千一夜物語 4
佐藤正彰 訳
目 次
ブドゥール姫の物語
「幸男」と「幸女」の物語
「ほくろ」の物語
博学のタワッドドの物語
詩人アブー・ヌワースの事件
船乗りシンドバードの物語
船乗りシンドバードの物語の第一話 そしてこれは第一の航海である
船乗りシンドバードの物語の第二話 そしてこれは第二の航海である
船乗りシンドバードの物語の第三話 そしてこれは第三の航海である
船乗りシンドバードの物語の第四話 そしてこれは第四の航海である
船乗りシンドバードの物語のうち第五話 そしてこれは第五の航海である
船乗りシンドバードの物語のうち第六話 そしてこれは第六の航海である
船乗りシンドバードの物語のうち第七話 そしてこれは第七の最後の航海である
美しきヅームルッドと「栄光」の息子アリシャールとの物語
訳註
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千一夜物語 4
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
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ブドゥール姫の物語
[#地付き]第百七十夜になると[#「第百七十夜になると」はゴシック体]
小さなドニアザードは、もうどうにも待ちきれなくなって、今までうずくまっていた絨氈から立ち上って、シャハラザードに言った。
「おお、お姉さま、お願いでございます、どうぞいそいでお約束の物語をわたくしたちに話して下さいまし。題を承わっただけでも、もうわたくしは楽しみで心を動かされますの。」
するとシャハラザードは妹に微笑みかけて、これに言った、「今いたしますよ。けれどもわたくしは、はじめますのに、王さまの御意《ぎよい》をお待ち申しているのです。」
するとシャハリヤール王は、その夜はシャハラザードといつものことをするのを早々に片づけてしまったほど、この物語を聞きたがっていたので、言った。
「おおシャハラザードよ、いかにも、そちは、余に大いなる悦びを約束したその妖精物語を、はじめて苦しゅうない。」
そこでシャハラザードは、次のようにその物語を語った。
[#ここで字下げ終わり]
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、時のいにしえ、カールダーン(1)の幸《さき》わう国に、強力な軍隊と莫大な財宝の主《あるじ》であった、シャハラマーン(2)というお名前の王様がいらっしゃいました。けれどもこの王様は、無上に仕合せな御身とは申せ、また四人の正妃を別にして、七十人の寵姫がおありになったにもかかわらず、一向にお子様のおできにならないことを、心中お悩みになっていらっしゃいました。それと申すのは、すでに御高齢に達し、髄《ずい》は衰えてきなさったのに、アッラーは、お後を嗣いで王国の王座に坐ることのできる王子を、ひとりも授けて下さらなかったからでございます。
さて、ある日、王様は総理|大臣《ワジール》に、御自分のひそかなお悩みを打ち明けようと決心なさって、これを召し出して、仰せられました、「おおわが大臣《ワジール》よ、余に子供のできないことは、そもそも何のせいかまったくわかりかねるのだが、これには余は魂の内ふかく悩んでおるのじゃ。」すると総理|大臣《ワジール》は一時《ひととき》の間思い耽っておりましたが、それから頭を上げて、王様に申し上げました、「おお王様、まことにこれは難問にて、これを解けるのはただ全能のアッラーのみでございます。そこで私はつらつら考えてみましたが、結局これを救う法はただ一法しか思い当りませぬ。」王様はお訊ねになりました、「してその法とはいかに。」大臣《ワジール》は答えました、「さればでございます。今夜、後宮《ハーレム》におはいりなさる前に、まず典礼によって定められたる義務《つとめ》をば、念を入れて果すよう御注意遊ばせ。真心こめて洗浄《みそぎ》をし、心謹み、繁殖の主《しゆ》に次のように唱えて、祈願なさいまし、『おお繁殖の主よ、おお湧き出づる泉と生者の父よ、願わくばわが胤《たね》の祝福せらるるようなしたまえ』と。かくいたしますれば、どなたか選り抜きのお后《きさき》とのお交わりは、祝福によって豊かな実を結ぶでござりましょう。」
この大臣《ワジール》の言葉に、シャハラマーン王はお叫びになりました、「おお知恵の言葉の大臣《ワジール》よ、その方の示すはまことに妙法である。」そして総理|大臣《ワジール》にこの忠言を非常に感謝なすって、ひと襲《かさ》ねの誉れの衣を下しおかれました。それから夕方になると、女人部屋におはいりになりましたが、しかしそれは、細心に典礼の義務《つとめ》をお果しになり、繁殖の主に祈願をなさってからのことでした。次に、女人のなかで一番若い婦人、一番豪奢な腰を持った婦人、純血の処女を選んで、その夜はその女のなかにおはいりになりました。そしてこんどは、即刻即座に身籠らせたのでございます。そして日を重ねて九カ月たつと、その女はひとびとの歓喜のさなかに、クラリネットと横笛とシンバルの楽の音《ね》のうちに、祝福裡に男子を産みおとしました。
ところで、その生まれたお子はまことに美しく、全く月さながらでございましたので、父王は感嘆して、これをカマラルザマーン(3)とお呼びになりました。
そして実際、このお子はたしかに、およそ創られた事物《もの》のうち最も美しゅうございました。ことにいよいよ青年になって、美わしさが十五の齢《とし》の上に、人間たちの眼を魅するあらゆる花を揺り動かした時には、それがはっきりと確かめられました。果して齢《とし》とともに、その麗質は絶頂に達し、その眼は天使ハールートとマールート(4)のそれよりも魔力を持ち、その眼差《まなざ》しはターグート(5)のそれよりも心を誘惑し、頬はアネモネよりも目に快くなりました。その腰はと申しますと、それは竹の幹よりもしなやかに、絹糸よりもほっそりと作られていました。けれどもそのお臀はどうかと申せば、それは鶯はこれを見て歌いだすほど、よく動き魅力がありました。
ですから、そんなにも華車《きやしや》なその腰は、下の非常な重みをいくたびか託《かこ》って、その荷に耐えやらず、このお尻にしばしば嫌な顔を見せることがあったというのも、すこしも不思議はございません。
これに加えて、このお子はいつもずっと、薔薇の朝の花冠と同じほどみずみずしく、夕の微風と同じほど好ましくいらっしゃいました。そしてちょうどその時代の詩人たちは、感銘を受けたその美しさをば、韻律のうちに言い現わそうと試み、このひと自身をば数々の詩句のうちに歌いましたが、数多《あまた》のうちの一例を挙げますと、
[#ここから2字下げ]
ひとびとこれを見れば、すなわち叫ぶ、「ああ、ああ」と。ひとびとこれを見れば、すなわち、その額に美の記《しる》せし次の語を読み得るなり。曰く「われは証す、この者こそ唯一の美男なり。」
その唇は、ひとたび笑めば、紅玉髄なり。その唾液は溶けし蜜、その歯は真珠の首飾り、その髪は、恋人らの心臓を咬む蠍《さそり》のごとく、黒き綰《わがね》なして、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に垂れて円《まろ》まる。
上弦の月は、その爪の削り屑もて作られしなり。さあれ、打ち顫うその豊満なる臀《いしき》、尻の笑窪《えくぼ》、またその腰のしなやかさよ、これらはおよそ一切の言詮《げんせん》を絶す。
[#ここで字下げ終わり]
そこでシャハラマーン王はこの王子を愛しなさることひとかたならず、一刻も離れていられないほどでございました。そして王子が放埓の裡に、その美質と美貌を徒費してしまうのを見ることを心配なさって、ぜひとも御自分の御存命中に王子にお后《きさき》を迎え、こうして子孫繁栄を悦びたいものとお望みになりました。そして、このお考えが常にましてお心にかかったある日のこと、王様はこれを総理|大臣《ワジール》に打ち明けなさると、大臣《ワジール》は答えました、「まことに結構なお考えでございます、結婚は気分を和らげるものでございますから。」そこで、シャハラマーン王は宦官の長《おさ》に仰せられました、「王子カマラルザマーンに、話があるから来るように、早く申し伝えよ。」そして宦官が御命令をお伝えするとすぐに、カマラルザマーンは父君の御前《みまえ》に出頭して、うやうやしく平安を祈ってから、御手《おんて》の間に控えました、父親に恭順な子としてふさわしく、慎ましく眼を伏せて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百七十一夜になると[#「けれども第百七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……父親に恭順な子としてふさわしく、慎ましく眼を伏せて。
すると、シャハラマーン王はこれにおっしゃいました、「おおわが子カマラルザマーンよ、余はわが存命中にそちに后を迎え、そちの身の上を悦び、そちの祝福された婚儀をもって、わが胸を晴らしたいものと、切に思うが。」
この父君のお言葉に、カマラルザマーンはすっかり顔色を変え、上ずった声で、答えました、「されば、おお父上、実際私は結婚にはいささかも気が進まないのでございます。私の魂は婦女子のほうには一向に傾きません。と申すのは、私は本能的に婦女子に嫌悪を覚えるというほかに、賢人たちのいろいろの書物のなかで、女の邪悪と不実の所行の数々をばあまりに読みましたので、今では、婦女子に近よるよりは死を選ぶという心境にまでなっておりまする。かつは、おお父上、彼らについて、最も世に尊重せられているわが詩人たちの申していることもございます。
[#ここから2字下げ]
『天運』により一人の女を授けられし者は禍いかな。たとえ石を積み鋼鉄の鈎《かぎ》もて留《と》めて、千の砦《とりで》を築き、そこに立て籠るとも、救わるる由なし。この被造物《つくられしもの》の狡猾は、それをも蘆のごとく揺り動かすべし。
ああ、この男は禍いかな。不貞の女は、黒き眉墨《コフル》長目に引きし明眸を持ち、重たげに編み下げし美しき編毛を備う。されど男の喉に夥しき悲哀を注ぎて、その息を絶たん。
[#ここで字下げ終わり]
〔(6)また別の詩人は申しました。
[#ここから2字下げ]
汝らは、汝ら呼んで女性《によしよう》と称するかの被造物について、われに訊《ただ》す。汝らの知るごとく、ああ、われは彼らの悪行《あくぎよう》の知識に通じ、わが獲しあらゆる体験を用い尽せし者なり。
われ何をか言わん、おお若人《わこうど》らよ……。ともかくも彼らを遁《のが》れよ。わが頭髪の白きは、見らるるごとし。因って以って察し得ん、彼らの愛は果してわれを首尾よく塗り上げしや否やを。〕
[#ここで字下げ終わり]
また別の詩人は申しました。
[#ここから2字下げ]
自ら新《さら》と称する処女すらも、禿鷹も寄りつかぬ死屍にすぎざるなり。
夜には汝これをわが有《もの》と思う。秘事《ひめごと》にもあらぬ秘事《ひめごと》を、喃々《なんなん》と汝に囁けばなり。謬《あやま》りぞ、いかに守りを固むとも、その腿と陰処は、明日は汝ならぬ他人《あだしびと》らのものたるべし。
女は旅宿なり、おおわが友よ、疑うなかれ、来る者は何ぴとも拒まず。欲するとあらば、これに入れ。されど、翌日は出でて、頭《こうべ》を回《めぐ》らすことなく立ち去れよ。これを他の者どもに委ねよ。彼らとてまた、もし知恵ちょうものを知らば、やがて去りゆくべき場所なり。
[#ここで字下げ終わり]
ですから、おお父上、こう申してはいたくお心を痛め奉るおそれがございますけれども、もしたって私に后を迎えさせるとおっしゃるならば、私は自害してしまうのをためらわぬでございましょう。」
シャハラマーン王は、この王子の言葉をお聞きになると、びっくりして御心痛ひとかたならず、光はお顔の前で闇に変じてしまったのでございます。けれども王子をばいたく鍾愛しておられ、王子を悲しませたくないと思っていらっしゃったので、ただこうおっしゃるだけになさいました、「おおカマラルザマーンよ、この件については、どうやらそちには面白からぬことのようだから、決してくどくは申さぬ。さりながら、そちはまだ若いによって、いそがずにとくと考え、そちが后を迎えて子供たちの親となるのを見れば、余がどのように悦ぶかも、想い見るがよかろう。」
そしてその日は、これについてはそのうえ何もおっしゃらず、王子の機嫌をとって、数々の立派な贈物をなさり、そして一年の間、王子に対してこのように振舞われたのでございました。
けれども一年たつと、王は前の時のように、王子を召されておっしゃいました、「そちは、カマラルザマーンよ、余の勧めを覚えているか。そして余の頼んだことと、そちが后を迎えることによって余に与える幸福をば、とくと考えてくれたかな。」するとカマラルザマーンは父王の前に平伏して、申し上げました、「おお父上、アッラーおん自ら尊敬と恭順を私に命じたもうものを、どうして私が御忠言を忘れ、従順を離れ得ましょうか。けれども結婚に関しましては、この頃ずっと熟考いたしましたが、常にもまして、私は断じてそれには近づくまいと意を決し、常にもまして、古人今人の書は私に、ぜひとも女性《によしよう》を避けよ、彼らは狡猾、愚昧、唾棄すべきものだから、と教えるのでございます。止むを得ずば、死をもってなりとも、何とぞアッラーは私を彼らから守りたまいますように。」
この言葉に、シャハラマーン王はこんどもやはり、これ以上強いて言ったり、この熱愛する王子を無理に従わせたりすることは、害があろうとお察しになりました。けれども御心痛のあまり、打ち沈んでつと立ち上り、別室に総理|大臣《ワジール》を召して、これにおっしゃいました、「おおわが大臣《ワジール》よ、子供を持ちたいと願う世の父親たちは、いかに愚かであろうぞ。子供からはただ悲しみと失望のみしか獲ぬものを。今やカマラルザマーンは、昨年にもまして、婦女子や結婚を避ける意を固めている。おおわが大臣《ワジール》よ、余の不幸は何たる不幸ぞ。いかにしてこれを救ったものか。」
すると大臣《ワジール》は首を傾《かし》げて、永いこと思案に耽りましたが、やがて頭を上げて、王様に申し上げました、「おお当代の王よ、こうしてはいかがでございましょう。今一年御辛抱なすった上で、その節は、王子様にひそかに御相談など遊ばさず、朝廷の貴族《アミール》、大臣《ワジール》、大官をば一人残らず、宮中の役人全部と共々お集めになって、彼ら一同の前で、これより直ちに王子に后を迎えることにするという御決心のほどを、王子様に御宣告なさるのでございます。さすれば王子様とて、この晴れの会衆の前では、さすがに敢えて御命令に叛きかね、かくて仰せ承わり畏って、お答え申し上げるでござりましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百七十二夜になると[#「けれども第百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……かくて王子様は仰せ承わり畏って、お答え申し上げるでござりましょう。」
この総理|大臣《ワジール》の説に、王様はすっかり御満足になって、叫ばれました、「アッラーにかけて、それこそ実行可能の案じゃ。」そしてお悦びのしるしに、大臣《ワジール》に一番見事な誉れの衣のうちのひと襲ねを、お贈りになりました。それから、言われただけの期間辛抱なさって、いよいよその時になると、件《くだん》の会衆を集めて、王子カマラルザマーンをお呼び出しになりました。そしてこの青年が広間にはいって来ますと、広間はそのために明るくなりました。その頤《あご》には何という黒子《ほくろ》でしょう、その通る道には、やあ、アッラー、何というまぶしさでしょう。そして父上の御前に着くと、まず御手の間の床《ゆか》に三たび接吻して、次に父上から先にお口を切るのを待って、じっと立っていました。王様はこれに仰せられました、「おおわが子よ、余がそちをこの会衆のさなかに呼んだのは、余の儀ではない、そちにそちの身分にふさわしき姫君を迎えさせ、もって存命中に、わが子孫を見る快を得んとのわが決意を、そちに表明せんがためであるぞよ。」
カマラルザマーンはこの父君のお言葉を聞くと、突然まるで気が違ったようになり、それがたいへん不遜な御返事を言わせたので、並いる一同は狼狽して眼を伏せ、王様はこの上ない恥の限り恥をおかきになりました。そして王様は御自分の義務として、このような不遜を公衆の面前で懲らしめずにはおけないので、恐ろしい声で、王子を叱咤なさいました、「命に叛いて父親に敬意を欠く子らは、どのような目に遭うか、そちは思い知るであろうぞ。」そしてすぐに警吏に命じて、王子の両腕を後ろに縛り、御前から引っ立てて、宮殿に隣り合っている荒れ果てた砦《とりで》の、古い塔のなかに閉じこめよとおっしゃいました。それは直ちに実行されました。そして警吏のひとりが、王子の見張りをし、御用の際にはお呼びに答えるため、戸口に残りました。
カマラルザマーンは、こうして自分が閉じこめられたのを見ると、たいそう悲しくなって、独りごとを言いました、「これはあるいは父上の仰せに従って、進まぬながら結婚して、父上をお悦ばせ申したほうがよかったかも知れない。さすれば父上のお心を痛めずに済み、こんな古塔の天辺《てつぺん》に入れられずに済んだことだろう。ああ、呪われた女めらが、お前たちはやはり、わが不運の最初の因《もと》となったわい。」カマラルザマーンのほうは、こうした次第でした。
ところでシャハラマーン王のほうはと申しますと、王様は御自分の部屋にお引き上げになって、さてあれほど愛する王子が今ごろはただひとり、心悲しく閉じこめられ、恐らく絶望していることとお考えになると、嘆き、泣きはじめられたのでした。何と言っても、王子に対する愛情は並々ならず、王子が公衆の前で犯した不遜をも、忘れさせてしまうのでした。そこで王様は、こうした御前会議を開く考えを唆《そそのか》した張本人の大臣《ワジール》に対して、非常なお腹立ちでございました。それで大臣《ワジール》を召し出して、これにおっしゃいました、「もっとも罪あるは汝であるぞよ。汝の禍いの忠言さえなくんば、余は何も、わが子に厳罰を加えざるを得ぬ羽目に立ち到ることはなかったものを。さあ、何とか申せ。何と答えるか。いかになすべきか申せ。なぜなれば、余はわが心の焔たる愛児が、今ごろは罰を受けて苦しんでいるとの思いに、とうてい慣れることはできぬからじゃ。」すると大臣《ワジール》は申し上げました、「おお王様、まあ十五日間だけ御辛抱相成って、王子様を閉じこめておおきなさいませ。さすれば、王子様がどんなにいそいで御心《みこころ》に従いなさるか、御覧遊ばされるでございましょう。」王様はおっしゃいました、「必ずさようかな。」大臣《ワジール》は言いました、「大丈夫でござります。」すると王様はいくつも歎息を洩らして、お床《とこ》に横になりにいらっしゃいましたが、その夜は不眠の一夜を過ごされました。それほど御心《みこころ》は、御自分の最大の悦びであるこの一粒種のお子について、思い悩みなすったのでございます。いつもは同じお床で御自分の横に寝かし、お腕を枕に貸してやりなすって、御自身王子の眠りに気を配りつけていらっしゃっただけに、なおさらお休みになれなかったわけです。そこでその夜は、いくらあちこちと寝返りをなすっても、うまくお目が閉じられませんでした。シャハラマーン王のほうは、こうした次第でした。
さてカマラルザマーン王子はどうかと申せば、次のようでございます。日暮れになると、戸口の番を仰せつかっていた奴隷は、火の点《つ》いた燭《ともしび》を持ってなかにはいって、それを寝床の足許に置きました。というのは、彼はあらかじめこの部屋に、王子様のために寝心地のよい寝床を設《しつ》らえて置いたのでした。そしてそうしてから、引き取りました。そこでカマラルザマーンは立ち上り、洗浄《みそぎ》を済まし、聖典《コーラン》の幾|章《スーラ》(7)かを誦して、さて夜を過ごすため着物を脱ごうと思いました。そこで着物を全部脱ぎ棄てて、身体には肌着一枚だけを残し、額に青い薄絹をめぐらしました。こうして王子は日頃にまして、第十四夜の月(8)ほども、美しくなったのでございます。それから寝床の上に横になり、父上を悲しませたと考えて、心を痛めてはおりましたものの、やがてぐっすりと寝入ってしまいました。
ところが王子は、この夜、この空と地の妖霊たちの出入する古塔のなかで、わが身にどのようなことが起るかは、つゆ知らなかったのでございます。
果して……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百七十六夜になると[#「けれども第百七十六夜になると」はゴシック体](9)
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
果して、カマラルザマーンの閉じこめられていたこの塔は、永年来打ち棄てられていましたが、これは古代異教のローマ人時代のものでした。そしてこの塔の麓には、やはり非常に古い、ローマ式の作りの井戸がひとつありました。そしてちょうどこの井戸が、マイムーナという名前の、若い魔女《イフリータ》の住居となっていたのでした。
魔王《イブリース》の後裔の魔女《イフリータ》マイムーナは、地霊の総大将、強大な鬼神《イフリート》ドムリアットの娘でした。マイムーナはたいそう好ましい魔女《イフリータ》で、恭順な信徒であり、自身の徳と祖先の徳とで、すべての妖霊の娘たちの間に聞え高く、未知境では名高い魔女《イフリータ》でございました。
さて、その夜も真夜中ごろ、魔女《イフリータ》マイムーナはいつものように、風に当ろうとて井戸を出て、空の階段のほうに軽々と飛び立ち、そこから気の惹かれる所に向ってゆこうとしていました。そして塔の天辺《てつぺん》のそばを通りかかると、そこには、もうずっと永年来ついぞ何も見かけなかったのに、今日は灯火《あかり》が見えるので、たいそう驚きました。そこで心中考えました、「確かにそうよ、この光はいわれなくあるわけはない。いったい何なのか、これはなかにはいって見なければならない。」そこで魔女《イフリータ》は急に方向《むき》を変えて、塔のなかにはいりました。すると奴隷が戸口に寝ているのが見えました。けれどもそこには立ちどまらずに、それを乗り越えて、部屋のなかにはいりました。そしてそこに、寝床に半裸で寝ている若者を見ては、その快い驚きはいかばかりでしたろう。魔女《イフリータ》はまず爪先《つまさき》で立ちどまって、もっとよく若者を見ようとて、その翼がこの狭い部屋のなかでは少しばかり窮屈を覚えるので、翼をすぼめてから、そっと近よりました。そして若者の顔を隠している夜具を、すっかり掲げてみて、その美しさに呆然としました。そしてこの若者を作っているすべてのいみじさを、心ゆくまで眺め入ることのできないうちに、その眼を覚ましてしまってはと思って、一時《ひととき》の間じっと息をとめておりました。というのは、実際のところ、その愛すべき身から発散する魅力、頬のほのかな赤み、うっすらとして長い蔭満ちた、睫毛の生えた瞼《まぶた》のぬくみ、眉毛の愛くるしい弧、こうしたすべては、肌の酔わせるような香気と身体《からだ》のそんなにもやわらかな光沢《つや》も含めて、人の住む地を経めぐって歩いた全生涯を通じて、このような美しさを見たことのないマイムーナの心を、少しも動かさずにすんだでしょうか……。まことに、まさしくこの若者にこそ、次の詩人の叫びを当てはめることができました。
[#ここから2字下げ]
わが唇の触るるや、わが狂気たるその瞳《ひとみ》は黒み、わが魂たるその頬は赤らむを、われは見たり。
しかしてわれは叫びぬ、「わが心よ、汝の情熱を敢えて咎むる人々に言え、『おお難ずるひとびとよ、さらばわが愛しき人のごとく美しき物をわれに見せよ』」と。
[#ここで字下げ終わり]
されば、鬼神《イフリート》ドムリアットの娘、魔女《イフリータ》マイムーナは、このすばらしい光景を十分に眼に満たすと、アッラーを讃《たた》えて叫びました、「完美を形造りたもう創造者は祝福されてあれ。」次に考えました、「どうしてこの若者の父母は、こうしてこの子と離れて、こんな荒れ果てた塔に、たったひとり閉じこめておくことができるのかしら。いったいこの両親は、壊れた跡や人気のない場所に住む、私の一族の悪霊たちの呪いを恐れないのかしら。けれども、アッラーにかけて、もしこの両親が自分の子供を構わないというのなら、この私が、マイムーナが、誓ってこの子を庇ってやり、魅力に惹かれて、この子に不埓を働こうとするようなすべての鬼神《イフリート》に対して、護ってやることにしましょう。」次に魔女《イフリータ》はカマラルザマーンの上に身を傾《かし》げて、ごくそっと、唇と瞼と両方の頬の上に接吻してやり、眼を覚まさないようにして、元どおり夜具を掛けてやって、窓際に戻り、翼を拡げて、空のほうに飛び立ちました。
ところで、この魔女《イフリータ》が中空《なかぞら》に達して、そこで涼むことにして、眠っている若者のことを考えながら、静かに飛び廻っておりますと、突然、ほど遠からぬところに、あわただしく羽ばたく翼の音を聞いたので、そちらのほうを向いてみました。するとその羽音の主《ぬし》は、悪い種族の妖霊で、スライマーン・ベン・ダーウド(10)の至上権を信じもせず、認めもしない叛逆の霊のひとりである鬼神《イフリート》ダハナシュであることが、わかりました。そしてこのダハナシュは、空中を駆けることにかけては、鬼神《アフアリート》きって速いシャムフラシュの息子でした。
マイムーナはこの性の悪いダハナシュを見かけると、この悪者が塔の明りを見つけて、そこで何かしら悪事を犯しはしないかと、たいそう心配いたしました。それで隼《はやぶさ》の飛ぶようにすばやくこれに襲いかかり、今にも追いついて叩き落そうとしますと、そのときダハナシュは、無条件で降参するという合図をして、怖さに顫えながら、言いました、「おお妖霊たちの王の娘、力強いマイムーナ様、畏き御名《みな》にかけ、スライマーンの玉璽の聖なる護符にかけて、何とぞお力を振って私を害することのないように、幾重にも願い奉ります。私からも、不届きなる所行は一切いたさないことを、お約束申し上げまする。」そこでマイムーナは、シャムフラシュの子ダハナシュに言いました、「よろしい。では赦してあげます。けれども今頃お前はどこから来たのか、そこで何をしているのか、どこへ行くつもりなのか、早く言いなさい。わけても有体《ありてい》に申さねばなりませぬぞ、おおダハナシュよ。さもなくば、すぐにもこの手で、お前の翼の羽根を毟《むし》り取り、生皮を剥ぎ、骨をへし折って、その上で、何ぞの塊りのように、お前をどこかの空の淵に突き落してしまいますぞ。嘘を言ってのがれることができるなんぞと、思ってはなりませぬ、おおダハナシュよ。」すると鬼神《イフリート》は言いました、「おお、わが御主人マイムーナ様、あなた様は今、ちょうど折よく私に出遭いなすったわけです、全く世にも珍しいあることが、お耳に入るというものでございます。けれども、おお恩恵満てるお方様、私が御希望を叶えました上は、私を安らかに立ち去らせ、通行証を賜って、今後は私の敵の、空と海と地の一切の|鬼神たち《アフアリート》の悪意を避けられるようにして下さると、お約束して下さいまし、おお、われわれ全部の王様、怖るべきドムリアット大王の、姫君にましますお方様よ。」韋駄天シャムフラシュの息子、鬼神《イフリート》ダハナシュは、このように語りました。
すると、ドムリアットの娘マイムーナは言いました、「スライマーン・ベン・ダーウド(御両人の上に祈りと平安あれかし)の玉璽を刻んだ宝玉にかけて、それは約束してあげます。けれども、とにかく早くお話しなさい、どうやらお前の事件は、たいそう変ったことらしい気がするから。」そこで鬼神《イフリート》ダハナシュは歩みを緩め、ぐるぐる廻って、マイムーナのそばに来て並びました。それから、二人とも空の散歩をつづけながら、彼はその事件をば、次のように語ったのでございました。
「おお、栄え満てるマイムーナ様、私はただ今遠い奥地のいやはての、シナのはずれから来たのだということを、申し上げましょう。そこはエル・ブフールとエル・クスールの領主、ガイウール大王のしろしめす国、附近の周囲一帯に数々の塔が聳え、王の宮廷があり、腰元を侍らせた王の妻妾がおり、曲り角とまわり一面に番兵のいるところです。そして私の眼が、私のあらゆる旅と回遊を通じて、一番美しいものを見たのは、その地のことでございます。すなわち、王の一粒種、エル・シート・ブドゥール(11)であります。
ところで、たとえ舌に毛を生ずることを顧みなくとも、この姫君の美しさを描き出すことは、とうてい私の舌のよくするところではござりませんので、私はただざっと、その美質を数え上げて言ってみましょう。さればお聞き下さい、おおマイムーナ様。
まずその髪をお話し申しましょう。次にはその顔を、次にはその頬を、次にはその唇、唾《つばき》、舌、喉《のど》、胸、乳、腹、腰、尻、優美の中央、腿、して最後に足をば、申し上げましょう。おおマイムーナ様。
ビスミラーヒ(12)。
その髪よ、おおわが御主人様。それは栗色濃きあまり、朋友の別れよりも黒うござりまする。そして三|条《すじ》の編毛にととのえて、足許までひろげますれば、さながら一時に三つの夜を見る思いがいたします。
その顔よ、それは朋友のめぐり会う日のように白うござりまする。満月輝き渡る折これを眺むれば、一時に二つの月を見る次第。
その双の頬は、二つの花冠に分《わか》ったアネモネより成っておりまする。頬骨のところは葡萄酒の緋色そのもの、鼻は選り抜きの刀身よりも、直《すぐ》にして薄うござりまする。
その唇は、色付き瑪瑙と珊瑚でできておりまする。舌は――一度《ひとたび》動かせば――爽やかな弁舌を分泌し、唾は葡萄の液汁よりも好ましく、この上なく燃える渇きをもよく医やす。その口はかくのごとくでござります。
されどその胸、創造者は祝福されてあれ。そは生ける誘惑。そこにはこの上なく清純な象牙造りの、円《まろ》く、手の五指のうちに納まりきる、対《つい》の乳房を載せておりまする。
その腹には、エジプトはコプト人《びと》の書記の印章の上なるアラビア文字と等しく、調和よくそこここにある、蔭満てる窪《くぼ》みがござりまする。そしてこの腹から、弾力ある紡錘形《つむがた》の腰がはじまっております。さあれ次はその尻ですが。
その尻、いやはや、身顫いが出まする。これはその持主が、立てばまた坐り、寝れば起きずにいられないほど、重い塊りでございます。まことに、おお御主人様、これを御想像願うには、ただ次の詩人の句をもってするよりほかに術《すべ》がござりませぬ。
[#ここから2字下げ]
かの女《ひと》の臀《いしき》は巨大にして豪奢、その懸る細腰よりも華車ならぬ腰をこそ欲しけれ。
そはかの女《ひと》にとりても、はたわれにとりても、休みなき責苦と惑乱の種ぞかし。何となれば、
かの女《ひと》は、ために立てば再び坐らざるを得ず、われは、そを思えば、常に陰茎《ゼブ》を立たせらるればなり。
[#ここで字下げ終わり]
その尻はかようにござりまする。そしてそこよりして、栄え満てる二本の腿が発しまする、しっかりと、すらりと、上のほう、冠の下に、滑《なめ》らかに。次に来るは両の脚と愛らしい両の足、上に重なるかくばかりの重さを、よくも支えるものとあきれるばかり、小さな足でござります。
さてその中央と土台とにつきましては、おおマイムーナ様、実を申せば、私はそれに似つかわしくこれをお話し申し上げる望みは、抱きかねまする。なぜならば、一は本質、他は絶対です。さしあたり、私の舌のお伝えできるところは、これがすべてでございます。そして身振り手振りをもってしたとて、そのあらゆる善美を御理解願うは、不可能でござりましょう。
そして、おおマイムーナ様、若き王女、ガイウール王の息女、エル・シート・ブドゥールは、おおよそこのような姫君でございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましい女であったので、つづきを翌日に延ばした。
[#地付き]されば第百七十九夜になると[#「されば第百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「そして若き王女、ガイウール王の息女、ブドゥール姫は、おおよそこのような姫君でございます。
けれども、同時に申し上げておかねばならぬのは、おおマイムーナ様、そのガイウール王は息女エル・シート・ブドゥール、すなわち今私が簡単にその麗質を挙げてお話し申した姫をば、甚だしく愛し、毎日姫に何か新しい慰みを見つけてやる工夫をするのが、王の楽しみだというほど、激しい愛情で愛しておりました。ところが、しばらくしますと、もうあらゆる種類の娯しみごとが種切れになってしまったので、今度は王は、姫に奇蹟のような御殿をいくつも建ててやって、さらにくさぐさの悦びを与えてやろうと思い立ったものです。そこでまず一々ちがった建て方、ちがった貴重な材で、七つの御殿を建てることから建築をはじめました。事実、第一の御殿は全部水晶ずくめ、第二の御殿は透きとおった雪花石膏、第三は磁器、第四は残らず宝石の截嵌《きりばめ》細工、第五は銀、第六は金、そして第七はことごとく真珠と金剛石という御殿を、建てさせたのでありました。そしてガイウール王はひとつひとつの御殿を、その建築様式に一番よく合った風に、飾らせずにはいませんでした。そして、例えば、またわけても、泉水と庭園の美観に念を入れるといった工合に、およそ住居を楽しくすることのできるような装飾はすべて、そこに集めました。
そして王は王女エル・シート・ブドゥールの気を晴らそうと、これらの御殿に姫を住まわせたのですが、姫の倦きる暇がないように、楽しみは倦《う》むことなく楽しみに継ぐようにと、ひとつの御殿には一年|限《き》りにしたのでございます。
さればこうしたすべての美しい品々のまんなかで、この乙女の美しさはいや増すばかりで、遂には私を魅した、あの無上の有様に到らざるを得ないのでした。
かような次第であってみれば、おおマイムーナ様、ガイウール王の国の近隣のあらゆる王は、この豪奢な尻の乙女をば后《きさき》に獲たいものと、いたく執心したと申したところで、決していぶかりなさることはございますまい。けれども、と申しても、姫の処女の身については御心配無用と、とりあえず申し上げなければなりませぬ。というのは、今までのところ、姫は父王の取次ぐ申し込みをば、すべて怖気をふるって退けたのです。いつもそのつど、返事の代りに、ただ父王にこう言うだけでした、『わたくしは自分自身の女王、自分のただひとりの主人でございます。絹物にもよく耐えぬ身を、どこぞの男が擦《こ》するのを、どうしてわたくしに忍べましょうか。』
するとガイウール王は、ブドゥールの機嫌を損なうくらいなら、むしろ死んでしまったでしょうから、ひと言も返す言葉もありませんでした。そして近隣の王たちと、この目的で、最も奥深い遠方から、はるばるこの国にやって来た王侯たちの求婚を、辞退しないわけにゆかない次第でした。ある日のごときは、他の人たちよりもひときわ美貌で有力なひとりの若い王が、到着に先立って、まず準備の贈物を数々携えて罷り出た時、ガイウール王はその旨ブドゥールに話しますと、姫はこんどは立腹して、手いたく非難して叫んだものです、『こういつもいつも責めさいなまれるのをのがれるには、もうわたくしにはただひとつの道しかないことが、よくわかりました。わたくしは、あれあそこにあるあの剣を取って、われとわが心臓に切先《きつさき》を突き立て、背中まで刺し貫くばかりでございます。アッラーにかけて、それがただひとつのわたくしの頼りですわ。』そして姫は、本当にわが身にこうした乱暴を加えかねない勢いだったので、ガイウール王はびっくり仰天、もう舌を出し、手を振り、白眼をぐるぐる廻してしまいました。それから急いでブドゥールをば、ブドゥールの当の乳母をも加えて、十人の非常に賢く経験豊かな老女の手に委せました。それからというもの、この十人の老女はただの一時《いつとき》も姫のそばを離れず、夜は順繰りに、姫の部屋の戸口で寝ずの番までしている有様です。
おお御主人マイムーナ様、現在はちょうどかような事態なのでございます。そして私は、もとより毎夜この姫の美しさを眺めにゆき、そのすばらしさを見て、官能を楽しませることを欠かしませぬ。ですから、姫に乗ってその臀を堪能する誘惑が、私に起こらぬわけではさらさらございませんが、しかし本当のところ私は、このように守り抜かれている豪華なものを、その持主の意に反して傷つけることは、いかにももったいないことと思うのでございます。そこで、おおマイムーナ様、私は遠慮深く、眠っている間の姫だけで満足しています。例えば、眼の間に、ごくそっと接吻するくらいです、強く接吻したい激しい欲望に駆られるとは申せ。けれども私は、自分がひとたび堰を切ったら、とめどがなくなることを知っているので、自身に信用が置けません。そこでこの乙女を損なってはと思って、むしろ全然慎しむことにしておりまする。
されば、おおマイムーナ様、ひとつぜひ私と一緒に、わが友ブドゥールを見にいらっしゃって下さいませ。疑いもなく、その美しさはお心を魅し、その完美はお心を奪うであろうことは、私が保証いたします。さあ、マイムーナ様、ガイウール王の国に、エル・シート・ブドゥールを賞美しに参りましょう。」
韋駄天シャムフラシュの息子、鬼神《イフリート》ダハナシュはこのように語りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十夜になると[#「けれども第百八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
韋駄天シャムフラシュの息子、鬼神《イフリート》ダハナシュはこのように語りました。
若い魔女《イフリータ》マイムーナはこの物語を聞きますと、返事の代りに嘲りの笑いを浮かべて、翼で鬼神《イフリート》の腹にひと打ち喰わせ、顔に痰をひっかけて、言いました、「その若い小便垂れ娘とやらを持ち出して、お前はいやらしいったらない。そんな娘は、私のかわいがっているあんなに美しい若者とは、ひと時も較べものにもなにもなるまいことを、お前はよく知っている筈なのに、よくも臆面もなくそんな話ができたものだね。」すると鬼神《イフリート》は、顔を拭いながら、叫びました、「これはまた、おお御主人様、私はそのあなた様の若いお友達のいらっしゃることなど、全然存じあげません。ひたすらお許しを願いつつ、その方を拝見できれば、この上ない仕合せです、その方が、私の姫君の美しさに及ぶことができようとは、なかなかもって信じかねまするが。」するとマイムーナはこれにどなりつけました、「いい加減に黙らないか、呪われた者めが。繰り返し言って聞かせるが、私の友の美しさときたら、もしお前が夢にでもあのひとを見たら、お前なんぞは癲癇を起こして、駱駝みたいに泡を吹いてしまうだろうよ。」ダハナシュは聞きました、「だがその方はいったいどこにいて、どういう方でしょうか。」マイムーナは言いました、「このならず者めが、そのひとはお前のお姫さまと同じ境遇です。そして今は、麓に私の地下の住居がある、あの古い塔に閉じこめられています。けれども、かりそめにも私と一緒でなく、その若者を眺めようなどという希望を起こすわけにはゆきませぬぞ。何せお前のさもしい根性はよく知っているから、お前なぞには行者《サントン》様の尻の番だってまかせはしません。けれども、私自身がお前にその若者を見せてやって、お前の意見を聞くことは承知してあげます。だがあらかじめよく言っておくが、万一お前がぬけぬけと嘘をついて、お前の見るものの実際に反した口をきくようなことをしたら、両方の眼をえぐりとって、お前を鬼神《アフアリート》のなかで一番みじめな者にしてやるから、そのつもりでいなさい。それに私は、もし私の友のほうがお前のお姫様よりも美しかったら、お前にたっぷり賭金を払わせるつもりだが、公平にするため、もし反対だったら、私のほうから払うことにしてあげます。」するとダハナシュは叫びました、「その条件で合点です。では私と一緒にエル・シート・ブドゥールを見に、その父王ガイウールの国に参りましょう。」けれどもマイムーナは言いました、「塔はこの足下《あしもと》にあるのだから、まずそこへ行って、私の友の美しさを鑑定することにするほうが、手っ取り早い。それから、較べることにしよう。」するとダハナシュは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてすぐに連れ立って、空の高みから一直線に塔の天辺まで降り、窓から、カマラルザマーンの部屋にはいり込みました。
するとマイムーナは、声を低めて、鬼神《イフリート》ダハナシュに言いました、「ここにじっとしていなさい。わけても行儀よくするのだよ。」それから眠っている若者に近づいて、その時|被《かぶ》っていた蒲団を持ち上げました。そしてダハナシュのほうを向いて、言いました、「よく御覧、おお碌でなし。ぱったり倒れないように、よく気をつけるがいい。」そこでダハナシュは頭を差し出しますと、びっくりして後退《あとじさ》りしました。それから再び首を延ばして、永いこと美しい若者の顔と身体《からだ》を検査していましたが、やがて頭を振って、言いました、「おお御主人マイムーナ様、あなた様の友が比類のない美しさだとお考えになるのも、まことに無理もないことが、今になってわかりました。たしかに、若者の身体《からだ》にこれほどの完美が備わるのは、私もかつて見たことがございません。しかも、私がおよそ人間の子の間で、一番美しい人たちを知っているということは、御承知のところです。けれども、おおマイムーナ様、この若者を作った鋳型は、もひとつ女のほうの見本を作って後に、はじめて壊れたのでありまして、それがあたかもブドゥール姫なのでございます。」
この言葉に、マイムーナはダハナシュに飛びかかって、翼で頭上に一撃を加えて、その角を一本折ってしまって、叱りつけました、「おお鬼神《アフアリート》のなかで一番卑しい者よ、これからすぐにそのガイウール王の国の、シート・ブドゥールの御殿に行って、そこからここに姫を運んで来なさい。私はわざわざ身を運んで、その小娘のところまで、お前について行くのはいやだから。お前がここにその小娘を連れてきたら、さっそくそれを私の若い友のそばに寝かして、私たちは自分の眼で、ふたりを較べてみることにしよう。早く帰ってくるのですよ、ダハナシュ。さもないとお前の身体《からだ》をずたずたにして、鬣狗《ハイエナ》と烏の餌に投げ与えてやるから。」そこで鬼神《イフリート》ダハナシュは、落ちている角を拾い上げて、しょんぼりと、臀を掻きながら立ち去りました。そして投槍のように空中を横切って、やがてひと時たつと、荷物を背負って帰って参りました。
ところで、ダハナシュの肩に眠っていた姫は、身に肌着一枚しか着けず、その身体は白さのうちに息づいておりました。そして金糸とやわらかい絹糸の緯《よこいと》を通した、その肌着の広い袖の上には、次の詩句が気持よく組み合わされて、縫い取られていました。
[#2字下げ] 三つのものありて、「諾《よし》」という一瞥を人間に与うるを阻む。すなわち、未知への恐怖と、既知への嫌悪と、己が美なり。
すると、マイムーナはダハナシュに言いました、「どうやらお前は、途中でその若い娘と戯れていたにちがいない。来ようが遅かったが、いったいよい鬼神《アフアリート》にとっては、カールダーンの国からシナの果まで行って、一直線の道を通って帰るには、もののひと時もいりはしないからね。まあよろしい。とにかくいそいでその小娘を、私の友の横に寝かしなさい、私たちでとくと調べてみよう。」そこで鬼神《イフリート》ダハナシュは非常に用心深く、そっと姫をば寝床の上に下ろして、その肌着を持ち上げたのでした。
ところで、いかにも、その乙女は実に美しく、鬼神《イフリート》ダハナシュが述べたとおりでございました。そしてマイムーナは、このふたりの若者の似ていることといったら、まるで双児《ふたご》と見紛うばかりそっくりで、ただその中央と土台がちがうばかりなのを、認めることができました。同じ月の顔《かんばせ》、同じ細腰、同じ豊かさ満ちた臀です。そして、若い乙女のほうは、その中央のところに、若い男の飾りとなっているものを持ち合わせないにせよ、その代りに、滋味多い性なことを証拠立てる、ふたつの見事な乳房を持って、かえって引き立っていることもわかりました。
そこで、マイムーナはダハナシュに言いました、「この私たちそれぞれの友の、どちらに軍配を挙げるか、ちょっと迷うのも無理からぬことは、わかります。けれども、等しく美しいふたりの若者の間で、ひとりは男、ひとりは女という場合には、そりゃ男が女に勝《まさ》るものだということがわからないというのは、お前みたいな、盲《めくら》か馬鹿にきまっている。お前はどう思います、おお碌でなし。」けれどもダハナシュは答えました、「私としては、私は自分のわかっていることはわかっているし、見ていることは見ています。時間がたったからって、自分の眼の見たことの反対を信じるようにはなりはしません。けれども、おお御主人様、あなた様がそれでもなお、強《た》って私に嘘を言えとおっしゃるならば、御機嫌を取り結ぶため、嘘を申しましょう。」
魔女《イフリータ》マイムーナはこのダハナシュの言葉を聞くと、ひどく癪にさわって、けたたましく笑いました。そして、ただ見較べてみるだけでは、所詮この強情者と意見が合いっこないと考えて、そこでこれに言いました、「私たちふたりのうち、どちらが正しいかわかる法があるかと思うが、それは私たちの詩興の助けを借りることです。それぞれ自分の贔屓《ひいき》を讃えて、一番美しい詩句を作った者のほうにこそ、たしかに真があるということにしよう。どう、お前は承知しますか。それとも、心こまやかな人たちのみのよくする、こうしたいみじい業《わざ》は、お前はようしないかな。」けれども鬼神《イフリート》ダハナシュは叫びました、「それこそちょうど、おお御主人様、今私の申し出そうとしていたところです。これでも私は、父シャムフラシュから、作詩の規則と、完全な韻律の軽妙な詩句の術を教わりましたからね。けれどもまずあなた様からお先にどうぞ、おお美わしいマイムーナ様。」
そこでマイムーナは、眠っているカマラルザマーンに近よって、その唇の上に身を傾《かし》げて、そこにそっと接吻しました。次にその額を撫でて、髪に手を置き、じっと若者を見つめながら、口ずさみました。
[#ここから2字下げ]
小枝はそのしなやかさを置き、素馨はその花束を置きたる、おお艶《つや》やかの身よ、そもいかなる処女の身の、汝《な》が香気に値いせんや。
金剛石はその光を置き、夜はその星を置きたる眼よ、そもいかなる女性《によしよう》の眼の、汝《な》が輝きにしかんや。
馥郁《ふくいく》たる蜜より甘きその口の接吻《くちづけ》よ、そもいかなる婦女の接吻《くちづけ》の、汝《な》が爽やかさに及ばんや。
おお、汝《な》が髪を撫で、汝《な》が肉身の上にわが総身打ち顫え、次いで汝《な》が眼《まなこ》の裡に星の上《のぼ》るを見ばや。
[#ここで字下げ終わり]
鬼神《イフリート》ダハナシュはこのマイムーナの詩を聞くと、恍惚の限り恍惚として、次には、魔女《イフリータ》の詩才に敬意を表するとともに、このように格調正しい律呂《りつりよ》に対する自分の感動を現わすために、痙攣の限り痙攣いたしました。けれども、やがて彼もまた自分の友ブドゥールに近よって、その露《あら》わな乳の上に身を傾《かし》げて、そこに静かに愛撫を置きました。そしてその色香に詩興を得て、じっと乙女を視つめながら、口ずさみました。
[#ここから2字下げ]
おお若き乙女よ、ダマスの桃金嬢《ミルト》微笑めばわが魂《たま》を激さしむ。さあれ、汝《な》が美《はし》けさは……
月光と露に養われしバグダードの薔薇微笑めば、わが魂《たま》を酔わしむ。さあれ汝《な》が露わの唇は……
汝《な》が露わの唇と、おお愛《いと》しきひとよ、汝《な》が花咲ける美《はし》けさと微笑めば、そはわれを狂気せしむ。爾余の一切は消え失せぬ。
[#ここで字下げ終わり]
この即吟を聞くと、マイムーナは少なからず驚いたのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十二夜になると[#「けれども第百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……即吟を聞くと、マイムーナは、このダハナシュのうちに、これほどの醜さと合わせてこれほどの詩才があるのを見て、少なからず驚いたのでございました。そして女ながらも、多少の判断力を備えておりましたので、ダハナシュに詩を讃めてやらずにはいないと、彼はこの上なく悦に入りました。それからマイムーナは言いました、「まことに、おおダハナシュよ、お前はお前の住んでいるその骨組のなかに、なかなか乙な魂を持っているのだねえ。けれども、シート・ブドゥールがカマラルザマーンよりも美しさ勝《まさ》るというわけにゆかぬと同様、お前が作詩の道で勝ると思うわけにはゆかないよ。」するとダハナシュは、大むくれで叫びました、「ほんとにそうお思いですか。」マイムーナは言いました、「それはそうとも。」彼は言いました、「私はそうは思わないが。」マイムーナは「これでも喰え」と言って、翼でその片目を撲って腫れさせました。相手は言いました、「そんなことは何の証拠にもなりませんや。」マイムーナは言いました、「そら、私の尻でも御覧。」相手は言いました、「すこぶる貧弱なしろものだ。」
この言葉に、マイムーナは重ね重ね腹を立てて、ダハナシュに躍りかかって、その身体のどこかを叩き潰してやろうとしましたが、ダハナシュはそういうことを見越して、あっという間に蚤に身を変じて、そっと寝床のなかに飛び込んで、ふたりの若者の下に、身をひそめてしまいました。そしてマイムーナはふたりの眼を覚ますのを心配していたので、事の結末をつけるには、ダハナシュに向って、もう決して害を加えないからと、誓わないわけにゆきませんでした。ダハナシュはその誓いを前にして、再び元の姿に返りましたが、相変らず油断しません。するとマイムーナは言いました、「聞きなさい、ダハナシュ、この件の結着をつけるには、第三者の裁きを仰ぐよりほかに、道はないと思うが。」彼は答えました、「結構でございます。」
するとマイムーナは足で床《ゆか》を打つと、床《ゆか》はふたつに開いて、そこからひとりの物すごい鬼神《イフリート》が出てまいりました。頭にはそれぞれ四腕尺(13)もある角を六本生やし、同じ長さの、叉になった尻尾が三本あります。跛《びつこ》で傴僂《せむし》で、両の眼は、顔の中央に、縦《たて》方向《むき》に植え込まれています。一方の腕は五腕尺もあるかと思うと、他の一方は僅か半腕尺しかありません。お釜よりも大きな両手は、獅子の爪で終っています。脚は先が蹄になっていて、そのため彎脚《かまあし》のひとみたいに歩くのでした。その陰茎《ゼブ》は象のよりも二倍も大きく、背中の後ろに垂れ下がって、堂々と現われていました。この鬼神《イフリート》は、魔王《イブリース》アブー・ハンファシュの後裔、カシュカシュ・ベン・ファクラシュ・ベン・アトラシュという名前でした。
さて、床《ゆか》が再び閉ざしますと、鬼神《イフリート》カシュカシュはマイムーナの姿を認めて、すぐにその手の間の床《ゆか》に接吻して、両腕を組んで、その前にうやうやしく控え、訊ねました、「おおわれらの王ドムリアットの御息女、わが御主人マイムーナ様、私は御命令を待つ奴隷でございます。」マイムーナは言いました、「カシュカシュよ、私はお前に、私とこの呪われたダハナシュとの間に起こった諍《いさか》いの、裁き人《びと》になってもらいたいと思う。これこれしかじかの次第です。ですから、お前は公平な態度をとって、この寝床の上によく眼を注いでから、私の友か、それともこの若い娘か、どちらのほうがお前に美しく見えるか、私たちに告げなければなりません。」
そこでカシュカシュは、ふたりの若者が静かに裸で眠っている寝床のほうを向きましたが、その姿を見ると、彼はすっかり心を動かされてしまって、頭の上まで突っ張った彼の道具を、左の手で握り、三叉《みつまた》に分れた尻尾を、右の手で掴んで、踊り出したほどでした。そのあとで、マイムーナとダハナシュに言いました、「アッラーにかけて、これをつらつら見まするに、これなる両人は美しさ互角で、ただ性がちがうだけでございます。さりながら、やはりここに一法あり、それこそ紛議を解決する唯一の法です。」ふたりは答えました、「それをいそいで聞かせてもらいたい。」彼は答えました、「まあまず私に、この乙女のため何か歌わせて下さいませ。私はすっかり心を動かされてしまいました。」マイムーナは言いました、「あまり時間がないが。お前がこの美しい男のほうについて、何か詩を聞かせたいというのでもなければねえ。」するとカシュカシュは言いました、「私の詩はすこし突拍子《とつぴようし》もないかも知れませんが。」マイムーナは答えました、「とにかく歌ってみなさい、詩句が格外れでなく、短くさえあればいいから。」そこでカシュカシュは次のような、意味のはっきりしない、複雑な詩句を歌いました。
[#ここから2字下げ]
若き男子《おのこ》よ、汝はわれに想い起こさしむ、唯一の愛に身を捧げなば、心労と憂慮は熱情を押し殺さむことを。心せよ、おおわが心よ。
処女の唇の上に、接吻の砂糖を愛せ。されど、未来を汝に幸いならしめんがためには、出口の扉をば錆びつかしむることなかれ。塩の味は、さらに味わいがたき唇の上に旨《うま》し。
[#ここで字下げ終わり]
するとマイムーナは言いました、「私はこの詩の意味を、強いて穿鑿《せんさく》しようとは思いませぬ。それよりか早く、誰のほうに真《まこと》があるか知る法を言いなさい。」すると鬼神《イフリート》カシュカシュは言いました、「私の考えでは、採るべき唯一の法は、この両人をひとりずつ次々に起こして、その間われわれ三人の姿は見えないようにしておくのです。さすれば、ふたりのうち一方に対して一段と熱い思いを示し、その身振り態度に一段と強い恋心を見せたほうが、必ずや美しさを授けられること少ないわけだということは、御両人とも同意なさるでしょう。つまりそうしたほうが、自身相手の魅力に征服されたと自認することになるのですから。」
鬼神《イフリート》カシュカシュのこの言葉に……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十三夜になると[#「けれども第百八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
鬼神《イフリート》カシュカシュのこの言葉に、マイムーナは叫びました、「おお妙案、妙案。」そしてダハナシュも同じく、感嘆の声をあげました、「いかにもそいつはうまい。」そしてすぐに、彼は改めて蚤に身を変えましたが、こんどは、美しいカマラルザマーンの頸を刺しにゆくためでした。
こうして力いっぱい蚤に刺されると、カマラルザマーンはびっくりして眼を覚まし、いそいで刺された場所に手をやりましたが、しかしもとより何も捕《つか》まりはしません。というのは、韋駄天ダハナシュは、こうして青年の肌の上にいささか、マイムーナから受けた数々の辱しめの意趣返しをして、それとなく恥を雪《そそ》いだ次第でしたが、その時は早くももとの、姿の見えない鬼神《イフリート》の形に返っていて、これからの成行きを見届けようとしていたからです。
ところで、まことにそれからの成行きは、見物《みもの》でございました。
果して、カマラルザマーンはまだ夢現《ゆめうつつ》で、蚤を捕えそこねた手を再び下ろしますと、その手はちょうど若い娘の裸の腿に触りました。はっとして、青年は眼を開きましたが、すぐにまぶしさと感動のあまり、その眼を閉じてしまいました。そして自分の身近に、このバターよりもやわらかい身体と、この麝香の香よりも快い息を感じました。そこでその驚きは非常なものでしたが、まんざら不愉快でもなく、しまいには頭をもたげて、自分のそばに眠っている、見も知らぬ女の類いない美しさに、見入ったのでございました。
そこで彼は、クッションに肱をついて、そしてそれまで女性に対して感じていた嫌悪もたちまちどこへやら、うっとりとした眼で、この若い娘の麗わしさをつぶさに見はじめました。心中で、最初はこれを円屋根を戴いた美しい砦《とりで》に比《たぐ》え、次には真珠に、次には薔薇に比《たぐ》えました。というのは、これまでいつも女たちを見るのを嫌って、女の姿や風情についてたいそう無知だったもので、いきなりぴったりあてはまる比較《たとえ》ができなかったのです。けれどもやがて、自分の最後の比較《たとえ》が一番ぴったりしているし、二番目の比較《たとえ》が一番本当だと気づきました。最初のには、すぐに苦笑してしまいました。
そこでカマラルザマーンは、薔薇の上に身を傾《かし》げて、その肌の香りがまことに馨《かぐ》わしいのを感じて、身体中の表面に鼻を持って行ったほどでした。ところでそれはあまりによい匂いでしたので、こう独りごとを言いました、「ためしに、触ってみようかしらん。」そして指を真珠の輪郭全体の上にやってみますと、こうして触っているうちに、自分の身体に火がつき、わが身のあちらの場所やこちらの場所が、動き出したり動悸がしたりするのを覚え、遂には、このおのずからなる自然の本能の堰をきる必要を、激しく感じたのでした。そして叫びました、「何ごともアッラーの思し召しで起こるのだ。」そして、いよいよ交合《まじわり》をしようと身を構えました。
そこで彼は、「この女が下穿きを穿いていないとは、いかにも不思議だ」と思いながら、乙女を抱き上げました。そしてあちらに向けたり、こちらに向けたりして、触ってみました。それから感嘆して、叫びました、「やあ、アッラー、何と大きなお臀だろう。」それからお腹を撫でて、言いました、「やわらかなこと驚くばかりだ。」こんどは乳房に気を唆られて、それを両手にいっぱいに掴むと、たまらない快楽の身顫いを感じて、叫び出しました、「アッラーにかけて、これはどうあっても眼を覚まさせて、うまく事をしなければならない。だが、さっきから身体に手を触れているのに、いまだに眼を覚まさないとは、いったいどうしたわけだろう。」
ところで、乙女が眼を覚まさないようにしているのは、実は鬼神《イフリート》ダハナシュの計らいで、カマラルザマーンを自由に振舞わせようとて、わざとこうして昏々と眠らせておいたのでした。
そこでカマラルザマーンは、自分の唇をシート・ブドゥールの唇の上に重ねて、長い接吻を奪ったのでした。それでもまだ眼が覚めないので、さらに二度、三度接吻しましたが、乙女はいささかも感じる模様がありません。すると彼は話しかけはじめて、言いました、「おおわが心よ、おおわが眼よ、おおわが肝よ。お起き。私はカマラルザマーンです。」けれども乙女は身動きひとついたしません。
そこでカマラルザマーンは、呼んでも甲斐ないのを見ると、独りごとを言いました、「アッラーにかけて、もう待ちきれない。分け入らずにはいられない、矢も楯も耐らない。眠っている間《ま》に、うまくゆくかどうか、ひとつやってみよう。」そして彼は乙女の上に身を横たえました。
こうした次第です。そしてマイムーナとダハナシュとカシュカシュは、じっと見ておりました。マイムーナはもうひどく心配になってきて、いよいよ済んでしまった場合には、こんなことは数に入らないと言い出そうと、早くもそう言うつもりでいました。
さて、カマラルザマーンは、仰向けに眠っている乙女の上に身を横たえました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十四夜になると[#「けれども第百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて、カマラルザマーンは、仰向けに眠っていて、着物といえばただ乱れた髪ばかりの乙女の上に、身を横たえまして、これを両の腕で抱き緊め、自分のいよいよしようとしていることの小手調べを、まさにしようとしましたが、その時急にぶるっと身顫いして、手を放し、頭を振って、こう考えたのでした、「これはきっと父王の計らいで、女に触れると私がどうなるかを試《ため》すため、この乙女を私の寝床に入れてみられたのに相違ない。そして今父上は、この壁の後ろで、穴に眼をあてて、果してうまくゆくかどうか、私を見ていらっしゃるにちがいない。明日《あした》になると、私のところにお出でになって、おっしゃることだろう、『カマラルザマーンよ、そちは結婚と婦女子はまっぴらだと申しておったが、昨夜はあの乙女と何をしたかな。ああカマラルザマーンよ、そちはひそかに姦淫することは厭がらぬくせに、余が子孫を確保し、王座をわが子らに伝えるのを見れば、いかばかり幸福を覚えるかを、よく承知しておりながら、結婚は拒むのじゃな。』そうなれば、私は詐欺嘘つきと見られるだろう。これはいっそ、したいにはなんぼうにもしたいが、今夜のところは交合《まじわり》を我慢して、明日まで待つが得策だ。明日は父上にお願いして、この美しい乙女と結婚しよう。そうすれば、父上も御満足だし、私も心置きなく、この祝福された身体《からだ》を用いることができるわけだ。」
そこで、あんなにひどく心配しはじめたマイムーナをば大いに悦ばし、反対に、この青年はきっと交合《まじわり》をするだろうと考えて、最初は悦んで小躍りしはじめたダハナシュをばひどくしょげさせて、カマラルザマーンは今一度、シート・ブドゥールの上に身を傾《かし》げ、その口に接吻してのち、乙女の小指から美しい金剛石のついた指環を抜いて、それを自身の小指にはめ、今後この乙女をば自分の妻と心得るということを、はっきり示しました。それから、こんどは自分の指環を乙女の指にはめてやった上で、この上なく心残りではございましたが、後ろを向いて、やがて再び眠ってしまったのでした。
これを見るとマイムーナはすっかり悦び勇み、ダハナシュは大いに弱りましたが、けれどもすぐに、マイムーナに言いました、「これはまだ試験の半分です。こんどはあなた様の番です。」
そこでマイムーナはすぐさま蚤に身を変えて、シート・ブドゥールの腿に跳びあがり、そこから臍まで上がり、次に指四本分の距離を引っ返し、薔薇の谷間を見下ろす小山のちょうど天辺に停まって、そこで、自分の満腔の妬みと意趣晴らしをこめたただひと刺しでもって、乙女を痛さに飛び上らせました。彼女は眼を開き、両手で尊い場所を押えながら、いそいで床《とこ》の上に起き上りました。けれどもすぐに、自分のそばに、横向きに寝ている若い男の姿を見かけると、恐れと驚きの叫びをあげました。しかしその男をひと目見るともう、怖さは感嘆に、感嘆は悦びに、悦びは溢れる嬉しさに変らずにいないで、それはやがて、無我夢中というまでになりました。
事実、最初は恐れおののいて、彼女は心中で考えたのでした、「不幸なブドゥールよ、もうお前は永久に身を過ってしまいました。ほら、お前の寝床には、お前のついぞ見たこともない、若い異国の男がいます。何という大胆でしょう、この男の大胆は。さあ、これは今すぐ宦官どもを呼ばわって駈けつけさせ、この男を部屋の窓の天辺から、河に放りこんでやるとしましょう。けれども、おおブドゥールよ、これは父上がお前に選んで下さった夫でないとも限りませんよ。乱暴なことをする前に、おおブドゥールよ、まずよく見てごらんなさい。」
ブドゥールが若者に一瞥を投じたのはこの時のことなので、そしてこうしてちらりと見ただけで、その美しさに目が眩んでしまって、叫んだのでした、「ああわたくしの心よ、何てお綺麗な方でしょう。」そしてとたんに、すっかり心を捕えられてしまって、この眠っているにこやかな口のほうに身を傾《かし》げて、その口を自分の唇の間にはさんで、接吻を吸いとりながら、叫びました、「アッラーにかけて、ええ、このお方をこそわたくしは夫に欲しいわ。なぜお父様は、こんなにいつまでも、この方を連れてきて下さらなかったのでしょう。」それから、顫えながら若者の手をとり、それを自分の両手の間にはさんで、起こそうと思って、たいそうやさしく話しかけて、言いました、「おお、わたくしの眼の光よ、お起き遊ばせ、お起き遊ばせな。さあ来てわたくしを抱いて下さい、いらっしゃいな。御身の上なるわが命にかけて。」
けれどもカマラルザマーンは、恨み深いマイムーナのかけた魔法の力で、身動きひとつせず、眼の覚める様子もなかったので、美しいブドゥールは、これは自分が悪かったので、呼び方に十分まごころをこめなかったせいと思いました。そこでもう他人《ひと》が見ていようといまいと、そんなことには頓着なく、絹の肌着を少し開いて、若者のそばにぴったりと寄り添い、両腕をめぐらして、自分の腿を若者の腿にぴったりと押しあてて、物狂おしく、その耳に囁きました、「さあ、どんなにわたくしが素直でやさしいか、見て下さい。ここにわたくしの乳房の水仙がございますし、とても快いお腹《なか》の花園もございます。ここには巧みな愛撫を好むお臍もあります。いらっしてお楽しみ遊ばせ。それから、わたくしのなかにある果物《くだもの》のお初《はつ》を味わいなさいませ。夜はわたくしたちの嬉戯《たわむれ》に短すぎるでございましょう。そして朝になるまで、ふたりでお互いに甘くし合いましょうね……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十五夜になると[#「けれども第百八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……そして朝になるまで、ふたりでお互いに甘くし合いましょうね。」
けれども、カマラルザマーンは前よりもいっそう深く眠りに陥っていて、相変らず何の返事もしませんので、美しいブドゥールは、これはわざと寝ているふりをして、自分をもっとびっくりさせようと思っているだけのことと、ふと思って、そして半ば笑いを含んで、言いました、「さあ、さあ、そんなふうに人の悪い真似をなさってはいけませんわ。ひょっとしたら、わたくしの高慢を挫くため、お父様があなたに、こんな意地悪なことを教えなすったのかしら。でももう本当に、それには及びませんわ。あなたの美しさは、おお、すらりとした美わしい若鹿よ、もうそれだけでこのわたくしをば、恋の奴隷のなかでも、一番素直に従う奴隷にしてしまったのですもの。」
けれどもカマラルザマーンはやはり身動きもしないので、シート・ブドゥールはますます小さくなって、言葉を継ぎました、「おお美の主《あるじ》よ、このわたくしもまた、美しい女といわれております。まわりの者はすべて、わたくしの冷やかな澄みきった美わしさを仰ぎ見ながら、暮らしております。ただあなたおひとりだけが、ブドゥールの静かな眼差《まなざ》しに、欲望《のぞみ》を燃やすことがおできになったのでございます。どうして眼をお覚ましにならないのですか、おお麗わしいお方。どうして眼をお覚ましにならないの。わたくしもう死にそうな気がいたしますわ。」
そして乙女は、若者の腕の下に自分の頭を入れて、甘えながらその首と耳を軽く噛みましたが、やはり何の甲斐もありません。すると、生まれてはじめて体内に点火された熱情に、もう耐えきれなくなって、今度は若者の脚と腿の間を、手で探りはじめましたが、それがあまりに滑《なめ》らかで丸々としているので、思わず手でその表面をさすってみずにはいられませんでした。するといわば偶然に、そうしている途中で、彼女にとっては全く初めての品に行き当ったので、眼を見張ってよく見ますと、その品は彼女の手の下で、絶えず形が変ってゆくことがわかりました。最初はすっかりびっくりしてしまいましたが、じきにその特別な用途を察しました。というのは、男よりも女の欲情のほうが遥かに強いのと同様に、女の知恵は、男女の愛すべき身体器官の関係を覚るのが早いことは、男と較べものになりません。そこで彼女はその品を両手にいっぱいに握って、そして一方で若者の唇に熱烈に接吻しながら、起ったことが起ったのでございます。
それが済むと、シート・ブドゥールは眠っている友を接吻で蔽い、ただの一カ所も唇を押し付けない場所はありませんでした。それから、男の両手を執り、次々に掌《たなごころ》に接吻しました。次にその身体を持ち上げて、自分の胸に抱き、首に両腕を廻しました。そしてこうして抱き合い、身体と身体をぴったり合わせ、息を入り混じらせながら、彼女は微笑を浮べつつ寝入りました。
こうした次第です。そして身を消しつつ、三人の鬼神《アフアリート》はその一挙一動も見のがしませんでした。ですから、事がこのように明々白々に終了してしまったので、マイムーナは歓喜の極みに達し、ダハナシュも、ブドゥールのほうが熱い思いを現わすのに遥かに激しかった、そのため賭は自分の負けだということを認めるのに、何の文句も言い立てませんでした。けれどもマイムーナは、今は勝が確かになると、寛大になって、ダハナシュに言いました、「お前の払わなければならない賭金のほうは、勘弁してあげます、おおこの碌でなし。そればかりか、これからお前が空を{けてゆくのに、あらゆる安全を保証する通行証もあげます。けれどもよく気をつけて、それをみだりに使わないようにして、もう決して礼儀を欠くような振舞があってはなりませぬぞ。」
それが済むと、若い魔女《イフリータ》はカシュカシュのほうを向いて、やさしく言いました、「カシュカシュよ、お前の忠告にはあつくお礼を申します。よって、お前を私の密偵の頭《かしら》に取り立ててあげます。父上ドムリアットに、この私の取り極めを認可していただくことは、私が引き受けます。」次に付け加えて言いました、「さて今は、ふたりとも前に進み出なさい。そしてこの若い娘を連れて、父親ガイウール、エル・ブフールとエル・クスールの領主の御殿に、速やかに運びなさい。この娘が今私の眼前で、あんな長足の進歩を遂げたからには、私はこれを贔屓してやることにして、今後この子の将来に大いに望みを嘱します。見ておいで、今にきっと立派なことを成し遂げるでしょう。」するとふたりの鬼神《アフアリート》は答えました、「インシャーラー(14)。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十六夜になると[#「けれども第百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとふたりの鬼神《アフアリート》は答えました、「インシャーラー。」それから寝床に近づいて、乙女を抱き上げて彼らの肩に荷ない、そのままガイウール王の御殿のほうに飛んでゆき、程なく行き着きました。そこで乙女を静かに彼女の寝床に下ろしてから、おのおの自分の行く方面に立ち去りました。
マイムーナのほうは、自分の友の眼の上に接吻をしてから、住居の井戸へと引き返したのでありました。
彼ら三人については、以上のような次第でございます。
けれどもカマラルザマーンはどうかと申しますと、彼は朝とともに、ようやく眠りから覚めましたが、頭はまだ昨夜の出来事でいっぱいでした。そして右を向き左を向きましたが、もとより若い娘は見つかりません。そこで独りごとを言いました、「これは父上が私をためし、結婚させようとなすって仕組まれたことと、昨夜見抜いたとおりであった。いいことをした、善良な子として、父上の御同意を得るため、ひとまず待つことにしたのは。」次に彼は戸口に寝ている奴隷を、呼ばわりました、「こら、起きろ。」そこで奴隷はびっくりして跳び起きて、まだ半分眠りながら、いそいで御主人に水差しと盥《たらい》を持ってまいりました。カマラルザマーンはその水差しと盥を受け取り、厠《かわや》に行って、次に念入りに洗浄《みそぎ》をしてから、戻って朝の礼拝をし、軽く食事をしたためて、聖典《コーラン》の一章を読み上げました。それから静かにさりげない様子で、奴隷に訊ねました、「サウアブよ、お前は昨夜《ゆうべ》の若い娘をどこに連れて行ったかね。」奴隷は面喰らって、叫びました、「はて若い娘とおっしゃると、おお御主人カマラルザマーン様?」彼は声を高めて、言いました、「のらくら者めが、つべこべ言わずにはっきり返事をしろ。昨夜余と一緒に、余の臥床《ふしど》の上で夜を過ごした若い娘は、どこにいるかというのだ。」奴隷は答えました、「アッラーにかけて、おお御主人様、私は少女も少年も見かけませんでした。それに誰もここにはいれるわけがございません、この私が戸のすぐそばに寝ていたのですから。」カマラルザマーンは叫びました、「不届きな宦官めが、今は貴様までがわが意に逆らい、余を苛立たせるを憚らぬのだな。ここな呪われた者め、貴様は空とぼけと嘘を教えられたな。もう一度きっぱり言ってやる、有体《ありてい》に申せ。」すると奴隷は両腕を天に挙げて、叫びました、「アッラーのみただひとり偉大におわします、おお御主人カマラルザマーン様、私には仰せのことが皆目わかりませぬ。」
するとカマラルザマーンはどなりつけました、「こっちに来い、呪われた奴め。」そして宦官が近よってくると、その襟頸を捉えて引き倒し、激しく踏んづけたので、宦官は放屁《おなら》を洩らしてしまいました。するとカマラルザマーンはさらに殴り蹴り続けて、とうとう半殺しにしてしまいました。それでも宦官は何とも言わず、ただわけのわからないわめき声をあげているだけなので、カマラルザマーンは、「よし、待っていろ」と言って、ちょうど井戸水を汲み上げるのに使っていた、太い麻縄を取ってきて、それを宦官の両腕の下に通し、堅く結んで、井戸の上の口まで曳きずってゆき、井戸のなかに下ろして、すっかり水びたしにしてやりました。
ところが冬のこととて、水は実に気持が悪く、空気はたいへん冷とうございました。そこで宦官は赦しを求めながら、猛烈なくしゃみをしはじめました。けれども、カマラルザマーンはいくどもこれを水に浸けて、そのつど叫びました、「有体《ありてい》に白状しないうちは出してやらぬ。言わなけりゃ溺れ死んでしまうぞ。」そのとき宦官は考えました、「これはきっと、言っているとおりなさるにちがいない。」そこで叫びました、「おお御主人カマラルザマーン様、どうぞここから引き出して下さいまし。そうすれば有体《ありてい》に申し上げます。」そこで王子は引き上げてやると、まるで風に吹かれる蘆のように顫えていて、寒さも寒し怖さも怖く、歯をがたがた鳴らしておりました。水はぼたぼた垂れ、鼻血は流れるし、まことに見られないていたらくでございました。
こうして一時危地を脱れてほっとした宦官は、間髪を容れず、王子に申しました、「ともかくまず着物を着替え、鼻を拭いにゆくことをお許し下さいませ。」カマラルザマーンは言いました、「行って来い。だがぐずぐずしていてはならぬぞ。すぐに戻ってきて、余に事情を知らせよ。」そこで宦官は走りながらその場をのがれて、御殿にカマラルザマーンの父君にお目にかかりにゆきました。
ところで、シャハラマーン王はそのとき、総理|大臣《ワジール》と対談して、おっしゃっているところでした、「おおわが大臣《ワジール》よ、余はまことに寝《いね》がての夜を過ごしたぞよ。それほどまでにわが心は、王子カマラルザマーンの身が心配でならぬ。そして、わが子のごとくかくもか弱き若者にとって、あのように設備そなわらぬあの古塔にあって、彼の身に何ごとか禍いが起りはしなかったか、いたく恐れる次第じゃ。」けれども大臣《ワジール》はお答えしました、「いや御安心遊ばせ。アッラーにかけて、あそこにいらっしゃっても、王子の御身には何ごともござりますまい。王子の慢心を制し高慢を挫くには、こうしておくほうがよろしゅうございます。」
そしてそこに、宦官が今申したようなていたらくで罷り出まして、王様の足許にひれ伏して、叫んだのでした、「おお、われらの御主人|帝王《スルターン》様、御不幸が御館《おんやかた》にはいりましたぞ。私の御主人カマラルザマーン様は、ただ今お目覚めになると、全く乱心していらっしゃいます。御乱心の証拠を申し上げますれば、かような次第でございます。この私に対して、これこれしかじかのことをなさり、これこれしかじかのことを仰せられました。ところで私は、アッラーにかけて、王子様のところに、少女も少年もはいるのなど、見かけはいたしませんでした。」
この言葉に、シャハラマーン王はもう御自分の予感を疑わず、大臣《ワジール》をどなりつけました、「呪うべきかな、汝のせいじゃ、おお犬の大臣《ワジール》め。わが心の焔、わが愛児をば幽閉するなどという、この災いの考えを余に吹き込んだのは、汝じゃ。この千人の寝取られ男の息子め、直ちに立って事の次第を見に走り、即刻ここに戻って、逐一報告いたせ。」
すぐに総理|大臣《ワジール》は宦官を従えて外に出て、この奴隷に詳細を訊ねながら、塔のほうに向いましたが、聞けばすこぶる憂慮すべき模様です。そこで大臣《ワジール》は、限りなく用心に用心を重ねた上でなければ、その部屋にはいりませんでした、まず最初に頭、次に身体、それもゆっくりというふうに。そしてカマラルザマーンが静かに寝床に坐って、一心に聖典《コーラン》を読んでいるのを見たときの、その驚きはいかばかりだったでしょう……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十七夜になると[#「けれども第百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……カマラルザマーンは静かに寝床に坐って、一心に聖典《コーラン》を読んでいたのでした。大臣は近づいて、まずこの上なくうやうやしい挨拶《サラーム》をしてから、その寝床のそばの床《ゆか》に坐って、言いました、「まことにこの瀝青《チヤン》の宦官めは、私どもにとんだ心配をいたさせました。考えても御覧遊ばせ、この娼婦の伜《せがれ》めは気も顛倒して、疥癬病《ひぜんや》みの犬みたいな有様でやってきて、王子様の前では、繰り返し言うを憚るような事がらを話してからに、すっかり私どもを驚かしたのでございます。御覧のごとく、私は今なお静まらぬほどに、こやつは私どもの平静を乱しましたわい。」カマラルザマーンは言いました、「いや、こやつが先刻この余自身の心を乱したほどには、そちたちを乱した筈はあるまい。さりながら、おお父上の大臣《ワジール》よ、いったいこやつがどんなことをそちたちに伝え得たのか、聞かせてもらいたいものだ。」大臣《ワジール》は答えました、「何とぞアッラーは、あなた様の若さを末長く保ちたまいますように。アッラーは、あなた様の理性を鞏固《きようこ》になしたまいますように。節度なき振舞をば、あなた様より遠ざけ、塩なき言葉より、あなた様の舌をばお守り下さいますように。この尻を抜かれたやつの伜は、あなた様が突然乱心なされた、何でもあなた様が乙女とか言われ、それと御一緒に夜を過ごしたが、後で誰かが拉し去ったとか、そのほかそういった気違いじみたことを申し、そして最後にあなた様にさんざん打擲されて、井戸に放りこまれたなんどと、申し立てるのでございます。おおカマラルザマーン、わが御主人様、何と恥知らずのことではござりませぬか、ここな腐った黒人めが。」
この言葉に、カマラルザマーンは微笑して、大臣《ワジール》に言いました、「アッラーにかけて、老いぼれ爺、もうこんな冗談は好い加減にしないか。それともお前もまた、井戸水が風呂《ハンマーム》代りになるかどうか、ためしてみたいというのか。ことわっておくが、余の恋人、黒い美しい眼を持ち、みずみずしく薄紅いの頬をした若い娘をば、父上とお前がどうしたか、今直ちに言わぬとあらば、お前の小賢しい計略にたいして、きっとこの宦官よりもひどい目に会わせてやるぞ。」すると大臣《ワジール》は、限りない不安に捉えられ、後《あと》じさりして立ち上って、言いました、「御身の上と周囲にアッラーの御名《みな》あれかし。やあ、カマラルザマーン様、なぜそんなことをおっしゃるのか。もしも消化《こなれ》が悪かったため、夢を御覧になったのならば、後生です、どうぞいそいで夢を消して下され。やあ、カマラルザマーン様、これは全く正気のお言葉ではござりませぬ。」
この言葉に、若者は叫びました、「おお呪われの老人《シヤイクー》よ、その若い娘を余が見たのは、決してわが耳をもってではなく、この眼とこの眼をもってしたのだし、その身体《からだ》の薔薇に余が触り、香を嗅いだのは、決してわが眼をもってではなく、この指とこの鼻をもってしたのだ。その証拠を見せてやる、これでも喰らえ。」そして王子は、大臣《ワジール》の腹に一発頭突きをくれますと、大臣《ワジール》は床《ゆか》の上に伸びてしまいました。次に王子はその鬚を掴み、それをば手首のまわりに捲きつけて、こうしておけばもう逃げられないと見ると、力の続くかぎり、続けさまに、いつまでも打ち据えました。
気の毒な総理|大臣《ワジール》は、自分の鬚が一本ずつ抜けてゆき、自分の魂までもやはり、今にも自分に別れを告げそうなのを見ると、心中独りごとを言いました、「これはさしあたり、嘘をつかなければならん。この若い気違いの手からのがれる道は、それよりほかにない。」そこで大臣《ワジール》は言いました、「おお御主人様、あなた様を欺いたことは、何とも申し訳ございません。けれどもその咎《とが》はお父君にあるので、お父君は事実、件《くだん》の若い娘を連れて行った場所をば、まだあなた様に洩らしてはならぬ、背《そむ》いたならば直ちに絞首に処するぞと、戒めなすったのでございます。けれども、もし私を放して下されば、私はすぐに父王様の御許に駈けつけて、あなた様をこの塔からお出し申すよう、お願いに参ります。そしてあの若い娘と結婚なさりたいというあなた様の御希望をお伝え申しましょう。さすれば、父君はお悦びの限りお悦び遊ばすことでござりましょう。」
この言葉に、カマラルザマーンは大臣《ワジール》を放してやって、これに言いました、「では、早く父上に申し上げに駈けつけて、直ちに戻って余に御返事を持って参れ。」
大臣《ワジール》は自由の身になったと感ずると、部屋の外に転がり出て、扉に二重錠を下ろす注意を払った上で、夢中で破れた着物のまま、玉座の間《ま》に駈けつけました。
シャハラマーン王は大臣《ワジール》が惨澹たる有様でいるのを御覧になると、これにおっしゃいました、「見ればその方はすこぶるみじめな様子で、ターバンもしておらぬ。いかにも辱しめられたようなふうに見受けるが、何ごとか面白からぬことが起ったに相違ないことが、一目瞭然じゃ。」大臣《ワジール》は答えました、「私の身に起ったことなどは、王子様の襲われなすったところよりは、ずっとましでございます、おお王よ。」王様はお訊ねになりました、「しからばそも何ごとじゃ。」大臣《ワジール》は言いました、「王子様は全く御乱心遊ばされました、もはや疑いを容れざるところです。」
この言葉に、王様はお顔の前で光が闇に変ずるのを見られて、おっしゃいました、「アッラーのお助けあれかし。わが子の襲われたという乱心の模様を、早く申せ。」大臣《ワジール》は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして大臣《ワジール》は事の委細を、自分がどうやってカマラルザマーンの手からのがれることができたかまで含めて、全部王様にお話し申し上げました。
すると王様はたいへんな御立腹にはいりなすって、お叫びになりました、「おお、大臣《ワジール》のなかで最も災いの大臣《ワジール》よ、汝の告ぐるこの報は、汝の首《こうべ》の喪失であるぞよ。アッラーにかけて、もしもわが子の有様がまことそのようなものであったら、余は汝を最も高き光塔《マナーラ》の天辺にて磔刑《はりつけ》に処し、もってこの不幸の最初の因《もと》となったごとき、かくも忌わしき忠告を進言せしことを、汝に思い知らせてやるぞよ。」そして王様は塔のほうに飛んでゆかれ、大臣《ワジール》を従えて、カマラルザマーンの部屋におはいりになりました。
カマラルザマーンは父上が来られたのを見ると、敬意を表してつと立ち上り、寝床の下に飛び下りて、善良な子として、父王のお手に接吻した上で、両腕を組んで、その前にうやうやしく直立しました。すると王様は、王子がこんなに穏やかなのを見て悦ばしく、その首のまわりにやさしく両腕をおかけになって、嬉し涙を流しつつ、両の眼の間に接吻なさいました。
それが済むと、王様は王子を寝床の上に並んで坐らせなすって、次にお怒りの態《てい》で、大臣《ワジール》のほうへと向き直って、これにおっしゃいました、「汝は大臣《ワジール》のなかの下《げ》の下《げ》の裏切者だということが、よくわかったろう。何とて臆面もなく余の許に来り、わが子カマラルザマーンが、かくかくしかじかであるなどと申し、余の心中に驚愕を投じ、余の肝を粉々《こなごな》にいたしたのじゃ。」次に付け加えて、「かつ汝はこれより、汝自身の耳をもって、わが愛児の答うる、分別満ちた返答を聞くであろうぞ。」そして慈愛をこめて若者を御覧になって、これにお訊ねになりました。
「カマラルザマーンよ、今日は何曜日であるか知っているかな。」王子は答えました、「無論のこと存じております。土曜日でございます。」王様は怒りと勝利に満ちた一瞥を、茫然としている大臣《ワジール》にくれて、おっしゃいました、「どうだ、よく聞いたか。」次に続けなさいました。
「では明日は、カマラルザマーンよ、何曜日であろうか。そちは知っているかな。」王子は答えました、「無論のこと……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八十八夜になると[#「けれども第百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……無論のこと、日曜日です。その次は月曜、それから火曜、水曜、木曜、最後が、聖日金曜日です。」それで王様は御満足の極みで、叫びました、「おおわが子よ、おおカマラルザマーンよ、あらゆる凶兆のそちに近づかざらんことを。さりながら今一度言って見よ、今月はアラビア語で何と言うか。」王子は答えました、「今月はアラビア語ではズ・ル・カアダの月と申します。その次にはズ・ル・ヒッジャの月が来て、次にはムハッラム、続いてサファル、ラビー・ウル・アッワル、ラビー・ウッ・サーニー、ジュマーダ・ル・アッワル、ジュマーダ・ウッ・サーニー、ラジャブ、シャアバーン、ラマザーン、そして最後にシャッワーアルです(15)。」
そこで王様は悦びの極みに達し、こうして王子の模様についてすっかり御安心なさって、大臣《ワジール》のほうに向いて、その顔に痰を吐きかけて、言われました、「汝のほかに狂人はおらぬわ、禍いの老爺め。」すると大臣《ワジール》は頭を振って、何か答えようとしましたが、思い止まって、独りごとを言いました、「まあしばらく結着を待つとしよう。」
さて、王様は次に王子におっしゃいました、「わが子よ、考えてもみよ、これなる老人《シヤイクー》と瀝青《チヤン》の宦官とは、余の許に参ってからに、そちがともに夜を過ごしたとやらいう若い女子《おなご》について、そちがこれこれしかじかのことを言ったなどと伝えるのじゃ。されば二人の面前で、彼らは偽りを申したのじゃと、言ってやってくれよ。」
このお言葉に、カマラルザマーンは苦笑して、王様に言いました、「おお父上様、まことに私はもうこれ以上、このような冗談に耐えるには、必要な忍耐も気持も尽き果てたのでございます。もうほどほどにしていただきたい。お願いでございます、私をいじめるのはご容赦下さい。父上がすでに私に忍ばせなすったすべてのために、私の気分は甚だ穏やかならずなっていることが感じられまするから。さりながら、おお父上様、今は私はもはやお言葉に背くまじと、固く思い定めました次第で、父上が昨夜寝床で私の相手をさせようとて、お遣わし下さった、あの美しい乙女との結婚に、異存はございません。申し分なく好ましい乙女にて、ただ見たばかりで、私の全身の血が湧き立ちました。」
このわが子の言葉に、王様は叫びました、「そちの上と周囲にアッラーの御名《みな》あれかし、おおわが子よ。何とぞアッラーは、呪詛と狂気とよりそちを護りたまわんことを。ああわが子よ、かかる言葉を弄するとは、そもいかなる悪夢を見たのか。頼む、わが子よ、心を静めてくれよ。今後はもはや決して、そちの意に逆らうようなことはいたさぬ。結婚も、結婚の時機も、今後再び結婚について云々する者どもも、すべて呪われてあれ。」
すると、カマラルザマーンは父王に申しました、「お言葉はわが頭上にござります、おお父上様。けれどもその前にまず、父上は、私の昨夜のその美しい女子との出来事をば、全然御承知ないということを、大いなる誓いによって、誓言していただきたく存じます。やがて証拠をお目にかけますが、その女子は、私と相共にいたしたと覚しきある行ないの痕形《あとかた》を、ひとつならず、私の上に残しているのでございます。」するとシャハラマーン王は叫びました、「ムーサーとイブラーヒーム(16)の神、被造者の間に、彼らの平安と救いの保証として、ムハンマドを遣わしたまえる、アッラーの聖なる御名《みな》の真なることによって、余は誓言いたす、アーミーン(17)。」するとカマラルザマーンは繰り返しました、「アーミーン。」けれども彼は父王に申しました、「さて、もし私が、その若い娘のわが腕の間を通って行った証拠を、お見せ申したならば、父上はそもそも何と仰せられることでしょうか。」王様はおっしゃいました、「まず聞こう。」するとカマラルザマーンは続けました。
「もし誰かが、おお父上様、こう申し上げたといたします、『昨夜私がびっくりして眼を覚ますと、自分の前に、誰かあって、血を流すまで私と闘おうと構えているのを見ました。そこで私は、彼を貫きたくはなかったとは申せ、知らず識らずのうちに身を動かして、自分の剣をば、その裸の腹のまんなかに刺してしまいました。そして朝、眼が覚めて、見れば自分の剣は、実際に血と泡に染まっておりました』と。――その者が、おお父上様、かく申し上げておいて、自分の血まみれの剣をお目にかけたとすれば、父上はこれに何と仰せられるでしょうか。」王様は言いました、「余はこれに申すであろう、その相手の身体なくして、ただ血のみでは、いまだ証拠の半分にすぎぬと。」
するとカマラルザマーンは言いました、「おお父上様、私もやはり、今朝眼が覚めると、自分の下腹一面が血だらけなのを見たのです。その盥がまだ厠《かわや》にありますから、その証拠をお目にかけられます。けれども、それよりももっと有力な証拠には、ここにその乙女の指環がございます。私の指環はと申せば、御覧のように、なくなっております。」
この言葉に、王様は厠に駈けつけて、見るとなるほどその盥には……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百九十一夜になると[#「けれども第百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王様は厠に駈けつけて、見るとなるほどその盥には、おびただしい血がはいっていましたので、心中でお考えになりました、「これはその相手の女子というのが、非常に健康で、月のめぐり正しく滞りないしるしだわい。」そしてさらにお考えになりました、「どうもここにはまちがいなく、大臣《ワジール》の手が見えるぞ。」それから、大いそぎでカマラルザマーンのそばにお戻りになって、お叫びになりました、「ではその指環を見るといたそう。」そしてそれをお手に取って、とみこうみなすってから、カマラルザマーンにお返しになって、言いました、「この証拠の品には、ただ思い惑うばかりじゃ。」そしてもののひと時の間、もう一言も仰せられません。それからやにわに、大臣《ワジール》に飛びかかりなすって、叱りとばしました、「汝じゃな、この遣手爺《やりてじじい》め、こんなからくり一切を仕組んだのは。」けれども大臣《ワジール》は王様の足許にひれ伏し、「聖なる書(18)」と「信仰」とにかけて、この事件には自分は全然関知していないことを、誓言しました。そして宦官も同じ誓いを立てました。
そこで王様はいよいよ解《げ》しかねて、王子に言われました、「アッラーのみがこの不可思議をお解きなさるであろう。」けれどもカマラルザマーンは、非常に心痛して、答えました、「おお父上様、どうか八方調べ尋ねて、あの思い出しても心をときめかせる少女を、私に返して下さるようお願い申します。私を不憫に思し召して、あの少女を探し出して下さるよう、幾重にもお願いします。さもなければ、私は死んでしまいます。」王様は泣き出されて、王子におっしゃいました、「やあ、カマラルザマーンよ、アッラーのみただひとり偉大に在《お》わし、ただひとり知られざることを知りたもう。われらに至っては、ただ相共に悲しむよりほか、もはや致し方ない、そちはこの望みなき恋を悲しみ、余はそちの悲しみそのものと、そをいかんとも救い得ざるわが身の非力とを、悲しむのみじゃ。」
それから王様は、すっかり悄然として、わが子の手を執って、塔から御殿に連れてゆき、王子と一緒に、御殿に引き籠ってしまわれました。そしてもう国務を見ることも拒んで、カマラルザマーンと一緒に、ただ泣いていらっしゃいました。王子のほうは、あんなにはっきりとした愛の証拠を見せてのちに、不思議や姿を消してしまった見知らぬ若い娘を、こうして心の底から慕う絶望のあまり、床に就いてしまいました。
それから王様は、御殿のひとびとと雑事からもっと煩わされず、もはや、熱愛するわが子に心を配ることだけしか考えないでよいようにと、海のまんなかに御殿を建てさせ、幅二十腕尺の突堤で陸につながるだけにし、それを御自分と王子の専用に設《しつら》えさせました。そしてただ身の不幸をのみ思い耽るため、世の騒音と煩いから遠く離れて、おふたりだけでそこに住みました。そしていささかなりと心を慰めるためには、カマラルザマーンは、恋愛についての名著を読むことと、霊感を得た詩人たちの詩を誦することに、まさるものを見出しませんでした。その数多の詩のなかには、例えば次のようなものがございました。
[#ここから2字下げ]
おお薔薇合戦に秀でたる女戦士よ、君が凱旋の額を総飾《ふさかざ》りする戦利品の妙《たえ》なる血潮は、君が深々とせる髪を緋色に染む。挿頭《かざ》す花々の故里《ふるさと》の花園は、君が稚《おさな》き御足《みあし》に接吻せんとて身を傾く。
おお姫よ、君がこの世ならぬ御身《おんみ》の匂わしきかな。大気は心魅され、御身に触るれば馨わし。もし微風にして心誘われて君が胴着の下に忍び入りたらんには、永久に出づることなかるべし。
おお天上の美姫《フーリー》よ、君が細腰の美わしきかな。君が露わの胸許の頸飾りは、君が帯ならぬを喞《かこ》つ。さあれ、踝《くるぶし》に鈴の犇《ひし》めく嫋《たお》やかの御脚《みあし》は、手頸の腕環をして妬ましく軋り鳴らしむ。
[#ここで字下げ終わり]
カマラルザマーンと父王シャハラマーンとにつきましては、このような次第でございます。
話変ってブドゥール姫はと申せば、次のようでございます。先ほどのふたりの鬼神《アフアリート》が、姫をば父王ガイウールの御殿の、自分の寝床に下ろしたときには、夜は大方過ぎておりました。ですから、その三時間後には、暁の光が射して、ブドゥールは眼が覚めました。彼女はそのときまだ、いとしい恋人に微笑を見せながら、自分のそばにいるものとばかり思っている恋人の傍らで、この快い半睡の時刻に、好い気持で伸びをしておりました。そして眼を開く前に、恋人の首を抱こうとして、ぼんやりと両腕を延ばしますと、ただ虚空を捉えるのみでした。そこですっかり眼が覚めきりますと、昨夜愛した美しい若者の姿が、もう見えません。それで心臓は顫え、正気は飛び去りそうになって、大声をあげましたので、護衛係の十人の女が駈けつけてきましたが、そのなかには、乳母もおりました。一同は気遣わしげに寝床を囲み、乳母が怯えた口調で、訊ねました、「どうなすったのでございますか、おお御主人様。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百九十三夜になると[#「けれども第百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「どうなすったのでございますか、おお御主人様。」ブドゥールは叫びました、「まるでお前は知らないみたいに、わたしに訊ねるのですね、おお悪知恵の溢れたひとだこと。昨夜わたしの腕のなかに寝た、あの美わしい若いお方は、いったいどう遊ばしたのか、早く言っておくれ。」乳母はもう無上のかぎりにあきれ返って、もっとよく合点がゆくように、首を延ばしてのぞきこんで、言いました、「おおお姫様《ひいさま》、どうぞアッラーは、一切のはしたないことから御身をお護り下さいますように。これは日頃のお言葉とも覚えられませぬ。どうぞ、もっと詳しくお聞かせ下さい。そしてもし御冗談にお戯れになっていらっしゃるなら、早くそうとおっしゃいませ。」ブドゥールは半ば床《とこ》に身を起こして、威《おど》すように、きめつけました、「いやらしい乳母《ばあや》だこと、わたくしはお前に言いつけます、昨夜わたしが進んで、自分の身も心も処女もお委せした、あの美しい青年は今どこにいらっしゃるか、すぐにおっしゃい。」
この言葉に、乳母は全世界が自分の眼の前に狭くなるのを見て、ほかの十人の老女とともども、われとわが顔を激しく打ち、床《ゆか》に転《まろ》び伏しました。そしてみんな、けたたましく叫びはじめました、「何という黒い(19)朝だろう、おお、もう私たちの身の破滅だ、おお瀝青《れきせい》だ。」
けれども乳母はさすがに、嘆きながらも、訊ねました、「やあ、シート・ブドゥール、アッラーにかけて、正気にお戻り下さい。そして、高貴の御身分にふさわしからぬそのようなお言葉は、おっしゃらないで下さいませ。」けれどもブドゥールは叫びました、「いい加減になさい、呪われたばあや、そしてお前たちはみんなであの黒い眼の、弓なりをして端《はし》のほうの上った眉の、わたしの恋人をどうしたのか、早くおっしゃい。わたしと一緒に朝までずっと夜を過ごし、お臍の下に、わたくしの持っていないものを持っていらっしゃったお方のことです。」
乳母とその他の十人の女はこの言葉を聞くと、天に両手を挙げて、叫びました、「まあ、何のことやら、おお私どもの御主人様、どうぞ狂気と危ない穽《おとしあな》と凶眼から、御身の護られますように。今朝は、全く御冗談の度がすぎております。」そして乳母は、われとわが胸を叩きながら、言いました、「おお御主人ブドゥール様、何というお言葉ですか。御身の上なるアッラーにかけて、万一こんな御冗談話が王様のお耳に達したら、私たちの魂はたちまち外に出されてしまいます。そしてどのような力も、私たちを逆鱗《げきりん》から守って下さることはできますまい。」けれどもシート・ブドゥールは身を顫わせて、叫びました、「今一度お前に聞きますが、いったいお前は言ってくれる気ですか、言わない気ですか、今なおわたしの身体《からだ》に跡を残しているあの美青年は、今どこにいらっしゃるの。」そしてブドゥールは、自分の肌着を開いてみせる動作をしようとしました。
これを見ると、全部の女は顔を床《ゆか》に押しつけて、叫びました、「このお若さでお気が触れたとは、何とおいたわしいことだろう。」ところが、この言葉にブドゥール姫はすっかり怒ってしまって、壁から剣をはずして、女たちに飛びかかって刺してやろうとしました。そこで一同は夢中で押し合い、叫び声をあげながら、外に飛び出し、どやどやと血相変えて、王のお部屋になだれこみました。そして乳母は眼に涙を浮べて、シート・ブドゥールの言ったことを王様にお話してから、付け加えました、「もし私どもが逃げ出さなかったら、きっとみんな殺されたり、斬られたりしたことでございましょう。」すると王様は叫びました、「なるほど一大事じゃ。だが果して真に姫が失ったところを失ったか否か、その方は自身見たのかな。」乳母は指の間に顔を隠して、泣きながら言いました、「たしかに見ました。血がいっぱいついておりました。」そこで王様は言いなさいました、「そはまことに一大事じゃ。」そしてその時は、まだ素足で、お頭《つむ》にはただ夜のターバンだけしか捲いていらっしゃらなかったにもかかわらず、王様はブドゥールの部屋に駈け込みなさいました。
王様は険しい目付でわが子を御覧になって、お訊ねになりました、「ブドゥールよ、これら気違い婆めの言うところによると、そなたは昨夜何者かと共に寝《いね》て、今なおその通過の跡を身に残している、それによって、そなたは失ったところを失わさせられたとやら申すが、そはまことであるか。」姫は答えました、「いかにもさようでござります、おおお父様。でもそれは全く、お父様のお望みなすったことですもの。それに、その若者の選び方は申し分なく、ほんとに美しい方で、なぜお父様はすぐわたくしから、その方を取り上げてしまいなすったのか、そのわけを伺いたくてなりませんくらいですもの。それに、ここにあの方の指環がございます。わたくしの指環をお取りになって、これを下さったのです。」
今まですでに姫は半ば乱心したと思っていらっしゃった、ブドゥールの父王は、その時独りごとをおっしゃいました、「姫は今や乱心の極に達したわい。」そして姫におっしゃいました、「ブドゥールよ、この異様な、かくもそなたの身分にふさわしからぬ振舞は、そもそもどういうわけなのか、聞かせてもらいたい。」するとブドゥールはもはや我慢ができなくなって、肌着を上から下まで引き裂き、われとわが顔を打ちながら、涙に咽《むせ》びはじめました。
これを見ると、王様は宦官と老女たちに命じて、姫が自分の身を傷つけないように、その両手を押えさせ、もし再び暴れるような場合には、縛って鉄の首輪をはめ、部屋の窓に繋いでも苦しゅうないと、言いつけなさいました。
それからガイウール王は悲嘆に暮れ、てっきり姫は発狂したものと思って、この乱心を治すには、いったいどういう手段を執ったらよいかと思い耽りながら、御自分のお部屋に引き取りなさいました。何と言っても、王様はやはり今までと同じように、深く姫を愛し続けていらっしゃって、姫が永久に乱心しているなどとは、とても思うに忍びないのでした。
そこで王様は御殿に、国中のあらゆる学者、医者、占星家、魔術師、古書に通ずる人たち、薬種屋を集めて、彼ら一同に仰せられました、「わが女《むすめ》エル・シート・ブドゥールは、これこれしかじかの有様である。お前たちのうちでこれを治した者は、余より姫をば妻として授けられ、われ亡き後は、わが王座の世嗣《よつぎ》となるであろう。されどひとたび姫の許にはいって、首尾よくこれを治しおおせざりし者は、首を刎ねられるであろうぞ。」
次に王様は町中にこのことを触れさせ、国中隈なく飛脚を派して、同様にこの旨吹聴させました。
さて、大勢の医者や学者や占星家や魔術師や薬種屋が名乗りをあげましたが、しかし一時間後には、彼らの斬られた首が、王宮の扉の上に懸けられるのが見られたのでした。こうして僅かの間に、医者やその他の薬種商人の首四十が、王宮の正面に沿って、左右にきちんと揃って、ずらりと並びました。するとほかの人たちは思いました、「これはよくない徴《しるし》だ。この病気は不治の病いに相違ないぞ。」それでもう誰も、首を斬られるような目に遭うまいと、敢えて名乗り出るものはありませんでした。医者たちと、こうした場合に彼らに加えられる罰については、かようなものでございました。
ところでブドゥールのほうはと申しますと、姫にはひとりの乳兄弟がありました。例の乳母の息子で、その名をマルザウアーン(20)と申しました。さてこのマルザウアーンは、正統の回教徒で善良な信徒ではございましたが、かつて魔法と妖術や、インド人とエジプト人の書物や、護符の文字や、星辰の学問を究めました。それが済むと、もう書物のなかでは何も学ぶものがなくなったので、旅に出はじめ、こうして最も遠く隔たった地をも経めぐり、いろいろの秘法に最も深く通じたひとびとの門を叩き、このようにして、一切の人知をわがものといたしました。そこで自分の国に帰る道に就き、恙《つつが》なく到着したのでありました。
ところで、マルザウアーンが都にはいってまず最初に見たものは、王宮の扉の上に懸っている、あの四十の医者の首でした。そして彼の訊ねるままに、通行人たちは事の次第すべてと、折から斬首に処された医者たちの、天下にさらした無知ぶりを、教えてくれました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百九十四夜になると[#「けれども第百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……折から斬首に処された医者たちの、天下にさらした無知ぶりを、教えてくれました。
そこでマルザウアーンは母親の家にはいって、帰宅の悦びを心ゆくまで吐露してから、その件についての詳しいことを、母親に訊ねました。すると母親は、今彼の聞いたことにまちがいがないと保証しました。それでマルザウアーンは、ブドゥールと一緒に育てられたのだし、それに普通兄弟が姉妹に対して感じる以上の強い愛情で、姫を愛していたこととて、たいそう悲しみました。そこでひと時の間思い耽っておりましたが、やがて頭を上げて、母親に訊ねました、「私をそっと姫のところに入れていただけないものでしょうか、私に御病気の源《もと》がわからないものか、何か薬がないものかどうか、ひとつしらべてみたいと思うのですが。」母親は言いました、「それはなかなかむずかしいね、おおマルザウアーン。まあとにかく、お前がしたいというのなら、いそいで女の服装《なり》をして、私についてきてごらん。」そこでマルザウアーンは即座に支度をし、女に身をやつして、母親のあとについて御殿にゆきました。
ふたりがお部屋の戸口に着くと、護衛係の宦官は、ふたりのうち知らないほうの女の入室を、禁じようとしました。けれども老婆は、その手に贈物を掴ませて、言いました、「おお王宮の長《おさ》よ、ブドゥール姫はたいそうお加減が悪く、ここにいる乳姉妹《ちきようだい》に当る私の娘に、お会いになりたいとの仰せだったのです。ですから一緒に通してやって下さいな、おお礼節の父よ。」すると宦官は贈物にも満足し、この言葉にも気をよくして、答えました、「ふたりとも早くはいりなさい。けれども永居は無用だぞ。」そこでふたりは一緒にはいりました。
マルザウアーンは姫の前に着くと、顔を隠していた面衣《ヴエール》を揚げて、床《ゆか》に坐り、着物の下から、観象儀と魔法書の類と蝋燭を一本取り出しました。そしてまず姫に問いただすに先立って、ブドゥールの将来を占おうとしますと、そのときいきなり、若い娘は彼の首に飛びついて、やさしく接吻しました。それというのは、姫はたやすく彼だということがわかったからです。それから姫は言いました、「まあ、兄弟のマルザウアーン、あなたまでも、あんなひとたちみんなと同じに、わたくしが本当に気が触れたと思っていらっしゃるの。どうぞ迷いを晴らして下さい、マルザウアーン。詩人の言うところを御存じないの。まずこの言葉を聞いて、それからその意味をよく考えて下さいませ。
[#ここから2字下げ]
彼らは言いぬ、『かの女は乱心者ぞ。あたら青春を失えり。』
われは彼らに言えり、『狂人は幸いなるかな。彼らは異様《ことざま》に生を楽しみ、彼らの振舞をあざ笑う卑しき衆とは、おのずから異なるなり。』
またわれは彼らに言えり、『わが乱心にはただ一の医薬あるのみ。そはわが友の来たもうことなり。』」
[#ここで字下げ終わり]
マルザウアーンはこの詩句を聞くとすぐに、シート・ブドゥールはただ恋をしているだけで、その病いというのはそれだけのことだということを、さとりました。彼は姫に言いました、「聡《さと》い人間はさとるにただひとつの徴《しるし》しか要しませぬ。とりあえず、私にあなたのお話を聞かせて下さい。もしアッラーの思し召しあらば、私は御身の慰めの一因ともなり、救いの仲立ちともなるでございましょう。」そこでブドゥールはこれにすべての出来事を、事こまかに話しましたが、それは繰り返しても何の甲斐もございますまい。そして姫は泣き崩れて、申しました、「これがわたくしの悲しい運命ですの、おおマルザウアーン。そしてわたくしはもう夜も昼も、ただ泣き暮らすだけで、われと自ら恋の詩を誦しても、なかなかわが肝《きも》の火傷《やけど》に、いささかの涼味も覚えかねるくらいでございます。」
この言葉に、マルザウアーンは頭を垂れて考え込み、ひと時の間思いに沈んでおりました。それから頭を上げて、悲しむブドゥールに言いました、「アッラーにかけて、あなたのお話はあらゆる点で間違いのないことは、私にはっきりわかるが、しかし、まことに、事柄ははなはだ解《げ》しがたいところがあります。さりながら、私にはあなたの求める満足を得させてさしあげて、お心を癒す見込みがあります。ただ、アッラーにかけて、私の戻るまで、ひたすら忍耐をもって御身の支えとなすようになさいませ。そして私の再びおそばに参る日は、すなわち私があなたの愛人の手を曳いてお連れ申す日であることを、お疑い遊ばすな。」そしてこう言って、マルザウアーンはいきなり乳姉妹《ちきようだい》の王女の許を飛び出して、その日のうちに、ガイウール王の都を立ち去りました。
ひとたび城壁を出ると、マルザウアーンはまるひと月の間、町から町へ、島から島へと旅を続けはじめましたが、どこへ行っても、ひとびとの話の種といえば、ただシート・ブドゥールの不思議な話の噂ばかりでした。けれども、ひと月の旅を続けて、マルザウアーンが海岸にあるタラフという名前の大きな町に着きますと、もうシート・ブドゥールの噂はふっつりと聞えません。その代り、こんどはこの国々の王のお世嗣で、カマラルザマーンという名の王子の、驚くべき話の噂で持ちきりでした。そこでマルザウアーンはその話の仔細を聞かせてもらいますと、それはあらゆる点で、自分の知っているシート・ブドゥールについての仔細とそっくりなので、すぐにその王子のいる正確な場所を、間いただしました。なんでもその場所は非常に遠いところにあって、そこに到るには、陸路と海路の二つの道がある、陸路を行けば、そのカマラルザマーンのいるカールダーン国に着くには、六カ月を要するが、海路を行けば、ただの一カ月で着くということでした。そこでマルザウアーンは躊躇なく、海路をとって、折からちょうどカールダーン王国のその島々のほうに立とうとしていた船に、乗ることにしました。
マルザウアーンの乗り込んだ船は、航海中ずっと順風に恵まれましたが、いよいよ王国の首府である都を望むところに着いたその日になって、物凄い暴風が海の波をもたげ、船を空中に投げ上げて、きりきり舞いさせ、聳え立つ巌にぶつけて、施すすべなく沈没させてしまいました。けれどもマルザウアーンは、ほかの技倆と共に、泳ぐ術をも完全に心得ていました。ですから、全部の船客のなかで、彼のみただひとり、海に落ちた大きな帆檣《ほばしら》にすがって、助かることができました。そして潮流の力に引かれて、ちょうどカマラルザマーンが父王と一緒に住んでいる御殿の立っていた、岬の方角に、流されて行ったのでございました。
ところが天運はその時、王様に国情の報告に来ていた総理|大臣《ワジール》が、海に臨む窓から、外を眺めることを望んだのでありました。そして大臣《ワジール》は、この若者がこうして岸に打ち上げられるのを見ると、奴隷たちに救いにゆくことを命じ、まずこれに着替えの着物を与え、一杯のシャーベットを飲ませて気を鎮めさせた上で、連れてくるようにと申しつけました。
そこで、しばらくすると、マルザウアーンは大臣《ワジール》のいる部屋にはいってきました。彼は姿よく様子やさしい男でしたので、すぐに総理|大臣《ワジール》の気に入ることができて、大臣《ワジール》はいろいろと訊ねはじめているうち、やがてその知識と知恵の広大なことが、十分に察せられました。そこで大臣《ワジール》は心中独りごとを言いました、「この男はたしかに医学に通じているに相違ない。」そしてこれに訊ねました、「あなたは父上にいたく愛されているひとりの御病人を治すため、アッラーがここに導いて下さったのじゃ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百九十六夜になると[#「けれども第百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……父上にいたく愛されていて、われわれ一同にとって、不断の悩みの種となっている御病人なのじゃ。」そこでマルザウアーンは大臣《ワジール》に訊ねました、「おっしゃる御病人とはどなたのことですか。」大臣《ワジール》は答えました、「あたかもここに住んでおらるる、われらが王シャハラマーンの太子、カマラルザマーン王子のことじゃ。」
この言葉にマルザウアーンは思いました、「天運はわが望む以上にわれに幸いするものだ。」それから大臣《ワジール》に訊ねました、「してその王子のお悩みになっている御病気は、何ですか。」大臣《ワジール》は言うに、「わしとしては、それは全く御狂気にほかならぬと信ずるが、しかし父君は、それは凶眼とか、または何かそれに近いものだと言い張られ、王子のお話しあった奇怪な話をば、大方信じなさっている。」そして大臣《ワジール》はマルザウアーンに、その出来事全部を、そもそもの始まりから話して聞かせました。
マルザウアーンはこの物語を聞くと、悦びの極みに達しました。というのは、このカマラルザマーン王子こそ、シート・ブドゥールと例の一夜を過ごし、恋する姫にあのように強い思い出を残した、若者そのひとであることを、もう疑わなかったからでございます。けれども総理|大臣《ワジール》にはこれを打ちあけることを控えて、ただこう言っただけでした、「たしかに、その若いお方を拝見すれば、用うべきお手当の判断がいっそうよくつき、アッラーの思し召しあらば、それによってお治し申すこともできるかと存じます。」すると大臣《ワジール》は時を移さず、彼をカマラルザマーンの許に案内しました。
ところで、王子を眺めて、まず第一にマルザウアーンを驚かしたことは、王子がシート・ブドゥールと、並々ならずよく似ていることでした。それにはすっかり驚き入って、思わず叫び出さずにいられませんでした、「やあ、アッラー、かくも相似た美を創《つく》りたまい、それに同じき特性と同じき完美を授けたまいし御方の、祝福されてあれ。」
この言葉を聞くと、寝床に横になって、物憂く半ば眼を閉じていたカマラルザマーンは、ぱっちりと眼を開けて、耳を|※[#「奇+支」、unicode6532]《そばだ》てました。けれどもその時早くもマルザウアーンは、この若者の注意に乗じて、シャハラマーン王と総理|大臣《ワジール》にはわからない筈のことを、それとなく若者にわからせようと、次の詩句を即吟したのでした。
