千一夜物語 5
佐藤正彰 訳
目 次
色とりどりの六人の乙女の物語
青銅の町の物語
イブン・アル・マンスールと二人の乙女との物語
肉屋ワルダーンと大臣《ワジール》の娘との話
地下の姫、ヤムリカ女王の物語
悲しみの美青年の物語
花咲ける才知の花壇と粋の園
アル・ラシードと放屁《おなら》
若衆とその師匠
不思議な袋
愛の審判者アル・ラシード
いずれを選ぶか。青年か、はたまた、壮年か
胡瓜の値段
白髪
悶着解決
アブー・ヌワースとゾバイダ妃の水浴
アブー・ヌワースの即詠
驢馬
ゾバイダ妃の現行犯
雄か雌か
分け前
学校の先生
肌着の銘文
盃の銘文
籠の中の教王《カリフ》
臓物の掃除夫
乙女「涼し眼」
乙女か青年か
奇怪な教王《カリフ》
「蕾の薔薇」の物語
黒檀の馬奇談
凄腕ダリラの物語
訳註
[#改ページ]
千一夜物語 5
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
[#改ページ]
色とりどりの六人の乙女の物語
語り伝えまするところでは、日々のうちのある日、信徒の長《おさ》アル・マアムーン(1)は、御殿の広間で玉座につかれて、大臣《ワジール》、貴族《アミール》はじめ帝国の重臣のほかに、かねて親交を結ばれたあらゆる詩人と好ましい人たち全部を、御手の間に呼び集めなさいました。ところで、そこに集まった人々のうち、一番の御親友中のまた一番の御親友と申せば、モハンマド・エル・バスリでございました。教王《カリフ》アル・マアムーンは、彼のほうにお向きになって、おっしゃいました、「おおモハンマドよ、余はこの際、何かその方のかつて聞いた物語を、ぜひ話して聞かせてもらいたいと思う。」彼はお答えしました、「おお信徒の長《おさ》よ、いとやすきことでございます。さりながらわが君は、私が自分の耳で聞いた物語を御所望か、それとも、私が立ち会って、自分の目で見た事実を何か御所望でござりましょうか。」アル・マアムーンはおっしゃいました、「おおモハンマド、いずれなりと仔細ない。ともかく、もっとも感嘆に値するものを所望いたす。」するとモハンマド・エル・バスリは言いました。
されば、おお信徒の長《おさ》よ、私は先頃、一人のヤマーン(2)出身の、大身代の男と知り合いになりましたが、この男は故国を去って、平穏快適な生活を営もうとて、われらの都、バグダードに来たり住んだのでございました。その名をアリ・エル・ヤマニと申しました。しばらく住んでみると、バグダードの風俗がいかにも自分に合っているのを見て、彼はヤマーンから家財家具をそっくり取り寄せ、それに月のごとく美しい、六人の年若い女奴隷からなる自分の妻妾《ハーレム》も、一緒に呼び寄せました。
これらの乙女のうち第一の乙女は色白く、第二は栗色、第三は肥え、第四は痩せ、第五は琥珀色で、第六は色黒い乙女でした。そしてこの六人は、いずれもまことに完全の極みで、精神は文芸のたしなみに飾られ、舞踊と管絃の道に秀でておりました。
白い乙女の名は……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十二夜になると[#「けれども第三百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
白い乙女の名は「月の顔《かんばせ》」と言い、栗色の乙女は「熾火《おきび》の焔《ほのお》」と言い、肥ったのは「満月」、痩せたのは「楽園の神女《フーリー》」、琥珀色は「昼の太陽」、黒は「目の瞳《ひとみ》」と言われました。
さてある日、アリ・エル・ヤマニは、いとも楽しいバグダードで味わう安穏に心嬉しく、平生にもまして気分すぐれるのを覚えて、その六人の女奴隷に、一同打ち揃って、集《つど》いの間《ま》に来て、自分の相手をし、自分と一緒に飲み、語り、歌って時を過ごすようにと誘いました。そこで六人の乙女は全部、すぐに彼の手の間に罷り出て、そしてあらゆる種類の遊びと慰みと楽しみをして、みんなで一緒に限りなく歓を尽したのでした。いよいよ一座申し分なく興酣わになりますと、アリ・エル・ヤマニは杯をとって、それに葡萄酒を満たし、まず「月の顔《かんばせ》」のほうに向いて、これに言いました、「おお色白く愛らしい奴隷、おお月の顔《かんばせ》よ、われわれに何か、お前の見事な声の妙なる調べを聞かせてくれよ。」すると白い奴隷の「月の顔《かんばせ》」は、琵琶《ウーデイ》をとり上げて、音を合わせ、二つ三つ低く前奏を奏でましたが、それは石をも踊らせるものがあった。それから自分で伴奏しながら、次の詩句を即吟して歌いました。
[#ここから2字下げ]
われに友あり。遠からんも近からんも、友はその御姿《みすがた》をとこしえにわが目に刻み、御名《みな》を永久に、わが心かわらぬ四肢に彫りぬ。
思い出をいつくしむべく、われはことごとく心臓と化し、御姿に見入るべく、われはことごとく眼《まなこ》と化す。
絶えずわれを咎めて難ずる人は、われに言えり、「汝ついにこの燃え立つ恋を忘るるや。」われこれに言う、「おお厳しき非難者よ、われを置いて、立ち去れよ。見ずや、われに不可能事を求めて、いかに汝の思いあやまつかを。」
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、「月の顔《かんばせ》」の主《あるじ》は、悦びに心動かされ、そこで杯に唇をしめしてから、杯をその乙女にさして飲ませました。それから再び杯を満たして、それを手にしながら、栗色の女奴隷のほうに向いて、これに言いました、「おお熾火《おきび》の焔よ、おお魂の薬よ、何かお前の選ぶ詩句を歌って、私にお前の声の調べを聞かせるよう骨折ってくれよ、さりながら私を燃やさぬよう心して。」すると「熾火の焔」は琵琶《ウーデイ》を取り上げて、別の調子に合わせました。次に、心を踊らせるばかりの演奏ぶりで、まず前奏を弾き、つづいてすぐに歌いました。
[#ここから2字下げ]
われはこの懐しき御面《みおもて》にかけて誓う、君を愛すと。おお、美の面衣《ヴエール》もて包まるる輝く御面よ、君は最美の人々に、そも美しき物の何たりうるやを教えたもう。
君が優美により、君は万人の心を征服せり。なんとなれば、君こそはまさしく、創造者の御指《おんゆび》よりいでし汚れなき御業《みわざ》なれば。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、「熾火の焔」の主《あるじ》は、悦びに心動かされ、そこで杯に唇をしめしてから、杯をこの乙女にさして飲ませました。それから三たび杯を満たして、それを手にしながら、たいへん肥えた女奴隷のほうに向いて、これに言いました、「満月よ、おお、うわべは重たげなれど、血はかくも好ましく軽やかの女よ、お前の肌のごとく澄んだ美しい詩句で、一曲歌ってはくれぬか。」すると太った乙女は琵琶《ウーデイ》を取り上げて、調子を合わせ、もっとも固い魂と岩をもふるわせるばかりに前奏を弾いて、二つ三つ快く呟いてから、清らかな声で歌いました。
[#ここから2字下げ]
われもし君が御心《みこころ》にかなうを得んか、おおわが望みの君よ、われはただ君が一笑を報いとして、よく全世界とその怒りをも顧みざるべし。
君にしてもし憧《あこが》るるわが魂のかたへと、悠々歩を進めて歩み寄りたまわんか、全地の王侯消え失するとも、われはこれに気づかざるべし。
君にしてもしわが恋のつたなきを嘉《よみ》したまわんか、わが幸《さち》は御足のもとにわがすべての日々を過ごすにあらん、おお、美の特性と装いのことごとく寄りつどう君よ。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、太った「満月」の主《あるじ》は、悦びに心動かされ、そこで杯に唇をしめしてから、杯をこの乙女にさして飲ませました。それから改めて杯を満たして、それを手にしながら、痩せた女奴隷のほうに向いて、これに言いました、「おおたおやかの楽園の神女《フーリー》よ、今度はお前が、われわれを美しい歌にうっとりさせてくれる番だ。」するとたおやかな乙女は、母親が子供の上に身を傾《かし》げるように、琵琶《ウーデイ》の上に身を傾げて、次の詩句を歌いました。
[#ここから2字下げ]
君がためわが情けはありあまり、君がつれなさまたこれに相等し。かくばかりうらはらの思いを勧むる掟、そもいずこにありや。
恋の公事《くじ》捌く判官あらば、訴えまほし。さらばわが情けの余りをばいとしき人に与え、かの君のつれなさの余りをばわれに与えて、両者相等しくせらるべきを。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、痩せてたおやかな「楽園の神女《フーリー》」の主《あるじ》は、悦びに心動かされ、そこで杯に唇をしめしてから、杯をこの乙女にさして飲ませました。それがすむと、改めて杯を満たして、それを手にしながら……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十三夜になると[#「けれども第三百三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……琥珀色の女奴隷のほうに向いて、これに言いました、「おお昼の太陽よ、おお琥珀と黄金の肉体よ、何かひとつ妙なる恋を詠じた詩句を二、三、さらにわれわれのため縫い取ってくれぬか。」すると琥珀色の乙女は金色の頭を楽器の上に傾げて、曙のように澄んだ両眼を半ば閉じ、二つ三つ喨々《りようりよう》たる調べで前奏を弾いたが、それはおのずと身と心を、内にも外にも、顫わせるものがあった。そしてあまり強すぎぬ発端《ほつたん》によって、まず興を誘っておいてから、いよいよ宝のうちの宝たるその声を、十分に張って、そのとき、歌いました。
[#ここから2字下げ]
われに友あり。その御前《みまえ》にわれ出ずれば、
友はわれを見つめて、わが心に
その眼差しの鋭《と》き剣《つるぎ》を刺す。
貫かれし憐れなるわが心にわれは言う、「汝何ゆえにその傷を癒やすを欲せざる。何ゆえに警《いまし》めて彼に備えざる。」
されどわが心は答えず。しかして常に傾くところに打ち負けて、歩々ひかれゆくなり。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、琥珀色の奴隷「昼の太陽」の主《あるじ》は、悦びに心動かされ、そこで杯に唇をしめしてから、杯をこの乙女にさして飲ませました。それがすむと、改めて杯を満たして、それを手にしながら、色の黒い女奴隷のほうに向いて、これに言いました、「おお目の瞳よ、おおうわべは黒く内はかくも白い女よ、肉体は喪の色を帯びて、もてなしのよい顔は、わが敷居の幸《さち》の源となるお前よ、われわれのために太陽のように深紅な、絶妙とも言うべき詩句を、二、三摘み取ってくれよ。」
すると黒い「目の瞳」は琵琶《ウーデイ》を取りあげて、二十の異なる奏法で変奏を弾きました。それがすむと、最初の節《ふし》に返って、いつも愛唱している、奇数調で自分の作曲した、次の歌を歌いました。
[#ここから2字下げ]
わが目よ、潸然《さんぜん》と汝《な》が涙を流せ
わが恋の焔《ほむら》によってわが心を焼きつくせし人の上に。
わが身を焼くこの焔、わが身を焦がすこの思い、
すべては、われをやつれしむるむごき友の賜物なり、
わが恋敵らを悦ばしむるむごき友の。
わが非難者らはわれを咎め、かの君の花咲く頬の薔薇を、思いあきらめよと勧む。
さあれ、花と薔薇に感ずる心をば、いかんせん……。
今や、ここに酒杯あってかなたを巡り、
六絃琴《ジーターラ》の音《ね》はわれらの魂を快楽に誘い、われらの身を歓楽に誘う……。
されどわれは、ただかの君の息吹きを好むのみ。
わが頬は、あわれ、わが欲望《のぞみ》の焔に色あせぬ。さあれ、ままよ、楽園の薔薇――かの君の頬――ここにあり。
ままよ、われはかの君を崇むる者なれば。さりながら、人の子慕うわが罪は、浅からずとせんや。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと「目の瞳」の主《あるじ》は、悦びに心動かされ、そこで杯に唇をしめしてから、杯をこの乙女にさして飲ませました。
それがすむと、六人の乙女は皆いっせいに立ち上り、主人の両手の間の床に接吻して、どの女《ひと》が一番お心を悦ばせたか、どの女《ひと》の詩と声が一番お気に召したか、ぜひ伺わせていただきたいと申しました。するとアリ・エル・ヤマニは、これにはほとほと困って、長いこと一同を眺め渡し、思い定まらぬ目つきで、みんなの容色と取りえに見入りはじめたが、心中で、みんなの姿と色は、いずれ劣らず見事と思うのであった。最後にやっと思い定めて口を切り、次のように言いました。
「お前たち六人、あらゆる美質を授けられた、絶世の乙女らを私に賜わった、優雅と美の分配者アッラーに称《たた》えあれ。さればこういう次第だ。私はお前たちに公言する。私はお前たちみんな、いずれ劣らず同じように好きじゃ、そしてお前たちのうち誰か一人だけ、特に優れていると認めることは、わが良心に対していたしかねるところだ。されば、わが仔羊たちよ、お前たちみんな揃って一緒に来て、私を抱いてくれよ。」
主人のこの言葉に、六人の乙女はいっせいにその腕のなかに飛びこんで、ひとときのあいだ、いくたびも主人を愛撫し、主人もまた同様にいたしました。
それがすむと、主人は一同を、自分の前に輪になって並ばせて、さて言いました、「私はお前たちのうち一人を特に選び定め、これを朋輩よりも贔屓《ひいき》するというような、不公平な真似をみずから犯したくはなかった。しかし私の敢えてしなかったことを、お前たち自身ですることができるわけだ。事実、お前たちは皆同様に、聖典《コーラン》の読誦と文芸に通じておる。古人の列伝とわが回教徒の父祖の歴史を読んでおる。最後に、お前たちは雄弁と優れた話術を授けられておる。さればこれから、ひとつお前たちめいめいが、それぞれ自分で、ふさわしいと思う讃辞をわれと自らに呈し、自分の美点長所を吹聴し、相手の容色を貶《けな》してみせてもらいたい。かようにして、例えば、色なり姿なりの違う二人の相手同士で、白と黒とか、痩せたのと太ったのとか、琥珀色と栗色とかいうふうにして、ひとつ合戦を始めてもらおう。けれどもこの合戦に当っては、お互いに、美辞、金言、賢人学者の引証、詩人の権威、また聖典《コーラン》の典拠以外のものをもって、相打つことはまかりならぬ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十四夜になると[#「けれども第三百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると六人の乙女は承わり畏まって答え、この面白い合戦の用意をしました。
まず最初に立ち上ったのは、白い奴隷「月の顔《かんばせ》」で、彼女は黒い「目の瞳」に自分とさし向かいになるように、合図をしました。そしてすぐにこう言いました。
「おお黒いお方よ、学者たちの書物に述べられているところによれば、『白』はこう申したとあります。『妾《わらわ》は燦然たる光、地平に昇る月。わが色はさやかにして明らか。わが額は白銀《しろがね》の光に輝く。わが麗わしさは詩人に霊感を与えて、かく歌わせた。
[#ここから2字下げ]
頬なめらかにして柔らかくつややかの、色白きかの女《ひと》こそは、秘蔵の美の真珠なり。
かの女はアリフの文字のごとく直《すぐ》なり。ミームの文字はその口にして、双の眉は逆《さかし》まの二個のヌーン(3)、しかして眼差しは、その眉の怖るべき弓より放たれし矢なり。
されど、もしその頬と腰はいかにと問わば、われは言わん。その頬は――薔薇の花弁《はなびら》、桃金嬢《ミルト》の花、水仙なり。その腰は――艶立ちて庭に揺るる、しなやかの柔らかき瑞枝《みずえ》、庭と花壇をことごとくこれに代うるも惜しからじ、と。』
[#ここで字下げ終わり]
けれども、おお黒いお方よ、わたくしはさらにつづけて申しましょう。
わたくしの色は日光の色でございます。またオレンジの花の色、真珠のような暁星《あけぼし》の色です。
お聞きあそばせ、至高のアッラーはやんごとなき書《ふみ》のなかで、お手を癩《かたい》に犯されたムーサー(4)(その上に祈りと平安あれ)に、仰せられました、『汝の手を懐《ふとこ》ろに入れよ、再び出すときには、手は白かるべし、すなわち汚れなく元どおりならん。』
また同じく、われらの信仰の書に記されております、『おのが顔を白く保ちえたる者、すなわち、一切の汚れをこうむらず保ちえたる者は、アッラーの慈悲のうちなる選ばれし人々の数に入らん(5)。』
されば、わたくしの色は、色のうちの女王で、わたくしの美は、すなわちわたくしの完璧《かんぺき》さ、わたくしの完璧さは、すなわちわたくしの美でございます。
美しい衣裳と美しい飾りの品々は、いつもわたくしの色によく映り、人々の魂と心を征服するわたくしの色香を、一段と引き立てます。
空より落ちる雪はいつでも白いことを、御存じありませぬか。
回教信徒は特に白いモスリンをば、自分たちのターバンの布として選んだことを、御存じありませぬか。
わたくしは自分の色については、この上ともいくらでも、申し上げる目覚しい事柄がございます。けれども自分の長所については、これ以上長々と述べたくはございません。光は人の目を射るごとく、真理はおのずから明らかでございますから。それに、わたくしは取りあえず、あなたの品定めにかかりたいと存じます、おお、墨と肥料《こやし》の色、鍛冶屋の鑪屑《やすりくず》、鳥のなかでもっとも不吉な烏《からす》の顔の、黒いお方よ。
まず、白い女と黒い女を語った詩人の詩句を、思い出してごらんなさいまし。
[#ここから2字下げ]
一|顆《か》の真珠の値はその白色にあり。ひと袋の炭は一ドラクムを要せずして求めらるるを知らずや。
白の顔は瑞兆にして、天国の徴を帯ぶるも、黒き顔は、地獄の火を燃やすべき松脂《まつやに》と瀝青《チヤン》にほかならざるを知らずや。
[#ここで字下げ終わり]
また義《ただ》しき人々の列伝にもこうございます。聖なる人ヌーフ(6)がある日眠っておりますと、そのかたわらに、二人の息子サームとハームがおりました。そのとき一陣の微風が吹いて、その衣を掲げ、隠れていた肢体を露《あら》わしました。これを見ると、ハームは笑い出し、この光景をいたく面白がって、というのは、人類の第二の父ヌーフは、非常に逞しい豪勢な身体をしておりましたからですが、ハームは父の裸身を蔽おうとしませんでした。すると、サームは重々しく立ち上って、急ぎ衣を引き下ろして、全部を隠しました。こうしているうちに、崇《あが》むべきヌーフは目を覚まし、ハームが笑っているのを見ると、これを呪い、そしてサームの重々しい顔つきを見ると、これを祝しました。するとたちまちサームの顔は白くなり、ハームの顔は黒くなりました。そしてそのときから、サームは預言者と民の牧人と賢人と王の生ずる根株となり、ハームはやがて父親の面前から逃げ出して、黒人やスーダン土人の生ずる幹となりました。そして、おお黒いお方よ、学者はすべて、また普通一般の人もすべて、次の意見に一致していることは、よく御承知でございましょう。すなわち、黒人種や黒人の国々には、ひとりの賢人もありえないのでございます。」
この白い奴隷の言葉に、主《あるじ》は言いました、「その辺でよろしい。今度は黒の番じゃ。」そこで「目の瞳」は今までじっとしていたが、「月の顔《かんばせ》」を見やって、これに言いました。
「おお無知の白いお方よ、聖典《コーラン》の一節(7)で、至高のアッラーが闇夜と白日にかけて誓いなされた個所を、あなたは御存じないのですか。ところで、至高のアッラーはこの誓言で、まず最初に夜をあげ、次に昼をあげなすったのでございます。もし夜を昼よりもお好みあそばさなかったら、そうはなさらなかったでございましょう。
それにまた。毛と髪の黒い色は、青春の徴《しるし》と飾りで、白い色は、老年と人生の歓びの終りの徴候ではございませんか。またもし黒色が、色のなかで一番重んじられているものでなかったとしたら……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十五夜になると[#「けれども第三百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……アッラーはこれを、目と心の芯《しん》にとって、これほど大切なものとはなさらなかったでしょう。ですから、あの詩人の言葉はいかばかり真実でございましょう。
[#ここから2字下げ]
われかくばかり漆黒の肉体を好むは、そは年若くして、熱き心と火の瞳とを蔵《おさ》むればなり。
白きものに至っては、おお、おぞましき限りぞ。われいくたびか卵の白身をのむの余儀なく、あるいは、やむなく、白身の色の肉に甘んずるの余儀なかりしとはいえ、そはきわめて稀有のことなり。
されど、われ白き屍衣に対して深き愛着を覚え、あるいは同じ色の頭髪を悦ぶがごときことは、けっしてあらざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
また別な詩人も申しました。
[#ここから2字下げ]
われもしかの艶々しき肉体の黒き女を愛するあまり、狂気となるとも、怪しむなかれ、おお友どちよ。
なんとなれば、医師の教うるところ、一切の狂気はつねに黒き想いの先立つものなればなり。
[#ここで字下げ終わり]
今ひとりの詩人もやはり申しました。
[#ここから2字下げ]
われはかの白き女らを好まず。その肌はさながら白癬《はくせん》の白粉《しろこ》に塗られたるがごとし。
わが好む愛人は黒き女、色は夜の色にして、顔は月の顔。色と顔とは分かつべからず。なんとなれば、夜なくんば、月光もなかるべし。
[#ここで字下げ終わり]
それにまた。友達の親しい集《つど》いは、夜でなくていつ行なわれましょう。恋人たちは、彼らの楽しみに恵みをたれ、ぶしつけ者から守り、そしりを受けないようにしてくれる夜の闇に、どれほど感謝を寄せずにいられましょうか。それに引きかえ、彼らの邪魔をして危うい目に会わせる、ぶしつけな昼に対しては、どんな嫌悪の情を持たずにいられましょうぞ。ただこの違いだけでも、もう十分でございましょう、おお白いお方よ。けれどもさらに、詩人の言うところをお聴きください。
[#ここから2字下げ]
われはかの身重き少年を好まず。その色白きは充満せる脂肪によるものなり。しかしてわれは、かの長身痩躯、肉しまれる黒き少年を愛す。
なんとなれば、われは生来、槍仕合いの乗用として、ひかがみ細き若き種馬をつねに選び、象に乗るは、これを余人に委ねたればなり。
[#ここで字下げ終わり]
また別の詩人も言いました。
[#ここから2字下げ]
昨夜友訪れ来たり、われら寄りそって楽しく寝《いね》たり。朝は今なお相擁するわれらの寝こみを襲えり。
われに主に願うべき望みありとせば、そはわがすべての昼を夜と変じ、友のわれを離るること絶えてなからんことなれ。
[#ここで字下げ終わり]
万一、おお白いお方よ、わたくしがなおつづけて、黒い色の長所と讃辞を、あげ連ねなければならぬといたしますれば、『簡明な言はよく長広舌にまさる』というこの格言に、そむくことと相なりましょう。ただこれだけは申し上げねばなりません、あなたの長所はわたくしのそれに較べれば、まことに貧相なものでございますよ。あなたは実際白くいらっしゃる、ちょうど癩病が白く、臭く、息がつまるみたいに。またあなたは御自分を雪に比《たぐ》えなさるけれども、地獄には火があるばかりではなく、ある場所には雪(8)があって、地獄に堕《お》ちた人々を、焔の火傷《やけど》よりも責めさいなむ、恐ろしい寒さをひき起していることを、お忘れですか。そしてわたくしをば墨に比《たぐ》えなさるけれども、『アッラーの書《ふみ》』は黒い墨で書かれていることや、王様方がお互いに贈物になさる貴い麝香《じやこう》は、黒いことなどを、お忘れですか。最後にわたくしは、お身のためを思って、次の詩人の句を思い出しなさるよう、お勧めいたします。
[#ここから2字下げ]
もし麝香にしてかくばかり黒からざれば、もはや麝香にあらざるべく、石膏《せつこう》はただ白きがゆえにのみ、かくは卑しめらるるを、気づかざるにや。
かの黒目は、いかばかり世に珍重せられざらんや、白目をばほとんど顧みるところなきものを。」
[#ここで字下げ終わり]
この「目の瞳」の言葉に、主《あるじ》のアリ・エル・ヤマニはこれに言いました、「いかにも、おお黒い女よ、またお前白い奴隷よ、お前たちは二人とも見事な話しぶりであった。ではこんどは次の二人の番じゃ。」
すると、太った女と痩せた女が立ち上り、白い女と黒い女は自分の席に戻りました。さて二人は互いに向かい合って立ち、そして太った「満月」のほうから、最初に口を開こうとしました。
けれどもその前に、まず彼女は着物を脱ぎだし、手頸、足頸、腕、腿をあらわにして、最後にほとんど丸裸になり、見事な襞の幾重にも重なる豊満な腹と、蔭濃い臍の丸味と、どっしりした豪勢な尻を、せいぜい際立てるようにしました。そして身体には薄い肌着しかまとわず、その軽く透き通った布地は、身体の円い形を隠さずに、ふわりと蔽っています。そしてその上ではじめて、彼女は武者ぶるいをしてから、相手の痩せた「楽園の神女《フーリー》」のほうに向き直って、これに言いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十六夜になると[#「けれども第三百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「アッラーに称《たた》えあれ。アッラーはわたくしを丸々と太って創りたまい、わが身のあらゆるすみずみまでクッションを置き、遠くも近くも安息香の香りを放つ脂肪《あぶら》を、わが肌に詰める御配慮をしてくだされ、それにもかかわらず、足《た》しまえとして、十分の筋骨を授けるのも拒みたまわず、いざともなれば、敵に拳骨を加えて、これをまるめろのマーマレードとしてしまうことのできるように、なしたもうたのでございます。
さて、おお痩せっぽちのお方よ、されば賢人たちは申されました、『人生の悦びと快楽とは三つのことにあり。肉を食らい、肉に乗り、肉を肉に入らしむることこれなり』と。
だれがわたくしのふくよかな姿を眺めて、嬉しくて身ぶるいせずにいられましょう。アッラー御自身も、聖典(9)のなかで、犠牲に際しては、肥えた羊とか、肥えた仔羊とか、肥えた仔牛を捧げよとお命じになって、脂肥《あぶらぶと》りをお讃めになりました。
わたくしの身体は果樹園で、そこになる果実は、わたくしの乳房の柘榴、わたくしの頬の桃、わたくしのお尻の水瓜でございます。
バニー・イスラーイル(10)たちがエジプトを逃がれ出たとき、砂漠でいちばん懐しんだ鳥は何でしょうか。それは、肉に汁気多く脂の乗った鶉《うずら》ではございませんか。
肉屋の店に立ち寄って、痩せ衰えた肉など求める人は、かつていたでしょうか。そして肉屋は最上のお得意には、一番肉のよくついたところを上げはしませんか。
まあ、お聞きください、おお痩せっぽちのお方よ、詩人がちょうどわたくしのように、太った女について言っているところを。
[#ここから2字下げ]
見よ、かの女歩めば、つりあいよく、重く、好色恐るべき二つの革嚢を、両側に揺り動かす。
見よ、かの女坐れば、立ち去る場所に、立ち寄りし記念として、尻の跡を残しゆく。
見よ、かの女踊れば、腰のひと振りをもってわれらの魂を悶絶せしめ、われらの心をその足下にひれ伏せしむ。
[#ここで字下げ終わり]
ところがあなたときては、おお痩せっぽちのお方よ、あなたはどこぞの羽根の脱けた雀にでも似るよりほかに、いったい何に似ることができましょう。あなたの脚は烏の脚と選ぶところがありますか。腿は竈の火掻棒みたいじゃございませんか。結局あなたの身体は、絞首台の柱のように、ごつごつして乾からびていはしませんか。次の詩人の詩句で言われているのは、まさしく、痩せ細った女よ、あなたのことですよ。
[#ここから2字下げ]
願わくはアッラーはわれに、かの痩せし女を抱く羽目に陥り、その砂利道にて摩擦器を勤むることなからしめたまえ。
その女の手足にはいちいち一本の角《つの》ありて、わが骨に当たりぶつかることはなはだしく、われは肌に青痣と傷だらけにて目覚むる始末なり。」
[#ここで字下げ終わり]
アリ・エル・ヤマニはこの太った「満月」の言葉を聞くと、これに言いました、「その辺でよろしい。今度は楽園の神女《フーリー》の番じゃ。」
すると、痩せてたおやかな乙女は、微笑を浮かべながら太った「満月」を見やって、これに言いました。
「アッラーに称えあれ。アッラーはわたくしに白楊樹のしなやかな小枝の姿と、糸杉の幹の柔らかさと、百合《ゆり》の釣合いをお授けくださって、わたくしを創りたもうたのでございます。
わたくしは立てば身軽く、坐れば愛らしく、冗談を言えば面白い。吐く息は甘くかぐわしゅうございます。というのは、わたくしの魂は、素直で純で、どんな重苦しいものにも触れていないからでございます。
わたくしはついぞ、おお太ったお方よ、恋する男が愛する女のことを、こんなふうに言って讃めるという話は、聞いたことがございません、『その女は象のように大きいし、河馬《かば》のように肉づきがいいのですよ。』
反対に、わたくしはいつも、恋する男が愛する女の姿を述べて、こう言うのを聞きました、『その女の腰は細く、なよやかで、雅びやかです。その歩きぶりはまことに身軽で、足跡がほとんど地に残らぬくらい。ほんの少し食べれば十分で、幾滴かの水で渇きはとまる。戯れと愛撫は控え目で、接吻抱擁は快楽に溢れている。雀よりもすばやく、椋鳥《むくどり》よりも活発です。竹の茎のようにしなやかだし、微笑みは風情があり、物腰も風情がある。私がこちらに引き寄せるにも、少しも骨がおれない。私のほうにしなだれかかるときには、しとやかに身を曲げる。私の膝に坐っても、ずっしりと落ちかかってこないで、鳥の羽根のように、身を置きますよ。』
まあお聞きなさい、おお太ったお方よ、わたくしこそは、万人の胸を焦がす、たおやかなすらりとした女。この上なく激しい恋心をわき立たせ、この上なく分別ある男たちを逆上させるのも、このわたくしです。
また最後に、棕櫚《しゆろ》の木のまわりに絡みつき、あれほどのびのびと幹にまつわっている、葡萄になぞらえられるのも、このわたくしです。ぬれた悩ましげな眼差しの、ほっそりした羚羊《かもしか》も、わたくしのこと。そして楽園の神女《フーリー》というわたくしの名前も、けっして僭上ではございませんわ。
さてあなたにつきましては、おお太ったお方よ、これからわたくしに、あなたの本当のことを申し上げさせていただきましょう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十七夜になると[#「けれども第三百三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「おお脂と肉の塊りさん、あなたの歩くときは、まるで家鴨《あひる》で、物を食べるときは、まるで象です。交合《まじわり》では、飽くを知らず、休んでいるときは、手がつけられない。
それに、あなたのお腹と腿の山々で隠されている窪みまで届くほど、長い一物を持っている男は、どこにおりましょうか。
そしてまあそんな男が見つかって、うまくあなたに分け入れたにしろ、すぐにあなたの太鼓腹で、いっぺんにはね返されてしまいます。
あなたはとんと感づいている御様子もないけれど、あなたみたいに太っていては、肉屋の肉ぐらいにしか役に立ちはしませんわ。
あなたの魂もまた、体同様不出来です。あなたの冗談は、重苦しくて息が詰まる。あなたの戯れは、鈍重でとてもやりきれない。笑い声ときてはものすごくて、耳の骨が砕けてしまいます。
あなたの恋人があなたの腕のなかで溜め息をつけば、あなたはもう息もろくにできない。恋人が抱きしめれば、あなたは汗びっしょり、べとべとです。
眠るとあなたは大鼾。眠らずにいれば、水牛みたいに喘ぐ始末。ほとんど身動きもならず、休んでいると、われとわが身が重荷です。あなたの一生は、牝牛のように腮《あご》を動かしては、駱駝のように食べたものをもどして過ぎますわ。
おしっこをすれば、あなたは自分の着物をよごす。気がいけば、敷蒲団《マトラー》をびしょびしょにする。厠《かわや》に行けば、首までもぐってしまう。お風呂に行っても、隠し所まで手が届かず、そこは汚水につかってぐしょぐしょで、一度も毛を抜いたことがなくて、毛むくじゃらです。
あなたは前から見れば、水牛だし、横から見れば駱駝だし、後ろから見れば、水の詰まった革嚢ですわ。
つまりは、詩人がこう言ったのは、間違いなくあなたのことでございます。
[#ここから2字下げ]
かの女は尿の詰まれる膀胱のごとく重く、腿は山の二つの支脈にして、歩めば地震のごとく地を揺する。
されどこの女、ひとたび西洋にて放屁一発せんには、全東洋はために轟く。」
[#ここで字下げ終わり]
この「楽園の神女《フーリー》」の言葉に、主《あるじ》アリ・エル・ヤマニはこれに言いました、「まことに、おお楽園の神女《フーリー》よ、お前の弁舌はあっぱれだ。またお前満月よ、お前の言葉も見事見事。だが今はお前たちは自席に戻って、次に、琥珀色と栗色に口を開かせるべきときじゃ。」
そこで「昼の太陽」と「熾火の焔」が立ち上がり、歩み寄って互いに向いあいました。そして最初、琥珀色の乙女から、相手に向って言いました。
「わたくしこそは、聖典《コーラン》に長々と述べられている琥珀色でございます。アッラーが『黄は目を楽しまする色なり(11)』と仰せられたとき、アッラーのお名指しなされたのは、このわたくしのこと。ですからわたくしは、色のなかで一番美しい色でございます。
わたくしの色は驚異、わたくしの美しさは極み、わたくしの魅力は窮極《いやはて》でございます。なぜなら、わたくしの色は、黄金《こがね》にその価値を与え、太陽と星辰に、その美しさを与えるのでございますから。
林檎や桃を美しく装い、サフランにその色合いを添えるのも、この色です。わたくしはくさぐさの宝石にその色合いを与え、麦を熟《う》れさせてやります。
年ごとの秋は、わたくしからその装いの琥珀色をもらい、大地は、その上に太陽の光線をこごらせる色合いゆえでなければ、あのように枯れ葉の絨氈《じゆうたん》を敷きつめて、美しくはございません。
けれどもあなたは、おお栗色のお方よ、およそ何かの品に、あなたの色が見いだされれば、もうそれだけで、その品の値打は下ってしまいます。これほど平凡な、あるいは醜いものは、世にございません。水牛を、驢馬を、狼を、犬を御覧なさい、みんな栗色ですわ。
およそお料理で、人々があなたの色を好ましく見るような御馳走が、ただひとつでもあったら、承わりましょう。花でも、宝石でも、ついぞ栗色であったためしなく、ただどす黒い銅だけが、あなたの色です。
あなたは少しも白くもなければ、黒くもありません。ですから、この二つの色の長所は何ひとつあなたには当らないし、この二つの色を讃めていう言葉は、何ひとつあなたには当りません。」
この琥珀色の女の言葉に、主《あるじ》はこれに言いました、「今度は熾火の焔の言い分を聞こう。」
すると栗色の乙女は、微笑のうちに、その歯――真珠――のふたならびの頸飾りを燦《きら》めかし、そしてこの乙女は、蜜色のほかに、風情のある姿、素晴らしい腰、調和のとれた釣合い、優雅な物腰、それに見事な臀の上までふさふさと編み下げた、炭のような黒髪をしていたので、まず最初しばらく無言でいて、自分の容色をせいぜいきわだてるようにして、それから、相手の琥珀色の女に向って言いました。
「アッラーに讃えあれ。アッラーはわたくしをば、ぶざまな太った女にも、病気じみた痩せた女にも、石膏のように白くも、疝痛病《せんつうや》みのように黄色にも、炭の粉のように黒くも、作りたまわず、素晴らしい巧みでもって、この上なく美妙な色と、この上なく人を惹きつける姿を、わたくしの一身に集めたもうたのでございます。
それにあらゆる詩人は競って、あらゆる言葉で、わたくしの讃美を歌い、わたくしは、あらゆる時代とあらゆる賢人の寵児でございます。
けれども、もはや自讃いたすまでもございませぬから、それは措いて、わたくしに敬意を表して賦された詩歌のうちの、ほんの二つ三つを、ここに申しましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十八夜になると[#「けれども第三百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「ひとりの詩人は言いました。
[#ここから2字下げ]
栗色の女らはうちに、秘められし官能あり。汝もしこれを看破せば、もはや断じて他の女に目をくるるを肯《がえ》んぜざるべし。
この妖女らは、玄妙の術のあらゆる機微に通じ、これを天使ハールート(12)にすら教えうべし。
[#ここで字下げ終わり]
今ひとりは言いました。
[#ここから2字下げ]
われはうるわしき栗色の女を愛す。その色はわが心を魅し、その身丈《みたけ》は槍のごとく直《すぐ》なり。
その項《うなじ》を飾る、幾度か愛撫し、幾度か接吻《くちづけ》したる、なめらかの小さきほくろは、あまたたびわが心を奪えり。
艶めく肌の色により、立ちのぼる妙なる香りによって、この女は蘆薈《ろかい》のかぐわしき幹にさも似たり。
夜、影の面衣《ヴエール》を拡ぐるときともなれば、栗色の女は来たりてわれに会う。しかしてわれはこれをわがもとにとどめて、影そのものの遂にわれらが夢の色となるまで帰さず。
[#ここで字下げ終わり]
けれども、あなたといえば、おお黄色のお方よ、あなたはバブ・エル・ルークあたりで摘む、筋だらけの固い、劣等なムールーキア(13)の葉のように、色あせています。
あなたの色は、あの商人が羊の頭を煮る(14)のに使う土鍋の色。
あなたの色気は、浴場《ハンマーム》で毛を脱《ぬ》くのに使う黄土と雄黄《ゆうおう》や、また、はまむぎのあの色気。
あなたのお顔は、地獄で悪魔の頭蓋骨の実をつけるという、あのザックーム(15)の木の実に似た、真鍮の顔。
そして詩人が言ったのは、まさにあなたのことでございます。
[#ここから2字下げ]
運命はわれに色黄なる女を授けたれど、いと騒々しき女にて、われは頭痛を覚え、わが心と目は不快に顫う。
わが魂にしてもしこの女を見るを永久に断念することなくんば、われはわが奥歯も抜くるばかり、激しくわれとわが顔を打擲し、もって自らを懲らしむべし。」
[#ここで字下げ終わり]
アリ・エル・ヤマニはこの言葉を聞くと、身をよじっておもしろがり、後ろにひっくりかえるほど笑い出しましたが、そのあとで、二人の乙女に、各自の席に戻るように言いました。そしてみんなの言葉を聞いて愉快であったことのしるしにと、彼は一同に平等に、美しい衣服と地と海の宝石を贈ったのでありました。
「これが、おお信徒の長《おさ》よ」と、モハンマド・エル・バスリは、教王《カリフ》アル・マアムーンに向ってお話し申し上げながら、つづけて言いました、「これが、ただいまわれらの都バグダードにおいて、一同の主人アリ・エル・ヤマニの住居にて、互いに仲睦まじく暮しつづけておりまする、かの六人の乙女の物語でございます。」
教王《カリフ》はこの物語にはなはだしく興ぜられて、お尋ねになりました、「さりながら、おおモハンマドよ、そちはせめて、その乙女らの主人の家のありかは存じておろうが。ひとつ彼のもとに行って、その乙女らを譲ってくれる気はないか、尋ねてみてはくれぬか。もし譲ってくれるというならば、すぐに買い求めて、乙女らをここに連れて来てくれよ。」モハンマドは答えました、「私の申し上げうるところは、おお信徒の長《おさ》よ、これは私信ずるに、その主人はとうてい女奴隷たちと別れようとはすまい、ということでございます。なにせ、いたく執心しておりますれば。」アル・マアムーンはおっしゃいました、「その女一名の値として、それぞれ一万ディナールずつ、持参いたせ。つまり総額六万ディナールじゃ。そちは余からと申して、それだけをそのアリ・エル・ヤマニなる者に取らせ、余はその六名の女奴隷が所望じゃと伝えよ。」
この教王《カリフ》のお言葉に、モハンマド・エル・バスリは急ぎ件《くだん》の金額を携えて、女奴隷の主人に面会にゆき、信徒の長《おさ》の御希望を通じました。アリ・エル・ヤマニは、最初の気持では、あえて教王《カリフ》のお求めをお断わりいたしかねましたので、その六万ディナールを受け取って、六人の女奴隷をば、モハンマド・エル・バスリに引き渡しますと、彼はすぐにこれをアル・マアムーンの御手の間に、お連れ申しました。
教王《カリフ》は女奴隷たちを御覧になると、その色のさまざまという点からも、また優雅な物腰や、教養ある精神や、とりどりの色香という点からも、この上なくお心を奪われてしまいました。そこでめいめいに、後宮《ハーレム》に特別の場所を賜わり、幾日にもわたって、彼らの麗質と美しさをお楽しみになることができなさいました。
こうしているうちに、六人の最初の主人アリ・エル・ヤマニは、淋しさがひしひしと身にのしかかってくるのを覚え、最初に教王《カリフ》の御希望のままに従ってしまった自分の気持を、次第に悔いはじめたのでございました。そのうちある日、我慢しきれなくなって、教王《カリフ》に痛恨満ちたお手紙をさし上げましたが、そこにはいろいろと愁いを書き連ねたなかで、次のような詩句がございました。
[#ここから2字下げ]
わが魂より隔たれし、美女らのもとに、わが絶望の挨拶の届けかし。その美女らこそ、わが眼《まなこ》、わが耳、わが食物、わが飲み物、わが園にしてわが生なり。
われ彼らと遠ざかりて以来、何ものも来たってわが苦しみをまぎらすことなく、眠りそのものもわが瞼《まぶた》を逃がれぬ。
何とても、われはこの六人の乙女をすべて、わが双の眼のうちに納め、その上に垂れ幕のごとくわが瞼をおろさざりしか。
おお、切なきかな、切なきかな。われは彼らの眼差しの致命の矢に傷つき、傷より矢を抜かれて倒れてあらんよりは、むしろ生まれざらましかば。
[#ここで字下げ終わり]
教王《カリフ》アル・マアムーンは、この手紙を御一読なさると、もとより闊達《かつたつ》な魂のお方のこととて、早速その六人の乙女を召し出されて、めいめいに一万ディナールと、素晴らしい衣服、その他見事なお土産《みやげ》を賜わって、すぐに一同をもとの主人のところに、お返しになりました。
アリ・エル・ヤマニは乙女たちが、これまでよりもいっそう美しく、いっそう豊かに、いっそう仕合せになって、自分のところに帰って来るのを見ると、悦び極まりました。そして「分け隔つる者」の至るまで、歓楽と歓喜のうちに、乙女らと一緒に暮しつづけたのでございます。
[#ここから1字下げ]
――「けれども」とシャハラザードはつづけた。「おお幸多き王さま、今までお聞き遊ばされた全部の物語も、もし君のお望みがそうありますればではございますが、明晩お話し申し上げようと取ってある青銅の町の物語[#「青銅の町の物語」はゴシック体]には、遠くも近くも、及び得るものとは、お思い遊ばしますな。」
すると小さなドニアザードは叫んだ、「おお、シャハラザード姉さま、では差し当り、そのお話のほんのはじめのひと言だけ、聞かせて下さったら、本当に嬉しゅうございますが。」
すると彼女は微笑して、言った。
語り伝えまするところでは、昔ひとりの王様がいらっしゃいました、――ひとりアッラーのみ王者にましまする……
――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
青銅の町の物語
[#地付き]第三百三十九夜になると[#「第三百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
語り伝えまするところでは、むかしダマスの、ウマイヤ朝|教王位《カリフ》の王座に、ひとりの王様がいらっしゃいました――ひとりアッラーのみ王者にましまする。――お名前をアブドゥルマリク・ベン・マルワーン(1)と申し上げました。王は、王国の賢者たちと、われらの主君スライマーン・ベン・ダーウド(その上に祈りと平安あれ)のことや、その御徳《おんとく》のことや、寂寥の地の野獣とか、空中に住まう鬼神《アフアリート》とか、海と地下の魔神《ジン》などに対する、その限りない御威力のことについて、しばしば語り合うのをお好みでした。
ある日のこと、教王《カリフ》は、悪魔のような形をした奇態な黒い煙がなかに収められているという、古い銅の壺の話を聞いて、この上もなく驚かれ、これほど確かな事実の真実性をば、疑うような御様子でしたので、その場に居あわせた人々のなかで、有名な旅行者のターリブ・ベン・サハルが立ちあがりまして、今聞いた話は正真正銘のものと断言し、次のように付け加えました、「事実、おお信徒の長《おさ》よ、その銅の壺と申しますのは、古き昔に、スライマーンの命に逆らいました妖霊どもの閉じこめられている壺でございまして、ひとたび恐ろしい封印を施されて、西アフリカ州のマグリブの果《はて》の、吠え猛ける海原の底に、投げこまれた壺に外ならないのでございます。それから洩れ出る煙は、単に、|鬼神ども《アフアリート》の凝り固まった魂でございまして、|鬼神ども《アフアリート》は、自由な大気のなかに出ますと、最初の凄まじい形に還らずにはいないのでございまする。」
こういう言葉を聞いて、教王《カリフ》アブドゥルマリクの好奇心と驚きとは非常に増し、ターリブ・ベン・サハルに仰せられました、「おお、ターリブよ。煙になった鬼神《アフアリート》が収められているその銅の壺の一つを、余はぜひ見たい。それは叶うことであろうか。叶うとあらば、余はなんどきなりと、みずから必要な探索をしに出むくをいとわぬ。言うがよい。」彼は答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、君はその品を、お動き遊ばさず、やんごとなき御身をお疲らせにならずとも、この場で御覧になれまする。そのためには、マグリブ地方の代官《ナワーブ》、太守《アミール》ムーサへ、御親書を一通お送りなさりさえすれば、よろしゅうございます。と申しまするは、麓《ふもと》にそれらの壺が沈められておる海のござりまする山は、足を濡らさずに通ることのできる細長い地続きによりまして、マグリブにつながっているからでございます。ムーサ公は御親書を受け取られましたら、われらの御主君|教王《カリフ》の御命令を、実行なさらずにはおられぬでございましょう。」
この言葉には、アブドゥルマリクを推服させる力がありましたので、教王《カリフ》は直ちに、ターリブにこう申されました、「おおターリブよ、代官《ナワーブ》ムーサ公にわが書翰を届けに、マグリブまで速やかに赴くことのできる者として、その方に勝る者はいるかな。余はその方に、旅費として必要と思われるだけのものを、わが宝蔵より取り出し、従者として入用なだけの人員を伴う、あらゆる権限を与えるぞよ。されど、おおターリブよ、急いでくれよ。」そして即刻、教王《カリフ》はお手ずから、ムーサ公宛に一通の親書をしたため、密封して、ターリブに渡されますと、彼は御手の間の床に接吻して、ひとたび用意が成ると、大急ぎでマグリブさして出発し、恙《つつが》なく到着いたしました。
太守《アミール》ムーサは喜んでターリブを迎え、信徒の長《おさ》の使者に対して払うべきあらゆる尊敬をもって、これを遇しました。そしてターリブは御親書を渡しました。すると、ムーサ公はこれを通読して、事の趣きを了解いたしますと、これをわが唇にあて、それからその額にあてて、申しました、「仰せ承わり、仰せに従い奉る。」そして、すぐに長老《シヤイクー》アブドサマードをそばに召し出しましたが、この者は、かつて地上の棲み得るあらゆる地方を遍歴して、今は、旅の生涯中に得たその知識を、後の世に伝えるために、丹念に記録しながら、老後の日々を送っている人でございました。この長老《シヤイクー》が罷り出ますと、ムーサ公はうやうやしく礼をして、これに申しました、「おお、長老《シヤイクー》アブドサマードよ、信徒の長《おさ》からの御命令があり、余はこれよりわれらが主スライマーン・ベン・ダーウドによって、叛逆の魔神《ジン》どもの閉じこめられた古代の銅の壺を、求めに赴かねばならぬ。これらの壺は、ある山の麓に続く海底に横たわっているのだが、その山と申すのは、このマグリブの辺境の果てにあるらしい。余は久しい以前から、全国を隈なく存じておるとは申せ、その海のことも、かしこに赴く道も、かつて耳にしたことがない。しかしその方は、おお長老《シヤイクー》アブドサマードよ、その方は全世界を遍歴した者なるがゆえに、その山と海との存在を、知らざることはないに違いない。」
長老《シヤイクー》は一時《ひととき》の間思い耽って、そして答えました、「おお、太守《アミール》ムーサ・ベン・ノサイール(2)よ、その山もその海も、拙老の記憶にないわけではござりません。しかし今日まで、志にもかかわらず、拙老自身、そこへ赴くことは叶いませんでした。かしこへ行く道は、諸方の用水溜に水乏しきため、極めて困難でございます。また、そこへ行き着くためには、たっぷり二年と数カ月もかかりますし、そこから戻りますためには、それ以上の年月を要しまする。それも、今までかつて果して住民の生存するやいなや判明せぬその地方から、無事戻れたといたしましてのことでござりまするぞ。これなる住民どもは、噂によりますると、件《くだん》の山の頂上そのものに建てられた町に、住んでいるとのことでございまして、その町へは未だ何ぴともはいり了《おお》せた者なく、その名は『青銅の町』と申しまする。」
かく言い終えて、老人《シヤイクー》は口をつぐみ、なおも一瞬思い耽って、付け加えました、「その上、おおムーサ公よ、これはお隠し申すべきではござりませぬが、そこへ赴く道には、行く先々に、様々な危険と恐怖に満ちた事どもが、まき散らされておりますし、更にまた砂漠を一つ横断せねばなりませず、そこには、数々の鬼神《アフアリート》や魔神《ジン》が住んでいて、太古の昔より、人間どもの足に穢されておりませぬこれなる地方を、守り固めておりまする。事実、おおベン・ノサイール公よ、アフリカ州の西の果《はて》なるこれらの地方は、人の子らには禁断の地域と、御承知あれ。人の子らのうちただ二人のみ、これなる地方を通過し得ました。一人はスライマーン・ベン・ダーウド、他の一人は、双角のアル・イスカンダール(3)だけでございました。そしてこの消え去りました時代以後、沈黙が、これら曠漠たる地の主《あるじ》となっておりまする。さればもし君が、不可思議なる障碍や危難を物ともせず、あくまで教王《カリフ》の御命令を遂行あそばされようとして、道筋も知られぬ国へ、君の下僕たるこの拙者以外に案内者もなく、この御旅行を試みなさろうというのでござりますならば、千頭の駱駝の背に、水を満たした革袋を積み、他の千頭の駱駝の背に、食料や必需品などを積みこませなさりませ。護衛兵は能うかぎり数少なくなさりませ。と申すは、これよりわれわれがその領土を冒しに赴きまする闇の妖魔どもの憤怒からは、いかなる人力をもってしても、われらが身を守り了せざるべく、従って、威《おど》しがましく効なき武力を誇示いたして、先方の気色を損ずるは不得策でございます。して、万端準備が整った節には、ムーサ公よ、御遺言をなさいませ。その上で出発いたしましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十夜になると[#「けれども第三百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
この言葉を聞いて、マグリブ地方の総督、ムーサ公は、アッラーの御名《みな》を念じてから、一瞬もためらおうとはしませんでした。そして麾下の兵士の将帥や、王国の重立った者どもを集め、これらの人々全部の前で、遺言を述べ、後継者として、息子のハールーンを指名しました。それがすむと、件《くだん》の旅支度を調えさせ、選び出した数人の者しか連れず、そして長老《シヤイクー》アブドサマードと、教王《カリフ》の使者ターリブとを伴い、飲料水を背負った千頭の駱駝と、食料や必需品を背負った別の千頭の駱駝を従えて、砂漠への旅に出たのでございます。
一行は、いく月もいく月も、平坦な寂寞境を進んでゆきましたが、その途上、凪《なぎ》の折の海原のように平らで茫漠とした、この地域に住む生物《いきもの》一つにも、出会いませんでした。旅はこのようにして、無限の沈黙のただ中を通って続けられましたが、とうとうある日のこと、遥か遠くに、地平線とすれすれに、きらめく一塊の雲のようなものを認め、それに向って進んでまいりました。そして一同はそれが、シナの鋼鉄で作られた高い城壁をめぐらし、円周が四千尺もある、四列の黄金の柱で支えあげられている建物だということが、わかりました。しかし、この建物の円蓋《ドーム》は鉛でできておりまして、大空の下《もと》で目に触れる唯一の住人たる、幾千羽ともない烏《からす》の群れの憩い場所となっておりました。黄金の板が貼りつけられた、がっしりした黒檀作りの、正門の扉が開かれた大きな壁の上には、赤い金属で作られた大きな板金が嵌めこまれ、その板金には、次のような言葉が、イオニア文字で刻まれているのが読まれました。これらの言葉を、アブドサマード長老《シヤイクー》が解読して、ムーサ公とその従者たちに訳して聞かせました。
[#ここから2字下げ]
かつて支配者たりし者どもの物語を知らんがためには、ここに入れ。
彼らは過ぎ逝けり。わが塔の蔭に休ろう暇も乏しかりき。
彼らは死によりて影のごとくちり散じぬ。死によりて藁屑のごとくに消え失せぬ。
[#ここで字下げ終わり]
ムーサ公は、敬うべきアブドサマードが翻訳してくれたこれらの言葉を聞いて、極度に感動して、呟きました、「アッラーのほかに神はなし。」次に言いました、「はいろう。」そして連れの人々を従えて、正門の閾《しきい》を越え、宮殿のなかへはいったのでございます。
一同の前、黒い大きな鳥の群れが黙々と飛びまわっているなかに、聳え立つ裸の花崗岩に刻まれた一基の塔が、忽然として現われ出ましたが、この塔の頂上は、視野の外に没し、その脚もとには、百個ほどの墓石が円く四列に並んでおりました。これらの墓石は、ひとつの堂々とした水晶の石棺を取り巻いていまして、その石棺の周囲には、宝石を嵌めこんだ黄金の字体を用いた、イオニア文字で、次のような記銘が読まれたのでございます。
[#ここから2字下げ]
享楽の陶酔は熱病の狂乱のごとくに過ぎ去りぬ。
いかに数々の出来事をわれは目睹せざりしか。
わが光栄の日々にはいかに輝かしき声名をわれは享けざりしか。
いかに数々の首都のわが馬蹄の高鳴る響きに轟き渡らざりしか。
いかに数々の町を、破壊の熱風《シムーン》、われは劫掠せざりしか。いかに数々の帝国を雷《いかずち》のごとく、われは破壊せざりしか。
いかに数々の君主をわれはわが戦車の後《しり》えに曳きずらざりしや。
いかに数々の掟をわれは宇内《うだい》に敷かざりしか。
しかも今やかくのごとし。
わが享楽の陶酔は熱病の狂乱のごとくに過ぎ去りて、砂上の水泡《みなわ》よりもその跡を止めず。
死は、われを襲いたるも、わが権力はそを追い払うことなく、わが軍国もわが廷臣らも、死よりわれを守り得ることなかりき。
旅人よ、されば聞け、わが生ける間は、わが唇のかつて言い出《い》でざりし言葉を。
汝の魂を保て。人の世の静けさを、人の世の静けき美しさを、安らかに楽しめよ。明日は、死は汝を奪い去らん。
明日は、大地は汝を求めて呼ぶ人々に答うべし、「かの人はみまかりぬ。わが胸は永劫に抱き収めし者どもを返すこと遂になし」と。
[#ここで字下げ終わり]
アブドサマード長老《シヤイクー》の翻訳したこれらの言葉を聞いて、ムーサ公はじめ一行の人々は、涙を禁じ得ませんでした。そして追悼の言葉を繰り返しつつ、その石棺と墓石の前に、長い間立ちつくしました。それから、黒檀の双の扉の付いた門によって閉じられている、塔のほうへと進んでゆきましたが、この門の上には、次のような記銘が読まれ、前と同じく、宝玉を嵌めこんだイオニア文字で、刻まれておりました。
[#ここから2字下げ]
永遠なる者、不動なる者の御名《みな》において、
力と権勢との御主《おんあるじ》の御名において、
この地域を経めぐる旅人よ、外見を誇らざることを学べよ。外見の輝きは恃《たの》むべからず。
わが例《ためし》にかんがみて、迷妄に眼を昏《くらま》せられざることを学べよ。迷妄は汝を奈落に突き落すべし。
われは汝にわが権勢を語らん。
われはわが厩のうちに駿馬一万頭を擁し、わが軍に捕えられし諸国の王にその世話をなさしめたり。
われはわが私邸に、妻妾として、諸国の王の血を引ける千人の処女と、その乳房は誇らしく、その美は月の輝きを蒼白ならしむるがごとき乙女のうちより選ばれたる、他の千人の処女とを擁したり。
わが妃《きさき》らは、後の世に、勇猛獅子のごとき千人の王子を与えたり。
われは莫大なる財宝を持ちたりき。しかしてわが支配の下《もと》に、東洋より西洋の辺境の果てにいたるまで、もろもろの人民と国王はわが軍勢に屈伏して、低頭せり。
かくてわれはわが権勢こそ永遠にして、わが生は世々にわたりて連綿たるべしと信じてありし折から、突如として、死せざる御方《おんかた》の取り消し能わぬ綸言《りんげん》をわれに告ぐる声ぞ響ける。
このときわれはわが天命を省みぬ。
われは槍と剣を携えし数千の騎兵、歩兵を集めたり。
またわれに貢物を奉る諸王、わが帝国の主長、わが軍団の将帥を集めたり。
かくして彼ら一同の前に、われはわが財宝を収めし小箱大箱を持ち来たらしめ、一同に向いて言えり、
「これなる財宝、これなる数万片(4)の黄金白銀《こがねしろがね》は、もし汝らにして、わが地上の生命をただ一月なりと延ばし得ば、汝らに取らすべし」と。
されど一同は眼を伏せて、沈黙を守りぬ。かくしてわれは死せり。しかしてわが宮居は死の宿とはなりぬ。
もし汝わが名を知りたくば告げん。わが名はクーシュ・ベン・シャッダード・ベン・アード大王(5)なりき。
[#ここで字下げ終わり]
これを聞いて、ムーサ公はじめ一行の人々は、号泣いたしました。それから後、一同はその塔のなかへはいりまして、空虚と沈黙との住む、いくつもの広々とした部屋を歩きまわり始めました。こうやって進むうちに、とある一室に到着しましたが、それは他の部屋よりも大きく、円蓋型の天井を持ち、この塔のなかで、家具を一つ備えたただ一つの部屋でした。その一つの家具というのは、精巧な彫刻を施した白檀の大きな卓子で、その上には、次のような記銘が、前のと同じような美しい文字で、くっきりと浮かび出ていました。
[#2字下げ] 疇昔《むかし》この卓子に千人の隻眼の王と千人の全き眼を持てる王と坐しいたりき。今や墳墓のなかにてそのいずれも等しく盲人たり。
この神秘を前にして、ムーサ公の驚きは、つのるばかりでございました。そして、その義を解きかねるがままに、これらの言葉を持参の羊皮紙に書き写しました。それから、この上もなく感動して、この宮殿を出、一同とともに、「青銅の町」への旅を再び続けたのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十一夜になると[#「けれども第三百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
一行は、第一日、第二日、第三日と、夕方まで歩きました。すると、西に没する赤い太陽の光芒を浴びてくっきりと、高い台座の上に立ちつくしている、じっと動かぬ一人の騎馬武者の姿が、現われ出るのが見えました。地平線に燃え上る太陽と同じ色をして、燃え立つ焔かとも思われる、大身《おおみ》の槍をふりかざしていました。
一同がこの現われ出た者の間近まで来たとき、この騎士もその馬も台座も、青銅でできていることがわかりましたが、槍の穂先の、太陽の残光に照らされた側には、次のような言葉が燃え立つ文字で刻まれておりました。
[#ここから2字下げ]
禁断の地まで分け入る大胆不敵の旅人よ、今は汝らは来たりし道を戻ることかなわじ。
「町」への道を知らずば、汝らが腕の力を振るいて、台座の上にわれを動かし、わが止まりて、面《おもて》を向けたる方《かた》へと進みゆけ。
[#ここで字下げ終わり]
そこでムーサ公はこの騎士に近づき、片手で押しました。すると忽ち、稲妻の速さで、騎士はそのままぐるりと廻転し、今まで旅行者たちが辿ってきた道とは全然反対の方角へ、面を向けて止まりました。するとアブドサマード長老《シヤイクー》は、自分が全く考え違いをしていたことを悟り、この新しい方角が正しいということを認めました。
ただちに一行は後戻りして、この新しい道を辿り始め、このようにして、何日も何日も旅を続け、とうとう、夜の落ちかかる頃に、一基の黒い石の柱の前へ到着いたしました。この柱には、何か奇態な生物《いきもの》が鎖でつながれておりまして、半身は深く地中に埋まっておりましたので、ただその体《からだ》の半分だけが、浮び上って見えました。地面から出ているこの胴体は、地獄の妖霊どもの力でそこへ押し出された、何か物すごい誕生物のように見えました。それは葉が落ちつくした棕櫚の古木の幹のように、黒くて太い胴でした。大きな翼が二枚と、手が四本付いておりましたが、そのうちの二本の手は、鋭い爪の生えた獅子の脚のよう。野生の驢馬の尾のような剛毛の蓬々《ぼうぼう》とした頭髪が、物すごいその頭蓋の上で、荒々しく動いていました。その眼の窪《くぼみ》のなかでは、赤い双の眼が爛々と燃え、一方牛の角を左右に生やした額には、ただひとつの眼が穿たれ、その独眼はじっと動かずに見開かれていて、虎や豹の眼のように、緑色の光を投げているのでした。
旅行者たちを眺めますと、この胴体は腕を動かし、凄まじい叫び声をたてながら、絶望的な身悶えをしまして、あたかも黒い柱にわが身をいましめている鎖を、断ち切ろうとするかのようでした。そこで一行は、この上もない恐怖に捉えられ、進む力も退く力もなくなって、その場に立ちつくしてしまいました。
すると、ムーサ公は、アブドサマード長老《シヤイクー》のほうに向いて、訊ねました、「おお尊ぶべき老人《シヤイクー》よ、これはいったい何ごとであるか教えてもらえまいか。」長老《シヤイクー》は答えました、「アッラーにかけて、おお太守《アミール》よ、拙老にも理解いたしかねまする。」するとムーサ公は言いました、「では、もっと近くへ寄って訊ねてみてくれ。多分、このもの自身が仔細を明らかにしてくれるであろう。」そこでアブドサマード長老《シヤイクー》は、躊躇の色を示そうとはせずに、その怪物に近寄って、叫びました、「可見および不可見の世界をその手に掌握する主《あるじ》の御名《みな》によって、どうかわしに答えてくれよ。いったい汝は何者か、いつからこうやってそこにいるのか、またこのような奇怪な刑罰を蒙るにいたった理由《いわれ》は何か。」
すると、その胴体は吠えました。そしてムーサ公と、アブドサマード長老《シヤイクー》と、その一行の人たちの聞いた言葉は、次のようなものでございます。
おれは魔神《ジン》たちの父、魔王《イブリース》の後裔の鬼神《イフリート》だ。わが名は、ダエーシュ・ベン・アラエマーシュ(6)という。おれは「不可見の力」によって、この世の果てるまで、ここに繋がれている。
その昔、「海原の王」によって統治されたこの地方に、「青銅の町」の守護女神として、朱瑪瑙《あかめのう》でできた偶像があったが、おれはその番人でもあり、その住人でもあった。事実、おれはその像のなかにわが住居を営んでいた。あらゆる国々から、人々はおれを介して運勢を訊ね、おれの下《くだ》す神託やおれの占筮予言を聞きに、群れをなして押し寄せてきた。
おれ自身のお仕え申す海原の王は、その最高指揮の下に、スライマーン・ベン・ダーウドの命令に逆らった精霊の全軍団を動かしていた。そして、王とこの恐るべき魔神《ジン》の主との間に戦端が開かれた場合には、おれがこの軍団の長となることになっていた。そしてその戦いは、事実ほどなく勃発した。
海原の王は、美しい娘を一人持っていて、その艶名はスライマーンの耳にも達していたのだ。スライマーンは、この娘をその后《きさき》の一人にしようと望み、使者を海原の王へ送り、結婚を申し込むと同時に、瑪瑙の像を毀《こぼ》ち、アッラーのほかには神はなく、スライマーンはアッラーの預言者であることをも認めるようにと、厳命してきた。そしてその希望に直ちに従わぬ折には、わが逆鱗《げきりん》と復讐を蒙るぞと脅やかした。
そこで海原の王は大臣《ワジール》たちや魔神《ジン》の長どもを召集して、一同に言った、「今や、スライマーンはあらゆる種類の災厄をもって余を脅やかし、わが娘を与えよ、汝らの長ダエーシュ・ベン・アラエマーシュの住居たる像を毀《こぼ》ち去れと、強要いたし来たった。このような脅迫をいかに思うか。余は平身低頭すべきか、それともこれに抵抗すべきか。」
大臣《ワジール》たちは答えた、「おおわが王よ、スライマーンの権勢をお恐れになるとは、何事でござる。われわれの兵力も、少なくとも、やつの兵力と等しく恐怖すべきものがござる。その上、やつの兵力など、われわれは立派に殲滅できるでござろう。」それから、大臣《ワジール》たちはおれのほうを向いて、意見を訊ねた。そこで、おれは言った、「スライマーンへのわれらの唯一の返答は、その使者に笞刑《ちけい》を加えることでござる。」事は直ちに運ばれた。そして、われわれはこの使者に向って言った、「今は汝の主人のもとへ戻って、ありし次第を報告せよ。」
スライマーンはその使者に加えられた仕打ちを知った時、憤慨の極に達し、直ちに、精霊、人間、鳥、獣《けもの》など、動かし得られるありとあらゆる兵力を召集した。人間の戦士の指揮は、アサフ・ベン・バルキヤにまかせ、六千万の数にのぼる精霊の全軍団と、全世界のあらゆる地点、地球上の島々と海原から呼び集めた、獣と猛禽《もうきん》の軍団の指揮は、鬼神《アフアリート》の王ドムリヤートに委ねた。それがすむと、スライマーンは、この巨大な軍勢の先頭に立って、わが君主、海原の王の国を侵し来たった。そして到着するなり、その軍勢に戦闘隊形を取らせた。
まず、両翼には、四列に獣を並ばせ、空には、大きな猛禽を配置し、わが方《かた》の動静を探る歩哨の役をさせたが、これなる猛禽は、戦士たちに突如として襲いかかり、その眼を刳り取ろうというのであった。スライマーンは、前衛を人間の軍団で、後衛を精霊の軍団で固めた。そして右翼には、大臣《ワジール》アサフ・ベン・バルキヤを、左翼には、空の鬼神《アフアリート》の王ドムリヤートを配した。自身は中央に止まり、方形に並んだ四頭の象に担がれた、雲斑石と黄金との玉座に腰を下ろしていた。そして、戦闘開始の合図を下した。
たちまちどよめきが起り、精霊や人間や猛禽や軍用の野獣の疾駆する足音、騒然たる飛翔と共に、ますます喧《かま》びすしくなって行った。そして地殻は、物すごい蹂躙《じゆうりん》の下《もと》に轟き、天空は、幾百万もの翼のはばたきと、雄叫びと喚《わめ》き声と唸り声で、震撼した。
おれは、おれのほうで、海原の王に服従している精霊の軍団の前衛を指揮していた。おれはわが部隊に合図を与え、その先頭に立って、ドムリヤート王の指揮する、仇敵の精霊の軍団へと殺到した。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十二夜になると[#「けれども第三百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
そして、おれ自身は敵将を攻撃しようと努めたが、その時、相手は突然、炎の山に姿を変え、滝津瀬のように炎を吐き始めて、味方のほうへ火の河となってなだれ落ちる飛散物の下へ、おれを打ち倒し、わが息の根を止めようとした。おれは長い間、部下の者を激励し、防禦に努め、必死になって攻め立てた。そして、敵兵の数が疑うべくもなくおれを圧倒せんとしていることが、はっきりわかった時、はじめておれは退却の合図をし、宙を翼で切りながら逃れ去り、後退した。しかしわれわれはスライマーンの命令で追跡され、四方八方から同時に、敵の精霊、人間、獣、鳥どもに取り巻かれてしまった。そしてわれわれは、ある者は殺され、他の者は四足獣の蹄に踏みにじられ、また他の者は眼を刳り抜かれ、肉をずたずたにされて、空の高みから突き落されたのだ。おれ自身は、三カ月にわたる逃走のうちに、遂に追いつかれてしまった。そこで、捕えられて縛り上げられ、世の果てるまで、この黒い柱に繋がれているという刑を受けたのだが、おれの配下の精霊は全部、捕虜となり、煙に姿を変えられて、銅の壺に閉じこめられてしまった。それらの壺は、スライマーンの玉璽をもって封印されて、「青銅の町」の城壁を洗う海原の底深く、投げこまれてしまったのであった。
この国に住んでいた人間どもはというと、われわれの勢力が破滅して以来、鎖に繋がれている身として、彼らがどうなったか、おれもしかとは存ぜぬ。しかし、もし汝らが「青銅の町」へ赴くならば、おそらくやつらの痕跡も見られようし、その物語も知るであろう。
この胴体が語り終りますと、彼は狂気のように暴れ出しました。そこでムーサ公とその一行とは、この怪物が自由の身になるとか、その努力を援けよと強いられたりしては大変と思いまして、これ以上そこに止まるのを望まず、急いで「青銅の町」を指して道を続けましたが、すでに、その町の塔と城壁の側面が、遥か遠くに、夕《ゆうべ》の赤のなかに見られるのでありました。
町へもうほんの僅かの距離まで来た時、折しも日が暮れて、周囲の事物は、何か敵意を抱く気配となりましたので、彼らは城門に近づくのは、朝まで待つことにしました。そして、旅の疲れで困憊《こんばい》しておりましたゆえ、夜を過ごすために天幕《テント》を張りました。
暁の微光が、東の山々の頂きを輝かし始めるようになるや否や、ムーサ公は連れの人々を呼び醒まし、一同と共に出発して、入口の一つへ辿り着こうと思いました。すると、朝の光のなかで、一同の眼前に、青銅の城壁が、物すごく屹立《きつりつ》しているのを見ましたが、それは実になめらかで、さながら流しこまれた鋳型から、取り出されたばかりの真新しいものとも言えるばかりでした。その高さときては、周囲を取りまく巨大な山々の前景を成すかに見えるほどでして、この山々の山腹に、これらの城壁が、何か原初の金属に直接《じか》に刻まれて、嵌《は》めこまれているかのようでした。
この光景に、一同身動きもできぬ驚きのうちに、釘付けになっていましたが、ようやくそれを脱することができると、この町へはいる門はと、目で探しました。しかし門は一つも見つかりません。そこで一同は、入口を見つけたいものと思いつづけながら、城壁に添うて歩き続けました。しかし入口は全然見当りません。そして一同、なおも何時間も歩き続けましたものの、戸口も、何か壁の割目のようなものも、その町へ向ってくる人間にも、出て来る人間にも、出会いませんでした。すでに陽も高くなっている時刻なのに、城壁の内側にも外側にも、物音ひとつ聞えず、また城壁の頂きにも麓にも、何の動きも認められませんでした。しかしムーサ公は、希望を失わずに、一行の者どもを励まして、なおも歩き続けました。そして、このようにして夕方まで歩きましたが、相も変らず、眼前には、青銅の城壁の厳とした線が、伸び続いているのでございました。この城壁は、地面の起伏、谷や丘に従っておりまして、大地の胸そのものから現われ出たような風でした。
そこでムーサ公は、休息と食事のために、一行に休止を命じました。そして自身もしばらく腰を下して、この事態を熟慮することにしました。
公は休息をとると、連れの人々に、そのままここに止まり、自分が戻ってくるまで、宿営地の番をしているようにと申し渡し、アブドサマード長老《シヤイクー》とターリブ・ベン・サハルとを従え、とある高い山へ共に登りましたが、それは周囲の情況を視察し、この町を偵察しようとの意中でした。この町は……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十三夜になると[#「けれども第三百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
……この町は、あくまで人間どもの企てによっては、犯されまいとするのでございました。
最初は、暗闇のなかで、何も見えませんでした。というのは、夜はすでに平野の上に闇を濃くしていたからです。しかし突然、東方の微光が一段と強くなりまして、山頂に素晴らしい月がぬっと出て、ひとまたたきをもって、天地を照らし出したのでございます。そして彼らの足下には、息を止まらせるような絶景が、繰りひろげられました。
彼らは夢幻の町を見下ろしたのでございます。
天上から落ちかかる白い瀑布の下に、夜闇に沈んだ地平線の方、眼路《めじ》の限り遥かまで、数々の宮殿の円蓋や、家々の露台や、静かな庭園などが、青銅の囲いのなかに段をなして累々と重なり、月光に輝く幾条もの運河が、仄暗い堂宇の間を、無数の明るい屈曲を描いて蜒々《えんえん》とうねり、一方、その尽きるところに、金属の海原が、その冷やかな胸のうちに、反映する空の光を宿しておりました。そのため、城壁の青銅と、円蓋のきらめく宝石と、純白の露台と、運河と、海原全体とが、西方にのびひろがる闇と共に、夜の微風と魔法の月の下で、渾然と入りまじり溶けあっておりました。
しかしながら、この宏大な世界は、墓場のなかのようなあまねき沈黙のうちに、埋められておりました。およそそのなかで、人間が生きているという気配は、全然ありませんでした。しかし、一つ一つ堂々とした台の上に乗った青銅の丈高い彫像や、大理石のなかに刻まれた大きな騎馬武者像や、甲斐なき翼を拡げて飛ぶ姿の羽根の生えた獣などが、いずれも同じ凝結した姿態のうちに、側面を見せているのでした。そして空には、建物とすれすれに、この凝乎不動の上に動く唯一の生物《いきもの》として、数千の巨大な吸血鳥が、ぐるぐる飛びまわっていて、一方、立ちこめた沈黙に穴をあけつつ、姿の見えぬ梟《ふくろう》が、哀悼の叫びと不吉な呼び声を、死したる宮殿と眠り入った露台の上に、投げかけておりました。
ムーサ公とその二人の道連れとは、己が眼にこの奇怪な光景を満喫させおわると、この広漠たる町の中に、誰か生きた人間の跡形も認められなかったのに、この上なく驚きながら、山を下りました。そして青銅の城壁の下に着きましたが、その場所には、イオニア文字で四つの記銘が刻まれてあるのを見ました。アブドサマード長老《シヤイクー》はすぐさまこれを解読して、ムーサ公に訳して聞かせました。
最初の記銘にはこう記してありました。
[#2字下げ] おお人の子よ、およそ汝が慮《おもんばか》りのいかに空しきよ。死は近し。将来に望みを託することなかれ。一人の「主《ぬし》」ありて、もろもろの民族と軍団を四散せしめ、もろもろの王者を、広大なる豪華の宮居より、墳墓の狭隘なる住居に突き落したもうなり。しかして王者らの魂は、大地の平等のうちに目覚めて、自らは灰と塵の山と化せるを見る。
この言葉に、ムーサ公は叫びました、「おお崇高なる真理よ。おお、大地の平等のうちに魂が目覚めるとは。」そして直ちにこれらの言葉を、持参の羊皮紙に書き写しました。けれどもすでに長老《シヤイクー》は、第二の記銘を訳しておりました。それは次のようなものでございます。
[#2字下げ] おお人の子よ、何ゆえにわれとわが手をもて盲《めしい》となるや。いかにして空しき世に、信を置き得るや。そは束の間の宿り、仮の住家なるを知らずや。言え、もろもろの帝国の礎《いしずえ》を据えしもろもろの王者は今いずくぞや。イラク、イスパハーン、はたホラーサーンの主《あるじ》、征服者らは、今いずくにあるや。彼らはかつて世にあらざりしかのごとく去り逝きぬ。
ムーサ公はこの記銘をも同じく書き写し、そして深く感動して、第三番目の記銘を翻訳する長老《シヤイクー》の言葉に、耳を傾けました。
[#2字下げ] おお人の子よ、ここに日々は流れゆく。しかも汝は、己が生命が末期《まつご》に向いて進みゆくを、余所事《よそごと》のごとくに眺む。汝の主人《あるじ》、主《しゆ》の御前《みまえ》の審判の日を思え、インド、シナ、シナイ、はたヌビアの君主らは、今いずくぞや。仮借なき死の息吹《いぶき》は、彼らを虚無のうちに打ち倒しぬ。
するとムーサ公は叫びました、「シナイ、はたヌビアの君主らは今いずくぞや。虚無のうちに打ち倒しぬ、か。」ところで、第四番目の記銘にはこう記してありました。
[#2字下げ] おお人の子よ、汝は快楽《けらく》のなかに、己が魂を溺れしめ、汝が一挙手一投足につきまといて、獅噛《しが》みつく死の、己が肩上にあるを見ず。世は蜘蛛の巣のごとく(7)にして、この脆さの蔭よりして、虚無は汝を窺う。宏大なる希望を抱きたる人々とその束の間の企図は、今いずくぞや。彼らは数々の宮居を墓と換え、その宮居は今は梟の棲居とぞなる。
ムーサ公はその時わが感動を制し切れずに、額を双の手で蔽うて、泣き始め、久しきにわたりました。そしてこう呟きました、「おお誕生と死との神秘よ。死なねばならぬのなら、なぜ生れるのか。死が生を忘却させるのなら、なぜ生きてゆくのか。さあれ、ひとりアッラーのみ、もろもろの天命を知りたまい、われらの義務は、黙々として、従順に、頭《こうべ》を垂れることにあるのだ。」こう反省してから、公は連れの両人とともに、再び野営地への道を辿りまして、部下の人々に命じて、木や枝で長くて岩乗な梯子を一つ作るために、即刻仕事に取りかからせました。その梯子があれば、城壁の上まで登りつけますし、そこから、この入口のない町のなかへ下ることも、試みられるというわけでした。
部下の人々はすぐに、木材と乾いた太い枝などを探し始め、剣や小刀で全力あげて凸凹を削り取り、自分らのターバンや腰帯や駱駝の綱や装具の革紐革帯などで、それらを結び合わせまして、城壁の頂上まで登れるだけの高さを持った梯子を、首尾よく作りあげました。そこで一同は、この梯子を一番工合のよい場所まで持ってゆき、大きな石を持ってきて、四方八方からそれを支え、アッラーの御名《みな》を念じつつ、静かにそれを登り始めたのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十四夜になると[#「けれども第三百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
……静かにそれを登り始めたのでございます、ムーサ公を先頭にして。けれども何人かの者は、露営地およびその付近を監視するために、城壁の下に残りました。
ムーサ公と同行の人たちは、城壁の上を歩き始めて、しばらくの間進んでゆきますと、青銅の一つの戸口を挟んだ二つの塔の前へ、遂に着きました。この戸の二つの扉は、実に見事にぴったり閉じ合わされていて、針の先でもその隙間へ差しこみかねるくらいでした。この戸口の上には、腕を伸ばし手を開いた、黄金の騎士像が浮彫りにしてありました。そしてその掌《たなごころ》には、イオニア文字がいくつか刻まれてありましたが、アブドサマード長老《シヤイクー》はすぐにその意味を解き、次のように訳しました、「わが臍にある釘を十二回こすれ。」
するとムーサ公は、この言葉にすっかりびっくりしましたものの、その騎士に近寄りますと、なるほど、ちょうどその臍の真中に、一本の黄金の釘が刺さっているのを認めました。公は手を伸ばし、その釘を十二回こすりました。そして十二回こすると、双の扉はひろびろと開き、すぐそこには赤い花崗岩造りの階段が見え、それがぐるぐる廻りながら奥のほうへ続いていました。直ちにムーサ公とその同行の人々は、この階段の踏段を降りますと、とある部屋の中央に出ました。この部屋のすぐ前には街路があり、そこには弓や剣で身を固めた警護の者どもが、たむろしていました。そこでムーサ公は言いました、「不穏な事にならぬうちに、こちらから行って話しかけてみよう。」
そこで、一同はこれらの警護の者どもに近づきましたが、ある者は楯を腕にし、剣を抜き放って立っていましたし、他の者は坐ったり、横になったりしていました。そこでムーサ公は、一同の頭《かしら》と覚しき人物のほうを向いて、愛想よく平安を祈りました。ところが、その男は身動きもせず、平安の挨拶《サラーム》も返しませんでした。その上他の警護の者どもも同じように、じっと眼を据えたまま小揺ぎもせず、これら新来の客たちには全く注意せず、その姿が見えない場合と同じことでした。
そこでムーサ公は、これらの警護の人々がアラビア語を解さぬのだと思い、アブドサマード長老《シヤイクー》に申しました、「おお長老《シヤイクー》よ、貴殿の心得るあらゆる言葉を用いて、話しかけてみてくれよ。」そこで長老《シヤイクー》は、先ずギリシア語で話しかけ始めました。それから、その試みが無駄なのを見て、インド語、ヘブライ語、ペルシア語、エチオピア語、スーダン語で話しかけました。しかし相手のうち誰ひとり、これらの言葉を一語も解する者はありませんでしたし、わかったという何か身振りをする者もおりませんでした。そこでムーサ公は申しました、「おお長老《シヤイクー》よ、これらの警護の者どもは、貴殿がこの国の挨拶《サラーム》の形だけでもせぬので、あるいは気を悪くしているのかも知れぬ。されば貴殿の知っておるあらゆる国々の流儀で、挨拶《サラーム》をしてみねばなるまい。」そこで尊敬すべきアブドサマードは、今まで経めぐったあらゆる地方の民で行なわれている、あらゆる挨拶《サラーム》の仕草を、すぐさまやってみました。しかしどの警護の者も見動きもせず、どれも始めと同じような姿勢で、じっとしているのでした。
これを見て、ムーサ公は驚きの極に達し、これ以上たってやってみようとは思いませんでした。公は連れの者どもについて来るように言って、道をつづけましたが、どういうわけであのように皆が黙りこくっているのか、合点がゆきませんでした。またアブドサマード長老《シヤイクー》は、独りごとを言っていました、「アッラーにかけて、わが数々の旅の間にも、このように不思議なことは、かつて見たためしはなかった。」
一同はこうやって歩き続けましたが、とうとう市場《スーク》の入口に着きました。戸が開かれていたので、なかへはいりました。市場《スーク》は売ったり買ったりしている人々でいっぱいでした。そして店屋の店先には、驚くばかり沢山の商品が並べてありました。ところが、ムーサ公はじめ連れの人たちが気づいたのは、売手も買手もすべて、またこの市場《スーク》にいるあらゆる人々も、皆申し合わせたように、この一行を認めるやいなや、その時の挙動や動作のまま、はたと動かなくなってしまったことでした。そして、まるでこれらの外国人が出て行ってくれれば、すぐにも日毎の営みをやり続けるのだが、と言わんばかりでした。さりながら、この一行がいることには少しも注意を払わないように見え、軽蔑と黙殺とによって、この闖入に対する自分たちの不満を示すだけにしているのでした。そしてこの蔑む態度にさらにいっそうの意味を持たせるため、一行が進んでゆくと、あたりはすべて静まり返り、円天井の広々とした市場《スーク》に聞えるものは、周囲の不動のただ中をひとり進みゆく、一行の足音の鳴りひびく反響ばかりでした。このようにして一行は歩き廻りましたが、宝石商の市場《スーク》でも、絹布商の市場《スーク》でも、鞍商人の市場《スーク》でも、羅紗商人の市場《スーク》でも、靴商人の市場《スーク》でも、また薬味香料商人の市場《スーク》でも、どこへ行っても、愛想のよいあるいは敵意のこもった身振りにも出会わず、歓迎のあるいは嘲弄の微笑にも出会いませんでした。
香料商の市場《スーク》を通り抜けますと、突然、一同は広々とした広場に出ました。そこでは、諸方の市場《スーク》には漏れ入る光がただよい、眼が今までその柔かさに馴れていましただけにそれだけ、ひとしおまばゆく感ずる光が、太陽から射しておりました。そして広場のずっと奥には、驚くほどの高さの青銅の柱がいくつも立っていて、翼を拡げた黄金の大きな獣どもの像の台になっていましたが、その柱の間に、青銅の塔が隅々に立っている大理石の宮殿が聳えておりまして、武装して不動の人々の帯にぐるりと衛《まも》られ、これらの人々の槍と剣とは、焼き尽されることなく、焔をあげて燃え立っておりました。黄金の門が一つあって、それからこの宮殿にはいれますので、ムーサ公はその連れの人たちを従えて、なかへ進み入りました。
最初に一同の目にうつったものは、雲斑石の柱で支えられた廻廊でしたが、それはこの建物に添うて走り、色大理石でできた泉水のある中庭との境になっていました。そしてこの廻廊は、武器の置場にもなっていたのでした。それというのは、あらゆるところに、柱にも壁にも天井にも、見事な武器が掛けてあるのが見られたからですが、これらは貴重な象眼で飾られ、地上のあらゆる国々から将来した逸品でした。透し細工をほどこしたこの廻廊の周囲全体には、白銀黄金を象眼した、すばらしい細工の黒檀の腰掛が寄せかけてあり、そこへ戦士たちが、坐ったり横たわったりしているのですが、彼らは身動《みじろ》ぎもせず、この訪問者たちの道を阻もうともせず、またその驚かされた散策を続けるようにと勧めもしませんでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十五夜になると[#「けれども第三百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで一行は、この廻廊に添って進んでゆきましたが、上のほうは、非常に立派な軒蛇腹《のきじやばら》で飾られており、そこには、瑠璃色地に黄金の文字で、イオニア語の記銘が刻まれているのが見られました。この記銘には崇高な箴言がいくつも収められてあり、アブドサマード長老《シヤイクー》がした忠実なその翻訳は、次のようなものでございます。
[#ここから2字下げ]
もろもろの天命の君主、不動なる者の御名において。おお人の子よ、頭《こうべ》をめぐらせよ、しからば、汝の魂に襲いかからんと構うる死を見るならん。人間の父アーダムは今いずくにかある。ヌーフ(8)とその子孫は今いずく。畏怖すべきネムルド(9)は今いずく。もろもろの王、もろもろの征服者、ホスロー、カエサル、ファラオ、インドとイラクの皇帝、ペルシアの君主、アラビアの君主、また双角イスカンダールは、今いずく。地上の王侯たち、ハーマーン(10)とカールーン(11)、またアードの子シャッダッド(12)またカナーン(13)の末裔たるあらゆる人々は、今いずくにありや。永遠なる者の命により皆地を去りて、報酬の日に自らの行為《おこない》を報告すべく赴きぬ。
おお人の子よ、この世とその快楽とに身をゆだぬることなかれ。主を恐れて、敬虔なる心もてこれに仕えよ。死を恐れよ。主に対する信心と死を恐るる心こそあらゆる知恵の基《もとい》なり。かくして汝は数々の善行を収穫し、そは恐るべき審判の日のために汝を香らしむべし。
[#ここで字下げ終わり]
彼らは非常に感動させられたこの記銘文を、羊皮紙の上に書き写しましてから、廻廊の中央に開かれた大きな戸口を越えて、一室にはいりますと、その中央には、噴水が迸《ほとばし》っている、透明な大理石作りの美しい泉水が一つありました。この泉水の上のほうには、さまざまな色調ではございましたが、申し分ない巧みさで、お互い同士よく調和した、錦襴と絹布でできた天幕《テント》が、心地よい色どりの天井となって、拡がっておりました。水はこの泉水に注ぐために、部屋の床《ゆか》に通された、趣きある形状の四条の溝を流れてくるのでしたが、どの溝もそれぞれ独得の色の床《とこ》を持っていました。第一の溝は薔薇色の斑岩の床《とこ》でしたし、第二番目のは黄玉《おうぎよく》、第三番目のは碧玉《エメラルド》、第四番目のはトルコ玉のものでした。従って、水は一つ一つの床《とこ》の色によって彩られ、天井の絹布に漉されて柔かになった光を受けて、あたりの品々と大理石の壁に、海の風景のようななごやか味を投げかけていました。
この部屋から、第二の戸口を越えて、第二の部屋へはいりました。そこは、古い金貨や銀貨、頸環、宝石、真珠、紅玉、その他あらゆる珠玉の類で、いっぱいになっていました。そして、どれもこれもが堆高《うずたか》く積み上げられていて、歩きまわることもなかなかできず、第三の部屋へ入るために、この部屋を通り抜けるのも困難なほどでした。
第三の部屋は、貴重な金属で作られた甲胄や、宝石を豊かに嵌めこんだ黄金の楯や、古い胄《かぶと》や、インドの剣や、長槍や、投槍や、ダーウドとスライマーン時代の鎧類で、いっぱいになっていました。そしてこれらの武器はすべて、保存状態はなはだよろしく、それらを作った手を、前の日に出てきたばかりと思われるほどでした。
一同はそれから、第四番目の部屋にはいりましたが、そこは、どこもかしこも、貴重な木でできた箪笥や棚ですっかり占められており、それには、きらびやかな衣服や、豪奢な衣裳や、高価な布地や、見事な細工を施された綴錦などが、きちんと並べてありました。そこから一同は、一つの戸のほうへ向いましたが、それを開けると、第五の部屋へはいれました。
この部屋には、床《ゆか》から天井まで、飲物と食物と洗浄《みそぎ》用にあてられた壺と器《うつわ》類だけしか、納めてありませんでした。金銀の壺、水晶の鉢、宝石の杯、さまざまの色の硬玉あるいは瑪瑙で作られた盆などでした。
これらすべてに感歎して、いよいよ元来た道を引き返そうとしますと、その時彼らは、その部屋の壁の一つを蔽うている、絹と金糸のたいそう大きな垂幕を、掲げてみたい気持に誘われたのでした。そしてその垂幕の後ろに見えたものは、大きな扉でした。それは、象牙と黒檀との精巧な寄木細工で作られておりまして、どっしりした銀の錠前で閉じられていましたが、そこには鍵を当てるべき鍵孔の、跡形もないのでした。そこでアブドサマード長老《シヤイクー》は、この錠前の仕掛けをしらべ始めましたが、とうとう隠れている弾条《ばね》を見出し、懸命にやっているうちに、それがはずれました。するとたちまち扉はひとりでに廻り、旅人たちは、奇蹟のような部屋のなかへ、わけなくはいりこめることになりましたが、その部屋は、鋼鉄の鏡かと思われるほどに磨きをかけられた大理石のなかに、円蓋の形にすっぽり掘られていたのでした。この部屋の窓々からは、碧玉と金剛石の格子を通して、光が洩れ入り、そこにある品々を、前代未聞の壮麗さで、ほのかに浮びあがらせておりました。中央には、碧玉の羽根と紅玉の嘴とを持った鳥が、一羽ずつ止まっている何本もの黄金の柱に支えられて、絹と金糸の布を張った礼拝堂様のものが立っておりまして、ひとつづきの象牙の階段を経て、ゆるやかに床《ゆか》に通じ、床《ゆか》には、精巧な羊毛織りの、華やかな色合いのすばらしい敷物が、香りなき花を咲かせ、水気なき芝生を拡げ、そして自然のままの美しさを正確に写し、その形体を厳密に捕えた、鳥獣の充ちた森林の一切の生の営みをば、人工で作り出して、そこに繰り拡げていたのでございました。
ムーサ公とその連れの人々とは、この礼拝堂の階段を登ってゆきましたが、上の台まで着いた時、一同は愕然として立ち止まり、声なく釘付けになってしまいました。いろいろの宝石や金剛石を縫い付けた天鵞絨の天蓋の下、絹の敷物を何枚も重ねた広い寝台の上に、まばゆいばかりの顔色をし、物憂げな眼瞼《まぶた》とそり返った長い睫毛《まつげ》を持った、一人の乙女が憩っていたのでございます。その美しさは、眼鼻立ちの見事な静けさ、頭髪を束《つか》ねた黄金の冠、その額に一面の星をちりばめる宝石ずくめの髪飾り、その金色《こんじき》の皮膚を己が肌で愛撫する真珠玉の、潤《うるおい》を帯びた頸飾りなどによって、一段と引き立っていました。寝台の右手と左手とには、二人の奴隷が立っていましたが、その一人は白人で、他は黒人であり、抜き放った剣と鋼鉄の長槍とで武装しておりました。寝台の足もとには、大理石の卓子が一台あり、その上には次のような言葉が刻まれていました。
[#ここから2字下げ]
われはアマレク族(14)の王の娘、処女タドモール(15)なり。この町はわが町なり。
この所まで入るを得し汝、旅人よ、汝は何なりと意にかのうものを持ち去りて可なり。
されどわが色香と欲情とに惹かれて、わが身の上に侵犯の手を延ぶるを敢えてすることは慎しめよ。
[#ここで字下げ終わり]
眠り入る乙女を見てひき起された感動からわれに帰った時、ムーサ公は連れの人々に言いました、「これらの驚くべきものの数々を見た今となっては、この場所から退去し、そして銅の壺を見出そうと試みるべく、海のかたへ赴いてみる時と相成った。さりながら、各々は、この宮殿にあって、心惹かるるものを何なりと持ち去るがいい。だがこの王者の姫の身に手を延べたり、その衣に触れたりすることは慎しまれたい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十六夜になると[#「けれども第三百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると、ターリブ・ベン・サハルは言いました、「おおわれらの太守《アミール》よ、この宮殿のうちで、これなる乙女の美しさにくらべられ得るものは、何もございませぬ。ダマスへこれを移して、教王《カリフ》に献上いたさずに、このままここへ残しておくのは、無念なことでござります。このお土産は、海の鬼神《アフアリート》の壺のすべてよりも、はるかに値打がございますでしょう。」ムーサ公は答えました、「この姫には触れてはならぬのだ。さようなことをいたしたら、その御機嫌を損ずることとなり、われわれの上に数々の災厄を招くことになろうぞ。」しかしターリブは叫びました、「おおわれらの太守《アミール》よ、姫君方と申すものは、生きておられようと眠っておられようと、かかる腕力沙汰で御機嫌を損ずることは、けしてございませぬ。」そしてこのように言って、彼はこの乙女に近寄り、両腕にかかえて抱き起そうとしました。しかしとたんに、その頭と心臓とに同時に加えられた、二人の奴隷の剣と長槍とに貫かれて、ぱったり倒れて死んでしまい、二人の奴隷は再び石のように不動になりました。
これを見て、ムーサ公はこれ以上一瞬も、この宮殿に止まろうとはせず、連れの人々に下知して、急いでここから出て、海へ道を辿らせました。
海岸へ着くと、沢山の人間が漁網を一心に干しているのが見えまして、これらの人々は、回教徒の礼式に従って、アラビア語で、挨拶《サラーム》を返しました。そこでムーサ公は、なかで一番年かさで、頭領と覚しい者に向って言いました、「おお敬うべき長老《シヤイクー》よ、われわれはわが主、教王《カリフ》アブドゥルマリク・ベン・マルワーンの勅命を受けて、この海に、預言者スライマーン時代の|鬼神ども《アフアリート》のはいっている壺を求めに、まかり来た者でござる。御身もわれわれの捜索に力を貸してはくれまいか、また、あらゆる人々が身動《みじろ》ぎもせぬあの町の神秘を、解き明かしてはくれまいか。」
老人《シヤイクー》は答えました、「わが子よ、まず心得てほしいことは、ここにいるわれわれ、この岸辺の漁夫は皆、アッラーの御言葉《みことば》と、その使徒(その上に祈りと平安あれ)の御言葉の信者でござる。しかしあの青銅の町におる連中はすべて、古代から魔法にかけられていて、あのまま審判の日に至るであろうぞ。ところで、|鬼神たち《アフアリート》のはいっている壺はと申すに、これを手に入れて差し上げることは、いともた易いことでござる。と申すわけは、あすこにその壺の貯えがござって、われわれはそれらを、いったん蓋を開けた上で、魚や食物を煮るために用いておりますのじゃ。お好きなだけ、駱駝の背に積めるだけ、いくらでも差し上げてかまいませぬ。ただ、蓋を開ける前に、両手でもってこれを叩いて響きわたらせ、なかに住んでいるやつらに、わが預言者ムハンマドの御使命の真実なることを認める誓約を立てさせて、スライマーン・ベン・ダーウドの至上権に対する、彼らのかつての日の罪科と反逆を償わせることが、肝心でござりまするぞ。」それから、更に付け加えました、「われわれといたしましては、われら万人の主君、信徒の長《おさ》への忠誠の証《しるし》として、ちょうど今日捕えましたる『海の娘』を二人、これも差し上げとうござるが、これは人間どものあらゆる娘よりも美しい乙女でござりまするぞ。」
そしてこう言ってから、老人《シヤイクー》はムーサ公にスライマーンの玉璽の付いた鉛の封印を施した、銅の壺十二個を渡しました。そしてさらに、二人の「海の娘」を、洞穴《ほらあな》から出して渡しました。それは、波のようにうねうねした長い髪をし、月のような顔と、海辺の玉石のように丸々として、固く、見事な乳房を持った、二人のすばらしい被造物でした。しかしこの娘たちは、臍の下あたりからは、人間の娘たちの通常持っている豪奢なものをば具えておらず、その代りに、魚の体《からだ》になっていました。そして、己が姿に人々が目を惹かれると見てとった場合に、世の女たちがするのと同じような身ごなしで、その魚体が右と左に動くのでした。その声は非常に美しく、その微笑は愛らしかったのでしたが、この娘たちもまた、われわれの知っているいかなる言葉をも知らず、また語らず、訊ねかけられるあらゆる問いに対しては、その眼の微笑をもって答えるだけにしていたのでございます。
ムーサ公とその一行とは、この老人《シヤイクー》に対して、その寛大な厚意を感謝することを忘れず、そしてこの老人《シヤイクー》はじめ老人《シヤイクー》とともにいるすべての漁師たちに、この国を離れて回教徒の国へ、果実と淡水の都ダマスへ、一緒に来ないかと勧めたのでした。老人《シヤイクー》も漁師たちもこの申し出を受け入れまして、一同打ち揃って、まず青銅の町へ戻り、そこで持ち去れるだけの貴重な品々、宝石類、黄金の類をことごとくと、目方は軽く、値いは重い品々をことごとく、持ち出しました。このように荷物を担いで、一同は青銅の城壁を下り、この前代未聞の獲物を、袋や食料箱へ詰めこみ、再びダマスへの道をとって返しました。そして事故もなく長旅を終えて、無事到り着きました。
教王《カリフ》アブドゥルマリクは、ムーサ公の物語りました冒険談に、魅惑されまた同時に驚嘆なさいまして、お叫びになりました、「その方たちとともに、その青銅の町へ赴かなかったことは、残念至極である。さりながら、アッラーのお許しを得て、やがて余自ら、それらのめずらかなるものを歎賞しに出向き、それなる不可思議の神秘を明らかにせんと試みるであろう。」それから、御自身の手で、件《くだん》の十二の銅の壺を開けようと望まれました。そこで一つずつ開けなさいました。するとその度ごとに、非常に濃い煙が立ち昇り、それが恐ろしい鬼神《イフリート》の姿に変り、直ちに教王《カリフ》の足もとに平伏して、こう叫ぶのでございました、「アッラーならびにわが君に対し奉り、おおわが主君スライマーンよ、わが反逆を赦したまえと乞い奉る。」そしてその場に列《つらな》った人々全部が仰天している間に、天井を通って、消えてしまいました。
教王《カリフ》は次に、二人の「海の娘」の美しさにも、劣らず驚嘆なさいました。娘たちの微笑と、その声と、その得体の知れぬ言葉は、御心《みこころ》を打ち、動かさずにはおりませんでした。これらの娘を、大きな泉水のなかに入れさせなさると、そこで安泰に生きつづけました。教王《カリフ》はお后たちと王女たちをお連れになって、しばしばこの娘たちを訪れなさいました。そしてこの娘たちは、遂にはアラビア語を覚えまして、回教徒になったのでございました。
さて太守《アミール》ムーサのほうは、教王《カリフ》からお許しを得て、以後聖都エルサレムに隠退して、羊皮紙にわざわざ写し取ってきた、古い箴言の数々について瞑想しながら、余生を送ってよろしいということになりました。そして全信徒の尊敬の的となってのち、この都で長逝いたしましたが、信徒たちは今なお、至高者の平安と祝福のなかで、公の憩っていられる奥津城《クツバー》(16)に、詣でに参りまする。
[#ここから1字下げ]
――「これが、おお幸多き王さま」とシャハラザードは続けた、「青銅の町の物語でございます。」
するとシャハリヤール王は言った、「この談《はなし》は、まことに不可思議だわい。」彼女は言った、「はい、おお王さま、けれどもわたくしは、イブン・アル・マンスール[#「イブン・アル・マンスール」はゴシック体]の身の上に起りました物語をお話し申し上げずに、今夜をやり過ごしとうはございませぬ。」するとシャハリヤール王は、驚いて言った、「だがいったい、そのイブン・アル・マンスールと申すのは、何者じゃ。余は全然知らぬが。」そこでシャハラザードは、微笑を浮べて、言った、「こういうお話でございます。」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
イブン・アル・マンスールと二人の乙女との物語
おお幸多き王さま、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、御領国のことでいろいろ御心《みこころ》を煩わされて、そのためたびたび御不眠をお悩みなすったことは、すでに私たちの聞き知っているところでございます。ところである夜も、いくらお床《とこ》のなかで輾転《てんてん》反側なすってもかいなく、どうしてもお寝つきになれず、そればかりか、眠ろうとむなしく試みなさることに、すっかりお疲れになってしまいました。そこで荒々しく蒲団《マトラー》を蹴とばしなされ、手を打って、ずっと戸口で不寝番をしている、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールをお召しになって、おっしゃいました、「マスルールよ、何か余の気を紛らすすべを見つけてくれ、どうにも寝つかれぬから。」彼は答えました、「わが君、魂を鎮め、官能を休めるには、夜の散歩に如《し》くものはござりませぬ。戸外、庭園に出ずれば、夜は美《うる》わしゅうございます。私どもは木々の間、花々の間に、降り立ちましょう。そして諸星《もろぼし》とその壮麗な象眼《ぞうがん》に見入り、それらのもなかをしずしずと進んで、河まで下って水中に浴《ゆあみ》する月の美を、賞するといたしましょう。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「マスルール、今宵《こよい》わが魂は、そのようなものを見ようとは、いささかも欲《ほ》りせぬ。」彼は再び言葉を継ぎました、「わが君、君はこの王宮に、三百の秘めたる美女をお持ち遊ばします。そしてそのめいめいが、ひとりずつ、ひと棟の別の館《やかた》を持っております。私はこれから、その全部の女のところに、お待ち申し上げるようにと告げに参りましょう。そこでわが君は、一軒一軒の館《やかた》の垂幕の蔭にお出《い》で遊ばして、ひとりひとりのありのままの裸形の姿をば、お姿を曝さぬだけなおのこと心ゆくばかり、賞されてはいかがでございましょう。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「マスルール、この王宮はわが王宮であり、かの若い女どもはわが有《もの》じゃ。さりながら、わが魂は今宵、そうした一切を何ごとも欲《ほ》りせぬ。」彼は言葉を継ぎました、「わが君、お命じ下さらば、私はバグダードの学者、賢人、詩人らを、すぐに御手《おんて》の間に集まらせましょう。賢人たちは見事な箴言を言上し、学者たちは年代記のうちに彼らの発見したところを、委細お知らせ申し、詩人たちは詩句の韻律をもって、お心を楽しませるでございましょう。」教王《カリフ》はお答えになりました、「マスルール、今宵わが魂は、そうした一切を何ごとも欲《ほ》りせぬ。」彼は語を継ぎました、「わが君、この王宮には、愛すべき掌酒子《しやくとり》と、眼に快い美青年どもがおりまする。もし御命令あらば、ここに呼んでお相手をいたさせまする。」教王《カリフ》はお答えになりました、「マスルール、今宵わが魂は、そうした一切を何ごとも欲《ほ》りせぬ。」マスルールは申しました、「わが君、しからばこの私の首を刎ねて下さいませ。それが恐らく御退屈を晴らす唯一のすべでございましょう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十七夜になると[#「けれども第三百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞かれると、アル・ラシードはからからと笑い出しなされ、次におっしゃいました、「いやはやマスルール、いつの日か、汝はそういうことになるやも知れん。しかし今のところは、控えの間《ま》に行って、まだ誰ぞ、真に見るによろしく聞くによろしき者がいはしないかどうか、見て参れ。」
すぐにマスルールは御命令を果しに出て行って、やがて戻ってきて、教王《カリフ》に言上しました、「おお信徒の長《おさ》よ、外《おもて》にはイブン・アル・マンスールしか見当りませんでした。」するとアル・ラシードはお訊ねになりました、「どこのイブン・アル・マンスールか。あのダマスのイブン・アル・マンスールかな。」宦官の長《おさ》は申しました、「まさに彼奴《きやつ》です、あの悪戯爺《いたずらじじい》でございます。」アル・ラシードはおっしゃいました、「すぐにここに連れて参れ。」そこでマスルールは、イブン・アル・マンスールを案内してきますと、彼は申しました、「わが君の上に平安《サラーム》あれ、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》は挨拶《サラーム》をお返しになって、おっしゃいました、「やあ、イブン・アル・マンスールよ、何か汝の冒険をひとつ聞かせてくれよ。」彼は答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、私が自分自身で見たことをお話し申すべきか、それとも、ただ人から聞いたことをお話し申すべきでございましょうか。」教王《カリフ》はお答えになりました、「もし汝が何かまことに驚くべきことを見たとあらば、急ぎ余にそれを語ってもらいたい。というのは、自分で見た事柄のほうが、ただ人の話を聞いただけの事柄よりも、遥かに好ましいからな。」彼は申しました、「しからば、おお信徒の長《おさ》よ、何とぞよくお耳を傾け、御好意ある御注意を賜わりたく存じまする。」教王《カリフ》はお答えになりました、「やあ、イブン・アル・マンスール、余はこれより、余の耳をもって汝を聴き、余の眼をもって汝を見、好意ある心の注意を、汝に授けるであろうぞよ。」するとイブン・アル・マンスールは申しました。
さればでございます、おお信徒の長《おさ》よ、私は毎年バスラに赴いて、この町のわが君の代官《ナワーブ》、太守《アミール》ムハンマド・アル・ハシュミの許に、数日を過ごす習いでございました。そこである年、慣わしどおりバスラに赴き、御殿に到着いたしますと、公はちょうど馬に乗って、馬上の狩に出ようとしているところでございました。私の姿を御覧になると、歓迎の挨拶《サラーム》ののち、一緒に来いとお誘いにならずにいませんでした。けれども私は申し上げました、「御容赦下さい、殿よ。それと申しますのは、実際私は馬を見ただけで、消化が止まり、まあ驢馬に乗るのが、せいぜいでございます。まさか驢馬に跨って、馬上の狩に出るわけにも参りませぬ。」ムハンマド公は私を容赦して下さって、御殿中を勝手に使えとおっしゃり、役人たちに、あらゆる敬意をもって私に仕え、私の滞在中、何ひとつ不自由させぬようにと、お言いつけになりました。そして彼らはそのとおりにいたしました。
公がお立ちになると、私は独り言を言いました、「アッラーにかけて、やあ、イブン・アル・マンスールよ、お前は毎年|定《きま》ってバグダードからバスラに来て、もう幾年にも幾年にもなるが、今日までいつも、市中の散歩といえば、御殿から庭園、庭園から御殿と、その間を往復するばかりにとどまった。これではお前の勉強に十分とはゆかぬ。されば、今はその暇もたっぷりあるから、バスラの街々《まちまち》に、何か面白いものを見にゆくとせよ。それに消化を助けるには、歩くほど好ましいことはない。お前の消化はすこぶる思わしくない。それでお前は肥え太って、革嚢みたいにふくれ上っているぞ。」そこで私は、私の肥満を快く思わぬ魂の声に従い、直ちに起き上って、一番美しい着物を着用し、御殿を出て、足にまかせて、いささかあちこちさまようことにいたしました。
ところで、おお信徒の長《おさ》よ、よく御承知のように、バスラには七十の街があり、ひとつひとつの街は、イラクの里程で七十パラサンジュの長さがございます。それゆえ、しばらく歩いているうちに、私は突然、こんなに数々の街のまんなかで迷ってしまい、笑いものになってはと、敢えて道を聞く気にもなれず、困って、いっそう早く歩き出しました。そのためひどく汗をかきはじめ、また咽喉も非常に渇きました。そして激しい太陽が、きっと今に、私の肌の著しい脂肪を溶かしてしまうにちがいないと思いました。
そこで私は、多少なりと日蔭にゆこうと求めて、急いで最初の横道の小路を曲り、こうしてある袋小路に行き着くと、そこにはたいそう立派な構えの大きな屋敷の、入口がありました。その入口は、紅絹《もみ》の帳《とばり》で半ば隠れ、家の前にある広い庭に臨んでいました。両側には、大理石の腰掛があって、絡んだ葡萄の茂みの蔭になり、私に腰を下ろしてひと息入れるようにと、誘っております。
私が額を拭って、暑さにふうふう言っていると、そのとき庭のほうから、歎くような節《ふし》で、次の文句を歌う女の声が聞えてきました。
[#ここから2字下げ]
わが若鹿のわれを去りし日よりして、わが心は苦しみの住家となりぬ。
されば、彼の言うがごとく、若き乙女らに愛せらるるは、果してかくも重き咎なるにや。
[#ここで字下げ終わり]
その歌う声はまことに美しく、それに私はこの文句がたいへん気になったので、わが魂に向って言いました、「もしこの声の持主が、この歌から想像されるぐらい美しいとしたら、これはまことに絶世の美女だわい。」そこで私は立ち上って、入口に近づき、そっとその垂幕を掲げました。そして気づかれないように、すこしずつ見ました。すると庭の中央に、ひとりは主人で、他のひとりは奴隷とおぼしい、二人の乙女が認められました。二人とも実に並々ならぬ美しさです。しかし一番美しいのは、ちょうど歌ったほうで、奴隷のほうは琵琶《ウーデイ》で伴奏していました。私はもう、第十四日目の月そのものが、庭に降り立ったのを見る思いで、これについて、次の詩人の詩句を思い起した次第です。
[#ここから2字下げ]
歓楽の都バビロンの俤《おもかげ》その双眼に光る。そは反《そ》りし睫毛によって、大剣よりも、槍の鍛えし刃《やいば》よりも、あやまちなく人を殺す眼なり。
その黒髪、素馨の頸《うなじ》に垂れかかる時、われは、夜の来たりてこれに挨拶《サラーム》するに非ざるやと訝《いぶ》かる。
されどその胸の上にあるは、そも二つの小さき象牙の瓢《ふくべ》か、柘榴か、はたは胸乳《むなじ》か。またその肌着の下に、かく波打つは何ぞ。そは腰なりや、流砂なりや。
[#ここで字下げ終わり]
またこの乙女は、次の詩人の詩句をも思わせました。
[#2字下げ]その瞼《まぶた》は二ひらの水仙の花弁《はなびら》。その微笑は曙《あけぼの》のごとし。口は二|顆《か》の紅玉もて封じらる。しかして天国のあらゆる花園は、その胴着の下に揺るるなり。
そこで私は、おお信徒の長《おさ》よ、思わず「やあ、アッラー、やあ、アッラー」と、感嘆の叫びをあげずにはいられず、かくも絶妙の美しさを眼で食い、飲みながら、その場に、じっと立ちつくしてしまいました。それゆえ、その乙女は私のほうに頭を向け、私の姿を見つけると、急いで顔の小|面衣《ヴエール》を下ろしました。それから、非常な腹立ちのあらゆる様子を見せて、私のほうに、さっき琵琶《ウーデイ》を弾いていた若い女奴隷をよこしました。その女は駈けよってきて、私の顔を見据えてから、言いました、「おお御老人《シヤイクー》、そのように、婦人をその自宅で眺めるとは、恥かしくありませんか。いったいあなたのお年と白いお鬚は、敬意を払うべき事柄の尊敬を、あなたにお勧めしないのですか。」私は坐っている乙女に聞えるように、高い声で答えました、「おおわが御主人よ、いかにもごもっともじゃ、わしの老齢は著しい。さりながら、わしの恥という点に到っては、おのずから別事じゃ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四十八夜になると[#「けれども第三百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
向うの乙女はこの言葉を聞くと、立ち上って、女奴隷のところに追ってきて、甚だしく激して、私に言いました、「まあ、おお御老人《シヤイクー》、御自分の閨房《ハーレム》でもない閨房《ハーレム》の門口に、御自分の住居でもない住居の門口に、厚かましく立ち止まるという振舞いにもまして、あなたの白髪の上の大きな恥はございましょうか。」私は腰をかがめて、答えました、「アッラーにかけて、おおわが御主人よ、わしの白鬚の上の恥は、甚だしいものではござりませぬ、あなたの御命《おんいのち》にかけて誓いまする。わしがここに闖入いたしましたことには、申し開きがございます。」乙女は聞きました、「してその申し開きとは。」私は答えました、「わしは喉が渇いて(1)死にそうな、異国の者でございます。」乙女は答えました、「その申し開きならば、聞いてさしあげます。アッラーにかけて、いかにも無理からぬことですから。」そしてすぐに、その若い女奴隷のほうに向いて、言いつけました、「おお優しい子よ、早く駈けて行って、この方に飲むものをとってきておあげなさい。」
少女はしばらく姿を消して、やがて盆に載せた金の茶碗と、緑の絹の手拭きを持って、戻ってきました。そして生粋《きつすい》の麝香を快く香らせた冷水を満たした、その茶碗を、私に差し出しました。私はそれを受け取って、その主人格の乙女には、ひそかに感嘆の眼《まなこ》を、また二人に対しては、明らさまに感謝の眼《まなこ》を投げつつ、ちびちび非常にゆっくりと、水を飲みはじめました。しばらくたってから、若い娘に茶碗を返すと、こんどは絹の手拭きを出して、口を拭うようにと言いました。私は口を拭って、白檀を馨《かぐ》わしく香らせたその手拭きを返したが、さてその場を動かなかったものです。
美しい乙女は、許された限度を越えて、私がじっと立ち尽しているのを見ると、迷惑げな口調で、私に言いました、「おお御老人《シヤイクー》よ、あなたはアッラーの道の上のあなたの路に戻るのに、この上何を待っておいでですか。」私は思案顔をして、答えました、「おおわが御主人よ、わしは心にかかるさまざまの思いがあり、御覧のように、自分自身ではどうしてもうまく解決できぬ、さまざまの感慨に耽っている次第でございます。」乙女は訊ねました、「してそれはどういう感慨ですの。」私は言いました、「おおわが御主人よ、わしは事の裏面を思い、時の果実なる出来事の移り変りをば、考えまするのじゃ。」乙女は答えました、「いかにも、それは由々しい思いでございます。わたくしどもは皆、何か時のもたらす災害を歎かなければなりませんもの。けれども、おお御老人《シヤイクー》、いったいこの家《や》の門口で、何があなたに、そのような感慨を催させることができたのでございましょう。」私は言いました、「ちょうど今、おおわが御主人よ、わしはこの家の主《あるじ》を思っていたところです。今となって、はっきり思い出した。その仁は昔わしに、庭のある屋敷一軒だけしかない、この小路に住んでいると、言っていましたわ。さよう、アッラーにかけて、この家の持主は、わしの親友だったのじゃ。」乙女は訊ねました、「では、そのお友達のお名前を、きっと覚えていらっしゃいましょう。」私は言いました、「いかにも、おおわが御主人よ、その仁はアリ・ベン・ムハンマドといって、バスラの宝石商全部の尊敬を集めていた組合総代《シヤーフバンダル》でした。もう永年お会いしないが、思うに今はアッラーの慈悲の裡におられることじゃろう。されば、おおわが御主人よ、ひとつ伺わせていただきたい、あの仁は子孫を遺しなすったかな。」
この言葉に、乙女の眼は涙に濡れて、そして言いました、「何とぞ平安とアッラーの恩寵《みめぐみ》が、総代アリ・ベン・ムハンマドの上にありますように。おお御老人《シヤイクー》よ、あなたが御友人とありますれば、お聞き下さいまし。今は亡きあの総代は、ただひとりの子孫として、バドルという娘を遺したのでございました。そしてその一人娘が、財産と莫大な富の、ただひとりきりの後継者なのでございます。」そこで私は叫びました、「アッラーにかけて、わが友の祝福された娘とは、すなわちあなた御自身でない筈はない、おおわが御主人よ。」乙女は微笑して、答えました、「アッラーにかけて、見抜かれましたわ。」私は言いました、「何とぞアッラーは御身の上にその祝福を積み重ねたもうように、おお、アリ・ベン・ムハンマドの娘御よ。さりながら、おお月よ、お顔を蔽う絹越しに判断し得た限りでは、どうもあなたの面《おもて》には、非常な悲しみの跡を刻まれているように見受けられるが。懸念なく、わしにその理由《わけ》を打ち明けなされ。ひょっとして、アッラーがわしを遣わして、あなたの美しさを損なうその苦しみを救う尽力を、させなさるのかも知れぬからな。」乙女は答えました、「けれども、わたくしにどうしてそのような内輪のことをお話しすることができましょう、まだお名前も御身分も承わらないのですもの。」私は頭をさげて、そして答えました、「わしはあなたの奴隷、ダマスのイブン・アル・マンスール、辱《かたじけ》なくもわれらの御主《おんあるじ》、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御懇情を賜わり、内輪のお相手として選びたもうた人々の一人です。」
この言葉の言い終らぬうち、おお信徒の長《おさ》よ、シート・バドルは私に言いました、「さあさあわが家にお出で下さいまし、おおイブン・アル・マンスール長老《シヤイクー》様。どうぞこの家《や》に手厚く懇《ねんご》ろなもてなしを見出しなさいますように。」そして一緒について来て、応接の間《ま》にはいって坐るようにと、招じました。
