い出しなさるでしょう。」そこで私はこれに言いました、「お前の主人のターヘル老に会いに行って、言いなさい、『私にお約束の褒美を下さい、吉報があります。というのは、お宅の門には、アブール・ハサン・アル・オマーニその人がお出でです。』」
この言葉に、若い奴隷は水車場から逃げ出した騾馬の速さで飛んでゆき、またたく間に、わが友の父親ターヘル老を連れて、戻ってきました。何とその変ったことか。昔はあんなにつやつやしく、老齢にもかかわらずあんなに若々しかったあの顔色は、いったいどうなったのでしょうか。彼は二年間に、二十年以上も老《ふ》けてしまいました。けれども彼はすぐに私を見分けて、私の首に飛びつき、涙を流しながら私を抱きはじめて、私に言いました、「おお御主人よ、この永いお留守中、どこにいらっしゃったのか。わしの娘は、あなたゆえに、もう墓場に近い。お出でなされ。わしと一緒に御自分の家におはいりなされよ。」そして私を中に入れ、自分はまずいきなり地に跪いて、私たちの再会を許したもうたアッラーに、感謝を捧げました。そしてその若い奴隷にいそいで、約束の十万ディナールの褒美をとらせました。奴隷は私の上に祝福を念じながら、引き下がりました。
そのあとで、ターヘル老は最初ひとりで娘のところにはいって、私の到着をおもむろに知らせることにしました。そこで彼は娘に言いました、「おお娘よ、わしは吉報を知らせてあげる。もしお前が何かひと口食べて、浴場《ハンマーム》に風呂をつかいにゆくことを、うんと言ってくれれば、今日のうちにアブール・ハサンに会わせてあげよう。」彼女は叫びました、「おお、お父さん、おっしゃることはほんとうなの。」彼は答えました、「栄光あふるるアッラーにかけて、わしの言うことはほんとうだよ。」すると彼女は叫びました、「ワッラーヒ。もし私があの方のお顔を見たら、もう食べることも飲むこともいりませんわ。」そこで老人は、蔭に私のいる戸のほうを向いて、私に叫びました、「おはいりなされ、やあ、アブール・ハサン。」私ははいりました。
さて、おお客人方よ、彼女は私の姿を認めて私とわかるやいなや、卒倒してしまい、気がつくまでには永いことかかりました。最後にようやく立ち上がることができて、喜びの涙と笑いのただ中で、われわれは互いの腕の中に飛びこみ、感動と至福の極みで、永い間相抱いておりました。そしてわれわれが自分たちの身のまわりに起っていることに、注意を向けることができたとき、われわれは応接の間のまん中に、法官《カーデイ》と証人たちの姿を見ましたが、これは老人《シヤイクー》が大いそぎで呼びよせたので、その場で、われわれの結婚契約書を認めておりました。そして人々は、三十日と三十夜にわたる祝宴のただ中で、未聞の豪奢を繰りひろげつつ、われわれの婚礼をとり行ないました。
そのとき以来、おお客人方よ、老人《シヤイクー》ターヘルの娘は、私の愛妻となっております。皆様があの憂いを帯びた曲を歌うのをお聞きになったのは、この妻でございまして、あれらの曲は、私たちの別離の切ない頃を思い出させ、現在の欠けるところのない幸福を、いっそうひしひしと感じさせますので、妻の気に入っているのであります。私たちは、その母親と同じように美しい一人の息子の誕生によって祝福された、私たちの和合の日々を、欠けるところのない幸福のうちに過ごしておりまする。では、その息子当人をば、これから皆様方に御紹介申しましょう、おお客人方よ。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十六夜になると[#「けれども第五百二十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして、こう言いつつ、黄色い若者アブール・ハサンは、しばらく部屋を出て、やがて十四日目の月のように美しい、十歳の少年の手をひいて、戻ってまいりました。そして彼は少年に言いました、「われわれのお客様方に平安を祈りなさい。」すると少年は心地よい風情でもって、それを果たしました。それで相変らず身をやつしたままの、教王《カリフ》はじめお連れの御一同は、少年の美しさ、風情、かわいらしさにも、またその父の世の常ならぬ物語にも、無上に悦ばされなさいました。そして主人に暇を告げたのち、御一行は見聞したことに驚嘆しながら、外に出なさいました。
翌朝、ずっとこの物語のことを思いつづけていらっしゃった教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、マスルールを召されて、おっしゃいました、「おおマスルールよ。」彼はお答えしました、「仰せ何なりと承わりまする、おお殿よ。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「汝これより直ちに、われらがバグダードより徴収せる年貢《ねんぐ》の金貨全部と、バスラの年貢全部と、ホラーサーンの年貢全部を、この広間に取り集めよ。」そこでマスルールは即刻、帝国の三大州の年貢の金貨を、教王《カリフ》の御前に持ってこさせ、広間に積み上げさせましたが、これは、ただアッラーのみ数え上げることのおできになる金額に達しておりました。そのとき教王《カリフ》は、ジャアファルにおっしゃいました、「おおジャアファルよ。」彼はお答えしました、「これに控えまする、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「いそぎアブール・ハサン・アル・オマーニを呼びにまいれ。」彼はお答えしました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてすぐに彼を呼びに行って、ぶるぶるふるえる彼を教王《カリフ》の御前に連れて来ると、彼は御手《おんて》の間の床に接吻して、自分の犯し得た罪も、また自分の出頭を必要とした理由も知らぬままに、じっと目を伏せておりました。
すると教王《カリフ》は彼に仰せられました、「おおアブール・ハサンよ、その方は昨夕、その方の客となった商人たちの名を存じておるかな。」彼は答えました、「いいえ、アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》はそのときマスルールのほうを向いて、仰せられました、「黄金の山を隠す蔽いを取り除《の》けよ。」そして蔽いが取り除かれると、教王《カリフ》は若者に仰せられました、「その方少なくとも然りか否かは申せるであろう、これなる富は、その方が石片をあわてて売りしことによって儲けそこなったる富よりも、莫大であるや否や。」アブール・ハサンは、教王《カリフ》がその事件を御承知なのに仰天して、拡がった両眼を見開きながら、呟きました、「ワッラーヒ、おお、お殿様、これなる富のほうが限りなく莫大でございます。」すると教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「さらば、その方の昨夕の客は、バニ・アッバースの第五代と、その宰相《ワジール》たちと、その連れの者どもであり、ここに積み重ねし黄金全部は、その方が護符の石片を売って損失せしところを、償ってとらせんため、余よりの贈物であり、その方の所有であると心得よ。」
このお言葉を聞くと、アブール・ハサンは非常な感動を覚え、そのため新たな激動が彼の内部を覆し、黄色がその顔から下《くだ》って、たちまち赤い血が入れかわって顔にみなぎり、昔の白と薔薇色の顔色が戻って、満月の夜の間の月のように輝かしくなりました。教王《カリフ》は一面の鏡を取りよせなさって、それをアブール・ハサンの顔の前にさし出しなさると、アブール・ハサンは、「解放者」に謝し奉るため跪きました。教王《カリフ》は積み重ねられた黄金全部を、アブール・ハサンの屋敷に運ばせなすった上で、しばしばお内輪の側近者たちの間に来てお相手するようにと、お誘いになり、そしてお叫びになったのでございます、「アッラーのほかに神はなし。変化の上に変化を起したもうことができなされ、御自身のみただおひとり不変不動にあらせらるる御方に、栄光あれ」と。
[#この行1字下げ] ――「これが、おお幸多き王様」とシャハラザードは続けた、「黄色い若者の物語でございます。けれどもたしかにこれは柘榴の花と月の微笑の物語[#「柘榴の花と月の微笑の物語」はゴシック体]には、比ぶべくもござりませぬ。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「おおシャハラザードよ、余はそちの言葉を疑わぬ。いそぎ『柘榴の花と月の微笑』の物語を語り聞かせよ。余はそれを知らぬからな。」
[#改ページ]
「柘榴の花」と「月の微笑」の物語
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは言った。
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、世々の古《いにしえ》、それはもうずっと昔の歳月と日々に、外国《とつくに》(1)は、ホラーサーンに住むシャハラマーンという名前の王がおられました。この王には百人の妻妾がありましたが、どれもこれも不妊症でした。というのは、そのうちの誰からも、女の子さえもできませんでしたから。さて、或る日のこと、折から王は接見の間《ま》で、大臣《ワジール》、貴族《アミール》、国の大官たちのまん中に坐って、一同と、退屈な政務の話ではなく、詩歌、学問、歴史、医学など、一般に、子孫のない孤独の悲しみと、父祖伝来の王座を、自分の後裔に譲るわけにゆかない悩みを、忘れさせることのできるようなあらゆる事柄について、語っていますと、そのとき、一人の若い白人奴隷《ママルーク》が部屋にはいってきて、申し上げました、「おおわが殿、御門前に、商人と一緒に、一人の若い女奴隷が参りましたが、これは、未だかつて眼がこれ以上美しい人を見たことがないような女人でございます。」すると王は言いました、「さればその商人と女奴隷をここに通せ。」そこで白人奴隷《ママルーク》は、いそいで商人とその美しい女奴隷を呼び入れました。
さて、その女がはいってくるのを見ると、王は魂の中で、これを一本竹の細身の槍になぞらえました。女は金の縞のはいった青絹の面衣《ヴエール》でもって、頭を包み顔を蔽っていたので、商人はその面衣《ヴエール》を取り除きました。するとすぐに、部屋はその美しさでぱっと明るくなり、その髪は、ふさふさとした七条の編毛に分れて背中を乱れ落ち、踝《くるぶし》の足輪に触れるのでした。さながら、血統正しい牝馬の臀の下の地を払う、見事な尻尾のよう。堂々として、美しく身を反らし、舞うようなしなやかさの点では、|かりろく《パーン》の木の花車な幹をも欺くばかりです。眼は生来黒く切れ長で、人々の心を貫くようにできている煌めきが、漲《みなぎ》っております。この姿を見ただけで、病人もひ弱い人も治ってしまうでしょう。願いと望みの的《まと》、その祝福されたお臀《しり》と申せば、それはまったくのところ、豪勢なものでございまして、商人自身も、これを包みきれるほど大きな面衣《ヴエール》を、見つけることができなかったのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十七夜になると[#「けれども第五百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ですから王は、こうしたすべてに驚嘆の限り驚嘆して、そして商人に訊ねなさいました、「おお御老人《シヤイクー》、この女奴隷は何ほどか。」商人は答えました、「おおわが殿、私はこれを最初の主人から、二千ディナールにて求めました。けれどもそれから、私はこの地に到り着くまで、三年間これを連れて旅し、かくしてこの女のために、更に千ディナール使いました。されば、私はここで売買の話を持ち出すのではさらになく、これは私からわが君に奉る献上品でござりまする。」すると王はこの商人の言葉を大いに悦んで、商人に見事な誉れの衣を着せ、金貨一万ディナールを取らせました。商人は王の御手に接吻して、そのお志とお慈《いつくし》みに感謝し、自分の道を立ち去りました。
すると王は、御殿の女官と侍女に命じました、「この女を浴場《ハンマーム》に連れて行って世話をし、旅の名残をとどめぬように致した上で、香油とさまざまの香を塗り、部屋には、窓が海に臨む離宮を与うるよう、間違いなく致せよ。」そして王の命令は即刻即座に果たされました。
ところで、シャハラマーン王の治めていなすった首府は、実際、海岸に位していて、その名は「白い都」と申しました。こうして、御殿の侍女たちは、この外国の乙女をば、浴後、海に臨む離宮に案内することができたのでございます。
そこで、ただこの時になるのを待っていられた王は、その女のところにはいりました。ところが女は、王様に敬意を表して立ち上がることもせず、まるで王様などいないも同然、てんで眼中にないさまなのを御覧になって、たいそう驚きなさいました。それで心中お考えになりました、「これはきっとこの女は、行儀作法を教えなかった人々に育てられたのにちがいない。」そしていっそうよくこの女を御覧になりましたが、するともうその礼儀を弁《わきま》えないことなど忘れてしまいました。それほどその美しさと、晴れた空の円い月か昇る日のようなその顔に、うっとりとしてしまわれたのです。そしておっしゃいました、「その下僕《しもべ》たちの眼のために、美を創《つく》りたもうたアッラーに、栄光あれ。」それから、乙女のそばに坐って、優しくお胸の上に抱きしめました。次に、お膝の上にのせて、唇に接吻し、唾《つばき》を味わうと、それは蜜よりも甘うございました。けれども、その女はひと言も言わず、逆らうわけでもなく、といって悦ぶ気色もなく、なすがままになっていました。王は部屋にすばらしい御馳走を出させ、御自身で食べさせてやり、口に食物を運んでやりはじめ、その間に、物静かに、その名前と国を訊ねなさいました。けれども、やはり口をつぐんでひと言も言い出さず、顔をもたげて王を見ようともしませんが、王はあまりの美しさに、この女に腹を立てる決心がつきかねるのでした。そして考えました、「あるいはこの女は唖かも知れぬ。しかし『創造者』がこのような美をせっかく形づくって、これに言葉を授けたまわぬなどということは、あり得ないこと。それは『創造者』の御指《おんゆび》にふさわしからぬ、不完全というものであろうぞ。」次に王は手に水をかけさせるため、腰元を呼びました。そして、腰元たちが水差と盥《たらい》を差し出した折を見計らって、小声でこれに訊ねなさいました、「お前たちがこの女の世話をしていた間、あれが何か物を言うのを聞いたことがあるか。」一同答えました、「私どもがわが君に申し上げることのできるすべてと申しましては、私どもがあの方に付き添って、お世話をしたり、沐浴《ゆあみ》をさせたり、馨らせたり、髪を結ったり、着物を着せたりしてあげている間じゅうずっと、あの方が唇を動かして、『これはいい、あれはよくない』などとおっしゃるのを、ついぞお見受けしなかった、ということだけでございます。私どもには、それは果たして私どもを軽蔑してのことか、それとも私どもの言葉を知らないせいか、それとも唖なのか、いっこうわかりません。とにかく、私どもはただひと言のお礼の言葉も、咎めの言葉も、あの方に言わせかねた次第でございます。」
この女奴隷と老女たちの言い草に、王は驚きの極みに達し、そしてこの唖は何か心中の悲しみによるものと考えて、気を晴してやろうと思いなさいました。そのために、王はこの離宮に宮中の貴婦人全部と嬖妾《へいしよう》全部を呼び集めて、この女と一緒に楽しみ、遊ばせるようにし、そして楽器を弾ける女たちは楽器を弾き、一方他の女たちは歌ったり、踊ったり、あるいは両方を同時にしたりしました。それで一同は歓を尽しましたが、ただひとりその乙女だけはやはり、笑いもしなければ話しもせず、頭を垂れ、腕を拱《こまぬ》いて、自分の席にじっとし尽しておりました。
王はこれを見ると、お胸が狭まる思いがして、女たちに引き下がるように命じました。そしてその乙女だけと、二人きりになりました。
そこで更に、ひと言返事なり言葉なりを引き出そうと、やはり空しく試みてから、王は彼女に近づいて、着物を脱がせに取りかかりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十八夜になると[#「けれども第五百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王は彼女の着物を脱がせに取りかかりました。まず、身を包んでいる軽い面衣《ヴエール》をそっと取り、次に、身を蔽っているさまざまの色と布の七枚の衣を、一枚一枚取り、最後に薄い肌着と、緑の絹の総のついた、ゆったりした下穿きを取り去りました。すると、その下には、輝くばかり純白な身体《からだ》と、清らかな自然銀の肉身とが見えました。王は非常な愛情を覚えて、そこで立ち上がって、その処女を奪いましたが、それは全く手つかずの閉塞したものでありました。王はたいそう悦んで、快を満喫し、そして思いました、「アッラーにかけて、いろいろな商人どもが、このように美わしく、好ましい娘の処女を、そっくりそのままにしておいたとは、まことに驚くべきことではないか。」そして王は、この新しい女奴隷にすっかり執心して、彼女のため、御殿中の他の女と嬖妾全部と、それに国事までも顧みず、まる一年彼女と一緒に閉じこもって、日々新たな歓楽を見出して、ひと時も倦むことがありませんでした。けれども、そうしたすべてにもかかわらず、王は彼女からただひと言も、ひとつの諾《うべな》いも、※[#「手へん+毟」、unicode6bee]ぎとるに成功せず、また彼女と一緒にしたり、彼女の身のまわりにしてやることに、興味を持たせるのにも成功しないのでした。
このような次第です。そこで王は、もうこの口を噤んで黙りこくっているのを、何と解釈してよいかわかりません。そしてもう、彼女の舌をほどいて、一緒に語り合うようになることは、望みを絶っておられました。
さて、日々のうちの或る日のこと、王はいつものように、わが美しい情《つれ》ない奴隷のそばに坐っておりましたが、彼女に対する愛情は日頃にまして募り、そこで言いました、「おお人々の魂の望みよ、おおわが心の心よ、おおわが眼の光よ、いったいそなたは、おれがそなたに対して覚ゆる愛を知らないのか。そしておれはそなたの美しさゆえに、わが気に入りの女も、妻妾も、国事も、すべて顧みず、しかも悦んでそのように致し、かつそれをいささかも悔いておらぬということを、そなたは知らないのか。そなたをば、この世のあらゆる福楽のうちの、わがただ一つの分け前、唯一無二の楽しみとして、抱えていることを、知らないのか。しかるに、おれはこの無言と無情の原因について、わが魂の忍耐を長びかすこと、一年以上に及んだが、未だに一向に解《げ》しかねる次第じゃ。もしそなたが実際に唖ならば、せめて素振りによってその旨おれにわからせて、いつかそなたの言葉を聞く希望を、ことごとく棄てさせてくれよ、おおわが最愛の女よ。しからずば、願わくはアッラーがそなたの心を和らげ、その御慈《みいつくし》みによって、おれには当らぬこの沈黙を、遂にやめさせる気持をそなたに吹き込んで下さるように。またもしこの慰めが、おれには永久に拒まれなければならぬものならば、アッラーは何とぞ、そなたがおれによって懐胎し、わが父祖と祖先より伝えられたる王座をば、わが後に継ぎ得る愛子を授けてくれるように、なしたまえかし。あわれ、おれはただひとり、子孫なく老いゆき、やがては、悲しみと年波に老いさらばえて、もはや年若き胎《はら》を身籠らせる望みさえ、覚束なくなろうとしているのが、そなたには見えないのか。さても、さても、おおそなたよ、もしもそなたがおれに対して、ほんの僅かの憐れみの情か、愛着の情でも覚えるならば、答えてくれ、言ってくれ、ただひと言そなたが懐胎したか否かを、そなたの上なるアッラーにかけて、どうぞ頼むから。それさえ聞けば、後は死んでもよいから。」
この言葉に、いつものように、相変らず眼を伏せ、手を膝の上に組んで、じっと身動きしない姿勢で、王の言葉を聞いていた美しい女奴隷は、突然、この宮殿にやってきてからはじめて、かすかに微笑を見せました。だが、ただそれっきりでした。
これを見ると、王はすっかり感激して、御殿全体が暗闇のただ中で、一閃の電光によって照らされたような思いがしました。そして魂の中でわくわくして、欣喜雀躍し、このような素振りを見せたからには、きっと口を利いてくれるだろうともう疑わず、乙女の足もとに身を投げて、両手を挙げ、唇を半ば開けて礼拝の姿勢をしながら、その時を待ちました。
すると突然、乙女は頭をもたげ、微笑を浮べて、次のように語りました、「おお寛仁大度の王様、われらが君主、おお雄々しき獅子の君よ、されば……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百二十九夜になると[#「けれども第五百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……されば、アッラーはわが君の祈りにお答えなさいました。と申しますのは、わたくしは君によって身籠りましたから。そしてわたくしの分娩の日は近うございます。さりながら、わたくしの胎内に宿っている子が、男の子か女の子か、それはわかりません。それに、わたくしは君によって身籠らなかったならば、一生涯、決して君に言葉をかけたり、ただひと言なりと申したりなぞすまいと、固く思い定めていたものと、思し召せ。」
この思いがけない言葉を聞くと、王は悦びのあまり、最初は一語を発することも、一動をなすこともできない有様でしたが、次にはそのお顔は輝いて、がらりと変り、胸が晴ればれとなさいました。そして悦びが爆発して、もう地上から浮き揚がる思いでした。それから、乙女の両手に接吻し、その頭と額に接吻し、叫びました、「わが願う二つの恩寵《めぐみ》を授けたまいしアッラーに、栄光あれ、おおわが眼の光よ。一はそなたが口をきいてくれるのを見ること、二はそなたから懐妊の知らせを聞くことじゃ。アルハムドリッラー(2)、アッラーに讃《たた》えあれ。」
それから王は立ち上がって、しばらく行ってくるからとことわってから、その部屋を出て、威儀を正して、王国の王座に就きにお出ましになりました。王は晴れやかと御機嫌の極みにあられました。そして大臣《ワジール》に命じて、人民全部にお悦びの理由を告げ知らせさせ、貧者と、寡婦と、その他一般の困窮者全部に、アッラー(その称《ほ》められよかし)への感謝として、十万ディナールを配らせました。すると大臣《ワジール》は時を移さず、受けた命令を実行致しました。
そこで王はまた美しい奴隷に会いに行って、そのそばに坐り、これを胸にぴったりと抱き締めて接吻し、さて言いました、「おおわが主人よ、おおわが命と魂の女王よ、今はそなたがなぜ、おれをはじめわれわれ一同に対して、われらの住居に入って既に一年以来、日夜頑として沈黙を守り通したのか、そしてなぜ今日になってはじめて、おれに言葉をかける決心をしたのか、そのわけを聞かせてもらえようか。」すると乙女は答えました、「おお王様、どうしてわたくしが沈黙を守らずにいられましたでしょうか、わたくしは奴隷の身分にされてしまい、ここでは、永久に母や兄や身内の人々と相隔てられ、自分の故郷から遠ざけられた、傷心の憐れな異国者となり果てているのでございましたものを。」王は答えました、「いかにもおれはそなたの苦しみを察するし、よくわかる。しかしそなたが憐れな異国者だなどとは、どうして言えようか、この宮殿において、そなたは主《あるじ》であり女王であり、ここに見る一切はそなたの持ち物だし、王たるおれ自身も、そなたに仕える奴隷であるものを。まことにそれは、所を得ぬ言葉じゃ。またもしそなたが、自分の身内から隔てられていることを悲しむとあらば、何ゆえそう言って、人を遣って呼びにやり、この場でみなと再会致すように計らわせてくれなかったのか。」
この言葉に、美しい奴隷は王に言いました、「ではお聞き下さいまし、おお王様、わたくしはグル・イ・アナール(3)と申し、それはわたくしの国では、『柘榴の花』という意味でございます。わたくしは海の中に生れまして、父は海の王でございます。父が亡くなりましたとき、わたくしは或る日、『いなご(4)』という名の母と、サーリハという名の兄と、このお二人のちょっとした仕打が気にさわったので、もう二人と一緒に海になぞいないで、浜辺に出て、自分の気に入った最初の陸の男に身を任せてやろうと、こう固く思い定めました。それで或る夜、母女王と兄サーリハが早く寝入ってしまい、御殿が海底の静けさに静まり返ったとき、わたくしは自分の部屋を抜け出して、水の面《おもて》に浮び、或る島の浜辺に行って、月光を浴びて横たわっておりました。ところがそこで、星屑から落ちる快い爽やかさに釣られ、また陸の微風になぶられて、わたくしはついうとうとと眠ってしまいました。そのうち突然、何ものかが襲いかかってくるのを感じて、眼を覚ましましたが、見るとわたくしは、一人の男に捉えられて、背中に担がれておりました。そしてわたくしの叫びと抗議にもかかわらず、わたくしを自分の家に運んで、わたくしを仰向けに寝かせて、手籠めにしようと致しました。ところがわたくしは、その男が醜くて臭いのを見て、されるがままになるのはいやで、そこで全身の力をふり絞って、その顔を激しくひと打ち撲《ぶ》ってやりますと、その男ははね飛ばされて、わたくしの足許に転がってしまいました。そこでわたくしは躍りかかって、したたか打ち据えてやりましたので、その男はもうわたくしを自分のところに置いておこうとはせず、大急ぎでわたくしを市場《スーク》に連れて行って、競売《せりう》りに出し、そして、おお王様よ、わが君御自身がわたくしをお求めになったあの商人に、わたくしを売ったのでございました。ところで、あの商人は、良心と正直に溢れた男でございましたので、今度は、わたくしがこのように年若いのを見て、わたくしの処女を犯そうとはせず、わたくしを連れて旅をして、御手《おんて》の間に連れて参った次第でございます。これがわたくしの身の上でございます。ところでわたくしは、ここにはいってきた時からもう、決してされるがままになってはいまいと、固く決心致しました。そしてわが君が手荒な振舞いをなされたらすぐさま、この館《やかた》の窓から海に身を投げて、母と兄に会いにゆこうと、思い定めておりました。そしてわたくしはその間ずっと、矜りの気持から、沈黙を守り通しました。けれども、わが君のお心が本当にわたくしを愛し、わたくしのためお気に入りの女も全部顧みなくなられたのを見て、わたくしは君のお志にほだされはじめ、そのうちとうとうわが君によって身籠ったのを見て、わたくしは遂にはわが君をお慕い申すようになり、今度は逃げ出して、故里の海に飛びこんでしまおうなどという考えは、一切棄ててしまいました。それに、わたくしとして、どのような眼で、またどのような無謀から、そんなことをすることができましょうか、身籠った身となった今となって、また、母と兄が、わたくしのこの有様を見、わたくしが陸の人と契ったと知っては、悲しみのあまり死んでしまいかねませんし、たといわたくしがペルシアとホラーサーンの女王になり、帝王《スルターン》のなかでもいちばん寛仁大度の帝王《スルターン》の妃となったと申したところで、本当にすまいと思われまするのであってみれば。わたくしの申し上げたいと存じましたのは、このようなことでございます、おおシャハラマーン王様。ワッサラーム(5)。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十夜になると[#「けれども第五百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この話を聞いて、王はお妃の眼の間を接吻して、申しました、「おお美わしい柘榴の花よ、おお海に生れた女性《によしよう》、おお妙《たえ》なる乙女、おお姫君よ、わが眼の光よ、何という不思議なことを、そなたは聞かせてくれたのであろう。いかにも、万一そなたがわが許を去ったならば、ただのひと時であろうと、おれはその瞬間に死ぬであろうぞ。」次に付け加えました、「さりながら、おお柘榴の花よ、聞けばそなたは海に生れて、母上『いなご』と兄上サーリハは、その他のお身内と共に海中に住まわれ、父君は御在世中、海原の王であられた由。だがおれには、海の人間の存在とは全然合点がゆかぬ。今までそれについていろいろ聞かされた話などは、老婆のたわごととばかり心得ていた。しかしそなたが言う以上、またそなた自身が海に生れた女性というからには、もはやそうした事実の現実《まこと》を疑わぬが、どうかそなたの種族と、そなたの祖国に住む未知の民について、いっそう明らかに知らせてもらいたい。わけても、いったいどうやって、水中で、息が詰りもせず、或いは溺れもしないで、生活したり、働いたり、動きまわったりできるものか、聞かせてくれよ。それこそおれが、生涯で聞いたいちばん驚くべき事柄だから。」
すると柘榴の花は答えました、「よろしゅうございます。そのすべてをよろこんでお話し申しましょう。さればお聞き下さいまし。スライマーン・ブニ・ダーウド(6)(おふた方の上に祈りと平安あれ)の印璽に刻まれたる、さまざまの御名《みな》の霊験のお蔭を以って、わたくしたちは、ちょうど人々が地上で生活し、歩いているように、海の底で生活し、歩いております。また、人々が空気中で呼吸するように、水中で呼吸しております。そして水は、わたくしたちの息を詰らせる代りに、生命を支えて、わたくしたちの衣服を濡らすことさえございません。また、わたくしたちが海の中で物を見る妨げともならず、わたくしたちは何の不便もなく、眼を開いております。わたくしたちの眼はたいそうよく利いて、海の深みの容積《かさ》と広さとにもかかわらず、深みまで見透して、太陽がわたくしたちのところまでその光を射し入らせるときでも、月と星が水中に宿るときでも、同じように、すべての事物をわたくしたちに見分けさせます。わたくしたちの王国と申せば、地上のどんな王国よりも遥かに広大で、州に分たれていて、それぞれの州には、人口の多い大都会がいくつもございます。そしてそれらの民は、地上と同様、住んでいる地方地方によって、それぞれ風俗習慣がちがい、また恰好もちがいます。或る者は魚ですし、或る者は半人半魚で、両足とお臀の代りに尻尾がついていますし、また或る者は、わたくしたちのように、全く人間で、アッラーとその預言者を信じ、スライマーンの印璽の銘に刻まれている言葉と同じ言葉を、話しております。けれども、わたくしたちの住居と申しますると、それはそれはすばらしい宮殿で、あなた方がとても地上では想像できないような建築振りでございます。それらは、水晶、螺鈿《らでん》、珊瑚、翠玉、紅玉、金銀、その他あらゆる種類の貴金属と宝石で出来ておりまして、真珠は申すに及ばず、真珠などは、たといどんなに大きかろうと美しかろうと、わたくしたちの国ではあまり珍重されておりませんで、貧しい人たちや、極貧の人たちの住居の飾りにしかなっておりません。最後に、わたくしたちの輸送機関はどうかと申しますと、何せもともと身体《からだ》がとても軽快でよく滑りますので、わたくしたちは地上の方々のように、馬や車の必要はございません。わたくしたちの厩舎《うまや》には、それらも持っておりますけれど、ただ祝祭とか祭礼とか遠征に出るときに、用いるだけでございます。言うまでもなく、その車は螺鈿と貴金属で出来ていて、宝石ずくめの席と玉座がついておりますし、わたくしたちの海馬は、地上のどんな王様もそのようなものを持ってはいないほど、立派なものでございます。けれどもわたくしは、おお王様、これ以上海の国々についてお話し申し上げたくはございません。それというのは、アッラーの思し召しあらば、長かろうわたくしたちの生命《いのち》の続く間に、やがて追々と、数知れぬそのほかの細かい事柄をお話し申して、それでもって、御興味をひくこの問題に、すっかりお詳しくしてさしあげようと存じますので。さしあたっては、わたくしは取敢えずもっとさし迫った、もっと直接、君に関係のある事を、申し上げまする。それは女のお産のことでございます。実際、おお御主君様、海の女のお産は、陸の女のお産とは全然ちがうものと思し召せ。ところで、わたくしのお産の時期はごく間近なので、お国の産婆たちは、わたくしに下手にお産をさせはしないか、それが心配でなりません。ですからどうか、ここに母のいなごと兄のサーリハをはじめ、そのほかの身内の者を呼ぶことを、お許し下されたく、願い上げます。わたくしは一同と仲直りを致します。そうすれば、従妹《いとこ》たちが、母の助けを借りて、わたくしが無事にお産ができるようにみとってくれ、わが君の王座のお世継ぎとなる嬰児《みどりご》の、世話をしてくれることでございましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十一夜になると[#「けれども第五百三十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞くと、王は驚嘆して、叫びました、「おお柘榴の花よ、そなたの望みはわが処世の則《のり》であり、おれは女《おんな》主人《あるじ》の命に従う奴隷である。さりながら、おお妙《たえ》なる乙女よ、そもそもいかにして、そのように短い間のうちに、そなたの母や兄や従妹《いとこ》たちに通知して、そのように時期の迫っているそなたのお産の前に、呼びよせることができるのかな。いずれにせよ、その辺のことをできるだけ早く知りたいものだ。せいぜい必要な準備をして、それにふさわしい名誉を尽して御一同をお迎えするよう、骨折ってみるから。」すると若い王妃は答えました、「おお御主君様、いえ、わたくしたちの間のことですから、何も儀式張ったことはいりませぬ。それにわたくしの身内たちは、すぐにもここに参ります。そしてもしどのようにして来るか御覧ぜられたいとあらば、この部屋の隣室におはいりになって、わたくしのすることを眺め、また海に臨む窓から、おもてを眺めていらっしゃりさえすればよいことでございます。」
すぐにシャハラマーン王は隣室にはいって、柘榴の花のすることと、海上に起ることとを、注意をこめて見つめていらっしゃいました。
すると柘榴の花は、懐中から二片のコモール群島の伽羅木を取り出して、それを金の香炉に入れ、火をつけました。そして煙が立ち騰《のぼ》るとすぐに、長く鋭く口笛を吹き鳴らし、香炉に向って、わからぬ言葉と呪《まじな》いの文句を唱えました。すると同じ瞬間に、海が荒れて波立ち、次にぱっと開いて、まず、美しく好い身体《からだ》をした、月のような一人の青年が出てきました。その顔と優雅なことは、妹の柘榴の花そっくりで、両頬は白く薔薇色、髪の毛と生えかかった口髭は海の緑です。そして詩人の言うように、この青年は月そのものよりも美わしゅうございました。なぜといって、月は日常の住居として、空のただ一隅しか持たないけれど、この若者はすべての人の心の中に、けじめなく住むからでございます。さてその次には、海からひとりのたいそうお年を召した、白髪の御老女が出てきましたが、これは青年と柘榴の花の母親、いなご女王です。そのすぐあとには、月のような五人の若い娘がついてきましたが、それはいずれもどこか柘榴の花と似た面差《おもざし》をした、その従妹《いとこ》たちでした。そして青年と六人の婦人は海の上を歩いて、この離宮の窓の下まで、足を濡らさずに進んできました。そこまでくると、一同は身を翻して、次々に身軽く、柘榴の花の姿の見える窓に飛び上がり、柘榴の花は、頃合を見計らって身を躱して、一同を中に入れました。
するとサーリハ殿下と母君と従妹《いとこ》たちは、柘榴の花の首に飛びつき、再会の嬉し涙を流しながら、心をこめて抱き合って、言いました、「おおグル・イ・アナールよ、どうしてあなたは私たちのところを離れて、四年もの間何の便りもなく、どこにいるのかさえも教えずにいるなどという気になれたのですか。ワッラーヒ、世界は私たちの上に狭まってしまいましたよ。それほどあなたとの別離の苦しみに、私たちはみんな参ってしまいました。もう飲み食いにも楽しみを覚えなくなった。何を食べてもおいしくなくなってしまったのだもの。私たちは、別離の切ない苦しみで、夜も日も、ただ涙を流して咽《むせ》び泣くばかりでした。おおグル・イ・アナールよ、御覧、どんなに私たちの顔は痩せて、悲しみのため黄色くなったか。」柘榴の花は、この言葉に、母君と兄のサーリハ殿下の手に接吻し、改めて愛する従妹《いとこ》たちを抱いて、みんなに言いました、「本当に、わたくしは皆さんにおことわりせずに出て行ってしまって、皆さんの愛情に対して、たいそう申しわけないことを致しました。けれども、天命にそむいて何ができましょうか。今は私たちは再会を悦んで、恩恵者アッラーに感謝することに致しましょうね。」それから彼女は、みんなを自分のそばに坐らせて、自分の身の上を一部始終話して聞かせました。けれどもそれを繰り返すまでもございません。次に彼女は付け加えました、「さて今こうしてわたくしは、完全の限りに完全なこの立派な王様と結婚して、愛し愛され、そして身重となりましたので、わたくしは皆様に来ていただいて、仲直りをし、そしてわたくしのお産のお手伝いをしていただきたいと思いますの。それというのは、地上の産婆たちは、海の娘たちの出産のことは何ひとつわからないのですから、少しも信用がおけませんもの。」すると母親のいなご太后は答えました、「おお娘や、お前がこんな地上の君主の宮殿にいるのを見て、お前がもしや不幸の身になっているのではないかと、私たちはたいへん心配しました。そしてぜひともお前に、一緒に私たちの国について来させるつもりでいました。お前に対するみんなの愛と、みんながお前に抱いている情愛と尊敬の度合と、お前が仕合せで、安らかで、憂いなくいると知りたい希望は、お前も御承知ですからね。けれども、お前が自分で仕合せだと私たちにきっぱり言うからには、私たちはお前のために、それ以上よいことを何が望めましょうか……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十二夜になると[#「けれども第五百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……運命にさからって、お前を誰か海の君主のひとりに嫁入らせようとしたら、それこそ天命を試みるというものだったにちがいありませんね。」すると柘榴の花は答えました、「そうですとも、アッラーにかけて、わたくしはここで、安泰と、歓楽と、名誉と、幸福と、すべてのわたくしの願望との極みにおりますもの。」
こうした次第です。そして王は柘榴の花の言うことを聞いていて、心の中で大いに悦び、魂の中でこのやさしい言葉を彼女に感謝しました。そのため前よりか百万倍も彼女を愛し、王の彼女に寄せる愛は、その心の髄の中で、永久に固まりました。そしてできるだけのあらゆる点で、改めて愛着と熱情のしるしを見せようと、かたく心に期しなすったのでございました。
それが済むと、柘榴の花は手を鳴らして奴隷たちを呼び、食布《スフラ》を拡げて、御馳走を供するように命じ、自身で、台所にその煮焚きを監督しにゆきました。そして奴隷たちは、いろいろの焼肉や、捏粉菓子や、果物を盛った大皿を、いくつも持ってきました。柘榴の花は身内の人たちを、自分と一緒に食布《スフラ》のまわりに坐って、食べるように招じました。ところが一同は答えました、「いや、いけません、アッラーにかけて、私たちはあなたが背の君の王様に、私たちの来たことを知らせにゆくまでは、何ごとも致しますまい。なぜって、私たちは王のお許しを得ずに、そのお住居にはいったのですし、王は私たちを御存じありませんもの。ですから、その御殿で食べ、御存じないうちに御歓待に甘えるということは、たいへんな無作法になるでしょうよ。ですから、行って王様にお知らせ申し、私たちは王様にお目にかかって、われわれの間にパンと塩とがあるようにしていただければ、どんなに悦ばしいか、申し上げておくれ。」
そこで柘榴の花は、隣室に隠れていた王に会いに行って、申しました、「おお御主君様、わたくしが身内の前でわが君を讃めたたえた模様と、またもしもわたくしがほんの少しでも、わが君と御一緒にいて仕合せでないというように思わせるようなことでも言ったら、みんなはすぐに、一緒にわたくしを連れ帰る決心でいた次第とは、さだめしお聞きになったでございましょう。」王は答えました、「いかにも聞きもし、見もした。ワッラーヒ。その祝福されたおりにこそ、おれはそなたのおれに対する愛着の証拠を得て、もはやそなたの愛情を疑う余地はない。」柘榴の花は言いました、「それゆえ、わたくしは皆にわが君のことを讃めちぎったあとでは、母と兄と従妹《いとこ》たちは、わが君に並々ならぬ愛情を覚えたことを、申し上げなければならない次第で、皆はわが君を非常に好いていることは保証できます。そして一同、わが君にお目にかかって、敬意を表し、御挨拶申し上げ、御一緒に親しくお話しした上でなければ、国へ戻りたくないと、わたくしに言うのでございます。ですから、どうか彼らの望みにまかせてやって、お出で遊ばし、彼らの御挨拶を受け、返して下さり、わが君が彼らを見、彼らがわが君を見、あなた方の間に、まじりない愛情と友情とがあるようになすって下さるよう、お願い申し上げまする。」すると王は答えました、「聞くことは、従うことである。それこそわが望みでもあるからじゃ。」そして直ちに立ち上がって、柘榴の花について、身内の人たちのいる部屋にゆきました。
王ははいるとすぐに、最もねんごろに一同に平安を祈りますと、一同これに挨拶《サラーム》を返しました。王はお年寄りのいなご女王の手に接吻し、サーリハ殿下を抱き、一同に坐るように誘われました。するとサーリハ殿下は祝辞を述べて、柘榴の花が、乱暴者の手中に落ちて処女を奪われたあげく、どこかの侍従や料理番風情に下げ渡されて、結婚させられるなどということがなく、立派な大王のお妃になったのを見て、自分たち一同たいへん悦んでいる旨、申し上げました。そして自分たちが、みんなどんなに柘榴の花を愛しているかを言い、その昔、彼女がまだ年頃にならないうちに、これを誰か海の君主と結婚させたいと思っていたけれども、彼女は自分の天命に押しやられて、自分の好きな結婚をするため、海底の国を脱がれた次第を、お話ししたのでございました。すると王は答えました、「さよう、アッラーは彼の女《ひと》を余に運命づけたもうたのでした。そして余は、義母君《ははぎみ》いなご女王と御身サーリハ殿下と、いともやさしきわが従妹《いとこ》たちに、御挨拶と御祝辞を謝し、また、御一同がわが結婚に御同意を賜わったことを、お礼申し上げる次第です。」次に王は一同を、一緒に食布《スフラ》のまわりに坐るように誘い、永い間みんなと極めてねんごろに語り合い、それから御自身で、ひとりひとりをそれぞれの部屋へ案内なさいました。
そこで柘榴の花の身内は、王妃の出産まで、彼らのために催された祝祭と祝宴のただ中で、御殿に滞在しましたが、その出産の日も、程なく参りました。事実、予定の臨月には、王妃はいなご女王と従妹《いとこ》たちの手の間に、満月のような、薔薇色の丸々と太った男の児を、産み落しました。そしてその児を、立派な産衣《うぶぎ》に包んで、父親シャハラマーン王に差し出すと、王は筆も言葉も尽しがたい有頂天の悦びようで、王子を受け取りました。そして感謝として、貧者と寡婦と孤児にたっぷりと施しをし、牢獄を開いて、御自分の男女の奴隷全部に自由を与えましたが、しかしその奴隷たちは、自由を望みませんでした。それほど、彼らはこのような御主君の下にあることを、仕合せに思ったのでございます。次に、引きつづく祝宴の七日後に、あらゆる祝賀のただ中で、王妃柘榴の花は、夫君と、母君と、従妹《いとこ》たちの賛成を得て、その王子に「月の微笑(7)」という名前を与えました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十三夜になると[#「けれども第五百三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると、柘榴の花の兄君で、月の微笑の伯父君のサーリハ殿下は、赤子を腕に抱いて、そして部屋中を歩きまわり、赤子を両手で空中に差し上げながら、接吻してはいろいろとあやしはじめました。そのうち突然、ぱっと飛び出して、御殿の上から、海に飛び込み、赤子と一緒に、水中に潜《もぐ》って、姿を消してしまいました。
これを見ると、シャハラマーン王は、驚愕と苦痛に捉えられて、絶望の叫びをあげはじめ、死にそうになるほど、われとわが頭を激しく打ちはじめました。けれども、王妃柘榴の花は、それに驚く様子も悲しむ様子も見せるどころか、落ち着いた口調で、王に言いました、「おお当代の王様、こんななんでもないことに、失望落胆なさるには及びません。王子については、御心配はさらさら無用でございます。それと申しますのは、わたくしはたしかにわが君にもまして、あの子を可愛がっておりますが、兄と共によく知っていますので、少しも騒ぎません。兄は、仮りにもあの子がほんの少しでも加減が悪くなるとか、風邪をひくとか、ただ濡れるだけのことでもあると知れば、今したようなことは決して致さないでございましょう。大丈夫、あの子供は、半ばはわが君の血を享けているとは申せ、海については、何の危ういこともあぶないこともございません。もう半分のわたくしから享けた血のゆえに、あの子は陸の上と同様に、水の中でも平気で生きることができます。ですからもう御案じなさらず、それに、兄はやがてすぐ無事な子供と一緒に戻って参るものと、御信じ下さいまし。」そしていなご女王はじめ赤子の若い叔母たちも、王にお妃の言葉を保証しました。けれども王は、海が荒れ、立ち騒ぎ、その開いた懐から、赤子を腕に抱えて、サーリハ殿下が出てくるのを見るまで、落ち着きはじめませんでした。サーリハ殿下は空中にひと飛びで跳ねあがり、出て行ったと同じ窓から、その高い広間に戻りました。そして赤子は、まるで母親の懐にいるのと同じように平気でいて、第十四夜の月のように、微笑しておりました。
これを見ると、王はもうすっかり安心し、また驚嘆しました。するとサーリハ殿下は王に言いました、「おお王よ、定めし君は、私が赤子を抱いて海中に飛び込み潜るのを御覧になって、いたく恐怖をお感じになったことでございましょうな。」王は答えました、「いかにも、おお伯父の御令息よ、わが驚愕はこの上なく、もはや再び恙《つつが》ない赤子の姿を見るを、絶望したくらいでした。」サーリハ殿下は言いました、「赤子については、今後御心配無用です。なぜというに、あの子はもう永久に水難を受けることなく、溺れるとか、窒息するとか、濡れるとか、そうした目には遭わず、生涯を通じて、いつでも海中に潜って、心ゆくまで歩きまわることができます。それというのは、私はあの子に、海中に生れたわれら自身の子供たちと、同じ特権を得させてやりました。それは、私の知っている或る種の瞼墨《コフル》を以って、その睫毛《まつげ》と瞼《まぶた》をこすってやり、スライマーン・ブニ・ダーウド(おふた方の上に平安と祈りあれ)の印璽に刻まれている、神秘の『言葉』をあの子に向って唱えてやって、そのように致したのであります。」
こう語ってから、サーリハ殿下は赤子を母親に渡すと、母親はそれに乳を飲ませてやりました。次に殿下は、帯の間から、口に封のしてある一つの袋を取り出し、その封印をはがし、袋を開けて逆さにして、中身を絨氈の上にあけました。すると王は、鳩の卵ほどもある大きな金剛石や、長さ五寸ばかりの翠玉《エメラルド》の棒や、大粒の真珠の網や、世にも稀な色と刻みの紅玉《ルビー》や、いずれ劣らぬ、すばらしいあらゆる種類の宝玉が、煌めくのを見ました。そしてこれらすべての宝石は、さまざまの色の無数の閃光を発して、夢で見るものに似た光の調和でもって部屋を照らしました。そしてサーリハ殿下は、王に言いました、「これは私が、最初ここに参ったとき空手で来たことをお詫び申すため、持参したお土産でございます。しかしあのとき私は、妹の柘榴の花がどこにいるやら皆目存ぜず、よもや妹の幸いな天命が、わが君のごとき王様の道の上に妹を置いたとは、全く思いがけませんでした。さりながら、このお土産ごときは、私がやがて他日お贈り申そうと期しているものに比べれば、未だ何ものでもござりませぬ。」王は義兄に、この土産物を何とお礼を言ってよいやらわからず、柘榴の花のほうを向いて、彼女に言いました、「まことに、そなたの兄上の余に対する寛容と、この土産の立派さには、ほとほと痛み入る。これは地上に類いなく、この石のただ一つでも、わが王国全体に値するものじゃ。」すると柘榴の花は兄に、親類の義理を果たすのを考えてくれたことを感謝しました。しかし殿下は王のほうに向いて、言いました、「アッラーにかけて、おお王よ、これなどは到底君の御身分にふさわしくはございません。われわれと致しましては、君の御好意がわれわれに負わせた負債《おいめ》を、われらは決して十分に済《な》すことなど叶わぬでございましょう。たといわれわれ一同が、われらの顔と眼の上に、わが君に仕えて千年を過ごすとも、われらは君に負うところを、お返し申すことはできますまい。何となれば、いかなることなりと、君のわれらに対する権利に比すれば、少ないからでございます。」
この言葉に、王はサーリハ殿下を抱いて、真心こめて感謝しました。次に、ぜひにと言って更に四十日の間、母上と従妹《いとこ》たちと一緒に、祝祭と祝宴のただ中に、止まらせました。けれども、その時になると、サーリハ殿下は王の前に出て、御手の間の床に接吻しました。王は訊ねました、「仰せあれ、おおサーリハ殿下よ。何を御所望かな。」殿下は答えました、「おお当代の王よ、まことにわれわれは君恩に溺れる者でございます。しかしわれわれは、出発のお許しを仰ぎに参りました。それというのは、われらの魂は、郷国や親戚やわが住居と離れて以来日久しく、今はそれらを再び見ることを切に望んでおりまする。それに地上の滞在があまり永びきますると、われらの健康に害があるのでございます、われわれは海底の気候に慣れておりまするので。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十四夜になると[#「けれども第五百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると王は答えました、「余にとって何という悲しいことであろう、おおサーリハ殿下よ。」殿下は言いました、「また、われわれにとっても同様でございます。けれども、おお王よ、私どもは時々また参りまして、君に敬意を表し、柘榴の花と月の微笑に会うように致しましょう。」王は言いました、「さよう、アッラーにかけて、ぜひそうして下され、しかも足しげくおいであれ。余と致しては、御身やまたいなご女王とわが従妹《いとこ》たちを、海底のお国までお見送りできないのは、すこぶる残念じゃ、何せ余は水を大いに恐れるのでな。」そこで彼ら一同は、王に別れを告げ、柘榴の花と月の微笑に接吻してから、次々に窓から躍り出して、海中に沈んでしまいました。彼らのほうは、このようでございました。
ところで、赤子の月の微笑はと申しますと、次のようでございます。母親の柘榴の花は、これを乳母たちに預けることを好まないで、四歳に達するまで、自分自身で乳を与えて、母親の乳と一緒に、あらゆる海の効験を吸うように致しました。そこで子供は、海の生れである母親の乳で、こんなに永い間養われたので、日に日にますます美しく、ますます健《すこや》かになりました。そして年を重ねるにつれて、力と趣きを増し、こうしていよいよ十四歳になった時には、彼は当時の国王たちの王子のなかで、いちばん美貌で、いちばん頑健で、運動競技にかけてはいちばん上手で、いちばん賢く、いちばん教養のある青年となりました。父王の広大な国中で、毎日話題と言えば、王子の功績や魅力や美点で持ちきりです。なぜと言って、全く美しい王子だったからでございます。王子について次のように言った詩人は、少しも誇張してはおりません。
[#ここから2字下げ]
青春の薄髭は、その美わしき双頬に二本の条《すじ》を引けり。薔薇色の上の黒き二筋《ふたすじ》、真珠の上の竜涎香、林檎の上の黒玉なり。
悩殺の矢は悩ましきその瞼《まぶた》の下に宿り、その一瞥のつどつどに、矢は出でて人を殺す。
酔い心地をば、酒中に求むることなかれ。汝らの欲情と彼の羞恥とに染まるその双頬に等しく、酒は汝らに酔いを与うることあらじ。
おお刺繍よ、その輝く双頬に描かれし妙《たえ》なる黒き縫模様よ、汝らは、闇に燃ゆる灯火に照らさるる、麝香の玉の数珠なれや。
[#ここで字下げ終わり]
ですから、わが子を非常な愛情で愛して、その上そこにこれほど多くの王者の資格を見た王は、御自身が年とってわが天運の期限が近づくのを感じて、御在世中に、王子の王位継承を確かめておきたいと、お思いになりました。その目的で、大臣《ワジール》たちと国の大官たちを召集しましたが、彼らも皆、若君がどんなにあらゆる点で、王のお後を継ぐにふさわしいかを、知っておりました。そこで王は、一同に新王への服従の誓いを立てさせ、次に、一同の前で、王座を下り、わが頭上から王冠を取って、お手ずから、それを王子月の微笑の頭にお載せになり、王子の腋《わき》の下を支えて、御自身の代りに王座に上がらせ、坐らせました。そして、今後は御自分のすべての権威と権力とを、王子に引き渡すことを、はっきり示すために、王子の手の間の床に接吻し、再び立ち上がって、その手と王衣の裾を接吻して、降りて王子の下の、右側に場所を占めなさいました。一方左側には、大臣《ワジール》と貴族《アミール》が立ち並んでおりました。
すぐに新王、月の微笑は、裁きをしはじめ、未決の事務を決定し、恩賞に値する人々は役に任じ、涜職者どもは罷免し、強者に対しては弱者の権利を護り、富者に対しては貧者の権利を護り、いかにも聡明と公平と眼識とを以って、裁きに従ったので、父王はじめ、父王の年とった大臣《ワジール》たちや並みいる一同を、驚嘆させました。そして新王は、正午になってようやく政務所《デイワーン》を閉ざしました。
すると王子は、父王に付き従われて、海に生れた母親の王妃のところに、はいってゆきました。王子は頭上に黄金の王冠を戴いていたので、こうして本当に月のようでございました。母君は、この王冠を被ってこんなにも美しいわが子を見ると、感動に涙を流しながら駈け寄って、その首に飛びついて、優しく心をこめて接吻しました。次にその手に接吻して、御代の栄えと、長寿と、敵への勝利を、祈ってやりました。
さて三人は共々こうして、幸福と臣民の愛慕のただ中に、一年の間暮しましたが、そのとき、老王シャハラマーンは、或る日のこと、心臓が急にあわただしく鼓動するのを覚え、やっとお妃と王子に接吻して、最後の注意をなさる時間があっただけでした。そしてたいそう安らかに大往生を遂げて、アッラーの御慈悲の裡に立ち去りなさいました(アッラーは讃められよかし)。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十五夜になると[#「けれども第五百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
柘榴の花と月の微笑王のお悼みとお哀しみは甚だしく、お二人はまるひと月の間、誰にも会わずにお悲しみになり、亡き王のため御名《みな》にふさわしいお墓を建立なさり、それには、貧者と寡婦と孤児のための、永代寄付料がつけられました。
そしてこの間には、祖母君のいなご女王も、王の伯父君のサーリハ殿下も、また海の住民の、王の叔母様方も、お出でになって、万人の悲しみに加わりなさらずにはいませんでした。それにこの方々は、既に老王の御在世中にも、いくたびも、この御身内たちをお見舞いに来られたのでした。皆様は、王の御臨終に間に合わなかったことをいたく悲しみました。そして一同悲しみを共にしては、交る代るお互いに慰め合い、最後に、非常に長くかかって、ようやく王に少しく父王の御逝去を忘れさせ、また政務所《デイワーン》に出て、国務をみる決心をつけさせました。王は一同の言葉を聴きいれて、いくたびも抗《あらが》った末に、黄金細工を施し宝石を鏤《ちりば》めたその王衣をば、再びまとい、王冠を戴くことを、承知なさいました。そして再び権威を握って、万人の同意と上下の尊敬を得て、お裁きをなさいました。そしてこれは更に一年に亘ったのでございます。
ところが或る午後のこと、サーリハ殿下は、しばらく前から妹君と甥君に会いにお出でにならなかったので、海から出て、ちょうどそのとき、王妃と月の微笑のいらっしゃるお部屋に、おはいりになりました。殿下はお二人に挨拶《サラーム》をして、接吻なさいました。すると柘榴の花はおっしゃいました、「おお兄上様、御機嫌いかがでいらっしゃいますか、して母上はいかが、従妹《いとこ》たちはいかがですか。」殿下は答えました、「おお妹よ、みんな達者で平穏と満足のうちにあり、欠けたるものは、ただそなたの顔と、わが甥月の微笑王の顔のみじゃ。」そしてみんなで、はしばみとピスタチオを摘《つま》みながら、四方山の話をしはじめました。そのうちサーリハ殿下は、たまたま甥の月の微笑の長所を、讃めたたえて話し出し、その美貌や、魅力や、恰好や、すぐれた挙措や、武術の巧みさや、聡明を、讃めちぎりました。月の微笑王は、長椅子《デイワーン》に横になり、座褥《クツシヨン》に頭を凭《もた》せて、そこにおりましたが、母君と伯父君が自分のことを言っているのを聞くと、耳を傾けている様子を見せたくなく、眠ったふりをなさいました。こうして、お二人が自分についていろいろ言いつづけていることを、工合よく聞くことができました。
実際、サーリハ殿下は甥が眠っているのを見ると、もっと気兼ねなく妹の柘榴の花に話して、言うのでした、「妹よ、そなたは忘れているようだが、王子はおっつけ十七歳になる。その年頃ともなれば、子供たちの身をかためることを考えなければならぬ。私としては、王子はあのように美貌でもあり逞しくもあるし、それにあの年頃では、ともかくも何とかして満たさねばならぬ、いろいろの欲求もあることだから、私は王子の身に何かと面白からぬことが起りはしないかと、心配でならぬ。されば、海の娘たちの間で、王子と等しい魅力と美貌を持った姫君を見つけて、王子と結婚させることは、必要欠くべからざることだ。」すると柘榴の花は答えました、「いかにもさようでございます。わたくしの本心もそのとおりでございます。なにせ、独り息子のことですし、そろそろあの子も、父祖の王座を継ぐ世継ぎを持つべき時期ですもの。ですからどうぞ、おお兄上様、われわれの国の若い娘たちを、わたくしに思い出させて下さいませ。それというのも、わたくしが海を去ったのはもう遠い昔で、美しい娘も醜い娘も、今は一向に思い出しませぬ。」そこでサーリハは妹君に、いちばん美しい海の姫君たちを次々に、ひとりひとりその長所と、可否と、利害得失を、仔細に吟味しながら、挙げはじめました。そしてそのつど、柘榴の花王妃は答えました、「いいえ、だめです。この娘《こ》は母親が母親だし、あの娘《こ》は父親が父親だし、その娘《こ》は叔母さんがとても口が軽いし、あの娘《こ》は祖母さんの身体《からだ》が臭いし、またその娘《こ》は望みばかり大きくて、見る目がないですからねえ。」以下同じで、サーリハの挙げるお姫様は、全部落第です。
するとサーリハは言いました、「おお妹よ、そなたが王子の嫁選びにやかましいのは、いかにももっともだ。まったく地の上にも海の下にも、類のない男子だからな。だが私はこれで、手ごろな若い娘は全部挙げつくして、もう、推薦できる娘は、たった一人しか心当りがない。」次に彼は話をやめて、ためらいながら、言い出しました、「その前に、私は甥がぐっすり寝入っているかどうか、たしかめる必要がある。甥の前で、この娘の話をするわけにはゆかないのだ。そうした用心をするだけの仔細があるのです。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十六夜になると[#「けれども第五百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで柘榴の花がわが子に近づいて、手で触《さわ》り、探ってみて、寝息をうかがいました。すると、王子は今日も大好物の玉葱をひと皿食べ、平常それを食べるとぐっすり昼寝をするから、昏々と寝入っている模様でしたので、王妃はサーリハに言いました、「眠っていますよ。持っていらっしゃるものをお出しになって大丈夫です。」兄は言いました、「実は、おお妹よ、私がこうした用心をするのは、これから私の話そうという海の姫君は、当人ゆえではなく、その父親たる王ゆえに、これを嫁に貰うのが至難の業だからだ。従って、われわれにこの件について確かなあてができない前に、甥がこの姫の話を聞いたところで、何の役にも立たぬわけだ。なぜなら、おお妹よ、そなたも知ってのとおり、われわれ回教徒《ムスリムーン》にあっては、婦人や娘は、顔を慎しみの面衣《ヴエール》で蔽っているので、恋は眼よりも耳より入るほうが、しばしばだからな。」王妃は言いました、「おお兄上様、仰せのとおりです。なぜなら、恋は最初はひと条の湧き出る蜜ですが、やがては塩辛い滅びの大海と変るものですもの。けれども、後生ですから、いそいでその姫と父親の名前を聞かせて下さいまし。」殿下は言いました、「それは海のサラマンドル(8)王の王女、宝玉姫(9)のこと。」
この名を聞くと、柘榴の花は叫びました、「ああ、その宝玉姫なら思い出しました。わたくしがまだ海中で暮していた頃は、一歳《ひとつ》にも足りない子供でしたが、その年頃の子供たち全部のなかで、わけて美しい子でした。あれから、どんなにすばらしくなったことでしょう。」サーリハは答えました、「全く、すばらしくなったよ。地上にも、水の下の国々にも、あのような美女はかつていなかった。おお妹よ、何と姫は好ましく、愛らしく、優しく、味わい深く、魅力のあるひとだろうか。それにあの顔色。髪の毛よ。眼よ。腰よ。臀よ、そうだ、重くて、柔らかで同時に堅いし、ふわりとしていて、どこもかしこも残らずまん丸だ。姫が身を揺すれば、|かりろく《バーン》の小枝を羨ましがらせる。後ろをふり向けば、羚羊も身を隠す。面《おもて》を露わせば、日月も恥じる。身を動かせば、人をひっくり返させる。寄りかかれば、人を殺《あや》める。坐れば、その跡は深々と残って、もう消えない。このように輝かしく、このように完全であれば、どうしてこれを『宝玉』と呼ばずにいられようか。」柘榴の花は答えました、「いかにも、そういう名をつけたとは、ほんとにその母親は、全智のアッラーからよい思いつきを授けられたわけでした。まことにこれこそ、家《うち》の月の微笑の妃として、似つかわしい女《ひと》です。」
こうした次第です。そして月の微笑は、ずっと眠ったふりをしていましたけれども、魂の中では大悦びで、やがてこの、それほど重く、それほどたおやかな海の姫君を、わがものとする望みで、心中わくわくしていたのでした。
けれどもサーリハは、やがて付け加えました、「だがね、おお妹よ、この宝玉姫の父親、サラマンドル王については、何と言ったものか。これは乱暴者で、粗野で、実に厭な男だ。これまで既に、姫に求婚して来た大勢の王侯を撥ねつけたばかりか、散々打ち据えたあげく、這々の態《てい》で追い返しさえしたものだ。だから、いったいわれわれをもどんな風に迎えるか、われわれの求婚をどんな目で見るやら、知れたものではない。そのため私は、今やほとほと思いあぐんでいる次第じゃ。」王妃は答えました、「なるほどこれは難題です。わたくしたちとしては、長い間とくと考えて、果実の実らぬうちに、木を揺することのないようにしなければなりませんね。」するとサーリハは話を結びました、「そうだね、よく考えてみることにして、その上で、なんとかしよう。」次に、ちょうどそのとき、月の微笑が目の覚めるような素振りをしたので、兄妹はまた後日、それから先の話を続けることにして、その日は話を打ちきりました。兄妹のほうは、このような次第でございました。
月の微笑はというと、彼は何ごとも聞かなかったみたいに、床上に起き直って、静かに伸びをしました。がしかし内心では、彼の心は恋情に燃えて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十七夜になると[#「けれども第五百三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼の心は恋情に燃えて、熾火《おきび》を盛った火入れの上にあるみたいに、炎々と燃え上がっていたのでございます。
けれども、彼はそのことについては、母にも伯父にも、こればかりも言わないように気をつけて、早くから自分の部屋に引き揚げ、その夜はひと晩じゅう、彼にとっては全くはじめての、こうした悩みに捉えられつつ、ただひとりで過しました。そして彼もまた、自分の望みの目的に、いちばん速やかに到達する最上の策を、思案しました。そして朝まで、一刻も眼を閉じることができずにいたことは、改めて申すまでもございません。
そこで夜が明けると早々に、彼は起き上がって、御殿で夜を過したサーリハ伯父を起しにゆき、言いました、「おお伯父様、僕は今朝は海辺に散歩に行きたいと思います。どうも胸が狭《せば》まったので、海の風に当ったら晴れるでしょうから。それで御一緒に散歩に行っていただきたいのです。」サーリハ殿下は答えました、「聞くことは、従うことだ。」そして跳ね起きて、甥と一緒に、海辺に出ました。
永い間、二人は一緒に歩きましたが、その間、月の微笑は伯父に何も言葉をかけません。眼の隅に涙を浮べて、青白い顔をしています。そのうち突然立ちどまって、そして、岩に腰を下ろした上で、次の詩を即吟して、海を眺めながら、歌ったのでした。
[#ここから1字下げ]
人もしわれに言わば、
火災のさなか、
わが心燃えさかるとき、
人もしわれに言わば、
――「いずれを選ぶや、かの女《ひと》に会うと、
清く冷たき水
ひと口を飲むと。
答えやいかに。」
――「かの女《ひと》に会いて死なめ。」
おお、弱くもなりつる心かな、
汝《な》が裡に、「サラマンドルの宝玉」の
鏤められしときよりは。
[#ここで字下げ終わり]
サーリハ殿下は、甥の国王が悲しげに歌ったこの詩句を聞くと、絶望の極、手を打ち合って叫びました、「ラー、イラーハ、イッラー、ラーフ、ワ、ムハンマド、ラスール、ラー(10)。栄光満てる至大のアッラーのほかには、尊厳も権力もない。おおわが子よ、それではお前は、海のサラマンドル王の王女宝玉姫についての、私とお前の母上との昨日の話を聞いたのだな。おお、われらの災厄《わざわい》かな。というのは、おおわが子よ、お前の精神と心は、既に姫のことでいたく思い悩んでいるのが見られるからじゃ、未だ全然話を切り出しもせず、しかも事はすこぶる面倒なのに。」月の微笑は答えました、「おお伯父様、僕の欲しいのは宝玉姫で、他の女《ひと》ではだめです。それがいけないなら、僕は死んでしまいます。」伯父は言いました、「それでは、わが子よ、まず一緒にお前の母上のところに戻って、私からお前の様子をお知らせし、お前を連れて海中にゆき、海のサラマンドルの王国に出向いて、お前のために宝玉姫を貰いに出かけるお許しを、母上に仰ぐとしよう。」けれども月の微笑は叫びました、「いやです、おお伯父様、母上にお許しを仰ぎにゆきたくはありません。許して下さらないにきまっています。母上は礼儀をわきまえないサラマンドル王のことだから、僕の身を心配なさるでしょうし、また、わが王国に王がいないでは済まない、王位の敵どもが、僕の留守に乗じて僕の地位を奪うだろうとも、おっしゃるでしょう。僕は母上を知っているから、そのおっしゃることは、あらかじめわかっています。」それから月の微笑は、伯父の前でひどく泣いて、更に付け加えました、「僕は母上にことわりなしに、すぐさま伯父様とサラマンドル王のところに行きたいのです。そして母上が僕の留守に気がつく暇もないうちに、さっさと帰ってくることに致しましょう。」
サーリハ殿下は、甥があくまでこの決心を言い張るのを見ると、それ以上甥を悲しませたくなくて、言いました、「いっさいの出来事に際して、アッラーにわが信を置き奉る。」それから殿下は、御名のうちの或る御名のいくつか刻んである指環を、わが指から外して、それを甥の指に嵌めてやりながら、言いました、「この指環はお前を海底の危険から更によく守って、お前の身にわれわれの海の功力《くりき》を、ことごとく帯びさせてくれるであろう。」そしてすぐさま付け加えました、「私のようにしてごらん。」そして岩を離れて、身も軽く空中に舞い上がりました。月の微笑もその真似をして、足で地を打つと、岩を離れて、伯父と一緒に空中に舞い上がりました。そして空中から、海に向って弧を描いて下り、両人とも海中に没しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十八夜になると[#「けれども第五百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてサーリハはまず、甥に自分の海底の住居を見せてやり、いなご老女王がわが家に娘の息子を迎えることができ、柘榴の花の従妹《いとこ》たちに、自分たちのところで懐しい又《また》従弟《いとこ》に再会する悦びを持たせようと思いました。二人がそこに着くには、多くの時間を要しませんでした。サーリハ殿下はすぐに月の微笑を、祖母の部屋に案内しました。するとちょうどそのとき、いなご女王は、身内の若い娘たちのまん中に坐っていらっしゃいました。そして月の微笑がはいってくるのを見ると、すぐそれとわかって、悦んでくしゃみをなさいました。月の微笑は女王に近づいて、その手に接吻をし、従妹《いとこ》たちの手にも接吻をしました。すると一同は、たいそう甲高い調子で歓声を挙げながら、感激して彼を抱きました。祖母君は彼を自分のそばに坐らせ、両眼の間に接吻してやって、おっしゃいました、「おおよくお出でだった、おお乳の日(11)よ。お前はこの住居を輝かしてくれますよ、おおわが児よ。だが、お母様の柘榴の花は、どうしておいでかね。」彼は答えました、「母はたいそう丈夫で、申し分なく仕合せでいます。そしてお祖母様と、伯父様のお嬢様方に、御挨拶《サラーム》を伝えてくれとのことでした。」こう言ったのですけれど、これは本当ではございません、母親に暇《いとま》を告げずに出てきたわけですから。けれども、従妹《いとこ》たちがこの宮殿の壮観を全部見せたいといって、月の微笑を引っぱって、一緒に出て行った間に、サーリハ殿下はとりいそぎ母君に、サラマンドル王の王女、宝玉姫の容色の話を聞いただけで、甥の耳から入って心を捉えてしまった恋慕のことを、お知らせしました。さてその事件を一部始終物語ってから、付け加えました、「甥がここに私と一緒に来たのも、ただ父王に姫を貰うためになのです。」
月の微笑王の祖母君は、このサーリハ殿下の言葉を聞くと、令息に対して憤りの極に達し、十分用心もせずに、月の微笑の面前で宝玉姫の話などしたことを、激しく咎めて、おっしゃいました、「それにしても海のサラマンドル王が、どんなに尊大暗愚に満ちた乱暴な人間か、そして娘をいっかな手放さず、これまでにあんなにたくさんの若い王侯を撥ねつけたことは、お前もよく承知のくせにねえ。お前は、あの王が疑いもなく斥けるにきまっている申し込みを、私どもにさせる羽目に追いこんで、私どもをあの王に対して不面目な立場に陥れるのを、恐れないのですね。私どもは飽くまで体面を重んずる身なのに、申し込みを斥けられたとなると、すっかり面目を失って、定めししょんぼりと引き下ってくることになるでしょう。実際、わが子よ、どんな場合にも、またどんな風にせよ、お前はわけても妹の子供の前では、あの王女の名前を口にすべきではなかったのですよ、たといあの子が眠り薬で眠らせられていたにせよ。」サーリハは答えました、「それはそうですけれど、とにかく今となっては、そういうことになってしまったので、あの若者はもう娘にすっかり恋いこがれて、もしわがものとできないなら、死んでしまうと、私に断言したのです。それに結局、どうなのでしょうか。月の微笑は少なくとも宝玉姫に劣らず美貌だし、歴とした王家の血統の後裔だし、自身も強大な地上の帝国の王です。何も、王といえばあの愚昧なサラマンドル一人に限るわけじゃありませんからね。それに王がどんな文句をつけようと、私がこれに反対説を突きつけて、弁駁してやれないようなことなど、ありましょうか。自分の娘は富裕だと言ってくれば、われわれの息子はもっと富裕だと言ってやりましょう。娘が美人なら、息子はもっと美男だ。娘が高貴の血統なら、息子は更にいっそう高貴の血統だ、とこういった工合にして、おお母上、私は王に、結局この結婚を承諾しても、何から何まで王の得ばかりだということを、承服させるまでやりましょう、いずれにせよ、私の迂闊から、この事件の原因は私なのですから、たとい骨を折られて、息を引き取るおそれがあろうとも、この件は私が引き受けて首尾よく終らせるのが、本筋です。」するといなご老女王は、実際今となってはこの解決法しかないのを見て、溜息をつきながら、言いなさいました、「全く、わが子よ、こんな危うい事件は、惹き起さないに越したことはなかったが、まあ、これが天命とあらば、私は全くいやいやながら、心を定めてお前を出発させるとします。けれども月の微笑は、お前の帰るまで、私の手もとに置きます。はっきりしたことは何もわからぬのに、あの子を危険にさらしたくはありませんから。では独りで行きなさい。そして特に言葉に気をつけなさいよ。ひと言の失礼な言葉が、あの乱暴で野蛮な王を怒らせるといけませんからね。あの王ときては、遠慮会釈もなく、誰でも見境なく、失礼に扱うのですから。」するとサーリハは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」
