千一夜物語 3
佐藤正彰 訳
目 次
オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語(つづき)[#「(つづき)」はゴシック体]
オマル・アル・ネマーン王崩御の物語ならびにそれに先立つみごとな言葉
第一の乙女の言葉
第二の乙女の言葉
第三の乙女の言葉
第四の乙女の言葉
第五の乙女の言葉
老女の言葉
僧院の物語
アズィーズとアズィーザとうるわしき王冠太子の物語
美男アズィーズの物語
ドニヤ姫と王冠太子との物語
ダウールマカーンの王子、カンマカーンの冒険
鳥獣佳話
鵞鳥と孔雀夫婦の話
羊飼いと乙女
亀と漁師の鳥の話
狼と狐の話
小鼠と鼬の話
烏と麝香猫の話
烏と狐の話
アリ・ベン・ベッカルと美しきシャムスエンナハールの物語
訳註
[#改ページ]
千一夜物語 3
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
[#改ページ]
[#この行1字下げ]オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語 (つづき)[#「(つづき)」はゴシック体]
オマル・アル・ネマーン王崩御の物語ならびにそれに先立つみごとな言葉
日々のうちのある日のこと、オマル・アル・ネマーン王は、王子さま方ご失踪のご心痛にお胸狭まるのをおぼえなされて、われわれ一同をおそばに召されて、なにかお気を紛らせさせようとなさいますと、そのときそこに、顔に高徳の徴《しるし》を帯びた、尊ぶべき老婆がはいってまいりました。そしてその老婆は、まことに、いかなる言葉もその完全さを言い表わすことのできないほど、完全に美しい、五人の処女を連れておりました。それにそのあらゆる美しさとともに、その処女たちは、聖典《コーラン》や学問の書物や、回教徒のなかのあらゆる賢人たちの言葉なども、よく知っておりました。さてその尊ぶべき老婆は、王の御手の間に進み出て、うやうやしく床《ゆか》に接吻して、申し上げました、「おお王さま、ここに私は、地上のどのような王者もお持ちにならぬような、五つの宝石を持ってまいりました。なにとぞわが君に、その美しさを吟味し、これをお試み下さいますよう、お願い申し上げる次第でございます。なんとなれば、美は心をこめて美を求むる者にのみ、現わるるものでござりますれば。」
この言葉に、オマル王はいたく悦ばれ、またその老婆の様子に深い敬意をお感じになり、五人の乙女の様子が、限りなくお気に召したのでした。そこでそれらの若い乙女に仰せられました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十九夜になると[#「けれども第七十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、オマル王は乙女らに仰せられたのでございます、「おお優しき乙女らよ、そちたちは、過ぎし世の味わい深い事柄の知識に、深く通じておるというが、それがまことならば、一人ずつ順ぐりに進み出て、何か余の堪能するがごとき言葉を、聞かせてもらいたい。」
すると、淑《しと》やかなたいそう優しい眼差《まなざし》の、第一の乙女が進み出て、王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、申しました。
第一の乙女の言葉
お聞き下さいまし、おお当代の王さま、およそ生命は、生命の本能なくしては、存せぬでございましょう。そしてこの本能は、人間がアッラーの神助によって、よくわが身を持し、本能を利用して、創造主アッラーに近づくことができるようにとて、人間のうちに置かれたのでございます。そして生命は、人間が常日頃のよからぬ行ないを乗り越えて、向上することができるようにとて、人間に与えられたのでございます。そして、人間のうちの第一人者であらせられる王さま方は、高貴な徳と無私無欲の道においても、第一人者であらせられなければなりません。また教養ある精神を持った、賢い人は、どのような場合にも、とりわけ自分の友人に対しては、いつも優しくふるまい、穏やかに判断する以外のことがあってはなりません。そして注意深く敵には用心し、慎重に友を選ばねばなりませんが、ひとたび友を選んだからには、もはや友と自分との間に、よそから他の審判者を入れるべきではなく、万事を好意ずくめで始末しなければなりません。なぜなら、友をば、この世から離れて、聖事に身を捧げた人々の間から選んだとすれば、そのときはすべからく、底意なくその言に耳を傾けて、その判断に任せなければなりませんし、また地上の福楽に執する人々の間から選んだとすれば、そのときはすべからく、心を用いてけっして彼らの利害を侵したり、彼らの習慣に逆らったり、彼らの言葉に反対したりなど、しないようにいたさなければなりません。反対することは、父母の愛情をさえ疎遠にするものであり、むだごとでございますから。友とはそれほど尊いものでございます。なぜなら、女ならば離縁して、別な女と取り代えることもできますけれど、友はけっしてそうしたものではございません。友に与えた痛手は、詩人の申すように、いつまでも癒えないのでございます。
[#ここから2字下げ]
思え、友の心はいと脆《もろ》き物なり、人はこれを、あらゆる脆き物のごとく、心して見守らざるべからず。
何となれば、友の心はひとたび傷つけば、かの割れては遂に繕《つくろ》う能わざる、薄き玻璃《はり》のごときものなり。
[#ここで字下げ終わり]
さて今度は、賢人たちの言葉を二つ三つ、申し上げさせていただきたく存じます。お聞き下さいまし、おお王さま、法官《カーデイ》というものは、ほんとうに正しい裁きを下そうと思えば、明白に立証させ、双方の側をまったく平等に扱い、身分の高い被告のほうに、貧しい被告よりも、一段と敬意を示すようなことがあってはなりません。またとりわけ、なるべく双方の間を調停するようにいたし、回教徒同士の間には、いつも和合を旨とするようにしなければなりません。そしてとくに、疑わしい場合には、深慮熟考して、いくたびも自分の推理を反復し、疑念がなお存するようなら、裁きを控えなければなりません。と申しますのは、正義ということは、義務《つとめ》のなかの第一の義務《つとめ》であり、もし自分が不正であったのなら、正義のほうに立ち戻るということは、常に正しくあったということよりも、遥かに高貴でもあり、また至高者の御前《みまえ》で、遥かに功績多いことなのでございます。そして至高のアッラーは、ただ眼に見えるうわべの事柄を裁くために、地上に裁判官たちを置きたもうたので、秘かな事柄の裁きは、ただご自分のみのあそばすところと定められたということを、けっして忘れてはなりません。そして被告を、拷問にかけたり、飢餓にあわせたりして、強いて白状させようとなぞけっしてしないということも、法官《カーデイ》の義務でございます。そのようなことは、少しも回教徒にふさわしいことではございません。それに、アル・ザハリ(1)も申しました、「三つの事が法官《カーデイ》を堕落させる。地位高き罪びとに丁重あるいは敬意を示すこと、賞讃を好むこと、おのが地位を失うを恐れること、即ちこれである。」また教王《カリフ》ウマル(2)は、ある日一人の法官《カーデイ》を罷免なさいますと、その法官《カーデイ》はお訊ねしました、「なぜ私をご罷免あそばしたのですか。」教王《カリフ》はお答えになりました、「汝の言は行ないを超えているがゆえじゃ。」また双角アル・イスカンダール大王(3)は、ある日ご自分の法官《カーデイ》と、料理人と、祐筆頭をお集めになって、まず法官《カーデイ》に仰せられました、「余は汝に、わが君主の大権中、もっとも高くもっとも重きものを委ねたのじゃ。されば、よろしく王者の魂を持てよ。」それから、料理人に仰せられました、「汝にはわが身体《しんたい》の世話を委ねた。わが身体は、今後汝の料理次第じゃ。されば、よろしく節度ある術《すべ》をもって、わが身体をいたわれよ。」それから、祐筆頭に仰せられました、「さて汝には、おお筆の兄弟よ、余はわが知の表示を委ねた。願わくば、汝の文字をもって、余をさながらに後代に伝えて欲しい。」
そしてその若い娘は、これらの言葉を言うと、ふたたび顔に面衣《ヴエール》をおろして、連れの間に引き下がりました。すると第二の乙女が進み出ましたが、それは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十夜になると[#「けれども第八十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
大臣《ワジール》ダンダーンは、次のように語りつづけたのでございました。
すると第二の乙女が進み出ましたが、それは明るい眼差の、えくぼのある細い頤の娘でありました。この女は亡き父君、オマル・アル・ネマーン王の御手の間の床に、七たび接吻して、それから申しました。
第二の乙女の言葉
お聞き下さいまし、おお幸多き王さま、賢人ルクマーン(4)は自分の息子に申しました、「おおわが子よ、世には、三つの事態にのぞまなければ検査することのできない、三つの事がある。一人の人間が真に善良であるとは、その立腹の際でなければ知られぬ。一人の人間が勇敢であるとは、戦闘の際でなければ知られぬ。一人の人間が友誼篤いとは、困窮の際でなければ知られぬ。」そして暴逆の王や、圧制の王は、その廷臣らの追従《ついしよう》にもかかわらず、呵責《かしやく》を受けて、おのが不正の報いを得るでございましょうが、一方圧制を受ける者は、蒙むる不正にもかかわらず、あらゆる呵責をまぬがれるでございましょう。決して人々を、その言うところに従って、遇してはならず、そのなすところに従って、遇しなければなりません。かつ行ないそのものも、それをどういう意向からしたかということによってのみ、値打があるのでございますから、各人はその行ないに従ってではなく、その意向に従って、判断されるべきでございましょう。またお聞き下さい、おお王さま、わたくしたちのうちにあるもっとも讃むべきものは、それはわたくしたちの心でございます。あるとき、一人の賢人が「人間のなかでいちばん悪い人間は、どういう人でしょう」と訊ねられますと、これに答えるには、「悪念におのが心を奪われておる者だ。そして詩人の言うがごとく、
[#2字下げ] 唯一の富は胸裡に隠されたるものにこそあれ。さりながら、その道を見いだすのいかに難《かた》き。」
またわが預言者(その上に平安と祈りあれ)は、のたまわれました、「真の賢者は、はかなき事物を措《お》いて、不朽の事物を採る者である」と。伝えらるるところでは、苦行者サベト(5)はあまりに泣いたために、両眼を病んでしまいました。そこで人々がお医者を呼んでまいりますと、医者は言いました、「ひとつ約束をして下さらぬことには、あなたのお手当てはいたしかねるが。」彼は答えました、「どういう約束か。」医者は言いました、「泣くのをやめることだ。」けれども、苦行者は言いました、「私がもう泣かぬとしたら、わが眼はいったい何の役に立とうぞ。」
またお聞き下さいまし、おお王さま、世にもっとも美わしい行ないとは、無私の行ないでございます。現に、イスラエルに、二人の兄弟がいたという話がございます。その兄弟の一人が、ある日他の一人に申しました、「かつておまえのしたうちで、いちばん恐ろしい行ないはどんなことか。」弟が答えました、「こういうことです。ある日、私が鳥屋《とや》のそばを通りかかったとき、私はふと腕を伸ばして、一羽の雌鶏をつかまえ、その首を絞めてから、もとの鳥屋《とや》に投げ返したことがありました。これこそ私の一生で、いちばん恐ろしいことです。けれども兄さま、あなたはいちばん恐ろしいことといえば、いったいどんなことをしましたか。」兄は答えました、「それはかつて、アッラーに身勝手なお願いをして、祈りをしたことだ。なぜなら、祈りというものは、単に高きへの魂の高揚であるときにのみ、美しいのだ。」それにまた……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十一夜になると[#「けれども第八十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、第二の乙女は次のように話しつづけました。
それにまた、詩人は次の詩句のうちに、巧みに申しております。
[#2字下げ] 汝の断じて近づくべからざる二つの事あり。アッラーに対する偶像崇拝と、汝の隣人に対する悪と、これなり。
それからこの第二の若い娘は、これらの言葉を言うと、連れの中に引き下がりました。すると第三の、前二人の美点を一身に集めているような乙女が、オマル・アル・ネマーン王の御手の間に進み出て、申しました。
第三の乙女の言葉
おお幸多き王さま、このわたくしは、今日はわずかの言葉しか申し上げますまい。わたくしは少しばかり不快の気味でございますし、それに賢人たちもわたくしどもに、言は簡なるがよいと申しておりまする。
お聞き下さいまし、おお王さま、サフィアーン(6)は申しました、「かりに霊魂が人間の心中に住んでいたとしたならば、人間は翼を持って、かるがると天国へと飛び立つであろうが。」
また同じサフィアーンが申しました、「まことに、醜さに犯されたる人の顔を、まじまじと見つめるがごとき、単なる所行も、精神に対するもっとも重き科《とが》をなすものと知るべし。」
そしてこの二つの文句を言っただけで、その若い娘は連れの中に引き下がりました。すると、すばらしい腰を持った、第四の乙女が進み出て、申しました。
第四の乙女の言葉
さてわたくしは、おお幸多き王さま、ここにわたくしは、義《ただ》しき人々の伝記から聞き及びました言葉をば、申し上げようと思います。跣足《はだし》のバシュラ(7)は、こう言いなすったと伝えられております。「もっともいまわしきことを、心して避けなされよ。」すると聞いていた人々は、言いました、「そのもっともいまわしきこととは何ですか。」彼は答えました、「それは礼拝を他人に見せびらかそうとて、長い間いつまでもひざまずいていることだ。これは信心を衒《てら》うことじゃ。」するとなかの一人が、訊ねました、「おお師父よ、隠れた真理《まこと》と事物の神秘を識るすべを教えて下さい。」けれども跣足上人はこれに言われました、「おおわが子よ、そうした事どもは衆人のためのものではない。われわれはこれを、衆人にわからせるわけにはまいらぬ。なぜならば、百人の義人のうちにも、純銀のごとく清らかな者は、五人あるかなしじゃからな。」
長老《シヤイクー》イブラーヒーム(8)は語っております、「私はある日のこと、ちょうど小さな銅貨を一枚なくした、一人の貧しい男に出あった。そこで私はその男のほうに進み寄って、一ドクラムの銀貨を差し出したが、その男は断わって、私に言った、『地上のあらゆる銭金《ぜにかね》とて、私には何の役に立ちましょうぞ、この私は不滅の至福しか求めてはいないのだ。』」
また同じように伝えられておりまするが、跣足上人のお妹さまが、ある日のこと家を出られて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十二夜になると[#「けれども第八十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
また同じように伝えられておりますが、跣足上人のお妹さまが、ある日のこと家を出られて、導師《イマーム》アフマド・ベン・ハンバル(9)に会いに行って、申されました、「おお聖なる信仰の導師《イマーム》よ、わたくしは説き明かしていただきたくてまいりました。どうぞ説き明かして下さいませ。わたくしはいつも夜になるとわが家の露台に出て、家の前を通ってゆく炬火《たいまつ》の明りをたよりに、糸を紡《つむ》いで夜なべをいたしております。家にはまったく燈光《あかり》がございませんのです。そしてわたくしは日中は仕事をし、家中の食事の支度をいたします。つきましてうかがいたく存じますが、こうして自分のものではない明りを使うことは、差し支えないことでございましょうか。」すると導師《イマーム》は訊ねました、「あなたはどなたかね、おお女性《によしよう》よ。」彼女は言いました、「わたくしは跣足《はだし》のバシュラの妹でございます。」すると聖なる導師《イマーム》は身を起こして、若い娘の手の間の床《ゆか》に接吻して、これに申しました、「おお、聖者のなかでもっとも馨り高い聖者の妹御よ、なにとて、わしは終生、あなたの心の清らかさを吸って暮らせないものか。」
〔(10)また、賢人のなかのある賢人が、次のような言葉を申されたとも伝えられております。「アッラーがその下僕《しもべ》の一人のためによかれと思いたもうときには、その者の前に、霊感の扉を開きたもう。」〕
わたくしの聞き及びましたところでは、マリク・ベン・ディナール(11)は市場《スーク》を通って、自分の気に入った品々を見かけると、自分にこう言って自分を叱るのでございました、「わが魂よ、そんなことは無益だ。おれはおまえの言うことなぞに耳をかさぬぞ。」〔(12)というのは、彼はいつも好んで、繰り返し申していたのでした、「おのが魂を救うただひとつの道は、決してこれに従わぬことだ。そしておのが魂を失うまちがいない道は、その言うところに耳をかすことだ。」〕
またマンスール・ベン・ウマル(13)は、わたくしどもに次の事蹟を伝えております。「私はかつてメッカにお詣りに行って、クーファの町を通りかかった。それはまっ暗な夜であったが、ふと夜のさなかに、どこから出て来るのかわからぬが、身近に、高い声が聞こえて、次のように言っていた。『おお、偉大満てる主なる神よ、私は決して君の御掟《おんおきて》にさからうやからでもなければ、君の御恵《みめぐ》みを知らぬやからでもございません。〔(14)さりながら、主よ、私はおそらく、過ぎし世ではなはだしく罪業を犯したのでありましょう。そして私はひたすら、お許しとわが過ちのお赦しを、お願い申す次第でございます。なんとなれば、私の心持は悪くはなかったのでしたが、私の行ないが私の意を裏切ったのでございます。』
そしてひとたびこの祈りが終わると、〕次に、何か重いものが、ずしりと地上に落ちる物音が聞こえた。私はこの夜中、この静けさのうちに、この声がいったい何なのやらわからなかった。わが眼はこの声の持ち主を見分け得なんだものでな。またその地上にずしりと落ちたものも、いったい何やら見当がつかなんだ。そこでこんどは私が呼ばわった、『おれはメッカの巡礼、マンスール・ベン・ウマルじゃ。誰ぞ助けを要するものはあるか。』何の返事もない。そこで私も立ち去った。ところが翌日、私は葬式の行列が通るのを見たので、自分も行列に従う人々の間にまじった。すると前に、心労でやつれはてた、一人の老婆が歩いている。そこで私はこれに問うた、『亡くなった方はいったいどなたですか。』その老婆は答えて、『昨日、家の息子がお祈りを上げてから、あの『おお汝ら、ことばを信ずる者よ、汝らの魂を強くせよ……』に始まる、アッラーの書《ふみ》の章句を唱えたのでした。そして息子が章句を唱え終えますると、今この柩《ひつぎ》の中にいる男が、肝《きも》が破れるのをおぼえて、ばったりと倒れて死んでしまったのでございます。私の言えることといえば、これだけです。」
そして第四の若い娘は、これらの言葉を言って、その連れの中に引き下がりました。すると、まことに、全部の乙女の頭上の冠というべき、第五の乙女が進み出て、申しました。
第五の乙女の言葉
おお幸多き王さま、わたくしは過ぎし時代の求道上の事柄について、聞き及びましたところを申し上げましょう。
賢人モスリマ・ベン・ディナール(15)は申しました、「汝の魂をば、いっそうアッラーのおそば近く押しやらぬいっさいの快楽《けらく》は、災厄《わざわい》である。」
伝えまするところでは、ムーサー(16)(その上に平安あれ)がマドヤンの泉におられましたとき、二人の若い羊飼いの娘が、父親ショアイブの羊の群れをひいてそこにきました。そこでムーサー(その上に平安あれ)は、二人の姉妹のその若い娘たちに水を与え、羊の群れにも、棕櫚の幹で作った水飼槽《みずかいおけ》で、水を飲ませてやりました。そこで二人の若い娘は家に戻って、そのことを父親ショアイブに語りますと、父上はそのとき、一方の娘に言いました、「その若者のもとに引き返して、わが家に来てくれるように言いなさい。」そこで若い娘は泉に引き返して、ムーサーの近くにくると、面衣《ヴエール》で顔を蔽って、これに言いました、「家の父がわたくしをここによこして、先ほどあなたが私たちにして下さったことのお礼に、いっしょにお食事をしたいから、家までおいでいただきたいと申し上げよ、とのことでございます。」けれどもムーサーはたいへん面白からぬことに思って、最初はどうしてもついてゆこうとしませんでしたが、とうとう最後に行くことに決心しました。そして娘のあとから歩いてゆきました。ところが、その若い羊飼いの娘は、たいへん大きなお臀をしていまして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十三夜になると[#「けれども第八十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、第五の乙女は次のように話しつづけたのでございます。
ところがその若い羊飼いの娘は、まったく、大へん大きなお臀をしていまして、そして風が吹いて、あるときは薄い着物をその円味にぴったりとくっつけ、あるときは着物を吹き上げて、若い羊飼いのお臀を、丸出しに見せるのでした。けれどもムーサーは、お臀が見えるごとに、眼をつぶって少しも見ないようにしました。そして誘惑があまりに強くなってはと恐れたので、彼は若い娘に言いました、「いっそ私を、前に立って歩かせて下さい。」それで若い娘はちょっと驚きましたが、ムーサーのうしろから歩くことにしました。そして二人はそろって、ようやくショアイブの家に着きました。ショアイブはムーサー(お二人の上に平安と祈りあれ)がはいって来るのを見なさると、敬意を表して立ち上がり、おりから食事の支度ができていたので、これに申しました、「おおムーサーよ、あなたが家《うち》の娘たちのためにして下されたところに対して、この家《や》のもてなしが行き届き、手あつくあるように。」けれどもムーサーは答えました、「おおわが父よ、私はただ『審判』を思ってのみなされる行ないを、この地上で、金銀のために売るような真似は、けっしていたしませぬ。」そこでショアイブは、さらに言葉をつぎました、「おお若者よ、あなたはわが客人であって、私は自分の客人たちに対して、これをもてなし、物惜しみしないしきたりじゃ。かつ、それはわが家の祖先以来のしきたりだ。だからここに止まって、皆でいっしょに食事をして下されよ。」そこでムーサーは止まって、いっしょに食事をしました。食事がすむと、ショアイブはムーサーに申しました、「おお若者よ、あなたはわれわれといっしょに暮らして、羊を牧場に連れて行きなさい。そして八年たったら、奉公の褒美として、さっき泉にあなたを呼びに行ったほうの娘を、あなたにめあわせてあげよう。」そこでムーサーもこんどは承知して、心の中で思いました、「あの若い娘との事が法にかなうようになった今は、私もあの祝福された臀を、遠慮なく用いることができるわけだ。」
〔(17)伝えられますところでは、イブン・ビタールがふと友人の一人に出あうと、友人はこれに言いました、「この頃ずっと少しもお見かけしなかったが、いったいどちらにおいででしたか。」イブン・ビタールは言いました、「友達のイブン・シェアブのことで、いそがしくてね。あなたはあの人をご存じかな。」彼は答えました、「知っているとも。もう三十年以上も昔から家の隣りにいるが、私はついぞ言葉をかけたことがない。」するとイブン・ビタールは、これに申しました、「おお情けない仁だ、自分の隣人たちを愛さない人は、アッラーに愛されぬということを、あなたはご存じないのか。隣人というものは、おのが隣人に対し、自分の身内に対すると同じ尊敬をはらわなければならぬことを、ご存じないのかね。」〕
ある日、イブン・アドハム(18)は、友人の一人と同道して、メッカから戻る途中、これに言いました、「あなたはどういうふうに生きていなさるか。」友人は答えました、「食べるべきときには食べるが、腹が減っても何もないときには、我慢しますよ。」そこでイブン・アドハムは答えました、「まことにあなたのなさることは、バルクの国の犬どものすることと変わりがない。われわれは、アッラーがわれらにわれらのパンを下されば、神を称《たた》えまするし、また何も食べるものがないときにも、やはり神に感謝しますよ。」するとその男は叫びました、「おおわが師よ。」そして他のことは申しませんでした。
〔(19)ムハンマド・ベン・ウマルはある日、苦行をして暮らしている一人の人に、訊ねたということでございます。「人がアッラーのうちに抱かねばならぬ希望については、どのようにお考えですか。」その人は言いました、「私が信頼の基《もとい》をアッラーに置くというのは、二つの事柄のゆえです。私は経験によって、自分の食うパンは、決して他人によって食われることがないということを合点した。また他方、私がこの世に生まれたというのは、アッラーの思召しによるものであることを知っている。」〕
そしてこれらの言葉を言うと、第五の若い娘はその連れの中に引き下がった。そのときはじめて、足取りも重々しく、例の聖なる老女が進み出ましたのじゃ。老女は、亡き父君オマル・アル・ネマーン王の御手の間の床《ゆか》を、九たび接吻して、申しました。
老女の言葉
おお王さまよ、ただいまは、この世の事物を、それらが軽んぜらるべき範囲内で、軽んずべきことにつきまして、これら若い娘どもの、有益な言葉をお聞きあそばしました。私は、わが古人の間で最もおえらい方々の行跡について、存じまするところをお話し申し上げましょう。
伝えられまするところでは、大|導師《イマーム》アル・シャーフィイー(20)(なにとぞこの方にアッラーのご恩寵あらんことを)は、夜を三部に分かち、第一は勉学、第二は睡眠、第三は礼拝といたしていた、ということでございます。そして晩年には、もはや睡眠にはひと時もあてず、終夜起きていたのでありました。
〔(21)その同じ導師《イマーム》アル・シャーフィイー(何とぞこの方にアッラーのご恩寵あらんことを)は、申されました、「わが生涯の十年間、わしは腹がすいても、わが大麦のパンを食おうとは思わなんだ。なぜかというに、食いすぎということは、百害あって一利ない。それは頭脳を鈍くし、心を刻薄にし、種々の知力を根絶し、眠りと怠惰を催させ、最後の気力までも奪うものだ。」〕
小イブン・フーアード(22)は私どもに語っております。「私はあるとき、ちょうど導師《イマーム》アル・シャーフィイーが、バクダードに滞在しておられたおりに、その地にいあわせた。そして私は洗浄《みそぎ》をしに河辺に行った。ところが、私がうずくまって洗浄《みそぎ》をしているところに、一人の人が、黙々とついてくる大勢の人を従えて、私の後ろを通りかかって、私に言った、「おお若者よ、せっかく気をつけておまえの洗浄《みそぎ》をするがよい。さすればアッラーもおまえに気をつけて下さるだろう。」そこでふりむいてみると、その人は豊かな鬚をたくわえて、面上に祝福の印《しるし》ある仁であった。そこですぐに、私は急いで洗浄《みそぎ》を終え、立ち上がって、そのあとを追った。するとその方は私を認めて、こちらに向いて、申された、「おまえは何かわしに求めたいことがあるのか。」私は言った、「さようでございます、おお尊ぶべき師父よ。あなたさまが、かならずや至高のアッラーよりお聞きになっていらっしゃるところを、私に教えていただきたく存じます。」するとその方は私に言われた、「汝を識ることを学べ。そしてその上でのみ、はじめて行なえ。その上でのみはじめて、汝のあらゆる欲望《のぞみ》のままに行なえ、されど汝の隣人を傷つけざるよう心して。」そして道をつづけて行かれた。そこで私は、あとに従う人々の一人に訊ねた、「あの方はいったいどなたですか。」その男は私に答えた、「導師《イマーム》ムハンマド・ベン・イドリス・アル・シャーフィイーでいらせられます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつものとおりつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十四夜になると[#「けれども第八十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その聖なる老女はこのように話をつづけたのでございます。
伝えまするところでは、教王《カリフ》アブー・ジャアファル・アル・マンスールは、アビ・ハニーファ(23)をば法官《カーデイ》に任命し、これに年俸一万ドラクムを授けようと思われました。けれども、アビ・ハニーファは教王《カリフ》のご意向を承わったとき、まず朝の祈祷を祈って、次に身に白衣をまとい、ひと言も言わずに坐りました。そこに教王《カリフ》の使者が、一万ドラクムを前もって渡したうえで、その任命を伝えるために、はいってまいりました。けれども使者が何と言おうと、アビ・ハニーファはただのひと言も答えません。そこで使者は言いました、「さりながら、私がここに持参したこの金子はすべて、法にかなったものであり、『聖典』によって認められたものであり、その点ご安心下さいまし。」するとアビ・ハニーファはこれに申しました、「いかにも、この金子は法にかなったものであるが、しかしこのアビ・ハニーファは、断じておえら方たちに仕えるものではござらぬ。」
そしてこれらの言葉を言って、老婆は言い添えました、「おお王さまよ、私はさらにいろいろと、わが昔の賢人たちの生涯のあっぱれな事蹟をば、お耳に入れたいとは存じまするが、しかし今や夜も迫り、それに、アッラーの日々は、その下僕《しもべ》たちに対しては数しげきものでございます。」そして聖なる老女は、その大面衣《イザール》をふたたび肩にかけて、五人の乙女の形づくっている一群のまん中に、引き下がったのでありました。
――ここで大臣《ワジール》ダンダーンはちょっと言葉を切って、ダウールマカーン王と帳《とばり》の蔭にいる姉君ノーズハトゥに、語るのをやめました。けれどもしばらくすると、ふたたび言葉をついだのでございます。
亡き父君、オマル・アル・ネマーン王は、こうした有益な言葉をお聞きになると、まことにこれらの女性は、当代随一に完全無欠であると同時に、絶世の美女であり、心身ともにもっとも丹精こめて育てられた女たちだということが、おわかりになりました。そこで、どうすれば、その女たちにふさわしい敬意を表せるかおわかりにならぬ有様で、もうすっかりその美しさの魅力に捉えられ、同時に、彼らを連れてきた聖なる老女に対しても、深く尊敬をおおぼえになりました。そしてさしあたり、住むところとして、昔カイサリアの女王、アブリザ女王のお部屋になっていた特別の部屋を、一同に賜わりました。そして十日間というものは、毎日ご自身で彼らの様子を見にゆかれ、何か不足のものはないかと、親しく見まわりにゆかれたものでした。そしておいでになってみるといつでも、老婆は礼拝をしていて、日々を断食に、夜々を黙想に、過ごしているのでした。そこでその高徳にすっかり感じいって、ある日、私に仰せられた、「おおわが大臣《ワジール》よ、わが王宮に、あのようにあっぱれな聖女がおるとは、なんという祝福であろう。あれなる老女に対するわが尊敬は、極度となり、あの若い娘らに対するわが愛は、涯しなきものと相成った。さればこれより余と同道して、もはやわが歓待の日限十日も過ぎ、用談をいたしても差し支えなきわけだから、いよいよあの老女に、あの乙女ら、乳房|円《まろ》き、あの五人の処女の値いとして、何ほどの金額を取りきめたき所存か、訊ねるといたそう。」そこでおともをしてその特別の部屋にまいり、父君が老婆にその件をお訊ねになりますと、老婆は言いました、「おお王さま、あの若い娘たちの値いは、ふつう一般の売買の条件のほかにある条件から、成り立っているものと、ご承知下さいませ。と申すのは、彼らの値いは決して金でも、銀でも、宝石でも、支払われないのでございます。」
この言葉に、父君はいたくお驚きになって、お訊ねになりました、「おお尊ぶべき婦人よ、しからばあの若い娘らの売り値は、そもそも何によるのか。」老婆は答えて、「ただひとつ次の条件よりほかには、お譲り申しかねます。日々を黙想のうちに、夜々を礼拝のうちに過ごしつつ、まるひと月の間、断食なさるということです。そしてその完全な断食のひと月を終われば、それによっておからだはけがれを浄められ、あの若い娘らのからだと合するにふさわしくなられましょうから、その暁は、あの娘らの甘味を余さず堪能なさることがかないましょう。」
すると父君は感心の限りに感じいって、老婆に対するご尊敬は、もはやきわまりなきものとなりました。そして急ぎ、その条件をご承諾あそばされましたのじゃ。すると老婆は申し上げた、「私のほうでも、断食によく耐えなさるよう、せっかく祈祷をし願をかけて、お助け申しましょう。では銅の水差しをひとつお持ち下され。」そこで父王は、これに銅の水差しを与えなさると、老婆はそれに清水を満たし、眼を伏せて水差しを見つめ、その上に何か知らない言葉で祈祷を唱えはじめ、こうして私たち誰にもひと言もわからない言葉を、一刻《ひととき》にわたって呟きだしました。それから水差しに薄い布切れをかぶせて、自分の印をおして封じ、それをこう言って、父君に渡しました、「断食の最初の十日が過ぎたら、この布切れの封を破って、この聖水をお飲みになって、断食を中絶なさりませ。この水はおんみを力づけて、おんみの過去の汚れを洗い落とすでござりましょう。さて今は私は、これより『見えざる国の住民』たる、私の兄弟たちに会いにゆくといたしましょう。永いこと会わずにいますから。そして十一日目の朝、戻ってまいってお目にかかりましょう。」
そして老婆は、これらの言葉を申して、父君に平安を祈って、立ち去りました。
すると父君は、その水差しを取り上げて立ち上がり、御殿からまったく切り離された小房をお選びになり、中には、その銅の水差し以外に何ひとつ家具を置かれず、そして断食し、黙想し、かくしてあの若い娘らのからだに近づくにふさわしくなろうとて、そこにおこもりになりました。そして扉をしめて、内側から鍵をかけ、鍵をばご自分の衣嚢《かくし》にお入れになりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつものとおりつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十五夜になると[#「けれども第八十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして王は扉をしめて、内側から鍵をかけ、鍵をばご自分の衣嚢《かくし》にお入れになりました。そしてすぐさま断食をお始めになったのです。
こうして十一日目の朝になると、父王はその水差しを取り上げて、薄い布切れの封を破り、それをお口にあてて、ひと息でぐっとお干しになりました。するとすぐに全身の安らかさと、臓腑にひじょうな快味をおおぼえになりました。王がこれをお飲みになったと思うと、誰かその小房の扉を叩くのでした。そこで扉をあけると、例の老婆が手に、みずみずしい芭蕉の葉でもって作った包みを携えて、はいってきました。
すると父王は敬意を表して立ち上がり、これにおっしゃいました、「わが尊ぶべき母よ、ようこそ来られた。」老婆は言いました、「おお王さま、ここに『見えざる国の住民』は、彼らの|ご挨拶《サラーム》をお伝えせよとて、私を御許《おんもと》に遣わしました。というのは、私が彼らに王さまのお話をいたしますと、私がご好誼を得たことを知って、一同ひじょうに悦びました。そして好意のしるしといたしまして、この包みをお贈り申し上げるとのこと。これには芭蕉の葉の下に、ひじょうに結構なジャムがはいっております。天国の、黒い眼の処女たちの指で作ったジャムです。されば二十一日目の朝となったら、この芭蕉の葉をあけて、そのジャムを召し上がって、断食を中絶なさりませ。」この言葉に、父君はいたくお悦びになって、申されました、「余に『見えざる国の住民』の間に、兄弟を与えたもうたアッラーに称《たた》えあれ。」それから老婆に厚くお礼を申され、その両手に接吻なさって、ひじょうに丁重に、小房の戸口までお見送りなさったのでした。
ところで二十一日目の朝になると、言葉にたがわず、老婆は忘れずに戻ってきて、父君に申し上げました、「おお王さま、お聞き下さい。私は『見えざる国』の兄弟たちに、あの若い娘たちをあなたさまに贈物に進上するつもりだと知らせますと、今は一同あなたさまに好意を抱いておりますゆえに、たいへん悦んでくれました。そこで、あの娘たちを御手の間に差し出すに先立って、私はこれから娘たちを、『見えざる国の住民』のところに連れてまいり、娘たちに彼らの息吹《いぶき》を吹きこんでもらい、あなたさまをお喜ばせ申すような、快い香りを注ぎ入れてもらおうと思うのです。そして娘たちは、『見えざる国』の私の兄弟たちに、地底の宝を授けられて、それを携えて御許に戻ってくることでありましょう。」
父君はこの言葉を聞くと、老婆のいっさいの骨折りを厚く謝して、これに申された、「まことに過分なことじゃ。だがその地底の宝までも授かるとは、好意になれすぎるきらいはないか。」けれども老婆は、これに対してしかるべくお答えしたので、父君は訊ねなさいました、「それでいつ、ここに連れ戻すおつもりか。」老婆は言いました、「三十日目の朝、あなたさまが断食を終えて、かくしておからだが潔められた暁に。一方あの娘たちのほうも、それぞれ身に素馨の清らかさを付けたうえで、すっかりあなたさまのものとなるでございましょう、その一人一人が、ご領土全体よりも高い値いあるあの乙女らが。」王は答えられた、「おお、いかにもそのとおりじゃ。」老婆は言いました、「さて今、万一あなたさまが妻妾の間で、もっともご寵愛深いお方をば、この私にお預けになりたいと思し召すようなことがあったとしても、私は、自分と乙女らといっしょに、その方をお連れ申して、わが兄弟『見えざる国の住民』の潔めの恩寵を、やはりそのお方の上にも、及ぼしてさしあげたいと思いまするでしょう。」すると父王は、これに仰せられました、「なんとも感謝に耐えぬ。いかにも、わが宮殿には、サフィーアと名づくる、余の寵愛するギリシアの女がおる。それは、コンスタンティニアのアフリドニオス王の娘じゃ。アッラーはすでにその女により余に二児を授けたもうたが、悲しいかな、その子らは永年来ゆくえ不明である。されば、おお尊ぶべき老女よ、その女を連れて行って、これに『見えざる国の住民』の恵みを及ぼし、かくてそのお取成しによって、杳《よう》としてゆくえ知れぬその子らを、取り戻すことができるようにしてもらいたいものじゃ。」すると聖なる老女は申しました、「きっと承知いたしました。では早くサフィーヤ女王を、ここにお連れ下さいまし。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十六夜になると[#「けれども第八十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
すると老婆は言いました、「早くサフィーア女王を、ここにお連れ下さいまし。」そこで父君は時を移さず、わが君の御母君《おんははぎみ》サフィーア女王をお呼びになって、老婆にお預けになると、老婆はすぐに乙女たちの中にお入れ申しました。それから老婆はちょっと自分の部屋に行って、封印をした盃を持って帰って来ました。そして、その盃をオマル・アル・ネマーン王に差し上げて、申しました、「三十日目の朝、いよいよ断食を終えなさった暁には、まず浴場《ハンマーム》へ行って沐浴《ゆあみ》をなさり、それからこの小房に戻って休息なさって、この盃をお飲みになれば、これはおんみの潔めの仕上げをし、かくておんみをようやくにして、あの王者の乙女らをお胸に抱くにふさわしきものとするでございましょう。さらば今は、おんみの上に平安と、アッラーのご慈悲と、そのいっさいの祝福のあらんことを、おおわが子よ。」
そして老母は、五人の若い娘と母君サフィーア女王を引き連れて、行ってしまったのでありました。
さて、王はその断食を三十日まで、おつづけになりました。そしてその三十日目の朝になると、立ち上がって浴場《ハンマーム》に行かれ、沐浴を終えて、小房に戻られると、何ぴとも来て妨げてはならぬと仰せられました。そして小房におはいりになって、後ろの扉をふたたびしめて、鍵をおかけになり、例の盃をとって、封印を去り、口にお運びになって飲み干し、そしてお横になってご休息あそばされたのであります。
われわれ一同は、今日は断食の最後の日と承知いたしておりましたので、夕方までお待ち申し、次に夜どおし、さらに翌日の日のなかばまで、お待ち申し上げました。われわれは考えました、「これはきっと王さまが、今までお耐えになったすべてのご不眠を、癒やしておいでなさるのだ。」けれども王はいつまでたっても戸をおあけにならぬので、われわれは扉に近づいて、呼ばわってみました。が、何の返事もない。そこでわれわれは、このご返事のないのに気が気でなく、遂に意を決して、扉をこわしてはいってみることにした次第でした。そして一同はいりました。
ところが、王はもうそこにはおられなかった。そしてその場所に、われわれはただ、ずたずたになった肉片と、砕けて黒くなった骨を見出したのみでした。われわれは皆、気を失って倒れました。
それから一同われに返ったとき、われわれは例の盃を取りあげて、よく調べてみました。するとその蓋のなかに、一片の紙片が見つかり、その上には、次のように書かれておりましたのじゃ。
[#2字下げ]「およそ仇《あだ》をなす人間は、何ぴとといえども愛惜を覚えしむることあらざるべし。しかしてこの紙片を読む者はひとしく、王者らの娘を誘惑する者の受くる罰は、かくのごときものなることを知るべし。これなる男は、息子シャールカーンを派して、われらの王女、不幸なるアブリザ姫を、わが国より拉せしめたり。しかして姫を捉えて、処女なる姫の身に、成し遂げたることを成し遂げたり。次に、姫をば一黒人奴隷に与えしところ、その奴隷は、極悪非道の狼藉を加えて姫を殺害せり。かくて今ここに、この王者ともあるまじきふるまいの廉《かど》により、オマル・アル・ネマーン王は、すでに世にあらず。しかして王を弑《しい》せるわれこそは、その名を災厄《わざわい》の母と呼ぶ勇者、膺懲者なり。しかして汝ら、これを読む邪教徒一同よ、われはただに汝らの王を弑せしのみならず、さらにコンスタンティニアのアフリドニオス王の女、サフィーア女王をも、伴い行けり。われはこれをその父君に返しまいらすべし。つづいてわれら一同は、武装してふたたび来たって汝らを襲い、汝らの家を毀《こぼ》ち、汝らを最後の一人まで、ことごとく鏖殺《おうさつ》すべし。かくてこの地上には、もはやわれら、『十字架』を礼拝するキリスト教徒のほかに、人はあらざるべし。」
われわれはこの紙片を読んだとき、われわれの災厄《わざわい》のいかに恐るべきかがわかり、われわれはわれとわが手でおのが顔を打ち、長いこと泣きました。けれども、取り返しのつかぬことが成就されてしまったからには、われらの涙もわれわれに何の役に立ちましょうぞ。
そして、おお王よ、軍と人民とが、故オマル・アル・ネマーン王の王位継承者の選出に関して、意見の齟齬を来たしましたのは、このときのことにござります。そしてこの齟齬は、まる一カ月にわたりましたが、そのあげく、なにせわが君ご生死の消息は、全然不明でございましたので、結局ダマスのシャールカーン王子を迎えて、お選び申すことに決しました。けれどもアッラーはわれらの途上に、わが君を置きたまい、かくて起きたことが起きた次第でございます。
かくのごときが、おお王よ、父君オマル・アル・ネマーン王崩御の原因でござります。
――総理|大臣《ワジール》ダンダーンはダウールマカーン王の御前で、このように語ったのでございます。
総理|大臣《ワジール》ダンダーンは、オマル・アル・ネマーン王崩御の物語を語り終えると、手帛《ハンケチ》を取り出して、目を蔽い、泣きはじめました。するとダウールマカーン王と、絹の帳《とばり》の後ろにいたノーズハトゥ女王もまた、侍従長や並みいる一同とともども、泣きはじめました。
けれども侍従は、一同に先んじて涙を拭い、ダウールマカーンに言いました、「おお王よ、まことにこうした涙も、今はもはや何ごとにも役立つことではございませぬ。今となっては、ただ勇気を出されて、お心を鞏固《きようこ》にし、もって御国《みくに》の利益《ため》を図ることあるのみ。かつ亡きお父上は、あなたさまのおんみのうちに、生きつづけておられるのでございますぞ。なんとなれば、父祖は彼らにふさわしき子らのうちに、生きておるものでござりますれば。」そこでダウールマカーンも泣くのをやめて、初の御前会議を開く準備をなさいました。
そのために、まずご自分は、円蓋の下の王座に就かれ、侍従はそのかたわらに、大臣《ワジール》ダンダーンはその前に、そして武官たちは王座の後ろに、立ち並びました。また貴族《アミール》と王国の大官たちは、おのおのその位階に従っていならびました。
そこでダウールマカーン王は、大臣《ワジール》ダンダーンにおっしゃいました、「父上のご宝庫の内容を、列挙して聞かせよ。」すると大臣《ワジール》ダンダーンはお答えしました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてご宝庫に納められている金子、財宝、宝石すべてをいちいち挙げて、詳細な目録をお渡し申しました。するとダウールマカーンはこれに仰せられて、「おおわが父上の大臣《ワジール》よ、汝は引きつづき同様に、わが治世の総理|大臣《ワジール》たるべし。」そこで大臣《ワジール》ダンダーンは、王の御手の間の床に接吻して王のご長寿を祈りました。つづいて王は、侍従に仰せられました、「われわれがダマスより持ち運んで来た財宝については、これを軍にわかたなければならぬ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十七夜になると[#「けれども第八十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで侍従は、ダマスから持ってきた、財宝と豪奢な品々の納めてあるかずかずの箱を開いて、絶対に一物も残さず、いちばん美しい品物をば軍の隊長たちに与え、全部を兵士に分け与えました。そこで隊長たちはみな、侍従の手の間の地に接吻して、王のご長命を祈願して、お互い同士の間で言い合ったのでした、「こんなに過分のご下賜は、ついぞ見たためしがないな。」
そしてこのときはじめて、ダウールマカーン王は、出発の合図をお下しになりました。そこでただちに野営を引き払って、王は軍の先頭に立たれて、バグダードに入城なさいました。
バグダード全市は美々しく飾られ、住民全部は露台に群れておりました。そして女たちは、王がお通りになると、歓呼の金切り声を浴びせました。
王は王宮のなかにお上がりになると、まず第一になさったことは、祐筆頭を召されて、ダマスにおられる兄君シャールカーンに宛てて、書面を口授なさることでした。その書面には、今まで起こったこと全部を、一部始終詳しく述べて、最後にだいたい、次のように結んでありました。
[#2字下げ]「しかしてわれらは、おお兄上よ、この書面ご落手の上は、ただちに所要の準備を備え、ご麾下の軍隊を集合し、来たって兄上の兵力をわが兵力に合わせ、もって相携えて、われらを脅やかす邪教徒の聖戦に征《ゆ》き、われらの父君のご横死の讐《あだ》を報じ、そそがるべき汚辱をそそぎ下されたく、願い上げ候。」
それから王は手紙を畳んで、おんみずから御印《ぎよいん》をもって封じ、大臣《ワジール》ダンダーンを呼んで、これに書状をお渡しになって、おっしゃいました、「おお総理|大臣《ワジール》よ、兄上のもとにて、かかる至難の使命をよく果たし得るものは、汝一人をおいてほかにない。汝ならば、きわめて穏便に兄上にお話し申すことができようが、余からと言って、次のことをよくお伝えしてもらいたい、すなわち、余は何どきなりとも、兄上にバグダードの王位をお譲りし、兄上に代わって、ダマスの太守となる用意がある、と。」
そこで大臣《ワジール》ダンダーンは、即刻出発の準備をして、その日の夕方には早くもダマスに立ちました。
さて大臣《ワジール》の留守のうち、二つの非常に重大なことが、ダウールマカーン王の御殿で行なわれたのでございます。第一は、ダウールマカーンは、友人の浴場《ハンマーム》の風呂焚きの老人《シヤイクー》を召し出して、これに栄誉と位階の限りをつくし、彼一人のために、宮殿を一棟与えて、そこにペルシアとホラーサーンの、このうえなく美しい絨氈を敷き詰めさせました。けれどもいずれこの物語の進むにつれて、この親切な浴場《ハンマーム》の風呂焚きについては、またいろいろとお話し申すことでございましょう。
第二のことというのは、次のことでございます。ダウールマカーン王のところに、忠実なご家来の一人から、若い白人の女奴隷十人から成る、贈物が届いたのでございました。ところで、その若い娘のうちの一人で、どんな言葉も及ばぬ美しさの娘が、たいそうダウールマカーン王のお気に召して、王はこれを連れて、いっしょにお寝《やす》みになり、そして即座にお孕ませになったのでした。けれどもいずれこの物語の進むにつれて、この出来事にふたたび戻るおりがございましょう。
さて大臣《ワジール》ダンダーンのほうは、それから間もなく戻りまして、兄上シャールカーンは王のお頼みを快諾して下さり、お招きに応じて、軍を率いてご出発になられた旨を、王にお知らせしました。そして大臣《ワジール》は付け加えました、「されば、これよりすぐにお出迎えにまいらなければなりませぬ。」王はお答えになりました、「いかにもさようじゃ、おおわが大臣《ワジール》よ。」そしてバグダードをお出ましになって、一日行程のところに、野営を設けさせたと思う間もなく、そこにシャールカーン王子が、斥候のあとから、軍隊を連れてお姿を現わしました。
そこでダウールマカーンは先を越して、こちらから兄上をお迎えに行かれました。そして兄上のお姿を見るとすぐに、馬からおりようとなさいました。けれどもシャールカーンは、遠くのほうから、くれぐれもそんなことはいっさいしてくれるなと言って、先だってまず自分が地上に飛びおり、そう言われてもやはり、馬からおりていたダウールマカーンのほうに駈けよって、その腕の中に飛び込みました。そしてお二人は泣きながら、長い間抱き合いました。それから、お互いに父上の崩御について慰めの言葉を言い交わしてから、相携えてバグダードに戻りました。
そして時を移さず、全国の津々浦々から戦士を募集いたしますと、彼らはすぐに召集に応ぜずにはいませんでした。それほど、たくさんの戦利品と恩賞が約束されていたのです。そしてひと月にわたって、戦士たちはぞくぞく押し寄せることをやめませんでした。その間に、シャールカーンは、自分のこれまでの身の上を残らずダウールマカーンに語って聞かせ、またダウールマカーンも同じく、自分の身の上を語りましたが、とくに浴場《ハンマーム》の風呂焚きの忠勤については、言葉をきわめて申しました。そこで、シャールカーンはお訊ねになりました、「さだめしおんみは、すでにその徳高き男のあらゆる献身に、酬いられたことでしょうね。」ダウールマカーンはこれに答えて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十八夜になると[#「けれども第八十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ダウールマカーンはこれに答えて、「まだすっかり酬いてはおりません。というのは、アッラーの思し召しあらば、戦いより帰った暁にこそ、ただちにこれに酬いようと思って、今のところは見合わせております。」またシャールカーンが、妹とは知らずにかつて自分の妻として、一女「運命の力」をもうけた、ノーズハトゥの言葉の偽わりならぬを、確かめることができたのも、やはりこの時のことでした。それで思い出して、これは妹の消息を訊ねてみなければならぬと思いました。そこで侍従長に、自分からの挨拶を伝えてくれるように頼みました。侍従長は頼まれたことを果たして、同じくシャールカーンにノーズハトゥの挨拶をもたらしましたが、彼女はそのほかに、娘の「運命の力」の消息を訊ねてよこしました。シャールカーンは、「運命の力」はダマスで申し分なく達者でいるから、安心するようにと伝言させました。そこでノーズハトゥは、それについてアッラーに感謝した次第でございました。
次に、いよいよ全部の軍隊が集まり、各種族のアラビア人が、それぞれ割り当てられた壮丁を届けてきたとき、二人のご兄弟は、両方合わせた軍の先頭にお立ちになりました。そして、ダウールマカーンが、懐妊させた若い奴隷に別れを告げ、これにふさわしい召使たちをつけてやってのちに、一同は「邪教徒」の国々を指して、バグダードを出たのでございました。
軍の前衛はトルコの戦士たちからなり、大将《アミール》はバハラマーンといい、後衛はデイラム(24)の戦士たちからなって、大将《アミール》はリュステムといいました。中央軍はダウールマカーンが指揮し、一方右翼はシャールカーン王子の指揮下、左翼は侍従長の指揮下にあります。そして総理|大臣《ワジール》ダンダーンは、軍の副総司令官に任ぜられました。
かくて一行は、一週間の行軍ごとに、三日間休みながら、ルーム人の国に着くまで、まるひと月の間、行軍をやめませんでした。すると、軍が近づくと、住民たちは慄えあがって八方にのがれ、アフリドニオス王に回教徒の進撃を報じて、コンスタンティニアに避難しにゆきました。
この知らせに、アフリドニオス王は立ち上がって、老婆「災厄《わざわい》の母」を召し出しました。老婆はおりから、女王サフィーアを王の手に連れ戻し、それと同時に、自分の育てたカイサリアのハルドビオス王を促して、全軍を引き具して、自分といっしょに来てアフリドニオス王と合流するように、決心させたのでございました。カイサリアの王も、オマル・アル・ネマーン王を倒しただけではあきたらず、もっともっとアブリザ姫の仇を取ってやりたいと望んで、急ぎ軍を率いて災厄《わざわい》の母について、コンスタンティニアに駈けつけたのでございます。
そこでアフリドニオス王が老婆を召し出しますと、老婆はすぐに王の御手の間にまかり出ました。王はこれにオマル・アル・ネマーン王の死の詳細を訊ねますと、老婆は急いでそれを報告しました。すると王は訊ねました、「さて、敵が近づいた今となっては、いかがしたものであろうか、おお災厄《わざわい》の母よ。」老婆は答えました、「おお大王さま、おお地上のキリストの代理者よ、では私がとるべき対策を、授けて進ぜましょう。これは悪魔《シヤイターン》そのものでも、そのあらゆる智謀をもってしても、私が敵をはめこむ秘策を見破ることは、ようできますまい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第八十九夜になると[#「けれども第八十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「これは悪魔《シヤイターン》そのものでも、そのあらゆる智謀にかかわらず、私が敵をはめこむ秘策を見破ることは、ようできますまい。ところで、そのわれらの敵を全滅させるためにとるべき案とは、次のようなものです。
まず五万の戦士を船に乗せて出帆し、わが敵が麓に陣している、あの『煙山《けむりやま》』におやりになるのです。そして他方、陸路から、全軍を派してあの異教徒どもを奇襲するのです。かくいたせば、彼らは四方からはさみ撃ちになって、その一人も、よもや全滅からまぬがれることはできますまい。私の案とはかようなものでございます。」
するとアフリドニオス王は、老婆に言いました、「まことに妙計である、おおあらゆる老女の女王にして、もっとも賢き人々に霊感を授くる者よ。」そしてその案をよしとして、ただちに実行に移しました。
そこで、戦士を載せた船がいく艘も出帆して、煙山《けむりやま》に到着し、兵を上陸させると、彼らはこっそりと、高い岩蔭に密集しました。一方陸路からの軍隊も、遅れずに敵の前面に到着したのでございます。
ところで、このときの両軍の戦闘兵力は、次のようなものでした。バグダードとホラーサーンの回教徒軍は、シャールカーンに率いられる騎兵十二万を含みました。しかるに不信のキリスト教徒軍は、百六十万の戦闘員に達していたのです。そこで、山々と野に夜がおりると、地面は地を照らす一面の火で、燃えさかる烈火のように見えました。
ところで、ちょうどこのとき、アフリドニオス王とハルドビオス王は、貴族《アミール》と軍の首長らを集めて、大評定を開きました。そして彼らは、翌日ただちに、一時に四方から、回教徒に戦いを挑むことに決しました。ところが、老婆「災厄《わざわい》の母」は、それまで眉をひそめてじっと聞いていましたが、そのとき立ち上がって、アフリドニオス王とハルドビオス王をはじめ、なみいる人々に言いました。
「おお戦士たちよ、身体の戦いは、霊魂が聖化されていない場合には、不幸な結果しか持ち得ないでありましょうぞ。おおキリスト教徒たちよ、戦闘に先だって、まず皆さまはキリストに近づき、総大司教《パトリアルク》の糞《ふん》の霊香をもって、身を潔めなければなりませぬ。」すると二人の王と戦士たちは答えました、「いかにもよいお言葉だ、おお尊ぶべき母よ。」
ところで、この総大司教《パトリアルク》の糞の霊香とは、何で出来ているかと申しますと、こうです。
コンスタンティニアのキリスト教徒の総大司教《パトリアルク》が糞をいたしますと、司祭どもは、それをたいせつに絹切れに取って、天日に干します。それから、それに麝香や竜涎香や安息香をまぜて、練り物を作ります。そしてすっかり乾くと、その練り物を粉にして、黄金の小箱に収め、それをば全部のキリスト教徒の王と、全部のキリスト教の教会に送るのでした。そしてこの総大司教《パトリアルク》の糞の粉が、あらゆる晴れの儀式の場合に、キリスト教徒を聖化するための霊香として用いられ、わけても、新婚の夫婦を祝福したり、新しく生まれた子供に焚きしめたり、新任の司祭を祝福したりするのに用いました。ところが、総大司教《パトリアルク》の糞だけでは、やっと十カ国分にも足りず、キリスト教国全部でこれほど多く使うのに、とても間に合わないので、司祭たちはこれをごまかして、その粉に他のもっと神聖でない糞、たとえば助祭なぞの連中の糞を混ぜていたのです。もっとも、その真偽を鑑定することはひどくむつかしいことでしたが。そこでこの粉は、その功徳のために、このギリシアの豚どもにはたいへん珍重されておりました。彼らはこれを燻《く》ゆらして用いるほかに、眼の病いのためにはそのままで目薬としたり、また胃腸の病いのためには健胃剤としたりして、使っておりました。けれどもそれはもう、王と女王のなかでもいちばんえらい人たちの間で、とくに用いられる療治でした。そのため、その値段はひじょうに高いものとなって、目方一ドラクム(25)が黄金千ディナールで売られるというほどでした。総大司教《パトリアルク》の糞の香《こう》というのは、こうしたものでございます……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十夜になると[#「けれども第九十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
総大司教《パトリアルク》の糞《ふん》の香《こう》というのは、こうしたものでございます。ところでアフリドニオス王とキリスト教徒どもにつきましては、次のようでございます。
朝になると、アフリドニオス王は災厄《わざわい》の母の忠告に従いまして、軍の主だった首長と副官全部を集合させて、一同に木の大十字架に接吻させ、今申したような、しかも全然混ぜ物のない、正真正銘の総大司教《パトリアルク》の糞で作った霊香を焚いて、一同に焚きしめました。ですから、その匂いたるや恐ろしく強いもので、回教徒軍の象をも殺すほどでしたが、しかしギリシアの豚どもはそれに慣れていたのでした。彼らの上に呪いあれ。
すると老婆|災厄《わざわい》の母は立ち上がって、言いました、「おお王さま、あの異教徒どもと戦いを交じえるまえに、味方の勝利を確保するためには、敵の全軍を指揮している、あの悪魔《シヤイターン》の化身、シャールカーン王子を片づけてしまうことがさきです。というのは、敵の士卒全部を鼓舞し、勇気を与えているのは、あの王子だからです。とにかくあの王子さえ倒してしまえば、あの軍隊はわれらの餌食。さればわが戦士のなかで、いちばん武勇すぐれた戦士をやって、王子に一騎打ちを挑んで、倒してしまうといたしましょう。」
アフリドニオス王はこの言葉を聞くと、すぐにカムルトスの息子で、有名な豪傑、ルカスを呼び出し、手ずから、糞の香でもってこれを燻ゆらしました。それから、その糞をすこしつまんで、唾《つばき》でしめし、それを彼の歯茎《はぐき》と鼻の孔と両頬に塗ってやり、少量を鼻に入れ、残りを眉毛と鬚になすりつけてやりました。こやつの上に呪いあれ。
ところで、この呪われたルカスというやつは、ルーム人の全土を通じて、いちばん恐ろしい戦士でした。キリスト教徒のなかでは、一人として、彼のように槍を投げたり、剣で斬ったり、槍で突き刺したりできるものはいません。けれどもその様子ときたら、ちょうどその武勇が秀《ひい》でているのと同じくらい、なんともいやらしいものでした。顔はこのうえなく醜かった。というのは、その顔は、まずたちの悪いろばの顔でしたが、目をこらして見ますと、猿に似ていますし、さらに念を入れてよくよく見れば、恐ろしい蝦蟇《がま》とか、いちばん害のある毒蛇のなかの一匹とかいったふうでした。彼に近づいて来られるのは、友と別れるよりも耐えがたいことでした。この男は、夜からその闇を盗み、便所からその息の臭気を盗んだのでございました。そしてこうしたすべての理由から、彼は「キリストの剣《つるぎ》」と渾名されていたのです。
さて、この呪われたルカスは、アフリドニオス王の手で、糞香を焚きしめられ、塗られますと、王の両足に接吻して、王の前に直立しました。すると王はこれに言いました、「汝はこれより、あのシャールカーンと呼ばるる悪党を、一騎打ちで打ち取って、われわれよりやつの災厄《わざわい》を取り除いてもらいたい。」ルカスは答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして王はこれに十字架に接吻させてから、ルカスは立ち去って、やがて、豪華な赤い鞍下毛皮をかぶせ、宝石をちりばめた錦襴《きんらん》の鞍を置く、栗色の逸物に跨りました。手には三叉《みつまた》の長い投槍を携え、こうして悪魔《シヤイターン》そのものと見まごうばかりでございました。それから、数名の軍使と一人の触れ人《びと》を先に立てて、彼は「信徒」の陣のほうへと向かいました。
さて触れ人は、呪われたルカスの前に立って、声を張りあげて、アラビア語で呼ばわりはじめました、「おお汝ら回教徒よ、トルコ、クルディスタン、デイラムの諸軍のうち、いくたの軍を蹴散らしたる、剛勇の選士これにあり。カムルトスの子、その名も高きルカスなり。汝らの列より、汝らの選士、シャム国はダマスの主、シャールカーンにこそ見参せん。いざ、勇気あらば、来たってわが巨人に立ち向かえ。」
ところが、この言葉を言いも終わらず、にわかに地響きがして空気がざわめき、大地を顫わして馬蹄の音が聞こえ、呪われた異教の武士の心中にまで恐怖を投げ込み、万人の頭をそちらのほうに向かせたのでありました。見るとそこに、オマル・アル・ネマーン王の王子、シャールカーンその人が現われました。怒れる獅子のごとく、かもしかのなかでももっとも身軽なかもしかに似た駿馬に跨って、これら無信の輩《やから》めがけて、まっしぐらに進んで来たのです。王子は手にたけだけしく槍をひっつかんで、次の詩句を誦していました。
[#ここから2字下げ]
われに、大気を行く雲のごと軽らかの、栗毛の駒あり。そはわが心に叶う。
われに、利《と》き刃の、インド鍛えの槍あり。われこれを揮えば、すなわち、その電光は波浪のごとく波打つ。
[#ここで字下げ終わり]
けれども愚鈍なルカスは、へんぴな国の無学な野蛮人でしたから、アラビア語の一語も解さず、この節奏《しらべ》の美しさもととのいも、味わうことができませんでした。そこで、十字架をいれずみした自分の額に手をやり、ついで、この奇妙なしるしに敬意を示して、その手を唇に持ってゆくだけで満足しました。
そしてやにわに、豚よりも見苦しく、彼はシャールカーンめがけて、馬を駆りました。次にいきなり駒を止めて、手にした武器を空高く、人々の眼から消えてしまうほど高く、投げ上げました。しかしまもなく、それは落ちて来ました。すると、それがまだ地に触れぬうちに、この呪われた男は魔法使いのように、はっしと宙に受けとめました。そしてそのまま渾身の力をこめて、その三叉の投槍をば、シャールカーンめがけて投げつけました。槍は電光のようにすみやかに飛んでゆく。シャールカーンの運もつきたか。
けれどもシャールカーンは、槍がうなりを生じて飛んできて、あわや彼を刺そうとしたそのせつな、猿臂をのばして、これをはっしと宙に受けとめました。さても、あっぱれシャールカーン。そして彼はその投槍をば、しっかと手につかんで、これを人々の眼に見えなくなるほど、空高く投げ上げました。そしてまたたく間に、ふたたびこれを左手で受けとめて、そして叫んだ、「天に七つの段階を創りたまいしお方にかけて、われこそは、こののろわれたる者に、永遠の戒めを垂れてつかわそう。」そしてその投槍を投げつけました。
すると愚鈍な巨人ルカスは、シャールカーンの見せたはなれ技を、自分もしてみせようと思って、飛び来る武器をとめようと手をのばしました。ところがシャールカーンは、キリスト教徒の身にすきができたこの瞬間に乗じて、さらに第二の投槍をこれに投げつけると、それはちょうど額の十字架をいれずみした、あたかもその場所に命中しました。そこでこのキリスト教徒の無信の魂は、その尻から脱け出して、地獄の業火のなかに落ち込んでゆきました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十一夜になると[#「けれども第九十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてこのキリスト教徒の無信の魂は、その尻から脱け出して、地獄の業火のなかに落ち込んでゆきました。