[#ここから2字下げ]
われはわが懊悩の因《もと》たる一美女の美質を詠じて、もってその昔《かみ》の色香の思い出を甦らしめんとす。
人は言う、「おお恋の矢に傷つけられし汝よ、起きよ。ここに汝を楽しますべく、満ちたる杯と六絃琴《ジーターラ》あり。」
われは彼らに言う、「わが心何とても楽しみ得んや、われは恋する身なるを。恋の悦びとはた悩みにまさる大いなる悦びありや。」
かの友の祝福されし柔らかの美わしき脇腹に、あまりにひしと肌着の纒《まつ》われば、その脇腹に触るる肌着をも、われは妬む。かくばかりわれはわが友を愛してやまず。
接吻のために刻まれしかの友の唇に、あまりに永く杯の止まれば、そのやさしき唇に触るる杯をも、われは妬む。かくばかりわれはわが友を愛してやまず。
かくもひたすらに恋うわれを咎むることなかれ。われ既に自らわが恋そのものに悩むことはなはだしきなり。
ああ、かの君の美質を人知らば。そは|エジプト王《フアラオン》の許のヨセフのごとく心を惹き、サウル王の前のダビデのごとく声なだらかに、キリストの母マリアのごとく慎まし。
しかしてわれは、息子去りしヤコブのごとく心悲しく、鯨の腹中のヨナスのごとく暗澹、藁上の貧しきヨブのごとく試みられ、天使に追わるるアダムのごとく失意にあり。
ああ、友来るに非ざれば、何ものもわれを癒すことなかるべし。
[#ここで字下げ終わり]
カマラルザマーンはこの詩句を聞くと、非常な爽やかさが身内にはいってきて、魂を鎮めるのを感じて、父王に合図をして、この青年を自分のそばに坐らせ、しばらく二人きりにしてくれるように頼みました。王様は、王子が何ごとかに興味を持つのを認めて大いに悦び、いそぎマルザウアーンに、カマラルザマーンのそばに座を占めるように誘って、そして大臣《ワジール》に目配せして、御自分について出るように命じてから、部屋をお出になりました。
するとマルザウアーンは、王子の耳許に身を傾《かし》げてこう申しました、「アッラーは御身と御身の思いびとの間のお取持をするために、私をここまで導きたもうたのでございます。その証拠はと申せば、これにござりまする。」そしてカマラルザマーンに、あの乙女と共に過ごした一夜について委細詳しく、ほとんど疑念を挿しはさむ余地のないくらいこまかな点まで挙げて、さて付け加えました、「そしてその乙女はブドゥールと申し、エル・ブフールとエル・クスールの領主、ガイウール王の王女であり、私と同じ乳で育った妹でございます。」
この言葉に、カマラルザマーンはすっかり憂鬱が軽くなって、力が再び魂を活気づけるのを覚えたのでした。そこで寝床から立ち上って、マルザウアーンの腕をとって、これに言いました、「ではこれより直ちに、御身と一緒にガイウール王の国に出発いたそう。」けれどもマルザウアーンは言いました、「いやその国はいささか遠方でございますれば、まず御体力を完全に回復なさらなければなりませぬ。その上で、御一緒にかの地に参りましょう。シート・ブドゥールを癒すのは、ただあなた様のみでございましょう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百九十九夜になると[#「けれども第百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……シート・ブドゥールを癒すのは、ただあなた様のみでございましょう。」
こうしているところに、王様は好奇心に駆られて、部屋に戻って来なさいますと、王子が晴れ晴れした顔をしているのを、御覧になりました。そこで悦びのあまり、呼吸《いき》がお喉《のど》に止まってしまいましたが、王子が「私はこれからすぐ着物を着て、浴場《ハンマーム》に参ります」と言うのをお聞きになった時には、そのお悦びはもう狂せんばかりになりました。
そこで王様はマルザウアーンの首に飛びついて、固く抱き締め、こんなに僅かの間にこんなに大きな効を奏したのは、いったいどんな処方薬を用いたのかと訊ねることさえ、お忘れの有様でした。そしてすぐに、マルザウアーンに贈物と名誉の限りを尽してから、悦びのしるしに全市に火を点《とも》すことをお命じになり、顕官と宮中の人一同に莫大の誉れの衣と御下賜を給い、牢獄を開放し、あらゆる囚人を放免なさいました。こうして都を挙げ国を挙げて、悦びと幸福にひたりました。
さてマルザウアーンは、王子の健康がいよいよ全快したと見極めると、王子を一人だけ別にそばへ呼んで、これに言いました、「もうお待ちになれないとあらば、いよいよ出発の時機でございます。さればお支度をなさいませ、御一緒に参りましょう。」王子は答えました、「しかし父上は余を立たせまい。余を愛したもうこと深く、とうてい余と別れる御決心がおつきになるまいからな。やあ、アッラー、そうなると、余の懊悩はいかばかりであろう。定めし、余は再び前よりも重い病気になろうぞ。」けれどもマルザウアーンは答えました、「むずかしいことはかねて予想しておりました。そこで何ものにもとめだてされぬよう、うまい工合にいたしましょう。そのためには、こんな方便の嘘を工夫しました。王子様は、数日間私と一緒に遊猟に出てよい空気を吸いたい、永らく部屋に閉じこもっていて以来、胸がはなはだ狭《せば》まっているからと、こう父王におっしゃるのです。さすれば必ずや、王はならぬとは仰せられぬことでございましょう。」
この言葉に、カマラルザマーンはいたく悦んで、即座に父君にお許しを乞いに行きますと、父君は果して王子を悲しませまいとて、敢えてならぬとはおっしゃいませんでした。けれども、王子にこう仰せられました、「ただ一夜のみにせよ。そちの不在がそれ以上にわたっては、余は死ぬほどの心痛を覚えるであろうから。」それから王様は王子とマルザウアーンのために、二頭の見事な馬と六頭の代え馬と、それにいろいろの装具を積んだ単峰駱駝《ひとこぶらくだ》一頭と、食糧と水の革嚢《かわぶくろ》とを積んだ双峰《ふたこぶ》駱駝一頭を準備させました。
それが済むと、王様は王子カマラルザマーンとマルザウアーンに接吻なさり、二人にお互いによく気をつけてくれるようにと、涙を流してくれぐれもお頼みになり、この上なく哀れ深い別れののち、一行と共に、二人を都から遠ざからせたのでございました。
ひとたび城外に出ると、二人の連れは馬丁や御者の目を欺くため、終日狩りをするような振りをし、そして夜になると、天幕《テント》を張らせて飲み食いし、夜中まで眠りました。その時、マルザウアーンはそっとカマラルザマーンを起して、言いました、「従者たちの眠っている隙に、出かけてしまわねばなりませんぞ。」そこで二人は、それぞれ新たな代え馬に乗って、誰にも気づかれずに出発しました。
二人はこうして夜の白むまで、駒をいそがせて進みました。そのとき、マルザウアーンは馬を止《と》めて、王子に言いました、「さあ王子様も馬を止めて、お下りなさい。」そして王子が馬から下りると、また言いました、「いそいで肌着と下穿きをお取りなさい。」カマラルザマーンは言葉を返さず、肌着と下穿きを脱ぎました。するとマルザウアーンは言いました、「ではそれをこちらに渡して、しばらくお待ち下さい。」そしてその肌着と下穿きを受け取り、そこを遠ざかって、道が四本に分れているところまで行きました。すると、あらかじめ後ろに曳いて行った一頭の馬を連れて、そこまで延びてきている森のまんなかに行き、その馬を殺し、その血を肌着と下穿きに塗りつけました。それが済むと、道の分れているさっきの場所に戻って、その衣類を道の埃《ほこり》のなかに投げ散らしました。次にカマラルザマーンのほうに引っ返しますと、じっとそこに待っていた王子は、訊ねました、「あなたの計画を承わりたいものだ。」彼は答えました、「まずちょっと食事をしましょう。」そして二人で飲み食いを済ますと、その時マルザウアーンは、王子に言いました、「実はこういうわけです。あなたのお帰りなく二日の日がたち、私たち二人はま夜中に出て行ったと、御者たちが言上すれば、王様は直ちに、われわれを探しに人を派しなさるでしょう。するとそのひとびとは、あそこの道が四本に分れているところで、きっと血まみれのあなたの肌着と下穿きを、見つけるにちがいない。なお私はあらかじめあのなかに、馬肉の肉片と折れた骨二本を入れておきました。さすれば王子様は野獣に食われ、私は仰天して逃げてしまったことを、何ぴとももう疑いますまい。」それから更に言い添えました、「もとよりこの怖ろしい報知は、お父君にとっては大打撃ではござりましょうが、しかしまた後になって、王子様は御存命で、シート・ブドゥールと結婚なすっているということを、御承知遊ばされた折には、いかばかりお悦びひとかたならぬものがあることでござりましょう。」この言葉を聞いて、カマラルザマーンは何の異存もなく、言いました、「おおマルザウアーンよ、その考えははなはだ妙にして、計《はかりごと》は巧みだ。しかしこの先の費用はどうしたものか。」彼は答えました、「それは御心配には及びませぬ。私はこの上なく立派な宝石を数々携えており、そのなかで一番値い少ないものでも、二十万ディナール以上になりまする。」
そこで二人はこうして長い間旅を続け、とうとうガイウール王の都が行手に見えるところまで、着きました。そこでさらに駒を疾駆させて、城壁を越え、隊商《キヤラヴアン》の大門を通って、町のなかにはいりました。
カマラルザマーンは、そのまますぐに王宮に行きたいと望みましたが、マルザウアーンは、今しばらく我慢するように言って、富裕な異国の人たちの泊る隊商宿《カーン》に連れてゆき、十分に旅の疲れを癒すため、まる三日そこに一緒に留まりました。そしてマルザウアーンはその時間を利用して、王子に着せるため、全部が金と貴重品ずくめの、占星家の装束ひと揃いを仕立てさせました。それから王子を浴場《ハンマーム》に案内して、浴後にその占星家の着物を着せました。その上ではじめて、何かと必要な指図を与えてから、王宮の下まで連れてゆき、王子と別れて、自分は母親の乳母《うば》のところに帰宅を知らせにゆき、ブドゥール姫にその旨取り次いでもらうようにいたしました。
さてカマラルザマーンのほうは、王宮の正面玄関の下まで進み寄り……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百夜になると[#「けれども第二百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王宮の正面玄関の下まで進み寄り、そしてその場に群がっている群衆と、番兵と門番一同の前で、声高く呼ばわりました。
[#ここから2字下げ]
われこそはその名も高き占星学者、記憶に値いする魔術師なり。
われは最も暗黒の幕《とばり》をも揚ぐる綱、戸棚も抽斗《ひきだし》も開くる鍵。
われは呪符と魔法の書に文字を描く筆。
われは占いの砂を延べ、矢立の奥より快癒を取り出《い》だす手。
われは見ることなくして護符に霊験を賦与し、言葉によってあらゆる勝利をかち得る者。
われは諸病を排泄管の方へ逸《そ》らしむ。発熱剤も、嘔吐剤も、灌腸器も、催嚏剤《さいていざい》も、煎薬も、発泡剤も、更に用うることなし。
われはただ天に捧ぐる祈り、降神の詞、神助を祈《ね》ぐ呪言を用うるのみ。かくしてわれは燻蒸《くんじよう》、吊帯を用いずして厳然たる卓効を挙ぐ。
われこそは記憶に値いする、その名も高き魔術師なり。諸人《もろびと》こぞり駈け寄って御覧《ごろう》ぜよ。
われは祝儀も、報酬の鐚《びた》一文も求めず。何となれば、われは一切をただ光栄のためになす者なり。
[#ここで字下げ終わり]
町の住民と番兵と門番たちは、この口上を聞くと、びっくり仰天しました。というのは、四十人の医者が即座に首を刎ねられて以来、みんなは、医者などという種族は絶えてしまったものと思っていたのです。もう二度と、医者とか魔術師とかいうものの姿を見なかっただけに、なおさらのことでした。
そこでみんなは、この若い占星家のまわりを取り巻きましたが、その美貌やみずみずしい顔色やその他の麗質を見ると、一同心を奪われると同時に、深く悲しみました。それというのは、この男もまた、前の人たちと同じ目に遭わされるのではないかと、心配したからです。王子は天鵞絨《ビロード》で蔽った車の上に立っていましたが、その車の一番近くにいた人たちは、しきりに御殿から早く遠ざかるように勧めて、言うのでした、「魔術師の殿よ、アッラーにかけて、いったいあなたはこんなところにぐずぐずしていると、どんな運命が待っているか御存じないのですか。やがて王様はあなたを召し入れなすって、王女様にあなたの腕をためさせなさいますよ。そうなればとんだことになる。ほれ、ちょうどあなたのま上に首がぶら下っている、この人たちみんなの運命を、あなたも受けなさるでしょう。」
けれども一同の咎め立てすべてに対して、カマラルザマーンは、ただいっそう声高くこう叫んで、答えるだけでした。
[#ここから2字下げ]
われこそは記憶に値いするその名も高き魔術師なり。われは灌腸器も吊帯も燻蒸も用いることなし。おお皆の衆、来たって御覧《ごろう》ぜよ。
[#ここで字下げ終わり]
すると並いる一同は、この男の腕前を信じたとは申せ、とても見込みのないこの病気を前にして、やはり失敗しはしないかと、びくびくせずにはいられませんでした。
そこでみんなは、一方の手で他方の手の平を打ちはじめて、言い合いました、「あたら若い身空《みそら》でなあ。」
ところがこうしているうちに、王様は広場の騒ぎを耳にして、占星家を取り囲んでいる群衆を御覧になりました。そこで大臣《ワジール》におっしゃいました、「速やかにあの男を呼んで参れ。」大臣《ワジール》はすぐさま仰せどおりいたしました。
カマラルザマーンは玉座の間《ま》に着きますと、王様の御手の間の床《ゆか》に接吻して、まず次のように、御挨拶を申し上げました。
[#ここから2字下げ]
わが君の裡《うち》には、こよなき賢者らの額をも垂れしむる、八つの徳兼ね備わる。
すなわち、知、力、権力、寛仁、雄弁、英明、富貴、勝利、之なり。
[#ここで字下げ終わり]
ガイウール王はこの讃辞を聞くと、御感《ぎよかん》斜めならず、よくよくこの占星家を御覧ぜられました。ところが、この男のあまりの美しさに、王様はしばしお眼をおつぶりになり、それからお眼をあけて、仰せられました、「来たって余の傍らに坐れよ。」次におっしゃいました、「さても、わが子よ、その方はさような医師の服を着けぬほうが、遥かに似合うであろうが。万一その方が首尾よくわが娘を治しおおせたら、これをその方の妻として与うるは、余のまことに欣快とするところじゃ。さりながら、その方の成功はまずとうてい覚束《おぼつか》ない。そして余といたしては、何ぴとといえどもひとたび姫の顔を見た上は、これを妻として得ざる限り、生かしておかぬと誓った以上、心ならずも、やはりその方に対しても、先立つ四十名の者と、同じ運命を受けさせざるを得ぬ次第じゃ。されば返答せよ。その方はこの条件を承知いたすかな。」
この言葉に、カマラルザマーンは言いました、「おお幸多き王よ、私はこの栄ゆる御国《みくに》へとはるばる参りましたのは、わが技倆を振わんがためにて、黙さんがためではございませぬ。わが冒す危険は承知しておりますが、しかし私は後《あと》には退《ひ》きませぬ。」すると王様は宦官長に命じなさいました、「たってと申すからには、この者を幽閉者のところへ案内いたせ。」
そこで二人は姫のところに出かけましたが、宦官は若者が足を早めるのを見て、これに言いました、「みじめなことだ、あなたはいったい本気で、王様があなたのお舅《しゆうと》になられるものと思っていなさるのかな。」カマラルザマーンは言いました、「そう希望している。それに私はこの件については満幅の自信があり、今ここでこの場で姫をお治しして、御気力を恢復させ、全世界に、私の手練と手腕のほどを見せてやることもできるつもりです。」
この言葉に、宦官は驚きの極に達し、これに言いました、「何だって、姫を見ないでお治しするなんて、本当にそんなことができますか。もしそうなら、全く大したものだ。」カマラルザマーンは言いました、「私の妻となるべき姫のお姿を拝したい思いは、一刻も早くおそばに行くよう、私を駆り立てるとはいえ、むしろ姫のお部屋の帳《とばり》の蔭にいて、姫をお治し申すことにしましょう。」すると宦官は言いました、「そうとすれば、いよいよもって驚くべきことじゃ。」
そこでカマラルザマーンは、シート・ブドゥールの部屋の帳《とばり》の蔭で、床に腰を下ろし、帯の間から一枚の紙と矢立を取り出し、次のような手紙を認《したた》めました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四夜になると[#「けれども第二百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……帯の間から一枚の紙と矢立を取り出して、次のような手紙を認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
この文は[#「この文は」はゴシック体]、カールダーンの島々なる回教徒国の陸と海洋との王[#「カールダーンの島々なる回教徒国の陸と海洋との王」はゴシック体]、帝王《スルターン》シャハラマーンの太子[#「帝王《スルターン》シャハラマーンの太子」はゴシック体]、カマラルザマーンの手に成り[#「カマラルザマーンの手に成り」はゴシック体]、
エル・ブフールとエル・クスールの領主[#「エル・ブフールとエル・クスールの領主」はゴシック体]、ガイウール王の王女[#「ガイウール王の王女」はゴシック体]、シート・ブドゥールに[#「シート・ブドゥールに」はゴシック体]、切なき思慕の情を伝えんとて参るものなり。[#「切なき思慕の情を伝えんとて参るものなり。」はゴシック体]
おお姫よ、御身に深く傷つけられしこの心の熱き思いをことごとく言い尽さんとせば、紙上にかくも憚りなき事どもを書き連ねてなお折れぬばかり堅き蘆は、地上によもあらじと存じ候。さあれ知りたまえ、おお崇むべき君よ、たとえ墨は涸るるとも、わが血は涸れず、その色をもってわが心中の焔を示し参らすべし、夢寐の裡に君が姿の立ち現われ、永久にわれを虜《とりこ》とせしかの魔法の夜以来、わが身を焼き尽すその焔をば。
ここにその節の御身の指環を同封致し置き候。おのが名カマラルザマーン[#「カマラルザマーン」はゴシック体]を署名しつつ、御身へと「アマーン(21)」を哀訴するは、まさしくわれ、君が眼に焼かれし者、|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》のごとく色黄ばみし者、火山のごとく煮えたぎる者、不幸と颶風に弄ばるる者に相違なき確実なる証拠として、この指環を御返却申し候。
小生は都内の「大旅館」方に宿泊致し居り候。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を書くと、カマラルザマーンはこれを畳んで、巧みに中へ指環を忍ばせ、封をして、次にこれを宦官に渡しますと、宦官はすぐにはいって、これをシート・ブドゥールに渡しながら、言いました、「おお御主人様、ただ今|帳《とばり》の蔭に、ひとりの若い占星家がおりまして、大胆不敵にも、ひとびとを見ずにその病いを治すと申しておりまする。なお、これをお姫様にと申して渡しました。」
さてブドゥール姫はその手紙を開けるや否や、自分の指環を認めて、ひと声大きな叫びをあげ、次に狂気のように、宦官を突きとばして、駈けよって帳《とばり》を開けると、ひと目で、その若い占星家のなかに、かつて眠っている間に自分が一切《いつさい》を与えた、美しい若者の姿を認めたのでございます。
そこで姫の悦びは、それこそ今度は本当に、気違いになりそうなほどでした。姫はその恋人の首に飛びついて、二人は、ちょうど長い間隔てられていた二羽の鳩のように、抱き合いました。
これを見ると、宦官は大いそぎで王様にこの次第をお知らせに行って、申し上げました、「あの若い占星家こそは、あらゆる占星家のなかで随一の大家でございます。あの方は王女様を見もなさらず、帳《とばり》の蔭にいてただそれだけでもって、お治しになりました。」すると王様はお叫びになりました、「その方の申すことは本当か。」宦官は言いました、「おお御主君様、ではお出で遊ばして、御自身の御眼《おんめ》で、事をおたしかめなさりさえすればよきことでございます。」
そこで王様はすぐに王女のお部屋にお出向きになりますと、果してそれがまことなことを御覧になりました。王様はたいそうお悦びになって、王女の眼の間に接吻なさいました。というのは、姫を深く愛していらっしゃったからです。またカマラルザマーンにも同様に接吻なさってから、どこの国の者かとお訊ねになりました。カマラルザマーンは答えました、「カールダーンの島々の者で、実はシャハラマーン王の王子そのひとでございます。」そして王子は王様に、シート・ブドゥールとの経緯《いきさつ》を、残らずお話し申し上げました。
この話をお聞きになると、王様は叫びました、「アッラーにかけて、この話はまことに驚くべく、まことに不思議であり、もし眼の内側の片隅に針をもって書き記《しる》されたならば、これは注意深く読むひとびとにとって、驚嘆の種となるものでもあろうぞ。」そして直ちに王宮の最も上手な書記たちに命じて、これを記録のなかに書き留めさせ、後世の子々孫々に、世々相伝えるようになさいました。
それからすぐに、王様は法官《カーデイ》と証人たちをお呼びになり、即刻、シート・ブドゥールとカマラルザマーンとの結婚契約書を認《したた》めさせました。そして七夜と七日の間、都を飾り、火を点《とも》させました。ひとびとは食べ、飲み、楽しみました。カマラルザマーンとシート・ブドゥールは、本望を達して、恩恵者アッラーを祝福しつつ、永い間、祝宴のただなかで睦み合ったのでございます。
ところが、ある夜、内外の島々の主だった名士を招いた饗宴の後、カマラルザマーンは常にもまして心ゆくまで、妻の豪奢を十分に用いて、その後でいったん眠ると、夢を見ました。その夢に、父君のシャハラマーン王が、面を涙に濡らして現われ、悲しげにこうおっしゃるのでした。
「やあ、カマラルザマーン、そちはこのように余を棄てて顧みぬのか。よく見よ、余は苦しみのあまり生命《いのち》絶えんとしておるぞよ。」
その時カマラルザマーンははっとして眼が覚め、妻をも同じく起こして、大きな溜息を吐きはじめました。するとシート・ブドゥールはたいそう心配して、訊ねました、「どうなすったの、おおわが眼よ。もしもお腹がお痛いのなら、すぐに茴香《ういきよう》の煎じ薬を作ってさしあげます。もしもお頭《つむ》がお痛いのなら、額にお酢の湿布をしてさしあげます。またもしも昨晩召し上りすぎたのなら、熱いパンを手拭に包んで胃の上に載せ、薔薇の水を花の水と混ぜて、少々飲ませてさしあげましょう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六夜になると[#「けれども第二百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……薔薇の水を花の水と混ぜて、少々飲ませてさしあげましょう。」カマラルザマーンは答えました、「私たちは明日すぐに、私の国に出発しなければならない、おおブドゥールよ、父王が御病気なのだ。今しがた夢に現われて、涙を流して、かの地で私を待っていらっしゃるのだ。」ブドゥールは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてまだまっ暗なのにもかかわらず、すぐに起きて、後宮《ハーレム》にいらっしゃる父君ガイウール王に会いにゆき、宦官を通じて、お話し申したいことがあると伝えさせました。
ガイウール王は、こんな時刻に、宦官の顔が現われるのを御覧になると、たいへんびっくりなすって、宦官におっしゃいました、「一体いかなる不祥なことを告げに参ったのか、おお瀝青《れきせい》の顔よ。」宦官は答えました、「ブドゥール姫がお話し申し上げたいとのことでございます。」王様はお答えになりました、「ターバンを着けるから、待つように。」それが済むと、王様は部屋を出て、ブドゥールにお訊ねになりました、「娘よ、こんな時刻に動き廻るとは、いったいどういう胡椒を呑み込んだのか。」姫は答えました、「おお父上様、わたくしは夜が明けたらすぐに、夫カマラルザマーンの父君の王国、カールダーンの国に出発するお許しを仰ぎに参りました。」王はおっしゃいました、「そなたが一年後に帰ってさえくれば、少しも異存はない。」姫は言いました、「必ずそういたします。」そして姫は父君の御手に接吻して、お許しのお礼を申し上げ、カマラルザマーンを呼びますと、彼もまたお礼を申し上げました。
さてあくる日になると、明け方には、もう準備が出来上っていて、馬には馬具が着けられ、単峰双峰の駱駝には荷が載せられていました。そしてガイウール王は、王女ブドゥールに別れをお告げになり、夫君にくれぐれも姫のことをお頼みになりました。次に、二人に黄金と金剛石の数々の餞別をお贈りになって、しばらくの間同行なさいました。それから、涙を流して二人に今一度最後の御注意を遊ばした上で、都へお戻りになり、二人に道を続けさせたのでございました。
するとカマラルザマーンとシート・ブドゥールは、別れの涙の後では、もうシャハラマーン王にお目にかかる悦びしか思いませんでした。こうして最初の日を旅し、続いて二日目、三日目と日を重ねて、遂に三十日となりました。するとたいそう気持のよい草原に到着し、ここにすっかり心を惹かれたので、野営を設けさせ、一両日休息することにいたしました。そして棕櫚《しゆろ》の木蔭に、自分のために張られた天幕《テント》が出来上ると、シート・ブドゥールは疲れて、すぐにそこにはいり、軽い食事をとると、やがてすぐ寝入ってしまいました。
カマラルザマーンはいろいろと指図を下し、ほかのひとびとの天幕《テント》を、ずっと離れたところに張らせて、自分たち二人だけで静寂と孤独を味わうことができるようにしてから、いよいよ天幕《テント》のなかにはいってみると、若い妻の眠っている姿を見ました。この様子は、かつて塔のなかで彼女と一緒に過ごした不思議な夜を、思い起こさせました。
事実シート・ブドゥールはこの時、頭を紅絹《もみ》の枕に載せて、天幕《テント》の敷物の上に横になっておりました。身には薄い紗の杏子《あんず》色の肌着と、モースルの布の寛《ゆる》やかな下穿きをつけているだけでした。そして微風は時々、軽やかな肌着をお臍のところまで翻えし、こうして美しいお腹全体が雪のように白く現われ、それと共に、微妙な場所に、それぞれ肉豆蒄《にくずく》の実一オンスもはいるくらいの窪みが、いくつも見えるのでした。
そこでカマラルザマーンはうっとりとして、次の詩節を即吟するほかはできませんでした。
[#ここから2字下げ]
紅錦の上に君の眠れば、君が明るき面は曙のごとく、眼は海空《うみぞら》にさも似たり。
水仙と薔薇を纒いて、身を挺して立ち、あるいはなよやかに横たわれば、アラビアに生うる棕櫚とても君に如《し》かざるべし。
宝石燃ゆるしなやかの髪、たわわに垂れ、あるいは軽やかに拡がれば、いかなる絹もこの自然の織物に及ばざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
それから次の見事な詩篇をも即吟しました。
[#ここから2字下げ]
眠る女よ。時刻《とき》は美わし。棕櫚は静まり返って光を飲む。真昼は息を止《と》む。黄金の黄蜂ひとつ、悶絶する薔薇を吸う。君は夢む。君は笑《えま》う。身動《みじろ》ぐなかれ……。
身動ぐなかれ。君が金色の柔肌《やわはだ》は、その反映《かげ》をもて、透く薄紗を彩る。日の光は棕櫚を打ち破って、君を貫き、おお金剛石よ、君を透して照らす。ああ、身動ぐなかれ……。
身動ぐなかれ。海原の波濤のごとく、かつ高まりかつ低まる君が胸乳《むなぢ》をして、そのままに息づかしめよ。おお雪白の君が胸乳よ。願わくは海の水沫《みなわ》のごとまた白塩《あわしお》のごと、これを吸わばや。ああ、君が胸乳をして息づかしめよ……。
君が胸乳をして息づかしめよ。笑う小川はその笑いを忍び、花上の黄蜂はその唸りを止《とど》む。しかしてわが眼差《まなざ》しは君が胸乳の二粒の柘榴色なす葡萄を焼く。おお、わが眼をして焼かしめよ……。
わが眼をして焼かしめよ。さあれ、願わくはわが心、幸多き棕櫚の下《もと》にて、薔薇と白檀に浸《つ》けられし君が肉体もて、孤独と沈黙の涼気とのあらゆる恵みもて、晴れやかに開けかし。
[#ここで字下げ終わり]
これらの詩句を即吟してのち、カマラルザマーンは、眠っている妻に対する欲情に燃えるのを感じました。清らかな水の爽やかな味は、渇する者の口にはいつも甘いのと同じく、彼はこの妻に倦きることを知らなかったのです。そこで彼女の上に身をかがめて、その下穿きを結《いわ》えている絹の紐をほどき、既に手を両腿の暑い蔭のほうにやりますと、その時、何か小さな固い物が、指の下に転がるのを感じました。そこでそれを引き出して見ると、それはひとつの紅瑪瑙(22)で、ちょうど薔薇の谷のま上に、絹糸で結びつけてあるのでした。カマラルザマーンは非常に驚いて、心の中で考えました、「もしこの紅瑪瑙が並々ならぬ霊験を持つものでなく、ブドゥールの眼から見てよほど貴重な品でないとしたら、ブドゥールは何もこれをこんなに大事にして、ちょうど自分の身体中で一番大切な場所に、隠してなどおくわけはない。これはどんなことがあっても、この品を肌身離さずに済むようにとのためだ。この宝石は、きっとあの魔術師の兄弟マルザウアーンが、凶眼と流産を除けるために、贈ったものにちがいない。」
次にカマラルザマーンは、はじめかけた愛撫を更に進める前に、まずこの宝石をもっとよく調べてみたい気持に強く誘われて、そこで、結《いわ》えてある絹糸を解いて、宝石を取り上げ、明るみで見ようと天幕《テント》を出ました。そしてこの紅瑪瑙は四つの面に削られていて、呪《まじな》いの文字と見知らぬ図形が彫りつけられているのを見ました。そして更に詳しい点をよく見ようと、それを眼の高さに掲げますと、その時突然、一羽の大きな鳥が空高くから舞い下りて、電光のようにすばやく身を翻えして、その宝石を彼の手から奪い取ってしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百七夜になると[#「けれども第二百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……電光のようにすばやく身を翻えして、その宝石を彼の手から奪い取ってしまいました。次にその鳥は、少し離れた大木の梢にとまり、嘴にその御守りをくわえて、じっとからかうように、彼を見つめたものです。
カマラルザマーンの狼狽ははなはだしく、しばらくは口をあいたまま、身動きもできずにぼんやりしていたほどでした。というのは、彼の眼の前には、ブドゥールが嘆く悲しみすべてが、既にちらついて見えたからです。そこで驚愕からわれに返ると、彼はためらわず意を決しました。すぐに小石を拾って、鳥のとまっている木のほうに駈け寄りました。この泥棒に石を投げつけるに程よい距離まで来て、狙いをつけて腕をあげると、とたんに鳥は木から飛び立ち、またすこし離れた二番目の木の上に、とまりにゆきました。そこでカマラルザマーンはこれを追いかけると、鳥はまた逃げて三番目の木にゆきます。カマラルザマーンは独りごとを言いました、「これはきっと鳥がおれの手のなかの石を見たにちがいない。石を捨てて、こちらに鳥を傷つける気がないことを見せてやるとしよう。」そして石を遠くに放り投げました。
鳥はカマラルザマーンがこうして石を捨てるのを見ると、地上に下《お》りましたが、しかしやはりかなりの距離を置いています。カマラルザマーンは独りごとを言いました、「あいつはおれを待っているのだな。」そしていそいで近より、今にも手が届きそうになると、鳥はそのすこし先に、ぱっと飛んでゆきます。カマラルザマーンもそのあとから飛んでゆきます。鳥が飛び、カマラルザマーンが飛び、またぞろ鳥が飛び、カマラルザマーンが飛び、こうして幾時間も幾時間も、谷から谷へ、丘から丘へと続けて、とうとう日が暮れてしまいました。そこでカマラルザマーンは叫びました、「全能のアッラーのほかには頼りはない。」そして息を切らして、立ち止まりました。すると鳥もやはり、少し先のほうの、小山の頂に立ち止まりました。
この時カマラルザマーンは、疲れよりは絶望のために、額が汗ばむのを感じ、さてこれはむしろ、野営に戻ったほうがよくはないかと思案しました。けれども、独りごとを言いました、「わが最愛のブドゥールは、万一あの御守りが頼むすべなく紛失したことを知らせたら、悲しみのあまり、死んでしまわぬとも限らぬ。あの御守りの霊験は、おれにこそ全然わからぬが、彼女《あれ》にはかけがえないものなのにちがいないから。それに、今こんなに闇の濃い折に戻ったら、道を迷うとか、夜の野獣《けもの》に襲われるようなおそれも、多分にあろう。」そこでこうした心配な考えに沈みつつ、いったいどう心を決してよいやらわからなくなり、途方に暮れて、困憊《こんぱい》の極みの有様で、地上に横たわりました。
けれども、例の鳥のほうの監視は怠りませんでしたが、鳥の両の眼は、闇のなかに異様にきらめいています。そしてこちらが掴まえてやろうと思って、ちょっとその素振りをしたり、立ち上ったりすると、そのたびに鳥は羽ばたきをし、叫び声をあげて、自分は見ているぞと言うのでした。そこでカマラルザマーンは、疲れと心の動揺に打ちひしがれて、朝まで眠りに身を委ねたのでした。
眼が覚めるや否や、カマラルザマーンは、万難を排してこの泥棒鳥を捕えてやろうと意を決して、鳥を追いかけはじめました。そしてこの日も再び、同じ競走がはじまりましたが、昨日と同じ不首尾です。そして夕方になると、カマラルザマーンはわれとわが身を激しく打って、叫びました、「おれに息の根がある限りは、こいつを追っかけてやるぞ。」そしていくらかの草と木を拾い集めて、それでもって、すべての食物の代りに間に合わせました。そして鳥を見張りつつ、また自身、闇にきらめく二つの眼に見張られつつ、眠りました。
さて翌日もまた同じ追跡が行なわれ、こうして十日にわたって、朝から晩まで続きました。ところが十一日目の朝になると、相変らず鳥の飛ぶのに引き寄せられて、とうとう海辺にある町の城門に着きました。
この時、その大きな鳥は立ち止まりました。そしてその御守りの紅瑪瑙を自分の前に置いて、「カマラルザマーン」という意味の三つの叫び声をあげ、再びその紅瑪瑙を嘴にくわえて、空中に舞い上り、ずんずん空高く上って遠ざかり、やがて海の水平線のほうへ、消え失せてしまったのでした。
これを見ると、カマラルザマーンは無念やる方なく、地上に身を投げて、顔を土につけ、咽び泣きに身を振わしつつ、永い間泣き伏しました。
こうした有様で何時間かたつと、彼は意を決して立ち上り、近くを流れている小川に行って、手と顔を洗い、洗浄《みそぎ》をしました。それから、最愛のブドゥールの苦しみを思い、自分と御守りの姿を消したことについて、姫はさぞかしいろいろに想像していることであろうと考えながら、町のほうに歩いてゆきました。
それからカマラルザマーンは城門を越えて、市中にはいりました。そして町々を通りはじめましたが、行き交うたくさんの住民のうち誰ひとり、回教徒が異国人に対してするように、親切な眼で眺めてくれる者はありません。そこでそのまま道を続けて行って、とうとう町の反対側の城門に着いてしまいました。そこを出ると諸方の庭園にゆくのです。
見ると、ほかの庭園よりも、ひときわ広い庭園の門が開いていたので、王子ははいってゆくと、そこの庭作りがこちらにやってきて、向うのほうから、回教徒の言い方を使って挨拶しました。そこでカマラルザマーンもこれに平安の祈りを返し、アラビア語を話すのを聞いて、安堵の息を吐きました。挨拶《サラーム》を交わしてのち、カマラルザマーンはその老人《シヤイクー》に訊ねました、「いったいこの町の住民は皆、あんなに怖い顔をして、あんなにすげなく、愛想のない、冷やかな態度をしているとは、どうしたことでしょうか。」親切な老人《シヤイクー》は答えました、「アッラーは祝福されよ、わが子よ、あなたを彼らの手から無事にのがれさせて下さったとは。この町に住むひとびとは、西洋の黒い国々から来た侵入者なのです。彼らはある時、海からやって来て、不意にここに上陸し、われわれの町に住んでいた回教徒をば、全部虐殺してしまったのです。彼らは何だかわけのわからぬものを崇拝し、妙な野蛮な言葉を話し、悪い臭いのする腐ったものを食う。例えば、腐ったチーズとか、腐りかかった鳥獣なんぞですね。また決して身体を洗わない。それというのは、生まれ落ちるとすぐ、まっ黒い着物を着たひどく醜い男たちが、赤子の頭に水をかける、こうして奇怪な仕草をしながら、一度|洗浄《みそぎ》をされれば、あとは一生の間、もう一切ほかの洗浄《みそぎ》をしないでよいことになっているのです。そこでこの連中は、将来決して身を洗う気を起こすことのないようにと、まずはじめに浴場《ハンマーム》と共同泉水場をみな壊してしまい、その跡には売女《ばいた》の営む店を建てて、飲物代りに、何だか泡の立った黄色い液を売っているが、そいつはきっと、小便でも醗酵させたものにちがいない、あるいはもっとひどいしろものかも知れん。ここの女房たちときては、おおわが子よ、これはもうこの上なくぞっとする災いというものじゃ。亭主と同様、ほとんど身体なんか洗うことなく、ただ顔だけ、消石灰と卵の殻を粉にしたものを塗りつけて、白くしている。それに、下着類を全く着けず、また下から道の埃を防ぐことのできる下穿きなども、穿かない。だから、やつらに寄ってこられたら、わが子よ、疫病がうつる。地獄の火とても、やつらを清めるにはよう足らんじゃろう。おおわが子よ、わしは大骨折ってやっと災難からまぬがれたものの、どういう人間どものただ中で、わが一生を終えようとしているかは、これでおわかりじゃろう。というのは、御覧のとおり、わしはここでまだ生き残っている、ただひとりの回教徒じゃ。けれども、われわれをば、われわれの信仰の下ってきたあの天と同じように、汚れない信仰の裡に、生まれさせて下さった至高者に、感謝するといたしましょう。」
これらの言葉を言い終えると、庭作りは若者の疲れた顔付から見て、これは何か食物が必要にちがいないと察し、庭の奥の、自分のささやかな家に連れてゆき、手ずから、若者に飲み食いさせてやりました。それが済むと、どういう事情からこの地に来るようなことになったかを、控えめに訊ねたのでした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百八夜になると[#「けれども第二百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……どういう事情からこの地に来るようなことになったかを、控えめに若者に訊ねたのでした。
カマラルザマーンは、庭作りの親切に深く感謝を覚えて、身の上を一切包まず、自分の話を終って泣き崩れました。
老人《シヤイクー》はできるだけ王子を慰めて、これに言いました、「わが子よ、ブドゥール姫はきっとあなたより先に、お父上の領地、カールダーンの国に行きなすったにちがいない。ここのわが家にいなされば、いつかアッラーが、あなたをここから一番近い、黒檀の島と呼ばれている島まで、連れてゆくことのできる船を送って下さる日まで、あなたはま心こもった情愛と、隠れ家と、安息を見出しなさるだろう。その暁には、黒檀の島からカールダーンの国まではさして遠くなく、そこからお国に連れて行ってくれる船は、たんとあるでしょう。では今日からさっそく、わしは港へ出かけて行って、あなたと一緒に黒檀の島へ旅をしてくれる商人が見つかるまで、毎日行ってあげよう。カールダーンの国まで行ってくれようという人を見つけるには、何年も何年もかかるだろうからね。」
そして庭作りは言ったとおりたがえず、早速実行してくれましたけれども、幾日も幾月も経っても、黒檀の島に向う船は一向に見つかりませんでした。
カマラルザマーンのほうは、このような次第でございました。
ところでシート・ブドゥールはどうかと申しますと、おお幸多き王様、取りいそぎこちらのお話に戻らずにいられないほど、それはそれは不思議な、驚くべきことが、いろいろと起ったのでございます。次のようでございます。
果して、シート・ブドゥールは眼が覚めると、まず最初に思ったことは、両腕を拡げて、カマラルザマーンをぴったり抱き締めることでした。ですから、自分のそばに王子の姿を見かけない時には、驚きは非常なものでした。そして自分の下穿きがほどけていて、絹紐が御守りの紅瑪瑙と一緒になくなっているのを見届けた時には、驚愕は極度に達しました。けれども、カマラルザマーンはまだこの御守りを見たことがなかったから、きっとよく見ようと思って、これを持って外に出たのにちがいないと考えました。そして辛抱強く待っていました。
しばらく経っても、カマラルザマーンが帰ってこないのを見ると、姫はたいそう心配になりはじめ、やがて、想像もつかないほどの心痛に陥りました。そしていよいよ夜になっても、まだカマラルザマーンが戻ってこないので、もうこの失踪がどうしたことなのか、見当がつきませんでしたが、しかしこんな風に独りごとを言いました、「やあ、アッラー、カマラルザマーン様がこうして遠くに行かなければならないとは、よほど変ったことがあったのかしら、あの方はひと時でも、私を離れてはいらっしゃれないのに。けれども、あの御守りも一緒に持っていらっしゃったのは、どういうわけかしら。ああ、呪わしい御守りだこと、お前がわたくしたちの不幸の因《もと》だわ。それにあの乳兄弟の呪わしいマルザウアーンも、こんな碌でもない品を贈ってくれたとは、アッラーが懲らしめて下さるように。」
けれどもシート・ブドゥールは、二日経っても夫が帰ってこないのを見ると、どんな女でもこんな際には取り乱してしまうものですが、姫はこの不幸に当って、女のひとたちには普通ごく乏しい、健気な気持を持ちました。もしや奴隷たちが裏切ったり、粗末な取り扱いをしたりしてはと思って、姫はこの失踪については、誰にも一切口外しようとせず、苦しみを自分の心中に深く畳み、おつきの若い侍女にも、これについては一切口外を禁じました。それから、自分がどんなにカマラルザマーンに、そっくり似ているかを知っていたので、すぐに着ていた女の着物を脱ぎ棄て、箱からカマラルザマーンの衣類を取り出して、それを着はじめたのでした。
まず、胴にぴったりと合って、襟の開いた縞の美しい服を着け、黄金細工の帯を締め、紅玉を鏤《ちりば》めた硬玉の柄《つか》の短剣を佩《は》きました。頭は色とりどりの絹の軽羅で包み、それを、駱駝の子の柔らかな毛で作った三重の紐で、額のまわりに結び、こうした支度が出来ると、手に鞭を携え、腰を反らして、若い侍女に、今自分の脱いだ着物を着て、後《あと》からついてくるように命じました。こうすれば、誰でも皆侍女を見て、「シート・ブドゥールだ」と思えるわけです。そこで姫は天幕《テント》を出て、出発の合図を下しました。
こうしてシート・ブドゥールはカマラルザマーンに化けて、供の者を従えて旅をはじめ、いく日もいく日も行くうちに、とある海岸にある町の前に着きました。そこでその町の城門のところに天幕《テント》を張らせて、訊ねました、「この町はどういう町か。」一同は答えました、「これは黒檀の島の都でございます。」姫は訊ねました、「してこの都の王はどなたか。」一同は答えました、「アルマノス王と申します。」姫は訊ねました、「その王にはお子様方があるか。」一同は答えました、「王女おひと方しかおありになりませんが、それは王国一の美しい処女《おとめ》で、お名前をハイヤート・アルヌフース(23)と申します……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九夜になると[#「けれども第二百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……王国一の美しい処女《おとめ》で、お名前はハイヤート・アルヌフースと申します。」
そこでシート・ブドゥールは、アルマノス王に書面を携えた使者を遣わして、自分の到着を知らせました。そしてその書面のなかでも、姫は相変らず、自分はカールダーン国の領主シャハラマーン王の太子、カマラルザマーン王子ということにしておきました。
アルマノス王はこの報せを受けると、王はかねて強大なシャハラマーン王とは、最上の友好関係を続けていたこととて、カマラルザマーン王子を自分の都に迎えることができるのを、たいそう悦びました。すぐに、宮中の主立った者から成る行列を従えて、王はシート・ブドゥールを迎えに、天幕《テント》のほうに出向き、友好国の王子に払うだけの敬意と礼を尽して、姫をお迎えになりました。そしてブドゥールは、アルマノス王が懇《ねんご》ろに御殿に泊るように申し出なさったのを、しきりにためらって辞退しようとしたにもかかわらず、とうとう一緒にお伴する決心をさせなさいました。そして打ち揃って、華々しく入城しました。それから三日にわたって、宮中を挙げて、贅を尽した盛宴が催されました。
それが済むとはじめて、アルマノス王はシート・ブドゥールと会って、旅のことをいろいろと聞き、これからどうするつもりか訊ねることになさいました。ところでその日、シート・ブドゥールは、やはりカマラルザマーンになりすまして、御殿の浴場《ハンマーム》に行き、流しの男を一切ことわって、ひとりで入浴したところでした。そして出てきたときには、不思議なばかり美しく、光り輝き、その容色は、こうした若者の姿の下に、この世のものとも思われぬ魅力を備え、姫が通ってゆくと、すべての人は息を凝らして、創造者を祝福したのでございました。
さてアルマノス王は、シート・ブドゥールのそばに坐って、永い間一緒にいろいろとお話しなさいました。そして王は、その容色と弁舌とにすっかり心服して、姫におっしゃいました、「わが子よ、まことに、御身をわが王国におよこしになって、わが晩年の慰安となし、わが王座を譲り得る息子代りにしようとなすったのは、アッラー御自身にほかならぬ。されば、わが子よ、どうか、わが一人娘ハイヤート・アルヌフースとの婚姻を承諾して、余にその慰安を与えてはくれまいか。娘の運勢と美にふさわしきこと御身のごときは、天下に何ぴともない。娘はようやく妙齢に達したところじゃ、先月十二歳を迎えたところだからな。これは妙《たえ》なる花にて、ぜひ御身に吸ってもらいたいものじゃ。わが子よ、姫を受けて下され。さらば余は直ちに、御身のために王座を譲ろう。わが頽齢は、もはやその煩わしき任に耐うるを許さぬ次第じゃ。」
この申し出と、これほど進んで惜しげなく王位を提供されると、ブドゥール姫は非常に窮した困惑に陥りました。はじめは、動揺する色を表に現わさないためには、どうしてよいやらわからない有様でした。そこで眼を伏せて、しばらくの間思い耽りました。姫は心の中で考えました、「もしも私は、カマラルザマーンとしては、既にシート・ブドゥールと結婚している身だと答えたら、王は、聖典では正妻四人まで許されていると、答えなさるだろうし、またもし私が有体《ありてい》に女だと白状したら、王は、では御自分と結婚せよと、強いなさらぬとも限らないし、とにかく、その噂は万人に知れ渡って、私は非常な恥を受けることになろう。またもしこの父親としての申し込みをおことわりしたら、王の情愛は私に対するむごたらしい憎しみと変じて、私がいったんこの宮殿を立ち去ると、私を穽《わな》にかけて、亡きものにしないとも限らない。これはいっそ申し出を承知して、後はなるようにならせるほうがよい。それに、測り知れぬものがいったい私に何を隠しているかはわからないし。どのみち、王になれば、私はたいそう立派な王国をひとつ手に入れて、カマラルザマーンが帰っていらっしゃった暁に、お譲りすることができるわけだ。けれども、私の妻になる若いハイヤート・アルヌフースとの契りについては、これはたぶん何とかなるだろう。またよく考えてみることにしましょう。」
そこで姫は頭をあげ、顔を赤く染めて答えましたが、王様はそれを、このようにあどけない青年には無理もない、羞らいときまりの悪さのせいと思いました。姫は答えました、「私はわが君のこの上なく些細な御所望に対しても、承わり畏ってお答え申す、恭順な息子でござりまする。」
この言葉に、アルマノス王は晴れやかの極みに達せられ、即日結婚式を挙げることを望みなさいました。そこではじめに全部の貴族《アミール》、名士、役人、侍従の前で、カマラルザマーンに王位を譲ることになさり、そして触れ役人にこの出来事を全市に告げ知らせ、全国に飛脚を走らせて、人民にこれを告げ知らせさせました。
そこでまたたく間に、前代未聞の祝典が町と王宮に催され、歓声のただなか、横笛とシンバルの響の裡に、新王とハイヤート・アルヌフースの結婚契約書が認《したた》められました。
夜となると、お年を召した女王は、「リュ・リュ・リュ」という悦びの声を挙げる、侍女たちに取り囲まれて、若い花嫁ハイヤート・アルヌフースをば、シート・ブドゥールの部屋にお連れになりました。そのお二人はずっと、ブドゥールをカマラルザマーンだとばかり思っていたからです。そこで若い王の風体《なり》をしたシート・ブドゥールは、やさしく花嫁のほうに歩みより、はじめてその顔の小|面衣《ヴエール》を掲げました。すると、並いるすべての婦人たちは、こんなに美しい一対を見てすっかり心を奪われ、欲情と感動のため、まっ蒼になったほどでございました。
式が終わると、ハイヤート・アルヌフースの母君と全部の侍女は、数々の祝詞を述べ、部屋中の燭火《ともしび》を点《つ》けた上で、慎ましく引き取り、新婚の夫婦だけを婚姻の間《ま》に残しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百十夜になると[#「けれども第二百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……新婚の夫婦だけを婚姻の間《ま》に残しました。
シート・ブドゥールは、若いハイヤート・アルヌフースのみずみずしさ溢れる様子に心を魅され、ちらりとひと目見ただけで、おどおどした黒い大きな眼、爽やかな顔色、紗の下にかわいらしく浮き出ている小さな乳を持ったこの乙女が、本当に好ましいのを見てとりました。ハイヤート・アルヌフースも騒ぐ心を抑えて顫え、眼を伏せ、面衣《ヴエール》と宝石の下でほとんど身動きもできずにいましたけれども、自分が夫の気に入ったことを知って、おずおずと微笑しました。そして彼女もまたやはり、この頬に鬚のない青年の無上の美しさを認めることができ、御殿の一番美しい娘たちにもまさって、欠けるところのない青年に思えました。ですから、青年が静かに近づいてきて、敷物の上に延べた大きな敷蒲団《マトラー》の上に、自分と並んで坐るのを見た時には、真底からわくわくせずにはいられませんでした。
シート・ブドゥールは、少女の小さな両手を自分の両手に握って、おもむろに身を屈《かが》めて、少女の口の上に接吻しました。ハイヤート・アルヌフースは、こんなに快いこの接吻を返すこともならず、両の眼をすっかり閉じて、深い無上の幸福の溜息を洩らしました。するとシート・ブドゥールは両腕を曲げて頭を抱え、それを自分の胸に載せてやって、それから小声で、あやすような調子の詩句を静かに歌って聞かせたので、少女は次第に、幸福げな微笑を唇に浮べて、まどろんでしまいました。
そこでシート・ブドゥールは、その面衣《ヴエール》類と飾りの品々を外してやって、少女を寝かし、腕に抱きながら、自分もそのそばに横になりました。そして二人はそのまま、朝まで眠りました。
眼が覚めるとすぐ、シート・ブドゥールは、ほとんど着のみ着のままで、ターバンさえつけたままで寝ていたのでしたが、日頃見あらわされぬよう、よそでひそかにしばしば沐浴《ゆあみ》をしていたので、とりあえず手早くざっと洗浄《みそぎ》をして(24)、王の装束を身に着け、裁きの間《ま》に出て、全宮中の敬意を受け、政務を執り、悪弊を廃止し、任命し罷免しました。緊急と認められるいろいろの廃止のなかで、特に入市税と税関を廃し、そして兵士と人民と回教寺院《マスジツト》に、多分の御下賜を授けました。そこで新しい臣下はみなたいそう懐《なつ》いて、新王の繁栄と長寿を祈ったのでございました。
さてアルマノス王御夫妻のほうは、いそいで王女ハイヤート・アルヌフースの様子を見にいらっしゃって、夫はずいぶんやさしくしてくれたか、疲れすぎはしなかったかと、お訊ねになりました。というのは、最初は一番肝心の問題については、問い質《ただ》そうとなさらなかったのでした。ハイヤート・アルヌフースは答えました、「わたくしの夫はほんとに御親切でした。わたくしの口の上に接吻なすって、わたくしはあの方の腕のなかで、歌の調べを聞きながら眠りましたの。ほんとにおやさしい方ですわ。」するとアルマノスはおっしゃいました、「起こったことはそれだけなのか、娘よ。」王女は答えました、「ええ、そうですわ。」そこで母君がお聞きになりました、「では、そなたは着物を全部脱ぎもしなかったのかい。」王女は答えました、「ええ、そうですわ。」そこで父君と母君は顔を見合わせなすったけれども、しかしそれ以上何もおっしゃいませんでした。そして行ってしまいなさいました。お二人については、こういう次第でございました。
シート・ブドゥールのほうは、ひとたび政務を終えると、ハイヤート・アルヌフースに会いに自分の部屋に戻って、これに訊ねました、「かわいい子よ、父君と母君はそなたに何かおっしゃったかね。」彼女は答えました、「どうしてお前は着物を脱がなかったのかと、お訊ねになりましたわ。」ブドゥールは答えました、「そんなことはなんでもないことだ。ではすぐに手をかして脱がせてあげよう。」そして一枚ずつ全部の着物を脱がせ、最後の肌着まで取って、丸裸にして腕に抱き、一緒に敷蒲団《マトラー》の上に横になりました。
そこでブドゥールはごくそっと、少女の美しい眼の上に接吻をしてやってから、これに訊ねました、「ハイヤート・アルヌフース、わが仔羊よ、そなたは男の人たちが大好きかな。」少女は答えました、「男の人なんて見たことがございませんわ、もちろん、御殿の宦官たちは別ですけれど。だけどあの人たちは、何か中途半端な男らしいの。いったい満足な男としては、何が足りないのかしら。」ブドゥールは答えました、「ちょうどそなたに足りないものだよ、わが眼よ。」ハイヤート・アルヌフースは驚いて、答えました、「わたくしに? アッラーにかけて、このわたくしに何が足りないのでしょう。」ブドゥールは答えました、「指が一本ね。」
この言葉に、小さいハイヤート・アルヌフースはびっくり仰天して、口の中で叫び声をあげ、蒲団の下から両手を出して、十本の指を拡げながら、怖気立って見開いた眼で、じっと指を見つめました。けれどもブドゥールは、少女をぴったりと抱き締めて、髪に接吻してやって、言いました、「アッラーにかけて、やあ、ハイヤート・アルヌフース、今のはほんの冗談だよ。」そして少女がすっかり気が静まるまで、接吻を浴びせつづけました。それから言いました、「やさしい子よ、私に接吻しておくれ。」するとハイヤート・アルヌフースは、みずみずしい唇をブドゥールの唇に近づけ、こうして二人は抱き合って、朝まで眠りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百十一夜になると[#「けれども第二百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……こうして二人は抱き合って、朝まで眠りました。
朝になると、ブドゥールは国務を見に出ました。そしてハイヤート・アルヌフースの御両親が、娘の様子を見にはいって来なさいました。
まずアルマノス王が訊ねました、「どうじゃ、わが子よ、アッラーは祝福されよかし。まだ蒲団にはいっているね。疲れてがっかりしているのではないか。」王女は答えました、「いいえ、少しも疲れてなんかいませんわ。美しい夫の腕のなかで、とてもよく休みました。夫は昨夜はわたくしを丸裸にして、身体中いくつもやさしく接吻してくれました。やあ、アッラー、ほんとに好い気持でした。わたくし、身体中何度もむずむずして、身顫いしましたわ。ですけれど、ちょっとの間、何でもわたくしに指が一本足りないとかおっしゃるので、とても怖うございました。でもほんの御冗談だったのです。ですから、やがて可愛がっていただくとすっかり嬉しくなり、お手は裸の肌の上に気持よく、重ね合った唇は熱くいっぱいに感じられて、まるで天国にいる思いがして、こうしてそのまま朝まで、われを忘れてしまいました。」
すると母君は訊ねました、「けれども手拭はどこにあるのです。そなたはたくさん血をお出しかえ。」すると若い娘は驚いて、答えました、「血なんて何にも出しはしませんわ。」
この言葉に、父君と母君は絶望極まって、われとわが顔を打って、叫びなさいました、「おお一家の恥辱、おお一家の不幸じゃ。なぜそちの夫はわれらを軽んじ、これほどまでにそちを侮るのか。」
そのうち王様は次第にたいそうお腹立ちになって、やがて少女にも聞えるほど大きな声で、お后《きさき》に叫びながら、引き上げなさいました、「万一今夜もカマラルザマーンが己が義務を果さず、わが娘の処女を奪って、もってわれら一同の名誉を全うすることなくば、余は彼の辱しめをばきっと懲らしめてやる。譲り与えた王座から引き下ろした上で、王宮より追い払い、あまつさえ、さらに怖るべき罰を加えてやるかも知れぬぞ。」こう言い置いて、アルマノス王はお后を従えて、あっけにとられた王女の部屋から、出て行かれましたが、お后のお鼻は足まで伸びていました。
されば、夜となって、シート・ブドゥールがハイヤート・アルヌフースの部屋にはいってくると、少女は頭をクッションに埋め、むせび泣きに頭を慄わして、悲しみに沈んでいるのでした。そこで近づいて、額に接吻し、涙を拭ってやって、心痛のわけを問いただしました。するとハイヤート・アルヌフースは、震える声で言いました、「おお愛するお殿様、お父様はあなたに下さった王座を取りあげて、あなたを王宮から追い出そうとおっしゃるのです。それにその上、どんなことをなさるやらわかりません。それというのも、あなたがわたくしの処女を奪って、そうしてお父様のお名と一族の名誉を全うして下さろうとなさらないからですの。お父様は、絶対に今夜のうちに事が行なわれなければならぬとおっしゃいます。それでわたくしは、おお最愛の御主人様、こんなことを申し上げるのは、決してあなたが奪わなければならないものを奪うようにしむけるためではございません。ただお父様が、あなたを危うい目に遭わせようとなすっているから、御身を守ろうと思うだけでございます。なぜって、わたくしは一日中、お父様があなたの御身にたくらんでいらっしゃる復讐を考えて、泣いてばかりいたのですもの。ああ、お願いですから、いそいでわたくしの処女を破って、お母様のお望みのように、白い手拭が真赤《まつか》になるようになすって下さいまし。わたくしは万事あなたのお指図どおりになり、身も心もことごとく、御手の間におまかせいたします。けれども、そのためには、わたくしがどうしなければならないかは、あなたにきめていただかなければなりませんわ。」
この言葉に、シート・ブドゥールは心中思いました、「いよいよ時機が来た。もう延ばすわけにゆかないことがよくわかったわ。アッラーにおまかせしましょう。」そして彼女は少女に言いました、「わが眼よ、そなたは私を深く愛しますか。」少女は答えました、「ええ、大空のように。」ブドゥールはその口に接吻して、さらに聞きました、「どのくらい好きですか。」少女は既に身を顫わしながら、答えました、「わかりませんわ。だけど、とっても。」彼女は更に訊ねました、「そんなに私を愛してくれるなら、万一私がそなたの夫でなくて、ただの兄だったとしたら、それでもそなたは嬉しいかね。」女の子は手を打って、答えました、「嬉しくてたまりませんわ。」ブドゥールは言いました、「それでは、やさしい子よ、万一私がそなたの兄ではなく、姉だったら、この私が若い男ではなくて、そなたと同じように若い娘だったら、それでもやっぱりそなたは、そんなに私を愛してくれますか。」ハイヤート・アルヌフースは言いました、「もっと愛しますわ。なぜって、わたくしはいつでも御一緒にいて、御一緒に遊び、一緒のお床《とこ》に休み、いつまでも離れずにいられましょうから。」するとブドゥールは少女をぴったりと引き寄せて、眼に接吻を浴びせて、言いました、「ねえ、ハイヤート・アルヌフース、そなたは自分ひとりで秘密を守って、そなたの愛情の証拠を私に見せてくれることがおできか。」少女は叫びました、「わたくしはあなたを愛している以上は、どんなことだっておやすいことです。」
するとブドゥールは女の子を腕に抱いて、二人とも息がとまるほど固く唇を重ね、それからすっくと立ち上って、そして言いました、「私を御覧、ハイヤート・アルヌフース、そして私の妹になって下さいね。」
それと同時に、彼女はすばやく自分の着物を、襟から帯のところまではだけて、先端《さき》に薔薇を戴く、輝くばかりの二つの乳房を飛び出させました。それから言いました、「あなたと同じく、わたくしも女なのよ、おわかりでしょう。わたくしが男の形《なり》をしたというのは、とても不思議な出来事のためなので、そのお話は今すぐお聞かせいたしますわ。」
そこで彼女は再び坐って、若い娘を膝の上に乗せ、自分の身の上を一部始終話して聞かせました。けれどもそれを繰り返したとて、益なきことでございます。
小さなハイヤート・アルヌフースはこの話を聞くと、驚嘆の極に達して、そしてずっとシート・ブドゥールに抱かれて坐っていたので、その小さな手を姫の頤《おとがい》にあてて、言いました、「おおお姉様、あなたのいとしいカマラルザマーン様のお帰りまで、わたくしたちは一緒に、どんなに楽しく暮らしてゆけることでしょう。どうぞアッラーは早くその方をお帰し下さって、わたくしたちの仕合せを全うして下さいますように。」するとブドゥールは言いました、「どうぞアッラーはあなたのお願いを聞いて下さいますように。そうしたら、わたくしはあなたをあの方の二番目の妻にして、こうしてわたくしたち三人は、この上なく満ち足りた幸福な身になるでしょう。」それから二人は永い間抱き合い、一緒にいろいろ遊び戯れ、そしてハイヤート・アルヌフースは、シート・ブドゥールの身体《からだ》に認めた、あらゆる美しい細部にびっくりしました。少女はその乳房を掴んで、言うのでした、「おおお姉様、お姉様のお乳はなんて綺麗でしょう。御覧なさいな。わたくしの小さなのよりかずっと大きいわ。わたくしのものも、今に大きくなるのかしら。」そして身体中のことを一々こまかく挙げては、いろいろと新しく見つけたことについて、問いただすのでした。ブドゥールはいくつも接吻しながら、はっきりと十分わかるように教えて、答えてやりますと、ハイヤート・アルヌフースは感嘆の叫びをあげました、「やあ、アッラー、やっとわかったわ。こうなのですよ、わたくしが女奴隷たちに『こ[#「こ」に傍点]れ[#「れ」に傍点]は何をするものなの、あ[#「あ」に傍点]れ[#「れ」に傍点]は何をするものなの』と聞いたら、奴隷たちは目配せするばかりで、何とも答えません。またほかの奴隷たちも怪しからぬことに、舌を鳴らして、何とも答えません。そこでわたくしは口惜しがって、自分の頬を引っ掻いて、ますますひどく叫び立てましたの、『あ[#「あ」に傍点]れ[#「れ」に傍点]は何をするものか言いなさい。』すると私の叫び声を聞きつけて、お母様が駈けていらっしゃって、どうしたのかお聞きになると、全部の女奴隷が言いました、『お姫様は私どもに、あ[#「あ」に傍点]れ[#「れ」に傍点]は何をするものか説明せよと御無体をおっしゃって、叫んでいらっしゃるのでございます。』するとお母様の女王は、この上なくお腹立ちで、わたくしがもうしませんといくら申し上げても、お聞き入れにならず、わたくしの小さなお尻を裸にして、きつく撲《ぶ》ちながら、おっしゃいました、『あ[#「あ」に傍点]れ[#「れ」に傍点]はこういうことをするものですよ。』そこでわたくしは、あ[#「あ」に傍点]れ[#「れ」に傍点]はただお尻を撲たれる目に遭わせるためだけにあるものとばかり、思いこんでしまいましたの。そのほかのことについても、すべて同じことでした。」
それから二人は、一緒にさまざまの戯事《ざれごと》を言ったりしたりしつづけて、朝になると、ハイヤート・アルヌフースはもう何も教わることがなくなり、わが身のすべての微妙な器官の今後果すべき楽しい役割を、はっきりと覚ったのでございました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百十二夜になると[#「けれども第二百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……すべて微妙な器官の今後果すべき楽しい役割を、はっきりと覚ったのでございました。
そこで、父君と母君のはいっていらっしゃる時刻も近づいたので、ハイヤート・アルヌフースはブドゥールに言いました、「お姉様、やがてお母様がいらっしゃって、処女の血をお見せとおっしゃいますが、それに何とお答えしたらよいでしょう。」ブドゥールは微笑して、言いました、「それはわけないことです。」そしてこっそりと一羽の雛鳥を取ってきて、その首を斬り、その血を少女の股と手拭になすりつけて、少女に言いました、「御両親にこれを見せさえすれば大丈夫よ。習慣上ただ見るだけで、それ以上詳しく穿鑿することは許されていませんから。」少女は訊ねました、「お姉様、でもなぜあなた御自身でお破りにならないの、例えば指でもってでも。」ブドゥールは答えました、「でも、わが眼よ、さっき言ったように、わたくしはあなたをカマラルザマーンのために取って置きたいからです。」
そこで、ハイヤート・アルヌフースはすっかり得心し、そしてシート・ブドゥールは政務を執りに出てゆきました。
すると王と女王は、万一万事完了していなかったら、すぐにも娘と婿に対して、怒りを爆発させようと意気込んで、王女のところにはいって来ました。けれども血と赤く染まった股とを見ると、お二人はともども心が晴れ、胸が広がりなすって、その部屋の戸を広々と開け放ちました。すると全部の婦人たちがはいってきて、歓声と「リュ・リュ・リュ」の勝鬨を挙げました。母君は得意の絶頂で、赤く染まった手拭を天鵞絨のクッションの上に載せ、行列を従えて、後宮《ハーレム》をひと廻りなさいました。こうして皆がめでたい事件を知りました。王様は盛大な祝宴を張って、貧しいひとびとのために、莫大な数の羊と子駱駝を屠らせました。
女王と招かれた婦人たちのほうは、若いハイヤート・アルヌフースのところに戻り、めいめい涙を流しながら、彼女の眼の間に接吻しました。そして、風邪をひかないようにと薄絹で包んで、浴場《ハンマーム》に連れて行ってから、夕方まで一緒に付き添っていました。
シート・ブドゥールのほうは、こうして毎日黒檀の島の王座について、臣下一同に愛され続け、臣下は皆これを男だとばかり思って、王の長寿を祈っておりました。けれども夜となると、彼女はいそいそと年若い友ハイヤート・アルヌフースに会いにゆき、これを腕のなかに抱いて、一緒に敷蒲団《マトラー》の上に横になりました。そして二人は夫と妻のように朝まで抱き合って、いとしいカマラルザマーンの帰りを待ちつつ、微妙な遊びをして慰め合うのでした。この二人の佳人のほうは、以上のような次第でございます。
ところでカマラルザマーンのほうはいかにと申しますと、次のようでございます。彼は西洋の国々から来た、無愛想な侵入者たちの住んでいる町の、城壁の外にある、親切な回教徒の庭作りの家に、ずっと留まっておりました。カールダーンの島々にいらっしゃる父君シャハラマーン王は、森のなかで、血まみれの手足を御覧になってからは、もう最愛のカマラルザマーンの横死を疑いなさいませんでした。そして王様はじめ全王国は喪に服し、王様は立派な廟を建てさせ、そこにお籠りになって、沈黙の裡に王子の死を悼んでいらっしゃいました。
さて一方カマラルザマーンのほうは、年とった庭作りと一緒にいて、庭作りが何とか気を紛らせ、やがて黒檀の島に連れてゆく船が来るからと希望を持たせようと、できるだけのことを尽してくれたにもかかわらず、怏々《おうおう》として楽しまず、過ぎ去った楽しい日々を思い返して、悶々としているのでした。
ところがある日、庭作りがいつものように、自分の客人を連れて行ってくれる船を見つけようとて、港のほうを見廻りに出かけた時、カマラルザマーンは心悲しく庭に坐って、鳥の遊び戯れるのを眺めながら、ひとり詩句を誦しておりますと、ふと俄かに、二羽の大きな鳥の嗄《しやが》れた叫び声に、注意を惹かれました。その音の聞えた木のほうに頭を上げてみると、嘴と爪と翼を荒々しく揮って、激しく争っているのでした。しかしやがて、ちょうど彼のまん前に、二羽のうち一羽が息絶えて、ばたりと転がり落ちて、一方勝ったほうは、遠くに飛び去ってゆきました。
しかしそれと同時に、近所の木に棲まって、今まで闘いを見ていたずっと大きな二羽の鳥が、その死んだ鳥のほとりに下りて来ました。一羽は息絶えた鳥の頭のほうに、他の一羽はその足許に立ちました。次に二羽とも悲しげに頭を垂れ、明らかに泣きはじめました。
これを見て、カマラルザマーンは極度に心を動かされ、妻のシート・ブドゥールの身を思い、そのうち鳥の涙に誘われて、自分もまた泣きはじめました。
しばらく経つと、カマラルザマーンは、その二羽の鳥が爪と嘴でもって穴を掘って、死んだ鳥を埋めるのを見ました。それから飛び立ちましたが、何分かたつと、こんどはさっきの下手人の鳥を引っ立て、一羽はその翼を、他の一羽は両脚を掴まえて、ちょうどその墓穴のところに戻ってきました。掴まえられた鳥は、逃げようとじたばたし、物凄い叫び声をあげています。二羽の鳥はそいつを押えつけたまま、死んだ鳥の墓の上に引き据え、二度三度すばやく嘴を立てて、そいつの腹を破り、こうして罪の仇を取り、臓腑を引きずり出して、断末魔の苦しみにぴくぴく動いている鳥を、地上に残して、飛び去ってゆきました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百十六夜になると[#「けれども第二百十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……断末魔の苦しみにぴくぴく動いている鳥を、地上に残して、飛び去ってゆきました。
こうした次第です。カマラルザマーンはこんな珍しい光景を見て、驚いて身動きもせず、見入っておりました。それから、二羽の鳥が飛び去ってしまうと、好奇心に駆られて、殺された悪い鳥の横たわっている場所に近づいて、その死骸をよくよく見ると、突き破られた胃のまん中に、何やら赤いものが光っているのが見え、注意を引きつけられました。身を屈めて、その品を取り上げてみると、感動のあまり、気を失って倒れてしまいました。何と、シート・ブドゥールの御守りの紅瑪瑙が見つかったのです。
やがてわれに返ると、王子は、今までの数々の苦労と嘆息と悲嘆と懊悩の因《もと》であるこの大切な御守りを、ぴったりと胸に抱きしめて、叫びました、「願わくはアッラーはこれを瑞兆となしたまい、わが最愛のブドゥールにも、同じくめぐり会える徴《しるし》となしたまえ。」次にその御守りに接吻し、それを額に押しいただいて、それからそれを念入りに布切れに包《くる》んで、今後二度と無くするおそれのないように、腕のまわりに結びつけました。そして悦びに小躍りしはじめました。
さて王子は心が鎮まると、以前に親切な庭作りに、もう葉も出ず実も生《な》らなくなった一本のいなごまめの老木を、抜いておいてくれと頼まれたことを、思い出しました。そこで麻縄の帯を腰に巻いて、両袖をたくし上げ、斧と籠を携えて、すぐに仕事に取りかかり、老木の地面とすれすれの根元を、力いっぱい打ちはじめました。ところが突然、斧の刃金が何か固い金物《かなもの》に当って響く手応えがして、地下に伝わる鈍い音のようなものが聞えました。そこでいそいで土と砂利を除《ど》けると、一枚の大きな青銅の板が現われたので、さっそく持ち上げてみました。すると、岩に刻んで、かなり高い十段の石段があります。そこで御慈悲を乞う文句、「ラ・イラーハ・イッラーラー(25)」を唱えてから、いそいで下りてゆきますと、大昔の作りの、遠くサムード族やアード族(26)の時代の、正方形の広い穴倉があります。そしてこの円天井の大きな穴倉のなかには、二十の大甕《おおがめ》が、両側に整然と並んでいました。最初の甕の蓋を掲げてみると、それには、金銅《こんどう》の地金《じがね》がぎっしり詰まっています。そこで二番目の蓋を掲げてみると、二番目の甕には、金粉がぎっしり詰まっていることがわかりました。そこで残りの十八を開けてみると、それらにはかわるがわる、地金と金粉が詰まっているのでした。
カマラルザマーンは驚きから立ち直ると、穴倉を出て、板金を元に戻し、自分の仕事をし終えて、いつも庭作りの手助けをする習慣に従って、木々に水を遣り、夕方、年とった友が戻ってきた時、はじめてやめました。
庭作りがカマラルザマーンに言った最初の言葉は、これに吉報を告げるためでした。事実、こう言いました、「おおわが子よ、悦ばしいことじゃ、いよいよあなたは近く回教徒の国へ帰れますぞ。事実わしは、金持の商人たちに傭われて、三日後に出帆する船を見つけた。わしが船長に話したところ、あなたを黒檀の島まで渡すことを引き受けてくれましたわい。」この言葉にカマラルザマーンは大いに悦んで、庭作りの手に接吻して、これに言いました、「おおわが父よ、あなたが私に吉報を告げて下さったと同様、私からもまたあなたを悦ばせるような別な知らせを、お耳に入れなければなりません……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百十九夜になると[#「けれども第二百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……別な知らせを、お耳に入れなければなりません。あなたは当節の人間の貪欲を御存じなく、お心は一切の野心などの汚《けが》れなきものとはいえ、きっとこれを悦んで下さることと存じます。御足労ながら、ちょっと私と一緒に庭に出て下さい。さすれば、おおわが父よ、慈悲深い運命があなたに送る好運を、お目にかけましょう。」
そこで王子は、根を掘りあげたいなごまめの木の立っている場所に、庭作りを案内し、大きな板金を持ち上げ、そして老人《シヤイクー》が驚いてびくびくしているのもかまわず、穴倉のなかに下りさせて、その前に地金と金粉の詰まった二十の甕を、開けてみせました。親切な庭作りは、双腕《もろうで》をあげ、ひとつひとつの甕の前で、「やあ、アッラー」と言いながら、眼を見張るのでした。それから、カマラルザマーンは言いました、「あなたの御歓待は、今やこうして『贈与者』によって報いられたのでございます。異国の者が逆境にあって、救いを求めてあなたに差し出したその手が、同じ仕草をもって、あなたのお住居に黄金を溢れさせたのでございます。おのずからなる心情のひとびとの、汚れなき美しさと親切とに彩られた、かくも世に稀な行ないに幸いする天命は、かくのごとく望むものでございます。」
この言葉を聞くと、年とった庭作りは、一言も発することができないで、泣きはじめ、涙は音もなくその長い髯を伝わって、胸許まで垂れました。それからようやく口がきけるようになって、言いました、「わが子よ、わしのような老人に、この黄金財宝をどうせよというのか。いかにもわしは貧しいが、しかしわしの仕合せに不足はなく、もしあなたがただ一ドラクムか二ドラクムわしに呉れて、それでもって経《きよう》帷子《かたびら》を購ない、わしがただ独り死に臨んでそれを自分の傍らに置き、情け深い通行人が最後の審判のために、それをわが死屍《しかばね》に着せてくれるようにしてさえくれれば、わしの仕合せはもはや十分というものじゃ。」
するとこんどは、カマラルザマーンの泣く番でした。次に王子は老人《シヤイクー》に言いました、「おお馨《かぐ》わしき手の父よ、あなたの安らかな歳月は聖なる孤独の裡に流れ行き、アダムの子らの獣類のために作られたる、正不正、真偽の掟などは、そのためあなたの御眼の前には、消え失せておりまする。さりながらこの私は、兇悪な人類のただなかに戻りますゆえ、それらの掟をば忘れる能わず、しからずば、たちまち貪り食われてしまうでありましょう。さればこの黄金は、おおわが父よ、この地がアッラーに次いではあなたの地である以上、いささかの疑いなく、あなたの有《もの》でございます。けれども、もしお差支えなくば、折半することにいたしましょう、私が半分いただき、あなたが残りの半分をお収め下さい。さもなければ、私は絶対に一物も頂戴いたしますまい。」
すると、年とった庭作りは答えました、「わが子よ、わしの母親は今から九十年前に、ちょうどこの場にわしを産み落して、それから亡くなった。そして父親も同様に亡くなった。アッラーの御眼はわが足跡を追いたまい、わしはこの園の木蔭に、故郷の小川の音を聞きつつ、成長した。わしはこの小川と園が好きじゃ、おおわが子よ、またこの呟く木の葉と太陽と、わが影がのびのびと長く曳いて己《おの》れを認めるこの母なる地と、夜となればこれらの樹上に出て、朝までわしに微笑む月が、好きだ。これらすべてが、わしに話しかけてくれるのじゃ、おおわが子よ。こんなことを言うのは、わしをここに引きとめて、あなたと一緒に回教徒の国々に出発する気にならせない理由を、知ってもらいたいためにほかならぬ。わしは父祖の暮したこの国の、最後の回教徒《ムスリム》じゃ。されば、わが骨のここに白骨と化さんことを。そして最後の回教徒は、名も知れぬ西洋の野蛮な子らによって汚され、今は汚濁の地と成り果てたこの地を照らす太陽の方《かた》に、面《おもて》を向けて死なんことを。」
わななく手の老人《シヤイクー》は、このように語りました。次に付け加えました。
「さてあなたの心配しているこの貴重な甕については、そうお望みなさるからには、まず十個をあなたが取って、残りの十個をこの穴倉に残しておきなされ。それは、わしの纒って眠る経帷子を、地に埋めてくれる人への褒美としよう。
だが事はそれで終らぬ。難問はこれではない。この町に住んでいる黒い魂の人間どもの注意を引かず、強欲を唆らずに、どうしてこれらの甕を、船に積み込むかということじゃ。ところで、ちょうどわしの園の橄欖樹は、今一面に実をつけておるが、あなたのゆく黒檀の島では、橄欖の実は珍品で、非常に珍重されている。それじゃによって、わしはこれからひと走りして、大きな壺を二十買ってくるから、それに半分は地金と砂金を詰め、あと半分は口許まで、この庭の橄欖の実を詰め込むとしよう。そうしておけばはじめて、出帆する船に、安心してその壺を運ばせることができよう。」
この忠告はすぐにカマラルザマーンの従うところとなり、王子は買ってきた壺の支度をして、一日過ごしました。そしていよいよ最後の壺を満たすばかりとなった時、王子は思いました、「この不思議な御守りは、自分の腕に巻きつけておいたのでは、十分安全とはゆかぬ。眠っているうちに盗まれないとも限らないし、またどんなことで、なくならないとも限らない。これはたしかに、この甕の底に埋めておくに如《し》かぬ。その上に地金と金粉をかぶせ、そうして一番上に橄欖の実を載せることにしよう。」そしてすぐにその計画を実行し、し終えると、その最後の壺に白木の蓋をしました。そして必要な際には、二十のなかからこの壺を見分けることができるようにと、底のほうに刻み目をつけますと、それに釣られて、「カマラルザマーン」という自分の名前全部を、見事な組合せ文字で、小刀で彫りつけたのでございました。
この仕事を終えると、王子は年とった友に、船の人たちに翌日壺を取りに来てくれと伝えるように、頼みました。老人《シヤイクー》はすぐに伝言を果して、少し疲労の気味で家に戻り、軽く熱を出し悪感を覚えながら、臥せりました。
翌朝、年とった庭作りは、今まで生まれてから、ついぞ加減が悪いなどということがなかったのに、どうも前日の不快がいっそう募るように覚えましたが、しかしせっかくの出発を悲しませてはと思って、カマラルザマーンには何ごとも言おうとしませんでした。非常な衰えに襲われて、敷蒲団《マトラー》の上にじっとしていましたが、もういよいよ自分の死期の近いことをさとりました。
昼になると、水夫たちが壺を取りにこの園に来て、戸を開けに出たカマラルザマーンに、何を持ってゆけばよいか指図を求めました。そこで垣根のほとりに連れて行って、並べてある二十の壺を見せて、言いました、「この壺には極上の橄欖の実が詰まっているから、なるべく壊さないように、よく気をつけてもらいたい。」次に水夫と一緒に来た船長は、カマラルザマーンに言いました、「くれぐれも申し上げておきますが、殿よ、どうか時間を固く守って下さい。というのは、明朝になると風が陸から吹きますから、われわれは直ちに出帆いたしますよ。」そして一同は壺を持って、立ち去りました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百二十二夜になると[#「けれども第二百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして一同は壺を持って立ち去りました。
そこでカマラルザマーンは、庭作りのところにはいってみると、その顔は非常に澄みきった色を帯びているとはいえ、まっ青でした。そこで様子を聞いてみて、はじめてこの友が加減が悪いことを知りました。そして病人は彼を安心させようとして、いろいろ言いますけれども、やはり非常な不安を覚えずにはいられません。さまざまの緑草の煎じ薬を飲ませてみましたが、大して利き目もありません。それから一日中付き添って、夜通し看病しましたが、こうしているうちに、病いはいよいよ革《あらた》まるのを見ました。そこで朝と共に、その親切な庭作りは、やっとのことでカマラルザマーンを枕許に呼び寄せ、手をとって言いました、「カマラルザマーン、わが子よ、聴いて下され。アッラーのほかに神なし。しかしてわれらが主《しゆ》モハンマドはアッラーの使徒なり。」そう言って、息絶えたのでございました。
そこでカマラルザマーンは涙に暮れて、永い間傍らに坐って泣いていました。それから立ち上って、老人《シヤイクー》の両眼を閉じてやり、葬式をして、白い経帷子を作り、穴を掘り、今は邪教の地となったこの国の、最後の回教徒の子孫を、地中に葬りました。そしてこうしてからはじめて、王子は船に乗りにゆくことを思ったのでございました。
そこで二、三の必要な品を買い求め、庭園の門を閉ざし、その鍵を携え、既に太陽がずっと高くなった頃、いそいで港に駈けつけました。けれどもそれは、船が全部の帆を挙げて、沖に向って順風に運ばれてゆくのを見るだけのことでした。
これを見て、カマラルザマーンの悲嘆ははなはだしかったけれども、港の悪童どもの笑い者になってはと、少しもそんな様子を見せませんでした。そしてしょんぼりと、今は老人《シヤイクー》の死によって、自分が唯一の後継者《あとつぎ》となり、所有者となった庭園へゆく道を、引き返しました。ですから、ひとたびその小さな家に着くと、王子は敷蒲団《マトラー》の上に崩折れて、わが身と、最愛のブドゥールと、また再び失った御守りのことをば、嘆き悲しんだのでございました。
さらば、むごたらしい天命によって、この上ともこの不親切な国に、いつまでやらわからず止まらざるを得なくなった時、カマラルザマーンの悩みは果知れぬものでございました。またシート・ブドゥールの御守りを永久になくしてしまったという思いは、それにもまして深く心を悲しませ、王子は独りごとを言うのでした、「わが不幸は、あの御守りをなくすると共にはじまった。そしてあれを見つけた時には、運も戻ってきた。今再びなくしたからには、これからわが頭上にどんな災いが襲いかかってくるか、測り知れぬぞ。」さりながら、結局王子は叫びました、「至高のアッラーのほかには頼みはない。」それから立ち上って、今地下の財宝となっている、残りの甕十個をなくなす憂いのないようにと、新たにまた二十の壺を買いにゆき、それに金粉と金の地金《じがね》を入れて、上まで一様に橄欖の実を詰め、独りごとを言いました、「アッラーが私の乗船を記《しる》して下さる日に、こうしておけばいつでも間に合う。」そして再び野菜や果樹に水を遣りはじめました。王子については、このようでございました。
さて船はと申しますと、こちらは順風に乗って、程なく黒檀の島に達し、ちょうどブドゥール姫がカマラルザマーンを名乗って住んでいる、その御殿の聳え立つ波止場のま下に着いて、投錨いたしました。
全部の帆を張り、全部の旗を風に靡かせて、はいってくるこの船を見ますと、シート・ブドゥールは、この船を訪れてみたくてたまらない気持を覚えました。日頃いつかは夫のカマラルザマーンが、遠方から来る船のどれかに、乗ってきはしないかという望みを抱いていただけに、なおさらその気持は強いのでした。そこで侍従二、三人に伴を命じて、船のところまで出かけましたが、聞けばこの船は、非常に豊富な商品を積んでいるということでした。
船に着くと、姫は船長を呼んで、この船を見せてもらいたいと言いました。それから、カマラルザマーンが船客のなかにいないことをたしかめた後、ふと好奇心から、船長に訊ねてみました、「積荷としてはどんなものを持っているか、おお船長よ。」船長は答えました、「おお御主君様、船客の商人衆のほかに、私どもがこの船艙に持っておりまする品々と申せば、あらゆる国々の美麗極まる反物と絹布、天鵞絨《ビロード》地の刺繍と金襴、この上なく見事な画を描いた古今の布地、その他の値い高き数々の商品でございます。それからシナとインドの薬剤、粉末にした薬と紙状に展ばした薬、白鮮、練脂《ねりあぶら》、眼薬、膏薬、それに貴重な香油類もございます。また宝石、真珠、琥珀に珊瑚もございますし、あらゆる種類の香料と選り抜きの薬味、麝香、竜涎香、薫香、樹脂状の乳香、安息香及びあらゆる花の精油もございます。樟脳、|胡※[#「くさかんむり/妥」、unicode837d]《こえんどろ》、小豆蒄《しようずく》、丁字《ちようじ》、セレンディブの肉桂、インド産|羅望子《らぼうし》(27)や生姜もございます。終りに私どもは最後の港で、いわゆる『鳥(28)』と呼ばれている、上等の橄欖の実を積み込みました。これは皮極めて薄く、肉は甘く、汁気多くして、金褐色の油さながらの色をした品でございまする……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百二十五夜になると[#「けれども第二百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ブドゥール姫はこの橄欖の実という言葉を聞くと、橄欖の実は無二の好物でしたので、船長を遮って、食べたくて眼を輝かせながら、これに訊ねました、「さようか、してその鳥の橄欖の実はどのくらいあるか。」船長は答えました、「大きな壺に二十ございます。」姫は言いました、「その壺はごく大きいのかな。またそのなかには、あの詰め物をした橄欖の実(29)も、はいっているかな。余の魂は、核のあるものよりも遥かにこのほうを好むが。」船長は眼を見張って言いました、「きっとあれらの壺のなかには、それもあるにちがいないと存じまする。」
この言葉を聞いて、ブドゥール姫は訊ねました、「その壺をひと壺ぜひ買い受けたい。」船長は答えました、「その持主はちょうど出帆の際、船に乗りはぐれましたので、私が勝手に処分するわけにはまいりませぬが、われらの御主君たる王様とあらば、御意《ぎよい》のままにお取り遊ばす権利がおありでございます。」そして叫びました、「おい、お前たち、船艙から、橄欖の実のはいった二十の壺のひとつを持って来い。」するとすぐに水夫たちは、二十のうちのひとつを船艙から取り出して、持って参りました。
シート・ブドゥールは蓋を開けさせてみると、そこにある鳥といわれる橄欖の実の見事な様子にすっかり驚嘆して、叫びました、「これは二十とも全部買い求めたい。これらは市場《スーク》の相場では、いったいどのくらいの値いか。」船長は答えました、「黒檀の島の市場《スーク》の相場では、橄欖の実は時価、ひと壺百ドラクムいたします。」シート・ブドゥールは侍従たちに申し付けました、「この船長に、ひと壺それぞれ一千ドラクムを取らせよ。」そして言い添えました、「その方がその商人の国に戻ったら、橄欖の実の代金として、商人にこれだけ支払えよ。」そして姫は、橄欖の実の壺を運ぶ者どもを従えて、立ち去りました。
御殿に着いて、シート・ブドゥールの最初に気を配ったことは、友のハイヤート・アルヌフースのところに行って、橄欖の実が来たことを知らせることでした。そして言いつけどおりに、その壺が後宮《ハーレム》の屋内に届けられると、ブドゥールとハイヤート・アルヌフースは待ち遠しくてならず、砂糖煮の果物を盛る盆全部のなかで、一番大きな大盆を取り寄せて、女奴隷たちに、最初の壺をそっと持ち上げて、中身全部を盆のなかにあけるように、核のある実と、詰め物のしてありそうな実を、見分けられるように、きちんと積み上げなさいと、命じました。
ですから、娘たちの手の下から、橄欖の実が地金《じがね》と金粉と入り交って壺から出てくるのを見たときの、ブドゥールとその友の呆気にとられた驚きは、いかばかりでございましょう。とはいえこの意外さは、こんな混ぜ物のために橄欖の実が傷《いた》みはしないかと思うと、失望を交えないものではありませんでした。ですからブドゥールは更に他の盆を取り寄せて、他の壺全部を次々に空けさせ、二十番目の壺に到りました。けれども、奴隷たちがその二十番目を逆さにして、カマラルザマーンの名が底のほうに現われ、例の御守りが、吐き出された橄欖の実のまんなかに輝いたときには、ブドゥールはひと声叫び声をあげ、まっ青になって、気を失ってハイヤート・アルヌフースの腕のなかに倒れました。むかし自分が下穿きの絹の結び玉に結《いわ》いつけて持っていた、紅瑪瑙だとわかったのでございます。
ハイヤート・アルヌフースの介抱のお蔭で、シート・ブドゥールは気絶からわれに返ると、その御守りの紅瑪瑙を取り上げて、幸福の吐息を洩らしながら、それを唇にあてました。次に、奴隷たちに変装をさとらせないように、全部退出させてから、友に言いました、「おお最愛の大切なひとよ、これこそ、わたくしのいとしい夫と別れた因《もと》となった御守りです。けれども、これが見つかったからには、お出でになった暁にはわたくしたち二人を無上の幸いで満たして下さるお方も、同様にやがて見つかることと思います。」
そこですぐにあの船の船長を呼びにやると、船長は御手の間に罷り出て、床《ゆか》に接吻し、御下問を待ちました。するとブドゥールはこれに申しました、「おお船長よ、さきの橄欖の実の壺の持主は、自分の国で何をしているのか、その方存じておるか。」船長は答えました、「その男は庭作りの下働きをいたしておりまして、御当地にまいって橄欖の実を売りに、一緒に乗船する筈でございましたが、船に乗りはぐれたのでございます。」ブドゥールは言いました、「さようか、実は、おお船長よ、あの橄欖の実のうち最も見事なものは、果して詰め物がしてあったが、それを味わっておるうちに、これを調製した者は、むかし余の許におった料理人をおいてあり得ぬことを、看破したのじゃ。というのは、その詰め物に、余の限りなく珍重するあの辛味《からみ》と同時にやわらか味を添えることは、余人のよくするところではないからだ。してその不届きなる料理人は、配下の厨《くりや》の少年に対して、無理無体に抱き締めんと試みて裂傷を負わせたるため、罰せらるるを恐れて、一日逐電いたしたのじゃ。さればその方は再び船を戻して、能うかぎり速やかにその庭作りの下働きとやらを、ここに連れ戻さなければならぬぞ。どうもそやつこそは、かよわき手伝いの子供に怪我をさせた、余の元の料理人に相違ないと思われる。もしその方がわが命令の実行に精励いたせば、厚く褒美を取らせるであろうが、さもなくば、今後は断じてわが領内に立ち入るを許さぬし、のみならず、再び立ち入ることあらば、その方をば、乗組員もろとも、一人も余さず鏖殺《みなごろ》しにするであろうぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百二十八夜になると[#「けれども第二百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉に、船長は承わり畏ってお答えするのやむなく、この無理強いの出発のため、商品は損害を蒙むるにしろ、帰ってくれば王様に償なっていただけることと考えて、すぐに出帆いたしました。アッラーはこれに非常に幸いな航海を記《しる》したもうたので、船長は数日で邪教の都に達し、そこで船員のなかで最も屈強な水夫たちを引き連れて、夜間に上陸いたしました。
直ちに船長は供の者を従えて、カマラルザマーンの住む庭園に赴き、門を叩きました。
この時カマラルザマーンは、一日の仕事を終えて、悄然と坐し、眼に涙を浮べて、独り別離についての詩句を誦しておりました。けれども、門を叩く音を聞くと、立ち上って、行って訊ねました、「どなたですか。」船長はわざと嗄《しやが》れた声を出して、言いました、「アッラーのひとりの貧しき者でございます。」アラビア語で言われたこの歎願を聞くと、カマラルザマーンは心が高鳴るのを覚えて、門を開けました。ところが途端に自分は捕えられ、縛り上げられてしまい、庭は水夫たちに襲われ、彼らはこの前と同じように二十の壺が並んでいるのを見ると、さっそくこれを運び出しました。それから一同打ち連れて船に帰り、直ちに出帆したのでございます。
すると船長は部下に囲まれながら、カマラルザマーンに近づいて、これに言いました、「王様のお料理場で、子供に裂傷《きりきず》を負わせた少年好きとは、お前のことだな。今のうちにさっさとあきらめて、禁欲しているこの若い衆たちの串に刺させるのがいやなら、やがて船の着いた暁には、お前を同じ目に遭わせようと、串刺しの刑が待ち構えているぞ。」そう言って船長は水夫どもを指し示しますと、彼らは王子をじろじろ見ながら目まぜしました。これはかたじけない、もっけの御馳走だと思ったのです。
この言葉に、カマラルザマーンは、船に乗ってからは縛《いまし》めをとかれていたにかかわらず、ひと言も発せず、自分の天命のままにまかせていたのでしたが、このような汚名を着せられては今は我慢ならず、叫びました、「私はアッラーの御蔭《おんかげ》に隠れる者だ。あなたはそんな風な口を利いて恥しくないのか、おお船長よ。まず預言者のために祈れよ。」船長は答えました、「願わくはアッラーの祝福と祈りの、彼《かれ》預言者の上並びにそのお身内御一同の上にあらんことを。だが男の子を掘ったのは、たしかにお前だよ。」
この言葉に、カマラルザマーンは再び叫びました、「私はアッラーの御蔭《おんかげ》に隠れる者だ。」船長は応じました、「願わくはアッラーのわれらを赦したまわんことを。われらはその御加護の下に在るものだ。」するとカマラルザマーンは言葉を継ぎました、「おお皆の者よ、私は預言者(その上に祈りと平安あれ)の御命《おんいのち》にかけて誓言する、そのような咎め立ては一切合点がゆかず、お前たちに連れてゆかれるその黒檀の島にも、その王様の御殿にも、自分はかつて足を踏み入れたことは断じてない。預言者のために祈ってもらいたい、おお皆の衆よ。」すると全部の者は応じました、「願わくはその上に祝福あれかし。」
しかし船長は言葉を継ぎました、「では、お前はかつて料理人であったことはなく、生まれてから子供に怪我をさせたことなどないと言うのか。」カマラルザマーンは憤慨の極、床《ゆか》に唾《つば》して、叫びました、「私はアッラーの御蔭に隠れる者だ。まあどうなりと私を勝手にするがよい。というのは、わが舌はもうかかる返事のためには廻らぬであろう。」そしてもうひと言も言おうとしませんでした。すると、船長は言葉を継ぎました、「まあおれとしては、お前を王様に引き渡せば、務めは果したことになる。お前に罪がないというなら、せいぜい青天白日の身になるがいいさ。」
こうしているうちに、船は無事に黒檀の島に着きました。船長はすぐに下船し、カマラルザマーンを宮殿に連れて行って、拝謁を願いました。すると直ちに玉座の間《ま》に通されました。
シート・ブドゥールは船長の連れてきた男を見ると、ただひと目で、最愛のカマラルザマーンを認めました。姫はすっかり血の気を失って、|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》のように黄色くなりました。一同は王様の顔色の変ったのは、子供の裂傷《きりきず》についてのお怒りのせいと思いました。姫は口も利けず、長いことまじまじと見つめていましたが、一方カマラルザマーン自身は、古びた庭作りの着物を着て、当惑と身震いの極みにありました。そしてこれまで自分がそのひとのため、あれほどの涙を流し、あれほどの苦しみと悲しみとひどい目に遭ったその当人の面前に、今自分がいようとは、思いもかけなかったのでございます。
シート・ブドゥールは、ようやく自分を制することができて、船長のほうに向いて、これに申しました、「その方の忠勤の褒美として、過般橄欖の実に対して与えた金子を、その方のものとするがよい。」船長は床《ゆか》に接吻して言いました、「このたびさらに二十の壺が、今なお私の船艙にござりまするが。」ブドゥールは答えました、「別になお二十の壺があるとあらば、いそぎわが許に届けよ。金貨一千ディナールを取らするであろう。」そして船長に暇《いとま》を与えました。
次に姫は、目を伏せているカマラルザマーンのほうに向きなおって、侍従たちに命じました、
「この若者を連れて、浴場《ハンマーム》に案内いたせ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百三十夜になると[#「けれども第二百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「この若者を連れて、浴場《ハンマーム》に案内いたせ。次に立派な衣服を着せて、明朝、政務所《デイワーン》開庁早々、わが面前に連れてまいれ。」そしてこれはすぐさま実行されました。
シート・ブドゥールのほうは、友ハイヤート・アルヌフースに会いに行って、申しました、「わたくしの小羊よ、わたくしたちのいとしい方は、いよいよお帰りになりましたよ。アッラーにかけて、わたくしはわれわれの再会によって、ある方が、庭作りからいきなり王様になって、驚きのあまりお命にかかわるような打撃を受けなさらないようにと、とても上手な計画《はかりごと》を廻らしましたの。この計画《はかりごと》は、もし針でもって眼の内側の片隅に記《しる》されたならば、学ぶことを好むひとびとには、きっと教訓に役立つようなものですわ。」するとハイヤート・アルヌフースはすっかり悦んで、シート・ブドゥールの腕に飛びこみました。そして二人ともその夜はすっかり慎しんで、やがて彼らの心の最愛のひとを、元気溌剌と迎える用意をいたしました。
さて朝になると、カマラルザマーンはたいそう立派な装いをして、政務所《デイワーン》に連れて来られました。風呂はその顔にあらゆる輝きを立ち返らせ、ぴったりと合った軽やかな衣服は、そのほっそりとした腰と形整った身体《からだ》を際立てています。ですから、王様が総理|大臣《ワジール》に向って、「この若者に仕える奴隷百名をこれに与え、余の直ちに取り立てる地位にふさわしき食禄を、国庫よりこれに支給せよ」と仰せられるのを聞いて、すべての貴族《アミール》も高官も侍従も、少しも異としなかったのでした。そして姫はこれを大臣《ワジール》のうちの一|大臣《ワジール》に任じ、奴婢を授け、いっぱいに詰まった櫃《ひつ》や箪笥のほかに、幾頭もの馬と騾馬と駱駝を与えました。次に姫は引き上げました。
翌日、シート・ブドゥールは、相変らず黒檀の島の王の名前で、この新任の大臣《ワジール》を御前に呼び出し、総理|大臣《ワジール》の役を罷免して、その代りにカマラルザマーンを総理|大臣《ワジール》に任命しました。そこでカマラルザマーンはすぐに閣議に臨み、会議は彼の権限の下に行なわれました。
さりながら、政務所《デイワーン》が閉じられると、カマラルザマーンは深く考えこみはじめて、ひとり心中に思いました、「あの若い王のおれに授けてくれる栄誉と、ああして万人の前で示してくれる友誼とは、何かきっとわけがあるに相違ない。だがそのわけとはいったい何だろう。水夫どもは、おれをこの王の元の料理人と思いながら、少年に裂傷《きりきず》を与えたという嫌疑をかけておれを拉《らつ》して、ここに連れてきた。ところが王は、おれを処罰する代りに浴場《ハンマーム》に遣り、いろいろな役目につけたり、そのほかのことをしてくれる。おおカマラルザマーンよ、こんな奇怪な事件のわけとは、そもそもどんなことかしらん。」
それからさらにしばらく考え込んでいましたが、次に叫びました、「アッラーにかけて、このわけは読めたぞ、だが魔王《イブリース》は取りひしがれよ。たしかにあの年少秀麗な王は、おれを少年愛好家と思っているにちがいない。おれにこんなに好意を見せるのは、ほかに仔細はないのだ。だが、アッラーにかけて、おれはそんな役を勤めることはまっぴらだ。そればかりか、これから出かけて、ひとつ王の意中を明らかにしてこよう。そして万一、王が本当にそんなことをおれに望んでいるのだったら、即座に貰ったものを全部返し、総理|大臣《ワジール》の地位も捨てて、あの庭園に帰ってしまおう。」
そこでカマラルザマーンはすぐに王様に会いに行って、申し上げました、「おお幸多き王様よ、まことにわが君はこの奴隷に対し、通常は、知恵の裡に白髪となった老人《シヤイクー》に対して以外に授けられぬような、栄誉と敬意の限りを尽したもうたのでございまするが、この私は最も若輩中の若輩にすぎませぬ。されば、万一こうしたすべてには、何か人知れぬ仔細がないといたしますれば、これは不思議のうちの最大の不思議でもござりましょう。」
この言葉を聞くと、シート・ブドゥールは微笑して、悩ましげな眼でカマラルザマーンを見つめて、言いました、「いかにも、おおわが美貌の大臣《ワジール》よ、こうしたすべてには仔細がある。それは、そちの美貌が突如わが肝《きも》のうちに点火した、友情であるぞよ。何となれば、実際のところ、余はそちのいかにもいみじく閑雅な色艶に、はなはだしく心を魅されてしまったのだ。」けれどもカマラルザマーンは言いました、「願わくは、アッラーはわが君の御齢《おんよわい》を長からしめたまわんことを。さりながら、君の奴隷には愛するひとりの妻あり、不思議な事件によってこれと相隔てられて以来、夜々これがために泣いておりまする。されば、おお王様よ、君の奴隷は謹んで、かたじけなくも授けたまいし重任をば、御手の間にお戻し申し上げた上、旅に出で立つお許しを乞い奉る次第でございます。」
けれどもシート・ブドゥールは若者の手をとって、これに言いました、「おおわが美貌の大臣《ワジール》よ、まず坐るがよい。今さらまた旅だの出発だの言うとは、何としたこと。ここに止まって、そちの眼のために焦がれ、もしそちが思いを容れてくれるならば、共にこの王座に坐って、そちに世を治めさせる心組になっている者の傍らに、いるがよい。というのは、実はこの余自身も、老王が余に情愛を示しなされ、余のほうからも、老王に対してやさしくふるまったという、ただそれだけの理由で、王に任じられたにほかならぬのであった。さればそちも、おお美童よ、よろしくわれらの風習に通ぜよ、今は優先権は当然美わしい人間に帰する世紀じゃ。わが最も繊細なる詩人のひとりの、かくも理《ことわり》ある言葉を忘るるなかれ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百三十二夜になると[#「けれども第二百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……わが最も繊細なる詩人のひとりの、かくも理《ことわり》ある言葉を忘るることなかれ。
[#ここから2字下げ]
わが世紀は、アッラーの友アブラハムの縁者、尊ぶべきロト(30)の在りし、かのいみじき頃を偲ばす。
老いたるロトは、薔薇の息づく若やぐ顔を縁取る、塩のごとき髯を持てり。
天使ら訪《おと》なう炎上する町に、彼は天使を歓び迎え、己が娘らを天使に代えて群衆に与えたり。
天自ら、その悪妻をば冷たく生命《いのち》なき塩のうちに凍らせて柱となし、彼を妻より逃れしめたり。
まことに、われ汝らに言う、この楽しき世紀は小童らの天下なり。」
[#ここで字下げ終わり]
カマラルザマーンはこの詩句を聞き、その意味をさとったとき、ひどく羞しさを覚え、頬は赤らみ、そして言いました、「おお王様、君の奴隷はこの種の事柄については趣味を解さず、遂に習慣を身につけ得なかったことを、白状いたします。それにまた、荷担ぎ人足の背もよく耐えぬような目方と寸法を支え得るには、私はあまりに年少の身でございます。」
この言葉に、シート・ブドゥールはひどく笑いはじめて、それからカマラルザマーンに言いました、「実際、おお好ましい美童よ、そちの怖気《おじけ》は一向に合点がゆかぬ。まあ、聞いてもらいたい、そちが年少であるにせよ、あるいは成年であるにせよ、それについては申したいことがある。もしそちが未だ年少にして、責任の年齢《よわい》に達しておらぬとあらば、そちは一切咎めらるる節《ふし》はない。何となれば、年少者の些細な行ないを非難するとか、厳しい苛酷な眼で見るとかいうようなことは、ありはしないからだ。またもしそちが責任ある年齢《よわい》とあらば、――そちがかくも条理を尽して論ずるところを聞けば、余はむしろこのほうを信ずるが、――しからば何を躊躇し、あるいは怖るることがあるか。そちは己が一身をどうしようと差支えなく、自分の好きな用に供することができ、何ごとも記《しる》されてあるところ以外に起こらぬのであってみれば。むしろ、余こそ怖がらなければならぬ身であることを、とくと考えてみよ。余のほうがそちよりも年少であるからな。しかるに余は、かの詩人のかくも申し分なき詩句を、実行することにしているのだ。
[#ここから2字下げ]
稚児われを見つめてありしかば、わが陰茎《ゼブ》活気づきたり。彼叫んで曰く、『大いなるかな。』われ曰く、『もって世に聞ゆ。』
彼答うらく、『いそぎその武勇と堅忍の程を見せたまえ。』されどわれは言えり、『そは法に叶わず。』答えて言う、『われにあっては法に叶う。いそぎこれを振いたまえよ。』ここにおいてわれは、ただ服従と礼儀のためにのみ、彼にこれをなせり。」
[#ここで字下げ終わり]
カマラルザマーンはこの言葉と詩句を聞くと、顔の前で光が闇に変ずるのを見て、頭《こうべ》を垂れて、シート・ブドゥールに言いました、「おお栄え満てる王よ、わが君は御殿に、数々の若い女や若い女奴隷やまた極めて美わしい処女や、当代のいかなる王もこれに類するものを持たぬような女たちを、お持ちなされます。何ゆえにこうしたすべてをさしおいて、ひとり私のみをお求め遊ばすのでしょう。お望みを唆ることのできる一切を、いくらでもこれらの女に対してお用い遊ばすことが御随意であることを、御承知遊ばされぬのでございましょうか。」
けれどもシート・ブドゥールは、半ば眼を閉じながら微笑して、それから答えました、「いかにもそちの申し出すところにまして真《まこと》なるはない、おお、わがかくも美貌の大臣《ワジール》よ。だが、われらの好みが欲望を変じ、われらの官能が洗煉されまたは変化し、われらの性癖が本性を転じた場合には、どうするか。しかし、所詮何の役にも立ち得ぬ議論などはやめにして、これについて、わが最も重んぜらるる詩人たちの言うところを聞こうではないか。
そのひとりは言った。
[#2字下げ] ここ、果物屋の市場《スーク》には嗜欲を唆る果物並ぶ。片えの、棕櫚の皿上には、褐色の好もしき尻したる大粒の無花果《いちじく》あり。おお、されど最上の場所にある、大皿を見よ。ここに小無花果《シコモール》の実あり、小無花果《シコモール》の薔薇色の尻したる小さき実ぞ。
今ひとりは言った。
[#2字下げ] 若き娘に問え、その乳房固くなり、その果実熟るる時、何ゆえに、甘き水瓜と柘榴より檸檬《レモン》の辛《から》きを好むやと。
別の詩人は言った。
[#ここから2字下げ]
おおわが唯一の美、おお若き稚児よ、汝《な》が愛こそはわが信条なれ。そはあらゆる信仰の間にわが選ぶ宗旨なり。
汝《な》がために、われは女らを棄てて顧みず。ために友どちはこの禁欲を見て、――知らざる者どもかな――われは僧となり宗門に入れりと称せり。
[#ここで字下げ終わり]
別の詩人は言った。
[#ここから2字下げ]
おお褐色の胸のゼイナブよ、また汝巧みに染めし巻髪のヒンドよ、何ゆえにわれ姿を消してかく久しきか、汝らは知らず。
われは薔薇を見出《みいで》しなり、――常には乙女らの頬に見らるる薔薇なるも――われはこの薔薇を乙女らの頬ならで、おおゼイナブよ、わが友の、和毛《にこげ》生えたる尻に見出たり。
かるがゆえに、おおヒンドよ、もはや汝が染めし髪の毛もまたとわれを惹く能わざるべく、汝ゼイナブよ、和毛《にこげ》なき汝が剃りし花園も、また顆粒《つぶ》なく滑らかにすぐる汝が臀すらも、またとわれを惹く能わざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
別の詩人は言った。
[#ここから2字下げ]
かの若鹿を、鬚髯《ひげ》なきがゆえに、迂闊にこれを女に比して、妄《みだ》りに悪口することなかれ。悪党たらずばかかることを言わず。まさに差異あるなり。
いかんとならば、汝女に近づく時は、前面よりす。ゆえに女は汝の顔を抱く。しかるに若鹿は、汝これに近づく時、身をかがめざるを得ず。かくして彼は地を抱く。まさに差異あるなり。
[#ここで字下げ終わり]
別の詩人は言った。
[#ここから2字下げ]
愛らしき稚児よ、汝はわが奴隷なりしも、われは故意に自由の身として、汝を実《みの》りなき襲撃に役立たしめんとせり。何となれば、汝は少なくとも胎内に卵を孵《かえ》すこと能わざればなり。
実《げ》にわれにとっては、胎豊かなる貞女に近づくは、いかばかり慄るべきことぞかし。襲えばたちまち数多の子を挙げ、全地も容れかぬるばかりならん。
[#ここで字下げ終わり]
別の詩人は言った。
[#ここから2字下げ]
わが妻あまりに味な秋波を送り、しなやかに腰を振りはじめたれば、余も久しく避けたりしわれらが臥床《ふしど》に、思わず引き行かれたり。されど妻は誘《いざ》ないし愛《いと》し子を、遂に首尾よく眼覚ます能わざりき。
この時、憤然として妻は叫んで言えり、『汝もし直ちにこれをその義務のため固くし、もって入らしめずんば、明朝眼覚めて、汝の額に角を見出すとも、驚くことなかれ。』
[#ここで字下げ終わり]
別の詩人は言った。
[#2字下げ] アッラーに恩寵と恩恵を求むるは、双手を挙ぐるが世の常なり。女はこれと事変る。恋人の寵を乞わんと、女らは脚と腿とを挙ぐるなり。
最後に別の詩人は言った。
[#ここから2字下げ]
いかに往々にして女の迂闊なる。女らは自らも臀を持つがゆえに、やむを得ずんば、吾人にこれを提供し得るものと推量す。われはその一人に、思い誤ることはなはだしき所以《ゆえん》を証拠立てたり。
その若き女は、まことに無上のやわらかき陰門《ほと》を携えて、われを尋ね来れり。されどわれはこれに言えり、『われはかかる遣り方にては行なわず。』
女は答えたり、『しかり、われこれを知る、当代は旧式を棄つ。されど案ずるに及ばず。われ心得たり。』かくて女は後ろを向きてわが眼に、海の深淵のごとく広大なる穴を示せり。
されどわれはこれに言えり、『かたじけなし、おおわが主人《あるじ》よ、われ深く謝す。汝の歓待はいかにも極めて厚し。しかしてわれは恐る、攻略せられし町に穿《うが》たれしよりも孔大いなる道に、わが踏み迷わんことを。』」
[#ここで字下げ終わり]
カマラルザマーンはこれらすべての詩句を聞いた時、ずっと王様とばかり思っているシート・ブドゥールの意向については、もはや思い誤る余地がないことが、はっきりとわかりました。そしてこれ以上逆らっても何にもならぬとさとりました。それに自分も、その詩人の言う新式とやらがいったいどんなものか、かなり知ってみたい気もしました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百三十四夜になると[#「けれども第二百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで彼は答えました、「おお当代の王よ、それほどまでに強《た》ってとおっしゃるならば、われわれは共にそのことをただの一度きりしかしないという、お約束をして下さいまし。私が承知するというのも、結局、やはり旧式に戻るにしかぬことを、御得心おさせ申したいがためなることを、とくと御承知下さい。いずれにせよ、私といたしましては、今後二度と再びこのような行為を繰り返せとはお求めにならぬと、きっぱりお約束下されば幸甚に存じます。私はあらかじめ、果しなく寛仁なるアッラーに、かかる行為のお許しを乞う次第であります。」するとシート・ブドゥールは叫びました、「きっぱり約束いたす。余もまた御仁慈限りなき慈悲深きアッラーに、これの御容赦を乞い、なにとぞわれらをば誤りの暗黒より出でて、真の知恵の光明へと赴かせたもうように、お願い申したいと思う。」それからさらに付け加えて言いました、「さりながら、まことにたといただ一度なりとも、ぜひこれを行なって、次のごとく言う詩人に理あらしめねばならぬ。
[#ここから2字下げ]
ひとびとは、おおわが友よ、われらの未だ知らざることをわれらに咎め、想像にまかせて悪口を肆《ほしいまま》にす。
来たれ、友よ。すべからく寛容にして、われらが敵に理をあらしめよ。彼らはわれらにかのことを疑うとあらば、せめてひとたびはこれを行なわん。
次いで、もし君望まば、われらは悔い改めん。来たれ、従順なる友よ、いざわれと共にわれらが誹謗者の良心を安んずるに努めん。」