そこでサーリハは立ち上がって、サラマンドル王に贈る高価な進物を満たした大袋二個を携え、その二袋をば二人の奴隷の背に負わせ、これを連れて、サラマンドル王の御殿に到る海の路を取りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百三十九夜になると[#「けれども第五百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
御殿に着くや、サーリハ殿下は、はいって王にお話しする許しを求めますと、許しが与えられました。そこで、海のサラマンドル王が翠玉《エメラルド》と風信子石の玉座に坐っている広間に、はいりました。そしてサーリハは鄭重を極めて平安の辞を述べ、奴隷が背に担いできた立派な進物をつめた二つの大袋を、王の足下に下ろしました。王はこれを見ると、サーリハに平安の辞を返し、坐るように誘って、これに言いました、「ようこそ、サーリハ殿下。久しく御無沙汰に打ち過ぎ、すこぶる本意なく思っておった。さりながらまず、卿が余に会いに来られた所以《ゆえん》のものを、いそぎ余に求むるがよい。進物をするのは、常にそれ相当のものを、代りに得たき希望を以ってするのじゃからな。されば仰せあれ。さすれば余が果たして卿のために何事かなし得るか否か、考えてみよう。」そこでサーリハは今一度、王の前に恭々しく身を屈めて、言いました、「さようにござりまする。私は一事を託されて参りましたが、これはただアッラーと寛大なる王、猛き獅子、寛仁の御方《おんかた》にして、その光栄と大度と仁恵と慇懃と寛仁と慈愛との声は誉、地と海の彼方にまで伝わり、隊商たちの、夕《ゆうべ》、天幕の下にて、感嘆を以って語り合う御方の思し召しによらずば、わが得ること叶わざるところでござりまする。」サラマンドル王はこの演説を聞くと、今までくっつくほど物凄くしかめていた眉を開いて、言いました、「卿の願いの筋を申し述べられよ、おおサーリハよ。そは同情ある耳と、好意ある心の中に入るであろう。もし聞き届け得るものならば、余は遅延せしむることなく致すであろうが、しかしもし叶わぬ節も、そは悪意によるものではあるまい。何となれば、アッラーは、おおサーリハよ、一個の魂に、その容量を越えた内容を求めたまわぬによってじゃ。」するとサーリハは、前の二回よりも更に恭々しく身を屈めて、申しました、「おお当代の王よ、私のお願い申したき事は、確かに君の与えたもうことの叶うところでござりまする。何となれば、そは君の御力《みちから》のうちにあり、ただ君の御《み》稜威《いず》の下にあることなれば。して私は、もしもそれが可能なることとあらかじめ確信を持てぬとしたら、何もわざわざ、おじ気なくお願いに参上致しはしなかったでござりましょう。何となれば、賢人も申された、『聞き届けられんと欲せば、不可能事を求むるなかれ』と。私は、おお王よ(願わくはアッラーはわれらの幸福のため、わが君を永らえしめたまえ)、私は狂気の者でも、思い上がった者でもござりませぬ。されば、次のごとき次第でござります。実は、おお光栄満てる王よ、私の参上致しましたるは、単に仲人としてにすぎませぬ。そは、おお寛大なる王よ、おお寛仁の王、おお最大の王よ、そはまたなき真珠、価知れぬ宝石、封印せられたる宝、君が王女宝玉姫をば、わが甥、月の微笑、シャハラマーン王とわが妹柘榴の花女王との子にして、白い都、並びにペルシアの国境よりホラーサーンのいや果《はて》に亘る地上の王国の主《あるじ》のために、王妃に賜わりたく、願い奉らんがためにござりまする。」
海のサラマンドル王は、このサーリハの演説を聞くと、仰向けにひっくり返るほど笑い出し、そのまま、宙を幾度も激しく蹴りながら、痙攣して身悶えしつづけました。そのあとで、身を起して、黙ってサーリハを見つめながら、突然叫びかけました、「やれ、やれ。」そして改めて、また笑い出し痙攣しはじめ、それがあまり強く長い間だったので、とうとう音高い放屁《おなら》を一発放してしまいました。こうして落ち着くと、王はサーリハに言いました、「いや、はや、おおサーリハよ、拙者はずっと貴殿をば、思慮ある冷静な人物と思っていたが、今はどんなに自分が見当ちがいであったか、よくわかった。そうでないとすれば、一体、貴殿は自分の分別と理性をどうしたのか伺いたい、こんな馬鹿げた願いを平然と持ちこむとは。」けれどもサーリハは、あわてず騒がず、答えました、「一向に存じませぬ。しかし確かな一事があるが、それはわが甥月の微笑は、少なくとも、御息女宝玉姫と同等に美貌であり、富裕であり、高貴の血統であるということでござる。もし宝玉姫がかかる結婚には分不相応とあらば、しからばいかなる事に分相応であるのか、伺わせていただきたい。何となれば、賢人もかつて言ったではござらぬか、『若い娘にあるは結婚か墓場のみ』と。さればこそ、老嬢などはわれら回教徒《ムスリムーン》の間には知られざるもの。されば、おお王よ、御息女を墓より救うこの機会をば、いそぎ捉えたもうべし。」
この言葉に、サラマンドル王は激怒の極に達し、眉を縮め、眼を血走らせて、すっくと立ち上がり、サーリハに向って怒鳴りました、「おお人間中の犬め、およそ汝に似たるやつばらに、公衆の面前にて、わが娘の名を口に出すことなどできるものか(12)。犬の息子の犬にあらずして、汝は一体何か。また汝の甥の月の微笑とは何者ぞ。その父親とは何者ぞ。汝の妹とは何者ぞ。全部が全部、犬どもの息子の犬どもだわい。」次に王は警吏のほうを向いて、叫びました、「それ、汝ら、この取持野郎を引っ捉え、骨の折れるまでぶちのめしてやれ。」
すぐに警吏はサーリハに襲いかかり、これを掴まえて引っ倒そうとしました。けれども電光のようにすばやく、サーリハは彼らの手からのがれ、外に飛び出して、逃がれ去ろうとしました。ところが、外に出てみると、この上なく驚いたことに、そこには千人の騎兵が海の馬に乗り、鋼鉄の鎧を着て、頭から足まで身を固めているのを見ましたが、それはすべてわが一門の人たちと、一家の同勢でした。彼らは母上いなご女王に差し向けられて、たった今到着したところでした。女王はサラマンドル王が王子になしかねない虐遇を予感して、用心のため、あらゆる出来事に対して王子の身を守るため、この一千の兵を差し向ける配慮をなさったのでございました。
そこでサーリハは、一同に手短に起ったところを話してから、皆に叫びました、「さあ今は、この愚昧狂人の王をやっつけろ。」すると千人の武士は馬から飛び降り、各自剣を抜き放ち、サーリハ殿下の後ろに一団となって、王座の間《ま》になだれこみました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十夜になると[#「けれども第五百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
サラマンドル王のほうは、この敵の武士の奔流がどやどやと流れこんで、夜の闇のように拡がるのを見ると、少しも騒がず、警吏に向って叫びました、「この卑怯者どもの牡山羊とその一群をやっつけろ。そして汝らの剣を、やつらの唾《つばき》がやつらの舌に近いよりも、もっとやつらの首に近からしめよ。」
すると直ちに警吏たちは、彼らの鬨《とき》の声を揚げました、「ヤー・レー(13)・サラマンドル。」またサーリハの武士たちも、彼らの鬨の声を揚げました、「ヤー・レー・サーリハ。」そして双方、立ち騒ぐ海の波濤のように、飛びかかり、ぶつかりました。サーリハ方の武士の心は巌よりも固く、彼らの旋回する剣は、天運の決定《さだめ》を成就しはじめます。剛勇のサーリハ、花崗岩の心持てる英雄、剣と槍との騎士は、山々の岩をも覆《くつがえ》さんばかり飛び跳ねて、首を刎ね、胸を貫きます。おお、恐ろしい乱闘。何という物凄い殺戮。褐色の槍の穂先によって、どんなに多くの叫び声が、喉元に押し殺されたままになったか。どんなに多くの女が、孤児の子供たちを抱えて寡婦《やもめ》にされたことか……。戦闘は激烈に続き、剣戟の音響き渡り、身体は深傷《ふかで》を負って呻き、海底の地は、どしんどしんと武士たちのぶつかり合う下に、打ち顫えました。けれども、剣やあらゆる武器も、天運の決定《さだめ》に対して何ができましょうぞ。そもそもいつから、創られた者どもが、彼らの末期《まつご》と定められた時を、遅らせたり早めたりすることが、できましょうか。されば、ひと時の格闘の後には、やがてサラマンドルの警吏どもの心は、脆い壺のようになってしまい、全部、最後の一人まで、彼らの王の王座のまわりの、地を埋めたのでございます。サラマンドルはこれを見て、憤怒甚だしく、膝までも垂れ下っているその並みはずれた大《おお》睾丸《ぎんたま》が、臍まで縮み上がったほどでした。そして泡を吹きながら、サーリハ目がけて打ちかかると、サーリハはこれを槍の穂先で受けて、叫びました、「おお不実の乱暴者め、今ぞ汝は滅びの海のいや果《はて》にいるぞ。」そしてひと打ち響きも高く、これを地上に覆し、しっかと押えつけ、部下の武士たちに助けられて王に縄をかけ、後ろ手に縛り上げてしまいました。彼ら一同については、以上のような次第でございます。
ところで宝玉姫と月の微笑につきましては、次のようです。
宮殿で交えられる合戦の響きが聞えはじめるとすぐに、宝玉姫は度を失って、侍女の一人の、桃金嬢《てんにんか》(14)という名前の女を連れて逃げ出し、海の地帯を横切って、水上に浮び上がり、どんどん道を続けて、とうとう或る無人島に辿りつき、そこで葉の繁った大木の天辺に隠れて、身をひそめました。侍女の桃金嬢も主人にならって、やはり別な大木に攀じ上って、その天辺に隠れたのでございました。
ところが天運は、同じことがいなご老女王の御殿にも持ち上がるように、望みました。事実、進物の袋を担いで、サーリハ殿下のお伴をして、サラマンドルの宮殿に行った二人の奴隷は、彼らもまた戦いが始まるとすぐに、いそぎ逃がれて、いなご女王に急を報じに駈けつけることにしました。そして若い月の微笑王は、この奴隷が着くとよく問い質し、この不穏な知らせにたいそう気遣い、伯父上の遭っていらっしゃる非常な危難と、海底の国に捲き起された紛擾との、そもそもの因《もと》はと言えば、自分にあるのだと、魂の中で思いました。それで、若い王は祖母のいなご女王の前では、たいそう臆病でしたので、自分ゆえに、伯父上サーリハ殿下が危難に陥っていると聞いては、祖母君の前に出る勇気がございません。折から、祖母君は二人の奴隷の報告を聞くのに気をとられていなさるのを幸い、彼は海の底から飛び出して、白い都の母君柘榴の花の許に帰るため、再び水面に出ることに致しました。けれども、どの道を行けばよいか知らなかったもので、迷ってしまい、ちょうど宝玉姫の逃がれたその同じ無人島に、着いたのでございます。
陸に近づくや、彼は今までの骨の折れる旅に疲れを覚えたので、ちょうど宝玉姫のいるその木の根元に、身を横たえに行ったのでありました。人おのおのの天命は、その人が風より早く駈けようとも、その行く先々どこにでもついてゆくもので、追われる身には休むひまとてないということを、彼は知りませんでした。そして、永遠の奥底から、神秘な運命が、自分に何を取って置くか、少しも気取らなかったのでございます。
ですから、ひとたびその木の根元に横になると、彼は肱を枕に眠ろうとしましたが、ふと木の上を見上げると、突然姫の視線と顔とにぶつかりました。そして最初は、枝の間に月そのものを見る思いがして、叫びました、「夕を照らし夜を明るくするために、月を創りたもうたアッラーに、栄光《さかえ》あれ。」それから、更に注意を凝らして見つめると、それは人間の美しさであって、月のような乙女の美しさなことがわかりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十一夜になると[#「けれども第五百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで彼は思いました、「アッラーにかけて、これはすぐさま木に上って捕え、名前を聞くとしよう。どうもあの女は、伯父上サーリハが宝玉姫についておっしゃったすばらしい面影と、不思議に似ているからな。果たして姫自身でないとは限らぬ。ひょっとすると、戦いが始まるとすぐに、父王の御殿から、逃げ出してきたのかも知れない。」そこで極度に感動して、跳ね起き、木の下に立ちながら、眼を乙女のほうにあげて、乙女に向って言いました、「おお、あらゆる欲望《のぞみ》の無上の目的よ、御身はどなたで、どのような動機《いわれ》から、この島の、この木の頂にいらっしゃるのですか。」すると姫は、少しくこの美しい青年のほうに身を傾《かし》げて、微笑みかけ、流水のように爽やかな声で、言いました、「おお美貌の青年よ、おおいと美わしいお方よ、わたくしは海のサラマンドル王の女、宝玉姫でございます。わたくしがここにおりますのは、敗れた者の悲しい運命をのがれようとて、故郷《ふるさと》と、故郷の住家と、父と家族から、逃げて参ったからでございます。それと申すのは、サーリハ殿下が、もう今ごろは、警吏どもを鏖殺《みなごろ》しにした上で、父上を奴隷の身としてしまったにちがいありません。そして御殿の隅々まで、わたくしを探していることでしょう。あわれ、あわれ、おお身内を離れてひとり切ない流浪の身よ。おお、わが父王の不幸な運命《さだめ》よ。ああ、ああ。」そして大粒の涙が姫の明眸から、月の微笑の顔の上にはらはらと落ちて来たので、彼は感動と胸迫る思いに両手を宙に挙げ、やっと最後に叫びました、「おお宝玉姫、わが魂の魂よ、おお眠りなきわが夜な夜なの夢よ、願わくは、この木より降りたまえ。私こそは、御身と同様、海の生れの女王柘榴の花の子、月の微笑王ですから。おお、降りたまえ、私こそは御身の眼に悩殺された男、御身の美わしさに囚えられた奴隷ですから。」すると乙女は、たいそう悦んだらしく、叫びました、「やあ、アッラー、おお御主人様、ではあなた様がサーリハの甥、柘榴の花女王の王子、美わしい月の微笑でいらっしゃいますの。」彼は言いました、「そのとおりです、どうぞ降りて下さい。」姫は言いました、「まあ、あなた様のような夫をわが娘に拒むとは、何と父上はお考えが足りなかったことでしょう。これにまさることをお望みになれたでしょうか。地の上にも海の下にも、どこにこれ以上美貌の、美わしい王子を、父上は探し出すことがおできになったでしょう。おおいとしいお方、父上の軽はずみなお断わりを、どうぞあまりお咎め下さいますな、わたくしはあなたが好きですから。もしあなたが、拇指《おやゆび》の先から小指のはしまでぐらい大きくわたくしを愛しなさるとすれば、わたくしは、腕ほど太くあなたを愛しますわ。お姿を見るとすぐ、わたくしに寄せて下さる愛は、わたくしの肝に移り入り、わたくしはあなたのお美しさの犠牲となってしまいました。」
そして、この言葉を言ってから、姫は木から月の微笑の腕のなかに滑り下りたので、彼は歓喜の極に達して、姫を胸に抱き締め、到る処に接吻を浴びせると、姫は愛撫には愛撫を、身動きには身動きを返すのでした。月の微笑は、この心地よい身体の触れ合いに、彼の魂がそのすべての鳥を挙げて歌うのを感じて、叫びました、「おおわが心の女王よ、おお渇望の宝玉姫よ、君ゆえに私もまたわが王国と、母と、父祖の宮殿を棄て去ったのだが、たしかに、伯父君サーリハはあなたの容色の四分の一も、詳しく話しては下さらず、他の四分の三は、未だ私には思いもよらなかった。伯父君は私の前で、あなたの美しさを、二十四カラット(15)のうち一カラット計っただけでした、おお金無垢の君よ。」こう言って、彼はなおも彼女を接吻で蔽い、さまざまに愛撫しつづけました。そのうち、いよいよその祝福の臀を堪能しようとの思いに燃えて、彼の大胆な手は、紐の総のほうに下がりました。すると乙女は、その仕ぐさを助けるみたいに身を起し、二、三歩退いたとみると、突然、王子のほうに向けてまっすぐに片手を延ばし、水がないので顔に唾を吐きかけて、叫んだものです、「おお陸《おか》の男よ、汝の人間の形を脱いで、赤い嘴と足を持った、大きな白い鳥となれ。」するとすぐに、月の微笑は、この上なくびっくり仰天したことには、白い羽毛の、重たくて飛ぶことのできない翼を持った、嘴と足の赤い鳥に、変ってしまったのでございます。そして彼は、眼に涙を浮べて、乙女を見つめはじめるのでした。
すると宝玉姫は、侍女の桃金嬢《てんにんか》を呼んで、言いつけました、「この鳥は、父上の最大の敵、父上と戦ったあの周旋人サーリハの甥。この鳥を連れて、ここから遠からぬ『水無し島』に行き、渇きと飢えで死なせておやり。」こうした次第でございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十二夜になると[#「けれども第五百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それというのは、宝玉姫が月の微笑に対して、このように愛想のよい素振りを見せたのも、工合よく近づいて、こうして彼を鳥に変身させ、末は餓死させ、かくして父と父の警吏の仇を討ってやろうとの腹にほかならなかったのです。姫のほうは、このようでございます。
さて白い鳥のほうはと申しますと、侍女の桃金嬢は、御主人宝玉姫の言いつけに従うため、鳥が必死に羽ばたきし、しきりにしゃがれた叫びを挙げるのもかまわず、これをつかまえたとき、彼女は鳥がかわいそうになって、そんなにむごたらしい死の待っている「水無し島」に、この鳥を連れてゆく気持になれませんでした。そして情深い魂の中で、独りごとを言いました、「いや、これはいっそこの鳥をば、そんなむごたらしい死に方をせずに済む場所に運んで行って、そこで自分の天命を待つようにしてあげよう。御主人様が、そのうちお怒りがさめてみると、最初のお気持を悔いて、かえって私があまりすぐにお言葉に従ったと、お咎めにならないとも知れたものではないから。」そこで侍女はこの囚人を、あらゆる種類の果樹が繁り、幾筋も爽やかな小川の流れる、青々とした島に運んで、そこに置いて、自分は御主人のもとに帰りました。
さて、さしあたり、この鳥は緑の島に、宝玉姫は最初の島に、しばらく残しておいて、サラマンドルを破ったサーリハ殿下はいったいどうなったか、戻って見ることに致しましょう。
ひとたびサラマンドル王を縛《しば》りあげると、殿下はこれを宮殿の一室に幽閉して、代って自身が王となる旨布告致しました。それから、いそぎ隅々まで宝玉姫を探しましたが、もとより見つかりません。それでいよいよ百方探しても無駄とわかると、もとの住居に引っ返して、母上いなご女王に、起ったことを委細お知らせしました。それから女王に訊ねました、「おお母上、さて甥の月の微笑王はどこにおりますか。」女王は答えました、「はて、知りませんね。従妹《いとこ》たちと散歩にでも行っているのでしょう。とにかく、すぐに呼びにやりましょう。」ちょうどこの言葉をおっしゃったところに、その従妹《いとこ》たちがはいってまいりましたが、月の微笑は一緒ではありません。そこで隈なく探させましたが、もとよりどこにも見つかりません。そうなると、サーリハ王と、祖母君と、従妹《いとこ》たちの心痛はこの上なく、一同たいそう悲しみ、泣きました。次にサーリハは、胸が狭まりながらも、月の微笑の母、妹の海の人、柘榴の花王妃に、使いを遣って、事の次第を知らせないわけにゆきませんでした。
柘榴の花は狂乱の極に達し、いそいで海に潜《もぐ》って、母上いなごの御殿に駈けつけました。そして接吻と最初の涙ののち、訊ねました、「家《うち》の子供、月の微笑王はどこにおりますの。」年とった母君は、長々と前置きをならべ、涙に満ちた沈黙を置いてから、輪になって坐っている従妹《いとこ》たちの咽び泣きのただ中で、御自分の娘に、事の次第を一部始終話して聞かせなさいました。けれども、それを繰り返し申し上げるまでもございません。それから、母君は付け加えました、「そして兄上のサーリハは、サラマンドルの代りに王となることを布告して、隅々まで捜索したけれども空しく、未だに私たちの王子月の微笑の跡形も、サラマンドルの娘宝玉姫の跡形も、見つけることができなかった次第です。」
柘榴の花はこの言葉を聞くと、世界はその顔の前で暗くなり、悲嘆が胸にはいり、絶望の咽び泣きが全身を揺すりました。そして永い間、海底の宮殿に聞えるものは、ただ女たちの愁傷の叫び声と、苦しみの嗚咽ばかりでございました。
けれどもやがて、とにかくこんな不思議な嘆かわしい事態を収拾することを、考えなければなりませんでした。そこでまずはじめ、祖母君が涙を干して、言いました、「娘よ、どうかあなたの魂は、この事件について、あまり度を越して悲しむことのないように。なにも兄上が、最後には王子月の微笑を見つけないものとは限りませんからね。そこであなたは、もしも本当にわが子を可愛く思って、わが子の身のためを計るならば、自分の領地に戻って、国事を司り、わが子の失踪を誰にも知らせずにおくのがよいことでしょう。そうすれば、アッラーがよしなにして下さるでしょう。」柘榴の花は答えました、「おっしゃるとおりです、母上様。わたくしは陸へ戻ると致しましょう。けれども、お願いです、おお後生ですから、どうぞあの子の身を考えることをやめないで、飽くまで捜索を弛めないようにして下さいまし。万一あの子に何かよくないことが起ったら、もうわたくしは取りかえしがつかなく、死んでしまうでしょう。わたくしはあの子を通じてしか世を見ず、あの子の姿を見ないでは、悦びを味わえないのですから。」いなご女王は答えました、「いかにも、娘よ、情愛深い心を挙げて、承知しました。ですから、それについては心配なく、全く心を安んじなさい。」そこで柘榴の花は、母君、兄君、従妹《いとこ》たちと別れを告げて、胸は塞ぎ、魂は悲しんで、自分の領地と都に戻ったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十三夜になると[#「けれども第五百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、こんどは、情深い魂を持った若い桃金嬢《てんにんか》が、宝玉姫によって、白い羽毛と、赤い嘴と足の鳥に変えられた、月の微笑を置いて行った、あの緑の島に戻りましょう。
鳥になった月の微笑は、救いの桃金嬢に置き去られるのを見ると、さめざめと泣きはじめました。それから、ちょうどお腹が空き喉が渇いたので、わが身の不幸な運命を思い、自分が鳥となったのに驚きながら、果物を食べ、流れの水を飲みはじめました。そしていくら翼を搏って飛び上がろうと試みても空しく、翼は身を空中に支えることができません。身体がひどく大きく、重たいのでした。そこで最後にはわが天命にあきらめて、こう考えました、「まあこの島を離れたところで、しかたがないのではないか。どこへ行けばよいのかわからないし、誰もおれの鳥の外形を見て、内部《なか》ではおれが王だということを、認めてはくれまいからな。」そして彼はしょんぼりと、この島に暮しつづけ、夕には、木に棲って眠るのでした。
ところが、或る日、すっかり思い屈して、首を垂れ、しょんぼりと足で歩きまわっていると、折からこの島に鳥網を張りに来た、一人の鳥刺しの目にとまりました。鳥刺しは、赤い嘴と赤い足が、真白い羽毛の上にあざやかに浮き出している、全く類のないこの大きな鳥の見事な様子に感心して、自分が全然知らない種類のこのような鳥を、手に入れることができるのを、たいそう悦びました。そこで十分に慎重な態度をとって、じわじわと巧みに後ろから近づき、すばやくぱっと網を投げかけて、これを捉えてしまいました。そしてこの立派な獲物の鳥を携えて、鳥刺しは大きな鳥の、足をそっと持って肩に担ぎながら、出て来た町に戻りました。
町にはいると、鳥刺しは独りごとを言いました、「アッラーにかけて、おれはこれまで、陸を狩りしても海を狩りしても、この鳥と同じような鳥は、ついぞ見たことがない。だからこれは、普通の買手に売るようなまねはすまい。普通の買手じゃ、この鳥の値段も値打もわかることができないで、大方殺して、家中で食ってしまうだろう。こいつはひとつ、この町の王様のところに持って行って、献上しよう。王様はこの美しさにびっくりなすって、代りに大金を下さることだろうよ。」そして鳥刺しは御殿に行って、王様のお目にかけると、王様はこれを見てこの上なくお気に召し、とりわけ嘴と足の美しい赤い色には、感心なさいました。そしてこれを御嘉納になり、鳥刺しに金貨十ディナールを下されたので、鳥刺しは床に接吻して、引き下がりました。
すると王様は、黄金の金網《かなあみ》で大きな籠を作らせて、そこにこの美しい鳥を入れました。そして鳥の前に、玉蜀黍《とうもろこし》と麦の粒を置いてやりましたが、鳥は少しも嘴を持ってゆきません。王様は驚いて、独りごとをおっしゃいました、「食わぬなあ。別な物を与えてみよう。」そして鳥を籠から出して、その前に若雛の笹身と肉片と果物を置きました。するとすぐに鳥は、小さな叫び声をあげ、白い毛を膨らしながら、明らかに悦んで、食べはじめました。王様はこれを見て面白さに身を顫わして、奴隷の一人におっしゃいました、「早く汝の御主人、妃の許に駈けつけて、余が当代の奇蹟中の奇蹟たる一羽の不可思議な鳥を買い求めたによって、来たって余と共にこの鳥を眺め、鳥類の普通食さぬこれらの食品すべてを、まことに驚くべき様子で食べる様を見るようにと、申し伝えよ。」奴隷はいそいでお妃を迎えにゆくと、お妃はすぐにお出でになりました。
ところが、お妃はこの鳥を御覧になるとすぐに、つと面衣《ヴエール》でお顔を蔽い、お腹立ちの態で、戸口のほうに退いて、外に出ようとなさいました。そこで王様は後ろから駈け寄って、面衣《ヴエール》をつかんで引きとめ、お訊ねになりました、「なぜそちは顔を蔽うのじゃ、ここには夫たる余と、宦官と腰元たちよりほかにおらぬのに。」お妃は答えました、「おお王様、実はこの鳥は決して鳥ではなく、わが君と同じく男子なのでございます。これこそ、シャハラマーン王と海の女柘榴の花の王子、月の微笑王に、ほかなりません。そして王子は、海のサラマンドルの娘宝玉姫によって、このように変形《へんぎよう》させられ、こうして姫は、父王が月の微笑の伯父サーリハによって打ち破られた仇をとったのでございます。」
この言葉を聞くと、王様は驚きの限り驚いて、叫びました、「アッラーは宝玉姫を懲らしめ、その手を切りたもうように。されど、そちの上なるアッラーにかけて、おお伯父の娘よ、余に事の詳細を知らせてもらいたい。」すると、当時最も名うての魔法使であったお妃は、王様に細大洩らさず、全部の次第を話してあげました。王様はすっかり驚嘆して、鳥のほうを向いて、これに訊ねなさいました、「こうした一切は真実《まこと》であるか。」すると鳥は……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十四夜になると[#「けれども第五百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……すると鳥は、同意のしるしに頭を下げ、羽搏きをしました。そのとき王様はお妃におっしゃいました、「アッラーはそちを祝福したまえかし、おお伯父の娘よ。さりながら、そちの眼の前なるわが生命《いのち》にかけて、いそぎこれをその魔術より釈き放してもらいたい。これをかかる悩みのうちに止まらせておいてはならぬ。」するとお妃は、お顔をすっかり蔽った上で、鳥におっしゃいました、「おお月の微笑よ、この大きな押入れのなかにはいりなさい。」鳥はすぐにお言葉に従って、王妃の開けた、壁のなかに隠されてある、大きな押入れにはいりました。王妃はその後から、手に水の茶碗を持ってはいり、その水の上に何かわからない言葉を唱えますと、水は茶碗のなかでたぎり始めました。そのとき、王妃は数滴の水を取り上げて、これを鳥の顔に投げかけながら、言いました、「魔法の御名《みな》と霊験ある御言葉《みことば》の功徳により、全能者にして、天地の創造主、死者を甦らし、期限を定め、天命を分配したもうアッラーの御《み》稜威《いず》によって、汝この鳥の形を棄てて、創造主より受けし形を再びとるべし。」
するとすぐに、鳥はぶるっとひと震え震え、ひと揺すり身を揺すって、その最初の形に戻ったのでございます。王様は驚嘆して、それが地の表に類ないような青年であるのを、御覧になりました。そして叫びなさいました、「アッラーにかけて、まさしく月の微笑という名にそむかぬわい。」
さて、月の微笑は、自分が元の様に戻ったのを見ると、まず叫びました、「ラー、イラーハ、イッラー、ラーフ、ワ、ムハンマド、ラスール、ラー。」それから王様のおそばに近づき、御手に接吻して、御長命を祈りました。王様はその頭に接吻してやって、おっしゃいました、「月の微笑よ、その方の誕生より今日までの身の上を、逐一語ってもらいたい。」それで月の微笑は、細大洩らさず、自分の身の上を逐一お話し申し上げますと、王様はこの上なく驚嘆なさいました。
そのとき王様は、悦びの無上の極みに達して、魔法を釈かれた若い王におっしゃいました、「さて今は、おお月の微笑よ、その方は余に何をしてもらいたいかな。少しも憚りなく申すがよい。」月の微笑は答えました、「おお当代の王よ、私はぜひ自分の領国に戻りとう存じまする。それというのは、国を空けてから既に久しくなりますので、王座の敵どもが私の不在に乗じて、私の位を奪いはせぬかと、大いに案じられるからでございます。それに母も、私の失踪に心痛しておるにちがいございません。懸念のうちに、今なお悲しみと憂えに耐えて生き永らえているかどうかも、計り知れませぬ。」すると王様は、その美貌に心動かされ、若さと孝心に感じ入って、「仰せ承わり、仰せに従う」と答え、即座に一艘の船を準備させ、糧食、船具、水夫、船長をつけて下さったので、月の微笑王は、お別れの挨拶と感謝の後に、己が天命に身を委せて、その船に乗り込みました。
ところがその天命は、彼のため更に、見えざる境に、ほかのいろいろの冒険を、取って置いたのでございました。果たして、出発後五日目に、猛烈な暴風雨が起って、船に損傷を与えたうえ、岩だらけの海岸にぶつけて船を砕いてしまい、ひとり月の微笑だけが、水に平気な身を持っていたので、泳いで逃がれ、大陸に辿りつくことができたのでした。
そして、見ると遥かに、純白の鳩のような町が、山の頂上に聳えて、海に臨んでおりました。そのうち突如、その山の上から、馬と牡騾馬と驢馬が、砂粒のように数知れず、突風のような速さで、猛り立って疾駆しつつ、こちらに近づき、駈け下りてくるのが見えました。やがてその物狂おしく疾駆する群れは、彼のまわりを囲んで、立ちどまりました。そして全部の驢馬は、馬と牡騾馬と共々、彼に向って頭で、「お前の来たところに帰りなさい」と、はっきりそれとわかる合図をし始めるのでした。けれども彼はあくまで帰ろうとしないでいると、馬は嘶きはじめ、牡騾馬は息を吐きはじめ、驢馬は鳴きはじめましたが、しかしそれは苦痛と絶望の嘶きであり、息であり、鳴き声です。そればかりか或るものは、鼻を鳴らしながら、明らかに泣きはじめさえするのです。そして皆が、立ち尽している月の微笑を、鼻面でそっと押しやりますが、彼はそれに逆らって、海に戻ろうとしません。そのうち彼は引き返す代りに、かえって町のほうに前進しようとすると、四足の獣《けもの》たちは、或るものは先になり、或るものは後になって、まるで彼のために葬式の行列をするもののように、歩きはじめましたが、獣たちのあげる叫びには、コーランの読誦者が死者の前で唱える詠唱に似た、何かアラビア語の漠とした詠唱のようなものが、月の微笑に聞きとれただけに、なおさら感銘の深いものがありました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十五夜になると[#「けれども第五百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで月の微笑は、今は自分が眠っているのやら、現《うつつ》でいるのやら、それとも、こうしたすべては自分の身の疲れゆえの迷いのせいやら、もうわからなくなって、さながら夢のなかで歩くように歩きはじめて、こうして、山頂の町の入口にある、丘の上に着きました。すると、薬種屋店の戸口に坐った、一人の白髯の老翁《シヤイクー》が見えたので、彼はいそいでこれに平安を祈りました。老翁《シヤイクー》のほうでも、彼がたいそう美男子なのを見て、この上なく心惹かれ、立ち上がって、挨拶《サラーム》を返し、取敢えず四足の獣たちに、向うに行くように手で合図をしました。獣たちは、いかにも残念至極の意を示すもののように、時々あとを振り向きながら立ち去り、やがて四方に散って、姿を消してしまいました。
すると月の微笑は、年とった老翁《シヤイクー》の問うままに、手短かに自分の身の上を語り、次に老翁《シヤイクー》に言いました、「おお尊ぶべき小父様、こんどはあなたから、この町はどういう町で、あの嘆き悲しみながら私についてきた、不思議な四足の獣はいったい何なのか、教えていただけましょうか。」老翁《シヤイクー》は答えました、「わが子よ、まずわしの店にはいって、腰を下ろすがよい。お前さんはきっと食物が欲しいだろうから。その上で、教えられるだけのことは教えて進ぜよう。」そして老翁《シヤイクー》は彼をはいらせて、店の奥の長椅子《デイワーン》に坐らせ、飲み食いの品を持ってきてくれました。そして彼が十分に元気を回復し爽やかになると、老翁《シヤイクー》は彼の眼の間に接吻して、言いました、「おおわが子よ、お前さんがこの地の女王に見つかる前に、わしに出会わせて下さったアッラーに、感謝するがよい。今までわしが何も言わなかったのは、お前さんの心を乱して、おいしく食べるのを妨げはしないかと案じてのことであった。では聞くがよい。この町は『魔法の町』と言って、この地を支配するのは、アルマナク(16)女王と呼ばれる女じゃ。これは恐るべき魔術師で、稀代の魔法使、真の魔女《シヤイターン》じゃ。さてこの女王は、絶えず欲念に燃え立っておる。それで、この島に上陸する若くて、頑丈で、美男の外国人に出遭うといつも、女王はこれを誘惑し、四十日と四十夜に亘って、その男に乗らせ、何度も何度も交合《まじわ》らせる。さてその時が経って、男の精根尽き果てるというと、女王はその男をば、獣《けもの》に変形《へんぎよう》させる。そして、その新しい獣の形になって、男が新たな体力と絶倫の精力を取り戻すと、女王は自身意のままに、そのつど相手にする獣次第、或いは牝馬に、或いは牝驢馬に変形《へんぎよう》し、こうして驢馬とか馬とかに、数知れず幾度も交合《まじわ》らせる。それが済むと、自分はまたもとの人間の形に返って、更に出遭う美男の若衆の間から、新たな情人《おとこ》と新たな犠牲者を作る。そうして時には、甚だしい欲念の夜々には、島中の四足《よつあし》全部に順ぐりに乗らせて、朝に及ぶこともある。これが女王の生活振りじゃ。
さてこのわしは、お前さんを非常な愛情でもって愛するによって、わが子よ、わしは、今話したことのためにしか生きていない、あの飽くを知らぬ魔法使女の手中に、お前さんが陥るのを見たいと思わぬ。お前さんはこの島に上陸したあらゆる青年のなかで、確かに一番の美男子じゃから、万一アルマナク女王に見つかったら、どんなことになるやら知れたものではない。
お前さんを見かけて、お前さんのところに、山から駈け下りてきた驢馬と牡騾馬と馬というのは、まさしく、アルマナクによって変形《へんぎよう》せられた若衆たちなのだ。お前さんがそんなに若く美男子なのを見たので、彼らはお前さんを憐れと思い、最初、頭で合図をして、お前さんに海に戻る決心をさせようと思ったわけじゃ。次に、いくら諫《いさ》めても、お前さんが飽くまでとどまろうとするのを見て、彼らはさながら人間の生命《いのち》を終えた死人についてゆくかのように、彼らの言葉で、哀悼の辞を詠唱しながら、ここまでお前さんについてきたわけであった。
ところで、わが子よ、その魔法使の若い女王アルマナクとの同棲生活は、決して愉快でないものではあるまいよ、運命によって情人となる男を、女王が、濫《みだ》りに用いることさえしなかったらな。
わしのことは、女王はわしを恐れ、尊敬しておる。なぜというに、わしは妖術と魔法の術にかけては、女王よりも上手《うわて》なことを知っておるからじゃ。ただわしはな、わが子よ、わしはアッラーとその預言者(その上に祈りと平安あれ)の信者であるによって、決して悪をなすために、魔術を用いることはしない。何となれば、悪は最後には常に、悪人に味方しないことになるからじゃ。」
ところが、年とった老翁《シヤイクー》がこの言葉を言いも終らず、緋衣と黄金を身につけた、月のように美しい大勢の乙女たちの、美々しい行列がこちらのほうに進んできて、乙女たちは店に沿ってずっと二列に並び、全部の乙女よりも一段と美しい、宝石まばゆいアラビア馬に乗った、一人の乙女に道を開けるのでした。これぞ魔術師、アルマナク女王その人でありました。女王は店の前に足を停め、手綱を抑える二人の奴隷に助けられて、馬から下り、年とった老翁《シヤイクー》のところにはいって来て、ごく恭々しく挨拶しました。次に女王は長椅子《デイワーン》に坐り、眼を半ば閉じて、月の微笑を見やりましたが、何という眼つきでしょう……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十六夜になると[#「けれども第五百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……何という眼つきでしょう。思いをこめた、孔をあけるような、甘えた、火花の散る眼つきです。すると月の微笑は、投槍で貫かれるような、それとも燠火《おきび》で焼かれるような気持が致しました。若い女王は老翁《シヤイクー》のほうに向いて言いました、「おお長老《シヤイクー》アブデルラハマーンよ、このような若者を、どこから手に入れたのですか。」老人は答えました、「これは私の弟の倅です。たった今、旅から私の家に着いたのです。」女王は言いました、「まことに美しいお方ですね、おお長老《シヤイクー》よ。たったひと夜でいいから、この方を私に貸して下さいませんか。ただ御一緒にお話をするだけで、外に何もせず、明朝には、そっくりそのままお返し致しますから。」老人は言いました、「この男を決して魔法にかけようなんぞとしないと、誓いなさるかな。」女王は答えました、「魔術師の主《あるじ》の前と、あなたの前とで、きっと誓います、尊ぶべき小父よ。」そして女王は、進物として老翁《シヤイクー》に金貨一千ディナールを贈って、感謝の意を示し、月の微笑をば、宝石ずくめのすばらしい馬に乗せて、一緒に御殿に連れて行きました。彼の姿は行列のまん中に、諸星《もろほし》のなかの月のように現われ出たのでございます。
ところで月の微笑は、今では天命のなすままになろうと観念して、ひとことも言わず、自分の気持をいかようにも表わそうとはせずに、黙って連れて行かれました。
さて魔術師アルマナクは、自分の臓腑がこの青年に対して、これまでの情人たちに燃えたよりも、遥かに強く燃え上がるのを覚えて、いそいで青年をば、四方の壁が黄金造りで、トルコ玉の泉水から迸り出る噴水で、空気を冷やしてある一室に、案内致しました。そして青年と一緒に、象牙の大寝台の上に身を投げて、そこでまず最初途方もなく愛撫したので、青年は彼のすべての鳥を挙げて歌い、踊りはじめたのでございます。女王は少しも乱暴ではございません。それどころか、本当に細《こま》やかです。ですから、疲れを知らぬ若い牝鶏の上への雄鶏の交尾《つがい》は、数えきれぬものがありました。そして彼は独りごとを言うのでした、「アッラーにかけて、この女は全く巧者だ。おれにひどいことなんぞしない。むやみにせっついたりしはしないし、おれだってそうだ。だから、きっと宝玉姫だって、この魔法使ほどすばらしいわけにはとてもゆかぬと思う。だから、おれはここに一生とどまって、サラマンドルの娘のことも、身内のことも、自分の王国のことも、もう一切考えないことにしよう。」
そして実際に、彼はこの若い魔術師の女と一緒に、酒宴や、舞踊や、歌や、愛撫や、運動や、突撃や、交合や、その他それに類したことをして、快楽と享楽の限りに、自分の全部の時間を過ごしながら、ここに四十日と四十夜とどまりました。
時々、笑い話に、アルマナクは彼に訊ねるのでした、「おお私の目よ、あなたは店で伯父さんと一緒にいるよりか、私と一緒にいるほうが面白いですか。」すると彼は答えるのでした、「アッラーにかけて、おお御主人よ、伯父は憐れな薬売りですが、あなたは解毒剤《テリアク》そのものですよ。」
ところで、ちょうど四十日目の夜になりますと、魔術師アルマナクは、月の微笑との数限りないさまざまの突撃の後で、いつもよりもいっそう興奮してから、眠ろうと横になりました。けれども、真夜中頃、月の微笑は眠ったふりをしていますと、女王が燃えるような顔をしながら、寝床から起き上がるのが見えました。そして女王は、部屋のまん中に行って、銅の皿のなかからひと掴みの大麦を取り上げ、それをば泉水の水の中に投げこみました、そしてしばらくたつと、その大麦は芽を出し、茎が水の上に出て、穂が実って、金色になりました。すると魔術師は、その新しい麦粒を集め、それを大理石の薬研《やげん》で搗《つ》き、いろいろな箱から何か粉を取り出してそこに混ぜ、それをお菓子のように、捏ねて丸めました。次に、こうして拵《こしら》えたその菓子を、焜炉の熾火にかけて、ゆっくりと焼きました。出来上がると、それを下ろして、布切れに包《くる》み、それを戸棚に隠した上で、寝床の月の微笑のそばに寝に戻り、眠ってしまいました。
けれども朝になると、月の微笑は、魔術師の御殿にはいって以来、ずっと年とった老翁《シヤイクー》アブデルラハマーンのことを忘れていましたが、折よくこれを思い出して、これは老人に会いに行って、昨夜見たアルマナクのしたことを知らせる必要があると、考えました。それで老人の店にゆきますと、老人は再会を非常に悦んで、真心をこめて接吻し、坐らせてから、訊ねました、「わが子よ、不実な女だけれども、あの魔術師アルマナクのことで、別に困るようなこともなかったろうね。」彼は答えました、「アッラーにかけて、よい小父様、あの女は今までずっと、たいへん大切に私を扱って、ひどいことは何も致しませんでした。ところが昨晩、ふとあの女が起き上がるのを感じて、その燃えるような顔を見たので、私は眠ったふりをしていますと、全くあの女が怖くなるようなことをしているのを見ました。そのため、おお尊ぶべき小父様、私は御相談に参ったのです。」そして彼は魔術師の夜の作業を話して聞かせました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十七夜になると[#「けれども第五百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞くと、老翁《シヤイクー》アブデルラハマーンは非常に怒って、叫びました、「ああ呪われた女め、不実者め。誓いを守ろうとしない偽誓者め。結局何としても、あの女の邪《よこしま》な魔術は直らないのだな。」次に付け加えました、「いよいよあの女の妖術に、きりをつけてやる時だわい。」そして老人は戸棚のところに行って、あの魔術師の女の作ったものと、あらゆる点でそっくりのパン菓子を取り出し、それをハンケチに包んで、月の微笑に渡しながら、言いました、「この菓子をあげるから、これを以ってすれば、あの女がお前に加えようとする禍いは、転じてあの女の上に下るであろう。事実、あの女は四十日たつと、情人たちに自分の作ったパン菓子を食わせ、それでもって男どもを、この島に充ち満ちている、あの四足の獣《けもの》に変ずるのじゃ。だがいいか、わが児よ、お前はよく気をつけて、あの女の出す菓子には手をつけるなよ。そしてかえってあの女に、今わしのあげる菓子をひと切れ、呑み込ませるように努めよ。次には、あの女が魔法をお前にかけようとするだろうから、それをばそのまましてやって、あの女がお前の上に唱えるのと同じ言葉を、あの女の上に唱えてやるがよい。さすれば、お前はあの女をば、自分の好きな獣に変えるであろう。その上でその獣に乗って、わしに会いに来なさい。それから先は、わしは次に自分のするべきことを知っているから。」そこで月の微笑は、老翁《シヤイクー》の寄せてくれる情愛と配慮を謝してから、別れて魔術師の御殿に戻りました。
するとアルマナクは庭に坐って、彼を待っておりましたが、その前には食布《スフラ》が拡げられていて、そのまん中に、夜中に作った例のパン菓子が、皿に盛ってありました。女王は彼が留守をしたことを恨んだので、彼はこれに言いました、「おお御主人よ、私は永いあいだ伯父に御無沙汰したので、今ちょっと行って参りました。伯父はたいへん悦んで迎え、いろいろ食べ物を出してくれました。いろいろ結構な品々がありましたが、そのなかでわけて、たいそうおいしいお菓子があったので、私はあなたにも味わわせてさしあげたく、それを貰って帰らずにいられませんでした。」そして彼は小さな包みを取り出して、例の菓子を出し、ぜひひと切れ食べてくれるようにとすすめました。アルマナクは意に逆らってはと思って、その菓子を割って、ひと切れ取り上げて呑み込みました。それからこんどは自分も、月の微笑に自分の菓子をすすめると、月の微笑も意に逆らってはと思って、そのひと切れを取り上げましたけれども、それをば呑み込むふりをしながら、そっと着物の襟口に滑りおとしました。
するとすぐに魔術師は、彼が実際に菓子のひと切れを呑み込んだものと思って、つと立ち上がり、傍の泉水から、掌の凹みに僅かの水を掬《すく》って、こう叫びながら、それを彼に振りかけました、「おお衰えた若者よ、逞しい驢馬になれ。」
ところが、若者は驢馬になるどころか、かえってこんどは彼が立ち上がって、つと傍らの泉水に近より、掌の凹みに僅かの水を掬《く》み、彼女に向って、「おお不実の女よ、汝の人間の姿を棄てて、牝驢馬になれ」と叫びながら、自分に水を振りかけるのを見た時の、魔術師の喫驚は、いかばかりでしょう。
そしてそれと同時に、その驚きから立ち直る暇もなく、魔術師アルマナクは、牝驢馬に変ってしまったのでございます。そして月の微笑はその牝驢馬に跨って、老翁《シヤイクー》アブデルラハマーンに会いにゆき、今起ったところを話しました。それから、無愛想な様子をする牝驢馬を、老人に引き渡しました。
すると、老翁《シヤイクー》は牝驢馬のアルマナクの首に、二重の鎖をかけ、その鎖を壁の環に固く結びつけました。それから、月の微笑に向って言いました、「さてこうなっては、わが子よ、わしはこれからわが町の事務の始末にかかるとして、まず最初、これほど多数の若者を四足の獣《けもの》に変えている魔法を、釈くことから手をつけよう。だがその前に、わしはお前と別れるのはなんぼうにも辛いけれども、お前をばお前の王国に返して、お前の母上と臣民の不安を、終りにしてあげたい。そしてそのためには、お前に一番の近道を行かせてあげよう。」
こう言って、老翁《シヤイクー》は唇の間に二本の指をくわえて、長く強い口笛を鳴らしました。するとすぐに彼の前に、四枚の翼を持った大きな魔神《ジンニー》が現われて、爪先で立ち、呼び出されたわけを訊ねました。老翁《シヤイクー》はこれに言って、「おお魔神《ジンニー》『電光』よ、お前はここにいる月の微笑王を肩に乗せて、至急に、『白い都』の御殿に運んでさしあげよ。」すると魔神《ジンニー》電光は、頭を下げながら、二つに身を曲げました。そこで月の微笑は、恩人の老翁《シヤイクー》の手に接吻して、お礼を述べてから、電光の肩に乗り、その胸の上に両足を垂れながら、首にしがみつきました。と、魔神《ジンニー》は空中に舞い上がり、伝書鳩の速さで、翔りました、翼で風車のような響きを立てながら。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十八夜になると[#「けれども第五百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして魔神《ジンニー》は、倦まずたゆまず、一日一夜旅をして、こうして、六カ月の道程《みちのり》を走ってしまいました。そして「白い都」の上に着くと、月の微笑を、ちょうどその宮殿の露台に下ろしました。それから魔神《ジンニー》は姿を消してしまいました。
月の微笑は、故郷の微風の息吹きに当って心和らぎ、いそいで母君のいる部屋に下りました。母君柘榴の花は、彼が行方不明になってからというもの、ただ黙って泣いて、魂の中でひそかに喪に服し、うっかり秘密を洩らして簒奪者どもの気を唆《そそ》らないようにしていたのでした。月の微笑は広間の垂幕《カーテン》を掲げますと、そこにはちょうど、年とった祖母君いなごと、サーリハ王と、従妹《いとこ》たちが、王妃のところを訪れて、来合わせているところでした。そこで彼は、一同に平安を祈りながらはいって、母君の腕に身を投げかけに駈け寄ると、母君はその姿を見て、悦びと感激に、気を失って倒れてしまいました。けれどもやがて正気に返り、わが子を胸にぴったりと抱き締めながら、永いこと泣いて、嗚咽にむせび、その間、従妹《いとこ》たちは足に接吻し、祖母君は一方の手を握り、伯父君サーリハはもう一方の手を握っておりました。こうして一同は、ひと言もいい出すことができずに、無事に戻った悦びのうちにありました。
けれども、やっと口を利いて思いを吐露することができるようになると、一同はこもごも自分のいろいろな出来事を語り、そして自分たち全部に救いと再会を許したもうた恩恵者アッラーを、相共に祝福したのでございました。
それが済むと、月の微笑は母君と祖母君のほうに向いて、言いました、「今となっては、私はただ結婚するばかりです。そして私は飽くまで、サラマンドルの王女宝玉姫以外に、結婚したいとは思いません。それというのも、実際、姫こそはその名の示すとおり、本当の宝玉なのですもの。」すると祖母君は答えました、「それは今となっては、おおわが子よ、やさしいことです。私たちはずっと父親を、その御殿に監禁していますからね。」そしてすぐにサラマンドルを呼びにやりますと、やがて奴隷は手足を縛った王を、部屋に引っ立ててきました。けれども月の微笑は、縛《いまし》めを解くように命じ、命令は直ちに実行されました。
その時、月の微笑はサラマンドルのそばに進み寄って、自分が突発したさまざまの不祥事の、最初の原因となったことを詫びて後、王の手をとって、敬意をこめて接吻して、さて言いました、「おおサラマンドル王よ、ここに御縁組の栄を乞うは、もはや仲人ではございません。私、白い都と地上最大の帝国の王たる、月の微笑本人が、貴殿の手に接吻して、御息女宝玉姫をば、妃に乞う次第であります。もし姫を授けたまわぬとあらば、私は生を終えるでありましょう。またもし御承引あらば、貴殿はひとり再び旧の所領の王となるのみならず、私自身も貴殿の奴隷となるでありましょう。」
この言葉に、サラマンドルは月の微笑に接吻して、彼に申しました、「いかにも、おお月の微笑殿、何ぴとも貴殿にまして、わが娘にふさわしきはありますまい。ところで、娘はわが権威の下に委ねられておりますれば、この御希望を欣然と快諾するでありましょう。さればまず、私が王座より追われて以来、娘が身をひそめている島に、さっそく娘を呼びにやらねばなりませぬ。」そう言って、王は海から一人の使者を呼び寄せ、直ちに姫を島に探しに行って、時を移さず、連れて来るように命じました。使者は姿を消し、程なく宝玉姫と侍女|桃金嬢《てんにんか》と一緒に、戻って参りました。
するとサラマンドル王は、まず最初わが娘に接吻して、次にこれをいなご老女王と柘榴の花王妃に紹介してから、感嘆して見とれている月の微笑を、指さし示しながら、娘に言いました、「知るがよい、おおわが娘よ、わしはこの高邁なる若き王、この猛き獅子月の微笑、海の柘榴の花女王の王子に、そちを約束したのじゃ。何となれば、これこそはまさに当代随一の好男子であり、随一の美貌、随一の権勢、随一の高位名門、衆に遥かにぬきんでた人物である。さればわしは、このお方はそちに打ってつけ、そちはこのお方に打ってつけと思う。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百四十九夜になると[#「けれども第五百四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この父の言葉に、宝玉姫は淑やかに眼を伏せて、答えました、「おお父上様、お考えはわたくしの処世の掟でございます。そしてお父様の懇《ねんごろ》な愛情は、わたくしの悦ぶ日蔭でございます。そしてお父様のお望みがかくとあらば、今後は、お父様のお選び下さった方のお姿は、わが眼のうちにあり、そのお名前はわが口のうちに、そのお住居はわが心のうちにあることでございましょう。」
月の微笑の従妹《いとこ》たちと並みいる貴婦人方は、この言葉を聞くと、一同歓呼の声と鋭いリュ・リュの叫びを、御殿に木魂《こだま》させました。次にサーリハ王と柘榴の花は、すぐに法官《カーデイ》と証人を呼び寄せて、月の微笑王と宝玉姫の結婚契約書を認《したた》めました。そして盛大に婚儀を取り行ない、更衣の儀には、九度び花嫁の衣裳を更えたくらい、豪華に祝いました。その他のことに到りましては、舌はそれを適当に語りおおせる前に、毛だらけになってしまうことでございましょう。されば、美しきものを互いに結び合わせ、ただ幸福を与えるためにのみ、悦びを遅らせたもうアッラーに、栄光あれ。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードはこの物語を語り終えると、口をつぐんだ。すると妹のドニアザードは叫んだ、「おお、お姉様、お言葉は何と心地よく、また優しく、また味わい深いのでございましょう。そしてこの物語は何と見事でございましょうか。」するとシャハリヤール王は言った、「いかにも、おおシャハラザードよ、そちは余の知らぬ幾多の事柄を教えてくれた。というのは、余は今日まで、水中の事柄はよく知らなかった。『海のアブドゥラー』の物語と『柘榴の花』のそれとは、大いに余を満足させた。だが、おおシャハラザードよ、そちは何か全く以って、悪魔めいた物語の心当りはないか。」するとシャハラザードは微笑して、答えた、「ちょうど、おお王様、ひとつ心当りがございますから、すぐにお話し申し上げると致しましょう。」
[#改ページ]
モースルのイスハークの冬の一夜(1)
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは言った。
アル・ラシードのお気に入りの歌手、楽人モースルのイスハークは、次のような逸話をわたくしどもに伝えておりまする。彼は申しました。
或る夜、冬のこと、私は自宅に坐って、戸外《おもて》には、風が獅子のようにうなり、雲は水を満たした革嚢の口をいっぱいに開けたように、騒然と水を注いでいる間、銅の火鉢の上に手をあたためていたが、往来の泥と雨と暗闇のために、外出することもならず、また誰か自分の相手をしてくれる友の来訪を望むこともできないのを、淋しく思っていた。そのうちますます胸が狭まるので、私は奴隷に言いつけた、「暇潰しに、何か食べるものを持ってこい。」そして奴隷が食べ物を出そうと支度していると、そのとき私は少し前に王宮で知った、一人の若い娘の色香を思わずにはいられなかった。何ゆえその娘の思い出が、それほど私に付きまとったのか、またどういうわけで、私の思いが、わが過ぎし夜々を楽しませた数ある女たちのうち誰かの顔をさし措いて、わざわざその娘の顔にとどまったのか、われながらわからなかった。しかも、私はいよいよその好ましい望みが募って行って、しまいには、奴隷が私の前に、敷物の上に食布《スフラ》を拡げ終って、今はただ私の目の合図を待って料理の皿を運んで来るばかりになって、腕を組んで直立してそこに控えているのも、もはや気がつかないほどであった。私は物思いに満ちて、声高《こわだか》に叫んだものだ、「ああ、もしもあの若いサイーダが、あんなに優しい声のあの娘《こ》が、ここにいてくれたら、おれはこんなに憂鬱ではあるまいになあ。」
この言葉を、そうだ、今になって思い出すが、私はこれを大声で言い出したものだ、平生は自分の考えを口に発することなどなかったが。そして、眼を大きく見張る奴隷の前で、こうしてわれとわが声の響きを聞いて、私の驚きはひと方ならぬものであった。
しかるに、私の願いが述べられたと思う間もなく、戸を叩く音が聞えた。さながら待っているのが耐えがたい人とでもいう風だ。そして、若々しい声が呟いた、「愛人はその友の戸を潜ることができましょうか。」
そこで私は、魂の中で考えた、「こいつはきっと、誰か暗がりで、家をまちがえたのにちがいない。それとも、早くも実が成ったのであろうか、わが望みの実らぬ樹に。」ともかく、私はいそいで飛び起きて、自分自身で戸を開けに駈けつけた。すると敷居の上には、あれほど望んだサイーダがいるではないか。だが、何という異様な風態《ふうてい》、何という不思議な様子か。彼女は緑色の絹の短い着物を着て、頭の上には金糸の布を拡げたきりで、それでは雨も防げず、家々の露台の樋《とい》から滴り落ちる雨水も避けることができなかった。それに、道々ずっと泥に漬《つか》ってきたに相違ないことは、足が明らかに証明していた。私は、娘がこんな有様でいるのを見て、思わず叫んだ、「おお御主人よ、なんだってそんな風に戸外《おもて》になぞ出なさるのか、しかもこんな晩に。」彼女は私に言った、その優しい声で、「あら、今しがた、お使いがわたくしのところに見えて伝えなすった御希望の前に、恭々しく身をかがめないでいられましょうか。お使いは、あなたがわたくしをば切にお望みの旨申されたましたので、このひどい天気にもかかわらず、ここに参りました。」
ところで私は、そんな命令を下した覚えは更にないし、またよしんば命令を下したにせよ、たった一人しかいない家の奴隷が、私のそばにいながら同時に、その命令を実行するなど出来っこないとはいうものの、この女友達に、こうしたすべてによってどんなに私の気が顛倒したかを、見せたくはなかったので、私はこれに言った、「おおわが御主人よ、われわれの再会を許したまい、望みの苦さを蜜に変えたもうアッラーに、讃えあれ。願わくは、御光来は家を馨らし、家の主《あるじ》の心を安らかならしむることを。まことに、もしもあなたのお出でなくば、私は自身あなたをお迎えに行ったでしょう。それほど今宵は、わが心はあなたのことに思い煩いました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十夜になると[#「けれども第五百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
次に私は奴隷のほうに向いて、言いつけた、「早く湯と香水を取りに行け。」そして奴隷が言いつけを果たしたので、私は自ら女友達の足を洗《そそ》ぎはじめ、その足に薔薇香水をひと壜注いだ。それが済むと、緑色の絹のモスリン製の美しい着物を着せて、果物と飲み物を盛った盆のそばに、自分と並んで坐らせた。そして彼女が私と共にいくたびか盃を空けると、私は常々何度も乞われせがまれてからでなければ、歌うのを肯《がえん》じないのであるが、その時は友を悦ばせようとて、自分の作った新曲を、これに歌って聞かせようとした。しかるに彼女は、自分の魂は私の歌を聞きたい気がしないと言うのだ。私は言った、「では、おおわが御主人よ、ひとつあなた御自身、何か歌っていただけませんか。」答えて、「なおさらだめ。わたくしの魂が望まないのですもの。」私は、「けれども、おおわが目よ、歌と音楽なくしては、歓びは全きを得まいが。いかがなものかな。」彼女は言った、「ごもっともですわ。けれども今宵は、なぜか、わたくしは、下々《しもじも》の人とか、街頭の乞食とかの歌でもなければ、あまり聞きたい気がいたしませんの。ですからちょっと戸口にいらっして、誰かわたくしの気持を満足させてくれるような人が通らないか、見に行っていただけないかしら。」私は意に逆らうまいと思って、こんな夜に往来を歩いている者などありっこないと信じながらも、入口の戸を開けに行って、少し開いて、そこから頭を出してみた。すると何と驚いたことに、杖にもたれて前の壁に寄りかかりながら、一人の年とった乞食が、独りごとを言っているのが見えた、「何とこの嵐は騒々しいこった。風でおれの声は消し飛んで、人々の耳には一向はいらぬわい。憐れな盲人《めくら》に禍いあれ。歌っても、人には聞かれないし、歌わなければ、餓え死だ。」そう言って、その年とった盲人《めくら》は、自分の道を続けようとして、杖で地面と壁をまさぐりはじめた。
そこで私は、この偶然のめぐり合いに驚くと同時に悦んで、これに言った、「おい小父さん、じゃお前は歌えるのかい。」答えて、「世間じゃ歌えるとされている。」私は、「それじゃ、おお御老人《シヤイクー》、今夜はわれわれと一緒に過ごして、われわれの相手をして、楽しませてくれないか。」答えて言うに、「そういうお望みなら、わしの手を曳いて下され。わしは両方の目が見えぬでな。」そこで私は手を曳いてやって、家のなかに連れてはいり、戸を念入りに閉めて、女友達に言った、「おおわが御主人よ、歌い手を連れてきてあげたが、おまけに盲人《めくら》ですよ。だから、こちらが何をしようと見られずに、楽しみを与えてもらえようというものだ。あなたは気兼ねしたり、顔を蔽ったりする必要はないわけです。」彼女は私に言った、「では、いそいでその人を入れて下さいな。」そこで老人を入れた。
私はまず老人をわれわれの前に坐らせて、何か食べるように招じた。すると老人はたいそう礼儀正しく、指先で食べた。食べ終って手を洗ったとき、こんどは飲み物を勧めた。彼はなみなみと三杯飲んで、さて私に訊ねるのであった、「わしは今どなた様のお屋敷にいるのか伺えますでしょうか。」私は答えた、「モースルのイブラーヒーム(2)の子、イスハークのところだ。」ところが、私の名を聞いてもさして驚かず、ただこう答えるだけであった、「はあ、さようですか。お噂はかねて承わりました。お宅に伺えて嬉しい次第じゃ。」私はこれに言った、「おおわが御主人よ、あなたを拙宅にお迎えできてまことに悦ばしい。」彼は私に言った、「では、おおイスハーク様、おいやでなかったら、ひとつお声を聞かせていただきたいものじゃ、何でも非常な美声と承わりますので。それというのも、まず主《あるじ》からはじめに客をもてなすが、当然でござりましょう。」そこで私は答えた、「仰せ承わり、仰せに従う。」私はこうしたことがたいへん面白くなりはじめたので、そこで私の琵琶《ウーデイ》を取り上げて、自分にできる限りの秘術を尽して、歌いながら、弾奏した。最後に極度に細心の注意をこめて終曲《フイナーレ》を奏し終え、最後の音が散って消えると、年とった乞食は皮肉な微笑を浮べて、私に言うのであった、「まことに、やあイスハーク様、あなたが申し分ない音楽家となり、完全な歌手となるには、もうほんのちょっとというところですな。」ところで私は、むしろ非難とも言うべきこの讃辞を聞くと、自分自身の眼から見て、われとわが身がすっかり小さくなるのを覚え、いまいましくなりまたがっかりして、自分の琵琶《ウーデイ》をかたえに投げ出してしまった。しかし、客人に対して礼を失したくなかったので、返事をするのはまずいと思い、もうそれなり何も言わなかった。すると彼は私に言った、「もう誰も歌いも弾きもして下さらぬかな。それではここには、誰か他の方はいらっしゃいませんかい。」私は言った、「いや、まだひとり若い女奴隷がいる。」彼は言うに、「ではその方《かた》に歌うように命じて下され、聞かせてもらいたいから。」私は、「どうして歌うことがあろう、あなたは今聞いただけで、もうたくさんだろうに。」彼は、「まあとにかく、歌ってもらいたい。」そこで、わが友の乙女は、心に染まぬながら琵琶《ウーデイ》を取り、巧みに前奏を弾いてから、最善を尽して歌った。しかるに年とった乞食は、突如途中で遮って、言うのであった、「これはまだまだよほど勉強せにゃならん。」そこで友はすっかり腹を立てて、琵琶《ウーデイ》を遠くに投げ出し、立ち上がろうとした。私は大骨折って、その膝に取り縋って、やっと引きとめたことであった。それから私は盲目《めくら》の乞食のほうに向き直って、言ってやった、「アッラーにかけて、おお客人よ、われらの魂はその力量以上を出すわけにはゆかぬ。われわれはとにかく、御所望を満たすため、最善を尽したのだ。こんどはあなたが、御自分の造詣を見せて下さる番だ、礼儀として。」乞食は一方の耳から他方の耳まで微笑して、そして私に言った……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十一夜になると[#「けれども第五百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして私に言った、「それじゃ、まず、これまで誰の手も触れたことのない琵琶《ウーデイ》を持ってきて下され。」そこで私は、箱を開けに行って、真新しい琵琶《ウーデイ》を持ってきて、彼の手の間に渡した。彼は削った鵞鳥の羽を指の間にはさんで、それでもって、響きよい絃に軽く触れた。するとその最初の音から、この盲目《めくら》の乞食こそは、当代随一のずばぬけた名人だということが、私にわかった。しかし、私はこれでも世間で決して斯道の素人とは見られていないにもかかわらず、その私の全然知らない旋法で、老人が一曲を弾くのを聞いたときの、私の感動と讃嘆とはいかばかりであったろう。それから、全く他の類のない声でもって、彼は次の対句を歌った。
[#ここから2字下げ]
濃き夜陰を衝きて、愛人は家を出て、夜のさ中、われを訪れ来たれり。
しかしてわれに平安を祈るに先立ち、戸を叩きて言うをわれは聞けり、「愛人はその友の戸を潜《くぐ》るを得べきや。」
[#ここで字下げ終わり]
私とわが女友達は、この年とった盲人《めくら》の歌を聞いたとき、驚愕の極に達して、互いに顔を見合わせてしまった。そのうち友は怒りで真赤になって、私ひとりにだけ聞えるように、言った、「おお不実なお方よ、あなたはほんのちょっと戸を開けに行った間《ま》に、この年とった乞食に、わたくしがお訪ねしたことを告げて、わたくしを裏切りなすったとは、恥かしくお思いになりませんの。本当に、おおイスハーク様、あなたのお胸は、ひと時と秘密をおさめておけないほど、器《うつわ》が小さいとは、存じませんでしたわ。あなたに似たような人たちに、恥辱あれ。」だが私は、自分は秘密を洩らしたことには全然関係がない旨を千度も誓って、彼女に言った、「私はそんなことは、この年とった盲人《めくら》にこれっぽっちも言わなかったことを、わが父イブラーヒームの墓にかけて誓いますよ。」それで、友も私の言葉を信じてくれ、最後には、盲人《めくら》に見られる心配なく、私に愛撫され、抱擁されるにまかせた。そして私は、或いは両頬と唇に接吻したり、或いは擽ったり、或いは乳房を撮《つま》んだり、或いは柔らかな場所を噛んだりした。そして彼女はこの上なく笑いさざめいた。それから私は年とった小父さんのほうに向いて、これに言った、「もっと何か歌っていただけないか、おおわが御主人よ。」彼は言った、「仔細ない。」そして再び琵琶《ウーデイ》を取り上げて、伴奏をつけながら、吟じた。
[#ここから2字下げ]
ああ、われはしきりに、酔い心地もて、愛《いと》しき女《ひと》の色香を愛《め》で、手もて、その美しき裸身の膚《はだえ》を撫づ。
或いは、その若き象牙の胸の柘榴を握り締め、或いは、その頬の林檎をひた齧る。しかして、われはこれを繰り返す。
[#ここで字下げ終わり]
それで私は、この歌を聞くと、もうこの贋《にせ》の盲人《めくら》のいかさまを疑わず、友に面衣《ヴエール》で顔を蔽うように頼んだ。すると乞食は、いきなり私に言うのであった、「どうもたいへん小便に行きたくなったが、休息の小部屋はどこでしょうか。」そこで私は立ち上がって、ちょっと室を出て、明るくしてやるため蝋燭を取りに行き、連れて行こうと思って戻ってきた。ところがはいってみると、もう誰もいない。盲人《めくら》も乙女もろとも、消え失せてしまっていたのだ。そこで私は、茫然自失の有様からわれに返ると、家じゅう探してみたが、二人の姿は見当らぬ。それなのに、すべての扉と扉の錠は内側から閉っていて、かくて二人が出て行ったのは、いったい天井から出たのか、それとも、地面を開いてまた閉めて、地中にはいったのか、わからない始末であった。さりながら、その後私の確信したところでは、これはどうも魔王《イブリース》自身が、最初は仲立ちを勤めて、次には乙女を攫《さら》って行ってしまったのであり、あの乙女は、実は空しい見せかけだけの幻にすぎなかったのだと、思う次第である。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは、この逸話を語り終えると、口をつぐんだ。シャハリヤール王は非常に深い感銘を覚えて、叫んだ、「アッラーは悪魔を取りひしぎたまわんことを。」するとシャハラザードは、王が眉をひそめるのを見て、その心を鎮めようと思い、次の物語を語ったのであった。
[#改ページ]
エジプトの百姓《フエラーハ》とその色白の子供たち
以下は、カイロの太守、貴族《アミール》ムハンマドが、年代記の書のなかで述べていらっしゃることでございます。公は申されました。
余が上《かみ》エジプトを巡視していたおり、一夜、その場所の村長《シヤイクー・アル・バラート》(1)をしている、百姓《フエラーハ》(2)の家に泊った。それは甚だしく浅黒い色の顔色で、半白の鬚を持った、年寄りであった。ところが、彼には色の白い幼い子供たちがいて、しかも両頬には薔薇色が差すほどたいへん色白で、金髪碧眼を持っているのを、余は認めた。そのうち、われわれを十分にもてなし非常な馳走をしてのち、彼はわれわれと共に語らいに来たので、余はこれに質問するつもりで、言った、「おや、何某よ、お前はそのように浅黒い顔色をしているのに、息子たちはかくも色淡く、皮膚はかくも白く薔薇色であり、眼と髪の毛はかくも色淡いのは、いったいどうしてなのか。」するとその百姓《フエラーハ》は、子供たちをわが方に引きよせて、その細い髪の毛を撫でてやりはじめ、余に言った、「おおわが御主人様、私の子供たちの母親は、欧州人《フランク》の娘でございまして、ハッティーンの戦いのあと、勝利王サラッディーン(3)の御代に、戦争捕虜として私の買いとった女でした。あのエルサレムの王国を横領した外国のキリスト教徒どもから、私たちを永久に解放してくれた戦いでございます。けれども、それはもうずっと昔のこと、何せ私の若かりし日々のことでしたから。」そこで余はこれに言った、「されば、おお村長《シヤイクー》よ、どうか特別をもって、われらにその物語を聞かせてくれるよう乞う次第じゃ。」百姓《フエラーハ》は言った、「親しみこめ心から悦んで、そして客人への当然の敬意として。それと申しますのは、私と欧州人《フランク》の娘の家内との事件は、まことに変っておりますれば。」そして彼はわれわれに語ったのであった。
私の職業は亜麻《あま》作りであることを、皆様御承知下さらねばなりません。私の父も祖父も、私より前に亜麻の種を蒔いておりまして、私は先祖代々、ねっから、この国の百姓《フエラーハ》の間の一人の百姓《フエラーハ》でございまする。さてある年、祝福によりまして、種を蒔き、育ち、きれいにし、すっかり出来上がった私の亜麻は、金貨五百ディナールの値打に達するということになりました。そして私がそれを市場に出したが、いっこう利益をあげられないでいると、商人たちは私に申しました、「あんたの亜麻は、シリアのアッカーのお城に持って行きなされ、えらい儲けで売れますぜ。」そこで私は、その人たちの言葉に従って、自分の亜麻を持って、アッカーの町に出かけましたが、その頃、この町は欧州人《フランク》の手中にありました(4)。するとなるほど、私はまず亜麻の半分を、六カ月の信用貸で、仲買人たちに譲って、幸先のよい商売を始めました。それで残りは自分の手許において、町に逗留し、これを小売りすることにして、莫大な儲けをあげました。