そこでわれわれ三人は、庭園の奥の応接の間にはいり、一同坐って、まことに結構な、慣例《ならわし》の茶菓を済ますと、シート・バドルは私に言いました、「おおイブン・アル・マンスール長老《シヤイクー》様、あなたはわたくしの面《おもて》に悩みの痕を見抜いて、その理由《わけ》を知りたいとおっしゃいますからには、どうかわたくしに、秘密と信義をお約束して下さいませ。」私は答えました、「おおわが御主人、その秘密はわしの心中に、あたかも鍵の見出し得ぬ鋼鉄の小箱の中にあるがごとしじゃ。」するとその女は言いました、「ではわたくしの身の上をお聞き下さいませ、おお長老《シヤイクー》様。」そしてあの優しい若い女奴隷が、更にひと匙の薔薇のジャムを薦めてくれてから、シート・バドルは言いました、「実は、おおイブン・アル・マンスール様、わたくしは恋をしていて、恋人はわたくしから遠ざかっているのでございます。」
そしてシート・バドルはこう言ってから、深い溜息をついて、口をつぐんでしまいました。そこで、私はこれに言いました、「おおわが御主人、あなたは欠くるなき美わしさを授けられていなさるし、あなたの慕う男も、きっと欠くるなく美しいにちがいない。その名は何と言いますかな。」その女は言いました、「さようでございます、イブン・アル・マンスール様、わたくしの恋人は仰せのとおり、欠くるなく美しいお方で、バニー・シャイバーン(2)の族長、首長《アミール》ジョバイール公でございます。その方はバスラとイラクを通じて、随一の美男でいらっしゃることは、もうすこしも疑いございません。」私は言いました、「おおわが御主人、それはそうにちがいありませぬ。だがお二人の愛は、ただ言葉の上だけのことだったのか、それとも、重ねて長きにわたってお会いになって、お互いに内心の証拠をお交わしになったのですかな。」その女は言いました、「それはもう、もしお互いの心が結ばれることのできるくらい長く続いたのならば、わたくしたちのお会いしたことは、きっとその場限りではなかったことでございましょうが。ところがジョバイール公は、ふとしたお疑いだけで、わたくしをお見限りになったのですの。」
この言葉に、おお信徒の長《おさ》よ、私は叫びました、「へえ、微風が百合を地面に傾《かし》げるといって、百合は泥土《どろ》を愛するとの疑いをかけられますかな。よしんば、ジョバイール公の嫌疑に根拠あるにせよ、あなたのお美しさが生きた申し開きじゃ、おおわが御主人よ。」女は微笑して、言いました、「それが、おお長老《シヤイクー》様、男のことででもあるなら、まだしもなのです。ところがジョバイール公は、わたくしが若い娘を愛すると言って、咎めなさるのですもの、ほら、お目の前にいて、わたくしたちに侍《かしず》いているこの優しい、おとなしい女の子です。」私は叫びました、「わしは公のために、アッラーにお許しを乞いますわい、おおわが御主人よ。何とぞ悪魔の挫《ひし》がれんことを。いったいどうして女同士が愛し合えるものか。まあせめて、公の嫌疑がそもそも何に基づいたのか、聞かせていただけますかな。」その女はこう答えました。
「ある日のこと、わたくしは自宅の浴場《ハンマーム》でお風呂を使ってから、自分の臥床《ふしど》の上に横たわって、気に入りの女奴隷、ここにいるこの若い娘《こ》の手に身をまかせて、お化粧の世話をさせ、髪を梳《くしけ》ずらせたのでございます。暑さは息苦しいばかりなので、この女奴隷はわたくしを涼しくさせようとて、肩を包み乳を蔽っていた大きなタオルをずり落して、わたくしの編んだ髪を整えはじめました。終ると、じっとわたくしを眺め、そうした姿のわたくしを美しいと思って、この娘《こ》はわたくしの首に両腕をめぐらし、頬に接吻しながら申しました、『おお御主人様、ほんとにわたくしは男になって、今よりももっと御主人様を愛せればと存じますわ。』そして数々の愛らしい仕草で、優しくわたくしを興じさせようといたしました。ところがちょうどその時、あの首長《アミール》がはいっていらっしゃったものです。あの方はわたくしたち二人に妙な一瞥を投げて、いきなり出て行っておしまいになり、二、三分たつと文《ふみ》をおよこしになりましたが、それには、『愛は独り占めならざる時は、よく幸福ならしめ得ず候』という言葉が記されておりました。そしてその日以来、もう二度とお姿は見られず、あの方はついぞ、お便りを下さろうとなさらないのでございます、やあ、イブン・アル・マンスール様。」
そこで私は、これに訊ねました、「だがあなた方御両人は、結婚契約書によって結ばれていらっしゃったのですか。」その女は答えました、「どうして契約などすることがございましょう。わたくしたちは法官《カーデイ》や証人を交えずに、ただ二人の意志《こころ》で結ばれていただけでございます。」私は言いました、「しからば、おおわが御主人よ、もしお許し下さるならば、このわしは、ただ選ばれた二人の人間が、改めて一緒になるということを知る悦び以外に他意なく、ひとつあなた方御両人の間の、つなぎとなりたいと存じます。」その女は叫びました、「わたくしたちをあなた様の路の上に置きたもうたアッラーは、祝福されよかし、おお顔白き長老《シヤイクー》様。あなたが恩を被《き》せようとなさっているのは、恩恵の価《あたい》を知らぬ忘れっぽい人間であるとは、お思い下さいますな。では早速、わたくしは手ずから、ジョバイール公にお手紙を書きますから、どうぞそれをば、あの方によく理《ことわり》をわからせるようにして、お渡し下さいませ。」そしてその女は、気に入りの女奴隷に言いつけました、「優しい娘《こ》よ、墨壺と紙を一葉持ってきておくれ。」その娘《こ》が持ってくると、シート・バドルは書きました。
[#ここから2字下げ]
いとしき方よ、お別れいたしたるままかく久しきは何ゆえに候や。苦しみはわが眼より遠く眠りを追い、御姿《みすがた》は夢に立ち現わるる時も、もはや見分けがたきまで、薄れ果てしを、知りたまわぬにや。
願わくば教えたまえ、何ゆえにわが誹謗者たちに、君が門を閉ざしたまわざりしや。いざ立ちて、悪しき想いの塵を振り落し、遅滞なく妾《わらわ》が許に戻りたまえ。われらが和解を見ん日こそ、われら二人にとっていかばかり歓びの日に候わん。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を書き終ると、女はそれを畳んで、封をして、それを私に渡しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十夜になると[#「けれども第三百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……封をして、それを私に渡しました。そして同時に、こちらの遮ぎる暇もなく、金貨千ディナール入りの財布を、私の衣嚢《かくし》に滑り込ませましたが、私はまあ昔この女の亡父、立派な総代に尽してやったいろいろの親切の記念に、かたがた将来をも慮《おもんばか》って、これを納めることにきめました。そこで私はシート・バドルに暇《いとま》を告げ、バニー・シャイバーンの首長《アミール》、ジョバイール公の屋敷のほうに向いました。この方の父親も、もうずっと前に亡くなっていたが、やはり私の知人だったのです。
ジョバイール公の御殿に着くと、彼は狩に出ているとのことで、私はその帰りを待つことにしました。程なく帰ってきまして、私の名前と肩書を聞くと、人をよこして、私にぜひ自分の歓待を受け、この家をわが家のごとく心得てくれと、乞いました。そしてやがて自身親しく、私を迎えに出て参りました。
さて私は、おお信徒の長《おさ》よ、この若者の欠けるところのない美しさをよく確かめますると、茫然として、自分の分別が立ち去ってしまうのを覚えました。すると彼は、私が身動きしないのを見て、私が遠慮しているのだと思い、笑いかけながら私のほうに来て、習慣に従って、私を抱きました。そこで私も彼を抱きましたが、その時は、太陽と月を抱く思いでした。そしてジョバイール公は私の腕をとって、蒲団《マトラー》の上の自分のそばに坐らせました。するとすぐに、奴隷たちがわれわれの前に食膳を運んできました。
それは金銀のホラーサーンの器《うつわ》を盛り、およそ上顎と鼻と眼の真に望み得る、あらゆる揚げたあるいは焼いた御馳走を盛り上げた、食膳でございました。そこにはいろいろの結構な品々のうち特に、ピスタチオと葡萄を詰めた鳥類だの、軽く膨らしたパン菓子の上に載せた魚類だの、またわけても馬歯《すべり》|※[#「くさかんむり/見」、unicode83a7]《ひゆ》のサラダがあり、このサラダときては、見たばかりで魂を満足で溢れさせました。その他の品々、例えば、もう手を肱まで突っこみたくなったほどの、水牛の乳のクリームをかけたすばらしい米とか、私の大好物の胡桃《くるみ》を入れた人参の砂糖煮とか――いや、こいつはきっといつか、私の生命《いのち》取りになるにちがいありませんが、――また、果物とか飲み物とか、それらについては、ここに一々申し上げません。
さりながら、おお信徒の長《おさ》よ、私は御先祖様の高貴にかけて誓って申しまする、私はわが魂の切なる望みをじっと抑えまして、ただのひと口も食べませんでした。それどころか、私は主人がしきりに手を出すように誘うのを待って、さて申しました、「アッラーにかけて、私は、ジョバイール公よ、自分がお宅をお訪ね申した本来の趣意たるお願いを、お聞き届け下さらぬうちは、御歓待の御馳走のひとつだに手を触れぬと、誓いを立てたのでございます。」彼は訊ねました、「おお客人よ、そのように重大なことで、あなたに私の歓待を断念させかねないというような事柄を、立ち入って伺うに先立って、せめてこの御来訪の御趣意は何か、承わらせていただけましょうか。」私は一切の返事に代えて、懐《ふところ》から例の手紙を取り出して、彼に差し出しました。
彼は手紙を受け取り、開封して読みました。けれどもすぐさま、それを引き裂いて、紙片《かみきれ》を床《ゆか》に投げ棄て、踏み躙《にじ》って、私に言いました、「やあ、イブン・アル・マンスール殿、何でもお望みのことを御所望下さい、さすれば立ちどころに叶えられましょう。けれどもこの手紙の件については、おっしゃって下さるな。これに対しては、私は何の返事もございません。」
そこで私はすぐさま立ち上って、引き上げようとしました。しかし彼は私の着物に縋って、ぜひ止まってくれと頼み、私に言いました、「おお客人よ、もしあなたが私の拒絶の動機《いわれ》を御承知だったら、これ以上一刻も、強《た》ってとは申されますまい。それに、このような使いを託されたのは、何もあなたが最初であるとはお思いめさるな。そして何なら、あの女が私に伝えてくれとあなたに頼んだ言葉を、そっくりそのまま言ってみましょうか。」そしてすぐに、彼はその言葉を繰り返してみせましたが、それはまるでそれを言った時、彼がその場に居あわせたかのように、寸分違いません。次に言い添えました、「悪いことは申しませぬ、この件については、もう御心配御無用です。そしてお心の望むだけ、わが家に止まって御休息下さい。」
この言葉は私に止まる決心をさせました。そこで、その日の残りとひと夜を、ジョバイール公と一緒に、食い、飲み、話して過ごしました。しかるに、私は一向に歌も音楽も聞かないので、饗応にはあれほど定まった習慣になっているものを、この例外を見て、大いに訝《いぶ》かりました。そして最後には決心して、若い首長《アミール》に私の驚きの意を表してみました。するとすぐに、その顔が曇るのが見られ、非常に困った様子が見受けられました。それから彼は言いました、「久しい前から、私はわが家の饗応に歌と音楽を廃しました。さりながら、あなたのお望みがかくとあらば、御意《ぎよい》に添うといたしましょう。」そして直ちに女奴隷のひとりを呼ばせると、その奴隷は、繻子の箱に納めたインドの琵琶《ウーデイ》を携えて来て、われわれの前に坐り、すぐに二十一の異なった調子で前奏を弾きました。次に最初の調子に戻って、歌いました。
[#ここから2字下げ]
天運の娘らは、髪振り乱し、苦しみの裡に泣きかつ呻《うめ》く、おおわが魂よ。
さあれ食膳にはこよなき珍羞溢れ、薔薇は馨り、水仙はわれらに微笑み、水は泉水に笑う。
おおわが悲しき魂よ、勇を鼓せ。いつの日か、希望は再び汝《な》が眼の中に光り、汝は幸福の杯を飲むべし。
[#ここで字下げ終わり]
次に、その女奴隷は更に愁わしげな調子に移って、歌いました。
[#ここから2字下げ]
恋の歓楽を味わいしことなく、その苦渋を嘗《な》めしことなき者は、友を失いて己れの失うところを知らず。
恋の痛手に傷つけられしことなき者は、その痛手の得さする甘美なる悩みを知る能わず。
わが友のかたえにありし幸多き夜々、われらの楽しき戯れ、われらの合わせし唇、友の唾の蜜、今いずこぞや。ああ甘かりしかな。
朝《あした》までのわれらが夜々、夕《ゆうべ》までのわれらが日々よ。おお過去のことぞ。むごき天運の命に対してそもいかにせん、おお痛む心よ。
[#ここで字下げ終わり]
歌い手がこの最後の愁歎を洩らしも終らず、若い主人は切なげな叫びをひと声発して、気絶して倒れてしまったのでありました。そして、その女奴隷は私に言いました、「おお長老《シヤイクー》様、これはあなたがお悪いのでございます。それと申しますのは、わたくしどもは久しい前から、歌を聞くと主人が心をいたく動かされ、どんな恋の詩を聞いても、激しい動揺を覚えなさるゆえ、主人の前で歌うことは、ずっと避けているのでございます。」私は自分がこの家の主人の迷惑となったことを、非常に遺憾に思い、女奴隷の勧めに従って、自分がいてこれ以上窮屈な思いをさせまいと、自分の部屋に引き取りました。
翌日、いよいよ私は出発しようとして、召使のひとりに、昨夜の歓待のお礼を、御主人に伝えてくれるように頼もうとしていると、そこにひとりの奴隷が来て、公《アミール》からと言って、千ディナールの財布を私に渡し、失礼したからぜひお受け取り下さるようにと乞い、私の暇乞いの挨拶《サラーム》をお受け申すように申しつかっていると言うのでした。そこで私は、自分の使命はほとんどなすところなく、ジョバイールの家を去って、使いを頼んだ女の家へと戻りました。
その庭に来ると、門口にシート・バドルが待っているのが見えましたが、彼女は私に口を開く暇も与えずに、言いました、「やあ、イブン・アル・マンスール様、あなたのお使いはほとんどなすところなかったことは、存じておりますわ。」そして彼女は、私とジョバイール公との間に起ったことすべてを、逐一私に話すのでしたが、それがまたそっくりそのままで、私はこの女は間者をいくたりも傭っていて、自分に関係のありそうなことを報告させているのだと、想像したくらいです。しかしとにかく、私は訊ねてみました、「そんなによく御存じとは、おおわが御主人よ、いったいどうしたことか。あなたは人目につかずに、あの場にいらっしたのですかな。」彼女は言いました、「やあ、イブン・アル・マンスール様、恋人たちの心には、ほかの人々の推測できないようなことを見る、眼があるものでございますわ。けれども刎ねつけられたことについて、あなたには何の咎もないのは、よくわかっております。それはわたくしの天命でございます。」次に眼を天に向けて、言い添えました、「おおもろもろの心の主《あるじ》よ、どうぞ今後わたくしは決してこちらから愛することなく、人に愛されるようにして下さいませ。どうぞジョバイールに対してこの心に残っている愛は、ジョバイールの心中に流れ入って、あのひとを悩ますことになるようにして下さいませ。どうぞあのひとが帰って来て、わたくしに耳を藉すように歎願することになり、そしてわたくしに、あのひとを苦しめてやることを許したまえ。」
そのあとで、彼女は私に、彼女のため私が骨折ってくれようと思ったことを感謝して、私に別れを告げました。そこで私はムハンマド公の御殿に戻って、そこからバグダードに帰りました。
ところで、翌年、私は習慣どおり、また改めて用事でバスラにゆかなければなりませんでした。というのは、おお信徒の長《おさ》よ、申し上げておかなければなりませんが、ムハンマド公は私の債務者でございまして、お貸ししてある金子を払っていただくには、どうもこうして定期的に出向いて参るよりほかに、道がなかったのです。さて私は到着の翌日、独り言を言いました、「アッラーにかけて、あの二人の恋人の事件の成行きを、ぜひ見届けなければならぬわい。」
私はまずシート・バドルの家に出かけました。見ると庭の門は閉まっていて、あたりの静けさから立ちのぼる悲しみの気配が、身に沁みました。そこで門の鉄柵越しにのぞいて見ると、小径《こみち》の中ほどに、枝々が涙のように垂れ下っているひと本の柳の下に、まだま新しい大理石の墓が見えたが、遠いのでその碑銘を読みかねました。そこで、私は独り言を言いました、「さては、あの女はもうこの世にいないのだ。あの若さはあたら刈り取られてしまった。きっと悲しみが満ち溢れて、あの女の心を溺らしてしまったにちがいない。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十一夜になると[#「けれども第三百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私は、憂いに胸を狭められつつ、ジョバイール公の御殿に出かけてみようと、思い定めました。ところが、そこにはもっともっと心を悲しませる光景が、待っていました。一切は荒れ果てて、壁は崩れ落ち、庭は干あがったまま、全然手入れをした形跡がありません。御殿の門は、ひとりの奴隷も番をしていず、そこには、奥に住んでいる人たちの模様を、知らせてくれることのできるただひとりの人間もおりません。この光景に、私は心中で言いました、「あの人もやはり死んでしまったにちがいない。」次に、深く悲しみ、深く憂えて、私は門口に坐って、次の悲歌をかこつがごとく吟じました。
[#ここから2字下げ]
おお屋形《やかた》よ、われは汝《な》が閾《しきみ》に佇んで、汝《な》が石と共に、もはや世になき友を偲んで泣かんとす。
歓待広く旅人に及んで普《あまね》かりし寛大なる主《あるじ》、今いずこにかある。
玉殿よ、汝《な》が盛時、汝に住みし快闊溢るる友ら、今いずこにかある。
過ぎゆく人よ、汝もまた彼らのごとくなせ。さりながらせめては、その昔《かみ》の恩恵を忘るることなかれ。時の荒廃にかかわらず、その跡は今なおここに存す。
[#ここで字下げ終わり]
こうして私が悲哀に耽っていたところに、ひとりの黒人の奴隷が現われ出て、こちらに進み寄って、乱暴な口調で、私に言うのでした、「お前なんか生命《いのち》を断たれてしまえばいい。何だって家《うち》の門口で縁起でもないことを言うんだ。」私は答えました、「わしはただ、友人のひとりで、昔この家に住んでいた、バニー・シャイバーン族のジョバイールと呼ばれた友を偲んで、詩を即吟していただけだ。」奴隷は言い返して、「あの方の上と周囲にアッラーの御名《みな》あれかし。預言者のためにお祈り下さい、おお御老人《シヤイクー》。けれどもいったいどうして、ジョバイール公は亡くなったなどとおっしゃるのか。アッラーは頌《たた》えられてあれ。私どもの御主人は、ずっと福貴のただ中に生きていらっしゃるものを。」私は叫んだ、「しからば、この家と庭の上に漂う悲しみの気は、そもそも何としたことか。」奴隷は答えました、「恋ゆえです。ジョバイール公は生きてはおられるものの、さながら、もう亡き数に入りなすったも同然です。身動きもなさらずに、お床の上に寝たきりで、お腹が空いても、決して『食べ物を持て』とはおっしゃらず、お喉が渇いても、決して『飲み物を持て』とはおっしゃいません。」
この黒人の言葉に、私は言いました、「お前の上なるアッラーにかけて、おお黒い顔(3)よ、急いで御主人に、わしがまたお目にかかりたいとお伝えしてくれよ。『イブン・アル・マンスールが門口で待っています』と、こう申し上げてくれ。」黒人は立ち去って、しばらくすると戻ってきて、主人がお会いすると知らせました。黒人は私をなかにはいらせながら、こう言いました、「お断わりしておきますが、御主人は、あなたが何かある言葉でもってお心を動かすことができない限り、何をおっしゃろうと、一切おわかりになりますまい。」
見ると実際、ジョバイール公は、臥床《ふしど》に横たわり、眼は虚空を見つめ、顔は蒼白で痩せ細り、全く見分けられぬほどでした。私はすぐにお辞儀をしましたが、彼は挨拶《サラーム》を返しません。話しかけたが、返事をしません。すると先の奴隷が、私の耳許で囁きました、「御主人は韻語でなければおわかりになりません。ほかの言葉はだめです。」ところで、アッラーにかけて、彼と打ちとけて話をはじめるには、これこそ私の願うところです。そこで私はしばし沈思黙考して、次にはっきりした声で、即吟いたしました。
[#ここから2字下げ]
羚羊《かもしか》への恋は未だに君が魂を捉うるや、あるいは、情熱の激しき不安の後に、遂に休息を見出せしや。
君は依然として徹宵して夜々を過ごすや、あるいは君が瞼は遂に眠りを知るや。
もし君の涙未だに止《とど》まるを知らず、君にして未だに魂を悲歎もて養わば、やがて君は狂気の極みに達するものと知るべし。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、彼は両眼を開いて、私に言いました、「ようこそお越し下された、イブン・アル・マンスール殿。事態は私にあって、容易ならぬ模様と相成りました。」私はすぐに答えました、「殿よ、せめてわしが、何かのお役に立つことができましょうか。」彼は言いました、「ただあなただけが、未だに私を救って下さることができます。私の意中では、あなたを介してシート・バドルに手紙を届けていただきたいのです。あなたならば、あの方を説き伏せて、私に返事をさせることがおできになるからです。」私は答えました、「わが頭《かしら》と眼の上に。」すると彼は元気づいて、床《とこ》の上に起き上って、片手の掌《たなごころ》の上に紙片を展《の》べ、蘆筆《カラム》を取って、認《したた》めました。
[#2字下げ] 理性は逃れ去り、代って絶望その席を占め申し候。この日まで、小生は恋はよしなきこと、たあいなきこと、はかなきこととのみ、心得おり候いき。しかるを、自らその海に難破して初めて、恋はここに乗り出す者にとっては、まことに怖るべき波浪高き海なることを、悟り申し候。小生は心傷ついて御身の許に戻る者に候。願わくば憐れんで、御想起下されたく候。もし小生の死を望みたまわば、すべからく寛容を忘れたまえ。
そこでこの手紙に封をして、これを私に渡しました。ところで私は、シート・バドルの運命がいかが相成ったかわきまえぬとは申せ、躊躇せず、この手紙を受け取って、例の庭に出かけました。そして中庭を横ぎって、案内も乞わずに、応接の間《ま》にはいってゆきました。
ところがそこに、絨氈の上に坐って、十人の若い白人の女奴隷が控え、その真中にシート・バドルが、生気と健康に溢れ、しかし喪服を着て、清らかな太陽のごとく、私の見張った眼の前にいるのを見たときの、私の驚きはいかばかりでしたろう。さりながら、私は急いで、これに平安を祈りながら、お辞儀をしました。乙女は私のはいってくるのを見るとすぐに、私に微笑んで、私に挨拶《サラーム》を返して、言いました、「ようこそいらっしゃいました、イブン・アル・マンスール様。まあお坐り遊ばせ。この家《うち》はあなたのお家でございます。」そこで、私は言いました、「何とぞ一切の不幸がここより遠くあらんことを、おおわが御主人よ。さりながら、なぜそのように喪服を召したお姿を、お見受け申すのでございますか。」彼女は答えました、「おお、それは深くお訊ね下さいますな、イブン・アル・マンスール様。あの少女は亡くなってしまったのでございます、あのかわいい娘《こ》は。あなたはお庭で、あの娘《こ》の眠っているお墓を御覧になったでしょう。」そして女は泣き崩れ、一方一緒にいる女たちは、みんなで何とか慰めようと骨折るのでした。
最初は私は黙っているのが義務と心得ましたが、やがて申しました、「アッラーはかの娘に御慈悲を垂れたまわんことを。そして代りに、あなたの悼《いた》んでいらっしゃるあの娘、あなたのお気に入りのやさしい乙女に対して、生命《いのち》が未だ払い残したすべての未払額は、おおわが御主人よ、あなた御自身の上に注がれまするように。と申すは、亡くなったというのは、定めしあの乙女自身にほかなりますまい。」彼女は言いました、「いかにもあの娘《こ》自身でございます、ほんとにかわいそうに。」
そのとき私は、ちょうどこの女のほろりとしているのに乗じて、先刻の手紙を、帯の間から取り出して、これに渡しました。そして付け加えました、「あの方の生きるも死ぬも、おおわが御主人よ、一にあなたの御返事次第でございましょう。と申すは、真実、この御返事を待つことのみ、未だあの方を地に繋いでいる、ただひとつのことでございますから。」女は手紙を取って、開き、読み、微笑して、そして言いました、「ではあの方は、今ではこれほど夢中の有様におなりになったのですかしら、昔はわたくしの手紙なぞ、ひとつも読もうとなさらなかったものを。その後わたくしはただ沈黙を守って、相手にしないでいたのに、そうしたらこんどは、いつになく燃え上って、わたくしのところに戻っていらっしゃったというわけでございますわ。」私は答えました、「いかにも、ごもっとも。いかにもそのとおりです。あなたとしては、もっと手厳しくおっしゃる権利すらありなさる……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十二夜になると[#「けれども第三百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……だが前非を赦すは、寛大な魂の持前じゃ。それに、あの乙女、優しさであなたを慰めてくれた、あのかわいらしい友が、亡くなってしまったとあらば、あなたはこのお屋敷で、ただひとり苦しみと一緒に、そもそも何をなさろうというのでしょう。」この言葉を聞くと、両の眼は涙に溢れて、当人はもののひと時の間、じっと想いに耽っているのでした。その後で、私に言いました、「イブン・アル・マンスール様、おっしゃるところはいかにも本当と存じます。では、あの方にお返事を差し上げましょう。」
そこで、おお信徒の長《おさ》よ、乙女は紙を取って、一通の文《ふみ》を認《したた》めましたが、その思い余った雄弁は、わが君の御殿の最上の祐筆といえども、とうてい及ぶべくもございますまい。その手紙の文句を今そっくりそのまま覚えてはおりませんが、それを思うと、永の歳月にもかかわらず、今も私は心が顛倒するのでございます。
そして乙女はこの手紙に封をして、これを私に渡しました。私はこれに言いました、「アッラーにかけて、これによって、よく渇する者の渇を鎮め、病む者の病いを癒すことができまする。」そして暇《いとま》を告げてこの吉報をさっそく、待ちかねている人に届けようといたしますと、その時女は、今一度私を引きとめて言いました、「やあ、イブン・アル・マンスール様、それに付け加えて、今夜はわたくしたちふたりの上に祝福の夜となりましょう、ともおっしゃって下さって、差し支えございません。」そこで私は悦び勇んで、ジョバイール公の許に駈けつけますと、彼は私のはいってくる筈の扉に、目を釘付けにしておりました。
彼はその手紙を一読して、その意味がわかると、ひと声大きな叫びをあげて、気を失って倒れました。間もなくわれに返ると、まだ心配げに、私に訊ねました、「この手紙を認《したた》めたのは、たしかにあの女《ひと》自身なのですか。あの女《ひと》が自分の手で、これを書いたのでしょうか。」私はこれに答えました、「アッラーにかけて、まさかひとが、足で書くなんていうことは、これまで聞いたことはありませんな。」
しかるに、おお信徒の長《おさ》よ、私がこの言葉を言いもはてず、扉の後ろに、腕環の鳴る音と、鈴と絹物の音が聞え、その一瞬後には、乙女そのひとの姿が、現われ出たのでございます。
悦びと申すものは、言葉をもって十分に述べ尽しがたいものでございますからして、私は空しい努力を試みようなどとは、いたしますまい。ただ、おお信徒の長《おさ》よ、二人の恋人は互いに駈け寄って、無言の裡に口を合わせて、恍惚の裡に相抱いたとだけ、申し上げましょう。
二人がこの忘我の境から出ると、シート・バドルは、友の強《た》っての勧めにもかかわらず、坐ろうとはしないで、立ち尽しています。これには私はたいそう驚いて、その理由を訊ねました。すると私に言いました、「わたくしたちの取り極めが済んだら、坐りますわ。」私は言いました、「取り極めとは、おおわが御主人よ。」彼女は言いました、「それは恋する者同士にしか関係のない、取り極めです。」そして彼女は友の耳許に身をかがめて、何か小声で言いました。彼は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして奴隷のひとりを呼んで、何ごとか命じますと、奴隷は姿を消しました。
しばらくすると、法官《カーデイ》と証人たちがはいって参り、二人の恋人の結婚契約書を作成し、次にシート・バドルの与えた千ディナールの祝儀を貰って、一同退散しました。私も同様に引き取ろうと思いましたが、公《アミール》はいっかな承知せず、言うのでした、「あなたがただわれわれの悲しみだけに与《あず》かって、われわれの悦びを共にしないという法はない。」そして二人で私を饗応に誘って、それは夜が白むまで続きました。するとやっと二人は私を、特に私のために宛てた部屋に、引き取らせてくれました。
朝、眼がさめると、ひとりの奴隷の男の子が、盥《たらい》と水差しを持って、私の部屋にはいってきたので、私は洗浄《みそぎ》をし、朝の礼拝をしました。それが済んでから、応接の間《ま》に行って坐っていると、程なく、夫妻が交歓ののち、まだ浴場《ハンマーム》から出たばかりで、やってきました。私は御両人に仕合せな朝を祈り、幸福の祝辞を寄せました。次に、付け加えて言いました、「お二人の結ばれるのに、わしも何ほどかお役に立ったことは、まことに嬉しい次第です。けれども、アッラーにかけて、ジョバイール公よ、もしあなたがわしに対する御好意のしるしを、ぜひ見せて下さるとあらば、そもそも何が、昔あなたをあれほど激させ、お好きなバドル様と別れて、お身の不幸を来たさせたのか、それをひとつ承わらせていただきたいものじゃ。いかにも奥様からは、奴隷の少女が髪を梳《と》かし編んだあとで、奥様に抱きついたという齣《くだり》は、親しく承わった。だが、ジョバイール公よ、もし他に何か別なお腹立ちの原因とか、別な証拠や嫌疑やらがおありにならなかったとしたら、ただそれだけで、あなたの怨みを招き得ようとは、どうも受けとりかねることに思えまする。」
ジョバイール公は、この言葉に、微笑を見せて、私に言いました、「イブン・アル・マンスール殿、御慧眼まことに感服いたします。シート・バドルの気に入りの女が死んでしまった今となっては、私の遺恨も消えました。ですから、私たちの仲違いの起りも、包まずお聞かせできます。実はそれは、ひとりの船頭の伝えた冗談から起っただけのこと。その船頭は、ある日この二人の女を自分の船に乗せて、船遊びをしたおり、二人がそんな冗談を言っていたというのです。船頭の言うには、『殿様、なんだって旦那は、気に入りの腰元に惚れて、一緒になって旦那のことを馬鹿にしている女なんぞに、わざわざ会っていなさるんですかい。実はこうなのです。私の船で、二人はだらしなくお互いにしなだれかかってからに、男の恋についてずいぶん怪しげなことを、いろいろ歌っていましたっけ。最後はこういう句で、歌をおしまいにしましたぜ。
[#ここから2字下げ]
火もなおわが臓腑の燃ゆるに如《し》かず。されどわれわが主《あるじ》に近づけば、火の手は消え、氷もなお、彼が欲情の前のわが心の冷たきに如かず。
さあれ、わが主《あるじ》は論外ぞ。彼にあっては、硬かるべきもの軟かく、柔か味あるべきもの硬し。何となれば、その心は巌のごとく硬く、その一物は水のごとく柔かし。』
[#ここで字下げ終わり]
その時私は、この船頭の話に、世界がわが眼前に暗くなるのを見て、シート・バドルの家に駈けつけるというと、そこで私は見たことを見た。それで私の疑いは、動かぬものとなるに十分だった次第です……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十三夜になると[#「けれども第三百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「さりながら、アッラーの御恵《みめぐ》みをもって、今は一切忘れられてしまいました。」
そこで彼は私に、私の斡旋に対する感謝のしるしとして、三千ディナールの金額を受けてくれと頼みました。私は重ねて万福を祈り……
イブン・アル・マンスールは、ここで突然話をとぎりました。そのとき実際、自分の言葉を遮る鼾《いびき》の音が聞えたからでございます。それは教王《カリフ》が、とうとう睡気を催されて、そのうち深くお眠り遊ばしていたのでございました。そこでイブン・アル・マンスールは、お眼をさますまいとそっと、またそれよりももっとそっと、宦官の長《おさ》の開けてくれた扉から、逃《の》がれ出たのでございました。そして翌日、よくこうして信徒の長《おさ》にお眠りを返してくれたとて、たっぷりと御褒美を頂戴いたしました。
[#ここから1字下げ]
そしてシャハラザードは語り終って、ちょっと口をつぐみ、シャハリヤール王を見やって、これに言った、「まことに、おお幸多き王さま、わが君もやはり睡気をお催しにならなかったとは、意外でございます。」シャハリヤール王は言った、「全然睡くならぬぞ。そちの思いちがいじゃ、シャハラザードよ。余は今宵はほとんど睡くない。用心せよ、もしそちが直ちに、何か教訓的な物語を語って聞かせぬとあらば、アル・ラシードがその御《み》佩刀持《はかせもち》を威《おど》したところを、この余自身が、そちに対して実行するであろうぞ。されば、例えば、決して満たされぬ肉の欲をもって己が夫を悩まし、かくして夫に墓の門を開く女どもに対する、妙薬とでもいうごときことについて、何か余に聞かせるべき言葉を持ち合わせぬか。」
シャハラザードは、この言葉を聞いて、ちょっと考え込んで、そして言った、「ちょうど、おお幸多き王さま、そのことについてならば、これほどうってつけの物語は、わたくしの思い出す限りございませんから、ではすぐさま、それをお話し申し上げましょう。」
そしてシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
肉屋ワルダーンと大臣《ワジール》の娘との話
語り伝えまするところのうちで、語り伝えまするところでは、むかしカイロに、羊肉を扱う肉屋を生業《なりわい》とする、ワルダーン(1)と呼ぶ男がおりました。彼は毎日自分の店に、すばらしい身体《からだ》と顔をした、一人の乙女が来るのに気がついておりましたが、しかしその乙女の眼は疲れきっておりましたし、その顔色も真っ青でございました。いつも負籠《おいかご》を背負った荷かつぎ人足を一人従えてまいりまして、牡羊の肉の一番柔かなところと、それに睾丸とを選び、二ディナールかそれ以上の重さの金貨一枚で、全部の支払いを済まし、買った品を荷かつぎ人足の負籠に入れますと、それからまた市場《スーク》巡りを続け、あらゆる店に立ち寄って、あらゆる商人から何かを買ってゆくのでした。そしてもう長い期間に亘って、こうした行動を続けましたので、とうとうある日のこと、肉屋のワルダーンはこの若い女客の風体《ふうてい》や、無言な様子や、態度などが気懸りの限り気懸りになり、これは事態を究明して、この女について思い悩むさまざまな考えをふり払ってしまおうと、決心いたしました。
さて、ある朝のこと、彼は若い女の荷かつぎ人足が、一人きりで店の前を通るのを見ましたので、今こそ待ちかまえていた機会だと思いました。彼は人足を引きとめ、その手にできるだけ上等の羊の頭を握らせて、申しました、「おお荷かつぎ人足さんよ、この頭はあんまり焼き過ぎないように、よく肉焼き屋のおやじに言っといてやんなよ。さもないと、味がなくなっちまうからね。」それから、付け加えました、「おお荷かつぎ人足さんよ、お前さんを毎日傭って来なさるあの娘さんについては、私は何が何だかさっぱりわからないんだがね。一体、あの人はどなたで、どこからおいでになるんだね。あの羊の睾丸を何にしなさるんだい。ことに、あの眼と顔つきだが、どうしてあんなに疲れきっていなさるんだね。」彼は答えました、「アッラーにかけて、私だって、あの方のことについては、あんたと全く同じで、さっぱりわからないんですよ。だが私の知ってることは、早速、話して上げましょう。何しろあんたの手は、私みたいな貧乏人どもに気前がいいからね。実はこうなんです。あの方は全部の買物を一旦すますと、その上、町角のナザレト人《びと》の商人のところで、高い古葡萄酒を一ディナール買って、それから、ああいう風に荷物を背負わせた私を連れて、総理|大臣《ワジール》のお庭の入口までいらっしゃるんです。そこで、あの方は御自分の面衣《ヴエール》でもって私に目隠しをし、階段のところまで私の手を引いて行って、その段々を私と一緒に降りなさり、それから、私の負籠を下ろさせて、骨折賃に半ディナールを下さり、私の負籠の代りに、別な空の負籠を背負わせ、ずっと目隠しをさせたまま、また私をお庭の入口まで連れてゆき、そこで、翌日までお暇を下さるのです。だから、私としても、あの方があの肉や、果物や、巴旦杏や、蝋燭や、そのほかあの地下室の階段まで私に運ばせる全部の品々を、いったいどうなさるのやら、ついぞ知ることができないわけなのです。」肉屋のワルダーンは答えました、「お前さんはただ私の不審を募らせるだけだね、おお荷かつぎ人足さん。」そのうちに、他のお客たちがやってまいりましたので、彼は荷かつぎ人足をおいて、そちらのほうへ接待をし始めました。
彼はひどく気になるこのような事態について思いをめぐらしながら、ひと晩を過ごした後、翌日になりますと、また同じ時刻に、あの乙女が荷かつぎ人足を連れてやって来るのを見ました。そこで、独り言を言いました、「アッラーにかけて、今度こそは何が何でも、おれの知りたいことを知らなければならんぞ。」そして、乙女がいろいろな買物をして遠ざかってしまった後、彼は自分の手伝いをしている小僧に、売り買いについて店の面倒を頼みまして、自分は乙女のあとを遠くから、気づかれぬようにつけ始めました。こうして女のあとから歩き、大臣《ワジール》の庭の入口まで行くと、木立ちの後ろに身を隠して、荷かつぎ人足の戻って来るのを待つことにしましたが、見ればなるほど、荷かつぎ人足は眼隠しをされ、手を引かれながら、小道を通って、連れてゆかれました。見ておりますと、彼女はしばらく姿を消していたあとで、また入口に戻って来て、荷かつぎ人足の眼から面衣《ヴエール》を取り、これに暇をやり、荷かつぎ人足が姿を消すのを待って、また庭の中へはいってゆきました。
そこで、彼は隠れ場所から立ち上り、木から木の後ろへ身をひそめながら、裸足《はだし》で女のあとをつけました。見ると、こうして彼女は一塊の岩の前に着き、それにちょっと触って、ぐるりと廻して、階段を通って姿を消してしまいましたが、彼にはその段々が地下に降りているのが見えました。そこで彼はしばらく待って、その岩に近づき、同じようにこれを操り始めて、首尾よくこれを廻しました。そこで岩をもとの場所に戻して、地下に入り込みましたが、これから先は、彼の見たことを、彼自身が語ったものなのでございます。
彼は申しました。
はじめ私は地下の暗闇で、何の見分けもつきませんでした。そのうちにとうとう、廊下のあることがわかりましたが、その奥のほうには、光が仄《ほの》かに差し込んでおりました。私は相変らず裸足《はだし》で、息を殺しながら、そこを辿ってゆき、ついに一枚の扉の前に着きましたが、その向うでは、笑い声やぶつぶつ言う声が聞き取れました。私はそこで、光の条《すじ》が洩れ出ている割れ目に眼をあてがいまして、見ると、あの乙女と、人間そっくりの顔つきの一匹の大猿が、長椅子《デイワーン》で絡み合いながら、いろいろと身をねじり動かしている真最中でした。しばらくたちますと、乙女は身を引き離して、立ち上り、着物を全部脱ぎ捨てて、あらためて長椅子《デイワーン》の上へ横になりましたが、こんどは丸裸です。すると猿はすぐに女に襲いかかり、これを腕に抱きしめて、番《つが》いました。そして女と事をすますと、猿は立ち上って、ちょっとひと休みし、それから、またもや番って、女をわが物としました。猿はそれからまた立ち上り、もう一度休みましたが、再び女に襲いかかって物にし、こうして立て続けに、同じ遣り方で十回繰り返しましたが、その間女のほうでも、女が男に与える一番結構で、一番|美味《おい》しいものを、ことごとく猿に与えてやっておりました。これがすむと、彼らは双方とも弱り果てて、気を失ってしまいました。そしてもはや身動きもしませんでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十四夜になると[#「けれども第三百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
私はもう呆れかえってしまいました。そして魂の中で言いました、「時は今だ。これを逃がしたら、二度と機会は掴めないぞ。」そして、私は肩でひと突き食わせて、扉を打ち破り、肉より前に骨を切る(2)こともできるほど研ぎすました、肉切包丁を振り上げながら、部屋の中へと躍り込みました。
私は思い切って大猿に飛びかかりましたが、こいつは筋肉一本も動いていませんでした。それほど、あの営みは猿を疲れ果てさせていたのでした。私はいきなりその首筋に包丁を押し当て、一撃の下に、その頭を胴体から斬り離してしまいました。すると猿の中にあった生命力は、息切れの音や痙攣など、大音響をあげて、身体《からだ》から離れ去りましたので、そのため乙女は突然眼を開き、そして私が血塗れの包丁を手にしているのを見つけました。すると彼女は凄まじい恐怖の叫び声を上げまして、私は一時は、彼女がもう息を引き取り、二度と帰らぬのかと思ったくらいでした。けれども、彼女は私が害を加える気のないことがわかりますと、次第に意識を取り戻して、私が誰であるかわかることができました。そこで、彼女は私に言いました、「おおワルダーン、お前は大切なお顧客《とくい》さんを、こんな風に扱うのですか。」私はこれに言いました、「おおあなたはあなた御自身の敵だ。こんな手段にお縋りになるというのは、もう世間には逞しい男がいないというわけですか。」彼女は私に答えました、「おおワルダーン、まずこのすべての原因を聞いて頂戴。そうしたら、たぶんあなたも私を許して下さるでしょう。
実際のところ、こうなのです。私は総理|大臣《ワジール》の一人娘なのです。十五の歳《とし》まで、私は父の館《やかた》で平穏に暮しておりました。けれども、ある日のこと、あるまっ黒な黒人の男が、私の教わるべきことを私に教え、私の中から取るべきものを取ってしまったのでした。ところで、あなたもきっと御承知でしょうが、私たち女の体内を燃え上らせることにかけては、黒人ほどのものは他にありはしません。ことに土地が最初に、あの黒い肥料《こやし》を味わったときには、なおさらです。ですから、私の土地もそのときからすっかり変質してしまって、黒人がしじゅう、ひっきりなしに、水を撒きに出て来なければならないことになったと聞いても、不思議に思いなさるな。
しばらく時がたってから、黒人は過労がもとで死んでしまいましたので、私は、子供のときから私のことを知っている館《やかた》の年とった婆《ばあ》やに、私の苦しみを語りました。婆やは頭を振って、私に言いました、『今後、あなたのおそばで黒人の代りがつとまるたった一つのものは、お嬢様、それは猿でございますよ。猿ほど突撃の旺盛なものはござんせんからね。』
私は婆やの言うのを本当と思ってしまい、そこである日のこと、館の窓の下を、一人の猿廻しがその獣《けもの》どもにとんぼ返りをさせながら、通ってゆくのを見ましたので、私はいきなり、その中の一番大きなやつで、私を見つめていた猿の前に、自分の顔を現わしてやりました。そいつはすぐさま自分の鎖を断ち切り、親方が停《とど》めるすべもなく、街々を通って逃げ出し、大廻りをして、庭から館の中へ戻って来て、真直ぐに私の部屋に馳け込んでまいりました。そしてすぐさま私を両腕に抱いて、たて続けに十回、休む間もなく、ひっきりなしに、したことをしたのでした。
ところで、父はとうとう猿と私の関係を聞きつけて、その日は私を危うく殺そうとしたほどでした。それでも私は、そのときから、もう例の営みなしではすまされなくなってしまって、内緒でこの地下室を掘らせて、ここに猿を閉じこめました。そして今日まで、私自身で食べ物や、飲み物を運んでやっていたのでしたが、今日、宿命はあなたに私の隠れ場所を見つけさせ、猿を殺させてしまったのです。ああ、これから私はどうなるのでしょう。」
そこで私は彼女を慰めようと努めて、気を鎮めてやるために、こう申しました、「大丈夫です、おお御主人様、私は立派にあなたのおそばで猿の代りになれますから。試してごらんになれば、おわかりでしょう。何しろ私は名うての乗り手なのですから。」そして、早くも彼女は眼を閉じて、飛びついてきたので、私はこれをひっくり返して、そして私は彼女に対して、その日も続く日々も、私の精力が死んだ猿や死んだ黒人の精力をも凌ぐことを、示してやりました。
さりながら、そうしたことが永い間同じ調子で続くわけにはゆきませんでした。というのは、数週間たつと、私はまるで縁《ふち》のない深海にはまりこんでしまったような有様でしたから。ところが乙女は反対に、日に日に欲望が増し、身中の火が掻き立てられるのを見たのでした。
こうした情けない状態に落ちた私は、ある老婆の学問に救いを求めにゆきました。この老婆は、媚薬《ほれぐすり》を調製したり、この上なく根治しにくい病気の薬を調合したりする技術にかけては、並ぶものがないことを、かねて知っていたからです。私は老婆にこの話を一部始終語って聞かせ、そして申しました、「さて、おお小母さん、どうかひとつ、あの女の欲望を消して、あの気質を取り鎮められるような調合をしていただきたく、お願いにまいりました。」老婆は答えました、「そんな造作のないことはないよ。」私は言いました、「あなたの学問と知恵に万事おまかせします。」
すると、老婆は鍋を取って、その中にエジプトの羽《は》団扇豆《うちわまめ》の粒一オンス、椰子の酢一オンス、インド産|忽布《ホツプ》二オンス、海の狐尾草《ジキタリス》の葉数枚を入れました。この全部を二時間のあいだ煮立たせて、その上澄《うわず》みの液をていねいに掬いとってから、老婆は私に申しました、「薬ができたよ。」そこで私は、老婆に地下室まで一緒に来てくれるように頼みました。そこまで来ると、老婆は私に言いました、「最初に、女がへとへとになって倒れてしまうまで、乗らなければいけないよ。」
私は老婆の命じたことを行ない、十分いたしましたので、乙女は意識を失ってしまいました。すると老婆は部屋に入って来て、件《くだん》の液体をもう一度あたためたのち、それを小さな盥《たらい》に入れ、大臣《ワジール》の娘の股の間にあてがいました。老婆が彼女に燻蒸《くんじよう》を施しますと、それが肝心の場所のずっと奥のほうまで深く浸み入り、徹底的な効き目を発揮したに違いありませんでした。というのは、私は突然その拡げられた両股の間から、二つの物体が相次いで落ち、ぴちぴち跳ね廻り出したのを見たからです。私はもっとこまかくそれを調《しら》べましたところ、それは二匹の鰻《うなぎ》で、一匹が黄色、もう一匹が黒色であることがわかりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十五夜になると[#「けれども第三百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この二匹の鰻を見ると、老婆は大喜びの極に達して、叫びました、「息子よ、アッラーに感謝しなさい。薬の効能が現われたんだよ。実はこうなのさ、この二匹の鰻こそ、お前さんが私に訴えたあの不満の原因《もと》だったのだよ。鰻の一匹は黒ん坊との交合から生まれたのだし、もう一匹は猿との交合から生まれたものだ。こいつらが出た今となっては、この娘さんも穏やかな気質を持つことができるようになって、もううんざりするほどせがんだり、めちゃくちゃな欲望を起すようなことはなさるまいよ。」
なるほど本当に、ひとたびわれに返ると、もう乙女は官能を満足させろと要求しないことを、私は確かめました。そしてもうすっかり落着いて来たことがわかりましたので、私は躊躇せず結婚を申し込みました。彼女も私にすっかり慣れていたもので、これを承知しました。そして私どもは、その時から一緒に、この上もなく楽しい生活と、欠けるところのない歓楽の中に暮したのでした。けれどもそれは、この治療を施し、こうして飽くことを知らぬ欲望の薬を私どもに教えてくれた老婆を、わが家に引き取ってからのことでした。
死することなくして、その御手《おんて》にもろもろの帝国と王国とを握りたもう生者の、讃えられんことを。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは続けた、「これが、おお幸多き王さま、厄介な気質の女たちに加えるべき療治について、わたくしの知るところのすべてでございます。」するとシャハリヤール王は言った、「余は昨年、その処方を識っておればよかったのう。さすれば、あの黒人奴隷とともに庭園にいる現場を押えた呪われた女に、燻蒸療法をしてやったものを。しかし、シャハラザードよ、今はもう学問的な物語は措《お》いて、できるならば、今宵は、今まで聞いたあらゆる物語よりも、さらに驚くべき物語を一つ語ってもらいたい。と申すのは、余は常よりも胸狭まるを覚えるからじゃ。」シャハラザードは、直ちに言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
地下の姫、ヤムリカ女王の物語
語り伝えまするところでは、時のいにしえと時代世紀の過ぎし世のうちに、ダニアルと呼ばれた、ギリシアの賢人の中のひとりの賢人がおりました。彼には、自分の訓《おし》えを謹聴し、その学問から恩恵を得る恭順な弟子は、大勢おりましたが、自分の書籍と写本類の相続者になれるような、息子を持つという心の慰めが、全然ございませんでした。そういう果報を得ようとしても、もはやどうしていいのか分りませんでしたので、彼は天の主《あるじ》に向って、かかる御恵《みめぐ》みをお授け下さるように祈ろうと思いつきました。ところで、その御寛仁の門に門番を持ちたまわぬ至高者は、この祈りを聞こしめされて、即刻即座に、学者の妻を身籠《みごも》らしめたもうたのでございました。
妻の懐妊が続いた数カ月のあいだに、賢人ダニアルは自分がすでにずいぶん老齢になったのを見て、独語しました、「死は近づいているが、わしの持とうとする息子が、いつの日か、果してわしの書籍と写本類を、そっくりそのままで見出だし得るかどうかは、はかり知れぬわ。」そして、彼は直ちに自分の全時間を捧げて、そのさまざまな書物に含まれているあらゆる学識を、数枚の紙片に要約し始めました。こうして彼は非常に細かい字で、五枚の紙片を満たしましたが、それには、彼の全知識と所蔵の五千の写本との精髄が含まれておりました。そこからこれを読み返して、熟慮を重ねますと、この五枚の紙片そのものにも、まだもっと精髄だけにされるような事柄が、含まれていると思いました。そこで、さらに一年間を熟慮に捧げまして、とうとう五枚を僅か一枚につづめてしまいましたが、この一枚こそは、初めのものの五分の一だったわけです。そしてこの仕事を終えたときに、彼はいよいよ最期が迫ったことを感じました。
そこで老学者は、己れの書籍と写本とが他人の所有に帰することを恐れまして、これを一つ残らず海に投じて、件《くだん》の小さな紙片一枚しか取っておきませんでした。彼は身籠った妻を呼んで、申しました、「わしの期間は終ったのだ、おお妻よ、わしは『寛大者』がわれらに授けたもうた子供を、自分の手で育てることは叶わぬわけじゃ。だが、わしは遺産としてこの小さな紙片を残しておくから、子供がお前に父の財産の分前を要求したら、その日はじめてこの小さな紙片を渡してもらいたい。そしてもし子供がこれを判読し、その内容を理解し得るようになれば、それこそ当代随一の賢人となるであろう。その子はハシブと呼んでもらいたい。」そしてこの言葉を言いおいて、賢人ダニアルはアッラーの平安の中に息を引き取りました。
人々は彼の葬儀を営み、これには彼のあらゆる弟子と都のあらゆる住民とが参列いたしました。そして一同は彼を泣き悲しみ、彼の死のために喪に服しました。
さて、数日の後に、ダニアルの妻は一人の男の児、美の月を産み落しましたが、この児は故人の頼みに従って、ハシブと呼ばれました。母親はそれと同時に、占星学者を呼び集めましたが、彼らはひとたび計算を行ない、星辰の観察を終えますと、子供の星運を占って、申しました、「おお御婦人よ、この御子息は、青年期の上に懸る一つの危険を脱れたる場合は、長寿を保つでござろう。この危険を避ければ、御子息は高度の学識と富貴とに達せらるるでしょう。」そして彼らは己が道へと立ち去りました。
子供が齢《よわい》五歳になったとき、母はこれを学校に入れて、何ごとかを学ばせようといたしました。けれども子供は全く何一つ覚えませんでした。そこで母は子供を学校から下げ、なにか職業に就けさせたいと思いました。けれども子供は何ひとつせず、永い年月を過ごし、十五歳の年齢に達しましたが、何ひとつ覚えず、何ごとであろうと物にならず、自分の暮しを立てることも、母の出費を助けることもできませんでした。そこで母は泣き始めますと、隣近所の人々はこれに申しました、「息子さんに仕事の腕をつけられるものは、結婚のほかにはありませんよ。そうなれば、女房を持ったら働いて養うものだということが、よく分りなさるでしょうからね。」この言葉を聞いて、母親は立ち上り、知人のあいだに若い娘を探す決心をいたしました。そして息子に似合った一人の娘を見付けましたので、これを彼とめあわせました。すると、若いハシブは妻に対しては申し分ない夫でしたが、しかし相変らず何ひとつせず、どんな仕事にも一向興味を起しませんでした。
ところが、近所の人々の中に、木樵《きこり》たちがおりまして、この連中がある日のこと、母親に申しました、「息子さんに驢馬一匹と、縄と、斧一丁を買っておやんなさいよ。そしてわしらと一緒に、山へ木を切りに行かせなさるがいいですよ。そうしたら、わしらは木を売って、儲けを息子さんと分けることにしますからね。そうなりゃあ、息子さんはあなたの出費も助けてあげられるし、お嫁さんももっとよく養ってあげられることになりますでな。」
この言葉を聞くと、ハシブの母親はたいそう喜んで、すぐさま彼に驢馬一匹と、縄と、斧一丁を買ってやり、木樵たちにくれぐれも頼んで、彼を預けました。すると木樵たちは彼女に答えました、「息子さんのことについちゃあ、何の心配も要りませんや。わしらの先生、ダニアル様の御子息さんだもの、わしらはちゃんとかばって、目を離さずにいますよ。」そして彼らは彼を一緒に山に連れてゆき、そこで木を伐ることや、これを驢馬の背に積むことや、それからこれを市場《スーク》で売ることを教えました。するとハシブは、母と妻を助けながら、歩きまわることもできるというわけで、この商売にはこの上もない興味を覚えたのでありました。
ところが、日々の中のある日のこと、みんなが山の中で木を伐っていたときに、突然雨と雷を伴った嵐に襲われましたので、やむなく駈け出して、そこから程遠からぬところにある洞穴に逃げ込まざるを得ませんでしたが、そこに入ると、一同は煖を取るために火を起しました。そして同時にダニアルの息子の若いハシブに、薪を割って、火を絶やさぬようにすることを委せました。
ハシブは洞穴の奥に入り込んで、一心に木を割っているうちに、突然斧が地面の上で高い音をあげ、まるでその場所には地下に空間があるかのように、反響するのを聞きつけました。そこで彼は足もとを掘り始め、こうして、銅の環のついた一枚の古い大理石を発《あば》き出しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十六夜になると[#「けれども第三百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……銅の環のついた一枚の古い大理石を発《あば》き出しました。これを見て、彼は声をあげて仲間の者を呼びますと、みんな馳せつけて来て、とうとう大理石の板を持ち上げてしまいました。すると非常に広くて、非常に深い穴が出てまいりましたが、そこには夥しい数の壺が並んでいて、それは見るからに極めて古く、首が念入りに密封されておりました。そこで彼らは縄を使って、ハシブを穴の底に下ろし、彼にそれらの壺の内容《なかみ》を見させ、これを同じ縄で結《いわ》えさせ、縄を引きあげてこれを洞穴のなかに上げてしまおうとしました。
若いハシブは、いったん穴の中へ降りますと、まず斧でこの素焼の壺の一つの首を割ってみました。するとすぐに、そこから上質の黄色い蜜が流れ出すのを見ました。彼はこの発見した物のことを木樵たちに知らせますと、彼らは古代の宝物にでもぶつからぬものかと期待していたところに、蜜などを見つけたのですから、やや当てが外れはしたものの、この無数の壺とその内容《なかみ》とを売れば、儲かるに相違ないと思うと、まんざら不満なこともありませんでした。そこで彼らはこれらの壺を、若いハシブが結えつけるに従って、一つずつ次から次へと、全部引き揚げてしまい、これを木の代りに驢馬に背負わせますと、その仲間を穴底から引きあげようともせず、打ち揃って、町のほうへ立ち去って、互いにこう言い合ったのでした、「あいつを穴から引っ張り出したら、売り上げの儲けも分けてやらなくちゃあならないだろう。それに、あんなのらくら野郎なんぞは、生きているより死んだほうがましさ。」
こうして彼らは驢馬と一緒に市場《スーク》へ立ち去りましたが、その中の一人を、ハシブの母親のもとへ走らせて、こう言わせました、「わしらが山の中にいた間に、いきなり夕立が降ってきましたがね、そのとき息子さんの驢馬が逃げ出しやがったもんで、息子さんはわしらが洞穴に逃げ込んでいた間に、こいつを追い掛けてつかまえなければならなくなったんです。運の悪いことには、いきなり一匹の狼が森から現われやがって、息子さんを殺して、驢馬もろとも食ってしまったのです。それだもんで、あとには僅かの血と四、五本の骨しか見つかりませんでしたよ。」
この知らせを聞くと、不幸な母と哀れなハシブの妻は顔を叩き、頭に埃《ほこり》を被って、絶望のすべての涙を流しました。彼女たちについては、以上のようでございました。
一方木樵たちのほうは、彼らは蜜の壺をたいそう有利な値で売り払って、莫大な儲けを得ましたので、誰もがそれぞれ商いの店を開いて、売り買いをすることができるようになりました。そして毎日、一番|美味《おい》しいものを食べたり飲んだりして、どんな快楽をも控えませんでした。彼らについては、以上のようでございました。
ところで、若いハシブはどうかと申しますと、それは次のようでございます。彼は穴から引き出してもらえぬのを見ると、喚いたり、訴えたりし始めましたが、何の甲斐もありませんでした。何しろ木樵どもはすでに立ち去っていて、彼を救い出さずに、そのまま死なせてやろうと決心していたのですから。彼はそこで壁面に穴を掘って、手がかりと足がかりを作ろうと試みました。けれども壁面は御影石でできていて、斧の鋼《はがね》を受け付けないことがよく分りました。そうなると絶望は果てしなくなり、彼は穴の奥に身を投げて、そのまま死んでしまおうといたしますと、そのとき、突然一匹の大きな蠍《さそり》が、御影石の隙間から現われて、彼を刺そうと、こちらへ進んで来るのが目にとまりました。彼は斧を振って一撃の下にこれを叩き潰し、件《くだん》の隙間を調べてみますと、そこからは一条の光が洩れて来ております。そこで斧の刃をこの隙間に差し込み、その上に強く重さをかけてみようという考えが浮びました。非常に驚いたことには、そうやってみると、一枚の扉を持ち上げることができて、その扉が少しずつ上ってゆき、人間の体を通すくらいの広い裂け目を開けてくれたのでした。
これを見ると、ハシブは一瞬も躊躇せず、裂け目の中に入り込み、こうして長い地下の廊下に出ましたが、その突き当りからは、光線が射し込んでおりました。この廊下をひと時の間渡ってゆきますと、銀の錠前と金の鍵のついた、黒い鋼鉄の大きな扉に行き当りました。この扉を開きますと、彼は突然露天に出て、湖の岸辺、碧玉《エメラルド》の丘の麓におりました。この湖の畔《ほとり》には、宝石に輝く黄金の玉座があって、その周りには、金、銀、碧玉《エメラルド》、水晶、鋼鉄、黒檀《こくたん》や白檀《びやくだん》の木などのさまざまな椅子が、水に影を映しているのが見えました。彼はそれらの美しさと、景色と、これを映す水などを眺め終えると、湖と山の素晴らしい景観をさらによく楽しむために、中央の玉座に坐りにゆきました。
若いハシブが黄金の玉座に坐ったかと思うと、シンバルと太鼓《ダラブカ》の音が聞えて来て、突然|碧玉《エメラルド》の丘の中腹の後ろから、一列に並んだ人たちが進み出て、歩くというよりは、むしろ滑りながら、湖のほうへと繰り出してくるのが見えました。彼には遠方のせいで、その人たちの姿がはっきり認められませんでした。その人たちがさらに近づいて来たときに、彼はこれがうっとりするような美しい女人であるのを見ましたが、しかしその下半身はすべて蛇身の、細長い匍匐体《ほふくたい》となって終っているのでした。彼女たちの声はたいそう快く、一斉にイオニア語で、彼の目には見えない女王の讃歌を歌っておりました。けれども、やがて丘の後ろから、四人の蛇身の女が方形を作り、頭上高く差し上げた腕に金の大盤を持って、現われてまいりますと、その大盤の上には、優雅に満ちた、にこやかな女王が乗っておりました。四人の女は黄金の玉座まで進んでまいりまして、ハシブがいち早く遠く退いておりましたので、そこに女王をお下ろしして、面衣《ヴエール》の皺をお直しし、その後方に控えましたが、一方、他の蛇身の女たち一同は、それぞれ湖の周りに配置された貴重な椅子のほうへ、滑ってゆきました。そのとき女王は、心を魅す響きの声で、周りを取り巻く女たちに、ひと言ふた言申しました。するとすぐにシンバルの合図が発せられ、すべての蛇身の女たちは、女王を称《たた》えて讃歌を詠唱して、椅子に腰を下ろしました。
女たちが歌を歌い終えたとき、ハシブのいることに気がついていた女王は、彼のほうに優しく頭《こうべ》を廻《めぐら》して、遠慮せずに近づくように、合図をいたしました。するとハシブは、たいそう不安ではあったけれども、そばに近寄ってゆきますと、女王は彼に坐るようにと勧めて、申しました、「ようこそわが地下の王国にまいられました、おお、善き天命によってここまでお導かれになったお若い方よ。一切の不安を遠く払い退けて、妾《わらわ》にお名前をおっしゃって下さい。と申しますのは、妾こそは地下の姫、ヤムリカ女王ですから。そして、この蛇身の女たちはみな妾の家来です。さあお話しなさって、あなたはどなたでいらっしゃるのか、また、どうしてこの湖まで辿り着くことがおできになったのか、おっしゃいませ。この湖は妾の冬の住居でございまして、妾は毎年コーカサス山の夏の住居を去って、ここに数カ月を送りにまいるのでございます。」
この言葉を聞くと、若いハシブはヤムリカ女王の御手の間の地に接吻した後、その右手の碧玉《エメラルド》の椅子に坐って、申しました、「私はハシブと申しまして、今は亡き学者ダニアルの息子でございます。私の生業《なりわい》は木樵でございますが、私とて人間の子たちの間で商人になるか、あるいは大学者にさえなり了《おお》せたかも知れません。けれども私は、お墓の四面の壁の間に閉じ籠るようなことは、死んでしまえばいつでもできるものと思いまして、森や山の空気を吸うほうを選んだのでございます。」それから彼は、木樵どもと一緒にわが身に起ったことや、偶然の結果、この地下の王国まで入り込むことができた次第などを、詳しく物語ったのでございました。
若いハシブのこの話は、たいそうヤムリカ女王のお気に召して、女王はおっしゃいました、「ハシブよ、あなたは穴倉に捨てられなすったときから、さぞかしお腹が減って、喉が渇いていらっしゃることでしょう。」そして侍女の一人に合図をしますと、その女は直ちに若者のところまで滑って来て、葡萄、柘榴、林檎、ふすだしゅう、榛《はしばみ》、胡桃、みずみずしい無花果《いちじく》、バナナなどを盛った金の盆を、頭に載せて運んでまいりました。それから彼は、食べて飢えを鎮めますと、紅玉《ルビー》を彫って作った杯に入れた、美味しいシャーベットを飲みました。そこで運んできた女が盆を持って退きますと、ヤムリカ女王はハシブに向って申しました、「さてハシブよ、今となっては、妾の王国に御滞在が続く限り、あなたは愉しいことよりほかにはお遭いにならないものと、安心なさってよろしい。では、もしこの湖畔とこの山々の蔭で、妾たちの間に一週間か二週間を過ごすお積りなら、妾はもっと楽しく時を過ごさせて上げるように、ひとつの物語をして差し上げましょう。それは、これから人間の国にお帰りになったときに、あなたの勉強のお役に立つでありましょう。
そして地下の姫は、碧玉《エメラルド》と黄金の椅子に坐った一万二千の蛇身の女の注意のただ中で、次のようなことを、学者ダニアルの息子、若いハシブに語ったのでございます。
されば、おおハシブよ、むかし、バニー・イスラーイール王国に、たいそう聡明な王がおられましたが、この王は死の床で、王座の後継者のわが子を呼び寄せて、こう申されました、「おおわが子ブルキヤよ、余はそちに申しつけておくが、そちが王権を握ったせつは、自分自身でこの宮中にあるすべての物の財産目録を作成し、最大の注意を払って調査することなくしては、一物もやりすごすことのないようにせよ。」
そういうわけで、若いブルキヤが王となったときの最初の配慮は、父王の財産と宝石類に一々目を通し、王宮に集められたあらゆる貴重品のしまい場所になっている、さまざまな部屋を調べて廻ることでした。こうして彼はある奥まった部屋に行き当りますと、その室のまん真中に、白い大理石の小柱が一本立っていて、その上に黒檀の木の小箱が置いてあるのを認めました。ブルキヤは急いでその黒檀の小箱を開けますと、その中には金製の小筐《こばこ》が入っておりました。この金製の小筐を開けますと、そこには一巻の羊皮紙の巻物がはいっておりましたので、彼は早速これを拡げました。それにはギリシア語で、次のように述べられておりました。
人間と妖霊[#「人間と妖霊」に傍点]と鳥獣との主たり君主たらんと欲する者は[#「鳥獣との主たり君主たらんと欲する者は」に傍点]、預言者スライマーンの埋葬の地なる[#「預言者スライマーンの埋葬の地なる」に傍点]「七つの海[#「七つの海」に傍点]の島[#「島」に傍点]」にて[#「にて」に傍点]、その御指に嵌めたもう指輪を見出だせば可なり[#「その御指に嵌めたもう指輪を見出だせば可なり」に傍点]。これこそは[#「これこそは」に傍点]、人間の父アーダムが[#「人間の父アーダムが」に傍点]、楽園にて指に嵌めいたりし魔法の指輪にして[#「楽園にて指に嵌めいたりし魔法の指輪にして」に傍点]、天使これを彼より奪い[#「天使これを彼より奪い」に傍点]、後に賢人スライマーンに贈りたるものなり[#「後に賢人スライマーンに贈りたるものなり」に傍点]。されど海洋をよぎり[#「されど海洋をよぎり」に傍点]、七つの海の彼方にあるその島に近寄るは[#「七つの海の彼方にあるその島に近寄るは」に傍点]、いかなる船とてもこれを試み得ざるべし[#「いかなる船とてもこれを試み得ざるべし」に傍点]。ひとり[#「ひとり」に傍点]、かの草を見出ださん者のみは[#「かの草を見出ださん者のみは」に傍点]、よくこの企てに成功すべし[#「よくこの企てに成功すべし」に傍点]。この草汁を足の裏に擦り付くれば[#「この草汁を足の裏に擦り付くれば」に傍点]、もって海面を歩み得ればなり[#「もって海面を歩み得ればなり」に傍点]。この草はヤムリカ女王の地下の王国にあり[#「この草はヤムリカ女王の地下の王国にあり」に傍点]。しかしてひとりこの姫のみこの草の生うる場所を知る者なり[#「しかしてひとりこの姫のみこの草の生うる場所を知る者なり」に傍点]。何となれば[#「何となれば」に傍点]、姫は一切の植物と花々との言語を識り[#「姫は一切の植物と花々との言語を識り」に傍点]、かつその効能を一つとして知らざるなければなり[#「かつその効能を一つとして知らざるなければなり」に傍点]。この指輪を見出ださんと欲する者は[#「この指輪を見出ださんと欲する者は」に傍点]、まずヤムリカ女王の地下の王国に赴くべし[#「まずヤムリカ女王の地下の王国に赴くべし」に傍点]。しかして幸いにして目的を達し[#「しかして幸いにして目的を達し」に傍点]、その指輪を獲得せんか[#「その指輪を獲得せんか」に傍点]、その際はあらゆる創られし存在を支配し得るのみならず[#「その際はあらゆる創られし存在を支配し得るのみならず」に傍点]、さらに[#「さらに」に傍点]「闇の国[#「闇の国」に傍点]」に分け入りて[#「に分け入りて」に傍点]、美と[#「美と」に傍点]、青春と[#「青春と」に傍点]、学と[#「学と」に傍点]、知と[#「知と」に傍点]、不死とを与うる[#「不死とを与うる」に傍点]「生命の泉[#「生命の泉」に傍点]」をも[#「をも」に傍点]、また飲むことを得べし[#「また飲むことを得べし」に傍点]。
王子ブルキヤは、この羊皮紙を読み終えますと、早速バニー・イスラーイールの僧侶、道士《マージ》、学者を呼び集めまして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十八夜になると[#「けれども第三百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして彼らの中に誰か、ヤムリカ姫の地下の王国に通ずる道を、教えてくれることができる者はないか、と尋ねました。すると並いる一同は、真中にいた賢人オッファーンを指さし示しました。ところで、賢人オッファーンと申しますのは、敬うべき老人《シヤイクー》でございまして、およそ知られている学問はことごとく究めており、魔術の秘義も、天文学と幾何学の要訣も、錬金術と妖術のあらゆる秘法も、熟知していたのでございます。そこで彼は、若きブルキヤ王の御手の間に進み出ますと、王は彼に尋ねました、「おお賢人オッファーンよ、その方はまことに、余を地下の姫の王国に案内することができるのか。」彼は答えました、「できまする。」
そこで若きブルキヤ王は、自分の大臣《ワジール》を、不在の続く限り、王国の摂政に任命して、自分は王者の着用物を脱ぎ捨て、巡礼の外套をまとい、旅の履物を履きました。それがすむと、賢人オッファーンを従えて、わが王宮と都を立ち出で、砂漠の中へ乗り込んでゆきました。
そのときはじめて、賢人オッファーンは王に申しました、「こここそは、われらに道を示すべき呪文を唱えるに、好適の場所でござります。」そこで二人は足を停めますと、オッファーンは自分の周りの砂上に魔法の輪を描き、礼式の呪文を唱えまして、間もなく、あの辺りの、妾《わらわ》の地の王国の入口がある場所を見つけました。そこで彼はさらに幾つか他の呪文を唱えますと、大地が左右に割れて、おおハシブよ、あなたの眼の前にあるこの湖まで、二人を通したのでした。
妾のほうでは、わが国を訪《おとな》う方には、どなたにでもお示しするあらゆる敬意を払って、彼らを迎えてあげたのでした。すると彼らは妾にこの訪問の目的を述べましたので、妾はすぐに黄金の盤に乗り、蛇身の女たちの頭上に担《にな》われて、彼らをこの碧玉《エメラルド》の丘の頂きまで案内したのですが、妾が通ってゆくと、草木や花はそれぞれ自分の言葉で口をききはじめ、あるものは右から、あるものは左から、高い声や低い声で、自分の特有の効能を誇るのでした。こうして妾たちのほうへ立ち上って来るこの合奏のさなかを、妾たちはある草の茂みの前に着きますと、この草はその花のあらゆる赤い花冠から、微風に身を傾けながら、こう歌っておりました、「われこそは奇《く》しき者、わが草汁もて足をこする者には、至高のアッラーより創られしあらゆる海の面《おもて》を、濡るることなく歩む霊験を与う。」
そこで妾は、二人の訪問者に申しました、「さあ、あなた方の前にございました、探しておいでの草が。」するとオッファーンはすぐさま、その草を欲しいだけ摘み取って、その若芽を打ち砕き、その汁をば、妾のあげた大壜に溜めました。
妾はそのときオッファーンに尋ねてみようと思って、これに申しました、「おお賢人オッファーンよ、あなた方お二人に海を渡らせる動機《いわれ》を、今は伺わせていただけましょうか。」彼は妾に答えました、「おお女王よ、それは『七つの海の島』に、魔神《ジン》と人間と鳥獣の主《あるじ》、スライマーンの魔法の指輪を探しにまいるためでございます。」妾は彼に申しました、「おお賢人よ、スライマーン以後には何ぴとであろうと、いかなることをなそうと、その指輪の所持者にはなれませんのに、どうしてそれを御存じないのでしょう。妾の申すことをお信じなさいませ、オッファーンよ、そしてあなたも、おお若いブルキヤ王よ、妾の言うことをお聴きなさいませ。アッラーの創られた海を突破して、何ぴとも持つこと叶わぬあの指輪を求めにゆこうなどという、そんな大それた御計画は、お捨てなさいませ。それよりもここで、食する者には永遠の若さを与えるという植物でも、お摘みになるがよろしゅうございます。」けれども彼らはひとの言うことに耳をかさず、妾に暇を告げて、もと来たところを通って、姿を消してしまいました。
ここでヤムリカ女王は話すのをやめ、一本のバナナの皮を剥いて、若いハシブに差し出し、彼女自身も無花果《いちじく》を食べて、申しました、「おおハシブよ、ブルキヤの物語を続けまして、彼の『七つの海』の旅や、その他の冒険をお聞かせする前に、あなたは大地を帯のごとく取り巻くコーカサス山の麓にある、妾の王国の位置を正確にお知りになり、その広さ、その近隣、生命を持っていて言葉を話す草木、魔神《ジン》たち、蛇身の女たち、すなわち、アッラーのみが数を識りたもう妾の家来の女たちのことなど、お識りになりたくはございませんか。どうしてコーカサスの山全体が、大空に紺碧の影を映す燦然たる碧玉《エメラルド》の、奇《く》しき岩盤、エル・サフラーの上に立っているかということを、妾から聞かせてもらいたくはございませんか。お望みなら、妾はこの機会に、ジャーン・ベン・ジャーン(1)王に仕える魔神《ジン》たちの首都、ジンニスターン(2)のあるコーカサスの正確な場所について、お話しして上げてもよろしいし、『金剛石の谷』にいるロク鳥の住む場所を、教えてあげてもよろしいのです。そして話の序《つい》でに、名だたる勇士たちの武勲鳴り響いたもろもろの戦場を、お知らせしてあげましょう。」
けれども若いハシブは答えました、「おおヤムリカ女王よ、私はブルキヤ王の冒険の続きのほうが、遥かに識りたいのでございます。」
そこで地下の姫は次のように続けました。
若きブルキヤと賢人オッファーンは、スライマーンの御遺骸のある場所の、「七つの海」の果てに位する島へゆくために、妾と別れると、間もなく「第一の海」の浜辺に着きましたが、ここで彼らは地に腰を下ろし、壜の中に貯えて置いた草汁で、足の裏と踝《くるぶし》とを力強くこすり始めました。それから、立ち上って、非常な用心を払いながら、ひとまず海上に進み出ました。けれども、海の上のほうが硬い地面の上よりもっと楽に、溺れる心配もなく、歩けることを確かめますと、彼らは大胆になって、時間を潰さぬように歩度を速めて、先に向い始めました。こうして三日三晩の間、この海の上を歩きまして、四日目の朝に、ある島に着きましたが、彼らはその島を楽園かと思いました。それほどその美しさに驚嘆させられたのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百五十九夜になると[#「けれども第三百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼らの踏んだ土地は金色の鮮黄《サフラン》色でした。石は硬玉と紅玉《ルビー》でした。草原は、微風の下に波打つ花冠をつけた花々の花壇となって、ひろがっておりました。その草原には、薔薇の微笑みと水仙の優しい眼差しとがあい交わり、百合《ゆり》や、石竹《せきちく》や、菫《すみれ》や、加密列《カミツレ》や、アネモネが隣り合い、素馨の白い垣の間には、軽やかに跳びはねる羚羊《かもしか》どもが戯れておりました。伽羅木《きやらぼく》と光り輝く大輪の花をつけた木々の森は、すべての枝々をもってざわめき、その枝々には、鳩が小川の囁きに答えて鳴いており、鶯は薔薇に向って切ない声で恋の悩みを語れば、薔薇のほうでもそれに注意深く聞き入っておりました。そこには泉が、唯一の葦ともいうべき甘蔗《さとうきび》の、柔かい茂みの下に隠れており、自然の大地が若々しい富をのびのびと示して、すべての春を呼吸しているのでございました。
そこで、ブルキヤ王とオッファーンは、魂に歓喜を満たすこの絶景を眺めながら、木立の蔭の下をうっとりとして、夕方になるまで散歩をいたしました。それから、日が暮れて来ましたので、彼らは眠るために、一本の樹上に登りました。そしてまさに眼を閉じようとすると、そのとき突然、この島を震撼する凄まじい咆吼が、轟き渡りました。そして海の浪間から、一匹の怪獣が口に松明《たいまつ》のように輝く石を咬《くわ》えて現われ、そのすぐ後ろからは、他の無数の海の怪物が、同じく口に光る石を咬えて現われてくるのを認めました。ですから、島は間もなくこれらの石で、真昼と同じように明るくなりました。この瞬間、四方から一時に、アッラーのみが数え得られるほどの夥しい数の、獅子と、虎と、豹が出てまいりました。そして陸の獣どもは海の獣どもと互いに浜辺で出遭いまして、一同はお互いに話を交わし始め、朝に及びました。そこで海の怪物は海中に帰り、野獣は森の中に散らばってゆきました。ブルキヤとオッファーンは、恐怖に捕えられたため、ひと晩中、目も閉じられなかったのですが、そこで急いで樹から下りて、海辺へ走ってゆき、そこで草の汁を足に擦りつけると、直ちに海の旅を続けたのでございました。
彼らはこうして「第二の海」の上を、幾日も幾夜も旅をいたしまして、とうとうある山脈の麓に到着しました。その山々の真中には、不思議な谷が開けていて、そこにある礫石《こいし》や岩石は、ことごとく磁石でできておりましたが、野獣や他の猛獣の足跡はございませんでした。そういうわけで、彼らは乾魚《ひもの》で腹をこしらえながら、やや当てずっぽうに、一日中歩き廻りました。そして夕暮れ近くになって、海岸に腰を下ろして陽の沈むのを見ようとしますと、そのとき突然、恐ろしい猫のような鳴き声が聞えましたので、見ると、自分たちの数歩後ろに、一匹の大虎がまさに躍りかかろうとしておりました。彼らは僅かな隙を得て、草の汁で足を擦り、虎の来られない海上へと逃げました。
さて、こんどは「第三の海」でした。そしてこの夜は真暗《まつくら》な夜で、海は烈しく吹き荒《すさ》ぶ風の下で、たいそう波立って来ました。これは歩行をたいへん疲らせましたが、寝不足で前から弱りきっていた旅行者にとっては、なおさらのことでした。幸いのことに、彼らはその夜明けにある島に着きましたので、ひとまずそこに横になり、体を休めることにいたしました。そのあと、彼らは立ち上って島内を歩き廻り、ここが果物の樹で蔽われていることを知りました。けれどもその樹は、果実が枝の上で砂糖漬けになったまま成長するという、不思議な特質を持っておりました。ですから、二人の旅行者はこの島が殊のほか気に入りましたが、ことにブルキヤは砂糖漬けの果物が大好物だったものですから、一日中満喫して過ごしました。彼はこの美味しい果物を腹いっぱい食べる時間を作るために、賢人オッファーンを、無理にまる十日の間、この島に引き留めたくらいでした。けれども、十日目の終りになると、あまりこの甘味を飽食し過ぎたために、お腹が痛くなってしまいましたので、もうたくさんになって、オッファーンとともに、急いで足の裏と踝《くるぶし》を草汁で擦り、「第四の海」の上を旅路につきました。
彼らはこの「第四の海」の上を、四日と四晩旅をしまして、ある島に上陸しましたが、それは白色の非常に細かい砂の州《す》に過ぎませんでした。そこにはあらゆる形の爬虫類が巣食っていて、その卵が日向で孵《かえ》っているのが見られました。この島には一本の木も、草の芽一つさえも認められなかったので、ここにはただ休息して、壜に入っている草汁で足を擦る時間だけしか、止まろうとしませんでした。
「第五の海」の上は、僅かに一日と一夜を歩いただけでした。というのは、彼らは朝方には、一つの小さな島を発見したからでした。その山々は金の大きな鉱脈と水晶からできていて、眩《まばゆ》い黄色をした花を持つ、不可思議な樹々で蔽われておりました。これらの樹は、夜が来ると、星辰のごとく煌《きらめ》いて、その光彩は水晶の岩々に反射して島を照らし、ここを真昼よりも明るくするのでした。すると、オッファーンはブルキヤに申しました、「君の御眼《おんめ》の前にありますのは、『黄金の花の島』でございます。この花こそは、ひとたび木から落ちて枯れるや、粉末と化して、遂にはそれぞれが融け合って、金の採れる鉱脈を形成するのでございます。この『黄金の花の島』は太陽の一小部分に過ぎず、昔太陽より離れて、あたかもこの場所へ落ちたものなのでございます。」そこで、彼らはこの島で壮麗な一夜を送りまして、翌日には、貴重な液体で足を擦り、第六番目の海域に入ってゆきました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十夜になると[#「けれども第三百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
――彼らは「第六の海」の上を、旅を続けましたが、かなり長い期間がかかりましたので、非常に美しい草木に蔽われたある島に着いたときは、ひとかたならぬ喜びを覚えました。そしてそこでしばらく休息することができました。それから彼らは立ち上りまして、島の中を散歩し始めました。けれども、そこの樹木には、果実の代りに、髪の毛で吊された人間の頭が成っているのを見たときは、彼らの恐怖はいかばかりでしたろう。これらの人頭の果実は、みな同じような表情をしているのではありませんでした。あるものは微笑んでいるし、他のものは泣いたり、笑ったりしていましたが、一方、木から落ちたものは、埃りの中を転げ廻り、果ては火の玉に化して、これが森を照らし、陽の光も薄れさせてしまうのでした。そこで、二人の旅行者はこう考えざるを得ませんでした、「何という奇怪な森だろう。」けれども、この奇怪な果物にあまり近づく気にはなれず、それよりは海辺へ戻るほうがよいと思いました。さて、日が暮れましたので、彼らはある岩のうしろに腰を下ろしますと、突然水の中から、頸に真珠の頸飾りを巻いた、類いない美しさの、十二人の「海の娘」が浮かび出て、海辺に歩みよるのが見えました。乙女たちは踊ったり、飛び跳ねたり、お互いの間でさまざまな遊びに耽ったりし始めて、これがひと時の間続きました。それがすむと、乙女たちは月光を浴びて歌いはじめ、水上を泳ぎながら遠ざかってゆきました。ブルキヤとオッファーンは「海の娘」の美しさや、踊りや、歌に非常に心を惹かれはしたものの、人頭の恐ろしい果実のために、これ以上この島の逗留を延ばす気にはなれませんでした。それで彼らは、壜にしまってある汁で足の裏と踝を擦りまして、「第七の海」の上を先に進みました。
この「第七の海」の上の旅行は、非常な長期にわたりました。と申しますのは、途中陸地にはひとつも出遭わずに、昼夜を二カ月間歩き通したからでした。そして餓え死をしないためには、時々海面に出て来る魚を手早く捕え、そのまま生《な》まで食べなければなりませんでした。そんな有様でしたので、彼らは妾《わらわ》の与えた忠告が、どんなに賢明であったかが分りだし、これに従わなかったことを悔み始めました。それでも、とうとうある島に到着しましたので、彼らはこれが「七つの海の島」だろうと推測し、お指の一つに魔法の指輪を嵌めたスライマーンの御遺骸が、ここに見出されるに相違ないと思いました。
彼らはこの「七つの海の島」が非常に美しい果樹に蔽われ、幾多の流れに潤されているのを見出しました。そして彼らは、生魚《なまうお》のほか何の食物も食べられなくなってしまった時以来、非常にお腹が空き、咽喉《のど》も渇き切っておりましたので、熟れた林檎の実が枝も撓《たわ》わになっていた、一本の大きな林檎の樹に近寄ったときは、この上もない喜びを覚えました。そして、ブルキヤは手を差し延べて、この果実を摘もうと思いました。けれども突然、大樹の内部《なか》から恐ろしい声が聞えて、二人に叫び掛けました、「この果実に触ったら、汝らは真二つにぶち斬られてしまうぞ。」そしてその瞬間、彼らの面前に、当時の物指しで申せば四十腕尺もある、見上げるような巨人が現われ出たのです。するとブルキヤは恐怖の極に達して、それに尋ねました、「おお巨人の頭目よ、私どもは腹が減って死にそうなのだが、どうしてこの果実に触れることをお禁じになるのか、了解に苦しみまする。」巨人は答えました、「どうして汝らはこの禁止の動機《いわれ》を知らぬなどと言い張れるか。おお人間の息子ども、それならば、汝らの種族の父アーダムが、アッラーの御命令に背いて、この禁止の果実を食ったことを忘れたのか。だからこそおれは、あのときから、この木の張り番をさせられて、この果実に手を差し出すやつは、みんな殺してしまうよう、言い付けられているのだわい。されば、ここを遠ざかって、ほかで汝らの食物を探せ。」
この言葉を聞くと、ブルキヤとオッファーンは急いでこの場所を立ち去り、島の内部に入ってゆきました。彼らはほかの果実を探して、食べました。それから、スライマーンの御遺骸のありそうな所を探しにかかりました。
島のなかを一日と一夜のあいだ彷徨《さまよ》ったあげく、彼らは、ある丘に行き当りましたが、そこの岩は黄色の琥珀と麝香でできていて、その中腹には壮麗な洞穴が開いており、その円天井と壁面は、金剛石でできておりました。洞穴がこうして、太陽の光をいっぱいに受けたように明るくなっておりましたので、彼らはその奥へ深く入ってゆきました。先に進んで行くに従って、次第に明るさは増し、穹窿は拡がってゆくのが見えました。こうして彼らは驚嘆しながら歩いてゆきましたが、果してこの洞穴には終りがあるだろうかと訝《いぶか》り始めておりますと、そのとき突然、金剛石の中に掘り抜かれた、広大な広間に行き当りました。そして、その中央には金無垢の大寝台があり、その上にスライマーン・ベン・ダーウドが、横たわっていられるのでありました。それは、真珠と宝石に飾られた緑色の外套と、金剛石の広間の輝きすら消すような光を放っている、右手のお指に嵌められた魔法の指輪から、この御方《おんかた》と拝せられるのでした。小指に指輪をしたほうのお手は、お胸の上に置かれており、もう一方のお手は、差し延べられて、碧玉《エメラルド》の象眼のある金の王杖を持っておられました。
これを見ますと、ブルキヤとオッファーンは非常な畏敬の感情に捕えられて、もう敢えて進み出られませんでした。けれどもやがて、オッファーンはブルキヤに申しました、「われわれがあれほど多くの危険を冒し、あのように一切の労苦を嘗《な》めましたのは、目的に達した今に及んで、尻込みをするためではございません。されば私は一人だけで、預言者の眠りたもうあの玉座に進むことにいたしますゆえ、わが君はわが君で、私のお教え申した呪文の文句をお唱え下さいませ。それは硬ばったお指から、指輪を滑り落ちさせるのに必要なのでございますから。」
そこでブルキヤは呪文の文句を唱え始めますと、オッファーンは玉座に近寄り、手を差し延べて指輪を抜こうといたしました。けれどもブルキヤは、感動のあまり、魔法の言葉を間違えて唱えてしまいましたので、この誤りがオッファーンには命取りと相成りました。と申しますのは、すぐさま光り輝く天井から、一滴の液状の金剛石が滴り落ちまして、これが彼の全身を焼き尽し、数瞬の間に、これをスライマーンの玉座の足もとに、一掴みの灰と化してしまったからでした。
オッファーンが不敬な企てのために蒙った罰を見たときに、ブルキヤは急いで洞穴を横切って逃《の》がれ、出口に着くや、一散に海へ走ってゆきました。そこに着くと、彼は足を擦り、この島から立ち去ろうと思いましたけれども、今後はもうそれも叶わぬことがはっきり分りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで語ったとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十一夜になると[#「けれども第三百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……今後はもうそれも叶わぬことがはっきり分りました。と申しますのは、オッファーンが焼かれて、奇蹟の壜は、彼とともに焼け失せてしまったからでございました。
そこで、彼は非常に心悲しく、この企てにはきっと禍いが起るだろうと告げて、妾《わらわ》の言ってきかせた言葉がどんなに正しくて、どんなに間違いがなかったか、やっと分りましたが、今はもうたった一人ぼっちになり、案内を勤めてくれることのできる者とてなく、わが身がどうなりゆくかも分らなくなってしまって、ただ当てどなく、島の中を歩き始めたのでした。
こうして歩いているうちに、一陣の砂塵の大旋風が見えまして、そこから凄まじい物音が湧き上り、それがさながら雷鳴のように、耳を聾さんばかりになりました。そして、その中には、槍や剣のぶつかり合う音や、全く人間離れした叫びと疾駆とによって起る轟きが聞えました。すると突然、砂塵が消え失せて、そこからアファリート、ジン、マーリド、グール、コトロブ、サアル、バハリ(3)など、一言でいえば、空気や、海や、地や、森や、川や、砂漠の、あらゆる種類の精霊の、全軍団が現われるのが認められました。
これを見ると、彼はもう身動きを試みることすらしないほど、恐怖を覚えましたので、その場でじっと待っておりますと、とうとうこの驚くべき軍団の首領が、彼のところまで進んで来て、尋ねました、「一体汝は何者だ。われわれはわれら一同の主《あるじ》、スライマーン・ベン・ダーウドの眠らせたもう洞穴を監視するために、毎年この島にやってくるのだが、汝はどのようにしてここまで辿り着いたのだ。」ブルキヤは答えました、「おお勇者の首領よ、拙者はバニー・イスラーイールの王、ブルキヤでござる。拙者こと海上で迷ってしまい、そのゆえにここにいる次第。されども、今度は率爾ながら、拙者のほうよりお尋ねいたしたい。貴殿はどなたで、またこの戦士一同はどなたであられるか。」彼は答えました、「われらはジャーン・ベン・ジャーンの後裔の者で、魔神《ジン》なのだ。われらは今、われらの王、その昔《かみ》アード族の御子《おんこ》シャッダードの治めなされたかの『白き地』の主君、強大なるサフル(4)のおわす国からやってまいったのだ。」ブルキヤは尋ねました、「けれども、強大なるサフルの治めなさるその『白き地』というのは、いずこにあるのでござるか。」彼は答えました、「コーカサス山の向う側で、人間の測り方で申せば、ここから七十五カ月間を要する距離のところにある。しかしわれらは、ひとまたたきの間にゆくことができる。貴殿は王の子というからには、望みとあらば、お連れ申して、われらの主君にお引き合わせしても苦しゅうない。」ブルキヤは承知せずにはおかず、すぐに|魔神たち《ジン》に、彼らの王、サフル王のお住居に運んでゆかれました。
彼は、金と銀の河床の運河が四通八達している、すばらしい平原を見ました。全土が麝香と番紅花《サフラン》に蔽われているこの平原には、碧玉《エメラルド》の枝と紅玉《ルビー》の果実をつけた人工の樹木が蔭を落し、一帯にわたって、宝石を鏤《ちりば》めた黄金の柱に支えられている、緑の絹の豪華な天幕《テント》が立ち並んでおりました。この平原の真中には、他の天幕《テント》よりひときわ高く、碧玉《エメラルド》と紅玉《ルビー》の柱に支えられ、赤と緑の絹でできた一つの幕舎が立っていて、そこには、金無垢の玉座の上に、サフル王が腰を下ろしており、右手には他の諸王や、彼の陪臣たちが控え、左手には彼の大臣《ワジール》と代官《ナワーブ》、顕官と侍従たちが侍《はべ》っておりました。
王の御前《ごぜん》に罷り出たとき、ブルキヤはまずその御手の間の床に接吻して、王に挨拶《サラーム》を言上いたしました。するとサフル王は大いに好意を示され、これに御自分のそばにある黄金の椅子に、坐るように勧めました。それから王は彼に、姓名を述べ、身の上話を語るように求めました。そこでブルキヤは自分が何者であるかを告げて、わが身の上話を、一部始終、細大洩らさず語ったのでありました。
サフル王と王を取り巻く一同の者は、この話を聞いて、驚きの極みに達しました。それから王の合図のもとに、饗宴のために食布《ソフレ》が拡げられ、従僕の|魔神たち《ジン》が皿や磁器類を運んでまいりました。黄金の皿には五十頭分の若い駱駝の蒸肉と、五十頭分の他の焼肉がはいっており、一方、銀の皿には五十の羊の頭がはいっていて、磁器の上には、大きさといい質といい、ともに見事な果物が、綺麗に並べられておりました。そして万端の用意が整うと、一同はさかんに食べたり飲んだりいたしまして、食事が終ったときには、皿や磁器の上には、今まで山盛りだった御馳走や美味しいものも、もはや何の跡方も残っていませんでした。
そのときはじめて、サフル王はブルキヤに申されました、「おおブルキヤ殿よ、貴殿は恐らくわれわれ一門の歴史と起源を御承知ないであろう。しからば、貴殿が人間の子らの間に戻られたときに、未だ彼らの間によく知られておらぬこれらの問題について、後代に真実を伝え得らるるように、余が手短かにおつたえ申すといたそう。
されば、こういう次第でござる、おおブルキヤ殿よ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十二夜になると[#「けれども第三百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……されば、こういう次第でござる、おおブルキヤ殿よ、時の初めにあたって、至高のアッラーは『火』を創りたまい、これを『地球』のなかへ入れ、七つの異なった層に閉じ籠めたもうたのであるが、これらの層はそれぞれ、一は他の下に配置されていて、各層の間は、人間の測り方によれば、千年を要する距離があったのじゃ。
アッラーは第一の『火』の層をジャハンナム(5)と呼びたまい、その御心《みこころ》では、ここを反逆の悔い改めぬ被造物の堕ちるところに充《あ》てられた。第二の層はラザー(6)と呼ばれた。と申すのは、アッラーはこれに深淵を掘りたまいて、将来預言者ムハンマド(その上に祈りと平安あれ)が出現された後にも、己が誤謬にとどまり、信徒となることを拒むすべての者のために、この層を充《あ》てられたからであった。次に第三層を設けられ、これを煮えたぎる大鍋の形となし、エル・ジャヒーム(7)と呼びたまい、ここに悪魔ヤージュージュとマージュージュ(8)を閉じ籠めなされた。そのあとで、アッラーは第四の層を作りたまい、これをサイール(9)と名付けられて、ここを、アーダムを認めて敬礼をなすことを拒み、至高者の御厳命にも服さなかった、かの反逆の天使の首領、魔王《イブリース》の住居となされた。次に第五の層の境界を定められ、これにサカル(10)という名を与えたまい、ここを不信の徒と、嘘つきと、傲慢な者のために充当なされた。これがすむと、広大な穴倉を掘りたまい、ここにペスト性の燃え盛る空気を満たし、ここをフタマ(11)と呼びたまい、ユダヤ人とキリスト教徒の拷問のために予定なされた。ハーウィヤ(12)と呼ばるる第七の層については、これを残りのユダヤ人や、キリスト教徒や、その他の表面だけしか信徒でない者たちを入れるように、準備をととのえてとって置かれた。この最後の二つの層は最も恐ろしいところなのだが、第一の層のほうははなはだ凌ぎ易くなっておる。これらの構造はだいたい似通ったものである。例えば、第一の層ジャハンナムには、その数七万を下らぬ火の山々があり、この山々はそれぞれ七万の谷を納めている。おのおのの谷は七万の町を納める。おのおのの町は七万の塔、おのおのの塔は七万の家、おのおのの家は七万の腰掛を納めている。されば、これらの腰掛の数は、このすべて七万という数字の倍数となるわけだが、このおのおのの腰掛もまた、種々様々な七万の拷問と刑罰の仕掛けを蔵していて、その種類や、烈しさや、継続期間は、アッラーのみが御存じである。そして、この第一層が七層中最も燃ゆること少ないのであるから、おおブルキヤ殿よ、他の六層に含まれている責苦は、推して知られよう。
余が『火』についてこのような概観と説明を与えたのは、おおブルキヤ殿よ、われら|魔神たち《ジン》が『火』の子であるからじゃ。
事実、アッラーが『火』より創りたもうた最初の二つの存在は、二名の魔神《ジン》であって、これを御自分専用の衛士となされ、これをカリットおよびマリットと命名なされた。そして一名に獅子の形を与え、他の一名に狼の形を与えたもうた。そして獅子には雄の器官を、狼には雌の器官を与えられた。牡獅子カリットの陰茎《セブ》は、二十年間に走破する距離に等しい長さを持ち、牝狼マリットの陰門は、亀の形をなし、その広さはカリットの陰茎《セブ》の長さに釣合うものであった。牡獅子は白と黒との混り合った色をなし、牝狼は薔薇色と白とであった。そしてアッラーは、カリットとマリットを性的に交わらせ、その交合から、竜や、蛇や、蠍《さそり》や、臭い獣などを産ませ、これらを地獄に堕ちた者どもの刑罰のために、『七つの層』に住まわせたもうたのであった。次いでアッラーは、カリットとマリットに二度目の交合を命ぜられ、この二度目の交尾から、七人の男子と七人の女子を産ましめたもうたが、この子供らは恭順のうちに成長した。成年に達するや、彼らの中の一人は、模範的な品行によって、最も輝かしい前途を期待されたので、至高者はこれに特別お眼をかけられて、牡獅子と牝狼のたゆみなき生殖から組織された、その軍勢の隊長に任ぜられた。彼こそはまさに、イブリースという名の男であった。しかるに後になって、彼はアッラーから、アーダムの前に平伏するようにと厳《きつ》いお達しがあったにかかわらず、その御命令に服さなかったので、その際、彼を支持したすべての者とともに、第四の層に投げ込まれてしまった。そして、地獄に男女の悪魔どもを繁殖させたのは、イブリースとその後裔とである。依然として恭順のうちにあった、十人の他の男子らと他の娘らはどうかと申せば、彼らは互いに契り合って、魔神《ジン》を子供に儲けたのであるが、おおブルキヤ殿よ、これがすなわちわれわれなのである。そして以上が、手短かに述べたわれわれの系譜である。されば、われわれがこのように食《くら》うのを見たとて、怪しまれることはない。われわれのそもそもの起源が、牡獅子と牝狼から発しているからなのだ。われわれの腹の収容力が、およそどのくらいの見当かと申せば、われわれは各自一日に、十頭の駱駝と二十頭の羊を丸呑みにし、大釜の分量に等しい匙《さじ》で、肉汁四十匙を飲むと言おう。
今は、おおブルキヤ殿よ、貴殿が人間の子らの間に帰られた際に、知識に欠けたることのなきように、次のことを知り置かれるがよい。すなわち、われわれの住む土地は、ここを帯のごとく囲繞するカーフ山(13)の雪によって、絶えず冷されていることだ。さもなくば、われらの土地は地下の火のために、住むに堪えられぬであろう。この土地もまた、七つの段階より成っており、この段階は、怪力を具えた一人の魔神《ジンニー》の両肩に据えられている。この魔神《ジンニー》は巌《いわお》の上に立っており、その岩は一匹の牡牛の背に据えられている。この牡牛は一匹の巨大な魚に支えられ、この魚は『永遠の海』の水面を泳いでいるのだ。
『永遠の海』は、地獄の最上段を水底とし、この最上段はその七つの層とともに、一匹の厖大《ぼうだい》な蛇の口中に納められているが、この大蛇は、審判の日まで身動きもせずにいるだろう。その日になると、この大蛇は、最終的な御判決を宣したもう至高者の御前《おんまえ》に、その口から、地獄とその中身とを吐き出すであろう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十三夜になると[#「けれども第三百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「以上が、おおブルキヤ殿よ、手早く要約した、われらの歴史と、われらの起源と、地球の生成である。
これに関する貴殿の知識の仕上げをするために、同様に言っておかねばならぬのは、われわれの年齢は、常に同じままであるということでござる。われわれの周りの地上においては、自然や人間や創られたあらゆる存在は、いずれも変りなく老衰に向うのであるが、われわれのほうは決して老いることがない。この霊験は、われわれが生命の泉を飲むお蔭なのであるが、この泉は地獄の層において、キーズルがその番人をしている。この敬うべきキーズルこそは、四季を平等となし、樹木に緑の冠を戴かせ、走りゆく水を流し、牧場に青々とした毛氈を展《ひろ》げ、夕《ゆうべ》と曙にはこれに緑の外套を纒わせ、朝《あした》と夕の薄明に空を彩る淡い色調をば、巧みに混ぜ合わすのである。
今や、おおブルキヤ殿よ、貴殿は余の話をたいそう注意深く傾聴して下されたゆえ、その褒美として、余は貴殿をここから運ばせ、貴国の入口に置かせて進ぜよう、さりながら貴殿の御所望とあらば、であるが。」
この言葉を聞くと、ブルキヤは真心をこめて、魔神《ジン》の首領サフル王に、その歓待と教えと申し出とを感謝して、この申し出を快諾しました。そこで彼は王をはじめ、大臣《ワジール》たちや、その他の魔神《ジン》に暇《いとま》を告げまして、きわめて頑丈な一人の鬼神《イフリート》の肩に跨りますと、またたく間もなく、空間を横切り、彼の国の国境近くで、見覚えのある土地に、静かに下ろしてくれました。
ブルキヤはひとたび向うべき方角を見定めて、自分の首都への道をとろうといたしますと、そのとき、心を奪う美貌ではあるけれども、青白い顔色をして、たいそう悲しげな様子をした一人の若い男が、二つの墓の間に坐って、悲痛の涙を流しているのを見ました。彼はそのそばに近寄り、親しみをこめて挨拶《サラーム》をして、申しました、「おお美青年よ、どうしてこんな二つの墓の間に坐って泣いていらっしゃるのか。どうしてそんな痛々しい様子をしていらっしゃるのか。わけを聞かせていただきたい、お慰め申したいものと思うが。」若い男は悲しげな眼差しをブルキヤのほうへ上げて、眼に涙を浮べながら、申しました、「おお旅のお方よ、どうしてあなたの道で足をお留めなさるのか。どうか私の涙を、ただひとり、このわが苦しみの墓石の上に、流させておいて下さいまし。」けれどもブルキヤは申しました、「おお不運の兄弟よ、私はいつなりとあなたのお話に耳を傾けようとしている、憐み深い心を持つものと御承知あれ。されば、御懸念なくあなたの悲しみの原因《わけ》をお打ち明け下さい。」そして彼は大理石の上に、若い男に寄りそって坐り、その両手を自分の両手の中に取って、気を引き立てて話をさせようと思い、自分自身の身の上話を、始めから終りまで話して聞かせてやりました。しかしそれをお話ししても、詮なきことでございます。それから、彼は若い男に申しました、「そしてあなたは、おお兄弟よ、あなたの身の上話はどのようなものか。どうかお願いです、はやく聞かせて下さらぬか。というのは、私にはそれは限りなく興味の深いものにちがいないと、予感されるからです。」
すると、二つの墓の間で泣いていた、優しい悲しげな顔の青年は、若き王ブルキヤに向って言いました。
悲しみの美青年の物語
[#ここで字下げ終わり]
おお兄弟よ、実は私もやはり国王の子なのです。そして私の身の上話はまことに変った世の常ならぬもので、もしもこれが眼の内側の片隅に針でもって書かれたならば、共感をもってこれを読む者には、為になる教訓ともなるでありましょう。されば私は、お話し申すのをこれ以上遷延いたしたくはございませぬ。
彼はそこでしばらく口をつぐみ、涙を拭い、そして額に手をあてて、こうして次の奇《くす》しき物語を始めたのでした。
おお兄弟よ、私は、バニー・シャラーン族とアフガニスターンの首領であった私の父、ティグモス王の治めるカブールの国に生まれました。父はまことに偉大で公正な国王でありまして、その主権の下には、それぞれ百の都市と百の城砦を支配する、七人の朝貢国王がおりまする。父は十万の勇敢な騎士と、十万の勇猛な戦士とを、指揮しております。母はと申しますれば、ホラーサーンの君主、バフラワーン王の娘です。私の名はジャーンシャー(14)と申します。
父は私に幼少の頃から、学問や、芸術や、肉体の鍛錬を教育させましたので、十五歳になると、私は王国最上の騎手の中に数えられ、羚羊《かもしか》よりも速い馬に跨って、狩猟や競争の指揮をとるようになりました。
日々のうちのある日のこと、父王以下全朝臣の加わった狩猟のおり、われわれは三日前から森に入って、夥しい獲物を屠《ほふ》ったのですが、そのとき、日の暮れ方に、私は自分の白人奴隷《ママリク》の七人と一緒にいた場所から、数歩離れたところに、この上もなく優美な一頭の羚羊《かもしか》を見つけました。こいつは私どもを見ると、怖気《おじけ》づいて、飛び跳ねるや、身も軽々と逃げ出しました。そこで私は奴隷《ママリク》を従えて、これを数時間にわたって追跡いたしました。こうしてわれわれは非常に幅の広い、深い河の前に行き当りましたから、われわれはてっきりこいつを取り囲んで捕えることができるものと思いました。けれども羚羊《かもしか》は、ちょっと躊躇《ためら》った後に、水に身を躍らして、対岸に着こうと泳ぎ出したのでした。そこで、われわれも勢いよく馬を下り、自分の馬をわれわれの一人の者に預けまして、そこに繋いであった一隻の漁船に飛び移り、羚羊《かもしか》に追いつこうと全速力で漕ぎ出しました。けれども、われわれが河の真中に達したときに、われわれの小舟は風と流れのために、針路を奪われて引き廻され始めましたので、われわれはつのりゆく暗闇のさなかで、もはやこれを思うまま操ることができず、どんなに力を尽しても、結局、安全な方角へ向うわけにゆきませんでした。こうしてわれわれは一晩中、恐ろしい速力で引きずり廻され、絶えず、強いられた進路上の水面すれすれの岩とか、その他の障害物にぶつかって、もう打ち砕かれてしまうものと思い続けておりました。そしてこの漂流は、その一日と次の一晩を通じて、同じように続きました。やっとその翌朝になり、われわれは流れに打ち上げられて、とうとうある土地に着くことができました。
こうしている間に、私の父ティグモス王は、われわれの馬の番をしていた奴隷《ママルーク》に尋ねて、われわれが河の上で行方不明になったことを知ったのでした。父はこの知らせを聞いて、非常な絶望に陥って、泣き崩れ、王冠を地に投げ、われとわが手を噛んだのでしたが、時を移さず私を探すために、この未開の辺境をよく知る密使たちを、八方へ派遣いたしました。私の母はと申しますと、私の行方不明を知ると、われとわが顔をはげしく叩き、着物を引き裂き、胸を傷つけ、髪を掻きむしって、喪服に着換えたのでありました。
われわれのほうは、この土地に上陸してみると、木々の下を流れる美しい泉と、そこに静かに坐って、水に足を冷している一人の男を見つけました。われわれはこの男に丁寧な挨拶《サラーム》をしまして、われわれのいるところはどこかと尋ねました。けれども彼はわれわれに挨拶《サラーム》を返さず、まるで鳥か、他の猛禽の叫び声のような金切り声で、何かわけのわからぬ言葉でもって、われわれに答えるのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十四夜になると[#「けれども第三百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから彼は突然立ち上り、ちょっと身を動かすと体が二つの部分に分れ、半分ずつに切れて、その胴体だけがわれわれのほうに馳け寄って来ましたが、一方、下半身の部分は別の方向に走ってゆきました。するとその瞬間、森のあらゆる地点から、前の男と同じような他の男どもが現われて、泉へと走り寄り、そして、身を退《ひ》くように動かすと、これが二つの部分に分れ、その胴体のほうだけが、われわれに飛び掛って来ました。こうして胴体どもは、一番近くにいた私の|奴隷たち《ママリク》の三人に躍り掛って、すぐさま彼らを生きながら食らい始めましたが、一方、私と他の三人の|奴隷たち《ママリク》とは恐怖の極に達し、われわれの小舟に飛びこみました。こんな化物どもに啖《くら》われるよりは、水に呑まれたほうが千倍もよいと思いまして、われわれは急いで岸から遠ざかり、再び流れに運ばれるままになりました。そのときわれわれが岸辺を見ますと、胴どもが私の不幸な|奴隷たち《ママリク》をぱくついている間に、全部の脚と股とは、われわれに追い付こうとして、猛り狂った駈足で走っておりましたので、すでに彼らのとどかぬ小舟に乗っていたわれわれも、縮み上ったのでした。全くわれわれは、腹から切られたこれらの胴体の、凄まじい食欲には驚き入りましたが、またわれわれの不幸な仲間たちの運命を憐みながらも、一体どうしてこのようなことがあり得るのだろうと、不思議でなりませんでした。
われわれは翌朝まで流れに運ばれ、そして、大きな庭園の果樹や麗わしい花に被われた、ある土地に着きました。けれども、われわれの舟が繋がれたとき、私は今度は上陸する気になれず、先ず三人の奴隷《ママリク》に、そのあたりを調査して来るように言いつけました。かくて最初に彼らが出かけまして、半日ほど留守にしてから、戻って来て、私に語ったところによりますと、彼らは非常な距離を歩き廻り、右や左に行ったけれど、怪しいものは何も見当らなかったとのこと、そのあと、彼らは白大理石の宮殿を見つけたが、その離れの部屋部屋は純粋の水晶でできていて、宮殿の真中には、湖に照らされた豪壮な庭園が拡がっておりました。彼らは宮殿の中に入り、広大な広間を見つけたが、そこには、金剛石と紅玉《ルビー》を鏤めた黄金の玉座の周りに、象牙の椅子が並んでおりました。けれども庭園にも、宮殿にも、同じように誰ひとり見かけなかったというのです。
彼らがこのように安心のゆく報告をしてくれたときには、私も舟から出る決心がつきまして、彼らと一緒にその宮殿に向いました。はじめにわれわれは先ず、庭園の美味《おい》しい果実を食べて、空腹を満たし、それから宮殿の中に入って休息いたしました。私は自ら金の玉座に腰掛け、|奴隷たち《ママリク》は象牙の椅子に腰を下ろしました。この有様を見ますと、私は自分の父王や、母や、失ったわが王座のことを思い出しまして、涙を流し始めました。すると、私の|奴隷たち《ママリク》もまた、あからさまに涙を流しました。
このような悲しみに耽っている間に、われわれは海の騒《ざわ》めきにも似た大きな物音を聞きましたが、間もなく、われわれのいる部屋に、大臣《ワジール》や、貴族《アミール》や、侍従や、顕官たちが、行列を作って入って来るのが見えました。けれども、すべての者が猿猴類だったのです。それには大きな変種のものもいれば、小さな種類のものもおりました。それで、われわれは、いよいよ最期が来たと思いました。ところが、猿猴の総理|大臣《ワジール》は巨大な変種のやつでしたが、その猿は極めてはっきりと尊敬の徴《しるし》を示しながら、私の手の間に来て身を屈《かが》めました。そして私に向って、人間の言葉で、彼はじめすべての民草は、私を彼らの国王と認め、私の三人の奴隷《ママリク》を、彼らの軍隊の長《おさ》に任命すると申しました。それから、われわれの食事に羚羊《かもしか》の焼肉を出させた後、彼は私に向って、われわれは彼らの宿敵、隣国に住む妖怪《グール》族と一戦を交えねばならぬが、その前に、私の家来の猿猴の軍を閲兵していただきたいと頼みました。
それがすむと、私はすっかり疲れ果てたので、総理|大臣《ワジール》その他の者を帰らせてしまい、自分のそばには三人の奴隷《ママリク》だけしか留めて置きませんでした。われわれはひと時の間、この新しい情勢について話し合った後、できるだけ早く、この宮殿とこの土地から逃げ出すことに決心しまして、小舟のほうに向いました。けれども河に到着しますと、小舟が消え失せていることがわかりましたので、われわれはやむを得ず、ふたたび宮殿に戻りまして、そこで翌朝まで眠りました。
われわれが眼を醒ましますと、私の新しい家来たちの総理|大臣《ワジール》が、私に挨拶《サラーム》に来まして、妖怪《グール》族に対する戦闘の用意万端整ったと告げました。そして同時に、他の大臣《ワジール》たちが宮殿の門前に、私と私の|奴隷たち《ママリク》のために、四匹の大犬を引き立ててまいりましたが、これはわれわれの馬の代りとなるべきもので、鋼鉄の鎖の轡《くつわ》がはめられておりました。そこで私と私の|奴隷たち《ママリク》とは余儀なくこれらの犬に乗って、先頭に立ちましたが、われわれの後ろには、恐ろしい咆哮と叫び声をあげながら、わが総理|大臣《ワジール》に率いられた、私の家来の猿猴の数知れぬ軍隊が、打ち揃って従《つ》いてまいりました。
進軍の一日と一夜がたちますと、われわれは高い、黒い山の前面に到着いたしましたが、ここに妖怪《グール》どもの巣窟があって、彼らは間もなく姿を現わしました。彼らはそれぞれ別々な、しかしいずれ劣らぬ物凄い格好をしておりました。あるやつらは駱駝の体に牛の頭を持ち、あるやつらは鬣狗《ハイエナ》にそっくりでしたが、一方、その他のやつらは言葉に尽せぬような恐ろしい様子をしていて、それはおよそ既知のものとは似ても似つかぬものでありました。
われわれを認めたとき、妖怪《グール》どもは山を降りて来ました。そしてやや隔ったところに停りますと、先ず礫《つぶて》の雨を降らして、われわれを圧し潰しにかかりました。私の家来どもも、これと同じやり方で反撃に転じ、白兵戦がやがてあちこちで凄まじくなりました。私と私の|奴隷たち《ママリク》とはわれわれの弓を武器として、妖怪《グール》どもに大量の箭《や》を射込み、これがやつらを夥しく殺しましたので、この有様を見て士気旺溢した私の家来どもは、大いに悦んだのでした。そのためにわれわれは遂に勝利を博し、妖怪《グール》どもに対する追撃に移りました。
そこで私と私の奴隷《ママリク》とは、この追走の混乱に乗じて、犬に跨り、わが家来の猿猴から逃れようと決心し、彼らに気付かれずに、反対の方向へと逃げ出しました。そして全速力で、彼らの視界から消え失せてしまいました。
長い間走り続けた末に、われわれは立ち停って、乗用犬を休息させてやりますと、われわれの正面に、石板のような形に截《き》られた大きな岩が見えました。そこにはヘブライ語の記銘が刻まれており、次のようなことが書き込まれてありました。
[#2字下げ] おお汝[#「おお汝」に傍点]、天運が猿猴の王たらしめんと[#「天運が猿猴の王たらしめんと」に傍点]、この地域に投ぜし囚われ人よ[#「この地域に投ぜし囚われ人よ」に傍点]、もし汝が脱走によって王位を放棄せんと欲さば[#「もし汝が脱走によって王位を放棄せんと欲さば」に傍点]、汝の前には解放のために二つの道開かれてあり[#「汝の前には解放のために二つの道開かれてあり」に傍点]。その道の一は汝の右手にありて[#「その道の一は汝の右手にありて」に傍点]、そは世界を取り巻く大洋の岸に通ずるには最短のものなり[#「そは世界を取り巻く大洋の岸に通ずるには最短のものなり」に傍点]。されどそは怪獣および邪悪なる[#「されどそは怪獣および邪悪なる」に傍点]魔神《ジン》に満てる険阻なる砂漠を横切るなり[#「に満てる険阻なる砂漠を横切るなり」に傍点]。左手なる他の道は[#「左手なる他の道は」に傍点]、行程四カ月の長さにて[#「行程四カ月の長さにて」に傍点]「蟻が谷[#「蟻が谷」に傍点](15)」といえる大渓谷を横切るなり[#「といえる大渓谷を横切るなり」に傍点]。この道を取りてよく蟻を避け得れば[#「この道を取りてよく蟻を避け得れば」に傍点]、汝は麓に[#「汝は麓に」に傍点]「ユダヤ人の都[#「ユダヤ人の都」に傍点]」のある[#「のある」に傍点]、火の山に達すべし[#「火の山に達すべし」に傍点]。われこそはスライマーン[#「われこそはスライマーン」に傍点]・ベン[#「ベン」に傍点]・ダーウドにして[#「ダーウドにして」に傍点]、汝の救済のためにこれを記せるものなり[#「汝の救済のためにこれを記せるものなり」に傍点]。
この記銘を読んだときは、われわれは驚きの極に達して、急いで左の道を取りましたが、これは「蟻が谷」を経て、われわれを「ユダヤ人の都」へ導く筈のものです。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十五夜になると[#「けれども第三百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、われわれが前進してまだ一日もたたないうち、足もとの地面が揺らぐ音が聞えて、間もなく、われわれの後ろに、総理|大臣《ワジール》を先頭にしたわが家来の猿猴が現われ、全速力でやって来るのが見えました。われわれに追い付いたとき、彼らはわれわれを見つけた悦びの咆哮をあげながら、四方八方からわれわれを取り巻いてしまい、総理|大臣《ワジール》が一同の通訳となって、われわれの無事救われた祝辞の長広舌を述べ立てました。
この遭遇にはわれわれは非常に失望いたしましたが、これは表面に出さぬように用心をしまして、われわれは家来と一緒に、再び宮殿へ引き返そうとしますと、このとき、ちょうどわれわれの通っていた谷間から、いずれも犬のように大きな蟻の一軍が、現われて来るのが見えました。そして瞬く間に、わが家来と化物じみた蟻どもの間に、凄まじい乱闘が持ち上りました。蟻どもが爪で猿を掴まえ、一撃の下にこれを二つに打ち砕けば、猿ども十匹ずつ束になって一匹の蟻に飛びかかり、これを打ち殺してしまうという有様でした。