[#ここで字下げ終わり]
そしてシート・ブドゥールはつと立って、王子を絨氈の上にのべた大きな敷蒲団《マトラー》のほうに、引いてゆきましたが、王子は多少逆らってみて、やがてあきらめた様子で頭を振って、嘆息しました、「アッラーの外には頼りはない。何ごともその御命令なくしては起こらぬ。」そしてシート・ブドゥールはあせって、早く早くとせきたてるので、王子は膨らみのある寛やかな股引を脱ぎ、次に亜麻の下穿きを脱ぐと、いきなり王様に敷蒲団《マトラー》の上に押し倒され、王様は寄り添って横になって、抱きつきました。そして言いました、「今にわかる、たとい天使とても、そちに此宵《こよい》のような夜を与えることはできないであろうぞ。」〔(31)そして王様は付け加えました、「さあ、もっとお寄り。」そして御自分の両脚を彼の腿のまわりに投げ出して、言いました、「手を出せよ。わが股の間に手をやって、子供を眼覚まし、眠っているのを起きさせてくれよ。」するとカマラルザマーンはやっぱり多少もじもじして、言いました、「どうもいたしかねます。」王様は言いました、「では手助けしてやろう。」そして御自分でその手をとって、腿の上に持ってゆきました。〕
するとカマラルザマーンは、王様の腿の手触わりはたいそう心地よく、バターに触わるよりもふわりとし、絹よりもやわらかなのを感じました。それで大いに気に入って、思わず自分ひとりで上下を探りはじめ、とうとう手はひとつの円屋根に行き当りましたが、それは極度に躍動し、まことに祝福に満ちたものでした。ところが隣り近所どこを探してみても空しく、どうしても光塔《マナーラ》が見当りません。そこで王子は心中考えました、「やあ、アッラー、その御業《みわざ》は隠されているぞ。どうして光塔《マナーラ》のない円屋根が在り得ようか。」それから内心思いました、「ひょっとすると、この美わしい王は男でも女でもなく、白人の閹人《えんじん》なのかもしれぬ。そうとすると一向面白くないぞ。」そして王様に言いました、「おお王様、どうしたことか、とにかく子供は見当りませぬ。」
この言葉に、シート・ブドゥールはすっかりおかしくなって、気を失うほど笑いこけました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、相変らずつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百三十五夜になると[#「けれども第二百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから、姫は急に真顔になり、あの昔のあんなにもやさしい声に戻って、カマラルザマーンに言いました、「おお、いとしい夫《つま》よ、ほんとにあなたはわたくしたちの楽しい夜々を、すぐに忘れておしまいになったのね。」そしてつと立ち上って、着ていた男の衣服とターバンを遠くに投げ出し、ほどけた髪を背に垂れて、丸裸で現われ出たのでございます。
これを見ると、カマラルザマーンは、わが妻、ガイウール王の娘ブドゥールを認めました。そして彼は彼女を抱き、彼女も彼を抱き、彼は彼女を抱き締め、彼女も彼を抱き締め、それから二人とも悦びの涙を流して、敷蒲団《マトラー》の上で、いくつもいくつも接吻を重ねました。姫は次の詩句を誦して聞かせました。
[#ここから2字下げ]
わがいとおしきひと来ませり。そは肢体整える舞踏者なり。かくも軽《かろ》くしなやかの足取りもて進みくる、かのひとを見たまえ。
かのひと来ませり。その脚は、その上なる重みをかこつとは思うなかれ、そはまことに、駱駝の大いなる荷ともなるべけれども。
わがいとおしきひと来ませり。その道に、われはわが双頬の花を延《の》べて、敷物とせり、おおわが幸《さち》よ。その靴底の塵は、わが眼にはあらたかの香油なりき。
おおアラビアの娘らよ、われはわがいとしき君の面《おもて》に、曙《あけぼの》の舞うを見たり。いかでかの君の魅惑と優しさを忘れ得べき……。
[#ここで字下げ終わり]
そのあとで、ブドゥール女王はカマラルザマーンに、わが身に起こったすべてを、初めから終りまで物語り、王子もまた同様にしました。次に王子は姫を咎めて、言いました、「まったく、そなたが今夜私にしたことは、度をはずれたことだ。」姫は答えました、「アッラーにかけて、これはほんの戯れにしたことでございます。」それから両人は、日の昇るまで、腿と腕のただなかで嬉戯《たわむれ》を続けました。
日が昇ると、ブドゥール女王は、ハイヤート・アルヌフースの父君アルマノス王とお会いして、自分の身の上について本当のことをお話しし、王女の若いハイヤート・アルヌフースは、まだ昔そのまま、全く処女であることを、打ち明けました。
黒檀の島の領主アルマノス王は、ガイウール王の娘シート・ブドゥールのこの言葉を聞くと、驚嘆の限り驚嘆なすって、この不思議極まる話をば、上等の羊皮紙に、金文字で書き記《しる》しておくように、お命じになりました。それからカマラルザマーンのほうに向いて、これにお訊ねになりました、「おおシャハラマーン王の王子よ、御身は未だ一切の損傷を受けておらぬわが娘、ハイヤート・アルヌフースをば、第二の妻に受け納れて、わが身内となるを望まるるか。」カマラルザマーンは答えました、「それにはまず、妻シート・ブドゥールに諮《はか》らなければなりませぬ。妻には尊敬と愛を負う身でござりますれば。」そしてブドゥール女王のほうに向いて、訊ねました、「ハイヤート・アルヌフースを第二の妻とすることにつき、そなたの同意が得られようか。」ブドゥールは答えました、「無論でございます。それと申しますのは、あなたの御帰還のお祝いにと、あの方を取っておいたのは、このわたくし自身でございますもの。わたくしはたとえ自分が二番目の地位になるとも、苦しゅうございませぬ。それと申しますのは、ハイヤート・アルヌフースのあらゆる親切なふるまいともてなしに対しては、わたくしは深く感謝いたさなければならぬ身でございますから。」
そこでカマラルザマーンは、アルマノス王のほうに向いて、申し上げました、「妻のシート・ブドゥールは、率直に同意をもって答え、必要とあらば、自分はハイヤート・アルヌフースの奴隷となっても苦しゅうないと、申しておりまする。」
この言葉を聞くと、アルマノス王は悦びの限り悦んで、すぐに、裁きの間《ま》の玉座に坐りにゆかれ、全部の大臣《ワジール》、貴族《アミール》、侍従及び国中の名士を召集して、一同に、カマラルザマーンとその妻シート・ブドゥールの物語を、一部始終お聞かせになりました。次に、ハイヤート・アルヌフースをば、カマラルザマーンの第二の妻として与え、それと同時に、第一の妻ブドゥール女王の代りに、王子を黒檀の島の王に任じようという御意向を、一同に知らせました。すると一同みな御手の間の床《ゆか》に接吻して、お答えしました、「カマラルザマーン王子が、初めこの国の王座に就いてお治めになった、シート・ブドゥールの御夫君とあらば、われらは悦んで王子をわれらの王と戴き、その忠実な奴隷たることを、有難き仕合せと心得るでございましょう。」
この言葉に、アルマノス王はお悦びのあまり、身顫いの限り身を顫わせ、直ちに法官《カーデイ》と証人と主だった首長を召されて、カマラルザマーンとハイヤート・アルヌフースとの結婚契約書を認《したた》めさせなさいました。そしてそれが、盛大な祝典と、すばらしい盛宴と、貧しい者と不幸な者のために屠った数千頭の畜類と、全人民と全軍隊への御下賜の機会になったのでございます。されば、カマラルザマーン王とその二人のお后《きさき》ブドゥールとハイヤート・アルヌフースのために、長寿と幸福を祈らぬ者は、国中ひとりもおりませんでした。
そしてカマラルザマーンのほうでも、王国を治めるにも、二人のお后を満足させるにも、等しく公平を示しました。というのは、かわるがわるお后のひとりと、一夜を過ごしたからでございます。
シート・ブドゥールとハイヤート・アルヌフースの二人は、それぞれの夜は夫に宛て、昼の時間は二人で共にしつつ、いつも一緒に、完全に和合して暮しました。
これが済むと、カマラルザマーンは、父王シャハラマーンに飛脚を走らせて、こうした一切のめでたい出来事を報じ、邪教徒どもが回教徒の住民を殺戮した、ある海岸の町を征伐したらすぐに、拝顔に伺うつもりでいる旨、申し上げました。
こうしているうちに、ブドゥール女王とハイヤート・アルヌフース女王とは、共にカマラルザマーンによって見事に身籠り、それぞれ月のように美しい男子を夫に与えました。そして一同、世を終えるまで、欠くるところのない幸福の裡に暮しました。そしてこれが、カマラルザマーンとシート・ブドゥールの不思議な物語でございます。
[#ここから1字下げ]
――そしてシャハラザードは、微笑しながら、口をつぐんだ。
さて、平生はまっ白な頬をした小さなドニアザードは、わけてもこの物語の終りになると、この上なくまっ赤になって、両の眼は興味と羞恥のため大きく見開かれ、遂には両手で顔を蔽ってしまったが、しかし指越しに見ていた。
そこで、シャハラザードが声を回復するため、乾葡萄を煎じて冷やした盃に唇を潤していると、ドニアザードは両手を拍って、叫んだ、「おおお姉さま、この不思議な物語がこんなに早く終ってしまったとは、何と残念なことでしょう。これはお姉さまのお口から伺った、この種の最初の物語でございます。でも、わたくしはどうしてこんなにまっ赤になったのかしら。」
シャハラザードは、ひと口飲んでから、横目で妹に微笑みかけて、これに言った、「けれどもあなたがほくろの物語[#「ほくろの物語」はゴシック体]を聞いたら、今のお話など何でもありませんよ……。けれどもそれは幸男と幸女の物語[#「幸男と幸女の物語」はゴシック体]が済んでからでなければ、お話ししてあげられませんね。」
この言葉に、ドニアザードは悦びと感動に躍りあがって、叫んだ、「おおお姉さま、お願いですから、先に『幸男と幸女の物語』を聞かせて下さいな、その名前は伺っただけで、もうとても好きですわ。」するとシャハリヤール王は、シート・ブドゥールの物語の最初の言葉を聞くと、早くも心の憂さが消え、終始注意を凝らして物語に聴き入ったのであったが、このとき言った、「おおシャハラザードよ、今のブドゥールの物語は、そちに打ち明けて言わざるを得ぬが、余の心を魅し、楽しませ、かつ、シート・ブドゥールが詩に散文に語った、例の新式とやらいうものを、いっそうよく了解したい気持をそそのかした。されば、もしそちがわれらに約束するそれらの物語のなかに、余の知らぬ他の詳細をもって、この新式が説明されているならば、これより直ちに、それらの話を始めて苦しゅうない。」
けれども、ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましい女であったので、口をつぐんだ。
するとシャハリヤール王は心中思った、「アッラーにかけて、余は新式について他の詳細を聞いた上でなければ、この女を殺すまい。これは今までのところ、余にとって、どうもややこしく明らかならぬ恨みがあることじゃ。」
[#地付き]けれども第二百三十七夜になると[#「けれども第二百三十七夜になると」はゴシック体]
ドニアザードは叫んだ、「おおシャハラザードお姉さま、どうぞおはじめになって下さいまし。」
するとシャハラザードは妹に微笑みかけて、次にシャハリヤール王のほうに向いて、言った。
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「幸男」と「幸女」の物語
語り伝えまするところでは、――さあれアッラーは更に多くを知りたまいまする、――むかしクーファ(1)の町に、最も富裕な最も有力な住人の間に数えられる、ひとりの男がございまして、その名を「春(2)」と呼ばれました。
結婚の最初の年から、この商人春氏は、にこにこ笑いながら世に出てきた、ひとりのたいそう美しい男の子の誕生によって、至高者の祝福が、わが家の上に下《くだ》るのを感じました。そこで、その子は「幸男《さちお》(3)」という名をつけられました。
息子の誕生の七日目に、商人春氏は、妻に女中をひとり買ってやろうと、奴隷|市場《スーク》に出かけました。中央の広場のまんなかに着いて、売りに出ている女と少年を、ぐるりとひとわたり見廻すと、ひと群れのただなかに、眠った小娘を広い帯で結《いわ》えて、背中に背負っている、たいへんおとなしそうな顔をした、ひとりの女奴隷を見かけました。
商人春氏はその時、「アッラーは寛大にまします」と考えて、そして仲買人のほうに進みよって訊ねました、「あの小娘と一緒の女奴隷はいくらかね。」仲買人は答えました、「かっきり五十ディナール、それ以上でも以下でもございません。」春氏は言いました、「買おう。証書を書いて金子《かね》を取ってくれ。」それから、即座にその手続きを踏んで、商人春氏はその若い女にやさしく言いました、「私に従《つ》いておいで、娘よ。」そして自宅に連れて参りました。
叔父の娘(4)は、春氏が女奴隷と一緒に帰ってくるのを見ると、これに訊ねました、「おお叔父のお子様、なぜそんな無駄な費《つい》えをなさるのです。私は床上《とこあ》げをしたばかりでも、前どおり、ちゃんと一家を切りまわしてゆけるでしょうものを。」商人春氏は穏やかに答えました、「おお叔父の娘よ、私がこの女奴隷を買ったのは、その背中におぶっている小娘のためなのだ。私たちはこの娘を、家《うち》の子の幸男と一緒に育ててやろう。それに、私がこの娘《こ》の顔立ちを見たところから察するに、この小さな娘は今に大きくなったら、イラクとペルシアとアラビアのあらゆる国々を通じて、きっと美しさ並ぶもののない女となるだろうよ。」
そこで春氏の妻はその女奴隷のほうに向いて、親切に訊ねました、「お前の名は何というのですか。」女奴隷は答えました、「世間では私のことを『栄え(5)』と呼びます、おお御主人様。」商人の妻はこの名をたいへん悦んで、言いました、「似合いの名ですね、アッラーにかけて。またお前の娘は何というの。」女奴隷は答えました、「『福(6)』と申します。」すると春氏の妻は無上に悦んで、言いました、「それがほんとうであってくれるように。何とぞアッラーは、お前が来てくれると一緒に、お前を買ったひとびとの上に、福と栄えを続けさせて下さいますように、おお白い(7)顔よ。」
そのあとで、妻は夫の春氏のほうを向いて、訊ねました、「買った奴隷には主人が名前をつけるのが習慣《ならわし》ですが、この小さな娘は何と呼ぶおつもりでしょうか。」春氏は答えました、「お前の好きなように呼ぶがよい。」妻は答えました、「では『幸女《さちめ》(8)』という名前にいたしましょう。」春氏は答えました、「それがいい。それには何の異存もない。」
こうしてその子は幸女と呼ばれ、幸男と一緒に、全く同じ工合に育てられました。そして二人は日々に美しさを増しながら、相共に大きくなってゆき、幸男は奴隷の娘のことを「わが妹」と呼び、娘は「わが兄」と呼んでいました。
幸男がいよいよ五歳の年齢に達すると、割礼の祝いをしようということになりました。そのためには、預言者(その上に祝福と救いとあれ)の御誕生祭を待って、この貴い儀式に、必要なあらゆる光彩を添えることにいたしました。そこで厳かに幸男に割礼を施しますと、この子は泣くどころか、かえってこのことを悦ぶほどで、どんな時でもそうなように、おとなしくにこにこしておりました。そこで行列は、春氏とその叔父の娘との親戚、友人、知友全部が加わって、大勢で組まれました。それから、旗とクラリネットを先頭に、行列はクーファの町中を横切りましたが、幸男は、美々しく錦襴を装った一頭の牝騾馬の運ぶ輿《こし》に、乗っておりました。そしてそのそばには、小さな幸女が坐って、絹の手帛《ハンケチ》で風を送っておりました。輿の後《あと》には、女友達と近所の女と子供たちが従って、歓びの「リュ・リュ・リュ」の叫びでもって、大気を快くどよもし、一方、品位ある春氏はこの上なく心楽しんで、もったいぶった従順な牝騾馬の轡《くつわ》をとって、曳いて行きました。
一同が家に戻ると、お客たちは引き取る前に、次々に商人春氏に祈願を述べに来て、言いました、「あなたに祝福が訪れますように、また喜びも。何とぞ御長命の生涯を通じて、満ち溢れる魂の喜びをお享《う》けなさいますように。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百三十八夜になると[#「けれども第二百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから歳月が幸福の裡に過ぎ、二人の子供は十二歳の年齢に達しました。
すると春氏は息子の幸男に会いに行くと、息子は幸女と遊んでおりましたが、これを傍らに呼んで、言いました、「おおわが子よ、今やお前はアッラーの祝福のお蔭をもって、十二の歳となった。されば今日から、お前はもはや幸女を、妹と呼んではならぬ。というのは、今となっては聞かせなければならないが、幸女はお前と一緒に同じ揺籃《ゆりかご》で育てられ、家《うち》の娘と同様に扱われてきたとはいえ、実は家の奴隷『栄え』の娘なのだ。それにこれからは、あの娘《こ》も面衣《ヴエール》で顔を包まなければならない。というのは、お前のお母様から聞けば、幸女は先週、年頃に達したとのこと。されば母上は、わが家の忠実な奴隷となるような夫を、あの娘《こ》に探してやろうと心がけていられる。」
この言葉を聞くと、幸男は父に言いました、「幸女が私の妹でないというのなら、この私自身があれを妻にしたいと思います。」春氏は答えました、「お母様に許しを求めなければなるまい。」
そこで幸男は母親に会いに行って、手に接吻し、その手を自分の額に持ってゆきました。それから言いました、「私は家の奴隷栄えの娘幸女を、内密の妻にしたいと存じます。」すると幸男の母親は答えました、「幸女はお前のものです、わが子よ。あれはお父様がお前の名で買って下さったものだから。」
すぐに春氏の息子の幸男は、自分の旧《もと》の妹に会いに駈けつけ、その手を執りました。そして彼は彼女を愛し、彼女も彼を愛しまして、そしてその夜すぐに、二人は幸福な夫婦として一緒に眠りました。
それから、この事態がずっと続いて、彼らは二人とも、祝福された更に五年の間、幸福の限りに暮しました。ですから、クーファの町全体を通じて、春氏の息子の若妻にまさって美しかったり、好ましかったりする乙女はいないのでした。またこれほど教育があるとか、学問があるとかいう女もいませんでした。実際、幸女は自分の暇を捧げて、コーランや、いろいろの学問や、クーファの美しい書体や普通の書体や、文芸詩歌や、絃楽器打楽器の奏法なぞを、習い覚えたのでありました。そして歌唱の術《すべ》の達人となって、十五以上も異なる歌い方を心得、歌謡の第一句のただ一語にもとづいて、幾時間も、ひと晩中でも、果しのない変奏を続けて、その律動《リズム》と顫動とで、ひとの心を恍惚《うつとり》とさせることができるのでした。
ですから、幸男とその奴隷の幸女は、暑い折々、自宅の庭に行って、泉水のまわりの裸の大理石の上に坐り、水と石の涼しさに、身に沁みる歓びを味わうことが、いくたびあったことでございましょう。そこで二人は、溶けるような果肉のおいしい西瓜や、巴旦杏や、榛《はしばみ》の実や、炒《い》って塩味をつけた穀類や、その他くさぐさの結構なものを食べました。そして食べる手を停めては、薔薇や素馨の香を吸ったり、あるいは美しい詩を誦し合ったりするのでした。その時は、幸男は自分の奴隷に前奏をしてくれるように頼みます。すると幸女は、四|対《つい》の絃を張った自分のギターを取り上げて、他にたぐうもののない音を奏《かな》でることができるのでした。そして二人は互いに対句を歌ってやりとりしましたが、その数々のすばらしい句のなかに、例えば次のようなものがございます。
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――乙女よ、花と小鳥らの雨注ぐ。いざ風と共に、薔薇色の円蓋《ドーム》連なる暑熱のバグダードへと赴かん。
――否《いな》、わが殿《アミール》よ。更に、園のうち、黄金の棕櫚の焔の下に止《とど》まりて、双手を項《うなじ》にあてつ、おお快きかな、夢見ん……。
――来たれ、乙女よ。青葉の上に金剛石の雨注ぎ、瑞枝《みずえ》の撓《たわ》み碧空に美わし。立てよ、おお身軽き女、しかして汝《な》が髪のうちに涙するひそかなる雫をふり落せよ。
――否、わが殿《アミール》よ。これに坐りて、君が頭をわが膝に載せたまえ。わが衣《ころも》のうちに、わが花咲く胸乳《むなぢ》のあらゆる香に酔いたまえ……。次いで、ヤ・レイルを歌うやわらかき微風を聞きたまえ。
[#ここで字下げ終わり]
またある時は、二人の若者は、ただ太鼓《ダフ》だけの伴奏で、例えば次のような詩句を吟じたのでした。
[#ここから2字下げ]
――われは幸《さき》わしく軽やかぞ、軽やかの舞姫のごと。
汝《な》が顫音《トリロ》を緩めよ、おお笛の上なる唇よ。指の下なるギターよ、止《とど》まりて棕櫚の木の歌を聴け。
棕櫚の木々は立ちてあり、若き娘らのごとく。明るき夜のうちに、ひそやかに呟く。調べ佳き彼らの髪の渦は、微風の楽《がく》に答う。
ああ、われは幸《さき》わしく軽やかぞ、軽やかの舞姫のごと。
――清らかに創《つく》られし妻、おお馨《かぐ》わしき女よ。汝《な》が声の調べに、石は踊りて立ち上り、整然と来たって調和ある堂宇を建つ。
願わくは愛の美を創《つく》りたまいし御方《おんかた》の、われらに幸《さち》を授けたまわんことを、清らかに創られし妻、おお馨わしき女よ。
――おおわが眼の黒目《ひとみ》よ、君がため、われは水晶の棒(9)をもてわが瞼《まぶた》を青くし、指甲花《ヘンネ》の練物のうちにわが手を漬けん。
さらばわが指は君に棗《なつめ》の実と見えん。それよりも好みたもうとあらば、細らかの棗椰子《なつめやし》の実と見ゆるべし。
次いで、いみじき香《こう》を焚き、われはわが胸と腹と全身を燻《くゆ》らし、わが肌を、君が口中に馥郁と溶けしめん、おおわが眼の黒目《ひとみ》よ。
[#ここで字下げ終わり]
このようにして、春氏の息子と栄えの娘とは、平穏な歓楽の生活のうちに、彼らの夕と朝を過ごしていたのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましい女であったので、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百三十九夜になると[#「けれども第二百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼らの夕と朝を過ごしていたのでございます。
けれども、悲しいことに、アッラーの御指《おんゆび》によって人間の額《ひたい》に記《しる》されていることは、人間の手がこれを消すことは叶いませぬ。そして被造物は、自分の天運にまっすぐ飛んでゆくような翼を、持っているのでもございましょう。
そのゆえにこそ、幸男と幸女は、しばらくの間、運命の有為転変を嘗《な》めなければならなかったのでございます。けれどもそれにもかかわらず、二人がわが身と共に地上に持ってきた生来の祝福は、頼むすべもない不幸から、二人を守ってくれることになりました。
果して、教王《カリフ》の御名《おんな》によるクーファの町の太守は、かねて商人春氏の息子の妻、幸女の美貌の噂を聞いていました。そして心中に独りごちたのです、「ひとつぜひとも、麗質と歌唱の道をほめそやされているあの幸女をば、拐《かど》わかす方法を見つけなければならぬ。これは、御主君、信徒の長《おさ》アブドゥル・マリク・ビン・マルワーン(10)へ奉る、見事な進物となるであろう。」
そこである日、クーファの太守は、その計画を実行に移す決心をしました。その目的から、平生は、若い女奴隷を募集して特別の教育を施すことを引き受けている、非常にしたたか者の老婆を、そば近く召し出しました。そしてこれに言いました、「これから商人春の家に参り、その息子の奴隷で、噂に聞けば歌の道にいたく堪能で、まことに美貌であるという、幸女と呼ばるる若い女と、近づきになってもらいたい。そして何とかいたして、その女をここに連れてきてもらわなければならぬ。余はこれを、教王《カリフ》アブドゥル・マリクに、進物として献上したいと思うのだ。」すると老婆は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてすぐにこの目的で、支度にかかりに立ち去りました。
朝になるとさっそく、老婆は粗末な毛織物をまとい、無数の玉のついた大きな数珠《ずじゆ》を首にかけ、帯に瓢《ふくべ》を結びつけ、手に松葉杖を持って、とぼとぼと春氏の家のほうに向ってゆき、時々立ち止まっては、切なげに嘆息するのでした、「アッラーに称《たた》えあれ。アッラーのほかに神はなし。アッラーのほかに頼みはなし。アッラーは至大なり。」そして道々ずっと、道行くひとに深い感化を与えながら、こういう風に振舞うことをやめずに、とうとう春氏の住居の戸口に着きました。そこで、「アッラーは寛大なり。おお贈与者よ。おお恩恵者よ」と唱えながら、その戸を叩きました。
すると門番が戸を開けに来ましたが、それは春氏の旧《もと》の召使で、敬うべき老人《シヤイクー》でした。彼は信心深い老婆を見まして、つくづく眺めると、どうもその顔は敬虔の跡が見えぬどころか、その反対です。また一方老婆のほうでも、この門番がひどく気にくわず、これをちょっと睨みつけたものです。門番は本能的にこの眼付を感じ、本能的に、凶眼を祓《はら》うために、心の中で唱えました、「わが左の五本の指を汝の右の眼に、他の五本の指を汝の左の眼に。」次に大きな声で訊ねました、「何の御用じゃね、年寄りの小母さん。」老婆は答えました、「私はお祈りより外に余念のない、憐れな年寄りです。さてちょうど今礼拝の時刻が近づいたようなので、ひとつこのお宅に入れてもらって、この聖日の勤行《おつとめ》をさせていただきたいものですが。」善良な門番は撥《は》ねつけて、あらあらしい口調で言いました、「行きなさい。ここは回教寺院《マスジツト》でもなければ、祈祷所でもない。これは商人春氏と令息幸男のお宅だからね。」老婆は答えました、「それはよく承知ですわ。だが回教寺院《マスジツト》にしろ祈祷所にしろ、この春さんと息子の幸男さんの祝福されたお宅にまさる、礼拝にふさわしい場所はありますか。それにお前さん、仏頂面の門番よ、よくお聞き、私はこれでもダマスじゃ、信徒の長《おさ》の御殿で、よく知られた女ですよ。私は方々の聖地にお詣りをし、拝むだけの値打のあるあらゆる場所でお祈りをしようとて、その都を出てきたものさ。」けれども門番は答えました、「あなたはいかにも信心深いお方でしょうよ。だがそうかといって、それがここにはいる理由にはならない。お前さんの道のまにまに、先を歩きつづけなさい。」けれども老婆はいっかな聞きいれず、いつまでも頑張っていたので、とうとうその声の騒々しい音が、幸男の耳に届いてしまい、幸男はこの口論のわけを知ろうとして出てくると、老婆が門番に言うのが聞えました、「いやしくも私のような身分の女が、春さんの息子幸男の家にはいるのを、どうしてとめ立てできるのか、貴族《アミール》大官のどんなに固く閉ざした門とても、この私にはいつだって、広々と開け放たれているものを。」
この言葉を聞いて、幸男はいつものようににこにこして、老婆にはいるように乞いました。すると、老婆はそのあとについて、一緒に幸女の部屋に着きました。老婆は幸女にこの上なく言葉巧みに平安を祈り、ひと目見て、その美しさに茫然としたのでした。
幸女は聖なる老女がはいってくるのを見ると、いそぎ敬意を表して立ち上り、謹しんで挨拶《サラーム》を返して、これに言いました、「御光来がわたくしどもにとって吉兆でありますように、お婆様。どうぞお休み遊ばしませ。」けれども老婆は答えました、「礼拝の時刻が告げられました、娘よ。私にお祈りをさせて下され。」そしてすぐにメッカの方角に向いて、跪いて礼拝の姿勢をしました。そしてそのまま、夕方まで身動きせずにいましたが、このように尊い勤めをしているところを、誰も敢えて乱せません。それに、自身もすっかり三昧境に入って、あたりに起っていることになぞ全然注意を向けないのでした。
最後に、幸女はすこし勇気を出して、おずおずと聖女に近づいて、やさしい声で言いました、「わが母よ、ほんのひと時ばかりでも、お膝をお休めなさいまし。」老婆は答えました、「この世で自分の肉体をいためつけない者は、汚れなきひとびとにとっておかれる安息《いこい》を、望むことができませぬ。」幸女はこの上なく感じ入って、言葉を続けました、「お願いでございます、おおわれらの母よ、どうぞわたくしどもの食卓にお就き下さる栄を賜わって、わたくしどもと、パンと塩を分ちあうことを御承知下さいませ。」老婆は答えました、「私は断食の誓いを立てました、娘よ。誓いをたがえるわけにはまいりませぬ。ですからもう私のことなど頓着せず、御主人のところにいらっしゃい。あなた方若くて美しい方々は、食べて、飲んで、仕合せでいなされ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十夜になると[#「けれども第二百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……食べて、飲んで、仕合せでいなされ。」
そこで幸女は主人に会いにいって、申しました、「おお御主人様、どうかあの聖女様のところにいらっして、今後はわたくしどもの家に住居をお定めなさるよう、お願いして下さいませ。あの信心に窶《やつ》れたお顔は、わが家を照らして下さいましょうもの。」幸男は答えました、「安心するがよい。私はもうあの方の一室に、水差しや盥《たらい》なぞと一緒に、新しい茣蓙《ござ》と毛蒲団《マトラー》の支度をさせておいた。誰も邪魔をする者はない。」
老婆のほうはというと、その夜ひと夜を、お祈りをしては声高くコーランを誦して過ごしました。次に、夜が明けると、立ち上って、幸男とその友に会いにゆき、二人に言いました、「私はあなた方にお別れに来ました。何とぞアッラーはあなた方をお護り下さいますよう。」けれど幸女はこれに言いました、「おおわれらの母よ、どうしてあなたはそんなに素気なく、行っておしまいになれるのでしょうか、わたくしども二人は、あなたがいらっして下さって、わが家が永久に祝福されるのを見ようと、早くも楽しみにしていて、あなたが誰にも邪魔されずに、勤行《おつとめ》をなされるようにと、一番よいお部屋を支度しておきましたのに。」老婆は答えました、「アッラーはあなた方お二人の身を守り、あなた方の上に、御恵《みめぐ》みと恩寵をば永く続けたまいますように。回教徒の慈悲心が、あなた方の御心中で、特別の場所を占めているとあらば、私は悦んであなた方のおもてなしにあずかりましょう。ただどうか、あの不機嫌で無愛想な顔をした門番に、私が好きな時間に、ここにはいってくるのを邪魔立てしないように、お申し付け下さいまし。私はこの足でクーファの聖地に詣でて、アッラーに、あなた方を功徳に応じて賞したもうよう、お祈りして参りましょう。それから戻ってきて、あなた方のおもてなしに甘えましょう。」それから老婆は、二人がこもごもその両手をとって、唇と額に持ってゆくのを振りきって、立ち去りました。
ああ、幸女よ、もしあなたがこの松脂《まつやに》婆が何のためにこうしてあなたの家にはいってきたか、その動機《いわれ》を知っていたら、またあなたの幸福と平穏をぶちこわそうとて思いめぐらしていた、腹黒いもくろみを知っていたら。けれども隠されていることを見抜き、見えざるものを見通すことのできる被造物なぞ、どこにおりましょうか。
呪われた老婆は、そこで外に出て、太守の御殿のほうに向って、すぐに太守の前に罷り出ました。すると太守はこれに問いました、「どうじゃ、何といたしたか、おお蜘蛛の巣を解きほごす女よ、おお抜け目のない絶世のしたたかものよ。」老婆は言いました、「この私が何をいたそうとて、おお御主君様、私はあなた様の、お眼に庇《かば》われている者でございます。こうでございます。私は春の息子の奴隷、乙女幸女に会いました。児を産む腹は、これほどの美女を型どったためしはかつてございません。」太守は叫びました、「やあ、アッラー。」老婆は続けました、「あの女は歓びで出来ています。優しさとあどけない魅力の尽きせぬ流れでございます。」太守は叫びました、「おおわが眼よ、おおわが心臓の鼓動よ。」老婆は言葉を継ぎました、「それならば、もしあの水のざわめきよりも爽やかな声の音色をお聞きになったら、何とおっしゃることでしょう。もしあの羚羊《かもしか》の眼とそのつつましい眼差しを御覧になったら、何となさることでしょう。」太守は叫びました、「余はただあらゆる感嘆を挙げて感嘆するより外に、なし得ないであろうぞ。何となれば、繰り返し申し聞かせるが、余はその女をば、われらが主君|教王《カリフ》に奉ることにしておるのだ。されば早く物にいたせ。」老婆は言いました、「それにはまるひと月の御猶予を下さいまし。」すると太守は答えました、「その猶予を取らせる。されど首尾よくいたせよ。しからばわが許にて、そちは満足のゆくがごとき寛大の沙汰を見出すであろう。ここに手はじめに、わが好意の手付《てつけ》として、一千ディナールがあるぞ。」
そこで老婆はその千ディナールを帯にはさんで、その日から、規則正しく幸男、幸女をその住居に訪ねはじめ、そして一方二人は、日に日にいよいよ尊敬と敬意を示したのでありました。
さてこうした状態がやまず、老婆はこの家の顧問役となりました。そこである日のこと、幸女に言いました、「娘よ、まだあなたの若いお胎《なか》に懐妊《みごもり》が訪れませんね。ひとつ私と一緒に、聖なる苦行者たち、アッラーに愛されている長老《シヤイクー》たち、至高者と交通のある行者《サントン》と聖者《ワアーリー》たちの祝福を、お願いにゆきなさらぬかな。その聖者《ワアーリー》様方は、娘よ、私の知り合いでな、その方々がアッラーの御名《みな》で奇蹟をなさり、この上なく不思議な事を成しとげる、測り知れぬお力を持っていなさることを、私は知っていますよ。盲人《めくら》や病人を治し、死人を生き返らせ、空中を泳ぎ、水の上を歩きなさるのです。女のひとを身ごもらせることなぞは、アッラーがその方々に授けたもうた特権のなかでは、末の末のこと、ほんのちょっとその方方の着物の裾にさわるとか、数珠の玉に接吻するだけで、あなたの望みは叶うでしょうよ。」
この老婆の言葉に、幸女は心の中に身ごもりたい気持が動くのを感じて、老婆に言いました、「それには主人の幸男様に、外出のお許しを仰がなければなりません。お帰りを待つことにいたしましょう。」けれども老婆は答えました、「あなたの叔父の奥様に申し上げるだけになさい。それでいいでしょう。」そこで若い女は義母の、幸男の母親に会いに行って、言いました、「アッラーにかけてお願い申し上げます、おお御主人様、どうぞこの聖女のお年寄りと御一緒に、外出するお許しをいただきとう存じます。アッラーの友なる聖者《ワアーリー》をお訪ねして、その方々の聖なるお住居で、祝福を授けていただきに参りたいのでございます。御主人幸男様のお戻りになる前に、必ず帰ってまいります。」すると春氏の妻は答えました、「娘よ、もしもお前の御主人が帰ってきて、お前の姿が見えなかった時の御心配を考えてごらん。きっと私に言うでしょうよ、『何だって幸女は、私の許しも得ないで、こんな風によくも外出なぞできたものだ。こんなことははじめてのことだ』とね。」
この時老婆が口を出して、幸男の母に言いました、「アッラーにかけて、なに大急ぎで聖地をひと廻りしてきますよ。このひとには坐って休む暇も与えないで、遅れずに連れ戻ります。」そこで幸男の母も、溜息をつきながらも、とにかくそれを承知しました。
老婆はそこで幸女を連れ出して、まっすぐ御殿の園にある、離れの亭《ちん》に連れてゆき、そこにちょっと独り残しておいて、自分は走って、太守に幸女が来たことを知らせにゆくと、太守はすぐに亭《ちん》に出かけましたが……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十一夜になると[#「けれども第二百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……太守は、敷居のところに立ち尽してしまいました。すっかりこの美女に眼が眩んだのでございました。
幸女はこのよその男がはいってくるのを見ると、いそいで顔を面衣《ヴエール》で蔽いました。そして突然泣き伏して、逃がれ出る逃げ道を眼で探しましたが、見つかりません。
そこで、それきり老婆は再び姿を見せないので、幸女はもうこの呪われた女の裏切りを疑わず、かつてあの善良な門番が、この聖女のたくらみに満ちた眼のことについて自分に言った、いくつかの言葉を思い出したことでした。
さて太守のほうは、幸女というのが、たしかに自分の前に見ている女にちがいないことを、ひとたび確かめると、戸を閉めて出てゆき、いそぎ二、三の命令を下しにゆきました。太守は、教王《カリフ》アブドゥル・マリク・ビン・マルワーンに一通の書面を認《したた》め、その手紙と乙女とを警吏の隊長に委ね、これに直ちにダマスを指して発足するように命じました。
すると隊長は幸女をむりやり引っ立てて、これを足の早い単峰《ひとこぶ》駱駝の上に乗せ、自身同じ駱駝の彼女の前に乗り、数人の奴隷を従えて、大急ぎでダマスへ向って出発しました。
幸女のほうは、道々ずっと、面衣《ヴエール》のなかに頭を包んで、止まっても、揺れても、休んでも、出発しても、まるでよそごとのように、ただ忍び泣きに泣くばかりでした。隊長は彼女から、ただのひと言も、ひとつの合図も得ることができず、それがダマスに着くまで、ずっとそうでした。
そこで時を移さず、隊長は信徒の長《おさ》の御殿に向って、その女奴隷と書面を侍従長に渡し、御嘉納の返事をいただいて、来た時のように、クーファに戻ったのでございます。
その翌日、教王《カリフ》は後宮《ハーレム》におはいりになって、お后《きさき》と妹君に、新しい女奴隷が来たことをお知らせになって、おっしゃいました、「クーファの太守が、ひとりの年若い女奴隷を余に贈って参った。何でも彼の購ったその女奴隷は、ある王の女《むすめ》で、奴隷商人どもがその国から攫《さら》ってきたのだと、書面で言ってよこした。」するとお后はお答えになりました、「どうかアッラーは、わが君のお悦びとその御恵《みめぐ》みをいやまして下さいますように。」そして教王《カリフ》の妹君はお訊ねになりました、「その奴隷は何という名前でございますか。肌は栗色ですの、それとも白うございますの。」教王《カリフ》はお答えになりました、「まだ見ていない。」
すると、お名前をシート・ザヒアとおっしゃる教王《カリフ》の妹君は、その乙女のいる室をお聞きになって、すぐに御覧になりにいらっしゃいました。見るとその女は、日に焼けた顔をして、涙に暮れ、二つに折れ曲っていて、ほとんど気を失っておりました。
これを見ると、お心の優しいシート・ザヒアは憐れみを覚えなすって、その乙女に近づいて、お訊ねになりました、「なぜ泣くのですか、妹よ。ここにくればもう安全で、日々の生活はのどかで憂いがないということを、お前は知らないのですか。信徒の長《おさ》の御殿に来合わせるよりも、まさったことがありますか。」この言葉に、栄えの娘は驚いた眼をあげて、訊ねました、「けれども、おお御主人様、ではわたくしはいったいどこの町にいるのでございましょう、ここが信徒の長《おさ》の御殿だといたしますと。」シート・ザヒアはお答えになりました、「ダマスの都ですよ。まあ、ではお前は知らなかったのですか。お前を売った商人は、お前に教王《カリフ》アブドゥル・マリク・ビン・マルワーンの御用を勤めにゆくのだとは、知らせなかったのですか。そうなのです、妹よ、お前はこれからここで、わたしの兄上、信徒の長《おさ》のお所有物《もちもの》なのです。まあ涙を乾《ほ》して、お前の名前を言いなさい。」
このお言葉に、若い女は、こみあげてくるむせび泣きをもうこらえきれず、呟きました、「おお御主人様、わたくしの国では、わたくしは幸女と呼ばれました。」
ちょうどこの言葉を言い終ったところに、教王《カリフ》がはいってこられました。教王《カリフ》は優しく微笑を浮べながら、幸女のほうに進み寄られ、そのそばにお坐りになって、おっしゃいました、「そちの顔の面衣《ヴエール》をあげよ、おお若い娘よ。」けれども、幸女は顔を露《あら》わす代りに、ただそう思っただけでも怯《おび》えきって、顫える手で、布を頤《あご》の下まですっかり下ろしてしまいました。教王《カリフ》はこれにもすこしも御機嫌をお損じになろうとはせず、シート・ザヒアに仰せられました、「この若い娘はそなたにまかせる。そなたは数日後には、この娘をそなたになじませて、元気を出させ、もっと物怖じしないようにしてくれることと思う。」それから今一度幸女を一瞥《いちべつ》なさいましたが、ぴったりと羽織った布の外に出ている、華奢な手頸の関節しか見えませんでした。けれども、このように見事な形の手頸は、完全な美女より外に持っているわけがないと、お思いになりました。そして教王《カリフ》はお引き上げになりました。
するとシート・ザヒアは幸女を伴って、御殿の浴場《ハンマーム》に連れてゆかれ、浴後たいそう美しい着物を着せ、髪にいく並びもの真珠と宝石を、挿しておやりになりました。それから、その日一日相手をしてやって、御自分になじませようとなさいました。けれども幸女は、教王《カリフ》の妹君ともあろう方が、大切にして下さるのにすっかり恐縮したとは申せ、どうにも涙を乾すまでになれず、自分の悩みの原因も、打ち明けようとはしませんでした。そうしたところが、格別わが身の天命を変えはしまいと、心に思ったからでございます。そこで自分の苦しみの切なさをば、自分ひとりの胸におさめ、日夜思い窶《やつ》れつづけているうちに、とうとうしばらく経つと、重い病いになってしまいました。そしてダマスで最も評判の高い医者たちの秘術を尽してみたあげく、とても助かる見込みはないということになったのでございました。
さて春氏の息子幸男のほうはと申しますと、次のようでございます。夕刻になって、彼は自宅に戻ると、いつものように長椅子《デイワーン》の上に長くなって、呼びました、「おお幸女よ。」けれども今までないことに、誰も答えません。そこでつと起き上って、もう一度呼びました、「おお幸女や。」けれども誰も答えません。それに、誰も敢えてはいってこようとしません。女奴隷は全部隠れてしまって、そのうちのひとりも、敢えて身動きしなかったのです。そこで幸男は母親の部屋のほうへ向って行って、あわただしくなかにはいりました。母親は頬に手をあてて悲しげに坐り、物思いに耽っているのでした。これを見ると、彼の不安は増すばかりで、心配しながら母に訊ねました、「幸女はどこにいますか……。」
けれども、返事の代りに、春氏の妻は泣き崩れました。それから溜息をついて言いました、「どうかアッラーが私たちをお守り下さいますように、おおわが子よ。幸女はお前の留守中に、何でも奇蹟を成し遂げる聖なる聖者《ワアーリー》をお訪ねするとか言って、あの婆さんと一緒に外出する許しを求めに来ました。それでまだ戻って来ません。ああ、息子よ、あの婆さんがわが家にはいってきてからというもの、私の心は安らかであったことがありません。家《うち》の門番、あの私たちをみんな育てた忠義な年寄りの召使も、決してあの婆さんを、平安の眼で見たことがありません。私はいつも、あの婆さんこそはきっと、あの長すぎる礼拝とずるそうな眼付をしてからに、私たちのところに不幸を齎らすだろうという気がしていたのだが。」けれども幸男は母の言葉を遮って、訊ねました、「正確なところ、いつ幸女は外に出たのです。」母は答えました、「今朝、早く、お前が市場《スーク》に出かけたあとです。」すると幸男は叫びました、「母上、われわれの習慣を変えて、家《うち》の女どもを自由にさせてやったところで、何の役に立つかおわかりでしょう。そうしてやったところで、女どもは始末に困って、ただ禍いを招くばかりです。ああ母上、なぜ幸女に外出をお許しになったのですか。どこに迷いこむやらわからないし、水にはまらないとも限らず、光塔《マナーラ》が崩れて埋められてしまわないとも限らない。とにかく、これから太守のところに駈けつけて、ぜひとも直ちに捜索してもらいます。」
そして幸男は、夢中で御殿に駈けつけると、太守は、父親の春氏が町の最高の名士のなかに数えられているので、父親に免じて、待たせもせずに引見しました。すると幸男は、挨拶《サラーム》の儀礼さえも飛ばして、太守に言いました、「実は私の女奴隷が、わが家に泊めていたひとりの老婆と連れ立って、今朝以来家から姿を消しました。どうか捜索に御助力を仰ぎたいと存じて、参上しました。」太守はいかにも気になるというような口調で、答えました、「よろしいとも、わが子よ。御尊父のためとあらば、余のいたさぬことはない。余からと言って警察長《ムカツダム》に面会にゆき、そちの用件を申せ。すこぶる心利いた知謀満ちた男だから、必ずやここ数日ならずして、その女奴隷を探し出すことであろう。」
そこで幸男は警察長《ムカツダム》のところに駈けつけて、これに言いました、「私は太守からのお言葉で、家から姿を消した女奴隷を探していただきたく、参上いたしました。」からだの下に脚を組んで、敷物の上に坐っていた警察長《ムカツダム》は、二、三度息を吐き出してから、訊ねました、「それで誰と一緒に出かけたのかね。」幸男は答えました、「これこれしかじかの人相の老婆と一緒です。そしてその老婆は粗末な毛織物を着て、無数の玉のついた数珠を首にかけております。」すると警察長《ムカツダム》は言いました、「アッラーにかけて、その老婆のいどころを言ってくれれば、すぐさま女奴隷を探しに行って進ぜよう。」
この言葉に、幸男は答えました、「しかしこの私が、その老婆のいどころを知っていましょうか。老婆のいる場所が私にわかっていれば、わざわざここに来るでしょうか。」警察長《ムカツダム》は脚の位置を変え、前と反対に組んで身体の下に引き寄せて、言いました、「わが息子よ、眼に見えない事がらを看破するのは、全知のアッラーだけだよ。」すると幸男は叫びました、「預言者にかけて、私はただあなたひとりに、このことの責任を問います。もし必要とあらば、私は太守にでも、信徒の長《おさ》にだって会いに行って、あなたのことをすっかり申し上げます。」一方の男は答えました、「どこでもお好きなところにお出かけなされ。わしは隠れたものを見通す魔法は習っていないよ。」
そこで幸男は太守のところに引き返して、太守に言いました、「警察長《ムカツダム》のところに参りましたところ、これこれしかじかの次第でございました。」太守は言いました、「そんな筈はない。これ、警吏ども、あの犬の息子めをここに呼んで参れ。」そしてその男がやってくると、太守はこれに言いました、「汝はこの上なく厳重に捜索いたし、春の息子、幸男の女奴隷を探し出すよう、きっと命ずる。配下の騎卒を八方に派し、汝自身も馳せまわって、到るところを探せ。ともかくも、汝はその女を探し出さねばならぬぞよ。」そしてそれと同時に、太守は彼に目配せして、何もするに及ばぬと知らせました。それから幸男のほうに向き直って、言いました、「さてわが子よ、そちは今後その女奴隷については、一切余の鬚に要求してもらいたい。そして万一ひょっとして(なぜなら、どんなことでも起りかねぬからな)、その女奴隷が見つからないようなことがあったら、その代りに、余自身がそちに、天女《フーリー》の年頃の、乳房張り、石の塊りのような尻の処女、十人を取らせよう。また同じく警察長《ムカツダム》にも余から強《た》って言って、彼の閨房《ハーレム》から、余の眼のごとく手を触れられておらぬ若い女奴隷十人を、そちに贈らせよう。とにかくそちの魂を安んじさせよ。なぜならよく心得るがよい。天運はそちに宛てたるものは常にそちに与えるであろうし、他方、運命がそちに定《さだ》めざりしものは、決してそちの手に入るところとはならぬであろうぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十二夜になると[#「けれども第二百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで幸男は太守に暇《いとま》を乞うて、夜通し幸女を探してさまよい歩いたあげく、絶望してわが家に帰りました。それで翌日には、はなはだしい衰弱と発熱に襲われて、床に就かずにいられなかったのでしたが、太守の命じた捜索に繋いでいた希望を、だんだん失ってゆくにつれ、その熱は日に日に昂じるばかりでした。そして相談を受けた医者たちは、答えるのでした、「あの御病気は、奥様がお帰りになるよりほかに薬はございませぬ。」
こうしているうちに、クーファの町に、ペルシア人で、医学、薬剤の術、星辰と砂占いの学などに非常に長じた、博学の人物が着きました。それで商人春氏は、いそぎそのひとを息子のところに来てもらいました。すると学者のペルシア人は、春氏にこの上なく鄭重にもてなされてから、幸男に近づいて、これに言いました、「お手を拝見します。」そしてその手を取って、長い間脈を診て、よくよく顔を見つめ、それから微笑を洩らして、商人春氏のほうに向き直って、言いました、「御令息の病いは、その心中に在りますな。」春氏は答えました、「アッラーにかけて、いかにもそのとおりです、おお、お医者様。」学者は続けて言いました、「そしてこの病いは、愛する方の失踪が原因です。では、ひとつ、神秘の功力《くりき》の助けを借りて、現在その方のいなさる場所を、あなた方に教えて進ぜよう。」
そしてこう言いおわると、そのペルシア人はしゃがんで、袋のなかから砂の包を取り出し、それをほどいて、自分の前に拡げました。次に、砂のまんなかに、白い小石五個と黒い小石三個、象牙の棒二本、虎の爪一本を置き、それらをまず地面に描いたひとつの図形の上に、次に二つの図形の上に、次に三つの図形の上に並べ、ペルシア語で二言三言《ふたことみこと》唱えながら、それをじっと見つめて、さて言いました、「おおお聞きのお二方よ、さればその人は、今バスラにおいでじゃ。」それから言いなおして、「おっとちがう、ここに見る三筋の河のため、思い誤った。その人は今ダマスの、ある大きな御殿におって、御令息と同様の憔悴状態にあります、おお高名の御商人よ。」
この言葉に、春氏は叫びました、「してわれわれはいかがなすべきでしょうか、おお尊いお医者様。どうぞお教え下さいませ。あなたは決して、春の掌《たなごころ》の広さを嘆じなさることはございますまい。それと申すは、アッラーにかけて、私は人の世三代にわたって、富裕に暮すに足るだけの料《しろ》を、差し上げるでござりましょうから。」ペルシア人は答えました、「御両人とも、魂を安んじなされよ。そしてあなた方の眼瞼《まぶた》が爽やかとなって、懸念なく眼を蔽いまするように。なぜなら、この二人の若者を一緒にすることは、この私が引き受けて進ぜます。事はあなたの案じなさるよりも、ずっと成し遂げるにかたくありませぬ。」それから、春氏に向って、言い添えました、「あなたの帯から、四千ディナールお出し下され。」春氏はすぐに帯を解いて、ペルシア人の前に四千ディナール並べ、別に千ディナールを添えました。するとペルシア人は言いました、「こうして一切の入費に事欠かぬだけのものがあるからには、私はこれより直ちに、令息を一緒にお連れして、ダマスに向けて出発いたしましょう。そしてアッラーの思し召しあらば、われわれは令息の愛しておられる方と一緒に、戻って参りましょう。」
それから、床の上に横になっている若者のほうに向いて、聞きました、「おお名誉ある春氏の御令息よ、あなたのお名前は何とおっしゃるか。」彼は答えました、「幸男です。」ペルシア人は言いました、「しからば幸男様、お起きなさい。そしてあなたの魂は、今後一切の懸念を脱して安らかであるように。何となれば、あなたは今よりして、もはやあなたの奴隷はお手に返ったも同然と、心得てよろしいから。」すると幸男は、急にこの医者のよい感化に動かされて、起き上って坐りました。医者は更に言葉を続けて、「さればあなたの勇気と心を取り直しなさい。一切の憂いを払いなさい。食べ、飲み、眠りなさい。一週間後、ひとたびあなたの体力が回復したら、私は御一緒に旅をしに、お迎えに参りましょう。」そして春氏と幸男に暇《いとま》を告げて、自分もまた出発の用意をしに立ち去りました。
すると春氏は、更に別に五千ディナールを息子に与え、駱駝を何頭か買ってやって、それに豪奢な商品と、あんなにも色美しいクーファの絹織物を積み、息子と従者のために、馬を与えました。次に、一週間経つと、幸男は学者の処方に従って、そのお蔭ですっかりよくなったので、春氏もこれなら、息子がダマス旅行を企てても仔細ないと思いました。そこで幸男は、父と母と栄えと門番に別れを告げ、身内の人たちのすべての腕が、彼の頭上に呼ぶ祈念に送られて、ペルシアの学者と一緒に、クーファを立ったのでありました。
ところで、幸男はこの時、青春の酣《たけなわ》に達していて、その十七の年は、絹のような淡紅色《ときいろ》の双頬に、薄髭を生えさせていました。それで彼の容色は一段と人を惹きつけるものがあり、誰しもその姿を眺めれば、うっとりとせずにいられないのでございました。ですからペルシアの学者も、程なくこの青年の容色の作用を感ぜずにはいず、全く心底からこれを愛し、旅行中ずっと、自分はあらゆる不便を忍んで、彼に楽をさせたのでした。そして彼が満足するのを見ては、無上に悦ぶのでございました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十三夜になると[#「けれども第二百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうした有様で、旅は愉快で苦労なく、このようにしてダマスに着きました。
するとすぐに、ペルシアの学者は幸男と一緒に、目抜きの市場《スーク》にゆき、即座に一軒の大きな店を借りて、手入れして新しくさせました。それから、天鵞絨《ビロード》を張った瀟洒な棚を作らせて、そこに自分の貴重な薬壜、白鮮《はくせん》、香油、粉薬、水晶の器に入れた水薬、純金の器に保存した上等の解毒剤《テリアーク》、珍奇な薬草三百種の液汁から成る、古い膏薬を寝かしておく、金色《こんじき》の煌《きら》めきのペルシア陶器の壺なぞを、きちんと並べました。そして大きな罎と蒸溜器《レトルト》とらんびきとの間に、黄金の観象儀を据えました。
それが済むと、自分は医者の服を着て、七巻の大きなターバンを被り、次に幸男の装束を考えました。これは自分の助手にして、処方を調剤し、乳鉢で砕き、薬袋を作り、口述する薬を書き取らせることにしたのです。その目的で、手ずから、これに青絹の肌着と、カシミヤの胴着を着せ、腰のまわりには、金糸の細糸の通っている桃色の前掛をめぐらして、さて彼を自分の手の間に坐らせました。それから言いました、「おお幸男よ、これからは、あなたは私を父と呼ばなければならない。そして私はあなたを息子と呼ぶことにします。さもないと、ダマスの住民はわれわれの間に、あなたも御承知のような関係があると思いかねないから。」幸男は答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」
さて、ペルシア人が診察をすることになったこの店が、開店したと思うと、ある者は病人を見せるため、他の者はただ青年の美貌を眺めるだけのために、八方から、住民が群をなして押し寄せました。そして誰しも、幸男がペルシア語で医者と言葉を交わすのを聞くと、あっけにとられると同時に、うっとりするのでした。その言葉は、自分たちにはわからないけれども、この美貌の助手の口から聞くと、まことに快く思えるのでした。けれども客の驚嘆を無上の極に到らせたのは、このペルシアの医者が病気を見抜く、そのやり方でございました。
事実、この医者は、自分を頼ってくる病人の白眼《しろめ》を、しばらくの間じっと見て、それから大きな水晶のコップを出して、患者に言うのでした、「小便をしなさい。」そして患者がコップに小便をすると、ペルシア人はそのコップを自分の眼の高さに持ってきて、よく調べて、次に言うのでした、「あなたはこれこれしかじかですね。」すると病人はいつでも叫びました、「アッラーにかけて、そのとおりでございます。」そのため誰でも両手を挙げて、言いました、「やあ、アッラー、何という大した大先生だ。われわれはついぞこんな話を聞いたことがない。いったいどうしてこんな風に、尿でもって病気を識ることができるのだろう。」
ですから、このペルシアの医者が数日のうちに、その並外れた学識のために、あらゆる名士や金持たちの間に評判が高まり、そのあらゆる不思議の噂が、教王《カリフ》と妹君エル・シート・ザヒアのお耳にさえも達したことは、少しも怪しむに足りません。
そこで、ある日、医者が店のまん中に坐って、傍らに控えて手に蘆筆《カラーム》を持つ幸男に、処方を書き取らせていると、そこに、赤い錦の鞍を置いた驢馬に乗って、ひとりの立派な貴婦人が戸口に停り、驢馬の轡を、鞍の前橋の上にある銅の環に結びつけてから、その学者に向って、下りるのに手を貸しに来てくれるようにと、合図をしました。学者はいそぎ立ち上って、その手を取りに駈けつけ、驢馬から下ろして、店にはいらせました。そして幸男が慎ましく微笑を浮べながら、座蒲団《クツシヨン》を薦めると、婦人に、どうぞお坐り下さいと申しました。
するとその婦人は、着物の下から尿のはいった罎を取り出して、ペルシア人に訊ねました、「おお尊ぶべき長老《シヤイクー》よ、イラクの地からいらっしゃって、ダマスで、すばらしい治療をなさっておいでのお医者様というのは、たしかにあなた様でございましょうか。」彼は答えました、「まさにあなた様の奴隷その人でござります。」婦人は言いました、「およそアッラーの奴隷以外に奴隷はございませぬ。ではお聞き下さい、おお学識の無上の師よ、この罎のなかには、おわかりのものがはいっておりまして、その主《ぬし》は、未だ処女ではございますが、われらの君主、信徒の長《おさ》のお気に入りの方でございます。当地の医師たちは、その方が御殿に来られたそもそもの日から、床に就いてしまったその病気の原因を、察することができませんでした。そこでわれらの主《しゆ》の妹君、エル・シート・ザヒアは、私にこの罎を持たせてここにお遣わしになり、先生方に、このわからない病因を発見していただきたいというわけでございます。」
この言葉に、医者は言いました、「おお御主人様、私が計算をいたして、病人に薬を飲ませるに最もよろしい時刻を正確に知るためには、その御病人のお名前を伺わせていただかなければなりませぬ。」婦人は答えました、「その方は幸女と申します。」
すると医者は、手にしていた紙切《かみきれ》の上に、ある計算は赤インキで、他の計算は緑のインキで、いろいろたくさんの計算を始めました。それから赤い数字の和と、緑の数字の和を求め、両方を寄せてみて、言いました、「おお御主人様、病気はわかりました。それは『心臓の扇《うちわ》の顫え(11)』という名で知られている疾患です。」この言葉に婦人は叫びました、「アッラーにかけて、いかにもそのとおりです。というのは、その方の心臓の扇《うちわ》は、私たちにも聞えるほど激しく顫えているのですから。」医者は続けました、「けれども、薬を盛《も》る前に、その方はどこの国の方かを知っておかねばなりません。それははなはだ大切なことです。というのは、ひとたび計算をした上で、その方の心臓の扇《うちわ》に対する空気の軽重の影響は、それによってわかるのです。なお、その弱い扇部《うちわぶ》の保存状態を判断する上には、その方はいつからダマスにいられるかということと、その正確な年齢《おとし》をも、やはり承わらねばなりませぬ。」婦人は答えました、「その方はイラクの町クーファで育ったらしく、十六歳です。私たちに言ったところでは、クーファの市場《スーク》の火事の年に生れたそうですから。またダマスに滞在したというのは、ほんの数週間でございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十四夜になると[#「けれども第二百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉に、ペルシアの学者は、心臓を風車のように轟かしている幸男に、言いつけました、「わが子よ、イブン・スィーナー(12)の処方第七条に従って、これこれしかじかの薬を調剤しなさい。」
するとその貴婦人は青年のほうを向いて、いっそう注意をこめて、よくよく顔を見つめはじめましたが、やがて二、三分たつと言いました、「アッラーにかけて、おおわが子よ、その病人はあなたそっくりで、そのお顔はあなたの顔と同じくらい美しいですよ。」次に学者に言いました、「ちょっと伺いますが、おお高貴のペルシアのお方よ、このお若い方は先生の御令息ですか、それとも奴隷ですか。」彼は答えました、「愚息です、おお尊いお方よ、そしてあなた様の奴隷でございます。」するとその年とった婦人は、こうしたあらゆる敬意にたいへん心を悦ばされて、答えました、「全く、ここではどちらに一番感心したらよいやらわかりません、おお無上の名医様、先生の学識のほうか、それとも先生の御子息のほうか。」それから学者と話を続けておりましたが、その間に、幸男は薬の小さな包を作り終え、それを箱に収め、そのなかに短い手紙を忍ばせて、そうやって手短かに、自分がペルシアの医者と一緒にダマスに来たことを、幸女に知らせたのでした。それが済むと、その箱に封をして、蓋にクーファ文字で、自分の名前と住所を書きつけました。それはダマスの住人には読めないけれども、普通のアラビア書体と同様に、クーファの書体もよく知っている幸女には、すぐに判読できるものでした。そして貴婦人はその箱を持って、医者の棚の上に金貨十ディナールを置き、二人に暇を告げて表《おもて》に出、そのまま御殿に向い、いそぎ病人のところに上ってゆきました。
病人は相変らず眼をなかば閉じ、眼頭を涙に濡らしておりました。老女は近づいて、これに言いました、「さあ、娘よ、どうかこの薬が、これを作った男の姿が、私の眼を悦ばせたのと同じくらい、あなたに爽やかな気分を得させてくれることができますように。それは天使のように美しい若者で、その若者のいる店は、歓びの場所というものです。これがあなたのために、その若者のくれた箱です。」すると幸女は、せっかくの志をむげに斥けないために、手を延ばして箱を取り、見るともなくその蓋をちらりと見やったのでした。ところが突然、その蓋の上に、クーファの書体で書いた次の言葉を見ると、はっと顔色を変えました。「われはクーファの春氏の息幸男なり。」けれども彼女はよく自分の魂を抑えて、気を失ったり、心中を表に洩らしたりしないだけの気力がありました。そして微笑を浮べて、老女に言いました、「では、それが美しい若者だとおっしゃるのですね。どんな様子でございますの。」老女は答えました、「とても私にはその姿を言葉で描き表わせないほどの、魅力の寄り集まりですよ。眼といい、眉といい、やあ、アッラー、けれども魂をうっとりさせるものは、唇の左の隅にある黒子《ほくろ》と、にっこり笑うと右頬に浮ぶ靨《えくぼ》ですね。」
この言葉に、幸女はそれが自分の最愛の主人であることをもう疑わず、そこでその老女に言いました、「そういうわけなら、どうかその顔が吉兆でありますように。そのお薬を下さいませ。」そして薬を取って、微笑を浮べながら、それを一どきに呑みくだしました。それと同時に手紙を見つけ、すぐに開いて一読しました。すると、彼女は床《とこ》から下に飛びおりて、叫びました、「御親切なお母様、わたくしは治ったようです。この薬は全く不思議でございます。おお、何という祝福された日でしょう。」老女も叫びました、「そうですね、アッラーにかけて、これこそ至高者の祝福ですね。」幸女は付け加えました、「お願いですから、いそいでわたくしに、食べるものと飲むものを持ってきて下さいまし。もうひと月近くも、お料理に手をつけることができなかったもので、お腹《なか》がすいて死にそうな気がいたしますの。」
そこで老女は、奴隷たちに、あらゆる種類の焼肉やら、果物やら、飲み物やらを載せた数々の盆を、幸女のところに届けさせておいて、自分はいそいで教王《カリフ》の御許《みもと》に、ペルシアの医者の前代未聞の腕前で、若い女奴隷の全快したことを、お知らせに参りました。すると教王《カリフ》は仰せられました、「取りいそぎその医師に、余からと言って、一千ディナールを届けてまいれ。」そこで老女はいそいで御命令を実行しましたが、その前に幸女のところに寄って、彼女からもやはり医者に、封をした箱にいれた贈物を頼まれたのでした。
老女は店に着くと、まず医者に教王《カリフ》からの一千ディナールを渡し、それから幸男に箱を渡しますと、幸男はそれを開けて中身を読みました。けれどもその時、彼は感極まって、わっと泣き伏したまま、気を失ってしまいました。というのは、幸女は短い手紙のなかで、自分の出来事すべて、太守の命令によって拐《かど》わかされたこと、教王《カリフ》アブドゥル・マリクへの献上物としてダマスに送られたことを、かいつまんで話したのでありました。
これを見ると、親切な老女は医者に訊ねました、「いったいどうして御令息は、突然泣き崩れたと思うと、気絶してしまいなすったのでしょう。」医者は答えました、「おお尊ぶべき御老女よ。どうしてそうせずにいられましょうか。なぜと申せば、私の治したその女奴隷幸女こそは、あなたが私の息子と思っていらっしゃるが、実はクーファの豪商春氏の令息に他ならぬ、この男の所有物《もちもの》なのでございますから。そしてわれわれがダマスに参ったのも、実は裏切りの眼を持った、ひとりの呪われた老婆に拐わかされ、ある日姿を消した、その若い幸女をば探すこと以外に、目的がなかったのでございます。されば、おおわれらの母よ、私どもは今後、われわれの最もやみがたい希望をば、あなた様の御好意に託す次第であり、私どもは、この最も尊い財物を取り返すのに、あなた様の御援助に縋《すが》れるものと、信じて疑いませぬ。」次に更に言い添えました、「して私どもの感謝の保証といたしまして、まず手はじめに、ここに教王《カリフ》の一千ディナールがございます。これはあなた様のものでござります。そして、御芳志への謝恩の念は、私どもの心中に特別の場所を占めますることは、この上とも、やがて将来のお目にかけるところでございましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十五夜になると[#「けれども第二百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると親切な婦人は、まずとりあえず医者に手伝って、気絶している幸男を正気に返らせてから、これに言いました、「あなた方は、私の好意と献身の真心を、あてにして大丈夫です。」そして二人に別れて、そのまま幸女の許に行きますと、幸女は悦びと健康に顔を輝かせておりました。老女は笑いを浮べながら、そばに近づいて、申しました、「娘よ、どうしてあなたは最初から、あなたの母を信用なさらなかったのですか。けれどもまた、あなたが御主人の、クーファの春氏の令息、綺麗でお優しい幸男から引き離されて、魂のすべての涙を尽して泣くというのは、何と無理のないことでしたろう。」そして老女は乙女の驚きを見ると、いそいで付け加えました、「娘よ、あなたは私が決して他言をしないことと、あなたに対して母親の気持を持っていることを、あてにして大丈夫です。よしんばそのため自分の一命を危くしても、私はきっと、あなたを最愛のひとと一緒にしてあげると誓います。ですから魂を安らかにして、この年寄りにまかせておきなさい、腕を揮って、あなたにいいようにしてあげますから。」
そこで老女は、嬉し涙を流して自分の手に接吻する幸女を後に残して、包を作りにゆき、そのなかに、女の衣裳や、宝石や、すっかり変装をととのえるに必要なすべての付属品を入れ、そして医者の店に戻って、幸男に一緒に脇《わき》に来るようにと、合図をしました。すると幸男は、老女を店の奥の、帳《とばり》の後ろに案内して、老女の計《はかりごと》を聞いて全く妙案と思い、言い出された案に従って、そのとおりに委せました。
老女はそこで、持ってきた女の衣裳を幸男に着せ、眼を瞼墨《コフル》で長くひき、頬の黒子《ほくろ》を墨で大きくしました。それから両の手頸に腕輪を通し、髪をモースルの薄紗で包んで、宝石を挿しました。それが済んで、その化粧ぶりを最後にひと目見てみると、まことにすばらしい容姿で、教王《カリフ》の宮殿の女を全部寄せ集めたよりも、遥かに美しいと思われました。そこでこれに言いました、「アッラーはその御業《みわざ》において祝福されよ。さて、わが子よ、今度はあなたは、まだ処女の若い娘の歩き方をしなければなりません。右の腰を動かしては左の腰を引き、ごく小きざみにしか進まずに、一方上手に、お臀を軽く揺すぶってゆくのですよ。外に出る前に、まずすこし、その動作をやってごらんなさい。」
そこで幸男は店のなかで、その仕草を繰り返しはじめて、すっかり上手にやってのけたので、老女は叫んだくらいでした、「マーシャーアッラー(13)、これから女たちは自慢するのは慎しむかも知れない。何というすばらしいお臀の動きぶり、何と見事な腰の振りようでしょう。とはいえ、一点非の打ちどころのないようにするには、もうちょっと首を傾《かし》げて、眼の隅で物を見るようにして、あなたの顔つきに一段と物憂げな表情を添えなければいけませんね。ええ、そう、申し分なし。では私のあとからついておいでなさい。」そして老女は彼と一緒に御殿に出かけました。
二人が後宮《ハーレム》に宛ててある別館の御門に着くと、宦官長が進み出て、言いました、「他人《よそびと》は信徒の長《おさ》の特別の御命令なき限り、何ぴともはいることはなりませぬ。されば、その若い娘と一緒に退散するか、それとも、はいりたければ、あなた独りでおはいりなされ。」けれども老女は言いました、「いつもの神妙さはどうしたのですか、おお番人たちの冠冕《かんむり》よ。平生は愛想そのものであり、慇懃そのものであるあなたが、急にあなたの好ましい御様子とはそんなにそぐわない、もったいぶった恰好をなさるとは。おお、上品な物腰を授けられたお方よ、あなたは御存じないのですか。この女奴隷は御主君|教王《カリフ》の妹君、ザヒア様の所有物《もちもの》で、ザヒア様におかれましては、お気に入りの奴隷に向ってあなたに失礼があったとお聞きになれば、きっとあなたを免職させるどころか、あなたの首を刎ねさせさえなさらずにはおきますまい。あなた御自身が、みずからこうして御自分の不運の種となるわけですよ。」それから老女は幸男のほうを向いて、これに言いました、「おいでなさい、奴隷よ、この長《おさ》の失礼はさらりと忘れて下さいよ、わけても御主人様には、こんなことは何ひとつおっしゃらないで下さいね、さあ、おいでなさい。」そしてその手をとってなかにはいらせましたが、一方彼は甘えるように右と左に首を傾《かし》げて、宦官長に眼で微笑を投げると、宦官は頭を振っていました。
ひとたび後宮《ハーレム》の中庭にはいりますと、老女は幸男に言いました、「わが子よ、私たちはあなたに後宮《ハーレム》の奥に一室取っておきましたから、この足でそこまでひとりきりでいらっしゃい。そこに行くには、まずこちらの扉をはいると、廻廊に出るからそれを進み、左に曲って、次に右に折れ、更に右へ曲って、それから扉を五つかぞえて、六番目の扉をお開けなさい。それがあなたに取ってあるお部屋の扉です。幸女は、これから私がお知らせして、そこであなたと落ち合うようにします。その上で、番人と宦官の注意をひかずに、あなた方二人を御殿から出す手筈は、私が引き受けてあげましょう。」
そこで幸男は廻廊にはいりましたが、取りのぼせていたもので、方角をまちがえてしまったのでした。右に曲り、次に今ひとつの廊下と並んでいる廊下を、左に折れて、その六番目の部屋にはいってしまったのでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十六夜になると[#「けれども第二百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……その六番目の部屋にはいってしまったのでございます。こうして彼は、軽快な円蓋形に刳《く》りぬかれた、天井の高い広間に着いたのでした。その内壁は、完全無欠な数千行に組み合わされて、八方に走っている金文字の聖句に飾られ、そこの壁面は薔薇色の絹を張り詰め、窓々には紗の薄い窓掛をかけて光を透し、床《ゆか》にはホラーサーンとカシミヤの大絨氈が敷き詰めてありました。そこには、いくつもの小さな台の上に、果物の杯が置かれ、絨氈の上にじかに、被いの薄絹のかぶせてある盆が並んでおりましたが、その形と結構な匂いとからして、それらがこの上なく気むずかしい喉の珍重おかぬ、あの有名な練粉菓子、あらゆる都市のなかで、ただひとりダマスだけが、そのように好もしい旨味《うまみ》をつけることのできるお菓子であることが、その被い越しに察せられるのでございました。
ところで、幸男はこの広間で、未知の力がそもそもいかなることを彼の行手に置いているか、つゆ知らぬのでございました。
広間の中央には、天鵞絨を張った一脚の王座があって、それがただひとつ眼に見える家具でありました。そこで幸男は、廊下をさまよってひとに出会うことを恐れて、今さら退《ひ》くに退かれず、とにかく王座の上に坐りに行って、自分の天命を待つことにしました。
坐ってほんのちょっと経ったかと思うと、そのとき衣《きぬ》ずれの音が円天井にこだまして、彼の耳に達し、そして横手の扉のひとつから、王女のような容姿のひとりの若い女が、ただ部屋着を着ただけで、顔に面衣《ヴエール》もつけず、髪に薄絹もかけずに、はいってくるのが見えました。そのあとには、ひとりのかわいらしい奴隷の小女《こおんな》が素足で、頭に花を載せ、手に栴檀《せんだん》の木で作った琵琶《ウーデイ》を持って、従っていました。この貴婦人こそ、信徒の長《おさ》の妹君、シート・ザヒアそのひとにほかなりませんでした。
シート・ザヒアは、広間に坐っているこの面衣《ヴエール》をつけた人間を見ると、優しくこれに近づいて、お訊ねになりました、「お前はいったい誰ですか、わたしの知らない他処《よそ》びとよ。どうしてお前は、どんな不躾けな眼もお前を見ることのできないこの後宮《ハーレム》で、そのように面衣《ヴエール》を着けたままでいるのですか。」けれども幸男は、あわてて立ち上ったきり、敢えてひと言も言い出せず、唖《おし》のふりをすることにしました。するとシート・ザヒアはお訊ねになります、「おおまこと美しい眼の娘よ、なぜお前は返事をしないのです。ひょっとしてお前が、兄君信徒の長《おさ》に、御殿からお暇《ひま》を出された奴隷であるならば、さっそくわたしにそう言うがよい。そうすれば、わたしがよしなにとりなしてあげよう。兄君はわたしの言うことは何なりとも、決してお拒みになることはありませんから。」けれども幸男は思いきってお返事申しかねました。そこでシート・ザヒアは、この娘の口を緘《とざ》しているのは、そこにいて眼を瞠《みは》って、この面衣《ヴエール》を着けてこんなにおずおずしているひとを、びっくりして見つめている奴隷の小女のいるせいかと、考えなさいました。そこで小女におっしゃいました、「いい子よ、お前は向うへ行って、扉の後ろにいて、誰もこの部屋に入れないようにしておくれ。」そして小女が出てゆくと、幸男のすぐそばにお寄りになったので、幸男はますます大面衣《イザール》のなかに身を縮めたい思いでしたが、そのときおっしゃいました、「さあ、乙女よ、今はお前が誰であるかお言いなさい。そしてお前の名前を言って、ただわたしと信徒の長《おさ》だけがはいるこのお部屋に、お前の来たわけをお言いなさい。お前は心置きなく、わたしに話すことができます。わたしはお前を愛らしいと思いますし、お前の眼は早くもすっかり気に入りましたから。ええ、ほんとにお前はうっとりするほどです、かわいい子よ。」そしてシート・ザヒアは、色の白いたおやかな処女が大好きだったので、返事を待つより早く、この娘の腰を捉えて、自分のほうに引き寄せ、片手で着物の釦《ボタン》を外しながら、もう一方の手を胸許にやって、乳を撫でてやろうとしました。ところがその娘の胸は、若い男の胸のように滑らかなのを認めて、すっかり驚いてしまいました。最初は身を退《ひ》きましたが、次にまた近づいてきて、そして着物を掲げて、もっと事をはっきり見ようとなさいました。
この仕草を見たとき、幸男はこれは口をきいたほうが安全だと思って、シート・ザヒアのお手をとって、唇に運んで、言いました、「おお御主人様、私はことごとく御親切にわが身を委ね、御庇護を願い奉って、あなた様の御翼《みつばさ》の下《もと》に身を寄せまする。」シート・ザヒアはおっしゃいました、「願いのままに聴きとどけてあげます。お話しなさい。」彼は言いました、「おお御主人様、私は決して若い娘ではござりませぬ。私は幸男と申し、クーファの住人春と申す者の息子にございます。私が一命を賭してここに参りましたのは、私の妻幸女、クーファの太守が信徒の長《おさ》に献上しようとて、私から奪った奴隷に、再び会う目的からでございます。われらの預言者の御命《おんいのち》にかけて、おお御主人様、何とぞあなた様の奴隷とその妻をばお憐れみ下さいまし。」そして幸男は泣き崩れてしまいました。
けれども早くもシート・ザヒアは奴隷の小女を呼んで、言いつけなさいました、「いい子よ、いそいで幸女の部屋に駈けつけて、お言いなさい、御主人ザヒア様が御用がおありです、と。」それから向きなおって……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十七夜になると[#「けれども第二百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それから向きなおって幸男のほうに向いて、おっしゃいました、「そちの魂を鎮めなさい、若者よ。そちの身には仕合せなことしか起らないでしょう。」
ところで、この間に、一方親切な老女は、幸女に会いに行って言ったのでした、「早く私のあとからおいでなさい、娘よ。あなたの最愛の御主人は、私の取っておいたお部屋においでです。」そして感動に蒼ざめている彼女をば、幸男がいる筈の部屋に連れて行ったのでございます。ですから、そこに彼の姿が見えなかった時の、二人の苦衷はひとかたならぬものでした。そこで老女は言いました、「これはきっと廊下で迷いなすったにちがいない。娘よ、あなたは自分の室にお帰りなさい、その間《ま》に、私はあの方を探しにゆきますから。」
そしてちょうどその時、奴隷の小女は幸女のところにはいってきたのですが、見れば幸女はぶるぶる顫えて、まっ青になっていました。小女はこれに言いました、「おお幸女様、御主人ザヒア様があなたに御用がおありですって。」そこで幸女は、もう自分と恋人との身の破滅を疑わず、よろめきながら、素足の優しい小娘のあとについてゆきました。
ところが、広間にはいったと思うと、教王《カリフ》の妹君が唇に微笑を浮べて、こちらにおいでになり、手をとって、やはり面衣《ヴエール》を着けている幸男のところに連れていって、二人におっしゃいました、「さあ幸福がありますよ。」そして二人の若者は、すぐさまお互いがわかって、お互いの腕のなかで、気を失って倒れてしまいました。
すると教王《カリフ》の妹君は、小女に手伝わせて、二人に薔薇水を振りそそぎ、正気に返らせ、二人を残して出てゆかれました。それからひと時経ってはいってこられますと、二人は固く抱き合って、眼には妹君の思し召しに対する感謝と幸福の涙をいっぱい湛えて、坐っておりました。そこで二人におっしゃいました、「今はわたしたちは、あなた方の至福が永久に続くように、ともども杯を挙げて、あなた方の再会を祝わなければなりません。」そしてすぐに、合図に応じて、奴隷の小女は笑みを浮べながら、杯に結構な御酒を満たして、みんなの前に出しました。三人が飲み乾すと、シート・ザヒアは二人におっしゃいました、「本当にあなた方は愛し合っているのですね、子供たちよ。それではあなた方はきっと、恋と恋人たちについての見事な詩を、御存じにちがいない。二人で何か歌って聞かせていただきたいものです。この琵琶《ウーデイ》をお取りなさい。そして二人でかわるがわる、この木の魂を鳴り響かせて下さい。」
そこで幸男、幸女は教王《カリフ》の妹君の御手に接吻し、琵琶《ウーデイ》の調子を合わせて、次の美わしい詩節を、互いに歌い交わしたのでございます。
[#ここから2字下げ]
――われはわがクーファの面衣《ヴエール》に包みて軽やかの花々と、今なお太陽の金粉にまみるる果実《このみ》を君に齎らせり。
――スーダンの地のありとある黄金《こがね》は汝《な》が肌《はだ》の上にあり、おお恋人よ、陽《ひ》の光は汝《な》が髪のうち、ダマスの天鵞絨《ビロード》は汝が眼のうちにあり。
――われは来たれり。夕《ゆうべ》涼しく頃よき時刻と共に、君が方へとわれは来ぬ……。大気は軽《かろ》く、夜は絹のごとなめらかに、透きとおり、ささめきは木の葉と水より聞え来る。
――来たりしか、来たりしか、おおわが夜々の羚羊《かもしか》よ。立ちこむる闇ことごとく、汝《な》が眼の輝きに目眩《めくら》みぬ。ああ、汝が眼のうちに、われは海上に酔う鳥のごとくに涵《ひた》らばや。
――さらに近寄りて、わが唇の上にその薔薇を取りたまえ。次いで、われをしておもむろにわが萼《うてな》より抜け出でて、肩より踝《くるぶし》に至るまで、君がため裸形となり終えしめよ。
――おお、恋人よ……。
――ここにあり、わが月の肉《ししむら》の秘めし果実《このみ》は、熟れし棗椰子《なつめやし》の形なり。来たれ……。君が御前《みまえ》に、一面の海現われん、水鳥ら酔い痴るる波立ち騒ぐ海ぞ。
[#ここで字下げ終わり]
この歌の最後の調べが、幸福に気の遠くなった幸女の、唇の上に絶えたと思った途端、突然さっと垂幕が開いて、教王《カリフ》御自身がこの広間にお成りになりました。
お姿を見ると、三人ともいそいで立ち上り、御手の間の床《ゆか》に接吻いたしました。教王《カリフ》は一同に笑みを見せられて、彼らのまんなかの敷物の上に坐りに来られ、奴隷の小女に、御酒《ごしゆ》を注いで、一同に杯を持って来るようにお命じになりました。それから仰せられました、「こうしてわれわれは、幸女の本復を祝うため、祝杯を挙げるといたそう。」そして黄金の杯を取り上げて、おっしゃいました、「そちの眼《まなこ》のために、おお幸女よ。」そしてゆるゆるとお乾しになりました。それから杯を下ろされて、御存じのないこの面衣《ヴエール》を被った女奴隷にお気づきになって、妹君にお尋ねになりました、「この若い娘はいったい何者か、薄い面衣《ヴエール》の下から、はなはだ美しい顔立のように見えるが。」シート・ザヒアはお答えになりました、「これは幸女の離れていられない女友達でございます。と申すのは、幸女はこのひとがそばにいると感じないことには、楽しく食べることも飲むこともできないのでございますから。」
すると教王《カリフ》はこの若者の面衣《ヴエール》を払いのけられましたが、その美しさにびっくりなさいました。幸男は事実、頬にはまだ全然髯がなく、ただほんのりと薄毛が生えているだけで、それは、頤《あご》の上に美しく微笑する麝香の雫は別としても、肌の白さに愛らしい蔭を置いているのでございました。
そこで教王《カリフ》は、この上もなくうっとりなすって、お叫びになりました、「アッラーにかけて、おおザヒアよ、今宵《こよい》より余はこの新たな乙女をも、同様に側室《そばめ》にいたしたい。そしてこれにも幸女なみに、その美にふさわしい一室を遣わし、わが正室なみに従者を与えようぞ。」シート・ザヒアはお答えになりました、「いかにも、兄上様、この乙女はあなた様にふさわしい佳人でございます。」次に言い足されました、「今ふと思いついたのでございますが、わたくしがかつてわが学者のひとりの書いた書物のなかで読んだ、ある物語をお話し申し上げたいと存じますが。」教王《カリフ》はお訊ねになりました、「してその物語とはどんな話か。」シート・ザヒアはおっしゃいました。
「されば、おお信徒の長《おさ》よ、むかしクーファの町に、春氏の息子幸男と申す、ひとりの若者がおりました……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百四十八夜になると[#「けれども第二百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「彼はたいそう美しい、ひとりの愛し愛されている女奴隷の主人でございました。と申すのは、二人は同じ揺籃《ゆりかご》で一緒に育てられ、年頃になるとすぐに、お互いに身を許し合っていたからでございます。そして彼らは数年の間幸福でおりましたが、そのうちある日、時非となり、お互いに引き離されることになりました。天運の不祥な道具となったのは、ひとりの老婆でございました。その老婆は若い女奴隷を拐《かど》わかし、彼女を町の太守に渡し、太守はさっそく、これを当時の王様に献上しました。
ところが春氏の息子は、自分の愛する女の失踪を知って、その女を王様の御殿そのものの、後宮《ハーレム》のただなかに見つけるまでは、心の安まることとてございませんでした。しかるにちょうど二人が再会を祝し合って、悦びの涙を流しているそのおりに、王様が二人のいる部屋にはいって来られ、二人をその場で取り押えなさいました。お憤りはその極に達し、王様は事情を明らかにしようともなさらずに、直ちに二人の首を刎ねさせてしまったのでした。」
「ところで」とシート・ザヒアはお続けになりました、「この物語を書いた学者は、このやり方について自分の結論を下しておりませぬので、わたくしは、おお信徒の長《おさ》よ、兄上よりこの王様の振舞について、御意見を承わり、もし同じ事態にあって、兄上がその王様であらせられたならば、どう遊ばしたことか、伺いとう存じます。」
信徒の長《おさ》アブドゥル・マリク・ビン・マルワーンは、躊躇なくお答えになりました、「その王は、そのように性急に振舞うことは慎しむべきであり、その二人の若者をば許したほうがよかったであろう。それは次の三つの理由による。第一には、その二人の若者は永年来愛し合っていたがゆえに。第二には、両人は王の宮殿にいた以上、その時はその王の客人であったがゆえに。第三には、王たるものは、慎重に大事をとることなくして行動いたしてはならぬがゆえに。されば、その王は真の王たるものにふさわしからぬ振舞をいたしたと、余は結論する。」
このお言葉に、シート・ザヒアはつと兄上のお膝にとりすがって、お叫びになりました、「おお信徒の号令者よ、兄上はそれとお気づきにならずして、やがて御自分のなさろうとしている将来の行ないについて、みずから御自身をお裁きなさったのでございます。われらの偉大なる祖先と、あやに畏き公明正大の父君の神聖な御名《おんな》にかけて、何とぞこれより御裁決を仰ぎまする場合について、公正にわたらせたもうよう、伏して願い奉ります。」すると教王《カリフ》はいたく驚きなすって、妹君におっしゃいました、「そなたはすこしも恐るることなく話すがよい。まあともかくも起きなさい。」すると教王《カリフ》の妹君は起き上って、二人の若者のほうを向いて、おっしゃいました、「あなた方もお立ちなさい。」二人が起立すると、シート・ザヒアは兄君に申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、この面衣《ヴエール》に包まれている、かくも優しく美しいこの乙女こそは、実は春氏の息子、幸男にほかならないのでございます。そして幸女というのは、彼と一緒に育てられて、後《のち》にその妻となった女でございます。またその誘拐者は、その名をベン・ユーセフ・エル・テカフィと申す、クーファの太守にほかなりません。この太守は手紙で、この女奴隷を一万ディナールで買い求めたと申し上げたのは、嘘でございます。わたくしは兄上に、太守の処罰と、このまことに宥恕せらるべき二人の若者の赦免を、お願い申し上げまする。この二人は兄上の客人であり、兄上の御影《おんかげ》にかくまわれているものであることを思い起しなされて、何とぞわたくしに、両人の御容赦を賜わりませ。」
この妹君のお言葉に、教王《カリフ》は仰せられました、「いかにもよろしい、余は前言を翻す習慣を持ち合わさぬ。」
次に教王《カリフ》は幸女のほうにお向きになって、これにお訊ねになりました、「おお幸女よ、そちはこれがまさしくそちの主人、幸男であると認めるや。」彼女は答えました、「仰せのとおりでございます、おお信徒の長《おさ》よ。」そこで教王《カリフ》は結論をお下しになりました、「余はその方らを互いの手に返すぞよ。」
その後で、教王《カリフ》は幸男をじっと見なさって、これにお訊ねになりました、「しかし、その方がいかにしてこの地に入り込み得たか、わが宮殿に幸女のいることをいかにして知り得たかを、せめて聞かせてもらえぬか。」幸男はお答えしました、「おお信徒の長《おさ》よ、わが君の奴隷に暫時《ざんじ》御注意を賜わりますれば、一切の次第を言上いたしまするでございましょう。」そしてすぐに教王《カリフ》に、初めから終りまで、ただひとつの仔細をも洩らさず、全部の出来事をお知らせ申し上げました。
教王《カリフ》はいたくお驚きになって、このように不思議な仲立をした、そのペルシアの医者を見たく思し召されました。そしてこれをダマスの王宮の侍医に任命なさって、栄誉と尊敬の限りを尽しなさいました。それから、幸男、幸女を七日七夜の間、御殿にお引きとめになり、二人のために盛大な祝宴を催してから、数々の土産と栄誉を授けて、これをクーファに送り返されました。そして元の太守は罷免なすって、その代りに幸男の父、春氏を任命なさいました。こうして一同は、「引き離す者」の到るまで、長い楽しい一生の間、幸福の極みに暮したのでございました。
[#ここから1字下げ]
――シャハラザードが話すのをやめると、シャハリヤール王は叫んだ、「おおシャハラザードよ、この物語はわが心を悦ばし、特に詩はいたく興を湧かしめた。さりながら、実のところ、さきにそちが余に前触れした、新式の愛の営みについての詳細をそこに見出さないのは、すこぶる意外とするところだ。」
するとシャハラザードは、かすかに微笑を浮べて言った、「おお幸多き王さま、そのお約束の詳細は、わたくしがこんどお話し申し上げようととってありまするほくろの物語[#「ほくろの物語」はゴシック体]のなかに、ちょうどございます。さりながら、わが君が今なお不眠を覚えていらっしゃるならばのことでござりますが。」
するとシャハリヤール王は叫んだ、「何と申すか、おおシャハラザードよ、アッラーにかけて、たとえ余は不眠のため一命を失うおそれあろうとも、ぜひその『ほくろの物語』を聴きたいということを、そちは知らぬのか。さればいそぎその物語を始めよ。」
けれどもこのとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、その物語を翌日に延ばした。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]されば第二百五十夜になると[#「されば第二百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
[#改ページ]
「ほくろ」の物語
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、むかしカイロに、都の商人の会頭をしていた、ひとりの尊ぶべき長老《シヤイクー》がおりました。彼はその正直、重々しく鄭重な態度、慎しみある言葉、富、奴隷と召使の数のために、全|市場《スーク》のひとびとから尊敬されていました。その名をシャムセッディーンと申しました。
ある金曜日のこと、礼拝に先立って、彼はまず風呂屋《ハンマーム》にゆき、次に床屋にはいって、神聖な規定《さだめ》に従って、口髭をちょうど上唇のところまで、聖典の規定通り、刈りこませ、念入りに頭を剃らせました。それが済むと、床屋の差し出す鏡を取りあげ、自分の顔立にあまり己惚《うぬぼ》れたりなぞしないように、まず信仰証言《シヤハーダ》を唱えてから、鏡を見ました。すると彼は、自分の鬚の白髪《しらが》が、もう黒い毛よりもずっと多くなっていて、注意を凝らして見ないことには、白髪の束《たば》の間にまばらにある黒い毛を、見分けられないほどなのを確かめて、限りない悲しみを覚えました。そして考えました、「鬚が白くなるというのは、老年の徴《しるし》であり、老年は死の前触れだ。憐れなシャムセッディーンよ。お前は今や墓の戸口に近いのに、それなのに未だに子孫がない。やがてお前は消え失せよう。そしてお前は、あたかもかつてお前というものなぞいなかったかのように、なってしまうことであろう。」
それから、こうしたやるせない想いに満ちながら、彼は礼拝のために回教寺院《マスジツト》に出向き、そこからわが家に戻りますと、妻女は夫の帰ってくる時刻を知っているので、沐浴《ゆあみ》をし、身体を香《かお》らし、念を入れて毛を抜いて、夫を迎える用意をしていました。そしてにこやかな顔をして夫を迎え、夕方の挨拶をして、言いました、「おお、御身の上に至福の夕あれ。」
けれども、会頭は妻に挨拶を返さずに、険しい口調で言いました、「何が至福なのだ。おれにとって、まだ何か至福なぞというものがあり得るのか。」妻は驚いて言いました、「御身の上と周囲にアッラーの御名《みな》あれかし。なぜそのような不吉な想像をなさるのですか。あなたの幸福に何が欠けておりますでしょう。あなたの悲しみの原因は何でございましょう。」彼は答えました、「ただお前ひとりが原因だ。」そして黙ってしまいました。それから語を継ぎました、「まあ私の言うことを聞きなさい、おお女房よ。私が市場《スーク》に行くごとに、そのつど感ずる苦しみと苦い思いを考えてみろ。方々の店には商人たちが、自分のそばに、二人、三人、四人と、自分の眼の前ですくすくと大きくなってゆく、子供と一緒に、坐っているのが見受けられる。彼らは自分の子孫を自慢している。それなのに私ひとりは、こうした慰めがないのだ。そしてよく私はわが身の死を願って、いっそこんな慰めのない生活をのがれたくなる。そして、わが父祖を御胸《みむね》に召したもうたアッラーに、どうか私にも、自分の悩みを終らせる最後を書き記《しる》して下さるようにと、祈る有様だ。」
この言葉に、会頭の妻は言いました、「おお叔父の息子様、そんな悲しい思いに心をとめずに、どうぞあなたのために拡げておいた食布に、向って下さいまし。」けれども商人は叫びました、「いや、アッラーにかけて、私はもう食べるのも飲むのもいやだ、ことに今後は、何なりともお前の手から受けたくはない。ただお前ひとりが、われわれの子供のない原因だ。われわれが結婚してから、もうはや四十年にもなるのに、何の効《しるし》もない。それにお前は、いつも私が他の女を娶るのを妨げてきた。そして、われわれの結婚の初夜のおり、お前は私の肉身の弱みにつけこんで、決してお前の前でほかの女を家に引き入れないし、またお前以外の女とは寝もしないとまで、私に誓言させたものだ。私は馬鹿正直に、そうしたすべてをお前に約束してしまった。そして一番ひどいことは、私は自分の約束を守ったのに、お前は自分の不妊を見ても、私の誓いを容赦するだけの雅量がなかったことだ。だが、アッラーにかけて、私は今誓う、今後お前に自分の陰茎《ゼブ》をまかせたり、またそれでお前を愛撫することさえも、そんなことをするくらいなら、いっそそんなものはちょん切ってしまうほうがいい。なぜって、お前と交わっても骨折損だということが、今となってはよくわかった。お前の土地みたいに、ひからびた土地に実らせようとするのは、私の道具を岩の穴に突っ込むと同然のくたびれもうけさ。そうだ、アッラーにかけて、私が底なしの淵に、あんなに惜しげもなくばらまいた射精も、それだけむだな射精だったわけだ。」
会頭の妻はこうした言葉を聞くと、光が顔の前で闇に変るのを見て、できるだけ精いっぱいの険しい口調で、夫に怒鳴りました、「この冷えきった老いぼれが。物を言う前に、口を薫らすがいい。私の上と周囲にアッラーの御名《みな》あれかし。どうか私がすべての汚名と濡衣《ぬれぎぬ》を着せられませんように。ではあなたは私たち二人のうち、この私がぐずぐずしているのだと思っているのですか。いい加減に眼を覚ましなさい、叔父さん。わが身自身と、自分の冷たい卵だけを責めなさい。そうです、アッラーにかけて、それはあなたの卵が冷たくて、薄すぎて利きめのない液を出すからです。何かその汁《しる》を温めて濃くするものを、買っていらっしゃい。そうすれば、私の果物には立派な粒がいっぱいあるか、それとも種がないか、おわかりでしょう。」
この腹を立てた妻の言葉に、商人会頭はかなり自信が揺らいで、ためらいがちな口調で、訊ねました、「かりにお前の言い張るように、私の卵が冷たく澄んでいて、その汁は薄く利きめがないとしてだね、もしやお前には、水っぽいものを濃くすることのできる、薬を売っている場所の心当りはないかね。すぐに行ってみるから。」妻は答えました、「どこの薬屋にでも、男の卵を濃くして、女を孕ませるに工合よくする調合薬がありますよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百五十一夜になると[#「けれども第二百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞いて、会頭は独りごちました、「アッラーにかけて、明日はさっそく薬屋に行って、おれの卵を濃くするその調合薬を、少々買い求めてこよう。」
そこで、翌日、市場《スーク》が開くが早いか、会頭は空《から》の瀬戸物を携え、一軒の薬屋の店に行って、言いました、「御身の上に平安あれ。」薬屋は挨拶《サラーム》を返して、言いました、「おお、あなた様を最初のお客様に連れて来てくれたとは、祝福された朝でございます。して御用は。」会頭は言いました、「アーダムの子らの卵を濃くする調合薬を、一オンスばかり売ってもらおうと思ってきたのだが。」そして瀬戸物の鉢を差し出しました。
この言葉に、薬屋はどう考えてよいかわからず、心で思いました、「おれたちの会頭は、いつもはあんなに生まじめな方だが、これはきっとふざけなさる気にちがいない。それじゃこちらも、その真似をして答えてやろう。」そしてこれに言いました、「おあいにくさま、アッラーにかけて、昨日まではまだありましたけれども、何しろその薬はたいへん御註文が多いので、家では品切れになってしまいました。いっそ隣りに行ってお求め下さい。」
そこで会頭は二番目の薬屋の店に行き、次に三番目に行き、次に市場《スーク》の薬屋全部に残らず行きましたが、誰もみんな、こんな途方もない註文に肚のなかで笑いながら、どこでも同じ返事をされて、追い帰されてしまいました。
会頭は探し廻っても甲斐がないのを見ると、自分の店に帰って、坐りこんで物思いに耽り、世の中が味気なくなりました。こうしていらいらしているところに、店の戸口の前に、仲買人の親方《シヤイクー》で名代の麻薬食《ハシーシユく》らい、酔っぱらいで、鴉片《あへん》愛用者で、ひと言で言うと、市場《スーク》の放蕩無頼のやからの標本という男が、立ち止まるのが見えました。その男の名は「胡麻」と申しました。
とはいえ仲買人の胡麻は、会頭シャムセッディーンをたいへん敬っていて、この店の前を通る時には、いつも選りに選った儀礼の言葉を使いながら、地面までお辞儀をせずに行くということはございませんでした。そしてその朝も、この貫禄ある会頭に、いつもの敬意を表さずにはおかなかったので、会頭も挨拶《サラーム》を返さないわけにゆかなかったけれども、それはたいへん浮かぬ気分の様子でした。そこで胡麻もそれに気づいて、尋ねたのでした、「そんなにお心に悩みを投ずるとは、いったいどんな災難が突発したのでしょうか、おおわれらの尊ぶべき会頭よ。」彼は答えました、「まあ、胡麻よ、ここに来て坐って、私の言うことを聞いて下さい。さすれば、私が悲しむのも無理がないかどうか、おわかりになるだろう。
考えてもごらん、胡麻よ、私は結婚してから、もうはや四十年にもなるが、未だに子供の香《にお》いさえも知らぬのだ。そして結局私の言われたには、ぐずぐずしているのはただ私ひとりのせいで、どうも私の卵が澄んでいて、汁が薄すぎて利きめがないらしいというのだ。それで薬屋に行って、卵を濃くする調合薬を探してくるがよいとすすめられた。ところが、どこの薬屋も自分の店にそんなものはないと言う。そこで御覧のように、私は私の一身の一番大切な汁に、必要なだけの濃さを付けてくれるものが見つからないで、すっかり悄気《しよげ》ているというわけだ。」
仲買人の胡麻は、会頭のこの言葉を聞くと、薬屋たちのように、驚いた色を示すとか、笑うとかいうことは少しもなく、片手を出し、掌《たなごころ》を上に向けて、言いました、「この手に一ディナールお載せになって、その瀬戸物の鉢をお渡しなさい。この私にはちょうど心当りがあります。」そこで会頭は答えました、「アッラーにかけて、いったいそんなことがあるものか。だが、おお胡麻よ、もしお前が本当にこの一件でうまくやってくれたら、お前の身代は出来たというものだよ。預言者のお生命《いのち》にかけて、私はお前に誓います。ではさしあたり、一ディナールの代りに、二ディナール差し上げる。」そしてその手に金貨二枚を置き、瀬戸物を渡しました。
するとこの胡麻という稀代の放蕩者は、この際には、市場《スーク》のあらゆる薬屋よりも、遥かに斯道に通じているところを見せたのでした。実際、彼は市場《スーク》で自分の入用な品全部を買いととのえてから、自宅に帰り、すぐにくだんの調合薬を調剤しはじめました。
まず、シナ産|篳澄茄《ひつちようか》の煮詰めた菓糖二オンス、イオニア産大麻の濃い精《エキス》一オンス、生《なま》の丁字《カリオフイル》一オンス、セレンディブ産赤い肉桂一オンス、マラバル産白い小豆蒄《しようずく》十ドラクム(1)、インド産|生姜《しようが》五ドラクム、白胡椒五ドラクム、島々の唐辛子五ドラクム、インド産大|茴香《ういきよう》の星形の漿果一オンス、それに山地の立麝香草半オンスを取り上げました。次に全部をよく搗《つ》いて篩《ふるい》にかけてから、上手に混ぜ合わせ、それに生粋の蜂蜜を垂らし、こうして濃い練物を作り、それに麝香五粒と魚類の卵を潰したもの一オンスを加えました。その上更に薔薇水の薄い水薬少々を加えて、全部を瀬戸物の鉢に入れました。
そこで彼は、いそいでその鉢を、会頭シャムセッディーンのところに持って行って、言いました、「これこそ男の卵を固くし、その水っぽすぎる汁を濃くする、無上の調合薬です。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百五十二夜になると[#「けれども第二百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから彼は付け加えて言いました、「この練物をば、性交時の二時間前に服用しなければなりません。けれども、その前にあらかじめ、三日間、一切の食物としてはただ、たっぷりと香料をつけた焼き鳩と、腹に白子《しらこ》のはいった雄の魚類と、それからさっと焼いた牡羊の卵と、これ以外のものを摂《と》ってはなりません。そして、こうしたすべてをもってしても、まだあなたが城壁をも貫き、裸の岩をも孕ませるようにならなかったら、このわたし、胡麻の、口髭と顎鬚を剃りおとしてもよろしいし、どうぞ私の顔に痰《たん》を吐きかけて下され。」そしてこう言って、会頭に瀬戸物の鉢を渡して、立ち去りました。
そこで会頭は考えました、「きっと、あの放蕩に生涯を過ごした胡麻のことだから、固くする薬のことは、よく心得ているにちがいない。それでは、私もアッラーとやつに信を置くとしよう。」そして自宅に帰って、もともと愛し愛されている仲の妻女と、いそぎ仲直りして、二人でお互いに一時の腹立ちをあやまり合い、つまらない言葉の勢いでいさかいをしたと思うと、ひと晩中辛い思いをしたことを、打ちあけ合ったのでございました。
その後で、シャムセッディーンは、三日の間、胡麻に命じられた養生法を丹念に守りはじめ、最後に例の練物を服用いたしました。
すると彼は、自分の血がまるでむかし若い頃、同じ年頃の悪童連中と賭をした時分みたいに、ひどく激するのを感じました。そこで妻に近よって、乗り掛りました。妻もそれに応じて、そして、永もち、繰り返し、熱烈、噴出、強さ、堅さの点で、二人ともその成績に感嘆したのでした。
そこでその夜、会頭の妻は懐胎いたしまして、これは決してまちがいのない、ある体内のしるしによって、確信が持てました。
妊娠は順調に進んで、日を重ねて九カ月経ちますと、妻女はめでたく分娩いたしましたが、どうも恐ろしい難産でした。というのは、生まれてきた子供は、まるで満一歳ほどもある大きな子でした。そして産婆は、慣習《ならわし》の祈念を唱えてから、この年になるまで、こんな丈夫で美しい子はついぞ見たことがないと申しました。胡麻の霊験ある練物を思えば、これも少しも怪しむには当りません。
そこで産婆は赤子を取り上げて、アッラーとムハンマドとアリー(2)の御名《みな》を念じつつ、洗ってやり、赤子の耳許で回教徒の信仰証言《シヤハーダ》を唱え、襁褓《むつき》で包んで、母親に渡しますと、母親は赤子がお腹がくちくなって眠るまで、乳を与えました。そして産婆はなお三日母親のそばにとどまって、万事無事なことを確かめ、近所の女のひとたち一同に、この機会にこしらえたお菓子を配るまで、立ち去りませんでした。
七日目に、まず産室に塩を撒いて、それから会頭が、妻女にお祝いを言いにはいってきました。次に訊ねました、「アッラーの授け物はどこにいるかね。」母親はすぐに嬰児《みどりご》を差し出しました。会頭シャムセッディーンは、この七日目なのに満一歳ぐらいにみえて、昇り際《ぎわ》の満月の顔をした男の子の美しさに、驚嘆いたしました。そして妻女に訊ねました、「お前はこの子を何と呼ぶかね。」妻女は答えました、「これがかりに女の子ならば、私が自分で名をつけるでしょうが、何せ男の子ですから、まずあなたに先に選んでいただきましょう。」
ところが、ちょうどその時、子供に襁褓《むつき》を着せていた女奴隷のひとりが、赤ん坊の左のお臀の上に、ちょうど麝香の粒のような、かわいらしい褐色の痣《あざ》がひとつ、ほかの場所の白さの上に、形も色もはっきりと浮き上っているのを見て、感に堪えず、悦びに泣いたのでありました。それにまた、赤子の双の頬にもやはり、もっと小さいのですが、黒くて天鵞絨のような、愛らしい粒がひとつずつ、ついておりました。そこで貫禄のある会頭は、この発見から思いついて、叫びました、「この子はアラエッディーン・ほくろ(3)と呼ぶことにしよう。」
そこでこの赤子は、「アラエッディーン・ほくろ」と名づけられました。けれども、これでは長すぎるので、みんなはただ「ほくろ」とだけ呼びました。そしてほくろは四年の間、二人のちがった乳母と母親との乳で養われました。それで若獅子のように強くなり、素馨のように白く、薔薇のように薔薇色でございました。そしてたいへん美しく、近所と親戚の小さな女の子たちは、みんな夢中になって可愛がりました。この子はそういう褒め言葉は受けましたけれども、女の子たちに抱かれるのは決して承知せず、女の子たちがあまりそばに寄ると、乱暴に引っ掻くのでした。そこで小さな女の子や若い娘たちまでもが、この子の眠っている間に寄ってきて、安全に接吻を浴びせ、その美しさとみずみずしさに感嘆するのでございました。
ほくろの父親と母親は、自分の息子がどんなに崇拝されちやほやされるかを見ると、息子のために凶眼を恐れました。そして、この危険な感化を受けさせないようにしようと決心しました。そのために、よその両親たちは、自分の子供の顔に蠅とか汚ない物なぞをたからせておいて、顔を美しくなく見せ、子供らに凶眼を引き寄せないようにしておくのですが、ほくろの両親はそんなことをせずに、自宅の下に地下室を設けて、そこにこの子を閉じこめ、こうしてあらゆる人目から遠ざけて育てました。そしてほくろは、このようにしてすべての人に知られずに、けれども奴隷と宦官の絶え間ない注意に包まれて、大きくなったのでした。そして年が長ずるに及んでは、非常に学識のある先生たちに就かせられ、能書術やコーランやいろいろの学問を教わりました。そして美しく姿がよいと同じように、物識りにもなりました。それでも両親は、この子に鬚が生えて、地に垂れるほど延びるまでは、地下室から出すまいと決心したのでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百五十三夜になると[#「けれども第二百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、ある日のこと、ほくろに御馳走の盆を運んできた奴隷の男のひとりが、出て行ったあと、ふと地下室の扉を閉め忘れました。するとほくろは、この地下室が広々として、垂幕や帳《とばり》がいっぱいあったので、今までこの扉に全然気がつかずにいたのですが、今これが開いているのを見ると、いそいで部屋を出て、折から訪問に見えたさまざまの貴婦人たちに取りまかれた、母親のいる階のほうへと、上ってゆきました。
このとき、ほくろは十四歳のすばらしい美少年になっていて、酔った天使のように美しく、両の頬は果物のようにうぶ毛で蔽われ、ひとに見えないほくろは別として、唇のほとりには、相変らず両脇に黒いほくろがついておりました。
ですから、婦人たちは自分たちのまんなかに、突然見知らぬこの若者がはいってくるのを見ると、あわてふためいて、いそいで顔を蔽って、シャムセッディーンの妻に言いました、「アッラーにかけて、私たちのところに、こんな風に他処《よそ》の若い男をはいらせるとは、何というはしたないなさり方でしょう。恥を知ることこそ、信仰の根本の教えのひとつなことを、あなたは御存じないのですの。」
けれどもほくろの母は答えました、「どうぞアッラーの御名《みな》をお唱え下さいまし。おおお客様方、今皆様の御覧になっている男は、わたくしの愛児にほかなりませず、わたくしの胎《はら》の果実、カイロの商人会頭の息子、たっぷりと乳の出る乳母《めのと》の乳房と、美しい女奴隷たちの腕との上で、選りぬきの処女たちの肩と、この上なく清らかな、この上なく高貴な胸の持主たちの胸との上で、育てられた子供でございます。これこそ母親の眼《まなこ》で、父親の誇り、ほくろと申す者でございます。どうぞアッラーの御名《みな》をお唱え下さいまし、おおお客様方。」
そこで貴族《アミール》や豪商の妻女たちは、答えました、「その子の上と周囲にアッラーの御名《みな》あれかし。けれども、おおほくろのお母様、あなたはどうして今日《こんにち》まで、ついぞ御令息をわたくしたちに見せては下さらなかったのですか。」
するとシャムセッディーンの妻はまず立ち上って、息子の両の眼に接吻し、それ以上お客様方に窮屈な思いをさせまいと、息子を帰しておいて、さて一同に申しました、「あの子の父は、凶眼に会わせまいとて、家《うち》の地下室であれを育てさせたのでございます。何しろ、美しい子でございましたので、もしや身に危険や悪い感化を招いてはと存じ、あの子に鬚が生えるまでは、人前に出すまいと決心いたしました。今ここに出て参ったのは、きっと宦官の誰かが誤って、戸を閉めるのを忘れたせいにちがいありません。」
この言葉に、お客たちは、こんなに美しい息子を持ったことを、会頭の妻にたいそうお祝いを言い、彼の上に至高者の祝福を願った上で、引き取りました。
すると、ほくろは母親のそばに戻ってきましたが、折から奴隷たちが牝騾馬に馬具をつけているのを見ると、訊ねました、「あの牝騾馬は誰のためなのですか。」母親は答えました、「お前のお父様を市場《スーク》にお迎えにゆくのです。」彼は訊ねました、「それでお父様の御商売は何ですか。」母親は言いました、「おお私の眼よ、お前のお父様はお豪い商人で、カイロ中の商人全部の会頭ですし、アラビア人の帝王《スルターン》はじめ、すべての回教徒の王様方の御用商人も、お父様です。お父様がどのくらいお偉いかちょっとお話しすれば、例えば買手の人たちは、千ディナールの額を越えるような大きな取引でない限りは、直接お父様にお話はしないのです。それより小さな取引ならば、たとえ九百九十ディナールの取引であろうと、それはお父様を煩わさず、お父様の使用人たちが取り扱うのです。どんな商品でも積荷でも、前もってお父様に知らせがなく、相談を経ないでは、カイロにはいることも、出ることも決してできません。ですから、わが子よ、アッラーはお前のお父様に、数えきれないほどの富を授けたもうたのです。アッラーに感謝しなければなりませんよ。」
ほくろは答えました、「ほんとうにそうです。私を商人会頭の子に生まれさせたもうた、アッラーは称《たた》えられよ。それでは、私はもうすべての人たちの眼から遠ざかって、閉じこもった暮しをしていたくございません。明日からすぐ、お父様と一緒に市場《スーク》にゆかなければなりません。」母親は答えました、「どうかアッラーがお前の言葉をお聞き下さるように、伜よ。お父様がお帰りになったらすぐ、お話ししてみましょう。」
そこでシャムセッディーンが戻ってくると、妻は今日起ったことを話してから、言いました、「本当に、もう家《うち》の息子を御一緒に、市場《スーク》に連れてゆきなすってよい頃です。」会頭は答えました、「おおほくろの母よ、それではお前は、凶眼というものが本当にあることで、こんなまじめな事柄を、ふざけてはいけないことを知らないのか。隣りの誰それにしろ、また隣りの誰それにしろ、そのほかたくさんの人たちの息子が、凶眼のために殺された、あの運命を忘れたのか。墓には、半分は、凶眼のため持ってゆかれた死人たちが住んでいると思って、まちがいないのだ。」