さて、ある日私が自分の亜麻を売っておりますと、一人の若い欧州《フランク》娘が、欧州《フランク》女の習わしに従って、顔を露わし頭に面衣《ヴエール》をかぶらずに、私のところに買いにやってきました。そして娘は私の前に、美しく、色白く、かわいらしく立っており、私はその魅力とみずみずしさを、存分に眺め入ることができました。その顔を見れば見るほど、ますます恋心が私の分別を襲ってくるのでした。私は娘に亜麻を売るのにたいへん暇どってしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十二夜になると[#「けれども第五百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
やっと私は束《たば》を作って、それをばたいそう安く譲ってやりました。そして娘は私にじっと見送られながら、立ち去りました。
さて四、五日あとに、娘はまた亜麻を買いにやってきましたので、私は値切られるまでもなく、最初の時よりももっと安く売ってやりました。それで娘のほうも私が惚れていることがわかって、立ち去りましたが、しかしそれからほどなくして、一人のお婆さんを連れて、またやってきました。その婆さんは買物の間そばにいて、それからは娘が買物をする必要があるたびに、一緒にやってくるのでした。
そこで私は、もう恋心が私の心をすっかり捕えてしまっていたので、このお婆さんをわきへ連れて行って、これに言いました、「さてね、お前さんに進物をさしあげれば、あの女《ひと》との一席の楽しみを、手に入れさせてもらえるだろうかね。」婆さんは答えました、「私ゃ会合の機会を作って、あなたに楽しませてあげることもできるだろうが、しかし、事は私たち三人、私とあなたとあの女《ひと》との間だけで、外に洩れないという条件でなければね。そのうえ、いくらかお金を使うことを承知して下さいよ。」私は答えました、「おお救いの小母よ、もしも私の魂と命が、あの女《ひと》の恵みの代金でなければならないというなら、私は自分の魂と命を差し上げるだろうよ。だがお金の件についちゃ、これはたいしたことじゃない。」そして私は、仲立の手数料として、五十ディナールの額を進呈することに話がついて、即座に婆さんにその金額を数えました。事がこのようにきまると、お婆さんは私と別れて娘に話しに行き、やがて色よい返事を持って戻ってきました。次に私に言いました、「おおわが御主人様、あの娘さんにはこうした逢曳きの場所がないのです。何しろまだ処女の身なもので、この種のことは何も御承知ないのだから。だからあなたはあの女《ひと》を、あなたのお宅に迎えて下さらなければいけない。あの女《ひと》はお宅に訪ねて行って、朝までいなさるでしょう。」私は二つ返事で承知して、御馳走や飲み物や菓子など、入用なもの全部を揃えに、自宅に出かけました。そしてじっと待っておりました。
やがて欧州《フランク》女の若い娘が来るのが見えましたので、私は戸を開けて、私の家に入れました。折から夏の季節だったので、私は全部を露台の上に揃えました。そして娘を自分のそばに坐らせ、一緒に食べて飲みました。私の住んでいた家は、海のほとりでした。そして露台は月の光を浴びて美しく、夜は満天の星で、それが水に映っておりました。私はこうしたすべてを見て、わが身を省み、魂のなかで考えました、「お前はここにこうして異国の土地で、空の下と海に向き合って、アッラーの御前で恥かしくないのか、お前の種族でも、お前の掟《おきて》でもない、このキリスト教徒の女と姦淫の罪を犯して、讃められたもう御方《おんかた》に叛き奉るとは。」そして私は、なまめかしくぴったり寄り添ってうずくまっている若い娘のそばに、今はもう横になっていたにもかかわらず、私は自分の心中で言いました、「主《しゆ》よ、称揚と真理の神よ、私は全く清らかに身を保って、この欧州人《フランク》の娘、キリスト教徒の女とは何もいたしませぬことを照覧あれ。」こう考えまして、私は手で触れることもなく、若い娘に背を向けました。そして空の情けぶかい明るさの下に、眠ったのでございます。
朝になると、若い欧州《フランク》娘は、私にひと言も言わずに立ち上がり、すっかり機嫌を悪くして、行ってしまいました。それで私は自分の店に出かけて、またいつものように亜麻を売りはじめました。けれども、お昼頃に、その若い娘はお婆さんを連れて、怒った顔つきをしながら、私の店の前をふと通りかかりました。すると私はまたもや、心から、もう死なんばかりに、この娘が欲しくなりました。それというのは、アッラーにかけて、娘は月のようでしたから。それで私は誘惑にさからいきれなくなって、自分を叱りつけながら、考えました、「いったいお前は何者だ、おお百姓《フエラーハ》よ、こんな別嬪への欲念をそんな風に抑えるとは。さあさあ、お前はいったい苦行者か、それともスーフィー派禁欲僧か、宦官か、去勢者か、それともまた、バグダードかペルシアあたりの意気地なし男の一人なのか。お前は上エジプトの有力な百姓《フエラーハ》種族の者ではないのか、それともお前の母親はお前に乳を飲ませるのを忘れたのかな。」それ以上考えるまでもなく、私はお婆さんの後を追って、わきに引っ張って行って、これに言いました、「ぜひもう一度会わせてもらいたいが。」婆さんは言いました、「救世主《メシア》にかけて、事は今では百ディナールかけなくてはできませんよ。」私は即刻、その金貨百ディナールを数えて、それをば婆さんに渡しました。そして若い欧州《フランク》女は再び私のところにまいりました。ところが私は、裸の空の美しさの前で、また同じためらいを抱いて、今度の新しい出会いも、最初のときと同じように利用せず、全く清らかに身を保って、別嬪と何もいたしませんでした。娘は口惜しさやる方なく、私のそばから立ち上がり、外に出て、行ってしまいました。
ところが私は、明くる日には、またもや、その娘が店の前を通って行きますと、自分のなかに同じ気持の動きを感じて、心臓が鼓動し、そして私はお婆さんに会いに行って、そのことを話しました。けれども婆さんは腹立たしげに私を見つめて、言いました、「救世主《メシア》にかけて、おお回教徒《ムスリムーン》よ、あなたの宗教ではあんな風に処女を取り扱うのですか。もう今後あなたは決してあの娘を楽しむことはできますまいよ。もっとも、こんどは私に五百ディナール下さるというなら、話は別ですがね。」
そこで私は、感動に身を顫わし、恋の焔を心中に燃やしつつ、自分の亜麻全部の代金を寄せ集めて、自分の一命のために、その金貨五百ディナールを犠牲にしようと決心しました。そしてその金をしっかりと布に包んで、いよいよそれをお婆さんに持ってゆこうとしかけると、そのとき突然……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十三夜になると[#「けれども第五百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そのとき突然、触れ役人の叫ぶのが聞えました、「おーい、回教徒《ムスリムーン》の連中よ、汝らの用務でわれらの都に止まる汝らよ、われらが汝らと結んだ平和と休戦の期限は終了したものと知れ。汝らの用務を始末し、われらの都を退去して、汝らの国に帰国するため、汝らには一週間が与えられているぞよ。」
そのとき私は、この警告を聞いて、手許に残っている亜麻をいそいで売り払い、掛売りにしておいた分から私にはいるべき金を集め、私どもの国々と王国で売るに向いている商品類を買い、そしてアッカーの町を立ちのきながら、私の心と思いを捕えたあのキリスト教徒の娘に対する千々《ちぢ》の悩みと名残惜しさを、胸の中に持って、出発いたしました。
さて、私はシリアのダマスに行き、そこでアッカーの商品を売りましたが、何しろ戦争再開で交通途絶したため、たいへんな儲けと利益をあげました。そして私は非常に有利な商業取引をいろいろして、アッラーのお助けをもって(その讃えられんことを)、私の手の間では万事上々でした。このようにして私は、戦争でつかまった捕虜のキリスト教徒娘の手広い商売を、たいへんな利益をあげてすることができました。そして私のアッカーの恋愛事件以来、こうして三年の月日が経ち、若い欧州《フランク》娘との突然の別れの苦しみも、次第に心中で和らぎはじめたのでした。
われわれ味方の軍につきましては、われわれはエルサレムの国においても、シリアの国々においても、欧州人《フランク》に対して大勝利を博しつづけました。そしてアッラーのお助けをもって、帝王《スルターン》サラッディーンは、数々の華々しい戦勝ののち、ついに完全に欧州人《フランク》とあらゆる不信の徒を征服なさいまして、彼らの占領していた海岸地方(5)の町全部を奪い、全国を平定なさった後で、捕えた王たちと大将たちを、捕虜としてダマスに連れてゆかれました。アッラーに栄光あれ。
そうしているうちに、私はある日、売り物のたいそう美しい女奴隷を一人連れて、まだ帝王《スルターン》サラッディーンが野営をしていなすった天幕《テント》の下にまいりました。そしてその女奴隷をお目にかけますと、お買いあげになりたいお望みでした。私はこれをたった百ディナールでお譲り申しました。ところが帝王《スルターン》サラッディーンは(アッラーはこの帝に御慈悲を垂れたまわんことを)、お手許に九十ディナールしかお持ち合わせがなかったのでした。それというのは、帝は異教の徒との戦いを首尾よく成し遂げるために、国庫のお金を残らず使い果たしていられたからです。すると帝王《スルターン》サラッディーンは、衛兵の一人のほうにお向きになって、お命じになりました、「行って、この商人を、最近の交戦の際捕虜とした娘を集めてある天幕《テント》の下に、案内いたせ。そして余の借りておる十ディナールの埋め合わせに、その娘たちの中から、この者のいちばん気に入る娘を選ばせるように。」帝王《スルターン》サラッディーンは、公正の御気性から、いつもこのように振舞いなされたのでございました。
衛兵はそこで欧州《フランク》女の捕虜の天幕の下に、私を連れてゆきましたが、私はそれらの娘のまん中を通っているうち、ちょうど私の視線のぶつかった最初の女に、アッカーであんなに惚れこんだ若い欧州《フランク》娘を認めたのでありました。その女はその後、欧州人《フランク》のある騎兵隊長の妻になっていたのでした。そこで私は、その女とわかると、これをもらい受けるため、この女を両手で抱えて言いました、「私の欲しいのはこの女です。」そして彼女を連れて、立ち去りました。
そこで、女を自分の天幕の下にともなった上で、私はこれに言いました、「おお若い婦人よ、お前は私がわからないかね。」女は私に答えました、「いいえ、わかりません。」私はこれに言いました、「私はお前の友達だよ。アッカーでお前が二度家に来たことのある、まさにあの男さ、お婆さんの骨折りで、最初は五十ディナール出し、二度目は百ディナール出してね。そして全く清らかに身を保って、お前と何もせず、お前をすっかり不機嫌にして、家から出てゆかせた男だ。しかもその男は、三度目には、五百ディナールでお前を一夜手に入れたいと思ったのだ。それなのに今は、帝王《スルターン》は十ディナールで、お前をその男に下さるというわけだ。」女は頭を垂れましたが、やがて突然頭をもたげて、言うのでした、「起ったことは、今後は回教《イスラム》の神秘です。というのは、私は指を挙げて、証言いたします、アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒であることを。」この女はこうして正式にわれわれの信仰の証言を行ない、即刻|回教《イスラム》によって高尚になったのであります。
そこで私は私で、考えました、「アッラーにかけて、おれは今度は、この女を自由の身にして合法的にこれと結婚した上でなければ、この女のなかに分け入るまい。」そして私は即刻|法官《カーデイ》イブン・シェッダード(6)様に会いに行って、一切の事情を知らせますと、法官《カーデイ》は証人たちと一緒に、私の結婚契約書を認《したた》めに、私の天幕《テント》の下に来て下さいました。
そこで私はこの女のなかに分け入りますと、女は私によって身籠りました。そして私たちはダマスに住居を定めました。
こうして数カ月過ぎますと、そのときダマスに、両国の王の間で取りきめられた条項に従って、戦争捕虜交換を求めるため、帝王《スルターン》サラッディーンの許に派せられた、欧州人《フランク》の王の使節が到着しました。そして男女の捕虜全部が回教徒の捕虜と交換に、正確に欧州人《フランク》側に返されました。ところが、欧州《フランク》使節が名簿に当って見ると、総数の中で、騎士某の妻がまだ不足していることが判明しましたが、それこそ私の妻の最初の夫でした。そこで帝王《スルターン》はこれを探しに八方に警吏を出しなさると、最後にその女は私の家にいると知れました。それで警吏たちは、私に女を要求しに来ました。私はもうすっかり色を変えて、泣きながら家内に会いに行って、事を知らせました。けれども家内は立ち上がって、私に言いました、「とにかく私を帝王《スルターン》の御前に連れて行って下さい。私は御手《おんて》の間で申し上げるべきことを知っております。」そこで私は家内を連れて、帝王《スルターン》サラッディーンの御前に、面衣《ヴエール》をつけた家内を案内しました。欧州人《フランク》の使節は帝の右手に、おそばに坐っておりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十四夜になると[#「けれども第五百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから、私は帝王《スルターン》サラッディーンの御手の間の床に接吻して、申し上げました、「これが問題の女でございます。」すると帝は私の家内のほうをお向きになって、おっしゃいました、「その方、いかなる申し分ありや。使節と共にその方の故国にゆくを望むか、それともその方の夫と共にとどまるを選ぶか。」家内は答えました、「わたくしはわが夫と共にとどまります。なぜなら、わたくしは回教徒で、夫の種を宿しており、わたくしの魂の平安は欧州人《フランク》のところにはございません。」すると帝王《スルターン》は使節のほうをお向きになって、おっしゃいました、「お聞きでござるか。されど、お望みとあらば、御自身この女にお話しあれ。」すると欧州人《フランク》の使節は私の家内に意見と説諭をして、最後に申しました、「その方は夫の回教徒と共にとどまるか、それとも欧州人《フランク》、騎兵隊長某の許に戻るか、いずれを選ぶか。」家内は答えました、「わたくしは夫のエジプト人とは別れません。なぜなら、わたくしの魂の平安は回教徒たちのところにございますから。」すると使節はたいへん癪にさわって、足を踏み鳴らして、私に言いました、「ではこの女を連れて行け。」それで私は家内の手をとって、一緒に法廷を出ました。すると突然、使節は私たちを呼び返して、私に言いました、「お前の妻の母親で、アッカーに住んでおられた年老いた欧州人《フランク》が、娘にと言って、ここにあるこの包みを私に渡しなされた。」そして私にその包みを渡して、つけ加えました、「そしてその御婦人は、達者な身の娘に再会したいと、どうか娘に伝えてくれるよう私にお頼みになった。」そこで私はその包みを受けとって、家内と一緒に帰宅しました。私どもがその包みを開けてみますと、そこには家内がアッカーで着ていた着物と、そのうえ、私が与えた最初の五十ディナールと、二度目に会ったときの別の百ディナールとが、私自身ハンケチにくるんで結んだ結び目もそのままに、はいっていたのでした。そこで私はそれによって、私の清らかに身を守ったことがもたらした祝福を認めて、これをアッラーに感謝いたしました。
その後、私は回教徒となった欧州《フランク》女である家内を、エジプトの、ちょうどこの場所に、連れて来ました。この女こそ、おお、お客様方、私をば、彼らの創造主を祝福するこれらの色白の子供たちの、父親としてくれたのでございます。そして今日まで、私どもは最初に自分たちの焼いたとおりの私どものパンを食べながら、仲よく結ばれて暮してまいりました。これが私の身の上話でございます。けれどもアッラーはさらに多くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは、この逸話を語りおえると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は言った、「なんとその百姓《フエラーハ》は仕合せな身か、シャハラザードよ。」するとシャハラザードは言った、「さようでございます、おお王様、けれどもたしかにこの百姓《フエラーハ》は、海の猿と教王《カリフ》を相手にした貧乏カリーフが仕合せだったよりも、仕合せとはまいりません。」するとシャハリヤール王は訊ねた、「その貧乏カリーフの物語[#「貧乏カリーフの物語」はゴシック体]とは、いったい何か。」シャハラザードは答えた、「ではすぐにそれをお話し申し上げましょう。」
[#改ページ]
貧乏カリーフの物語
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは言った。
おお幸多き王様、わたくしの聞き及びましたところでは、時の古《いにしえ》と時代時世の過ぎし世に、バグダードの都に、漁師を生業《なりわい》として、カリーフと呼ばれる一人の男がおりました。そしてこれはまことに貧しく、不仕合せで、無一物でありましたので、結婚するに入用な銅銭何枚かを集めることもついに叶わず、こうして、貧乏人中の一番の貧乏人たちさえ妻子があったのに、この男ばかりは独身のままでございました。
さてある日、彼はいつものように、自分の網を背にしょって、ほかの漁師たちの来る前に、早朝に網を打とうと、水のほとりに来ました。けれどもつづけさまに十回、網を打ったが、全然何もかかりません。それで彼のいまいましさは、最初この上なく、胸は狭まり、心は思いまどいました。そして絶望に捕われて、川辺に坐りました。しかし結局自分の悪念を静めて、彼は言いました、「どうかアッラーは私のむかっ腹をお許し下さいますように。アッラーのほかに頼りはない。アッラーはその被造物たちに日々の糧《かて》を供給して下さり、その与えたもうものは、誰もそれをわれわれから奪うことはできず、その拒みたもうものは、誰もそれをわれわれに与えることはできない。だからよい日も悪い日も、来るがままに受けとって、不仕合せに対しては、辛抱でいっぱいになった胸を用意するとしよう。なぜなら、不運というやつは、辛抱強い手当によらないことには、潰れもせず消えもしない腫物《はれもの》みたいなものだからな。」
漁師カリーフはこうした言葉で自分の魂を力づけると、勇ましく再び立ち上がって、両袖を捲《まく》りあげ、帯を締めなおし、衣をたくしあげて、網をば腕の力の及ぶかぎり遠く、水中に投げまして、たっぷり待ちました。その後で、紐をたぐり寄せ、それを力いっぱい引っぱりました。けれども網はとても重く、破らないように引き寄せるには、非常な用心を重ねなければならないほどでした。彼は大切に扱って、やっと首尾よく成功し、網を自分の前に置いて、胸を躍らせながら、開けてみました。しかしそこには、片目で片輪の大猿一匹しか見当りませんでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十五夜になると[#「けれども第五百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これを見ると、不仕合せなカリーフは叫びました、「アッラーのほかには力も権力もない。まことにわれわれはアッラーに属して、そのほうへと戻ることだろう。だが今日は、何という宿命がおれを追っかけるのか。この災難な不運と災厄の運勢とは、いったいどういう意味かなあ。この祝福された日に、おれの身に何ごとが起きるというのか。だがこうしたすべては、アッラー(その称えられんことを)によって記《しる》されているのだ。」こう言って、彼はその猿をつかまえ、河岸に生えている木に、紐で結《ゆわ》えつけました。それから、持ち合わせていた鞭《むち》をつかんで、空中に振りあげ、その猿に飛びかかってしたたか打ち据えて、こうして腹いせをしようと思いました。ところが突然、その猿はアッラーのお助けを得て、舌を動かし、雄弁な話しぶりで、カリーフに言いました、「おおカリーフさん、お手をとめなされ、私を打ちなさるな。それよりか、私をこのままこの木に縛りつけておいて、アッラーを信頼しながら、もう一度水中に網を打ちにいらっしゃい、アッラーはあなたに今日のあなたのパンを下さいますでしょう。」
カリーフはこの片目で片輪の猿の言葉を聞くと、その威《おど》かしの動作をやめて、水のほうにゆき、網を投げ入れて、網を水上に漂わせました。そして紐を手ぐりよせようとすると、網は前よりももっとずっと重いのでした。けれどもゆっくりと注意ぶかく操って、首尾よく河岸に網を引きよせますと、どうでしょう。中には第二の猿が一匹かかっているのですが、こんどは片目でも片輪でもなく、たいへん美しいやつで、眼は瞼墨《コフル》で長く描き、爪は指甲花《ヘンナ》で染め、歯は白く、程よい間隔を置いて生え、尻は薔薇色で、ほかの猿の尻みたいに毒々しい色ではありません。胴には見た目にたいそう快い赤と青の着物を、ぴったりと着け、手首と踝《くるぶし》には金の飾りをつけ、耳には金の耳輪をつけています。そしてその猿は漁師を眺めながら笑いを浮かべ、目ばたきして合図をし、舌を鳴らすのでした。
これを見ると、カリーフは叫びました、「こいつは今日は猿の日だわい。水中の魚を猿に変えなさったアッラーに、称讃あれ。おれはせっかくここまで来て、こんな漁をするだけとは。おお、松脂の日よ、これが今日の始まりだ。お前は、第一ページを読んだときには、もう内容《なかみ》が知れる本みたいなものだ。だがこうしたすべてがおれに起ったもとはといえば、ただ、最初の猿めの忠告のためだ。」そしてこう言いながら、彼は木に結びつけた片目の猿のほうに駈けてゆき、猿の上に鞭を振りあげて、まず三度空中にぐるぐる廻しながら、叫びました、「見ろ、おお凶兆の顔よ、きさまの与えた忠告の結果、おれがどんなことになったか。きさまの言うことを聞いて、きさまのめっかちの目と不恰好な姿を眺めることで、おれの一日を始めたばっかりに、おれは今では、疲れと飢えに死ぬ目に会わされる羽目になったぞ。」そして彼は猿の背中を鞭でひっぱたいて、もう一度打とうとすると、そのとき猿は彼に叫びかけました、「おおカリーフさん、私をなぐるよりか、まず私の仲間の、あなたが河から引きあげたあの猿に、話しにいらっしゃるがよい。なぜって、おおカリーフさんや、あなたが私に加えたいと思っている罰なんぞは、あなたに何の役にも立ちはしない、反対だ。まあ私の言うことをお聞きなさい、あなたの身のためですよ。」そこでカリーフはたいへん思いまどって、片目の猿を放し、二番目の猿のそばに戻ると、そいつは全部の歯を見せて笑いながら、彼の来るのを見ていました。彼はその猿に向ってどなりました、「やい、きさま、おお松脂の顔よ、いったいきさまは何者だ。」すると、明眸の猿は答えました、「何だと、おおカリーフよ。じゃ私がわからないのかね。」彼は言いました、「わからんよ、お前なんか知っちゃいない。早く言え、さもないと、この鞭がお前の尻《けつ》の上に下りてゆくぞ。」猿は答えました、「そんな言葉は、おおカリーフよ、礼にかなわないね。お前は別な口の利き方をして、私の答えをよく覚えておくほうが、ずっとよかろうよ。それはお前を金持にしてあげるだろうからね。」するとカリーフは鞭を遠くに投げ棄てて、猿に言いました、「謹んでお言葉を承わりましょう、おお猿の殿様、あらゆる猿の王様よ。」すると相手は言いました、「では聞くがよい、おおカリーフよ、私は主人のユダヤ人の両替屋、アブー・サアーダ(1)の持ち物で、あの人の商売での幸運と成功は、ひとえにこの私のおかげによるのだ。」カリーフは訊ねました、「どうしてそんなことになったのですか。」猿は答えました、「ほかでもない、朝、顔を見る最初の人が私であり、夜、寝る前に別れを告げる最後の人が私であるという、ただそれだけのためだよ。」この言葉に、カリーフは叫びました、「それじゃ、猿の顔みたいに災厄が多いという、あの諺は本当じゃないのかな……。」それから彼は片目の猿のほうに向いて、叫びかけました、「お前、聞いたろうな。今朝きさまの顔は、おれにくたびれとがっかりしか持ってきはしなかったぞ。ここにいるきさまの兄弟とは、わけがちがうな。」けれども明眸の猿は言いました、「私の兄弟はそっとしておきなさい、おおカリーフよ、そして今は、私の言うことをよく聞くがよい。まず初めに、私の言葉の本当なことを試すため、お前の網へくっついている紐の先に、私をくくりつけて、もう一度網を河に投げてごらん。そうすれば、私がお前に仕合せをもたらすかどうかわかるだろう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十六夜になると[#「けれども第五百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでカリーフは、猿の勧めたとおりにして、網を打ってみると、一匹のすばらしい魚がかかりました。羊ほども大きく、二個のディナール金貨のような目を持ち、金剛石のような鱗です。それで漁師は、まるで全地とその付属物の主人になったみたいに大得意で、それを明眸の猿のところに、意気揚々と持ってゆきますと、猿は言いました、「わかったろう。さて今度は、新しいいい草をとってきて、それをお前の籠の底へ敷き、その上にこの魚を置いて、全部をまた別な草をならべて蔽い、それからわれわれ二匹の猿を、この木に結《いわ》きつけたまま残して、籠を肩に担いで、バグダードの町に持ってゆくのだ。もし通りすがりの人々が、何を持っているのかと訊ねても、ひと言も答えてはいけない。そして両替屋の市場《スーク》にはいってゆくと、市場《スーク》のまん中に、私の主人のユダヤ人アブー・サアーダ、両替屋の親方《シヤイクー》の店がある。彼はうしろに座褥《クツシヨン》をあてがって、長椅子《デイワーン》の上に坐っていて、その前には、一つは金貨を入れ、今一つは銀貨を入れる、二つの銭箱があるだろう。そして彼の店には、若い小僧や、奴隷や、召使や、使用人が、たくさんいるだろう。そこでお前は、彼のそばに進み寄って、その前に魚の籠を下ろして、こう言うのだ、『おおアブー・サアーダさん、これをごらんなさい。私は今日漁に出かけて、あなたのお名前で網を打ったところが、アッラーはこの籠のなかにあるこの魚を、送って下さいました。』そして魚の被いをそっととって見せなさい。すると彼はお前に聞くだろう、『お前は前に、これを私以外の人に売りつけようとしたかね。』そしたら言いなさい、『いいえ、アッラーにかけて。』すると彼は魚を受けとって、代金として一ディナール差し出すだろう。しかしそれは突っ返しなさい。彼は二ディナール差し出すだろうが、やはり突っ返す。そして彼が差し出すごとに、いちいち突っぱねるのだ、たとえ魚の目方だけの金貨を出すといってもね。つまり彼からは何も受けとってはいけない、これが肝心だ。すると彼は言い出すだろう、『では、お前の望みを言ってごらん。』そこでお前はこう答える、『アッラーにかけて、私はふた言と引き代えでなければ、この魚を売りません。』そしてもし彼が『そのふた言というのは何だね』と聞いたら、お前は答えるのだ、『両足の上に立ち上がって、こう言って下さい、おお市場《スーク》においでの皆様御一同よ、私は漁師カリーフの猿を私の猿と取り代え、私の運を彼の運と、私の幸運の分け前を彼の幸運の分け前と交換することを同意しますから、その証人になっていただきたい』と。そしてお前は、アブー・サアーダに向って付け加えて言う、『これが私の魚の値段です。というのは、私は金貨などはいらない。私はそんなものの匂いも、味も、御利益《ごりやく》も知りはしません。』こういうように話すのだ、おおカリーフよ。それでもしユダヤ人がこの取引を承知すれば、この私はお前の持ち物になるわけだから、毎日朝早く、私はお前にお早うと言い、毎夜おやすみと言ってあげる、こうやって、私はお前に仕合せをもたらし、お前は一日に百ディナールを儲けるだろう。一方ユダヤ人アブー・サアーダのほうは、毎朝自分の一日を、この片目で片輪の猿を見ることで始め、毎晩同じ姿を見るだろう。そしてアッラーは彼に毎日新たな取り立てとか、苦役《くえき》とか、虐待とかで、苦しめなさるだろう。こうしてしばらくたつと、彼は破産してしまい、手の間にはもう無一物となって、乞食の身に成りさがることだろう。だからよいか、おおカリーフよ、今私の言ったことをよく覚えておけよ。そうすればお前は栄えてゆき、仕合せに直行する道に踏み入るであろう。」
漁師カリーフは猿のこの話を聞くと、彼は答えました、「お勧めに従います、おお一切の猿の王よ。けれどもするとこの災いの目っかちめは、どうしたらいいでしょう。このまま木に結《いわ》いつけておきますか。こいつについては、私は始末に困っているのです。どうかアッラーはこいつをけっして祝福なさらないように。」猿は答えました、「いっそこいつは放して、水に帰してやりなさい。私も同様に放しなさい。そのほうがよい。」漁師は答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」そして彼は片目で片輪の猿に近づいて、木から放してやり、また忠告した猿も自由の身にしました。するとすぐにふた跳び跳んで、二匹の猿は水に入り、深くもぐって、姿を消してしまいました。
そこでカリーフは魚をとりあげ、よく洗って、籠の中の緑のみずみずしい草の上に置き、同じようにそれを草で蔽って、全部を肩にかつぎ、声張りあげて歌いながら、町へと出かけました。
彼が市場《スーク》にはいると、人々と通行人たちは漁師とわかって、いつも彼と冗談を言っていることとて、そこで訊ねはじめました、「何を持ってるんだい、おおカリーフよ。」けれども彼はこれには答えず、見向きもせず、道々ずっとそうでした。こうして両替屋の市場《スーク》に着くと、一軒一軒店を辿って、とうとうユダヤ人の店まで行き着きました。そしてユダヤ人その人が、店のまん中に長椅子《デイワーン》の上にでんと坐り、あらゆる年齢とあらゆる肌色の大勢の召使に、鞠躬如《きつきゆうじよ》と侍《かしず》かれているのを見ました。こうして彼は、さながらホラーサーンの王様のような風でした。カリーフは、間違いなく相手がユダヤ人その人であることを確かめてから、その手の間まで進み出て、立ち止りました。するとユダヤ人は彼のほうに顔をあげ、漁師とわかると、これに言いました、「安らぎとくつろぎとあれ、おおカリーフよ。よく来たな……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十七夜になると[#「けれども第五百五十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……よく来たな。してどういう用か、何が望みか、言うがよい。もしや誰かがふとお前にひどいことを言ったとか、お前の気を悪くしたとか、突きとばしたとかいうのなら、さっそく私にそう言いなさい。一緒に御奉行《ワーリー》のところに行って、お前の受けた迷惑なり損害なりの償いを請求してあげるから。」彼はこれに答えました、「いいえ、旦那の頭の生命《いのち》にかけて、おおユダヤ人のお頭《かしら》で、彼らの冠よ、誰も私にひどいことなど言いもしなければ、気も悪くもさせず、突きとばしもしません、そんなことは全くありません。私は今日自分の家を出て、河岸に行き、あなたの運勢とあなたのお名前で、川に網を打ちました。そして網を引き寄せてみると、中にこんな魚がかかっていたのです。」こう言いながら、籠を開けて、魚をその草の床《とこ》からそっと引き出して、ユダヤの両替屋に、見てくれとばかり差し出しました。ユダヤ人はこの魚を見ると、見事なものと思い、叫びました、「モーゼの五書と十戒にかけて、実はね、おお漁師よ、私は昨晩眠っていたところ、夢に聖処女マリア様が現われて、私に、『おおアブー・サアーダよ、明日お前に私からの贈物があるぞよ』とお告げなさったのだ。ところで、この魚こそ、一点の疑いなく、その贈物にちがいない。」次に言い添えました、「お前の宗教にかけて、言うがよい、おおカリーフよ、お前はこの魚を今までに、私以外の誰かに見せるとか、売りつけたりしたかね。」カリーフはこれに答えました、「いや、アッラーにかけて、私はそれを真実なるアブー・バクル(2)の御命《おんいのち》にかけて誓います、おおユダヤ人のお頭《かしら》で、彼らの冠よ、あなた以外誰一人まだこの魚を見てはいません。」するとユダヤ人は奴隷少年の一人のほうを向いて、言いつけました、「お前、ここにおいで。この魚を持って、家に届け、娘のサアーダに、これをきれいにして、半身を揚げ、残りの半身を焼き、私が仕事を片づけ終って、家に帰れるようになるまで、全部を冷めないようにしておいてくれと、言いなさい。」するとカリーフも、この命令を補うように、少年に言いました、「そうだよ、おお小僧さん、お前の御主人に、これを焦がさないようによく言って、この鰓《えら》のきれいな色をとっくり見せてあげなさいよ。」少年は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする、おお御主人様。」そして立ち去りました。
さてユダヤ人はというと、彼は指先に一ディナールをつまんで、漁師のカリーフにさし出しながら、言いました、「これをとっておきなさい、おおカリーフよ、そしてお前の家族のために使うがよい。」カリーフは本能的にそのディナール金貨を受けとって、自分の掌中にそれが光るのを見たときには、何しろ生れてからまだ黄金など見たことがなく、その値打の見当さえつかなかったもので、彼は叫びました、「宝物の主《あるじ》で財宝と領土の君主たる主《しゆ》に、栄光あれ。」それから二、三歩あるいて立ち去ろうとした時、突然あの明眸の猿の勧告を思い出したので、引っ返して、金貨をユダヤ人の前に投げ出して、言いました、「あんたの金貨を取って、貧乏人たちの魚は返してくれ。あんたは私みたいな貧乏人たちを馬鹿にして、そのままですむと思っていなさるのか。」
ユダヤ人はこの言葉を聞くと、カリーフは自分にふざける気だなと思いました。そこでそれをたいそう面白がりながら、一ディナールの代りに三ディナール差し出しました。けれどもカリーフは彼に言いました、「やめな、アッラーにかけて、そんな悪ふざけはもうたくさんでさあ。おれが自分の魚をこんな捨て値で売る気になると、あんたは本気で思っていなさるのか。」するとユダヤ人は三ディナールの代りに五ディナール差し出して、言いました、「お前の魚の代金として、この五ディナール取って、貪《むさぼ》るのはやめにしなさいよ。」それでカリーフはそれを手におさめて、すっかり満足して立ち去りました。彼はそれらのディナール金貨をつくづく眺め、感歎して、独りごとを言いました、「アッラーに栄光あれ。今日おれの手の中にあるものは、バグダードの教王《カリフ》のところにだって、きっとないにちがいない。」そして彼は市場《スーク》のはずれに着くまで、道を続けましたが、そこまでくると、猿の言葉と猿のすすめた勧告を思い出しまして、ユダヤ人のところに引っ返し、軽蔑をこめて金貨を彼に投げ返しました。するとユダヤ人は訊ねました、「どうしたんだ、おおカリーフよ、どうして欲しいのかね。お前のディナール金貨をドラクム銀貨に換えて欲しいのかな。」漁師は答えました、「あんたのドラクムも、ディナールも欲しかない。貧乏人たちの魚を返してもらいたいんだ。」
この言葉に、ユダヤ人は怒り出し、叫んで言いました、「何だと、おお漁師よ、お前は一ディナールもしない魚を一匹持って来てからに、私は五ディナールもやったのに、それでお前は満足しないとは。お前は気違いかな。それとも、いったいいくらで魚を譲る気なのか、はっきり言うかな。」カリーフは答えました、「私はあれを銀でもっても、金でもっても、譲りたくはない。ただ、ふた言(3)いう条件で、売りたいだけだ。」ユダヤ人はふた言が条件ということを聞くと、それは回教《イスラム》の信仰告白の文句となっているあのふた言のことで、漁師は一匹の魚のために、自分に宗教を誓絶することを求めているのだと、思いこんでしまいました。ですから、怒りと憤りから、両眼は頭の天辺《てつぺん》までとび出して、呼吸はとまり、胸は凹《くぼ》み、歯は軋《きし》りました。そして怒鳴りました、「おお|回教徒ども《ムスリムーン》の爪の切り屑よ、きさまはあんな魚のためにおれを自分の宗教から引き離し、おれの信仰とおれの掟、おれの前にわが祖先の信奉していたものを、捨てさせようという気なのだな。」そして彼は召使たちを呼ばわって、一同その手の間に駈けつけると、彼は怒鳴りました、「けしからん。この松脂の面《つら》に襲いかかって、こいつの首根っ子を捕え、皮膚がずたずたになるほど、したたか打ち据えてやれ。容赦するな。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十八夜になると[#「けれども第五百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとすぐに召使たちは棒を振って彼に打ちかかり、彼が店の踏段の下に転げ落ちるまで、打つことをやめませんでした。そのときユダヤ人は彼らに言いました、「もういい、起き上がらせてやれ。」するとカリーフは散々殴られたにもかかわらず、まるでなにも感じなかったみたいに、両足の上に起き上がりました。ユダヤ人は彼に訊ねました、「さあ今は、お前の魚の代として、もらいたいだけを言ったらどうだ。私はすぐ払って、けりをつけてやるよ。今あまりありがたくない目に遭ったことをよく考えろよ。」けれども、カリーフは笑いはじめて、答えました、「棒でぶん殴られることについては、こちとらのほうはすこしも案じなさるな、おお御主人様。何しろわっしは、十匹の驢馬が一どきに食えるほどの分を殴られたって、平気ですからね。てんで感じませんや。」するとユダヤ人も同じように、この言葉に笑い出して、彼に言いました、「お前の上のアッラーにかけて、お前の望むものを言いなさい。私は自分の信仰の真《まこと》にかけて誓う、きっと聞きとどけてあげるから。」するとカリーフは答えました、「もう前に言いましたよ。あの魚の代としては、たったふた言しかいりません。それも何もあなたにとって、私たちの回教徒の信仰表明を唱えることだなぞとは、思いなさんな。なぜって、アッラーにかけて、おおユダヤ人さん、あなたが回教徒《ムスリム》になったところで、あなたの回教《イスラム》改宗は回教徒《ムスリムーン》にとっては何の得にもなるわけじゃなし、ユダヤ教徒にとっても何の損にもなりますまい。また反対に、あなたが飽くまで御自分の不信心と邪教の誤りをぬけ出さないにしろ、あなたの邪教ということは、回教徒《ムスリムーン》にとっては何の損にもなるわけじゃなし、ユダヤ教徒にとっても何の得にも、なりますまい。私の求めるふた言というのは、全く別のことでさ。私は、あなたに、両足の上に立ち上がって、こう言っていただきたいのです、『おお市場《スーク》の主人たち、おお善意の商人衆よ、私の言葉の証人になっていただきたい。私は私自身の意志によって、私の猿をカリーフの猿と取り代え、この世での私の運と運命を、彼の運と運命と交換し、私の幸運を、彼の幸運と交換することに同意します』とね。」
この漁師の言葉に、ユダヤ人は言いました、「それがお前の注文というのなら、事は造作ない。」そして即刻即座に、彼は両足の上に立ち上がって、漁師カリーフの求めた言葉を言いました。それがすむと、彼は漁師のほうを向いて、訊ねました、「まだ何か私に用があるかな。」彼は答えました、「ありませんよ。」ユダヤ人は言いました、「それじゃ、無事にお帰り。」するとカリーフはそれ以上ぐずぐずせずに、自分の空の籠と網を持って、河岸に戻りました。
そこで彼は、明眸の猿の約束を信用して、水に網を打ち、次に引き寄せましたが、なかなか上がりません。それほど重いのでした。そして、見ると、あらゆる種類の魚がいっぱいかかっていました。そこにすぐに、頭に一枚の皿を平らにのせている一人の女が、彼のそばを通りかかって、一ディナール分の魚を求めたので、さっそく売りました。すると同じく一人の奴隷が通りかかって、また一ディナール分の魚を買ってゆきました。その後も同様で、とうとうその日は、百ディナール分売れました。そこで、意気揚々のかぎり意気揚々として、わが百ディナールを握って、魚市場のそばの、自分の住んでいるあばら家に帰りました。そのうち夜になると、彼は自分の持っている全部の銭《かね》がたいへん心配になってきて、茣蓙《ござ》の上に横になって眠る前に、心中独りごとを言いました、「おおカリーフよ、この界隈の人は皆、お前が貧乏人で、手の間に何もない憐れな漁師だということを知っている。ところが今じゃ、お前は百ディナールの金貨の持主となった。人々もやがてそれを知り、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシード様もしまいにはやはりそれを知りなすって、いつか金が足りなくなりなすった日には、警吏をお前のところに遣わして、言わせなさるだろう、『余はたくさんの金子が入用だが、お前は家《いえ》に百ディナール持っていると聞く。さて、余はお前にそれを借用したいぞよ。』するとおれはこの上なくみじめな様子をして、自分の顔をぴしゃぴしゃ打ちながら嘆き、答えるだろう、『おお信徒の長《おさ》よ、私は貧しい男で、全くつまらぬ者でございます。どうして私がそんなとんでもない大金を持っておりましょうか。アッラーにかけて、あなた様にそんなことを申し上げたやつは、とてつもない嘘つきです。私は今までついぞそんな大金を持ったことはなく、またこれからも決して持つことはございますまい。』すると、おれから金を捲き上げ、おれに金の隠し場を白状させるため、教王《カリフ》はおれを警察隊長《ムカツダム》蛾のアフマードに引き渡すと、隊長はおれの着物を剥ぎとらせて、おれが白状して百ディナール渡すまで、笞刑《ちけい》を食わせることだろう。ところで、おれとしては、今は、この苦境を脱するための最上の策といえば、思うに断じて白状しないことだ。そして断じて白状しないためには、おれは自分の肌を、殴られるのに慣らしておかなければならん。おれの肌は、アッラーは讃められよ、今だって相当に厚くなってはいるがな。しかし、おれの肌の生れつきの薄さが、殴られて参ってしまい、おれの魂が望みもしないことをおれにさせないようにするには、完全に厚くなっていなければならんぞ。」
このように考えると、カリーフはそれ以上躊躇せず、彼の麻薬《ハシーシユ》食らいの魂が思い浮かばせた計画を、すぐに実行に移しました。そこで即座に立ち上がって、素裸《すつぱだか》になり……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百五十九夜になると[#「けれども第五百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……素裸になり、そして持ち合せの皮の座褥《クツシヨン》を取りあげて、それを自分の前の壁の釘に吊るしました。次に、百八十の結び玉のついた鞭をつかんで、自分の皮膚をひと打ち、座褥《クツシヨン》の皮をひと打ちと、代るがわる打ち、同時に、さながらもう警察隊長《ムカツダム》の面前にいて、罪を着せられるのを否認せざるを得ないかのように、大声あげて喚きはじめました。彼は叫びました、「痛い。ああ。アッラーにかけて、殿様、そんなことは嘘です。痛い、大嘘だ。ああ、痛い、私に対する破滅の言葉です。わあ、たまらん、私はとっても皮が薄いんです。みんな嘘つきだ。私は貧乏人だ、アッラー、アッラー、貧乏な漁師です。何にも持っちゃいません。痛い、この世の財産なんて何にもありゃしません。」このようにして彼は、あるいは自分の皮膚をひと打ちし、あるいは座褥《クツシヨン》をひと打ちしながら、わが身に荒療治を加えつづけました。そしてあまりに痛いときは、自分の番は忘れて、座褥《クツシヨン》をふた打ちし、遂にはもう、三つに一つ、次には四つに一つ、次には五つに一つしか、自分を打たないようにまでなりました。こうした次第です。
すると近所の人たちは、闇の中に叫び声と鞭打つ音が響くのを聞きつけ、その地区の商人たちも遂には心配して、考えました、「あのかわいそうな独身男に、いったい何ごとが起ったのだろう、あんな風に叫び立てるとは。それにあの男があんなに滅多打ちにされているのは、どうしたことだろう。ひょっとすると、盗人どもに襲われて、殺されるほど殴られているのかもしれん。」そこで、叫び声と喚き声はますます激しさを増すばかりだし、殴る音はますます数多くなってゆくので、彼らはみな自宅を飛び出して、カリーフの家に駈けつけました。ところがその家の戸は閉まっているので、一同言い合いました、「盗人どもは露台を下りて、向う側からこの家にはいりこんだにちがいない。」それで一同隣りの露台に上がって、そこからカリーフの露台の上に飛び下り、天井穴をくぐり抜けて彼のところに下りました。そして見ると、彼は一人きりで素裸になって、鞭でもって代るがわるわが身を打ち、同時に喚き声と潔白の抗議をがなり立てている最中でした。そして彼は足で飛び跳ねながら、まるで鬼神《イフリート》のように暴れまわっておりました。
これを見ると、近所の人たちは呆れ返って、彼に訊ねました、「いったいどうしたのだ、カリーフよ。何事だい。私たちに聞えた鞭の音とお前の喚き声で、近所一帯びっくり仰天して、私たちはみんな眠れなくなった。それで私たちは心臓をどきどきさせて、ここに駈けつけたわけだ。」ところがカリーフは一同に向ってどなりました、「あんた方はおれにどうしろと言うんだい。おれはもう自分の皮膚《かわ》を勝手にしちゃいけないのか。邪魔されずに、自分の皮膚《かわ》を殴られるのに慣らすわけにはいかんのかね。おれが将来どんな目に会うことになるか、おれにわかっているのかい。さあ行っておくんなさい、皆の衆。あんた方もおれに見ならって、これと同じ荒療治を自分の身にしておくほうが、ずっとましだろうぜ。あんた方だっておれよか、お上から金をふんだくられたり、巻き上げられる心配がないとはゆかないぜ。」そしてもうみんなのいることなど頓着せず、カリーフは座褥《クツシヨン》の上に鳴りひびく鞭を、自分自身の皮膚の上に落ちるものと考えながら、喚きつづけるのでした。
そこで近所の人たちはこれを見て、尻餅をつくほど笑い出して、結局来たときのように立ち去ってしまいました。
カリーフのほうは、しばらくたつともう疲れてしまいましたが、それでも泥棒がこわさに、目を閉じようとはしませんでした。それほど新しい財産を持て余したのです。そして朝になると、仕事に出かける前に、またも自分の百ディナールのことを考えて、独りごとを言いました、「あれを自分の家に置いて行けば、きっと盗まれてしまうだろう。帯に入れて腰のまわりに締めておけば、どっかのこそ泥の目について、やつは淋しい場所に待ち伏せしておれの通るのを待ちかまえ、おれに飛びかかっておれを殺し、身ぐるみ剥いでしまうだろう。それじゃひとつ、そんなことよりかうまいことをしてやろう。」そこで彼は立ち上がって、自分の合羽《カバー》を二つに裂いて、その半分でもって袋をひとつ作り、その袋に金貨をしまって、紐で首に懸けました。そうした上で、網と籠と杖をもって、河岸へと向いました。そこに着くと、彼は網をつかみ、腕いっぱいの力をこめて、水中に投げました。ところが、網を打つ動作があまりいきなりで乱暴だったので、そのはずみに金袋《かねぶくろ》が首から飛び出して、網のあとを追って水に落ち、流れの力が水底深く遠くに持って行ってしまいました。
これを見ると、カリーフは網を放し、またたく間に着物を脱いで、衣類を河岸に放り出し、水中に飛びこんで、袋を探しに潜りましたが、どうしても首尾よく見つかりません。そこで二度、三度と潜り、百回まで続けましたが、甲斐がありませんでした。そこで、もう絶望し力尽き果てて、河岸に上がり、着物を着ようと思いました。ところが、自分の着物は消え失せてしまっていることがわかり、網と籠と杖しか見当りませんでした。そこで彼は両手を打ち合わせて、叫びました、「ああ、おれの着物を盗みやがった碌でなしの野郎どもめ。だが、こんなことがすべて起こるのは、あの諺の言いぐさに理由があるからこそだ。駱駝曳きにとっては、自分の駱駝のお釜を掘ったとき、はじめて巡礼は終る(4)と、いうからな。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十夜になると[#「けれども第五百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで彼は、仕方がないので、網で身を包み隠す決心をして、次に手に杖を持ち、籠を背中に載せて、河岸を大股で歩き廻りはじめ、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、右に左に、前に後ろに行き、息をはずませ、めちゃくちゃに、さかりのついた駱駝みたいにいきり立ち、どこから見ても、スライマーンに封じこめられていた窮屈な青銅の牢屋から逃げ出した、どこぞの叛逆の鬼神《イフリート》さながらでございました。
漁師のカリーフについては、このようでございます。
ところで、やがてお話に出てくる教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、いかにと申しますと、次のようでございます。
その頃バグダードに、教王《カリフ》の御用商人と宝石商として、イブン・アル・キルナスという名前の、たいへんな有力家がおりました。これは市場《スーク》で非常な権勢家で、およそバグダードで売られる美しい布、宝石、貴重品、少年少女などはすべて、彼を通じてか、あるいは彼の手を通った上でか、あるいは彼の鑑定を受けた上かでなければ、売られない有様でした。ところで、日々のうちのある日、イブン・アル・キルナスが自分の店に坐っておりますと、仲買人の頭《かしら》が一人の乙女の手をひいて、自分のところに来るのを見ましたが、それがまた、これに類するものは、かつて見物人が眺めたことのないような乙女で、それほど、もう美と優雅と華奢《きやしや》と完全の極でありました。それにその乙女は、身に備わる魅力のほかに、あらゆる学問、芸術、詩学、楽器の奏法、歌と舞を心得ておりました。ですから、イブン・アル・キルナスはためらわず、即座にこれを、金貨五千ディナールで買いとりました。そして千ディナールかけて衣裳をつけさせてから、これを信徒の長《おさ》にお目見えさせに行きました。そして乙女はその御許《みもと》で一夜を過しました。こうして教王《カリフ》は、そのさまざまの才能と知識を、親しくお試しになることができました。そしてこの乙女はすべてのことに堪能で、当代無比であるとお思いになりました。その名はクート・アル・コルーブ(5)と申し、浅黒くみずみずしい肌をしておりました。
そういうわけで、信徒の長《おさ》は、この新しい女奴隷がすっかりお気に召し、翌日イブン・アル・キルナスに、買入れ代金として一万ディナールをお届けになりました。そしてこの乙女に激しい恋情をお感じになり、お心をすっかり征服されなさって、そのためにお従妹《いとこ》の、アル・カスィムの息女ゾバイダ妃(6)をも顧みられず、あらゆる寵姫たちをもお見限りでございました。そしてまるひと月の間、この乙女の許に閉じこもったきり、金曜日の礼拝にしかお出にならず、それも、済めばあたふたとお帰りになる有様でした。そこで王国の王侯方も、これ以上続いては事態捨ておけぬと思って、大|宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーに陳情に行ったのでした。ジャアファルは一同に、やがて善処してこの事態を改めようと約束し、次週の金曜日の礼拝を待って、教王《カリフ》にお目にかかることにしました。そして回教寺院《マスジツト》にはいって、拝謁し、長い間、恋愛事件とその結果について、お話し申し上げることができました。教王《カリフ》は、途中話を遮ることもなく、ずっとその言葉に耳を傾けていらっしゃったあげく、これにお答えになりました、「アッラーにかけて、おおジャアファルよ、この件とこの選択について、余は何の関係もないのじゃ。責《せめ》は、恋の罠に捉えられてしまったわが心にある。そして余はこれを罠から救い出すすべが、とんとわからぬのじゃ。」すると宰相《ワジール》ジャアファルは答えました、「さればおお信徒の長《おさ》よ、御寵姫クート・アル・コルーブは、今後君の御手《おんて》の間にあり、御命令に唯々として服し、君の奴隷の間の一人の奴隷でございます。そして手が所有いたすとき、魂はもはや渇望せぬことは、御承知のところ。ところで私は、君の御心《みこころ》がこの寵姫に倦《う》むことなからんがため、一策をお授け申したく存じまする。それは、例えば狩りとか釣りとかにお出かけあって、時々その許をお離れなさるのです。それと申すのは、漁師の網は、恋情が御心《みこころ》を捉えている網から、御心を解き放つやも知れませぬから。そのほうが、さしあたっては、政務へ従事遊ばすよりも、御身《おんみ》のためさらによろしゅうございます。それと申すは、現在の御有様《おんありさま》では、このお仕事はあまりに御苦労を覚えなさるでもありましょうから。」すると教王《カリフ》は答えなさいました、「そは名案じゃ、おおジャアファル、時を移さず直ちに散歩に赴こう。」そして礼拝が終るとすぐに、お二人は回教寺院《マスジツト》を出て、めいめい牝騾馬に乗り、そして城外に出て田野を歩きまわるため、警護の者どもの先頭にお立ちになりました。
日中の暑さのなかを、あちこちと永い間歩き廻りなすったあげく、お二人はお話しに気をとられなすって、遂には警護の者どもを、はるか後ろにお離しになってしまいました。そしてアル・ラシードはたいそう喉がお渇きになって、おっしゃいました、「おおジャアファル、余ははなはだしい渇に悩むぞよ。」そしてどこかに人家はないかと、まわりの四方を御覧になると、遥か丘の上へ、何か動くものをお認めになったので、ジャアファルにお訪ねなさいました、「余が彼方に見るものを、その方、見えるか。」彼は答えました、「はい、おお信徒の号令者よ、丘の上に何かおぼろげに見えまする。きっとどこぞの庭師か、胡瓜作りにちがいありません。いずれにせよ、あの者の近所には必ず水があるはずなれば、私がひと走りして、水を取ってまいりましょう。」アル・ラシードは答えなすって、「余の騾馬はその方の騾馬よりも足が速い。さればその方ここにとどまって、護衛の者どもを待て。その間《ま》に、余はみずからかの庭師のところに水を飲みに行き、次いで戻ってまいるから。」こう言いなさって、アル・ラシードはそちらの方角に騾馬を駆り、あらしの風の速さか、あるいは巌《いわお》の上より落ちる急流の速さでもって、遠ざかりなされ、またたくまに、くだんの人物のところに達しなさいましたが、それこそは、漁師カリーフにほかなりませんでした。御覧になると、彼は裸で網にぐるぐる巻きになっており、汗と埃《ほこり》にまみれ、両眼は真赤で、飛び出し、血走って、見るもすさまじい様子でございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十一夜になると[#「けれども第五百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼はこのような有様で、さながら人けのない場所をさまよっているあの悪い鬼神《アフアリート》の一人に、似ておりました。さてハールーンは彼に平安を祈りなさると、カリーフはぶつぶつ言って、爛々とした眼差を投げかけながら、挨拶《サラーム》をお返し申しました。するとハールーンはこれに申されました、「おお男よ、水をひと口飲ませてもらえぬか。」カリーフはお答えしました、「なんだ、きさまはめくらか気違いか。水はこの丘の後ろに流れているのが、見えないのか。」そこでハールーンは丘を回って、ティグリス河のほうに下り、地に腹ばいになって渇を医され、その騾馬にも同様に渇を医させなさいました。次にカリーフのもとにお戻りになって、これに申されました、「お前はここで何をしているのかね、おお男よ。してお前の職業は何かね。」カリーフは答えました、「全くのところ、そんな問いは水についての問いよりも、もっと奇妙で変っているぞ。おれの肩の上に、おれの商売道具が見えないのかい。」ハールーンは網を御覧になって、おっしゃいました、「お前は定めし漁師にちがいない。」相手の男は言いました、「そのとおりだ。」するとハールーンはお訊ねになりました、「しかしお前の合羽《カバー》や肌着や袋は、いったいどうしたのか。」この言葉を聞くと、今アル・ラシードのお挙げになったいろいろの品を失くしてしまったカリーフは、この男こそ、河辺でそれらを盗んだ泥棒当人にちがいないと一瞬も疑わず、丘の上から、電光のように、アル・ラシードに向って飛びかかり、騾馬の手綱を捉えながら、叫びました、「おれの衣類を返せ、こんな悪ふざけはやめにしろ。」ハールーンはお答えになりました、「わしは、アッラーにかけて、お前の着物なぞ見かけなかった。お前が何のことを言う気かいっこう分らぬ。」ところで、人の知るように、アル・ラシードは豊かな膨れた頬と、たいそう小さなお口をしていらっしゃいました。そこで、カリーフはさらに注意をこめてお顔を眺めて、これは竪笛《クラリネツト》を吹く笛師と思いこみ、怒鳴りつけました、「やい竪笛吹き、きさまはおれの衣類を返す気か、返さない気か。それともおれの棒の下できりきり舞いをして、着物のなかで小便を垂れるほうがいいのか。」
教王《カリフ》は、頭上にふりあげられた漁師の大きな棍棒《マトラク》を御覧になると、お思いになりました、「アッラーにかけて、この棒の一撃の半分も、余には耐えられまいぞ。」そこでこれ以上ためらわず、御自分の美しい繻子の御衣《ぎよい》を脱いで、これをカリーフに差し出しながら、おっしゃいました、「おお男よ、この服を取って、お前の失くなった衣類の代りにせよ。」するとカリーフは御衣を取って、あちこち引っくり返してみて、言いました、「おお竪笛吹きよ、おれの衣類はこんな飾り立てたけちな服よりか、十倍も値打があるぞ。」アル・ラシードはおっしゃいました、「そうか。まあとにかく、私がお前の衣類を見つけてあげるまで、それを着ていなさい。」するとカリーフはそれを取って、着込みましたが、それが長すぎると思い、魚籠《びく》の把手《とつて》に結びつけておいた小刀を取りあげて、一撃で、下三分の一をずばりと切り放ち、それを使ってすぐにターバンを作りましたが、服はやっと膝まであるかなしの有様でした。けれども彼はそのほうが、身ごなしが楽でよいと思いました。次に彼は教王《カリフ》のほうに向いて、申しました、「お前の上なるアッラーにかけて、おお竪笛吹きよ、いったいお前の笛師の商売は、月々俸給いくらになるか、聞かせてくれ。」教王《カリフ》は穿鑿《せんさく》好きの男の気にさからいかねなすって、お答えになりました、「私の笛師の商売は、大体月々十ディナールになる。」するとカリーフは、深い同情の身ぶりをして、言いました、「アッラーにかけて、おお憐れな男よ、お前のことを聞くと、おれはすっかり悲しくなるぜ。だっておれときては、その十ディナールなんぞは、ひと時のうちに稼いでしまうからな、ただおれの網を打って、引きあげるだけでさ。それというのは、この水の中に猿が一匹いて、こいつがおれの身のためを計ってくれ、網を打つたびに、おれの網の中に魚を詰めこむのを引き受けてくれるからだ。ひとつ、おお膨らんだ頬《ほつ》ぺたよ、おれに奉公して、おれから漁師の商売を習い、ゆくゆくは一緒に儲けを分ける仲間となることにし、さしずめ、おれの手伝いとして、一日五ディナール稼ぐことから始める気はないかね。それに、お前の元の竪笛《クラリネツト》のお師匠がぐずぐず文句を言ったら、この棒でちゃんと守ってあげるさ。そんなやつは必要とあらば、おれが引き受けて、ひと打ちで叩きのめしてやるよ。」するとアル・ラシードはお答えになりました、「申し出承知した。」カリーフは言いました、「それじゃ騾馬の背中から下りて、そいつをどこかに繋いでおけ、いざという時には、魚を市場に運んでゆく役に立つことができるように。そして早く来て、お前の漁師見習を始めるがいい。」
そこで教王《カリフ》は、魂のなかで溜息をつきなさり、御自分のまわりに困りきった眼を投げながら、騾馬の背から下り、それをば近くに繋ぎ、まだお身に残っているお召物をたくしあげ、肌着の垂れを帯に結いつけなさって、漁師のそばに並びにお出でになると、漁師は言いました、「おお堅笛吹きよ、この網の端《はじ》を持って、これをしかじかのやり方で自分の腕の上に投げ上げ、そしてしかじかの別のやり方で網を水に投げるんだ。」するとアル・ラシードは、御心中で、身に覚えのある渾身の勇気を振い起し、カリーフの命じたとおり実行なすって、網を投げ入れ、しばらくたってから、これを引き上げようとなさいました。けれども網はひどく重く、おひとりでは上げきれず、カリーフはお手伝いしないわけにゆきませんでした。そして二人で岸辺にたぐり寄せましたが、その間にカリーフは助手に叫ぶのでした、「おお、おれの陰茎《ゼブ》の笛師よ、もし生憎とおれの網が、川底の石ころのため破けるとか、穴があくとかしていたら、おれはきさまのお釜を掘ってやるぞ。そしてきさまがおれの着物をとりやがったと同じように、おれはきさまの騾馬をとってしまうからな。」けれども、ハールーンにとって幸いなことに、網はそっくり無事で、この上なく見事な魚がいっぱいかかっておりました。さもなければ、ハールーンはてっきり漁師の陰茎《ゼブ》を喰らいなすったに相違なく、そしてどのようにしてそんな突撃に耐えることがおできになったかは、ただアッラーのみ知りたまいまする。ところが、そんなことはございませんでした。それどころか、漁師はハールーンに申しました、「おお笛師よ、お前はなんとも醜男《ぶおとこ》だな、その面《つら》はおれの尻《けつ》そっくりだぞ。だが、アッラーにかけて、お前がよく気をつけて新しい商売に励めば、いつかはずばぬけた漁師になれるだろう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十二夜になると[#「けれども第五百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……いつかはずばぬけた漁師になれるだろう。まあさしあたって、お前のするべきいちばんいいことは、もう一度お前の騾馬に乗って、この大漁の残りの分を入れる大籠を二つ買いに、市場《スーク》に行ってくれることだ。おれはその間、お前が戻ってくるまで、ここにいて魚の番をしているからな。そのほかのことは何も心配しないでいい。というのは、おれはここに魚秤《さかなばかり》も、分銅も、小売りに入用なものは全部持っているから。そしてお前は、おれたちが魚市場についたら、お前の役目といえば、ただ秤をしっかり押えて、お客から金を受けとるほかにはない。とにかくいそいで走って、籠を二つ買ってきてくれ。わけても、ぶらぶらしていちゃいけねえぞ。さもないとお前の背中の上に棒が見舞うぞ。」すると教王《カリフ》はお答えになりました、「仰せ承わり、仰せに従う。」
それから教王《カリフ》はいそいで御自分の騾馬の綱を解いて、これに打ち跨がり、全速力で走らせなさいました。そして死ぬほどお笑いになりながら、ジャアファルと落ち合いにいらっしゃると、ジャアファルは、こんな異様なお姿をしていらっしゃるのを見て、天に両腕を挙げて叫びました、「おお信徒の号令者よ、君はきっと途上で何か美しい庭園をお見つけになって、草の上に横たわり、転げ廻りなされたに相違ありませぬ。」教王《カリフ》はこのジャアファルの言葉をお聞きになると、笑い出されました。次に、ジャアファルの身内の、護衛の他のバルマク家の者どもは、御手の間の地に接吻して、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、願わくはアッラーは君の上に悦びを永続させ、君より憂いを遠ざけたまいまするよう。さりながら、君をわれらより離れてかくも長い間引きとどめ奉ったのは、そもいかなる原因でございましょう、君はただひと口の水を飲むため、われらの許をお離れになったのみであるのに。」すると教王《カリフ》は彼らにお答えになりました、「今しがたおよそ胸晴るる、最も世の常ならぬ不思議なる出来事が、わが身に起ったのじゃ。」そして一同に、漁師カリーフとの間に起ったことと、御自分が漁師から盗んだと見られた着物の代りとして、細工を施した繻子の御衣《ぎよい》を埋合せにお与えになった次第を、お話しになりました。するとジャアファルは叫びました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、先刻君がただおひとり、あのように豪奢な御《お》服装《みなり》をして遠ざかりなすったのを拝見したおりに、私はいわば御身にふりかかることの予感を持ったのでございました。しかし私がこれより直ちに、漁師に賜ったその御衣をば、彼から買い戻してまいりますれば、たいした不都合もござりませぬ。」教王《カリフ》はさらに激しく笑い出されて、おっしゃいました、「その方は、おおジャアファルよ、もっと早く思い到るべきであった。それというのは、その好人物は、自分の丈《たけ》に合わせるため、既に着物の三分の一を切り取って、切った部分はターバンを作るのに用いてしまったのじゃ。しかし、おおジャアファルよ、余はただ一度の漁で、もう全くこりごりで、かかる仕事を再びしようとの気持は覚えぬ。それに、余はただの一度で、今後これ以上の豊漁を望まずにすむに足るだけの、漁をしたのじゃ。それというのは、わが網から出てきた魚は奇蹟のごとくおびただしく、かなたの河岸に、わが師カリーフが番をして、おいてある。彼はわが漁獲を市場《スーク》に売りに行くのに、ただ余が籠を携えて戻るのを待つばかりじゃ。」するとジャアファルは申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、されば私は御両人のほうへと、買手を狩り出すといたしましょう。」ハールーンは叫びなさいました、「おおジャアファルよ、わが祖先、至純者らの功徳にかけて、余はわが師カリーフより、余のとった魚を買いに行く者すべてに対し、一尾につき一ディナールを約束いたすぞよ。」
するとジャアファルは、警護の衛兵らに触れさせました、「おーい、警護の衛兵ならびに供廻りの者どもよ、河岸に駈けつけて、信徒の長《おさ》の御許《おんもと》に、努めて魚を持ち帰れよ。」するとすぐに、警護の者全部は、言われた場所のほうに駈け出して、魚の番をしているカリーフを見つけました。それで一同は、隼《はやぶさ》が餌食を取り巻くように、彼を取り巻いて、カリーフがあばれ廻って棒を振って威《おど》かすのもかまわず、その前に積まれている魚を、互いに争い合いながら、てんでにひったくるのでした。それでも結局カリーフは多勢に負けてしまって、叫びました、「この魚が天国の魚であることは、もう決してまちがいない(7)。」そして彼は、さんざん棒をくらわせながら、とれた魚のなかでいちばん見事な魚二匹を、掠奪から首尾よく救い出すことができました。それで両手に一匹ずつつかんで、てっきり大道を擁する追剥と思った連中からのがれるため、水の中に逃げこみました。こうして水中深くもぐって、彼は一匹ずつ魚をつかんでいる両手を挙げて、叫びました、「おおアッラーよ、あなた様の天国のこの魚の功徳によって、どうぞ私の相棒の竪笛《クラリネツト》吹きが間もなく帰ってくるようにして下さいませ。」
ところで、ちょうど彼がこの祈願を言いおえたとき、護衛の一人の黒人が、自分の馬が途中でとまって小便をしたため、他の者に遅れてしまい、最後に河岸に着きましたが、もう魚の跡形もないので、右左を見ると、両手に一匹ずつ魚を持っているカリーフの姿を、河の中に見かけました。それで叫びかけました、「おい漁師よ、ここにやってきな。」けれどもカリーフは答えました、「背中を向けて行っちまえ、おお陰茎《ゼブ》食らいめ。」この言葉に、黒人は立腹の極に達して、槍を振りあげ、カリーフの方向に狙いをつけて、これに叫びました、「きさまはここに来て、その二匹の魚をきさまの言い値でおれに売るか、それともどてっ腹にこの槍を受けるか、どっちだ。」するとカリーフは答えました、「やめろ、おお碌でなし。命をなくするよりは、魚をくれてやるほうがまだましだ。」そして彼は水から出て、見下げた様子で二匹の魚を黒人に投げてやると、黒人はそれを拾って、美しく刺繍をした絹ハンケチに、それを包みました。それから隠しに手を入れて、金を取り出そうとしましたが、隠しは空っぽでした。そこで彼は漁師に言いました、「アッラーにかけて、おお漁師よ、お前は運が悪かった、おれは今のところ、隠しにただの一ドラクムも持ち合せないからな。だが明日、王宮に来て、黒人の宦官サンダルといってくれ。すると使用人たちはお前をおれのところに連れてくるから、そこでお前はおれの許で手厚いもてなしと、お前の運がお前に定《き》めてくれるものにありつくだろう。その上でお前は自分の道に立ち去ることになろう。」するとカリーフは、あまり取っつきにくい人間らしく見せる元気もなく、宦官に一瞥を投げましたが、それはお釜を掘るぞとか、相手の母親や姉妹をやってしまうとかいう千の侮辱や千の脅迫よりか、もっと雄弁に物を言う眼差でした。そして彼は、両手を打ち合せながら、忌々しさと皮肉の口調で、こう呟きながら、バグダードの方角に遠ざかりました、「全くのところ、これこそ、そもそも一日の始まりから、おれの一生の全部の祝福された日の間の、祝福された一日だったわい。そりゃ一目瞭然だ。」こうして彼は町の城壁を越えて、市場《スーク》の入口に辿りつきました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十三夜になると[#「けれども第五百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、通行人と店の主人たちは、漁師カリーフを見ると、彼は一方では、網と籠と棒を背負い、一方では、二つ合わせると優に千ディナールもするような、着物を着こみ、ターバンをかぶっているので、みんなは彼を取り囲んで、いったいこれはどういうことなのか見ようと、後をついてゆくと、彼はちょうど教王《カリフ》の仕立屋その人の店の前へ行き着きました。すると仕立屋は、カリーフをひと目見るなり、彼の着ている衣服はつい先だって、自分が信徒の号令者にお納めした品そのものであるとわかりました。そこで彼は漁師に叫びました、「おおカリーフ、お前の着ているその衣は、いったいどこから手に入れたのだ。」カリーフはたいそう御機嫌斜めで、仕立屋をじろじろ見ながら、答えました、「よけいな口を出しなさんな、糞の面《つら》をした恥知らずめ。だがそれはともかく、おれが何ひとつ隠し立てしないことを見せてやろう。いいか、この衣は、おれに弟子入りして漁を教わり、おれの助手になった男がくれたんだ。これをおれにくれたというのは、ほかでもない。やつがおれの衣類を掻っ払って、泥棒の罪を犯したもので、片手を切られる(8)といけないというわけからさ。」
この言葉に、仕立屋は、教王《カリフ》が御散歩中この漁師に出あいなすって、これをからかうため、こんな冗談をなすったにちがいないと察しました。そこでカリーフに安らかに道を続けさせ、わが家に行きつかせましたが、私たちは明日、再び彼をその家で見かけることでございましょう。
けれども今は、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードのお留守中、王宮で起ったことを、知るべき時でございます。いかにも、そこではこの上なく重大な事どもが、起ったのでございます。