キリスト教徒軍の兵は、ルカスの戦友の口から、自分たちの戦士の死を聞くと、すっかり歎き、悲しんでわれとわが顔を打ち、それから一同死と復讐の叫びをあげながら、おのおの自分の武器に飛びつきました。
すると触《ふ》れ係の者どもは、一同を呼び出しました。一同は戦闘隊形を組んで、二人の王の下す合図とともに、一団となって、回教徒軍めがけて突進しました。こうして乱戦が始まりました。そして、血は畑の収穫《とりいれ》をひたしました。叫喚は叫喚につづきました。身体は馬蹄の下に踏みつぶされました。人々は酒ではなくて血に酔って、酔いどれのようによろめき歩きました。死人は死人の上に、手負いは手負いの上に、積み重なりました。こうして、戦闘は日の暮れ方までつづき、遂に夜になって、戦う人々は引き分けられました。
するとダウールマカーンは、まず兄上シャールカーンに、幾世紀にもわたってその名を赫々たらしめるべき、その武勲に対してお祝いを申し上げてから、大臣《ワジール》ダンダーンと侍従長に申されました、「おお総理|大臣《ワジール》とおんみ尊ぶべき侍従よ、おんみらはこれより、二万の戦士を引き具して、海のほうに向かって七パラサンジュ(26)の地点に行かれよ。そこから、煙山《けむりやま》の谷に乗り込んだうえ、余が緑旗を掲げるのを合図に、俄然決戦態勢を備えてもらいたい。ところでここにいるわれわれは、いつわって敗走するふりをする。すると邪教徒らはわれわれのあとを追うだろう。その機をとらえて、おんみらが敵のあとを追い、そしてそこで、われわれは踵《くびす》をめぐらして敵を攻める。かくすれば、敵は四方を取り囲まれることになり、われらが『アッラーフ・アクバル(27)』と呼ばわるとき、かの邪教徒のただの一人も、われらの剣をのがれざるは必定じゃ。」
そこで大臣《ワジール》ダンダーンと侍従長は、承わり畏まってこれにお答えし、ただちに命じられた案を実行しました。二人は夜のあいだに行軍しはじめて、煙山《けむりやま》の谷に陣地を敷きに行きました。これはちょうど、海から来たキリスト教戦士が、最初伏兵となっていた地点でした。
さて、朝とともに、戦士は全部武装に身を固めて、直立しています。天幕《テント》の上には旗がたなびき、いたるところに、十字架が輝いていました。両軍の戦士はまずそれぞれ礼拝をいたしました。信徒たちはコーランの第一章、「牝牛の章」の読誦を謹聴しました。そして異教徒たちは、マルヤム(28)の子|救世主《メシア》を祈り、総大司教《パトリアルク》の糞《ふん》で身を潔めましたが、こんなに大勢の兵士が、香を焚きしめたことから見ると、にせ物の糞だったにちがいありません。とにかく、こんな香を焚きしめたとて、彼らを剣から救いはいたしますまい。
はたして、合図とともに、戦いはいっそうものすごく再開されました。首は鞠《まり》のように飛びました。四肢は地を埋め、血は滝と流れて、馬は鞅《むながい》まで血に染むほどでした。
しかるに突然、まるでひじょうな畏怖に襲われたとでもいうふうに、今まで勇猛に戦っていた回教徒たちは、急に後ろを見せて、最後の一兵まで、残らず逃げ出してしまいました。
こんなふうに逃げ出した回教徒軍のさまを眺めると、コンスタンティニアのアフリドニオス王は、それまで戦闘に参加せずにいたハルドビオス軍の王のもとに、急使を差し向けて、こう伝えました、「今や回教徒は敗走しつつある。というのは、われらは総大司教《パトリアルク》の糞の霊香を焚きしめ、口髭顎鬚に塗りこめたゆえに、不死身となったからです。今は貴殿らに、これら回教徒どもを追撃し、最後の一人までみな殺しにして、勝利をまっとうしていただこう。かくしてわれわれは、わが選士ルカスの横死の讐《かたき》をとってやるといたそう……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十二夜になると[#「けれども第九十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「かくしてわれわれは、わが選士ルカスの横死の讐《かたき》をとってやるといたそう。」
するとハルドビオス王は、かねて娘のうるわしいアブリザ姫を殺した者に讐をとる機会を、ひたすら待っていたところですから、全軍の兵士に叫びました、「おお戦士らよ、婦女子のごとく逃げゆく、あの回教徒どもに襲いかかれ。」ところで王は、これが、勇者のなかの勇者シャールカーン王子と、弟ダウールマカーンの戦術とは、つゆ知らなかったのでございます。
はたして、ハルドビオスのキリスト教徒軍が追撃してきて、いよいよ回教徒のところまで追いついた瞬間、回教徒軍は逃げるふりをしていたのをぴたりとやめて、ダウールマカーンの命令一下、「アッラーフ・アクバル」と呼ばわりつつ、追撃してくる者どもめがけて襲いかかりました。ダウールマカーンは、一同の戦意を励ますため、次の演説を打ちました。「おお回教徒たちよ、今や宗教《みのり》の日は到った。汝らが遂に天国をかち得る日は到った。なんとなれば、天国はただ剣《つるぎ》の蔭においてのみかち得らるるのだ。」そこで一同は獅子のようにおどりかかった。この日は、キリスト教徒にとっては、けっして老後の日ではありませんでした。というのは、彼らは自分の髪の白くなるのを見るいとまもなく、刈り取られてしまったからです。
けれどもこの急戦において、シャールカーンの立てた手柄は、どんな言葉も及ばぬものでした。そして王子が、通ってゆく道に現われるすべてのものを粉砕している間に、一方ダウールマカーンは、かねて谷の兵としめし合わせてある、合図の緑旗を掲げさせました。そして自分もまた混戦の中に飛びこもうとしました。けれどもシャールカーンは、今にもおどりかかろうとしている弟王の姿をふと見かけると、急ぎ近づいて、これに言いました、「おお弟よ、おんみは格闘の危険に身をさらしてはならぬ、おんみは天下の政治に必要な身だから。されば、今よりは、余はもうおんみのそばを離れず、余みずからいっさいの攻撃から、おんみを守りつつ、ただおんみの身辺でのみ、戦って進ぜよう。」
ところでこの間に、大臣《ワジール》ダンダーンと侍従長の率いる回教徒戦士は、示し合わせた合図を見て、半円形に散開し、こうしてキリスト教徒軍が、海上の味方の船の方向に脱出するあらゆる望みを、たち切ってしまいました。ですから、こうした条件で開始された戦いは、もう勝利疑うべからざるものです。そしてキリスト教徒は、クルド人もなければ、ペルシア人、トルコ人、アラビア人もなく、すべて回教徒の兵にものすごくみな殺しにされてしまいました。のがれることのできたのは、ごく少数でした。というのは、戦死したのは彼ら豚どものうち二十万匹に達し、他の者は、やっとコンスタンティニアの方角にのがれることができたのですから。ハルドビオス王のギリシア人のほうはこうした有様でした。けれども一方、はじめから回教徒の殲滅を確信して、わが王と共に丘の上に撤去していた、アフリドニオスの軍にとっては、同胞の敗走を見るのは、どんなに辛いことだったでしょう。
ところで、この日は、勝利のほかに、信徒側はおびただしい分捕品を得ました。まず、二十艘を除いた全部の船です。その二十艘というのはまだ兵を載せていたぶんで、これはコンスタンティニアにふたたびたどり着いて、敗北を知らせることができたのでした。それから、それらの船に積んであった全部の財宝と貴重な品々、次には、馬具をつけた馬五万頭、またかずかずの天幕《テント》と、そこにはいっていた武器と食糧全部、最後に、どんな数字も挙げきれないほどの無量の品々。そこで一同の悦びははなはだしく、みんなで勝利と獲物をアッラーに感謝した次第でした。回教徒のほうはこのようでございました。
さて逃げ帰った者はというと、彼らは魂は敗北の烏《からす》に付きまとわれて、ようやくコンスタンティニアにたどり着きました。すると全市は悲しみに沈み、大きな建物と教会には、みな喪の幕が張りめぐらされ、全市民はそこここに叛乱の群れをなして集まり、一揆の気勢を挙げました。なにしろ帰ってきたのは、全艦隊のうちたった二十艘、全軍隊のうち二万人だけだったのを見ては、誰しも苦しみはいやまさざるを得ません。そこで市民は王たちを裏切り者だと責めました。アフリドニオス王の心痛はひとかたならず、恐怖もまた同様で、鼻は足までものび、胃袋は裏返しになり……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつものとおりつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十三夜になると[#「けれども第九十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
王の鼻は足までものび、胃袋は裏返しになり、腸はゆるみ、体内のものが洩れてしまいました。そこで、老婆|災厄《わざわい》の母を呼んで、今となってはどうしたらよいか、意見を徴することにしました。そして老婆はすぐにやってきました。
ところで、この老婆|災厄《わざわい》の母こそは、これらすべての不祥事の真因だったわけですが、これはまったく、おそろしく見っともない婆《ばばあ》でした。すれっからしで、不実で、呪いでいっぱいになった女です。口は爛《ただ》れ、眼瞼《まぶた》は赤くなっていて睫毛《まつげ》なく、頬は艶なく埃だらけ、顔は夜のように黒く、眼は目やにだらけ、からだは疹癬《ひぜん》かきで、髪の毛にはいろいろな種族の害虫が住みつき、背中は曲り、肌は皺だらけです。これはまったく極悪人のなかの極悪人であり、猛毒の蝮《まむし》のなかの蝮でした。そしてこの怖ろしい老婆は、大部分の時を、カイサリアのハルドビオス王のところで過ごしていました。王の宮殿には、ひじょうに大勢の若い奴隷が男も女もいたので、ここが気に入っていたのです。というのは、この老婆は若い男の奴隷たちには、無理矢理自分に乗らせ、若い女の奴隷には、こんどは自分が乗るのが好きだったのでした。こうした処女たちをくすぐることと、自分のからだをその若いからだにこすりつけることが、無二の好物なのでした。そしてこのくすぐりの術にかけては、おそろしく名人で、まるで食人鬼《グーラー》のように、処女たちのいみじき場所をしゃぶったり、乳房をいい気持にいじくってやったりすることが上手でした。そして最後の痙攣に行かせてやるために、サフランを調製したもので、その陰門を浸してやるのでした。そうされると女たちはいい気持で死にそうになって、老婆の腕の中に飛びこんでくるのです。そこで老婆は、宮殿じゅうの全部の女奴隷にこの法を教えてやったものでして、昔はアブリザの侍女たちにも教えましたが、しかしあのすらりとした侍女の「珊瑚」を手に入れることだけは、遂に成功できず、またどんな秘術をつくしても、アブリザ姫に対しては失敗しました。というのはアブリザ姫は、老婆の息の臭さと、腋の下と鼠蹊部《ももね》から出るむっとした小便臭さと、腐った韮《にら》よりもにおうお屁《なら》を、いくつも饐《す》え臭く連発することと、針鼠の皮膚よりも毛むくじゃらで、棕櫚の木の筋《すじ》よりもこわい、ざらざらした肌とのために、この老婆が大嫌いだったのです。というのも、まさしく、次の詩人の言葉を、この老婆によくあてはめることができたからでした。
[#2字下げ] かの女がばらの香水をもって肌をしめすとて、そのすかしっ屁の猛毒を、断じてよく消すことあらざるべし。
けれども言っておかなければなりませんが、災厄《わざわい》の母は、自分にさからう女奴隷には、深く恨みを含んだとともに、自分のなすがままにさせる女奴隷には、いずれもたいへんよくしてやったのでした。そしてアブリザ姫があんなにこの老婆に嫌われたというのも、姫がはねつけたせいなのでございます。
そこで老婆|災厄《わざわい》の母が、アフリドニオス王のところにはいって来ると、王は敬意を表して立ち上がりました。そしてハルドビオス王も同様にしました。すると老婆は言いました。
「おお王さま、あの総大司教《パトリアルク》の糞香《ふんこう》と祝福すべては、われらの頭上に、不幸を招きよせるよりほかのことはしなかったのだから、今となってはわれわれは、あんなものはもう全部やめにしなければなりません。そしてむしろ真の知恵の光をたよりに、行動をすることを考えましょう。こういたすのです。今、回教徒は来たってわが都を包囲するために、強行軍で進軍しているのですから、私たちは全国に触《ふ》れ役人を派して、全国の人民に、コンスタンティニアにおもむき、われわれと力を合わせて、攻め来る敵を退けてくれと、促さなければなりません。そして各地の守備隊の兵士全部に、急ぎ駈けつけて、わが城壁内に立てこもらせるように。なぜなら危険は切迫していますから。
さてこの私については、おお王さまよ、まあどうか私にまかせておいて下され。さすればやがて評判が立って、私の腕前の首尾と、私が回教徒に加えた害の噂をば、お耳に達しさせることでしょう。というのは、ただ今このときから、私はただちにコンスタンティニアを去ります。なにとぞマルヤムの子キリストが、おんみをつつがなくお守り下さるように。」
そこでアフリドニオス王は、さっそく災厄《わざわい》の母の忠告に従いましたが、老婆はその言葉どおり、コンスタンティニアを出てゆきました。
ところで、この手練手管の老婆の工夫した計略というのは、次のようなものでした。
まず老婆は、アラビア語によく通じた選り抜きの武士、五十人を引き連れた上で、町から出ると、第一にしたことは、一同をダマスの回教徒商人に変装させることでした。というのは、老婆はそれといっしょに、百頭のらばに、あらゆる種類の布や、アンティオキアとダマスの絹織物や、金属的な光沢《つや》の繻子と貴い錦襴、その他の品々、たとえば、ペルシア陶器の瓶とか、シナ磁器の杯とか、ダマスの装飾玻璃のランプなぞといった、りっぱなものをたくさん積んで、出発したのでした。またあらかじめ忘れずに、アフリドニオス王から、だいたい次のようなことを認《したた》めた書状を、通行証としてもらっておいたのでした。
[#2字下げ]「これこれしかじかの商人は、ダマスの回教徒の商人らにして、わが国およびわれらのキリスト教宗教とは無縁の者なり。されど彼らは、わが国にて商業を営みし者にて、商業は由来一国の繁栄と富とをなすものにして、かつこれらはまったく軍人にはあらずして、平和の民なるをもって、吾人はこれにこの通行証を与え、何ぴとも彼らの身柄あるいは利益を害することなからしめ、何ぴとも彼らの商品に対し、なんらかの一割税乃至入市税出市税を、要求することなからしめんとする者なり。」
それから、その五十人の武士が、回教徒商人の身なりをととのえると、この不実な老婆は、白い羊毛の大きな衣《ころも》を着て、回教徒の苦行者に変装しました。次に自分で調合した塗り薬を、額に塗りつけますと、たぐいのない高徳の光と輝きを放ちました。最後に、老婆は自分の両足をば、紐が血のにじむほど食い入り、消せない痕を残すほど、固く縛らせました。そのときになってはじめて、老婆は連れの一同に言いました。
「こんどは私を鞭で打って、肌を血だらけにし、どうにも消えない傷痕が、いくつもからだに残るようにしなければいけない。そのためには、少しも憚《はば》かることはない、非常の際には非常の際の掟があるのだから。それから、私をばあの商品の箱と同じような箱の中に入れて、その箱を、あのらばのなかの一匹に載せなさい。そうしてからみんなで出発して、シャールカーンを頭《かしら》にいただく回教徒の野営地に着くまで歩くのです。途中道をさえぎろうとする者があったら、これはダマスの商人たちであると書いてある、あのアフリドニオス王の書付を見せます。そしてシャールカーン王子に面会を求めなさい。いよいよ王子の前に連れて行かれて、おまえたちの景気と、邪教のルーム人の国で挙げた利益について訊ねられたら、次のように言いなさい。
『おお幸多き王さま、あの異教のキリスト教徒の国におきましての、われわれの商いの旅を通じて、いちばん正味の、いちばん値いのある利益と申しますれば、われわれが一人の聖なる苦行者を、迫害者の手中から救い出すことができ、これをお助けしたことでございました。そのお方は、わが預言者ムハンマド(その上に平安と祈りあれ)の聖なる宗教を棄てよとて、十五年来、穴倉に押し込められて苦しめられていたのでした。』」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十四夜になると[#「けれども第九十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして供の者にこうしたことを教えておいて、苦行者に変装した老婆|災厄《わざわい》の母は、さらに付け加えました、「そうなればあとはこの私が、あの回教徒ども全部の退治を、引き受けてみせるさ。」
老婆が話し終わると、供の者一同は承わり畏まってこれに答え、すぐに老婆を血のにじむまで打ちはじめ、それから空箱の中に入れて、一頭のらばの背に乗せ、そしてこの食わせものの老婆の計画を実行するため、道についたのでありました。
ところで、キリスト教徒敗走ののち、勝利の信徒の軍はと申しますと、こちらは分捕品を分け合って、アッラーにその御恵みをたたえました。それからダウールマカーンとシャールカーンとは、互いに手をさしのべて祝し合い、固く相抱きましたが、シャールカーンは悦びのあまり、ダウールマカーンに申しました、「おお弟よ、おんみの身ごもった妻に、アッラーが男の子を授けて下さって、それをばわが娘『運命の力』と添わせることができればよいが。」そしてお二人は、大臣《ワジール》ダンダーンが次のように言うまで、ともどもに悦ぶことをやめないのでした。「おお王さまがたよ、われらは時を移さず、ただちに敗者を追撃いたし、彼らに立ちなおるいとまを与えずに、これをコンスタンティニアに攻囲し、彼らを地球の表面からことごとく絶滅してしまうことこそ、賢明でもあり、またまさに明らかになすべきところでもありまする。なぜならば、詩人の言うごとく、
[#ここから2字下げ]
歓喜のうち醇乎たる歓喜は、おのが手をもて敵を屠《ほふ》り、悍馬の背に運ばるる心地にこそあれ。
醇乎たる歓喜は、愛《いと》しき女《ひと》の来着を告ぐる、愛《いと》しき女《ひと》の使者の来着ぞ。
されど、歓喜のうちの醇乎として醇なる歓喜は、使者の来着にも先立つ、愛《いと》しき女《ひと》の来着にはあらざるか。
かつは、おのが手もて敵を屠り、悍馬の背に運ばるる心地の、おお歓喜よ。」
[#ここで字下げ終わり]
大臣《ワジール》ダンダーンがこの詩句を誦したとき、二人の王はその意見をよしとして、コンスタンティニアへの出発の合図を下しました。そして全軍は二人の総大将を先頭に立てて、進軍しはじめました。
こうして一行は、休みなく前進して、ただアッラーの在《いま》しますのみの荒野にちらばる、黄色い草のほかには、何ひとつ草木も生えていないような、焼け焦げた大荒野を、いくつも横断しました。そしてこれら水のない砂漠の中を、へとへとになって行軍して、六日たつと、とうとう創造主の祝福したもう国に、到り着きました。彼らの前には、潺湲《せんかん》と鳴る水がめぐり、いろいろの果樹の花咲く、さわやかさ満ちた牧場が広がっていました。そしてかもしか跳ねまわり、鳥歌うこの境は、枝々を飾る露に酔った大きな木々と、さまよう微風に微笑みかける花々とを持って、さながら楽園のように見えました。詩人の言うごとく、
[#ここから2字下げ]
視《み》よ、子よ。庭の青苔は、まどろむ花々の愛撫のもとに、暢々《のうのう》と横たわる。そは美《うる》わしき反射を放つ、碧玉色の大毛氈なり。
眼を閉じよ、子よ。葦の根元に水の歌うを聴け。ああ、汝の眼を閉じよ。
庭よ、花壇よ、細流《せせらぎ》よ。われは汝らを珍重す。おお、太陽《ひ》のもとの細流《せせらぎ》よ、汝はかしぐ柳樹の蔭を生毛《うぶげ》とする、頬のごとく輝く。
汝を花々の茎に繋ぐ細流《せせらぎ》の水、おお、踝《くるぶし》白き銀《しろがね》の鈴よ。また汝ら、花々よ、わが恋人の頭上を飾れよ……。
[#ここで字下げ終わり]
一同がこうした歓びで耳目《じもく》を堪能させたとき、二人のご兄弟は、しばらくこの場所で休息することを思ったのでした。はたしてダウールマカーンは、シャールカーンに申しました、「おお兄上、兄上とてもダマスで、これほど美しい庭をごらんになったことがないと存じます。されば、しばらくここにとどまって、両三日休息し、士卒に少しくこのよい空気を吸い、このかくも甘い水を飲むいとまを与えて、彼らがよりよく異教徒と戦うことができるように、いたそうではありませんか。」するとシャールカーンもそれは至極名案だと思いました。
ところで、お二人がここにとどまってもう二日になり、いよいよ天幕《テント》をたたませようとしていると、遠くのほうで、がやがやと人声が聞こえました。訊《ただ》してみると、ダマスの商人の隊商《キヤラヴアン》の一行で、邪教徒の国で売り買いを終えて、自分の国に帰るところを、兵士たちが道をさえぎって、邪教徒と商売をしたことを、罰しようとしているのだとのことでした。
しかるにちょうどそのとき、その商人たちは兵隊に囲まれて、不服を唱えてののしり騒ぎながら、そこにやって来ました。そして彼らは、ダウールマカーンの足もとに身を投げて、言いました、「私どもは邪教徒国にまいりましたが、彼らは私どもを尊敬して、身体にも財産にも危害を加えませんでした。ところが今は、われわれの兄弟である信徒が、かえって回教徒の国で、私どもを掠奪し、虐待するのでございます。」それから彼らは、コンスタンティニア王の通行証の書状を取り出して、それをダウールマカーンに差し出しましたので、王はシャールカーンともども、それを読みなさいました。そしてシャールカーンは、彼らに申しました、「汝らから取り上げたものは、即刻汝らに返されるであろう。だがまたなにゆえに、汝らは回教徒の身で、かくは異教徒と取り引きをしに行ったのか。」すると商人たちは答えました、「おおわがご主人さま、アッラーは、軍隊のあらゆる勝利にもまさり、わが君ご自身の収めなされたあらゆる勝利にもまさって重大な、勝利の原因となるべく、私どもを、あのキリスト教徒らのところに導きたもうたのでございまする。」シャールカーンは言いました、「してその勝利とはいったい何か、おお商人どもよ。」彼らは答えました、「それについては、ぶしつけ者に聞かれぬ、人気《ひとけ》のない場所でなければ、申し上げるわけにまいりませぬ。というのは、万一そのことが世上に広まりでもしようものなら、今後はいかなる回教徒も、平和時でさえも、キリスト教徒の国に足を踏み入れることは、けっしてできなくなるでございましょうから。」
この言葉に、ダウールマカーンとシャールカーンは、商人たちを引き連れて、ぶしつけな耳にけっして聞かれぬような、奥まった天幕《テント》の中に連れてゆきました。すると商人たちは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十五夜になると[#「けれども第九十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、そこで商人たちは、かねて老婆|災厄《わざわい》の母が、作って教えておいたでたらめ話を、二人のご兄弟にお話ししたのでございました。すると二人のご兄弟は、聖なる苦行者の苦難の話と、僧院の穴倉からの救出のことを聞くと、いたくお心を動かされて、商人たちに訊ねなさいました、「だがその方《かた》は今どこにおられるか、その聖なる苦行者は。救い出して、そのまま僧院に残してきたのか。」彼らは答えました、「私どもは僧院の院長を殺したうえで、急ぎその聖者を箱の中に納め、それをわれらのらばの一頭に乗せて、一刻も早くのがれたのでございます。これよりすぐに、その方をば御手の間にお連れ申しましょう。けれども、私どもはその僧院をのがれるに先だって、そこには、金や銀やあらゆる種類の宝玉宝石が、何十貫となくしまってあるのを確かに認めましたが、それについては、聖なる苦行者が、後刻さらに詳しくお話し申すことでございましょう。」そして商人たちは、急いでらばの荷をおろしにゆき、箱を開いて、その聖なる苦行者を、二人のご兄弟の前に連れてまいりました。その苦行者は、旃那《せんな》の、旃那《せんな》の莢《さや》ほどもまっ黒な姿で現われましたが、それほど痩せ細ってしなびていたのです。そして皮膚の上には、鞭打たれた傷痕《きずあと》と、肉に食いいった鎖の跡がついていたのでした。
この姿を見て(これこそじつは災厄《わざわい》の母だったのですが)、二人のご兄弟は、自分の前にいるのは、苦行僧のなかでももっとも聖なる者だと、固くお信じになりました。ことに、この食わせものの老婆が、皮膚に塗り込んだ不思議な塗り薬のおかげで、この苦行者の額が、太陽のように輝いているのを見たときには、なおさらでした。そこでお二人は、そちらのほうに歩み寄って、その祝福を求め、眼に涙を浮かべ、誠心《まごころ》こめてその手足に接吻なさいました。するとその女は、お二人に立ち上がるように合図をして、これに言いました、「今は泣くことをやめ、私の言葉をよく聴きなされ。」そこで二人のご兄弟は、すぐに言われたとおりになさると、この女は言いました。
「されば、このわしは、ただ黙々とわが至高の主の御心に従うものであると、ご承知下され。なんとなれば、そのわがもとに送りたもう災難は、ただわが忍耐と謙譲を試みたまわんがためなることを、わしは知っておる。その祝福され、たたえられんことを。そして今、わしがわが身の救出を悦んでおるとしても、それはけっしてわが苦難の終わったがゆえにはあらず、わが回教徒の兄弟の間に自分が来て、イスラム教の大義のために戦う戦士らの馬蹄の下に、自分が死ぬ希望《のぞみ》のゆえにほかなりませぬ。」
そこで二人のご兄弟は、またもその両手を取って接吻し、これに食物を持って来るよう言いつけようとなさいましたが、この女はお断わりして、言いました、「わしはやがて十五年以来、断食しております。アッラーがかくもあまたの恩恵を授けたもうた今となって、にわかにこの断食と精進をたち切るほど、敬虔の念を失うわけにはまいりませぬ。しかし夜ともなれば、あるいは、ひと口いただくやも知れぬ。」そこでお二人もたってとは言いませんでしたが、しかし夜になると、ご馳走をととのえさせて、お二人でご自身、それをお勧めになりました。けれどもこの食わせものの女は、またもお断わりして、言いました、「今は物を食らうときではなく、至高者に祈るときじゃ。」そしてすぐに、壁龕《ミフラーブ》(29)のまん中で、礼拝の姿勢をとりました。こうしてひと晩中、休息もしないで、ずっと礼拝をし、次の二晩も同様でした。そこで二人のご兄弟は、この女をずっと男と思い、聖なる苦行者とばかり思って、これにひじょうな尊敬の念をおおぼえになりました。そしてとくにこの女ひとりのために、大きな天幕《テント》を与え、特別な召使と料理人たちをお付けになりました。いよいよ三日目の晩になり、この女があくまで全然食物をとらないでいますので、二人のご兄弟はご自身そのお給仕に来られ、その天幕《テント》に、およそ眼と魂が望み得る快いものすべてを、届けさせました。けれども、この女は何ひとつ手を触れようとせず、ただ一片のパンとわずかの塩を食べたきりでした。そこで二人のご兄弟の尊敬はいよいよつのるばかりで、シャールカーンはダウールマカーンに言われました、「まったくかの男は、この世のいっさいの享楽を絶対に断念してしまったのだ。余をして異教徒を討たざるを得ざらしめている、この戦いだになくば、余はわが身をあげてことごとく、かの男の敬神に奉仕し、わが身に彼の祝福を得るべく、生涯かの男のあとに従うものを。とにかくこれから彼に乞うて、いささか話をしてもらうとしよう。明日には、われらはコンスタンティニアに向けて進軍しなければならず、彼の言葉を聞くに、今にまさる機会はまたとあるまいからな。」〔(30)すると総理|大臣《ワジール》ダンダーンは言いました、「この私もまた、ぜひその聖なる苦行者にまみえて、私がこのたびの聖戦で死を見いだし、至高の主の御前にまかり出ることができるように、私のために祈念していただきたいと存じます。というのは、私はもう、この世はたくさんになりました。」〕
そこで三人はうちそろって、その食わせものの老婆、災厄《わざわい》の母の住む天幕《テント》へと向かいました。見ると、この老婆は礼拝の三昧境にひたっております。そこで礼拝を終えるまで待ちはじめましたが、三時間待っても、また三人の流す感涙にもかかわらず、老婆はそのひざまずいた姿勢をいっこうに崩さず、てんでこちらに注意を向けませんので、三人はそちらに進み寄って、床《ゆか》に接吻しました。すると老婆は立ち上がって、一同に平安と歓迎を祈って、申しました、「この時刻に、いったい何のご用でおいでになられたのか。」彼らは答えました、「おお聖なる苦行者よ、われわれがここに来てから、もう数時間になります。われらの泣き声が、お耳にはいりませんでしたか。」この女は答えました、「アッラーの御前にある者は、この俗世に起こることなぞ、聞くことも見ることもできはしませぬ。」一同は言いました、「われわれがお目にかかりに来たのは、おお聖なる苦行者よ、大いなる戦闘に先だって、おんみの祝福を乞い、そして明日には、アッラーの神助を得て、最後の一人までもみな殺しにせんとする異教徒のところに、おんみが捕えられていた次第を、親しく、承わりたいと思ってです。」すると呪われた老婆は言いました。「アッラーにかけて、もし皆さんが信徒の首長たちでなかったら、これからお話しするようなことは、断じてお話し申さぬでしょう。なぜなら、この話の結果は、アッラーの神助を得て、あなたがたにとっては、莫大な利益となるものだからな。さればお聞きなされよ。」
僧院の物語
されば、おお皆さまがた、わしは永いあいだ、敬虔にして卓越せる人士とともに、聖地に滞在しておりました。そしてわしはけっして彼らをさしおいて自分を立てるような真似をせず、ごく謙譲に、その人々と暮らしていた。なぜなら至高のアッラーは、わしに謙抑と犠牲の天賦をお授け下さったからじゃ。そしてわしはこのようにして、平静のうちに、信心の勤めを果たし、事なき生活の平穏のうちに、わが余生を送るつもりでさえいたのでしたが、これはわしは運命を抜きにして考えておったのじゃ。
ある夜、わしはこれまで見たこともない、海のほうに出かけたのであったが、そのときどうしたものか、逆らい得ぬ力に押されて、海上を歩きたくなった。そこで意を決して海に向かったところが、われながらいたく驚いたことに、水の上を歩きはじめたが、いっこうに沈まず、わが素足さえも濡れぬ。こうしてしばらくの間、徒歩で海上を歩きまわって、やがて岸辺に戻った。そのとき、わが精神《こころ》は、みずから知らずしてかかる霊力を持っているのに驚嘆してやまず、心中に慢心を生じて、思ったのじゃ、「そもそも何ぴとが、おれのように海上を歩けるものか。」この思いを心中で言葉に出したと思うと、アッラーはただちにわが心に旅情を萌《きざ》させたもうて、わが慢心を罰したもうたのじゃ。そこでわしは聖地を去った。爾来、わしは全地の面《おもて》を、あちこちと流浪しはじめたものでした。
ところが、ある日、相変わらずわれらの神聖なる宗教の勤めを厳格に果たしつつ、ルーム人の国々を過《よ》ぎって旅していると、わしは小暗い高山に着いたが、その頂上には、一人の僧侶に守られた、キリスト教の僧院があった。その僧侶は昔聖地で見知り越しの男で、マトルナといった。そこで、その男はわしを見かけるや、ただちにうやうやしくわしを迎えに走り寄って、僧院にはいってひと休みするように、勧めてくれた。しかるに、この不実な異教徒は、じつはわしの身の破滅をたくらんでおったのじゃ。というのは、わしが僧院にはいるや、ただちに長い廊下を渡ってゆかせられ、その突きあたりには、暗闇に向かって戸が開いていた。そしてその僧は、いきなり、わしをばその暗闇の底に突き落とし、戸を立てて、わしを閉じこめてしまった。そしてそこにそのまま、飲むものも食うものも与えずに、わしを放り出しておいた。わが宗教を憎んで、こうしてわしを飢え死にさせるつもりでいたのじゃ。
とかくするうちに、この僧院に、僧侶の総務が、臨時に巡回しに来た。それには、僧侶の総務たちの習慣《ならわし》に従って、ひじょうに美貌の十人の若い僧侶と、その十人の美僧に劣らず美しい一人の若い娘とから出来ている、選り抜きの扈従《おとも》がついて来た。その若い娘は僧衣をまとって、胴をぴったりと締めつけ、腰と乳房をきわだたせておった。この総務が、タマシルと呼ばれるこの美少女と、十人の美男の供の若僧と、どんな恐ろしいことを犯していたかは、ただアッラーのみぞ知るところじゃ。
そこで総務が来ると、僧侶マトルナはこれに、四十日以来わしを監禁して、饑餓責めにしていることを話した。するとデキアノスという名前の、その僧侶の総務は、では穴倉の戸をあけて、わしの骨を取り出して、風に投げ棄てろと命じたものじゃ。「その回教徒は、今ごろは、骨ばかりの骸骨になって、猛禽も近寄ろうともしないほどになっているにちがいない」と言いおった。そこでマトルナと若僧どもとは暗闇の戸をあけたところが、このわしはひざまずいて礼拝の姿勢をしていたものだ。これを見て、僧侶マトルナは叫んだ、「こいつ、呪われた魔法使いめ。やつの骨を叩き折れ。」そして彼らは寄ってたかって、棒と鞭をふるって激しくわしを打ちすえ、わしはもう死ぬと思ったほどであった。そのときわしは覚った、アッラーはわしの過ぎし日の高慢を罰したまわんがために、かかる試練を受けしめたもうのだ、と。わしは至高者の御手の間の一個の道具にすぎぬものを、自分が海上を歩けるのを見て、慢心にふくれあがったのでありました。
さて、僧侶マトルナと他の年若い犬の息子どもが、わしをこのみじめな有様におとしいれると、彼らはわしを鎖でつないで、元の暗闇の穴倉に突き戻した。もしもアッラーが若いタマシルの心を動かしたもうて、総務が僧院に滞在している間じゅうずっと、日々ひそかにわしを訪ねて、大麦のパン一片と一瓶の水をくれるようにして下さらなんだら、わしはそこで飢え死にしたに相違ない。しかるに総務は、この僧院がたいへん気に入って、永いことここに逗留し、のみならず結局、ここを自分の常住の住居として選んだのであった。そしていよいよここを立ち去らねばならぬようになると、彼は僧侶マトルナに預けて、若いタマシルをここに残して行った。
こうしてわしはその穴倉に閉じこめられて、五年おった。一方その若い娘は成長して、今は当代随一の美女たちの美しさをもしのぐ、美しさとはなった。なんとなれば、おお王さまがたよ、わしは断言し得る、わが国にも、またルーム人の国にも、これに匹敵する者は見あたりませぬ。しかもこの若い娘のみが、この僧院にある唯一の珠玉ではござらぬ。というのは、そこにはとうてい数えきれぬ金銀宝石、あらゆる種類の財宝の、無数の宝が貯えられているのじゃ。されば、あなたがたは急ぎこの僧院を攻略し、その美女と財宝を奪わなければなりませんぞ。わしはみずから案内者のご用を勤めて、勝手知ったる隠し場所と納戸《なんど》の戸を、あけて進ぜよう。わけても僧侶の総務デキアノスの大納戸は、細工を施した黄金製の、もっとも美しい器《うつわ》のかずかずを収めている。また、若いタマシルという、このまことに王者らにふさわしい尤物《ゆうぶつ》をも、お引き渡し申そう。というのは、この女は美しいばかりでなく、歌の天稟をも備え、町々とベドウィン人らの、あらゆるアラビアの歌謡を心得ている。そしてこの娘はあなたがたに、光り輝く日々と、砂糖と祝福の夜々をば、過ごさせてくれるでござろうぞ。わしの穴倉脱出については、すでにかの親切な商人たちの口から、ご承知のところ。彼らはかのキリスト教徒らの手中よりわしを救い出すために、一命を賭してくれたものじゃ。――なにとぞアッラーは、かのキリスト教徒どもとその子孫をば、審判の日まで呪いたまわんことを。
二人のご兄弟はこの話を聞くと、手に入る獲物すべてを思い、わけても、年こそ若いが、快楽の術にかけてはひじょうに達者だと老婆の言う、その若いタマシルを思って、すっかり嬉しくなりました。けれども大臣《ワジール》ダンダーンは、この話を聞いて、ひじょうな眉唾ものだとしか思わず、そして立ち上がって行ってしまわなかったのは、ただ二人の王に対する礼儀からだけでした。というのは、この怪しい苦行者の言葉は、ほとんど大臣《ワジール》の頭の中にはいって来ず、とうてい納得させるとか得心させるとかいうことはなかったのでございます。さりながら、大臣《ワジール》は自分の感じを隠して、もし自分がまちがっていてはと思い、こればかりも言おうとしませんでした。
さてダウールマカーンはというと、彼は最初自分の全軍を率いて、その僧院のほうに進軍しようと望みましたが、老婆|災厄《わざわい》の母は、こう言って、それを思い止まらせました。「どうもそれでは僧侶の総務デキアノスが、こうした武士全部を見たら、怖気《おじけ》をふるって、若い娘を連れて、僧院から逃げ出してしまうおそれがありますぞ。」そこでダウールマカーンは、侍従長と大将《アミール》リュステムと大将《アミール》バハラマーンを呼び出して、これに言いました、「明払暁、そのほうたちはコンスタンティニアに向かって進発せよ。われら自身もほどなく先方でいっしょになるであろう。おんみ、侍従長は、余に代わって軍の総指揮にあたってもらいたい。またそのほうリュステムは兄上シャールカーンに代わり、そのほうバハラマーンは大宰相ダンダーンに代わるべし。とくに意を用いて、われら三名の不在の旨を、全軍に徹底させよ。なおわれらの不在といっても、わずか三日のことにすぎぬ。」それからダウールマカーンとシャールカーンと大臣《ワジール》ダンダーンは、もっとも勇敢な戦士のなかから百名と、僧院の財宝を容れるはずの空箱を積んだ、らば百頭を選びました。そして老婆|災厄《わざわい》の母、あの食わせものをも、相変わらずアッラーの御心にかなう苦行者とばかり信じて、いっしょに伴い、その手引きに従って、一行は僧院への道を取りました。
さて侍従長と回教徒の諸部隊はというと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、自分の物語を語るのをやめた。
[#地付き]けれども第九十六夜になると[#「けれども第九十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて侍従長と回教徒の諸部隊はというと、こちらはダウールマカーン王の命令に従って、翌朝明け方に、天幕《テント》をたたんで、コンスタンティニアをさして出かけました。
一方、老婆|災厄《わざわい》の母もぐずぐずしてはおりません。みんなが天幕《テント》から出て行ったと思うとすぐに、自分のらばに載せておいた箱のひとつから、かねて飼い馴らしておいた二羽の鳩を取り出して、その鳩一羽ずつの首に、コンスタンティニアのアフリドニオス王宛ての手紙を、結《いわ》いつけました。その手紙には今までしたこと全部を報じて、次のように結んでありました。
[#ここから2字下げ]
「されば、おお王よ、わが君におかれましては、ただちにルーム人中もっとも勇敢なる者の間の、もっとも折紙付きの戦士一万を、僧院にご派遣あるべし。そして彼ら山麓に到着せしうえは、妾《わらわ》の来着まで動くことなかれかし。しからば妾はこれに、二人の王と大臣《ワジール》と回教徒戦士百名をばお引き渡し申すべく候。
さりながら、おお王よ、申すも心苦しき次第なれど、妾の計略は、僧院長僧侶マトルナの死なくしては、成就しがたきことに候。されば妾は、キリスト教徒軍全体の共通の福祉のため、これを犠牲に供すべく、なんとなれば、一僧侶の生命ごときは、キリスト教国の救いのまえには、ものの数ならず候。
さらば、われらが主、キリストの、初めと終りに、讃えられんことを。」
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの手紙を運ぶ二羽の鳩は、コンスタンティニアの「高塔」に到着しました。係りの者は、鳩の首に吊るした手紙を取って、すぐさまそれをアフリドニオス王に届けました。王はその手紙を読む間もなく、すぐに必要な一万の戦士を集め、各自に一頭の馬を与えて、そのうえ、敵から奪う戦利品を運ぶために、足の強い駱駝一頭とらば一頭ずつを、めいめいにつけてやりました。そして急遽、僧院の方角に向かわせたのでございました。
さてダウールマカーン王と、シャールカーンと、大臣《ワジール》ダンダーンと、百名の武士のほうは、ひとたび山の麓に着くと、自分たちだけで、僧院に登らなければならないことになりました。というのは、老婆|災厄《わざわい》の母は、旅でひじょうに疲れたので、山の麓に止まってしまったのでした。こう言いました、「まずあなたがたから先に、山に上がりなされ。それから、いよいよ僧院があなたがたの掌中に入ったとなったら、わしも上がって、隠してある財宝を教えて進ぜよう。」
さて一同は一人ずつ、身をひそめて、僧院まで達しました。そして囲壁の下に着くと、すばやく壁をよじ登り、皆そろっていっせいに、庭になだれいりました。すると物音を聞いて、僧院長の僧侶マトルナが駈けつけましたが、それが運のつき。というのは、シャールカーンは配下の武士に、「あの呪われた犬にかかれ」と叫ぶと、すぐに百の刃《やいば》がこの男を貫きました。そしてその無信の魂は、彼の尻から洩れ出して、地獄の劫火の中に沈みに行ってしまいました。そして僧院の掠奪は、順序正しく始められました。まず、キリスト教徒が供物を置く神聖な場所にはいりますと、そこには、老苦行者の言ったよりもはるかに多く、おびただしい量の宝玉や貴重品が、壁にかかって上から下まで、ぎっしりと詰まっていました。そこで彼らはめいめい、自分の箱と袋にいっぱい填めこんで、らばと駱駝につけました。
ところが、苦行者が述べた例のタマシルという若い娘については、影も形もありません。その娘も、それに劣らず美しいという十人の稚児も、また僧侶の総務、不届きなデキアノスも、同様です。そこでみんなは、その若い娘は散歩に出たか、それとも一室に隠れてしまったのだろうと考えて、僧院中をくまなく捜し、二日の間(31)じっと待っていましたが、しかし若いタマシルは、やはり姿を現わしません。そこでシャールカーンはしびれをきらして、とうとう言いだしました、「アッラーにかけて、おお弟よ、わが心と想いは、われらがコンスタンティニアにひとり赴かせたイスラム戦士らの身の上について、はなはだ思い悩むのだ。何の消息もないからな。」するとダウールマカーンは、申しました、「それに、タマシルとやらいう女と、その若い十人のくだんの男についても、われわれとしてはいちおう断念しなければならぬと存じます。なにせ、何ものもいっこうに現われませんから。されば、われわれはもはや空しく十分待ったし、それに僧院の大部分の財物を、わがらばと駱駝に積んだ今となっては、アッラーのすでに与えたもうただけで満足し、引き上げて味方の軍に追いつき、もって、アッラーの神助を得て、邪教徒を潰滅し、彼らの首都、コンスタンティニアを奪うことといたそうではございませんか。」
そこで一同は僧院からおり、山麓の老苦行者を迎えにゆき、味方の軍のほうに進むことにしました。けれども一行が、谷にさしかかったと思うと、到る所の高い所に、ルーム人の戦士が現われ出て、鬨《とき》の声を挙げて、四方から、どっといっせいにこちらに駈けおり、一行を包囲しようとしました。これを見て、ダウールマカーンは叫びました、「いったい何者が、この僧院にわれわれのいることを、キリスト教徒に報じ得たのであろう。」けれどもシャールカーンは、これに言葉をつづけるいとまさえ与えず、言いました、「弟よ、いたずらに揣摩臆測《しまおくそく》なぞして時を潰してはいられぬ。勇敢に剣《つるぎ》の鞘を払って、自若として、これらすべての呪われた犬めを待とう。そしてやつらのうちのただ一人も、のがれておのが囲炉裏《いろり》の火をかき立てにゆけぬまでに、斬って斬って斬りまくろうぞ。」ダウールマカーンは言いました、「せめてあらかじめこうと知ったら、味方の武士を今少し多く伴って、今少し目に物みせてくれようものを。」けれども、大臣《ワジール》ダンダーンは言いました、「いや、たとい味方が一万騎あったとて、この狭い隘路《あいろ》では、何の役にも立ちますまい。さあれ、アッラーはわれわれにあらゆる困難を克服させ、この危地を脱しさせて下さるでしょう。なんとなれば、かつて私が先王オマル・アル・ネマーンに従って、この地で戦った際、私はこの谷のあらゆる出口と、谷にある冷水のあらゆる水源をば、探り知ったのでございます。されば、あらゆる出口をこの異教徒どもに占められぬうちに、早く私のあとに従っておいで下され。」
ところが、ちょうど彼らが退避しようとした瞬間に、その前にあの聖なる苦行僧が現われ出て、叫びかけました、「いったいそんなふうにしてどこに走らるるのか、おお信徒たちよ。敵を前にして、あなたがたは後ろを見せるのか。あなたがたの命はアッラー御一人《ごいちにん》の手中にあり、あなたがたの身に何ごとが起こり得ようと、あなたがたを生かすも殺すも、その御心次第であるということを、ご存じないのかな。このわし自身、食物なくして穴倉に閉じこめられながら、アッラーがかく望みたもうたがゆえに、生きのびたということを、あなたがたはお忘れか。されば、進め、おお回教徒よ。かくてもし、かしこに死あらば、天国があなたがたを待っておるのじゃ。」
この聖なる苦行僧の言葉を聞いて、一同は魂に勇気満つるをおぼえて、勢い猛に襲いかかってくる敵を、自若として待ちました。ところで、味方は全部で百三人にすぎません。しかし一人の信徒は、千の邪教徒に当たりはしないか。はたして、キリスト教徒が槍や剣の届く距離に来たと思うと、彼らの首の飛ぶことは、信徒たちの腕にとっての遊戯となりました。ダウールマカーンも、シャールカーンも、ひとたび剣を振りまわすごとに、五つの首をはねて、空中に投げ上げました。すると邪教徒らは十人ずつ束になって、二人の兄弟におどりかかったが、一瞬ののちには、十の首がはねられて、空中に飛び上がった。一方百名の武士も、攻め来るこの犬どもをば、永く世に伝えられるほどなで斬りにし、これが日の暮れるまでつづいたが、夜は双方の戦う者を引き分けました。
そこで信徒とその三人の主将は、山腹の洞穴に引き揚げて、その夜はそこで宿りをすることにしました。そして一同は、例の聖なる苦行者の運命はどうなったことかと思い、まず自分たちを一人一人数えてみて、生き残った者は、今は四十五人にすぎないことを確かめたうえで、苦行者を探しましたが、見あたりません。そこでダウールマカーンは言いました、「さては、あの聖者は、乱戦のうちに、おのが信仰の殉教者として、討死にされたやも計りがたい。」しかし大臣《ワジール》ダンダーンは叫びました、「おお王よ、戦闘中、私はあの苦行者の姿を見かけましたぞ。どうも私には、あの男は邪教徒を激励して、戦わせているらしく見えました。あれは、さながらこのうえなく恐ろしい種類の、まっ黒い鬼神《イフリート》のように思えましたぞ。」ところが、大臣《ワジール》ダンダーンがこの感想を言っているその刹那、その苦行者は、洞穴の入口に姿を現わしました。彼は両眼ひきつった首をひとつ、髪の毛をつかんで持っていました。それこそはキリスト教徒軍の総大将《アミール》の首で、これはまことに恐ろしい武士の首でした。
これを見ると、二人のご兄弟は、すっくと立ち上がって、叫びました、「おお聖なる苦行者よ、おんみを救い、おんみをわれらの崇敬に返したもうた、アッラーに讃えあれ。」するとこの呪われた食わせものは、答えました、「愛する子らよ、わしとしては、乱戦裡に討死にしたいと望み、いくたびか闘士のまん中に飛びこんだ。しかるに、かの邪教徒すらもわしに敬意をはらって、わが胸より彼らの剣をそらしたものじゃ。そこでわしは、やつらにおぼえさせたその信頼の念を幸い、やつらの大将《アミール》に近づき、アッラーの神助を得て、一刀のもとに、その首をはねたのじゃ。そしてあなたがたを励まして、このもはや大将《アミール》なき軍隊との戦いをつづけさせようとて、わざわざこの首を持って来ました。さてわしは……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十七夜になると[#「けれども第九十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、老婆|災厄《わざわい》の母は、次のようにしゃべりつづけたのでございます。「さてわしは、これより大至急、コンスタンティニアの城壁の下なる味方の軍まで駈けつけて、援軍を求め、あなたがたを異教徒の手より脱しさせて進ぜよう。さればあなたがたの魂を鞏固になし、回教徒の兄弟たちの来るまで、軍《いくさ》の至上の主に嘉《よみ》せらるべく、あなたがたの剣を、邪教徒らの血をもて温めなさるがよい。」すると二人のご兄弟は、尊い苦行者の両手に接吻し、その献身に感謝して申しました、「けれども、おお聖なる苦行者よ、いったいどうやってこの隘路を出られますか。あらゆる出口は、キリスト教徒に占領されているし、あらゆる高地には敵の戦士が群れ、やつらはかならずや、岩石を根こぎにして絶えず雨と降らせ、おんみをうち殺すでしょうが。」けれども食わせものの老婆は、答えました、「アッラーはわしの姿をやつらの眼から隠して下さって、わしは見咎められずに通ってゆけるじゃろう。それに万が一わしを認め得たにせよ、やつらはわしの身に何の危害をも加え得まいて。というのは、わしはアッラーの御手の間にあるだろうし、アッラーは真の礼拝者たちを庇護したもうて、これをないがしろにする不敬の者どもを、滅ぼしたもうことができるからな。」するとシャールカーンは言いました、「お言葉まことに真実溢れておりまする、おお聖なる苦行者よ。なぜというに、私は戦いのさなかに、おんみが雄々しく身を挺しておられるのを拝見しましたが、しかもあの犬どもは、一匹も敢えておんみに近づかず、おんみのほうを見向きさえもいたしませんでした。今は、ただ敵の手中よりわれわれを救い出して下さるばかり。ご出発相成って、救援を求めて下さるのが、早ければ早いほど、それにしくはござりませぬ。今は夜となりました。至高のアッラーの加護の下、闇に乗じてなにとぞお発《た》ち下されたい。」
すると呪われた老婆は、ダウールマカーンをいっしょに連れて行って、これを敵に引き渡そうとしました。けれども大臣《ワジール》ダンダーンは、心中この苦行者の怪しいそぶりを疑っていたので、ダウールマカーンに、そのようなことを思いとどまらせるに必要なだけのことを、言いました。呪われた老婆もやむなく、大臣《ワジール》ダンダーンをじろりと睨《ね》めつけて、一人で出て行ったのでございました。
それに、そのキリスト教徒軍の総大将《アミール》の斬り首というのも、じつは、老婆がこの恐るべき武士を手にかけたのは自分だと言ったのは、嘘なのでした。ただ死んでいたところを、首をはねてきただけなのです。というのは、その大将《アミール》は、激戦の最中に、百人の回教徒護衛兵のうちの、選り抜きの武士の一人に、殺されたのでした。そしてその回教徒武士は、この武勲《いさおし》を自分の一命をもってあがなったのです。というのは、そのキリスト教徒の大将《アミール》が、地獄の悪魔《シヤイターン》どもにその魂を引き渡すやいなや、キリスト教の兵士どもは、自分の大将《アミール》が回教徒の槍先にかかって倒れるのを見て、これに束になって攻めかかり、剣でめちゃくちゃに突き刺して、ずたずたに斬りきざんでしまったのでした。そしてこの信徒の魂は、すぐに天国の「褒賞者」の御手の間に行ったのでございます。
さて二人のご兄弟と、大臣《ワジール》ダンダーンと、四十五人の武士のほうは、洞穴で一夜を過ごして、明け方に眼覚めますと、すぐに、定められた洗浄《みそぎ》をすましてから、礼拝の姿勢をとりました。それから元気を回復して、いざ戦おうと立ち上がりました。そしてダウールマカーンの命令一下、さながら豚の群れに飛びかかる獅子のように、襲いかかりました。その日一同は、あまたの敵を心ゆくまで屠《ほふ》り、剣は剣に、槍は槍に、ぶつかり合い、投槍は甲胄を飛び散らしました。武士たちは血に渇した狼のように、戦いに突進しました。シャールカーンとダウールマカーンは、血の潮《うしお》を流しに流して、ために谷の川は溢れ、谷そのものも、屍《かばね》の山の下に埋まってしまいました。かくて、日が暮れると……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第九十八夜になると[#「けれども第九十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
かくて、日が暮れると、戦う人々はやむなく引き分けられて、両軍それぞれ自陣に引き上げました。ところで、回教徒軍の陣は相変わらず、あの洞穴の中の隠れ場所でした。そして洞穴に帰ってから、人数を数えてみると、その日は彼らのうち三十五人が、戦場から戻らないことがわかりました。つまり、味方の武士は十人に減って、そのほかに二人の王と大臣《ワジール》が残ったわけで、明日からは今までにもまして、ただおのれの剣の切れ味と、至高者の神助ばかりを、待たざるを得ないことと相成りました。
とはいえシャールカーンは、かかる次第とわかると、胸がはなはだしく狭まるのをおぼえて、思わず長嘆息を洩らして、言いださずにいられませんでした、「さて今となっては、われわれは何としたものか。」しかしこれらの信仰篤い武士たちは、一同口をそろえて答えました、「アッラーの思し召しなくしては、何事も成就いたしませぬ。」シャールカーンは、この夜はずっと眠らずに過ごしました。
けれども朝、明け方になると、起き上がって、戦友を起こして、これに申しました、「戦友よ、さて味方は、弟ダウールマカーン王と大臣《ワジール》ダンダーンを含めて、もはや十三人しかいない。されば思うに、こちらから出撃して敵に当たるは、面白くあるまい。なんとなれば、われらが壮烈の奇蹟をなし遂げようとも、とうてい敵の無数の同勢に、長い間刃むかうことはよくしまい。そしてわれらのうちの何ぴとも、遂におのが魂を持って帰りはいたすまい、されば、われらは剣を手にして、暫時この洞穴の入口に控え、敵をして向うから、われらをここに求めに来させるようにいざなうとしよう。そして大胆に中まで入り込んで、われらを打とうとするやつばらは、一人残らずこの洞穴の中で、てもなく粉微塵にされるであろう、ここでわれらによく敵する者はいないから。かくすれば、われらは多くの敵を倒しつつ、あの尊ぶべき苦行者の約束された、援軍の到着を待つことができよう。」
すると、一同答えました、「まことに妙案でございます、さればただちに実行することにいたしましょう。」そこで武士のうち五名が、洞穴から出て、敵の陣地の方角に向かって、大声挙げて誘いかけはじめました。それから、一隊がこちらに向かって来るのを見ると、洞穴に戻り、左右二列に並んで、洞穴の入口を占めました。
ところで、事ははたして、シャールカーンの思ったとおりに運びました。というのは、何名かのキリスト教徒が洞穴の入口を越えようとすると、そのつど、つかまってまっ二つになり、そして一人も、ふたたび外に現われて、他の兵にこの危険な突撃を控えさせるように告げる者はなかったのです。さればその日、キリスト教徒を屠《ほふ》ったことは、前の二日にもまさり、それは夜の闇が来るまで、果てませんでした。アッラーはかくのごとくにして、ご自分に仕える者たちの心中に武勇を置きたもうため、不信のやからの眼をくらませたもうたのでありました。
ところが翌日になると、キリスト教徒は評定を開いて、言いました、「この回教徒どもとの戦いは、やつらを最後の一人まで打ちとらないことには、片がつくまい。さればあの洞穴を攻略せんとするよりは、まず味方の兵をもって、あの洞穴のぐるりを包囲して、おびただしい枯木をまわりに積み上げ、そしてその木に火を放って、やつら一同を焼き殺すとしよう。そのときもしやつらが、焼き殺されるのを嫌って、無条件降伏を承知したら、われらはこれを捕虜として連行し、コンスタンティニアなるわれらの王、アフリドニオスの御前に引っ立てて行こう。それがいやなら、われらはやつらをかってに、燃える炭に変わらせて、地獄の業火の焚き物としよう。なにとぞキリストは、やつらを煙り攻めにし、やつらとやつらの祖先と子孫をば呪いたまい、これをキリスト教徒の足下に踏みにじらるる、絨氈となしたまわんことを。」
そしてこう言って彼らは、洞窟のまわり一面に、薪を積み上げるのを急ぎました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、自分の物語を翌日にのばした。
[#地付き]けれども第九十九夜になると[#「けれども第九十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼らは洞窟のまわり一面に、薪をひじょうにうず高く積み上げるのを急いで、そこに火を放ったのでございました。
すると洞穴の中の回教徒たちは、熱気に身をやかれるのをおぼえ、そのうちそれがますます激しくなって、とうとう外に駆り立てられることになってしまいました。そこで一団にかたまって、いっせいに外に飛び出し、焔をついて、すみやかに血路を開いたのでありました。しかし無念や、他方では、まだ焔と煙で眼をくらまされていたので、天運は遂に彼らを、敵の手中に生きながら投じ、敵はただちにこれを殺そうといたしました。けれどもキリスト教徒の大将《アミール》はそれをおしとどめて、言いました、「キリストにかけて、やつらを死なせるのは、やつらがひとまず、コンスタンティニアのアフリドニオス王の御前に出るまで、待つとしよう。王はやつらが捕虜となったのをご覧《ろう》ぜられて、さぞかしお悦びになることであろう。彼らの首に鎖をかけて、馬のあとから、コンスタンティニアまで曳きずってまいろう。」
そこで彼らを針金で縛ったうえ、数名の武士に番をさせました。それから、この捕虜を獲たお祝いに、キリスト教徒の全軍は、飲んだり食ったりしはじめました。そして彼らはしたたか飲んで、夜のなかば頃には、みんな死人のように、仰向けに引っくり返ってしまいました。
このとき、シャールカーンは身のまわりをぐるりと見まわして、ごろごろと伸びているこれらのからだ全部を見ると、弟のダウールマカーンに言いました、「われらにとって、なおもこの死地を脱する道があるものかなあ。」けれどもダウールマカーンは答えました、「おお兄上、まこと私には心あたりがございません。なにせわれらは、今は籠の中の鳥同然ですから。」するとシャールカーンは無念やるかたなく、ひどく大きな歎息を洩らしたため、満身に力をこめたはずみに、身を縛めていた針金がきしんで、ぷつんと切れてしまいました。そこで飛び上がって立ち上がり、弟と大臣《ワジール》ダンダーンのところに駈けつけ、急いで二人の縛めを解き放ちました。それから番兵の頭《かしら》に近づいて、十人の回教徒武士をつないでいる鎖の鍵を奪い、これをも同様に解き放ってやりました。そこで一同時を移さず、酔っぱらっているキリスト教徒の武器を取り、彼らの馬を奪って、アッラーに救いを謝しながら、こっそりと遠ざかりました。
そこで一同は一目散に馬を駆って、とうとう山上に到着しました。するとシャールカーンは、しばらく一同に馬を止めさせて、申しました、「アッラーの神助を得てわれら安泰となった今は、皆に聞かせたき一案がある。」皆は答えました、「してその案とは?」彼は言いました、「われらはこれより、この山頂のややいたる所に四散して、声を大にして、力の限り呼ばわるのだ、『アッラーフ・アクバル』と。すると全山、谷にも、岩にもこだまして、まだ酔いしれている不信のやからは、てっきり、回教徒の全軍が押し寄せて来たと思うであろう。そこで狼狽して、暗中同士討ちをし、朝まで、お互い同士でおびただしく殺傷しあうことであろう。」
この言葉に一同は承わり畏まって答え、みんなでシャールカーンの言ったようにいたしました。それゆえ、暗闇のなかで千倍にも反響して、山々から降って来たこの声に、異教徒らはびっくりして、起き上がり、「キリストにかけて、これは回教徒軍が全軍押しかけて来たぞ」と叫びながら、あわてて甲胄を着けました。そして逆上して、お互い同士つかみ合いをして、たいへんな殺傷をし、朝になるまでやめませんでした。その間に、信徒の小勢はコンスタンティニアをさして、すみやかに遠ざかって行ったのでございました。
さて、ダウールマカーンとシャールカーンが、大臣《ワジール》ダンダーンと武士ともども、朝がた馬を進めていますと、彼らは行くてに、砂塵がもうもうと舞い上がるのを見ました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百夜になると[#「けれども第百夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
彼らは行くてに、砂塵がもうもうと舞い上がるのを見、「アッラーフ・アクバル」と叫ぶ声を聞きました。そしてしばらくすると、旌旗をひるがえしつつ、回教徒の一軍がこちらに急行して来るのを認めました。そして「アッラーのほかに神なし[#「アッラーのほかに神なし」に傍点]。しかしてムハンマドはアッラーの使徒なり[#「しかしてムハンマドはアッラーの使徒なり」に傍点]」という信仰の言葉をしるした大旌旗の下に、馬に跨り、配下の戦士の先頭に立って、大将《アミール》リュステムとバハラマーンの姿が現われました。その後ろからは、数知れぬ波濤のように、回教徒戦士が進んで来るのでした。
大将《アミール》リュステムとバハラマーンは、ダウールマカーン王とその一行を見ると、すぐに馬から飛びおりて、王に敬意を表しに来ました。ダウールマカーンは二人に訊ねました、「して、コンスタンティニアの城下の、われらの回教徒兄弟たちはどうしておるか。」二人は答えました、「しごく達者で、あらゆる御恵みのうちにございます。そして侍従長のご命令で、われわれは二万騎を携えて、ご救援申すべく、こちらに急派されたのでございます。」するとダウールマカーンは訊ねました、「われらが危難に遭遇していると、いかにしてわかったか。」二人は答えました、「それはあの尊ぶべき苦行者が、夜に日をついで歩いたうえで、駈けつけて来て、われわれに事態を告げ、至急こちらに馳せ参ずるように、せき立てて下さったのでございます。あのお方は今は、侍従長のおそばで安泰でいられ、コンスタンティニアの城中に立てこもっている邪教徒に対し、しきりに信徒らの士気を鼓舞しておられまする。」
すると二人のご兄弟は、この消息を聞いてたいそう悦ばれ、聖なる苦行者がまったく安泰に先方に着いたことを、アッラーに感謝しました。そして二人の大将《アミール》に、僧院に着いて以来起こったこと全部を、詳しく知らせてから、言いました、「今頃は、邪教徒どもは、ひと晩中さんざん殺し合ったあげく、自分たちの勘ちがいに気がついて、大騒ぎをし、驚きあわてているにちがいない。されば、やつらに立ちなおるすきを与えず、われらは山上よりこれに殺到して全滅させ、さきに僧院にて奪取した財宝もろとも、彼らの財物をことごとく奪ってやろう。」
そしてただちに、信徒の全軍は、こんどはダウールマカーンとシャールカーンに率いられて、山頂から雷のように飛びおりて、邪教徒の陣に襲いかかり、やつらのからだのなかに剣と槍とを働かせました。そしてその日の暮れるまでには、邪教徒のなかには、もはやコンスタンティニアの城中にこもっている呪われた者どもに、敗報を伝えに行くことのできるような人間は、ただの一人も残ってはいませんでした。
ひとたびキリスト教戦士をみな殺しにしてしまうと、回教徒は財宝と財物をことごとく奪って、その夜は、互いに戦勝を祝い、アッラーに御恵みを謝しつつ、休息して過ごしました。
朝が来ると、ダウールマカーンは出発を決心して、軍の隊長たちに申しました、「われらはこれより、能う限りすみやかにコンスタンティニアに達して、町を囲む侍従長に、合流しなければならぬ。彼の手兵は今はごく少数の部隊をいでぬ。万一そのほうたちがここにいることを、攻囲されている敵側に知られでもしたら、城下にいる回教徒軍がきわめて寡兵なことを察して、信徒にとってゆゆしき出撃を、企てるやも知れぬ。」
そこで一同陣を撤して、コンスタンティニア指して進軍しましたが、そのときダウールマカーンは、部下の戦士の勇気を鼓舞するために、進軍の途中で、次の崇高な神への思念を、即吟したのでございました。
[#ここから2字下げ]
おお主《しゆ》よ、われは汝にわが頌《たた》えを捧げまつる、栄えと頌えなる汝、おお、艱難の道にあって、絶えず手をとって、われを導きたまいし神よ。
汝はわれに富と財宝、王座と汝《な》が恩寵を授けたまえり。わが腕に、武勇と勝利の剣を持たしめたまえり。
しかして汝はわれを、影|巨《おお》いなる領土の主《あるじ》となしたまい、われに過分の寛容の限りをつくしたまえり。
しかして、かつては、異国にありて異国者なりしわれを養いたまい、未知の人々の間にて、われかくも微にして現われざるとき、わが保証人とはなりたまえり。
汝に栄えあれ。汝はわが額を、汝の捷利をもて飾りたまえり。汝の冥護により、われらは、汝が神威のほどを識らざるルームのやからを粉砕し、潰走する家畜のごとく、一撃の下にこれを追い散らしたり。
汝に栄えあれ。不信の徒の列上に、汝は神怒のみことばを発したまい、かくて見よ、彼らは永久に酔いてあり、強き酒気ならで、死の杯に、酔いてあり。
しかして汝が信徒の間に、そこばくの者は戦場に残るとも、不滅は彼らを占有す、幸《さち》多き繁みの下、蜜薫る楽園の河のほとりに坐る、彼らを。
[#ここで字下げ終わり]
軍隊の行進の途中、ダウールマカーンがこうした詩句を誦し終わると、そのとき黒い砂塵が舞い上がるのが見え、それがおさまると……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百一夜になると[#「けれども第百一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
黒い砂塵が舞い上がるのが見え、それがおさまると、あの呪われた老婆、災厄《わざわい》の母の姿が、相変わらず尊ぶべき苦行者のかっこうをして、現われたのでございました。すると一同大急ぎで、その両手に接吻しますと、一方老婆は涙を浮かべ、常と変わった声で、一同に言うのでした、「凶報を知られよ、おお信徒の民よ。わけても足を早めなされ。コンスタンティニアの城下に屯《たむろ》していた、皆さんの回教徒の兄弟たちは、ふいに城内の大兵力に、天幕《テント》を攻撃されて、今は完全に潰《つい》えている。さればただちに救援に駈けつけなされ。しからずば、侍従をはじめ戦士たちは、もはやあとかたもなくなってしまいましょうぞ。」