会頭の妻は答えました、「おおほくろのお父様、実際のところ、人間の天命はその首に結びつけられております。どうして人間に天命をまぬがれることができましょう。書かれたことは消されることができませず、そして息子というものは、生死ともに、父親と同じ道を辿ることでございましょう。それに、家《うち》の子が、いつの日かあなたの過ちの犠牲となる、悲しい結果のこともお考え遊ばせ。実際のところ、私はいつも祝福された幾久しい御長寿を祈りますものの、あなたがお亡くなりになった暁には、世間では誰も、家《うち》の息子をあなたの富と所有物《もちもの》の正当な後継者と、認めようとはいたしますまい、今日《こんにち》まで誰も、息子がいることを知らずにいるのでございますもの。そういうわけで、そうなると、国庫があなたの全財産を押収して、あなたの息子のものを、手の施しようなく、横取りしてしまうことでしょう。私がいくらお年寄りたちの証言を求めても、お年寄りたちもただ、『会頭シャムセッディーンに、誰ぞ息子がいるとか娘があるとかいうことは、私たちもついぞ聞いたことがなかった』と、言うよりほかないでございましょう。」
この分別のある言葉に会頭も考えさせられて、やがてすぐ、答えました、「アッラーにかけて、お前の言うことはもっともだ、おお女房よ。ではさっそく明日から、ほくろを一緒に連れて行って、売買、取引、そのほか商売のすべての要領《こつ》を、教えてやるとしよう。」次に、この知らせに大悦びのほくろのほうを向いて、これに言いました、「お前が私と一緒に来るのが嬉しくてならないでいるのは、私も承知だ。けれども、息子よ、市場《スーク》ではごく謹直にしていて、慎しみ深く眼を伏せていなくてはいけない。だから私はお前に、先生方の賢い戒めと、仕込まれたよい教訓を、あそこで実行してもらいたいと思いますよ。」
翌日、会頭シャムセッディーンは、息子を市場《スーク》に案内するに先立って、まずこれを風呂屋《ハンマーム》にはいらせ……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百五十四夜になると[#「けれども第二百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……まずこれを風呂屋《ハンマーム》にはいらせ、浴後に、自分の倉にある一番美しい、柔らかい繻子の着物を着せ、額には、金色の絹の薄い網目のついた布地の、軽いターバンを巻いてやりました。そのあと二人で軽い食事をして、氷菓《シヤーベツト》を一杯飲み、こうして涼を入れて、揃って風呂屋《ハンマーム》を出ました。会頭は奴隷たちの押える白毛の牝騾馬に跨り、自分のうしろに息子のほくろを乗せましたが、ほくろの顔色のみずみずしさは一段と際立ち、その輝く眼は、天使たちさえも心を奪われたことでございましょう。それから、こうして一緒に牝騾馬に乗り、新しい着物を着た奴隷たちに前後を付き添われて、一同|市場《スーク》への道をゆきました。
これを見ると、市場《スーク》の商人全部と買手と売手の全部は、すっかり驚き入って、お互いに言いあうのでした、「やあ、アッラー、あの子をごらん。第十四夜の月だ。」またほかの人たちは言うのでした、「あの会頭シャムセッディーンのうしろにいる、愛くるしい子供は、いったい誰だろう。ついぞ見たことがないが。」
こんな風に、会頭とほくろの乗った牝騾馬が通ってゆくと、みんなが感嘆の叫びをあげているうちに、ふとそこに、仲買人の胡麻が市場《スーク》を通りかかり、やはりこの少年を見たのでした。ところが胡麻は、放蕩と麻薬《ハシーシユ》や鴉片を用いすぎたために、とうとうすっかり記憶を失ってしまい、むかし自分が白子《しらこ》や、麝香や、篳澄茄《ひつちようか》の菓糖、そのほかたくさんの上等な品々をもとにした、霊験あらたかな調合薬を用いて処方した療法のことなぞ、もう思い出しもしない次第でした。
そこで、会頭がこの少年と一緒にいるのを見ると、彼は下種《げす》っぽくあざ笑いはじめ、自分の言うことを聞いている商人たちに、こう言うのでした、「まあ、あの白い鬚の爺さんを見てやってくれ。あいつは韮葱《にらねぎ》みてえだ。外は白く、中は緑ときてやがる。」そして彼は商人から商人へと渡り歩いては、めいめいにその洒落《しやれ》と冗談を繰り返して廻ったので、しまいには、会頭シャムセッディーンが自分の店に、若い白人奴隷《ママルーク》の稚児さんを置いているということを確《かた》く信じない者は、もう市場《スーク》に誰もいないようになりました。
この噂がお歴々と主だった商人の耳に達すると、なかで最も年長の連中と、重んじられている連中とが集って、自分たちの会頭の場合を批判する会合が、開かれました。集りの席上で、胡麻は滔々と弁じ立て、盛んに身振り手振りをして、言うのでした、「われわれは今後もはや、公衆の面前で、若い少年どもとねんごろにするような、あんな不行跡な鬚を、市場《スーク》の会頭に戴くことは御免だ。さればわれわれは今日から、今まで毎朝してきたように、開店に先立って、会頭の前で開扉《フアーテイハ》の七つの聖句を唱えにゆくことは、やめるとしよう。そして今日中に、あの爺よりももうすこし少年好きでない、別の会頭を選ぼう。」
この胡麻の演説に、商人たちは何の言い分もなく、満場一致、この提案を採用しました。
貫禄のあるシャムセッディーンのほうはといいますと、定刻になっても一向に、商人と仲買人が彼の前に開扉《フアーテイハ》の儀式の章句を唱しに来ないで、過ぎてしまったのを見ると、こんなに重大な、またしきたりに反する怠慢は、いったい何のせいかわからないのでした。そしてちょうど程遠からぬところに、例の放蕩者の胡麻が、こちらを盗み見しているのを見かけたので、ちょっと話したいことがあるから来るようにと、合図をしました。胡麻はこの合図を待ち構えていたところなので、すぐ寄ってきましたが、しかしゆっくりと、あくまで悠々と構え、ひどくぞんざいに足を引きずり、右に左に、ひたすら彼だけに眼を凝らしているあたりの店主たちに、わかっているぞというような薄笑いを投げながら、やって来るのでした。店主たちは、すっかり好奇心に駆られて仕事に手がつかず、彼らの眼には何よりもまずこの事件が第一と見え、この解決を待ちわびているのでありました。
そこで胡麻は、自分があらゆる視線と全体の注意の焦点だと知って、身体を揺すりながらやってきて、店先によりかかりましたので、シャムセッディーンはこれに訊ねました、「なあ胡麻よ、長老《シヤイクー》をはじめ商人たちが、私の前に、開扉《フアーテイハ》を唱しに来ないとは、そもそもどうしたことなのか。」胡麻は答えました、「へーえ、知りませんな、私は。まあ、市場《スーク》には、こういった噂が立っている、噂というか何というか、まあ噂だね。とにかく、私のよく知ってることはだね、主だった長老《シヤイクー》が集って一派を作り、あなたを罷《や》めさせて、会頭の役目には誰か別の人を就けようと、こうきめたということさ。」
この言葉に、貫禄のあるシャムセッディーンは顔色を変えたが、しかしやはり重々しい口調で、訊ねました、「せめて、その決定がどういう根拠によるものか、知らせてもらえないかな。」胡麻は目配せして、腰を振って、答えました、「さあさ御老人《シヤイクー》、とぼけた風はやめにしてもらいましょう。誰よりも御自分がよく承知のくせに。あなたが店に置いたあの少年は、何もただ蠅を追うだけのことでいるわけじゃあるまいて。いずれにしろ、これだけはよく知っておいてもらいたいが、この私は万事押し切って、集りのなかでたったひとり、あなたを弁護したものだ。あなたは決して稚児さん好きじゃない、もしそうなら、この私はおよそ好んでこれを嗜《たしな》んでいるやつ全部とは、親しい間柄なんだから、私が第一に知っている筈だ、とこう言ってやった。その上、あの少年はきっと何かあなたの奥さんの身内か、それともタンター(4)か、マンスーラー(5)か、バグダードあたりの、あなたの友だちの誰かの息子が、商用でお宅にきたものにちがいないとまで、付け加えておいてあげたのだ。だが満座のひとが私の味方をしないで、あなたを罷めさせることを決議した。アッラーは至大でいらっしゃる、おお御老人《シヤイクー》よ。あなたにはこんなにかわいい少年という慰めがありますよ。ここだけの話だが、この美少年についちゃ、おめでとうと言わせてもらいましょう。実もって佳《よ》い児だ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百五十五夜になると[#「けれども第二百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この胡麻の言葉に、会頭シャムセッディーンはもう憤りを抑えることができなくなって、叫びました、「黙れ、おお放蕩者のなかでも一番腐ったやつめが。これが私の子だということを、お前はもう忘れたのか。お前の記憶はどこへ行ったのか、おお麻薬食《ハシーシユく》らいが。」けれども胡麻は答えました、「だがいったいいつから、あなたに子供ができたんですかい。それじゃあの十四の児が、いきなりそっくり、母親の腹から飛び出したというわけですかい。」シャムセッディーンは答えました、「だが、おお胡麻よ、今から十四年前に、あの卵を濃くし汁を凝《こご》らせる霊験あらたかな調合薬を、私に持ってきてくれたのは、ほかならぬお前自身だったことを、お前は覚えていないのか。アッラーにかけて、あの薬のお蔭で、私は孕ませることができて、アッラーがこの息子を授けたもうたのだ。その後お前はついぞ、その療法の首尾を訊ねに来てくれなかった。さて私は、凶眼を恐れて、この子をばずっとわが家の広い地下室で育てさせ、今日はじめて、一緒に外に連れて出たわけだ。なぜなら、私の最初のつもりでは、この子が自分の鬚を自分の手でしごくことができるようになるまでは、外に出すまいと思っていたのだが、母親のすすめで、将来を慮《おもんぱか》って、商売を覚えさせ、事務に通じさせるため、ここに一緒に連れてくる決心をした次第なのだ。」
次に付け加えて言いました、「さて胡麻よ、お前については、私はやっとのことでお前に出会って、自分の負債を返せるのを嬉しく思う。お前の立派な薬のお蔭で、むかし私に尽してくれた骨折りに対して、ここに千ディナールある。」
胡麻はこの言葉を聞くと、今はもう真実を疑わず、駈けまわって商人全部に誤りを悟らせたので、彼らもすぐにいそぎ駈けつけて、まず会頭に祝辞を述べ、次に開店の祈祷が遅れたことを詫びて、その場で、彼の両手の間で祈祷を唱えたのでございました。
それがすむと、胡麻は一同に代って口を切って、申しました、「おおわれらの尊ぶべき会頭よ、何とぞアッラーは、木の幹をもまた枝々をも、末長く保って、われわれの愛慕を受けさせたまいますように。そして願わくは、枝々もまた花咲いて、香り高い金色の果実を結びますように。けれども、おおわれらの会頭よ、世上誕生の際には、貧しいひとびとさえも、菓子を作らせて、これを友人と近隣に配るものです。しかるに私どもはまだ、バターと蜜のアシダ(6)の練粉料理をもって、私どもの口を甘くしておりませぬ。このお料理こそは、赤子のために祈りつつ味わうに、まことによろしきもの。さればいつ、この結構なアシダの大鍋を振舞っていただけましょうか。」
会頭シャムセッディーンは答えました、「よいとも、それこそ私の望むところだ。大鍋いっぱいのアシダばかりじゃなく、カイロの城門にある私の別荘の、庭のまん中で、ひとつ皆さんに大盤振舞いをいたしましょう。では友人の皆様方、明朝、私の庭にぜひお越し下さい。あそこで、アッラーの思し召しあらば、私どもはただ延び延びになっていただけのことを、明日取り返すといたしましょう。」
貫禄のある会頭は、そこですぐに自宅に帰って、明日のために盛大な準備をさせ、六カ月の間青草をたっぷり食わせた羊と丸ごとの仔羊に、多量のバターを添え、また数知れぬ練粉菓子の皿やそれに類したいろいろの品を、竈《かまど》に入れて、夜が明けると早々焼かせるようにしました。そしてそのためには、菓子作りの上手な家中の女奴隷と、ゼイニ街中の糖菓作りと饅頭作り全部に、分担させたのでした。ですから、こんなに骨折ったあげくのこととて、全く何ひとつ申し分ない有様であったことは、申さずにいられません。
翌日、早朝、シャムセッディーンは息子のほくろと一緒に、その庭に出向いて、奴隷たちに二つの大きな食布を、互いにかなり隔たった二カ所に、拡げさせました。それからほくろを呼んで言いました、「息子よ、見てのとおり、私は別々に二つの食布を拡げさせた。一方は大人用で、もう一方は、父親と一緒に来る、お前の年頃の子供用だ。この私は、鬚のある大人を迎えるから、息子のお前は、鬚のない子供たちの応接を引き受けなさい。」けれども、ほくろは驚いて、父親に訊ねました、「どうしてこんな風に分けて、二つ別な接待をするのですか。普通こういう風にするのは、男と女の間だけでしょう。私のような男の子が、いったい鬚のある大人たちを、何の恐れることがあるのでしょう。」会頭は答えました、「息子よ、まだ鬚のない幼い子供たちは、父親の前にいるよりも、自分たちだけのほうが気持が楽で、そのほうがお互い同士よく遊べるだろうよ。」そしてほくろはすなおにとって、この返事に満足したのでした。
そこで、お客様が来ると、シャムセッディーンは年配のひとびとを、ほくろは子供と少年たちを、迎えはじめました。そして一同食べ、一同飲み、一同歌い、一同楽しみました。陽気と悦びがすべての顔の上に輝き、薫香と香料が香炉のなかで焚かれました。次に、御馳走が終ると、奴隷たちは氷菓子を満たした杯を、お客に渡しました。それからは、大人にとっては愉快に談笑する時となり、一方、向う側の少年たちは、お互いにいろいろと面白い遊びに耽るのでした。
ところが、このお客のなかにひとりの商人で、会頭の一番の上得意のひとりがおりました。しかるにこれは名代の男色家で、界隈の美少年で、この男の功名をまぬがれた者はひとりとしていないという有様でした。実はマハムードという名前なのですが、「両刀使い」という渾《あだな》名以外に、知る者がありませんでした。
この両刀使いマハムードが、向うのほうで子供たちの挙げる叫び声を聞くと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、シャハリヤール王によって許された物語を中止した。
[#地付き]けれども第二百五十六夜になると[#「けれども第二百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼はすっかり心を動かされて、考えたのでした、「あっちに行けば、きっと意外の拾い物があるにちがいないぞ。」そして一同が注意していない隙に乗じて、立ち上り、さしせまった小用を足しにゆくような風をしました。それから、そっと立木の間に潜り込んで、少年たちのまんなかに出ました。彼は少年たちの優しい身ごなしとかわいらしい顔を前にして、驚いて立ちどまりました。そして最も美しい少年たちの間でも一番美しいのは、無論、ほくろであると気づくのに、大して暇どりませんでした。そこでどうやってこれに話しかけ、ひとりだけ側《わき》に連れて行ったものかと、いろいろ工夫をめぐらしはじめて、考えました、「やあ、アッラー、あの児がちょっと仲間から離れてくれさえすればなあ。」ところが、天運は彼の希望以上に叶えてくれたのでございました。
果して、ある時になると、ほくろは遊戯で上気し、運動のため頬をすっかり薔薇色にしていましたが、そのうち彼もまた小便にゆきたくなりました。躾けのよい子供でしたので、みんなの前でしゃがむような真似をせず、木立の下に出かけました。両刀使いはすぐに独りごちて、「今おれがあの児に近よったら、きっと怯えさせるにちがいない。これは手を変えてするとしよう。」そして彼は自分のいる木の蔭から出て、少年たちのまんなかに姿を現わすと、少年たちは彼とわかって、その脚の間を駈け抜けながら、からかいはじめました。彼は大満足で、みんなに微笑みかけながら、されるがままになっていましたが、最後にこう言い出しました、「私の言うことをお聞き、おお子供たち、もしお前たちが首尾よくあのほくろに、旅の気持を起させ、カイロを離れる気にならせたら、お前たちひとりひとりに新しい着物一着と、お前たちのどんな気まぐれでも叶えられるだけの金子《かね》を、明日あげると約束するがね。」すると少年たちは答えました、「おお両刀使いの小父さん、そんなことは造作ないよ。」そこで彼は一同を後《あと》に残して、鬚のある大人の間に坐りに戻りました。
さて、ほくろが小便を済ませて元の場所に帰ると、友達たちはお互いに目配せして、そして一座で一番口達者の少年が、ほくろに向って言いました、「君のいない間、僕たちは旅のすてきなことや、遠いすばらしい国々、ダマスとか、アレプとか、バグダードなんかの話をしていたんだよ。ねえ君、ほくろ君、君のお父さんは何しろ金持なんだから、君はさだめしいく度も、隊商《キヤラヴアン》を連れたお父さんの旅行に、一緒に従《つ》いて行ったことがあるにちがいないと思うんだが。ひとつ僕らに、君の見た一番すてきなことを、すこし話してくれないか。」けれどもほくろは答えました、「僕かい。じゃ君たちは、僕が地下室で育てられて、やっと昨日はじめて外に出たんだっていうことを知らないのかい。そういう有様じゃ、旅行も何もあったものじゃない。今のところじゃ、お父さんが家から店まで従《つ》いて行かせてくれるのがせいぜいだよ。」
すると同じ少年が返答しました、「そいつは気の毒にほくろ君、君は無上の悦びを、味わうことさえできないうちに、取り上げられてしまったわけだ。ねえ君、万一君が旅のすてきな味を知ったら、もう一刻も、お父さんの家にじっとしている気になんかなれまいぜ。詩人はみんな競って、さすらいの楽しみを歌っていて、彼らがこれについて残した詩のほんのひとつふたつに、こんなのがある。
[#2字下げ] 旅よ、誰か汝《な》が驚異を告げん。おお友どちよ、美しき物はすべて変化を好む。かの真珠すらも、海の小暗《おぐら》き底を出で、王侯の冠と王女の項《うなじ》の上に棲《と》まらんとて、渺茫たる境を過《よ》ぎるなり。」
この詩節を聞くと、ほくろは言いました、「いかにもそうだ。けれども自宅にのんびりいるということにも、またそれとしての楽しさはあるよ。」すると少年のひとりは笑い出して、仲間に言いました、「まあすこしあのほくろを見てくれ。あいつは魚みたいだ。魚は水を離れると、すぐ死んじまうよ。」また別の少年はもっと輪をかけて、「いや、きっとあいつは、頬っぺたの薔薇色がさめるのを恐がっているんだね。」三人目は付け加えます、「あいつは女みたいだっていうことが、君たちにはわからないのかい。女っていうものは街《まち》に出たら最後、もうひとりきりじゃ一歩も歩けないのさ。」また最後にひとりが叫びました、「何ということだい、ほくろ君、君は男子じゃないということを恥じないのか。」
こうしたすべての罵倒を聞くと、ほくろはすっかり癪にさわって、そのままお客を置き去りにし、牝騾馬に跨って町への道を進み、心には怒りを、眼には涙を湛えて、母親の許に着きますと、母親はこの有様を見てびっくりしました。ほくろは母親に、友達たちから嘲弄の的《まと》になった次第を繰り返し、そして即座に旅に立ちたい、どこでもかまわない、とにかく旅に立ちたいと申し出ました。そして言い添えました、「ほら、ここに短刀があります。もしお母様が旅に出してくれないなら、この短刀を胸に突っ立てます。」
こんなに思いがけない決心を前にして、かわいそうに母親は、ただ涙を呑んで、この計画に同意するよりほか致し方ございませんでした。そこで、ほくろに言いました、「息子よ、お母様は力の及ぶかぎり助けてあげると約束します。けれども、お父様がいけないとおっしゃることは、今からよくわかっていますから、お母様が自分で、自費でもって、お前に商品の荷積の支度をしてあげましょう。」ほくろは言いました、「それじゃ今すぐ、お父様が帰っていらっしゃらないうちに、支度をして下さい。」
すぐにシャムセッディーンの妻は、奴隷たちに商品の貯蔵倉庫のひとつを開けさせて、荷造り人たちに、駱駝十頭分に積むだけの、十分の数の梱《こり》を作らせました。
会頭シャムセッディーンのほうはというと、客人たちが引き上げるとすぐに、息子を庭中探してみたが見あたらず、最後に息子は先に帰ったと知りました。そこで会頭は、何か道々息子の身に不幸が起りはしなかったかと思うと、心配でならず、牝騾馬を精いっぱい走らせて、息を切らして、自宅の中庭に着き、門番からほくろが無事に帰宅したと聞いて、ようやく胸を鎮めることができました。けれども、中庭には、すでにいつでも積みこめるようになっている、梱また梱があるのを見た時の、彼の驚きはいかばかりでしたろう。それらの梱にはひとつびとつ荷札に、大きな字で、アレプ、ダマス、バグダードと、それぞれ別な行先が記《しる》してあるのです。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百五十七夜になると[#「けれども第二百五十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
会頭はそこで、いそいで妻のところに駈けあがりますと、妻は起ったことすべてを知らせ、ほくろの意に逆らうと、とんだことになりかねない旨を話しました。すると会頭は言いました、「とにかく、一応考えなおすように言ってみよう。」そしてほくろを呼んで言いました、「おおわが子よ、何とぞアッラーがお前の蒙を啓《ひら》いて、この好ましからぬ計画を思いとどまらせて下さるように。われらの預言者(その上に祈りと平安あれ)のおっしゃったことを、お前は知らないのか、『己が生地の産物もて身を養い、己が生国そのもののうちに、己れの生の満足を見出す人間は幸いなり。』また古人たちも言った、『たといただ千歩の旅なりと、決して旅を企つることなかれ』と。されば、おお伜よ、こうした言葉を聞いてもなお、お前は飽くまで決心を変えないものかどうか、聞かせてもらいたい。」
ほくろは答えました、「おおお父様、それはもう、私はお言葉にそむきたいとはつゆ思いません。けれども、もしお父様が私のやむにやまれぬ願いを拒んで、私の出発に反対なさるなら、私は自分の着物を脱ぎ棄てて、貧しい修道僧《ダルウイーシユ》の着物をまとい、そして徒歩で、諸方の国と土地を跋渉しに出掛けます。」
息子は是が非でも旅立つ決心でいるのを見ると、会頭もその計画に逆らうことは、あきらめざるを得なくなって、これに言いました、「それでは、わが子よ、ここに更に四十駄の荷を添えてあげよう。そうすれば、お母さんの下さった十駄と合わせて、駱駝五十駄分となる。そこには、これからお前の行く先々の町それぞれの需要に宛てる、特別な商品がある。というのは、例えば、ダマスの住民の好む織物は、アレプで売ってみようとしてもだめだからだ。それは下手な商売というものだ。では出発するがよい。息子よ、何とぞアッラーがお前をお護り下さって、お前の道を平らかにして下さるように。とりわけ『獅子の砂漠』で、『犬の谷』と呼ばれている場所を横ぎるときには、くれぐれも用心しなさいよ。そこは追剥強盗の巣窟で、その親分は、襲来攻撃が突然なため、『疾風』と渾名されているベドウィン人だ。」するとほくろは答えました、「よきにせよ悪しきにせよ、出来事はすべてアッラーの御手《おんて》からわれわれに来ます。そして私がどうしようと、ただわが身に来たるべきものにしか出会わないでありましょう。」
こうした言葉には答えようがないので、会頭はもう何も言いませんでした。けれども妻のほうは、千の願を懸け、行者《サントン》に百頭の羊を約束し、旅行者の守護者エル・サイード・アブデル・カーデル・エル・ギラーニ(7)様の、聖なる庇護《おまもり》の下に息子を置いた上でなければ、安心できないのでございました。
それが済むと、自分の心のすべての涙を息子に注ぎかけて泣く、気の毒な母親の腕から、やっとのがれ出ることのできた息子を従えて、会頭は、すでにすっかり用意のできている隊商《キヤラヴアン》を見にゆきました。
そして彼は駱駝曳きと驢馬曳きたちの年とった親方《モカツデム》(8)、カマル老を側《わき》に呼んで、これに言いました、「おお尊ぶべき親方《モカツデム》よ、私はわが眼の瞳《ひとみ》のこの子をば、あなたにおまかせし、これをアッラーの御翼《おんつばさ》の下と、あなたの監督の下に置きます。そしてお前、わが息子よ、」と、ほくろに向って言いました、「この仁は、私のいない間、お前の父親代りになって下さる方だ。よくこの方の言うことを聞いて、この方に相談せずには、決して何ごともしてはならない。」それからほくろに金貨千ディナールを与えて、最後の注意として、言い聞かせました、「息子よ、お前にこの千ディナールを上げるから、これを活用して、お前の商品を売る一番有利な潮時を、辛抱強く待つようにしなさい。それというのは、値が下落した時売ることは、ぜひ避けなければならないからだ。お前は織物にしろ、その他の品々にせよ、一番値が騰貴した機会を捉えて、最上の好条件で売り捌くようにしなければならぬ。」それから、別れを告げて、隊商《キヤラヴアン》は出発し、程なくカイロの城門の外に出ました。
さて、両刀使いマハムードのほうはどうかと申しますと、こうでございます。ほくろの出発を知ると、彼もまた程なく支度を済ませて、幾らもたたないうちに、驢馬と駱駝に荷をつけ、馬に鞍を置いたのでした。そして時を移さず発足して、カイロから数マイルのところで、隊商《キヤラヴアン》に追いつきました。そこで彼は独りごとを言いました、「さて、今や砂漠に来たからには、おおマハムードよ、もう誰もお前の罪を訴え出る者はなく、誰もお前を見張りに来る者はあるまいぞ。お前は邪魔のはいる心配なく、ゆるゆるあの児を満喫することができるだろう。」
そこで、最初の宿営から、両刀使いはほくろの天幕《テント》のそばに、自分の天幕《テント》を張らせて、ほくろの料理番に、彼《かれ》マハムードがほくろを招待して、自分の天幕《テント》に、食事を共にしに来るように言ってあるから、わざわざ火を起すに及ばないと、言い含めました。
事実、ほくろは両刀使いの天幕《テント》に来ましたが、しかし駱駝曳きの親方《モカツデム》カマル老が、これに従《つ》いて来たのでした。それでその夜は、両刀使いは金のかけ損になりました。そして翌日、二日目の休止でも、同様、とうとうダマスに着くまで、毎日そうでした。なぜなら、そのつど、ほくろは招待をことわらなかったけれども、ほくろが天幕《テント》に来るときは、いつも駱駝曳きの親方《モカツデム》が従いて来るのでした。
ところが、一行がダマスに着くと、両刀使いはこの地に、カイロとアレプとバグダードにもあると同様、友人を迎えるための、自分の家を一軒持っておりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、大臣《ワジール》の娘シャハラザードは、朝の光が射してくるのを見て、許された物語を中止した。
[#地付き]けれども第二百五十八夜になると[#「けれども第二百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……友人を迎えるための、自分の家を一軒持っておりましたので、町の入口の天幕《テント》にいたほくろのところに、奴隷をやって、どうぞおひとりで、御光来を願いたいと伝えさせました。するとほくろは答えました、「カマル老の意見を訊ねてくるから、ちょっと待って下さい。」ところが駱駝曳きの親方《モカツデム》は、この申し出に眉をひそめて、答えました、「いかん、わが子よ、ことわりなさい。」そこでほくろは招待を辞退しました。
ダマス滞在は長期にわたらず、一行はやがてアレプに立ちましたが、アレプに着くとすぐ、両刀使いはほくろを招きに使いを出しました。しかしダマスでと同様、カマル老は見合わせることをすすめたので、ほくろは、なぜ親方《モカツデム》がこんなに厳格なのかあまりわからなかったけれども、とにかく意に逆らいたくないと思いました。それで、こんどもまた、両刀使いは、旅をしたのも金をかけたのも、丸損になりました。
ところが、アレプを離れたとき、両刀使いは、もう今度こそはこんな風にはさせまいと、固く心に誓ったのでした。そこで、バグダードに向っての最初の休止の時すぐに、彼は前例のないような盛宴の準備をさせて、自身出向いて、ほくろに一緒に来てくれるようにと誘いました。こんどはさすがにほくろも、強いて反対するだけのれっきとしたいわれもないので、承知しないわけにゆかず、まず適当に身なりを整えようと思って、自分の天幕《テント》に戻りました。
するとそこにカマル老が追いかけてきて、言うのでした、「何ともお前さんは軽はずみだ、おおほくろよ。なぜマハムードの招待なぞ承知したのです。いったいあいつの肚の中を御存じないのか。あいつが両刀使いという異名をとったわけを、知らないのかね。いずれにせよ、お前さんはまず、老人《シヤイクー》たる私の意見を聞かなければならないところだった。詩人たちも、老人《シヤイクー》について言ったことだ。
[#2字下げ] われは老人《シヤイクー》に問いぬ、『何ゆえに身を曲げて歩みたもうぞ。』老人《シヤイクー》は答えて曰く、『われは地上にわが青春を失えり。そを探さんとて、われは身を曲げたり。しかして今やわが上にのしかかる経験はげに重く、わが背を起すを妨ぐるなり。』」
けれども、ほくろは答えました、「おお尊ぶべき親方《モカツデム》よ、われわれの友マハムードの招待をことわるのは、全く失礼に当るでしょう、なぜあのひとが両刀使いなぞと呼ばれるのか、僕にはよくわからないけれども。それにあのひとに従《つ》いてゆくと、僕がどんな損をするのか、実は見当がつきません。まさか僕が食べられるわけじゃありますまい。」すると親方《モカツデム》は勢いこんで答えました、「いやそうなのだ。アッラーにかけて、お前さんは食べられますよ。現にこれまで大勢さんざん食べられている。」
この言葉に、ほくろは大笑いをして、さきほどから待ちかねている両刀使いのところに、いそいでゆきました。そして打ち連れて、盛宴の用意してある天幕《テント》の下にゆきました。
ところで実際、両刀使いはこの美少年をふさわしく迎えるに、どのような費《ついえ》も厭わず、すべては眼を悦ばせ、官能を楽しませるように、ととのえられておりました。ですから、食事は弾《はず》んで、活気に満ちました。そしてふたりとも大いに食が進み、同じ杯で腹いっぱい飲みました。いよいよ酒がふたりの頭のなかで醗酵し、奴隷たちが慎ましく退《さが》りますと、酒と情欲に酔った両刀使いは、ほくろの上に身をかがめて、両手で彼の頬を押えながら、接吻を盗もうとしました。けれども、ほくろはひどくあわてて、本能的に手を上げました。それで両刀使いの接吻は、若者の手の平にしか出会いません。するとマハムードは、その首のまわりに片方の腕を投げかけ、もう一方の腕を腰にまわしました。そしてほくろが「いったい僕をどうしようというのです」と訊ねると、彼は言いました、「なにただ、こういう詩人の句を、説明してみたいだけさ。
[#2字下げ] いざ、ここに、おおわが眼よ。汝の握り得るものを握り、一《ひと》握り、二《ふた》握り、三《み》握りし、そをば五、六寸あるいは更に深く入れしめよ。されどその汝を痛めざることを。荒々しきことなかれ。」
次に、両刀使いマハムードは、これをいよいよ実地に若者に説明しようとしました。しかしほくろは、この場の様子がよく合点がゆかなかったけれども、とにかくこうした彼の様子、素振り、気配に、非常な気づまりを覚えて、立ち去ろうとしました。すると両刀使いは引き止めて、最後には、とうとうそれがどういうことなのかを覚らせたのでありました。
ほくろは両刀使いの肚の中がよくわかり、その要求をとくと考えてみますと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百五十九夜になると[#「けれども第二百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……ほくろは、即座に立ち上って、彼に言いました、「いけません、アッラーにかけて、僕はこの商品は売りません。いずれにしろ、せめてあなたを慰めるため申せば、かりに僕がこれをほかの人たちには黄金を積ませて売るとすれば、あなたにはただで進上すると、これだけ申し上げねばなりません。」そして両刀使いの嘆願にもかかわらず、ほくろはこの上一刻もこの天幕《テント》に止まろうとはせず、かなりだしぬけにここを出て、いそいで野営に戻ると、そこには親方《モカツデム》が非常に案じて、彼の帰りを待っていました。
そこで、親方《モカツデム》カマルは、ほくろがこんな妙な様子をしてはいってくるのを見ると、すぐに訊ねました、「アッラーにかけて、いったいどんなことが起ったのです。」彼は答えました、「いや絶対に何ごともありません。ただわれわれはすぐにここを引き払って、ぐずぐずせずに、バグダードへ行ってしまわなければならない。というのは、僕はもうあの両刀使いと一緒に旅をするのは、ごめんです。あいつは大それた望みを持っています。」駱駝曳きの老人《シヤイクー》は言いました、「だから言わないことではない、わが子よ。けれども何ごともなかったとは、アッラーは讃められよ。だがここで御注意しなければならんが、そうやってわれわれだけが、ひとり旅をすることは危険千万じゃ。むしろ今までどおり、みんなで一隊を組んだままでいるほうが、このあたりに出没する、ベドウィン人の山賊の襲来に抵抗できるというものですよ。」けれどもほくろは、てんで耳をかそうとせず、出発の命令を下しました。
そこでこの小さな一隊は、単独で進みはじめ、こうして旅することをやめず、とうとうある日、日の暮れ方、もうバグダードの城門まで、僅か数マイルというところまで来ました。
その時駱駝曳きの親方《モカツデム》は、ほくろに会いに来て言いました、「わが子よ、ここに止まって野営をするのはやめて、いっそこのまま今夜のうち、バグダードまで伸《の》してしまうほうがよい。なぜというに、今われわれのいるこの場所は、道中を通じて一番危ない場所で、例の『犬の谷』です。ここで夜を過ごせば、われわれは襲撃を受けるおそれが多分にあるのじゃ。だから、城門が閉まる前に、バグダードに着くように、道をいそぐことにしましょう。というのは、わが子よ、お前さんも知っているにちがいないが、教王《カリフ》は毎夕、都の城門を入念に閉めさせて、異派(9)に凝り固まった放浪の民が、ひそかに都内に潜り込んで、方々の学校の校舎に仕舞ってある、学問の書物と文学の写本類を奪いとってからに、それをティグリス河に放り込むのを、防ぐようにしていらっしゃるのです。」
ほくろはこの提案が意に満たないで、答えました、「いや、アッラーにかけて、都に夜はいるのはいやだ。僕は朝日の昇る時の、バグダードの光景を見たいのだから。今夜はここで過ごすこととしよう。要するに、僕は別に先をいそいでいるわけではなく、商売のため旅をしているのではなくて、ただ自分の楽しみのため、自分の知らないものを見物するために、旅をしているのだからねえ。」それで年とった親方《モカツデム》も、シャムセッディーンの息子のこんな剣呑な強情を嘆きながらも、お辞儀をするより致し方ないのでした。
ほくろのほうは、軽い食事を済ませて、奴隷たちが寝に行ってしまうと、ひとり天幕《テント》を出て、すこしばかり遠く谷間に出て、月光の下の木蔭に、腰を下ろしにゆきました。すると、このように夢想に好適な場所に興を催して、彼は次の詩人の歌を口ずさみはじめました。
[#2字下げ] 軽やかの歓楽満てるイラクの女王、おおバグダード、教王《カリフ》と詩人の都よ、久しくもわれは汝を夢みたりき、おお静かなる……
ところがにわかに、まだ彼が最初の一節を終らないうちに、左手に当って、物凄い叫びと疾駆する蹄の音と、一時に百の口の挙げる喚声が、聞えたのでした。そこで振り向いてみると、自分の野営は、まるで地の下から湧いて出たように、八方から現われたベドウィン人多勢の一隊に、襲われているのを見ました。
この今まで見たこともない光景に、彼はその場に釘付けになって、こうして、防ごうとした隊商《キヤラヴアン》の鏖殺《みなごろ》しと野営全部の掠奪を、遠くから見ることができました。そしてベドウィン人たちは、もう立っている者は誰もいないのを見ると、駱駝と騾馬を曳っぱって、瞬くまに、来た方角に姿を消してしまいました。
茫然としていた状態がすこし覚めると、ほくろは自分の野営のあった場所のほうへ降りて、一行が全部惨殺されているのを見ることができました。駱駝曳きの親方《モカツデム》、カマル老自身も、その尊敬さるべき年齢にもかかわらず、ほかのひとびとよりも容赦されたわけでなく、胸を一面に槍で刺されて、息絶えて横たわっていました。それで、もうそれ以上こんなにすさまじい光景を見るに忍びず、彼は後《あと》を見ることも敢えてしないで、逃げてしまいました。
こうして夜どおし駈けはじめ、また別な山賊の貪欲を煽ってはいけないと思って、自分の立派な着物をすっかり脱いで、遠くに投げ棄て、ただ肌着だけしか、身に残しておきませんでした。彼はこうして半ば裸で、夜明けにバグダードにはいったのでございます。
すると、疲れ果てて、もうどうにも自分の足の上に立っていられなくなり、都の入口で、自分の前に見当った最初の共同泉水場の前に、立ち止まりました。まず手と顔と足を洗ってから、泉水の上にある平らな台にのぼり、そこに長々と横になると、じきに寝入ってしまいました。
ところが両刀使いマハムードのほうはというと、彼もやはり出立しましたが、しかし別な方角から近道をしたので、そのため山賊に遭わずにすみました。それに、彼はほくろがバグダードの城門を跨ぎ、泉水の上に眠っていたちょうどその時に、城門に着いたのでした。
この同じ泉水場のそばを通りかかると、両刀使いは、家畜のために水が流れ出ている石の水飼い場に近づいて、咽喉《のど》が渇いている自分の乗馬に、水を飲ませようと思いました。ところが、馬は眠る若者の影が長く映っているのを見ると、鼻を鳴らしてあとじさりしました。そこで両刀使いは、平らな台のほうに眼をあげると、危うく馬から落ちそうになりました。石の上に眠っている半裸の若者が、ほくろだとわかったのです。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十夜になると[#「けれども第二百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すぐに彼は馬から飛び降りて、その台の上によじのぼると、片腕に頭を載せて、ぐったりと寝入って横たわるほくろの前で、見とれて立ち尽してしまいました。そしてこの時はじめてやっと、褐色のほくろがまっ白な肌の上にくっきりと浮き上って見える、この若い肉体の美わしさを、裸で見入ることができました。そしていったいどういう偶然の結果、これを慕ってはるばるこんどの旅を企てたこの天使に、こうして旅の途上に、泉水の上で眠っているところに出遭ったのか、了解に苦しんだことでした。そして、今むき出しになっている左の臀を飾る、麝香のひと粒のように円い小さな痣《あざ》から、どうしても眼を離すことができません。いったいどう心を定めたらよいものかよくわからずに、独りごとを言いました、「はて、どうしたほうがいいかな。起そうか。それとも、このままおれの馬に載せて運び、この児と一緒に砂漠に逃げるかな。それとも、眼が覚めるまで待って、よく話して気持を和らげさせ、バグダードのおれの家に一緒に来る決心をさせるとしようか。」
結局この最後の考えをとることにきめて、台の縁《ふち》の、若者の足許に腰を下ろし、太陽がこの若々しい身体の上に置く清らかさに眼を涵《ひた》しながら、その眼覚めを待ちました。
ほくろは一度十分に眠りをとると、両脚を伸ばして、眼を半分開けました。その瞬間にマハムードはその手を取って、たいへん優しい声で、これに言いました、「恐がることはない、わが子よ、私のそばにいればもう大丈夫だ。けれどもどうかいそいで、こうしたすべてのわけを聞かせて下さい。」
するとほくろはその場に起き直って、自分の讃美者のいることに気づまりを覚えながらも、とにかく事こまかに事件を話して聞かせました。するとマハムードは言いました、「おお、若い友よ、あなたの財産を取り上げたけれども、一命をば全うさせて下さったアッラーに、讃《たた》えあれ。なぜなら詩人も言いました。
[#2字下げ] 頭《こうべ》さえ恙《つつが》なくば、失われし財のごときは、指を傷つけずして切り落したる爪の切り屑にすぎず。
それにあなたの財産そのものさえも、決してなくなってしまったのではない。だって、私の持っているもの全部は、あなたのものなのだから。では一緒に私の家に来て、沐浴《ゆあみ》をして着物をお召しなさい。もう今からは、マハムードの全財産をば、御自身のものと見なして結構ですし、マハムードの一命は、あなたに献げます。」そしていかにも父親のように、ほくろに懇々と話しつづけたので、ほくろもとうとう従《つ》いてゆく決心をしてしまいました。
そこでまず自分から先に降りて、手を貸してほくろを馬の自分の後ろに乗せ、次に、若者の裸の身体が触れるだけで、もう嬉しさに身ぶるいしながら、自分の家のほうへと出発しました。
彼の第一に気をつかったことは、ほくろを浴場《ハンマーム》に案内して、按摩とか誰か召使なぞの手を借りずに、自分で風呂を使わせてやることでした。そして非常に高価な着物を着せてから、いつもは友人たちを接待する広間に通しました。
それは、七宝と陶器の反射だけに照らされた、蔭濃い爽やかな心地よい広間でした。香の匂いがうっとりとさせ、魂を樟脳と肉桂の夢の園のほうへと運ぶのでした。中央には、ほとばしる噴水が歌っていました。そこでは安らぎが申し分なく、恍惚は安泰の満ちたものであることができました。
ふたりは共々敷物の上に坐ると、マハムードはほくろに座蒲団《クツシヨン》を進めて、腕をもたれかけさせるように言いました。いろいろの料理が皿に盛って出されたので、二人はそれを食べました。それから、いろいろの壺に入れた上等の葡萄酒を飲みました。そうなると両刀使いは、今まではあまりあせらずにいましたが、もう怺《こら》えきれなくなって、詩人の次の詩節を誦して、爆発しました。
[#2字下げ] 欲情よ、眼《まなこ》のいみじき愛撫も、清らかなる唇の接吻も、よく汝を鎮め得ざらん。おおわが欲情よ、迸り出でずしては軽くなり得ぬ情熱の重味の、汝の上にのしかかるを今や汝は感ず。
けれどもほくろは、今は両刀使いの詩には慣れて、しばしばわかりにくいその意味もたやすく掴めたので、すぐさま立ち上って、家の主《あるじ》に言いました、「全くのところ、僕にはこれについてのあなたの執念が、全然合点がゆきません。僕はただすでに申し上げたところを、繰り返すよりほかできません。ほかの人たちにこの商品を黄金を積ませて売るような暁には、あなたにはただで進上するでしょう。」そして、これ以上両刀使いの口説《くぜつ》を聴きたくないと思って、いきなり飛び出して、立ち去ってしまいました。
外へ出ると、彼は町をさまよいはじめました。けれどもすでにまっ暗になっていました。バグダードには他処者《よそもの》であったこととて、どちらに向っていったらよいやらわからないままに、彼は行く手に現われた回教寺院《マスジツト》で、夜を明かすことにしました。そこで中庭にはいって、いよいよ鞋《サンダル》を脱いで寺院の内部にはいろうとすると、そこにふたりの男が、先に立って、火をつけたふたつの提灯を持つ奴隷たちの後から、こちらに来るのが見えました。彼は身をよけて彼らを通そうとしましたが、ふたりのうちの年とったほうの男が、彼の前に立ちどまり、注意深くしげしげと眺めてから、彼に言うのでした、「御身の上に平安あれ。」ほくろはこれに挨拶《サラーム》を返しました。今ひとりの男が更に言葉を継ぎました、「あなたは異国のお方かな、わが子よ。」彼は答えました、「私はカイロのものでございます。父はシャムセッディーンと申し、その都の商人の会頭です。」
この言葉に、その老人《シヤイクー》は連れの男のほうに向き直って、言いました、「アッラーはわれわれの望み以上に便宜を授けたもうたわい。われわれの探していた、窮地を脱しさせてくれるべき異国の男が、こんなに早く見つかろうとは思わなかった。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十一夜になると[#「けれども第二百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
次にその老人《シヤイクー》は、ほくろを側《わき》に連れて行って、言いました、「われわれの道の上にあなたを置きたもうたアッラーは、祝福されよかし。われわれはあなたにひと骨折っていただきたいのですが、お骨折りに対しては、五千ディナールと、千ディナール分の衣類と、千ディナールの馬一頭を進呈して、十分にお報い申すつもりです。それはこういう件なのじゃ。
あなたも御承知ないことはありますまいが、わが息子よ、われわれの掟によると、回教徒たる者は、最初に自分の妻を離縁した時は、三カ月と十日経てば、別に手続きなく復縁することができる。そしてもし二度目に離婚するようになっても、やはり法定の期限が切れてから、復縁することができる。だが、三度目に離縁することになったら、あるいは別に離縁にしなくとも、もし単に妻に向って『お前は三度目の離縁だぞ』とか、『お前はもう私にとって赤の他人だ、私は三度目の離婚をしてそれを誓う』とか、そう言っただけでも、さて、その場合掟によると、もしそれでも夫がもう一度妻との復縁を望めば、誰かほかの男が、まずその離縁された妻女と法に従って結婚し、ただの一夜にせよ、その女と寝た上で、こんどはその男に離縁してもらわなければならぬことになっている。そしてその時はじめて、最初の夫は、その女を正当の妻として復縁することができるわけです。この掟は無上の知恵というもの。なぜなれば、これこそ世の夫婦の最上の護りであり、夫婦相互の貞節と完全な和合の、最も確実な保証ですからな。
ところで、今ここに一緒にいるこの若者は、ちょうどこの場合に当っていますのじゃ。この男は、過日つい癇癪玉を破裂させてしまって、わしの娘である自分の妻を、怒鳴りつけたものだ、『家を出ろ。お前なんぞはもう知らぬ。お前は三度目の離縁だ。』そこですぐに、わしの娘、すなわちこの男の妻は、今後は自分にとって他人となった夫の前で、顔に面衣《ヴエール》を下ろして、持参金を取り返し、即日わが家に戻った次第です。しかし今となっては、ここにいるこの夫は、切に復縁を望んでいる。わしの手を接吻しにきて、どうか妻と仲直りをさせてくれと頼むのだ。わしもそれに同意しました。そしてすぐにふたりで一緒に、一夜の間、一時|後釜《あとがま》の夫になってくれるべき男を、探しに出てきたわけです。こうして、おおわが息子よ、われわれはあなたを見つけたという次第じゃ。あなたはわれわれの町では他処者《よそもの》だから、事はただ法官《カーデイ》の面前だけで、秘密に行なわれ、何ごとも一切外に露《あら》われることはありますまい。こうしてあなたに、『解除人《ときびと》(10)』になっていただけることでありましょう。」
ほくろの現在の無一物の状態は、この申し出を快諾させて、彼は独りごとを言いました、「五千ディナールは手に入るし、千ディナール分の衣類と、千ディナールの馬はもらえるし、その上ひと晩中やれるというものだ。アッラーにかけて、承知しよう。」そこで、不安げに返事を待っているふたりの男に言いました、「アッラーにかけて、私は『解除人《ときびと》』になることをお引き受けします。」
すると、今まで口を利かずにいたその女の夫は、ほくろのほうを向いて、言いました、「まことにお蔭で、われわれは非常な窮地を脱しさせていただけます。というのは、申し上げなければならぬが、実は私は家内を非常に愛しているからです。ただ私は、明朝になって、あなたが私の家内をお気に召して、もう離縁したくなくなり、家内を私に返すのをいやだとおっしゃりはしないか、それがたいへん気がかりです。その場合、掟はあなたに理があるとします。そのゆえをもって、万一不幸にして、あなたが翌日もう離婚に同意なさらなくなった場合には、償いに一万ディナールの損害賠償を私に払うという約束を、これから法官《カーデイ》の前で、していただきたいと存じます。」そこでほくろはこの条件も承知しました。というのは、件《くだん》の女とはただの一夜だけしか寝まいと、固く決心していましたから。
そこで三人そろって法官《カーデイ》のところにゆき、その面前で、法律上の条件に従って、契約をしました。その法官《カーデイ》はほくろを見ると、非常に心を動かされて、すっかり好きになりました。ですから、この物語の先のほうで、またこのひとが出てくることになりましょう。
さて、契約を済ますと、一同は法官《カーデイ》のところを出て、離婚になった女の父親は、ほくろを連れて、自分の家にはいらせました。玄関でしばらく待ってくれと言い置いて、自分はすぐに娘に知らせに行って、こう言いました、「大切な娘よ、お前に大へん容姿《すがた》のよい男の子を、見つけてあげたよ。あれならきっと気に入ることと思う。もう推奨の限りに推奨できる男だ。あの男と楽しい一夜を過ごし、存分に堪能するがよい。あんなすばらしい男子は、毎晩抱けるものではないよ。」そして娘にこんな風に言いきかせてから、その人の好い父親はすっかり満足げに、またほくろに会いに出かけ、これにも同じことを言いました。そして新妻が彼を迎える支度ができあがるまで、今しばらく待ってくれと頼みました。
前夫のほうはというと、彼はすぐさま、むかし自分を育ててくれた、たいへんしたたか者の老婆に会いに行って、これに言いました、「お願いだ、お婆さん、何とか策を講じて、われわれの見つけた『解除人《ときびと》』が、今晩私の別れた女房に近づくのを、防がなくてはならないのだ。」すると老婆は答えました、「あなたのお生命《いのち》にかけて、そんな造作のないことはない。」そして老婆は自分の面衣《ヴエール》に身を包んで……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十二夜になると[#「けれども第二百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして老婆は自分の面衣《ヴエール》に身を包んで、離婚した女の家にゆき、まず玄関でほくろに会いました。そして、彼にお辞儀をして言いました、「私は離婚なすった乙女に、お身体《からだ》に膏薬を塗ってさしあげるため、会いに来たものです。お気の毒に、癩病に罹っていらっしゃるので、それを治そうと、毎日そうしてあげているのです。」それでほくろは叫びました、「アッラーは私を守って下さいますように。なんだって、お婆さん。じゃその女は癩病に罹っているのかい。私は今夜その女と交わることになっていたところだ。というのは、私はその元の夫に、『解除人《ときびと》』に選ばれているのだからなあ。」すると老婆は答えました、「おおわが子よ、どうぞアッラーはお前さんの美しい若さを守って下さるように。いかにも左様、お前さんは、交わるのは慎しんだがいいでしょうよ。」そして面くらっている彼をそこに残して、離婚した女のところに戻り、「解除人《ときびと》」を勤める若者について、やはり同じことを言って信じさせました。伝染するといけないから、慎しむがいいとすすめたのでした。そう言っておいて、老婆は立ち去りました。
ほくろのほうは、乙女の部屋にはいる前に、まず乙女の合図をずっと待ち続けていました。けれども永いこと待っても、ただ女奴隷が料理のひと皿を持ってきたきりで、そのほか何も現われません。彼は食べて飲んで、それから時間ふさぎに、コーランの一|章《スーラ》を誦し、次には、サウル王の御前《おんまえ》の若いダビデの声よりも爽やかな声で、抒情詩二、三節を口ずさみはじめました。
若い女は室内でこの声を聞きつけると、独りごとを言いました、「あの忌わしい婆さんは、いったいどういう気だったのかしら。癩病に罹っている人間が、こんな美しい声を恵まれているものかしら。アッラーにかけて、ここにお呼びして、あの婆さんが私に嘘を言わなかったかどうか、自分の眼で見ることにしましょう。けれどもその前に、まずお返事をするとしましょう。」そして彼女はインドの琵琶《リユート》を取り上げて、巧みに調子をととのえ、飛ぶ鳥を空の果《はて》で止《とど》まらせるばかりの声で、歌いました。
[#2字下げ] われは悩ましき優しき眼の若鹿を愛す。その身は嫋《たお》やかにして、しなやかの瑞枝《みずえ》はその揺るるを見て、揺らぐすべを学ぶばかりぞ。
この歌の最初の調べを聞くと、ほくろは自分が口ずさむのをやめて、注意をこめて聞き惚れました。そして考えました、「あの膏薬屋の婆さんは、何を言ったのか。こんなに美しい声が癩病病みの声であるわけはない。」そしてすぐに、今聞いた最後の調べに調子を合わせて、岩をも踊らせるばかりの声でもって、歌いました。
[#2字下げ] わが挨拶《サラーム》は猟人より身を隠す賢き羚羊《かもしか》の方へと赴き、その双頬の花園に咲き乱るる薔薇にわが敬意を寄す。
そしてこれはまことに見事な抑揚で言われたので、若い女は感動に心動かされて、走り寄って、若者と自分を隔てる垂幕を掲げ、突如雲間を出でた月のように、若者の眼の前に現われました。そしていそいではいるように合図をし、足腰立たぬ老人をも立ち上らせるばかり、腰を動かしながら、先に立ってゆきました。ほくろはその美しさ、みずみずしさ、若さに、魂消《たまげ》てしまいました。けれども、もしや伝染《うつ》りはしないかという恐れに付きまとわれていたので、思いきって寄りつかないのでした。
ところが突然その乙女は、ひと言も言い出さずに、瞬くまに肌着と下穿きを脱いで、遠くにうっちゃり、まる裸で、天然の純銀のように鮮やかに、棕櫚の若木のように宵しくすらりと、現われ出たのでございます。
これを見ると、ほくろは自分の身中に、彼の敬《うやま》うべき父親から受け継いだ物、股間に持つかわいらしい子供が、活気を帯びるのを覚えました。そして、この子の切実な呼び声をはっきりと聞いたので、この子をどう始末すればよいかきっと知っている筈の若い女に、これを引き渡して、取り鎮めてもらおうと思いました。けれども、その女は言いました、「近くに寄ってはいけません。あなたの身体についている癩病が、うつるとこわいから。」
この言葉に、ほくろはひと言も言い出さずに、自分の着物を全部脱ぎ、次に肌着と下穿きを脱いで、遠くにうっちゃり、完全に裸で、岩清水のように清らかに、子供の眼のように汚れなく、現われ出たのでございます。
すると乙女は今は、仲に立った老婆が、最初の夫に唆かされて、計略を弄したことをもう疑わず、この若者の魅力に眼がくらんで、若者のところに駈け寄って、両腕で抱えて、寝床のほうに引っぱってゆき、その上に一緒に転がりました。そして欲情に息を弾ませて、言いました、「あなたの腕前を見せて下さいな、おおザカリーヤー(11)長老様、おお太い筋《すじ》の宵しい父親よ。」
このようにはっきりとした呼びかけに、ほくろは乙女の両腰を捉え、砂糖煮《ジヤム》の太い筋《すじ》をば凱旋の門の方向に狙いを定め、それを水晶の廊下のほうに進め、勢いよく勝利の門(12)に行き着かせました。次に、これを大道から外《そ》れさせて、近道から、勢い激しく、象眼師の門のほうに進めましたが、筋《すじ》はこの密閉された門の狭さの前にたじろいだので、彼は壺の蓋に穴をあけて無理に通路を開いてはいると、するとまるで建築師が双方同時に寸法を取ったみたいに、自分の家にすっぽり納まりました。それから、彼はゆっくりと月曜の市場《スーク》、火曜の市《いち》、水曜の勧工場、木曜の店(13)と、次々に訪れながら、遊覧を続けました。次に、こうして解《ほど》くべきものは全部解いたので、彼は善良な回教徒として、金曜日になると休息いたしました。
ほくろとその息子の、乙女の園への小手調べの旅は、このようなものでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十三夜になると[#「けれども第二百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それが済むと、ほくろは無上の幸福にまどろむ息子と共に、花園を荒らされた乙女と優しく抱き合って、三人ともども、朝まで眠りました。
眼が覚めると、ほくろはかりそめの妻に聞きました、「あなたの名前は何というのです、私の心よ。」彼女は答えました、「ゾバイダ(14)です。」彼は言いました、「ではゾバイダよ、私はどうしてもあなたと別れないわけにゆかないことは、実に残念です。」彼女ははっとして、訊ねました、「どうしてあなたは私と別れたりなぞなさるの。」彼は言いました、「だって私はただの『解除人《ときびと》』にすぎないことは、よく御存じでしょう。」彼女は叫びました、「いいえ、アッラーにかけて。だってあなたは、親切なお父様が今までのひとの代りに、わたくしに下さったすばらしい贈物だとばかり、わたくし幸福にひたりながら、思っておりましたの。」彼は言いました、「おお美しいゾバイダ、私はお父上とあなたの先夫に選ばれた『解除人《ときびと》』です。そして私が一旦あなたの魅力を味わったら、もしや邪心を起しはしないかと見越して、お二人で私に法官《カーデイ》の面前で、ちゃんと契約に署名をさせる手配をめぐらしておいたから、そのため、もしも今朝になって、私があなたを離婚しない場合には、私は一万ディナール払わないわけにゆかないのです。ところで実際のところ、私にはどうやって、そんな途方もない大金をお二人に払えるやら、見当もつきません。私は懐中に、ただの一ドラクムさえ持っていない身ですから。つまり私としては、立ち去ってしまうほうが無事です。さもないと、私には支払い能力がない以上、先にあるのは牢屋なのですからね。」
この言葉に、若いゾバイダはしばらく考えて、それから若者の眼に接吻しながら、訊ねました、「あなたのお名前は何とおっしゃるの、私の眼よ。」彼は言いました、「ほくろです。」彼女は叫びました、「やあ、アッラー、こんなにふさわしい名前ってございませんわ。では、愛《いと》しいお方、おおほくろ様、わたくしはどんな氷砂糖よりも、昨夜ひと晩中、あなたがわたくしを甘くして下さった、あの結構な砂糖煮《ジヤム》の白い筋《すじ》のほうが好きでございますから、わたくしたちにはきっと、わたくしたちが決して別れずに済むような手段《てだて》が、見つかるにちがいありません。わたくしは、あなたを味わったあとでは、ほかの男の物になるくらいなら、いっそ死んでしまいたいのですもの。」彼は聞きました、「では私たちはどうしようというのです。」彼女は言いました、「何でもないことですわ。こうするのです。今にすぐお父様があなたを呼びにいらっしゃって、契約の手続きを果すため、法官《カーデイ》のところにお連れ申すでしょう。そうしたら、あなたは愛想よく法官《カーデイ》のそばに寄って、こうおっしゃいまし、『私はもう離婚したくございません』って。法官《カーデイ》は聞くでしょう、『何だって、あなたはひとりの女と一緒にいるため、手に入る五千ディナールと、千ディナール分の衣類と、千ディナールの馬を辞退するのですか。』あなたはお答えなさい、『あの女の髪の毛ひと筋は、それぞれ一万ディナールの値いがあると思います。それだから、私はこの貴い髪の持主を手離さないつもりです。』すると法官《カーデイ》は言うでしょう、『それはいかにもあなたの権利です。しかしあなたは賠償として、前夫に、一万ディナールの金額を払わなければなりませんよ。』
そこです、愛《いと》しい方よ、わたくしの申し上げることをよくお聞き下さいまし。
この年寄りの法官《カーデイ》は、もともとたいへんよい人ですけれど、無性に若い稚児たちが好きなのです。ところで、あなたはもうあのひとに、相当な強い感じを与えたにちがいありません、それはもうたしかですわ。」
ほくろは叫びました、「それじゃあの法官《カーデイ》は、これまた両刀使いだと、あなたは思っているのですね。」ゾバイダは吹き出して、言いました、「そのとおりですわ。それがどうして、そんなにもお驚きになることですの。」彼は言いました、「これはまさに、ほくろは一生の間、甲の両刀使いから乙の両刀使いへとゆかなければならぬと、書き記《しる》されているのだな。まあとにかく、おお利口なゾバイダよ、どうぞ先を続けて下さい。あなたはいま『あの年寄りの法官《カーデイ》は、もともとたいへんよい人ですけれど、無性に若い稚児たちが好きだ』とおっしゃいましたね。こんどは、私の商品を売れなんぞとすすめないで下さいね。」彼女は言いました、「いえ、今おわかりになりますわ。」
そして彼女は続けました、「法官《カーデイ》があなたに『その一万ディナールを払わなければいけませんぞ』と言ったら、あなたはこんな風に、思わせぶりに、彼を見やって、優しく腰を振るのです。振りすぎてはいけないけれど、法官《カーデイ》が心を動かして、敷物の上ででれでれになるような工合にね。そうすれば、法官《カーデイ》は必ず、この負債を果すのを猶予してくれますわ。今からそれまでには、アッラーが何とかして下さることでございましょう。」
この言葉に、ほくろはしばらく考えてから、言いました、「別にさしつかえはあるまい。」
それと同時に、女奴隷が垂幕の蔭から、どなり立てて言いました、「御主人ゾバイダ様、お父様が私の御主人をお待ちになっておいでです。」
そこで、ほくろは立ち上り、いそぎ身支度をして、ゾバイダの父に会いにゆきました。そして二人は、街で最初の夫も一緒になって、法官《カーデイ》のところに参りました。
ところでゾバイダの予想は、はたしてそのまま実現したのでした。けれども、ほくろがよく気をつけて、彼女の教えた貴い指図に、念を入れて従ったということも、言っておかなければなりません。
ですから法官《カーデイ》は、ほくろの送る流し目に全く骨抜きになってしまって、若者が遠慮しながら持ち出した三日の猶予ばかりか、次のような言葉で、その宣告を結んだのでございます、「われわれの宗教上の掟も法学も、離婚をもって義務とするわけにはゆかぬ。われらの正統の四つの典礼も、この点に関しては絶対に一致しておる。他方、法規上夫となった『解除人《ときびと》』は、その外国人たる身分のゆえに、猶予を受ける者である。さればわれらはこれに、その負債支払いのために、十日を与えることとする。」
そこでほくろは、法官《カーデイ》の手にうやうやしく接吻しますと、法官《カーデイ》はひとりでこう考えました、「アッラーにかけて、この美青年はまさに一万ディナールの値打ちがあるわい。わしが自分で、悦んで都合してやってもいい。」次にほくろはたいそう愛想よく暇を告げて、自分の妻の、利口なゾバイダに会いに、駈けつけました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十四夜になると[#「けれども第二百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとゾバイダは、悦びに顔を輝かせて、上首尾を祝しながらほくろを迎え、自分たち二人のため、夜をこめて祝宴を催す準備をさせるようにと、彼に百ディナールを渡しました。ほくろはすぐに、その妻の金子でもって、件《くだん》の祝宴の用意をさせました。そして二人で腹いっぱいになるまで、飲み食いしはじめました。そこで歓びの限り歓んで、永い間交合しました。それから、休息をとるために、二人は応接の間《ま》に下りて、灯火を入れ、二人でもって、岩をも踊らせ、飛ぶ鳥を空の果《はて》で止《とど》まらせるばかりの、合奏会を催したのでございます。
ですから、そこに突然、家の外《おもて》の戸を叩く音が聞えたのも、少しも怪しむに足りません。まずゾバイダが最初にそれを聞きつけて、ほくろに言いました、「いったい誰が戸を叩いているのか、見に行って下さいませ。」ほくろはすぐに下りて、戸を開けました。
ところで、その夜ちょうど、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは胸狭まるのをお覚えになって、宰相《ワジール》ジャアファルと、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールと、お気に入りの詩人いみじきアブー・ヌワースに、仰せられたのでございました、「余は少しく胸苦しさを覚える。われら一同、いささかバグダードの街々を散歩いたし、気分を晴らすに足るものを見つけるといたそう。」そして四人の方々はみな、ペルシアの回教|修道僧《ダルウイーシユ》(15)に身を窶《やつ》して、何か面白い事件もがなと、バグダードの街を歩きはじめたのでした。こうしてお四人《よつたり》は、ゾバイダの家の前に着いたとき、歌と楽器を奏でる音を聞いて、修道僧《ダルウイーシユ》の習慣に従って、何の遠慮もなく、戸を叩いたのでございました。
ほくろは修道僧《ダルウイーシユ》たちの姿を見ると、元来歓待の義務《つとめ》を知らないわけでなく、その上、非常な上機嫌でいるところだったので、鄭重に一同を迎え入れて、玄関に招じ、食べ物を持って参りました。けれども一同は食物をことわって、言いました、「アッラーにかけて、繊細な心の持主というものは、己が官能を楽しませるにほとんど食物は要せず、ただ佳き調べがあればよいものです。ところでちょうど今、われわれはたしかに、戸外《おもて》で聞えた楽の音《ね》が、われわれのはいった途端に絶えたと存じます。あのように見事に歌っていたのは、もしや本職の歌姫《うたひめ》ではありますまいか。」ほくろは答えました、「いやいや、殿方よ。あれはこの私の妻でした。」そして彼は四人に自分の身の上を一部始終、ただ一つの細部も洩らさずに、話して聞かせました。けれどもここにそれを繰り返したとて詮なきことでございます。
すると修道僧《ダルウイーシユ》の首長、というのは、実は教王《カリフ》御自身なのでございますが、首長はほくろに申しました、「わが子よ、あなたが令閨の先夫に払わなければならぬ、その一万ディナールについては、安心なさるがよい。この私は、四十名の会員を擁するバグダード回教|修道僧団《ダルウイーシユテツケ》の首長である。われらはアッラーのお蔭をもって、安楽に暮しておるから、一万ディナールぐらいは、われらにとっては何ほどのこともない。されば、私は十日ならずしてそれをお届けすると、約束してあげます。ともかくも、令閨に帳《とばり》の蔭で何か歌って、われわれの魂を昂揚させて下さるよう、お願いしていただきたい。何となれば、わが子よ、音楽はあるひとびとには食事として役立ち、他のひとびとには薬石として役立ち、また他のひとびとには団扇《うちわ》(16)として役立つ。してわれらにとっては、一時にこの三つの役を果してくれますからじゃ。」
ほくろはそれ以上乞われるまでもなく、そして妻のゾバイダも快く、修道僧《ダルウイーシユ》たちのために歌うことを承知しました。そこで一同の悦びはこの上なく、あるいは歌を聴き、あるいは愉快に談笑し、あるいは青年の美貌に、逆上の限り逆《のぼ》せ上った詩人アブー・ヌワースの、面白おかしい即興を聴いて、一同まことに楽しい一夜を過ごしたのでございます。
朝と共に、贋《にせ》の修道僧《ダルウイーシユ》たちは立ち上って、そして教王《カリフ》は立ち去る前に、凭《もた》れていらっしゃった座蒲団《クツシヨン》の下に、さしあたり、その時それだけしか持っていらっしゃらなかったので、金貨百ディナール入りの財布を、お忍ばせになったのでした。次に一行は、アブー・ヌワースの口から、厚く礼を述べて、若い主《あるじ》に別れを告げました。詩人は彼に巧みな詩句を即吟して聞かせ、ひとり心中で、必ずこの若者の面倒を見てやろうと思ったのでした。
その日の中頃、ほくろは座蒲団《クツシヨン》の下に見つかった百ディナールを、ゾバイダから渡されて、市場《スーク》に何か買い物をしにゆくため、外に出ようと思って、戸を開けると、織物の梱《こり》をずっしりと積んだ、五十頭の牡騾馬と、美々しい馬具をつけた一頭の牝騾馬の上に、愛くるしい顔立の、栗色の身体をした、ひとりの若いアビシニアの奴隷が、巻いた信書を手に携えて、自分の家の前に止まっているのを見ました。
ほくろを見ると、その愛想のよい奴隷の少年は、いそいで地に下り立って、若者の前の地に接吻しに来て、信書を渡しながら、言いました、「おお御主人ほくろ様、私はちょうどただ今、カイロより到着いたしました。お父上、あの都の商人会頭、御主人シャムセッディーン様より、当方に遣わされた者でございます。私はあなた様に五万ディナール分の高価な商品と、お母上より奥様シート・ゾバイダに差し上げる、宝石を飾った黄金の水差しと、彫物を施した黄金の鉢との御進物を、携えて参りました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十五夜になると[#「けれども第二百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ほくろはこの奇蹟のような出来事に、すっかり驚くと同時に悦び勇んで、まず手紙の内容を早く知ることばかりしか考えませんでした。開けてみると、次のような文面でした。
[#ここから2字下げ]
シャムセッディーンより息子アラエッディーン・ほくろへ[#「シャムセッディーンより息子アラエッディーン・ほくろへ」はゴシック体]、先ず幸福と健康の最も全き祈願の後[#「先ず幸福と健康の最も全き祈願の後」はゴシック体]
されば、おおわが愛児よ、御身の一行の蒙りたる災禍と御身の財産喪失の噂はわが耳に達し候。父は早速御身のため、金貨五万ディナール分の商品を積みし、五十頭の牡騾馬の新しき隊商《キヤラヴアン》を準備いたさせ候。なお、母は手ずから刺繍なされし美服一着を御身に、また御身の妻女への進物として、水差しと鉢一個お送り申し候が、妻女の御嘉納を得るものと、われら憚りながら存じおり候。
事実、われらは御身が「三度の離縁」の文句によって縛られし離婚の、「解除人《ときびと》」となられし由承知いたし、いささか驚き入り候。さりながら御身がその若き婦人を試みて後、お気に叶いしとあらば、これを離別せざりしは当を得たることに候。さればこのアビシニアのサリーム(17)少年の警護の下に、御身の許に到着いたす商品は、御身が前夫に賠償として負う一万ディナールを支払うに役立って、なお余りあることと存じ候。
母をはじめ家内一同幸福健全にてあり、御身の近き御帰宅を希望し、ねんごろなる挨拶《サラーム》と愛情の最大の表示を送り申し候。
末永く幸福に暮らせよ、ワァサラーム(18)。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙とこれらの財貨の思い設けぬ到着に、ほくろはすっかり動顛してしまったので、この出来事がどうもまことらしくないことなぞ、ただの一瞬も思い到りませんでした。そして彼は妻のところに駈け上って、事を知らせました。
彼がまだろくろく説明もしおわらぬうちに、戸を叩く音がして、ゾバイダの父親と前夫とが、玄関にはいってきました。彼らは穏便に離婚するように、ほくろを説きつけてみようとて、やってきたのです。
そこでゾバイダの父親は、ほくろに言いました、「わが子よ、何しろ私の先の婿は、昔の妻を非常に愛しているのだから、憐れんでやってくれよ。アッラーはあなたに多くの財貨を送って下さったから、あれでもってあなたは、市場《スーク》で一番美しい女奴隷たちを購うこともできようし、貴族《アミール》のなかでも一番の有力者の娘とでも、正式の婚姻をして結婚することもできるでしょう。されば、この気の毒な男に昔の妻女を返して下されば、この男はあなたの奴隷になることも承知しますが。」けれどもほくろは答えました、「ちょうど今アッラーは、私の前任者に十分の報酬を差し上げるために、こうしたすべての財貨を送って下さいました。私は商品共々この五十頭の牡騾馬と、そればかりか、かわいらしいアビシニアの奴隷サリームさえも、進上して苦しからず、全部のなかから、ただ妻に届けられた贈物、つまり鉢と水差しだけしか、残しておかないつもりでおります。」次に付け加えました、「しかし、もし御息女ゾバイダが、もとの夫のところに帰るのを承知とあらば、私もこの際、解除してさしあげましょう。」
すると義父はゾバイダのところにはいって、これに訊ねました、「どうだね、お前は先の夫のところに帰るのを、承知するかね。」彼女は答えました、「やあ、アッラー、やあ、アッラー、あのひとはわたくしの花園の値打ちがついぞわからず、いつも中途で止《や》めてしまいました。いえ、いえ、アッラーにかけて、わたくしはわたくしの花園を縦横《じゆうおう》に探《さぐ》ってくれた、あの若い方の許に止《とど》まります。」
先夫は、いよいよ自分のあらゆる望みが絶えたとたしかにわかると、もう悲しみのあまり、即座に胆が破裂して、そのまま死んでしまいました。こちらはこうした次第でございました。
ほくろのほうはと申しますと、彼は美わしく利口なゾバイダと、更に楽しみつづけました。そして毎夜、宴会と、数々の交合やら、それに類した事柄の後で、二人で、石をも踊らせ、飛ぶ鳥をも空の果で止まらせるばかりの、合奏会を催したのでした。
結婚後十日目、彼は自分に一万ディナール届けてくれると言った、修道僧《ダルウイーシユ》の首長の約束を、急に思い出して、妻に言ったのでした、「あの嘘つきどもの親方め、万一あの約束の実行を待っていなければならなかったとしたら、今頃はもう私は、牢屋のなかで饑え死していたろう。アッラーにかけて、もしこんどあいつに出遭ったら、あいつの不実を私がどう思っているか、きっと言って聞かせてやろう。」
次に、そろそろ夕方になったので、彼は応接の間《ま》の灯火を入れ、毎夜のように、合奏会を催そうとしておりますと、その時、戸を叩く音がしました。彼は自身で戸を開けにゆき、そして先夜の四人の修道僧《ダルウイーシユ》の姿を見たときは、少なからず驚きました。彼は彼らの面前で声高に笑って、これに言いました、「ようこそ来られた、嘘つきの方々、不実の御連中よ。けれども私はやっぱり、あなた方を招じ入れたく思います。というのは、アッラーは私を、今後あなた方のお世話なぞ入用のない身にして下さったからです。それにあなた方は、嘘つきで偽善者であるとは申せ、まことに心地よく、躾けのよい方々ですから。」そして、一同を応接の間《ま》に案内して、ゾバイダに帳《とばり》の蔭で、何か歌ってくれるように頼みました。すると彼女は、分別をも奪い、石をも踊らせ、飛ぶ鳥をも空の果で止まらせるばかりに、歌ったのでございました。
そのうちある時になると、修道僧《ダルウイーシユ》の首長は立ち上って、用を足しに座を外しました。すると贋の修道僧《ダルウイーシユ》のひとり、実は、それは詩人アブー・ヌワースでしたが、彼はほくろの耳許に身をかがめて、これに申しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十六夜になると[#「けれども第二百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……詩人アブー・ヌワースはほくろに申しました、「おお心地よいわれらの主《あるじ》よ、失礼ながら、ひとつ問いを出させていただきたい。いったいどうしてあなたは、財貨を積んだ五十頭の牡騾馬が、父上シャムセッディーンから贈られたということを、一瞬の間でも信ずることができたのですか。よろしいか、バグダードからカイロに行くには、何日必要かな。」彼は答えました、「四十五日です。」アブー・ヌワースは訊ねました、「して、帰るには。」彼は答えました、「少なくとも、さらに四十五日。」アブー・ヌワースは笑い出して、言いました、「では十日もたたないうちに、父上があなたの隊商《キヤラヴアン》のやられたことを聞かれて、改めて第二を派遣することなぞ、いったいどうしてできるというものですか。」ほくろは叫びました、「アッラーにかけて、悦びのあまり、私はそんなことはてんで考える暇《いとま》がありませんでした。だがそうとすれば、おお修道僧《ダルウイーシユ》様、あの手紙は、いったい誰が書いたのです。またあの贈物は、いったいどこから来たのですか。」アブー・ヌワースは答えました、「ああ、ほくろよ、もしもそちが美貌なると等しく明敏なりせば、久しき以前よりすでにわれらの首長の裡に、その修道僧《ダルウイーシユ》の僧衣の下に、われらが主君|教王《カリフ》御自身、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードを見抜き、第二の修道僧《ダルウイーシユ》に賢明なる宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーを、第三の修道僧《ダルウイーシユ》に御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを、そしてこのわれ自身には、そちの奴隷にして讃美者、一介の詩人アブー・ヌワースを、見抜いたであろうものを。」
この言葉に、ほくろは驚きと狼狽の極みに達して、おずおずと訊ねました、「さりながら、おお偉大なるアブー・ヌワース様、いったいどうした功績があって、教王《カリフ》よりこうした一切の御恵《みめぐ》みを、わが身に招いたのでございましょう。」アブー・ヌワースは微笑して、言いました、「そちの美貌さ。」そして言い添えました、「年若くして、親しみを覚えさせ、かつ美しきこそ、君の御眼《おんめ》には、功績中最大のものなのだ。単なる美しき人間の光景も、愛らしき顔の眺めも、決して十分に高価に購《あがな》うということはないと、わが君は思し召されるのじゃ。」
こうしているうちに、教王《カリフ》は敷物の上の元の座に、お戻りになりました。そこでほくろは、御手の間に平伏しに参って、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、願わくはアッラーは、わが君をばわれらの敬と愛とに幾久しく永らえさせたまい、わが君の寛仁の御恵《みめぐ》みを、永《とこし》えにわれらより奪うことなからしめたまわんことを。」すると教王《カリフ》はこれに微笑みたもうて、軽くその頬を撫でて、仰せられました、「明日そちを宮殿にて待つぞよ。」次にお開きとせられて、ジャアファルとマスルールとアブー・ヌワースを従えて、お引き上げになりましたが、詩人はほくろに、明日参殿を忘れぬようにと注意してゆきました。
翌日ほくろは、妻にぜひ御殿に参上しなさいとすすめられて、アビシニアの少年サリームが持ってきた、一番貴重な品々を選んで、それを美しい手箱におさめ、その手箱をこの美少年の奴隷の頭上に載せ、次に、妻ゾバイダに念入りに着付けをし、髪を調えてもらってから、荷物を持った少年を連れて、政務所《デイワーン》へと向いました。そして政務所《デイワーン》に上ぼり、教王《カリフ》の足下に手箱を下ろして、韻律ととのった詩句で、御挨拶《サラーム》を言上してから、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、われらの祝福せられた預言者は(その上に祈りと平安あれ)、御自分に進物を捧げるひとびとに心配をかけまいとて、進物をお受けになりました。君の奴隷もまた、万一わが君がこの小さな手箱を、感謝のしるしとして御嘉納あらせられましたならば、幸甚に存じ奉るでござりましょう。」
すると教王《カリフ》はこの若者の心尽しをお悦びになって、仰せられました、「それは過分であるぞよ、おおほくろ。何となれば、そち自身がすでにわれらにとって、まことに見事な贈物であるからだ。さればよくわが宮殿に来てくれた。今日よりして、そちを重く用いることにいたそう。」そしてすぐにバグダードの商人の総会頭を免職にして、その代りにほくろを任命なさいました。
次に、その任命を衆人が知るようにと、教王《カリフ》は勅旨を認《したた》めてそのことを勅令せられ、その勅旨を代官《ワーリー》に渡させると、代官《ワーリー》はそれを触れ役人に渡し、触れ役人はそれをバグダード全市の街々と市場《スーク》に、洩れなくふれました。
ほくろのほうは、その日から毎日きちんと教王《カリフ》の御許《みもと》に参上しはじめ、教王《カリフ》はもうその姿を御覧にならずには、済まないようになられました。そしてほくろは自分の商品を売るのに、自分ではほとんどその暇がないので、一軒の綺麗な店を開かせて、例の栗色の奴隷の少年に管理させますと、少年はまことにむつかしいこの商売を、実に巧みにやってのけました。
こうして二、三日経ったと思うと、そのとき掌酒子《しやくとり》の長の急死が、教王《カリフ》に言上されました。すると教王《カリフ》は即座に、ほくろを掌酒子の長の役に任命なさり、この要職にふさわしい誉れの衣ひと襲《かさ》ねを賜わり、莫大な高禄をお定めになりました。こうして、もう彼をお離しになりませんでした。
その翌々日、ちょうどほくろが教王《カリフ》のおそばに控えていると、そこに侍従長がはいってきて、王座の前の床《ゆか》に接吻して、申し上げました、「何とぞアッラーは信徒の長《おさ》の聖寿を永らえ、ただいま死が宮内卿より奪っただけの日々を、聖寿に加えたまいまするように。」そして付け加えました、「おお信徒の長《おさ》よ、ただいま宮内卿が御逝去に相成りました。」信徒の長《おさ》は仰せられました、「願わくは彼にアッラーの御慈悲あらんことを。」そしてその場で、ほくろを故人の代りに宮内卿に任命なさり、更に莫大な高禄をお定めになりました。こうして、ほくろは絶えず教王《カリフ》のおそばに止まることになりました。次に、この任命が行なわれ宮殿中に告示されると、教王《カリフ》はいつものように、手帛《ハンケチ》(19)をお振りになって、政務をお閉じになり……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十七夜になると[#「けれども第二百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……おそばには、ほくろだけしかお残しになりませんでした。
ですから、この日から、ほくろは毎日を御殿で過ごし、夜更けてからでなければ自宅に戻らず、そして妻にその日のいろいろの出来事を聞かせては、一緒に楽しく寝るのでございました。
ほくろに対する教王《カリフ》の御寵愛は、日にましますます募るばかりで、この青年のどんな小さな望みでも、叶えないでおくくらいなら、いっそ万事を犠牲になさったろうというほどであったことは、次の事実がその証拠でございます。
教王《カリフ》は合奏会をお催しになって、その場にはいつもの御親友、ジャアファルと、詩人アブー・ヌワースと、マスルールと、ほくろが連なっておりました。帳《とばり》の蔭では、御側室のなかで一番美しく一番申し分のない、教王《カリフ》の御寵姫そのひとが歌っておりました。ところがにわかに、教王《カリフ》はじっとほくろを見つめて、これにおっしゃったものです、「友よ、余の寵姫はそちの意に叶ったな、そちの眼に読み取れるぞよ。」ほくろはお答え申しました、「御主人の御意《ぎよい》に叶うものは、奴隷の意にも叶うはずでございます。」けれども教王《カリフ》は叫ばれました、「わが頭《こうべ》と祖先の陵墓にかけて、おおほくろよ、余の寵姫は、ただ今よりして汝の有《もの》なるぞ。」そしてすぐに宦官の長《おさ》を呼んで、申し付けられました、「余の寵姫『心の力(20)』の衣類調度全部と、四十名の奴隷をば、わが宮内卿の屋敷に移し、次に女自身をも轎《かご》に乗せて、その屋敷に連れて参れ。」けれどもほくろは申しました、「聖寿にかけて、おお信徒の号令者よ、わが君のおおけなき奴隷が、御主人に属するものを取ることは、平に御容赦下さいませ。」すると教王《カリフ》はほくろの意中をお察しになって、おっしゃいました、「あるいはそちの言うところは理《ことわり》であろう。そちの妻女は、おそらく余のもとの寵姫に、妬みを覚えるやも知れぬ。さればこの女は宮殿にとどめおけ。」次に宰相《ワジール》ジャアファルのほうを向かれて、仰せられました、「おおジャアファルよ、今日は市《いち》の日であるから、そちはこれよりただちに奴隷|市場《スーク》に降《お》りゆき、一万ディナールにて、全|市場《スーク》随一の美しき女奴隷を買い求むべし。そしてそれをば、すぐにほくろの屋敷に届けよ。」
ジャアファルは即刻立ち上って、奴隷|市場《スーク》に降り、ほくろに一緒に行って、自身で選択をきめて欲しいと乞いました。
ところで、都の奉行《ワーリー》、貴族《アミール》カーレドもやはりこの日、ちょうど年頃に達した息子に、女奴隷を買ってやろうと思って、市場《スーク》に降りたのでございました。
都の奉行《ワーリー》は事実ひとりの息子を持っておりました。ところがこの息子ときては、産褥にある女に流産をさせてしまうくらい醜い男子で、――畸形で、臭気紛々、息が臭く、やぶにらみで、年とった牝牛の陰門ほど大きな口をしておりました。そこでひとびとは、これを「ぶくぶくでぶ」と呼んでいました。
ちょうどこの前日の夜、ぶくぶくでぶは十四歳に達したのでしたが、母親はもうだいぶ前から、この子にすこしも本当の男性らしい徴候《しるし》が認められないのに、心を痛めておりました。ところがあたかもこの日の朝、息子のぶくぶくでぶが、夢を見て、睡眠中ひとりきりで交合し、蒲団《マトラー》の上に疑いを容れぬしるしを残したのを見つけて、安心することができたのでした。
この確証はぶくぶくでぶの母親をこの上もなく悦ばせ、母親はすぐに夫の許に走って吉報を伝え、夫にせがんで、すぐさま息子を連れて市場《スーク》に降り、息子の好みどおりの女奴隷を買ってやることにしたのでした。
かくて、アッラーの御手《おんて》の間にある「天運」は、この日奴隷|市場《スーク》で、こうしてジャアファルとほくろをば、カーレド公と息子ぶくぶくでぶとに出会わせることを、望んだのでございます。
慣例の挨拶《サラーム》ののち、彼らは集ってひと群れとなり、そしてそれぞれ売りに出す白色、褐色、あるいは黒色の女奴隷を連れた仲買人を、自分たちの前に次々に通らせました。
こうして彼らは、数知れぬギリシアや、アビシニアや、シナや、ペルシアの若い娘を見たのですが、結局この日は、どれにも定めずに引き取ろうとすると、そのとき仲買人の親方自身が、最後に、顔を露《あら》わにしたひとりの若い娘、第九月《ラマザーン》の満月の、手を曳いて、通ったのでした。
これを見ると、ぶくぶくでぶは力をこめて鼻を鳴らしはじめて、父親のカーレド公に言いました、「ぜひともこの女にします。」また一方でジャアファルも、ほくろに聞きました、「この女はお気に入りますか。」ほくろは言いました、「これならいいです。」
そこでジャアファルはその乙女に訊ねました、「お前の名前は何というか、おお優しい奴隷よ。」その女は答えました、「ヤーサミーン(21)と申します。」そこで宰相《ワジール》は仲買人に訊ねました、「ヤーサミーンのはじめの付け値はいくらか。」彼は言いました、「五千ディナールでございます、おお御主人様。」するとぶくぶくでぶは叫びました、「おれは六千出す。」
そのとき、ほくろが進み出て、言いました、「私は八千出す。」するとぶくぶくでぶは、怒って鼻を鳴らして、言いました、「八千一ディナールだ。」ジャアファルは言いました、「九千一ディナール。」けれどもほくろは言いました、「一万ディナール。」
すると仲買人は、双方が急に気を変えてはならぬと思って、言いました、「奴隷ヤーサミーンは、一万ディナールで落します。」そして彼は女奴隷をほくろに渡しました。
これを見ると、ぶくぶくでぶは引っくり返って、両足と両手でばたばた空を打ち、父親のカーレド公の心をいたく悲しませました。父親は妻の言うがままに、息子を市場《スーク》に連れてきただけのことだったのです。というのは、息子の醜さと低能に愛想を尽かしていましたから。
ほくろのほうは、宰相《ワジール》ジャアファルにお礼を述べてから、ヤーサミーンを連れてゆきました。そして、これを妻のゾバイダに引き合わせると、妻も親しみを感じて、夫の選び方を讃め、こうしてほくろはこの女を第二の妻にして、法に従って契ったのでございました。そしてその夜はこの女と眠り、これを身籠らせたのでございます。
ところで、ぶくぶくでぶのほうはと申しますと、次のようです。
いろいろ約束したり宥《なだ》めすかしたりして、やっとうまく家に連れて帰りますと、彼は蒲団《マトラー》の上に身を投げて、もう二度と飲み食いに起き上ろうとせず、それにほとんど気が変になってしまいました。
途方に暮れ果てたぶくぶくでぶの母親を、家中の女たちが取り囲んで困りきっていると、そこにひとりの老婆がはいってきました。これは名代の盗賊の母親で、息子の盗賊は目下終身禁錮の刑を受けて、牢屋に入れられていて、「蛾のアフマード(22)」という名で、全バグダードに知れ渡っている男でした。
この蛾のアフマードと申すのは、盗みの術にかけてはまことに巧妙極まる男で、門番自身の面前で門を取り外して、まるで飲み込んででもしまうみたいに、またたく間に門をなくしてしまったり、小便をするふりをしながら、家主《いえぬし》の前で壁に穴をあけたり、当人に気づかれずに、誰かの両の眼の睫《まつげ》を抜いてしまったり、それと感づかれずに、婦人の眼の瞼墨《コフル》を拭きとってしまったりすることなぞ、彼にとっては朝飯前のことなのでした。
さて、蛾のアフマードの母親は、ぶくぶくでぶの母親のところにはいってきますと、挨拶《サラーム》をしてから、訊ねました、「あなたのお悲しみの理由《わけ》はどういうことでしょうか、おお御主人様。またわが若い御主人の御令息は、どういう病気を病んでいらっしゃるのですか、何とぞアッラーはあの方を永らえたまいますように。」そこでぶくぶくでぶの母親は、むかしから、ここの下女の周旋をしていたこの老婆に、自分たち一同をこのような有様にしている恨みを、話して聞かせました。すると蛾のアフマードの母親は叫びました、「おお御主人様、あなた方の窮地を脱しさせるのは、私の息子をおいてほかにはありません、あなたのお命にかけて誓います。家の息子の釈放を得るように、骨折って下さいまし。そうすれば息子はきっと、私たちの若い御主人の御令息の手の間に、美しいヤーサミーンを連れてくる手段《てだて》を、見つけることができましょう。というのは、あなたもよく御承知のとおり、私のかわいそうな子は、『終身役《しゆうしんえき》』という文字を彫りつけた鉄の環を、両足にはめられて、繋がれております。これはすべて、あの子が贋金を作ったせいでございます。」するとぶくぶくでぶの母親は、必ず後ろ楯になってあげると約束いたしました。
事実、その夕すぐに、夫の奉行《ワーリー》が帰宅しますと、夕食後彼女は夫に会いにゆきました。彼女は身なりをととのえ、香を匂わせ、一番愛嬌たっぷりの様子をしました。そこでたいへん好人物の貴族《アミール》カーレドは、妻を見て心中に唆られた欲情に逆らいきれず、これを用いようと思いました。けれども、妻はこれに逆らって言いました、「私のお願い申し上げることを聞き届けて下さると、離婚にかけて、誓って下さいまし。」そこで彼は誓いました。すると彼女は夫に、盗賊の年とった母親の身の上を、不憫に思わせるようにしむけて、とうとう釈放の約束をさせました。そこで彼女は夫に乗らせました。
そこで翌朝、カーレド公は洗浄《みそぎ》と礼拝を済ませてから、蛾のアフマードの閉じこめられている牢屋に出かけて、これに訊ねました、「これ賊よ、汝はおのが過去の悪行を悔いておるか。」彼は答えました、「はい悔いております。私はそれを、心中で考えていると同じように、言葉に出して宣言いたします。」すると奉行《ワーリー》は彼を牢屋から出して、教王《カリフ》の御前に連れてゆきますと、教王《カリフ》はこやつがまだ生きているのを見て非常に驚いて、お訊ねになりました、「何としたことぞ、おお賊よ、汝はまだ死ななかったのか。」彼は答えました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、悪人の生命《いのち》は強欲なものでござります。」すると教王《カリフ》は哄笑なさりはじめて、おっしゃいました、「鍛冶屋を呼んで参って、こやつの鉄鎖を取り外してやれ。」それからおっしゃいました、「汝の腕前は余のよく知るところであるから、余は今度は汝が飽くまで悔悟を貫きとおすよう、助力してやりたく思う。盗賊を知ること汝に如《し》くはなきゆえ、余は汝をバグダードの警察長《ムカツダム》に任命いたす。」そしてすぐに教王《カリフ》は、蛾のアフマードを警察長に任命する勅令を、発布させなさいました。そこでアフマードは教王《カリフ》の御手に接吻して、直ちに職務の執行に就きました。
彼はまず、自分の放免と新しい役目を愉快に祝おうとて、昔の手柄を親しく見て知っているユダヤ人、アブラハムの開いている酒場に行き、好物の飲み物、上等なイオニアの葡萄酒の古い壺、二つ三つを空にしました。ですから、彼の母親が会いに来て、今度の放免の原因《もと》になったのは、貴族《アミール》カーレドの奥様、ぶくぶくでぶの母親のお蔭だから、今後はこれに感謝の念を表さなければならないということを話そうとすると、――彼はもうなかば酔って、ユダヤ人の鬚を引っ張っている最中でしたが、ユダヤ人は元の蛾のアフマードの、警察長《ムカツダム》という恐ろしい役目に遠慮して、文句も言えずにいるところでした。
それでもとにかく、母親はどうにかそこから連れ出して、息子を蔭に呼んで、彼の放免という結果を齎らした事件を、委細話して聞かせ、すぐにも宮内卿ほくろから例の女奴隷を奪い取るため、何か工夫してもらわなければならぬと言いました。
この言葉に、蛾のアフマードは母親に言いました、「そんなことは今夜やっつけてやろう。こんな造作のないことはないから。」そして彼はその挙の準備をしにゆくために、母親と別れました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十八夜になると[#「けれども第二百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、その夜は、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、お后《きさき》のお部屋にお入りになっていたということを、心得ておかなければなりません。というのは、それは月の朔日《ついたち》のことで、教王《カリフ》は、この日はいつもきまってお后に宛《あ》て、お后といろいろな日常の事務について語り合い、帝国の全般の問題と個々の問題すべてについて、お后の御意見を徴されることになっていたのでございます。事実、教王《カリフ》はお后に限りない信頼を寄せられ、その御英明とお美しさのゆえに、深く愛しておられました。それにまた、教王《カリフ》はお后のお部屋にお入りになる前に、玄関の、特別な円卓の上に、御自分の琥珀とトルコ玉をかわるがわる連ねたお珠数と、鳩の卵ほどもある紅玉を鏤めた硬玉の柄頭《つかがしら》の、まっすぐな御剣と、玉璽と、夜ひそかに王宮をお見廻りなさる時、お足許を照らす、たくさんの宝石を飾った小さな黄金のランプと、この四品をお置きになる御習慣であったということも、心得ておかなければなりません。
こうした細かいことは、蛾のアフマードのよく知っているところでした。ですから、これが彼の計画を実行するのに役立ったのでございます。彼は夜の闇と奴隷たちの眠るのを待って、教王《カリフ》のお后のお部屋になっている別館の、壁沿いに縄梯子を懸け、それを攀じ、影と同じようにひっそりと、玄関に忍び入り、またたく間にその四つの貴重な品を奪い、登ってきたところから、いそいで降りてしまったのでした。
そこから、彼はほくろの家に駈けつけ、やはり同じように、中庭に忍び入り、こそりとも音を立てずに、そこに敷き詰めてある四角の大理石の敷石を、一枚取り除け、すばやく穴を掘って、そこに盗んだ品々を埋めました。次にすべてを元どおりきちんと整えてから、彼は姿を消して、またユダヤ人アブラハムの酒場に、呑みつづけに出かけました。
しかしながら、蛾のアフマードはもう根からの盗賊でしたので、この四つの貴重品のうちの一つを、自分の物にしたい欲に逆らいきれませんでした。そこで彼は黄金の小さなランプを失敬して、これをば他の品と一緒に穴のなかに埋める代りに、「手数料を取り立てないということは、おれの習慣にはないことだ」と独りごとを言いながら、それを自分の懐中にねじこんでしまいました。
けれども、教王《カリフ》に戻りますれば、翌朝、円卓の上に四つの貴重品が見当らない時には、最初そのお驚きはすくなからぬものでございました。それから、宦官たちが問い質されて、顔を床《ゆか》にこすりつけながら、飽くまで存じませぬと誓言した時には、教王《カリフ》は限りないお怒りに入られ、それは即刻、怖ろしい逆鱗《げきりん》の御衣《ぎよい》を纒われたほどのお怒りでした。この御衣はすべて赤絹で出来ておりまして、教王《カリフ》がこれをお召しになった時は、側近にいるあらゆるひとびとの頭上に、まちがいない災害と恐ろしい災厄とが下るしるしでございました。
教王《カリフ》はひとたびこの緋の御衣を召されると、政務所《デイワーン》に入御になり、部屋じゅうでただおひとりだけ、王座の上にお坐りになりました。そして全部の侍従と、全部の大臣《ワジール》が、ひとりずつはいって参り、床《ゆか》に面《おもて》をつけて平伏し、そのままの姿勢を保っておりましたが、ただジャアファルだけは、蒼ざめながら直立し、眼をじっと教王《カリフ》の御足許《おんあしもと》に注いでおりました。
この恐ろしい沈黙のひと時がたつと、教王《カリフ》は冷然とジャアファルを見やって、低い声でこれにおっしゃいました、「盃はたぎり立っておるぞ。」ジャアファルは答えました、「何とぞアッラーは一切の悪を阻《はば》みたまいまするように。」
ところがちょうどこの時、奉行《ワーリー》が蛾のアフマードを従えて、はいって参りました。そして教王《カリフ》はこれに仰せられました、「近く寄れ、貴族《アミール》カーレドよ。してバグダードの公安はいかがなるぞ。」ぶくぶくでぶの父の、奉行《ワーリー》は答えました、「バグダードにおける安寧は申し分ござりませぬ、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》は叫びました、「嘘をつけ。」それで奉行《ワーリー》はびっくり仰天して、このお怒りは何としたことかまだわからずにいると、そのそばにいたジャアファルは、ひと言、動機《いわれ》を耳許に囁いて聞かせますと、彼はもうすっかり茫然としてしまいました。次に教王《カリフ》はこれに仰せられました、「万一汝が夜とならぬうちに、余にとってはわが王国よりも大切なる、かの貴重の品々を発見し得ざりし節は、汝の首《こうべ》は宮殿の城門に懸けらるるであろうぞ。」
このお言葉に、奉行《ワーリー》は教王《カリフ》の御手の間の床《ゆか》に接吻して、叫びました、「おお信徒の長《おさ》よ、盗賊は必ずや、誰ぞ王宮内のものに相違ござりませぬ。何となれば、饐《す》える葡萄酒は、それ自らのうちに自身の酵母を持っておりますれば。それからまた、願わくばわが君の奴隷に、これについて責任ある唯一の人間は、すなわち警察指揮官以外にあり得ませぬと、申し上ぐるをお許し下さいませ。ひとりこの者のみが、この監視の任に当っているのでございますし、かつこの者は、バグダードと御領土中のあらゆる盗賊を、ひとりひとり知っているものでございます。されば、万一紛失のお品を発見できませぬ場合には、まずこの者の死こそ、私の死に先立たねばならぬわけでござりましょう。」
すると警察指揮官、蛾のアフマードは進み出て、しかるべく敬意を表してから、教王《カリフ》に申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、盗賊は発見せらるるでござりましょう。されど私は教王《カリフ》に勅旨を賜わって、宮殿のあらゆる住者と、ここに出入するあらゆるひとびと、たとえ法官《カーデイ》であろうと、大宰相ジャアファル様であろうと、宮内卿ほくろ様であろうと、その家宅捜索をするお許しを得たく、願い奉ります。」そこで教王《カリフ》はすぐに件《くだん》の勅旨を彼に下付させて、仰せられました、「いずれにせよ、余は何ぴとかの首《こうべ》を刎ねさせねばならぬが、そは汝の首か、あるいは盗賊の首であろうぞ。選ぶがよい。して余はわが一命と祖先の霊廟にかけて誓う、その盗賊はたとえ余自身の子、わが王位継承者であろうと、余の決意に変りはない。馬場《マイダーン》の広場において絞首刑に処するぞよ。」
このお言葉に、蛾のアフマードは勅旨を手にして退出し、法官《カーデイ》のところから二人の警吏、奉行《ワーリー》のところから二人の警吏を呼び出しにゆき、ジャアファルの屋敷、奉行《ワーリー》の屋敷、法官《カーデイ》の屋敷を訪れて、直ちに家宅捜索を開始しました。次に、ほくろの屋敷に到着しましたが、ほくろはまだ起った一切を、なにも知らずにいました。
蛾のアフマードは、片手には勅旨を、片手には青銅の重い鉄棒《かなぼう》を携えて、玄関にはいり、ほくろに事情を話してから、申しました、「けれども、殿よ、私は教王《カリフ》の忠義なお話相手のお屋敷の、家宅捜索などを行なうことは、慎しみたいと存じます。されば、捜索を済ましたことにして、退散するのをお許し下さいませ。」ほくろは言いました、「アッラーは私にそのようなことをさせたまわぬように、おお警察長よ。あなたの義務は徹底的に遂行なさらなければなりませぬ。」すると蛾のアフマードは言いました、「では、ほんの形ばかりいたしましょう。」そしてさりげない様子で、中庭に出て、四角の大理石の敷石を一枚一枚、その重い青銅の鉄棒で叩いてみながら、庭を廻りはじめ、とうとう例の敷石のところに参ってそれを叩くと、虚《うつ》ろな音が響きました。
その音を聞くと、蛾のアフマードは叫びました、「おお殿よ、アッラーにかけて、これはたしかに、この下には何か昔の穴倉があって、そこに過ぎし世の宝が匿《かく》されておりますぞ。」するとほくろは、四人の警吏に言いました、「では試みにその大理石を取り除けて、下に何があるか見てみよ。」そこで警吏は、すぐに大理石の隙間に道具を突っ込んで、その敷石を持ち上げました。すると一同の眼の前に、盗まれた品のうちの三品、すなわち剣と玉璽と数珠が現われたのでございます。
これを見ると、ほくろは叫びました、「アッラーの御名《みな》において。」そして気を失って倒れてしまいました。
すると蛾のアフマードは、法官《カーデイ》と奉行《ワーリー》と証人たちを迎えにやり、彼らはすぐにこの発見の調書を作製しました。そして一同その書類に封印して、法官《カーデイ》が自身、それを教王《カリフ》に提出しに出かけ、一方、警吏たちはほくろの身柄を取り押えました。
教王《カリフ》は、ランプを除いた、三品を御手になさり、御自分の最も忠義なお話相手でもあり、心友でもあると思っていらっしゃった男、恩恵の限りを尽し、限りない信用を置いていた男の邸内で、これが発見されたということをお聞きになると、ひと時の間、一言《いちごん》もお発しにならずにいられましたが、次に警吏の長《おさ》のほうにお向きになって、おっしゃいました、「彼を絞首にいたせ。」
すぐに警吏の長は外に出て、バグダード全市の街々に、刑の宣告を触れさせて、ほくろの屋敷に出向いて、自身これを逮捕し、即刻その女たちと財産を没収しました。財産は国庫に納め、二人の女は、奴隷として市場《スーク》で競《せり》に出されようとしましたが、その時ぶくぶくでぶの父親の奉行《ワーリー》が、そのうちのひとり、ジャアファルが買った旧《もと》の女奴隷のほうは、自分が連れてゆくと言い渡しました。そして警吏の長は、今ひとりのほう、すなわち美声のゾバイダをば、自身の家に案内させました。
ところで、この警吏の長というのが、ちょうどほくろの無二の友で、これまで決して変ったことのない情愛を、ほくろに捧げてくれていました。ですから、表向きには、教王《カリフ》のお怒りによってほくろに対して執られた、恐ろしい苛酷な処置を実行したとは申せ、内心彼の首を必ず救ってやろうと心に誓い、まず初めに、ほくろの妻のひとり、不幸に呆然としてしまった、美しいゾバイダをば、自宅に連れてきて、安全にしてやった次第でした。
その夕直ちにほくろの絞首が行なわれることになっていて、ほくろはさしあたり、獄中深く繋がれておりました。けれども警吏の長は、よく彼に心を配っていました。そして看守長に会いに行って申しました、「今週、助かるすべなく絞首に処せられる囚人は、幾人いるかな。」看守長は答えました、「二、三人の出入りはあるが、四十人近くいます。」警吏の長は言いました、「その連中を全部見せてもらいたい。」そして繰り返し、ひとりひとり囚人を検閲して、最後に、驚くほどほくろによく似たひとりを選び出して、看守に言いました、「この男は、むかしイスマーイール(23)の父『族長《パトリアルカ》』によって、息子の代りに、犠牲に捧げられた獣《けもの》のように、私に役立つであろう。」
そこで彼はこの囚人を連れて、絞首の定刻になると、この男を死刑執行人に引き渡しますと、執行人はすぐに、広場に集った大群衆の前で、慣例の敬虔な儀式のあとで、贋《にせ》のほくろの首に縄を通し、一挙に、これを空中に引っくり返して、絞め上げてしまいました。
これが済むと、警吏の長は夜陰を待って、ほくろを牢屋から引き出しにゆき、これをひそかに自宅に案内しました。そしてその時はじめて、自分が彼のためにしてやったことを明かして、彼に言いました、「さりながら、アッラーにかけて、おおわが子よ、あなたはなぜ、あの貴重な品につい目がくらんだりなぞしたのか、教王《カリフ》が全幅の信を置かれていた、あなたともあろうものが。」
この言葉に、ほくろは激動のあまり、気を失って倒れてしまい、手当を受けてわれに返ると、叫びました、「あやにかしこき御名《みな》にかけ、また預言者にかけて、おお父よ、私はこの盗みは全然覚えがありません。そのいわれも知らなければ、犯人も存じません。」すると警吏の長は、ためらわずこれを信じて叫びました、「遅かれ早かれ、わが子よ、罪人は見つかるでしょう。さてあなたは、もうこの上一刻も、バグダードに止まるわけにはゆくまい。伊達《だて》に王者を敵とするのではないからな。では、奥様のゾバイダは、アッラーがお知恵をもってこの事態を変えたもうまで、わが家の、私の家内の許に置いておいて、私もあなたと一緒に出発するとしよう。」
それから、ほくろに妻のゾバイダと別れを告げる暇さえ与えず、こう言いながら、ほくろを引き立ててゆきました、「われわれはこの足で、塩水の海上にあるアイアス(24)の港にゆき、そこから船に乗ってイスカンダリア(25)に向い、あそこであなたは静かに暮しながら、事の成行きを待ちなさるがよい。あのイスカンダリアの町は、おおわが子よ、非常に住み心地のよいところで、その入口は緑で、祝福されているから。」
すぐに二人は、夜のうちに発足して、やがてバグダードの外に出ました。ところが二人には乗る獣《けもの》がなかったので、これをどうして手に入れようかと考えていると、そこに二人のユダヤ人で、バグダードの両替屋をしており、共に大金持で、教王《カリフ》も御存じの男と会いました。すると警吏の長は、この二人が、生きているほくろと一緒にいる自分を見た旨、教王《カリフ》に申し上げにゆきはしまいかと心配になりました。そこで両人のほうに進みよって、怒鳴りました、「お前たちの騾馬から下りろ。」二人のユダヤ人はぶるぶる震えて下りると、警吏の長は二人の首を刎ね、その所持金を奪い、その牝騾馬に乗り、今一頭をほくろに与えました。そして二人は海のほうへと、道を続けました。
アイアスに着くと、二人は休みに泊った隊商宿《カーン》の主人に、あらかじめ自分たちの牝騾馬を預けて、よく世話をしてくれるように頼んでおき、翌日一緒に、イスカンダリアに向う、出帆間際の船を探しました。結局、まさに帆を挙げようとしている船が、一艘見つかりました。そこで警吏の長は、二人のユダヤ人から奪った金子を、全部ほくろに渡した上で、必ずバグダードから便りを送るから、イスカンダリアで飽くまで心静かに便りを待つように、そればかりか、犯人が見つかった暁には、自分自身イスカンダリアに来て、バグダードに連れ戻してあげるから、自分の来るのを心待ちにするようにと、くれぐれも言い聞かせました。次に涙を流してほくろを抱いて別れると、船はすでに帆を膨らましておりました。そして彼はそこから、バグダードに帰りました。
ところで、彼がバグダードで知ったことは、次のようなことでございます。
贋のほくろの絞首の翌日、教王《カリフ》はまだお心がすっかり顛倒していらっしゃって、ジャアファルを召して、おっしゃいました、「おおわが宰相《ワジール》よ、あのほくろがどのようにわが好意に報い得たか、また余に対して犯した背信は、その方の見たところであろうぞ。かくも美わしき人間が、何とてかくも醜き魂を匿《かく》し得るものなのかな。」宰相《ワジール》ジャアファルは感嘆すべき知恵の人物でございましたが、しかし、このように辻褄の合わぬ行動の、動機を捉えるに到ることができなかったので、ただこうお答え申すにとどめておきました、「おお信徒の号令者よ、最も奇怪なる行動とても、ただその動機がわれらに捉えられぬがゆえにのみ、奇怪であるにすぎませぬ。いずれにせよ、われらはただ行為の結果をのみしか、判断することができませぬ。ところで、その結果たるやこの場合、当人はそのため絞首台に上げられたものであってみれば、当人にとって、まことに不憫なものでございました。さりながら、おお信徒の号令者よ、エジプトびとほくろはその眼中に、私の視覚の確かむる事実を、私の悟性は信ずるを拒むほどの、かばかりの精神美の反映を宿しておりました。」
教王《カリフ》はこの言葉に、ひと時の間考え込んでいらっしゃって、それからジャアファルにおっしゃいました、「所詮、いずれにせよ、余は絞首台上に罪人の屍体の揺れおるところを、見にゆきたいと思う。」そして身を窶《やつ》されて、ジャアファルと一緒に出られ、贋のほくろが天地の間にぶら下っている場所に、お着きになりました。
屍体は屍衣に蔽われて、全身包まれておりました。そこで教王《カリフ》はジャアファルにおっしゃいました、「屍衣を除《のぞ》け。」そこでジャアファルが屍衣を除くと、教王《カリフ》は御覧になりましたが、すぐにいたくびっくりなさって、あとじさりなさり、お叫びになりました、「おおジャアファル、これはほくろではないぞ。」ジャアファルは屍体を改めてみて、事実これはほくろでないことを認めました。けれども、そのような色はすこしも現わさず、落着いてお訊ね申しました、「けれども、おお信徒の長《おさ》よ、これがほくろでないとは、何によってお見分けなさいまするか。」教王《カリフ》は言われました、「彼はむしろ小柄であったが、これは大男じゃ。」ジャアファルはお答えしました、「それは少しも証拠にはなりませぬ。絞首になると身体が延びまする。」教王《カリフ》は言われました、「旧《もと》の宮内卿は双の頬にふたつほくろがあったが、この者にはひとつもないぞよ。」ジャアファルは申しました、「死は容姿を変え、顔容《かおかたち》をめちゃめちゃにいたしまする。」けれども教王《カリフ》はお叫びになりました、「よろしい、しかし、おおジャアファルよ、この受刑者の足の裏を見よ。ここにはアリーの異端宗派の徒の習い(26)に従って、二人の大|教長《シヤイクー》の御名《みな》が入墨《いれずみ》してあるぞよ。しかるに、ほくろは決してシーア派ではなく、スンニー派であったことは、その方もよく知るところじゃ。」この検証に対して、ジャアファルは結論いたしました、「ひとりアッラーのみが事物の神秘を知りたまいまする。」次にお二人は宮殿に戻って、教王《カリフ》は屍体を埋葬するようお命じになりました。そしてその日以来、教王《カリフ》はほくろの思い出さえも、御記憶から追い払ってしまわれました。
ところが、ほくろの二番目の妻の、あの女奴隷はどうかと申しますと、彼女はカーレド公に連れられて、その息子ぶくぶくでぶのところに案内されました。彼女を見ると、ぶくぶくでぶはあの売立ての日以来、床《とこ》から動かなかったのですが、鼻を鳴らして起き上り、彼女に近づいて腕に抱こうとしました。けれども美しい女奴隷は、この馬鹿のおぞましい様子に、腹を立て嫌気《いやけ》がさして、突然帯の間から懐剣を取り出し、腕をあげて叫びました、「お退《さが》りなさい。さもないと、わたくしはこの懐剣であなたを殺した上で、われとわが胸に突き刺します。」すると、ぶくぶくでぶの母親が、両腕を差し延べながら、飛びかかってきて、叫びました、「何だってお前は小癪にも、家《うち》の息子の望みに従わないのか、おおこの無礼な奴隷が。」けれども若い女は言いました、「おお不正の女よ、ひとりの女が、同時に二人の男に属することを許すような法律が、いったいどこにありますか。それに、そもそもいつから、犬が獅子の棲家に住むことができるようになったのか、伺わせていただきたいものです。」
この言葉に、ぶくぶくでぶの母親は言いました、「よろしい、そういうわけなら、お前はこれから、ここでつらい暮しを送って思い知るがよい。」若い女は言いました、「わたくしの御主人が、たとえ生きていなさろうとなくなろうと、わたくしは御主人の愛を思い切るくらいなら、いっそ死んでしまうほうがましでございます。」すると奉行《ワーリー》の妻は彼女の着物を脱がせ、その美しい絹の着物と宝石類を取り上げ、牝山羊の毛の、粗末な料理女の着物を着せ、台所に追い下ろして、言いました、「これから、ここでのお前の奴隷の役目は、玉葱の皮を剥ぎ、鍋の下に火を起し、トマトの汁を搾り、パンの練粉を作ることだよ。」若い女は答えました、「あなたの息子の顔を見るよりは、その奴隷仕事をするほうがずっとましです。」そしてその日から、彼女は台所にはいりましたが、しかしじきに他の女奴隷全部の心を掴んで、みんなが代って仕事をやってくれて、一切仕事をさせませんでした。
ぶくぶくでぶはというと、彼はもう美しい女奴隷ヤーサミーンに、近よることができなくなったので、こんどは本当に床に就いてしまって、もはや二度と起きませんでした。
ところで、ヤーサミーンは、結婚のそもそも初夜から、ほくろに身籠らせられていたということを、思い出していただかなければなりません。ですから、奉行《ワーリー》の屋敷に来てから数カ月後に、彼女は月満ちて、月のように美しい男の子を生み落し、父親がその場にいて、わが子に名をつけてやることができないのを、彼女をはじめ、全部の女奴隷はさめざめと泣きながらも、これをアスラーン(27)と名づけたのでございました。