まさしく、教王《カリフ》がジャアファルと一緒に王宮を出なすったのは、いささか田野を散策して、しばらくクート・アル・コルーブに対する甚だしい恋情を紛らしなさるためにほかならなかったことは、私どもも存じております。ところが、この女奴隷に対する恋情に悩まされていたのは、ただ教王《カリフ》おひとりではなかったのでした。お妃《きさき》でお従妹《いとこ》の妃《シート》ゾバイダも、この乙女が王宮に参って、信徒の長《おさ》の御寵愛を一人占めする寵姫となって以来、もはや飲食も眠ることも何ごとも叶わず、それほどお妃の魂は、女たちが通常その恋敵に覚える嫉妬の念に、充ち満ちなされたのでございました。そして御自分を御自身の眼にも、側近の眼にも、小さく見せる、この絶え間ない侮辱の仇を討つために、お妃は、教王《カリフ》のふとしたお留守とか、御旅行とか、何かのお仕事とか、つまり御自分のお心まかせに振舞うことのできるような機会を、ひたすら待っていらっしゃったのでした。ですから、教王《カリフ》が狩りと漁にお出かけになったと知るとさっそく、お妃は御自分のお部屋に、飲み物の類も、果物の砂糖漬とお菓子を盛った瀬戸物の皿も、何ひとつ欠けるところのない、豪奢な饗宴を準備させなさいました。そして威儀を正して、寵姫クート・アル・コルーブを迎えにやって、女奴隷たちにこう伝えさせました、「私どもの御主人、信徒の長《おさ》の正妃、カスィムの王女、妃《シート》ゾバイダは、おお私どもの御主人クート・アル・コルーブ様、本日、あなた様のために催しなさる饗宴に、あなた様をお招き申し上げまする。それと申しますのは、お妃は今日医薬をお飲みなさいましたが、その最上の利きめを得るためには、御自分の魂を楽しませ、お心を休める必要がございますので、最上の休息と最上の悦びは、かねて教王《カリフ》より誉れ高きお噂を伺っている、あなた様のお姿を拝し、妙《たえ》なるお歌を承わることを措いて、他にはないとお思いになりました。そしてお妃は御自身親しくそれをお試しになりたく、切にお望みでございます。」するとクート・アル・コルーブは答えました、「承わり従い奉ることは、アッラーと私どもの御主人、妃《シート》ゾバイダとの有《もの》でございます。」そして即刻即座に立ち上がりましたが、彼女は天命がその神秘の企てにおいてわが身に定めておくところを、知らないのでした。そして彼女は自分に必要な楽器類を揃えて、宦官長についてゾバイダ妃のお部屋に参上しました。
彼女は教王《カリフ》のお妃の御前に着くと、いくたびか御手の間の床に接吻し、それから立ち上がって、限りなく快い音声で、申しました、「この後宮《ハーレム》の掲げられた帳《とばり》と崇高な面衣《ヴエール》との上に、預言者の後裔にしてアッバース家の美徳の後継者たる御方《おんかた》の上に、平安あれ。願わくは、アッラーは、日と夜と互いに相続くかぎりいく久しく、われらの御主人様の幸《さち》を永からしめんことを。」そしてこの御挨拶を言上した上で、彼女は他の女官たちと侍女たちのただ中に退きました。
するとゾバイダ妃は、天鵞絨《ビロード》の長椅子《デイワーン》の上に横になっていらっしゃいましたが、おもむろに目を寵姫のほうに上げて、これをじっと御覧になりました。そして御覧ぜられたところに、お目がくらみました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十四夜になると[#「けれども第五百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして御覧ぜられたところに、お目がくらみました。それはこの申し分ない乙女のうちに、御覧になった美しさでございます。夜の髪、薔薇の花冠のような頬、胸許には柘榴、きらめく眼《まなこ》、ものうげな瞼《まぶた》、光り輝く額、月の顔《かんばせ》でございます。たしかに、太陽はその額の生え際の後ろから昇り、夜の闇はその髪によって濃くなるにちがいありません。麝香はその息の凝るところからしか集められるはずなく、花はその雅致と香りをこの乙女から借り受け、月はその額の光輝を借りてしか輝かず、瑞枝《みずえ》はその腰のお蔭を以ってしか揺れず、星はその眼を以ってしか煌《きら》めかず、武士の弓はその眉を真似てしか張られず、海原《うなぱら》の珊瑚はその唇を以ってしか赤らまないのでした。ひとたび怒れば、恋する男たちは生命を失って地に倒れます。怒り鎮まれば、魂は戻って生命なき身体に生命を返します。一瞥を投げれば、悩殺して、両世界をその支配下に服させます。何となれば、まことに、彼女こそは美の奇蹟、当代の誉、これを創《つく》り完成したもうた御方の光栄でございましたから。
ゾバイダ妃は乙女に見入り、詳しく御覧ぜられると、これにおっしゃいました、「安らぎと友情とくつろぎとあれ。われらの間にようこそ来られた、おおクート・アル・コルーブよ。腰を下ろして、そちの技芸と演奏の美とを以って、私たちを悦ばせておくれ。」乙女は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」次に坐って、そして手を伸ばして、まず、見事な楽器、長太鼓を取り上げました。かくして、次の詩人の句を彼女にあてはめることができました。
[#ここから2字下げ]
おお太鼓を打ち鳴らす女よ、わが心は汝《なれ》を聞いて飛び立ちぬ。汝《な》が指の奥深き律を打つ間《ま》に、われを捉うる恋情は拍子に従い、反響はわが胸を打つ。
汝の得るは傷つきし心のみならん。軽き調子に歌うとも、苦痛の叫びを挙ぐるとも、汝はわれらの魂を貫くよ。
ああ、立ち上がれ、ああ衣を脱げ、ああ、面衣《ヴエール》を棄てよ。しかして軽やかの足をあげつつ、おおまこと美しき女よ、軽やかの歓楽とわれらの狂気との足どりをいざや舞え。
[#ここで字下げ終わり]
そして彼女は鳴り渡る楽器を響かせてから、自分で伴奏をしながら、次の即興詩を歌いました。
[#ここから2字下げ]
わが心の兄弟、小鳥らは、傷つきし小鳥なるわが心に言いぬ、「のがれよ、人々と世をのがれよ」と。
されどわれは、傷つきし小鳥なるわが心に言いぬ、「わが心よ、人々に従いて汝の翼、扇《うちわ》のごとく顫《ふる》えよかし。自ら楽しみて、人々を悦ばしめよ。
[#ここで字下げ終わり]
そして彼女はまことにすばらしい声でこの二節を歌ったので、空の鳥は飛ぶことをやめ、宮殿はうっとりとして、そのすべての壁を挙げて、踊り出しました。するとクート・アル・コルーブは長太鼓を置いて、葦笛を取りあげ、唇と指をあてがいました。こうして、次の詩人の詩句を彼女にあてはめることができました。
[#ここから2字下げ]
おお笛吹く女よ、汝が唇の下《もと》、汝がしなやかの指の支うる心なき葦の楽器は、汝が息吹《いぶき》の通えば、新しき魂を得るなり。
わが心のうちに吹き入れよ。響き渡る穴持つ笛の心なき葦よりも、わが心はよく高鳴るべし。何となれば、そこには七つに余る傷ありて、汝が指の触れなば疼《うず》くべければ。
[#ここで字下げ終わり]
彼女は笛の一曲で満座を魅し終えると、笛を措いて、見事な楽器、琵琶《ウーデイ》を取りあげ、絃を合わせ、わが子の上に身をかしげる母親の情愛をこめて、その丸形の上へ身をかしげながら、ぴったりと胸にあてましたが、そのため、詩人がこう申したのは、たしかに彼女とその琵琶《ウーデイ》のことでございます。
[#ここから2字下げ]
おお琵琶《ウーデイ》を奏《かな》ずる女よ、ペルシアの絃上の汝が指は、汝が望みのままに、巧みなる医師のごとく、激情を掻き立て或いは取り鎮む。必要に応じて、思いのままに静脈の血を迸り出させ、或いはそを静かに循環せしむる医師なり。
汝がしなやかの指の下に、ペルシアの絃持つ琵琶《ウーデイ》の、人語を知らずして人々に語るを聞き、あらゆる無知者も言葉なきその言語を解するを見るこそ、見事なれ。
[#ここで字下げ終わり]
そしてそのとき彼女は、十四の異なる奏法で序曲を奏し、自分で伴奏しながら、一篇全曲を歌いましたが、それは見る人々を感嘆で唖然とさせ、聞く人々を歓喜で恍惚とさせました。
次に、クート・アル・コルーブは、ゾバイダ妃の前で、こうしていろいろの楽器で序奏しては、さまざまの歌を歌ってのち、優雅と波打つしなやかさのうちに立ち上がって、舞いました。それがすむと、腰を下ろして、いろいろの曲芸や、杯芸や、手品を演じ、それが実に軽やかな手と、巧みと鮮《あざや》かをきわめましたので、ゾバイダ妃も、嫉妬と意趣と復讐心にもかかわらず、すんでのことに彼女に恋心を覚え、思いを打ち明けそうになられたほどでした。けれどもそのような気持をうまく抑えることがおできになりましたが、心中ではこうお考えになったのでした、「いかにも、お従兄《いとこ》アル・ラシード様が、あのようにこの女に打ちこまれても、非難をお受けになるわけはない。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十五夜になると[#「けれども第五百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてお妃は、奴隷たちに饗応をするように命令を下し、憎しみの心を、こうした最初の感情に打ち勝たせさせなさいました。とはいえ、惻隠の情をお心からすっかりのがれさせてしまったわけではなく、最初競争者を毒殺し、永久にこれを片づけてしまう計画を立てたのを、その実行を見合わせ、クート・アル・コルーブに出す捏粉菓子のなかに、大量の眠り薬の麻酔剤《バンジ》を混ぜさせるだけにとどめなさいました。それで寵姫がこの菓子のひと片に唇を近づけるやいなや、彼女はのけざまに倒れて、昏睡の闇のなかに沈み入りました。するとゾバイダ妃は非常な悲しみを装いながら、これを秘密の一室に移すよう奴隷たちに命じなさいました。次に、この女はあまりいそいで食べたので窒息してしまったと言いふらし、その死亡の噂をひろめさせなさり、盛大な葬儀と埋葬の真似事をさせ、王宮のお庭そのもののなかに、豪奢なお墓を、取りいそぎ建てさせなさいました。
されば、こうしたすべてが、教王《カリフ》のお留守中に起ったのでございます。けれども、漁師カリーフとの出来事ののち、教王《カリフ》が王宮にお戻りになると、最初に気を配りなさったことは、宦官たちに、最愛のクート・アル・コルーブの消息を問い合わせることでした。すると宦官たちは、秘密を洩らすような場合は絞首刑に処すると、ゾバイダ妃に脅やかされていたので、哀悼の調子で、教王《カリフ》にお答え申しました、「悲しいかな、おおわが殿、アッラーは君の日々を永からしめ、御頭上《おんずじよう》にわれらの御主人クート・アル・コルーブ様に払うべき未納金をば、払いこみなされまするように。君の御不在は、おお信徒の長《おさ》よ、甚だしき絶望と苦痛をひき起し、ために御寵姫は激動に耐えかね、急死に襲われなさいました。そして今はその主《しゆ》の平安の裡に在りなさりまする。」
この言葉に、教王《カリフ》は狂人のように、宮殿のなかを駈けまわりはじめ、両のお耳をふさぎ、出会う者すべてに、大声あげて、最愛の女性の居所をお訊ねになりました。すると一同、そのお通りになる先々で、腹ばいになったり、列柱の蔭に隠れたりしました。こうして教王《カリフ》は、寵姫の贋の墓が建っているお庭に着きなさると、額を大理石に打ちつけ、両腕を拡げ、あらゆる涙を流しながら、お叫びになったのでした。
[#ここから2字下げ]
おお墓よ、いかにして汝が冷やかなる影と汝が夜の闇とは、最愛の者を包み得るや。
おお墓よ、アッラーにかけて、告げよかし、わが友の美と色香は永久に消されしや。永遠《とこしえ》に消え失せしや、かの人の美の心楽しき眺めは。
おお墓よ、いかにも汝は「歓楽の園」にはあらず、高き天空にもあらず。されど告げよかし、然らば何とて、われは汝が奥所に月輝き、小枝の花咲くを見るならん。
[#ここで字下げ終わり]
そして教王《カリフ》はひと時の間、こうしてむせび泣き、お苦しみを吐露しつづけなさいました。そのあと、立ち上がって、御自分のお部屋に引きこもりに走って行かれ、お慰めの言葉を聞くことも、お妃はじめお親しい方々を入れることも、なさろうとはしませんでした。
ゾバイダ妃のほうは、計《はかりごと》が首尾よくいったのを見なさると、ひそかにクート・アル・コルーブを衣裳箱の中に納めさせて(というのは、彼女はずっと麻酔剤《バンジ》の催眠の利きめを感じつづけていましたので)、腹心の奴隷二人に、この長持を王宮の外に運び出し、蓋をあけて見ることなく買うという条件で、市場《スーク》で最初に現われた買い手に売り払うようにと、命じなさいました。
こうした人々すべてについては、以上のようでございます。
ところで、漁師カリーフはどうかと申しますと、漁の翌日、目がさめたとき、彼の最初に考えたことは、自分に二匹の魚の代金を払わなかった、あの去勢された黒人のことでして、彼は独りごとを言いました、「今でもおれのするべき最善の策は、宮殿に行って、あの宦官サンダル、鼻の孔のでかい、呪われた女の息子を尋ねることにちがいない、あいつが自分でおれに散々そう勧めたのだからな。もしやつが金を払わなかったら、アッラーにかけて、おれはやつのお釜を掘ってやるぞ。」そして彼は王宮へと向いました。
さて、王宮へ着いてみると、カリーフは一同上を下への有様なのを見ました。そして御門のところで、彼の出会った最初の人間は、ちょうど宦官サンダルで、彼は他の黒人と宦官たちのうやうやしい一団のまん中に坐り、盛んに身振りをしながら論じているところでした。そこで漁師はそちらに進むと、一人の若い白人奴隷《ママルーク》が道を遮ろうとしたので、そいつを突きとばして、どなりました、「歩いて行け、女衒《ぜげん》の息子め。」この叫び声に、宦官サンダルは振り向いて、それが漁師カリーフであるのを見ました。そこで宦官は、笑いながら、彼に近づくように言いましたので、カリーフは進み出て、言いました、「アッラーにかけて、おれは千人の中ででもお前をちゃんと見つけただろう、おお褐色の旦那、おおわが小さなチューリップよ(9)。」宦官はこの言葉を聞いて、吹き出し、これに愛想よく言いました、「まあちょっと坐りなさい、おお御主人カリーフよ。今すぐお前の分は払ってあげるから。」そして金を取り出して渡そうと、隠しに手を入れたとき、叫び声があって、大|宰相《ワジール》ジャアファルが教王《カリフ》のところから退出して、お見えになった旨を、告げ知らせました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十六夜になると[#「けれども第五百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで宦官と奴隷と若い|白人奴隷たち《ママリク》は、二列に並ぶため立ち上がりました。そしてサンダルは、宰相《ワジール》に話があると手で合図をされたので、漁師をそのまま置いて、あたふたとジャアファルの指図のままに従いました。そして両人は、あちこちと歩きまわりながら、永いこと話し出しました。
カリーフは宦官がなかなか自分のところに帰ってこないのを見ると、こいつはてっきり、自分に金を払わないための宦官の策略だと思いました。宦官は彼のことをすっかり忘れたらしく、まるで彼なぞいないみたいに、てんで彼のいることを気にかけている様子もないだけに、なおさらそう思いこみました。そこで彼は動きまわりはじめ、遠くから宦官に、「早く帰ってこい」という意味の、いろいろな素振りをしはじめました。ところが先方は、これにいっこう注意を払わないので、こんどは皮肉な口調で、彼に叫びかけました、「おおチューリップの殿様、わしの分を払って、引き上げさせて下さいな。」宦官はジャアファルがいる手前、この呼びかけにはすっかり閉口して、返事をしようとはしませんでした。それどころか、そちらのほうに大|宰相《ワジール》の注意を向けないようにと、いっそう熱をこめて話しはじめたものですが、それも無駄でした。というのは、カリーフはさらに近よって、物すごい大声で、大きな身振りをしながら、叫んだのでした、「やい、払いのできない碌でなし、アッラーは悪意のやつらと、貧乏人から財産を巻き上げるすべてのやつらを、懲らしめて下さるように。」次に調子を変えて、皮肉に彼に叫びかけました、「わしは旦那の保護の下へわが身を置きますよ、おおわが空腹《すきつぱら》の殿様。どうかお願いします、わしにわしの分を払って、引き上げさせて下さいまし。」宦官は困りきってしまいました。それというのは、ジャアファルはこんどは、見もし聞きもしたからです。けれどもまだ何のことやら合点がゆかないので、彼は宦官に訊ねました、「いったいどうしたのか、あの憐れな男は。誰があの男の取り分を踏み倒したりなどしたのか。」すると宦官は答えました、「おおわが殿、あの男が何ものか御存じありませんか。」ジャアファルは言いました、「アッラーにかけて、どうしておれが知っていよう、あの男を見るのは今がはじめてであるのに。」宦官は言いました、「おおわれらの殿よ、これこそまさに、昨日私どもが争って彼の魚を取って、教王《カリフ》の御許に持ち運んだ、あの漁師でございます。そして私は、彼の手許に残っていた魚二匹分の金を約束いたしまして、借りた分を払うから、今日私に会いに来るようにと申したのでございます。そして先刻払ってやろうとしておりますところに、御手の間に駈けつけなければならないことになりました。そのために、この善良な男はじりじりして、今このように私に荒々しく言葉をかけた次第です。」
宰相《ワジール》ジャアファルはこの言葉を聞いたとき、静かに微笑して、宦官に申しました、「おお宦官の長《おさ》よ、その方はどのような心算《つもり》かな、信徒の長《おさ》のお師匠その人に対し、このように敵意と、慇勤と、尊重を欠くとは。憐れなるサンダルよ、もし教王《カリフ》が、お仲間でありお師匠である漁師カリーフをば、無上に尊敬するところがなかったということを、聞こし召されたならば、そもそも何と仰せらるるであろうか。」次にジャアファルは急に付け加えました、「おおサンダルよ、とくに気をつけて彼を立ち去らすなよ。というのは、彼はこれほど折よく来合わせることはできなかった。あたかも今|教王《カリフ》は、御寵姫クート・アル・コルーブの逝去によって、御胸狭まり、お心悲しみ、御魂《おんたましい》は悼《いた》み、絶望に陥っておられる。おれは普通のあらゆる手段を尽して、お慰め申そうと努めたがだめであった。しかしひょっとすると、この漁師カリーフの助けを借りて、われわれはお胸を拡げ奉ることができるやも知れぬ。されば、おれはこれから彼についての教王《カリフ》の御意《ぎよい》を探ってくるから、その間彼をば引きとめておけよ。」すると宦官サンダルは答えました、「おおわが殿、よしと思し召さるるところをなさいませ。どうかアッラーは殿をば、信徒の長《おさ》の帝国と王朝との支え、柱、礎石として、永久に永らえしめ、お守り下さいますように。そしてどうか御身の上と王朝の上とに、至高者の御庇護の影がありまするように。そして枝と幹と根の、幾代に亘って恙《つつがな》きように。」そしてジャアファルが教王《カリフ》の御許に伺っている間、彼はいそいでカリーフのところに戻って行きました。すると漁師は、やっと宦官が来るのを見て、これに言いました、「ほう、やってきたね、おお空腹《すきつぱら》の旦那。」そして宦官が|白人奴隷たち《ママリク》に、漁師を捕えて、帰さないようにせよと命令を下すと、漁師はこれに叫びました、「大方こんなことだろうと覚悟していたよ。貸した者が借りた者になり、請求するほうが請求されるほうになるのかね。ああ、おれの陰茎《ゼブ》のチューリップめ、おれはここに自分の取り分を請求に来たのに、税金が滞《とどこお》っているの、租税が払ってないのと言いがかりをつけて、おれを牢屋にぶちこみやがるのだな。」漁師のほうは、このようでした。
教王《カリフ》につきましては、ジャアファルはおそばにはいってみますと、教王《カリフ》はお頭《つむ》を両手に抱え、お胸を嗚咽に波立たせながら、お身を二つに折りまげていらっしゃいました。そして静かに次の詩句を誦していらっしゃいました。
[#ここから2字下げ]
われを難ずる者どもはわが慰めがたき苦しみを絶えずわれに咎む。されどわれは何をかなし得ん、心は一切の慰めを拒むとき。そはわが意のままになるべきや、この不覊の心は。
いかでかわれは生命絶えずして、わが魂に思い出満つる愛《いと》し子の不在を耐え得べき、美わしき優しき娘、かくも優しき、おおわが心よ。
否、われは遂にこれを忘るることあらじ。われらの間に盃のめぐりしとき、いかでこれを忘るべき、われ彼が眼差《まなざし》の酒を飲みし盃、われ今なお酔いてある酒ぞ。
[#ここで字下げ終わり]
ジャアファルは教王《カリフ》の御手の間に出ると、申し上げました、「君の上に平安あれ、おお信徒の長《おさ》、おおわれらの信仰の栄誉《ほまれ》の擁護者、おお使徒の王者《きみ》の叔父君の御後裔よ。願わくは使徒の王者《きみ》の上とそのあらゆる御一族の上に洩れなく、祈りとアッラーの平安あれかし。」すると教王《カリフ》はジャアファルのほうに、涙溢れる御目《おんめ》と、痛ましげな御眼差《おんまなざし》をあげなすって、これにお答えになりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十七夜になると[#「けれども第五百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……これにお答えになりました、「して汝の上にも、おおジャアファルよ、アッラーの平安と御慈悲《ごじひ》と御祝福《おんしゆくふく》あれ。」するとジャアファルはお訊ね申し上げました、「信徒の号令者はその奴隷に口を開くことをお許しになられましょうか、それともお禁じになられましょうか。」アル・ラシードは答えなさいました、「いったいいつから、おおジャアファルよ、その方が余に口を開くを禁じられているか、わが全|宰相《ワジール》の主《あるじ》にして頭《かしら》たるその方が。余に申したき一切を申すがよい。」そこでジャアファルは申しました、「おおわが殿よ、私が自宅に戻ろうとて御手の間を退出いたしますると、王宮の御門のところに、宦官たちのまん中に立って、君の御師匠であり、御指南番であり、お仲間である、漁師カリーフに出あいましたが、彼はわが君に、申し出でたき数々の不満があり、わが君のことを嘆いて、申しておりました、『アッラーに栄光あれ、わしはわが身に起ることがとんと合点がゆかぬ。わしはあの人に漁の術を伝授してやったのに、あの人はてんでありがたいと思わぬばかりか、籠を二つ買ってくると言って出たきり、いっこう戻って来なかった。これがいい相棒とかいい見習のすることかね。それとも世間じゃ自分のお師匠に、こうした返礼をするものかね』ところで私は、おお信徒の長《おさ》よ、もしわが君がずっと彼のお仲間でいらっしゃるお積りならば、そうなさりますよう、またもしそうでないのならば、彼にお二人の間の協定破棄を通告なさって、彼にほかの仲間なり相棒なりを見つけさせてやるがよろしかろうと、取りいそぎ事をお知らせに参じた次第でございます。」
教王《カリフ》は宰相《ワジール》のこの言葉をお聞きになると、嗚咽にむせびなさっていたにもかかわらず、微笑をなさり、次には大笑いをなさらずにはいられなくなられ、お胸の拡がるのをお覚えになって、ジャアファルにおっしゃいました、「汝の上なるわが生命《いのち》にかけて、おおジャアファルよ、漁師カリーフが今王宮の門のところにいるのは、しかとまちがいないか。」ジャアファルはお答えしました、「君の御《おん》生命《いのち》にかけて、おお信徒の長《おさ》よ、まさにカリーフ自身が、その両の眼を持って、御門のところにおりまする。」するとハールーンはおっしゃいました、「おおジャアファル、アッラーにかけて、余は今日彼の功績に応じて、相応のものを授け、当然受くるところを与えねばならぬ。さればもしアッラーが、余を介して、彼に刑罰あるいは苦痛を送りたまわば、彼はそれをそっくり受けるであろう。もしこれに反して、彼の運命のために繁栄と好運を記《しる》したもうならば、彼はやはりそれを受けるであろう。」こうおっしゃりながら、教王《カリフ》は一葉の大きな紙葉を取りあげ、これを同じ大きさの小片に切って、おっしゃいました、「おおジャアファル、その方自身の手にて、この小さな紙片二十の上に、一ディナールより千ディナールまでの金額と、教王《カリフ》、王族《アミール》、宰相《ワジール》、及び侍従の高位より、王宮の最微の職に至るまでの、わが帝国のあらゆる官職の名を記せ。次に、他の紙片二十の上には、笞刑《ちけい》より絞首刑、死刑に至るまで、あらゆる種類の刑罰拷問を記せ。」ジャアファルはお答えしました、「仰せ承わり、仰せに従い奉りまする。」そして彼は蘆筆《カラーム》を取って、自分自身の手で、教王《カリフ》のお命じになった御指示を書きました。一千ディナール[#「一千ディナール」に傍点]とか、侍従職[#「侍従職」に傍点]とか、王族位[#「王族位」に傍点]とか、教王位[#「教王位」に傍点]とか、また、死刑判決[#「死刑判決」に傍点]とか、入牢[#「入牢」に傍点]とか、笞刑[#「笞刑」に傍点]とか、それに類した事がらといった風に。次に彼はそれら全部を同じように畳んで、それを小さな金の鉢に投げ入れ、全部を教王《カリフ》にお渡しすると、教王《カリフ》はこれに仰せられました、「おおジャアファル、余はわが聖なる父祖、至純者らの神聖なる功徳にかけ、またハムザー(10)とアキール(11)に溯るわが王家の祖先にかけて誓う。漁師カリーフがやがてここに参ったとき、余はこれに、余とその方以外中身を知る者なきこれらの紙片のうち、一枚を引くように命じ、彼の引いた紙片に記されてあるところは、記されてある事のいかんにかかわらず、何なりと授けてとらするであろう。よしんばわが教王《カリフ》の位が彼の手へ落ちようとも、余は即刻彼のために王位を譲り、魂のあらゆる寛大を示してこれを彼に伝えてやろう。されどもし反対に、彼に当るところが絞首刑、四肢切断、去勢、あるいはいかなる種類の死なりとも、余はそれを頼むすべなく受けさせてやろう。されば行って彼を拉し、猶予なくこれへ連れてまいれ。」
このお言葉を聞いて、ジャアファルは心中で独りごとを言いました、「全能者、栄光満てるアッラーのほかには、尊厳もなく、権力もない。あの憐れな男の引く紙片が、悪いほうの紙片で、あの男の破滅の機会にならぬとも限らぬ。かくしておれはみずから欲せずして、あの男の不幸の最初の原因となるやも知れぬわい。何せ教王《カリフ》はそう誓いを立てなすったし、御決心を翻えさせ申すことなど思いもよらぬからな。されば、おれはあの憐れな男を呼びにゆくよりいたし方ない。そしてアッラーによって記されたところよりほかに、起らぬであろう。」次に彼は漁師カリーフに会いに行って、その手をとって、王宮の中に引き入れようとしました。ところが漁師は、それまでもさんざんあばれ廻って、逮捕の不平を鳴らし、宮廷などにやって来たことを悔やみつづけていたのですが、こんどは、危うく自分の分別が残らず飛び去ってしまうのを見そうになって、叫びました、「なんておれは間抜けだったんだろう、自分の思いつきに従って、ここにあの黒い宦官、禍いのチューリップに会いに来るなんてなあ、あのでっかい鼻の孔をした、呪われた女の唇の厚い息子め、あの空腹《すきつぱら》野郎め。」けれどもジャアファルはこれに言いました、「さあ、わが後《あと》についてまいれ。」そして大勢の奴隷と少年を前後に従えて、彼を引っ張ってゆきますと、カリーフはたえず皆を罵っていました。一同は彼を七間の広大な控えの間を通って、奥にはいってゆかせますと、ジャアファルはこれに言いました、「気をつけよ、おおカリーフよ、お前はこれから信仰の擁護者、信徒の長《おさ》の御前《おんまえ》に出るのだぞ。」そして大きな扉の垂幕を掲げて、漁師を接見の間に押しやりますと、そこにはハールーン・アル・ラシードが、王族《アミール》と宮廷の大官に取りかこまれて、玉座に坐っていらっしゃいました。ところがカリーフは、自分の見ているものが何か全然思いもよらず、すこしも騒ぐことなく、栄華のただ中のハールーン・アル・ラシードを、この上なく注意をこめてじっと見つめながら、けたたましく笑いつつそちらに歩みよって、申しました、「おや、ここにいたのか、おお笛師よ。お前さんは昨日おれにひとりで魚の番をさせたまま行ってしまって、あれでいったい正直に振舞ったつもりかね、おれはお前さんに商売を教えてやり、籠を二つ買ってきてくれと頼んだのに。お前さんはああしておれを、身を守るすべもなく放り出して、禿鷹の群れのように、盗みにきやがり、おれの魚をかっぱらいにきた大勢の宦官どもの、するがままにまかせておいたんだぜ、あの魚は少なくとも百ディナールにはなったものを。それに、今ここでとっつかまって、この連中全部のただ中で、こんな目にあっていることの原因《もと》はといえば、これもやっぱりお前さんだよ。だがな、おお笛師よ、いったい誰がお前さんをつかまえて、閉じこめ、そんな椅子に縛りつけたりしたんだね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十八夜になると[#「けれども第五百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
このカリーフの言葉に、教王《カリフ》は微笑を洩らされ、そして、ジャアファルの書いた紙片のはいっている金の鉢を、両手におのせになって、これにおっしゃいました、「近うよれ、おおカリーフよ、そしてこれらの紙片のうち、一枚の紙片を引けよ。」けれどもカリーフはけたたましく笑いながら、叫びました、「なんだ、おお笛師よ、お前さんはもう商売代えして、楽隊はやめにしたのかい。こんどは星占いになったのだね。昨日は漁師の弟子入りをしたのに。悪いことは言わない、笛師よ、そんなことをしていちゃたいしたものにはならないぜ。なぜって、いろいろの商売をすればするほど、儲けは少なくなるからな。だから星占いなぞすっぽりやめて、また笛師になるか、さもなけりゃ、おれと一緒に漁師奉公に戻るのだね。」そしてさらに話しつづけようとすると、そこにジャアファルが進み寄って、これに言いました、「そんなおしゃべりはもうたくさんじゃ。信徒の長《おさ》にお命じになったように、あの紙片のうち、一枚を引きに行け。」そして彼を玉座のほうに押しやりました。
するとカリーフは、ジャアファルの押すのにさからいながらも、ぶつぶつ言いながら金の鉢のほうに進み出て、そこにどさりと片手を突っこんで、ひと掴みの紙片を一度に引き出しました。けれども見張っていたジャアファルは、それを手放させて、ただ一枚だけしか取らないようにと申し渡しました。するとカリーフは、彼を肱で押しのけながら、また手を突っこみ、こんどはただの一枚だけ引き出しながら、言いました、「この頬っぺたの膨らんだ竪笛《クラリネツト》吹き、星占いの卜者を、これから先、また仕事に使ってやろうなんていう気は、一切おれに起きないように。」こう言いながら、その紙片を拡げましたが、字が読めないもので、それをさかさに持ちながら、教王《カリフ》に差し出して、申しました、「おい笛師よ、この紙きれに書いてある卦《け》を読んでくれないかね。わけても、おれに何ひとつ隠さずに言っておくれよ。」すると教王《カリフ》はその紙片をお取りになり、お読みにならずに、そのままこんどはジャアファルにお渡しになって、おっしゃいました、「これに記されてあるところを、声高くわれらに読みあげよ。」ジャアファルは紙片を受けとって、これを読むと、両腕をあげて、叫びました、「全能者、栄光満てるアッラーのほかには、尊厳はなく、権力はない。」教王《カリフ》は微笑を浮べて、ジャアファルにお尋ねになりました、「吉であることを望むぞ、おおジャアファル。何ごとか。申すがよい。余は玉座より下りねばならぬか。玉座にカリーフを上《のぼ》らせねばならぬか。それとも彼を絞首に処さねばならぬかな。」するとジャアファルは、不憫げな口調で答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、この紙片に記されて、漁師カリーフに棒百[#「漁師カリーフに棒百」に傍点]とございまする。」
すると教王《カリフ》は、カリーフの叫びと抗弁にもかかわらず、仰せられました、「判決を実施せよ。」すると御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールは、狂おしくわめき叫ぶ漁師を捕えさせ、腹這いに寝かせて、これに棒百を、それより一つも多くも少なくもなく、拍子をとりながら加えさせました。カリーフは、かねて皮膚を鍛えて強くしておいたため、少しも痛さを感じなかったけれども、恐ろしい叫び声をあげ、竪笛《クラリネツト》吹きに対して数々の呪いを発しました。教王《カリフ》はもうこの上なくお笑いでした。棒百を加えられおわると、カリーフはまるで何ごともなかったかのように立ち上がって、叫びました、「どうかアッラーはお前の悪戯《いたずら》を呪いなさるように、おおでぶっちょよ。いったいいつから、棒を食らわせることが、立派な人たちともあろうものの間の、冗談となっているのだい。」するとジャアファルは、慈《いつくし》みぶかい魂と憐れみぶかい心を持っていたので、教王《カリフ》のほうに向いて、申し上げたのでした、「おお信徒の長《おさ》よ、どうか漁師が今一度、紙片を一枚引くことをお許し下さりませ。おそらくは、運命がこんどはこの者にさらに利あるものでございましょう。それに、わが君におかれましても、君の旧師たるものが、その渇を医すことなく、君の恩沢の大河より遠ざかるは、好まれざるところでございましょう。」教王《カリフ》は答えなさいました、「アッラーにかけて、おおジャアファル、その方いかにも軽率じゃ。王者たるものは、その誓約あるいは約束を取り消す習慣を持たぬことは、その方も知るところじゃ。さて、もし漁師が第二の紙片を引いて、絞首刑が当ったとしたならば、頼むすべなく絞首にせらるるであろうことは、その方あらかじめしかと心得ねばならぬぞよ。かくてその方は、この者の死の原因となるわけである。」ジャアファルはお答えしました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、不幸なる者の死は、その生にまさりまする。」すると教王《カリフ》はおっしゃいました、「よろしい。さらば第二の紙片を引かせよ。」けれどもカリーフは教王《カリフ》のほうを向いて、叫びました、「おお禍いの笛師よ、アッラーはお前の気前のよいことを報いて下さるように。だけどいったいぜんたい、こんな立派なためしをさせるのに、バグダード中に、おれのほかに誰か別の人を見つけられないものかね。それともバグダード全市に、もうおれよりほかに使えるやつはいないというのかね。」けれどもジャアファルは進み寄って、これに言いました、「もう一度、紙片を一枚とれ。アッラーがお前にそれを選んで下さるであろう。」
そこでカリーフは金の鉢に手を突っこんで、しばらくすると、一枚の紙片を引き出し、それをジャアファルに渡しました。するとジャアファルはそれを拡げて、読み、黙って眼を伏せました。教王《カリフ》は静かな口調で、お訊ねになりました、「なぜ黙っておるのか、おおヤハヤーの子よ。」ジャアファルはお答え申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、この紙片には何も書いてございません。白紙でござります。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「どうじゃ、わかったろう。この漁師の好運はわれらの許にて彼を待っておらぬ。されば今は、わが面前よりさっさと立ち去るよう、彼に申せ。もう彼を見るのはたくさんじゃ。」けれどもジャアファルは言いました、「おお信徒の長《おさ》よ、聖なる御先祖、至純者方の聖なる御功徳にかけて、願い奉りまする。漁師に今一度、第三の紙片を引くことをお許し下さりませ。おそらくはかくして、彼は餓死せざるに足るものを、そこに見出し得るやも知れませぬ。」
するとアル・ラシードはお答えになりました、「よろしい。さらば第三の紙片を取らせよ、されどそれ以上は相成らぬ。」そこでジャアファルはカリーフに言いました、「さあ、おお憐れなる者よ、第三の最後の一枚を取れ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百六十九夜になると[#「けれども第五百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……さあ、おお憐れなる者よ、第三の最後の一枚を取れ。」そしてカリーフが今一度引くと、ジャアファルは紙片を受けとって、声高く読み上げました、「漁師に一ディナール。」この文句を聞くと、漁師カリーフは叫びました、「お前の上に呪いあれ、おお禍いの笛師よ。棒百に対して一ディナールとは、何という気前のよさだい。どうかアッラーは審判の日に、お前を同じめに合わせて下さるように。」教王《カリフ》はすべての魂をあげて笑い出されましたが、ジャアファルは結局首尾よく御心《みこころ》を紛らしたわけですから、漁師カリーフの手を取って、玉座の間を退出させました。
カリーフが城門のところに着くと、宦官サンダルに出会って、呼びとめられ、言われました、「こっちに来い、カリーフ。信徒の長《おさ》の寛仁がお前に下さったものを、少々われわれにおすそわけしに来いよ。」するとカリーフはこれに答えました、「ああ、瀝青《れきせい》の黒人め、おすそわけしてほしいって。じゃ、その黒い肌に、棒百の半分をもらいに来な。悪魔《イブリース》が地獄できさまに棒を食らわせるまで、さしずめ、ほらここに、きさまの主人の竪笛《クラリネツト》吹きがおれにくれた一ディナールあるから、くれてやらあ。」そして彼は、ジャアファルが手に握らせてくれたディナール金貨を、宦官の顔に投げつけてやり、自分の道に立ち去るため、城門を越えようとしました。けれども宦官はその後から駈けよって、隠しから百ディナールの財布を取り出しながら、それをカリーフに差し出して、言いました、「おお漁師よ、昨日おれが買った魚の代金に、このディナールを取るがいい。そして安らかに行け。」するとカリーフはこれを見て、たいそう悦び、その百ディナールの財布と、またジャアファルの与えた一ディナールも受けとって、わが身の不運と、さっき受けた仕打ちも打ち忘れ、宦官に暇を告げて、意気揚々、有頂天のかぎりで、わが家へと戻りました。
ところでです。アッラーはひとたび事をお定めになったら、それをいつでも実行なさいますし、このたびは、その御決定はまさに漁師カリーフについてのことでしたので、御意《みこころ》は成就しなければならないのでございました。はたして、カリーフはわが家に戻ろうと、市場《スーク》を抜けておりますと、奴隷市場の前で、みんな同じ一点を眺めている大勢の人々の輪で、道を阻まれました。そこでカリーフは思いました、「こんな風にいったい何を眺めているのだろう、この人だかりは。」そして好奇心に駈られて、彼は商人や仲買人、金持や貧乏人を突きとばしながら、人込みを押し分けてゆきますと、一同漁師とわかって、笑い出しながら、互いに言い合いました、「どいた、どいた、金持旦那のお通りだ、市場《スーク》をそっくりお買い上げになるだろう。お釜掘りの大将、最高カリーフ様のお通りだ。」それでもカリーフはすこしもひるまず、帯に締めこんだディナール金貨をずっしり感じて気強く、最前列まで出て、何事かと眺めました。すると一人の老人が、自分の前に長持をひとつ置いていて、その上に奴隷がひとり腰をおろしているのが見えました。そしてその老人は大声で競売《せりうり》をして、言っておりました、「おお商人衆よ、おお金持の方々よ、おおわが都の高貴な住人方よ、中身はわれらも知らぬこの見事な長持を買い求めて、百パーセントの儲け仕事に御自分の金を投資なさるのは、皆様方のうちどなたかな。この長持こそはたしかに、信徒の長《おさ》の御妃《おんきさき》、カスィムの王女、ゾバイダ様の御殿から、出たことにまちがいなし。さあ皆様買値をおつけあれ。アッラーは、いちばん上値をつけなすったお方を祝福なされまするように。」けれどもその呼びかけに、満場声なく答えるばかり。というのは、商人たちは中身のわからぬこの長持に、敢えて何がしかの金額を張る気になれず、そこには何かぺてんがしかけてあるのではないかと、たいそう恐れていたのです。けれども最後に、商人の一人が声をあげて、言いました、「アッラーにかけて、この取引は何とも危っかしいわ。大冒険だ。だがとにかく手前が付け値をしてみますが、どうか皆さん咎めないで下さいよ。じゃ手前がひと言いいますが、手前をお叱りなさらんでおくんなさい。こうだ、二十ディナール、こっきり。」けれども他の一人の商人がすぐにせり上げて、言いました、「おれは五十だ。」すると他の商人たちがせり上げて行って、付け値は百ディナールに達しました。すると競売人はよばわりました、「皆様方の間に、もっとせり上げなさる方はいなさらんか、おお商人衆よ。最後に、付け値をなさるお方はいないか。百ディナールじゃ。最後に付け値をなさるお方はいなさらんか。」するとカリーフは声をあげて、言いました、「おれだ、百ディナールと一ディナールといこう。」
このカリーフの言葉に、彼が埃を振り払って叩いた敷物と同じほど、きれいさっぱり金のないことを知っている商人たちは、彼がふざけているのだと思って、どっと笑い出しました。けれどもカリーフは帯をほどいて、怒声をはりあげて繰り返しました、「百ディナールと一ディナールだ。」すると競売人は、商人たちの笑いにもかかわらず、言いました、「アッラーにかけて、この長持はこの方のものじゃ。わしはこの方よりほかには売らん。」次に付け加えました、「さあ、漁師さん、百一を払って、この箱を中身ごとおおさめ下され。どうかアッラーはこの売立を祝福して下さるように。そしてこの買い物のおかげで、お前様の上に繁栄があるように。」そこでカリーフは、きっちり百ディナールと一ディナールはいっている自分の帯を、競売人の手の間に空け、売立は双方互いに十分合意の上で行なわれました。そしてその長持は、今から漁師カリーフの所有物《もちもの》となりました。
すると市場《スーク》の荷担《にかつ》ぎたち全部は、売立が成立したのを見て、誰が首尾よく長持を運んで駄賃をとれるかと争いながら、長持めがけて殺到しました。けれどもこれは、不幸なカリーフには用のないことでした。何しろこれを買うため、有り金全部をはたいてしまって、もう玉葱ひとつ買うだけの持ち合せもない身でしたから。けれども荷担ぎどもは、先を争って長持をひったくり合い、喧嘩をつづけているので、とうとう商人たちが中にはいって引き分け、言いました、「一番乗りは人足ゾライクだ。だから、かつぐのはこの男だ。」そしてゾライクを除いて、全部の荷担ぎを追い払って、カリーフが自分で長持を運んで行きたいと抗弁するのもかまわずに、長持をこの人足の背中にのせて、荷物を持って御主人カリーフのお伴をしろと言いつけました。荷担ぎは長持を背負って、カリーフの後から歩きはじめました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十夜になると[#「けれども第五百七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてカリーフは歩きながら、魂のなかで独りごとを言っていました、「おれはもう金貨も、銀貨も、銅貨も、こうしたものすべての匂いさえも、持ち合せちゃいないわい。家《うち》に着いたら、この呪われた人足野郎に金を払うには、いったいどうしたらよかろう。おれには人足なんぞ何の用があったか。それにこの災いの長持なんぞも、何の用があったか。こいつを買おうなんていう考えを、いったい誰がおれの頭に入れやがったんだろう。だが記《しる》されたことは行なわなけりゃなるめえ。とにかくさしずめおれは、この人足を始末するため、やつが疲れてへとへとになるまで、あっちこっちの街を通って、走らせ、歩かせ、道を迷わせてやるとしよう。そうすりゃ、やつのほうから言い出して、もう足をとめてしまい、それ以上進むのはごめんだとことわるだろう。それでおれは、やつのことわるのにつけこんで、こっちも金を払うのをことわってやり、この長持はおれが自分でかついで行くとしよう。」
こういう計画を立てると、彼はさっそくそれを実行しました。そこで一つの街から他の街へ、一つの広場から他の広場へと行きはじめ、自分と一緒に荷担ぎに全市を廻らせ、これが正午から日暮れまでに及んだので、人足はすっかり疲れきって、とうとうぶつぶつこぼして呟き出し、思い切ってカリーフに言いました、「おお御主人様、いったいあなたのお家はどこにあるんです。」するとカリーフは答えました、「アッラーにかけて、昨日まではある場所を覚えていたのだが、今日はすっかり忘れてしまった。それで今お前と一緒にありかを探しているところさ。」荷担ぎは言いました、「駄賃をくれて、この長持を受けとっておくんなさい。」カリーフは言いました、「もう少し待ってくれ、まあゆっくり行って、おれにとっくり思い出させ、家のある場所をよく考える暇をくれろよ。」それからしばらくたって、荷担ぎがまた呻きぶつぶつ言い出すと、漁師はこれに言いました、「おいゾライク、実はおれは金の持ち合せがなくて、この場で駄賃をあげるわけにはいかないのだ。実際のところ、金は家に置いてきてしまって、その家は忘れてしまったというわけだ。」
そして荷担ぎがもう歩けなくなって立ちどまり、荷を下ろしかけますと、そこにたまたまカリーフの知り合いの男が通りかかり、カリーフの肩を叩いて、言いました、「おや、カリーフじゃないか。お前の区からこんなに遠いこの区に、いったい何をしに来たんだい。そんな風にこの男に何を背負わせているんだ。」けれどもカリーフがどぎまぎして、返事をする暇もないうちに、人足のゾライクはくだんの通りがかりの男のほうを向いて、尋ねました、「おお小父さん、いったいカリーフさんの家はどこにあるんですか。」その男は答えました、「アッラーにかけて、妙なことを聞くな。カリーフの家はちょうどバグダードの向うの端《はず》れ、ラワスィーン区の、魚市場のそばにある、ぼろぼろの旅籠《はたご》のなかにあらあ。」そしてその男は、笑いながら行ってしまいました。すると人足のゾライクは、漁師のカリーフに言いました、「さあ、歩け、畜生め。お前なんざあもう生きてもいず、歩けもしなけりゃいいんだ。」そしてむりやり自分の前を歩かせ、魚市場のそばの、ぼろぼろの旅籠屋《カーン》のなかにある、その住居まで案内させるのでした。そして着くまで、悪態をついて、そのやり口を咎めることをやめないで、言うのでした、「こいつめ、縁起でもねえ面《つら》め、どうかアッラーはこの世で、お前の日々のパンを絶ちきって下さればいい。てめえの災難の家の前を何度も何度も通ったくせに、おれにとまれという素振りもしやがらねえで。さあ、こんどは手を貸して、おれの背中から自分の長持をおろしやがれ。お前なんぞはやがてこの箱のなかに閉じこめられて、二度と再び出てこねえがいいや。」しかしカリーフはひと言も言わずに、手を貸して長持をおろしてやると、ゾライクは、大粒の額の汗を手の甲で拭いながら、言いました、「さあ今は、用もないのに散々ぱらおれに疲れを辛抱させたあげくなんだから、おれにくれなけりゃならねえ駄賃でもって、お前の魂の大きなところと、手の気前のよいところを拝見いたしましょうぜ。おれに自分の道を行かせるように、いそいでくんな。」するとカリーフは言いました、「承知した、仲間よ、手間はたっぷりさしあげよう。金貨を持ってくるのがいいか、銀貨がいいかね。好きなほうにしてやろう。」すると荷担ぎは言いました、「何がいいかは、おれよかお前のほうがよく知ってらあ。」
するとカリーフは、荷担ぎを長持と一緒に戸口に残して、自分の住居にはいり、やがて物すごい鞭を手にして出てきました。それはたくさんの革紐の一本一本に、四十の鋭い釘のついたやつで、一撃で駱駝を打ち殺せるばかりの鞭です。そして彼は腕を振りあげ、鞭をぐるぐる廻しながら、荷担ぎに飛びかかり、その背中をどやしつけ、それをまたぞろやり、繰り返したので、荷担ぎはめちゃくちゃに喚きはじめ、後ろを向いて両手を突き出しながら、まっすぐ前に逃げ出し、街の曲り角に姿を消してしまいました。
結局自分から進んで勝手に長持をかついだ荷担ぎを、こうして厄介払いした上で、カリーフはこの長持を、自分の住居まで引っ張ってゆくことに取りかかりました。けれどもこうした物音に、近所の人たちが集まってきて、膝のところで切った繻子の衣と、同じ布地のターバンという、カリーフの異様な出立《いでたち》を見、また彼がこうして引っ張っている長持を見かけると、彼に言いました、「おおカリーフ、その衣といかにも重そうなその長持は、いったいどこから手に入れてきたのだね。」彼は答えました、「おれの小僧のところからよ、見習い弟子で本職は笛師だ。名はハールーン・アル・ラシードって言うのさ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十一夜になると[#「けれども第五百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉に、旅籠屋《カーン》に泊っているカリーフの隣人たちは、自分の魂のために恐怖に捕えられて、お互いに言い合いました、「こいつがこんなことを口走るのを、誰にも聞かれなければいいが、この気違いめが。さもなけりゃ、こいつは警察にふんづかまって、頼むすべなく絞り首になってしまうだろう。そしておれたちの旅籠《はたご》もすっかり取りこわされて、たぶんおれたちもやつのおかげで、旅籠《はたご》の戸口に吊し首にされるとか、えらい罰を食らうとかされるだろうよ。」そして無上におそれ戦いて、みんなで彼に自分の舌を口の中に再び閉じこめるように強い、できるだけ早く始末してしまおうと、みんなで手助けして長持を彼の住居に運び、彼の後ろに戸を閉めてしまいました。
ところで、カリーフの部屋はひどく狭苦しかったので、長持は、まるでここに嵌めこむために作られたかのように、隙間もなく部屋いっぱいになってしまいました。それでカリーフは、夜を過すのにもう身の置き場がなく、長持の上に長々と横になって、こうして今日わが身に起ったことを、つらつら考えはじめました。そして突然自分に問いました、「だが結局、この長持を開けて中身を見るのに、いったいおれは何を待っているのか。」そして飛び起きて、できるかぎり、手を使って長持を開けてみようと試みましたが、開きません。そこで独りごとを言いました、「いったいおれの分別に何ごとが起きたのかなあ、開けることさえできもしないこんな長持を、こうして買おうと決心したとは。」そしてさらにその南京錠をこわし、錠前をこじあけようと試みましたが、やはり同じく成功しません。そこで彼は独りごとを言いました、「明日まで待って、どういうふうにするか、とっくり考えるとしよう。」そして改めて箱の上に長々と横になって、やがてあらゆる鼾《いびき》をかきながら、寝入ってしまいました。
ところが、ひと時ばかりこうしておりますと、彼は突然、こわくて飛び上がりながら、目をさまし、部屋の天井に頭をぶつけてしまったのでした。事実、彼は何ものかが長持の中で動く気配を感じたのです。とたんに、睡気は彼の分別と共に、その頭から飛び立ってしまい、彼は叫びました、「この中には、てっきり魔神《ジン》どもがいるにちがいない。おれにうまい考えを浮ばせて下さって、この蓋を開けさせないようにして下さったアッラーに称《たた》えあれ。だって、もしこれを開けてみろ、魔神《ジン》どもは暗闇のまっただ中で、おれの上に飛び出してきて、おれに何をしたかわかりはしねえ。たしかに、どっちみちいい目に遭いっこなかったろう。」けれども、ちょうどこうして彼が自分のおびえた考えを口に出しているその瞬間に、長持の内側の物音はますます高まって、何か呻き声みたいなものが、彼の耳まで達しました。そこでカリーフは恐怖の極に達し、明りをつけようとして、本能的にランプを探しました。しかし彼は、貧しさゆえ、いつもランプを持てずにいたことを忘れていたわけで、自分の部屋の壁をあちこち手探りしながら、歯をがたがた鳴らして、自分に言っていました、「こんどは、いけねえ、全くいけねえ。」それからますます怖さが募って、彼は戸を開けて、表に、夜のただ中に飛び出し、声をかぎりに叫びました、「助けてくれ。おお同宿の衆、近所の方々よ、駈けつけてくれ。助けてくれ。」隣人たちは大概ぐっすりと眠っていましたが、びっくりして目がさめ、彼のところに姿を現わし、一方女たちは半開きの戸口から、なかば面衣《ヴエール》で蔽った頭を出して、のぞいていました。そしてみんなで彼に尋ねました、「いったい何ごとが起ったのだね、おおカリーフよ。」彼は答えました、「早く、ランプを早く貸してくれ、魔神《ジン》どもがおれのところにやってきたから。」そこで隣人たちは笑い出しましたが、そのうちの一人が、最後にとにかく明りをくれました。カリーフはその明りをもらって、こんどはもっと自信を持って、自分の部屋に戻りました。ところが突然、彼が長持の上に身をかがめると、「ああ、わたしはどこにいるのかしら」という声が聞えました。それで、今までよりかもっと怖気づいて、全部を放り出し、「おお、近所の方々よ、おれを助けてくれ」と叫びながら、気違いのように表に飛び出しました。隣の人たちは彼に言いました、「おお呪われたカリーフめ、いったいどういう災難だというのだ。いい加減に、おれたちを騒がせるのはやめにしないか。」彼は答えました、「おお、親切な皆の衆、魔神《ジンニー》はあの長持の中にいるんだ。身動きして、口を利いてる。」一同訊ねました、「この嘘つきめ、じゃ何て言ってるんだ、その魔神《ジンニー》は。」彼は答えました、「わたしはどこにいるのかしら、って言ったよ。」隣人たちは笑いながら、彼に答えました、「そりゃ、地獄にいるにちがいないさ、おお呪われたやつめ。お前なんぞは死ぬまで、眠りを味わえないがいい。お前は旅籠《はたご》じゅうとこの界隈全部を騒がせていやがる。いい加減に黙らねえと、おれたちは降りて行って、きさまの骨を折っぺしょってやるから。」それでカリーフは、もう死ぬほどこわかったけれど、もう一度自分の部屋に戻る覚悟をして、全身の勇気を集めながら、大きな石を振って、長持の錠前をこわし、とうとう蓋を開けてしまったのです。
すると彼は、長持の中に横たわり、物憂げに瞼《まぶた》をなかば開いて、天女《フーリー》のように美しく、宝石で輝きわたっている、一人の乙女を見ました。これこそ、クート・アル・コルーブでした。解き放たれたのを感じ、冷たい空気を胸いっぱいに吸ったので、彼女はすっかり目がさめ、催眠|麻酔剤《バンジ》の利き目が全く失せました。そして彼女はそこにいました、色蒼ざめて、そんなにも美しく、そんなにも好ましく、まったくのところ。
これを見ると、漁師は、生れてから、こんな美女はおろか、庶民の女一人さえも、素顔を見たことなどなかったので、乙女の前に跪いて、これに訊ねました、「アッラーにかけて、おお御主人様、あんた様はどなたでござらっしゃるか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十二夜になると[#「けれども第五百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
乙女は両の眼を、睫毛反ったる黒い両の眼を見開いて、言いました、「素馨《ヤーサミーン》はどこにいるの。水仙《ナルジス》(12)はどこ。」ところで、これは王宮で彼女に仕えている二人の若い奴隷女の名前でしたが、カリーフはこれを素馨と水仙を求められたものと想像して、答えました、「アッラーにかけて、おお御主人様、ここには今のところ、指甲花《ヘンナ》(13)のひからびた花が二、三枚しかござんせんがね。」乙女はこの答えとこの声を聞いて、すっかり意識を回復し、眼を大きく見開いて、訊ねました、「お前は誰ですか。そしてわたしはどこにいるのですか。」そしてこれは砂糖よりも甘い声で、そんなにも愛らしい手振りを伴って、言われたのでございました。カリーフは、実際は、たいそう細《こま》やかな魂を持っていたので、自分の見聞きしたことにたいそう心打たれて、答えました、「おお御主人様、おお本当に別嬪のお方よ、わしは漁師カリーフだ。してあんたは今ちょうど、わしのところにいるのです。」クート・アル・コルーブは訊ねました、「では、わたしはもう、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの宮殿にいるのではないのですね。」彼は答えました、「いかにも、アッラーにかけて、あんたはわしのところに、この部屋にいなさるんだが、この部屋も、あんたをかくまっているからには、宮殿じゃ。そしてあんたは売買いによってわしの奴隷となりなすった。それというのは、わしはちょうど今日、競売《せりうり》で、百ディナールと一ディナールでもって、この長持と一緒にあんたを買いとったからだ。それでわしは、あんたをこの長持の中で眠ったまま、自分のところに運んできた。あんたが身動きしたので、最初は慄え上がったが、そのお蔭で、はじめてあんたのいることがわかったのだよ。今となっては、おれの星は幸先よく昇ってきたことがよくわかる、前にはまったく低いところにあって、凶だと知れたのだがね。」クート・アル・コルーブはこの言葉に、微笑を浮べて言いました、「それじゃ市場《スーク》では、おおカリーフさん、わたしを見もしないで、買いなすったのね。」彼は答えました、「そうだよ、アッラーにかけて、あんたのいることなんぞ思いもかけずにね。」そこでクート・アル・コルーブは、自分の身に起ったことは、ゾバイダ妃がたくらみなすったこととさとり、漁師に、彼の身に起ったことすべてを、一部始終話させました。こうして漁師と朝までおしゃべりをしていましたが、朝になると、彼女はこれに言いました、「おおカリーフさん、何か食べるものはありませんか。わたしはたいそうお腹が空きました。」彼は答えました、「食うものも、飲むものも、なんにもない、これっばかりもないよ。おれだって、アッラーにかけて、もう二日この方、口のなかにひと切れも入れてない。」彼女は訊ねました、「せめていくらかお金の持ち合せはないの。」彼は言いました、「お金だって、おお御主人様、どうかアッラーは、この長持をおれからお取りあげにならないように。何しろこれを買うのに、おれは自分の運命と物好きのお蔭で、最後の一枚の貨幣《かね》まではたいてしまった。それで今はすっからかんの有様だ。」この言葉に、乙女は笑い出して、彼に言いました、「とにかく表に出て、何か食べるものを持ってきて下さい。近所の方々に頼めば、きっとことわられないでしょう。なぜって、隣人は自分の隣人に尽さなければなりませんからね。」
そこでカリーフは立ち上がって、旅籠屋《カーン》の中庭に出て、早朝のひっそりしたなかで、叫びはじめました、「おお同宿の衆、近所の方々よ、こんどは長持の魔神《ジンニー》は、何か食うものをよこせと言うんだ。ところがおれは、手許に何にもやるものがない。」隣人たちは彼の声に閉口していたのと、それにまた彼の貧しさに同情してもいたので、彼のほうに降りてきて、ある者は前日の食事の残りの半切れのパン、ある者はチーズひと切れ、ある者は胡瓜一本、ある者は赤蕪一個といった工合に、持ってきてくれました。そして一同それらのものすべてを、彼の持ちあげた衣のくぼみに入れて、それぞれ自室に上がってゆきました。そしてカリーフは、自分の買い出しに満足して自分の部屋に戻り、全部を乙女の手の間に下ろしながら、これに言いました、「さあ、食べな、食べな。」すると乙女は笑い出して、言いました、「どうして食べられましょう、小さな水差か小壺一杯の、飲み水がないことには。それでは食物が喉につっかえるにちがいなく、わたしは死んでしまいます。」するとカリーフは答えました、「禍いはあなたから遠ざかるように、おお申し分ない別嬪よ。これからひと走りして、壺どころか、大甕《ジヤルラー》を持ってきてあげよう。」そして彼は旅籠屋《カーン》の中庭に出て、喉いっぱい声を張りあげて、叫びました、「おお近所の方よ、おお同宿の衆よ。」すると四方から、怒った声が彼を罵って、怒鳴り立てました、「やい、おお呪われたやつめ、この上どうしたと言うんだ。」彼は答えました、「長持の魔神《ジンニー》は、こんどは水をくれと言うんだ。」すると隣人たちは彼のほうに降りてきて、ある者は冷水壺、ある者は壺、ある者は水差、ある者は大甕《ジヤルラー》といった工合に、持ってきてくれました。彼はそれらをみんなからもらい、両手に一個ずつ、頭上に平均をとってもう一個、小腋にもう一個を携えながら、いそいで全部をクート・アル・コルーブのところに運んで、これに言いました、「あんたの魂の願うものを持ってきてやったよ。このうえ何か欲しいかね。」彼女は言いました、「いいえ、アッラーの授け物はもう数多くございます。」彼は言いました、「そいじゃ、おお御主人様、こんどはそっちの番だ。あの気持のいい言葉を聞かせて、おれの知らないあんたの身の上を話してくれな。」
するとクート・アル・コルーブはカリーフを見つめ、微笑して、申しました、「実は、おおカリーフさん、わたしの身の上は一言で尽きます。わたしの競争相手のエル・シート・ゾバイダ、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードのお妃《きさき》そのひとの嫉みが、わたしを今の有様に投げ入れたのですが、あなたの天運にとって幸いなことに、あなたがそこからわたしを救い出して下さったのでした。わたしことは、事実、信徒の長《おさ》の寵姫、クート・アル・コルーブです。あなたについては、もう今後あなたの仕合せは大丈夫です。」するとカリーフは訊ねました、「だがそのハールーンというのは、おれが漁の術を教えてやった男と同じ人かね。あの御殿で、大きな椅子の上に坐っていた案山子《かかし》野郎かね。」彼女は答えました、「そう、まさにあの方御自身です。」彼は言いました、「アッラーにかけて、おれは生れてから、あんな性の悪い竪笛《クラリネツト》吹きに会ったことはない、あれ以上のやくざ者はないぜ。あいつはおれのものを盗みやがったばかりか、あのふくれっ面の碌でなしめ、棒百を食らわせてからに、一ディナールくれやがった。いつかまたあいつに出会ったら、この棒杭でもってどてっ腹に穴をあけてやりまさあ。」けれどもクート・アル・コルーブは、これを黙らせながら、言いました、「これからはそんな不躾《ぶしつ》けな言葉はおやめなさい。それというのは、あなたはこれから新しい境遇にはいるのですが、そこではあなたは何よりもまず、自分の心の眼を開いて、礼儀作法を身につけなければなりません。そしてこのようにして、おおカリーフさん、あなたは肌の上に慇懃の鉋《かんな》をおかけなさいまし。そうすればあなたは、高等な都会人となり、上品と優雅を授けられた人物となることでしょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十三夜になると[#「けれども第五百七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
カリーフはこのクート・アル・コルーブの言葉を聞いたとき、自分のうちに突然の変化が起って、心の眼が開き、物事の理解が拡がり、自分の知能が細やかになるのを感じたのでした。その身の幸福のために、こうしたすべてが起ったのでございます。まことに、繊細な魂たちの、粗野な魂たちに及ぼす感化は大きいと申すのは、偽りではございません。こうして、刻一刻、クート・アル・コルーブの優しい言葉ゆえに、それまではわからず屋で乱暴者だった漁師カリーフは、申し分ない挙措と雄弁な舌とを授けられた、都雅な都会人となったのでございました。
果たして、クート・アル・コルーブがこうして、とりわけ改めて信徒の長《おさ》の御前に召し出されるような場合に、するべき振舞いを教えたとき、漁師カリーフは答えました、「わが頭上と眼の上に。御注意は、おお御主人様、私の処世の規則であり、御好意は私の悦ぶ木蔭でございます。お言葉承わり、お言葉に従います。何とぞアッラーはあなた様に祝福の限りを下し、どのように小さなお望みをも叶えたまいますように。ここに、御手《おんて》の間に、従順な、あなた様の御功績に対して敬意満ちた、あなた様の奴隷のうち最も忠実な奴隷、漁師カリーフが控えまする。」次に彼は付け加えました、「仰せ下さいませ、おお御主人様、何をいたせばお仕え申すことができましょうか。」彼女は答えました、「おおカリーフさん、一本の蘆筆《カラーム》と墨壺と紙一枚だけあれば結構です。」するとカリーフは、いそいで一人の隣人のところに駈けて行って、これらのさまざまの品を手に入れました。それをクート・アル・コルーブに届けますと、彼女はすぐに、教王《カリフ》のお出入りの宝石商、イブン・アル・キルナスに、長い手紙を書きましたが、これこそ以前、彼女を買い求めて、教王《カリフ》に献上したあの男です。この書面で、彼女は自分の身に起った一切を詳しく知らせ、自分は今漁師カリーフの住居にいて、売買によってこの漁師の持ち物になっている旨を説明しました。そして手紙を畳み、それをカリーフに渡しながら言いました、「この文《ふみ》を持って、宝石商の市場《スーク》に行き、イブン・アル・キルナスに渡して下さい。教王《カリフ》のお出入りで、その店は誰でも知っています。行儀作法と言葉使いについて、わたしの御注意を忘れないようになさいまし。」カリーフは承わり畏まって答え、文を取って、唇に、次に額に持って行って、それからいそぎ宝石商の市場《スーク》に走り、イブン・アル・キルナスの店を尋ねると、すぐ教えてくれました。彼は店に近づき、そして選りに選った物腰で、宝石商の前に身をかがめて、これに平安を祈りました。すると宝石商はその挨拶を返したものの、口先ばかりでほとんどこちらを見もしないで、そして彼に訊ねました、「何の用かね。」カリーフは返事の代りに、ただ文を差し出しました。すると宝石商は指先で文を受けとり、かたわらの絨氈の上に置いたまま、読みもしなければ、開こうとさえしません。それというのは、これは施しを乞う願い状で、カリーフは乞食だと思ったからです。そして彼は召使の一人に言いつけました、「この男に半ドラクムやりなさい。」けれどもカリーフはこの施しを威厳を以って斥け、宝石商に言いました、「施しなどは用はない。ただこの文を読んでいただきたいだけです。」そこで宝石商は文を取りあげ、拡げて、読みました。するとにわかにそれに接吻して、うやうやしく頭上に推しいただき、そしてカリーフに坐るようにすすめた上で、訊ねました、「おお兄弟よ、お宅はどちらで。」彼は答えました、「しかじかの区、しかじかの街の、しかじかの旅籠《はたご》に。」相手は言いました、「よくわかりました。」そして二人の番頭を呼んで、言いつけました、「このお方を家の両替屋モーセンの店に御案内して、金貨千ディナールを差し上げるよう。それから、できるだけ早く、またここにお連れ申せ。」二人の番頭はカリーフを両替屋のところに案内して、これに言いました、「おおモーセンさん、このお方に金貨千ディナールを差し上げて下さい。」それで両替屋は金貨千ディナールを秤って、カリーフに渡し、彼は二人の番頭と一緒に、イブン・アル・キルナスのところに戻りました。すると宝石商は、豪勢な馬具をつけた牝騾馬に乗り、美々しい服を着た百人の奴隷に取り囲まれていました。そして宝石商は、それに劣らぬ見事な第二の牝騾馬を彼に示して、それに跨って自分の後に続くようにと申しました。けれどもカリーフは言いました、「アッラーにかけて、おお御主人よ、おれは生れてから牝騾馬になど乗ったことがない。馬でも驢馬でもだめだ。」すると宝石商は彼に言いました、「そんなことは何も今乗るのに差支えない、今日これから覚えなさればよい。それだけのことです。」するとカリーフは言いました、「こいつがおれを振り落して、肋骨《あばらぼね》を折りはしないか、それが何ともおそろしいよ。」相手は答えました、「心配なさらず、お乗りなさい。」するとカリーフは言いました、「アッラーの御名に於いて。」そして身を翻して牝騾馬に跨りましたが、逆向きに乗って、そして手綱の代りに尻尾を握りました。するとその牝騾馬はこの上なく激しやすい騾馬だったので、逆らって、力いっぱい後脚で蹴りはじめ、間もなく彼を地面に振り落してしまいました。そこでカリーフは身体を痛めて起き上がり、言いました、「おれは自分の足で行くよりほかに、とても行けっこないだろうと、よくわかっていたんだ。」
けれどもこれはカリーフの最後の苦難でした。これから後は、彼の天命は断乎として、彼をば繁栄の道に導くこととなりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十四夜になると[#「けれども第五百七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……繁栄の道に導くこととなりました。果たして、宝石商は奴隷のうちの二名に言いつけました、「ここにいらっしゃるお前たちの御主人を、風呂屋《ハンマーム》に御案内申して、最上のお風呂を使わせてさしあげよ。その上で私の自宅にお連れ申せ、私がそこでお目にかかるから。」そして彼は独りでカリーフの住居に、クート・アル・コルーブを迎えに行き、これをも自分の家に連れてくることにしました。
カリーフのほうは、二人の奴隷が風呂屋《ハンマーム》に案内しましたが、彼は生れてから、こんなところに足を踏み入れたことはありませんでした。奴隷たちは彼を最上の按摩と三助たちに頼みますと、一同すぐに彼を洗ったり、こすったりする仕事に取りかかりました。そして彼の肌と髪の毛から、とてもとてもたくさんのあらゆる種類の汚《よご》れを取り、種々様々の虱と南京虫を取りました。そして十分に手当をし、爽やかにして、身体を乾かしてから、二人の奴隷がいそいで買ってきた豪奢な絹の衣を、着せました。そしてこのように着飾らせて、奴隷たちは彼を自分たちの主人イブン・アル・キルナスの屋敷に案内すると、主人はもうクート・アル・コルーブと一緒に、着いておりました。
カリーフは、その家の大広間にはいると、あの若い女が美しい長椅子《デイワーン》の上に坐り、まめまめしく仕える女中と奴隷女の群れに、取りかこまれているのを見ました。それに、早くも、家の入口のところで、門番は彼の姿を見かけると、いそいで敬意を表して立ち上がり、手にうやうやしく接吻したものでした。こうしたすべては、カリーフを無上に驚かせました。けれども彼は、育ちが悪く見えてはと、そんな素ぶりはこればかりも見せませんでした。そればかりか、一同彼のまわりにいそぎ駈けよって、「御入浴がお気持よくありますように」と言ったときには、彼は優雅と雄弁をもって答えることさえでき、そしてわれとわが言葉に耳を驚かされ、すっかり感嘆し、たいそう好い気持になりました。
ですから、クート・アル・コルーブの面前に出たときには、彼はその前に頭を下げて、彼女のほうから先に言葉をかけるのを待ったのでした。するとクート・アル・コルーブは彼に敬意を表して立ち上がり、その手をとって、長椅子《デイワーン》の上に、自分のすぐそばに坐らせました。次に彼女は、薔薇水の香りをつけた砂糖入りのシャーベットを満たした磁器を、彼に差し出しました。彼はそれを受けとって、口で音など立てずに、静かに飲み、行儀のよいところをとくと見せるために、半分だけしか空けませんでした、昔ならばきっと全部飲みきって、次には中に指を突っこんで舐《な》めまわしたにちがいないのに。そればかりか、彼は器《うつわ》をこわさずに盆の上に置き、そして、何か食べるものとか飲むものを頂戴したとき、躾《しつけ》のよい人たちの言う礼儀の言い方を、非常に雄弁な話し振りで申しました、「この家《や》の御歓待が、いく久しく続くことができますように。」クート・アル・コルーブはたいへん悦んで、彼に答えました、「あなたのお命と同じほど永く。」そして彼に結構な御馳走を振舞ってのち、彼女は言いました、「今は、おおカリーフさん、いよいよあなたが御自分の知恵全部と長所を発揮する時がきました。ですから、よくわたしの言うことをお聞きになって、聞いたことを覚えておいて下さいまし。あなたはこれからここを出て信徒の長《おさ》の御殿に行き、拝謁を願い出れば許されるでしょうから、教王《カリフ》に払い奉るべき敬意を表した上で、こう申し上げなさい、『おお信徒の長《おさ》よ、私のお授け申した教育の記念に、ひとつのお恵みを賜わりたく願い上げまする。』するとあらかじめ、お恵みを賜わることでしょう。そうしたら、こう申し上げるのです、『何とぞ今夜、私の賓客となりたもう光栄をお授け下さりませ。』これだけのことです。そうすれば、わが君が御承知あそばすかどうかわかりましょう。」
すぐにカリーフは立ち上がって、自分に付けてくれた大勢の奴隷の供を従え、千ディナールはたしかにするような絹の衣服を着て、外に出ました。こうして、彼の顔立ちの持って生れた美しさが、十二分に際立って、まことに驚くばかりの男振りでございました。それというのは、諺にも申します、「棒に美しい衣裳を着せてみよ、棒は花嫁になるだろう」と。
彼が王宮に着きますと、宦官長サンダルが遠くからこれを見つけ、その一変ぶりにびっくり仰天、一目散に玉座の間に駈けつけて、教王《カリフ》に言上しました、「おお信徒の長《おさ》よ、どういうことやらわかりませんが、とにかく漁師のカリーフは、王様になりました。それと申しまするは、彼はたしかに千ディナールもする衣服を着こみ、美々しい行列を従えて、今こちらに乗りこんでまいります。」すると教王《カリフ》はおっしゃいました、「すぐに通らせよ。」