ダウールマカーンとシャールカーンはこの言葉を聞いたとき、心臓が鼓動のために飛び立ってしまうのをおぼえ、驚愕の絶頂に達して、聖なる苦行者の前にひざまずいて、その足に接吻しました。全部の戦士も、苦痛の叫びと嗚咽《おえつ》を洩らしはじめました。
けれどもひとり総理|大臣《ワジール》ダンダーンは、別でした。というのは、大臣《ワジール》だけはただひとり、馬からおりもせず、不吉な苦行者の手足に接吻もしなかったのです。そして集まる全部の隊長の前で、声高く叫びました、「アッラーにかけて、おお回教徒たちよ、わが心は、この奇怪な苦行者に、異様な嫌悪をおぼえるのだ。何かこれは、堕地獄の徒のひとり、神の慈悲の扉より遠く追いはらわれたる者どものひとりと感ぜられる。どうかわしを信じてもらいたい、おお回教徒たちよ、この呪われた魔術師をば、遠くしりぞけてもらいたい。この故オマル・アル・ネマーン王の昔からのお相手を、どうぞ信じて下され。そして、もうこんな堕地獄の者の言葉なぞに頓着せず、コンスタンティニアに向かって急ぐとしよう。」
この言葉に、シャールカーンは大臣《ワジール》ダンダーンに申しました、「そのようなあらぬ疑いは、汝の心中より追いはらうがよい。それは汝が余と異なり、この聖なる苦行者が、乱戦のうちに回教徒の士気を励まし、恐るる色なく剣と槍の間をくぐったのを見なかったことを、よく証するものだ。されば努めて、もはやこの聖者を誹謗しまいぞ。なんとなれば、誹謗は咎めらるるものであり、善人に加える攻撃は非とさるるからだ。かつ、もしアッラーがこのお方を愛されなかったならば、なにもこれにこれだけの力と忍耐を与えたまわず、昔穴倉の責苦から、お救いになりはしなかったであろうことを、よく承知するがよいぞ。」
次に、この言葉を言ってから、シャールカーンはこの聖なる苦行者に、乗り料として、豪奢な鞍を置いた、たくましいみごとな牝らばを一頭与えて、これに言いました、「どうぞこの牝らばにお召しになって、徒歩《かち》で歩むのをおやめ下さい、おおわれらが父、おお苦行者中随一の聖者よ。」けれども食わせものの老婆は、叫びました、「信徒らの身が、墓所《トウルバー》もなくコンスタンティニアの城下に横たわっているというのに、どうしてわしが安閑と楽をしておられようぞ。」そしてなんとしてもらばに乗ろうとせず、戦士の間に立ちまじって、餌食を求める狐のように、徒歩の者と騎馬の者の間を歩きはじめ、駈けめぐりはじめました。そして駈けめぐりながらも、ずっと高々とコーランの句を誦し、「慈みふかき者」に祈ることをやめませんでしたが、そのうち遂に、侍従長の率いる軍の敗残兵が、算を乱して駈けつけてくるのが、見えたのでありました。
するとダウールマカーンは侍従長を召して、遭遇した非運の顛末を語れと求めました。侍従長は、面《おもて》はやつれ魂は悶えつつ、起こったいっさいを語りました。
ところで、こうしたいっさいは、じつは呪われた災厄《わざわい》の母の企んだことだったのです。というのは、トルコ軍とクルド軍の長、大将《アミール》リュステムとバハラマーンが、ダウールマカーンとシャールカーン救援に出発すると、コンスタンティニア城下に屯《たむろ》する軍は、とたんにいちじるしく兵数が減りました。そこで、これがキリスト教徒側に知られてはたいへんと思って、侍従長は、もしや味方のなかに裏切り者でもいてはとの懸念から、配下の兵にも、これについては何も言わなかったのでした。
ところが、老婆はかねてひたすらこの時を待ち、ずっとまえからこの機会を狙って、苦心を重ね、おこたりなく手はずをしていたのですから、すぐに城内の兵のほうに駈けつけて、城壁の上にいた隊長の一人を大声で呼び止め、紐をおろせと言いました。そこで紐をおろすと、これに自分で書いた手紙を結びつけましたが、そこには、アフリドニオス王にこう言ってありました。
[#ここから2字下げ]
この書面は、洋の東西を通じてもっとも恐るべき災害者、巧妙狡智恐るべき災厄《わざわい》の母より、アフリドニオス王に送らるるものなり。願わくば王にキリストの恩寵あらんことを。[#「この書面は、洋の東西を通じてもっとも恐るべき災害者、巧妙狡智恐るべき災厄《わざわい》の母より、アフリドニオス王に送らるるものなり。願わくば王にキリストの恩寵あらんことを。」はゴシック体]
以下の如し。
おお王よ、爾今わが君の心中を領するは安堵なりと、ご承知下さるべく候、妾《わらわ》は回教徒の最後の破滅たる計《はかりごと》をめぐらしたるほどに。彼らの王ダウールマカーンとその兄シャールカーンおよび大臣《ワジール》ダンダーンをば俘虜の身となし、縄目にかけ、かつは彼らを率いて僧侶マトルナの僧院を荒らせし軍隊をば、討ち滅ぼしたるうえ、妾は攻囲兵の三分の二を谷に派すに決せしめて、兵力を微弱にするに成功いたし候。その兵とても、やがてかなたにて、キリストの士卒の勝ち誇る軍に撃滅せらるべし。
さればわが君としては、今はただ大挙して出撃し、攻囲兵をその天幕《テント》に襲い、彼らの天幕《テント》を焼き放ち、最後の一名まで粉砕することあるのみ。そはわれらの主キリストとそのおん母処女の神助をもってすれば、いとやすきことに候べし。願わくば、キリストと処女は他日、妾《わらわ》が全キリスト教徒のためにつくすいっさいの善行に対し、妾に報いたもうところあらんことを。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を読んで、アフリドニオス王はひじょうな悦びをおぼえて、すぐに、おりからカイサリアの自軍の壮丁を率いて、コンスタンティニアに来て籠城していた、ハルドビオス王を呼ばせて、これに災厄《わざわい》の母の手紙を読んで聞かせました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二夜になると[#「けれども第百二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして王はこれに、災厄《わざわい》の母の手紙を読んで聞かせました。するとハルドビオス王は、このうえなく胸が晴れて、叫びました、「おお王よ、わが乳母|災厄《わざわい》の母の絶妙なる智謀に、お目をとめてごらんあれ。まことにかの女は、われらの戦士のあらゆる武器にもまさって、われわれの役に立った。われらの敵の上に、ただあれが一瞥を投じただけで、審判の恐るべき日に、地獄中のあらゆる悪魔《シヤイターン》を見るよりも、さらに慄え上がらせるものがあるのじゃ。」アフリドニオス王は答えました、「なにとぞキリストは、永久にわれらの眼から、あの値い知れぬ女性《によしよう》の姿を、奪いたまわぬように。そしてますます、その権謀術数を豊かに授けたもうように。」
そこですぐに王は軍の隊長たちに、攻撃と出撃の時刻を触れさせるように、命令を下しました。すると四方八方から兵士が寄って来て、それぞれ自分の剣を研ぎ、十字架と腹帯に祈願し、呪詛し、冒涜し、武者ぶるいし、吼え立てました。そして一同うちそろって、コンスタンティニアの大門から出ました。
戦闘隊形をとり、手に白刃を携えて、進んで来るキリスト教徒を見ると、侍従長は危険を察しました。すぐに一同に武器をとらせて、これに次のわずかの言葉を投じました、「おお回教徒戦士たちよ、汝の信仰に汝の信頼を置け。おお兵士たちよ、汝らは退けばすなわち亡びる。しっかと踏みとどまればすなわち勝たん。かつ、勇気とはひとときの辛抱にほかならぬ。狭き事柄とて、アッラーの広げ得ざるがごときものはないのだ。されば余は至高者に、汝らを祝福し、汝らを寛仁の眼《まなこ》もて見そなわされんことを乞い奉るぞよ。」
回教徒はこの言葉を聞くと、勇気はもはや際限を知らず、一同口をそろえて叫びました、「アッラーのほかに神なし。」一方キリスト教徒は、味方の司祭と僧侶の声に応じて、キリストと十字架と腹帯に祈願しました。そしてこの相まじる叫びを合図に、両軍はものすごい果し合いを始めました。血は淋漓《りん!り》と流れ、首は胴体から飛びました。そのときよい天使らは信徒の側につき、悪い天使らは異教徒の方に加担しました。そして卑怯者はどこにいるか、剛胆な者はどこにいるかが、よくわかりました。勇士たちは乱戦のうちに勇躍し、ある者は敵を倒し、ある者は鞍からころげ落ちた。戦いは血みどろとなり、屍体は地を埋めて、馬の背丈《せたけ》の高さに積み重なったのでした。けれども呪われたルーム人のおびただしい多勢に向かっては、信徒の勇猛もいかんせん。されば、日暮れには、回教徒は撃退され、その天幕《テント》は荒らされ、陣地はコンスタンティニア兵の掌中に落ちてしまったのであります。
そしてちょうどそのとき、敗走のさなかに、おりから、僧院のキリスト教徒軍に敗北を喫しさせた谷から戻ってきた、ダウールマカーン王の戦勝軍に、出あったわけです。
するとシャールカーンは侍従長を呼び、そして集まった隊長の面前で、声高らかに、侍従長の抗戦にあたって断乎、退却にあたって慎重、敗北にあたって隠忍の、その態度を慶賀し、称揚しました。それから、回教徒戦士全部は、今や大軍に集結して、もはや復讐の希望をのみ念じて、旌旗を広げ、コンスタンティニアへと前進しました。
「信仰の言葉」をしるした旗を、頭上にたなびかせた、この強大な軍が近づいてくるのを見たキリスト教徒どもは、サフラン色に蒼ざめ黄色くなって、大いに歎き、キリストとマルアムとハンナ(32)と十字架に祈願し、けがらわしい大司教《パトリアルク》と司祭にすがって、自分たちのため、聖者たちにとりなしてくれるように頼みました。
さて回教徒軍のほうは、コンスタンティニアの城下へ到着し、さっそく戦闘の配置をしようとしました。そのときシャールカーンは、弟ダウールマカーンのほうに進み出て、言いました、「おお当代の王よ、キリスト教徒が戦闘を拒まぬは必定であり、それこそわれわれのせつに望むところだ。されば、余は私見を述べたく思う。なんとなれば、方法ということが、秩序とあらゆる手配の根本であるから。」王は言いました、「して、そのお述べになりたいと言わるるご意見とは、いかがなものでございますか、おお名案の主よ。」シャールカーンは言って、「さればこうじゃ。最上の戦闘配置は、まず余が敵の正面の真っ向を受けて、中央に位置する。大宰相ダンダーンは中央軍の右、大将《アミール》トルカシュは中央軍の左を指揮し、大将《アミール》リュステムは右翼、大将《アミール》バハラマーンは左翼を指揮する。おんみ、王は、大将《アミール》大軍旗の保護下にとどまって、全軍の動静を監視せられよ。というのは、おんみこそはわれらの柱石であり、アッラーに次いで、われらの唯一の希望であるから。そしてわれら全部は、ここに控えておんみの防壁となるであろう。」するとダウールマカーンは、その意見と献身に対して兄君に感謝して、この案を実施するように命令を発しました。
こうしているところに、見ると、ルーム人の戦士の列の間から、一騎疾駆して、回教徒のほうに進んできます。そしてさらに近くなると、その騎士は、カシミヤの毛氈に蔽われた、白絹の鞍を置く牝らばに乗り、大へん小刻みに足早に、走って来るのが見えました。そしてそれは尊ぶべき様子の、白鬚の立派な老人《シヤイクー》で、白い羊毛のマントに包まれています。彼はやがてダウールマカーンのいる場所に近づいて来て、言いました、「拙者は貴殿らに申し入れたきことあって、当方に派せられた者でござる。拙者は取次人にすぎず、取次人は中立の恩恵を享《う》けるべきものであるがゆえに、わが一身に不安をおぼえずして、口をきく権利を与えられたい。さすれば、申し入れの筋をお伝え申そう。」
するとシャールカーンは言いました、「そのほうの身は安泰である。」すると使者は馬からおりて、首に懸けていた十字架をはずし、それを王に渡して、申し上げました、「拙者は、アフリドニオス王の名において、当方にまかり越しました。わが王は拙者の進言を容れたもうて、神のお姿に肖《に》せて作られた、かくも多くの生霊を無に帰する、この不祥な戦さをば、遂に打ち切ることとせられたのでござる。されば拙者は、王の名において貴殿らに、かれアフリドニオス王と、回教徒武士の総帥シャールカーン王子との間の一騎打ちによって、この戦さを決することにいたそうと、かく提案する次第でござりまする。」
この言葉に、シャールカーンは言いました、「おお老人《シヤイクー》よ、ルーム人の王のもとに戻って、回教徒の選士シャールカーンは、たしかにお相手申すと伝えられよ。そして明朝、われらひとたびこの長途の行軍の疲れより憩うたうえで、干戈《かんか》を交じえるであろう。」
そこでその老人《シヤイクー》は、コンスタンティニアの王のもとに戻って、その返事を復命しました。
さて、いよいよ朝になると、アフリドニオス王は、試合場《マイダーン》のまん中に乗り出しました。丈高い軍馬に跨り、宝石をちりばめた一面の鏡が中央に輝く、金の鎖《くさり》帷子《かたびら》を着用し、手には刀身の曲った反身《そりみ》の大剣を携え、一方の肩には、西洋人種の手の込んだ作り方の弓を、掛けていました。そして回教徒の列のすぐ近くまで来ると、王は瞼甲《めんぽお》を上げて、呼ばわりました、「われこそはここにあり。われの何者たるを知る者は、今さらいうも愚かなり。われの何者たるを知らざる者は、やがて知るべし。おお汝ら一同よ、われこそは、祝福に頭《かしら》蔽われたるアフリドニオス王その人なり。」
けれども王がまだ言いも終わらぬうちに、すでにその面前に、シャールカーン王子が現われました。錦襴の鞍を置いた、栗毛の駒にうち跨り、手には、人間の頭をもさらに困難なことをも等しく平坦にする刃のついた、インド風の剣を携えていました。王子は、アフリドニオスの馬のすぐ近くまで馬を進めて、王に叫びかけました、「気をつけよ、おお呪われた者よ、汝はおれをば、かの若き娘の肌持てる若僧にして、戦場よりもむしろ売女の臥床《ふしど》をおのが場所とする者の一人と、勘ちがいいたしたるか。ここにわが名あり、おお呪われた者よ。」こう言うや、シャールカーンは剣を振りまわして、敵に恐ろしい一撃を加えると、相手はひらりと馬を駆って、巧みに身をかわしました。次に二人とも、互いに打ちかかって、さながらぶつかりあう二つの山か、噛み合う二つの海のごとくでした。それから、遠ざかってはまた近づき、ふたたび分かれては戻り、こうして、あるいは勝利はシャールカーンのもの、あるいはルーム人の王のものと呼ばわる両軍の眼前で、両雄は打ちあい、払い合うことをやめず、日の没するまで渡り合ったが、勝敗はいずれの方とも決しません。
しかるに、いよいよ太陽が没しようというまぎわになると、突然アフリドニオスは、シャールカーンに叫びかけました、「キリストにかけて、汝の後ろを見よ、敗北の選士、逃走の英雄よ。戦いに利あらしめんとて、汝は新しい馬を取り寄せたな、おれは相変わらず同じ馬に乗っているのに。これは奴隷の習慣《ならわし》にて、雄々しい武士の習慣《ならわし》ではない。キリストにかけて、おおシャールカーンよ、汝は奴隷にも劣るやつじゃ。」
この言葉に、シャールカーンは怒り心頭に発して、そのキリスト教徒のいう馬とやらを見ようとて、振り向きました。しかし何も来る様子はありません。ところが、これこそこの呪われたキリスト教徒の謀略《たばかり》で、この身ごなしのため、シャールカーンがこちらにすきを見せたのに乗じて、投槍を振り上げて、これをシャールカーンの背中めがけて、投げつけたのでありました。
するとシャールカーンは、恐ろしい叫び声をひと声、ただひと声あげて、鞍の前橋の上にばたりと倒れました。そこで呪われたアフリドニオスは、てっきり死んだものと思って、勝利と騙し討ちの叫びをあげて、キリスト教徒軍の列のほうに馬を走らせました。
けれども回教徒は、シャールカーンが鞍の前橋につっぷして倒れるのを見ると、ただちに救いに駈けつけました。最初にそばに駈け寄った面々は……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、自分の物語を語るのをやめた。
[#地付き]けれども第百三夜になると[#「けれども第百三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
最初にそばに駈け寄った面々は、大臣《ワジール》ダンダーンと、大将《アミール》リュステムとバハラマーンとでありました。三人は王子を抱き起こして、急ぎ弟君ダウールマカーン王の天幕《テント》の下に、運びこみました。王はもう、憤怒と苦痛と復讐心のこのうえない絶頂に達しなさいました。すぐに医者たちを呼んで、これにシャールカーンを預け、それからなみいる者はすべてよよと泣き伏し、ひと晩中、気を失っている英雄の横たわる床《とこ》のまわりで、過ごしたのでありました。
ところが朝方になると、例の聖なる苦行者がやってきて、負傷者のそばに寄ってきて、その枕もとでコーランの数句を唱え、その上に手を置きました。するとシャールカーンは深い溜息をついて、両眼を開きましたが、その最初の言葉は、自分になお生きることを許したもうた、「慈みぶかき者」に対する感謝でした。それから弟のダウールマカーンのほうに振り向いて、言いました、「あいつは余を騙し討ちにした、呪われたやつめが。しかしアッラーのおかげで、あの一撃は致命傷ではない。聖なる苦行者はどこにおられるか。」ダウールマカーンは言いました、「お枕もとにおいでです。」するとシャールカーンは、苦行者の両手をとって接吻しました。苦行者は回復を祈って言いました、「わが子よ、よく我慢して苦痛を忍びなされ、やがて褒賞者が賞したもうであろうほどに。」
とかくするうちに、ダウールマカーンはちょっと外に出ていたが、ふたたび天幕《テント》の下に帰って来て、兄シャールカーンと苦行者の手とに接吻して、言いました、「おお兄上よ、なにとぞおんみにアッラーの加護あれかし。私はこれよりあの呪われた裏切り者、あの犬の犬息子、ルーム人の王アフリドニオスを槍玉にあげて、おんみの讐を討ちに馳せ参じまする。」そこでシャールカーンは引きとめようとしたが、聞きません。大臣《ワジール》ダンダーンと二人の大将《アミール》と侍従も、自分こそ呪われたやつを討ちにゆくと申し出ましたが、ダウールマカーンは、すでに馬に飛び乗って、叫びました、「ザムザムの井戸(33)にかけて、あの犬を懲らしめるは、ただこのわれあるのみ。」そして王は試合場《マイダーン》のまん中に、馬を駆りました。その姿を見ると、黒毛の駒に乗って、空間を突進し、風や電光よりもすみやかに行く、乱戦のさなかの、アンタル(34)その人かとばかり見まがわれました。
一方、呪われたアフリドニオスもまた、試合場《マイダーン》に馬を走らせました。そして二人の選士は出あいましたが、こんどは、どちらが相手に最後のとどめを刺すかという場合です。なぜなら、こんどの果し合いこそは、死による以外に終わるべくもなかったのです。そして死は、果然、呪われた裏切り者を襲ったのでありました。というのは、ダウールマカーンは、復讐の念に力百倍し、いくたびか衝《つ》きはずした末、遂に首尾よく敵の首に斬りつけ、ただ一度で、敵の瞼甲《めんぽお》と首の皮と背柱を貫き、その頭を胴体の向うにぶっ飛ばしてしまいました。
これを合図に、回教徒軍はキリスト教徒軍の列に雷《いかずち》のように殺到して、比類のない大殺戮をしました。こうして彼らは、日の暮れるまでに五万の敵を屠《ほふ》り、ようやく闇にまぎれて、異教徒らはコンスタンティニアに戻ることができ、城門を堅く閉ざして、勝ち誇る回教徒軍が、市中に進入するのを阻みました。かくして、アッラーは「信仰」の戦士たちに、勝利を授けたもうたのでございます。
そこで回教徒軍は、ルーム人の戦利品を満載して、自分の天幕の下に帰りました。隊長たちは進み出て、ダウールマカーン王にお祝いを言上し、王は至高者に勝利を謝しました。それから王は、兄君《あにぎみ》シャールカーンのもとに行って、吉報を報じなさいました。シャールカーンはすぐに心広まるをおぼえ、からだが回復に向かうのをおぼえ、弟君に言いました、「おお弟よ、これというのも、勝利はひとえにこの苦行者の祈りの賜物にほかならぬのだ。このお方は、戦闘中ずっと、天に祈り、その祝福を信徒の戦士たちの上に乞うことを、やめなさらなかったのだ。」
ところで、この呪われた老婆は、アフリドニオス王の戦死と王の軍隊の敗北の報を聞くと、顔色を変えました。その黄色い顔色は緑色になって、涙で息がつまりました。けれどもどうにか自分をおさえて、この涙は回教徒の勝利におぼえる悦びのためだと、弁解しました。けれども心中では、ダウールマカーンの心を、苦しみで焼き焦がしてやろうと、もっとも悪辣な悪だくみを企んでいたのでした。そしてその日も、いつものように、自分でシャールカーンの傷に軟膏と膏薬をつけて、この上なく入念に繃帯をしてやると、安らかに眠らせてさし上げるようにと、一同に退出を命じました。そこで皆は天幕《テント》から出て、シャールカーンを、この忌わしい苦行者とただひとり、あとに残しました。
いよいよシャールカーンがすっかり眠りに陥ると……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百四夜になると[#「けれども第百四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
いよいよシャールカーンがすっかり眠りに陥ると、今まで、獰猛《どうもう》な狼か猛毒の蝮蛇のように、じっとこれをうかがっていた、恐ろしい老婆は、すっくと立ち上がって、枕もと近くまで、ものすごい様子で忍び寄りました。そして自分の着物の下から、毒を塗った短刀を取り出しましたが、その毒たるや、ただ御影石の上に載せただけで、石を溶かしてしまうだろうというほど、猛烈なものでした。老婆はその短刀をば、その災い満ちた手で握りしめて、やにわに、それをシャールカーンの首をめがけて振りおろし、頭を胴から離してしまいました。かくして、宿命の力により、呪われた老婆の心中の魔王《イブリース》の悪だくみによって、回教徒軍の選士たりし人、オマル・アル・ネマーンの王子、無双の英雄シャールカーンは、相果ててしまったのでございます。
そして復讐を果たすと、老婆は斬り落とした首のそばに、自筆の書状を残して、こう言い置きました。
[#ここから2字下げ]
この書状は災厄《わざわい》の母なる名の下に世に知られたる者、身分貴きシャウアヒより、現在キリスト教徒の国にある回教徒どもへ寄するものなり。[#「 この書状は災厄《わざわい》の母なる名の下に世に知られたる者、身分貴きシャウアヒより、現在キリスト教徒の国にある回教徒どもへ寄するものなり。」はゴシック体]
聞け、おお汝ら一同よ、妾《わらわ》こそはただ一人、昔汝らの王オマル・アル・ネマーンをその宮殿のただ中にて、亡きものとする悦びを味わいたる者なり。次いで僧院の谷において、汝らの敗北と鏖殺《おうさつ》の原因となりしも、この妾《わらわ》なり。最後に、われみずから手を下し、わが巧みにめぐらしたる計略《はかりごと》によって、今日、汝らの首領シャールカーンの首をはねたるも、この妾《わらわ》なり。しかして妾は天の加護を得て、近く同じく、汝らの王ダウールマカーンならびにその大臣《ワジール》ダンダーンの首をもはねんと、期するものなり。
さて今は汝らとくと思案して、汝らわが国にとどまると、あるいは汝の国に戻ると、いずれが身のためなるかを考うべし。いずれにせよ、汝らは断じて目的を達することなき旨、よく承知せよ。しかして汝ら一同は最後の一人まで、わが腕とわが軍略により、かつはわれらが主キリストの御恵みによって、コンスタンティニアの城下にて、亡ぼしつくさるべきものなり。しかして、救いの汝らより遠く、破滅の汝らの周囲にあらんことを。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの書状を残して、老婆は天幕《テント》の外に忍び出て、キリスト教徒に自分の悪業を知らせようと、コンスタンティニアに戻りました。それから教会の中にはいって、アフリドニオス王の死を悼み、祈り、シャールカーン王子の死を悪魔《シヤイターン》たちに感謝しました。
ところでシャールカーンの殺害につきましては、次のような次第でございます。ちょうど兇行の行なわれていた時刻に総理|大臣《ワジール》、ダンダーンは、どうも不眠と不安に襲われるのを感じて、何かさながら、全世界が自分の胸の上にのしかかってくるかのように、胸苦しい思いがしました。そこでとうとう思いさだめて、臥床《ふしど》から起き上がり、空気を吸おうと自分の天幕《テント》を出ました。そして歩きまわっていると、おりから苦行者が、もう遠くのほうに、野営地を出てすみやかに遠ざかってゆくのが見えました。そこで大臣《ワジール》はひとりごとを言いました、「シャールカーン王子は今はさだめしおひとりに相違ない。これからおそばに行って夜伽《よとぎ》するなり、お眼覚めならばお相手するなり、することにしよう。」
大臣《ワジール》ダンダーンがシャールカーンの天幕《テント》の中に着くと、まず最初に目に入ったのは、地上一面の血の池でした。次に臥床《ふしど》の上に、惨殺されたシャールカーンのからだと首が見えたのでした。
これを見ると、大臣《ワジール》ダンダーンは、ひどく大きな恐ろしい叫びを、ひと声あげました。そのため、眠っている全部の人の眼がさめ、野営の全軍が立ち上がり、ダウールマカーン王もそれを聞きつけて、すぐに天幕《テント》の下に駈けつけました。そして大臣《ワジール》ダンダーンが、兄君シャールカーン王子の生命なき屍体の横で泣いているのを、ごらんになりました。この有様にダウールマカーンは、「やあ、アッラー、おお、恐ろしいことだ」と叫んで、そのまま気を失って、倒れてしまいました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女だったので、話すのをやめた。
[#地付き]けれども第百五夜になると[#「けれども第百五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
この有様に、ダウールマカーンは、「やあ、アッラー、おお、恐ろしいことだ」と叫んで、そのまま気を失って、倒れてしまいました。そこで大臣《ワジール》と大将《アミール》たちは、急ぎそのまわりに走り寄って、着物でもって風を送りますと、ダウールマカーンはようやく正気に返って、叫びました、「おお兄上シャールカーン、おお、英雄のなかで最大の英雄よ、いかなる悪魔《シヤイターン》が、おんみをこのような取り返しのつかぬ事態にしてしまったか。」そして涙にかき暮れて、咽び泣きはじめられ、それといっしょに大臣《ワジール》ダンダーンも、大将《アミール》リュステムとバハラマーンも、また侍従長も同様でした。
するとふと、大臣《ワジール》ダンダーンは書状を見つけて、それを拾いあげて、なみいる一同の前で読んで、ダウールマカーン王にお聞かせしてから、言いました、「おお王よ、だからこそ、今はなぜあの呪われた苦行者が、あれほど私には虫が好かなかったか、おわかりでございましょう。」するとダウールマカーン王は、泣きながらも、叫びました、「アッラーにかけて、近くかならずあの婆《ばばあ》をひっ捉えて、余自身の手で、やつの膣のなかに溶けた鉛を流し込み、尻に先のとがった棒杭を突っ込んでやる。そのうえで、髪の毛で吊るし下げて、コンスタンティニアの正門に、生きながら釘づけにしてやろうぞ。」
そのあとで、ダウールマカーンは、兄君シャールカーンの手篤い葬儀を命じて、ご自分の眼のすべての涙を流しながら、葬列に従いなさいました。それからは永い間というもの、王はただただ泣きつづけられて、もう見る影もなくやせ衰えてしまわれました。そこで大臣《ワジール》ダンダーンは、自分の苦しみをおさえて、王にお目どおりして、申し上げました、「おお王よ、もうお苦しみに香油を塗って、おん眼をお拭いあそばしませ。兄君は今は、褒賞者の御手の間におられますことを、ご承知ありませぬか。かつまた、償い得ざることに対して、そうしたいっさいのご愁傷は、そもそも何の甲斐がありましょうぞ、万事はそのときともなれば到るべく、書きしるされてあるものを。されば、おお王よ、お立ちになって、ふたたび武器をおとり下さいまし。そしてこの異教徒どもの首都の攻城をば、活溌に推進することを、思おうではござりませぬか。それこそわれらが徹底的に復讐する、最上のみちでござりましょう。」
ところで、ちょうど大臣《ワジール》ダンダーンが、こうしてダウールマカーン王のお気を引き立てていると、そこにバグダードから飛脚が着いて、弟君ダウールマカーンへの、ノーズハトゥのお手紙を携えてまいりました。そのお手紙には、おおよそ次のようなことが書かれてありました。
[#ここから2字下げ]
おお弟よ、吉報をお知らせ申し候。
おんみの妻、おんみの身籠《みごも》らしめたかの若き奴隷は、ただ今つつがなく、第九月《ラマザーン》の月、光り輝く男子を、産み落とし候。妾《わらわ》はこの子を、カンマカーン(35)と呼ぶがよろしかるべく存じ候。
さて学者と天文学者たちの予言するところによれば、この子は将来かずかずの青史に残るべき事績を成就せんとの由。いかにもその誕生には、種々の祥応奇瑞を伴い候いき。
妾はこの機に際し、全市の回教寺院《マスジツト》にて、おんみのため、嬰児《みどりご》のため、おんみの敵軍への勝利のために、礼拝と祈願を行なわしむるを、怠らざりし次第に候。
なお、当地のわれら一統至って健やかにて、とくにおんみの友|浴場《ハンマーム》の風呂焚きは、無上の快適平穏にあり、われらとともに、おんみの消息をせつに待ちわびおり候。
当地こと、本年はすこぶる雨多く、豊年の兆これあり候。
なにとぞおんみの上とおんみの周囲に、平安と息災あらんことを。
[#ここで字下げ終わり]
ダウールマカーンはこの手紙を一読すると、深く息をついて、叫びなさいました、「おお大臣《ワジール》よ、今やアッラーが、余に一子カンマカーンを授けたもうたとあらば、わが愁傷は薄らぎ、わが心はふたたび生きはじめたぞ。さればわれらは、わが亡き兄上の除喪を、われらの習慣に従って、盛大にとり行なうことを思わねばならぬ。」すると大臣《ワジール》は答えました、「お考えごもっともにござりまする。」そしてすぐに、シャールカーンのお墓のまわりに、大きな天幕《テント》を設《しつら》えさせて、そこにコーランの読誦者と導師《イマーム》たちを坐らせました。そしてあまたの羊と駱駝を犠牲に捧げて、その肉を将兵に分かちました。その夜は終夜、「崇高なる諸|章《スーラハ》」の読誦のうちに過ごしたのでした。
けれども朝になると、ダウールマカーンは、ペルシアとカシミヤの貴い布を張りめぐらした、シャールカーンの憩うお墓のほうに進み寄って、そして全軍の前で……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六夜になると[#「けれども第百六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ダウールマカーンは、ペルシアとカシミヤの貴い布を張りめぐらした、シャールカーンの憩うお墓のそばに進み寄って、そして全軍の前でおびただしい涙を流し、故人の霊のために次の詩節を即吟なさいました。
[#ここから2字下げ]
おおシャールカーン、わが兄君よ、今やわが双頬の上に、わが涙はわが痛苦の整然たる行《ぎよう》を描けり。詩句の整然たる律呂よりもなお意味深く、これを読むあらゆる眼に多くを語る、黯然たる憂いの行《ぎよう》なり、おお兄君よ。
君が霊柩の後ろより、おおシャールカーンよ、われとともに、ことごとくの武士は涙しつついで立ちぬ。彼らはジャバル・トールにおけるムーサ(36)の叫びよりもなお高く、痛歎の叫びをあげたり。
かくてわれら一同は君が墓前に到りぬ。その註穴は、君が武士らの心中に、君の憩いたもう地中にまして、いや深く穿《うが》たれてあり、おお兄君よ。
ああ、シャールカーンよ、われいかで思い得たらんや、君とともにあるわが幸《さち》を、棺衣《ひつぎかけ》の下、輿棺《よかん》の人々の肩上に、見んとは。
シャールカーンの巨星よ、いまいずこにありや。汝《な》が光は天上の諸星をことごとく、ひれ伏して光なからしめしものを。
おお、宝玉よ、君を隠す奥津城《おくつき》の底いなき深き淵すらも、われらがいや果ての母の懐ろにて、君がもたらす光明もて、にわかに照らし出だされぬ、おお兄君よ。
また君を包む屍衣すらも、屍衣の襞すらも、君に触れては、生気を帯び、広ごりて、翼のごとく、君を護りき。
[#ここで字下げ終わり]
これらの詩句を誦し終わると、ダウールマカーンは泣き崩れ、それといっしょに、全軍も深い歎息を漏らしました。すると大臣《ワジール》ダンダーンが進み出て、シャールカーンの墓上に身を投げ、お墓をかき抱いて、涙に声をつまらせながら、次の詩人の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお賢きかな、君は今滅ぶべき事物に代うるに、不死の事物をもってせり。ここにおいて、君はあらゆる死の先人の範にならいたまえり。
しかして君はためらうことなく、高所へと飛び立ちたまえり、ばらは満々と純白をたたえて、天女《フーリー》の足下に馨《かぐ》わしき毛氈をなすかしこへと。願わくば、かしこにて新しき事物の快を肆《ほしいまま》にせられんことを。
また、燦たる玉座の御主《おんあるじ》は、その楽園の最上の席を君に給い、地上の義人の享《う》くべき悦びを、君が唇のそば近く置きたまえかし。
[#ここで字下げ終わり]
このようにして、一同はシャールカーンの喪明けを行なったのでございます。
けれどもどうあろうと、やはりダウールマカーンは悲しみつづけておられました。それはコンスタンティニア攻城が長びきそうなおそれがあっただけに、なおさらでした。そして一日、王は大臣《ワジール》ダンダーンにご心中を打ち明けて、申されました、「おおわが大臣《ワジール》よ、わが身をさいなむこの悲しみを忘れ、わが魂にのしかかる憂さを払うには、何としたものであろうか。」
大臣《ワジール》ダンダーンは答えました、「おお王よ、ご不快にはただひとつの薬しか心あたりがございませんが、それは記録に語られているような、過ぎし世々と高名な王さまがたの物語をば、お聞かせ申すことでございます。してそのことは、私にとってはぞうさなきこと。というのは、故父君オマル・アル・ネマーン王の御代に、私の最大の勤めといえば、毎夜、快い小話をお話ししたり、アラビア詩人らの詩句や、私の即吟をお聞かせ申したりして、御心をお慰め申すことでありましたから。されば今宵《こよい》も、野営の人々がすべて寝静まったころ、アッラーの思し召しあらば、わが君を感嘆させ、お胸を晴らし、攻城の時間も束の間とお思いあそばすような物語をば、お聞かせ申しましょう。その題は、今から申し上げておくことができます。それは二人の恋人アズィーズとアズィーザの物語[#「二人の恋人アズィーズとアズィーザの物語」はゴシック体]というのでございます。」
この大臣《ワジール》ダンダーンの言葉に、ダウールマカーン王は、待ち遠しくて心臓がときめくのをおぼえ、その題を聞いただけで、もう楽しみでそわそわなさって、早く夜になって、その約束の話を聞こうということしか、今は念頭にない有様でした。
ですから、日が暮れはじめたかと思うと早々に、ダウールマカーンは、ご自分の天幕《テント》の全部の燭火《ともしび》と、布を敷いた通り路の全部の提灯に、火を入れさせ、飲み食いの料《しろ》を盛ったかずかずの大皿と、香や、竜涎香や、その他たくさんの快い香料を盛ったかずかずの香炉を、持ってこさせました。それから大将《アミール》のバハラマーンとリュステムとテュルカシュと、ノーズハトゥの夫の侍従長を、召し出されました。そしてみんなが寄ると、大臣《ワジール》ダンダーンに、来るように伝えさせました。いよいよダンダーンが御手の間にまいりますと、王はこれにおっしゃいました、「おおわが大臣《ワジール》よ、今や夜はわれらの頭上に、その大いなる衣《ころも》と髪を広げた。そしてわれわれは快味を満喫するに、もはやただそのほうがあまたの物語のなかから、われわれに約束した物語を待つのみじゃ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、自分の話を翌日にのばした。
[#地付き]けれども第百七夜になると[#「けれども第百七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでダウールマカーン王は、大臣《ワジール》ダンダーンにおっしゃいました、「おおわが大臣《ワジール》よ、今や夜はわれらの頭上に、その大いなる衣《ころも》と髪を広げた。そしてわれわれは快味を満喫するに、もはやただそのほうがあまたの物語のなかから、われわれに約束した物語を待つのみじゃ。」すると大臣《ワジール》ダンダーンは答えました、「惜しみなく衷心から欣んで、かつ当然の敬意として。なぜならば、おお幸多き王よ、これより私がアズィーズとアズィーザにつき、また彼らの身に起こった一部始終について、お話し申し上げる物語は、人々の心中のいっさいの悲しみを払い、たとえヤアクーブ(37)の愁傷よりも大いなる愁傷でも、これを慰めるに足る物語であると、ご承知下さいませ。次のごとき話でございまする。」
アズィーズとアズィーザとうるわしき王冠太子の物語
おおわれらが頭上の冠よ、時のいにしえと時代時世の過ぎし世のころ、ペルシアの都市のうちに、イスパハーンの山々の後ろに、ひとつの都がござりました。その町の名は、「緑の都」と申しました。そしてその都の王は、スライマーン・シャーと呼ばれました。その王は公正、寛大、慎重、知識の、大いなる美質を授けられておられた。そこで津々浦々から、旅人がこの都へと寄り集まって来た。それほど王の名望は遥かまで聞こえ、商人と隊商《キヤラヴアン》に、安堵の念をおぼえさせていた次第でした。
そしてスライマーン・シャー王はこうして、ひじょうに永い間、繁栄のうちに、全人民の愛慕に囲まれて、世を治めつづけられた。そして王の幸福に欠けたるものといえば、ただ妻子だけでした。というのは王は独身でいらっしゃったからです。
そしてスライマーン・シャー王にはひとりの大臣《ワジール》がありましたが、これがまた、その寛容と親切との美質の点で王そっくりでした。そこである日、日ごろにましてさびしさのしみじみと感じられたとき、王は大臣《ワジール》を召して、これに言われた、「わが大臣《ワジール》よ、どうもいまやわが胸は狭まり、わが忍耐は力つき、わが力は減じてきた。こうしてさらにしばらくたったら、余はもはや、骨の上に皮ばかりとなってしまうであろう。なぜなら、独身ということは、けっして天然自然のことではない。なかんずく、おのが子孫に伝うべき王座を持つ王たる人々にとっては、とくにしかることが、いまとなってよくわかったのじゃ。かつは、われらの祝福されたる預言者(その上に祈りと平安あれ)も、仰せられた、『交接《まじわ》れよ、しかして汝らの子孫を殖やせ。なんとなれば、われは復活の日、あらゆる種族のまえにて、汝らの数を誇るべし』と。されば、おおわが大臣《ワジール》よ、余に進言いたし、これについてそのほうの所見を述べてもらいたい。」
すると大臣《ワジール》は申し上げた、「まことに、おお王よ、これははなはだ難問にて、しごく微妙な問題でございます。私は命ぜられたる道を離るることなく、そのなかで、努めて御意《ぎよい》に添うようにいたしましょう。されば、おお王よ、私といたしましては、見も知らぬ奴隷ふぜいが、われらのご主君のお后《きさき》となるのは、けっして欣然と見てはおられぬでございましょう。なんとなれば、いかにして王はその奴隷の素姓や、祖先の高貴や、血統の純正や、種族の起因《おこり》などを知り得ましょうぞ。またしたがって、ご自身のご先祖の血のけがれなき純一を、そのままに保つことが、いかにしてかないましょうぞ。されば、かかる交じわりから生まれる子供というものは、常に悪徳に満ち、嘘をつき、血を見ることを好む劣等児であり、創造者アッラーに呪われた子であろうことを、ご承知あらせられませぬか。こうした愚物は、あたかもよどんだ鹹水《かんすい》の沼沢地に生じて、十分の発育を見ざるうちに、すでに腐ってしまう草木に似ております。されば、おお王よ、けっしてこの大臣《ワジール》に、たとえ地上随一の美女なりとも、女奴隷を買い求めて進ずるがごときお世話を、ご期待あってはなりませぬ。なんとなれば、私はかかる不幸の原因となり、自分が教唆者であった罪の重荷に耐えるようなことは、欲しませぬ。けれども、もしわが君が私の鬚に耳をかそうとおっしゃるならば、私としましては、諸国の王の姫君の間から、家系世に知られ、美しさは世のあらゆる婦女子の眼に範として挙げられているようなお后《きさき》を、お選びあそばるるがよいかと、愚考いたしまする。」
この言葉に、スライマーン・シャーは申された、「おおわが大臣《ワジール》よ、もしそのほうがそのような女性《によしよう》を余に見つけてくれさえしたら、余はいつなりとそれを正妻に迎えて、わが家門の上に、至高者の祝福を来たらしめる所存じゃ。」すると大臣《ワジール》は言った、「その件ならば、アッラーのおかげにて、もはや心配ご無用です。」そこで王は叫んだ、「それはまた何としてか。」大臣《ワジール》は言った、「さればでございます、おお王よ、私の家内の話によりますと、『白い都』の主ザハル・シャー王には、たぐいなき美しさの王女がひとりいらっしゃって、その美しさを言葉で述べることはとうてい及ばず、ほんのわずかをお伝えできるまえに、早くも私の舌は毛だらけになってしまうほどでございます。」そこで王が「やあ、アッラー」と叫ぶと、大臣《ワジール》はさらにつづけて、「なんとなればおお王よ、その姫の褐色の瞼《まぶた》の眼、その髪の毛、お姿も見えぬまでにか細い胴、腰と腰を支えて円《まろ》らかにいたしているものとの、どっしりしたおもむきなど、それにふさわしくお話し申すことが、どうして私にできましょうか。アッラーにかけて、何ぴとも立ち止まらずにこれに近づくを得ず、また何ぴとも焦がれ死にせずにこれを見るを得ませぬ。詩人が言ったのは、この姫のことです。
[#ここから2字下げ]
おお、腹なだらかの処女よ。汝《な》が嫋《なよ》やかの胴は、若き柳の撓《たわ》む小枝も及ばず、楽園の白楊樹の繊《しな》やかすらも及ばず。
汝《な》が唾液は天然の蜜。ああ、汝が唾液をもて杯をしめし、酒を甘くし、もってわれに与えよ、おお天女《フーリー》よ。さあれ、なかんずく、願わくば、汝《な》が唇を開いて、汝が霰《あられ》の粒をもてわが眼を冷せよ。」
[#ここで字下げ終わり]
この詩を聞いて、王は嬉しさにわくわくして、喉の奥から、「やあ、アッラー」と叫ばれた。けれども、大臣《ワジール》はさらにつづけて、「されば、おお王よ、これは思うに、貴族《アミール》のなかから、如才なく心利いた信頼できる人物で、おのが言葉を発するまえに、その風味を心得ておる、すでにご試験ずみの人物をばひとりお選びのうえ、能うかぎりすみやかに、これをザハル・シャー王のもとに遣わすがよかろうと、愚考つかまつります。そしてこれにあらゆる弁舌をつくして、首尾よく父王から若い姫を賜わってくるように、お託しなさるがよろしい。そしていよいよご結婚あそばして、預言者(その上に平安と祈りあれ)のお言葉に従いなされませ。お言葉にいわく、『みずから清浄の身と称する者どもは、イスラム教国より追われざるべからず。そは風俗壊乱者なり。イスラム教国においては、独身者なし。』ところで、まことにこの姫君こそは全地を通じ、こなたにもかなたにも、地上随一の美珠、この方のみぞわが君にふさわしき、唯一の配偶者でございます。」
この言葉に、スライマーン・シャー王は心晴るる思いがせられ、安堵の吐息を洩らして、大臣《ワジール》に言われました、「そのほうをおいて何ぴとがよく、この微妙きわまる使命を、首尾よくなし遂げ得ようぞ。おおわが大臣《ワジール》よ、ただそのほうのみが行ってこの件をまとめてくれよ、知恵と礼節満てるそのほうあるのみじゃ。されば、これより立ち上がって、自宅にゆき、家中の人々に別れを告げ、未済の用向きをせっせと片づけよ。それから白い都におもむいて、余のために、ザハル・シャー王の王女に結婚を申し込んでくれよ。今や余の心中と分別はいたく思い悩み、この件についてはなはだ思いわずらっているからな。」そこで大臣《ワジール》は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」
そして大臣《ワジール》はすぐさま、いそいで、終わるべきことを終わり、接吻すべき人々に接吻しに行き、出発の準備いっさいをととのえはじめました。大臣《ワジール》は王者たちを満足させるような、あらゆる豪華な贈物を携えた。宝石類、金銀細工、絹の絨氈、貴重な布、薫香、まったく純粋なばら香精、その他重さは軽く、価値の重いあらゆる品々など。またアラビアのもっとも立派な品種ともっとも純血種の馬、十頭を選んで、持ってゆくことも忘れなかった。それから、紅玉をちりばめた硬玉の柄《つか》のついた、黄金象眼のみごとな刀剣類と、鋼鉄の軽い鎧と、金色《こんじき》の鎖《くさり》帷子《かたびら》も携え、その他にも、あらゆる種類の豪奢な品々や、食用に供する品々を詰めた、いくつもの大箱があった。ばら漬、熨杏《のしあんず》、香料入りの乾し果物、熱帯諸島の安息香の香りをつけた巴旦杏の糖果などをはじめ、口を悦ばせ、若い娘たちの気持を快く動かして、嫁《とつ》ぐ気にならせるような、くさぐさのおいしい菓子類でした。次に大臣《ワジール》は、これらの箱全部をらばと駱駝の背につけさせ、さらに百人の若い白人奴隷《ママーリーク》と、百人の若い黒人と、百人の若い娘を伴って、これを、帰りには全部、花嫁の供奉《ぐぶ》につけるつもりでした。そしていよいよ大臣《ワジール》が、一行の先頭に立ち、旌旗を広げて、まさに出発の合図を下そうとすると、スライマーン・シャー王は、さらにひと時これを押しとどめて、大臣《ワジール》に言った、「とくに気をつけて、その若い乙女を連れずに、ここに戻ってくるようなことのないようにしてもらいたい。また遅延することなかれ、余は火の上で焼かれておるのだからな。」すると大臣《ワジール》は承わり畏まって答えました。そして一行を率いて出発し、夜に日をついで、大急ぎで旅しはじめ、山や谷、川や早瀬、荒野や沃野を越えて、とうとう今は白い都からわずか一日行程というところまで来ました。
すると大臣《ワジール》は、とある小川のほとりにとどまって休憩し、自分の来着をザハル・シャー王に知らせるために、早飛脚を立てて先発させました。
ところがちょうど、その飛脚が城門に着いて、市内に入ろうとしたところに、おりからその近くにある御苑のひとつで、涼をとっておられたザハル・シャー王は、その飛脚の姿を認めて、これは異国の者だと察せられたのでした。そこですぐにこれを呼びとめさせて、何者であるかお訊ねになった。飛脚は答えて、「私はしかじかの川のほとりに野営する、大臣《ワジール》何某の使者でござりまするが、大臣《ワジール》はわれらの主スライマーン・シャー、緑の都とイスパハーンの山々との主より、こちらさまに遣わされたる次第にござりまする。」
この報に接して、ザハル・シャー王はひじょうに悦ばれて、大臣《ワジール》の飛脚に飲み物を出させ、貴族《アミール》たちに、スライマーン・シャー王の大使を出迎えにゆくよう命令されました。スライマーン・シャー王の君主権といえば、もっとも僻陬《へきすう》の国々や、白い都の領土でさえも、尊敬せられていたのです。飛脚はザハル・シャー王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、申し上げた、「明日には大臣《ワジール》は到着いたしましょう。今は、なにとぞアッラーがわが君に高きご恩顧をつづけたまい、亡きご近親に恩寵と慈悲を垂れたまわんことを。」こちらはかような次第でありました。
ところで、スライマーン・シャー王の大臣《ワジール》はと申すと、彼は夜半まで、その河辺にとどまって休息して、そこでふたたび白い都の方角を指して行進をはじめ、そして日の上がるころには、都の城門に着きました。
このとき大臣《ワジール》は、差し迫った用を足し、ゆるゆると小便をしようとて、しばらく立ちどまりました。そしてし終えると、そこにザハル・シャー王の総理|大臣《ワジール》が、侍従や王国の大官や貴族《アミール》や名士たちとともに、自分を迎えに来るのを認めた。そこで急いで、今|手水《ちようず》を使うため用いた水差《みずさし》瓶を奴隷のひとりに返して、あわててふたたび馬に乗りました。そして、双方から慣例の挨拶を終わり、歓迎の祝辞をすましてから、一行とその行列は、白い都に入ったのでありました。
一同が王の御殿の前に着くと、大臣《ワジール》は馬からおり、侍従長に案内されて、玉座の間《ま》にはいりました。
その広間には、真珠と宝石をちりばめた、透きとおった白大理石の丈《たけ》の高い玉座が見られたが、それはおのおの一本のままの象牙で作られた、ひじょうに高い四本の脚で支えられていました。その玉座の上には、金銅の金箔を一面に刺繍し、黄金の縁飾りと総《ふさ》を飾った、木理《もくめ》のついた緑の緞子《どんす》の、大きな座蒲団《クツシヨン》が載せてありました。またその玉座の上には、黄金、宝石、象牙をちりばめて燦爛と煌《きら》めく、天蓋がありました。そして件《くだん》の玉座の上に、ザハル・シャー王が坐っておられて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつものようにつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百八夜になると[#「けれども第百八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてくだんの玉座の上に、ザハル・シャー王が坐っておられて、周囲には王国の主だった人物と、王の命令を待ってじっと控えている警護の者どもが、い流れておりました。
これを見ると、スライマーン・シャー王の大臣《ワジール》は、霊感が自分の精神を照らし、雄弁が自分の舌をほぐして、味わい深いことばにいざなうのをおぼえた。そこですぐに、ふぜいある身ごなしで、大臣《ワジール》はザハル・シャー王のほうに向かい、王のために、次の詩節を即吟したのでありました。
[#ここから2字下げ]
天顔を拝し、わが心そのものもわれを見棄てて、みもとへと飛び行きぬ。また眠りそのものもわが眼より遠くのがれて、われをば苦しみに置き去りぬ。
おおわが心よ、さらば汝はすでにかの君の許にあるならば、今あるところにとどまれよ。われは汝をかの君に委《ゆだ》ぬべし、汝こそはわが身にもっとも愛《いとお》しく、もっとも緊要とするところとはいえ。
万人の心の王、ザハル・シャーの讃歌を歌い得る人々の声にもまして、わが耳を快く休め得んものはよもあらじ。
われたとえただひとたびなりと、親しく竜顔を拝してのち、ふたたび咫尺《しせき》し奉る幸《さち》を得ずして、終生を過ごすとも、そは永久にわれを豊かならしむべし。
おおおんみら、この盛王をめぐるご一統よ、もし何ぴとかあって、ザハル・シャーの聖徳を凌ぐ王を見しことありと称しなば、そは虚言の徒にして、断じて真の信徒ならざるものと知れよかし。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの一詩を誦し終えると、大臣《ワジール》はそのほか何も言わずに、口をつぐみました。するとザハル・シャー王は、これを玉座近くに召して、ご自分のかたわらに坐らせ、にこやかに微笑を浮かべ、好意と寛大のこのうえなく明らかなしるしを示しつつ、しばらくの間歓語なすった。それから、王は大臣《ワジール》のために卓布を広げさせ、一同坐って、腹満ちるまで飲食した。それがすむとはじめて、王は大臣《ワジール》と差し向かいになることを望まれ、そこで主な侍従たちと王国の総理|大臣《ワジール》を除いて、全部退出したのでありました。
するとスライマーン・シャー王の大臣《ワジール》は、すっくと立ち上がって、今一度ご挨拶申し、お辞儀をしてから、申しました、「おお仁侠満てる大王よ、私は、われわれすべてにとって、その結果は祝福とめでたき結実と繁栄に満ちたものと存ぜらるる用件にて、みもとへと参上いたしました次第でございまする。わが使命の目的は、まことに、価値と優雅、高貴と淑徳満てる、当家の御王女をば、わが主にしてわが頭上の冠、スライマーン・シャー王、緑の都とイスパハーンの山々の光栄満てる帝王《スルターン》の、お后にご所望つかまつることでございます。そのために私は、わが主君が、陛下をば義父と仰ぎたき希望の熱意のほどをお目にかけんとて、豊かなるご進物と豪奢なる品々をば携えて、みもとへと参上いたしました。されば親しく御口より、はたして陛下も等しくこの希望を与《とも》にあそばさるるや、わが主君にその願望の的《まと》を授けたもうや否や、承わることができればと、存ずる次第にござりまする。」
ザハル・シャー王は、この大臣《ワジール》の申すところを聞かれると、つと立ち上がって、床《ゆか》まで身をかがめられました。侍従や貴族《アミール》たちは、王ともあろうものが、単なる一介の大臣《ワジール》に、これほど深く敬意を表するのを見て、このうえなく驚きました。けれども王は、そのまま大臣《ワジール》の前に立ちつづけて、これに言われた、「おお、気転と知恵、雄弁と高邁を授けられたる大臣《ワジール》よ、余のこれより申すところを聴かれよ。余はみずからをばスライマーン・シャー王の一介の臣と心得ておる次第なれば、王のご一家、ご眷属の間に数えられ得ることは、身のこのうえなき光栄と存ずる。さればわが娘は、今後もはや王の奴隷のうちの一奴隷にすぎぬ。ただ今このときよりして、娘は王の物であり、王の所有であるぞよ。以上が、スライマーン・シャー王、われら一同の君主、緑の都とイスパハーンの山々の領主のご所望に対する、余のお答えである。」
そして王はすぐに法官《カーデイ》と証人を呼んで、ザハル・シャー王の王女とスライマーン・シャー王との結婚契約書を作製させました。そして王は喜色を浮かべて契約書に唇をあて、法官《カーデイ》と証人らの祝辞と祈願を受け、彼ら一同に恩恵の限りをつくした。そして大臣《ワジール》のために盛宴を張り、盛んな祝宴を催して全住民の心と眼を悦ばせ、富めるにも貧しきにも、食糧と引出物をわかたれました。それから出発の準備をととのえさせ、王女のために奴隷を選びなさった、ギリシア女とトルコ女、黒人と白人の女なぞを。また王女のために、真珠と宝石をちりばめた、金無垢の大きな輿《こし》を作らせて、これをきちんと並んだ十頭のらばの背に載せさせた。そして行列は行進しはじめたのでありました。その輿《こし》は、朝の微光のうちに、さながら妖霊《ジン》の宮殿のなかのひとつの宮殿のように見え、そして面衣《ヴエール》に包まれた若い王女は、天国のもっとも美しい天女《フーリー》たちのなかの、一人の天女《フーリー》さながらに見えたのでありました。
ザハル・シャー王はご自身、三パラサンジュのあいだ一行についてこられ、それから王女と大臣《ワジール》と供の人々に別れを告げて、満悦の極みで、将来の希望に充ち満ちて、ご自分の都へと帰られました。
さて大臣《ワジール》と行列のほうは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、自分の物語を翌日にのばした。
[#地付き]けれども第百九夜になると[#「けれども第百九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
さて大臣《ワジール》と行列のほうは、つつがなく旅をつづけて、緑の都から三日行程のところに着くと、早飛脚を立てて、スライマーン・シャー王に帰還をお知らせしました。
お后《きさき》の来着を知ると、王は嬉しくてわくわくせられ、知らせの飛脚に、みごとな誉れの衣をとらせました。そして全軍に下知《げじ》して、全部の旗を広げて、花嫁の出迎えに行かせた。触れ役人たちは全市民をその行列に誘い、家にはただ一人の女、ただ一人の若い娘、またたとい耄碌《もうろく》したり、からだがきかなくなったりしていようとも、ただ一人の老婆も、残ることがないようにと伝えた。そこでだれひとり、花嫁を迎えに家を出ずにはいなかった次第でした。そしてこの人々が全部、王女の輿のまわりに集まったとき、都入りは、夜、はなばなしく行なわれることに定まりました。
そこで、夜になると、都の名士たちは自分で費用を出して、あらゆる街々と王の御殿に通ずる道筋に、火をいれさせました。そしてみんなは沿道に二列に並び、通路には兵士たちが左右に堵列し、道中一帯に、明かりは澄んだ大気のなかに煌々と照り渡り、大太鼓は殷々と轟き、ラッパは声高く歌い、旗は頭上にはためき、香は香炉に、街頭に、広場に燻《く》ゆり、騎手は槍や投槍を振るいました。そして彼ら一同のまん中に、黒人と白人奴隷《ママーリーク》を先に立て、自分の奴隷と侍女どもを後ろに従えて、新婦は、父王にいただいた美々しい衣服を着けて、イスパハーンの都にある、新郎スライマーン・シャー王の御殿へと到着いたしました。
すると若い奴隷どもはらばを解き放して、全人民と全軍隊の歓呼の絶叫のさなかに、その輿を肩にかついで、これを忍びの門まで運びました。そこで、若い女と侍女たちが男奴隷に代わって、花嫁をご自分の部屋に送り入れた。するとたちまち、部屋は花嫁の眼の前で輝きわたり、燈火《ともしび》はその顔の美しさで光薄れてしまった。花嫁は、女たちすべてのまん中で、星の間の月のごとく、また頸環《くびわ》のまん中の単玉の真珠のごとくに、見えました。それから若い女たちと侍女たちは、若い姫を、真珠と宝石で飾った象牙の大きな寝台に寝かしてから、部屋を出て、戸口から廊下のはずれまで、ずっと二列に並びました。
そのときになるとはじめて、スライマーン・シャー王は、これらの生きた綺羅星すべての作る人垣の間を通って、部屋にはいり、香り高く盛装した乙女の横たわる、象牙の寝台のところまでゆきました。するとアッラーはそのときすぐさま、王の心中にひじょうな欲情をかき立て、この処女に対する恋情を王にお与えになった。そして王はこの処女の身をわがものとし、至福のうちにそれを満喫し、この臥床《ふしど》の上に、腿と腕の間に、いっさいの待ち焦がれた苦しみと待ちわびた思いを、お忘れになったのでした。
そして王はまるひと月の間、ただのひと時もそばを離れず、若いお后の部屋にとどまった。それほどお二人の間はねんごろで、お互いに性に合ったわけでした。そして王は初夜早々、お后を身籠らせなすったのでありました。
それがすむと、王は裁きの玉座に坐りにお出ましになり、臣下の福祉のため国務をお執りになったが、夕となれば、欠かさずお后の部屋を訪ねてゆき、こうして九カ月目になりました。
ところが、この第九カ月目の晦日《みそか》の夜になると、女王は陣痛に襲われて、分娩椅子におつきになり、そして明け方、アッラーは安産させて下さって、女王は幸運と仕合せの徴《しるし》を帯びた、ひとりの男児を産み落とされた。
この誕生の知らせを聞かれるとすぐに、王は心がのびのびするかぎりのびのびせられ、ひじょうな悦びを悦ばれて、知らせた者にたいそうりっぱな引出物を与えられた。それからお后のお床《とこ》に駈けつけて、赤子を腕に抱きあげ、両方の眼の間に接吻し、その美しさに感嘆なさり、次の詩人の詩句が、どんなにこの子にぴったりあてはまるか、おさとりになりました。
[#ここから2字下げ]
生まれ落つるや、アッラーはこれに光栄と無上の高さを授けたまい、これを新星のごとく昇らしめたまえり。
おお、その乳房豊麗柔媚の乳母《めのと》らよ、これを汝らの躰躯の曲線に慣らすことなかれ。なんとなれば、その唯一の乗り料は、獅子と駻馬のたくましき背なるべし。
おお、その乳のあまりに甘くあまりに白き乳母《めのと》らよ、いそぎこれより汝らの乳を離すべし。なんとなれば、仇敵の血こそ、これにもっとも甘美の飲料たるべし。
[#ここで字下げ終わり]
そこで侍女と乳母たちがこの嬰児《みどりご》の世話をして、産婆たちはその臍の緒を切り、黒い瞼墨《コフル》で眼を長く引きました。そしてこのお子は、歴代王者の王子たる王と、歴代女王の王女たる后との間に生まれなすって、まことに美しく輝かしいお子であったので、その名を「王冠」と呼びました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百十夜になると[#「けれども第百十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その名を「王冠」と呼びました。そしてこのお子は、接吻のただなかと、もっとも美しい女たちの懐ろのなかで育てられ、日々がたち、星霜がたち、いよいよ七歳と相成りました。
すると父君スライマーン・シャー王は、もっとも学識深い師を呼んで、彼らに書道、文芸、処世術、ならびに措辞法と法律学の規則を、王子に教えるよう命令なさいました。
その学問の師たちは、王子が十四歳になるまでおそばに付いていたが、その年になると、王子は父王が学ぶように望まれたいっさいを学び終え、まさに誉れの衣にふさわしいものと判定された。そこで王はこれを学者たちの手から離して、一人の馬術の師に委ねて、乗馬と槍投の術と隼《はやぶさ》を使う鹿狩りを教えさせた。こうして王冠太子はやがてもっとも立派な騎士になり、一点の非のうちどころなく美しくなられたので、徒歩や馬で外出なさるときには、王子の姿を見る者をみな地獄の責苦にあわせた次第でした。
そして十五の歳に達すると、この若人《わこうど》の魅力は、詩人たちがこのうえなく熱烈な恋歌を捧げたほどになり、賢人たちのなかでもっとも身持ちよく、もっとも純潔な人々さえも、王子が蔵するいっさいの魔法の魅力ゆえに、心が千々《ちぢ》に砕け、胆がこなごなになる思いをしました。ここに、ある恋する詩人が、王子の明眸のために物した詩のひとつがあります。
[#ここから2字下げ]
これを抱くは、その息吹《いぶき》の、麝香の香に酔うことなり。抱擁の下《もと》に、ただ微風と露のみに養われし、嫋《しな》やかの小枝《さえだ》のごとき、その肉体の撓《たわ》むを感ずることなり。いかなる酒もなくして、酔うことなり。
「美」そのものすら、朝《あした》眼覚むれば、おのが鏡にわが身を見て、おのれはかの君の臣、囚われ人と認むなり。さらばましてや、おおわが狂気よ、いかんぞ人間の心にして、かの君の美よりのがれ得んや。
アッラーにかけて、アッラーにかけて、もしわれなお生き得べくんば、われは心に、その火傷を負いて生くるべし。さあれ、わが情熱とその思いのゆえに、われもし死に到らば、そはわが最後の幸福ならん。
[#ここで字下げ終わり]
こうしたすべては、王子が齢《よわい》十五のときのこと。けれども、十八歳に達すると、事はがらりと変わりました。生え始めた薄髭が、頬のばら色の肌《きめ》を天鵞絨《ビロード》のようにし、黒い竜涎香が、その頤《あご》の白さの上に一滴の美を点じた。そのときは、疑う余地もなく王子は、詩人がそれについて言っているように、あらゆる理性とあらゆる眼を、奪ったのでありました。
[#ここから2字下げ]
その眼差《まなざし》よ。身を焼かずして火に近づくは、その眼差ほど驚くにあたらざること。おお、妖術師よ、なにとてもわれはいまだ生あるにや、君が眼差の下《もと》に、わが生を過ごす身なるに。
その頬よ。その透きとおる頬に薄毛生うるとも、そはけっして万人の頬のごとき薄毛にあらずして、秘やかの金色《こんじき》の絹《すずし》なり。
その口よ。わがもとに来たって迂闊に尋ぬる者あり、不死の霊液とその霊泉は、いずこにありや、いかなる地に、不死の霊液と霊泉は流るるやと。
われは彼らに言う、「不死の霊液をわれは知る、その霊泉もわれは知る……。
そは、華奢に優しき若人《わこうど》、若鹿、頸《うなじ》柔らかにかしげたる若人、身なよやかの若人の、その口ぞかし。
そは、細らかにして身も軽きわが友、深紅なる口の若人、その潤おう唇にこそあれ。」
[#ここで字下げ終わり]
けれどもこうしたすべては、王子が十八歳のときのこと。というのは、いよいよ成人の齢《よわい》に達すると、王冠太子は、東西南北、あらゆる回教国で名を挙げられる亀鑑となったほど、目ざましい美丈夫となったのでした。そこで友人親友の数もひじょうなもので、周囲の人はすべて、王子が人々の心に君臨するように、王国に君臨する日を見たいと、せつに願ったのでありました。
その頃、王冠太子は、たえず留守をして、父君母君に多大のご心配をおかけするにもかかわらず、森や林を駈けまわる狩猟と遠征に、すっかり凝ってしまいました。そしてある日のこと、王子は奴隷に十日間の食糧を携えることを命じて、彼らといっしょに、徒歩と馬上の猟に出かけました。そして一行は四日のあいだ進んで、とうとう、あらゆる種類の野獣の住む森が一面にあり、無数の泉と流れのある、狩に絶好の地に着きました。
そこで王冠太子は、狩猟の合図を下しました。ただちに、草木の繁ったひじょうに広い地域のまわりに、ぐるりと大きな縄網を張り、勢子《せこ》は周囲から中心のほうに向かって活躍し、あわてふためく全部の動物を、自分たちの前に追い立て、こうしてそれを中心のほうに、狩り出した。頃合いを見て、豺《やまいぬ》と犬と鷹を放ち、狩り出しにくい獣《けもの》を追わせた。こうしてその日は、馬上の狩をして、かもしかその他あらゆる種類の獲物を、大量に獲《え》たのでした。それはまた狩猟用の豺と猟犬と鷹にとっても、大ご馳走だった。そこでひとたび猟が終わると、王冠太子は川のほとりに腰をおろして、しばらく休息し、獲物を猟師たちに分かち、いちばんみごとな分け前をば、父君スライマーン・シャー王に取っておきました。それからその夜は、その場所に、朝まで眠ったのでありました。
ところが、一同眼が覚めたと思うと、自分たちのそばに、大きな隊商《キヤラヴアン》の一行が、夜のうちに到着して、天幕《テント》を張っているのが見えました。やがて天幕《テント》から、黒人の奴隷やら商人やら大勢の人々が出て来て、川に手水を使いにおりてゆくのが見えました。そこで、王冠太子は家来の一人をやって、その人たちのところに、本国と身分を問わせました。使は帰って来て、王冠太子に言った、「あの人々は私にこう申しました。私どもは商人でございまして、この緑地の緑と、この流れる快い水にひかれて、ここに野営いたしました。私どもは、ここにいれば、身に何の心配もないことを承知しております。なぜなれば、私どもはスライマーン・シャー王の安全しごくのご領地にいるので、王の英明のご高名は、津々浦々にまで聞こえ、あらゆる旅人を安堵させておりまする。それに私どもは王さまに、とりわけ王子の、ごりっぱな王冠太子さまのために、贈物として、かずかずのりっぱな値い高き品々をたずさえてまいりました。」