少年アスラーンは二年間、母の乳に養われ、丈夫にまたたいそう美しくなりました。そしてもう独り歩きできたので、彼の天命の望むところによって、ある日のこと、母親の手がふさがっている間に、台所の梯子段の階段をのぼって、ちょうど奉行《ワーリー》、カーレド公、ぶくぶくでぶの父が、琥珀の数珠を爪繰りながら坐っている部屋に、はいったのでございました。
父親ほくろと生き写しの少年アスラーンを見ると、カーレド公は眼に涙が浮ぶのを覚えて、子供を呼び、膝の上に載せ、ひどく心を動かされて撫でてやりはじめ、独りごとを言いました、「このように美しい品々を創り、それに魂と生命《いのち》を与えたもう御方《おんかた》こそ、祝福されてあれ。」
この間に、奴隷ヤーサミーンは、自分の子供のいないのに気づきました。彼女は気もそぞろになって、あらゆるところを探し、一切の礼儀を顧みず、意を決してカーレド公のいる部屋に、血眼《ちまなこ》ではいりました。すると少年アスラーンが、奉行《ワーリー》の膝の上に坐っているのを見ました。子供はその小さな指を、貴族《アミール》の尊ぶべき鬚のなかに突っこんで、遊んでいました。けれども母親を見ると、少年は両腕を差し出しながら、飛び立ってきました。するとカーレド公は少年を更に引きとめて、やさしくヤーサミーンに言いました、「近う寄れ、おお奴隷よ。この子はお前の息子ででもあるのか。」彼女は答えました、「さようでございます、おお御主人様、わたくしの心の果実でございます。」彼は訊ねました、「してその父親は誰か。家《うち》の召使の誰かかな。」彼女は潸然《さんぜん》と涙をこぼしながら、言いました、「この子の父は、わたくしの夫ほくろでございます。けれども今は、おお御主人様、これはあなた様の息子でございます。」奉行《ワーリー》は非常に心を動かされて、女奴隷に申しました、「アッラーにかけて、まことにそのとおりじゃ。この子は今後余の息子だ。」そして即座にこれを養子として、その母親に言いました、「さればお前は、今日よりして自分の息子を余の息子と心得、これが物心つく年頃となった節、余以外にかつて父がなかったものと、永久に信じさせるようにしなければならぬ。」するとヤーサミーンは答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする。」
そこでカーレド公は、本当の父親として、ほくろの息子の身を引き受け、これに念入りな教育を授け、第一流の書家の、非常な学識ある先生の手にあずけて、書道、コーラン、幾何学、詩歌を習わせました。それから、少年アスラーンがもっと大きくなると、養父のカーレド公は自ら、馬に乗ること、武器を使うこと、槍の試合をすること、野仕合で戦うことを教えました。こうして少年は十四歳の年には、天晴れな騎手となり、教王《カリフ》から、父の奉行《ワーリー》と同様、貴族《アミール》(28)の位に昇らされました。
ところが、天運はある日、若いアスラーンと蛾のアフマードを、ユダヤ人アブラハムの酒場の戸口で、ばったりと出会わせることを望みました。そして蛾のアフマードは貴族《アミール》の息子に、ここにはいって何か飲み物を飲もうと誘いました。
二人が坐ると、蛾のアフマードは相変らず飲み出して、すっかり酔っぱらってしまいました。すると彼は衣嚢《かくし》から、昔盗んだ、例の宝石を飾った小さな黄金のランプを取り出して、もう暗くなっていたので、それに火をつけました。そこでアスラーンは言いました、「やあ、アフマード、このランプはとても綺麗ですね。僕に下さいな。」警察長《ムカツダム》は答えました、「アッラーは私にそんな真似をさせなさらぬように。あんなに大勢の魂をなくさせた品物を、どうしてお前にやることなんぞできようか。現にこのランプは、旧《もと》の宮内卿でほくろとかいう、あるエジプトのやつの、死の原因になったものだよ。」するとアスラーンは、たいそう興味を感じて叫びました、「その話を聞かせて下さい。」
そこで蛾のアフマードは、酔っぱらいながら、自分がその挙の張本人だったことを自慢しながら、一部始終残らず、その話を話して聞かせました。
若いアスラーンは家に帰ると、母のヤーサミーンに、蛾のアフマードから聞いてきた話を話して聞かせ、そのランプは、未だに彼の手の間にあると申しました。
この言葉に、ヤーサミーンはひと声大きな叫びをあげ、気を失って倒れてしまいました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百六十九夜になると[#「けれども第二百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして母親はわれに返ると、わっと泣き出して、息子アスラーンの首に身を投げかけて、涙のうちに、言いました、「おおわが子よ、アッラーは真相を明らかになしたまいました。こうなっては、もうこれ以上永く、秘密を黙っているわけにゆきません。実は、おお私のアスラーンよ、カーレド公はお前の養父にすぎないので、血のつながるお前のお父様というのは、私の最愛の夫ほくろで、おわかりのように、罪人の身代りに、罰を受けなされた方です。ですから、息子よ、お前はこれからすぐに、お前のお父様の旧《もと》の親友で、教王《カリフ》の敬うべき警吏の長《おさ》をお訪ねして、お前が今聞き出したことを、お話し申し上げなければなりませぬ。それからこう申し上げなさい、『おお閣下、アッラーにかけて切にお願い申します、どうぞ私の父ほくろの殺害者の、仇を討って下さいませ』と。」
すぐに若いアスラーンは、王宮の警吏の長《おさ》、まさにほくろの首《こうべ》を救ったそのひとに、会いに駈けつけ、ヤーサミーンに言い聞かされたとおりに言いました。
すると警吏の長は、驚きと悦び極まって、アスラーンに言いました、「面衣《ヴエール》を引き裂き、闇に光明を投じたもうアッラーは、祝福されよかし。」そして付け加えました、「明日にも、おおわが子よ、アッラーはお前の仇を討って下さるであろう。」
果して、その日、教王《カリフ》は一大野仕合を催されて、それにはバグダードの全|貴族《アミール》と一流騎手が、騎馬の槍仕合を行ない、また、馬上で木槌で球を打ち合う競技を、催すことになっておりました。そして若いアスラーン自身も、木槌の競技者の数にはいっていました。そこで彼は鏈《くさり》帷子《かたびら》を着用し、養父カーレド公の厩舎《うまや》のなかで、一番立派な馬に打ち跨っておりました。こうしてまことに颯爽《さつそう》とした姿でございましたから、教王《カリフ》御自身も、彼の扮装《いでたち》とその溌剌とした若さに、はなはだ御感深きものがございました。それで、彼をば御自分の組に入れることを、お望みになりました。
競技が始まりました。双方とも、競技者はその活躍に非常な腕前を発揮し、各自馬を疾駆させながら、木槌でもって球を打ち返すのに、妙技を示しました。
ところが突然、教王《カリフ》が親しく指揮していらっしゃった側の、敵側の競技者のひとりが、球をばまっすぐ教王《カリフ》のお顔に投げ、それが極めて巧みな猛烈な一撃でとばしたので、教王《カリフ》の両のお眼はもとより、おそらく御一命もすでに危なかったところでしたが、そこに若いアスラーンが、まことに感嘆すべき手練をもって、自分の木槌を揮って、間一髪、飛んでくる球を受け止めたのでございます。そして彼はその球を、反対の方向に物凄い勢いで打ち返したので、球はさっきそれをとばした騎手の背中に命中し、その脊骨を折って、落馬させてしまったのです。
この天晴れな働きに、教王《カリフ》は若いアスラーンを御覧になって、おっしゃいました、「勇者万歳じゃ、おおカーレド公の息子よ。」そして教王《カリフ》は野仕合を打ち切りになさった上で、すぐに馬から降り、競技に加わった貴族《アミール》と騎手全部をお集めになりました。次に若いアスラーンをお召しになり、満座の前で、これにおっしゃいました、「おおバグダードの奉行《ワーリー》の男々しき息子よ、余はそちの勲《いさお》のごとき勲にふさわしき褒美を、そち自身が定《さだ》めるのを聞きたく思う。いかなる望みとても聞き届けて遣わすぞよ。申すがよい。」
すると若いアスラーンは、教王《カリフ》の御手の間の地に接吻して、申しました、「私は信徒の号令者に、仇討をお願い申しまする。私の父の血は未だ贖《つぐな》われておりませず、殺害者はなお生き永らえておりまする。」
この言葉に、教王《カリフ》は驚きの極みに達して、お叫びになりました、「何を言うのか、おおアスラーンよ、そちの父の仇を討つとは。だがそちの父、カーレド公は、今ここに余の傍らに、恙《つつが》なく生き永らえておるではないか、アッラーに謝せよかし。」けれどもアスラーンはお答え申しました、「おお信徒の号令者よ、カーレド公は、私にとって無上の養父でございました。実は、まこと私は、決して血の繋がる彼の息子ではございません。と申すのは、私の父とは、わが君の旧《もと》の宮内卿ほくろなのでござりまする。」
この言葉を聞かれると、教王《カリフ》はお眼の前で光が闇に変ずるのを御覧になって、お声も変って、申されました、「わが子よ、ではそちは、そちの父が信徒の号令者に対し、裏切者であったことを知らぬのか。」けれどもアスラーンは叫びました、「何とぞアッラーは、私の父がその裏切りの張本人であったことから、お守り下さいますように。裏切者はわが君の左におります、おお信徒の長《おさ》よ。それは警察長《ムカツダム》、蛾のアフマードです。彼の身体をお調べあらば、その衣嚢《かくし》のなかに、裏切りの証拠を見出したもうでござりましょうぞ。」
この言葉に、教王《カリフ》は色を変え、|※[#「さんずい+自」、unicode6d0e]夫藍《サフラン》のように黄色になられ、凄まじいお声で、警吏の長《おさ》を呼んで、お命じになりました、「余の面前で警察長《ムカツダム》の身体を調べよ。」すると、ほくろの旧友の警吏の長は、蛾のアフマードに近より、またたく間にその方々の衣嚢《かくし》を探り、突然|教王《カリフ》の盗まれなすった、黄金の小さなランプを取り出したものです。
すると教王《カリフ》は、ほとんど御自分を制することもおできにならず、蛾のアフマードに言われました、「進み出よ。このランプはどこから手に入れたか。」彼は答えました、「買い求めたものでござります、おお信徒の号令者よ。」すると教王《カリフ》は警吏に申しつけました、「こやつが白状いたすまで、直ちに笞《むち》を加えよ。」そしてすぐに蛾のアフマードは警吏たちに捉えられ、裸にされ、笞刑にされ、散々打たれた末、とうとう一切を白状し、一部始終残らず話しました。
教王《カリフ》はすると、若いアスラーンのほうに向いて、おっしゃいました、「今度はそちの番じゃ。そち自身の手にて、こやつを絞首にせよ。」そしてすぐに、警吏が蛾のアフマードの首に縄をまわし、アスラーンはその縄を両手で掴み、警吏の長に助けられて、競馬場のまんなかに建てられた絞首台上高く、賊を吊り上げたのでございます。
こうして制裁が加えられると、教王《カリフ》はアスラーンに仰せられました、「わが子よ、そちは未だ、そちの勲《いさお》に対する恩賞を求めていないぞよ。」するとアスラーンは答えました、「おお信徒の号令者よ、私の願いをお許し下さるとあらば、どうか私の父を返していただきたく、お願い申し上げまする。」
この言葉に、教王《カリフ》は深くお心を動かされて、涙を流しはじめられ、それから溜息をつかれました、「しかしながら、おおわが子よ、そちの気の毒な父はあらぬ罪を受け、絞首されて死を遂げたことを、そちは知らぬのか。と申すよりはむしろ、どうも死を遂げたらしいが、しかし事は全く確実とは参らぬ。さればこそ、余はわが祖先の武勇にかけてそちに誓う、そちの父ほくろが死んでおらぬと余に告ぐるものあらば、余はこれに最大の恩賞をとらするぞよ。」
そのとき警吏の長《おさ》が、教王《カリフ》の御手の間に進み出て、申しました、「私に身の安泰の保証をお与え下さいませ。」すると教王《カリフ》はお答えになりました、「安泰は汝の上にある。申せ。」すると警吏の長は言いました、「吉報を申し上げます、おお信徒の長《おさ》よ。わが君の旧《もと》の忠実なる下僕《しもべ》ほくろは、生きておりまする。」
教王《カリフ》は叫ばれました、「ええっ、何と申すか。」彼は答えました、「お頭《つむり》の御《おん》生命《いのち》にかけて、それが真実《まこと》であることを、誓い奉ります。実はほくろの身代りに、兄弟がその兄弟に似るがごとく彼に似た、普通の死刑囚を絞首にさせて、彼をば救ったのは、この私自身でございます。そして彼はただ今イスカンダリアにて恙なく、おそらくはその地の市場《スーク》に、店をかまえているはずでござります。」
この言葉に、教王《カリフ》は大いに悦ばれて、警吏の長《おさ》に申されました、「その方彼を探しに出発し、最も短期間内に、余の許に連れ戻さねばならぬ。」警吏の長は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そこで教王《カリフ》は、これに旅費として一万ディナール賜わり、警吏の長はすぐにイスカンダリア指して発足いたしましたが、アッラーの思し召しあらば、彼はやがてその地に姿を見せることでございましょう。
ところで、ほくろはどうかと申しますと、次のようでございます。
彼の乗った船は、アッラー(その祝福せられんことを)によって記《しる》されていた安らかな航海ののち、イスカンダリアに到着しました。ほくろはすぐに下船して、そしてカイロ生まれとはいえ、これまでかつて見たことのなかったイスカンダリアの光景に、心を奪われました。それからすぐに市場《スーク》にゆき、折から呼売人が、もうそのまま商売に使えるような店を、そっくり売立てに出していたのを、借り受けました。それは事実、持主が急死した店だったのでございます。その店は、習慣どおり座蒲団《クツシヨン》をたくさん備えつけて、商品としては、海員用の品々、例えば帆とか、綱具とか、細引とか、頑丈な箱とか、携帯荷物袋とか、あらゆる種類あらゆる値段の武器とか、特に、船長たちが非常に珍重して、ここで買っては西洋のひとびとに転売する古鉄と古物類を、夥しく所蔵しておりました。というのは、これらの西洋諸国のひとびとは、古い時代の古物を極度に珍重して、例えば腐った木の切れはしとか、御守りの石とか、錆びた古い剣などと、自分の女や娘たちを交換するのでございます。
ですから、ほくろがバグダードを離れて永年異境にいた間に、驚くばかり商売に成功し、十倍の利を収めたのも、すこしも不思議はありません。なぜなら、例えば一ドラクムで買って十ディナールで売るというような、古物販売ほど儲かるものは、ほかにないからです。
ほくろは店の蔵品を全部売り尽してしまって、もうその空《から》の店を売り払おうと思っていると、そのとき突然、たしかに全然空っぽになったはずの棚のひとつに、ふと、きらきら輝く赤い品を見かけたのでした。取り上げて、よく見ると、それは六面に刻まれて、古い金の細い鎖に吊るされた、大きな御守りの宝石なのを見て、驚きの極みに達しました。そのおのおのの面には、蟻とか、そのほか同じくらいの大きさの虫類にそっくりの、見たこともない文字で、いろいろの名が彫り込まれていました。それで、これがいったいいくらになるかしらんと胸算用しながら、注意を凝らして、いつまでも眺めていると、その時、店の前にひとりの船長が、往来から見かけたこの品を、もっと近くによって見ようと立ちどまっているのを、見かけました。
船長は挨拶《サラーム》をしてから、ほくろに言いました、「おお御主人よ、その宝石は譲ってもらえるのか、それとも売る品ではないのかね。」彼は答えました、「ここでは何でもお売りいたします、店でもかまいません。」船長は訊ねました、「ではその宝石を、黄金八万ディナールで私に売ってもらえませんか。」
この言葉に、ほくろは考えました、「アッラーにかけて、この宝石はきっととんでもなく貴重なものにちがいない。簡単には手放すまい。」そして答えました、「御冗談でしょう、おお船長さん。というのは、アッラーにかけて、これは原価十万ディナールで、手に入れたものですよ。」船長は言いました、「では十万で譲ってもらえませんか。」ほくろは言いました、「よろしゅうございます。しかしこれは、ほかならぬあなた様のことだからです。」すると船長は礼を述べて、彼に言いました、「私は今その金子《かね》を全額持ち合わせてはいません。そんな大金を持ってイスカンダリアを歩きまわることは、危険千万でしょうからね。しかし私と一緒に船に来て下されば、そこで代金を差し上げ、更に羅紗二反、天鵞絨二反、繻子二反を添えて、進上しましょう。」
そこでほくろは立ち上り、店に鍵をかけ、船長に従《つ》いて船にゆきました。そして船長は、甲板で待っていてくれと言って、金子を取りに引っ込みました。けれどもそのまま姿を現わさないうちに、突然帆が広々と拡げられて、船は鳥のように、海を切って進み出しました。
ほくろはこうして海上に虜《とりこ》になったのを見ると、この上なくびっくり仰天してしまいました。けれども誰に、救いを頼むことができましょう。説明を求めるようなひとりの水夫も見当らないし、船はさながら、見えざるものに駆り立てられて海上を飛ぶばかりでしたから、なおさらのことです。
こうして彼が困っておびえていると、そのうちやっとのことで、船長がやってくるのが見えましたが、船長は鬚を撫で、嘲るような様子で彼を見やって、最後に彼に言いました、「お前はたしかに、カイロのシャムセッディーンの息子で、かつてバグダードの教王《カリフ》の宮殿にいた、回教徒のほくろだろうな。」彼は答えました、「私がシャムセッディーンの息子です。」船長は言いました、「そうか、数日後にはわれわれは、われらのキリスト教の故国ジェノアに着くであろう。そうすれば、おお回教徒よ、お前はお前を待つ運命を見るだろうよ。」そして船長は行ってしまいました。
実際に、船旅はたいへん仕合せよく、船は西洋のキリスト教徒の町、ジェノアの港に到着しました。するとすぐに、ひとりの老婆が二人の男を従えて、ほくろを探しに船にやってきましたが、ほくろはもうこの出来事を、どう考えてよいかてんでわかりません。ともかくも、自分を導くよいのか悪いのか知らない天命に身を委せて、老婆に従《つ》いてゆくと、老婆は町を横ぎって、僧侶の修道院に属する、ある教会に連れてゆきました。
教会の門に着くと、老婆はほくろのほうに向いて、言いました、「今後あなたは、この教会と修道院の下男だと、心得なければなりません。あなたの勤《つと》めは、毎日明け方に起きて、まず森に行って薪を作り、できるだけ早く戻ってきて、教会と修道院の鋪石《しきいし》を洗い、茣蓙《ござ》を振り、全部を掃くのです。次には麦を篩《ふる》って、挽いて、パンの練粉を作り、竈《かまど》でパンを焼く。それから扁豆をひと桝《ます》とって、挽いて、料理し、次にそれを三百七十杯のお椀に盛り、修道院の三百七十人の僧侶めいめいに、一杯ずつ渡さなければなりません。それが済んだら、僧侶たちの独房にある汚穢壺をあけにゆき、次に、庭園に水を撒き、四つの泉水と、壁沿いに並んでいる樽とに水を満たして、それで用事を終えるわけです。そしてこの仕事は毎日、午前中に終えなければなりません。というのは、日々の午後は、道行くひとびとに、否応なく教会に行って、お説教を聴聞させるようにすることに、宛《あ》てなければならないからです。そしてもしひとびとがいやと言ったら、ここに鉄の十字架のついた錫杖《しやくじよう》があるから、これでもって、王様の命令によって、そんなやつは叩き殺してしまいなさい。こうして、この町にはもう熱心なキリスト教徒しかいなくなって、みんなここに、僧侶たちの祝福を受けにやってくるようになるでしょう。さあ、では今から仕事に取りかかり、私の言ったことを忘れないように、よく気をつけなさいよ。」
そしてこう言っておいて、老婆は目くばせしながら彼を見やって、立ち去ってしまいました。
そこでほくろは思いました、「アッラーにかけて、これはどうもひどいことだ。」そしてもうどう心を決めてよいやらわからないで、とにかく、ちょうどそのとき、全く人影のない教会のなかにはいり、腰掛に坐って、わが身に次々に起った、こうしたすこぶる奇怪な出来事すべてについて、とくと考えてみようとしました。
ひと時ほどそこにいると、そのとき、立ち並ぶ柱の下から、まことに快い女の声が、自分のところまで聞えてきて、すぐに思わず悩みも忘れて、うっとりと聴き入ってしまいました。この声にすっかり心を動かされて、やがてすぐ、彼の魂のすべての鳥は一時に歌いはじめ、自分の心中に、寂しい調べが精神にもたらす祝福された爽やかさが、降りてくるのを感じました。そして早くも立ち上ってその声の主《ぬし》を探そうとすると、そのとき、声はとだえてしまいました。
ところが突然、円柱の間に、ゆったりした着物を着た女の顔が現われて、彼のところまで進み寄り、震える声で彼に言いました、「ああ、ほくろ様、どんなに永い間、わたくしはあなたを想っていたことでございましょう。とうとうわたくしたちが相遭うことを許したもうたアッラーは、祝福されてあれ。さあ、これからすぐ結婚いたしましょう。」
この言葉に、ほくろは叫びました、「アッラーのほかに神はない。もうたしかだ、わが身に起っている一切は、夢にすぎない。そしてこの夢が消え失せたら、私はまたイスカンダリアの自分の店にいることだろう。」けれども、その若い女は言いました、「いえいえ、おおほくろ様、これは現実《うつつ》でございます。あなたはジェノアの町においでです。わたくしは、父のジェノア王の配下にある船長を通じて、あなた様を無理矢理、この町にお連れ申させたのでございます。実は全くのところ、わたくしはこの町の王の娘、ホスン・マリアム(29)姫でございます。ごく幼い時から習い覚えた妖術によりまして、わたくしはあなたのいらっしゃることとあなたのお美しさを知り、深く想いを懸けて、船長にイスカンダリアまで、あなたを探しにやったのでございます。ここに、わたくしの首に、あのあなたがお店で見つけなすった、御守りの宝石がございます。あれは船長自身が、あなたを船の上におびき寄せようとて、お店の棚のひとつに置いたものでした。この宝石が、わたくしにどんな霊力を授けてくれるかは、やがてすぐお確かめなさることでしょう。けれども何よりもまず、これからわたくしと結婚して下さいませ。そうすれば、どのようなお望みでも叶えられるでございましょう。」ほくろは言いました、「おお姫君よ、せめて私をイスカンダリアに戻すと、約束して下さいましょうか。」姫は言いました、「そんなやさしいことはございません。」そこで彼は、姫と結婚することを承知しました。
すぐにマリアム姫は彼に言いました、「ではあなたは、すぐさまイスカンダリアにお戻りになりたいのですの。」彼は答えました、「いかにも、アッラーにかけて。」姫は言いました、「ではそこに参りましょう。」そしてその紅玉髄を取り上げて、その六面のうち、寝床の図が彫りつけてある面を、空のほうへむけ、拇指《おやゆび》でその面を強くこすりながら、言いました、「おお紅玉髄よ、スライマーンの御名《みな》において命じます、私に旅の床《とこ》を手に入れておくれ。」
この言葉が言われたと思う間もなく、一台の旅の床《とこ》が、毛布と座蒲団《クツシヨン》もついて出てきて、二人の前に置かれました。二人は一緒にそれに座を占めて、楽々と横になりました。するとマリアム姫は、紅玉髄を撮《つま》み上げて、六面のうち、鳥が彫りつけてある面を空のほうに向けて、言いました、「紅玉髄よ、おお紅玉髄よ、スライマーンの御名によって命じます、一番近い道を通って、私たちを恙なくイスカンダリアまで運んでおくれ。」
この命令が言われたと思うと、その寝床は揺れもせず、ひとりでに空中に持ち上って、円屋根まで上り、大窓から出て、鳥のなかでも一番速い鳥よりも速く、驚くばかり同じ早さで、空を劈《つんざ》いて進み、小便をするに要する時間ほどもかからずに、二人をイスカンダリアに下ろしたのでした。
ところで、ちょうど二人が地に足を下ろした瞬間に、こちらのほうに向って、バグダード風の着物を着たひとりの男が来るのが見え、ほくろはすぐに、それが誰かわかりました。それは警吏の長《おさ》でした。彼もまたたった今船を下りて、昔の絞首刑の男を、捜しはじめようとしているところでした。そこで両人は、お互いに腕のなかに身を投げて、そして警吏の長はほくろに、犯罪人発見とその絞首の知らせを伝え、十四年以来、バグダードに起ったすべての出来事を話し、こうして、今ではバグダード随一の立派な騎手になっている、彼の息子アスラーンの誕生を教えたのでございました。
そしてほくろのほうでもまた、警吏の長に、自分のいろいろの波瀾を、一部始終全部話しました。それは警吏の長をこの上なくびっくりさせましたが、ひとたびその感動が少し鎮まると、彼に言いました、「信徒の号令者は、一刻も早く、あなたに再会したいと望んでおいでです。」彼は答えました、「いかにも承知しました、さりながら、その前にカイロに行って、父シャムセッディーンと母親との手に接吻し、両親に私たちと一緒に、バグダードに来るように決心させることを、お許し下さい。」
そこで、警吏の長は二人と一緒に寝床の上に乗ると、それは瞬くうちにカイロの、ちょうどシャムセッディーンの家のある「黄色通り」に、三人を運びました。そこで一同戸を叩きました。母親は、誰がこのように戸を叩くのかを見に下りてきて、訊ねました、「戸を叩くのはどなた。」彼は答えました、「私です、息子のほくろです。」
母親はもう永年来、喪服を着ていたこととて、その悦びは際限なく、わが子の腕の中で気絶して倒れてしまいました。そして尊ぶべきシャムセッディーンも、同様でございました。
彼らは三日の間この家で休むと、みんなで打ち揃って例の寝床に乗り、ホスン・マリアム姫の命令で、寝床は一同を恙なくバグダードに運びました。そこでは教王《カリフ》は、ほくろを息子のように抱いて迎えなさり、彼にも、また父親シャムセッディーンにも、息子アスラーンにも、要職と名誉の限りを尽しなさいました。
それが済むと、ほくろは、要するに自分の幸運の最初の原因といえば、はじめに実に巧みに、自分を旅に出ずにいられないようにしむけ、次には無一物でいるところを、共同泉水場の平らな台の上で拾い上げてくれた、あの両刀使いのマハムードであるということを、思い起したのでございました。それで方々探させると、最後に、ある庭に坐って大勢の若い少年のまんなかで、一緒に歌ったり飲んだりしているところを見つけました。そこで彼は、これに王宮に来てくれるように頼んで、これを蛾のアフマードの代りに、警察長に任じていただきました。
この義務を果すと、ほくろは、若いアスラーンのように、こんなに美しく勇ましい息子にめぐり会ったことを深く悦び、アッラーにその御恵《みめぐ》みを感謝いたしました。そしてバグダードで、ゾバイダ、ヤーサミーン、ホスン・マリアムと三人の妻に囲まれて、最後に「快楽の破壊者」、「友を隔てる者」に訪れられるまで、幾年も幾年も、幸福の限りに暮したのでございました。およそ創《つく》られし万物の向い集まる「不易の御方」こそ、讃め称《たた》えられよかし。
[#ここから1字下げ]
――そしてシャハラザードは、この物語を語り終えると、少しく疲れを覚えて、口をつぐんだ。
するとシャハリヤール王は、この間ずっと注意を凝らして身動きもせずにいたが、このとき叫んだ、「このほくろの物語は、おおシャハラザードよ、まことに非凡であり、両刀使いマハムードと、冷たい卵を温める処方を心得た仲買人胡麻は、極度に余を感心させた。さりながら、これを言わねばならぬが、この両刀使いの振舞いには未だ余の腑に落ちぬ点があり、これについてもっと明瞭な説明を聞かせてくれれば、悦ばしいと思う、もっともそちにそれができればのことであるが。」
このシャハリヤール王の言葉に、シャハラザードは軽く微笑んで、妹ドニアザードを見やると、妹はいたく興じている様子であった。次に彼女は王に言った、「おお幸多き王さま、今はこの小さな妹はどんなことでも聞くことができまするからして、わたくしは、イラーンとアラビアのあらゆる詩人のなかで一番好ましく、一番愉快な、一番才気ある詩人、詩人アブー・ヌワースの事件[#「詩人アブー・ヌワースの事件」はゴシック体]の一、二をば、お話し申し上げたいと存じます。」
すると小さなドニアザードは、うずくまっていた敷物から立ち上り、駈け寄って姉の腕のなかに身を投げて、やさしく姉に接吻して、これに言った、「おお、お願いでございます、シャハラザード姉さま、どうかすぐに始めて下さいませ。そうしていただけば、ほんとうに嬉しゅうございます。おおお姉さま。」するとシャハラザードは言った、「親しみをこめ心から悦んで、そして雅《みやび》やかな挙措を授けられたこの王さまへの、当然の敬意として。」
けれども、折から朝の光が射してくるのを見たので、シャハラザードは常につつましく、話を翌日に延ばした。
[#地付き]第二百七十夜になると[#「第二百七十夜になると」はゴシック体]
小さなドニアザードは、シャハラザードがシャハリヤール王といつものことをすませるのを待って、そして頭をあげながら、叫んだ、「おおお姉さま、どうぞお願いいたします、あなたはわたくしたちに、あの教王《カリフ》のお友達で、イラーンとアラビアのあらゆる詩人のなかで一番愉快な、好ましい詩人アブー・ヌワースについての逸話を、いくつか話して下さるのを、今となって何を待っていらっしゃるのでしょう。」するとシャハラザードは妹に微笑みかけ、そしてこれに言った、「わたくしはアブー・ヌワースの事件のうちの、いくつかを語るのに、ただ王さまのお許しを、待っているばかりです。この詩人はたいへんな放蕩者だったのですよ。」
するとシャハリヤール王は、シャハラザードのほうを向いて、これに言った、「まことに、シャハラザードよ、余はそちがそれらの事件をわれらに物語るを聞くのを、すこしもいといはしない。しかし余は言わねばならぬが、今宵は余はさらに高尚な想念のほうに、心ひかるるを覚えるのじゃ。されば、もしそちが余の識見を強固にし得るような物語を知っておるならば、それが余に興味を抱かせぬなどとは、けっして思ってはならぬ。それどころではないのじゃ。もしなお余の忍耐が尽きなければ、シャハラザードよ、それらのアブー・ヌワースの事件は、その後から話して苦しゅうない。」
シャハリヤール王のこの言葉に、シャハラザードは答えた、「ちょうど、おお幸多き王さま、わたくしは今日ひねもす、才色ともに秀でた、タワッドド[#「タワッドド」はゴシック体]という名の、ある乙女の物語について、つらつら思いみたのでございます。そしてわたくしは、この乙女の所行《しよぎよう》と驚嘆すべき知識とについて、存じまするところをお伝え申し上げるよう、すっかり用意成っておりまする。」
するとシャハリヤール王は叫んだ、「アッラーにかけて、今そちの告ぐるところを詳しく余に知らするに、これ以上遷延することなかれ。美しい娘らの述べる学識に富む言葉を聞くことほど、余に快いことはないからじゃ。そしてその約束の物語が、余を存分に満足させ、余の利益となると同時に、すべての真《まこと》の回教徒婦人の身につけるべき教育の範となることを、余は望んでやまぬしだいじゃ。」
するとシャハラザードはしばらく思い耽って、そして一本の指を挙げて、言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
博学のタワッドドの物語
語り伝えられますところでは、――さあれアッラーは万物につきて最も通暁したまいまする、――昔バグダードに、大そう手広い商売を営む一人の商人がおりました。彼は栄誉も、世間の尊敬も、あらゆる種類の特権と特典をも得ておりましたが、一向に仕合せではございませんでした。と申しますのは、アッラーは彼の上に、たとえ女子であろうとも、子供をお授けになるまで、その祝福を拡げたまいはしなかったからでした。それゆえ、彼は悲しみの中に年老いてしまい、数多い妻のうちの一人からさえも、心を慰める結果を得られず、日に日に、わが骨の透きとおるようになるのを見ておりました。けれども、ある日のこと、彼は非常に夥しい施物を配り、行者《サントン》たちを訪れ、断食をし、熱心に祈りましてから、妻たちの中で一番若い女と寝ましたところ、今度は、至高者の慈愛によって、即時即刻、この妻を懐妊させたのでございました。
九カ月目のちょうど同じ日に、この商人の妻は、まるで月の一片のような、まことに美しい男子を、めでたく分娩いたしました。
されば商人は「贈与者」に対する感謝の念のうちに、立てた誓いを果すことを忘れず、まる七日の間、貧者と寡婦と孤児に、たくさんの施しをいたしました。それから、七日目の朝に、この息子に名を与えることを思って、これをアブール・ハサン(1)と呼びました。
子供は乳母たちの腕と、美しい奴隷たちの腕に抱かれ、女や召使たちに宝物のように大切にされて、とうとう勉強をする年齢になりました。すると、子供は最も学殖のある先生方に託され、コーランの崇高な言葉を読むことを教わったり、書道や、詩歌や、計算や、弓を引く術を仕込まれたのでございました。ですから、その教育は広さの点で、同じ世代と世紀のそれを凌ぎましたが、しかもそればかりではございませんでした。
事実、彼はこうした様々の知識に加えて、霊妙な魅力を備え、申し分なく美しかったのでございます。そして彼は、天命があらかじめ定めて置いただけの期間を、父の悦びとなり、その瞳の法楽となっておりました。けれども、老人は自分に定められた期限が近づいたのを感じたとき、日々の中のある日、息子をわが手の間に坐らせて、これに申しました、「わが子よ、今やいよいよ支払期日は近づいた。わしのすることはもう、至高の主の御前《おんまえ》に罷り出る用意をすることだけじゃ。わしはたくさんの財産、財宝と所有物、村々全部、美しい土地と美しい果樹園など、お前やお前の子供たちに、十分に、また十分以上に足りるだけのものを、お前に遺《のこ》してあげる。わしはただおまえに、報酬者に感謝しつつ、これらの財産を度を過ごさずに使うことを知るよう、勧めるだけじゃ。」それから年老いた商人は病死いたし、アブール・ハサンはこの上なく悲しみました。そして葬式の勤めを果しますと、喪に服して、悲嘆とともに家に閉じ籠ってしまいました。
けれどもやがて彼の仲間たちは、その気を紛らせ、彼を悲しみから引き出すことに成功しました。そして巧みに、彼を無理矢理|浴場《ハンマーム》に入れて、身を爽やかにし、次に着物を着換えさせてしまいました。そしてすっかり心を慰めてやろうとして、彼らは言いました、「君のような子供たちの中に再生する人は、死にはしないよ。だから、悲しみを遠ざけて、君の青春と財産をば、活用することを考えたまえ。」
それで、アブール・ハサンは父の忠告をだんだん忘れてゆき、しまいには、幸福と財産はいつまでも続くものと決め込んでしまいました。それからというものは、自分のあらゆる移り気を満たし、あらゆる快楽に耽り、歌妓《うたいめ》や女楽手たちのもとに通いつめ、雛鶏が好きというので、毎日大量の雛鶏を食べ、酔う酒類の古い壺の封を切り、打ち合わす盃の鳴る音を聞き、損《そこな》い得るものは損い、壊し得るものは壊し、覆《くつがえ》し得るものは覆し、こうしたことをずっとやめず、ついにある日のこと、自分自身のほかには、手中に一物もなくて、眼を覚ましたのでございました。そして、召使と女たちについて亡き父が遺してくれた全部のうち、もはや彼に残ったものは、数多い女奴隷のうちただ一人の女奴隷だけでした。
けれども、この女奴隷はタワッドド(2)と呼ばれておりましたが、いかにも、この名をつけられている女には、これほどぴったりした名はございません。なぜなら、タワッドドは「アリフ(3)」の文字のようにすらりとした乙女で、その腰の細いことといえば、太陽もその影を地上に落すことはできまいと思えるほどでございました。顔立ちは、明らかに祝福の印を帯びていました。口は、その真珠の宝を大切に守るために、スライマーンの印璽で封印されたように見えました。歯は、粒の揃った二重の頸飾り、胸の二つの柘榴《ざくろ》は、この上もなく愛らしい隙間で隔てられていて、お臍は、肉豆蒄《にくずく》のバターをほんの少しばかり納《い》れられるぐらいで、お臀はというと、それは腰の細さをちょうど工合よく終っていて、敷蒲団《マトラー》の上に、ずっしりとした重さによって作られる窪みを、深々と残すのでした。次の詩人の言葉に言われているのは、この女のことだったのでございます。
[#ここから2字下げ]
かの君は太陽的にして、薔薇の茎のごとく植物的なり。悲しみの色より遠きこと、太陽と薔薇の茎に等し。
大空はその顔《かんばせ》の上にあり。生命《いのち》の泉流るる楽園《アドン》の芝生は、その下着の下に拡がり、月はその外套の下に輝く。
愛らしきその身体《しんたい》の上に、くさぐさの色調和す、薔薇の淡紅色《ときいろ》、銀《しろがね》のまばゆき白、熟したる漿果《しようか》の黒、また白檀の色。その美しさは、欲情に対してすらこの君を護るばかりなり。
この君の上に美を拡げたまいし御方《おんかた》の祝福されてあれ。しかしてその言葉の法楽を味わい得る恋人は幸いなるかな。
[#ここで字下げ終わり]
放蕩児アブール・ハサンのまだ持っていた唯一の宝、奴隷タワッドドは、このような女でございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百七十二夜になると[#「けれども第二百七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで彼は、こうして自分の資産を、取り返しがつかず使い果してしまったことを認めますと、もう睡眠も食欲も奪われるような、絶望状態に陥りました。そして、こんな有様で三日三晩を、食わず、飲まず、眠らずに過ごしましたので、女奴隷タワッドドは、てっきり彼の死に会うものと思いまして、どんなことがあろうとも、彼を救おうと決心いたしました。
彼女は自分の美しい衣服で身を飾って、唇に吉兆の微笑を浮かべながら、主人の前にまかり出て、申しました、「アッラーは私の仲立ちで、あなた様のお悩みを止《とど》めて下さることでしょう。そのためには、あなた様はただこれから、わが御主君、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードの御前《おんまえ》に、私をお連れになって、私の買入値段として、一万ディナールを請求なさりさえすればよろしいのでございます。もし御主君様が、この値段では余り高過ぎると思し召されましたら、こう申し上げなさいませ、『おお信徒の長よ、この乙女はそれ以上の値打がございます。それは本人をお試しになりますれば、もっとよく御得心がゆかれましょう。さすれば、この女はわが君の御眼にも、値《あたい》が高まり、これこそは並ぶものなく、まことにわれらが主君|教王《カリフ》に仕えるにふさわしい乙女であることが、おわかりになりましょう。』」それから、彼女はしきりに口をきわめて、この値段を下げることはきっと慎しむようにと、すすめました。
アブール・ハサンは、迂闊にもこのときまで、自分の美しい女奴隷の美点と才能に注意することを怠っておりましたので、やはり、彼女の中にどんな取り得があるか、自分自身で見定めることはできませんでした。彼はただ、この考えが棄てたものではなく、成功の機会もあるかも知れない、と思うただけでした。そこで彼は早速立ち上りまして、後ろにタワッドドを従え、教王《カリフ》の御前に連れてゆき、彼女から言上するようにすすめられていた言葉を、繰り返し申し上げました。
すると、教王《カリフ》は彼女のほうを向いて、お尋ねになりました、「そちの名は何と申すか。」彼女は申しました、「タワッドドと申します。」教王《カリフ》は申されました、「おおタワッドドよ、そちはもろもろの知識に通じておるのか。して、そちの修めたるさまざまの知識の分科の名称を、数え上げることができるか。」彼女は答えました、「おお御主君様、わたくしは、文章法、詩歌、民法と寺院法、音楽、天文学、幾何学、算術、相続より見たる法学、および魔法書と古代の碑銘を判読する術などを、研究いたしました。わたくしは『崇高の書』を暗《そら》んじておりまして、それを七つの異なった方法で読むことができます。その章と、節と、段と、区分と、各部の数と、それらの配列を、正確に知っており、また、それに子音と母音がいくつ含まれているかも、存じております。どの章がメッカで啓示を受けて書かれたものか、またどの章がメディナで口授されたものかということも、正《ただ》しく知っております。もろもろの聖法と教義も知っておりますれば、それらを伝承《ハデイース》と区別することも、伝承の真正の度合を識別することも、存じております。論理学や建築学や哲学につきましても、雄弁術や美辞麗句と同じように、決してうとくはございませんし、詩を作り、詩を単純流暢にしたり、あるいは、ただ洗練された人たちだけの楽しみのため、これを複雑にすることも心得ております。そして、時に詩に晦渋を盛りまするが、それは一層力強く注意をひきとめ、精神を悦ばせて、これにその微妙な緯《よこいと》を解かせるに至らしめるためでございます。結局、わたくしは多くのことを学びまして、学んだことを覚えておりまする。その上になお、わたくしは歌うことができ、鳥のように舞い、琵琶《ウーデイ》と笛とを奏し、絃楽器を異なる五十の調べで弾奏いたします。ですから、わたくしが歌えば、わたくしを聞く人々は地獄の苦しみを覚え、羚羊《かもしか》は、わたくしを見て酔いしれます。もしわたくしが衣裳を纒《まと》い香水をつけて、身体《からだ》を揺り動かしながら歩めば、わたくしは殺してしまいます。もしお臀を振り動かせば、わたくしは打ち倒してしまいます。もし目くばせをすれば、刺し貫いてしまいます。腕輪を振り動かせば、盲目《めくら》にしてしまいます。触れれば、生命《いのち》を与え、遠ざかれば、死なせてしまうのでございます。」
教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、この言葉をお聞きになったとき、御自分の前にうやうやしく眼を伏せて控えている女の中に、このような雄弁と同時に美しさあり、このような学識と若さとがあることを認められて、かつは驚かれ、かつは悦ばれたのでございました。教王《カリフ》はアブール・ハサンのほうをお向きになって、仰せになりました、「余はこれより直ちに、学問の泰斗を洩れなく呼びよせるよう、命令を発したいと思う。そしてその方の女奴隷を試み、公開の決定試験により、果してこの女が美しきとひとしく、学殖あるや否やを確かめてみる所存である。この女が堂々と試みを通過した暁には、余はその方に一万ディナールを与えるのみならず、余のもとにかくも偉大なる奇蹟を持ち来たりしゆえをもって、栄誉の限りをつくすであろう。しからざる場合は、何ごともなされず、この女は元どおり、その方の所有である。」
それから教王《カリフ》は即刻、当代最大の学者で、人知一切の薀奥《うんおう》を極めた、イブラーヒーム・ベン・サイアルをお召しになりました。また詩人、文法学者、コーランの読誦者、医者、天文学者、哲学者、法律学者、神学の|学者たち《ウラマー》(4)も、お召しになりました。すると、一同は急いで王宮に参内し、どういう動機で召集されたかも知らずに、謁見の間に集まりました。
教王《カリフ》が命令をお下しになりますと、一同は敷物の上に車座に坐り、そのまん中に、教王《カリフ》から黄金の椅子の上に坐らせられて、乙女タワッドドが、顔を軽い面衣《ヴエール》に包んで、控えておりました。眼は面衣《ヴエール》ごしに輝き、歯はそれらの微笑みを微笑んでおりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百七十四夜になると[#「けれども第二百七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この集会の上に、地上に落した針の音さえ聞き取れるような、完全な静けさが行き渡ると、タワッドドは一座の人々に向って、優雅と威厳に満ちた挨拶《サラーム》をいたしまして、えもいえぬ話しぶりで、教王《カリフ》に申し上げました。
「おお信徒の長《おさ》よ、お命じ下さいませ、わたくしは今はいつなりと、碩学や尊ぶべき学者方、コーランの読誦者、法学者、医者、建築家、天文学者、幾何学者、文法学者、哲学者ならびに詩人の皆様方が、お尋ねなさる質問に、お答え申す用意が成っておりまする。」
そこで教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、これらの学者一同に向って、仰せられました、「余がその方たちをここに呼び寄せたのは、これなる乙女の知識を、その広さと深さについて、試みてもらわんがためであるから、どうか惜しむことなく存分に、各自の博識と同時に乙女の学識を、発揮してもらいたい。」するとすべての学者は、床まで身を屈め、手を眼と額の上にあてて、答えました、「アッラーとわが君の仰せ承わり、仰せに従いまする、おお信徒の長よ。」
この言葉を聞いて、乙女タワッドドは、しばらく頭を垂れておりましたが、それから額を上げて、申しました、「おお御一同様、師の君様方、まず皆様の中で、コーランと預言者(その上に祈りと平安あれ)の伝承《ハデイース》に、もっとも通じていらっしゃるのは、どなたでいらっしゃいますか。」すると、一同の指にさされて、神学者《ウラマー》の中の一人が立ち上りました。彼女はこれに申しました、「では、あなた様の御専門について、お好きなように、おたずね下さいませ。」
すると神学者《アリーム》は言いました、「おお若い娘よ、そなたは聖なる『アッラーの書』を徹底的に研究したとあらば、それに含まれたる章と語と文字の数と、われらの信仰の掟《おきて》を知っておる筈じゃ。しからば、わが輩に申してみよ。まずはじめに、そなたの主《しゆ》は誰か、そなたの預言者は誰か、そなたの導師《イマーム》は誰か、そなたの指標は何か、そなたの生活の規準は何か、そなたの道の案内者は誰か、また、そなたの同胞《きようだい》は誰か。」彼女は答えました、「アッラーが私の主《しゆ》にまします。ムハンマド(その上に祈りと平安あれ)がわたくしの預言者でございます。コーランがわたくしの法でございますし、従ってわたくしの導師《イマーム》でもございます。メッカにイブラーヒームによって建てられたアッラーの御家、カアバ(5)が、私の指標でございます。われらの聖なる預言者のお手本が、私の生活の規準でございます。伝承《ハデイース》の集録書『スンナ(6)』が私の道の案内者でございます。そして、一切の信徒は私の同胞《きようだい》でございます。」
教王《カリフ》はこんなに優しい若い娘の口から出た、これらの答えの明快正確ぶりに、驚嘆なさり始めましたが、そのあいだに、学者は言葉をつぎました、「申してみよ。いかにしてそなたは一つの神があることを知るか。」彼女は答えました、「理性によって。」
彼は尋ねました、「理性とは何か。」彼女は言いました、「理性とは二重の賜物でございます。ひとつは先天的であり、ひとつは後天的なものでございます。先天的な理性とは、アッラーがその下僕《しもべ》たちの心の中に置きたもうたもの。また後天的な理性とは、才能に恵まれた人々におきまして、教育と絶えざる労苦との結実であるところのものでございます。」
彼は言葉をつぎました、「見事であるぞ。しからば、理性の在処《ありか》はどこか。」彼女は答えました、「われわれの心の中に。そして、理性の霊感はここから、われわれの脳のほうへと上ってゆき、そこに居を定めるのでございます。」
彼は言いました、「まさにそのとおりじゃ。しからば、そなたはいかにして預言者(その上に祈りと平安あれ)を知ることを学んだか、申せるか。」彼女は答えました、「『アッラーの書』を読むことによって、そこに含まれた箴言によって、証拠と証言とによって。」
彼は言いました、「見事であるぞ。しからば、われらの宗教の欠くべからざる勤行《つとめ》とは何か、申せるか。」彼女は答えました、「われらの宗教には、五つの欠くべからざる勤行がございます、すなわち、『アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒なり』という信仰告白、礼拝、喜捨、第九月《ラマザーン》の断食、なし得るときのメッカへの巡礼、以上でございます。」
彼は尋ねました、「最も奇特なる敬虔な行為とは何か。」彼女は答えました、「それは六つでございます。すなわち、礼拝、喜捨、断食、巡礼、悪しき本能と不法なる事柄に対する闘い、ならびに、聖なる戦いでございます。」
彼は言いました、「よくぞ答えたるかな。しからば、そなたはいかなる目的において礼拝をなすのか。」彼女は答弁しました、「ただ主《しゆ》にわが崇敬の礼を捧げ、その頌讃を捧げ、わが精神を静謐《せいひつ》の域へと高めるためでございます。」
彼は叫びました、「何とこの答えは見事なものじゃ。しからば、礼拝はあらかじめ欠くべからざる準備を必要とせぬものか。」彼女は答えました、「いかにも儀礼の各種の洗浄《みそぎ》で身をことごとく清め、穢《けが》れの徴《しるし》なき衣服を纒い、坐るために綺麗で清潔な場所を選び、お臍と膝の間を含む身体部分をよく覆い、清らかな意図を持ち、聖なるメッカの方向、すなわちカアバのほうに向かなければなりませぬ。」
「礼拝の真価は何であるか。」――「それは信仰の支えでございまして、その基礎でございます。」
「礼拝の果実はいかなるものか。その効用はいかなるものか。」――「真に美しい礼拝には、物質的効用はまったくございません。礼拝は単に被造物《にんげん》とその主《しゆ》との間の霊的|羈絆《きずな》なのでございます。それは、無形の、それだけに美しい、果実を生むことができます。それは心を明るくして、照らし、よろめく精神を揺ぎなくして、奴隷をその御主《おんあるじ》に近づけます。」
「礼拝の鍵とは何か、してその鍵の鍵とは何か。」――「礼拝の鍵とは、すなわち洗浄《みそぎ》でございます。そして、洗浄《みそぎ》の鍵とは、すなわち最初の文句、『果しなく慈悲ぶかき慈悲者、アッラーの御名《みな》において』でございます。」
訊ねて、「洗浄《みそぎ》において従うべき掟とはいかなるものか。」曰く、「導師《イマーム》イブン・イドーリス・アッ・シャーフィイー(7)の正統の儀礼によれば、それは十二ございます。
まず最初の文句『アッラーの御名《みな》において』を唱えること。手を器《うつわ》の中に浸す前に、掌《たなごころ》を洗うこと。口を漱《すす》ぐこと。手のひらに水を入れ、それを鼻で吸いながら、鼻孔を洗うこと。頭全体を擦《こす》り、新しい水で、耳の外側と内側を擦ること。ひげを指でくしけずること。手の指と足の趾《ゆび》とを鳴らしながら、折り曲げること。右足を左足の前に置くこと。この身体各部の洗浄《みそぎ》を三度繰り返すこと。このおのおのの洗浄《みそぎ》の後に、信仰証言を唱えること。最後に、ひとたびすべての洗浄《みそぎ》を終ったら、さらにあの敬虔な文句を誦しまする、すなわち『おおわが神よ、われを、悔い改める者、清らかにして忠実なる下僕《しもべ》たちの中に数えたまえ。わが神に讃えあれ。ひとり御身のほかに神なきことを、われは告白す。御身こそはわが避難所なり。御身にこそ、われは悔悟に満ち、己が過ちの赦しを乞い奉る。アーミーン。』
まことに、この文句こそは、預言者(その上に祈りと平安あれ)が『われはこれを誦する者に、楽園《アドン》の八つの門を広々と開かん。しからば、その者は好む門より入るを得ん』と仰せられて、われわれに誦することを、とくとお勧めなされたものなのでございます。」
学者は言いました、「いかにも、見事に答えた。しからば、天使と悪魔《デモン》たちは、洗浄《みそぎ》をなす者の許にて、いかなることをなすか。」タワッドドは答えました、「人が洗浄《みそぎ》をしようといたしますと、天使たちはその右側に、悪魔どもはその左側に来て立ちまする。けれども、人が最初の文句『アッラーの御名《みな》において』を唱えますや、すぐさま、悪魔たちは逃げ出し、天使たちはそばに近寄り、人の頭上に四角形の光の天蓋を拡げ、その四隅を支えます。そして天使はアッラーの頌歌を歌い、この人間の罪のお赦しを乞います。けれども、もしこの人がアッラーの御名を祈念するのを忘れるとか、それを唱えるのをやめるとかいたしますと、悪魔どもは……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百七十五夜になると[#「けれども第二百七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……悪魔どもは群れをなして戻ってまいり、全力を挙げて、この魂の中に不安を投げ込み、懐疑を忍び込ませ、精神と熱意を冷やそうとするのでございます。
洗浄《みそぎ》をする人にとって、身体全部と、表に見える毛または隠れた毛全部と、陰部とに、水をかけること、あらゆる部分をよく擦《こす》ること、両足は最後にしか洗わぬこと、これは義務的のことでございます。」
学者は言いました、「よくぞ答えた。ではタヤンムム(8)という洗浄《みそぎ》において、従うべき方式はいかなるものか、申せるか。」彼女は答えました、「タヤンムムという洗浄《みそぎ》は、砂と埃《ほこり》で清めることでございます。この洗浄《みそぎ》は、預言者のなされたところに型どった方式で定められた、次の七つの場合に、行なうものでございます。そしてこれは、聖典直接の教えにあらかじめ規定されている四つの指示に従って、行なわれまする。
この洗浄《みそぎ》が許される七つの場合とは、すなわち、水が不足する場合、水の貯えを使い果す恐れのある場合、その水が飲料として必要な場合,これを運搬すると一部を失う懸念のある場合、水の使用を厭う病いの場合、固まるまで休息を要する骨折の場合、触れてはならぬ傷のある場合、以上でございます。
砂と埃とをもってするこの洗浄《みそぎ》を果すために、必要な四つの条件はと申しますと、それはすなわち、まず誠実であること、次に砂なり埃なりを両手で取り、これで顔を擦《こす》る仕草をすること、それから、これで両腕を肱まで擦る仕草をすること、そして両手を拭うこと、これでございます。
二つの勤行、すなわち、『アッラーの御名において』という祈願の文句で洗浄《みそぎ》を始めること、すべて身体の右の部分を左の部分より先に洗浄《みそぎ》すること、これもまた推賞すべきものでございます。と申しますのは、これは『行録《スンナ》』に則《のつと》ったものでありますれば。」
学者は言いました、「まことによろしい。しからば、礼拝に戻って申すが、礼拝はいかにして行なうべきか、またそれはいかなる行為を含むか、申せるか。」彼女は言葉をつぎました、「礼拝をなすために必要なもろもろの行為は、それと同じ数だけの、礼拝を支える柱を設けることなのでございます。これらの礼拝の柱とは、すなわち、第一には、善意、第二には、『アッラーは至大なり』というあのお言葉を唱えること、つまり、タクビール(9)の文句、第三には、コーランの開巻の章《スーラ》『開扉《フアーテイハ》』を誦すること、第四には、顔を地に近づけて平伏すること、第五には、再び起き上ること、第六には、信仰告白をすること、第七には、踵の上に坐ること、第八には、預言者のために、『その上にアッラーの祈りと平安あらんことを』と言って、祈念すること、第九にはつねに同じの清らかな意図にあること、以上でございます。」
学者は言いました、「まことに、申し分なく答えられた。では、いかにして喜捨税(10)奉納を果すべきか、申せるか。」彼女は答えました、「喜捨税奉納は、十四の方法で果すことができまする。すなわち、金、銀、駱駝、牝牛、羊、小麦、大麦、粟、玉蜀黍《とうもろこし》、蚕豆《そらまめ》、エジプト豆、米、乾葡萄、それに棗椰子《なつめやし》の実でいたします。
金《きん》につきましては、もしわれわれがメッカの金二十ドラクム以下の額しか持っていないときは、税はまったく支払う必要がございません。この額を越えれば、百分の三を納めます。銀につきましても、あらゆる差異を考慮して、同じことでございます。
家畜につきましては、駱駝五頭を所有する者は、羊一頭を支払います。駱駝二十五頭を所有する者は、税としてその一頭を納めますが、以下も、あらゆる差異を考慮して、これと同様でございます。」
学者は言いました、「まさにそのとおりじゃ。それでは、断食について述べてみよ。」タワッドドは答えました、「断食とは、新月を認めると同時に、第九月《ラマザーン》の間(11)じゅう、昼のあいだは日没まで、食べることと、飲むことと、性的享楽とを絶つことでございます。また断食の間は、無駄な談話や、コーラン以外の読書をすべて絶つことも、推賞すべきことでございます。」
学者は尋ねました、「しかし、一見すると、断食を無効にするようでありながら、しかも聖典の訓《おし》えによると、実際には断食の価値を全然損じないものが、何事かあるのではないか。」
彼女は答えました、「事実、断食を少しも無効にしないものが、いろいろございます。それは、軟膏と香油と芳香薬、眼の瞼墨《コフル》と眼薬、道の埃、唾液を嚥《の》む行為、男性精液の夜間または昼間の無意識射出、非回教徒の異国の女に投げる眼差し、|刺※[#「月+各」、unicode80f3]《しらく》、切口をつけるあるいはつけぬ吸角《すいだま》療法などでございます。これらのものはすべて、断食の効果を全然損じません。」
学者は言いました、「見事である。それから、遠離《イテイカーフ》(12)についてはどう思うか。」彼女は言いました、「遠離《イテイカーフ》とは、回教寺院《マスジツト》の中に長期間滞在し、その間は、女たちとの情交や言葉の使用を廃します。それは単に『行録《スンナ》』に説かれているばかりで、教理上の義務ではございません。」
学者は言いました、「こんどは巡礼について話して聞かせてもらいたい。」彼女は答えました、「メッカへの巡礼、すなわちハッジとは、あらゆる回教徒が、物心つく年齢に達したときから、一生に少なくとも一度は、果さねばならぬ義務《つとめ》でございます。これを果すには、さまざまな条件を守らなければなりません。巡礼者の外套、すなわちイヘラームを着たり、女たちとの情交を慎しんだり、毛を剃ったり、爪を切ったり、頭と顔を覆ったりしなければなりません。その他の規定も同じように、『行録《スンナ》』によって決められておりまする。」
学者は言いました、「まことによろしい。しからば、|聖なる戦い《ジハード》(13)のことに移ろう。」彼女は答えました、「|聖なる戦い《ジハード》とは回教《イスラム》が危険に瀕したときに、無信仰者ども(14)に対して行なう戦争でございます。人は自己防衛をするためのほか、戦争をなすべきではございません。信徒は、いざ武装をしたならば、直ちに無信仰者に向って打ち進み、断じて踵《きびす》を返してはなりません。」
学者は尋ねました、「売り買いについて、詳細な事柄を幾つか述べることができるか。」タワッドドは答えました、「売り買いにおいては、双方の側において自由であるべきで、重要な場合には、承諾と受取りの証書を作製すべきでございます。けれども、『行録《スンナ》』によって売り買いを禁止されている品々が、幾つかございます。例えば……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百七十七夜になると[#「けれども第二百七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……例えば、干からびた棗椰子の実と新鮮な棗椰子の実、干からびた無花果《いちじく》と新鮮な無花果、乾して塩漬けにした肉と新鮮な肉、塩辛いバターと新鮮なバター、一般的にいえば、双方同じ種類の場合、あらゆる新鮮な食料品と、古いものや干からびたものを交換することは、はっきり禁じられておりまする。」
これらのタワッドドの答えを聞きますと、学識ある聖典註釈家は、この女が自分と同じ程度に、聖典のことを知っていると思わざるを得ませんでしたが、それでも、自分に彼女の虚を衝く力がないとは、白状したくございませんでした。
そこで、もっとひねった質問を出すことに決心して、彼女に尋ねました、「洗浄《みそぎ》という言葉は、言語学的にはいかなる意味であるか。」彼女は答えました、「洗うことによって、内部または外部の一切の不浄を取りのぞくこと。」――彼は尋ねて、「断食するという言葉はいかなる意味か。」彼女は言って、「慎しむこと。」――彼は尋ねて、「与えるという言葉はいかなる意味か。」彼女は言って、「己れを富ますこと。」――彼は尋ねて、「して、巡礼に行くとは。」彼女は答えて、「目的を達すること。」――彼は尋ねて、「して、戦いを行なうとは。」彼女は言いました、「自らを衛ること。」
この言葉を聞くと、学者は立ち上って、叫びました、「まことに、それがしの質問と議論は種切れでございます。この奴隷女は学識といい明晰といい、驚くべきものでござります、おお信徒の長《おさ》よ。」
けれども、タワッドドはわずかに微笑み、その言葉を遮って、彼に言いました、「こんどはわたくしから、質問をひとつさせていただきとう存じます。もしこれをお解きになれぬようでしたら、わたくしはあなた様から、その神学者《ウラマー》の外套をお脱がせする権利がございましょう。」彼は言いました、「承知した。問いを出せ、おお若い娘よ。」
彼女は尋ねました、「回教《イスラム》の枝は何でございますか。」学者はしばらく考えこんでおりましたが、結局、どう答えてよいかわかりませんでした。
すると、教王《カリフ》は御自身発言なされて、タワッドドに仰せられました、「その問いにそち自ら答えてみよ。しからば、この学者の外套はそちのものであるぞ。」
タワッドドは身を屈めて、答えました、「回教《イスラム》の小枝は次の九本(15)でございます。すなわち、聖典の訓えを厳格に守ること。われらの聖なる預言者の聖伝に則《のつと》ること。禁じられたる食物は断じて食せざること。善人の寛容のため、性悪しき者どもの悪意の増長するがごときことを見ざるよう、悪人を罰すること。宗教の研究を深むること。アッラーの下僕《しもべ》たちを救うこと。一切の改新と一切の変更を避くること。逆境にあって勇気を発揮すること。己れが強くて力あるときは、赦《ゆる》すこと。以上でございます。」
教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、この答えをお聞きになりますと、直ちに学者の外套を剥《は》ぎ、これをタワッドドに与えるようにお命じになりました。それはすぐさま実行されましたが、学者は大いに恥入って、頭を垂れて、部屋を出てゆきました。
すると、第二の神学者《アリーム》が立ち上りましたが、これは神学の知識の詳しさにかけては評判の高い人物で、一同の眼がこれに、乙女を訊問する栄誉を指定したのでございました。
彼はタワッドドのほうに向いて、申しました、「おお若い娘よ、わが輩はただ短い問いを、僅かしか出さぬであろう。まず、食事の間に守るべき義務とはいかなるものか、申せるかな。」彼女は答えました、「まず手を洗い、アッラーの御名を唱え、アッラーに感謝を捧ぐべきでございます。次には、左のお臀の上に坐ります。食べるためには、ただ拇指《おやゆび》と最初の二本の指だけを使いまして、小さな一口《ひとくち》分しか取らず、その食物をよく噛みます。そして、隣席の者を窮屈にしたり、食欲を妨げたりしないように、隣人を眺めてはなりません。」
学者は尋ねました、「では今度は、或るものとは何か、或るものの半分とは何か、また或るもの以下のものとは何か、申せるかな。」彼女は躊躇なく答えました、「信徒が、すなわち或るもので、似而非《えせ》信者(16)が、或るものの半分、無信仰者が、或るもの以下のものでございます。」
彼は言葉をつぎました、「そのとおりである。さらば申してみよ。信仰はいずこに見出《みいだ》されるか。」彼女は答えました、「信仰は四カ所に住んでおりまする、すなわち、心と、頭と、舌と、四肢の中に。かくして、心の力は歓喜の中に、頭の力は認識の中に、舌の力は率直の中に、他の四肢の力は服従の中に、存しているのでございます。」
彼は尋ねました、「心はいくつあるか。」――「いろいろございます。信徒の心、無信仰者の心、これは第一のものとはまったく反対な心でございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百七十八夜になると[#「けれども第二百七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……また、地上の事物に結びつけられた心と、霊的|歓喜《よろこび》に結びつけられた心。あるいは、情念とか憎悪とか貪欲とかに支配された心もありますれば、卑劣な心、恋に燃えた心、傲慢に膨れた心もございます。それから、われらの聖なる預言者の教友の方々の心のように、光明を与えられた心もありますし、最後に、われらの聖なる預言者御自身の心、選ばれし者の御心《みこころ》もございまする。」
神学の大家はこの答えを聞きますと、叫びました、「そなたはわが輩の称讃を得たものと思ってよろしい、おお奴隷女よ。」
そこで、美しいタワッドドは教王《カリフ》を見やって、申しました。「おお信徒の号令者よ、今度はわたくしのほうから、試験官に、ただ一問だけお訊ねして、もしお答えになれなければ、その外套を頂戴いたすことを、お許し下さいませ。」そして、御承諾が与えられますと、彼女は学者に尋ねました、「おお尊ぶべき長老《シヤイクー》よ、一番大切な義務ではないとは申せ、あらゆる義務の前に果すべき義務とは何か、おっしゃれますでしょうか。」
この問いに、学者は言うところを知りませんでしたので、乙女は急いでその外套を取り上げ、自分から次の回答をいたしました、「それは洗浄《みそぎ》の義務でございます。と申しますのは、宗教上の義務の中でどんな僅かな義務を行なう前にも、聖典と『行録《スンナ》』にあらかじめ規定されているあるゆる行為の前にも、身を浄めるということが、正式に定められているからでございます。」
このあとで、タワッドドは参集者一同のほうを向き、会衆に眼で問いますと、学者の中の一人がこれに応じましたが、これは当代で最も名高い人物の一人でございまして、コーランの知識にかけては、彼に並ぶ者はございませんでした。
彼は立ち上って、タワッドドに申しました、「おお霊性と快き香気に満てる若き娘よ、そなたは『アッラーの書』をよく識っておるからには、これに関する学識の精《くわ》しきことの一例を、われらに示してもらえようか。」彼女は答えました、「コーランは百十四の『スーラ』、すなわち章によって構成されておりまして、そのうちの七十章はメッカで、四十四章はメディナで、口授されたものでございます。
それは六百二十一の『アシャール』と呼ばれる区分に分けられ、六千二百三十六節に分けられております。
それは七万九千四百三十九語と三十二万三千六百七十字を含み、おのおのの字には十の特別な功徳が付せられております。
そこには二十五人の預言者の御名(17)が、挙げられております。すなわち、アーダム、ヌーフ、イブラーヒーム、イスマイール、イスハーク、ヤアクーブ、ユースフ、アリシア、ユーヌス、ルート、サーリフ、フード、シュアイブ、ダーウド、スライマーン、ズー・ル・キフル、イドリース、イリヤース、ヤフヤー、ザカリーヤー、アイユーブ、ムーサー、ハールーン、イーサーおよびムハンマドでございます。(この方々御一同の上に、祈りと平安あれ。)
ここには九匹の鳥、または翼ある動物の名が見出されます。すなわち、蚊、蜜蜂、蠅、戴勝《やつがしら》、鴉、ばった、蟻、アバービール鳥(18)、および蝙蝠《こうもり》のことであるイーサー(その上に祈りと平安あれ)の鳥(19)でございます。」
長老《シヤイクー》は言いました、「そなたの詳しいことは驚くべきものがある。よって、わが輩はそなたから聞きたいと思う、われらの聖なる預言者が無信仰者どもを裁きたもうた節は、いかなるものか。」彼女は答えました、「それは、次の言葉が見出される節でございます、『ユダヤ教徒はキリスト教徒は誤謬に陥ると言い、キリスト教徒はユダヤ教徒が真理《まこと》を知らずと断ず。されど、この断言の中には、双方ともに道理ありと知るべし(20)。』」
長老《シヤイクー》はこの言葉を聞きますと、大いに満足だと言明いたしましたが、しかしさらに質問したいと思いました。
そこで尋ねました、「コーランはいかにして地上に来りしか。それは、天に保存せられてある板の上より書写され、一時にそっくり降《くだ》りたるものか、あるいは幾たびかにわたりて降りたるか。」彼女は答えました、「それは、天使ガブリエルが、宇宙の主の御命令に従い、アッラーの使徒たちの君主、われらの預言者ムハンマドに齎らしなされたのでございまして、これは、各節ごとに、折々の事情に応じ、二十年間にわたって齎らされたのでございます。」
彼は尋ねました、「コーランの散り散りの節全部を集めることに意を注いだ預言者の教友は、誰々か。」彼女は言いました、「それは四人でございます、アビ・ベン・カアブ(21)、ザイド・ベン・サービット(22)、アブー・ウバイダ・ベン・アル・ジャラーフ(23)およびオスマーン・ベン・アファーン(24)(アッラーは、このお四方すべてに御恩寵を垂れたまわんことを)でございます。」
彼は尋ねました、「われらにコーランの真の読誦法を伝え、教えたる方は、誰々か。」彼女は答えました、「それは四人でございます、アブドゥラッラー・ベン・マスウード(25)、アビ・ベン・カアブ、モアヅ・ベン・ジャバアル(26)、およびサレム・ベン・アブダラー(27)でございます。」
彼は尋ねました、「次の節『おお信徒よ、充満する地上の悦楽を、みだりに絶つことなかれ(28)』が天より降ったのは、いかなる機会か。」彼女は答えました、「それは、ある教友たちが、霊性を必要以上に度を越えて、押し進めようと思いまして、自ら去勢して、毛の衣服を着ようと、決心したときのことでございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光がさしてくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百七十九夜になると[#「けれども第二百七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
このタワッドドの答えを聞きますと、学者は叫ばざるを得ませんでした、「おお信徒の長《おさ》よ、この若い娘は学識比肩すべからざるものであることを、私は証言いたしまする。」
タワッドドはこの長老《シヤイクー》に質問を出すお許しを乞いまして、彼に申しました、「コーランの節で二十三度カーフの字を含む節は何か、十六度ミームの字を含む節は何か、また百四十度アインの字(29)を含む節は何か、おっしゃれましょうか。」
学者は口を開けたきり、どんな短い引用もすることができませんでした。するとタワッドドは、彼から外套を取った後、早速、尋ねた節を自分から示して、一同を唖然とさせたのでございました。
すると、参会者の真中から、その知識の該博をもって名高く、非常に重んじられている医学書を何冊も著している、一人の医者が立ち上りました。
彼はタワッドドのほうを向いて、これに申しました、「そなたは霊魂の事柄について見事に述べたが、今度は身体《しんたい》のことを取り扱うときである。おお美しい奴隷女よ、人間の身体、その形成、神経、骨、および椎骨と、また何ゆえ、アーダムがアーダムと呼ばれたかを、われわれに説き明かしてもらいたい。」彼女は答えました、「アーダムという名は、地の皮膚、表面という意味のアラビア語、アディムから出ておりまして、この名が、世界の諸地方の土壌でもって形づくられた、一塊の土によって創られた最初の人間に、与えられたのでございます。事実、アーダムの頭は東洋の土で、胸はカアバの土で、足は西洋の土で、形づくられたのでございます。
アッラーは身体をお組み立てになり、それに七つの入口と二つの出口を適当にお取りつけになりました。それは、二つの眼、二つの耳、二つの鼻孔、および口で、他方は、二つの出口でございます。
次に、創造主はアーダムに気質をお与えになるために、彼の中に四大、すなわち、水と土と火と空気を、お集めになりました。それがすむと、アッラーは人体の組立てを完了なさいました。そこに三百六十の管《くだ》と、三つの本能、すなわち生命の本能、生殖の本能、食欲の本能をお入れになりました。次に、これへ、六つの腸《はらわた》、二つの賢臓、二つの睾《たまご》、神経を入れ、全部を皮膚で蔽いなさいました。これに、七つの生気に導かれる五つの感覚をお授けになりました。器官の配列につきましては、アッラーは、心臓を胸の中の左側にお置きになり、心臓に対して扇《うちわ》の役をする両肺と、心臓の護衛の役をする肝臓を右側に、お置きになったのでございます。
頭はどうかと申しますと、それは四十八本の骨から成ります。胸につきましては、それは男にあっては、二十四本の肋骨、女にあっては、二十五本を納めております。この補助の一本の肋骨は、右側にございまして、母親のお腹《なか》の中に子供を入れ、これを取り囲んで支える役をするのでございます。」
学識の高い医者は感嘆を抑えきれませんでしたが、さらに、付け加えました、「それでは、われわれに病いの徴候《しるし》について述べることができるか。」彼女は答えました、「病いの徴候《しるし》は外側のものと内側のものとがございまして、それは病気の種類と容態を識らせるのに役立ちます。
事実、医術に堪能な人は、ただ病人の脈をとるだけで、病気を察することができるのでございます。こうして乾、熱、硬直、冷、湿の度合を確かめます。」
彼は尋ねました、「頭痛の原因は何々か。」彼女は答えました、「頭痛は、主として、最初に食べた物が消《こ》なれぬうちに、胃の中に食物を入れた場合、この食物から起るものでございます。それはまた、空腹でないときに、したためた食事からも起ります。地上を荒らす一切の病いの主なる原因は、大食でございます。長命を望む者は、自分のお腹を三つの部分に分《わか》つべきでございまして、一つの部分は食物で満たし、もう一つの部分は水で満たし、第三の部分は、呼吸のために明けておくように、全然|空《から》にするのでございます。長さ十八|当り《アンバン》(30)の腸につきましても、同じ様でございましょう。」
彼は言いました、「そなたの学は全く申し分のないことが、よくわかった。しからば、最良の水とは何か、申せるか。」彼女は答えました、「それは、何か上等な香水を塗りこむか、またはただ香気を焚きこめるかした、素焼の瓶に入れた、清水でございます。これは、かくしてあらゆる種類の不快を避けるため、ただ食後にのみ飲むべきものでございます。そして預言者(その上に祈りと平安あれ)の仰せられた、『胃は諸病の巣窟にして、便秘は諸病の原因なり。しかして、衛生は諸薬の根源なり』というお言葉を、実行するがよろしゅうございます。」
彼は尋ねました、「すべての中でわけて優れた料理は何か。」彼女は答えました、「それは、入念細心な女の手で調理され、余り大した準備もかけず、満ち足りた心で食べられるものでございます。『サリド(31)』という料理は、確かにすべての料理の中で、最も美味《おい》しいものでございます。と申しますのは、預言者(その上に祈りと平安あれ)が『サリドは料理の中にても群を抜いて最上のもの、アイシァ(32)が女の中にて最も操高きがごとく』と申されておりますから。」
彼は尋ねました、「果物については何と思うか。」彼女は申しました、「それは、羊の肉とともに、最も健康な食物でございます。けれども、季節が過ぎましたときは、食べてはなりません。」
彼は言いました、「酒についてわれわれに述べてみよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百八十夜になると[#「けれども第二百八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
タワッドドは答えました、「どうして酒のことなどをお尋ねになれるのでございましょう、それにつきましては、聖典があれほどはっきりと述べておりますものを。酒は数多《あまた》の効能があるにもかかわらず、禁じられております。なぜというと、酒は理性を乱し、気分を苛立たすからでございます。酒と賭博とは、信徒の避けねばならぬ二つのもので、しからずば、最悪の禍いを招くでございましょう。」
彼は言いました、「そなたの答えは賢明である。それでは、刺※[#「月+各」、unicode80f3]についてわれわれに述べられるか。」彼女は答えました、「刺※[#「月+各」、unicode80f3]は、富みすぎる人々に対して必要なものでございます。それは、雲も風もない春の日中に、断食をして行なわねばなりません。その日が木曜日に当るとき、ことにその日がその月の第十七日目でございますと、刺※[#「月+各」、unicode80f3]は最上の効果を上げまする。けれども、もしこれを水曜日か土曜日に行ないますと、刺※[#「月+各」、unicode80f3]ほど悪いものはございません。」
学者はちょっとの間考え込んで、そして申しました、「これまでは、そなたは完全に答えたが、わが輩はさらに、そなたの学が果して本質的な事柄にまで行きわたっているかどうかを、われわれに証するような、須要《すよう》な一問を呈したいと思う。されば交合について、はっきりとわれわれに述べられるか。」
若い娘はこの問いを聞きますと、顔を赤らめ、頭を垂れました。けれども、間もなく頭を上げ、教王《カリフ》のほうに向いて、申し上げました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、わたくしが黙しておりますのは、決して無知のせいとなされてはなりません。答えは舌の先まで来ておりまするが、わが御主君|教王《カリフ》に対する憚りから、唇を出るのをきらっているのでございます。」けれども教王《カリフ》は仰せられました、「その答えをそちの口から聞くとあらば、余は至極満悦であるぞ、されば、苦しゅうない、はっきり述べてみよ。」
すると博学のタワッドドは申しました、「交合はたいそうよろしいことでございまして、その功徳《くどく》は数々ございます。交合は身体を軽くし、精神を高め、憂鬱を遠ざけ、熱気を和らげ、心を満たし、失われた眠りを回復させまする。これは、もちろん、若い女と行なう男の交合についてのことでございまして、女が年寄りの場合は、まったく別事でございます。と申しますのは、その場合は、およそこの行為から生じ得ぬような害悪はないからでございます。老婆と交合するということは、無数の災い、なかんずく、腰の痛み、股の痛み、背中の痛み、また太い神経の死などに、陥るおそれがございます。一言で申せば、それは凄《すさま》じきことでございます。それゆえ、こんなことは、ちょうど処置のない毒物のように、用心して避けなければなりません。交合のためには、一目で物ごとが分り、腰と手で話し、卵の持主に※[#「奚+隹」、unicode96de]小舎を持たさずに済ませるような、練達な女を、とくに選ばなければなりません。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光がさしてくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百八十二夜になると[#「けれども第二百八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
学者は叫びました、「何と聡《さか》しく答えたのであろう。しかし、まだわが輩には出したい問いが二つあり、それをもって終る。閉じ籠められていなければ生きず、大気を吸うや否や死してしまう生き物とは何か、申せるか。また、最上の果物は何か。」彼女は答えました、「第一のものは、魚でございます。それから次のものは、仏手柑《ぶつしゆかん》と柘榴《ざくろ》でございます。」
医者は美しいタワッドドのこれらさまざまな答えを聞きますと、自分には彼女の学識の虚を衝くことはできないと、告白せざるを得ず、そしてもとの席へ戻ろうと思いました。けれども、タワッドドは合図をして、これをとどめ、そして彼に申しました、「今度は私のほうから、ひとつ問いを呈さなければなりません。
おお学者様、地球のように丸いもので、一つの目の中に住んでおり、あるときはこの目から離れ、あるときはこの中に入り込み、男の器官もなくて交合し、昼のあいだわが妻に纒《まつ》わるために、夜のあいだはこれと別れ、平常は端のほうに住居を定めているものは何か、さあおっしゃられますか。」
この問いに、学者は苦心惨澹いたしましたが、甲斐なく、何と答えてよいかわかりませんでした。すると、タワッドドは彼から外套を取った後、教王《カリフ》のお勧めに従って、自分から答えました、「それは釦《ぼたん》と釦の穴でございます。」
これがすむと、尊ぶべき長老《シヤイクー》たちの中から、一人の天文学者が立ち上りました。彼は王国の全天文学者の中で最も名高い人でしたが、タワッドドは、やがてはこの碩学も、彼女の眼が大空のあらゆる星よりも困惑させるものと思うであろうと、あらかじめ確信し、微笑しながら彼を眺めたのでございました。
そこで、天文学者は乙女の前に来て坐り、通例の前置きを述べてから、彼女に尋ねました、「太陽はいずこより昇り、没するときはいずこにゆくか。」彼女は答えました、「太陽は東方の泉より昇り、西方の泉に没するものと、御承知下さいませ。これらの泉は百八十を数えます。太陽は、ちょうど月が夜々の女帝《スルターナ》であるごとく、昼の帝王《スルターン》でございます。」
学識の高い天文学者は叫びました、「何と見事な答えであろう。しからば、おお乙女よ、そなたはわれわれに他の星辰について述べ、それらの持つ善悪の運勢を申せるか。」彼女は答えました、「もしわたくしが、他の星辰全部について述べなければならないといたしましたら、それには一席やそこらを当てるだけでは、済まぬことでございましょう。それゆえ、わたくしはほんの僅かしか申しますまい。太陽と月のほかには、五つの遊星がございます。すなわち、ウタレド(水星)、エル・ゾフラ(金星)、エル・ミルリーク(火星)、エル・ムシュタリ(木星)およびズハル(土星)でございます。
善き運勢を持つ、冷にして湿の『月』は、巨蟹《きよかい》宮を宿《しゆく》に、金牛宮を遠地点に、天蠍《てんかつ》宮を軌道傾斜に、磨羯《まかつ》宮を近地点にしております。
悪しき運勢を持つ、冷にして乾の遊星『土星』は、磨羯宮と宝瓶《ほうへい》宮を宿にして、その遠地点は平秤宮、その軌道傾斜は白羊宮、その近地点は磨羯宮と獅子宮でございます。
恵み深き運勢を持つ『木星』は、熱にして湿、双魚宮と人馬宮とを宿に、巨蟹宮を遠地点に、磨羯宮を軌道傾斜に、処女宮と獅子宮とを近地点にしております。
恵み深き運勢を持つ、温和な『金星』は、金牛宮を宿に、双魚宮を遠地点に、天秤宮を軌道傾斜に、白羊宮と天蠍宮とを近地点にしております。
あるいは恵み深く、あるいは悪しき運勢を持つ『水星』は、双女宮を宿に、処女宮を遠地点に、双魚宮を軌道傾斜に、金牛宮を近地点にしております。
最後に、悪しき運勢を持った、熱にして湿の『火星』は、白羊宮を宿に、磨羯宮を遠地点に、巨蟹宮を軌道傾斜に、平秤宮を近地点にしておるのでございます。」
天文学者はこの答えを聞くと、若いタワッドドの造詣の深さに大いに感嘆いたしました。けれども、もっとむずかしい問いで彼女を困らせてみようとして、彼は尋ねました、「おお乙女よ、そなたは今月中に雨が降ると思うか。」
この問いをきくと、博学のタワッドドは頭を垂れて、長い間考え込みました。これには教王《カリフ》は、彼女がこれに答えられぬことを自認したのだろうと、想像なさいました。けれども、やがて彼女は再び頭を上げて、教王《カリフ》に申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、わたくしは、自分の思うところを残らず言ってよいという、特別のお許しがないかぎり、口をききますまい。」教王《カリフ》は驚いて、申されました、「許しを与えるぞよ。」彼女は申しました、「それでは、おお信徒の長よ、しばしの間、陛下の御剣《みつるぎ》を拝借させて下さいませ。この天文学者は不信の徒にほかなりませぬから、その首を刎《は》ねてしまおうと存じます。」
この言葉を聞いて、教王《カリフ》はじめ並いる学者たち全部は、笑いを抑えることができませんでした。けれどもタワッドドは続けました、「まことに、おお汝、天文学者よ、ひとりアッラーのみが知りたもう、五つの事(33)があることを知りなさい。すなわち、死の時刻、降雨、母の胎内にある子供の性、明日の出来事、および各人の死すべき場所、この五つです。」
天文学者はにっこり笑って、彼女に申しました、「わが輩の問いは、ただそなたを試すために、出しただけなのじゃ。では、これはあまり本題から離れぬことであろうが、そなたはわれわれに、週の各曜日に及ぼす星辰の運勢について、述べられるか。」彼女は答えました、「日曜日は『太陽』に捧げられた日でございます。一年が日曜日で始まるときは、民はその帝王《スルターン》や太守らの圧政と暴虐に大いに苦しまねばならず、旱魃が起り、ことにエジプト豆は少しも育たず、葡萄の実は腐り、諸王のあいだには残虐なる戦闘が起るなどの前兆でございます。されど、かかること一切につきましては、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。
月曜日は『月』に捧げられた日でございます。一年が月曜日から始まるときは、それは吉兆であります。その年は豊富な雨が降り、多くの穀類と葡萄ができましょう。けれどもペストがあり、その上、亜麻は育たず、綿は不作となりましょう。さらに、家畜の半ばは、伝染病に襲われて死ぬでしょう。されど、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。
火曜日は『火星』に捧げられた日でございまして、これが年の初めとなることもあります。そのときは、高位高官や権力ある人々が死に襲われ、穀物の値は高騰し、雨や魚は乏しく、蜂蜜は安値となり、エジプト豆はただのような値段で売られ、亜麻の実は非常な高値となり、大麦は豊作でしょう。けれども、多くの血が流されましょうし、驢馬の間には伝染病が起り、その値は極端に騰《あが》りましょう。されど、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。
水曜日は『水星』の日でございます。一年が水曜日に始まるときは、それは、海上に大殺戮があり、嵐と雷の日々が多く、伝染病が小児たちを襲うことはさておいて、穀類が高騰し、小蕪や玉葱が高値となることなどの前兆でございます。されど、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。
木曜日は『木星』に当てられた日でございます。もしこの日から一年が始まりますると、それは、諸々の民の間には和合、太守や大臣《ワジール》たちにあっては正義、法官《カーデイ》たちにあっては公明正大、人類の上には大いなる恩恵、なかんずく、雨、果物、穀物、綿、亜麻、蜂蜜、葡萄、魚類の豊饒などの徴候でございます。されど、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。
金曜日は『金星』に捧げられた日でございます。もしこの日から一年が始まりますると、それは、露が豊かに恵まれ、春がいと美わしい前兆でございますが、しかし子供が男女ともに大量に生まれますし、胡瓜、西瓜、南瓜、茄子、トマト、また菊芋が穫れることでございましょう。されど、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。
最後に、土曜日とは『土星』の日でございます。この日で始まる年に禍いあれ。このときには、天地共に万物|吝《やぶさ》かで、戦争に次いで飢饉が起り、飢饉に次いで諸病が起り、エジプトとシリアの住民たちは、のしかかる重圧と太守たちの暴政のもとに、大声を上げて抗議することでございましょう。されど、アッラーはさらに多くを知りたまいまする。」
この答えを聞いたとき、天文学者は叫びました、「このすべては何とあっぱれなる答えであろう。しからば、さらにわれわれに、七つの遊星が吊されている天の階層または点を、述べられるか。」タワッドドは答えました、「もちろんでございます。遊星『土星』は、まさしく第七の天に吊されております。『火星』は第五の天に、『太陽』は第四の天に、『金星』は第三の天に、『月』は第一の天に吊されておりまする。」
それから、タワッドドは付け加えました、「さあ今度は、私のほうからお訊きする番でございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光がさしてくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百八十四夜になると[#「けれども第二百八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……さあ今度は、私のほうからお訊きする番でございます。星の三つの階級は何々でございますか。」
学者は考え込んで眼を空へと上げましたが、甲斐もなく窮地を脱することができませんでした。すると、タワッドドは彼から外套を剥ぎ取ったのち自分自身でわが問いに答えました。
「星はその用途に従って、三つの階級に分けられております。ある星々は、燈火のごとく、天上に吊され、地を照らす役をいたします。別の星々は、目に見えぬように吊され、空中に置かれ、海を照らす役をいたします。そして、第三の範疇の星々は、アッラーの御指の間で随意に動くことができまして、人は夜間これらの星が流れるのを見ますが、そのときには、これらの星は、至高者の御命令に背こうとする悪魔どもを、石もて打つ役を果しているのでございます。」
この言葉を聞いて天文学者は、乙女より遥かに知識が劣っていることを告白して、広間を退出いたしました。
すると教王《カリフ》の御命令に従って、一人の哲学者がそのあとを受けて、タワッドドの前に来て坐り、彼女に尋ねました、「そなたはわれわれに無信仰について述べ、それが人間とともに生まれたものかどうかを申せるか。」彼女は答えました、「そのことにつきましては、われらの預言者(その上に祈りと平安あれ)の御言葉《みことば》そのもので、お答えしたいと存じます。それはこうでございます、『アーダムの子らが、地と、地の果実と、地の時刻とを、われを忘れて冒涜するや、直ちに無信仰は、あたかも血液が血管の中を循《めぐ》るがごとく、彼らの間を循るに至る。最も大いなる罪は、時と世界とに対する冒涜なり。何となれば、時とはそは神おんみずからにして、世界は神によりて作られたるものなればなり。』」
哲学者は叫びました、「その御言葉《みことば》は崇高にして決定的なものじゃ。今度は、アッラーの五つの被造物で、飲食しながら、その身体からも、腹からも、背《うしろ》からも、何ものかの出《い》ずるものなかりしもの(34)は何か、申してみよ。」
彼女は答えました、「その五つの被造物とは、アーダムと、シメオン(35)と、サーリフ(36)の牝駱駝と、イスマーイール(37)の牡羊と、聖アブー・バクルが洞窟の中で見た鳥(38)でございます。」
彼は彼女に言いました、「まさにそのとおりじゃ。ではさらに、人にもあらず、妖霊《ジン》にもあらず、天使にもあらざる、楽園の五つの被造物は何か、申してみよ。」彼女は答えました、「それは、ヤコブの狼(39)と、七人の眠りびと(40)の犬と、ウザイル(41)の驢馬と、サーリフの牝駱駝と、われらの聖なる預言者(その上に祈りと平安あれ)の牝騾馬ダルダルでございます。」
彼は尋ねました、「おのが礼拝を、天においても地上においても、なさざりし人は誰か、申せるか。」彼女は答えました、「それはスライマーン(42)で、彼は天と地の間で、空中に宙づりになった絨氈の上で、おのが礼拝をしたのでございます。」
彼は言いました、「次の事柄をわが輩に説明してみよ。ある男が朝、一人の女奴隷を眺める。すると、たちまち彼は不法行為を犯すことになる。正午にこの同じ女奴隷を眺める。すると、この事は適法となる。午後になって、この女奴隷を眺める。すると再び、この事は不法となる。日没になると、彼はその女を眺めることが許される。夜になると、こうしたことは禁じられるが、また朝になると、彼は意のままにこの女に近寄って、すこしも差支えない。一体何ゆえに、かくのごとく相異なるもろもろの事情が、一日一夜のうちに、かくも速やかに相ついで起り得るのか、説明することができるか。」彼女は答えました、「その説明はたやすいことでございます。朝、男が自分のものでもない女奴隷に眼をやりますと、これは、聖典によれば、不法でございます。けれども、正午にこの女を買いますと、そのときは、彼は好きなだけ、これを楽しむことができます。午後になって、何かしらの理由で、この女に自由を与えますと、たちまち、彼にはもうこの女に眼を向ける権利がなくなります。けれども日没になって、彼がこの女を娶《めと》りますと、一切が合法になります。夜になって、この女を離婚したほうが適当と思いますと、もう近寄ることはできません。けれども、朝になって、所定の儀式をすませてから、またこの女を妻に娶《めと》りますと、そのときは、再び彼女との関係を結ぶことができるのでございます。」
哲学者は言いました、「そのとおりじゃ。では、納め置きし者とともに動き出した墓とは何か、申せるか。」彼女は答えました、「それは、預言者ヨナを腹中に嚥み込んだ鯨のことでございます。」
彼は尋ねました、「太陽がただの一度しか照らさず『復活』の日までは、もはや照らすことのない谷とは何か。」彼女は答えました、「それは、モーゼの杖が、逃げゆく民を通過させるために、海を裂いて作った谷(43)のことでございます。」
彼は尋ねました、「地面の上を引きずった最初の尾とは何か。」彼女は答えました、「それは、イスマーイールの母、アガル(44)がサラの前で地を掃いたときの、彼女の衣の尾《すそ》でございます。」
彼は尋ねました、「生なくして呼吸する物は何か。」彼女は答えました、「それは朝でございます。と申しますのは、聖典の中に『朝が呼吸《いき》するときに(45)……』と言われてあります。」
哲学者はこうしたさまざまの答えを聞いたとき、今度は乙女のほうから問い掛けられはしまいかと恐れて、そして自分の外套に執着していましたので、急いで逃げ出し、姿を消してしまいました。
そのときのことです、当代随一の碩学、賢人イブラーヒーム・ベン・サイアルが立ち上り、哲学者のいた席に着きまして、美しいタワッドドに申しました、「わが輩は、そなたがあらかじめ自分の敗北を認めて、今さらそなたに問いをかけるに及ばぬことと、信じたいがな。」
彼女は答えました、「おお尊ぶべき学者様、あなた様は只今お召しのものとは別なお着物を、取りにやりなされてはいかがでございましょう。しばらくたてば、わたくしがそのお着物を取り上げてしまうは必定ですから。」
彼は言いました、「やがてよくわかることじゃ。では『全能者』おんみずからの御手《おんて》によって、形づくられた御業《みわざ》は何であるか、その他の一切物は、単にその御意志《おんいし》の実現によって創造せられたのであるに反して。」
彼女は答えました、「『玉座(46)』、『楽園の木(47)』、『アドンの園』および『アーダム』でございます。さようでございます、これら四つのものは、アッラーおんみずからの御手によって形づくられましたが、一方、その他の一切物を創造なさるために、アッラーは『それら在れ』と仰せられますと、それらは在ったのでございました。」
彼は尋ねました、「回教《イスラム》におけるそなたの父は誰か。また、そなたの父の父は誰か。」彼女は答えました、「回教におけるわたくしの父は、ムハンマド(その上に祈りと平安あれ)であらせられて、ムハンマドの父はアッラーの友、イブラーヒームであらせられまする。」
「回教《イスラム》の信仰は何の中にあるか。」
「簡単な信仰告白、『ラー・イラーハ・イッラーフ・ワ・ムハンマドゥン・ラスールッラー(48)』の中に。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百八十六夜になると[#「けれども第二百八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
学者は続けました、「さまざまな種類の火について述べてみよ。」彼女は答えました、「食して飲まざる火があります。それはこの世の火でございます。食して飲む火もあります、それは地獄の火でございます。飲んで全く食せざる火もあります、それは太陽の火でございます。最後に食しもせず飲みもせぬ火があり、それは月の火でございます。」
「次なる謎のこころは何じゃ。われの飲むときは、雄弁はわが唇より流れ出《い》ず。しかしてわれは音を立てずして歩み、かつ語る。しかるに、かかる美質にもかかわらず、われは生涯尊ばるることなし。しかして死後は、それにもまして惜しまるることなし。」彼女は答えました、「それは筆でございます。」
「しからば、いま一つ次なる謎の心はいかに。われは鳥なれど、肉もなく、血もなく、羽もなく、綿毛もなし。人あるいは焼き、あるいは煮、あるいはそのままにて食らう。しかしてわれの生けるか、死せるかを知るは、はなはだ難《かた》し。わが色につきては、銀《しろがね》にして黄金《こがね》なり。」彼女は答えました、「たかが卵のことを当てさせようとなさるにしては、本当に、お言葉が多すぎます。せいぜい、何かもっとむずかしいことをお尋ね下さいませ。」
彼は尋ねました、「アッラーは総計いくつのお言葉をモーゼに曰《のたも》うたか。」彼女は答えました、「アッラーは正確に千五百五十五語を、モーゼに仰せられました。」
彼は尋ねました、「創造の起原は何か。」彼女は申しました、「アッラーはアーダムを乾いた泥からお引き出しになりました。泥は泡によって形づくられました。泡は海から引き出されました。海は闇から、闇は光から、光は海の怪獣から、海の怪獣は紅玉《ルビー》から、紅玉《ルビー》は岩から、岩は水から引き出されたのでございます。そして水は、全能の御言葉《みことば》、『在れ(49)』によって創られたのでございました。」
「しからば、いま一つ次なる謎の心はいかに。われは口もなく、腹もなくして、食し、木と生き物を食となす。すべての飲物はわれを殺すも、食物のみわが裡に生命を煽り立つ。」――「それは火でございます。」
「して、次なる謎の心はいかに。二人の友にして、相抱きつつ彼らの毎夜をすごすといえど、未だかつて快楽を覚えたることなし。その二人は家の番人にして、期到らざれば、相別るることなし。」――「それは、戸口の二枚の扉でございます。」
「この意味は何か。われはわが後ろに常に長き尾を引けり。われは一つの耳を持てど聞かず、また、われは衣服を作れど、これを着ることなし。」――「それは針でございます。」
「シラートの橋(50)の長さと幅は如何《いかん》。」――「すべての人が復活の日に渡るべきシラートの橋の長さは、三千年の道程《みちのり》がございまして、千年はこれを上《のぼ》るため、千年はその平らなところを渡るため、そして千年はそれを下《くだ》るためでございます。それは剣の刃よりも鋭く、髪の毛よりも細いのでございます。」
彼は尋ねました、「しからば、預言者(その上に祈りと平安あれ)は、一人一人の信徒のために仲介したもう権利を何回持たれるか、申せるか。」彼女は答えました、「三回きっかり、それより多くも少なくもございません。」
「回教《イスラム》の信仰を奉じた最初の者は誰か。」――「アブー・バクルであらせられます。」
「しからばそなたは、アリーが、アブー・バクルより前に、回教徒であらせられたとは思わぬのか。」
「アリー(51)は至高者の御恵《みめぐ》みによりまして、偶像崇拝者であらせられたことはかつてございませんでした。と申しますのは、アッラーは、彼を七歳のときから正しき道に就かしめたまい、これにムハンマド(その上に祈りと平安あれ)の信仰を授けて、その心を照らしたもうたからでございます。」
「そうじゃ。しかしわが輩はとくと知りたいのだが、そなたの眼から見て、アリーとアッバースのお二人のうち、善行功徳の点でいずれが偉大であらせられるか。」
この非常に企みの多い問いを聞いたタワッドドは、この学者がさしさわりのある答えをひき出そうと工夫していることに、気がつきました。と申しますのは、預言者の女婿アリーのほうを優れたことにいたしますれば、ムハンマド(その上に祈りと平安あれ)の叔父アッバースの後裔であらせられる、教王《カリフ》の御機嫌を損じることでしょうから。彼女はまず赤くなり、次に青くなりはじめて、そしてちょっとの間考えてから、答えました、「おおイブラーヒーム様、このお二人の選ばれたお方は、それぞれ優れた善行功徳をお持ちになり、その間には何の優劣もないものと御承知下さいませ。」
教王《カリフ》はこの答えをお聞きになると、感極まって、お立ち上りになり、そしてお叫びになりました、「カアバの主《しゆ》にかけて、何とあっぱれな答えであろう、おおタワッドドよ。」
けれども学者は続けました、「次なる謎は、何について言われたものか申せるか。この女は姿なよやかにして優しく、味よろし。槍のごとく直《すぐ》なれど、鋭き穂先を持つことなし。甘美のうちに有用にして、断食月《ラマザーン》の月にも、夕《ゆうべ》、好んで食せらる。」彼女は答えました、「それは甘庶糖《さとうきび》でございます。」
彼は言いました、「さらに今一問尋ねたい。動物にして、人気《ひとけ》なき場所に暮し、町々より離れ住み、人間から逃れ、しかして七匹の禽獣の姿と性質を併せ持つものとは何か、言えるかな。」彼女は答えました、「お答え申し上げるに先立って、前もってあなた様に、その外套をお引き渡し願いとう存じます。」
すると教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、タワッドドに仰せられました、「いかにもそちの言い分はもっともである。しかし思うに、彼の齢《よわい》を重んじて、まずそちから先に、彼の問いに答えるほうがよくはあるまいか。」
彼女は申しました、「人気なき場所に暮し、人間を嫌う動物とは、それはばったでございます。なぜなら、それは七つの禽獣の姿と性質を併せ持っております。事実、馬の頭と、牛の頸と、鷲の翼と、駱駝の肢《あし》と、蛇の尻尾と、蠍《さそり》の腹と、羚羊《かもしか》の角を、持っておりまする。」
これほどの聡明と学識を前にして、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、この上もなく啓発されるところがおありになって、学者イブラーヒーム・ベン・サイアルに、その外套を乙女に与えるようにお命じになりました。学者は外套を渡してから、右手を上げまして、この乙女が知識において自分を凌ぎ、これこそ世紀の奇蹟であると、一同の前に証言いたしました。
すると教王《カリフ》は、タワッドドにお尋ねになりました、「そちは楽器類を奏し、それに合せて歌うことができるかな。」彼女はお答えしました、「申すまでもございません。」すぐに教王《カリフ》は、端に黄色い絹の房がつき、黄金の釦金《とめがね》で閉めた、赤繻子の箱に納めてある、琵琶《ウーデイ》をお取りよせなさいました。タワッドドは箱から琵琶《ウーデイ》を取り出しますと、それには一面に、花模様の絡み合せた文字で彫られた、次のような詩句が見られました。
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われいまだ緑の小枝なりしとき、早くも愛の小鳥らはくさぐさの歌を教えたり。
今は、若き乙女らの膝の上にて、われは指の下に鳴り響き、小鳥のごとく歌うなり。
[#ここで字下げ終わり]
そこで彼女は琵琶《ウーデイ》をわが身にぴったりともたせかけ、嬰児に寄りそう母親のように身をかがめ、十二の異なる調《しらべ》で和音を取り出しまして、満堂陶酔のさなかに、すべての心の中に響き渡る声で歌いつつ、すべての眼から感涙をしぼらせたのでございました。
彼女が歌い終りますと、教王《カリフ》はつとお立ち上りになって、叫びなさいました、「おおタワッドドよ、アッラーがそちの中にその賜物を増したまい、そちの主人たりし人々とそちを生み出した人々とに、御慈悲を垂れたまわんことを。」そして、その場で、百の袋に入れた、金貨一万ディナールを、アブール・ハサンに支払わさせ、タワッドドに仰せられました、「おお驚嘆すべき乙女よ、そちはわが後宮《ハーレム》に入って、専用の館《やかた》と大勢の召使を持つのがよいか、それとも、そちの旧主たるこの若者とともに帰るのがよいか、言うがよい。」
このお言葉を承わると、タワッドドは教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光がさしてくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百八十七夜になると[#「けれども第二百八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……タワッドドは教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して、お答え申しました、「アッラーは御恵《みめぐ》みをわれらの御主君|教王《カリフ》の上にあまねく施したまわんことを。けれども、わが君の奴隷は、わが旧主の家に戻ることを望んでおりまする。」
教王《カリフ》はこの選択に御不快の色を示されるどころか、直ちにその所望をお容れになり、彼女には土産として別に五千ディナールをお払わせになって、彼女に仰せになりました、「願わくはそちが霊魂の知識に精通しておるように、愛情にもまた精通せんことを。」次に、さらに寛容の限りを尽そうと思し召し、アブール・ハサンを宮廷の高職に任命なさいました。そして彼を、最も御側近の寵臣の中に入れることをお許しになりました。次にこの会合を閉会なさいました。
そこで、タワッドドは学者たちの外套で身も重く、アブール・ハサンはディナール金貨の填《つま》った袋を携えて、ともに打ち連れて広間を出てゆきますと、会衆一同はその後について、今し方見もし聞きもしたことに驚嘆しながら、腕を上げて、叫んだのでございました、「そもそもアッバースの後裔の御寛仁に比し得るものが、世界のどこにあるだろうか。」
[#ここから1字下げ]
「以上が、おお幸多き王さま」とシャハラザードは続けた。「博学のタワッドドが学者の集いのただなかで述べた言葉でございまして、これがその御代の年代記によって伝えられ、あらゆる回教徒婦人を教育するに役立っているのでございます。」
つぎにシャハラザードは、シャハリヤール王が憂うべき様子で考え込んでいるのを見て、急いで詩人アブー・ヌワースの事件[#「詩人アブー・ヌワースの事件」はゴシック体]に話題を移し、すぐにその話を始めたが、一方半ばうとうとしていた小さなドニアザードは、アブー・ヌワースの名が言い出されるのを聞くと、にわかにはっと眼をさまし、眼を見張り、耳をそば立てて、これに聞き入る用意をしたのであった。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
詩人アブー・ヌワースの事件
語り伝えまするところでは、――さあれ、アッラーは更に多くを知りたまいまする、――夜々のうちのある夜のこと、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、お眠りになれず、精神はいたく思い煩いなすって、ただ一人宮殿をお出ましになり、憂さを紛らそうとして、御苑《ぎよえん》のほうを一めぐりしにお出かけになりました。こうして、一棟の離家《はなれや》の前へお着きになったのですが、そこの戸は開かれていましたけれども、閾の上で眠りこんでいる一人の黒人の宦官の体《からだ》で、阻まれておりました。教王《カリフ》はこの奴隷の体を跨いで、たった一間《ひとま》しかないこの離家のなかへ、はいってゆかれました。すると二本の大きな蝋燭で、右左から照らされて、帳《とばり》をおろした一台の寝台が、まず最初にお眼に映りました。寝台のそばには、一基の小さな卓子があり、その上には一枚のお盆があり、それには、伏せた大盃を載せた葡萄酒の瓶が一本置いてありました。
教王《カリフ》は、このような思いもかけぬ品々が、この離家にあるのでびっくりなさり、寝台のほうへ進み寄り、帳《とばり》をお掲《かか》げになりますと、お眼の前に、一人の美女が眠りこんでおりましたので、感歎して立ちつくしてしまいなさりました。それは若い奴隷で、満月の夜の月、その拡げられた髪だけが面衣《ヴエール》となっておりました。
こういう姿を見て、教王《カリフ》はこの上もなく感じ入られ、その酒瓶の首の上に載っている大盃を取りあげて、これに葡萄酒を充たし、魂のなかで申されました、「乙女よ、汝の頬の薔薇《そうび》のために。」それから、乙女の初々しい顔の上に身をこごめて、唇の左の隅で微笑んでいる黒い小さな黒子《ほくろ》に、接吻をなさいました。
しかしこの接吻は、それがどんなに軽やかなものでありましたにしても、その若い女の眼を醒ましてしまいました。女は信徒の長《おさ》のお姿を認め、恐怖でいっぱいになって、寝台の上に起き上りました。しかし教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「おお、若い奴隷よ、そなたのそばに、琵琶《ウーデイ》があるな。そなたは定めし、これから美しい調《しらべ》を取り出せる筈じゃ。余はそなたが何者かは心得ぬとはいえ、今夜をそなたとともに過ごそうと思い定めたゆえ、そなたが歌を合わせつつ、琵琶《ウーデイ》を奏するのを見るを、いといはせぬであろうぞ。」
すると、若い女は琵琶《ウーデイ》を取り、絃を合わせ、相異なる二十一種の調で、見事な音を取り出しましたので、教王《カリフ》は興奮のかぎり興奮してしまわれましたが、若い女はこれに気がつきますと、それにつけこまずにはいませんでした。彼女は申し上げました、「おお信徒の号令者よ、わたくしは天命の苛酷に苦しんでおりまする。」教王《カリフ》はお訊ねになりました、「それはまた、どうしてか。」彼女は申しました、「君の御子息エル・アミーン様は、おお信徒の号令者よ、数日前に、一万ディナールでわたくしを買われ、わたくしの身柄をわが君にお贈りなさろうとされました。ところが、君のお后《きさき》シート・ゾバイダは、この計画をお悟りになり、御子息がわたくしを買うために費されました金子をば、御子息にお返しになり、わたくしを一人の黒人の宦官の手にお渡しになって、この寂しい離家に閉じこめておしまいになったのでございます。」
教王《カリフ》はこの言葉を聞きなさると、この上もなく逆鱗《げきりん》あそばされ、若い女に向って、明日すぐ、専用の御殿とその美しさにふさわしい大勢の召使を与えて取らせると、約束なさいました。それから、この乙女をわが物になさってから、急いでお立ちになり、眠りこんだ宦官を起し、即刻、詩人アブー・ヌワースに、直ちに宮殿へ参上するように伝えよと、命令なさいました。
これは、事実いろいろなお煩いごとがおありになるたびごとに、この詩人をお召し出しになって、その即興の詩篇を聞いたり、あるいは、お話しになる何かの事件を、詩にさせてごらんになるのが、教王《カリフ》の御習慣でございました。
そこで、宦官はアブー・ヌワースの家へまいりましたが、そこには詩人がおりませんでしたので、バグダードのあらゆる盛り場へ行って探し始めました結果、とうとう、「緑の門」地区の奥にある、あまり評判の芳しからぬ飲屋で、詩人を見つけ出しました。宦官は近づいて行って、彼に言いました、「おおアブー・ヌワース、わが御主君|教王《カリフ》がお呼びでござる。」アブー・ヌワースは、からからと笑って、答えました、「おお、あらゆる白きものの父よ、今わしにここから動けと言ったところで、それは無理だな。わしは今、わしの友人たちの稚児さんに、人質となってつかまっているところだもの。」宦官は訊ねました、「その少年はどこにいますか、一体どんな子ですかね。」詩人は答えた、「その子は、美しい頬をした、可愛らしい子だよ。わしはこれに一千ドラクムをやると、約束してしまったのだ。ところが、そうした金は今全然持ち合わせていないのだから、この借金も返さないで、しゃあしゃあと出てゆくわけにはまいらぬ。」
この言葉を聞いて、宦官は叫びました、「アッラーにかけて、アブー・ヌワースよ、その少年を見せて下さい。そして、もしその少年が、あなたの匂わせているらしいとおりに、ほんとうに可愛いのでしたら、あなたの言い分は全部通しますし、それ以上にもしてさしあげます。」
二人がこのように話をしていると、その稚児が突然、戸口の隙間から、その美しい顔をのぞかせましたので、アブー・ヌワースは、そちらのほうを振り向いて、叫びました、「もし小枝の揺れ動かば、小鳥らの歌はいかばかりならん……。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百八十八夜になると[#「けれども第二百八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
するとその少年は、部屋のなかへすっかりはいってきました。まことに絶世の美少年でして、色の違った三枚の長衣を重ねて着ていました。一番上のは真白、二番目は赤、三番目は黒でした。
アブー・ヌワースは、最初、白い衣を着た少年を眺めると、霊感が精神のなかでぱちぱち燃えあがるのを感じまして、この少年を讃えて、次のような詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
乳の白さの亜麻布をまといて現われ出《い》でたり。その眼は青き瞼《まぶた》の下に悩ましげにして、その頬の柔かき薔薇は、そを創りたまいし御方《おんかた》をば祝福してありき。