われわれのほうは、この戦闘のどさくさにまぎれて、犬に乗って逃げ出そうと決心しました。けれども不幸なことには、逃れ了《おお》せたのは私一人きりでした。というのは、私の三人の奴隷《ママリク》は蟻軍に見つかって、掴まえられ、物凄い爪で二つに打ち砕かれてしまったからです。それで私は、わが最後の仲間を失ったことを歎きながら、その場を逃れ去って、そして河に辿り着きましたので、乗用犬を乗り捨てて、そこを泳いで渡りました。そして恙《つつが》なく対岸に到着しましたので、そこで着物を乾し始め、それから、今はもう追いすがられる心配もなくなったので、翌朝までぐっすりと眠りました。というのは、私と蟻や家来の猿猴との間には、河を挟んでいるからでした。
眼が醒めたとき、私はまた歩き始めまして、幾日も幾月もの間、草や根を食べながら、とうとう件《くだん》の山に辿り着きましたが、なるほど、その麓には、「ユダヤ人の都」という大きな都が見えました。けれども記銘の告げなかったことで、後《のち》に私の気付いた細かなことなのですが、これには、都に入った私は大いに驚かされました。つまり、私が実際に確かめたところによると、その日に、都に着くため、私が足も濡らさず横切って来た河というのは、週の他の曜日には、水がいっぱいになっているからでした。そういう次第で、他の日には水量豊かなこの河も、ユダヤ人の祭日に当る土曜日には、もはや流れなくなるということを知ったのでした。
さて、私はその日にこの都へ入りましたが、街々には人っこ一人見当りませんでした。そこで私は行く手にあたる最初の家に向ってゆき、その戸を開けて、中へ入ってゆきました。すると広間に出ましたが、そこには尊ぶべき様子をした大勢の人物が、輪になって坐っておりました。そこで、彼らの顔つきを見ると元気が出て、私はうやうやしく彼らに近寄り、挨拶《サラーム》をしてから、一同に申しました、「私は、カブールの主《あるじ》でバニー・シャラーンの族長、ティグモス王の一子、ジャーンシャーでございます。おお御主人様方よ、どうかお願い申します、私は故国《くに》からどのくらい離れたところにいるのか、また、故国《くに》にまいるのにはどの道をゆけばよろしいのか、お教え下さいませ。それに、私は非常に空腹でございます。」するとそこに坐っていた一同の者は、何の返事もせずに、私を眺めましたが、彼らの長老《シヤイクー》と覚しき者が、一言も発せずに、ただ身振りだけで、私に申しました、「食べなさい、飲みなさい、だが話してはならない(16)。」そして彼は、よそではかつて見たこともないような、不思議な御馳走の皿を私に示しましたが、香りから判断したところによると、その主成分は油でありました。そこで私は食べて、飲み、沈黙を守っておりました。
私が食べ終えたとき、ユダヤ人たちの長老《シヤイクー》は私に近寄って来て、やはり身振りで尋ねました、「誰だ? どこから? どこへ?」そこで私は答えてよいかと、身振りで彼に尋ねますと、彼は肯定の身振りに続いて、次のような意味の別の身振りをいたしました、「三言《みこと》だけしか言ってはならない。」これを見て、私は尋ねました、「隊商《キヤラヴアン》、カブール、いつ?」彼は身振りで答えました、「知らない。」そして、指でもって、私が食事を終えた以上は、出てゆけという合図をいたしました。
そこで私は彼にも、そこにいたすべての人々にも、お辞儀をして、この奇妙な態度にこの上もなくあきれ返りながら、外に出ました。街に出ますと、私は何とかして様子を知りたいと思いましたが、そのときやっと、一人の呼び売り人が、大声でこう言っているのを聞きつけました、「金貨千枚を儲け、類いなき美しさの若い女奴隷を手に入れたいと思し召す方は、ひと時ばかり仕事をして下さればよろしいゆえ、私に従《つ》いておいであれ。」折しも私は丸っきりの無一物でしたので、呼び売り人に近寄って、申しました、「私がその仕事を引き受ける、千ディナールも、若い女奴隷も一緒に。」すると彼は私の手を取って、豪奢な調度品を備えた、一軒の家へ連れてゆきますと、そこには黒檀の椅子に、年老いたユダヤ人が腰を下ろしておりました。呼び売り人はその前に行って、身をかがめ、私を引き合わせながら、言いました、「ここにやっと若い異国の人をお連れしましたが、私がこのことを触れ出して三カ月この方、私の呼び声に答えたのは、この人一人だけでございます。」
この言葉を聞きますと、この家の主《あるじ》の年老いたユダヤ人は、私をそばに坐らせまして、たいそう好意を示し、食べ物や飲み物を、惜しげもなく出させました。食事がすみますと、彼は私に贋物でない金貨千枚入りの財布をくれ、同時に、|奴隷たち《ママリク》に向って、私を絹の衣に着換えさせて、若い女奴隷のもとに連れてゆくように言い付けましたが、この若い女奴隷というのは、私のまだ知らないもくろみの仕事の報酬として、あらかじめ私に与えるものだったのです。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十六夜になると[#「けれども第三百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで|奴隷たち《ママリク》は、私に件《くだん》の絹の衣を着せてから、若い娘の待っている部屋に連れてゆきました、そして、事実、それは非常に美しい娘でして、|奴隷たち《ママリク》はその娘と夜を過ごさせるために、私を一人おいて行ってしまいました。そして私は、その娘が全く申し分のない女であることがわかり、これと一緒に、食べたり、飲んだり、なすべきことをなしたりして、三日と三晩を過ごしました。けれども四日目の朝になると、老人《シヤイクー》は私を呼び寄せて、申しました、「わしも報酬をお払い申したし、あなたもそれを前以ってお受け取りなすったのだから、今はもう仕事にかかる用意もおできになったでしょうな。」私はその仕事を果す用意はできていると言明しましたが、それがどんなものなのかは知りませんでした。
するとユダヤの老人《シヤイクー》は|奴隷たち《ママリク》に、二匹の牝騾馬を用意して、引き立てて来るように命じました。そして|奴隷たち《ママリク》は、鞍を置いた二匹の牝騾馬を引き立ててまいりました。彼はその一匹に乗り、私が他の一匹に乗ると、私にあとから従《つ》いて来るように申しました。われわれは早い速度で走り、こうして午刻《ひるどき》まで進み続けまして、とうとう、切り立った高い山の麓に到着しました。けれども、その山腹には、およそどんな乗用獣でも、足を踏み入れられそうな小径《こみち》は全く見当りませんでした。そこでわれわれは地上に下りますと、ユダヤの老人《シヤイクー》は私にナイフを差し出して、申しました、「こいつをあなたの牝騾馬の腹に差し込んで下され。今こそ仕事のときですぞ。」私はこれに従いまして、ナイフをその腹に差し込みますと、牝騾馬は間もなく倒れてしまいました。それから私は、ユダヤ人の命令に従って、この動物の皮を剥ぎ、その皮を綺麗に掃除しました。すると老人《シヤイクー》は私に申しました、「今度はこの皮の上へ、じかに横になっていただかねばなりませんのじゃ。あなたをこの中に、ちょうど袋のように縫い込んでしまうのでな。」私はやはり言うことを聞いて、皮の上に横になりますと、老人《シヤイクー》はこれに私をていねいに縫い込んでしまいました。それから私に言いました、「わしの言葉をよくお聞きなされよ。今すぐ大きな鳥がやって来て、あなたに飛び掛かりましてな、あなたを攫《さら》って、この嶮しい山の頂上にある自分の巣へ運んでゆきますでな。空中にいるような感じがするときは、身動きをなさらんように、よく気をつけなさるのですぞ。と申すのは、鳥があなたを放すかも知れぬので、墜落をしたら、もうあなたは地上でこなごなになってしまいますからな。だが、鳥が山の上にあなたを下ろしたときは、私の差し上げたナイフで皮を切り開いて、袋から外に出なさるがいい。鳥はびっくりしてあなたを放してしまうでしょう。そこであなたは、この山の頂きに散らばっている宝石を拾い集めて、それを私のほうに投げて下さるのじゃ。それがすんだら、また下りて来て、わしと一緒になられればよろしいでな。」
ところで、ユダヤの老人《シヤイクー》が話し終えるか終えぬうちに、私は空中に攫われるのを感じ、しばらくたつと、また地上に下ろされたような感じがしました。そこで私は、ナイフをもって、袋を裂き、そこから頭を出しました。これを見た怪鳥はびっくりして、羽ばたきをしながら逃げ出しました。私はそこで地面を覆っていた紅玉《ルビー》や、碧玉《エメラルド》や、その他の宝石類を拾い集め出しまして、これらをユダヤの老人《シヤイクー》のほうに投げてやりました。けれども、いざ降りようと思ったときには、私の足の置けるような道など全くないことがわかりました。そして見ればユダヤの老人《シヤイクー》は、自分の牝騾馬に打ち跨って、さっさと遠ざかり、私の眼から見えなくなってしまいました。
そこで私は、絶望の極、わが天運に涙を流し始めましたが、とにかくどちらの方向に向ったらよいか、探してみようと決心いたしました。結局自分の前を真直ぐに、当てどもなく歩き出しましたが、このようにして、二カ月の間を彷徨《さまよ》い続けた揚句、とうとうこの山脈の果ての、壮麗な谷間の入口に行き着きました。そこでは、小川や、樹々や、花が、小鳥の囀りのさなかに、創造者の栄光を讃えておりました。そこに、私は空中高く聳えた広大な宮殿を見たので、そちらへ向いました。その入口に着きますと、玄関の腰掛の上に、一人の老人《シヤイクー》が顔を後光の輝きに照らされながら、坐っているのを見ました。手には紅玉《ルビー》の王杖を持ち、頭上に金剛石の王冠を戴いておりました。私は彼に礼をいたしますと、彼も好意のこもった礼を返して、私に申しました、「余のかたわらに坐るがよい、わが子よ。」そして私が坐ったとき、彼は尋ねました、「かつて一人のアーダムの子の足も踏んだことのないこの地上に、お前は何処《いずく》からかくのごとく来たのか。してまた何処《いずく》に行くつもりか。」私は返事をする代りに、わっと泣き伏してしまいました。すると老人《シヤイクー》は私に言いました、「そのように泣くのは止めなさい、わが子よ。お前はわが心を痛ましめるからのう。元気を出すのじゃ。そして、先ず食べたり、飲んだりして、力をつけるがよいぞ。」そして彼は私を大広間に案内してゆき、食べ物や飲み物を持って来てくれました。やがて私がすぐれた気分になったのを見たとき、彼は私に身の上を語るように頼みました。私はその願いを叶えた上で、今度は私から、一体どなたであるのか、この宮殿はどなたのものか、教えてくれるように頼みました。彼は私に答えました、「それはこういうわけなのじゃ、わが息子よ、これなる宮殿は、その昔《かみ》われらの主《あるじ》スライマーンの建てたもうたもので、余はその代官《ナワーブ》として鳥類を統治しているのじゃ。毎年、地上のあらゆる鳥が余に敬意を表するために、ここにやってまいる。されば、もしお前が自分の故国へ帰りたいとならば、余は鳥どもが最初に余の命令を仰ぎに戻って来たとき、お前を託して進ぜよう。さすれば鳥どもはお前を故国に運んでくれよう。しかし、彼らの到着するまで時間《ひま》を潰さねばならぬゆえ、お前はこの広大な宮殿の中なら、いずこなりとも廻り歩いてよろしいし、いかなる部屋にでも入ってよろしいが、ただ一つの部屋だけは相ならぬ。それは、お前に与えるすべての鍵の真中に黄金の鍵が見えるが、その鍵で開く部屋なのじゃ。」そして、鳥類の代官《ナワーブ》の老人《シヤイクー》は、私に鍵を渡し、私の行動を自由にさせてくれました。
私は先ず最初に、宮殿の広庭に臨む部屋部屋を訪れ始めました。それから、すべて鳥の住居となるように設《しつ》らえられている、その他の室にも入りましたが、こうしているうちに私は、黄金の鍵で開くあの扉の前へ着きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十七夜になると[#「けれども第三百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
私は長い間その扉を眺めておりましたが、老人《シヤイクー》から申し渡された禁止のために、敢えて手を触れる気にすらなれませんでした。けれどもしまいには、わが魂に満ちた好奇心に、逆らうことができなくなってしまいました。私は黄金の鍵を鍵穴に挿し込み、扉を開けて、怖ろしさに捕えられながら、禁断の場所へ入り込みました。
ところが、眼の前には恐ろしい光景が現われるどころではなく、先ず私が見ましたのは、あらゆる色の宝石を鏤《ちりば》めた地面に建てられた、離れ家の真中にある、黄金の鳥に囲まれた銀の泉水でありました。それらの黄金の小鳥は、それぞれ口から妙《たえ》なる響きをあげて水を流しており、私にはその一羽一羽の鳴き声が、銀の四壁に反響しているのかと思えたほどでした。この泉水の周りにはぐるりと、さまざまな素晴らしい色合いに分けられた、いくつもの花壇があって、おのが色を果実の色と調和させておりました。私の踏んだ砂は碧玉《エメラルド》の粉末から成っていて、麗わしい泉水の正面に立っている玉座の階段《きざはし》まで、拡がっていました。この玉座はただ一塊の紅玉《ルビー》でできていて、その切子はそれぞれの冷やかな光線の赤を、庭園の中に投げかけて、水を宝石のごとく煌《きら》めかせておりました。
私はうっとりとして、自然物の純粋な組合せから生まれた、これらのものの前に、立ち停りました。それから、赤絹の天蓋を戴いた紅玉《ルビー》の玉座に坐りにゆきましたが、しばし両眼を閉じて、この爽やかな眺めを、わが恍惚とした魂の中に、さらによく滲《し》み入らせるようにしました。
眼を開いたとき、私は三羽の優美な鳩が、白い羽を打ち振りながら、泉水のほうへ進んで、沐浴《ゆあみ》をしに来るのを見ました。鳩たちは銀の泉水の幅の広い縁《ふち》の上に、淑《しと》やかに跳び下りましたが、私が見ておりますと、鳩たちは互いに接吻し合い、さまざまな可愛らしい愛撫を交したあとで、その純白の羽衣を遠くに投げ捨てますと、そこから、素馨《ヤサミーン》の裸身のうちに、月のように美しい三人の若い乙女の姿となって、現われ出たのです。そして彼女たちはすぐさま泉水に飛び込んで、ただその光る髪のみ、燃え上る火焔となって、水の上に浮んでおりました。
この光景を見ますと、おおわが兄弟ブルキヤよ、私は自分の理性が逃れ出そうとしているのを覚えました。そしてもう自分の感動を抑制することができなくなり、私は泉水へ駈け寄って、叫びました、「おお若き乙女たちよ、おお月たちよ、おお女王方よ。」
私の姿を認めると、若い娘たちは恐怖の叫びをあげて、水から身軽に飛び出ると、羽衣のところへ走り寄って、これを裸の上に投げ掛けました。そして、泉水の上に影を落している木々のうち、一番高い木の上へ飛び去って、私を見ながら笑い始めました。
そこで私はその木に近寄り、眼を上げて、彼女たちに言いました、「おお女王方よ、どうかお願い申します、あなた方はどなたなのかおっしゃって下さい。かく申す私は、カブールの君主でバニー・シャラーンの族長ティグモス王の王子、ジャーンシャーでございます。」すると三人の中で最も若く、あたかも私に最も強い印象を与えた魅力の娘が私に申しました、「わたくしたちはダイヤモンド宮に住むナスル王の娘です。わたくしたちはここに散歩をして、遊びに来るのです。」私は申しました、「それならば、おお御主人様、ここへ降りていらっしゃって、私と一緒に残りの分をお遊び下さいまし。」彼女は私に申しました、「でもいったいいつから、若い娘たちが若い殿方たちと遊んでよいのでしょう、おおジャーンシャー様。けれども、もしあなたが是非とも、わたくしをもっとよく知りたいとお思いになるのならば、わたくしに従《つ》いて、父の宮殿までいらっしゃりさえすればいいのでございます。」そして、この言葉を言ってしまうと、彼女は私に肝臓まで貫く一瞥を投じ、そして二人の姉と一緒に飛び立って、私の眼から消え去ってしまいました。
これを見た私は、絶望の極に達し、大きな叫び声を上げて、その木の下に気を失って倒れてしまいました。
私はこうして何時間のあいだ横たわっていたのか知りません。けれども、私がわれに返ったときには、鳥類の代官《ナワーブ》の老人《シヤイクー》が、そばにいて、私の顔に花の水を撒《ふ》りかけておりました。私が眼を開いたのを見ると、彼は私に言いました、「わが子よ、余の言うことに背けば、どういう目に逢うかわかったであろう。余はお前に、この離れ家の扉を開けることを禁じはしなかったかね。」私は答える代りに、ただ次の詩句を即吟いたしました。
[#ここから2字下げ]
わが心は容姿整うたおやかの乙女に奪われたり。
あらゆる細腰のあいだにありて、かの細腰のげに心を奪うかな。微笑まうとき、その唇は薔薇と紅玉《ルビー》の嫉みをそそる。
その眉の弓より放たるる箭《や》は、遠方《おちかた》より獲物を射当て、癒し得ぬ手傷を負わすなり。
おおかのひとの美よ、汝と競うものはなく、汝こそはインドのあらゆる美を掻き消す。
[#ここで字下げ終わり]
私がこの詩句を誦し終ったとき、老人《シヤイクー》は私に申しました、「お前の身にいかなることが起ったかわかった。ここへ時折|沐浴《ゆあみ》に来る、鳩の乙女たちを見たのじゃな。」私は叫びました、「その乙女たちを見たのです、おお父よ。どうかお教え下さい、あの乙女たちが父王ナスルと一緒に住んでいる宮殿というのは、どこにあるのでしょうか。」彼は答えました、「そのような所へ行こうなどとは、思ってはならぬ、わが子よ。と申すのは、ナスル王は魔神《ジン》の最強の首領の一人であって、彼が娘の一人をお前に娶《めあわ》すというようなことは、とうてい許しそうもないと思われるからじゃ。それよりはむしろ、故国《くに》に帰る準備を心がけるがよいぞ。余自身も、やがてここに敬意を呈しに来る鳥どもに、よくお前を頼んで、案内者となってもらい、帰国の便宜を計らって進ぜるからな。」私は答えました、「有難うございます、わが父よ、けれども、もし私に話しかけた乙女にもう再び会えないことになるのでしたら、私は父母のもとに帰ることは断念いたします。」この言葉を言うと、私は泣きながら老人《シヤイクー》の足もとに身を投げ出して、どうか鳩の乙女たちに再び会う方法を教えてくれるよう、哀願いたしました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十八夜になると[#「けれども第三百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……鳩の乙女たちに再び会う方法を教えてくれるよう、哀願いたしました。すると老人《シヤイクー》は手を差し延べ、私を立ち上らせて申しました、「お前の心が、あの一番美しい乙女への思いで焼きつくされていることがよくわかったから、ではあの乙女に再び会う方法を教えてあげよう。お前は木立の後ろに身を隠して、辛抱強く、あの鳩たちがまた来るのを待つがよい。彼らが着物を脱いで、泉水に下り立つまでそっとしておき、そのときになったら、突然彼らの羽衣に飛びかかり、それを奪い取ってしまうのじゃ。そうなれば、乙女たちはお前に対して大いに言葉をやわらげ、お前に近寄って、さまざまな愛撫をなし、この上もなく優しい言葉をかけて、自分たちの羽を返してくれと哀願するであろう。だがおまえは、哀れを催さぬよう用心するがよい。と申すのは、さようなことをすれば、もはや永久に万事終りじゃ。飽くまでも、羽を返すことは断乎として拒絶し、こう言いなさい、『あなた方の衣はいかにもお返しいたしますが、おお美わしい方々よ、けれど|も長老《シヤイクー》が戻って来るまではなりませぬ。』そして慇懃に話を交えながら、実際に余の帰りを待つがよい。さすれば余は、何とかして、おまえの思いどおりに事を向けることができるであろう。」
この言葉を聞くと、私はこの敬うべき鳥の代官《ナワーブ》にあつく感謝しまして、すぐに木立の後ろに身を潜《ひそ》めに走ってゆきましたが、一方、代官《ナワーブ》は家来を引見するために、自分の離れ家に引き上げてゆきました。
私はかなり長い間、彼女たちの来るのを待っておりました。とうとう羽ばたきと空中の笑い声とが聞えまして、三羽の大鳩が泉水の縁《ふち》に飛び下りて来るのが見えました。彼女たちは右や左を眺めて、自分たちをうかがっている者がいないかどうかを確かめました。それから、私に話しかけた乙女が、他の二人に向って申しました、「お姉様方、庭の中に誰か隠れている者がいるとはお思いになりませんか。この前わたしたちの見たあの若い男は、どうなったかしら。」けれども姉たちはこれに申しました、「おおシャムサ、そんなことはあまり気にかけないで、早くわたしたちのようになさいな。」そこで三人は揃って羽を脱ぎ捨て、自然銀のように白く裸で、水中にとびこみました。それは水中に映った三つの月でありました。
私は彼女たちが泉の真中まで泳いでゆくのを待って、すっくと立ち上って、すぐさま、稲妻の速さで突進し、私の好きな乙女の衣を奪い取ってしまいました。すると私の掠奪行為に三つの恐怖の叫びが答えまして、若い乙女たちは、戯れていたところを不意を襲われたのを恥じ、頭だけを水の外に残して、全身をすっかり沈め、そして泣き濡れた眼差しを投げながら、私のほうに泳いで来るのを見ました。けれども私は、今度は間違いなく彼女たちを捕えたと安心して、縁《ふち》から後じさりをしながら羽衣を振り廻して、笑い始めました。
これを見ますと、私に最初に話しかけたシャムサという名の乙女が、私に申しました、「おおお若い方よ、どうして御自分のものでないものを、敢えてお奪《と》りになるのでしょう。」私は答えました、「おお私の鳩よ、泉水から出て、私と話しにいらっしゃい。」彼女は申しました、「おお美しい青年よ、あなたとお話するのはよいけれど、わたくしは丸裸なので泉水から出られません。わたくしの衣をお返し下さいまし。そうすれば、きっと水から出て、あなたとお話を交えるお約束をいたします。」私は申しました、「おおわが眼の光よ、おおわが肝《きも》の果実よ、もしあなたに衣をお返しすれば、それこそ私は、われとわが手で自分を殺すことになってしまいます。だからそうするわけにはゆきませんし、いずれにせよ、私の友、鳥の代官《ナワーブ》の長老《シヤイクー》がお見えになるまでは、かないません。」彼女は私に申しました、「それでは、あなたはわたくしの衣だけしかお取りにならなかったのですから、もう少し遠くにいらっしゃって、頭をあちらに向け、わたくしが泉水から出られるようにして、姉たちには身を覆うひまをお与えになって下さいませ。そうすれば、姉たちはわたくしに自分の羽の何枚かを貸して、わたくしの一番肝心なところを隠すようにしてくれるでしょう。」私も申しました、「そんなことなら、して上げられますよ。」そして私は遠くに離れ、紅玉《ルビー》の玉座の後ろにおりました。
そこで二人の姉は先ず最初に外に出て、急いで自分たちの羽衣を纒いました。それから彼女たちは、最も毳立《けばだ》った羽を数枚抜き取って、これで小さな前掛けようのものを作りました。次に彼女たちは、手をかして今度は妹を水から出してやり、その肝心なところにその前掛けをめぐらし、それから私に叫びかけました、「もういらっしゃってもよろしい。」そこで私はこの羚羊《かもしか》たちの前に走ってゆき、愛らしいシャムサの足もとに身を投げ出して、その両足に接吻しましたが、その衣だけは、彼女がとりかえして飛び去ることを恐れて、しっかり握っておりました。すると彼女は私を起し、いろいろと優しい言葉をかけ、いろいろと愛撫をし始めて、私に衣を返す決心をさせようといたしました。けれども私は、彼女の望みに負けぬよう大いに用心しまして、首尾よく彼女を紅玉《ルビー》の玉座のほうへ引っ張って来てしまい、彼女を膝の上に乗せて、そこに坐りました。
彼女は私から逃れられぬことがわかりますと、とうとう私の望みに応じる決心をしました。私の首の周りに両腕を投げかけ、私の接吻には接吻を、愛撫には愛撫を返しましたが、一方姉たちは、四方を眺め廻して、誰かが来はしまいかと見張りながら、私たちに微笑を見せておりました。
私たちがこんな有様でいる間に、私の保護者の長老《シヤイクー》が、扉を開けて入ってまいりました。そこで私どもは敬意を表して立ち上り、進み出て彼を迎え、その手にうやうやしく接吻いたしました。彼は私どもに坐るように頼んでから、愛らしいシャムサのほうを向いて、彼女に申しました、「わが娘よ、そなたがこの男を選んだことは、わしはまことに嬉しく思います。実を申せば、これは名家の出の者。彼の父はアフガニスターンの領主、ティグモス王なのじゃ。されば、そなたとしてはこの縁組を承諾し、お父上ナスル王にもまた、御同意下さるように決心おさせ申すがよろしかろう。」彼女は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そこで長老《シヤイクー》は彼女に申しました、「そなたがまことにこの縁組を承諾するとあらば、わしにその旨を誓言し、夫に忠実にいたして、決してこれを見捨てぬことを、わしに約束なされよ。」すると美しいシャムサはすぐ立ち上って、敬うべき老人《シヤイクー》の手の間に、件《くだん》の宣誓をいたしました。そのとき彼は私どもに申しました、「わが子らよ、至高者に御身らの相結ばれたことを感謝いたそう。願わくは御身らの幸福ならんことを。わしはここに御身ら二人の上に祝福を祈る。今や御身らは自由に愛し合うことができるのじゃ。されば、ジャーンシャーよ、お前は彼女に衣を返してもよろしいぞ。彼女はもはやお前から離れることはないからじゃ。」そして、この言葉を言って、長老《シヤイクー》は私どもを一室に案内しましたが、そこには、絨氈と共に敷蒲団《マトラー》があり、また見事な果実やその他|美味《おい》しそうな物が盛られた皿などがありました。シャムサは姉たちに、自分より先に父の宮殿に戻って、父に自分の結婚を告げ、私と一緒に帰ることを告げておいてくれるように頼んでから、もうすっかり優しくなって、私のために自身で果物の皮を剥いて、それを私と分け合ってくれました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六十九夜になると[#「けれども第三百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そのあとで、私たちは互いに腕に抱かれて、歓喜の極みにおいて、一緒に寝ました。そして私たちはお互いに、副《ふく》のものと主《しゆ》のものとをもって甘くし合いました。
朝になると、シャムサは先に起き上りました。彼女は羽衣を纒いまして、私を起し、両の眼の間に接吻して、申しました、「私たちがダイヤモンド宮に行って、父のナスル王に会う時がまいりました。さあ急いで着物をお召し遊ばせ。」私はすぐそのとおりにいたしまして、私の用意が整ったとき、私たちは鳥の代官《ナワーブ》の長老《シヤイクー》の手に接吻をしにゆき、彼に厚くお礼を述べました。そこでシャムサは私に申しました、「さあわたくしの肩に乗って、しっかりお掴まり遊ばせ。わたくしは全速力で行くつもりですけれど、旅はちょっと長くかかりましょうから。」そして彼女は私を肩に載せ、私たちの保護者に最後の別れを告げた後、稲妻の速さで空中を横切って私を運び、ちょっとの間に、ダイヤモンド宮の入口から程遠からぬ場所に、私を下ろしました。そして、ここから私たちはゆっくりと宮殿へと向いましたが、一方、王から見張りに立たされた従者の|魔神たち《ジン》は、私たちの到着を王に告げに、走ってゆきました。
シャムサの父で魔神《ジン》の主であるナスル王は、私を見て非常な喜びを覚えました。彼は私を腕にかかえて、胸に抱きしめました。それから命令を下して、私に豪奢な誉れの衣を着せ、私の頭上に、一個だけの金剛石から作った王冠を戴《いただ》かせ、それから、私の妻の母である女王のもとに連れてゆかせましたが、女王も私に満足の意を表し、娘に私を選んだことを祝いました。女王は次に、大量の宝石を娘に贈りました。というのは、宮殿には宝石が満ちていたからです。そして、私たち二人を浴場《ハンマーム》に案内させ、ここで私たちは身体を洗われ、薔薇水や、麝香や、琥珀や、香油などで香りをつけられ、すばらしく爽やかな気分になりました。それがすむと、私たちのために饗宴が催されて、これがひきつづき三十日と三十夜にわたりました。
そこで私は、今度は自分の国の私の両親に、妻を引き合わせたいという希望を述べました。すると王と王妃とは、娘と別れるのはたいそう辛かったにもかかわらず、私の企てを許可しましたが、それでも私に、毎年戻って来て、彼らのところでしばらく過ごすことを約束させました。それから王は、まことに豪華壮大な玉座を作らせました。それは階段の上に、二百人の男の妖霊と二百人の女の妖霊とを乗せられるほどのものでした。私たち二人がその玉座に登りますと、私たちに仕えるためにそこにいる、男女両性の妖霊四百名が、階段の上に起立し、一方、他の妖霊の一軍全体が担い手を勤めておりました。私たちが最後の別れを告げたとき、担い手たちは玉座とともに空中に昇り、非常な速さで空中を駈け出し、二日ののちに、歩けば二年かかる行程を終えてしまったほどでした。そしてわれわれはカブールの私の父の宮殿に、恙《つつが》なく到着いたしました。
私の父母は、私に再会する望みなどは全く失っておりましたが、そのような行方不明のあとで、私が着いたのを見、私の妻をしげしげと眺め、彼女が誰であるか、またどんな情況で私が彼女を娶《めと》ったかを知ったとき、父母は喜び極まり、私に接吻し、私の最愛のシャムサに接吻しながら、夥しく涙を流しました。私の哀れな母などは、感動のあまり、気を失ってしまい、わが妻シャムサの持って来た薔薇水のおかげで、やっとわれに返ったほどでした。
私たちの到着と婚儀を機会に催された、饗宴やら祭典などがことごとくすんだあとで、私の父はシャムサに尋ねました、「わが娘よ、そなたを喜ばせるには、余はどんなことをしたらよいかな。」すると、好みの地味なシャムサは答えました、「おお幸多き王様、私はただ、私たち二人のために、多くの流れの注いでいるお庭のただなかに、離れ家を一軒持ちたいと願うばかりでございます。」父王はすぐに、必要な命令を発して、ごく短期間のうちに、私たちは自分の離れ家と庭を持つようになり、ここで無上の幸福のかぎりに暮しました。
こうして歓楽の海のただなかに一年が過ぎてしまいますと、妻のシャムサは、ダイヤモンド宮の自分の父母に会いたくなりまして、私が毎年彼らの間にしばらく時を過ごしに行くと約束をしたことを、思い出させました。私も妻の気持に逆らいたくはありませんでした。というのは、私は妻を非常に愛していたからです。けれども、悲しいかな、この呪われた旅行のために、私たちの上に不幸が襲いかかることになっていたのです。
そこで私たちは、従者の妖霊の担ぐ玉座に坐りまして、大速力で旅し、毎日陸路なら一カ月の距離を駈けどおし、夕暮には、どこかの泉のほとりか、木々の蔭の下に止って、休息をいたしました。さてある日のこと、私たちはちょうどこの場所に止って、夜を過ごすことになりましたが、妻のシャムサは、今私たちの前に流れておりますこの川の水に、沐浴《ゆあみ》しにゆきたいというのでした。私は何とかしてこれを思い止らせようと努め、妻に向って、夜気が冷た過ぎるし、それがもとで気分が悪くなるかも知れぬ、と申しました。妻は私の言うことを聞こうとせず、自分の女奴隷を数名引き連れて、一緒に沐浴《ゆあみ》にまいりました。妻たちは岸辺で着物を脱いで、水に入りました。シャムサは、星の行列のただなかに昇る月のように見えました。彼女たちはそこで、お互い同士、ふざけたり、遊んだりしておりましたが、そのとき突然、シャムサはひと声苦痛の叫び声をあげて、女奴隷たちの腕の中に倒れましたので、奴隷たちは急いでこれを水から出して、岸に運びました。けれども、私が言葉をかけて、介抱しようと思ったときには、妻はこときれておりました。そして女奴隷たちは、妻の踵にある、水蛇の咬傷《かみきず》の跡を私に見せたのでありました。
この有様を眺めると、私はばったり倒れて気を失ってしまいました。そして長い間そのままの有様でおりましたので、私も同じように死んだものと思われたほどでした。けれども、悲しいかな、私はシャムサのあとに生き残って、彼女の死を悲しみ、彼女のために、ごらんのとおりの墓を建てなければなりませんでした。この二番目の墓のほうは、私の哀れな愛人の墓のそばに作らせた、私自身の墓です。そして私は、わが妻シャムサのそばで、自ら見捨てたわが王国を離れ、私にとっては荒涼たる砂漠となったこの世を遠く離れ、この淋しい死の隠遁所の中で、眠るようになるときを待ちながら、今は涙とあの痛ましい思い出の中に、生涯を送っている次第でございます。
悲しみの美青年は、自分の身の上話をブルキヤに語り終えたとき、両手に顔を隠して、咽び泣きはじめました。そこでブルキヤはこれに言いました、「アッラーにかけて、おおわが兄弟よ、あなたの身の上話は実に驚くべき、並々ならぬお話なので、私は自分自身の冒険が不思議なものとは思いながらも、それさえも忘れてしまったくらいです。おおわが兄弟よ、アッラーは悲歎のうちにあなたを支えたまい、あなたの魂を忘却をもって富ましめたまわんことを。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつもの習慣に従ってつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十夜になると[#「けれども第三百七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼はさらにひと時のあいだ青年とともにとどまって、空気と目先を変えるために、自分の王国まで一緒に来るように、決心させようと試みましたが、これも無駄でございました。
そこで彼は邪魔になることを恐れて、これをそのままにしておくよりいたし方なく、この青年に接吻をし、さらに慰めの言葉をふた言み言かけてから、自分の首都へと向いましたが、途中何の出来事もなく、五年間留守した後に、そこへ到着したのでありました。
そしてその時以来、妾《わらわ》はもはや彼の消息に接しませんでした。それに、今となってはあなたがここにいらっしゃるので、おおハシブよ、これまではいつかまた会いたいと思っていたその若いブルキヤ王のことも、今はすっかり忘れてしまいました。せめてあなただけは、そんなに早く妾からお離れにならないように。妾はぜひあなたを長年の間、御一緒にお引きとめしようと思っております。何一つ不自由はおさせ申しません、それはもう大丈夫です。それに妾は、ブルキヤ王や悲しみの美青年の物語などは、日常の平凡な出来事のようにお思いになるほど、驚くべき物語を、まだまだ沢山お聞かせしなければなりません。いずれにせよ、ただ今から早速、おもてなしの証拠をお見せするため、ここにおります妾の侍女たちが、これから食べ物と飲み物をお供えし、歌を歌って、朝まで妾たちを愉しませ、心の疲れを休ませてくれましょう。
地下の姫、ヤムリカ女王が、学者ダニアルの息子、若きハシブに、ブルキヤの物語と悲しみの美青年の物語を語り終え、蛇身の女たちの饗宴と歌と踊りが終ったとき、この集《つど》いは散会となり、別な居住地に帰るために、行列が作られました。けれども、母と妻とをこの上もなく愛していた若いハシブは、答えました、「おおヤムリカ女王よ、私は哀れな木樵《きこり》に過ぎませず、あなた様は今歓楽に満ちた生活を申し出て下さいますけれども、私の家には母と妻とがいるのでございます。そして私には、アッラーにかけて、彼女たちにこれ以上長い間私を待たせ、私の行方不明に絶望させておくわけにはまいりません。どうか私に、彼女たちのもとに帰ることをお許し下さいませ。さもなければ、この両人はきっと悲歎のために死んでしまうでしょう。とはいえ、あなた様がほかのいろいろの物語で、私の貴国滞在を楽しませて下さるおつもりのところを、それを承われなかったことは、確かに、私一生の痛恨事となるでございましょう。」
この言葉を聞きますと、ヤムリカ女王は、ハシブの出発の動機が、いかにも承認できる唯一のものであることがわかりましたので、彼に申しました、「おおハシブよ、あなたのように熱心な聴き手とお別れするのは、この上なく辛いことではありますが、妾は喜んであなたを、お母様と奥様のおそばに帰してさし上げましょう。ただ、あなたには是非一つの誓いを立てていただかねばならず、そうしないことには、あなたをお立たせするわけにはまいりません。あなたは今後、一生の間、決して浴場《ハンマーム》にお風呂を使いにゆかないと、約束なさって下さい。さもなければ、すぐにあなたの一命に関わってくるのです。さしあたって、これ以上詳しくは申し上げられません。」
若いハシブはこの要求を聞いて、この上もなく驚きましたが、ヤムリカ女王のお気に逆らいたくなかったので、件《くだん》の誓いを立てまして、一生の間、決して浴場《ハンマーム》に風呂を使いにゆかぬことを約束いたしました。そこでヤムリカ女王は、いったん別れの挨拶《サラーム》を終えますと、蛇身の女の一人に、王国の出口まで彼を送らせました。その口は一軒の廃屋の中に隠されていて、その反対側の場所には、ハシブがこの地下の居住地に入り込むことができた、あの蜜の穴倉がございました。
ハシブが自分の街に着き、わが家の戸を叩いたときには、太陽は地平線に黄色くなっておりました。彼の母は戸を開けにまいりましたが、彼であることがわかりますと、ひと声大きな叫びをあげて、嬉しさに泣きながら、彼の腕の中に身を投げました。すると彼の妻のほうも、その叫び声を聞きつけて、戸口に走って来ますと、これも同じく彼であることを認めまして、彼の手に接吻して、うやうやしくお辞儀をいたしました。それがすむと、一同家の中に入って、心ゆくばかり、喜びの最も激しい恍惚に浸りました。
三人がやや気が鎮まったときに、ハシブは彼女たちに、蜜の穴倉に自分を捨てて行った、昔の仲間の木樵たちの消息を尋ねました。母親は、彼らがやって来て、息子が狼の歯にかかって死んだという知らせを告げた次第や、彼らが裕福な商人となり、莫大な財産や立派な店舗の所有者となった次第や、彼らが自分たちのまえに、世界が毎日だんだん大きくなってゆくのを見た次第などを、彼に語りました。
するとハシブはちょっと考え込んで、母親に申しました、「明日になったら、市場《スーク》に彼らに会いにいらっして、みんなを集めて、私の帰ったことを告げ、私がみなさんにお目にかかったら、とても喜ぶだろうと伝えて下さい。」翌日になると、ハシブの母は怠りなくそのとおりのことをいたしますと、木樵たちはその知らせを聞いて、顔色を変えましたが、歓迎の訪問のことにつきましては、承わり畏まって答えました。それから彼らはお互い同士で評定をし合い、事をできるだけうまく始末するように決めました。彼らは先ずハシブの母に、美しい絹織物と美しい布地を与えまして、それから、ハシブには各人がその所有する富と奴隷と土地の半分を、それぞれ与えることに意見一致して、母を家まで送ってゆきました。
ハシブのもとに着きますと、彼らは彼に挨拶《サラーム》をし、手に接吻しました。次にみんなの贈物のことを申し出て、どうかこれをお納めいただき、あなたに対して犯した過ちをお忘れ下さるようにと願いました。ハシブは何の怨恨も抱こうとはせず、彼らの申し出を受けいれて、申しました、「過ぎたことは過ぎたことで、どんな用心をしても、起るべきことが起るのを妨げることはできません。」そこで彼らは御恩はけして忘れない旨念を押しながら、暇を告げましたが、ハシブはこの日から金持になって、市場《スーク》に商人として身を立て、一軒の店を開きましたところ、これはあらゆる店の中で最も美しいものとなりました。
ある日のこと、いつものとおり、店に行こうとして、彼は市場《スーク》の入口にある風呂屋《ハンマーム》の前を通りかかりました。ところが、風呂屋《ハンマーム》の持主がちょうど戸口の前で涼んでいたところで、ハシブを認めますと、挨拶《サラーム》をして申しました、「どうか私の建物《うち》にお入り下さいませんか。あなたにはまだただの一遍も、お客様になっていただいたことがございません。しかし今日、ただ私が好き勝手に、あなたをおもてなししたいと思うのです。入って下されば、三助どもは新しい粗毛《あらげ》の手袋で擦って差し上げ、誰も使っていないリーファの繊維《すじ》(17)で、石鹸をつけて差し上げますよ。」けれども誓約を覚えていたハシブは、答えました、「いや、アッラーにかけて、私はあなたのお申し出をお受けするわけにはいきません、おお御老人《シヤイクー》。というのは、私は風呂屋《ハンマーム》には決してはいらぬという誓いを立てたのですから。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十一夜になると[#「けれども第三百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞くと、風呂屋《ハンマーム》の主人は、どんな男だとて女房といつものことをしたあとでは常に、たとえ生命《いのち》にかかわることがあろうとも、風呂を使わずにはすまされないものだと思うと、とてもそんな誓約を信じることができず、叫びました、「どうしてお断わりなさるのでしょう、おお御主人様。それならば、アッラーにかけて、今度は私が誓いを立てますよ。あなたがどうあっても御決心をおまげにならぬ場合は、私は直ちに三人の女房と離縁いたします。離縁に賭けて三たび誓います。」
けれどもハシブは、今聞いた実に重大な誓約にもかかわらず、やはり断わりつづけたものですから、風呂屋《ハンマーム》の持主は彼の足もとに身を投げて、どうか自分の誓約を実行しないですむようにしてくれと、哀願いたしました。そして泣きながら、足に接吻して申しました、「あなたの行為とそれから生ずるあらゆる結果につきましては、私がこの頭《こうべ》にかけて責任を取ります。」すると彼らの周りに群がっていた通行人たちは、みなこの事態を知り、離婚の誓約を聞きましたので、これまたハシブに向って、無料《ただ》で入浴を申し出たような男を、わけもなく不仕合せな目に遭わせることなどしないようにと、哀願し始めました。それから、自分たちの言葉が無駄なのを見ると、一同は腕力を用いることに決心し、ハシブを引っ捉えて、恐怖の叫びもかまわず、彼を風呂屋《ハンマーム》の内に運び込み、着物を剥ぎ取り、みんなで一緒に、二十杯か三十杯の盥《たらい》の水を身体に浴びせ、これを擦《こす》り、揉み、石鹸で洗い、また乾かして、熱い手拭で包み、縁飾りのある刺繍入りの大きな薄紗で、頭を巻きました。それから、離婚の誓約が解けたのを見て喜びの極に達した風呂屋《ハンマーム》の持主は、竜涎香の香りを入れたシャーベットの茶碗を、ハシブのところへ持って来て、申しました、「どうか沐浴《ゆあみ》があなたに軽やかで、祝福されたものでありますように。あなたが私を爽やかにして下さったように、この飲み物があなたを爽やかにいたしまするように。」けれども、これまでの一切のことでますます脅《おび》えてしまったハシブは、この最後の勧めを拒んだものか、受けたものかわからず、これから返事をしようとしていると、そのとき突然、風呂屋《ハンマーム》の中に王の警吏たちが侵入してまいりまして、彼に飛びかかり、入浴着のまま引っ立ててゆきました。そして抗弁や抵抗にもおかまいなく、彼を王宮へ運んでゆき、御門のところでしびれをきらして待ち構えていた総理|大臣《ワジール》の手の間に、引き渡したのでした。
総理|大臣《ワジール》はハシブを見ますと、非常に喜んで、この上もなく明らかな敬意の印《しるし》を見せて彼を迎え、どうか国王の御許《みもと》まで同行してくれと頼みました。ハシブは、今はもうわが天命の赴くままに委せようと決心いたしまして、そのあとに従《つ》いてゆきますと、総理|大臣《ワジール》は彼を広間におられる国王の御許に案内してまいりましたが、そこには序列の順に従って、二千人の地方の太守《アミール》と、二千人の高官と、合図一つさえあれば首を刎ねようと待ちかまえている、二千人の首斬役の太刀取などが、居並んでおりました。国王御自身はと申しますと、大きな黄金のお床《とこ》に臥《ふせ》っておられ、お頭《つむり》とお顔を薄絹で被われて、お眠りになっておられるようでした。
こうした一切のことを見ますと、脅え切ったハシブは死ぬ思いがいたしまして、己《おの》が無実を公然と主張しながら、王のお床の足もとに倒れてしまいました。けれども総理|大臣《ワジール》はあらゆる敬意の徴《しるし》を示しながら、急いで彼を起き上らせて、申しました、「おおダニアルの御子息殿、私どもは貴殿に、われらの国王カラズダーンを救っていただくことを期待しておりますのじゃ。これまでは手の施しようもなかったが、癩病が王のお顔と玉体とを被い尽しておりまする。そしてわれわれはこれをお癒しするために、貴殿を考えました。と申しまするは、貴殿は学者ダニアル殿の御子息であられますからじゃ。」すると並みいる者一同は、太守《アミール》たちも、侍従たちも、官吏たちも、首斬役人たちも、一斉に叫びました、「ただあなた様だけに、われわれはカラズダーン王の御快癒を期待しておりまする。」
この言葉を聞きますと、愕然としたハシブは、独りごとを言いました、「アッラーにかけて、こいつらは私を学者だと思っているんだな。」それから総理|大臣《ワジール》に言いました、「私はまさしく、ダニアルの息子でございます。けれども、ただの文盲に過ぎないのです。学校には入れてもらいましたが、何一つ覚えませんでした。人々は私に医学を学ばせようとも思いましたが、一カ月ほどたつと、私の理解力が劣等なのを見て、これもあきらめてしまいました。すると私の母は万策尽きて、一匹の驢馬と縄を買い、私を木樵《きこり》にしてしまったのです。そして、これだけが私のただひとつの職業であり、知っているすべてなのでございます。」けれども大臣《ワジール》は彼に申しました、「おおダニアルの御子息殿、これ以上貴殿の知識をお隠しなされるのは、無益でござりまするぞ。たとえ東洋と西洋とを駈け廻ろうと、医学において貴殿に比肩し得る者は決して見当るまいことは、われわれがよく存じておりますわい。」ハシブは閉口して、申しました、「おお叡智に満てる大臣《ワジール》様、しかし私は病気のことも、治療のことも、一向知らない以上、どうして王様をお癒しすることなどできましょう。」大臣《ワジール》は言葉をつぎました、「さあ、お若い方よ、これ以上打ち消しなさるは無益でござりますぞ。王の御快癒が貴殿の手の間にあることは、われわれはみな存じておりますわい。」ハシブは両手を天にあげて、尋ねました、「どうしてそんなことがありましょう。」大臣《ワジール》は申しました、「いや、たしかにござる、貴殿はその御快癒の手段を獲ることがおできになる。と申しまするは、貴殿の御存じの地下の姫、ヤムリカ女王の処女なる乳は、食前に服用するか、または白鮮《はくせん》のごとくに使用すれば、いかなる不治の病いも、ことごとく快癒せしめるからでござる。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十二夜になると[#「けれども第三百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞きますと、ハシブはこの情報の出どころは風呂屋《ハンマーム》に入った結果だとわかりましたので、否定しようと試みました。そこで彼は叫びました、「おお御主人様、私はそのような乳はかつて見たこともございませんし、ヤムリカ姫とはどんな方なのか、一向に存じません。そんな名前を伺うのも、始めてのことでございます。」大臣《ワジール》は薄笑いを浮べて、申しました、「貴殿が否定なさるとあらば、さようなことは何の役にも立たぬことを、それがしが証明して差し上げますわい。それがしは貴殿がヤムリカ女王の許にまいられたと申しますのじゃ。ところで、古き世に、貴殿以前に彼の地にまいりし者は、すべて腹の皮が黒くなって帰ってまいったものじゃ。それがしにそのことを告げたのは、そこの眼の前にある、あの本でござるが、いや、むしろこう申せばよろしかろう、おおダニアル殿の息子よ、ヤムリカ女王の訪問者にあっては、腹の皮はただ風呂《ハンマーム》に入った後に、はじめて黒くなりますのじゃ。ところで、それがしは間者どもを風呂屋《ハンマーム》に配置して、あらゆる入浴者の腹を調べさせておりましたところ、その者どもが今し方帰ってまいり、人々が入浴させているうちに、貴殿のお腹が突然黒くなられた旨、それがしに告げたのじゃ。されば否定を続けられても無益でござりまするぞ。」
この言葉を言って、総理|大臣《ワジール》は彼のそばに近寄って、その身体を包んでいた手拭を剥ぎ取り、お腹をむき出しにいたしました。それは水牛の腹のように黒くなっておりました。
これを見ますと、ハシブは驚きのために気を失いそうになりました。それから、ちょっと考えついたので、大臣《ワジール》に申しました、「では、有体に申し上げなければなりませんが、おお御主人様、私は生まれながらに黒い腹をしておったのでございます。」大臣《ワジール》は薄笑いを浮べて、申しました、「風呂屋《ハンマーム》に入られたときは、そうではござりませんでしたな。間者どもがそう申しましたぞ。」けれどもハシブは御殿の場所を洩らして、地下の姫を裏切るなどは、ともかく好まぬところでありましたから、女王と交際があったことも、かつて彼女を見たことも、否定し続けました。そこで大臣《ワジール》が合図をいたしますと、二人の首斬役人が近寄って来て、彼を裸のまま床に倒し、その足の裏に、何ともむごたらしい打擲《ちようちやく》を繰り返し加え始めましたので、もし彼が心を決して、大声で許しを求め、真実を白状してしまわなかったら、殺されてしまったかも知れませんでした。
大臣《ワジール》はすぐさま彼を起き上らせ、部下に向って、彼が来たとき身を包んでいた手拭を、素晴らしい誉れの衣と取り換えるよう命令を下しました。そのあとで、大臣《ワジール》は自ら彼を宮殿の中庭に案内し、そこで王家の御厩《おうまや》の中で一番立派な馬に彼を乗らせ、自分も同じように馬に打ち乗り、二人揃って夥しい従者を引き連れ、ハシブがヤムリカ女王の許から帰るときに出た、あの廃屋に向って道を取りました。
そこに着くと、書物で呪術を学んでいた大臣《ワジール》は、香を焚いて、扉を開く魔法の文句を唱え出しましたが、その間、ハシブのほうでも、大臣《ワジール》の命令に従って、女王にここへ御出現あらんことを祈願していたのでありました。すると突然、その場にいた大部分の者が地面に打ち倒されたほどの大地震が起り、穴が開いて、そこから、火焔を吐き出す四匹の人頭の竜に担がれた、黄金の盤に乗って、黄金の顔《かんばせ》のヤムリカ女王が現われ出ました。
女王は非難に満ちた眼でハシブを見やって、申しました、「このようにして、おおハシブよ、妾《わらわ》に契《ちぎ》った誓約を守りなさるのですか。」するとハシブは叫びました、「アッラーにかけて、おお女王様、その罪は、私を打擲して死にそうな目に遭わした、この大臣《ワジール》にございます。」女王は申しました、「それはわかっております。それなればこそ、妾はあなたを罰しようとは思いませぬ。国王の御快癒のため、人々はあなたをここに来させ、妾自身をも、わが住居より無理矢理に引き出したのです。そしてあなたはその御快癒をもたらすため、妾に乳をお求めになるのですね。妾はあなたを歓待して差し上げたことと、あなたが妾の話を謹聴して下さったことの思い出として、喜んでその品をお授けしようと思います。さあ、この二本の瓶が私の乳でございます。国王に御快癒をもたらすには、使用法をお教えしなければなりません。さ、もっと近くにお寄りなさい。」ハシブが近寄りますと、女王は声を落して、彼のほかには聞えぬようにして、申しました、「この瓶のうち、赤い線の印がある一本のほうは、国王をお治しするのに用いなければなりません。けれどももう一本のほうは、あなたに笞刑《ちけい》を加えさせた大臣《ワジール》に使うものなのです。それというのは、国王の御快癒を見ると、大臣《ワジール》は諸病の予防のために、妾の乳を飲みたがりますから、あなたはこの二番目の瓶を与えて飲ませなさい。」
それから、ヤムリカ女王はハシブに二本の乳の瓶を渡して、直ちに消え失せてしまい、地面は女王と担い手たちの上に再び閉じました。
ハシブは王宮に到着いたしますと、女王に教えられたとおりを、そのまま正確に行ないました。つまり彼は国王に近寄って、第一の瓶をお飲ませ申し上げたのでした。そして王はこの処女の乳を飲まれるとすぐに、全身から汗をお流しになり、しばらくの間に、癩に犯された全部の皮膚がぱらぱらと落ち始め、それが次第次第に、銀のように滑かな白い皮膚に代えられてゆきました。そして王は立ちどころに御快癒遊ばされました。大臣《ワジール》のほうは、やはりこの地下の姫の乳を飲みたくなり、第二の瓶を取って、一気にこれを飲み乾しました。するとすぐに、だんだん膨らみ出しました。そして象のように大きくなりまして、突然全身の皮膚を破裂させて、即座に死んでしまいました。人々は急いでそこから彼を運び去り、土の中に埋めました。
王は御病気が癒ったのを見なさったとき、ハシブを御自分のおそばに坐らせ、厚くお礼を述べられて、今し方御眼の前で死んだ男の代りに、彼を総理|大臣《ワジール》に任命なさいました。続いて、彼に宝石を鏤めた誉れの衣を着せ、その任命を全宮中に触れさせましたが、その前に引出物として、三百人の白人奴隷《ママリク》と、側女《そばめ》として三百人の若い乙女と、さらに王家のお血筋の三人の姫とを賜わったのでありました。この御三方は彼の妻とともに、彼の四人の正妻となるわけでございました。王はまた金貨三十万ディナールと、三百頭の牝騾馬と、三百頭の駱駝と、その他、多数の水牛、牡牛、羊などの家畜を賜わりました。
それがすむと、あらゆる役人や侍従や顕官たちは、「余を敬う者は彼を敬うべし」と仰せられた王の御命令によって、ハシブに近寄り、彼に恭順の意を示し、敬意を保証しながら、かわるがわるその手に接吻しました。それからハシブは元の大臣《ワジール》の御殿を自分のものとし、それに母と、妻たちと、愛妾たちと一緒に住まいました。こうして彼は栄誉と裕福の中に、長い年月を暮しましたが、その間ずっと、暇を得て読み書きを学びました。
こうして読み書きを学び終えたとき、ハシブは自分の父親ダニアルが大学者であったことを思い出しまして、好奇心を起し、父が書籍や写本類を自分に残してくれなかったかと、母に尋ねてみました。ハシブの母は答えました、「伜や、お前のお父上はお亡くなりになる前に、あらゆる文書類と写本類を残らず破り捨てておしまいになって、お前の遺産には、ただ一枚の小さな紙片《かみきれ》だけしかお残しにならなかったが、これはお前が欲しいと言い出したときに渡してやるようにと、私にお言い付けになったのでした。」するとハシブは申しました、「ぜひそれをいただきたいものです。というのは、現在私は王国の政務をもっとよく執り行なうために、勉強したいと思っておりますので。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十三夜になると[#「けれども第三百七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとハシブの母は走ってゆき、自分の宝石と一緒にそれを隠しておいた行李から、学者ダニアルの唯一の遺贈品の、小さな紙片を取り出して来て、これをハシブに渡しました。彼はこれを受け取って、その巻紙を拡げました。すると彼はそこに、次のような簡単な言葉を読みました。「一切の学は空し。何となれば、アッラーの選ばれし御方《おんかた》により、人類に叡智の泉の示さるる時到りたればなり。その御方はムハンマドと呼ばるべし。その御方と、その教友と、その信徒との上に、代々《よよ》の消滅まで平安と祝福のあらんことを。」
「そして以上が、おお幸多き王さま」とシャハラザードは続けた、「ダニアルの息子ハシブと、地下の姫、ヤムリカ女王の物語でございます。されどアッラーはさらに多くを知りたまいまする。」
[#ここから1字下げ]
――シャハラザードは、この稀代の物語を語り終えたとき、言った、「さて今は、おお幸多き王さま、わたくしは、ちょうど今宵を過ごすに足りるだけの、小さな物語をひとつふたつ、お話し申し上げましょう。そのあとは、アッラーが全知者にましまする。」シャハリヤール王は訊ねた、「しかしそちはどのようにいたして、短くて同時に面白い物語を、余のため見つけられるかな。」シャハラザードは微笑して言った、「ちょうど、おお幸多き王さま、そういう物語こそ、わたくしのもっともよく存じているものでございます。されば今すぐに、花咲ける才知の花壇と粋の園[#「花咲ける才知の花壇と粋の園」はゴシック体]より取り出しました、小さな逸話をひとつ、ふたつお話し申し上げましょう。そしてそのあとで、首を刎ねていただきとう存じまする。」
そしてすぐに彼女は言った。
[#ここで字下げ終わり]
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花咲ける才知の花壇と粋の園
アル・ラシードと放屁《おなら》
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、ちょうどただいまのわが君と同じような御気分になられまして、宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーと、お気に入りの掌酒子《しやくとり》アブー・イスハークと、詩人アブー・ヌワースとを従えて、バグダードからバスラに通ずる街道へと、散歩にお出ましになりました。
御一行が散歩をなさり、教王《カリフ》は陰鬱な眼つきをなさって、固く唇を結んでおられますと、そのとき、たまたま一人の老人《シヤイクー》が驢馬に乗って、街道を通りかかったのでございました。そこで教王《カリフ》は宰相《ワジール》ジャアファルのほうをお向きになって、これに仰せになりました、「あの老人《シヤイクー》に行く先を尋ねてみよ。」するとジャアファルは、先刻から教王《カリフ》のお気を紛らすには、何を考え出したらよいか工夫がつかなかったものですから、すぐさま、この老人《シヤイクー》を槍玉にあげて教王《カリフ》をお慰めしようと決心いたしましたが、老人《シヤイクー》はおとなしい驢馬の首の上に手綱をゆるめたまま、静かに自分の道を進んでおりました。そこで彼は老人《シヤイクー》に近寄って、これに訊ねました、「そのようにして、どこから来てどちらへ行かれるのですか、おお尊ぶべき御仁よ。」老人《シヤイクー》は答えました、「わしの生国バスラを出て、バグダードへ参りますのじゃ。」ジャアファルは訊ねました、「してまた、どうした動機で、そんな長い旅をなさるのか。」彼は答えました、「アッラーにかけて、それは、バグダードに行って、学問のあるお医者を探し、わしの眼病の薬の処方を教えてもらうため。」こちらは言いました、「好運と全快とはアッラーの御手《みて》の間にありまする、おお老人《シヤイクー》よ。しかし、もしこの私自身がこの場で、その眼を一夜で癒してしまえるような目薬の処方を教えて上げ、あなたの出費と探す手間を省いてさし上げたら、何を私に下さいますかな。」彼は答えました、「ただアッラーだけが、あんたの功績に応じて、お報い下さることができますのじゃ。」そこでジャアファルは教王《カリフ》とアブー・ヌワースのほうを向いて、二人に目くばせをいたしました。それから彼は老人《シヤイクー》に申しました、「そういうことなら、おおわが小父よ、これから私が教えて上げる処方を、よく覚えておおきなさいよ、簡単なものですからね。よいか、吹き寄せる風三オンスと、太陽の光線三オンスと、月の光線三オンスと、提灯《ちようちん》の光三オンスをお取りなさい。これを全部、底なしの薬研《やげん》の中でていねいに混ぜ合わせて、それを三カ月のあいだ、大気に曝《さら》しておおきなさい。それから、この混ぜものを三カ月のあいだ搗《つ》き砕き、これを漉器《こしき》に流し込まねばなりません。そして、さらにこれを三カ月のあいだ、風と陽に曝すのです。これがすむと、目薬はうまい具合に出来上りますから、あなたは初めの晩に、これを一回ごとにたっぷり三つまみずつ取って、三百回眼にふり掛ければ、もうそれで結構ですから、あとはお眠《やす》みになってよろしい。その翌日には、アッラーの思し召しあらば、あなたは全快なさってお眼覚めになるというわけです。」
この言葉を聞きますと、老人《シヤイクー》は感謝と尊敬のしるしに、驢馬の上からジャアファルに向って平身低頭いたしましたが、突然、やりきれないお屁《なら》を一発放ち、それから二発の長いすかしっ屁を続け、そしてジャアファルに申しました、「おお、お医者様、これが散ってしまわぬうちに、急いでお拾いなさいませ。これがさしあたり、あんたの風療法に対する、わしの唯一の御返礼でござります。しかしわしが故郷に帰ったらすぐ、アッラーの思し召しあらば、あんたのところへ早速、贈物として、乾《ほし》無花果《いちじく》のように皺だらけの尻をした女奴隷を一人、お送り申しましょうぞ。そしてこの女奴隷は、さんざんあんたを楽しませて差し上げるもので、あんたはおかげで御自分の魂を吐き出してしまうじゃろう。すると、あんたの女奴隷はたいそう嘆き悲しんで、あんたのために涙を流し、はては我慢ができなくなって、あんたの顔の上に、小便を垂れ流さずにいられまいて、おおわが尻《けつ》の顔よ。」
そして老人《シヤイクー》は自分の驢馬を静かに撫でてやって、自分の道を続けましたが、一方|教王《カリフ》は、返す言葉もなく、驚いて釘づけになっている宰相《ワジール》の顔つきと、敗けた者に祝辞を言い出そうとしているアブー・ヌワースとを御覧になって、身悶えの極みに達しなされて、笑って笑って尻餅をついておしまいになったのでございました。
[#この行1字下げ] ――この逸話を聞いたとき、シャハリヤール王はにわかに晴れ晴れとした様子になって、シャハラザードに言った、「急ぎ、シャハラザードよ、今宵のうちに今ひとつ、少なくともこれと同じくらい面白い逸話を話してくれよ。」すると小さなドニアザードは叫んだ、「おお、シャハラザードお姉さま、あなたのお言葉は何と快く、味わいぶかいのでございましょう。」すると、ちょっと短い沈黙のあとで、彼女は言った。
若衆とその師匠
語り伝えまするところでは、ヤマーンの総督、大臣《ワジール》バドレッディーンには一人の弟がございましたが、これはたぐいない美しさの若衆でございまして、彼の通り過ぎるときには、男も女も立ち止って、その魅力に眼を潤すというほどでございました。されば大臣《ワジール》バドルは、弟の身に何か事が起るのを恐れまして、いつもこれを用心深く、男たちの視線から遠ざけておき、同じ年頃の若い人々とも、交際をさせないようにしておきました。大臣《ワジール》は十分に監視がとどかぬことを恐れて、弟を学校に入れたくなかったものですから、彼のために先生として、身持ちの正しいことで評判の、一人の信心深い尊敬すべき老人《シヤイクー》を、自宅に呼び寄せまして、弟を彼の手の間に置くことにいたしました。そういうわけで、その老人《シヤイクー》は毎日自分の弟子のもとにやって来て、これと一緒に数時間のあいだ、大臣《ワジール》が授業のために二人にとっておいた一室のなかに、閉じこもっていたのでございました。
しばらく時が経ちますと、青年の美しさと魅力とは、この老人《シヤイクー》に対しても利き目を発揮せずにはおかず、老人《シヤイクー》はとうとう、彼を見ると、自分の魂がそのあらゆる鳥をもって歌うのを、感ずるようになってしまいました。そしてその歌は、肝心なものと眠れる者とを躍動させるのでした。
そういう次第で、彼はもう、どうして自分の感激を鎮めてよいやらわからなくなって、ある日のこと、青年にわが魂の乱れを伝えようと決心しました。すると青年はいたく心を動かされて、師に申しました、「悲しいことに、あなたもよく御存じのとおり、私は両手を縛《いまし》められていて、一挙一動ことごとく、兄から監視されているのです。」老人《シヤイクー》は溜息をついて、言いました、「わしは君と差し向いで一夕を過ごしたいのだがなあ。」青年は答えました、「私の日々の昼でさえ監視されているとすれば、どうして私の夜々がそうされぬ筈がありましょうか。」老人《シヤイクー》は答えました、「それはよくわかっておるが、わしの家の露台は、いまわれわれのおるこの家の露台に、そのまま続いているのだから、兄上がいったん眠ってしまわれたら、音を立てずに上に上って行くことは、君にとってわけのないことだろう。そうしたら、わしは上で迎えて進ぜる。両家の境の、小さな壁を乗り越えるだけでいいのだから、わしは君を、わしのほうの露台へ連れて行ってあげるよ。そこへ行ったら、もう誰もわれわれを監視になど来はしないだろう。」
青年はこの申し出を承知して、言いました、「仰せ承わり、仰せに従います。」
[#ここから1字下げ]
――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
するとシャハリヤール王は独り言を言った、「その青年と彼の師匠との間に何が起きるかを知るまでは、余は決してこの女を殺すまい。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]されば第三百七十五夜になると[#「されば第三百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
……青年はこの申し出を承知しまして、夜が参りますと、眠ったふりをいたしました。そして大臣《ワジール》が自分の部屋に引きあげたときに、彼は露台に上りました。すると師の老人《シヤイクー》がすぐさま彼の手を取って、急いで自宅の露台へと連れてゆきましたが、そこには、酒を満たした盃や果物などが並べられておりました。そこで二人は月明りを浴びながら、白い茣蓙《ござ》の上に坐りました。そして詩興に助けられ、良夜の晴朗に助けられて、二人は柔かい月光の下《もと》に、恍惚となるまで、歌ったり飲んだりし始めました。
二人がこうして時を過ごしている間に、大臣《ワジール》バドルは、寝る前にちょっと若い弟を見に行って来ようと思ったのですが、これが見つからなかったので、非常に驚きました。彼は家中を探し始めまして、しまいには露台に上って、とうとう家の境の、低い塀へと近寄ったのでございました。ところが、彼はそのとき、自分の弟と老人《シヤイクー》とが盃を手にして、互いに寄りそいながら、歌を歌って坐っているところを見たのでございました。けれども老人《シヤイクー》のほうでもやはり、大臣《ワジール》が遠くのほうから進んで来るのを見るだけの余裕がございましたので、鮮やかな臨機応変ぶりで、今まで口にしていた歌をぴたりとやめて、同じ調子で、直ちに次のような詩句を即吟して、歌いました。
[#ここから2字下げ]
彼はその口の唾液まじえし葡萄酒をわれに飲ましむ。盃の紅玉《ルビー》は彼の双頬に輝き、含羞《がんしゆう》の真紅もともに、その双頬を彩る。
されどこの君に、いかなる名をば与えんか。その兄君はすでに「宗教の満月(1)」と呼ばれ、かつは今宵《こよい》の月のごとく、われらを照らす。さればわれはこの君をば、「美の満月」とや呼ばん。
[#ここで字下げ終わり]
大臣《ワジール》バドレッディーンは、自分に対する婉曲なほのめかしが読みこんである、この詩句を聞くと、もともと慎しみ深くて、たいそう粋《いき》な人でありましたし、その上、ことに何の不都合なことも起っている様子が見えなかったものですから、彼は「アッラーにかけて、彼らの話の邪魔などはいたすまい」と言いながら、引きあげてしまいました。かくて二人とも申し分のない歓びに浸ったのでございました。
[#この行1字下げ] ――そして、この逸話を語り終えると、シャハラザードはちょっと話すのをやめて、それから言った。
不思議な袋
語り伝えまするところでは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、一夜、しばしばおかかりになる不眠の一つにお悩まされになって、宰相《ワジール》ジャアファルをお呼び寄せになり、これに仰せになりました、「おおジャアファルよ、今宵、余の胸は、不眠のためにこの上もなく狭《せば》められておるので、余はこの胸の拡まるのを感じたい念切じゃ。」ジャアファルはお答え申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、私はペルシア人のアリと呼ぶ一人の友を持っておりますが、この男は自分の嚢《ふくろ》のなかに、この上なく根強い憂悶をも消し去り、苛立った気分をも鎮めるによろしい楽しい話を、いっぱい持ち合わせておりまする。」アル・ラシードはお答えになりました、「されば即刻、その方の友をここに呼べ。」そこでジャアファルはすぐに友を教王《カリフ》の御手《おんて》の間に呼び寄せて、これに言いました、「さて、アリよ。お前は憂い悲しみを消散せしめることのできる物語を、いろいろと知っておるな。お前にそのような物語を一つ所望いたしたい。」ペルシア人のアリは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。さりながら私には、わが耳で聞きましたる物語をお話しすべきか、あるいはまた、わが眼で見ましたる物語をお話しすべきか、いずれかわかりかねまするが。」アル・ラシードは仰せになりました、「その方自身の登場した物語のひとつが望ましい。」するとペルシア人のアリは言いました。
私がある日のこと、自分の店に坐って売り買いをしておりましたところ、そのとき一人のクルド人がやって参りまして、私に二、三の品を値切りにかかりました。ところが、この男はいきなり、私の店先にあった小さな袋をひっ掴みまして、ことさらこれを隠そうともせず、全くこの袋が生まれたときから自分のものででもあったかのように、これを持って立ち去ろうといたしました。そこで私も店から通りへ飛び出しまして、そいつの着物の垂れをつかまえて引きとめ、おれの袋を返せと、厳しく言ってやりました。けれどもこの男は肩を聳やかして、私に言うのでした、「この袋だと、冗談じゃない、これは中にはいっているものぐるみ、全部おれのものだ。」そこで私は憤慨の極に達して、叫びました、「おお|回教徒の方々《ムスリムン》(2)よ、この不信者の両手から、私の財産を救って下さい。」私の叫びを聞くと、市場《スーク》じゅうのひとびとが、われわれの周りに群がってまいりまして、商人《あきんど》たちは私に、即刻、法官《カーデイ》に訴えにゆけと忠告いたしました。私が承知いたしますと、彼らは私に力を貸して、私の袋を掻っ払ったクルド人を、法官《カーデイ》のところへ引っ立ててゆきました。
法官《カーデイ》の前に参りましたときに、私どもはその手の間にうやうやしく立ち尽しましたところ、法官《カーデイ》はまず私どもに訊ねました、「その方どものうち、どちらが訴人であり、どちらを訴え出たのであるか。」するとクルド人は、私に口を開く暇も与えず、数歩前へ進み出て、答えたのでございました、「アッラーは、われらの御主人|法官《カーデイ》様に御援助を授けたまいますように。これなる袋は私の袋でございまして、これにはいっておるものは、ことごとく私のものでございます。私はこの袋を失くしましたところ、今し方この男の店先で見つけたのでございます。」法官《カーデイ》は彼に訊ねました、「その方はいつそれを失くしたのじゃ。」彼は答えました、「昨日の昼間のことでしたが、これが失くなりましたため、私はひと晩じゅう眠れなかったのでございました。」法官《カーデイ》は彼に訊ねました、「そういう次第であれば、それにはいっておる品物を一つ一つ申し述べてみよ。」
するとクルド人は一瞬も躊躇《ためら》わず、申しました、「私の袋のなかにありまするは、おおわれらの御主人|法官《カーデイ》様よ、瞼墨《コフル》のいっぱい入った水晶の瓶が二本、瞼墨《コフル》を引く銀の棒が二本、手拭《てふ》きが一枚、周りに金箔を施したレモン水用のコップが二個、座蒲団《クツシヨン》が一枚、編物用の太針が一本、孕《はら》み猫が一匹、驢馬が二頭、婦人用の輿《こし》が二台、牝牛が一頭、犢《こうし》が二頭、仔羊二頭を連れた牝羊が一頭、牝駱駝一頭と子駱駝二頭、牝と一緒の乗用の単峰駱駝が一頭、長椅子《デイワーン》が一脚、謁見の間二室を備えた御殿が一軒、緑色の布の天幕《テント》が二つ、歯の欠《か》けた遣り手婆が一人、少年一人とその妹、それに、私の種族のクルド人たちの会合が一席ございまして、何どきなりと、この袋が私の袋であることを証言しようと、待ちかまえておりまする。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十六夜になると[#「けれども第三百七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると法官《カーデイ》は平然として、私のほうに向いて、私に訊ねました、「してその方は、何と答えるか。」
けれども私のほうは、おお信徒の長《おさ》よ、まったく呆気《あつけ》にとられていたのでした。とはいえ私は少し前に出て、答えました、「アッラーは、われらの御主人|法官《カーデイ》様を高め、栄誉を授けたまいますように。私の存じておりますことは、私の袋のなかにあるは、壊れた幕舎が一つと、台所のない家が一軒と、子供たちの学校が一つと、クルド人種族の盗賊どもの巣窟が一つと、羊飼の杖が一本と、美童五人と、手つかずの若い娘十二人と、それに隊商《キヤラヴアン》の指揮者が千人おりまして、何どきなりと、この袋が中にはいっているものぐるみ、全部私の袋であることを証言しようと、待ちかまえておりまする。」
クルド人は私の答えを聞いたとき、涙ぐみながら、叫びました、「おおわれらの御主人|法官《カーデイ》様、この袋が私のものであることは、人に知られてもおりますし、認められてもおりまして、あらゆる人が、これが私の持ちものであることは知っているのでございます。それに第二の証拠といたしましては、このなかには、さらに、防備を施した二つの都市、錬金術士の蒸溜器が一個、牝馬が一頭に若駒が二頭、蔭間《かげま》が一人に周旋男《とりもちおとこ》が二人、船乗りの船長が一人、キリスト教の司祭が一人、それに法官《カーデイ》が一人と証人が二人はいっておりまして、何どきなりと、この袋が私の袋であることを証言しようと、待ちかまえておりまする。」
法官《カーデイ》はこの言葉を聞くと、少しも動ぜず、私のほうに向いて、訊ねました、「かかる一切の申立てに対して、その方は何と答えるか。」
私のほうは、おお信徒の長《おさ》よ、全く鼻まで怒りが詰まったような気がしておりました。とはいえ私は数歩進み出まして、できるだけ落ちついて、答えたのでございます、「アッラーは、われらの御主人|法官《カーデイ》様のお裁きに光明を与え、これを強固になしたまわんことを。私は付け加えて申し上げねばなりませぬが、この袋には、私の所有者たる資格の証拠として、さらに、頭痛どめの薬、惚れ薬と催淫剤、角《つの》で闘うように仕込まれた千頭の牡羊、女に溺れた男たち、稚児さん好きの男ども、結婚式の参列者一同に新郎新婦たち、きまりの悪い十二発のお屁《なら》と同じ数の臭《にお》いのしないすかしっ屁、浴場《ハンマーム》から出た花嫁が一人、歌妓《うたひめ》が二十人、アビシニアの美しい女奴隷が五人、インド女が三人、ギリシア女が四人、トルコ女が五十人、ペルシア女が七十人、カシミール女が四十人、クルド女が八十人、同じ数のシナ女、グルジア女が九十人、イラクの国全体、地上楽園、釘が一本、クラリネットを吹いている黒坊が一人、舞妓《まいひめ》が二十人、ホスロー・アヌーシルワーン(3)の宮殿とスライマーンの宮殿、バルクとイスパハーン、インドとスーダーン、バグダードとホラーサーンの間にあるあらゆる地域などがございます。この袋には、さらにその上、――アッラーはわれらの御主人|法官《カーデイ》様の日々をお守り下さいますように、――もしも法官《カーデイ》様が私の権利を認めようとなさらず、この袋が私の袋であるという判決を下そうとなさらない場合のために、法官《カーデイ》様の鬚をそる剃刀《かみそり》と経《きよう》帷子《かたびら》と棺とが、はいっているのでございます。」
法官《カーデイ》はこうしたすべてを聞きおえると、私ども二人を見て、私におっしゃいました、「アッラーにかけて、この袋は『審判の日の谷(4)』じゃ。」
そして法官《カーデイ》はすぐさま、私どもの言葉を確かめるために、証人たちの前でその袋を開けさせました。それには蜜柑の皮が数枚と、橄欖《オリーブ》の実がいくつかはいっておりました。
そこで私は茫然としている法官《カーデイ》に向い、これなる袋はクルド人のものであるが、私の袋は消えて失くなってしまいましたと、申し立てたのでございました。そして私は立ち去ってしまいました。
教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードはこの物語をお聞きになったとき、お笑いを爆発させ、その勢いで尻餅をついてしまわれましたが、ペルシア人のアリには、見事な御下賜品をお与えになりました。そしてこの夜は、熟睡でもって、翌朝までお眠《やす》みになったのでございました。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは付け加えた、「けれども、おお幸多き王さま、この逸話も、アル・ラシードが面倒な愛の事件に遭われたときの逸話よりも、面白いものとは思し召されますな。」するとシャハリヤール王は訊ねた、「その逸話とはどんなものか、余はそれを知らぬが。」するとシャハラザードは言った。
愛の審判者アル・ラシード
語り伝えまするところでは、ある晩のこと、ハールーン・アル・ラシードは、二人の美しい若い女の間にお寝みになりましたが、その一人はメディナの女、今一人はクーファの女でございました。教王《カリフ》は二人を同じように愛していらっしゃいましたので、肝心なことにつきましては、一方を放り出して、とくに片方だけに寵愛をお示しになるのは、望まれないところでした。従って賞金は、一番それにふさわしい女のほうに渡るわけでございました。そこでメディナの女奴隷は、まず教王《カリフ》の双のお手をお取りして、これを優しく愛撫し始めましたが、そのあいだクーファの女奴隷のほうは、それよりもすこし下のほうに寝て、教王《カリフ》の双のお御足《みあし》をお揉みしながら、そのついでに、上の御商品まで手を滑り込ませて、それをときどき持ち上げては、重さを秤《はか》ったのでございました。この秤り方の利き目で、御商品は突然、著しく重さを増し始めて来ました。そこでクーファの女奴隷は急いでこれをつかみ、そっくり自分のほうへ引きよせて、これを両手の凹《くぼ》みのなかへ隠してしまいました。ところが、メディナの女奴隷が彼女に言いました、「見ればあなたは資本《もとで》を自分だけで独り占めにしてしまって、私には利息をよこそうとさえ思わないのですね。」そしてその女は素早い身振りで、競争相手の女を押しのけて、今度は自分が資本《もとで》をつかみ、これを大切に両手のなかににぎり込みました。すると、こんな風に横取りされた女奴隷は、預言者の聖伝の知識に非常に長《た》けておりましたので、メディナの女奴隷に言いました、「預言者(その上に祈りと平安あれ)の『死せる土地を蘇らする者は、その唯一の所有者となる』というお言葉によれば、私こそ資本《もとで》を要求する権利があるはずよ。」けれども、メディナの女奴隷は御商品を放しませず、この女も競争相手のクーファの女に劣らず、行録《スンナ》に精通しておりましたので、すぐにこれに応じて答えました、「預言者(その上に祈りと平安あれ)の『獲物はこれを狩り立つる者の所有にあらずして、これを捕うる者の所有なり』という、ソフィアーン(5)によってわれわれに伝えられたお言葉によれば、資本《もとで》は私のものよ。」
教王《カリフ》はこの二つの引用句をお聞きになったとき、いずれも全く正しいものと思し召されましたので、その夜は、この二人の若い女を、同じように満足させなすったのでございました。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードはつけ加えた、「けれども、おお幸多き王さま、これまでの逸話はいずれも、次の逸話には及びません。それは、二人の女が、恋をするには青年と壮年といずれを選ぶべきかを知ろうとして、互いに言い争ったという逸話でございます。」
いずれを選ぶか。青年か、はたまた、壮年か
次の逸話は、アブール・アイナー(6)から私たちに伝えられたものでございます。彼は言いました。
ある宵のこと、私はわが家の露台に涼みに上っていたが、そのとき隣りの家の露台で、二人の女が話を交しておるのを聞いた。こうしておしゃべりをしておった女というのは、私の隣家の男の二人の細君であったが、この女たちには、不能者の年寄りの亭主とは別様に、自分たちを満足させてくれる情夫が、それぞれ一人ずついたのである。しかし、一人の女のほうの情夫は、美しい青年で、まだあどけなく、頬も薔薇色で鬚も生えていなかったが、もう一人の女の情夫のほうは、中年の毛むくじゃらの男で、その鬚は濃く密生していた。さて、ちょうどそのとき、二人の隣家の女は、話を聞かれているとも知らずに、自分の恋人たちのそれぞれの長所について論じ合っていたのである。一方の女が言った……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十七夜になると[#「けれども第三百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……一方の女が言った、「おお、お姉さん、あなたはあなたの恋人の顎鬚《あごひげ》が自分の胸をこすったり、口髭の棘《とげ》が頬や唇に突き当ったりするとき、どうやって恋人の剛《こわ》い鬚を我慢なされるの。その度ごとに、肌が傷《いた》められたり、ひどく引っ掻かれたりしないようにするには、どうなさるの。私の言うことに間違いはありませんわ、お姉さんよ、恋人を変えて、私のようにおやりなさいな。あなたのために、ほんのりと産毛《うぶげ》の生えた好ましい頬を持ち、接吻の下で口のなかに溶け込む、柔かい果肉《み》の果物のような、どこかの青年をお見つけになったらどう。アッラーにかけて、そういう男はあなたのところで、鬚のない代りに、味わいの満ちたほかの多くのもので、ちゃんと埋め合せをつけてくれますわ。」
この言葉を聞いて、相手の女はこれに答えた、「あなたは何てお馬鹿さんなの、妹よ、そして何て趣味と分別がたりないんでしょう。あなたは、木も葉をつけていればこそ美しく、胡瓜もあのとげとげがあればこそおいしいということを知らないの。この世の中に、菊芋みたいにのっぺりして、鬚のない男ほど、醜いものがあるかしら。だからこそ、顎鬚や口髭というものは、男にとってはちょうど女の巻髪《ズルフ》のようなものなのよ。そして、こういうことはもう誰でも知っていることで、至高のアッラー(その頌《たた》えられんことを)も、わざわざ天上に一人の天使をお創りになって、この天使のお仕事といえば、創造主が男に鬚を与え、女に長い髪を授けなさったことの、讃歌を歌うことよりほかないくらいなのよ。何だってあなたは、私に鬚なしの若い男を恋人に選べなんて言うんでしょう。乗るが早いか降りることを考え、突っ張るが早いか緩《ゆる》むことを考え、結ぶが早いか結びを解くことを考え、位置につくが早いか離れることを考え、固くなるが早いか溶けることを考え、建つが早いか潰れることを考え、組みつくが早いか放れることを考え、貼り付くが早いかはがれることを考え、射るが早いかぐにゃりとすることを考える、そんな男の下で、私が寝ることを承知すると思うの。思い違いをしちゃいけないわ、可哀そうな妹よ。鼻をうごめかすが早いか絡みつき、はいればぴたりと位置につき、空《から》になれば再び満ち、終れば再び始め、動けば鮮やかに、揺れればすぐれ、与えれば気前よく、掘れば穴を穿《うが》つという、そんな男なら、私は決して離れないわ。」
この説明を聞くと、鬚のない情夫を持った女は叫んだものだ、「聖なるカアバの御主《おんあるじ》(7)にかけて、おお、お姉さん、あなたのおかげで、私は鬚のある男を味わいたい気になりましたわ。」
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは、短い沈黙ののち、直ちに言った。
胡瓜の値段
ある日のこと、太守《アミール》モイーン・ベン・ザイダ(8)は狩猟のおり、一人のアラビア人が驢馬に乗って、砂漠からやって来るのに会いました。彼はその男の前に行って、挨拶《サラーム》をしてから、訊ねました、「そのようにしてお前はどこへ行くのか、アラビアの兄弟よ。そしてその小さな袋にそんなに大事そうに巻き込んで持っているのは、何なのだね。」アラビア人は答えました、「わしはこれから殿様《アミール》のモイーン公にお目通りをしに行って、わしの土地で初めて獲れた、この早生《はやなり》の胡瓜(9)をお届けするつもりだがね。殿様《アミール》ときたら、およそ世の中で一番の気前のよいお方でいらっしゃるだから、わしの胡瓜には、その鷹揚さにふさわしいような代金を払って下さることは、間違いねえと思うだよ。」モイーン公は、これまでまだ自分を見たことのないアラビア人に、尋ねました、「それなら、お前はモイーン公から、この胡瓜にいくらぐらい払っていただくつもりかね。」アラビア人は答えました、「安くとも金貨千ディナールだね。」公は尋ねました、「では、もし殿様《アミール》がそれでは高過ぎるとおっしゃったら。」男は答えました、「わしは五百ディナールだけしかお願いしねえね。」――「それでも高過ぎるとおっしゃったら。」――「三百ディナールお願いするさ。」――「それでも高過ぎるとおっしゃったら。」――「百ディナールだ。」――「それでも高過ぎるとおっしゃったら。」――「五十ディナールだ。」――「それでも高過ぎるとおっしゃったら。」――「三十ディナールだ。」――「それでも高過ぎるとおっしゃったら。」――「おお、それなら、わしはこの驢馬を殿様《アミール》の後宮《ハーレム》に入れてやるだ。そいでわしは空手《からて》で逃げ出すとするだ。」
この言葉を聞くと、モイーンは笑い出して、馬に拍車を入れ、走って供の者に追いつき、急いで御殿に帰って、奴隷たちや侍従に、胡瓜を持ったアラビア男が来たら入れてやるようにと、言いつけました。
そういう次第で、ひと時おくれて、アラビア人が御殿に到着いたしますと、侍従は丁重に彼を謁見の間に連れてゆきましたが、そこには太守《アミール》モイーンが華やかな廷臣たちの真中で、手に手に抜き身の剣を持った衛兵にとりまかれ、厳かに坐って、この男を待っていました。ですから、アラビア人は、よもやこのお方が先ほど途中で出会った騎手であろうとは気がつかず、両手の間に胡瓜の袋を置いて、挨拶《サラーム》をした後、殿様《アミール》のほうから先ず御下問なさるのを待ちました。太守《アミール》は彼に訊ねました、「その袋のなかに何を持って来てくれたのか、アラビアの兄弟よ。」彼は答えました、「御主君お殿様《アミール》のお気前ぶりをあてにしまして、うちの畑に生えた早胡瓜のはしりをお持ちいたしました。」――「まことによい思いつきじゃ。して、その方は余の気前ぶりを幾らと見積ったのじゃ。」――「千ディナールでござります。」――「それは、ちと高過ぎるのう。」――「五百ディナール。」――「それでも高過ぎる。」――「三百ディナール。」――「それでも高過ぎる。」――「百ディナール。」――「それでも高過ぎる。」――「五十ディナール。」――「それでも高過ぎる。」――「では、三十ディナール。」――「まだ高過ぎるぞ。」するとアラビア人は叫びました、「アッラーにかけて、さっき、わしは砂漠のなかで瀝青《チヤン》の面《つら》を見たが、あんな野郎に出会うとは、何て縁起くその悪い出会いをやらかしたもんだろう。アッラーにかけて、いやでございますだ、おおお殿様《アミール》、わしの胡瓜は三十ディナール以下では、置いていくわけにはいきましねえだ。」
この言葉を聞くと、モイーン公はにやにや笑って、返事をしませんでした。そこでアラビア人は公を見つめましたところ、砂漠で出会った男は、太守《アミール》モイーン自身に他ならぬことに気がつきましたので、申しました、「アッラーにかけて、おお、御主君様、三十ディナールを取り寄せて下せえまし、驢馬が御門に繋いでござりますでな。」この言葉に、モイーン公はどっと吹き出して、尻餅をついてしまいました。そして家老を呼び寄せ、これに言いました、「これなるアラビアの兄弟にまず千ディナール、それから五百ディナール、それから三百ディナール、それから、百ディナール、それから五十ディナール、最後に、その驢馬を今の場所に繋いでおくように決心させるために三十ディナール、以上を直ちに支払わねばならぬぞ。」そしてアラビア人は、胡瓜一袋で千九百八十ディナールを受け取ったので、呆れの極みに達したのでした。さて、モイーン公の鷹揚ぶりとは、かようなものだったのでございます。願わくは、その上にアッラーの御慈悲の永久にあらんことを。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは言った。
白髪
アバ・スワイード(10)が語りますには。
私はある日、果物を買おうと思って、ある果樹園に入って行ったのだが、そのとき遥かに、杏子《あんず》の木蔭に坐って、髪を梳《くしけず》っている一人の女を見つけた。私はすぐにこれに近寄ると、この女は年寄りで、その髪は白いのを見た。けれども、その顔はまことにみずみずしく、顔色も爽やかであった。私が近寄って来るのを見ても、この女は一向に顔を面衣《ヴエール》で隠すような素振りもせず、頭に布を被るような仕草もしないで、微笑みながら、髪の毛を象牙の櫛で梳《くしけず》りつづけておった。私は、この女の正面に立ち止って、挨拶《サラーム》の後、これに言った、「おお年は老いながら、顔はいと若き方よ、なぜあなたは髪の毛を染めて、若い女さながらになられないのですか。どういう仔細からそうなさらぬのですか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十八夜になると[#「けれども第三百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると彼女は頭を上げ、大きな眼で私を見つめて、答えたものであった。
[#ここから2字下げ]
われはかつて髪を染めしことあれど、その色は消え失せて、時の色残るのみ。
何ゆえにまた髪を染めんや。われはなお欲するときに、わが臀《しり》を揺すりて、戸口よりまたは窓より、須要《すよう》のものは獲らるるなれば。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードはつづいて言った。
悶着解決
語り伝えまするところでは、宰相《ワジール》ジャアファルは、ある夜のこと、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードを自邸にお迎えして、何ものも惜しまずに、快くお娯しませ申し上げました。突然|教王《カリフ》は彼に仰せになりました、「ジャアファルよ、余の聞き及ぶところでは、その方は自分のために、たいそう美しい女奴隷を買い求めたそうだが、あれは余も目をつけたことがあり、余自身のために買いたいと思った女じゃ。さればその女を、その方の好きな値段で余に譲ってもらいたいと思う。」ジャアファルは答えました、「あの女をお売りするつもりは一向にございませぬ、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「しからば贈物として余に献上せよ。」ジャアファルは答えました、「そんなつもりも毛頭ございませぬ。」すると教王《カリフ》は眉をひそめてお叫びになりました、「余は三つの誓言(11)によって誓う、もしその方がかの女奴隷を余に売ることも、譲ることも、同意することを肯《がえ》んぜぬ場合は、余は即刻、わが妃《きさき》シート・ゾバイダと離婚することといたす。」ジャアファルも答えました、「私も三つの誓言によって誓いまする、もし私があの女奴隷をわが君にお売り申すとか、お譲り申すことに同意いたします場合には、私は即刻、わが子らの母、わが妻と離婚することといたしまする。」
御両人ともこの誓言をしてしまったときに、突然お二人は、酒気に目がくらんで、とんだ行き過ぎをしてしまったことにお気づきになりまして、異口同音に、この苦境を脱するにはどんな手段を用いたらよかろうと、尋ね合われたのでした。しばらくの間困ったり考え込んだりなさったあげく、アル・ラシードはおっしゃいました、「このような厄介な事件を切りぬけるには、離婚に関する法学に通暁しておる、法官《カーデイ》アブー・ユースフ(12)の明知に助けを求めるより他に、方法はない。」
すぐにお二人はこれを呼びにやりますと、アブー・ユースフは考えたのでした、「教王《カリフ》が真夜中にわしを呼びに寄こされるからには、回教《イスラム》に非常な重大事件が起ったに違いない。」それから、大急ぎでわが家を飛び出し、牝騾馬に打ち跨って、その騾馬のあとから従《つ》いて来る奴隷に申しました、「この獣《けもの》はまだ飼糧を食い終っておらんから、おまえはこいつの秣袋《かいばぶくろ》を持って行って、われわれが向うに着いたら、忘れずにその秣袋をこやつの頭にぶら下げて、食い続けさせてやってくれ。」
彼が教王《カリフ》とジャアファルの待っておられる広間に入ったとき、教王《カリフ》は敬意を表してお立ちになって、彼を御自分のかたわらにお坐らせになりました。これはアブー・ユースフ唯一人の他には、決してお与えにならなかった特典でございました。それから教王《カリフ》は彼におっしゃいました、「余がその方を呼んだのは、極めて由々しき用件のためじゃ。」そして彼にその事情を御説明になりました。するとアブー・ユースフは申しました、「しかしその解決なら、おお信徒の長《おさ》よ、至極簡単なことでございます。」そこで彼はジャアファルのほうに向いて、これに言いました、「閣下は教王《カリフ》にその女奴隷の半分をお売りになり、残りの半分を贈物として差し上げれば、それでよろしゅうござります。」
この解決法は教王《カリフ》をこの上もなくお喜ばせして、その鮮かさに教王《カリフ》もほとほと感服遊ばされました。というのは、この解決法はお二方を共に、それぞれの誓約から解き放したからです。お二人はそこで早速その女奴隷をお呼び寄せになりましたが、教王《カリフ》は仰せになりました、「最後の解放がすめば、余にはこの女奴隷を最初の主人から取ることが許されるわけだが、余はその規定の時間が過ぎるまで、待っておることができぬのじゃ。されば、おおアブー・ユースフよ、その解放が直ちに行なわれるような方法をも、同様に見出《みいだ》してくれねばならぬぞ。」アブー・ユースフは答えました、「さようなことなら、なおさら容易なことでございます。若い白人奴隷《ママルーク》を一人呼び寄せて下さいませ。」すぐに、件《くだん》の白人奴隷《ママルーク》が呼び寄せられますと、アブー・ユースフは申しました、「その即時の解放が適法となるためには、この女奴隷は正式に結婚していなければなりませぬ。さればそれがしはこれをこの白人奴隷《ママルーク》に結婚いたさせますが、白人奴隷《ママルーク》は、報酬の金をやりますれば、この女に触れる前に、離婚いたすでありましょう。そのときはじめて、おお信徒の長《おさ》よ、女奴隷は妾《めかけ》として、わが君に所属することができるでございましょう。」そして彼は白人奴隷《ママルーク》のほうに向いて、これに言いました、「お前はこの女奴隷を正妻として迎えるか。」白人奴隷《ママルーク》は答えました、「迎えます。」すると法官《カーデイ》はこれに言いました、「お前は結婚いたした。さて、この千ディナールをお前に遣わそう。その女と離婚いたせ。」白人奴隷《ママルーク》は答えました、「私も正式に結婚したからには、結婚したままでいとうございます。私はこの女奴隷が気に入ったからでございます。」
白人奴隷《ママルーク》のこの返事を聞きなさると、教王《カリフ》はお怒りに眉を顰《しか》められて、法官《カーデイ》に申されました、「わが父祖の名誉にかけて、その方の解決法は、その方を絞首台に送るであろうぞ。」けれども、アブー・ユースフは、さわがず申しました、「われらの御主君|教王《カリフ》におかれましては、この白人奴隷《ママルーク》の拒否などはお気にかけられませぬよう。そして、解決は今までよりもさらに容易になったものと、御承知下さいまするよう。」それから彼はつけ加えました、「ただそれがしに、おお信徒の長《おさ》よ、この白人奴隷《ママルーク》をば、あたかもわが奴隷であるかのごとく使うことを、お許し下さいませ。」教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「許して遣わす。この男はその方の奴隷で、その方の所有《もの》じゃ。」するとアブー・ユースフは乙女のほうに向いて、これに申しました、「わしはそちにこの白人奴隷《ママルーク》を贈物とし、これを買われた奴隷として進上するが、それにてそちはこれを受け取るか。」彼女は答えました、「お受けいたします。」アブー・ユースフは叫びました、「かかる場合は、この男がさきにそちと契約した結婚は、自《おの》ずから破毀《はき》されることになる。そして、そちはこの男から縁が切れるのじゃ。婚姻法の要求するところかくのごとくである。判決以上のごとし。」
この判決をお聞きになりますと、アル・ラシードは感嘆の極に達せられ、すっくとお立ちになって、叫ばれました、「おおアブー・ユースフよ、回教《イスラム》を通じてその方に並ぶ者はないぞよ。」そして彼のところに、金貨を盛り上げた大きな盆をお運ばせになり、それを受け取るようお頼みになりました。法官《カーデイ》は教王《カリフ》にお礼を言上いたしましたが、この金貨全部を、どうして運んで行ったらよいかわかりませんでした。突然、彼は牝騾馬の燕麦の袋を思い出して、それを持って来させた上で、そのなかに盆の金貨全部をあけて、立ち去りました。
さてこの逸話は、法学の研究が名誉と富貴に達するものであるということを、われわれに示すためのものでございます。されば、アッラーの御慈悲がこれらの方々すべての上にあらんことを。
[#この行1字下げ] ――それからシャハラザードは言った。
アブー・ヌワースとゾバイダ妃の水浴
語り伝えまするところでは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、そのお妃《きさき》であり、お従妹《いとこ》であらせられる妃《シート》ゾバイダを、こよなき愛情をもって愛しておられまして、彼女のために、お妃専用のお庭のなかに、周りにこんもり茂った木立をめぐらした、大きな泉水を作らせなさいましたので、ここでは、お妃は男たちの眼にも、太陽の光線にも、まったく曝《さら》されずに、浴みをすることがおできになりました。それほど、この木立はぎっしりと隙間なく、葉が繁茂していたのでございました。
さて、ある暑さきびしい日のこと、妃《シート》ゾバイダはただおひとりで、この木立のなかにやって来られ、泉水の縁《ふち》で着物をすっかり脱いで、水のなかへと降り立ちなさいました。けれども、ただ両脚を膝までおひたしになっただけでした。というのは、全身をしずめて、水のために寒気《さむけ》を催すことを恐れられたことと、その上、泳ぐことがおできにならなかったためでございました。けれどもお妃は、持っていらっしゃった黄金の小さな桶で、水をすこしずつ、両肩の上にふり注いでいらっしゃいました。
教王《カリフ》はお妃が泉水のほうへいらっしゃるところを見ておいでになったので、こっそりそのあとをつけてゆかれ、足音を殺しながら、彼女がすでに裸になっておられるところへ、お着きになりました。教王《カリフ》は木の葉を透《とお》して、これをつらつら眺め、水上のその白い裸形をうっとりと御覧になり始めました。ちょうどお手を一本の枝の上に支えていらっしゃるうちに、突然、その枝がきしんで音を立てましたので、ゾバイダ様は……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七十九夜になると[#「けれども第三百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……その枝がきしんで音を立てましたので、ゾバイダ様は恐怖に襲われて、こちらを振り向かれ、本能的に御自分の肝心のものの上に双の手を持ってゆかれて、これを人目からかくまおうとなさいました。ところが、ゾバイダ様の肝心のものは、まことにお見事な代物《しろもの》でございましたので、両方のお手でもその半分だけしか、隠し了《おお》させられなかったのでした。そして、そのものはたいそう脂が乗って、滑りがよかったものですから、ゾバイダ様はうまく抑えきることがおできになれず、これをお指のあいだから滑らして、教王《カリフ》の御眼のまえに、その燦然たる姿を現わしておしまいになりました。
アル・ラシードはこのときまで、お従妹《いとこ》の肝心のものを、大気のなかでありのままに、つらつら眺める機会がおありにならなかったので、その巨きさと華やかさに驚歎なさると同時に、驚き入っておしまいになり、お出《い》でになったときと同じように、急いでこっそりと遠ざかっておしまいになりました。けれども、その情景は御心中に詩興を呼びさまし、教王《カリフ》は、即興詩を賦したい意動くを覚えなさいました。先ず、軽い韻律《リズム》で、次のような句を思いつかれました、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
[#2字下げ] 泉水に、われは皓《こう》たる銀《しろがね》を見たり……
[#ここで字下げ終わり]
けれども、これに続いて、他の韻律をお作りになろうと苦心惨憺なさいましたが甲斐なく、この詩篇を完成なさることはおろか、韻を踏む第二句をお作りになることさえ、満足におできになりませんでした。それで、非常に情けない思いをなさって、「泉水に、われは皓たる銀《しろがね》を見たり……」と繰り返しなさりながら、汗をかいていらっしゃいましたが、それでも窮地を脱しなさるに到りませんでした。そこで意を決して詩人アブー・ヌワースをお呼び寄せになって、これに仰せになりました、「どうじゃな、その方は『泉水に、われは皓たる銀《しろがね》を見たり……』という第一句で始まる短い一詩を、首尾よく作り上げられるであろうかな。」ところが、アブー・ヌワースも、やはり先ほど泉水の付近をうろつきまして、件《くだん》の場面をすっかり見届けておりましたので、彼はお答え申しました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして、教王《カリフ》のおあきれになったことには、彼はすぐさま次のような詩句を即吟したのでございます。
[#ここから2字下げ]
泉水に、われは皓たる銀《しろがね》を見たり。しかしてわが双の眼は酔いたり。
羚羊《かもしか》その腰の蔭にてわが魂を虜《とりこ》となせり、その組み合わせし指《および》より、要《かなめ》のものの洩れ出でしとき。
おお、何とても、われは波と変じて、かの洩れ出ずるいみじきものを愛撫し得ざりしか。また、ひと時なりと、ふた時なりと、魚と変じ得ざりしか。
[#ここで字下げ終わり]
教王《カリフ》は、どうしてアブー・ヌワースが御自分の詩句に的確な意味をつけることができたのか、格別詮議しようとはなさらずに、御満足の意を示すため、彼にたっぷりと褒美をとらせなさったのでございました。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードはつけ加えた、「けれども、幸多き王さま、このアブー・ヌワースの才気の鋭さも、次の逸話のなかの彼の軽妙な即興よりも、見事だったとは思し召されるな。」
アブー・ヌワースの即詠
ある夜のこと、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは執拗な不眠におかかりになり、ただひとり、宮殿の廻廊の下を漫歩《そぞろある》きしていらっしゃいますと、そのとき女奴隷の一人で、この上なく御寵愛の女が、自分専用の離れ家のほうに向って行くのを、お認めになりました。教王《カリフ》はあとをつけてゆかれ、その後ろから離れ家のなかへはいり込みなさいました。そこでその女を腕のなかにお抱きになって、これを愛撫したり、戯れたりなさり始めましたので、とうとう彼女を包んでいた面衣《ヴエール》が落ち、下着も同じく両肩からずり落ちてしまいました。
これを御覧になると、欲望が魂のなかで燃え上り、教王《カリフ》は即座に美しい女奴隷をわがものにしようとなさいました。けれども、彼女は身を避けて申しました、「後生でございます、おお信徒の長《おさ》よ、そのことは明日に延ばしましょう。と申しますのは、わたくしは今宵《こよい》は、わが君のお訪ねの名誉を思いもかけておりませんでしたので、そのことのためには何の用意もしていないのでございます。けれども明日には、アッラーの思し召しがございますれば、わたくしは身にことごとく香りをつけておりましょうし、臥床《ふしど》の上には素馨《ヤサミーン》が匂っていることでございましょう。」そこで教王《カリフ》は強いてとはおっしゃらずに、散歩にお戻りになりました。
翌日になりますと、同じ時刻に、教王《カリフ》は宦官の長マスルールをお遣わしになり、その若い女に御訪問の御予定を予告させたのでございました。ところが折悪しく、若い女は昼のうちから疲れを覚え始めて、けだるく、いつになく気分が勝《すぐ》れぬのを覚えたものですから、前夜のお約束を思い出させたマスルールに向って、御返事のかわりに、ただ次の格言を引用するだけにとどめました。『昼は夜の言葉を消す。』
マスルールが教王《カリフ》にこの若い女の言葉を復命申し上げているところに、アブー・ヌワース、エル・ラカーシ(13)、アブー・モッサーブ(14)の三人の詩人がはいって参りました。すると教王《カリフ》は彼らのほうへお向きになって、これに仰せられました、「その方たちそれぞれ、『昼は夜の言葉を消す』という言葉を入れて、直ちに何らかの韻律を即詠してもらいたい。」
すると、最初に、詩人エル・ラカーシが申しました。
[#2字下げ] わが心よ、頑《かたく》なの美わしき女子に心せよ。そは訪《おとの》うも訪わるるも喜ばず、媾曳《あいびき》を約せどもこれを守らず、釈明して曰く、「昼は夜の言葉を消す。」
つづいて、アブー・モッサーブが進み出て、申しました。
[#2字下げ] わが心は力のかぎり迅《と》く飛びゆけど、彼女はその燃ゆる思いを弄ぶ。わが双の眼は流涕し、わが腸《はらわた》は望みに燃ゆ。されど彼女はただ微笑むのみ。もしもわれより約束を思い出《いだ》さしめば、彼女は答えて曰く、「昼は夜の言葉を消す。」
最後に、アブー・ヌワースが進み出て、申しました。
[#ここから2字下げ]
おお、かの宵に取り乱したるかの女の、いかに美わしかりしよ。またそのあらがいのいかに風情《ふぜい》ありしよ。
夜に酔う風はゆるやかにその腰の細枝と、波打つ重き臀《しり》とを動かし、双の柘榴、その乳房の尖《とが》り立つ、上半身も撓みいたりき。
やさしく戯れ、臆さず愛撫を重ねて、わが手は、女を包む面衣《ヴエール》を滑り落したり。しかして、真珠の円み、その双の肩より、下着もまた滑り落ちたり。
されば彼女は、萼《がく》より出ずる花のごとく、裏返る衣より出でて、なかば裸身にて現われぬ。
折しも夜はわれらの上に闇の帳《とばり》を下ろしいたれば、われはさらに果敢ならんと欲してこの女に言えり、「有終の美をこそ。」
されど女は答えぬ、「続きは明日《あす》に。」
次の日、われはこの女のもとに到りて、これに言いたり、「約束をこそ。」彼女笑い転《ころ》げて、答えて曰く、「昼は夜の言葉を消す。」
[#ここで字下げ終わり]
このとりどりの即詠をお聞きになって、アル・ラシードは詩人たちにそれぞれ多額の金子をお遣わしになりましたが、アブー・ヌワースだけは除かれて、教王《カリフ》は直ちに彼の死刑を命じて、お叫びになりました、「アッラーにかけて、汝はあの娘と示し合わせておるな。さもなくば、余ひとりしか居合わさなかった場面を、どうしてそのように寸分違わず描くことができようぞ。」アブー・ヌワースは笑い出して、お答え申しました、「わが御主君|教王《カリフ》におかれましては、真の詩人というものは、ひとの語るところに従って、ひとの隠すところを見抜き得る者であることを、お忘れでいらっしゃいます。それになお、預言者(その上に祈りと平安あれ)も、われわれ詩人を語って仰せられたときのお言葉は、われわれを描き得て妙でございます。曰く『詩人らは痴《し》れ者のごとくあらゆる道を辿る。ただその霊感のみが彼らを導き、しかもそは悪霊(15)なり。しかして彼らは己がなさざることどもを語るなり』と。」
この言葉をお聞きになると、アル・ラシードはこれ以上その神秘を究めようとはなさらずに、アブー・ヌワースをお許しになってから、他の二人の詩人がいただいた金額の二倍を、彼にお与えになりました。
[#この行1字下げ] ――シャハリヤール王はこの逸話を聞いたとき、叫んだ、「いや、アッラーにかけて、余であれば、そのアブー・ヌワースごときは許さぬであろうし、その神秘をも究めるであろうし、かかるろくでなしの首を刎ねさせるであろう。シャハラザードよ、わかったか、余はもはや、そのように教王《カリフ》にも掟《おきて》にも敬意を払わぬ放蕩者のことなど、話してもらいたくはないぞ。」するとシャハラザードは言った、「それでは、おお幸多き王さま、わたくしは驢馬の逸話をお話し申し上げましょう。」
驢馬
ある日のこと、ごくひとに欺され易い男たちのなかの一人の正直者が、ただ一本の綱を獣《けもの》の頭絡《おもがい》代りにして、うしろに驢馬をひきながら、市場《スーク》のなかを歩いておりました。一人の手練を積んだ泥棒がこれを見かけて、この男の驢馬を盗んでやろうと決心いたしました。泥棒はその計画を自分の仲間の一人に告げますと、その仲間は彼に訊ねました、「だが、あの男に気づかれないようにするには、どうするつもりなんだい。」彼は答えました、「まあおれについて来い、そうすりゃわかるさ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十夜になると[#「けれども第三百八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで泥棒はその男に後ろから近寄り、ごくそっと驢馬の頭絡《おもがい》を解き、男がその入れ代ったことに気づかぬうちに、その頭絡《おもがい》を自分につけて、駄獣のように歩いてゆきましたが、そのあいだに、彼の仲間が、解き放した驢馬を連れて立ち去ってしまいました。
泥棒は驢馬がもう大丈夫遠くに行ってしまったと思いますと、突然、歩みを停めました。すると、男は振り向きもせず、自分のほうへ驢馬を引っ張り、無理矢理に歩かせようといたしました。けれども、驢馬が逆らうのを感じて、男は後ろを向いて、これを叱りつけようとしたところが、見ればそこには、獣のかわりに頭絡《おもがい》をはめた泥棒が、神妙な様子をして、訴えるような眼つきをしているのでございました。男は胆をつぶして、しばらくは泥棒のまえで身動きもできないくらいでした。ややあってから、彼はやっといくつかの音節を言い出して、訊ねることができました、「貴様は何者だ。」泥棒はすっかり涙声で、叫びました、「私はあなたの驢馬なんでございますよ、おお御主人様。けれども私の身の上話は驚いたものです。実はこういうわけなのです。私は若い頃ならず者で、あらゆる類いの恥かしい放蕩に耽っていたのです。ある日のこと、私は酔っ払ってまことにいやらしい有様で、おっ母さんのところへ帰って行ったのですが、おっ母さんは私を見ると、日頃の怨みを抑えることができなくなって、きつい叱言《こごと》を浴びせかけ、私を家から追い出そうとしました。ところが私は、おっ母さんを押しのけて、そればかりか、酔いにまぎれて、殴りつけてしまったものです。するとおっ母さんは、自分に対する私の仕打ちに憤慨して、私に呪いをかけたものです。その呪いの利き目があって、私はたちまち姿を変えて、驢馬になってしまいました。そこであなたが、おお御主人様、私を驢馬|市場《スーク》で五ディナールでお買いになって、それからずっとお手許におき、私を駄獣としてお使いになったわけですが、あなたはずっと、私が疲れ果てて歩くのをいやがるときには、私の尻を刺棒で突きなさったり、私にはとても繰り返して言えないような、数々の罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけなさいました。こうした有様ですが、何しろ私は言葉を奪われていたから、辛さを訴えることもできませんでした。そしてときどき、といってもたまのことですが、私は持ち合わせない言葉のかわりに、首尾よくお屁《なら》をするのが、まあ精いっぱいでした。とうとう今日は、私の気の毒なおっ母さんが、きっと私のことを優しく思い出してくれたに違いありません。そして憐みの気持がおっ母さんの心のなかに入り、それがおっ母さんを、私のために至高者の御慈悲をお願いする気にさせたに違いありません。ところで、私には疑う余地もありませんが、まさにその御慈悲の利き目によりまして、今やあなたの御覧のとおり、私は自分の最初の人間の姿にたち帰ったのでございます、おおわが御主人様。」
この言葉を聞きますと、哀れな男は叫びました、「おお私の同胞《はらから》よ、あんたの上なるアッラーにかけて、あんたに対して犯したわしの過ちを、許しておくれ。そしてわしが知らぬ間にあんたを苦しめた、ひどい仕打ちを忘れて下され。アッラーのほかには頼りはない。」そして彼は急いで泥棒を結《いわ》えてあった頭絡《おもがい》をほどいて、すっかり後悔しながら、わが家へ向って立ち去りましたが、この夜は眼を閉じることもできませんでした。それほど悔悟と心痛を覚えたのでした。
数日たってから、哀れな男は驢馬|市場《スーク》に、ほかの驢馬を買い求めに参りましたが、その市場《スーク》に、彼の最初の驢馬が、変身のまえの姿でいるのを見つけたときは、彼の驚きはいかばかりだったでしょう。そこで彼は心のなかで考えました、「きっとこのならず者は、また何か悪事をはたらいたものに相違ない。」そして彼は、自分を認めて鳴きはじめた驢馬に近寄りまして、その耳もとに身をかがめ、力いっぱい叫びました、「おお始末におえないならず者め、貴様はまたお袋をいじめたり、殴ったりしやがったに違いねえ、だから、またもやこんな風に驢馬の姿に変えられたんだろう。だが、アッラーにかけて、このおれは二度と貴様を買ってやらんぞ。」そして、かんかんに怒った彼は、驢馬の顔に唾を吐きかけて、その場を立ち去り、そして、明らかに驢馬族の父と母の子孫と認められる、別の驢馬を買ったのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてこの夜は、シャハラザードはさらに言った。
ゾバイダ妃の現行犯
語り伝えまするところでは、信徒の号令者ハールーン・アル・ラシードは、ある日のこと、お妃シート・ゾバイダのお部屋に、お昼寝をなさりに行かれまして、これからお床の上に横になろうとなさいますと、そのとき、ちょうどその真中に、まだ生々しい大きな汚点《しみ》があるのにお気づきになりましたが、その出所はもう弁解の余地もないほど、おのずと明らかなものでございました。これを御覧になると、世界はお顔のまえで真っ暗になり、教王《カリフ》は憤怒の極に達せられました。すぐさまゾバイダ妃をお呼び出しになり、御眼《おんめ》をお怒りに燃やし、お鬚を打ち顫わしつつ、お妃にどなりなさいました、「われらの寝床の上のこの汚点《しみ》は、いったい何か。」ゾバイダ妃は件《くだん》の汚点《しみ》の上に頭を寄せてみて、申されました、「これは男の精液でございます、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》は沸立つお怒りをやっとの思いで抑えながら、どなりなさいました、「しからば、余が一週間以上も前からそちと寝ておらぬ寝床の上に、どうしていまだに生温かい、かような液体があるのか、そちは余に説明ができるか。」お妃は激動なさって、お叫びになりました、「わが上とわが周りに貞節あれかし、おお信徒の長《おさ》よ。わが君はひょっとすると、わたくしに姦淫の嫌疑を懸けていらっしゃるのでしょうか。」アル・ラシードは仰せになりました、「余はそちに嫌疑を懸けておる。これより早速、法官《カーデイ》アブー・ユースフを呼び寄せ、彼にこのものを鑑定させ、これに関して彼の意見を述べさせようと思う。そして、わが祖先の名誉にかけて、おおわが叔父の娘よ、もしもそちが法官《カーデイ》より有罪と認められたる場合は、余は何ごとをまえにしても後へは退《ひ》かぬぞ。」
法官《カーデイ》が到着したとき、アル・ラシードはこれに仰せになりました、「おおアブー・ユースフよ、そもそもこれなる汚点《しみ》は何であるか、余に申してみよ。」法官《カーデイ》はお寝床に近寄りまして、指を汚点《しみ》の真中に入れ、それからこれを自分の眼と鼻の高さまで持って来て、申しました、「これは男の精液でございます、おお信徒の長《おさ》よ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十一夜になると[#「けれども第三百八十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