この言葉に王子、うるわしい王冠太子は答えた、「いかにもアッラーにかけて、もしその商人どもが、余に贈るそのようにりっぱな品々を持っているとあらば、われわれがこちらから、彼らに会いにゆかぬという法はあるまい。それに、そうすれば、われわれの朝を愉快に過ごせるというものであろう。」そこでさっそく王冠太子は、友人の猟師たちを従えて、隊商《キヤラヴアン》の天幕《テント》のほうに向かいました。
商人たちは王子が来られるのを見、それがどなたかを知ると、一同そろってお出迎えに出て、自分たちの天幕《テント》の下におはいり下さるように招じ、即座に、鳥や獣《けもの》の色とりどりの模様で飾り、インドの絹とカシミヤの切れで壁を蔽った、赤繻子の貴賓用の天幕《テント》を張りました。そして王子のために、上等な碧玉《エメラルド》をまじえた幾条もの縁《へり》で周囲を飾った、すばらしい絹の絨氈の上に、みごとな座蒲団《クツシヨン》を置いた。そこで王冠太子はその絨氈の上に坐って、座蒲団《クツシヨン》にもたれ、そして商人たちに、商品を並べて見せるように命じました。商人たちがそれぞれの商品全部を並べて、お目にかけると、王子はその山のなかから、いちばん自分の気にいったものを選び、繰り返し辞退するにもかかわらず、しいて彼らにその代金を取らせ、たっぷりと支払ってやったのでした。
それから、全部の買物を奴隷どもに取りまとめさせて、王子はふたたび馬に乗って狩猟に戻ろうと思ったところ、そのとき突然ご自分の前に、商人の間に、一人の若い男を見かけられた……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、自分の話を翌日にのばした。
[#地付き]けれども第百十一夜になると[#「けれども第百十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……一人の、きわだって蒼白く、驚くばかり美貌で、たいへん美しい着物を着た、若い男を見かけられたのでした。けれども、いかにも蒼白く美しいその顔には、たとえば、父とか、母とか、あるいはひじょうに仲のよい友達とかがいないとでもいうような、深い悲しみの跡が刻まれていました。
すると王冠太子は、なにかそのほうに心がひかれて、この美貌の若者と知り合いにならずに、遠ざかる気にどうもなれなかったのでした。そこでこれに近づいて平安を祈り、どういう者か、なぜそんなに悲しげなのかと、親身に訊ねました。ところが、そう問われると、その美貌の若者は両眼に涙をたたえて、ただひと言「私はアズィーズです」としか言えず、わっと泣き伏してしまった。
彼がすこしく心静まったとき、王冠太子はこれに言った、「おおアズィーズよ、知るがよい。私はおまえの友なのだ。まあおまえの苦しみのわけを聞かせてみよ。」けれども若いアズィーズは、答えるかわりに、自分に向かって言うかのように、次の詩句を誦するだけでした。
[#ここから2字下げ]
かのひとの眼《まなこ》の、魔術師の眼差を避けよ。何ぴともその眼窩《がんか》の圏外にのがれいずることなければなり。黒き眼はそが悩ましきときは恐ろし。
またことに、かのひとの言葉の甘きに、耳傾くることなかれ。火の酒にして、そはもっとも賢《さか》しき者の分別をも醗酵せしむればなり。
君かの女《ひと》を知りもせば。その眼差はかくも優し。またその絹の肉体は、もし天鵞絨《ビロード》に触れなば、これを永久に柔らかならしむるべし。
黄金の環をめぐらせるその踝《くるぶし》と、黒き瞼墨《コフル》をめぐらせるその眼《まなこ》との、距離《へだたり》はいちじるし。
ああ、かのひとの衣《ころも》のいみじき香、ばら香精を放つかのひとの息吹《いぶき》、今いずこにかある。
[#ここで字下げ終わり]
王冠太子はこの歌を聞くと、さしあたり、あまりしいて訊ねようとはせず、まず話をまじえようとて、これに言いました、「おおアズィーズよ、なぜおまえは他のすべての商人たちのように、自分の商品を余に並べて見せてはくれなかったのか。」彼は答えて、「おおお殿さま、私の商品は、とうてい王子さまなどにお目にかけるようなものは、何ひとつございません。」けれども美しい王冠太子は、美しいアズィーズに言われた、「アッラーにかけて、とにかくまあ見せてもらいたい。」そして若いアズィーズに、絹の絨氈の上のご自分のそばに、むりに坐らせて、その商品全部を、ひと品ひと品並べさせました。そして王冠太子は、美しい布地をろくに見もせずに、数えずに全部買い上げて、これに言った、「さて、アズィーズよ、おまえの苦しみの動機《いわれ》を余に話してはどうか……。見ればおまえの眼は涙溢れ、心は思い悩んでいるようだ。ところで、もしおまえが迫害を受けているものなら、余がその迫害者どもを懲らしてやろうし、負債があるものなら、余が進んでその負債を払ってとらせよう。というのは、余はなにかおまえに心ひかれる気がし、余の臓腑はおまえのために燃えたつ思いがしているのだ。」
けれども若いアズィーズは、この言葉に、またもや嗚咽《おえつ》に息のつまる思いで、ただ次の詩節を歌うことしかできなかった。
[#ここから2字下げ]
ああ、青き瞼墨《コフル》をひきし汝《な》が切れ長き眼の媚《こび》よ。ああ。
揺らぐ汝《な》が腰の上に直《すぐ》なる汝《な》が身の嫋《たお》やかさよ。ああ。
唇の美酒と口の蜜よ。胸乳《むなぢ》の曲線と、胸乳を花咲かす熾火《おきび》よ。ああ。
罪人の胸に救いの望み楽しきにもまして、汝を待つはわれに楽し。おお夜よ。ああ。
[#ここで字下げ終わり]
この歌を聞いて、王冠太子は気をまぎらそうとて、買った美しい布地と絹織物をひとつひとつ、改めて調べはじめました。ところが突然、布地の間から、刺繍をした四角な絹切れが、王子の手からはらりと落ちると、若いアズィーズはすぐにあわてて、いそいでそれを拾い上げた。そして顫えながらそれをたたんで、自分の膝の下に隠したものです。そして叫んだ。
[#ここから2字下げ]
おおアズィーザ、わが愛《いと》しき恋人よ、昴《すばる》の七星も君よりは達するにかたからず。
君なくして、今はわれ、悄然といずこに往かん。今よりはいかにして、わが身に重き君の不在を耐うべきか、われはおのが衣の重さにも耐えかぬるものを。
[#ここで字下げ終わり]
美しいアズィーズのこの取り乱した挙動を見、この最後の詩句を聞くと、王子はすっかりびっくりして、好奇心やみがたく、叫んだ……
[#ここから1字下げ]
――ここまで話したとき、大臣《ワジール》の娘シャハラザードは朝が近づくのを見て、元来つつましい女であったので、与えられた許しに、甘えようとはしなかった。
すると妹の小さなドニアザードは、今まで息を凝らしてこの物語すべてに聴きいっていたが、そのとき、自分のうずくまっている場所から叫んだ、「おお、シャハラザード姉さま、なんとあなたのお言葉は、心地よく、優しく、清らかで、味わいぶかく、みずみずしさのうちに風味よろしいのでございましょう。そしてなんとこのお話は面白く、詩はいずれもみなみごとなことでございましょう。」
するとシャハラザードは、妹に微笑みかけて言った、「そうですね、妹よ。けれども、もしアッラーの御恵みと王さまの思し召しで、わたくしになお生命《いのち》がありますならば、明晩お二人にお話し申すものに比べると、このお話などはものの数ではございません。」
するとシャハリヤール王は心の中で言った、「アッラーにかけて、この物語のつづきを聞いてしまうまでは、この女を殺すまい。これはまことに、じつもって不思議な驚くべき物語だわい。」
次に王はシャハラザードを腕に抱いた。そして二人は残りの夜を、日の上るまで、相抱いて過ごした。
そのあとで、シャハリヤール王はその裁きの間《ま》に出かけた。そして政務所《デイワーン》は大臣《ワジール》、貴族《アミール》、侍従、警吏、公事係などの群れで、いっぱいになった。総理|大臣《ワジール》もまた、娘のシャハラザードはもう死んだものと思って、娘に着せる経《きよう》帷子《かたびら》を腕に抱えてやって来た。しかし王はそれについては何事も言わずに、裁きをしたり、役目に任じたり、罷免したり、未済の事務を処理したり、終了したりして、日の暮れるまでこれをつづけた。次に政務所《デイワーン》は閉ざされ、王は御殿に帰った。そこで大臣《ワジール》は思い惑って、驚きの無上の極に達した。
けれども夜になるとすぐに、シャハリヤール王はシャハラザードの部屋にたずねて行って、これといつものことをするのを欠かさなかった。
[#地付き]そして第百十二夜のことであった[#「そして第百十二夜のことであった」はゴシック体]
さて小さなドニアザードは、ひとたび事がすむと、敷物から立ち上がって、シャハラザードに言った。
「おお、お姉さま、どうぞあの大臣《ワジール》ダンダーンが、コンスタンティニアの城下で、ダウーンマカーン王にお話ししたという、うるわしい王冠太子とアズィーズとアズィーザの、あのように面白いお話の先をつづけて下さいませ。」
そこでシャハラザードは妹に微笑みかけて、言った、「ええ、よろしゅうございますとも。心から悦んで当然の敬意として。けれども、このお育ちよく、雅びな挙措を授けられた、王さまのお許しのないうちはかないません。」
するとシャハリヤール王は、熱心にそのつづきを待っていて、眠れないくらいであったので、すぐに言った、「話すがよい。」
そこでシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、王冠太子は次のように叫ばれたのでございました、「おおアズィーズ、何をそんなに隠すのか。」けれどもアズィーズは答えます、「おお殿さま、まさしくこの品があったればこそ、私は最初から、自分の商品を御前に並べるのをご辞退した次第でございます。こうなってはいったいどうしようか。」そして魂の底から溜息を洩らした。けれども王冠太子がたってとせがみ、言葉をつくして優しく言ったので、若いアズィーズも遂には次のように言ったのでした。
「さればでございます、おおわがご主人さま、この四角な布切れについての、私の物語はまことに奇妙なことでございまして、それは私にとっては、甘く、苦い思い出に満ちております。というのは、この二重《ふたえ》の布切れを私にくれた女たちのあでやかさは、いつまでも私の眼前から消え去ることはありますまい。最初の布切れをくれた女は、アズィーザと申しますが、もうひとりのほうは、今のところ、その名を口に出すのはせつないのです。というのは、この私を今のような有様にしたのは、その女が、みずから手を下してのしわざなのでございます。けれども、もう私はこうしたことを言い出してしまったからには、委細お話し申し上げることにいたしましょう。それはかならずやご退屈しのぎとなり、またうやうやしく聞く人々をば、教えるところあることでございましょう。」
それから若いアズィーズは自分の膝の下から、その布切れを取り出して、二人の坐っている絨氈の上に、それを広げてみせました。
すると王冠太子は、そこに別々の、二枚の四角の切れがあるのを見ました。絹製のもので、一方の四角の切れの上には、金銅の糸とあらゆる色の絹糸で、一頭のかもしかが刺繍されており、今一方の四角の切れの上にも、やはり一頭のかもしかが描かれていたが、それは銀糸で刺繍され、首には金銅の首輪がついていて、そこから三つのヤマーン産の橄欖《かんらん》石が垂れさがっていました。
これらのかもしかを見て、王子は叫びました、「おのが創《つく》りたまいし者の心中に、これほどの技巧《たくみ》を置きたまいし者に光栄あれ。」次に美貌の若者に向かって言った。
「おおアズィーズよ、どうかお願いだ、急いでそのアズィーザと、第二のかもしかの女との、おまえの物語を、われわれに語って聞かせてくれ。」すると美男のアズィーズは、王冠太子に申しました。
美男アズィーズの物語
さればお聞き下さい、わが若殿さまよ、私の父は豪商のなかの一人でございまして、私よりほかに子供とてありませんでした。しかし私には一人の従妹《いとこ》があって、その従妹は、父親が亡くなったために、私といっしょに私の父の家で育てられました。
ところでその伯父は亡くなるまえに、私たち、従妹《いとこ》と私が成年に達したら、いっしょに結婚させるという約束を、私の父母から得ておりました。そこで私たちはいつも二人いっしょに置かれ、こうしてお互いになじみ合い、夜も別々にされずに、同じ寝床に寝かされました。〔(38)それに私たちも、そうしたところで、何か不都合があろうとはつゆ思いませんでした。もっとも従妹のほうは、こうした問題については、私よりもずっと明るく、よく知ってもいたし、通じてもいたのでしたが。それは彼女が腕で私を抱き締めたり、ぴったり寄り添って眠りながら、腿で締めつけたりしたそぶりを考えてみると、あとになってそう思われるふしがあるのでございます。〕
こうしているうちに、私たちがちょうど所定の年齢に達したので、父は母に申しました、「今年はぐずぐずせずに、家の息子のアズィーズを従妹《いとこ》のアズィーザと結婚させずばなるまい。」そして父母は、契約を認《したた》める日取りをきめて、すぐに儀式の祝宴の準備をしはじめ、父は親戚知友を招きに行って言いました、「この金曜日、礼拝のあとで、われわれはアズィーズとアズィーザの結婚の契約を認めますから。」一方母も、知り合いの婦人全部と、近親の婦人全部に、そのことを知らせに行きました。そして招客を歓迎しようと、母をはじめ家中の女は、応接室の大掃除をして、床《ゆか》の大理石をきらきら光らせ、そこに敷物を敷き、大きな箱にしまっておいた、美しい布と黄金細工をほどこした緞帳で、壁を飾りました。また父のほうは、捏粉菓子や砂糖菓子の註文をし、飲物類の大きな器《うつわ》をしたくし、きちんと並べることを引き受けました。最後に私は母に言われて、定刻に先だって、浴場《ハンマーム》に風呂をつかいにやられましたが、母は抜かりなく一人の奴隷をつけて、いちばん上等な、真新しい美しい着物を持たせ、浴後私に着せるようにしました。
そこで私は浴場《ハンマーム》に出かけ、風呂から上がると、その豪奢な晴着を着ましたが、それにはすっかり香水がつけてあって、ひじょうな高い香気を放ち、私が通ると、道行く人は立ちどまって、空中に漂う匂いを吸ったほどでした。
そこで私は、その金曜日の儀式に先だつ礼拝をするために、回教寺院《マスジツト》のほうに向かってゆきましたが、ふと途中で、一人の友人を招くのを忘れていたことを、思い出しました。そして遅れてはならぬと大急ぎで歩きだしましたが、それに気をとられて、いつか見知らぬ小路に迷いこんでしまいました。そのとき私は熱い風呂のせいと、硬い布の新しい着物のせいもあって、汗びっしょりになっていたので、その小路の涼しい日蔭を幸い、壁にそった腰掛の上にしばらく腰をおろすことにしました。けれども、腰をおろすまえに、私は隠しから、金糸の刺繍をした手帛《ハンケチ》を取り出して、それを自分の下に敷きました。ところが暑気がはなはだしく、汗がまだ額から顔に流れつづけますが、手帛《ハンケチ》は下に敷いてしまったので、汗を拭うものが何もない。すっかり困ってしまいましたが、するとそのせつなさのため、いっそう汗がひどく出る始末。とうとう、こんな不快な当惑を脱しようとて、新しい着物の裾をまくって、それでもって頬を伝う玉の汗を拭おうとすると、そのとき突然、私の前に、微風の息吹のようにふわりと、絹の白い手帛《ハンケチ》が落ちて来ました。それは見ただけで、もう私の魂を涼しくし、その香りは病弱の人をも治したことでしょう。私は急いでそれを拾い上げ、これはいったいどうしたことかと、頭上を見上げました。すると私の眼は、ひとりの若い女の眼と出会いました。これこそ、おお殿よ、やがてこの話のあとで、四角な布切れの上に刺繍した、最初のかもしかを私にくれる女なのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百十三夜になると[#「けれども第百十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
見ればその女は、二階の透し彫りをほどこした窓に、身をかがめ、にこやかに微笑んでいました。その美しさを言い現わそうなどとはいたしますまい。私の舌はそれには事実、不調法すぎます。
ただこれだけはご承知下さい。その若い娘は、私がじっと見つめているのに気づくとすぐに、次のような合図をしたのです。まず自分の食指《ひとさしゆび》を唇の間に押し入れ、それから中指をまげて、左の食指《ひとさしゆび》にぴったりくっつけ、そのままそれをば乳の間に持って行ったのでした。そうしてから、その女は頭をひっこめ、ふたたび窓をしめて、姿を消してしまいました。
私は茫然として、あっけにとられ、そして突然欲情に燃えて、じっとその窓のほうを見つめて、自分の魂を奪ったこの幻を、今一度見たいと望んだが空しく、窓は頑として閉じています。そしてそのまま、自分の結婚の契約のことも、許嫁《いいなずけ》のことも忘れはてて、日の沈むまで、その腰掛の上で待ち暮らし、いよいよ待ってもかいないとはっきりわかるまで、望みをたたなかったのでありました。
そこで、私はいたく思い悩みながら立ち上がり、わが家に向かいました。みちみち、私は例の手帛《ハンケチ》を広げはじめましたが、ただその香りをかいだだけで、もう天国にいるような気がしたほど、激しく心を悦ばせるのでした。それを全部広げてみますと、その一方の片隅に、次のような詩句が、みごとな組合せ書体で、書きしるされているのが目に入りました。
[#ここから2字下げ]
われは試みにこのか細く入り組める水茎もて、彼にわが魂の熱き思いを知らさんとて、歎かいみたり。およそ水茎はそを工夫する魂の跡形《あとかた》そのものなれば。
さあれ彼はわれに言いぬ、「君が水茎の、なにゆえにかくもか細く思い悩むにや、わが眼に消《け》ぬがに見ゆるものを。」
われは答えぬ、「このわが身すでにいたく思い悩みてあればなり。そもそも君は、ここに恋のしるしを見わかたぬ迂闊《うかつ》の人なりや。」
[#ここで字下げ終わり]
そして手帛《ハンケチ》の他の一隅には、次の詩句が大きな楷書で、認めてありました。
[#ここから2字下げ]
竜涎香と連ねし真珠玉も、葉蔭なる林檎の淡紅色《ときいろ》の羞らいも、薄髭生いそめしその頬の光沢《つや》をば、よく汝に伝えがたからん。
汝もし死を求むとすれば、数知れぬ犠牲者をいだせしその眼の重き眼差の下に、これを見出すべし。さあれ汝の欲するが酔いなりとせば、しばらく掌酒子《しやくとり》の注ぐ酒をおけ。すでにこの掌酒子《しやくとり》の赤らむ頬のあるにあらずや。
また汝その清々《すがすが》しさを知りたくば、桃金嬢《ミルト》はこれを汝に告ぐべし。またそのしなやかさは、小枝の撓《たわ》みこれを告ぐべし。
[#ここで字下げ終わり]
そこで私は、おおご主人さま、もうすっかりのぼせあがってしまいましたが、とにかく日暮れ方、やっと自宅に着きました。すると伯父の娘、私の許嫁《いいなずけ》は涙にくれて坐っておりましたが、私の姿を見ると、急いで眼を拭って、私のところに来て、手を貸して着物をぬがせ、遅くなったわけを優しく訊ねながら、お客さまはみな、貴族《アミール》や豪商はじめその他の方々も、法官《カーデイ》と証人とともども、長い間私の来るのをお待ちになっていたけれども、いっこうに来ないので、とうとう飲み食いして、それぞれ自分の途に帰ってしまわれたというのでした。それから付け加えて申しました、「父上さまは、あなたがいつまでも戻らず、そのわけがわからぬとおっしゃって、もうたいへんなお腹立ちで、私どもの結婚は断じて来年まで延ばすと、固くおっしゃいました。けれども、おお叔父のお子さま、あなたはどうしてこんなことをなさいましたの。」
そこで私はこれに言いました、「これこれしかじかのことが起こったのだ。」そして事件を詳しく話して聞かせました。すぐに従妹《いとこ》はまっ青になって、私の差し出した手帛《ハンケチ》を手に取って、そこに書かれている文句を読み終わると、おびただしく涙を垂れたのでした。それから私に言いました、「ところで、その方はあなたになにか言いませんでしたか。」私は答えました、「ただ合図をしただけだが、それも私にはなんのことかてんでわからない。ぜひ説明して聞かせてもらいたいのだよ。」そして私は例の合図を真似して見せました。彼女は言いました、「おお私の大好きなお従兄《にい》さま、たといあなたが私に双の眼をくれとおっしゃったとしても、私はためらわず、あなたのために双の瞼《まぶた》から取り出して差し上げましょう。お聞き下さい、お心を安らかにするために、私はどこどこまでもお力添えして、夢中になっていらっしゃるその女の方と、うまくお逢えになるようにお計らいいたしましょう。というのは、その合図は私にとってはなんの秘密もないもので、それはその方があなたに思い焦がれていて、二日後にお会いするという意味を、表わしているのです。両乳の間に指を持っていったのは、二という数をきめているので、また唇の間に指を入れたのは、自分にとっては、あなたはわが魂に等しいものだということを見せているのです。あなたに対する私の愛は、私にどのようなお力添えでもさせることを、お信じ下さい。私はあなたがたお二人を、私の翼の下に入れてかばってさしあげましょう。」そこで私はその希望を与えてくれる親切な言葉に礼を述べました。そして逢引きの時間を待ちながら、二日間自宅におりました。私は思い悲しく、ずっと頭を従妹《いとこ》の膝に載せていましたが、従妹はたえず私を励まし、気を引き立ててくれました。そこで、いよいよ逢引きの時間が近づくと、従妹はまめまめしく手を貸して着物を着せてくれ、手ずから香水をかけてくれました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百十四夜になると[#「けれども第百十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
美男のアズィーズは、若い王冠太子に、次のように自分の身の上話をつづけたのでございます。
そして従妹《いとこ》は手ずから香水をかけ、私の着物の下に安息香を焚きこめてから、優しく私を抱いて言いました、「おお最愛の叔父のお子さま、いよいよお心のしずまる時刻となりました。元気を出して、やがて心安らかに満足して、ここに帰っていらっしゃいませ。今は私自身も、お心の平安を祈り上げます、あなたのお仕合せがなければ、私も仕合せではございませんから。けれども早くここにお帰りになって下さいね。私たち二人には、これからさき、まだうららかな日々があり、祝福された夜々があることでございましょう。」そこで私は努めて胸の動悸を静め、動揺する気持をおさえようとしながら、従妹《いとこ》に別れを告げて、外に出ました。蔭濃い小路に着くと、私は極度の昂奮状態で、例の腰掛に坐りに行きました。そして腰をおろしたと思うと、窓が少し開くのが見えました。とたんにめまいが眼の前を過ぎました。けれども気を取りなおして、窓のほうを見ますと、まさにこの眼で、乙女の姿を見たのです。このいとしい顔を見ると、私はふらふらして、腰掛の上によろめいてくずおれてしまいました。そして乙女はずっと窓のところで、眼にひらめきを浮かべて、私を見つめています。手にはこちらに見せるように、一面の鏡と赤い手帛《ハンケチ》を持っていました。けれどもやがて、ただのひと言も口をきかずに、両の袖をたくしあげて、腕を肩まであらわにし、それから手を開いて、五本の指を延ばし、自分の両方の乳にさわりました。次に、鏡と赤い手帛《ハンケチ》を持ったほうの腕を、窓の外に出し、手帛《ハンケチ》を上下に三度うち振ってから、その手帛《ハンケチ》を絞ってたたむしぐさをし、それから長いこと、私のほうに頭をかしげているうちに、いきなりひっ込んで、ふたたび窓をしめて、姿を消してしまいました。こうした次第で、しかもただの一語だって言いはしないのです。そこで残された私は、ほとほととほうに暮れて、いったいとどまっていればよいのやら、立ち去るべきなのやらわからず、いぶかりながら、そのまま夜中まで、何時間も何時間も窓を見つめて、その場にいたのでした。夜中になって、私はさまざまに思い悩みつつ、家に辿りつきますと、家には憐れな従妹《いとこ》が、涙を流して眼を赤くし、顔に悲しみとあきらめの色を浮かべて、待っておりました。私はもう力つきて、いくじもなく、地上にくずおれてしまいました。すると急いで駈けつけてきた従妹は、私を腕に抱きとめて、眼に接吻をして、自分の袖口で眼を拭ってくれ、私の気をしずめるために、ほんのりと花の水の香りをつけたシャーベットを一杯飲ませ、それから最後に、こんなに遅くなったわけと、悲しげな顔つきをしているわけを、優しく訊ねたのでした。
そこで私は、せつない疲れでへとへとになっていたけれども、従妹《いとこ》にすべての顛末を知らせ、好ましい見知らぬ女のしぐさを、繰り返して見せました。すると、従妹《いとこ》のアズィーザは言いました、「おおわが心のアズィーズさま、そのしぐさ、わけて五本の指と鏡の意味は、私の見るところでは、その若い方は五日後に、小路のかどの染物屋に、文《ふみ》を届けるということですわ。」そこで私は叫びました、「おおわが心の娘よ、どうかその言葉がほんとうであってくれるように。それにたしかに、その小路のかどには、ユダヤ人の染物屋の店があったっけ。」それから私は、押し寄せる思い出の波に今は耐えきれなくなって、従妹《いとこ》のアズィーザの胸に顔を埋めて、むせび泣きはじめると、アズィーザは、優しい言葉とあらゆる快い愛撫をつくして私を慰め、そして言うのでした、「おおアズィーズさま、ふつう恋する人たちは、幾年も幾年も待ち暮らして苦しみながらも、それでもじっとこらえて、弱らずにいるものです。それなのにあなたは、心の悩みをおぼえてからまだ一週間にもならないのに、もう動転して、これまでにない悲しみにおちいっていらっしゃいます。さあ元気をお出しなさい、叔父のお子さまよ。立ち上がって、このご馳走を少々たべ、私の差し上げるこのお酒をすこし召し上がれ。」
けれども私は、おおわが若殿よ、私はひと口も、食べることも飲むこともしおおせませんでした。そしてすべての眠りさえ失ってしまい、顔色は黄色くなり、顔容《かおかたち》が変わってしまいました。というのは、私が熱い思いを感じ、苦くまた甘美な恋を味わったのは、これがはじめてのことだったからでございます。
そこで、五日の待つ日のつづくあいだに、私はひどく痩せてしまいましたが、そのあいだ従妹《いとこ》は私のことをたいそう心配して、ただのひと時もそばを離れず、日夜私の枕もとに坐って、私の気をまぎらそうとて、いろいろな恋人の物語をして、眠らずにずっと付き添っていました。そしてときおりは、ひそかな涙を急いで拭うのを見かけました。とうとう五日目になると、従妹はむりに私を起こして、私のために湯をわかし、私を自宅の浴場《ハンマーム》に入れました。それから着物を着せてくれて、言いました、「早く逢いにいらっしゃい。どうぞアッラーがあなたの望みをかなえて下さり、その香油でもってあなたの魂を癒やして下さいますように。」そこで、私は急いで家を出て、ユダヤ人の染物屋の店に駈けつけました。
ところが、その日は土曜日でございまして、あいにくとそのユダヤ人は店をあけませんでした。なにはともあれ、私はその店の戸口に腰をおろして、こうして日の沈む頃、方々の光塔《マナーラ》で告時僧《ムアズイン》が礼拝に人を呼ぶまで待ちました。そのうち、何のかいもなく次第に夜がふけて行ったので、私は暗闇が恐ろしくなって、家にひっ返すことにしました。そして私は酔いどれのように、もう何をして何を言っているのやらおぼえもなく、家に着きました。すると憐れな従妹《いとこ》のアズィーザは、顔を壁のほうに向け、片方の腕を家具にもたせかけ、片手を胸にあてて、部屋に立っておりました。
けれども私の姿に気づくやいなや、すぐ袖口で眼を拭いて、自分の苦しみを見せないように、努めて微笑みながら、私を迎えに来て言いました、「おお、いとしい従兄《おにい》さま、どうかアッラーがあなたの仕合せを永くつづかせて下さいますように。でもどうして、そんなふうにたったひとりで、夜中に人気のない街を通ってお帰りになどならないで、残りの夜をば、恋人の乙女のところでお過ごしにならなかったのですか。」すると私はいらだって、ふと従妹《いとこ》は自分をからかう気なのだなと思い、つっけんどんに押しのけたものですが、それがあまりに乱暴だったので、従妹《いとこ》は長椅子《デイワーン》のかどにぶつかって、ばったりと倒れ、額に怪我をして、そこから血がたらたらと吹き出しはじめました。すると憐れな従妹《いとこ》は、私の乱暴に腹を立てるどころか、ただひと言の反抗の言葉も言わず、静かに起き上がって、ひとつまみの火口《ほくち》を焼いて傷にあて、自分の手帛《ハンケチ》で額を結《いわ》きました。それから大理石をよごしている血を拭いて、そしてなにごともなかったかのように、穏やかな微笑を浮かべながら、私のそばに戻って来て、このうえなく優しく言いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、許された言葉をやめた。
[#地付き]けれども第百十五夜になると[#「けれども第百十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そしてなにごともなかったかのように、従妹《いとこ》は穏やかな微笑を浮かべながら、私のそばに戻って来て、このうえなく優しい声で、言いました、「おお叔父のお子さま、ほんとうにつまらないことを申してお心を痛め、お詫びの申し上げようもございません。どうぞお許しになって、どんなことがあったのか、お話し下さいませ、なにかお助けできることがあるかも知れませんから。」そこで私は間が悪かったことと、その未知の女の消息が、全然不明なことを話しました。するとアズィーザは言いました、「おおわが眼のアズィーズさま、大丈夫お望みはかないますとも。それはもう、私はためらわず申し上げることができます。というのは、それはその女の方があなたの恋の一念と、自分に対する変わらぬ心を見るため、あなたの辛抱強さを試すだけのことです。ですから、明日早々、急いでいつもの窓の下の腰掛に行って、坐っていらっしゃい。そうすればきっと、あなたのお望みどおりに、けりがつくことでしょう。」それから従妹《いとこ》は、ご馳走を盛った瀬戸物の鉢を載せた盆を、運んできました。けれども、私は全部乱暴に押しのけたので、瀬戸物はみな宙に飛び上がって、敷物の上に四方八方にころがりました。こうして、自分は食いたくも飲みたくもないことを、知らせてやったのです。すると憐れな従妹は、床《ゆか》の上に散らばっている破片《かけら》を、いちいちていねいに黙って拾い集めて、敷物を拭い、それから、私の横になっている蒲団の足もとに戻って来て、坐りました。そして夜どおし、限りない優しさをこめて、いろいろと親切なねんごろな言葉をかけながら、団扇《うちわ》で風を送ってくれることをやめませんでした。私はただ考えていました、「恋焦がれるとはなんという狂気の沙汰だろう」と。とうとう朝の光が射してきたので、私は大急ぎで起きて、乙女の窓の下の小路へと行きました。
ところが、私が腰掛に坐ったと思うと、窓が開き、私の眩《くら》んだ眼のまえに、私の魂のすべてである女の、好ましい顔が現われたのでした。そして彼女は味わいふかい微笑でもって、全部の歯を見せて、私に微笑みかけました。それからちょっと姿を消して、こんどは袋と鏡と花の咲いた植木鉢と提灯を手にして、現われました。そして次のようなことをしたのです。まず鏡を袋の中に入れて、袋の口を締め、それをばそっくり部屋の中に投げ入れました。それから艶《あで》やかな身ごなしで、自分の髪をほどくと、髪は身のまわりにずっしりと垂れさがり、しばらくその顔を隠しました。次には、提灯を植木鉢の花のまん中に置きました。そして最後に、ふたたび全部を取りまとめて、姿を消しました。窓はふたたびしまりました。すると私の心臓は、この乙女とともに、飛び去ってしまいました。私の有様は、もう有様というようなものではありませんでした。
そこで私は、すでにこれまでの経験で、これ以上待ってもむだなことを知っていたので、痛み傷ついて、悄然とわが家に向かいました。そこには、憐れな従妹《いとこ》が涙に暮れながら、頭に二筋の鉢巻をめぐらしているのでした。ひとつは、怪我をした額のまわりに、今ひとつは、私の留守中と今日この頃の悲しい日々の間、注ぎつづけたすべての涙のために痛む両眼のまわりに、巻きつけたものです。そして私を見つけないで、首をかしげて片手にもたせかけ、次の詩句を静かにつぶやいて、その沁みいるような調べで、みずから心を慰めておりました。
[#ここから2字下げ]
われは君を思う、アズィーズよ。わがもとを遠く離れて、そもいかなる住居にか君はのがれし。答えたまえ、アズィーズよ。いずこに住居を定めしか、おおさすらいの恋人よ……。
君もまた思いたまえ、アズィーズよ。運命はわが幸《さち》を嫉みて、君をいずこに駆り立つるとも、アズィーザが哀しきこころ君を待つ隠れ家の温かさを、君は遂に見出し得ぬものと知りたまえかし。
君はわが言葉に耳傾けず、アズィーズよ、しかして遠ざかりゆく。今やわが眼《まなこ》は、つきせず流るるこの涙のうちに、君を懐しむ。
ああ、わが心よ、愛《いと》しき人の在《い》まさぬを泣け……。われは君を思う、アズィーズよ。わがもとを遠く離れて、そもいかなる住居にか君はのがれし。答えたまえ、アズィーズよ。いずこに住居を定めしか、おおさすらいの恋人よ……。
[#ここで字下げ終わり]
そして突然|従妹《いとこ》は振りむくと、私の姿を見つけました。するとすぐに、努めて自分の悲しみと涙を隠して、私のほうに来たものの、言葉もなく、声もなく、ただ眼瞼《まぶた》を垂れて、立ちつくしました、そんなにも蒼ざめ、そんなにも悲しげに。そのうち、やっと言いました、「おお従兄《おにい》さま、お坐りになって、今度はどうだったか、首尾を聞かせて下さい。」そこで私は、乙女の奇々怪々なしぐさを、事こまかに伝えずにはいませんでした。するとアズィーザは言いました、「お悦びなさい、従兄《おにい》さま、お望みは聞き届けられましたわ。実際、それはこういうことなのです。鏡を袋にしまったのは、太陽がはいるという意味ですから、そのしぐさは、明晩自分の家に来いと言っているのです。黒髪をといて顔を蔽ったのは、夜が闇で地を包むという意味ですから、そのしぐさは、最初のことに念をおすわけです。花の咲いた植木鉢は、小路の後ろにある、家の庭からはいらなければいけないという意味です。また植木鉢の上の提灯は、いったん庭にはいったら、火のついている提灯が見える方角に向かって行って、そこで恋人を待っていなければならないという意味なことは、明らかですわ。」けれども、私はすっかり気をくさらせて、叫びました、「おまえのでたらめな説明で、おれは何度望みを持たされたかわからない。まったく、おれはなんて不幸な男だろう。」するとアズィーザは、いつもよりももっと優しくして、私のためにねんごろな慰めの言葉のかずかずをつくしました。けれども私の立腹と短気の爆発を恐れて、その場を動くことも、食べものや飲みものを持ってくることも、敢えてしませんでした。
とはいえ翌日、夕方になると、私はとにかく冒険を試みることに意を決しました、アズィーザは、心の中では自分のあらゆる涙を泣いていたのですが、どこまでも自分を殺し、あくまで一身を犠牲にする証拠を見せて、私を励まし、私はとくにそれに力を得て起き上がり、湯浴《ゆあみ》をして、アズィーザに助けられて、いちばん美しい着物を着ました。けれども私を出すに先だって、アズィーザは私にやるせない一瞥を投げ、涙声で私に言いました、「おお叔父のお子さま、この生粋《きつすい》の麝香の粒をさしあげますから、これであなたの唇を香らせなさいませ。それから恋人にお会いになって、思うぞんぶん堪能なすった暁には、どうか、これから申し上げる詩を、その方に誦して聞かせると約束して下さい。」そして従妹《いとこ》は、私の首のまわりに両腕を投げかけて、長い間むせび泣きました。そこで私は、ではきっとその詩を女に誦して聞かせると誓いました。するとアズィーザも心が落ち着いて、次の詩句を誦して聞かせ、出て行くまえにもう一度復誦させました。もっとも私にはそれがどういうつもりなのか、将来どういう働きをするか、少しもわかりませんでした。
[#2字下げ] おおおんみら、世のなべての恋人よ、アッラーにかけて、われに告げよ、もし小止《おや》みなき恋、その犠牲者《いけにえ》の胸に住みなば、そもいずこにか救いのあるべき……。
それから私は急いで立ち去って、例の庭に来てみると、その戸が開いていました。そしてずっと奥のほうに、ひとつの提灯がついていたから、私は闇のなかを、そちらに進んでゆきました。
いよいよその燈光《あかり》のある場所に着いたとき、どのような驚きが私を待っていたことでしょう。事実そこには、穹窿形の天井のついたすばらしい一間《ひとま》があり、上には、内側に象牙と黒檀を張りつめた円屋根が聳え、いくつもの大きな黄金の燭台と、黄金の鎖で天井から吊るした、水晶の大ランプで、快く照らされていました。そしてこの広間の中央には、色とりどりの象眼と、申し分ない出来ばえの組み合せ模様とで飾った泉水が、水音を立てていて、その音楽を聞いただけでも涼しくなるのでした。この泉水のすぐそばに、一脚の大きな螺鈿の腰掛があって、そこに薄絹を掛けた銀の盆が載っていて、敷物の上にダマス陶器の大きな壺が置いてあり、そのほっそりとした首に、やはり彩色された陶製の盃がひとつ載っていました。
そのとき私は、おおわが若殿よ、いちばん最初にしたことは、その大きな銀の盆の上に掛かっている、薄絹を取ってみることでした。そしてそこにあったおいしそうな品々は、今でも眼の前に見えるほどです。そこには実際……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、許された言葉をやめた。
[#地付き]けれども第百十六夜になると[#「けれども第百十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
大臣《ワジール》ダンダーンは、ダウールマカーン王のために、美男のアズィーズが若い王冠太子に話した身の上話を、次のようにつづけたのでございます。
そこには実際、金色に香りも高く、上等な薬味で味をつけた、雛鳥の丸焼きが四つありました。それから、たっぷりとはいる四つの瀬戸物があって、第一のものには、オレンジの匂いをつけ、砕いた南京豆と肉桂を振りかけたマハッラビヤ(39)、第二のものには、水に浸けて柔らかにしてから蒸溜し、ほのかにばらの匂いをつけた乾し葡萄、第三のものには、いやこの第三ときては、手ぎわよく薄皮を作って、限りなく物思わせる菱形に切ったバクラワ(40)、第四のものには、たっぷりと詰め物をして今にもはちきれそうな、濃いシロップをかけたカタイエフ(41)、こうしたものが盛られてありました。これが盆の半分で、もう半分のほうはというと、そこには、ちょうど私の大好物の果物が盛り上げてありました。熟《う》れきって笑み、自分が好ましいものなことを知っているので、なりふりかまわない無花果《いちじく》だの、仏手柑だの、レモンだの、みずみずしい葡萄だの、バナナだの。そして全部は、間を置いて並べられていて、そのあいだあいだには、ばらとか、素馨とか、チューリップとか、ゆりとか、水仙とかいった花の、とりどりの色が見えていました。
そこで私は、こうしたすべてに嬉しさの限り嬉しくなって、自分の悲しみに向かって飛び去るようにと言い、悦びに向かってわが身に住むようにと言いつけました。けれども私はこの場に、アッラーの創《つく》りたもうた物のうちの、ただひとつの生き物のあとかたも見かけないのが、多少とも気になっておりました。そして女中も奴隷も給仕に出て来ないので、初めは何であろうと、手を触れるのが憚られました。そして辛抱強く、わが心の愛人の来るのを待っていました。けれども、最初の一時間が過ぎたが、誰も来ない。次に二時間たち、三時間たったが、やはり誰も来ない。そうなると、私は空腹《すきばら》の苦しみを激しく感じはじめました。なにせ私はずっと、ゆくえも知らぬ恋の思いにすっかりまいっていて、もう永いこと物を食べなかったのでした。しかし今となっては、はっきり峠が見えてきたので、アッラーのお恵みによって、食欲が戻ってきたのです。そして私は、いつもうまくゆくと予言しては、この逢引きの謎をあやまたずといてくれた、わが憐れなアズィーザに、感謝したのでありました。
そこで、空しく食欲をそそられている猛烈な空腹に、これ以上こらえきれなくなって、私はまず何よりも好物の、そのほれぼれするばかりのカタイエフに飛びついて、このおいしい菓子についてはよくよく知っている、私の喉に滑り落としました。これはまるで天女《フーリー》の指でもって、この世のものならぬ香りで作られたとでもいうようでした。次には、たっぷりと蜜をかけたバクラワの、かりかりする菱形に手をつけ、ありがたい運命によって私に分け与えられたものを、さらりと胃の腑に入れ、次に、まことに胸にさわやかな、粉にした南京豆をふりかけた、白いマハッラビヤの一杯をそっくり平らげました。それから雛鳥を頂戴することにして、一つだか二つだか三つだか四つだか食べました。それほど、その腹のなかに隠してあった、柘榴《ざくろ》の酸っぱい粒をあしらった詰め物は、腕のさえたものでした。それがすむと、喉を潤おすために果物のほうに向かって、ゆっくり吟味して選んで、口を悦ばせました。そして柘榴の甘い粒を、ひと匙かふた匙か三匙か四匙か賞美して、食事を終え、アッラーの恩恵を称《たた》えました。最後に、用のない盃なぞ使わずに、彩色した陶製の壺からじかに飲んで渇をいやし、それで万事終りにいたしました。
さていったん腹がくちくなると、私はひじょうなけだるさに襲われ、からだじゅうの筋肉がきかなくなるのをおぼえました。そしてやっとどうやら両手を洗ったと思うと、そのまま敷物の座蒲団《クツシヨン》の上に倒れて、昏々と眠りにおちいってしまいました。
その夜じゅう何事が起こったのでしょうか……。私の知っているすべてといえば、朝、太陽の焼けつく光のもとに眼が覚めると、私はもはや柔らかい敷物の上ではなく、何もない大理石の上に、じかに横たわっていて、腹の皮の上に、ひとつまみの塩とひとつかみの炭の粉が、載っていたことだけでございます。そこで私はあわてて起き、からだを振って、右左を見まわしましたが、まわりにもあたりにも、生き物のあとかたも見あたりません。そこで私の当惑ははなはだしく、心の乱れも同様でした。そして自分自身が腹立たしくてなりませんでした。それから自分の肉体の弱さを悔い、眠りと疲れに辛抱しきれなかったことを悔いました。そして心悲しくわが家のほうへと向かいましたが、家では憐れなアズィーザが静かに歎きながら、涙を流して、次の詩を誦していました。
[#ここから2字下げ]
微風舞いつつ立って、牧場を過ぎてわがもとに到る。われはその香にこれを知る、その愛撫のわが髪に止まるより早く。
おお、優しき微風よ、来たれ。小鳥らは歌う。来たれ、あらゆる流露はおのが運命を辿るべし。
ああ、愛《いと》しき者よ、君をわが双の腕《かいな》に捉え得ばや、恋する女《ひと》の頭《かしら》をばおのが胸に閉じこむる、恋人のごとく……。
おお、悩みに涵《ひた》る胸の苦《にが》さを、君が息吹に和《なご》め得ばや……。
君去りて、おおアズィーズよ、わがもとにこの世の悦びなにか残らん、今よりはいかなる味を人の世に見出すべき。
はたして愛する人の心もまた、恋とその焔の熱に鎔けしわが心に、似たりや否や……。
[#ここで字下げ終わり]
けれども私の姿を見ると、アズィーザは涙を拭って、急いで立ち上がり、あらゆる優しさの言葉で私を迎え、私の着物をぬぐのに手を貸して、その着物の香いを繰り返し嗅いでから、私に言いました、「アッラーにかけて、おお叔父のお子さま、これはたしかに、恋する女が着物に残す移り香ではございません。いったいどうしたのか話して下さい。」そこで私は急いでその希望をかなえてやりました。すると従妹《いとこ》の顔はたいへん心配げになって、おびえた調子で言いました、「アッラーにかけて、おおアズィーズさま、私はもうあなたの身の上が心配でなりません、どうもその見知らぬ女が、なにかあなたにひどいことをしはしないかと、今はたいへん気になります。実際こうなのです、あなたの膚の上に置いた塩というのは、あなたがそんなに思い焦がれているくせに、眠りと疲れに負けてしまったとは、たいへん面白くないことだという意味で、また炭は、『願わくばアッラーが汝の顔を黒くしたもうように、おお恋の真《まこと》ならぬ者よ』という意味です。ですから愛《いと》しいアズィーズさま、その女のひとは、自分のお客さまに優しくして、しずかに起こそうとはしないで、こんなふうにないがしろにし、そのお客さまに、あなたは飲み食い眠るよりほかに能がないということを、思い知らせたわけです。ああ、どうかアッラーは、こんな無慈悲で情け知らずの女への恋から、あなたを離して下さいますように。」そのとき私はこの言葉に、われとわが胸を打って、叫びました、「悪いのはこの私だ。なぜかって、アッラーにかけてあの女としては無理もないのだ、恋する者は眠ったりなぞしないのだから。ああ、自分の過ちから、こんな禍いを身に招いたのはこの私だ。後生だ、今となってはどうしたらよいだろう、おお伯父の娘よ、どうか教えておくれ。」
ところで、この憐れな従妹《いとこ》アズィーザは、私をひじょうに愛しておりました。そこで私がこんなにしょげているのを見ると、このうえなく哀れを催して……
[#この行1字下げ] ――ここまで話すと、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百十七夜になると[#「けれども第百十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女はシャハリヤール王に言った。
おお幸多き王さま、私の聞き及びましたところでは、大臣《ワジール》ダンダーンはダウールマカーン王のために、美男のアズィーズが若い王冠太子に語った身の上話を、次のようにつづけたのでございます。
ところで、憐れな従妹《いとこ》アズィーザは、私をひじょうに愛しておりました。そこで私がこんなにしょげているのを見ると、このうえなく哀れを催して、私に答えました、「私の頭と眼の上に。けれども、おおアズィーズさま、もし私が自分で出て行って、行ったり、来たりすることを世間が許せば、あなたのお役に立つことが、どんなにもっとやさしいか知れませんのに。私は結婚を控えている身ですから、一般の習慣として、厳重に家にじっとしていなければなりません。ですけれど、私がその方とあなたとを直接結ぶ糸となることができないからには、せめて遠くから、あなたがよく私の言うことを聞いて、首尾よくゆくように骨折らせて下さい。ではアズィーズさま、今夜もう一度同じ場所に出向いて、とくに眠りの誘惑にうち勝つようになさいませ。そのためには物を食べないことです。というのは、食物は感覚を鈍くして弱くします。ですから、よく気をつけて眠らないようになされば、その女のひとは、夜が四分の一ほど進んだころあいに、あなたのところに来るでしょう。どうかアッラーがあなたをかばって下さって、裏切りからあなたをお護り下さいますように。」
そこで私は、夜がもっと早く来るようにと祈りはじめました。そしていよいよ私が家を出ようとすると、アズィーザはちょっと私を引きとめて、言いました、「くれぐれもお願いしておきますが、いよいよその乙女があなたの望みをかなえてくれたら、きっとこのまえお教えした詩節を、その方に誦して聞かせるのを、忘れないで下さいまし。」そこで私は答えました、「仰せ承わり、仰せに従う。」それから私は、家を出ました。
庭に着いてみると、昨夜のように、豪奢な部屋に明かりがついていて、その部屋には、ご馳走だのお菓子だの果物だの花だのを盛った、大きな盆がいくつもありました。花やご馳走やこれらすべての結構なものの匂いが、私の鼻の孔を和らげるや否や、私の魂はもう我慢ができず、私は魂の望みに従って、ひとつひとつの品を腹いっぱい食べて、釉薬《うわぐすり》をかけた大きな壺から、じかに飲みました。それがまた私の魂にいたく気に入ったので、私はさらに腹がすっかり膨れ上がるまで、飲みました。それでやっと満足がいきました。けれども間もなく、私の眼瞼《まぶた》が合わさってきました。私は睡気と戦うために、指でもって眼瞼を開こうとしてみましたが、だめです。そこでひとりごとを言いました、「眠らずに、ただちょっと横になるだけにしよう、なに、ほんのしばらく座蒲団《クツシヨン》に頭を載せるだけの間のことで、それっきりだ。だが決して眠るまい、断じて。」そして私は座蒲団《クツシヨン》を取り上げて、そこに頭をあてました。けれどもそれは結局、翌日太陽が出てからやっと眼が覚めるという結果になりました。そして私は、あのりっぱな部屋ではなく、おおかた馬丁どもにあてられている粗末な一室に、横たわっていたのでした。そして私の腹の上には、羊の脚の骨と、円い毬《たま》と、棗椰子《なつめやし》の核《たね》といなごまめの豆粒が、いくつか置かれていて、そばには、二ドラクムと一振りの小刀がありました。そこで私は周章狼狽して起き上がり、こうした品物全部を急いで払い落とし、わが身に起こったことに腹が立ってならず、ただ小刀だけ拾い上げて、やがて家に着きますと、そこにはアズィーザが、嘆くように次の詩節をつぶやいておりました。
[#ここから2字下げ]
わが眼の涙よ、汝はわが心を溶かし、わが身を蕩《とろ》かしぬ。
わが友はいよよ情《つれ》なし。さあれ、友のため苦しむは楽しからずや、かくばかり美貌の友とあらば。
おおアズィーズ、わが従兄《いとこ》よ、君はわが魂を熱き思いに満たし、わが魂に苦悩の深淵を穿《うが》ちたまえり。
[#ここで字下げ終わり]
そのとき私は、まだ無念の思いやるかたなく、ひと言ふた言悪態をついてやって、乱暴に彼女の注意をひきました。けれども彼女の忍耐はそれに微動だもせず、あっぱれな優しさを見せて、彼女は眼を拭って私のところに来て、私の首のまわりに両腕を投げかけ、私が押しやろうとするのに、力をこめて胸にぴったりと抱き締めて、私に言いました、「おおお気の毒にアズィーズさま、あなたは昨夜も、またもや眠っておしまいになりましたのね。」私はもうこらえきれず、無念の思いに息がつまって、敷物の上にくずおれ、拾ってきた小刀を遠くに投げつけました。するとアズィーザは団扇《うちわ》を取り上げて、私のそばに坐り、私に風を送りながら、元気を出すようにと言いはじめ、結局は万事うまくゆくにちがいないと言うのでした。そして私は、尋ねられるままに、眼が覚めて腹の上に見つけたいろいろの品を、いちいち挙げて聞かせました。それから言いました、「アッラーにかけて、早くこのいっさいのわけを説明してくれ。」彼女は答えました、「ああ、アズィーズさま、ですから私は、眠りを避け、食物の誘惑に負けないようにと、くれぐれもご注意したではありませんか。」けれども私は叫びました、「いいから、早くこのいっさいのわけを説明しろ。」彼女は言いました、「こういうわけです。その円い毬《たま》の意味は……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女だったので、許された言葉をやめた。
[#地付き]けれども第百十八夜になると[#「けれども第百十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「こういうわけです。その円い毬の意味は、あなたは恋する女の家にいながら、あなたの心は宙をさまよっていて、熱心の足りないことをおのずと語っているということ。棗椰子《なつめやし》の核《たね》は、あなたには、心の果肉そのものである熱情が、全然欠けているので、あなたはこの核《たね》と同様、少しも風味がないという意味です。いなごまめの豆粒は、いなごまめは元来、忍耐の父アイユーブ(42)の木ですから、これは恋する者にとってあれほど貴いこの徳を、あなたに思い出させるために置いてあるわけ。羊の脚の骨のことは、とてもご説明するに忍びません。」そこで私は叫びました、「だが、おおアズィーザ、まだ刃の立ててある小刀と二枚のドラクム銀貨を忘れている。」するとアズィーザはがたがた顫えだして、私に言いました、「おおアズィーズさま、私はあなたの身が心配でなりませんの。その二枚のドラクム銀貨は、そのひとの両の眼の象徴《しるし》です。そのひとはそれでもって、あなたにこう言うつもりなのです、『私は自分の両の眼にかけて誓います、万一あなたがまた来てまた眠るようなことがあったら、私はこの小刀で、容赦なくあなたの首を斬ってしまいます。』おお叔父のお子さまよ、ほんとうに私は心配でなりません。あなたをいやがらせてはと思って、私はいつも心の中で、自分の不安を押し殺し、がらんとした家でただひとり、忍び泣きに泣いております。すべての慰みとして、私はただむせび泣きがあるだけでございます。」そこで私の心も、彼女の苦衷に憐れみをおぼえ、私は言いました、「おまえの上なるわが生命《いのち》にかけて、おお伯父の娘よ、このいっさいを救うにはどうしたらよかろうか。ああ、どうか私を助けて、この手の施しようのない災難から脱け出させておくれ。」彼女は言いました、「友情と尊敬をもって。けれどもよく私の言うことを聞いて、そのとおりなさらなければなりません。さもなければ、何ごとも成就しません。」私は答えました、「仰せ承わり仰せに従う。わが父上の頭《かしら》にかけて誓う。」
するとアズィーザは私の約束を信じて、嬉しそうな様子になり、私を抱いて、申しました、「ではこうなさい。まずあなたはこれからここで、一日中お寝《やす》みにならなければいけません。そうしておけば、今夜は眠りに誘われるようなことはございますまい。そして眼が覚めたら、私が自分であなたに食べさせ飲ませてさしあげましょう。そうすれば、もう何も恐れなさることはありませんわ。」事実、アズィーザはむりに私に横にならせて、静かに私のからだを揉みはじめました。この気持のよい按摩のせいで、私はほどなく眠ってしまいました。そして夕方眼が覚めてみると、彼女はまだ私のそばに坐って、団扇であおいでいてくれました。その間ずっと、泣きつづけていたにちがいないことがわかりました。というのは、着物に涙の跡がついていたからです。するとアズィーザは、急いで食べ物を持って来て、手ずから食物を私の口に入れてくれ、私はただ呑み込みさえすればいいわけで、こうして腹がすっかりくちくなるまで、つづけてくれました。それから、砂糖入りのばら水に溶かした、棗《なつめ》の煎じ水を一杯私に飲ませましたので、私はすっかりさわやかな気持になりました。それから私の手を洗ってくれ、麝香の匂いをつけた手拭で、私の手を拭き、香水をからだに振りかけてくれました。それがすむと、たいそうりっぱな着物を持ってきて、私に着せ、そして言いました、「アッラーの思し召しあらば、今夜こそはまちがいなく、あなたの宿望の夜でございましょう。」それから私を戸口まで送ってきて、言い添えました、「けれどもとりわけ、私のお願いを忘れないで下さいね。」私は言いました、「お願いとは?」彼女は言いました、「まあアズィーズさま、せんだってお教えした詩節のことですわ。」
そこで私は庭に着いて、先夜のように、穹窿形の天井の部屋に入り、豪華な敷物に腰をおろしました。そしてなにしろすっかり腹がくちくなっていたので、盆を見てもいっこう気にならず、こうして、夜のなかば頃まで起きていました。けれども誰も姿を見せず、物音ひとつ聞こえません。すると、私には夜は一年ほども長く思えて来はじめましたが、しかしじっと我慢して、さらに待ちつづけました。そのうちに夜も大半過ぎてしまって、はや※[#「奚+隹」、unicode96de]が最初の明け方を告げはじめました。こうして、そろそろ空腹をおぼえはじめ、次第に激しくなって、私の魂は皿の味を求めました。私は自分の魂に逆らう力もなくなりました。やがて私は立ち上がって、そこで大きな薄絹を取りのけて、満腹するまで食べ、一杯飲み、二杯飲み、十杯まで重ねました。すると頭が重くなってきましたが、しかし私は頑張って闘い、身をひきしめて、頭を前後左右にゆすぶりました。ところが、もういよいよだめになろうというせとぎわになると、ふとなにか笑い声と衣擦《きぬず》れの音のようなものが、聞こえました。そして私が急いで飛び起きて、手と口をすすぐひまもあらせず、奥の大きな帷《とばり》が掲げられるのが見えました。そして星のように美しい十人の若い女奴隷にとりかこまれて、にこやかに、あの女がはいってまいりました。これはまさしく月そのものでございました。身には、金銅の刺繍をした、緑繻子の着物を着けておりました。次の詩人の詩句が作られたのは、おおわが若殿よ、これはまさしくこの女のためにでございます。
[#ここから2字下げ]
見よ、誇らかの眼差《まなざし》の、麗わしき乙女ここにあり。釦《ボタン》なき緑衣ごしに、胸は悦ばしげに張り、髪は解かれてあり。
われはこれにその名を問えば、答うらく、「われは生ける火の上に、恋人らの心を焼く者にこそあれ……。」
われ恋の苦患を語れば、言えらく、「われは聾《みみしい》の巌《いわお》にして、木魂《こだま》返さぬ蒼空なり。おお、迂闊よ、人は巌の、また蒼空の聾《みみしい》をかこたんや。」
されどそのときわれはこれに言う、「おお乙女よ、もし汝が心巌ならば、わが指は、その昔《かみ》のムーサー(43)のごと、巌より泉の清冽を迸り出でしめん。」
[#ここで字下げ終わり]
そして、おおわが若殿よ、私が実際にこの詩句を誦して聞かせますと、その女は私に微笑みかけて、言いました、「たいへん結構でございますわ。けれどもあなたは、今夜はどうして首尾よく眠りに負かされずにいられましたの。」私は答えました、「あなたのおいでになる微風が、私の魂を活気づけてくれたのでした。」
そこで彼女は奴隷たちのほうを向いて、一同にちょっと眼くばせをしました。するとすぐに一同は退散して、私たちだけを部屋に残しました。そこで彼女は、私のすぐそばに坐りに来て、胸を差し出し、私の首のまわりに腕を投げかけました。私のほうでは、その唇にとびついて、その上唇を吸うと、彼女は私の下唇を吸いました。それから私は彼女の腰をとらえて、折りまげ、二人はいっしょに、敷物の上にころがりました。そこで私は、その両脚の微妙な割れ目に滑り込み、女の着物を一枚一枚脱がせました。こうして二人は、接吻や愛撫や、つめったり噛んだり、腿と脚を持ち上げたり、停泊地のなかの魚の跳躍などをしながら、嬉戯《たわむれ》を始めました。そのうち女はとうとう欲望に絶え入って、私の腕のなかにぐったりと倒れてしまいました。こうしてその夜は、詩人の言うごとく、私の官能にとって祭の一夜でございました。
[#ここから2字下げ]
その夜はわれに歓ばしく、わが天運のあらゆる夜々のうち、楽しく甘美なりき。盃はただひと時も、底に赤味なく置かれざりき。
われは眠りに言いぬ、「いかんぞわが眼瞼《まぶた》なんじを求めんや……。」しかしてわれは脚と腿とに言いぬ、「いざ近う寄れ。」
[#ここで字下げ終わり]
けれどもいよいよ朝になって、私が別れを告げようとすると、女は私をしばらく引きとめて、私に言うのでした、「すこし待って下さい。ちょっと申し上げたいことがございますから……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百十九夜になると[#「けれども第百十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
アズィーズは次のように自分の身の上話をつづけたのでございます。
女は私をしばらく引きとめて、私に言うのでした、「すこし待って下さい。ちょっと申し上げたいことと、お勧めしたいことがございますから。」そこで、私はいささか驚いて、改めて彼女のそばに坐りました。と、女は絹の風呂敷を広げて、中から、おおわが若殿よ、今御前にある、この最初のかもしかの縫い取られている、四角な布切れを取り出したものです。そしてそれを私にくれて、言いました、「どうかこれをたいせつに取っておいて下さい。これは私の友達のさる乙女、『樟脳と水晶の島々』の王女さまのお細工です。この印《しるし》は、あなたの生涯で、たいへん重大なものとなるでしょう。それに、これはあなたにいつも、この贈物をした女を思い出させることでございましょう。」そこで私は、このうえなく驚いて、厚く礼を言いましたが、さて別れを告げるに及んで、私はつい、アズィーザの教えた例の詩節を誦することを、失念してしまいました。それほどわが身に起こったいっさいに、すっかり心を奪われていたのでした。
自宅に着いてみると、憐れな従妹《いとこ》は臥せっておりました。その顔だちは、なにか差しせまった病気の徴候を帯びていました。けれども、私がはいって来るのを見ると、じっと我慢して起き上がろうとし、そして眼を涙に濡らしつつ、やっと私のところまではいずって来て、私の胸をかき抱き、自分の心臓にぴったりと長い間私を抱き締めて、それから私に尋ねました、「あなたはその方に、あの詩節を誦して下さいましたか。」そこで私は大いに困って、答えました、「いや、忘れてしまった。忘れた原因《もと》はというと、この絹切れの上に縫い取った、このかもしかなのだ。」そして私はその前に布切れを広げて、くだんのかもしかを見せました。するとアズィーザはそれ以上こらえることができず、私の前でわっと泣き出し、その涙の間に、次の詩句を誦したのでした。
[#2字下げ] ああ、憐れなる心よ、よく思え、倦《う》んじあぐむはいっさいの愛着の常にして、断絶はいっさいの友情の末なることを。
それから、付け加えて言いました、「おお従兄《おにい》さま、後生ですから、せめてこの次には、その方にあの詩節を誦して聞かせるのを、お忘れにならないで下さいまし。」私は答えました、「ではもう一度聞かせてくれ、おおかた忘れてしまったから。」すると繰り返して聞かせ、私もよく覚えました。それから夕方になると、彼女は言いました、「さあ、時刻になりました。なにとぞアッラーがあなたをつつがなくお導き下さいますように。」
庭に着いて部屋にはいると、恋人は私の来るのを待っておりました。そしてすぐに私をとらえて接吻し、自分の膝の上に横にならせました。それから、飲み食いしたあとで、二人は互いに十二分に堪能して所有し合いました。朝までつづいたわれわれの嬉戯《たわむれ》の詳細は、申し上げるまでもございません。さて朝になると、今度は、私はアズィーザの詩節を誦して聞かせるのを、忘れませんでした。
[#2字下げ] おおおんみら、世のなべての恋人よ、アッラーにかけてわれに告げよ、もし小止《おや》みなき恋、その犠牲者《いけにえ》の胸に住まわば、そもいずこにか救いのあるべき。
殿よ、この詩句が私の友の心に及ぼした感銘は、申し上げることができないほどでした。その感動の激しさたるや、自分では常々いたって冷酷だと申しているその心も、胸中で溶けたくらいで、彼女ははらはらと涙を流して、叫んだのでした。
[#2字下げ] 心ひろき恋の敵手に誉れあれ。わが敵手はいっさいの秘密を知って、黙して言わず。他人に分かつを苦しめど、呟やくことなく口をつぐむ。こは忍耐の讃《たと》うべき値いを知る女《ひと》ぞ。
そこで私は、アズィーザに繰り返し聞かせてやろうと思って、この詩節を注意して覚えました。そして家に帰ってみると、アズィーザは毛蒲団の上に横たわっていて、母がそばに坐って、看病していました。憐れなアズィーザの面上には、まったく血の気がありません。さながら気を失ったように、弱っていました。そして身動きもならず、苦しげに私のほうに眼を上げました。すると母はうなずきながら、厳しく私を見やって、言いました、「おおアズィーズ、なんというおまえの上の恥でしょう。」けれどもアズィーザは、私の母の手をとって接吻し、その言葉をさえぎって、ほとんど聞きとれない声で、私に言うのでした、「おお叔父のお子さま、あなたは私の頼みをお忘れになりましたか。」そこで私は言いました、「大丈夫だ、おおアズィーザよ。私があの詩節を誦して聞かせると、あの女は感動の限り感動して、こんな詩節を誦したほどだった。」そして私は、最前の詩を繰り返して聞かせました。するとアズィーザはそれを聞きながら、声もなく泣いて、呟やきました。
[#ここから2字下げ]
秘密をも黙《もだ》し得ず、試練にあって忍耐を実践し得ざる者は、もはやただ、死を分け前として願うあるのみ。
さあれ、わが全生涯は忍従のうちに過ぎたり。しかもわれは友の言葉をも奪われて死するなり。ああ、われ死なば、わが生の不幸となりし女のもとに、わが挨拶を届けたまえ。
[#ここで字下げ終わり]
次に彼女は言い添えました、「おお叔父のお子さま、お願いですから、こんど恋人にお会いの節には、この二節の詩をお伝え下さい。そして、どうか人の世があなたに楽しく安らかでありますように、おおアズィーズさま。」
ところで私は、夜になるとすぐ、いつものように庭に戻りますと、私の友は広間で私を待っていました。そして二人は、いっしょに並んで坐り、食べ、飲み、あらゆる工合に歓をつくして、それから抱き合って、夜が明けるまで寝ました。朝になると、私はアズィーザとの約束を思い出して、教えられた二節の詩を、私の友に誦して聞かせました。
ところがそれを聞いたかと思うと、彼女はいきなり大きな叫び声をあげ、怯《おび》えてあと退《じ》さりをして、叫びました、「アッラーにかけて、この詩を詠じた方は、今ごろはきっと亡くなっているに違いありません。」次に言い添えました、「私はあなたのために、どうかその方があなたのお身内でも、妹でも、従妹《いとこ》でも、なくてくれればと存じます。というのは、もう一度申し上げますが、その方はきっと、今は亡き人の数に入っていますから。」そこで私は言いました、「それは私の許嫁《いいなずけ》で、私の伯父の娘そのひとです。」けれども彼女は叫びました、「何ですって。どうしてそんな嘘をおっしゃるの。万一ほんとうにそれがあなたの許嫁《いいなずけ》の方だとしたら、あなたはその方を、別な愛し方をなさるでしょうもの。」私は繰り返しました、「いや私の許嫁《いいなずけ》で、伯父の娘アズィーザです。」すると彼女は言いました、「ではなぜ、私にそう言って下さらなかったのですか。アッラーにかけて、私としたことが、もしそうしたつながりを知ったとしたら、けっしてその方から、許嫁《いいなずけ》の男をとるような真似はしなかったでしょうに。なんということでしょう。けれどもどうですの、その方は、わたくしたちの恋の出会いを全部ご存じだったの。」私は言いました、「もちろんです。あなたが私にしたいろいろな合図を解いてくれたのは、その女なのですよ。あれがいなかったら、私はとてもあなたのところまで、辿りつけはしなかったところです。あれがいろいろ好い知恵を貸してくれ、うまく指図してくれたからこそ、私は目的を達することができたわけです。」すると彼女は叫びました、「それでは、その方の亡くなった原因《もと》は、あなたです。どうか、あなたがお気の毒な許嫁《いいなずけ》の青春を台なしにしてしまったように、アッラーがあなたの青春を、台なしになさることのないように。さあ、早く様子を見にいらっしゃい。」