さてそこで、カリーフは玉座の間に案内されますと、そこにはハールーン・アル・ラシードが、その栄光のただ中に坐っていらっしゃいました。彼は貴族《アミール》の間の最大の方々だけがすることのできるような様子で、頭を下げ、そして申し上げました、「わが君の上に平安あれ、おお信徒の号令者、おお三界の主《あるじ》の後継者《カリフ》、信者の民とわれらの信仰の擁護者よ。願わくは至高のアッラーは、君の御齢《おんよわい》を永からしめ、君の御代に光栄あらしめ、君の御稜威《みいず》をいやまして、最高位にまで挙げたまいまするように。」
教王《カリフ》はこうしたすべてを見もし聞きもなされて、驚嘆の極に達しなさいました。そしていったいどういう道から、カリーフの幸運がこのように早く到ったのか、まったくおわかりになりませんでした。そしてカリーフにお尋ねになりました、「まず聞かせてもらえるか、おおカリーフよ、いったいその美服はどこから手に入れたのか。」彼はお答えしました、「私の館《やかた》からでございます、おお信徒の長《おさ》よ。」お訊ねになりました、「ではその方に館《やかた》があるのかな、おおカリーフ。」お答えしました、「まさにそのとおりでございます、おお信徒の長《おさ》よ。そしてあたかも今私は、今宵《こよい》わが君の御光臨によって拙宅を輝かしめたもうよう、お招きにまいったのでございます。されば君はわが賓客にあらせられまする。」するとアル・ラシードは、ますます呆気にとられなすって、最後に微笑なさり、お尋ねになりました、「その方の賓客というのか。よろしい、しかし余はただ一人か、それとも余をはじめ、余と共にある者全部をもか。」彼はお答えしました、「わが君はじめ、御一緒にお連れ遊ばしたく思し召さるる方全部でございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十五夜になると[#「けれども第五百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……わが君はじめ、御一緒にお連れ遊ばしたく思し召さるる方全部でございます。」するとハールーンは、ジャアファルを見やりなさいますと、ジャアファルはカリーフのほうに進み寄って、これに言いました、「われらは今宵その方の客となるであろうぞ、おおカリーフよ。信徒の長《おさ》はそれをお望みである。」するとカリーフは、そのうえひと言も付け加えずに、教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して、ジャアファルに自分の新居の住所を知らせた上で、クート・アル・コルーブの許に帰り、自分の奔走の成功を報告しました。
教王《カリフ》のほうは、たいそう思い惑いなすって、ジャアファルにおっしゃいました、「おおジャアファル、あの昨日の笑うべき好人物カリーフが、にわかに、あのように洗練された雄弁な都会人と変じ、貴族《アミール》か商人かの最も富裕な者たちの間の富裕な者と変じたのを、その方なんと説き明すことができるか。」ジャアファルはお答えしました、「ひとりアッラーのみが、おお信徒の長《おさ》よ、天命の辿る捷径《ちかみち》を知りたまいまする。」
けれども夕方になると、教王《カリフ》は、ジャアファルと、マスルールと、腹心のお相手数人を従えて、馬にお乗りになって、招かれた屋敷にお出かけになりました。そこに着いてみると、入口から応接間の扉まで、地面一面が高価な美しい絨氈を敷きつめ、その絨氈にはあらゆる色の花がまき散らされているのを、御覧になりました。そして踏段の最下段には、微笑をたたえたカリーフが立ってお待ち申し上げ、いそいで鐙《あぶみ》を押えて、馬からお下りになるのをお助け申すのでした。そして彼は地面まで頭をさげて、歓迎の御挨拶をし、「ビスミラーヒ(14)」と言いながら、御案内申し上げました。
そして教王《カリフ》は、天井の高い、豪奢で絢爛とした大広間におはいりになり、その中央には金無垢と象牙ででき、黄金の四脚に載った四角な玉座があって、カリーフはその上にお坐り遊ばすようにとおすすめ申しました。するとすぐに、黄金の大皿と磁器を運ぶ、月のような若い酌人《しやくとり》たちがはいってきて、生粋《きつすい》の麝香入りの、煎じ出して冷やした、爽やかで結構な飲み物を満たした、貴重な盃を、御一同に差し上げました。次に、白衣を着て、前の少年たちよりも美しい、ほかの若い少年たちがはいってまいりまして、美事な色の御馳走、肉を詰めた鵞鳥だの、若鶏だの、炙《あぶ》った仔羊だの、あらゆる種類の鳥の串焼きだのを、お供えいたしました。それから、腰にきりりと帯を締めて本当に優雅な、若く愛らしい、ほかの白人奴隷たちがはいって来て、食布《スフラ》を下げ、飲み物と甘い物の皿をお供えいたしました。そして葡萄酒は、水晶の器《うつわ》と宝石を鏤《ちりば》めた金の台付大盃《ハナパツト》のなかに、色づいておりました。いよいよ酒が酌人《しやくとり》の白い手の間を流れ出ると、それはまったく他に類《たぐい》のない香りを放ち、まことに、次の詩人の詩句をあてはめることのできるような香りでございました。
[#ここから2字下げ]
酌人よ、いざわれにこの古酒を注《つ》ぎ、またわが酒友、このわが愛する若人にも注げよ。
おお貴き葡萄酒よ、汝《な》が徳にふさわしき、そもいかなる名をか、汝に与うべき。われは汝を呼ばん、「花嫁の酒(15)」と。
[#ここで字下げ終わり]
ですから、教王《カリフ》はますます驚嘆なすって、ジャアファルにおっしゃいました、「おおジャアファルよ、わが頭《こうべ》の生命《いのち》にかけて、余はここでいずれに最も感嘆すべきかわからぬ、この接待の華々しさか、それとももてなしの主《あるじ》の洗練された上品高雅な物腰か。まことに、これはわが理解を越えるわ。」けれどもジャアファルはお答えしました、「われわれがここに見るすべても、事物に対してただ『在《あ》れ』とさえのたまえば、在らしめることのできたもう御方《おんかた》の、さらになし能《あた》いたもうところに比べれば、何ものでもござりませぬ。いずれにせよ、おお信徒の長《おさ》よ、この私がとりわけカリーフに感嘆いたしますものは、彼の言葉使いの正しさと申し分なき知恵でございます。そしてこれこそは私には、彼の天運の美しさのひとつの徴《しるし》と見えまする。それと申しまするは、アッラーは人類にその賜物を分ち与えなさるとき、万人のうちより御選択が選び出す人々には、知恵を授けたもうのであり、彼らにはこの世の福利よりもとくに、知恵をお授けになるゆえでございます。」
こうしているうちに、ちょっと座を外していたカリーフが戻ってきて、改めて歓迎の御挨拶を言上してから、教王《カリフ》に申し上げました、「信徒の長《おさ》はその奴隷に、これより琵琶《ウーデイ》を奏する一人の歌姫を連れてまいって、君の夜の時刻に興あらしめることを、お許し下さいますでしょうか。と申すのは、バクダードには、現在これ以上巧みな歌姫も、これ以上上手な音楽家も、おりませぬゆえ。」すると教王《カリフ》はお答えになりました、「いかにも、苦しゅうない。」そこでカリーフは立って、クート・アル・コルーブのところにはいり、いよいよ時機到来した旨を告げました。
そこでクート・アル・コルーブは、かねて装いを凝らし、香りをつけておりましたこととて、今はただその大面衣《イザール》で身を包み、頭と顔の上に軽い絹の小|面衣《ヴエール》を投げかけるだけで、御前に出る用意はととのいました。そしてカリーフはその手をとって、このように面衣《ヴエール》をつけた彼女を広間に案内いたしますと、広間は彼女の堂々とした歩の運びにざわめきました。
そして彼女は教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して後、教王《カリフ》は彼女が誰であるかお察しになられぬままに、彼女はおそば近く坐って、琵琶《ウーデイ》の絃を合わせ、聴く人すべてを恍惚とさせる弾き振りで、前奏を奏しました。次に彼女は歌いました。
[#ここから2字下げ]
時はいつの日かわれらが愛に、われらの愛する人々を連れ戻すことのあらんか。ああ、楽しき恋人の睦みよ、われは再び汝を味わうことありや。
おお愛の屋形の夜々の呪縛《じゆばく》、おおわが夜々の呪縛よ。汝が望みなくして、われはこのうえ生き永らえんや。
[#ここで字下げ終わり]
この昔の声をお聞きになると……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十六夜になると[#「けれども第五百七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……この昔の声をお聞きになると、その声音《こわね》はもうよくよく御存じだったので、教王《カリフ》はただならぬ激しさの感動のうちに、すっかり蒼白となられ、歌の最後の言葉が発せられると直ちに、お気を失って倒れてしまいなさいました。それで一同御身のまわりにつめ寄って、まめまめしくお手当を尽しました。けれどもクート・アル・コルーブはカリーフを呼んで、これに言いました、「あそこにおいでの皆様に、しばらく隣室に引きとって、わたくしたち二人だけにしておいて下さるように、申し上げて下さい。」それでカリーフはお客様方に、クート・アル・コルーブが、心置きなく必要なお手当を教王《カリフ》にしてさしあげられるよう、暫時引きとっていただきたいとお願いしました。一同広間を去ると、クート・アル・コルーブは、すばやい身ごなしで、身を包んでいる大面衣《イザール》と、顔を隠している小|面衣《ヴエール》を脱ぎ棄て、かつて教王《カリフ》が自分と一緒にいなすったおり、王宮で着ていたのと、あらゆる点でそっくりの衣服を着けて、現われ出ました。そして身動きせず横たわっていらっしゃるアル・ラシードに近づいて、そのおそばに坐り、薔薇水をふりかけ、扇《うちわ》で風を送り、とうとう正気にお戻し申し上げました。
すると教王《カリフ》は両眼をお開きになりましたが、おそばにクート・アル・コルーブの姿を御覧になると、またもやお気を失いそうになりました。けれども彼女は、微笑を浮べ、眼に涙を湛えながら、いそぎ御手《おんて》に接吻しました。すると教王《カリフ》は感動の極に達しなされて、お叫びになりました、「今日は復活の日で、死者たちが墓場より目ざめているのか。それともまた、余は夢を見ておるのか。」クート・アル・コルーブはお答えしました、「おお信徒の長《おさ》よ、けっして復活の日ではございませんし、君は夢を見ていらっしゃるのでもございません。なぜなら、わたくしはクート・アル・コルーブでございまして、生きておりまする。わたくしの死はただ見せかけだけのことでございました。」そして彼女は身に起ったことを一部始終、手短かにお話し申し上げました。それから付け加えて申しました、「そして今わたくしたちの身に到った仕合せなことはすべて、漁師カリーフのお蔭なのでございます。」アル・ラシードは、こうしたすべてをお聞きになりながら、あるときは涙を流して咽《むせ》び泣かれ、あるときは仕合せにお笑いになるのでした。そして彼女が話しおえると、彼女を御自分のほうに引き寄せ、お胸にしっかりと抱きしめながら、長い間、唇に接吻なさいました。そしてひと言も言い出すことがおできにならぬ有様でした。そしてお二人はひと時の間、こうしていらっしゃいました。
そのときカリーフは立ち上がって、申しました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、今はもはやわが君は、私に笞刑を加えさせなさらぬことと存じまする。」すると教王《カリフ》は今はすっかり落ち着きなすって、笑い出されて、これにおっしゃいました、「おおカリーフよ、今後余がその方のために何をしてやることのできようとも、われらがその方に負うところと比べては、何ものでもないであろう。さりながらその方、わが友となり、わが帝国の一州を治めてはくれぬか。」するとカリーフはお答えしました、「奴隷は寛仁大度の御主人様のお申し出を、拒むことができましょうか。」そこでアル・ラシードはこれに申されました、「しからば、カリーフよ、その方は月俸一万ディナールの禄を以って、一州の太守《アミール》に任ぜらるるのみならず、余はさらに、クート・アル・コルーブ自身にその好みによって、王宮の乙女らと貴族名士の娘らの間より、その方の妻となるべき一人の若い娘を、その方のために選ばせたいと思う。娘の支度の衣裳と、その方が娘の父親に届ける結納とは、この余自身が引き受ける。して余は今後、その方に毎日会い、饗宴の際には、わが近しい友の筆頭に据え、わが傍らに置きたいと思う。その方は職務と位階にふさわしき供廻りと、その方の魂の望み得る一切とを、持つであろうぞ。」
カリーフは教王《カリフ》の御手の間の床に接吻いたしました。そしてこの幸福すべては彼の身に到り、さらに他の多くの至福も到りました。彼は独身であることをやめ、クート・アル・コルーブの選んでくれた年若い妻と一緒に、いく年もいく年も暮しましたが、それはその当時の女のなかでいちばん美しく、いちばん淑《しと》やかな女でした。こうした次第でございます。己が被造物《つくられしもの》どもに、惜しみなく、御恵《みめぐ》みを授けたまい、喜悦と至福をば、お好みのままに頒かち与えたもう御方《おんかた》に、栄光あれ。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは言った、「けれども、おお幸多き王様、この物語が、今宵《こよい》を終るため、かねてわが君にとっておきました物語よりも、さらに不思議なものとは、思し召されますな。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「いかにも、おおシャハラザードよ、余は今はそちの言葉を疑わぬ。しかし速やかにその物語の名を申してみよ。というのは、もしそれが漁師カリーフの物語よりも見事なものとあらば、さだめし稀代の物語に相違ないからな。」するとシャハラザードは、微笑して言った、「さようでございます、おお王様。それはハサン・アル・バスリと耀《かがよ》い姫の冒険[#「ハサン・アル・バスリと耀《かがよ》い姫の冒険」はゴシック体]でございます。」
[#改ページ]
ハサン・アル・バスリの冒険
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードはシャハリヤール王に言った。
おお幸多き王様、これからわたくしのお話し申し上げまする世にも不思議な物語には、まことに珍しい謂《いわ》れ因縁《いんねん》がございまして、始めるに先立って、まずそれをお知らせしなければなりませぬ。さもないと、この物語がどのようにしてわたくしのところまで伝わったか、解《げ》しかねる節《ふし》がございましょうから。
事実、遥か遠い昔の歳月と時代に、ペルシアとホラーサーンの王たちの中に、インドとシンドとシナの国々、ならびにオキサス河(1)の彼方の未開の地に住む人民を領する、一人の王がおられました。ケンダミル王というお名前でした。この王は不撓《ふとう》不屈の勇気ある英雄で、槍を使うすべを心得、野試合、狩猟、騎馬行軍が大好きな、豪勇の武者であられました。けれども王は、何物にもまして遥かに、気持のよい人たちや選りぬきの人々との閑談を好んで、饗宴のおりには、詩人と噺家《はなしか》に、おそば近く、上席を賜うのでした。そればかりではございません。異国の人が王の歓待を受けて、その仁慈と寛大の結果に浴した後で、何か未知の話とか、美しい物語とかをお話し申し上げると、ケンダミル王はこれに優遇と恩恵の限りを尽し、そのどんな小さな望みまでも、叶えてやった上でなければ、自分の国にお返しにならず、旅の間じゅうずっと、その指図に従う騎兵と奴隷の美々しい供廻りを、つけておやりになるのでした。お出入りの噺家と詩人たちに対しては、これを大臣《ワジール》や貴族《アミール》と同格に待遇なさいました。それでこうして、この王宮は、詩を作ったり、抒情詩を賦したり、あるいは、無に帰した過去と滅び去った事柄とを、言葉によって甦《よみがえ》らせたりすることのできる人々すべての、愛慕の館《やかた》となりました。
ですから、ケンダミル王は、しばらくすると、およそアラビア人、ペルシア人、インド人の知るあらゆる話を聞き尽し、それらをば、詩人たちのいちばん美しい名句と、昔の国民《くにたみ》の研究に通じた年代記作者たちの教訓と一緒に、すっかり御記憶のなかに畳みこんでしまいなすったことは、少しも怪しむにあたりません。それゆえ、御存じのことすべてをかいつまんでまとめてみると、もはや何ひとつ教わることもなく、聞くこともない仕儀でございました。
このような有様になられると、王は極度の悲しみに襲われ、非常な困惑に陥りなさいました。そこで、今は日常のお暇をどう潰してよいやらおわかりにならず、宦官長のほうに向いて、おっしゃいました、「早くアブー・アリを呼んでまいれ。」ところで、アブー・アリというのは、ケンダミル王お気に入りの噺家でございました。これは実に雄弁で、天分豊かな人で、一つの話をまる一年ぶっ通しに途切れもせず、またただのひと夜も、聞き手たちの注意を倦ませもせずに、続けることができるほどでした。けれども今ではもう、彼もその仲間と同様、自分の知識と雄弁の種も尽き果て、ずっと前から、新しい物語の種切れに陥っていたのでした。
そこで宦官はいそぎ彼を呼びに行って、王の許に連れてまいりました。すると王はこれに申されました、「おお雄弁の父よ、今やその方も自分の知識を使い尽し、新しい物語の種切れに陥っておる。ところで、余がその方を呼んだのは、万難を排して、とにもかくにも、余の知らぬ稀代の話をひとつ、ぜひとも見つけてもらわねばならぬがゆえじゃ。いまだかつてそのようなものは、余の聞いたことのないという話でなければならぬ。何となれば、常にもまして、余は物語類と冒険談を好むのじゃ。されば、もしその方が首尾よく、余に語り聞かする佳言によって、わが心を悦ばせ得たならば、余はその代りとして、広大な地をいくつも贈ってその方を領主とし、城砦《じようさい》と宮殿を遣わし、一切の課税と賦課を免ずる允可《いんか》を与えよう。またその方をわが総理|大臣《ワジール》に任じて、わが右に坐らせよう。そしてその方は、まったき全権をもって、わが領内の家来臣民のただ中で、自分の思う存分に世を治めて苦しゅうない。のみならず、望みとあらば、わが死後はその方に王座を伝えるであろうし、在世中も、余の一切の有《もの》はことごとくその方の有であろう。しかし、その方の天運|拙《つたな》くして、ただ今その方に申した、全地を所有するにもましてわが魂を占むるこの望みをば、その方が満たし得ぬとあらば、その方は今よりして直ちに、親戚身内に別れを告げに行き、串刺しの刑がわれを待っていると、一同に申して差支えないぞよ。」
このケンダミル王の御諚《ごじよう》に、噺家アブー・アリは、もう頼む術《すべ》なく助からぬとさとり、そこで答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてどうしようもない絶望に襲われ、顔色も真っ黄色になって、首を垂れました。けれどもしばらくたつと、再び頭を挙げて申しました、「おお当代の王よ、君の奴隷、無知無学の者は、死ぬに先立って、御寛容のお恵みを乞い奉りまする。」すると王は尋ねました、「してそれは何じゃ。」彼は言いました、「これに何とぞただ一年の御猶予を賜わって、御所望遊ばさるるものを探すことを、お許し相成りたき次第でございます。さりながら、その期間を過ぎても、くだんの話が見つからぬ節は、また、もし見つかっても、それがおよそかつて人間の耳に達した最も見事な、最も不思議な、最も稀代なものでなかった節は、私は心中いささかの苦渋もなく、悦んで串刺しの刑を受けるでございましょう。」
この言葉に、ケンダミル王は思いなさいました、「一年の期間とはいかにも長いわい。翌日必ずなお生きているはずとは、何ぴともはかり知れぬ。」次に付け加えなさいました、「さりながら、更に今一つ物語を聞きたいとの余の望みは、極めて大なるによって、余はその方にその一年の猶予をとらせよう。されど、その間、その方は自宅から動かぬという条件でじゃ。」そこで噺家アブー・アリは、王の御手の間の床に接吻して、いそぎわが家へと戻りました。
さて彼は長いあいだ思案に耽ってから、自分の白人奴隷《ママリク》のなかから、五人の男を呼び出しましたが、それは読み書きもでき、その上、全部の召使のなかでいちばん心利き、いちばん忠義で、いちばん抜群の者たちでした。彼はめいめいに金貨五千ディナールを渡して、それから言い渡しました、「私がお前たちをわが家に育て、目をかけ、養ったのは、ほかでもない、今日のような日のためであった。されば、お前たちはひとつ私を救い、私に力を貸して、私を王の御手の間から免れさせてくれなければならない。」彼らは答えました、「お命じ下さい、おお御主人様、私どもの魂はあなた様のもの、私どもはあなた様の身代金《みのしろきん》でございます。」彼は言いました、「こういうわけだ。お前たちはそれぞれ、アッラーの異なる道を行って、外国へ旅立ってもらいたい。そして地のあらゆる王国とあらゆる地方を経廻って、最も名高い学者、賢人、詩人、噺家を求めよ。そして彼らに、ハサン・アル・バスリの冒険談[#「ハサン・アル・バスリの冒険談」はゴシック体]というのを知らないかと尋ねて、私にその物語を持ち帰ってもらいたいのだ。万一至高者の御恵みによって、そのうちの誰かがこれを知っていたならば、どのような値を払っても、頼んでそれを語り聞かせるか、書くかしてもらってこい。というのは、お前たちが、お前たちの主人を待つ串刺しからこれを救い得るは、ただこの物語のお蔭を措いて他にないのだ。」それから彼は別々に一人一人に向って、まず第一の白人奴隷《ママルーク》に言いました、「お前はインドとシンドの国々、及びそれに付属する地方と州に向って行け。」また第二の者には、「お前はペルシアとシナ、及びそれに境を接する国々に向って行け。」第三の者には、「お前はホラーサーンとその属国を歴訪せよ。」第四の者には、「お前はマグリブ地方全部、東から西まで探れ。」第五の者には、「さてお前は、おおモバラクよ、お前はエジプトの国とシリアを訪れよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十七夜になると[#「けれども第五百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
噺家アブー・アリは、自分の五人の忠僕にこのように申しました。そして出発には、吉日を選んで、一同に言いました、「この祝福された日に出発せよ。そしてわが贖《あがな》いのかかってそれにある物語を携えて、戻れよ。」すると一同|暇《いとま》を告げて、五つの別々の方角に向って、散らばりました。
さて、最初の四人の男は、十一カ月後に、相次いで、悄然として帰ってきて、自分たちの歩きまわった遠い国々で、もうこの上なく丹念に探したにもかかわらず、天運は自分たちの願う噺家にも、物識りにも、とうとう巡り合わさせてくれなかった、行く先々、町々でも天幕《テント》の下でも、広く知れわたっている物語しか知らぬ普通の噺家と詩人にしか出会わず、ハサン・アル・バスリの冒険については、遂に誰ひとり知るものがなかった、と主人に告げたのでございます。
この言葉に、年とった噺家アブー・アリの胸は、狭まる限り狭まって、世界は彼の顔の上に暗くなりました。彼は叫びました、「全能のアッラーのほかには、頼りも力もない。今となってはよくわかった、おれの天命はおれを串刺しの杭《くい》の上に待つ旨、天使の書に記《しる》されていることが。」そして彼は、この瀝青《チヤン》の死を死にゆく前に、準備をし遺言を作りました。彼については、このようでございます。
ところが、モバラクという第五の白人奴隷《ママルーク》はと申しますと、彼はそのとき既に、エジプト全国とシリアの主な部分を歩き終えていましたが、求めるものの痕跡《あと》さえも見つかりません。カイロの名高い噺家たちすら、彼らの知識は常識を越えるものがあったとは申せ、これについては教えることができませんでした。そればかりか、そんな物語があろうとは、やはり噺家であった彼らの父や祖父からも、話にさえ聞いたことがない有様なのです。ですから、この若い白人奴隷《ママルーク》はダマスの道をとったものの、これから先、この企てに成功する望みはもう抱いていませんでした。
さてダマスに着くや、彼はすぐさま、その気候と庭園と水と壮麗との魅力に捉えられました。もしも心が、見込みのない使命でそれほど屈託することがなかったならば、彼の喜びは無上の極みに達したことでございましょうが。折から、ちょうど夕方だったので、彼はどこか夜を過す隊商宿《カーン》を求めて、町の通りを歩きまわっておりますと、そのとき、市場《スーク》のほうに曲ると、人足や、掃除夫や、驢馬曳きや、土方や、商人や、水運びの一群が、その他大勢の人々と共に、同じ方向を指して、めいめい全速力で、いそぎ走って行くのが見えました。そこで独りごとを言いました、「この人たちはいったいどこへ行くのかしらん。」そして自分も人々と一緒に走って行こうと思っていると、途端に、一人の若い男が激しくぶつかりました。その男はあまり熱心に道をいそいだため、着物の裾に足をとられて、躓《つまず》いたのです。そこで彼は手を貸して起してやり、背中を払ってやってから、その男に尋ねました、「そんな風にして、どこへ行くのですか。見ればあせって気が気でなくいらっしゃる御様子だが、それに他の方々もあなたと同様なのは、いったいどうしたわけでしょう。」その若い男は答えました、「わたしたちがこうして駆けて行く先を御承知ないとは、これは、あなたは外国の方にきまっていますね。こういうわけですよ。私としちゃ、あそこの、イスハーク・アル・モナッビイ老《シヤイクー》のいなさる円天井の広間に、まっ先に着きたいのでさ。これは私たちの町の飛びきり豪《えら》い噺家、世界でいちばんすばらしい物語を聞かせて下さる方です。何しろいつだって、部屋の外にも内にも、たいへんな聴衆で、いちばん後に着いたんじゃ、うまい工合にその話を聞けませんからね。私も御免こうむって、いそいで行かせてもらいます。」しかし若い白人奴隷《ママルーク》はそのダマスの住民の着物をつかまえて、言いました、「おお正しい人々の息子さん、どうかぜひ一緒に私を連れて行って、イスハーク老のそばの良い席が見つかるようにして下さいな。それというのは、私もまたぜひともそのお話を聞きたいと願っているので、はるばる遠方の国からやってきたのは、全くその方のためなのですから。」すると若者は答えました、「じゃ私のあとからいらっしゃい、駆けて行きましょう。」そして二人で、おのおの自分の住居に帰り行くおとなしい人々を、右や左に突き飛ばしながら、イスハーク・アル・モナッビイ老が席を開いている広間めざして、突進して行きました。
さて、円天井から爽やかな涼気の下りているその広間にはいって行くと、モバラクは、人足や、商人や、歴とした人たちや、水運びその他の人々が、ひっそりと輪になっているまん中の席に、顔に祝福のしるしを帯び、額に光輝の円光輝く、尊ぶべき一人の長老《シヤイクー》が坐って、もうひと月以上も前から、熱心な聴衆の前で始めている物語を続けながら、威厳のある声で語っているのを認めました。けれども長老《シヤイクー》の声はやがて、武士の無双の武勲を語るに及んで、活気づかずにはいませんでした。そして俄かに、彼はもはや激する思いを抑えかね、自分の席から立ち上がって、聴衆の間を、広間の端から端へと駆け回りはじめ、首を刎ねとばす武士の白刃を振りまわし、敵を微塵に切り刻む有様でした。「されば、悪人ばらは死ねよかし。呪われて、地獄《ジヤハンナム》の劫火に焼かるべし。願わくばアッラーは武士の身を無事守りたまえ。無事なり。いやいや、危うし。われらの剣はいずこぞ。急を救いに馳せつくるべき、われらの棍棒はいずこにあるか。見よ、彼はアッラーの神助によって、群がる敵を打倒し粉砕して、勝ち誇って乱闘より出でたり。されば、武勇の主《あるじ》、全能者に栄光あれ。しかし武士は今は、恋人の待つ天幕《テント》のもとへと赴き、その乙女ゆえに遭遇したる危難をば、佳人のくさぐさの美わしさによって忘れ去るがよい。武士の心中に香油を注ぎ、臓腑に情火を燃やすべく、女性を創りたまいしアッラーに、称《たた》えあれかし。」
この言葉で、イスハーク老は今宵の一席を終ったので、聴衆は恍惚の極に達して立ち上がり、噺家の最後の文句を繰り返しながら、広間を出ました。白人奴隷《ママルーク》モバラクは、このように見事な話術に驚嘆して、イスハーク老に近づき、その手に接吻してから、申しました、「おおわが御主人様、私は異国の者でございますが、あなた様にお願い申したき一儀がございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十八夜になると[#「けれども第五百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると長老《シヤイクー》はこれに挨拶《サラーム》を返して、答えました、「言うがよい。異国の方は、われらにとっては決して異国の方ではござらぬ。どういう御用かな。」彼は答えました、「私は遥か遠方より、わが主人、噺家ホラーサーンのアブー・アリより、金貨一千ディナールの御進物を、あなた様に呈上するために参りました。それと申しまするは、主人はあなた様をば当代のあらゆる噺家の師と仰ぎ、これを奉って讃美の念を証したき存念でございます。」イスハーク老は答えました、「いかにも、高名なるホラーサーンのアブー・アリの名声は、何ぴともこれを知らぬわけにはまいるまい。さればわしは親愛の念をもって悦んで、あなたの御主人の御進物を受けるが、お礼にあなたを通じて何かお返しをしたい。されば、わしのお土産《みやげ》が一段とお気に召すように、御主人の最も好まるるところをば、言ってもらいたい。」長い間待ちに待ったこの言葉に、白人奴隷《ママルーク》モバラクは思いました、「これで目的に達したぞ。これこそおれの最後の頼みだ。」そして答えました、「願わくはアッラーは、おおわが御主人様、あなた様に祝福の限りを尽したまいますよう。されど、この世の福禄はアブー・アリの頭上に繁く、主人はただ一事しか願いませぬ。それは自分の知らぬことをもって、己が精神を飾ることでございます。されば主人は、何かわれらの王のお耳を楽しませることのできるような新しい話をば、御厚志にまって教えていただきたいものと、私をあなた様のもとに遣わしたのでございます。そういう次第で、例えば、もし御存じあらば、世に『ハサン・アル・バスリの冒険』と呼ばるる物語をば、教えていただけますれば、主人の感激これに越すものはござりませぬでしょう。」長老《シヤイクー》は答えました、「わが頭上とわが目の上に。お望みは叶えられるであろう、しかも望み以上に。それというのは、その物語はわしの知るところだ、かつこの地の表《おもて》で、これを知るはわし一人きりじゃ。御主人アブー・アリが、その物語を求めらるるのももっとも至極、これこそは確かに、世にある最も稀代の物語のひとつだからな。わしはその話を昔、今は亡き回教のある聖僧から聞き、その修道僧《ダルウイーシユ》は、やはり今は亡き他の或る修道僧《ダルウイーシユ》から、伝えられたものじゃ。わしはあなたの御主人のお気前に感じて、あなたにその話を聞かせて進ぜるばかりでなく、一部始終細大洩らさず、書き取らせてあげよう。ただ、このわしからの贈与には、厳重な条件をひとつ付けるが、もしあなたがその写しを得たいとあらば、必ずそれを守ると、誓約してもらいたい。」白人奴隷《ママルーク》は答えました、「どのような条件なりと、すべて承知致します、たとい私の魂を危うくいたしましても。」長老《シヤイクー》は言いました、「よろしい、この物語こそは、相手を選ばず語ってよいという物語ではなく、万人向きに出来ているものにあらずして、ただ選《え》りぬきの人々にのみ向くものであるからして、あなたはあなたの名と御主人の名とにおいて、次の五種類の人間に対しては、ただの一語も決して洩らさぬということを、わしに誓いなされ。まず無知|蒙昧《もうまい》の徒じゃ。何となれば、彼らはその粗野なる精神をもってしては、これを珍重し得まいからじゃ。次には偽善の徒。彼らはこの物語を不快に感ずるであろう。次は学校教師ども。無能鈍重の彼らには、これは解されまい。次は馬鹿者ども。彼らは学校教師のようなものじゃ。最後に不信の輩。彼らはこの物語より有益な教訓を取り出し得まいがゆえ。」すると白人奴隷《ママルーク》は叫びました、「私はアッラーの御面《みおもて》の前と、おおわが御主人様、あなた様の前で、誓い奉りまする。」それから彼は、帯をほどいて、そこから金貨一千ディナール入りの袋を取り出して、それをイスハーク老《シヤイクー》に渡しました。長老《シヤイクー》のほうでは、墨壺《すみつぼ》と蘆筆《カラーム》を差し出して、申しました、「書きなされ。」そして『ハサン・アル・バスリの冒険談』全部を、修道僧《ダルウイーシユ》から伝えられたとおり、一語一語口述しはじめました。この口述は、ぶっつづけに七日七夜に亘りました。それがすむと、白人奴隷《ママルーク》は長老《シヤイクー》の前で、書き取ったことを読み返しまして、長老《シヤイクー》はいろいろの個所を訂正し、文字の誤りを正してくれました。それで白人奴隷《ママルーク》モバラクは悦びの極に達して、長老《シヤイクー》の手に接吻し、別れを告げた上で、いそぎホラーサーンの道を取りました。心嬉しくて身も軽くなったので、彼は国に着くのに、普通|隊商《キヤラヴアン》たちのかかる半分の時間しか要《い》りませんでした。
ところが、その時はもうあと十日で、猶予期間として王の定めた一年が尽き、アブー・アリの処刑のため、王宮の門前に串刺しの杭が立つという際でした。そして希望はもう不運な噺家の魂から全部消え失せてしまって、彼は親戚知友全部を集めて、自分を待つ恐ろしい時刻を、何とか少しは怖《こわ》がらずに、耐えるのを助けてもらおうとしていたところでした。そこに、悲嘆の最中へ、白人奴隷《ママルーク》モバラクが、写本を振りかざしながら、飛びこんできて、主人のほうに行き、その手に接吻してから、貴重な紙束を渡したのです。その第一葉には、大きな字で、『ハサン・アル・バスリの冒険談[#「ハサン・アル・バスリの冒険談」はゴシック体]』という表題が、記《しる》してあります。
これを見ると、噺家アブー・アリは立ち上がって、わが白人奴隷《ママルーク》を抱き、これを自分の右に坐らせ、自分の着ていた着物を脱いで、これに着せてやり、名誉と恩恵のしるしの限りを尽しました。次に、この奴隷を自由の身にしてやった上で、贈物として、血統正しい名馬十頭、牝馬五頭、駱駝十頭、騾馬十頭、黒人三名と小童二名を与えました。それがすむと、彼は自分の生命を救ってくれる写本を取りあげて、改めて自分自身で、これをすばらしい紙に、金文字で、精いっぱい名筆を揮《ふる》い、読むのに心地よく楽なように、言葉と言葉の間にたっぷり余白を置いて、書き写しました。彼はこの仕事にまる九日、殆んど目を閉じる暇も、棗椰子《なつめやし》の実を食べる暇もなく、かかりきりました。そしていよいよ十日目、彼の串刺しの刑と定められた時刻に、彼は写本を黄金の手筥《てばこ》に納めて、王のところに参内しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百七十九夜になると[#「けれども第五百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すぐにケンダミル王は、大臣《ワジール》、貴族《アミール》、侍従、それに詩人と学者たちを、呼び集めて、さてアブー・アリに仰せられました、「王者の言は速やかに行なわれなければならぬ。されば、約束のその物語をば、われらに読み聞かせよ。余のほうでも、当初われら両人の間で取り決めたところを、忘れは致すまいぞ。」そこでアブー・アリは、黄金の手筥から見事な写本を取り出し、第一枚目を拡げて、朗読を始めました。それから二枚目を拡げ、三枚目、その他の幾枚も幾枚も拡げて、会衆全部の讃美と驚嘆のただ中で、読み続けました。そしてその感銘は、王にとってひと方ならず、その日はもう散会しようとはなさりませんでした。そこで一同食べて飲み、そして再び始めました。それが最後まで同じ有様でございました。
いよいよ終りますと、ケンダミル王は恍惚の限り恍惚となさり、もうこのような物語をお手許に持っていらっしゃるからには、今後一刻も退屈なさる心配がないと確信なさって、アブー・アリに敬意を表して立ち上がられ、今までの総理|大臣《ワジール》の職を免じて、直ちに彼を総理|大臣《ワジール》に任じ、御自身の王の外套を彼にお着せになった上で、御領国の一州全部、町々も村々も城砦もつけて、世襲所領として賜わりました。そして股肱《ここう》腹心のお相手として、おそばに置かれました。次に、王は貴重な写本を入れた手筥を文庫戸棚に納めさせ、無聊《ぶりよう》が御自分の魂の戸口に訪れるごとに、いつもそれを取り出しては、この物語を読ませることになすったのでございます。
[#この行1字下げ] ――「そしてあたかも、この世にも不思議な物語をば、おお幸多き王様よ」とシャハラザードは続けた、「わたくしは、わたくしのところまで伝わりました正しい筆写本のお蔭で、これからお話し申し上げることができる次第でございます。」
語り伝えまするところでは、――さあれアッラーは更に多く知りたまい、更に賢く、更に恵み深くましまする、――かつ現われ、かつ過ぎた、非常に遠い昔の歳月のうちに、――バスラの町に、一人の青年がおりましたが、これはその頃のあらゆる若者のなかで随一の、雅《みや》びな、美貌の優男《やさおとこ》でございました。その名をハサン(2)と申し、まことに名前が人の子にこれほどそっくり当てはまっていることは、かつてありませんでした。ハサンの父母は、非常な愛情をもってこの子を愛していましたが、それというのは、父母はもう全くの老年の日々に、ようやくこの子ができたからでした。それは魔法書を解読する一人の学者の忠告のお蔭でございまして、その学者が、われらの主スライマーン(その上に平安と祈りあれかし)の御処方に従って、大蛇の質《たち》の蛇の頭と尻尾との間にある肉片を、両人に食べさせたのでした。さて、定めの時期至りますと、一切を聞き、一切を見たもうアッラーは、ハサンの父親の商人に、その御慈悲の懐《ふところ》のうちに入る御許可を、発したまいました。それで商人は主《しゆ》の平安のうちに身まかりました(願わくはアッラーは末長く彼を憐れみたまえかし)。こうして年少のハサンは、父の財産のただ一人の相続人となったわけでございます。しかるに彼は、溺愛する両親にたいへん甘やかされて育ったので、さっそく同じ年配の若者たちと交わりはじめ、彼らと一緒に、たちまち父の貯えを、宴会や遊蕩で使い果たしてしまいました。そしてもう手の間には、一物もなくなりました。すると憐れみ深い心を持った母親は、息子の悲しむのを見るに忍びず、自分の分の遺産を出して、息子のため、市場《スーク》に金銀細工の店を開いてやりました。
ところで、ハサンの美貌はやがて、アッラーの御同意を得て、道行く人すべての目を、この店に引きつけるようになりました。市場《スーク》を横切る人で、戸の前に足をとめ、創造主の御業《みわざ》を眺めて、感嘆しない者とてございません。こうしてハサンの店は、金銀細工用の金槌《かなづち》をふるう彼の姿を見ては、ゆっくりと見蕩れるために、寄り集まってくる商人、女子供の、引きもきらぬ人だかりの中心となりました。
さて日々のうちのある日のこと、ちょうどハサンが店の中に坐っていて、戸外《おもて》には、いつもの人だかりが、ようやく繁くなりはじめたころ、そこに大きな白鬚を生やし、大きな白モスリンのターバンをかぶった、一人のペルシア人が通りかかりました。その風采態度からして、これは歴としたお偉方であることが十分わかります。手には一巻の古い書物を持っています。そのペルシア人は店先に立ち止って、じっと注意を凝らして、ハサンを見つめはじめました。それから、もっと彼のそばに寄って、彼に聞えるように言いました、「アッラーにかけて、何という立派な細工師だろう。」そして限りない感嘆を明らさまに示しながら、頭を振りはじめまして、そのまま、身動きもせず、通行人たちが午後の礼拝のために散らばってしまうまで、立ち尽していました。そのとき、その男は店にはいって、ハサンに会釈《えしやく》しますと、ハサンはこれに挨拶《サラーム》を返して、鄭重に坐るように招じました。ペルシア人は、非常な優しさをこめて微笑《ほほえみ》かけながら、腰を下ろし、さて言いました、「わが子よ、お前はまことに人好きのする若者じゃ。わしは自分に息子がないので、お前を養子にして、わしの秘術を教えてやりたくなった。これは世界で唯一無二の秘術で、今まで何千何万という人が、ぜひ教えてくれと、空しくわしに願ったものだ。ところで今や、わが魂と、お前に対してわが魂のうちに生じた友情とは、わしが今日まで大切に隠してきたところを、お前に明かして、わが亡き後は、お前にわが学を伝えてやろうとの念を、しきりに覚えさせるのじゃ。かくしてわしは、お前と貧困との間に越え得ざる障礙《しようがい》を設けてやり、お前にそんな骨の折れる金槌仕事をやめさせ、そして埃と炭火と焔のただ中でやっている、おおわが息子よ、お前のような愛すべき人柄にふさわしからぬ、さして儲けにもならぬ商売を、お前に免じてやると致そう。」するとハサンは答えました、「アッラーにかけて、おお尊ぶべき小父様、私はあなた様の息子となり、あなた様の学問の後継ぎとなることを、ひたすら願うばかりでございます。それでは、いつから私に秘法を授けて下さいますでしょうか。」彼は答えました、「明日からじゃ。」そしてすぐに立ち上がって、ハサンの頭を両手ではさんで、接吻しました。次にそれ以上ひと言も付け加えずに、外に出て行ったのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十夜になると[#「けれども第五百八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それ以上ひと言も付け加えずに、外に出て行ったのでございます。するとハサンは、こうしたすべてにすっかり心乱れて、いそいで店を閉め、家に駆けて帰り、母親に今起ったことを話しました。ハサンの母は、たいそう心配して、答えました、「とんでもない話じゃないの、やあハサン。異端のペルシア人の言葉なぞ、どうして信じられますか。」彼は言いました、「あの尊い学者様は、決して異端じゃありませんよ。だってターバンは白モスリンでできていて、本当の信者たちのターバンと同じでしたもの(3)。」母親は答えました、「息子や、しっかりなさいよ。ああいうペルシア人たちはいんちき師で、誘惑するのですよ。あの人たちの学問というのは、錬金術のことです。あの人たちが魂の黒さのなかでたくらむ陰謀と、人々を身ぐるみ剥ぐためにする計略《はかりごと》の数々は、ただアッラーだけが知っておいでなさる。」けれどもハサンは笑い出して、言いました、「おお、お母さん、僕たちは貧乏人だから、本当のところ、他人の欲心をそそることのできるようなものは、何ひとつ持ってやしません。そのペルシア人という人は、バスラの町じゅう探したって、あれ以上人好きのする顔と様子の人はいはしません。僕はあの人に、この上なく明らかな親切と徳のしるしを見かけました。それよりか、あの人の心を僕の境遇に同情させるようにして下さったアッラーに、感謝しましょうよ。」この言葉に、母親はそれ以上何とも答えませんでした。そしてハサンは、いろいろ思い惑い、待ち遠しくて、その夜は目を閉じることができませんでした。
翌日、彼は朝早く、鍵を持って市場《スーク》に出かけ、ほかの商人の誰よりも早く、店をあけました。するとすぐに、例のペルシア人がはいってくるのが見えました。それでいそいでこれを迎えて立ち上がり、その手に接吻しようとしました。けれども相手はそれを拒んで、彼を腕に抱きしめて、尋ねました、「お前は結婚しているかね、おおハサン。」彼は答えました、「いいえ、アッラーにかけて、私は独身です、母は始終、結婚するようにと言っておりますけれど。」ペルシア人は言いました、「では申し分ない。というのは、お前が結婚しているとすると、到底、わしの知識の蘊奥《うんおう》に分け入ることはできまいからじゃ。」次に付け加えました、「わが息子よ、この店に何か銅のものはないか。」彼は言いました、「もうぼろぼろになった、真鍮《しんちゆう》の古い盆が一枚あります。」相手は言いました、「それこそまさに欲しいものだ。ではまず、お前の炉に火を起し、おまえの坩堝《るつぼ》を火にかけ、お前のふいごを動かしなさい。それから、その真鍮の古盆を持ってきて、それを鋏で小さく切り刻みなさい。」そこでハサンは、いそいで言いつけどおり致しました。するとペルシア人は言いました、「今度はこの銅屑を坩堝に入れて、この金物が全部液状になるまで火を煽《あお》りなさい。」ハサンは銅屑を坩堝に投げ入れて、火を煽り、液化するまで、管《くだ》で金属に風を吹きつけはじめました。するとペルシア人は立ち上がって、坩堝に近づき、持っている本を開いて、沸騰する液体の上に、わからない言葉で呪文《じゆもん》を読み上げました。次に声を高めて、叫びました、「ハク、マク、バク。おお卑しき金属よ、太陽はその功徳《くどく》をもって汝を貫けよかし。ハク、マク、バク。おお卑しき金属よ、黄金の功徳、汝の不純を追い払えかし。ハク、マク、バク。おお銅よ、汝黄金に変ぜよ。」そして、これらの言葉を発しながら、ペルシア人はターバンのほうに手をやって、モスリンの襞《ひだ》の間から、畳んだ紙の小さな包みを取り出し、それを開けました。そしてそこから、|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》のような黄色い粉をひとつまみとって、それをば、坩堝の中の液状の銅のただ中に、いそぎ投げこみました。すると即座に、液体は固まって、一片の地金、純金金無垢の地金と変じたのでございます。
これを見ると、ハサンはびっくりの限りにびっくりしました。そしてペルシア人の合図に従って、試験用の鑢《やすり》を取り上げて、輝かしい地金の片隅をこすってみました。それはまさしく、最も純粋な、いちばん珍重されている黄金であることが、確かめられました。そこで感嘆のあまり、ペルシア人の手を取って接吻しようとしましたが、ペルシア人はそれを許そうとはせず、彼に言いました、「おおハサンよ、早く市場《スーク》に行って、この金の地金を売ってきなさい。そしてその代金を受け取って、お前の知っていることはひと言も洩らさずに、わが家に金子《かね》をしまいに戻るがよい。」それでハサンは市場《スーク》に行って、地金を呼売り屋に渡すと、呼売り屋はその目方と質を改めてから、せり売りにかけますと、最初は金貨一千ディナールと、声がかかりましたが、二度目には二千ディナールになりました。それで、地金はその値で一人の商人の手に落ち、ハサンはその二千ディナールを受け取って、悦び勇んで母親に金子を持って行きました。ハサンの母は、その金貨全部を見て、最初はひと言も言い出せないほど、驚きにいっぱいになりました。そのうち、ハサンが笑いながら、これはペルシア人の学問のお蔭で、手に入ったのだと話しますと、母親は両手を挙げて、恐れおののいて、叫びました、「アッラーのほかに神なく、アッラーのほかには力も権力もない。おお息子や、お前はその錬金術に詳しいペルシア人相手に、いったい何をしたのです。」けれどもハサンは答えました、「今ちょうど、おお、お母さん、その尊い学者は、僕に錬金術を教えてくれようというところなのです。それでまず最初に、どんな風にして、つまらない金属をこの上もない純金に変えるかを、僕に見せてくれたわけです。」そしてもう母親の詰問など気にしないで、ハサンは台所へ行って、母親が韮《にら》と玉葱を砕き、挽麦《ひきむぎ》のお団子《だんご》を作っていた、大きな銅の乳鉢を取り上げて、そのまま、自分の店で待っているペルシア人に会いに、駆けつけました。そしてその銅の乳鉢を床に置いて、火を煽りはじめました。するとペルシア人は聞きました、「いったいお前は何をしようというのか、やあハサン。」彼は答えました、「このお母さんの銅の乳鉢を、金に変えていただきたいと思って。」するとペルシア人は吹き出して、言いました、「お前は馬鹿だよ、ハサン、同じ日に二度も金の塊りを持って、市場《スーク》に出かけようなんて。そうすれば、商人たちの疑いを招いて、われわれが錬金術をやっていることを感づかれ、われわれの頭上に、甚だ面白からぬことを招き寄せるだろうが。」ハサンは答えました、「なるほどね。だが私はそれくらい、この学問の秘伝をぜひ教えていただきたいと思っているのです。」ペルシア人はさっきよりももっとひどく笑い出して、言いました、「お前は馬鹿だよ、ハサン、この学問と学問の秘伝を、そんな風に、街のまん中とか広場とかで習えると思ったり、市場《スーク》のまん中で、警察の目の前で、修行できると思ったりするとは。しかし、やあハサン、もしお前が本当に、あくまで真剣に勉強したいという固い望みを持っているのなら、お前の道具を全部まとめて、わしの住居までついて来さえすればよいのだ。」するとハサンはためらわず、「仰せ承わり、仰せに従います」と答えて、立ち上がり、自分の道具をまとめて、店を閉じ、ペルシア人のあとについて行きました。
ところが途中で、ハサンはペルシア人たちについての母親の言葉を思い出しました。すると、いろいろな考えが精神《こころ》を襲ってきて、自分が何をしているのかはっきりわからなくなって、足を停め、頭を垂れて、深く考えこみはじめました。ペルシア人は振り返ってみて、彼のこの様子を見ると、笑い出しましたが、それから彼に言いました、「お前は馬鹿だよ、ハサンよ。なぜというに、もしお前に愛嬌があるくらい分別があったとしたら、わが身を待つ立派な天命の前に、足を停めて佇《たたず》むことはあるまいが。何ということじゃ、わしはお前の幸福を望んでいるのに、お前はためらうとは。」それから、言い添えました、「さりながら、わが息子よ、お前がわしの意中について、最もかすかな疑念も持たないようにするため、わしはいっそわが秘伝を、お前自身の家で伝えてやるとしよう。」するとハサンは答えました、「そう願います、アッラーにかけて。そうすれば母も安心するでしょう。」ペルシア人は言いました、「では先に立って、道案内をするがよい。」そこでハサンは前を歩き、ペルシア人は後を行き、こうして二人は母親のところに着きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十一夜になると[#「けれども第五百八十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとハサンは、ペルシア人に玄関のところで待っているように頼んで、さながら春に牧場で勇む若い種馬のように駆けながら、母親に、例のペルシア人がお客に見えたと知らせに行きました。そして付け加えて、「あの方が僕らの家で、僕らの食べ物を食べることになれば、僕らの間には、パンと塩の繋がりができるから、もうお母さんも、そうなれば、今後は僕の身を心配なさるわけがなくなるでしょう。」けれども、母親は答えました、「どうぞアッラーが私たちをお守り下さいますように、息子よ。そりゃパンと塩の繋がりは、われわれの間では神聖です。だけどああいういやらしいペルシア人どもは、拝火教信者で、邪《よこしま》で、誓いを破り、そういう繋がりなんか、たいして重んじはしませんよ。ああ息子よ、私たちは何という災難に追いかけられているのだろう。」彼は言いました、「まああの尊い学者を御覧になれば、お母さんだって、もうあの方を家から出したいとは思いなさるまいが。」母親は答えました、「いえ、いえ、お前のお父さんのお墓にかけて、私はそんな異端が泊っている間は、ここにおりませんよ。そして出て行ったら、部屋の敷石を洗って、お香を焚いてやります。そしてお前に触れて私の身を汚すといけないから、まるひと月の間、お前自身にも触りますまい。」それから、更に言い足しました、「だけど、とにかくもうその人が家に来ているというなら、それにその人から貰った金子《おかね》があるのだから、私はお前たち二人に何か食べ物を調えてあげて、その上で、いそいでお隣様のところに行ってしまうとしよう。」そしてハサンがペルシア人を呼びに行っている間に、母親は食布《スフラ》を拡げ、たっぷりと買物をしてから、二人のために、焼いた雛鳥《ひなどり》と、胡瓜と、十種類の捏粉《ねりこ》菓子と砂糖煮の果物を、皿に盛り上げて、いそぎ隣の人のところに逃げて行きました。
そこでハサンは、友のペルシア人を食事の間《ま》に案内して、席に就くように招じながら、言いました、「われわれの間に、パンと塩の繋がりがある必要がございます。」するとペルシア人は答えました、「いかにも。その繋がりは犯すべからざることじゃ。」そしてハサンと並んで坐って、いろいろしゃべりながら、一緒に食べはじめました。ペルシア人は言うのでした、「おおわが子ハサンよ、今やわれわれの間には、パンと塩の神聖な繋がりがあるが、その繋がりにかけて、もしわしがお前をこんなに強い愛情で愛していなかったとしたら、今そのためここに来ているその秘事を、わしは決してお前に授けはしないだろう。」こう言いながら、ペルシア人は、ターバンから小さな黄色い粉の包みを取り出して、それを見せながら、付け加えるのでした、「ほうら、ここに粉があるだろう。いいかね、このひとつまみを用いれば、お前は銅十オーク(4)を黄金に変ずることができるのじゃ。というのは、この粉こそは、わしが千種の薬草類の養分と、いずれ劣らず複雑な千種の成分とから取り出して、固めて粉にした、髄の髄の仙薬にほかならぬ。わしは粒々辛苦のあげく、ようやくこの発見に至り着いたので、その苦労はやがてそのうちお前も知ることであろう。」そしてその小さな包みをハサンに渡しますと、ハサンはそれを眺めはじめて全く注意を奪われ、そのため、ペルシア人がターバンから、すばやく一片のクレータ産の麻酔剤《バンジ》を取り出して、捏粉菓子に混ぜたのを、見るひまがありませんでした。そしてペルシア人はその捏粉菓子をハサンにすすめますと、こちらは相変らず粉を眺めつづけながら、その菓子を呑み込んだので、そのまま気を失って、頭のほうが足よりも先に、どっと仰向けに引っくり返ってしまったのでございます。
すると直ちに、ペルシア人はひと声勝利の叫びをあげつつ、おどりあがって言いました、「ああ、美わしいハサンよ、既に年久しく、おれはお前を探《たず》ねあぐんでいた。だが今となっては、お前はおれの掌中に入った。もうおれの言いなりにならざるを得ないぞ。」そしてペルシア人は両袖をたくしあげ、帯を締め直してから、ハサンに近づいて、頭を膝のそばに寄せてその身体を二つに折り曲げ、この姿勢のまま腕を脚に、手を足に縛りつけました。それから衣裳箱を取り出して、中を空《から》にし、そこに自分が錬金術を使って得た金貨全部と一緒に、ハサンを入れました。それから外に出て荷担ぎ人足を呼び、その背に箱を負わせて、海岸まで運ばせると、そこには出帆を待ちかまえている一艘の船がいました。船長は、今はこのペルシア人が来るのを待つばかりだったので、すぐに錨をあげました。そして船は、陸からの微風に押しやられて、全帆をあげて岸辺を遠ざかりました。ハサンと、ハサンの閉じこめられている箱を奪って立ち去ったペルシア人のほうは、このような次第でございます。
ところがハサンの母親のほうはと申しますると、次のようでございます。自分の息子が衣裳箱と金貨もろとも姿を消し、衣類が部屋じゅうに散らばっていて、家の戸は開け放たれたままになっているのを認めると、母親は、もうハサンに会うすべなく、天運の決定が行なわれてしまったことを覚りました。そこで母親は絶望に陥って、われとわが顔を激しく打ち、着物を引き裂いて、呻き、泣き、痛ましい叫びをあげ、涙を流しはじめて、言うのでした。「あわれや、おおわが子よ、ああ悲しい、私の心の生命《いのち》の実《み》よ、ああ。」そしてひと晩じゅう、物狂おしく、近所近辺を全部駆け回って、息子の消息を尋ねましたが、何の得るところもありません。近所の女たちは一所懸命慰めようとしましたが、どうしても慰まりません。そしてその時から、母親は自分の家の中央に墓を建てさせ、その上に息子ハサンの名前と、息子がわが愛から奪われた日の日付とを記《しる》して、日夜そのそばで、涙と喪のうちに過しはじめたのでございます。また墓の大理石の上に、次の二句をも刻ませて、絶えず自らそれを誦しては、泣いておりました。
[#ここから2字下げ]
夜、わがまどろむおり、偽りの姿立ち現われ、来たって悲しげに、わが臥床《ふしど》と独居《ひとりい》の周囲をさまよう。
われは愛し子の姿を腕に掻い抱かんとすれば、あわれ、訪れの時刻《とき》は既に過ぎ、われは人気なき家のただ中に、ひとり目覚む。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこのようにして、かわいそうな母親は、わが苦しみと共に暮していた次第でございます。
さて、箱を携えて、船に乗って立ち去ったペルシア人と申しまするは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十二夜になると[#「けれども第五百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……これは実際は、たいそう恐ろしい魔法使でございました。その名を「拝火教徒バーラム」と申し、錬金術を業とする者。そして毎年、彼は回教徒の息子の間から、姿のよい若者を選んでは、これをかどわかし、彼の邪教、邪悪、呪われた種族によってそそのかされる悪事を、その若者とするのでございました。それと申すのも、箴言の主《あるじ》のおっしゃったように、この男は、「犬[#「犬」に傍点]、犬の息子[#「犬の息子」に傍点]、犬の孫なり[#「犬の孫なり」に傍点]。その祖先はすべて犬なりき[#「その祖先はすべて犬なりき」に傍点]。さればいかにしてこの者の犬たらざるをえんや[#「さればいかにしてこの者の犬たらざるをえんや」に傍点]、また犬の所行たらざるところをなしえんや[#「また犬の所行たらざるところをなしえんや」に傍点]」でございます。さて、この男は、船旅の続く間じゅうずっと、一日に一度、船底の箱の置いてある場所に降りて、その蓋を開け、ハサンをずっと眠らせたままにしておきながら、手ずから口の中に食物を入れてやって、食べさせ飲ませていました。いよいよ旅が終って船が着くと、箱を下ろさせ、自分も陸におり、一方船は再び沖に出ました。
そこで魔法使バーラムは、箱を開けてハサンの縛《いまし》めを解き、酢を嗅がせ、鼻の孔に麻酔醒ましの粉を填めこんで、麻酔剤《バンジ》の利き目を消しました。するとハサンは、すぐに感覚の働きを取り戻し、右や左を見まわしました。見ると自分は、海の岸辺に横たわっていますが、そこの砂利と砂は赤、緑、白、青、黄、黒に染っています。それで、これは自分の故里の海辺ではないことがわかりました。そこで、自分がこんな知らない場所にいるのを見て、たいそう驚いて、立ち上がりますと、あのペルシア人が後ろの岩の上に腰を下ろして、片目をつぶり、片目を開けながら、自分を眺めているのが見えました。これを見ただけで、これは自分は騙《だま》された、もうこの男の勢力の下に陥ってしまったという予感を覚えました。そして母親の予言した禍いを思い出しましたが、「私はアッラーを信じ奉る」と思いながら、観念して天運の命ずるところに従うことにしました。それから、じっとして彼の来るのを待っていたペルシア人に近づいて、わくわくした声で尋ねました、「父よ、これはいったい何としたことですか。かつて私たちの間には、パンと塩の繋がりがありはしませんでしたか。」すると拝火教徒バーラムは、からからと笑って、叫びました、「御火《おんひ》と御光明にかけて、パンだの塩だの、いったいおれに向って、何を言うのか、焔と火花、太陽と光明の礼拝者たる、このおれ様バーラムに向って。おれはこうやって、もうこれまで九百九十九人の若い回教徒を引っ攫《さら》って、わが力のもとに置き、お前は千人目だということを、知らないのか。だがお前は、御火と御光明にかけて、お前こそは確かに、あいつら全部のなかで随一の美男子じゃ。おれは、おおハサンや、お前がこんなに造作なく、わが網に引っかかろうとは思わなかった。だが、太陽に光栄あれ、今やお前はわが掌中に入ったぞ、どんなにおれがお前を可愛がっているかは、やがてわかるさ。」次に付け加えました、「まず手始めに、お前はお前の宗教を棄てて、おれの礼拝するところを礼拝するがいい。」この言葉に、ハサンの驚きは限りない憤りに変って、彼は魔法使に向って怒鳴りつけました、「おお呪われの老人《シヤイクー》よ、恐れ気もなくいったい何を言い出すのか。何という忌わしいことを、私に犯させようとするのか。」ペルシア人はハサンがこんなに怒ったのを見ると、もともとハサンについては他に計画がいろいろあったので、その日はこれ以上|強《た》ってすすめないことにして、彼に言いました、「おおハサンや、今お前の宗教を棄てろと言って、お前に持ち出したことは、わしとしては、ただお前の信仰をためして、報賞者の御前でお前の信を大いに誇らせようとの、仮りの言葉にすぎなかったのだ。」次につけ加えました、「わしの唯一の目的は、ここにお前を連れて来て、人知れず、お前に学の神秘を授けてやることにあるのじゃ。まあこの海上に屹立《きつりつ》する、切り立った高い山を御覧。これぞ『雲が峰』じゃ。還金の仙薬に必要な諸成分は、この山にある。もしお前がこの山頂まで連れて行ってもらいたいというならば、おれは御火と御光明にかけて誓う、お前は決してそれを悔いることはあるまいぞ。というのは、仮りにおれがお前の心に反しても、そこまでお前を連れて行こうと思ったら、お前の眠っている間に、そうしてしまっていただろうからな。ところで、ひとたびわれわれは頂上に達したら、その雲の上にある地帯に生えている植物の茎を摘むのだ。それからどうすればよいかは、その節教えてやろう。」するとハサンは、心ならずもこの魔法使の言葉に押されるのを感じて、敢えて断われずに、言いました、「仰せ承わり、仰せに従います。」次に母親と故郷を思い出して切なくて、いたましく泣き始めました。
するとバーラムは彼に言いました、「泣くでない、ハサンよ。やがてわしの忠言に従って、得をすることがわかるだろう。」ハサンは尋ねました、「けれども私たちはいったいどうして、壁のように切り立ったこの山に登ることができるでしょうか。」魔法使は答えました、「そんな困難で思い止まってはならぬ。われわれは鳥よりもやすやすと、頂上に達せられるさ。」
この言葉を言って、ペルシア人は上着のなかから、一つの銅の小太鼓(5)を取り出しましたが、それは雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の皮で張られて、そこに呪《まじな》いの文字が彫りつけられていました。そしてペルシア人は、指でその小太鼓を叩きはじめました。すると砂けむりが濛々と立ちのぼって、そのまん中から、馬の長いいななきが聞えました。そしてまたたく間に、二人の前に、一頭の羽の生えた大きな黒馬が現われて、鼻の孔から焔を吹き出しながら、蹄で地を蹴りはじめました。するとペルシア人はすぐにそれに跨がって、ハサンに手を貸して、自分の後ろによじ登らせました。と思うと、馬は翼を羽搏《はばた》いて、飛び立ち、一方の眼瞼《まぶた》を開け、他方の眼瞼を閉じる暇さえもかからずに、二人を「雲が峰」の頂上に下ろして、それから姿を消してしまいました。
するとペルシア人は、さきほど浜辺で見せたと同じように恐ろしい目つきで、ハサンを見やり、けたたましい笑い声をあげて、こう叫んだのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十三夜になると[#「けれども第五百八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……けたたましい笑い声をあげて、こう叫びました、「さあハサン、今となってはお前は、もう退《の》っ引きならずわが権力のもとに陥った。何ぴともお前を助けることはできまいぞ。されば、すなおな心でおれのあらゆる気まぐれを叶える覚悟をし、まず初めにお前の宗教を棄て、光明の父、御火をば、唯一の権力と認めるとしろ。」
この言葉を聞くと、ハサンは身を退けて、叫びました、「アッラーのほかに神はなし、しかしてモハンマドはアッラーの使徒なり。汝のごときは、おお卑しきペルシア人よ、汝は不信者、異教徒にすぎず。全能の御主《おんあるじ》は、われを通じて汝を懲らしたもうであろうぞ。」そしてハサンは、電光のようにすばやく魔法使に躍りかかって、その手から太鼓を引ったくりました。それから、相手を切り立った山の縁のほうに押しやって、力いっぱい両腕を突き出して、これをば深い淵に突き落しました。すると偽誓不信の魔法使は、ぐるぐると回りながら、海中の岩にぶつかって砕け、その魂は、異教のまま息絶えてしまいました。魔王《イブリース》はその息を取り集めて、地獄《ジヤハンナム》の劫火を掻き立てる用に宛てました。欺瞞の魔法使、錬金術師、拝火教徒バーラムが、どのような死にざまで死にましたるかは、以上のような次第でございます。
さてあらゆるおぞましいことを犯させようとする男から、こうしてのがれたハサンはと申しますると、彼はまず、その雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の皮を張った魔法の太鼓を、隈《くま》なく調べました。けれども、どういうふうに使うのかわからないので、それを用いるのはやめにして、帯に吊るしました。それがすむと、身のまわりをぐるっと見回してみると、なるほど自分のいる山頂は実に高く、雲が麓に積み重なっているのが見下ろせるほどでした。そして広々とした平原が、この高台に拡がっていて、天地の間に、さながら水のない海を成していました。すると遥かかなたに、燦めく大きな焔がひとつ燃えています。そこでハサンは考えました、「火のあるところには、人間がいる筈だ。」そこで、あるものといえば、ただアッラーの在《いま》すのみの、この広野のただ中に分け入りながら、そちらの方向に進みはじめました。そして目的物に近寄ってみると、最後に、その燦めく焔というのは、実は、高い四本の黄金の円柱に支えられた黄金の円蓋《ドーム》のついた、黄金の宮殿が、太陽の下に光り輝いているのだということがわかりました。
これを見ると、ハサンは自問しました、「いったいどんな王が、それともどんな魔神《ジンニー》が、こんな場所に住んでいるのかしらん。」そして、何しろ今さっき覚えたあらゆる心の激動と、これまで歩いてきた長道とに、すっかり疲れていたので、彼は独りごとを言いました、「とにかくアッラーの御心《みこころ》のままに、この御殿にはいっていって、門番に少しばかりの水と、何か食物をもらい、飢え死しないようにするとしよう。それに、もし門番が正しい人なら、どこか片隅に、一夜の宿を貸してくれるかもしれない。」そして天命に委せて、大門の前まで着くと、それは翠玉《エメラルド》の塊りに刻んだ門でした。彼は敷居を跨いで、前庭にはいりました。
さて、ハサンがこのとっつきの庭に二、三歩はいりこんだと思うと、大理石の腰かけに坐って、輝くばかり美しい二人の乙女が、将棋をさしているのを見かけました。二人はすっかり将棋に気をとられていたので、最初はハサンがはいってくるのに気がつきませんでしたが、そのうち若いほうが、足音を聞きつけて、頭をもたげると、やはり二人に気づいて立ちどまった美しいハサンの姿を見ました。するとその乙女はつと立ち上がって、姉に言いました、「御覧なさい、お姉様、美しい若者よ。これはきっと、魔法使バーラムが毎年、雲が峰に連れてくる不幸な男にちがいありません。だけど、あの人はどうやって、あの悪魔の手からのがれられたのでしょう。」この言葉に、最初はその場を敢えて動かずにいたハサンは、乙女たちのほうに進み出て、妹のほうの足下に身を投げ出して、叫びました、「さようでございます、おおわが御主人様、私はその不幸な男でございます。」するとその乙女は、足下に、このように美しい青年が、黒い目の縁に涙の雫をたたえているのを見て、臓腑《はらわた》まで心を動かされました。そこで顔に同情の色を浮べて、立ち上がり、若いハサンを指さしながら、姉に言いました、「お姉様、どうか証人になって下さいまし。今からわたくしは、アッラーとあなたの前で誓って、あの若者をわたくしの弟分にして、あの人と一緒に、栄えの日々の楽しみと悦びを共にし、不遇の日々の苦しみと悲しみを共に致しますから。」そしてその乙女はハサンの手をとって、助けて起き上がらせ、まるで優しい姉が愛する弟を接吻するように、彼に接吻しました。次に、ずっと手を取りながら、御殿の中に案内して、何はさておき、まず浴場《ハンマーム》で風呂を使わせて、すっかり元気を回復させてやりました。それから、旅で汚れた古い衣類を棄てて、見事な着物を着せた上で、彼女は浴場《ハンマーム》に一緒になりに来た姉に助けられつつ、自分は一方の腕を支え、姉はもう一方の腕を支えて、今度は彼を自分の部屋に案内しました。そして二人の乙女は自分たちの若い客人に、二人の間に坐って、何か食べ物をとるように招じました。それがすむと、妹のほうは言いました、「おお最愛の弟よ、おおいとしい人よ、あなたのお出でによって、この屋形の石をも悦びで踊らせるお方よ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十四夜になると[#「けれども第五百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……どうぞあなたのよいお名前と、あなたをわたくしたちの屋形の門まで連れてきた動機《いわれ》とを、伺わせていただけましょうか。」彼は答えました、「されば、私にお尋ねある姉上、またわれら両人の姉上様、私はハサンと申しまする。ところで、この御殿まで私を連れて参った動機はと申せば、それは私の幸いな天命でございます。さりながら、ただ今私がここにおりまするは、幾多の辛酸を嘗《な》めての上であったことも、まことでございます。」そして彼は魔法使、拝火教徒バーラムによって、わが身に起ったところを、一部始終語りましたが、それを繰り返したとて益なきことでございます。すると二人の姉妹は、ペルシア人の振舞いにたいそう腹を立てて、一斉に叫びました、「おお呪われた犬。本当にその死は当然でしたこと。そしてその男に、永久に生命《いのち》の空気を吸うのを妨げてやったとは、おおわたくしたちの弟よ、あなたは本当にいいことをなさいました。」
それがすむと、年かさの姉は妹のほうに向き直って、言うのでした、「薔薇の蕾や、今度はあなたがわたくしたちの弟に、わたくしたちの身の上を話してあげて、よく覚えておいていただくようになさい。」すると美わしい「薔薇の蕾」は言いました。