教王《カリフ》はお訊ねになりました、「その直接の出所は何であり得るか。」法官《カーデイ》はたいそう当惑いたしましたが、ゾバイダ妃のお怨みを買うようなことは断言したくありませんでしたので、いかにも考え込むように、頭を天井のほうに上げましたところ、一つの割れ目のなかに、体を縮めていた一匹の蝙蝠《こうもり》の翼を見つけました。すると、救いの考えが彼の理性にひらめきまして、彼は申しました、「それがしに槍をいただきとう存じます、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》はひと振りの槍をお渡しになりますと、アブー・ユースフはこれで蝙蝠を刺しましたので、蝙蝠はどさりと下に落ちました。そこで彼は申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、医学の書物がわれわれに教えるところによりますと、蝙蝠は不思議に人間の精液に似た精液を持つとのこと。さればこの犯罪は、きっと、お眠み中のゾバイダ妃のお姿を拝した、こやつの仕業でございます。御覧のとおり、ただいまそれがしはこやつを死刑をもって罰してやりました。」
この説明に教王《カリフ》はすっかり御満足がゆかれ、もはやお妃の無罪をお疑い遊ばさず、法官《カーデイ》には感謝の印として、贈物の限りをつくしなさいました。ゾバイダ妃のほうも、歓喜の極に達せられて、彼に贅をつくした贈物をなさり、それから、彼を御自分と教王《カリフ》とともにその場に残らせ、そこへ果物やはしりの果物を運ばせて、法官《カーデイ》にこれを食べてゆくようにと、おすすめになりました。
そこで法官《カーデイ》は教王《カリフ》とゾバイダ妃のあいだの絨氈の上に坐りますと、ゾバイダ妃は一本のバナナの皮をお剥きになり、それを彼に差し出して、おっしゃいました、「私の庭にはこの他に、一年中のいまどきには珍しい果物が、いろいろあります。あなたはそれとバナナとどちらがお好きですか。」彼はお答え申しました、「それがしは主義といたしまして、おお、わが御主人様、欠席裁判の判決は決して宣告いたさぬ建前《たてまえ》にしております。それゆえ、そのはしりの果物をこのはしりの果物と比較いたしますには、それがしは先ずそれを拝見して、その上で、それぞれの優越について、私見を述べるということにいたさねばなりませぬ。」ゾバイダ妃は早速お庭のはしりの果物を摘んでお運ばせになり、これを法官《カーデイ》に味わわせてから、お訊ねになりました、「さて、この二つの果物のうちいずれがお好きですか。」法官《カーデイ》は心得顔で微笑して、教王《カリフ》を見やり、それからゾバイダ妃を見やって、お二方に申し上げました。「アッラーにかけて、お答えはなかなかむずかしゅうござります。もしそれがしがこの二つの果物のうち、一方を好きだと申しますれば、そのこと自体によって、他方を罰することとなりましょうから、そうなりますと、その果物は、それがしに対する怨みから、それがしに不消化を起させるおそれがございましょう。」
この答えをお聞きになると、アル・ラシードとゾバイダは引っくり返って尻餅をおつきになるほど、笑い出されたのでございました。
[#この行1字下げ] ――そしてシャハラザードは、ある徴候から察して、シャハリヤール王としては、むしろ妃《シート》ゾバイダ自身を罪に問うて、これを容赦なく罰してしまいたいような様子であるのを見て、気をそらすために急いで、次のような逸話を話した。
雄か雌か
ペルシア王大ホスロー(16)についてのさまざまな逸話のなかで、語り伝えまするところでは、この王はたいそうお魚好きの方でいらせられました。ある日のこと、王がお妃、美わしいシリーンと御一緒に、露台に坐っておいでになりますと、一人の漁師が大きさも美しさも並外れた一匹の魚を、御進物に持ってまいりました。王はこの御進物をたいそう喜ばれ、漁師に四千ドラクムを与えるようにお命じになりました。けれども美わしいシリーンは、王のお気前のよい無駄使いには全く不賛成でいらっしゃったので、漁師が立ち去るのを待って、おっしゃいました、「僅か一匹の魚のために、一人の漁師に四千ドラクムをお与えになるような無駄使いは、よろしゅうございません。あの金額は返させなさるのがよろしいでしょう。さもなければ、今後御進物をお持ちする者はみな、あの値段を出発点として、自分の望みを定《き》めるようになりましょう。すると、わが君ももう、その連中の要求を満たしきれなくおなりでしょう。」ホスロー王はお答えになりました、「しかしいったん与えたものを取り返すようなことは、王たるものの名折れであろうが。されば、過ぎたることは忘れるといたそう。」けれどもシリーンはお答えになりました、「いけません、こういうことはそのように捨てておいてはなりませぬ。あの漁師であろうと、誰であろうと、何の文句もつけられないようにして、あの金額を取り返す方法がございます。それには、漁師をお呼び戻しになって、こうお訊ねになりさえすればよろしいのでございます、『その方の持参いたした魚は雄かそれとも雌か。』もし雄だと答えましたら、お魚《さかな》を彼にお返しになって、こうおっしゃいませ、『余の望むのは、雌なのじゃ』と。」
ホスロー王は美わしいシリーンを非常な愛情で愛していらっしゃったので、お妃の気に抗《さから》いたくなく、進まぬながら、急いでお妃の勧めたとおりになさいました。ただその漁師は機知にたけ、当意即妙の才に恵まれた男でしたので、ホスローが彼をお呼び戻しになって、「魚は雄か、それとも雌か」とお訊ねになったときに、彼は地面に接吻して、お答え申しました、「これなる魚は、おお王様、雌雄両性を持つやつでござります。」
この言葉をお聞きになると、王は嬉しさのために晴々となられて、お笑いになりだし、それから、漁師へ四千ドラクムのかわりに八千ドラクムを与えるように、勘定方にお命じになりました。漁師は勘定方と一緒にその場を引き下りますと、勘定方は彼に八千ドラクムを支払いました。彼はこれを魚を運んで来るときに使った袋のなかに入れて、出てゆきました。
宮殿の中庭に来たときに、彼はうっかりして、袋から一ドラクムの銀貨を落してしまいました。すぐに彼は急いで袋を地面に置き、そのドラクム銀貨を探し、非常に大きな満足を覚えながら、これを拾い上げました。
さて、ホスローとシリーンは露台からこれをじっと見守っていらっしゃって、ただいま起ったことをごらんになりました。するとシリーンは、御自分に有利な機会が到来したことを喜んで、お叫びになりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十二夜になると[#「けれども第三百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……シリーンはお叫びになりました、「あれがあの漁師でございますよ。あの男の不名誉は何という不名誉でございましょう。彼は一ドラクムを落したくせに、そのまま捨てておいて貧しい者にでも拾わせてやればよいのに、それをまた拾い上げて、貧乏人から横領してしまうなんて、ずいぶん卑しい男ではございませんか。」この言葉をお聞きになって、ホスローは非常に御気色《ごきしよく》を損じられ、漁師をお呼び戻させて、これにおっしゃいました、「おお卑しき者め、そんなちっぽけな量見を持つようでは、汝はたしかに一人前の人間ではない。汝は貪欲に眼がくらみ、金貨のいっぱい入っておる袋を地に置いて、貧乏人の好運のために落ちた、僅か一枚のドラクム銀貨を拾い上げたではないか。」
すると漁師は床《ゆか》に接吻して、お答え申しました、「アッラーは王様の御寿命を永くして下さいますように。私がそのドラクム貨幣を拾ったと申しますのは、何も私にとって惜しいからではなく、私の眼から見てその値打が大きいからでございます。事実この銀貨は、その両面の一つには王様のお姿を持ち、他の面にはそのお名前を持っているではございませんか。私はそういうものを、誰か通りがかりの者の足で、迂闊に踏みつけられるような目に遭わせたくなかったのです。それで私は急いでこれを拾い上げたわけですが、そういうことをいたしましたのも、私なぞは一ドラクムの値打もないやつなのに、その私を、困窮から救い上げて下さいました王様のお手本をば、見ならったのでございます。」
この答えはたいそうホスロー王のお気に召しましたため、王は漁師にさらに四千ドラクムをお与えになり、触れ役人に命じて全帝国に、次のように触れさせなさったのでございました、「婦女子の忠言には決して左右さるることなかれ。何となれば、婦女子の言を聞く者は、一つの過ちの半分を避けんとして、二つの過ちを犯せばなり。」
[#この行1字下げ] ――シャハリヤール王は、この逸話を聞いて言った、「余はホスローの振舞と婦女子に対する不信には、大いに賛成である。婦女子は多くの災厄の原因じゃ。」けれどもすでに、シャハラザードは言いつつあった。
分け前
ある夜のこと、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、宰相《ワジール》ジャアファルと御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールのまえで、お眠《やす》みになれないことを嘆いていらっしゃいますと、そのとき突然、マスルールがぷっと吹き出して笑いました。教王《カリフ》は眉をひそめて彼をごらんになり、これにおっしゃいました、「してまた、汝は何をそのように笑うのか。気でも狂ったのか、それともひとを愚弄するのか。」マスルールはお答え申しました、「いえいえ、アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、わが君を預言者につなぎたもう御血《おんち》にかけてお誓い申しまするが、私が笑いましたのは、その二つの原因のうちのいずれの結果でもなく、ただイブン・アル・カラビーとやら申す男の、面白い洒落《しやれ》を思い出したからでございまして、昨日も人々はティグリス河のほとりで、この男の周りに輪になって、その話を聞いたのでございます。」教王《カリフ》は仰せになりました、「そういうことなら、早速余のもとに、そのイブン・アル・カラビーとやらを呼んでまいれ。恐らくその男は、いささか余の胸を晴らすことをやり了《おお》せよう。」
すぐに彼は、その愉快なイブン・アル・カラビーを探しに走って行って、この男に出会いますと、これに言いました、「わしはお前のことを教王《カリフ》にお話し申し上げたところが、教王《カリフ》はお前に笑わしてもらおうと仰せられて、お前を呼ぶためにわしをお遣わしになったのだ。」彼は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」マスルールはつけ加えました、「よしよし、わしはお前を教王《カリフ》のおそばに連れて行ってやろう。しかし、それにはもちろん条件がある。もし教王《カリフ》がお前に報酬を下さったら、その四分の三はわしによこすんだぞ。」イブン・アル・カラビーは申しました、「そりゃ多過ぎますよ。あなた様の御仲介のお礼には、三分の二を差し上げることにしましょう。それで十分でございましょう。」マスルールは形ばかり何とか文句をつけたあげく、さいごにその契約を承諾して、この男を教王《カリフ》のおそばへと連れてまいりました。
アル・ラシードは、彼が入って来るのを御覧になると、これにおっしゃいました、「聞けば、その方はたいへん面白い洒落をいろいろ心得ておるそうじゃな。試みにそれを繰り出してみよ。だが、よく心得ておけ。もしもその方首尾よく余を笑わすことが叶わぬ際は、笞刑《ちけい》がその方を待っておるからな。」
この脅迫は、イブン・アル・カラビーの才気をすっかり凍らせてしまう結果となって、そうなると、彼は月並な言葉ばかりしか見つけられず、惨澹たる首尾となってしまいました。というのは、教王《カリフ》はお笑いになるどころか、ますますお苛立《いらだ》ちが募ってくるのをお感じになって、とうとうお叫びになったからでした、「こやつの足の裏に百の棒打ちを食《くら》わせて、その脳を塞いでおる血を手足のほうへ戻してやれ。」すぐに人々は彼を寝かせまして、その足の裏に、数をかぞえながら、棒打ちを食わせました。打数が三十を越えたときに、突然、この男は叫びました、「今度はこの報酬をマスルール様にお与えになって下さいませ。私ども二人のあいだで取り交した契約によりますれば、あとの三分の二はあの方のものになるのでございます。」そこで警吏たちは、教王《カリフ》のお合図によって、マスルールを引っ捕え、これを横にして、その足の裏に棒の拍子を味わわせ始めました。けれども、打たれ始められるが早いか、マスルールは叫びました、「アッラーにかけて、私はただの三分の一だけ、いえ四分の一だけでも、不服はありません。そしてあとの残りは全部、あいつに譲ってやります。」
この言葉をお聞きになると、教王《カリフ》は引っくりかえって尻餅をついておしまいになるほど笑い出され、そして二人の受刑者には、それぞれ千ディナールをお与えになりました。
[#この行1字下げ] ――それからシャハラザードは、次の逸話を語らずには、その夜をやり過ごそうとは思わなかった。
学校の先生
あるときのこと、放浪しては、他家の食客《いそうろう》になることを商売にしていたある男が、読み書きもできぬくせに、学校の先生になってみようと考えました。というのは、これは彼には、何もしないで金を儲けることができる、唯一の商売だったからでした。それというのも、ひとは言葉の規則や基礎知識などを全然知らなくても、学校の先生になることはできるのは、世間周知のことです。それには、他の人たちに自分を大文法学者だと思い込ませるぐらい狡猾なら、それで十分なのです。それに、誰もが知っているように、学問のある文法学者というものは、たいてい量見が狭く、しみったれで、ひょろひょろして、出来損いで、不能者で、哀れな男なのでございます。
さて、われらの風来坊はこうして、にわかづくりの学校の先生になったのですが、先生になるといっても、せいぜい自分のターバンの巻き数と容積《かさ》をふやしたり、また、小路の奥に教室を開くことぐらいに、骨を折っただけでした。そして彼は、この教室に文字板やその他そういったたぐいのものを飾り立てて、お客を待ちました。
ところが、そういう威風堂々たるターバンを見ますと、その界隈の住民は、自分たちの隣人の学識を疑わず、急いでこの男のもとへ自分の子供たちをやりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十三夜になると[#「けれども第三百八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれども彼は読むことも、書くことも知りませんので、ぼろを出さぬために非常に巧みな方法を見つけました。その方法と申しますのは、少々読み書きを知っている子供たちを使って、全然何も知らない子供たちに学課を教えさせておき、その間自分はいい加減に、監督をしたり、ほめたり、貶《けな》したりするような真似ごとをする、そういうやり方でありました。
ある日のこと、彼が鞭を手に持って、恐ろしさに縮み上っている小さい子供たちを、凄まじい眼つきでぎょろぎょろ睨んでおりますと、一人の女が一通の手紙を手に持って、教室に入ってまいりました。そして、先生に手紙を読んでいただくつもりで、彼のほうへ進んでまいりました。学校の先生はどうしてこんな試みを避けたらよいか、なすところを知らず、とにかく急いで立ち上り、外に出て行こうとしました。けれども女は彼を引き止め、出ていらっしゃるまえに、是非とも手紙を読んでいただきたいと頼みました。彼は答えました、「わしはこれ以上待つことはできぬ。ただいま礼拝告時僧《ムアズイン》が正午の礼拝を告げたところであるから、わしは寺院《マスジツト》に赴かねばならぬのじゃ。」けれども女は彼を放そうとせず、申しました、「あなた様の上なるアッラーにかけて、この手紙は、五年まえから家《うち》を留守にしているわたしの亭主から来たものですが、この界隈では、あなた様のほかに私にこれを読んで下される方はないのです。」そして彼女は無理矢理手紙を彼に受け取らせました。
学校の先生はそこで、ぜひなくその手紙を拡げました。けれども彼はこれを逆さまに持って、すっかり弱りこんだまま、文字を見つめながら、眉をしかめ、ターバンを動かし、冷や汗をかき始めたのでした。
これを見た哀れな女は考えました、「もう間違いないわ。学校の先生がこんなに取り乱しておしまいになるんだもの、きっと悪い知らせを読みなすったにちがいない。ああ酷《ひど》いことになった、ひょっとすると、うちの亭主は死んだのかも知れない。」それから、非常な不安にかられて、彼女は学校の先生に訊ねました、「後生でございます、何もお隠しにならないで下さいまし。あの人は死んだんでございましょうか。」これに答えるかわりに、彼はつかみどころのない表情で頭を上げただけで、一言も発しませんでした。彼女はそこで叫びました、「おお、わたしの頭の上の禍《わざわ》いよ、わたしは着物を裂かなければならないんでございましょうか。」彼は答えました、「裂きなさい。」彼女は不安の極に達して、訊ねました、「わたしは頬っぺたを叩いたり、引っ掻いたりしなければならないんでございましょうか。」彼は答えました、「叩いて、引っ掻きなさい。」
この言葉を聞くと、哀れな女はおそろしい叫び声をあげながら、学校の外へ飛び出し、わが家に走ってゆきまして、家じゅうを愁嘆の叫びで満たしました。すると隣近所の女たちがみんな彼女のところへ馳せつけて、これを慰め始めましたが、何の利き目もありませんでした。このとき、この不幸な女の親戚の一人がはいって来て、手紙を見つけ、これを読んでから、女に言いました、「だが、いったい誰があんたに、亭主が死んだなんてことを告げたんだろう。手紙には、そんなことはひとつも書いてありゃあしないよ。文面はこうなんだ。『平安《サラーム》と祈願のあとで。おお叔父の娘(17)よ、私は相変らず至極元気だが、二週間後には、お前のもとに帰ろうと思っている。だがその前に、私の心尽しを示そうと思い、亜麻布を夜具に包んで、お前に送り届ける。敬具《ウアサラーム》』」
女はそこで手紙をとり、学校へ戻って、こんな風に自分を欺いた先生に、文句を言ってやろうと思いました。彼女は先生が戸口に坐っているところを見つけましたので、これに申しました、「こんな風に哀れな女をだまし、亭主が死んだなんて告げたりしなさって、あなたの上の恥じゃありませんか。ところが、この手紙には、わたしの亭主は間もなく帰ってくる筈で、その前に夜具にくるんだ亜麻の布地を送ると、書いてあるんじゃありませんか。」この言葉を聞くと、学校の先生は答えました、「いかにもさようじゃ、おお哀れな女よ、あんたがそのようにわしを咎め立てするのは無理はない。だが、勘弁してもらいたいものじゃ。と申すのは、わしがその手紙を両手の間に持っておったときには、たいそう気ぜわしかったので、ちと早めにあべこべに読んだため、わしはその布地と夜具のことを、死んだ御亭主の衣類の中から、誰かがあんたに送り届けてくれた、形見の品だと思い込んでしまったのじゃ。」
[#この行1字下げ] ――シャハラザードは続いて言った。
肌着の銘文
語り伝えまするところでは、ある日のこと、教王《カリフ》アル・マアムーンの弟君アル・アミーン(18)は、叔父君アル・マハディーのお屋敷を訪ねていらっしゃったときに、琵琶《ウーデイ》を弾いていた非常に美しい、一人の若い女奴隷をお認めになりました。彼はたちまちこの女奴隷に惚れ込んでおしまいになりました。それで叔父君は間もなく、この女奴隷がわが甥に強い感銘を与えたことに気づかれて、ひとつこの甥に嬉しい贈物をしてやろうとお思いになり、アル・アミーンのお帰りになるのを待って、その女奴隷に多くの宝石と高価な衣裳をつけて、これを彼のところへ送り届けなさいました。けれどもアル・アミーンは、叔父君がすでにこの乙女の早なりの実をとってしまい、自分にはお古《ふる》をよこされたものとお思いになりました。というのは、叔父君はまだ酸っぱい果実の極度の愛好家と、かねて知っていらっしゃったからです。ですから、彼はこの女奴隷を受け取る気になれず、一通の手紙をつけて、叔父上に送り返しておしまいになりましたが、その手紙のなかで、叔父君に、熟するまえに園丁に噛まれた林檎は、決して買い手の口を甘くしないものと、申し上げました。
すると叔父君は、乙女の着物をすっかり脱がせて、その手に一張の琵琶《ウーデイ》を持たせ、ただ一枚の絹の肌着を纒わせただけで、改めてこれをアル・アミーンにお送りになりましたが、その肌着の上には、金文字でこういう銘文が走っていたのでした。
[#ここから2字下げ]
わが襞《ひだ》の陰に隠れたる獲物は、何ものにも触れられず、清らかなり。
ただ眼《まなこ》のみこれを調べしも、その完璧の美に見惚れたり。
[#ここで字下げ終わり]
こうしてこの愛すべき肌着をまとった女奴隷の魅力を御覧になり、その銘文をお読みになって、アル・アミーンはもはや逆らう理由もなく、この贈物をお受けになって、ことのほか珍重なさったのでございました。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードは、この夜は、さらに言った。
盃の銘文
教王《カリフ》アル・ムタワッキル(19)は、一日御病気におかかりになりましたが、侍医ヤハヤーが妙薬を処方いたしましたので、お病いは散じて、たちまち恢復期に向われました。すると教王《カリフ》の御許《みもと》へは、あらゆる方面からお祝いの贈物が殺到いたしました。ところが、いろいろの献上品のなかに、教王《カリフ》はイブン・カーカーン(20)から贈物として、柘榴を欺く胸乳《むなぢ》を持った、一人の手つかずの若い娘を、お受け取りになりました。若い娘は御前《ごぜん》に罷り出たとき、自分の美しさと同時に、選りぬきの酒を満たした見事な水晶の壜《びん》を、教王《カリフ》に持参してまいりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十四夜になると[#「けれども第三百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼女は片手に壜を持ち、別の手に黄金の盃を持っておりましたが、その盃の上には、紅玉《ルビー》でもって、次のような銘文が彫ってございました。
[#2字下げ] いかなる白鮮《はくせん》、はたいかなる解毒薬《テリヤーク》か、この味よろしき紅《くれない》の酒に如《し》かんや、身体の諸病と倦怠のこの万能薬に。
ところが、ちょうどこのとき教王《カリフ》のお側には、学識高き医師ヤハヤーがおりました。この銘文を読みますと、彼は笑い出して、教王《カリフ》に申し上げました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、この乙女とその持参いたしましたる医薬とは、わが君の御体力の恢復には、古今のあらゆる薬よりはるかに利き目がございましょう。」
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは、話をやめずに、すぐ次の逸話を始めた。
籠の中の教王《カリフ》
これからの物語は、有名な歌手、モースルのイスハーク(21)によって、私どもに伝えられたものでございます。彼は申しました。
私はある夜のこと、教王《カリフ》アル・マアムーンの宮殿の宴会から、遅くなって退出したところ、小便が詰って苦しく、大いに困ったので、灯火《あかり》の見えぬ路地に入り、壁に近寄った。といっても、自分の小便の飛沫《とばつちり》を受けるのはいやだったので、あまり近くは寄らず、そして具合よくしゃがみ込んで、心ゆくばかり放尿し、さっぱりといたした。用を済まして、体をゆするかゆすらぬうちに、私は暗闇のまっただなかで、何ものか頭上に落ちてきたような気がした。私はまったくぎょっとして、飛び上り、その品を捉え、そしてあらゆる方向からそれを触ってみたところが、なんとも驚いたことには、それは四隅を一本の縄に結びつけた大きな籠であって、その縄は上の家から下っていることを認めた。さらに手で探ってみると、その籠は内側に絹布と、坐り心地のよさそうな二枚の座蒲団《クツシヨン》とが、備えてあることがわかった。
ところが、私はふだんより酒を飲み過ぎておったので、酔った勢いで、この籠はおのずとわが休息のために現われてきたものなのだから、ひとつ中に入って坐り込んでやれという気に駆られた。私は誘惑にあらがうことができなくなって、籠のなかにはいってしまった。ところが、飛び降りるひまもあらばこそ、たちまち私は、するすると露台の上まで引き揚げられてしまった。するとそこで四人の若い娘に、無言で迎えられ、その乙女たちは私を家のなかに降《おろ》して、あとから従《つ》いてくるようにと言う。そのうちの一人は、手に蝋燭を持って私のまえを歩き、他の三人は私のあとに続き、そして私に大理石の階段を降りさせ、教王《カリフ》の宮殿にもたぐえられる、豪奢な広間へとはいらせた。そこで私は心中で考えた、「これはおれのことを、今晩|媾曳《あいびき》の約束をした誰かほかの男と、間違えているのに相違ない。なにアッラーがこの事態をよしなに計らって下さるだろう。」
私がなおも当惑していると、広間の一部を隠していた大きな絹の帳《とばり》が上って、腰しなやか、歩みぶり優雅な、うっとりするような十人の若い娘をみとめたが、そのあるものは燭火を持ち、あるものは甘松《かんしよう》や伽羅《きやら》の燃えている、黄金の香炉を持っておった。この娘たちのまんなかから、諸星《もろぼし》を嫉《ねた》ませるかのごとき、一人の乙女が進み出てきた。彼女は歩きながら体を揺り動かし、どんな鈍感な魂をも飛び立たせんばかりに、艶《つや》やかな流し目を投げかけた。ところで、私はこれを見ると、飛び上って、彼女の前に床まで身を屈《かが》めた。すると彼女は微笑みながら、私を見やって言った、「ようこそ、お客様。」それから腰を下ろして、惚れ惚れするような声で、私に言った、「お楽になさいませ、やあ殿《スイデイ》よ。」私はすでに酒の酔も散じ果て、そのかわりに、はるかに強い陶酔を覚えながら、腰を下ろした。すると彼女は私に言った、「してあなたはどのようになさって、わたくしどもの街においでになり、籠のなかにお坐りになったのでしょうか。」私は答えた、「おお御主人様、私をこの街まで来させましたのは、わが心の裡《うち》深き苦しみでございます。それから、私を籠のなかに坐らせましたのは、酒でございます。そして今は、あなたの御寛容が私をこの部屋に導き入れて下さったのですが、ここにまいりますると、あなたの魅力が、私の頭脳のなかで、酩酊を陶酔に代えてしまいました。」
この言葉を聞くと、乙女は明らかに満足の意を現わして、私に訊ねた、「あなたはどんな御商売をなさっていらっしゃいますか。」私は、自分が教王《カリフ》の歌手と楽師であることは固く口外することを避けて、これに答えた、「私はバグダードの機織《はたおり》職人の市場《スーク》のなかの機織《はたおり》職人でございます。」彼女は私に言った、「あなたの物腰はお上品でいらっしゃって、機織《はたおり》職人の市場《スーク》の名誉となるものです。もしもあなたがその上に、詩歌の知識を兼ね備えていらっしゃるとすれば、わたくしどもは自分たちのただ中にあなたをお迎えしたことを、少しも悔いるにあたりますまい。あなたは詩を御存じでいらっしゃいますか。」私は答えた、「いささか心得ております。」彼女は言うに「そのうちの幾つかを、わたくしたちに聞かせて下さいまし。」私は答えて、「おお御主人様、客というものはいつでも、受けたお持てなしのために、少しく心が動揺しているものでございます。ですから、先ずあなた様から、お好きな詩を幾篇かわれわれに誦し始めて下さって、私の気を励ましていただきたい。」彼女は私に答えた、「喜んでいたしましょう。」そしてすぐと彼女は最も古き世の詩人たち、例えばイムルウル・カイス、ズハイル、アンタラ、ナービガ、アムル・イブン・クルスーム、サラファ、シャンファラー(22)などや、最も近代の詩人たち、例えばアブー・ヌワース、エル・ラカーシ、アブー・モッサーブ(23)、その他の人々などの見事な詩篇を選んで、私に誦してくれたのであった。私は彼女の美しさに眼がくらんだと等しく、その朗誦法に感じ入った。次に彼女は私に言った、「今はあなたの心の動揺も過ぎ去ったことと存じますが。」私は答えた、「はい、アッラーにかけて。」そして今度は私が、自分の知っている詩句のなかから、最も繊細なものを選んで、大いに感情をこめながら、誦して聞かせた。私が終ったとき、彼女は私に言った、「アッラーにかけて、機織《はたおり》職人の市場《スーク》のなかに、こんな優雅な方々がいらっしゃるとは存じませんでしたわ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十五夜になると[#「けれども第三百八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これがすむと、饗宴が開かれて、果物も花も惜しみなく運ばれてきた。彼女はみずから最上の食品を私に給仕してくれた。それから、食布が取り去られると、飲み物と盃が運ばれて、彼女はみずから私に飲み物を注《つ》いでくれ、そして私に言った、「さあ、おしゃべりをする一番よい時となりました。あなたはいろいろの美しい物語を御承知でしょうか。」私は身を屈めて、すぐに王様方や、その宮廷や、その御様子などについて、数々の面白い詳細を話して聞かせていると、彼女は突然私の話を遮って、私に言った、「本当に、王様方の御習慣にそんなに通じておいでの機織《はたおり》職人がいらっしゃるなんて、わたくしはすっかりびっくりしてしまいました。」私は答えた、「何もお驚きになることなどございません。と申しますのは、私の隣りには、教王《カリフ》の御殿にお出入りしている、好ましい男がおりまして、これがつれづれのときに、好んで、自分自身の見聞きしたことで、私の精神《こころ》を飾ってくれるからでございます。」彼女は私に言った、「それならば、わたくしはやはり、あなたの記憶力の確かなことには感心いたしますわ、ああいう詳しい細かなことを、これほどまで正確に覚えていらっしゃるのですもの。」
こうしたすべてである。私は、広間に薫る甘松と伽羅の匂いを嗅ぎ、この羚羊《かもしか》を眺め、眼と唇とで私に話すのを聞きながら、恍惚の極にある思いがして、わが魂のなかで考えていた、「もしも教王《カリフ》が私のかわりにこの場にいらっしゃったら、一体なんと遊ばされるかな。きっと御感動のあまり夢中になられ、恋心に飛び立っておしまいになるであろうな。」
乙女は続いて私に言った、「本当に、あなたは高雅な方でいらっしゃいますわ。あなたの精神《こころ》はたいそう美しい見聞で飾られていらっしゃるし、あなたの物腰はこの上なく洗練されておいでになります。今はもうただひとつしかお願いはございません。」私は答えました、「わが頭上と目の上に。」彼女は言った、「ひとつあなたが琵琶《ウーデイ》に合わせながら、何か詩句を歌って下さるのをうかがいたいと存じますの。」ところが私は本職が楽師とて、歌うということは面白くない。されば答えた、「昔は私も歌の技《わざ》を修めはいたしましたが、しかし一向に上達しなかったもので、いっそやめることにしてしまったのでございます。歌いたいは山々ですが、私の言いわけは私の無芸のなかにございます。けれども、あなた様のほうは、おお御主人様、すべてのことから察して、あなたのお声は、非のうちどころなく美しいに相違ございません。ですから、ひとつ何かお歌い下さって、われわれの夜を更に快くしてはいただけないものでしょうか。」
すると彼女は琵琶《ウーデイ》を運ばせて、歌った。ところで、私は生まれてからこれ以上豊かな、これ以上荘重な、あるいはこれ以上完全な声音《こわね》は聞いたことがなく、また、これほど蘊奥を極めた効果の術も、聞いたことはなかった。彼女は私の感嘆を見て、私に訊ねた、「あなたはこの歌詞が誰のもので、この音楽が誰のものか、御存じでいらっしゃいますか。」
私はこれについてはちゃんとわかっていたものの、答えた、「全然存じません、おお御主人様。」彼女は叫びました、「この世の人が今の曲を知らないなどということが、本当にあるのでしょうか。では、覚えておおきなさいませ、この歌詞はアブー・ヌワースのもので、この素晴らしい音楽は、大音楽家のモースルのイスハークのものでございます。」私は身許を明かさずに、答えた、「アッラーにかけて、イスハークなどは、あなたに比べれば、もう問題になりません。」彼女は叫んだ、「バク、バク(24)、あなたのお間違いは何というお間違いでしょう。この世にイスハークに並ぶひとなど、誰がいるでしょうか。あなたは彼の歌をお聞きになったことがないのがよくわかりますわ。」それから彼女は更に歌い始めたが、ときどき歌をやめては、何か私の事欠いているものがないかを見るのであった。こうしてわれわれは楽しみを続けて、ついに暁の光が射すまでに到った。
すると、その乳母と覚《おぼ》しき一人の老婆が来て、宴《うたげ》を打ち切る時刻となったことを彼女に告げた。すると乙女は、引きとるまえに、私に言った、「あなたに慎しみを守ってくれなどと、御注意を申し上げる必要がありましょうか、おおお客様よ。親しい者の集《つど》いというものは、引きとるまえに門口へ置いてゆく担保《かた》のようなものでございます。」私は身を屈めながら、答えた、「私はそのような御注意を必要とする輩《やから》ではございません。」そして、ひとたび彼女に暇を告げると、私は籠に入れられて、道に下ろされた。
自宅に着くと、私は朝の礼拝をして、床に就き、夕方まで眠った。眼が覚めると、急いで着換えをして、宮殿に参上した。けれども侍従たちが言うには、教王《カリフ》は外にお出ましになられて、私にお帰りを待つようにと仰せられたとのこと。というのは、その夜は宴会がおありになり、歌のため私の出席を必要とされたのだ。そこで私はだいぶん待っていたが、そのうち教王《カリフ》がなかなかお帰りにならぬので、前夜のような一夕を逃しては馬鹿らしいと思って、あの路地にかけつけその家までゆくと、そこにはあの籠が下っていた。私はそのなかに入り、ひとたび引き上げられると、貴婦人の前に罷り出た。
私を見ると、彼女は笑いながら、言った、「アッラーにかけて、きっとあなたは、わたくしどものそばに住居を定めてしまうおつもりですね。」私は身を屈めて、答えた、「誰がそのような願いをもたないでいられましょうか。ただ、あなたもよく御存じのとおり、おお御主人様、歓待の権利は三日間つづくもので、私はただその二日目にまいっただけのことでございます。もしも三日目を過ぎて、私が戻ってくるようなことがありましたら、あなたは私の血を奪う権利をお持ちになりましょう。」
われわれはこの夜もたいそう楽しく、話し合ったり、物語を語ったり、詩を誦したり、歌を唱《うた》ったりして、前夜のように過ごした。けれども、いざ籠で降りるまぎわに、私は教王《カリフ》のお怒りを思って、独りごとを言った、「この事件をお話し申し上げぬかぎりは、教王《カリフ》はどんな言いわけもお取り上げにはなるまい。そして、御自身で確かめにならぬかぎりは、この事件を本当にはなさるまい。」それで、私は乙女のほうを振り向いて、これに言った、「おお御主人様、あなたは歌と美声がお好きと拝見いたします。ところで、私には一人の従兄《いとこ》がございまして、この男は私よりもずっと優しい顔をしており、ずっと物腰が上品で、私よりもはるかに才能を持ち合わせ、しかも、この世でどんな人よりも、モースルのイスハークの曲をよく知っているのでございます。それで明日は、私がこの男を一緒に連れてくることをお許し下さるでしょうか。明日はあなたの快いおもてなしの三日目で、最後の日でございますから。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十六夜になると[#「けれども第三百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼女は私に答えた、「おやおや、あなたはもう慎しみを守っていらっしゃれなくなり始めたのですね。それでも、あなたのお従兄様がそんなに気持のよい方でしたら、お連れ下さっても結構でございます。」私は彼女に感謝して、同じ道を通って立ち去った。
自宅に着くと、私は教王《カリフ》の警吏たちがいるのを見つけたが、彼らは私に罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけて、私を引っ捕え、アル・マアムーンの御前《ごぜん》に引きずって行った。私は教王《カリフ》がまるでお怒りの最悪の日々にあらせられるように、爛々たる凄まじい眼をなすって、玉座に坐っていらっしゃるのを拝した。私を御覧になるが早いか、教王《カリフ》は私にお叫びになった、「ああ、犬の息子め、汝はよくもわが命に逆らいおったな。」私は申し上げた、「いえいえ、アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ。私には私の弁明がございます。」仰せになって、「して、その弁明とはいかなるものじゃ。」お答え申して、「それは人前《ひとまえ》ではお話し申し上げかねまする。」教王《カリフ》は直ちに、その場にいた一同の者に座を外すようにお命じになり、そして私に仰せになった、「話してみよ。」そこで私はあの事件を委細詳しくお話し申し上げ、付け加えた、「されば、今夜は、その乙女は私たち二人を待っておるのでございます。それと申しますのは、私はそれをちゃんと約束しておいたからでございます。」
アル・マアムーンは私の言葉をお聞きになると、晴れ晴れとなられて、私におっしゃった、「いかにも、その理由は大いによろしい。して、今宵のために余のことを思いついてくれたとは、よき霊感を得たものじゃ。」そして教王《カリフ》は、この瞬間から、日の暮れを待つまでもはやどうしてよいかおわかりにならぬていであった。また私は教王《カリフ》にとくと御注意申し上げて、乙女のまえでは私の名をお呼びになったりして、御自分と私の素性を曝露するようなことは、決してなさらぬようにとお願いした。教王《カリフ》はそれを確約なされ、そしてよき頃合いとなるや、商人に御変装なされて、路地まで私と同行なすった。
われわれはいつもの場所に、一つのかわりに二つの籠を見つけたので、めいめいその一つのなかに坐り込んだ。われわれはすぐに引き上げられて、露台に下ろされ、そこから件《くだん》の豪奢な広間に降りると、そこへ間もなく、今宵は今までにまして一段と美しくなった乙女がやって来て、われわれと一緒になった。
さて私は、教王《カリフ》が物狂わしいほどに心を奪われておしまいになったのに、気づいた。けれども、彼女が歌い出したときには、もう錯乱であった。乙女のしとやかに差し出す酒が、すでにわれわれの理性を過熱していただけに、なおさらであった。上々の御機嫌と御感激のうちに、教王《カリフ》はさきにお約束なさった取決めを突然お忘れになって、私に仰せになった、「これこれ、イスハーク、その方創作の新曲で、何か御返歌をいたせばよいものを、何をぐずぐずしておるのじゃ。」そこで私は、たいそう困却したが、やむを得ずお答え申した、「仰せ承わり、お言いつけに従いまする、おお信徒の長《おさ》よ。」
この言葉を聞くが早いか、乙女はちょっとわれわれを見つめて、あわただしく立ち上り、顔を覆って立ち去った。というのは、乙女はそれとさとり、教王《カリフ》の御前《ごぜん》に出た場合、婦人たるものは、敬意を表してかくふるまうが適《ふさ》わしいからである。
するとアル・マアムーンはつい御失念なされたために、乙女が退出してしまったことにややがっかりなされて、私に仰せになった、「即刻、当家の主《あるじ》のことを取り調べよ。」そこで私はあの年老いた乳母を呼び寄せて、これに教王《カリフ》からのお問い合せを聞きただした。乳母は私に答えた、「私どもの上に何という禍いでしょう。おお私どもの頭上の恥辱よ。あの方は教王《カリフ》の大臣《ワジール》ハサン・ベン・セヘル(25)の御息女でございます。」すぐにアル・マアムーンはおっしゃった、「これに大臣《ワジール》を呼べ。」老婆は顫えながら姿を消し、しばらくして大臣《ワジール》ハサン・ベン・セヘルが驚愕の極に達して、教王《カリフ》の御手《おんて》の間に入ってまいった。
彼を御覧になると、アル・マアムーンはお笑いになり始め、これに仰せられた、「その方には娘があるのか。」彼は言った、「はい、おお信徒の長《おさ》よ。」お訊ねになって、「その名は何と申すのか。」お答えして、「カディージャと申しまする。」お訊ねになって、「その娘は結婚しておるのか、それとも処女の身か。」お答えして、「処女にござりまする、おお信徒の長《おさ》よ。」仰せになって、「余はその娘を正式の妻として、その方より申し受けたい。」彼は叫んだ、「わが娘と私とは、信徒の長《おさ》の奴隷にござりまする。」教王《カリフ》は仰せになった、「余は娘には、十万ディナールの支度金を認《みと》めるゆえ、その方明朝、王宮にて、国庫よりその金額を、その方自身の分として受け取るべし。同時に、その方の娘をば、結婚の儀式に要する限りの善美をつくして、王宮に連れてまいれ。そして、花嫁の行列に加わる人々一同には、余のほうからの引出物として、余の私財の村|千箇村《せんかそん》と領地千箇所とを、抽籖《ちゆうせん》にて分配せしめよ。」
こうおっしゃってのち、教王《カリフ》はお立ちになり、私はこれに従った。われわれは今度は、正門から外に出たが、教王《カリフ》は私に仰せられた、「イスハークよ、この件については、何ぴとにも話すようなことがあっては相ならぬぞ。その方の頭《こうべ》がその方の慎しみの人質であるぞよ。」
私は教王《カリフ》と妃《シート》カディージャがおなくなりになるまで、この秘密を守ったが、このお妃《きさき》こそは確かに、人間の娘の間でわが眼の見た、最も美しい婦人であられた。されどアッラーはさらに多くを知りたもう。
[#この行1字下げ] ――シャハラザードがこの逸話を語り終ったとき、小さなドニアザードは、自分のうずくまっていた場所から叫んだ、「おおお姉さま、あなたのお言葉は何と楽しく、味わい深く、優しいのでございましょう。」するとシャハラザードは微笑んで言った、「けれども、あなたが臓物の掃除夫[#「臓物の掃除夫」はゴシック体]という逸話を聞いたあかつきには、これなどは何でしょうか。」そしてすぐに彼女は言った。
臓物の掃除夫
語り伝えまするところでは、ある日のこと、メッカで、例年の巡礼の際に、巡礼者《ハジ》たちのひしめく群れが、聖なるカアバ(26)の周りを七巡りをしているとき、一人の男がこの群衆のなかから飛び出してきて、カアバの御壁《おんかべ》に近寄りますと、両手で聖殿を蔽っている神聖な覆いをつかみ、礼拝の姿勢をして、心の底から出るような音調で、叫びました、「どうかアッラーは、もう一度あの女の方を夫に対して怒らせ、私があの女と寝られるようにして下さいますように。」
こんな奇妙な祈りが、このような聖なる場所で唱えられるのを聞きますや、巡礼者《ハジ》たちはすっかり憤慨してしまって、一斉にこの男に飛びかかり、これを地面に投げ飛ばし、さんざんに殴りつけました。そのあと、一同はこやつを巡礼長官《アミール・エル・ハジ》の前に引き立ててまいりましたが、この長官《アミール》の威勢は、極めて広汎な権力によって、全巡礼者に及ぶものです。彼らはこの方に申し上げました、「おお長官《アミール》様、私どもはこの男が、カアバの覆いを持ちながら、不敬の言葉を吐いたのを聞いたのでございます。」そして彼らはその唱えられた言葉を、繰り返して聞かせました。すると巡礼長官《アミール・エル・ハジ》は言いました、「こやつを縛り首にせよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十七夜になると[#「けれども第三百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところがその男は長官《アミール》の足許に身を投げて、これに申し上げました、「おお長官《アミール》様、アッラーの使徒(その上に祈りと平安あれ)の御功績にかけて、どうか、先ず私の話をお聞き下さいまして、それから後に、あなた様が、そうするのが正しいと判断なさったように、私になさって下さいませ。」長官《アミール》はうなずいて承知すると、絞首刑を宣告された男は申しました。
「されば、こういう次第でございます。おおわが長官《アミール》様、私めは、生業《なりわい》といたしましては、街々の汚《よご》れ物を拾い集めておるものでございますが、そのほかにも、羊の腸《はらわた》を洗いましては、これを売って暮しを立てているものでございます。さて、ある日のこと私は、屠殺場から取って来たばかりで、未だそのままの腸を、自分の驢馬に積みまして、そのあとからゆっくりと歩いておりましたところ、そのとき、気違いのようになった大勢のひとびとに出遭いました。彼らは四方八方に逃げ出したり、方々の戸口の内側に身を隠したりしているのです。それで私はちょっと遠くを見ますと、数人の奴隷が立ち現われ、それぞれ長い棒を振り廻して、彼らの前の通行人たちを追い立てておりました。私は一体この事件は何ごとなのかと訊ねてみましたところ、それは、さるお偉い方の御内室《ハーレム》(27)が、これから街をお通りになるところで、通りからは、通行人を一人残らず立ち去らせなければならないということでございました。そこで私は、もしこのまま自分の道を続け通そうとすれば、非常に恐ろしい目に遭うことがわかりましたので、自分の驢馬を停め、こいつと一緒に壁の隅にもぐり込み、できるだけ姿を消して、そのお偉い方の御婦人連中などを見る気にならないように、顔を壁のほうに向けました。間もなく、私は御内室《ハーレム》がお通りになる音を聞きましたが、とてもそんな方を見ようとは思いませんでした。そして私は、では後ろを向いて自分の道を続けることにしようと思っておりますと、そのとき、いきなり、私は黒人の二本の腕でふんづかまえられたような気がしました。そして私の驢馬は、別な黒人の手の間にあって、奴は驢馬をつれて、遠ざかってゆくのが見えました。私は顫え上って、振り返って、通りを見ますと、三十人の乙女が一斉に私を眺めておりました。その真中には、なやましげな眼つきから申せば、喉が渇いておとなしくなった羚羊《かもしか》のよう、しなやかな胴から申せば、埃及柳《バーン》のしなやかな小枝のような、一人の乙女がおりました。そして私のほうは、私をつかまえていた黒人のために、両手を後ろに縛られてしまいまして、他の宦官どもに無理矢理に引き立てられてゆきました。私も抗議を申し立てましたし、通行人一同も、私が壁にぴったりくっついていたところを見ていたので、証言をしたり、叫び声を上げたりして、私をさらってゆく人たちに言ってくれました、『こいつは何もしやあしなかったんだ。こいつはあわれな臓物の掃除夫なんだ。罪のない男を捕えて縛るなんていうのは、アッラーの前で不法だぞ。』けれども宦官どもは、一切聞こうとせず、御内室《ハーレム》のあとから私を引きずってゆきました。
この間じゅう、私は心のなかで考えておりました。『一体おれはどういう罪を犯したというんだろう。こいつはきっと、この臓物の悪い臭いが、あの貴婦人の嗅覚《はな》に堪《こた》えたにちがいないぞ。多分あの方は妊娠しておいでになるんで、実際に、御自身の胎内に何か変調をお覚えになったに違いあるまい。きっとそれが原因なんだと思うが、さもなければ、ひょっとするとおれの恰好がかなり見苦しくて、このやぶけた着物から、おれさまの不作法な部分が見えていたのが原因《もと》かもしれん。アッラーおひとりのほかには頼りはない。』
それで私は、私に同情する通行人たちの抗議のさなかを、そのまま宦官どもに引っ立てられてゆき、とうとう一同はある大きなお屋敷の門に着き、私は前庭のなかへと入れられたのですが、そのお庭の豪勢なことときたら、とても私などには申し述べられるものではございません。そして私は魂のなかで考えました、『ここがおれのお仕置に定められた場所なんだ。おれはやがて殺されるんだろうが、家のやつらは誰も、おれの行方不明の原因《いわれ》は知らずじまいだろうな。』そして私はこの最期の際《きわ》に当って、あのかわいそうな驢馬のことも考えました。あいつは全く忠実《まめ》なやつで、それはもう決して足など躓《つまず》かせたことはなく、臓物も汚れものの負籠《かご》も決して引っくり返したことはなかったのです。けれども間もなく、一人の綺麗な奴隷の少年がやって来て、私はこういう情けない考えから引き出されました。その少年は私にどうか自分のあとについて来てくれと優しく頼んで、私を風呂場《ハンマーム》に案内して行きますと、そこでは三人の美しい女奴隷が私を迎え入れて、そして私に言いました、『急いであなたの襤褸《ぼろ》をお捨てなさいませ。』私がそのとおりにいたしますと、その女たちは直ちに私をあったかい部屋に連れてゆきまして、そこで、それぞれ手を下《くだ》して私に湯をつかわせ、一人は私の頭、一人は私の脚、一人は私の腹というように分担して、私を揉んだり、こすったり、香水をつけたり、乾かしたりいたしました。これが済みますと、私に立派な着物を持って来て、どうかこれを着てくれと頼みました。けれども私は大変まごついてしまい、生まれてこの方こんなものは見たこともなかったので、どこから手をつければよいのか、どうやって着たらよいのか、わかりませんでした。そこで私は若い娘たちに言いました、『アッラーにかけて、おお御主人様方、きっと私は裸のまんまでいるんじゃないかと思いますよ。といいますのは、私にはこんなとほうもない着物は、とてもひとりで着られそうもないから。』すると女たちは笑いながら、私に近寄りまして、着物を着せてくれながら、私をくすぐったり、抓ったり、私の重い商品を持ち上げてみたりしましたが、彼女たちはこれが巨きくて、立派な代物だと思いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十八夜になると[#「けれども第三百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それで私は、その女たちの真中で、これから先どうなることか訳がわからないでおりますと、そのとき私に着物を着せ、薔薇水をふりかけ終えると、女たちは私の腕をとり、まるで新郎を導いて行くように、私をある広間のほうへ連れて行ったのですが、そこには、私の舌ではとても言い表わせないような洒落た調度が整えられており、色のついた線を絡み合わせた絵がいろいろと飾ってありました。そしてそこに入るが早いか、私の見たのは、象牙の寝床の上にぼんやりと寝そべり、モースル切れの軽やかな衣をきたあの貴婦人その人が、御自身の女奴隷数人に取り巻かれていらっしゃるところでした。私を御覧になると、貴婦人は近寄るように合図をなさりながら、私をお呼びになりました。私が近寄りますと、坐るようにとおっしゃいまして、私は坐りました。すると女奴隷たちに、われわれの食事を出すようにお命じになりまして、びっくりするような御馳走が出されましたが、私は生まれてからそんなものはついぞ見たこともなかったので、今でもその名を挙げることはできません。私はそれを磁器に幾皿か、空腹を満たすだけ食べました。それから私は手を洗って果物を食べました。するといろいろのお飲み物の盃と、お香《こう》の満ちた香炉が運ばれてまいりました。そして、私たちが香や安息香の煙で匂いを焚きこめられてから、貴婦人は御自身の手で、私になみなみと飲み物をお注《つ》ぎになり、私と御一緒に同じ盃からお飲みになりまして、とうとう私たちは二人とも酔っ払ってしまうまで飲みました。そこで貴婦人は女奴隷たちに合図をなさいますと、一同の者はみんな姿を消し、私たち二人だけを広間に残しました。
時を移さず、彼女は私を御自分のほうへ引き寄せられ、腕のなかにお抱きしめになりました。そこで私は、彼女を甘くして上げるような工合に、ジャムの太い筋《すじ》を差し出し、果物の切り身とゼリーを同時に差し上げたのでした。そして彼女をぴったりと抱きしめるたんびに、私はそのお体《からだ》の麝香や竜涎香の匂いで酔い痴れるような感じがして、まるで夢のなかにいるのか、それとも天国の天女《フーリー》を腕に抱いているような思いがいたしました。
私どもはこうして、朝まで抱き合ったままでいました。それから、彼女は私に向って、お前の引き上げるときが来たとおっしゃいました。けれども、その前に私がどこに住んでいるのかとお訊ねになりました。そして私がこの点について必要な目印をお教えしますと、では都合のよいときには、あらかじめお前のところに人をやって知らせるとおっしゃいました。そして私に金糸と銀糸で刺繍した一枚のハンケチを下さいましたが、そのなかには、なにか幾つかの結び目で結《いわ》えられたものが入っておりました。そのとき私におっしゃいました、『これでお前の驢馬に何か食べるものでも買ってやって頂戴。』そして私は、まるで天国から出てゆくのと全く同じ有様で、そのお宅から出て行きました。
私の住居のある臓物屋に着いたときに、私はハンケチの結び目をほどいて、独り言を言いました、『これにはせいぜい銅貨の鐚銭《びたせん》が五枚ぐらいしか入っていないんだろうが、それでもとにかく、おれも朝飯を買うだけのことはできそうだ。』ところが、そこに金貨五十ミトカル(28)を見つけた私の驚きは、いかばかりだったでしょう。私は急いで穴を掘り、稼ぎのない日々のために、そこへこの金貨を埋めてしまい、そして自分のためには、銅貨二枚でパンと葱一本を買い、臓物屋の戸口に坐りこみ、これから自分に起る事件を思い耽りながら、それで食事をしました。
夜になりますと、一人の奴隷の少年が、私を愛していらっしゃる女の方のところから、私を探しにやって参りました。そこで私は彼に従《つ》いてゆきました。彼女が私を待っておいでになる広間に着きますと、私はその両手の間の床に接吻いたしました。けれども彼女はすぐにまた私をお立たせになり、私と一緒に竹と象牙の寝台の上に横におなりになって、前の夜と同じように、祝福された一夜を私に過ごさせて下さいました。そして朝になると、前日と同じように、金貨五十ミトカルの入った、二度目のハンケチを下さいました。そして私はまる一週間のあいだをこうして暮しつづけましたが、そのたびごとに、双方から乾いたジャムと湿ったジャムの饗宴が行なわれ、私には金貨五十ミトカルが入ったのでありました。
ところが、ある夜のこと、私は彼女の家に赴きまして、すでに寝床の上で、いつものように私の肝心な品の荷を解《と》こうとしておりましたところが、そのとき、突然一人の女奴隷が入って来て、女主人の耳もとでふた言み言申しまして、いきなり私を広間から外へ引きずり出し、上階へ連れてゆき、そこへ私を閉じこめて鍵をかけ、そして立ち去ってしまいました。それと同時に、往来に馬の大きな足音が聞えてきましたので、中庭に面した窓から見てみますと、一人の月のような若者が、衛兵や、宦官など数多《あまた》のお供を引き連れて、家のなかへ入ってまいりました。彼は若い婦人のいる広間に入り、彼女と一緒に、戯れたり、突撃したり、その他これに似たようなことをしながら、一晩じゅうを過ごしました。そして私のところに二人の運動が聞えてきて、私は二人がそのつど立てる驚くべき物音を聞きながら、指を折って二人の一件の数を数えることができました。そして私は魂のなかで考えたのでした、『アッラーにかけて、彼らは寝床の上に鍛冶屋の仕事台を据えつけてしまったな。そして鉄の棒もうんと熱いに違いないわい、鉄床《かなとこ》があんなに呻くくらいなんだから。』
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八十九夜になると[#「けれども第三百八十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
とうとう物音は朝がくるとともに止んで、私は鳴りひびく鉄鎚男《かなづちおとこ》の若者が、大門から出て、従者を従えて立ち去ってゆくのを見たのでした。彼の姿が見えなくなったと思うと、すぐ若い御婦人は私に会いにおいでになり、そして私におっしゃいました、『お前はきっと、今出ていらっしゃった若い男の方を見たろうね。』私は答えました、『はい、たしかに。』彼女は私におっしゃいました、『あれは私の夫よ。けれども私は早速お前に、私と夫のあいだに起ったことを話して上げて、なぜ私がお前を情夫に選んだか、その理由《わけ》を説明して上げましょう。それはこういうわけ。私がある日のこと、お庭であの方のそばに坐っていたところが、そのとき、突然あの方が私を置いて、お台所のほうへ姿を消しておしまいになったの。私ははじめ、きっと何かさしせまった御用でも足しにいらっしゃったのだと思ったわ。けれどもひとときたっても、帰っていらっしゃらなかったので、私はあの方のいらっしゃると思った場所へ探しに行ったけれども、そこにはおいでにならなかった。そこで引き返して、お台所のほうへ出向いて、女中たちに様子を訊ねてみようと思いました。私がお台所に入って見ると、あの方は筵《むしろ》の上に、一番汚ない女中の皿洗い女と一緒に、寝ていらっしゃったのよ。それを見ると、私は大急ぎでそこを立ち去ったのだけれども、今度は私のほうで、一番身分の卑しい、一番様子のいやらしい男に身を委せて、あの方に復讐をしないうちは、私の寝床にはあの方を入れて上げまいという、誓いを立てたのです。そして私はすぐに、そういう男を探すために、都じゅうを歩き廻り出しました。けれども、私がそういう目的で街々《まちまち》を歩き廻って、もう四日も経ってしまったところに、お前に出会って、お前の格好と臭いのせいで、私はお前を選んでやろうと決めました。今はもう起ったことが起って、これで私は、お前に身を委せてしまった上で、初めて夫と仲直りをしたのだから、ちゃんと自分の誓いを果したわけです。けれども、もしも夫がまたもや、うちの女奴隷の一人とお寝みになるようなことがあったとしたら、私はきっとお前を呼びにやって、あの方に仕返しをしないではおかないから、お前もそのつもりでいておくれ。』そして私におひまを出しなさりながら、またもやお礼に四百ミトカルを下さいました。
そこで私も立ち去ったわけなのですが、私はこちらに参って、アッラーにぜひお願い申しあげ、あの御亭主を女中のそばへ戻していただき、あの女の方が私をおそばに呼んでくれるようにしていただきたいと、こう思ったのでございます。そしてこれが私めの物語でございます、おお、巡礼長官《アミール・エル・ハジ》の旦那様。」
この言葉を聞くと、巡礼長官《アミール・エル・ハジ》は並いる一同のほうを向いて、彼らに申しました、「われわれはこの男が、カアバに向って唱えた不埓な言葉を、許すべきである。と申すのは、彼の物語は彼を宥恕するからじゃ。」
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは言った。
乙女「涼し眼」
アムルー・ベン・モーセダ(29)は、わたくしどもに次のような逸話を語っております。
「ある日のこと、ハールーン・アル・ラシードの御子《おんこ》アブー・イサーは、その御親戚のヘシャーム(30)の御子アリのお宅で、クラト・アル・アイン(31)と呼ばれる若い女奴隷を見そめられ、これに激しく恋慕しておしまいなさいました。アブー・イサーは最大の注意を払って、ひたすらわが恋の秘密を隠そうとし、何ぴとにも自分の抱く感情を知らせぬように努めなさいました。けれども彼は、人を通じてアリにその女奴隷を売ることを決心させようと、一所懸命骨を折られました。
ずいぶん時が経っても、彼はこの件に対するお骨折りがことごとく無駄なのを見て、計画を変えようと決心なさいました。彼はアル・ラシードの御子で、兄君にあたる教王《カリフ》アル・マアムーンに会いに行かれ、どうか自分と一緒にアリのお館《やかた》へ御同行なさり、不意の御訪問でアリを驚かしていただきたいとお頼みしました。教王《カリフ》はその思いつきに賛成され、お二方は馬を用意させて、ヘシャームの御子アリのお館へと赴かれました。
お二方の入って来られるのを見なすったとき、アリは教王《カリフ》の御手の間の床に接吻され、饗宴の広間を開けさせて、そこにお二方を招じ入れました。するとお二方は善美を尽した広間を見出されました。柱と壁は異なった色彩の大理石でできており、眼にまことに快い模様を描いた、ギリシア式の象眼が施されておりました。そして広間の嵌木の床はインド筵《むしろ》で被われていて、その上には一枚作りのバスラの絨氈が拡げてあり、これが広間の表面を縦横に占めておりました。
アル・マアムーンは先ず、ちょっとお立ち止りになって、天井や壁や嵌木の床を嘆賞なされ、それから仰せになりました、『さて、アリ公よ。われわれに食べ物を出して下さるのに、何をお待ちになっておられるのか。』すぐ、アリは手をお打ちになりますと、奴隷たちが種々さまざまの雛鳥や、鳩や、あらゆる種類の熱い焼肉や冷たい焼肉を携えて、入ってまいりました。それからまた、あらゆる種類の液状の御馳走と固型の御馳走が運ばれ、ことに乾葡萄と巴旦杏を詰めた鳥獣の肉が、たくさん運ばれてまいりました。というのは、アル・マアムーンは、乾葡萄と巴旦杏を詰めた鳥獣の肉を、お好みだったからでした。食事が終りますと、粒の揃った葡萄の房から搾《しぼ》り、香りの高い果物と匂いのよい果物の核とで煮た、見事な酒が運ばれてまいりました。そしてこの酒は、金と銀と水晶の盃で、月のような十人の少年によって供されましたが、この少年たちは、軽やかなアレクサンドリア布の衣をまとっておりました。そしてこの十人の少年は、お客様方に盃を差し出すと同時に、宝石で飾った金の撒水器をとって、麝香入りの薔薇水をお客様方にふりかけたのでした。
教王《カリフ》はこうした一切のことにいたくお悦びになって、館《やかた》の主人《あるじ》に接吻して、仰せになりました、『アッラーにかけて、おおアリ公よ、余は今後、御身をもはやアリとは呼ばず、「美の父」と呼ぶこととしよう。』そしてヘシャームの御子アリは事実、このとき以来、アブール・ジャマル(32)という異名で呼ばれたのでございますが、さて、彼は教王《カリフ》の御手に接吻され、それから御自分の侍従に合図をなさいました。すぐに、広間の奥の大きな緞帳《どんちよう》が上り、黒絹の衣裳をまとった、花壇のように美しい十人の若い歌姫が現われました。その女たちは前に進み出まして、十人の黒人奴隷が急いで広間に円形に並べた、黄金の椅子に坐りました。彼女たちは絃楽器を完全な技法で奏しながら、前奏を弾き、それから声を合わせて、恋の短詩を歌いました。するとアル・マアムーンは、この十人のうちで、一番激しくお心を動かされた女を御覧になって、これにお訊ねになりました、『そちの名は何と申すのか。』その女はお答え申しました、『私は「調《しらべ》」と申します。おお信徒の長《おさ》よ。』彼は仰せになりました、『「調《しらべ》」とは、いかにもそちに適わしきよい名を持っておる。余はそち唯ひとりで、何か歌うのを聞きたい。』そこで、『調《しらべ》』は彼女の琵琶《ウーデイ》の調子を合わせ、そして歌いました。
[#ここから1字下げ]
われは淑やかに
人眼はばかり、
心おののきて、
敵《かたき》らの眼を
おそる。
されど友近づけば、
よろこびに
われ打ち顫え、
溶け果てて
彼に赴く。
されど友もし遠のかば
われは不安に身を顫う
子を失いし
羚羊《かもしか》のごと。
[#ここで字下げ終わり]
アル・マアムーンはうっとりなさって、彼女に仰せになりました、『実に見事であったぞ、おお若い娘よ。して、その詩句を作ったのは誰じゃ。』彼女は答えました、『それはアムルー・アル・ゾバイディ(33)でございます。そして作曲はモーベド(34)でございます。』教王《カリフ》は手にしておられた盃を飲み干されました。すると弟君アブー・イサーとアブール・ジャマルも同じようになさいました。御三方《おさんかた》がそれぞれの盃をお置きになったときに、青い絹の衣裳をまとい、ヤマーンの飾帯をしめた、十人の新しい歌姫が入ってまいりました。彼女たちは、最初の十人が引き下ったあとの席を占め、それぞれの琵琶《ウーデイ》の調子を合わせますと、鮮やかな技法で声を合わせて、前奏の曲を歌いました。そこで教王《カリフ》は、その女たちのなかの、水晶のような一人の女の上に、じっとお眼をとめられ、これにお訊ねになりました、『そちの名は何と申すのか、おお若い娘よ。』彼女は答えました、『「牝鹿」と申します、おお信徒の長《おさ》よ。』彼は仰せになりました、『されば「牝鹿」よ、われわれに何かを歌ってくれよ。』
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してきたのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十夜になると[#「けれども第三百九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると『牝鹿』と呼ばれる女は、自分の琵琶《ウーデイ》の調子を合わせて歌いました。
[#ここから1字下げ]
自由の天女《フーリー》にして処女の
われらは疑《うた》ぐりをあざ笑う。
われらはメッカの羚羊《かもしか》なれば
狩ることは禁じられたり。
頑《かたく》なのひとびとは
われらの眼《まなこ》なやましく
言葉の婀娜《あだ》めきたるゆえに
われらを不身持とぞ譏《そし》る。
われらが身振りのはしたなく
信心深き回教徒《ムスリムーン》らの
面《おもて》をそむかしむるものあらん。
[#ここで字下げ終わり]
アル・マアムーンはこの歌謡をしゃれたものとお思いになり、その乙女にお訊ねになりました、『その歌は誰のものじゃ。』彼女は答えました、『詩句はジャリール(35)のもので、作曲はイブン・スライジュ(36)のものでございます。』そこで教王《カリフ》と他のお二方は、それぞれの盃を飲み干されましたが、その間に今の奴隷たちは退出して、すぐに入れかわって、別の十人の歌姫が、深紅の絹の衣裳をまとい、深紅の飾帯をしめ、解いた髪の毛を背中にゆったりと垂らして、現われました。こうして赤色に埋まる女たちは、千々《ちぢ》の煌《きら》めきに輝く紅玉《ルビー》に似ていました。彼女たちは黄金の椅子に坐って、それぞれ自分の琵琶《ウーデイ》で伴奏をしながら、声を合わせて歌いました。するとアル・マアムーンは、その仲間の真中で、最も輝いている女のほうをお向きになり、これにお訊ねになりました、『そちは何と呼ぶのじゃ。』彼女は答えました、『「誘惑」と申します、おお信徒の長《おさ》よ。』彼は仰せになりました、『では「誘惑」よ、いそぎそちの声を、独吟で余らに聞かせてくれよ。』すると『誘惑』は、琵琶《ウーデイ》で伴奏をしながら歌いました。
[#ここから1字下げ]
金剛石も紅玉も、
錦襴もはた絹も
美わしき娘らの気にならず。
彼女らの眼は金剛石
唇は紅玉にして、
そのほかは絹なれば。
[#ここで字下げ終わり]
教王《カリフ》はこの上もなくお悦びになって、この歌姫にお訊ねになりました、『その詩は誰のものじゃ、おお「誘惑」よ。』彼女は答えました、『これはアディ・ベン・ザイド(37)のものでございます。作曲のほうは、たいそう古いもので、作者は不明でございます。』アル・マアムーンと弟君アブー・イサーと、アリ・ベン・ヘシャームは、御自分の盃を干されますと、十人の新たな歌姫が、金の衣裳をまとい、宝石の煌めく金の帯で胴をしめて立ち現われ、椅子に坐りまして、前の女たちと同じように、歌いました。すると教王《カリフ》は、胴の一番すらりとした女にお訊ねになりました、『そちの名は。』彼女は申しました、『「露の雫《しずく》」でございます、おお信徒の長《おさ》よ。』彼は仰せになりました、『されば、「露の雫」よ、われらはそちから何かの詩句を待っておるぞよ。』直ちに彼女は歌いました。
[#ここから1字下げ]
かの君の頬の上にて酒のみて
わが理性は飛び去りぬ。
されば、われはただ
甘松香と香料もて
匂い籠めたる肌着をまとい、
街《まち》のさなかに姿現わし
われらの恋を人に示さん、
甘松香と香料もて
匂い籠めたるわが肌着きて。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句をお聞きになりますと、アル・マアムーンはお叫びになりました、『やあ、アッラー、見事であったぞ、おお「露の雫」よ。もう一度、最後の詩句を繰り返してくれ。』すると『露の雫』は、その琵琶《ウーデイ》の絃を爪弾《つまび》きながら、いっそう感じをこめた調子で、繰り返しました。
[#ここから1字下げ]
街のさなかに姿現わし
われらの恋を人に示さん、
甘松香と香料もて
匂い籠めたるわが肌着きて。
[#ここで字下げ終わり]
すると教王《カリフ》は彼女にお訊ねになりました、『その詩句は誰のものじゃ、おお「露の雫」よ。』彼女は申しました、『アブー・ヌワースのものでございます。そして作曲はイスハークでございます。』
この十人の女奴隷がその演奏を終えたとき、教王《カリフ》はこの宴席を切り上げて、お引き取りになろうと思われました。けれどもアリ・ベン・ヘシャームは進み出て、教王《カリフ》に申し上げました、『おお信徒の長《おさ》よ、まだ一人、一万ディナールで買い求めました女奴隷がございますので、私はこれを教王《カリフ》にお目にかけたいと存じます。されば、何とぞもうしばらくのあいだ、おとどまり遊ばされまするように。もしもその女がお気に召せば、御自分のものとしてお納め遊ばしても結構でございます。たとえお気に召さなくとも、とにかくその女をば、君の聖鑑を仰ぐことといたしましょう。』アル・マアムーンは仰せになりました、『さらばその女奴隷をこれに。』その瞬間、たおやかでほっそりした美女、埃及柳《バーン》の小枝、魅惑をたたえたバビロン風の眼と、端正な弓のような眉毛を持ち、素馨《ヤサミーン》から借りた色つやをした、比類のない乙女が現われました。彼女は額に、真珠と宝石を飾った黄金の環をめぐらしておりましたが、その上には金剛石の文字で、次の詩句が走っておりました。
[#2字下げ] 魔神《ジン》に育《はぐく》まれたる妖女、彼女はよく弦《つる》なき弓の箭《や》をもて人の心を射ぬくを得。
乙女は静々と前に進みつづけて、自分に用意された黄金の椅子に、微笑みながら坐りました。けれども教王《カリフ》の弟君アブー・イサーは、彼女が入ってくるのを見るが早いか、御自分の盃を落し、いとも不安気な様子で顔色をお変えになりましたので、マル・マアムーンもこれにお気づきになって、彼におたずねになりました、『わが弟よ、お前はそのように顔色を変えるとは、どういたしたのか。』彼は答えました、『おお信徒の長《おさ》よ、これはただ、私がときどき襲われる肝臓の病いのためなのです。』けれどもアル・マアムーンは、なおも重ねて彼におっしゃいました、『お前はひょっとするとこの乙女を知っていて、今日より以前に見たことがありはしないか。』彼はもはや否定しようとは思わず、申しました、『おお信徒の長《おさ》よ、月の存在を知らぬ者が誰かあるでしょうか。』教王《カリフ》はそこで、乙女のほうに向かれて、これにお訊ねになりました、『そちは何と申すのか、若い娘よ。』彼女は答えました、『「涼し眼」と申します、おお信徒の長《おさ》よ。』彼は仰せになりました、『しからば「涼し眼」よ、われわれに何か歌うてくれよ。』すると彼女は歌いました。
[#ここから2字下げ]
舌の上にのみ愛を持ちて心に無情を宿す者、果してよく恋をなし得るや。
人はわれに言えらく、不在は恋の責苦を癒《いや》すと。されど、あわれ、不在はいささかもわれらを癒さざりき。
人はわれらに言えらく、恋しきものの許に帰れと。されどその薬も効《かい》なし、恋人はわれらの恋を顧みざれば。
[#ここで字下げ終わり]
教王《カリフ》はその声に感嘆なさって、彼女にお訊ねになりました、『して、その歌は誰のものじゃ、おお「涼し眼」よ。』彼女は申しました、『この詩句はアル・クザーイ(38)のもので、作曲はザルヅゥル(39)でございます。』けれどもアブー・イサーは感動に息をつまらせ、兄君に申されました、『これに返歌をうたうことを私にお許し下さい、おお信徒の長《おさ》よ。』教王《カリフ》は承諾をお与えになりますと、アブー・イサーは歌いました。
[#ここから2字下げ]
痩せ細る身はわが衣のなかにあり、嘖《さいな》まれし心は、わが胸のうちにあり。
わが恋を黙せしめてわが眼《まなこ》のなかに現わさざりしは、恋の対象《まと》なる月を傷つくるを恐れしためぞ。
[#ここで字下げ終わり]
『美の父』アリはこの返歌を聞かれたとき、アブー・イサーが、自分の女奴隷『涼し眼』を狂おしく愛しておられることが、おわかりになりました。彼は直ちに立ち上って、アブー・イサーの前に身を屈め、これに申されました、『おおわが賓客《まろうど》よ、私の家で、何ぴとかによってある望みが述べられたときには、たとえ心中で言われたにせよ、即座に叶えられなかったというようなことなど、あってはなりませぬ。さればもし教王《カリフ》が、その御前《おんまえ》で私が申し出をいたすをお許し下さるならば、「涼し眼」はあなたの奴隷となりました。』すると教王《カリフ》は御同意をお与えになったので、アブー・イサーは乙女を連れてゆかれました。
さて以上が、アリとまた彼の時代の人たちの、比類のない気前のよさでございました。」
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは、終るにあたって、さらに以下の逸話を述べた。
乙女か青年か
賢人オメル・アル・ホムシ(40)が語っておりまする。
「イスラム暦第五百六十一年(41)のこと、バグダードで、最も教養高く、最も雄弁な婦人で、イラクの学者たちが『師匠のうちの女師匠』と呼んでおった女が、ハマー(42)の町に巡回してまいった。ところで、この年には、回教諸国のあらゆる地点から、もろもろの知識に通暁した人々が、ハマーに来ておった。そしてこれらすべての人々は、こうして弟を連れて諸国を旅していた、このあらゆる女のなかでの抜群の才女に、話を聞いたり、質問したりして、難問について公開討論を行なったり、科学、法学、神学、文芸について、問いつ問われつすることができるのを、たいそう喜んでおったのだ。
さて私も、この婦人の話を聞きたかったので、友人の学者、長老《シヤイクー》エル・サルハーニーに頼んで、当日彼女が議論を行なう場所に、私を伴ってくれと言った。エル・サルハーニー老は承知してくれて、われわれは二人打ち揃って広間に赴いたところ、そこには女史《シート》ザヒアがわれらの宗教の慣習に背かぬように、絹の幕の後ろに控えておった。われわれは広間の腰掛のひとつに坐ったが、女史の弟はわれわれに気を配って、果物や茶菓を供してくれた。
私はザヒア女史に取次を頼み、自分の名と肩書とを名乗ったあとで、法学ならびに、古来の最も学識高き神学者たちの行なった、律法に関するさまざまな解釈について、女史と議論を始めたのである。私の友人エル・サルハーニー老のほうは、彼は並外れた美しさの青年、ザヒア女史の弟を見るや直ちに、恍惚の限り恍惚としてしまい、もはやこの青年から眼を離すことができなくなってしまったものだ。さればザヒア女史も、間もなく私の連れの放心に気がついて、彼をとくと観察したあげく、とうとう彼を動揺させておる感情の正体が、わかってしまったのである。女史は突然彼の名を呼んで、彼に言った、『おお長老《シヤイクー》よ、どうやらあなたは、乙女よりも青年を好きな人々のお仲間に違いないように、拝されます。』
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十一夜になると[#「けれども第三百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
私の友人はにっこり笑って、言った、『いかにも、その通りですわい。』女史は訊ねた、『それはまた、どういうわけで、おお長老《シヤイクー》よ。』彼は言った、『何となれば、アッラーは女子のほうはおかまいなしに、青年の身体をば、感歎すべき完全さをもって形づくりたもうたゆえであり、私の趣味好尚が万事において、私を不完全より完全を好むようにしむけるからでござる。』女史は幕の後ろで笑って、言った、『よろしゅうございます、あなたが御自分の意見を立て通そうとなさるのなら、私のほうもあなたに応戦する覚悟がございます。』彼は言った、『大いに望むところ。』すると女史は彼に訊ねた、『そういうことでしたら、あなたは若い男が、女や若い娘よりも優秀であるということを、どのように証明なされますか、御説明下さいませ。』彼は言った。
『おお御主人よ、お求めの証拠は、一方では推理の論法によって、他方では聖典《キターブ》と行録《スンナ》によって、なし得ますのじゃ。
事実、コーランには述べられておる、「男子は女子を遥かに凌ぐものなり。そはアッラーが男子に優越性を与えたまいしためなり(43)。」コーランにはさらに述べられておる、「相続においては、男の取り分は女の取り分の二倍となすべし。されば兄弟は姉妹の二倍を相続すべし(44)。」それゆえ、この聖なるお言葉はわれわれに、女というものは男の半人前としか見なさるべきでないことを証明し、これを恒久的に定めておるのです。
行録《スンナ》のほうはどうかと申せば、それがわれわれに教えるところによると、預言者(その上に祈りと平安あれ)は、男の贖罪の犠牲《いけにえ》をば、女のそれの二倍の価値あるものと評価しておられたのじゃ。
さて、これより純粋の論理に訴えてみますれば、われわれは、理性もまた聖伝《ハデイース》と御訓《おんおし》えとを確認しておるのを見る。事実、われわれが簡単に考えてみるとする、「優先権は誰にあるか。能動的な者か、それとも受動的な者か。」答えはいささかの疑いもなく、能動的な者のほうだということになろう。ところで、男子は能動的本体であり、女子は受動的本体でありまする。されば何の躊躇もない。男子は女子の上にあり、若い男子は若い娘に優先するのでござる。』
けれどもザヒア女史は答えた、『御引用の句に間違いはございません、おお長老《シヤイクー》よ。そして私もあなたと同じく、アッラーがその聖典のなかで、女性よりも男性に優位をお与えになったことは、認めます。ただアッラーは何ごとも特殊な場合を限りなさらず、一般的に仰せられただけなのです。では、もしもあなたが物ごとの完全を求めていらっしゃるなら、どうして若い男子たちだけに限って、向ってゆきなさるのでしょうか。あなたはむしろ鬚面の男たちとか、額に皺のある敬うべき老翁《シヤイクー》たちのほうを、お選びになって然るべきでございましょう。こういう人たちのほうが、完全の道を遥かに遠く進んでいるのであってみますれば。』
彼は答えた、『まことにごもっとも、おお御主人よ。けれども私はここで、老爺と老婆との比較をしてはおりませぬ。問題はそんなことではなく、ただ若い男子のことだけで、これを私は推論の対象としておるのです。事実、おお御主人よ、あなたも私の意見に同意なさるであろうが、美しい若者の完全さ、そのしなやかな体つき、優美な四肢、頬の上に混り合ったさまざまな柔かい色、微笑の愛らしさ、声の魅力など、これに比べられるようなものは、およそ女のなかには何ひとつありはしませぬぞ。それに預言者御自身も、このような明白なものに対しわれわれを警戒させてやろうと思し召して、われわれに仰せられておる、「汝らの眼を鬚なき若き男《お》の子らの上に長くとどむることなかれ。彼らは天女《フーリー》の眼《まなこ》よりも惑わしの眼を持てばなり(45)」と。さらに、御承知のとおり、若い娘の美しさに与え得られる最大の賞讃とは、青年の美しさに比べてやることじゃ。詩人アブー・ヌワースがこうしたすべてについて語っている詩句や、次のように言っている詩篇は、あなたもよく御存じのところ。その詩のなかで彼は申しておりまする。
[#2字下げ] 彼女は若き男《お》の子の腰を持ち、北風に埃及柳《バーン》の小枝の揺るるがごとく、軽き風にも揺り動く。
されば、もし若い男子の魅力が、明らかに若い娘の魅力より優れておらぬとすれば、どうして詩人たちが、男子を比較の基準に用いることがありましょうぞ。
さらに、あなたも御存じないことではござるまいが、青年は外貌の立派なことだけにとどまるのではなく、その言語の魅力と態度の快さによっても、われわれの心を奪うことができますのじゃ。これに加えて、若い産毛《うぶげ》が、薔薇の花びらの色どりよく調和する頬や唇に、影を落し始めるときになると、青年は実に好ましくなりますな。かかる折の青年の発する魅力に比べられるようなものが、何ものか見つけ得られるであろうか。詩人アブー・ヌワースが叫んだのも、まことに理《ことわり》なるかな。
[#ここから2字下げ]
彼の誹謗者らは、われに言いたり、「髭は彼の唇を粗《あら》くし始めたり」と。われは彼らに言いたり、「諸君の誤りのいかに大なる。いかんぞかの装飾《かざり》をば瑕瑾《きず》と見なし得るか。
かの産毛《うぶげ》は彼の顔《かんばせ》と歯の白さを引き立つるなり、装身具が真珠の光輝を引き立たするごとく。そは彼の須要《すよう》の品の得たる新しき力の愛《め》ずべき一の徴《しるし》なり。
薔薇は彼の双頬を去ることあらじと厳かに誓いたり。彼の瞼《まぶた》は雄弁なる言語をわれらに語り、またその眉は明答をなすすべを知る。
諸君の悪口の的《まと》なる髭は、ひたすら彼の魅力を守り、粗野なる眼より防がんがために生ぜしのみ。そは彼の口中の酒にさらに滋味を増す。銀《しろがね》の頬の上なる髭の緑は、さらに一色を添えてわれらを魅するなり。」
[#ここで字下げ終わり]
他のある詩人も同じように言うた。
[#ここから2字下げ]
嫉める者どもわれに言いたり、「汝の情熱のいかに盲目なる。汝は見ずや、髭はすでに彼の頬をば覆いたるを。」
われは彼らに言えらく、「もし彼の顔の白きが、産毛の淡き蔭により和《やわ》らげらるることなかりせば、わが眼はその光輝をよく堪うること能わじ。
かつはまた、地の不毛なりしとき、これを愛せしに、のちに春の日これを肥沃ならしめしとき、いかでかこれを捨て得んや。」
[#ここで字下げ終わり]
他の一人の詩人もまた言った。
[#2字下げ] わが友の頬に薔薇のほかあらざりしときも、われは友をば捨てざりき。薔薇の周りに桃金嬢《ミルト》と菫《すみれ》の生いしとき、いかでかわれはこれを見捨てん。
最後に、数多の詩人のなかで、今一人の詩人が言うておる。
[#ここから2字下げ]
なよやかの男《お》の子かな。その眼とその頬とはたがいに競いて、いずれか最も多くの犠牲者を出《い》だすかを争う。
彼は水仙の花びらより作りし剣をもって、人々の心より血を流す。その鞘《さや》と剣帯は桃金嬢《ミルト》より借りしものなり。
彼の完美は激しき嫉妬を煽り立て、美みずからも産毛《うぶげ》の頬に身を変えんと願うなり。
[#ここで字下げ終わり]
されば、おしなべて婦女子の美よりも男子の美が優れている所以《ゆえん》を証するには、以上をもって証拠は十分でありましょうぞ。』
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十二夜になると[#「けれども第三百九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞くと、ザヒア女史は答えた、『あなたが、ただの遊びか冗談のつもりで、お話しになったのでなければ、どうかアッラーは、そのような誤った議論を、あなたにお赦し下さいますように。けれども、今は真理の番でございます。では、お心を頑《かたく》なになさらずに、私の議論にお耳を御用意なさって下さいませ。
御身の上なるアッラーにかけて、承わらせて下さい、若い娘の美しさに比べられるほどの美しさを持った若い男は、一体どこにおりましょうか。若い娘の肌は、銀の輝きと白さを持っているばかりでなく、絹物の滑かさを持っていることを、あなたはお忘れでいらっしゃいますか。その体つきはどうでしょう。とにかく、それは桃金嬢《ミルト》や埃及柳《バーン》の木の小枝でございます。その口もとはどうでしょう。とにかく、それは花咲く加密列《カミツレ》でございまして、その唇は、濡れた二輪のアネモネでございます。その頬は、林檎、その胸は、象牙の小さな瓢《ひさご》でございます。その額は明るさに輝きわたり、二本の眉毛は互いに結ばるべきか、別れるべきかを知ろうとして、絶えず躊躇《ためら》っているのでございます。乙女が話すときには、上等の真珠がその口からこぼれ落ち、微笑むときには、蜜よりも甘く、とろけるばかりのその口から、光の早瀬が流れ出ます。美の印璽はその顎《おとがい》の笑窪《えくぼ》の上に印されております。そのお腹はと申しますと、それは見事な脇腹の線と、一筋一筋積み重なっている豊かな襞《ひだ》を持っております。その腿《もも》はただ一本の象牙でできていて、巴旦杏の練粉で作られた足の円柱によって、支えられております。けれども、そのお尻はどうかと申しますと、それは良質のものでございまして、高まったり低まったりするときには、それは水晶の海の浪か、光の山かと見まごうばかりでございます。おお哀れな御老人《シヤイクー》よ、男たちをば女たちに比べられるでございましょうか。もろもろの王や、教王《カリフ》や、年代記に載るような最大の偉人たちも、女たちの従順な奴隷であって、その軛《くびき》を課せられることを名誉と心得ていたことを、あなたは御存じないのですか。どんなに多くの秀でた男たちが、女の魅力によって征服され、額を下げたことでしょう。どんなに多くの男たちが、女のために、富や、国や、父や、母など、すべてを放棄したことでしょう。どんなにたくさんの王国が、女によって滅びたでしょう。おお哀れな御老人《シヤイクー》よ、宮殿を建てることも、絹や錦襴へ刺繍を施すことも、高価な織物を織ることも、女たちのためではございませんか。竜涎香や麝香が、その馥郁たる匂いゆえにこれほどまで求められるということも、女たちのためではございませんか。女たちの色香が楽園の住人たちを罪に陥れ、大地と宇宙とを覆《くつがえ》し、血の河を流さしめたことを、あなたはお忘れなのでいらっしゃいますか。
けれども、あなたの引用なさった聖典《キターブ》の御言葉《みことば》について申しますれば、それはあなたのお立場より、私の立場のほうに、遥かに有利なものでございます。御言葉《みことば》はこうでございます、「汝らの眼を鬚なき若き男《お》の子らの上に長くとどむることなかれ。彼らは天女《フーリー》の眼《まなこ》よりも惑わしの眼を持てばなり。」事実、これは、女子であって男子ではない楽園の天女《フーリー》に対する、直接の賞讃なのでございます、彼女たちが比較の基準に用いられているのでありますから。それに、あなた方少年愛好者はどなたも、御自分の友を描こうとなさるときには、その人たちの愛撫を、若い娘たちの愛撫と比較なさっていらっしゃるのです。あなた方は、御自分たちの腐敗した趣味を恬《てん》として恥じず、そんなものを見せびらかして、公然とそれを満足させていらっしゃいます。あなた方は聖典《キターブ》の御言葉(46)、「何ゆえに男子の愛を求むるや。アッラーは汝らの欲望の満足のためには、女を創りたまいしに非ずや。汝らの好むがままに、これを享楽せよ。されど汝らは片意地の民なり」を、忘れていらっしゃるのです。
さりながら、あなた方が若い娘たちを少年に比較するようなことがあっても、それは専《もつぱ》ら、あなた方の腐敗した欲望と堕落した趣味をごまかすためなのです。そうでございます、私たちはそういう人たちを、あなた方の少年愛好家の詩人たちを、よく識っておりますわ。彼らのなかの最大の詩人、男色家の長老《シヤイクー》、アブー・ヌワースは、ある若い娘のことを述べて、こう言ったではございませんか。
[#2字下げ] 若き男《お》の子さながらに、彼女は腰なく、その髪さえも切り落す。されど柔かき産毛《うぶげ》はその顔を天鵞絨《ビロード》のごとくにし、その魅力をいよいよ増す。かくて彼女は男色家と不義の子とを悦ばすなり。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十三夜になると[#「けれども第三百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれども、鬚が若い男たちに与えるいわゆる魅力なるものはどうかと申しますと、おお長老《シヤイクー》よ、これについての詩人の詩句を、あなたは御存じありませんか。むしろお聞き下さいませ。
[#ここから2字下げ]
見よ、彼の頬に最初の鬚の延びそむるや、彼の情夫は逃げ去りぬ。
げに鬚の炭、顎《おとがい》を黒く汚《よご》すとき、そは若人《わこうど》の魅力をも煙と化すなり。
また顔《かんばせ》の白きページにして、文字の黒きに満つるとき、誰か再び筆を取らんや、ただ文盲の人のほかには。
[#ここで字下げ終わり]
されば、おお長老《シヤイクー》よ、生を満たし得るあらゆる享楽を、女たちの一身に集めることを知りたまい、預言者たちや、信徒たちに、楽園での褒美として、永久の処女|天女《フーリー》たちを約束したもうた、至高のアッラーをば、讃えようではございませんか。それに、もし至善のアッラーが、女を措いて他の快楽が実際に存在することを御存じであったとすれば、必ずやその快楽を、信徒たちにとっておいて下さったことでしょう。けれども、アッラーは少年たちを、楽園における選ばれた人々の召使としてお示しになっただけで、そのほかには、何の引合いにも出しておられません。そしてそれ以外の目的には、一度も彼らをお約束なさらなかったのです。預言者御自身も(その上に祈りと平安あれ)、その方面の嗜好はなんら持っていらっしゃいませんでした、思いもよらぬことでした。事実、このお方はその教友たちに繰り返して、こう仰せられるのが常でした、「三つのもの、余をして汝らのこの世を愛せしむ。すなわち、女と、香りと、礼拝における魂の爽やかさなり。」ともかくも私は、おお長老《シヤイクー》よ、ただ次の詩人の詩句によってこそ、私の意見をもっともよく要約できることでございましょう。
[#2字下げ] ある臀とある臀とには違いあり。もしその一つに近寄らば、汝らの服は黄に染まらん。されど他の臀に触れなば、そは馥郁と打ち香らん。
けれども、この論争は私を活発にさせ過ぎまして、とくに長老《シヤイクー》や学者の方々の御前《おんまえ》では、婦人の抛棄してはならない礼儀の限界を、越えてしまったことに気がつきました。されば私は、これにお気を悪くなさったり、御不快に思われたような方々には、取り急ぎお詫びを申し上げまして、このような方々にも、この座談会をお出になりましたら、固く口外を慎しんでいただくことを、期待する次第でございます。それと申しますのは、諺《ことわざ》にも言っておりまする、「生まれよき人々の心は、もろもろの秘密の墓場なり」と。』」
[#この行1字下げ] ――この逸話を語り終ったときに、シャハラザードは言った、「そして以上が、おお幸多き王さま、『花咲ける才知の花壇と粋の園』に含まれた逸話から、わたくしの思い出すことのできるところでございます。」するとシャハリヤール王は言った、「まことに、シャハラザードよ、これらの逸話はこの上なく余を悦ばせたが、今度は、以前にそちが語った物語のような物語をひとつ、聞きたい願いを起させる次第じゃ。」シャハラザードは答えた、「ちょうどわたくしの考えていたところでございます。」そしてすぐに彼女は言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
奇怪な教王《カリフ》
語り伝えまするところでは、一夜、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、不眠にとりつかれなすって、宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーをお召しになり、これに仰せられました、「わが胸は狭《せば》まっておるゆえ、バグダードの街々《まちまち》を歩きまわり、ティグリス河畔まで行って、今宵《こよい》は、気晴らしをしてみたいぞよ。」ジャアファルは、仰せ承わり畏まってお答えし、すぐさま、教王《カリフ》のお手伝いをして商人に身をやつさせ申してから、自分も同様に身をやつしました。そして御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを呼んで、これまた同じように身をやつさせて、お伴するようにさせました。それから一同は、宮殿の秘密の門から出まして、この時刻になると静まり返ったバグダードの街々を、ゆっくりと歩きまわり始めましたが、そうこうしているうちに、河畔へ出てしまいました。見ると、岸に繋がれた一隻の小舟のなかに、一人の年とった船頭がおりましたが、もう寝ようとして、掛布にくるまりかけていたのでございました。一同は近づいて行って、挨拶《サラーム》をしてから、これに言いました、「おお御老人《シヤイクー》、面倒をかけて相済まぬが、われわれをお前の舟に乗せ、河の上で少しばかり船遊びをさせてはくれないか。今はちょうど涼しくなり、吹く微風《そよかぜ》も心地よいからな。お礼に、ここに一ディナールある。」船頭は、そんな恐ろしいことはというような調子の声で、答えました、「殿様方、何ということを御註文なさいます。してみると、禁令が出ているのを御存じないのじゃな。ほれ、こちらに向って来る船がお見えになりませんか。あれには、教王《カリフ》とそのお付きの方たちが全部、乗っていらっしゃるのでございますよ。」一同は非常にびっくりして訊ねました、「進んで来るあの船に、教王《カリフ》御自身が乗っていらっしゃると、お前はほんとうにそう申すのか。」船頭は答えました、「アッラーにかけて、バグダードで、私どもの御主君|教王《カリフ》のお顔を知らぬ者がおりましょうか。殿様方、まさしく、教王《カリフ》御自身と、宰相《ワジール》ジャアファル様と、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルール様でございます。それに、ほれ、白人奴隷《ママルーク》や歌手どもも一緒ですわい。舳に立って叫んでいる触れ役人の申すことを、お聞きなされませ。『身分の上下、老若を問わず、名士たりと庶民たるとを問わず、河上にて船遊びを禁ず。この命に背く者は何人《なんびと》たりとも斬首され、あるいは御召船《おめしぶね》の檣《ほばしら》にて縛り首となるべし』と言っておりまする。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十四夜になると[#「けれども第三百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
この言葉を聞いて、アル・ラシードは驚きの極に達しなさいましたが、それと申すのも、このような命令をお出しになったことはかつてなかったからですし、もう一年以上も前から、河上で船遊びなどなさったことはなかったからでした。そこで、ジャアファルは、年とった船頭のほうを向いて、言いました、「おお御老人《シヤイクー》、この二ディナールをお前にやろう。だが、急いでわれわれを舟に乗せて、河の上でどこか、上のほうが蔽われている隠れ場へ、われわれを隠してもらいたい。それは要するに、見つけられたり取り押えられたりせぬようにして、教王《カリフ》とそのお伴の方々のお通りを、眺めたいだけのことなのだ。」船頭はすっかり迷っておりましたが、しまいにこの申し出をきき容れ、三人をそっくり舟に乗せ、上のほうが蔽われている隠れ場へ漕いでゆき、更に目立たぬようにと、黒い掛布を三人の上へ拡げました。
一同がこの位置につくとすぐに、松明《たいまつ》や炬火《かがりび》の光で照らされた船が近づいてくるのが見えましたが、黄色い外套で肩を蔽い、白いモスリン布で頭を包み、赤い繻子の衣を着た何人もの若い奴隷が、蘆薈《ろかい》の木でもって、これらの灯火が絶えないようにしているのでした。何人かの奴隷は舳におり、他の者どもは艫におりまして、彼らはそれぞれ松明や炬火を振り上げながら、時々、例の禁止命令を叫んでいました。船の舷側に二列に並び、真中にある台座を囲むようにして立っている、二百人の白人奴隷《ママリク》も見えましたが、その台座の黄金の玉座には、アッバース家の色である黒ラシャの衣に、黄金の刺繍をしてさらに引き立って見える衣を着けた、若者が一人坐っておりました。そしてその右手には、宰相《ワジール》ジャアファルに驚くばかり似ている一人の男が立っていましたし、左手には、手に抜身の剣を持った、マスルールとそっくりのもう一人の男が控えていましたが、一方、台座の下には、二十人の歌姫と楽師たちが、きちんと並んで坐っておりました。
これを見て、アル・ラシードは叫びなさいました、「ジャアファルよ。」宰相《ワジール》はお答えしました、「おお信徒の長《おさ》よ。御用は何なりと。」教王《カリフ》は申されました、「あれは確かにわが息子の一人、アル・マームーンか、さもなくば、アル・アミーンに違いない。そのそばに立っている二人は、一人はその方に、もう一人は、佩刀持《はかせもち》のマスルールにそっくりじゃ。その上、台座の下に坐っている連中も皆、余の馴染みの歌手や楽師たちに奇怪なほど似ておる。一体これらすべてはどうしたことと思うか。余はわが精神が非常な困惑にあるを覚ゆるが。」ジャアファルは答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、アッラーにかけて、私もまたそうでございまするが。」
しかしすでに、光を煌々とつけた船は、皆の眼から遠のいてしまったので、年をとった船頭は、胸を締めつけるような心配から放たれて、叫びました、「やれやれ、もう大丈夫でございますな。誰にも見咎められませんでした。」そして隠れ場所から出て、三人のお客を岸へ連れ戻しました。岸へあがると、教王《カリフ》は船頭のほうを向いて、こう訊ねられました、「おお御老人《シヤイクー》、ほんとうに、教王《カリフ》は、毎晩毎晩、あのように光を煌々とつけた船に乗って、ああいう風に船遊びをしに来られるのかな。」船頭は答えました、「はい、殿様、もう一年も前からのことでございますが。」教王《カリフ》は申されました、「おお御老人《シヤイクー》よ、われわれは旅をしている異国の者で、あらゆる見物《みもの》を見て楽しんだり、美しいものの見られるところなら、どこへなりと出かけて行って見たりしたいのだ。さればこの十ディナールを受け取って、そして明日、この時刻に、この場でわれわれを待っていてはくれまいか。」船頭は答えました、「うれしく、光栄に存じまする。」そこで教王《カリフ》と二人のお連れとは、船頭にいとまを告げて、この奇怪な光景について語り合いながら、王宮にお戻りになりました。
翌日、教王《カリフ》は終日|政務会議《デイワーン》を開き、大臣《ワジール》たちや、侍従たちや、太守《アミール》たちや、代官《ナワーブ》たちに会われ、目下問題になっている様々な用件を片付け、決裁したり、処罰を下したり、赦免をしたりなさったあとで、お部屋へ退かれて、王衣を脱ぎ、商人に身をやつし、ジャアファルとマスルールと一緒に、前の晩辿ったのと同じ道を辿られ、ほどなく河の畔《ほとり》へこられましたが、そこには件《くだん》の年とった船頭が、お待ちしていました。一同は船に乗りこみ、蔭になっているところへ行って身をひそめ、光を煌々とつけた船の来るのを待ちました。
一同はもどかしがる暇もございませんでした。というのは、それから間もなく、例の船が、奏楽の裡《うち》に、炬火《たいまつ》で赤々と燃え立つ水の上に、現われ出たからです。前の晩と同じ人物、同じ数の白人奴隷《ママルーク》と、同じ陪食者たちが見え、その真中には、奇怪なジャアファルと奇怪なマスルールとに挟まれて、奇怪な教王《カリフ》が坐っているのでした。
これを見て、アル・ラシードはジャアファルに申されました、「おお宰相《ワジール》よ、かしこにわが見るものは、もし口づてに聞かされたとしたら、余のとうてい信じかねるものであるぞ。」それから船頭に向って言われました、「おお御老人《シヤイクー》、さらにこの十ディナールを取って、あの船のあとをつけてくれ。少しもおびえることはないぞ。向うは明るくしてあるし、こちらは闇のうちにある以上、向うにわれわれが見えはしまいから。われわれの目的は、水に写るあの煌々たる火影《ほかげ》の美観を楽しみたいのだ。」船頭はこの十ディナールを受け取り、恐れに戦《おのの》きながらも、その船の航跡について、音なく船を漕ぎ始めました、光に照らし出されたところへは、はいらぬように気をつけながら……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十五夜になると[#「けれども第三百九十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……光に照らされたところへは、はいらぬように気をつけながら。そしてとうとう、斜面になって河まで下っている、ある庭園へ着いてしまい、そこの岸に例の船は繋がれました。奇怪な教王《カリフ》とその一行は全部、船から下りて、奏楽の裡《うち》に、その庭園のなかにはいってゆきました。
船が遠ざかりますと、老船頭はその小船を暗がりへ着け、今度は三人の乗客が上陸できるようにしてやりました。ひとたび陸にあがりますと、三人は、奇怪な教王《カリフ》の周囲を松明《たいまつ》を手に持って、歩きまわっている人々の仲間へまぎれ入ってしまいました。
ところが、こうやって行列についてゆくうちに、突然何人かの白人奴隷《ママルーク》に気づかれて、闖入者だということが看破られてしまいました。すぐに三人は逮捕されて、例の若者の前に連れて来られましたが、若者は訊ねました、「どうしてあなた方はここへはいって来られたのか。またどういうわけでここへ来られたのか。」一同は答えました、「おおわれらの殿様よ、私どもはこの国には住んでいない、異国の商人でございます。今日到着したばかりでございまして、ここまで散策の歩を伸ばしてまいりましたが、このお庭へ近づいてはならぬということは、とんと存じませんでした。静かに歩いておりますと、御家来衆に掴まえられ、殿様の御手《おんて》の間に引き立てられてきたわけですが、科《とが》を犯したとは思いもかけぬことでございます。」若者は言いました、「ではバグダード以外の土地の方々とあらば、恐れることはありませぬ。さもなくば、必ずあなた方の首を刎ねさせたであろうが。」それから自分の大臣《ワジール》のほうを向いて、これに言いました、「この方々を一緒に来させてよろしい。今宵はわれわれの客人となるであろう。」
そこで三人は行列に従って、こうしてとある宮殿に到着しましたが、その宮殿というのが、豪華な点では、信徒の長《おさ》の宮殿以外に比べるものがないほどでした。この宮殿の門には、次のような銘文が刻まれてありました。
[#2字下げ]客人の歓待せらるるこの屋形においては、「時」はその色合の美を置き、芸術《たくみ》はその装いをちりばめ、主人《あるじ》の寛闊なる歓迎は、人の精神を開きて充ち足らしむ。
[#ここで字下げ終わり]
そこで、一同は素晴らしい広間にはいりましたが、その床《ゆか》は、黄色い絹の敷物で蔽われておりました。そして奇怪な教王《カリフ》は、黄金の玉座に坐り、他のすべての者どもに、自分のまわりに坐ることを許しました。時を移さず酒宴となり、一同は食べ、手を洗いました。それから、食布の上に飲料が並べられ、一同は一つの盃をまわし、代り代りにたっぷりとお酒を飲みました。しかし、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの順番になりましたとき、教王《カリフ》は飲むのをお断わりになりました。すると奇怪な教王《カリフ》は、ジャアファルのほうを向いて、訊ねました、「なぜあなたの友人は、酒を飲もうとなされぬのか。」ジャアファルは答えました、「殿よ、あの者は久しい以前より、もはや頂戴いたしません。」相手は言いました、「さようならば、別な物を進ぜよう。」彼はすぐに白人奴隷《ママルーク》の一人に命じますと、急いで林檎汁のシャーベットを充たした壜を一本持参しましたので、アル・ラシードにそれを勧めました。教王《カリフ》は今度は、それを受け、たいへん欣んで飲み始めなさいました。
飲み物の力が一同の頭脳に打ち勝つようになりますと、黄金の小さな棒を手に持っていた奇妙な教王《カリフ》は、卓子の上を三度叩きました。するとたちまち、広間の奥にある広い戸口の双の扉が開き、二人の黒人が進み出ましたが、この二人は肩に、象牙の腰掛を担ぎ、腰掛の上には、太陽の面《おも》をした、一人の白人の若い女奴隷が坐っておりました。黒人はこの腰掛を主人の正面に置き、後ろのほうへ行って、直立不動の姿勢を取りました。するとその乙女は、インド琵琶《ウーデイ》を取りあげ、調子を合わせて、二十四の異なった音階によって序奏し始めましたが、その巧みさは、すべての聞き手の精神を奪ってしまいました。それから、最初の音階に戻って、こう歌いました。
[#ここから2字下げ]
わが心は君いまさざる悲嘆のうちにあるに、君はわれを遠く離《さか》りて、いかに心慰むるを得たもうや。
天命は愛し合う二人を分ちたれば、幸福の歌もて響き渡りし屋形も今は空漠たり。
[#ここで字下げ終わり]
奇怪な教王《カリフ》は、歌われたこの詩句を聞きますと、ひと声大きな叫び声をあげ、金剛石を鏤《ちりば》めた美しい衣や、肌着や、その他の衣類を引き裂き、気絶して倒れてしまいました。すぐに白人奴隷《ママリク》たちは、その体の上に繻子の蔽い布を急いで投げかけましたが、急いでと申しましても、教王《カリフ》とジャアファルとマスルールとは、この若者の体に大きな傷痕や棒や鞭で打った跡がついているのに、気がつく暇がなかったほど、すばやくではなかったのでございました。
これを見て、教王《カリフ》はジャアファルに言われました、「アッラーにかけて、このように美しい若者が、その身体《しんたい》に、いくつもの傷痕を帯びているのは、何とも惜しいことじゃが、あの傷痕は明らかに、われわれの相手にしておるのは、牢獄から逃れ出したどこぞの強盗とか、何かの驚くべき犯罪人であることを、はっきりと示しておるな。」しかしその時には、すでに白人奴隷《ママリク》は、前のよりも一段と美しい新しい衣を、主人に着せてしまっていました。そして若者も何事もなかったように、玉座へ再び坐りました。若者は、そのとき三人の客人が小声で話し合っているのを認めて、三人に申しました、「どうして、そのように驚いた様子をして、ひそひそ話しておられるかな。」ジャアファルは答えました、「ここにおります連れの者は、こう申していたのでございます。自分はあらゆる国々をめぐりましたし、実に多くのひとかどの人物や王様方ともお付き合いをいたしましたが、今夜の御主人くらい物惜しみなさらぬ方には、未だかつて会ったことがない、と。事実、殿が確かに一万ディナールの値打のあるお衣を引き裂かれるのを拝見しまして、あの者は驚きいったのでございます。そして殿に敬意を表するために、次のような詩句を唱して聞かせましてございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十六夜になると[#「けれども第三百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……そして殿に敬意を表するために、次のような詩句を唱して聞かせましてございます。
[#ここから2字下げ]
寛闊は君が掌《たなごころ》のただ中におのが住居を建て、その住居をば願わしき隠家《かくれが》とはなしぬ。
いつの日か寛闊はその門を閉ずることありとても、君が手はその錠前を開く鍵とはならん。」
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞いて、その若者は非常に満足げな様子を見せ、ジャアファルに金一千ディナールと、自分が裂いた衣と同じくらい美しい衣とを、引出物として取らせるように命じ、再び酒を酌んで、打ち興じ始めました。しかしアル・ラシードは、若者の身体の上の傷痕を見て以来|御心《みこころ》やすからず、ジャアファルに仰せられました、「彼にこの件の説明を求めよ。」ジャアファルはお答えしました、「もう少し御辛抱相なって、不躾に思われなさらぬほうがよろしゅうございます。」教王《カリフ》は言われました、「わが頭《こうべ》とアッバースの頭とにかけて、もし今すぐ、汝がこの件について問いたださぬならば、おおジャアファル、汝の魂はわれらが宮殿へ帰り着く頃には、もはや汝のものではなくなっているぞ。」
ところが、若者は三人のほうを向いていましたが、またしても小声で話しているのを認め、三人に訊ねました、「一体全体どんな重大事があって、そうこそこそ話し合っておられるのか。」ジャアファルは言いました、「よきことのみにござりまする。」若者は言葉をついで、「アッラーにかけて頼む、どうか何事も包み隠さずに、あなた方の話していたことを知らせてもらいたい。」ジャアファルは言いました、「連れの者は、殿よ、君の御脇腹《おんわきばら》に、杖や鞭で打たれた傷痕《きずあと》や痕跡を拝見したのでございます。そして、そのため驚きの限りに驚いてしまいました。そしてそもそもいかなる出来事の結果、われらの主君|教王《カリフ》ともあろうものが、その尊厳と大権とはかくも相容れぬ、かくのごとき仕打をお受け遊ばしたるかを、切に知りたいと望んでおりまする。」これを聞いて、若者は微笑して申しました、「よろしい、あなた方は異国の方々とあらば、一切合切の理由《いわれ》を明かして進ぜよう。さてもとより、わが身の上話は、まことにもって驚くべきものであるゆえ、もしもこの物語が、眼の内側の片隅に針でもって記《しる》されたならば、これを注意深く考える者にとっては、教訓ともなるであろうぞ。」それから、次のように言いました。
されば、わが殿方よ、実は私は、信徒の長《おさ》などではなく、単にバグダードの宝石商|組合総代《シヤーフバンダル》の息子なのです。わが名はムハンマド・アリと申す。私の父は死ぬに際して、遺産として、夥しい量の金、銀、真珠、紅玉《ルビー》、碧玉、数々の宝石、金銀細工の品々を残してくれました。そのほか、家屋敷、土地、菜園、庭、店舗、商品倉庫なども残してくれました。その上私を、この屋形と、それに付属する男女の奴隷、警備人、召使、少年少女たちのすべての、主《あるじ》としてくれました。
ところが、ある日のこと、私の命令を待ちかまえている奴隷たちのただ中で、私が店に坐っていると、戸口のところに、豪勢な装いをこらした牝驢馬が来て止まり、それから一人の乙女が下り立つのが見えましたが、この乙女は、いずれも月のような、三人の乙女を従えておりました。乙女は私の店へはいってきて、私が敬意を表するために立ち上っているうちに、腰を下ろしました。それから私に訊ねました、「あなたですのね、宝石商のムハンマド・アリは。」私は答えました、「もちろんさようでございます、おお御主人様、そしていつなりと、御下命を承わるあなた様の奴隷でございます。」乙女は言いました、「わたくしの気に入るような、ほんとうにきれいな宝石を何か、お持ちかしら。」私は言いました、「おお御主人様、当店にありまする一番美しいものを全部持ってまいり、御手《おんて》の間にお置きいたしましょう。もしもいくつか数あるなかで、何かお気に召すようなものがございましたら、あなた様のこの奴隷以上に身の仕合せと存ずる者は、一人もございますまい。そしてあなた様のお眼を引き止められるようなものが、何一つございませんでしたら、私は生涯、身の不運をなげくことでございましょう。」
ところで、私はちょうど店内に、素晴らしい細工のしてある貴重な頸飾りを、百個持っておりましたので、急いでそれを持ってこさせ、乙女の前に並べました。乙女はそれを手で弄びながら、一つ一つ長いこと眺めておりましたが、実に眼利きらしく、私自身が買手でも、及びもつかないくらいでありました。それから、私に申しました、「もっといいのがほしいのですが。」そこで私は、一本のごく小さな頸飾りのことを考えましたが、それは父が、昔十万ディナールで買いもとめたもので、一切人目に触れさせまいと、貴重な小箱のなかへ、それだけひとつしまいこんでおいた品でした。私は立ち上り、ゆっくりと注意に注意を重ねて、くだんの小箱を持ってきまして、乙女の前で、それをうやうやしく開けながら、申しました、「王様方あるいは帝王《スルターン》方のお手もとでありましょうとも、身分の低い人々あるいは身分の高い人々のところでありましょうとも、これに比べられるもののある筈はないと存じます。」
乙女は、この頸飾りをちらりとひと目見るなり、歓びの叫びをあげて、叫びました、「これこそ、今までいくら欲しいと思っても見つからなかったものです。」それから、私に言いました、「おいくら。」私は答えました、「私の亡父の仕入れ値段は、かっきり十万ディナールでございました。だがもしよろしかったら、おお御主人様、これを無代で進上させていただけませば、私は仕合せの極みでございましょう。」乙女は私を眺め、軽く微笑して、言いました、「あなたが今言った値段に、寝かせておいた資本の金利として、五千ディナールをお付け加えになってちょうだいな。そうすれば、この頸飾りは私のものになりますわ。」私は答えました、「おお御主人様、この頸飾りも、その現在の持主も、あなた様の持物でございますし、あなた様のお手の間にありまする。私はこれ以上何も付け加えるものはございません。」乙女はまた微笑し、そして答えました、「わたくしも買うことにきめました。申し添えますけれど、実際、感謝の気持の点で、わたくしはあなたに借りができてしまっています。」そしてこう言ってから、元気よく立ち上り、お付きの女たちに手伝わせもせずに、この上もなく軽々と騾馬の背に飛び乗り、立ち去りざま、私に申しました、「おお御主人よ、頸飾りを持って、わたくしの家でお金を受け取るために、これからすぐにわたくしについてきて下さらないこと。ほんとうに、今日という日は、あなたのお蔭で、私にとって乳のような日(1)になりました。」私は、乙女の気をそこねてはと思い、これ以上強く申す気はなくなりましたので、召使たちに命じて店を閉めさせ、そして歩行《かち》でこの乙女の後について、その家までゆきました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十七夜になると[#「けれども第三百九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで頸飾りを手渡しますと、乙女は私に、玄関の腰掛に坐って、十万ディナールとその金利とを支払ってくれる筈の両替人がくるまで、待っているように頼んでから、自分の部屋へはいってしまいました。
玄関の腰掛に坐っていますと、一人の若い下婢がやってきて、私に言いました、「おお御主人様、御面倒でも控えの間におはいり下さいませ。門口のところにいらっしゃるなんて、旦那様のような御身分の方のなさることではございません。」そこで私は立ち上り、控えの間にはいりまして、緑色の天鵞絨《ビロード》を張った床几《しようぎ》に腰かけ、そのまま暫くの間待つことにしました。すると、二番目の下婢がはいってまいりまして、私に言いました、「おお御主人様、私の主人からお願いしてくれということでございますが、どうか応接間へお通りになって下さいませ。そこで、両替人がまいりますまで、お休みになっていただきたいとのことでございます。」私は、もちろん、言われたとおりにして、小娘について応接間へ通りました。私がそこへ着くなり、奥の大きな垂幕が掲げられ、四人の若い奴隷が黄金の玉座を担いで進み出ましたが、その上には月の顔をして、首にあの美しい頸飾りをかけた、件《くだん》の乙女が坐っていました。
このように面衣《ヴエール》もつけずに、すっかりむき出しにしたその顔を見て、私は自分の分別が狂い立ち、心臓の鼓動があわただしく高鳴るのを感じました。しかし乙女は、奴隷たちに引き退るように合図をし、私のほうへ進み寄って、申しました、「おおわが目の光よ、すべて美しい人は、その方《かた》を愛する女に対して、あなたのように、こうもつれない仕打ちをなさらなければ、いけないのでしょうか。」私は答えました、「美のことごとくは、あげてあなた様のうちにあり、そしてその残りのものは、もし何かございましたら、他の人間どもに頒たれているのでございます。」乙女は申しました、「おお宝石商のムハンマド・アリ、実はわたくしはあなたが好きなので、こうした手段を使ったのも、ただわたくしの家へ来る気持になっていただくためでした。」そしてこう言ってから、乙女はさりげない風に、私のほうへしなだれかかり、悩まし気な眼を私に向けながら、私を引き寄せたのです。そこで私は、この上もなく心を動かされて、両手で乙女の顔を捉え、何度となく接吻いたしますと、乙女のほうも、惜し気もなく接吻を返してくれ、その乳房に私をひしと圧しつけましたが、その乳房は固く、私の胸にはめこまれるばかりに感じました。そこで私は後《あと》へひくべきでないことがわかりましたので、男の道に従って実行すべきことを実行しようと思いました。しかし、私の息子がすっかり眼を醒まして、あの母親を求める段になりますと、乙女は私に言いました、「あなた、そんなものでどうなさるおつもり。」私は答えました、「これはうるさいから厄介払いをするために、どこかへ入れて隠してしまいたいのです。」乙女は言いました、「だめですの、わたくしのところへはお隠しになれませんわ、家の戸は開いておりませんから。お隠しになるのなら、まずそこに裂け目を一つ作っていただかなければ。ところでよく御承知下さい、わたくしは全く孔をあけられていない生娘《きむすめ》ですのよ。その上、もしあなたが素性も知れぬどこぞの女とか、バグダードのどこかのぼろ屑女とかを、相手にしているおつもりでしたら、さっそく見当違いだということをおさとり下さい。おおムハンマド・アリ、よくお聞きになるがいい、御覧のこのわたくしは、大|宰相《ワジール》ジャアファルの妹ですよ。わたくしは、ヤハヤー・ベン・カーリド・アル・バルマキーの娘です。」