そこで私も、この悪い知らせに気が気でなく、いそいで外に出ました。そしてわが家のある小路のかどに着くと、家の内で、悼んでいる女たちの哀しみの叫びが、聞こえてきました。そこで、出たり入ったりしている近所の女たちに、問いただしますと、その一人が言いました、「アズィーザが自分の部屋の戸の蔭に、死んで横たわっていたのです。」
そこで私は家の内に飛び込みますと、母が私を最初に見つけて、どなりつけました、「おまえはアッラーの御前で、この娘が死んだについては、責任があります。この娘の血の重みは、おまえの首にかかっています。ああ倅《せがれ》や、おまえはなんという情けない許嫁《いいなずけ》だったのか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十夜になると[#「けれども第百二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「ああ倅や、おまえはなんという情けない許嫁《いいなずけ》だったのか。」そしてさらに私に非難を浴びせつづけようとしているところに、父がはいって来ました。すると父の前では、母はさしあたり、口をつぐんだのでした。そして父は葬式の準備をしはじめました。いよいよ近親知友が全部集まって、万端の用意がととのうと、そこで私たちは葬式を営み、盛大な埋葬のため慣例の儀式を行なって、天幕《テント》の下で、墓上で、「崇高の書(44)」を誦して三日を過ごしました。
それがすむと、私は自宅の母親のもとに帰りましたが、薄命な故人に対する憐れみに、心とらわれるのをおぼえました。すると母は私のところに来て言いました、「倅や、いったい、おまえがあのかわいそうなアズィーザに対して、どんな罪を犯して、あんなふうに心臓を破裂させてしまったのか、そのわけを今となっては、聞かせてもらいたいと思います。というのは、おお倅よ、私は当人にいくら病気の原因を問いただしても、あの娘《こ》はけっして私に何事も明かそうとはせず、とりわけあの娘《こ》は、おまえに対してひと言も苦い言葉を言わなかった。それどころか、おまえに対しては死ぬまで、祝福の言葉を言っていました。ですから、おおアズィーズよ、おまえの上なるアッラーにかけて、あの不幸な娘《こ》をあんなふうに死なせるとは、いったいおまえは何をしたのか、言ってきかせなさい。」私は答えました、「この私がですか。なんにもしはしませんよ。」しかし母は聞き入れず、私に言うのでした、「あの娘《こ》がいよいよ息を引き取るまぎわに、私は枕もとにいました。するとあれは私のほうへ向いて、ちょっと眼を開いて、私に言いました、『おお叔父さまの奥さま、私は神さまに、私の血の値いを誰にも詮議だてなさらぬように、私の心をさいなんだ人々をばお許し下さるように、くれぐれもお願い申します。実際に、私はこれから滅びるべき世を去って、今ひとつの、不死の世にまいります。』私は言いました、『おお娘よ、死ぬなんてお言いじゃない。アッラーが早くおまえを元のからだにして下さるように。』けれどもあの娘《こ》は悲しく微笑んで見せて、言いました、『おお叔父さまの奥さま、どうかお子さまのアズィーズに、私の最後のご注意を伝えて下さいませ。くれぐれもお忘れにならないように、よくおっしゃって下さい。あの方がいつも行きなさる場所に行かれる節には、帰るまえにこうおっしゃるように、
[#この行1字下げ] いかばかり死は快く、裏切りにまさるものぞ。』
それからなおも言い添えた、『そうして下されば、あの方は私に恩をきて下さるでしょう。そして私は生きている間あの方を見守ったように、死んでのちもあの方を見守りましょう。』それから、あの娘《こ》は枕をもたげて、枕の下からひとつの品を取り出して、これをおまえにあげてくれと頼みました。けれどもその品は、おまえがもっと本心に立ち返って、あの娘《こ》の死を悲しみ、心底からあの娘《こ》を惜しむのを私が見届けるまでは、おまえに渡さないようにと私に誓わせました。だから、おお倅よ、私はその品をたいせつにとっておいて、おまえがこの出された条件を果たしたと見届けたうえでなければ、渡してあげません。」
そこで私は母に言いました、「そうですか、だがその品を見せて下さってもいいでしょう。」けれども母は頑として聞き入れず、行ってしまいました。
ところで、おお王冠太子さま、その頃、私がどんなに軽薄の病いに冒され、どんなに分別が落ち着かず、心情が閉ざされていたかは、よくおわかりでございましょう。憐れなアズィーザの死を悼み、心中で喪に服するかわりに、私はただ自分が楽しみ、慰むことしか考えませんでした。そして恋人のもとに通いつづけることほど、嬉しいことはありませんでした。
そこで、夜になったと思うとすぐ、私は急いで女のところに出かけました。彼女もまるで肉炙網の上に坐ってでもいるみたいに、私に会いたくて待ち焦がれていました。それで私がはいるととたんに、駈けよって来て、私の首にぶらさがり、そして従妹《いとこ》アズィーザの様子を訊ねるのでした。私がその死と葬式の顛末を話して聞かせると、彼女はひじょうな同情にかられて、言いました、「ああ、どうして私は、亡くなるまえに、その方のあなたにつくした親切と、その健気な犠牲を知らなかったのでしょうか。どんなに私は、その方にお礼を申し、どのようにもお報い申したことでしょうに。」そのとき、私はこれに言いました、「とりわけ従妹《いとこ》は私の母に頼んで、自分の言う最後のひと言を私に伝え、それをまた私があなたに言うようにと、くれぐれも申したそうです。それは
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
[#この行1字下げ] いかばかり死は快く、裏切りにまさるものぞ
[#ここで字下げ終わり]
というのです。」
乙女はこの言葉を聞くと、叫びました、「なにとぞアッラーはその方にご慈悲を垂れたまいますように。その方は、亡くなってからさえも、今はあなたを助ける大きな力となりました。というのは、その方はその簡単な言葉でもって、私がかねてあなたに対してたくらんでいた破滅の企てから、あなたを救ってくれるからです。」
この奇怪な言葉に、私は驚きの限りに達して、叫びました、「それはいったい何のことです。何としたことか、私たち二人は愛情で結ばれていたのに、あなたは私の身の滅亡を決心したとは。私をおとしいれようというその陥穽《おとしあな》とは、そもそも何なのですか。」女は答えました、「おお初心《うぶ》の坊ちゃん、あなたは私たち女のできるあらゆる不実を、てんでご存じないことが、私によくわかりますわ。けれどもくどくは申したくありません。ただ、あなたが私の手からのがれることができたのは、その従妹《いとこ》の方のおかげだということだけ、ご承知下さいまし。けれども、今後あなたは私以外の他の女には、若かろうと年とっていようと、絶対に眼もくれなければ言葉もかけないという条件でなければ、私は初めの考えを棄てはいたしませんよ。さもなければ、あなたに禍いあれ。そうです、いかにも、あなたに禍いあれですよ。なぜって、そうなれば、もうあなたを私の手から救い出してくれる人は、誰もいないでしょう。今まで知恵を貸してあなたの力となってくれた方は、もう亡くなってしまったのですもの。ですから、くれぐれもよく気をつけて、この条件を忘れないようになさいませ。さてこんどは、私からあなたにひとつお願いがございます。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十一夜になると[#「けれども第百二十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「さてこんどは、私からあなたにひとつお願いがございます。」私は言いました、「どういうことですか。」女は言いました、「どうぞそのお気の毒なアズィーザのお墓へ案内して、お墓詣りをさせて下さい。私はその方を蔽う墓石の上に、哀悼の言葉を二つ三つ書きしるしたいのです。」私は答えました、「アッラーの思し召しあらば、明日そうしましょう。」それから、私は彼女といっしょに夜を過ごすために、横になりました。けれども彼女はしょっちゅう、アズィーザについていろいろと問いたずねては、言うのでした、「ああ、どうしてあなたは、その方が伯父さまの娘だということを、私に知らせて下さらなかったのですか。」そこで私のほうからも、彼女に言いました、「そういえば、私はあの『いかばかり死は快く、裏切りにまさるものぞ』という言葉の意味を、あなたに訊ねるのを忘れていたっけ。」けれども彼女はこのことについては、何も教えてくれようとしませんでした。
朝になると早々に、彼女は起きて、ディナール貨幣をいっぱい詰めた財布を携えて、私に言いました、「さあ、お起きになって、お墓に案内して下さい。というのは、私はあの方のために、お堂も建ててさしあげたいと存じますから。」私は答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」そして外に出て、彼女の前に立って歩きました。彼女は私のあとについて、みちみちずっと、財布からディナール貨幣を取り出しては、貧者に分け与え、そのつど言うのでした、「これはアズィーザの霊のための施物《せもつ》です。」こうしてわれわれは墓に着きました。すると彼女はその大理石の上に身を投げて、それにおびただしい涙を注ぎました。つぎに、絹の袋から一丁の鋼鉄の鑿《のみ》と金の鎚《つち》を取り出して、滑らかな大理石の上に、次の詩句をうるわしい文字で彫りつけました。
[#ここから2字下げ]
かつてわれ道を行き、葉隠りのもなかに埋もれし墓《おくつき》の前に佇《たたず》みき。七輪のアネモネ、頭《こうべ》を傾《か》しげて、墓上にありき。
われは言いぬ、「このみ墓にあるはそも何ぴとならん。」されど地の声はわれに答えぬ、「うやうやしく汝の額を垂れよ。ここに、沈黙の平安のうちに、恋せし女眠るなり。」
おお恋に斃れし汝、沈黙のうちに眠る女よ、願わくば主《しゆ》の汝に煩悩を忘れしめ、汝を天国の最高の頂きに置きたまわんことを。
〔(45)幸《さち》薄き恋人らよ、おんみらは死に到りてまで見棄てられてあり。何ぴとも来たりておんみらの墳墓の埃《ちり》を払う者なければなり。
われは、ここに、ばらと恋の花々を植えま欲し。しかして、これにさらに美しく花咲かしめんとて、われはこれにわが涙をば注ぐべし。〕
[#ここで字下げ終わり]
それから彼女は立ち上がって、アズィーザの墓に別れの一瞥を投げて、私といっしょに、ふたたび自分の館《やかた》の道を取りました。そして彼女は急にたいへん優しくなり、いくたびか繰り返して、私に言うのでした、「アッラーにかけて、どうかいつまでも私を見棄てないで下さいね。」そして私は急いで承わり畏まって答えました。
私は毎晩欠かさず、女のところに通いつめました。彼女はいつも真心と熱情をつくして私を迎え、私を悦ばせるためには、どんなことでもするのでした。そして私はこのようにしつづけることをやめず、食っては飲み、接吻しては交合し、毎日今日は昨日よりも美しい着物を着、今日は昨日よりも上等な肌着を着けているうちに、しまいにはすっかり脂ぎって、これ以上肥れないほど、ぶくぶくに肥ってしまいました。そしてもう憂《う》さも苦労もおぼえず、伯父の憐れな娘のことなぞ、思い出さえもきれいさっぱり忘れてしまいました。そしてまるまる一年の長さの間、こうした歓楽の状態におりました。
ところがある日、新しい年の初めのこと、私は浴場《ハンマーム》に行って、このうえなく豪奢な着物を着ました。そして浴場《ハンマーム》から出ると、一杯のシャーベットを飲み、自分の着物から立ちのぼる芳香を、好い気持で吸いました。なにか平生よりも一段と晴れやかな心持がして、身のまわりのすべてが、白く見えました。人生の味は極度に甘美で、もう私は酔い心地になり、からだの重さも軽くなり、足は鳥の翼のように軽やかになったほどでした。こうした有様のとき、自分の魂の魂を、わが友の胸に注ぎにゆきたい欲望《のぞみ》が、私に起こったのでございました。
そこで私は彼女の家のほうに向かいますと、そのとき「笛の袋小路」と呼ばれる小路を横ぎったおり、手に自分の道を照らす提灯と、軸に巻いた手紙を持った一人の老婆が、私のほうに向かってくるのを見ました。そこで私は立ち止まりますと、その老婆は、私に平安を祈ってから、申しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、許された言葉をみだりに用いようとはしなかった。
[#地付き]けれども第百二十二夜になると[#「けれども第百二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その老婆は、私に平安を祈ってから、申しました、「わが子よ、あんたは字が読めますか。」私は答えました、「ええ、小母さん。」老婆は言いました、「じゃどうぞ、ひとつこの手紙を見て、文面を読んで下さいな。」そして私にその手紙を差し出すのでした。そこで私はそれを取って、広げて、文面を読んでやりました。それには、この手紙の差出人は達者だ、妹と両親にくれぐれもよろしくということが、言われていました。すると、それを聞いて、老婆は両手を天にあげ、私がこんなよい便りを知らせてくれたからと言って、私の繁栄を祈り、そして申しました、「どうかアッラーは、今旦那さまが私の心を安らかにしてくれなすったように、旦那さまのいっさいの苦労を軽くしてくれなさるように。」それからその手紙を自分の手に戻して、自分の道をつづけました。そのとき私はひどく小便がつまってきたので、壁ぎわにしゃがんで、用を足しました。それから、よくからだを振って立ち上がり、着物をおろして、立ち去ろうとしますと、そこにさっきの老婆が戻って来て、私の手をとり、それを自分の唇に持っていって、私に言うのでした、「おおご主人さま、お許し下され、じつは、ひとつお情けにすがりたいことがございますが、それを聞き届けて下されば、ご親切このうえないことで、きっと『褒賞者』の酬いを受けなさるでござりましょう。どうか、すぐそこの、私の家の戸口まで、いっしょにおいで下さって、戸の後ろから、もう一度、この手紙を家の女たちに読んでやって下さいまし。というのは、家の女たちは、私からこの手紙をかいつまんで聞かせてやったのでは、本気にしないにちがいなく、わけてもこの手紙の差出人というのが、私の娘の兄でして、娘がまたたいへん兄思いですから。その兄は、もうはや十年もまえに、商用で旅に出たきりで、私たちは死んだものとずっとあきらめていたところに、これがはじめての便りなのです。後生だから、頼まれて下され。なにも、中にはいって下さるには及びません。戸外《おもて》で、この手紙を読んでいただけばいいのだから。それに、同胞《はらから》を助ける人々についての預言者(その上に祈りと平安あれ)のお言葉は、旦那さまもご存じでしょう、『一人の回教徒をば、この世の苦しみのうちのひとつの苦しみより引き出す者には、アッラーこれを考慮したまいて、あの世の苦しみのうち七十二の苦しみを消し去りたもうべし』とな。」そこで私もすぐさまその頼みを聞き入れて、これに言いました、「では私の前に立って歩いて、足もとを照らし、道を見せなさい。」そこで老婆は私の前に立って、数歩行くと、一軒のお屋敷の戸口に着きました。
それは精巧な青銅と赤銅を一面に張った、堂々とした扉でした。そこで私はその扉のすぐ前に立ちますと、老婆はペルシア語でひと声呼びました。するとすぐに、私が事の次第をのみこむいとまもなく、それほどあっというまに、私の前に、すこし開いた扉の隙から、ひとりの身軽な丸ぽちゃの若い娘が、にこやかに、洗った大理石の上に素足で、現われ出たのでした。そして足を濡らさないように、両手で、下穿きの裾を腿の半分のあたりまで、たくしあげていました。両袖も同じく、腋の下よりも高くたくしあげていて、白い腕の蔭に腋の下が見えました。そして私は、雪花石膏《アラバスター》の柱のその腿か、水晶のその腕か、どちらにいちばん見入ってよいやら、わからぬ有様でした。そのかもしかの足首には、宝石を飾った金の鈴をめぐらし、しなやかな双の手頸には、玉虫色にきらめく、重たげな腕環をめぐらしています。耳には、すばらしい真珠の耳飾り、首には、値い知れぬ宝玉の三筋の鎖、髪には、金剛石をちりばめた薄地の絹切れを掛けていました。けれども、この女が扉をあけるまえには、なにか愉快な運動にでも耽っていたところだろうと、私に想像させた点は、見ればその美しい肌着が、ぴったりと胴についていないのでした。いずれにせよ、その美しさととりわけそのみごとな腿は、私にひじょうに物思わせた次第であり、私はわれにもあらず、次の詩人の言葉を思ったのでした。
[#2字下げ] おお若き処女よ、秘められしなべての宝をわれに察せしむべく、努めて汝が衣をば、汝が腿の付け根の方にたくし上ぐべし。しかして、汝のかくもよく秘むる盃を、われに差し出せよ。
乙女は私を見ると、すっかり驚いて、そして大きく眼をみはって、あどけない様子をし、私の生涯で聞いたどんな声よりも、気持のよいかわいらしい声で、訊ねました、「おお、お母さま、この方がわたくしたちに手紙を読んで下さる方なの。」そして老婆が「そうだよ」と答えたので、若い娘は、母親から受け取った手紙を私に渡そうと、手を差し出しました。ところが、私がその手紙を受け取ろうとして、そちらのほうに身を傾けたその瞬間、ちょうど私は扉から二歩の距離にいたところ、いきなり、老婆は私の背中に頭突《ずつ》きをくれて、それで私は激しく前方につんのめり、玄関の内側に、押しやられるのを感じました。その間に老婆は、電光よりもすばやく、急いで私の後からはいって、往来の扉をばたんと閉じてしまったものです。こうして私は、いったいこの女たちが私をどうする気なのか、考えるいとまもなく、この二人の女の間に捕えられてしまいました。しかしこれについては、すぐはっきりしました。事実……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十三夜になると[#「けれども第百二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
事実、私が廊下のまん中に立ったと思うと、いきなりその若い娘は、ひじょうに上手に足搦《あしから》みをかけて、私を床《ゆか》の上に倒し、そして私の上にながながと寝そべって、両腕で私を締めつけました。そこで私は、これはもう文句なく殺されるのだと思いました。ところが、ちがうのです。若い娘は、しばらくいろんなふうに身を動かしてのち、なかば身を起こして、私の腹の上に坐り、そして手でもって、私のからだをひどく激しく、ひどく長い間、しかもまったくとほうもないやり方で、こすりはじめたので、私はもう感覚を失ってしまいました。すると若い娘は、立ち上がって、私を助けて起き上がらせました。それから、私の手をとり、母親をつれて、連なる七つの廊下と七つの廻廊を通ってから、自分の住んでいるとおぼしき場所に、私をはいらせました。私は、その手練の指先で掻き立てられた利き目のために、まるっきり酔った人そっくりに、ただその後ろからついてゆきました。すると彼女は立ち止まって、私を坐らせておいて、言いました、「眼をおあけなさい。」そこで眼をあけると、そこは、ガラス張りの四つの大きな拱廊《アーケード》で明りをとった大広間でして、その広いことといったら、騎士の槍試合の馬場にでも使えそうなくらいでした。床は全部大理石張りで、四方の壁は、このうえなく巧妙な模様を描いた、鮮やかな色を配合した、陶製の板で蔽われていました。そこには、長椅子《デイワーン》と座蒲団《クツシヨン》類といっしょに、錦襴とビロードでひき立てた、形のよい家具類が、備えつけられていました。またその部屋の奥には、広々とした寝所があり、そこには真珠と宝石をちりばめた、全部黄金造りの大きな寝台が見えました。それはまことに、おお王冠太子さま、あなたさまのような王者にふさわしい、寝台でございました。
するとその若い娘は、私がびっくり仰天したことには、私の本名で私を呼んで、言うのでした、「おおアズィーズさま、あなたはどちらを選びますか、死ぬのと生きるのと。」私は言いました、「生きるほうです。」彼女は語をつぎました、「そういう次第ならば、あなたは私を妻にしさえすればいいのです。」けれども私は叫んだ、「いやいや、アッラーにかけて、だって、あなたみたいな道楽女と結婚するくらいならば、私はむしろ死んだほうがいい。」彼女は言いました、「おおアズィーズさま、私を信じて下さい、私と結婚なさいまし、そうすれば、あなたはあの『あばずれダリラ』の娘からのがれられるでしょう。」私は言いました、「だがその『あばずれダリラ』の娘とは、誰のことか。そんな名前の人は、誰も心あたりがないが。」するとその女は笑いだして、言いました、「まあ、アズィーズさま、あなたは『あばずれダリラ』の娘をご存じないって? そのひとはもう一年四カ月もまえから、あなたの恋人ですよ。お気の毒にアズィーズさま、ご用心なさいまし、あのアッラーが懲らしめて下さればよいような悪女の不実に、ほんとうにご用心なさいまし。まったくのところ、あの女の魂ほど腐った魂は、地上にありませんわ。どのようにたくさんの罪悪が、あの女のかずかずの恋人に対して、犯されたことでしょう。ですから、あなたがあの女の手中におちてから、いまだに身につつがなくいらっしゃるのを見て、私はほんとうに驚いておりますわ。」
若い娘のこの言葉に、私はもう仰天の最後の極に達してしまって、言いました、「おおご主人よ、いったいどうしてあなたはあのひとと、また私自身の知らないそうした仔細を、ご存じになったのか、そのわけを伺わせていただけましょうか。」女は答えました、「それは『天運』が自分みずからの取り極めと、自分のそっと隠している災いとを知っていると同じくらいよく、私はあの女を知っておりますよ。けれども、それをお聞かせするまえに、まずあなたの口から、あの女とあなたとの経緯《いきさつ》のお話を、承わりとうございます。だって、もう一度申しますけれど、あなたがあの女の手から、生命《いのち》に別状なく出て来ているのを見て、私はいまだにすっかり驚いているのですから。」
そこで私は、あの庭の恋人と、伯父の娘の憐れなアズィーザと、自分との間に起こったすべてを、その若い娘に話しました。その女は、アズィーザという名を聞くと、その苦しみにたいへん同情して、熱い涙を流したほどでした。そしてやるせない絶望のしるしに、彼女は両手を打って、私に言いました、「どうかアッラーがお恵みによって、その方に償いをして下さいますように、おおアズィーズさま。今となって私はよくわかります、あなたはひとえに、そのお気の毒なアズィーザの口添えのおかげで、『あばずれダリラ』の娘の毒手から救われているのです。その方がいなくなった今は、あなたはくれぐれも、あの不実な女の穽《わな》にお気をつけなさいまし……。けれども私は、これ以上これについてあなたに洩らすことは、許されていない身です。私たちは秘密に縛られているのです。」私は言いました、「いかにもそうです、このすべては、アズィーザあってこそ、こうなったことでした。」彼女は言いました、「ほんとうに、きょう日アズィーザほど見上げた女はもういませんわ。」私は言いました、「そればかりでなく、従妹《いとこ》は死ぬ前に私に、そのあなたがダリラの娘とおっしゃる、私の恋人に向かって、いかばかり死は快く[#「いかばかり死は快く」に傍点]、裏切りにまさるものぞ[#「裏切りにまさるものぞ」に傍点]という、この短い言葉を言えと、言い置いたのでありました。」私がこの文句を口に出したと思うと、彼女は叫びました、「おおアズィーズさま、まさしくその言葉こそ、その利き目だけで、あなたをのがれられない破滅から救ったのです。生きても死んでも、アズィーザはあなたを見守りつづけているのですわ。けれども死んだ人たちのことはおきましょう、その人たちはアッラーの平安のうちにいるのですから。私たちは、現在のことを考えましょう、お聞き下さい、おおアズィーズさま、じつは久しいまえから、私はあなたを自分のものにしたい望みに、夜も昼も、すっかりとりつかれているのでございます。そして今日になってやっと、私はとうとうあなたをつかまえることができたのです。どうです、うまくいったでしょう。」私は答えました、「いかにも、アッラーにかけて。」女はつづけました、「けれどもあなたはお若いので、おおアズィーズさま、私の母のような年寄り女のしでかす、いっさいの手管をご存じないのよ。」私は言いました、「いかにも、アッラーにかけて。」女はつづけました、「ですから、ご自分の天命にあきらめて、されるがままになっていらっしゃいな。あなたはあなたの妻に万事満足なさりさえすればいいのです。というのは、もう一度申します、が私はアッラーとその預言者(その上に祈りと平安あれ)の御前での、正当な契約によらないで、あなたと契りを結ぼうとは思いませんの。そうすれば、いっさいのあなたの望みはかなえられるばかりか、それ以上でございましょう。財宝も、お召し物の美しい切地も、軽いまっ白なターバンも、こうしたすべてが、すこしもあなたの懐ろを痛めずに、お手にはいるでしょう。そして私は、けっしてあなたにご自分の財布の紐をほどかせませんわ。というのは、私のところでは、パンはいつでも新しく、盃は満ちておりますから。そしてその代わりには、私はただひとつのことしか、あなたに求めはいたしますまい、おおアズィーズさま。」私は言いました、「どういうことですか。」彼女は言いました、「それは、あなたが私に対して、ちょうど|雄※[#「奚+隹」、unicode96de]《おんどり》がすることを、そのままして下さることです。」私はびっくりして、言いました、「それでいったい雄※[#「奚+隹」、unicode96de]は、あなたに何をするのです。」
この言葉に、若い娘はけたたましく笑い、ひっくりかえって尻餅をつくほど、激しく笑いました。そして両手を拍ち合わせながら、面白がって身をふるわしはじめました。それから私に言いました、「おやおや、あなたは雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の仕事をご存じないの。」私は言いました、「いかにも、アッラーにかけて、そんな仕事はいっこうに存じません。いったい何ですか。」女は言いました、「雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の仕事はねえ、アズィーズさま、食べて、飲んで、番《つが》うこと。」
そこで私は、こんなふうに話されるのを聞いて、ほんとうにすっかりきまりが悪くなって、言いました、「いや、アッラーにかけて、そんなことがアーダムの子の仕事とは、私は全然知らなかった。」女は答えました、「こんなよい仕事はありませんわ、おおアズィーズさま。さあ、しっかりなさい。立ち上がって、帯を固くしめて、腰をしゃんとして、それから一所懸命、頑張って、いつまでも、やって下さいな。」そして母親に向かって叫びました、「お母さま、早く来て下さい。」
すぐに母親が、めいめい火のついた燭火を携えた、四人の公式の証人を連れて、はいって来るのが見られ、彼らは慣例の挨拶《サラーム》をしてから、進み出て、輪になって坐りました。
すると、若い娘は習慣に従って、いそぎ面衣《ヴエール》を顔の上におろして、大面衣《イザール》で身を包みました。そして証人たちは、取りいそぎ契約を認《したた》めました。その娘は、今までのあるいはこれからのいっさいの勘定として、私から結納金一万ディナールを受け取ったと、気前よく認めることにして、自分の良心にかけ、アッラーの前で、その金額の債務者となりました。それから証人に慣例の謝礼を与えますと、彼らは挨拶《サラーム》ののち、はいって来たところから出てゆきました。そして母親も、自分の道のほうに姿を消してしまいました。
そこで私たちは、ガラス張りの四つの拱廊《アーケード》のついた大広間に、たった二人きりになりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十四夜になると[#「けれども第百二十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
私たちはガラス張りの四つの拱廊《アーケード》のついた大広間に、たった二人きりになりました。
すると、その若い娘は立ち上がって、着物を脱ぎ、肌にはただ薄い肌着を一枚つけただけで、私のところに来ました。それがなんという肌着でしょう、おお、その縫い取りよ。また透きとおった下穿きもつけていましたが、娘は急いでそれをずり落とし、私の手をとって、寝所の奥に連れて行き、私といっしょに、大きな黄金の寝台の上に身を投げ出し、息をはずませながら、私に言いました、「今は私たちに許されていることです。法にかなっていることをするのに、少しも恥ずかしいことはありませんわ。」そして豹《ひよう》のようにしなやかに寝そべって、私をぴったりと引き寄せました。それから長いこと呻《うめ》いて、それに身慄いをまじえ、またそれに色っぽい嬌態《しな》をまじえ、最後に、肌着を腰の上までまくりあげました。
そうなると、私はもうとてもわが欲望をおさえきれなくなりまして、女の唇を吸って、女が気を遠くし、身をのばし、まばたきしているところを、ずぶりと貫きました。こうして、私はあの詩人の言いぐさの、愛すべくも間違いのないことを、確かめた次第でした。
[#ここから2字下げ]
若き娘その衣を捲《た》くし上げしとき、わが眼は自在にその腹の高台を見渡すを得たり、おお花園よ。
しかしてわれはその入口を見いだせり。そは、わが忍耐と人生のごとく、狭くして難《かた》かりき。
さあれ、われは力を籠めてそこに入るを得たり、ただなかばのみとはいえ。そのとき、女は深く吐息を洩らしぬ。われは言えり、「なにゆえの吐息ぞや。」答えていわく「残りのなかばのために、おおわが眼の光よ。」
[#ここで字下げ終わり]
実際そのとおりで、まず最初の一番がすむと、彼女は私に言いました、「あなたのお好きなようになさって下さい、私はあなたの言うなりになる奴隷です。さあいらっしゃいな、取りあげてね。あなたにあずけた私の生命にかけて、いっそこちらにちょうだい、私、自分の手で入れて、胎内を鎮めますから。」そして接吻したり、じゃれたり、動きまわったり、かずかずの交合《まじわり》をしたりの最中、彼女は、私たちの叫び声が家じゅうに満ちて、近隣中が何事かと心配するまで、吐息と呻き声を聞かせることをやめませんでした。そのあとで、私たちは朝まで眠りました。
朝になって、私がいざ立ち去ろうとすると、彼女は笑いを浮かべて私のところに来て、言いました、「どこへいらっしゃるの。あなたは、出口の扉が入口の扉ほど、広々とあけ放たれていると、思っていらっしゃるの、アズィーズさま、眼をお覚ましなさい、初心《うぶ》なアズィーズさまよ。わけても、私を、あばずれダリラの娘とまちがえないで下さいまし。そうよ、そんな失礼な考えはさっさと棄てて下さい、アズィーズさま。あなたは『行録《スンナ》(46)』によって確かめられた、契約をしての結婚で、正式に私と縁組みをしたのだということを、お忘れですの。酔っていらっしゃるのなら、アズィーズさま、酔いをおさましなさい。そして正気にお戻りなさい。よくお聞きなさいませ。いま私たちのいるこの住居の扉は、一年に一度、たった一日だけしか、開かないのです。まあ起き上がって、私の言葉を確かめてごらんなさい。」
そこで私は、びっくりして立ち上がり、大扉のほうへ向かいました。そしてよく調べてみると、はたして、その扉は閂《かんぬき》をおろし、棒で止め、釘づけにし、固くしめきってあるのを認めました。私は乙女のほうに戻って、事実そのとおりだと言いました。彼女は微笑して、言いました、「アズィーズさま、ここにはたっぷりと、麦粉も、穀物も、なまの果物も、乾した果物も、穀を乾かした柘榴も、バタも、砂糖も、ジャムも、羊肉も、雛※[#「奚+隹」、unicode96de]も、そのほかそういった品々が何でもあって、相当の年月の間、不自由しないだけのものがございます。それに今となっては、私は、あなたが私といっしょにここに一年間いて下さることを、こうしたすべてがあることと同じくらい、たしかに信じます。ですから、もうあきらめなすって、そんなゆがんだお顔はおやめなさいな。」そこで私は溜息をつきました、「アッラーのほかには頼りも権力もない。」彼女は言いました、「だっていったい何を歎くことがありますの、お馬鹿さん。あの|雄※[#「奚+隹」、unicode96de]《おんどり》の仕事で、あなたが腕前のほどを見せて下さったからには、なにも溜息をつくことなどないではありませんか。」そして笑いだしたので、私もまた笑いだしました。そこで私は言うとおりになって、彼女の望みに従うよりほか、いたしかたなかった次第でした。
されば、私はこの家にとどまって、例の雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の仕事を務め、食べ、飲み、一所懸命、頑張って、いつまでも番《つが》うことをつづけました。それはまる一年十二カ月の長さにわたりました。ですから、一年たつと、その女は懐胎して、子供を産み落としたのでした。そしてそのときやっと、ここに来てから初めて、私は肱金《ひじがね》の上にきしる扉の音を聞きました。そこで私は心中、解放の「やあ、アッラー」の、深い叫びを発したのでした。
ひとたび扉があけ放たれると、大勢の召使と荷物運びが、翌年のための新しい食糧を携えて、はいって来るのを見ました。捏粉菓子や、麦粉や、砂糖や、その他この種の食品の、いっぱいの荷物でした。そこで私はとび上がって、すこしも早く、街と自由のほうに出かけようと思いました。ところが、彼女は私の着物の裾をとらえて、言いました、「アズィーズ、恩知らずのアズィーズ、せめて夕方までお待ちなさい、一年まえ、あなたが私の家にはいって来た、きっかりのあの時刻まで。」そこで私もさらにじっと辛抱することにしました。けれども、夕方になるや否や、私は立ち上がって、扉のほうに向かいました。すると彼女は敷居までついて来て、翌朝扉がしまるまえに、かならず帰って来ると誓わせないうちは、私を外に出しませんでした。それにもう私は、それを実行しないわけにゆかない身でした。というのは、私は預言者(その上に平安と祈りあれ)の「御剣」と「聖典《コーラン》」と「離婚」にかけて、誓言したのでしたから。
そこで、私はとうとう外に出て、急ぎ両親の家のほうに向かいましたけれども、そのとき私は、あの私の友、こんどの妻の言う「あばずれダリラ」の娘の庭のところを、通って行ったのでした。するとひじょうに驚いたことに、その庭はいつもと同じく戸が開いていて、茂みの奥には、提灯がともっているのが見えました。
そこで私はたいそう気持を悪くし、そればかりかひじょうに腹が立ちました。そして心の中で言いました……
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十五夜になると[#「けれども第百二十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで私はたいそう気持を悪くし、そればかりかひじょうに腹が立ちました。そして心の中で言いました、「私がここをあけてから、もう一年にもなる。そして不意に来て見れば、万事昔と同様だ。こいつは、アズィーズよ、おまえはおまえを死んだものと思って、泣いていらっしゃるにちがいない母上に会いにゆくまえに、おまえのもとの恋人はどうなったか、知らなければならんぞ。あのとき以来、どんなことが起こったか、わかったものじゃないわい。」私はすぐに足早に歩きはじめて、穹窿形の天井、黒檀と象牙の円屋根の部屋に着くと、勢いこんで中にはいりました。するとそこには、私の友そのひとが、身を曲げた姿勢で、頭を膝のほうに垂れ、片手を一方の頬にあてて、坐っているのでした。その顔色も、なんと変わったのでしょう。両の眼は涙に濡れ、顔はいかにも悲しげです。そして、突然自分の前に私を見ると、彼女は飛び上がって、立ち上がろうとしましたが、感動のあまり、またくずおれてしまいました。最後にやっと口をきくことができて、しみじみした口調で、私に言いました、「あなたが来て下さったとは、アッラーに讃えあれ、おおアズィーズさま。」
ところで、私は実際のところ、こちらの不実を知らぬこの悦びの前で、ほとほと恥じいって、頭を垂れてしまいましたが、しかし、やがて友のほうに進み出て、これに接吻してから、申しました、「どうして、今夜私の来ることが察せられたのですか。」彼女は答えました、「アッラーにかけて、あなたがおいでになろうとは、少しも存じませんでした。けれども、一年このかた、私は毎夜この場であなたをお待ちして、ひとりぽっちで泣き、すっかりやつれてしまいました。夜明かしと不眠とで、どんなに私が変わったか、ご覧あそばせ。私は、あなたに絹の着物を差し上げて、また来ると約束させたあの日から、こうしてずっと待ち暮らしております。さあ、アズィーズさま、あなたをこんなに永いこと、私から遠く離れて引き止めていた理由《わけ》を、どうぞ聞かせて下さい。」
そこで私は、おお王冠太子さま、迂闊にも、出来事を全部詳しく話し、例の腿美しい乙女との結婚と、一年にわたる雄※[#「奚+隹」、unicode96de]の仕事の勤めを、話して聞かせてしまいました。それから言いました、「それに、ことわっておかなければならないが、私があなたといっしょに過ごせるのは、今夜ひと夜限りなのです。というのは、私は三つの聖なる事にかけて誓わされたから、朝にならないうちに、妻のもとに帰らなければならない。」
その若い女は、私が結婚したと聞くと、蒼ざめて、次に、憤りのためじっと身動きせずにいましたが、そのうちやっと、叫ぶことができました、「この犬の子が、私のほうが最初にあなたを知ったのに、あなたはただのまる一夜さえ私に与えず、お母さまにも割《さ》かないとは。あなたはこの私も、あの見上げたアズィーザ――なにとぞアッラーはあの方にご慈悲を垂れたまいますように――なみに、我慢する力を授けられているとでも、思っているのか。私もまた、あなたの不実のために、みすみす悲しみ死《じに》に死んでしまうと考えているのか。ああ、不実なアズィーズ、今は誰も、あなたを私の手から救ってはくれませんよ。そして私はもうあなたを赦す理由が、こればかりもありません、あなたはもう何の役にも立たず、今は妻子がある身なんですから。私はね、結婚した男なんぞ、大嫌いですからね。独身者相手でなくては面白くもない。アッラーにかけて、これからは、もうあなたは私の役には立たず、私にとっては、もうなんでもないが、といって、あなたがほかの女のものになるのも、我慢できない。まあ、すぐにわかります。」
若い女の眼は、すでに私のからだを刺しとおしながら、恐ろしい口調で言われたこの言葉に、私はこれからわが身に起こることについて、もう疑いのない心配に襲われました。というのは、突然、私の考えるいとまもなく、黒人よりもたくましい、十人の若い女奴隷が、私に襲いかかって、私を床《ゆか》に押し倒し、身動きもならぬようにおさえつけてしまいました。すると、その女は立ち上がって、短刀を取り上げて、私に言いました、「これからみんなで、ちょうど助平すぎる牡山羊を屠《ほふ》るように、あなたを屠ってあげよう。私はそうやって自分の仇をとり、またこれを機会に、おさえにおさえた悲しみのため、あなたに肝《きも》を破裂させられた、かわいそうなアズィーザの仇も、とってあげます。アズィーズよ、さあ、最後の祈りを唱えなさい。」こう言いながら、女は、奴隷たちに取りおさえられて息もつけずにいる、私の額の上に、膝を載せました。そこで、私はもうまったく自分の死を疑いませんでした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十六夜になると[#「けれども第百二十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで、私はもうまったく自分の死を疑いませんでした、ことに、奴隷どもが私の身に加えた仕打ちを見たときには。実際、そのうちの二人は、私の腹の上に坐り、二人は、私の両足をおさえ、今二人は、私の両膝の上に坐ったのです。すると、女自身も立ち上がって、他の二人の奴隷に手伝わせて、私の足の裏を棒でさんざんうちはじめ、私は苦しさのあまり、気を失ってしまいました。そこでやつらは手を休めたらしいのです。というのは、私はわれに返って、叫びました、「こんな拷問に会うよりは、死んだほうが千倍もましだ。」
すると女は、私の望みをかなえるかのように、ふたたびものすごい短刀を取り上げ、それを自分の上靴で研いで、奴隷たちに言いつけました、「この男の首の皮をのばしなさい。」
ちょうどその刹那、アッラーは突然、私にアズィーザの最後の言葉を思い出させて下さいまして、私は叫びました。
[#2字下げ]「いかばかり死は快く、裏切りにまさるものぞ。」
この言葉に、女はぎょっとして、ひと声大きな叫び声をあげ、それから叫び出しました、「なにとぞアッラーはあなたの魂をお憐れみ下さいますよう、おおアズィーザよ。あなたは叔父の子を、頼るすべのない死から救い出しました。」
それから、女は私をじっと見つめて、言いました、「さてあなたは、こうしてアズィーザの言葉のおかげで、救われたとはいえ、それでまったくすんだものとは思いなさんな。なぜなら、私はきっと、あなたとあなたを私から離して引きとめたその浮気女に、仇をとらずにはおきませんからね。そしてこの二つの目的から、私はほんとうの手段に訴えることにします。さあ、おまえたち。」こう奴隷たちを呼んでから、言いつけました、「この男の上にしっかり乗っかって、身動きできないようにして、両足をぎゅっと結《いわ》きなさい。」それはすぐさま実行されました。
すると、女は立ち上がって、赤銅の鍋を火にかけ、中に油と柔らかいチーズを入れました。そしてチーズが煮え返る油にとけるのを待って、ずっと床《ゆか》にころがされて、若い女たちにおさえつけられている私のほうに、戻って来ました。女は近よると、身をかがめて、私の下穿きを取りました。このとき、手を触れられると、私は恐ろしさと恥ずかしさがどっと押し寄せて、大きな身ぶるいが身を過《よ》ぎりました。何が起こるか、察しられたのです。そこで私は、私の腹をさらけ出して、私の両方の卵をつかみ、蝋を塗った紐でもって、その根元《ねもと》をいわき、それから紐の両|端《はし》を、二人の奴隷に渡して、力いっぱい引っぱるように言いつけ、そうしておいて、自身は指の間に剃刀《かみそり》を持って、ただひと薙《な》ぎの下に、私の男根を切りとってしまったのでした。
王冠太子さま、苦痛と絶望が私を気絶させたかどうかは、おわかりでございましょう。それからのち、私の知っている全部のことは、気絶から覚めたとき、私は自分の腹が、女の腹と同じくさっぱりとしているのを見たという、それだけでございます。そして奴隷たちは私の傷に、柔らかいチーズを入れて沸かした油を、あてている最中でしたが、そのおかげで、ほどなく血はとまりました。それがすむと、女は私のところに来て、渇きをとめるため、一杯のシロップを与えて、そして軽蔑した口調で、言いました、「今は出て来たところへ帰るがいい。おまえなんかもう私には何ものでもない、もう何ひとつ私の役には立ちはしない、私のいるたったひとつの物をば、私は取ってしまったんだから。これで望みは遂げました。」そして私を足で押しやって、自分の家から追い出し、こう言いました、「まだ自分の頭を自分の肩の上に感じることができるのを、仕合せと心得るがいい。」
そこで私は、痛さをこらえながら、ひと足ひと足歩いて、若い妻の家までやっとたどりつきました。戸口に着くと、扉はまだ開いていて、私は黙って中にはいり、大広間の座蒲団《クツシヨン》の上に、どかりと倒れました。すぐに妻が駈けつけてきましたが、私がまっ蒼なのを見て、私のからだをよく調べ、とうとう私に事件を話させ、片輪にされたからだを見せさせてしまいました。けれども、私は自分の身を見るに忍びず、またもや気絶してしまいました。
気絶から覚めてみると、私は往来の、大扉の下に横たわっていました。というのは、この妻もやはり、私が女同然と見るや、屋敷の外にほうり出してしまったのです。
そこで、私はもうさんざんのていたらくで、わが家のほうに向かいました。久しいまえから、私のために泣いて、どこの地上を私がうろついているかも知らずにいる、母親の腕のなかに、身を投げに行ったのです。母はすすり泣きながら、私を迎え、私がこのうえなくまっ蒼で弱りきっている有様を見て……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十七夜になると[#「けれども第百二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
母はすすり泣きながら、私を迎え、私がこのうえなくまっ蒼で弱りきっているのを見て、ひとしお涙を流したのでした。私は私で、憐れな、優しいアズィーザ、ひと言《こと》の怨みごとも言わず、悲しみのあまり死んだ、従妹《いとこ》の思い出が浮かんできて、このとき初めて、彼女の死を惜しみ、これに絶望と後悔の涙を注いだのでありました。それから、私がちょっと気がしずまりますと、母は眼に涙をいっぱいたたえて言いました、「かわいそうな子よ、不幸がわが家に住みついているのだよ。私は最悪のことを、おまえに聞かせなければならない。じつはお父さまはお亡くなりになったのです。」この知らせに、嗚咽が私の咽喉《のど》をつまらせ、私は呆然として、それから床《ゆか》につっ伏して、ひと晩じゅうそのままでいました。
朝になると、母は私をむりに起こして、私のそばに坐りました。けれども私は、憐れなアズィーザが平生坐っていた片隅を見つめたきり、その場に釘づけになっていました。涙は音もなく頬を伝いました。母は私に言いました、「ああ、倅や、私が、主人のいないこの空家に、ひとりきりでいるようになってから、もう十日になります。おまえのお父さまが、アッラーのご慈悲のうちに亡くなってから、十日になりました。」私は言いました、「お母さま、そのことはひとまずおいて下さい。今夜は、私の心と思いは、あの憐れなアズィーザに占められています。あの女《こ》の思い出以外の思い出に、私の苦しみを捧げられそうもありません。ああ、あんなにも私の顧みなかった、憐れなアズィーザよ、私を心から愛していたおまえよ、おまえをいじめさいなんだ男を許しておくれ。その男は、今は自分の過ちと裏切りを罰せられた、罰せらる以上にも罰せられたのだから。」
ところで、母は私の苦しみの広さと真実を認めていたのですが、しかし、せっせと私の傷の手当てをして、体力を回復するようなものを持ってきてくれるのにいそしんで、口をつぐんでいました。次に、これらの看護をすますと、母はずっと私にあらゆる愛情のしるしを見せてくれ、こう言いながら、私のそばにつききりでいてくれたのでした、「倅よ、アッラーは祝福されよ。いちばん悪い災難がおまえの身に起こらず、おまえの生命に別状なかったのだからね。」そして、依然魂と思い出は病みながらも、からだのほうは完全に回復するまで、こうしてくれたのでありました。
そのとき、母はある日のこと、食後に、私のそばに坐って、しみじみとした口調で、言うのでした、「倅よ、私はいよいよ、あのかわいそうなアズィーザが、おまえにと言って、私にあずけた形見の品を、おまえに渡すときが来たと思います。死ぬまえに、あの娘《こ》は、おまえのうちにほんとうにあの娘《こ》を悼《いた》むしるしが見え、おまえのとらえられた正しからぬ繋縛《つながり》を、さっぱり棄てたと私が見届けたうえでなければ、それを渡してくれるなと、くれぐれも頼んだのです。」それから母はひとつの箱をあけて、中から包みを取り出し、それをほどいて、おお王冠太子さま、今御目の前にある、この第二のかもしかの縫い取られている、このたいせつな布切れを出したのでした。絹の上に、縁《へり》に組み合わされている詩句をば、お読み下さいまし。
[#ここから2字下げ]
君は君の欲望《のぞみ》もてわが胸を満たし、わが胸の上に坐りて、そを千々に砕きぬ。君はわが眠を不眼に慣らし、もってみずからは眠る。
わが胸の動悸の音に、君はわが恋と関わりなき夢のかずかずを見たまいき、わが胸と眼は、君の欲望《のぞみ》に溶けてあるものを。
姉妹らよ、アッラーにかけて、わが死後は、わが墓の大理石《なめいし》の上に刻みたまえ、
「おお、汝、アッラーの道を行く者よ、ここに遂に恋の奴隷の安らう地あり」と。
[#ここで字下げ終わり]
殿よ、私はこの詩節を読んで、おびただしい涙を流して泣き、せつなさにわれとわが頬を打ちました。そしてその布切れを繰り広げていると、一葉の紙片が落ち、それにはアズィーザ自身の手で、次のような文言が書かれていました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百二十八夜になると[#「けれども第百二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その布切れを繰り広げていると、一葉の紙片が落ち、それにはアズィーザ自身の手で、次のような文言が書かれていました。
[#ここから2字下げ]
「おお、いとしき従兄上《あにうえ》さま、おんみは妾《わらわ》には、自身の血と生命よりも、なお貴くたいせつなお方であったことを、よくご承知下さいませ。妾の死後も、アッラーにおすがりして、おんみのお選びになるあらゆる女の方々のもとで、おんみがもてはやされ、首尾よろしきよう、祈りつづけるでございましょう。妾は、あばずれダリラの娘のしわざにより、くさぐさの不幸のおんみに到らんことを、承知しておりまする。なにとぞそれが戒めとなり、おんみはお心より不実の女らへの不祥なる恋を一掃し、もはやご執着なきことをおさとり下されたく、願い上げます。妾を先だって逝《ゆ》かしめ、おんみの苦悩を切なく目睹するをしいたまわざりしアッラーに、謝し奉ります。
なにとぞ、ただアッラーのお顔のために、この形見の品、かもしかの縫い取られているこの布切れをば、たいせつにご保存下さいまし。これはおんみお留守のおり、妾の相手をしてくれました品。さる王女さま、『樟脳と水晶の島々』の姫君、姫《シート》ドニヤより、妾に贈られたるものでございます。
いよいよおんみ不幸にたえがたき暁には、『樟脳と水晶の島々』にある父君のご領地に、ドニヤ姫をお尋ねなさいませ。けれども、おおアズィーズさま、この姫君の類いなき美しさと魅力とは、けっしておんみに定められたるものにあらざることを、よくご承知下さい。されば、姫君に思いを焦がすことなどもってのほか。なんとなれば、姫君はただおんみにとって、おんみを憂目より救い、おんみの魂の煩悶を打ち切る原因となるのみでございましょうから。
さらば、おんみの上に平安と祝福の下れかし、おお、いとしき従兄上《あにうえ》さま。」
[#ここで字下げ終わり]
このアズィーザの文《ふみ》を読みまして、おお王冠太子さま、私はひとしお優しさに心を動かされ、眼のありとある涙を流し、母もまた私といっしょに泣き、夜になるまで、こうしておりました。そして私は一年の間、この怏々《おうおう》として楽しまぬ状態から、癒やされることができず癒いました。
一年たつとようやく、私は出発を思い、「樟脳と水晶の島々」に、ドニヤ姫をお尋ねしようと思い立ちました。母もしきりに旅するように励まして、言いました、「わが子よ、旅はおまえの気をまぎらし、おまえの悲しみを消してくれよう。それにちょうど今この町に、出発しようとしている隊商《キヤラヴアン》があります。それに加わって、ここで商品を仕入れて、お立ちなさい。そして三年後に、同じ隊商《キヤラヴアン》といっしょに帰っておいで。そうすればおまえは、魂の上にのしかかっているこの愁傷を、すべて忘れることでしょう。私もそのとき、ふたたび胸晴れやかになったおまえを見られれば、悦ばしいことです。」
そこで私は母の言うようにして、高価な商品を仕入れ、隊商《キヤラヴアン》の一行に加わり、いっしょについて、いたるところに旅しはじめましたが、しかし仲間のように、自分の商品を並べる勇気は出ませんでした。それどころか、毎日私はひとり離れて腰をおろし、アズィーザの形見の布切れを取り出しては、自分の前に広げ、泣きながら、いつまでもかもしかに見いっているのでした。そしてこんな有様をつづけて、とうとう一年の旅の末、私たちは、ドニヤ姫の父王の治めていられる王国の、国境に達しました。それは「樟脳と水晶の七つの島」でございました。
さてこの地の王は、おお王冠太子さま、シャハラマーン王と呼ばれました。そしてこれぞまさしく、ご自分のいちばん美しい女友達たちに送る絹切れの上に、例のかもしかを、魔術の妙技をもって縫い取りなされる姫《シート》ドニヤの、父君であらせられました。
けれども私は、この王国に着きますと、考えました、「おおアズィーズよ、憐れな廃人よ、今後この地上のお若い姫君とても、その他あらゆる乙女とても、いったいおまえに何の役に立とうぞ、おお、処女の腹のように、のっぺりとした身となってしまったアズィーズよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、許された言葉を語るのをやめた。
[#地付き]けれども第百二十九夜になると[#「けれども第百二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「……今後この地上のお若い姫君とても、その他あらゆる乙女とても、いったいおまえに何の役に立とうぞ、おお、処女の腹のように、のっぺりとした身となってしまったアズィーズよ。」
さりながら、私はアズィーザの言葉を思い出して、とにかく必要な捜索をはじめ、王女にお目にかかるのに役立ちそうな情報を求めはじめました。けれどもあらゆる骨折りも空しく、誰も私の求める手段を教えてくれることはできませんでした。そこで私もすっかり望みを絶ちはじめていたとき、ある日のこと、ちょうど町を囲むあちらこちらの庭を散歩して、ひとつを出ては次のにはいり、緑の草木を眺めて、努めて憂さを忘れようとしていますと、ただ眺めただけでも傷心の魂を憩わせてくれるような、好ましい樹木のある、庭の入口に着いたのでした。その入口の台の上には、年とった庭番が坐っていて、それは優しい顔付きの尊ぶべき老人《シヤイクー》で、顔の上に祝福の跡《あと》ある人々の一人でした。そこで私はそのほうに進み寄って、慣例の挨拶《サラーム》のあとに、言いました、「おお|ご老人《シヤイクー》よ、このお庭はどなたのお庭でしょうか。」彼は言いました、「王女ドニヤさまのものじゃ。おお美しい若者よ、なんならちょっとはいって散歩をし、花と草木の香を吸っても仔細ない。」私は言いました、「まことにありがとう存じます。けれども、おお|ご老人《シヤイクー》よ、どうか花の茂みの蔭に隠れて、王女さまのおいでになるのをお待ち申すことを、許して下さるわけにはまいりますまいか。ただわが眼瞼《まぶた》からたったひと目を投じて、お姿を拝見するだけのことでございますが。」彼は言いました、「アッラーにかけて、それはかなわぬ。」そこで私は深く溜息をつきました。すると老人《シヤイクー》は優しく私を見つめて、それから私の手をとって、いっしょにお庭にはいりました。
こうして私たちは連れ立って歩きはじめて、やがて老人《シヤイクー》は、しっとりとした葉蔭の、心地よい場所に私を案内しました。そしていちばんよく熟《う》れて、いちばんおいしそうな果物をもいで、それを私にくれて、言いました、「さあ、渇きをいやしなさい。この味を知っている者は、ドニヤ姫よりほかにないのじゃ。」次に言いました、「ここに坐っていなさい。すぐ帰って来るから。」そしてちょっと私を置いて行ったかと思うと、やがて仔羊の焼いたのを持って帰ってきて、いっしょに食べようと誘ってくれました。そしていちばん柔らかな肉片を切り取って、さも嬉しげに、それを私にくれました。私はこのあらゆる親切に恐縮にたえず、なんとお礼を言ってよいかわからぬ有様でした。
ところが、私たちが腰をおろして、食べながら仲よく話しておりますと、そこに庭のご門が、歌いながら開く音が聞こえました。すると庭番の老人《シヤイクー》はあわてて、私に言いました、「早く。立ち上がって、この茂みのなかに隠れなさい。特に身動きしてはなりませんぞ。」私は急ぎその言葉に従いました。
私がやっと隠れ場所に潜《ひそ》んだと思うと、なかば開いた庭のご門から、黒人の宦官の頭が見えて、声高く訊ねるのでした、「おお、庭番の老人《シヤイクー》よ、ここに誰かいるか。ドニヤ姫のお成りだ。」老人《シヤイクー》は答えました、「おお、御殿のお頭《かしら》よ、この庭には誰もいません。」そして急ぎ駈けつけて、ご門をすっかりあけ放ちました。
すると、おお、殿よ、そのご門から姫《シート》ドニヤのはいってくるのが見えましたが、まるで月そのものが庭におり立ったような気がしました。その美しさたるや、私は茫然として、身動《みじろ》ぎもせず、死んだように、その場に釘づけになってしまいました。私はひと息吐くことさえもかなわず、ただ眼であとを追っていました。そして姫が散歩をしていらっしゃる間じゅうずっと、砂漠で渇した者が、湖のほとりで力つきて倒れ、清らかな水のところまで辿りつけないでいるのとまったくそっくりに、その場に立ちつくしてしまったのでございました。
そのとき私は、殿よ、ドニヤ姫にせよ、その他どのような女性《によしよう》とて、今や性のない人間と化してしまったこの私の前では、もはや何の危険のおそれもあり得ないことが、よくわかりました。
そこで私は姫《シート》ドニヤが出て行かれるのを待って、庭番の老人《シヤイクー》に暇を告げ、ひとりごとを言いながら、隊商《キヤラヴアン》の商人たちのもとに、帰りを急ぎました。「おおアズィーズよ、おまえはいったいどうなったのか、アズィーズよ。もはや焦がれる女たちを取りしずめることのできない、のっぺりした腹だ。さあ、おまえの気の毒なお母さんのそばに帰って、主《あるじ》のない家で安らかに死ぬとしよう。なぜって、おまえにとって、今後人生はもう意味がないからな。」そして、さんざん旅の苦労を重ねて、この国に着いたにもかかわらず、私の絶望ははなはだしく、アズィーザはドニヤ姫こそ私にとって幸福の原因《もと》となるはずだと、きっぱり断言したものの、もうとてもその言葉を実行する気にはなれないのでありました。
そこで私は自分の国に戻るため、隊商《キヤラヴアン》といっしょに出発したのでありました。かくして私は、父君、「緑の都とイスパハーンの山々」の主《あるじ》、スライマーン・シャー王の御《み》稜威《いず》の下なるこの地に、到り着きました次第にござります。
私の身の上は以上のごときものでございます。
――王冠太子はこの感嘆すべき物語を聞かれ、そして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百三十夜になると[#「けれども第百三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、私の聞き及びましたところでは、総理|大臣《ワジール》ダンダーンは、コンスタンティニア攻囲の間、ダウールマカーン王に、こうしたすべての物語をお聞かせしたのでしたが、さらに次のように、その物語のつづきをばつづけたのでございました。そしてそこでは、これからお話しいたしまするすべての驚くべき事柄に、アズィーズはたえず、深くかかわり合っているのでございます。
ドニヤ姫と王冠太子との物語
王冠太子は、このアズィーズとアズィーザの感嘆すべき物語を聞かれ、そしてかくも神秘なドニヤ姫が、どんなに好ましく、またどんなに美質と技術の堪能を、身に備えているかを知りますと、即座に情熱にとらえられて、はなはだしく心を悩ませられたのでありました。そして王子は、万難を排して姫のもとに到り着こうと決心された。
そこで王子は、もう若いアズィーズを離そうとはせず、これを伴って、ふたたび自分の馬に乗り、父王、緑の都とイスパハーンの山々の主《あるじ》、スライマーン・シャー王の都への道を、ふたたび取ったのでした。
さて、王子のした最初の手配は、友人アズィーズに、なにひとつ不足のないひじょうに美しい家を、自由に使わせたことでした。こうして、アズィーズが万端自分の意にかなうものを持ったことを確かめると、王子は父王の御殿に戻って、自分の部屋に駈け入って閉じこもり、もう誰とも会うのをことわって、無性に泣いているばかりだった。というのは、耳に聞く事柄というものは、眼で見たり、感じたりする事柄と等しい感銘を与えるものだということを、王子は体験したからです。
父君スライマーン・シャー王は、王子がこうした顔色の変わった有様でいるのを見られると、これは王冠太子は心中に悲しみがあり、憂えがあると察せられた。そこで王子に訊ねなさいました、「おおわが子よ、そのように顔色が変わり、かくも心を痛めているとは、そもそもどうしたことか。」すると王冠太子は、じつは姫《シート》ドニヤに想いを懸けている、いまだかつて見たことはないが、ただアズィーズが姫の優雅な歩みぶり、眼、まったき美、花と動物を描く妙技を述べるのを、聞いただけで、熱烈に想いを懸けてしまったと、お話し申したのでした。
この知らせに、スライマーン・シャー王は困惑の限りに達せられて、王子に言われました、「わが子よ、その樟脳と水晶の島々というのは、わが国よりきわめて遠隔の地じゃ。そしていかにも姫《シート》ドニヤは絶世の姫君であるとは申せ、ここにも、わが都とそちの母の御殿にも、みごとな乙女らと、全地の美しい女奴隷らをなしとせぬ。されば、わが子よ、女部屋に入って、月のごとく美しき五百の奴隷のうちより、そちの心にかなうものを、残らず選び出せよ。そして万一そのように選んでも、それらの女の一人もそちの気に入るものなきおりは、そちのために、近隣の国々の王女の間より、一人の王女を、そちの妻に迎えてつかわそう。その王女のほうが、きっと姫《シート》ドニヤその人よりもうるわしく利発であるよう、余はかならず約束いたす。」王子は答えました、「父上さま、私はドニヤ姫以外、錦の上にあのように巧みにかもしかを描くすべを知る姫、そのひと以外を、妻にいたそうとは望みませぬ。私には絶対に姫が必要です。さもなければ、私は自分の国も、友人も、家ものがれて、姫ゆえに自殺してしまいます。」
そこで父王は、これに逆らっては悪いと見られて、申された、「では、わが子よ、すこし辛抱して、余に余裕を与えよ。これより樟脳と水晶の島々の王に使節を派し、これを正式に、昔余がそちの母上と結婚いたしたおり、余自身用いた儀式に従って、王女をそちの后《きさき》に与えるよう、申し入れるほどに。万一王が拒むようであったら、広がれば前衛は樟脳の島々に達し、一方殿軍はなおわがイスパハーンの山々の後ろにある、それほどの大軍をもって、王の国々を蹂躪したうえで、余は王の足下の大地をゆるがし、王の頭上にその王国全土を壊滅させてやろう。」
こう言って、王は王冠太子の友、若い商人アズィーズを召し出して、これに仰せられた、「そのほうは、樟脳と水晶の島々に至る路を存じておるか。」彼は答えました、「存じておりまする。」王は言われた、「余はこれよりわが大宰相をその国の王のもとに派するが、ぜひそのほうに、彼処《かしこ》まで同行してもらいたいものと思う。」アズィーズは答えました、「仰せ承わり仰せに従いまする、おお当代の王よ。」
そこでスライマーン・シャー王は、総理|大臣《ワジール》を呼んでこれに仰せられた、「この王子の件をば、そのほうのよろしく思うように、計らってもらいたい。さりながらそのためには、そのほうは樟脳と水晶の島々まで出向いて、王女をば、王冠太子の后に請わねばならぬ。」すると大臣《ワジール》は仰せ畏まってお答えしましたが、一方王冠太子は待ちきれず、次の詩人の句を誦しながら、自室にひっ込んでしまったのでした。
[#ここから2字下げ]
夜に訊ねよ。夜はわが苦しみを告げ、わが悲しみのわが心の上に歌う、涙溢るる悲歌を告げん。
夜に訊ねよ。夜は告げん、われは牧人にして、その眼は夜々の星を数え、その頬に涙の霰《あられ》たばしる者ぞと。
地上にわれはただひとりなるを覚ゆ、わが心は欲情漲《のぞみみなぎる》も、かの多産なる胎《はら》を擁して、光栄の子種《こだね》を見いださぬ女のごとく。
[#ここで字下げ終わり]
そして王子は、食物も眠りも拒んで、夜をこめて物思いにふけっておりました。
けれども、日があがるとすぐに、父王は急ぎ王子に会いに来られて、その顔色は前日よりもさらに蒼ざめ、やつれ方はさらに著しいのを見られました。そこで、王子を慰め、辛抱させるため、アズィーズと大臣《ワジール》の出発の準備を急がせ、樟脳と水晶の島々の王への豪奢な贈物を、両人に託するのをお忘れになりませんでした。
そして両人は旅をつづけ、いよいよ樟脳と水晶の島々を望むところに着くまで、いく夜もいく日も旅をつづけました。そこで二人は河のほとりに天幕《テント》を張り、大臣《ワジール》は使者を立てて、王に自分たちの来着を知らせにやりました。するとまだその日の暮れないうちに、王の侍従と貴族《アミール》たちが出迎えに来るのが見え、彼らは挨拶《サラーム》と歓迎の祝辞ののち、すぐに、何なりとご用を仰せつけられたき旨申し、王の御殿まで随行したのでした。
そこでアズィーズと大臣《ワジール》は宮中に入り、王の御手の間にまかり出て、主君スライマーン・シャーの進物を進上しました。王はこれに感謝して、二人に言われました、「余は衷心より親愛の念をもって、わが頭上と眼のうちに、これを嘉納いたすぞよ。」そしてアズィーズと大臣《ワジール》はすぐに、慣例に従って、退出し、王宮に五日の間とどまって、旅の疲れを癒やしました。
けれども、五日目の朝になると、大臣《ワジール》は誉れの衣を着用して、アズィーズといっしょに、王の玉座の前にまかり出ました。そして王に、主君の申込みをお伝えし、ご返事を待って、うやうやしく口をつぐみました。
大臣《ワジール》の言葉を聞くと、王はにわかにすっかり面《おもて》を曇らせて頭を垂れ、いたく困惑して思案にふけり、緑の都とイスパハーンの山々の強大な王の使臣に対して、いかに返事をしたものか、長い間とほうに暮れておられた。