「されば、おおわが弟、おおこの上なく美しいお方よ、わたくしたちは王女でございます。わたくしは『薔薇の蕾』と申し、ここにいらっしゃる姉君は、『桃金嬢《てんにんか》の実』と申し上げますが、わたくしにはほかに五人の、わたくしたちよりもずっときれいな姉たちがあって、今はちょうど狩りに出かけていらっしゃるけれど、おっつけお戻りになりましょう。わたくしたち全部のいちばん上の姉は、『暁《あけ》の星』と申し、二番目は『宵の星』、三番目は『紅瑪瑙《べにめのう》』、四番目は『翠玉《エメラルド》』、五番目は『アネモネ』と申します。そして七人のうちいちばん末が、このわたくしでございます。わたくしたちは父は同じですけれど、母は同じでございません。わたくしとこの桃金嬢の実姉様とは、同じ母の娘です。ところでわたくしたちの父は、魔神《ジン》と魔霊《マーリド》の有力な王の一人でございますが、とても誇りの強い暴君なもので、わが娘の一人の夫となるにふさわしい男なぞいないと決めて、わたくしたちを決して結婚させないと、誓ったのでございます。そして、そのお志が空しくならないことを確実になさるため、父君は大臣《ワジール》たちをお呼び寄せになって、お尋ねになりました、『その方たちは、どこか人間も魔神《ジン》も通わぬ場所で、わが七人の娘の住居となることのできるような場所を、存ぜぬであろうか。』大臣《ワジール》たちはお答えして、『されば、何ゆえでござりまするか、おおわれらの王よ。』父君は、『わが七人の娘をば、人間にあれ魔神《ジン》にあれ、およそ男子からかくまわんがためじゃ。』大臣《ワジール》たちは申しました、『おおわれらの王よ、私どもと致しましては、およそ婦女子と娘たちは、微妙なる器官によって男子と結合いたすためにのみ、恩恵者によって創られたるものと、心得ておりました。それに、預言者(その上に祈りと平安あれ)も仰せられました、イスラム教国においては、いかなる婦女も処女のまま老ゆることなかるべし、と。されば、仮りにも姫君たちが、処女のまま老いなさるようなことがございますれば、王の御頭上《おんずじよう》の一大恥辱とも相成りまするでござりましょうが。かつは、アッラーにかけて、お若い身空で、何と勿体ないことでござりましょうぞ。』けれども、父君はお答えになりました、『娘たちに結婚させるくらいならば、むしろ彼らの死ぬのを見るほうがましじゃ。』そして言い添えなさって、『もしもその方ども、直ちに余の尋ぬる場所を告げぬとあらば、その方どもの頭は首より飛ぶであろうぞよ。』そこで大臣《ワジール》たちはお答え申しました、『しからば、おお王よ、実は姫君様たちをおかくまい申す、打ってつけの場所がございます。それは雲が峰でございまして、ここには遠い昔、スライマーンの御命に叛いた|鬼神ら《アフアリート》が住っておりました。そこには、昔その叛逆の|鬼神ら《アフアリート》が己れらの隠れ家にと建てた、金殿が聳えていますが、爾来打ち棄てられたまま、無人となっております。この金殿のある地域は、申し分なき気候に恵まれ、樹木と、果実と、氷よりも冷やか、蜜よりも甘き甘露の水に、富む地でござりまする。』この言葉に、父君は早速に、魔神《ジン》と魔霊《マーリド》の恐ろしい護衛をつけて、わたくしたちをここにお送りなさいまして、魔神《ジン》らはわたくしたちを無事送り届けると、すぐに父君の王国に戻ってしまいました。
さてわたくしたちは、ここに着いてみますと、なるほど、このアッラーの創りたもうたあらゆる人間から隔てられた国は、花咲き、森や輝く牧場や果樹園や真清水の泉に富み、その水は真珠の首飾りか銀塊のように、豊かに流れておりますし、渓流は自分たちに微笑みかける花を眺め、見つめようとて、お互いに犇《ひしめ》き合っています。大気は鳥の囀りと香りとでうっとりとし、数珠かけ鳩と雉鳩は、春の若枝の上で聖歌を唱えて、創造主の讃《ほ》め歌を歌っております。白鳥は華やかに湖上を泳ぎ、孔雀は、珊瑚と色とりどりの宝玉を幾千となくちりばめた美々しい衣服をまとって、花嫁の姿にも似ています。地は清らかで樟脳の香を放ち、天国のあらゆる美しさを備えて美しゅうございます。結局、これは祝福によって選ばれた国でございました。
ですから、おおわたくしの弟よ、わたくしたちは、このような国の、この金殿のただ中に暮しているのを、殆んど不仕合せとは感じませんでした。そして報賞者にその御好意を感謝しながら、残念に思うことは、ただひとつしかございませんでした。それは、わたくしたちが朝目覚めたおり、見て心持のよいような顔を持ち、優しく、好意を抱く心を持った男の方、わたくしたちの相手をしてくれる男の方が、ひとりもいないことなのです。ですから、おおハサン様、御覧のように今わたくしたちは、あなたがお出でになったのを、こんなにも悦んでいるのですよ。」
このように語ってから、美わしい薔薇の蕾はハサンに、兄弟や友人の間でするような、親切と贈物の限りを尽し、そして親しみをこめて、一緒に話し続けました。
こうしているうちに、薔薇の蕾と桃金嬢《てんにんか》の実の姉たちの、ほかの五人の王女も帰ってまいりました。そしてこのような美貌の青年で、好ましい弟を見て、すっかり気に入り悦んで、姉たちもこの上なく親切でねんごろなもてなしを致しました。そして挨拶《サラーム》と初対面の辞令をすませると、一同は彼に、末長くみんなと一緒にいることを誓わせました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十五夜になると[#「けれども第五百八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ハサンも何の異存もなく、悦んで一同に誓いました。そして彼は、このすばらしさ満ちた御殿で、乙女たちのもとに止まり、その時から乙女らのすべての狩猟会と散歩のおりの、伴侶となりました。彼のほうでは、このように美わしく好ましい姉たちを持つのを大いに悦び、ありがたく思えば、乙女らのほうでも、このように美貌で世にも珍しい弟を持つのを、またなく喜びました。そして一同は、あちこちの庭の中や渓流に沿って、一緒に相戯れて日々を過し、夜は、ハサンは一同に自分の故国の風習を語り聞かせれば、乙女らは魔神《ジン》、魔霊《マーリド》、|鬼神ら《アフアリート》の物語を語り聞かせるという風にして、お互いに教え合うのでした。こうした快い生活は、彼を日に日にますます美しくして、その面《おもて》に全くのところ、月のような様子を与えました。そして七人の姉と、ことにいちばん末の薔薇の蕾との友愛は、同じ父と同じ母とから生れた子供同士の誼《よし》みと同様に、固く固く結ばれたのでございました。
さて、或る日のこと、ちょうどみんなで茂みに坐って歌を歌っていると、そこに砂煙の大竜巻が空を満たし、太陽の面《おもて》を蔽うのを認めました。大竜巻は雷のような音を立てながら、こちらに速やかにやってきました。すると七人の王女は恐れに溢れて、ハサンに申しました、「さあ、早く走って庭の亭《あずまや》に身を隠しなさい。」そして薔薇の蕾は彼の手をとって、亭に連れて行って隠れさせました。そのうち砂煙は収まって、その下からは、魔神《ジン》と魔霊《マーリド》の一隊がそっくり現われ出たのでございます。ところでこれは、妖霊国《ジンニスターン》の王が王女たちのところによこした護衛の一隊で、王は隣国の王の一人のために、大祝祭を催そうと思って、それに王女たちを列席させるため、お手許に連れ戻そうというのでした。この知らせに、薔薇の蕾は、こっそりハサンに会いに駆けつけました。そして目に涙を浮べ、泣きじゃくりに胸を震わせながら、彼に接吻し、自分と姉たちの出発を知らせて、そして言いました、「けれども、いとしい弟よ、あなたはこの御殿でわたくしたちの帰りを待っていらっしゃい。あなたはここの絶対の主人です。ここに全部の部屋の鍵がございます。」そして鍵を渡しながら、付け加えました、「だけど、ただひとつぜひお願いします、やあハサン、あなたの大切な魂にかけて、折入ってお願い申しますが、このトルコ玉がしるしに嵌まっている鍵の部屋は、決して開けて下さいますな。」そして姫はくだんの鍵を彼に見せました。ハサンは、姫の出発と姉君たちの出発とにたいそう悲しんで、泣きながら姫に接吻し、じっと皆さんの帰りを待っていて、トルコ玉がしるしに嵌まっている鍵の扉は開けないと、約束いたしました。そして末の姫と、また出発に先立って弟に会おうと、ひそかに末の姫を追ってきた六人の姉君とは、ハサンに優しさ溢れる別れを告げ、ひとりひとり次々に、全部彼に接吻してから、護衛に囲まれて、立ち去り、すぐに父王の国を指して、出立いたしました。
ハサンのほうは、御殿のなかにたった独りきりなのを見たとき、非常な物淋しさに襲われました。そして今まで七人の姉たちと楽しく一緒にいた後で、独りぽっちになったと感ずると、胸がたいそう狭まったのでありました。そこで、何か気を紛らし、淋しさを静めようとて、彼は乙女たちの部屋を、次々に訪れはじめました。乙女たちがいた場所と、その持ち物であった美しい品々を再び見ると、魂は高ぶり、心臓は感動にときめくのを覚えました。こうして彼は、トルコ玉がしるしに嵌まっている鍵でもって開く、扉の前に着きました。けれども、その鍵を使おうとは少しも思わず、そのまま引っ返してしまいました。次にこう考えました、「薔薇の蕾姉様が、あれほどくれぐれもこの扉を開けるなと注意なすったのは、いったいなぜかしらん。そんなに固く禁《と》められるとは、いったいこのなかに、どんな不思議なことがあるのかしらん。だが、これが姉様の御命令とあらば、こちらはただ仰せ畏って従うよりほかない。」そして彼は引き下って、もう夜になり淋しさが身に沁みてきたので、悲しみを眠らせるため、寝に行きました。ところが、目を閉じることができません。それほど、あの禁じられた扉が、心につきまとうのでした。そしてこの考えは何とも激しく彼を悩まして、とうとう独りごとを言いました、「はて、いっそ開けてみたらどんなものかなあ。」けれどもまた思いました、「いや、朝になるのを待つほうがいい。」そのうち、もう眠らずに待ちきれなくなって、立ち上がりながら、独りごとを言うのでした、「むしろ今すぐあの扉を開けて、あの扉が入口になっている部屋に、何がはいっているか見るほうがましだ、たとい、そこに死を見出すことになろうとも。」そして、立ち上がって炬火《たいまつ》を点《つ》け、その禁じられた扉のほうに向いました。鍵を錠前にさしこむと、錠前は難なく開き、扉はさながらひとりでに開くように、音なく開きました。そこでハサンは、その扉からはいってゆくことのできる部屋の中に、はいりこみました。
ところが、そこはどちらを見ても何もありません、最初は何ひとつ見えません。家具もなければ、茣蓙《ござ》もなく、敷物もないのです。けれども、室内をひと回りしてみると、片隅に、黒い木で出来た梯子が、壁に立てかけられていて、梯子の上部は、天井にあけた大きな穴から、外に出ています。そこでハサンは躊躇なく、炬火を床に置いて、その梯子をよじ、天井まで上り、そこからその穴にもぐり込みました。そして、首を穴の外に出してみると、外は戸外で、室の天井と同じ高さでそのまま露台になっているのでした。
そこで、ハサンはその露台に出ました。それは庭園のように、草木や小さな灌木で蔽われていましたが、ここで妙《たえ》なる月光の下に、ハサンは、かつて人間の眼《まなこ》を恍惚たらしめた最も美しい光景が、大地の静寂のただ中に、展開するのを見たのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十六夜になると[#「けれども第五百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……ハサンは、かつて人間の眼を恍惚たらしめた最も美しい光景が、大地の静寂のただ中に、展開するのを見たのでございます。足下には、静謐《せいひつ》のうちに眠って、大きな湖が拡がっていて、そこに天空のあらゆる美しさが相映じ、岸辺は、よろこばしげな漣《さざなみ》をたたえて、月桂樹の揺らぐ葉隠り、花咲く桃金嬢、花の雪をいただく巴旦杏、藤の花綵《はなづな》などによって微笑み、数々の鳥の喉すべてをもって、夜の讃歌を歌っておりました。そして大森林の間にはさまれた絹のような水面は、遥か彼方に、大空の透明と水晶のうちに浮き上がっている、異様な結構の、半透明な円蓋《ドーム》のついた、一宇の楼閣の裾を洗っているのでした。その楼閣からは、大理石と寄せ木細工の階《きざはし》を通って、紅玉の砂利と、翠玉の砂利と、銀の砂利と、金の砂利を、代わるがわる敷き詰めた踏段のついた、壮麗な物見台が、水の中まで突き出ていました。そしてその物見台の上には、薔薇色の雪花石膏の軽やかな四本の柱に支えられて、緑色の絹の大きな日覆《ひおお》いが張り渡され、その爽やかな影をもって、見事な細工の、伽羅木と黄金の玉座を蔽い、玉座には、たわわな房をつけた葡萄が絡んでおりますが、その一粒一粒の実は、鳩の卵ほどもある真珠の玉でございました。そして全体は、純金と白銀の薄片でできた格子垣で、取り囲まれておりました。まことに、ホスローであろうとカイサール(6)であろうと、いかなる人間とても、かつてこのような華麗は、推測することも、実現することもできなかったような、そうした調和と美とが、これらの清らかな事物の上に、生きていたのでございます。
ですから、ハサンは目が眩《くら》んで、この場所の快い平和を乱すのを恐れ、身動きもならずにいると、そのとき突然、大きな鳥のひと群れが、空中に浮き上がり、明らかにこの湖に近づいてくるのが見えました。今や鳥は湖畔に舞い下りました。十羽います。その白く豊かな美しい羽毛は、草の上を引きずっていますが、鳥たちは歩きながら、無頓着に身を揺っています。どうやら全部の鳥は、どのように動くときでも、なかでひときわ大きく美しい一羽の鳥に侍《かしず》いているらしく、その大きな鳥は、やがてゆっくりと物見台のほうに向って、玉座の上に上がりました。すると突如、十羽の鳥は一斉に、身ごなしもあでやかに、その羽毛を脱ぎ棄てたものです。そしてその外套を棄てると、そこからは、至純の美しさの十の月が、十人の全裸の乙女の姿となって出てきました。そして笑いを含んで、乙女らは水に飛びこむと、水は宝玉の飛沫《しぶき》をあげて、これを歓び迎えました。乙女たちはお互いにふざけあいながら、楽しく水を浴びます。いちばん美しい乙女は、みんなを追いかけ、つかまえて、抱きかかえて、さまざまに愛撫し、くすぐり、噛みついては、何という笑いさざめき、何という戯れでございましょうか。
水浴がすむと、一同湖から出ました。いちばん美しい乙女は、再び物見台に上がって、玉座に坐りに行きましたが、着物といえば、ただその髪の毛ばかりです。ハサンは、その色香に見入りながら、分別も飛び去るのを覚え、思いました、「ああ、今となってよくわかった、なぜ薔薇の蕾姉様が、あの扉を開けてはいけないと、とめなすったかを。今となっては、おれの静心《しずごころ》は永久に失せてしまった。」そして彼は裸身の乙女のくさぐさの美しさを、更に仔細に眺めつづけました。何というすばらしさ。ああ、何が見えずにいたでしょうか。まことに、一点の疑いなく、これぞ、およそ創造者の御指から出た、最も完全な品でした。おお、その燦爛たる裸身よ。この乙女は、その項《うなじ》の美しさと黒い目の輝きとで、羚羊《かもしか》をしのぎ、腰のなよやかさで、楊子《アラカ》(7)をしのいでいました。その暗黒の髪は、闇濃く暗い冬の夜でした。薔薇をあざむくその口は、スライマーンの印璽でした。若い象牙のその歯並みは、真珠の首飾りか、粒のそろった霰《あられ》の玉。その首は白銀の塊り。そのお腹には隅《すみ》また隅があり、そのお臀には窪みと段々がついていました。お臍は一オンスの黒麝香を盛れるくらい大きく(8)、双の腿は、駝鳥の羽毛を詰めた座褥《クツシヨン》のように、ずっしりとして、固いと同時にむっちりとして、そして両腿の頂には、ちょうど耳のない兎のように、温かく心地よい巣のなかに、栄光満ちた例のものが、その高台と領地と、そこに落ち込めば暗い悲しみを忘れるに足る、あの漏斗状《じようごなり》の小さな谷と共に、ございました。それはまた、しっかりとした土台の上に安坐した、四方が円い水晶の円天井とも見られ、あるいは、伏せて置かれた銀の茶碗とも見まがわれました。まことにこのような乙女にこそ、次の詩人の詩句をあてはめることができるのでございます。
[#ここから2字下げ]
わが方に来たれり、乙女は、薔薇の木の薔薇の花着くるがごとく、その美を着けて、胸乳《むなぢ》突き出し、おお柘榴よ。われは叫びぬ、「これはこれ、薔薇と柘榴ぞ。」
われ、過てり。汝《な》が頬を薔薇になぞらえ、おお乙女よ、汝が胸乳を柘榴に比すとは、そも何たる謬《あやま》りぞ。何となれば、薔薇の木の薔薇の花とて、庭々の柘榴とて、およそ比較に耐えざればなり。
そのゆえは、薔薇ならば吸い得べし、柘榴ならば摘み得べし。されど汝《なれ》、おお処女《おとめ》よ、そも何ぴとかよく汝を嗅ぎ、汝に触るるを望み得んや。
[#ここで字下げ終わり]
凛として裸身で、湖畔の玉座に上って坐った乙女は、まさにかようでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十七夜になると[#「けれども第五百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
乙女は水浴してひと休みすると、そば近く物見台の上に横たわっていた、連れの乙女たちに言いました、「わたしの下着をおくれ。」すると乙女たちは近づいて、肩に金糸の肩掛をかけ、髪に緑の紗をかけ、腰のまわりに錦の帯を締め、着物といえばそれだけでした。こうしてその乙女は着飾ったのでございます。さながら花嫁のようで、どのような妙《たえ》なるものにもまして、妙なる姿です。ハサンは露台の木々の後ろに潜《ひそ》んで、じっとその姿を見つめ、もう進み出たくてたまらなかったのですけれども、どうにも身動きひとつできません。それほど感嘆の念に身じろぎならず、感動に茫然としてしまったのでございます。すると乙女は言いました、「おお姫たちよ、もう夜が明けてきました。そろそろ出発を思わなければならない時です。わたしたちの国は遠いし、わたしたちはもう十分休んだのですからね。」すると一同は乙女に羽衣《はごろも》を着せ、自分たちも同じように羽衣を着けて、全部が一斉に、朝空を明るくしながら、飛び立って行きました。
こうした次第です。そこで、ハサンは茫然として、乙女らを目で追って、一同が姿を消してしまった後もずっと、地上のどのような乙女を見ても、かつて魂の中に点火されたことのない激しい情熱に襲われて、長い間、遥かな水平線を、じっと見つづけておりました。願望と恋慕の涙が、頬を伝って流れ、彼は叫びました、「ああ、ハサンよ、不幸なハサンよ。今やお前の心は、今後は魔神《ジン》の娘らの手中に握られてしまった、どのような美女も、故国に繋ぎとめることのできなかったお前だが。」そして深い夢想に沈んで、頬杖をついて、即吟しました。
[#ここから2字下げ]
朝露の下、君を迎うるはいかなる朝か、おお消え失せし女《ひと》よ。光をまとい美をまとって、君はわが前に立ち現われ、わが心を悩まして、立ち去れり。
人々敢えて称せり、恋は甘美に満つと。ああ、もしこの切なさにして甘美なりせば、没薬《もつやく》の苦さはそもいかなるものならん。
[#ここで字下げ終わり]
こうして彼は、目も閉じずに、日の出まで、溜息をつきつづけました。次に湖畔に降り立って、爽やかな大気のうちに、乙女らの残した残り香を吸いながら、あちこちさまよい始めました。そして夜を待ちつつ、一日じゅう思い侘びつづけ、夜になると、鳥が戻るだろうと思って、再び露台に上がりました。けれどもその夜は何も来ませんし、他の夜々も空しくすぎました。それでハサンは絶望して、もう食べも、飲みも、眠りもしようとせず、ただあの見知らぬ乙女に対する情熱に、ますます酔い痴れるばかりでした。こういう工合で、彼は衰えてゆき、黄色くなりました。力も次第に尽きてきて、遂には、「この悩みの生よりは死のほうがまだましだ」と思いながら、地に打ち倒れてしまいました。
こうしているうちに、妖霊国《ジンニスターン》の王の娘の七人の姫は、父王に招かれた祝祭から、戻って参りました。そして末の姫は旅装束を着替える暇もなく、まずハサンを探して駆けつけました。するとハサンは自分の部屋で、真青になってすっかりやつれて、寝床に横になっているのでした。両の瞼を閉じ、涙が頬を伝って、ゆっくりと流れています。それを見ると、乙女は切ない叫び声をあげて、彼に飛びつき、姉が弟にするように、彼を両腕で抱え、額と目に接吻してやって、言いました、「おお最愛の弟よ、アッラーにかけて、あなたがこんな様子なのを見て、わたくしの心は張り裂けます。ああ、どういう病気で苦しんでいなさるのか、言って下さい、薬を見つけてさしあげますから。」するとハサンは、嗚咽《おえつ》に胸をふくらませて、頭と手で「いやだ」という合図をしまして、ひと言も言い出しません。乙女は涙に暮れて、声に限りない愛撫をこめて、彼に言いました、「後生です、弟のハサンよ、わたくしの魂の魂、わたくしの瞼の歓びよ、あなたの目が痩せて落ち窪み、いとしい頬の薔薇色が消え失せてしまったのを見ては、人の世はわたくしにとって狭くなり、魅力のないものとなってしまいました。お願いですから、わたくしたちを結ぶ神聖な愛情にかけて、わが千の生命《いのち》を払っても、あなたの生命を買い戻したいと思っている姉に、あなたの苦しみと病気をば、決して隠さないで下さいまし。」そして狂おしく、接吻を浴びせ、両手を彼の胸に押し当てて、寝床のそばに跪き、このように頼み入りました。するとハサンは、しばらくしてから、切ない溜息をいくつもついて、消え入るような声で、次の詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
君もし仔細に見たまわば、言わずともわが苦悩の因《もと》を認めたまわんものを。されど薬なき病を知るとも詮なしや……
わが心、所を変え、わが目はもはや眠るあたわず。恋によって変えられしところは、ただ恋によって復《もど》され得るのみ。
[#ここで字下げ終わり]
それから、ハサンの涙は潸然《さんぜん》と流れ、やがて付け加えて言いました、「ああ、お姉様、われとわが過ちに苦しむ者に、どういう援助を寄せて下さることができましょう。それに、あなたはただ私を悲しみと不運に死ぬままに、見殺しになさるより、致し方ないのではないかと案じられます。」けれども乙女は叫びました、「あなたの上とあなたのまわりに、アッラーの御名のあれかし、おおハサンよ。あなたは何をおっしゃるのです。たとえわたくしの魂が、身体を離れなければならぬとも、あなたを助けずにおかれましょうか。」するとハサンは、涙声で言いました、「実は、おお、薔薇の蕾お姉様、私が食物をとらなくなってから十日になるので、それは、わが身に起ったこれこれしかじかのことゆえでございます。」そして彼は自分の事件を、細大洩らさず、全部話しました。
薔薇の蕾は、ハサンの話を聞くと、いかにも気を悪くしそうなものを、少しもその様子も見せず、彼の苦しみにたいへん同情して、一緒に泣き出しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十八夜になると[#「けれども第五百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから彼女は言いました、「おお弟よ、いとしいあなたの魂を静め、お目を爽やかにして、涙をお乾《ほ》しなさい。なぜなら、わたくしは誓って申しあげます。あなたの身に起ったところを癒し、あなたの慕う未知の女性をあなたの手に入れさせて、お望みを遂げさせるためには、わたくしは自分の大切な生命と、貴い魂とを賭ける覚悟でございます、インシャーラー(9)。けれども、おお弟よ、気をつけてこのことはあくまで秘密にして、お姉様方には、ひと言も言わないようになさいませ。さもないと、あなたは身を滅ぼし、また一緒に、わたくしの身をも滅ぼすおそれがありますから。もしお姉様方が、あの禁断の扉のことをあなたに話して、それについて何かお尋ねになったら、『そんな扉のことは存じません』とおっしゃい。そして、あなたがそんなにやつれているのを御覧になって心配なさり、いろいろ問い質《ただ》しなすったら、『私のやつれているのは、こんな淋しいところで、皆様のお留守をあまり長い間、我慢したためです。皆様のことで、私の心はさんざん思い悩みました』と、こうお答えなさいな。」するとハサンは答えました、「いかにも、そういう風に申しましょう。まことに妙案ですから。」そして彼は薔薇の蕾に接吻して、姉が禁断の扉のために自分に腹を立てはしまいかと、たいそう心配していたのを、このように事なくすんだので、魂が安まり、胸が晴れるのを覚えました。こうして、もう安心したので、彼は安堵の息をつき、食べ物を求めました。薔薇の蕾は今一度彼に接吻してから、目に涙を浮べて、いそぎ姉たちのところに行って、一同に言いました、「困りましたわ、お姉様方、かわいそうに弟のハサンは、とても身体が悪いのです。もう十日この方、ひと粒の食物も胃に下りていないのですの。わたくしたちの留守のせいで、絶望に陥って、胃が閉じてしまったのです。わたくしたちは、かわいそうにあのいとしい弟を、誰も相手をする者もなく、たったひとりここに残しておいたのですもの。そこであの人は、自分の母親と故郷を思い出して、その思い出のため、切なさでいっぱいになってしまったのでした。本当にお気の毒な運命ですわ、お姉様方。」
この薔薇の蕾の言葉で、姫君たちは元来、優しく動かされやすい魂を持っていたので、いそいで弟に食べ物と飲み物を持って、駆けつけました。そしてみんなで姿を見せ言葉をかけて、一所懸命彼を慰め、元気づけました。彼の気を晴してやろうと、一同は妖霊国《ジンニスターン》の父王の御殿で見た、祝祭や壮観などを、全部話して聞かせました。そしてまるひと月の間、一同この上なく行き届いた、ねんごろな手当を尽すことをやめませんでしたが、それでも、全快させるとまではゆきませんでした。
ひと月たつと、ハサンをひとりきりにしておきたくないから、御殿に残りたいという薔薇の蕾を除いて、姫君たちは全部、いつものように狩りに行くため、出て行きました。みんなは末の妹に、客人に気を配ってくれることを感謝しました。ところで、皆が出発するとすぐに、乙女は手を貸してハサンを起し、両腕に抱えて、彼をば、湖に臨む露台の上に連れて行きました。そしてそこで、彼を胸に抱きよせ、頭を自分の肩に載せてやりながら、言いました、「さあ、ではおっしゃいな、仔羊よ、湖のほとりにずっと立ち並んでいる、この亭《あずまや》のうちのどれですか、あなたにこれほどの憂いを引き起す女の方を、あなたが見つけたのは。」するとハサンは答えました、「その姿を見たのは、この亭のうちの一つではございません。最初は湖の水の中、次にはこの物見台の玉座の上です。」この言葉に、乙女の顔色は真青になって、叫びました、「まあ、これはたいへんだわ。それでは、おおハサン、それはわたくしのお父様など、その代官の一人にすぎない、大帝国に君臨している魔神《ジン》の大王の、王女様御自身ですよ。そしてそのわれわれの王様の住んでいらっしゃる国は、とても越えられない遠方にあって、人間も魔神《ジン》も通ることのできない壁に、取り囲まれています。王様には七人のお姫様がいらっして、あなたの見たのは、いちばん末の方です。王様は名門の出の女武者ばかりから成る近衛軍を持ち、その一人一人が、それぞれ五千の娘子軍を指揮しています。ところで、ちょうどあなたの御覧になった姫こそ、王女様のうちでいちばんお美しく、またいちばん千軍万軍の強者《つわもの》で、他のどの王女様よりも、勇気と手並みが秀でていらっしゃいます。お名前は耀《かがよ》い(10)姫。姫は新月のたびごとに、父王の侍従の娘たちを連れて、ここにお散歩に見えます。あの方々は羽の外套を着て、鳥のように空を渡りますが、あれは妖霊たちの衣裳です。もしわたくしたちが首尾よく目的を達せられるとすれば、あの羽衣のお蔭ですよ。というのは、実際のところ、おおハサン、あなたがあの方を手に入れるただひとつの手段《てだて》は、あの魔法の衣を奪うだけです。そのためには、あなたはここに身をひそめて、姫がまたいらっしゃるのを待っていさえすればよい。そして姫が、湖におりて水浴びをなさる機《おり》をうかがって、あの羽衣をお取りなさい、ただそれだけを取るのですよ。そうすれば今度は、姫御自身があなたのものになります。そのときくれぐれも気をつけて、姫の頼みに負けて、羽衣を返さないように。さもないと、あなたはもうどうする術《すべ》もなく身を滅ぼし、わたくしたち姉妹も全部、やはり姫の復讐の犠牲となり、父上も、わたくしたちと一緒に亡びてしまいます。いっそ姫の髪の毛をつかんで、一緒に引きずっていらっしゃい。そうすれば、姫はあなたに抗《さから》わず、言うことを聞くでしょう。そして、なるようになるでございましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百八十九夜になると[#「けれども第五百八十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この薔薇の蕾の言葉に、ハサンは悦びに有頂天になって、新しい生命がわがうちに入り、再び力充ち満ちてくるのを覚えました。そこで自分の足でしゃんと立って、両手で姉の頭をはさみ、好意を謝しながら、優しく接吻しました。そして二人とも御殿におり、他の乙女たちと一緒に、静かに四方山《よもやま》の話をしながら、残りの時間を過しました。
さて、その翌日は、ちょうど新月の日に当っておりましたので、ハサンは夜を待って、湖畔の物見台の後ろに、潜《ひそ》みに行きました。そしてほんのちょっとたったと思うと、翼の音が夜の静寂のうちに聞えてきて、あのように待ち侘びた待望の鳥たちが、月光を浴びて到着し、それぞれ羽衣と下着の絹物を脱ぎ棄ててから、湖に下り立ちました。魔神《ジン》の王中の王の娘、妙《たえ》なる耀《かがよ》い姫もまた、裸《あら》わな栄光《はえ》の肉身を、水中に浸しました。姫は最初の時にもまして美しく、好ましゅうございました。ハサンは身に覚える感嘆と感動にもかかわらず、ともかくも見つからずに、衣類のおいてある場所まで忍び寄って、王女の羽衣を取り、大急ぎで、物見台の陰に逃げこむことができました。
うるわしい耀い姫は水浴から出たとき、ひと目で、芝生の上に散らばっている衣服の乱れた様を見て、誰かよそ人の手が、自分たちの衣類に触れたことを察しました。そして近寄ってみると、まさに自分の羽衣がなくなっているのがわかりました。すると姫は恐れと絶望の大きな叫びをひと声あげて、われとわが面《おもて》と胸を打ちました。おお、月光の下に、何と美しい姿でしたろう、この絶望した乙女は。その連れの乙女たちは、叫び声を聞きつけて、何事かと駆け寄って来ましたが、起った事情がわかると、めいめいあわてて自分の羽衣を取って、濡れた裸身を乾かすことも、下着の絹物を着けることも思わずに、一同自分の飛行の羽毛に身を包んで、怖気立った羚羊か、鷹に追われる鳩のごとくすばやく、狂気のように、空を飛んで逃げ去りました。そして泣き沈む、痛ましい、憤る、彼らの王の娘耀い姫をば、ただひとり湖畔に残して、瞬《またた》く間に、姿を消してしまったのでございます。
そのときハサンは、感動に身を顫わしながらも、隠れ場所から躍り出て、裸の乙女に向って行くと、乙女は逃げました。彼はいろいろのこの上なく優しい名前で呼びかけ、また自分に何の悪意もないと保証しながら、湖のまわりを追いかけました。けれども乙女は、追いつめられた牝鹿さながら、両腕を前に、息せききって、髪を風になびかせ、こうしてわが処女《おとめ》の秘めた肉身を不意に驚かされたのに狂乱して、走りつづけます。けれどもハサンは、躍り上がって、とうとう追いつきました。そこでその髪の毛を捉えて、それをわが手首に巻きつけ、無理矢理引き寄せました。すると乙女は目を閉じ、自分の運命を観念して、もう抵抗せずに、連れられて行きました。ハサンはこれを自分の部屋に伴い、哀願と涙にも心を動かされず、乙女を部屋に閉じこめて、そのまま時を移さず、姉に知らせて首尾よく行った吉報を報じようと、駆けつけました。
すぐさま、薔薇の蕾はハサンの部屋に出かけると、泣き沈む耀い姫は、絶望して両手を噛み、目にあるだけの涙を流していました。薔薇の蕾は、その足下に身を投げて敬意を表し、床に接吻してから、申しました、「おおわが女王様、君の上に平安あれ、またアッラーの御恵みと祝福とあれ。君はこの屋形を輝かし、御光来をもって薫《かお》らしめたまいまする。」すると、耀い姫は答えました、「何としたこと、お前ですか、薔薇の蕾よ。いったいお前は、人間の子らにお前の王の娘を、こんな風に待遇させていいのですか。わが父王の権勢は承知のはず。知ってのとおり、魔神《ジン》の諸王も父上にまつろって、父上は海の砂《いさご》の粒ほども数知れぬ、鬼神《アフアリート》、魔霊《マーリド》の大軍を指揮しています。それなのに、お前は恐れ気もなく、自分の住居に人間を呼び入れて、わたくしを襲うよすがを供し、よくもお前の主人の娘を裏切りましたね。さもなければ、どうしてこの男に、わたくしが水を浴びる湖の道が、見つかりましたか。」
この言葉に、ハサンの姉は答えました、「おお、お姫様、われらの御主君の王女様、おお魔神《ジン》と人間の娘を通じて最も美しく、最も崇められていらっしゃるお方様。されば、御水浴中を驚かせ申した男は、おお浄《きよ》めの君よ、他に絶えて類いのない青年でございます。まことにこの若者は、あまりにも雅《みや》びな挙措を授けられておりますれば、およそいささかなりと御意に逆らう意図を抱くなど、思いもよらぬことでございました。けれども、一事が天命によって決せられている時には、そのことは行なわれねばなりませぬ。そしてあたかも、あなた様を驚かしたこの美青年の天命は、彼にあなた様の美を、熱烈に恋い慕わせたのでございます。恋する人々は宥《ゆる》してやらなければなりません。この若者があなた様をお慕い申し上げるように、あなた様をお慕い申したとて、あなた様のお目から見て、この者に罪ある筈はござりませぬ。それに、アッラーは女性をば、男性のためにお創りになったのでございませんか。そしてこの者は、およそ地上随一の美わしい若者ではございませんか。おおわが御主人様、この若者がはじめてお姿を拝見した日以来、どんなに病み患ったか、もし御存じだったら。すんでのことに、そのため自分の魂を失うところでございました。このような次第でございます。」そして彼女はなおも姫君に、ハサンの心中に点火された情熱の激しさのあるたけを語りつづけ、最後にこう言って結びました、「そして、おおわが御主人様、若者はあなた様の十人のお連れのただ中から、ただあなた様をば、いちばんお美しく、いちばん妙なるお方として選んだことを、お忘れ遊ばしますな。しかも、皆様あなた様と同様に、裸でいらっしゃったのですし、あなた様と同様、御水浴中を驚かすのはわけなかったのでございます。」
このハサンの姉の口説《くぜつ》を聞くと、美わしい耀い姫は、もうすべての脱走計画をあきらめなければならないことがよくわかって、今はあきらめの大きな吐息を洩らしただけでした。そこで薔薇の蕾は、早速姫のために見事な衣服を取りに駆けて行って、それを着せてさしあげました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十夜になると[#「けれども第五百九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから、食事を差しあげて、精いっぱい努めて、姫の悲しみを追い払うように致しました。それで美わしい耀《かがよ》い姫も、しまいには少し心を慰められて、言いました、「わたくしは父上と、家族と、祖国の住居から引き離されなければならない旨が、自分の天命のなかに記《しる》されていたことが、よくわかりました。わたくしは天運の定めに従わなければなりませんね。」そこでハサンの姉は、姫にこうした決心を持ち続けさせることを怠らず、巧みに取りなしたので、今は姫の涙もことごとくとまり、姫は自分の運命をあきらめるようになりました。ここにおいて、ハサンの姉はちょっと座をはずして、弟のもとに駆けつけて言いました、「いそいで今すぐ、あなたの恋人のところにいらっしゃい、今こそ好機ですから。あのお部屋にはいったら、まずあの方の両足、次に両手、次に頭に接吻なさい。その上ではじめて言葉をかけるのですが、それをこの上なく雄弁に、この上なく情をこめてなさいよ。」そこでハサンは、感動に身を顫わせて、姫君のところに出かけますと、姫君は彼とわかって、じっと見つめ、口惜しいながらも、その美しさにたいそう心を動かされました。けれども姫は目を伏せました。ハサンはその両足と両手を掻き抱き、その額の、両の目の間に接吻しながら、申しました、「おお、最も美しい女性《によしよう》たちの女王、もろもろの魂の生命《いのち》、目の法楽、精神《こころ》の花園、おお、女王様、おお、わが主君よ、何とぞ、お心を安んじ、お目を爽やかにして下さいませ、御運勢は幸いに満ちておりますれば。この私はあなた様につきましては、既に姉があなた様の下僕《しもべ》でありまするように、ひたすらあなた様の忠実な奴隷である以外に、他意ござりませぬ。私の本意は、決してあなた様に手荒な振舞いをすることになぞなく、アッラーとその使徒の掟に従って、あなた様を妻にお迎えするにあるのでございます。その暁には、私はあなた様をば、わが故里バグダードにお連れ申し、男女の奴隷と、壮麗な点であなた様にふさわしい住み家を、買い求めましょう。ああ、平安の都バグダードのそそり立つ国が、どのように見事な国であるか、そしてその住民がどんなに人情厚く、礼儀正しく、人をよくもてなすか、その応接振りがどんなに快く吉兆のものか、御存じだったら。それに、私には母がございまして、これはもう無上によい女で、きっとあなた様をわが娘のように可愛がり、すばらしい御馳走を作ってさしあげることでございましょう。母こそは確かに、イラク全国を通じて、いちばんお料理が上手でございますから。」
妖霊国《ジンニスターン》の国王の娘、乙女耀い姫に、ハサンはこのように語りました。すると姫君は、これにひと言も、ひと文字も、一つの合図でも、答えません。そこに突然、御殿の扉を叩く音が聞えました。ハサンは御殿の戸を開け閉《た》てする役であったので、言いました、「御免下さいませ、おお御主人様、ちょっと失礼致します。」そして戸を開けに駆けつけました。ところで、それは姉君たちが狩りから戻って来たので、一同は彼がまた元のように元気になり、明るい頬に返ったのを見て悦び、恍惚の限り恍惚としました。しかしハサンは、耀い姫のことは用心して言わず、一同の狩りの獲物を運ぶ手伝いをしました。それは羚羊、狐、兎、水牛、その他あらゆる種類の野獣でした。そして彼は姫君たちに対して、度はずれの愛嬌を振りまき、ひとりひとりの額に次々に接吻したり、お愛想を言ったりして、いつもにない愛情を披瀝したのでした。今まで彼は愛撫といえば、ただ末の妹薔薇の蕾だけにしか、示さなかったものです。ですから、みんなこの変化に嬉しく驚きましたが、乙女たちのいちばん上の姉君はしまいに、こんなに有頂天になるには、何かきっと動機《いわれ》があるにちがいないと、感づきました。そこで上の姉君は、意地の悪い微笑を浮べて彼を見やり、目配せして、彼に言いました、「本当のところ、おおハサン、あなたとしたことが、そんなに度はずれに愛嬌を見せるとは、驚きますね。あなたといえば今日までは、私たちの愛情ある振舞いに対して、受けるばかりで、ついぞ返したことがなかったじゃありませんか。私たちが狩りの着物を着ているので、いつもよりか美しく見えるのですか、それとも、今日はいつもよりか私たちが好きなのですか、それとも、その両方のせいなの。」けれどもハサンは目を伏せて、この上なく頑固な心をも割ることのできるような、吐息を洩らしたものでした。そこで姫たちは、驚いて尋ねました、「どうしてそんな風に吐息をつきなさるの、おお弟よ。いったい誰が、あなたの安らかな気持を乱すのでしょう。お国に帰って、お母様のそばに戻りたくなったの。おっしゃいな、ハサン、姉様方に、あなたの心をお開きなさいよ。」けれどもハサンは、ちょうどそこに来た姉の薔薇の蕾のほうを向いて、すっかり真赤になりながら、言いました、「お姉様、いっそあなたからおっしゃって下さいな。私の心を乱している訳を、私から皆様に申し上げるのは、いかにも恥ずかしいから。」すると、薔薇の蕾は言いました、「お姉様方、全く何でもございませんの。ただこの弟は一羽の美しい空の鳥をつかまえたので、それを飼い慣らすのに、あなた方皆様のお力を拝借したいというのでございます。」すると一同叫びました、「いかにも、それならば全く何でもないわねえ。だけどそんなことに、なぜハサンはそれほど真赤になるのですか。」妹は答えました、「それはですね、ハサンはその鳥を愛しているからですわ、しかもどんなに深くかわからないほど。」一同言いました、「アッラーにかけて、それであなたはどうするの、おおハサン、空の鳥にあなたの愛情のほどを見せるには。」すると、ハサンが頭を垂れて、ますます赤くなっていると、薔薇の蕾は申しました、「言葉でもって、身振りでもって、またそれに続くすべてでもって、致します。」姉たちは言いました、「それじゃ、ずいぶん大きいのですね、その弟の鳥というのは。」薔薇の蕾は言いました、「ええ、わたくしたちぐらいの丈《せい》ですわ。まあお聞きください。」そして付け加えました、「おおお姉様方、アーダムの子らの精神というものは、まことに狭いものでございます。ですから、わたくしたちが憐れな弟ハサンを、たったひとりここに置いて行きますと、弟はたいそう胸が狭まるのを覚えたもので、気を紛らそうと、御殿じゅうを歩きまわりはじめました。ところが、精神がすっかり乱れていたので、いろいろな部屋の鍵の区別がつかず、うっかりして、あの露台のある禁断の間《ま》の扉を、ふと開けてしまったのでございます。するとこれこれしかじかのことが、その身に起りましたの。」そしてハサンの罪を極力軽くしながら、すべての経過を話して、さて付け加えました、「いずれにせよ、わたくしたちの弟は無理もございません。何せ、その乙女はお綺麗なのですから。ああ、お姉様方、その女《ひと》がどんなにお綺麗か、皆様御存じだったら。」
この薔薇の蕾の言葉に、姉君たちは言いました、「もしその女があなたの言うほどお綺麗なら、その女を見せる前に、まず私たちに、大体その様子を言葉で描いてみて御覧なさいな。」薔薇の蕾は言いました、「お姉様方に、その女の様子を言葉で描くのですって? やあアッラー、そんなことが誰にできましょうか。その容色を、およそのところにせよ、わたくしがお聞かせする前に、むしろこの舌に毛が生えてしまうことでございましょう。ですけれど、何とかやってみると致しましょう、皆様がその女を御覧になって、仰向けに引っくり返ってしまわないよすがになるだけでも、よいでしょうから。」
「ビスミラーヒ(11)、おお、お姉様方、その女《かた》の素馨の裸身に、耀《かがよ》いを着せたもうた御方に、栄光あれ。この乙女は、その項《うなじ》の美しさと黒い目の輝きとで、羚羊をしのぎ、腰のなよやかさで、楊子《アラカ》をしのぎます。その髪は、闇濃く冬の夜です。薔薇をあざむくその口は、スライマーンの印璽そのものです。若い象牙のその歯並みは、真珠の首飾りか、粒のそろった霰の玉。その首は白銀の塊り。そのお腹には隅《すみ》また隅があり、そのお臀には窪みと段々がついています。お臍は一オンスの黒麝香を盛れるくらい大きく、双の腿は、駝鳥の羽毛を詰めた座褥《クツシヨン》のように、ずっしりとして、固いと同時にむっちりとして、そして両腿の頂には、ちょうど耳のない兎のように、温かく心地よい巣のなかに、栄光満ちた例のものが、その高台と領地と、そこに落ち込めば暗い悲しみを忘れるに足る、あの漏斗状《じようごなり》の小さな谷と共に、ございます。そして決してお見まちがい遊ばしますな、おお、お姉様方。それと申しますは、これを御覧になって、皆様は、しっかりとした土台の上に安坐した、四方が円い水晶の円天井と見なさったり、あるいは、伏せて置かれた銀の茶碗と見まちがいなさるかも知れませんから。まことにこのような乙女にこそ、次の詩人の詩句を正しくあてはめることができるのでございます。
[#ここから2字下げ]
わが方に来たれり、乙女は、薔薇の木の薔薇の花着くるがごとく、その美を着けて、胸乳《むなぢ》突き出し、おお柘榴よ。われは叫びぬ、『これはこれ、薔薇と柘榴ぞ』
われ、過てり、汝《な》が頬を薔薇になぞらえ、おお乙女よ、汝が胸乳を柘榴に比すとは、そも何たる謬りぞ。何となれば、薔薇の木の薔薇の花とて、庭々の柘榴とて、およそ比較に耐えざればなり。
そのゆえは、薔薇ならば吸い得べし、柘榴ならば摘み得べし。されど汝《なれ》、おお処女《おとめ》よ、そも何ぴとかよく汝を嗅ぎ、汝に触るるを望み得んや。
[#ここで字下げ終わり]
おお、お姉様方、わたしが妖霊国《ジンニスターン》の王中の王の娘、耀い姫をば、ひと目見て、見ることのできたところは、以上のようでございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十一夜になると[#「けれども第五百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
乙女たちはこの妹の言葉を聞くと、皆驚嘆して、叫びました、「本当にもっともですわ、おおハサン、あなたがその輝かしい乙女に夢中になったのは。けれども、アッラーにかけて、早くわたくしたちを、その方のそばに連れて行って、わたくしたちの目で、その方を見させて下さい。」そこでハサンは、姉様方のほうについては安心して、一同を、美わしい耀《かがよ》い姫のいる離れに案内しました。すると、一同は、類いないその美しさを見ると、その両手の間の床《ゆか》に接吻して、歓迎の挨拶《サラーム》をしてから、言いました、「おお、われらの王の王女様、いかにも、わたくしどもの弟のこれなる若者と、あなた様との波瀾は、驚くべきものでございます。けれども、ここにこうして、御手の間に立っておりまするわたくしたち一同は、あなた様に将来の幸《さち》を予言申し上げ、御生涯を通じて、あなた様におかれては、わたくしどもの弟のこれなる若者に、その挙措のしとやかさと、万事につけての巧みさと、その愛情に、深く御満足なさるのみであろうことを、保証し奉ります。それに、この若者は、誰か仲立ちを頼む代りに、自身で己が情熱をあなた様に打ち明け、不法なことは何ひとつあなた様に求めなかったということも、お考え下さいまし。またわたくしどもとても、もし若い女性というものは、男性なくては叶わぬものと確信しておりませんでしたら、われらの王の御息女たるあなた様に対して、決してこのように大胆な計らいは致さなかったでございましょう。されば、どうか弟との御結婚をわたくしどもに、おまかせ下さいませ。さすれば、あなた様も弟に御満足なさるにちがいないことは、わたくしども、首《こうべ》にかけて保証致しまする。」そしてこう言って、一同御返事を待ちました。けれども美わしい耀い姫は、諾も否も言わないでいると、そのとき薔薇の蕾が進み出て、姫の手をわが両手に執って、「御免を蒙りまして、おお御主人様」と言い、そしてハサンのほうに向いて言いました、「さあ、あなたの手をお出しなさい。」ハサンが手を出しますと、薔薇の蕾はその手を執り、自分の手の中で、耀い姫の手と合せながら、二人に言いました、「アッラーの御同意を得、その使徒の御法《みのり》によって、わたくしはここにお二人を相結びまする。」そこでハサンは幸福の極、次の詩句を即吟いたしました。
[#ここから2字下げ]
おお、君がうちにいみじくも美質寄り集うかな、天女《フーリー》よ。美の水にひたる君が輝かしき顔《かんばせ》を見ては、何ぴとかその燦然たる耀いを忘れ得べき。
わが目の見る君は、その美わしき肉身の二分の一はすべて紅玉《ルビー》、三分の一は真珠、五分の一は黒麝香、六分の一は琥珀、丹精こめて取り集めて成りし、おおことごとく金色《こんじき》の乙女よ。
最初のイヴより生れたる処女《おとめ》のうちにも、また、天上のさまざまの園に住む美女のうちにも、およそ君にたぐうべきは一人だになし。
われに死を与うるを望みたもうや。さらば仮借したもうことなかれ。恋は既に他の幾多の犠牲者を出せり。われを生に甦らすを望みたまわば、君が眼《まなこ》を伏せてわが方に向けたまえ、おお世界の装飾《よそおい》よ。
[#ここで字下げ終わり]
乙女たちはこの詩を聞くと、耀い姫のほうを向いて、一斉に叫びました、「おお、お姫様、このように立派に、このように美しい詩で、自分の思いを述べる青年を、わたくしたちが御許《みもと》に連れてまいったことを、今はお咎め遊ばすでしょうか。」すると耀い姫は尋ねました、「ではこの人は詩人ですの。」一同言いました、「それはそうでございますとも。弟は何千行もの詩や歌を、驚くばかり自在に即吟したり、創作したり致します。それにはいつでも、強い感情が漲っているのでございます。」この言葉で、ハサンのまた別な長所がはっきりとわかりましたので、とうとう花嫁の心もすっかり靡《なび》いてしまいました。そして姫はその長い睫毛の下で微笑して、ハサンを見やりました。姫の目の合図ひとつをひたすら待っていたハサンは、そこで姫を腕に抱えて、自分の部屋に運びました。そして姫の許しを得て、彼は姫のうちに開くべきものを開き、破るべきものを破り、封じられているものを開封致したのでございます。彼はこうしたすべてを、甘美の限り甘美に味わい、姫もまた同様でした。そして二人とも、僅かの時間のうちに、世のあらゆる悦びの全体を経験致しました。ハサンの心中には、この乙女に対する愛情が、どんな情熱にもまさって、深く刻みつけられました。そして彼は長い間、彼の鳥ことごとくを挙げて歌いました。さても、信徒たちをば歓楽のうちに相結び、至福の賜物を惜しみたまわぬアッラーに、栄光あれ。主よ、君をこそ、われらは崇め奉り、君のお助けをこそ、われらは乞い奉りまする。われらをば直《すぐ》なる道に導きたまえ、君の御恵みの限りを尽したまいし人々の道にして、君のお怒りを招きし人々の道にあらず、また迷いにある人々の道にもあらずして。
さて、ハサンと耀い姫とはこのようにして、愛の得させるあらゆる悦楽のただなかに、共に四十日を過しました。七人の王女たち、わけても薔薇の蕾は、毎日二人の夫婦の楽しみに変化を与えて、二人の御殿滞在を、でき得る限り愉快なものにするように努めました。ところが四十日たったときのこと、ハサンは夢に母親を見ました。母親は、自分の息子のためにわが家に墓を建てさせて、日夜そこで泣いて過しているのに、お前は母のことを忘れていると、咎めるのでした。そして彼は目に涙を浮べ、魂を裂くばかりの溜息をつきながら、目覚めました。そこで七人の姉君は、彼の泣き声を聞きつけて、駆けつけました。わけて薔薇の蕾は、すべての姫君たちにもまして泣き沈み、魔神《ジン》の王の娘に、いったい夫の身に何事が起ったのか尋ねました。すると耀い姫は言いました、「存じません。」薔薇の蕾は言いました、「ではわたくしから、その悩みのわけを尋ねてみましょう。」そしてハサンに問いました、「どうしたのですか、仔羊よ。」すると、ハサンの涙はいっそう激しく流れるばかりです。そして最後に、たいそう嘆き悲しみながら、その夢を語りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十二夜になると[#「けれども第五百九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして最後に、たいそう嘆き悲しみながら、その夢を語りました。すると今度は、薔薇の蕾が泣いて呻吟する番になり、一方、姉君たちはハサンに言いました、「そういうことなら、おおハサン、わたくしたちは、これ以上ここにあなたを引きとめておくことも、お国に帰って懐しいお母様に会うのを妨げることも、できません。ただどうかお願いですから、わたくしたちのことを忘れないで、毎年一度は、わたくしたちを訪れに帰ってくるという、お約束をして下さいね。」すると小さな姉の薔薇の蕾は、咽《むせ》び泣きながら彼の首にすがりつき、最後には切なさのあまり、気を失ってしまいました。そして再び気がつくと、彼女は悲しげに別れの詩を誦し、自分の頭を彼の膝の間に埋めて、何と慰めても聞きません。ハサンは接吻してあやしはじめ、毎年一度は必ず会いに帰ってくると、誓いを立てて約束しました。その間に、ハサンの頼みに従って、他の姉君たちは、旅の支度に取りかかりました。用意万端成ると、姉君たちは尋ねました、「いったいどうやって、あなたはバスラに戻るおつもりなの。」彼は言いました、「はて、わかりません。」それから突然、彼は魔法使バーラムから奪った、あの雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の皮を張った魔法の太鼓を思い出しました。そして叫びました、「アッラーにかけて、これだ、これだ。だが使い方がわからないのです。」すると泣いていた薔薇の蕾は、ちょっと涙を乾して、立ち上がりながら、ハサンに言いました、「おお最愛の弟よ、わたくしがこの太鼓の使い方を教えてあげましょう。」そしてその太鼓を取り上げて、それを自分の横腹にあてがいながら、雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の皮を指で打つ真似をしました。それからハサンに言いました、「こんな風にすればよいのです。」ハサンは言いました、「わかりました、お姉様。」そして今度は、自分が乙女の手から太鼓を取って、薔薇の蕾がしてみせたと同じやり方で、けれどもずっと力をこめて、太鼓を打ちました。するとすぐに、地平線の四方八方から、幾頭もの大きな駱駝と、乗用の単峰《ひとこぶ》駱駝と、騾馬と、馬が現われました。そしてその全部の群れは、駆け足で走り寄って、駱駝を先頭に、次は乗用の単峰駱駝、次は騾馬、次は馬という順序で、長い一列に、がやがやと並びました。
そこで七人の姫は、いちばんよい動物を何頭か選び出し、残りは返しました。そして選んだ動物に、大切な梱《こり》とお土産と衣類と食料を積みました。また一頭の大きな乗用駱駝の背には、夫婦用の二つの席のついた、見事な輿《こし》を置きました。そしてそこで訣別《わかれ》が始まりました。おお、それは何と辛いことでしたろう。かわいそうな薔薇の蕾よ。あなたは心悲しく、お泣きになりましたね。王女と一緒に出発するハサンに接吻して、あなたの姉らしい心は、どんなに張り裂けたことでしょう。そしてあなたは、雛からむりやり引き離される雉鳩のように、呻き泣きました。ああ、あなたはまだ御存じなかった、おお優しい薔薇の蕾よ、別離の盃には、いかほど苦さが含まれているかを。そしてあなたは、おお憐れみ満ちたお方よ、御自分が幸福を計らってあげた最愛のハサンが、このように速やかに、あなたの愛情から奪われることになろうとは,思いもかけなかったのでした。けれども大丈夫、きっとまたお会いになれましょう。ですから、大切なあなたの魂を安んじ、お目を爽やかになさいませ。あまりお泣きになったので、あなたの頬は、かつては薔薇の花であったのが、柘榴の花のようになってしまいました。涙をおとめなさい、薔薇の蕾よ、あなたの大切な魂を安んじ、お目を爽やかになさいませ。きっとまたハサンにお会いになれましょう、天命はそのように望んでいるのですから。
さてそこで、一行は別れの切ない叫び声のただ中に出発して、遠くに見えなくなってしまい、薔薇の蕾は再び気を失って倒れました。一行は鳥のように速やかに、いくつもの山と谷を越え、野と砂漠を渡って、安泰を記《しる》したもうたアッラーの御同意を得て、恙なく、バスラに到着いたしました。
一同が家の戸口に着きますと、母親が息子の不安を痛ましく呻き悲しんでいるのが、ハサンに聞えました。そこで両眼涙に溢れて、戸を叩きました。すると内から、憐れな老女の嗄れた声が、尋ねました、「戸口にいるのはどなただね。」ハサンは言いました、「開けて下さい。」そこで老母は、憐れな両脚の上に顫えながら、戸を開けると、涙で衰えきった目にもかかわらず、息子のハサンとわかりました。すると、老母はひと息大きな吐息をついて、気を失って倒れてしまいました。ハサンは妻に助けられつつ、あらゆる介抱を尽して、正気に返らせました。そこで彼は母親の首にとびついて、二人は悦びに泣きながら、優しく相抱きました。最初の感激がすむと、ハサンは母親に言いました、「おお、お母さん、これがお母さんの娘、私の妻です。お母さんに仕えさせようと思って、ここに連れてまいりました。」老母は耀《かがよ》い姫を眺めて、そんなにも美しいのを見ると、目が眩んで、もう少しで分別が飛び去りそうになりました。そしてこれに言いました、「あなたが誰であろうと、わが娘よ、よくこの家に来てくれました、家はあなたで明るくなりました。」そしてハサンに尋ねました、「息子や、お前の嫁は何という名前かね。」彼は答えました、「耀い、と申します、おお、お母さん。」母親は言いました、「まあ、よく似合った名前だこと。あなたにその名を見つけなすった方は、ほんにうまく思いつきましたね、おお祝福の娘よ。」そして母親は姫の手をとって、家の古ぼけた敷物の上に、並んで坐りました。ハサンはそこで、自分が突然姿を消したときから、バスラに戻るまでの次第全部を、ただひとつの細部も忘れずに、母親に語りはじめました。母親は自分の聞くことに、驚嘆の限り驚嘆して、妖霊国《ジンニスターン》の王中の王の御息女を、その身分に従って敬うには、どうしてよいか、もうわからない有様でした。
さて、手始めに、母親はまず急いで市場《スーク》に、あらゆる種類の最上の食料を買いに行きました。それから、絹織物の市場《スーク》に行って、方々の大商人の店で、いちばん高価な、すばらしい衣服十枚を買いました。そしてそれをハサンの嫁に持って行って、十枚を全部一度に、一枚一枚重ねて着せ、こうしてその身分と値打に対しては、どんなことをしても、過ぎたることなどないことを示しました。そしてまるで自分自身の娘みたいに、接吻してやりました。次には特別な御馳走と、他には決して類のないような捏粉菓子を作ってやりました。こうして世話と優しい心遣いの限りを尽しつつ、姫を満足させるためには、どんなことも惜しまなかったのでございました。それが済むと、母親は息子のほうに向いて、言いました、「私にはわからないけれど、ハサンや、どうもバスラの町は、お前の嫁の御身分にはふさわしくないと思うね。私たちとしては、どういう点からも、いっそ平安の都バグダードに行って、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシード様の御庇護の翼の下に、暮したほうがいいようです。それに、息子よ、私たちは今度急にたいそうお金持になったが、何しろバスラでは、私たちは貧乏人ということになっているから、ここにいては、人様に疑いの目をもって見られ、私たちが金持になったのは、錬金術をやっているのだなどと咎められはしないか、それが心配でなりません。私の考えでは、できるだけ早く、バグダードに行ってしまうのが一番です。そこなら、最初から、私たちは遠方の王侯か貴族《アミール》ということになるだろうからね。」するとハサンは母親に答えました、「まことに名案ですね。」そして即刻即座に立ち上がって、家具と家屋敷を売り払いました。それが済むと、彼は魔法の太鼓を取り上げて、雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の皮を打ち鳴らしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十三夜になると[#「けれども第五百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとすぐに、大気の奥から、大きな単峰《ひとこぶ》駱駝が幾頭も現われ出て、家に沿って、縦列に並びました。ハサンとハサンの母とハサンの妻とは、今まで大切にしまっておいた、貴重品で目方の軽い品々を携え、輿に乗って、駱駝を駆け足で進ませました。そして、右手と左手を見分けるほどの時間もかからずに、一同はティグリス河のほとりの、バグダードの城門に到着しました。まずハサンが先頭に立って、仲買人を呼びに行き、それを通じて、十万ディナールの値段で、大臣《ワジール》のなかの一人の大臣《ワジール》の持ち物であった、豪勢な御殿を買い求めました。そしていそいで、そこに母と妻を連れて行きました。更にその御殿には豪奢を極めた家具調度を備え、男女の奴隷、若い少年、宦官を買いました。そしてわが家の生活振りが、バグダード全市を通じていちばん際立ったものにするためには、何ものをも惜しみませんでした。
こうして落ち着くと、ハサンはそのときから、平安の都で、妻の耀《かがよ》い姫と一緒に、両人とも、尊ぶべき年取った母の、行き届いた世話に囲まれて、楽しい生活を送りました。母は毎日、工夫をこらして何か新しい御馳走を作り、近所の人たちから料理法を聞いては、いろいろ料理をしてくれました。その料理法は、バスラのものとはたいへん違っているのです。というのは、バグダードには、地の表《おもて》のどんなほかの場所でも上手に作れない、たくさんのお料理があるのでした。ですから、この快い生活と行き届いた栄養の九カ月後には、ハサンの妻は、月のような男の双児《ふたご》を、無事産み落したのでございます。そして一方をナセル、他方をマンスールと呼びました。
さて、一年たちますと、あの七人の姫の思い出が、ハサンの記憶に浮び、それと共に、自分のした誓いも思い合されました。そしてわけても、姉の薔薇の蕾に再会したい、この上なく強い望みを覚えました。そこで彼は、この旅に必要な準備を整え、お土産に差し上げて恥しからぬような、バグダードとイラク全国で見つけられるだけの、いちばん見事な布地と美しい品々を買い求め、自分の思い立った計画を母親に伝えてから、付け加えて言いました、「ただひとつ、私の留守中に、御注意の限り御注意願いたい一事がございます。それは、家のいちばん秘密の場所に隠してある、あの私の妻耀いの羽衣を、よくよく気をつけて、しまっておいて下さることです。というのは、おお、お母さん、よく知っておいていただきたいが、万一私の愛妻が、われわれにとってこの上なく不幸なことに、この羽衣をまた見るような折があると、妻は即座に、鳥のように飛ぶ生れながらの本能を思い出して、たとえ気が進まなくとも、ここから飛び立たずにいられなくなることでしょう。ですからよく用心して、お母さん、どうかあの羽衣を妻に見せないようにして下さい。それというのも、万一その不幸が起ったら、この私は確かに、悲しみで死んでしまうか、自殺してしまうかどっちかです。それにまた、よろしく妻の面倒を見て下さるよう、くれぐれもお願いします。何しろ、あれは華奢《きやしや》ですし、大切にされつけていますから。そして女中たちよりも、むしろお母さん御自身が、遠慮なく面倒を見てやってください。女中たちは、お母さんとちがって、何がよくて何がよくないか、何が適当で何が適当でないか、何が上品で何が下品か、知りませんからね。それに特に、お母さん、妻を決して一歩も家の外に出さないように。窓から頭を出したり、屋形の露台に上がらせることさえ、させないで下さい。妻にとっては大気は禁物で、虚空《こくう》は何かと心を誘ったり、どこか気を誘ったりしないか、心配でなりません。こういう次第で、以上が私の御注意願いたいことです。もし私が死んでもよいというなら、これらのことをおろそかになさりさえすればいいわけです。」するとハサンの母親は答えました、「どうかアッラーは私に、お前の言いつけに背くことなどさせないで下さいますように、おおわが子よ。預言者にお祈りしましょう。私の気でもちがわない限りは、こんなにいろいろ注意なんぞ要《い》りはしないし、またお前のちょっとした言いつけにも、背いたりはしませんよ。さあ、安心してお立ち、おおハサン、お前の心を静めなさい。アッラーのお恵みをもって、帰ってきたら、お前は耀い姫に、万事お前の望みどおり運んだかどうか、尋ねてみさえすればいいことです。だけど、私も私で、ひとつお願いがあるよ、おおわが子よ。どうか、七人のお姫様のそばで、僅かのあいだ泊ったあとは、往復に必要な時間以上に、私たちを遠く離れて、お前の留守を長びかせないでおくれ。」
ハサンとハサンの母親とは、お互いにこのように語り合ったのでございます。そして親子は、天命の書のなかに、未知が彼らに取って置くものをば、知らなかったのでしたが、一方、美わしい耀い姫は、親子の言い合ったことを全部聞き取って、それをしっかりと覚えてしまったのでございます。
さてそこでハサンは母親に、きっかり必要な時間しか留守をしないと約束して、別れを告げ、それから妻の耀い姫と、母親の乳を吸う二人の息子、ナセルとマンスールを抱きに行きました。それが済むと、太鼓の雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の皮を打って……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十四夜になると[#「けれども第五百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……現われ出た乗用駱駝に、またがりました。そして今一度母親にさっきの注意を全部繰り返してから、母親の手に接吻しました。次に、うずくまっている駱駝に言葉をかけると、駱駝はすぐに四脚で立ち上がり、四肢を風に委ね、足の下に距離をなくなしながら、地上よりもむしろ空中を、駆けて行きました。そしてまもなく、空間の遥かかなたの一点にすぎなくなってしまいました。
さて、ハサンが七人の姫君のところに着いたとき、彼を迎えた悦びの甚だしさとか、わけても薔薇の蕾の仕合せとか、一同がどのようにして御殿を花綵《はなづな》で飾り、煌々と明りを点《つ》けたかなどということを申したとて、実際に益なきことでございます。むしろ彼をして、姉たちに語らなければならないすべてを、わけても二人の双児《ふたご》ナセルとマンスールの誕生を、姉たちに語らせておきましょう。また彼をして、姉たちと一緒に狩りや遊楽に耽らせておきましょう。そして何とぞ、おお私を取りまくわが尊く寛大な聴衆の皆様よ、私と共に、バグダードなるハサンの御殿、われわれがハサンの老母と妻の耀《かがよ》い姫をば残しておいた御殿に、お戻りになって下されよ。何とぞ私にこの御好意を垂れたまえ。おお開いた手(12)のわが殿方よ、さらば皆様方は、尊きお耳と称《たと》うべきお目とが、その生涯にかつて聴いたことも、見たことも、或いは思いかけたこともないことどもを、御覧《ごろう》ぜられ、お聞きなさるでござりましょう。願わくは皆々様の御上《おんうえ》に、「分配者」の祝福と、その最も選り抜きの御恵みの下らんことを。よっくお聞き下さりませ、殿方よ。
されば、おおいとも高名なお歴々よ、ハサンが出立致しますと、その妻耀い姫はもう身動きをせず、ハサンの母のそばを、片時も離れませんで、それが二日間続きました。ところが、三日目の朝になると、彼女は朝の挨拶をしながら、老婦人の手に接吻して、さて申しました、「おお、お母様、わたくしぜひお風呂屋《ハンマーム》に行きとうございます、ナセルとマンスールに乳をやっていたため、長らく沐浴《ゆあみ》を致しませんので。」老婦人は言いました、「やあアッラー、これは思慮のないお言葉です、娘よ。お風呂屋《ハンマーム》に行くなど、おお、私たちの災厄《わざわい》です。私とあなたとは、この都のお風呂屋《ハンマーム》なぞ全然知らない外国人だということを、御存じないのですか。御主人に連れて行ってもらわずに、どうしてあなたに行けましょう。まず御主人に先に行っていただいて、あらかじめ一部屋を予約し、中が全部きれいであるかどうか、油虫とかごきぶりとか南京虫などが、天井から落ちてこないかどうか、よく確かめてもらった上でなければなりますまい。ところが、御主人は今お留守だし、こんな重大な場合、御主人代りになれるような人の心当りはなし、私自身は年齢《とし》をとって弱いから、とてもついて行ってあげるわけにゆきません。だけれど、よかったら、娘よ、私はここでお湯をわかして、頭を洗ってあげましょう、家の浴場《ハンマーム》で、気持のよいお風呂を使わせて進ぜよう。幸いそれに入用なものは、全部揃っています。ちょうど一昨日《おととい》、アレプ産の香土ひと箱と、竜涎香と、脱毛剤と、指甲花《ヘンナ》が来たところです。だから、娘や、それについては心配はいりません。きっと申し分ありませんよ。」けれども耀い姫は答えました、「おお御主人様、女の人にお風呂屋《ハンマーム》の許しを与えないなんていうためしが、昔からありましょうか。アッラーにかけて、たとえ奴隷の女にそんなことをおっしゃったにしろ、その女は承知しないで、お宅にずっといるよりは、いっそ市場《スーク》で、競売《せりうり》にかけてくれと申し出るでしょう。だけれど、おお御主人様、女はいずれ似たりよったりなものと思って、女に法に外れたことをさせまいがためには、いずれ劣らず圧制的な数々の用心を、あらかじめしなければならないと心得ている殿方たちは、なんて非常識なのでしょう。けれどもお母様は、きっとよく御存じにちがいありません、一人の女が、いったん何かしようと固く決心したら最後、もう万難を排しても、必ずやりとげる手段《てだて》を見つけだすもので、たとえ実現不可能であろうと、災難に満ちたものであろうと、もうその志を阻《はば》むことができるものなどございません。ああ、若い身空で情けないことです、わたくしは人に信じられなく、もうわたくしの操は、全然信用されません。こうなっては死ぬばかりです。」こう言って涙を流し、咽び泣き、わが頭上に最も黒い災厄を呼びよせはじめたのでございます。
すると、ハサンの母親は、ついには姫の涙と呻吟に、心を動かされてしまいました、一方こうなってはもはや、姫の志を翻させる術《すべ》がないこともさとったのですが。そこで老齢と息子の固い戒めにもかかわらず、今は立ち上がって、清潔な下着類と香料の類いについて、入浴に必要な品々全部の支度をしました。次に耀い姫に言いました、「さあ、娘よ、行きましょう、もう悲しみなさんな。けれども、どうかアッラーは、あなたの御主人の腹立ちを招かずにすませて下さいますように。」そして母親は姫と一緒に屋形を出て、町でいちばん名のある風呂屋《ハンマーム》に、連れ立って行きました。
ああ、ハサンの母は、耀い姫の嘆きなどにみすみす心を動かされず、この風呂屋《ハンマーム》の敷居を越さなかったら、どんなにかよかったことでございましょう。さりながら、「唯一の見者」を除いては、誰が天命の書を読むことができましょう。誰が、道を二歩歩く間に自分のするつもりのことを、あらかじめ言うことができましょうぞ。けれどもわれわれ回教徒《ムスリムーン》は、ただ信じて、至上の思し召しに委ね奉るものです。そしてわれわれは申しまする、「アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」と。おお信徒の方々、わが高名な聴衆の方々よ、預言者の上に祈りたまえ。
さて、美わしき耀い姫が、清潔な下着類の包みを携えたハサンの母親に先立たれて、その風呂屋《ハンマーム》のなかに進み入りますると、入口の中央大広間に横たわっておりました女たちは、皆一斉に感嘆の叫びを挙げました。それほど、一同姫の美しさに心を奪われたのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十五夜になると[#「けれども第五百九十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして一同もう姫から目を離しません。この乙女がまだ面衣《ヴエール》に包まれているうちにさえも、一同の驚嘆はこのようなものがございました。けれども、いよいよ乙女が着物を脱ぎ去って、ことごとく裸になり終ったときの、一同の熱狂はいかばかりでございましょう。おお、獅子王タールートを魅し去った、ダーウド王(13)の竪琴よ。また汝、砂漠の娘、縮れ毛の武士アンタラ(14)の恋人よ、アラビアの全種族をば、縦に横に蜂起せしめて、相打たしめし、美しき腰の、処女アブラよ。また汝、エル・ブフールとエル・クスールの領主ガイウール王の女《むすめ》、ブドゥール姫(15)よ、燃ゆる目もて魔神《ジン》と鬼神《アフアリート》を悩殺せし汝よ。また、汝、泉の音楽よ、汝、百鳥《ももどり》の春の歌よ。汝らすべていかにぞなりし、この羚羊の裸身の前には。おお耀い姫よ、汝を創りたまい、おお満身黄金の女性よ、汝の栄光《はえ》の肉体のうちに、紅玉《ルビー》と麝香、生粋《きつすい》の琥珀と真珠をば混ぜ合せたまいし、アッラーに讃えあれ。
かくして、風呂屋《ハンマーム》の女たちは、もっとよく姫を見ようと、自分の入浴と無頓着をやめて、一歩一歩、姫のあとからついて行きました。そのうち、姫の容色の噂が風呂屋《ハンマーム》から近隣一帯に弘まって、たちまち部屋部屋には、この美の奇蹟を見ようとの好奇心に惹かれて、集まってきた女たちが殺到して、往来もできないほどになりました。そして、それらの名も知れぬ女たちの間に、あたかも、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードのお妃シート・ゾバイダの奴隷のひとりが、いたのでございます。この若い女奴隷は、その名をトーファ(16)と申しましたが、彼女は他の誰にもまして、この魔法の月の欠けるところなき美しさに呆然として、目を見張りながら、いちばん前列に出て、姫が水槽で沐浴するのに見惚れて、立ち尽していました。そして耀い姫が入浴を終って着物を着たとき、この奴隷の少女は、さながら磁石に惹きつけられるように、風呂屋《ハンマーム》を出て姫のあとをつけずにはいられませんで、後ろから往来を歩きはじめて、とうとう耀い姫とハサンの母親がわが家に着くまで、あとを追いました。そこで若い女奴隷トーファは、屋形のなかまではいるわけにはゆかないので、指を唇にあてて、一輪の薔薇の花とともに、耀い姫に響き高い接吻を送るだけで満足しました。ところが、彼女にとってはあいにくと、門番の宦官がその薔薇と接吻を見咎め、たいへん機嫌を悪くして、白目を見せながら、彼女にひどい悪口を浴びせはじめました。それで、女奴隷は吐息をつきながらも、引っ返す決心をしました。そして教王《カリフ》の御殿に戻ると、さっそく御主人ゾバイダ妃の御許に急ぎました。