かくてわれはこれに言えらく、「何とてもわれを眺むることなく過ぎゆくや、犠牲屠《いけにえほふ》る人の殴打の下なる犠牲《いけにえ》のごとく、われは君が手の間に身をゆだぬるを諾《うべな》うものなるを。」
われに答えて、「かかる言葉を措《お》きて、静かに創造主の御業《みわざ》を眺めたまえ。わが身体《しんたい》は白くして、わが長衣も白く、わが面は白くして、わが天命も白し。白の上に白にして、また白の上に白なり。」
[#ここで字下げ終わり]
少年はこれらの詩句を聞くと、微笑して、そしてその白い長衣を脱ぎました。そして真赤な姿になって現われ出ました。これを見ると、アブー・ヌワースは、感動が己れをことごとく抱きしめるのを感じ、即座に、次の詩句を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
その酷《むご》き仕打と等しく赤き長衣をまといて現われ出《い》でたり。
かくてわれは、驚きに心|紊《みだ》れ、叫びぬ、「君は月の白さなるにかかわらず、われらが心臓の血潮もて赤く染められたる双の頬を持ち、アネモネの花より取りし長衣をまといて現われ出ずるは、そもいかなる仔細ぞや。」
われに答えて、「暁はさきにわれにその衣服を貸し与えしが、今や太陽そのものぞ、その炎をわれに贈りし。わが頬は炎にして、わが衣は赤く、わが唇は炎にして、唇の葡萄酒は赤し。赤の上に赤にして、また赤の上に赤なり。」
[#ここで字下げ終わり]
稚児はこれらの詩句を聞くと、その赤い長衣を脱ぎ棄て、黒い長衣をまとって現われ出ましたが、この衣を肌にじかに着けておりましたので、絹の帯を締めた身体《からだ》の線が、くっきりとわかりました。アブー・ヌワースは、これを見て、興奮の極に達し、少年を讃えて、次の詩句を即吟いたしました。
[#ここから2字下げ]
夜のごとき黒き長衣をまといて現われ出で、われにただの一瞥をも与えんとはせざりき。かくてわれはこれに言えらく、「われを妬む者どもは、君がつれなきを欣び興ずるを、君は見ざるや。」
ああ、われは今ぞ知る。君が衣は黒くして、君が頭髪は黒く、君が眼は黒くして、わが天命は黒きを。黒の上に黒にして、また黒の上に黒なり。」
[#ここで字下げ終わり]
教王《カリフ》の使者は、この少年を見、これらの詩句を聞きますと、魂のなかでアブー・ヌワースをもっともだと思いまして、そして直ちに宮殿へ戻り、教王《カリフ》にこの事件をお知らせ申しました。そして詩人が、この美青年に約束した金額を払えないために、飲屋で人質になってしまった次第を、お話し申し上げました。
すると教王《カリフ》は、非常にお苛立ちと同時に興ぜられもし、人質釈放に必要な金額を宦官にお渡しになり、即刻詩人を救い出して、是が非でも、御前《ごぜん》に連れてくるようにと命令なさいました。
宦官は急いで命令を実行し、ほどなく、酔歩|蹣跚《まんさん》の詩人を、やっとのこと支えながら、戻ってきました。すると教王《カリフ》は、わざと怒り猛ったようなお声で、一喝されました。それから、アブー・ヌワースが呵々大笑するのを御覧になると、傍へ寄って、その手を取られ、一緒に、例の乙女のいる離家のほうへと歩いてゆかれました。
アブー・ヌワースは、白と黒の大きな眼をした乙女が、寝台の上に坐って、全身を青繻子の衣で包み、顔を青絹の軽やかな面衣《ヴエール》で蔽って、微笑を浮かべているのを見ると、感激に燃えて、酔もさめた心地となり、すぐさま霊感を覚え、乙女を讃えて、次の詩節を即吟いたしました。
[#ここから2字下げ]
青き面衣《ヴエール》の美女に告げよ、われは切に願う、欲情に燃ゆる一人の男を憐れみたまえと。これに告げよ、「われは切に乞う、柔かき薔薇《ばら》も素馨もこれに及ばざる、君が麗わしき顔色の白さにかけて、
われは切に乞う、真珠も紅玉《ルビー》も色褪《いろあ》せしむる君が微笑にかけて、われに一瞥を投げたまえ、われを羨む者どもの、わが上に作りあげし讒罵《ざんば》の跡を読む術《すべ》もなき一瞥を。」
[#ここで字下げ終わり]
アブー・ヌワースがその即興詩を終わると、乙女は飲料を乗せた盆を、教王《カリフ》にお勧め申しましたが、教王《カリフ》は遊び興じようとなされて、詩人に向い、一人で盃の葡萄酒を全部飲むよう、お勧めになりました。アブー・ヌワースは、よろこんでお言付けどおりにしましたが、ほどなくその理性の上に、この酒の効果を感じてきました。この時|教王《カリフ》は、ふと気紛れなお気持になり、アブー・ヌワースをこわがらせるため、急に立ちあがり、剣を振りかざして、これに飛びかかり、その首をはねるような仕草をなさいました。
これを見て、アブー・ヌワースは顫え上って、大声を立てながら、部屋中を走りまわり始めました。すると教王《カリフ》は剣の切先でつつきながら、四方八方に追いまわし始めなさいました。それから、最後に申されました、「よろしい、また席へ戻ってもう一杯飲め。」そしてそれと同時に、乙女に盃を匿《かく》せと合図をなさいました。乙女はすぐさま盃を衣の下に隠して、そのとおりにいたしました。けれどもアブー・ヌワースは、いくら酔っていましても、それに気がつき、次の詩節を即吟いたしました。
[#2字下げ] わが身に起りしことは、げに奇《く》しきかな。無垢なる乙女は盗賊に変りて、われより盃を奪い、その衣の下の、このわれ自らも身を匿さまほしきところに、これを納めぬ。いかなるところなりや、教王《カリフ》に敬意を表し奉り、われは言わじ。
この詩句を聞いて、教王《カリフ》はお笑いだしになり、冗談ごかしに、アブー・ヌワースにおっしゃいました、「アッラーにかけて、今よりその方を高位につけたいと思うぞ。今後は、その方は、バグダードの女衒《ぜげん》どもの正式組合長じゃ。」アブー・ヌワースは即座にやりかえしました、「しからば、おお信徒の号令者よ、御命令どおりにいたしまするが、さて、今直ちに拙者のお周旋《とりもち》を御必要となさいますかどうか、仰せられませ。」
この言葉に、教王《カリフ》は非常なお腹立ちで、宦官に向い、直ちにお裁きの執行者、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを呼んで来いと叫ばれました。ほどなく、マスルールがやってまいりますと、教王《カリフ》はこれに命じて、アブー・ヌワースの着物をはいで、背中に荷鞍《にぐら》をつけ、頭絡《おもがい》をかけ、尻の孔に突棒を突《さ》しこみ、それから……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十夜になると[#「けれども第二百九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それから、このような恰好で、寵姫その他の女奴隷たちの離家全部の前を引きまわし、宮殿に住むすべての人々の笑いものにさせ、その次に、町の城門へ引っぱって行って、バグダードの全市民の前で、首を斬り、その首を盆に載せて持ってこい、と仰せられました。するとマスルールは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてすぐに、教王《カリフ》の御命令を実行するために、仕事にとりかかりました。
そこでマスルールはアブー・ヌワースを連れ去りましたが、アブー・ヌワースは、教王《カリフ》の逆鱗をいくら逸《そ》らそうとしても、全然むだと観念しました。マスルールはこれを命ぜられたような姿にしてから、ほうぼうの離家の前を、ゆっくりと引っぱりまわしはじめましたが、この離家の数は、きっかり一年中の日の数と同じでございました。
ところが、宮殿中にあまねくその奇行を知られていましたアブー・ヌワースは、すべての婦人の同情を惹かずにはいませんでした。婦人たちは、気の毒だという気持をもっとはっきり現わそうとして、めいめいが順々に、彼を黄金と宝石で埋めて、ついには皆が集まって、優しい慰めの言葉をかけながら、その後ろについてゆくことになってしまいました。その結果、緊急の用件のために宮殿へ呼ばれて参内しようとして、ちょうどそこを通りかかった、宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーは、泣いたり嘆いたりしている詩人を見て、これに近寄って、申しました、「おや、アブー・ヌワースではないか。そのような懲《こら》しめを受けるとは、一体どういう罪を犯したのか。」詩人は答えました、「アッラーにかけて、私は何かの罪の匂いさえも犯してなどいません。ただ教王《カリフ》の御前《ごぜん》で、私の一番美しい詩句のいくつかを誦しただけなのですが、教王《カリフ》は御褒美として、その一番立派な御衣料を、わが分け前として賜わりました。」
ちょうどこの時、とある離家の扉の垂幕の後ろに匿れたまま、すぐそばにおられた教王《カリフ》は、アブー・ヌワースの返答をお聞きになって、呵々大笑なさらずにはいられませんでした。教王《カリフ》はアブー・ヌワースをお許しになり、誉れの衣と大金をお贈りになり、今までと同様、これを引きつづき、御機嫌うるわしからぬ折の、離れがたい伴侶となさったのでございました。
[#ここから1字下げ]
――シャハラザードがこの詩人アブー・ヌワースの事件を語り終えたとき、小さなドニアザードは、忍び笑いに襲われて、うずくまっている敷物の上で、笑いを抑えかねた有様であったが、そのとき姉のところに駈け寄って、言った、「アッラーにかけて、シャハラザードお姉さま、なんとこのお話は面白く、驢馬みたいな姿になったアブー・ヌワースは、どんなに見た目に滑稽だったことでしょう。この人についてもう少し何か話してくださったら、ほんとうに有難いですけれど。」
けれどもシャハリヤール王は叫んだ、「余はこのアブー・ヌワースなど、全然面白くもない。そちがどうあっても、直ちに首を刎ねられたいとあらば、その男の談をつづけさえすればよろしい。さもなければ、そしてわれわれに今夜を過ごさせおおせるためには、いそぎ、何か旅行の物語を、語り聞かせよ。それというは、かの首を刎ねさせたるわが呪われた妃との事件につづいて、サマルカンドの王、弟シャハザマーンと共に、遠い国々への旅立ちを思い立って以来、余は見聞を広むる旅に関することすべてに、興味を覚えるようになったのじゃ。さればもしそちが、まこと聞くに快い小話を知っているとあらば、遅滞なくそれを始めよ。今宵《こよい》、わが不眠は常にもまして根強いからな。」
このシャハリヤール王の言葉に、弁舌爽やかなシャハラザードは叫んだ、「ちょうど、わたくしの今までお話し申したどの物語のなかにあっても、一番驚くべくまた一番快い物語こそは、その旅行の物語なのでございます。それは只今すぐ御判断遊ばさるるところでございましょう、おお幸多き王さまよ。それと申しますのは、まことに、船乗りシンドバード[#「船乗りシンドバード」はゴシック体]と呼ばれる旅行者の物語にくらべられるような物語は、いろいろな書物のなかにも、けしてございません。そして、おお幸多き王さま、お許しくださるとあらば、これからお話し申し上げまするのは、まさしくその物語なのでございます。」 そしてすぐにシャハラザードは語った。
[#ここで字下げ終わり]
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船乗りシンドバードの物語(1)
おお幸多き王さま、わたくしの伝え聞きましたところでは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代に、バグダードの都に、荷かつぎシンドバードと呼ばれる、一人の男がおりました。身分いやしい男で、平生荷物を頭に載せて運んで、暮しを立てていたのでありました。ところで、日々のうちのある日のこと、たいへん重い荷物を運ぶことになりましたが、その日はちょうど非常な暑さでございました。ですから、荷かつぎはその荷物のためにひどく疲れて、びっしょり汗をかきました。暑さがいよいよ耐えきれなくなってきますと、そのときようやく、ある屋敷の門前を通りかかりました。まわりの地面をすっかり掃き清めて、薔薇水をまいているところを見ると、この屋敷はきっと、だれかお金持の商人のものに相違ありません。そこにはたいへん快い微風が吹き渡っていて、それに門のほとりには、大きな腰掛《ベンチ》があって、坐れるようになっています。そこで荷かつぎのシンドバードは、ひと休みしてよい空気を吸おうと、くだんの腰掛の上に自分の荷物を下ろしますと、その門から彼のところにまで吹いてくる、かぐわしい香りのまじったさわやかな微風を、すぐに感じました。そこで、こうしたすべてにすっかり喜んで、腰掛の端に腰を下ろしました。すると、高尚な文句の歌を歌う、妙なる声の伴奏をする、さまざまの楽器と琵琶《ウーデイ》の合奏が聞え、また、心を魅するいろいろの調べで、至高のアッラーを頌《たた》える、囀る小鳥らの声も聞きとれました。なかでも、雉鳩《きじばと》、鶯《うぐいす》、つぐみ、波斯鶯《ブルブル》、じゅずかけ鳩、飼いならしたしゃこの声が、聞き分けられました。そこで心の中で驚嘆して、なみなみならぬ喜びを覚えたために、門の隙間から頭をさしこんでみました。すると、奥のほうに広々とした庭が見え、そこには若い下僕や、奴隷や、召使や、若い女や、あらゆる身分の人たちがひしめいています。そしてそこには、王侯や帝王《スルターン》のところよりほかには、見られないような品々があるのでした。
そして折から、結構な御馳走の匂いがさっとひと吹き、彼に吹きつけました。あらゆるさまざまの上等な食料と飲料の、あらゆる種類のおいしそうな香気の入りまじったひと吹きです。そこで彼は、思わず溜め息をつかずにはいられず、目を天のほうに向けて、叫んだのでした、「主《しゆ》創造者よ、おお贈与者よ、御身《おんみ》に栄えあれ。御身は計算することなく、御意《ぎよい》に叶う者に贈与を授けたもう。私が御身に訴えるというのは、御身のなしたもうところの所以《わけ》をお尋ねするとか、御身の正義と神意のほどをお伺い申すとかいうのでは、さらさらござりませぬ。なぜなら、人間はけっして全能の主《あるじ》に問いただすことなど、してはならぬからです。私はただありのままを見定めるだけでございます。御身に栄えあれ。御身はお望みのままに、あるいは富ませあるいは貧しくし、あるいは高めあるいは低めたまい、それは私どもにはわからぬとはいえ、いつも理《ことわり》に叶っておりまする。そういう次第で、あそこにはこの豪壮な屋敷の主人がいる……。この仁は至福のこのうえない極みに仕合せだ。こうした好ましい匂い、おいしそうな香気、うまい御馳走、飛びぬけて結構な飲み物なぞの、歓びのなかに埋まっている。他の人たち、例えばこの私なんぞが、疲れと貧困のこのうえない極みにあるのに、あの仁は仕合せで、御機嫌で、大満足です。」
次に荷かつぎは片手を頬にあて、声を張りあげて、次の詩句を次々に即吟して、歌い出しました。
[#ここから2字下げ]
時あって、住むに家なき不幸の者、おのが天運によって創り出されし、宮殿の蔭に目覚むることあり。されどわれは、悲しきかな、日ごと朝《あした》に目覚むれば、昨日《きぞ》よりもさらに惨たり。
わが悲運は、疲るるわが背に負う重荷と共に、刻々にいや増すばかりなり。余人は、運命に惜しみなく与えらるる財宝のただなかに、幸福にして満ち足りてあるものを。
天運はかつて人の背に、わが背の荷に等しき荷を負わしめしことありや……。さあれ、栄誉と閑暇を満喫する余人とても、畢竟《ひつきよう》するに、われと等しき者にほかならざるなり。
彼らとてわが身に等しき者にほかならずとするも、あわれかいなし。運命は依然彼らとわれとの間に、多少の差別を置くなり。われの彼らに似るは、苦くすえし酢の葡萄酒に似ると同じければなり。
さあれ、おお主よ、われかつて御身の恩沢を享《う》けしことなくとも、われ何事か御身を恨みまつるとは、思いたもうことなかれ。御身は偉大にして、寛容にして、正し。しかして御身は明知もて捌《さば》きたもうは、われよくこれを知る。
[#ここで字下げ終わり]
荷かつぎシンドバードはこの詩を歌い終えると、立ち上がって、ふたたび荷物を頭上に載せて、道をつづけようとすると、そのとき御殿の門から優しい顔をして、かわいらしい姿の、たいそう立派な着物を着た、一人の奴隷の男の子が出てきて、彼のほうに進みより、静かにその手をとって、言いました、「どうぞおはいりになって、主人にお話しください。お会いしたいと申しておりますから。」荷かつぎはすっかり気おくれして、何か口実をもうけて、この若い奴隷のあとからついてゆかないですませようとしましたが、うまくゆきません。そこで荷物を玄関のところに預けて、その子供と一緒に、屋敷の内にはいってゆきました。
見ると、いかめしい立派な人々のいる豪壮な家で、中央に大広間が開かれ、そこに荷かつぎは案内されたのでした。そこには気品のある様子のお歴々と、重みのある会食者ばかりの、多人数の集まりが見られました。また、あらゆる種類の花、あらゆる品種の香水、あらゆる品質の砂糖煮の干果物《ほしくだもの》、糖菓、巴旦杏《はたんきよう》入りの練粉菓子、見事な水菓子、それに焼いた仔羊と豪奢な料理を盛り上げた、夥しい数々の盆と、葡萄液からとった飲み物を載せた、いくつもの盆も見られました。それにまた、めいめい定められた席順に従って、整然と並んで坐っている美しい女奴隷たちが、それぞれ膝の上に楽器を置いているのも、見られたのでした。
荷かつぎは部屋の中央に、他の会食者たちの真中に、犯しがたい威厳のある顔をした、一人の人を認めました。その髯は寄る年に白くなっていて、顔容《かおかたち》はたいそう美しく、見るからに好ましく、人相全体が、重々しさと慈愛と気品と寛仁の趣きを帯びておりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十一夜になると[#「けれども第二百九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
こうしたすべてを見て、荷かつぎのシンドバードは度胆《どぎも》を抜かれてしまって、心中で言いました、「アッラーにかけて、このお屋敷は権力のある魔神《ジン》の国のどこぞの御殿か、さもなければ、たいへんお偉い王様か帝王《スルターン》のお住居だぞ。」それから、いそいで礼儀作法の命ずる態度をとって、並いるすべての人々に平安を祈り、彼らのために祈願をし、彼らの手の間の床《ゆか》に接吻し、最後にうやうやしく慎ましく、頭をたれて立っておりました。
すると宿の主人は、彼に近く寄るように言って、自分のそばに坐るように招じました。それからたいへん親切な口調で、よく来たと言ってから、食物を供してくれ、盆に盛ったあらゆる御馳走のなかで、一番すぐれて、一番おいしく、一番上手にできているものを、すすめてくれました。そこで荷かつぎのシンドバードは、招待を有難く受けずにはいませんでしたが、しかし、きちんと祈願の文句を唱えたうえでのことでした。こうして腹いっぱい食べて、それからアッラーに謝して申しました、「いかなる場合にも、かの御方《おんかた》に讃辞《ほめことば》の捧げられんことを。」そのあとで、両手を洗い、会食者一同に好意を謝しました。
そのときになるとはじめて主人は、飲食物を供したうえでなければ、客に物を問うてはならぬ慣わしに従って、この荷かつぎに言いました、「ようこそ来られた、ゆるゆるとおくつろぎなさい。どうぞお前さんの一日が祝福されてあるように。けれども、おお客人よ、お前さんの名前と御商売を聞かせていただけるかな。」彼は答えました、「おお御主人様、私は荷かつぎシンドバードと申し、商売は、賃金をもらって、荷物を頭上に載せて運ぶことでございます。」その家《や》の主人は微笑して、言いました、「されば、おお荷かつぎよ、お前さんの名前は私の名前と同様じゃ。というのは、私も船乗りシンドバードというのだから。」
次に更につづけて言いました、「さて、おお荷かつぎよ、お前さんにここに来てもらったのはほかでもない。実は、お前さんがさきほど、おもての腰掛に坐っていたとき歌った、あの美しい詩節を、今一度繰り返して聞かせてもらいたいのじゃ。」
この言葉に、荷かつぎはすっかりいたみ入って、そして言いました、「御身の上なるアッラーにかけて、あのような軽はずみな振舞いを、どうかあまりお咎めにならないでくださいまし。と申しますのは、苦労と疲れと手に一物も残さぬ貧窮とは、人間に、不作法と愚行と不謹慎を教えるものでございますから。」けれども船乗りシンドバードは、荷かつぎシンドバードに言いました、「お前さんが歌を歌ったことは、少しも恥じるにおよばない、ここでは遠慮は無用じゃ。というのは、お前さんは今後はわしの弟分だ。ただどうぞ、わしがさっき聞いて非常に感心したあの詩節をば、いそぎ歌って聞かせてもらいたい。」そこで、荷かつぎはその詩節を歌いますと、船乗りシンドバードは極度に心を喜ばせられたのでございました。
そこで詩節を歌い終えると、船乗りシンドバードは、荷かつぎシンドバードのほうを向いて、これに言いました、「おお荷かつぎよ、さればわしにもまた驚くべき身の上話がある。では今度はわしが、これをお前さんに聞かせてあげるとしよう。そうして、わしがこの至福に至り着き、この御殿に住む身となる前に、わが身に起った一切の冒険と、身に受けた一切の試練をば、話して進ぜよう。さすれば、どのように恐ろしいなみなみならぬ労苦を支払い、どのような災難、どのような辛苦、どのような最初の苦難を支払ったあげく、今見らるるごとき、老後に暮しておるこの栄華をかち得たかが、おわかりになろう。というのは、お前さんは、わしが成し遂げた七たびの稀代の航海のことや、どんなふうにその航海のひとつひとつが、ただひとつだけでもまことに驚くべき事柄で、ただ思っただけでも度胆を抜かれ、あらゆる茫然自失の極みに陥ってしまうかということを、御存じないに相違ない。さあれ、これからお前さんはじめ、ここにおらるる尊敬すべき客人御一統に、お話しするところはすべて、畢竟するに、天命があらかじめ定めたがゆえに、かつは記《しる》されたる万事は、人のこれを避けあるいは逃がるることあたわずして、行なわれねばならぬがゆえに、わが身に起ったものにほかなりませぬ。」そして、彼は自分の物語を始めたのでございました。
[#ここから3字下げ]
船乗りシンドバードの物語の第一話
そしてこれは第一の航海である
[#ここで字下げ終わり]
されば、おおお歴々の殿方御一同よ、また私と同じくシンドバードと呼ぶ、敬すべき荷かつぎよ、私には、商人の父親があったが、これは世人と商人の間で大立物のひとりでありました。父のところには数々の財宝があり、父は日ごろ絶えず、それを遣《つか》って貧者に施し物を配っていたが、しかしよく度をわきまえていた。というのは、父が亡くなると、私はまだいとけなかったが、たくさんの財産、土地、村々を、私に遺産としてのこしてくれました。
いよいよ私が成人の年頃に達すると、私はこれらすべてに手をつけ、途方もない御馳走を食らい、途方もない飲み物を飲み、若者どもと交際し、ひどく高価な着物を着てめかしこみ、友人と親交を結ぶのを楽しんだものだ。こうして私はついには、こんな有様がいつまでも、あくまで自分に一番都合よくつづくものと、信じこんでしまった。そして長い年月のあいだ、こういうふうに暮しつづけたが、とうとう一日迷いが覚め、分別にもどってみると、もう自分の財宝は散じ尽され、身分は変わり、財産はなくなってしまったことを、見届けた次第でした。そのとき、自分の無為徒食から全く覚めきると、私は、いつか窮迫のうちに老年に至るだろうという心配と狼狽に、悩まされる自分を見た。そのときまた、亡き父上が好んで繰り返しておられた言葉が、記憶に浮んできた。すなわち、われらの主スライマーン・ブニ・ダーウド(御両人(2)の上に祈りと平安あれ)のお言葉であった。他の三つのことよりも好ましき三つのことあり[#「他の三つのことよりも好ましき三つのことあり」に傍点]。すなわち[#「すなわち」に傍点]、死の日は誕生の日よりも遺憾ならず[#「死の日は誕生の日よりも遺憾ならず」に傍点]、生きたる犬は死せる獅子にまさり[#「生きたる犬は死せる獅子にまさり」に傍点]、墓は貧困より好まし[#「墓は貧困より好まし」に傍点]。
これらを思うと、私は即刻即座に立ち上がった。そしてまだ残っていた家財と衣類をかき集めて、手もとにある財産、不動産、土地の残りと共々、遅疑なく競売に付した。こうして、私は三千ドラクムの金額を集めた……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十二夜になると[#「けれども第二百九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……私はこうして三千ドラクムの金額を集めると、直ちに、いろいろの人々の地域と国々に旅をしようと思い立った。というのは、次のように言った詩人の言葉を、思い出したからであった。
[#ここから2字下げ]
辛苦はかち得し光栄を更に栄えあるものとなす。人類の光栄は、眠りなくして過ぐる、幾多の長き夜々の不滅の娘なれ。
白き、灰色の、あるは薔薇色の、海の真珠の比類なき宝を得んと欲する者は、美しき品々に達するに先立って、まず自ら水中にもぐるなり。
努めずして光栄を欲する者は、死に至るまで不可能の希望を追うらん。
[#ここで字下げ終わり]
そこで私は、明日といわず、直ちに市場《スーク》に駆けつけて、さまざまの商品とあらゆる種類の手荷物を買い求める手配をした。そして直ちに全部を、すでに出帆を待つ他の商人たちの乗り込んでいる船に、積み込んだ。そして私の魂は今は海という考えに慣れ、私は自分の船が、バグダードを遠ざかってバスラまで河を下り、海上に出るのを見たのであった。
バスラから、船は荒海に向かって乗り出し、それからはいく日もいく夜も、島々また島々に着き、ひとつの海の次に他の海、ひとつの陸の次に他の陸に着きながら、航海をした。そして上陸する先々の場所で、われわれは商品を売っては他の商品を買い、非常に得な物々交換や取引をしたものだ。
ある日のこと、数日来陸の影を見ずに航海していると、われわれはひとつの島が海から浮き上がるのを見たが、それはどこかの素晴らしい楽園《アドン》の園というふうに見えた。そこで、船長は上陸することに同意し、投錨して梯子を下ろすや、われわれを下船させた。
われわれ商人一同は、食糧と炊事道具(3)に必要な一切を携えて、船を下りた。ある者は火をおこし、食物の支度をし、下着類を洗うことを引き受け、一方、他の人々は散歩をし、鬱を散じ、海の疲れを休めるだけに満足した。この私は、飲み食いをするのも忘れずに、散歩をしながら、海岸一帯に繁っている植物の美しさを楽しむほうを選んだ連中に、はいっていた。
こうして一同くつろいでいる最中に、突然われわれはこの島全体に地震が起こり、地上何尺かはね上げられたほど、ひどく揺すぶられるのを感じた。それと同時に、船の舳《へさき》に船長が現われるのを見たが、船長は恐ろしい声で、ものすごい身ぶりをしながら、われわれに叫んだ、「おおお客さんがた、逃げなさい。いそげ、いそげ。早く船に帰れ。なんでもみんな捨ててしまえ。道具なんぞ地面にほったらかしておいて、自分の魂を救え。待ちかまえている奈落を逃げろ。早く駆け出せ。あんたがたのいる島は、島なんかじゃないのだ。ひどくでっかい大鯨が、大昔からこの海の真中を居所にしていて、海の砂のおかげで、背中に木々が生えたのだ。あんたがたは鯨の眠りを覚ましてしまった。背中で火なんぞ起したので、安静を妨げ気持を乱したのだ。そら、動き出した。逃げろ。さもないと鯨は海に潜って、あんたがたは海に呑まれて、二度と出てこられないぞ。逃げろ。みんな捨ててしまえ。おいらは行ってしまいますぞ。」
この船長の言葉に、船客は胆をつぶして、道具も衣類も器具も焜炉《こんろ》も放り出して、早くも錨をあげている船のほうに、駆け出した。いくたりかはちょうどうまく船に着くことができたが、他の人々は着けなかった。というのは、鯨はすでに動き出して、二、三度すさまじい勢いではね上がったのち、背中にいたすべての人もろとも、海中に沈み、そしてぶつかり合い噛み合う波は、鯨と人々の上に永久に閉ざしてしまったからであった。
ところで、この私は、その鯨の上に置いてゆかれて、溺れたなかにはいっていたのでした。
しかし至高のアッラーは私を守りたまい、一枚の中空の木材を私の手に与えて、溺死から救ってくださった。それは船客たちが下着を洗うため持って来た、一種の大きな洗い桶《おけ》だった。私は最初それにしがみついたが、そのうち、私にとっては貴重な自分の魂の危険と高価さとのため、奮い起こすことのできた異常な努力のおかげで、その上に首尾よく跨がれた。そこで、私は両足で櫂《かい》のようにばたばた水を打ちはじめたが、そのあいだにも、浪は私をもてあそんで、あるいは右に、あるいは左に、ひっくりかえすのであった。
船長はというと、やつは全部の帆に風を孕ませて、まだ浮いている人々なぞにはもうかまわずに、助かることのできた者といっしょに、さっさと遠ざかってしまった。残された人々はほどなく溺れ死んでしまったが、一方私は、両足に全身の力をこめて漕いで、船に追いつこうとしたが、こうして船を目で追っているうち、とうとうそれは見えなくなってしまい、海上には夜が落ち、私は身の破滅とただひとり取り残されたことが、もう疑いないものになった。
私はこうして、一夜とまる一日のあいだ、奈落と戦っていた。そのうちやっと風と潮流にひかれて、一面に蔓草《つるくさ》の生えたけわしい島のほとりに行きついたが、その蔓草は絶壁沿いに垂れ下がって、海のなかにつかっていた。私はその枝に取りすがって、手足を使いながら、首尾よく絶壁のてっぺんまでよじ登った。
そこで、あんなに確かにもう駄目ときまっていたところを、こうして逃がれ出て、私は自分の身体を調べてみようと思って、見ると、身体一面に打撲傷があり、両足が膨れ上がっていて、魚どものかじった咬み痕がたくさんついていた。けれども、私は全然痛みを感じなかった。それほど疲労と冒した危険とで、すっかり無感覚になっていた。そこで私はその島の地面に、腹ばいになって転がり、全くぼうっとして、気を失ってしまった。
私はこういう状態で次の日までいたが、私の上にまっすぐに降り注ぐ太陽のおかげで、やっと目が覚めた。起き上がろうとしたが、膨れて痛む両足は、私に助力を拒み、すぐまた地上に倒れてしまった。そこで、こんな有様に陥ったことを大いに悲しみながらも、あるときは手足ではい、あるときは膝で歩きつつ、何か腹の足しになるものはないかと、はいずりまわりはじめた。そのうち最後に、果樹に蔽われ、幾条《いくすじ》もの泉の流れている、野原の真中に着いた。そこで果物を食い、泉の水を飲んで、そこに数日のあいだ休んだ。そのため、魂はまもなく元気を回復し、痺れた身体を甦えらせたので、だいぶん楽に動けるようになり、四肢も使えるようになったが、しかし、すっかり元どおりというわけにはゆかなかった。というのは、歩くには、まだ身体を支える松葉杖を一対、手作りせざるをえなかったからだ。このようにして、私は物思いに耽り果物を食いながら、木々のあいだをゆっくり歩きまわることができ、この国の美しさに眺め入りつつ、長い時間を過ごしたのであった。
ある日海岸を歩きまわっていると、遠くに何物か現われるのが見えたが、それは野獣か、何か海の怪獣のなかの怪獣らしく思えた。その何物かが何とも気にかかってならず、心中にさまざまの気持が立ち騒いだにもかかわらず、とうとう私は、進んだり退いたりしながら、それに近づいて行った。すると結局、それは杭につないである、すばらしい一頭の牝馬とわかった。実に見事な馬なので、もっと近寄って間近に見たいと思うと、そのときいきなり、恐ろしい叫び声が私を顫え上がらせ、自分ではもうできるだけ早く逃げ出すことしか望まないのに、その場に立ち竦《すく》ませた。そして同時に、地の下から、一人の男が出て来て、大股で私のほうに近寄って、叫びかけた、「お前は誰だ、どこから来たのか。こんなところまで冒険しに来たのは、どういう動機《いわれ》からだ。」
私は答えた、「おお御主人よ、されば私は異国の者で、船に乗っていたところが、いろいろな他の船客と一緒に、海に溺れてしまった。しかるに、アッラーは私に木の洗い桶を授けたもうたので、それに跨がって、この島の海岸に波に打ち上げられるまで、持ちこたえられたのでした。」
私の言葉を聞くと、その男は私の手を取って言った、「私についておいでなさい。」そこで私はついて行った。するとその男は、私を地下の洞穴に下りさせ、大きな部屋にはいらせて、上席にすえ、私が腹を空《す》かせていたので、何か食べ物を持ってきてくれ、そして私が満腹して十分になり、魂が静まるまで待っていた。それから、その男は私の冒険について尋ねたので、一部始終話して聞かせると、この冒険にその男はひどくびっくりした。次に私はつけ加えた、「御身の上なるアッラーにかけて、おお御主人よ、私があなたにお尋ねすることを、余りお咎めにならないでください。私はただいま自分の冒険についてありのままお話ししたから、今度は、あなたがどういう方なのか、またこの地下室に滞在していらっしゃる動機《いわれ》と、またあの牝馬をたった一頭、海岸に繋いでおきなさる原因をば、知りたく存じます。」
その男は私に言った、「されば、この島には、私のような男がいくたりもいて、それぞれ諸所に置かれて……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十三夜になると[#「けれども第二百九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……この島には私のような男がいくたりもいて、それぞれ諸所に置かれて、ミフラジャーン王(4)の馬の番をしているのです。毎月、新月のときに、私たちはめいめい、まだ処女の純血種の牝馬を、一頭ずつここに曳いてきて、海岸に繋いでおいて、いそいで地下の洞穴に下りて隠れています。すると、牝の臭いに惹きつけられて、海馬のなかの一頭が、水から出てきて、右左を見、誰も人影が見えないと、その牝馬に躍りかかって、つがいます。それから牝馬との事がすむと、牡は背中の上からおりて、牝馬を一緒に連れてゆこうとする。ところが牝馬は、杭に繋がれているので、ついてゆけない。すると牡は声高くわめいて、牝を蹴ったり頭で突いたりして、ますます激しくわめきたてる。そのとき私たちはこれを聞いて、交尾が終わったことを知り、すぐに四方から飛び出して行って、喚声をあげて駆けつけると、牡はびっくりしてやむなく海に帰る。それで牝馬のほうは孕んで、宝物ひと山ほどの値打のあるような、この地上を通じて類を見ることのできない、牡か牝の仔馬を産むという寸法です。ちょうど今日は、その海馬が来る日です。あなたにお約束しますが、事がすみしだい、私は必ずあなたを一緒にお連れして、われわれの王ミフラジャーンに引き合わせ、われわれの国を知らせてさしあげます。されば、あなたを私に出会わせたもうたアッラーは、祝福されよかし。なぜなら、私に会わなかったら、あなたはもう二度と、御自分の身内も故国も見ることなく、あなたがどうなったか誰ひとり知る人なく、この荒地で、淋しく死んでしまいなすったことでしょう。」
この言葉に、私は牝馬の番人に厚く礼を述べて、なお言葉を交わしつづけていると、そのときにわかに、海馬が海から出てきて、牝馬へ飛びかかって、つがった。そして終えるべきことを終えると、海馬は牝の上からおりて、牝を連れてゆこうとした。ところが、牝は杭から離れることができないで、跳ねまわってひんひんいななく。だがそこに、馬番が洞穴から飛び出して、大声あげて仲間を呼んで、みんなで剣や槍や楯を用意して、海馬に向かってゆくと、海馬は邪魔されて手を放し、怒って再び海に飛びこんで、水中に姿を消してしまった。
すると他の番人たちもみな、それぞれ自分の牝馬を連れて、私のまわりに集まってきて、私にいろいろと親切にしてくれ、更に私に食物を出したうえで、立派な乗馬を提供してくれ、最初の番人が誘うのに合わせて、みんなで自分たちの主人の王様のもとに同行しなさいと、申し出てくれた。私は即座に承諾して、われわれはみんなで一緒に出発した。
都に着くと、連れの人々は私よりひと足先に行って、自分たちの主君に、私の身に起ったことを知らせに出かけた。それから、呼びに戻って来て、私を王宮に連れて行った。そして、お許しを与えられたので、私は王座の間にはいって、ミフラジャーン王の御手の間にまかり出て、平安を祈り奉った。
王は私の平安の祈りに御答礼なすって、歓迎のお言葉を述べられ、私の口から私の冒険談をお聞きになりたいと、御所望になった。そこですぐに仰せに従って、わが身に起ったところすべてを、細大もらさずお話し申し上げた。しかしそれをここで繰り返したとて無益なことです。
この物語にミフラジャーン王は驚嘆なさって、仰せられた、「わが子よ、アッラーにかけて、その方に長寿を保つ運のなかりせば、それほどの試練と禍いに、今ごろは、とうに倒れてしまったにちがいない。さあれ、その方の救われしは、アッラーに称《たた》えあれ。」王は更に数々の優渥《ゆうあく》なお言葉を賜わり、今後は御懇情を垂れたもうとの思し召しで、私に対する御好意と、私の海洋知識に対する御尊重との証拠《しるし》を示されるため、私をば直ちに、島の港湾長官並びにあらゆる船舶の入港出港の書記に、任命なさったのであった。
私の新しい職掌は、毎日御殿に伺候して王に御挨拶申し上げることを妨げず、こうして王はすっかり私にお親しみになって、腹心の御家来の誰よりも私を御贔屓になり、それを数知れぬ贈物と、驚くばかりの御下賜品をもってお示しになり、それが毎日のことであった。そこで私は、王に対して非常な勢力を持つことになり、かくて王国の一切の請願と国事は、私の手を通じて、住民の公益を計られた次第であった。
けれどもこうしたすべての配慮も、けっして私に故国を忘れさせはせず、故国に戻る希望を失わさせもしなかった。そこで私は、この島に来るあらゆる旅行者と、あらゆる船乗りに必ず、バグダードを知っているかと尋ねて、問いたださずにはおかなかった。けれども誰ひとり、これについて答え得る者なく、皆そんな都の話はついぞ聞いたこともないし、ある場所も知らぬと言うのだった。そこで自分がこうして異国に暮すことを強いられているのを見て、苦しみはいよいよつのり、そして人々が私の故郷の存在すら思いもかけず、そこに至る道を全然知らないのを見て、困惑はその極に達したのであった。
こうしているうちに、ある日、例のごとくミフラジャーン王のもとに伺候したとき、私はインドの名士数人と知り合ったが、双方で挨拶《サラーム》を交わしたのち、その人たちが快く私の質問に応じて知らせてくれたところでは、なんでもインドの国には非常に多くの階級《カスト》があって、その主な二つは、けっして不当な誅求《ちゆうきゆう》とか咎むべき行為などを犯さぬ、高貴の正しい人々より成る貴族武士《クシヤトリヤ》の階級と、清浄な人々でけっして酒を飲まず、淑やかな挙措や馬や豪奢や美を愛する人々である、波羅門《ブラーフマナ》の階級であるという。またやはりその物識りのインド人たちから聞いたのだが、その主な階級は、更に七十二の他の階級に分かれ、それらのあいだでは互いになんの関係もないという。これには私は驚きのかぎり驚きました。
〔(5)またやはりその島にいるとき、私はミフラジャーン王の御領地で、カビルと呼ばれる土地を訪ねる機会があった。そこでは毎晩、鐘鼓と太鼓が鳴り響くのが聞こえた。そしてそこの住民は、三段論法が非常に達者で、見事な思想に富んでいることを、確かめえた。もっとも、この点にかけての彼らの評判は、旅人と商人にすでに定評があった。
この遠国の海で、私はある日百腕尺(6)もの魚を見たし、また顔が梟《ふくろう》の顔に似た魚なぞも、見たことがあった。
実際のところ、おお御主人がたよ、私はそのうえまことに世の常ならぬことどもや、たまげるような不思議なものをいろいろ見ましたが、それらを話していては、際限《きり》がありません。さしずめ、私は多くの事柄を学び、いろいろの交換や売買によって金持になるに必要な期間、さらにその島にとどまったと言いそえるだけで、十分でしょう。〕
ある日のこと、私はいつものように、海岸に出て自分の職務を行ない、相変わらず松葉杖に寄って立っていると、そこに、商人を満載した大きな船が、湾内にはいってくるのが見えた。私は船がしっかりと錨を投じ、梯子を下ろすのを待って、船中に乗りこみ、積荷を記入するため、船長に会いに行った。私の前に、水夫は全部の船荷を陸揚げし、私は次々に書き留めていった。水夫が仕事を終えたとき、私は船長に尋ねた、「このほかに船には何もないのか。」船長は答えて、「おお御主人様、このほかにまだ船腹の奥に、確かに多少の商品がございますが、それはただ保管しているだけのものです。というのは、その持主は、私どもと一緒に旅をしておりましたが、もうずっと前のこと、溺れて死んでしまいました。そして私どもは、今度それらの商品を売り払って、その代金をば、平安の住居バグダードにいる、故人の身内に届けたいと存じております。」
そのとき私は、感動の極度に感動して、叫んだ、「してその商人はなんという名前であったか、おお船長よ。」彼は答えた、「船乗りシンドバードです。」
この言葉に、私は更に注意をこらして、その船長をよくよく見ると、そこに、あのやむなくわれわれを鯨の上に置き去りにした船主《ふなぬし》を認めた。私は声を張りあげて叫んだ、「私が船乗りシンドバードだ。」
それから私はつづけて言った、「あの鯨が、背中の上で起した火のせいで動き出したとき、私は、お前の船まで着けずに溺れた連中の一人だった。けれども、商人たちが下着類を洗おうとて持って行った、木の洗い桶のおかげで、私は助かったのだ。私は実際、その桶に跨がって、両足で櫂のように漕いだ。そして『秩序者』のお許しによって、起ったことが起ったのだ。」
そして私は船長に、どのようにして助かることができたか、またどのような経緯《いきさつ》を経て、ミフラジャーン王のもとで海上書記官の重職に着くに至ったかを、話して聞かせた。
船長は私の言葉を聞くと、叫んだ、「全能者、至高のアッラーのほかには、救いも権力もない……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十四夜になると[#「けれども第二百九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……今ではもうこの世のいかなる人間にも、良心もなければ、正直もないわい。おお狡い書記よ、われわれ全部が自分の目で、すべての商人と一緒に、シンドバードが溺れるのを見たというのに、よくもお前はのめのめと、自分が船乗りシンドバードだなんぞと言えたものだ。そんなに臆面もない嘘をつくとは、なんというお前の上の恥辱だ。」
そこで私は答えた、「いかにも、おお船長よ、嘘は詐欺師の本領だ。まあ私の言うことをよく聞きなさい。私こそは確かに溺れたシンドバードだという、証拠をお目にかけるから。」そして私は船長に、あの呪わしい渡航の途中に起った、船長と私だけが知っている、いろいろの細かい出来事を話した。すると船長も、もう私が本人であることを全く疑わず、船客の商人たちを呼んで、そしてみんなで一緒に、私の助かったことを祝って、私に言った、「アッラーにかけて、あなたが溺死を免れることができたとは、とてもわれわれには信じられなかった。ところが、アッラーはあなたに第二の生命《いのち》をお授けくださったのであった。」
それから、船長はいそいで私の商品を引き渡したので、私は即刻それを市場《スーク》に運ばせた。もっとも、何ひとつ不足していないか、また私の名前と封印がちゃんと、荷についているかを確かめたうえでのことであったが。
市場《スーク》に着くとすぐ、私は荷を開いて、大部分の商品を、百倍の利益をあげて売ったが、しかしいくつかの高価な品を取っておく手配をして、それを早速ミフラジャーン王に献上しに行った。
王に船長と船の来たことを言上すると、王はこの思いがけない出来事にいたく驚かれ、そして私を非常に御寵愛になっていたので、私から恩を蒙るのを好まれず、御自分のほうからも、値の知れぬ数々の贈物を下され、それらは私をすっかり金持にするのに、少なからず与って力あった。というのは、私はそれらすべてを早速売り払い、こうして莫大な財産を金《かね》に換え、それをば、はじめ乗りこんで航海を企てた、その船の上に持ちこんだ。
そうしてから、私は御殿に参上して、ミフラジャーン王にお暇乞いをし、あらゆる御寛仁と御庇護のお礼を言上した。王はしみじみとしたお言葉を賜わって、お暇を下され、また更に、数々の豪奢な進物と高価な品々を下されたうえでなければ、私を出発させなさらなかったが、今度はこれらの品を売り払う気になれず、それらは、ほれ御覧のように、この部屋に、皆さんの前にござります、おお尊敬すべき客人がたよ。また同様に積荷として、今ここに匂っている香のたぐい、その遥かな島の物産である沈香、樟脳、薫香、白檀をも、持ち帰る手配をしました。
そこでいそいで乗船すると、船はアッラーのお許しを得て、直ちに出帆した。それゆえわれわれは、幾日幾夜にもわたったこの渡航中、ずっと好運に恵まれ、天運に助けられて、ようやくある朝、恙《つつが》なく、バスラを望む沖合に到着し、ここにはほんの僅かの間しかとどまらずに、すぐに河をさかのぼって、遂に心も嬉しく、平安の都、故郷バグダードに帰ったのでありました。
私はこうして夥しい富を携え、金品をばらまく用意成って、自分の町に着き、自宅にはいってみると、家族も友人も皆達者で、再会できた。そして私は早速、大勢の男女の奴隷や、白人奴隷《ママリク》や、美しい隠し女たちや、黒人や、地所や、家作や、不動産やを、父の亡くなったとき持っていたよりもずっとたくさんに、買い入れた。
この新しい生活で、私は過去の浮沈も、体験した労苦や危険も、異郷にある悲しみも、旅の憂さや疲れも、皆打ち忘れてしまった。たくさんの気持のよい友人を持ち、かくて非常に長い間、自分の好きなことを衷心から楽しみ、立派な御馳走を食べ、高価な飲み物を飲みながら、愉快と快楽に満ちて、憂えと煩いのない生活のうちに、暮したのであった。
そして私の最初の航海は、以上のようなものであります。
けれども明日、もしアッラーの思し召しあらば、私は、おお客人がたよ、皆様に私の企てた七つの航海の二番目のものを、お話し申しましょう。これは第一の航海よりも、はるかに稀代なものです。
そして船乗りシンドバードは、荷かつぎシンドバードのほうを向いて、一緒に食事をしてくれるようにと頼みました。それから、たいそう鄭重懇切にあしらったあげく、これに金貨千枚を取らせ、別れるに先立って、明日また来るように誘って、言いました、「お前さんはわしにとって、お前の雅《みやび》やかによって歓びとなり、お前のよい行儀によって楽しみとなろう。」すると、荷かつぎシンドバードは答えました、「わが頭上と目の上に。謹しんで仰せに従いまする。願わくは、お宅にお喜びの絶えませぬように、おおわが御主人様。」
そこで彼はいま一度お礼を述べ、もらった引き出物を携えてそこを出て、驚嘆のかぎり驚嘆しながら、自分の家に戻り、そしてひと晩じゅう、今日聞いたことと遭遇したことを思い耽りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十五夜になると[#「けれども第二百九十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ですから、夜が明けるが早いか、彼はいそいで船乗りシンドバードの家に戻りますと、船乗りは鄭重な様子でこれを迎えて、言いました、「この家《や》で友情は御身に堅苦しくないものであるように。そしてくつろぎが御身と共にあるように。」そして荷かつぎがその手を接吻しようとしましたが、シンドバードは承諾しようとしなかったので、彼は言いました、「何《なに》とぞアッラーがあなた様の日々を白くし、あなた様の上にお恵みを堅固になしたまいますように。」折から、ちょうど他の客たちもはや見えていたので、一同まず、拡げた食布のまわりに輪になって坐りました。そこには結構な挽き肉料理と、ピスタチオ、胡桃、葡萄入りの糖菓類との真中に、焼いた仔羊が汁《つゆ》を含み、雛鳥《ひなどり》が金色に光っておりました。そして一同かつ食い、かつ飲み、かつ興じ、弾き手たちの老練な指の下で、楽器類の歌うのを聞きながら、心と耳を喜ばせたのでございました。
一同が終わると、シンドバードは、ひっそりとした会食者たちの真中で、次のような言葉で話しました。
[#ここから3字下げ]
船乗りシンドバードの物語の第二話
そしてこれは第二の航海である
[#ここで字下げ終わり]
私は実際このうえなく味わい尽きぬ生活を送っていると、その時、日々のうちのある日のこと、ふといろいろの人々の住む国々への旅の思いが、心に浮かんだ。そして私の魂は、歩きまわって各地の陸地と島々を眺めて楽しみ、見知らぬことどもを見物しに出かけたい欲望を、せつに感じたのでありました。
私は断乎としてこの計画を決心し、すぐに実行の用意をした。そこで市場《スーク》に出向き、大枚の金を投じて、心当りの商売に向いた商品を買いこんだ。それらをしっかりと荷造りして、岸に運ぶと、やがて間もなく、上等な帆を備え、大勢の水夫を使い、あらゆる種類の機械設備全体を堂々と整えた、新造の立派な船が見つかった。見るからにたのもしく、そこですぐに、ほかのいろいろの顔見知りの商人たちがしているように、私も自分の荷をその船に運びこんだ。知合いの商人たちと一緒に航海するのは、私もいやではなかった。
われわれは即日出帆したが、まことに快い航海であった。幾日も幾夜も、島から島へ、海から海へと旅し、寄港地ごとに、われわれはその地の商人や、名士や、売り手や、買い手のところに出向いて、売り、買い、有利な物々交換をした。こうして航海をつづけているうちに、天命に導かれて、あるたいそう美しい島に行き着いた。大木が繁って、果物が豊かで、花に富み、鳥の歌が住み、清らかな水が流れているが、しかし家と人は、一切影も形もない島であった。
船長はわれわれの望みに従って、何時間かそこにとどまることにしてくれ、陸の近くに錨を投じた。われわれはすぐに上陸し、小鳥らの飛び交う木蔭の草原に、よい空気を吸いに行った。私はいくらかの糧食を携えて、繁った枝で日蔭になっている、澄んだ水の泉のほとりに坐りにゆき、軽い食事をしたため、その甘露《かんろ》の水をじかに飲んで、快味を満喫した。そこにもってきて、ひそやかな微風が軽やかに節《ふし》を奏でて、休息に誘っていた。そこで、私は緑草の上に横になって、爽やかな馨《かぐ》わしい空気のさなかに、つい寝入ってしまった。
目が覚めてみると、船客はもう一人も姿が見えず、船は私がいないのに誰一人気づかずに、出てしまっていた。果して前後左右、どこを見回しても空しく、全島はただ自分一人きりで、ほかに誰も見当らない。海上遥かに、帆が遠ざかってゆき、間もなく、次第に見えなくなってしまった。
そこで私は、類のない、それ以上増しようのない茫然自失におちいった。苦しみと悲しみで、私は胆嚢《たんのう》が、いまにも肝臓のなかで破裂しそうになるのを感じた。なぜって、自分の衣類も財産も全部船に残してきてしまった私が、この無人島で果していかなることになるやら。この見知らぬ僻地で、更にどのような災難がわが身に降りかかることやら。この情けない思いに、私は叫んだ、「船乗りシンドバードよ、お前の一切の希望は絶えた。最初の折は、幸いな天命に恵まれて起った成行のおかげで、うまく切り抜けられたにしろ、いつでも同じようにゆくものとは思うまいぞ。諺《ことわざ》にも言うからな、冷水壺を投げれば二度目には壊れる[#「冷水壺を投げれば二度目には壊れる」に傍点]、とな。」
そう言って、私は泣き、呻き、次には恐ろしい喚き声をあげはじめたが、遂には絶望が心中に牢乎《ろうこ》たるものとなった。そこで両手でわれとわが頭を打って、またも叫んだ、「何の必要あってまた旅になぞ出たのだ、馬鹿者め、バグダードでお前は歓楽のうちに暮していたものを。結構な御馳走、結構な飲料、結構な着物がありはしなかったか。お前の幸福に何が不足だった。お前の最初の航海は何の実も結ばなかったというのか。」そこで私は早くも自分の死を泣き悲しんで、顔を地にぶつけながら言った、「われわれはアッラーに属し、アッラーのほうに帰らなければならぬのだ。」その日私はもう少しで、気が違いそうだった。
けれどもいよいよ最後には、一切の後悔も詮なく、今さら悔いても後の祭だとよくわかったので、自分の天命にあきらめることにした。私はすっくと立ち上がって、しばらくあてどもなくさまよい歩いてから、何か野獣とか未知の敵とかに出くわしはしないかと心配になって、そこで一本の木のてっぺんによじ登って、更に注意をこめて、右や左を見回してみた。けれども、天と地と海と木々と鳥と砂と岩以外には、ほかに何物も見分けえなかった。さりながら、いっそう注意をこらして、地平線の一点をよく見ると、何か途方もなく大きな、白い幻が見えるような気がした。そこで好奇心にひかれて、木から下りたが、しかし怖さに引きとめられて、ひどくゆっくりと用心に用心を重ねて、おっかなびっくり、そちらのほうに向かった。いよいよその白いものから、もう僅かの距離のところに着くと、それは土台が広く非常な高さの、目もくらむほど白い、広大な円蓋《ドーム》なことを発見した。私は更に近寄って、そのぐるりを廻ってみたが、いくら探してみても、入口の門が見つからない。そこで上に登ってみようとしたが、どうにもつるつるですべっこくて、よじ登る工夫も、身軽さも、見こみもないというわけだ。そこであきらめて、それを測ってみることにした。砂の上に第一歩の足跡を記《しる》して、歩数を数えながら、もう一度ぐるりと廻った。そうすると、その正確な円さは百五十歩、それより多くとも少なくないことがわかった。
それでもなお、一体どうしたらこの円蓋《ドーム》に、どこか入口か出口が見つかるかと思案していると、そのとき突然太陽が隠れて、昼間は真っ暗な夜と変じるのに気づいた。最初は、これは大きな雲が、太陽の上を通るのだろうと思った、まあ真夏に、そんなことはありえないとはいうものの。そこで自分を驚かす雲を見届けようとして、頭をあげてみると、一羽のおそろしく大きな翼の鳥が、太陽の目の前を飛んで、こうして太陽をそっくり隠して、島の上に暗闇を拡げているのを見たのであった。
そこで私の驚きは極点に達したが、その時、若いころ旅行者や水夫から聞いた、「ロク」といって、ごく遠方の島にいる鳥で、象を持ち上げることができるという、途方もなく大きな鳥のことを思い出した。そこで、今自分の見ているやつは、きっとそのロクに相違なく、今自分が麓にいるこの白い円蓋《ドーム》は、そのロクの卵のなかのひとつに相違ないと、こう推定した。けれどもそう思うまもなく、その鳥は卵の上に舞いおりて、卵を抱くみたいにその上に棲《とま》った。その途方もなく大きな両の翼を、卵の上に拡げ、両足を卵の両側の地上に置き、そのまま上で眠ってしまった。永遠に眠りたまわざる御方は、祝福されてあれ。
その時、私は地上に腹ばいになってへいつくばっていたが、ちょうど、その老樹の幹よりも太く見える片足の真下になった。私はすぐに飛び起きて、自分のターバンの布をほどき……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十六夜になると[#「けれども第二百九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……自分のターバンの布をほどき、それを二つに合わせて、太い紐になるように捩《よ》り合わせ、それをしっかりと胴に巻きつけ、最後にその両端を、鳥の趾《ゆび》の一本のまわりに、どんなにしても解けないように、固い結び玉を作って、結びつけた。というのは、私は魂の中で独りごちたのであった、「この怪鳥はきっと結局は飛び立つだろう。そうすれば、おれをこの僻地から連れ出して、どこか人間に会える場所に運んで行ってくれよう。いずれにせよ、おれの置かれる場所は、どうあろうとも、こんなおれ一人きりしかいない、無人島よりはましだろう。」
こうした次第でした。そして私がいろいろ動きまわるにもかかわらず、鳥は私のいることなんぞ、まるで私がとるに足らぬ蠅か、はいずりまわっている目立たぬ蟻《あり》というほどにも、てんで気がつかないのであった。
私はもしや自分の眠っているあいだに、鳥が飛び立って自分をさらってゆきはしないかと心配で、目が閉じられず、ひと晩じゅうずっとこうしていた。しかし鳥は夜が明けるまで、身動きもしなかった。その時ようやく、身を動かして、卵の上から起き上がり、ひと声恐ろしい叫び声をあげて、私を運びながら舞い上がった。ずんずん上り、高く高く上って、私はもう空の円天井に届くような気がした。それからやにわに、もはやわが身の重さが自分に感じられないほどの、えらい速さで舞い降りて、私と一緒に地上に下った。鳥はけわしい場所に棲《とま》ったが、その時私はそれ以上待たずに、いそいでターバンをほどきにかかった。紐を解ききれないうちに、またもや空にさらわれてゆきはしないかと、狂気のように怖れたが、幸いことなく離れることができ、そこで身体をゆすぶり、着物をたくしあげてから、慌ててもう鳥の届かないところまで逃げ出すと、やがて鳥は再び空中に飛び立つのが見えた。今度は何か黒い大きなものを、爪に掴んでいたが、それは、ぞっとするような大きさと形の、大蛇にほかならなかった。やがて鳥は海のほうに向かって飛び去り、姿を消した。
私は、わが身に起ったことに極度に動顛《どうてん》しながら、あたりを見廻したが、すると、恐ろしさにその場に釘づけになってしまった。実際、私はひどく高い山々に四方を囲まれた、広い深い谷間に運ばれていて、その山々の高いことといったら、目で測ろうとしてあおむいたら、ターバンが後ろの地上に転がり落ちたほどであった。それに、峻嶮を極めていて、登ることなぞ思いもよらず、その方面で何を試みたとて、とうてい無益と考えられた。
こうとわかると、私の嘆きと絶望は果て知れず、私は叫んだ、「ああ、さっきの無人島にじっとしているほうが、おれにとってどのくらいましだったか。食う物も飲む物も何もない、この荒れ果てて乾上がった淋しい場所よりは、あの島のほうが千倍もよかったのに。あそこなら、とにかく、果物は木々に満ち、甘露の泉がいくらもあった。だがここときては、飢えと渇きに死ぬばかりの、おっかない裸の岩があるきりだ。おお、えらい災難だ。全能者アッラーのほかには救いも権力もない。おれは一難をのがれれば、そのつど、もっと悪い、もっと抜きさしならぬ、一難に陥るだけのことだ。」
それでもとにかく、私は自分のいる場所から立ち上がって、この谷を少しく調べてみようと思って歩いてみると、この谷は全部、金剛石を含む岩石でできているのを認めた。身の回り、至る所、地面は山からはがれ落ちた大小の金剛石で埋まって、ある場所には、人間の丈ほどうず高く積み重なっていた。
これらを眺めて少しばかり気を惹かれかけていると、その時、これまで経験したどんな恐ろしいことにもまさる、恐るべき光景が、私をじっと立ち竦ませてしまった。金剛石の岩石の真中には、番人共が歩き廻っているのが見えた。その番人共というのは、数知れぬ黒い蛇のことで、棕櫚《しゆろ》の木よりも太く大きく、一匹一匹が、きっと水牛でも象でも呑み込むことのできそうな代物だった。その時は、やつらは自分の窟《あな》に戻りはじめていた。というのは、日中は大敵のロクにさらわれないように隠れていて、夜だけ歩き廻るのであった。
そこで私は、用心に用心を重ねて、そこから遠ざかろうと試みた、足の踏み場所をよく見きわめ、魂の中でこう考えながら、「天運の寛大につけこむ気なぞ起したものだから、おおシンドバード、飽くを知らぬ、いつも空虚《うつろ》な目を持った男よ、お前が取り換え得《どく》をするものは、すなわちこれだ。」そして、あらゆる積もる恐怖に悩まされつつ、ときどき、いちばん安全そうな場所で休みながら、あてどもなく、金剛石の谷を歩きまわり、こうして夜になるまでつづけた。
この間ずっと、私は胃の腑をすっかり忘れてしまって、ただこの窮地を脱し、怪物の大蛇から自分の魂を救うことしか考えなかった。こうして最後に、ちょうど自分が鳥に下ろされた場所のすぐ近くに、入口はごく狭いが、十分もぐりこめるぐらいの洞穴を発見した。そこで進み寄って洞穴にはいり、岩をそこまでうまく転がしてきて、それで入口をふさぐ配慮をした。こうして安心して、私は内に進み、朝までひと眠りする一番恰好の場所を、探しはじめた。そして私は考えた、「明日、夜が明けたらすぐ外に出て、天運がおれに取って置いてくれるものを見るとしよう。」
そこで私は横になろうとすると、その時、はじめ自分が黒い大きな岩と思ったものは、実はとぐろを巻いて卵を抱いている、恐ろしい大蛇だったということに気がついた。そこで、私の肉体はこの光景のあらゆる恐ろしさを感じて、肌は枯れ葉のように縮み上がって、全身にわたって顫えた。私は気を失って地上に倒れ、朝までそのままでいた。
さて朝になってみると、自分がまだ食われていないのを感じたので、そこで思い切って入口まではいずってゆき、その恐ろしい岩を押しやって、表に滑り出たが、外に出たときは、まるで酔ったようになって、自分の脚の上に身を支えることができなかった。それほど、寝食をとらないのとひっきりなしの恐怖とで、もう弱りはてていた。
私はあたりを見廻すと、そこにいきなり、鼻先二、三歩のところに、大きな四つ切りにした肉の塊りが落ちて来て、地響きを立てて、地面にへばりついたのであった。最初は、仰天して飛び上がったが、次に、こうして自分を打ち殺そうとするやつは誰か知らんと、目をあげた。けれども誰も見えない。その時私は、昔旅する商人と金剛石の山を探検する人たちの口から聞いた話を、思い出した。何でも金剛石を探す人々は、こんな近寄れない谷間に降りることはできないので、奇妙な方法を用いて、その宝石を手に入れるというのだ。彼らは羊を殺し、それを大きく四つ切りにして、谷底に投げこむと、その肉塊は金剛石の曽った先端《さき》の上に落ちかかって、金剛石が深く肉塊に刺さりこむ。するとロクとか大きな鷲なぞが、その餌食に襲いかかって、それを谷からさらい、岩のてっぺんの巣に運んで、雛の食い物にしようとする。そのとき、金剛石を探す連中が、大騒ぎをして喚声をあげて、その鳥に飛びかかってゆくと、鳥も獲物を放して是非なく飛び去る。そこで肉塊を探って、くっついている金剛石を取るということであった。
これはまだ自分の生命を救い、まるで自分の墓場そっくりの、この谷から脱出を試みる余地があるぞという考えが、浮かんできた。そこで私は立ち上がって、一番大きく一番見事なものを選びながら、多量の金剛石を集めに取りかかった。それをば、身体じゅう至る所に身につけた。衣嚢《かくし》に詰めこみ、着物と肌着のあいだに忍ばせ、ターバンと下穿きのなかに満たし、着物の裏にまで入れた。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十七夜になると[#「けれども第二百九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そうしてから、前と同じように、ターバンの布をほどいて、自分の胴に巻きつけ、そして羊の肉の塊りのところに行って、その下にはいり、ターバンの両端でもって、それを胸の上にしっかりと結《ゆわ》きつけた。
こういう姿勢をしてすでにしばらくたったと思うと、そのとき突然私は、一羽のロクの怖ろしい爪につかまれて、羊の肉の塊りもろとも、一本の羽毛のように、空中に持ち上げられるのを感じた。そしてまたたくまに、谷を離れ、山の頂上の、ロクの巣にゆき、ロクはすぐさま肉と私自身の肉体をずたずたにして、ロクの雛《ひよこ》どもに食わせようとした。けれどもにわかに、叫び声があがって近づいてきて、鳥をおどかしたので、鳥は私をそこに放り出して、飛び立たざるをえなかった。そこで私は紐を解いて、衣服と顔にべとべと血の痕をつけた姿で、すっくと立ち上がった。
すると私のいる場所のほうに、一人の商人が近づいてくるのが見えたが、私の姿を見て、ひどくがっかりもし、またひどく驚きもした様子であった。けれども、私がなんの危害も加えようとせず、それに私が身動きしないのを見ると、彼は肉塊の上に屈《かが》んで、それを探ったが、求める金剛石を見つけるに至らなかった。すると彼は大きな両腕を天にあげて、嘆いて言った、「おお当てはずれだ、えらい損だ。アッラーのほかには頼みはない。おれはアッラーのうちに逃がれて、悪事を働く呪われた悪魔を避ける。」そして非常な失望の印《しるし》をしながら、両の手のひらを打ち合わせた。
これを見て、私は近づいて、彼に平安を祈った。けれども彼のほうでは、私に挨拶《サラーム》を返さずに、ひどく怒って私の顔をじろじろ見て、叫んだ、「きさまは誰だ。どういう権利があって、ここに来ておれの財産を盗むのか。」私は答えた、「心配なさらずともいい、おお商人よ。私はけっして盗人ではなく、あなたの財産は少しも減りはしなかったのだから。私は歴とした人間で、けっして悪事を働く魔物なぞじゃない、あなたはどうもそう思っているらしいが。それどころか、私は紳士中の一人の紳士で、不思議極まるいろいろな冒険を冒す前には、昔は、商人を業としていた者だ。私がこの場にきた動機《いわれ》といえば、まことに驚くべき話だが、それは今すぐお話ししよう。けれどもその前に、私はあなたに二つ三つ金剛石を進呈して、自分の好意をはっきりお目にかけたいと思う。これは、未だかつて人間の目のうかがったことのないこの谷底で、私が自分自身拾ってきたものです。」
そして私はすぐに帯のあいだから、二つ三つ見事な金剛石の見本を取り出して、その男に渡して言った、「これこそあなたが一生の間、とても望まなかったような大儲けでしょう。」すると、羊の肉塊の主《ぬし》は想像のつかないほど喜んで、厚く礼を述べ、いくたびも真心を披瀝してから、私に言った、「おお御主人様、祝福はあなた様のうちにあります。とにかくこれらの金剛石のたったひとつがあれば、年取った先の末々まで、豊かに暮すに十分です。なにしろ、一生の間、私はこのようなものは、諸国の王や帝王《スルターン》の宮中でも、見たことがありませんからね。」そして今一度礼を述べて、最後にその辺にいた他の商人たちを呼ぶと、彼らは私に平安と歓迎を祈りながら、私のまわりに群がり寄ってきた。そこで私は自分の不思議な冒険を、一部始終一同に話して聞かせた。しかしそれを繰り返したところで無益なことです。
すると商人たちは、驚きから返ると、私の救い出されたことを非常に祝して、言った、「アッラーにかけて、あなたの天命は、かつてあなた以前には、誰一人戻ったことのない奈落から、あなたを引き出したというものです。」次に、私が疲れと飢えと渇きで、弱りきっているのを見たものだから、早速たっぷりと飲食物を与えて、私を天幕《テント》の下に連れてゆき、丸一日と一夜にわたった私の眠りを、ずっと見守ってくれた。
翌朝になると、商人たちは私を一緒に連れて行ってくれたが、一方、私は次第に、これらの前例のない危険を逃れた喜びを、しみじみと感じはじめた。われわれ一同は、ややしばらくの旅の末、たいそう気持のよい島に着いた。そこには、鬱蒼とした広々とした木蔭の、素晴らしい大木がたくさん生えていて、その一本一本の木蔭に、楽に百人の人がはいれるくらいであった。樟脳という、あのきつい快い匂いのする白い物質は、まさにこの木から取り出すのです。その目的から、まずその木の頂上に穴をあけて、最初はゴムの滴《しずく》状をして流れ出る液、それはつまり木の蜜にほかならないが、それを器《うつわ》に受けるのです。
また私が「カルカダーン(7)」と言われる恐ろしい動物を見たのも、やはりこの島のことです。それはちょうどわが国の牧場で、牝牛や水牛が草を食っているのとそっくりに、そこで草を食っています。この獣《けもの》の図体は、駱駝のそれよりも大きく、鼻の先端には、十腕尺もの長さの角がついていて、その角の上には、人間の顔が彫り込まれている。この角はひどく頑丈で、カルカダーンはこれを揮って、象と闘って勝ち、象を串刺しにして、地面から持ち上げて、遂に死に至らせる。すると、死んだ象の油がカルカダーンの両眼に流れ入って、目がくらみ、その場にどうと倒れる。そのとき空高くから、恐ろしいロクが、彼ら二匹の上に襲いかかって、そのまま二匹をさらって、自分の巣に運び、雛《ひよこ》に食わせるというわけだ。
またこの島で、いろいろな種類の水牛も見ましたっけ。
われわれはしばらくここに滞在して、よい空気を吸うことにした。それで、私は自分の金剛石を金銀に換える暇を得て、それは一隻の船艙に積みきれないほどもあった。それから、われわれはここを出発して、島から島へ、国から国へ、町から町へと渡り、私はそのつど創造主の美しい御業《みわざ》を讃嘆し、そこここでいくらか売買交換をしながら、こうして、遂に祝福された国バスラに着き、そこから更に、平安の住居バグダードまで、さかのぼったのであった。
そこで私は、莫大の金額とディナール金貨と、売る気になれなかった一番見事な数々の金剛石を携えて、いそぎ自分の町に走って、自宅にはいった。だから、親戚知友に囲まれて帰宅の悦びを吐露してのち、私は一人もらさず、自分の身辺に惜しみなく金品をばらまいて、気持よく振舞わずにはいなかった。
それから、私はうまい御馳走を食い、美味《おい》しいものを飲み、豪勢な服を着、また気持のよい人々との交際もほとんど避けずに、楽しく世を渡った。そこで、毎日毎日大勢の知名の士が訪れて、私の冒険を聞き伝えて駕を枉《ま》げ、私に旅の話をし、遠い国々の様子を知らせてくれと頼むのであった。私もまたその人たちに、そうしたすべてについて教えることに、心から満足を覚えた。そのためみんな、こんな恐ろしい危難を逃れたことを私に祝し、私の話に驚嘆のかぎり驚嘆しながら、立ち去るのであった。私の第二の航海は、このようにして終わったのでありました。
けれども明日は、おおわが友御一同よ……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十八夜になると[#「けれども第二百九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……もしアッラーの思し召しあらば、私の第三の航海の経過を、皆様にお話し申しましょう。これは確かに、最初の両度のものよりも、はるかに茫然たらしめるものがございます。
それからシンドバードは口をつぐみました。すると奴隷たちは、今聞いたところに驚ききっているお客一同に、飲み食いの給仕をいたしました。次に海のシンドバードは、陸のシンドバードに金貨百枚を取らせますと、陸のシンドバードは、厚くお礼を言ってこれを受け、主《あるじ》の頭上にアッラーの祝福を祈って立ち去り、今日見たところと聞いたところに驚嘆しながら、わが家に着きました。
翌朝、荷かつぎのシンドバードは起き上がり、朝の礼拝を祈ってから、請わるるままに、金持のシンドバードのところに戻りました。するとねんごろに迎えられ、鄭重にもてなされ、その日の饗応と祝宴に加わるよう誘いを受け、酒宴は昼間じゅうつづきました。それがすむと、船乗りシンドバードは、真顔になって耳をこらす会食者たちの真中で、次のようなふうに、自分の話をはじめました。
[#ここから3字下げ]
船乗りシンドバードの物語の第三話
そしてこれは第三の航海である
[#ここで字下げ終わり]
されば、おおわが友御一同よ、――さあれアッラーは被造物《つくられしもの》よりもよく事物を知りたもう、――第二の航海より戻って以来、富裕と歓びのただなかに、快い生活を送っているうちに、私は遂には、遭遇した苦難と冒した危難の記憶をば、ことごとく打ち忘れ、バグダードの生活の単調な無為のうちに、退屈してしまったのでありました。そこで私の魂はしきりに変化を欲し、旅のことどもを見るを欲しました。そして私自身も、商売と儲けと利益を思う心に、再び誘われました。ところで、われわれの不幸の原因は、常に野心であります。私はやがて最も恐ろしい仕方で、それを体験しなければならなかったのでありました。
そこで、私は直ちに計画を実行に移し、この国の立派な商品をいろいろ携えてから、バグダードを立って、バスラに向った。その地で、すでに船客と商人を満載している大きな船を見つけたが、それらの人々はいずれも立派な人たちで、正直で、よい心を持ち、良心に満ちて、他人のために尽して、お互い同士、このうえなく円満に暮してゆくことのできる人たちであった。そこで私も躊躇なく、その人たちと一緒にその船に乗り込んだ。乗るとすぐ、われわれはわれらの上とわれらの渡海の上にアッラーの祝福を得て、出帆した。
われわれの航海は、果して幸先よく始まった。上陸するさきざきのあらゆる場所で、われわれはいい商売をし、一方では歩き廻っては、絶えず新しい事柄を見て見聞を拡めていった。まことにわれらの幸福に欠けるものなく、一同のびやかと上機嫌の極みにあった。
日々のうちのある日、回教徒の国々から遥か遠い、海のただなかにいたとき、われわれは突然、船長が長いこと水平線をじっと探ったあげく、われとわが顔を激しく打ち、髯の毛をむしり、自分の着物を引き裂き、ターバンを床に投げつけるのを見た。次に船長は嘆き、呻き、絶望の叫びをあげはじめるのであった。
これを見ると、われわれはみな船長を取り囲んで、これに言った、「どうしたのです、おお船長よ。」船長は答えた、「されば、おお平安のお客様方、実は、逆風がわれわれを負かして、進路からそらしてしまい、この不吉な海へと、われわれを投じてしまったのです。しかも、われわれの不運に最後のとどめを刺すために、天運は皆さんの前に見える、あれあの島に、われわれを近づけているが、あそこに着いたら最後、かつて一人も生命《いのち》を全うして脱がれ出た者はないのです。私は心の奥底でよくわかります、われわれはみんな頼むすべなく、もう駄目です。」
船長がこうした説明をまだ終わりもしないうちに、われわれは自分の船が、蝗《いなご》の一軍よりも数知れぬ、毛むくじゃらな生き物の大群に、取り囲まれるのを見たが、一方また島の岸辺には、想像もつかぬほど多数のほかのやつらが、われわれをその場に凍らせてしまうような叫び声をあげていた。そしてわれわれのほうでは、やつらにいっせいに飛びかかってこられて、数に物を言わせて、ひとり残らず殺されてはたいへんと思って、その奇妙な生き物のどいつにも、手荒なまねをしたり、手出しをしたり、また追っ払うことさえ、ほとんどしかねた。なにせ、多数は常に勇気に打ち勝つことは確実だから。そこで、八方からやつらが襲ってきて、われわれの持ち物全部を掠奪しはじめたけれども、われわれはただ手を拱《こまね》いているばかりであった。やつらは実に醜悪だった。この年になるまで、およそ私の見たどんな醜悪なものにもまして、醜悪ですらありました。毛だらけ毛むくじゃらで、まっ黒い顔に黄色い目がついていた。丈《せい》はごく低く、一メートルあるかなし、その叫び声ときたら、そういったことで考え出せるどんなものよりも、凄《すさま》じい。その言葉というのも、やつらがいくらわれわれに口をきき、腮《あご》をがたがた鳴らしながら罵っても、埓《らち》があかず、われわれはせいぜい聞きとろうとしてみたが、ほとんど何がなんだかわからない。そのため、まもなくやつらは最悪の計画を実行することとなった。やつらはマストによじのぼり、帆を拡げ、綱具を全部歯で食い切り、最後に舵を占領した。すると船は風に押されて、海岸に向い、そこに乗り上げた。と、やつらはわれわれを残らずつかまえて、次々に船から下ろし、われわれを浜辺に放り出したまま、もうかまわずに、自分たちはまた船に上って、船をうまく沖合いに押し出し、一同船と一緒に海上に消えてしまった。
そこで、われわれはこの上なく途方に暮れ、こうして浜辺で海を眺めていたって始まらないとて、島のなかに進んで行くと、そのうち数本の果樹と水の流れを見つけた。それでわれわれは、もはや誰しもとうてい逃がれられぬと思われた死を、まあできるだけ長く延ばそうと、少しくそこに休んで、元気をつけることができた。
われわれがこうした状態でいると、ふと木々のあいだに、ずっと打ち棄てられてあるといったふうの、たいそう大きな建物が見えるような気がした。われわれはそれに近寄ってみたい気持に誘われて、そこに着くと、それは御殿であるとわかった……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二百九十九夜になると[#「けれども第二百九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……われわれはそれが御殿であるとわかった。四方に堅固な城壁をめぐらした、四角形の、高々とそびえ立った御殿で、二枚扉の大きな黒檀の門がついていた。ちょうどその門が開いていて、そこには誰も門番がいなかったので、われわれは門を越えて、そのまま中庭ほども広い、大広間にはいった。その広間には、家具といっては、馬鹿でかい炊事道具と、途方もなく長い鉄串《かなぐし》があるきりで、床《ゆか》の敷物といえば、あるものはもはや白骨となり、あるものはまだなまなましい、うず高い骸骨であった。それで室内には、われわれの鼻の穴をまったく詰まらせるような臭気が漂っていた。けれども、とにかくわれわれは疲れと恐怖にまいりきっていたので、そのまま倒れて長々と伸び、熟睡してしまった。
日がすでに没したころ、雷のような音がわれわれを飛び上がらせ、一気に目を覚まさせた。するとわれわれの前には、黒ん坊の顔をして、棕櫚の木ほども高く、さっきのわれわれの敵を全部寄せ集めたよりも、見た目に恐ろしい生き物が、天井から下りてくるのが見えた。目は燃え上がる二つの燃え木のように赤く、前歯は豚の牙のように長く突き出て、大きな口は井戸穴ほど広く、両の唇は胸までたれ、耳は象の耳のようにぴくぴく動いて肩を蔽い、爪は獅子の爪のように鉤形になっていた。
これを見ると、われわれは最初は、まず恐ろしさにがたがた顫えたが、次には、死人のように硬直してしまった。けれども、やつは壁に寄せかけた高い椅子に腰を下ろしに来て、そこから、黙ってわれわれを一人ずつ、じろじろと調べはじめた。それがすむと、われわれのほうに進み寄って、ほかの全部の商人をさしおいて、まっすぐ私のところに来て、猿臂《えんぴ》を延ばし、首筋の皮を掴んで、私をつまみ上げた。そして屠殺者が羊をなでてみるように、私を触ってみながら、私をあっちこっち引っくりかえしてみた。けれども、私は恐ろしさのあまりぐにゃぐにゃになっていたし、旅の疲れと心痛で、皮膚の油気が抜けてしまっていたので、きっとこいつは駄目だと思ったにちがいない。そこで私を放して、床《ゆか》にごろりと放り出し、私のすぐそばの男をつまみ上げて、私をいじくってみたようにいじくってみたが、それも放り出して、次の男を捉えた。こうして全部の商人を一人一人取り上げてみて、最後に船長に至った。
ところで、この船長は肉づきのいい脂ぎった男で、船の全部の人たちのなかで、一番丈夫で、頑健な男だった。そこで、恐ろしい巨人の選択は、ためらわずこの船長に落ち着いた。大男は、屠殺者が仔羊をつかまえるように、船長を指の間にはさんで、床に叩きつけ、首に片足をのせて、いっぺんで首の骨を折ってしまった。それから例の途方もない大鉄串を一本取り上げて、それを口から刺し込んで、尻まで突き通した。そして、部屋にある土の竈《へつつい》に薪をぼうぼう燃やして、焔の真中に、串刺しにした船長を入れ、すっかり焼けあがるまで、ゆっくりとぐるぐる回しはじめた。焼けあがると、火から出して、まるでひよこをほぐすみたいに、爪を使って、まず船長をばらばらにほぐした。そうしておいて、またたくまに、全部呑み込んでしまった。それがすむと、骨をしゃぶり、髄をすすって、殻をば、部屋にうず高く積み重なっている骨の真中に、投げ棄てた。
この食事を終えると、巨人はもうわれわれなど放り出して、腹ごなしに腰掛の上に横になり、じきに鼾《いびき》をかいて眠ってしまったが、その鼾は、喉首を斬られた水牛か、殴られて悲鳴をあげる驢馬の声そっくりであった。こうして、やつは朝まで眠っていた。朝になると起き上がって、恐怖に竦むわれわれを残して、来たときのように立ち去るのを見た。
いよいよやつが確かに姿を消したとわかると、われわれはひと晩じゅう震えあがって黙っていた沈黙を破って、やっとのことでお互いに自分の考えを語り合い、自分たちを待つ運命を思って、すすり泣き、呻吟《しんぎん》した。
そしてわれわれは、悲しく言い合った、「熾火《おきび》の上で炙られるくらいなら、なぜいっそ海で溺れ死んでしまわなかったのだろうか。アッラーにかけて、これは全くたまらない死に方だ。だが何としよう。アッラーの望みたもうところは行なわれなければならぬ。全能のアッラーのほかには頼りはない。」
そこでわれわれはこの建物を出て、終日島じゅうをさまよい歩いて、どこか身を寄せるような隠れ場所を探しまわったが、見当らない。というのは、この島は平地で、洞穴もなければ、およそ捜査の目を逃れさせてくれるようなものは、何ひとつなかったのだ。そこで日が暮れかかると、われわれは館《やかた》に帰るほうが、まだしも賢明だと考えた。
だがわれわれがそこに着いたと思うと、恐ろしい黒ん坊が、雷のような音を立てて、姿を現わした。そして私の連れの商人をひとりひとり、触ったり、いじりまわしたりしたあげく、その中の一人を取っつかまえて、いそいで串に刺し、炙り、腹の中に呑み込んでしまった。それから腰掛に横になって、朝まで、獣《けもの》のように鼾をかいた。朝になると目を覚まし、ものすごくうなって伸びをしてから、もうまるでわれわれなぞ目にはいらぬみたいに放り出して、行ってしまった。
やつが出発してしまうと、われわれはそれまで、自分たちの情けない立場について、たっぷり考える時間があったわけだから、みんないっせいに口をそろえて、叫んだものだ、「炙られて呑みこまれて、身を終えるくらいなら、いっそみんなで海に身を投げて、溺れ死のうではないか。なんといっても、あんまりひどい死に方だから。」そしていよいよこの計画を実行しようとしたとき、なかの一人が立ち上がって、言った、「まあ私の言うことを聞いてください、仲間の衆よ。あの黒ん坊がわれわれを皆殺しにする前に、あいつを殺してしまうほうがいっそましだとは、皆さんお考えにはならぬかな。」そこで私も乗り出して、指をあげて、言った、「まあ聞いてください、仲間の衆よ。皆さんがいよいよあの黒ん坊を殺そうと本気で決心した場合は、まず最初に、浜辺にいっぱいある材木を利用して、あれで筏を作り、あの回教徒を食らう野蛮な生き物を、創造された世界から片づけた暁には、それに乗って、この呪われた島を逃げ出すことができるように、いたさずばなりますまい。さすれば、われわれはどこぞの島に辿り着いて、そのうちに、故国に帰れるような船を、われわれによこしてくれる天運の慈《いつく》しみを、待つことができるやもしれぬ。いずれにせよ、万一筏が難破して、一同溺れ死ぬにせよ、とにかく焼肉にされることは免れるし、われと自ら自害するなどという、悪行を犯さずにすむわけだ。われわれの死は殉難であって、『報賞』の日には、数のうちにはいるでありましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百夜になると[#「けれども第三百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると全部の商人は叫んだ、「アッラーにかけて、それこそ妙案で、筋道の通った振舞だ。」
すぐにわれわれは浜に出かけて、みんなで件《くだん》の筏を組み、その上に、食べられる草などいくらか積みこむ手配をした。それから一同、館にもどって、顫えながら黒ん坊の来るのを待った。
やつは雷が落ちるみたいに、やってきた。何かばかでかい狂犬がはいってくるのを見るような思いがした。われわれは今一度、触ったりいじりまわしたりされたあげく、自分たちの仲間の一人が、脂肪と肥り肉《じし》のために選び出されて、串刺しにして炙られるのを、うんともすんとも言わずに、見ている決心をしなければならなかった。けれどもいよいよ恐ろしい獣《けだもの》が寝入って、雷のような鼾をかきだすと、われわれはやつの眠りに乗じて、もう永久に害を加えることのできないようにしてやろうと、思い立った。
そのためには、われわれは鉄の大串のうち二本を持ち出して、火にかけて、白熱するまで熱した。次に冷たい端のほうを、両手でしっかりと握ったが、ひどく重たいので、一本を持つのにいくたりもかかった次第であった。そこで、われわれはそっと忍び寄って、みんなでどっと二本の鉄串を、眠っている恐ろしい黒ん坊の両方の目に、一気に突っ込み、これっきり盲《めくら》になれとばかり、満身の力をこめて凭れかかった。
やつはおそらく非常な痛みを感じたにちがいない。というのは、やつのあげた叫び声は凄じく、われわれはとたんに、ずっと離れた地上に転がったほどであった。やつは盲めっぽうに飛び上がり、そして虚空に両手を延ばして、吠えながら、八方を駆け回りながら、われわれの誰かを引っ掴まえようとした。けれどもこちらは身をかわして、右に左に、四つばいに身を伏せる隙があったので、そのつどいたずらに空《くう》をつかむばかりであった。そこで駄目だと見て、とうとう手探りで門のほうに向かい、恐ろしい叫び声をあげながら、出て行ってしまった。
そこでわれわれは、盲になった巨人はそのうち、苦しみ死にをしてしまうだろうと思いこんで、ほっと安心しはじめ、ゆるゆると海のほうに向かった。われわれは更に少し筏に手を加えて乗りこみ、浜辺から筏を離して、もういよいよ漕《こ》いで遠ざかろうとした間際に、そのとき、例の恐ろしい盲の巨人が、やつよりかもっと恐ろしく、もっとぞっとするような牝の巨人(8)に案内されて、われわれを襲ってくるのを見た。浜辺に着くと、二人はわれわれが遠ざかるのを見て、凄じい叫び声をあげ、それからてんでに岩の塊りを掴んで、筏目がけて投げつけ、われわれに岩石を浴びせかけはじめた。こうしてうまくわれわれにあてて、ただ二人を残して、私の仲間全部を溺死させてしまった。われわれ三人は、やっとのことで、降りかかる岩石の届かぬところまで、遠のくことができた。
三人はやがて海の真中に出ると、風に捉えられて、とある島のほうへと吹き流されたが、それは、われわれが危うく串焼きにされそうになった島から、二日かかるところであった。そこには、幸い果物があったので、われわれは倒れずにすんだ。それから、もうだいぶ夜が更けていたので、三人で大木によじ登って、夜を過ごすことにした。
朝目が覚めたとき、われわれのびっくり仰天した目の前に出て来た最初のものは、われわれの登っていた木ほどもある、恐ろしい一頭の大蛇が、竈ほどの大口を開いて、爛々たる目をこちらに注いでいる有様であった。そして突然身をくねらしたと思うと、鎌首は木のてっぺんのわれわれの頭上に来た。そして私の二人の連れの一人をくわえて、肩まで呑み込み、次に今一度呑みおろす動作をして、そっくり呑み込んでしまった。するとすぐに、不幸な連れの男の骨が、蛇の腹のなかでぽきぽき鳴る音が聞こえ、蛇はそのまま木をおりて、恐怖と苦しみに茫然としたわれわれを残して、行ってしまった。われわれ二人は考えたことであった、「アッラーにかけて、新しい死にざまは、そのつど前のものよりやりきれない。黒ん坊の鉄串を逃れた喜びも、今は、これまで出会った全部のことよりも悪い予感に変わったわい。アッラーのほかに頼りはない。」
それでもとにかく、二人は元気を出して木からおり、いくつかの果物を摘んで食い、流れの水に渇きを癒した。そのあとで、島じゅうを歩いて、前夜よりももっと安全な隠れ場を探しまわると、最後に、恐ろしく高い木を見つけ、これならば、大丈夫われわれを守ってくれそうに思えた。そこで夜になると、その木に登って、できるだけ居心地よく身を落ち着け、うとうとしはじめたと思うと、そのとき、しゅうしゅういう音と枝の折れる音に目を覚まされ、身をひるがえして逃れる暇もあらせず、蛇は私よりも下にいた連れの男をつかまえて、ひと息で四分の三ばかり呑み込んでしまった。それから蛇は木のまわりにからまって、その男を全部呑みおろして、腹のなかで、この最後の仲間の骨をぽきぽき鳴らすのであった。そして恐怖に死んだようになった私を残して、蛇は引きあげてしまった。
私は明け方までその木の上でじっとしていて、朝になってはじめて木を下りることにした。私の最初に思いついたことは、海に行って身投げをして、次々にいっそう恐ろしい不安に満ちた惨めな人生に、いっそ見切りをつけてしまうことであった。けれども私は途中で思いとどまった。というのは、私の魂はそれを承知しなかったのだ、何せ魂は元来貴重な物ですからな。そればかりか、私の魂は私にある考えを思いつかせ、そのおかげで私は助かったのでした。
私はまず材木を探し、やがてそれが見つかると、地面に横になり、大きな板片を取り上げて、両方の足の裏に、しっかりと取りつけた。次に二枚目のを取り上げて左の脇腹に、もう一枚を右の脇腹に、四枚目を腹の上に結びつけ、そして前よりも広く長い五枚目の板をば、頭の上に取りつけた。こうして私は、どこから来ても敵の巨獣の口にはいりきらないような、板の壁に取り囲まれたわけだ。こうしてから、私は地上に横になって、そのまま、天運が自分に定めておくところを待った。
夜になると、大蛇は来ないではいなかった。私を見るとすぐに、私の上にやって来て、腹中に呑み込もうとしたが、しかし板が邪魔になった。そこで私のまわりをはいずりまわって、どこか隙を見つけて、私をつかまえようとしはじめたが、いくら骨折ってみても、またあちこちいろいろひきずりまわしても、うまくゆかない。こうしてひと晩じゅう私を悩ましつづけ、私はもう生きた心地もなく、顔の上にはずっとその臭い息が感じられた。しかしとうとう夜明けになると、蛇は私を放り出して、私にかんかんに腹を立て、このうえなく怒り猛って遠ざかった。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百一夜になると[#「けれども第三百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
いよいよ蛇がほんとうに遠ざかったことを確かめると、私は手を延ばして、身体を板に縛りつけている紐を取り去った。けれども、もうすっかり惨澹たる状態で、最初のうちは手足が利かず、何時間というもの、これはもう、手足が元のように使えるようになる見込みはないと思ったくらいであった。けれどもともかくも、最後にはどうにか立ち上がって、だんだん歩けるようになり、島じゅうを回ることができた。そして海のほうに向かって、そこに着いたと思うと、そのとき遥か沖合いに、全部の帆をあげて、大速力で走っている一艘の船が見えた。
これを見ると、私は気違いのように両腕を振って叫び出した。次にターバンの布を拡げて、木の枝に取りつけ、それを頭上に振りかざして、船から誰か私に気づいてくれるようにと、死にもの狂いで合図をした。
天運は私の骨折りが無駄でないことを望んだ。はたして、まもなく、その船は方向を転じて、こちらのほうに向かってくるのが見えた。そしてほどなく、私は船長と船員たちの手で収容された。
ひとたび船に移ると、あのとき以来私の身を包んでいた着物は、ぼろぼろになってしまっていたので、まず人々は私に着物をくれて、裸を隠させた。次に、軽い食事を供してくれ、私はずっとろくろく食べていなかったので、非常な食欲で食べた。しかし私の魂を奪うばかりのものは、とりわけ、まことに甘露というべき冷水《ひやみず》で、私はこれを腹いっぱいむさぼり飲んだ。そこで私の心は静まり、魂は落ち着き、安楽がようやく、疲れ切った身体のなかにくだってくるのを覚えた。
そこで私は、自分の両の目で死を見ておきながら、ここにふたたび生を得た次第であり、アッラーにその御慈悲を謝し、わが辛苦を熄《や》ませてくださったことを、お礼申し上げたのでした。かくして、やがて私は感動と疲労からすっかり回復し、こうした一切の災難は、何か夢の中で起ったことにすぎなかったのだと、思うくらいにまでなったのでありました。
航海は申し分なく、アッラーのお許しを得て、風はずっと順風で、われわれの寄港することになっているサラハタという島に、無事船を着かせた。船長はその湾に錨をおろさせ、商人たちに、上陸してそれぞれ商売をさせることにした。
船客たちが陸に上がると、私は売ったり換えたりする商品がないので、ただ一人船にとどまっていると、そこに船長が近寄ってきて、言った、「あなたに言いたいことがあるから、まあお聞きなさい。あなたは貧しい異国の人でもあり、生涯でどんなに難儀な目にあったかも、われわれは承わった。そこで私は、今いささかあなたのお役に立って、帰国の手助けをしてあげ、あなたが私のことを考えるような折には、懐しく思い、私の上に祝福を祈りつつ、思い出してもらいたいと思うのです。」私は答えた、「いかにも、おお船長よ、私は必ずあなたの上に祝福を祈りましょう。」船長は言った、「されば、今から数年前、われわれといっしょにひとりの旅客が乗り合わせていたが、その仁は、船の寄港したある島で、行方不明になってしまった。そしてそれ以来、その消息はとんとなく、果して死んだのやら、まだ生きているのやらも知れない。ところで、その旅客の残した商品が、今もこの船に保管してあるので、私はひとつこれをあなたに預けて、儲けのうちから手数料を天引きするという条件で、これをこの島であなたに売ってもらい、その代金を私が受け取って、バグダードに帰った節、これを身内の方々なり、またもしその仁がうまく故郷に戻っていたら、直接本人に渡すことにしたらどうかと、こう思ったのです。」私は答えた、「お言葉承わりつつしんで従わねばなりません、おお御主人よ。私に正直に稼がせてくださろうとの思し召し、まことに厚くお礼申し上げなければならぬでございましょう。」
すると船長は水夫たちに命じて、その商品を船艙から引き出して、私のために岸に運ぶように言いつけた。それから船の書記を呼んで、荷物をひと梱《こり》ずつ数えて、記入しておくように言うと、書記は答えた、「その荷は誰の所有で、また誰の名前で記入しておくのですか。」船長は答えた、「その荷の持主は、船乗りシンドバードといった。だが今度は、このお気の毒な旅客の名前で、記入しておいてもらいたい。この方にお名前を伺いなさい。」
この船長の言葉に、私は全く驚き入って叫んだ、「だがこの私こそ、船乗りシンドバードだ。」そしてその船長をよくよく見ると、これこそ私の二度目の航海の出はじめに、私の眠っているうちに、島に私を置き忘れていった、あの船長とわかった。
そこでこの思いがけない発見に、私の感動はそのぎりぎりの極に達し、私はつづけて言った、「おお船長よ、この私がわからないのか。私こそまさしく、バグダードの住人、船乗りシンドバードだ。まあ私の話を聞いてください。おお船長よ、思い出してください、何年も前のこと、あの島に下りたまま船に戻らなかったのは、まさにかくいう私だ。事実、私は軽い食事をしたためたのち、気持のよい泉のほとりに眠りこんで、覚めてみれば、船はすでに海上に遠ざかったあとのことだった。それに、金剛石の山の商人も大勢私を見たことだから、私こそまさしく船乗りシンドバードだということは、彼らも証明してくれるでしょう。」
私がまだろくに説明し終わらないうちに、折から商品を取りに船に戻って来た商人仲間の一人が、私に近よってきて、しげしげと顔を見つめていたが、私が言葉を切るとすぐに、驚いて両手を打ち合わせて、叫んだ、「アッラーにかけて、おお皆の衆よ、いつぞや、かつて私が金剛石の山で会った、不思議な出来事を皆さんに話したとき、皆さんはいっこう本当になさらなかった。ほら、一人の男が羊の肉の塊りにくっついて、ロクという鳥に運ばれて、谷から山上に来たのを見たことがあったと、申したでしょう。ところで、その男とは、ほれ、ここにいるこの人だ。これこそ、私にあんなにりっぱな金剛石をいくつもくれた気前のよい仁、船乗りシンドバードその人です。」こう言って、その商人は兄弟にめぐり会って接吻する人のように、私に接吻しに寄ってきた。
すると、船長はしばらく私を見つめていたが、突然彼もまた、私が船乗りシンドバードとわかった。そしてまるで自分の息子にするように、私を両腕に抱えて、私がまだ生きていることを祝って、言った、「アッラーにかけて、おお御主人よ、あなたの身の上は驚くべきもので、あなたの冒険はとてつもないものだ。さりながら、われわれの再会を許し、あなたに御自分の荷物と財産にめぐり会わせたもうたアッラーは、祝福されてあれ。」次に船長は、今度は私が勝手にそっくり儲けて売るようにと、私の商品を陸に運ばせた。事実、私の挙げた利は莫大なもので、これまでのあいだ私に損をさせたところを、望外に償ってなお余りあった。
それがすむと、われわれはサラハタ島を去って、シンド(9)の国々に行き、そこでもやはり売り買いをした。
それらの遠い海上で、私はいろいろと驚くべきことどもや、数知れぬ不思議なことを見ましたが、いちいち細かくお話しするわけにはゆきません。けれども、一、二を申せば、牝牛のような恰好をした魚だの、驢馬に似た魚だのを見ました。また、海の真珠母《しんじゆも》から生まれる鳥で、そのひよこは水面で暮して、けっして地上を飛ばないというような鳥も見た。
そのあとで、われわれはアッラーのお許しを得て航海をつづけ、最後にバスラに到着し、ここにはほんの数日とどまっただけで、遂にバグダードにはいった。
そこで、私は自分の町のほうに向かい、自宅に入り、親戚知友や昔の仲間たちに挨拶し、町の寡婦《やもめ》と孤児にたっぷりと施し物をした。実際のところ、私は自分の商品を売った最近の取引で、今までになく金持になって帰ったのでありました。
けれども明日は、おおわが友御一同よ、もしアッラーの思し召しあらば、私の第四の航海の物語をお聞かせ申しましょう。これは皆様の聞かれた三つのものを凌ぐ、更に興味あるものであります。
それから船乗りシンドバードは、前日のように、荷かつぎシンドバードに金貨百枚を取らせ、また明日来るように招じました。
荷かつぎはその言葉に従わずにはいないで、次の日……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二夜になると[#「けれども第三百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……荷かつぎはまたやって来て、食後、船乗りシンドバードの語るところに、耳を傾けました。
そして船乗りシンドバードは申しました。
[#ここから3字下げ]
船乗りシンドバードの物語の第四話
そしてこれは第四の航海である
[#ここで字下げ終わり]
バグダード生活の歓楽も、快楽も、おおわが友御一同よ、私に旅を忘れさせることはできませんでした。これに反して、耐え忍んだ艱苦と冒した危難のほうは、とんと思い出さなかった。そして私のうちに住んでいる不実な魂は、再びいろいろの人々の住む国々を経めぐれば、どんなに数々のよいことがあるかを、私に言い聞かさずにはいなかった。そこで私は、この魂の誘惑にほとんど逆らうことができず、ある日、家をも富をもあとに残して、この前の航海の時持って行ったよりもずっと多く、大量の高価な商品を携えて、バグダードよりバスラに向い、その場で折から都合よく知り合った、大勢の豪商と連れ立って、大きな船に乗りこんだのでありました。
われわれの船旅は、天佑《てんゆう》により最初のほどは申し分なかった。われわれは売ったり買ったり、多額の利益をあげながら、島から島へ、陸から陸へと渡っていると、遂にある日、海の真中で、船長は錨を下ろさせて、われわれに叫ぶのであった、「われわれは頼るすべなく、もう駄目だ。」するとにわかに、ものすごい一陣の風が、海全体を持ち上げ、海水は船になだれこんで、船をばらばらに粉砕し、船長も、水夫も、かくいう私自身も含めて、船の人々を皆さらってしまった。最初は誰も彼も全部溺れ、私とて同様であった。
けれども私は、御慈悲のおかげで、深淵の上に一枚の船板を見つけることができ、これに両手両足でしがみつき、私と一緒にしがみつくことのできた他の数名の商人とともども、その上で半日ばかり揺られていた。
すると、われわれは手と足を使って一心に漕いだ結果、風と潮に助けられて、最後にある島の浜辺に、寒さと恐れにすでに半ば死んだようになり、漂流物みたいに打ち上げられた。
われわれはひと晩じゅう、その島の浜辺に、身動きもならず、ぐったりとしていた。けれども翌日には、起き上がって、島の内部に進むことができた。見ると人家が認められたので、一同そちらに向かった。
われわれが着くと、その住居の門から、一隊の素裸のまっ黒い男どもが出てくるとみるまに、彼らはただのひと言も言葉をかけずに、われわれを引っ捉え、高い腰掛の上に一人の王の坐っている大広間に、はいらせた。
王はわれわれに坐れと命じたので、われわれは坐った。するとわれわれの前に、だれも全生涯を通じて、よそではかつて見たことのないような料理を盛った、数々の皿が出された。それを見ても、私の食欲はほとんど唆られなかったが、私の仲間たちはそれに反して、難破以来つづいた空腹を静めるために、がつがつとむさぼり食った。私はというと、実にこの節制こそ、今日までわが生命《いのち》を長らえるに至った原因だったのであります。
果して、最初のひと口を食うや、私の仲間は途方もない食い気にとらえられて、気違いのような身ぶりをし、ひどく鼻を鳴らしながら、何時間も何時間ものあいだ、出されるものを、なんでも片っぱしから平らげだした。
彼らがこうした有様でいるまに、裸の男たちは、一種の軟膏を詰めた壺を持ってきて、みんなの全身に塗りつけたが、その薬を腹につけると、その利き目はたいへんなものであった。事実、私の仲間の腹は、だんだんにあらゆる方向に膨れ上がり、遂には膨れた革嚢《かわぶくろ》よりも大きくなるのが見られた。そして食欲もそれにつれて増し、そのためひっきりなしに食いつづけ、私は彼らの腹がいつまでもいっぱいにならないのにあっけにとられながら、彼らを眺めていた次第であった。
ところで私は、仲間たちに現われたこの利き目を見て、依然これらの料理には全然手を触れず、軟膏を塗られることも断わった。そして私が食をとらなかったことは、まことに身のためとなった。というのは、これらの裸の男は、こうしたいろいろの手段を用いて、掌中におちた人間を肥らせ、こうやってその肉をいっそう柔らかにし、汁を多くするのだということを、私は発見した。また、この王というのは、食人鬼《グール》だということも発見した。家来は毎日、この方法で肥らせた人間を一人ずつ焼肉にして、王に供した。また裸の男共のほうは、焼いたのを好まず、生《なま》の人肉を、何の味もつけず、そのまま食うのであった。
この情けない発見に、わが身の運命と仲間たちの運命についての、私の懸念は際涯を知らず、それはやがて、仲間たちの腹が膨れ、身体がぶくぶくになるにつれて、彼らの知能が著しく低下するのを認めただけに、ますますとどまるところを知らなかった。仲間たちはしまいには、さんざん食ったあげく完全に馬鹿になり果て、全く屠所の獣《けもの》となって、番人の手に預けられては、毎日牧場に草を食いに連れてゆかれたのであった。
さて私は、一方では空腹、他方では恐怖のため、全く昔の面影なく、身は骨の上に干からびてしまった。そこでこの島の土人たちは、私がこんなにやせ衰えているのを見て、もう私のことなぞかまわないで、すっかり忘れてしまった。きっと私は、鉄網《かなあみ》で炙っても、王様に差し上げられるような代物ではないと、思ったのでしょう。
この黒い裸の島民が、てんで監視の目を向けなかったために、私はある日、彼らの住み家から抜け出して、反対側の方向に歩いてゆくことができた。途中、口腹の欲のため馬鹿になった、私の不幸な仲間を家畜にして、草を食わせている例の番人に出っくわした。私はいそいで高く繁った草のなかにもぐりこみ、早く彼らの姿が見えなくなるようにと足を早め、駆け出した。それほど、彼らの様子は、私にとっては苦痛と悲しみの種であった。
日はすでに没したが、私は歩くことをやめなかった。眠気も催さずに、ひと晩じゅう、前にまっすぐ向いつづけた。それほど、人肉食らいどもの掌中に、再び陥る怖さが離れなかった。そして次の日も一日じゅう歩き、更に六日間、見知らぬかたに向って、自分の道をつづけてゆく力を与える食事のため、必要な時間だけしか費やさずに、歩きつづけた。食物としては、ただ草を摘むきりで、それも餓死しないのにいるだけを、食うにとどめた。八日目の朝……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三夜になると[#「けれども第三百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……八日目の朝、私はその島の反対側の浜辺に着くと、私と同じように、色が白く着物を着た人々が、この地域一面に生えている木の上で、胡椒《こしよう》の実(10)を摘んでいるのを認めた。彼らは私の姿を認めると、私のまわりに寄ってきて、もう長いこと耳にしなかった私の国語、アラビア語で、私に話した。私は何者で、どこから来たと聞くのであった。私は答えた、「おお同じ人種の方々よ、私は貧しい異国の者でございます。」そして私は遭遇した不幸と危難を語った。私の話は彼らをすっかり驚かせ、彼らは、私が人肉をむさぼり食う人種から逃れることができたことを祝って、飲食物を供してくれ、ひと時のあいだ私を休ませておいて、それから、近所の別な島に居住地を持つ彼らの王に、私を引き合わせようとて、私を自分たちの船に連れて行った。
その王の治める島は、非常に人口|稠密《ちゆうみつ》な町を、首都としていた。その都は、あらゆる生活品が豊富で、高価な品を備えた店のある商人と市場《スーク》に富み、美しい街々が貫き、そこには大勢の人々が、素晴らしい駿馬に乗って行き交《か》っていたが、しかしみな鞍も鐙《あぶみ》も置いていなかった。そこで、王に拝謁したとき、私は挨拶《サラーム》ののち、人々が裸馬に乗るのを見て不審に思ったことを、お知らせしないではいなかった。私は申し上げた、「おお、わが君、御領主様、そもそもいかなる動機《いわれ》から、当地では、鞍をお用いにならないのでございましょう。馬で行くにはまことに便利な品でござりまするが。それに、乗り手は一段と馬を御しやすいわけでございますが。」
王は私の言葉に大いに驚かれて、お尋ねになった、「だがそもそも鞍とはいかなる品か。われらは生まれてから、ついぞそのようなものを見たことがないが。」私は申し上げた、「それならば、ひとつ私が鞍を造ってさしあげ、その便利を試み、快味を験《ため》していただくことをお許しくださいましょうか。」王は答えた、「いかにも苦しゅうない。」
そこで私は、上手な指物師を一人呼んで、自分の目の前で、いちいち私の指図どおりの鞍骨を作らせた。作り上げるまで、私は付ききりでいた。出来上がると、自分でその鞍骨に羊の毛を詰めて皮を張り、まわりをぐるりと、金の刺繍《ししゆう》と色とりどりのふさで飾り上げた。それから鍛冶屋を呼んで、轡《くつわ》と鐙を作る法を教えた。鍛冶屋はこれらの品を申し分なく作った。というのは、私はただのひと時も、かたわらを離れなかったからです。
いよいよすべてが完全に揃うと、私は王の厩舎《うまや》で一番見事な馬を選んで、それに鞍を置き、轡をかませ、美々しく馬具を装い、更に、長い引き裾とか、絹や金の総《ふさ》とか、頭飾りとか、青い頸環とかいった、いろいろの付属の装飾品をつけることも忘れなかった。そしてすぐに、数日前から待ちかねておられた王に、これを献上しに行った。
王は即座にその上に乗ってみられると、まことに落ち着きよく感じられ、この発明品にいたく御満足になって、私に豪奢な贈物と数々の金品を賜わって、お悦びの意を示された。
総理|大臣《ワジール》もこの鞍を見て、旧法にまさると認めると、私に同様のものを作ってくれと頼んだ。私は悦んで承知した。すると王国のすべての大官と高位の人々も、同様に鞍をほしがって、私に注文した。そして彼らはいろいろと私に贈物をしたので、私はわずかのうちに、この町で一番金持で、一番尊敬される身とはなった。
私は王の友人となり、ある日いつものように御殿に参上すると、王は私のほうに向いておっしゃった、「おお鞍作りよ、余がそちを深く心にかけていることは、そちもよく知っているところだ。そちはわが宮殿で身内同様の者となり、余はもはやそちなしでは過ごしえず、いつの日か、そちがわれわれのもとを去るような日が来るであろうと思うだけでも、耐え得ない。そこで頼みたい一事があるが、これを断わらないでもらいたい。」私は答えた、「おお王よ、お命じくださいまし。わが君の私に対するお力は、数々の御恩恵により、かつは、御国《みくに》に参りまして以来、蒙りましたあらゆる御芳志に対し、私の抱かねばならぬ感謝の念によって、強固なるものと相成っておりまする。」王は答えなすった、「余はそちに、わが国において、一人のみめよく、愛らしく、申し分なく、財貨と長所に富む婦人と結婚させ、その妻女によって、そちにいつまでもわが都と宮殿にとどまる決心をさせたいと思う。されば、けっしてわが申し出とわが言を斥けないでもらいたい。」
このお言葉に、私はいたみ入って、頭を垂れ、お答えすることができなかった。それほど恐縮に耐えなかった次第だ。そこで王は問われた、「なぜそちは答えぬのか、おおわが子よ。」私はお答え申した、「おお当代の王よ、事は御心《みこころ》しだいのこと、私はわが君の奴隷でございます。」すぐに王は法官《カーデイ》と証人を呼びにやり、その場で、一人の高貴の血筋に生まれ、きわめて富裕で、多くの家具、家屋、地所を持ち、非常な美貌を授けられた乙女を、私の妻にしてくださった。それと同時に、全部家具の備わった御殿に、召使、男女の奴隷なぞ、まことに王者にふさわしい僕婢を添えて、私に贈ってくださった。
そこで私は、欠けるところのない安穏のうちに暮して、のどかと晴れやかの極みに達した。そして私はあらかじめ、そのうちいつか妻を連れて、この都を逃がれ、バグダードに戻れる日を、楽しみにしていた。というのは、私は深く妻を愛し、妻もまた私を愛して、二人の間の円満ぶりは申し分なかった。けれども、一事が天運によって定められてあるときには、いかなる人力もそれを動かすことはできない。そして未来を知り得る人間はそもそもどこにいようか。およそわれわれのあらゆる計画は、天命の欲するところの前では児戯にすぎぬことを、私は悲しいかな、今一度体験しなければならなかった次第でありました。
ある日のこと、私の隣りの妻女が、アッラーの御命令によって、亡くなったのであった。その隣人は友人だったので、私は彼のもとに出向いて、こう言って慰めようとした、「お隣りの方よ、許されているところ以上にお悲しみなさるな。アッラーはそのうち、もっと祝福された妻女をあなたに授けて、埋め合わせをしてくださるでしょう。願わくは、アッラーがあなたの寿命を長くしてくださるように。」ところがその隣人は私の言葉にあきれかえって、頭を上げて、私に言った、「どうしてあなたは、私の長命を祈ることなぞおできになるのか。私はもう一時間しか生きられない身だということは、よく御承知のくせに。」そこで今度は、私があきれかえって、これに言った、「お隣りの方よ、どうしてそんなふうな言い方をなさり、そのような予感を持たれるのですか。あなたはアッラーのおかげで御丈夫だし、何もあなたを脅やかしている気配はなし。ひょっとすると、われとわが手で自害なさろうとでも言うのですか。」彼は答えた、「なるほどわかった、あなたはわが国の風習《ならわし》を御存じないのだ。こうなのです、ここの習慣では、すべて生き残った夫は、死んだ妻と一緒に生き埋めになるし、すべて生き残った妻は、死んだ夫と一緒に生き埋めになることになっているのです。これは侵すべからざることです。それで、ほどなく、私は死んだ妻と一緒に生き埋めにされなければならない。当地では王様をはじめだれでも、この祖先の定めた掟に忍従しなければなりません。」
この言葉に、私は叫んだ、「アッラーにかけて、そんな習慣はまことに忌わしい。私は断じて従うわけにはゆかぬ。」
われわれがこんなふうに話していると、そこに隣人の親戚知友がはいってきて、実際に、こもごも、当人の死と妻女の死について、悔みを言いはじめた。それがすむと、葬式を行なった。まず妻女の屍体に一番美しい着物を着せ、一番貴い宝石を飾った上で、それを蓋のあいた柩《ひつぎ》に収めた。次に葬列を整え、夫は柩の後ろに従って、先頭を歩き、私も加わって、一同埋葬の場所のほうに向かった。
われわれは町の外の、海に臨む山に着いた。その或る場所に、ひどく大きな井戸のようなものが見えると、人々はいそいで、その石蓋を持ち上げた。そこに、宝石を飾った死んだ妻女を納めた柩を下ろし、それから隣人をつかまえたが、彼は全然抵抗しなかった。そして、食糧として、大きな水の壺ひとつとパン七つをつけて、彼をば綱でもって、井戸の底まで下ろした。それがすむと、蓋になっているいくつもの大石で、井戸の口を再びふさいで、そして一同来たところを通って帰った。
ところで私は、実に想像を絶する畏怖の気持のうちに、こうしたすべてに立ち会ったのであり、魂の中で考えた、「これは今まで自分の見たどんなことにもまして、困ったことだわい。」そして御殿に戻るやいなや、王のところに駆けつけて、申し上げた、「おお御主君様、私は今日までずいぶん諸方の国々を歩き回りましたが、生き残った夫を、死んだ妻と一緒に生き埋めにするというような、そんな野蛮な習慣は、どこでも見たことがございませんでした。されば、おお当代の王よ、果して外国人でもやはり、自分の妻の死去の節は、この掟に従わねばならぬのかどうか、承わりとう存じます。」王は答えなされた、「いかにもさようじゃ。夫は妻と共に埋められるであろうぞ。」
この言葉を聞いたとき、私は憂慮のあまり、胆嚢が肝臓のなかで破裂するような気がして、恐ろしさでのぼせ上がって退出して、早くも家内が留守中死んでいはしないか、そしてさっき立ち会った恐ろしい刑をば、いやおうなく受けさせられはしないかと心配しながら、自宅に引きあげた。私はこう言い言い、いくら自ら慰めようとしてみても、甲斐がなかった、「シンドバードよ、心配するな。きっとお前のほうが先に死ぬから。そうすれば、おまえは生き埋めにならずにすむだろう。」そんなことを言ってみても、何の足しにもならないことだった。というのは、その後まもなく、家内は病気になり、二、三日床について、私が日夜あらゆる看護を尽した効もなく、死んでしまったのです。