というのは、王はこれまでの経験で、王女がどんなに結婚を忌み嫌っているかを知っていて、今度の王の申込みも、今まですでに、近隣の国々と周辺近辺のあらゆる地方の、主だった王侯から持ちこまれたいっさいの申込みと同様、憤然としりぞけられるだろうということを、ご承知だったからのことです。
最後に、王はようやく頭を上げて、宦官の長《おさ》に合図をして近づかせ、これに申された、「これより即刻、汝の主人|姫《シート》ドニヤにお会いし、これなる大臣《ワジール》の敬意とわれらにもたらした贈物を、姫に呈し、ただいま大臣《ワジール》の口より汝の承わったところをば、そのまま姫に伝えよ。」すると宦官は王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、姿を消しました。
ひと時たつと、宦官は戻って来ましたが、その鼻は足先までのびておりました。そして王に言上しました、「おおもろもろの世紀と当代の王よ、私はご主人|姫《シート》ドニヤの御前にまかり出ましたところ、この大臣《ワジール》殿のお申込みを申し上げたと思うと、姫君のお眼はお怒りをはなち、そしてすっくと立ち上がられ、鎚矛《つちほこ》をつかんで、私の頭を割ろうとて駈け寄りなさいました。そこで私はあわてて、せいいっぱい逃げ出しましたが、姫君はいくつも扉を越えて追ってこられ、私に向かってお叫びになりました、『父上がなんとしても私に結婚を強いなさろうとおっしゃるなら、私の夫となる人は、私の素顔を見る暇《いとま》もあらせず、私はこの自分の手でその人を殺し、自分もそのあとから自害いたしますから、そのつもりでいらっしゃい』とおっしゃるのでござりました。」
この宦官の長《おさ》の言葉に……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、その夜は、それ以上物語を長びかせようとはしなかった。
[#地付き]けれども第百三十一夜になると[#「けれども第百三十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、この宦官の長《おさ》の言葉に、姫《シート》ドニヤの父王は、大臣《ワジール》とアズィーズに言われました、「ご両所がご自分の耳でもって聞かれたとおりの次第じゃ。さればスライマーン・シャー王にわが|ご挨拶《サラーム》を伝え、わが娘が結婚に対して抱く嫌悪の情を申し上げて、よろしく復命せられたい。なにとぞアッラーはおんみらを、つつがなく故国に到らせたまわんことを。」
そこで大臣とアズィーズは、使命の結果の思わしからぬのを見て、いそぎ緑の都に戻って、スライマーン・シャー王に、自分たちの聞いたところをお伝えしたのでした。
この報に、王はたいへんなご立腹で、ただちに将帥《アミール》たちと副官に命じて、軍隊を集結し、樟脳と水晶の島々の地方を征伐にゆく、命令を発しようとなさった。
けれども大臣《ワジール》は、発言のお許しを求めて申しました、「おお王よ、けしてそのようなことをなさるべきではござりませぬ。なんとなれば、実際のところ罪は父王にはなく、王女にあるわけで、支障はひとり王女のみに由来しているからでございます。そして父王ご自身も、われわれ一同と同様に、困却していられるのです。なお、王女が泡を食った宦官の長《おさ》に言った恐ろしい言葉は、私からも言上したところでございます。」
スライマーン・シャー王は大臣《ワジール》の言を聞くと、一理あると思い、そして王子のために、姫の復讐をいたく心配なされました。そして心中独語なさった、「よしんば余が彼らの地を襲い、その乙女を奴隷の身となしたとて、姫が自害をすると誓ったとあらば、所詮なんの役にも立たぬことじゃ。」
そこで王冠太子を召し出し、王子の心を痛めることを、あらかじめ苦になさりながらも、これにありのままをお知らせになりました。けれども王冠太子は絶望するどころか、断乎とした口調で、父王に申し上げた、「おお父上、私がこのままでおくものとは、けしてお思い下さいますな。私はアッラーの御前で誓います、姫《シート》ドニヤが私の后になるか、さもなくば私はもはや父上の王冠太子ではござりませぬ。一命を賭しても、私は姫のもとまで辿りつきます。」王は言われた、「いかにしてか。」王子は答えた、「私は商人となってまいりましょう。あとは何とかなるでしょう。」王は言われた、「しからば大臣《ワジール》とアズィーズを伴ってまいれよ。」
そしてすぐに王は、十万ディナールの豪奢な商品を買いととのえさせて、これをば王子に与え、そのうえ、ご自身のかずかずの箪笥に納めてあったいろいろの宝物をも、荷物行李のなかにあけさせることまでなさいました。そしてさらに金貨十万ディナールと、馬や、駱駝や、牡らばや、裏に絹を張った、心地よい色とりどりの華麗な天幕《テント》などを、賜わりました。
そこで王冠太子は、父王の御手に接吻して、旅行着を着用し、母上に会いに行って、その御手に接吻しました。すると母君は、十万ディナールを賜わって、いたく涙を流し、王子の上にアッラーの祝福を乞い、王子の魂の満たされることと、つつがなく自分たちの間に戻って来ることを、心から祈念なさいました。そして宮中の五百の女もまた、王冠太子の母君を取り巻き、尊敬と愛情をこめて、黙って太子自身を見つめながら、激しく泣きはじめたのでありました。
けれども、太子はまもなく母君のお部屋を出て、友人アズィーズと老|大臣《ワジール》を引きつれて、出発の命令を下しました。見るとアズィーズが泣いているので、太子はこれに言いました、「なぜ泣くのか、兄弟アズィーズよ。」彼は言いました、「おおご主人王冠太子よ、私はもはやあなたさまから離れられないことは、自分でよく感じられます。けれども、私が憐れな母親と別れてから、まことに久しく相成りまする。そして今や私の同行した隊商《キヤラヴアン》は、そろそろ故国に着こうとしておりますが、商人といっしょに私の姿が見えないとき、母はいったいどうなることでござりましょう。」太子は言いました、「心配することはない、アズィーズよ。おまえはわれわれの目的を達する手段に便宜を計らったうえで、アッラーの思し召しあり次第、故郷に戻れるであろう。」そして一同は旅路につきました。
かくて二人は、賢明な大臣《ワジール》と連れ立って、旅することをやめず、みちみち大臣《ワジール》は二人を慰め、太子に辛抱させるため、いろいろとみごとな物語を聞かせました。またアズィーズも太子にすばらしい詩篇を誦し、待つ恋と恋人についての、魅力溢れる詩句を即吟してさしあげた、〔(47)――例えばあまたのなかからひとつを挙げれば、
[#ここから2字下げ]
友よ、われはおんみらにわが狂気を語り、いかばかり、恋はわが身を人の世に稚《いと》けなく、幼きものとなし得しかを、語らんとて来たれり。
懐しの君よ。夜はわが魂のうちに君が思い出を新たにし、朝は眠りを知らざりしわが頭上にほとばしる。おお、そも何時《いつ》の日か、不在は過ぎて、帰る日の来たるべき。〕
[#ここで字下げ終わり]
さて一カ月の旅行の末、彼らは樟脳と水晶の島々の都に着きましたが、商人たちの大|市場《スーク》に足を踏み入れると、王冠太子は早くも、憂えの荷の軽くなるのをおぼえて、悦ばしいときめきが心臓を活気づけました。一同はアズィーズの意見に従って、大|隊商宿《カーン》に投宿し、大臣《ワジール》が市中に家を借りてくるまで、さしずめ自分たちだけで下の全部の店と、上の全部の室を買いきりました。そしてその店に荷物の行李を並べ、その隊商宿《カーン》で四日休息してから、三人で、絹織物の大|市場《スーク》の商人たちを訪問しに出かけました。
途中で、大臣《ワジール》は王冠太子とアズィーズに言ったのでした、「私はわれわれが何よりもまず第一にしなければならぬ一事ありと考えていますが、これをしないことには、とうてい望みの目的を果たすことはなりかねるでございましょう。」二人は答えました、「あなたのお言葉はいつでも承わります。というのは、老人というものは、元来思案に富むものだし、それにあなたのように、世事に経験のある老人はなおさらだから。」大臣《ワジール》は言いました、「愚見によれば、ああして商品を、客の見ることのできない隊商宿《カーン》にしまってはおかずに、われわれはあなたさま、商人としての王冠太子のために、絹織物|市場《スーク》のまん中に、一軒の大きな店を開くことにするのです。そして王子さまは、ご自身店の入口にいらっしゃって、品物を売ったり見せたりなさり、アズィーズさまは店の奥にいなさって、王子さまに布地を渡したり、布地を広げたりなさる。こうすれば、王子さまは申し分なく美男におわし、アズィーズさまもいずれ劣らぬ美男じゃから、わずかの間にその店は、市場《スーク》を通じて随一の、繁昌する店と相成りましょうが。」すると王冠太子は答えました、「まことに妙案だ。」そして王子は、ちょうど富裕な商人のりっぱな着物を着ていたので、そのままアズィーズと大臣《ワジール》と召使全部を従えて、絹織物の大|市場《スーク》のなかに、はいって行きました。
市場《スーク》の商人たちは、王冠太子が通って行くのを見ると、その美しさにすっかり目がくらんで、お客の相手をするのをやめてしまいました。布地を截《た》っていたものは、彼らの鋏を宙に浮かし、買っていたものは、彼らの買物を放り出してしまった。そして皆がいっせいにいぶかるのでした、「これはひょっとしたら、天上のお庭の鍵を預かっているという、あのご門番のリズワーン(48)が、門を閉めるのを忘れたのでもあろうかな、こんなふうに、あの天上の若者が地に降りてきたというのは。」また他の人々は王子が通ると、嘆声をあげるのでした、「やあ、アッラー、天使たちはなんと美しいことだ。」
市場《スーク》のまん中に着くと、彼らは商人たちの総|年寄《シヤイクー》のいる場所を問い合わせて、すぐさま教えられたその店へと向かいました。彼らがそこに着くと、坐っていた人はみな敬意を表して立ち上がり、考えたのでした、「この尊ぶべき老人《シヤイクー》は、こんな美貌なこの二人の若者の父親にちがいない。」そして大臣《ワジール》は挨拶《サラーム》ののちに、訊ねました、「おお商人たちよ、あなたがたのなかで市場《スーク》の総|年寄《シヤイクー》はどなたかね。」彼らは答えました、「ここにおります。」大臣《ワジール》は指さされた商人をよく見ると、それはにこやかな面《おもて》の、白髪の、大柄な老人《シヤイクー》でした。その商人は、いそぎねんごろに歓迎の辞《ことば》を述べて、礼儀どおりに、一同を自分の店に迎え、自分のそばの敷物の上に坐らせて、一同に言いました、「何なりと、ご所望のご用をして進ぜましょう。」
そこで大臣《ワジール》は言いました、「おお都雅《みやび》溢るる長老《シヤイクー》よ、わしがこの二人の子供を連れて、町々や国々を旅し、これにさまざまの国民《くにたみ》を見せ、教育の足しとし、売買を教え、各地の住民の、風俗習慣より学ぶところあらしめんとしてより、すでに幾年《いくとせ》にもなりまする。そしてわれわれが、当地にしばらく居を定めにまいったのも、やはりこの目的からで、子供らに、この都のあらゆる美しい事どもを見せて、眼を楽しませ、ここに住む方々より、物静かな挙措と礼儀を学ばしめようがためでございます。されば、われわれは場所がらのよい、広い店を一軒借りさせていただいて、われらの遠国の商品を、そこに陳列したいものと存じます。」
この言葉に、市場《スーク》の年寄《シヤイクー》は答えました、「よろしいとも、わが頭上と眼の上に、お望みをかなえることは、わが欣快とするところじゃ。」そして彼はいっそうよく見ようと、二人の若者のほうに向きなおりましたが、そのただひと目で、はてしなく逆《のぼ》せ上がってしまった。それほど二人の美貌は、この老人《シヤイクー》の心を深く動かしたのでした。というのは、この市場《スーク》の年寄《シヤイクー》は、青年たちの明眸を公然と夢中に熱愛し、彼の好みは若い娘への愛よりか、むしろ若い男への愛に向かっていたのでした。そして少年たちの酸い味のほうを、遥かに好んでいましたのじゃ。
そこで、彼は心中考えた、「これらの男子を創《つく》って形を与えたまい、そして生なき物質《もの》をもて、かくも美しきものを作りたまいし者に、栄えと称《たた》えあれ。」そして立ち上がって、奴隷が主人のためにするよりも、まめまめしく彼らに仕え、彼らの言うことに、鞠躬如《きくきゆうじよ》と従ったものでした。そして三人を急ぎ引き連れて、手頃な店をあちこち案内し、結局|市場《スーク》のまん中の店を、一軒選びました。その店は、全部の店のなかでいちばん美しく、いちばん明るく、いちばん広く、いちばん人目に立つ店でした。細工をした木でできた店先の仕切板と、象牙と黒檀と水晶でできた、互いちがいに重なった棚とに飾られた、瀟洒《しようしや》とした建物で、あたりの街路は掃き清められて、よく水が打ってあり、夜になれば、市場《スーク》の番人は、好んでこの店の戸の前に立っているのでした。そして年寄《シヤイクー》はすぐに値段の談判をすまして、その店の鍵を大臣《ワジール》に渡しながら、言いました、「なにとぞアッラーはこの店をば、今日の白き日の余慶の下に、ご子息らの手の間に、栄え祝福せられた店となしたまいまするように。」
そこで大臣《ワジール》は、その店に高価な商品や、美しい布地、錦、その他スライマーン・シャー王のお箪笥から出た、値い知れぬすべての宝物類を運ばせ、並べさせました。そして、ひとたびこの仕事がすむと、二人の若者を伴って、市場《スーク》の大門のそばの、そこから数歩のところにある浴場《ハンマーム》に、風呂を使わせに行きました。これは清潔なことと、つやつやした大理石とで有名な浴場《ハンマーム》で、きちんと揃えた下駄の並んでいる、五段の階段を通って行くのでありました。
二人の友は、早々に風呂を浴び終えてしまって、大臣《ワジール》の風呂のすむのを待とうとはしなかった。それほど、店で自分の持場につきに行くのを、急いでいたのです。そこで悦び勇んで外に出ると、二人が最初に見た人は、階段の上で、熱心に二人の出てくるのを待っていた、例の市場《スーク》の年とった総|年寄《シヤイクー》でありました。ところで、風呂はさらにいちだんと、二人の美貌に光彩を与え、顔色に色艶を添えたので、そこで……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百三十二夜になると[#「けれども第百三十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、風呂はさらにいちだんと二人の美貌に光彩を与え、顔色に色艶を添えたので、そこで老人《シヤイクー》は心中、二人を二頭のすらりとしてしなやかな若鹿に、なぞらえたものでした。彼は二人の頬がどんなにばら色になったか、またいかにその黒い眼は色濃くなりまさり、その顔は輝かしくなったかを見ました。二人は、果実にいろどられた二本の小枝と同じように可憐となり、また乳色の優しい二つの月のようであった。そして老人《シヤイクー》は、次の詩人の詩句を思ったのでした。
[#2字下げ] ただその手に触るるのみにして、わがすべての官能は蜂起し、わが身は慄う。われもし水の清きと光の金色《こんじき》と相合するその肉体を見たらんには、われはそもいかにすらんか。
そこで老人《シヤイクー》は、二人を出迎えに行って、言いました、「子供たちよ、この風呂の快味を満喫せられたことを祈ります。なにとぞアッラーは、あなたがたからけしてこのような快味を取り上げず、永久に新たにして下さるように。」すると王冠太子は、このうえなくふぜいのある物腰で、申し分なく優しい調子で、答えました、「この快味をごいっしょに分かちとうございました。」そして二人はうやうやしく老人《シヤイクー》を中にして、その年齢と市場《スーク》の年寄《シヤイクー》の地位とに対する敬意から、先に立って歩いて、道をあけてやり、自分たちの店へと向かいました。
ところが、こうして二人が先に立って歩いていると、その年とった年寄《シヤイクー》は、二人の歩みぶりがどんなに優美で、その臀がいかに着物の下で揺れ、ひと足ごとに顫えるかを見たのでした。すると老人《シヤイクー》はもう衝動をおさえきれなくなり、眼がきらきら光り、息を弾ませ、鼻を鳴らし、複雑な意味ある、次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
われらが心を魅する形をつらつら眺むるに、ずっしりと重きにかかわらず、そがうち顫うを見るとも、いささかも怪しむに足らず。
なんとなれば、天空のあらゆる円体は、めぐりつつわななき、あらゆる球体は、動きてはうち顫うものなればなり。
[#ここで字下げ終わり]
二人の若者はこの詩句を聞くと、その意味を察するどころか、反対に、自分たちのために、遠まわしの賞讃をしてくれたものと思って、大いに感激して、老人《シヤイクー》に謝し、これを悦ばせるため、どうでもいっしょに浴場《ハンマーム》に連れてゆこうとしました。すると市場《スーク》の年寄《シヤイクー》は、形ばかり断わってから、心中では欲情の火花を発しつつ、承知して、いっしょに浴場《ハンマーム》に引き返しました。
三人がはいると、大臣《ワジール》はちょうど一人部屋のひとつで、まだからだを干していて、彼らを見ました。そして年寄《シヤイクー》を見つけたので、彼らを迎えに外に出て、みなが立ちどまっていた中央の風呂場のほうに進み、年寄《シヤイクー》に自分の部屋にはいるように、言葉を尽くして招じたが、老人《シヤイクー》は、王冠太子とアズィーズがそれぞれ片手をとって、もう二人が取っておいた部屋のほうに、引っぱっていただけになおさら、そんなにご親切に甘えるのは本意ないと言って、断わるのでした。そこで大臣《ワジール》もたってとは言わず、からだを干しに帰りました。
三人だけになると、アズィーズと王冠太子は、尊ぶべき年寄《シヤイクー》の着物を脱がし、自分たちも悪意なく全部の着物を脱ぎ去り、二人で力をこめて老人《シヤイクー》のからだをこすり始めました。その間|老人《シヤイクー》は二人のほうを、こっそりぬすみ見しているのでした。それから王冠太子は、老人に石鹸をつける名誉は、ぜひとも自分ひとりだけが持ちたいと言い、アズィーズは、小さな金盥《かなだらい》で水を注ぐ悦びは、ぜひとも自分にもらいたいと言うのでした。そして二人の間で、この年とった年寄《シヤイクー》は、もう天国に運ばれたような思いでいた。
そして二人は、こうして老人《シヤイクー》のからだをこすり、石鹸をつけ、水を流しつづけていると、そこに大臣《ワジール》が彼らの間に来たので、年とった年寄《シヤイクー》はひじょうに歎いた次第であった。そこで二人は、まず大きな熱い手拭で、次に香水をかけた冷たい手拭で、老人《シヤイクー》のからだを拭き、着物を着せて、壇の上に坐らせ、麝香とばら水の香をつけたシャーベットをすすめました。
そこで年寄《シヤイクー》は、さも大臣《ワジール》との話を楽しみにするようなふりをしましたが、しかしじつは、行ったり来たりして、愛想よく侍《かし》ずいている二人の若者にしか、注意も眼も向けてはいなかったのです。そして、大臣《ワジール》が浴後の慣例の辞《ことば》を述べると、彼は答えました、「あなたがたといっしょに、なんという祝福がわれわれの都にはいってきたことか。あなたがたのご到来は、なんという幸いじゃ。」そして一同に次の詩節を聞かせました。
[#2字下げ] 彼らの到るや、われらが丘々はふたたび緑となり、われらが地は戦《おのの》きてふたたび花咲きぬ。大地と大地の住者らは、相共に呼ばわりぬ、「美《うる》わしき賓客《まろうど》たちに、快き寛ろぎと友情とあれ。」
そして三人は、こもごも老人《シヤイクー》のすぐれた都雅《みやび》ぶりに感謝しますと、彼は答えました、「なにとぞアッラーは、あなたがたご一同に、もっとも快適な生活を保証し、おお高名のご商人よ、あなたの美しいご令息がたを、凶眼より護りたもうように。」大臣《ワジール》は言いました、「してアッラーの御恵みにより、風呂はおんみの力と健康を倍加せんことを。なんとなれば、おお尊ぶべき長老《シヤイクー》よ、水こそはこの世における人生の真《まこと》の福祉であり、浴場《ハンマーム》は歓楽の住居ではござりますまいか。」市場《スーク》の年寄《シヤイクー》は言いました、「いかにもさよう、アッラーにかけて。されば浴場《ハンマーム》はいかに多くのみごとな詩歌の霊感を、大詩人たちに与えたことでしょう。あなたがたはそのいくつかをご存じないかな。」すると、まず王冠太子が言いました。
[#ここから2字下げ]
浴場《ハンマーム》の生活よ、汝《な》が楽しさこそいみじけれ。おお浴場《ハンマーム》よ、さあれ汝が時の短きかな。なにとても、われは汝《な》が胸のうちに、わが全生涯を過ごすを得ざるにや、称うべき浴場《ハンマーム》よ、わが官能の浴場《ハンマーム》よ。
汝だにあらば、天国そのものもいとわしきものとなる。汝もし地獄なりとも、いかばかり欣然と、われはそこに躍り入るらん。
[#ここで字下げ終わり]
王冠太子がこの詩篇を誦しおわると、アズィーズは言いました。
[#2字下げ] そは花咲ける巌根より、その刺繍《あや》を取りし住居なり。その熱気は、君をしてこれを地獄の口と思わしむべし、君にして、もしほどなくその歓楽を感ずることなくんば、またそのもなかに、あまたの月と太陽を見ることなくんば。
この詩節を誦し終わると、アズィーズは王冠太子のかたわらに坐りました。そこで市場《スーク》の年寄《シヤイクー》は二人の優美と才能にすっかり驚嘆して、叫びました、「アッラーにかけて、あなたがたは雄弁と美貌を、一身に合わせ得たものじゃ。さてわしとしても、ひとつ歌わせてもらおう。歌は律呂の美しさをよりよく伝えるからな。」そして市場《スーク》の年寄《シヤイクー》は片手を頬にあてて、眼を半ば閉じ、頭を軽くゆすって、節《ふし》をつけて歌いました。
[#ここから2字下げ]
浴場《ハンマーム》の火よ、汝《な》が熱気はわれらの生。おお火よ、汝はわれらの身に力を返す。われらの魂は汝によって軽やかとなり、生気を取り戻す。
おお浴場《ハンマーム》よ、温き大気、爽やかの風呂、水のざわめき、天井の光、清らかの大理石、影濃き部屋、薫香の香、かぐわしきからだよ、われは汝らを熱愛す。
汝はけっして消ゆることなき焔もて絶えず燃え、表面《おもて》涼しく、快き闇に満つ。浴場《ハンマーム》よ、汝は火ありといえども暗し、わが魂と欲情のごとく。おお浴場《ハンマーム》よ。
[#ここで字下げ終わり]
そして彼は若者たちを見やり、ひと時、自分の魂を彼らの美貌の庭にさまよわせ、〔(49)それに霊感を得て、二人のために次の二節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
われ彼らの住居へ行けば、戸口よりして、優しき顔と微笑満てる眼をもて迎えられぬ。
われは彼らの歓待のあらゆる歓びを味わい、彼らの火の快味を感じたり。われいかでか彼らの魅力の奴隷たらざらんや。」〕
[#ここで字下げ終わり]
この詩句と歌を聴いて、三人は年寄《シヤイクー》の芸にすっかり感心し、驚嘆いたしました。そこでまごころこめてお礼を言い、ちょうどそろそろ夕方になったので、浴場《ハンマーム》の戸口まで見送りました。そして老人《シヤイクー》が口をきわめて、自宅に食事に来てくれるように勧めたけれども、それを断わって、別れを告げて遠ざかったが、一方年とった年寄《シヤイクー》は、まだ彼らを目で追って立ちつくしていた次第でありました。
こうして彼らは自分の宿に戻って、飲み食いし、申し分のない幸福のうちに、みんなで朝まで寝ました。朝になると、一同起きて、洗浄《みそぎ》をしました。次に市場《スーク》の戸が開くと、自分たちの店に出かけて、店開きをしました。
ところで、召使たちはすでに店をきちんと整えておいてくれました。というのは、彼らはなかなかたしなみがあって、店には絹の幕を張りめぐらし、必要な場所には、それぞれ千ディナールもするような、りっぱな敷物二枚と、それぞれ百ディナールもするような、縁飾りをつけ、金糸で刺繍をした座蒲団《クツシヨン》を二つ、置いておいたのでした。また象牙と黒檀と水晶の棚の上には、高価な商品と、値い知れぬほどの宝物を、きちんと並べてあった。
そこで、王冠太子はその一方の敷物の上に坐り、アズィーズは今ひとつの敷物の上に、大臣《ワジール》は二人の間の、ちょうど店の中心に席を占め、召使たちは三人を取り囲んで、われがちに言いつけられることを果たそうと、待ちかまえていました。
こうしてまもなく、町中の人はこのみごとな店の噂を聞き、そこでお客は八方からこの店に押しかけた。みんな競争で、「王冠」という名前のこの若者、一人の天使の手から、買物を受け取りたがるのでした。この若者の美貌の評判は、あらゆる人の頭を振りかえらせ、あらゆる人の分別を飛び立たせました。一方、大臣《ワジール》は事がこのうえなくうまく運んだのを見届けて、もう一度王冠太子とアズィーズによくよく注意するように勧めたうえで、静かに宿に休みに帰ったのであった。
さて、こういうふうな状態がしばらくの間つづいたが、やがて王冠太子は、ドニヤ姫については何の気配も現われないのを見て、そろそろ焦《じ》れはじめ、眠れなくなるほどに到ったが、そこにある日、ちょうど友のアズィーズに自分の苦しみを語っていると、店先に……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百三十三夜になると[#「けれども第百三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ある日、ちょうど友のアズィーズに自分の苦しみを語っていると、店先に、黒繻子の大面衣《イザール》をたいへん品よくまとった一人の老婆が、市場《スーク》を通りかかったのでした。そしてその老婆の注意は、すぐとこのりっぱな店と、敷物に坐っている若い商人の美貌に、惹きつけられずにはいませんでした。〔(50)そして思わず股引を濡らしてしまったほど、感動に襲われました。それからその青年をじっと見つめて、心の中で考えた、「これはたしかに人間ではなく、天使か、それともどこぞの夢の国の王さまにちがいない。」〕そこで店に近づいて若者に挨拶すると、若者は挨拶を返し、そしてアズィーズが店の奥から合図をしたのに従って、老婆のために立ち上がり、せいいっぱい愛想のよい微笑で、微笑みかけました。それから敷物の上に坐るように招いて、自分はそのそばに坐り、老婆が涼しくなって十分休むまで、団扇《うちわ》で風を送ってあげました。
すると老婆は、王冠太子に言いました、「わが子よ、あらゆる美点とあらゆる優美を兼ねそなえたおまえさんよ、おまえさんはこの国のお方かね。」王冠太子は、優しく感じのよい話しぶりで、言いました、「アッラーにかけて、おおご主人さま、このたびが初めてで、前にはかつてこのあたりに、足を踏み入れたことはございません。こんどは、この国々を訪れて気晴らしをしようと、ただそれだけの目的で、まいった次第でございます。そして時間の一部をふさぐため、売り買いをいたしております。」老婆は言った、「われわれの都の優雅な客人よ、よくいらっしゃいました。そして遠国の商品としては、どんなものを持って来ましたか。おまえさんの持っているいちばん美しいものを見せて下さい。なぜなら、美しい人は美しさを呼ぶものだからね。」王冠太子はその奥床しい言葉を聞いて、たいそう心を動かされ、微笑みかけてお礼を言い、申しました、「私の店には、きっとあなたさまのお気に召す品物ばかりしかございません。というのは、それらは王女さまがたや、あなたさまのような方々に、ふさわしい品でございますから。」老婆は言いました、「ちょうど私は、われらの王シャハラマーンの王女、ドニヤ姫のご衣裳にする、何かひじょうに美しい布地を求めたいと思っているのです。」
あれほど自分の理性を占めている女《ひと》の名前が、言いだされるのを聞くと、王冠太子は感動に夢中になって、アズィーズに叫びました、「アズィーズ、家《うち》の商品のなかでいちばん美しく、いちばん豪華なものを、すぐに持ってきてくれ。」そこでアズィーズは壁に作りつけた戸棚をあけましたが、そこにはたったひと包みしかはいっていないのです。しかしそれは何というひと包みか。縁《へり》に一面に金の総《ふさ》をつけた、表の布は、ダマスのビロードで出来ていて、そこには、花鳥の模様が色とりどりに軽快に走り、中央には、象が酔って踊っていました。そしてこの包み全体からは、魂を昂《たか》ぶらせるような香りが、立ちのぼっていました。アズィーズはそれを王冠太子のところに持ってゆくと、太子はそれをほどいて、中にはいっている、ただ一枚の布を取り出したが、それはどこかの天女《フーリー》か妙《たえ》なる姫君かの着る、衣裳一着分だけのものです。それを言葉で述べたり、飾りの宝石や、経糸《たていと》を埋めつくしている刺繍などを、いちいち挙げることは、ただアッラーに詩興を授けられた詩人たちのみが、調《しら》べよい詩句ですることができることでありましょう。
そこで王冠太子は、老婆の前にゆっくりとその布を広げましたが、老婆は、その着物の美しさのほうか、黒い眼の若者の愛らしい顔のほうか、どちらを特に眺めてよいやら、もうわからない有様でした。こうしてこの商人の若々しい魅力を眺めていると、老婆は自分の年とった肉体がふたたび温まるのを感じ、〔(51)腿が熱くなって固くしまるのを感じた。そして自分をむずむずさせる場所を、掻きたくてたまらなくなるのでした。〕そこでやっと口がきけるようになると、老婆は情欲でうるんだ眼で、王冠太子を見やりながら、言いました、「この布はたいへん結構です。いかほどお払いすればいいですか。」太子は身をかがめて、答えました、「あなたさまとお近づきになった仕合せで、もう当然以上に払っていただきました。」すると老婆は叫びました、「おおうるわしい男の子よ、おまえさんの膝の上に横になって、両腕でおまえさんの腰を抱きしめることのできる女の子は、果報者です。だがおまえさんに釣合う女は、いったいどこにいようか。私はそういう女は、この世界にたったひとりしか知らないよ。おお若い小鹿よ、おまえさんの名前は何といいますか。」太子は答えた、「私は王冠といいます。」すると老婆は言いました、「だが、それは王子がたにしかつけられない名前だが。ただの商人がどうして『王者の冠』なんぞと呼ばれることができよう。」
この言葉に、今まで一語も言わずにいたアズィーズが、おりよく仲にはいって、友人の窮地を救いました。彼は老婆に答えた、「これは両親の一粒種で、両親は可愛さのあまり、王子がたにつけるような名前を、つけてやりたいと思ったのでございます。」老婆は言いました、「いかにも、もしも美の女神が王さまを選ぶとなったら、きっと、この王冠さんを選ぶことでしょう。さて、おお王冠さん、これからこの年寄《シヤイクー》は、おまえさんの奴隷です。アッラーが、おまえさんへのこの年寄《シヤイクー》の忠義立ての保証人です。ほどなくこの年寄《シヤイクー》が、おまえさんのためにしてあげることがわかるでしょうよ。なにとぞアッラーがおまえさんをくれぐれも庇って下さって、羨みの眼から護って下さるように。」それから老婆はその貴重な包みを取って、立ち去りました。
そして老婆はまだ興奮からさめやらず、姫《シート》ドニヤのところに着きました。この老婆は姫の子供のころ乳を上げ、母親代わりになっていたのでありました。はいったとき、老婆は重々しく、例の包みを小腋に抱えていました。そこでドニヤは聞きました、「おお乳母《ばあや》よ、また何を持ってきてくれたの。見せて下さい。」老婆は言いました、「おおご主人ドニヤさま、お手にとってごらん下さい。」そしていきなり布を広げました。するとドニヤはすっかり嬉しくなり、眼に悦びを浮かべて、叫びました、「すばらしいこと。これは私たちの国の織物ではありませんね。」老婆は言いました、「いかにも、これは美しい品ですが、しかしこれをあなたのため私にくれた、若い商人をごらんになったら、あなたは何とおっしゃるでしょう。きっと、ご門番のリズワーンが楽園《アドン》の戸をしめ忘れて、あんなふうにあの天使を、人間どもの肝を楽しませるため、地上におりさせてしまったのですよ。おおご主人さま、私はどんなにあの輝かしい若者が、あなたのお胸の上に眠るのを見たいと念ずることか、そして……」けれどもドニヤは叫びました、「おお乳母《ばあや》よ、どうしてのめのめと、わたくしの前で男の話などするのです。何をにわかにのぼせ上がって、分別をくらませられているのです。もうお黙りなさい。そしてその着物をこちらによこして、もっとよく見させて下さい。」そしてその布を取って、撫ではじめ、乳母のほうに向きながら、それをからだに着けてみるのでした。乳母は言いました、「ご主人さま、そうしていなさると、あなたはまことに美しいけれども、一対《いつつい》の美しさのほうが、どれほどひとつだけよりも好ましいことか。」けれども姫《シート》ドニヤは叫びました、「ああ悪魔《シヤイターン》に憑《つ》かれた乳母《ばあや》、もう何も言ってはいけません。けれどもその商人のところに行って、なにか言いたい望みとか、頼みたい用事はないか、訊ねて下さい。そうすればすぐに、父王さまがかなえて下さることでしょう。」老婆は笑いだして、眼ばたきしながら、言いました、「望みですって? アッラーにかけて、望みのない人がいるでしょうかねえ。」そして大急ぎで立ち上がって、王冠太子の店に駈けつけました。
老婆が来るのを見ると、王冠太子は心が悦びで飛び立つ思いがして、その手をとって、自分のそばに坐らせ、シャーベットや果物の砂糖煮を出させました。すると、老婆は彼に言いました、「吉報をお知らせします。ご主人ドニヤさまはあなたにご挨拶なすって、おっしゃるのです、『あなたはわれわれの都においで下さって、都を明るくして下されました。もしなにかお望みがおありだったら、どうぞおっしゃって下さい』とね。」
この言葉に、王冠太子は歓喜の限りに歓んで、その胸は満足と朗らかさに晴れ晴れし、心の中で考えた、「いよいよ物になってきたぞ。」そして老婆に言いました、「お願いはただひとつです。どうかこれから手紙を書きますから、それを姫《シート》ドニヤに届けて下さって、そのご返事をいただかせて下さいませ。」老婆は答えました、「仰せ承わり、仰せに従います。」そこで王冠太子はアズィーズに叫んだ、「銅の墨壺と紙と蘆筆《カラム》をおくれ。」そしてアズィーズがそれを持ってくると、太子は調べよい韻文で、次の手紙を認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
この書面は御許に、おおやんごとなき姫君よ、くさぐさの事を齎《もた》らす、待ち侘《わ》びて病む心を探りて、わが見いだせしさまざまの事どもを。
第一行に、われはわがうちに燃ゆる火のしるしを記《しる》し、第二行には、わが欲情《のぞみ》と恋を。
第三行には、わが生命《いのち》と忍耐を。第四行には、わが燃ゆる思いのたけを。第五行には、わが眼の歓びの切なる望みを。
しかして第六行には、拝眉の願いを。
[#ここで字下げ終わり]
そして、手紙の最後には、署名がわりに、次のように記しました。
[#2字下げ] この文《ふみ》を認《したた》めしは、おのが永き望みの奴隷、おのが苦悩の牢獄に幽閉されし者、おのが懊悩に病む者、おんみの眼差を請い奉る者――商人、王冠[#「商人、王冠」はゴシック体]
次に太子は手紙を読み返して、砂をかけ、畳み、封をして、老婆に渡し、それとともに、その手に千ディナール入りの財布を、そっとつかませました。老婆は首尾よくゆくようにと祈ってから、大急ぎで女主人のもとに帰りますと、姫は訊ねました、「どう、乳母《ばあや》よ、その商人はどういうことを頼みましたの。これからすぐお父さまのところに行って、かなえて下さるようにお願いしますから。」老婆は言いました、「実際のところ、おおご主人さま、それがどういう頼みなのか、私は存じません。というのは、ここに手紙がございまして、私はその内容を知りませんから。」そしてその手紙を渡したのでした。
ドニヤ姫はその内容を知ると、叫びました、「おお厚かましい商人だこと。どうして憚らず、わたくしのところまで、眼を上げるような真似をするのでしょう。」そしてひじょうに怒って、われとわが手で自分の頬を打って、言いました、「こんな男は、その店の戸口で、絞首《しばりくび》にしてやらなければなるまい、不届者め。」すると老婆は、何食わぬ様子で、訊ねました、「いったいこの手紙には、なにかそんなに恐ろしいことが書いてありますの。もしや商人が、例の着物に法外な値段を吹きかけてでもいるのですか。」姫は言った、「なんということ、恋だの愛だのということばかりです。」老婆は答えた、「それはまったく大胆なこと。では、おおご主人さま、これはあなたからその無作法者に返事をやって、このうえつづけるようならと、威《おど》してやるがいいでしょう。」姫は言った、「それもそうだけれど、そんなことをすると、いっそういい気になりはしないかしら。」老婆は答えた、「そんなことはありはしません。そうしてやれば反省することでしょうよ。」すると姫《シート》ドニヤは言いました、「では、私の墨壺と蘆筆《カラム》をおくれ。」そして姫は詩の形で、次のように認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
汝を惑わす盲人よ、汝は星辰に到り着かんと求む、あたかもかつて人間の身をもって、夜々の星辰に達し得たる者のありしかのごとく。
さて、われは汝の眼を開かんがため、汝をば一匹の蚯蚓《みみず》より作りたまい、無限より無垢の諸星《もろぼし》をば創りたまいしおん方の真理にかけて、われは誓う、
汝にして、もし敢えて汝の厚顔の所行を繰り返すことあらば、汝は呪われし木の幹より切り取りし板の上に、磔刑《はりつけ》に処せらるべし。かくて汝は、あらゆる無作法者への見せしめとなるべし。
[#ここで字下げ終わり]
次に、手紙に封をして、姫はそれを老婆に渡しました。老婆はすぐにそれを、待ち焦がれている王冠太子に届けに、駈けつけました。太子はこれにお礼を言ってから、手紙を開いてみたが、一読し終わるや、ひじょうな悲しみにとらえられ、悄然と老婆に言いました、「姫は私に死をもって威しなさっているけれども、私はさらに死を恐れません。生は死よりも私には辛いからです。私は死を顧みずに、姫にお返事をさし上げたく存じます。」老婆は言いました、「私にはたいせつなあなたの生命《いのち》にかけて、私は力の及ぶ限りあなたを助けて、どんな危険でもともにしてあげましょう。では手紙を書いて、私にお渡しなさい。」そこで、王冠太子はアズィーズに叫びました、「私たちの母に一千ディナール差し上げてくれ。そして私たちは全能のアッラーに身を委せよう。」そして便箋に、次の詩節を認《したた》めました。
[#ここから2字下げ]
今やわが夕《ゆうべ》の願いに対し、かの君は喪と死をもって脅かしたもう、死は休息なるを知らず、事は「天運」の合図なくして到らざるを、知りたまわずして。
かの君の憐れみは、人間の眼の敢えて仰ぎ見ぬ、いと清き女性《によしよう》へと思慕を捧ぐる人々に、いささかは向けらるべきにあらざるか。
おおわが望みよ、今は何ごとも願わざれ。わが魂をして、希望なき情熱のうちに埋もれしめよ。
さあれ、君、情《つれ》なき心の女性よ、われはいたずらに息苦しさをしてわれを窒息せしむるものと、信じたもうことなかれ。われは、今後|目的《めあて》なくしてただ苦痛の生を忍ばんよりは、むしろわが魂をば、わが希望とともに飛び立たしむべし。
[#ここで字下げ終わり]
そして太子は、眼に涙を浮かべて、手紙を老婆に渡して、言いました、「私たちはいたずらに、あなたにご迷惑をかけるばかりでございましょう。悲しいかな、私はもう死ぬ以外にないことが、ひしひしと感じられるのです。」老婆はこれに言いました、「そんなまちがった予感はやめなさい。そしてご自分をよくごらんなさい、おお美しい若者よ。あなたは太陽そのものではありませんか。そしてあの方は月ではないですか。それに一生涯を恋の懸け引きに過ごした、この私ともあるものが、どうして、あなたがた美男美女を、いっしょにすることができないという法があるものかね。まあ魂を安らかにして、心を悲しませる憂えを鎮めなさい。やがて嬉しい知らせを持ってきてあげますほどに。」こう言って、老婆は別れて……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百三十四夜になると[#「けれども第百三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……こう言って、老婆は別れて、さてその文《ふみ》を自分の髪のなかに隠してから、女主人に会いに行ったのでした。老婆は姫の部屋にはいって、その手に接吻をすると、ひと言も言わずに、坐りました。けれどもすこしたつと、言いました、「かわいい娘よ、どうも私の年をへた髪が崩れたが、もう自分で編む気力がありません。どうか済みませんが、だれかあなたの奴隷に、髪をとかしてくれるように、言いつけて下さいな。」けれども姫《シート》ドニヤは叫びました、「親切な乳母《ばあや》、ではわたくしが自分で、おまえの髪をとかして進ぜましょう、今までさんざん、おまえにしてもらった仕事なのですから。」そしてドニヤ姫は、乳母の白髪の束髪をほどいて、櫛を入れようとしますと、そこに例の文《ふみ》が、敷物の上に滑り落ちました。
すると姫《シート》ドニヤは、驚いて拾い上げようとしたが、老婆は叫びました、「娘よ、その手紙は返して下さい。きっとあの若い商人の店で、私の髪にひっかかったものにちがいない。ひと走り行って、返してきましょう。」けれどもドニヤは急いであけて、内容を読んでしまった。そして眉をひそめて、叫びました、「ああ、悪者の乳母《ばあや》、これはおまえの手管のひとつですね。だがいったい誰が、この災いのあつかましい商人を、わたくしのところによこしたのか、またどこからこうして、この土地までよくも来られたものかしら。それにどうして、いやしくもこのわたくし、ドニヤが、自分の家系でも血統でもないこの男を、見る気になぞなれましょう。不届きな、だからわたくしは言ったじゃないの、この無作法者はいっそういい気になりはしないかって。」老婆は言いました、「まったく、これは正真の悪魔《シヤイターン》ですね。その大胆ぶりは地獄の大胆さです。けれども、おお私の娘、ご主人さまよ、これを最後に手紙を書いておやりなさいまし。思し召しに謹んで従うよう、私がきっと保証します。さもなかったら、あの男を、この私もろとも、犠牲に捧げてかまいません。」すぐにドニヤ姫は蘆筆《カラム》を執って、次の言葉を書き連ねました。
[#ここから2字下げ]
愚か者よ、汝は、汝の呼吸する大気のうちに、不幸と危難の天翔《あまか》くるを知らず、
世にはその流れを溯《さかのぼ》るを禁じられたる河あり、いかなる人の足もついに踏み躙《にじ》ることなき、禁断の孤独境あるを、汝は知らずや……。
あらゆる人を寄せ集むとも、大空の最初の天蓋に、手の届くべくもなきものを、汝は、無限の空の星辰に触るる所存なりや。
汝は敢えて、汝の夢寐《むび》に、天女《フーリー》の腰を擁して愛撫せんとするものなりや。
汝は徒《あだ》なる望みを抱くなり、おお迂闊《うかつ》の者よ、汝が女王の言を信ぜよ。しからずんば、恐怖の鴉らやがて汝の頭上に啼きて死を告げん。しかして彼らの夜の翼を羽撃《はばた》きて、汝の横たえらるる墓の周囲を、飛び交うべし。
[#ここで字下げ終わり]
それから、その紙をたたみ封じて、姫はそれを老婆に渡すと、老婆は翌朝、さっそく王冠太子に渡しに駈けつけました。
このように手きびしい文句を読むと、王冠太子は、もうとうてい希望が自分の心を励ます見込みがないことをさとって、そこでアズィーズのほうを向いて言いました、「兄弟アズィーズよ、いったい今はなんとしようか。もうおれは姫にきっぱりと返事を書くだけの、詩興をおぼえない。」アズィーズは言いました、「ではひとつ私が代わって、あなたのお名前で書いてみましょう。」王冠太子は言いました、「そうしてくれ、アズィーズ、秘術をつくして書いてもらいたい。」そこでアズィーズは一枚の紙を取り上げて、そこに次の詩節を連ねました。
[#ここから2字下げ]
主《しゆ》なる神よ、五人の「義人」にかけて、わがはなはだしき悲しみを助け、憂いの煤《すす》に黝《くろ》ずみし、わが心を軽からしめたまえ。
おんみは、わが内心を焔もて焼く秘密を知りたまい、慈悲を拒む若き無慚の女《ひと》の虐《しい》たげを知りたもう。
われは眼を閉じて頭を振り、遂にのがれ出ずる望みなくして沈淪する逆境を思う。
わが忍耐と勇気とは畢《おわ》んぬ、拒まるる愛を待ち侘びて、今や尽きたり。
おお夜の髪持つつれなき君よ、君は「天運」の打撃と運命の異変を、さらに恐れたまわぬにや、君を呼ぶ不幸の者を、かくばかり苛《さいな》みて悦ぶとは……。
知りたまえ。こは君の美のゆえに、父を、家を、祖国を、はた愛する女らの眼を、棄て去りし不幸の者なり。
[#ここで字下げ終わり]
次にアズィーズは、この韻文の文章を書きつけた紙を、王冠太子に差し出しました。太子はその音調を翫味するため、詩句を誦してみて、その全体の行文に満足の意を表し、アズィーズに言いました、「すこぶる妙だ。」そして年とった乳母にその文《ふみ》を渡すと、乳母はすぐに、それをドニヤに届けに走りました。
姫はこの書状のことを知ると、老婆に対して怒りを沸き立たせ、叫びました、「呪われた乳母、災厄《わざわい》の老婆よ、わたくしがこうしたすべての辱かしめを受けるのも、もとはといえばおまえひとりにあるのです。ああ不幸の母よ、わたくしはもうわが眼の前に、おまえなぞ見たくありません。早くここを出て行きなさい。さもなければ、奴隷たちの革紐の下で、おまえのからだをずたずたにしてしまいますよ。わたくしも自分で、おまえの骨を踵で砕いてしまいますよ。」そこで、ドニヤが実際奴隷を呼びそうになったので、年とった乳母はあわてて逃げ出し、そして二人の友に自分の不幸を話し、二人にかくまってもらおうと、急ぎ出かけました。
この知らせに、王冠太子はひじょうに悲観して、やさしく老婆の頤をさわりながら、言いました、「アッラーにかけて、おお私たちの母よ、あなたがこんなふうに、私の落ち度のとばっちりを受けなさるのを見ては、今は私の悲しみが倍になるのをおぼえます。」けれども老婆は答えた、「安心なさい、わが子よ、私はけっして首尾をあきらめていはしない。なぜって、この私が、生涯に一度だって、恋人同士を結ぶことができなかったなぞとは、いわせられないからね。このさいむつかしければなおさらのこと、私は手練手管をつくして、あなたに望みの目的に行きつかせてあげようという気になるのですよ。」そのとき王冠太子は訊ねました、「とにかく聞かせていただきたいが、おお私たちの母よ、いったい姫《シート》ドニヤをこんなふうに、あらゆる男を嫌わせることになった原因というのは、どういうことなのですか。」老母は言いました、「夢を見なすったからですよ。」太子は叫んだ、「夢だって? それっきりのことなのですか。」老婆は言った、「それだけのことですよ。まあ、お聞きなさい。」そしてこう言いました。
「ある晩のこと、ドニヤ姫が眠っていらっしゃると、夢に一人の鳥刺しを見た。その男は、林の中の空地に網を張り、あたりの地面一面に、麦粒をまいておいて遠ざかり、隠れて時機を待っていたものです。
すると、やがて森の四方八方から鳥が寄って来て、網の上に飛びかかった。そこに、麦粒を啄《ついば》んでいるすべての小鳥のなかに、雌雄二羽の鳩がいた。その雄は啄みながらも、自分を狙っている羂《わな》に用心せずに、ときどき雌のまわりをぐるぐる回るのでした。そこでそうしているうちに、脚を網目にとられ、網目は縮み、縺《もつ》れ、鳩を捕えてしまった。ほかの鳥はその鳩の羽ばたきに驚いて、みんなばたばたと飛び立ってしまったのです。
ところがその雌は、餌などはそこに散らばらせておいて、かいがいしく、ただ雄を助けようということしか考えなかった。そして嘴《くちばし》と頭でもって、一所懸命奮闘して、とうとう網を破り、鳥刺しのつかまえに来ないうちに、首尾よく不注意な雄を助け出してやった。そしていっしょに飛び立って、空を散歩してから、また羂のまわりに、用心ぶかく麦粒を啄もうと、戻って来たのです。
ところが、雄はまたもや、雌のまわりをぐるぐる回りはじめたところ、雌のほうは求愛を避けるため、あとじさりしたところ、うっかりと網目に近づきすぎて、こんどは雌のほうが捕えられてしまった。すると雄は、連れ合いの運命を心配するどころか、ほかの鳥とみんないっしょに、さっさと飛び立ってしまい、こうして鳥刺しが駈けつけて、ひっかかった雌鳩をつかまえ、即座に締めてしまうのを、そのままにしておいたというわけ。
この夢に、深く心を動かされて、ドニヤ姫は涙に暮れて眼が覚め、すぐに私を呼んで、顫えながら、今見た夢を私に話して、さて、『雄というものはみんな似たりよったりのもので、人間の男は、鳥獣《とりけもの》よりも悪いにちがいありません。ですから、わたくしはアッラーの御前で誓います、今後わたくしはけっして、男たちを近づける恐ろしさに遭いますまいと。』こう叫びながら、話を結びなすったものでした。」
王冠太子はこうした老婆の言葉を聞くと、老婆に言いました、「けれども、おお私たちの母よ、あなたは姫に言わなかったのですか、男といっても全部が全部、その裏切り者の雄鳩のようなわけではないし、女といっても全部が全部、その忠実な不幸な雌鳩のようなわけではないことを。」老婆は答えた、「そんなことをいくら言ったって、もうそれからは姫の気持をまげることはできず、姫はただ自分の美しさだけを愛して、独り暮らしておいでです。」王冠太子は言った、「おお私の母よ、お願いです、私はともかくも、一命を賭しても、たった一度でもいいから、姫を見て、姫のたった一瞥ででも、私の魂を貫かれずにはいられません。おお祝福された|お年寄り《シヤイクー》よ、どうかあなたの豊かなお知恵から、なにか手段《てだて》を取り出して、私のためにそう計らって下さいまし。」
すると老婆は言いました、「されば、おおわが眼の光よ、ドニヤ姫の住んでいる御殿の下には、ただ姫の散歩用だけのお庭があって、そこに姫はひと月に一度だけ、侍女を従えて、お出ましになるのです。通行人の眼を避けるため、用心して忍びの門からはいりなさいます。ところで、ちょうど一週間後が、姫のそのお散歩の日にあたります。ですから当日、私自身があなたをご案内しに来て、あなたを愛する方の前に出してあげよう。大丈夫、どんなに姫が食わず嫌いであろうと、あなたをひと目見さえすれば、きっとあなたの美しさにまいってしまうにきまっています。なぜって、恋はアッラーの賜物で、アッラーのお気の向いたときには来るものですからね。」
そこで王冠太子もすこしは息が楽につけて、老婆に礼を言い、老婆はもうご主人の前に出られなくなっていたから、自分の家に来て泊まるように招じました。そして真昼中、店をしめて、三人で住居へと向かいました。
途中で、王冠太子はアズィーズのほうに向いて、言いました、「兄弟アズィーズよ、これから私はもう店に行っているひまがないから、あの店はそっくりおまえに譲ってあげる。どうなりといいようにするがよい。」するとアズィーズは承わり畏まって答えました。
こうしているうちに、彼らは家に着いて、取り急ぎ大臣《ワジール》に委細を知らせ、姫の夢のことや、庭で姫に出会う計画のことも、話しました。そしてみんなでこの問題について、大臣《ワジール》の意見を求めました。
すると大臣《ワジール》は、たっぷりひと時の間じっと考えて、やがて頭を上げて、一同に言いました、「解決策を思いあたりましたわい。まず最初に庭に行って、場所の様子をとくと調べるとしましょう。」そして大臣《ワジール》は老婆を宿に残して、すぐに王冠太子とアズィーズといっしょに、その姫の庭のほうに出かけました。
そこに着くと、門のところに、年とった番人が坐っていたので、一同挨拶をすると、番人も挨拶を返しました。すると大臣《ワジール》は取りあえず、まずその老人《シヤイクー》の手に百ディナールを握らせて、これに言った、「おお小父よ、私たちはどうにも、この美しいお庭にはいって、魂をさわやかにし、花と水のほとりで、軽い食事をしたくてならないのだが。というのは、私たちは異国の者で、緑の草木と静かな快さのただ中で楽しめるような美しい場所を、到るところに探して歩いている者なのです。」すると庭師はその金を収めて、言いました、「ではおはいりなさい、お客さまがた。そして私はひと走りして食べるに入用なものを買って来てあげるから、それまでゆるゆる待っておいでなされ。」そして一同を庭にはいらせて、自分は市場《スーク》に食糧を買いに出かけ、やがて羊の焼肉と捏粉菓子を持って、帰って来ました。
そしてみんなで小川のほとりに車座に坐り、めいめい腹いっぱい食べました。そのとき、大臣《ワジール》は庭番に言いました、「おお|ご老人《シヤイクー》、あそこに、われわれの前にあるあの御殿は、どうもたいへん傷《いた》んでいるようですね。なぜあなたは修繕させないのですか。」すると庭番は叫んだ、「アッラーにかけて、あの御殿はドニヤ姫の御殿じゃが、姫は御殿のことなぞ、気にかけるくらいなら、いっそ崩れ落ちるままに放っておかれるだろう。姫はまったく隠遁の生活をしておられるので、そんなことに気をおつかいになりはしない。」大臣《ワジール》は言った、「なんとも惜しいことですね、おお|ご老人《シヤイクー》。せめて一階のところだけでも、もうすこし綺麗にしたらよさそうなものだが、たとえあなた自身の眼のためだけでもねえ。もしもなんだったら、私自身が修繕の費用をそっくり出してもいいですよ。」番人は言った、「アッラーがあなたのお言葉をお聞き下さるように。」大臣《ワジール》は言った、「それでは、あなたの骨折り賃として、この百ディナールをお収めになって、これからすぐに石屋たちと、それからまた絵描きで、彩色の道の蘊奥《うんおう》をきわめた名人を、ひとり呼んで来て下さい。」すると、庭番は急いで石屋と絵描きを呼んで来たので、大臣《ワジール》は彼らに必要な指図を与えました。
実際、ひとたび一階の大広間がすっかり修繕され、綺麗になると、次に絵描きが仕事をはじめました。そして大臣《ワジール》の命令に従って、まず森を描き、次に森のまん中に、網が張ってあって、そこに一羽の鳩がひっかかって、羽ばたきしているところを描きました。描きあげると、大臣《ワジール》はこれに言いつけた、「こんどは別の側に、同じ図を描いてもらいたいが、しかしこれには、雄鳩が自分の雌鳩を救って、そのため鳥刺しにとらえられ、誠意の犠牲となって、殺されたところを現わしてもらいたい。」そこで絵描きはくだんの図柄を描きました。それからたっぷりと謝礼をもらって、立ち去った。
すると大臣《ワジール》と二人の若者と庭番とは、出来ばえと色の工合をよく見るために、しばらく坐りました。王冠太子は、なんとしても心悲しく、思いに沈んでそれを見つめていましたが、そのうちアズィーズに言いました、「兄弟よ、わが想いの責苦をまぎらすために、またなにか詩句を聞かせてくれよ。」するとアズィーズは吟じました。
[#ここから2字下げ]
医聖イブン・スィーナはその医書において、またなき薬として次の処方を与う。
恋の苦患は、調べよろしき歌と、花園の軽き盃をおいて他に医薬なし、と。
われはイブン・スィーナの言に従いしも、あわれ、そのかいなし。よって、試みに、他の恋に走れば、「天運」はわれに微笑し、快癒を配剤するを見たり。
イブン・スィーナよ、おんみは過《あやま》てり。恋の唯一の薬は、そはなおも恋なるを。
[#ここで字下げ終わり]
すると、王冠太子はアズィーズに言いました、「その詩人はおそらくは理《ことわり》だ。しかし、もうそんな気がなくなってしまったときには、それはなんともむつかしいことだ。」それから一同立ち上がって、老庭番に挨拶して、年とった乳母の待っている家に戻りました。
さて、一週間たって、姫《シート》ドニヤは習慣どおり、その庭に散歩にゆきたいと思いました。けれどもそうなってみると、どんなに年とった乳母がいなくて淋しいかを、しみじみ感じて、心を痛め、自ら省みてみると、自分の母親がわりを勤めてくれたひとに対して、いかにも非道であったと思いあたった。そこですぐに、ひとりの奴隷を市場《スーク》にやり、別なひとりを乳母のあらゆる知人のところにやって、乳母を探して、連れかえさせるようにしました。ちょうどそのとき、親切な老婆は、王冠太子に必要ないっさいの注意を言い含めてから、ひとりで御殿のほうに向かっていたところだったので、奴隷のひとりがうやうやしく近づいて、ご主人は深く悲しんでおいでだからと言って、帰って仲直りしてくれるようにと頼みました。形ばかり少しく難色を示したのち、結局そのとおり事が運んで、ドニヤは乳母の両頬に接吻し、乳母は姫の両手に接吻し、かくて二人は、女奴隷たちを従えて、忍びの門をくぐって、庭にはいりました。
さて一方、王冠太子はその保護者の老婆の指図に、逐一従ったのでありました。事実、乳母が出て行ってから、大臣《ワジール》とアズィーズは立ち上がって、豪奢な王者の服を王子に着せ、一面に宝石をちりばめ、碧玉の釦金《とめがね》のついた、金糸で編んだ帯を腰に締め、額のまわりには、金のこまかい模様をほどこし、金剛石の羽根飾りをつけた、白絹のターバンをめぐらしました。それから二人は、王子にアッラーの祝福を念じ、庭の見えるところまで送って行ってから、足手まといにならずに、庭に王子がはいり込めるようにと、二人は引き返したのでした。
そこで王冠太子は門に着くと、例の親切な老庭番が坐っていましたが、庭番は彼を見ると、すぐに敬意を表して立ち上がり、慇懃丁重に挨拶《サラーム》を返しました。そして庭番は、ドニヤ姫が忍びの門から庭にはいったとは知らなかったので、王冠太子に言いました、「この庭はあなたのお庭で、私はあなたの奴隷でござります。」そして門を開いて、中に入るように乞いました。それからふたたび門を閉じ、アッラーをその被造物のうちに称えながら、自分のいつもの場所に戻って坐った。
さて王冠太子のほうは、急いで老婆に言いつけられたとおりにしました。すなわち、教えられた茂みの蔭にうずくまって、そこでおのが天運の通るを待ったわけです。太子のほうはこうです。
ところで姫《シート》ドニヤのほうはどうかといいますると、老婆は散歩しながら、姫に言ったのです、「おおご主人さま、ちょっと申し上げたいことがございます。それはこの美しい木々、果実、花々の眺めをば、一段とお目を休めるものとするようなことですが。」ドニヤは言いました、「いつでも伺いましょう。」老婆は言いました、「まったくのところ、今頃の空気とこの快い爽やかさを、あなたがのびのびと楽しむ邪魔になりますから、この侍女たちは、いっそみんな御殿に返してしまいなすったらどうでしょう。この女たちはまったく、ただあなたにとって窮屈なばかりですもの。」ドニヤは言いました、「ほんとうですわ、乳母《ばあや》。」そして姫はすぐに、合図をして侍女たちを返してしまいました。こうしてドニヤ姫は、老婆だけがおともをして、たったひとりで、王冠太子の潜んでいる茂みのほうへと、進んで行ったのでした。
そして王冠太子はドニヤ姫を見ました。王子はひと目で、姫の美しさのほどがわかり、感動のあまり、その場で気を失ってしまったほどでした。ドニヤは道をつづけて、あの大臣《ワジール》が鳥刺しの場面を描かせた広間の方角に、進みました。そして乳母のたっての言葉に、姫は生まれてはじめて、そこに足を踏み入れました。というのは、これまでかつて姫は、御殿の宿直《とのい》たちにあてられていたこの区域を、訪れてみようという好奇心なぞ、起こしたことはなかったからです。
その絵を見ると、姫《シート》ドニヤはこのうえなく思い惑って、叫びました、「おお乳母《ばあや》、ごらんなさい。これはわたくしのむかし見た夢ですけれど、全然さかさまです。主《しゆ》よ、やあ、師《ラビ》よ、まあなんとわたくしの心は立ち騒ぐことでしょう。」そして姫は気持をおさえて、敷物の上に坐って、言いました、「おお乳母《ばあや》、ではわたくしは、ひょっと思いちがいをしたのでしょうかしら。そして悪者の魔王《イブリース》が、ただ夢を軽々しく信ずるわたくしを、からかっただけのことだったのかしら。」乳母は言いました、「おおわが子よ、だから私の永年の経験から、かねてあなたはまちがっていらっしゃると、あんなに申し上げたでしょう。けれどもとにかくここを出て、もっと散歩いたしましょう。もう太陽もさがり、大気のなかで涼しさはひとしお快いですから。」そして二人は庭に出ました。
ところで、王冠太子はそのときもう気絶から覚めていて、老婆に教えられていたとおり、ただ美しい景色にばかり見とれているみたいに、さりげない様子で、ゆっくりと散歩しはじめていたのでした。
そこで、ある小径《こみち》の曲り角で、姫《シート》ドニヤは彼の姿を見かけて、叫びました、「おお乳母《ばあや》、あの若い殿方が見えて? ごらんなさい、なんてお美しいのでしょう。なんというお姿、なんというご様子でしょう。ひょっとして、おまえはあの方を知っていはしないかしら。」老婆は答えた、「いいえ全然知らないけれど、あのご風采から見ると、きっと、どこぞの王子さまにちがいありません。ああご主人さま、なんというすばらしい殿御《とのご》でしょう。ああ、私の魂。」姫ドニヤは言いました、「まったくごりっぱなお方だこと。」老婆は言いました、「まったくです。あの方の恋人はお仕合せです。」そしてこっそりと、王冠太子に、庭から出て、自分の家に戻るように合図をしたので、太子はそれと覚って、振りかえりもせずに外のほうに道をつづけてゆきましたが、その間、ドニヤ姫はまだ眼でそのあとを追って、乳母に言ったのでした、「わたくしの気持が変わったのがおわかりかい。わたくしとしたことが、このドニヤが、男のひとを見て、こんなに心が乱れるなんて、あることかしら。ねえ乳母《ばあや》、わたくしは自分がもうとらえられてしまって、こんどは、わたくしからおまえに、なにぶんのお世話を頼みたい気持になりました。」老婆は言いました、「アッラーは呪われた『誘惑者』を懲らしめて下さるように。おおご主人さま、あなたは網にとらえられてしまわれなすった。けれどもまた、あなたを救い出してくれる雄鳩は、なんと美しい殿御でしょうか。」ドニヤは言いました、「おお乳母《ばあや》、どうあってもあの美しい若者を、わたくしのところに連れて来てくれなければいけません。おまえの手で連れてきてくれるのでなければいやです。親しい乳母《ばあや》よ。後生ですから、早く駈けて行って、あの方を探してきておくれ。さあここに、千ディナールのお金と千ディナールの着物があります。もしいやだとお言いなら、わたくしは死んでしまいます。」老婆は言いました、「では御殿にお戻りになって、あとはまあ私に委せておおきなさい。きっとこのりっぱなご縁を結んでさしあげますから。」
そしてすぐに、老婆は姫《シート》ドニヤと別れて、うるわしい王冠太子に会いにゆくと、王子は悦び迎えて、まず金貨千ディナールを与えました。すると、老婆は王子に言いました、「これこれこういうことが起こったのです。」すると王冠太子は言った、「だがごいっしょになれるのはいつのことでしょう。」老婆は答えました、「明日には、まちがいなく大丈夫です。」すると王子は、さらに一着の着物と金貨千ディナール分の贈物を授け、老婆はそれを受け取って、言いました、「ころあいの時刻に、私自身お迎えにまいりましょう。」そして大いそぎで、主人のドニヤのところに引き返すと、姫は待ちかねていて、言いました、「恋人について、どういう便りを持って来てくれましたか。」老婆は答えました、「首尾よくゆくえをつきとめて、お話しすることができました。明日にも、あの方の手をひいて、お連れ申してあげましょう。」すると姫《シート》ドニヤは仕合せの絶頂になって、乳母に金貨千ディナールと、さらに別に千ディナール分の贈物を授けました。そしてその夜は、三人とも、魂は楽しい希望と満足にひたって、眠ったのでありました。
さて、朝になったと思うと、老婆は早くも王冠太子の住居に出かけると、太子も待ちかねていました。老婆は持って行った包みを解いて、なかから女の衣裳を取り出し、それを王冠太子に着せ、最後に、大面衣《イザール》でもってすっかり王子をくるみ、さらに顔を厚い小さな面衣《ヴエール》で蔽って、それから王子に言いました、「さてこんどは、歩くとき女の身ごなしを真似て、右左に腰を振り、処女のように小刻みにお歩きなさい。また特に、人々が問いかけたら、いっさいただ私だけに返事をさせておいて、なんと言われようと、けっしてあなたの声をひとに聞かせてはなりません。」そこで、王冠太子は承わり畏まって答えた。
そこで、二人は連れ立って外に出て、御殿の門に着くまで歩いて行くと、その門番は、ちょうど宦官の長《おさ》その人でありました。そこで、自分の知らぬ新来の女を見ると、宦官の長《おさ》は老婆に訊ねた、「この若いひとは、ついぞ見たことがないが、いったいどなたですか。ちょっとこちらによこして、調べさせて下さい。正式のご命令がござりまして、私は自分に責任あるすべての新参の女奴隷を、からだじゅう触ってみなければならず、必要とあらば、裸にしてみなければなりませぬ。ところで、この方は、私が存じ上げないから、どうか私の手で触らせ、私の眼で見せていただきたい。」けれども老婆は叫んで言いました、「何をおっしゃるのです、おお御殿のお頭《かしら》よ。ご存じないのですか……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつものようにつつましく、その夜は、それ以上物語を長びかせなかった。
[#地付き]けれども第百三十五夜になると[#「けれども第百三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「何をおっしゃるのです、おお御殿のお頭《かしら》よ。ご存じないのですか、この女奴隷は、姫《シート》ドニヤご自身が、このひとの腕前をお用いになるため、わざわざお召しになったのですよ。このひとは、お姫さまのみごとなご図案を絹に刺す女のひとりなことを、あなたはご存じないのですか。」けれども宦官は渋い顔をして、言いました、「刺繍なんぞということはどうでもよろしい。どうあろうと新参のひとはからだじゅう触ってみ、前後左右上下を調べなければなりませぬ。」