この言葉を聞いて、おお御主人方よ、私は急に、息子が再びぐったりとして深い眠りに陥ってしまうのを感じました。そして私としては、息子の喚《わめ》き声に耳を傾け、この乙女に助力を求めて息子を取り鎮めようと思ったことが、どのように怪《け》しからぬことだったかということがわかりました。しかしながら、私はこれに言いました、「アッラーにかけて、おお御主人様、父親に与えられました歓待に、息子をも与《あず》からせてやろうと思いましたところで、その罪は私にはございませぬ。私に対して寛大な態度をお取らせ下さいまして、御歓待の開かれた扉から、愛の巣への道を見せて下さいましたのは、それはあなた御自身なのです。」乙女は答えました、「あなたが御自分を咎めなさることは、すこしもありません、全く。それに、もしあなたにそのお気がありませば、あなたは目的をお達しになれるのですよ。もっとも、ただ法にかなった道によっての話ですけれど。アッラーの思し召しをもってすれば、どんなことでも起ることができます。実際、わたくしは自分の行為の主人《あるじ》でございまして、わたくしの行為をとやかく言う権利はどなたにもありません。ではあなたは、わたくしを正妻になさりたいでしょうか。」私は答えました、「もちろんです。」するとすぐに、乙女は法官《カーデイ》と証人たちを来させ、皆に申しました、「ここにいるのは、組合|頭《がしら》の故アリの息子、ムハンマド・アリです。わたくしを娶《めと》って妻としたいと言われ、この頸飾りをわたくしに下されて、これをわたくしへの結納金と認めると言われます。わたくしは承諾し、同意いたします。」すぐにわれわれの結婚契約書がしたためられ、それがすむと、二人きりになりました。奴隷たちは飲料や、盃や、琵琶《ウーデイ》などを持って来まして、私たち二人は飲み始めて、精神が輝き出すに到りました。すると乙女は琵琶《ウーデイ》を取って、歌いました。
[#ここから2字下げ]
君が身のしなやかさにかけ、君が誇りかの足どりにかけて、われは誓う、われは君と隔たりてあるを苦しむと。
君への愛の火に焼かれたる心を憐みたまえかし。
黄金の盃はわれを昂《たか》ぶらす、そこにまざまざと君が思い出を見出《みい》ずれば。
それと同じく、薔薇のただ中にありて、桃金嬢《てんにんか》の花は、われに鮮かなる色合をひとしお讃えせしむ。
[#ここで字下げ終わり]
乙女が歌い終えますと、今度は私が琵琶《ウーデイ》を取り、そして、この上なく巧みに弾けることを見せてのち、音を弱めて伴奏しながら、次の詩人の詩句を吟じました。
[#ここから2字下げ]
おお奇しきかな。われは君が頬に、相反するものの一つに合わさるるを見る。水のさわやかさと、焔の赤さとを。
君はわが心にとりて、焔にして、また爽やかさなり。おお、君はわが心にありて、いかに苦しく、またいかに甘きことよ。
[#ここで字下げ終わり]
私どもが歌を終りますと、床に就くことを考える時刻になっているのに気がつきました。私は乙女を両腕で抱きあげて、奴隷たちがしつらえた豪奢な寝床の上へ、横たえました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十八夜になると[#「けれども第三百九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでこれを裸にしてみますと、この乙女は、孔を穿たれない真珠、まだ人を乗せたことのない牝馬であることを確かめることができ、私はこれをたいへん嬉しく思いました。その上、断言できますが、私は生涯で、その夜くらい楽しい夜を過ごしたことはありませんでした。その夜は朝になるまで、ちょうど手のなかに、翼をたたんだままの鳩を握っているのと同じようにして、乙女をぴったりと抱きしめておりました。
ところで、私がこんな風にして過ごしたのは、たった一夜だけではなく、まるひと月の間、ぶっ通してのことでした。そして私はそのために、自分の収入のことも、店のことも、管理せねばならぬ財産のことも、自分の家のことも、すべて打ち忘れてしまいましたが、とうとう、ある日のこと、それは二月目《ふたつきめ》の最初の日でしたが、乙女は私のところへ来まして、言いました、「わたくし二、三時間お暇をいただかねばなりません。ただ、浴場《ハンマーム》へ行ってそこから帰るだけの時間です。あなたは、お願いですから、この寝床を離れないでいて下さいまし。そしてわたくしが帰ってくるまで、お起きにならないで下さい。そうすれば、風呂上りですっかりすがすがしくなり、軽やかになり、身を香らせて、あなたのところへ戻ってまいりますわ。」次に、こうした命令をもっと確実に実行させようとして、私に寝床から少しも動かないという誓約を立てさせました。それから、二人の奴隷を伴い、手拭や下着類の包みを持たせて、一緒に浴場《ハンマーム》へ行ってしまいました。
ところが、おお御主人様方、彼女が家から出るやいなや、アッラーにかけて、扉が開かれ、一人の老婆が私の部屋にはいって来まして、挨拶《サラーム》をしてから、私に言うのでした、「おお御主人ムハンマド様、信徒の長《おさ》のお妃《きさき》シート・ゾバイダからさし遣わされた者ですが、あなた様にお目にかかって、お話を承わりたいから、王宮へお出ましなさるように、お願い申し上げてくれとのことでございます。それと申しますのも、あなた様の雅《みやび》やかな御態度や、礼儀正しさや、お美しいお声のことを、たいそう褒めそやしてお話しした方があったからなのでございまして、ゾバイダ妃は、あなた様にどうしてもお会いになりたくなられたのでございます。」私は答えました、「アッラーにかけて、小母さん、ゾバイダ妃は、会いにくるよう私をお誘い下さいまして、この上もない光栄をお与え下さる次第ですが、しかし私は、浴場《ハンマーム》へ行っております妻が戻って来るまでは、家を離れるわけにはゆきません。」老婆は申しました、「わが子よ、もしもゾバイダ妃を敵にしたくなければ、来てくれとおっしゃられたら、それを一瞬でもお延ばしにならぬよう、お身のためを思ってお勧めいたしますよ。ところで、多分あなたは御存じでしょうが、ゾバイダ妃に怨まれると、それはたいへん危険なことになるのでございますよ。さあお起きなさいませ。そしてお出かけになって、お話をなさいませ。それから急いで家へ戻っていらっしゃい。」
こう言われますと、妻に誓いを立てたにもかかわらず、出かける決心をしてしまいました。そして老婆の後についてゆきますと、老婆は私の先に立って歩き、王宮へ案内し、わけなく私を殿内へ入りこませました。
妃《シート》ゾバイダは、私のはいってくるのを御覧になると、私に微笑をなさり、そのおそばへ近寄らせて、仰せられました、「おお目の光よ、そなたが、大|宰相《ワジール》の妹の愛人なのですね。」私は答えました、「私は君の奴隷、君の召使でございます。」お妃はおっしゃいました、「全く、そなたの愛嬌のある態度や上品な言葉使いを、私に語ってくれた人々は、そなたの美点を少しも大袈裟に吹聴してはいないのね。私は自分の眼で、ジャアファルの妹の選択眼と趣味とがどんなものかを見てやろうと思い、そなたに会い、面識を得たいと思ったのでした。もうこれで満足です。しかし、もしもそなたが私のために何か歌って、声を聞かせてくれましたら、私の欣びは、無上の極に達しましょうぞ。」私は答えました、「嬉しく、光栄に存じまする。」そこで、私は奴隷の持って来た琵琶《ウーデイ》を取り、調子を合わせてから、静かに前奏を弾き、相愛を歌った詩節を二、三歌いました。私が歌うのをやめますと、妃《シート》ゾバイダは仰せになりました、「おお魅力ある若者よ、アッラーはその御業《みわざ》を成就され、そなたを今以上に更に完全になしたまいますように。よくぞここまで来てくれました。さあ、御内儀の戻られる前に、急いで家へお帰りなさい。私がそなたを横取りしたいと思っているなどと、考えられてはいけませんからね。」そこで私は御手《おんて》の間の床《ゆか》に接吻し、はいって来た時と同じ戸口から、王宮を出ました。
私が家へ着きますと、妻は私より先に帰っていて、寝床についておりました。妻はもう眠っておりまして、一向に眼を醒ますような気配はありませんでした。そこで私は、その足もとへ横になり、ごく静かに、妻の足を撫でさすり始めました。ところが突然、妻は眼を開き、冷やかに私の脇腹を足蹴にしましたので、私は寝床の下の床へ転げ落ちました。妻は私に言いました、「おお裏切者、おお偽誓者、あなたは誓いを破って、ゾバイダ妃のところへゆきましたのね。アッラーにかけて、もし私が恥を恐れず、また内々《うちうち》のことを世間に知らせるのを恐れないならば、今すぐ出かけて行って、よその婦人の夫を誘惑するとどんな目に会うものかを、あのゾバイダ妃にわからせてあげるのですが。しかしそれはそうとして、あなたには、あの女とあなた自身との罪を支払ってもらいますよ。」そして、妻は両手を叩いて、叫びました、「やあ、サウアブ。」すぐに宦官|頭《がしら》の、日ごろ私を不快そうに眺めていた一人の黒人が、出てきました。妻はこれに言い渡しました、「すぐさま、この裏切者、嘘つき、偽誓者の首をお刎ね。」黒人は剣を抜き放ち、自分の着物の裾の片端を裂き、こうしてむしり取った切れ端で、私の眼隠しをしました。それから私に「信仰箇条を唱えるがいい」と言って、そして私の首を切ろうと構えました。ところがその時に、日ごろ私が鷹揚に取り扱っていた女奴隷たちが全部、大人も子供も、若いのも年寄りも、はいって来まして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九十九夜になると[#「けれども第三百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……大人も子供も、若いのも年寄りも、はいって来まして、妻に向って言いました、「おお御主人様、この方は、自分の過ちがどんなに重いものかを御存じないのですから、どうか私どもに免じて、お赦しになって下さいまし。この方は、御主人様の仇敵《かたき》のゾバイダ妃のところへ訪ねてゆくことくらい、あなた様のお気持に逆らうことはないということを、御存じなかったのです。お二人の間が敵味方になっているなどということは、全然知ってはいらっしゃいませんでした。おお御主人様、赦してあげて下さいませ。」妻は答えました、「よろしい、一命は助けてあげてもいいが、けれどもやはり、破約した思い出は、いつまでも、消えないようにして、この人に持たせておいてやりたい。」そして、サウアブに合図をして、剣を棄てて棒をとらせることにしました。すると黒人はすぐに、恐ろしいばかりしなやかな杖を取り、私の体で一番感じ易い個所を方々殴打し始めました。そのあと鞭を取り、残酷にも、私の体の一番弱い個所や脇腹をねらって、五百回打ちのめしました。殿方よ、先刻私の体に見られた傷痕や痕跡の理由《いわれ》は、これでおわかりになりましょう。
こういう仕置を加え終ると、妻は私をそこから運び去らせ、まるで籠に詰めた埃屑《ごみくず》をおっ放り出すように、往来へ投げ出させました。
そこで、私は何とかして起きあがり、血まみれになったまま、家まで身を曳きずるようにして辿り着き、ずいぶん長い間放ったらかしておいた自分の部屋へ着くやいなや、ばたりと倒れて気を失ってしまいました。
だいぶたってから、気絶から眼が醒めました時、非常に手際がよく、学もある接骨医《ほねつぎ》を呼び寄せましたが、この医者が傷口を丁寧に手当してくれ、香油や脂薬《あぶらぐすり》を存分に用いて、私を快癒させてくれることができました。それでも私は、二カ月の間、じっとして横たわったままでした。外出できるようになりますと、先ず浴場《ハンマーム》へ行き、そして入浴がすむと、店へ行きました。そこで大急ぎで、店に収めてあった貴重な品々を全部|競売《せり》に出し、現金に替えられるものは、一切現金にしました。そして手に入れた金額で、四百人の若い白人奴隷《ママリク》を購い、これに豪勢な服装をさせ、それから、今夜御覧の、彼らを連れて私の乗っておりましたあの船を、買い求めました。私は信徒の長《おさ》にならいまして、彼らのなかから、ジャアファルに似ている男を一人選び出して、私の右の伴《とも》の者とし、もう一人の男を選んで、これには御《み》佩刀持《はかせもち》の権能を与えてやりました。そしてわが苦悩を忘れる目的で、私はみずから教王《カリフ》の扮装をし、毎夜、船には煌々と火をともし、歌を唱わせ楽器を奏でさせ、そのただ中で河上を遊ぶ習慣をつけたのでありました。そしてこのようにして、一年この方、教王《カリフ》になったというこの上もない幻想を自らに与えつつ、暮しているわけですが、それと申すのも、私の妻が、ゾバイダ妃と自分とがお互いに懐き合っている対抗気分を貫こうとして、あんなにも残酷に私を懲しめた日以来、私の精神に住みついた悲しみを、そこから追い払おうと思ってのことなのです。そして何もかも知らなかった私だけが、女同士の喧嘩《いさかい》のとばっちりを受けたというわけであります。さて、これが私の悲しい身の上話です。おお、御主人方よ。今は私は皆様に、親しく打ち解けて今宵を過ごすため、われわれの仲間入りをして下さったことに対し、ただ感謝するのみでございます。
教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、この物語を聞いた時、叫びなさいました、「おのおのの結果にその原因を持たしめたもうたアッラーに讃えあれ。」それから立ち上って、若者に向い、連れの者どもと一緒に引きとる許しを求めなさいました。若者はこれを許しましたので、教王《カリフ》はそこから出て、この若者に対して二人の女性の犯した不正を、どうしたら贖《あがな》えるかと考えながら、王宮へ戻られました。ジャアファルはジャアファルで、今では全宮中に知れわたることとなったこのような事件の原因に、自分の妹がなっているということを、いたくなげきました。
翌日、教王《カリフ》は、その権力のしるしの数々を身につけ、配下の貴族《アミール》や侍従たちに取り巻かれながら、ジャアファルに仰せられました、「昨夜われわれを歓待してくれた若者をこれへ。」そこでジャアファルは直ちに外出し、ほどなく件《くだん》の若者を伴って戻ってまいりました。若者は教王《カリフ》の御手《おんて》の間の床に接吻し、御挨拶《サラーム》ののち、韻文で讃詞を奉りました。アル・ラシードは満悦され、若者を近く寄らせて、坐らせ、これに申されました、「おおムハンマド・アリよ、その方に来てもらったのは、昨日三人の商人にして聞かせた物語を、その方の口から聞きたいからなのじゃ。あの物語は驚くべきものであり、有益な教えに満ちておる。」若者は非常に心を動かされて、申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、私はわが君が安泰の手帛《ハンケチ》を賜わりませぬうちは、お話しいたしかねまする。」教王《カリフ》はすぐに、安泰のしるしとして御自分の手帛《ハンケチ》を投げ与えられますと、若者は一つの細部をも省かずに、逐一《ちくいち》自分の話を繰り返しました。話し終りますと、アル・ラシードはこれに仰せられました、「さてその方は、非道な仕打をされたにせよ、今自分の妻に、そばへ戻って来てほしいと思うかな。」若者は答えました、「教王《カリフ》の御手から賜わるものはすべて、有難く頂戴いたします。なぜならば、われらの御主君のお指は恩恵の鍵でございますし、その御業《みわざ》は頸を飾り装う貴重な頸飾りでございますれば。」すると教王《カリフ》はジャアファルに向って申されました、「おおジャアファル、その方の妹、ヤハヤー公の息女《むすめ》をこれへ。」そこでジャアファルは、すぐに妹を呼び出しました。すると教王《カリフ》はこれにお訊ねになりました、「おおわれらの忠義なるヤハヤーの息女《むすめ》よ、どうじゃ、そちはこの若者に見覚えがあるか。」姫は答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、いつから女が男を識る術《すべ》を学びましたのでございましょうか。」教王《カリフ》は微笑なすっておっしゃいました、「よろしい、その名を言って聞かせよう。この若者の名は、ムハンマド・アリと申し、故人となった宝石商|組合総代《シヤーフバンダル》の息子じゃ。過ぎ去ったことはすべて過ぎ去ったのだから、現在、余はそちをこの若者に、妻として与えて取らせたく思う。」姫は答えました、「われらの主君の賜物は、われらの頭上とわれらの眼のなかにございます。」
教王《カリフ》はすぐに法官《カーデイ》と証人とを召し出して、法に則《のつと》って結婚契約書をしたためさせなさいましたが、この契約によって、二人の青年男女は、今度は永くかわらずに固く結ばれて、二人の幸福は欠けるところないものとなりました。そして教王《カリフ》はムハンマド・アリをおそばに引き止めて、彼が世を終えるまで、親しい側近の一人になることを、お望みになりました。このようなしだいで、アル・ラシードはそのお暇の時を用いられて、離れ離れになったものを結び合わせ、天運に裏切られた人々を、幸福になさる術《すべ》をお心得だったのでございました。
[#この行1字下げ] ――「けれどもおお幸多き王さま」とシャハラザードはつづけた、「この物語は、いくつもの短い逸話からお話を別な方向にそらそうと思いまして、お話し申しあげただけのものでございますから、これが、あの不可思議な蕾の薔薇と世の歓びの物語[#「蕾の薔薇と世の歓びの物語」はゴシック体]に、遠くも近くも及びつくことができるものとは、決してお思い遊ばされますな。」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
「蕾の薔薇」の物語
[#この行1字下げ] そしてシャハラザードはシャハリヤール王に言った。
語り伝えまするところでは、時のいにしえ、世々代々のその昔、勢威と光栄に満ちた、極めて位高い一人の王様がいらっしゃいました。王様には、イブラーヒームという名の一人の大臣《ワジール》がありましたが、その大臣《ワジール》の娘は、優雅と美の驚異、典雅と完全は嶄然《ざんぜん》衆にすぐれ、際立った聡明さと目立って高雅な挙措を、授けられておりました。それにその娘は、楽しい集《つど》いと人を快活にする酒とを無上に好み、愛らしい顔や、最も洗練された点のある詩句や、不思議な物語なども、軽んじませんでした。この娘には、それほど数多《あまた》の妙《たえ》なる魅力があったので、多くの頭と心とを慕わせて自分のほうに惹きつけ、彼女を歌った詩人たちの一人も、そう言っております。
[#ここから2字下げ]
われはまどわしの女に迷う。トルコ人とアラビア人を魅了するこの女は、法学と措辞法と文芸のあらゆる機微に通ず。
かくて、われら共にかかる一切を論ずる時、この意地悪き女の折ふしわれに言うところ次のごとし。
「妾《わらわ》は受動作因なるに、君は飽くまで妾を間接格に置きたまわんとす。こは何ゆえぞ。これに反し、君は、能動を役割とする君が補語をば常に目的格に残して、これに遂に隆起の合図を与えず。」
われは答えて言う、「君に属するは、ひとりわが補語のみならず、おおわが主《あるじ》よ、わが生命《いのち》も、わが魂も挙げて君の有《もの》。さあれ、この役割の転倒も、もはや驚きたもうことなかれ。今日、時代は変り、事は覆えりたり。
さりながら、わが言にもかかわらず、君もしこの転倒を信ずるを拒むとあらば、いざ、もはやためらうことなく、わが補語を見たまえ。頭《あたま》の結び目はすでに根本《ねもと》にあるを見ずや。」
[#ここで字下げ終わり]
ところで、この乙女はまことにいみじく、まことに優しく、まことに溌剌とした美しさであったので、人々はこれを「蕾《つぼみ》の薔薇《ばら》(1)」と呼んだのでございました。……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百夜になると[#「けれども第四百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
王様は饗宴の際には、この乙女をおそばに侍らせるのを、たいそうお悦びになりました。それほど、慧《さか》しい頭脳と上品な風情《ふぜい》を授かっていたわけです。さて王様は毎年盛んな祝祭を催し、その機会に、王国中の主立った名士が御殿に参上するのを利用して、彼らと一緒に、あるいは徒歩あるいは騎馬の、鞠《まり》と木槌の遊び(2)をなさる慣わしでございました。
いよいよ王様のお客様方が、その鞠遊びのために集まる日になりますと、蕾の薔薇は自分の窓辺に坐って、観戦することにしました。やがて競技が活気を呈しはじめますと、大臣《ワジール》の娘は動きを見守って、競技者たちをよく見ておりましたが、ふとそのなかに、顔美わしく、口許にこやかで、丈《せい》のすらりとして、肩幅の広い、とてもとても美しい一人の青年を見つけました。その姿を見ると、非常な嬉しさを覚えて、いくら眺めても見飽きることができず、繰り返し流し目を送らずにはいられません。とうとう最後には乳母を呼んで、これに尋ねました。「あの競技者たちの真中においでの、溢れるばかり気品のある、立派な若いお方のお名前を、お前は存じあげないかしら。」乳母は答えました、「おおわが娘よ、どなたもいずれも美男子ばかりで、あなたのおっしゃる殿方は、どの方やらわかりませんよ。」彼女は言いました、「では待ってらっしゃい。いま見せてあげますから。」そしてすぐに林檎をひとつ取り上げて、それをその青年めがけて投げつけると、青年は振り返って、窓のほうに頭を上げました。すると、さながら闇を照らす満月のように美しい、にこやかな蕾の薔薇の姿を見かけました。そして途端に、自分の視線を自分へ戻す暇さえあらせず、彼は恋心にはなはだしく心動かされるのを感じました。そして次の詩人の句を、自ら誦したのでした。
[#ここから2字下げ]
恋い慕うわが心をば、そも何ぴとの貫きし。君が瞳《ひとみ》の射手か、はた矢か。
鋭き矢よ、汝はかくも速やかに、戦士の群れより来たりしか、はた、ただ窓辺より来たりしか。
[#ここで字下げ終わり]
蕾の薔薇はそのとき、乳母に聞きました、「さあこれで、あの若いお方のお名前を言えるでしょう。」乳母は答えました、「あの方は『世の歓び(3)』と申し上げます。」この言葉を聞くと、若い娘は嬉しさと感動に頭を振って、長椅子《デイワーン》の上にくずおれて、深々と呻き、次の詩節を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
君を名づけて「世の歓び」とせし者は、まことに悔ゆることなかりしよ、おお、挙措の妙なる高雅に、あらゆるすぐれし事どもを併せたもう君。
おお、満月の出よ。おお、宇宙を照らし、世界を輝かす、燦たる顔《かんばせ》よ、
君こそは、天地万物の間に、ただ一人の美の帝王《スルターン》。われには、わが言の理《ことわり》なるを証する証人数多あり。
君が眉は、完全に書かれしヌーン(4)の文字ならずや。巴旦杏の形なす君が眼《まなこ》は、「創造主」の愛の玉指もて記されし、サード(5)の文字に似たらずや。
また君が腰よ。そはあらゆる好ましき形を帯ぶるしなやかの、柔かき瑞枝《みずえ》ならずや。
おお騎士よ、既に君の猛々《たけだけ》しさは無上の強者《つわもの》どもの武勇をも凌ぎし上は、君がすぐれし優雅と美につきて、われはそも何事を言わざらめやも。
[#ここで字下げ終わり]
この即吟を終ると、蕾の薔薇は一葉の紙を取って、その詩句を丁寧に書き写しました。次にそれを折り畳んで、金糸の刺繍をした絹の小袋のなかにしまい、それを長椅子《デイワーン》のクッションの下に忍ばせました。
ところで、年とった乳母は、この女主人のいろいろの仕草をじっと見ておりましたが、それからお相手をして、四方山《よもやま》の話をしはじめているうちに、御主人は寝入ってしまいました。すると乳母は、その紙片をそっとクッションの下から取り出して、一読し、こうして蕾の薔薇の恋心をつきとめると、またそれを元の場所に戻しました。次に乙女が眼をさますと、これに言いました、「おお御主人様、私はあなたにとって一番よい、一番やさしい相談相手ですよ。ですから、私としてはぜひあなたに、恋の思いはどんなに激しいものか申し上げ、その思いが外に溢れ出ることができなくて、心中に鬱積する場合は、よしんば心が鋼鉄で出来ていようとも、これを溶かしてしまい、身体《からだ》にいろいろの病いと弱さを惹き起すものであることを、お知らせしておきたいと存じます。反対に、恋病《こいわずらい》を病む人が、それを誰か他人に洩らせば、それによって、ただ気が楽になるばかりというものです。」
この乳母の言葉を聞くと、蕾の薔薇は言いました、「おお乳母《ばあや》よ、お前は恋の薬を御存じかい。」乳母は答えました、「存じておりますよ。相手のお方をわが有《もの》とすることです。」乙女は訊ねました、「では、そのわが有とするには、どうするの。」乳母は言いました、「おお御主人様、それには、まず優しい言葉や挨拶《サラーム》やお愛想の溢れた文《ふみ》を、交わしさえすればよいことです。二人の友が結ばれるには、それが一番の上策ですし、またいろいろの難題を解決し、いざこざを防ぐには、それがまず最初に打つべき手ですからね。だからもしも……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百一夜になると[#「けれども第四百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……だからもしも、おお御主人様、あなたが何か胸の裡に隠していなさることがあったら、決して御心配なく、私に打ち明けなさいまし。なぜなら、もしそれが秘密のことなら、私は一切ほかに洩らさず、そのまま胸におさめておきましょう。誰も私のように、あなたのほんの僅かのお望みをも叶え、人知れずお手紙を届けるために、わが眼と頭をもって、あなたに仕えることはできはしますまい。」
蕾の薔薇は、この乳母の言葉を聞いた時には、喜びのあまり分別が飛び立つのを感じました。けれども、魂を波立たせている動揺を、迂闊に現わしてはならないと、よく魂を抑えて、あらゆるしどろもどろの言葉を言い出さないようにして、心中独り言を言いました、「まだ私の秘密を知っている者は誰もいない。この乳母にも、真心の確かな証拠を見とどけた上で、知らせるほうが、わが身の安泰のためにはまさるというものだわ。」けれどもその間にもう、乳母は付け加えて言っておりました、「おおわが子よ、昨晩私のところに、夢に一人の男が現われて、こう言うのでした、『よく聞け、お前の若い御主人と世の歓びとは、お互いに慕い合っている。そこで、もしお前が確実に莫大な儲けをあげたいというのならば、お前が二人の文通を引き受け、固く秘しつつ、二人にあらゆる種類の力添えをして、この件にひと肌脱いでさしあげるがよい。』ところで私は、おお御主人様、私はただ自分の見たことをお話しするだけのこと。さあこんどはあなた様が、よしなに決めなさる番です。」蕾の薔薇は答えました、「おお乳母《ばあや》よ、お前は本当に、秘密を黙っていられる気かい。」乳母は言いました、「あなたはほんの一瞬間でもお疑いになれますか、この私は、選ばれた心の持主たちの粋《すい》中の粋でございますものを。」そこで、乙女ももはやためらわず、さっき詩句を書きつけた紙を乳母に見せ、それを渡しながら、言いました、「急いでこれを世の歓び様のところにお届けして、御返事をいただいてきておくれ。」乳母はすぐに立ち上って、世の歓びの家に出かけ、まずその手に接吻し、次に鄭重慇懃極まる言葉遣いで、挨拶《サラーム》を申し述べました。そのあとで、例の手紙を渡しました。
世の歓びは紙を拡げて、なかを読みました。それから内容の意味がよくわかると、彼はその紙片の裏側に、次の詩句を認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
わが心は、恋に激し、昂《たか》ぶって鼓動す。われはその騒がしき動悸を抑えんとすれども、徒《いたず》らなり。わが有様《ありよう》はわが意中を発《あば》く。
わが涙溢るれば、われ非難者に言う、「こは眼の痛みのゆえなり」と。かくて彼に真の動機《いわれ》を晦《くら》まし、わが内心を隠さんと欲するなり。
昨日はなお一切の覊絆なく、心平らかにして、われは恋を知らざりき。目覚むれば、心は恋に領されてあり。
われ御前《みまえ》にわが有様《ありよう》を示し、わが恋の歎きを語るは、情熱に燃え運命に悶ゆる不幸の男を、君が御心《みこころ》の憐れめかしとてなり。
この歎きを、われここにわが双眼の涙をもって記《しる》すは、この歎きを惹き起したる恋をば、かくて更によく御身に証せんがためなり。
美は心してその面衣《ヴエール》をもて蔽いし面《おもて》を、願わくはアッラーの、あらゆる毀損より守りたまわんことを。この面《おもて》の前に、月は平伏し、諸星《もろぼし》は奴隷となって敬礼す。
美に関しては、われは未だかつてその比を見しことなし。おお、その腰よ、しなやかの瑞枝《みずえ》は、この揺れ動くを見て、波打つことを学ぶなり。
今や、われは敢えて乞う、幸いにして君が心労の因たらずば、願わくば来たりてわれに会いたまえ。おお、そはわれに千金の価あり。
恐らくは君の応じたまわんことを念じつつ、今はただ君にわが魂を捧げまつるのみ。君来たらばわれには天国、君拒まば地獄《ジヤハンナム》ならん。
[#ここで字下げ終わり]
書き終わると、彼は紙片を畳み、それに接吻し、これを乳母に渡しながら、申しました、「母よ、あなたがよしなにとりなして、あなたの御主人の御好意をあらかじめ私のほうに向けて下さるよう、よろしくお願い申します。」乳母は答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」そして手紙を持って、急ぎ主人の許に帰って、それを渡しました。
蕾の薔薇はその手紙を受け取って、それを唇に、次に額《ひたい》にあててから、拡げて読みました。その意味がよくわかると、彼女は紙の下のほうに、次の詩句を認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
御心《みこころ》のわれらが美に惹かれたまいし君よ、愛に忍耐を合《あわ》するを恐れたもうことなかれ。けだしそはわれらを獲るに到る道ならん。
君が思いに偽りなく、御心《みこころ》はわれらが心の悩みと同じき悩みに試《ため》されたまいしを、われら認めし時、
われらは、君におさおさ劣りなく、二人の遂に相結ばるるを望みたりき。されどわれらは監視者らを恐れて思いとどまりき。
知りたまえ、われらの上に闇満つる夜の下れば、われらの臓腑に火の点《とも》る限り、われらの熱き思いは燃えさかる。
君が欲情《のぞみ》の荒々しき悶えは、そのときわれらが臥床《ふしど》より眠りを追い、切なき苦しみはわれらが身を捉う。
さりながら忘れたもうことなかれ、恋する者の第一の務めは、己が恋を妄《みだ》りに口外せざるにあるを。されば、われらを護る面衣《ヴエール》をば、他処人《よそびと》の眼のために、掲ぐるを慎しみたまえ。
さて今は、われは叫ばまほし、わが臓腑、一人の若人《わこうど》への思慕に張り裂くるばかりなりと。おお、何とてもその君の、常にわれらが住居に在《いま》さざる。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二夜になると[#「けれども第四百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
以上の詩句を書きあげると、彼女は紙片を畳んで、これを乳母に渡し、乳母はそれを携えて、御殿から出ました。ところが、ちょうどそのとき、蕾の薔薇のお父様の大臣《ワジール》の侍従と、ぱったり出くわすことを、天命が望んだのでございます。侍従は乳母に訊ねました、「こんな時刻に、お前さんはどこに行くのか。」この言葉に、乳母はすっかりどぎまぎしてしまって、答えました、「お風呂屋《ハンマーム》に参ります。」そして行き過ぎたのですが、何しろたいそうどきまぎしていたので、帯の折目の間にしっかりと挿んでおかなかった文《ふみ》を、気づかずに、取り落して行ってしまったのでした。乳母のほうは、こうした次第でございます。
ところで、御殿の門口で、地上に落ちた手紙のほうは、宦官の一人に拾われ、その男は急ぎこれを大臣《ワジール》に届けました。
ちょうどその時|大臣《ワジール》は、わが家の婦人部屋《ハーレム》から出てきて、応接間にはいって、長椅子《デイワーン》に腰を下ろしたところでした。こうして大臣《ワジール》が心安らかに坐っていると、そこにその宦官が、手に例の文《ふみ》を持って、進み出て言いました、「お殿様、ただ今私は、お屋敷内にこの文《ふみ》が落ちているのを見つけましたので、いそいで拾って参りました。」大臣《ワジール》は宦官の手から文《ふみ》を取って、拡げてみると、例の詩が書いてあります。そこでそれを読んで、その意味をさとった時、その筆蹟を調べると、それは異論の余地なく、娘の蕾の薔薇の筆蹟らしく思えました。
これを見ると、大臣《ワジール》はすぐ立ち上って、若い娘の母親である、自分の妻のところに出かけましたが、夥しく涙を流し、鬚が涙でぐっしょり濡れておりました。奥方は訊ねました、「どうしてそんなにお泣きになっていらっしゃるのです、おお御主人様。」大臣《ワジール》は答えました、「まあこの紙を見て、なかに書いてあることを御覧。」奥方は紙を取って、読んでみると、これは、娘の蕾の薔薇と世の歓びとの間の文通なことがわかりました。それを確かめると、涙が眼に滲んできましたが、しかしよくわが魂を制し、涙を抑えて、大臣《ワジール》に言いました、「おお殿よ、涙は何の役に立つこともできませぬ。ただひとつの妙案は、御身の名誉を護って娘の事件を秘す策を、考えることでございましょう。」そして奥方はなおも夫を慰め、その悲しみを薄らげつづけました。大臣《ワジール》はこれに答えて、「わしはわが娘のために、この恋愛をいたく恐れるのだ。帝王《スルターン》は蕾の薔薇に対して、ひと方ならぬ愛情を寄せていらっしゃることを、お前は知らないのか。さればこの件についてのわしの憂いは、二つの原因に基づく。一つはわが身に関する。何となれば、わが娘のことであるからじゃ。二つは帝王《スルターン》に対するもので、蕾の薔薇は帝王《スルターン》のお気に入りであるということ、そしてそこからして重大な紛糾が生じかねぬのじゃ。お前はこうしたすべてについて、どう考えるかな。」奥方は答えました、「しばらくお待ち下すって、『決意の祈り』をする暇をお与え下さいまし。」そして奥方はすぐに、典礼と行録《スンナ》に従って、礼拝の姿勢をとり、このような際に規定されている敬虔な勤行《おつとめ》を、実行いたしました。
この祈りを済ますと、奥方は夫に言いました、「されば、バハル・アル・コヌーズ(6)という名の海のまんなかに、『子をなくした母の山』と呼ばれている、一つの山があると思し召せ。この場所には、実に量り知れない難儀を重ねなければ、誰も到り着くことができません。ですから、わたくしはそこに、娘の住居を定めてはいかがかと存じます。」
大臣《ワジール》は、この点について奥方と意見が一致し、その「子をなくした母の山」の上に、人の近寄れない御殿を建てさせ、そこに蕾の薔薇を閉じこめることにしようと決心しました。けれども、そこには一年分の十分の食糧を準備し、翌年の初めにはまた新たに届けるようにし、また従者たちを与えて娘の相手をし、侍《かし》ずかせるように、手配しました。
ひとたびこの決心をすると、大臣《ワジール》は指物師と石工と建築師たちを集め、彼らをその山に送りますと、彼らは、かつて世界にその比を見たことのないような、人の近寄れない御殿を建てずにはおきませんでした。
すると大臣《ワジール》は旅の食糧を準備させ、隊《キヤラヴアン》を組ませ、夜の間に、娘の部屋にはいって、出発を命じました。この命令に、蕾の薔薇は別離の苦しみを激しく感じ、いよいよ御殿から出て旅の準備を見た時には、夥しい涙を流さずにはいられませんでした。その時彼女は、肌《はだえ》を顫わせ、最も固い岩をも溶かし、涙を滾々《こんこん》と溢れさせるばかりの激しい恋情について、心中に去来したところを、世の歓びに知らせたいと思って、門の扉に、次のような詩句を書きつけることを思いつきました。
[#ここから2字下げ]
おお家よ、もし愛《いと》しき人、朝《あした》に、恋人の合図をもって挨拶《サラーム》しつつ、通りたまわば、
われらより、快く薫《かぐ》わしき挨拶《サラーム》をこれに返せよ。何となれば、われらは今宵いずこに運命の導きゆくかを知らざれば。
われ自身も、いずれの地に旅はわが身を運びゆくやを知らず。何となれば、人は遽《あわただ》しく、僅かの荷を携えて、われを拉し去るなり。
夜は来たらん。されば鬱蒼たる茂みの鳥は、節優しき歎かいをもて、小枝の上より、われらが悲しき天命《さだめ》の消息を告ぐるらん。
鳥はその言葉をもて言わん、「おお切なきかな、愛する人と別るるはいかばかりむごきことぞ。」
しかしてわれは、別離の杯すでに満ち、運命は、われらにかかわらず、その杯をわれらに差し出《い》ださんとするを見し時、
われはその苦き飲料を薄むるに、あきらめをもってせり。されどあきらめは、われよくこれを知る、あわれ、遂にわれに忘却を得しむること能わざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を扉に書きつけると……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三夜になると[#「けれども第四百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……この詩句を扉に書きつけると、彼女は自分の轎《かご》に座を占め、そして一行は進みはじめました。彼らは野と砂漠をいくつも越え、平地と凸凹の山々を越え、こうしてアル・コヌーズの海に着き、その海岸に天幕《テント》を張りました。そして大きな船を一艘造って、それに若い娘とそのお供を乗り込ませました。
ところで、大臣《ワジール》は一行の指揮者どもに、ひとたびこの若い娘を山の頂上の御殿に閉じこめた上は、必ず海岸に帰って、船を壊してしまうようにと命じておいたので、彼らは慎しんで命に背かないようにして、託された使命を一々すべて実行し、それからこうした一切を泣き悲しんでいる大臣《ワジール》の許に帰りました。彼らについては、以上のようでございます。
さて世の歓びのほうはと申しますと、彼はその翌日眼が覚めると、まず朝の礼拝を済ませてから、馬に乗っていつものとおり、帝王《スルターン》の御用を勤めに出かけることを怠りませんでした。だが、ちょうど大臣《ワジール》の門の前を通りかかると、そこに書きつけられている詩句を認め、これを見ると、危うくすべての感覚を失いそうになりました。そして顛倒した臓腑のなかに、火が点《つ》きました。そこで自宅に帰りましたが、焦燥と不安と煩悶に襲われて、ひと時もじっとしていられません。そのうち、夜になってきて、それに家人に自分の様子を知られたくないので、彼は急いで外に出て、思い惑い、血相を変えて、あちこちの道を当てもなくさまよったのでございます。
こうしてひと晩中、それから朝にかけて、歩いているうちに、とうとうひどい暑さと耐えかねる渇きとで、すこし休まずにいられなくなりました.ちょうどその時、一本の木の蔭になっている、流れのほとりに着いたので、彼は腰を下ろして、両手の凹みに水を掬《すく》って、飲もうとしました。けれども、この水を唇に運んでゆくと、それには少しも味がありません。それと同時に、自分の顔が窶《やつ》れ、顔色はすっかり黄色くなってしまったのを感じました。また両足は、歩いたのと疲れたのとで、腫れ上っております。そこで彼は夥しく涙を流しはじめ、涙を頬に伝わらせながら、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
恋する者は、その友への思慕に酔い、その酔いは願望の強さにつれていや増すなり。
彼は己が恋の狂気をもって、逆上し、狂乱してさまよう。いずこにも安住の地を見出すことなし。食らえども何らの味を覚えず。
恋する者、その友より遠く離《さか》りて生き、いかで悦びを見出し得ん。ああ、そは奇蹟なれ。
わが裡《うち》に恋住みてより、わが身は溶《とろ》け、潸然たる涙はわが頬を洗う。
おお、いつの日か、わが友に会うらん、或《ある》はせめて、この悶ゆる心にいささかの安らぎを置く、わが友の一族の人なりとも。
[#ここで字下げ終わり]
これらの詩句を誦し終えると、世の歓びは地を濡らすまで泣きました。それから立ち上って、その場所から遠ざかりました。こうして悲しみ悶えながら、野や砂漠を歩いてゆくと、そのうち突然彼の前に、途方もなく大きな鬣《たてがみ》、物凄い首、円蓋《ドーム》のように巨きな頭、門よりも広い口、象の牙にも似た歯を持った、一頭の獅子が現われました。これを見ると、彼はもう一瞬も身の破滅を疑いませんでした。そこでメッカの方角を向いて、信仰証言《シヤハーダ》を唱え、死ぬ覚悟をいたしました。ところがまさにこの時、彼はむかし古書のなかで、獅子というものは甘言に耳を藉し、世辞追従を悦び、こうしてたやすく手なずけられるものだということを、読んだのを思い出しました。そこでためしに、獅子に向って言い出しました、「おお森の獅子よ、おお野の獅子よ、おお猛々《たけだけ》しい獅子よ、おお人の恐るる勇者の首領よ、おお百獣の帝王《スルターン》よ、あなたの御威光の御前《みまえ》にあるは、別離によって茫然とし、頭狂いし憐れな恋人、情熱のため進退|谷《きわ》まった男でございます。何とぞわが言葉を聞いて、わが窮境と苦悩をば憐れみ下されよ。」
この演説を聞くと、獅子は二、三歩退って、尻の上に坐り、頭を世の歓びのほうにあげ、尻尾と前脚を動かしはじめました。こうしたいろいろの仕草を見ると、世の歓びは次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお砂漠の獅子よ、汝はわれを殺さんとするや、われ未だわが心を繋ぎとめし人に再会せざるに先立って。
われは値ある獲物にあらず。否《いな》、否《いな》、肥えし獲物にすらあらず。何となれば、わが身は友を失いて衰え、わが心は窶《やつ》れたれば。
ただ屍衣をまとわざるのみの死者を、汝はいかになさんとするや。
おお、乱闘の騒然たる獅子王よ、
もし汝、われを虐遇せば、汝はわが羨望者らを悦ばすのみ。
われは涙に溺るる一介の憐れなる恋する者にすぎず、
友の不在によって心破るる者なり。
夜は、いかになりしや。おお、わが安からぬ夜々の、悲しき想いよ。
今やわれは知らず、果してわが生の既に空無ならざるや否やを。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四夜になると[#「けれども第四百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
獅子はこの詩句を聞くと、立ち上って、眼にいっぱい涙を浮べながら、たいそう優しく世の歓びのほうに進み寄って、舌でもって、その手と足を嘗めはじめたのでございます。それから、後についてくるように合図をして、先に立って歩き出しました。世の歓びは獅子の後についてゆき、こうして一緒に、しばらくの間進みました。そして高い山を攀じ登り、斜面を下り尽しますと、その平地に旅の一隊の足跡が見えました。そこで世の歓びは、その足跡を注意深く辿りはじめますと、獅子は彼がこうして人の足跡を見つけたのを見て、ひとりで捜索を続けさせることにして、自分は引き返して、おのが道をゆきました。
世の歓びのほうは、夜も昼もその旅の一行の跡を辿りつづけ、こうして波濤相打つ、怒号する海のほとりに着きますと、足跡はその波際で絶えております。そこで一行は船に乗り、海路で道を続けたことをさとり、愛人に会う一切の望みを失ってしまいました。そのとき彼は涙を流して、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
友は今やかくも遠く、わが精根は尽き果てぬ。
海の深淵を経て、そもいかにしてかの女《ひと》の方《かた》へ行くべき。
そもいかにしてあきらむべき、わが臓腑は焼き尽され、
不眠はわが眼にあって眠りに代りしものを。
住居とわが生地を去りし日より、
わが心は燃え立ちぬ。噫《ああ》、いかなる焔をもってならん。
おお大河よ、サイフーンよ、ジァイフーン(7)よ、さては汝ユーフラテスよ、わが涙は汝らのごとく流る。
そは流れて溢るること、洪水と豪雨も及ばず。
わが瞼《まぶた》は滝つ瀬の涙に打たれて潰《つい》え、
わが心はかく繁き火花に触れて、火を発したり。
わが情熱と願望の大群は、わが心に突撃を開始せり。
しかしてわが精根の軍は打ち敗れて敗走す。
かの人の愛ゆえに、われは成算なくわが一命を賭せり。
されど一命を賭すごときは、わが危険のうち最小のもの。
禁断の囲いのうちに、かの月よりも輝き渡る妙なる美を見たりとて、
願わくは、わが双眼の罰せられざらんことを。
貴《あて》やかに切れ長き眼《まなこ》より、弓なくして射出されし
矢によって、心を貫かれ、われは地に打ち倒されき。
かの人はその身ごなしのなだらかと、そのたおやかさをもて、われを惑わしぬ、
柳の幹なる若枝のしなやか振りも及ぶまじきたおやかさもて。
わが魂を挙げて、われはかの人に冀《こいねご》う、わが苦しみと悲しみを救いたまえと。
さあれ、今わが身の在るこの悲境にわれを陥らしめしはかの人にして、
わが破滅を来たせしは、ひとりかの惑わしの眼差《まなざ》しなり。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦し終わると、彼ははなはだしく泣きはじめて、遂には気を失って倒れ、永い間、そのまま倒れていたほどでした。けれども、ひとたび気絶からわれに返って、左右に首《こうべ》を廻らしてみると、自分が住む人のない砂漠にいるのを見たので、野獣の餌食になりはしないかと心配になり、高い山に攀じ登りはじめましたが、その頂上に着くと、何か人の声らしい音が、洞窟から洩れてくるのが聞えました。耳を澄ましてその声を聞くと、それは、世を棄てて信仰に身を捧げた、隠者の声だとわかりました。そこでその洞窟に近寄って、三たび戸を叩きましたが、隠者の答えは得られず、またその姿も現われません。そこで、長嘆息を洩らして、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おおわが願望《のぞみ》よ、いかにして汝は汝の目的に到るらん。
おおわが魂よ、いかにして汝は汝の悲しみと苦しみと疲れを忘るらん。
ありとある災厄《わざわい》はひとつびとつ来たって、わが心を老いしめ、
若年にして早くもわが頭《こうべ》を白くせんとす。
わが身を焼き尽す情熱を鎮むる何の救いだもなく、
わが魂にのしかかる重荷を軽くする一人の友だもなし。
噫《ああ》、誰かわが願望《のぞみ》の苦悶を伝え得ん、
天命のわれに非となりし今となっては。
おお、許したまえ、悲嘆に暮るる憐れなる恋する者を憫れみたまえ、
別離と置き去りの苦杯を飲み尽せる者を。
この心の裡に火あり。臓腑は焼き尽され、
しかして理性は飛び去れり。かくも別離は理性をさいなみしなり。
いかなる日とて、かのひとの館《やかた》にわが来たりし日にまして、慄《おそ》ろしき日はあらざりき、
門扉に記《しる》されし詩をわが読みし日ぞ。
おお、われはいたく泣けり。わが熱涙を大地にしとど飲ませたり、
されど、われはわが秘密をば近親にも他人にも黙《もだ》したり。
おお、世の何ごとをも見ざらんがため、この洞窟に隠れ家を求めし隠者よ、
恐らくは君もまたかつては恋の味を嘗め、君が理性も飛び去りしことあらん。
さあれわれは、とまれ、かくまれ、何ごとのありとても、
もしわが目的を達せば、身の苦しみをも、疲れをも、忘れ去るは必定なり。
[#ここで字下げ終わり]
この詩を誦し終えると、にわかに洞窟の扉が開いて、そして誰かが、「慈悲汝の上にあれ」と呼ばわる声が聞えました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五夜になると[#「けれども第四百五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで彼は戸口を越えて、隠者に平安を祈りますと、隠者は答礼をしてから、訊ねました、「お名前は何というかな。」彼は言いました、「私の名は世の歓びと申します。」隠者は訊ねました、「どういう理由で、ここに来られたのじゃ。」そこで彼は自分の身の上を初めから終りまで話し,また身に起ったことを残らず話しました。すると隠者は涙を流しはじめて、彼に言いました、「おお世の歓びよ、わしはこの場所に住んでから、すでに二十年になるが、ここにいる間ずっと、誰ひとり見たことがなかった。しかるに昨日の昼間のことであった。ふと泣き声と騒々しい物音が聞えたので、その人声のほうをよく見ると、多勢の人々と、海岸に立てられたいくつもの天幕《テント》が見えた。それから、その人々は一艘の船を造って、それに乗って、沖合のほうに姿を消した。程なくすると、彼らは帰ってきたが、往《ゆき》よりも人数が減っていた。彼らはその船を微塵に砕いた上で、来た道から帰って行った。さればわしは、その行って戻らなかった人々こそ、まさしくお前の探している人々であろうと思う、おお世の歓びよ。お前の悲しみの激しさは、よくわかるによって、わしはお前を恕《ゆる》してあげる。さりながら、およそ恋する者にして、恋の苦しみを覚えなかった者など、一人もおらぬと心得るがよい。」そして隠者は次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお世の歓びよ、汝はわれを憂いなく、心は平静に満つと思い、
しかして、燃ゆる情熱の、布のごとくわれをかつ畳み、かつ拡ぐるを知らず。
われは幼少よりして恋を知り、
未だ乳を銜《ふく》む頃、既に恋の恍惚を知れり。
われは年久しく恋を続けたり、世にその名高まるばかり、年久しくも。
かくて汝もし恋にわがことを問わば、恋はわれを知ると答うべし。
われは恋の杯を飲み、その苦き憔悴《やつれ》を味わえり。
今ははやわれ自身の名残りにすぎず、かくばかりわが身体は衰え果てぬ。
昔日はわれも力溢れたれど、今やわが活気は消え失せ、
わが精根の軍は眼差しの剣の下に潰滅せり。
試練なくして恋を遂げ得るものと思うなかれ、
何となれば、遠きいにしえよりして、相反する事実は相近きなり。
恋はあらゆる恋する人のために法令して曰く、
忘却は背神に等しく違法なりと。
[#ここで字下げ終わり]
そして隠者は以上の詩句を誦し終わると、世の歓びに近寄って、両腕に抱き締めました。そして二人は一緒にたいそう泣いて、山々は二人の呻き声で鳴り渡り、二人はとうとう気を失って倒れてしまったほどでした。
二人は正気に戻ると、今後はお互いに、アッラー(その称《たた》えられよかし)における兄弟と心得ようと、誓い合いました。そして隠者は世の歓びに言いました、「わしは今夜アッラーに祈って、お前がどうしたらよいか、お諮《はか》り申そう。」世の歓びは答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」彼らのほうは、このような次第でございます。
ところで、蕾の薔薇のほうはと申しますると、次のようでございます。
一緒についてきた人々が、彼女を「子をなくした母の山」に連れてゆき、いよいよ彼女のために準備した御殿のなかにはいると、彼女は注意深くこの御殿を調べ、すべての設備を見て、それから涙を流しはじめ、叫びました、「おお住居よ、アッラーにかけて、お前はまことに好ましいけれど、だがお前の壁のなかには、友のお姿が足りません。」それから、この島にはいろいろの鳥が棲んでいるのに気がついたので、お付きの人に命じて、網を張って鳥を捕え、捕えるにつれて鳥籠に入れ、次にそれらを御殿のなかに入れるようにと、言いつけました。その命令はすぐに実行されました。そこで蕾の薔薇は窓辺に肱をついて、想いを追憶のかたにさまよわせました。それは彼女の心中に、過ぎし日の熱情や、切ない望みや、恍惚を目覚めさせ、追慕の涙を流させ、それと同時に、次の詩句を記憶に立ち返らせて、口ずさませたのでした。
[#ここから2字下げ]
わが魂を占むる恋、友遠ざかりて覚ゆる悶え、わが肋《あばら》の下に燃ゆる火、この訴えをそも誰の方《かた》にか投げん。されどわれは見張人《みはりびと》を恐れて、口をつぐまん。
われは小楊枝の軸よりも身細りぬ、熱き思いと在《いま》さぬ悲しみと悲嘆とに焼き尽されて。
友の眼は今いずこにかある。思い出ゆえにわが陥りし狂乱の悲しき態《てい》を見せばやな。
愛《いと》しき人の来るに由なき地にわれを移せしは、まことに越権の振舞いかな。
われは太陽に託して、朝な夕な、百千《ももち》たび恋人にわが挨拶《サラーム》を寄す。かの君の美わしさは、昇る満月を恥じしめ、その腰のしなやかさは若枝のしなやかさを凌ぐ。
薔薇もしかの頬に擬《なぞら》わんとせば、われは薔薇に言わん、「おお薔薇よ、汝らかの君の頬に似る能わざるべし、汝らもしその片頬の薔薇ならざりせば。」
かの口は、燃え上る燠火《おきび》の火を冷やす唾を滴らす。
いかにしてかの君を忘るべき、かの君こそはわが心、わが魂、わが悩み、わが病い、わが医師にして、しかしてわが恋人なるを。
[#ここで字下げ終わり]
けれども、闇と共に夜が更けてくると、蕾の薔薇は願望《のぞみ》の激しさが募るのを覚えて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六夜になると[#「けれども第四百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……蕾の薔薇は願望《のぞみ》の激しさが募り、わが身の不幸の切ない思い出が、掻き立てられるのを覚えました。そこで次の詩句を誦したのでございました。
[#ここから2字下げ]
夜来たりて、闇と共に、われに激しき熱情と憂悶を齎らす。わが願望《のぞみ》はわが裡に、燃ゆる苦痛を掻き立つ。
別離の苦悩今やわが臓腑に住む。わが想いはわれを銷沈せしめ、わが熱情はわれを波立たしめ、わが激情はわれを焼き、わが涙は愛《いと》しき秘密を洩らす。
われは恋する身なれば、わが痩するを、衰うるを、苦しむを、止むる術《すべ》を知らず。
わが心の地獄はいよよ掻き立てられ、その焔の烈しさはわが肝を破る。
別離の日、われは恋人に別れを告げ得ざりき、おお心残りかな、切なきかな。
さあれ、汝、道行く人よ、わがあらゆる苦悩を、わが友に伝うる折は、これに告げよ、われはいかなる筆も写し得ぬ苦悶によく耐えたり、と。
アッラーにかけて、われは永《とこし》えに恋人に愛の操を守るべし。われはこれを誓う。何となれば、恋の法典において、誓言《せいごん》は合法の事なればなり。
おお夜よ、行きて恋人にわが挨拶《サラーム》を寄せ、汝はわが不眠の証人なるを告げよ。
[#ここで字下げ終わり]
蕾の薔薇の嘆く有様は、このようでございました。
さて世の歓びのほうはと申しますと、次のようでございます。隠者は彼に申しました、「谷に下りて、棕櫚の繊維をたくさん取って来なさい。」彼は下りて、次に言いつかった繊維を持って、戻りました。隠者はそれを取って、それでもって、ちょうど藁を運ぶ網の類に似た、網ようのものを作りました。次に、世の歓びに言いました、「さてこの谷の底には、南瓜の一種で、熟すと枯れて、根から離れる実がある。谷底に下りて、この枯れた南瓜をたくさん拾い集め、それをこの網に結《いわ》いつけ、そして全部を海に投げ入れなさい。そしてお前は、遅れずその上に乗って、そこで、潮の流れにまかせて沖合に運ばれてゆけば、やがてお前の望む目的に、到り着かせてくれるだろう。およそ危険なくしては、決して己れの志す目的に到り着かぬということを、決して忘れないようにせよ。」彼は答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」そして隠者が幸運を祈ってくれてから、これに別れを告げて谷底に下り、指図されたとおりにするのを怠りませんでした。
さて南瓜をつけた網に運ばれて、いよいよ海の真中に着くと、そのとき風が激しく吹きつけて、どんどん押しやり、その姿はたちまち、隠者の眼から消え失せてしまいました。こうして彼は波濤に揺られ、あるいは波の頂きに持ち上げられ、あるいは大きな口を開いた凹みに突き落され、三日三晩の間、海の恐怖に弄ばれた末、とうとう天運によって、「子をなくした母の山」の麓に打ち上げられました。彼は目をまわした雛《ひよこ》のような有様で、飢えと渇きに苦しめられながら、海岸に辿り着きました。けれどもすぐにそのほとりに、水の流れる細流《せせらぎ》と、囀る鳥と、果物の房をつけた木々を見つけたので、それらの果物を食べて、飢えを満たし、その清水を飲んで、渇きを医すことができました。それから、島の奥のほうに向ってゆくと、遠くに何か白いものが見えたので、それに近寄ってみました。それは絶壁をめぐらした、堂々とした御殿とわかったので、城門のほうに向いますと、門は閉まっています。そこで彼は腰を下ろして、三日の間、じっと身動きせずにいますと、最後にとうとう門が開いて、一人の宦官が出てくるのが見えました。その宦官は彼に訊ねました、「お前はどこから来たのか。こんなところまで来たとは、いったいどうしたのか。」彼は答えました、「私はイスパハーンから参りました。商品を携えて海を旅しておりますと、途中乗っていた船が砕けて、波がこの島に、私を打ち上げたのでございます。」この言葉に、その奴隷は涙を流しはじめ、次に世の歓びの首に飛びついて、言いました、「何とぞアッラーはあなたの生命《いのち》を永らえさせて下さるように、おお好ましい顔よ。イスパハーンといえば私の国だ。あそこには、私の叔父の娘で、私が幼ない頃から愛して、この上なく執心していた女も、一緒に暮していた。ところがある日のこと、私たちは、われわれの部族よりももっと多勢《たぜい》の部族に襲われて、味方の大方は捕えられてしまった。私も戦利品のなかに入れられた。ちょうどその頃は、私もまだ子供だったので、やつらは私の値段を増すために、私の両の卵を切り取って(8)、宦官として売った。それで、今はちょうど御覧のような有様になっているのです。」それから宦官は、もう一度世の歓びに歓迎の言葉を述べてから、御殿の広庭に入れてくれました。
するとそこには、葉の茂った見事な枝振りの木々に囲まれた、素晴らしい泉水が見え、いくつもの金の戸のついた、銀の鳥籠のなかに入れられた鳥が、創造主を祝福しながら、気持よく囀っていました。まず最初の鳥籠に近づいて、注意をこめてよくよく見ると、そのなかには一羽の雉鳩《きじばと》がはいっていましたが、その鳥はすぐに、ひと声叫びをあげました。それは、「おお、寛仁者よ」という意味の叫びでした。世の歓びはこの叫びを聞くと、気を失って倒れてしまいました。次に、ひとたびわれに返ると……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百七夜になると[#「けれども第四百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼は深い嘆息を洩らして、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
もし汝も、おお雉鳩よ、われのごとく恋い狂って、主《しゆ》を念じ、「おお、寛仁者よ」と鳴くとせば、
そも汝の歌は喜悦の叫びか、あるいは、悶ゆる心の恋の嘆きか、知る由もなし。
汝の啼くは、汝の友去りしためなりや、或《ある》は友の汝を力なく物憂く置き去りしゆえなりや、或《ある》はまた、汝が思いびとを失いしゆえなりや。
しかりとせば、よろしく汝の嘆きを発し、汝の心に満つる旧《ふる》き恋心を叫ぶを、恐るることなかれ。
このわれは、アッラーにわが愛《いと》しき人の恙《つつが》なきを念じ、たといわが骨の既に塵となるとも、断じてこれを忘れざるを誓う。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦し終わると、彼は激しく泣きはじめて、気を失ってしまいました。そして正気に返ると、先に進んで、第二の鳥籠の前に着きました。そのなかには一羽の山鳩がいて、彼の姿を見ると、歌い出して、言いました、「おお永遠者よ、われは汝を頌《ほ》め奉る。」すると世の歓びは永い間溜息をついて、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
山鳩は託《かこ》ちて言えり、「おお永遠者よ、われは汝を頌め奉る、わが災厄《わざわい》にもかかわらず」と。
おお永遠者よ、われは汝が仁慈によって、この流謫《るたく》の国にて愛《いと》しき女《ひと》との再会を許したまわんことを願う。
芳《こう》ばしき蜜の唇して、かの女《ひと》わが許に現われ、常にもましてわれを燃やして去りしこと、そも幾たびぞ。
火はわが心を焼き尽して灰と化せば、われは血涙を垂れ、涙は溢れてわが双頬を浸す。しかしてわれは叫ぶ、
被造物《つくられしもの》はただ試練によってのみ力を増す。さればわれはわが不幸を耐え忍ばんと欲す。
もしアッラーにしてわが心の君との再会を許したまわば、われはわが財を投じて、わが同胞、恋する人々の族《やから》に宿を貸さん。
われは小鳥らをその獄《ひとや》より放ち、かくして身の幸いの裡に、わが喪服を脱ぎ棄てん、と。
[#ここで字下げ終わり]
以上の詩句を誦し終わると、こんどは第三の鳥籠に近づきますと、そこには一羽の鶯がはいっていて、彼の姿を見つけるとすぐに、歌い出しました。その歌を聞きながら、世の歓びは次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお、鶯のわが心を魅するかな、愛のけだるき恋慕の声に似し、優しき声を聞かすとき。
恋する者を憫《あわ》れめよ。そも幾夜を、彼らは危惧と願望と不安の裡に過ごさざらん。
彼らはかつて、眠りなく朝なき夜々のほか、知らざるに似たり。かくばかりその苦悶は切々たり。
このわれは、わが友を知りしより、恋の鎖に繋がるる身となりき。かくのごと繋がれてあれば、涙の連鎖は縷々としてわが双眼より滴る。
しかしてわれは叫びぬ、「ここにわが双眼より涙の連鎖縷々として滴り、わが身をことごとく繋ぐ。わが熱情はかかる鎖となって溢れ出《い》ずるなり。」
同時に、われは友遠く隔たりて打ち砕かれてあり、わが隠忍の宝蔵も尽き、わが力も絶えたり。
実《げ》に、もし運命にして公正なりせば、われをわが友に廻り合わすべきものを。
今や、願わくばアッラーはその面衣《ヴエール》をもてわれを包めかし。さすれば、われは友の前にわが裸形を示し、かくて、憂慮と不安と置き去りは、いかばかりわが身を痩せ衰えしめしかを、友に見するを得ん。
[#ここで字下げ終わり]
以上の詩句を誦し終わると、彼は第四の鳥籠まで進んで、そこに夜鶯《ブルブル》(9)を見ました。小鳥はすぐに、いくつか嘆きの調べを囀りはじめました。そして世の歓びは、この歌を聞くと、深い嘆息を洩らして、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
暁、黎明に、夜鶯《ブルブル》はその声の絃《いと》の爽やかなる調べもて、恋する者の心を奪う。
おお嘆き窶《やつ》るる「世の歓び」よ、汝が身は恋に衰え果てぬ。
いみじき歌はしきりにわが許に来たる。これを聞かば鉄と巌《いわお》の堅きも軟らぐべし。
見よ、軽やかの朝風は、牧場の楽園《アドン》と妙なる花々の上を渡りて、われらに来たる。
おお、朝まだき、暁の、小鳥らの歌よ。また汝、曙光に馨る微風よ。おお、この一切にわが魂は恍惚たり。
かかる時、われはかの遥かなる友を思い、わが涙は雨となり早瀬となって流れ落ち、わが臓腑の猛火は火花となり焔となって爆《は》ぜ哮《たけ》る。
願わくはアッラーの遂に、ひたすらに恋する者に、その友と再会し、その色香を愛《め》ずるを許したまわんことを。何となれば、恋する者こそは明らかに恕すべきものならずや。
われはこの悲願を立つ。何となれば、よく事理を察して恕し得るは、ただ明察の人のみなるを知ればなり。
[#ここで字下げ終わり]
次に以上の詩句を誦し終えてから、世の歓びは少しく先に進むと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百八夜になると[#「けれども第四百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……世の歓びは少しく先に進むと、今までのもの全部を合わせたよりもずっと美しい、素晴らしい鳥籠を見ました。この籠のなかには、首に見事な真珠の頸輪をつけた、一羽の山鳩がはいっておりました。すると世の歓びは、哀切な恋の歌で世に知られ、今はこの籠のなかに捕えられて、いとも悲しげな夢見るような様子をしているこの鳩を見て、咽び泣きはじめ、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお、生い繁る林の鳩よ、おお、恋人たちの兄弟《はらから》よ、多感なる魂たちの伴侶よ、われは汝に挨拶《サラーム》す。
われは稚《いとけ》なき羚羊《かもしか》を愛す。その眼差しはわが心の裡に利《と》き刃《やいば》よりも深く刺し入りぬ。
その恋はわが心と臓腑を焼き、病《わずら》いもてわが身を滅し去りぬ。
絶えて久しく、われはもはや寝食の快を知らず。
隠忍と平静はわが魂を去り、情熱来たってここに永久に居を据えぬ。
在《い》まさぬ友より遠く離れて生き、この後《のち》われはいかで悦びを見出し得んや。その友こそはわが目的、わが願望《のぞみ》、わが魂のすべてならずや。
[#ここで字下げ終わり]
鳩はこの世の歓びの詩句を聞くと、自分の物思いから出て、いかにも物憂く嘆くがごとく、叫び鳴きはじめ、さながら、人間の声を使って、自分の言葉で、次の詩句を誦しているように思えました。
[#ここから2字下げ]
おお恋の若人よ、汝はわが過去の果敢《はか》なかりし青春の頃を、想い起させたり。
わが友に心惹かれ、その美わしき姿をわが慕いし頃を。わが友はいみじくも美貌なりき。
砂丘の枝間洩るるその声に、われは恍惚として、わが好む笛の調べより耳を逸《そ》らせたりき。
一日、猟師は網を張って友を捕えたり。友は叫びぬ、「おお、広々と空を飛ぶわが自由よ。おお、飛び去りし幸福よ。」
されどわれはひそかに、猟師のわが恋を憫れみ、友をわれに返すを望みいたりき。されど猟師は情《つれ》なかりき。
かくてわが懊悩は今やはなはだしきものとなり、わが願望《のぞみ》はかくも切なき不在の火によって燃え続く。
おお、願わくは、われと同じき悶えに懊悩する狂乱の恋人らを、アッラーの護りたまわんことを。
しかして、そのうちの一人の、籠の中なる憂きわれを見て、この戸を開き、われをばわが友に返せかし。
[#ここで字下げ終わり]
そこで世の歓びは、友人のイスパハーンの宦官を顧みて、これに言いました、「この御殿は何ですか。ここに住む方々はどういうお方ですか。これをお建てになったのはどなたですか。」宦官は答えました、「これはさる王様の大臣《ワジール》が、そのお姫様の御身をば、世の出来事と天命の危禍から救おうとて、お姫様のためにお建てになったものです。そして大臣《ワジール》は、お姫様を、その召使とお供の人たちと一緒に、ここに閉じこめなすったのです。そういう次第で、ここの門は、一年に一度、われわれのところに貯えの品の届けられる日だけしか、開かれません。」
この言葉に、世の歓びは心中で考えました、「これで目的を達したぞ。しかし、あの女《ひと》に会うまで、そんなに長い間待たされては、何とも辛《つら》いことだなあ。」彼のほうは、こういう次第でございます。
ところで、蕾の薔薇のほうはと申しますると、次のようでございます。
この御殿に着いて以来、彼女はもう飲食の楽しみも、休息と眠りの楽しみも、味わうことができませんでした。それどころか、熱烈な思慕の悩みが、ますます心中に募るのを感じて、御殿中を歩き廻って、どこか出口がないものかと探して時を過ごしていましたが、不首尾に終りました。そのうちある日のこと、もう力も尽き果てて、わっと泣き伏して、次の詩句を誦したのでございます。
[#ここから2字下げ]
われをさいなまんとて、彼らはわが友より遠くわれを幽閉し、われをして牢獄《ひとや》のうちに、あらゆる苦悶を味わわしめたり。
彼らはわが眼をわが友より遠ざけて、わが心を情熱の火をもて焼きたり。
彼らは海の深淵のただ中の山上に打ち建てし、要害堅固の塔に、われを閉じこめたり。
そもそも彼らはかくして、われに忘却を与えんと欲せしにや。わが恋は、爾来、かくばかり募りしを。
われ、いかに忘れ得ん。わが悩む一切は、思われびとの面《おもて》に投げし、ただ一瞥のゆえならずや。
わが日々は苦しみのうちに流れ、われはわが夜々を、わが悲しき想いに襲われつつ過ごす。
さあれ、愛する御姿《みすがた》ここになしとはいえ、その思い出のなおわれに存して、孤独の裡にわれを慰む。
おお、いつの日かこの一切を経て、天命により、愛《いと》しき人との再会を見る由もがな。
[#ここで字下げ終わり]
以上の詩句を誦し終わると、蕾の薔薇は御殿の物見台の上に登って……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百九夜になると[#「けれども第四百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……蕾の薔薇は御殿の物見台の上に登って、バアルベック産の丈夫な布切れに、しっかりと身をくくりつけ、それを伝って、城壁の上から地面まで滑り降りました。そして一番美しい着物をまとい、首には宝石の頸飾りを飾ったまま、彼女は御殿のまわりの無人の野を横ぎって、こうして海のほとりに着きました。
そこに着くと、折から一人の漁師が、沖の風に吹き寄せられてこの磯辺にきて、小舟のなかに坐って、釣をしているのを認めました。漁師もまた蕾の薔薇の姿を認めて、何か鬼神《イフリート》が現われたのかと思って恐れをなし、一刻も早くここを遠ざかろうと、舟を操りはじめました。そこで蕾の薔薇は繰り返しこれを呼び、いろいろと合図をしながら、次の詩句を誦して聞かせました。
[#ここから2字下げ]
おお、漁師よ、汝の不安を鎮めよ、われは余のあらゆる人々に似たる人間なれば。
願わくはわが請いに応じ、わが佯《いつわ》りなき身の上を聞きたまえ。
われをば憐れみたまえ。さらば、アッラーは、いつの日か汝、むごく情《つれ》なき友に眼を投ずる折あらば、今わが身を焼く熱情を、汝に免《まぬ》がれさせたもうべし。
かく言うは、われ今ひとりの若人《わこうど》を慕えばなり。その輝く面《おもて》は日月の光輝を奪い、
その眼差しは、羚羊《かもしか》すらをも、叩頭して「われは君の奴隷なり」と叫ばしめたり。
美はかの額に、意味も著《しる》き次の佳言を記《しる》したり。
この者をば愛の炬火と見るものは、何ぴとも正道に入る。されど、この道を離るるものは、何ぴとも重大なる過失と不敬を犯すものなり。
おお、漁師よ、もし汝、われを慰むるを肯《がえ》んじて、われをして再び彼にめぐり会わしめば、わが幸《さち》はいかばかりならん。いかに汝に謝すらん。
われは汝に宝玉と宝石と摘みしばかりの真珠と、あらゆる貴き品々を与えん。
願わくは、わが友のいつの日か、わが願望《のぞみ》を叶えたまえかし。何となれば、わが心は期待に溶けて、千々に砕く。
[#ここで字下げ終わり]
漁師はこの言葉を聞くと、涙を流し、呻き、彼もまた自分の若い頃を思い出して、嘆いたのでした。彼もその昔、恋に征服され、情熱に悩まされ、危惧と願望にさいなまれ、恋の感激の火に焼かれたのでございました。そして漁師は、次の詩句を誦しはじめました。
[#ここから2字下げ]
わが熱情の激しさの何たる歴々たる陳弁ぞ、肉落ちし四肢、零《こぼ》るる涙、徹宵に霞む眼《まなこ》、火花散る燧《ひうち》のごとくときめく心臓こそは。
恋の禍いは夙《つと》に青春よりして、われを襲い、われはそのあらゆる幻滅の快を味わいき。
今やわれは、不在の友にめぐり会わしめんがためには、欣然とわが身を売らん、魂を失うも顧みず。
さあれわれは、この売立てのわれに利を齎らすものなるを望む。何となれば、恋する者の習慣《ならわし》は、決して彼らの友の価《あたい》を問わざるものなれば。
[#ここで字下げ終わり]
漁師はひとたび以上の詩句を誦し終わると、小舟に乗ったまま岸辺に近づいてきて、乙女に言いました、「この舟にお乗りなされ。こうなれば、どこでもお好きなところに、あなたを連れて行って進ぜるから。」そこで蕾の薔薇は小舟に乗ると、漁師は櫂を操って陸から遠ざかりました。
二人がいくらか海に出たと思うと、一陣の風が起って、小舟を後ろからぐんぐん押して、やがて陸地は見えなくなり、漁師ももうどこにいるのかわからなくなりました。けれども三日たつと、暴風《あらし》が鎮まり、風が凪ぎ、アッラーの(その称《たた》えられよかし)お許しを得て、小舟はある海のほとりの町に着きました。
ところがちょうどその時、漁師の小舟が陸に近づいた際に、デルバス王というお名前の、この町の王様が、御殿のなかで、海に臨んだ窓際に、王子と一緒に坐っていらっしゃいました。そして陸に打ち寄せられる漁師の小舟を御覧になり、晴れ渡る空のただ中の満月のように美しく、耳には見事な紅玉《ルビー》の耳環を、首にはすばらしい宝石の頸飾りをつけた、この乙女をお見かけになりました。そこで王様は、これはきっと国王か君主の姫君にちがいないとさとり、王子を従えて御殿から下り、海に臨む門から出て、海岸に向いなさいました。
この時、舟はすでに岸に繋がれていて、若い乙女は舟のなかで静かに眠っておりました。
そこで王様は彼女に近づいて、じっと見張りをしていました。やがて彼女は、眼を開くと、すぐに涙を流しはじめました。王様はこれにお訊ねになりました、「そちはどこから来たのか。何ぴとの娘か。いかなる仔細でこの地に来たのか。」彼女は答えました、「わたくしはシャミク王の大臣《ワジール》イブラーヒームの娘でございます。わたくしのここに参った仔細は、並外れた出来事で、まことに不思議な冒険でございます。」それから王様に自分の身の上を何ひとつ隠さず、始めから終りまでお話し申し上げました。そのあとで、彼女は深い吐息を洩らし、落涙して、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
今や涙はわが瞼《まぶた》を爛《ただ》れしめたり。ああ、かかる氾濫のためには、まこと世の常ならぬ艱難のありしなり。
この一切は、わが心に懐しき一人のひとゆえなり。われは遂にわが熱望の渇を満たす能わざりき。
その面差《おもざ》しは美わしく、輝かしく、目ざむるばかり、トルコ人《びと》、アラビア人《びと》の美を凌ぐ。
日と月は、彼の現わるるを見ては、その魅力に惹かれ、愛の会釈をなし、彼と慇懃を競いたり。
魔法を湛えしその眼差しは、矢を放たんと引き絞りしその弓により、あらゆる心を魅し去るばかり、蠱惑に満つ。
おお、わが苦き艱苦を詳《つぶさ》に聞きたまいし君よ、恋の浮沈の玩具となりし恋する者を憐れみたまえ。
あわれ、恋はわが身を、君が御国《みくに》のただ中にて、悲境に投じ、われは今は君が寛仁を措いて、他に希望なし。
歓待《もてなし》を乞う者をかばう、寛仁の心の持主は、大いなる功徳を積む慣いなり。
おお、君よ、わが希望よ、恋人の族《やから》に、庇護の面衣《ヴエール》を拡げ、しかして、おおわが君よ、彼らの再会の因《よすが》とはなりたまえ。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十夜になると[#「けれども第四百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ひとたびこの詩句を誦し終ると、彼女は更に王様に、そのほかいくつか詳しい仔細をお話し申し上げて、次に、涙に掻きくれ、次のような詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
この愛の不思議を知りし日までは、われは生を楽しみ得たりき。願わくは、一年の月ことごとく、友にとりては、聖なる七月《ラジヤブ》の月(10)のごとく、平穏の月々たれかし。
驚くべきことかな、わが流謫《るたく》の日、わが流せし涙は、わが臓腑に入って、液状の火と変じ得しとは。
その日、わが瞼《まぶた》より、円き板金なして血の雨落ちぬ。わが双頬の表面《おもて》はために赤く彩られたり。
布をもてこの涙を拭えば、布は赤く染まり、佯《いつわ》りの血もて彩られしユースフの衣(11)さながらとなりき。
[#ここで字下げ終わり]
王様は蕾の薔薇の言葉をお聞きになると、彼女の恋の病いの篤《あつ》いことをひと時も疑われず、これを不憫に思し召して、おっしゃいました、「少しも案ずることも、恐れることもない。そちは目的を達したのじゃ。それというのは、すぐに余がそちの望みを達成させて、求むる人をそちに送り届けてとらするによってじゃ。されば余を信じて、余の数言を聴くがよい。」そしてすぐに王様は、次の詩句を誦して聞かせなさいました。
[#ここから2字下げ]
おお、高貴高邁なる家系の女《むすめ》よ、汝は追求する目的に到り着きたり。余は欣然としてこれを汝に告ぐ。この処にあって、もはや汝はなにものも恐るる要なし。
今日直ちに、余は巨富を積みて、これを騎手と武士に護らしめて、シャミク王の許に送らん。
余は王に麝香の箱と錦の梱《こり》の数々を送り、これに黄金と自然銀を添えん。
しかり。わが書面は、文字の技巧《たくみ》によって、余は好《よ》しみを結び縁戚たらんと望む旨を、王に通ずべし。
今日直ちに、余は全力を尽して、汝を助け、速やかに汝を、愛する者に添わしむべし。
余も自ら常に恋の苦渋を嘗め来たれる者なり。爾来、余はこの苦き杯を干したる者どもを憫れみ、恕することを学びたり。
[#ここで字下げ終わり]
王様は以上の詩句を誦し終ると、兵士のほうにお出かけになって、大臣《ワジール》を召し、件《くだん》の贈物を入れた、数知れぬ梱を用意させ、大臣《ワジール》自身発足して、これを蕾の薔薇の伯父、シャミク王にお届けするよう御命令になり、大臣《ワジール》に仰せつけました、「この外、汝は間違いなく、かの地より、世の歓びという名の人物を同道して、ここに連れ戻らなければならぬ。汝は王にこう申し上げよ、『わが主君《あるじ》は、殿の御縁戚となられたき思し召しにて、殿とわが主君《あるじ》との間の御縁組の契約は、御息女と、御側近中の一人なる世の歓びとの間に取り結ぶ、御婚儀でござりましょう。されば、私にその若者をばお授け下さるべく、私はこれをデルバス王の御許に案内し、その御前にて、結婚契約書を調製するようにいたしとう存じ奉りまする』と。」
そのあとで、デルバス王はこれについて、シャミク王宛に書面を認《したた》めて、大臣《ワジール》に重ねて、世の歓びに関する御命令を繰り返しつつ、それを渡して、おっしゃいました、「もし汝がこの若者を連れ来たらぬ節は、汝は職を免ぜらるるであろうことを、よく心得よ。」大臣《ワジール》はお答え申しました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」そしてすぐに、贈物を携えて、シャミク王の国に向って発足いたしました。
いよいよシャミク王の御許に着くと、大臣《ワジール》はデルバス王よりの御挨拶《サラーム》を言上し、携えてきたお手紙と贈物を献上いたしました。
これらの贈物を見、世の歓びのことが書いてあるお手紙を読まれると、シャミク王は夥しく涙を流して、デルバス王の大臣《ワジール》におっしゃいました、「さても、世の歓びは今いずこにおることやら。彼は失踪して、以来その行方知れぬのじゃ。もしその方が彼を返してくれることができたら、おお使節の大臣《ワジール》よ、その方が贈物として余に齎らしくれたところの二倍を、余はその方に与えるであろうが。」そして王様はこうおっしゃりながら、泣き崩れ、呻き声をあげ、歎き悲しみ、涙にむせびはじめなさいました。それから次の詩句を誦されました。
[#ここから2字下げ]
余に最愛の者を返せ。財宝とても、真珠、金剛石の贈物とても、何かせん。
彼は余にとって、雲なく晴れし中天に懸る満月なりき。挙止高雅にして快き、選ばれし友なりき。
華車なる羚羊《かもしか》もこれに比すべくもあらざらん。その腰は埃及柳《バーン》の木の枝にして、その果実《み》は彼が好ましき挙措ならん。
されど、しなやかの枝そのものも、その若き婉美にかかわらず、彼のごと、人々の理性を惑わし得ず。
われはつとに稚《いとけ》なき頃より、彼を愛撫のもなかに撫育せり。しかしてわれは今、彼遠く隔たりて悲しみ憂え、心は休みなく思い乱れてあり。
[#ここで字下げ終わり]
それから王様は、進物とお手紙を持ってきた、使いの大臣《ワジール》のほうを向いて、おっしゃいました、「その方の御主君のかたへ戻って、かく言上せよ。『世の歓びはすでに一年以上も前に当地を去って、その主《あるじ》たる王もその消息を知らぬしだいじゃ』と。」大臣《ワジール》は答えました、「おおわが殿よ、わが主君の仰せらるるには、『もし世の歓びを連れ来たらぬ節は、汝は大臣《ワジール》職を免ぜられるであろうし、汝はもはや断じて再び都に足を踏み入るること叶わぬ』とのことでござります。されば私は何として、その若者を連れずに敢えて立ち戻れましょうぞ。」
するとシャミク王は、御自身の大臣《ワジール》、蕾の薔薇の父イブラーヒームのほうを向いて、これにおっしゃいました、「汝はこれよりこの使いの大臣《ワジール》と同行し、十分の護衛を従えて参れ。かくして、大臣《ワジール》に力を藉し、あらゆる国々にて必要なる捜索を行なって、世の歓びを探し出だせ。」大臣《ワジール》はお答え申しました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」そしてすぐに衛兵の一隊を護衛につけて、使いの大臣《ワジール》と同行して、世の歓びの捜索に出発いたしました。
こうして一行は永い間旅をつづけ、ベドウィン人や隊商《キヤラヴアン》のそばを通るごとに、一々「お前たちはこれこれの男が通るのを見たことがないか。名前はこれこれ、人相はしかじかの男だ」と言いながら、世の歓びの消息を訊ねました。するとその人々は答えるのでございました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十一夜になると[#「けれども第四百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……するとその人々は答えるのでございました、「そのような方は存じません。」そして一行は、こうして町々と村々で問い合わせ、野と凸凹の地、陸と砂漠で捜索を続けて、とうとう海のほとりに到着しました。そこで船に乗って海路を行き、かくてある日、「子をなくした母の山」に上陸したのでございます。
そのときデルバス王の大臣《ワジール》は、シャミク王の大臣《ワジール》に申しました、「そもそもいかなるいわれで、この山にこんな名前がつけられたのですか。」彼は答えました、「では直ちに御得心をゆかせて進ぜましょう。
さればお聞き下さい。遠い昔のこと、シナの魔神《ジン》族の一人の魔女《ジンニーヤ》が、この山上に降りました。ところがある日のこと、この魔女《ジンニーヤ》は地を散策していたおり、一人の人間の男に出会い、これを夢中になって愛した。しかし、万一この件が知れたら、わが身に一族の魔神《ジン》の怒りの及ぶことを恐れて、この魔女《ジンニーヤ》は、いよいよ欲情の熱を制しきれなくなった時、自分の身内たる魔神《ジン》たちの眼から恋人を隠せるような、どこか淋しい場所を探しはじめて、遂に人間にも魔神《ジン》にも知られておらぬ、この山を見つけました。というのは、この山は人間も魔神《ジン》も通る路から、はずれていたからです。そこで魔女《ジンニーヤ》は恋人を攫《さら》い、空中を運んでこの島に下ろし、ここで同棲した。そして時おり身内の間に姿を見せに出かける以外、この島を空《あ》けることなく、その時もすぐに大急ぎで、ひそかに愛人の許に戻った。こういう生活をしばらく続けているうちに、魔女《ジンニーヤ》は幾たびもこれによって懐妊し、この山中に数多の子供を産み落しました。ところで、このあたりを船で旅する商人たちは、この山近くを通りすぎるごとに、その子供たちの叫び声を聞いたが、それは悼み悲しむ母親の嘆く叫びにはなはだ似ていたので、商人たちはこう思った、『この山の上には、きっと子供たちをなくした憐れな母親がいるに相違ないわい。』さればこれが、この呼び名のいわれでございます。」
この言葉を聞いて、デルバス王の大臣《ワジール》はこの上なく驚きました。
けれどもそのまに、すでに二人は陸に下りて、御殿に着き、その門を叩きました。すぐに門は開いて、そこから一人の宦官が出て参りましたが、その宦官はすぐさま自分の主人、蕾の薔薇の父、大臣《ワジール》イブラーヒームとわかりました。彼はすぐに大臣《ワジール》の手に接吻して、そのお連れの方とお供の人々と共に、邸内に案内しました。
大臣《ワジール》イブラーヒームは、御殿の中庭まで着くと、下僕《しもべ》たちのまん中に、みじめな様子をした一人の男を見かけました。それが誰だかわかりませんでしたが、実はそれこそ、世の歓びにほかならなかったのです。そこで大臣《ワジール》は召使たちに訊ねました、「あの男はどこから参ったのか。」一同は答えました、「あれは、海で難破をし、商品を全部失いましたが、ただひとりうまく助かった、憐れな商人でございます。邪魔にならぬ男で、いつも祈祷三昧に耽っている聖人でございます。」大臣《ワジール》はそれ以上追求せず、御殿の中にはいってゆきました。
大臣《ワジール》はまず娘の部屋に向って行って、そこに着くと、娘の姿が見えません。そこにいる奴隷の若い娘たちに問い質すと、こう答えました、「お嬢様がどうやってここから出てゆきなすったやら、私どもは一向に存じません。申し上げられることといえば、お嬢様はほんのちょっとの間《ま》しか、私たちの間にいらっしゃらないで、やがて姿を消しておしまいになったということだけでございます。」この言葉に、大臣《ワジール》ははなはだしく涙を流して、次の詩句を即吟いたしました。
[#ここから2字下げ]
おお家よ、恋する者の、己が欲情に泣きつつ汝《な》が方《かた》に来たり、広々と開かれし汝が歓待の扉を見出だせし時までは、
小鳥らの歌い称《たた》えし汝、その閾《しきみ》かくも誇らかに美わしかりし汝よ、
おお、今や寂寞たるこの住家の主《あるじ》たりしわが愛する者は、そもいずこに消え失せしか、何ぴとのわれに告げん。
昔はここに侍従ら、豪奢と福祉と栄誉の裡に暮しいたりき。到る処、張りめぐらすに錦繍の幕をもってせり。
あわれ、この家《や》に住みし主人らの運命を、今や何ぴとのわれに告げん。
[#ここで字下げ終わり]
次に以上の詩句を誦し終わると、大臣《ワジール》イブラーヒームは再び、泣き、呻き、嘆きはじめて、申しました、「人はアッラーの命《めい》を逃《のが》るることも、アッラーのあらかじめ書き記《しる》したもうたところに対し、策を弄することも、なし能わぬのじゃ。」次に大臣《ワジール》は御殿の物見台に上ってみると、そこに一方の端を銃眼に結びつけて、壁の下まで垂れ下っている、バアルベックの布切れを見つけました。そこでわが娘はこうやって城を逃《のが》れ、情熱に逆上《のぼ》せ、苦しみに夢中になって、どこかに行ってしまったことがわかりました。それと同時に、二羽の大きな鳥が大臣《ワジール》の目に入りましたが、その一つは烏で、今一つは梟《ふくろう》でした。そこで、これは忌わしい前兆だということをもう疑わず、大臣《ワジール》は声をあげて泣いて、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
われは、友を見てわが愛の焔と懊悩を消さんとの望みを抱きつつ、友の住居に来たれり。
されど友は家には在らず、ただ烏と梟の不吉なる姿を見しのみ。
しかしてこの光景《ありさま》はわれに告げぬ、「汝は深く相愛する二人の人間を、荒々しく引き裂きて虐げたり。
今や、汝の彼らに味わわしめし悲哀の杯を、汝の唇に近寄すべき番なり。よろしく汝の生を苦痛の裡に、涙と火傷の間に、過ごすべし。」
[#ここで字下げ終わり]
そのあとで、大臣《ワジール》は泣きながら物見台を下りて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十二夜になると[#「けれども第四百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……大臣《ワジール》は奴隷たちに命じ、山に行って百方捜索の手を尽して、女主人を探し出すように言いつけました。奴隷たちはその命令を実行いたしましたが、女主人は遂に見つかりませんでした。彼らのほうは、このような次第でございます。
ところで、世の歓びのほうはと申しますと、次のようでございます。
この若者は、蕾の薔薇が逃れ去ったことをいよいよ確かめると、ひと声大きな叫びをあげて、気を失って地に倒れてしまいました。こうして正気に返らぬまま横たわっていると、御殿の召使たちは、この若者が尊い法悦の裡に運び去られて、至高者のあやに畏き観照の美の裡に、魂を溺らしているものと、考えました。彼のほうは、このような次第でございます。
さてデルバス王の大臣《ワジール》はと申しますと、大臣《ワジール》イブラーヒームが娘と世の歓びを探し出す一切の希望を失ってしまい、こうしたすべてに痛く心を悲しませているのを見ると、彼は託された使命が不首尾のまま、とにかくデルバス王の都に帰ろうと、決心いたしました。そこで蕾の薔薇の父、大臣《ワジール》イブラーヒームに別れを告げてから、この憐れな若者を指さしながら、申しました、「私はこの聖なる男を、ぜひ一緒に連れてゆきたいと存じます。ひょっとすると、彼の功徳によって、祝福がわれらの上に下り、アッラー(その称《たた》えられよかし)は私の主君、国王のお心を動かして、私の役目を免ずるのをはばみたもうやも知れませぬ。そのあとで、私は必ずこの聖なる男を、故郷のイスパハーンの町に、送り帰すでございましょう。その町は、われわれの国から遠くはございませんから。」大臣《ワジール》イブラーヒームはこれに答えました、「よろしきようになされよ。」
それから二人の大臣《ワジール》は袂を別って、それぞれ自分の国の道をとりましたが、デルバス王の大臣《ワジール》は前もって世の歓びを、よもや本人とは思いもかけずに、一緒に連れてゆく配慮をめぐらし、彼がいつまでも、昏々と失神状態に陥っているので、これを牡騾馬に乗せてゆくように配慮しました。
この失神状態は、旅行中更に三日続き、世の歓びは、自分の周囲に起っていることを全然知らずにおりました。ようやく失神状態から覚めると、彼は言いました、「私はどこにいるのですか。」人々は答えました、「あなたはデルバス王の大臣《ワジール》のお供をしていなさるのです。」それから人々はすぐに大臣《ワジール》のところに、聖なる男が失神状態から覚めた旨を、知らせにゆきました。すると大臣《ワジール》は彼に砂糖入りの薔薇水を届けてこれを飲ませると、彼はすっかり元気を回復しました。それからまた旅を続けて、一同デルバス王の都に到着いたしました。
すぐに、デルバス王は大臣《ワジール》にお言葉を伝えさせなさいました、「もしも世の歓びが汝と共にあらぬならば、余の面前に罷り出ることは、きっと慎しむがよい。」この御命令に接して、気の毒な大臣《ワジール》は、もうどう心を定めたらよいかわからない有様でした。事実、大臣《ワジール》は、王様のおそばに蕾の薔薇のいることも、またなぜ王様が世の歓びを探し出して、これと縁組をなさりたいのやら、そんなことは全然知らなかったのでした。また、世の歓びは現に自分と一緒にいて、失神の発作にあんなに永い間襲われていたこの若者こそ、その人だということも、やはり知りませんでした。一方世の歓びも、自分がどこに連れてゆかれるのやら、この大臣《ワジール》があたかも自分を探して派遣されたことなど、少しも知らなかったのでございます。
さて、大臣《ワジール》は世の歓びが正気に返っているのを見ると、これに申しました、「おおアッラーの聖なるお方よ、今私は切羽詰った窮境に遭遇して、ひとつあなたの御忠告を仰ぎたい次第です。実は、わが御主君の王は、ある使命のために私を派遣なされたが、私はよくそれを果し了《おお》せなかった。そして今私の帰国を御承知になると、書面をおよこしになって、『汝の使命を全うせざりしとあらば、わが都に再び入ることなかれ』と、こう仰せられるのです。」世の歓びは大臣《ワジール》に訊ねました、「してその使命とは、どのようなことでしたか。」すると大臣《ワジール》はすべての経緯《いきさつ》を話して聞かせますと、世の歓びは言いました、「御心配無用です。王の御許に参上し、私を一緒にお連れ下さい。さすれば、世の歓びを連れ帰る責任は、私がきっと一身に引き受けまする。」大臣《ワジール》はこれにはたいそう悦んで、言いました、「お言葉に偽りはないかな。」彼は答えました、「大丈夫でございます。」そこで大臣《ワジール》は馬に乗り、彼を伴って、一緒に王様の御許に参上いたしました。
二人が王様の御前に出ますと、王様は大臣《ワジール》にお訊ねになりました、「世の歓びはいずれにありや。」すると聖なる男が進み出て、お答えしました、「おお大王様、この私が世の歓びの行方を存じておりまする。」王様は近く寄れとの合図をなさって、たいそうお心を動かされた御様子で、お訊ねになりました、「いかなる場所におるのじゃ。」若者は答えました、「ここから極めて近い場所でございます。さりながら、それに先立って、まず彼にどのような御用がおありか承わりたく、さすれば、私は急ぎ彼をば、御手《おんて》の間に罷り出させまするでございましょう。」王様はおっしゃいました、「いかにも、悦んで、義務《つとめ》として、聞かせてとらせよう。されどこの件は、われら二人きりであることを要する。」そしてすぐに家来たちに遠ざかるように命じ、若者を奥の一室にお連れになって、これに一部始終、話してお聞かせになりました。
すると世の歓びは王様に申し上げました、「どうぞ立派な衣服をお取り寄せ相成って、それを賜い、私に着させて下さいますように。さすれば私は即座に、世の歓びをここに来《きた》らせるでございましょう。」王様はすぐに、ひと襲ねの立派な衣裳を取り寄せて下さいますと、世の歓びはこれを着て、叫びました、「私こそは世の歓び、羨む輩《やから》の嘆きでございます。」そしてこう言っておいて、その明眸をもって人々の心を貫きつつ、彼は次の詩句を即吟したのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十三夜になると[#「けれども第四百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
[#ここから2字下げ]
愛《いと》しき女《ひと》の思い出は、わが孤独の裡に、われと共に楽しく語らい、相隔たる切なき憾みを、われより遠く払い除く。
ここにわれは、わが涙の泉より外に泉なし。されど、この泉、わが眼より流れ出《い》ずれば、そはわが苦悩を軽くす。
わが願望《のぞみ》は激しく、何ものもこれに比すべくもあらず。ああ、恋と友情におけるわが場合こそ、げに驚くべきものぞかし。
われは不眠の裡に瞼《まぶた》を開きつつ、わが夜々を過ごす。しかしてわが恋の生活は地獄と天国の裡に過ぎゆく。
昔、われは高潔なるあきらめを授けられてありしも、今やこの美徳を失えり。恋のわれに伝えし唯一の贈物は、憂目なり。
隔たりてある苦しみと燃えさかる情熱の裡に、わが身は細り、わが面《おも》は変れり。
わが眼の瞼《まぶた》は溢れ出《い》ずる涙のために爛《ただ》れたり。されどわれはこの涙を、わが眼中に押しとどむる能わず。
ああ、われは力尽き果てたり。われはわが心を失えり。ああ、わが裡に、悲しみは悲しみの上に積もるかな。
わが心とわが頭《かしら》は相似たり、愛《いと》しき女《ひと》のうち最も美わしき、愛《いと》しき女《ひと》の不在によって、心も頭も相共に老い、白くなりし今は。
われらの別離は、かの女《ひと》の本意《ほい》ならず、今かの女《ひと》のただ一つの思いは、再びわれに会って、わが身を獲ることなり。
されど、今は知る由もなし、果して、この永き不在の後、天命は再びわれをわが友にめぐり合わすや否や、この間常に開け拡げられてありし疎隔の書を、遂に運命は閉ざすや否や、不在の苦悶に続いて再会の悦び到るを運命は許すや否や。
知る由もなや、果して、家居にあって、わが悦びを共にするわが友を、再び見ることのわれに許さるるや否や。果して、わが憂悶は遂にまじりなき歓楽に変ずるや否や。
[#ここで字下げ終わり]
世の歓びがこの詩句を誦し終わると、デルバス王はおっしゃいました、「アッラーにかけて、そちたちは両人とも、同じき誠と同じき強さをもって相愛しておることが、今となってよくわかった。まことにそちたちは、美の天空にあって、二つの煌《きら》めく星辰であるぞよ。そちたち両人の物語は驚くべく、両人の波瀾は思いもかけぬものじゃ。」次に王様はこれに、蕾の薔薇の物語を委細詳しく、話してお聞かせになりました。すると世の歓びは訊ねました、「されば、おお当代の王様、かの女は今どこにいるか、お教え願えまするでしょうか。」王様はお答えになりました、「余の殿中にある。」そしてすぐに法官《カーデイ》と証人たちをお呼びになって、蕾の薔薇と世の歓びとの結婚契約書を、お作らせになりました。それが済むと、彼に名誉と恩恵の限りをお尽しになって、直ちに飛脚を派して、シャミク王に、世の歓びと蕾の薔薇の身に起ったこと全部を、お知らせになりました。
シャミク王はこの報を聞くと、悦びの限りお悦びになって、デルバス王にお手紙を送って、こう申されました、「結婚契約書すでに作製せられたりとあらば、華燭の典と同衾の儀は当方にて挙げたしと存じ候。」そしてすぐに駱駝と馬と人数を揃えさせて、新夫婦を迎えに遣わしなさいました。
このお手紙と護衛が到着すると、デルバス王は新夫婦に莫大な金品をお贈りになり、両人に美々しい護衛を与えて、お別れになりました。そして両人は出発いたしました。
さて、両人が故郷の、シャミク王の治めなさる、イスパハーンの町のただ中に着いた日は、まことに記念すべき日でございました。かつてこれ以上華やかな日はおろか、この日に較べることのできるような日さえも、人々はついぞ見たことがございませんでした。
実際に、シャミク王は、この祝典を祝うために、楽器の演奏者を全部呼び集めて、大宴会を催されました。そして宴楽はまる三日間続き、その間、王様は人民に多大の金品を御下賜になり、数々の誉れの衣を下されました。
新夫婦については、次のようでございます。世の歓びは、第一夜の祝宴が果てると、蕾の薔薇の婚姻の部屋にはいりました。そして二人は、お互いの腕のなかに飛びこみました。それというのも、二人がそもそも出会ってから、やっと相見ることができたのは、この時がはじめてであったからでございます。二人はただもう涙を流すばかりの、悦びと幸福のうちにありました。そして蕾の薔薇は、次の詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
悦びは遂に来たって憂いと悲しみを追い払う。われら今ここに再会し、妬《ねた》む人々を切歯せしむ。
再会の微風はわれらの上にその馨《かぐ》わしき息吹を送り、われらの心と臓腑と身体を蘇えらしめたり。
帰国の酔いはわれらの面上に輝けり。しかしてわれらの周囲にあまねく、歓呼の声と太鼓とは、われらの帰国を告げ知らせたり。
われらの涙は憂いによるものと思いたもうことなかれ。さにあらず、われらをして涙せしむるは、幸《さち》なりとこそ思いたまえ。
われらいかばかり災いを嘗《な》めしぞ、今はみな消え失せたれど。いかなるあきらめをもて、われら切なき苦しみを耐え忍ばざりしか。
わが頭を白くせしばかり恐ろしき苦悩と障礙も、われは再会のひと時のうちに、打ち忘れたり。
[#ここで字下げ終わり]
この即吟を終えると、二人は抱き合って、固く抱き締めながらお互いの腕のなかにじっといるうちに、とうとう二人は嬉しさと幸福に、気が遠くなって倒れてしまいました。……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十四夜になると[#「けれども第四百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ひとたび気絶から覚めると、世の歓びは次の詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
おお、待つこと久しかりし夜の楽しさよ、恋人はその約を違《たが》えず、友に身を委ねる時。
われら、不在の後、今ここに永えに結ばれてあり。われらを別離のうちに囚《とら》えおきし鎖は、今絶たれたり。
天運は、われらに対しかくも酷なりし後、今やわれらに微笑みて、ひたすらわれらに寵を垂る。
幸福はわれらのためにその旗を拡げ、われらの渇を医《いや》せんとて、快楽の醇乎たる杯をわれらに献ず。
嵐の後、遂に再会し、われらは来し方の憂苦と、悲哀の裡に過ぎし不眠の夜々をば、かたみに語り合う。
おおわが主《しゆ》よ、今やわれらの苦悩を忘れん。願わくは慈悲の「分配者」の、われらの魂を忘却もて富ましたまわんことを。
ああ、人生の楽しきかな、人生の快きかな。相結ばれては、わが焔と熱情はいよよ激するのみ。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦すると、二人の恋人は今一度抱き合って、婚姻の床《とこ》の上に身を投げかけ、無上の快感のうちに固く相抱きました。そして二人は互いに愛撫し、数々の嬉戯《たわむれ》と楽しい遊びに耽りつづけ、波立ち騒ぐ愛の海に、すっかり溺れきってしまうまで続けました。そして二人の歓楽と悦楽と幸福と快楽と喜びとは、そんなにも激しく、それで二人は時の過ぎゆくのも、移り変るのも気づかずに、さながら七日の日もただの一日にすぎないかのように、七日七夜を過ごしてしまいました。二人は楽器を奏する人たち(12)がやってくるのを見て、はじめてもう結婚の第七日の終りが来たことを、さとったのでございました。ですから、蕾の薔薇は驚嘆の極みに達して、即座に次のような詩を吟じました。
[#ここから2字下げ]
われは幾多の妬みの的《まと》となり、監視の眼厳しかりしにかかわらず、遂にわが愛《いと》しき人をかちうるを得たり。
汚れなき絹と天鵞絨《ビロード》の上にて、かの人は数多の愛撫もてわれに身を与えたり。
類稀《たぐいまれ》なる珍鳥の綿毛を詰めし、柔らかき皮蒲団《マトラー》の上にて。
新たなる熱情満てる恋人ありて、われにその逸楽の唾を味わわしむる時、何とてもわれは酒を用うるを要せん。
われらにとって、過去と現在は一つとなって相混じ、われらに忘却を与う。
驚くべきことならずや、われら思いもかけざるうちに、七夜のことごとくわれらの頭上を過ぎ去りしとは。
まことに、七日目に際し、人々わが許に来たり祝って言えり、願わくはアッラーの、君と君が友とを永《とこしな》えに結びたまえかし、と。
[#ここで字下げ終わり]
彼女が以上の詩句を誦しますと、世の歓びは、数えきれないほど幾たびも彼女に接吻して、次に自分も、次の詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
幸福と幸運の日は到れり。わが友は来たってわれを孤独より救う。
友近寄れば快く、酔い心地なり。才気満てるその言葉は、何たる蠱惑ぞ。
友はわれにその内奥の快楽《けらく》の氷菓を飲ましめ、この飲料はわが官能をこの世の外に運びたり。
われらは心霽れたり。体|裕《ゆた》かなり。われらは臥床《ふしど》に横たわって、酔い痴れたり。しかして、杯を挙げつつ、歌いたり。
幸福の陶酔はわれらに時の念を失わしめ、われらは、もはや、最初の日と最後の日の別を弁え得ざりき。
願わくは、愛はわれらに永久に甘美なれかし。わが友はわれと同じき享楽を覚えたり。
われと等しくわが友も、苦き日々をば思い起すことなし。わが主《しゆ》は、われに恵みを垂れたまいしごとく、わが友にも恵みを垂れたまえり。
[#ここで字下げ終わり]
以上の詩句を誦して、二人は共々立ち上り、婚姻の部屋から出て、殿中の使用人たち一同に、多額の金子や、美々しい衣服や、引出物や贈物を配りました。それが済むと、蕾の薔薇はお付きの女奴隷たちに、御殿の浴場《ハンマーム》の人払いをして、自分ひとりだけにしてくれるようにと命じて、さて世の歓びに言いました、「おおわが眼の涼しさよ、今はわたくしはあなたを浴場《ハンマーム》で見て、二人きりで、ゆるゆる寛ぎたいと存じます。」そしてこの時、幸福の極みに達して、彼女は次の詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
友よ、かく久しくもわが心を領したもう君よ――われはもはや古き事どもを語るを欲せず、――
おお、もはや君なくして叶わず、わが内心に余人をもって代え得ざる君よ、
来たれ、浴場《ハンマーム》に、おおわが眼の光よ。そはわが身には、歓楽の天国のさなかなる、焔の地獄なるべし。
われらかしこにて竜涎香《ナード》を焚かん、馨わしき気、室に満ち、四辺に溢るるまで。
われら、天命に、われらに犯せるその罪を許し、われらが主《しゆ》の慈《いつく》しみを称《たた》えん。
しかしてわれは、沐浴《ゆあみ》する君を見て、歌うべし、おお愛《いと》しき君よ、願わくは、沐浴《ゆあみ》は君に爽やかにして快かれかし、と。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦してから、二人の恋人は立ち上って、浴場《ハンマーム》に行き、そこでたいそう楽しい時を味わうことができました。それが済むと、二人は御殿に戻り、そして快楽の「破壊者」にして、友どちの「隔離者」が訪れてくるまで、無上の至福のうちに、生涯を送ったのでございました。
森羅万象の向い集まる「永遠者」「不易者」に、栄光あれ。
[#この行1字下げ] ――「けれども、おお幸多き王さま」とシャハラザードはつづけた。「この物語が黒檀の馬の奇談[#「黒檀の馬の奇談」はゴシック体]に類するものなどとは、お思い遊ばしますな。」するとシャハリヤール王は言った、「余は、おおシャハラザードよ、この二人の心|渝《かわ》らぬ恋人の誦し合った新しい詩句は、はなはだ意に叶った。されば、そちが余の知らぬその奇談を語るを、余はいつなりと聞くであろうぞ。」そこでシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
黒檀の馬奇談
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びまするところでは、時のいにしえ、世々代々のその昔、ペルシア人の諸王の間に、サブールというお名前の、一人の非常にお偉く勢威ある大王がいらっしゃいました。この王はたしかに、あらゆる種類の財宝を、最も豊富に持っていらっしゃると共に、英明と知恵を、最も豊かに授けられたお方でございました。その上、寛仁と温情に充ち満ちていらっしゃって、そのお手は倦むことなくいつも広々と開かれて、お縋《すが》り申す人々を助け、救いを求める人々を決してお拒みなさらないのでした。ただ御庇護を乞いにくるだけの人々をも、手厚くおもてなしになり、必要な場合には、優しさとねんごろさ溢れたお言葉と御態度によって、傷心の人々を、力づけてやりなさることがおできになりました。貧しい人々には、親切で慈《いつく》しみ深くあらせられ、外国の人々もお訪ねすれば、決して王宮の門が閉ざされているのを見ることはございません。圧制者たちにつきましては、彼らはその厳しいお裁きの前では、御恩顧も御寛容も見出しませんでした。まことに、この王はこういうお方でございました。
ところで、サブール王には三人のお姫様がおありになりましたが、このお三方は、栄光満てる大空の三つの名月か、手入れの届いた花壇の、光まばゆい三輪の花のようでございました。それに王子様がお一方、これは月そのものでございまして、カマララクマール(1)というお名前でした。
さて王は毎年二回、人民に盛大な祝祭を催しておやりになりました。ひとつは春の初めの、ヌールーズの祭、今一つは秋の、ミフルガーンの祭(2)でございます。そしてこの春秋二度の機会には、王様はすべての御殿の戸を開け放たせ、金品を分け与え、触《ふ》れ役人に特赦令を布告させ、新たな要職者を任命し、代官《ナワーブ》と侍従の昇進を行なわれるのでした。ですから、その広大な領土の津々浦々から、住民たちはこの二度の祭日には、王様に敬意を表し、御機嫌を伺うために、あらゆる種類の御進物と献上の奴隷、宦官を携えて、駈けつけるのでございました。
ところで、こうした祭のある時、それはちょうど春祭のおりでしたが、あらゆる美質に併せて、科学、幾何学、天文学の御趣味も深かったこの王が、王国の玉座に坐っておいでになると、そこに、三人の学者が御前に進み出るのを、御覧になりました。これはいずれも、最も秘奥の知識と最も微妙な技芸との各部門に深く通暁し、いろいろな形の物を造れば、人の判断力を茫然とさせるような完全無欠をもってすることができ、人知の通常捉え得ない神秘を、一つとして知らざるはないという人々でした。この三人の学者は、それぞれ三つの別な国から出て来て、この王の都に到着し、めいめい別な言葉を話すのでした。第一はヒンディ、第二はルーミ、第三はペルシアの辺境のアジャミ(3)でございました。
第一のヒンディ人の学者は、玉座に近づき、王の前に平伏し、御手《おんて》の間の床《ゆか》に接吻して、今日の祭日に際しての慶賀を言上してから、真に王者にふさわしい献上品を奉りました。それは高価な宝玉と宝石を鏤《ちりば》めた、黄金造りの人形で、その手には黄金の喇叭《らつぱ》を持っています。そこでサブール王はおっしゃいました、「おお学者よ、この人形の効用はいかなものか。」彼は答えました、「おおわが君、この黄金造りの人形の効用は、まことに感嘆に値いする効能でございまする。もしこれを都の城門にお置き遊ばせば、これは万夫不当の番人となるでございましょう。何となれば、万一敵が侵入してまいりますれば、これは遥か遠くからそれを看破して、喇叭を口に持って行って吹き鳴らし、敵をば立ち竦《すく》ませ、驚愕斃死させるのでございます。」王様はこの言葉に、たいそう驚嘆なすって、おっしゃいました、「アッラーにかけて、おお学者よ、そちの言に偽りなくば、そちのあらゆる望みとあらゆる願いをば、必ず聞き届けてつかわすぞよ。」
するとルーミ人の学者が進み出て、王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、中央に一羽の黄金の雄孔雀が、同じく黄金の雌孔雀二十四羽に囲まれている大きな銀盤を、進物として奉りました。サブール王は驚きの眼をもってこれを御覧になり、そしてルーミ人のほうをお向きになって、おっしゃいました、「おお学者よ、この雌雄の孔雀の効用はいかなものか。」彼は答えました、「おおわが君、日となく夜となく、およそ一時間が経ちますると、そのつど、これなる雄孔雀は、二十四の雌孔雀の一羽を嘴で突ついて、羽ばたきしながら、その上に乗りまする。かくして時刻を示しつつ、以下全部の雌孔雀に乗るまで続けます。それから、こうしてひと月が経過いたしますと、雄孔雀は口を開きます。すると新月の三日月が、その喉《のど》の奥に現われるのでございます。」すると王様は感嘆なすって、叫びました、「アッラーにかけて、もしそちの言に偽りなくば、そちのあらゆる所望は叶えられるであろうぞ。」
三番目に進み出たのは、ペルシアの学者でございます。彼は王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、御祝辞と御挨拶《サラーム》をすませてから、この上なく黒く、この上なく珍しい質《たち》の黒檀の材で作った、一匹の馬を進上いたしました。それは金と宝石を鏤め、鞍、轡、鐙を美々しく装い、王様方のお馬でなければ見られないような、馬具でございました。ですから、サブール王は驚嘆の限り驚嘆なさり、この馬の美しさと見事さに茫然となさいました。次におっしゃいました、「して、この黒檀の馬の効能はいかなものか。」ペルシア人は答えました、「おおわが君、この馬の備えまする効能は、不思議千万のものでございまして、これに乗りますれば、馬は直ちに騎手と共に、電光の速さにて空中を飛び、通常の馬ならば行くに一年を要する距離を、一日にして駆けり、何処《いずく》なりと欲するところに運んでまいるのでございます。」王様は、同じ一日のうちに相次いで到った、これらの三つのはなはだ不思議な品に、はなはだしくお驚きになって、ペルシア人のほうを向いて、おっしゃいました、「一切の存在を創《つく》って、これに飲食物を与えたもうた全能のアッラーにかけて(その称《たた》えられよかし)、もしそちの言の真なることが余に証せられたならば、そちの望みと最小の願いに至るまで、必ず聞き届けてつかわすぞよ。」
それが済むと、王は三日にわたって、この三つの献上品のいろいろな効能を、三人の学者にそれぞれ、いろいろの運動を実地にやらせて、試験させました。すると事実、黄金の人間は、黄金の喇叭を吹き鳴らし、黄金の孔雀は、規則正しく二十四羽の黄金の雌孔雀を嘴で突ついて乗り、またペルシアの学者は……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十六夜になると[#「けれども第四百十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……またペルシアの学者は黒檀の馬に乗って、空中に舞いあがり、非常な速さで広い天地を駈けめぐった上で、大きな輪を描いてから、もと出発した場所に、静かに舞い下りたのでございます。
こうしたすべてを見て、サブール王ははじめはあっけにとられなさいましたが、次には、お悦びのあまり今にも飛び立つばかり、身を顫わしなさいました。そこで王は学者たちにおっしゃいました、「おお、歴々の碩学たちよ、余は今やそちたちの言葉の真なる証拠を得た。こんどは余が、わが約束を果すべき番じゃ。されば、何事なりとそちたちの望むところを求めよ。そは直ちに与えらるるであろうぞ。」
すると、三人の学者は答えました、「われらが御主君におかれましては、私どもと私どもの御進物に御満足あらせられ、何なりと願い出でよと仰せられまするからには、私どもは何とぞ、姫君御三方をわれらの妻に賜わりたく、乞い奉ります、私どもはわが君の女婿となることを、切に望みますれば。しかして、そは王国の安泰をいささかも紊《みだ》し得ぬ一事でございます。いずれにせよ、およそ王者たるものは、決して約束を翻さぬものでござりまする。」王様はお答えになりました、「余は直ちに、そちたちの希望を聞き届けてつかわす。」そしてすぐに、三人の学者と三人のお姫様の結婚契約書を認《したた》めさせるために、法官《カーデイ》と証人を呼んでくるように、御命じになりました。こうした次第でございます。
ところが、たまたまこうしている間に、王の三人の姫君は、ちょうど応接の間《ま》の垂幕の蔭に坐っていて、これらの言葉を聞いたのでした。そこで三人姉妹のうち、一番下の妹君は、御自分の夫となることになった学者を、注意をこめてよくよく眺めはじめますと、こうなのでございます。それは百歳以上ではないにしろ、少なくとも百歳の齢《よわい》を重ねた、非常な老人《シヤイクー》で、生え残っている髪の毛は、歳月のため白くなり、頭はぐらぐらし、眉毛は白癬《はくせん》にやられて薄く、耳は垂れ下って皹《ひび》がいり、頬髯と口髭は染めて生気なく、両眼は赤く藪睨みであらぬ方を見、下膨れの頬はぶよぶよして、黄色く、穴だらけで、鼻は黒い大|茄子《なすび》のようで、顔は靴直しの前掛のように皺くちゃで、歯は野豚の歯のように出っ歯で、唇は駱駝の睾丸《きんたま》のように、だらりと垂れてぴくぴく動いていて、一言で言うと、この年とった学者は、何かぞっとするようなもの、はなはだしい醜さの寄り集まった気味の悪い代物で、その醜さのため、これはたしかに当代随一の不様《ぶざま》な、当節随一の怖ろしい人間でございました。それというのも、今申したようないろいろの特性に、かてて加えて、その腮《あご》は奥歯がなく、犬歯の代りに、牙《きば》がついていて、まるで、人のいない家で子供たちを慄え上らせ、鳥屋《とや》で※[#「奚+隹」、unicode96de]どもをけたたましく叫ばせる|鬼神ども《アフアリート》のような姿をしているのであってみれば、どうしてそう思わずにいられましょうか。こうした次第でございます。
ところがちょうど、この姫君、王の三人のお姫様のうち一番年下の方は、当代随一の美しく優美な乙女で、若い羚羊《かもしか》よりも優雅、この上なく快い微風よりも優しく爽やか、満月の月よりも輝かしい方でした。こうして姫君はまことに恋の嬉戯《たわむれ》には誂向《あつらえむ》きで、姫君が身を動かせば、しなやかな小枝は、自分の波立ち揺れる様を恥じ、姫君が歩めば、身軽な牡鹿は、自分の優美な歩み振りを羞じ入るのでした。異議なく、この姫君は美しさの点で、白さの点で、魅力の点で、優しさの点で、遥かに姉君たちを凌いでおりました。この姫君は、まことにこのような方でございました。
ですから、御自分に当ったこの学者を見た時、姫君はすぐ自分の部屋に駈けて行って、そのまま床《ゆか》に顔を伏せ、着物を引き裂き、頬を引っ掻き、咽び泣き、悲しんでおりました。
姫君がこういう有様でいるところに、兄上のカマララクマール王子が、狩猟会から帰ってきました。王子はこの妹をたいそう愛して、他の妹君たちよりも好いていらっしゃいましたので、泣き悲しんでいる妹君の声を聞きつけて、その部屋にはいって、訊ねました、「どうしたのか。何ごとが起ったのか。急いで言いなさい、何も隠してはいけない。」すると姫君はわれとわが胸を打って、叫びました、「おおただひとりのお兄様、おおいとしいお兄様、何ごともお隠しいたしません。お聞き下さいまし、たとえ御殿があなたのお父様の御前《みまえ》で狭くなろうとも、わたくしはここを出てゆく覚悟でおりますの。そして万一あなたのお父様が、こんないやらしいことをなさるというのなら、わたくしはためらわず、お父様を棄てて、旅の必要品もいただかずに、ここから逃げて行ってしまいます。アッラーが何とかして下さいますでしょうから。」