そこで私の苦しみは果てしがなかった。なぜなら、実際のところ、生き埋めになるという事実は、人肉食らいに食われるという事実よりも、情けなくないとは、なかなか思いきれなかったからです。それに王御自身、親しく私の家に来られて、私の埋葬について悔みを述べられるのを見たときには、もう自分の運命は疑う余地がなかった。そればかりか、王は宮中のあらゆる貴顕を従えて、葬列の先頭に私と並んで、宝石類に包まれ、美々しく着飾った、私の亡き妻を収めた柩のあとから歩いて、私の埋葬に臨席なさる栄誉を授けたもうたのであった。
いよいよ問題の井戸が口を開いている、海のほとりにある山の麓に着くと、まず家内の屍体が穴の底に下ろされた。それがすむと、参列者全部が私に近寄って、悔みを述べ、永の別れを告げるのであった。そこで私は、王をはじめ参列者たちを翻意させるように試み、この苦難を免れさせることにしてもらいたいと思い、泣きながら叫んだ、「私は異国の者ですから、私がお国の掟に従わせられるとは、正当でありません。それに、私は故郷に、生きている一人の妻と、私を必要としている子供たちがいるのです。」
けれども私がいくら泣き喚いても駄目で、彼らは私の言葉を聞こうとはせず、私をつかまえて、両腋を綱で縛り、慣習《ならわし》どおり、水を満たした水壺ひとつとパン七つを、身体に結びつけて、井戸の底に下ろしてしまった。私が下まで着くと、彼らは叫んだ、「綱を引き上げるから、縛しめを解け。」けれども私はいっこうほどこうとせず、彼らに再び引き上げる気にならせようと、盛んに綱を引っ張りつづけた。すると、彼らのほうで綱を放して私に投げつけ、大石で再び井戸の口をふさぎ、彼らの道に立ち去ってしまった、もう私の憐れな悲鳴なぞに耳をかさずに。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百四夜になると[#「けれども第三百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
やがてこの地下の場所の臭気に、私は鼻をつままざるをえなかった。といって、上から洩れてくる僅かの明りを頼りに、新旧の屍骸が累々としている、この死の洞窟を、調べてみないわけではなかった。それはきわめて広く、遠く彼方に延びていて、私の目には、その奥を見極めることができなかった。そこで私は泣きながら地上に身を投げて、叫んだ、「お前の運命はいかにも当然だ、飽くことを知らぬ魂のシンドバードよ。それに、いったいこの町で女房をもらう必要がどこにあったか。ああ、なぜお前は金剛石の谷で参ってしまわなかったのだ。なぜ人食い人種に食われてしまわなかったのだ。こんな恐ろしい死にざまで参るくらいなら、これまでの難船のうちのどれかで、海に呑まれてしまうほうがよかったのに。」そう言ってから、私は頭や胃やそのほか身体じゅうを、われと自ら激しく打ちはじめた。けれども、飢えと渇きに責められて、空しく飢え死にする気にはなれず、パンと水壺を紐からはずして、飲みかつ食ったが、先々の日を思って、ちょっぴりにしておいた。
こうして、次第にこの洞窟のたまらない臭気にも慣れてきて、数日のあいだ暮したが、私はひとつの場所を選んで、散らばっている骸骨を取り払ってから、そこの地上に眠った。けれどもやがて、もうパンも水もなくなる時機が来そうになった。そしてその時機は来てしまった。そこで、もう全く絶望して、私は信仰証言《シヤハーダ》を唱えて、いよいよ目を閉じて死を待とうとすると、そのとき突然、頭上に当って、井戸の口が開いて、柩にはいった死んだ男と、つづいて、七つのパンと水壺を携えたその妻が、降りてくるのが見えた。
そこで私は、地上の人々が再び口をふさぐまで待ってから、こそりとも音を立てず、ごくそっと、死人の大きな骨を一本つかんで、一気にその女に躍りかかって、頭上に一撃を加えて打ち殺してしまった。そして確かに殺すため、更に二度三度と、力いっぱい打ちすえた。そのうえでその七つのパンと水を奪い、こうしてさらに数日分の食糧を手に入れた。
その数日が過ぎると、またもや口が開いて、今度は死んだ女と、男が降りてきた。私は生きるためには、なにしろ魂は高価なものですからねえ、その男を殺して、そのパンと水を奪わずにはおかなかった。こうして私は、生き埋めになった人間を、そのつど殺《あや》めては、その食糧を盗んで、ずいぶん長い間生きつづけた。
日々のうちのある日のこと、私はいつもの場所に眠っていると、不意に聞き慣れない物音に、びっくりして目を覚ました。何か人間の息と足音みたいだった。私は起き上がって、生き埋めにされる人々を打ち殺すのに使っていた、例の骨を取り上げて、その音の来るらしい方角に向って行った。二、三歩行くと、何物かが力をこめて息を吐きながら逃げてゆくのを、かすかに見たような気がした。そこで私は、相変わらず骨を握りしめて、その逃げてゆく影のようなものを追い、長いこと追って、ひと足ごとに、死人の骸骨にけつまずきながら、闇のなかを、そのあとから走りつづけていると、そのうち突然、自分のまっすぐ前方に、洞窟の奥に当たって、あるいはきらめきあるいは消える、星のようなものが見えたように思った。その方向にさらに進みつづけると、進むにしたがって、その光が大きくなり、拡がるのが見られた。けれども、よもやそれが外《おもて》に逃がれ出られる出口だなぞとは、とうてい信じかねて、独り言を言った、「これはきっとこの井戸の第二の口で、やはり人々が屍骸を降ろす口にちがいない。」だから、その逃げてゆく影、というのはすなわち屍骸を食う動物にほかならなかったのですが、そいつが飛び立って、その口から飛び出るのを見たときの、私の感動はいかばかりであったか。そこで、これは獣《けもの》が洞窟の屍体を食いにくるために、開けた穴だということが、わかった。私はその獣のあとから飛び出すと、突然、自分は天空の下の、大気のうちにいるのであった。
かくと知るや、私はひざまずいて、わが身の救われたことを、至高者に衷心から感謝した。そして私は魂を取り静め、動揺する魂を落ち着かせた。
そこで私は天を仰いで見ると、自分は海岸の、ある山の麓にいることを知った。そしてこの山は、あそこの町とはなんの連絡もなさそうなことを認めた。実に険しく、とうてい通れない。事実、登ってみようとも試みたが、だめであった。そこで餓死しないように、私は再び例の穴から洞窟にもどって、パンと水を取りに行った。そして引き返して空の下で食べることにした。そうしたほうが、死人の真中にいたころよりも、ずっとおいしく食べられた。
私は毎日洞窟に行きつづけて、生き埋めになった人々を打ち殺しては、パンと水を奪っていた。それからまた、死人のあらゆる宝石類や、金剛石や、腕輪や、頸飾りや、真珠や、紅玉や、彫り物をした金属類や、貴重な布や、その他あらゆる金銀の品を、集めることを思いついた。そしていつの日か、これらの財宝を携えて、脱出することができるだろうとの希望を抱いて、そのつど、集めた物を海岸に運んだ。そしていつなんどきでも、万事整っているようにと思って、洞窟のなかの男女の着物と反物でもって、それらをしっかり包んで、荷造りをしておいた。
さて、ある日海岸に坐って、自分のこれまでの冒険と現在の身の上を、いろいろ思い耽っていると、その時、一艘の船が自分のいる山のかなり近くを通るのを見た。私は慌てて立ち上がって、ターバンの布を拡げ、岸辺を駆け回りながら、大きな身振りと叫び声をあげて、それを振りはじめた。アッラーの御恵《みめぐ》みにより、船員たちは私の合図を認め、小舟を降ろして、私を迎えて船に乗せに来てくれた。彼らは一緒に私を連れてゆき、また私の荷物も載せてくれた。
われわれが船に着くと、船長は私に近づいて、言った、「おお、あなたはいったい何者で、また何だってこんな山の上にいることになったのか。私はこのあたりを航海して以来、この山には野獣と猛禽のたぐい以外、ついぞ見たことがなく、人間の姿は、かつて見かけたことがないが。」私は答えた、「おお御主人よ、私はこの地方には不案内の、憐れな商人です。私は一艘の大きな船に乗り込んだのですが、それがこの海岸で難破してしまい、全部の道連れのうちただ一人私だけが、辛抱のおかげで、溺死をまぬがれ、商品の荷物も、船が壊れたときに、折よく大きな板片《いたぎれ》をつかまえることができたので、それに載せて、私と一緒にうまく助かりました。天命と私の運命は、私をこの岸辺に打ち上げ、アッラーは、私が飢えと渇きで死なないことを、望みたもうたのでありました。」私は船長にこう言ったのです。それはひょっとしてこの船に、私があやうく犠牲者になりかけた、あの恐ろしい習慣の行なわれている町の人が、誰かいはしないかと心配して、私の結婚と埋葬についての真相を話すことは、用心したわけです。
船長への話を結ぶに当たって、私は包みのひとつから、立派な高価な品をひとつ取り出して、これを船長に贈物として、旅行中贔屓目に見てもらおうとした。ところが大いに驚いたことには、船長は世にもまれな無欲を示して、私の贈物を受けようとせず、親切そうな口調で言った、「私は善行の賃金を取る習慣は全く持ち合わせない。われわれが海で拾い上げたのは、何もあなたが最初なわけではありませぬ。これまで、ほかにいくらも難船に会った人たちを救って、アッラーのお顔のために、故国に運んであげたことがある。しかも私たちは、賃金を取ろうとしなかったばかりでなく、その方々は万事に事欠いていたので、飲食物も差し上げ、着物も着せてあげた。そしていつもアッラーのために、路銀の足しになるものも助けて進ぜたものだ。なぜなれば、御主《おんあるじ》の崇高なお顔のために、同胞に尽すのは、人間の義務だからです。」
この言葉に、私は船長にお礼を述べ、その長寿を祈って祈願したが、その間に、船長は帆をあげるように命じて、船を進ませたのであった。
われわれは幾日も幾日も、島から島へ、海から海へと、申し分ない旅をつづけ、その間私は、何時間もいい気持で横になって、わが身の不思議な冒険に思い耽り、果して実際に自分がこうしたすべての災難に会ったのか、あるいは今自分は夢を見ているのではないか、なぞと自問したものであった。また時には、死んだ家内と一緒に地下の洞窟にいた折のことを思って、恐ろしさに気が狂う心地を覚えることさえありました。
けれども遂に、至高のアッラーのお力によって、われわれは恙《つつが》なくバスラに到着し、そこには数日しかとどまらずに、つづいてバグダードに入った。
そこで私は限りない富を携えて、自分の町と自宅の道をとり、そこに着いて、親戚知友に会った。一同は私の帰宅を祝い、私の助かったことを慶して、無上に悦んだ。私は、自分の財宝を大切に箪笥《たんす》のなかにしまったが、しかし貧者と寡婦と孤児には、たくさんの施しをし、友人知己には、惜しみなく金品をばらまくことを忘れなかった。そして以来、私は気持のよい人々といっしょに、あらゆる慰みとあらゆる楽しみに耽ることをやめなかった。
けれども、ここに私が皆様にお話ししたすべても、アッラーの思し召しあらば、明日お聞かせしようと思っているところに比べれば、まことに何物でもありません。
その日、シンドバードはこのように語ったのでございました。そして荷かつぎに金貨百枚をとらせて、同席の名士たちといっしょに、自分と共に食事をするように誘わずにはいませんでした。それから一同、こうしたすべてに驚き入りながら、自宅に引き取りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百六夜になると[#「けれども第三百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
荷かつぎシンドバードはというと、自宅に着くと、ひと晩じゅう、この驚くべき話を思い耽りました。そして翌日、再び船乗りシンドバードの屋敷に戻ったときにも、まだここの主人の生き埋めのことを、深く心に感じていました。けれどもすでに食布が拡げられていたので、彼も他の人々と一緒に席につき、食べ、飲み、恩恵者を祝福しました。それがすむと、満座ひっそりとしているただなかで、彼は船乗りシンドバードの物語るところに、耳を澄ましたのでございました。
シンドバードは申しました。
[#ここから3字下げ]
船乗りシンドバードの物語のうち第五話
そしてこれは第五の航海である
[#ここで字下げ終わり]
されば、おおわが友御一同よ、私は第四の航海から戻りますと、悦びと楽しみと慰みのうちにすっかりひたりきって、ほどなく、もう過去の苦しみも忘れ果て、目覚ましい行為と自分の稀代の冒険しか、思い出さないような有様でした。従って、いろいろの人々の住む国々のほうへと、新たな航海を唆かす私の魂に、私が従わずにはいなかったと申し上げても、皆様これを怪しみなさることはございません。
そこで私は立ち上がって、今までの経験から、よく捌けて、確実有利に儲かると知っている商品を仕入れ、荷造りさせて、それを携えてバスラに立った。
その地で、私は碇泊所に散歩に出かけ、ま新しい一艘の大船を見つけて、それがたいそう気に入ったので、その場で、自分専用に買い受けた。それから、経験のある船長を一人と水夫たちを雇い入れ、私の用を弁ずるため船に残っていた私の奴隷たちに、商品を自分の船に積みこませた。また人相のよいいくたりかの商人も、船客として乗せてあげることにすると、その人たちは律気に船賃を払った。こうして、今度は船主《ふなぬし》となって、私は海のことについて得た経験のおかげで、船長にいろいろ助言することができました。
われわれは、お互いにあらゆる種類の祝福を祈り合いながら、心も軽く欣然《きんぜん》と、バスラを出発した。そこでわれらの航海は仕合せで、いつも順風と穏やかな海に恵まれた。そして売買のためにあちこち寄港したのち、われわれはある日、全然無人の淋しい島に着いたところ、そこには家といっては、ただ一宇の白い円蓋《ドーム》が見えるきりであった。しかし私は、この白い円蓋をいっそう仔細に調べてみると、これはロクの卵だと察した。ところが、船客にはそんなことは一言も言わなかったので、彼らはいったん上陸すると、これ幸いとばかりに、この卵の表面に大きな石を投げつけたものであった。そこで彼らは結局それを打ちこわしてしまうと、なんと驚いたことに、水がいっぱい流れ出した。そしてしばらくすると、ロクの雛《ひよこ》が、その卵から片足を出した。
これを見ると、商人たちは更に卵を割りつづけ、次にロクの雛《ひよこ》を殺して、切り刻み、船に戻ってきて、私にその出来事を話した。
そこで私は、この上なく恐れおののいて、叫んだ、「われわれはもう駄目だ。ロクの両親《ふたおや》が、やがてわれわれを襲って殺しに来る。だから一刻も早く、この島から遠ざからなければならない。」そしてすぐにわれわれは帆をあげて、風に助けられて沖に出た。
この間に、商人たちはロクの子の肉片《にくきれ》を焼きにかかっていた。けれども、それを御馳走になるいとまもなく、太陽の目の上に二つの大きな雲が見えて、太陽をすっかり隠してしまった。その雲が一段とわれわれの近くにくると、それはほかならぬ残されたロクの両親《ふたおや》の、二羽の巨大なロクであるのを見た。二羽の怪鳥は羽ばたきをして、雷よりもものすごい叫び声をあげるのが聞こえた。そしてやがて、われわれの頭のま上に、しかし非常な高いところに、それぞれ、われわれの船よりも大きな岩を、爪に掴んでくるのが見えた。
これを見て、われわれはロクの復讐の結果、もう身の破滅を疑わなかった。すると突然、ロクの一羽は空中高くから、船を目がけて、岩を落した。ところが船長は非常に老練であったから、舵柄《かじづか》をとってすばやく操縦したので、船は方向を転じ、岩はわれわれのそばをすれすれにかすめて、海中に落ち、海はぱっくりと割れて底が見え、船はものすごく上がって、下がって、また上がった。けれどもその瞬間、われわれの天運は、二番目のロクもまた岩を放すことを望み、今度はかわす暇もなく、艫《とも》に落ちかかって、舵を粉々に砕き、船の半分を水中に持って行ってしまった。とたんに、商人と水夫たちは、あるいはつぶされ、あるいは水に沈められた。私は沈められたなかにいた。
けれども私は、一時水の上に戻ることができた。それほど、私は自分の貴重な魂を保存する本能に駆られて、死と戦ったのであった。そして幸いにして、沈没した自分の船の板片に縋りつくことができた。
私はついにその板の上に跨がることができ、両足で漕いでいるうちに、風と潮流に助けられて、もう最後の息を引き取る寸前に、ひとつの島に着くことができた。全くそれくらい、疲れと飢えと渇きに、衰え果てていた。最初は岸辺に身を投げたまま、自分の魂と心が静まることができるまで、ひと時の間、ただ茫然としていた。そこで私は起き上がって、場所を知ろうと、島のなかに進み入った。
長道をするまでもなく、このたびは天命は私をば、天国の園にもたぐえられるばかり美しい園に、運んでくれたことがわかった。至るところ、うっとりと見入る私の目の前には、金色の果物をつけた木々、潺湲《せんかん》と流れる小川、さまざまに囀ずる小鳥、目を奪う花であった。そこで、私はこれらの果物を食べ、その水を飲み、これらの花を吸わずにはおかなかった。そして万事はこの上なく上々と思った……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百七夜になると[#「けれども第三百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして万事はこの上なく上々と思った。だから、私はもう自分のいる場所を動かず、夕方まで、そこに疲れを癒やしつづけた。
けれどもいよいよ夜になって、自分がこの島のなかに、これらの木々とその幻《まぼろし》とのただなかに、ただ一人なのを見ると、あたりの美しさと安らかさにもかかわらず、私は痛切な恐怖を覚えずにはいられなかった。そこで私はおちおち眠れず、眠りはこの寂莫《せきばく》と孤独のただなかで、恐ろしい悪夢につきまとわれるのであった。
朝と共に、私はもっと気持が落ち着いて、起き上がり、今少し探検を進めてみた。こうして、ある泉の水の滴り落ちる溜め池のほとりに着いたが、その溜め池の水際には、木の葉で作った大きな外套をまとった、尊ぶべき一人の老人《シヤイクー》が、じっと坐っていた。私は魂の中で思った、「この老人《シヤイクー》もやはり難船に会って、私よりも前にこの島に逃れて来た、どこかの仁に相違ない。」
そこで私は近づいて、老人《シヤイクー》に平安を祈った。彼は挨拶《サラーム》を返すには返したが、ただのひと言も言い出さずに、ただ合図でするだけであった。私はこれに尋ねた、「おお尊い御老人《シヤイクー》よ、あなたはどうしてこの場所にいなさることになったのですか。」彼はやはり返事をしなかったが、悲しげな様子で頭を振り、そして手でもって、こういう意味の合図をしてみせた。「どうかわしを肩に背負って、この流れを渡してもらいたい。わしは向う側の果物を取りたい。」
そのとき私は考えた、「シンドバードよ、お前はこの老人《シヤイクー》にそうしてあげれば、きっと一つの善根を施すことになるだろう。」そこで私は屈《かが》んで、老人《シヤイクー》を肩車に載せ、その両脚を胸の上に合わせた。こうして、老人《シヤイクー》は私の首に腿《もも》をめぐらし、私の頭を両腕で抱えた。そして私は流れの向う側に運んで、さっき示した場所まで行ってやった。すると私の肩の上で、身を顫わせて悦んでいるさまを感じさせた。次に私は改めて屈んで、これに言った、「さあ静かにお降りなさい、おお尊い御老人《シヤイクー》よ。」ところが彼は動かない。それどころか、ますます腿を私の首のまわりに締めつけ、力いっぱい私の肩にしがみつくのであった。
かくと知るや、私は驚きのかぎりに達して、やつの両脚を、もっとよくよく眺めた。それは黒くて、毛むくじゃらで、水牛の皮みたいにざらざらに見え、ひどく気味が悪かった。そこで、急に際限なく怖くなって、私は相手がしめつけるのを振りほどいて、やつを地に投げつけてやろうと思った。ところがそうすると、やつはひどくきつく私の喉もとを締め上げ、私はなかば締め殺されて、世界は私の顔の前で暗くなってしまった。私は更に最後の勇を揮ったが、それは息が詰まって気を失い、地上に気絶して倒れてしまうこととなった。
しばらく経つと、私はわれに返ったが、こちらが気絶したにもかかわらず、老人《シヤイクー》は相変わらず、私の首にしがみついていた。ただ空気が私の喉にはいりこむように、少しく両脚をゆるめていただけである。
私が息を吹き返すのを見ると、やつは私の胃のあたりを二度蹴って、起き上がらざるをえなくした。何せ痛いので言うなりになって、脚を踏んばって立ち直ると、やつは前よりもいっそう、私の首玉にしがみついた。そして手でもって、木の下に歩いてゆけと合図して、果物をもいでは食いはじめた。そして私がやつの意にそむいて立ちどまったり、早く歩きすぎたりすると、そのつど猛烈に蹴りやがるので、私はやむなく従ったわけだ。
その日一日、やつは私の肩車に乗って、まるで駄獣みたいにあちこち行かせていた。そして夜になると、やはり私の首に取っついたまま眠れるようにと、私を、やつもろとも横にならせた。朝には、腹をひと蹴りして私を起し、前の日のように運ばせるのであった。
こうしてやつは、夜も昼もぶっ通しに、私の肩の上にしがみついていた。そして、足で蹴ったり拳固で殴ったりして、容赦なく私を歩きまわらせた。
そこで私は、この驢馬曳きよりも因業《いんごう》な老爺《じじい》の酷使ほど、わが魂に屈辱を受け、わが身体に虐待を受けた覚えはかつてないことが、よくわかった。そしてもはやどういう手段を用いたら、こやつを振りほどけるのやらわからず、なまじこんなやつに憐れみを覚えて、肩に背負ってしまった自分の惻隠《そくいん》の情を、悔むのであった。まことにそのときは、私は心中底の底から死を願った。
この情けない状態にあることすでに久しくなって、ある日、大きな南瓜がぶら下がっている木々の下を、歩かせられていた折、ふとこれらの果実を干して、容器《いれもの》にしてやろうという考えが浮かんだ。そこで、ずっと前に木から落ちて、干からびている大きな瓢箪をひとつ拾って、中身をそっくり取り出してきれいに掃除し、それから、葡萄の木から見事な葡萄の房をつみ取って、瓢箪がいっぱいになるまで、その汁をしぼり入れた。次にそれを丹念に封じて、日なたに置き、果汁が純良な葡萄酒になるまで、数日のあいだ、そのままにしておいた。いよいよできると、私は瓢箪を取り上げて、元気をつけて重荷の苦労に耐える力をつけるに十分な量を飲んだが、しかし酔っ払ってしまうほど、多量には飲まなかった。それなのに私はすっかり元気を回復し、ひどく好い気持になり、ここに来てから初めて、もう重荷も感じなくなって、それをかついだまま、あちこちはね回りはじめ、鼻歌を歌いながら、木々のあいだを踊り出すほどになった。そればかりか、踊りに合わせて、大声でけたたましく笑いながら、手を打ち始めさえしたのであった。
老人《シヤイクー》は、私がこうしたいつもにない有様でいるのを見、私の力がすっかり増して、平気で自分を運んでいるのを見届けると、合図をして、その瓢箪をよこせと命ずるのであった。私はこの要求に大いにむっとしたが、なにしろやつが怖くてならず、敢えて断わりきれなかった。そこでしぶしぶ、いそいで瓢箪を渡した。やつはそれを私の手から取りあげて、口もとに持ってゆき、最初ためしに毒味をしてみると、その液がうまかったので、飲み出し、最後の一滴まで瓢箪をあけて、次に、それを遠くに放り出してしまった。
まもなく、酒の利き目が、やつの脳に現われはじめた。そして酔っぱらうに十分なくらいしたたか飲んだので、やがて、まずやつなりに踊りだし、私の肩の上で暴れだし、次にくたくたになって、身体じゅうの筋肉がゆるみ、やっと落ちないだけに身体を支えながら、右左によろめきだした。
そのとき私は、今はいつもほど締めつけられていないのを感じて、す早くやつの両脚を首からほどき、肩をひと振り振って、やつを数歩のところに振り飛ばし、地上に転がしてやると、やつはそのまま、身動きせずに伸びていた。そこで私はやつに躍りかかって、木の間から大きな石をひとつ拾ってきて、狙い定めて、やつの頭をめった打ちに打ったので、頭蓋は割れ、血は肉に混ざった。やつはくたばった。なにとぞアッラーは、けっしてきゃつの魂を憐れみたまわぬように。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百八夜になると[#「けれども第三百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
やつの死骸を見ると、私は身体よりも魂がずっと身軽になったのを覚え、悦び勇んで駆けだし、こうして海岸にゆき、ちょうど自分の船の難破したおり、海に投げ上げられた場所に着いた。天命はあたかもこのとき、水夫たちが、たまたま投錨した船からおりて、水と果物を求めて、ここにいることを望んだのであった。彼らは私を見ると、この上なく驚いて、私のまわりに寄ってきて、互いに挨拶《サラーム》を交わしてのち、私に仔細を尋ねた。私は彼らに、どのようにして難破したか、また最後には殺してしまった老人《シヤイクー》によって、どのようにして、永久に駄獣の身分にされたかなど、自分の身に起ったことを話した。
私の身の上話を聞いて、水夫たちはびっくり仰天して、叫んだ、「あらゆる航海者に、『海の長老《シヤイクー》(11)』という名で知られているあの長老《シヤイクー》から、あなたが逃れることができたとは、何という驚いたことだ。あの老爺《じじい》にしめ殺されなかったのは、あなたがはじめてだ。なぜって、あの老爺はいつでも、首尾よく囚《とら》えた男を一人残らず、股のあいだで圧死させてしまったものだ。あなたをあの男から救い出してくださったアッラーは、祝福されてあれ。」
そのあとで、水夫たちが私を自分の船に連れて行ってくれると、その船長は私を鄭重に迎えて、私の裸を蔽う衣類を与えてくれた。そして私の冒険をひとくさり話させてから、船長は私の助かったことを祝って、再び帆をあげた。
幾日幾夜の航海ののち、われわれは立派な家々の立ち並んだ、海に面した町の湾内にはいった。〔(12)この町は、付近の木々に猿が夥しく住んでいるので、「猿が町」と呼ばれた。
私は、この町を訪ねて何かひと仕事してみようと思って、船の商人の一人と一緒に上陸した。その商人は私の友人になった人であったが、私に木綿袋をひとつくれて言った、「この袋を持って、これに小石を詰め、域壁を出てゆく町の住人たちのなかに、はいりなさい。あなたはその人たちのするのを見て、そのとおりまねなさい。そうすればたっぷり稼げますよ。」
そこで私は勧められたとおりにして、袋に小石を詰めたが、ちょうど詰め終えると、町から一群の人が、やはり私の袋と同じような袋をそれぞれかついで、出てくるのを見た。友人の商人はその人たちに、言葉を尽して私のことを頼んで言った、「これは貧しい異国の者でございます。どうか御一緒に連れて行って、御地《おんち》で暮しを立てる道を教えてやってくださいまし。この者の面倒を見てくだされば、あなたがたはやがて、『報賞者』にたっぷりと褒美を賜わることでございましょう。」その人たちは聞き、承知して答え、私を一緒に連れて行ってくれた。
しばらく歩くと、われわれは誰にも登れそうもないくらい高い大木に蔽われた、広い谷に着いた。そしてその木々には、例の猿がいっぱい住んでいて、枝々には、インド椰子といわれる殻の固い大きな果実が、たわわになっていた。
われわれはそれらの木の根もとに立ち止まると、連れの人々は袋を地に下ろして、猿をめがけて、小石を投げはじめた。私も見習ってそうした。すると猿は腹を立てて、木のてっぺんから、夥しくたくさんの椰子の実を投げつけて、応戦した。われわれのほうでは、ときどきそれをかわしながら、その実を拾って袋に詰めるのであった。
袋がいっぱいになると、われわれはそれをまた肩にかついで、再び町に戻ると、友人の商人は、私の袋を取って、その代金を金子《かね》で渡してくれた。私はこうして、毎日椰子の実拾いについて行っては、町でその実を売り、だんだんに稼ぎを積み立てていって、ひと財産できるまでこれをつづけた。その財産はいろいろな交換と買物の結果、ひとりでにふとって、やがて私は、「真珠海」に行く船に便乗することができるようになった。〕
かねて私は、莫大な分量の椰子の実を持ってゆく手筈をしておいたので、諸方の島に着いては、それを胡椒と肉桂に換えずにはいなかった。そして、よその国でその胡椒と肉桂を売り、手に入れた金子《かね》でもって、私は「真珠海」に行き、自費で数名の潜水夫を雇い入れた。
真珠採取では、大当りだった。それで僅かのあいだに、莫大な財産を得ることができた。それゆえ、もうこれ以上帰国を遅らせることを望まず、そこで自家用に、この偶像崇拝の国の土人から、極上の伽羅《きやら》の木を買い上げた上で、バスラに出帆する船に乗り、申し分ない航海ののち、恙《つつが》なくバスラに着いた。そこから、直ちにバグダードに出発し、自分の町と自宅に駆けつけると、親威知友に歓喜して迎えられた。
私は今までにかつてなく金持になって帰ったので、窮乏している人々に惜しみなく金品を施して、自分の周囲に、あまねく安楽を与えずにおかなかった。そして私自身も悦びと楽しみに包まれて、欠けるところのない無事平穏のうちに、暮したのでありました。
けれども、あなたがた、おおわが友御一同よ、今宵はどうぞ拙宅で食事をなさって、そして明日は必ず、また私の第六の航海の話を聴きに、お運びください。というのは、これこそはまことに驚くべきもので、今まで皆さんのお聞きになった冒険のごときは、いかに稀代のものとはいえ、そんなものは忘れさせてしまうようなものですから。
次に船乗りシンドバードは、この物語を語り終えると、いつものように、驚嘆している荷かつぎに金貨百枚を取らせ、荷かつぎは夕食をすまして、ほかの会食者たちと一緒に、引き取りました。そして翌日、同じ顔触れの前で、前日と同様、豪奢な饗宴ののち、船乗りシンドバードは次のような言葉で語ったのでございました。
[#ここから3字下げ]
船乗りシンドバードの物語のうち第六話
そしてこれは第六の航海である
[#ここで字下げ終わり]
│されば、おお皆様がた御一同、わが友、わが仲間、親しい客人がたよ、さて私が五度目の航海から帰ってきてから、ある日のこと、門口に坐って涼をとりつつ、まことにこの上なく愉《たの》しい心地でいると、そこに、旅から帰って来たらしい様子の商人が二、三人、町を通ってゆくのを見かけました。これを見ると、私はやはり自分の旅から家に着いた日々のことやら、親戚や知友や昔の道連れに再会する悦びやら、それにもまして、自分の故郷に再びまみえる大きな悦びなぞを、心楽しく思い起しました。そしてその思い出は、私の魂を旅と取引に誘った。そこで私は旅立つ決心をして、海に耐えるような高価な立派な商品を仕入れ、荷物を積ませて、バスラの町を指して、バグダードの都を立ちました。その地で私は、豪勢な商品を携えた商人と、名だたる人々を満載した、一艘の大きな船を見つけた。そこでその人たちの荷と一緒に、自分の荷をその船に積みこませ、そして、われわれは安らかにバスラの町を離れた。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百九夜になると[#「けれども第三百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
われわれは次から次へ、町から町へと、売りながら、買いながら、いろいろの人々の住む国々の光景に、目を悦ばせながら、ずっと仕合せな航海に恵まれ、旅を有効に使って人生を楽しみつつ、航海をつづけていった。ところが、日々のうちのある日のこと、われわれが何の不安もなくいた折から、ふと絶望の叫び声が聞こえた。声をあげたのは、ほかならぬ船長その人であった。それと同時に、見れば船長は自分のターバンを床に投げつけ、わが顔を打ち、髯をむしり、想像を絶した悲しみに捉われて、船の真中にくずおれるのであった。
そこで船客と商人は皆、船長を取り巻いて、これに尋ねた、「おお船長よ、いったいどういう異状があるのですか。」船長は一同に答えた、「実はお集まりの皆様がた、われわれはこの船もろとも、迷い子になってしまった次第で、今まで進んでいた海から出て、ほとんど道もわからぬ海に、迷い入ってしまったのです。されば、もしアッラーがこの海からわれわれを救うために、何物かをわれわれに定めておいてくださらぬかぎり、われわれここに居合わせるものは、みんな全滅です。されば、われわれをこの窮地から脱しさせてくださるよう、ひたすら至高のアッラーにお縋り申さねばなりませぬ。」
船長は、こう言ってから、立ち上がって、帆柱によじ登り、帆を連らねようとしたが、しかし突然風が猛烈に吹いてきて、いきなり船を逆立ちさせ、そのはずみに舵が壊れてしまった。その時われわれは、高い山のすぐそばにいた。そこで船長は帆柱から降りて、叫んだ、「至高全能のアッラーのほかには頼りも力もない。何ぴとも天運をとどめることはかなわぬ。アッラーにかけて、われわれは恐ろしい難破に陥った。もう救われる見込みも、助かる見込みも、全然ない。」
この言葉に、船客は皆わが身の上を泣きはじめ、生涯が終わり、望みが失われるのを見るに先立って、互いに訣別《わかれ》を告げ合いはじめた。そこに突然、船が例の山のほうに傾《かし》いで、ばらばらに壊れ、板片になって八方に散らばってしまった。そして船中にいたものは全部沈められ、商人たちは海に落ちた。ある者は溺死し、ある者は例の山にすがりついて、助かることができた。私は、山にかじりつくことのできた人々のなかにいた。
この山は、非常に大きな島のなかに位していて、この島の海岸は、難破した船の破片と、あらゆる種類の漂流物で埋まっていた。われわれの足を下ろした場所には、海に投げ上げられた夥しい数の荷物だの、商品だの、あらゆる種類の立派な品だのが、まわりに見られた。そして私は、これらの散乱する品々のなかを分けて進みはじめ、何歩か行くと、淡水の小川のあるところに着いた。この小川は、他の川がみな海に流れ入るのに反して、例の山から出て、海からは遠ざかって、その同じ山の麓にある洞穴のなかに、さらに進み入って、先が見えなくなっているのであった。
しかしそれだけではない。この川の両岸には、紅玉の石だの、色とりどりの宝玉だの、さまざまな形の宝石だの、貴金属類だのが、ばらまかれているのを、私は認めたのであった。しかも、こうした宝石類すべては、そこらの河床の小石の数ほどもあった。だから、あたりの地面一帯は、それらの反映と光彩で、燦爛《さんらん》ときらめいていて、目はその光輝に耐えないくらいであった。
またこの島には、シナの伽羅木《きやらぼく》とコモリンの伽羅木との、極上の材を蔵することも、私は認めた。
またこの島には、瀝青《れきせい》色をした、液状の生《き》のままの竜涎香《りゆうぜんこう》の泉がひとつあって、それが太陽の作用で、溶けた蝋のように浜辺に流れ出す。それを大きな魚が海から出てきて呑み込み、腹の中で温めていて、しばらく経つと、水面に吐き出す。するとそれは固くなり、性質と色が変わる。波はそれを浜辺に打ち上げて、浜辺はその香りで薫っている。また魚に呑まれない竜涎香のほうは、太陽の光線の作用で溶けて、島全体に、麝香《じやこう》の香りに似た匂いを漂わせていた。
それに同じく申し上げておかなければならないが、こうしたすべての財宝も、誰の役にも立つことができなかったのです。かつて何ぴともこの島に上がって、生きてにせよ死んでにせよ、ここを出ることができたものはなかったのですから。事実、ここに近づいた船はすべて、山にぶつかって砕けてしまったし、何ぴともこの山に登ることはできず、この山は全く通行不能であった。
そこで、われわれの船の難破からうまく助かることのできた船客も、かくいう私自身も、すっかり途方に暮れ、そしてわれわれは浜辺で、眼下にある財宝一切と、こうした豪奢のただなかに自分たちを待つ悲惨な運命とに、ただ茫然としていた次第であった。
こうして一同、どうしてよいやらなすところを知らず、しばらくのあいだ、浜辺に佇んでいた。それから、多少の糧食が見つかったので、われわれのあいだで全く公平に、それを分配した。しかるに、私の仲間たちは冒険には全く不慣れであったために、それぞれの分け前を、たった一度か二度で食べてしまった。そこでしばらく経つと、めいめいの耐久力によって違ったにせよ、とにかく食糧不足で、次々に、ばたばたと倒れずにいなかった。しかし、私は自分の糧食を用心深く節約することができて、一日に一度しか食べなかった。それに、私は自分一人だけ、他に糧食を見つけ出していたのであったが、そのことは固く仲間に言わないようにした。
われわれのなかで最初に死んだ連中は、残った人たちの手で、身体を洗い、浜辺で拾った布で作った経《きよう》帷子《かたびら》を着せた上で、埋葬された。それに、食糧不足にもってきて、海の湿った気候のため発生した、腹の病いの疫病《えきびよう》が加わった。そこで私の仲間は、ほどなく最後の一人まで死んでしまった。そして仲間の最後の一人の墓穴を手ずから掘ったのは、すなわちこの私であった。
このときには、倹約と用心にもかかわらず、もう私の手許には、ほんの僅かの食糧しか残っていなかった。そしていよいよ最後の時が迫ってくるのを見て、私はこう考えながら、わが身の上を泣きはじめた、「なぜ私は、仲間たちに先立って倒れてしまわなかったのか。そうすれば身を洗って埋めてもらい、埋葬してもらえたものを。全能のアッラーのほかには頼みも力もない。」そこで、私は絶望してわれとわが手を噛みはじめた。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十夜になると[#「けれども第三百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その時私は思い定めて立ち上がり、独り言を言いながら、深い穴を掘りはじめた、「いよいよ自分の最後の時が来るのを感じたら、私はここまではいずってきて、この穴に身体を入れて、死ぬとしよう。風が次第に私の頭上に砂を積んでいって、穴を埋めてくれるだろう。」そして私はこの仕事をしながら、一方では、先立つ五度の旅でさんざん耐え忍んだすべてにもかかわらず、一度、二度、三度、四度、五度と、ひどい目に会い、次から次へと、前よりも一段と悪い試練に会ったにもかかわらず、あさはかにもこりずに故郷を出たことを、わが身に咎めるのであった。私は自分に言った、「お前はいったいなんべん後悔しては、また同じことを繰り返すのか。何の必要あって、また旅に出たのか。お前はバグダードに十分な財宝を持っていはしなかったか。お前の暮しのような一生を、二度できるぐらいの金子《かね》を持って、ふんだんに使ってもけっして使い果す心配のないだけのものを、持っていはしなかったか。」
こうした想いにつづいてやがて、川を見ているうちに思いついた、別の考えが浮かんだ。事実、私は独りごちたのであった、「アッラーにかけて、この川には定めし始めと終りがあるにちがいない。その始めのほうは、ここからよく見えるが、終りのほうは、目に見えない。さりながら、この川はああして山の下にもぐり入っているからには、疑いなく、向う側で、どこぞの場所に出ているは必定だ。されば思うに、私がここを逃れるために、実際に実行できる唯一の考えといえば、何か自分で小舟を作って、それに乗りこみ、この水の流れにわが身を委せて、洞穴のなかにはいってゆくことだ。それがわが天命とあらば、私はそうすることによって助かる道を見出すだろうし、さもなければ、そこで死ぬまでだ。それにしても、この海岸で飢え死にするよりは、ひどくあるまい。」
そこで、私はこの思いつきにいささか元気を取りもどして、立ち上がり、すぐに自分の計画の実行に取りかかった。私はシナとコモリンの伽羅木の大きな枝束をよせ集めて、縄で互いのあいだをしっかりと結び合わせた。その上に、難破船から出た大きな板片を、浜辺で拾い集めて載せ、こうして全体を、川幅ぐらいの広さ、というよりは、それよりか心持ち小さいが、大して小さくないくらいの、筏の形にまとめ上げた。この仕事が出来上がると、紅玉、真珠、その他あらゆる種類の宝石の、一番大きいもの、小石ぐらいのやつを選んで、いっぱい詰めた大袋数個を、その筏に積んだ。また麝香も、全く上等でまざり物を含まぬものを選んで、数個の荷にして持った。また残っている食糧も、持ってゆかずにはおかなかった。そこで、全部筏の上にうまく釣合いをとって載せ、筏にはあらかじめ、櫂《かい》代わりに二枚の板を備えておき、そして最後に、わが身をアッラーの思し召しにまかせ、次の詩人の句(13)を思い起しながら、自分がその上に乗りこんだ。
[#ここから2字下げ]
友よ、圧制の治むる地を棄てて、住居をば、そを建てし人々の上に、哀悼の叫びをこだまするに委せよ。
汝は汝《な》が地以外の他の地を見出だすらん。されど汝《な》が魂を一にして、汝はこれを再び見出すことあらざらん。
夜々の災厄の前に悲しむことなかれ。なんとなれば、災禍は、たとえ最大のものなりとも、その果ての至るを見るものなり。
しかして、あらかじめおのが逝去を一の地上に定められたる者は、その地をおきて他の地上に死するあたわざることを、すべからく知れよ。
しかして、汝の不幸にあって、何ぴとか助言者に使者を走らすをやめよ。何ぴとも、汝《な》が魂にまさる助言者はあらじ。
[#ここで字下げ終わり]
かくて筏は流れに引かれて、洞穴の円天井の下にゆくと、やがて岩壁に激しくぶつかりはじめ、私の頭もまた天井にごつんごつんとぶつかり、私は、突然真の闇のなかにはいって怖気づき、早くも浜辺に戻りたくなった。けれどももう退《ひ》くわけにはゆかなかった。激しい急流は、ますます私を中に引きこんでいった。河床はあるいは拡まり、あるいは狭まり、一方闇は身辺にますます濃くなり、それが何にもまして、私を参らせた。そこで私は、もともと大して役にも立たなかった櫂を放して、天井にぶつけて頭を割らないように、筏の上に腹ばいに身を伏せたが、どうしたわけかいつのまにか、昏々と眠って感覚がなくなってしまった。
私の昏睡は、もし、多分この眠りの原因となった心痛から判断しなければならないとすれば、確かに一年も、それ以上もつづいたにちがいない。いずれにせよ、覚めてみると、私は白昼のただなかにいた。よく目を開いてみると、私は広い野の、草の上に横たわっているのであった。そして筏は川ぶちに繋がれ、自分のぐるりには、インド人とアビシニア人がいた。
それらの人たちは、私が目を覚ますのを見ると、私に話しかけたが、こちらはその言葉が全然わからず、返事ができなかった。私は、これはすべて一場の夢にすぎないのだとさえ、思いはじめたが、そこに一人の男が、こちらに進み出て、アラビア語で言った、「御身の上に平安あれ、おおわれらの兄弟よ。あなたはいったいどなたで、どこから来たのか、どういう動機《いわれ》でこの国に来なされた。私たちはというと、百姓で、作物と畑に水をやりに、ここに来ている者です。あなたがあの筏の上で眠っているのを見つけたので、筏を止めて川岸に繋ぎ、それから、あなたを驚かしてはいけないと思って、ひとりでに静かに目が覚めるのを、待っていたわけだ。いったいどういう冒険をしてここに来られたのか、聞かせてもらいたい。」私は答えた、「御身の上なるアッラーにかけて、おお御主人様、まず何か食べさせてください、腹が減ってならないのです。それから、いくらでもお好きなだけ、尋ねてください。」
この言葉に、その人はいそいで走って行って、私に食物を持って来てくれた。私は満腹し、落ち着き、元気を回復するまで食べた。そこで自分の魂が戻ってくるのを覚えて、この際アッラーに感謝し、あの地下の川から逃れ出たことを大いに悦んだ。それから、自分を取り巻いている人々に、わが身に起ったことをば、一部始終すべて話して聞かせた。
私の話を聞くと、彼らはひどくびっくりして、お互い同士で話しはじめた。そしてアラビア語の話せる男は、さっき私の話を一同にわからせてやったように、今度は私に、彼らの話し合っていることを説明してくれた。みんなは驚嘆のあまり、私を王のところに案内して、私の冒険をお聞かせ申したいというのであった。私も即座に承知すると、彼らは私を連れて行った。同時に、竜涎香の荷と宝石を満たした大きな袋ともども、筏も、そのままそっくり運ばずにはいなかった。
王は、私がどういう者かを彼らから聞いて、非常に鄭重に私を迎えられた。そして挨拶《サラーム》を交わしてのち、私自身から私の冒険の話を聞かせよとのお言葉であった。私はすぐに御意《ぎよい》に従い、細大洩らさず、わが身に起ったことを全部お聞かせした。しかしそれを繰り返したところで詮なきことです。
私の話に、この島、すなわちセレディブ島(14)の王は、驚きのかぎりに達しなされ、私が遭遇したあらゆる危険にもかかわらず、生命《いのち》をまっとうしたことを、深く祝してくださった。そこで私は、この旅がとにかく私に何かの役に立ったことをお目にかけたいと思って、いそぎ御前で、私の袋と荷を開けて御覧に入れた。
王は宝石類の非常な目利きであらせられたので、この私の蒐集品を激賞なさった。私は王に敬意を表して、おのおのの種類の宝石のごく見事な見本をひとつずつと、いくつもの大粒の真珠と、金銀の丸ごとの塊りを選んで、贈物として献上した。王は御嘉納あって、かわりに懇切と栄誉のかぎりを尽され、御自身の御殿に泊まるようにと仰せられた。私はお言葉のとおりにした。そこでこの日から、私は王と島の主だった名士たちの友人となった。そして皆が私の国のことをいろいろ尋ね、私はそれに答え、また私のほうからも、この国のことをいろいろ尋ね、みんなはそれに答えてくれた。こうして私の知ったところでは、セレンディブ島は縦八十パラサンジュ(15)、横八十パラサンジュあり、ここには地上最高の山があり、その頂上には、われらの父祖アーダムがしばらく住んでいたという。またこの島には、いかにも私の荷物の品ほど見事でないにはちがいないが、多くの真珠と宝石を蔵し、また多くの椰子の木があるとのことであった。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十一夜になると[#「けれども第三百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ある日のこと、セレンディブの王は御自身私に、バグダードの公務状態と、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの治世の模様を、お尋ねになった。そこで私は、教王《カリフ》がいかに公正で仁慈満てるかをお話しし、教王《カリフ》の御偉勲と御|懿徳《いとく》を事細かに述べた。すると、セレンディブの王は感嘆なさって、おっしゃった、「アッラーにかけて、教王《カリフ》は真に英知と自国を治める術《すべ》とを心得ておられることが、よくわかった。そちの言葉によって、余は深く欽慕の念を覚えさせられた。されば余はぜひ、教王《カリフ》に対し、何ぞそれにふさわしき進物の用意をいたし、そちと共にそれをお届けしたいと思う。」私はすぐに答えた、「お言葉承わり、仰せに従いまする、おお御主君様。いかにも、私はまちがいなく、御進物を教王《カリフ》にお届けいたすでございましょう。教王《カリフ》もこの上なくお悦びになられましょう。そして同時に、わが君がいかばかり教王《カリフ》のよきお味方であり、安んじて御同盟相成ってしかるべき旨も、言上いたしましょう。」
この言葉に、セレンディブ王は侍従らに何か御命令になると、彼らはとりいそぎお言葉に従った。そして彼らが教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードに献上するため、私に渡した進物は、次のような品々であった。まず第一に、色彩見事な、高さ約半尺、厚さ指一本の、ただ一個の紅玉のなかに刻んだ、大きな器《うつわ》があった。この器は酒杯のような形をしていて、その中には、ひとつひとつはしばみの実ほどある、円い白い真珠が、いっぱいに満たされていた。第二は、一ディナール金貨ほどの大きさのうろこのついた、大蛇の皮で作った敷物で、この上に寝ると、万病が治るという霊験を備えた品であった。第三は、ひと粒ひと粒がピスタチオの実(16)ほどある、極上の樟脳の粒二百個。第四は、それぞれ長さ十二腕尺、根もとの幅二腕尺の象牙二本。それに加えて、宝石ずくめの、セレンディブ産、琥珀《こはく》色の肌の若い美女一人がいた。
同時に、王は信徒の長《おさ》宛ての御信書を私に渡して、申された、「進物として献上する品の乏しいことを、教王《カリフ》にそちからよろしくお詫びしてもらいたい。余が深くお慕い申している旨を、お伝え申してくれよ。」私は、「お言葉承わり、仰せに従いまする」とお答えして、その御手《おんて》に接吻した。すると、更に仰せられた、「さりながら、シンドバードよ、もしそちがわが王国にとどまるほうがよければ、そちはわれらの頭上と目のなかにあろうぞ。その節は、そちのかわりに、誰ぞをバクダードの教王《カリフ》の御許に派すであろう。」そのとき、私は叫んだ、「アッラーにかけて、おお世紀の王よ、君の御仁慈は博大なる御仁慈にて、君は私に御恩恵のかぎりを授けたまいました。さりながら、今あたかもバスラに向わんとしている船がございまして、私はそれに乗船して、親戚や子供たちや故郷を見にゆきたき念、切なるものがございます。」
この言葉に、王はそれ以上たって私にとどまれとはおっしゃらず、直ちに件《くだん》の船の船長と、また私と一緒に立つ商人たちを召し出されて、一同に、私をあらゆる敬意を払って遇するようにお命じになりながら、なお私のことをくれぐれもお頼みになった。船賃は御自身お払いくだされ、多くの貴重な品々を賜わり、それらは今なお私の珍蔵しているところです。というのは、私はこの御親切なセレンディブ王の思い出として、それらを売り払う気にはなれなかったからです。
王をはじめ、この愛すべき島に滞在中知り合いになった友人一同に、別れを告げてのち、私は船に乗ると、船はすぐ帆をあげた。われわれはアッラーの御慈悲に身を委せて、順風に乗って出発し、島から島へ、海から海へと渡って、とうとうアッラーの御恵《みめぐ》みにより、何の故障もなくバスラに着き、そこから、私は自分の財宝と教王《カリフ》への献上品を携えて、バグダードに急行した。
それゆえ、私は何はともあれ、まず信徒の長《おさ》の御殿に赴くと、謁見の間《ま》に案内された。そこで私は教王《カリフ》の御手の間の床《ゆか》に接吻し、御信書と献上品を捧呈し、自分の冒険を、委細お話し申し上げた。
教王《カリフ》はセレンディブ王の御信書を読み終え、献上品をお改めになると、この王は果して御書面と献上品の示すがごとく、富裕で強大かどうかと、御下問になった。私はお答えした、「おお信徒の長《おさ》よ、セレンディブ王のお言葉に誇張がないことは、私が保証いたすことができまする。それに、強大と富裕に加うるに、王は非常な正義の念をもってせられ、御英明に民を治めておられます。王は、その王国のただ一人の法官《カーデイ》であらせられますが、その国では、人民はきわめて穏和で、お互いのあいだに紛争なぞは絶えてございません。まことに、この王こそは、わが君の御懇情にふさわしきお方にござります、おお信徒の長《おさ》よ。」
教王《カリフ》は私の言葉に御満足になって、仰せられた、「ただいま一読した書面と、そちの言葉によって、セレンディブの王は、英知と処世との掟を熟知しておらるる、卓越した人物であることが、証せらるる。王に治めらるる民は、幸福であるぞよ。」次に教王《カリフ》は、私に誉れの衣一着と豊かな引き出物を数々賜わり、私に敬意と特権のかぎりを尽され、私の物語をば、もっとも巧みな書記たちにお書かせになって、御治世の文庫に保存するようにとの思し召しであった。
そこで私は退出して、自分の町と自宅に駆けつけた。かくて私は親戚知友に取りまかれ、過去の憂苦を忘れ、生活が私に得させうるかぎりの、あらゆる福祉を求めることしか念頭になく、富裕と名誉のただなかに暮したのであった。
第六の航海中の私の物語は、以上のようなものであります。けれども明日は、おお客人がたよ、アッラーの思し召しあらば、私は皆さんに、私の第七の航海の物語をお話し申しましょう。これは今までの六つの航海を合わせたよりも、もっと驚嘆すべく、もっと驚くべく、もっと不思議に満ちております。
そして船乗りシンドバードは饗宴の食布を拡げさせ、お客たちに食事を供えさせました。荷かつぎシンドバードも、そのなかにはいっていて、主人は彼の辞去する前に、前日同様、金貨百枚を取らせました。そして荷かつぎは、今聞いたすべてに驚嘆しながら、自宅に引き取りました。それから、その翌日、朝の礼拝をすませて、再び船乗りシンドバードの屋敷に戻りました。
お客が全部揃って、飲み食いし、お互いのあいだで談笑し、歌と楽器の弾奏を聞き終えると、一同は真顔になって口をつぐみ、輪になって並びました。そして船乗りシンドバードは次のように語ったのでございました。
[#ここから3字下げ]
船乗りシンドバードの物語のうち第七話
そしてこれは第七の最後の航海(17)である
[#ここで字下げ終わり]
されば、おおわが友御一同よ、さて私は六度目の航海から帰ると、今後またほかの航海をしようなぞという考えは、断然一切投げうってしまいました。というのは、年齢がもう遠征を許さなかったばかりでなく、これまで冒したあらゆる危難と遭遇した苦難ののちで、新しい冒険を試みようなぞという望みは、もはや実際のところ、ほとんど抱いていなかった次第です。それに、自分はバクダード随一の金持となったし、教王《カリフ》もしばしば私をお召しになって、航海中見聞した稀代な事柄の話を、私の口からお聞きあそばされるありさまであったのです。
ある日のこと、やはりいつものように、教王《カリフ》が私を召し出されたので、私は自分の冒険の一つか、二つか、三つを、お話し申し上げるつもりでいると、そのとき教王《カリフ》は仰せられた、「シンドバードよ、ときにセレンディブ王のもとに、余の返書と王に贈る進物を携えて、人を遣らねばならぬが、何ぴともそちのごとく、かの王国に至る途を知っているものはない。王もまたそちに再会するのを、深く満足とせらるるに相違ない。されば今日のうちに、出発の用意をいたせ。なんとなれば、かの島の王に恩を受けたままでいることは、われらとして礼に叶うまじく、これ以上わが返書と贈物を遷延いたすは、われらにふさわしくあるまいからな。」
この教王《カリフ》のお言葉に、世界は私の顔の前に暗闇となり、私は困惑と驚きのかぎりに達しました。さりながら、教王《カリフ》の御機嫌を損じてはと思って、どうにか自分の気持を制するに至り、そこで、もはや二度とバグダードを離れないと、かねて誓いを立てていたにもかかわらず、私は教王《カリフ》の御手の間の床に接吻して、仰せ畏まって御返事申し上げた。すると教王《カリフ》は、路銀として金貨一万ディナールを賜わって、おんみずからしたためた宸翰《しんかん》と、セレンディブ王あての御進物をお渡しになった。
それらの御進物は、次のような品々でした。まず莫大の額のディナール金貨に相当するような、深紅の天鵞絨《ビロード》製の、素晴らしい寝台ひと揃いがあり、また別な色の別な寝台、更に別な色の別な寝台もあった。それからクーファとアレクサンドリアの、刺繍を施した上等の布製の衣服百着、バグダードの衣服五十着。また古い時代のもので、白い紅玉髄製の器《うつわ》一個、その底には、獅子に向って弓を引き絞っている戦士の姿が描かれていた。その他にも、数多《あまた》の品々があり、いちいちあげていてはきりがないが、なお、最上のアラビア純血種の馬ひとつがいがあった。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十二夜になると[#「けれども第三百十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私は、今度は心ならずも、出発せざるをえない羽目になって、バスラで、出帆間際の船に乗り込んだ。
天運はきわめてわれわれに幸いして、日に日を重ね、二カ月後には、われわれはなんの故障もなくセレンディブに着いた。私はとりいそぎ、王に信徒の長《おさ》の贈物と宸翰をお届けした。
王は私に再会なさると、御満悦で、大いに悦ばれ、教王《カリフ》の御鄭重さに深く満足なされた。王はそのとき、私をおそばに引き止めて、長く滞在するようにとのお望みであったが、私は疲れを休める期間かっきりしか、とどまりたくなかった。そのあとで、私は王にお暇を告げ、敬意と贈物のかぎりを受けて、来たときのように、再び乗船してバスラに向かうことを急いだ。
風は最初順調で、われわれの到着した最初の場所は、シーン島といわれる島であった。全くそこまでは、申し分のない満足な状態であった。そして航海中ずっと、われわれはきわめて愉快に、互いに語り合い、しゃべり合い、よもやまの話をしていた。
ところがある日、件《くだん》の島で、商人たちがいろいろの交換と買い物をした上で、そこを去ってからちょうど一週間目に、いつものようにゆっくりと横になっていると、そこに突然、頭上にものすごい暴風雨が突発し、滝のような雨が、われわれを水びたしにした。そこで、われわれは慌てて自分たちの荷物と商品に麻布をかけて、水で駄目にならないようにし、そしてわれわれの行路の一切の危険を払ってくださるように、ひたすらアッラーに祈りはじめた。
われわれがこうした有様でいるあいだに、船長は立ち上がって、腰を帯で固くしめ、袖をたくし上げ、衣服をまくり、次に帆柱のてっぺんによじ登って、長いあいだ、とみこうみしはじめた。次に、すっかり顔色を黄色くして降りてきて、全くの絶望の色を浮かべてわれわれを見、無言で、われとわが顔を激しく打ち、髯をかきむしりはじめた。そこでわれわれはすっかり怯えて、船長のほうに駆け寄って、これに尋ねた、「どうしたのですか。」船長は答えた、「奈落ですわい。あなたがた御自身の身の上を嘆き、お互いに永の別れを告げなされ。何を隠そう、実は、潮流のためわれわれは進路をそらされ、世界の海の果てに投げこまれてしまったのです。」
次に、このように語ってから、船長は自分の箱を開けて、木綿の袋を取り出し、それをほどいて、なかから灰に似た粉を取り出した。その土を僅かの水でぬらし、しばらくじっと待ち、次にその混ぜものを嗅ぎはじめた。それがすむと、箱のなかから一冊の小さな書物を取り出して、何かぶつぶつ呟きながら、その何ページかを読んで、最後にわれわれに言った、「されば、おお船客御一同よ、この書物によって、私の推測は確かめられました。皆さんの前に、遥か浮び上がって見える陸地は、『諸王の地』という名で知られた土地であります。われらの主スライマーン・ベン・ダーウド(おふたかたの上に祈りと平安あれ)の御墓があるのは、あそこです。それに、今われわれのいるこの海には、海の怪物が住んでいて、それらは最大の船をも、船荷と船客もろとも、ただひと口で呑み込んでしまうことができる。皆さん御油断あるな。ウァサラーム(18)。」
われわれはこの船長の言葉を聞いたときには、極度に仰天してしまい、これからいかなる怖ろしいことが起るやらと自問していると、その時、われわれは船もろとも持ち上げられ、次にいきなり下ろされるのを感じ、一方雷ほども恐ろしい叫び声が、海からあがってきた。われわれはすっかり恐れをなして、もう最後の祈りをあげてしまった。するとそこに、われわれの前に、泡立つ海上に、山ほども高い一頭の怪物が、つづいて、もっと大きな二番目の怪物が、そのあとからは、二匹を束にしたほど大きな三番目のやつが、船のほうに進んでくるのが見えた。この最後のやつが、突然海の上に躍り上って、海が深淵のように割れたと思うと、奈落よりも巨大な口を開いて、われわれの船の四分の三を、そこにあるもの全部と共に、そっくり呑み込んでしまった。私は、ちょうど船の上のほうに身をひいて、海に飛びこむ暇があったが、そのあいだに、怪物は残りの四分の一を腹中に収め終わって、他の二頭の仲間と一緒に、深みに姿を没したのであった。
さて私のほうは、海の怪物の歯に砕かれて船から飛び散った板片の一枚に、うまく縋りついて、それからさんざん難儀を重ねたすえに、ある島に辿り着くことができたが、幸いにして、その島は果樹に蔽われ、良い水の川が注いでいた。けれども、その川は非常に流れが急で、鳴り渡る響きが遠方で聞えるほどなのを認めた。
そこで私は、かつて宝石の島で脱した方法を思い浮かべて、前例にならって、筏を組み上げ、流れに身を運ばせることを思いついた。実際私は、この新しい島の温暖な気候にもかかわらず、なんとか故郷に辿り着くように、試みてみたいと思ったのであった。私は独り言った、「もし首尾よく助かれば、万事この上なしで、自分は今後旅という言葉をけっして舌に来たらせず、もはや余生を通じて、そんなことを考えないという誓いを立てよう。それに反して、もし自分の企てで身を滅ぼしたら、やはり万事この上なしだ。なぜなら、そうやって苦労と危難とから、きっぱり縁を切ることになるわけだからな。」
そこで私はすぐさま立ち上がって、果物をいくつか食べてから、たくさんの大きな枝を集めた。その木の種類は当時知らなかったが、のちになってそれは、最も珍重されている、最上質の白檀《びやくだん》の木であることを知った。そうしてから、私は縄と紐を探しはじめたが、最初は全然見当らなかった。しかし木々の上に、それに十分まに合うような、ごく丈夫な、よくしなう蔓草を見かけたから、自分に必要なだけそれを切り取って、白檀の太枝を結び合わせるのにこれを使った。こうして大きな筏を造り上げ、その上にたくさんの果物を載せて、こう唱えながら、自分自身も乗り込んだ、「もし私が救われるならば、それはアッラーによるものだ。」
私が筏に乗って、それを川岸から離すまもなく、筏は流れに乗って、恐ろしい速さで引き行かれ、私は目眩《めまい》がして、酔っぱらった雛《ひよこ》そっくりに、さっき載せた果物の山の上に、気を失って倒れてしまった。
再び気がついたとき、身のまわりを見まわしてみると、私は今までにもまして恐れに身動きならず、雷鳴に耳を聾せられた。川はもはや奔騰する泡の激流にほかならず、風よりも速く、岩に当たって轟然と、ぱっくりと口を開く谷底へ向って、驀進《ばくしん》している。その谷底は、目に見えるというよりも、心に感じられたのだ。今や私は疑いもなく、どれほどあるかわからない高みからそこに落ちこんで、粉|微塵《みじん》になろうとしている。
この縮み上がるばかりの思いに、私は力いっぱい筏の枝にしがみつき、自分が砕かれてぐちゃぐちゃになってしまうのを見まいとして、本能的に目を閉じ、そして死に先立って、アッラーの御名を念じた。するとにわかに、奈落の底に転げこむかわりに、筏がはたと水上にとどまるのを感じたので、これはいったい死のどのあたりにいるのか見てやろうと、私は一瞬目を開けた。すると見えたのは、わが身が岩にぶつかって粉微塵になるのではなく、人々が川岸から、私めがけて投げた大網に、筏もろとも、掛かっているところであった。こうして私は捕えられて、陸《おか》に引き上げられ、そこで半死半生の態《てい》で、網の目のあいだから引き出され、一方筏も岸に引き寄せられた。
私はぐったりとなって、寒さに顫えながらそこに伸びていると、白い髯の品のよい老人《シヤイクー》が進み寄って、まず私に歓迎の言葉を述べて、次に暖かい着物を私の身体にかけてくれたが、それがこの上なく気分をよくした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十三夜になると[#「けれども第三百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
老人《シヤイクー》が親切に身体をさすり揉んでくれたので、元気がつくと、私はまだ口を利くことこそできなかったが、身を起して坐ることができた。すると老人《シヤイクー》は、私の腕を支えて、静かに浴場《ハンマーム》に案内し、私を結構な風呂に入れさせたので、私の魂はすっかり回復した。次に老人《シヤイクー》は、私によい香水を吸わせ、それを全身に振りかけ、それから私を自宅に連れて行った。
私がこの老人《シヤイクー》の家のなかに案内されると、一家|挙《こぞ》って、私の来たことを非常に悦び、鄭重と親愛の表示とを尽して、私を迎えてくれた。老人《シヤイクー》自自身、私を客間の長椅子《デイワーン》の真中に坐らせて、第一等の品々を食べさせ、快い花の香りのついた水を飲ませてくれた。それがすむと、私の身辺に香を焚き、奴隷たちは香りのついた湯を持ってきて、絹の縁を取った手拭をさし出した。それがすむと、老人《シヤイクー》は私を、非常に立派な家具を置いた一室に案内して、そこに私を一人置いて、自分はたいへん慎しみ深く、引き取った。けれども、いくたりもの奴隷をつけておいてくれて、彼らは時々、何か用事がないか見にくるのであった。
三日の間私は、誰にも尋ねられず、何か問いかけられもせずに、このように取り扱われた。そして何ひとつ不自由させられず、非常に親切に面倒を見てもらっているうちに、ようやく体力が完全に回復し、魂と心が静まり、爽やかになるのを覚えた。するとちょうど四日目の朝のこと、老人《シヤイクー》が来て、私のそばに坐り、挨拶《サラーム》ののち、言った、「おお客人よ、あなたのいらっしゃることは、いかばかりわれわれを満足と悦びに満たしたことでしょう。あなたを奈落からお救いするために、われわれをあなたの路上に置きたもうたアッラーは、祝福されよかし。あなたはいったいどなたで、どこから来られたのですか。」そこで私は、私の一命を救い、次いで申し分なく食べさせ、申し分なく飲ませ、申し分なく香らせて、私に尽してくれたひとかたならぬお世話に対して、老人《シヤイクー》に厚く礼を述べた上で、これに言った、「私は船乗りシンドバードと申す者でございます。世人は、私のいくたびもの海上大旅行と、私の身に起った稀代の事柄のゆえに、私をばかく呼ぶのであり、これらの事柄は、もし針でもって目の片隅に記《しる》されたならば、注意深く読む人々にとって、教訓となることでもござりましょう。」そして私はこの老人《シヤイクー》に、細大洩らさず、一部始終、自分の身の上を話して聞かせた。
すると、老人《シヤイクー》はすっかり驚き入って、もののひと時、口も利けずにいた。それほど、今聞いたことに心を動かされたのであった。次に老人《シヤイクー》は再び頭を上げて、私を救った悦びの言葉を重ねて述べた上で、言った、「さて、おお客人よ、もしもあなたが私の勧めに従う気がおありだったら、あなたは御自分の商品をお売りなさるやもしれぬが、なにせ、あれは珍奇で上質の品ゆえ、きっと大した金になるにちがいありません。」
この老人《シヤイクー》の言葉に、私は驚きのかぎりに達して、自分に一物もない以上、いったいどういう意味なのか、なんの商品のことを言っているやらわからず、はじめはしばし黙っていたが、次に、ともかくもこんな絶好の機会が不意に現われてきたのを、みすみす逃がしたくないと思って、心得たようなふうをして、答えた、「それもそうですね。」すると、老人《シヤイクー》は私に言った、「あなたの商品については、わが子よ、御心配は全然無用です。あなたはただ立ち上がって、私と市場《スーク》に同行なさりさえすればよい。あとは万事私が引き受けます。もしあれが糶《せり》で、われわれに真に得心のゆく値段まで達したら、承知するとしましょう。さもなければ、相場が上がるまで、あの品を私の倉庫に保管して進ぜましょう。さすれば、われわれは一番有利な値段をあげることができましょう。」
その時、私は内心ではますます思い惑ったが、そんな様子はつゆ見せなかった。というのは、私は自分に言ったものだ、「もう少しのあいだ辛抱しろ、シンドバードよ、そうすればなんのことかわかるだろう。」そして私は老人《シヤイクー》に言った、「おお尊い伯父上よ、仰せ承わり、仰せに従います。あなたがするがよいと判断なさることは、何事も祝福満ちてありましょう。私としましては、あなたが今まで私の身のためにしてくださった一切のあとでは、ただ御意に従うばかりでございます。」そして、私は即座に立ち上がって、市場《スーク》に同道した。
われわれが公売の行なわれる市場《スーク》の真中に着いたとき、自分の筏がそこに運ばれていて、仲買人と商人の一群に取り囲まれて、一同敬意をもって仰ぎ見ているのを見た私の驚きは、いかばかりだったでしょう。そして八方に感嘆の叫びが聞こえた、「やあ、アッラー、なんと素晴らしい上質の白檀だろう。世界じゅうどこへ行ったって、こんな上質なものはない。」そこで私は、なるほどこれがその商品というやつだなと覚って、これを売るには、重味のある、物に動じない態度をとるが肝心と判断した。
ところが早くも、私の保護者の老人《シヤイクー》は、つかつかと仲買人の頭《かしら》に近づいて、これに言った、「糶を始めなさい。」そして糶は、筏の最初の付け値として、実に一千ディナールで始まった。仲買人の頭は呼ばわった、「お立会いの皆様よ、白檀の筏、一千ディナール。」すると老人《シヤイクー》は叫んだ、「二千で買おう。」けれども他の者が叫んだ、「三千だ。」そして商人たちは付け値を上げつづけて、遂に一万ディナールに達したものだ。すると仲買人の頭は私のほうを見て、私に聞いた、「一万です。これでもうとまりですが。」けれども私は言った、「その値段では手放さない。」
すると私の保護者は、私に近寄ってきて、言った、「わが子よ、市場《スーク》はこのごろあまり繁昌しないので、この商品も多少値段が下りました。だからここのところは、言い値で承知したほうがいい。けれどもお望みなら、私がもうひと奮発して、百ディナール増しましょう。あなたは全部を、一万ディナールと百ディナールで、私に譲ってくださるかな。」私は答えた、「アッラーにかけて、親切な伯父上、あなたに限って、御恩に謝するため、さようにいたしましょう。この材をその金額で、あなたにお譲りすることを承知します。」この言葉に、老人《シヤイクー》は自分の奴隷たちに命じて、全部の白檀を自分の貯蔵倉庫に運ばせ、私を自宅に伴って、そこで即刻、その一万ディナールと百ディナールを私に支払い、金子を頑丈な箱に収めて、改めて私の好意を謝しながら、その鍵を私に手渡した。
次に老人《シヤイクー》は食布を拡げさせ、そして二人は食べ、二人は飲み、二人は楽しく語らった。それがすむと、手と口を洗い、さて、老人《シヤイクー》は私に言った、「わが子よ、ひとつあなたにお頼みしたいことがあるが、ぜひ御承引願いたいものです。」私は答えた、「親切な伯父上、何事なりとお願いを叶えるは、易きことです。」老人《シヤイクー》は言った、「わが子よ、御覧のごとく、私は頗《すこぶ》る老齢の身と相成ったが、私には他日自分の財産を継ぐような男子が、一人もない。しかし申し上げなければならぬが、私にはまだごく若く、美しさと可愛いらしさ溢るる一人の娘があり、これは私が死ねば非常な金持となるわけです。そこで私は、あなたがわれわれの国に住み、われわれの暮しを暮すという条件で、この娘をばあなたの嫁に差し上げたいと思うのです。さすればあなたはやがて、私の持つものすべてと、私の手の指揮するところすべての主人となりましょう。そして私にかわって、私の権力と私の財産の所有とを継ぐことになりましょう。」
この老人《シヤイクー》の言葉を聞いたとき、私は黙って頭を垂れ、一言も発せずにそのままにしていた。すると老人《シヤイクー》は、更に言葉を継いだ、「私の言うことを信用して、おおわが子よ、お願いすることを叶えてくだされ。それはきっとあなたに祝福を齎すでしょう。お心を安めるために、申し添えておきましょう。私の死後は、あなたは妻女たる私の娘を連れて、故郷に戻って差し支えありません。私がなお地上にあるよう定められている間、ここに留まっていて下さりさえすればよいのです。」そこで私は答えた、「アッラーにかけて、伯父上の長老《シヤイクー》よ、あなたは私の父上のようなお方で、あなたの前では、お気に召すことよりほかの意見を持つことも、決心をすることも、私にはかないませぬ。と申すのは、私はというと、自分の生涯で何か計画を実行しようと思うとそのつど、ただ不幸と失望しか得たためしがないのです。されば、私はいつなりと御意に従う心構えでございます。」
老人《シヤイクー》は私の返事にたいへん悦んで、すぐ奴隷に命じて法官《カーデイ》と証人を呼びにやると、彼らはほどなくやって来た……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十四夜になると[#「けれども第三百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……法官《カーデイ》と証人はほどなくやって来た。そして老人《シヤイクー》は私を自分の娘と結婚させ、盛大な祝宴を催し、豪勢な結婚式をあげてくれた。それがすむと、老人《シヤイクー》は私を連れて、まだ私の会ったことのない、その娘のところに案内した。その娘は、まことに欠けるところのない、美しさと愛らしさと、華奢な胴と釣合のとれた体つきをしていると思えた。それに、豪奢な品々に飾られ、その身に着けていたものは、金貨数千ディナールの値があり、誰も正確に値踏みなどできなかったくらいですらあった。
だから、私はその娘のそばにゆくと、娘が気に入った。二人はお互いに惚れ合った。そして二人で睦み合いと幸福のかぎりに、永い間一緒にいた。
その後しばらくすると、家内の父親の老人《シヤイクー》は、至高者の平安と慈悲のうちに往生を遂げた。われわれは立派な葬儀を営んで、埋葬した。そして私は、故人の持っていたものすべてをわがものとし、その奴隷と奉公人全部は、私一人の配下にある、私の奴隷と奉公人になった。その上、町の商人たちは、故人にかわって、私を彼らの頭《かしら》に任じたので、そこで私はこの町の住民の風習と、彼らの生活ぶりを、親しく調べることができるようになった。
そのうち、ある日私は、この町の人々は、毎年春の時期になると、変形《へんぎよう》を受けることに気づいて、唖然とした。彼らはその日から翌日にかけて、外形と様子を変えて、変形するのであった。両肩から翼が生じて、鳥になるのだ。すると、天空の最高所まで飛んでゆくことができる。そして彼らはこの新しい身体の状態に乗じて、残らず町から飛んでゆき、町には、こうした翼を持つ力のない女子供だけしか、残らないのであった。この発見は初めのうちこそ私を驚かしたが、結局は、この例年の変身にも慣れてしまった。ところがそのうちある日、私は自分だけが翼のないただ一人の男で、たった一人女子供と町に留まらざるを得ない身であることを、恥ずかしく思いはじめるようになった。そこで、自分の肩に翼が生えるようにするには、どうすればよいのか、住民たちにいろいろ尋ねてみたがだめで、誰一人、これについて答えることができもしなければ、答えようともしなかった。そして私は、自分が単なる、「海のシンドバード」で、自分のあだなに、「空の」という肩書を加えることができないのが、口惜しくてならなかった。
ある日、この翼を生やす秘密を住民たちに白状させることは、もうとうてい望みがないと見切りをつけていたとき、私はふと彼らの一人で、たいへん面倒を見てやったことのある男を見かけたので、その腕をとって、彼に言った、「御身の上なるアッラーにかけて、それではせめて、あなたのためにしてあげたことに免じて、一度私に、あなたにぶらさがって、あなたが空中を翔《か》けるとき、一緒に飛びまわらせていただきたい。これはひどく私の心を誘う旅行で、今までの自分の海上旅行の数に、更にぜひこれを加えたいと思うのです。」その男は最初は頑として聴き入れなかったが、くどき落して、とうとう承知する決心をさせた。私はこれにすっかり悦んでしまって、妻や家の者どもに知らせる暇さえも惜しんだ。そしてその男の胴につかまってぶらさがると、その男は両の翼をいっぱいに張って飛び立ち、私を空中に連れて行った。
われわれの空中飛行は、最初相当の時間、一直線に上昇した。そこで二人は遂に大空高く達して、空の円天井のもとの歌の調べが、はっきりと私に聞きとれたのであった。
この妙なる歌を聞くと、私は宗教的な感動の極みに達し、自分もまた、叫んだのであった、「御空《みそら》の奥なるアッラーに讃えあれ。一切の被造物によって祝福され、頌《ほ》められよかし。」
私がこの言葉を口にしたと思うと、私を運んでいた翼のある男は、恐ろしい冒涜《ぼうとく》の言葉を投げつけて、いきなり、凄まじい電光を放つ雷鳴のなかを、ものすごい速力で直下し、私は空気がなくて、すんでのことに手を放して、あわや測り知れぬ奈落の底に落ちそうになった。そしてまたたくまに、とある山の頂上に着くと、私を運んでいた男は、憎々しげにじろりと睨んで、私をそこに置き去りにし、再び飛び立って、見えざる境に姿を消してしまった。
そこで私は、この人気《ひとけ》のない山の上にただ一人残され、もういったいどうなることやら、どちらに向えば妻のもとに戻れるやら、皆目わからず、困《こう》じ果てて、叫んだ、「至高全能のアッラーのほかには頼りも権力もない。どうもおれには、一難去ればそのつど、更に悪い一難が始まる。実際、わが身に起るすべては、いかにも当然の報いなのだ。」
そこで私は,目前の急を救う道を思案しようと岩に腰を下ろすと、そのとき突然、さながら二つの月に似た、素晴らしい美貌の二人の若い男の子が、こちらに向って来るのを見た。それぞれ手に金銅《こんどう》の杖を持って、それに凭れてのんびりと歩いていた。そこで、私はつと立ち上がって、二人を迎えにゆき、これに平安を祈った。彼らも丁寧に挨拶を返したので、私はこれに力を得て、言葉をかける気になり、二人に言った、「おふたりの上なるアッラーにかけて、おお、妙なるお若い方々よ、どうぞあなた方はどなたで、何をなすっていらっしゃるのか、お聞かせください。」二人は答えた、「われらはまことの神を崇むる者です。」次にその一人が、それ以上一語も付け加えることなく、そちらの側に足を向けよと言わんばかりに、手で一方を指し示し、私の手に自分の金の杖を残して、美しい連れの若者の手をとって、二人とも、私の目から姿を消してしまった。
そこで私は、件《くだん》の金の杖を取り上げて、この二人のかくも美しい少年を思い出して驚嘆しながら、躊躇なく示された方角に向った。こうしてしばらく歩いていると、突然岩蔭から、一匹のとてつもなく大きな蛇が出てくるのが見えたが、その口には、身体の大半を呑み込まれて、頭と両腕しか見えない、一人の人間をくわえていた。その両腕は必死にもがき、頭は叫んでいた、「おお、お通りの方、この蛇の口から私を救ってください。そうなさったことを、お悔やみになるようなことはけっしてありません。」そこで私は、蛇のあとを追いかけて、後ろからねらい定めて、金銅の杖でしたたか打ちすえると、蛇は即刻即座にぐったりとなってしまった。私は呑まれている男に手を延べて、蛇の腹中から出る手助けをしてやった。
その男の顔をよくよく見ると、この男こそ、実に私に空中旅行をさせ、最後に空の天井のてっぺんから山の頂まで、私と一緒にまっさかさまに舞いおりて、危うく私を奈落の底に沈めそうになり、私を山頂に置き去りにして、飢えと渇きに死ぬ目に会わせた、あの鳥であるとわかって、私は驚きの極に達した。けれどもそれにもかかわらず、私は彼の悪行に恨みを見せようとはせず、ただ静かにこう言ってやるだけにした、「友人というものは、自分の友人に対して、このように振舞うものかね。」彼は私に答えた、「まず私は、あなたがただいま私のためにしてくださったことに対して、お礼を申し上げなければなりません。ただあなたは場所柄をわきまえぬ祈りをなさり、御名《みな》を唱えられたので、そのおかげで、あなたのせいで、私は心にもなく、空中の高みから墜落したのだということを、あなたは御存じありません。御名はわれわれすべてに、こうした結果を生ずるのです。だからわれわれはけっして、これを口に出しません。」そこで私は、この山から出してもらいたいと思って、この男に言った、「それは相済まなかった。どうか私を咎めないでもらいたい。実際私は、自分が御名を讃えることから、そんな忌わしいことになろうとは、全然察せられなかったのだから。もし今あなたが私を自宅に運ぶことを承知してくれるなら、その途中、もうけっして御名を口にしないと約束します……。」
するとその鳥は身を屈《かが》めて、私を背中に乗せ、またたくまに、私をわが家の露台に降ろして、自宅に帰って行った。
私の妻は、私が露台からおりて、こんなに長いあいだ留守にして、ようやく家にはいってくるのを見ると、起ったところすべてを察して、今一度私を破滅から救って下さったアッラーを、祝福した。次に、帰宅の悦びを吐露してから、妻は私に言った、「もうこれからは、この町の住人とつき合いなすってはなりません。あの人たちは悪魔の兄弟です。」私は聞いた、「ではお前の父上は、どうしてそんなやつらと一緒に暮していたのか。」妻は答えた、「父はあの人たちの社会の人ではなく、ほとんどあの人たちのような真似はせず、全然別な暮しをしておりました。いずれにせよ、私から御忠告申すことがあるとすれば、もう父も亡くなったのですから、私たちは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十五夜になると[#「けれども第三百十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
もう父も亡くなったのですから、私たちは、御名《みな》の遠ざけられているこんな不信の町をば、早く立ち去ってしまうに越したことはございません。けれどもそれには、まず私たちの財産と持ち家と地所を、売り払わなければなりますまい。あなたはこうしたすべてを、できるだけお得に現金に代えて、お手にはいった金額の一部で、立派な商品を仕入れなさり、その上で、私たちは二人でお国のバグダードに参り、あなたのお身内とお友達にお会いし、平安と安泰のうちに暮し、至高のアッラーに当然お払い申すべき尊敬を捧げながら、暮そうではございませんか。」そこで私は聞き承知して答えた。
私はすぐに、自分の伯父の長老《シヤイクー》、妻の父の(なにとぞこれにアッラーの御憐《おんあわれ》みと御慈悲あらんことを)全財産をば、秘術をつくして、ひとつずつ、それぞれ時機を見計らって、売りはじめた。こうして私は、動産不動産として自分たちの所有していたものすべてを、金貨に換えたが、これで百倍の利をあげたものです。
それがすむと、私は妻を連れ、手配をして仕入れておいた商品を携えて、自費で一艘の船を雇った。船はアッラーの思し召しをもって、多幸な儲けの多い航海をすることができ、かくして島から島へ、海から海へと、遂に恙なくバスラに到着し、そこにはごく僅かの間しか留まらなかった。それからは、河をさかのぼり、そして平安の都バグダードへとはいった。
そこで私は妻と財宝を携えて、自分の町と自宅のほうへと向うと、親戚たちは歓喜してわれわれを迎え、一同私の妻、長老《シヤイクー》の娘に、すっかりなついた。
さて私は、取り急ぎ用向きをきっぱり片づけることにし、自分の立派な商品を庫に納れ、財宝をしまい、そこでようやく、安らかに友人近親の祝賀を受けることができた。彼らは、私の留守した期間を数えてみると、私の旅の最後の、この第七の旅は、始めから終りまで、きっかり七年(19)にわたったことがわかった。私はこの長い留守中の自分の冒険を、詳しく一同に話して聞かせた。そして私は、余生を通じて、たとい海路であろうと、単に陸路であろうと、もうけっして旅は企てない、と誓いを立て、それは皆様御覧のように、固く守っておりまする。そして私は至高のアッラーに対し、重ね重ね過ちを犯したにもかかわらず、いくたびも、数々の危難から救いたもうて、家族と友人のなかに戻してくださったことを、厚く感謝せずにはおかなかった。
おお、お客様がたよ、私の冒険欲をばぴったりと絶つ薬となった、第七の最後の航海は、このようなものでありました。
船乗りシンドバードは、言葉なく驚嘆する会食者のただなかで、このように自分の物語を終えると、荷かつぎシンドバードのほうに向かって、これに言ったのでした、「さて、おお陸のシンドバードよ、わしの成し遂げた大業と、アッラーの御恵《みめぐ》みによってよく乗り越えた艱難を、よくよく思いみて、果して、お前さんの荷かつぎとしての運命のほうが、天命によってわしに来た運命よりも、平穏無事な生活には、はるかに都合がよいものでなかったかどうか、聞かせてもらいたい。いかにもお前さんは貧しいままであり、わしは数えきれぬ富をかち得た。しかしそれは、われわれ各人、おのが努力に応じて報いられたというものではないか。」この言葉に、荷かつぎシンドバードは進み寄って、船乗りシンドバードの手に接吻して、申しました、「御身の上なるアッラーにかけて、おお御主人様、どうぞ私の歌の軽はずみをお許しくださいませ。」
そこで船乗りシンドバードは、客のために食布を拡げさせ、三十夜にわたる饗応をいたしました。それから、荷かつぎシンドバードをば、家令として自分のそばに置くことにしました。そして両人とも、歓楽を消え失せさせ、友情を断ち、宮殿を毀《こぼ》って墳墓を建てる者、かの苦い死の訪れてくるまで、全き友情のうちに、快適のかぎりに暮したのでございました。死することなき「生者」に光栄あれかし。
[#ここから1字下げ]
――大臣《ワジール》の娘シャハラザードは、船乗りシンドバードの物語を語り終えると、軽い疲れを覚え、それに朝の光が射してくるのを見たので、常のごとくつつましく、与えられた許しに甘えようとはせず、微笑を湛えて口をつぐんだ。
すると、この驚くべき物語に、目を見張って聞き入っていた、妹のドニアザードは、うずくまっていた敷物から立ち上がって、姉のもとに駆け寄って接吻し、姉に言った、「おおシャハラザードお姉さま、何とあなたのお言葉は心地よく、優しく、清らかで、風味よろしく、みずみずしいうちに味わい深いのでございましょう。そして何と恐ろしく、なみなみならぬ、向う見ずな男でしょう、船乗りシンドバードという人は。」
するとシャハラザードは、妹に微笑みかけて言った、「そうですよ、妹よ。けれども、もしアッラーの御恵みと王さまの御意によって、わたくしになお生命《いのち》がありますれば、明晩お二人にお話しするものに比べると、これなぞは物の数ではございません。」
するとシャハリヤール王は、自分もかつて弟シャハザマーン王と一緒に、海のほとりの草原に旅し、そこで櫃《ひつ》をたずさえた魔神《ジンニー》が現われた折のあの旅に比べて、シンドバードの旅は遥かに長いと思って、シャハラザードのほうに向いて言った、「まことに、シャハラザードよ、この上そちがどのような物語を余に聞かせることができるのか、見当がつかぬ。いずれにせよ、余は詩篇に飾られた物語をひとつ所望する。すでに以前に、そちはその約束をいたしておきながら、これ以上ぐずぐずして約を果たさずにいるならば、そちの首は、そちに先立つ女らの首のあとを追うであろうことを、そちは気取《けど》っている様子がないぞ。」するとシャハラザードは言った、「わたくしの目の上に。ちょうど今わたくしがわが君のためとっておいた物語は、おお幸多き王さま、きっと十分の御満足をお与えすることでございましょうし、それに、それはかつてわが君のお聞きなされたどんな物語よりも、ずっとずっとおもしろいものでございます。その題からして早くもお察しがつきなされましょう。それは美しきヅームルッドと栄光の息子アリシャールの物語[#「美しきヅームルッドと栄光の息子アリシャールの物語」はゴシック体]と申します。」
するとシャハリヤール王は魂の中で言った、「それがすむまではこの女を殺すまい。」次に王は女を腕に抱いて、これと一緒に残りの夜を過ごした。
朝になると、王は起き上がって、その裁きの間《ま》のほうに出かけた。そして政務所《デイワーン》は大臣《ワジール》、貴族《アミール》、侍従、衛兵、公事係《くじがかり》の群れでいっぱいになった。最後にはいってきたのは、シャハラザードの父の総理|大臣《ワジール》で、彼は娘が今度こそは、ほんとうに死んでしまったものと思って、娘のための経帷子を抱えて来たのであった。しかし、王はそのことについては大臣《ワジール》に何事も言わず、裁きをしたり、役目に任じたり、罷免したり、処理したり、未決の事務を片づけたりして、日の暮れるまでこれをつづけた。次に政務所《デイワーン》は閉ざされ、王は御殿に帰り、一方総理|大臣《ワジール》は思い惑って、驚きの無上の極みにあった。
次に、夜になると、シャハリヤール王はシャハラザードの部屋にはいって、二人は一緒にいつものことをした。
[#地付き]そして第三百十六夜となって[#「そして第三百十六夜となって」はゴシック体]
小さなドニアザードは、ひとたび王とシャハラザードとのあいだのことがすむと、うずくまっていた場所から叫んだ。
「おお、お姉さま、お願いでございます、お約束の、美しいヅームルッドと栄光の息子アリシャールとの物語を始めてくださるのに、この上何を待っていらっしゃるのですか。」
シャハラザードは、微笑を湛えて、答えた、「わたくしはただ、このお育ちよく挙措|雅《みやび》な王さまの、お許しを待っているばかりです。」するとシャハリヤール王は言い出した、「苦しゅうない。」
そこでシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
美しきヅームルッド(1)と「栄光(2)」の息子アリシャールとの物語
語り伝えまするところでは、時のいにしえと時代時世の過ぎし世に、ホラーサーンの国に一人の、たいそう金持の商人がおりまして、その名を「栄光」と申しまして、アリシャールという名の、満月のように美しい息子が一人ありました。
さて、ある日のこと、もうずいぶん高齢であった豪商の栄光は、自分が死病にとりつかれたように感じました。彼は息子をそばに呼んで、これに申しました、「おお伜や、いよいよわしの天命の終りも間近に迫った。それで、わしはお前にひとつの忠告を忠告したいと思う。」アリシャールは、大変心を痛めて、申しました。「それはどのようなことでしょう、おお、父上。」商人栄光は言いました、「わしはお前に忠告する、決して新しい友達付合いを始めたり、社交場に出入りをしたりするでない。社交場というのは、鍛冶屋にもたとえられるところだからな。たとえ鍛冶場の火で、お前に火傷《やけど》を負わせぬとしても、たとえ鉄床《かなどこ》の火花で、お前の片眼か両眼をつぶしてしまわぬとしても、蒸気でお前の息をつまらせてしまうことは、間違いない。それに、詩人も言った、
[#ここから2字下げ]
幻《まぼろし》ぞ。天命の汝を裏切りしとき、汝の黒き途上に、心まめやかなる友を見出すものとは思うなかれ。
おお孤独よ、祝福されし懐しき孤独よ、汝は汝を育つる者に、正直を逸《そ》れざる力と、己れみずからのみを恃《たの》む術《すべ》とを教う。
[#ここで字下げ終わり]
また他のある詩人は言った、
[#ここから2字下げ]
その双面において不祥、かくのごときが社交場なり。
もし汝の注意これを究むれば、その一面は偽善にして、他の面は裏切りなり。
[#ここで字下げ終わり]
また他の詩人は言った、
[#ここから2字下げ]
浮薄と、愚劣と、怪奇なる饒舌、これぞ社交場の豊かなる領地なり。されど、もし天運にして汝の途上に格別の人を置くことあらば、時にこれと交るべし、ただ汝を改善せんがために。」
[#ここで字下げ終わり]
瀕死の父のこうした言葉を聞いたとき、若いアリシャールは答えました、「おお、父上、私は父上の従順な聞き手です。まだほかに、何か御注意下さることがおありでしょうか。」すると、商人栄光は申しました、「善行をせよ、まあできるならばだな。そしてその代りに感謝だの、同じくらいの善行だのによって、報いを受けようなどとは、決して期待してはならぬ。おお伜よ、人には、悲しいかな、善行をなす機会は毎日あるものではないのだ。」するとアリシャールは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。けれども、御忠告はそれで全部でしょうか。」商人栄光は申しました、「わしの残してやる財産は、決してむやみに使ってしまってはならぬ。お前が人から尊敬されるのは、ただお前の手が支配下に握っているもの次第なのだから。詩人も言った、
[#ここから2字下げ]
わが貧しき頃は、われは己れに友を知らざりき。今や、彼らはわが門口に殺到して、わが食欲を絶つなり。
おお、いかに数多き兇悪なる敵を、わが富はまつろわしめしか。されどまた、いかに数多の敵をわれは得ん、もしわが富の減じなば。」
[#ここで字下げ終わり]
それから、老人はつづけました、「経験のある人たちの意見は、疎《おろそ》かにしてはいけない。そしてお前に意見ができるような人に、意見を求めることは、決して無駄と思ってはいけない。なぜというと、詩人は言った、
[#2字下げ] 汝の所見を忠告者の所見と合すべし、ことの成果をさらによく確かめんために。汝おのが顔を見んと欲せば、ただ一枚の鏡にて足らん。されど、もし検《しら》べんと望むところは、汝の暗き背後ならんには、二枚の鏡の働きなくして、そを明らかにするは叶うまじ。
そればかりではない、伜よ、わしにはまだ一つ、最後にお前に言っておかなければならぬ意見がある。酒を慎しむことだ。酒はすべての禍いのもとじゃ。酒はお前の理性を奪い、お前を物笑いと蔑《さげす》みの種にもしかねないからな。
以上が、わしの最後の敷居の上での忠告じゃ。おおわが子よ、わしの言葉を思い起せよ。立派な息子になってくれよ。何とぞわしの祝福が、人の世でお前に付き従うように。」
そして老商人栄光は、このように語ってから、しばし眼を閉じて、敬虔な思いにふけりました。それから、人差指を眼の高さまで上げて、信仰証言《シヤハーダ》を唱えました。それがすむと、彼は至高者の御慈悲のうちに世を去りました。
彼は息子をはじめ全部の家族から悼《いた》まれました。ひとびとは彼の葬儀を営みましたが、これには貴賤貧富をあげて参列いたしました。商人栄光のほうは、以上のようでございます。けれども、栄光の息子アリシャールはどうかと申しますと、次のような次第でございます。
父の死後、アリシャールは市場《スーク》屈指の店で商売をつづけまして、父の数々の忠告を、とりわけ他人との交際についての忠告を、丹念に守りました。ところが、ちょうど一年と一日目の同時刻が過ぎますと、彼は不実な若者やら、淫売婦の息子やら、恥知らずの不義の子などから、誘惑されるがままになってしまいました。そしてこんな連中と付合いを深め、彼らの母親や姉妹や、犬の娘の阿婆摺女《あばずれ》どもをも、識るようになりました。そして放蕩のなかに沈んで、酒と濫費のなかを泳ぎ、正道とは全く逆の道を行ったのでございました。それというのは、彼はもう健全な精神状態ではなかったので、自分でこんな浅はかな屁理窟をこねていたのでした、「父上はその全財産をおれに残してくれたからには、これはぜひおれが費《つか》って、おれの死後、他のやつらなぞに継がせることはありはしない。おれは二度と再び生きられはしないのだから、今のうちと過ぎ去る快楽とを有効に使いたいものだ。」
ところで、この理窟はうまく図にあたって、アリシャールはどんな無茶も平気で、きちんきちんと、夜と昼をその端々でつなぎつづけてゆきましたので、間もなく、彼は店も、家も、家具も、衣類も売り払うような羽目になってしまいました。そしてもう残っているのは、身につけている着物きりになりました。
そのときになって、彼ははっきりと自分の行状の非を覚り、父栄光の忠告の明を認めることができました。彼はかつて贅沢にもてなしてやった友達たちを、順ぐりに訪ねて戸を叩きましたが、彼らは一人残らず、何とかかんとか口実を見つけては、体《てい》よく追い返すのでした。そこで、今や貧窮のぎりぎりの極に落ち込んでしまった彼は、前日以来何一つ食べていなかったものですから、自分の泊っていた見すぼらしい旅人宿《カーン》を出て、町なかを門口から門口へと、物乞いをしないわけにゆきませんでした。
こうして道を歩いてゆくうちに、彼は市場《スーク》の広場に着きましたが、見ると、そこには大勢の人の群れが集まっておりました。彼はこれに近寄って、何ごとが起こっているのか見届けたくなりまして、そして、商人や、仲買人や、買手などの作っている円陣の真中を見ますと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十七夜になると[#「けれども第三百十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……一人のまことに好ましい体つきの、白人の女奴隷がおりました。身の丈は五|掌尺《パルム》、頬(3)としては薔薇、釣合いのよい乳房、それに何というお臀でしょう。ですから、この女については、過つおそれなく、次の詩人の句を当てはめることができるのでございました。
[#ここから2字下げ]
瑕瑾《きず》なき「美」の鋳型より、彼女は出《い》でぬ。その均斉こそ見事なれ、大きに過ぎず、小さきに過ぎず、太きに過ぎず、細きに過ぎず。いずくにも円《まろ》みあり。
されば、軽き面衣《ヴエール》が、淑《しと》やかにして同時に誇り高き面差《おもざし》を透《すか》し見せつつ、その姿を際立たしむれば、「美」自らもこれに心奪われたり。
月はその顔《かんばせ》なり。波打つしなやかの瑞枝《みずえ》は、その胴、しかして麝香の馥郁たる香りは、その息吹《いぶき》なり。
そは水の真珠もて作られし女とも言いつべし。その肢体はいとも艶やかにして、その顔《かんばせ》の月を映し、肢体そのものもそれにより、またあまたの月もて作られしもののごとく見ゆれば。
されど、この光の奇蹟、輝かしき臀を、描き得る舌はいずこにかあらん……。
[#ここで字下げ終わり]
この美しい若い娘に眼をやったとき、アリシャールはこの上なく驚嘆しまして、そして感嘆のあまり動けなくなったのか、それとも美を眺めてしばし己れの惨めさを忘れようとしたのか、とにかく彼は、すでに売立てにとり掛ろうとしていた群がる人々のなかに、混《まじ》り込んだのでありました。すると、そこにいた商人と仲買人たちは、まだ彼の破産を知らなかったので、これはてっきり奴隷を買い求めに来たものと思って、いっときも疑いませんでした。というのは、この連中は彼が、父親の組合総代頭「栄光」から遺産を相続して、非常な金持であることを知っていたからでした。
けれどもやがて、女奴隷のそばに、仲買人|頭《かしら》がやってきて席を占め、ひしめき合う頭上から、呼ばわりました、「おお商人衆よ、おお富の主《あるじ》たちよ、町の衆あるいは砂漠の住人方よ、競売《せり》の扉を開《あ》けなさる方は、何の文句もつけられることはござりませんぞ。さあ、やった、やった。皆様方の前に控えましたるは、あらゆる月の女王、恥じらい満てる処女ヅームルッド、万《よろず》の花咲く園じゃ。」
すぐに商人たちのあいだから、誰かが叫びました、「まず五百ディナールと行こう。」ほかの一人が言いました、「それに十ディナールつけるぞ。」すると、ラシデッディーンとよぶ、碧眼(4)で藪睨みの、不格好な醜い老人《シヤイクー》か叫びました、「それに百ディナールじゃ。」けれども、もう一つの声が言いました、「それに十。」この瞬間、醜悪な碧眼の老人《シヤイクー》は、一挙に競《せ》り上げて、叫びました、「一千ディナールじゃ。」
そうなると、他の買手たちは一人残らず舌を引っ込め、黙りこんでしまいました。すると、競売人は若い女奴隷の主人のほうを向いて、この老人《シヤイクー》かつけた値段でよいか、この取引を取りきめるべきかどうか訊ねました。すると女奴隷の主人は答えました、「わしは結構だよ。しかし、その前に、女奴隷にも同意してもらわなければならないのだ。というのは、わしはこの女に、当人の気に入った買手でなければ譲らないと、固く約束してあるからね。だから、この女の同意を求めてくれなければいけない、おお仲買人さん。」すると、仲買人は美しいヅームルッドに近づいて、言いました、「おお月の女王よ、あんたはこの尊ぶべきお年寄り、長老《シヤイクー》ラシデッディーンのものになりたいかな。」
美しいヅームルッドは、この言葉を聞いて、仲買人がさし示した男をちらりと見ますと、それはただ今述べたとおりの男であることがわかりました。すると、彼女は嫌悪の身振りをしながら、顔をそむけて、叫びました、「おお仲買人|頭《かしら》さん、あなたはある年取った詩人、といってもあのお年寄りほどはいやではない人の言ったことを、御存じないのですか。では、お聞き下さい。
[#ここから2字下げ]
われは彼女にひとたびの接吻《くちづけ》を乞いぬ。彼女はわれを眺めたり。その眼差しは憎しみも、蔑《さげす》みも見せざれど、また心動きたる様もなかりき。
さりながら、彼女はわれを富裕にして、世に敬せらるる者と知りいたり。彼女は過ぎゆけり。しかして次の言葉、その口の襞《ひだ》より洩れぬ。
『白髪はわが意に叶うところならず、われはわが唇の間に、湿りたる綿(5)を好まず。』」
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、仲買人はヅームルッドに申しました、「アッラーにかけて、あんたはいやとおっしゃるが、そりゃもっともだ。それに、だいたい千ディナールなんていうのは、値段じゃない。私の踏んだところじゃあ、あんたは一万ディナールの値打はある。」それから仲買人は買手の群れのほうに向って、どなたか他の方で、いまつけた値段で、この奴隷を欲しい人はいないかと問いました。すると、一人の商人が近寄って言いました、「私だ。」すると美しいヅームルッドはこの商人を眺めまして、この男はラシデッディーン老人《シヤイクー》のように醜くはなくて、その眼も青くもなければ、藪睨みでもないのを見ました。けれども彼女は、この男が鬚《ひげ》を赤く染めているのに気がつきました。そこで彼女は叫びました、「おお、恥を知るがいいわ、老いぼれた顔をそんな風に黒くしたり、赤くしたりするなんて。」そして、立ちどころに、次のような詩句を即吟いたしました。
[#ここから2字下げ]
おお、わが細腰と面差《おもざし》とに心奪われし汝よ、汝は借りものの色のもとに、好むかぎり姿を変じ得るも、されどわが眼を引くは叶わじ。
汝は恥辱をもて白髪を染むれど、瑕瑾《きず》を隠すこと叶わず。
汝は相貌を変ずるごとく、顎鬚の色を変え、さながら案山子《かかし》となり果つれば、汝を見て妊婦は流産するばかりなり。
[#ここで字下げ終わり]
仲買人頭はこの詩句を聞いたとき、ヅームルッドに申しました、「アッラーにかけて、あんたのほうに理があるわい。」けれども、この二度目の申込みが聞き入れられなかったものですから、早くも第三の商人が進み出て、仲買人に言いました、「私もその値で行くよ。女が承知するかどうか、聞いてみてくれ。」仲買人が美しい乙女に尋ねますと、彼女は件《くだん》の男を眺めました。彼女はこの男が片目《めつかち》なのを見ますと、声を上げて笑いながら言いました、「おお仲買人さん、あなたは片目《めつかち》についての詩人の言葉を御存じないのでしょうか。では聞いて下さい。
[#ここから2字下げ]
友よ、わが言葉は真《まこと》なり、眇《すがめ》男(6)を汝の仲間とするなかれ。しかしてその嘘と偽りを用心せよ。
かかる者と交りを結ぶは、げに得るところなければ、アッラーはいそぎその一眼を奪いて、世の不信を促《うなが》したまえり。」
[#ここで字下げ終わり]
そこで仲買人は第四の買主をさし示して、彼女に尋ねました、「この方はどうですかね。」彼女はこの男をよく調べますと、これは鬚がお臍まで垂れ下っている、全くの小男(7)であるのを見ました。そしてすぐさま言いました、「こういう鬚むしゃの小男のことを、詩人はこんな風に描いております。
[#2字下げ] この男は夥しき鬚を生やす、無益にして場所ふさぎの草なり。そは長き、冷たき、暗き冬の一夜(8)のごとくに、味気なし。」
自分から買いに名乗り出たこれらの連中が、一人も受け入れられないのを見ると、競売人はヅームルッドに言いました、「おお御主人よ、ではここの商人《あきんど》衆と御立派な買手方を全部見て、その上で、あんたの気に入るような、運のいい人を指《さ》して下され。そうすれば、わしはその人にあんたを買ってもらうことにするから。」
そこで、美しい乙女は立会人一同を一人一人、最大の注意を払って調べましたが、その視線はとうとう、栄光の息子アリシャールの上に落ちました。そしてこの青年の姿は、突然、彼女を燃え上らせました。それというのは、栄光の息子アリシャールは、まことに、並外れた美青年でありまして、どんな人でも彼を見ますと、烈しく心を引かれる思いがせずにはいられないのでした。そういうわけで、若いヅームルッドはいそいで競売人に彼を指し示して、言いました、「おお競売人さん、私が望むのはあのお若い方です。あのしなやかな胴をした、優しい顔の方です。というのは、私はあの方を好ましく、同情ぶかい血を持ち、北風よりも軽やかなおひとと思うからです。詩人がこう言ったのは、あの方のことです。
[#ここから2字下げ]
おお若人よ、君の美わしさのうちに君を見し人々は、いかでか君を忘れ得ん。
君がため心に満つる苦悩をかこつ人々は、君を見るをやめよかし。
君の危うき魅力より身を守らんと欲する人々は、何とて面衣《ヴエール》もて君がまどわしの面《おもて》を蔽わざるにや。
[#ここで字下げ終わり]
それから、もう一人の詩人が言ったのも、やはりあの方のことです。
[#ここから2字下げ]
おおわが殿よ、覚りたまえ。いかにして君を愛さざらんや。君の姿は伸びやかならずや、君が腰は嫋《しな》やかならずや。
覚りたまえ、おおわが殿よ。かかるものへの愛こそは、賢き者と、床しき人と、繊細なる精神との特質ならずや。
おお若人よ、わが殿よ、われ君を見つめれば、わが力は消え失する。
君もしわが膝に坐りたまわば、その臀は重し。されど君もし立ち去らば、臀なきことはさらにわれには重し。
おお、一瞥もてわれを殺《あや》めたもうことなかれ。いかなる宗教も殺人を勧むることなし。おお、君の心も御姿《みすがた》のごとく、柔かくあれ、撓《たわ》めかし。君の頬の滑らかなるごとく、君の眼《まなこ》のわれに優しかれ。
[#ここで字下げ終わり]
三人目の詩人も言いました。
[#2字下げ] その頬は豊かにして滑らかなり。唾液は飲むに甘き乳、病む人々の薬なり。眼差しは文人詩人を夢みさせ、その完美の姿は工匠らを戸惑わしむ。
もう一人の詩人は言いました。
[#ここから2字下げ]
その唇の液は酔わしむる葡萄酒なり。息は琥珀の薫りを帯び、歯は樟脳(9)の細粒《つぶ》なり。
されば、天国の番人リズワーン(10)は、彼が天女《フーリー》らを惑わすを恐れ、これに立ち去らんことを請いたりき。
心|鈍《にぶ》き野人らは彼の身振りと振舞いを嘆く、あたかも月は、いかなる弦にあっても美しきものにあらざるかのごとく、あたかもその運行は、空のいずこにありても等しく調和あるものにあらざるかのごとく。
[#ここで字下げ終わり]
またある詩人も言いました。
[#ここから2字下げ]
髪は縮れ、頬は薔薇色に満ち、眼は惑わしの、かの若き小鹿はついに逢引を肯《うべ》ないぬ。さればわれは時をたがえず此処《ここ》に在り、心ときめき、眼《まなこ》気遣わしく。
彼はわれにこの逢引を約したり、眼閉じつつ諾《よし》と言いたり。されど、もしその瞼《まぶた》閉ざされてあらば、いかで瞼はその約を守り得ん。
[#ここで字下げ終わり]
最後に、別の詩人は彼についてこう言いました。
[#ここから2字下げ]
われに心きかざる友ありて、かく問いぬ、『頬にはや剛《こわ》き産毛《うぶげ》の蔭ある若者を、何とて汝はかくばかり恋い恋うや。』
われ彼らに言う、『汝らの無知のいかに大いなる、天国《アドン》の園の果実は、彼の美しき頬より摘まれたり。もしもはや濃き鬚茂らずば、いかでこの頬はかくも美しき果実を供したらんや。』」
[#ここで字下げ終わり]
仲買人はこんな若い女奴隷に、このような大した才能があるのを見て、この上なく驚嘆してしまい、その驚きを持主に告げますと、持主は申しました、「お前さんがこれほどの美しさと頭脳の明敏に驚嘆したことは、よくわかる。しかし実は、この奇蹟のような乙女は、この上なく微妙な詩人たちを知り、自分でも詩賦を作るばかりでは満足せず、その上、七種の異なった書体を書くことができるし、しかもその手はどんな宝物より値打があるのだ。この乙女は刺繍や絹を織る技術を心得ていて、その手で作られる敷物はすべて、市場《スーク》で五十ディナールの値をつけられる。それに、どんな美しい敷物でも、どんな豪奢な垂れ幕でも、一週間あれば、ちゃんと仕上げてしまうのですよ。だから、この乙女を買って手に入れた人は、数カ月もすれば、必ず間違いなく、元金《もと》をとってしまうことになるだろう。」
この言葉を聞きますと、仲買人は感嘆して両腕を上げ、叫びました、「こういう真珠を自分の住居に持ち、またとない秘蔵の宝として取っておくことになる人は、何と仕合せなことだろう。」そして彼は、乙女が指し示した栄光の息子アリシャールに近寄り、そのまえで地面まで頭をさげ、その手をとって接吻して、それからこれに言いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百十九夜になると[#「けれども第三百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それからこれに言いました、「まことにおお御主人様、この宝物を百分の一のお値段でお買いになさるとは、あなたの御運は大した御運でございますし、また『贈与者』も、あなたに対してその賜物を物惜しみなさいませんでした。どうか乙女が、その身と一緒にあなたに幸福を持って参りますように。」
この言葉を聞きますと、アリシャールは頭を垂れて、運命の皮肉を笑わざるを得ませんでした。そして思いました、「アッラーにかけて、おれはパン一片を買うものさえ持っていないのに、人はこの女奴隷を買えるほどの金持だと思っているのだ。ともかくも、この商人たち一同のまえで、赤恥をかかぬように、諾《うん》とも否《いや》とも言わないでおくとしよう。」そして彼は眼を伏せて、一言も発しませんでした。
彼が身動きもしないので、ヅームルッドはその買い気を励まそうとして、彼を見つめました。けれども彼は眼を伏せたきりで、彼女を見ませんでした。そこで、彼女は仲買人に言いました、「私の手をとって、あの方のそばに連れて行って下さいな。私は自分の口からお話しして、あの方に私を買う決心をおさせしたいと思います。私はあの方以外の人のものにはなるまいと、堅く心に決めましたから。」そこで仲買人は彼女の手をとって、栄光の息子アリシャールのもとに連れてゆきました。
乙女はその美しさを見せつつ、若い男のまえにまっすぐ立って、これに言いました、「おお、わたくしの臓腑《ぞうふ》を燃え上らせる若様、どうして買値をお申し出にならないのでございますか。そればかりか、どうして御自分から、もっと正当と思し召す指し値を、つけて下さらないのでしょう。わたくしはあなた様の奴隷になりたく存じます、どんな値段でも構いませんから。」アリシャールは悲しげに頭を上げて、言いました、「売り買いは決して義務ではない。」ヅームルッドは叫びました、「おお、お慕わしい御主人様、わかりましたわ、千ディナールなどという値は、あまり高過ぎるとお思いになるのでしょう。それなら、ただの百ディナールとおつけ遊ばせ。そうすれば、わたくしはあなたのものでございます。」彼は頭を振って言いました、「それがだ、その百ディナールさえ満足に持っていないのだ。」彼女は笑い出して、彼に言いました、「その百ディナールの額をお揃えになるのには、いくらお足りにならないのでしょう。もしも今日全額お持ち合せがなければ、残りはほかの日にお払いになればよろしいのですから。」彼は答えました、「おお御主人よ、実は、私は百は愚か一ディナールも持ってはいない。アッラーにかけて、私は、銅貨《あかがね》一枚も、金の一ディナールも銀の一ドラクムも、持っていはしないのです。だから、私なんぞと暇潰しをしないで、誰か他の買手をお探しなさい。」
ヅームルッドは、この若い男が無一物なことがわかると、彼に言いました、「ともかくも取引をお決めになって下さい。あなたの外套でわたくしをくるんで、片方の腕をわたくしの身体の周りにお廻しになって下さい。それが、御承知のとおり、承諾のしるしでございます。」そこでアリシャールは、もう断わる理由もなく、急いで、ヅームルッドから指図されたとおりのことをいたしました。するとその瞬間に、彼女は懐《かくし》から財布をとり出し、これを彼に渡して、言いました、「このなかに千ディナールございます。そこからわたくしの主人に九百ディナールをお払いになって、残りの百ディナールは、私たちの一番差迫った出費にあてるため、取っておおきにならなくてはいけません。」そこですぐに、アリシャールは九百ディナールをその商人に支払いまして、急いで女奴隷の手を取って、わが家に連れてゆきました。
家につきますと、ヅームルッドは、その住居というのが、惨《みじ》めな部屋が一間あるきりで、家具といっても、古ぼけてそこここの千切れた、一枚の粗末な筵《むしろ》のほかには何一つないことを知って、少なからず驚かされました。彼女は急いで、さらに二番目の財布にはいった千ディナールを彼に渡して、言いました、「急いで市場《スーク》に馳けつけて、家具や敷物の必要なもの全部と、飲食に要《い》るもの全部を、お買い求めになって下さい。それも、市場《スーク》にある一番上等のものをお選びになってね。それからまた、わたくしのために、一番美しい品質の、赤い柘榴《ざくろ》色をしたダマス絹を、大幅一反と、金糸の巻糸と、銀糸の巻糸と、七色の絹の巻糸を、買って来て下さい。それから、大きな針と、中指に篏《は》める金の指抜きも、買うのをお忘れにならないで下さいませ。」アリシャールはすぐにこの命令を実行して、これらのもの全部を、ヅームルッドに持って参りました。すると、彼女は敷物を床に拡げ、敷蒲団《マトラー》と長椅子《デイワーン》を並べ、すべてをきちんと整えまして、燭台に火を点けてから、食布を拡げました。