この言葉に、年とった乳母は、ひじょうな憤りのしるしを面《おもて》に現わして、宦官の前に立ちはだかって、言いました、「私は今までいつも、あなたを礼儀作法の鑑《かがみ》とばかり思っていたものを。いったいどうして、急にそんなふうになったのですか。私にどうしても、あなたを御殿から追い払わせたいのですかね。」それから、変装した王冠太子のほうに向きなおって、叫びました、「私の娘よ、この長《おさ》の失礼を許して下さい。なに、この人はちょっとふざけているのです。ご心配なくお通りなさい。」そこで王冠太子は、腰をゆすりながら、小さな面衣《ヴエール》の下から、宦官の長《おさ》に微笑を投げて、門を越えますと、宦官は、柔らかい布の下から透いて見える王子の美しさに、じっと立ちつくしてしまいました。そして老婆に案内されて、廊下を通り、次に廻廊を通り、次に他のいくつかの廊下と廻廊を通って、七番目の廻廊のはずれの、一室に着きました。その部屋は、幕をおろした六つの扉によって、広い中庭に臨んでいました。すると老婆は言いました、「扉を一つ一つ数えて、七番目の扉からおはいりなさい。するとそこには、おお、若い商人よ、この地上のあらゆる財宝に立ちまさるもの、人呼んで姫《シート》ドニヤという、処女の花、甘美なものが、見られましょうぞ。」
そこで女の着物を着た王冠太子は、扉を数えて、七番目の扉からはいりました。そして垂幕をふたたびおろすと、顔を隠している小さな面衣《ヴエール》を掲げました。ところで、そのとき姫《シート》ドニヤは、長椅子《デイワーン》の上で眠っておりました。そして身には、ただその素馨の素肌《すはだ》と裸の美《び》しか、まとっていなかった。そしてその全身からは、未知の愛撫を呼び求める気が、立ちのぼっておった。そこで王冠太子は、一気にじゃまな着物を脱ぎ去って、身も軽く、長椅子《デイワーン》のほうに跳んでゆき、眠っている姫を腕に抱えた。そして突然目をさまされた若い乙女の驚きの叫びは、貪り食らう唇によって押し殺された。こうして、王冠太子とドニヤ姫の最初の出会いは、絡み合う腿とうち震う脚のただなかで、行なわれたのであります。そしてそれは、このようにして、双方いずれからも、「秩序者」を祝福する接吻をとだえさせることなく、三日三晩にわたってつづいたのでありました。二人のほうはこのような次第です。
ところが、大臣《ワジール》とアズィーズについては、両人はひじょうに心配しながら、夜に到るまで、王冠太子の帰って来るのを待っていました。そして、いよいよ王子が帰って来ないのを見ると、真剣に不安をおぼえはじめました。軽率な王子の消息がないままに、朝になりますと、両人はもはや王子の身の破滅を疑わず、すっかり色を失ってしまいました。そして、苦しみ思い惑って、もうどういう決心をとったらよいかわかりません。アズィーズは締めつけられたような声で、言った、「宮殿の門は、もはやふたたび、私たちのご主人の上に開くことはございますまい。さて今は私たちは何としたものでしょうか。」大臣《ワジール》は言った、「さらにじっと、ここに待つべきじゃ。」そして両人はこうして三日の間、もはや眠らずに、この術《すべ》のない不幸を歎きながら、じっとしていました。そこで、三日たっても、相変わらず杳《よう》として王冠太子の消息がないし、また王子がまだ生きている場合には、その身に累を及ぼすのをおそれて、敢えて捜索しかねた次第で、大臣《ワジール》は言いました、「わが子よ、なんという歎かわしい、困ったこととなったのか。思うに最上の策は、やはりとにかく故国に戻って、王にこの不幸をお知らせすることであろう。さもなければ、われわれはなぜ知らせることを怠ったかと、お咎めを蒙ろう。」そこで、ただちに両人はいっさいの旅支度を整えて、スライマーン・シャー王の首都、緑の都に向けて出発しました。
到着すると時を移さず、両人は急ぎ参内して、王にいっさいの次第と、冒険の推測される不幸な結末をお伝えしました。そして口をつぐんで、わっと泣き伏したのでありました。
この恐ろしい知らせに、スライマーン・シャー王は、全世界が足下に崩れるのをおぼえられて、ご自身も、気を失って倒れてしまわれました。けれども、今となっては悲歎の涙も啼泣も、なんの甲斐がありましょう。そこでスライマーン・シャー王は、肝を噛み、魂と眼前の全土を暗くする苦しみをこらえて、いでや王冠太子の死を、前古未曽有の復讐をもって報いてやろうと、誓われた。そしてすぐに触れ役人をして、槍または剣を執ることのできるあらゆる男子と、隊長ともども全軍を、召集させました。またあらゆる兵器と天幕《テント》と象を出させ、こうして、王の公正と寛大のために、心から王を慕う全人民を従えて、樟脳と水晶の島々さして、出征したのでありました。
この間、幸福の照らしている御殿では、二人の恋人、王冠太子とドニヤ姫は、ますます互いに愛情がこまやかになりまさって、いっしょに飲み歌うためよりほかに、敷物から起きることとてない有様でした。ところで、ある日、恋人の愛情に恍惚の限り恍惚となったときのこと、王冠はドニヤに言いました、「おおわが臓腑の恋人よ、私たちの愛がまったくすばらしいものになるためには、まだひとつ欠けたことがあるが。」姫は驚いて、言いました、「おお王冠さま、わが眼の光よ、このうえあなたは何をお望みになれるのでしょう。わたくしの唇と乳、すべての肉体、あなたを抱き締める腕とあなたを求める魂、これはみなあなたのものではございませんか。もしこのうえ、何かわたくしの存じない恋のしぐさをお望みならば、どうしてすぐにおっしゃって下さいませんの。」王冠は言いました、「私の仔羊よ、そんなことではありません。では私の身分を明かさせて下さい。されば、おお姫よ、じつは私自身も王の嫡子であって、市場《スーク》の商人ではございません。私の父の名は、緑の都とイスパハーンの山々の主、スライマーン・シャー王です。すなわち、かつてお父上シャハラマーン王に大臣《ワジール》を遣わして、あなたを私の后にと所望した、あの王なのです。そのときあなたは、この縁組をことわって、それを言い出すことを引き受けた宦官の長《おさ》をば、槌矛で脅やかしたのを、覚えていらっしゃいますか。では、過去が私たちに拒んだところを今日成就して、これからごいっしょに、イスパハーンへとまいろうではありませんか。」
この言葉に、ドニヤ姫は美しい王冠太子の首に、いっそう嬉しそうに取りすがって、きっぱりとうなずいて、承わり畏まって答えました。それから二人は、この夜はじめて眠気に誘われることができた。何せこの十カ月というものいつも、白む朝は、二人を抱擁や接吻やそれに類した事柄のただなかに、襲ったのでありました。
ところが、日がすでにのぼり、御殿中が動き出しているのに、こうして二人の恋人が眠っている間に、姫の父君シャハラマーン王は、玉座の座蒲団《クツシヨン》の上に腰をおろし、王国の貴族《アミール》や大官に取り囲まれて、その日は、宝石商組合の頭《かしら》をはじめ、組合員たちを引見していたのでした。宝石商の頭《かしら》は王に、十万ディナール以上の金剛石、紅玉、碧玉を収めた、見事な宝石|筐《ばこ》を献上しました。そこでシャハラマーン王は、この献上品にことごとく満足なさって、宦官の長《おさ》を呼んで申しつけた、「さて、カーフルよ、この宝石筐を汝のご主人|姫《シート》ドニヤのところに届けよ。そしてこの贈物が姫の心にかなったか否か、復命いたせ。」そこで宦官カーフルはすぐに、ドニヤ姫のひとり住んでいる離れの別館のほうに向かいました。
さて宦官カーフルはそこに着いてみると、乳母の老婆が、ご主人の戸口を守って、敷物の上に横になっているのを見ました。離れの扉は全部しめてあって、幕が垂れています。そこで宦官は考えた、「はて、こんなに遅くまでみんな眠っているとは、どうしたことだろう、ふだんはこんなことはないのにな。」次に彼は、空しく王のもとに引き返すのも本意ないとて、戸口を阻《はば》んで横になっている老婆のからだを跨いで、扉を押し、部屋の中にはいりました。そして姫《シート》ドニヤが丸裸で若い男の腕に抱かれて眠っており、とんでもない姦淫のありありとした跡を、一面に示しているのを見た彼のびっくり仰天は、いかばかりであったか。
これを見ると、宦官カーフルは、いつぞや姫《シート》ドニヤにけんつくを食わされたことを思い出して、宦官らしい心の中で考えたものです、「いったいこれで男性を嫌うというのか。今度はおれのほうが、アッラーの思し召しあらば、いつぞやの辱しめの讐《かたき》を取ってやる番だぞ。」そして、彼はふたたび扉をしめてそっと出て、シャハラマーン王の御手の間にまかり出ました。王はこれに訊ねられた、「ご主人は何と言われたか。」宦官は言いました、「あの箱はここにござります。」王は驚いて、訊ねた、「ではわが娘は、夫《おつと》も宝玉も欲しくはないというのか。」けれども黒人は言いました、「そのご返事は、おお王さま、こうして皆さまのいらっしゃる前では、ご容赦下さい。」そこで王は宦官が言葉を控えるのをたいそういぶかって、玉座の間《ま》に、ただ大臣《ワジール》だけをおそばに残して、一同を退出させますと、宦官は言いました、「申し上げるまえに、わが君に、わが言葉の結果に対して、安全と保護をお願い申す次第でございます。さもなくば、私の舌は復活の日まで、わが上顎にくっついたままでござりましょう。」王は言いました、「心おきなく話してよろしい。」すると宦官は言いました、「ご主人ドニヤさまは、これこれしかじかの有様でおられました。けれどもその若い男は、まことに美男子でございます。」この言葉に、シャハラマーン王は両手を打ち鳴らして、叫ばれた、「それはとほうもないことじゃ。」それから付け加えなすった、「汝はたしかに見たのか、おおカーフルよ。」宦官は言いました、「こちらの眼とこちらの眼でもって。」すると王は言われた、「それはまったくとほうもないことじゃ。」そして宦官に、その二人の罪人を玉座の前に連れて来るように命じ、宦官はただちに命令を実行しました。
二人の恋人が、王の御手の間に出ると、王は二人に言いました、「なるほど事実だな。」けれどもそれ以上物が言えず、いきなり大剣をわしづかみにして、王冠太子に躍りかかろうとなすった。けれども姫《シート》ドニヤは、恋人に両腕をめぐらして、自分の唇をその唇にぴったりと押しあて、それから父王に叫びました、「このようなわけでございますから、どうかわたくしたち二人をいっしょに殺して下さいまし。」そこで王は玉座に戻って、宦官に姫《シート》ドニヤを自室に連れ帰るように命じ、それから王冠太子に言いました、「不届きなる壊乱者めが、汝は何者なるぞ、汝の父は何者なるぞ、してなにとて憚りなくわが娘のもとに到りしか。」すると王冠太子は申しました、「されば、おお王よ、もしわが死を望まるるとあらば、おんみの死もただちにそれにつづき、ご領土は壊滅してしまいましょうぞ。」王は訊ねた、「なにとてそのようなことがあるか。」王子は言いました、「私こそは、緑の都とイスパハーンの山々の主、スライマーン・シャー王の王子。書き記されたるところに従い、拒まれたるものを取ったのみ。さればわが死を命ずるまえに、おお王よ、おん眼を開かれよ。」
この言葉に、王は思い惑って、今はどうすべきかにつき、大臣《ワジール》に諮《はか》りました。しかし大臣《ワジール》は言いました、「おお王よ、けっしてこれなる詐欺師の言葉を、お信じあってはなりませぬ。かかる売女と千匹の犬の息子の大罪は、ただ死のみよく罰し得るところ。なにとぞアッラーのこれを懲らし、呪いたまわんことを。」そこで王は太刀取りに命じました、「この者の首をはねよ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、いつものようにつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百三十六夜になると[#「けれども第百三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで王は太刀取りに命じました、「この者の首をはねよ。」そしてもしも、太刀取りがいよいよこの命令を実行しようとした瞬間に、スライマーン・シャー王の二人の使者が到着して、参内を乞うているとの知らせが来なかったならば、王冠太子は万事休したでありましょう。ところが、ちょうどその二人の使者が、全軍を率いたスライマーン・シャー王自身の到着に先んじて、来たのでありました。そしてこの二人の使者とは、ほかならぬ例の大臣《ワジール》と若いアズィーズだったのです。
ですから、入場が許されて、両人が自分たちの王子、王冠太子の姿を認めるや、両人は嬉しさに気を失わんばかりになり、王子の足下に身を投げて、足を接吻しました。王冠太子は、両人を強いて起き上がらせ、両人を抱いて、そして手短に、今の場合を説明して聞かせました。そして両人も同じく王子に、今までの事の次第を知らせ、そしてシャハラマーン王に、やがてスライマーン・シャー王とその全軍隊の到着する旨を、告げたのでありました。
シャハラマーン王は、今や疑うべくもなく王冠太子その人である若者の死を命じて、どのような危険を冒したかをさとったとき、両腕をあげて、太刀取りの手をとどめたもうたアッラーを、祝福なさった。それから王冠太子に言いました、「わが子よ、自分がどのようなことをしでかそうとしているか知らなかった、余のごとき老人《シヤイクー》を、赦してくれよ。さりながら、非はわがけしからぬ大臣《ワジール》にある。ただちに杙刺《くしざし》の刑に処すといたそう。」すると王冠太子は王の手に接吻して、言いました、「おお王よ、陛下はわが父上のごときお方であり、かえって私こそ、お心をいたく乱したことを、お許し願わねばなりませぬ。」王は言いました、「非はこの呪わしき宦官にある。こやつをば、二ドラクムの値いもなき腐った板にかけて、磔刑《はりつけ》に処してやろう。」すると王冠太子は言いました、「宦官につきましては、たしかにそれが至当です。しかし大臣《ワジール》のほうは、またのことになさるがよろしゅうございましょう、いたく悔いておりますれば。」するとアズィーズと大臣《ワジール》は、宦官をも同様お許しあるようにと王にとりなしたのですが、宦官は恐れおののいて着物のなかで小便を洩らしてしまったのでありました。そこで王は大臣《ワジール》に免じて、宦官カーフルを許しました。そのとき王冠太子は言いました、「なすべきもっとも肝要なことはやはり、ご息女にして、私の魂のすべてである、姫《シート》ドニヤが案じていらっしゃるにちがいないから、至急そのご心配をしずめてさしあげることでございます。」王は言いました、「これよりただちに、余自身娘のところへまいろう。」けれどもそのまえに、王はご自分の大臣《ワジール》と貴族《アミール》と侍従らに命じて、王冠太子に浴場《ハンマーム》まで扈従《こしよう》し、彼ら自身で沐浴《ゆあみ》をおさせ申して、王子を寛《くつ》ろがせるようにと申しつけました。
それから王は姫《シート》ドニヤの別館に駈けつけると、姫はおりしも、刀の|※[#「木+霸」、unicode6b1b]《つか》を地に立てて、まさにその切尖を胸に刺そうとしているところでありました。これを見て、王は正気が飛び去るのを感じて、王女に叫びました、「あの男は安泰じゃ。そなたの父を憐れと思えよ、娘よ。」この言葉に、姫《シート》ドニヤは剣を遠くに投げ出し、父君の手に接吻すると、父君は事の次第を知らせました。すると姫は言いました、「わたくしは恋人を見ないことには、気持が静まりません。」そこで王は、王冠太子が浴場《ハンマーム》から帰るや、急ぎこれをドニヤ姫のところに連れてゆくと、姫は王子の首にとびつきました。そして二人の恋人が相擁している間に、王はそっと彼らの後ろから、扉をしめました。それから御殿に帰って、スライマーン・シャー王を迎えるに必要な命令を下し、取り急ぎ大臣《ワジール》とアズィーズを差し立てて、王にめでたい成行きを告げさせ、同時に、王への贈物として、純血種の馬百頭、乗用の駱駝百頭、少年百名、乙女百名、男女の黒人それぞれ百名を、贈る手配をなさいました。
そしてその時はじめて、シャハラマーン王は、ひとたびこれらの準備を完了すると、王冠太子と同道する手配をして、ご自身スライマーン・シャー王のお迎えに出かけられました。そしてあまたのお伴を従えて、二人は連れ立って都門を出ました。二人が近づくのを見ると、スライマーン・シャー王もまたこれを迎えに出られて、叫びなすった、「わが子をして目的に到らしめたもうたアッラーに讃えあれ。」次に両王はねんごろに相擁しました。そして王冠太子は悦びの涙を流して、父君の首にとびつき、父君もまた同様でした。それから一同は、なにひとつ欠くるところない幸福のうちに、食べ、飲み、話しはじめました。それがすむと、法官《カーデイ》と証人を呼んで、その場で、王冠太子と姫《シート》ドニヤの結婚の契約を認《したた》めました。次にこの機会に、兵士と人民に莫大なご下賜があり、四十日と四十夜の間、都は飾りつけられ、火をともされたのでありました。そして都をあげての喜びと祝祭のさなかに、王冠太子とドニヤ姫は、爾来心ゆくまで、愛情の無上の限りに、睦みあうことができたのでありまする。
けれどもまた王冠太子は、友人アズィーズの忠勤をも、忘れないように気をつけました。というのは、アズィーズに一隊の人々をつけて、久しいまえから息子の身を泣いているアズィーズの母親を探しにやってのちも、王子はもはや彼と袂を分かとうという気になりませんでした。そしてスライマーン・シャー王崩御ののち、つづいて、王冠太子が緑の都とイスパハーンの山々の王となると、アズィーズをば総理|大臣《ワジール》に任命しました。そして年とった庭番を、王国の総監督官に、市場《スーク》の総|年寄《シヤイクー》を、全国の同業組合の総取締に取り立てました。そして彼ら一同は、救いなき唯一の災厄《わざわい》たる死の到るまで、みな仕合せのうちに暮らしたのでござりました。
以上、アズィーズとアズィーザの物語と、王冠太子とドニヤ姫の物語を語り終えると、大臣《ワジール》ダンダーンは、ダウールマカーン王に、一杯のシャーベットを飲むお許しを仰いだのでございました。するとダウールマカーン王はお叫びになりました、「おおわが大臣《ワジール》よ、王侯貴顕の相手をするに、そのほうほどふさわしき者が、誰ぞ地上にいようか。まことに、ただ今の物語はこのうえなくわが心を奪った。それほどまでに甘美にして、耳に快適な物語ではある。」そしてダウールマカーン王は、王室の宝庫のなかでいちばん見事な誉れの衣をば、大臣《ワジール》に賜わったのでございました。
けれども、コンスタンティニア市の攻囲のほうはと申しますと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百三十七夜になると[#「けれども第百三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれども、コンスタンティニア市の攻囲のほうはと申しますと、これは、はっきりした結末もつかずに、もう四年も長引いているのでございました。そして将兵一同、そろそろ身内や友人たちから遠く離れていることを、切実に辛《つら》がりはじめておりました。
そこでダウールマカーン王は、すみやかに決心なさいまして、三人の主将バハラマーン、リュステム、テュルカシュを呼び、大臣《ワジール》ダンダーンの面前で、一同に申しました、「さて、目下の事態と、このいまわしき攻囲の結果、われわれ一同のうえにのしかかっている倦怠と、老婆|災厄《わざわい》の母がわれらの頭上に下した災害とは、そのほうたちの親しく目睹しているところである。されば、いまわれわれとしてはいかになすべきかについてとくと考え、よろしくしかるべく余に答えよ。」すると三人の主将は頭を垂れて、長いあいだ思案にふけりました。それから、一同言いました、「おお王よ、大臣《ワジール》ダンダーンこそ、われわれ一同よりも経験を積んでおられ、智謀のうちに年齢《とし》を重ねられておりまする。」そこで、ダウールマカーン王は、大臣《ワジール》ダンダーンのほうに向いて、これに申されました、「われわれ一同は、ここに、そのほうの言葉を待っているぞよ。」
すると大臣《ワジール》ダンダーンは、王の御手の間に進み出て言いました、「されば、おお当代の王よ、われらがこれ以上永く、コンスタンティニアの城下にとどまるは、今後まことに有害なことでございます。まず、おお王よ、わが君ご自身からして、若き王子カンマカーンさまや、故シャールカーン王子の王女にして、目下女たちとともにダマスの御殿におらるるお姪御、運命の力さまなどに、再会なされたき望みをおぼえていらるるに相違ござりませぬ。そして次には、われわれここにおる全部の者も、故国と家居からかくも遠く離れてあることの苦痛を、切実に感じておりまする。そこで私見といたしましては、われわれはひとまずバグダードに戻り、後日ふたたびここに来たって、この異教の都には、鴉と禿鷹が巣をくうに足るだけのもの以外、残さぬようにいたしてはと存じまする。」すると王は言われました、「まことに、おおわが大臣《ワジール》よ、そのほうは余の所見にしたがって答えたものじゃ。」そこですぐに触れ役人をして、三日後に出発が行なわれるはずという旨を、全軍に告知させました。
事実、三日目には、旌旗をなびかせ、ラッパを吹き鳴らして、軍は陣を撤し、ふたたびバグダードの道をとりました。そして日々と夜々のあとで、平安の都に到着すると、全住民にひじょうな歓喜をもって、迎えられました。
さてダウールマカーン王につきましては、王の第一になされたことは、ちょうど第七年に達した、王子カンマカーンに会いに行って、お抱きになったこと、第二になされたことは、旧友である、年とった浴場《ハンマーム》の風呂焚きを召し出すことでした。そしてその姿を見かけると、王は敬意を表して玉座から立ち上がって、これを抱き、ご自分のかたわらに坐らせて、貴族《アミール》はじめなみいる人々の前で、口をきわめて讃めちぎったのでした。ところで、この年月の間に、浴場《ハンマーム》の風呂焚きは、食い、飲み、休息したために、まえとは見ちがえるほどになりました。肥満の限り肥ってしまい、首は象の首ほどになり、腹は鯨の腹ほどになり、顔は竈《かまど》から出たばかりの円いパンのように、つやつやしくなったのでございました。
そこで老人《シヤイクー》は最初、王がご自分のかたわらに坐るようにと勧められたのをご辞退して、申し上げました、「おおご主人さま、なにとぞアッラーは、私にそのようにご恩になれることをさせないで下さいますように。私が敢えて御前に坐ることを許されていた日々は、もはやとうの昔に過ぎ去りました。」けれどもダウールマカーン王は、おっしゃいました、「いな、それらの日々はそちにとっては、今からふたたび始まるばかりである、おおわが父よ。なんとなれば、余の一命を救ったのはそちであるからな。」そして王は強いて、風呂焚きをご自分といっしょに、玉座の大きな床上に坐らせたのでありました。
そのとき、王は風呂焚きに仰せられました、「余はそちが、なにか余に恩恵を所望するのを見たく思う。なんとなれば、余は、何事なりとそちの望むところを、ただちにかなえてとらする所存でおる、たといわが王国を分かつことであろうとも。されば言うがよい、アッラーがそちの言葉を聞きたもうであろう。」すると、年とった風呂焚きは申しました、「私の年来のある宿望をお願い申し上げたいとは存じまするが、いかにも厚かましく見えはしないかと、心配でございます。」すると王はたいそう悲しまれて、おっしゃいました、「ぜひともそれを申してみよ。」風呂焚きは言いました、「ご命令は私の頭上にございます。じつはこうです。私は、おお王さま、御手より免許状を賜わって、わが故郷聖都の、全|浴場《ハンマーム》の風呂焚きの総大将《アミール》に、任命していただきたいものと存じます。」この言葉に、王をはじめなみいる一同は、大笑いしてしまいましたが、風呂焚きは、自分のお願いが大それたものだったのかと思って、そこですっかりしょげ返ってしまいました。けれども王はおっしゃいました、「アッラーにかけて、何かほかのことを所望するがよい。」そして大臣《ワジール》ダンダーンも、やはりそっと風呂焚きのそばに寄って、脚をつめって、眼くばせして、「何かほかのことをお願いしなさい」と知らせました、そこで風呂焚きは言いました、「それでは、おお当代の王さま、私はぜひとも、わが故郷聖都の、汚穢《おわい》掃除人組合の総|年寄《シヤイクー》に任命していただきたいものと存じまする。」この言葉に、王をはじめなみいるものは、両脚を空中に投げ出すほどの笑いに襲われてしまいました。それから王は風呂焚きにおっしゃいました、「さあ、わが兄弟よ、そちはぜひとも、何かそちの身にふさわしいことで、真に望み甲斐のあることを、所望するがよい。」風呂焚きは言いました、「私ごときにはたしてかなえていただけるものかどうか、心配でございます。」王は言われました、「何ものもアッラーに不可能なことはないぞよ。」すると風呂焚きは申しました、「それでは、私を亡きシャールカーン王子の代わりに、ダマスの帝王《スルターン》に任じて下さいまし。」するとダウールマカーン王はお答えになりました、「わが眼の上に。」そして即刻、風呂焚きをばダマスの帝王《スルターン》に任ずる辞令をお書かせになり、これに、新しい王として、ザブラカーンという名前を賜わりました。それから大臣《ワジール》ダンダーンに命じて、美々しい行列をととのえて、新しい王をダマスまで送り届け、かの地から、故シャールカーン王子の王女「運命の力」をお連れして、戻ってくるようにとお託しになりました。出発に先立ち、王は風呂焚きに別れを告げ、これを抱いて、新しい臣下一同に対して、優しく正しくあれと、ご注意なさいました。それからなみいる一同に申されました、「余に対して敬愛の念を抱く者はことごとく、贈物をもって、帝王《スルターン》エル・ザブラカーンにおのが悦びを示せよ。」するとすぐに、ダウールマカーンがお手ずから王服をまとわせなすった、新しい王のまわりには、進物が殺到いたしました。そして、いっさいの準備が出来上がると、ダウールマカーン王は、これに特別の護衛兵として、五千の若い白人奴隷《ママーリーク》と赤と金色の王者の轎《かご》をになう轎夫《かごかき》どもを賜いました。こうして、元の浴場《ハンマーム》の風呂焚きは、今や帝王《スルターン》エル・ザブラカーンとなり、全護衛兵と、大臣《ワジール》ダンダーンと、大将《アミール》リュステム、テュルカシュ、バハラマーンをば従えて、バグダードを出で、所領ダマスへと着いたのでございます。
さて、この新王の最初の配慮は、すぐに華やかな行列を仕立てて、八歳の幼い姫君、故シャールカーン王子の王女「運命の力」を、バグダードまでお送りすることでございました。そして王女のご用に、十人の若い娘と十人の若い黒人をつけ、あまたの贈物をいたしましたが、とりわけ、ばらの生粋の香精、湿気がこないように密封した、いくつもの大箱に収めた杏子《あんず》の砂糖煮、その箱にはまた、たいそう美しいけれども、いかにも華奢な紐飾りをつけることも、忘れませんでした。それからまた、丁子《ちようじ》の蕾の香をつけた糖蜜でつないで、固めた棗椰子《なつめやし》を詰めた大きな壺二十、薄皮づくりの捏粉菓子二十箱、ダマスのあちこちの最上の菓子屋に特別に誂らえた、さまざまの菓子二十箱も、お贈りしました。そして全部は、駱駝四十頭分の荷物となり、そのほかにもなお、シャム国のいちばん上手な機織《はたおり》の織った、絹織物や錦のいくつもの大|梱《こり》、貴重な武器、打出しの銅器金器、それに陶器や刺繍なぞがございました。
次に、これらの準備が終わりますと、帝王《スルターン》エル・ザブラカーンは、大臣《ワジール》ダンダーンにも、多額の金子を贈ろうとしましたが、大臣《ワジール》はこれを受け取ろうとせず、言いました、「おお王よ、あなたはまだこの国に来て新しく、この金子は、私に賜わるよりも、さらに有益に用いる必要がござりましょう。」それから一行は進発して、一日わずかの行程で歩み、こうしてひと月後に、アッラーは一行に安泰を書きしるしたもうて、一同つつがなくバグダードに安着いたしました。
するとダウールマカーン王は、歓喜して幼い「運命の力」を迎え、姫をば、母君ノーズハトゥとノーズハトゥの夫の侍従長の手に渡されました。そして姫にも、カンマカーンと同じ師匠につかせました。こうしてこの二人の子供は、別れることのできない仲好しとなり、お互いの親しみは、年とともにつのるばかりでございました。こうした事態は、このようにして八年間にわたりましたが、この間も、ダウールマカーン王は、異教徒ルーム人に対する戦争の軍備と準備を、怠らなかったのでございました。
けれども、過ぎ去ったお若い間に忍ばれた、あらゆるお疲れとご苦労のせいで、ダウールマカーン王は、日々に体力と健康が衰えなすってゆきました。そして、お工合が目に見えて悪くなるばかりでしたので、王はある日、大臣《ワジール》ダンダーンを召し出して、申されました、「おおわが大臣《ワジール》よ、そのほうを呼び出したのは、余の実行せんと思うある計画を、そのほうに打ち明けんがためである。されば直截に答えてもらいたい。」大臣《ワジール》は申しました、「いったい何事でござりましょうか、おお当代の王よ。」王は仰せられました、「余は在世中に位を退き、代わってわが子カンマカーンを王位に据え、かくて世を去るまえに、わが子があっぱれ世を治むるを見て安堵いたそうと、意を決した次第である。これについてそのほうはどう思うか、聞かせてもらいたい、おお知恵有りあまる魂の大臣《ワジール》よ。」
このお言葉に、大臣《ワジール》ダンダーンは、王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、切なる思いをこめた声で、申し上げました、「お打ち明け下さいまするご計画は、おお幸多き王、周到と無私のご天資の王よ、そは実行不能でもござりますし、機宜に適したものでもござりませぬ。――二つの理由からでございます。第一に、太子カンマカーンさまには、いまだきわめて若年にわたらせらるること、第二に、王がご存命中に太子に世を治めさせなさるれば、爾来そのご寿命は、天使の書にいくばくも数えられざること、これです。」けれども王はおっしゃいました、「わが生命に関しては、まことに、もはや命数つきたるものと、みずから感ずるのである。されど太子カンマカーンに関しては、いまだそれほど若年であるというならば、余は姉上ノーズハトゥの夫君の侍従長をば、その摂政に任ずるといたそう。」
そこですぐに、王は貴族《アミール》、大臣《ワジール》、および王国の大官全部を召集して、侍従長を王子カンマカーンの摂政に任じ、そして最後の遺命として、成年の暁に「運命の力」とカンマカーンとをいっしょに結婚させるようにと、侍従長に頼まれました。侍従長は答えました、「私はご恩恵に恐懼し、無辺際のご仁慈に浸《つか》る者でございます。」するとダウールマカーン王は、王子カンマカーンのほうを向いて、眼に涙をいっぱいたたえて、申されました、「おおわが子よ、さればわが亡きのちには、侍従長がそちの後見となり、補佐となるであろう。しかし大宰相ダンダーンは、余に代わってそちの父となるであろうぞ。なんとなれば、今や余自身は、このはかなき世を去って、永遠の住居へと立たんとしていることを、みずから感じるのじゃ。されどそのまえに、おおわが子よ、余は死に先立って、地上にあって願わしきただ一事、なお心残りの存するを、そちに言い置きたい。そはすなわち、そちの祖父君オマル・アル・ネマーン王、ならびに汝の伯父君シャールカーン王子の崩御の因となりし女、名を災厄《わざわい》の母と申す、ふらちなる呪われし老婆に対し、きっと復讐いたすことであるぞよ。」するとお若いカンマカーンは、お答えしました、「お心を安んじられませ、おお父上さま、アッラーは私の手を通じて、皆々さまの仇を討って下さるでござりましょう。」するとダウールマカーン王は、大きな平静が御心をさわやかにするのを感じ、いとも安らかに臥床《ふしど》の上に横になられましたが、もはやふたたびそこからお立ちになることがなかったのでございます。
事実、その後しばらくして、ダウールマカーン王は、創《つく》りたまいし御手の下のいっさいの創られしものと等しく、測り知るべからざる彼岸において、かつてあらせられたところのものに返って、王は、あたかもかつて世に在《いま》さなかったも同然になられてしまいました。というのは、時はいっさいを刈り取って、忘れてしまうのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、元来つつましい女であったので、その夜は、それ以上言わなかった。
[#地付き]けれども第百三十八夜になると[#「けれども第百三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……そして王は、あたかもかつて世に在《いま》さなかったも同然になられてしまいました。というのは、時はいっさいを刈り取って、忘れてしまうのでございます。
以上が、オマル・アル・ネマーン王の王子にして、シャールカーン王子の弟君、ダウールマカーン王の物語でございます。――なにとぞこの方々ご一同に、アッラーのきわまりなきご慈悲のあらんことを。
けれどもまた、この日から、そして「子孫を残す者は死なず」という諺の、偽わりならぬを示して、ダウールマカーンの王子、若きカンマカーンの冒険[#「ダウールマカーンの王子、若きカンマカーンの冒険」はゴシック体]が、始まったのでございます。
ダウールマカーンの王子、カンマカーンの冒険
実際、おお幸多き王さま、(とシャハラザードはつづけた。)若きカンマカーンとその従妹《いとこ》「運命の力」につきましては、やあ、アッラー、なんとお二人は美しくなったことでございましょう。長ずるにつれて、お二人の均整のとれた顔立ちはますます秀麗となり、美質は残りなく発揮されたのでした。まことにお二人は、たわわに果実をつけた二本の若枝か、第九月《ラマザーン》の二つの月よりほかに、較べるものはございませんでした。そして、運命の力のほうは、人の気を狂わせてしまうに必要なすべてを、身に備えていたと申さねばなりません。人目から遠く離れて、独り王家の深窓にあって、その顔色の白さは神々しいばかりとなり、胴はちょうど必要なだけほっそりと、アリフの文字(52)のようにまっすぐで、腰は豊かにどっしりとして、ほんとうにほれぼれとするばかりになりました。その唾《つばき》の味ときては、おお牛乳よ、酒よ、菓子よ、おまえたちはいったい何でしょうか。その唇、柘榴《ざくろ》の色について、ひと言申せば、おまえたち、熟《う》れた果物よ、ばらの蕾よ、物を言ってごらん。けれどもその頬ときては、ばらそのものもとても敵わぬことを認めたのでした。ですから、これについての次の詩人の言葉は、なんと誤っていないことでしょう。
[#ここから2字下げ]
その眼瞼《まぶた》は、瞼墨《コフル》もこれをさらに鳶色ならしめ得るや、疑わし。その眼差は、さながら信徒の長《おさ》の剣にも似て、狂いなく胸を貫く。
汝ら、微風の下に、垂れ下がる毛房を揺する棕櫚の木よ、汝らこそは、かのひとの髪なり。
[#ここで字下げ終わり]
ノーズハトゥの娘、若き姫「運命の力」は、このようでございました。けれども、その従兄《いとこ》、若き王子カンマカーンにつきましては、これとはまったく事変わっておりました。鍛錬と狩猟、乗馬と槍および投槍の試合、弓と騎乗は、王子のからだを練り、魂を鍛えました。そして王子は、回教国随一のあっぱれな騎士となり、町々と各部族の武士のうち、随一の勇敢な武士となりました。そして、それにもかかわらず、その顔色は処女の顔色のようにみずみずしく、顔はばらや水仙よりも、見た眼に愛らしいままでした。詩人はそれについて、言いました。
[#ここから2字下げ]
割礼を受くるや否や、軽き絹はその柔らかき頤《あご》を艶《えん》立ちて蔽う。
彼を見る人々の悦ばしき眼に、これは、母の歩みの後ろより踊るがごとく行く小鹿にさも似たり。
彼を追うまめやかの人々に、その頬は陶酔を分かち与うる者と映ず、その唾《つば》の自然の蜜と等しく甘美なる血の赤み、薄らかに通うその頬は。
さあれ、彼の魅惹の崇拝にわが生を捧げしわれには、わが魂を奪うは、なかんずくその下穿きの緑の色なり。
[#ここで字下げ終わり]
けれどもここで申しておかなければならぬことは、すでにしばらくまえから、カンマカーンの後見の侍従長は、妻ノーズハトゥのあらゆる諫めにもかかわらず、またカンマカーンの父王から受けたあらゆる恩義にもかかわらず、遂にことごとく政権を乗っ取ってしまい、一部の国民と軍隊を操って、ダウールマカーンの後継者と、宣布させさえしたのでございました。その他の国民と軍隊は、オマル・アル・ネマーンの御名と後裔とに依然忠誠を抱き、老いたる大臣《ワジール》ダンダーンの指揮に従って、職務を行なっておりました。けれども大臣《ワジール》ダンダーンも、侍従長の脅迫にあって、遂にはバグダードを立ち退いて、近在の町に引きこもり、権利を横領されなすった孤児のほうに、天命が向くのを、待った次第でございます。
そこで侍従長は、もはや誰もなにも怖いものがなくなったので、カンマカーンとその母君をば、むりやりそれぞれの自室に閉じこめて、娘の「運命の力」には、今後ダウールマカーンの王子とのいっさいの交渉を、禁じさえしたのでした。こうして母君と王子は引きこもって暮らし、アッラーが権利ある者に権利を返して下さるのを、待った次第でございます。
けれどもそれにもかかわらず、侍従長の監視を冒して、カンマカーンはいくたびか従妹《いとこ》の「運命の力」に会い、もとより人目を忍んでのことですが、話し合うこともできました。ところが、ある日|従妹《いとこ》に会うことができず、思慕の情が日頃よりも心をさいなんだおり、王子は一葉の紙を取って、次のような情熱のこもった詩句を、友に書いたのでした。
[#ここから2字下げ]
君は、おお愛《いと》しき人よ、侍女らのただなかに、君の美《うる》わしさのうちに涵《ひた》りて、歩みゆけり。君過ぎゆけば、ばらは、君が頬の上なる姉妹《はらから》におのれを較べ、茎の上にて羨望に耐えざりき。
ゆりは、君が白皙に浮かぶ、黒子《ほくろ》の前に眼くばせし、花咲けるかみつれ[#「かみつれ」に傍点]は、君が皓歯の微笑を微笑せり。
ああ、願わくば、アッラーはわれにこの病《わずらい》を忍ばせたまえかし、あたかも病む者の、回癒のために烙鉄を耐ゆるがごとく。
[#ここで字下げ終わり]
そして、手紙に封をして、王子はこれを近侍の宦官に渡しますと、この宦官の最初に考えたことは、この手紙をば、侍従長自身の手に渡すことだったのです。そこで、この告白を読んで、侍従長は口から泡を吹いて、どなり散らし、きっと若いカンマカーンをば懲らしてくれると誓いました。けれどもやがて、これは事件を表沙汰にしないために、妻のノーズハトゥだけに、話したほうがよいと思いました。そこでノーズハトゥの部屋に会いに行き、若い「運命の力」には、庭に風にあたりに行きなさいと言って、部屋から追い出しておいて、さて妻に言いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百三十九夜になると[#「けれども第百三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
侍従長は、妻のノーズハトゥに言いました、「そちも知ってのとおり、若いカンマカーンはすでに久しいまえから妙齢《としごろ》に達し、そちの娘の運命の力に、心をひかれている。されば今後は、決して相会う望みなく、二人の間を裂かねばならぬ。木を焔に近づけることは、きわめて危険だからな。今後はもはや、そちの娘は、女部屋を出たり、面《おもて》をあらわにするようなことがあってはならぬ。あれはもう、顔をあらわにして外に出てよい年頃の娘ではないのだから。とくによく気をつけて、あの二人に文通なぞさせぬように。というのは、余としては、いかに些細な動機からでも、永久にあの若者に、その邪悪の本能に身を委ねさせぬ所存である。」
この言葉に、ノーズハトゥは泣かずにはいられませんでした。そしてひとたび夫が出て行くと、甥のカンマカーンに会いに行って、侍従長の立腹を知らせました。それから言いました、「けれども、おおわが弟の王子よ、私はときどきは従妹《いとこ》の運命の力と、秘かに会えるように計らってあげられましょう。もっともそれは扉を隔ててだけですよ。ですから、アッラーがそなたを不憫に思し召されるまで、じっと辛抱なさい。」けれどもカンマカーンは、この知らせに、魂全部がひっくり返るのを感じて、叫びました、「ここでは元来、この私一人が采配を振るべきはずなのです。私は決してこのうえ一時《いつとき》も、この宮殿に暮らしますまい。今後はもう、この館《やかた》の石が私の屈辱をかくまうのを忍びますまい。」
それからただちに、王子は自分の着物を脱いで、頭に托鉢僧《サアールク》の帽子をかぶり、肩に遊牧の民の古外套をひっかけ、母上と伯母上に別れを告げるいとまもなく、道中の食糧全部としては、三日もまえの古いパン一個だけしか、袋に持たずに、大急ぎで、都の城門さして出かけました。そして城門が開かれたときには、王子が最初にこれを跨いだ人でした。それから今別れてきたいっさいに対する訣別のしるしに、次の詩節を独り誦しながら、大股に遠ざかってゆきました。
[#ここから2字下げ]
われはもはや汝を恐れず、おおわが心よ。汝はわが胸裡に鼓動し、たとえ破るるとも仔細なし。わが眼はもはや涙を催すを知らずして、わが魂のうちに、憐憫は席を見いだすを得ざるべし。
わが心よ、汝を憐れまば、わが気概はいかになるらん。羚羊《かもしか》の眼に誘《いざ》なわるる者は、痛手を負いて倒るとも、悔ゆるところなきなり。
われは躍り跳ねて、果てしなき大地を跋渉せんと欲す。わが魂の気魄を失わしむる恐れあるいっさいより魂を救うべく、放浪の人には広大なる大地をば、跋渉せん。
われは諸方の豪傑と部族と戦わん。わが敗者より奪いし獲物もて、身を富ましめん。かくて爾後わが光栄と気魄もて威風堂々、ふたたび帰らなん。
なんとなれば、よくぞ知れ、迂闊の心よ、獣《けもの》の貴き角を得んには、まず獣を馴らすか、しからずばこれを殺さざるべからず。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、若いカンマカーンが、こうして自分の都と近親のもとをのがれている一方では、母君は、その日一日王子の姿が見えなかったので、到るところを探しまわりましたが、なんのかいもございません。そこで、母君は坐って泣きながら、このうえなく切ない想いに悩まされつつ、帰りを待っていらっしゃいました。けれども二日目も、また三日目も、四日目も、誰にもカンマカーンの消息がわからぬまま、過ぎ去りました。そこで母君は、ご自分のお部屋にこもって、泣き、歎き、苦しみのこのうえなく深い底から、かきくどかれるのでした、「おおわが子よ、どちらに向いて、そなたを呼ぼうぞ。いずこの国へ走って、そなたを探そうぞ。そなたの身に注ぐこの涙が、今何の役に立ちましょう、わが子よ。そなたはどこにいますか。どこにいるのですか、おおカンマカーンよ。」それからお可哀そうな母君は、もう飲食をなさろうとしませんでした。そのご愁傷は町中に知れわたり、すべての住民は若君を慕い、その亡き父王を慕っていましたので、皆その悲しみを共にしたのでした。みんなが叫びました、「おおお痛わしいダウールマカーンさま、人民にあんなに公平で、優しくいらっしゃった王さまよ、今はいずこに在らせられるのやら。今やお世継ぎの王子さまはご失踪なさって、ご在世中ご恩顧の限りを賜わった人々も、一人として王子さまのゆくえを見つけることができません。ああ、オマル・アル・ネマーン王のご後裔よ、いったいどうなられたのでしょうか。」
さてカンマカーンのほうはと申しますと、王子は終日《ひねもす》歩き始めて、夜まっ暗になるまで、休みませんでした。そして翌日からつづく日々、草木を拾っては腹を満たし、泉や流れの水を飲みながら、旅をつづけました。そして四日たつと、森に蔽われ、清水が流れ、山鳩の歌う谷間に、着きました。そこで足をとめて、洗浄《みそぎ》をし、次に礼拝をしました。そして、おりしも日が暮れかかったので、一本の大木の下に横になって、眠りました。こうして真夜中まで眠ったのでした。するとそのとき、谷の静寂のさなかに、ひとつの声があたりの巌から出て広がり、それに眠りを覚まされました。その声は次のように歌っていました。
[#ここから2字下げ]
人の生よ、愛する女《ひと》の口唇に浮かぶ微笑の稲妻なくして、そも汝に何の値いあらんや。
おお、牧場に集《つど》う、友どちの悦びよ、掌酒子《しやくとり》の手より盃を取るとき、もし情熱の彼らを焼かば。
汝、馨《かお》りよき褐色の液を干す友よ、見よ、君が手の下に、おのが水、おのが色、おのが豊饒に嬉々たる、大地の広ごるを。
[#ここで字下げ終わり]
こうして夜のうちに立ちのぼってくるみごとな歌を聞くと、カンマカーンはうっとりとして、立ち上がり、その声の聞こえてくるほうの、闇を透かして見ようとしました。けれども、谷間の奥を流れる川の上にある、木々のおぼろげな幹よりほかに、物の形を見分けることができません。そこでそちらの方向に少し進んで行って、こうしてちょうど川の岸辺のところまで下りました。すると声はいっそうはっきりとし、夜のうちに次の詩を誦して、ますます熱を帯びてまいりました。
[#ここから2字下げ]
かの女《ひと》とわれとの間には愛の誓いあり。さればこそ、われはかの女《ひと》を、わが部族《やから》のうちに残し得たるなり。
砂漠のうちのわが部族《やから》は、完《まつた》き馬と黒き眼の乙女に、こよなく豊かなり。そはタイムの部族《やから》なり。
微風よ、汝が息吹《いぶき》はバニ・タイム(53)のもとより到る。そはわが肝を鎮め、こよなくわれを酔わす。
われに告げよ、奴隷サアードよ、踝《くるぶし》に音よき鈴をめぐらせるかの女《ひと》は、時にわれらの愛の誓いを思いいずることありや。して、何と言いたもうらん。
ああ、わが心の果肉は、蠍《さそり》に刺されたり。来たれ、友よ。われは君が唇の解毒剤もて、これを癒やすべし、君が唇の唾液と君が爽やかさを吸いて。
[#ここで字下げ終わり]
カンマカーンは、再度この見えざる人の歌を聞くと、またも闇を透かしてよく見ようとしましたが、やはり何も見えないので、そこで岩の頂きに登って、声を限りに呼ばわりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百四十夜になると[#「けれども第百四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……カンマカーンは岩の頂きに登って、声を限りに呼ばわりました、「おお、夜の闇のうちを行く御仁よ、願わくば、こなたに近づき、おんみの身の上話を承わらせていただきたい。それはわが身の上と似ているものに相違ない。」そして口をつぐみました。
しばらくすると、先の歌を歌った声が、答えました、「おお汝、おれを呼ぶ者よ、汝はいったい何者か。汝は地上の人間なりや、それとも地下の魔神《ジンニー》なりや。もし魔神《ジンニー》ならば、汝の道をつづけよ。されど、もしアーダムの子の人間なりせば、そこにあって光の射すを待て。夜は陥穽《かんせい》と裏切りに満ちてあれば。」
この言葉に、カンマカーンは心中ひとりごちました、「きっとこの声の持ち主は、わが事件と不思議に相似た事件の男にちがいないぞ。」そしてもう身動きせずに、朝の光の射すまで、じっとしていました。
朝になると、森の木々の間から、一人の男がこちらに来るのが見えました。それは砂漠のベドウィン人のような服装をして、剣と楯とを携えた大男でした。そこで王子は立ち上がって礼をすると、そのベドウィンの男も礼を返し、形《かた》のごとき挨拶ののちに、ベドウィン人は、王子の若年に驚いて、尋ねました、「おお見知らぬ若者よ、おまえはいったい誰だ。どこの部族の者か。おまえの両親は、アラビア人の間でどんな身分の者か。まことにおまえの年頃は、夜中に、しかも武装した集団と追剥ぎしかいない国々を、独り旅するような身ではない。されば、おまえの身の上を語って聞かせよ。」カンマカーンは言いました、「わが祖父はオマル・アル・ネマーン王、父はダウールマカーン王、そして余自身は、従妹《いとこ》『運命の力』姫に思い焦がるる、カンマカーンその人である。」するとベドウィン人は言いました、「しかし、王者の子にして王たるものが、托鉢僧《サアールク》のような風体をして、おのが身分にふさわしい従者も従えずに、旅するとは、どうしたことか。」王子は答えました、「これから自分で従者を作るつもりだ。まずおまえに最初に、従者の仲間に加わってもらおう。」この言葉にベドウィン人は笑いだして、言いました、「おまえは、おお若僧よ、まるでいっぱし一人前の武士とか、あまたの戦闘で、武名を轟かした英雄みたいな、口をききおるわい。では、おまえのふつつかを思い知らせてやるために、これよりただちにひっとらえて、奴隷のようにおれに侍《かし》ずかせてくれよう。そのうえで、もしおまえの親がほんとうに王ならば、おまえの身代金を払うぐらいの富はあろう。」するとカンマカーンは、憤怒が眼瞼《まぶた》から迸り出るのを感じて、ベドウィン人に言いました、「アッラーにかけて、余の身代金を払うのは、余自身をおいてほかに誰もいないぞ。いいか、気をつけよ、おおベドウィン人よ。汝の詩を聞いて、汝は雅《みや》びた挙措を授けられた男と思ったが……。」
そしてカンマカーンはベドウィン人に躍りかかりましたが、相手は、こんな小童《こわつぱ》はひとひねりと思って、笑いを浮かべながら、待っていました。けれどもなんという思いちがい。はたしてカンマカーンは、ベドウィン人と取り組み合うと、山々よりもゆるぎなく、尖塔《マナーラ》よりもしっかりとした両足の上に、どっしりと、大地に身を構えました。次に、十分に腰を固めて相手にもたれかかり、骨をも砕き、臓腑《はらわた》をも吐き出させるばかりに、ベドウィン人を胸もとに締めつけました。そしてやにわに、これを両腕で差し上げて、持ち上げたまま、大股で川のほうに駈け寄ったものです。するとベドウィン人は、こんな子供に、突然これほどの大力が現われるのを見る驚きから、いまだ覚めるいとまもなく、叫びました、「こうして、流れの水のほうにおれを運んで行ってからに、いったいどうする気だ。」カンマカーンは答えました、「汝をこの流れに放り込んでやる。この流れは汝をティグリス河まで運んで行き、ティグリス河はナハル・イサ(54)河まで運び、ナハル・イサ河はユーフラテス河まで汝を運ぶであろう。さすればユーフラテスは汝を汝の部族のほうまで連れて行こう。そのとき部族の者どもは、汝の剛毅と武勇のほどを察するであろうぞ、おおベドウィン人よ。」するとベドウィン人は、差し迫った身の危険をまえに、いよいよカンマカーンがさらに空中高く持ち上げて、河に投げ込もうとした瞬間、叫びました、「おお若い英雄よ、あなたさまの愛人、運命の力さまの明眸にかけて、なにとぞ私の一命を無事にお助け下さいますよう、願い上げます。今後私はあなたさまの奴隷のうち、もっとも恭順な者となりまする。」するとすぐに、カンマカーンはつと後ろに退《すさ》って、これを静かに地上におろして、言いました、「その誓いによって汝は余の闘志を失わせた。」
そこで二人はともども、流れのほとりに腰をおろすと、ベドウィン人は頭陀袋《ずだぶくろ》の中から、大麦のパンを取り出して、二つに裂き、半分を、少しの塩を添えて、カンマカーンに分けました。そしてそれから二人の友情は、固く結ばれたのでございます。するとカンマカーンは訊ねました、「仲間よ、そのほうは余の何ぴとなるかを知ったうえは、こんどはそのほう自身も、自分の名と両親の名を聞かせてもらいたい。」そこでベドウィン人は申しました。
「私こそは、シャムの砂漠に住む、タイム族のサバー・ベン・ルマー・ベン・ヘマムでございます。私の身の上を、手短に申し上ぐれば、次のようなものでございます。
父が亡くなったとき、私はまだきわめて幼少でありました。そこで私は叔父に引き取られ、その娘ネジマとともに、その家で育てられました。ところで、私はネジマを愛し、ネジマもまた同様に私を愛しました。そして私は、結婚する年配になりますと、これを妻に望みましたが、父親は私が貧しく資力なきを見て、なんとしても二人の結婚を承知しようとしません。けれども、部族の頭立った長老《シヤイクー》たちの諫めにあって、叔父は、ネジマを私の妻にすると約束してはくれましたが、それには条件があって、馬五十頭、良種の牝駱駝五十頭、女奴隷十人、小麦五十駄、大麦五十駄、それよりも多くとも少なからざる結納《ゆいのう》を、作らなければならぬというのです。そこで私は、このネジマへの結納を作る唯一の手段は、自分の部族を飛び出し、遠方に出かけて、商人を襲い、隊商《キヤラヴアン》を掠奪することと考えました。これが昨夜、私の歌をお聞きなすったあの場所に、私のとどまっている理由でございます。けれども、おお友よ、あの歌のごとき、もしこれをネジマの美しさに較べたら、そも何ものでしょうか。というのは、一生のうちに一度、ただネジマを見ただけでも、その人は残りの生涯を通じて、魂が祝福に充ち溢れるのを感ずるからでございます。」これらの言葉を言って、ベドウィン人は口をつぐみました。
するとカンマカーンは、これに言いました、「余はかねて思っていた、仲間よ、そのほうの身の上はさだめし余の身の上に相似ているであろうと。されば今後は、二人して相携えて戦い、われらの勲《いさおし》の成果をもって、恋人をかち得るとしよう。」
ちょうど王子がこの言葉を言い終えると、遥かに一陣の砂煙りが立って、すみやかにこちらに近づいてきました。砂煙りが消えると、彼らの前に一人の騎馬の男が現われ出ましたが、その顔は瀕死の人の顔のように黄色く、その着衣には血がにじんでおりまして、その男は叫びました、「おお信徒たちよ、水を少々、傷を洗うから。からだを支えて下さい、私はもう息を引きとりそうだ。どうぞ助けて下さい。私が死んだら、この馬はあなたがたに進上します。」実際この騎手の乗っていた馬は、諸方の部族のあらゆる馬の間に比類を見ぬ逸物でした。というのは、これは砂漠の馬として必要ないろいろの資格の、完璧に達していたからです。そこでベドウィン人は、その民族のすべての人々と同様、馬について明るいので、叫びました、「まことに、おお騎手よ、あなたの馬は、今どきもはや見られぬしろものだ。」カンマカーンはこれに言いました、「とにかく、おお騎手よ、手を出しなさい、助けておろしてあげるから。」そして気の遠くなりかかっている、その男を抱いて、そっと草の上におろしてやって、言いました、「これはどうしたことか、兄弟よ、この深傷《ふかで》はなんとしたことか。」するとベドウィン人はその衣類をはだけて、背中を出してみると、背中はもう一面の大傷で、血がどくどくと垂れています。そこでカンマカーンは、怪我人のそばにうずくまって、注意深く傷を洗って、生草でそっと蔽ってやりました。次にその瀕死の男に水を飲ませて、これに言いました、「いったい誰がこんな目にあわせたのか、おお不幸な兄弟よ。」するとその男は言いました。
「されば、おお救いの手の父よ、あそこにいるみごとな馬が、私をこんな目にあわせた因《もと》です。あの馬は、コンスタンティニアの主、アフリドニオス王その人の持ち物でした。そしてあの馬の評判は、われわれ砂漠のアラビア人すべてに聞こえ渡っていた。ところで、そのような名馬ともあるものが、異教の王の厩舎《うまや》に繋がれているとは捨ておかれぬ。そこで、馬の世話をして日夜見張っている、番人の目をかすめてこれを奪って来いと、この私が、部族の人々から名指しを受けました。私はすぐに出発して、馬の置かれている天幕《テント》の下に夜間着き、馬番と近づきになった。それから、彼らがその馬の美点について私に意見を求め、ためしに乗ってみてくれと言われた機会に乗じて、私はひらりと飛び乗って、ひと鞭くれて、疾駆逃げ出した。すると番人どもは、驚きから覚めると、めいめい馬に乗って私を追いかけ、矢や投槍を投げつけ、ごらんのとおり、それが何本も、私の背中に当たりました。けれども、この馬はいつも流れ星よりも迅く私を運び、遂にまったく彼らの手のとどかぬところまで、のがれさせてくれました。そしてこれで三日、私は乗りづめに馬上にいます。けれども出血はなはだしく、もう力つきてしまいました。私は死が私の眼瞼《まぶた》を閉ざすのをおぼえます。
されば、あなたは私を救って下さった以上、私の死後、この馬はあなたの有《もの》とならねばなりませぬ。これはエル・カートゥル・エル・マジヌンの名のもとに知られ、エル・アジゥズ種のもっともみごとな標本です。
けれどもそのまえに、おお、衣服はいとも粗末にして、顔だちはいとも高貴のお若い方よ、どうぞ私を馬の後ろにつけて、私を自分の部族のなかまで運んでゆき、私に自分の生まれた天幕《テント》の下で、死なせて下さるよう、お骨折りを願いまする。」
この言葉に、カンマカーンは言いました、「おお砂漠の兄弟よ、余もまた、高貴と仁慈を生まれながらの性質とする血統に属するもの。されば、たといこの馬がわが有とならぬにせよ、そのほうの頼みの筋は引き受けた。」そしてアラビア人に近づいて、起こそうとしました。けれどもアラビア人は、大きな溜息をついて、言いました、「もうしばらくお待ち下さい。どうやら私の魂は、今にも離れそうです。信仰を証言しておきます。」そこでその男は眼をなかば閉じ、片手をのばし、手掌《たなごころ》を天のほうに向けて、申しました。
「アッラーのほかに神なきことをわれは証す。しかして、われらの主ムハンマドはアッラーの使徒なることをわれは証す。」
こうして、死の用意をすましてから、その男は次の歌を歌いだしましたが、それが彼の最後の言葉となりました。
[#ここから2字下げ]
われは愛馬を駆って世を経めぐりき、途上に畏怖と殺戮を振り撤きつ。奔流も山岳も、われは窃盗、殺人、放埓のために、躍り越えたり。
われは生きしごとくに死す、街道伝いに彷徨し、まさにわが打ち破りし人々によって傷つけられて。しかしてわが労苦の成果をば、われは故国の空よりかくも遠く、奔流のほとりに、これを抛《なげう》つなり。
さあれ、知りたまえ、おお汝、ベドウィン人《びと》の唯一の財宝を受け継ぐ異邦人よ、われもしわが駿馬カートゥルの、君がうちに、その美にふさわしき騎手を得ることだに、さだかに知らば、わが遺憾はわが魂とともに飛び立つならんを。
[#ここで字下げ終わり]
そしてアラビア人はこの歌を終わったと思うと、口をひきつらせてあけ、深い息切れの音を出して、永久に両眼を閉じてしまいました。
そこでカンマカーンとその戦友は、敬虔に穴を掘って、死者を埋め、慣習《ならわし》の祈祷をすましてから、いっしょに出発して、アッラーの道におのが天命を見ることにいたしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て自分の物語のつづきを翌日にのばした。
[#地付き]けれども第百四十一夜になると[#「けれども第百四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……アッラーの道におのが天命を見ることにいたしました。そしてカンマカーンは、その新しい名馬カートゥルにうち跨り、ベドウィン人サバーは甘んじてまめまめしく、徒歩《かち》でこれにつき従いました。というのは、彼は王子に友情と服従を誓い、これを永久に自分の主人と仰ぐことを、アッラーの御館《おんやかた》カアーバの聖殿にかけて、誓約したのでありました。
かくて二人にとって、勲《いさおし》と冒険、獣《けもの》相手の格闘と山賊相手の争闘、狩猟と旅、野獣を待ち伏せて過ごす夜々、もろもろの部族を相手に戦い、戦利品を積み上げる日々、こうしたことに満ちた生活が、始まったのでございます。このようにして二人は、幾多の危難を賭して、数えきれぬほどの家畜とその番人たち、馬と奴隷たち、天幕《テント》とその敷物を、積み集めました。そしてカンマカーンは、戦友サバーに自分たちのいっさいの獲物の総監督を託し、諸方に侵入する際、行く先々に、全部を前に押し立てて行ったのでした。そして二人がともに坐って休息するときには、きまって一人は従妹《いとこ》「運命の力」を、今一人は従妹ネジマの話をして、互いに恋の悩みと希望を、語り合わずにいませんでした。そしてこの生活はこのようにして二年の間つづきました。
ある日のこと、カンマカーンは、愛馬カートゥルに跨り、忠義なサバーを先に立てて、あてどもなく進んでいました。サバーは、抜身の剣を手にして先頭に立ち、ときどき恐ろしい叫び声をあげ、洞穴《ほらあな》のように眼をみひらき、砂漠のなかはひっそりと静まり返っていましたけれども、「ほう、道を開け、右も左も」と吼え立てておりました.ちょうど食事を終わったばかりで、二人で串焼にしたかもしかを平らげ、爽やかな泉の水を飲んだところでした。しばらくたつと、両人はひとつの丘に着きましたが、その麓には、牝牡の駱駝と羊と牝牛と馬の群がる牧場が、広がっておりました。その向うには、天幕《テント》の下に、武装した奴隷たちが静かにうずくまっています。これを見ると、カンマカーンはサバーに言いました、「ここに待っておれ。これからおれ一人で、奴隷もろともこの一群を、そっくり手に入れてみせるから。」こう言い残して、雲を劈《つんざ》く突然の雷鳴のように、駿馬を駆って丘の上から駈け下り、次の軍歌を口ずさみながら、人と獣《けもの》めがけて躍りかかりました。
[#ここから2字下げ]
われらはオマル・アル・ネマーン一族の者、雄図|鬱勃《うつぼつ》たる騎士にして、英雄なり。
われらは戦いの朝明くれば、刃向かう部族の心臓を、一刀両断する領主なり。
われらは強きを挫いて弱きを扶け、圧制者の頭《こうべ》は、われらが槍の飾りとなる。
汝らの頭《こうべ》に気をつけよ、おお汝ら一同よ、ここに英雄あり。雄図鬱勃たる者どもにして、オマル・アル・ネマーン一族の人々なるぞ。
[#ここで字下げ終わり]
これを見ると、奴隷どもは慄え上がって、砂漠のアラビア人全部が不意に襲ってきたものと思い、助けを呼んで、大声で叫びはじめました。すると、あちこちの天幕《テント》から、この家畜の群れの主人である三人の戦士《つわもの》が出て来て、馬に飛び乗って、カンマカーンと出会おうとひしめき寄せて、叫びました、「こいつは名馬カートゥルの盗人《ぬすびと》だ。やっとつかまえたぞ。うぬ、盗人めが。」この言葉に、カンマカーンは彼らに叫びました、「いかにも、これはカートゥルそのものに相違ないが、盗人といえば汝らのことだ、おお、淫猥の十万の寝とられ男の息子どもめ。」そしてカートゥルの耳もとに身をかしげて、言葉をかけて励ましてやりました。するとカートゥルは、食人鬼が獲物に躍りかかるように、跳ね上がりました。そしてカンマカーンは、その槍を振るって、無造作に勝利を収めてしまいました。というのは、最初のひと突きで、出て来た最初の男の腹に、槍の切っ先を突っ込んで、向う側まで突きとおし、穂先に腎臓がくっついて出て来ました。次に、他の二人の騎手も同じ運命にあわせました。彼らの背中の向う側に、貫く槍を、腎臓が飾ったというわけでございます。それから奴隷どものほうに向きなおりましたが、彼らは主人たちのあった運命を見ると、あわてて顔を地面に押しつけて、命乞いをするのでした。そこでカンマカーンは彼らに言いました、「立て、そして時を移さず、わが前にこれらの家畜の群れを駆って、わが天幕《テント》と奴隷のある、しかじかの場所まで曳いてゆけ。」そして獣《けもの》と奴隷を先に立てて、道をつづけますと、受けた命令に従って、今まで戦闘の間、ずっと自分の持場を動かずにいたサバーも、やがてあとから追いついてきました。
ところが、二人がこのようにして、前に奴隷と家畜の群れを立てて進んでおりますと、突然一陣の砂煙りが立つのが見え、それが消えると、コンスタンティニアのルーム人風に武装した、百人の騎手が現われ出たのでした。するとカンマカーンは、サバーに言いました、「そのほうは家畜と奴隷を見張って、あの異教徒どもの相手は、おれ一人に委せておけ。」ベドウィン人はすぐに、遠くの丘の後ろに退いて、命じられた監視のほか余念がないのでした。そしてカンマカーンはただ一人、ルームの騎手たちの面前に飛び出すと、彼らはすぐに、ぐるりとまわりを取り囲みました。するとその首領が、進み出て、言いました、「おまえは誰か、そんなに優しい眼をし、そんなにつやつやしい頬をしながら、あざやかに軍馬の手綱を執ることのできる若い娘よ。唇に接吻してやる、近う寄れ。あとはまたあとのことだ。こっちに来い。」
この言葉に、カンマカーンは、ひじょうな恥辱が自分の顔にのぼってくるのを感じて、叫びました、「いったい誰に向かって話している気か、おお犬め、売女《ばいた》らの息子め。おれの頬に毛がないにせよ、おれの腕は、汝の無礼な言の過ちを、きっと思い知らせてやろう、おお、武士と若い娘の区別さえつかぬ、盲《めくら》のルーム人よ。」すると百騎の首領は、もっとカンマカーンに近づいて見ると、なるほど、顔色は優しく白く、毛のない頬はビロードのようであるとはいえ、その眼の焔から察するに、なかなか手剛い武士であることが、よくわかりました。
すると百騎の首領は、カンマカーンに叫びました、「そもそもこの家畜の群れは誰の所有《もちもの》か。して汝自身は、かくも横柄にたけだけしく、いずこに行くのか。神妙に降参せよ、しからずば一命はないぞ。」それから首領は、配下の騎手の一人に命じて、若者に近づいて虜《とりこ》にせよと言いつけました。しかし、この騎手がカンマカーンのそばに達したと思うと、カンマカーンはただの一刀の下に、ターバンから頭から身体から、それに馬の鞍から腹まで、まっ二つにしてしまいました。次に進み出た第二の騎手も、三番目も、四番目も、これとそっくり同じ運命にあいました。
これを見ると、百騎の首領は、配下の騎手にひっ込んでおれと命じ、自分がカンマカーンのそばに近く進みよって、叫びかけました、「汝の若さはまことにみごとである。おお武士よ、して汝の武勇もそれに適う。ところで、拙者は、ルーム全土勇名隠れなきカールーダシュだが、拙者はまさしく汝の勇気のゆえに、汝の一命を助けてやりたいと思う。さればおとなしく退散いたせ、汝の美貌に免じて、わが配下を殺したことは許して遣わすから。」けれどもカンマカーンはこれに叫びました、「汝がカールーダシュであろうとなかろうと、そんなことはわが知ったことではない。要は、汝がそうした空しい言葉をおいて、わが槍先を受けてみることだ。また汝がカールーダシュと名乗るとあらば、言って聞かせよう。われこそは、カンマカーン・ベン・ダウールマカーン・ベン・オマル・アル・ネマーンである。」するとそのキリスト教徒は言いました、「おおダウールマカーンの子よ、拙者はしばしば戦場で、汝の父の武勇を知った。さても、汝は父親の膂力に合わするに、申し分なき優美をもってし得たものだ。されば、汝の獲物を携えて、退散せよ。それがわが望むところだ。」けれどもカンマカーンは叫びます、「わが馬を返して後ろを見せることは、おおキリスト教徒よ、それは断じてわが慣わしではない。油断いたすな。」そう言い放って、乗馬カートゥルをなでると、愛馬は主人の気持を察して、両の耳を下げ尻尾を立てて、突進しました。こうして二人の武士は戦い、馬は、さながら角突き合わす二頭の牡羊か、腹をさき合う二頭の牡牛のように、ぶつかり合いました。そして幾たびかのものすごい突きも、しるしがありません。そのうち突如、カールーダシュは満身の力をこめて、槍をカンマカーンの胸に突っ込みましたが、カンマカーンはすばやく馬を翻して、間一髪これをかわすことができ、そしていきなり向きなおって、腕をのばし、槍を突き出しました。そして遂に、キリスト教徒の腹を貫いて、背中を通して、閃めく刃をあらわしたのです。かくてカールーダシュは、永久に異教徒武士の数に数えられることをやめたのでございます。