この言葉に、カマララクマール王子は妹君に言いました、「とにかくその言葉がどういう意味なのか、そして何がお前の胸を狭め、気持を乱しているのか、早く言いなさい。」若い姫君は答えました、「おおただひとりのお兄様、おおいとしいお兄様、実はお父様は、わたくしを一人の年とった学者に、お嫁にやると約束なさったのです。怖ろしい魔法使で、お父様に黒檀の木で作った馬を献上して、きっと妖術を使ってお父様に呪いをかけ、悪だくみと不実な心で、お父様を騙したものにちがいありませんわ。わたくしはもう、あんな醜い年寄りに身を与えるくらいならば、いっそこの世にいまいと、固く決心いたしました。」
兄君はすると、妹を撫でたりなだめすかしたりしながら、気持を落ち着かせ、慰めはじめましたが、やがて急いで父王に会いに行って、申し上げました、「いったい、私の末の妹を嫁にやると約束なすった、その妖術師というのは、何者ですか。そして、父上にこうして妹を悲しみのあまり死なせるほどの御決心をさせた、その献上の品とは、そもそも何でしょうか。これは正しいことではなく、あるべからざることです。」
ところで、そのペルシア人はちょうどそのすぐそばにいあわせて、この王子の言葉を聞き、たいへん腹を立て、恥をかかされた思いをいたしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十七夜になると[#「けれども第四百十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれども王はお答えになりました、「おおわが子カマララクマールよ、もしこの学者が余に贈った馬を知ったならば、そちは決してそのように、慌てふためきはせぬであろうぞ。」そしてすぐに王子と一緒に御殿の広庭に出て、奴隷たちに、例の馬を曳いて来いとお命じになりました。奴隷たちは御命令を果しました。
若い王子はこの馬を見ると、たいへん立派に思えて、これがすっかり気に入りました。そして、もともと王子は優れた騎手でしたので、身も軽くその背中に飛び乗って、足を鐙に入れながら、いきなり馬の腹に拍車を入れました。けれども馬は動きません。すると王は学者におっしゃいました、「どうして馬が動かぬのか、ちょっと見てやってくれ。そして王子に力を藉してやれば、王子もまたそちの願いを成就するに、必ず力を藉すであろう。」
ところで、妹君の結婚に反対されたので、王子に恨みを抱いていたそのペルシア人は、馬上の王子に近づいて、これに言いました、「鞍頭《まえぐら》の上に、ほら右側に、金の栓がございます。それが上昇の栓です。それをお廻しになりさえすればよろしい。」
そこで王子が上昇の栓を廻すと、こはいかに、馬はすぐに飛鳥の速さで、王子を空中に持ち上げ、高く高く上って、しばしのうちに、王様はじめ並いる一同の眼に、見えなくなってしまったのでございます。
こうして王子が姿を消し、数時間待っても、もう帰って来ないのを見ると、サブール王はたいそう心配になり、途方に暮れなすって、ペルシア人におっしゃいました、「おお学者よ、さて今はわれわれは何といたせば、王子が戻ってくるであろうか。」彼は答えました、「おおわが君、私としては、もう手の施しようがござりませぬ。わが君は復活の日でなければ、王子様にお会いになることはござりますまい。事実、王子様は私が、下降の栓である左方の栓の用い方を、御説明申す暇もなく、御自身の慢心と無知にしか耳傾けようとなさらず、あまりに早急に、馬を立たせてしまいなすったのでございます。」
サブール王はこの学者の言葉を聞かれると、憤怒に溢れ、激怒の限り激怒なさって、この学者に笞刑を加えた上で、一番暗い土牢に放り込むように、奴隷に命じなさり、一方御自身は王冠を頭上から剥ぎ取って、われとわが顔を激しく打ち、お鬚を掻き|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》りなさいました。それから御殿に引き籠って、あらゆる扉を閉ざさせ、王様も、お后も、三人の姫君も、御家来も、御殿に住む人全部も、それに町民たちも、みんな啜り泣き、呻き、嘆きはじめました。こうして一同の悦びは憂いに変じ、至福は悲しみと絶望に変じました。こちらはこのような次第でございます。
さて王子はと申しますと、馬は王子を乗せたまま、止まることなくずんずん空中を昇りつづけ、今にも太陽に届くばかりになりました。そこで王子は、身に危険の迫っていることをさとり、この空中で、どんな恐ろしい死が待ち構えているかわかりました。そしてたいそう心配になり、この馬に乗ったことをたいへん後悔し、魂の中で考えました、「あの学者の意中は、末の妹のことで、おれをなきものにするつもりであったことは確かだ。さて今は何としようか。全能のアッラーのほかには力も権力もない。もうおれは頼るすべなく助からぬ。」次に独りごとを言いました、「だが、もう一つ栓があって、一つが上昇の栓であるように、それが下降の栓でないとは限らないぞ。」そして王子は元来、利発と知恵と聡明の性《さが》を授けられていましたので、馬のあらゆる部分を探りはじめますと、最後に、鞍の左側に、留針《とめばり》の先ほども大きくない、ごく小さな一本の捩子《ねじ》を見つけました。そして独りごとを言いました、「どうも外には見当らないな。」そこでその捩子《ねじ》を押してみると、すぐに上昇の勢いは次第に衰えてきて、馬はちょっと空中に停まり、それから直ちに、同じ速さで下りはじめ、やがて地面に近づくにつれて、すこしずつ遅くなってゆきました。そして乗り手がやっと安堵の息をつき、生命の心配がなくなりはじめているうちに、馬は最後に、何の動揺もなく故障もなく、着陸しました。
若いカマララクマール王子は、一度栓と捩子《ねじ》の扱い方がわかると、その発見を非常に悦んで、確実な死から自分を救い出して下さった、至高のアッラーにあつく感謝いたしました。そのあとで王子は、あるいは栓をあるいは捩子を廻し、右に左に手綱を操って、前後上下と、自分の好きなところどこへでも、ある時は電光の速さで、ある時は散歩の歩度で馬を進めはじめ、馬のいろいろの運動をすっかり会得するまで、試みました。そこで馬をばある高度まで昇らせて、足下の地上に繰り拡げられる美しい眺めを、ゆっくり楽しめるぐらいの程よい速さで、ある方向に進ませました。こうして王子は、地と海の絶景をゆるゆると眺め、生れてから一度も、見たことも知ったこともない国々と町々を、賞翫することができました。
ところで、こうして自分の下に拡がってゆく町々の間に、王子は鬱蒼と茂る草木に蔽われ、幾条もの流れが貫き、たくさんの牧場のある美わしい国のただ中に、心地よく均合《つりあ》いをとって、家々と建物を配置した一つの都を認めました。牧場には羚羊《かもしか》が躍り跳ねながら、のどかに遊んでおります……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十八夜になると[#「けれども第四百十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
カマララクマールは、元来気晴らしをし景色を眺めることが好きだったので、独りごとを言いました、「これはひとつあの町の名前を知り、どの国にあるのか知る必要があるぞ。」そこで空中で、一番美しい場所場所に停まりながら、その町の周囲を、ぐるりとまわりはじめました。
そうしているうちに、日が傾きはじめ、太陽はほとんど運行《めぐり》を終って、地平線に達しました。そこで王子は考えました、「アッラーにかけて、夜を過ごすには、この都にまさる場所は見つからぬにちがいない。では今夜はここに眠って、明日夜明けに帰途につき、御両親や友人のただなかに戻ることにしよう。その上で父上に、おれの身に起ったところすべてと、わが眼の見たところすべてを、お話し申し上げよう。」そして王子はあたりに眼をめぐらして、安全に、邪魔されずに夜を過ごし、また自分の馬をしまっておけるような場所を選び、最後に町の中央にあって、銃眼をつけた塔を繞《めぐ》らし、鎖《くさり》帷子《かたびら》を着用して、槍や剣や弓矢を携えた、四十人の黒人奴隷に護られている、聳え立つ宮殿の上に、自分の選択を落しました。そこで「これこそ究竟《くつきよう》の場所だ」と独りごとを言って、下降の捩子《ねじ》を押し、馬をそちらに向けると、馬はさながら疲れた鳥のように、宮殿の露台の上に、静かに舞い下りました。すると王子は、「アッラーに称《たた》えあれ」と言って、馬から下りました。王子は馬のまわりを廻って、仔細に調べはじめつつ、言いました、「アッラーにかけて、このように完全無欠にお前を作った人間は、まことに名人であり、随一の巧みな工匠ではある。されば、もし至高者がわが寿命を延ばしたまい、父上はじめ身内の人々と再会させて下さった節には、おれは必ずあの学者に、わが好意の限りを尽し、わが寛仁に浴させてやろう。」
けれども、時すでに夜となってきましたが、王子は御殿中の人たちが寝入るのを待って、じっと露台の上にいつづけました。そのうち、出発以来まだ全然飲み食いしていなかったため、飢えと渇きに悩まされていたので、独りごとを言いました、「こんな御殿のことだから、食物がないはずはない。」そこで王子は馬を露台に残して、何か食べる物を探しにゆく決心をし、宮殿の階段のほうに向って、その階《きざはし》を降りて下までゆきました。すると突然、暗中に月光を映している、白大理石と透明な雪花石膏を敷き詰めた、広々とした中庭に出ました。王子はこの宮殿とその構造《つくり》の美しさに感嘆しましたが、しかし右を見ても左を見ても、人間の影ひとつ見えず、人間の声の音ひとつ聞えません。そこでたいそう不安を覚え、思いまどい、どうなることやらわかりませんでした。それでも、とにかく最後に思い定めて、考えました、「これはさしあたり、今下りてきた露台にまた上り、あの馬のそばで、夜を過ごすに如《し》くはない。そして明日、日が射したらすぐに、また馬に乗って、立ち去ることにしよう。」そしていよいよこの計画を実行しようというとき、ふと宮殿の内部《なか》に、一条の光を認めたので、いったい何かと思って、そちらに進みました。するとその光は、後宮《ハーレム》の扉の前に置かれ、眠っている一人の黒人宦官の寝床の枕許に点《とも》っている、燈火《ともしび》の光であることがわかりました。その宦官は、ひどく騒々しい音を立てて鼾をかいていましたが、まるでスライマーンの配下の鬼神《アフアリート》の中のある鬼神《イフリート》とか、黒い魔神《ジン》族のある魔神《ジンニー》さながらでした。彼は扉の前に、一文字に毛蒲団《マトラー》の上に横たわって、木の幹や門番の長い腰掛《ベンチ》とても、これ以上うまくできないように、扉をいっぱいに塞いでおりました。そしてその剣の柄頭《つかがしら》は、燈火の火影に物凄くきらきら煌《きら》めき、一方その頭の上には、彼の食糧袋が、御影石の柱に懸って下がっておりました。
この恐ろしい黒人を見ると、若いカマララクマールは、慄え上って呟きました、「全能のアッラーに縋り奉る。おお天と地の唯一の御主《おんあるじ》、すでに私を確かなる破滅から救いたもうたお方よ、今一度私を助け、この宮殿で私を待つ出来事から、恙《つつが》なくわが身を逃れさせたまえ。」そう言って、王子は黒人の食糧袋のほうに手をのばして、それを手ばやく取り、その部屋を出て、袋を開けてみると、ごく上等の食糧がはいっていました。そこでそれを食べはじめ、とうとう袋をすっかり空にしてしまいました。こうして元気を回復してから、中庭の泉水のところにゆき、噴き上げている清く甘い水を飲んで、渇きを医しました。それが済むと、王子は再び宦官のそばに戻って、袋をもとの場所に懸け、さてこの奴隷の剣を鞘から抜いて、奴隷が前よりもいっそう深く寝入って、ぐうぐう鼾をかいているうちに、その剣を持って、自分の天命が、何処《いずこ》から自分に出会いに来ることになるか未だ知らぬままに、そこを出ました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百十九夜になると[#「けれども第四百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで王子は宮殿の内部《なか》に進み入ると、天鵞絨《ビロード》の垂幕の垂れている、第二の扉に着きました。その帳《とばり》を掲げますと、すばらしい部屋のなかに、真珠や紅玉《ルビー》や風信子石やその他の宝石を鏤《ちりば》めた、この上なく純白な象牙の大きな寝台と、四人の若い女奴隷が、眠りながら床《ゆか》の上に横たわっているのが、見えました。そこで王子は、いったい誰がこんな寝台に寝ているのか見ようとして、そっと寝台に近づいてみると、肌着といえば、自分の髪しかまとっていない、一人の乙女がいたのでございます。それはそれは美しい乙女で、東の地平線に射し昇る月ではなくて、もっとすばらしい、創造主の御手から出た第二の月と、見まごうばかりでした。額は白薔薇で、双の頬は淡紅の二輪のアネモネ、その光輝は両側のほのかな黒子《ほくろ》で、ひとしお際立っております。
これほどの美しさと風情、魅力と高雅を見ると、カマララクマールはすんでのことに、生命《いのち》絶えてではないまでも、気を失って、引っくりかえらんばかりでした。そしていくらかでも感動を鎮めることができると、王子は全身の筋肉と神経を顫わしつつ、眠る乙女に近寄って、嬉しさと歓ばしさに戦《おのの》きつつ、その右の頬に接吻しました。
この接吻が触れると、若い娘はびっくりして眼を覚まし、大きく眼を見開いて、枕許に若い王子が立っているのを見つけると、叫びました、「あなたは誰ですか、どこから来たのです。」王子は答えました、「私はあなた様の奴隷で、あなた様のお眼に焦《こが》れる者でございます。」乙女は訊ねました、「そして誰が、あなたをここまで連れてきましたか。」王子は答えました、「アッラーと、私の天命と、私の幸運が。」
この言葉に、シャムスエンナハール(4)姫(というのは、この乙女の名前は、こう申すのでございました)は、あまり驚いたり恐れたりする色を見せないで、若者に言いました、「ではきっとあなたは、昨日わたくしに結婚を申し込んだ、あのインドの国王の王子様ですね。わたくしの父王は、人の話では、その王子が醜いとかいうために、婿にするのを御承諾なさらなかったのですが。でも、もしそれがあなたのことでしたら、あなたは、アッラーにかけて、すこしも醜くなどいらっしゃらなく、お美しさはもうわたくしを征服なさってしまいました、おおわが殿よ。」そして実際に、王子は皎々とした月のように輝かしかったので、乙女は王子を自分のほうに引き寄せて、掻き抱くと、王子も乙女を掻き抱き、そして二人とも、お互いの美しさと若さに酔い痴れ、お互いの腕のなかに身を横たえて、数知れぬ愛撫を交わし、そして数知れぬ楽しい遊びと、数知れぬ優しいあるいは大胆な媚びを交わしながら、数知れぬ戯言《ざれごと》を言い合いました。
こうして二人がはしゃいでいると、突然侍女たちが眼を覚まして、王子が御主人と一緒にいるのを見つけると、叫びました、「おお御主人様、御一緒にいるその若い男は、どなたですか。」姫は答えました、「知りません。眼が覚めてみると、わたしの傍にいらっしゃったのです。けれども、これはきっと昨日父上に、わたくしを結婚に所望した方だと思います。」侍女たちは激動に取り乱して、叫びました、「あなた様の上とまわりにアッラーの御名《みな》あれかし。おお御主人様、この方は決して、昨日あなた様を結婚に望んだ方ではございません。その方ときては、たいそう醜くみっともない人でしたもの。ところが、この若いお方はお優しく、とても美しくいらっしゃいます。きっと名門の出にちがいありません。もう一人の、昨日の醜い方なんぞは、この方の奴隷になる値打さえございませんわ。」そう言って、侍女たちは立ち上り、戸口の宦官を起しにゆき、こう言って、びっくり仰天させました、「あなたは御殿と後宮《ハーレム》の番人のくせに、わたくしたちが眠っているうちに、男どもをわたくしたちのところにはいらせるとは、いったいどうしたことですの。」
黒人の宦官はこの言葉を聞くと、すっくと飛び起きて、自分の剣を掴もうとしましたが、剣はもう鞘のなかにありません。それで彼はひどく怖くなって、ぶるぶる顫えながら、帳《とばり》を掲げて、部屋にはいりました。すると、寝台にいる女主人と一緒に、一人の美しい若者の姿が見えましたが、宦官はすっかり眼が眩んでしまって、若者に訊ねました、「おおわが殿よ、あなた様は人間ですか、それとも魔神《ジンニー》ですか。」王子は答えました、「汝不届きなる奴隷、黒人どものなかで最も不祥の黒人よ、ホスロー(5)王家の子らを、悪魔の|魔神ども《ジン》や|鬼神ども《アフアリート》と一緒にするとは、何ごとぞ。」こう言って、手負いの獅子のように猛然と、王子は剣を掴んで、宦官に叫びました、「おれは王の女婿だ。王はおれを姫君と結婚させ、姫の部屋に入れと御命令になったのだ。」
この言葉を聞くと、宦官は答えました、「おおわが殿よ、もしあなた様が人類のなかの人間で、決して魔神《ジンニー》ではないとすれば、私どもの若い御主人様は、あなた様の美貌にふさわしく、あなた様こそは、余のいずれの国王あるいは帝王《スルターン》の王子よりも、わが御主人様に似つかわしくいらっしゃいます。」
そう言ってから、宦官は高い叫び声をあげ、自分の着物を引き裂き、頭を埃《ほこり》にまみれさせながら、王のところに駈けつけました。ですから、その取り乱した叫び声を聞いて、王はこれにお訊ねになりました、「汝はいかなる災いに襲われたるか。速やかに申せ、かつ手短かに言えよ、汝は余の心をおののかしめたゆえに。」宦官は答えました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十夜になると[#「けれども第四百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……宦官は答えました、「おお王様、急ぎ姫君を救いに、飛んでおゆき遊ばせ。というのは魔神《ジン》のなかの一人の魔神《ジンニー》が、王子の姿をして、姫君に取り憑《つ》き、姫君のなかに住居を定めました。猶予なりませぬ。駈けつけなければなりませぬ、いざ、いざ。」
宦官のこの言葉を聞くと、王は激怒の極に達し、もうすこしで宦官を殺しそうになりましたが、次に怒鳴りつけなさいました、「余は汝に日夜、姫の警護を託したるに、何とても不届きにも油断して、姫より眼を離し、その悪魔の鬼神《イフリート》をみすみす姫の許に入らしめ、姫に取り憑かしめたるぞ。」そして激動に逆上して、王は姫君の部屋のほうに飛んでゆくと、侍女たちは、蒼くなって顫えながら、戸口で王をお待ちしていたので、一同にお訊ねになりました、「姫の身に何ごとが起きたるぞ。」侍女たちは答えました、「おお王様、私どもの眠っていた間に、何ごとが起きたのかは存じませんが、眼が覚めてみると、姫君のお床《とこ》のなかに、満月と見まごうばかり美しい、一人の若い殿方がおりまして、姫君と、気持よげに落ち着いて語らっているのでございます。まことに、私どもはこの若者よりも美しい人は、ついぞ見たことがございません。ともかくも私どもは、その方にどなたですかとお訊ねしたら、『私は王様が姫君と結婚させて下さった当人だ』と、おっしゃいました。それ以上のことは、私どもは何も存じません。果して人間なのか魔神《ジンニー》なのかさえ、はっきりとは申し上げられません。いずれにせよ、その方はおとなしい方で、悪いお心はなく、慎しみ深く、お育ちがよく、どんなちょっとした悪事でも、悪事を犯すとか、何か咎められるようなことなど、できっこない方だということは、きっぱり申し上げられます。あのように美しい人が、どうして咎められるようなことなどいたせましょうか。」
王はこの言葉をお聞きになると、お怒りは冷《さ》め、御不安も鎮まりました。そしてごくそっと、用心に用心を重ねて、帳《とばり》を少しばかり掲げてみると、床《とこ》のなかに姫君と並んで、満月のように輝かしい顔の、世にも美わしい王子が、優しく姫と語らっているのが見えました。
この様子は、王のお心をすっかり鎮めきることにはならず、父親としての嫉みと、わが娘の名誉が傷つく心配とを、これ以上なく、掻き立てる結果となりました。そこで、王は帳《とばり》を掲げて飛び出して、手に剣を持ち、物凄い食人鬼《グール》のように怒り猛り荒々しく、二人に飛び掛りました。けれども王子は、向うから王が来るのを見て、乙女に訊ねました、「あれはあなたのお父上ですか。」乙女は答えました、「ええ、そうです。」すぐに、王子はすっくと飛び起きて、自分の剣を掴み、王の面前に恐ろしい一喝を投げたので、王は縮み上ってしまいました。するとカマララクマールは、更に威丈高に、今にも王に飛びかかって、刺し貫こうと身構えました。けれども王は、これはとても敵《かな》わぬと覚って、急いで御自分の剣を鞘に納め、妥協的な態度をとりました。そこで、若者がすでに自分に襲いかかろうとするのを見ると、この上なく慇懃丁寧な調子でこれに言いました、「おお若衆よ、その方は人間か、それとも魔神《ジンニー》かな。」王子は答えました、「アッラーにかけて、もしそれがしが貴殿の権利をば、わが権利と同等に尊重することなく、また御息女の名誉を、意に介することなかりしならば、すでに貴殿の血を流したことでありましょうぞ。いやしくもそれがしを、魔神《ジン》や悪魔の類と混同するとは何ごとぞ。われこそは、ホスロー一族の太子、ひとたび貴殿の王国を奪わんと欲すれば、地震のごとく貴殿を王座より跳ねとばし、貴殿の栄誉、光栄、権勢を取り上げて、打ち興ずるを躊躇せぬ一族の王子なるを。」
王はこの言葉を聞くと、王子に非常な尊敬の念を覚え、わが身の安泰をたいそう心配しました。そこで、いそいで答えました、「もしその方がまことに王者らの子とあらば、恐れ気もなく、わが許諾を得ずしてわが殿中に侵入し、わが娘の夫なりと称し、余が汝に娘を与えたりと称《とな》えて、わが名誉を傷つけ、娘を所有するに到りしとは、そもそもいかなることぞ。余は、娘を妻に与えよと強要せし王と王子らを、数多|殺《あや》め来たりしものを。」そして王は、自分自身の言葉に励まされて、更につづけました、「して今は汝もまた、果して何ぴとがよく、汝をわが権勢の掌中より救い得ようぞ。ひとたび余が奴隷どもを呼ばわり、汝をば死中最悪の死をもって殺害すべしと下知すれば、彼らは即刻即座に、わが命に従うであろうぞ。」
カマララクマール王子は、この王の言葉を聞くと、答えました、「まことに、驚き入ったる短見と浅慮かな。さらば承わりたいが、貴殿はそもそも御息女のために、それがしにまさる良縁を見出し得るや。このそれがしよりも剛勇の男、あるいは天より恵まれたる男、あるいは軍隊、奴隷、財産豊かなる男を、かつて御覧ありしや。」王は答えました、「アッラーにかけて、それはいかにもそのとおりじゃ。さりながら、おお若衆よ、余はその方が法官《カーデイ》と証人の前にて、わが娘の夫となるのを見たかったと思う。ともかくも、このように秘密になされたる結婚は、ただわが名誉を傷つけるのみであろうぞ。」王子は答えました、「仰せいかにもごもっとも、おお王よ。さりながら、もしもただ今|威《おど》しなされたごとく、まことに貴殿の奴隷と警吏どもが、一時にそれがしに襲いかかり、それがしを殺《あや》むるとあらば、貴殿は身の恥辱を公にし、人民自身に離反を強い、かえって確実に、名誉と王国を失うを急ぐのみということを、御承知なきや。さればそれがしの申すところを信ぜられよ、おお王よ。貴殿の採るべき策はただ一あるのみ。まずそれがしの言い分に耳を藉し、それがしの忠言に従うに如《し》かず。」すると王は訊ねました、「しからば申してみよ、その方の言い分とやらを、いささか聞いてつかわそう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十一夜になると[#「けれども第四百二十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
王子は答えました、「されば、二つのうちの一つを選ばれよ。まず一つは、貴殿がそれがしとの一騎打を御承諾相成ること。しかる時は、相手を打ち破ったる者が、最も武勇の士と宣せられて、かくして王国の王座に対する、真の称号を得るでござろう。第二は、貴殿は今宵《こよい》一夜、それがしをこのままここに御息女と共に残し、明朝、貴殿の騎兵、歩兵、奴隷の全軍団をそれがしに差し向けらるること、その上にて……。だがその前に、それらの数を伺いたい。」王は答えました、「彼らはその数四万騎だが、その外に余自身の奴隷と、余の奴隷どもの奴隷が、やはり同数だけいる。」するとカマララクマールは言いました、「よろしい。されば夜の白むや直ちに、彼ら一同に戦闘隊形をとってそれがしに立ち向わさせ、次のごとく申されよ。『これなる男は、単騎汝ら一同を束にして戦い、汝らよくこれに打ち勝つ能わずして、汝らを破り、敗走せしむべしとの条件にて、来たって余に、わが娘との結婚を所望するのじゃ。これが彼の要求するところであるぞ。』次にそれがしをば、単騎彼ら一同と戦わしめたまえ。彼らにしてそれがしを斃せば、しからば貴殿の秘密は、かくて遥かに確実に永久に保たるべく、貴殿の名誉は全うせらるべし。これに反し、もしそれがし彼ら一同に打ち勝ち、これを敗走せしむれば、貴殿は世に最大の王者らも誇り得べき婿を見出すべし。」
王はそこでこの最後の意見に賛成し、このような自信のほどに唖然とし、こんな放図もない自負は、いったい何のせいか見当がつかなかったけれども、とにかく、この申し出を承知せずにはいませんでした。それというのも、王は心の底では、この若い王子が、こんな無分別な闘いできっと一命を失い、こうして御自分の秘密は最もよく保たれ、名誉は無事であろうと、固く信じていなさったからです。そこで王は、宦官長を呼び、時を移さず大臣《ワジール》に会いにゆき、大臣《ワジール》に命じて全部隊を集合させ、武装を調えて馬上に待機させるようにと、伝えさせました。そして宦官は大臣《ワジール》に命令を伝えますと、大臣《ワジール》はすぐに、首長たちと王国の主だった高官を集めて、武装を調えた各部隊の先頭に、戦闘隊形をとって彼らを配置しました。彼らについては、このようでございました。
さて王のほうは、更にその若い王子のそばに止まって、いろいろ話をしていました。それほど、この王子の分別ある言葉や、すぐれた判断や、上品な物腰や、美しさに、心を魅せられたのですが、またそれは、王子を今夜また、わが娘とふたりきりにしておきたくなかったからでもありました。けれども夜が明け初めるとすぐに、王は御殿に戻って玉座に就き、奴隷たちに、王家の厩舎《うまや》で一番見事な馬を、王子用に準備し、それに美々しく鞍を置き、豪奢な鞍敷を着けるようにと、命じました。ところが、王子は王に言いました、「それがしは軍勢の前に到着した時でなければ、馬に乗りたくありませぬ。」王は答えました、「その方の望みどおりにいたせ。」そこで打ち揃って馬場《マイダーン》に出ますと、そこには、軍勢が戦闘隊形をとって並んでいました。王子はこうして、この軍隊の数と質とを判断することができました。それが済むと、王は彼ら一同のほうを向いて、呼ばわりました、「これ、戦士どもよ、これなる若者は、余に会いに来たって、わが娘との結婚を所望いたした。事実、余はこの若者にもまして美貌の者をかつて見たことなく、またこれ以上剛勇な騎手も見たことがない。かつ彼は、単騎よく汝ら一同に打ち勝ち、汝らを敗走せしめ得ると、自ら揚言しておる。そしてたとい汝ら今に十万倍するとても、汝らは物の数ならず、依然打ち破るべしと言う。されば、ひとたび汝らに襲いかかりし節は、これを汝らの剣《つるぎ》と槍の切先の上に迎うるを、怠ることなかれ。それによって、かくも重大なる件に係り合えば、いかなる辛《から》き目に遭うかを、この者にきっと思い知らしむべし。」次に王は若者のほうに向いて、言いました、「しっかりいたせ、わが子よ。そしてその方の武勇を、われわれに見せてもらいたい。」けれども若者は答えました、「おお王よ、貴殿はそれがしを遇するに公正でも、公平でもござらぬ。事実、それがしは徒歩《かち》、相手は馬上では、いかにして、これら一同の者と戦えましょうぞ。」王は言いました、「余はその方に馬に乗れと申し出でたるを、その方は拒んだではないか。されど、今からでも苦しゅうない、余の馬全部のなかより、その方の最も意に叶う馬を選んでよろしい。」けれども若者は答えました、「貴殿の馬は、一頭もわが意に叶いませぬ。それがしは、この都までわが身を運んできた馬以外には、乗りたからず。」王は訊ねました、「して、それはどこにいるのか、その方の馬とは。」若者は答えました、「この御殿の上におる。」王は訊ねました、「どこのことか、その御殿の上というは。」若者は答えました、「この御殿の露台の上でござる。」
この言葉に、王は注意をこめてじっと若者を見て、叫びました、「おお、途方もない男よ。これぞ、その方の狂気の何よりの証拠じゃ。いかにして馬が露台の上にいることなどできようぞ。さりながら、その方が偽りを言うのか真を申すのかは、今直ちに判明いたすであろう。」次に王は軍隊の首長のほうに向いて、命じました、「宮殿に駈けつけ、戻って汝の見しところを復命いたせ。露台にある一切を、ここに持ち来たれ。」
人民一同のほうは、この若い王子の言葉に呆気《あつけ》にとられて、みんなで訊ね合いました、「いったい馬がどうやって、露台の上から階段を下りて来られるかねえ。全くこれは、おれたちの生れてからついぞ聞いたことのないことだ。」
その間に、王の使いは御殿に着いて、露台に上ってみると、なるほどそこには一頭の馬がいて、その見事さは、かつて類いを見たことがないと思われました。けれども近寄って、よくよく見ると、それは黒檀の木と象牙でできているのを見ました。そこでその男をはじめ、ついてきた者全部は、この有様を見て、笑い出し、お互いに言い合いはじめたのでした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十二夜になると[#「けれども第四百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……笑い出して、お互いに言い合いはじめたのでした、「アッラーにかけて、これが、あの青年の言った馬のことか。これじゃわれわれはもう、あの男を気違いとしか考えられまい。だがまあ、こうしたすべてのなかには、どんな真相があるかわからないから、早まるまい。要するに、これは思ったよりも重大な事柄かも知れず、あの若者が本当に、どこぞの高い身分の、立派な値打の人かも知れないのだからな。」こう言って、彼らは皆かかってその木馬を持ち上げ、腕に乗せて持ち運んで、それを王の前に下ろしますと、全部の人たちは、そのまわりに群がって木馬を眺め、その見事さと、均合いと、鞍や馬具の立派さに驚嘆しました。王もこれにはたいそう感心し、驚嘆の限り驚嘆なさいました。それから、カマララクマールにお訊ねになりました、「おお若者よ、これがその方の馬かな。」王子は答えました、「さよう、おお王よ。これがわが乗馬にて、やがてこの馬のお目にかける不思議な事どもが、おわかりになろう。」すると王は言いました、「さらば、これを曳いて、乗るがよい。」王子は答えました、「ここにいるすべての人々と全軍隊が、この馬の周囲より遠ざからねば、乗るわけに参らぬ。」
そこで王は一同に、弓の届くぐらいの距離だけ、そこから遠ざかるよう、命令を下しました。すると若い王子は、王に言いました、「おお王よ、よく御覧あれ。それがしはこれよりわが馬に飛び乗って、疾駆軍勢に突進して、右左に蹴散らして御覧に入れよう。そして一同の心中に、驚愕と戦慄を投げ入れてみせようぞ。」王は答えました、「今はその方の欲するところをなすがよい。されど、わけても彼らを容赦すまいぞ、彼らもまた、その方を容赦いたさぬであろうから。」
するとカマララクマールは、片手を軽く馬首にあて、ひらりとその背に乗りました。
一方、軍隊のほうは不安げに、いっそう遠くさがって、密集した秩序のない隊伍に、並んでいました。そして戦士たちは、お互いに言い合いました、「あの青年がいよいよわれわれの隊伍の前にやってきたら、われらの槍の穂先で受けとめ、われらの新月刀の刃《やいば》で迎えてやろう。」けれども、他の者どもは言いました、「アッラーにかけて、これは何とも情けないことだ。あたらあんな美少年、あんなに優しく、優美で、可愛らしい若衆を、どうして殺す気になれようか。」また他の者どもは言いました、「アッラーにかけて、われわれが造作なくあの若者をやっつけられるなんて思うのは、とんだ無分別にちがいない。こんな冒険に飛び込むからには、きっとうまくゆく自信があっての上のことは、確かだ。いずれにしろ、それはあの男の勇気と武勇の証拠だし、魂と心の剛毅の証拠というものだ。」
カマララクマールのほうはといいますと、彼はひとたび鞍の上にしっかと腰を据えると、万人の眼が、これから何をするかと、彼のほうに注がれているなかで、上昇の栓を動かしました。するとすぐに馬は、身を揺すり、ぴくぴく動き、息づき、足踏みし、左右に揺れ、身をかがめ、前に進み、後ろに退きはじめ、次には、驚くばかりの身軽さで、旋回しはじめ、天下の国王や帝王《スルターン》のどんなによく仕込んだ馬でも、かつて旋回したことがないほど優雅に、斜めに歩き出しました。そのうち突然、脾腹《ひばら》が顫えて風を孕むと見ると、虚空に放たれた矢よりも速く、騎手と共にまっすぐに空中に舞い上りながら、飛び立ったのでございます。
これを見ると、王は驚きと怒りで空に飛び上りそうになって、警吏の長《おさ》たちに叫びました、「これ、汝らに禍いあれ、あの男を早く捉えろ、捉えろ。逃げてゆくぞ。」けれども大臣《ワジール》たちと代官《ナワーブ》たちは答えました、「おお王様、そもそも人間が、翼のある鳥に追いつくことができましょうか。あの男はたしかに、他の人間たちのような人間ではございません。強力な魔法使とか、あるいは空の鬼神《アフアリート》か魔霊《マーリド》のなかの、ある鬼神《イフリート》か魔霊《マーリド》かも知れませぬ。そしてアッラーがわが君を彼から救い出したまい、わが君と共に、われわれをも救い出したもうたのでございまする。されば、わが君と、また君と共にわが君の軍隊をも、彼の手中よりお救い下された至高者に、感謝するといたしましょう。」
そこで王は、思い惑って心を動かす極みに達しつつ、御殿に戻り、王女の室にはいって、いま馬場《マイダーン》で起ったところを、詳しく知らせなさいました。すると乙女は、若い王子が姿を消したという報に、すっかり心を痛め絶望し、遣る瀬なく涙を流し嘆いて、そのため重い病いに罹り、発熱と陰鬱な想いに悩まされつつ、床《とこ》に就いてしまいました。父王は王女のこの有様を見て、王女を抱き、静かに揺すり、胸にぴったりと抱き締め、両の眼の間に接吻しはじめて、御自分が馬場《マイダーン》で御覧になったところを繰り返し話しながら、言い聞かせなさいました、「娘よ、むしろアッラーに謝し(その称《たた》えられよかし)、かの隠れもなき魔法使、虚言者、誘惑者、盗人、豚の手中より、われらを救い出したまいしを、讃美し奉れよ。」けれどもいくら言葉を尽しなだめすかして、慰めても甲斐なく、王女は聞きもせず、耳も藉さず、心慰みもしません。それどころか、嘆息しながら、いっそう咽び泣き、涙を流し、呻吟するばかりです、「アッラーにかけて、わたくしはもう食べたくも飲みたくもございません、アッラーがあの美わしい恋人に、また会わせて下さるまでは。そしてもう、涙を流し、絶望のなかに閉じこもることしか、いたしたくはございません。」そこで父王は、王女をこの憔悴と心痛の状態から引き出すことができないのを見て、いたく心配になられ、お心は悲しみ、世界はお顔の前で暗くなりました。王と王女シャムスエンナハール姫とについては、このようでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十三夜になると[#「けれども第四百二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、カマララクマール王子はと申しますと、次のようでございます。王子は空中高く高く上りますと、馬首を故国のほうに向け、ひとたび適当な方角に向うと、姫の美しさと魅力と、姫に再会するために採るべき手段を、思い耽りはじめました。王子はかねて姫に、その父王の都の名前を問い合わせてはおいたものの、どうもこれはなかなかの難事に思えました。こうして、その都はサナといって、アル・ヤマーン王国の首府だということはわかりましたが。
道々ずっと、王子はこうしたすべてを考えつづけていましたが、馬の非常な速さのお蔭で、遂に父王の町に着きました。そこで馬に都の上空をぐるりとひと廻りさせて、御殿の露台の上に降りにゆきました。そこで馬をば露台に残して、御殿に降りてゆくと、到るところ喪の気配で、部屋部屋にすべて灰が撒いてあるのを見て、これは誰か御一家の方が亡くなったのだと思いましたが、いつもの習慣どおり、私室にはいってゆきますと、父上も母上も妹たちも、喪服を着て、顔色もたいそう黄色く、すっかり痩せ、すっかり変り、打ち沈み、やつれていらっしゃるのでした。そしてそこに王子がはいってゆくと、父王はその姿を認めて急に立ち上り、これがまさしく王子だと確かにおわかりになると、ひと声高い叫びをあげて、気を失って倒れてしまいなすったのでございます。それから、われに返ると、王子の腕のなかに身を投げ、掻き抱き、この上なく狂おしい悦びにのぼせ上り、感動の限り感動して、王子を固く胸に抱き締めなさいました。そして母君も妹君も、涙を流し咽び泣きながら、われがちに王子に接吻を浴びせ、幸福の裡にかつ踊りかつ跳ねるのでございました。
一同すこしく気が鎮まりますと、みんなで王子に、その身に起ったことを訊ねました。そして王子は一部始終話して聞かせましたが、それを繰り返したとて無益でございます。すると、父王はお叫びになりました、「そちの救いのためアッラーに称讃あれ、おおわが眼の涼気、わが心の髄よ。」そして王はまる七日にわたって、人民に盛大な祝祭と盛大な祭礼を賜わり、横笛とシンバルを奏して、数々の金品を御下賜になり、全市の街々を飾らせ、牢屋と土牢の扉を広々と開け放たせて、囚人全部の大赦を公布させなさいました。それから王子を伴って、都の町内各所を馬でめぐり、永久に行方不明になったと思っていた若い王子の姿を、再び拝する悦びを、人民にお与えになったのでございました。
そうしているうちに、ひとたびお祭が済むと、カマララクマールは父王に申しました、「おお父上、あの男はいったいどうなりましたか、あの馬を献上したペルシア人は。」王は答えました、「願わくはアッラーはあの学者を懲らしめたまい、あの男と、わが眼の初めてあの男を見し時とより、祝福を取りあげたまわんことを。何となれば、きゃつこそは、そちをわれらと引き離せし原因じゃ、おおわが子よ。現在、あの男は土牢のなかに押し込まれている。あれはこのたび赦免せられなかった唯一の囚人じゃ。」けれども王子のお願いによって、王はこの男を牢屋から出して、御前《ごぜん》に召し出された上で、御不興をお赦しになり、誉れの衣を賜わり、あらゆる種類の名誉と財宝をお授けになって、非常に手厚く待遇なさいました。けれども、王女についてはひと言もおっしゃらず、王女をこの男に下さることなどは、てんでお考えになりませんでした。そこで学者は、これを忿怒の限り忿怒して、自分がうっかり若い王子をあの馬に乗らせて、軽率なことをしたと、たいへん後悔しました。それというのは、馬の秘密は、馬の操縦法と共に、看破されたことが、わかったからです。
王のほうは、未だにあの馬についてお心が十分安まらず、王子におっしゃいました、「余の意見では、わが子よ、そちは今後もはやあの忌わしい馬には近よらず、わけても、二度と再びあれには乗らぬに如《し》かぬと思う。それというのは、あの馬にまだまだ含まれているやも知れぬ不可思議な事どもを、そちは知ることから遠く、あれに乗っては決して安全ではないからな。」
一方カマララクマールは父上に、サナの王とその王女との事件を話し、どのようにしてその王の恨みをのがれたかをお話ししました。すると父王はお答えになりました、「わが子よ、もしもサナの王がそちを殺すことになっていたならば、そちを殺したことであろう。されど、そちの時刻は、未だ天運によって定められていなかったのじゃ。」
こうした間じゅう、カマララクマールは、父君が帰館を祝って催しつづけた、あらゆる祭礼と祝宴にもかかわらず、ずっとシャムスエンナハール姫を忘れるどころか、食べても飲んでも、いつも思いは姫の上にありました。ところがある日、王は歌の術と琵琶《ウーデイ》の演奏が非常に上手な女奴隷たちを抱えていらっしゃったので、彼らに楽器の絃を鳴らし、何か美しい詩句を歌うように、お命じになりました。そこでそのなかの一人が、自分の琵琶《ウーデイ》を取り上げて、ちょうど母親が子供を胸に抱くように、それを自分の膝の上に支え、伴奏をつけながら、いろいろの詩句を歌いましたが、そのなかに次のような詩句がございました。
[#ここから2字下げ]
君が思い出は、おお愛《いと》しき人よ、君|在《いま》さずとも、遠く隔たるとも、わが心より消ゆることあらじ。
日々は過ぎ、時は死するとも、君が愛はわが心の裡に死すること能わず。
この愛の裡に、われは自ら死なまほし、しかして、この愛の裡に、甦らまほし。
[#ここで字下げ終わり]
王子はこの詩句を聞きますと、欲情の火が心中に火花を散らし、情熱の焔が熱気を倍にし、懐しさと悲しさが深い憂えをもって心を満たし、恋しさが臓腑《はらわた》を顛倒させるのでした。それで、サナの姫君のことで掻き立てられる思いに、もう逆らうことができず、王子は即刻即座に立ち上って、御殿の露台に上り、父君の戒めにもかかわらず、黒檀の馬の背に飛び乗って、上昇の栓を廻しました。馬はすぐに、飛鳥のように、王子を乗せて空中に舞い上り、空の高層に向って飛び立ちました。
さて翌朝になると、父王は御殿のなかを探しても、王子が見当らないので、露台に上ってみると、馬の姿が消えているのを御覧になって、びっくり仰天なさいました。そしてこの馬を捉えて、粉微塵にしてしまわなかったことを、かえすがえすも後悔なさいました。王はお思いになりました、「アッラーにかけて、もしわが子が再びわが許に帰ったら、余は、わが心が安んじ、わが精神が今後動揺せぬように、きっとあの馬を打ち壊してやろう。」そして御殿にお降りになって、再び涙と嗚咽と悲嘆に陥りなさいました。王のほうは、かようでございました。
さてカマララクマールのほうは、速やかな空中旅行を続けて、やがてサナの都に着きました。王子は宮殿の露台に下り立って、音を立てずに階段を降り、そして姫君の部屋に向いました。宦官はいつものように、扉の前に一文字に眠っておりました。王子はそれを跨ぎ、部屋の内にはいって、二番目の扉に着きました。そこで、ごくそっと帳《とばり》に近づき、帳《とばり》を掲げる前に、じっと耳を澄まして聞きました。すると、次のような有様でございます。愛《いと》しい姫はいたいたしく咽び泣いては、嘆きの詩句を口ずさんでいるのが聞え、一方、待女たちは何とか慰めようとして、言っていました、「おお御主人様……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十四夜になると[#「けれども第四百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……おお御主人様、なにもあなた様のために泣いてなどいないにちがいない人のために、なぜお泣きになるのですか。」姫は答えました、「何を言うの、おおわからずやのお前たち。では、わたくしのお慕いして泣いているあの美わしいお方が、忘れてしまったり、忘れられることができたりするような、そういう人々の一人だと、思っているのですか。」そして姫はますます涙と呻きを激しくし、それがあまりにひどく、あまりに長い間なので、とうとう気絶してしまいました。すると王子は、心臓が姫のために千々《ちぢ》に砕け、胆嚢が肝臓のなかで破裂するのを覚えました。そこで、今は時を移さず、帳《とばり》を掲げて、部屋のなかにはいりました。すると乙女は、肌着といえば髪しかなく、夜具といえば手にした白い羽根の扇しかなく、寝床の上に横になっておりました。見ると姫はまどろんでいるような様子でしたので、王子はそばに近よって、ごくそっと手を触れて撫でました。すぐに姫は眼を開けると、王子が傍らに立って、さも心配げに様子を訊ねるようにのぞきこんで、「この涙と呻きはどうしたことか」と呟いているのを見ました。これを見ると、乙女は俄然新しい生気で活気づき、つと立ち上って、王子にぴったりと身を投げかけ、両腕を王子の首にめぐらし、顔を接吻で埋めながら、言いました、「いえ、これは皆、あなた恋しさと、あなたが行ってしまいなすったためでした、おおわが眼の光よ。」王子は答えました、「おおわが御主人よ、この私だって、この間じゅうずっと、あなたゆえ、どんなに苦しみ悶えたことか。」姫は言葉を継ぎました、「わたくしだって、あなたのお留守のため、どんなに苦しんだことでしょう。もっといつまでもお戻りにならなかったら、わたくしきっと死んでしまいました。」王子は言いました、「おおわが御主人よ、あなたの父上と私との場合、またお父上の私に対する扱いぶりを、あなたはどう思いますか。アッラーにかけて、万一あなたをお慕いする気持なかりせば、おお、地と太陽と月の誘惑者、天と地と地獄の住民の魅惑者よ、私は必ず父君の首《こうべ》を刎ね、見ている人々全部の前で見せしめとし、教訓としてやったことでしょう。けれども、私はあなたを愛すると同様に、今はお父上をも愛します。」姫は言葉を継ぎました、「どうしてあなたは、わたくしを置き去りになさる決心などおつきになれましたの。あなたに置いてゆかれた後、どうしてわたくしに、世の中が楽しく思えたでございましょう。」王子は言いました、「あなたが私を愛するとあらば、私の言うことに耳を藉して、勧めに従って下さいますか。」姫は答えました、「おっしゃってさえ下されば、仰せを承わり、お勧めを聞き、どんなお考えにも従いましょう。」王子は言いました、「では、まず食べるものと飲むものを取り寄せて下さい、たいそうお腹が空いて、喉が渇いたから。それが済んでから、一緒にお話ししましょう。」
そこで乙女は侍女たちに、お料理と飲み物を持って来るように言いつけました。そして二人で、食べ、飲み、語らいはじめて、とうとう夜もほとんど明けてしまいました。すると、そろそろ日が射しはじめたので、カマララクマールは、乙女に暇《いとま》を告げて、宦官の眼のさめないうちに立ち去ろうとして、立ち上りました。けれども、シャムスエンナハールは王子に訊ねました、「どこへいらっしゃろうというのですか、そんな風に。」王子は答えました、「父の館《やかた》にです。けれども誓ってお約束します、必ず一週間に一度、お目にかかりに戻って来ます。」この言葉に、姫はわっと泣き伏して、叫びました、「おお、全能のアッラーにかけてお願い申します、わたくしにまたも別離の葫蘆《コロシント》(6)の苦さを味わわせなさるくらいなら、どうぞわたくしを連れて、どこへなり、お好きなところへ行って下さいませ。」すると王子はたいそう悦んで、叫びました、「本当に私と一緒に来てくれますか。」姫は答えました、「ええ、行きますとも。」王子は言いました、「では立ち上って、一緒に行きましょう。」すぐに姫は立ち上って、豪奢な衣服と高価な品々のいっぱい詰まった櫃《ひつ》を開いて、身を飾り、自分の持物の美しい品々の間で、一番豪華で貴重なもの全部を身につけ、頸飾り、指環、腕環、その他この上なく美しい宝石を鏤めた、さまざまの金銀宝玉の装身具の類も忘れませんでした。次に姫は、侍女たちがとめる暇もなく、愛人と一緒に出て行ってしまいました。
するとカマララクマールは、姫を連れて、宮殿の露台に上らせ、まず例の馬の背に飛び乗り、姫をば後ろに乗せ、自分にぴったりとくっついているように言いつけて、丈夫な紐で、姫をわが身に縛りつけました。それが済んでから、上昇の栓を廻すと、馬は飛び立って、二人を乗せたまま、空中に舞い上りました。
これを見て、侍女たちは高く叫び声をあげ、大騒ぎをしましたので、王と王妃は眠りから出て、着物も碌に着ないで、露台に駈けつけますと、ちょうど、魔法の馬が王子と姫を乗せて、空中飛行に飛び去るのを見るのに、間に合いました。すると王は心を動かされ、驚愕の限り驚愕しながらも、気を取り直して、ますます高く上ってゆく若者に、叫びかけました、「おお王の太子よ、頼む、余と余の妻、ここにいるこの老女を憐れんで、われらから娘を奪わないでくれ。」けれども王子は、これに答えさえしませんでした。さりながら、乙女はひょっとすると、こうして父母を棄てるのに心残りを覚えるかも知れないと、ふと思ったので、これに訊ねました、「いかがです、おお、汝《な》が世紀とわが眼の光輝よ、恍惚よ、あなたは父母の許に返してもらいたくはありませぬか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十五夜になると[#「けれども第四百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
姫は答えました、「アッラーにかけて、おお御主人様、それは決してわたくしの望みではございません。わたくしの願うただ一つのことは、どこなりとあなたのいらっしゃるところに、御一緒にいることでございます。あなたをお慕いする情《こころ》は、父も母も含《こ》めて、すべてを顧みず、すべてを忘れさせてしまいますので。」
この言葉を聞いて、王子は悦びの限り悦び、乙女の心を動かしたり、心配させたりしないようにしながら、馬を一番早い速力で飛ばせました。こうして二人は、やがてちょうど半分の道のりのところにある、いく筋もの流水の横ぎる、すばらしい牧場が拡がっている場所に着きましたので、そこでしばらく馬を下りました。二人は食べ、飲み、ちょっと休息して、またすぐ魔法の馬に乗り、サブール王の都を指して全速力で進み、ある朝、都を望むところまで着きました。王子は無事到着したことを非常に悦び、そして、これでいよいよ、自分が掌中に持っている財産や領地を姫に見せてやり、また父君サブール王の権勢と栄光をよくわからせ、サブール王のほうが、姫の父君サナの王よりも、どんなに豊かで偉いかを証拠立てることができると考えながら、あらかじめたいそう楽しみを覚えたのでございました。それでまず都の外にある、父王がいつもお気を晴らしてよい空気を吸いに見える、美しい御苑のまんなかに着陸して、父王が御自身のため建てさせしつらえさせなすった、円屋根を頂く夏の離宮に、乙女を案内して、申しました、「私はこれからあなたをしばらくここに残して、父上にわれわれの到着を知らせに行ってきます。その間、この黒檀の馬を戸口に置いてゆくから、よく気をつけて、眼を離さないようにお願いします。程なく使いをよこして、あなたをここからお連れして、あなた一人の用に、特別の御殿を用意させておきますから、そこに御案内させるようにします。」乙女はこの言葉を聞いて、この上なく嬉しく思い、実際、自分は身分相応の名誉と敬意をもってでなければ、都に入るべきではないことがわかりました。次に王子は乙女と別れて、父王の御殿へと向いました。
サブール王はわが子が来たのを見ると、悦びと感動で、もう死なんばかりになられ、そして抱擁と歓迎の挨拶《サラーム》のあとで、泣きながら、王子が黙って出発して、自分たち一同を死ぬ目に遭わせたことをば、咎めなさいました。それが済むと、カマララクマールは父君に申しました、「私が遠方から、いったい誰を一緒に連れてきたか、まああててみて下さいまし。」父君は言いました、「アッラーにかけて、わからぬよ。」王子は言いました、「サナの王の王女そのひと、ペルシア、アラビアを通じて随一の立派な乙女です。さしあたり、姫を都の外の御苑に置いてきましたが、私は父上に、直ちに姫を迎えにゆく鹵簿《ろぼ》を用意させて下さって差し支えない旨、お知らせに参りました。その鹵簿は、父上の権勢と威光と富裕をば、最初から十分に姫に思い知らせるに足るくらい、華やかなものでなければなりますまい。」王はお答えになりました、「そちのためとあらば、悦んで、惜しみなく。」そしてすぐに町を飾るように、しかも最も美々しい飾りと最も美々しい装いで、飾り立てるようにと、御命じになりました。そして格別の鹵簿を仕立てた上で、御自身、全部の旌旗を拡げつつ、着飾った騎手たちの先頭にお立ちになって、シャムスエンナハール姫を迎えにお出ましになり、横笛、クラリネット、鐘鼓、太鼓の奏者を先に立て、警吏、兵隊、庶民、女、子供の大群を後に従えて、幾重にも人垣を作っている全住民のただなかを、都のあらゆる町内を横切って、お行きになったのでございました。
一方カマララクマール王子は、自分の櫃《ひつ》と手箱と宝庫を開けて、一番立派な金銀宝石細工の類、その他、王者の子らが自分たちの豪勢、富裕、栄華振りを見せるため、身につけるすばらしい品々を取り出しました。そして乙女のためには、中央に宝石まばゆい黄金の玉座を据えた、赤、緑、黄の錦で作った、大きな天蓋を用意させました。金色の絹を張った円蓋の聳える、この大きな天蓋の階段には、インドとギリシアとアビシニアの若い女奴隷を、あるいは坐らせ、あるいは立たせて、並ばせ、一方、玉座のまわりには、世にも稀な種類の珍鳥の羽根で作った大きな団扇《うちわ》を持った、別な四人の白人奴隷《ママリク》が控えております。そして上半身裸のたくさんの黒人たちが、それよりももっとぎっしりと犇《ひし》めきよせる市民に囲まれながら、この天蓋を肩に担いで運び、あるいは行列に従い、人民全部の歓呼の声と、天蓋に坐る女たちとあたりに群がるすべての女の喉から発する、けたたましいリュ・リュ・リュの叫びとのさなかを、御苑へと向いました。
カマララクマールのほうは、歩いて行列についてゆく気にはなれず、馬を駈け足で駆って、一番近道をとり、しばらくの間に、サナの王女の姫を置いてきた離宮に着きました。そして隈なく探しましたが、姫も黒檀の馬もいずれも見つかりません。
そこで、カマララクマールは絶望の極に達して、われとわが顔を激しく打ち、自分の着物をずたずたにし、そして大きな叫びをあげ、声を振り絞って呼ばわりながら、狂人のように、あてどなく走りまわり、うろつきはじめました。けれども何のしるしもありません。
しばらくたつと、王子はようやく少し落ち着き、分別に立ち返りました。そして考えました、「姫はどうして、あの馬を操縦する秘密を知ることができたのだろう、おれはこれについては何ひとつ教えてないのに。してみると、これはひょっとすると、まさにあの木馬を作ったペルシアの学者が、はからずもやってきて姫にゆきあい、父上に加えられた仕打の讐《あだ》をうつために、姫を拐わかしたのかも知れぬぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十六夜になると[#「けれども第四百二十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで王子はすぐに、御苑の番人に会いに駈けつけて、彼らに訊ねました、「お前たちは、誰かここを通った者とか、御苑を横ぎった者とかを見はしなかったか。有体《ありてい》に申せ。さもないと、直ちにお前たちの首を刎ね飛ばすぞ。」番人たちは威かしに慄え上って、声をひとつにして答えました、「アッラーにかけて、御苑にはいりました者と申しては、ペルシアの学者より外に、誰も見かけませんでした。あの学者は、薬草を摘みにここに参りまして、まだ出て行った様子がございませぬ。」この言葉に、王子は姫を拐わかしたのがペルシア人だとの確信を得て、驚愕と困惑の極に達しました。そしてすっかり心を動揺させ度を失って、鹵簿を迎えにゆき、父君に向って、起ったことをお話ししてから、申しました、「一行をお連れになって、一緒に御殿にお戻り下さいまし。私はと申すと、この黒い(7)事件を明らかにしないうちは、もう御殿には戻りませぬ。」この言葉を聞き、また王子のこの決心を見て、王は涙を流し、嘆き、わが胸を叩きはじめて、王子におっしゃいました、「おおわが子よ、後生じゃ、そちの怒りを鎮め、悲しみを制し、われわれと共に帰館せよ。しかる上、どのような国王あるいは帝王《スルターン》の娘を欲しいかを考えてくれれば、余はきっとそれと妻《めあ》わせてやろう。」けれどもカマララクマールは、父君のお言葉などてんで耳を藉そうとせず、またそのお頼みをも聞こうとせず、二言三言《ふたことみこと》お別れの言葉を告げて、馬に乗って立ち去ってしまい、一方、父王は絶望の極に達して、涙と呻吟のただなかに、都にお還りになりました。こうして一同の悦びは、悲しみと不安と悩みに変ってしまいました。この人たち一同のほうは、以上のようでございます。
さて、魔法使と姫とにつきましては、次のようでございます。
天運があらかじめかくと命じておきましたので、ちょうどその日、ペルシアの魔法使は、果して、薬草や療治用の草や香木類を摘みに、御苑にやってきました。すると麝香の快い香や、その他の妙なる匂いを嗅ぎつけましたので、鼻をひくひくさせながら、世の常ならぬこの香が、自分のほうに来る方向に向って、進みました。ところが、これこそちょうど姫の香が、このように発散して、御苑中を馨らせているのでございました。ですから、魔法使はその鋭い鼻に導かれて、二、三度探しまわったあげく、程なく、あたかも姫のいる離宮に着きました。そして、その戸口に、わが手で作った魔法の馬が、四足を張って立っているのを見たときの、その悦びは、いかばかりでございましょう。紛失してしまったため、飲み食いの気持も失せ、眠りの憩《いこ》いも失せさせられたこの品を見て、その心のおののきは、いかばかりでございましょう。そこで彼は、隈なく仔細に調べはじめますと、馬は全く元のままで、良好な状態にあるとわかりました。それから、いよいよこれに飛び乗って飛び立とうという間際に、彼は心中で独りごとを言いました、「いったい王子が何を運んできて、馬と一緒にここに置いたのか、まず見る必要があるわい。」そして離宮にはいってみました。すると、長椅子《デイワーン》の上に無造作に横たわった、姫の姿が見えましたが、彼は最初は、静かな空に昇る朝日かと思ったのでした。そこで自分の眼の前には、どこかの高貴の生れの貴婦人がいて、それを王子が馬に乗せて連れてきて、しばらくここに残し、自分は美々しい鹵簿を用意するため、都に行ったのだということは、疑いの余地がないと思いました。ですから、彼はそちらに進み寄り、姫の前に平伏し、その両手の間の床《ゆか》に接吻しますと、姫はゆっくりと彼のほうに眼をあげ、この男が人並はずれて醜く怖ろしいと思うと、これを見まいとして急いで眼を閉じて、訊ねました、「お前はいったい誰ですか。」彼は答えました、「おおわが御主人様、私はカマララクマール王子によって、御許《みもと》に遣わされた使いでございまして、あなた様をば、ここよりも更に美しく、更に都に近い、別の離宮に御案内申すべく、罷り出ました。それと申すのは、私の御主人、王子の母君なる王妃様は、今日いささか御不例の気味にて、さりとて、あなた様の御来着をお悦び遊ばされて、御対面に人後に落ちるを好みたまわず、かく居を移せば、あまりに長途をお捗《はこ》びなさらずとも済みまするゆえ、かくはお望みの次第でございます。」姫は訊ねました、「だが、王子はいずこにおられるのか。」ペルシア人は答えました、「ただいま都に王様と共にいらっしゃって、おっつけ、美々しい鹵簿のただなかに、華々しくお迎えに到着なさるでございましょう。」姫は言いました、「だがお前ときては、いったい王子は、ここにお遣わしになるのに、誰《た》ぞ今すこし見苦しくない、別な使者を見つけなさることは、できなかったものかしら。」この言葉に、魔法使は非常に屈辱を感じましたけれども、その黄色い顔の皺だらけの前掛のなかで笑いはじめて、答えました、「いかにもさようでございます、アッラーにかけて、おおわが御主人様、たしかに御殿には、私ほど見苦しい白人奴隷《ママルーク》はおりませぬ。さりながら、私の風采の見栄えせぬことと、私の顔容《かおかたち》の忌わしい見苦しさとによって、私の真価について、思いちがい遊ばすことのござりませぬよう。そして願わくは、いつの日かあなた様が、私の腕前をおためしなさり、王子のように、私の有する貴い天稟をば、御利用遊ばされる折がございまするように。その節はあなた様は、かくのごとく醜きままに、私をばお讃《ほ》めなさるでございましょう。王子様はと申せば、わざわざこの私を選んで、御許《みもと》に差し向けなされしは、まさしく私の見苦しさと、好ましからざる風采のゆえでございます。そはあなた様の色香と美わしさに不安を覚えなされ、何ら心配なき者をという思し召しからです。何も御殿に、白人奴隷《ママルーク》や、若い奴隷や、美しい黒人や、宦官や、従僕たちが、おらぬわけではござりませぬ。アッラーのお蔭をもちまして、彼らの数はかぞえきれぬほどおりまして、彼らは皆いずれ劣らず、見目美わしい者どもでございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十七夜になると[#「けれども第四百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、こうした魔法使の言葉は、自ずとこの乙女を納得させる力がございましたので、乙女はすぐに立ち上り、手を老学者の手にあずけて、言いました、「おおわが父よ、わたくしを乗せるものを、何か持ってきましたか。」学者は答えました、「おおわが御主人様、乗っていらっしゃったあの馬に、お召し遊ばせ。」姫は言いました、「しかし、わたくしはひとりでは、あれに乗れないが。」そこで学者はほくそ笑んで、もうこれからは、姫は自分の思いのままだと察しました。そして答えました、「私自身、御一緒にお伴いたしましょう。」そして自分の馬に乗り、乙女を後ろに乗せて、ぴったりとくっつかせ、紐でもって、しっかりとわが身に縛りつけましたが、この間、乙女はこれからどうされるか、全然疑いませんでした。そこで学者は上昇の栓を廻すと、すぐに馬は腹に空気を満たし、動き出し、海の波のように弾《はず》みながら、身を揺《ゆる》がし、次に、二人を乗せて飛び立ち、飛鳥のように空中に舞い上り、またたく間に、都と御苑を遥か後ろに残してしまいました。
これを見ると、乙女はたいそう驚いて、叫びました、「これ、お前はお前の御主人の言いつけどおりしないで、こうしてどこへ行くのですか。」彼は答えました、「わしの御主人だって。わしの御主人とはいったい誰のことさ。」乙女は言いました、「王の太子のこと。」彼は訊ねました、「どこの王さ。」乙女は言いました、「それは知らないが。」この言葉に、魔法使は声高く笑って言いました、「おっしゃるのが若いカマララクマールのことなら、アッラーはきゃつを懲らしめて下さるように。きゃつは要するに、まあ愚かな悪者で、下らぬ小僧っ子だからな。」乙女は叫びました、「汝に禍いあれ、おお禍いの鬚よ。お前は自分の御主人のことをよくもそんな風に言い、命に叛くのですか。」魔法使は答えます、「繰り返し申し上げるが、あの若造は決してわしの主人なんぞではないのだ。いったいわしが何者か、御承知かな。」姫は言います、「お前が自分で言ったこと以外、わたくしはお前のことは全然知りませぬ。」魔法使はにやりと笑って、言いました、「さっきわしの言ったことは全部、お前と王子に対して、わしの仕組んだ計略《はかりごと》にすぎないのさ。実はこうなのだ、あの碌でなしは、今ここに乗っている、このわしの手の作った馬、本物の馬のように、草を食《は》むことのできるこの馬をば、まんまとわしから盗んでからに、永いこと、わしの心を焼き尽し、馬を失ったことを泣かせたものだ。だが今は再び、わが宝がわが手に返ったから、こんどはわしが、あの盗人《ぬすつと》の心を焼き尽し、お前を失ったことを、きゃつの眼に泣かせてやるのだ。されば、お前の魂に勇気を取り直させ、お前の眼の涙を乾かして爽やかにするがよい。というのは、わしはお前にとって、あの若い気違いなどよりも、ずっと得になるだろうからな。それにわしは鷹揚だし、権勢はあるし、金持だ。わしの召使と奴隷は、御主人に仕えるように、お前の言うことを聞くだろう。わしはお前に一番美しい着物を着せ、一番美しい飾りで飾ってやろう。お前の望みとあらば、どんな小さな望みでも、言い出す前に、もう叶えてやろう。」
この言葉を聞くと、乙女はわれとわが顔を打って、咽び泣きはじめました。それから言いました、「ああ、わが身の不幸よ。ああ、悲しいこと。今は愛《いと》しい方を失ってしまった、お父様もお母様も失ったし。」そして姫はわが身に起ったことに、苦い涙と夥しい涙を流しつづけましたが、その間に、魔法使は馬の飛行をルーム人の国のほうに向け、長い、けれども速い旅ののち、木々と流れる水に富む、とある緑の牧場に下りて、着陸しました。
ところでこの牧場は、ある非常に強大な国王の治める都のほとりにありました。そしてちょうどその日、王は町を出てよい空気を吸おうと外出なさり、この牧場の方角に、御散歩の足を向けなさったのでございました。そして王は、馬と乙女のそばに立っている、学者の姿を認めなさいました。そこで、魔法使が身を避ける暇《ひま》もなく、王の奴隷たちが早くも彼に襲いかかって、彼をも乙女をも馬をも掴まえ、そっくり王の御手の間に連れてゆきました。
王は老人《シヤイクー》の厭わしい醜さと恐ろしい風采を見、また乙女の美しさと心を奪う色香を見ると、おっしゃいました、「おおわが主人よ、かくも見苦しいこの非常な老人《シヤイクー》とそなたとは、いったいどういう縁《ゆかり》があるのか。」けれどもペルシア人のほうが、急いで答えました、「これは私の妻で叔父の娘でございます。」すると乙女が答える番になって、老人《シヤイクー》の言葉を打ち消して、「おお王様、アッラーにかけて、この醜い老人《シヤイクー》をばわたくしはほとんど存じませぬ。決してわたくしの夫ではございませぬ。これは計略《はかりごと》と力ずくでわたくしを攫《さら》った、不届きな魔術師でございます。」
この乙女の言葉に、ルーム人の王は、魔法使に笞《むち》を加えよと、奴隷に命じなさいました。奴隷たちは念を入れて笞を加えたので、老人《シヤイクー》は打たれて危うく、息を引き取りそうになったほどでした。それが済むと、王は彼を都に運ばせて、土牢に放り込ませ、一方、乙女は御自身で連れてゆきなさり、また魔法の馬のあらたかな霊験や、秘密の操縦法などは、夢にも思いかけずに、これを運ばせなさいました。魔法使と姫とについては、以上のような次第でございます。
さてカマララクマール王子はと申しますと、王子は身に旅装をまとい、必要な食糧と金子を携え、たいそう心悲しくたいそう意気銷沈して、出発しました。そして国から国へ、町から町へと旅を重ねつつ、姫の行方を探しはじめました。行く先々で、黒檀の馬のことを問い合わせましたが、訊ねられる人々は皆、王子の言葉をこの上なく訝《いぶか》って、王子の質問は全く法外な、途方もないことと思うのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十八夜になると[#「けれども第四百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうして王子は非常に長い間、ますます熱心に捜索し、ますます数|繁《しげ》く情報を訊ねまわって、活躍しつづけましたが、手懸りとなるような消息は、ひとつも得られませんでした。こうしたすべての挙句、とうとうシャムスエンナハールの父王の治めている、サナの町まで着いてしまい、姫が来ていないかどうか問い合わせましたが、誰一人もはや姫の噂を聞いた者なく、拐わかされて以来どうなったか、王子に言うことのできる者はいませんでした。そして老王がどんなに力を落して、絶望の状態に陥っているかを、聞かせてくれました。そこで王子は道をつづけ、行く先々、泊る先々で、いつも姫と黒檀の馬のことを訊ねつづけながら、ルーム人の国へと向いました。
ところがある日のこと、王子は途中一軒の隊商宿《カーン》に足を停めますと、商人の一隊が車座に坐って、お互い同士雑談しているのを見ました。そこで王子もまた彼らのそばに坐っていると、そのうちの一人が、こう言うのを聞きました、「おお友達の皆さん、ごく最近のこと、私は不思議な事のなかでも、一番不思議な事に遭いましたよ。」一同は訊ねました、「それはいったい何事ですか。」その男は答えました、「私は商品を携えて、これこれの地方の、これこれの町に行ったのです。(そして王女のいる町の名前を、言ったのでございます。)すると住民たちが、先だって起ったまことに奇妙な事を、お互いに話し合っているのを聞きました。何でも、町の王様が、ある日お供を従えて、馬上の狩にお出ましになったところ、若い絶世の美人と、黒檀と象牙でできた馬のそばに、見るもいやらしい年寄り爺《じじい》が立っているのに、遭いなすったというのですよ。」そしてその商人は、仲間に件《くだん》の話をして聞かせると、一同非常に驚嘆しましたが、そのお話はここで繰り返すまでもございません。
カマララクマールはこの話を聞くと、それが自分の愛人と魔法の馬のことだということを、一瞬も疑いませんでした。そこで、その町の名前と場所をよく聞いてから、すぐにその方角に向って旅立ち、その地に着くまで、道を急いで進みました。けれども、いよいよその城門を跨ごうと思うと、番兵が王子を捉えて、この国で行なわれている習慣に従って、身分とこの国に来た理由と商売を問い訊すために、国王の御前《ごぜん》に連れてゆこうとしました。ところがその日、王子が着いた時には、もうずいぶん遅くなっていたので、番兵は、王が非常に御多端なのを知って、この若者を御前に出頭させるのを翌日に延ばし、牢屋に連れていって、一夜を過ごさせることにしました。けれども獄吏たちは、王子の美しさと優しさを見ると、これを牢屋に押し込めるに忍びず、まあ自分たちの間に坐って、付き合ってくれと頼み、一緒に食事をするように招じました。次に、食べ終わると、みんなで話しはじめて、王子に訊ねました、「おお若衆よ、お前さんはどこの国の人かね。」王子は答えました、「ホスロー王家の地、ペルシアの国の者です。」この言葉に、獄吏たちはどっと笑って、その一人が青年に言いました、「おおホスロー王家の国の仁よ、お前さんもやっぱり、ここの土牢に押し込められているお国の人と同じくらい、とんでもない嘘つきかな。」すると今一人が言いました、「まったくのところ、おれは今までずいぶん多勢の人を見もし、その人たちの談話《はなし》や物語を聞きもし、その流儀をとくと調べたこともあるが、まああの押し込められている気違い爺《じじい》ほど、途方もないやつには、ついぞ出くわしたことがないね。」また今一人が言い添えました、「このおれは、アッラーにかけて、おれはあの顔ほどみっともないものや、あの風采ほど醜くいやらしいものは、かつて見たことがないね。」王子は訊ねました、「それで、その男の嘘というのは、どんなことなのですか。」獄吏たちは答えました、「そいつは自分じゃ、大学者で名医だと言うのさ。ところで、王様はある日狩のとき、この爺《じじい》がひとりの若い娘と、黒檀と象牙でできたすばらしい馬と一緒にいるところを、見つけなすったのだ。王様はこの娘の美しさにすっかり惚れこんで、これと結婚なさろうとした。ところが、その娘は急に気が狂ってしまったのさ。もしこの大学者の老人《シヤイクー》が、自分で言うように、名医だとしたら、何とかこの娘を治してやれそうなものだ。何しろ王様は、この娘の病気を治す薬を見つけるためには、あらん限りの手を尽し、この病人のため、医者と占星家の入費《かかり》に莫大な散財をなすって、もう一年にもなるが、一向甲斐がないのだからな。その黒檀の馬のほうは、王様の宝蔵《たからぐら》にしまってある。そのみっともない爺《じじい》は、ここの牢屋にいるよ。夜中ひっきりなしに呻いたり嘆いたりで、お蔭でおれたちは眠れやしない。」
この言葉を聞いて、カマララクマールはひとり思いました、「これでやっと宿願の手懸りがついた。こんどは目的に達する手段を、何とか見つけなければならぬぞ。」けれども、そのうち獄吏たちは、自分たちの寝る時刻が来たのを見て、王子を牢屋の内《なか》に連れてゆき、扉を閉めてしまいました。すると例の学者が、泣き、呻き、ペルシア語でわが身の不幸を嘆いて、言っているのが聞えました、「情けないことだ。もっとうまい工合に計画を立てることができず、おれの希望も成就せず、あの娘への思いも遂げずに、こうしてわが身さえ滅してしまったとは、何たるおれの災難だ。これというのもみな、おれの分別が足りないせいで、身に余る大望を抱いたために、起ったことだ。」そこでカマララクマールは、ペルシア語でこれに言葉をかけて、言いました、「いったいいつまで、その涙と嘆きをつづけるのですか。ひとり御自分だけが、不幸を嘗《な》めたと思っていられるのですか。」すると学者はこの言葉に励まされて、王子と言葉を交わし、王子と知らずに、身の不幸と不運を訴えはじめました。こうして彼らは、二人の友人のように、互いに喋り合って夜を過ごしたのでございます。
翌朝になると、獄吏はカマララクマールを牢屋から引き出しに来て、王子を国王の御前に連れて行って、申し上げました、「この若い男は……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百二十九夜になると[#「けれども第四百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……申し上げました、「この若い男は、昨日の夕方たいそう遅くなってから到着いたしましたので、私どもは、御前に連れて来て、お取調べを受けさせることができませんでした、おお王様。」すると王は王子に訊ねました、「その方はどこから来たのか。名前は何と申すか。職業は何か。われらの都に参った動機《いわれ》は何か。」王子は答えました、「私の名前と申せば、ペルシア語でハルジャハ(8)と申しまする。生国はペルシア。生業《なりわい》は、学者のなかの一人の学者にて、特に医学と狂人瘋癲を癒《いや》す術《すべ》に長じておりまする。しかしてこの目的にて、私は諸方の国々と町々を漫遊し、もってわが技術を揮い、既得の知識に加うべき、新たなる知識を獲たい所存でございます。私はこうしたすべてを、普通の占星家や学者たちの扮装《いでたち》をなすことなく、行ないます。わがターバンを拡げもせず、その巻く数を殖やしもせず、わが袖を延ばしもせず、わが小腋に書物の大きな包みを抱えもせず、わが瞼《まぶた》を黒い瞼墨《コフル》もて染めもせず、首に無数の大きな玉のついた大数珠を、懸けもいたしませぬ。そして神秘めいたる言葉を口中で呟きもせず、病人の顔に息を吹きかけもせず、病人の耳朶を噛みもせずに、わが病人たちを治しまする。かくのごときが、おお王よ、私の職業でございます。」
王はこの言葉を聞くと、非常な悦びで悦びなすって、王子に言いました、「おお抜群の医者よ、その方は、あたかもわれらがその方の助力を最も必要としている際に、わが国に来てくれたぞよ。」そして王は若い娘の病状を話して、こう言い添えました、「もしその方がこの娘に治療を加え、悪しき魔神《ジン》のために陥らせられたこの娘の狂気を癒した節は、何なりと望みのものを、余に求めさえすればよい。何事なりと授けてとらするであろうぞ。」王子は答えました、「願わくはアッラーは、われらの御主君国王に、最大の恩寵と庇護を授けたまわんことを。さりながらまず、その少女の狂気について確めなされたところを万事、仔細に承わり、一体いつ頃からかかる病状になり、またその少女、並びに老ペルシア人と黒檀の馬を、いかにしてお手に入れなすったかを、お聞かせ下さることもお忘れなく、伺わせていただかねばなりませぬ。」すると王は一部始終全部の話をなさって、言い添えました、「その老人《シヤイクー》のほうは、今は土牢におる。」王子は訊ねました、「してその馬は。」王は答えました、「わが許にある。離宮の一つに、大切に保存してある。」そこでカマララクマールは、心中で独りごとを言いました、「何よりもまず、あの馬を見て、あれがどういう状態か、わが眼で確めなければならぬ。あれが元のままで、良好な状態にあれば、万事上乗で、わが目的は達せられるが、しかしもし機械が毀れていれば、何か別な方策を工夫して、愛人を救い出さねばなるまい。」そこで王子は王のほうを向いて、言いました、「おお王よ、まずその馬を拝見しなければなりませぬ。それというのは、その馬を調べれば、その少女の治療に役立つ何ごとかを、発見いたすやも知れませねば。」王は答えました、「悦んで快く。」そして王は王子の手を執って、黒檀の馬のいる場所に案内しました。王子は馬のまわりを廻って、綿密に調べてみると、全く元のままで、良好な状態にあるので、大いに悦んで、そして王に申しました、「願わくは、アッラーは王を恵み称揚したまわんことを。これにて私は少女を拝見し、どういう御様子か見せていただく、用意が成りました。幸いにアッラーの加護を得て、私の治療の手と、この木馬の仲介とによって、首尾よく癒してさしあげられようかと存じまする。」そして王子は警吏たちに、くれぐれも木馬に注意を怠らないようによく頼んで、王と一緒に姫の部屋へと向いました。
王子は、姫のいる一室にはいるとすぐに、姫はいつものように、両手を捩じ曲げ、わが胸を打ち、着物をずたずたに裂きながら、床《ゆか》に身を投げ、転がりまわるのを見ました。そしてこれは狂気を装っているだけで、魔神《ジン》も人間も、姫の正気を害《そこ》なったわけではない、その反対だということが、王子にはよくわかりました。こうしたすべてはただ、誰なりと人を近づけまいとする目的でしているだけのことと、すぐさとりました。
この様を見ると、カマララクマールは姫のほうに進み出て、これに申しました、「おお『三界《さんがい》(9)』の蠱惑者よ、憂いと苦しみを御身より遠ざけたまえ。」そして姫は王子をよく見て、すぐにそれとわかり、悦びのあまりひと声大きく叫んで、気を失って倒れてしまいました。王は、この発作はてっきり、姫が医者に覚えた恐怖の結果にちがいないと思いました。けれどもカマララクマールは、姫の上に身を屈め、姫をわれに返らせて、声をひそめて言いました、「おおシャムスエンナハールよ、おおわが眼の黒よ、わが心の核心《しん》よ、あなたの生命《いのち》と私の生命《いのち》に気をつけ、勇気を出して、今しばらく辛抱なさい。それというのは、私たちの立場は、もしこの暴虐な王の手中から脱がれようと思えば、非常な慎重と限りない用心を要する場合です。あなたについて王は、魔神《ジン》に取り憑《つ》かれていて、そのため狂気が起っていると思っているから、私はこれからすぐにまず、それをばいっそう強く、そうと思い込ませるようにします。しかし私は、わが持つ霊力によって、あなたを即座に治したと言ってやります。ただあなたのほうでは、落ち着いてしとやかに王に口を利き、こうして私の介抱で治ったという証拠を、見せてやらなくてはいけない。このようにすれば、われわれの目的は達せられ、計画を実現することができるでしょう。」すると乙女は答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」
そこでカマララクマールは、部屋の奥にいる王に近寄って、吉報の顔付きで、申し上げました、「おお幸多き王よ、御好運のお蔭をもって、私は病気を突きとめ、病気の薬を見出すことができました。そして、かの少女をば治してさしあげました。されば、今は少女にお近づきになって、おだやかに優しくお話しなさり、お約束なされたきことを、お約束なさることができまする。これにお望みの何ごとなりと、叶えらるるでございましょう。」すると王は驚嘆の極に達して、乙女に近づきますと、乙女はすぐに王を迎えて立ち上り、御手の間の床《ゆか》に接吻し、次に歓迎の言葉を述べて、申し上げました、「わが君の下婢《はしため》は、今日御光来の栄に接して、恐縮に存じ奉りまする。」王はこうしたすべてを見また聞いて、悦びのあまり飛び立つばかりになって……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十夜になると[#「けれども第四百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王は、腰元や女奴隷や宦官たちに、すぐに姫の御用を勤め、浴場《ハンマーム》に案内し、衣服と飾りの品々を用意するように命じました。そこで女たちと奴隷たちは中にはいって、それぞれ挨拶《サラーム》をしますと、姫はこの上なく丁寧な遣り方と、この上なく優しい声の調子で、一同に挨拶《サラーム》を返しました。すると女たちは姫に立派な着物を着せ、首に宝石の頸飾りをめぐらして、浴場《ハンマーム》に案内し、沐浴《ゆあみ》をさせいろいろと世話をして、次に、さながら十四日目の月のような姫を、もとの部屋に連れ帰りました。こうした次第でございます。
そこで、王は無上に胸拡がり、魂晴れて、若い王子に言いました、「おお賢人よ、おお博学の医者よ、おお哲理を授けられたる男よ、われらの許に到る一切の幸《さち》あることは、その方の功績と祝福との賜物じゃ。願わくはアッラーはわれらの上に、その方の治病の息吹(10)の功を増大したまわんことを。」王子は答えました、「おお王よ、治癒を徹底せんがためには、君は全部の従者、警吏、軍隊を率いてお出ましになり、かつてこの少女を見つけなさった場所に、少女自身をも一緒にお連れになり、また少女と共にあった、かの黒檀の馬をもかしこに運ばせて、お出かけ遊ばすことが必要でございます。あの木馬は実は悪魔の魔神《ジンニー》に外ならず、まさにあれこそ、少女に取り憑《つ》いて、これを乱心せしめたのでございます。その上で、私はかしこにおいて、所要の悪魔祓いをいたしましょう。これをいたさねば、その魔神《ジンニー》は毎月始めに、少女に取り憑きに戻って参り、そうなると、また万事やり直さねばならぬでございましょう。今ならば、私がひとたびこれを完全に抑えつけてしまえば、封じ込め、殺してやることができまするが。」するとルーム人の王は叫びました、「親しみこめて心から悦び、当然の敬意として。」そしてすぐに、王子と乙女を連れ、全部の軍勢を従えて、件《くだん》の牧場へと向いました。
一同が到着すると、カマララクマールは、乙女を黒檀の馬に乗せるように命じ、王をはじめその軍勢には、はっきりと見分けられないくらい十分の距離を置いて、自分たち二人から遠のいているように命じました。人々はすぐにその命令を実行しました。すると、王子はルーム人の王に言いました、「さてこれより、君のお許しと御好意を得て、燻蒸《くんじよう》と魔除けを行ない、この人類の敵を引っ捉えて、今後二度と仇をなし得ざるようにいたしまする。これが済みましたならば、私もまた、これなる黒檀作りのごとく見える木馬に乗り、少女をば私の後ろに乗せまする。すると、やがてこの馬は前後左右に揺れ出して、身を動かし、すぐに飛び立ってから、疾駆して戻って、御手の間に停まるを御覧遊ばすでしょう。かくして、この馬は完全にわれらの勢力下に入った証拠を得られます。それが済めば、この少女と、何なりとお望みのことをなさることができまする。」
ルーム人の王はこの言葉を聞くと、悦びの限り悦びましたが、一方カマララクマールは馬に乗って、乙女をば自分の後ろに、しっかりと結びつけました。そして万人の眼が自分に注がれ、自分のすることを見つめている間に、王子は上昇の栓を廻しました。そして馬は飛び立って、二人を乗せたまま、一直線に舞い上り、空中の最高所に姿を没してしまいました。
ルーム人の王は、真相を思いもかけず、軍勢と一緒に牧場に止まって、半日ばかり、二人の帰ってくるのを待ち暮しました。けれども二人は戻ってこないので、結局御殿に帰って待つことにしました。しかしそれもやはり待ちぼうけでした。すると王は、土牢に閉じこめてある醜い老人《シヤイクー》を思い出し、これを御前《ごぜん》に呼び出して、言いました、「ここな裏切者の爺《じじい》め、猿の尻め、汝はよくも、あの悪魔の|魔神ども《ジン》の憑いた、魔法にかかった馬の神秘を、余に隠しおったな。今やあの馬は、乙女の狂気を癒《いや》した医者と乙女自身とを、空中に攫《さら》ってしまったぞ。両人の身に何ごとが起るやら、知る由もない。のみならず、乙女が浴場《ハンマーム》より出でしおり、身につけてやった数多の宝石その他貴重な品々は、一棟の宝蔵の価あるものだが、これも汝に責がある。今は立ちどころに、汝の首は汝の体《からだ》より飛ぶであろうぞ。」そして王の合図に、太刀取《たちとり》が進み出て、ひとたび身を翻すと、このペルシア人をば、二人のペルシア人にしてしまいました。こちらの一同については、以上のようでございました。
さてカマララクマール王子とシャムスエンナハール姫につきましては、二人は安らかに速い空中旅行を続けて、全く恙なく、サブール王の都に到着いたしました。彼らはこんどは、もう御苑の離宮にではなく、御殿の露台に着陸しました。そして王子は取り敢えず、愛人を安全な場所に置き、それからできるだけ早く、父君と母君に、自分たちの到着を知らせにゆくことにしました。そこで王子は、国王と女王と妹の三人の姫が、涙と絶望に沈みつつ、いらっしゃる部屋にはいって、一同に接吻しながら平安を祈りますと、王子の姿を見て、一同の魂は幸福に満ち、心は心痛と懊悩の重荷を下ろしたのでございます。
そこで、この帰館とサナの王女の姫君の来着を祝うために、サブール王は都の住民に盛大な祝宴と祭礼を賜わり、これはまるひと月にわたりました。そしてカマララクマールは、婚姻の部屋にはいって、祝福された長夜にわたって、この乙女と睦《むつ》んだのでございます。
それが終ると、サブール王は、もうこれからお心を休んじるようにと、黒檀の馬を粉微塵に打ち砕き、御自身でその機械を壊してしまいなさいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十二夜になると[#「けれども第四百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
一方カマララクマールは、奥方の父君サナの王に宛てて、一通の書面を認《したた》め、自分たち両人の物語全部をつぶさに報じ、自分たちの結婚と、この上なく満ち足りた幸福の裡に、共に暮していることを、お知らせしました。そして、見事な進物と、価高い珍奇な品々を携えた人々をつけて、この書状を使者に届けさせました。使者はヤマーン国のサナに到着し、書状と贈物を姫の父君に渡しますと、父君は書状を読んで、悦びの限り悦び、贈物を嘉納なさいました。その上で、こんどは、婿のサブール王の太子のために、非常に立派な進物を用意させて、同じ使者に託して、それを送りました。
奥方の父君の御進物を受け取ると、美しいカマララクマール王子は、この上なく悦びました。それというのは、サナの老王が、もし自分たち二人の振舞いをあきたらず思っていると知ったら、王子は辛《つら》く感じたことでございましょう。そればかりか、王子は毎年新たな書面と新たな進物を送ることを、通例とさえしました。そしてサナの王の亡くなるまで、こういう風にしつづけました。次に、王子自身の父君サブール王もいよいよ亡くなると、王子は王国の王座を受け継いで、それと一緒に、あれほど可愛がっていた一番末の妹君を、ヤマーンの新王と結婚させて、御自分の治世を始めました。その後、王国を英明に、臣下を公平に治め、こうしてあらゆる国々に対して最上の優位を獲、あらゆる住民の忠誠をかち得ました。そして彼とお后《きさき》シャムスエンナハールは、歓楽の「破壊者」、交際と友人の「隔離者」、宮殿と茅屋の「劫掠者」、墳墓の「建立者」、墓地の「賄人《まかないにん》」が、お二人の許に来るまで、この上なく快く、この上なく楽しく、この上なく静かな、この上なく和やかな生活のうちに、暮しつづけたのでございました。
さて今は、決して死したもうことなく、もろもろの「世界」の支配ならびに「可見」と「不可見」の主権をば、御手《おんて》のうちに握りたもう「唯一の生者」に、栄光あれかし。
[#ここから1字下げ]
――そして大臣《ワジール》の娘シャハラザードは、こうしてこの物語を語り終えると、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王はこれに言った、「この物語は、シャハラザードよ、まことに不思議である。余はその黒檀の馬の稀代の構造を、ぜひ知りたいと思うが。」シャハラザードは言った、「残念ながら、それは壊されてしまったのでございます。」するとシャハリヤールは言った、「アッラーにかけて、わが心はその詮索にすこぶる思い悩むぞよ。」シャハラザードは答えた、「では、おお幸多き王さま、御心《みこころ》を休め奉るため、わたくしは、もしお許しあればのことではございますが、自分の存じておりまする最も暢《のび》やかなる物語を、お話し申し上げたき心地がいたしまする。あの凄腕ダリラ[#「凄腕ダリラ」はゴシック体]とその娘のぺてん師ザイナブのことが出てくる物語でございます。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「アッラーにかけて、話すがよい、余はその物語を知らぬによって。そちの頭《こうべ》については、その後でわが意を決しよう。」
そこでシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
凄腕ダリラの物語
語り伝えまするところでは、おお幸多き王さま、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代《みよ》、バグダードに、「蛾のアフマード(1)」と呼ばれる一人の男と、「ペストのハサン(2)」と呼ばれるいま一人の男がおりましたが、二人はともに、術策と窃盗の名人として世に聞えた男でした。両人のこの種の手柄は、全く驚くべきものでございました。それゆえ、どんな種類の才能をも活用なさることを心得ていらっしゃる教王《カリフ》は、両人をお召し出しになって、これを警察隊長《ムカツダム》に任命なさいました。そのために、教王《カリフ》はそれぞれ、誉れの衣ひと襲ねと、月俸金貨一千ディナールの食禄と、四十人の屈強な騎手からなる警吏の一隊をお授けになって、両人を職に任じなさいました。こういう風にして、蛾のアフマードは陸上方面の、ペストのハサンは水上方面の、都の警備を担当いたしました。そして盛大な儀式の際には、二人そろって教王《カリフ》のお側《そば》につき、一人が御右手《おんめて》、一人が御左手《おんゆんで》を歩くのでございました。
ところで、この職に任命される日、両人はバグダードの奉行《ワーリー》、貴族《アミール》カーレドと共に、配下の騎馬の壮漢四十名を引きつれて、外に繰り出しますると、先頭に一人の伝命使が立って、教王《カリフ》の勅命を触れて、言いました、「おお汝ら一同、バグダードの住民よ、教王《カリフ》の御諚《ごじよう》によって、今後、『御右手《おんめて》』の警察隊長《ムカツダム》は、すなわち蛾のアフマードにほかならず、『御左手《おんゆんで》』の警察隊長《ムカツダム》は、すなわちペストのハサンにほかならぬと、心得よ。しかして汝らは、いかなる場合においても、両名に服従し尊敬する義務があるぞよ。」
同じ時代に、バグダードに、ダリラと呼ばれ、後に「凄腕ダリラ(3)」という名で知られた、恐ろしい老婆が住んでおりましたが、この老婆には二人の娘がありまして、一人は嫁に行って、「月足らずのマハムード(4)」と名づけられた、一人の腕白小僧の母となり、今一人はまだ独身で、その後「ぺてん師ザイナブ(5)」という名で知られた女でした。老婆ダリラの夫は、昔は大立物で、全帝国に通牒や書翰を運ぶのに使う鳩の管理役でございまして、この鳩の存在は、その働きぶりからすれば、教王《カリフ》には御自身のお子様方の存在にもまして、高価貴重なものでした。それゆえダリラの夫は、数々の栄誉特権を持ち、月俸一千ディナールの食禄を賜わっておりました。けれども彼は世を去ると忘れられてしまいましたが、あとにはこの老婆と二人の娘を残しておいたのでした。まことに、このダリラというのは、手練、手管、窃盗、ぺてん、あらゆる種類の術策にたけた老婆、蛇をだまして穴の外にひっぱり出すこともできれば、魔王《イブリース》そのものに策略や詐欺を教えることができるような、鬼婆でございました。
さて、蛾のアフマードとペストのハサンの、警察隊長《ムカツダム》任官の日、若いザイナブは、触《ふ》れ役人が住民に事を告示しているのを聞いて、母親に言いました、「おお、おっかさん、あのろくでなしの蛾のアフマードを見てごらん。むかしはエジプトを追っ払われて、バグダードに逃げてきたのにさ。ここに来てからは、どんな算段だって大仕事だって、やってのけないものはなかったのよ。そんな風にして、すっかり名を売ってしまったもので、教王《カリフ》まで、今はあいつを『御右手《おんめて》』の警察隊長《ムカツダム》の職にお就けになったところだし、一方、あいつの相棒で、南瓜《かぼちや》みたいな禿頭の疥癬《ひぜん》男、ペストのハサンも、『御左手《おんゆんで》』の警察隊長《ムカツダム》の職に就けられたのよ。そしてめいめい、教王《カリフ》の御殿で、夜昼、食布《ソフレ》を供えられ、警吏の一隊を持ち、千ディナールの月給をとり、栄誉とあらゆる特権を持っているのよ。それなのに、私たちときたら、情けないわ、家の中にひっこんだきりで、役職はなし、人には忘れられるし、栄誉も特権もなく、誰ひとり私たちの運命のことなぞ気にかけてくれやしないんだもの。」すると年とったダリラは、うなずいて言いました、「そうだねえ、アッラーにかけて、娘や。」そこでザイナブはこれに言いました、「そんなら、立ち上ってちょうだい、おお、おっかさん、そしてなんか私たちの評判が立つような算段とか、さもなければ、何か私たちの名をバグダード中になりひびかせるような芸当を、ひとつ見つけてちょうだいな。その噂が教王《カリフ》のお耳にまで達して、また私たちのお父さんの俸給と特権を、私たちに返して下さるようにね。」
ぺてん師ザイナブが、母親のあばずれダリラに、この言葉を言ったとき、母親は答えました、「お前の頭の命《いのち》にかけて、おお娘や……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十三夜になると[#「けれども第四百三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……お前の頭の命《いのち》にかけて、おお娘や、あたしはお前に約束するよ。あたしはきっと、バグダードで、とびきり上等の放れ業をいくつかやってみせるからね。それはもう、蛾のアフマードやペストのハサンなんぞのやったものなど、どれもてんで及びもつかぬようなものをね。」そして老婆は即刻即座に立ち上り、顔を顎布《リサム》(6)で覆い、踵まで垂れさがるほどのだぶだぶの袖のついた、大きな外套をまとって、貧しいスーフィー僧(7)のような身なりをし、胴には羊毛の幅広の帯をめぐらしました。それから、水差し(8)をとりあげて、その首まで水を満たし、その口に三ディナールを入れて、棕櫚《しゆろ》の繊維の栓《せん》で蓋をしました。次に、両肩と胸に、薪束《まきたば》のように重い珠《たま》の太い数珠を、いく重にも捲きつけて、物乞いのスーフィー僧たちが持つのに似た、赤、黄、緑のぼろ切れを束《たば》ねた旗を一本、手にとりました。そしてこのような異様な扮装《いでたち》をして、老婆は、「アッラー、アッラー」と声《こわ》高く唱えながら、家を出ましたが、こうして舌では祈りつつ、心のほうは悪魔どもの競走場を走りまわり、思いはよこしまな恐るべき術策を求めて、重苦しいのでございました。彼女はこうして、ひとつの街から他の街を通りながら、都のさまざまな区域を歩きまわって、とうとう、大理石を敷きつめ、掃き清めて水を打った、ある袋小路に着きましたが、その突き当りには、雪花石膏の素晴らしい軒蛇腹《のきじやばら》をいただいた大きな門が見え、その敷居には、たいそうさっぱりとした身なりをしたマグリブ人の門番が、坐っておりました。この門は白檀の木で作られ、頑丈な青銅の環と、銀の南京錠がついていました。ところで、この家は教王《カリフ》の近衛隊長の持ちものでしたが、これは非常な勢力家で、動産不動産の大財産家であり、役職に対して巨額の俸禄を給されておりました。しかしまたたいへん乱暴な、がさつ者でもありましたので、そのため、この男はいつも言葉より先に手が出るというので、「街《まち》の禍《わざわい》ムスタファ(9)」と呼ばれていたのでございます。彼は一人のかわいらしい若い別嬪《べつぴん》と結婚しておりまして、その女をたいそう愛して、これに、最初の分け入りの夜のおり、彼女が生きている間、第二の妻はめとらず、一夜も外泊しないと、誓ったのでありました。
こうした事情でありましたが、ある日のこと、街の禍ムスタファが政務所《デイワーン》に行ってみると、貴族《アミール》はそれぞれ、息子を一人か二人連れてきているのを見ました。そしてまたちょうどその日、それから浴場《ハンマーム》に行って、鏡に姿を映してみると、鬚の白い毛が黒い毛よりも数が多く、黒い毛をすっかり覆っているのを見まして、彼は心中で独語しました、「すでにお前の父を奪いたもうた御方《おんかた》は、結局お前に一人の息子をも授けたまわぬのであろうか。」そして妻に会いにゆきましたが、ひどく不機嫌で、妻のほうを見向きもせず、言葉もかけずに、長椅子《デイワーン》の上に坐りました。そこで妻は彼に近寄って、言いました、「あなたによい夕《ゆうべ》がありますように。」彼は答えました、「おれの前から行ってしまえ。お前を見た日からというもの、おれはもうろくなものを見たためしがない。」彼女は訊ねました、「それはどうしてなの。」彼は言いました、「おれがお前のなかに分け入った夜、お前はおれに、お前のほかに妻はめとらぬと、誓約させたろう。そしておれはお前の言うことを聞いたのだ。ところが、今日|政務所《デイワーン》で見ると、貴族《アミール》はいずれも一人の息子か、二人の息子さえ、連れてきておる。そのとき、おれには死という考えが浮んできた。それはこの上なくおれにこたえた。自分には一人の息子はおろか、一人の娘さえも授かっていないのだから。子孫を残さぬ者は、後世に名を残さぬということは、おれだって知らなくはないぞ。これがおれの不機嫌の動機《いわれ》なのだ、おお石胎女《うまずめ》、おお岩と小石の土地に種を蒔かせるやつめ。」この言葉に、顔を赤らめた若い女は、言いかえしました、「そんなことはあなたにこそ言うべきこと。私の上と私のまわりにアッラーの御名《みな》あれ。遅れているのは私のせいじゃない。ことは私の罪じゃありませんよ。私のほうでは、もうさんざん薬を飲んで、今じゃ、香料を搗き砕いたり、薬草を粉にしたり、不妊にきく草の根を挽いたりしたため、とうとう薬研《やげん》を擦りへらし、穴をあけてしまったくらいですよ。とにかく、遅らしているのはあなただわ。あなたは獅子鼻《ししばな》の、種なし騾馬《らば》というところで、あなたの卵は、濃度のない精液と受胎させない種しかなく、薄く透き通っているのよ。」彼は答えました、「よろしい。とにかく、おれは旅から帰ったらすぐに、お前のほかに二番目の女房をもらうからな。」彼女は言いかえしました、「私のめぐり合わせと運はアッラーの上にあります。」そこで、彼は家を飛び出しましたが、しかし、通りにつくと、彼は今しがた起ったことを後悔しました。また妻の若い女も同様に、主人に向って言ったやや手きびしい言葉を後悔したのでした。大理石を敷いた袋小路にある家の持主については、以上のようでございました。
ところで、凄腕ダリラについてはどうかと申しますと、次のようでございます。ちょうどその家の壁の下に着いたとき、彼女はふと、貴族《アミール》の若妻が窓に肱をついているのを見ましたが、さながら新妻《にいづま》のようで、まことに美しく、身に飾ったあらゆる宝石のために、真の宝物のように輝かしく、身につけた雪白の衣のために、水晶の円屋根のように光を放っておりました。
これを見ると、禍いの周旋婆は、心中独りごとを言いました、「おおダリラよ、いよいよお前のぺてんの袋を開ける時機到来したぞ。これからお前は、あの若い女を主人の家からひき出して、あの宝石を奪いとり、あの美しい着物を剥ぎとって、お前の分け前をそっくり手に入れられるかどうか、お手並拝見だよ。」そこで彼女は貴族《アミール》の窓の下に立ちどまり、大声でアッラーの御名《みな》を念じはじめて、言いました、「アッラー、アッラー。して、『アッラーの友』、『御恵《みめぐ》みふかき|お身内《ワーリー》の方々』御一統様、われをば照らしたまえ。」
この祈念を聞き、物乞いのスーフィー僧のような装いをしたこの年とった聖女を見ますと、その界隈の女は全部駈け寄って、その外套の裾に接吻し、その祝福を求めました。すると「街の禍」公の若妻は考えました、「アッラーはあのお年寄りの聖女の仲立ちで、私たちへ恩寵をお授け下さることでしょう。」そして感動で眼を濡らしながら、若い女は女中を呼んで言いました、「下に降りて、家《うち》の門番アブー・アリ老に会い、その手に接吻して、こう言っておくれ、『御主人カトゥーン様(10)からのお願いですけれど、私たちにアッラーの恩寵を授けていただくように、あのお年寄りの聖女を私たちの家に入れてあげて下さい』とね。」女中は下に降りて門番に会い、その手に接吻して言いました、「おおアブー・アリ老、御主人のカトゥーン様の仰せです、『私たちにアッラーの恩寵を授けていただくように、あのお年寄りの聖女を私たちの家に入れてあげて下さい。きっとその祝福が私たち一同の上に拡がるでしょうから。』」そこで門番は老婆に近寄り、まずその手に接吻しようとしました。ところが老婆は急いで後にすさり、彼を押しとどめて、言いました、「私のそばに寄るな。お前はすべての召使と同じように、洗浄《みそぎ》をせずに礼拝しているだろう。お前は不浄な接触によって私をけがし、私の洗浄《みそぎ》を無効にし、空しくしてしまうだろう。どうかアッラーはお前をその奴隷の身分から解放して下さるように、おお門番アブー・アリよ。それというのは、お前はいま『アッラーの聖者たち』と『|お身内《ワーリー》の方々』の恩寵のうちにあるからね。」ところで、この祈願は門番アブー・アリを無上に感動させました。というのは、ちょうど彼には、恐ろしい「街の禍」公の払ってくれない給金三カ月分の滞《とどこお》りがあり、だいぶ前からこのことについてたいへん心配していて、この借金を取り立てるには、どういう手段を用いてよいかわからないでいたのでした。それで、彼は老婆に言いました、「おおわが母よ、あなたの水差しの水を、少々飲ませて下さいませ。そうすれば、あなたの祝福をいただくことができましょうから。」すると老婆は肩の上から水差しをとり、これを何度も空中でぐるぐる廻しましたので、棕櫚の繊維の栓が首からはずれて、例の三個のディナール金貨が、まるで天から落ちてきたように、地上にころがったのでした。すると門番は急いでこれを拾って、自分の魂のなかで言いました、「アッラーに栄光あれ。この乞食婆さんこそは、隠れた宝蔵《たからぐら》を思うように使える聖者のなかの、ひとりの聖女だわい。今もこのお婆さんに啓示があって、おれが給金を踏み倒された憐れな門番であり、この上なく差しせまった物いりのため、たいへん金に困っていることが、わかりなすったのだ。それでお呪《まじな》いを唱えて、この三ディナールを空中の奥から引き出して、おれに取らせようとしなすった。」次に彼はその三ディナールを、老婆に差し出して申しました、「小母さん、この三ディナールをおとり下さい。きっと、あなたの水差しから落ちたものだから。」老婆は答えました、「そのお金を持って、あちらに行きなさい。私はこの世の物ごとにかかずらっている人たちではない、断じてちがう。お前はこの金を自分のものとして納め、それで少しは暮しを楽にして苦しゅうない、これでもって閣下《アミール》がお前に借りている給料の代りにするがよい。」そこで門番は両腕をあげて、叫びました、「お助け下されましたアッラーに讃《たた》えあれ。これこそ御啓示の領分の出来事でございます。」
そのあいだに、女中は早くも老婆に近寄っていて、その手に接吻してから、急いでこれを自分の若い女主人のもとに案内してゆきました。
老婆は若い女のもとに着いたときには、その美しさに呆然としました。というのは、彼女はまことに、護符の印璽が破られて、燦然と現われ出でた、赤裸の秘宝のようだったからでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十四夜になると[#「けれども第四百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると美しいカトゥーンのほうでは、急いで老婆の足もとに身を投げて、両手に接吻しました。老婆はこれに言いました、「おおわが娘よ、私がここに来たのはアッラーの霊感を受けたのち、あなたが私の忠告を必要としていることを察したゆえ、ただそれだけのためです。」するとカトゥーンは、物乞いの聖者に対して行なわれる慣わしに従って、まずはじめに食べ物を供しました。けれども老婆は、御馳走に手をふれようとはせず、言うのでした、「私はもう天国の御馳走のほか食べたくはありませぬ。ですから私は、一年に五日を除いては、しじゅう断食をしています。けれども、おおわが子よ、見ればあなたは悲しんでおられる。あなたの悲しみの原因を話してもらいたいと思います。」彼女は答えました、「おおわが母よ、私は、分け入りの日に、夫に向って、私のほかに二番目の妻をけしてめとらぬと誓わせたのでした。けれども夫は他人《ひと》様の息子さんを見まして、自分もまたぜひ息子を持ちたくなりました。そして私に申しました、『お前は石胎女《うまずめ》だ。』私は答えてやりました、『あなたこそ、孕ませられない騾馬よ。』すると夫は怒って外へ飛び出して、私に言いました、『旅から戻って来たら、おれはお前のほかに重ねて結婚してやるぞ。』ところで私は、おおわが母よ、今になると、あの人が脅迫を実行して、私のほかに、子供を産んでくれる二番目の妻を迎えるのではないかと、心配でなりません。あの人は土地や、家屋や、俸禄や、持ち村などを、たくさん持っております。もしも二番目の妻の子供たちができたら、私はこれらの財産全部を横取りされてしまうでしょう。」老婆は答えました、「わが娘よ、あなたはどんなに、わが主《しゆ》、長老《シヤイクー》『突撃の父』、強力な『襲撃の主人《あるじ》』『懐妊の増倍者』の功徳《くどく》のことを御存じないか、よくわかりますよ。この聖者をたった一度訪ねれば、貧しい債務者も富める債権者となり、石胎女《うまずめ》も多産の穀倉となるのを、あなたはてんで知らないのですか。」美しいカトゥーンは答えました、「おおわが母よ、私は結婚の日から、ただの一度も家から出たことはないし、冠婚葬祭の訪問をすることさえできなかったのですもの。」老婆は言いました、「おおわが子よ、私はあなたをわが主、長老《シヤイクー》『突撃の父』『懐妊の増倍者』のところに、案内してあげたいものです。そしてあなたは、そのお方に、胸にのしかかる重みをおまかせすることを恐れず、そのお方に誓いを立てなさいまし。そうなされば、御主人が旅からお戻りになったとき、御主人はきっとあなたと一緒に寝て、交合《まじわり》によってあなたと結びつけられることは、もう御心配ありません。そしてあなたは御主人のたねを宿して、女の子か男の子を懐妊なさるでしょう。けれども、あなたのお子が男にせよ女にせよ、とにかく、それは修道僧《ダルウイーシコ》として、わが主『突撃の父』の奉仕に捧げることを、お誓いなさらなければいけません。」
この言葉に、美しいカトゥーンは、希望と悦びに感動して、自分の一番美しい着物を着て、自分の一番美しい宝石を身に飾り、つぎに女中に言いました、「家をよく気をつけておくれ。」女中は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする、おお御主人様。」そこでカトゥーンはダリラと一緒に外に出ますと、出しなに、マグリブ人の年とった門番アブー・アリに出あいまして、聞かれました、「どちらにお出ましですか、おお御主人様。」彼女は言いました、「私はこれから、長老《シヤイクー》『懐妊の増倍者』をお訪ねしにゆきます。」門番は言いました、「この老聖女は、何というアッラーの祝福でしょう、おお、御主人様。この方はいくつもの宝蔵をそっくり、思うままにお使いになれるのですよ。さっきも私に、純金の三ディナールをお授け下さいました。そして何ひとつお尋ねにならずに、私の境遇を見抜き、私の立場を承知しておしまいになり、私が金に困っていることがおわかりになったのです。どうかこの方の一年中の断食の御利益《ごりやく》が、私の頭の上に戻りますように。」
そこで、ダリラと若いカトゥーンは遠ざかりましたが、途中で、凄腕の老婆は「街の禍」公の妻に申しました、「インシャーラー(11)、おお御主人よ、あなたが長老《シヤイクー》『突撃の父』をお訪ねなすったおりには、どうか長老《シヤイクー》は、あなたに魂の落着きと、欲望の満足と、旦那様の愛情の復帰をお授け下さるばかりか、あなた方が将来二度と、お互いの間に不満や嫌気の種を持ったり、不愉快な言葉を言い合ったりすることのないように、して下さいますように。」するとカトゥーンは答えました、「おおわが母よ、私はどんなに、早くその聖なる長老《シヤイクー》のところに参りたいことでしょう。」
この間にも、凄腕ダリラは心中で独りごとを言っておりました、「はてどうしたら、往き来する大勢の道行く人の真中で、この女から宝石を奪いとって、裸にしてやることができるかしらん。」それから突然、老婆は言いました、「おおわが娘よ、私のずっと後《あと》から、私を見失わないようにして、離れて歩いて下さいよ。それというのは、あなたの母のこの私は、年寄りの身なのに、人々がもう重さに耐えきれないで私に背負《しよ》わす重荷を、ずっしり背負いこんでいるのです。そして道々ずっと、人々がやってきて、わが主|長老《シヤイクー》に捧げた敬虔な御供物《ごくもつ》をば、私に背負わせ、それをば長老《シヤイクー》のところに持っていってくれと頼むのですわ。だから、今のところは、私は独りで歩いたほうがよろしいのです。」そこで若い女は凄腕の老婆のずっと後から歩いて、とうとう二人とも、商人たちの中心の市場《スーク》に到着いたしました。すると円天井のついた市場《スーク》のなかに、若い女の歩むにつれて、その華奢な足の金の鈴の響きと、髪の飾り金(12)の触れ合う音が反響するのが、遠くから聞え、それはまことに節《ふし》面白く調子よく、さながら鳴り渡る竪琴とシンバルの音楽のようでございました。
こうしているうちに、二人は市場《スーク》のなかで、スィディ(13)・モホシンという名の、若い商人の店の前を通りました。これは頬にかすかに軽い産毛の生えかかった、たいそうきれいな若者でありました。彼は若い女の美しさに気づいて、彼女にひそかに秋波を送りはじめましたが、それはじきに老婆に見破られてしまいました。そこで老婆は女のところに戻ってきて、これに言いました、「わが娘よ、ちょっと向うへ行って腰を下ろし、休んで下さいね。そのあいだに、私はあそこにいるあの若い商人と、用事の話をしますから。」カトゥーンはその言葉に従って、美しい若者の店からほど遠からぬところに腰を下ろしましたので、若者はこうして彼女をいっそうよく眺めることができ、彼女は投げかけたただ一瞥だけで、危うく気が狂いそうになったのでした。こうして彼がほどよく焼き上ったとき、この遣手《やりて》婆は、彼に近づいて、挨拶《サラーム》ののち、申しました、「あなたは商人のスィディ・モホシンさんではございませんか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十五夜になると[#「けれども第四百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼は答えました、「いかにもさようですが、いったい誰が私の名をあなたに申し上げたのでしょう。」老婆は言いました、「いや親切な方々が、私をあなたのところによこしたのです。私はね、わが子よ、あそこに見えるあの若い女が、私の娘だということを、あなたに教えてあげに来たのですよ。あの娘《こ》の父親は豪商だったが、あれに莫大な財産を残して死にました。あの娘《こ》は今日はじめて家から外に出たのですよ。というのは、あの娘は年頃になって、結婚適齢期にはいったのは、まだ間もないこと、それはもうひと目でわかるさまざまなしるしで明らかです。ところで、私はとにかく急いであの娘《こ》を外に出しました。というのは、賢人たちも言っていますからね、『汝の娘は結婚を申し込むべし、されど汝の息子は申し込むなかれ』と。そういうわけで、私はあらたかな霊感とひそかな予感からお告げを受けて、あなたに娘の結婚を申し込みにゆこうと決心したのです。あなたのほうでは、あの娘のことについては何の心配もいりません。もしもあなたが貧乏なら、私はあなたに娘の資金を全部さしあげましょうし、一軒どころか、二軒の店も開いて進ぜましょう。こういう風にすれば、あなたはアッラーから、かわいらしい別嬪《べつぴん》ばかりでなく、カ行の三つの望ましい物(14)まで、授かりなさるわけですよ、ほら、金箱《カネバコ》と気楽《キラク》と尻《ケツ》とね。」
この言葉を聞いて、若い商人スィディ・モホシンは老婆に答えました、「おおわが母よ、これはすべて結構で、私のかつて願った以上です。ですから有難くお礼申し上げますし、最初の二つのカとキについては、お言葉を疑いません。けれども三番目のケはどうかというに、正直申せば、私はそれをわが眼で見て、検査した上でなければ、この件は安心がゆきますまい。それというのは、私の母は死ぬ前に、そのことをくれぐれも私に注意して、言ったものです、『伜や、お前にはぜひ、私が私自身の眼で確かめた若い娘と、結婚してもらいたいものだがねえ』と。それで私は、では必ずお母さんに代って、自分でそういたしましょうと、母に誓いました。それで母も安心して死んだわけです。」すると老婆は答えました、「そういう次第なら、両足の上にお立ちになって、私のあとについてきて下さいよ。あの娘《こ》を丸裸にして御覧に入れることは、私が引き受けます。ただ、よく気をつけて、あの娘《こ》のあとから遠く離れて、しかも見失わないようにして、歩いて来て下さいな。私は先頭に立って、道をお教えするとしましょう。」
そこで若い商人は立ち上り、独りごとを言いながら、千ディナール入りの財布を携えました、「どんなことが起るかわからないが、こうしておけば、結婚の契約に入用な費用は、その場ですぐ出せるだろう。」そして彼は、先頭に立って進む淫売婆のあとを、遠くからつけてゆきましたが、婆のほうでは心中考えておりました、「この仔牛を剥いでやるには、おお慧眼機敏のダリラよ、さてお前はどうするかね。」
老婆は若い女をあとに従え、若い女自身も美男の商人にあとをつけられて、こうして歩いてゆきますと、老婆はある染物屋の店の前に着きました。これはハッジ・ムハンマドといって、その両面の趣味で、市場《スーク》中に聞えている男でした。事実、彼は里芋(15)屋の庖丁みたいな男で、球根の男性部と女性部とに同時に孔をあけるのです。そして無花果《いちじく》の柔らかい味と柘榴《ざくろ》(16)の酸っぱい味を、同じ程度に好むのでした。さて、そこでハッジ・ムハンマドは、髪飾りと鈴の触れ合う音を聞いて、頭をあげると、美少年と若い別嬪《べつぴん》を見つけました。すると、彼は感じたものを感じたのです。けれどもすでにダリラは彼に近寄っていて、挨拶《サラーム》ののち、腰を下ろしながら、彼に言っていました、「あなたは確かに、染物屋のハッジ・ムハンマドさんですね。」彼は答えました、「そうです、私はハッジ・ムハンマドです。どういう御用で。」老婆は答えました、「私はね、親切な方々からあなたのことをうかがったのですが。御覧なさいまし、あのかわいらしい別嬪は、私の娘で、あの鬚のない愛らしい若衆は、私の伜ですよ。私は二人とも自分で育てたのですが、その教育にはずいぶんお金がかかったものです。ところで、今こういうことになったのですがね、私たちの住んでいる家が、こわれかかった大きな古い建物なので、私は最近木の梁《はり》と太い支柱で、補強させなければならないことになりました。ところが、大工の棟梁が言うに、『あなたはどこかこれとは別の家に、住みにいらっしたほうがよいでしょう。この家はあなたの上に崩れ落ちる危険が、多分にありますからね。そしてこの改築がすんだら、帰ってきてお住みになってよろしいが、どうもそれまではいけませんね。』そこで私は、一時この二人の子供と一緒に住む、どこか別の家を探しに出てきたわけです。すると親切な方々が、あなたのところにゆくようにと、言ってくれました。そこで私は、あそこにいるあの二人の子供と一緒に、お宅に宿をお願いできればと存じます。あなたのほうも、私の気前のいいことは、けっしてお疑いなさいますな。」
老婆のこの言葉を聞きますと、染物屋は心臓が臓腑《はらわた》の真中で踊り出すのを感じて、心中で自分に言いました、「やあ、ハッジ・ムハンマドよ、さあ、菓子の上にバターの塊りがのっかって、お前の歯に差し出されたぞ。」次に彼はダリラに言いました、「いかにも私は、二階に大きなひと間《ま》のついた家を持ってはいますがね。しかしひと部屋も都合をつけられませんでして。なぜって、私は下に住んでいるし、上の間《ま》は、私に藍《あい》を持ってきてくれる百姓のお客さんたちを、迎えるのに使っていますのでね。」老婆は答えました、「わが子よ、私の家の修繕は、せいぜいひと月かふた月しかかかりますまい。それにこの辺には、私どもの知合いはたくさんありはしません。ですから、どうか上の大広間を二つに分けて、その半分を、私たち三人に使わせて下さいまし。そして、おおわが子よ、あなたのお命《いのち》にかけて、もしあなたが藍つくりのお百姓さんたちのお客を、私たちのお客様になさりたければ、きっと歓迎いたしますよ。私たちはその方たちと一緒に食べ、一緒に眠るつもりでいます。」すると染物屋は、さっそく老婆に自分の家の鍵を渡しました。それは三つあって、一つは大きく、一つは小さく、一つは曲ったものでした。そして彼は老婆に言いました、「大きな鍵は家の門のやつ、小さな鍵は玄関のやつ、曲った鍵は上の間《ま》のやつです。おっかさんよ、どれでも勝手に使って下さい。」そこでダリラは鍵を受けとって、そこを立ち去り、若い商人を従えている若い女を従えて、こうして染物屋の自宅のある小路に着きますと、急いでその門を、大きな鍵で開けました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十六夜になると[#「けれども第四百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