ところでゾバイダ妃は、お気に入りの奴隷が真青になって、たいそう心を動かしている様子なのを御覧になりました。そこでお尋ねになりました、「いったいどこへ行ったのだね、おおかわいい女よ、そんなに青い顔をして心を動かした有様で、帰ってくるとは。」彼女は言いました、「お風呂屋《ハンマーム》に参りました、おお御主人様。」王妃はお尋ねになりました、「それでいったいお風呂屋《ハンマーム》で何を見たのです、わがトーファよ、気もそぞろになって、そんなに悩ましげな目をして、帰ってくるとは。」彼女は答えました、「でも、おお御主人様、どうしてわたくしの目と魂が悩まずにいられましょう、そしてわたくしの分別を奪った女《ひと》について、愁いがわたくしの心を襲わずにいられましょうか。」ゾバイダ妃はお笑いになって、申されました、「いったい何を言っているの、おおトーファや、誰のことなの。」彼女は言いました、「どんな妙なる青年もどんな乙女も、どんな小鹿もどんな羚羊も、おお御主人様、決してその女《ひと》の魅力と美しさには、及びもつかないことでございましょう。」ゾバイダ妃はおっしゃいました、「まあトーファ、お前はどうかしていますね、好い加減にして、早くその女の名を言ったらどうです。」彼女は言いました、「名前は存じませんの、おお御主人様。けれども、おお御主人様、わたくしは、わが頭上のあなた様の御恵みの功徳にかけて、誓って申し上げます、過去、現在、未来を通じて、およそ地の表《おもて》にいるどんな創られた者でも、あの女《ひと》に比べるべくもございません。その女についてわたくしの知っている全部と申せば、ティグリス河のほとりにあるお屋敷に住んでいて、そこには町の側に大きな門がひとつ、河の側に今ひとつ門があるということだけでございます。それに、お風呂屋《ハンマーム》で聞きますと、その女は、ハサン・アル・バスリと呼ばれる豊かな商人の妻ということでございました。ああ、御主人様、わたくしが今こうして御手の間で身顫いしておりますのは、その美しさゆえに覚えた感動のせいばかりでは、決してございません。万一あいにくと、あの女の噂が、わたくしどもの御主君|教王《カリフ》様のお耳に入ることになった節に、持ちあがる不幸な結果を思いますと、この上ない心配でぞっとする、そのせいもございます。必ずや、教王《カリフ》様は、その夫を殺《あや》めさせなすって、公正のすべての掟を無視して、あの絶世の美女を妻となさるにちがいありません。こうして教王《カリフ》様は、美しいけれどもやがては滅びる人間を、ひと時わが有《もの》となさるために、不滅の御自分の魂の量り知れぬ富を、売ってしまいなさることでございましょう。」
奴隷の少女トーファのこの言葉をお聞きになると、ゾバイダ妃は、この少女が平生は、どんなに言葉が慎しみ深く控え目かということを御存じでしたので、たいそうびっくりなすって、おっしゃいました、「けれども、おおトーファよ、お前はただ夢のなかで、そんな美の奇蹟を見たのでないことは、少なくとも大丈夫かい。」彼女は答えました、「わたくしはわが頭《かしら》と、わたくしに対する御親切に覚えなければならない御恩義の重さとにかけて、誓います、おお御主人様、わたくしは実際にそれを見て、今しがたその乙女に、薔薇と接吻を投げてきたところでございます。まことにこの乙女こそは、かつてどんな地も、どんな風土も、アラビア人のところにも、またトルコ人或いはペルシア人のところにも、それに類《たぐ》えられる女《ひと》の生れるのを見たことのないような、美女でございます。」するとそのとき、ゾバイダ妃はお叫びになりました、「わが祖先、至純者様方の御《おん》生命《いのち》にかけて、わたくしもまた、その二つなき宝石を、ぜひ眺めなければならない。わが二つの眼《まなこ》をもって、見なければならない。」
すぐに、王妃は御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを召し出して、彼が御手の間の床《ゆか》に接吻しおわると、これに仰せつけられました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十六夜になると[#「けれども第五百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼が御手の間の床に接吻しおわると、これに仰せつけられました、「おおマスルールよ、二つの門があって、一つは河に臨み、他は町のほうに臨んだ屋敷に、大至急まいれ。そこで、その屋敷に住まう乙女を探ねて、お前の一命にかけて、その乙女をここに連れて来なさい。」マスルールは答えました、「承わるとは、従い奉ることでございます。」そして彼は、頭を足よりも前に出して退出し、くだんの屋敷に駆けつけましたが、それこそまちがいなく、ハサンの屋敷でございました。彼は宦官の前を、大門をはいって行くと、宦官は御《み》佩刀持《はかせもち》と知って、その前に、地面まで平身低頭しました。彼は入口の扉に着いて、その戸を叩きました。
すぐに、ハサンの老母が自身、戸を開けに来ました。マスルールは玄関にはいって、年とった婦人に平安を祈りました。ハサンの母親はそれに挨拶《サラーム》を返して、尋ねました、「どういう御用でございましょう。」彼は言いました、「拙者ことは御《み》佩刀持《はかせもち》マスルール。拙者をここに遣わされしは、預言者(その上にアッラーの平安と祝福あれ)の叔父君、アル・アッバースの後裔第六代、アル・アミール・アル・モオミニン・ハールーン・アル・ラシード(17)の王妃、エル・カスィムの王女エル・サイーダ・ゾバイダ(18)。ここに推参致したるは、この屋敷に住む美女をば、王宮のわが御主人様の御許に、共にお連れ申さんがためです。」この言葉に、慄え上がって身顫いしたハサンの母親は、叫びました、「おおマスルール様、私どもはここでは異国の者でございまして、その女の夫である倅は、ただ今旅に出て留守でございます。出発に先立って、倅は私に、嫁を外に出すことは、私とであろうと他の誰とであろうと、またどんな事情があろうとも、一切厳禁と、固く申しつけて参りました。今あれを外に出しますれば、その美貌のために、何か間違いが起りはしまいか、そうなれば、倅は帰ってきて、自害をしなければならないことになると、それが心配でなりませぬ。ですから、私ども伏してお願い申し上げます、おお御親切なマスルール様、どうぞ私どもの苦境を憐れんで、私どもの叶えて差し上げられる気持と力以上のことは、何もお求めにならないで下さいまし。」マスルールは答えました、「いや何も御案じあるな、お年寄り。大丈夫、乙女の身に不祥事などは、決して起りはしない。なにほんの、わが御主人ゾバイダ妃が、その若い美女を御覧になって、果たして世の評判が、その容色と輝かしさの度合を、大げさに言いふらしているのではないか、御自分の目で確かめてごらんになりたいというだけなのです。それに、拙者がこのような御用を仰せつかったのは、何もこれが初めてではない。あなた方は、あなたにしろ、嫁御にしろ、このような御所望に従ったとて、悔いることは更にない、いやそれどころではないことは、拙者がきっと保証してあげる。それに拙者は、お二人を全く安全にゾバイダ妃の御手の間に御案内申すと同様に、必ずまたお二人を恙なく、お宅に送りとどけて進ぜると、お約束致します。」
ハサンの母親はこうして、いくら争っても無駄だし、かえって不為《ふため》にさえなるとわかると、マスルールを玄関に残して、自分はなかにはいって、耀い姫を着飾らせ、また二人の子供ナセルとマンスールにも、着物を着更えさせました。そして二人の子供を一人ずつ自分の腕に載せて、耀い姫に言いました、「まあゾバイダ様のお望みの前には譲らなければならないのだから、私たちはみんなで一緒に行くとしましょう。」そして先に立って玄関に行って、マスルールに言いました、「支度ができました。」そこでマスルールは外に出て、先頭に立ち、次には二人の子供を抱いたハサンの母親が従い、その次には、大小の面衣《ヴエール》ですっかり身を包んだ、耀い姫が従いました。こうして、マスルールは教王《カリフ》の宮殿に一同を案内して、大勢の女奴隷とお気に入りの官女の群れに囲まれて、エル・サイーダ・ゾバイダが、威風堂々、悠然と坐っていらっしゃる、広く低い玉座の前まで、連れて参りました。官女の群れの第一列には、少女トーファが控えておりました。
すると、ハサンの母親は、相変らず面衣《ヴエール》ですっかり身を包んだ耀い姫に、二人の子供を渡して、ゾバイダ妃の御手の間の床《ゆか》に接吻し、平安《サラーム》を祈り奉ってから、辞令を言上しました。ゾバイダ妃は、これに平安をお返しになって、お手を延べられたので、母親はそれに唇をあてると、立つようにとのお言葉でした。それから王妃は、ハサンの妻のほうを向いて、おっしゃいました、「おおよくぞ来られました。けれどもなぜ、そなたは面衣《ヴエール》を取らないのですか。ここには男はいないのに。」そしてトーファに合図をなさると、彼女はすぐに、顔を赤らめながら、耀い姫に近づいて、まずはじめその面衣《ヴエール》の垂れに手を触れ、次に布に触った自分の指を、わが唇と額に当てました。それから手を貸して、その大|面衣《ヴエール》を取り去り、その顔の小|面衣《ヴエール》をわが手で掲げてあげました。
おお、耀い姫よ。雲の下よりまろらかに出る月とても、輝き渡る太陽とても、春の暖気にそよぐ瑞枝《みずえ》の揺らぎとても、黄昏《たそがれ》の微風《そよかぜ》とても、笑《え》まう水とても、およそ人間を目により、耳により、悟性《こころ》によって悦ばせる何物とても、御身のなせしごとく、御身を眺むる女性たちの理性を奪うことは、よくなし得なかったであろう。御身の美の光輝をもて、宮殿は隈なく照らされ、輝き渡ったのであった。御身の見《まみ》ゆる悦びに、人々の心は仔羊のごとく跳ね、胸中に踊るのであった。そして狂気があらゆる頭上に吹き渡った。女奴隷たちは、「おお、お見事の耀い姫よ」とささやきつつ、感嘆して御身に見惚れた。けれどもわたくしたちは、おおわが聴衆の皆様方よ、わたくしたちはこう申しましょう、「女身をば谷間の百合のごとく作りたまい、これを天国のしるしとして、その信徒らに与えたまいし御方は、讃むべきかな。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十七夜になると[#「けれども第五百九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さてゾバイダ妃は、目が眩《くら》んでいらっしゃる状態からわれに返りなさると、つと玉座を立って、耀い姫に近づき、両腕をめぐらして、姫の目に接吻しながら、お胸にぴったりと抱き締めなさいました。次に、その広い玉座の上に、御自分の傍らに坐らせ、御自身がアル・ラシードとの御結婚以来着けておいでになった、大粒の真珠十列の首飾りを外して、姫の首にかけておやりになりました。それからおっしゃいました、「おお幻惑の女王よ、まことに、あなたの美しさをわたくしに語ったわが奴隷トーファは、誤っておりました。それというのは、あなたの美しさは、あらゆる言葉を絶していますから。けれども、いかがでしょう、おお完全の女性《によしよう》よ、あなたは歌とか、舞いとか、音曲の類《たぐ》いを知っておいでですか。というのは、あなたのような人ならば、何事にでも秀でているものですからね。」耀い姫は答えました、「実際のところ、おお御主人様、わたくしは歌うことも、舞うことも、琵琶《ウーデイ》や六絃琴《ジーターラ》を奏することも、少しも存じませぬ。そして若い女たちの普通に心得ている芸事に、何ひとつ秀でておりませぬ。さりながら、申し上げなければなりませぬが、わたくしにはただひとつだけ、身に備わる才がございまして、これは、或いは不思議とお思い遊ばされるかとも存じられます。それは、鳥のように空を飛ぶことでございます。」
この耀い姫の言葉に、並いる女たちは叫びました、「おお魔法、おお不思議。」そしてゾバイダ妃は、申されました、「この上もなく驚きは致しますが、おお美わしい女性よ、あなたにそのような才があると信じるのに、どうして躊躇しましょうか。すでにあなたは、白鳥よりも調和あり、私たちの目に、鳥よりも軽やかに見えるではありませんか。けれども、もしあなたが私たちの魂を、あなたの後ろに曳き行こうと思うならば、ひとつ私たちの目の前で、試みに、翼なくして飛び立ってみて下さいませんか。」姫は言いました、「いえ、ちょうどわたくしは、おお御主人様、翼を持っているのでございます。けれどもそれは、わが身についてはおりません。さりながら、わたくしはそれを持つことができます、もしそれがお所望とあらば。それには、わたくしの夫の母親に、わたくしの羽衣を持って来るようにお求め遊ばしさえすれば、よいことでございます。」
すぐに、ゾバイダ妃はハサンの母親のほうに向いて、おっしゃいました、「おお尊ぶべき貴婦人、われらの母よ、ではその羽衣を取ってきて、あなたの美わしい娘がそれを使う有様を、わたくしに見せて下さいませんか。」そこで憐れな老婆は考えました、「ああこれで私たちはみんな、頼むすべもなくもう駄目だ。あの衣を見れば、あの子は自分のもとの本能を思い出すだろう。そしてどんなことになるかは、ただアッラーのみが知りたもうこと。」そこで母親は、顫える声で答えました、「おお御主人様、わが娘耀いは、あなた様の御威光に心乱れて、自分で何を申しているのかがわからないのでございます。いったい人が、羽の着物など着たためしが、これまでございましたでしょうか。そうした着物は、ただ鳥だけが着るものなのに。」けれども、耀い姫がそこに口を出して、ゾバイダ妃に申し上げました、「あなた様の御《おん》生命《いのち》にかけて、おお御主人様、誓って申し上げます、わたくしの羽衣は、わが家に隠してある長持のなかに、しまってございます。」するとゾバイダ妃は、ホスローとカイサールの宝物全部に値するような貴い腕輪を、御自分の腕から外して、それをハサンの母親に差し出しながら、おっしゃいました、「おおわれらの母よ、御身の許なるわが生命《いのち》にかけて、お願いですから、お宅に行って、その羽衣を取ってきて下さい。ただ一度、それを拝見するだけでよろしい。その上で、そのまま持って帰って結構です。」けれどもハサンの母親は、自分はついぞその羽衣とか、またそれに類したものは、見たことがないと誓いました。するとゾバイダ妃は、お叫びになりました、「やあ、マスルールよ。」するとすぐに教王《カリフ》の御《み》佩刀持《はかせもち》が、女王の御手の間にまかり出ますと、女王はこれにおっしゃいました、「マスルールよ、いそぎこの方たちのお宅に駆けつけ、隠してある長持のなかにおさめた羽衣をば、隈なく捜索せよ。」するとマスルールは、ハサンの母に自宅の鍵を否応なく渡させ、駆けつけて隈なく捜索して、とうとう床下に隠してあった長持にはいっている、羽衣を見つけ出しました。そしてそれをば、ゾバイダ妃のところに持ち帰りますと、王妃は長い間それに見入り、その精巧な作り方に驚嘆なさってから、それを美しい耀い姫にお渡しになりました。
すると、耀い姫はまずその羽を一本一本こまかく調べてみますと、それはハサンが自分から取り上げたあの日と同じように、そっくりそのままなことを認めました。そこでそれを拡げて、両方の垂れを身に羽織り、工合よく整えながら、その中にはいりました。すると彼女は、さながら大きな白い鳥のようになったのでございます。そして、おお、並いる人々の驚嘆よ、彼女は最初長い滑走を試み、地に触れずに引っ返し、身を揺すりながら、天井まで舞い上がりました。次に、身も軽くふわりと降りてきて、二人のわが子を拾いあげ、一人ずつ両肩に跨《またが》らせて、ゾバイダ妃と貴婦人たちに言うのでした、「わたくしの飛行に、皆様興じていらっしゃるようにお見受け申します。ではこれから、もっと御満足のいくように致しましょう。」そして飛び立って、上の窓まで飛んで行き、その窓の縁にとまりました。そして、そこから叫びました、「よくお聞き下さい、わたくしは皆様とお別れ申しますから。」ゾバイダ妃はこの上なくお心を動かして、これにおっしゃいました、「なんですと、おお耀い姫よ、あなたはもうわれらと別れて、永久にあなたの美しさを、われらに見せては下さらぬのですか、おお女王のなかの女王よ。」耀い姫は答えました、「残念ながら、さようでございます、おお御主人様。ひとたび去る者はまた帰りません。」次に彼女は、涙に暮れ、咽び泣き、敷物の上に倒れ伏す女、憐れなハサンの母親のほうを向いて、これに言いました、「おおハサンのお母様、確かに、このように立ち去ることは、わたくしとしてもたいそう悲しく、お母様と御子息のわたくしの夫ハサンとのゆえに、心苦しゅうございます。それというのは、別離の日々は、わが夫の心を引き裂き、お母様の生活を黒くするでしょうから。けれども、残念ながら、わたくしにはどうすることもできません。大気の酔い心地が、わたくしの魂に襲いかかるのを覚え、わたくしはどうしても空中を飛ばずにいられません。けれども、もし御令息が、いつかまたわたくしに会いたいとお思いになったら、ワク・ワク諸島(19)に尋ねて来て下さりさえすればよいのです。では、さようなら、おお、わが夫のお母様。」そしてこう言って、耀い姫は空中に舞い上がり、御殿の円蓋《ドーム》にちょっととまって、羽を繕いました。それから、再び飛び立って、二人の子供と一緒に、雲間に没してしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十八夜になると[#「けれども第五百九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ハサンの憐れな母親のほうは、苦しさのあまり、今にも息絶えんばかりになって、床の上に倒れ伏したまま、身動きもしませんでした。ゾバイダ妃はその上に身をかがめて、御自身、必要な手当てを尽してやりなさいました。そして母親にいくらか元気を取り戻させてから、これにおっしゃいました、「ああ、わが母よ、あなたはどうして、何事も知らないなどと言わずに、むしろ、耀い姫があの魔法の衣、不祥の羽衣を、あのような使い方をしかねない旨を、わたくしにそう言ってくれなかったのですか。そうすれば、わたくしはあれを姫の手に渡すことを、きっと慎しんだものを。けれども、御子息の令夫人が空の魔神《ジン》一族の方とは、どうしてわたくしに察することができたでしょうか。されば、わが良き母よ、どうぞわたくしの無知を許して、全然予測しなかった行ないを、あまり咎めないで下さいまし。」憐れな老女は申しました、「おお御主人様、ただ私一人が悪いのでございます。何も奴隷がその御主君にお許し申すことなどござりませぬ。人おのおの、自分の首に結《ゆわ》いつけられた己が天命を持っておりまする。私と息子の天命は、苦しみのため死ぬことでございます。」そしてこう言って、老女はすべての婦人の涙のただ中に、王宮から出て、とぼとぼとわが家に辿りつきました。家に帰って、子供たちを探してみても、子供たちはおりません。息子の妻を探してみても、これもおりません。すると母親は、生よりも死に近く、涙と嗚咽に掻き暮れました。そして家の中に、一つは大きく、二つは小さい、三つの墓を建てさせて、そのそばで呻き、泣いて、日々と夜々を過しました。そして次のような詩句や、その他いろいろの詩句を誦したのでございます。
[#ここから2字下げ]
おお、憐れわが小さき子らよ、木々の古き小枝に雨の落つるがごとく、わが涙は皺深きわが頬を流る。
汝らの出で立ちの訣別《わかれ》は、われらの生への訣別なり。汝らを失いしは、われらの魂を失いしなり、おおわが小さき子らよ。しかして、あわれ、あとに残りしは、われなり。
汝らはわが魂なりき。わが魂のわれを去りしに、いかでわれなお生くるを得べき、おおわが小さき子らよ。しかして、あとに残りしは、われなり。
[#ここで字下げ終わり]
母親のほうは、以上のようでございます。ところで、ハサンはどうかと申しますると、彼は七人の姫たちと三月を過しますと、母と妻とを不安に陥れないように、出発を思い立ちました。そして太鼓の雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の皮を打つと、駱駝が出てきました。姉君たちは、中から十頭を選んで、その他の駱駝を返しました。そして五頭の駱駝には、金塊と銀塊を、他の五頭には、宝石を積みました。そして彼に一年たったらまた会いに来ると約束させて、一同一列に並んで、ひとりひとり次々に彼に接吻をし、そしてめいめい、一節または二節のごく優しい詩節を寄せて、彼の出発がどれほど悲しいかを述べました。一同は詩句の拍子をとりながら、調子よく腰を振りました。ハサンは次の即興詩でもって、これに答えたのでした。
[#ここから2字下げ]
わが涙は真珠にて、われはその首飾りを御身らに捧ぐ、わが姉たちよ。今や出発の日に際し、われは鐙《あぶみ》を踏みしむれど、手綱を翻すを得ず。
おおわが姉たちよ、いかにして御身らの情けの腕を振り切らん。わが身は遠ざかるも、わが心は御身らの許に止まる。あわれ、あわれ、いかにして手綱を翻すべき、足は既に鐙にあるも。
[#ここで字下げ終わり]
それから、ハサンは駱駝に乗って、行列の先頭に立って遠ざかり、無事平安の都バグダードに着きました。
ところが、わが家にはいってみると、ハサンは、自分の母親がすぐにはわかりかねるほどでした。それくらい、涙と絶食と不眠とは、この憐れな老母をすっかり変えてしまっていました。そして一向に妻子が駆けつける様子がないので、彼は母親に尋ねました、「家内はどこにいますか。また子供たちはどこですか。」すると母親は、ただ咽び泣きで答えるばかりです。そこでハサンは気違いのように、部屋部屋を駆けめぐりはじめますと、大広間に、あの魔法の衣をしまっておいた長持が、開かれて空になっているのを見ました。振り返ってみると、広間の中央には、三つの墓が見えました。すると彼はそのまま気を失い、床石《ゆかいし》に額をあてて、ばったりと倒れてしまいました。そして彼を助けに飛んできた母親の手当ても空しく、朝から晩まで、ずっとこのままの有様でいました。けれども最後にようやく正気づくと、自分の着物を引き裂き、頭を灰と埃にまみれさせました。それからいきなり、自分の剣に飛びついて、わが身を刺そうとしました。けれども、そのとき、母親は両腕を拡げて、息子と剣の間に割ってはいりました。そして息子の頭をわが胸に押しあてて、絶望のあまり蛇のように床《ゆか》をのたうつ息子を、とにかく坐らせました。それから段々に、その留守中に起きたことすべてを話して聞かせ、最後にこう言って、結びました、「息子や、おわかりだろう、そりゃ私たちの禍いはたいへんなものだけれど、まだ絶望がお前の心にはいるには、早いのですよ。お前はワク・ワク島に行けば、またお嫁さんに会えるのだからね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五百九十九夜になると[#「けれども第五百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この母親の言葉に、ハサンは、希望がにわかに魂の扇《おうぎ》を爽やかにするのを覚えて、すぐさま立ち上がり、母親に言いました、「これからワク・ワク島に行ってきます。」次に考えました、「いったいその島々は、どこにあるのかしらん、名前は何か猛禽の叫び声に似ているが。インドの海か、シンドの海か、ペルシアの海か、それともシナの海にあるのかな。」そこで、その点についてはっきりさせたいと思って、彼の目には一切が暗く、けりがつかないように見えるのでしたが、とにかく家を出て、教王《カリフ》の宮廷の学者と物識りに会いに行き、ワク・ワク島という島々のある海を知っているか、順々に尋ねてみました。すると皆答えるのでした、「われらは知らんね。そんな島々があるとは、生れてから聞いたことがない。」そこで、ハサンは再び絶望しはじめて、死の風に胸許を締めつけられつつ、家に帰りました。そして床《ゆか》に崩折れながら、母親に言いました、「おお、お母さん、私の行かなければならないのは、ワク・ワク島なんかじゃありません。むしろ『禿鷹の母(20)』が、その荷物を下ろした場所です。」そして敷物に頭を埋めて、涙に暮れるのでした。けれども、そのうち突然立ち上がって、母親に言いました、「アッラーは、私を弟と呼んでくれるあの七人の王女のところへ戻って、ワク・ワク島の道を尋ねる名案を、授けて下さいました。」そして時を移さず、彼は憐れな母親に別れを告げ、わが涙を母の涙に交ぜつつ、帰宅以来まだ帰さずにいた、駱駝に再び乗りました。そして無事、雲が峰の七人の王女の御殿に着きました。
姉君たちは彼が来たのを見ると、この上ない仕合せの欣《よろこ》びをもって迎えました。そして、歓声を挙げながら彼に接吻し、歓迎の言葉を述べました。そしていよいよ薔薇の蕾が弟を接吻する番になると、彼女は、慈しみの心の目でもって、ハサンの顔立ちに生じた変化と、その魂の乱れとを見て取りました。それで、ただのひと言も尋ねもせずに、彼女は弟の肩の上に、泣き崩れました。ハサンも一緒に泣いて、彼女に言いました。「ああ薔薇の蕾姉様、私はとても切ないのです。それで、私の悩みを軽くできるただひとつの薬を求めて、あなたのおそばに参りました。おお耀い姫の香りよ、風はもうお前を運んできて、わが魂を爽やかにすることがあるまい。」そしてハサンは、これらの言葉を言いながら、ひと声大きな叫びを挙げ、意識を失って倒れてしまいました。
これを見ると、姉君たちは驚いて、泣きながら彼のまわりに駆けつけ、薔薇の蕾はその顔に薔薇水を振りかけ、わが涙をそそぎました。ハサンは七度《ななたび》立ち上がろうと試み、七度|床《ゆか》に倒れました。最後に、今までよりもいっそう長い間気を失っていたあとで、やっと再び目を開くことができ、そして姉君たちに哀《かな》しい話を、一部始終語りました。それから、付け加えました、「それで今こうして、おお救いのお姉様方よ、私はワク・ワク島に至る道を、お尋ねに参った次第です。それというのは、妻の耀いは立ち去るときに、私の憐れな母に向って、『もし御令息がいつかまたわたくしに会いたいとお思いになったら、ワク・ワク諸島に尋ねて来て下さりさえすればよろしい』と、言ったそうですから。」
ハサンの姉君たちは、この最後の言葉を聞くと、一同限りない茫然自失に捉えられて、頭を垂れ、長い間、口も利かずに、顔を見合せておりました。最後にやっと沈黙を破って、みな一斉に叫びました、「あなたの手を御空《みそら》のほうに挙げて、おおハサンよ、それに届かせるなり、触れるなりしようとしてごらんなさい。そのほうが、あなたの妻子のいる、そのワク・ワク島に行きつくよりは、まだしもやさしいことでしょう。」この言葉に、ハサンの涙は滝津瀬《たきつせ》のように流れて、衣を浸しました。すると七人の姫君は、その苦しみにますます心打たれて、何とか彼を慰めようと努めました。薔薇の蕾は優しく彼の首に両腕を回して、接吻しながら、言いました、「おおわたくしの弟よ、あなたの魂を静めて、お目を爽やかになさいまし。それから、逆運をじっとお忍びなさい。『箴言の主《あるじ》』も仰せられました、『忍耐こそ慰めの鍵にして、慰めは目的に至らしむ』と。おお弟よ、あらゆる天命は成就されなければならないことは、御承知のとおりですけれど、また、十年生きるべき人は、決して九年目に死ぬことはございません。ですから勇気を出して、涙をお拭いなさい。わたくしは自分のできる限りのことは何でもして、せいぜいあなたが妻子の許に辿り着けるように、計らってみます、もしそれがアッラー(その讃められよかし)の思し召しとあらば。ほんとに、あの羽衣が悪いのです。何度わたくしは、あれを焼いてしまうように、あなたに言おうと思ったかしれなかったけれど、そのつど、もしあなたの気にさわってはと思って、差し控えたのでした。でも結局、記《しる》されていることは、記されているのです。わたくしたちはせいぜい、あなたのすべての禍いのうち、いちばん救う道のあるものをば、救うように努めてみると致しましょう。」そして彼女は姉君たちのほうに向き直って、その足下に身を投げ出し、どうぞ自分と力を合せて、どうやったら弟がワク・ワク島の道を見つけることができるか、一緒に工夫してくれるように、頼み入りました。姫君たちは心から進んで、力添えを約束しました。
ところで、この七人の王女には、父王の弟にあたる、一人の叔父君がございまして、その方は全く特別に、姉妹のうちの長女をかわいがっていなさいました。そして毎年一度、きまって会いに来なさるのでした。その叔父君は、アブド・アル・カッドゥス(21)というお名前でした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百夜になると[#「けれども第六百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……その叔父君は、アブド・アル・カッドゥスというお名前でした。ちょうどこの前いらっしゃったとき、叔父君はお気に入りの長女の姫君に、香料を満たした小さな袋を渡して、万一何か自分の助けが欲しいと思うような事態が起った折には、この香を少々焚きさえすればよいと、言い残して行かれたのでした。そこで、長女の姫君は、薔薇の蕾に折入って何とかしてくれるようにせがまれたとき、これはひょっとすると叔父君ならば、憐れなハサンの窮地を救うことができるかもしれないと考えました。そこで、薔薇の蕾に言いました、「ではすぐに、香袋と金の香炉を取っていらっしゃい。」薔薇の蕾は、その二品を取りに駆けて行き、それを姉君に渡しますと、姉君は袋を開き、ひとつまみの香を取り出して、心中で叔父君アブド・アル・カッドゥスを念じ、呼びながら、それを香炉の燠火《おきび》のまん中に投げ入れました。
さて、香炉から煙が立ち昇るとすぐに、たちまち一陣の砂塵の渦がわき起って近づき、その下から、白象に乗った長老《シヤイクー》アブド・アル・カッドゥスが、現われ出ました。そして老翁は象から下りて、長女をはじめ、兄の娘の王女たちに言いました、「わしじゃ。香の匂いがしたのは何ゆえか。して、お前はわしに何をして欲しいのじゃ、わが娘よ。」すると若い乙女は、その首に飛びついて、手に接吻をして、答えました、「おお、わたくしたちの大切な叔父様、叔父様はもう一年以上も、わたくしたちに会いに来て下さらないのですもの。お出でがないので、わたくしたちは心配で、気が気でなかったのでした。それで、お姿を見て安心したいと思って、お香を焚きましたの。」老翁《シヤイクー》は言いました、「お前は兄上の娘たちのなかで、いちばん可愛らしい娘《こ》じゃ、おおわしの気に入り娘よ。だが、わしが今年は来るのが遅れたからといって、お前のことを忘れていたとは思うまいぞ。ちょうど、明日はお前に会いにこようと思っていたところであった。だがわしに何事も隠すではない。お前はきっと、何かわしに頼みたいことがあるにちがいないからな。」乙女は答えました、「どうかアッラーは叔父様をお護りになって、お生命《いのち》を延ばして下さいますように。叔父様がお許し下さいますとあらば、実は、わたくしちょっとお願いしたいことがございますの。」老翁《シヤイクー》は言いました、「言うがよい。あらかじめ承知してあげよう。」そこで乙女は、ハサンの物語を全部話してから、付け加えました、「さて今は、どうか特別の思し召しをもって、わたくしたちの弟ハサンに、そのワク・ワク島に行くにはいったいどうすればよろしいか、それだけ教えていただきたく存じます。」
この言葉に、長老《シヤイクー》アブド・アル・カッドゥスは首を垂れ、一本の指を口にくわえて、ひと時のあいだ深く思いに耽っておりました。それから、指を口から離して、頭を挙げ、そしてひと言も言わずに、砂の上にいくつも図形を描きはじめました。最後に沈黙を破って、頭を振りながら、王女たちに言いました、「わが娘たちよ、お前たちの弟に、心を悩ましても詮ないと言いなさい。ワク・ワク島に行くことは、到底不可能じゃ。」そこで若い娘たちは、目に涙を浮べて、ハサンのほうに向いて言いました、「駄目ですって、おお弟よ。」けれども薔薇の蕾は彼の手をとって、歩みよらせ、長老《シヤイクー》アブド・アル・カッドゥスに申しました、「御親切な叔父様、どうぞただ今わたくしたちにおっしゃったことを、このひとにはっきりわからせてあげて、賢明な忠告を与えて、謹しんで、それに従うようにしてあげて下さいませ。」すると老翁《シヤイクー》はハサンに手を与えて接吻させ、そしてこれに言いました、「されば、わが子よ、お前が心を悩ましても詮ないものと心得よ。お前はワク・ワク島に行くことは、到底不可能じゃ、よしんば魔神《ジン》の飛行騎兵全軍と、漂泊の彗星、旋回の遊星すべてが、お前を助けに来てくれるとも。事実、そのワク・ワク島とは、わが子よ、処女の娘子軍の住む島々で、そこはまさに、お前の妻耀い姫の父王、妖霊国《ジンニスターン》の王中の王が支配しておる。そして未だかつて何ぴとも、行ったこともなければ、戻ってきたこともないそれらの島々は、お前の今いるここからは、七つの大海と、七つの底なき谷と、七つの頂なき山とによって、隔てられている。その島々は、地のいや果てに位し、その向うはもはや全然未知の境じゃ。されば、お前はいかなる手段によるとも、そことお前との間を隔つるさまざまの障害を、首尾よく越え得るものとは思われぬ。けだし、お前にとって最も賢明な策は、やはりこのまま自分の家に帰るか、それとも、愛すべきお前の姉たちと一緒に、ここに止まるかであろう。ともかくも、ワク・ワク島については、もうあきらめるに如《し》かぬ。」
この長老《シヤイクー》アブド・アル・カッドゥスの言葉に、ハサンは|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》のように黄色くなって、ひと声大きな叫びを挙げて、気を失ってしまいました。王女たちも嗚咽を禁じ得ず、いちばん末の王女は、われとわが着物を引き裂き、顔を傷つけ、そして全部の王女たちは、一斉にハサンのまわりで、呻吟し、悲しみはじめました。やがて、ハサンは正気づくと、薔薇の蕾の膝に頭を埋めて、ただ泣くばかりでした。老翁《シヤイクー》も最後にはこの光景に心を動かされ、みんなの苦しみに憐れを催して、痛ましく泣きわめいている王女たちのほうに向き直り、気むずかし気な調子で、一同に申しました、「黙りなさい。」そこで王女たちは、出てくる叫び声をにわかに喉元で押えて、叔父様のおっしゃることを、不安げに待ちました。するとアブド・アル・カッドゥス翁は、ハサンの肩に手をかけて、これに申しました、「お前の嘆きをやめよ、わが子よ、そして再び元気を出せ。それというのは、アッラーの神助を得て、わしはお前の件の好転を計ってやろう。されば立ち上がって、わがあとより来たれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百一夜になると[#「けれども第六百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ハサンは、この言葉ににわかに生気を取り戻して、すっくと立ち上がり、いそぎ姉たちに別れを告げ、幾度《いくたび》も薔薇の蕾に接吻してから、老翁《シヤイクー》に言いました、「私はあなた様の奴隷でございます。」
すると長老《シヤイクー》アブド・アル・カッドゥスは、ハサンを白象の、自分の後ろに乗せて、その大きな動物に言葉をかけると、象は動き出しました。そして降る霰《あられ》のように、落つる雷のように、閃《ひら》めく電光のように早く、巨象は四肢を風に委ね、飛び翔《かけ》り、足下に距離をなきものとしつつ、空中の広野に分け入ったのでございます。
さて、このように疾駆して三日三晩の後には、両人は七年の道を走り過ぎました。そしてある青い山のほとりに着きましたが、その山の付近はすべて青くて、山の中央には洞穴があり、その入口は、青い鋼鉄の扉で閉ざされておりました。アブド・アル・カッドゥス翁は、その戸を叩くと、そこから、片手に青い剣を、片手に青い金属の楯を持った、一人の青い黒人が出てまいりました。すると長老《シヤイクー》は、思いもかけぬ素早さで、黒人の両手からその武器を引ったくると、黒人はすぐわきに寄って、道を開けました。そこで老翁はハサンを従えて、洞穴のなかにはいると、青い黒人は、二人のあとから扉を閉めました。
それから両人は、青い光が射し、岩々が透明で青い、広い円天井の廻廊を、約一里ばかり進みますと、その突き当りに、二枚の大きな黄金の扉の前に出ました。アブド・アル・カッドゥス翁は、その一方の扉を開けて、ハサンには、自分が帰ってくるまで待つようにと言いました。そしてその内部に姿を消しました。けれども、ひと時たつと、青色ずくめの鞍を置き馬具をつけた、一頭の青毛の馬の手綱をとって帰ってきて、それにハサンを乗せました。それから第二の黄金の扉を開けますと、二人の前には突如、広大な青い空間が開け、足許には、際涯のない無辺の草原が開けました。そして長老《シヤイクー》はハサンに言いました、「わが子よ、お前は今なお前進して、前途の数知れぬ危険を冒す決意を持っているかな。それとも、わしの勧めるように、ここで引っ返して、わが姪の七人の王女の許に帰るほうが、好ましいのではないか。王女たちは、お前が妻の耀い姫を失ったことを、十分慰めてくれるであろうが。」ハサンは答えました、「私は不在の悩みをこれ以上忍ぶよりは、死の危険を冒すほうが、千倍も好ましゅうございます。」長老《シヤイクー》は語をつぎました、「わが子ハサンよ、お前には、お前の留守が尽きざる涙の源となる、一人の母親がいはしないか。そのもとに戻って、母親を慰めるほうが、好ましいのではないか。」彼は答えました、「私は妻子を連れずには、断じて母の許に帰らぬつもりでございます。」するとアブド・アル・カッドゥス翁は言いました、「よろしい、さらばハサンよ、アッラーの御庇護のもとに出発せよ。」そして彼に一通の手紙を渡しましたが、それには青い墨で、次のような宛名が書いてありました、「至貴至大の長老中の長老[#「至貴至大の長老中の長老」に傍点]、われらが主[#「われらが主」に傍点]、尊ぶべき羽の父大先生[#「尊ぶべき羽の父大先生」に傍点]。」次に老翁《シヤイクー》は言いました、「わが子よ、この手紙を持って、お前の馬の連れてゆくところに行け。馬は、付近がすべて黒い、一つの黒い山の、黒い洞穴の前に達するであろう。そのとき、お前は地に降りて、手綱を鞍に結びつけた上で、馬だけを黒い洞穴にはいらせよ。そして戸口で待っていると、やがて黒衣をまとい、膝まで垂れた長い白髯以外、すべて黒ずくめの、一人の黒い老人が出て来られるのを見るであろう。そのとき、お前はその手に接吻して、その衣の裾を頭上に押しいただき、この手紙をお渡し申せ。これはそのお方にお前を御紹介申し上げるため、与えるのである。というのは、そのお方こそ、長老《シヤイクー》『羽の父(22)』である。これはわが師の君であり、わが頭上の冠であらせられる。地上でひとりこのお方のみ、お前の無謀至極な企てを、援助して下さることができるのじゃ。さればお前は努めて、このお方の御意を得るように致し、そのなせと言わるるところすべてを、なすようにせよ。ワァサラーム(23)。』
そこでハサンは、アブド・アル・カッドゥス翁にお暇を告げて、青毛の馬の脇腹を締めつけると、馬は嘶《いなな》いて、矢のように飛び立ちました。そしてアブド・アル・カッドゥス翁は、青い洞穴に戻りました。
さて、ハサンは十日の間、馬を行くままに進めましたが、その速力と申せば、鳥の飛翔も、暴風雨《あらし》の旋風も、これを追い越すことができないほどでございました。こうして彼は十年の道程《みちのり》を、一直線に踏破してしまいました。そして最後に、東洋から西洋にまたがる、頂上の見えない黒い山脈の麓に着きました。この山々に近づくと、彼の乗馬は速力をゆるめながら、嘶きはじめました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百二夜になると[#「けれども第六百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼の乗馬は速力をゆるめながら、嘶きはじめました。するとすぐに、一時に四方八方から、雨の雫よりも数限りなく、黒毛の馬が駆け寄ってきて、ハサンの青毛の馬の臭いを嗅いでは、身をすりつけるのでした。ハサンはその数に恐れをなし、自分の行く手を阻まれるのではないかと心配しましたが、無事に道を続けて、夜の翼よりも黒い岩々のただ中にある、黒い洞穴の入口まで着きました。それこそまさに、アブド・アル・カッドゥス翁の言った洞穴です。そこで馬を下りて、鞍の鞍頭《まえぐら》に手綱を結びつけてから、馬だけをその洞穴の中にはいらせ、自分は長老《シヤイクー》に命じられたとおり、その入口に腰を下ろしていました。
さて、ハサンがそこにいてからひと時もたたないうちに、洞穴から、一人の尊ぶべき老翁《シヤイクー》が出てくるのを見ました。黒装束で、自身も、帯まで垂れた長い白鬚を除いては、頭から足まで真黒い老人でした。これぞ長老《シヤイクー》中の長老《シヤイクー》、スライマーンの妃バルキス女王の王子、至貴の「羽の父」アリでございます(この方々御一同の上に、アッラーの平安と祝福あれ)。そこでハサンはこれを見ると、その膝に取りすがり、その両手両足に接吻し、その衣の裾を頭上に押しいただき、こうしてその庇護のもとに、わが身を置きました。それから、アブド・アル・カッドゥスの手紙をば、捧呈しました。すると羽の父大|長老《シヤイクー》は、その手紙を受け取ると、ただのひと言も言わずに、また洞穴のなかにはいってしまいました。ハサンは、老翁《シヤイクー》がそのまま再び姿を見せないので、そろそろ絶望しかけますと、そのとき、老翁《シヤイクー》は姿を現わしましたが、今度は全身白装束です。そしてハサンに、あとからついてくるように合図をして、前に立って、洞穴のなかを進んで行きます。そこでハサンは後からついて行くと、やがて宝石を敷きつめた、広々とした四角な大広間に行き着きました。その四隅にはそれぞれ、黒衣を着て、数知れぬ写本のただ中に、敷物の上に坐り、前に黄金の香炉を置いて、香を焚いている老人《シヤイクー》が、一人ずつ控えておりました。そしてこの四人の賢人はおのおの、弟子の七人の学者に取りまかれ、その弟子たちは、写本を筆写しては、読んだり、考えに耽ったりしていました。けれども羽の父アリ大|長老《シヤイクー》がはいってくると、これらの尊ぶべき人物は、皆敬意を表して立ち上がりました。そして主だった四人の学者は、四隅を離れて、広間の中央の、大|長老《シヤイクー》のそばに坐りにきました。全部の人が着席しますと、アリ大|長老《シヤイクー》は、ハサンのほうに向いて、この賢人の集いの前で、わが身の上を語るようにと申しました。
そこでハサンは、たいそう感激して、まずはじめに、涙を滝津瀬と流しました。次にようやく涙を乾すことができると、咽び泣きにとぎれがちの声で、拝火教徒バーラムに誘bされたことから、大|長老《シヤイクー》羽の父のお弟子で七人の王女の叔父君の、長老《シヤイクー》アブド・アル・カッドゥスと出会うまでの、身の上一部始終を語りはじめました。その物語の間じゅう、賢人たちは、一度も言葉を挿みませんでしたけれど、語り終えると、全部がその師のほうを向いて、一斉に叫びました、「おお尊ぶべき老師《シヤイクー》よ、おおバルキス女王の御子《みこ》よ、この若者の運命は、憐憫に値しまする、夫としても、父としても、苦しんでおりますれば。そして恐らくわれわれは、そのかくも美わしき乙女と、かくも美わしき二人の子をば、この者に返してやるうえに、一臂《いつぴ》を貸すことができるでございましょう。」するとアリ大|長老《シヤイクー》は答えました、「わが尊ぶべき兄弟たちよ、これはまことに一大難事じゃ。ワク・ワク島に達するはいかに難《かた》きか、またそこより戻るはいかに更に難きかは、諸公もわしと共に御承知じゃ。また、あらゆる障礙《しようがい》を乗り越えてその島に至り着いても、さて魔神《ジン》の王中の王とその王女らとを守る、処女|娘子軍《じようしぐん》に近づくことの至難さも、御承知じゃ。かかる条件にあっては、いかにしてハサンを、彼らの強大なる王の娘、耀い姫の許に至り着かせることができようぞ。」長老《シヤイクー》たちは答えました、「尊ぶべき父よ、仰せごもっともでございます。何ぴとがそれを否み得ましょうぞ。さりながら、この若者は、われらの兄弟、誉れも高き高名のアブド・アル・カッドゥス翁より、特に御依頼あった者、師の君としても、その御意向を尊重なされぬわけにはまいりますまい。」
するとハサンもまた、この言葉を聞くと、老師《シヤイクー》の足下に身を投げ出し、その外套の裾をもって頭を包み、その膝に両腕をめぐらして、自分の妻子を返して下さるように哀願致しました。また全部の長老《シヤイクー》たちの手にも、同じように接吻しますと、一同も彼の願いに己が願いを合せて、皆の師父、大|長老《シヤイクー》羽の父に、この不幸な若者に憐みを垂れたもうよう、折入って頼むのでした。するとアリ大|長老《シヤイクー》は答えました、「アッラーにかけて、わしは生涯を通じて、この若者ハサンほど断乎として、おのが一命を軽んずる者を、かつて見たることがない。これは己れの望むものも知らず、己れを待つものも知らぬ、向う見ずの男じゃ。だが要するに、わしはこの男のために、わが身に叶う一切をしてつかわすと致そう。」
こう語って、羽の父アリ大|長老《シヤイクー》はひと時の間、恭々しく控える老弟子たちのただ中で、思いに耽っておりました。次に頭をもたげて、ハサンに申されました、「何よりもまず、その方の危急の際に身を護《まも》る、ある物を与えておこう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百三夜になると[#「けれども第六百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして自分の鬚の、毛がいちばん長い個所から、ひと房の毛をむしり取って、それをハサンに渡しながら、言いました、「わしがその方のためにしてあげることとは、これじゃ。万一その方が一大危難のただ中に陥った節には、この毛束のなかの一本の毛を焼きさえすればよい。わしが直ちに、その方を助けに行くであろう。」次に老師《シヤイクー》は、広間の円天井のほうに頭を挙げ、誰かを呼ぶかのように、両手を打ち合せました。するとすぐに、翼のある|鬼神たち《アフアリート》のうちの一人の鬼神《イフリート》が、円天井から降りてきて、その手の間にまかり出ました。すると老師《シヤイクー》はこれに尋ねました、「お前の名は何というか、おお鬼神《イフリート》よ。」鬼神《イフリート》は答えて、「あなた様の奴隷ダーナッシュ・ベン・フォルクタッシュでございます、おお羽の父アリ大|長老《シヤイクー》様。」老師《シヤイクー》はこれに言いました、「近う寄れ。」鬼神《イフリート》ダーナッシュがアリ大|長老《シヤイクー》に近づくと、老師《シヤイクー》はその耳に口を寄せて、何事か低い声で申しました。鬼神《イフリート》は「畏りました」という意味の、頭の合図で答えました。そこで老師《シヤイクー》はハサンのほうに向いて、申されました、「乗るがよい、わが子よ、この鬼神《イフリート》の背に乗りなさい。鬼神《イフリート》はその方を雲の境に運んで、そこから、その方をば、白樟脳でできている地上に下ろすであろう。そしてその地に、おおハサンよ、この鬼神《イフリート》はその方を置いて行くであろう、それ以上進み得ないのじゃ。そこでその方は単身、その白樟脳の地をよぎって、進まねばなるまい。ひとたびその地を出づれば、その方はワク・ワク島の真向いに達するであろう。あとは、アッラーがよしなに計らいたもうであろうぞ。」
そこでハサンは、改めて大|長老《シヤイクー》羽の父の両手に接吻し、他の賢人方に厚意を謝しつつ、別れを告げ、そしてダーナッシュの両肩にまたがると、鬼神《イフリート》は彼と共に、空中に舞い上がりました。そして彼を雲の境へ運び、そこから白樟脳の地に降りて、そこに彼を残して、姿を消してしまいました。
かくて、おおハサンよ、おおバスラの産の男よ、昔は故郷の町の市場《スーク》にて人々に感嘆せられ、あらゆる心を飛び立たしめ、汝を見る人々をして、汝の美貌に感に堪えざらしめた汝、王女らのただ中にて、かくも久しく幸福に暮し、王女らの魂の中に、かくばかり愛情と悩みとを湧かしめた汝よ、今や汝は、耀い姫への愛慕に駆られ、鬼神《イフリート》の翼に乗って、この白樟脳の地へと至り着いたが、これより汝は、汝の先の何ぴとも、また汝の後の何ぴとも、かつて遭遇したることなきところに、遭遇せんとしているのではある。
果たして、鬼神《イフリート》にこの地に下ろされると、ハサンはすぐに、燦めく馨《かぐ》わしい地上を、まっすぐ前に歩きはじめました。こうして長いあいだ歩いて行くと、そのうち、遥かな草原のまん中に、何か天幕《テント》のようなものが認められました。それで、そちらの方角に向って行って、いよいよその天幕《テント》のすぐそばまで着きました。ところが、ちょうどそのとき、彼はたいそう繁った芝草のなかを歩いていたので、草のなかに隠れていた何物かに、蹴つまずきました。はっとしてみると、それは銀の塊のように白く、イラム(24)の都の円柱の一つほどもある、大きい身体《からだ》なのでした。ところで、それは巨人なので、ハサンの見た天幕《テント》というのは、実はその耳でして、それは日除けの携帯|天幕《テント》代りになっていたものでした。巨人はこうして眠りを破られると、唸り声をあげながら立ち上がり、かんかんに腹を立てたので、お腹《なか》が息でふくれ上がり、同時に尻に力をこめていきんだため、尻の穴を風が抜けて響き渡りました。それでもって、雷鳴の形で、途方もない放屁《おなら》の連発が飛び出し、ハサンは投げ倒されて、地面に顔をぶつけ、次に、恐れのあまり目をでんぐり返しながら、空中に投げ上げられました。そして、再び地上に落ちる前に、巨人は首筋のいちばん皮の柔らかい場所をつまんで、宙でつかまえ、ちょうど鷹の爪に捉えられた雀みたいに、猿臂《えんぴ》を延ばして、彼を宙づりにしました。そして今にも、力いっぱいぐるぐる振りまわした上で、地面に叩きつけ、骨を打ち砕き、こうして縦を横にめりこませてやろうと、身構えたのでした。
ハサンは、今にもわが身に振りかかろうとしているところを見ると、全身の力を絞って|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》き、叫びました、「ああ、誰か助けてくれ。ああ、誰か救ってくれ。おお巨人《おおびと》よ、憐れんでくれ。」このハサンの叫び声を聞くと、巨人は独りごとを言いました、「アッラーにかけて、こいつの鳴き声は悪くないぞ、この小鳥は。この囀りは気に入った。それじゃひとつこの足で、王様のところに、こいつをお届けするとしよう。」それで巨人は、傷つけてはいけないと、そっとハサンの片足を持って、そのまま深い森にはいって行きますと、森のなかの空地のまん中に、玉座代りの岩に腰かけて、白樟脳の地の巨人族の王がおりました。王は、それぞれ身の丈《たけ》五十|腕尺《わんしやく》もあろうという、巨人五十人の衛兵に囲まれていました。さてハサンを捉えている巨人は、王に近づいて、申し上げました、「おおわれらの王よ、これは私が足を掴んで捉えた小鳥でございますが、声がよろしいので、持って参りました。なかなか気持よく囀りまする。」そしてその男は、「さあ王様の御前で、ちょっと歌ってみろ」と言いながら、ハサンの鼻の頭を軽くいくつも叩きました。ハサンは巨人の言葉がわからないので、いよいよ最期の時が来たのかと思って、「ああ、誰か助けてくれ。ああ、誰か救ってくれ」と叫びながら、※[#「足+宛」、unicode8e20]きはじめました。すると王はこの声を聞いて、悦びに身を顫わせ、わくわくして、その巨人に言いました、「アッラーにかけて、こいつはかわいいのう。これをすぐさまわが娘のところに持って行って、娘を悦ばせてやらざなるまい。」そしてその巨人のほうに向きながら、付け加えました、「そうじゃ、いそいでこれを鳥籠に入れ、娘の部屋に持って行って、その寝床のかたわらに吊し、その歌と囀りでもって、娘を楽しませるように致せ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百四夜になると[#「けれども第六百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで、その巨人はいそいでハサンを、一つは餌、一つは水を入れた、二つの大きな椀のついた鳥籠に入れました。それと一緒に、二本の止り木もつけて、気ままに跳びまわり、歌えるようにしました。そしてそれを王女の部屋に持って行って、その枕許に吊しました。
王女はハサンを見ると、その顔立ちとかわいらしい姿がすっかり気に入って、いろいろと可愛がり、さまざまに甘やかしはじめました。そしてハサンにはその言葉は全然わかりませんでしたが、彼を馴らそうとして、ごく優しい声で話しかけました。しかし、とにかく自分に害を加える気がないことはわかったので、彼はかつ泣きかつ呻吟して、わが身の運命に、王女の憐れを催させようと試みました。ところが姫はそのつど、その呻吟と嘆息をば、調べよい歌と思って、非常な悦びを覚えたのでした。そして遂には、彼に対して並々ならぬ愛情を覚えてしまって、もう昼も夜も、どんな時間にも、そばを離れられなくなりました。そして彼に近づくと、姫は全身が、彼のためにうずくのを感ずるのでした。けれどもこんな小さな鳥に対しては、いったいどうやって気持を表わせばよいのか、姫にはわかりません。そこで何度も、いろいろと合図をしたり、仕草で話したりしましたけれど、彼もまた姫の気持がわからず、事実巨人ではあるけれど、こんなに愛想のよい乙女を、どう扱えばうまく行くのか、察しもつかないでいたのでした。
ところが、或る日、王女はハサンを身ぎれいにして、着物を着替えさせてやろうと思って、籠から引き出しました。そして着物を脱がせてみると、おお、驚くべき発見です、この鳥にも、父の家来の巨人たちが持っているものが、決してなくはないのを見ました、もっとも身体相応に、すべてひどく小型ではありましたが。そこで王女は考えました、「アッラーにかけて、こうしたものをいろいろ持っている鳥を見るのは、生れてはじめてだこと。」そして王女はハサンをいじりまわし、あちこちさまざまに調べはじめて、彼に見つけるものにいちいち感心するのでした。ハサンはその手のなかで、全く猟師の手にある雀そっくりでした。そして若い巨人は、自分の指の下で、胡瓜が南瓜に変るのを見ると、横に転げるほど笑い出しました。そして叫びました、「何という不思議な鳥だろう。ほかの鳥と同じように歌いもし、それに婦人に対しては、巨人の男たちと同じように慇懃《いんぎん》に振舞うのだわ。」そして敬意には敬意を返そうと思って、王女は彼をぴったりと引き寄せて、まるで一人前の男子を相手にするように、至るところを愛撫しはじめ、鳥には言葉はわかりますまいから、言葉でこそ言わないが、身振りと仕草で、あらゆる申込みをしましたので、彼も王女に対して、全く雄の雀が雌の雀に対してすると同じように、振舞ったのでした。そしてこの時から、ハサンは王女の小鳥となったのでございます。
さてハサンは、鳥のように機嫌をとられ、甘やかされ、大切にされてはいましたけれど、また巨人の王女の豪奢のただ中で、自分も感じ、また王女にも覚えさせていたところにもかかわらず、また姫が彼とことを終るごとに閉じこめておく鳥籠のなかで、すっかり安穏に暮しているとは申せ、彼は少しも妖霊国《ジンニスターン》の王中の王の娘耀い姫と、自分の旅の目的であるワク・ワク島のことを、忘れてはいませんでした。その島々は、もうあまり遠からぬことがわかっているのです。そこでこの窮地を脱するためには、彼は悦んで例の魔法の太鼓と毛束を使うことを辞さなかったのですけれど、それが、巨人族の王女は、彼に着物を着替えさせる際、彼の貴重品をみんな取り上げてしまったのです。そして彼がアラビアでするようなあらゆる合図と身振りを使って、その品々を要求しても空《むな》しく、王女は彼の求めるものがわからず、そのつどいつも、彼は交合《まじわり》を求めているのだと思いました。それで彼が太鼓を求めるごとに、それに答えられるのは交合、毛束を請求するごとに、しなければならないことになるのは交合という始末で、それが全くあまりに度重なって、数日後には、彼はもう類いのないような状態に陥り、恐ろしい巨人女に、身をもって返事をされるのに会うのがこわくて、もう身振りも、ちょっとした合図も、敢てしないようになりました。
こうした次第です。そしてハサンの事態は、一向に変りません。そのため彼は、今はどういう決心をしたらよいかわからず、鳥籠のなかで衰え、黄色くなってゆくばかりでしたが、そのとき或る日、平常よりも数しげく繰り返した愛撫のあとで、巨人の女は彼をぴったりと抱いたまま、まどろんでしまって、彼を逃げ出させました。ハサンはすぐに、自分の古い衣類のしまってある長持のほうに駆けつけ、鬚の束を取り出し、心中に羽の父アリ大|長老《シヤイクー》を念じながら、その一本の毛を燃やしました。するとにわかに……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百五夜になると[#「けれども第六百五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……するとにわかに、宮殿が家鳴り震動して、黒装束の長老《シヤイクー》が、地面からハサンの前に出てきました。ハサンはその膝にとりすがりますと、長老《シヤイクー》は尋ねました、「何か用か、ハサンよ。」若者は答えました、「お願いでございます、音を立てないで下さいまし、さもないとこの女が目をさまします。そうなると、私はもう施す術《すべ》なくその手中に陥って、鳥の勤めをさせられることになりましょう。」そして彼は、眠っている巨人の女を指さしました。すると長老《シヤイクー》はその手をとって、その隠れた威力の効験によって、彼を宮殿の外に連れ出しました。次に長老《シヤイクー》は言いました、「その方の身に起ったことを話すがよい。」そこでハサンは、白樟脳の地に着いて以来、自分のしたことすべてを話して、そして付け加えました、「さて今は、アッラーにかけて、もし私がこのうえ一日でも、この女巨人のそばにいたら、私の魂は鼻から脱け出してしまうでございましょう。」すると長老《シヤイクー》は言いました、「とはいえわしはあらかじめ、その方がどんな目に逢うか、申し聞かせておいたであろうが。さりながら、こうしたすべては、未だ序の口にすぎぬ。かつ、わしは、おおわが子よ、今一度最後にその方に引っ返す決心をさせるため、言って聞かせねばならぬが、ワク・ワク島においては、わが毛の効験はもはや利き目がなく、その方は独力でやるより致し方あるまいぞ。」ハサンは言いました、「何はともあれ、私は妻に再会しに行かなければなりませぬ。まだこの魔法の太鼓がございますから、これが危急の際役立って、窮地を脱しさせることができるでありましょう。」アリ大|長老《シヤイクー》は太鼓をじっと見て、言いました、「うむ、これは見覚えがある。これはわが昔の門弟の一人、拝火教徒バーラムの持っていた太鼓じゃ。あれは弟子中ただ一人、アッラーの道を歩むのをやめた男であった。だが、おおハサンよ、知るがよい、この太鼓とてもまた、ワク・ワク島では、殆どその方の役には立ち得まいぞ。その島々にては、あらゆる魔法が破れ去り、島に住む魔神《ジン》は、彼らの唯一の王だけの命にしか服さぬのじゃ。」するとハサンは言いました、「十年生きるべき者は九年目には死にますまい。もしも私の天命が、その島で死ぬということでありますれば、苦しゅうございませぬ。さればどうぞ、おお尊ぶべき長老《シヤイクー》中の長老《シヤイクー》様、そこに行きつくため私の辿らねばならぬ道をば、お教え下さいませ。」アリ大|長老《シヤイクー》はすると、返事の代りに彼の手をとって、申しました、「目を閉じて、目を開けよ。」ハサンは目を閉じ、次に一瞬ののち、目を開けました。すると、長老《シヤイクー》羽の父も、王女の御殿も、白樟脳の地も、すべて消え失せていました。そして自分は、すべての小石が色さまざまの宝玉である島の、海辺にいるのでした。だが彼は、自分がかくも待ち望んだ島に、遂に辿り着いたのかどうか、全然わかりませんでした。
さて、ハサンは片目を右に、片目を左に向ける暇もあらせず、いきなり、海の石ころと波の泡の中から、白い大きな鳥の大軍が、彼に襲いかかってきて、濃く低く垂れる雲でもって、空を蔽うのでありました。この敵の鳥の群れは、脅かす嘴とはばたく翼のけたたましい音を立てながら、渦を巻いて彼に向ってきます。そして空中の喉は、全部が同時にいくたびも繰り返し、しゃがれた叫び声を挙げ、そこにハサンは遂に、島々の名のワク・ワクという音節を、聞きわけたのでございました。そこで彼は、自分がその禁断の地に着いたので、これらの鳥は彼を闖入者《ちんにゆうしや》と見なし、海のほうに追い払おうとしているのだということを察しました。そこでハサンは、そこから遠からぬところに立っている小屋に走りのがれ、この事件について思いめぐらしはじめました。
すると突然、地鳴りがして、地が足下に震えるのを感じました。彼は息をこらして、耳を澄ますと、遥かに、また別の雲が大きくなってゆくのが見えて、そこから次第に、槍の穂先と兜《かぶと》の尖端が日の下に現われ、甲胄《かつちゆう》が燦めき出しました。さあ、娘子軍だ。どこに逃げようか。そのうち、降る霰のように、閃めく電光のように早く、すさまじい疾駆は、またたく間に近づいてきます。そして彼の前に、うごめく恐ろしい方陣を成して密集しつつ、尾長く、脚逞しく、純金のような鹿子色の牝馬に打ち跨った女武者たちが、長く寛《ゆる》やかな手綱を執りながら、荒海から勢い猛《さか》んに吹きつける北風よりもなお早く、現われ出ました。これらの女武者は、戦闘の武装に身を固め、めいめい重い大刀を佩《は》き、片手に長槍を携え、片手に思いを慄え上がらせるような、ひと束の武器を持っています。そして、腿の下にぴったりとつけている四本の投槍は、その恐ろしい穂先を見せておりました。
さて、この女武者たちは、見慣れぬハサンが小屋の敷居に立っているのを認めるや、躍る駒をはたととめました。すると全団の蹄が、土を蹴って、岸辺の石ころを宙に飛ばし、砂のなかに深々と、めりこみました。息弾ませた馬の大きく開いた鼻孔は、若武者たちの鼻孔と同時に打ち顫え、高い瞼甲《めんぽお》のついた兜の下の、露わな面《おもて》は月のように美しく、丸くどっしりした臀はずらりと続いて、牝馬の臀と相混じます。褐色の、金髪の、鹿子色の、また黒色の髪の毛は、波打ちつつ、馬の尻尾と鬣《たてがみ》の房々した毛と入りまじります。そして金属の頭と翠玉《エメラルド》の鎧《よろい》は、太陽の下に、巨大な宝石のように輝き渡り、燃え尽すことなく燃え上がっております。
ところがそのとき、この光の方陣のただ中から、他のすべての女武者よりもひときわ丈高い、一人の女武者が進み出ました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百六夜になると[#「けれども第六百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……その顔は兜の下で露わではなく、瞼甲《めんぽお》を下ろしてすっかり蔽われていますし、むっちりとした乳のある胸は、ばったの翼よりも目の詰んだ金の鎖《くさり》帷子《かたびら》に守られて、輝いております。そしてその女武者は、ハサンの数歩のところで、突然駒をとめました。ハサンは、その女武者が自分の敵か味方かわからないままに、まず額を塵に埋めて、その前に身を投げ出し、次に頭を擡げて申しました、「おお、わが女王様、私ことは、天命によってこの地に導かれました異国の者でございます。私はアッラーの御庇護とあなた様の御保護のもとに、わが身を置きまする。私を斥けたもうなかれ。おお、わが女王様、己が妻子を探し求むる不幸なる男を、憐みたまえ。」
このハサンの言葉に、女騎手は馬から地に飛び下りて、部下の女武者たちのほうへ向いて、身振りをして一同を遠ざけました。そしてハサンに近寄ってきたので、彼はすぐにその両足と両手に接吻して、その外套の縁《へり》をわが額にあてました。すると相手は注意深く彼を見て、次に瞼甲《めんぼお》を持ちあげて、彼に露わの顔を見せました。ハサンはその顔を見ると、ひと声大きな叫びをあげて、慄え上がって飛び退さりました。それというのは、少なくとも、先ほど見た若武者たちと同じぐらい美しい若い女どころか、彼の前にいたのは、およそ醜い様子の老婆で、茄子ほどもある大きな鼻、斜《はすか》いの眉、皺だらけの垂れ下った頬、互いにいがみ合う目、そして顔の九つの角の一々に、災厄《わざわい》の相があります。このような有様で、この老婆は全く豚そっくりです。
そこでハサンは、それ以上長い間この顔を見ないですむようにと、自分の着物の裾でもって、わが目を蔽いました。ところが老女は、ハサンがこうしたのは、顔をまともに見て、失礼に当ってはならぬと思ってのことだとばかり信じこんで、この仕草を、非常な尊敬のしるしと見たのでした。そしてこの尊敬の表われに、この上なく心を動かされて、彼に言いました、「おお異国の方よ、不安を静めなさい。今より後は、あなたはわが庇護のもとにあります。そしてあなたの必要とする何事においても、私は私の助力を約束してあげよう。」次に言い添えました、「けれども何はともあれまず、あなたはこの島で、人に見咎められてはならない。そのためには、私は早くあなたの身の上を知りたくてならないけれども、これからいそいで、あなたを女武者に仕立てるために必要な品々を、取ってきてあげよう。それで今後あなたが、王と王女たちを守る若い処女の女武者たちと、見分けがつかないようにするとしよう。」そして老女は立ち去って、少したつと、鎧、刀、槍、兜、その他娘子軍兵士の持っているものと、あらゆる点で同じ武器を持って、帰ってきました。そしてそれらをハサンに与えたので、彼はそれらを身につけました。すると老女は彼の手をとって、海辺に聳える岩の上に連れて行き、そこに一緒に坐って、さて言いました、「さて今は、おお異国の方よ、あなた以前には、どんなアーダムの子も敢えて近づいたことのないこの島々まで、あなたを来らせたわけを、いそいで話して聞かせなさい。」そこでハサンは、その厚意を謝してから、答えました、「おお、わが御主人様、私の身の上は、己が有する唯一の財を失い、それを再び見出さんとの希望を抱いて、地を経めぐる不幸な男の身の上でございます。」そして彼は一つの細部も省かずに、わが身の波瀾を話しました。すると老女武者は尋ねました、「して奥様の乙女は何といいますか、またお子様たちは何といいますか。」彼は言いました、「私の国では、子供たちはナセル及びマンスールと申し、妻は耀いと申しましたが、さて、魔神《ジン》の国では、どういう名前か存じません。」そしてハサンは語り終えると、おびただしい涙を流して、泣きはじめました。
老女はこのハサンの身の上話を聞き、その苦しみを見ますと、もうすっかり憐れを催して、彼に言いました、「私はあなたに誓います、おおハサンよ、母親がわが子の身を案ずるにもまして、私はあなたの運命を案じてあげましょう。そしてあなたの奥様は、ひょっとすると、私の配下の女軍の間にいるかも知れぬとおっしゃるからには、早速明日にも、海で兵士たち全部の素裸の姿を見せてあげよう。それから一人一人を、あなたの前に行列をさせて、そのなかにあなたの奥様が見当るかどうか、聞かせてもらいましょう。」
年取った「槍の母(25)」は、ハサン・アル・バスリに、このように申しました。そしてこの策をもってすれば、必ず乙女耀いを見つけだせるにちがいないと断言して、なおも彼を安心させました。老女はその日は、彼と一緒に過し、あらゆる絶景を探らせながら、島じゅうを連れて歩きました。そして最後には彼を非常な愛情をもって愛するようになり、繰り返し彼に言うのでした、「安心しなさい、わが子よ。私はあなたをわが目のなかに入れました。そして私の部下の兵士たちは、みな若い処女の娘だが、万一あなたが楽しみのために、あれらを全部欲しいと言っても、私は心から悦んで全部あげましょう。」ハサンはこれに答えました、「おお、わが御主人様、私はアッラーにかけて、私はわが魂が私を離れない限り、あなたを離れますまい。」
さて翌日は、約束に従って、年取った槍の母は、太鼓を打ち鳴らして、部下の女武者の先頭に立ちました。そしてハサンは、女兵に身をやつして、海を見下ろす岩の上に坐っていました。こうして、彼はどこかの、王たちの娘の間の娘のように見えました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百七夜になると[#「けれども第六百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そのうち乙女の若武者たちは、頭《かしら》に立って指揮する、年取った槍の母の合図に従って、それぞれ牝馬から下り、武器と鎧を棄てました。すると一同、すらりと輝かしく、鎧から出て来ました、おお、熱に浮されし百合と薔薇か、さながら百合がその葉より、薔薇がその棘《とげ》より出ずるがごとくに。そして真白く身も軽く、一同海に下りました。水沫は、そのほどけて巻く髪、或いは塔のように高く結い上げた髪に、入り混ります。波濤の円い膨らみは、彼らの処女の臀の円い膨らみを続けます。彼らはさながら、水上に浮ぶ、むしり取られた花冠のようでありました。
けれども、これほど多くの月の顔としなやかな腰と、黒い目と白い歯を、色とりどりの髪と祝福の臀との間を、ハサンは望み見ても空しく、最愛の耀い姫の比類ない美しさは、いかにしても見当りません。そこで老女に言いました、「おお親切な母よ、耀いはこの人たちのなかにはおりません。」すると年取った女騎手は、答えました、「何ともわからないよ、わが子よ。遠く離れているので、よく見さだめられないのかも知れない。」そして両手を打ち鳴らすと、乙女たちは全部水から出てきて、まだ珠玉に濡れそぼちながら、砂の上に整列しました。そして一人ずつ次々に、しなやかに身を揺すりつつ、甲胄として身にまとうは、ただ背中に乱れる髪あるのみで、裸身の宝石のみの重さをつけて、ハサンが槍の母と一緒にいる岩の前を、通りすぎて行ったのであります。
このときのことである、おおハサンよ、お前が見たものを見たのは。おお、諸王の若い娘らの股間の、ありとある色と種々様々の兎よ。お前たちは肥えていた、お前たちは円かった、お前たちは丸々としていた、お前たちは白かった、お前たちは円蓋《ドーム》のようであった、お前たちは太っていた、お前たちはふっくらしていた、お前たちは高かった、お前たちは平らであった、お前たちは膨れていた、お前たちは閉ざされていた、お前たちは手つかずであった、お前たちは玉座のようであった、お前たちは牡騾馬のようであった、お前たちはどっしりしていた、お前たちは唇が厚かった、お前たちは唖《おし》であった、お前たちは巣のようであった、お前たちは耳がなかった、お前たちは熱かった、お前たちは天幕《テント》のようであった、お前たちは無毛であった、お前たちには鼻面があった、お前たちは聾《つんぼ》であった、お前たちはうずくまっていた、お前たちは小さかった、お前たちは割れていた、お前たちは敏感であった、お前たちは深淵であった、お前たちは乾いていた、お前たちは上等であった、だがしかし、確かに、お前たちは耀い姫のものには、比ぶべくもなかった。