そこで二人は一緒に腰を下ろし、食べたり飲んだりして、すっかり満足しました。それが済むと、二人は新しい寝床に横になり、ひと晩中、しっかりと抱き合って、混り気のない歓楽と快活な嬉戯《たわむれ》のうちに、朝まで過ごしました。
働き者のヅームルッドは、時を失せず、すぐさま仕事にとり掛りました。彼女は赤い柘榴色をしたダマス絹の布地をとって、数日のうちに、一枚の垂れ幕を作りましたが、その周りには、計り知れぬ技術を使って、鳥獣の姿を現わしたのでした。彼女がこの織物の上に描かなかったこの世の動物は、大小を問わず、ただの一匹もありませんでした。それにこの細工は、とても実物によく似ていて、とても生き生きしておりましたので、四つ足の獣はまさに動き出すがごとく、鳥は啼き声が聞えるばかりでありました。幕の真中には、たわわの果実をつけた大きな木々が刺繍してあって、その樹蔭はまことに美しく、見る眼も安まるような非常な清々しさが感じられました。そしてこうした一切は、きっかり一週間、それよりも多くも少なくもない間に、仕上げられたのでした。被造物の指のなかに、これほどの巧みを置きたまいし御方《おんかた》に、栄光あれ。
幕が出来上りますと、ヅームルッドはこれに光沢《つや》を出し、磨きをかけて、折り畳み、これをアリシャールに渡して、言いました、「これを市場《スーク》に持って行って、誰か店を張っている商人に、五十ディナール以下でない値段で、お売りになって下さいまし。ただ市場《スーク》で顔見知りでないような、どこぞの通りがかりの人に譲ることは、よくよくお慎しみ下さいまし。それというのは、そうなさると、あなたはわたくしたちの間の、無残な別れの原因《もと》となるでしょうから。実際に、わたくしたちは大勢の敵に狙われているのです。通りがかりの者に油断なさいますな。」アリシャールは答えました、「承わり、畏まった。」そして、彼は市場《スーク》に行って、ある店の商人に、件《くだん》の素晴らしい垂れ幕を、五十ディナールで売りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十夜になると[#「けれども第三百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
つぎに彼は再び、新しい垂れ幕とか何か美しい壁掛けを作るのに必要な、絹と金糸と銀糸を十分に買い込んで、全部をヅームルッドのもとへ持ち帰りました。すると、彼女はまた仕事にかかり、一週間の間に、初めよりもっと美しい一枚の敷物をこしらえまして、これがまたやはり、五十ディナールの金額を齎らしました。このようにして、二人は食べたり飲んだりしながら、何一つ不足なく、日に日に燃え上るお互いの愛を満たすことも忘れずに、更に一年の間、暮したのでございました。
ある日のこと、アリシャールは例のとおり、ヅームルッドの作った壁掛けを入れた包をかついで、家を出ました。そして常のごとく、競売人を通して、これを商人たちに売り込むために、市場《スーク》に向ってゆきました。市場《スーク》に着いて、競売人に壁掛けを渡しますと、競売人は商人たちの店のまえで、これを競売し始めましたが、そのとき、たまたま一人のナザレト人(11)が通りかかったのでございました。これは、よく市場《スーク》の入口などにうようよしていて、御用を勤めましょうと言って、お客にうるさく付き纒う、あの手合いの一人でした。
このキリスト教徒は、競売人とアリシャールに近寄って来て、その壁掛けに、呼び値であった五十ディナールのかわりに、六十ディナールをつけようと申し出ました。けれどもアリシャールは、この種の手合いを嫌っていたし、それに、ヅームルッドの忠告を覚えてもおりましたので、こんな男に壁掛けを譲ってやろうとはしませんでした。するとキリスト教徒は、その指し値を上げて、とうとう百ディナールの値をつけました。そこで競売人はアリシャールに耳打ちしました、「全くだ、こんなもっけの幸いを逃しちゃいけませんぞ。」それというのは、この競売人はすでにキリスト教徒から、十ディナールでひそかに買収されていたのでした。そして彼はアリシャールの気持を巧みに操って、とうとうアリシャールに、その壁掛けを取りきめられた金額と引きかえに、キリスト教徒に渡す決心をさせてしまいました。そこでアリシャールは、たいへん気がかりでないわけではなかったが、そういうことにして、その百ディナールを受け取り、再び家路につきました。
彼は歩いてゆくうちに、ある街角で、そのキリスト教徒があとをつけて来るのに気がつきました。彼は立ち止って、これに尋ねました、「この界隈はお前のような連中が入って来るところではないのだが、一体何をしに来たのだね。」相手は申しました、「済みません、おお御主人様、私はこの路地の先で用事を片付けなくてはならないのです。どうかアッラーがあなた様を永らえたまいますように。」アリシャールは道をつづけて、わが家の戸口に着きました。するとそこに、キリスト教徒が急に方向を変え、道の向うの端《はし》から戻って来て、自分と同じ瞬間に、家の戸口に着いているのを認めました。彼は怒りに駆られて、叫びました、「呪われたキリスト教徒め、貴様はこんな風に、おれの行く先々とついて来て、一体何をしようというんだ。」相手は答えました、「おお御主人様、本当のところ、私がまたここに来たのは、ほんの偶然なのです。けれども、どうか私に水を一杯下さいませんか。アッラーはあなた様にお報い下さるでしょう。何しろ私は咽喉《のど》が渇いて、身体のなかが焼けついているのですから。」そこでアリシャールは考えました、「アッラーにかけて、いやしくも回教徒が、咽喉の渇いた犬に飲みものをやることを断わったなどというのは、もっての外だ。では水を持って来てやるとしよう。」そして彼は家にはいり、水壺を取って、これをキリスト教徒に持って行ってやろうとしますと、そのとき、彼の留守の永引くのを心配していたヅームルッドが、掛鍵を開ける音を聞いて、彼を迎えに走り出ました。彼女は彼に接吻しながら、申しました、「どうして今日はこんなにお帰りが遅かったのです。壁掛けは結局売りなさったの。正直な店の商人か、それとも通りがかりの人か、どちらにお売りになりましたの。」彼はもう見るからに困り果てて、答えました、「市場《スーク》がいっぱいの人だったので、ちょっとばかり遅れたのさ。とにかく壁掛けは、結局ある商人に売ってしまったよ。」彼女は一抹の疑いを声にこめて、言いました、「アッラーにかけて、私の心は穏やかでありません。だけど、その水差しはどこに持っていらっしゃるの。」彼は言いました、「ここまでついて来た市場《スーク》の競売人に、飲みものをやりに行くんだよ。」しかしこんな答えでは、彼女は一向得心がゆきませんでした。そして、アリシャールが外に出て行った間に、彼女はひどく不安にかられて、次の詩人の句を誦しました。
[#2字下げ] おお、恋しき人にまといつくわが心よ、希望に満ちて、接吻を永遠《とわ》と信ずる哀れなる心よ。汝は見ずや、分け隔つる者は汝《な》が枕辺に双の腕を延べて見張り、不実なる天命は二心を持って暗闇に汝を窺《うかが》うを……。
アリシャールはおもてへ出てゆこうとすると、すでにキリスト教徒は、開け放しにしてあった戸口を通って、玄関に入り込んでいるのを見つけました。これを見ると、世界は彼の顔前に暗くなって、叫びました、「犬の伜の犬め、いったい何をしているんだ。何だって人の許しも得ずに、いけしゃあしゃあとひとの家の中に入り込んだのだ。」キリスト教徒は答えました、「おお御主人様、後生ですから、お許し下さい。一日じゅう歩きづめで疲れ果て、もう立っていることも叶いませんので、つい敷居を乗り越える仕儀となったのでございます。戸口も玄関も、つまるところ、大した違いはござんせんので。それに、ほんの一息つく間だけで、私は出て参ります。まあ、閉め出さないで下さいまし。そうすれば、アッラーもあなたを閉め出さないで下さるでしょう。」そしてこの男は、途方にくれているアリシャールの手から小壺をとり、要《い》るだけ飲んで、これを返しました。そこでアリシャールは、この男の前に突っ立ったまま、その出てゆくのを待ちました。けれどもそのままひと時すぎたのですが、キリスト教徒は身動《みじろ》ぎもしません。そこでアリシャールは、憤然として叫びました、「すぐにここを出て、貴様の道に立ち去りやがれ。」けれどもキリスト教徒は答えました、「おお御主人様、ひとに対して生涯恩にきるような善根を施す方々もありますが、あなたはきっとそんな方でもなく、また詩人の言ったような方でもござんすまい。
[#2字下げ] 貧しき者が手をさし出すをも待たで、金額《かねだか》も数えず、その手を満たせし人々の、気前よき一族はすでに消え失せたり。今あるは、高利貸どもの賤しき一族にして、路傍の貧しき者に貸したる僅かの水の利息をば算え立つ。
さてこの私めはどうかと申しますと、おお御主人様、お宅の水で咽喉の渇きはもうすっかり癒したのですが、今は饑《ひも》じさのためにまことに苦しんでおりますので、なに、お食事の残りでも結構でございます、たとえ干からびたパン一切れに玉葱一個だけ、それ以上なにもなくてもよろしゅうござりますが。」アリシャールは、ますます怒りたけって、叫びました、「さあ、ここから出て失せろ、そんな詩の引用などたくさんだ。家にはもう何もありゃしないぞ。」相手はその場から動かないで、答えました、「お殿様、お許しなさって下さい、だがお宅には何もおありにならなくても、あなたは壁掛けで儲けなすった百ディナールを、そこに持っていらっしゃいます。だから、アッラーにかけて、どうぞ、最寄《もよ》りの市場《スーク》にいらっしゃって、小麦のパン菓子を一個買って来て頂きとう存じます。お互いの間にパンと塩がなくて、私がお宅をお暇したなどとは言われないように。」
アリシャールはこの言葉を聞いたとき、心の中で独り言を言いました、「もう疑う余地はない。このキリスト教徒は気違いの無法者だ。門口に放り出して、通りの犬どもを後ろからけし掛けてやろう。」そしていよいよ外に押し出そうと構えると、キリスト教徒は身動きもせずに言いました、「おお御主人様、私の欲しいのはただのひと切れのパンとただの一個の玉葱だけで、もう饑じさを凌ぐだけでいいのです。ですから、私のために散財して下さることはない、それじゃ全く多すぎるというものです。賢者は僅かで満足しますからな。それに、詩人もこう申しておりますよ。
[#2字下げ] ただ一片の味なきパンも、賢者をさいなむ飢えを追い払うに足る、全世界も、大食漢のまことならぬ食欲を鎮むること能わざるべけれど。」
アリシャールは、どうしてもそうするより外しかたがないのを見ますと、キリスト教徒に向って言いました、「では、これから市場《スーク》に行って、なにか食べる物を買って来てやろう。ここにじっとして、おれを待っているんだぞ。」そして彼は戸口を閉め、錠前の鍵を外し、これを懐《かくし》に入れてから、家を出ました。彼は大急ぎで市場《スーク》に行き、蜜入りの焼|乾酪《チーズ》、胡瓜、バナナ、薄焼練粉菓子、竈《かまど》から出したての膨れたパンなどを買い、全部をキリスト教徒に持ち帰って来てやって、言いました、「食べろ。」ところがキリスト教徒は、これを断わって申しました、「お殿様、あなたの気前のよさは何という気前のよさでしょう。ここに持って来て頂いたものは、十人の人間に食べさせても十分でしょう。これじゃ全く多すぎるというもの、あなたに御相伴の栄をたまわらないことには。」アリシャールは答えました、「おれか、おれは腹がいっぱいだ。貴様一人だけで食べろ。」キリスト教徒は叫びました、「お殿様、叡智の訓《おし》えまするところでは、客と共に食せざる者は、疑うべくもなく不義の子の私生児なりと申します。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十一夜になると[#「けれども第三百二十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この何とも反駁《はんぱく》の余地のない言葉を聞くと、アリシャールは敢えて断わりきれないで、キリスト教徒のそばに坐って、上《うわ》の空で一緒に食事を始めました。キリスト教徒は主人の不注意に乗じて、バナナの皮をむき、それを半分に割って、そこに阿片の精汁《エキス》を混ぜた純粋の麻酔剤《バンジ》を、巧みに流し込みましたが、それは優に象を地上に倒し、一年間も眠らせるほどの分量でありました。彼はこのバナナをば、上等な焼|乾酪《チーズ》の浮いている白蜜のなかに浸しまして、これをアリシャールに差し出しながら、言いました、「おおお殿様、あなた様の信仰のまことにかけて、あなた様のためにむいてさしあげたこのおいしいバナナを、私の手からお受け下さい。」アリシャールは早く切り上げたいと思っていましたので、このバナナを取って、丸呑みにしてしまいました。
バナナが胃に達するか達しないうちに、アリシャールは意識を奪われて、頭から先に、仰向けにひっくり返ってしまいました。するとキリスト教徒は、毛の抜けた狼さながらに躍り上って、表へ飛び出しましたが、外には正面の小路に、老人《シヤイクー》のラシデッディーンを先頭に、数人の男が一頭の騾馬をつれて、待ち伏せておりました。かつてヅームルッドが彼の有《もの》になるのを嫌《きら》った、あの碧眼の卑しい老人《シヤイクー》ですが、彼はどんなことがあろうと、彼女を力ずくで手に入れようと誓ったのでありました。このラシデッディーンという奴は、実は下種《げす》なキリスト教徒に過ぎませんでしたが、商人たちのところで信徒の特典を持つため、上べは回教《イスラム》を奉じていた男で、今し方アリシャールを欺いたバルスームという名の男の、実の兄でございました。
さて、このバルスームは卑しい兄のところへ走ってゆき、自分たちの計略の成功を告げ、そして二人は一緒に手下どもを率いて、アリシャールの家に侵入し、アリシャールがヅームルッドの私室《ハーレム》とするため借りてあった、かたわらの部屋に押し入って、美しい乙女に躍りかかり、猿轡《さるぐつわ》をはめました。そしてその体を抱き上げて、瞬く間に騾馬の背に運び、これを疾駆させました。そして一同は途中案ずる目にもあわずに、たちまちラシデッディーン老人《シヤイクー》の家に着きました。
すると、碧眼藪睨みの卑しい老人《シヤイクー》は、家の一番奥まった部屋に、ヅームルッドを運ばせました。そしてその猿轡を外してから、一人きりで彼女のそばに坐って、言いました、「別嬪のヅームルッドや、とうとうお前はわしの掌中に陥ったな。こうなれば、あのろくでなしのアリシャールも、わしの手からお前を救い出しに来るわけにはゆくまいぞ。では、お前はわしに抱かれて横になって、わしの闘う勇猛さを味わうまえに、まずお前の邪しまな信仰を誓絶して、わしがキリスト教徒であるように、キリスト教徒になることを承知したらどうじゃ。救世主《メシア》と聖処女にかけて、もしもすぐさま、わしの望みに応じなければ、わしはお前をこの上なくひどい拷問にかけて、牝犬よりもみじめな目にあわせるぞ。」
この卑しいキリスト教徒の言葉を聞きますと、乙女の眼には涙がいっぱいになって、頬を伝って流れ出し、唇は顫え、そして彼女は叫びました、「おお白鬚の悪党め、アッラーにかけて、お前は私をずたずたに切り裂かせることはできても、私の信仰を誓絶させるわけにはまいりませぬ。お前は、発情した牡山羊があどけない牝山羊をものにするように、私の体を腕ずくで奪うことさえできるでしょうけれど、私の心を納得ずくで不義に従わせることはできはしませぬ。そしてアッラーは遅かれ早かれ、お前の破廉恥な行ないの責任をお問いになることでしょう。」
言葉で女を納得させられないと見ると、老人《シヤイクー》は奴隷どもを呼んで、これに言いました、「この女をひっくりかえして、身動きのならぬように腹ばいにさせろ。」すると奴隷どもは彼女をひっくりかえして、腹ばいに寝かせました。するとこの卑しいキリスト教徒の老人《シヤイクー》は、鞭をとって、彼女の円味のある部分を、酷《むご》たらしく打ち始めました。そして一鞭ごとに、肉体の白いところに、赤い一本の長い条《すじ》が残りました。それでも、ヅームルッドは鞭を受けるたびに、自分の信仰を弱めるどころか、叫ぶのでした、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒なり。」こうして、老人《シヤイクー》はもう腕が上げられなくなったときに、やっと鞭打つのを止めました。すると彼は奴隷どもに命じて、この女を台所に放りこみ、下女どもと一緒にさせ、飲むものも、食うものも、何一つ与えるなと申しました。彼らは即座にこれに従いました。彼らについては、以上のようでございました。
一方、アリシャールのほうは、彼はわが家の玄関で意識を失ったまま、翌朝まで倒れていたのでした。朝になって、ひとたび麻酔薬《バンジ》の酔いが消散し、阿片の温気《うんき》が頭から飛び去りますと、彼は正気を取り戻して、眼を開くことができました。それで身をもたげて、声をふり絞って叫びました、「やあ、ヅームルッド。」けれども誰も答えるものはありません。彼は不安に駆られて立ち上り、部屋にはいって見ますと、そこはがらんとして、静まり返っていて、床の上には、ヅームルッドの面衣《ヴエール》と肩掛けとが落ちているのでした。そこで彼は、キリスト教徒を思い出しました。その男もまた姿を消しているからには、最愛のヅームルッドが誘拐されたことは、もはや疑えませんでした。そこで、彼はわが頭を叩き、むせび泣きながら、床の上に身を投げ出しました。それから、着物を引き裂き、悲痛のあらゆる涙を泣いて、絶望の極、家の外に飛び出し、二つの礫《つぶて》を拾って、これを一つずつ両方の手に持ち、猛り狂って、あらゆる街々を馳け廻り始め、その礫《つぶて》でわれとわが胸を叩きながら、叫びつづけました、「やあ、ヅームルッド、ヅームルッドよ。」すると、童《わらべ》どもは彼を取り巻いて、一緒に走りながら叫びました、「気違いだ、気違いだ。」途中で出会う知人たちは、彼を憐みの眼で眺めつつ、この男が正気を失ったことを悲しんで、言いました、「あれは栄光の伜だよ。可哀そうなアリシャールだ。」
こうして彼は、礫で胸を打ち鳴らしながら、彷徨《さまよ》いつづけておりますと、そのとき、善女のなかの一人の老婆に出会いました。その老婆は彼に言いました、「わが子よ、どうかあなたが平静と正気を持つことができますように。いったいいつから気違いになりなすったのか。」アリシャールはこれに次の詩で答えました。
[#2字下げ] われに理性を失わしめしは、一人の女《ひと》の不在なり。おお、わが狂気を信ずる方々よ。狂気の因なる女を連れ返したまわば、わが心に白鮮《はくせん》(12)の爽気を置きたもうべし。
この詩句を聞き、更に注意深くアリシャールを眺めて、親切な老婆は、この男が恋に悩んでいるに相違ないことがわかりましたので、彼に言いました、「わが子よ、遠慮することはないから、あなたの苦しみと不幸を私に話してごらんなさい。きっとアッラーは、ただあなたをお助けするばかりに、私をあなたの道にお置きになったのでしょうよ。」そこでアリシャールは老婆に、自分とキリスト教徒バルスームとの事件を語って聞かせました。
この話を聞くと、親切な老婆は一刻《ひととき》のあいだ考え込みましたが、それから頭を上げて、アリシャールに申しました、「わが子よ、さあ立ち上りなさい。そして急いで私に、行商の籠を買いに行って来なさい。そして市場《スーク》で、色ガラスの腕輪や、銀メッキの真鍮指輪や、耳飾りや、安物の装身具や、そのほか、行商婆さんなどが、方々の婦人部屋《ハーレム》で売りつけるような、いろいろな品物を買ってから、それをその籠のなかに入れなさい。そうしたら、この私がその籠を頭の上に載せて、その雑貨品を女たちに売りながら、町じゅうのあらゆる家々を廻ってみることにしましょう。そういう風にすれば、いろいろと捜査ができますから、私たちはいい手がかりが得られて、アッラーの思し召しあらば、あなたの恋人シート・ヅームルッドも見つかるでしょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光がさしてくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十二夜になると[#「けれども第三百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると、アリシャールは嬉しさに涙を流し始めましたが、やがて親切な老婆の手に接吻をしてから、急いで指図されたものを買いにゆき、それを老婆のもとに持ち帰りました。
そこで老婆は家に戻って、着物を着換えました。老婆は蜜色の面衣《ヴエール》で顔を覆い、カシミヤの綾絹を頭にかぶり、黒絹の大面衣《イザール》で身を包みました。それから、頭に件《くだん》の籠を載せまして、手には彼女の敬うべき老齢を支えるために杖を持って、さまざまな地区の、名士や商人たちの婦人部屋《ハーレム》を、ゆっくりと廻り始めましたが、程なく、自ら回教徒と称するあの卑しいキリスト教徒、ラシデッディーン老人《シヤイクー》の家に着きました。こんな呪われた男こそ、アッラーが懲らしめて、世々の尽きるまで拷問のうちに焼きたまいますように。アーミーン。
さて、老婆がそこに着きましたのは、ちょうど、不幸な乙女が、台所の女奴隷や女中どもの真中に放りこまれて、身に受けた鞭打ちになおも痛がりながら、半死の態で、粗末な筵《むしろ》の上に横たわっていたところだったのです。
老婆が戸口を叩きますと、女奴隷の一人が戸を開けに来て、気安く挨拶をいたしました。老婆はこの女に言いました、「私の娘よ、いまここに、おわけしたい綺麗な品物が少々あるんだがね。お宅には買って下さる人たちはいませんか。」下女は言いました、「ああ、きっといますよ。」そして下女が台所に引き入れ、老婆はそこに大真面目で坐り込みますと、すぐに女奴隷どもに取り囲まれました。老婆はたいそうきさくに売って、腕輪や、耳輪や、耳飾りなどを、非常に安い値段で譲り始めましたので、そのためみんなの信用を得て、女たちはその言葉使いと物腰の優しさにひかれて、老婆を好きになりました。
ところが、老婆が後ろを振り向きますと、ちょうど、そこに横たわっていたヅームルッドを見つけました。そこで、老婆はその女のことを女奴隷たちに尋ねますと、女たちは知っている限りのことを、すっかり教えてくれました。そこで老婆はすぐに、自分の探し求めていた女の前にいることを信じました。老婆は乙女に近寄って、これに言いました、「わが娘よ、どうかすべての禍いがあなたから遠ざかりますように。アッラーはあなたを救うために私をお遣わしになったのです。あなたは栄光の息子アリシャールの愛する奴隷、ヅームルッドでしょう。」そして老婆は、自分が行商人に身をやつして来た理由《わけ》を告げて、彼女に言いました、「明日の晩、あなたは連れ出されるように、用意しておいて下さいよ。道路に向いた台所の窓のところにいなすって、そして、誰か暗闇で口笛(13)を吹き始める人を見たら、それが合図ですからね。あなたも口笛でそれに答えて、怖がらずに、道に飛び降りなさい。アリシャールさん自身がそこにいて、あなたを救い出してくれますからね。」そしてヅームルッドが老婆の両手に接吻しますと、老婆は急いで外に出て、アリシャールのところにゆき、今し方起ったことを詳しく知らせて、こうつけ加えました、「だから、あなたはあすこの、あの呪われた男の台所の窓の下に行って、これこれしかじかのことをなさい。」
そこで、アリシャールは老婆の親切を大いに感謝いたしまして、何か品物を贈ろうとしました。けれども老婆は断わり、彼の成功と幸福を祈りながら、立ち去ってしまいました。
明くる日の夕方、アリシャールは、親切な老婆が詳しく教えてくれた、その家に向う道をとりまして、とうとうそれを探し当てました。彼は壁の下に坐り込み、そこで口笛を吹く時分の来るのを待ったのでした。ところが、彼はもうだいぶ前から、その場にじっとしていたものですから、それにすでに二晩《ふたばん》も眠らずに過ごしていたもので、にわかに疲れに負けて、眠り込んでしまいました。けして眠ることなき唯一の御方は、頌《たた》えられよかし。
アリシャールがこうして台所の下でまどろんでいるあいだに、この夜、天運はこの方面に、何かよい獲物を探しに来た、剛胆不敵な盗賊のなかの一人の盗賊を、送りこんだのでありました。この盗賊ははいる隙間が見つからず、この家をぐるりと廻ったあとで、ちょうどアリシャールの眠っていた場所にやって来たのでした。盗賊はアリシャールの上に身を屈《かが》めましたが、その衣服の立派なことに悪心を起して、彼からその美しいターバンと外套をそっと剥ぎ取り、瞬く間にこれを着込んでしまいました。すると、ちょうどこの時、盗賊は窓が開くのを見、誰かが口笛を吹くのを聞きつけました。盗賊は眼をやると、ひとつの女の姿をみとめ、そしてその女が自分に合図を送り、口笛を吹いているのでした。これこそ、盗賊をアリシャールと思い込んでいた、ヅームルッドだったのです。
これを見ると、泥棒はさっぱり訳がわからないながら、独り言を言いました、「ひとつ返事をしてみるかな。」そして口笛を吹きました。すぐにヅームルッドは窓から乗り出し、一本の綱にすがって、道路に飛び降りました。すると、たいへん宵しい壮漢だった泥棒は、彼女を背に受けて、稲妻のような速さで遠ざかりました。
自分の背負い手にこんな力があるのを知ったとき、ヅームルッドはすっかり驚いて、これに言いました、「アリシャール様、私の愛《いと》しいお方よ、あのお婆さんが私に話したところでは、あなたは足を引きずって歩くのがやっとなくらい、悲しみと気遣いのため、弱っておしまいになったということでしたのに、それが今拝見すると、あなたは馬よりもお強いのね。」けれども泥棒は答えもせずに、ますます速く馳けてゆきますので、ヅームルッドは彼の顔の上に手を当ててみますと、そこには風呂場《ハンマーム》の箒(14)よりも剛《こわ》い毛が一面に生えて、まるで、どこかの猪《いのしし》とも思えるような男なのでした。こうしたことを確かめると、彼女はひどく怖くなって、男の顔をぴしゃぴしゃ叩き始めて、叫びました、「お前は誰なの。いったい何ものなの。」ところが、このときには彼らはすでに人里を遠く離れて、夜と寂莫に占められた、野原のまっただ中に来ておりましたので、盗賊はちょっと立ち止って、乙女を地面に下ろし、そして叫びました、「おれこそは、アフマード・エド・ダナフ盗賊団随一のしたたか者、クルド人のジワーン(15)だ。おれたちは四十人の剛の者だが、みんなずっと前から、生きのいい肉にありつけないでいた。あすの晩は、お前の夜々のなかで一番祝福された夜になろうぜ。というのは、おれたちがみんなで交る交るお前の上に乗って、御承知のものの間を転《ころ》げ廻って、あいつを朝までぐるぐる廻してやるからな。」
ヅームルッドはこの誘拐者の言葉を聞いたとき、自分の立場の恐ろしさがすっかり判りまして、涙を流し始め、われとわが顔を打ちながら、こんな暴行犯の山賊や、やがてはこやつの四十人の仲間などに、わが身を渡してしまった失策を嘆いたのでありました。それから彼女は、自分の人生では悪い運勢が強くなってしまって、これとは闘うべくもないのを見て、再びわが身を誘拐者の運ぶままに委せて、強いて抗《さか》らうこともなく、ただこう溜息をするだけで辛抱したのでありました、「アッラーのほかに神はない。私はアッラーのうちに身を寄せ奉ります。人おのおのはおのが首に結びつけられた天命を持ち、何ごとをなそうとも、これより離れることは叶いませぬ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十三夜になると[#「けれども第三百二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでクルド人ジワーンは、またもや乙女を背に担って、走りつづけ、とうとう岩々の中に隠れたひとつの洞窟まで、やって参りました。そこが、四十人の盗賊団とその頭とが住み家と定めた場所でした。ここには、ちょうどヅームルッドの誘拐者の母に当る、一人の婆さんがいて、盗賊どもの世話をし、食事を拵えておりました。そういうわけで、この婆《ばばあ》は定めの合図を聞きますと、洞窟の入口に出て来て、息子とその獲物を迎えたのでありました。ジワーンはヅームルッドを母親に渡して、言いました、「この羚羊《かもしか》をおれが戻って来るまで、よく面倒を見といておくんなよ。おれは仲間たちをおれと一緒に、この女の上に乗せてやりてえから、これから連中を探しに行ってくるぜ。とはいうものの、おれたちには仕上げなくちゃあならねえ大仕事が、二つ三つあるからな、あしたの正午《ひる》までは戻って来ねえだろうよ。だからこの女のことはお母《つか》さんに委せるから、ようく食べ物を食わせてやって、おれたちの襲撃に、よくもち堪《こた》えられるようにしといておくれ。」そして彼は立ち去りました。
すると、婆《ばばあ》はヅームルッドに近寄り、飲みものを与えて言いました、「娘さんや、お前さんは何て仕合せなんだろう、もうじき、四十人の若い元気者に突っ込まれる気分を味わうんだからね。おまけにお頭《かしら》ときたら、一人だけで、四十人を束にしたより宵しいんだよ。アッラーにかけて、お前さんは何て仕合せものだろう。若くって男の気が引けるなんてさ。」ヅームルッドは答えることができず、頭を面衣《ヴエール》でくるんで、地面に横になり、翌朝までこうしたままでおりました。
ところが、夜が彼女に深く考えさせたのでした。彼女は勇気を取り戻して、自分に言いました、「こんな際にわが身のことを、こうしてだらしなく漫然と放っておくとは、一体どうしたことでしょう。四十人の穴あけ盗賊どもが、やがて私をめちゃくちゃにし、ちょうど船が海の底に沈むまで水が船を満たすように、私を満たそうというのに、私はやつらがやって来るのを、じっとして待っていなければならないのかしら。そんなことはない、アッラーにかけて、私は自分の魂を救って、自分の体をやつらに委せたりすまい。」そしてもはや朝になっていましたので、彼女は起き上って、婆《ばばあ》に近寄りながら、その手に接吻して申しました、「親切なお母さん、私、ゆうべは本当によく眠りましたので、元気になったような気分がします。さし当り、何をして時間を潰したらよいでしょうね。何でしたら、私と一緒に日向《ひなた》に行って、私にあなたの頭の虱《しらみ》を探させて、髪の毛の手入れをおさせになったらどうでしょう、親切なお母さん。」婆は答えました、「アッラーにかけて、それはいかにもいい思いつきだよ、娘さんや。だってさ、私はこの洞穴《ほらあな》に来たときから、自分の頭を洗えなかったんだからね、今じゃあこの頭が、人間《ひと》の髪や動物《けもの》の毛の中に巣を食う、ありとあらゆる虱の住み家になっちまっているのさ。そして夜が来ると、虱どもは頭から出て来て、ぞろぞろと体の上を廻り歩くんだよ。白いのもいれば、黒いのもいる。でかいのもいれば、ちっぽけなのもいる。娘さんや、凄く大きな尻尾をしていて、後ろむきに歩きまわるやつまでいるんだよ。その他にも、どんなに臭い屁《おなら》や古いすかしっ屁《ぺ》よりも、胸糞の悪い臭いのするやつもいるのさ。だから、もしあんたがこういう悪さをする畜生どもを、私から追い払うことができりゃ、私とのあんたの暮しは、とても仕合せになるよ。」
そして婆はヅームルッドと一緒に洞窟の外に出て、日向に蹲《しやが》んで、頭に載せていたハンケチを取りました。するとヅールムッドは、なるほどそこに、あらゆる種々雑多の名の知れた虱や、またその他の虱類もいるのを見ることができました。そこで彼女は勇気を落さずに、まず虱を一掴みずつ取り除き始め、それから数本の太い枝のとげで、髪の毛を根元から梳き出しました。そして、この虱がもう普通の数だけしか残らぬようになったときに、彼女はそれらを幾度も指を使って探し始め、これを普通のように、二本の爪の間で潰し出しました。それが済むと、彼女はゆっくりと髪をといてやりましたが、そのため、婆はさっぱりしたわが肌ののどけさが、快く浸み渡ってくるような心地がして、とうとう深々とまどろんでしまいました。
時を失せず、ヅームルッドは立ち上り、洞窟に走って行って、男の着物をとり、これを着込み、四十人が盗みを犯して手に入れたターバンのうちの、一つの美しいものを頭に巻き、そして急いで外に出ますと、そこに両脚を結ばれて草を食っていた、これまた盗んできた一匹の馬を見つけました。彼女はこれに鞍を置き、大勒《たいろく》をつけ、上にとびのって打ち跨り、救済の御主《おんあるじ》を念じながら、まっすぐ前に向って、まっしぐらに疾駆させました。
こうして彼女は、休みなく、日が暮れるまで馬を走らせました。そして翌朝は、暁のうちから再び走り出し、ときどき休息をしたり、何か草の根を食べたり、馬に草を食べさせたりするほかは、止まりませんでした。このようにして、十日と十夜のあいだを、進みつづけました。
第十一日目の朝がたになると、彼女は横切って来た砂漠をついに抜け出して、緑したたる草原に出ましたが、そこには美しい小川が流れておりまして、大きな樹々や、樹蔭や、薔薇や、春のような気候から幾千となく咲き出た花などの光景が、眼を楽しませるのでした。そこにはまた、天地のさまざまな鳥が嬉々として戯れ、羚羊《かもしか》はじめその他多くの美わしい獣《けもの》どもが、群れをなして草を食べておりました。
ヅームルッドはこの快い場所にひととき休息いたしまして、それからまた馬に乗り、たいそう美しい一条の道を辿りました。この道は緑の草叢《くさむら》のあいだを走って、ある大きな都へ通じていて、遥か遠くには、そこのいくつもの光塔《マナーラ》が、太陽の下に、輝いておりました。
その都の城壁と城門に近づいたときに、彼女は夥しい群衆を見ましたが、この人々は彼女の姿を見ますと、熱狂した歓呼と勝鬨をあげ始めました。そしてすぐに、馬上の貴族《アミール》や、名士や、兵士の長たちが、城門を出て、彼女を迎えに参りまして、王に対する臣下の服従の徴《しるし》を示し、身を屈めて地に接吻しましたが、その間じゅう、四方八方で、殷々《いんいん》とした喚声が、大群衆から立ち上っていました。「願わくは、アッラーはわれらの帝王《スルターン》に勝利を与えたまわんことを。願わくは、君の御光来が回教徒《ムスリム》人民に祝福を齎らしたまわんことを。願わくは、アッラーは君の御代《みよ》を強固ならしめたまわんことを、おおわれらの王よ。」それと同時に、幾千という騎馬の戦士たちが、感激の極に達した群衆を払い退けたり、押しとめたりするために、二列に堵列《とれつ》し、そして一人の触《ふ》れ役人が、きらびやかな飾りをつけた駱駝の上に高々と乗って、人民に向って声を張りあげ、彼らの王の目出度き御到着を告げたのでありました。
ところが、相変らず騎士に変装していたヅームルッドは、こうしたすべてが何の意味なのか一向合点がゆかず、結局、両側で馬の手綱を取っていた高官たちに、尋ねました、「敬すべき卿らよ、そもそもあなた方の都には何ごとが起ったのですか。そしてあなた方は私にどういう御用がおありなのか。」すると、そこにいた一同のなかから、一人の侍従長が進み出て、地面まで身を屈めてから、ヅームルッドに申しました、「おお、われらの御主君よ、『贈与者』は恩寵をあなた様にお授けになるにあたって、惜しむことをなさりませんでした。この御方《おんかた》に讃えあれ。この御方はあなた様をば、われらの王として、この王国の王座にお即《つ》けになろうとて、あなた様のお手を執って、われわれのところへまでお連れ下さったのでございます。トルコ人の児らの高貴なる種族より出で、輝ける顔《かんばせ》の王をば、われらに与えたもう御方《おんかた》に賞讃あれ。この御方《おんかた》に栄光あれ。それと申しまするは、もしどこかの乞食とか、とるにたらぬ別人などをお送り下されたとしましても、われわれはやはり、これを王として迎え、敬意を表さなくてはならぬからでございます。実は、こういう次第でございます……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十四夜になると[#「けれども第三百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……実は、こういう次第でございます。われわれ、この都の住民の習《ならわ》しといたしましては、われわれの王が、男性の御子《おんこ》を残されずに崩御あらせられましたときは、われわれはこの街道に参りまして、天運によって送られる最初の通行人の到着を待って、これをわれわれの新しい王に選び、王として敬意を表することになっているのでございます。そしてわれわれは今日、あなた様にお会いする幸運を持ったのでございます。おお、随一の美貌の君よ。」
ところで、ヅームルッドは妙想の女でありましたから、こんな並外れた消息を聞いても、狼狽《うろた》えはしませんでした。そして侍従長はじめ、他の高官たちに申しました。「おお諸卿御一統よ、何はともあれ、それがしが生れ微賤のトルコ人とか、どこぞの平民の小伜などとは、思ってもらいたくない。それどころか、諸卿の前におる男は、血統高貴のトルコ人にして、両親と仲違いしたあげく、その故国と生家を逃れ、冒険を求めつつ、世界を遍歴せんと決心した者なのである。今あたかも、天運はそれがしにすこぶる好機に遭遇させたとあらば、それがしは卿らの王となることに同意するといたす。」
すぐに彼女は行列の先頭に立ちまして、全人民の喝采と歓呼のただ中を、意気揚々と都へ入ってゆきました。
彼女が宮殿の大門のまえに到着いたしますと、貴族《アミール》や侍従たちは地上に下り、彼女の両腕の下を支え(16)にやって参りまして、馬から下りるのを助け、彼女を自分たちの腕に載せて、謁見の大広間へと運び、そして王者の装束《しようぞく》に着替えさせたのち、これを古来の諸王の黄金の王座に坐らせました。そして一同一斉に平伏し、彼女の両手の間の床に接吻し、恭順の誓いを唱えました。
そこでヅームルッドは、まず幾世紀以来蓄積されている王家の宝庫を開かせて、自分の治世に着手し始めました。そして、そこから多額の金額を引き出させて、これを兵士と貧者と困窮者に分け与えました。ですから、人民は王を慕い、御代の末永く続かんことを祈ったのでありました。また一方では、ヅームルッドは宮廷の高官たちに大量の誉れの衣を贈ったり、貴族《アミール》と侍従たちや、またその妻たちと、後宮《ハーレム》のあらゆる女にも、御下賜品を授けることも忘れませんでした。そればかりか、税金の徴集、入市税、租税も廃止し、囚人たちを放免させ、あらゆる悪政を正したのでありました。こうして彼女は大小の人々の愛情をかち得ましたが、これらの人々もみな彼女を男と思っておりまして、彼女が決して後宮《ハーレム》に入らぬことや、決して妻妾たちと寝ないことを聞いて、その禁欲と貞潔ぶりには驚嘆したのでありました。事実彼女は、夜の特別のお勤めにも、二人の少年の宦官だけしか侍らせようとせず、この二人を戸口のところへ、横に寝かせていたのでした。
けれどもヅームルッドは、仕合せからは遠く、ただ最愛のアリシャールのことだけしか考えておりませんでした。そしてひそかに八方手を尽して、彼を探させたにもかかわらず、見つけ出すことはできませんでした。ですから、彼女は絶えずただ独り涙を流しては、至高者の御恵《みめぐ》みをアリシャールの上に引き寄せ、別離の後に、無事息災な彼に再びめぐり会うことができるようにと、祈祷と断食をつづけておりました。こうして彼女は一年を過ごしましたが、そのため、宮中のあらゆる女たちは、絶望に両腕を差し上げて、叫ぶのでございました、「王様がこんなに御信心深く、こんなにお堅いとは、私たちの上に何という不仕合せでしょう。」
一年経ったとき、ヅームルッドはある考えを思いつき、直ちにこれを実行に移そうと思いました。彼女は大臣《ワジール》と侍従たちを召し出して、彼らに命じて、建築家と技師たちに縦一パラサンジュ(17)、横も同じく一パラサンジュの、広い馬場《マイダーン》の地均《じなら》しをさせ、その真中に、円蓋《ドーム》の壮麗な離宮を建てさせ、これに立派な壁掛けを飾り、そこに玉座一脚と、宮廷の高官と同じ数だけの座席とを置くように、言いつけました。
ヅームルッドの命令はごく僅かの間に実行されました。そして馬場《マイダーン》が設けられ、離宮が建てられ、玉座と多くの座席とが、宮中席次のとおりに配置されますと、ヅームルッドはそこへ、都と宮廷とのあらゆる名士を招待いたしまして、この王国では古老の記憶にも類のないような、饗宴を催しました。この饗宴の終りに当って、ヅームルッドは招客たちのほうに向って、告げました、「今後、余はわが治世のつづく限り、毎月月始めに、その方たちをこの離宮に招待することにしたい。そして、その方たちにそれぞれ己れの席に着いてもらうが、余はまたわが人民をもすべて同様に招待し、もって彼らをこの饗宴に参加せしめて、食いかつ飲ませ、創造者に賜物を感謝させたいと思う。」すると一同仰せ承わり畏まって答えました。そこで彼女はさらに言い添えました、「触れ役人はわが人民をこの饗宴に呼び集めて、何ぴとも参加を拒む者は絞り首に処せられる旨、告げるようにせよ。」
かくて、月始めになりますと、触れ役人たちは都の街々を馳せ廻って、触れまわりました、「おお汝ら一同、商人《あきんど》と買手たち、富めると貧しきと、腹の空きたるあるいは腹の満ちたる者たちよ、われらの御主君、国王の御命令により、馬場《マイダーン》の離宮に馳せ参ぜよ。汝ら一同は、そこで食らいかつ飲んで、『恩恵者』を祝福すべし。されど、不参のものは何ぴとも、絞り首に処せられるであろうぞ。汝らの店を閉め、売り買いを止めよ。拒む者は何ぴとも、絞り首に処せられるであろう。」
この招待を受けますと、群衆は離宮へ馳せつけて、広間の真中に、ひしめく波のように群がり集まりますと、そこでは王は玉座に着席なさって、その周りにはぐるりと、貴顕高官の人々が序列の順に、それぞれの席に居並んでいるのでした。そして一同の者は、羊の炙肉だの、バター飯だの、殊に小麦粉と醗酵牛乳とで調理した、あの「キスク(18)」と呼ばれる結構なものを食べ始めました。こうして、一同が食べている間に、王は彼らを一人一人、注意深く調べておられましたが、あまり永い間そうしていらっしゃるので、誰もがそれぞれ隣りの者に、こう言ったほどでした、「アッラーにかけて、いったいどういうわけから、王様はおれをしつっこく御覧になるんだろう。」そして貴顕高官の人たちは、この間、絶えずこれらすべての人たちを励まして、言っておりました、「恥ずかしがらずに食べて、腹をいっぱいにするがよいぞ。お前方の食欲を御覧に入れるほど、王様をお喜ばせ申すことはないのだから。」すると彼らは言い合いました、「アッラーにかけて、こんなにまで人民を愛され、これほど人民のためを思って下さる王様は、かつてお目にかかったことがないわい。」
ところで、この上もなく猛烈な健啖ぶりで食べて、数々の皿のものをそっくり咽喉の奥に消し込んだ大食いどもの中に、かつてアリシャールを眠らせ、ヅームルッドを奪って、兄のラシデッディーン老人に力を貸した、あの卑しいキリスト教徒バルスームがいたのでした。このバルスームめは、肉を食べ、バターや脂などの料理を食べてしまったときに、自分の手の届かぬところに置いてある、純良な砂糖と肉桂をふり掛けた、見事なクリーム飯を盛りあげた皿に、眼をつけました。奴は隣席の人々を全部突き倒して、その皿にとり着き、これを自分のほうに引きよせて、手許に置き、そこから途方もなく大きな一口分を取って、口の中に放り込みました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光がさしてくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十五夜になると[#「けれども第三百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると隣席の一人が色をなして、彼に言いました、「自分の手の届かないところのものに手を延ばしたり、そんな大きな皿を一人占めにしたりしやがって、貴様は恥ずかしくないのか。」またもう一人の隣りの男がつけ加えました、「その料理がお前の腹にひどくもたれて、腸《はらわた》をひっくり返してくれりゃあいい。」またたいへんな麻薬《ハシーシユ》服用者《のみ》で、好人物の男が、これに言いました、「さあさあ、アッラーにかけて、一緒に分けようじゃないか。それをこっちによこしなさい、おれも一口か、二口か、三口貰うから。」けれどもバルスームは、この男に蔑《さげす》みの一瞥を投げ、声を荒《あら》げてどなりました、「ここな、呪われた麻薬食《ハシーシユく》らいめ、こういう高級料理は、お前の腮《あご》のためになんぞ作られていはしない。これは貴族《アミール》や上品な方々のお屋敷に行くものなんだ。」そして彼は、その美味しい練粉のなかに、いよいよ指を突っ込もうといたしますと、このときしばらく前から彼を観察していたヅームルッドは、この男が誰かわかったので、四人の警吏をこれに差し向けて、申しつけました、「早く走って、あの牛乳入りの飯を食べている奴を捕え、余のもとに引き立てて参れ。」そこで四人の警吏はバルスームに飛びかかり、まさに呑み込もうとしていた一口分の料理を、その指からもぎ取って、顔を床に叩きつけ、その両足をつかんで、驚く見物人たちの真中を、王の御前《ごぜん》に引きずって参りましたが、見物人たちはすぐに食べるのをやめて、互いに囁き合いました、「がつがつして、他人《ひと》の食べ物まで横取りするやつは、あのとおりさ。」またかの麻薬《ハシーシユ》用者《のみ》は、周りの人々に言いました、「アッラーにかけて、わしはあの肉桂入りの結構な御飯を、あいつと一緒に食わなくてよかったよ。これから、あいつはどんな刑罰を食うか、わかったもんじゃない。」そして一同はこれから何が起るだろうと、注意をこめて見つめ始めました。
ヅームルッドは眼のうちを火と燃やして、この男に尋ねました、「汝、悪しき碧眼の男よ、汝の名は何というか、また汝がわが国に参ったのはいかなる動機か。」回教徒のみの特権である白いターバンを被っていた、この卑しいキリスト教徒は申しました、「おお王様、私めはアリと申しまして、打紐商人を生業《なりわい》といたしておるものでございます。私がこのお国へ参りましたのは、商売を営んで、自分の手で働いて暮しを立てるためでございます。」
するとヅームルッドは、少年の宦官の一人に言いました、「急いで、余の占い砂の卓と、土占いの線を引くに用いる銅ペンを取ってまいれ。」そして命令がすぐ実行されますと、ヅームルッドは、卓の平らな表面にていねいに占い砂を拡げて、そこへ銅ペンで、一匹の猿の形と見慣れぬ文字を数行書きました。それがすむと、彼女はしばらくのあいだ考え込み、それからいきなり頭を上げて、全群衆に聞えるような恐ろしい声で、その卑しい男に叫びました、「おお犬め、汝は何ゆえ王者に向って、臆面もなく虚偽を申すのか。汝はキリスト教徒ではないか。名前はバルスームと申すのではないか。しかも、汝がこの国に参ったのは、むかし汝の盗んだ女奴隷を探そうとするためではないか。ここな、呪われた犬め、余の占い砂がかくも明瞭に啓示した真実を、すぐさま有体《ありてい》に白状いたせ。」
この言葉を聞きますと、キリスト教徒は顫え上って、両手を合わせて、地上にくずおれてしまい、そして言いました、「後生でございます、おお当代の王様。お言葉に間違いはございません。私めは、まことは――わが君の一切の禍いより免《のが》れたまわんことを、――下種《げす》なキリスト教徒でございまして、こちらに参りましたのも、かつて私が盗みました回教徒の女で、わが家から逃げてしまったのを、奪い返すつもりだったのでございます。」
するとヅームルッドは、「ワッラーヒ(19)、われらの王様にくらべられるような砂読みの土占い師は、世界中にいないぞ」という全人民の感嘆の囁きのただ中で、太刀取《たちとり》とその輔佐役たちを呼びよせ、申しつけました、「この卑しき犬を都の外へ連れて参り、生き身のまま皮を剥ぎ、悪質の乾草《ほしくさ》を填《つ》め込んで剥製となし、次に再び戻って、その皮を馬場《マイダーン》の入口に釘づけにせよ。その屍《かばね》のほうは、干した糞で燃してしまい、そこから残ったものは糞溜めに突っ込まねばならぬぞ。」すると彼らは仰せ承わり畏って答え、キリスト教徒を引っ立てて行って、その判決どおりに処刑いたしましたが、人民はこの判決を、正義と英知に満ちたものと思いました。
卑しい男が牛乳入りの飯を食べるところを見ていた、隣席の人々のほうはどうかと申しますと、たがいに自分たちの感想を伝え合わずにはいられませんでした。ある者は申しました、「ワッラーヒ、わしはあの料理が滅法好きなのだが、もう生涯、あれには食気を起さないことにしよう。あいつは禍いの因《もと》だて。」また麻薬《ハシーシユ》服用者《のみ》は、恐ろしさに疝痛を起してしまったほどで、腹を押えながら、叫びました、「やれやれ、ワッラーヒ、おれの良い運命は、おれにあの呪われた肉桂入りの飯に、手を触れさせないようにしてくれたよ。」そしてみんなは、もうクリーム飯という言葉を、決して口に出さないことを誓ったのでした。
事実、次の月になって、人民が改めて招待され、王の御前の饗宴に参加したときには、クリーム飯を入れた皿の周りには、大きな空席ができておりまして、そちらのほうは誰一人見ようとしませんでした。それから満堂の者は、王が一人一人の招待客をこの上もなく深い注意を払って観察していらっしゃるので、御意に添うように、食ったり、飲んだり、楽しんだりし始めましたが、誰もが、それぞれ自分の前に置かれた料理にしか、手をつけませんでした。
こうしているうちに、そこに見るからに恐ろしい一人の男が入って来て、通り道にいる人々をみな突き倒しながら、さっさと進み出ましたが、クリーム飯の周りを除いては、全部の席がふさがっているのを見ると、その皿の前に来て蹲《しやが》み込み、一座の驚愕《きようがく》のさなかで、まさに手を差し延べて、これを食べようといたしました。
ところがヅームルッドはいち早く、この男の中に自分の誘拐者、アフマード・エド・ダナフ盗賊団の四十人の一人、クルド人の荒くれ男ジワーンを、認めたのでありました。彼がこの都に乗り込んで来た動機は、あの乙女を捜索することに他ならなかったのですが、乙女が逃げ出したことは、ちょうど彼が仲間たちと一緒に、彼女に乗る手筈を整えていたときのこととて、彼を凄まじい憤怒に投じたのでありました。そして彼は絶望のためにわが手を噛んで、たとえ彼女がコーカサスの山の向うにゆこうとも、たとえ殻《から》のなかのふすだしゅう[#「ふすだしゅう」に傍点]の実(20)のようにひそんでいようとも、もう一度探し出してやろうと、誓いを立てたのでありました。そして彼は彼女を捜索に出掛けて、とうとう件《くだん》の都に着き、そして絞り首に処せられぬように、ほかの人々と一緒に、この離宮に入ったのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十六夜になると[#「けれども第三百二十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで彼は件《くだん》のクリーム飯の皿の正面に坐って、そのまん真中に手をすっぽり突っ込みました。すると人々は四方八方から、叫びかけました、「待った、待った、何をしようというのだ。用心しろよ、生きながら皮を剥がれるぞ。その災いの皿に手をふれるなよ。」けれども、男は恐ろしい眼をぎょろつかせて、みんなに叫びました、「黙れ、貴様ら。おれはこの料理を食って、腹をいっぺえにしてえんだ。この甘いクリーム飯は、おれさまの好物なんだ。」人々はまたもや叫びました、「お前さんは皮を剥がれて絞り首になるぞ。」彼はこれに答えるかわりに、すでに手を突っ込んだ皿をさらに近くに引き寄せて、その上に身を屈めたのでした。これを見ると、男の一番そばにいた麻薬《ハシーシユ》服用者《のみ》は、恐ろしくなって、麻薬《ハシーシユ》の酔いも醒め果て、その場を逃げ出しました。そして、これからは何が起ろうとおれの知ったことではないと明言しながら、もっと遠くのほうへ坐りにゆきました。
さて、クルド人のジワーンは、烏《からす》の爪のような黒い手を皿に突っ込んでから、駱駝の足のような巨きな重い手(21)を引き出しました。彼はたいへんな分量を一掴み引っ張り出してから、これを掌《てのひら》で丸め、仏手柑《ぶつしゆかん》くらいの大きな球《たま》を作って、これをぐるりと廻して咽喉《のど》の奥へ抛り込みましたが、その球は凄まじい音をたてて、洞穴《ほらあな》のなかの滝さながらに、咽喉に嚥《の》み込まれましたので、離宮の円蓋《ドーム》は、大きな木霊《こだま》が跳ねつ、返りつ、反響しながら、鳴り響いたほどでありました。そしてこの一口分が取られた塊りの跡は、大皿の底があらわに現われたくらいでした。
これを見ると、麻薬《ハシーシユ》服用者《のみ》は手を上げて、叫びました、「アッラーはわれらを護りたまえ。あいつはあの皿を、ただ一口に嚥み下《くだ》してしまいやがった。おれをばあいつの手の間の、牛乳御飯にお創《つく》り下さらなかったアッラーは、感謝されんことを。」そして付け足しました、「あいつは勝手に食わせておこうじゃないか、おれにはもう、あいつの額に、吊されたときの姿がはっきり見えているからな。」それから彼は、さらにクルド人の手の届かぬところに行って、彼に向って叫びました、「どうか貴様の消化《こなれ》が止まって、息の根がとまるように、おお、恐ろしい底なし淵め。」けれども、クルド人は、周りで言われていることなどには耳も貸さず、またもや棍棒《マトラク》のような指を柔かい塊りの中に突っ込みましたので、その塊りは音を立てて左右に開きました。そして彼は指先に南瓜のような大きな球《たま》を持って、指を引き出しました。そしてこれを嚥み下すまえに、早くも掌のなかで丸めておりましたが、そのとき、ヅームルッドは警吏たちに言いつけました、「あの飯を食っておる男が一口分を呑み込むまえに、速やかに余のもとに引き立てて参れ。」すると警吏たちは、上半身全部を皿の上に乗り出して屈み込んでいたので、こちらが見えずにいる、クルド人に躍りかかりました。そして素早く彼をひっくり返し、後手《うしろで》に縛り上げて、王の御前に引きずって参りましたが、この間、列席の人々は言い合っておりました、「あいつは自分でわが身の破滅を求めたのさ。おれたちはあいつに、あの縁起の悪いクリーム飯に触《さわ》るのは止せと、さんざん忠告してやったんだがね。」
彼が前に来たときに、ヅームルッドは尋ねました、「汝の名は何と申すか、職業は何か、またいかなる動機でわれらの都に来ることに相成ったか。」彼は答えました、「私めはオスマーンと申しまして、職業は植木屋にございます。私の参りました動機はと申しますれば、食わんがため働く庭を探すことでございます。」ヅームルッドは叫びました、「砂の卓と銅のペンを持って参れ。」そして、その品々を手の間に持ったとき、彼女は展《ひろ》げられた砂の上に、ペンでいろいろな文字や図形を記《しる》しまして、一刻《いつとき》の間、考え込んだり、計算したりして、それから再び頭を上げて、言いました、「汝に禍いあれ、卑しい嘘つきめ。砂の卓上の計算の知らせるところでは、汝は実の名をクルド人のジワーンといい、職業は山賊と盗賊と人殺しじゃ。この千人の淫売婦の伜め、直ちに真実を白状いたせ。さもなくば、打擲が汝をして真実を見出さしめるであろうぞ。」
この王のお言葉を聞きますと、彼はよもやこれが、先ごろ自分の拐《かどわ》かした乙女だとは思いもよらなかったので、顔色は黄色くなり、腮《あご》はがたがた鳴り、唇は、狼か何かの野獣の牙《きば》の上で、引きつりました。それから彼は、真実を白状すれば頭が助かるだろうと思って、言いました、「おお王様、仰せのとおりでございます。けれども私は、ただ今からすぐさま君の御手《おんて》に誓って悔い改めまして、これからは正道を歩むことといたします。」けれどもヅームルッドは申しました、「回教徒の道に有害な獣《けだもの》を生かしおくことは、余には許されぬ。」次に命令を下しました、「この男を引き立ててゆき、生き身のまま皮を剥ぎ、それに藁を填《つ》めて剥製となし、その皮を離宮の門に釘づけにいたし、その屍《かばね》はさきのキリスト教徒の屍の運命と、同じ運命に遭わせよ。」
警吏が件《くだん》の男を引き立ててゆくのを見たとき、麻薬《ハシーシユ》服用者《のみ》は立ち上って、飯の皿に尻を向けて言いました、「おお、砂糖と肉桂のふりかけ飯め、わしはお前には背を向けるぞ、おお禍いの料理め。というのは、お前などはおれのお尻《けつ》で沢山だと思うからだ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十七夜になると[#「けれども第三百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……お前などはおれのお尻《けつ》で沢山だと思うからだ。お前には唾を引っかけてやるわい、お前なんぞは大嫌いだ。」彼については、こうした次第でありました。
ところが、三度目の饗宴についてはどうかと申しますと、それは次のようでございます。前二回の場合と同じように、触《ふ》れ役人たちは同じ告知をいたしました。次に人民は離宮のもとに集まり、高貴な人々は序列の順に席を占め、王は玉座にお着きになりました。そして一同の者は食べたり、飲んだり、楽しんだりし始めました。群衆は到るところにかたまっておりましたが、クリーム飯の皿の前だけは別でございまして、それは広間の真中に手を触れられずにあり、すべての食べる人の背中は、そちらのほうに向いておりました。すると、そこに突然、一人の白髯の男が入って来るのが見えました。彼はその皿の周りがすっかり空いているのを見て、そっちのほうへ進んでゆき、絞り首に処せられぬように、食事をするために坐りました。ヅームルッドはこの男を眺めて、それが彼女を弟のバルスームに攫《さら》わせた卑しいキリスト教徒、ラシデッディーン老人《シヤイクー》であることを認めました。
事実ラシデッディーンは逃げた乙女を探しにやった弟が、一月経っても帰って来なかったので、自分自身で出かけて行って、彼女を見つけてこようと決心したのでした。そして天運が彼をこの都から離宮にまで導いて、クリーム飯の皿の前へと連れて来たのでございます。
ヅームルッドは呪われたキリスト教徒を認めて、心のなかで考えました、「アッラーにかけて、このクリーム飯は祝福されたお料理だこと。これは私に悪漢どもを全部見つけさせてくれるのだから。そのうち、これを全住民の義務的な料理にするように、都じゅうに触れを出させなければならない。そしてこれを嫌うような者たちは、絞り首にさせてしまおう。差し当って、まずこの老いぼれの極悪人を片付けることにしましょう。」そこで彼女は警吏に叫びました、「あの飯を食っておる男を引き立てて参れ。」すると、今や慣れきった警吏たちは、すぐにその男を認めて、躍りかかり、髯を掴んで王の御前に引きずって参りますと、王はこの男にお訊ねになりました、「汝の名は何と申すか。生業《なりわい》は何であるか、してまた、われわれの間に参ったのは、いかなる動機であるか。」彼は答えました、「おお幸多き王様、私めはルステムと申します。しかし、貧者で托鉢僧《ダルウイーシユ》であることよりほかに、私には生業がございませぬ。」彼女は叫びました、「砂とペンを持て。」すると人々はそれを彼女のところに持って参りました。そこで、彼女は砂を拡げ、図形と文字をそこに描いてから、一刻《いつとき》の間考え込み、それから再び頭を上げて、言いました、「汝は王の御前で虚偽を申し立てたな、呪われた犬め。汝の名はラシデッディーンと申し、汝の職は、回教徒の婦人たちを欺しては誘拐し、これをわが家に閉じこめることであろう。汝は上べこそ回教《イスラム》の信仰を奉じておるが、心の底では卑しいキリスト教徒なのじゃ。真実を白状いたせ。さもなくば、汝の頭《こうべ》は直ちにその足もとに転《ころ》び落ちるであろう。」すると卑しい男は顫え上って、自分の頭を助けられるものと思って、もろもろの罪と恥とを白状いたしました。そこでヅームルッドは警吏に申しました、「この男を打ち倒して、両足の裏へそれぞれ棒千を加えよ。」そしてこれは速刻実行されました。そこで彼女は申しました、「今度は、この男を引き立てて参り、皮を剥ぎ、それに腐った乾草《ほしぐさ》を填めて剥製となし、ほかの二名とともに、離宮の入口に釘づけにせよ。そしてその屍のほうは、さきの二匹の犬の運命と、同じ運命に遭わせよ。」そしてこれは即座に実行されました。
それから、一同の者は王の英知と易の知識に感嘆し、その正義と公平を讃め称えながら、食べ始めました。
饗宴が終りますと、人民はぞろぞろと立ち去り、女王ヅームルッドも王宮に御帰還になりました。けれども彼女は内心では少しも幸福でなく、独り言を言っておりました、「私に害を加えたやつらに復讐を遂げさせて下さり、私の心を静めて下さったアッラーは、感謝されんことを。けれども、こうしたすべてのことも、私の愛《いと》しいアリシャールを私に返してくれはしない。さりながら、全能者は、これを己れの唯一の神として崇《あが》め、感謝し奉る人々に対しては、御意《ぎよい》に召すところをなさることができるわけです。」そして彼女は、恋人の思い出に心が乱れ、一晩じゅう、夥しい涙を流したのでありました。それから、彼女は一人きりで、苦悩と共に、翌月の始めまで蟄居《ちつきよ》しておりました。
そのときになると、人民はまた定例の饗宴に集まり、王と高官たちは、いつものように、円蓋《ドーム》の下に席を占めました。そして饗宴はすでに酣《たけなわ》となっておりましたが、ヅームルッドは恋しい人を見つけることには全く絶望し、心の中でこうした祈願を唱えていたのでした、「おお、ユースフを老父ヤアクーブに戻したまい、聖アイユーブ(22)を不治の傷より癒したもうた君よ、わたくしにもまた御慈悲をもって、わが愛《いと》しきアリシャールを見つけさせて下さいませ。おお宇宙の主よ、君は全能者であらせられまする。彷徨《さまよ》える者を正道に戻したまい、あらゆる声を聞きたまい、あらゆる祈願を聴き入れたまい、夜のあとに昼を来たらせたもう君よ、君の奴隷アリシャールをばわれに返させたまえ。」
ヅームルッドが心中でこう祈念を誦え終るか終らぬうちに、一人の青年が馬場《マイダーン》の入口からはいってまいりましたが、そのしなやかな身体は、柳の小枝のように撓《たわ》んでおりました。その青年は光の美しいごとく美しかったのですが、しかし青ざめて華奢《きやしや》でした。彼は坐る場所を方々探しましたが、例のクリーム飯の皿の周りしか、空いているところが見つかりませんでした。彼がそこに行って席を占めますと、人々は四方八方から、怯《おび》えた眼差しで彼を追っておりましたが、彼らはもはやこの男は助かるまいと観念して、皮を剥がれて吊り下げられる彼の姿を見ておりました。
ところが、ヅームルッドはひと目見るなり、アリシャールを認めました。心臓が慌《あわただ》しく鳴り始めて、もう少しで歓声を発しそうになりました。けれども、彼女はこの衝動を巧みに抑え了《おお》せて、人民の前で本心を曝《さら》け出すような真似をしないですみました。とはいえ、大きな感動に捕われ、臓腑《はらわた》は揺れ動き、心臓はいよいよ高鳴るのでした。それでアリシャールを呼びよせる前に、すっかり平静になるのを待ちました。
アリシャールのほうはどうかと申しますと、その身に起ったことは次のようでございます。彼が眼を覚ましましたときには……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十八夜になると[#「けれども第三百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……彼が眼を覚ましたときには、日は高く上っていて、商人たちはすでに市場《スーク》を開きはじめておりました。アリシャールは、こんな道端に横になっていたのを知って驚き、額に手をやってみると、ターバンがなくなっており、外套も同様なのに気がつきました。そこで、彼はことの真相を了解し始めましたが、すっかり逆上して、あの親切な老婆のもとに走ってゆき、その災難を語り、どうか消息を聞きに行ってくれと頼みました。老婆は快く引き受けて出かけましたが、ひと時たちますと、顔も髪も取り乱して戻ってきて、彼にヅームルッドの行方不明になったことを告げて、申しました、「わが子よ、これからあなたの恋人を見つけることは、永久にあきらめなくてはいけないと思いますよ。全能のアッラーのほかには、災厄《わざわい》に対する頼《たよ》りと力はありません。あなたに起った一切のことは、たしかにあなたの過ちから出ているのですからね。」
この言葉を聞くと、アリシャールは顔の前で光が闇に変るのを見まして、もう生に望みを失って、死ぬことを願い、親切な老婆の腕に抱かれて、涙を流し、むせび泣きはじめ、遂には気を失ったほどでありました。それから、家の女たちが摩擦をしてくれたおかげで、再び意識を取り戻しましたけれど、それなり、睡眠欲も失うような重い病いにかかって、床に就いてしまいました。そしてもしもこの親切な老婆がいて、看護をしたり、可愛がったり、元気づけたりしてくれなかったとしたら、きっと彼はこの病いのために、そのまま墓場に直行してしまったことでしょう。こうして彼は一年の間、ずっと重い病気を患《わずら》っておりましたが、老婆はつききりで、果汁を飲ませてやったり、雛鶏を茹《ゆ》でてやったり、気つけの香水を嗅がせてやったりしてくれました。彼のほうははなはだしい衰弱と傷憔の状態に陥って、なされるままになり、別離についての哀切な数々の詩を、一人誦しておりました。数々の詩句の中には、次のようなものがございました。
[#ここから2字下げ]
憂いは積り、愛は潰《つい》え、涙は流れ、心は焼かる。
苦悩の重荷は背と心とにのしかかれど、背はこの重荷に耐えず、心はまた、愛の望みと、道なき情熱と、夜々の不眠とに衰え果つ。
主なる神よ、われを助けたもう道なおありや。とくわれを救いたまえ、末期の息吹《いぶき》いまだ痩せ衰えし肉体より洩れ出《い》でざるうちに。
[#ここで字下げ終わり]
つまりアリシャールは、ヅームルッドに再会する望みがないのと同じように、癒える望みもなく、このような状態にありました。親切な老婆も、もうこの麻痺状態から彼を救い出すのには、どうしてよいかわからない有様でしたが、そのとき、ある日のこと、老婆は彼に言いました、「わが子よ、あなたが家から出ないで嘆きつづけていたとて、恋人を見つけることなどできはしませんよ。私の言うことを信じようというのならば、起き上って、体力をつけ、方々の都や国々へ、恋人を探しにお出掛けなさい。救いはどの道から来ることができるか、ほんとにわかりませんからね。」こうして老婆は、彼を無理に起き上らせて、浴場《ハンマーム》にはいらせるまで、励まし、希望を与えるのをやめませんでした。浴場《ハンマーム》では老婆は自分で沐浴《ゆあみ》をさせてやり、シャーベットを飲ませ、雛鶏を一羽食べさせてやりました。こうして老婆はひと月の間、面倒を見つづけてくれましたので、とうとう彼は旅に出られるような状態になりました。そこで彼は、出発の支度を整え終ってから、老婆に別れを告げ、ヅームルッドを尋ねて、旅路に上ったのでした。こういう次第で、彼は遂にヅームルッドが王になっている都に到着し、饗宴の離宮に入り、砂糖と肉桂をふりかけたクリーム飯の皿の前に、坐ることになったわけでございます。
彼はひどく腹が減っておりましたので、袖を肱までまくり上げ、「ビスミラーヒ(23)」の文句を唱えて、いよいよ食べに掛りました。すると隣席の人たちは、彼がどんな危険に曝されているかを知って気の毒になり、彼に向って、もしも運悪くこの料理に手を触れるようなことになったら、きっと身に災難が起るだろうと、知らせてやりました。けれども彼は意地を張りとおしますので、麻薬《ハシーシユ》服用者《のみ》は彼に言いました、「お前さんは皮を剥がれて吊り下げられることになるぜ、用心しなよ。」彼は答えました、「不幸に満ちた人生から私を解放してくれる死は、祝福されてあれ。とにかく私は死ぬ前に、このクリーム飯が食べたいのです。」そして彼は手を延ばして、盛んな食欲で食べ始めました。
このような次第でございました。すると、非常に心を動かされながら、彼を見守っていたヅームルッドは、考えました、「あの方を連れて来させるまえに、まず十分飢えを満たさせて上げることにしよう。」そして彼が食べ終えて、感謝の文句を唱えたのを見たときに、彼女は警吏に申しました、「あのクリーム飯の皿の前に坐っておられる若いお方に、ごく物柔かにお目にかかりに行って、そして余のもとに話しに来られるよう、礼を厚くしてお願い申し、『国王にはあなた様に一問一答をお求めにございます、ただそれだけでございます』と申すがよい。」すると警吏たちはアリシャールの前に参りまして、身を屈めて彼に申しました、「殿よ、わが御主君、国王にはあなた様に一問一答をお求めにございます、ただそれだけでございます。」アリシャールは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして彼は立ち上り、警吏たちについて王の御前に参りました。
この間に、庶民たちは彼ら同士で、あれこれといろいろ推測しておりました。ある人々は言いました、「若い身空で何と不仕合せなことだろう。どんなことになるかわかったものじゃない。」けれども他の人々は答えました、「もしあの男がひどい目に遭うのだったら、王様は腹いっぱい食わせてはおおきにならなかったろう。二口目から止めさせておしまいになったろうぜ。」するとまた他の人々は言いました、「警吏たちはあの男を、足や着物をつかんで引きずって行かなかったぞ。あの男につき従って、あとから距離を置いて、うやうやしく従《つ》いて行ったじゃないか。」
アリシャールが王の御前に罷《まか》り出ているあいだ、このような次第でありました。そこで、アリシャールは身を屈めて、王の御手の間の床に接吻いたしますと、王は打ち顫える声で、たいそう優しくお尋ねになりました、「そちの名は何と申すか、おお優しき若者よ。またそちの職業は何であるか。してまたいかなる動機で、そちは生国を離れて、このような辺境に到ることを強いられたのか。」彼は答えました、「おお幸多き王様、私は栄光の伜アリシャールと申しまして、ホラーサーンの国の、商人の子らの間の一人でございます。私の職業は父の職業を継ぎましたが、いろいろの災厄のため家業を廃してから、久しくなりまする……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百二十九夜になると[#「けれども第三百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……私が御当地に参った動機はと申しますると、それは私の失いました愛する人を探すためでございまして、それは私の目よりも、耳よりも、魂よりも大切な人でありました。そして、その人を奪われましてからというものは、私は夢遊病者のように暮しております。これが私の痛ましい身の上でございます。」そしてアリシャールはこれらの言葉を言い終りますと、泣き崩れ、激しくしゃくり上げて、気を失って倒れてしまいました。
ヅームルッドは感動の極みに達して、二人の少年の宦官に、彼の顔へ薔薇水をふりかけるように命じました。二人の少年の奴隷はすぐに命令を実行し、アリシャールは薔薇水を嗅いで、われに返りました。するとヅームルッドは申しました、「では、砂の卓と銅のペンを持って参れ。」そして彼女は卓を取り、ペンを取りまして、いくつもの線や文字を描いてから、一刻《いつとき》の間考え込んだのち、彼女は静かに、しかし全人民に聞えるように、申しました、「おお栄光の伜アリシャールよ、占いの砂はそちの言葉を確証いたした。そちの言葉に偽りはない。されば余はそちに、やがてアッラーがそちを恋人にめぐり会わせて下さることを、予言してやることができる。どうかそちの魂が鎮まり、そちの心が爽やかになるように。」次に彼女は宴会を閉ざし、二人の少年の奴隷に向って、この方を浴場《ハンマーム》に案内し、浴後には、王家の衣裳戸棚の衣裳をお着せし、王家の厩舎《うまや》の馬にお乗せして、日の暮れる頃に自分のもとにお連れして来るようにと、命じました。二人の少年の宦官は仰せ畏まって答え、急いで王の命令を実行いたしました。
一方、終始この場面に立ち会って、王の下した命令を聞いていた庶民たちはと申しますと、彼らはたがいに尋ね合いました、「一体どんな秘密の動機《わけ》から、王様はあの美男子を、ああまで鄭重に優しく、おもてなしになったのだろうかね。」他の人々は答えました、「アッラーにかけて、動機はまことに明白さ、えらい美少年だもの。」また他の人々は言いました、「王様が黙ってあの男に、あの甘いクリーム飯の皿で飢えを満たさせておおきになるのを見て、それだけでもう、おれたちは、これからどんなことが起るかちゃんとわかったね。ワッラーヒ、クリーム飯がこういういろんな奇蹟を行なうなんて話は、おいらはついぞ聞いたことがなかったよ。」そして彼らはめいめい自分の意見を述べながら、立ち去りました。
ヅームルッドのほうは、遂にわが心の恋人と二人きりになれるというので、想像もつかぬような待ち遠しさを覚えながら、日の暮れ方を待ったのでした。ですから、太陽が沈んで、告時僧《ムアズイン》が信徒たちを礼拝に呼び集めるやいなや、彼女は衣服を脱いで、着るものとしてはただ絹の下着だけを身に纒い、寝床の上に横になったのでした。そして彼女は薄暗がりになるように、帳《とばり》を下ろしまして、二人の宦官に命じて、玄関に待っているアリシャールをはいらせるように申しました。
侍従や宮廷の高官たちのほうでは、王が美貌のアリシャールをああした異例の方法でもてなされたのを見ては、もはや王の御意向を疑いませんでした。彼らは言い合いました、「今となっては、王様があの若者に惚れ込んでしまわれたことに、間違いはない。だからあの若者と一夜をお過ごしになったあと、明日は必ず、侍従か軍の総大将(24)に任命なさるだろう。」彼らについては、以上のようでした。
アリシャールのほうは、彼は王の御前に出ますと、敬意を表し、祈念を捧げながら、御手の間の床に接吻して、御下問を待ちました。そのときヅームルッドは魂のなかで考えました、「私が誰であるかを、今すぐお明かしするわけにはいかない。いきなり私だということがおわかりになったら、この人は激動のあまり死んでおしまいになるだろうから。」そこで彼女は彼のほうを向いて、これに言いました、「おお優しい若者よ、もっと近う寄れ。どうじゃ、浴場《ハンマーム》には参ったかな(25)。」彼は答えました、「はい、参りましてございます、おおお殿様。」彼女は語をつぎました、「全身を洗って、香水をふりかけ、さっぱりといたしたかな。」彼は答えました、「はい、おおお殿様。」彼女は尋ねました、「沐浴《ゆあみ》はさだめし、そちに食欲を催させた筈じゃ、おおアリシャールよ。それ、そちの手の届くところに、雛鶏と菓子類を盛った盆があるぞ。まずはじめに空腹を癒すがよい。」そこで、アリシャールは仰せ承わり畏って答え、腹いっぱい食べて、満足いたしました。すると、ヅームルッドは彼に申しました、「今度は、喉が渇いているであろう。それ、二番目の台の上に飲み物の盆があるぞ。飲んで渇きを癒し、それから余のすぐそばに参れ。」アリシャールは、それぞれの飲み物の壺から茶碗に一杯ずつ飲んで、そして王のお寝床に近寄りました。
すると王は彼の手をとって、これに仰せられました、「余はそちがたいそう気に入った、おお若者よ。そちは綺麗な顔をしているのう、余は綺麗な顔が好きじゃ。ひとつ按摩をしてもらいたい。」そこでアリシャールは身を屈め、袖をまくって、王のお御足《みあし》を揉み始めました。
しばらくたつと、王は申されました、「今度は脛《すね》と股を揉んでくれい。」そこで栄光の息子アリシャールは、王の脛と股を揉み始めました。すると彼はそれが柔かく、しなやかで、無類に白いのに、驚くと同時に感嘆しました。そして心中で言いました、「ワッラーヒ、王様方の股というものはたいへん白いものだな。それに毛もないぞ。」
この時ヅームルッドは彼に言いました、「おお、按摩の術に長《た》けたる手の若者よ、その揉み方をつづけて、臍のところまでやってくれ。」けれどもアリシャールは突然按摩をやめて、申しました、「御容赦下さいませ、お殿様、そう仰せられましても、私は股より上の体の揉み方は存じません。私の存じておりますことは、すべてしつくしてしまいました。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十夜になると[#「けれども第三百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この言葉を聞くと、ヅームルッドはたいそう怒った声音《こわね》で、叫びました、「何を申すか。そちは余にさからう気か。アッラーにかけて、もしそちがなお躊躇《ためら》うなら、そちの夜はそちの頭上で不祥となるであろうぞ。されば、急ぎ身を屈めて、余の望みを満たすようにいたせ。さすれば余も、その返礼に、そちを余の正式の情夫となし、貴族《アミール》の中の貴族《アミール》、ならびにわが軍団長の中の軍団長に任じてつかわそう。」アリシャールは訊ねました、「私にはわが君が何をお望み遊ばすのか、はっきりわかりかねまする、おお王様。仰せに従うには、私はどうすればよろしいのでございますか。」彼女は答えました、「そちの尊敬すべき股引を脱いで俯《うつぶ》せに寝るのじゃ。」アリシャールは叫びました、「さようなことは、私は未だかつてしたことがございません。もしも私にそのようなことを無理に犯させようというおつもりなら、私は復活の日に、わが君にその責《せめ》をお問い申し上げるでございましょう。さあ、私をここから出して、故郷に帰らせて下さいませ。」けれどもヅームルッドは、さらに怒りたけった口調で、言葉を継ぎました、「余はそちに、尊敬すべき股引を脱いで、俯せに寝ろと命じておるのじゃ。いやとあらば、直ちにそちの首を刎ねさせてしまうぞ。さあ、早く参れ、おお若者よ、そして余と一緒に寝《い》ねよ。そちはこれを悔ゆることはあるまいぞ。」
そこでアリシャールは絶望して、仰せに従うより他に仕方がありませんでした。ヅームルッドはすぐさま彼を腕に抱きしめて、その上に乗って、彼の背中の上に寝そべりました。
アリシャールは、王がこんなに勢い烈しく背中におのし掛りになるのを見ると、思いました、「王様はいよいよおれを頼るすべなく駄目にしておしまいになるわい。」ところが間もなく彼は、何かまるで絹のように自分を愛撫する快いもの、肌触りがバターのようでもあれば堅くもある、柔かみと同時に丸みのあるものを、軽く体の上に感じました。そこで彼は独り言を言いました、「ワッラーヒ、この王様は女たちの肌よりも好ましい肌を持っていらっしゃるぞ。」ところが、こうした姿勢のままで、すこしも穴を掘られるようなことを感ぜずに、しばらく経ちますと、彼は王様が突然彼の背中からお放れになり、彼の横に、御自身仰向けに横になられるのを見ました。そこで彼は考えました、「伜《せがれ》の目ざめをお許しにならなかったアッラーに、祝福と栄光あれ。もしそれが首尾よくいったら、おれはどうなったことだろう。」そして、彼はだんだん楽に息をつき始めましたが、そのとき王は彼におっしゃいました、「おおアリシャールよ、実を申せば、伜は指でもっていじられるときしか起きぬ癖があるのじゃ。されば、これをいじってくれなければならぬ。さもなくば、そちは死人であるぞ。」そしてヅームルッドはやはり仰向けに寝たままで、栄光の息子アリシャールの手をとって、これを静かに自分のものの上にのせました。アリシャールはこれに触りますと、玉座のように高く、雛鶏のように油が乗り、鳩の胸よりも熱く、情熱に燃えた心よりも燃えている、ある円いものを感じました。しかもその円いものは、すべすべして、白く、水気の多い、巨きなものでした。そして突然それが、彼の指の下で、まるで鼻の孔を突つかれた騾馬か、背中の真中を突棒で突かれた騾馬のように、後足で立ち上ったような感じがいたしました。
こうしたことを認めると、アリシャールは驚きの極みに達して、魂のなかで考えました、「この王様には割れ目がおありだ。それに間違いない。これこそあらゆる不思議のなかの最も不思議なことだ。」するとアリシャールは、この発見が彼の最後の躊躇《ためらい》を取り除いたため大胆になって、その陰茎《ゼブ》が突如として立ち上り、それはもう勃起のぎりぎりの極みでございました。
ところで、ヅームルッドはこの瞬間ばかりを待っていたのでした。そしていきなりけたたましく笑い出しました。それからアリシャールに申しました、「あなたの婢《しもべ》がおわかりにならないなんて、どうしたわけなのでしょう、おお、わたくしの最愛の御主人様。」けれどもアリシャールはまだ合点がゆかずに、訊ねました、「どんな婢《しもべ》で、どんな御主人でございますか、おお、当代の王様。」彼女は答えました、「おおアリシャール様、わたくしはあなたの奴隷、ヅームルッドです。こういうすべてのしるしを見ても、あなたはわたくしがおわかりにならないのですか。」
この言葉に、アリシャールはさらに注意深く王を眺めまして、王のうちに、わが最愛のヅームルッドを認めたのでございました。そして彼は彼女を腕に抱きしめて、歓喜の最大の感激をこめて、接吻いたしました。するとヅームルッドは彼に訊ねました、「今になっても、まだあなたは抵抗なさいますか。」するとアリシャールはこれに答える代りに、獅子が牝山羊の上に飛びかかるように、彼女の上に飛びかかりました。そして彼は昔の道を思い出して、羊飼いの杖を頭陀袋《ずだぶくろ》のなかに突っ込み、小道の狭さも気にかけずに、敢然として前へ進みました。そして道の果てまで行きつくと、彼は永いあいだ直立して硬くなったまま、その門の番人となり、その壁龕《ミフラーブ》の導師《イマーム》となっておりました。また彼女のほうでは、指一本も彼から離れず、彼とともに起き上ったり、ひざまずいたり、転がったり、また起き上ったり、息をはずませたりしながら、運動をつづけておりました。そして甘い口説《くぜつ》には甘い口説《くぜつ》が答え、巻きかえしには第二の巻きかえしが答えました。そして二人は盛んに溜息と叫び声で答え合っておりましたので、二人の少年の宦官はこの物音に引きよせられて、王様が自分たちに御用があるのではないかと、帳《とばり》を上げてみました。すると二人のびっくり仰天した眼の前には、若者と一緒に仰向けに寝転ばれた王様が、さまざまな目まぐるしい姿態で、唸り声には唸り声で、襲撃には槍突きで、篏込《はめこ》みには鋏み切りで、動揺には激動で、応じ合っていらっしゃる光景が、現われたのでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三百三十一夜になると[#「けれども第三百三十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これを見ると、二人の宦官は、急いでひっそりと立ち去りまして、こう思ったのでございます、「確かに王様のなさるあのやり方は、男のやり方ではなくて、のぼせ上った女のやり方だな。」けれども二人は、この秘密を他人に口外することは、固く慎しみました。
朝になりますと、ヅームルッドは王の衣裳に着換えまして、宮殿の広庭に自分の大臣《ワジール》や、侍従や、顧問官や、貴族《アミール》や、軍団長や、住民のなかの名士などを呼び集めて、一同に申しました、「おお一同の者よ、余の忠誠なる臣下たちよ、余は今日より汝らが、むかし余に遭ったあの街道に参って、別の男を探し、これを余の代りに汝らの王に選ぶことを、差し許す。余のほうは、王位を譲って、ここを立ち去り、余の生涯の友として選んだ、この青年の国で暮すことに決心をいたした。と申すのは、余はこの青年に愛情を与えたように、余のすべての時をも彼に与えたいと思うからである。ワァサラーム(26)。」
この言葉を聞いて、列席の人々は仰せ承わり、畏まって答えました。そして奴隷たちはすぐに、互いに熱意を競いながら、とり急いで出発の準備を整えまして、いくつもの行李また行李に、道中の食料、宝石、衣裳、豪奢な品々、金銀などをいっぱいに詰めて、これを騾馬と駱駝の背に積み込みました。そしてこうした万端の用意が整うとすぐ、ヅームルッドとアリシャールは、単峰駱駝にのせた天鵞絨《ビロード》の輿に乗り、そして、二人の少年の宦官だけを引き連れまして、自分たちの家と身内のいる都、ホラーサーンへと帰ってゆきました。そして彼らはそこへ恙なく到着いたしました。栄光の息子アリシャールは、貧者と、寡婦と、孤児に莫大な施し物をし、友人、知人、隣人たちに並はずれた贈物を配らずにはいませんでした。そして二人は、贈与者の授けなされた大勢の子供のただ中で、数多《あまた》の歳月を生きました。かくて両人は、快楽を打ち壊す者と恋人を引き離す者とが訪れて来るまで、歓楽と至福を極めたのでございました。その永遠のなかに住みたもう御方《おんかた》に、栄光あれ。そして、いかなる場合にも、アッラーは祝福されよかし。
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――「けれども」とシャハラザードは、シャハリヤール王に向ってつづけた。「この物語が色とりどりの六人の乙女の物語[#「色とりどりの六人の乙女の物語」はゴシック体]よりも、心地よいものであるとは、ひとときなりともお思い遊ばすな。そしてもしそこにある詩が、今まですでにお聞きになったすべての詩よりも、ずっとずっと見事なものでなかったならば、これ以上おのばしにならず、すぐにわたくしの頭《こうべ》を刎ねさせなすってくださいませ。」
そしてシャハラザードは言った。
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訳註
ブドゥール姫の物語
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(1) Khaled穎. バートンにはKhlidn Islands とあり、Khalidatani(永遠なるもの)の訛りと註す。
(2) Schahram穎. ガランでは Schahzaman(ペルシア語で、「当代の王または世紀の王」の義と註す)、バートンではShahrimn、エリセエフでは Shahzeman.
(3) Kamaralzama穎.「世紀の月」の意(マルドリュス)。ガランでは Camaralzaman(アラビア語で「当代の月」または「世紀の月」と註す)。ペインでは Kemerezzeman、エリセエフでは Qamaraz-Zaman、バートンとイスラム辞典では Kamar al-zama-n と綴る。
(4) Harout et Marout. 一対の天使で、地上生活は天使をも罪深くするかどうかを試みるため、地上に降されたが、果して地上の女の美に迷って殺人まで犯す。その罰としてバービル(バビロン)に幽閉され、人間にいろいろの妖術を教えたという。
(5) Taghout. 回教以前のアラビアで信仰されていた偶像邪神。
(6) 八冊本に欠く。
(7) コーランの章を言う。コーランには一一四の章がある。
(8) 日本で言えば「十五夜の月」にあたる。
(9) アラビア原典では、これに先立つ夜々はただの数行にすぎないので、単に物語をあまり頻々と短く中断しないために、私は日附を除いた。今後も同じ場合の生ずるつど、同断である(刊行者註)。――三夜をとばしているのである。なお夜は原典によって種々の差があり、例えば、ここではこの物語は百七十夜から二百三十五夜であるが、第二カルカッタ本では百七十夜から二百四十九夜にわたるという風である。
(10) ダーウド(ダヴィデ)の子スライマーン(ソロモン)。
(11) Boudour. ガランでは Badour、エリセエフでは Bodour、バートン、イスラム辞典では Budu-r. Badu-r の複数で、「満月」の意。
(12)「アッラーの御名において。」話の前に唱える儀礼用語。
(13) 一腕尺は約〇・五メートル。十六冊本では「四千四百八十腕尺」とある。次の腕も「五千五百五十腕尺」とあり、ゼブも「四十倍」とある。
(14)「アッラーの思し召しあらば。」ここは「そうあらんことを」の意。
(15) Zoul-K琶dat(休戦の月)は十一月であり、以下十二月は Zoul-Hidjat(巡礼の月)、一月はM冩harram(禁止の月)、二月は Safar(空虚の月)、三月はRabialao杪l(春の月)、四月は Rabialthani(次の春の月)、五月は Gamadialouala(氷る月)、六月は Gamadialthania(次の氷る月)、七月は Ragab(尊敬の月)、八月はSch餌b穎(分離の月)、九月はRamad穎(暑い月)、十月はSchao杪l(尻尾の月)。
(16) Moussa et Ibrahim. モーゼとアブラハム。
(17) Amin.「私は信ずる。」アーメンと同じ。
(18) コーランの五十五の別名の一。
(19)「禍いの」「不幸な」の意。
(20) Marzaou穎. バートンはMarzaw穎 とし、ペルシア語Marz-bn「辺境太守」から出ると註す。
(21) Aman.「安泰」「保証」の意で外国人に与える護照、通行証可証を言う。
(22) La cornaline (Akik). アラビアに産し、種々の色があるが、赤が特に珍重される。昔からインドや地中海に輸出された。指環の印形、婦人の頸飾りに多く用いられ、民間の信仰では、心臓を鎮静するとか、貧窮を防ぐ力があると信じられた。
(23) Ha病t-Alnefous.「魂たちの生命」の義(マルドリュス)。
(24) 真の床入りがすんでいないことを示す。終了していれば「全身洗浄」Chusl を要する(バートン)。
(25)「アッラーのほかに神なし。」
(26) 共に古代アラビア先住民族。
(27) Tamar indien. アラビア語 Tamar al-Hindi(インドの棗椰子《なつめやし》の意)で、仏の tamarin、英の tamarind は、ここから出ている。この実の莢《さや》のシャーベットはやや緩下作用があり、大暑の頃盛んに飲まれる。乾した実は、小さな円い菓子に作られて、市販されている。この樹下で眠ると熱病にかかると言われる(バートン)。この邦訳語も果して適当か否か疑わしい。
(28) ペインは Asafiri olive、バートンは sparrow-olive と訳し、共に「雀を集めるゆえかく呼ばれる」と註す。
(29) 十六冊本では「核を抜いて代りに酸いカープルを詰めたもの」と次に補われている。カープルは西洋風鳥草の蕾で、酢につけ、調味料にすると言う。ペイン、バートンにはこの個所欠く。
(30) Loth (Lu-t). アブラハムの甥。神の怒りによりソドムが壊滅させられた時、美しい若者の姿をして現われた天使らを歓待し、ソドムの人々に天使の代りに二人の娘を与えんとし、家族と共に町をのがれ得た。ひとり妻は、後ろを振り返ったために塩の柱と化した。コーラン第一一章及び聖書、創世記一九章にある。
(31) 八冊本に欠く。
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「幸男」と「幸女」の物語
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(1) Koufa. バグダードの南約百五十キロ、ユーフラテス支流上の古都。正統二代カリフ、オマルの時、六三八年建設され、四代アリー、アッバース初代アッ・サッーファーハの首都。バグダード創立以前は、バスラ、ワシートと並んで、最重要都市であったが早く衰微し、十二世紀には既に荒廃していた。バスラと共にアラブの文法学と言語学の発祥地であり、回教学術の中心地として有名。後出クーファ書体は、バスラ書体に先立ち、並び称された。
(2) Printemps. ペインでは Er Rebya ben Hatim. バートンはAl-Rabiユa bin H・tim. エリセエフは Ar-Rabiヤbin Hatim.
(3) Bel-Heureux. ペインは Nimet Allah(「神の贈物」の意)、パートンではNiユamat Allah とあり、神の祝福、Nim は栄え、幸運と註し、エリセエフはNiヤma bin ar-Rabiヤ. マルドリュスのは「美しい幸福な男」であろうが、便宜上かく訳す。
(4) 妻の意。
(5) Prosp屍it・ Taufic であり、「繁栄を齎らすもの。」
(6) Fortune. Saad.
(7)「吉兆」の意。
(8) Belle. Heureuse. ペインは Num とし、Saad と同義語だが、Nimeh と同じ語原に合わせるため改名したと註す。バートンは Naomi. エリセエフはNoヤm.
(9) アラビア婦人は水晶の棒の先で化粧料をつけるという。
(10) ウマイヤ朝中興の名君第五代カリフ(在位六八五―七〇五年)。
(11) アラビア人は当時心臓は扇によって肺に血を送ると信じていた。後出「タワッドド」『第二百七十九夜』参照。
(12) アラビア最大の医学者。その『医学規範』を指すのであろう。
(13)「アッラーの望みたもうように。」よくできたの意。
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「ほくろ」の物語
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(1) drachme は 1 gros と同じく、八分の一オンス。
(2) ムハンマドの従兄弟で、その娘ファーティマの夫、正統派カリフの最後の人、「神の伴侶」と呼ばれた。
(3) Alaedd馬 Grain-de-Beaut・ ペインは Alaeddin Abouesh Shamat. バートンはAla al-Din ab彗l-Shmt とし、メAladdin Abush-Shmtモ と発音すると註し、Al・al-Din(すなわちアラジン)は「信仰の栄光」の意。Abu al-Shmt は「ほくろ(複数)の父」の意と記す。エリセエフは ヤAla ad-Din Abou ach-Chamat. なおバートン註によると -Din(信仰)で終った人名は、アッバース朝アル・ムクタディー(在位一〇七五―九四年)が、大臣を Zahir al-Din(信仰の擁護者)と名づけたに始まる由。
(4) Tantah. エジプト、デルタの中心の町で交通の要衝、アフマード・アル・バダウィ聖人の墓所があり、その祭りで有名。
(5) Mansourah. タンターに次ぐデルタ最大の町、十三世紀、十字軍の時できた比較的新しい町。
(6) Assida. 小麦粉をバターと蜜を加え煮立てて固めた一種のパン粥《がゆ》。
(7) El-Sa鋲d abd El-K嬰er El-Guilani. ペインでは Sheikh Abdulcadir el Jilani. バートンではSayyid Abd al Kadir of G値nとある。十二世紀の高名な回教神秘家、四大教団の一つカディル派の創立者で、バグダードに葬られる。その生地 Gilan(アラビアではJ値n)はカスピ海と黒海との間にある。
(8) Mokaddem. バートンは Makaddam とし、「他の人々の前(または上)に位置する人」の義で、監督のことと註す。
(9) これは正統スンニー派に対する分離派シーア派 Shiah を指す。スンニー派の四学派に対し、これは少数であるが多くの派に分たれ、極端に過激なものがあった。なお註(26)参照。
(10) D四ieur. アラビア語では Mustahall (Mustahill,俗語では Muhallil)、「合法にする人」の意(バートン)。
(11) Zacharia (Zakariy・. Zakar(男性のしるし)のしゃれ。バプテスマのヨハネの父ザカリアは、聖母マリアの養育者としてコーランに出て、回教徒によく知られた人物である。
(12) 原語Fut徂 は穴とか口とかをも意味する(バートン)。
(13) 抜かずにつづけて四回の意(バートン)。
(14) Zob司da (Zubaydah). Zubdah(クリーム、生バター)の縮小形で、普通にある名(バートン)。
(15) Derviche (Darwish). アッラーを愛し、俗世を離れて祈祷三昧にふける修道僧。Dar は「戸」「門」であり、門から門へ、家毎に巡礼して歩く僧の意。
(16) ペインは「疲れを休めるもの」の意と言う。
(17) Saiim.「無事息災」の意。
(18)「さらば」「以上」の意。
(19) ハンケチを振るのは解散の合図。
(20) Kouat Al-Kouloub.
(21) Yasmine.「素馨」の意。
(22) Ahmad-la-Teigne. 仏語 teigne は穀物や衣類などを害する小さな蛾の類とか、頭につく皮疹、たむしの類、また「悪人」のことも言うとあるが、ペインは Ahmed Kemakim とし、バートンはAhmad Kamkim とし、kamkim は kumkum(ひょうたん、ふくべ形の容器、瓶、壺)の複数と註する。別人かもしれぬが詳らかにせず、しばらく「蛾」としておく。
(23) 息子イスマーイールを犠牲に献げんとして、その代りに牡羊を献げたアブラハムを指す。なお回教徒間ではアブラハムが犠牲に供えたのはイサクではなく、イスマーイールと信じられている由。
(24) A病s. アレクサンドル大王がペルシア王ダリウスを破った、有名なシリシアのイッソスの港のこと。
(25) Iskandaria. アレクサンドリアのこと(マルドリュス)。
(26) スンニー(正統派)に対しシーア(分離派)は、ムハンマドの女婿四代目カリフ、アリーを正統の教王《カリフ》権相続者と見、この派の一派のなかには、スンニー派の初代カリフ、アブー・バカルと二代ウマルを憎むあまり、靴底あるいは足裏にその名を刻んで、歩くごとに踏みつける者が多かったという。
(27) Asl穎. バートンは多分Arsl穎 の誤記で、これはトルコ語の「獅子」の意と註す。
(28) ペインはこれはむしろ「騎士の位」と解すべきだろうと言う。
(29) Hosn-Mariam.「(聖母)マリアの美」の意。
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博学のタワッドドの物語
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(1) Aboul-Hassan. ペインは Aboul husn とし、バートンは Abu Al-Husn と綴り、Abooユl-Husn と発音し、「美の父」の意であるが、空想の名と註す。イスラム辞典では Abou-l-Hosn.
(2) Tawaddod.(エリセエフによる。バートンではTawaddud.)「共感」「愛」の意で、他人の好感を得る女を意味する。マルドリュスはこれをヌSympathieネ とし、題名も「博学の女『共感』の物語」としているが、適訳を思いつかず、ここでは原名に従った。なおこの一篇も十六冊本と細部を含めてかなり差異があり、八冊本は簡略で、ことに後半は数ページ少ないが、今は後者により、数多いから一々挙げない。
(3) アラビア語アルファベットの第一の文字。
(4) Ul士a (ヤulama-).「学識者」を意味するヤali-m の複数。宗教と法律に関する権威を持つ学者団。
(5) 前出、アッラーの家と呼ばれるこの聖殿は、イスラム信仰の中心として、回教徒は常にこの方向に向って礼拝する。建設の時期は明らかでないが、アブラハムによって再建された。
(6)「行録」、ムハンマドの言行録。
(7) スンニー四学派中のシャーフィイー学派の創設者(七六七―八二〇年)。
(8) Tayamum. 砂洗浄は砂漠その他暑い乾燥地帯での洗浄の習慣で、ムハンマドのずっと以前から行なわれていた。
(9) Takbir. アッラーを讃えることで、祈るとき、この句を唱える前に他の語を言い出すことは禁じられているので、「禁止の讃美」と言うとペインにある。
(10) 喜捨 (Zaka-t) は法定の救貧税で、財産の種類により税率は異なる。
(11) ラマザーンは三十日から成る。イスラム暦は陰暦だから、年によって夏にも冬にもなる。
(12) La retraite spirituelle. キリスト教では「黙想」ないし「心霊修業」と言うが、回教のIヤtika-f はこれに相当する。ラマザーンの断食中、寺院にこもり、世間と遠離してコーランを読誦する。ムハンマドの常に行なうところであったので、次にあるように『スンナ』によって推奨されるわけである。訳語は『キリスト教用語辞典』による。
(13) La guerre dans le Sentier.「正しき道における戦い」とマルドリュスは訳しているが、わが国では原語 Jiha-d を「聖戦」と訳す由なのでこれに従う。
(14) Lesinfid挈es (Ka-firu-n). 回教徒以外の宗教を奉ずる者。「無信仰者」はコーラン第一〇九章の名。
(15) 十六冊本では「二十」が挙げられている。「枝」は「根」(基底)に対し「派生物」の意とペインは註する。
(16) Hypocrite (Muna-fiq). 仏語は偽善者の意味だが、バートンによると、道徳的意味はなく、外見的には回教徒を称しているが、内心では回教を嫌悪する者を言うと。井筒氏の訳に従う。
(17) 預言者 (Nabi-) は二、三を除いては、新旧約聖書に大体それに相当する名がある。
(18) Ababil. コーラン第一〇五章「象」に現われる鳥の名。燕のような鳥というが、実在せぬものらしい。
(19) キリストはアッラーの許しを得て、泥で鳥の形を作り、息を吹きこむと生きた鳥になった。(コーラン第五章、一〇九節)
(20) 似たような個所は第二章、第一〇七句に見られる。
(21) Abiben-K餌b(バートンではUbay ibn Kaユab). 不詳。
(22) Ze錨 ben-Tabet(Zayd ibn Sbit.バートンはZaid ibn Thbit). 七世紀、メディナの人。ムハンマドの書記として預言者の受けた啓示を、椰子の葉、骨片などに書き記した。その没後、初代カリフ、アブー・バクルの時、啓示の編集を命じられた。
(23) Abou-Obe錨a ben-Al-Djerrah (Abu- ヤUbayda bin al-Djarra-h). クライシュ族に属し、最初に回教に改宗したメッカ人の一人、ムハンマドが天国を約束した十人の信徒の一人。勇気と献身をもって聞こえ、四十一歳でバドルの戦に加って後、各地に歴戦武功を立て、シリア遠征軍を率いて六三九年、五十八歳で死。
(24) Othmanben-Aff穎. 五七四頃―六五六年。正統派カリフ第三代。コーランの基準経典四部を作る。
(25) Abdallah ben-M鋭soud (ヤAbdulla-h bin M鋭ヤu-d). ムハンマドの教友。ハディースの権威で、八四八種の伝承《スンナ》を伝えた。
(26) Moaz ben-Djabal(バートンはMaユaz bin Jabal. ペインはMaadh ben Jebel). ムハンマドの教友(ペイン)。
(27) Salem ben-Abdallah(バートン、ペインはSlim bin Abdillah). ムハンマドの随伴者(ペイン)。
(28) コーラン第五章八九節。
(29)「カーフ」は第二十一番、「ミーム」は第二十四番、「アイン」は第十八番の、いずれもアラビア文字。
(30) 一当り (empan) は手をいっぱいに開いて、拇指から小指までの長さ、二十二センチから二十四センチぐらい。
(31) Tharid (saridah). スープの中に、粉にしたパンと細切れの肉を入れたもの。またはパンとミルクと肉を混ぜたもの(バートン)。
(32) A不cha. 六一三頃―六七八年。アブー・バクルの娘。六、七歳の時ムハンマドに嫁し、寵を一身に集め、この妻のみ臨終に侍した。コーラン第二四章に、この愛妻に対する姦通の中傷を戒めた節がある。預言者に関する伝承《ハデイース》を最も多く残す。
(33) コーラン第三一章、三四節。
(34) この個所あまり明らかでないが、大小便をしないで生きていた超自然の被造物、という意か。ペインとバートンでは、飲食しながら人間の胎より生まれたのではない者、とある。
(35) Sim姉n (ShamユunまたはShimユun). バートンは、ここでは幼な子イエズスを救世主として礼讃した老シメオン(「ルカ」第二章、二五―三五)を指すというが、聖シメオンは、聖霊によってキリストを見ないうちは死なぬと啓示されていたことを指すのか、訳者は明らかにしない。
(36) サーリフは預言者。サムード族を改宗させるため、岩より作られたアッラーの牝駱駝を遣わされるが、その牝駱駝の膕腱《かくけん》が切られた。(コーラン第七章)
(37) イブラーヒームの子、イスマーイールであるが、この故事不詳。
(38) 聖遷の年、アブー・バクルがムハンマドと共に、メッカの南方アル・サウルの洞穴に二日間隠れた際、逃亡中の両名を隠すため、洞穴の入口に巣をかけて彼らを救ったという鳥。この鳥は民間では鳩とされている。
(39) 不詳。
(40) コーラン第一八章「洞窟」八節以下にある山中の洞窟の中で眠った若者たちの話。ここで犬と言うのは一七節にあり、「彼らの犬が入口のところで前脚をのばしている」とある。犬は善人の感化を受け、人間に化したという。
(41) El-Azir (Oza瓶). エズラ Ezra のこと。前五世紀のユダヤの祭司、律法学者。エルサレムの祭儀を改革し、のちのユダヤの宗教の基礎を作ったことが旧約「エズラ書」にあるが、この驢馬不詳。
(42) ペイン、バートンには「風に吹き上げられた絨氈の上で祈ったときのソロモン」とある。
(43) ペイン、バートンには、これは紅海の底のことで、モーゼが杖で打つと、海は種族の数十二に裂け、太陽が底を照らしたが、審判の日までもはや太陽は射さぬとある。バートンは「アラビア人はヘブライ人の奇蹟の比較的穏健なのに満足せず、あらゆる荒唐無稽を付加した」と註す。
(44) Agar. イブラーヒームの妻サラ Sarah の侍女、エジプト人。イスマーイールを産み、後に息子と共に家庭から追放される。
(45) コーラン第八一章、一八節。井筒氏訳には「明けそめる暁の光りにかけて」とある。
(46) 神の座(ヤArch) のこと。
(47) 楽園の木は Tu-ba- と呼ばれ、すべての欠乏を満たす木。
(48)「アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり。」
(49) コーラン第三六章、八二節。
(50) Sirat. 地獄の劫火の上に架けられた橋。審判の日にすべての人が渡らねばならぬ。
(51) Ali (ben Abi- Ta-lib). 六六一年死。正統派カリフの最後。ムハンマドの従弟で、その娘ファーティマの夫。預言者の妻ハディージャに次いで、イスラムに帰依したといわれる。即位後五年クーファの礼拝堂で暗殺されたが、「神の伴侶」と呼ばれて、伝説的人物となった。
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船乗りシンドバードの物語
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(1) マルドリュスはアラビア語原典研究の結果、これを第二百九十夜におくことにしたとことわっている。通常、例えばカルカッタ本では第五百三十八夜から第五百六十六夜になっている。シンドバードの発音については、「アラビア語の発音 Sindabad の代りに、フランスでは Sindbad が慣用になっている。」(マルドリュス)――訳者もわが慣用に従う。
(2) ダーウド(ダヴィデ)とその子スライマーン(ソロモン)の両人。
(3) 木炭を用いる焜炉ようのもの。
(4) Mihraj穎. ガランは Mihrage. 大王として、インドの同名の大きな島の王で、勢威と英明でアラビア人に非常に有名であったと註する。
(5) 八冊本に欠く。アラビア原典のちがいらしい。
(6) 一腕尺は約半メートル。
(7) メKarkadann.モ ペイン、バートンでは第二カルカッタ版により「犀《さい》」rhinoceros と訳し、バートンはこれは「Karkadan と呼ばれる」と本文に記し、第一カルカッタ版では Karkaddan、ブーラク版では Kazkazan、その他に Karkand, Karkadan 等があると註する。
(8) ペイン、バートンでは仲間の巨人族二人をつれてきたとあり、バートンは、ブーラク版の女巨人を連れてきたことは首肯しかねると註す。
(9) Sind. インダス河の西のインド。
(10) 当時非常に高価な珍奇な品であった。
(11) バートンは Shaykh al-Bahr とは直訳すると「海(辺)の老人」であるが、この場合老人は年をとった人という意味よりは、むしろ首長の意で、有名な「山の長老」と同じと註す。
(12) 八冊本に欠く。
(13) この詩はかなり相違があるが第十一夜に出た。
(14) Serendib. アラビアの地理学者のしばしば言う有名な島。あるいはセイロン、あるいはアダガスカル、あるいはスマトラを指すらしいと言われる。バートンはセイロンとする。
(15) 一パラサンジュは約五千メートル。
(16) オリーヴの実ぐらいの大きさ。
(17) 例えばガラン訳ではこれは「象の墓地」という別な物語になっている。それは第一カルカッタ版のテキストの由。
(18)「以上」「さらば。」
(19) 十六冊本では「二十七年」。ペイン、バートンも同じ。
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美しきヅームルッドと「栄光」の息子アリシャールとの物語
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(1) Zoumourroud.「碧玉《エメラルド》」の意(マルドリュス)。エリセエフでは Zomorrod. ペイン、バートンでは Zumurrud.
(2) ペインでは Mejdeddin. バートンではMajd al. D地.
(3) Palme (Khumsiyah). 一パルムは普通、拇指と小指を張ったときの長さ(九インチ)をいうが、ここの五パルムは約五フィートで、この乙女が若くて、育ち盛りの様を示している。女奴隷の丈は踝から耳までの間を計るが、これが七パルムを越えると育ち切ったことになり、価値を失う(バートン)。
(4) 碧眼は、アラビアではインドと同じく悪名で、「青い眼をした」とはしばしば「猛悪な眼をした」の意で、アラビア人の不倶戴天の敵、ギリシア人やデイラム人の形容となった。アラビア人は彼らを形容するのに「赤い鬚と青い眼と黒い心」という(バートン)。
(5) 死人の口に樟脳と共に綿をつめた(バートン)。
(6) めっかちは悪者とされ、ことに左の目の潰れたものは最も悪い。これは例えば「床屋の第四の兄の物語」にも見られる。
(7) バートンによると、アラビア人は西洋人と共に、「ずんぐりの小男に機敏な者はなく、のっぽのひょろひょろに利口な者はない」と言う由。
(8)「冬の一夜」(Baユazulaya-l・ は、不首尾の夜、恋人から振られた或る夜の意(バートン)。
(9) Camphre (Ka-four). 樟脳は純白の象徴。
(10) Radoua-n (Rizwa-n). 天国の鍵をあずかる天使。
(11) 第一巻「荷かつぎ人足と乙女たちとの物語」註(1)のように、ヌースラーニー(ナスラーニー)であり、回教徒がキリスト教徒を呼ぶ名。
(12) 白鮮は香気強い薬草で、昔は傷薬と見られた。比喩的には心の苦しみを医すものの意に用いられた。
(13) 口笛 Sifr はアラビア人、とくにバタウィ人には一種の悪魔の言葉と見られている(バートン)。
(14) 風呂場の箒 Mikashshah は棕櫚の葉の厚い芯を取り、数日水に浸し、繊維を叩き出してから、これを箒につくったもの。これは長持ちはしないが、すこぶる固いものである(バートン)。
(15) Djiw穎. ペイン、バートンではJawn。ペルシア語で「若者、勇者」の意味。ラテン語のJuvenisに当る。物語に出るクルド人は大体図太い盗賊だが、実際においてもあまり変らぬ(バートン)。
(16) 下馬の際に両腕を支えるのは、貴人に対する尊敬の印である(バートン)。
(17) 一パラサンジュは約五千メートル余。
(18) Kisck. 荒くひいた小麦の粥で、牛乳かスープをかけて食う。
(19)「アッラーに誓って。」
(20) ふすだしゅうの実(いわゆるピスタチオ・ナッツ)は南欧および小アジア産の※如樹科植物の実。オリーヴ大の、赤色の、固く密閉した殻につつまれている。
(21) 彼は拇指と他の二本の指で食べたので、手が烏の爪のようになり、これに飯がついて、泥土の中の駱駝の蹄のようになったわけである。諺に「烏の爪(小さく)となり下り、駱駝の足(巨きく丸々と)となり上る」とあるのを踏まえている(バートン)。
(22) ヨゼフとその父ヤコブおよびヨブ。
(23)「アッラーの御名において。」食事の前に唱える。
(24) トルコの規則では、稚児は最高位に就かせる(バートン)。
(25)「汝は礼儀正しく身を清め、余のごとき高位の者に手を触れらるるに適しくなったか」の意味である(バートン)。
(26) ここでは「以上、さらば」の意。
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年六月、ちくま文庫に収録された。