まず老婆は自分がまっ先にはいって、商人には待つように言いおいて、若い女をはいらせました。そして美しいカトゥーンを上の間《ま》に連れてゆきながら、申しました、「わが娘よ、この下に尊ぶべき長老《シヤイクー》突撃の父が、住んでいらっしゃるのですよ。あなたはここで私を待っていて下さい。そしてまず大面衣《イザール》をおぬぎなされ。私はおっつけあなたを呼びに戻って来ますから。」そして老婆はすぐに下に降りていって、若い商人に門を開け、玄関に入れてやりながら、申しました、「ここに坐って、私が娘と一緒に、あなたを呼びに戻って来るのを待っていて下さい、あなたが自分の眼で確かめたいものを、確かめられますからね。」それから老婆は、美しいカトゥーンのところへまた上って行って、彼女に言いました、「さあ、これから突撃の父をお訪ねしましょう。」若妻は叫びました、「まあなんてうれしいこと、おおわが母よ。」老婆は言葉をつぎました、「だがね、わが娘よ、私はあなたのために、ひとつ心配なことがあるのです。」女は訊ねました、「それは何ですの、おおわが母よ。」老婆は答えました、「下に、私の馬鹿な息子がいましてね、これが長老《シヤイクー》突撃の父の代理と助手をしているのです。この子は暑い時候と寒い時候の区別がつけられないで、しょっちゅう、裸でおりますの。ところが、あなたのような身分の高いお客様が、長老《シヤイクー》のところにはいって来なさると、その子は貴婦人の身につけていらっしゃる装身具や絹物を見て、ひどく怒り(17)出してしまい、お客様に飛びかかって、お着物をずたずたにしたり、お耳をむしって、耳輪をもぎとり、全部の宝石を奪いとってしまうのです。だから、はじめからここで宝石をおはずしになり、お着物や肌着を全部お脱ぎになるのがよろしいでしょう。そうなされば、あなたが長老《シヤイクー》突撃の父を訪ねてお戻りになるまで、この私が、全部をちゃんとお預かりしておきましょう。」そこで若妻は宝石を全部はずし、身には下着の絹の肌着だけしか残さず、着物を全部脱いで、すべてをダリラに渡しますと、ダリラは彼女に言いました、「これはあなたのために、突撃の父のお衣《ころも》の下においてあげましょう。そうすれば、お衣に触れて、あなたに祝福が下りましょうよ。」
そして老婆はその包みをそっくり持ち運びながら、下におり、さしあたり、これを階段の円天井の下に隠しました。それから若い商人のところにはいってゆきますと、彼は乙女を待っております。彼は老婆に訊ねました、「あなたの娘さんを拝見したいものだが、いったいどこにいるのですか。」ところが、老婆は黙って、いきなり自分の顔と胸を打ちはじめたものです。それで若い商人はこれに尋ねました、「どうしたのですか。」老婆は答えました、「ああ、あんな女たちはもうみんな死んでくれればいい、意地の悪い近所の女どもや、焼餅やきの女どもや、口うるさい女どもは。あいつらは、さっきあなたが私と一緒にはいってくるのを見かけて、あの人は誰だと私に聞くのです。それで私は、私の娘の未来の夫に選んだ人だと、言ってやりました。ところが女たちは、きっといつも私をねたんでいるんでしょうが、私がうまくあなたを当てた幸運を羨んで、娘に会いに来て、言ったものです、『お母さんはあなたを養うのにそんなにうんざりしてしまったのかねえ、あんな風に、疥癬と癩病にかかっているどこぞの男と、あなたを結婚させようと思うなんて。』そこで私は、ちょうどあなたが昔お母さんになすったように、娘に誓ったのです、当人に丸裸のあなたを見せないうちは、決してあなたと一緒にさせはしないって。」この言葉に、若い商人は叫びました、「焼餅やきや意地の悪いやつらに対しては、私はアッラーにお縋り申します。」そしてこう言いながら、彼は着物を全部脱いで、純銀のように、裸で、汚れなく、白く、現われ出ました。すると老婆は彼に言いました、「大丈夫、あなたは美しく清らかでいなさるのだから、何も心配なさることはありませんよ。」商人は叫びました、「さあ、娘さんに見にきてもらいましょう。」そして彼は、自分の立派な貂《てん》の皮の外套や、帯や、金銀作りの短刀や、その他の衣類を、かたわらに片づけ終えましたが、そのとき衣類の襞《ひだ》に、千ディナール入りの財布を隠したのであります。すると老婆は彼に言いました、「こういう気を誘う品々すべてを、玄関などにおいてはいけません。私が安全な場所にしまっておいてあげましょう。」そして老婆は、若妻の衣類を始末したのと同様に、これらの品全部をひと包みにして、若い商人のそばを離れると、再び戸に鍵をかけて閉じこめ、階段の下に行って最初の包みをとり、そして音もなく家を出て、全部を持ち去ってしまいました。
ひとたび街に出ると、老婆はまずはじめに、果してこの二つの包みを安全な場所に置くことにして、これを知合いのなかの一人の香料商人のところに預けまして、それから好色な染物屋のところに戻りますと、彼は待ちかねていて、その姿を見かけるやいなや、尋ねました、「どうかね、小母さん。インシャーラー、私の家はお気に召しただろうか。」老婆は答えました、「あなたのお家は祝福された家です。私は満足の限り満足ですよ。今から私はこの足で、荷かつぎ人足を呼びに行って、私たちの家財家具を運ばせることにします。だが、こうして私はとても忙しいし、子供たちは今朝から何も食べておりませんので、ここに一ディナールありますから、すみませんが、これを持って、どうか子供たちに、細かく切った肉をいっぱい入れたパン粥《がゆ》を買ってやって、お宅にいらっして、あの子たちと一緒にお昼御飯を召し上り、二人のお相手をしていただきたいものです。」染物屋は答えました、「だがそのあいだ、店やお客さんの衣類の番は、誰がしますかね。」老婆は答えました、「アッラーにかけて、あなたの小さな小僧さんがしますよ。」彼は答えました、「それじゃそういうことにしましょう。」そして彼は一枚の皿と磁器を持って、くだんの肉を詰めたパン粥を買って届けるために、立ち去りました。染物屋については、以上のようでございます。なお彼のことは、後ほどまたお話しすることになりましょう。
ところで凄腕ダリラはどうかと申しますと、彼女はすぐに、香料商人のところに預けておいた包みを取りに駈けつけ、それからすぐさま染物屋の店に戻って、染物屋の小僧に言いました、「御主人から言いつかってきたのだが、すぐにパン粥屋まで御主人を追いかけてきておくれとさ。お前さんの戻って来るまで、この私が店番をしてあげるよ。ぐずぐずしないでね。」小僧は答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」そして小僧が店を出ますと、そのあいだに老婆は、得意先の衣類をはじめ、店の中で掻き集められるだけのものに、手をつけはじめました。せっせとこうしているうちに、たまたま一人の驢馬曳きが、驢馬をつれて通りかかりました。この男は一週間以来仕事にありつけず、おまけに麻薬《ハシーシユ》食らいでした。すると淫売婆はこれを呼んで、叫びました、「おい、おお驢馬曳きさん、来ておくれよ。」すると驢馬曳きは、驢馬と一緒に門口《かどぐち》に立ちどまりましたので、老婆は訊ねました、「お前さん、私の伜の染物屋を知っているかね。」相手は答えました、「やあ、アッラー、おいらよりよく知ってるひとがいるものかね、おお御主人様。」老婆はこれに言いました、「それじゃ、おお祝福の驢馬曳きさんや、実はあの子はかわいそうに……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十七夜になると[#「けれども第四百三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……実はあの子はかわいそうに、支払ができなくなってしまってね。今までは牢屋に入れられるたびに、私がうまく出してもらってやっていた。けれどももう今日は、決着をつけてしまうため、いっそ破産宣告をしてしまうがいいと思うのだよ。それで私は今、お得意先の衣類をせっせと掻き集めて、それぞれ持主の方たちにお届けしようとしているところなのさ。だからひとつお前さんの驢馬を借りて、この着物を全部積ましてもらいたいと思うのだよ。ここに、驢馬の借り賃として、お前さんに一ディナールあるからね。お前さんは、私が帰って来るまでに、ここでせっせと何もかも粉々にして、染料の甕も叩き割り、予備の大桶もぶち毀してしまっておくれ。そうしてしまえば、法官《カーデイ》の差し向ける下役たちが、破産の検査をしに来たって、店には何ひとつ差押える物が見つからないわけだからね。」驢馬曳きは答えました、「わしの頭上と眼の上に、おお御主人様。それというのも、息子さんの染物屋の旦那には、御親切の限りをつくしていただいたもんだ。わしも御恩返しをしなければならんから、そういう御用なら無料《ただ》でしてあげて、アッラーのために、店中のものを全部叩き割り、ぶちこわして進ぜましょう。」そこで老婆は彼と別れ、全部を驢馬の上に積んでから、頭絡《おもがい》をとって驢馬を曳きながら、わが家を指してゆきました。
「守護者」のお助けと御守護をもって、老婆は恙《つつが》なくわが家に着いて、娘のザイナブのところにはいってゆきますと、娘はまるで揚物鍋《あげものなべ》の上に坐っているみたいに、待ちかねていまして、老婆に言いました、「おお、おっかさん、あたしの心はあなたと一緒にいたのよ。詐欺瞞着って、いったいどんなことをやりとげなすったの。」ダリラは答えました、「今日初日の朝の分として、私は四人の人に四つの悪戯《いたずら》をしてやったよ、若い商人と、恐ろしい隊長の女房と、好色な染物屋と、驢馬曳きとにね。そして、やつらの衣類と品物全部を、驢馬曳きの驢馬にのせて、お前に持って来てあげたよ。」するとザイナブは叫びました、「おお、おっかさん、あなたはこれから、もうバグダードのなかを歩きまわれなくなるわ、隊長からは女房を剥ぎとったし、若い商人は丸裸にしたし、染物屋からはお得意の衣類を奪い取ったし、驢馬の持主の驢馬曳きもいることだし。」ダリラは答えました、「ふん、娘や、この私はあんなやつらなんぞ全部平気だよ。ただ驢馬曳きだけは別だがね、あいつは私を知ってるからね。」さしあたって、ダリラにつきましては、以上のようでございます。
さて染物屋の親方につきましては、彼はひとたび例の肉詰めパン粥を買い求めると、それを小僧に持たせて、連れ立ってわが家への道をとり、再び自分の染物屋の前を通りかかりました。ところがです、見れば、店のなかで驢馬曳きが、すべてのものを叩き毀し、大甕や大桶をぶち割っている最中です。そしてもう店は、毀れた残骸と流れる青い泥土の堆積《たいせき》にすぎません。これを見ると、彼は叫びました、「やめろ、おお驢馬曳きめ。」すると驢馬曳きは仕事をやめて、染物屋に言いました、「あんたが牢屋を出られたとは、アッラーに称《たた》えあれ、おお染物屋の旦那よ。全くおれの心はあんたと御一緒にいましたよ。」彼は訊ねました、「いったい何を言っているんだ、おお驢馬曳きよ、そしてこの有様はいったい何としたことだ。」驢馬曳きは言いました、「あんたの留守中に、破産宣告をしたのですよ。」喉はつまり、唇は顫え、眼は飛び出して、彼は訊ねました、「そんなことを誰が言ったんだ。」相手は答えました、「あんたのおふくろさんが、わしにそう言いなすったんでさ。そしてあんたのお得になるように、ここで全部をぶっ毀し、全部をぶち割って、法官《カーデイ》のよこす役人に、何ひとつ差押えられないようにしてくれと、わしに言いつけなすったんでさ。」染物屋は、呆《あき》れの極に達して、答えました、「どうかアッラーは『遠ざけられた悪魔』を懲らしめたまいますように。おれのおふくろはとっくの昔に死んでいるぞ。」そしてわが胸をはげしく打ちながら、声をはりあげて叫びました、「ああ情けない、おお、おれの財産とお得意先の財産がなくなってしまった。」また一方驢馬曳きのほうも、泣き叫びだしました、「ああ情けない、おお、わしの驢馬がなくなってしまった。」つぎに彼は染物屋に向ってどなりました、「おお、おれの尻《けつ》の染物屋め、おれの驢馬を返せ、きさまのおふくろがおれから取った驢馬を。」すると染物屋は驢馬曳きにとびかかり、首筋を掴んで、拳骨でぶん殴りはじめ、叫びました、「そいつはどこにいるんだ、きさまの言う淫売婆は。」けれども驢馬曳きは、臓腑《ぞうふ》の底から叫び出しました、「おれの驢馬だ、おれの驢馬はどこにいるんだ。おれの驢馬を返せ。」そして二人は、互いに相手にしがみついてぶらさがりながら、噛み合い、罵り合い、負けず劣らず殴り合い、胃に頭突《ずつ》きを喰わせ合って、それぞれ懸命に相手の睾丸《きんたま》をひっつかみ、これを指で握りつぶそうと努めました。そのうち、二人のまわりに群衆が寄り集まって来て、次第に数が殖えました。そしてみんなで、痛い目を見ずにはすまなかったが、やっと二人を引き離すことができました。そしてその場の一人が、染物屋に訊ねました、「やあ、ハッジ・ムハンマド、いったいあなた方二人の間で、どんなことがあったのか。」けれども、自分の話を声張りあげて喚きながら、急いでこれに答えたのは、驢馬曳きのほうで、こう言って話を終りました、「おれはつまり、染物屋のために尽くしてやるつもりで、こうしたすべてをしてやったんだ。」そこで人々は染物屋に訊ねました、「やあ、ハッジ・ムハンマド、あんたはそういう風に店番をまかせたからには、その婆さんを、知っているにちがいあるまい。」彼は答えました、「おれは今日まで、あんな婆さんは全然知らなかった。だが婆さんは、自分の伜と娘と一緒に、おれの家に住まわせてくれと言って出かけたのだ。」すると居合わせた一人が意見を述べて、「おれは、おれの良心にかけて、驢馬曳きの驢馬の責任は、染物屋にあると思うね。なぜって、染物屋がその婆さんに店番をまかせたことを、もし驢馬曳きが気がつかなかったとしたら、驢馬曳きだって自分の驢馬を、その婆さんにまかせはしなかったろうからな。」すると三番目の男は付け加えて、「やあ、ハッジ・ムハンマド、お前さんがその婆さんを自分のところに泊めたからには、お前さんは驢馬曳きに驢馬を返すか、さもなければ弁償金を払うべきだよ。」つぎに一同は、二人の喧嘩相手と一緒に、染物屋の家へと向いました。こうした次第でございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十八夜になると[#「けれども第四百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、若妻と若い商人のほうはどうかと申しますと、次のようでございます。
若い商人が乙女を検査しようと、玄関でその来るのを待っているあいだ、一方女のほうでも、突撃の父を訪れることができるように、聖なる老女が、突撃の父の代理人の馬鹿者から、許可をもらって戻って来るのを、上の間《ま》で待っておりました。けれども老婆がなかなか戻って来ないので、美しいカトゥーンは、簡単な薄い肌着を着ただけで、部屋を出て、階段を下りました。すると彼女は玄関で、踝《くるぶし》からとりはずせなかった鈴の鳴る音を聞きつけた若い商人が、自分にこう言うのを聞きました、「さあ、急いで下さい。そして私と結婚させるため、あなたを連れて来たお母さんと一緒に、早くここに来て下さい。」けれども若い女は答えました、「私の母はもう亡くなっていますけど、あなたはあのお馬鹿さんでしょう。突撃の父の代理人は、あなたでしょうね。」彼はあてずっぽうに答えました、「いや、アッラーにかけて、おお私の眼よ、私はまだ全くの馬鹿じゃございませんよ。だけど突撃の父であるということにかけては、その点私は名うての男です。」この言葉に、顔を赤らめた若妻は、どうしてよいかわかりませんでしたが、若い商人がいろいろ文句を言ったにもかかわらず、この男は懐妊の増倍者の代理人の馬鹿とばかり、ずっと思いこんで、とにかく階段の上で、聖なる老女の来るのを待とうと、決心いたしました。
こうしているうちに、染物屋と驢馬曳きについてきた人たちが到着して、戸を叩き、内部《なか》から開けてくれるのを、長いこと待ちました。けれども誰も答えるものがないので、彼らは戸を毀して、まず玄関になだれこみますと、そこにはすっ裸の若い商人がいて、自分の丸出しの商品を、両手のなかに包み隠そうと努めておりました。そこで染物屋はこれに怒鳴りました、「ああ、淫売の息子め、きさまのおふくろはどこにいるんだ、あの災難婆は。」彼は答えました、「私のおふくろはずっと前に死んでいますがね。ここの家のお婆さんのことだったら、あれはただ私の将来の外姑《しゆうとめ》というだけです。」そして彼は染物屋と、驢馬曳きと、群衆一同に、自分の話を逐一《ちくいち》話しました。そして付け加えました、「それで私の検査することになっている女というのは、向うの戸の後ろにおります。」この言葉に、人々は戸を毀しますと、その後ろには、驚き慌てた若妻が、ただ肌着をつけただけの全裸で、その光栄の太腿《ふともも》の裸を、できるだけ下のほうに覆い隠そうと努めているのを見つけました。すると染物屋はこれに訊ねました、「ああ、姦通の娘め、お前のおふくろはどこにいるんだ、あの遣手婆は。」彼女はすっかり恥じ入って、答えました、「私の母はとうの昔に亡くなっております。私をここに案内して下さったお婆さんのことなら、あの方は、わが主、長老《シヤイクー》増倍者様に仕えていなさる、聖女でございます。」
この言葉を聞くと、いあわせた者全部は、染物屋は店を毀されたにもかかわらず、驢馬曳きは驢馬を失ったにもかかわらず、若い商人は財布と着物をなくしたにもかかわらず、みな、尻餅をついて引っくりかえるほど、笑い出したのでありました。
笑い終りますと、三人の騙された男は、自分たちが老婆に一杯食わされたことがわかりまして、これに復讐をしようと決心いたしました。そしてまず怯えた若妻に着物を与えますと、彼女はそれを着て、急いで家に帰りましたが、わたしたちはやがて、夫が旅から戻って来たとき、また彼女を自宅に見出すことでございましょう。
一方、染物屋のハッジ・ムハンマドと驢馬曳きのほうは、二人は互いに許しを乞い、仲直りをいたしまして、若い商人と連れ立ってその場を立ち去り、都の奉行《ワーリー》、カーレド公に会いにゆき、これに自分たちの事件を物語って、悪辣な老婆に復讐して下さるようにと願い出ました。すると奉行《ワーリー》は彼らに答えました、「おお正直者どもよ、何と途方もない物語をお前たちは余に聞かせるのか。」彼らは答えました、「おおわが御主人様、アッラーにかけて、また信徒の長《おさ》の御頭《おんこうべ》の命にかけて、私どもはただ本当のことのみ申し上げたのでございます。」すると奉行《ワーリー》は彼らに申しました、「おお正直者どもよ、バグダードのあらゆる老婆のただ中から、一人の老婆を見つけるには、余は何といたしたものであろうか。お前たちも承知のとおり、われわれとて、部下を遣わして諸所の婦人部屋《ハーレム》を走り廻らせ、女たちの面衣《ヴエール》を剥ぐわけにもまいらぬ。」彼らは叫びました、「おお災難だ。ああ、おれの店、ああ、おれの驢馬。ああ、おれの千ディナールの財布よ。」そこで彼らの身の上を不愍に思った奉行《ワーリー》は、申しました、「おお正直者どもよ、よかろう。やってみよ、お前たちは都中を歩き廻り、その老婆を見つけるよう努め、そやつを引っ捕えよ。そして、もしお前たちが成功したら、余は必ずお前たちのために、その婆を拷問にかけてつかわすことを約束いたす。そして余は何としてでも、そやつを白状させるであろう。」すると、凄腕ダリラに騙された三人の男は、奉行《ワーリー》の屋敷を出て、呪われた老婆を探すために、それぞれ異なった方角へ散らばってゆきました。さしあたり、彼らについては、以上のようでございます。けれども、わたくしたちはいずれまた彼らに会うことでございましょう。
凄腕の老婆ダリラはどうかと申しますと、彼女は娘のザイナブに向って言いました、「おお娘や、こんなことは、みんな他愛のないことさ。あたしゃ、もっとうまいことをやってやるよ。」するとザイナブは答えました、「おお、おっかさん、こうなっちゃ、あたしはおっかさんの身がとても心配だわ。」老婆は答えました、「あたしのことなら、娘や、何も案じることはないよ。あたしときたら、まるで莢《さや》の中の蚕豆《そらまめ》みたいに、火にも水にも耐えられるんだからね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百三十九夜になると[#「けれども第四百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして老婆は立ち上り、スーフィー僧の衣を脱ぎ捨てて、偉い人たちの召使の間の召使の着物に着換え、そして、これからバグダードでやってのける新しい悪事を思案しながら、外に出ました。
老婆はこうして、遠く離れたある通りにやってまいりますと、そこはすっかり飾りつけられ、縦も横もびっしり、美しい布《きれ》や多彩な提灯で装われておりましたし、通りの地面も、見事な絨氈で覆われておりました。そしてそこの家の中から歌妓《うたいめ》の声や、長太鼓《ドウドウフ》を打ち鳴らす音や、鳴り響く太鼓《ダラブカ》を叩く音や、シンバルの鳴り渡る音が、彼女の耳に入りました。そして旗で飾り立てられた住居の門口を見ますと、一人の女奴隷が、肩に幼い子供を跨らせて背負っておりましたが、その子供は金と銀の天鵞絨《ビロード》の立派な布地《きれじ》の着物を着て、三条《みすじ》の真珠の紐を飾りつけた赤い土耳古帽《タルブーシユ》をかぶり、頸には宝石を鏤めた金の頸飾りをめぐらし、肩には錦襴の半外套を纒っておりました。そこで彼女は、そこに出たり入ったりしている弥次馬や招待客などから、この家はバグダード商人組合の総代のもので、この子供はその子供であることを聞き込みました。そしてまた、この総代には同じく一人の処女で、結婚適齢期の娘がいて、今日はちょうど、この娘の結納の式が行なわれていることも聞きました。そしてそれが、こうしたきらびやかな装いや飾りつけの動機《いわれ》なのでした。そして子供の母親は、招待の貴婦人たちを迎えて、一家を挙げてこれを歓待することに忙殺されておりましたので、ことごとに着物に纒《まつわ》りついて邪魔をする子供をば、この若い女奴隷に預けまして、招待客たちが引き上げてしまうまで、この子の気を紛らしたり、遊ばせてやったりするように、言いつけたのでございました。
さて、老婆ダリラは、女奴隷の肩に跨っている子供を見かけ、その親戚や、いま挙げられている儀式などについて、以上のような情報を聞き込むと、さっそく心中で自分に言いました、「おおダリラよ、差し当ってするべき悪戯《いたずら》は、この女奴隷から子供を取り上げて、さらってしまうことだ。」そして彼女は前に進み出て、叫び声をあげました、「あの総代の立派な奥様のところへ、こんなに遅れてやって来るなんて、何という私の上の恥だろう。」それから彼女は、薄のろであったこの女奴隷の手に贋金を一枚つかませて、申しました、「ほら、あんたの骨折りのお礼に一ディナール上げるからね。娘さんや、あんたの奥様のところまで上って行って、こう申し上げておくれ、『あなた様の年寄りの乳母、オンム・アル・カイールは、かねてから数々の御親切に御恩返しをしなければならぬと存じておりますので、それだけにこの度は、あなた様のためにたいそう悦んでおります。ですから、大披露宴の日には、乳母めは自分の娘たちと一緒に、あなた様にお目もじに伺いまして、習慣どおりに、お化粧係りの御婦人たちの手にも、必ずたっぷりと祝言の御祝儀をさしあげるつもりでございます』とね。」女奴隷は答えました、「親切なおっかさんよ、喜んであんたのお使いをして上げるわ。でも私の若主人のこの坊ちゃんときたら、お母様を御覧になるたんびに、うるさく付きまとって、お召物にすがりつきなさるのよ。」彼女は答えました、「それじゃあ、あんたが行って戻って来る時間だけ、坊ちゃんを私に預けなさいな。」すると女奴隷は贋金を受け取り、老婆に子供を渡して、すぐさま伝言《ことづて》をしに上ってゆきました。
ダリラのほうでは、彼女は子供と一緒に急いでその場を立ちのき、とある薄暗い小路に行って、子供が身につけていた貴重な品々をすっかり剥ぎ取り、そして心中で自分に言いました、「今度は、おおダリラよ、これでおしまいじゃないよ。もしお前が本当にしたたかな女の中のしたたか女なら、この小猿を、例えばどえらい金額の抵当《かた》にして、できるだけ儲けを引き出すことにしなくっちゃねえ。」こういう考えが浮ぶと、彼女は両足の上に躍り上って、宝石商の市場《スーク》に行きましたが、そこの一軒の店に、大きな貴金属商のユダヤ人が、店先の仕切りの後ろに坐り込んでいるのを見つけました。すると彼女は「さあ、いよいよ私の商売が見つかったよ」と独りごとを言いながら、そのユダヤ人の店にはいってゆきました。ユダヤ人は自分自身の眼で彼女が入って来るのを見ますと、さっそくその抱いている子供をみつめて、これが商人組合の総代の息子であるとわかりました。ところが、このユダヤ人というのは、非常な金持でありながら、近所の商人たちがひと商売したのに、自分のほうがたまたま、それと同じときに、やはりひと商売しなかったりしますと、きまって隣りの商人たちをねたむのでありました。ですから、彼は老婆がはいって来たのをたいそう悦んで、訊ねました、「何の御用でいらっしゃいますか、おお御主人様。」彼女は答えました、「確かにあなたですわね、ユダヤ人のイズラ親方は。」彼は答えました、「ナアーム(18)。」彼女は彼に言いました、「今日はこのお子さんのお姉様で、商人の組合総代《シヤーフバンダル》のお嬢様が、許嫁にお決りになって、今も結納の式が挙げられているんですよ。ところがお嬢様のために、金の足首の輪二組と、金の普通の腕輪一組と、真珠の耳飾り一組と、透し編みの金の帯一本と、紅玉《ルビー》の象眼の硬玉の束《つか》がついた匕首《あいくち》ひと振りと、それに印形つきの指輪一個と、こういった宝石類が今すぐ御入用になったんです。」ユダヤ人はすぐさま、急いで彼女の注文したものを渡しましたが、その値段は少なくとも金貨千ディナールに上《のぼ》っておりました。するとダリラは彼に申しました、「これら全部の品物は条件つきで頂きますよ。私がこれを家に持って帰ると、奥様が一番お気に召すものをお選びになりますからね。それがすんだら、私はそのお選びになったものの代金を持って、またここに戻って来ます。けれどもそれまでに、どうか私の戻って来るまで、このお子さんを預って下さいな。」ユダヤ人は答えました、「お望みどおりになさって下さいませ。」すると彼女はそれらの装身具をとり、急いでわが家へまっすぐに向いました。
若いぺてん師ザイナブは、母がはいって来ると、これに申しました、「おお、おっかさん、どんな大仕事をやりとげてきたの。」老婆は答えました、「今度は、ほんの僅かなことだけさ。あたしは商人の組合総代《シヤーフバンダル》の若い伜をさらって、着物を剥ぎ取り、その子をユダヤ人イズラの店に、千ディナールの値段の宝石と引き換えに預けてきたんだけど、まあこのくらいで我慢しといたよ。」すると娘は叫びました、「たしかに、今度でおしまいだわ。あなたはもうバグダードに出て、歩き廻ることはできないわ。」老婆は答えました、「あたしのいまやったことなんぞ、何でもありゃしないよ。千尺のうちの一尺にもあたらないもの。けれどもお前はね、娘や、あたしのことなぞ心配しなくたっていいんだよ。」
一方、間抜けの若い女奴隷はどうかと申しますと、この女は応接の間《ま》にはいって言いました、「おお御主人様、乳母のオンム・アル・カイールがあなた様に、平安《サラーム》と挨拶をお送りして、申しますには、乳母めは奥様のためにたいそう喜びまして、御婚儀の日には自分の娘どもを連れて参上し、お化粧係りの御婦人たちにたっぷりと祝儀をはずむとのことでございます。」女主人は彼女に訊ねました、「お前は若旦那様をどこに置いてきたの。」彼女は答えました、「あなた様に纒《まつわ》りついたりなさってはいけないと存じまして、その人のところに置いてまいりました。そして、これがあの人が歌妓《うたいめ》にやれと言って、私によこした金貨でございます。」そして彼女は主役の歌妓にその貨幣を差し出して、言いました、「さあ、あんたへの御祝儀だよ。」歌妓はその貨幣をとりましたが、それが銅で出来ていることを見つけました。そこで女主人は召使に怒鳴りました、「ああ、売女め、とっとと降りて若旦那様を見つけておいで。」すると女奴隷は急いでまた下に降りましたが、もう子供も、老婆も見当りませんでした。そこで彼女は大きな叫び声を上げて、俯伏《うつぶせ》に倒れましたので、それと同時に、全部の婦人が上から馳せつけて来ましたが、一同の心の中では、喜びが愁傷に変ってしまいました。そして、とやかくするうちに、組合総代《シヤーフバンダル》自身もそこにやって来ました。すると妻は激動に顔色を変えて、急いで今しがた起ったことを彼に告げました。彼はすぐさま子供を探しに出掛け、これに続いて招客の商人たちも全部、それぞれ、あらゆる方向に捜査を開始いたしました。そして彼はさんざん心配したあげく、とうとうユダヤ人の店の敷居の上で、ほとんど裸にされている子供を発見しましたので、喜びと怒りに気狂いのようになり、ユダヤ人に飛びかかって、叫びました、「ああ、呪われたやつめ、わしの伜をどうするつもりだったんだ。そして何だって着物を剥ぎやがったんだ。」ユダヤ人は顫えながら、すっかり度胆を抜かれて、答えました、「アッラーにかけて、おお御主人様、私は何もこのような担保などは要《い》らなかったのです。けれども、あのお婆さんが、あなたのお嬢さんのために、千ディナールほどの宝石類をお取りになってから、是非ともお子さんを置いて行くとおっしゃったんですよ。」組合総代《シヤーフバンダル》はますます憤慨して、叫びました、「やい、呪われたやつめ、それじゃあ貴様は、わしの娘が貴様の助けを借りるほど、宝石に不自由しているとでも思っているのか。わしの伜から剥ぎ取った着物と装身具を、さっさと返してよこせ。」この言葉に、ユダヤ人は顫え上って、叫びました、「助けてくれ、おお|回教徒の方々《ムスリムン》よ。」すると、ちょうどこの瞬間に、最初に騙された、驢馬曳きと、若い商人と、染物屋の三人が、それぞれ違った方向からやって来て、現われ出ました。そして彼らはこの事件を聞きこみ、それがどんなことかを知りますと、これこそ、あの災いの老婆の新しい仕事であることを、一瞬も疑いませんでした。そして彼らは叫びました、「私たちはその婆を知っています。そいつは、すでにあなた方より前に、私たちを騙した女詐欺師なんです。」そして彼らは並いる人たちに自分たちの話を物語りましたので、一同はこれを聞いて唖然としてしまいましたが、組合総代《シヤーフバンダル》は詮方なく、叫びました、「子供を見つけたのが、まだしも運がよかったことさ。わしはもう失《な》くなった着物のことなど、くよくよしたくないね、それが身代金《みのしろきん》になってるんだから。ただ、その婆にはきっと、いつか着物の請求をしてやるからな。」そして彼はこれ以上家の外にぐずぐずしていようとはせず、子供を見つけた喜びを妻にも頒《わか》ってやるために、走ってゆきました。
一方ユダヤ人のほうは、三人に訊ねました、「あんた方は今からどこに行こうと思ってなさるんですかね。」彼らは答えました、「私たちは捜査を続けてゆくんでさ。」彼は言いました、「皆さんと一緒に、私も連れて行って下さいな。」それから彼は訊ねました、「あんた方の中で、悪事を働く以前の婆を御存じだった方は、どなたかいらっしゃいますかね。」驢馬曳きが答えました、「あっしです。」ユダヤ人は言いました、「それでは、婆に警戒されぬように、私たちは一緒に歩かないで、別々に捜査したほうがいいですよ。」そこで驢馬曳きが答えました、「そりゃもっともだ。そして、みんながもう一度会うように、集合の場所は、正午《ひる》にマグリブ人の床屋、ハッジ・マスードの店ということにしましょうや。」彼らは落ち合う場所をきめますと、それぞれ自分の方角へ出掛けてゆきました。
ところで、一番さきに、凄腕の老婆に出遭うべき者は、驢馬曳きであると記されておりましたが、……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十一夜になると[#「けれども第四百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そのころ、老婆のほうは何か新しい手口を探しながら、都を歩き廻っていたところでした。事実、驢馬曳きは老婆の姿を見つけるが早いか、その変装にもかかわらず、正体を見抜いてしまい、これに飛びかかって、叫びました、「貴様に禍いあれ、耄碌《もうろく》婆め、枯枝め。とうとう見つけたぞ。」彼女は訊ねました、「いったい何が起ったんだね、伜や。」彼は叫びました、「驢馬だ。おれの驢馬を返せ。」彼女はしんみりした声で答えました、「伜や、もっと静かに話して、アッラーがその面衣《ヴエール》で被いたもうたものは被っておいておくれよ。さあさあ、あんたは何が欲しいんだね。あんたの驢馬かい、それとも他の人たちの衣類かね。」彼は答えました、「おれの驢馬だけだ。」彼女は言いました、「伜や、あんたが貧乏なことはわかってるからね。あたしはあんたから驢馬を取ろうなんてつもりは、ちっともなかったんだよ。あたしはあの驢馬を、ほら、あすこに、ちょうどこの真正面に店があるだろう、あのマグリブ人の床屋のハッジ・マスードのところに、預けといて上げたのさ。あたしゃ、これからすぐあの人に会いに行って、驢馬を渡してくれって頼むからね。ちょっと待ってて頂戴よ。」そして老婆はひと足さきに、床屋のハッジ・マスードのところにゆきました。彼女は泣きながらはいってゆき、床屋の手に接吻して、申しました、「ああ、困ったことです。」床屋は訊ねました、「どうなさったね、優しい小母さんよ。」彼女は答えました、「あんたのお店の正面の、あそこにいるあたしの伜が見えませんか。あの子は、商売は驢馬をひく驢馬曳きだったんですがね。ところがある日、病気を患《わずら》ってね、体のほうが強い風に吹き当てられて、血が腐って変質してしまったんですよ。そしてそれがもとで、あの子は正気を失って、気違いになってしまったんですの。それからというものは、伜はひっきりなしに自分の驢馬をせがみ続けているんです。起きれば、叫びます、『おれの驢馬だ。』寝ても、叫びます、『おれの驢馬だ。』歩いても、叫びます、『おれの驢馬だ。』そこでお医者様の中のあるお医者様が、あたしにおっしゃいました、『息子さんは理性が分裂して、非常な錯乱状態にあるのじゃ。そして、彼を全快させ、正気に戻すことができるのは、ただ、奥の大臼歯二本を抜くことと、斑猫《はんみよう》膏薬か、あるいは焼鏝《やきごて》をもって、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》の上に適当な焼灼《しようしやく》を施すこと以外にないだろう』とね。では、これがお骨折賃の一ディナールですから、伜を呼んで、言って下さいな、『あんたの驢馬は家にいるよ。おいで』とね。」
この言葉を聞くと、床屋は答えました、「もし息子さんの手の間にその驢馬を返さなかったら、わしは一年のあいだ何も食わなくたって構わねえよ、小母さん。」そう言って、彼は商売上のどんな仕事にも慣れている、二人の助手の床屋を使っておりましたので、その一人に言いつけました、「釘を二本真赤に焼いてくれよ。」それから彼は驢馬曳きに叫びかけました、「おおい、わしの伜や、ここにおいで。あんたの驢馬はうちにいるよ。」そして驢馬曳きが店の中に入ってくるあいだに、老婆はそこを出て、敷居の上に立ちどまっておりました。
さて、いったん驢馬曳きが入って来ますと、床屋はさっそくその手をとって、店の裏の部屋に連れてゆきまして、いきなり彼の腹に拳骨を一発喰わし、足搦みをかけ、そうやって彼を仰向けに床の上に倒しました。すると二人の助手が、その両手と両足をしっかり縛り上げ、少しの身動きもできないようにしてしまいました。そこで床屋の主人は立ち上り、まず最初に彼の喉の中へ、鍛冶屋の鋏《やつとこ》のような、手剛《てごわ》い歯を始末するのに使う二本の鋏《やつとこ》を、差し込みました。それから、腕をひと振りすると、床屋はその二本の臼歯を、いっぺんに抜き取ってしまいました。それがすむと、床屋は彼が喚いたり、身を捩《ねじ》ったりしてもお構いなく、ピンセットで二本の真赤な釘を一つずつ撮《つま》み上げ、治療が成功するようにアッラーの御名《みな》を唱えながら、彼の|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を大きく焼灼《しようしやく》いたしました。
この二つの手術を終えたとき、床屋は驢馬曳きに向って言いました、「ワッラーヒ(19)、あんたのおっ母さんはわしに満足するだろうよ。それでは、わしの仕事の効能《ききめ》とあんたの全快を見届けてもらうために、おっ母さんを呼んで来ようか。」そして驢馬曳きが助手どもの腕力の下でじたばたしている間に、床屋は店のほうに戻ってゆきましたが、これはしたり……、彼の店はからっぽで、まるで疾風《はやて》が通り抜けたように、きれいさっぱりとしておりました。もう何ひとつありません。剃刀《かみそり》も、螺鈿《らでん》の手鏡も、鋏も、革砥《かわと》も、盥《たらい》も、水差しも、手拭も、腰掛も、すべて消え失せてしまっていました。もう何ひとつありません。そういうものはすべて影さえありません。そして老婆もまた消え失せてしまっていました。何もない。老婆のにおいさえありません。しかもその上に、店はまるでたった今新しく借りたばかりのように、綺麗に掃き立てられ、水が打たれていたのでした。
これを見ますと、床屋は激怒の極に達し、店の裏の部屋に飛びこみ、驢馬曳きの喉をつかまえて、まるで負籠のように彼をゆすって、叫びかけました、「貴様のおふくろは、どこにいるんだ、あの遣手婆は。」哀れな驢馬曳きは、痛みと忿怒に気違いのようになって、彼に言いました、「ああ、千の襤褸屑《ぼろくず》の伜め、おれのおふくろだと。あいにくだが、おふくろはアッラーの平安《サラーム》の中においでだい。」床屋はさらに彼をゆすぶって、叫びました、「貴様のおふくろはどこにいるんだ。貴様をここに連れて来て、おれの店をすっかり盗んだあげく、出かけてゆきやがったあの淫売婆は。」驢馬曳きはわなわなと体をゆり動かして、まさに答えようとしていますと、そのとき不意に、他の三人の騙された男が、つまり、染物屋と、若い商人と、ユダヤ人とが、空しい捜査から戻って、店の中へはいってまいりました。そしてその場を見ると、床屋は頭の外へ眼をむき出し、驢馬曳きは、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》が焼灼《しようしやく》されて二つの大きな火膨れで腫れ上り、唇も、両脇からまだ二本の臼歯が外へ垂れて、血の泡を吹いており、こうして双方が互いに激しく言い争っておりました。そこで三人は叫びました、「いったい何があったんだ。」すると驢馬曳きが、喉いっぱいに絶叫しました、「おお回教徒の皆さん、この馬鹿野郎に罰を食らわせておくんなさい。」そして彼は今しがた起ったことを、彼らに語りました。そこで彼らは床屋に訊ねました、「どういうわけで、この驢馬曳きにそんなことをしたんだ、おおマスードの親方よ。」すると今度は床屋が、今しがた自分の店が老婆にからっぽにされた次第を語りました。すると彼らは、またこんな新しい大罪をやりとげたのは、もはやあの婆に間違いないと思って、叫びました、「アッラーにかけて、こういう一切のことの原因《おこり》は、あの呪われた婆なんだ。」そして一同はとうとう事の次第を納得し、それに意見が一致しました。そこで床屋は急いで店を閉め、四人の騙された男たちに加わって、その捜査を助けることになりました。そして哀れな驢馬曳きは、絶えずぼやきつづけておりました、「ああ、おれの驢馬。ああ、なくなったおれの奥歯。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十二夜になると[#「けれども第四百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼らはこうして長い間、都のさまざまな地区を歩き廻りました。けれども突然、ある街の曲り角で、今度もまた驢馬曳きがまっさきに、凄腕ダリラを見かけて、その正体を見破ったのでしたが、彼らの中では誰一人として、この女の名前も、住所も知っている者はいなかったのです。そして驢馬曳きは彼女を見るが早いか、「あいつがいるぞ。今度こそは、あいつもおれたちの損を全部埋め合せることになろう」と叫んで、老婆に飛びかかりました。そして彼らはこの女を、都の奉行《ワーリー》、カーレド公のもとに引きずってゆきました。
奉行《ワーリー》の屋敷に着いたとき、彼らは老婆を警吏たちに渡して、申しました、「私どもは奉行《ワーリー》様にお目にかかりとうござります。」警吏たちは答えました、「奉行《ワーリー》は昼寝をなさっていらっしゃるのじゃ。お眼覚めになるまでしばらく待て。」そして五人の告訴人たちが中庭で待っておりますと、その間に警吏たちのほうは老婆を宦官たちに渡して、これを奉行《ワーリー》のお眼覚めまで、後宮《ハーレム》の一室に閉じこめてもらうようにいたしました。
後宮《ハーレム》にやって来た凄腕の老婆は、首尾よく奉行《ワーリー》の妻の部屋まで忍び込んでしまい、そして挨拶《サラーム》と手への接吻をしたのち、よもや事件があろうなどとは、思いもかけなかった奥方に向って、申しました、「おお御主人様、私はわれわれの御主人、奉行《ワーリー》様にお目にかかりとう存じます。」奥方は答えました、「奉行《ワーリー》様はお昼寝をなさっていらっしゃるが。いったい、あの方にどんな御用があるの。」老婆は申しました、「私の夫は家具と奴隷の商人でございますが、彼は旅に立ちます前に、五人の白人奴隷《ママリク》を私に渡しまして、これを一番高い値で落した方にお売りするようにと、言いつけて参りました。すると、ちょうどわれわれの御主人、奉行《ワーリー》様が私と白人奴隷《ママリク》を御覧遊ばしまして、これを千二百ディナールにお付けになりましたので、私はそのお値段でお譲りすることを承知いたしました。そして、ただいまその白人奴隷《ママリク》をお渡ししに伺ったのでございます。」ところで、奉行《ワーリー》は実際、奴隷が必要だったので、これを買うために、前日すでに、千ディナールを妻に預けてさえあったのでした。ですから、彼女は躊躇なく老婆の言葉を信じて、訊ねました、「その五人の奴隷はどこにいるの。」老婆は答えました、「あちらの、窓の下の、お屋敷の中庭でございます。」そして奥方は中庭を眺めますと、奉行《ワーリー》のお眼覚めを待っている、五人の騙された男を見つけました。そこで彼女は言いました、「アッラーにかけて、とても立派な男たちだわ。あの中の一人などは、あの男だけでも千ディナールはするわ。」それから彼女は小匣《こばこ》を開けにゆき、千ディナールを老婆に渡して、言いました、「私の優しいお母さん、お勘定をすますのに、まだもう二百ディナール払わなければいけないわね。でもいまは持ち合せがないから、どうか奉行《ワーリー》様のお眼覚めまで待って頂戴な。」老婆は答えました、「おお御主人様、その二百ディナールのうち、まず百ディナールは、私の飲ませていただきました冷水壺のシロップのお代に、あなた様においてまいりますし、あとの百ディナールは、近いうちにお訪ねしたときに、お支払いしていただくことにいたしましょう。それではお願いいたしますが、どうか私をむかしの奴隷どもに見つかりませんように、後宮《ハーレム》の特別の戸口から、お屋敷を出していただけませんでしょうか。」すると奉行《ワーリー》の妻は老婆を秘密の戸口から出してやりましたが、「保護者」は老婆をお護りになって、恙《つつが》なくわが家に到着させたもうたのでございました。
娘のザイナブは老婆のはいって来るのを見ると、訊ねました、「おお私のおっかさん、今日はどんなことをしてきたの。」老婆は答えました、「娘や、あたしは奉行《ワーリー》の女房にちょっと悪戯《いたずら》をしてね、驢馬曳きと、染物屋と、ユダヤ人と、床屋と、若い商人を、奴隷だと言って、売りつけてきてやったよ。そうはいうけれど、おお娘や、こいつらの中で、ただ一人だけ、眼力が鋭くて、あたしの気にかかるやつがいるんだがね、そいつは驢馬曳きなのさ。この淫売の伜ときたら、いつだってあたしの正体を見抜くんだからね。」すると娘は老婆に言いました、「それじゃ、おお私のおっかさん、そんな風に外へ出かけてもらうのはもう沢山よ。今度からは家に閉じこもって、こういう格言を忘れないで頂戴よ、
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冷水壺は投げられるたび
いつも毀れずにすむとはきまらない。」
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そして彼女は母親に、今後はもう外に出ないようにと説き伏せてみましたが、何にもなりませんでした。
五人のほうはといえば、次のようでございます。奉行《ワーリー》が昼寝から眼を覚ましたとき、妻は彼に申しました、「どうかお昼寝の快さがあなたを爽やかにしてくれましたように。あなたが私たちにお買いなさった五人の奴隷のことでは、私、あなたのためにとても喜んでおります。」彼は訊ねました、「何の奴隷じゃ。」妻は言いました、「どうして、そんなことをお隠しになりたいのでしょう。私にそんな悪戯《いたずら》をなさるなら、あの奴隷たちも、あなたにそれと同じように酷《ひど》い悪戯《いたずら》をしてくれるといいわ。」彼は言いました、「アッラーにかけて、おれは奴隷など買いはせぬぞ。誰がお前にそんなことを告げたのだ。」彼女は答えました、「あなたがお婆さんから奴隷を千二百ディナールでお買いになった、その当人のお婆さんですよ。そのお婆さんが自分でその奴隷を連れて来て、そこの中庭で、それぞれ着物だけでも千ディナールもするような服装《なり》をしている男たちを、私に見せてくれましたわ。」彼は訊ねました、「それでは、お前はその婆さんに金を渡してしまったんだろう。」彼女は答えました、「はい、アッラーにかけて。」そこで奉行《ワーリー》は急いで中庭に下りますと、そこにはただ驢馬曳きと、床屋と、ユダヤ人と、若い商人と、染物屋しか見えませんでした。それで奉行《ワーリー》は警吏たちに訊ねました、「今しがた老婆の商人がお前たちの女主人に売ったという、五人の奴隷はどこにおるのじゃ。」彼らは答えました、「わが君がお昼寝をなされてからは、われわれはそこにおります五名の者だけしか見ておりません。」そこで奉行《ワーリー》は五人のほうを向いて、申しました、「汝らの女主人の老婆が、ただいま汝らを千ディナールで余に売っていったぞ。これより汝らは、まず肥溜《こえだめ》をあけることから、仕事を始めろ。」この言葉を聞いて、五人の告訴人は驚愕の極に達して、叫びました、「そのようなことがあなた様のお裁きとあれば、われわれはもうあなた様を、わが御主君|教王《カリフ》に上訴するより仕方がありません。われわれは売り買いのできぬ自由な人間なのですから。アッラー、われわれと一緒に教王《カリフ》のところへ来て下さい……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十三夜になると[#「けれども第四百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……アッラー、われわれと一緒に教王《カリフ》のところへ来て下さい。」そこで奉行《ワーリー》は彼らに申しました、「もし汝らが奴隷でないとすれば、汝らは詐欺犯であり、盗賊であるぞ。汝らこそは、余の屋敷にその婆を連れ込み、ぐるになってこのような詐欺を仕組んだのじゃ。しからば、アッラーにかけて、今度は余のほうから、汝らを一人百ディナールで、他国の者に転売してやるわい。」
そうこうしている間に、屋敷の庭に隊長「街の禍」が入ってきて、自分の妻の若い女が蒙った災難を、奉行《ワーリー》に訴えにきたのでありました。事実、彼は旅から戻って来ると、妻が恥しさと激動から病気になり、床に臥《ふせ》っているのを見まして、妻からその身に起った一切のことを聞かされたのですが、彼女はこう言い添えたのでした、「こうしたすべてのことは、ただあなたの乱暴なお言葉が原因で起ったのよ。それが私に、長老《シヤイクー》『増倍者』の仲介に縋ろうという決心をさせたのですからね。」
ですから、隊長「禍」は奉行《ワーリー》を見つけるが早いか、これに向って叫びました、「そもそも、貴公はこのように周旋婆どもを後宮《ハーレム》の奥に入れて、貴族《アミール》の夫人連を騙《かた》ることを許しておるのか。それで貴公の役目がすむのか。ところで拙者は、アッラーにかけて、拙者に対して犯された詐欺と、妻の受けた損害とは、貴公に責任を取らせるつもりだぞ。」隊長「街の禍」のこの言葉を聞くと、五人の男は叫びました、「おお閣下《アミール》よ、おお勇猛なる『禍』隊長よ、それでは私どもの訴訟も、閣下《アミール》のお手の間にお任せいたします。」すると彼は五人に訊ねました、「その方どももまた、何か請求することがあるのか。」そこで彼らは自分たちの話を残らず彼に物語ったのでございますが、それは繰り返すまでもございません。すると隊長「禍」は、彼らに言いました、「間違いない、その方たちもやはり騙されたのじゃ。今となっては、もし奉行《ワーリー》がその方どもを投獄できると信じておるならば、はなはだしい思い違いというものだ。」
奉行《ワーリー》はこれらの言葉をみな聞き終えますと、隊長「禍」に向って言いました、「おお閣下《アミール》よ、閣下《アミール》の受けとらるべき損害賠償のお支払いと、奥方の衣類の返却とは、この拙者がお引き受けいたす。そして、その詐欺師の老婆のことも、拙者が責任を取りまする。」それから彼は五人のほうを向いて、訊ねました、「その方どもの中で、誰がその老婆を見分けることができるのか。」驢馬曳きが他の者と一緒に、声を揃えて答えました、「私どもはみな婆を見分けられます。」そして驢馬曳きは付け加えました、「あっしときたら、千人の淫売の中でも、あの青い光る眼を見りゃ、婆を見分けてしまいますがね。ただ、あなた様の警吏を十人つけて下さって、私どもがあいつを捕えるのを手伝っていただきたいです。」すると奉行《ワーリー》は要求された警吏を与えてやりましたので、彼らは屋敷を出てゆきました。
さて、彼らは驢馬曳きを先頭にたてて、通りを数歩行ったか行かぬまに、あの老婆にぱったり出遭いました。老婆はそのとき、彼らから逃げ出そうといたしました。けれども彼らは首尾よく老婆をふん掴まえて、両手を後ろ手に縛り上げ、これを奉行《ワーリー》の前に引きずってまいりますと、奉行《ワーリー》は老婆に申しました、「汝は盗んだすべての品物をいかがいたしたか。」彼女は答えました、「わたしがですって、わたしゃ決して誰からも、何も盗んだことはございません。何も見たことはございませんよ。わたしにゃ何のことだかわけがわかりませんね。」そこで奉行《ワーリー》は牢屋の看守長のほうを向いて、これに申しました、「この老婆を明朝まで、一番|黴《かび》くさい土牢に投げこんでおけ。」けれども牢番は答えました、「アッラーにかけて、私はそのような責任はどうも負いたくございません。こいつはきっと何とか策を見つけ出して、私から逃げ了《おお》せるにきまっております。」そこで奉行《ワーリー》は独りごとを言いました、「一番よいことは、逃《のが》れられぬように、こいつを一同の眼の下に曝しておき、明朝われわれが裁くことのできるように、今夜ひと晩中、見張らせておくことじゃ。」そして彼は馬に乗り、一行を全部引き連れて、老婆をバグダードの城壁の外に引きずってゆき、広々とした野原のなかの一本の杭に、その髪の毛を結びつけさせました。それから、手違いの起らぬように、五人の告訴人自身に、今夜から朝まで老婆を見張っておれと命じたのでありました。
そこで五人の者たちは、ことに驢馬曳きは、まず老婆に向って、自分たちの受けた侮辱や詐欺などから思いつくあらゆる名前をならべて、彼女を呼び、存分に怨みを晴らし始めたのでありました。けれどもすべてのものには終りがあり、驢馬曳きの愚弄の袋や、床屋の悪態《あくたい》の盥や、染物屋の辛辣《しんらつ》の桶などの底にさえ、終りがあるものです。それに、三日前からの不眠と興奮とで、みなへとへとに疲れておりましたので、この五人の告訴人はいったん食事をすませると、とうとう、凄腕ダリラの髪の毛が結びつけられていた杭の根もとに、仮眠《うたたね》をしてしまいました。
さて、夜はすでに更けわたり、五人の仲間は杭の周りで鼾《いびき》をかいておりましたが、折から、馬に乗った二人のベドウィン人が、仲よく歩調《あしなみ》をそろえ、話を交しながら、ダリラが結《いわ》えつけられていた場所へ近寄って参りました。すると老婆は、二人が互いに自分の感じたことを知らせ合っているところを聞きました。事実、ベドウィン人の一人は、自分の仲間に訊ねておりました、「お前さんよ、兄弟よ、あの素晴らしいバグダードに滞在していた間に、お前さんのしたことで、一番よかったものは何だったね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十四夜になると[#「けれども第四百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
相手はちょっと黙っていてから、答えました、「おれは、アッラーにかけて、あすこでは、おれの大好物の、クリームと蜜入りのうめえ揚げ物を食ったっけ。いや、これこそ全く、おれがバグダードでしたことのなかで、一番よかったことだ。」すると、相手の男は空中に、油で揚げられ、クリームを詰め、蜜で甘くした揚げ物を思い浮べ、その香いを鼻をうごめかして嗅ぎながら、叫びました、「アラビア人の名誉にかけて、おれはこれからすぐにバグダードに行って、今まで砂漠を歩き廻って、生れてから味わったことのない、そのうまい菓子を食うことにしよう。」すると、すでにクリームと蜜入りの揚げ物を食べたほうのベドウィン人は、仲間の食い気を唆《そその》かされた男に暇《いとま》を告げて、もと来た道を引き返しましたが、その食い気を唆かされた男のほうは、バグダードに向って道を進めて、杭のところまでやって参りますと、そこに、周りに眠りこけた五人の男と一緒に、髪の毛で結えつけられているダリラを見つけました。
これをみて、彼は老婆に近寄って訊ねました、「あんたは誰だね。そして、なぜこんなところにいるんだね。」彼女は泣きながら、言いました、「おおアラビア人の長老《シヤイクー》よ、私はあなた様の保護におすがりします。」彼は言いました、「アッラーが最大の保護者でいらっしゃる。とはいっても、何だってあんたはそんな杭に結えつけられているんだね。」彼女は答えました、「実はこうなのでございますよ、おおアラビア人の長老《シヤイクー》よ、おお御立派なお方様、私には敵がいて、それはクリームと蜜入りの揚げ物を商う菓子屋ですが、こいつは、その揚げ物をほどよく揚げることにかけては、確かにバグダードで一番名代の男なのでございます。ところが先だって、私はこの男から罵られた仕返しに、その店さきに近寄って行って、その揚げ物の上に唾をかけてやりました。すると菓子屋は私を相手どって、奉行《ワーリー》に告訴したものですから、奉行《ワーリー》は私をこの杭に結えつけ、もしも私が揚げ物を盛った十枚の皿を、いっぺんに、そっくり食べてしまえなければ、このままにしておくという判決を下しました。そしてあすの朝には、その揚げ物の十枚の皿が、私に差し出されることになっているのです。ところが、私ときたら、アッラーにかけて、おおアラビア人の長老《シヤイクー》様、私はむかしから甘い物はいっさい大嫌いで、ことにクリームと蜜入りの揚げ物は受けつけないという魂を持っているんですの。ああ、困ったことです。私はここで飢え死にするばかりです。」この言葉を聞くと、ベドウィン人は叫びました、「アラビア人の名誉にかけて、このおれは、ただその揚げ物について食い気を充たしたい一心から、自分の部族を出て、バグダードへゆくところなんだよ。親切な小母さんよ、お望みなら、おれがあんたに代ってその皿を食ってやるよ。」彼女は答えました、「あなたが私の代りに、この杭に結えつけられでもしないかぎり、そうはさせてもらえやしませんよ。でもちょうどいい工合に、私はいつも顔に面衣《ヴエール》をかぶっていたので、誰も私を見知っていないから、人が変ってもわかりっこないでしょうよ。それには、あなたは私の縄を解いた上で、私と着物を取り換えなさりさえすればいいことです。」ベドウィン人は二つ返事で、急いでその縄を解き放ち、彼女と着物を取り換えたのち、その代りに杭に自分を結えつけてもらいましたが、そのあいだに、老婆自身のほうは、ベドウィン人の頭巾付大外套《ブルヌス》を着込み、頭を駱駝の毛の黒い縄紐《ひも》でしめ、馬に飛び乗ると、バグダードのほうへ、遥かに遠く消え失せてしまいました。
翌朝になると、五人は眼をあけまして、老婆にお早うの挨拶《サラーム》をする代りに、またもや前夜のつづきの罵詈讒謗《ばりざんぼう》を浴びせ始めました。けれどもベドウィン人は彼らに言いました、「揚げ物はどこにあるんだい。おれの胃の腑は猛烈にそいつを欲しがっているんだがね。」その声を聞きますと、五人は叫びました、「アッラーにかけて、これは男だぞ。そしてこの話しっぷりはベドウィン人だぜ。」すると驢馬曳きは飛び上って、彼に近寄り、そして訊ねました、「やあ、バダウィー(20)よ、そんなところで何をしてるんだ。何だって貴様は、婆の縄をほどくような真似をしやがったんだ。」彼は答えました、「揚げ物はどこにあるんだい。おれは一晩中なんにも食わなかったんだからな。蜜だけは倹約しなさんなよ。あの気の毒な婆様は、練粉菓子が大嫌いという魂を持っていたがね。おいらの魂ときたら、それが大好きなんだから。」
この言葉を聞くと、五人は、このベドウィン人が自分たちと同じように、老婆に騙されたことがわかり、絶望のうちに、われとわが顔を激しく叩いてから、叫びました、「人は自分の天命を逃れることも、アッラーによって記されたところの成就を避けることも、できはしないのだ。」そして彼らがまだこれから何をしてよいやら決心もつかずにいる間に、奉行《ワーリー》が警吏たちを連れて、彼らのいる場所にやって来て、杭に近寄りました。するとベドウィン人は彼に訊ねました、「蜜の揚げ物の皿はどこにあるんだね。」この言葉を聞いて、奉行《ワーリー》は杭のほうへ眼を上げると、そこには老婆のかわりに、ベドウィン人がいるのを認めました。それで彼は五人に訊ねました、「これは一体どうしたことじゃ。」彼らは答えました、「これは天命でさ。」そして付け加えました、「婆はこのベドウィン人を騙して、逃げてしまったんですぜ。だから、おお御奉行《ワーリー》さん、われわれは教王《カリフ》の御前《ごぜん》で、あなたに婆の逃亡の責任を持ってもらいますよ。というのは、もしあなたが婆の見張りに警吏をよこして下されば、あいつも逃げ了《おお》せることはできなかったでしょうからね。」そこで奉行《ワーリー》はベドウィン人のほうを向いて、いったい何が起ったのかと訊ねました。すると、この男は何度となく食欲の叫びをあげながら、自分の話を物語り、そしてこう言って、結びました、「さあ、わしに揚げ物をおくんなされ。」この言葉を聞くと、奉行《ワーリー》と警吏どもは、どっとはげしく爆笑をあげましたが、一方、五人のほうは、血と恨みとで真赤になった眼をぎょろつかせて、奉行《ワーリー》に言うのでした、「われわれはわが主君、信徒の長《おさ》のもとへ行くまでは、あなたを放しませんよ。」するとベドウィン人もとうとう自分の騙されたことがわかって、これまた奉行《ワーリー》に申しました、「おれだって、馬と着物を失くしたことは、お前様一人だけに責任をとらせるつもりだ。」そこで奉行《ワーリー》はやむを得ず、彼らを引き連れまして、一緒にバグダードへ赴き、信徒の長《おさ》、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの王宮へとまいりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十五夜になると[#「けれども第四百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
一同に謁見が許されまして、彼らは政務所《デイワーン》に入りますと、そこにはすでに、最初の告訴人の一人、隊長「街の禍」が彼らよりさきに来ておりました。
教王《カリフ》は何事も御自《おんみずか》らなされますので、まず彼らを、最初は驢馬曳きから最後は奉行《ワーリー》にいたるまで、次から次へと訊問なさいました。すると彼らはそれぞれ自分の物語を、委細くわしく教王《カリフ》に言上いたしました。
すると教王《カリフ》はすべての事件にこの上なく驚かれて、一同に仰せになりました、「わが祖先、バニ・アッバース一族の名誉にかけて、余は、汝らの奪われたものが、すべて汝らに戻ることを保証いたす。汝、驢馬曳きよ、汝は汝の驢馬と賠償金を得られるであろう。汝、床屋よ、汝は汝のすべての家具と仕事道具を得られるであろう。汝、商人よ、汝は汝の財布と着物じゃ。汝、ユダヤ人よ、汝は汝の宝石じゃ。汝、染物屋よ、汝は新しい店舗じゃ。そして、汝、アラビア人の長老《シヤイクー》よ、汝は汝の馬と衣服、ならびに汝の魂の容量が望み得るだけの蜜の揚げ物の皿じゃ。されば先ずその老婆を再び見出さねばならぬ。」そして奉行《ワーリー》と隊長「禍」のほうを向かれて、二人に仰せられました、「汝、カーレド公よ、その方の千ディナールも同じくその方に返るであろう。そしてその方には、ムスタファ公よ、その方の妻の宝石と着物と賠償金が返るであろう。されどその方ら両名は、まず老婆を再び見つけ出さねばならぬぞよ。余はその手配を汝らに委ねる。」
このお言葉を聞きますと、カーレド公は着物を揺すり、両腕を空に上げて、叫びました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、御容赦下さいませ。私にはまだそのような仕事を果すことは、敢えてお引き受けいたしかねます。私といたしましても、ありとあらゆる手口で翻弄されたあとのことでございますから、あの老婆がさらに、私をひどい目に遭わせて、難場を切り抜けるために何らかの手段を講じないとは、請け合えないのでございます。」すると教王《カリフ》は笑い出されて、彼に仰せられました、「しからば、その手配をほかの者に委すがよい。」彼は申しました、「そういうことでありますなら、おお信徒の長《おさ》よ、陛下|御自《おんみずか》らが、バグダード随一の腕利きの男で、御右手《おんめて》の警察隊長《ムカツダム》その人でありまする蛾のアフマードに、老婆を捜索する御命令をお下し遊ばしませ。現在まで、彼はあらゆる手腕を持ってもおれば、お役に立つこともでき、毎月多額の俸給を拝受しておるにかかわらず、いまだに何一つ為すところがなかったのでございます。」そこで教王《カリフ》はお呼びになりました、「やあ、隊長《ムカツダム》アフマード。」すると蛾のアフマードは、すぐさま教王《カリフ》の御手の間に進み出て、申しました、「御命令何なりと、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》は彼に仰せられました、「よいか、アフマード隊長《ムカツダム》よ、これこれしかじかのことを為したる老婆がおるのじゃ。余は汝に対して、この老婆を見つけ出し、引き連れて参ることを託するぞ。」すると蛾のアフマードは申しました、「そやつのこと、お引き受けいたしまする、おお信徒の長《おさ》よ。」そして、教王《カリフ》が例の五人とベドウィン人とをおそばにとめ置かれたあいだに、彼は部下の四十人の警官を従えて、外に出てゆきました。
さて、蛾のアフマードの配下の警官頭は、こういう類いの捜索にかけては手練の男で、「駱駝の背のアイユーブ」と呼ばれておりました。彼は、自分の上長でも、昔は盗賊だった蛾のアフマードには、勝手気儘にしゃべる習わしになっておりましたので、彼はそのそばによって、言いました、「アフマード隊長《ムカツダム》、バグダードには婆は一人しかいないわけじゃないからね。逮捕はむずかしいことになるぜ。おれの鬚を信じておくれよ。」すると蛾のアフマードは彼に尋ねました、「それじゃあ、お前はこのことについて、何か言いたいことがあるのか、おお駱駝の背のアイユーブよ。」彼は答えました、「首尾よくその婆を取り囲もうというには、おれたちはいくら大勢いたって多すぎることはあるまいよ。それでおれの意見じゃ、隊長《ムカツダム》ペストのハサンに、彼の部下の四十人の警官を連れて、おれたちと同行する決心をしてもらったほうがいいと思うのさ。というのは、こういう類いの捕物にかけちゃあ、あの隊長《ムカツダム》はおれたちよりかずっと経験があるからね。」けれども蛾のアフマードは、逮捕の名誉を同僚と分ちあう気などは毛頭ありませんでしたから、王宮の大門のところにいたペストのハサンに聞えよがしに、大きな声で答えました、「アッラーにかけて、おお駱駝の背よ、いったいいつからおれたちは、自分の仕事を片づけるのに、他人《ひと》の手が要《い》るようになったんだ。」そして彼は部下の四十人の警官を連れて、意気揚々とペストのハサンの前を通ってゆきましたが、ハサンのほうは、いまの返答を聞かされたことと、また教王《カリフ》が自分を、このハサンを、無視なさって、蛾のアフマード一人だけをお選びになったことで、すっかり面目を潰されてしまいました。そこでハサンは独りごとを言いました、「おれの剃った頭の生命《いのち》にかけて、やつらはおれが要るようになるて。」
蛾のアフマードのほうはというと、いったん教王《カリフ》の王宮の前に拡がっている広場に着きますと、さっそく部下たちを激励するために訓示を与えて、申しました、「おおわが勇士たちよ、お前たちはバグダードの四区を捜索するために、四隊に分れる。そして明日の正午《ひる》ごろには、全員ムスタファ通りの酒場へ、本官に会いに戻ってきて、お前たちのしたことや見たことを報告するのだ。」こうして集合点をきめた上で、彼らは四隊に分れ、各隊がそれぞれ別々の地区を巡回しにゆきましたが、その間に蛾のアフマードのほうは、自分のまえの風を嗅ぎはじめたのでした。
けれども、ダリラとその娘ザイナブのほうはどうかと申しますと、二人はやがて人々の噂から、ある詐欺師の婆の悪企みがいまバグダード中の話題になっていて、教王《カリフ》がこれを捕える目的で、蛾のアフマードに捜索を委《まか》せなさったことを知りました。こういう風評を聞きますと、ダリラは娘に申しました、「私の娘や、ペストのハサンさえ一緒でなけりゃあ、あたしにはあんなやつらなんぞ全部、ちっとも怖かあないよ。というのは、バグダードで、あたしが恐ろしいと思う眼力を持っている男といえば、ハサンだけなんだからね。何しろ、あたしのことも知っていれば、お前のことも知っているというのは、あいつだけなんだもの。それに、あいつはいつだって好きなときに、今日にでもやって来て、あたしたちがてんで逃げ出す算段もつかないうちに、ふんづかまえることができるんだからね。まずまず、あたしたちをお護り下さる『守護者』様にお礼を申し上げようじゃないか。」娘のザイナブは答えました、「おお、私のおっかさん、それじゃあ、私たちにしてみれば、その蛾のアフマードと四十人の薄野呂どもに、何か凄い悪戯《いたずら》をしてからかってやるのには、ほんとに絶好の機会じゃないの。まあ何て嬉しいんでしょう、おお私のおっかさん。」ダリラは答えました、「おおわが臓腑《ぞうふ》の娘や、あたしゃ今日はちょっと気分が悪いんでね、その四十一人の泥棒どもを手玉に取ることは、お前に頼んだよ。そんなことは造作ないことなんだし、お前の抜け目のないことは、もう心配しないからね。」そこで、愛らしくて明るい顔に暗い眼をもち、優美でしなやかなザイナブは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十六夜になると[#「けれども第四百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……すぐに立ち上り、たいそう艶《あで》やかに着物をつけ、軽い絹モスリンの面衣《ヴエール》を被りましたので、眼の輝きはますます冴えて魅力を帯びました。こうして、こってりとめかし込むと、彼女は母親に接吻しに行って、申しました、「おお、おっかさん、あたしは、手つかずの閉じられたあたしの南京錠の生命《いのち》にかけて、その四十一人を思いのままに操って、玩具《おもちや》にしてやることを誓うわ。」そして彼女は家を出て、ムスタファ通りに赴きまして、モースルのハッジ・カリムの営む酒場にはいりました。
彼女はまず酒場の亭主ハッジ・カリムに、たいそう優しく挨拶《サラーム》をし始めましたので、亭主は心を奪われて、その挨拶《サラーム》を二倍にして返しました。そこで彼女は亭主に申しました、「やあ、ハッジ・カリムさん、私はお友達を何人かお招びしたいと思うんですけれど、もし奥の大広間を明日まで、普通のお客がはいれないようにして、貸して下さるなら、この五ディナールを差し上げますわ。」彼は答えました、「あなた様の生命《いのち》にかけて、おお御主人様、あなた様の眼にかけて、お美しい眼にかけて、家《うち》の大広間は無料《ただ》でお貸しすることにいたしましょう。ただその条件として、お客様へ差し上げるお飲み物は、出し惜しみをしないでいただきますよ。」彼女は微笑んで、彼に言いました、「私の御招待する方たちは、やあ、ハッジさん、瀬戸物造りが底をふさぐのを忘れた冷水壺なのよ。お酒のほうだったら、お店全部がはいってしまうでしょうよ。その点なら心配なさらないで頂戴。」そして彼女はすぐに家に戻り、驢馬曳きの驢馬とベドウィン人の馬とを引き出し、これに蒲団《マトラー》や、敷物や、腰掛や、食卓や、鉢や、皿や、その他の道具類を積みまして、大急ぎでまた酒場に戻って来ると、驢馬と馬からそれらの品物を全部下して、これを借りておいた大広間のなかに並べました。それから彼女は食布をひろげ、買っておいた酒の壺や、盃や、御馳走をきちんと並べました。そしてこの仕事が終りますと、彼女は酒場の戸口に行って、立番をいたしました。
そこに立ってから程経ずして、彼女は蛾のアフマードの警官十人が、凄まじい顔つきをした「駱駝の背」を先頭にたてて、現われて来るのを見ました。駱駝の背は他の九人の者と、ちょうどこの店のほうへ向って来るところでしたので、彼のほうもこの美しい乙女を見かけたのですが、彼女はついうっかりしたかのように、顔を被っている軽いモスリンの面衣《ヴエール》を、わざと上げておいたのでした。すると駱駝の背は、彼女の愛嬌たっぷりな若々しい美しさに眼がくらむと同時に、心も奪われてしまい、彼女に向って訊ねました、「そこで何をしておられるのか、おお別嬪よ。」彼女は横目でなやましげな流し目を送りながら、答えました、「何もしておりませんわ。私の天命を待っているのよ。あなたは隊長《ムカツダム》アフマード様ではいらっしゃいませんの。」彼は言いました、「いやちがう、アッラーにかけて。しかし隊長《ムカツダム》に用を頼みたいということであれば、わが輩が代って上げてもよろしい。と申すのは、わが輩は彼の警官たちの頭《かしら》で、駱駝の背のアイユーブと言って、あなたの奴隷だからな、おお羚羊《かもしか》の眼よ。」彼女はなおも微笑みかけて、申しました、「アッラーにかけて、おお警官頭様、もしも礼儀作法が安全な住居を選びたいと思ったら、その案内人にはあなた方四十人のお仲間を選ぶことでございましょう。それでは、ここにお入り下さい。歓待いたしますわ。あなた方が私のところで懇ろなもてなしをお受けになるのは、優しいお客様方に対する当然の敬意にすぎません。」そして彼女は彼らを飾りたてた部屋に案内し、飲み物の大盆の周りに坐るようにさそってから、催眠の麻酔剤《バンジ》をまぜた酒を飲むように勧めました。そのために、この十人は最初の盃をあけるが早いか、まるで酔っ払った象か、眩暈《めまい》に襲われた水牛のように、仰向けにひっくり返って、深い眠りに落ち込んでしまいました。
そこでザイナブは、彼らを順々に足を持って引きずってゆき、店のずっと奥に投げ込んでは、一人ずつ上へ積み重ねて、これを一枚の幅の広い被い布で隠し、その上に大きな幕を引いて、もう一度部屋の中を全部きちんと整頓し直しまして、それから外に出ると、ふたたび酒場の戸口に立番をいたしました。
まもなく十人の警官の第二分隊が現われましたが、これもまた前の分隊と同じように、美しいザイナブの暗い眼と明るい顔の惑《まど》わしにかかり、同じような扱いを受けることになり、第三分隊も、第四分隊もやはり同じような始末となりました。そしてこの乙女は、警官どもを一人残らず大きな幕の後ろに積み重ねてしまったのち、部屋の中をすっかり片づけ直して、外へゆき、蛾のアフマード自身の到着を待ったのです。
彼女がそこに立って程経ぬうちに、居丈高な様子をして、眼に稲妻の光を漲《みなぎ》らせ、顎鬚《あごひげ》と口髭《くちひげ》の毛を、飢えた鬣狗《ハイエナ》の毛のように逆立てて、蛾のアフマードが、馬に乗って現われました。戸口の前に着きますと、彼は馬から下りて、手綱をとり、酒場の壁に嵌めこんである鉄輪の一つに、この動物を結えつけて、叫びました、「やつらはどこにいるんだ、あの犬の息子ども一同は。おれはやつらにここで待っていろと命令したじゃないか。やつらを見かけなかったかね、あんたは。」そこでザイナブは腰を揺り動かし、秋波を左に流し、それからまた右に流し、唇に微笑を浮べて、言いました、「どなたのことでございますの、おお御主人様。」ところが、アフマードは乙女から二度の眼差しを投げかけられると、腸《はらわた》が胃の腑を顛倒させ、わが身に残された唯一の遺産たる伜《せがれ》が、資本《もとで》と利息もろともに、呻《うめ》くのを感じました。そこで彼は、あどけない姿勢で立ちつくす、にこやかなザイナブに申しました、「おお別嬪よ、拙者の四十名の警官のことでござる。」この言葉を聞くと、ザイナブはにわかに強い畏敬の念に打たれたかのように、蛾のアフマードのほうへ進み出て、その手に接吻しながら申しました、「おお、教王《カリフ》の御右手《おんめて》の長《おさ》でいらっしゃるアフマード隊長《ムカツダム》様、四十人の警官方から、あなた様に申し上げるようにとのおことづけでしたが、皆様は路地の奥で、あなた様の探しておいでになる老婆ダリラを見つけ、ここに立ち停らずに、跡を追ってゆく、ということでございました。けれども、皆様はあなた様に、間もなく老婆をつれて戻って来るから大丈夫だと、言っていらっしゃいましたわ。ですから、あなた様は酒場の大広間で、皆様をお待ちになっていらっしゃりさえすればよろしゅうございますわ。この私自身が私の眼でおもてなしいたしましょう。」そこで蛾のアフマードは乙女を先に立て、店の中にはいり込みましたが、間もなく、狡猾な女の魅力に酔わされ、その手練手管に征服されて、盃に盃を重ねて飲みますと、飲み物にまぜた催眠の麻酔剤《バンジ》のききめが、理性に作用いたしまして、彼は死人のように倒れてしまいました。
そこでザイナブは時を失せず、まず蛾のアフマードから、衣類一切と身に着けていたもの全部を剥ぎとり、彼の身には肌着とだぶだぶの下穿きだけしか残しませんでした。それからほかの者どものところにゆき、この連中をも同じように剥ぎとってしまいました。それがすむと、彼女は自分の道具類と、今しがた盗んだ衣類を全部寄せ集めて、これをば蛾のアフマードの馬と、ベドウィン人の馬と、驢馬曳きの驢馬に積みこみ、こうしてあらゆる戦利品をたんまり仕込んで、恙なくわが家へ辿り着きまして、すべてを母のダリラに渡しますと、ダリラは嬉し泣きに泣いて、彼女を抱いて接吻しました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十七夜になると[#「けれども第四百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
蛾のアフマードと彼の四十人の仲間のほうはと申しますと、彼らは二日二晩のあいだ眠ったきりでいまして、三日目の朝に、異様な眠りから眼がさめたときには、はじめのうちは、自分たちがどうしてこんな場所にいるのか、訳がわかりませんでしたけれども、いろいろと思いめぐらしてみた末に、結局、自分たちが悪戯《いたずら》の手玉に取られたことを、もはや疑いませんでした。そこで彼らは非常にしょげたのですが、ことに蛾のアフマードは、ペストのハサンの眼の前で、あんな自信のほどを見せてやっただけに、今さら、こんな不様な恰好で街なかに姿を現わしたら、面目丸潰れになるだろうと思いました。それでも彼は、意を決して酒場を出ますと、折も折、途中で最初に出遭った人物が、何と、同僚のペストのハサンでありました。そしてハサンは、彼がこんな風に肌着と下穿きを着け、彼と同じように異様な風態をした、四十人の警官を連れて来るのに会いますと、それをちらりと見ただけで、彼らがいま事件に遭って、一人残らず被害を受けてきたことがわかりました。これを見て、ペストのハサンは狂喜の限り狂喜しまして、このような詩句を歌い始めました。
[#ここから2字下げ]
おぼこ娘であるならば、どんな男も似てると思う。わしら男のターバンだけが、似ているきりとは御存じない。
おいら男の中だとて、学者もいれば、馬鹿もいる。空にも光のない星と、真珠の星とがなかろうか。
鷲と鷹とは死肉は食わぬ。ところが汚《きた》ない禿鷹は、屍骸の上に飛びかかる。
[#ここで字下げ終わり]
ペストのハサンは歌い終ったときに、いかにも今始めて気がついたようなふりをして、蛾のアフマードに近づいて、これに申しました、「アッラーにかけて、隊長《ムカツダム》アフマードよ、ティグリス河の朝は涼しいからな、みんなでそんなふうに肌着と下穿きだけで外出するとは、ちと乱暴だぜ。」すると蛾のアフマードは答えました、「そんなことを言うとは、やあ、ハサン、お前さんの気持は今日の朝よりも、もっと重くて冷たいぞ。誰だって自分の運命からは逃れられないものだ。そしておれたちの運命は、若い娘に一杯食わせられることだったんだ。その娘を識ってやしないかね、お前さんは。」彼は答えました、「おれはその娘を識っているし、そのお袋も識っているよ。もしお望みとあれば、おれはこれから早速その二人を引っ捕えに行ってやるよ。」彼は訊ねました、「して、それはどういう風にしてやるんだ。」彼は答えました、「お前さんはただ教王《カリフ》の御前《ごぜん》に罷《まか》り出ればいいんだ。そして、自分の力の及ばぬしるしに、頸飾りを揺するんだ。そして教王《カリフ》に、この逮捕はお前さんの代りに、わが輩にお命じ下さるようにと申し上げるのさ。」そこで蛾のアフマードは、着物を着たあとで、ペストのハサンと一緒に政務所《デイワーン》にまいりますと、教王《カリフ》は彼にお訊ねになりました、「老婆はどこにおるのじゃ、隊長《ムカツダム》アフマードよ。」彼は自分の頸飾りを揺すって、お答え申しました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、私はそやつを存じませぬ。隊長《ムカツダム》ペストのハサンならば、もっと巧みに事件を片付けることでございましょう。彼はそやつを存じておりまして、その老婆があのようなことをいたしましたのも、すべて、ただ自分の噂を立たせ、教王《カリフ》の御注意をお惹き申すためにほかならぬとさえ、断言しておりまする。」そこでアル・ラシードはハサンのほうを向かれ、彼にお訊ねになりました、「それは真実《まこと》かな、隊長《ムカツダム》ハサンよ。そのほうは老婆を識っておるのか。また、そやつがそのようなことをいたしたのは、すべて、ただ余の好意を得んがためにほかならぬと思うのか。」彼は答えました、「そのとおりでございます、おお信徒の長《おさ》よ。」そこで教王《カリフ》はお叫びになりました、「わが祖先の墳墓と名誉にかけて、もしも老婆が、その奪い取ったるものを一同の者に返すとあらば、余はその女を赦してつかわす。」するとペストのハサンは申しました、「それでは、おお信徒の長《おさ》よ、老婆のために安泰の護照《ごしよう》を賜わりませ。」すると教王《カリフ》は御自身の手帛《ハンケチ》を、老婆のための安泰の証《しるし》として、ペストのハサンに投げ与えなさいました。
ハサンはこの安泰の証《しるし》を拾った後、すぐさま政務所《デイワーン》を出まして、長年の識り合いであったダリラの家へ、まっすぐに走ってゆきました。彼が戸を叩きますと、ザイナブが出て自身戸を開けました。彼は訊ねました、「おふくろさんに言ってくれ、御左手《おんゆんで》の隊長《ムカツダム》ハサンが、教王《カリフ》の御許《みもと》から、おふくろさんのために安泰の手帛《ハンケチ》を持って、下にきているとな。ただし、これも奪い取ったものを全部返すという条件つきだぞ。それでは神妙に降りて来い、と言ってくれ。さもなければ、おれはおふくろさんに対して、腕力を用いなければならなくなるからとな。」ところが、この言葉を聞いていたダリラは、中から叫びました、「その安泰の手帛《ハンケチ》を、あたしに投げておくれ。そうしたら、あたしはまきあげたもの全部を持って、あんたと一緒に教王《カリフ》のもとへ伺うよ。」そこでペストが彼女に手帛《ハンケチ》を投げますと、ダリラはすぐさまこれを頸に巻きつけました。それから、娘に手伝ってもらい、驢馬曳きの驢馬と二匹の馬に、盗品全部を積み始めました。二人が積み終えたときに、ハサンはダリラに申しました、「まだ蛾のアフマードと彼の部下四十人の衣類が、残っているじゃあないか。」彼女は答えました、「最も偉大なる御名《みな》にかけて、それを奪《と》ったのは、あたしじゃないよ。」彼は笑い出して、申しました、「全くだ。仕方がないよ、その悪戯《いたずら》をやったのは、お前の娘ザイナブなんだからな。よしよし、その分はとっておくがいい。」それから彼は三匹の動物を一匹ずつ後ろに曳いて、一本の綱で全部をつなぎ、これをあとに従えて、ダリラを引き立て、政務所《デイワーン》の教王《カリフ》の御手の間に連れてまいりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十八夜になると[#「けれども第四百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
アル・ラシードは、この悪魔のような老婆が入って来るのを御覧になったときには、こやつを直ちに血の敷物の上に投げて、死刑に処してしまえとの御命令を、叫びなさらずにはいられませんでした。すると老婆は叫びました、「私はあなたの保護のもとにあります、おおハサンよ。」そこでペストのハサンは立ち上って、教王《カリフ》の御手《おんて》に接吻して、申しました、「この女をお赦し下さりませ、おお信徒の長《おさ》よ。わが君はこやつに安泰の証《しるし》を賜わったのでございます。それはその頸についておりまする。」教王《カリフ》はお答えになりました、「いかにもそのとおりじゃ。しからばその方に免じて、こやつを赦してつかわそう。」それからダリラのほうをお向きになり、彼女に仰せになりました、「こちらに参れ、おお老婆よ。汝の名は何と申すか。」彼女は答えました、「私の名はダリラと申しまして、わが君の昔の鳩の管理役の妻でございます。」教王《カリフ》は仰せられました、「まことに汝は術策にたけた狡猾な女であるのう。今後、汝は『凄腕ダリラ』と呼ばれるであろうぞ。」それから教王《カリフ》は彼女に仰せられました、「汝がこれなる者どもに、あのようなあらゆる悪戯《いたずら》を働き、われらにかくも騒動を与え、われらの心を悩ましたのは、そもそもいかなる目的であったのか、少なくとも余には申せるであろうが。」そこでダリラは教王《カリフ》の御足許《おんあしもと》に身を投げて、お答え申しました、「私は、おお信徒の長《おさ》よ、欲得ずくでは決してあのようなことはいたしません。けれども、陛下の御右手《おんめて》と御左手《おんゆんで》の蛾のアフマードとペストのハサンとが、かつてバグダードで弄《ろう》しました昔の術策やら、悪戯《いたずら》やらのことを聞いたものでございますから、今度は私も、お二人を凌ぐとは申しませんが、お二人なみのことをいたしますれば、わが御主君、教王《カリフ》から、私の亡夫で、私の哀れな娘たちの父親の俸給と職務とを、賜わることができるだろうと思い立ったのでございます。」
この言葉を聞くと、驢馬曳きはつと立ち上って、叫びました、「アッラーがあっしとこの婆との間をお裁きになり、判決をお下しになっていただきたいものだ。こいつはあっしの驢馬を盗んだだけではあきたらず、ここにいるマグリブ人の床屋をけしかけて、私の二本の奥の臼歯を引っこ抜かせ、私の両方の|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を、釘の真赤になった鉄で焼灼《しようしやく》させたんでございますよ。」するとベドウィン人もまた立ち上って、叫びました、「アッラーがわしとこの婆の間をお裁きになり、判決をお下しになっていただきたい。こいつは棒杭に自分の代りにわしを縛りつけ、わしの馬を盗んだだけではあきたらず、わしが肉入りの蜜パイで食欲を満たそうとするのも妨げて、抑え切れないような食い気を起させおったのでござります。」すると染物屋も、床屋も、若い商人も、隊長「禍」も、ユダヤ人も、奉行《ワーリー》も、それぞれ順番に立ち上りまして、老婆から受けた損害の補償を、アッラーに願ったのでありました。そこで、寛仁大度にわたらせられた教王《カリフ》は、まず、彼らの一人一人にその盗まれた品物をお返しになり、御自身の特別なお手許金をもって、彼らを十二分に償っておやりになりました。そして、とくに驢馬曳きには、奥歯二本を失くしたことと焼灼《しようしやく》を受けたという理由で、金貨千ディナールをお与えになり、さらに彼を驢馬曳きの組合頭に任命なさいました。かくて一同は、教王《カリフ》の寛仁と正義とを讃えながら、政務所《デイワーン》を退出し、自分たちの苦労も忘れてしまいました。
一方ダリラはと申しますと、教王《カリフ》は彼女に仰せられました、「今度は、おおダリラよ、その方の所望のものがあらば余に願い出でるがよいぞ。」彼女は教王《カリフ》の御手の間の床《ゆか》に接吻して、お答えしました、「おお信徒の長《おさ》よ、私はわが君の御寛容にすがり、ただ一つのことだけしかお願い申し上げませぬ。それは、伝書鳩の管理役だった亡夫の職務と俸給とを、元に復していただくことでございます。私はこの職責をきちんと果すことができましょう。と申しますのは、この私は、夫の存命中も、娘のザイナブに手伝ってもらいまして、鳩に穀類をやったり、鳩舎を掃除したり、鳩の首に手紙を結びつけたりなどしておったからでございます。そして、わが君が鳩の世話をさせるためにお建てになって、昼夜、四十人の黒人と四十匹の犬とが張り番をしていた、あの大|宿舎《カーン》を監視しておりましたのも、やはり私でございました。ほれ、わが君がスライマーンの後裔、アフガン人の王に勝利をおさめなされた折に、この王から奪い取られた黒人と犬でございます。」すると教王《カリフ》はお答えになりました、「よろしい。おおダリラよ、余はこれより直ちに伝書鳩の大|宿舎《カーン》の管理と、スライマーンの後裔、アフガン人の王より奪いし、四十名の黒人と四十匹の犬の指揮とを、その方に任命するように記《しる》させることといたそう。されば今後は、もしもその方が余にとって、わが子らの命《いのち》そのものよりも貴きこれらの鳩を、たとえ一羽たりとも失いたる場合は、その方はおのが頭上に責任を負わねばなるまいぞ。とはいえ、余はその方の能力をいささかも疑わぬぞよ。」するとダリラはつけ加えました、「それからまた、おお信徒の長《おさ》よ、娘のザイナブに全体の監視を手伝ってもらいますため、この娘を私と一緒に、宿舎《カーン》に住まわせていただきとう存じます。」すると教王《カリフ》はこれにその許可をお与えになりました。
そこでダリラは、教王《カリフ》の御手に接吻したのち、自分の家に戻りまして、娘のザイナブに手伝ってもらい、家具と、衣類とを大|宿舎《カーン》へと運搬させ、その入口に建っている離れ家を、住居に定めました。そして、その日にはもう、彼女は四十人の黒人の指揮をとりまして、男の服を着込み、頭に金の兜《かぶと》をかぶり、馬に乗って教王《カリフ》のもとへと参上し、その御命令を承わり、各州に発送すべき通牒の有無を、お訊ねしたのでありました。そして夜になると、彼女は宿舎《カーン》の大きな中庭に、スライマーンの羊飼たちの犬の血を引く四十匹の犬を、警備のために放ちました。こうして彼女は毎日、銀の鳩を戴いた金の兜《かぶと》をかぶり、馬に乗り、紅絹《もみ》と錦襴をまとった四十人の黒人の行列を従えて、政務所《デイワーン》へ参内しつづけたのでした。そして彼女はその新しい住居に、蛾のアフマードと、駱駝の背のアイユーブと、その仲間たちの着物を吊り下げて、家の飾りにいたしました。
こういう次第で、「凄腕ダリラ」と、その娘「ぺてん師ザイナブ」とは、バグダードにおきまして、巧みな手腕と策略により、鳩の管理役というかくも名誉ある職務と、大|宿舎《カーン》の夜警の四十人の黒人と四十匹の犬の指揮権をば、かち得たのでございました。さあれアッラーはさらに多くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] ――「さて、今度は、おお幸多き王さま」とシャハラザードはつづけた。「『水銀のアリ』のことと、彼がダリラとその娘ザイナブと渡り合った事件と、彼がダリラの弟の天ぷら屋ゾライクとユダヤ人の魔法使アザーリアと渡り合った事件について、お話し申し上げるときでございます。と申しますのは、これらの事件は、今までお聞きなされたどんな事件よりも、遥かに驚くべき並外れた事件でございまするから。」するとシャハリヤール王は心中で独りごちた、「アッラーにかけて、余は水銀のアリの事件を聞いたあとでなければ、この女を殺すまい。」するとシャハラザードは、朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百四十九夜になると[#「けれども第四百四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
わたくしの聞き及びましたところでは、おお幸多き王さま、昔バグダードで「蛾のアフマード」と「ペストのハサン」が暮しておりましたころ、ここにもう一人の盗賊がおりましたが、これがまた実に抜け目なく、すばしこい男でありまして、警察の人々もついに彼を捕えることができなかったのでございました。と申しますのは、彼は、警察の人々が取り抑えたと思うとすぐに、まるで水銀の珠《たま》が、いくら掴まえようとしても、指の間から滑り落ちてしまうように、つるりと逃げてしまったからでした。そのゆえに、彼は昔、生れ故郷のカイロで、「水銀のアリ」という綽名《あだな》をつけられたのでありました。
まことにそのとおりでございます。水銀のアリはバグダードに来る前には、カイロに住んでおりましたが、彼がカイロを出発してバグダードにやって来たのは、記憶に値する事情の結果に他ならないのでありまして、これこそは、この物語を始めるに際しまして、申し述べるだけの値打がございます。
ある日のこと、彼は自分の一味の寄合所になっている地下室で、仲間の者たちの真中に、手持ちぶさたで沈んだ様子をしながら、坐っておりました。そこで仲間の連中は、彼が心ふさがり胸狭《むねせば》まっているのを見て、何とかその気分を紛らそうといたしましたが、彼は相変らず、顔を顰《しか》め、顔付きをゆがめ、眉をひそめて、自分の一隅でむっつりしておりました。そこで彼らの一人が彼に申しました、「おおおれたちの親分よ、あんたの胸をはればれさすのには、カイロの街々や方々の市場《スーク》を散歩するのが、いちばんですぜ。」すると、水銀のアリは踏ん切りをつけるために、立ち上って、外にゆき、カイロの街々をうろつきましたが、彼の黒い気分はいっこう冴えませんでした。通ってゆく先々で、人々はみな彼に向って尊敬と敬意を示して、急いで道を開けてくれましたが、こうして彼は「赤通り」までやって来ました。
彼は赤通りに出て、いつも酔っ払うところになっていたある酒場に入ろうとすると、その戸口のそばに、一人の水かつぎ屋がいるのを見かけました。この男は牝山羊の皮の革嚢《かわぶくろ》を背負い、喉の渇いた人々に水を飲ませるために、水を容れる二つの銅の茶碗を、互いに打ち鳴らしながら、道を歩いているのでした。この男はいつも、その水が望むがままに、あるいは蜜となり、あるいは葡萄酒になる、というような街の呼売り歌をうたっていました。そしてこの日には、彼は二つの茶碗を打ち合わせて、かちんかちんという音に調子をとりつつ、呼売り歌を、こういう風に歌っておりました。
[#2字下げ] 極上の酒は葡萄からできる。心の友がないならば、仕合せなどはありはせぬ。さればわが家の甘露の水は、値打を倍にいたすもの。およそ上座《かみざ》というものは、話上手な人のため(21)。
水売りは水銀のアリに気がついたとき、彼に敬意を表しながら、響きのよい二つの茶碗を打ち鳴らして、歌いました。
[#2字下げ] おお、お通りの旦那様、ここにあるのは、清いもの、快いもの、うまいもの、冷たいものだよ、真清水《ましみず》だ。鶏《とり》の眼《まなこ》だ、私の水は。水晶なんだよ、私の水は。眼《まなこ》なのだよ、おおわが水は。喉の歓び、金剛石だ。水だよ、水だよ、私の水だ。
それから彼は訊ねました、「殿様、一杯いかがですか。」水銀のアリは答えました、「よこせ。」すると水かつぎ屋は、あらかじめ茶碗を念入りに洗う注意を払いまして、彼のために水を満たし、そしてこれを差し出しながら、申しました、「甘露でございます。」けれども、茶碗をとったアリは、これをちらりと眺め、揺り動かして、その水を地面にまいて、申しました、「もう一杯よこせ。」そこで、むっとした水かつぎ屋は、彼を上から下までじろじろと眺めて、叫びました、「アッラーにかけて、そんな風に地面にまきなさるとは、雄鶏の眼よりも澄んだこの水の中に、何かはいっていたんですかね。」彼は答えました、「おれの勝手だ。もう一杯|注《つ》いでくれ。」すると水かつぎ屋は二杯目の茶碗に水を満たし、これを水銀のアリにうやうやしく差し出しましたが、アリはこれをとると、またもや捨てて、言いました、「もう一回、たっぷり入れてくんな。」すると水かつぎ屋は叫びました、「やあ、旦那様《スイデイ》、お飲みになりたくないのでしたら、私をよそに行かして下さいよ。」そして三杯目の水の茶碗を彼に差し出しました。けれども今度は、水銀のアリはこの茶碗を一息に飲み干して、それに祝儀として金貨一ディナールを入れて、水かつぎ屋に返しました。ところが水かつぎ屋は、このような思いがけない大金にも、満足の色を見せるどころではなく、水銀のアリをじろじろと眺め廻して、あざ笑うような口調で申しました、「あなたに幸運がありますように、殿様、あなたに幸運がありますように。下々《しもじも》の者たちがひとつのものとすりゃ、立派な旦那衆ときたら、これは全く別ものでさあ。」彼を怒らせて嚏《くさめ》をさせるのでしたら、これほどまでのことを言う必要もないのです。だから、この言葉を聞きますと、水銀のアリは、水かつぎ屋の上着を引っ掴み、この男とその革嚢《かわぶくろ》とを揺すぶりながら、拳固で滅多打ちを食わし、「赤通り」の共同泉水場の壁に追いつめて、怒鳴りつけました、「ああ、牛太郎の伜め、貴様は金貨一ディナールじゃ、水三杯の値段には足りないと言うのか。ああ、それじゃほんとに少ないというんだな。だが、貴様の革嚢《かわぶくろ》なんぞは、そっくりそのままでも、せいぜい銀貨三枚はしやしまい。それに、おれの捨てたり飲んだりした水の量だって、一パイントそこらにもなりゃあしねえぞ。」水かつぎ屋は答えました、「そりゃそのとおりでございます、殿様。」水銀のアリは訊ねました、「だがそれじゃ、どうして貴様はおれにあんな口をきいたんだ。貴様は一生のうちで、誰かいまのおれよりも、気前のいい男に出遭ったことがあるとでもいうのか。」水かつぎ屋は答えました、「ありますよ、アッラーにかけて。私は今までに、あなたよりも気前のいい人に遭ったことがあるんです。というのは、女たちが子供を孕《はら》んで産む限りは、この地上にはいつでも、気前のいい心を持った人たちはいるでしょうからね。」水銀は訊ねました、「その貴様が遭ったという、おれよりも気前のいい男とは、一体誰のことなんだ、おれにちゃんと言えるかい。」水かつぎ屋は答えました、「まず私を放して下さいまし。そして、そこの泉水の階段に腰を下ろしてくださいよ。そうしてくだされば、この上もなく珍しい私の事件を、お話しして上げますよ。」そこで水銀のアリは水かつぎ屋を放してやって、そして二人で一緒に、共同泉水場の大理石の階段の一つの上に、地面に置いた革嚢《かわぶくろ》のそばに、腰を下ろしますと、水かつぎ屋は語りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十夜になると[#「けれども第四百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……水かつぎ屋は語りました。
おお気前のいい御主人様、こういう話でございます。私の親父はカイロの水かつぎ屋の組合の長老《シヤイクー》でござんした。その水かつぎ屋と申しますのは、家々に水の卸売りをする連中ではなく、私のように、水をになって街々を売り歩きながら、小売りをする連中のことなのです。
親父は亡くなりましたときに、遺産として、五匹の駱駝と、一匹の騾馬と、店と、家とを、私に残してくれました。これは私のような境遇の男が仕合せに暮すには、十分すぎるものだったのです。けれども、おお御主人様、貧乏人は決して満足することはございません。そして何かの拍子で、やっと満足した日には、死んでしまうのでございます。さて私は、心の中で考えました、「おれは自分の遺産を、取引と商売で殖やすことにしよう。」そして早速、私はいろいろな貸主に会いにゆきますと、その人たちは私に商品を預けてくれました。私はこれらの商品を、自分の騾馬に積みこみまして、メッカの巡礼のころに、聖地《ヘジヤズ》へ売買《あきない》に出掛けました。けれども、おお御主人様、貧乏人は決して金持になることはございません。もし金持になれば、死んでしまうのでございます。私もたいへん悪い売買《あきない》をしましたので、巡礼期の終らないうちに、持っていたものをすっかりなくしてしまい、さしせまった急場を凌ぐためには、自分の駱駝と騾馬まで、売らなければならない羽目になってしまいました。そこで私は独りごとを言いました、「これでカイロに帰ったら、債権者たちはお前を引っ捕えて、牢屋に放り込んでしまうだろう。」そこで私はシリアの隊商《キヤラヴアン》に加わりまして、ダマスとアレプに行き、そこからバグダードへと参りました。
いったんバグダードに着きますと、私はすぐに水かつぎ屋の組合頭を問い合わせまして、そこへと出向きました。私はまず善良な回教徒《ムスリム》として、彼にコーラン開扉の章を誦しまして、平安を祈りました。すると彼は私の身分を訊ねましたので、私はわが身に起ったことすべてを物語りました。すると彼は時を移さず、私が暮しを立てられるように、仕事着と、革嚢《かわぶくろ》と、茶碗二個をくれました。そこで私はある朝のこと、背に革嚢をかついで、アッラーの道へと立ち出でまして、やはりカイロの水かつぎ屋たちのように、呼売り歌をうたいながら、都のさまざまな地区を廻り始めました。けれども、おお御主人様、貧乏人はやはり貧乏人でございます。というのは、これが貧乏人の天命だからでございます。
なるほど、私も間もなく、バグダードの住民とカイロの住民との違いが、どんなに大きいかわかりました。バグダードでは、おお御主人様、人々は喉が渇きません。しかも、何かの拍子で飲む決心をした人たちも、金を払ってはくれないのです。というのは、水はアッラーのものだからなんです。それで、私は最初のお客たちに自慢の水を差し出したところが、そのお客たちの答えを聞いて、この商売がどんなにひどいものかよくわかりました。事実、私がお客の一人に茶碗を差し出したとき、この人は私に答えたものです、「飲むものを出そうというからには、お前はおれに食うものをくれたのか。」そこで、私はこのお客の態度とこの開業の凶兆とに驚きながら、自分の道を進みつづけ、そして二番目の人に茶碗を差し出しました。ところがこの人は私に答えました、「儲けはアッラーの上にある、さっさと貴様の道を行くがいい、おおかつぎ屋め。」私のほうは、少しでも気を落したくなかったので、市場《スーク》から市場《スーク》を通って進みつづけ、客足の賑わう店の前には足をとめたのですが、誰一人として、私に水を注《つ》げと合図をするものもなく、私の勧誘や銅の湯呑みを打ち鳴らす音に、気を唆られてくれるものもおりませんでした。こうして私はお正午《ひる》まで、パン菓子一つ、胡瓜《きゆうり》一本買う金も儲けずに過ごしました。そのわけは、おお御主人様、貧乏人の天命は、ときどき貧乏人に飢えることを強いるからなのです。それでも飢えというものは、おお御主人様、侮辱より辛《つら》くはありません。ところが、お金持の方はさかんに侮辱をお感じになるものでして、しかもその侮辱に対しては、失うものも得るものも何一つ持っていない貧乏人より、ずっと辛抱がおできになれないのです。そういう次第ですから、私が、例えば、あなたのお腹立ちにむっとしたとしても、それは私のせいではなく、アッラーの結構な賜物である、私の水のせいなのですよ。けれどもあなたは、おお御主人様、あなたの私に対するお腹立ちは、あなた御自身の中であなたを不愉快にさせるような、いろいろな動機があったからなのですね。
さて、私はバグダードの滞在が、こんな惨めな有様で始まったのをみて、自分の魂の中で考えました、「おお貧乏人よ、お前にとっては、水を好まない人たちの真中で死ぬよりは、生れ故郷の牢屋の中で死ぬほうがましだったろう。」そして鬱々と考えこんでいたときに、私は突然、市場《スーク》の中で群衆が激しく押し合いを始め、人々が同じ方向へ走ってゆくのを見たのです。そこで私は、群衆のいるところへ行くのが自分の商売ですから、革嚢をしょって、一所懸命走ってゆきました。するとそのとき、私が出遭ったのは、二列に行進する人々の堂々たる行列でありまして、一同手に手に長い棒を持ち、真珠を飾った大きな縁なし帽をかぶり、美しい絹の頭巾付大外套《ブルヌス》を着こみ、立派な象眼を嵌めこんだ美しい太刀を腰に下げておりました。そして先頭には、恐ろしい風貌をした一人の騎手が進んでおりまして、この人の前に、あらゆる人々が頭を地面まで下げるのでした。そこで私は訊ねました、「このお行列はどなたのですか。そしてあの騎手はどなたですか。」答えて言うに、「あんたのエジプト訛りと物知らずから察すれば、あんたがバグダードの者でないことはよくわかるよ。この行列は、教王《カリフ》の御右手《おんめて》の警察長、隊長《ムカツダム》蛾のアフマードの行列だよ。町々の秩序を維持することを委せられていなさる方だ。ほら、あの馬に乗っているのが御当人さ。あの方はとても重んじられていてね、同僚の御左手《おんゆんで》の隊長《ムカツダム》、ペストのハサンと全く同じように、月々千ディナールの俸給をとっていなさるんだ。そしてこのお二人の部下たちは、それぞれ月百ディナールを頂いているのさ。みんな今ちょうど政務所《デイワーン》から退出して来たところで、これから自分たちの家へ戻って、昼飯を召し上るんだよ。」
そこで私は、おお御主人様、エジプト流に先ほどお聞かせしたのと全く同じ調子で、よく響く湯呑みの拍子に合せながら、私の呼売り歌をうたい出したのです。すると私があまり見事にやったものですから、隊長《ムカツダム》アフマードは私の声を聞き、私の姿を見つけて、こちらのほうへ馬を進めて、私に言いました、「おおエジプトの兄弟よ、おれはその歌を聞いて、お前がどこの者か分ったよ。おれにお前の水を一杯くれ。」そして彼は、私が差し出す茶碗を受け取り、これを揺すって、中身を地面に投げ捨て、そうして私に二杯目の水を満たさせたのですが、おお御主人様、これまたあなたとそっくりに、その水を地面にまいてしまい、そして三杯目の水を私になみなみと注がせると、これを一息に呑んでしまいました。それから彼は大声で叫びました、「おお水かつぎ屋よ、おれの兄弟よ、カイロとその住民たち万歳。この都では、水かつぎ屋などは少しも有難がられないし、金ももらえないのだが、どうしてお前はやって来たのだ。」そこで私は自分の身の上話を物語りまして、借金を背負い込んだことや、まさにその負債と困窮のために逃げ出して来たことを、知らせたのでありました。すると彼は叫びました、「よくバグダードにやって来た。」そして彼は私に金貨五ディナールをくれ、彼の行列の部下全員のほうを向いて、一同に言いました、「アッラーの愛のために、おれは故郷のこの男をお前らの気前のよさに頼むぞ。」すぐに行列の部下はめいめい、私に一杯の水を所望し、これを飲みほしてしまうと、茶碗に一ディナールを入れてくれた。こういう次第で、ひと廻りし終えると、私は帯にさげた銅の箱のなかに、金貨百ディナール以上も儲けてしまいました。それから隊長《ムカツダム》アフマードは私に言いました、「お前がバグダードに滞在しているうちはいつでも、われわれに飲み物を注《つ》いでくれるたびに、お前の報酬はこんなものだ。」ですから、幾日もたたぬうちに、私の銅の箱は何度か一杯に満たされました。そこで私はディナールの数を勘定しますと、千数ディナールあることがわかりました。そこで私は魂の中で考えました、「今こそ、お前は故郷に帰るときが来たぞ、おおかつぎ屋よ。というのは、人は異国の土地にいてどんなによくたって、故郷にいればもっともっといいからな。それにお前には借金があるのだから、これは払いに行かなければいけないぞ。」そこで私は政務所《デイワーン》に赴きましたが、そこでは、すでにみんなが私を知っていて、非常な敬意を払って待遇してくれるのでした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十一夜になると[#「けれども第四百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それで私はわが恩人に暇を告げにはいってゆき、彼に次のような詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
異国の土の上にある異国の人の住居は、風の上に築ける建物に似たり。
風吹かば、建物崩れ、異国の人はこれを見捨てん。何ものも建てざるに如かざりしならん。
[#ここで字下げ終わり]
それから私は彼に申しました、「それにただ今、ある隊商《キヤラヴアン》がカイロにむけて出発するところでございますので、私はこれに加わって、自分の身内のただ中に帰りたいと存じます。」すると彼は私に一匹の騾馬と百ディナールを与え、そして私に申しました、「おお老人《シヤイクー》よ、今度はおれから、お前に大切な言づけを頼みたいのだ。お前はカイロで大勢の人を知っているだろう。」私は答えました、「あちらに住んでいる気前のいい方々ならば、どなたでも存じております。」彼は私に言いました、「それではここにある手紙を受け取って、これをおれの昔の仲間、カイロの水銀のアリに、手ずから渡してもらいたい。そしておれからだと言って、彼に伝えてくれ、『お前の親分はお前に平安《サラーム》と祈願を送る。彼は今、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードと御一緒だ』とな。」
そこで、私はその手紙を受け取りまして、隊長《ムカツダム》アフマードの手に接吻し、そしてカイロをさしてバグダードを去ったのですが、こちらに着いたのは、ほんの五日ほど前のことです。私はまず債権者たちに会いにゆき、蛾のアフマード様の御親切のおかげで、バグダードで儲けた全部の金で、彼らにすっかり支払いをすませました。それがすんでから、私はまた革の仕事着を着まして、革嚢を背中にかつぎ、そして、おお御主人様、ただ今御覧になるとおり、また昔のように水かつぎ屋になったのでございます。けれども私はカイロ中を、蛾のアフマード様のお友達、水銀のアリさんを探していながら、見つけることもできず、その方に会って手紙を渡す段にもいたらないので、私はその手紙をいつでも上着の裏に入れて、持っているのでございます。
そして以上が、おお御主人様、お得意様の中でいちばん気前のいい方と、私との間に起った事件でございます。
水かつぎ屋がその話を語り終えたとき、水銀のアリは立ち上り、兄弟が自分の兄弟を抱いて接吻するように、彼を抱いて接吻し、そして彼に言いました、「おおかつぎ屋よ、私の同胞《きようだい》よ、さっきおれがお前にむかっ腹を立てたことは、勘弁しておくれ。お前がバグダードで会ったという人は、確かにおれよりも気前のいい男で、おれよりも気前のいいただひとりの男なんで、その人こそは、おれの昔の大親分なんだ。というのは、そもそもお前の探している水銀のアリ、蛾のアフマードの一の子分とは、このおれのことだからさ。だからお前の魂を喜ばせ、お前の眼と心を爽やかにして、おれに親分の手紙をよこしてくれ。」そこで水かつぎ屋が彼に手紙を渡しますと、彼はそれを開き、その中に次のような文面を読んだのであります。
[#ここから2字下げ]
[#この行1字下げ]隊長《ムカツダム》アフマードの平安《サラーム》を、その子分らのうち最も高名にして第一の子分なる水銀のアリに[#「隊長《ムカツダム》アフマードの平安《サラーム》を、その子分らのうち最も高名にして第一の子分なる水銀のアリに」はゴシック体]
おお最もあっぱれな者たちの誉れよ、拙者は一葉の紙に託して貴公に便りを送るが、これは風と共に貴公のほうへと飛んでゆくことだろう。
もし拙者自身が鳥ならば、拙者はいそいそと貴公の両腕のほうへ飛び立つだろう。しかし翼を切られた鳥はふたたび飛ぶことが叶おうか。
実はこういう次第なのだ、おお最もあっぱれな者よ、拙者は今や駱駝のアイユーブ配下の四十人の強者《つわもの》どもの頭となっているのだが、この連中は一人残らず、われわれのように、昔の勇者で、数々の素晴らしい働きをやってのけた人々なのだ。そして拙者はわれらの主君、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードにより、その御右手《おんめて》の警察隊長《ムカツダム》に任命され、都と郊外との警備を委せられ、拙者の寵を得ようと思う人々から来る常時、臨時の収入を数に入れなくとも、月々千ディナールの俸給を頂戴しているのだ。
されば、おお最も親しき者よ、もし貴公の才能の活躍に広大なる競走場《マイダーン》を与え、自ら名誉と富の扉を開きたいと思うなら、貴公はただバグダードへやって来て、貴公の旧知に再会すればいいのだ。貴公がこの地で何か赫々たる手柄を立ててくれれば、拙者は必ず貴公のために、教王《カリフ》の寵愛と、貴公にもわれらの友情にも適わしい地位と、拙者と同じくらい莫大な手当を得て進ぜることを約束する。
さらば、来たれ、おおわが子よ、来たって拙者と再会し、待望の貴公の出現によって、拙者の心を晴れ晴れとさせてもらおう。
願わくは、アッラーの平安とその祝福が貴公の上にあらんことを、やあ、アリ。
[#ここで字下げ終わり]
この親分蛾のアフマードからの手紙を読んだときには、水銀のアリは歓喜と感激にわなわなと顫え出し、一方の手で長い杖を、もう一方の手でその手紙を振り廻し、婆さんたちや乞食どもを突き飛ばしながら、泉水場の階段の上でめちゃくちゃな踊りをやってのけました。それからいくたびか手紙に接吻し、次には、これを額に押しいただきました。そして彼は自分の革帯をほどき、そこに入っている金貨をそっくり、水かつぎ屋の両手の中にあけてやり、この吉報と使いとのお礼をいたしました。そして彼は急いで地下室に、仲間の強者《つわもの》どもに会いにゆき、これから直ちにバグダードへ出発する旨を告げることにいたしました。
仲間のただ中に着いたときに、彼は一同に申しました、「おおわが子たちよ、おれはお前らのことはお前ら同士に委せるぞ。」すると彼の小頭が叫びました、「何ですと、親方。それじゃあ、あんたはわしらと別れなさるのかね。」彼は答えました、「おれの天命が、おれをバグダードで、おれの親分蛾のアフマードの両手の間で、待っているのだ。」小頭は言いました、「わしらには、あいにく今がとても辛い時なんですぜ。わしらの食料|倉庫《くら》はからっぽですぜ。あんたがいなくなったら、わしらはどうなるんです。」彼は答えました、「おれは、バグダードに着く前にだって、ダマスに入りさえすれば、早速、お前らの不足をすっかり満たすだけのものを見つけて、送ってやることができるさ。だから心配するなよ、おおわが子たち。」それから彼は身に着けていた着物を脱ぎ、洗浄《みそぎ》をし、体にぴたりと合った衣を着込み、袖の広い旅行用の大外套を纒い、革帯の中に二本の匕首《あいくち》と一本の太刀を差し込み、風変りな土耳古帽《タルブーシユ》を被り、長さ四十二腕尺の大きな槍を手にとりましたが、それは多くの竹の節からできていて、好きなように互いにさしこめるようになっておりました。それから彼は馬の背にとび乗って、立ち去ってしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十二夜になると[#「けれども第四百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼がカイロを出たか出ぬうちに、一隊の隊商《キヤラヴアン》が目についたので、彼はこれに近寄って、これがダマスとバグダードに向うということを聞き、それに加わりました。この隊商《キヤラヴアン》は、ダマスの商人組合の総代で、メッカから戻って故郷に帰る、大金持の男のものだったのです。さて、年は若く、美男子で、頬にまだ毛の生えていなかったアリは、商人組合の総代にも、駱駝曳きにも、騾馬曳きにも、たいそう好かれまして、この連中のさまざまな夜遊びなどには応じませんでしたけれども、ベドウィン人の追剥や砂漠の獅子などから彼らを守って、数々の目覚しい働きをしてやることができました。こういう有様でしたから、ダマスに着きますと、みんなが彼に感謝の意を表しまして、めいめいが五ディナールずつのお礼をよこし、商人組合の総代は千ディナールをくれました。すると、カイロの仲間たちのことを少しも忘れていなかったアリは、急いで彼らにこの金全部を送ってしまい、自分には、先の道を続けて、ついにバグダードに到着するに必要なだけしか、残さなかったのでありました。
そして以上が、カイロの水銀のアリが故郷を離れて、彼の親分、勇者どもの昔の首領、蛾のアフマードの両手の間に己れの天命を求めて、バグダードに行った次第なのでございます。
都に入りますや、彼はさっそく友人の住居を探し始め、数人の者に尋ねてみましたが、いずれもそれを教えられなかったり、あるいは教えたがりませんでした。こうして彼はアル・ナフズと呼ぶ、ある広場にやってまいりますと、そこでは、年端のゆかぬ子供たちが、誰よりもひときわ小さな他の一人の子供を大将にして、仲間同士で遊んでおりまして、その子供のことを、みんなで「月足らずのマハムード」と呼んでおりました。このちっぽけな「月足らずのマハムード」こそは、まさしくザイナブの姉の息子でありましたが、この姉のほうはすでに人妻でありました。そこで水銀のアリは心中で考えました、「やあ、アリ、人々の消息はその子供たちのところから聞き出せるものだぞ。」そこでさっそく、子供たちを寄せ集めるために、彼は甘味屋の店に向い、砂糖入りの胡麻の油のハラーワ(22)の大切れを一つ買い求めました。それから遊んでいる子供たちに近寄り、そして彼らに叫びました、「お前たちの中で、誰か、できたてのほやほやのハラーワを欲しい子はいないかね。」けれども、月足らずのマハムードは子供たちが前に出るのを押し止め、たった一人でアリの前にやって来て、そして彼に言いました、「ハラーワをおくれよ。」そこでアリはその菓子を彼に与え、同時に、その手のなかへ一枚の銀貨を滑りこませました。けれども、月足らずは銀貨を見たときに、この男がこんなものをくれるのは、自分をひっかけたり、誘惑したりするのに違いないと思いまして、彼に叫び掛けました、「あっちへ行け。おれは自分を売ったりやしないぞ。卑しい真似なんかするもんかい。おれのことならほかのやつらにきいてみな、ちゃんと返事をしてくれらあ。」水銀のアリは、このときには、卑しい行為とかその他これに似たようなことなど、少しも考えていなかったので、この小さな放蕩者に言いました、「おれの子供や、おれがいまお前にやったものは、おれの聞きたいことを教えてもらう褒美なんだぜ。こうやっておれがお前に金を払うというのは、正直者は誰でも、ほかの正直者に用事を頼むときには、必ず金を払うことになっているからさ。ちょっと聞かせてもらいたいが、隊長《ムカツダム》蛾のアフマードの住居はどこにあるんだね。」月足らずは答えました、「あんたの尋ねることがそれだけのことなら、訳はないさ。これからおれがあんたの先に立って歩くからね。蛾のアフマードの家の前に着いたときに、おれは裸足《はだし》の趾《ゆび》で小石をつまみ上げて、それを戸に投げつけてやるよ。そういう風にすれば、おれがあんたに教えるのを誰にも見られないもんね。それでもって、あんたにはどれが蛾のアフマードの家かわかるだろう。」そして彼はそのとおり、水銀の先に立って走りだし、しばらく経つと、彼は裸足の趾《ゆび》で小石を一つ拾い上げ、身動きもせずに、これを一軒の家の戸に投げつけたのでした。水銀はこのいたずら小僧の慎重なこと、早熟なこと、器用なこと、疑い深いこと、腹黒いこと、ずる賢いことに感心して、叫びました、「インシャーラー、やあ、マハムード、おれもまた親衛隊長か、警察隊長《ムカツダム》にでも任命された暁には、お前をまっさきに選んで、部下の勇士たちの中に入れてやろう。」それから、アリは蛾のアフマードの戸を叩きました。