それゆえハサンは、全部の乙女をやり過して、年取った槍の母に申しました、「おお、わが御主人様、わが上なる御身の生命《いのち》にかけて、このすべての若い娘たちのなかには、遠くも近くも、耀いに似たものは、ただの一人もおりませぬ。」すると年取った女武者は、驚いて言いました、「それでは、おおハサンよ、あなたの見た全部の娘のあとには、もうわれらの王の七人の王女よりほかには残っていません。ではどうか、いざという場合、私はどういうしるしであなたの奥様を見分けられるか、教えて下さい。そして何か奥様にある特別な点を、言葉で描いてごらんなさい。そうすれば私は、その点をすべて、よく覚えておきましょう。そのようにしてよく教えておいてもらえば、私は必ず、御希望の人を見つけだしてあげると、お約束します。」ハサンは答えました、「妻の姿を言葉で描いて御覧に入れることなどは、おおわが御主人様、到底力及ばず息絶えることでございます。それと申しますのは、およそいかなる舌も、そのあらゆる美質を言い現わすことは叶いますまい。けれども私はつとめて、その大よその似姿をお知らせしてみましょう。妻は、おおわが御主人様、祝福の日と同じように、白い顔をしております。細い腰は、太陽もその影を地上に伸ばすことができますまい。背の上の長い黒髪は、日の上の夜のよう。双の乳は、この上なく強《こわ》い布にも穴を穿ち、舌は、蜜蜂の舌のよう。サルサビール(26)の泉の水のようなる唾液《つばき》。カウサル(27)の源《みなもと》のようなる目、素馨《そけい》の小枝のたおやかさ。霰《あられ》の粒のようなる歯。右頬の上には黒子《ほくろ》、臍の下には痣《あざ》。口は紅玉髄のようで、盃と水差を要しませぬ。頬はアル・ヌーマーン王(28)のアネモネのよう。大理石の大桶ほども広くて白く、眩《まばゆ》いばかりの弾力あるお腹《なか》。イラムの神殿の円屋根よりも堅固に、どっしりと据った臀。完美の鋳型で鋳られた両腿は、苦い留守の後の再会の日ほども甘く、その間には、休息と陶酔の聖殿、教王《カリフ》の玉座が鎮座まします。その文字合せの謎々を、詩人は次のように述べました。
[#2字下げ] かくばかり惑乱の種、わが名は、人も知る二つの文字より成る。四を五倍、六を十倍せよ、さらばこれを得べし(29)。」
これらの言葉を言い終わると、ハサンはそれ以上涙をこらえきれず、泣きはじめました。次に叫びました、「わが悩みは、おお耀いよ、托鉢の鉢を失った修道僧《ダルウイーシユ》の悩み、或いは踵《かかと》に傷を受けた巡礼者の苦しみ、あるいは手足を失った被手術者の痛み、それと同じように切ない。」
年取った女武者は、こうしたすべてを聞くと、深い沈思に沈んで、しばし頭を垂れ、やおらハサンに言いました、「何という災厄《わざわい》か、おおハサンよ。あなたは頼る術《すべ》なくわが身を亡ぼし、あなたと一緒に、この私の身も亡ぼすのです。なぜといって、今あなたが私に描き聞かせたその乙女というのは、確かにわれわれの強大な王の、七人の王女の一人に相違ありません。何という囮《おとり》があなたの囮でしょうか、大胆にも程がある。あなたと王女との間には、天地の隔たりがあるのです。もしあなたが飽くまでその望みを棄てないなら、あなたは身の破滅に飛びこむというもの。悪いことは言いません、ハサンよ。そんな向う見ずな企てはあきらめて、あなたの魂を滅亡にさらすことはおよしなさい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百八夜になると[#「けれども第六百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この老女の言葉に、ハサンはすっかり気が顛倒して、気を失ってしまいました。やがてわれに返ると、潸然《さんぜん》と泣いて、着物は涙に濡れ、そして絶望の極、叫びました、「それでは、おお、わが救いの小母《おば》よ、私は望みを絶って帰らなければならないのでしょうか、こんなにはるばるとやって来て、まさに目的に行き着こうという、この期《ご》に臨んで。あなたが大丈夫と保証して下さった上は、どうして私は私の計画の成功と、あなたのお力の及ぶ範囲を、疑えたでしょう。七つの島の軍隊を、将として指揮しているのは、あなた御自身ではございませんか。この種の計画ならばどんなものでも、あなたには不可能ではないのではございませんか。」老女は答えました、「いかにも、わが息子よ、私は自分の軍隊と、軍隊を成している一人一人の女兵各個に対しては、何とでもできます。ですから私は、あなたにその無分別な企てを思いとどまらせるため、あの乙女の若武者たち全部のなかから、いちばんあなたの気に入る女《ひと》を、一人選んでもらいたいと思います。そうすれば私はその女を、あなたの奥様の代りに、あなたに差し上げよう。その上で、あなたはその女を連れて、お国に戻りなさい。さすれば、あなたはわれわれの王の復讐を受けずに済みます。さもないと、私の破滅とあなたの破滅は必定です。」けれどもハサンは、この老女の忠告には、ただ新しい涙と新しい慟哭《どうこく》をもって、答えるのみでした。すると老女は、彼のあまりの悲しみに心打たれて、彼に言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、おおハサンよ、いったいあなたは私にどうしてくれと言うのですか。今でももう、私があなたをわれわれの島に黙って上らせたということが、万一露見しようなものなら、私の首はもう私の肩に付いてはいませんよ。それにまた、私が部下の女兵たち、どんな男の目も触れたことなく、どんな男の指も触ったことのない若い処女たちの、全裸の水浴をあなたに見せたことが、万一人に知れようものなら、私の魂はもう私のものではありませんよ。」するとハサンは叫びました、「アッラーにかけて、おおわが御主人様、私は断言致します、私はあの乙女たちを決して、不躾けな工合に眺めなど致しませんでしたし、その裸の姿にも、たいして深い注意を払いはしませんでした。」老女は言いました、「いや、やはりあなたはよくないことをしたのですよ、おおハサン。何しろあなたは、全生涯を通じて、再びあのような光景に接することはありますまいからね。だがいずれにせよ、あの処女たちも、一人としてあなたの気を惹《ひ》かないというなら、ではお国に戻って、御自分の魂を全うする決心をあなたにつけさせるため、私は数々の富と、私たちの島の貴い物産を、たくさん差し上げて、あなたの余生を通じて、豊かで幸福な身分になれるだけの、財宝の限りを尽してあげましょう。」けれどもハサンは、老女の足許に飛んで行って、その膝を抱き、涙を流して言いました、「おお私の恩人、おおわが目の瞳、おおわが女王よ、これほどの辛苦に会い、これほどの危難を冒したあげく、どうして私は、このまま自分の国に戻ることができましょう。愛に惹かれてここまで来た、その最愛の女《ひと》にも会わずに、どうしてのめのめと、この島を立ち去ることができましょうか。ああ、どうか考えてみて下さい、おおわが御主人様、ひょっとすると天命の意志は、私がこれまで耐え忍んできたすべての苦難の果てに、私に妻にめぐり合せてくれるのではございますまいか。」これらの言葉を言うと、ハサンは魂の飛躍を制し得ず、次の詩節を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
おお美の女王よ、|ペルシア王《ホスロー》らの諸国を征服したる双の瞼の、囚人《とらわれびと》を憐れみたまえ。
薔薇《しようび》も、甘松《かんしよう》も、はた香りの素《もと》も、その効験あらんには、君が息吹きなくしてかなわず。
楽園の野の微風は、そを吸う幸多き人々を馨らしむべく、君が髪のうちに佇む。
夕べ輝き出づる昴宿《スバル》は、君が眼よりその光を取り、夜々の星屑のみぞただ、君が項《うなじ》の飾りとなるにふさわしけれ、おお年若く真白き女《ひと》よ。
[#ここで字下げ終わり]
年取った女武者は、このハサンの詩句を聞いたとき、これはもう妻に再会する希望を永久に奪ってしまうことは、いかにも酷《むご》いことだと思い、その苦しみに同情を覚えて、彼に言いました、「わが息子よ、悲しみと絶望を、あなたの考えから遠ざけなさい。なぜというに、今となっては私は、あなたに奥様を返してあげるためには、どんなことでもやってみようと、固く思い定めましたからね。」次に付け加えました、「私はこれからすぐに、私の魂と一緒に、あなたの事件に骨折ることに取りかかりましょう。おお気の毒な方よ。恋する者には、聞く耳もなければ、判断する力もないことが、よくわかりましたからね。ではちょっとお別れして、私たちのいるこの島の女王の御殿に、行って参ります。この島はワク・ワク七島のうちの一つです。あなたに知っておいていただかなければなりませんが、この七島の一つ一つには、私たちの王の七人の王女がそれぞれ住んで、治めていなさるので、七人の王女は、父は同じだけれど、母のちがう姉妹です。そしてここで私たちを治めているお方は、いちばんの長女で、ヌール・アル・フダ姫(30)とおっしゃいます。私はこれからその方にお目にかかって、あなたのために工合よく、お話ししてみましょう。だから、あなたの魂を静め、目を爽やかにして、心静かに私の帰ってくるのを待っているがいい。」そして老女は彼に暇を告げて、ヌール・アル・フダ姫の御殿へと向いました。
姫の御前に着くと、年取った女武者は身を屈めて、ヌール・アル・フダの御手の間の床《ゆか》に接吻しました。老女はその知恵と、かつて若い姫君たちにしてさしあげた教育とお世話のゆえに、王女たちばかりか、王様御自身からも、尊敬され愛されていました。ヌール・アル・フダ姫は、すぐに敬意を表して立ち上がり、老女に接吻して、自分のそばに坐らせなすって、おっしゃいました、「インシャーラー(31)。そなたのもたらす便りが吉兆のものであるように。またもしそなたに願いの筋とか、特別の頼みとかあらば、言うがよい。そなたの言葉をおろそかには聞きませぬ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百九夜になると[#「けれども第六百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……そなたの言葉をおろそかには聞きませぬ。」年取った槍の母は、答えました、「おお、世紀と当代の女王様、おお、わが娘よ、私は世にも珍しい事件をお知らせ申しあげようとて、御許《おんもと》に参りました。思うに、これはお気晴しと御座興に相成りましょう。お聞き下さいまし。実は過日私は、わが島の浜辺に漂流した、一人の驚くばかり美しい若い男を、見つけたのでございますが、その男はさめざめと泣いておりました。そして私がこれに様子を尋ねますると、何でも妻を探しているうちに、自分の天命によって、わが海岸に打ち上げられたと申します。それではその妻はどういう女《ひと》か聞かせなさいと頼みますと、妻の様子を述べましたが、それを聞くと私は、わが君はじめ、御妹の他の姫君様を思い合せて、非常な心の動揺を覚えたのでございます。また私は、同じくお打ち明け申さねばなりませぬが、おお、わが女王様、包まず申しますれば、私の目はいまだかつて、魔神《ジン》と|鬼神たち《アフアリート》の間に、この若者ほど美貌な青年は、見たことがございません。」
ヌール・アル・フダ姫は、この老女の言葉を聞くと、たいへん御立腹で、年取った女武者に叫びました、「おお、呪いの老婆よ、恥辱の姦婦の夫千人の娘よ、われらの領地に、われらの処女のただ中に、男子を連れこむとは、そも何としたことか。ああ、淫らなるやからよ、誰かあってわたしに、お前の血一杯を飲ませ、お前の肉ひと口を食わせる者はなきか。」そこで古強者《ふるつわもの》も、暴風雨のなかの葦のように震えだし、姫君の膝下に倒れると、姫君は叫びました、「そもそもお前は、わたしの復讐と逆鱗《げきりん》によって、身に招く罰を恐れないのか。魔神《ジン》の大王なる父君の御首《おんこうべ》にかけて、いったい何がわたしを引き止めて、今お前をずたずたに切り刻ませて、今後、わが島々に旅の者を連れこもうと思うような恥ずべき案内者への、見せしめにすることをさせないのであろうか。」次に付け加えました、「だが何よりもまず、わが国境を恐れ気もなく侵した、その不敵なるアーダムの子をば、取り急ぎここに呼んで参れ。」そこで老女は、慄え上がって、もはやわが手の左右も区別できずに、立ち上がり、ハサンに会いに外へ出ました。そして考えました、「アッラーが女王を通じてわが身に送りなされた、この恐ろしい災厄も、もとはといえば、すべてあの若いハサンから起ったことだ。なぜ私は、むしろあの男を、むりにもこの島から立ち去らせ、肩幅の広さをわれわれに見せるように強いなかったのだろう。」
こうして老女は、ハサンのいる場所に戻って、その姿を認めるや、すぐに彼に言いました、「立ち上がりなさい、おお末期の近い男よ。そして女王のところへ行きなさい。お話があるそうです。」そこでハサンは、「ヤア、サラーム(32)。私はどういう深淵に突き落されるのでしょうか」と言いながら、老女のあとに従いました。こうして彼は御殿の、姫君の御手の間に着きました。すると姫君は玉座に坐って、顔をすっかり面衣《ヴエール》で包んで、彼に会われました。ハサンは、この苦境に立って、まず玉座の前の床に接吻して、平安《サラーム》を祈り奉ってから、姫君に韻文で、御挨拶を申し述べるよりほかに、うまい工夫がありませんでした。すると姫君は老女のほうに向いて、「訊問せよ」という意味の合図をなさいました。そこで老女はハサンに言いました、「われらの強大な女王様は、その方に平安《サラーム》をお返しに相成って、『汝の姓名は何と申すか、生国はいずこ、妻の名は何と申すか、子の名は何と申すか』とのお尋ねゆえ、お答え申し上げるがよい。」するとハサンは、天命に助けられて、姫君のほうに向いて、答えました、「宇内の女王、世紀と当代の御主君様、おお、当世と世々の唯一無双の君よ、私の賤しき名前はと申しますれば、私ことは艱難に満てるハサンと申し、イラクの国は、バスラの町の生れでございます。されどわが妻はと申しますると、私はその名を存じませぬ。子供たちは、一人はナセル、今一人はマンスールと申しまする。」女王は老女を介して、お尋ねになりました、「何ゆえその方の妻は、その方の許を去ったるか。」彼は言いました、「アッラーにかけて、それは存じませぬが、しかしそれは本人の本意ならぬに相違ござりませぬ。」女王はお尋ねになって、「どこから立ち去ったのか。またいかなる手段によってか。」彼は答えて、「バグダードなる、信徒の長《おさ》、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御殿そのものから、立ち去りました。そしてそのためには、自分の羽衣を着て、空中に舞い上がるだけで事足りました。」女王は尋ねて、「出発に際して、何事も言わなかったのか。」彼は答えて、「私の母に次のように申しました、『もし御令息が、わたくしの不在の苦しみに耐えかねて、いつかまたわたくしに会いたいとお思いになったら、ワク・ワク諸島に尋ねて来て下さりさえすればよいのです。では、さようなら、おおハサンのお母様。確かに、このように立ち去ることは、わたくしとしてもたいそう悲しく、魂の中で心苦しゅうございます。それというのは、別離の日々は、わが夫の心を引き裂き、お母様の生活を黒くするでしょうから。けれども、残念ながら、わたくしはどうすることもできません。大気の酔い心地が、わたくしの魂に襲いかかるのを覚え、わたくしはどうしても空中を飛ばずにいられません。』私の妻はこのように語りました。そして飛び立ってしまいました。爾来、世は私の顔前に黒く、わが胸には懊悩が住まっておりまする。」ヌール・アル・フダ姫は、頭を振りながら、答えなさいました、「アッラーにかけて、もしその方の妻が、もはやその方に再び会いたくないものならば、自分の行く先を、母親に明かしなどしなかったことは疑いない。しかしまた一方、もしその方の妻が、まことにその方を愛していたものならば、そのように、その方を棄て去りはしなかったであろうが。」ハサンはそのとき、妻は心から自分を愛していた、それまでに愛と献身の証拠を数々示していた、ただ大気の呼び声と、鳥のごとく飛ぶという、持って生れた本能の呼び声に、逆らいきれなかったのだと、最大の誓いを重ねて、誓言いたしました。そして付け加えました、「おお女王様、私はわが悲しい身の上をばお話し申し上げました。そして今や御前にあって、何とぞ私の大胆なる振舞いをお許し下さった上、私の妻子を見つけ出すのにお力添えを賜わりますよう、君の寛仁をひたすら乞い奉りまする。御身の上なるアッラーにかけて、おおわが御主君様、私を斥けたもうことなかれ。」
ヌール・アル・フダ姫は、このハサンの言葉を聞くと、ひと時のあいだ考えに耽っていらっしゃいました。それから頭を上げて、ハサンにおっしゃいました、「いくら考えてみても、どんな種類の刑罰がその方にふさわしいのか、わからない。その方の大胆不敵を罰するのに十分な刑罰は、ひとつも思い当らないぞよ。」そのとき老女は、恐れおののいているにもかかわらず、主君の足許に身を投げて、御衣の裾を取ってわが頭を包み、申し上げました、「おお偉大なる女王様……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十夜になると[#「けれども第六百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……わが君をお育て申した私の乳母という名目にかけて、どうかこの男を罰するのを、お急ぎ遊ばしませぬように。これは、幾多の危難を凌ぎ、幾多の艱難を嘗《な》めてきた、憐れな異国者なことを、今や御承知になったからには、尚更でございます。この者が、渡り来し颶風によく耐えることができましたのも、畢竟《ひつきよう》、天運によって授けられたる、長き寿命のお蔭にほかなりませぬ。されば、おお女王様、この者をお許し相成って、彼を犠牲として歓待の権利を犯さぬほうが、さらに偉大でもあり、さらに君の高貴にふさわしきことでございます。それに、彼をこのような致命の企てに投じたのは、ただ恋ゆえであり、恋人たちには、多くを許してやらねばならないことも、お考え遊ばせ。最後に、おおわが女王にしてわれらの頭上の冠よ、私が敢えて、このかくも美貌の青年のことを言上しに参ったと申しますのは、人間の子の間で、何ぴともこの青年のように、巧みに詩句を作り、歌を即吟できるものはいないがためであることを、御承知下さいませ。私の申すところを験《ため》すには、例えばこの者に御面《みおもて》を露わにお示しになりさえすれば、この者がどのように君の御美しさをたたえ奉ることができるか、おわかりになりましょう。」この老女の言葉に、女王は微笑を洩らして、言いました、「そんなことをしたら、いよいよもって許しがたくなる画竜点睛というわけですね。」けれども実はヌル姫は、その峻厳な態度にもかかわらず、ハサンの美貌に臓腑《はらわた》を揺り動かされていたので、詩についても、また、常に詩に相続くことについても、彼の知識を験すことは、それこそ望むところであったのです。そこで、乳母の言葉に説き伏せられたようなふりをして、御自分の面衣《ヴエール》を掲げて、その面を露わに見せなすったのでございました。
これを見ると、ハサンは、御殿が揺らぐほどの大きな叫びをひと声あげて、気絶してしまいました。老女は必要な手当てを尽して、正気に戻してやり、次に彼に尋ねました、「どうしたのです、わが息子よ。そんなに取り乱すとは、いったい何を見たのです。」するとハサンは答えました、「ああ、私は何を見たのか、やあ、アッラー。女王様御自身が私の妻なのか、または少なくとも、蚕豆《そらまめ》の片割れがその姉妹《きようだい》に似ているように、私の妻に似ていらっしゃいます。」すると女王は、この言葉を聞くと、横に倒れるほど笑い出されまして、申しました、「この若者は正気ではない。わたしが自分の妻だとは。アッラーにかけて、いったいいつから、処女が男子の助けを借りずに身ごもり、空《くう》の空《くう》で子供ができるようになったのか。」次に女王はハサンのほうに向いて、からかいながら言いました、「おお愛《いと》しい人よ、ではせめて、わたしがどういう点であなたの奥様に似ていて、どういう点で似ていないのか、後学のためうかがわせて下さいな。ともかくも、あなたはわたしゆえに、たいへんあわてふためいている様子に見受けるから。」彼は答えました、「おお諸王の女王、貴賤の隠《かく》れ家《が》よ、私をして正気を失わしめたのは、君のお美わしさでございます。それと申しまするは、君は諸星《もろぼし》よりも輝かしき御目《おんめ》と申し、お顔色のみずみずしさと申し、御頬の淡紅色《ときいろ》と申し、美わしき胸乳《むなぢ》の直《すぐ》なる形と申し、御声の爽やかさと申し、御腰の軽やかさと雅びやかさと申し、その他、蔽《おお》われてあるところへの憚りから、敢えて口に致しませぬが、他の幾多の魅力から申しまして、私の妻さながらにあらせられまする。さりながら、君の御容色をつらつら拝見致しますると、私は、君とわが妻との間に、ひとり恋するわが目にのみ認められまするが、言葉をもってしては名状し得ない相違を、拝する次第でございます。」
ヌール・アル・フダ姫はこうしたハサンの言葉を聞きますと、この男の心は遂に御自分に靡《なび》かないことを察しました。それで激しい口惜しさを覚えて、いったい王女の妹君のなかの誰が、父王の御同意なくして、ハサンを夫にしたのか、必ず見つけだしてやろうと、心に誓いました。そして独りごとを言いました、「わたしはそのようにして、ハサンにもまたその妻にも、二人に対してわたしの正当な恨みを十分晴して、報復をしてやるとしよう。」けれども姫は、こうした考えをば魂の奥底にひそめて、老女のほうに向いて、言いなさいました、「おお乳母よ、いそいでわたしの六人の妹を、それぞれ住んでいる島に別々に訪ねて、もう二年以上もここにお見えになったことがないので、この上なく気にかかっていると、伝えておくれ。そしてわたしから、会いに来て下さるようにと誘って、一緒にここにお連れして来なさい。けれども特に気をつけて、今起ったことについてはひと言も洩らさず、わたしたちのところに、若い異国の男が妻を探しに来たなどということは、決して知らせないように。ぐずぐずしないで、すぐお行きなさい。」
老女は姫の本心を推し測ることなどできずに、すぐさま御殿を出て、ヌール・アル・フダの妹君の、六人の王女のいなさる島々に向って、電光のように早く、飛んで行きました。そして、最初の五人の王女には、難なく、一緒に行く決心をさせるのに成功しましたが、いちばん末の王女が魔神《ジン》の諸王の王たる父君と住んでいる、第七の島に着いたときには、ヌール・アル・フダの御希望を承諾させるのに、非常な難儀を覚えました。事実、いちばん末の王女が、老女の案内を受けて、槍の母と一緒に姉君をお訪ねする許可を、父王に仰ぎに伺いますと、王はこの頼みに激動の限り激動なすって、叫びなさいました、「ああ、最愛の娘よ、わが心の気に入りの娘よ、わが魂のうちに何ものかあって曰く、万一お前が今後この宮殿より遠ざかることあらば、わしは再びお前を見ることがあるまいと言うのじゃ。それに昨夜、わしは恐ろしい夢を見たから、それを話そう。こうなのじゃ、娘よ、おおわが目の瞳よ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十一夜になると[#「けれども第六百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……こうなのじゃ、娘よ、おおわが目の瞳よ、昨夜、夢がわが眠りにのしかかり、わが胸を圧した。事実、夢の中でわしは、万人の目には隠れて見えぬが、ひとりわが目には豪奢隠れもなき宝蔵のただ中を、歩き回っていた。わしは見るものすべてに感嘆していたが、しかしわが目はそのうち、爾余のすべてのただ中に、ひときわ見事な光彩を放って輝く、七個の宝石に至って、はじめてとどまった。けれども、なかんずく最も美しく、最も目をひくのは、そのうちの最も小さな宝石であった。そこでそれをばもっとよく眺め、人目に触れさせまいと思って、わしはそれを手にとり、しっかと胸に抱きしめ、それを携えて、宝蔵を出た。そしてそれを陽光の下で、眼前に見据えていると、そこに突然、全く類を異にした種類の、われらの島々ではついぞ見たことのないような一羽の鳥が、わしに襲いかかって、その宝石を奪い取って、飛び去ってしまった。わしはそれで茫然として、この上ない苦痛に陥った。そして胸苦しい一夜を過して、目覚めるとすぐ、わしは夢占いたちを呼んで、わが眠りのうちで見たところの説明を求めた。すると彼らは答えて、『おおわが王よ、その七つの宝石とは、わが君の七人の王女様でございまして、君の掌中より鳥の攫《さら》った、いちばん小さな宝石というのは、いちばん末の王女様のこと、この王女様は、力ずくで、わが君の御慈しみより奪われることになるというのでございます』と申した。そこでわしは、娘よ、この際、お前を姉たちと槍の母と共に出して、姉のヌール・アル・フダのところにやるのは、気がかりでならぬ。行きにせよ、帰りにせよ、道中いかなる不祥事が、お前の身に振りかかるか知れぬからな。」すると耀い姫(というのは、これこそまさに、ハサンの妻そのひとでしたから)は、答えました、「おおわが君、父君様、おお大王様、長女のヌール・アル・フダ様は、わたくしのために祝宴の用意をなさって、この上なくお待ちかねでいらっしゃることは、御承知のとおりでございます。それにもう二年以上も前から、わたくしはいつもお姫様にお目にかかりに伺おうと思いながら、果たさずにおります。今ではきっとお姉様は、わたくしの振舞いを、あきたらず思し召されるあらゆる節がおありでしょう。大丈夫でございます、おおわたくしのお父上様。それに、しばらく前、わたくしが仲間と一緒に遠方に旅を致しました際にも、お父様は、わたくしが永久にいなくなってしまったとお思いになって、わたくしの喪に服しなすったことを、お忘れ遊ばしますな。けれどもわたくしはちゃんと恙なく元気で、御許に戻って参ったではございませんか。今度とても同様、わたくしはせいぜいひと月留守をするだけで、そのあとで御許に戻ってまいります。もしアッラーの御心ならば。それに、もしわたくしが、この領土から遠ざかるとでもいうのでしたら、お父上様の御心配もごもっともでございますけれど、このわれわれの島で、わたくしはいったいどんな敵を恐れることができましょう。途中で千度《せんたび》も自分の魂を失わずに、いったい誰が、雲が峰、碧山、黒山、七つの谷、七つの海、それから白樟脳の地を越えて、はるばるワク・ワク島まで、やってくることができましょうか。ですから、御心《みこころ》の一切の不安を追い払って、おお父上様、御目を爽やかにし、御心を安んじて下さいませ。」
魔神《ジン》の王は王女のこの言葉を聞かれると、王女を行かせることを承知なさったけれども、いかにも不承不承で、姉君のそばには、四、五日しかいない約束をさせなすった上でのことでした。そして千人の女兵の護衛をつけて、情をこめて王女に接吻なさいました。耀い姫は、父君にお暇乞いして、また、帰国するとすぐに、二人の忠義な女奴隷にそっと預けてあるので、誰もいるとは少しも知らぬ二人のわが子を、安全に匿《かくま》ってある場所に行って、子供たちに接吻してから、老女と姉君たちについて、ヌール・アル・フダの治めている島に出かけたのでございました。
さて、ヌール・アル・フダは、妹君たちを迎えるために、目と嘴と爪が紅玉《ルビー》と翠玉《エメラルド》でできている、黄金の鳥を幾羽も飾り立てた、紅絹の衣を着用なさいまして、装身具と宝玉でずっしりと重く、謁見の間の王座の上にお坐りになりました。御前には、ハサンが立って控え、右手には、抜身の剣を持った若い娘たちが並び、左手には、他の娘たちが鋭い長槍を携えております。
ちょうどこのとき、槍の母が六人の王女と一緒に到着致しました。そして老女は拝謁を願いまして、女王の御命令に従って、まず「一族の尊貴」というお名前の、いちばん年長の妹君を、御案内しました。その姫は青絹の衣を着て、ヌール・アル・フダよりも一段とお美しくありました。妹君が玉座まで進み出て、姉君の手に接吻すると、姉君は敬意を表して立ち上がり、これに接吻して、御自分のそばに坐らせました。それからハサンのほうに向いて、申されました、「さあ、おおアーダムの子よ、この女《ひと》はその方の妻ですか。」するとハサンは答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主人様、このお方は絶世の美女、昇り際の月のように、美しくいらせられます。炭の髪、柔らかな頬、にこやかの口、突き立った乳、細らかな節々《ふしぶし》、華奢な手足を持っていらっしゃいます。これを詩でたたえますれば、私は次のように申しましょう。
[#ここから2字下げ]
この君は青衣《あおぎぬ》をまといて進みいで、大空の紺碧より離れ来し一片《ひとひら》と思わるるばかりなり。
その口唇には、蜜房を、双頬には、薔薇の園を、体躯には、素馨《そけい》の花冠を載せたもう。
その直《すぐ》なる細腰と堂々たる臀《いしき》を見れば、人はこれを流砂の丘に埋みたる一本《ひともと》の葦と見紛うべし。
[#ここで字下げ終わり]
このお方を、私はこのように拝見いたしまする、おおわが御主人様。さりながら、このお方と私の妻との間には、わが舌のよく述べえぬ相違がござりまする。」
するとヌール・アル・フダは、年取った乳母に、二番目の妹を案内するように、合図をなさいました。そして乙女は、杏子色の絹の衣を着て、はいってきました。これは前の妹君よりも更に美しく、「一家の幸《さち》」というお名前です。姉君はこれに接吻をしてから、上の妹のそばに坐らせて、そしてハサンに、この女《ひと》が妻ではないかと尋ねました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十二夜になると[#「けれども第六百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとハサンは答えて、「おおわが御主君様、このお方は、これを見る人々の分別を奪い、これに近づく人々の心を繋ぎとめなさいます。この方に霊感を与えられる詩は、次のようなものでございます。
[#ここから2字下げ]
冬の一夜の最中《さなか》に出づる夏の月とて、君の来ますより美わしからず、おお乙女よ。踝《くるぶし》まで垂るる君が髪の黒き編み毛と、君が額をめぐる暗き布片とは、われをして君に言わしむ、
『君は夜の翼をもて、暁を暗くしたもう。』されど君は答えて曰く、『否、否、月を隠す一片の雲のみ』と。
[#ここで字下げ終わり]
このお方を、私はこのように拝見いたしまする、おおわが御主君様。さりながら、このお方と私の妻との間には、わが舌の叙すあたわぬ相違がござりまする。」
するとヌール・アル・フダは槍の母に合図なさると、老女はいそいで、三番目の妹君を御案内申しました。そして乙女は、柘榴石色の絹の衣を着て、はいってきました。これは前の二人の妹君よりも更に美しく、「夜の微光」というお名前です。姉君はこれに接吻してから、先の妹のそばに坐らせて、そしてハサンに、この女《ひと》が妻ではないかと尋ねました。するとハサンは答えました、「おおわが女王様、わが頭上の冠よ、いかにも、このお方は、最も賢い人々の分別さえも、飛び立たせなさいます。そしてこのお方についての私の驚嘆は、私に次の即興詩を作らせるのでございます。
[#ここから2字下げ]
おお優雅満てる君よ、君は羚羊のごとく軽やかに、身を揺すり、君が瞼《まぶた》は、まばたくごとに、致命の矢を放つ。
おお美の太陽よ、君|御姿《みすがた》を現わせば天地に栄光満ち、君御姿を消せば世界の面《おもて》に暗黒を拡ぐ。
[#ここで字下げ終わり]
このお方を、私はこのように拝見いたしまする、おお当代の女王様。さはさりながら、私の魂は、顔立ちと挙措の酷似にもかかわらず、このお方に、わが妻を認むるを否《いな》むのでござりまする。」すると年取った女武者は、ヌール・アル・フダの合図に従って、四番目の妹君を御案内申しました。これは「御空《みそら》の清浄」というお名前です。そして乙女は、縦横に模様のついた、黄絹の衣を着ていました。妹君が姉君に接吻すると、姉君はこれをほかの妹たちのそばに坐らせました。するとハサンはその姿を見て、次の詩を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
この君は楽しき夜の満月のごとく現われ出で、奇《くす》しき眼差《まなざし》はわれらの道を照す。
われらこの君に近づきて、その眼《まなこ》の火の下に身を温めんとすれば、われは直ちにこれを守る二人の哨兵に追いやらる。花崗岩のごとく硬く張る、その二つの胸乳《むなぢ》なり。
[#ここで字下げ終わり]
「けれども私は、まだこのお方の全貌を描き尽してはおりませぬ。それには、息長き長詩を要するでございましょう。さりながら、おおわが御主人様、このお方は、幾多の点で著しく似ていらっしゃるにもかかわらず、私の妻ではない旨を、申し上げなければなりませぬ。」するとヌール・アル・フダは五番目の妹君をはいらせました。これは「白い曙」というお名前で、腰を揺すりながら進み出て来ましたところは、|かりろく《バーン》の小枝のようにしなやかで、若い小鹿のように身軽でございました。そして姉君に接吻してから、ほかの姉君のそばの、指定された場所に坐って、金のさまざまの飾りのついた、緑の絹の衣の襞をととのえました。ハサンはその姿を見て、次の詩を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
柘榴の紅き花の、緑の葉に蔽わるるは、おお乙女よ、君のこの好ましき肌着を着けたもうに如かず。
「君が晴々しき御頬に、かくも似つかわしきその衣裳は、そも何ぞ」とわが尋ぬれば、「名とてあらず、こはわが肌着なれば」と君は答う。
されば、われは叫ぶなり、「おお、かの君の妙なる肌着、かくも数多の深手《ふかで》の因《もと》よ、われは汝をば、断腸の肌着とや呼ばん。」
されど、おお乙女よ、御身そのひとは更に妙ならずや。人の目を奪わんとて、君美わしく立ち上がれば、君が腰は君に言う、「立つなかれ、立つなかれ。わが下に続くもの、わが力にはあまりに重し。」
そのとき、ひたすら君を欲りして、われ進み寄れば、君が美はわれに言う、「いざ、寄れよ、いざ。」されどわれ身構うれば、君が羞恥はわれに言う、「否、否」と。
[#ここで字下げ終わり]
ハサンがその詩を誦すると、並いる一同は、その詩才に驚嘆いたしました。女王御自身も、御心平らかならぬにもかかわらず、これに感嘆の念を示さずにはいられませんでした。そこで、ハサンの保護者の年取った女武者は、事態好転に乗じて、ハサンのために、恨み深い姫君の寵を取り戻そうと試みて、姫君に申しました、「おお御主君様、私はさきにこの若者が詩を作る妙手であると申し上げましたが、それに偽りがございましたでしょうか。この若者は、即興を詠《よ》み出でるのにまことに巧みでもあり、慎しみ深くもありはしないでしょうか。されば何とぞ、この若者の企ての大胆をことごとくお忘れあって、今後はこれを詩人としてお召し抱えになり、祝祭や盛儀の際に、その詩才をお用い遊ばすよう、お願い申し上げまする。」けれども女王は答えました、「それもよいが、しかしまずその前に、試みを済ましたいと思う。早くいちばん末の妹を呼び入れよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十三夜になると[#「けれども第六百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで老女は退出して、一瞬後には、いちばん末の乙女の手を曳いて、戻ってきました。それこそ、人呼んで「世界の飾り」と言っておりましたが、実は耀い姫にほかならぬのでございます。
かくて、御身ははいって来た、おお耀い姫よ、御身は飾りの品々と真実を包む面衣《ヴエール》の類を軽んじて、ただ己れに備わる美をのみ、身に着けておった。しかし、何たる災厄に満ちた天命が、御身の一歩一歩につき従っていたことか。御身はそれを知らざりき、御身について運命の書に記《しる》されてあった一切を、未だ知らなかったゆえ。
広間の中央に立っていたハサンは、耀い姫が来るのを見ると、ひと声大きく叫んだまま、気を失って、床に倒れてしまいました。また耀い姫も、その叫び声を聞いて、振り返り、ハサンを認めました。そして遥か遠方にいるものとばかり思っていた夫を見て、はっとして、別なひと声の叫びで答えながら、へたへたと崩折れて、失神してしまいました。
これを見ますと、ヌール・アル・フダ女王は、ハサンの妻になったのはこの妹だということを、一瞬も疑わず、もはやこれ以上、御自分の嫉みと腹立ちを隠すことができなくなりました。そこで部下の女武者たちに叫びました、「このアーダムの子を拾って、町の外に投げ棄てよ。」そこで衛兵は御命令を実行して、ハサンを運び出し、町の外の、海辺に投げ棄てに行きました。次に女王は、人々が正気に返らせた妹のほうへ向き直って、これに叫びました、「おおふしだら者よ、いったいどうやって、お前はあのアーダムの子を知ったのです。そして憚りもなく、何という罪深い所行をしたのでしょう。お父上と家族の同意なく結婚したばかりか、あまつさえ、自分の夫を棄て、家を去ったのですね。お前はこうして、わが一族と一族の高貴を汚しました。ところで、こうした不名誉は、お前の血のなかでしか雪《すす》がれませぬ。」そして女王は侍女たちに叫びました、「梯子を持ってきなさい。そしてこの罪の女を、その長い髪の毛で梯子に縛りつけ、鞭でもって、血の出るまで打ち据えておやり。」それから女王は、妹たちと一緒に謁見の間を出て、御自分の部屋に行って、父王に手紙を書き、ハサンと妹との事件をば、御自分の知る限り詳しく父王に報じ、魔神《ジン》族全体に及ぶ恥辱と同時に、この罪の女に、御自分として加えるべきと思って加えた所罰を、お知らせしました。そして父王に、できるだけ早く御返事を賜わって、この罪の娘に加えるべき決定的な刑罰についての、御意見をお聞かせ下さるように願って、手紙を結びました。それから、足の早い使いの女にその手紙を託しますと、使者はいそいで、それを王にお届け申しました。
王はヌール・アル・フダの手紙を読みなさると、世界が眼前に黒くなるのを見られて、いちばん末の王女の行状を、憤りの限りに憤りなされ、御長女に返事を出して、どんな刑罰もこの大罪に比べれば軽いであろう、罪人は死刑に処すべきところであるが、しかしながら、この命令の実行については、その方の思慮と公明に一任すると、お答えになりました。
さて、耀い姫がこのように姉君の手中に委ねられ、梯子に髪を縛りつけられて呻吟し、刑を待っている一方、海辺に放り出されたハサンは、そのうち気絶から覚めましたが、それもただわが身の不幸の重大さを思うばかりで、自分にはそれがどのくらいの程度のことなのか、皆目見当がつきません。このうえ何を希望することができるのか。どんな権力も助けることができない今となって、いったい何を試みることができようか。またどうやってこの呪われた島から脱出を試みようか。そこで彼は絶望に捉えられて、立ち上がり、なおかつ何か自分の禍いの救済策を見出せないものかと望みつつ、海に沿ってさまよいはじめました。次の詩人の句が記憶に浮んだのは、そのときのことです。
[#ここから2字下げ]
汝未だ母の胎内にて萌芽に過ぎざりしとき、われは汝の天命を「わが正義」に従って形づくり、これを「わが幻視」に従って導けり。
されば、おお被造物《つくられしもの》よ、もろもろの出来事をしてその赴くままに行かしめよ。汝はこれを阻むあたわず。
しかして、もし逆運の汝の頭上に下ることあらば、これを逸《そ》らす配慮は汝の天運に委ねよ。
[#ここで字下げ終わり]
この知恵の戒めは、いくらかハサンの勇気を取り戻させて、彼は自分の気絶している間に、どういうことが起ったのか、またなぜこうして砂浜に打ち棄てられているのかを、推察しようと試みながら、海浜をあてどもなく、さまよいつづけました。そしてそんな風に考えに耽っているうちに、たまたま十歳ばかりの小さな女兵が二人、砂上で掴み合いをしているのに出会いました。そしてその近くには、何か模様と文字が描いてある皮の帽子がひとつ、地上に投げ出されてあります。そこで彼はその少女たちに近寄って、二人を引き分けようとして、その喧嘩の理由を訊《ただ》しました。二人は、その帽子の取りっこをしているのだと言いました。そこでハサンは二人に、では自分を審判官に選んで、この帽子の持主をきめるのを、自分に一任するつもりはないかと尋ねました。すると少女たちは承知しましたので、ハサンはその帽子を拾い上げて、二人に言いました、「いいかい、では私が石を空に投げるから、お前たち二人のうちで、その石を私のところに持ってきたほうが、この帽子を取ることにしよう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十四夜になると[#「けれども第六百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると小さな二人の女兵は言いました、「それは妙案だわ。」そこでハサンは浜辺の石ころを拾って、力いっぱい遠くに投げました。そして小娘たちがその小石を取りに駆け出した間に、ハサンはためしに、ちょっとその帽子を頭にのせて、そのままかぶっていました。ところが、しばらくたつと、少女たちは帰ってきて、小石を取ったほうの少女が、叫びました。「どこにいるの、小父さん。あたしが勝ったのよ。」そしてその少女は、ハサンのいる場所まで来て、四方を見回しはじめましたが、ハサンの姿が見えません。妹もやはりあたりを隈なく見回しますが、ハサンが見えません。そこでハサンは訝《いぶか》りました、「はて、この子供たちは盲目《めくら》じゃあるまいし、それでおれが見えないとは、いったいどうしたことだろう。」そこで呼ばわってみました、「ここにいるよ。ここまでおいで。」少女たちはその声の聞えてくる方向を見ましたが、やはりハサンの姿は見えません。そこで二人はこわくなって、泣き出しました。ハサンは二人に近づいて、二人の肩にさわって、言いました、「ここだよ。なぜ泣くの、子供たちよ。」それで小娘たちは頭を上げたけれど、ハサンの姿は見えません。そうなると、二人はもうすっかり震え上がって、まるで何か悪い種類の魔神《ジンニー》に追いかけられたかのように、大声をあげながら、力いっぱい駆け出しました。
そこで、ハサンは独りごとを言いました。「もう疑いはない。これは魔法の帽子だぞ。その魔法は、これを頭にかぶっている者の姿を、見えなくするというわけだ。」そして彼は悦びに小躍りしはじめて、独りごちました、「これはアッラーの授けものだ。この帽子をかぶりさえすれば、おれは誰にも見咎められずに、妻に会いに駆けつけられるのだからな。」そこで彼はすぐさま町に戻り、そしてこの帽子の霊験をもっとよく験《ため》してみようと思って、まずあの年取った女武者の前で、効験《ききめ》を試みることにしました。そして老女を方々探して、最後に宮殿の一室に、王女の命令で、壁にはめこんだ環に、繋がれているのを見つけました。そこで、実際に自分の姿が見えないかどうか確かめるため、磁器の器《うつわ》の並んでいる棚に近づいて、いちばん大きな器を床に落すと、それは老女の足許で砕けました。すると老女は、ヌール・アル・フダの命令を奉ずる悪い鬼神《アフアリート》の一人が、自分をいじめに来たのだと思って、悲鳴をあげました。そして祓《はら》いの文句を唱えはじめて、言いました、「おお鬼神《イフリート》よ、スライマーンの玉璽に刻まれた御名《みな》によって、命じます。汝の名を名乗れ。」そこでハサンは答えました、「私は決して鬼神《イフリート》ではございません、あなたの保護を賜わるハサン・アル・バスリです。あなたを救いに参りました。」こう言いながら、彼は魔法の帽子を脱いで、姿を見せ、自分を認めさせました。すると老女は叫びました、「ああ、たいへんですよ、不幸なハサンよ。ではあなたは知らないのですか、女王様は、お目の前であなたに死を授けなかったことを、早くも悔いなすって、生死にかかわらず、あなたを御前に連れてきた者には、黄金一キンタール(33)の賞金をかけて、奴隷を八方に出して、あなたを探させているのですよ。だから一刻もぐずぐずせずに、逃れてあなたの首を救いなさい。」次に老女は、魔神《ジン》の王の御同意を得て、女王が妹君の一命を奪うために用意している恐ろしい刑罰を、ハサンに知らせました。けれどもハサンは答えました、「アッラーは、あの惨酷な女王の手中から、姫を救い、われわれすべてをも、救って下さるでしょう。まあこの帽子を御覧なさい。これは魔法の帽子です。このお蔭で、私はどこでも人の目に見えずに歩いて行けます。」老女は叫びました、「おお、ハサンよ、死人の骸骨を甦らせ、われわれの救いのために、その帽子をあなたに送りたもうたアッラーに、称《たた》えあれ。いそいで私を放して下さい、あなたの奥様の閉じこめられている牢屋を、教えてあげますから。」そこでハサンは老女の縛《いまし》めを切って、その手を執り、魔法の帽子をかぶりました。するとすぐに、二人とも姿が消えました。老女は彼を、妻の耀い姫が梯子に髪を縛りつけられ、苦しみのうちに、刻々死を待ちながら横たわっている牢屋に、案内しました。聞くと彼女は小声で、次の詩を誦しています。
[#ここから2字下げ]
夜は暗く、わが独り居は悲し。おおわが目よ、わが涙の源を放てよ。わが愛人は遠く離れてあり。希望はいずこよりか来たり得ん、わが心と希望とは、かの人と共に立ち去りしものを。
流れよ、おおわが涙、わが目より流れ出でよ。されど、あわれ、汝らは遂に、わが臓腑を食らう火を消し得るや……。おお逃れ去りし恋人よ。君が姿はわが心中に秘められてあり。墳墓の蛆虫そのものも、これを消し去ることあたわじ。
[#ここで字下げ終わり]
ハサンは、いきなり姿を現わして、妻にあまり大きな感動を与えてはいけないとは思っていたものの、最愛の耀い姫の声を聞き、姿を見ては、もはやこれ以上長く、自分を悩ます苦痛に耐えかねて、やにわに帽子を脱いで走り寄り、彼女を両腕で抱えました。すると彼女は彼を認めて、その胸にすがって気を失ってしまいました。ハサンは老女に助けられてその縛めを切り、静かに彼女を正気づけ、自分の膝に抱き上げて、手で風を送りました。すると彼女は目を開けて、頬に涙を垂れながら、彼に尋ねました、「あなたは空から下りていらっしゃったの、それとも地の奥から出ていらっしゃったの。おおわが夫よ、悲しいかな、私たちは天運に逆らって何ができましょうか。記《しる》されてあることは、行なわれなければなりません。ですから、あなたは人に見つからないうちに、いそいで、わたくしの天命にはその道を辿らせ、あなたはお出でになったところを通って引っ返し、あなたもまた姉上の惨酷の犠牲になるところを、わたくしに見せる苦しみには、遭わせないで下さいまし。」けれどもハサンは答えました、「おお、愛《いと》しい人よ、おお、わが目の光よ、私はあなたを救い出して、この惨酷な国を遠く離れ、一緒にバグダードに連れて行こうと思って、ここに来たのです。」けれども妻は叫びました、「ああ、ハサン、あなたは何という軽はずみを、またもなさろうというのです。後生ですから、ここを引き上げて、この上わたくしの苦しみに、あなたの苦しみを付け加えないで下さいまし。」けれどもハサンは答えました、「おお、耀いよ、わが魂よ、私はあなたと、私たちの保護者であるここにいる親切な小母さんと、一緒でなければ、決してこの宮殿から出ないつもりだ。そしていったいどういう手段を用いる気かと聞くなら、この帽子をお目にかけよう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十五夜になると[#「けれども第六百十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてハサンは魔法の帽子を見せて、彼女の前でそれをためして、頭にかぶると途端に姿を消すところを見せ、それから、どういう次第で、アッラーがこれを自分の道の上に投げたまい、一同の救いの原因《もと》とならせて下さったかを、話して聞かせました。すると耀い姫は、悦びと悔悟の涙を頬に滴らせて、ハサンに言いました、「ああ、私たちの悩んだ禍いすべては、あなたのお許しなく、バグダードのわが家を去ったこのわたくしの、過ちから起りました。おお最愛の御主人様、どうぞ、わたくしの当然受けるべき非難を、御容赦下さい、今となって、女というものは、夫の値を思い知らなければならないことが、よくわかりましたから。そしてわたくしの過ちをお許し下さい。わたくしはアッラーとあなた様の御前で、御赦《みゆる》しをひたすら乞いまする。そしてわたくしを少しばかり、大目に見て下さいまし。何しろわたくしの魂は、羽衣を再び見たときには、動揺に満ちて、それに逆らいきれなかったのでございますから。」するとハサンは答えました、「アッラーにかけて、おお耀い姫よ、悪いのはただこの私だけだ、あなたをバグダードにたったひとり置いて行ったのだから。いつでも、あなたを一緒に連れて行かなければいけなかった。だが今後は、いつもそうすることにしよう、安心するがよい。」こう言って、彼は妻を背負い、また老女の手を執って、頭に帽子をかぶりました。すると三人とも、姿が消えてしまいました。そこで三人は宮殿を出て、第七の島へと道をいそぎました。そこには、二人の子供ナセルとマンスールが、匿われているのです。
さてハサンは、恙ない二人のわが子にめぐり会って、感激の極に達しましたけれども、愛情を吐露していて時間を潰してはと思って、二人の子供を老女に預けると、老女は一人ずつ肩にまたがらせました。それから、耀い姫は、誰にも見咎められずに、真新しい羽衣三枚を首尾よく持ち出しまして、一同それを着けました。次に三人手に手を執って、心残りなくワク・ワク島を後にして、バグダード指して飛び立ちました。
さて、アッラーは彼らに安泰を記《しる》したまい、短い行程の旅を重ねて、一同はある朝、「平安の都」に到着しました。そこで彼らは、わが家の露台に着陸して、階段を下り、ハサンの憐れな母親のいる広間に、はいって行きました。母親はもうずっと前から、悲しみと不安とで衰弱して、殆ど盲目《めくら》になっていたのでした。ハサンはちょっと戸口で耳を傾けてみると、室内では憐れな老母が呻き、絶望しているのが聞えました。そこで戸を叩くと、老母の声が尋ねました、「戸口にいるのはどなただね。」ハサンは答えました、「おお、お母さん、天運が自分の苛酷を償おうと思って来たのですよ。」
この言葉に、ハサンの母親は、まだ現《うつつ》か幻かわからずに、とにかく弱った足を曳きずって、戸を開けに駆けつけました。するとわが子ハサンが、妻子と一緒に、またその後ろに慎しく控える、年取った女武者を連れているのを見ました。感動は老母には強すぎたので、彼女はそのまま、みんなの腕のなかで気を失ってしまいました。ハサンは、わが涙で母を濡らして正気づかせ、優しくわが胸に抱き締めました。そして耀い姫も、母親のほうに進み寄って、自分の生れながらの本能に打ち負かされたことを詫びながら、いろいろと愛撫の限りを尽しました。次に両人は、槍の母を進み出させて、自分たちの保護者であり、救いの原因となった人だと言って、これを母親に引き合せました。それからハサンは、わが身に起った不思議な出来事全部を、母親に話しましたが、これは繰り返すまでもございません。そしてみんなで共々に、一同の再会を許したもうた至高者を、頌《ほ》め称《たた》え奉りました。
そのときから、彼らは皆一緒に、この上なく楽しく、この上なく幸福に満ちた生活のうちに、暮しました。そして毎年、一同打ち揃って隊を組んで、あの魔法の太鼓のお蔭で、雲が峰にある、緑の円蓋《ドーム》の御殿に、ハサンの姉の七人の姫君を、訪れに行くことを欠かしませんでした。
かくして、極めて数多くの歳月を重ねた後で、歓喜と悦楽の心頑なの破壊者が来たって、彼らを訪れたのでございます。さあれ、可見と不可見との帝国をしろしめす御方、死を知らぬ生者、永遠なる者に、称《たた》えと栄光あれかし。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードがこの稀代の物語をこのように語り終えると、小さなドニアザードはその首に飛びついて、口に接吻をして、姉に言った、「おお、お姉様、何とこのお話は不思議で、味わいに満ち、何と快く楽しいのでしょう。ああ、わたくしは本当に薔薇の蕾様が好きで、ハサンが耀い姫と一緒に、姫を奥様にしなかったのは、残念でなりません。」するとシャハリヤール王は言った、「シャハラザードよ、この物語は驚くべきものじゃ。お蔭で余は、明日早々実施したいと思っている多くの事どもを、危く忘れそうになった。」するとシャハラザードは言った、「さようでございます。おお王様、けれどもこれとて、歴史的|放屁《おなら》[#「歴史的|放屁《おなら》」はゴシック体]について、更にお話し申し上げたく存じまする物語に比べれば、何物でもございません。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「何と申すか、シャハラザードよ、その歴史的放屁とは、いったい何か。余はそれを知らぬが。」シャハラザードは言った、「それは明日、王様に御披露申し上げようとしているものでございます、もしわたくしがなお生き延びておりますれば。」するとシャハリヤール王は心中で言った、「そうじゃ、この女が余に、今言っているところについて知らせ終らぬうちは、これを殺すまい。」そしてシャハラザードは、このとき、朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六百十六夜になると[#「けれども第六百十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ]彼女は言った、「この逸話は、おお幸多き王様、陽気で不作法な連中の集い[#「陽気で不作法な連中の集い」はゴシック体]によって、われわれに伝えられているものでございます。そしてわたくしはこれをお話し申し上げますのを、これ以上遷延いたしたくはございません。」そしてシャハラザードは言った。
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訳註
漁師ジゥデルの物語または魔法の袋
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(1) Nusf 即ち半ドラクムの銅貨である(バートン)。
(2)「日々の糧の扉を開きたもう者」の意(バートン)。
(3) Karoun. カイロの南部地方にある溜池または小湖だが、ずっと前に埋められてしまった(バートン)。
(4) Moghrabin. 単数は Maghribi 複数はMagh詠ibah で、「西の人」の意で、ムーア人を言う。マグリブは「西」を意味し、アラビアの地理学者がアフリカ北部地方、トリポリタニア、チュニス、アルジェリア、モロッコの辺を指した。バートンによると、多くはマーリク派回教徒で魔法使と宝探しで有名という。
(5)「メッカ巡礼をした人」というのは回教徒間の敬称(ペイン)。
(6)「もしアッラーの御心ならば」。疑念を現わす場合。
(7) マーリク・イブン・アナス(七一五―七九五年)の創始したスンニー派の四学説の一つで、北西アフリカ、上エジプト、スーダン等に行なわれた。
(8) Al-Schamardal.「丈高き者」の意(バートン)。
(9) ペインはこれに「魔神《ジン》の王たちの首長の一人」と註する。
(10) ペインはこれを二つの町としているが、バートンはこれは一つの町を指すと註している。
(11)「アッラーに誓って」、「そのとおりだとも」。
(12) Rahma.「慈悲」の意。
(13) イエス・キリストとモーゼ。
(14) Youh! Youh!「ああ」「悲しいかな」この嘆息の言葉は、決して男は用いない(バートン)。
(15) Shams Al-Daoula.「国家の太陽」の意。バートンは「全く空想の王」と註する。
(16) Jedda (Jiddah). メッカの港(ペイン)。
(17) 聖地巡礼者は聖殿の周囲を七回めぐるタワーフという行事がある。本電子文庫版二巻「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語」註(36)参照。
(18) Kawas (kaww・. 今まではマルドリュスはlユarcher としていた。バートン註によると現在は警官のことであるが、昔は、警部、執行吏で、長官の命令を行なった役人という。
(19) 紅衣は怒りと復讐のしるしであり、白衣は平和、慈悲、悦びを現わす。
(20) Cheik al-Islam. イスラムの宗教上の最高位者。オスマン・トルコ帝国のメフメット二世大帝の、コンスタンティノープル奪取(一四五三年)から設けられた「法の博士」の位。
(21) Yamaniaは「豊沃の地」で多分架空の名、Boundoukaniya は「弩の地」で、弩製造者が住んでいる地、Jouderiya は「ジゥデルの地」の意。
(22) かりにこう訳したが、王の右腕、左腕となる大臣の意で、現在の首相、副首相に相当する由。
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アブー・キールとアブー・シールの物語
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(1) アレキサンドリアのこと。
(2) Damiette (Damy逆). ナイル河のダミエット支流とメンザレ湖の中間にあり、地中海に近い町。ここで laitance(しらこ)というのは、アラビア語のBatrikh で、ナイル河の鹹水魚を塩づけにしたものの卵で、わが国のからすみみたいなものらしく、美味とされている由。
(3) 棗の実の色は淡紅色(ペイン)。
(4) 両方の肺のこと。本電子文庫版四巻「博学のタワッドドの物語」参照。
(5) アッラーを持ち出したことは、アブー・シールが相手を信じていないことを示す(バートン)。
(6)「アッラーに誓って」。
『匂える園』の道話
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(1) Laylat al-Kadr.「力の夜」または「定めの夜」。ラマザーン月最後の五日のうちの一夜に当り、「定め」即ち神の意志決定の夜であり、次の一年中の諸事の決定される夜(コーラン第九七章)、天国の門が開かれ、祈りが確実に叶うといい、多くの迷信を生じた。
(2) いわゆる大浄 (ghusul) のこと。
陸のアブドゥラーと海のアブドゥラーの物語
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(1)「アッラーは寛仁なり」。特に恵み乏しいときに用いられる。
(2) 不運な、困った。
(3) Adamite.「アダムの子孫」、前のイブン・アーダムと同じで、魔神類《ジン》の反対語。
(4)「ダヴィデの子ソロモン」。
(5)「アーメン」と同じ。南無三とか桑原というぐらいの間投詞。
(6) 宝石商組合の組合長、総代の意味。
(7) Prosp屍it・ 原名はUmm al-Suユ彭で「繁栄の母」。
(8) 前出、共に伝説上の北アラビア先住民族。巨大で、偶像を崇拝し、罪悪に耽ったという。
(9) Abdallah は「アッラーの奴隷」「アッラーの下僕」の意味である。
(10) Dandane. ペインも、バートンも、この海の怪物は不明で、鱶とか抹香鯨とかまんぼうとかの類を想像されると註している。
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黄色い若者の物語
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(1) Al-Fazl. ジャアファルの兄。
(2) この鳥については、『薔薇の微笑のファリザード』(本電子文庫版七巻所収)参照。
(3)「アッラーの御名によりて」。
(4)「アッラーは寛仁なり」。
(5) ヨーロッパ人をいう。
(6)「アッラーに誓って」。
(7)「もしアッラーの御心ならば」。ここは「たぶん」というような意味であろう。
(8)「あなたの好きなだけ」の意(バートン)。
(9) Un morceaux dユ残aille とあり,魚などの鱗か、貝殻か鼈甲みたいなものか詳かでないが、ペイン、バートンでは「紅玉髄」とあるに拠った。本電子文庫版四巻「ブドゥール姫の物語」註(22)参照。
(10) Possesseur. 王女に取り憑いた悪霊、悪魔のこと。Al-ユ輦iz というとバートンにある。
(11) 東洋では貧困は死に譬えられる(ペイン)。
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「柘榴の花」と「月の微笑」の物語
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(1) les pays ajamites.「唖の国々」の意。アラビア語を話せず、黙っている人々の国の意で、ペルシアその他外国を言う。次のKhorass穎 は、ペルシアの別名。
(2)「ありがたや」の意。
(3) Gul-i-anar. ペインは Julnar of the Sea, バートンはJulnr the Sea-born としてこれはペルシア語Gulur(Gul-i-ana-r 柘榴の花)から出たアラビア語と註する。エリセエフには Jollunar とある。なおバートンはレーンのこの「白い都」を架空とする説に賛成している。
(4) Sauterelle. バートンにはFarshah(ペインではFerasheh)とあり、これはFarsh(蝶、蛾)の女性または単数形で、いなご、ばったの意味はごく特殊と註す。
(5)「以上」の意。
(6) ダヴィデの子ソロモン。
(7) Sourire-de-Lune. ペインには Bedr Basim, バートンにはBadr Bsim とあり、共に「微笑する満月」と註す。
(8) Salamandre. バートンでは Al-Samandal(ペインはEs Semendel)として、ペルシア語 Samandal から出た。アラビア語、ヘブライ語の Sal-mandra となる。サラマンドルは火中に住む二十日鼠であり、ある人はインドとシナの鳥ともいい、カメレオンと混同する者もいると註す。
(9) Gemme. ペインでは Jauhereh、バートンでは Jauherah とある。
(10)「アッラーのほかに神なし、しかしてムハンマドはアッラーの使徒なり」という、イスラムの標語がある。
(11)「白い日」と同じ、祝福された日、幸いの日。
(12) さながら話者が自分と姫よりも目上のものであるかのように、家来たちの前で姫の名を名ざしたことを怒り、それがこの演説の非礼な部分であるとバートンは註する。ペインも、アラビア人に、またはアラビア人の前で、彼の家族の女を名ざすことは非礼とされ、婉曲法を用いると註す。
(13) Ya-l・ Ya Allah(ヤア・アッラー)の短縮形。喚声を示す間投詞。
(14) Myrte. ペインでは Mersineh、バートンMars地ah とある。
(15) carat. アラビア語Kirt で、ある種の豆のことであり、重量の単位であるが、すべての尺度に用いられ、すべてのものの二十四分の一を一キラートという。
(16) Almanakh. ペインは「Lab 女王といい、アラビア語で『太陽』を意味する」とし、バートンは本文で、ラーブは「アラビア語で『太陽暦』Almanac of the Sun を意味する」と訳し、註にこれは原典の誤ちで、古ペルシア語で「太陽」の意と記す。
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モースルのイスハークの冬の一夜
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(1)「冬の一夜」は、「振られた一夜」「不首尾の一夜」の意味。
(2) Ibrahim al-Mausili (742−804). イスハークの父で、アル・ラシードに寵遇された歌手、作曲家、指揮者であった。
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エジプトの百姓《フエラーハ》とその色白の子供たち
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(1) Cheikh-al-balad. 市長村長。
(2) Fellah. 百姓、農民を意味するこの有名なエジプト語は、ナイル河からアトラス山脈の彼方まで広く通用している(バートン)。
(3) Saladin le Victorieux (Sala-huユd-Din 1138−93). アラビアのアイユーブ朝の始祖。一一八七年六月二十三日、十字軍の主力とティベリヤ付近のハッティーンで決戦し、エルサレムを陥落させた。これに奮起した第三回十字軍が、次出のアッカーを包囲したので、これと戦い、イギリスのリチャード一世、フランスのフィリップ二世らと戦い、敵味方の賞讃を得、イスラムの名君としてヨーロッパ文学にも登場する。
(4) Acre (ヤAkka-) は一一八七年七月二十九日、サラッディーンにより十字軍の手から奪われた。しかしこの物語では後出のように、ハッティーン戦争の三年前、つまり一一八四年にこの話者はアッカーにいたことになっている(ペイン)。
(5) シリア海岸のことであり、元来は昔のフェニキア、南パレスティナの海岸地方を指す(バートン)。
(6) Ibn-Sheddad. 当時の有名な法官で、サラッディーン軍の Ka-zi-al-Askar(法務総監)であった(バートン)。
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貧乏カリーフの物語
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(1) Abou-Saada. バートンではAbu al-Saユdt とありAbussaユadt と発音し、「繁栄の父」の意と註する。
(2) Abou-Bekr le Sinc俊e. アブー・バクルは「処女の父」の意で、ムハンマドの妻アイーシャの父。預言者の死後正統派カリフの初代。廉潔で信念固い指導者として聞こえる。ペインは Abou Bekr the Truth-teller とし、「かく呼ばれた初代カリフ」と註する。
(3) 漁師のつもりではひと言、ふた言の意味であったが、回教徒の信仰証言「アッラーのほかに神なし」と「ムハンマドはアッラーの使徒なり」は普通に「ふた言」と通称されるので、以下のような誤解が生じた(ペイン)。
(4) ペインとバートンでは「巡礼は駱駝と交わらなければ完成しない」とあり、巡礼によってあらゆる罪が清められるので、無知な回教徒は、巡礼の完了を直ちに罪を再開始する口実とするという意味の註がある。この泥棒たちも悪事をしなければ、巡礼が済んだ気にはなれぬというような意味か。
(5)「心の力」(Kouat Al-Kouloub, Qout al-Qoloub) であり,『恋の奴隷ガーネムの物語』(本文庫版二巻所収)にも出る。
(6) ゾバイダ妃はアッバース第二代アル・マンスールの子ジャアファルの娘であったが、なぜか知れぬ理由で、アル・カスィムの娘と呼ばれている(ペイン)。
(7)「従って、次に言おうとしている祈りは直ちに叶えられるであろう」の意(バートン)。
(8) 四分の一ディナール以上の盗みをすると、回教法では片手を切られる。
(9) O ma petite tulipe. Shukayn はShukr(赤いアネモネ、またはチューリップ)の縮小形(バートン)。ペインは「おお薔薇色の頬よ」として、黒人の黒色を仄めかす皮肉な綽名と註す。
(10) Hamzah. 預言者の叔父。
(11) Akil. 預言者の最初の従兄弟。アッバース朝の祖とされるアル・アッバースの兄弟アブー・ターリブの子。
(12) Jasmin (Ysami-n) と Narcisse (Narjis)。この花の名は、奴隷女または宦官によくある名前。
(13) Henn・(Tamar-hanna) は、最も貧しい階級の人々の用いる最も安価な染料である。
(14)「アッラーの御名に於いて」。
(15) アラビア語では El Anous、アラビア人が酒に与えた無数の比喩的名称の一つ(ペイン)。
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ハサン・アル・バスリの冒険
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(1) lユOxus. ホラーサーン北辺を流れる、中央アジア最大の河アムー・ダリア Amou-Daria の古名。
(2) Hass穎.「美しき」の意(マルドリュス)。なお八冊本には、この一句を欠く。
(3) 白いターバンは、アラビア語のShsh Abyaz で、真の回教信者をとりわけ示すしるしであるが、ペルシア人が拝火教徒であることを隠すために用いた(ペイン)。
(4) Oke(またはocque, oque). 場所によっていろいろ違うが、バートンによると、ここでは一ポンドないし二ポンドに当るらしい。
(5) この小太鼓は Tabl といって、幅約半フット、左手に持って棒または革紐で叩くという(バートン)。
(6) Khosro峻. ペルシアのサーサーン朝の王の、アラビアの通称。Ka不sar. ビザンチン帝国の皇帝の通称。
(7) Araka. 野生のケーパー木で作った十五センチぐらいの歯をみがく楊子というが、何か木の名かもしれず。明らかでない。字義は「私は汝を見る」の由。
(8) 大きくて、深く凹んで、コップのように円い臍は、アラビア人によって、女の美の一つと見なされる(ペイン)。
(9)「もしアッラーの御心ならば」。もしそういうことになるならばとの、疑いの意の場合であろう。
(10) Splendeur. メManr al-San・「光の場所」あるいは「光耀の場所」(バートン)。
(11)「アッラーの御名において」。事をはじめる前に、しばしば唱える。
(12) 気前のよい、物惜しみしない。
(13) サウル王を魅したダヴィド王。
(14) 六世紀のアラビアの詩人。恋人アブラや戦争を歌った詩が多い。十二世紀頃の作『アンタラ物語』の主人公となった、アラブ族の民族的英雄。
(15) 『ブドゥール姫の物語』(本電子文庫版四巻所収)に出てくる。
(16) Tohfa.「稀有なもの」「贈物」(特にペルシア語で)の意(バートン)。
(17) Al-Emir Al-Moumen馬 Haroun Al-Rachid.「信徒の長ハールーン・アル・ラシード陛下」。これは第五代の誤り。
(18) El Sa侮da Zob司da.「ゾバイダ皇后」。なおこれをカスィムの娘とする誤りは、この物語にしばしばある。
(19) Wak-wak. アラビア人の伝説の島。シナの彼方にあり(日本とする説もある)、そこにはワク・ワクと叫ぶ果実のなる一本の木があるともいうが、ここでは鳥の啼き声となっている。
(20)「死神」のこと(マルドリュス)。
(21) Abd Al-Kaddous.「最も神聖なる者の奴隷」(バートン)。
(22) P俊e-des-Plumes. バートンにはAb・al-Ruwaysh(ペインではAbourru weish)とあり、Aboor-Ruwaysh と発音し、「小さな羽の父」の意とある。
(23) 暇を告げる挨拶。さらば、以上。
(24) 伝説の都。
(25) M俊e-des-Lances. ペインやバートンでは、「Umm al-Dawhi(災厄の母)と号する Shawahi(幻惑者)」となっている。この名は『オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語』(本電子文庫版二巻所収)にも出てきたもので、ペインは「醜い老婆の普通名詞」と註している。マルドリュスはこれがアマゾンの総大将であることから、この名称をとったものか。
(26) Salsabil. 楽園の泉。天国の飲み物に用いる。
(27) Kausar. 宝の山。豊富、潤沢の意。天国を流れる河の一つで、天国の河川はすべてこれから出るという。コーラン第一〇八章の名。
(28) N士穎. 六世紀末イラク地方アル・ヒーラの王の名で、アネモネのことをヌーマーン王の花という(バートン)。
(29) アラビア語 Koss(ギリシアのヌKussosネ 陰門)は二文字より成り、第一の文字カーフは(四の五倍)二十で表わされ、第二の文字スィーンは(六の十倍)六十で表わされる(マルドリュス)。ローマ数字5がV、10がXといったように、アラビアの各文字には「数値」がある由。
(30) Nour Al-Houda.「救いの光」の意(バートン)。
(31) 願わくば。
(32) Ya salam! 「おお、平安あれ」。安全を願う普通の叫び。
(33)「百の重量」で、五十キロであるが、百斤というぐらいの意。
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年八月、ちくま文庫に収録された。