戸を叩く音を聞いたとき、蛾のアフマードは感極まって躍り上り、副官の駱駝の背に叫びました、「おお駱駝の背よ、人の子の中の最も立派な男に、早く戸を開けてやれ。おれの戸を叩いているやつは、カイロのおれの昔の小頭、水銀のアリをおいてほかにない。おれはあの叩き方で、あいつだということがわかる。」すると駱駝の背は、そこにいるのがまさしく水銀のアリだということを、一瞬も疑わず、急いで戸を開けに行って、彼を蛾のアフマードのもとに招じ入れました。すると二人の旧友は愛情をこめて相抱き、蛾のアフマードは、久闊の真情を披瀝し、平安《サラーム》を繰り返し述べたあとで、彼を四十人の警吏の面前に連れてゆきますと、彼らは自分たちの兄弟を迎えるように、彼に歓迎の挨拶《サラーム》を述べました。それがすみますと、蛾のアフマードは彼に美々しい衣を着せて、申しました、「教王《カリフ》がおれを御右手の長に任命され、おれの部下たちの被服を賜わったときに、おれはまたいつかお前に再会するだろうと考えて、この衣をお前のためにとっておいたのだ。」それからアフマードは彼を一同の真中の、上座に坐らせました。そして彼の帰還を祝うために、大掛りな祝宴をひらかせました。そして一同は食べたり、飲んだり、楽しんだりし始めて、その夜を徹しました。
翌朝になると、アフマードにとっては、折から部下四十人を率いて政務所《デイワーン》に参内する時刻でありましたので、彼は友人のアリに申しました、「やあ、アリ、お前はバグダード滞在の初めのうちは、慎重にしていなければいけないぞ。ここの住民どもはしつこいやつらだから、お前は決してその好奇心を身に招かぬように、家を出ることはくれぐれも慎しめよ。バグダードがカイロみたいなところと思ってはいけないぞ。バグダードは教王《カリフ》の御座所で、間諜どもがまるでエジプトの蝿みたいに、うようよ集まっているし、詐欺師やしたたか者どもも、まるであっちの鵞鳥や蟇みたいに、うじゃうじゃいるところなんだぞ。」すると、水銀のアリは答えました、「おお親分よ、そんならおれはまるで生娘みたいに、一軒の家の壁のあいだに閉じ籠《こも》るために、バグダードへやって来たんですかね。」けれどもアフマードは彼に辛抱することを勧めて、警官どもの先頭に立って、政務所《デイワーン》へと出掛けてゆきました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十三夜になると[#「けれども第四百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、水銀のアリのほうは、その友達の家に、三日間は閉じ籠ったまま辛抱いたしました。けれども四日目になりますと、彼は心が縮まり、胸が狭《せば》まるのを覚えて、アフマードに向って、自分にとっては、わが名を挙げ、教王《カリフ》の御寵愛に値すべき手柄を、そろそろ始める時が来ているのではないか、と訊ねました。アフマードは答えました、「すべてのものには、その時機があるのだ、わが子よ。お前の面倒をみたり、お前が手柄を立てる前に、ちゃんとお前のことについて教王《カリフ》の御意向を探ったりするようなことは、すっかりおれに委せてくれ。」
けれどもアフマードが外に出てゆくが早いか、水銀はもうその場にじっとしていられなくなって、独りごとを言いました、「おれは胸を晴れ晴れさせるために、ただ、ちょっと空気を吸いに行くとしよう。」そして彼は家を離れ、バグダードの街々を歩き廻りだし、あちらこちらをうろつき、ときには菓子屋とか、料理屋の中に足を止めて、軽い食事をしたり、練粉菓子を一口嚥み込んだりいたしました。するとそのとき、紅絹《もみ》の着物を着て、白いフェルトの高い縁なし帽をかぶり、鋼鉄の反身の太刀を持った、四十人の黒人の行列が来るのを認めました。彼らは隊伍整然と二列で行進していて、彼らの後ろからは、立派な馬具をつけた騾馬に打ち跨がり、銀の鳩を戴いた金の兜をかぶり、鋼鉄の鎖帷子《くさりかたびら》を着込んで、華やかに、威風堂々と、鳩の女管理役、凄腕ダリラが進んで来たものです。
彼女は今ちょうど政務所《デイワーン》を退出して来たところで、宿舎《カーン》に戻るところでした。けれども彼女が、水銀のアリの前を通ったときには、彼女も彼を知らず、彼も彼女を知りはしませんでしたが、この男の美しさ、若さ、美しい体つき、優雅な顔かたち、快い風采、ことに眼つきが彼女の敵、蛾のアフマード自身とそっくりなのを見て、彼女はびっくりいたしました。彼女はすぐさま自分の黒人の一人にひと言申しますと、この黒人は市場《スーク》の商人たちのもとに、この美青年の名前と身分を問い合せにゆきました。けれども誰一人それを教えることができませんでした。ですから、ダリラは宿舎《カーン》の離れ家に戻ったときに、娘のザイナブを呼びまして、砂占いの卓子を持って来るように言いつけました。次に彼女はつけ加えました、「娘や、あたしはいま市場《スーク》でね、美が自分の寵臣の一人として認めるほどの、美男の若者に出遭ったんだよ。ところが、おお娘や、その眼つきが奇妙に、あたしたちの敵の蛾のアフマードに似ているのさ。それであたしは、市場《スーク》でも誰も知らないこの他国者《よそもの》が、あたしたちに何か悪い悪戯《いたずら》をしに、バグダードへやって来たのじゃないかと、ひどく心配になっているのだよ。そういう訳で、あたしはこれからこの男のことについて、あたしの占い卓子で判じてみようと思うのさ。」
この言葉を言って、彼女は神秘学の方式にしたがって、口中で呪文の言葉をぶつぶつ唱え、ヘブライ文字の行を逆に読みながら、砂を揺り動かしました。次に、魔法書の上に、代数や錬金術の文字をいろいろに組み合せ、そして娘のほうを向いて申しました、「おお私の娘や、この美男の若者は、カイロの水銀のアリというんだよ。彼はあたしたちの敵の蛾のアフマードの友達でね、アフマードがアリをバグダードに呼んだのは、ただあたしたちに何か悪い悪戯をするためなのさ。こうしてアフマードのやつは、お前がお前ひとりで、あいつとその四十人の部下を酔っ払わせて着物を剥ぎ取った、あの悪戯の仕返しをしようというんだよ。それに、その若者は蛾のアフマードの家そのものに住み込んでいるのさ。」けれども娘のザイナブは彼女に答えました、「おお私の母よ、それで、つまりそいつが何だというのよ、そんなやつにしろさ。それこそ、あんたはその青二才の若僧を買いかぶっているんだわ。」彼女は答えました、「その上、いま砂の卓子が明かしたところによると、この若者の運勢は、私の運勢やお前の運勢よりも、遥かに強いということなんだよ。」彼女は言いました、「まあ、よく見届けることにしましょう、おお、おっかさん。」そして直ちに彼女は、瞼墨《コフル》の棒で眼差しを柔らげ、煙りで黒くした爪で両眉をつなげたのち、一番美しい着物を着込み、外に出て、何とかして件《くだん》の若者に出遭おうといたしました。
彼女はバグダードの方々の市場《スーク》をゆっくりと、腰を振り、小|面衣《ヴエール》の下で眼を動かしながら、歩き廻り始め、そして、ある者には微笑み、他の者には暗黙の約束を与えつつ、人々の心を打ち毀すような眼差しを投げ、媚態をしめし、愛嬌をつくり、嬌態を見せ、眼でこたえ、眉毛で問いかけ、睫毛で悩殺し、腕輪で目覚ませ、鈴で音楽をかなで、あらゆる臓腑に火を点じ、こうしてとうとう糸素麺《クナフア》の商人の店先で、彼女は水銀のアリその人に出遭ったのですが、彼女はその美男ぶりから、それが彼であるとわかったのでありました。そこで彼女は彼に近寄りまして、さながらうっかりしてのように、これに肩突きを食わせて、彼をよろめかせ、そして、まるで自分が触られたのを憤慨したかのように、彼女は彼に言いました、「盲人《めくら》万歳、おお眼あきの方よ。」
こんな言葉を聞いても、水銀のアリは、すでにこの美しい女の眼差しで貫き通されておりましたので、女を眺めながら、微笑するだけで怒りもせず、答えました、「おお、あなたは何ておきれいでしょう、おお別嬪さん。あなたは誰のものですか。」彼女は小|面衣《ヴエール》の下で艶《あで》やかな眼を半ば閉じて、答えました、「あなたに似たすべての美しい方のものですわ。」水銀は訊ねました、「あなたは結婚していらっしゃるのか、それとも処女ですか。」彼女は答えました、「あなたの御運のよいことに、結婚しています。」彼は言いました、「それでは、私の家にしましょうか、それともあなたの家にしましょうか。」彼女は答えました、「わたしの家のほうがいいわ。実を申せば、わたしはある商人と結婚しておりますの。そしてわたしはある商人の娘ですの。そして、ただいま夫が一週間ほど家を留守にしましたので、わたしは今日始めて、やっと家を出られたのでございます。ところでわたしは、夫が発ちますと、さっそく楽しみたいと思いまして、召使にうんと美味しい御馳走をこしらえてくれと申しましたの。けれども、どんな美味しい御馳走でも、男のお友達たちと御一緒に頂かなければ、結構に味わえるものではございませんから、わたしは家を出て、あなたのように美しくて、お育ちのいい方をどなたか探し出し、その方に一緒にお食事をして、わたしとともに夜を過ごしていただこうと思ったのでした。そしてわたしはあなたにお目にかかったのですけれど、あなたへの愛情がわたしの心にはいってしまいましたわ。それではどうか、わたしの魂を楽しませ、わたしの心の思いを晴らし、わたしの家で一口召し上ることを承知して下さらないでしょうか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十四夜になると[#「けれども第四百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼は答えました、「誰でも招かれたときには、断わるわけにはゆきません。」そこで彼女は彼の先に立って歩み、彼も彼女のあとを、すこしの距離をおいて歩きながら、街から街へとついてゆきました。
さて、こうして彼女のあとから道を進んでゆくあいだに、彼は考えました、「やあ、アリ、新参の他所者《よそもの》にしては、お前は何て軽はずみなことをするんだろう。ひょっとすると、お前はその亭主の怨みを買うことになり、そいつがお前の寝ているあいだに飛びかかって来て、お前の雄鶏とその孵《かえ》りかけの卵を斬り落して、仕返しをするような目にあわないとも限らないぞ。それに賢人も言われたものだ、『異国に賓客として迎えられながら、姦淫の罪を犯す者は、偉大なる歓待者(23)によって罰せらるべし。』だから、お前としては、何か優しい言葉を述べて、この女にていねいに断わるのが、穏当だろうな。」そこで彼は、二人が淋しい場所に来たときを利用して、彼女に近寄り、そして彼女に言いました、「おお別嬪さん、さあ、このディナール貨をおおさめ下さい。そして私たちの会見はまたの日に延ばそうじゃありませんか。」彼女は答えました、「最も偉大なる御名《みな》にかけて、あなたは今日は絶対に、わたしのお客様になっていただかなくてはいけませんわ。というのは、わたしは今日ほど、いくつもの楽しみや思い切った遊びをしてみようという気分になったことは、これまでにないのですもの。」
そこで彼は彼女のあとに従い、彼女と一緒に一軒の広大な家の前に着きましたが、その家の戸は、頑丈な木の錠前で閉められておりました。すると若い娘は、着物にしまってある開ける木鍵を探すような身振りをいたしましたが、次に、がっかりして叫びました、「あら、わたし、木鍵をなくなしてしまったわ。さあ、この戸を開けるのにはどうしたらいいかしら。」それから彼女はあきらめたようなふりをして、彼に言いました、「開けて下さらない、あなた。」彼は言いました、「木鍵も鉄鍵もなくて、どうして錠前が開けられましょう。そうかといって、力ずくで開ける決心もつけかねますね。」彼女はこれに答える代りに、小|面衣《ヴエール》の下から、彼にふたつばかり色目を投げかけましたが、それは彼の最も深い錠前をも開けてしまったのでした。それから彼女は付け加えました、「お触りになるだけでよろしいわ、そうすれば戸は開きますわ。」そこで、水銀が木の錠前に手をかけますと、ザイナブは急いでその錠前に向い、モーゼの母の御名《おんな》を唱えました。すると、すぐさま錠前がゆるんで、戸が開きました。二人が一緒になかに入りますと、彼女は見事な武器が満ち、美しい絨氈の敷いてある部屋へ案内しまして、そこに彼を坐らせました。時を移さず、彼女は食布をひろげ、彼のそばに坐って、彼と一緒に食べはじめ、彼の唇のあいだに、自身で幾口も食物を入れてやり、それから一緒に飲みだし楽しみはじめました。といっても彼女は、彼が手を触れたり、接吻したり、抓ったり、咬みついたりすることは、許しませんでした。というのは、彼が彼女の上に身を屈めて、接吻しようとするたびに、彼女は急いで自分の頬と若者の唇のあいだに手を置くので、そのため接吻は、彼女の手だけにしか触れなかったからでした。そして彼の性急な要求に対しては、彼女は答えました、「情欲は夜にならなければ、充ち溢れてきませんわ。」
こうして彼らの食事が終りました。そして二人は手を洗うために立ち上り、中庭へ出て井戸のそばに行きました。するとザイナブは自分で綱と滑車をあやつり、井戸の底から桶を引き上げようといたしました。けれども彼女は、突然あっと叫び声をあげて、胸を叩き、手を捩《よじ》りながら、激しい絶望に襲われて、縁石《へりいし》の上に身をのり出しました。そこで、水銀は彼女に尋ねました、「どうしたんです、おお私の眼よ。」彼女は答えました、「わたしの紅玉《ルビー》の指輪が指に大き過ぎたので、いまそれが滑って、井戸の底に落ちてしまったのです。それは夫がきのう、五百ディナールで買ってくれたものですの。みると大き過ぎたから、蝋をぬって小さくしておいたのですけれどね。そんなことをしても、何の役にもたちませんでしたわ、今この中へ落ちてしまったのですもの。」それから彼女は付け加えました、「わたし、これからすぐ裸になって、井戸は深くありませんから、中に降りて指環を探すことにしますわ。では、わたしが着物が脱げるように、お顔を壁のほうにお向けになって頂戴。」けれども水銀は答えました、「おお御主人よ、私がここにいながら、あなた自身が降りてゆくのを黙って見ているとしたら、私の上の何という不面目でしょう。」そしてすぐさま彼は着物をすっかり脱ぎ捨て、滑車の椰子の繊維の綱を両手でつかみ、桶に乗って井戸の底に下ろしてもらいました。水中に着きますと、彼は綱を放して、指輪を探しに潜《もぐ》りました。水は彼の肩までとどいてきました、暗がりの中で冷たく黒く。するとその瞬間、ぺてん師ザイナブはいきなり桶を引き上げてしまい、そして水銀に叫びました、「さあ今はお前は、友達の蛾のアフマードを呼んで、助けてもらえばいいんだよ。」そして彼女は水銀の衣類を持って、さっさと家を出て行ってしまいました。それから、後ろの戸を再び閉めもしないで、母のもとへ戻ってゆきました。
さて、ザイナブが水銀を引っ張りこんだ家というのは、たまたま用事のために留守であった、ある政務所《デイワーン》の貴族《アミール》の家でありました。ですから、貴族《アミール》が家に戻って来て、戸が開いているのを見たときには、これはてっきりわが家に泥棒が入ったものと思いこみ、彼は馬丁を呼んで、家中を探し始めました。けれども、奪《と》られたものは何一つなく、泥棒の形跡もないことがわかりましたので、彼は間もなく安心いたしました。それから彼は洗浄《みそぎ》がしたくなりましたので、馬丁に申しました、「水差しをとって、それに井戸の綺麗な水をいっぱい入れて来てもらいたい。」そこで馬丁は井戸に行き、なかに桶を下しまして、ちょうどいっぱいになったと思ったときに、それを引き上げようと思いました。けれども、桶がばかに重いのでした。そこで井戸の底を眺めますと、ぼんやりした黒い姿が、桶の上に坐っているのを見つけたので、彼はこれを鬼神《イフリート》だと思ってしまいました。彼はこれを見ますと、綱を放し、無我夢中で逃げ出して、叫びました、「やあ、旦那様《スイデイ》、井戸に鬼神《イフリート》が住んでいます。桶の中に坐っています。」そこで貴族《アミール》は彼に訊ねました、「して、それはどんなやつか。」彼は申しました、「おっかない黒いやつです。そして豚みたいに、ぶつぶつ言っておりました。」すると貴族《アミール》は彼に言いました、「早く走って行って、コーラン読誦者の学者を四人呼んでまいり、彼らにその鬼神《イフリート》に向ってコーランを読誦させ、そいつを祓《はら》ってもらうようにしろ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十五夜になると[#「けれども第四百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで馬丁は急いで走ってゆき、コーラン読誦者の学者たちを呼んでまいりますと、彼らは井戸の周りに座をしめました。そして魔除けの章句を唱えだしましたが、その間に馬丁と主人とは綱を引いて、桶を井戸の外へだんだん引き上げました。すると、一同が見て、驚きあきれたことには、水銀に他ならぬ件《くだん》の鬼神《イフリート》が、桶の外へ踊り出てきて、叫んだのでした、「アッラーフ・アクバル(24)。」すると四人の学者たちは言い合いました、「これは、御名《みな》を唱えるのだから、信徒の中の魔神《イフリート》じゃ。」けれども貴族《アミール》は間もなく、これが人類の一人の男であることがわかったので、彼に尋ねました、「お前はもしや泥棒かな。」彼は答えました、「いえいえ、アッラーにかけて、私めは貧しい漁師でございます。先ほどティグリス河の畔りで眠っておりましたときに、私は眠りながら、空気と交合をして(25)しまい、目が覚めると、ぬれておりましたので、体を洗おうと思って、水の中に入ったのでございます。けれども渦巻が私を水の底へ引きずりこみ、地下水の流れが私を押し流し、いろいろな水脈の層を通して、この井戸まで連れて来てしまったのですが、ここで私の天命が見出され、あなた様を通じて、私が救われたのでございます。」貴族《アミール》はこのまことしやかな物語を少しも疑わずに、言いました、「一切は記《しる》されてあるところより起るものじゃ。」そして彼に古い外套を与えて身に纒わせ、井戸の冷たい水の中に長くいたことを気の毒がりながら、彼を放してやったのでありました。
水銀が蛾のアフマードの家に到着しますと、みんながたいそう案じてはいましたが、いまの出来事を物語ったときには、みんなが彼のことをたいそう嘲り、ことに駱駝の背のアイユーブなどは、彼にこう言ったものでした、「アッラーにかけて、どうしてあんたがカイロで、盗賊団の頭目《とうもく》なんぞをしていられたんだろう。それでどうしてバグダードでは、みすみす小娘なぞに騙されたり、剥ぎ取られたりするんだろう。」すると、折から同僚の家を訪ねて来ていたペストのハサンが、水銀に尋ねました、「おお、うぶなエジプト人よ、お前は少なくとも、自分をからかった若い女の名前ぐらいは、わかってるのだろうな。そして、その女が誰で、誰の娘かぐらいは、知ってるのだろうな。」彼は答えました、「ええ、アッラーにかけて、その女は商人の娘で、ある商人の妻なんです。名前のほうは、言ってくれませんでしたがね。」この言葉を聞くと、ペストのハサンは大声で哄笑し、そして彼に言いました、「それならおれが教えてやろう。お前が結婚した女だと思っているその女は、おれが請け合うが、処女《きむすめ》の若い娘なんだぜ。その女はザイナブという名前だ。そしてどこの商人の娘でもなくて、われわれの伝書鳩の女管理役、凄腕ダリラの娘なんだ。この女とそのお袋なら、全バグダードを小指の上で廻してみせるだろうぜ、やあ、アリ。この女こそ、お前の親分をからかって、着物を剥ぎ取ったやつなんだ。親分ばかりか、ここにいる四十人の部下までやられたんだ。」すると水銀のアリがじっと考え込んでおりますので、ペストのハサンは彼に訊ねました、「お前は今からどうしようと思っているんだい。」彼は答えました、「その女と結婚しようと思ってるんです。というのは、何はともかく、私はあれにぞっこん惚れ込んでいるからです。」するとハサンは彼に言いました、「そういうことなら、若い衆よ、おれはその手段を伝授してやろう。というのは、もしおれがついていなかったら、お前は始めからそんな無鉄砲な企ては、きっぱりあきらめて、あの強《したたか》な女子《おなご》のことについては、お前の肝臓を鎮めたほうがいいからな。」水銀は答えました、「やあ、ハサン、お知恵をかして私を助けて下さい。」ハサンは彼に言いました、「親しみこめて心から悦んで、だが、それには条件があるぜ、今後お前はおれの掌《たなごころ》からしか飲まないし、おれの旗の下しか歩かないということだ。そして、そういうことになったら、おれはお前の企てを成功させ、望みを叶えてやることを約束しよう。」彼は答えました、「やあ、ハサン、私はあなたの若い衆で、あなたの弟子です。」するとペストは言いました、「では先ず、着物をすっかり脱げ。」そこで水銀は着ていた古外套を脱ぎ捨てて、すっ裸で現われ出ました。
するとペストのハサンは、松脂《まつやに》のいっぱい入った壺と一枚の牝鶏の羽をとって、これでもって、水銀の全身と顔を黒く塗り、とうとう彼を黒人そっくりにしてしまいました。次に、もっとそっくり似せるために、その唇と眼瞼《まぶた》の縁をどぎつい赤色で染め、これをちょっとのあいだ乾かしておき、父からの貴い遺産を手拭で隠してやり、それから彼に言いました、「そら、これですっかり黒人に変ったぞ、やあ、アリ。それから同じく、お前は料理人になるんだぞ。実はこうなのだ、ダリラの料理人で、ダリラと、ザイナブと、四十人の黒人と、スライマーンの羊飼の犬と同じ種族の四十匹の犬と、これらの食事を作っている男は、お前みたいに、黒人なんだ。お前はこれから出掛けて行って、何とかしてこの男に出あうんだ。そして、こいつに黒人の言葉で話しかけ、挨拶《サラーム》をしたあとで、言ってやれ、『黒人の兄弟よ、おれたちが一緒に、あのおれたちの醗酵酒の、うまいブーザ(26)を飲んだり、小羊のカバーブ(27)を食べたりしたころから、ずいぶんしばらくぶりだなあ。さあ今日はひとつ酒盛りをしようじゃあねえか。』ところが、やつは台所の世話や仕事があるので、そういうわけにはいかないと答えて、自分のほうからお前を台所へ招待するだろうよ。そこで、向うへ行ったら、お前はせいぜいこいつを酔っ払わせて、やつがダリラと娘のために料理する御馳走の品数と分量や、四十人の黒人と四十匹の犬の食物や、台所と食糧蔵の鍵の在り場所など、その他あらゆることについて、訊ねてみるんだ。するとやつはお前に何から何までしゃべってしまうだろう。というのは、酔っ払いというやつは、素面《しらふ》のときにはけっして話さぬことでも、何一つ隠し立てをしないもんだからな。いったん、やつからそういういろいろな実情を聞きこんでしまったら、お前はさっそくやつを麻酔剤《バンジ》で眠らせて、やつ自身の着物に着換え、やつの料理疱丁を帯にさし、食糧の籠をとり、市場《スーク》に行って肉や野菜を買い、また台所に戻って来て、食糧蔵に行き、バター、油、米、そのほかそういったものを要《い》るだけ取って、聞きこんだ指示に従って御馳走を料理し、これをきちんと並べて、そこに麻酔剤《バンジ》を混ぜ、そして、これをダリラや、その娘や、四十人の黒人や、四十匹の犬などに出してやり、こうしてやつらを眠らせてしまうんだ。そこでお前はこいつら一同の着物や衣類を剥ぎとり、そして、これをおれのところへ持って来い。だが、やあ、アリ、もしもザイナブを首尾よく手に入れて女房にしようと思うなら、お前はその上に、教王《カリフ》の伝書鳩をつかまえ、これを鳥籠に入れて、おれのところへ持って来なければいけないぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十六夜になると[#「けれども第四百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞きますと、水銀のアリは返事をする代りに、片手を額にやって、そのまま一言も言わずに、その黒人の料理人を探しに外へ出てゆきました。彼は市場《スーク》でその黒人に出あいますと、近づいて言葉をかけ、再会の挨拶《サラーム》をしたあとで、この男をブーザを飲みにゆこうと誘いました。けれども料理人は仕事が忙しいことを口実にして、アリに宿舎《カーン》まで一緒に来ないかと誘いました。そこへ着きますと、水銀はペストのハサンの指令どおり、間違いなく行動いたしまして、いったん彼を招いた男を酔っ払わせてしまうと、さっそくその日の料理のことを尋ねました。料理人は答えました、「おお黒人の兄弟よ、おれは毎日、昼飯には、シート・ダリラとシート・ザイナブに五品の違う色の、違った御馳走をこしらえるんだよ。そして晩飯には、同じ品数の御馳走をこしらえなけりゃならねえんだ。もっとも今日は、もう二品よけいに註文されたよ。だから、おれがこれから料理する昼の御馳走というのは、蚕豆《そらまめ》、豌豆、スープ、極上の羊のシチュー、それに薔薇のシャーベットさ。追加の二品の御馳走というのは何かといえば、それは蜜とサフラン入りの飯と、皮をむいた巴旦杏《はたんきよう》と砂糖と花入りの柘榴の実一皿なんだよ。」アリは彼に訊ねました、「ふだんお前さんの女主人たちには、どんな風にして食事をお出しするんだね。」彼は答えました、「おれはお二人に、それぞれ別々に食布を敷いてあげるね。」彼は訊ねました、「それから四十人の黒人には?」彼は答えました、「連中には、蚕豆《そらまめ》をゆでて、バターと玉葱でいためたものと、それに、飲み物としてブーザの壺をひとつ出してやる。あいつらにはそれで沢山さ。」彼は訊ねました、「それから犬は?」料理人は言いました、「あの犬どもには、めいめい三オンスの肉と、御主人方の食事から残った骨をやるのさ。」
こうしたいろいろの事情がわかったとき、水銀はすばやく料理人の飲み物に、麻酔剤《バンジ》を混ぜましたので、料理人はこれを飲むと、まるで黒い水牛のように、どたりと地面に転がってしまいました。そこで水銀は、釘にかかっていた幾つかの鍵をぶん取って、その中から、玉葱の皮と羽がくっついているのは台所の鍵、油とバターが滲み込んでいるのは食糧倉庫の鍵と、見わけました。そしてアリは必要なあらゆる食料品を取りに行ったり、買いに行ったりしましたが、台所の猫までが、自分の主人とアリの似ていることに騙されてしまいましたので、彼はこの猫のあとについて、まるで子供の頃からここに住んでいたかのように、宿舎《カーン》中を廻《めぐ》り歩き、料理を作ったり、食布を拡げたりして、みんなの食物に麻酔剤《バンジ》を混ぜ、ダリラと、ザイナブと、黒人たちと、犬に食べ物を出したのでしたが、料理や料理人の変ったことは、誰も気づくことができませんでした。すべてはこういう次第でした。
宿舎《カーン》中の人が催眠剤の利き目で眠りこんだのを見たとき、水銀はまず老婆の着物を脱がしますと、この女が極めて醜く、全くいやらしいとわかりました。そこで彼は老婆から礼服と兜《かぶと》を奪いまして、それから彼の愛する女、彼が最初の手柄を立てようとする原因となった女、ザイナブの部屋へと侵入しました。彼はこの女の着物をすっかり脱がせますと、これがまことに素晴らしく、念願どおりに好ましく、化粧も行き届き、小ざっぱりとして、快い香りを漂わしていることがわかりました。それでも彼はまことに良心的な男でしたので、同意を得ずに彼女を開こうなどとはすこしも思わず、ただ鑑定家として、彼女のあらゆるところを触ったり、探ったりして、その将来の値打や、堅さや、柔かさ加減や、滑かさや、感じ方などを、とくと判断するだけで満足いたしました。そしてこの感じ方の試験のときに、足の裏を擽《くすぐ》ってみますと、彼女は彼を烈しく蹴飛ばしましたので、彼はこの女が極めて敏感であることを知りました。そこで、こうして彼女の体質について安心を得ますと、彼は彼女の着物をとり、そして黒人全部の衣類も剥ぎとってしまいました。それから彼は露台に上り、鳩舎に入り、一羽残らず鳩をつかまえ、これを鳥籠に入れ、そしてこっそりと、戸も閉めずに、蛾のアフマードの家へ戻りますと、そこにはペストのハサンが待っていましたので、これに鳩と一緒に、分捕り品全部を渡しました。ペストのハサンは、その手際に全く驚き入って、彼に祝辞を述べ、これにザイナブと結婚させるよう、力を貸すと約束いたしました。
凄腕ダリラのほうは、彼女は麻酔剤《バンジ》のために陥っていた眠りから、いちばん最初に眼をさましました。彼女は完全に正気をとり戻すまでに、しばらく時間がかかりました。けれども、眠らされたことがわかりますと、彼女は躍り上って、年寄り女の普段着を身に纒い、まず鳩舎に馳せつけてみましたが、そこには鳩はからっぽでした。そこで宿舎《カーン》の中庭に降りてみますと、犬はみな犬小屋の中で死んだように横になって、まだ眠り込んでおりました。黒人たちを探しましたが、これまた一人残らず深い眠りに落ちていて、料理人も同様でした。そこで彼女は憤怒の極に達し、娘のザイナブの部屋に馳せつけてみますと、娘は首に一枚の紙を糸でぶら下げられ、丸裸で眠り込んでおりました。その紙を開けてみますと、そこに次のような言葉を読みました、「この一切の勇猛、果敢、機敏、巧妙なる張本人こそは、われなり、すなわち、カイロの水銀のアリにして、われ以外の余人に非ず。」これを見て、ダリラは思いました、「ひょっとすると、この呪われたやつは、娘の南京錠を毀したかも知れないよ。」そして彼女は慌てて娘の上に身をかがめ、調べてみますと、娘の南京錠は手つかずのままなことがわかりました。これを確かめると、ダリラはいくぶん気が慰《やす》まり、娘を起す決心がつき、ザイナブに麻酔剤《バンジ》消しの薬を吸わせました。それから、今しがた起ったことをすっかり娘に語ってやり、そして付け加えました、「おお私の娘よ、あの水銀は、お前の南京錠をたやすく毀せたのに、そういうことはしなかったんだから、とにかくあの男には感謝しなくちゃいけないよ。あいつはお前の鳥に血を流させる代りに、教王《カリフ》の鳩を奪いとっただけで満足したんだからね。さて、これから私たちはどうなることかしらん。」けれども、間もなくダリラは鳩をとり戻す手段を考えついて、娘に申しました、「ここであたしを待っておいで。そんなに長く留守にしないからね。」そして彼女は宿舎《カーン》を出て、蛾のアフマードの家に向い、その戸を叩きました。
そこにいたペストのハサンは、すぐに叫びました、「あれは、凄腕ダリラだ。あの叩き方で、おれにはあいつだということがわかる。すぐに戸を開けてやれ、やあ、アリ。」するとアリは、駱駝の背をつれて、ダリラに戸を開けてやりにゆくと、彼女は顔に微笑を浮べながら入って来て、並いる一同に挨拶《サラーム》しました。
ところが、ちょうどこのとき、ペストのハサンと蛾のアフマードをはじめ、部下の者どもは、食布をとり囲んで床に腰を下し、鳩の焼肉と赤蕪と胡瓜の御馳走で、食事をしているところでした。そこで、ダリラが入ってゆきますと、ペストと蛾は彼女に敬意を表して、立ち上って、これに言いました、「おお霊性満てる御老婆殿、われらの母よ、お坐りになって、われわれと一緒にこの鳩を召し上って下さい。この饗応のあなたの分の御馳走は、別にとっておきましたから。」この言葉を聞くと、ダリラは顔前に世界が暗くなるような気がして、叫びました、「あんた方みんなの恥じゃないのかね、教王《カリフ》が御自身のお子様方よりも可愛がっていらっしゃる鳩を盗んで、焼いてしまうなんて。」両人は答えました、「じゃあ、いったい誰が教王《カリフ》の鳩を盗んだんだね、おおわれらの母よ。」彼女は言いました、「そりゃ、このエジプト人の水銀のアリだよ。」そのアリは言いました、「おおザイナブのおっかさんよ、私がこれらの鳩を焼かしたときには、まさかそいつが伝書鳩だったとは、知りませんでしたねえ。いずれにしても、これはあんたの分ですよ。」そして彼は焼いた鳩の一羽を、彼女に差し出しました。そこでダリラは鳩の翼の肉をひと切れ取って、唇のところに持ってゆき、ちょっと味を見て、叫びました、「アッラーにかけて、私の鳩はまだ生きているよ。だって、これはあの鳩の肉じゃないもの。私はうちの鳩には、麝香を混ぜた穀類を食べさせていたんだからね、鳩の体のなかに残っている麝香の香りと味で、うちの鳩ならそうとわかるだろうよ。」
ダリラのこの言葉を聞いて、並いる一同は笑いだしましたが、ペストのハサンは彼女に言いました、「おお、われらの母よ、あんたの鳩は無事でおれの家にいるよ。そこでおれは、そいつをあんたに返してやってもいいと思うのだが、ただ条件が一つあるんだ。」彼女は言いました、「言っておくれよ、やあ、ハサン。私は前もって、あんたの条件は何でも承知するよ。今は私の頭はあんたの両手の間にあるんだからね。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十七夜になると[#「けれども第四百五十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ハサンは言いました、「それではいいかね、もしも鳩を取り戻したいなら、あんたは、おれたちの若い衆の筆頭、カイロの水銀のアリの望みを、聞きとどけてさえくれればいいんだ。」彼女は訊ねました、「その望みとはどんなことなんだね。」彼は言いました、「あんたの娘のザイナブと結婚させてもらうことさ。」彼女は答えました、「それは私にとっても、あの娘にとっても、名誉なことだよ。それは私の頭と眼の上にあるでしょう。それでも私は、わが娘に、気の進まない結婚を強いるわけにはゆかないよ。では、先ず初めに私に鳩を返してくれないかね。というのは、私の娘を手に入れようとするのに、ぺてんなんぞ使っちゃいけない、慇懃なやり方でしなけりゃいけないからね。」そこでハサンはアリに言いました、「鳩を返してやれ。」水銀は鳥籠をダリラに渡しますと、彼女は彼に言いました、「私の若い衆よ、もしあんたがこれから、本気にまっとうな手段で私の娘と一緒になろうと思うなら、話を持ってゆくべき相手は、私なんぞじゃなくてね、娘の叔父で、私の弟の、ゾライクという天ぷら屋なんだよ。事実この人が、ザイナブの法律上の後見人なんだからね。私にしても、娘にしても、彼の同意がなければ、何もできはしないんだよ。けれども、私はあんたのことを娘に話してあげ、あんたのために、弟のゾライクに取りなしてあげることは、お約束するよ。」そして彼女は引き上げてきて、笑いながら、娘のザイナブに今しがた起ったことと、どんな風に水銀のアリが娘を結婚に所望したかを語ってやりました。するとザイナブは答えました、「おお私の母よ、私としては、この結婚に反対じゃないわ。だって、アリは美男で、優しくて、その上、私にとても礼儀正しくてさ、私の眠っていたときだって、破れたものを破らなかったんですものね。」けれどもダリラは答えました、「おお娘や、アリはゾライク叔父さんからお前を首尾よく手に入れる前に、きっと、その仕事で、たとえ命でなくとも、手足ぐらいはなくしてしまうと思うよ。」彼女たち二人は、以上のようでございました。
一方水銀のアリのほうは、彼はペストのハサンに訊ねました、「では、そのゾライクとはどんな男なのか、その店はどこにあるのか教えて下さい。さっそく彼に、姉の娘との結婚を掛け合いにゆきますから。」ペストは答えました、「わしの伜よ、そのゾライクといわれる稀代の狡猾野郎から、あの娘を手に入れようと思うくらいなら、お前は、その美しいザイナブとやらのことなぞは、今からさっさと、きっぱりあきらめてしまったほうがいいかも知れないぜ。実はこうなんだ、やあ、アリ、そのゾライク爺さんというのは、今こそ天ぷら屋をしているが、昔は盗賊団の頭目で、その手柄ときたら、おれよりも、お前よりも、おれたちの兄弟蛾のアフマードよりも上手《うわて》で、イラク中に知れ渡っているやつなんだ。こいつは実に悪賢い、腕っこき野郎で、身動きもせずに、山を貫き、空に星を摘み、月の眼を彩る瞼墨《コフル》を盗むことができるくらいのやつなんだ。手管や、悪辣さや、あらゆる種類の早業にかけては、おれたちの中でもあいつと肩を並べられる者はいやしないよ。今こそ、あいつも利口になって、泥棒とか盗賊団の頭目なんぞという昔の商売に見きりをつけ、店を開いて、天ぷら屋になったことは、事実だよ。だが、たとえそんなものになったって、やつの昔の腕前からは、やっぱり何かが残っていることには変りはないね。そういう工合だから、やあ、アリ、お前にこのならず者の狡さを想像させるためには、あいつの考え出した最近のいんちき手段のことを話してやれば、沢山だろうよ。それは、あいつが店に客を寄せて、魚を売り捌くために使っている手なんだがね。やつは店の入口の真中に、自分の全財産の千ディナールが入っている財布を、一本の絹糸で吊り下げたものさ。そして広目屋《ひろめや》を使って、市場《スーク》中に触れさせたんだ、『おお皆様よ、イラクの盗賊殿、バグダードの掏摸《すり》殿、砂漠の追剥殿、エジプトの泥棒殿よ、これなる知らせにお耳をとめられませ。また皆様方、空と地下なる魔神《ジン》と鬼神様《アフアリート》よ、これなる知らせにお耳をとめられませ。どなたなりと、天ぷら屋はゾライクの店に吊り下げられた財布をば、まんまと奪いとることのできたお方は、すなわちその財布の正当の持主になれますのじゃ。』さて、このような口上を聞けば、どんなに大勢のお客が急いで押しかけてきて、魚を買いながら、財布をとろうとしてみたかは、お前にも訳なくわかるだろう。ところが、その中のどんなに腕利きのお客でも、うまくはゆかなかったんだ。というのは、したたか者のゾライクはちゃんと、吊下げた財布に、細い糸で繋がっているからくりを仕組んでおいたのさ。ところで、この財布は、どんなにそっとでも、触るが早いか、鐘や鈴が凄まじい音を立てるのだから、ゾライクは店の奥にいるときでも、お客の相手をしているときでも、その音を聞いて、財布の盗まれるのを防ぐ余裕があるわけなんだ。盗まれるのを防ぐには、やつはただ身を屈めて、足もとに積み上げてある大きな片《かけら》の貯えから、大きな鉛の一片《ひとかけ》を拾いあげ、満身の力をこめて泥棒に投げつけて、こうして腕か足を叩き折るか、さもなければ頭蓋骨をぶち割ってしまえばいいのさ。そういうわけだからな、やあ、アリ、おれはお前にやめろと勧めるんだよ。さもないとお前は、葬式について行って死人の名前も知らずに嘆き悲しむ(28)、あの連中と同じになろうぜ。お前はああいう柄の大きいならず者とは闘いきれない。おれがお前だったら、ザイナブのことも、ザイナブとの結婚のことも、忘れてしまうだろうよ。というのは、忘れることは仕合せの始まりだからな。一事を忘れてしまった者は、それから先は、そのことがなくても暮せるものだ。」
この用心深いペストのハサンの言葉を聞いたとき、水銀のアリは叫びました、「いや、アッラーにかけて、私には、あの暗い眼と、激しい敏感さと、人並でない体質を持っている別嬪を、忘れる決心はとてもつけられません。そんなことは、私のような男にとっては恥辱というもんです。じゃこれから、私は何とかしてその財布を奪い取り、そうやって、その奪い取った財布と若い娘とを引き換えるということで、その泥棒爺に、無理矢理に私の結婚を承諾させてしまわなければなりますまい。」そして彼はさっそく、若い女たちが着るような着物を買ってきまして、瞼墨《コフル》で眼を延ばし、指甲花《ヘンナ》で爪を染めてから、その着物を着こみました。それがすむと、彼は顔の上に絹の面衣《ヴエール》をしとやかに垂らし、まず試しに、女のように体を揺すりながら、何歩か歩いてみますと、これが驚くほど巧くできました。けれども、これだけではありませんでした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十八夜になると[#「けれども第四百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……けれども、これだけではありませんでした。彼は羊を一匹持って来させ、これを屠《ほふ》り、その血をとり、胃の腑をひっぱり出して、これに血を満たし、それを自分の着物の下に入れて、孕み女に見えるように、お腹《なか》の上に置きました。それがすむと、こんどは二匹の牝鶏を絞め殺して、砂嚢《すなぶくろ》をひっぱり出し、この二つの砂嚢《すなぶくろ》に暖い牛乳を満たし、これをそれぞれ胸の上にあてがい、胸の二つの部分のほうを厚ぼったくして、今にも子供を産みそうな女のように見せかけました。そればかりではありません。彼はさらに申し分ないようにするため、お臀《しり》の上に糊をつけた手拭を何本も貼りつけましたが、これがいったん乾いてしまいますと、彼の臀はすごく大きくなり、同時にどっしりとしてきました。こうして姿を変えると、水銀は街に出て、天ぷら屋ゾライクの店のほうへそろそろと向いましたが、そのとき、行きあう男たちは叫んだものでした、「やあ、アッラー、なんてでっかい臀だろう。」
途中で水銀は、お臀のほうを締めつける糊つきの手拭のために、ついには体の自由がきかなくなってしまい、驢馬を連れて通りかかった驢馬曳きを大声で呼びとめ、血のつまった膀胱《ふくろ》や、牛乳のいっぱい入った砂嚢《すなぶくろ》を潰さないように、用心を重ねながら、その驢馬に乗せてもらいまして、そのまま天ぷら屋の店先に着きましたが、そこを見ますと、なるほど、入口には財布が吊り下げてあり、ゾライクはしきりに魚を揚げており、一方の目では魚を見つめながら、もう一方の目では、お客や通行人の往来を見張っているところでした。そこで水銀は驢馬曳きに言いました、「やあ、人足《ハンマル》よ、私の鼻に天ぷらの香いがしてきてね、私の妊婦の食欲が、あのお魚のほうへぐんぐん引っ張られてゆくんだよ。私はすぐ食べたいから、あれを一つ急いで買ってきて頂戴。さもないと、私はきっと道の真中で流産してしまうよ。」そこで驢馬曳きは店のまえで驢馬をとめ、そしてゾライクに言いました、「この妊婦さんのために、急いで揚げ魚を一つおくれ。この方のお子さんが、その揚げ物の香いのために、やたらと動き廻っているところで、今にも流産して外に出てしまいそうなんだから。」年寄りの悪党は答えました、「ちょっとお待ちよ。魚はまだ煮えてないんだから。もし待てないというなら、あんたの背中の広いところをおれに見せるがいい。」驢馬曳きは言いました、「そこに並べてあるやつを一つおくれよ。」彼は答えました、「売り物じゃないよ、そこのやつは。」それから、驢馬曳きが手を貸して、自称の妊婦を驢馬から下してやり、いらいらと待ちかねている彼女を、店さきの仕切板により掛らせにつれてきましたが、ゾライクはもうそんなことには注意も払わず、商売柄の微笑を浮べて、揚鍋の中の魚をひっくり返しつづけながら、売り口上を歌っておりました。
[#ここから2字下げ]
珍味の食事よ、おお水中の鳥の肉。
銅貨一枚で手にいる黄金《こがね》と銀《しろがね》。
おお魚よ、お前らを入れて喜ぶ油の中で、ぴちぴち跳ねる魚よ。
おお珍味の食事でござい。
[#ここで字下げ終わり]
さて、ゾライクがこうして口上を歌っている間に、妊婦のほうでは、着物の下から血潮が流れだして、店を浸《ひた》して行ったので、突然大きな叫び声をあげて、苦しげに呻きました、「アイー、アイー、ウィエー、ウェイー、私の胎《はら》の実《み》が。アイー、私の背中が割れるよ。ああ、横っ腹が。ああ、私の子供が。」
これを見て、驢馬曳きはゾライクに叫びました、「わかったろう、おお禍いの鬚め。だから、言わねえことじゃねえ。貴様が意地悪をして、望みを叶えてあげなかったから、この人は流産しちまったんだ。貴様はアッラーとこの人の御亭主の前で、責任を取らなくちゃあいけねえぞ。」するとゾライクは、この出来事にちょっと怖くなりだし、女から流れ出る血で汚《よご》されることを嫌って、店の奥まで引っ込んでしまいましたので、ちょっとの間、入口に吊してある財布から眼を離すことになりました。そこで水銀は、この僅かな隙に乗じて、財布をつかみ取ろうと思いました。けれども彼が手を近づけたとたんに、鐘と鈴と鉄屑のとほうもない音が、店の隅々まで鳴り渡って、手をかけたことを知らせましたので、ゾライクは馳せつけて来て、水銀の手がさし延べられたところを見つけ、ひと目でこいつが悪戯《いたずら》を働こうとしていることがわかり、大きな鉛の板を掴んで、水銀の腹に投げつけながら、叫びました、「やい、首吊り台の鳥め、これでも食らえ。」そして鉛の塊りがえらい勢いで飛んできましたので、アリは自分の手拭や、潰れた砂嚢《すなぶくろ》の牛乳や、血などの中に足をとられ、通りの真中に転がってしまい、危うくとたんに命を落すところでした。それでも、彼は何とか起き上って、足を引きずりながら、蛾のアフマードの家まで辿り着くことができまして、彼はここで自分の失敗に終った企てを物語ったのですが、一方、ゾライクの店の前には、通行人たちが群がって、彼に向って叫んでおりました、「貴様は市場《スーク》の商人《あきんど》か、それとも喧嘩屋稼業なのか。もし商人《あきんど》なら、神妙に自分の商売をやって、そんな人を釣るような財布を下ろし、人様に貴様の奸知や悪心を働かせないようにしろ。」彼はせせら笑って、答えました、「アッラーの御名《みな》にかけて、ビスミラーヒ(29)、わが頭上とわが眼の上に。」
水銀のアリのほうは、いったん家に戻って、身に受けたひどい打撃から回復しますと、それでもやはり、自分の計画を遂行することを断念しようとは思いませんでした。彼は体を洗い身を清めに行って、馬丁に変装し、片手に空《から》の皿を持ち、片手に銅貨五枚を持って、ゾライクの店へ魚を買いに出向きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百五十九夜になると[#「けれども第四百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで彼はその五枚の銅貨をゾライクに差し出して、申しました、「おれの皿にお前の魚を入れてくれ。」するとゾライクは答えました、「わが頭《こうべ》の上に、おお旦那様。」そして彼は店頭の盆の上に並べてあった魚を、馬丁に渡そうといたしました。けれども馬丁はこれを断わって、言いました、「おれは熱いやつが欲しいんだ。」するとゾライクは答えました、「それはまだ揚げているところでございます。火を熾《おこ》しますから、ちょっとお待ち下さいまし。」そして彼は店の裏の間《ま》に入ってゆきました。
水銀はさっそくこの隙を利用して、財布に手をかけました。けれども、突然、鐘や、鈴や、がらくたや、鉄屑などの音が、耳を聾さんばかりに店中に鳴り渡りました。するとゾライクは、店の端から端へとすっ飛んで来て、鉛の塊りをつかみ、これを偽《にせ》馬丁の頭へ力まかせに投げつけて、叫びました、「やい、老いぼれのおかま掘られ野郎め、おれが貴様の正体を見抜けなかったと思うのか、貴様の皿と金《かね》の持ち方だけみたってわかるじゃないか。」けれども水銀は、一度目の経験からすでに用心をしておりましたので、すばしっこく頭を下げて狙いを外し、店の外へ逃げ出してしまいましたが、重い鉛の塊りのほうは、折から法官《カーデイ》の奴隷が頭に載せていた、凝乳の入った磁器を何本も置いてある盆の真中に、飛びかかって行ったのでした。そして凝乳は法官《カーデイ》の顔と鬚に跳ねかかり、その衣服とターバンをびしょびしょにしてしまいました。すると店の周りに集った通行人たちは、ゾライクに向って叫びました、「今度こそは、おおゾライクめ、法官《カーデイ》様が貴様の財布の中にしまってある資金《もとで》の利息をお払わせになるぞ、おお喧嘩屋の大将め。」
水銀のほうは、いったん蛾のアフマードの家に着きますと、アフマードにも、ペストにも、自分の第二回目の企てが不成功に終ったことを語りましたが、少しも気を落そうとはしませんでした。というのは、ザイナブへの恋が彼を支えていたからです。彼は蛇使いと手品師に変装して、ゾライクの店の前へと戻りました。彼は地面に坐り、首が膨れて、舌が投槍のように尖った三匹の大きな蛇を、袋からとり出し、これに向って笛を吹き始めました。そのうち突然、素早い身振りで、いちばん大きな蛇を、店の真中へ、ゾライクの足もと目がけて投げつけますと、蛇ほど怖いものはなかったゾライクは、おじけ立って、喚き声をあげながら、店の奥へ逃げこんでしまいました。すると水銀は、すぐさま財布に飛びかかって、これをさらおうといたしました。けれども彼の思惑は外れ、ゾライクは恐怖にもかかわらず、片目で彼を監視しておりましたので、まず最初に蛇に向って、鉛の塊りで狙いも違わぬ一撃を加え、見事にその頭を打ち砕き、それから、もう一方の手で、二番目の塊りを力まかせに、水銀の頭へ見舞ったのですが、彼は身を屈め、これを外して、逃げ出してしまいましたので、この恐るべき塊りのほうは、一人の老婆のうえに襲いかかり、これを施すすべなく、打ち砕いてしまいました。すると、群がり集った人々はいっせいに、彼に向って叫びました、「やあ、ゾライク、これこそ、アッラーにかけて、ほんとに許されないぞ。貴様はその災厄《わざわい》のもとの財布を、絶対にそこから外してしまわなければいかん。さもなければ、おれたちが力ずくで奪ってやるぞ。貴様の悪心からひきおこされたいろいろな不幸は、もうたくさんだ。」するとゾライクは答えました、「わが頭《こうべ》の上に。」そして彼は、不承不承ではありましたが、財布を外して、これを家のなかに隠しにゆく決心をして、独りごとを言いました、「あの水銀のアリの野郎は、なにしろああいう頑張りの強いやつだから、こうでもしなければ、きっと夜になってから店の中に入って来やがって、この財布を奪ってゆくようなまねをしかねないわい。」
ところで、ゾライクは、むかしジャアファル・アル・バルマキーの女奴隷で、その後、御主人のお情けによって解放された、一人の黒人女と結婚をしておりました。そしてゾライクは黒人女の細君から、一人の男の子まで儲けておりましたが、この子はやがて割礼の式を挙げることになっておりました。ですから、ゾライクが女房のところに財布を持って来たときに、女房は彼に申しました、「まああんたにしては珍しいこと、何て気前がいいんでしょう。おおアブドゥラーのおとっつぁんよ。それじゃ、アブドゥラーの割礼式はうんと派手に挙げられるわね。」彼は答えました、「それじゃ、おれが財布を持って来たのは、お前にこれをみんな割礼の費用として使わせるためだと思っているのか。アッラーにかけて、そんなことはさせねえぞ。さあ早く下に行って、台所の地べたに穴を掘って、こいつを隠してきな。そして早く戻って来て、眠るんだ。」すると黒人女は下に降りて、台所に穴を掘り、財布を埋めて戻って来ますと、ゾライクの足もとに横になりました。すると、ゾライクも黒人女の温《ぬく》みのために眠りに襲われまして、夢を見たのでありますが、その夢の中で、彼は、一匹の大きな鳥が嘴《くちばし》で台所に穴をあけ、そこから財布を掘り出し、これを爪につかんで運びつつ、空高く飛び去ってゆくのを見たような気がしたのでした。それで彼はぎょっとして眼をさまし、大声をあげました、「おおアブドゥラーのおっかさんや、いま財布が盗まれたぞ。早く台所を見にゆけ。」すると眠りから呼びさまされた黒人女は、急いであかりをもって台所に降りてゆきますと、実際に、鳥ではなくて、一人の男が、財布を手に持ち、開け放たれた戸口から逃れ出て、通りを走ってゆくところを見たのでありました。これこそは水銀でありまして、彼はゾライクのあとをつけ、その動静と細君の動静をうかがい、そして最後には、台所の扉の後ろに身をひそめて、ついにこの渇望の財布を奪いとることに、成功したのでありました。
ゾライクは、財布が失《う》せたことを確かめますと、叫びました、「アッラーにかけて、おれは今夜のうちに取り返してやるぞ。」すると細君の黒人女は、彼に言いました、「もしお前さんが財布を持って帰らなかったら、あたしゃ家の戸をあけちゃあげないよ。そして、お前さんを通りに寝かしてやるからね。」そこでゾライクは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十夜になると[#「けれども第四百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そこでゾライクは大急ぎで自宅を出て、近道を通り、かねて水銀のアリの泊り先と知っている蛾のアフマードの住家に、アリより先に着きまして、手許に持っている一揃いの木釘道具の中の、さまざまな木釘を使って、戸の掛金をあけ、はいったあとをまた用心深く戸を閉めて、そして静かに水銀のアリを待ち構えておりますと、今度は、まもなくアリが到着し、彼の習慣に従って戸を叩きました。そこでゾライクは、ペストのハサンの声をまねて、尋ねました、「誰じゃ。」彼は答えました、「エジプト人のアリです。」ゾライクは彼に尋ねました、「して、あのゾライクの悪党の財布は持って来たか。」彼は答えました、「ここに持っています。」ゾライクは言いました、「さっそくだが、お前に戸を開けてやる前に、それを穴からおれに渡してくれ。というのは、あとで話してやるが、おれは蛾と賭をしたんだから。」それで水銀が戸の穴から財布をゾライクに渡しますと、ゾライクはすぐさま露台によじ登り、そこから隣りの家の露台へ移り、その階段を降り、扉を開けて、通りに逃げ出し、そしてわが家のほうへと向いました。
水銀のアリのほうは、通りで長い間じっとしておりました。けれども、誰も自分に戸を開けてくれようとする者がいないのを見たとき、彼は家中を起してしまうほど凄まじい勢いで戸を叩きますと、ペストのハサンが叫びました、「戸口にいるのはアリだぞ。おお駱駝の背よ、早く開けに行ってやれ。」それから、水銀が入って来たとき、ペストは皮肉な調子で、彼に尋ねました、「して、あの悪党の財布は?」水銀は叫びました、「おお親分、冗談はもう沢山でさ。私が戸の外からお渡ししたことは、よく知ってなさるくせに。」この言葉を聞くと、ペストのハサンは笑いを爆発させた勢いで、ひっくり返って尻餅をつき、そして叫びました、「そいつはやり直しをしなけりゃだめだ、やあ、アリ。そりゃあ、ゾライクが自分の財産を取り返しちまったのさ。」そこで水銀はちょっと考えこみ、そして叫びました、「アッラーにかけて、おお親方、今度こそ、あの財布をあなたに持って来なかったら、私はもう自分を今の名前に恥じない男とは見たくはありません。」そして時を移さず、非常な近道を次々に通って、ゾライクの家に走ってゆき、ゾライクが到着する前に、隣家の露台から家の中へと入りこみ、そしてまず、黒人女が自分の子供、つまりあす割礼を行なうことになっている小さな男の子と、一緒に眠っている部屋に、はいってゆきました。彼は最初に黒人女の上に飛びかかり、手足を結《いわ》えて、これを敷蒲団《マトラー》の上に身動きができぬようにし、猿轡《さるぐつわ》をかませました。次に小さな男の子を捕えて、これにもまた猿轡をかませ、翌日のお祝いに供えることになっている、まだ温い菓子がいっぱい入っている籠の中へ、この子を入れてしまい、そして窓辺に行って肱をつき、ゾライクの到着を待っておりますと、やがてゾライクがやって来て、戸を叩きました。
そこで水銀は、黒人女の声と口調をまねて、尋ねました、「あんたかね、やあ、旦那《スイデイ》。」彼は答えました、「そうだ、おれだよ。」アリは言いました、「財布を取り返して来たかい。」彼は言いました、「ああ、これがそうだ。」アリは言いました、「暗くってよく見えないね。あたしゃ、お金を勘定してみてからでなくちゃ、戸を開けてやらないよ。それじゃ、窓から籠を下してやるからね、その中に財布を入れておくれ。そうしたら、戸を開けてあげるよ。」次に水銀は窓から籠を下しますと、それにゾライクが財布を入れました。するとアリは急いで、またそれを引き上げました。彼はその財布と、小さな男の子と、菓子の籠をとって、まえにきた道を逃げ帰り、蛾のアフマードの家に戻り、そして、とうとうペストのハサンの手の間に、三つの戦利品を置きました。これを見ると、ペストは彼に向って盛んに祝辞を述べ、彼のことを大いに誇ってやりました。次いで一同は、ゾライクについてさんざん冗談を飛ばしながら、祝いの菓子を食べ始めました。
ゾライクのほうは、彼は長いあいだ、通りで、女房の黒人女が戸を開けてくれるのを待っておりました。けれども黒人女は戻って来ませんので、とうとう痺れをきらして、戸を激しく続けざまに叩き、隣近所の人々やその界隈の犬どもを残らず起してしまいました。それでも誰も戸を開けてはくれません。そこで彼は戸を叩き壊し、かんかんになって、女房のところへ上ってゆき、そして、彼は見たものを見たのでした。
縛《いまし》めをとかれた女房から、今しがた起った一部始終を聞いたとき、彼は烈しく自分の顔を打ち叩き、鬚をかき|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》り、そしてそのままの恰好で走ってゆき、蛾のアフマードの戸を叩いたのでありました。もう朝になっていて、世間の人はみな起きておりました。そういう訳で、駱駝の背が戸を開けにゆき、しょげ返っているゾライクを集会の広間に招じ入れますと、一同の者はどよめく大笑いで彼を迎えました。すると彼は水銀のほうに向って、言いました、「アッラーにかけて、やあ、アリ、財布のことについては、こいつはあんたがせしめなすった。しかし、わしの子供はわしに返してくれ。」するとペストのハサンが答えました、「実はね、おおゾライク、わしの若い衆、水銀のアリは、あんたの子供はもちろん財布まで、あんたに返すつもりなのさ。もし、あんたが姉さんのダリラの娘で、アリの惚れている若いザイナブを、彼の嫁にくれることを承知してくれさえすればね。」彼は答えました、「一体いつの時代から、娘を嫁にもらいたいといって、父親にいろいろ条件をつけるようになったのかね。まずわしに子供と財布を返してもらいたい。その上でその件をお互いに話し合うことにしよう。」そこでハサンはアリに合図をしますと、アリはすぐさまゾライクに子供と財布を渡し、そして言いました、「結婚はいつになりますか。」するとゾライクは薄笑いを浮べて、答えました、「まあせくな。せくな。あんたは、やあ、アリ、わしがザイナブを羊か天ぷらみたいに、勝手に処分することができるとでも思っていなさるのかね。わしだって、あんたがザイナブの要求する結納品を、あの娘のところへ持って来なさらないかぎり、あの娘は進上できないんだ。」水銀は答えました、「私は娘さんの要求する結納品は、ちゃんと持ってゆくつもりですよ。それはどんなものですか。」ゾライクは答えました、「実はね、あの娘は、誰であろうと、結婚の贈物として、ユダヤ人アザーリアの娘、若いカマーリヤの錦襴の衣と、金の冠と、金の帯と、金の上靴《うわぐつ》を持って来ないうちは、決して自分の胸の上には乗せぬという誓いを立てたのだ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十一夜になると[#「けれども第四百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとアリは叫びました、「それだけのことなら、何でもありません。もしも今晩中に、御要求の贈物をお届けしなかったら、私はもうザイナブとの結婚の権利なんぞは要りませんや。」
この言葉を聞いて、ペストのハサンは彼に言いました、「お前に禍いあれ、やあ、アリ、何という誓いを立てたんだ。お前はもう死んだ人間だぞ。そのユダヤ人アザーリアというやつは、不実で、狡猾で、悪心に満ちた魔法使だということを知らないのか。彼はあらゆる魔神《ジン》と鬼神《アフアリート》を意のままに動かすんだぞ。彼は都の外れに、金と銀の煉瓦を互いちがいに組み合せた石造りの宮殿に住んでいるのだ。だが、この宮殿は魔法使が住んでいるときだけ眼に見えて、毎日、家の主《あるじ》が高利貸の仕事で都に行くときには、消え失せてしまうのさ。毎夕、ユダヤ人はいったん家へ帰ると、窓辺に上ってゆき、金の盆にのっけた娘の衣を見せびらかして、叫ぶのだ、『おお、皆の衆、イラク、ペルシア、アラビアの泥棒と詐欺の親方たちよ、ならば手柄に、わが娘カマーリヤの衣を奪い取りに来てみよ。そしてその衣を奪い得る者には、カマーリヤを嫁に進ぜよう。』ところが、やあ、アリ、今までのところでは、われわれの中の最も機敏な盗賊でも、最も狡猾な詐欺師でも、この冒険を試みたものの、さんざんな目に遭うばかりだったのさ。というのは、この名うての魔法使は、離れ業を試みた向うみずの連中を、騾馬だの、熊だの、驢馬だの、猿だのに変えてしまったからなんだ。だからおれは勧めるよ、そんなことはあきらめて、おれたちと一緒にここにいろとな。」けれどもアリは叫びました、「もし私があの感じ易いザイナブへの恋を、むずかしさのためにあきらめたとしたら、何という私の上の恥辱でしょう。アッラーにかけて、私はその金の衣を持って来て、結婚式の晩には、それをザイナブに着せ、そしてその頭には金の冠を戴かせ、しなやかな胴体には金の帯をしめさせ、足には金の上靴をはかせてやりまさあ。」そして彼は即座に、魔法使で高利貸のユダヤ人アザーリアの店を探しに、外へ出ました。
両替屋の市場《スーク》に着いたとき、アリはその店を問い合わせますと、人々はそのユダヤ人を教えてくれましたが、折から、ユダヤ人は金《きん》を秤にかけ、それからこれを袋にあけ、そしてこの袋を、戸口に結《いわ》いつけた牝騾馬の背中に積み込んでいたところでした。この男は実に醜悪で、いかにも取っつきにくい様子でした。それでアリもこの風貌には、いささか胸騒ぎを覚えました。それでも彼は、ユダヤ人が袋を片付け、店を閉め、牝騾馬に跨がり終るのを待って、気取られぬように、そのあとを従《つ》けてゆきました。こうして彼はユダヤ人のあとから、都の城壁の外に着いたのでありました。
アリはこの男がこの上どこまで歩いて行くのだろうと、不審に思い始めておりますと、そのとき、突然ユダヤ人は、外套の隠しから袋を一つとり出して、その中に手を突っ込み、その手にいっぱい砂をつかんで外に引き出し、そして砂の上に息を吹きかけつつ、それをば空中に投げるのを見ました。するとたちまち彼の前には、金と銀の煉瓦を交互に組み上げた壮麗な宮殿が、聳え立つのが見え、それには雪花石膏の大きな柱廊と、大理石の階段がついておりました。ユダヤ人は牝騾馬を連れて、階段を上り、奥のほうへと消え失せてしまいました。けれどもややしばらくすると、彼は錦襴の見事な衣と、金の冠と帯と上靴を載せた、金の盆をもって、窓辺に現われました。そして叫びました、「おお皆の衆、イラク、ペルシア、アラビアの泥棒と詐欺の親方たちよ、ならば手柄に、この品全部を奪い取りに来てみよ。しからばわが娘カマーリヤは、君らのものとなるであろう。」
こうした事どもを見たり、聞いたりいたしますと、豊かな判断力に恵まれていた水銀は、独りごとを言いました、「いちばん賢明な策は、やっぱり、あの呪われたユダヤ人に会いに行って、ゾライクとおれの一件を説明し、おだやかな言葉であの衣を所望することだな。」そして彼は指を空に上げ、魔法使に叫び掛けました、「私は教王《カリフ》の隊長《ムカツダム》アフマードの若い衆の筆頭、水銀のアリというものですが、あなたにお話し申し上げたいことがございます。」するとユダヤ人は彼に言いました、「上って来てよろしい。」そしてアリがその前にやって来たとき、彼はこれに尋ねました、「ところで、お前は何を望むのか。」するとアリは自分の話を物語り、そして彼に言いました、「そういうわけで、いま私は、ダリラの娘、ザイナブに届けるために、その金の衣をはじめ、その他の品々が入用なのでございます。」
この言葉を聞きますと、ユダヤ人は恐ろしい歯を見せて笑い出し、砂占いの卓子をとって、アリの星を占ってから、彼に申しました、「よく聞けよ、もしもお前が自分の一命を大切に思い、わが身の頼むすべなき破滅を望まなければ、わしの忠告に従うがよい。お前の目論見はあきらめよ。と申すのは、お前をそそのかしてこのような冒険を企てさせたやつらは、すでにこのようなことを試みた者全部が身を亡ぼされたと同じように、お前の身をも亡ぼそうとして、そんなことをけしかけたに過ぎぬからじゃ。それに、もしもいまわしがお前の星を占って、お前の運勢がわしの運勢よりも強いことを、砂で判じなかったとしたら、わしはもちろん、ためらわずお前の首を斬ってしまっただろう。」けれども、この最後の言葉を聞いて、にわかにかっとして気負い立ったアリは、いきなり剣を抜き放ち、これをユダヤ人の魔法使の胸に突きつけて、叫びました、「もしも貴様が時を移さず、その衣類をおれによこし、さらに、貴様の異端を誓絶し、信仰証言《シヤハーダ》を唱えて回教徒《ムスリム》となることを承知しなければ、貴様の魂は体から出て行ってしまうぞ。」するとユダヤ人はまるで信仰証言《シヤハーダ》を唱えるかのように、手をさし延べて、言いました、「お前の右手が痺れるように。」するとたちまち、剣を持っていたほうのアリの右手は、そのままの位置で痺れてしまい、剣は床に落ちました。けれどもアリはそれを左手で拾い、それで魔法使の胸をおびやかしました。けれどもこやつは唱えました、「おお左手よ、痺れよ。」するとアリの威嚇している左手が痺れて、剣は床に落ちました。そこでアリは憤怒の限り、右足を上げて、ユダヤ人の腹に蹴込もうといたしました。けれどもこやつは手をさし延べて、唱えました、「おお右足よ、痺れよ。」すると空中に上げたアリの足は、その位置のまま痺れてしまい、そしてアリはもう左のほうの、ただ一本の足で立つだけになりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十二夜になると[#「けれども第四百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……もう左のほうの、ただ一本の足で立つだけになりました。そして利かなくなった手足を使おうと思っても、どうにもならず、結局は平衡を失って、転がったり、立ち上ったりするより何もできず、とうとう力尽きてしまいますと、魔法使は彼に言いました、「お前の目論見はあきらめたか。」けれどもアリは言い返しました、「おれはどうあろうとも貴様の娘の衣類が入用なんだ。」するとユダヤ人は彼に言いました、「ははあ、衣類が欲しいとな。ようし、それじゃお前に衣類を着せてやろう。」そして彼は水のいっぱいはいった茶碗をとりあげ、水を彼にふりかけて、叫びました、「驢馬になれ。」すると即座に、水銀のアリは、驢馬の顔と、新しく蹄鉄をつけた蹄と、ひどく大きな耳を持った、驢馬に変じてしまいました。そして彼は驢馬のように、鼻と尻尾をもちあげて、鼻を鳴らして空気を吸いこみながら、だらしなく啼き始めました。するとユダヤ人は彼の上に支配の呪文を唱えて、完全にその主人となり、そしてむりやりに後じさりさせて、階段を下してしまいました。いったん宮殿の中庭に下りますと、ユダヤ人は驢馬のまわりに、砂上に魔法の円を描きました。するとたちまち壁が立ち上って、狭苦しい囲いが出来あがり、もうここから逃げ出すことはできませんでした。
翌朝、ユダヤ人は彼のところにやって来て、鞍を置き、馬勒《ばろく》をつけて、上に乗り、その耳許で言いました、「お前は牝騾馬と代るのだ。」そして彼を外へ引き出しますと、魔法の宮殿はたちまち消え失せてしまい、ユダヤ人は彼に店への道を取らせて、間もなくそこへ到着しました。ユダヤ人は自分の店を開け、前の日に牝騾馬が繋がれていた場所に、アリの驢馬を繋ぎ、そして自分の秤や、分銅や、金や、銀などの仕事にかかり始めました。驢馬のアリは、言葉だけは別でしたが、判断力や感覚に関するかぎり、自分の人間の能力を失わずにいましたから、飢え死しないためには、自分の食糧の乾した蚕豆《そらまめ》を、歯の間で噛まないわけにゆきませんでした。それでも彼は気を晴らすために、お客たちの鼻先で、立てつづけに大きな音の屁《おなら》を放って、憂鬱を発散させていました。
そうしているうちに、時運に恵まれず破産してしまった一人の若い商人が、高利貸のユダヤ人アザーリアに会いに来て、これに言いました、「私は破産してしまったのだが、とにかく自分の暮しは立てゆかなければならず、女房も養ってゆかなければならない。今ここに、女房の腕輪を持って来ているんだが、これは手許に残っている唯一の最後の財産だ。これと引き替えに、これ相応の代金を私に渡してくれないかね。それで私はなんぞ騾馬とか驢馬でも買い求めて、水撒き屋商売を始めたいと思うのだ。」ユダヤ人は答えました、「もしもお買いになる驢馬が、歩くのをいやがったり、大きな水の荷を運ぶのをいやがるやつだったら、あんたはそいつをくたくたにして、惨めな暮しをさせるお積りですかな。」やがて驢馬曳きになる男は答えました、「アッラーにかけて、もしも歩いたり働いたりするのをいやがりやがったら、そいつの痛みやすい部分におれの棒を突っ込んで、しゃにむに仕事をさせちまうさ。」こうした次第です。そこで驢馬のアリはこの言葉を聞いて、異議を唱えるかのように、物すごい屁《おなら》を一発放ちました。ユダヤ人アザーリアのほうは、そのお客に答えました、「そういうことでしたら、この腕輪と引き替えに、あの戸口に繋いである、私自身の驢馬をお譲りしてあげましょう。こいつはいたわってやったらいけませんぜ。さもないと怠け癖がつきますでな。背中には重い荷をどっさりお積みなさいよ、こいつは頑丈で若いのですからね。」それから話がきまると、水売りは驢馬のアリを連れてゆきましたが、一方アリのほうは、魂の中でこう考えておりました、「やあ、アリ、お前の主人は、お前の背中に、硬い木の荷鞍《にぐら》と重い大きな革嚢《かわぶくろ》を背負わせる気なんだぞ。そして日に十回も、いやそれ以上も、長い道程《みちのり》を歩かせるだろうぜ。疑いなく、お前は頼むすべなく深みにはまっちまったぞ。」
水売りは驢馬をわが家に曳いて戻りますと、自分の女房に、厩《うまや》に下りて行って、飼料《えさ》をやれと言いつけました。すると、若くて見るからにたいそう感じのよいその女房は、蚕豆《そらまめ》の飼料を持ち、驢馬のアリのところへ下りてきて、それを飼料袋のなかに入れて、彼の首にかけました。けれども、ちょっと前から彼女を盗み見ていた驢馬のアリは、いきなり勢いよく鼻から息を吸いこみはじめて、彼女に一発|頭突《ずつ》きを食《くら》わせ、秣槽《かいばおけ》の上に引っくりかえし、着物をめくり、ふるえる分厚な唇で、その顔を撫でまわしながら、彼女に乗っかかり、驢馬の先祖伝来の堂々たる財産、彼の驢馬の商品を、丸出しにしました。
これを見ると、水売りの女房は甲高い悲鳴をあげましたので、近所の女全部が一番に厩に駈けつけてきまして、この光景を見ますと、ひっくりかえっている女の胸の上から、急いで驢馬のアリを追い払いました。そこに今度は亭主がやって来て、ひっくりかえっている女房に尋ねました、「どうしたんだ。」彼女は夫の顔に唾《つば》をひっかけて、言いました、「ああ、不義の子らの伜め、お前さんは驢馬を買うのに、バグダード中を探して、こんな助平な驢馬しか見つけられなかったのかい。アッラーにかけて、夫婦別れをするか、それともこの驢馬を追い出すか、どっちかだよ。」彼は尋ねました、「この驢馬が何をしたというんだ。」彼女は言いました、「こいつはあたしを引っくりかえして、乗っかかってきたんだよ。御近所の方たちがいらっしゃらなかったら、すごい勢いであたしを突き抜いてしまうところだったよ。」そこで水売りは丸太棒で驢馬を打ちすえ、結局これをユダヤ人のところへ連れ戻し、驢馬の不届きな企てを話して、有無を言わさずこれを引き取らせ、腕輪を取り返してしまいました。
水売りが出てゆくと、魔法使のアザーリアは、驢馬のアリのほうを向いて、言いました、「よくもまあ貴様は、女とふざけようなんぞと乗り出したものじゃ、おお極道者め。待っておれ、貴様がそんなに驢馬の身分に満足して、その臆面もない浮気心を抑えないならば、よしおれはまた別の工合に、貴様をこっぴどい目にあわせてやるとしよう。そうすれば貴様は子供や大人の笑い草になるだろうて。」そして彼は店を閉め、驢馬に跨がって、都の外に出てゆきました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十三夜になると[#「けれども第四百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼は前の日と同じように、大地と大気の奥とから魔法の宮殿を出現させ、驢馬とともにその中庭の奥深く、安全な囲いの中へとはいってゆきました。彼は最初驢馬のアリに向って、呪《まじな》いの言葉をぶつぶつ唱えて、そして数滴の水を振りかけますと、アリは初めの人間の姿に戻りました。それから、これをあまり近寄らせないで、彼はアリに言いました、「やあ、アリ、今のうちにおれの忠告に従ったらどうだ。そして、おれがお前を、最初の形よりももっと悪い何か別の形に変形《へんぎよう》してしまわぬうちに、その向う見ずな目論見をあきらめて、お前の道に立ち去ったらどうだ。」彼は答えました、「いやだ、アッラーにかけて、おれの運勢が貴様の運勢よりも強いと記されてあるからには、おれは貴様を殺すか、さもなけりゃ、カマーリヤの衣を分捕って、貴様を回教《イスラム》の信仰に改宗させなければならん。」そして彼は魔法使のアザーリアに飛びかかろうとしますと、これを見たアザーリアは、手を延ばして、護符の文句が彫ってある茶碗から、数滴の水を彼の顔に投げかけながら、これに向って叫びました、「熊になれ。」するとすぐに、水銀のアリは、両方の鼻孔に通した鉄輪に太い鎖を下げられ、口籠《くつご》をはめられ、ちゃんと踊りまで仕込まれた熊に、形を変えられてしまいました。それから、アザーリアは彼の耳もとに身を屈めて、言いました、「ああ、極道者め、貴様はちょうど胡桃《くるみ》みたいに、殻《から》と皮をぶち壊さないうちは、使いものにならないやつだ。」そして彼は頑丈に固めた囲いのなかに棒杭を打ちこみ、これにアリを結びつけて、翌日になるまで連れ戻しに来ませんでした。さて翌日には、ユダヤ人は魔法の宮殿をかき消したあとで、以前の牝騾馬に乗り、熊を後ろに引いて店までゆき、これを牝騾馬の横に繋ぎ、それから金《きん》とお客の仕事に取りかかりました。熊のアリは、物を聞き、わかりもするのでしたが、口をきくことはできませんでした。
こうしているうちに、一人の男がたまたま店の前を通りかかって、魔法にかけられた熊を見ますと、さっそくはいって来て、ユダヤ人に訊ねました、「おおアザーリア親方、この熊をおれに売ってはくれまいか。おれの病気の女房には、熊の肉と、それから膏薬用に、熊の脂肪《あぶら》がいいと言われたんだが、それがどこにも見当らないんだよ。」魔法使は答えました、「あんたはこいつをすぐ殺《ば》らしなさるかね、それとも、もっと膏薬をとるため、ひとまず太《ふと》らせることになさるかね。」男は答えました、「このくらい脂肪《あぶら》が乗っていれば、おれの女房には十分だよ。だから今日のうちにでも、締めさせてしまうよ。」魔法使は喜びの極みで、答えました、「お上《かみ》さんのお役に立つというのなら、わしはこの熊を無料《ただ》でお譲りしますよ。」そこでこの男は、熊を家に連れてゆき、肉屋を呼びますと、肉屋は二本の大きな肉切庖丁を持ってやって来て、袖をまくり上げてから、これを互いに擦《こす》り合せて磨き始めたのでした。これを見ると、魂の高価さが熊のアリの力を倍加しまして、彼らが彼をひっくりかえして屠殺しようとした瞬間、アリは突然二人の手の間から跳ね出して、走るというよりは飛び立って、魔法使の宮殿まで行ってしまいました。
アザーリアは熊のアリが戻って来たのを見たとき、独りごとを言いました、「おれはもう一度こいつに対して、最後の試みをやってみよう。」彼はいつものとおり、アリに水を振りかけまして、今度は娘のカマーリヤを、変形《へんぎよう》に立ち会わせるために呼び寄せておいてから、アリを人間の姿に戻しました。すると若い娘は、人間の姿のアリを見て、これがいかにも美男子であると思い、心の中でアリに対して激しい恋を抱いてしまったのでした。そこで、彼女はアリのほうを向いて、尋ねました、「おお美しい青年よ、あなたの欲しいのはこのわたしではなくて、わたしの衣と装身具だというのは、本当のことですの。」彼は答えました、「本当です。というのは、私はその品々を、狡猾な女ダリラの娘、感じやすい女ザイナブへの、贈物にするつもりですから。」この言葉は若い娘を、非常な苦痛と驚愕に投げ入れました。それというのは、彼女の父親がすぐさまこう叫んだからでした、「お前は自分でこの極道者の言葉を聞いたろう。こいつは後悔しておらんのだ。」そして彼はすぐさまアリに護符の茶碗の水を振りかけながら、これに向って叫びました、「犬になれ。」するとアリはいきなり、野良犬の種類の犬に変えられてしまいました。そして魔法使は彼の顔に唾して、足で蹴とばして、宮殿の外に追い出してしまいました。
犬のアリは城壁の外をさまよい始めました。けれども食べ物は何ひとつ見つからなかったので、バグダードのなかにはいろうと決心しました。ところがすぐに、彼は通り過ぎるさまざまの地区で、犬という犬全部の凄まじい叫びで迎えられました。犬どもはこの顔見知りのない他所犬《よそいぬ》が、こうして自分たちの守っている縄張りを犯すのを見ると、これに咬みついて、各自の境界線まで追撃をしはじめるのでありました。こうしてこの闖入者は、あちらこちらの領分でやっつけられ、到るところで追撃をされ、無残に咬みつかれるのでした。けれども彼はやっと、たまたま中立の領分にあった一軒の開業中の店のなかに、とうとう逃げこむことができました。それに、古道具の骨董屋だったその店の持主は、尻尾を両脚の間に入れたこの憐れな犬が、他の犬の軍勢に猛烈に追い立てられてきたのを見ますと、丸太棒を取って、この犬を攻撃者どもから護ってくれましたので、彼らは吼えながら、遠くへ散らばってしまいました。そこで犬のアリは、骨董屋に感謝の意を表するために、眼に涙を浮べて、その足もとに横になり、感激して尻尾を振ったり、ぺろぺろ甜《な》めたりしながら、この主人にじゃれつきました。そしてアリは彼のそばに夕方まで留まりまして、こう独りごとを言いました、「例えば猿とか、もっとひどいものよりは、犬になるほうがまだましだわい。」そして夕方になり、骨董屋が店を閉めてしまったときも、アリは彼にまつわりつき、その自宅まで従《つ》いてゆきました。
ところが、骨董屋が自分の家にはいったと思うと、いきなり彼の娘は顔を蔽って……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十四夜になると[#「けれども第四百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして叫びました、「おお、お父さん、何だってあなたは勝手に、わが娘のところに、よその男を入れるような真似をなさるのですか。」骨董屋は言いました、「どこのよその男だ。ここには犬しかおりゃせんぞ。」娘は答えました、「この犬とは、ほかならぬ、魔法使アザーリアから妖術をかけられた、カイロの水銀のアリですし、そういうことになったのは、彼の娘カマーリヤの衣が原因《もと》なのです。」この言葉に、骨董屋は犬のほうに向いて尋ねました、「本当かね、それは。」すると犬はこれに頭で、「そうです」という意味の合図をいたしました。すると若い娘はつづけました、「もしこの人が私を娶《めと》ることを承知してくれるなら、私はすぐにこれを最初の人間の姿に戻してあげますわ。」骨董屋は叫びました、「アッラーにかけて、おお娘よ、これを元の姿に戻してあげなさい、そうすればきっとお前を娶ってくれるよ。」それから彼は犬のほうにむいて尋ねました、「お聞きだろう。このことを承知するかね。」彼は尻尾を動かして、「承知」という意味の頭の合図をいたしました。すると若い娘は、水を満たした護符の茶碗をとりあげ、その上に呪文の言葉を唱えはじめましたが、そのとき突然、大きな叫び声が聞えて、若い娘の若い女奴隷が部屋にはいってきて、自分の女主人に申しました、「おお私の御主人様、あなたのお約束はどうなさいました。私たち二人の間に結ばれた取りきめは? あなたは私が妖術をお教えしたときに、今後魔法の実演は、私に相談なさらずにはけっして行なわないと、お誓いになったじゃございませんか。ところで、ちょうどこの私も、現在犬でいらっしゃる、お若い水銀のアリ様と結婚したいのでございますよ。ですから、この方が私たち二人の共通のものになって、ひと晩は私と過ごし、ひと晩はあなたと過ごすという条件でなければ、私はこれを人間の姿に変えることは承知いたしますまい。」すると若い娘はこの話合いに同意しましたので、彼女の父は、このような一切に少なからず驚いて、娘に尋ねました、「いったいお前はいつの頃から妖術を覚えたのだ。」彼女は答えました、「この私たちの若い女奴隷が来てからですの。この人はむかしユダヤ人アザーリアに仕えていて、あの名うての魔法使の古文書や魔法書を、こっそり繙《ひもと》くことができたので、そのとき自分で妖術を覚えてしまったのです。」
そのあとで、二人の若い娘はそれぞれ護符の茶碗をとりあげ、そこにヘブライ語の文句を口中で唱えてから、犬のアリに水を振りかけながら、これに言いました、「スライマーンの功徳と御功績にかけて、生ける人間に戻れ。」すると水銀のアリはたちまち、今までよりもさらに若く、さらに美しく、二本の足の上に躍りあがりました。けれどもその瞬間に、大きな叫び声が聞えて、扉がさっとひらきますと、一人のすばらしい若い娘が、重ねた二枚の金の盆を両腕の上にのせて、部屋にはいってまいりました。下の金の盆の上には、金の衣と、金の冠と、金の帯と、金の上靴がのっており、上のもっと小さい盆の上には、血まみれになって眼を痙攣《ひきつ》らせた、ユダヤ人アザーリアの斬首《きりくび》がのっていたのでございます。
ところで、このかくも美しい三人目の娘と申しますのは、魔法使の娘カマーリヤにほかならなかったのでした。彼女は水銀のアリの足もとに、二枚の盆をおろしてから、彼に言いました、「おおアリ様、わたくしはあなたをお慕い申しておりますので、かねて御所望の衣類一式と、わたくしの父ユダヤ人の首を、お持ちしたのでございます。それと申しますのは、わたくしは今は回教徒《ムスリム》になったからでございます。」そして彼女は唱えました、「アッラーのほかに神はなし。しかしてムハンマドはアッラーの使徒なり。」
この言葉を聞いて、水銀のアリは答えました、「私はここにおいでの二人の若い娘さんと一緒に、あなたとも結婚することを、いかにも承知します。というのも、あなたは婦人の身でありながら、普通の習慣にそむいて、私にこのような見事な結婚の贈物を届けて下さったのですから。しかし、私はあなたとの結婚の条件として、今度は私のほうから、ダリラの娘ザイナブにこの品々を贈り、これを四番目の妻として迎えたいと思うのです。というのも、掟では四人の正妻が許されているのですから。」カマーリヤはこれに同意しますと、他の二人の若い娘もこれに倣いました。すると骨董屋は尋ねました、「少なくともあなたは、この四人の正妻のほかには、けっして妾《めかけ》などを置かないということを、われわれに約束してくれますか。」彼は答えました、「あなたにお約束します。」そして彼はカマーリヤの衣類がはいっている金の盆をとり、これをダリラの娘ザイナブのもとに届けにゆくために、外へ出ました。
彼はダリラの家のほうへ向って行くと、一人の行商人が、乾し果物の砂糖漬と、ハラーワと、砂糖をかぶせた巴旦杏の大きな盆を、頭にのせて運んでいるのを見つけましたので、独りごとを言いました、「甘いものを持って行って、ザイナブに届けてやったらいいだろうな。」それに、行商人は彼を待ちかまえていたらしく、彼に言いました、「おお御主人様、私みたいに上手に胡桃入りの人参の砂糖漬をつくる者は、バグダードに誰もいませんよ。どのくらい御入用ですか。とにかくお買いになる前に、まずこの小さな塊りの味をみて下さって、どうお思いかおっしゃっていただきとうございますね。」そこで水銀はその塊りをとって、呑みこみました。けれどもとたんに、彼は死んだようになって地上に倒れてしまいました。砂糖漬の塊りには麻酔剤《バンジ》が混ぜてあったのでした。そしてこの商人というのは、こうしてお客を剥ぎとる金儲けの商売をやっている、月足らずのマハムードにほかならなかったのです。彼は水銀の持っていた立派な品物を全部見とどけたので、これを眠らせて盗みとろうとしたのでした。事実、いったん水銀が横になり身動きしなくなってしまうと、月足らずは金の衣をはじめその他の品々を分捕って、逃げ出そうといたしました。ところが突然、そこに四十人の警吏を従えたペストのハサンが、馬に乗って現われ、この泥棒を見つけて、逮捕してしまいました。月足らずもやむを得ず、一切を自白して、地上に転がっている男の身体をハサンに示しました。アリの失踪以来、これを探して、部下の警吏とともにバグダードのあらゆる地区を歩き廻っていたハサンは、さっそく麻酔剤《バンジ》消しの薬を持って来させ、これを彼に服《の》ませました。彼の目の覚めたとき、最初の叫びは、ザイナブに届ける衣類の行方を尋ねることでした。ハサンは彼にそれらの品を示し、そしてめぐりあった悦びを吐露してから、彼の手腕を讃めそやして、言いました、「アッラーにかけて、お前はおれたち全部よりも上手《うわて》だぞ。」それからハサンは彼を蛾のアフマードの家に連れてゆき、双方改めて挨拶《サラーム》を交わした後、アリにその冒険すべてを語らせて、そしてアリに言いました、「だが、そこでだ、お前がカマーリヤを四人の妻の一人に迎えるとなれば、魔法使の魔法の宮殿は、当然お前のものになるわけだ。おれたちがお前の四人前の結婚式を挙げるのは、そこにしようぜ。それではおれはさっそく、お前のほうからの贈物を、ザイナブのところに持ってゆき、叔父のゾライクに、姪をお前の嫁にくれるように決心させてこよう。今度こそは、あの悪党爺も断わらないことは、請け合ってやるよ。あの月足らずのマハムードのほうは、何しろお前があの子の一家にはいって、親戚になるとあらば、こいつはおれたちも罰するわけにはいくまいて。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四百六十五夜になると[#「けれども第四百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を言い終えると、ペストのハサンは金の衣と、金の冠と、金の帯と、金の上靴を取って、鳩の宿舎《カーン》に行き、ちょうど鳩に穀物をまいてやっている最中の、ダリラとザイナブを見つけました。挨拶《サラーム》のあと、彼は二人にゾライクを呼び寄せるように言いました。そしてゾライクがやって来ると、彼は彼らがザイナブの結納として要求した結婚の贈物を、三人に見せてやり、そして彼らに言いました、「今となっては、いかなる拒絶もおできになるまい。さもなくば、侮辱を受けるのはこのわし、ハサンですぞ。」するとダリラとゾライクは、この贈物を受け取って、ザイナブとアリとの結婚に同意を与えました。
さて、翌日となるや、水銀のアリはさっそく、ユダヤ人アザーリアの宮殿を譲り受けにゆきました。そしてその晩には、法官《カーデイ》と、一方の証人となるペストのハサンとその四十人の部下、もう一方の証人となる蛾のアフマードとその四十人の部下、この双方の証人とを前にして、ダリラの娘ザイナブと、アザーリアの娘カマーリヤと、骨董屋の娘と、骨董屋の若い女奴隷と、水銀のアリとの結婚契約書が認《したた》められました。そして四つの結婚の儀式が華やかに挙行されました。そして行列のすべての婦人の意見では、花嫁の面衣《ヴエール》の下で、最も心をひき、最も美しかったのは、たしかにザイナブでありました。それに彼女は、金の衣と、金の冠と、金の帯と、金の上靴とを身につけていたのです。そして他の三人の乙女たちは、月のまわりの星のように、彼女のまわりを歩いておりました。
そういうわけで、その晩すぐに、水銀のアリは、婚礼の巡回をしはじめ、まず最初に一人の妻ザイナブのところにはいりこみました。そして彼は、彼女がまだ穴をあけられたことのない真の真珠であり、まだ乗られたことのない若駒であることを見出しました。彼はこれを楽しみの限りすっかり楽しみまして、次には、他の三人の妻一人一人のところへ、順々にはいりこみました。そして彼女たちが、美においても処女性においても、全く完全であることを見出しまして、彼はこの三人をも同じようにすっかり楽しみ、彼女たちから取るべきものは取り、与うべきものは与え、しかも双方ともことごとく気前よく、完全な満足を味わいつつ、このような遣り取りをした次第でありました。
婚礼に際して催された祝宴につきましては、それは三十日と三十夜続きました。そして人々はこの祝宴がその振舞人である人にふさわしくなるように、何ひとつ物惜しみしませんでした。そして人々は悦び、笑い、歌い、この上なく興じました。
祝宴が終ったとき、ペストのハサンは水銀に会いにまいりまして、重ねて祝いの言葉を述べたあとで、彼に言いました、「やあ、アリ、これでいよいよお前も、わが御主君|教王《カリフ》にお目通りして、御寵愛を賜わる時が来たぞ。」そして彼はアリを政務所《デイワーン》へ連れてまいりますと、間もなく教王《カリフ》が入御遊ばされました。
教王《カリフ》は若い水銀のアリを御覧になりますと、いたく御意《ぎよい》に叶いました。それというのは、事実、彼の愛嬌のある顔付きは教王《カリフ》に好感をお抱かせ申すほかありませんでしたし、美もまた彼をば、おのが選ばれた者として認めることを証言できるからでした。水銀のアリは、ペストのハサンに押されて、教王《カリフ》の御前《ごぜん》に進みいで、御手の間の床に接吻いたしました。次に彼は再び立ち上りまして、駱駝の背が持っていた絹布の掛っている盆をとり、教王《カリフ》の御前で布を取り払いました。すると、そこには魔法使のユダヤ人アザーリアの斬首《きりくび》が現われました。
これを御覧になると、教王《カリフ》は驚いて、お尋ねになりました、「この首は何じゃ。」水銀は答えました、「わが君の敵のなかでも最も手強《てごわ》きやつの首でございます、おお信徒の長《おさ》よ。この首の持主こそは、バグダードをそのすべての宮殿もろとも破壊し去ることもできるような、名うての魔法使でございました。」そして彼はハールーン・アル・ラシードに、一切の話を一部始終細大洩らさず、お聞かせ申しました。
この話はすっかり教王《カリフ》を驚嘆おさせ申したので、教王《カリフ》は即刻水銀を、蛾のアフマードおよびペストのハサンと等しき地位と、等しき特権と、等しき俸禄をもって、警察の総指揮官に任命なさいました。そして、教王《カリフ》は彼に仰せられました、「やあ、アリ、その方に似たる勇者たち万歳じゃ。その方、さらに何か余に所望するがよい。」水銀は答えました、「教王《カリフ》の聖寿のとこしなえに続かれますることと、私の二人の同僚に倣い、わが故郷カイロより、私の昔の仲間四十名を呼び寄せて、当地の警吏といたすをお許し下さることでございます。」すると教王《カリフ》はお答えになりました、「差し支えないぞ。」それから教王《カリフ》は、王宮で一番上手な祐筆たちに命ぜられ、この物語を丹念に書き留めて、これを御治世の文庫に納めさせ、もってこれが回教徒《ムスリム》の人民たちと、アッラーとその預言者たる人間中の最善者ムハンマド(その上に祈りと平安あれ)の、未来の信徒すべてのために、教訓と同時に娯楽として役立つようになされました。
そして一同の者は、「悦びの破壊者」と「友どちの離別者」が訪れ来たるまで、この上もなく心地よく、この上もなく快活な生涯を送ったのでございました。
以上が、おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたとおり、委細ことごとくそのままにお伝え申した、「凄腕ダリラ」とその娘「ぺてん師ザイナブ」と、「蛾のアフマード」、「ペストのハサン」、「水銀のアリ」、ならびに「天ぷら屋ゾライク」との、嘘偽りなき物語でございます。されどアッラー(その称《たた》えられ讃められんことを)はさらに多くを知りたまい、さらに深くを知りたまいまする。
[#この行1字下げ] ――次にシャハラザードは言い添えた、「さりながら、おお幸多き王さま、この物語が漁師ジュデルとその兄弟の物語[#「漁師ジュデルとその兄弟の物語」はゴシック体]よりも、嘘偽りなきものとは思し召されますな。」そしてすぐに、彼女は語った。
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訳註
色とりどりの六人の乙女の物語
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(1) El-M盈oun. ハールーンの子(七八六―八三三年)。異母兄アミーンを倒して即位、アッバース朝第七代のカリフ(八一三―三三年)。イランびいきのためアラビア人の反感を買って、争乱に終始したが、文化に意を用い、学芸の全盛期をなした。
(2) Yam穎. エーメンY士en のこと。
(3) アリフはアラビア字母の首字。ミームは同第二四、ヌーンは同第二五。
(4) 預言者モーゼのこと。次の句はコーラン第二七章一二節。
(5) コーラン第三章一〇三節。最後の審判の日には、すべての人の顔が真白くまたは真黒く変る。
(6) Nouh (No・. アーダムを人類の第一の父とし、ヌーフ(ノア)を第二の父とする。S盈 は今のセム人、H盈 はエジプトの黒人の祖。
(7) 第九二章「夜」の第一及び第二節、「夜の闇、万物をおおい隠す時」「昼の光、燦爛と照り栄える時。」(井筒俊彦氏訳)
(8) 回教の焦熱地獄がジャハンナム、寒冷地獄がザムハリール。
(9) コーラン第五一章、二六節。
(10) Bani-Isra浜. イスラエルの子孫、またはヤコブの子孫、ユダヤ民族のこと。
(11) 第二章六四節、犠牲に捧げる牝牛は黄色がよいと言われたという。
(12) 天使マールートと共に、地上の女の美に迷わされ、肉欲のとりことなり、天上に帰れず、パビロンに幽閉されて、人間に妖術を教えたといわれる。
(13) Mouloukhia. 百合科植物、corchorustrilocularis. これをもって緑色の肉汁を作る。エジプトではなはだ珍重される料理である(マルドリュス)。BabEl-Louk は「ルークの門」の意で、カイロの南の有名な貧民窟の地区である。
(14) 羊の頭はスープにするのに珍重される由。
(15) Zakoum. 地獄の最下層にある恐ろしい木。その果実は悪魔の頭と言われ、「コーランに出てくるあの呪われの木」とコーラン第一七章第六二節にあり、第三七章六〇―六七節に詳しい。
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青銅の町の物語
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(1) 六四七―七〇五年。ウマイヤ朝第五代、東ローマ帝国と戦って勢力を伸ばし、種々の制度を確立し、教養詩才豊かな中興の名主といわれる。
(2) Moussa ben-Nossa瓶. ペインではMousabenNuseir、バートンではM徭・bin Nusayr とあり、共に回教徒最初のスペインの征服者と註す。
(3) アレクサンドル大王のこと。
(4) Quintal. アラビア語のKinta-r は「百の重量」の意、五十キログラム。
(5) Kousch ben-Scheddad ben-A嬰 le Grand. 伝説の古代民族の王。アード族は、ノアの時代直後にいた強大な民族と伝えられるが、果して実在したか、またどこにいたか不明という。
(6) Da壮ch ben-Ala僧asch. (バートンではDhish. son of Al-Aユamash.)これらの悪鬼の名はその奇怪さのため選ばれている。Al-Dhish は「驚かされた者」、Al-Aユamash は「常に涙を流している弱い眼を持てる者」の意(バートン)。
(7) コーラン第二九章「蜘蛛」に「世に蜘蛛の家ほど脆い家はない」とある。
(8) ヌーフはノア。
(9) Nemroud (Nemrod, Nimrod). 『旧約』のニムロデ。最初の権力者で、バビロニア、アッシュリアの諸都市の建設者という。
(10) Hamam. 『旧約』エステル書に出てくるユダヤ人嫌いのペルシア人だが、コーランではエジプト王パロの第一長老、すなわち大宰相となっている。(井筒氏『コーラン』による)
(11) Karoun. 『旧約』のコーラ。コーラン第二九章三八節、および第四〇章二四節では、ハーマーンと共にエジプト王パロの宰相であるが、第二八章七六節以下では異なる。
(12) Scheddad fils dユA嬰.
(13) Kana穎. 預言者ヌーフ(ノア)の子シャーム(ハム)の長子。この子スーダーンの子孫は七十種族に分れ、その大部分はアフリカの黒人と言う。
(14) Les Amal残ites. エドム辺境の民。エサウの孫アマレクの後裔で、首府をアマレクの都に定める。イスラエル人の不断の敵で、ダヴィデに絶滅された。
(15) Tadmor. アラビア人によると、Tadmur(パルミラ)はHassn bin Uzaynah の娘、Tadmurah 女王によって建設された(バートン)。
(16) Koubba (Kubbat). 回教寺院《マスジツト》や廟の円屋根、円蓋を言う。
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イブン・アル・マンスールと二人の乙女との物語
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(1) 渇きは、とくにペルシア人には、ほとんど拒み得ない願いであったという。
(2) Bani-Scha秒穎.「シャイバーンの子孫、シャイバーン族」の意。有名なアラビアのパタヴィ族の一族。八世紀、ウマイア朝の重臣で、気前のよいことをもって聞え、しばしばこの物語に出てくるモイーン・ビン・ザイダ(『花咲ける才知の花壇と粋の園』註(8)参照)の一族。
(3) 十六冊本では、「白い顔」(善い顔の意)とある。この場合は黒人だからであろう。
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肉屋ワルダーンと大臣《ワジール》の娘との話
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(1) Ward穎. エジプト農夫の普通の名、村名にもある(バートン)。
(2) 鋭利なことの通俗的な言い方。
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地下の姫、ヤムリカ女王の物語
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(1) J穎 ben J穎.「精霊の子の精霊」の意、ジャーンは妖霊の一種。
(2) Gennist穎.「妖霊のいるところ」の意。
(3) Efrits, genn, mared, ghouls, khotrobs, saals, baharis. いずれも妖霊 (Jinn) の種類で、その区別はあまり明瞭でない。これらの「火」の子については以下に詳しい。マーリドは「反逆」「不逞」の意で、人間に敵意を持つのが多い。グールは食人鬼、サアルは女の妖怪、バハリは「海」の意で、海の怪物らしく、コトロブは「嘘つき」の意か。
(4) Sakhr.「岩」の意であるが、これはサクル・アル・ジンニーという妖霊でソロモンによりティベリア湖に投げ入れられたという。アード族は前出。
(5) Gehannam (Jahannam). 以下七つはすべて地獄を指すが、これは「底深い井戸」の意。いわゆるゲヘナ。
(6) Lazy (Laza-).「激しい焔」の意。
(7) El-Jahim.「苦悩の場所」の意。
(8) Goget Magog (Ya-dju-dj wa Ma-dju-dj). 『旧約』にあるゴグとマゴグのこと。恐るべき暴力をふるう巨人族。世の終末の時に解き放たれて、地上で暴れまわることになっている。
(9) Sa瓶.「燃ゆる火」の意。
(10) Saqhar(バートンではSakar). 火焔の地獄。
(11) Hitmat (Hutamah). 熱の深淵の地獄。
(12) Hawya. 地獄の底の牢獄の名。
(13) コーカサス山。
(14) J穎schah.「生活の王」を意味するペルシア語。
(15)「蟻が谷」はコーラン第二七章『蟻』に出てくるのを思い出している(バートン)。
(16) ユダヤ人は彼らのサバト(安息日)を守って口をきかないと、バートンは註する。
(17) Lifa. 椰子の葉の繊維。風呂屋でどこでも用いられ、使用後は棄てることになっている。
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花咲ける才知の花壇と粋の園
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(1) Badredd貧 は、前出のごとく「宗教の満月」の意である。
(2) この呼びかけは書中によく出るが、多くの場合、回教徒以外のもの(無信仰者)が原因で、人々を呼び集める場合に用いる。
(3) Khosrou-Anouschirwn. ペルシアのサーサーン朝の王ホスロー一世の通称。「不死の魂を有する者」の義。東ローマ帝国としばしば戦う。専制的であったが明君で、文学の隆盛を計った。五七九年死。
(4) 最後の審判の行なわれるいわゆるヨゼファトの谷。
(5) Sofi穎. 不詳。
(6) Aboul-A貧a. 八〇五頃―八九六年。文学者、詩人。バスラで学び、言語学の学識で有名。詩は伝わらぬ。
(7) 聖殿の主は言うまでもなく、アッラーのこと。
(8) Lユ士ir Mo貧 ben-Za錨a (Maユ an bin Za-idah). ザイダの子モイーン公はウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン二世(七五〇年死)治下の高官であり、アッバース朝になってこれに仕え、第二代アル・マンスールの寵臣であった。ハーティムと共に寛闊ぶりを称せられ、歓待と寛大の伝説的人物となっている。
(9) 普通に胡瓜は最も安価な野菜で、貧民も食べる。
(10) Aba-Souwa錨. 不詳。
(11) この誓言に関するさらに詳細な点については、「ほくろの物語」(本電子文庫版第四巻所収)のなかの「解除人《ときびと》」の場面(第二百六十一夜)を参照(マルドリュス)。
(12) K嬰i Abi-Youssouf (Abu- Yu-suf Yaユ qu-b).(七三一―七九八年) アラブ族名家の出のイスラム法学者。ハニーファ学派開祖アブー・ハニーファの高弟で、アッバース朝三代、四代、五代のカリフ治下のバグダード法官《カーデイ》をつとめた。
(13) El-Rakaschi(本名Aba-n b. 軛dal Hamid. 八一五年頃死)バルマク家の宮廷詩人、アル・ラシードとバルマク家の讃歌が多い。当時の習慣に従い、アブー・ヌワースをはじめ同時代詩人と悪罵を交わした。この一族に詩人は多いが、彼はインド、ペルシア起原の民話を韻文化したものと、アルダシールとアヌーシルワーンの物語が有名である。
(14) Abou Moss叡 (Abu Musユab). 当時の詩人というのみで、詳細不明。
(15) 詩人は霊感を悪霊から受ける。
(16) Le grand Khosrou. ホスローというと一世(アヌーシルワーン)を普通指すが、これはその孫の二世、通称 Parvez(勝利者)のこと。東ローマ皇帝マウリキウスの援助で即位し、その娘、美貌のSchir馬(ペルシア語で「甘美」の意。マリアまたはイレーネ)と結婚し、二人の恋愛は多くの詩人に歌われた。マウリキウス暗殺後(六〇二年)ローマと戦い、一時はシリア、小アジア、エジプトまでも占領したが、東ローマ皇帝ヘラクリウスと戦って破れ、子によって退位させられ、殺害された。六二八年死。その玉座は、四百本の銀の柱で支えられ、円蓋に吊るされた一千個の球は、太陽系を模して天体の運動を示し、壁には三万枚の刺繍した壁掛けが一面に懸けられ、その下には金銀宝石を鏤めた円天井の小室が、無数に設らえられていたと伝えられる。
(17) 妻ということの婉曲な言い方。
(18) アッバース朝第六代のカリフ(在位八〇九―八一三年)。アル・ラシードとゾバイダとの子で、母の高貴の出身のため、兄アブドゥッラー、すなわち、第七代のアル・マアムーン(在位八一三―八三三年)を凌いで太子となる。アル・ラシードの死後、兄と争い、バグダードを囲まれて殺される。王朝衰微の原因となったと言われる。
(19) El-Motawakkel. アッバース朝第十代のカリフ(在位八四七―八六一年)。正統スンニー派の狂信者であり、マアムーン以来、国教となり、主流となっていたムウタズィラ派を弾圧し、シーア派をも圧迫し、ユダヤ教、キリスト教徒の差別待遇を厳重にした。八二二―八六一年。
(20) Ibn-Khak穎. アル・ムタワッキルの大臣《ワジール》であったが、八六一年、十一代カリフ、アル・ムンタスィル・ビルラーの登極と共に殺された。
(21) 父と共にアラビア音楽史上重要な貢献をした。詩人、音楽家であり、アル・ラシードとアル・マアムーンのお気に入りであった。
(22) Amriユlka不 (Imruユul-Qais.またImraユalqais). Zoha瓶 (Zuhair ben Abi- Sulma-). Antara ben Shadda-d al Absi-. Nabigha (an-Na-bigha adh-Dhubya-ni Ziya-d). Amrou ben-Kalthoun (Amir ibn Kulthum). Tharafa. Chanfara (Shanfara-). これらはイスラム以前いわゆる「無道時代」の、大体六世紀の詩人。この七名が、古代アラビア詩の七大家と言われ、とくにイムルウル・カイスを第一人者とし、ズハイル、ナービガと共に三大詩人とする。
(23)「アブー・ヌワースの即詠」註(13)(24)参照。
(24) Bakh! bakh! 満足、喜び、驚きの感投詞。バートンはここではBravo! と訳す。
(25) Hass穎 ben-Sehl. アル・マアムーンの大臣《ワジール》の一人であるが、カリフの結婚した大臣《ワジール》の娘の名はブーラーンといった。しかしこの話はイスハークの作り話らしい(バートン)。
(26) 聖殿の巡礼については本電子文庫版第二巻「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語」(34)(36)に註した。
(27) Harem. この場合は妻を意味する。
(28) Mitkal. 金七十グラム余のディナール金貨。
(29) Amrou ben M冱seda(バートンはAmru- bin Masaユdah). アル・マアムーンの大臣《ワジール》の一人。
(30) Ali bin Hescham. 異名を次にあるように、アブール・ハサン(美の父)と言い、同じくアル・マアムーンの治世でのバグダード奉行《ワーリー》(バートン)。
(31) Kurrat al Ayn.「眼の涼しさ(すなわち、悦び)」の意(バートン)。マルドリュスはFra把heur-Des-Yeux. としているから、以下これに従う。
(32) Aloul-Jamal. Hassan は美と善とを合せた広い意味であるが、Jamal は美のみを言う由。
(33) Amrou Al-Zoba錨i. バートンにはAmru bin Maユdi Karib al-Zubaydi とあり、モハンマド時代の詩人と註す。
(34) M冀ed. バートンには Maユabidとあり、回教紀元一世紀の歌手、作曲者と註す。
(35) Jarir. 回教紀元一世紀の詩人(バートン)。
(36) Ibn-S决a彬(Ibn Suraij, 六三四頃―七二六年)イスラム四名歌手の一人。ペルシアの琵琶 ヤudiをアラビア音楽にとり入れたともいわれる。
(37) Adi ben-Ze錨. 古代アラビアの詩人、キリスト教徒。ヒーラの名家の出で、サーサーン朝ペルシアの宮廷で教育を受け、帰国後ラハム朝の重臣となったが、讒に会って退けられた。後に投獄、殺害された。酒と人生無常の詩人と言われる。六〇四年死。
(38) El Kherza・/T-FONT>(Diヤbil benユAli al-Khuza-・ 七五六―八六〇年)マアムーン治下のバグダードに住んだ詩人。諷刺詩に巧みで、憎まれ、嫌われることが多かった。
(39) Zarzour. 不詳。
(40) Le sage Omer Al-Homsi. 不詳。
(41) すなわち西暦一一六六年。
(42) Hama. シリア、オロント河畔の古都。
(43) コーラン第四章三八節。
(44) 同第四章一七五節。
(45) 八冊本に「眼を持つ」の字がぬけているが、後出にははいっているから、十六冊本に従うべきと思われる。
(46) コーラン第二六章、一六五節以下。これはルート(ロト)の民すなわちソドムの住民に向って言われている。
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奇怪な教王《カリフ》
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(1) 乳のように白い日、すなわち、好い日の意。
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「蕾の薔薇」の物語
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(1) Rose-dans-le-Calice. 原名は Al-Ward fil-Akman. バートンは「袖のなかの、または萼のなかの薔薇」の意と註し Rose-in-Hood とする。マルドリュスは「萼のなかの薔薇」。ペインやレーンに従い (Rose-in-bud) とした。
(2) バートンは「球戯」と訳し、「ポロ」のことと註する。
(3) D四ice-du-Monde. 原名、ペイン Uns el Wujoud、バートン Uns al-Wujud、エリセエフ Onsal-Ojoud.
(4) noun はアラビア字母第二十五、その長くのばした書体を言う(ペイン)。
(5) sad は第十四、その中間にはさまれた場合の書体は、瞼墨《コフル》をひいた眼によく似る(ペイン)。
(6) Bahr Al-Konouz.「宝の海(または河)」の意。上ナイルではないかと言われる。
(7) Seyhoun と Jeyhoun. 共に中央アジアの大河。アラール海に注ぐ姉妹の河。現在アラビアでは「シル・ダルヤー」「アームー・ダルヤー」と呼ばれる聖河であるが、西欧ではギリシア名で Jaxartes および Oxus と呼ぶ。
(8) 陰茎の除かれていない宦官が最も値高いという。
(9) Bulbul. 普通ナイチンゲールと言っているが、バートンによるとむしろ百舌《もず》の一種という。
(10) Ragab. 回教暦十二月のうち、一月、七月、十一月、十二月の四月は神聖な平和の月で、争闘を禁じられている。
(11) ヨセフの兄弟はヨセフの繻絆に佯《ほふ》りの血を塗り、父に示し、狼に食われたものと思わせた。コーラン第一二章「ユースフ」一八節。
(12) 東洋の習慣で、新夫婦に挨拶し祝意を表しに来る(ペイン)。
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[#この行1字下げ]黒檀の馬奇談
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(1) Kamaralakmar (Kamar Al-Akmar). ――「月のなかの月」の意(マルドリュス)。
(2) Nourouz. 新年の祭。Mihrg穎. 秋分の太陽の祭。
(3) Hindi はインドの回教徒、Roumi はギリシア人を含むルーム(ローマ)人、Ajami はペルシア人に対するアラビア語の綽名で、「唖」を意味する。
(4) 前出のアル・ラシードの寵姫と同じ名。「昼の太陽」の意。
(5) ペルシア語 Kisra の複数形。サーサーン朝の王、一世二世を指すが、一般にペルシア王の意。
(6) La coloquinte. アラビア語の Hanzal で、アラビア人の詩文によく出てくる。その明るい色の小さな葫蘆は、砂と粘土の荒地を旅するとき、金色の閃めきによって人目をひく。酸化した牛乳を入れて好んで下剤に用いられた(バートン)。
(7)「不祥な、不届きな」の意。
(8) Harjah. バートンによるとこのような名前はなく、メHarjhモ(さる場所〔の人〕)の誤記であろうと。ペインでは Herjeh とある。
(9) 第四百二十四夜冒頭のシャハラザード言葉「地と太陽と月」ないし「天と地と地獄」を指す。
(10) 息によって病を治すというのは、東洋全体を通じて民間の考えであった(バートン)。
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凄腕ダリラの物語
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(1) Ahmad-la-Teigne. 本電子文庫版第四巻「『ほくろ』の物語」註(22)参照。
(2) Hassan-la-Peste. バートンではHasan Sh徇n とし Hasan the Pestilent と訳す。
(3) Dalila-la-Rou仔・Dalila (h) は「人をあやまらしめる女」の意。術策を弄して人を欺く女。前の「アズィーズとアズィーザの物語」(本電子文庫版第三巻所収)以後しばしば出る。
(4) Mahmoud-lユAvorton.「出来そこないのマハムード」の意。バートンは Ahmad al-Lakit とし、「胎児」「拾い子」「つまらぬ人間」の意と註す。ペインは Ahmed el Lekit とする。
(5) Zeinab-la-Fourbe. 原名不詳だが、バートンは「兎とりのザイナブ」Zaynab the Coney-Catcher とし、ペインは「ぺてん師ゼイネブ」Zeyneb the Trickstress とする。
(6) Litham (lism). 男の口を覆う布切れ、女の顎を覆うヴェール。
(7) Soufi. イランのシーア派の一派の神秘主義派。スーフは「羊毛」を意味し、神秘主義者が羊毛製の粗衣をまとったので、彼らはスーフィーと呼ばれた。
(8) 宗礼上の清浄を誇示するため(バートン)。
(9) Fl斬u des Rues. ペインではヌIll of the wayネ、バートンメEvil of the wayモ とあるによる。
(10) Khatoun. 身分高い婦人の意であるが、ここでのように、しばしば固有名詞に使われる(バートン)。
(11)「アッラーの思し召しあらば。」この場合は希望、願望を表わす。
(12) Le sequin. アラビア語の sekkah(貨幣鋳造用の鋳型)から出た仏語というが、バートンによると、アラビア語の Iksah であり、弁髪を意味し、また髪につける小さな金貨その他の装飾品を意味するという。
(13) Sidi.「わが主」の意であるが、敬称として「殿」「旦那」「様」等の意に用いられ、多くの人から親しまれる者の名に冠せられることがある。
(14) 訳者の下手な悪戯で、マルドリュスでは「Cのつく三つの物、casette, confort et cul」とある。アラビア原文は知らぬが、例えばペインでは coin and caze and clothing とあり、バートンでは coin, clothing and coynte とある。
(15) Colocase (colocasia). エジプト産食用のまむし草類 (Arum) の一種で、一つの花苞に雌雄の花をつけると言われる(バートン)。
(16) 前にもあるように、無花果は女、柘榴は男。
(17) 黄金や絹を身につけていることは、厳重な回教からは咎むべきものと見なされる(ペイン)。
(18) Na盈.「はい、そうです」の意。
(19) アッラーに誓って。
(20) ベドウィン人のこと。
(21) ペインは、これは原文では言葉のしゃれで、調子がよいだけで、ほとんど無意味の文句であり、この水売りが、水の味つけに、葡萄酒を売っているのだと註する。
(22) Halawa. 砂糖、クリーム、アーモンド等を入れた砂糖菓子。
(23) アッラーの別名の一つ。
(24)「アッラーは偉大なり。」
(25) つまり夢精であり、いかなる場合の射精でも、礼拝の前には全身洗浄を要する(ペイン)。
(26) 黒人の珍重するビールのような飲料。
(27) Kabab. 羊または小羊の肉を賽の目に切って串焼きにしたもの。
(28) 自分に関係のないことにいわれなく手出しする、余計なことにかかり合うこと(ペイン)。
(29)「アッラーの御名において。」
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年七月、ちくま文庫に収録された。