これを見ると、カールーダシュ配下の騎手どもは、彼らの馬の速さに身を委ねて、遠く砂煙りと風のなかに、姿を消してしまいました。
そこでカンマカーンは、横たわる死骸の上に槍を拭い、サバーに家畜と奴隷を前に進めるように合図をして、道をつづけてゆきました。
ところで、カンマカーンはちょうどこの勲《いさおし》を立てたあとで、あの部族から部族を渡り歩いては、天幕《テント》と星の下で、物語を語る砂漠の流浪の黒人女に、出会ったのでありました。カンマカーンは、これまで幾たびかこの女の噂を聞いていたので、これにぜひ足をとめて、自分の天幕《テント》の下に休み、なにか自分に時を過ごさせて、胸を晴らすと共に心を楽しませるような話を、聞かせて欲しいと頼みました。すると流浪の老婆は答えました、「親しみと尊敬をもって。」それから老婆は、ござの上に並んで腰をおろし、次の麻薬服用者の物語を話して聞かせたのでございました。
されば、かつて私の耳の楽しんだいちばん快いことと申せば、おお若殿さま、それは私が、麻薬服用者《ハシヤシーン》のうちの一人の麻薬服用者《ハシヤシユ》から聞き及んだ、次の物語でござります。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百四十二夜になると[#「けれども第百四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
昔ひとりの男がおりまして、この男は処女の肌をば無性に好み、ただそればかりがこの世の望みでした。そこで、この肌ははなはだ値いが高く、ことに吟味するときには高いものだし、そしてどんな財産でも、持ち主の趣味がそんなに費用《ついえ》のかかるものでは、なかなか持ち耐えるわけにはゆかないから、くだんの男は、ひっきりなしにこれに耽っているうちに、――というのは、何事につけても、咎むべきはただ過度ということばかりです、――そのうちとうとう、すっからかんになってしまいました。
ところで、ある日のこと、この男は、薄汚ない着物を着て跣足《はだし》で、自分の食べるパンを乞いながら、市場《スーク》を歩いていると、ふと足裏に釘がささって、血がどんどん流れ出しました。そこで地面に坐って、血を止めようといろいろやってみて、最後にぼろ切れで足に繃帯をしました。それでも血はやはり止まらないので、ひとりごとを言いました、「これはひとつ浴場《ハンマーム》に行って足を洗い、足を湯に浸《つ》けてみよう。そうすれば傷によかろう。」そして浴場《ハンマーム》に出かけて共同風呂にはいりました。そこは貧乏人の行くところだけれども、それでもたいそう清潔で気持よく、うっとりするほどぴかぴかしていました。その男はまん中の浴槽《ゆぶね》のところにしゃがんで、足を洗いはじめました。
ところが、そのわきに、もう沐浴《ゆあみ》を終わったひとりの男が坐っていて、何か口のなかで、もぐもぐ噛んでいました。怪我をした男は、その男の噛んでいるのがひどく気になって、自分もまた、その何かを噛みたくてたまらなくなりました。そこでその男に訊ねました、「お隣りの方よ、何をそんなに噛んでいるのですか。」その男は、誰にも聞こえないように、小声で答えました、「黙っておれ。麻薬《ハシシユ》だよ。なんなら一切れやろうか。」彼は言いました、「いかにも貰いたい。かねがねやってみたいと思っていた。」すると噛んでいた男は、口のなかから一切れを取り出して、怪我をした男にくれて、言いました、「これでおまえのいっさいの憂えを払うことができるように。」そこでこの男は、その一切れを貰って、噛み、そしてそっくり呑み込んでしまいました。ところが、この男は麻薬《ハシシユ》に慣れていなかったもので、やがて、薬が回って頭脳に効き目が現われてくると、最初は急にひどく陽気になって、部屋中にけたたましい笑い声を響かせたものです。それから、そのすぐあとに、何もない大理石の上にぶっ倒れて、さまざまの幻覚にとらわれたのでした。
最初は、素っ裸で、一人のものすごい按摩とたくましい二人の黒人に、全身つかまえられて、彼らの手のなすがままになっているような気がしました。そして自分は、彼らの掌中の玩具《おもちや》のような有様でした。自分をあちらこちらにひっくり返していじりまわし、節《ふし》くれ立ってはいるが、限りなく手ぎわのよい指先を、からだじゅうに突っ込むのです。彼らが腹の上にのしかかって、腹を上手に揉んだときには、膝の重さで呻ってしまいました。それがすむと、銅の盥《たらい》で何杯も水をかけ、植物の繊維《すじ》でよくこすってからだを流し、それから大男の按摩は、からだのある微妙な部分を自身洗ってくれようとしましたが、どうにもくすぐったいので、これに言いました、「これは自分でするからいい。」それから、沐浴《ゆあみ》が終わると、大男の按摩は、この男の頭と肩と腰を、素馨のように白い三枚の薄絹で包んでくれて、言いました、「今は、殿さま、あなたをお待ちの奥さまのところに、いらっしゃる時刻です。」けれどもこの男は叫びました、「どこの奥さまのことさ、おお按摩さん。おれは独り者だよ。そんなとぼけたことを言うとは、おまえはひょっと麻薬《ハシシユ》でも服《の》んだのかい。」けれども按摩は言いました、「まあそんなご冗談はやめにして、奥さまのところに行きましょう、お待ちかねです。」そして肩に黒絹の大きな面衣《ヴエール》を掛けてくれて、先頭に立って歩き、一方二人の黒人は、両側から肩を支えて、ときどき尻をくすぐるのでした。そこで、この男はひどく笑いこけました。
こうして彼らは、この男といっしょに、なかば暗く、むし暑く、香を匂わした部屋にはいりました。中央には、果物や菓子やシャーベットを載せた大きな盆と、花を盛り上げたいくつもの花瓶があります。そして按摩と二人の黒人は、この男を黒檀の腰掛に坐らせてから、引き取る許しを求めて、姿を消しました。
するとそこに、一人の少年がはいって来て、立って命令を待ちながら、言いました、「おお当代の王さま、私はあなたさまの奴隷でございます。」けれども、この男は少年の可愛らしさなぞには目もくれず、けたたましく笑い出して、笑い声を部屋じゅうに響かせ、叫びました、「アッラーにかけて、これはまた、なんという麻薬《ハシシユ》飲みばかりのいる場所だ。今度はやつらは、このおれを王さまとぬかしやがるわい。」それから、少年に申しつけました、「こっちに来て、真赤なとろけるような西瓜を半分切ってくれ。これはおれの好物だ。おれの胸をすっとさせるには、西瓜ほどいいものはないのだ。」少年は手ぎわよく切った西瓜を持って来ました。すると、この男はどなりつけました、「きさまなんぞ、とっとと出てゆけ。きさまは役に立たん。早く出て行って、うまい西瓜とともにおれのいちばんの大好物の、とびきりの処女の肌を探してこい。」そこで少年は姿を消しました。
するとまもなく、部屋のなかに、十四歳ばかりの乙女がはいってきて、ほとんどきわ立たないほどの腰を動かしながら、こちらに進み寄りました。それほど、まだまったく子供子供した腰でした。これを見ると、この男は嬉しがって鼻を鳴らしはじめました。そしてその少女を腕に抱えて、股の間に据え、熱烈に接吻しました。そして少女を自分の下に滑らせて、自分の倅《せがれ》を出して、その手に握らせました。ところが突然、激しい寒気《さむけ》をおぼえて、目が覚めたのでした。
ところで、ちょうどそのとき、見ると自分は、浴場《ハンマーム》の全部の浴客に取り囲まれているのでした。みんな竈《かまど》のように大口を開いて、げらげら笑いながら、彼を眺めているのでした。そしてお互いに、彼の裸の陰茎《ゼブ》を指さしていました。それは、突っ張る限り空中に突っ張って、ろばか象の一物ほど大きく見えました。そしてみんなで、冗談を浴びせかけながら、冷たい水を満たした大きな手桶で、その上に何杯も水をぶっかけているのでした。
そこでこの男は、すっかり恥じいって、両脚の上に手拭をかけ、笑っている人たちに情けなさそうに、言いました、「おお皆の衆、なんだってあなたがたは、いよいよおれが物をその場所に置こうとしたせとぎわに、あの小娘を取り上げなすったのだ。」この言葉に、一同は足を踏み鳴らして面白がり、手を打ちはじめて、この男に叫びました、「おまえは恥ずかしくないのかい、おお麻薬《ハシシユ》飲みよ、呑み込んだ薬草のせいで、さんざっぱら空《くう》を楽しんだあげく、そんなことを言ってさ。」
この黒人女の話に、カンマカーンはもうそれ以上こらえきれなくなって、面白くて身をよじるほど笑い出しました。それから、黒人女に言いました、「なんという面白い話だ。お願いだ、いそいでそのつづきを聞かせてくれ。きっと耳にすばらしく、心に気持がよいにちがいない。」黒人女は言いました、「畏まりました、おおご主人さま、そのつづきはまったく驚くばかりのお話でございまして、今お聞きになったことなぞ、実際、全部忘れておしまいになるほどですし、まじりけなく、味わい深く、しかも不思議で、聾《つんぼ》でさえも、楽しくて身を顫わすほどのものでございます。」するとカンマカーンは言いました、「ではさっそくつづけてくれ、なんとも面白くてたまらぬ。」
ところが、ちょうど黒人女が、その話のつづきを語り出そうとしたとき、カンマカーンは自分の天幕《テント》の前に、馬に乗った飛脚が来て、止まるのを見ました。その男は馬からおりて、平安を祈りましたので、カンマカーンも挨拶《サラーム》を返しました。するとこの飛脚は言いました、「お殿さま、私は総理|大臣《ワジール》ダンダーンが、三年まえにバグダードをお立ちになった、お若い王子カンマカーンさまのおゆくえを見つけ出そうとて、八方に派した百人の飛脚の一人でございます。と申すのは、総理|大臣《ワジール》ダンダーンは、オマル・アル・ネマーンの王位簒奪者に対して、全軍隊と全国民を奮起させることに成功なさって、簒奪者を捕虜にして、いちばん地下の牢獄に閉じこめてしまいました。ですから、今頃はもう、そやつは飢えと渇きと恥辱で、魂を奪われてしまったに相違ござりませぬ。そこで、おお殿さま、もしやあなたさまは、いつかふと、カンマカーン王子にお会いなされたことでもおありにならぬか、伺わせていただけませんか、父王の王座は、当然この王子さまに帰する理でございまするが。」
カンマカーン王子は……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百四十三夜になると[#「けれども第百四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
カンマカーン王子は、この思いがけない知らせを聞くと、忠臣サバーのほうに向いて、ごく落ち着いた声で、申しました、「そのほうにもわかるであろう、おおサバーよ、いっさいの事柄は、それに定められたる時期に到ることが。さらば立て。そしてバグダードにまいるといたそう。」
この言葉に、飛脚は自分が新しい王の御前にいることをさとって、すぐに平伏して、その手の間の地に接吻しますと、サバーも黒人女もまた、そういたしました。カンマカーンは黒人女に言いました、「そのほうも余とともにバグダードに来て、余のために、今の砂漠の物語を終りまで聞かせてもらいたい。」するとサバーは言いました、「しからば、おお王さま、なにとぞ私がお先に走って、大臣《ワジール》ダンダーンとバグダードの住民に、あなたさまのご来着を伝えることを、お許し下さいませ。」カンマカーンはこれを許しました。次に飛脚に、吉報の褒美として、自分が三年間に闘ってかち得た全部の天幕《テント》と、家畜と、奴隷をば、そっくり贈物として譲ってやりました。それから、ベドウィン人サバーを前に立て、駱駝に乗る黒人女を後ろに従えて、愛馬カートゥルを急がせて、バグダードへと出発しました。
ところで、カンマカーン王子はあらかじめ、忠臣サバーを一日だけ先行させるように配慮しておいたので、数時間後には、バグダード全市は湧き立ったのでございました。そして住民全部と軍隊全部が、大臣《ワジール》ダンダーンを先頭に、三人の主将リュステム、テュルカシュ、バハラマーンの後ろから、城門を出て、カンマカーンの到着を待っておりました。彼らは皆、この王子にもうふたたび会えるとは思っていなかったのでした。そして一同、オマル・アル・ネマーン一族の繁栄と光栄を、ひたすら念じていたのでした。
ですから、カンマカーン王子が愛馬カートゥルを疾駆させて到着し、姿を現わしたと思うと、歓喜の叫びと祈念の声が、数千の男女の口から発して、全地から湧き上がりました。そして大臣《ワジール》ダンダーンは、高齢にもかかわらず、ひらりと地に飛びおりて、歴代の王の後裔に、歓迎の挨拶を言上し、忠誠を誓いにまかり出ました。それから、一同うちそろってバグダードに入城し、一方駱駝に乗った黒人女は、おびただしい群衆に囲まれて、一席弁じ、話をひとつしてやっておりました。
さて、カンマカーンが宮殿に着いて、最初にしたことは、歴代の王の霊にもっとも忠誠な総理|大臣《ワジール》ダンダーンを抱擁し、次に主将リュステム、テュルカシュ、バハラマーンを抱擁することでした。次に、カンマカーンのした二番目のことは、母君の御手を接吻しに行くことで、母君は嬉し泣きに泣かれました。第三番目のことは、母君にこう訊ねることでした、「おお母上、なにとぞお聞かせ下さい、私の最愛の従妹《いとこ》運命の力はどうしておりますか。」すると母君は答えました、「おおわが子よ、それについては何とも返事ができません。というのは、おんみがいなくなってからというものは、私はもうおんみのいない辛さよりほかのことを、考えたことがなかったからです。」するとカンマカーンは言いました、「お願いですから、母上、どうかご自身で、従妹《いとこ》の消息と伯母上ノーズハトゥの消息を訊ねてきて下さいまし。」そこで母君はお部屋を出て、ノーズハトゥと王女「運命の力」のいるお部屋に行かれ、お二人を連れて、カンマカーンの待っている部屋に帰って来られました。本当の喜びが起こり、〔(55)このうえなく美しい詩句が言われたのは、そのときのことでございますが、たくさんの詩句のなかに、たとえば次のようなものがございました。
[#ここから2字下げ]
おお、愛人の口唇に浮かぶ真珠の微笑、真珠そのものより飲みし微笑よ。
恋人らの頬よ。汝らはそもいくたびの接吻を知りしや、絹の上にいくたびの愛撫を知りしや。
朝《あした》、乱るる髪の愛撫、数しげくまさぐる指の愛撫。
しかして汝、鞘を払いし白刃のごと輝く剣《つるぎ》、休みなき剣、夜の剣……〕
[#ここで字下げ終わり]
さて、どのように彼らの至福が、アッラーの御恵みをもってきわまったか、それについては何も申し上げることはございません。それに、そのときからというもの、オマル・アル・ネマーンの後胤の住みたもうお住居から、不幸は立ち退いて、その仇敵《あだかたき》であったすべての人々の上に、永久に襲いかかったのでございます。
はたして、ひとたびカンマカーン王が、今はその后《きさき》となった、若い「運命の力」の腕のなかで、幸福の長い月日を過ごされると、王はある日、総理|大臣《ワジール》ダンダーンの面前で、全部の貴族《アミール》と、軍隊の首長と、王国の主だった者を集めて、一同に申されました、「わが父祖の血はいまだ復讐されてはおらず、今や時到った。さて、余の今聞き及ぶところでは、アフリドニオスは死し、またカイサリアのハルドビオスも死せりという、さりながら、老婆|災厄《わざわい》の母はいまだ存命にて、わが飛脚の言によれば、ルーム人の全国を支配し、国務万端を司っているのは、この老婆の由。してカイサリアにあっては、新しい王はルームザーンと称するが、その父も母も知れぬという。
されば、おお汝ら一同、わが武士よ、明日よりして、異教徒に対する戦いを再開いたす。余はムハンマド(その上に平安と祈りあれ)の御功績にかけて誓う、かの忌わしき老婆の一命を奪い、戦いに斃れしわが兄弟一同の仇を討たずんば、断じてわれらの都バグダードに戻らじ。」
するとなみいる一同は、同意してお答えしました。そして翌日ただちに、軍隊はカイサリアに向けて進軍しました。
ところで、一同が敵の城下に着き、いよいよ襲撃して、この異教の都のいっさいを焼き払い屠《ほふ》ろうとかまえておりますと、そのとき王の天幕《テント》のほうに、どう見ても王子としか思えない、りっぱなひとりの若者と、顔をあらわして上品な様子をした、ひとりの女がその後ろから歩いて、進んでくるのが見えました。そのとき、王の天幕《テント》の下には、大臣《ワジール》ダンダーンとノーズハトゥ王女が、集まっておられました。この伯母君は、信徒の軍について行きたいとおっしゃったのでした。
その若者と女とは謁見を求めますと、すぐに差し許されました。けれども両人がはいって来たと思うと、ノーズハトゥは大きな叫び声をあげて、気絶してしまいなされ、その女もまた大きな叫び声をあげて、気絶してしまいました。そして二人はわれに返ると、互いに腕のなかに飛びこんで、抱き合いました。と申すのは、その女とは、アブリザ姫の元の奴隷、忠義な「珊瑚」にほかならなかったのでございます。
次に「珊瑚」は、カンマカーン王のほうに向いて、申し上げました、「おお王さま、拝見いたせば、陛下はお頸に白く丸い宝石を懸けていらっしゃいます。そしてノーズハトゥ王女もやはりそのひとつをお頸に懸けていらっしゃいます。ところで、その第三の宝石は、アブリザ女王がお持ちであったことは、ご承知のところでございます。その第三のものは、ほれ、ここにございます。」そして忠義な「珊瑚」は、いっしょにはいって来た若者のほうを向いて、その頸につけている、第三の宝石を指さしました。それから悦びに眼を輝かせて、叫びました、「おお王さま、またご主人ノーズハトゥさま、この若いお方は、お気の毒な私のご主人アブリザさまのお子さまでございます。この私が、お生まれになってからずっと、お育て申し上げました。そしてこのお方こそ、おお、お聞きの皆々さま、現在カイサリアの王、ルームザーンであり、オマル・アル・ネマーンの王子でございます。さればこれこそは、おおご主人ノーズハトゥさま、あなたさまには弟君にあたり、おおカンマカーン王さま、陛下には叔父君にあたられまする。」
この「珊瑚」の言葉に、カンマカーン王とノーズハトゥは立ち上がって、悦びの涙を流しながら、若い王ルームザーンを抱擁しました。老|大臣《ワジール》ダンダーンも同じく、旧主オマル・アル・ネマーン王(アッラーはこれに涯しなきご慈悲を垂れたまわんことを)の王子を抱擁しました。それからカンマカーン王は、カイサリアの主ルームザーン王に、お訊ねになりました、「承わりたく存じまするが、おお父上のご兄弟よ、叔父上にはキリスト教国の王であらせられ、キリスト教徒のただ中でお暮らしですが、ひょっとご自身もナザレト人(56)でいらっしゃいましょうか。」けれどもルームザーン王は手をのべ、人差指を立てて、叫びました、「ラー・イ・ラーハ・イッラーラーフ、ワ・ムハンマドゥン・ラスールラー(57)。」
そこで、カンマカーンとノーズハトゥと大臣《ワジール》ダンダーンの悦びは、このうえない絶頂に達し、一同叫びました、「おのが身内を選びたまい、彼らを集めたもうアッラーに讃えあれ。」それから、ノーズハトゥは訊ねました、「けれども、おお弟よ、そなたはアッラーを知らず、その使徒をも全然知らぬ、あれら異教徒ども一同のただ中にあって、どうして、正しい道に導かれることができたのですか。」ルームザーンは答えました、「われわれの信仰の単純にしてみごとな原理を、私に仕込んでくれたのは、この忠実な珊瑚です。というのは、これは、わが母上アブリザといっしょに、バグダードの父上オマル・アル・ネマーン王の宮殿に滞在したみぎり、母上と同時に、自分も回教徒になったのでありました。されば、珊瑚は私にとっては、生まれ落ちるとともに引き取って、私を育て、万事につけ、母親代わりになってくれた女というばかりでなく、また私をば、王者らの主《あるじ》アッラーの御手の間に、おのが天命を委ぬる、真の『信徒』としてくれた女でもあるというわけです。」
この言葉に、ノーズハトゥは珊瑚を、敷物の上の、自分のそばに坐らせて、今後は自分の妹なみに遇することになさいました。
カンマカーンのほうはというと、彼は叔父ルームザーンに申しました、「おお叔父上、回教徒帝国の王位は、長子相続権によって、叔父上に帰するもの。されば今よりしてただちに、私は自分を、叔父上の忠実な臣下と心得まする。」けれども、カイサリアの王は言いました、「おお甥よ、アッラーのなしたもうたところは、よくなされております。どうして私が、『秩序者』の定めなされた秩序を乱そうなどと、敢えて思いましょうぞ。」このとき、総理|大臣《ワジール》ダンダーンが仲にはいって、ご両人に申し上げました、「おお王さまがたよ、もっとも公平な考えは、お二方とも王であらせられて、こもごも、それぞれ一日ずつ代わりあって、お治めなさることでござります。」するとご両人は答えました、「それは妙案じゃ、おお、われらが父上の尊ぶべき大臣《ワジール》よ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百四十四夜になると[#「けれども第百四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……するとご両人は答えました、「それは妙案じゃ、おお、われらが父上の尊ぶべき大臣《ワジール》よ。」そしてご両人の間で、そのように話がきまりました。そこで、このめでたい出来事を祝うため、ルームザーン王は、引き返して都に戻り、都の城門を回教徒軍に開かせました。次に王は触れ役人をして、今後はイスラム教が住民の宗教となるが、しかし、あらゆるキリスト教徒はおのが謬《あやま》りのうちにとどまるも随意であると、触れさせました。とはいえ、住民は誰一人、異教徒でありつづけようとは望まず、ただ一日のうちに、信仰証言《シヤハーダ》が、六十万の新しい信徒の口から、発せられたのでございます。その預言者を遣わしたもうて、二つの東洋と二つの西洋の一切衆生の間に、平和の象徴《しるし》となしたもうた御方こそ、永遠にほめたたえられよかし。
この機会に、二人の王さまは、こもごもそれぞれご自分の日に、世を治めながら、盛大な祝祭と盛大な饗宴を催されました。こうしてお二人は、悦びと愉快の限りに、しばらくの間カイサリアにとどまりました。
そのときのこと、お二人は、遂に老婆|災厄《わざわい》の母に復讐することを思い立ったのでした。そのために、まずルームザーン王は、カンマカーン王のご同意を得て、いそぎコンスタンティニアに、災厄《わざわい》の母に宛てた書面を持たせて、飛脚を派されました。この老婆はまだ新しい事態を知らず、相変わらず、カイサリア王は、その母方の祖父、アブリザの父、亡きハルドビオス王と同様に、キリスト教徒だと思っていたのでございました。その書面は次のように認《したた》められておりました。
[#ここから2字下げ]
「光輝満てる尊ぶべき貴女シャウアヒ・オンム・エル・ダウアヒさま、畏怖すべく、恐怖すべく、敵の頭上に下る災厄重き天誅、キリスト教都市を見守る眼、美徳と叡智に馨り、総大主教の至高真正の聖香に薫じたもう、コンスタンティニアの中心なるキリストの御柱さまにまいる。
[#「光輝満てる尊ぶべき貴女シャウアヒ・オンム・エル・ダウアヒさま、畏怖すべく、恐怖すべく、敵の頭上に下る災厄重き天誅、キリスト教都市を見守る眼、美徳と叡智に馨り、総大主教の至高真正の聖香に薫じたもう、コンスタンティニアの中心なるキリストの御柱さまにまいる。」はゴシック体]
名声宇内に敷くハルドビオス大王の後胤、カイサリアの主ルームザーンより
[#「名声宇内に敷くハルドビオス大王の後胤、カイサリアの主ルームザーンより」はゴシック体]
申し上ぐれば、おおわれら万人の母よ、天地の御主《おんあるじ》はわが軍をして回教徒に勝利を得させたまい、吾人は彼らの軍を壊滅し、彼らの王をカイサリアに俘虜となし、大臣《ワジール》ダンダーンならびにオマル・アル・ネマーンとコンスタンティニアの先王アフリドニオスの女サフィーア女王との女ノーズハトゥ王女をも、同じく虜《とりこ》といたし候。
ついては、われらはわれらの間に貴女のご光来を得て、相共にわれらの勝利を祝し、ご面前にて、カンマカーン王、大臣《ワジール》ダンダーンをはじめ、あらゆる回教徒首長らの首をはねさせたく、お待ち申し上げ候。
カイサリアにご来駕の節は、多数の護衛を要せず候。爾今はイラクよりスーダンに至るまで、モースルならびにダマスより東洋西洋の辺境に至るまで、いっさいの往還は安泰にして、いっさいの地域は平定されおるがゆえに候。
またその節はかならず、コンスタンティニアより、ノーズハトゥ王女の母君サフィーア女王を、ご同道相成りたく、王女にご再会あらばお悦びの御事と存じ候。なお、王女はわれらが殿中にあって、礼をつくしおり候。
なにとぞ、マルアムの子キリスト、おんみを護りたまい、変わらざる黄金の器のうちに珍蔵する純一の香精のごとく、おんみを永らえさせたまわんことを。」
[#ここで字下げ終わり]
次に、王さまはその手紙に、ルームザーンのお名前を署名し、玉璽を捺《お》して封じ、これを飛脚にお渡しになると、飛脚はすぐにコンスタンティニアに出発しました。
さて、忌わしい老婆が来て、頼むすべなく滅びてしまうときまで、なおいく日かありましたが、その間二人の王は、それぞれしかるべき人々に対して、今まで遅れていた勘定をすまして、はればれなさることができました。実際に、次のようなことが起こったのでございました。
ある日のこと、二人の王と、大臣《ワジール》ダンダーンと、それにお優しいノーズハトゥも加わって、王女さまは大臣《ワジール》の前では、これを父親のように心得て、決してお顔を包まなかったのですが、こうして四人で坐って、災厄《わざわい》の老婆の着く見込みや、どういう目にあわせてやろうなぞということを、話していらっしゃると、侍従の一人がはいってきて、二人の王に、外《おもて》に山賊に襲われたというひとりの年とった商人がいて、また縛られた山賊どももいる旨、申し上げました。そして侍従は言いました、「おお王さまがた、その商人は恐れながらなにとぞ拝謁を賜わりたい、お渡ししたい二通の書状を持参していると申します。」すると二人の王は言われました、「こちらに通せ。」
するとそこに、顔に祝福の跡《あと》を帯びて、泣いている一人の老人《シヤイクー》が、はいってきました。彼は王さまがたの御手の間の床《ゆか》に接吻して、申しました、「おお当代の王さまがた、およそ回教徒ともあるものが、異教徒の間では敬せられ、真の信徒の間、和合と正義の行なわれている国々において、剥ぎ取られ虐待されるというようなことが、いったいあることでござりましょうか。」王さまがたは言われました、「だがそもそも汝の身に、いかなることが降りかかったのか、おお敬すべき商人よ。」彼は答えました、「おおご主君さまがた、じつは、私は二通の書状を持っておりまして、そのおかげで、あらゆる回教国で、いつも尊敬を受けておりました。と申すのは、それは私の通行証に役立って、私の商品に、一割税と入市税を免除してくれるのでございます。そしてその書状のうち一通は、おおご主君さまがた、このありがたい効能のほかに、また私のつれづれの慰めともなり、旅の道連れともなってくれます。と申すは、それはみごとな詩句で書かれてあり、これを手放すくらいなら、自分の魂を失うほうがよいほど、まことに美しい詩句なのでございます。」そこで二人の王は言いました、「ともかくも、おお商人よ、せめてその書状をわれらに見せるとか、あるいは、単に内容を読んで聞かせるだけぐらいのことはできよう。」すると年とった商人は、ぶるぶる震えながら、その二通の書状を王さまがたに差し出したので、お二人はこれをノーズハトゥに渡して、おっしゃいました、「おんみは、このうえなくいりくんだ文字でもよく読まれ、詩句にかなった抑揚を与えるに、まことに巧みでいらっしゃるから、どうぞ、急いでわれらを堪能させていただきたいものです。」
ところが、ノーズハトゥは巻物をほどき、その二通の書状をちらりと見なさるが早いか、ひと声大きな叫び声をあげて、サフランよりも黄色くなり、気絶なすってしまいました。そこで、急いでばら水を振りかけてさしあげました。やがてわれに返られますと、女王は眼に涙をいっぱいたたえて、つと立ち上がり、その商人のところに駈け寄り、その手を執って、限りない優しさをこめて、接吻なさいました。そこでなみいる一同は、こんなにも王者と回教徒の習慣に反するふるまいを前にして、驚きの無上の極に達しました。年とった商人も、度を失ってよろめき、危うくひっくり返りそうになりました。けれどもノーズハトゥ女王は、そのからだを支えてやって、これを連れて、ご自分の坐っていらっしゃった敷物の上に坐らせて、おっしゃいました、「このわたくしがもうわかりませんか、おお父よ。ではあのとき以来、わたくしはそんなに年とったでしょうか。」
この言葉に、年とった商人は夢見る思いで、叫びました、「お声には聞き覚えがござります。けれども、おおご主人さま、私の眼は老いこんで、もはや何も見分けることがかないません。」すると女王はおっしゃいました、「おお父よ、わたくしこそは、あなたにこの韻文の書状を書いてあげた当人です。わたくしはノーズハトゥザマーンです。」するとこんどは、その年とった商人が、すっかり気を失ってしまいました。そこで、大臣《ワジール》ダンダーンが年とった商人の顔に、ばら水をかけてやっていると、その間にノーズハトゥは、弟ルームザーンと甥カンマカーンのほうを向いて、二人に申されました、「この男こそ、わたくしが聖都の往来で、乱暴なベドウィン人に拐わかされて、その奴隷にされたとき、わたくしを救い出してくれた、あの親切な商人です。」
そこで、この商人がわれに返ると、二人の王は敬意を表して立ち上がり、商人を抱擁しました。商人はこんどは自分から、ノーズハトゥ女王の御手と、年とった大臣《ワジール》ダンダーンの手に、接吻しました。そして一同お互いにこの結果を祝し合い、みんなを会わせて下さったアッラーに感謝いたしました。商人は両腕を上げて、叫びました、「忘れざる心を形どり、謝恩のうるわしき薫香をもってこれを香らしたもう御方の、祝福され、ほめたたえられよかし。」
その後で、二人の王はこの年とった商人をば、カイサリアとバグダードの全|隊商宿《カーン》と全|市場《スーク》の総|年寄《シヤイクー》に任命し、これに昼夜を問わず、自由に御殿に出入することを差し許しました。それから、彼に申されました、「だがどのようにしてそのほうは、隊商《キヤラヴアン》とともに襲撃されたのか。」彼は答えました、「それは砂漠のなかのことでございます。山賊ども、性の悪いアラビア人で、武装をしていない商人の身を剥ぐやつらが、突然私を襲いました。やつらは百名余りもおりましたが、その頭《かしら》は三人です。一人は恐ろしい黒人で、今一人はものすごいクルディスタン人、三人目はとほうもなく強いベドウィン人です。やつらは私を駱駝の上に縛りつけて、後ろに引きずって行きましたが、そのときアッラーは、ある日彼らが正規軍に襲われるように欲したまい、かくして彼らは捕縛され、私もいっしょに捕えられた次第でござります。」
この言葉に、王さまがたは侍従の一人に言いつけなさいました、「まず黒人を連れてまいれ。」そして黒人がはいってきました。ところが、こいつは年経た猿の尻よりも醜く、その眼は虎の眼よりも憎さげでした。大臣《ワジール》ダンダーンが訊ねました、「汝の名は何といい、なにゆえ山賊となったるか。」けれども、ちょうどそのとき、そこに元のアブリザ女王の侍女「珊瑚」が、ご主人ノーズハトゥをお迎えに、はいって来たのでした。そしてふと眼がその黒人の眼と合いました。するとすぐに「珊瑚」は恐ろしい叫び声をひと声あげて、牝獅子のように黒人に躍りかかり、両眼に指を突っこんで、いっぺんで眼玉を抉《えぐ》り出してしまい、叫びました、「こやつでございます、これが私のお気の毒なご主人アブリザさまを手にかけた、恐ろしい『偏屈屋』でございます。」それから、いま黒人の眼の孔から、果物の核《たね》のように飛び出させた、血の滴る二つの眼玉をば、床《ゆか》に投げつけながら、言い足しました、「とうとう私自身の手で、ご主人さまの仇を討つことを許したもうた、公正者、至高者は讃められよ。」するとルームザーン王は、ちょっと合図をなさいました。すぐに太刀《たち》取りが進み出て、一刀の下に、一人の黒人をば二人にしてしまいました。次に宦官たちが屍体の足を引きずって、都の外の廃墟に、犬にやりに行きました。
それがすむと、二人の王は言いつけなさいました、「クルディスタン人を連れてくるように。」そしてクルディスタン人がはいってきました。ところが、こいつはレモンよりも黄色く、水車場のろばよりも疹癬《ひぜん》やみで、たしかに、一年も水を潜らないでいる水牛よりも、虱がたかっていました。大臣《ワジール》ダンダーンが訊ねました、「汝の名は何というか。してなにゆえ山賊となったるか。」きゃつは答えました、「この私は、聖都で駱駝曳きを商売としておりました。ところが、ある日のこと、ひとりの若い病気の男を、ダマスの病院に運んで行けと頼まれまして……。」この言葉に、カンマカーン王とノーズハトゥと大臣《ワジール》ダンダーンは、これにつづけて言ういとまもあらせず、叫んだのでした、「こやつは、ダウールマカーン王をば、浴場《ハンマーム》の戸口の塵屑《ごみくず》の上に放り出して行った、あの裏切り者の駱駝曳きだ。」すると、カンマカーン王は突如立ち上がって、申されました、「悪に報いるには悪をもってせずばならぬ。しかも二倍にしてじゃ。しからずんば、掟を無視する悪徒と不信の輩《やから》の数は、いや増すであろうぞ。復讐にあっては、悪人ばらへの憐憫は無用だ。なんとなれば、キリスト教徒どもの解するがごとき憐憫は、宦官、病者、不能者の徳である。」そしてご自身の手で、カンマカーン王は、御剣の一刀のもとに、一人の駱駝曳をば二人にしてしまいました。けれども次に、王は奴隷たちに、屍体を宗教の儀式に従って埋葬させるよう、お命じになりました。
そこで二人の王は侍従に言いつけなさいました、「こんどはベドウィン人を連れてまいれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百四十五夜になると[#「けれども第百四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで二人の王は侍従に言いつけなさいました、「こんどはベドウィン人を連れてまいれ。」そしてベドウィン人が呼び入れられました。ところが、かの山賊の頭《あたま》が戸口に現われたと思うと、ノーズハトゥ女王は叫びました、「あれはわたくしをこの親切な商人に売った、あのベドウィン人です。」この言葉に、そのベドウィン人は言いました、「私はハマドでございます。あなたさまは存じ上げませぬ。」するとノーズハトゥは笑いだして、叫びなさいました、「たしかにあの男です。なぜなら、あの男のような気違いはけっしていませんもの。よくわたくしを見てごらん、おおベドウィン人ハマドよ。このわたくしこそは、おまえが聖都の往来でかどわかし、さんざん虐待したあの女です。」
ベドウィン人はこの言葉を聞くと、叫びました、「アッラーにかけて、まさにあの女だわい。こいつはてっきりおれの頭は、すぐさまおれの首から、すっ飛んじまうぞ。」そしてノーズハトゥは、そこに坐っていた例の商人のほうに向いて、訊ねなさいました、「この男が今はおわかりですか、親切な父よ。」商人は言いました、「まさしく、あの呪われたやつです。こやつはこやつ一人でもって、世界中の気違いを全部寄せ集めたよりも、もっと気違いです。」するとノーズハトゥは言いました、「けれどもこのベドウィン人は、その乱暴狼藉にもかかわらず、ひとつだけとりえがございました。この男は美しい詩句と美しい物語が好きでした。」すると、ベドウィン人は叫びました、「おおご主人さま、それは、アッラーにかけて、ほんとうのことでございます。そのうえ私は、わが身自身に起こった、まったくもって不思議な話をひとつ存じております。ところで、もしこれをお話しして、そしてそれがここにおらるるご一統さまのお気に召したら、どうぞ私をお許し下さって、私の血を免じて下さいまし。」するとお優しいノーズハトゥは微笑《ほほえ》まれて、おっしゃいました、「よろしい、おまえの話を聞かせなさい、おおベドウィン人よ。」
そこでベドウィン人ハマドは申しました。
実際のところ、私は山賊の親方で、あらゆる山賊の頭上の冠でございます。けれども、町々と砂漠での私の全生涯を通じて、いちばん驚くべき事柄と申せば、次のようなことです。
一夜、私がただひとり、馬のそばで砂の上に、横になっておりますと、どうも私の敵の魔法使いの婆《ばばあ》たちの、不吉な呪《まじな》いの呪縛の重みで、魂が息苦しいのを感じました。それは私にとっては、すべての夜のなかでも恐ろしい一夜でした。というのは私は、あるときは金狼のように吠え、あるときは獅子のように吼え、またあるときは、駱駝のように、涎《よだれ》を垂らしながら、ぶつぶつうめいておりました。なんという夜か。そしてどんなに顫えながら、夜が終わって朝の光の射すのを、待ちかねていたことでしょう。やっとのことで、空が白んで、私の魂も鎮まりました。そこで、このつきまとう夢の最後の悪気を払おうと、私は急いで起き上がって、剣をつけ、槍を握り、愛馬に飛び乗って、かもしかよりも速く、飛ばしました。
ところで、こうして馬を走らせていると、突然自分の前に、一匹の駝鳥がつっ立って、じっとこっちを見つめているのが見えました。ちょうど私の真正面に立ち塞がっているのですが、どうも私が眼にはいらないらしいのです。そこで、もうすこしでぶつかりそうになりました。ところが、いよいよ私の槍が届こうとするまさにそのとき、やつは恐ろしい勢いで飛び跳ね、背中を向けて、毛もくじゃらの大きな翼をいっぱいに広げて、助けを呼びながら、矢のように砂漠のなかに逃げこみました。そこで私は、追っかけどおしに追っかけまわしているうちに、とうとうやつは、私をものすごい荒野に引き込んでしまいました。そこには、ただアッラーと裸の石がごろごろしているばかりで、聞こえるものは蝮《まむし》のしゅうしゅういう音と、空と地の霊のよく響く呼び声と、餌食を探す大|蝙蝠《こうもり》の叫び声ばかりです。そしてその駝鳥は、私の眼の前から、見えない穴か、それとも見ることなんぞできもしないどこかの場所に、ふっと消えてしまったのです。私はからだじゅうぶるっとふるえ出し、馬は後肢で立って、息を切らしながら、後退《あとず》さりする始末です。
そこで私はすっかりとほうにくれ、怖くてたまらず、馬を返してあとに戻ろうと思いました。だが、馬の脇腹からは汗が流れ、真昼の暑さの厳しくなってきた今となっては、どこへ行ったものか。それに、激しい渇きが私の喉を締め、馬を喘《あえ》がせ、馬の腹は、鍛冶屋の鞴《ふいご》のようにあいたりしまったりしています。そこで私は心中考えました、「おおハマドよ、きさまはここで死ぬだろう。そしてきさまの肉は、大蝙蝠の子供や恐ろしい獣《けだもの》の餌食になるだろう。ここで死ぬのだ、おおベドウィン人よ。」
ところが、いよいよ私が信仰証言《シヤハーダ》をして死ぬ気になったとき、ふと遠方に、ところどころ棕櫚の樹のちらばった、涼しそうな一本の条《すじ》が、横にずっと浮き出ているのが見えました。馬もひんひんいななき、首を振り、轡《くつわ》を前に引っぱって、飛び出しました。ひととき馬を走らせると、私はもう石の砂漠の、裸の焼けつくような恐ろしい場所から、外に運ばれていました。そして私の前には、棕櫚の樹の根元を流れる泉のほとりに、すばらしい天幕《テント》が立っていて、そのそばに、二頭のりっぱな牝馬が、脚を寄せて、しっとりしたつやつやしい草を食《は》んでいました。
そこで私はいそぎ地におりて、鼻の孔から火を吹いている馬に水を飲ませ、自分もまた、その死ぬほど甘い清らかな泉の水を飲みました。次に袋の中から、長い綱を取り出して、馬をつなぎ、この草原の青草をぞんぶん食べられるようにしてやりました。それがすむと、ふと好奇心に誘われて、その天幕《テント》のほうに、いったいどんな模様か見に、足を向けました。そして私の見たものは次のようなものでした。
一枚の白いござの上に、頬に毛のないひとりの若い男が、のびのびと坐っています。それは新月の三日月ほど美しかった。そしてその右には、ひとりの好ましい、のんきそうな、胴の細い、華奢《きやしや》なしなやかな若い娘、一本《ひともと》の柳の若枝が、輝くばかり美しく、横になっています。
すると私は、そのときその刹那に、このうえなくのぼせ上がって惚れこんでしまいました。もっとも、娘のほうになのか、若衆のほうになのか、自分ではっきりわからなかったのですが。なぜって、アッラーにかけて、月のほうが美しいか、それとも三日月のほうが美しいのか。
そこで、私は声を出して、二人に言いました、「おんみらの上に平安あれ。」するとすぐに若い娘は顔を包み、若い男はこっちを向いて、立ち上がって、答えました、「しておんみの上にも平安あれ。」私は言いました、「拙者は、ユーフラテスの主だった部族のハマド・ベン・エル・フザリと申す者。われこそは隠れもなき、名だたる戦士、恐るべき騎手、その勇気と大胆不敵によって、アラビア人の間で、五百の騎手を束にした値打に、匹敵するものとせられる男でござる。いま駝鳥を追って、運命にここまで導かれたが、水を一杯所望したく推参しました。」するとその若者は、若い娘のほうに向いて、言いました、「この方に飲み物と食べ物を持ってきてあげなさい。」そこで若い娘は、立ち上がりました、歩きました。そしてひと足歩くごとに、その踝《くるぶし》の金の鈴の快い響きが鳴ります。その後ろには、広がった髪が全身を蔽って、揺れています。そこで私はその若者の怒った目も憚らず、じっと娘をみつめて、もう目を離しませんでした。やがて娘は、右のてのひらには、冷たい水を満たした壺を載せ、左のてのひらには、棗椰子《なつめやし》と、固めた牛乳を入れた瀬戸物と、かもしかの肉の皿を盛った盆を載せて、戻ってきました。
けれども私は、恋心にぼうっとしてしまって、もう手を出すことも、こうしたすべてのものに、なにひとつ手を触れることもできません。ただその娘を眺めるばかりで、そのとき即座に作った次の詩を誦するよりほかに、するところを知りませんでした。
[#ここから2字下げ]
君が肌の雪よ、おお乙女よ、ああ。指甲花《ヘンネ》の色は、なお君が指と手掌《たなごころ》の上に、黒くして鮮やかなり。
かくてわれは、恍惚たるわが眼前に、君が手のま白き上に、何やらん羽根黒き輝く鳥の姿の浮かぶを、見る思いあり。
[#ここで字下げ終わり]
若者はこの詩を聞き、私の眼差の焔を見かけると、笑い出して、気を失うほど笑いました。次に私に言いました、「まことに、あなたは並ぶ者なき戦士で、なみなみならぬ騎手《のりて》なことがわかります。」私は答えました、「拙者は世間にそう見られている。だがそういう貴殿は、いったい何者か。」そのとき私は相手を怖がらせて、敬まわせようと思って、とくに声を張り上げました。若者は言いました、「私は、バニ・ターラバ族のエバド・ベン・タミム・ベン・ターラバというもの。してこの若い娘は妹です。」そこで私は叫びました、「ではとりあえず、その妹御を妻に申しうけたい。拙者はいたく執心しているし、身分高い出のものだ。」けれども彼は答えました、「妹も私も断じて結婚はしないものとお心得下さい。というのは、われわれは砂漠のただなかのこの豊かな地を選んで、ここにいっさいの煩いから離れて、平穏にわれわれの生を営むつもりなのです。」私は言った、「ぜひともその妹をわが妻としなければならぬ。さもなくば、たちどころに、おまえはこの剣の刃によって、死者の数に入るであろうぞ。」
この言葉に、その若者は天幕《テント》の端のほうに飛んで行って、私に言いました、「退《さが》れ、おお歓待を無視する極悪人よ。われら一戦を交じえて、その敗者を意のままにするとしようぞ。」そして柱にかかっている剣と楯をはずしたから、私はその間に、馬が草を食《は》んでいるほうに飛んで行って、鞍に飛び乗り、身構えました。その若者も武装をととのえて、やはり外に飛び出し、馬に跨って、早くも馬を駆ろうとしますと、そのとき妹の若い娘が、眼に涙をいっぱい浮かべて、出て来て、その膝に取りすがって接吻し、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお兄上よ、今や君はか弱き妹の身を護らんとて、見知らぬ敵と戦いて、輸贏《しゆえい》を決せんとしたもう。
われに何事の能うべき。勝利の「贈与者」に君が戦勝を祈り、いっさいの汚辱を受けずしてわが身を全うし、ただ君がためにわが心臓の血を保つべく、祈念することあるのみ。
さあれ、万一むごき天命のわが魂より君を奪うことあらば、いかなる国土も、生あるわれをば見得るものとは思いたもうことなかれ、たとえ天が下にてもっとも美《うる》わしく、地の実り溢るる国土なりとも。
われは一瞬なりと、君に死に遅るるものとは思いたもうことなかれ。なんとなれば、墳墓は、生におけるがごとく死においても離れざる、われらが身体を隠すらん。
[#ここで字下げ終わり]
若者は妹のこの悲しみの詩句を聞くと、両眼は涙に溢れ、そして若い娘のほうに身をかしげ、その顔を隠している面衣《ヴエール》をそっと持ち上げて、眼の間に接吻しました。それで私ははじめて、その若い娘の顔だちを見ることができました。それはまったく、突然雲間を離れ出る太陽と同じくらい、美しい女でした。それから若者は、しばし若い娘のほうに馬首を向けて、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
足を停め、おお妹よ、わが腕の成就する偉業を見よ。
もし汝がために、おおわが妹よ、われ戦わずんば、なにゆえのわが武器と愛馬ぞや。
もし汝が身を護るべくわれ争わずんば、なにゆえの生ぞや。
こと汝の美に関するに及んで、われもし退かば、そは猛禽をして、今後霊魂なき身体に躍りかからしむる合図ならずや。
この男につきては、みずから恐るべき者と称して、われらにおのが勇気を誇れども、われは汝の眼前にて、これに一撃を加え、心臓より踵まで刺し貫き見せん。
[#ここで字下げ終わり]
次に彼は私のほうに向いて、叫びました。
[#ここから2字下げ]
わが死後に享楽を願う汝よ、いで汝に辛き目を見せて、のちの世の書《ふみ》を満たす武勲《いさおし》は成就されんとす。
なんとなれば、節奏《ふし》雄々しきこの詩句を作るわれこそは、汝の怪しむ暇もあらせず、汝の魂を奪う者なればなり。
[#ここで字下げ終わり]
そしてその若者は、自分の馬を私の馬にぶつけて、一撃のもとに、私の剣を遠くはねとばして、私が両の拍車を当てて砂漠に逃げるいとまもなく、私をひっとらえて、空っぽの袋を持ち上げるみたいに、私を鞍から持ち上げ、私のからだを毬《まり》のように空中に放り上げ、落ちてくるところを左手で受けとめ、こうして腕をのばしたまま、まるで飼い鳥を指先に載せるみたいに、私のからだを支えるのでした。私のほうじゃもう、これは皆一場の黒い夢ではないのか、またこの絹のような薄紅《うすくれない》の頬をした若者は、天女《フーリー》といっしょにこの天幕《テント》の下に住んでいる魔神《ジンニー》ではないのかと、疑うばかりでした。それに、その後起きたところは、この若者はむしろ魔神《ジンニー》にちがいないと想像させたのでした。
はたして、若い娘は、兄の勝利を見ると、急ぎそちらに駈け寄って、兄の額に接吻し、悦んで馬の首にぶらさがり、自身で馬を天幕《テント》まで曳いてゆきました。そこで、若者は私を包みのように、小脇に抱えたまま、馬からおりたが、私の頭を踏み潰そうとはせずに、私を地上におろして立たせ、手をとって、天幕《テント》の下にはいらせたものです。そして妹に言いました、「この男は今からは、われわれの庇護の下にはいった客人だ。されば敬意をはらって、優しく遇してやろう。」そして私をござの上に坐らせると、若い娘は私の後ろに座蒲団《クツシヨン》をあててくれました。それから兄の武器を元の場所に戻し、香水を入れた水を持ってきて、兄の顔と手を洗い、次に白衣を着せて、兄に言うのでした、「おお兄上さま、なにとぞアッラーは、あなたの名誉をこのうえない白さの限りに達しさせ、あなたをば、わたくしたちの部族の栄《はえ》ある面《おもて》に、黒子《ほくろ》のように置いて下さいますように。」すると青年は次の詩句でこれに答えました。
[#2字下げ] おお、バニ・ターラバ族の、血清らかのわが妹よ、汝は戦いの場に、汝が明眸のため戦うわれを見たり。
妹は答えました。
[#2字下げ] 君が額に垂れて乱るる髪の電光は、その閃めきもて君が円光をなしたりき、おお兄上よ。
青年はふたたびつづけました。
[#2字下げ] かしこに荒野の獅子ども見ゆ。おお妹よ、彼らに勧めて踵《くびす》をめぐらしめよ。われは恥辱の、彼らの歯の噛む砂塵のうちに、永く彼らをとどまらしむことを欲せず。
妹は答えました。
[#ここから2字下げ]
おお汝ら一同よ、こはわが兄上エバドなり。砂漠の人は皆、その武勇と武勲と祖先の高貴とによって、これを知る。退《すさ》りおれよ。
また汝ベドウィン人ハマドよ、汝は英雄と闘わんと欲して、餌食《えじき》に躍りかからんとする蛇《くちなわ》のごとく、死の汝の方《かた》にはい寄るを見せられたり。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、私はこうしたいっさいを見、これらの詩を聞いて、まったくとほうにくれてしまいました。つらつらわが身を省みてみますると、私というものが、自分自身の眼から見ても、どんなに小さくなったか、よくわかりました。またこの二人の青年の美しさに較べて、自分の醜さがどんなにはなはだしいものかということも。けれどもやがて、その若い娘は、ご馳走と果物を盛った盆を、兄のところに持ってきたのですが、てんで私をちらりとも見ず、まるで私なんぞはその場にいることも眼にはいらないくらいの、どこぞの犬ころででもあるみたいに、さげすみの眼さえくれないのです。とはいえ、なにはともあれ、娘が兄に食べ物を勧めはじめ、自分で給仕をして、自身のことなぞすこしもかまわずに、兄に事欠かせまいとするのを見たときには、私はやはり、今までよりももっとすばらしい女だと思った次第でした。けれどもその若者は、最後に私のほうに向いて、いっしょに食事をするように誘ってくれました。そこで、私も安堵の吐息を洩らしました。これで確かに一命が助かると感じたわけです。若者は、固めた牛乳の瀬戸物と、香りをつけた水で煮出した、棗椰子《なつめやし》の液《つゆ》を満たした小皿を、手ずから差し出してくれました。私はうつむきながら食べ飲み、そして自分はこれからあなたの奴隷のなかでいちばん忠実なものとなり、このうえなく忠誠をつくして仕えると、千五百度も誓言しました。けれども彼は笑って、妹に合図をすると、妹はすぐに立ち上がって、大きな櫃《ひつ》をあけ、一枚は一枚よりも美しい、十枚のみごとな衣類を取り出し、その九枚をひと包みにして、それをぜひと言って私に受けとらせ、十枚目のを無理に私に着させたのでした。そして皆さまがた、ごらんのように、今ここに私が着ておりまするこの豪勢な着物は、その十枚目のものなのでございます。
それがすむと、若者はさらに合図をすると、娘はちょっと外に出て、すぐ帰って来ました。そして私は、あらゆる種類の食糧と、それにまた土産を積んだ一頭の牝駱駝を、おさめなさいと、二人にすすめられました。この品々は今日までたいせつに取ってあります。こうして、私のほうではそれに値いするようなことは何もしないのに、それどころではないのに、あらゆる種類のもてなしと贈物の限りをつくしてくれたうえで、兄妹は、いつまででもいいからゆっくり滞在しなさいと、誘ってくれるのでした。けれども、それ以上恩になりたくないと思って、私は彼らの手の間の地に七度接吻しておいとまし、自分の栗毛の駒に跨って、駱駝の頭絡《おもがい》をとり、自分の来た砂漠の道に戻ることを急ぎました。
そこで私は、今は自分の一族のなかでいちばんの金持ちとなって、街道を擁する山賊の一味の頭《かしら》となったわけでした。そして起こったことが起こったのでございます。
これがお約束の話でございまして、この話は、いっさいの私の罪が許されるだけのものがあることを、信じて疑いません、その罪はたしかに、些細な重さのものではござりませんが。
ベドウィン人ハマドがその物語を語り終えると、ノーズハトゥは二人の王と大臣《ワジール》ダンダーンに申されました、「気違いは尊敬してやらなければなりませぬが、しかし害を及ぼさぬよう遠ざけておかねばなりませぬ。ところでこのベドウィン人の頭蓋は治りがたく狂っております。されば、この者の悪事は、その美しい詩句を感ずる力と物語とに免じて、許してやらなければなりませぬ。」この言葉に、ベドウィン人はすっかり安堵をおぼえて、敷物の上に倒れてしまったほどでした。すると宦官たちが来て、連れ去りました。
さて、ベドウィン人が姿を消したと思うまもなく、そこに飛脚が息せき切ってはいってまいり、二人の王の御手の間の床《ゆか》に接吻して、申し上げました、「災厄《わざわい》の母が町の城門に近づいてまいり、あとわずか一パラサンジュで、町にはいるところでございます。」
この待ちに待った知らせに、二人の王と大臣《ワジール》は嬉しさに身をひきつらせ、飛脚に詳細を訊ねますと、飛脚は申しました、「災厄《わざわい》の母は、わが王さまのご書面を開き、ご書状の下のご署名を拝見すると、たいそう喜びまして、即刻即座に、出発の用意をいたし、コンスタンティニアのルーム人の主だった武士百名とともに、サフィーア女王に同行を誘いました。それから私に先発して、到着をお知らせ申せと言いつけたのでございます。」
すると大臣《ワジール》ダンダーンは立ち上がって、二人の王に申し上げました、「あの異教の老婆は、さらに不実な手段や計略を弄しかねないから、その裏をかくためには、われわれは西洋キリスト教徒の服装に身をやつし、また同じくカイサリアの古風に従った風体をさせた、選り抜きの武士千名を携えたうえで、きゃつを迎えに行くほうが、慎重というものでございます。」すると二人の王も聞き従って答え、総理|大臣《ワジール》の忠言どおりになさいました。そこで、ノーズハトゥは、皆のその異様な服装《なり》を見ると、おっしゃいました、「まったく、もしもわたくしがあなたがたを存じ上げなかったら、これはてっきりルーム人(58)たちと思うことでございましょう。」そこで一同は宮殿を出て、千名の武士の先頭に立って、災厄《わざわい》の母を迎えに出ました。
するとやがて、老婆は姿を現わしました。そこでルームザーンとカンマカーンは、大臣《ワジール》ダンダーンに、武士を大圏を描いて散開させ、コンスタンティニアの武士一名も漏らさぬよう、徐々に前進させよ、と申し付けました。次にルームザーン王はカンマカーンに申されました、「まず最初この私に、呪われた老母を迎えにやらせてもらいたい。きゃつはすでに私を知っていて、警戒いたすまいから。」そして王は駒を進め、たちまち災厄《わざわい》の母のそばに着きました。
するとルームザーンは、急ぎ地におり立ちますと、老婆も王と知って、やはり地におり、王の首に飛びつきました。するとルームザーン王は、老婆を両腕に抱え、じっと眼と眼を見合わせたまま、老婆を締めつけ、ひどくぎゅっと永い間、締め上げましたので、老婆は音高い放屁《おなら》を発し、そのためすべての馬が後肢で立ち上がり、騎士一同の頭上に、道の砂利をはね上げたのでございました。
さて、それと同じ瞬間に、千人の武士は駒を走らせて圏をせばめ、百人のキリスト教徒に、武器を捨てよと叫びました。そしてまたたく間に、最後の一人まで捕虜にし、一方|大臣《ワジール》ダンダーンは、サフィーア女王のほうに進み、その御手の間の地に接吻して、手短に事態をご説明申しましたが、その間に、老婆|災厄《わざわい》の母は厳重に縛《いまし》められ、今はのがれられぬことをさとって、着物のなかに小便を漏らしたのでした。
次に一同はカイサリアに帰り、そこから、ただちにバグダードをさして出発し、道を急いで、事故もなく、その地に到着しました。
そこで二人の王は、全市に火をともし飾りつけをさせ、触れ役人をして、全市民に宮殿の前に集まるように誘わせました。そして広場全体とあらゆる街々が、男、女、子供の市民の群衆で埋まると、一匹の疥癬《かいせん》にかかったろばが、大門から出てきましたが、その背には、災厄《わざわい》の母が、らばの糞を塗りつけた赤い帽子《テイアラ》を頭にかぶらされて、逆さまに、結いつけられていました。その前には、一人の触れ役人の長《おさ》がしずしずと歩みながら、東西両洋にわたる幾多の災厄《わざわい》の張本人たる、この呪われた老婆の、重なる罪状を、声高らかに述べていました。
そしてすべての女と子供が、老婆の顔に唾を吐きかけ終わると、老婆はバグダードの大門に、逆さに吊るされたのでございました。かくして、この屁っぴりの災厄《わざわい》の女、とほうもないすかし屁の婆《ばばあ》、あばずれ、策士、邪《よこしま》な異教徒、シャウアヒ・オンム・エル・ダウアヒは、その悪臭紛々たる魂をば、尻の穴から魔王《イブリース》に返して、滅びたのでございます。運命は、ちょうどこの悪婆が裏切ったように、悪婆を裏切ったのでございまして、これは、その死が、信徒によるコンスタンティニア奪取の前兆と、将来において、平定され、祝福せられたアッラーの地上に、イスラム教の東洋での最後的勝利の前兆に、役立つことができるようにとのためでございました。
それゆえ、百名のキリスト教武士ももう自分の国に帰ろうとはせず、みずから進んで、回教徒の単純な信仰を奉ずることを、選びました。
そして二人の王と大臣《ワジール》ダンダーンは、いちばん巧みな書記たちに命じて、こうしたすべての詳細と事件をば丹念に書き留め、もって将来の代々の子孫に有益な戒めとなるように、計らいなすったのでございました。
[#ここから1字下げ]
――「以上が、おお幸多き王さま、」とシャハラザードは、シャハリヤール王に向かってつづけた、「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき王子シャールカーンとダウールマカーン、またアブリザ女王、運命の力女王、ノーズハトゥ女王、かつは総理|大臣《ワジール》ダンダーンとルームザーン、カンマカーン両王の、光輝ある物語でございます。」それから、彼女は口をつぐんだ。
すると、今までにないことに、シャハリヤール王は、弁舌さわやかなシャハラザードを優しく眺めて、これに言った、「おおシャハラザードよ、アッラーにかけて、そちの妹、耳傾けて聞いているこの少女が、そちの言葉は風味よろしく、みずみずしいうちに味わい深いと、そちに申すとき、いかにも道理《ことわり》であるぞ。まことに、そちはわが多くの乙女を殺《あや》めたことを余に後悔させはじめ、あるいはそちは最後には、わが誓いを、余にことごとく忘れさせてしまうやも知れぬ。」
すると小さなドニアザードは、うずくまっていた敷物から身を起こして、叫んだ、「おお、お姉さま、今の物語はなんとおみごとでございましょう。どんなにわたくしは、災厄《わざわい》の母の死にせいせいしたことでしょう。そしてこうしたすべては、なんとすばらしいのでございましょう。」
するとシャハラザードは、妹を見やって、微笑みかけた。次に妹に言った、「けれども、もしもあなたが鳥や獣《けもの》の言葉を聞いたら、それこそなんと言うかしら。」ドニアザードは叫んだ、「まあ、お姉さま、お願いです、どうぞわたくしたちに、その言葉をいくつか、聞かせて下さいまし。それは、お姉さまのお口からうかがえば、きっと快いものにちがいありませんもの。」けれどもシャハラザードは言った、「親しみこめて心から悦んで。けれども、わたくしどものご主君の王さまが、お許し下さらないうちは、なりませぬ、それも、王さまがまだご不眠を悩んでいらっしゃればのこと。」すると、シャハリヤール王はたいそう思いまどって、言った、「しかし、鳥獣《とりけだもの》がいったい何をしゃべれるというのか。どんな言葉で話すのか。」シャハラザードは言った、「散文と韻文で話しまする。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「まことに、おおシャハラザードよ、いまだ余の知らぬそれらの事どもを、そちが語り終えぬうちは、余はそちの運命に関して、いまだ何事も決定いたしたくない。それというのは、今まで余の聞いたところは、人語のみであったが、大部分のアーダムの子らによって解されぬ生き物どもの、考うるところを知るのも、また一興であろう。」
そのとき、シャハラザードは、もはや夜もつきようとしているのを見たので、王に明日まで待つように願った。それでシャハリヤールは、待ちきれぬ思いであったにかかわらず、承知してやった。王は美しいシャハラザードを腕に抱いて、二人は朝になるまで相抱いた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]けれども第百四十六夜になると[#「けれども第百四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
[#改ページ]
鳥獣佳話
鵞鳥と孔雀夫婦の話
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その昔、時のいにしえと時代時世の過ぎし世に、妻と連れ立って海辺を訪ねることの好きな、一羽の孔雀《くじやく》がおりました。そしてふたりは、海辺まで広がっていて、流れる水あふれ、鳥の歌の住む森を、歩きまわるのがつねでした。日中、夫婦は静かに食物をあさり、夜ともなれば、繁った木の上にとまって、無遠慮に若い雌孔雀の美しさを讃えるような、どこかの隣人の欲望をそそる危険を冒さないようにいたしました。こうして彼らは「恩恵者」を祝福しながら、安らかに楽しく、暮らしつづけておりました。
ところがある日のこと、雄の孔雀は、空気と眺めを変えるため、海岸から見えている島の方面に、ひとつ遠足に出かけようと、妻を説き伏せました。雌の孔雀はこれに仰せ承わり、従いますと答え、そこでふたりはともども飛び立って、太陽の目のもとに、美々しく地におり立ちました。
それはみごとな果樹におおわれ、無数の流れに養われた島でした。それで孔雀の夫婦は、このさわやかな地のただなかの散策を、このうえなく悦び、しばらく立ちどまって、あらゆる木の実を食べ、このまことにおいしく、まことに軽やかな水を飲んだのでした。
ところが、ちょうどふたりが自分のところに戻ろうとしておりますと、そこに、羽をばたばたと動かし、首をのばし、口をあけて、恐れおののいた一羽の鵞鳥《がちよう》が、こちらに来るのが見えました。鵞鳥は全身の羽毛をふるわしながら、孔雀夫婦に、身の寄せ場と保護を求めるのでした。そこで夫婦は、親身を尽くしてこれを迎えずにはおかず、雌の孔雀はねんごろにこれに話しはじめて、言いました、「私どものあいだにようこそおいでになりました。どうぞお楽におくつろぎくださいまし。」そこで鵞鳥も落ち着きはじめました。雄の孔雀は、この鵞鳥にはきっと何か驚くべき話があることをひとときも疑わず、親切に尋ねました、「いったいどうなすったのです、なぜそんなに恐れているのですか。」すると鵞鳥は答えました、「今わが身に起こったことと、イブン・アーダム(1)に慄え上がらせられたひどい恐ろしさで、わたくしはまだ気分が悪うございますわ。ああどうぞアッラーはわたくしどもをお守りくださいますように。アッラーはイブン・アーダムからお護りくださいますように。」孔雀はたいそう心配して、言いました、「安心なさい、おお鵞鳥さん、安心なさい。」そして雌の孔雀も言いました、「こんな海のまん中にある島まで、どうしてイブン・アーダムがやって来られましょうか。岸辺からここまで跳《と》んでは来られまいし、海から、どうやってこんなに広い場所と水を渡ってくることでしょう。」すると鵞鳥はふたりに言いました、「わたくしの路の上にあなたがたを置いてくださって、わたくしの恐れを忘れさせ、心の安らぎを返してくださった御方は、祝福されてあれ。」雌の孔雀は言いました、「おお妹よ、ではイブン・アーダムに慄え上がらせられたその恐れの動機《いわれ》と、定めしあなたのお身の上に起こったにちがいないお話を、私どもに聞かせてくださいまし。」すると鵞鳥は次のように話しました。
さればでございます。おお、栄え満てる孔雀の旦那さま、またお優しくねんごろな孔雀の奥さまよ、わたくしは幼いころからこの島に住んでいて、なんの心配も不愉快もなく、ずっとここに暮らして、何ひとつわたくしの心を乱したり、目をさえぎったりするようなものもございませんでした。ところが一昨夜のこと、ちょうどわたくしが頭を翼に入れて眠っておりますと、夢にひとりのイブン・アーダムが出てきて、わたくしと話を交えたいというのでございます。そこでわたくしはその申し出に応じようといたしますと、そのときこう呼ぶ声が聞こえました、「用心せよ、おお鵞鳥よ、用心するがいい。イブン・アーダムに油断するな。彼の甘言と不実な仕打ちに油断するな。これについてある詩人の言ったところを、忘れてはならない。
[#2字下げ] 彼は舌先に甘味を有してそを汝に味わわしむ。されどそは狐のごとく、ひそかに、不意に、汝を襲わんがためなるぞ。
というのは、憐れな鵞鳥よ、よく心得よ、イブン・アーダムは老獪《ろうかい》堂に入り、欲すれば、水中の魚をも、海中のもっとも兇悪な怪物をも、引き寄せることができるくらいだ。粘土を乾かして作った、弾丸を投げつけるだけで、悠々と天翔《あまか》ける鷲《わし》たちをも、天上から転げ落ちさせることができる。要するに腹黒きことはなはだしく、きわめて非力とはいえ、象にも打ち勝って、これを召使に使ったり、その牙を引き抜いて、器具を作ったりできるのだ。いざ鵞鳥よ、逃げよ、逃げよ。」
そこでわたくしは、眠りのなかで飛び上がって、こわさにあとをも見ず、首を長くし、翼を広げて、逃げ出しました。こうしてわたくしは、あちこちとさまよいはじめて、しまいには力という力が立ち去るのを覚えました。そこで、ちょうどある山の麓に行き着いたので、しばらく岩蔭に立ちどまりましたが、心臓は恐れと疲れでどきどきし、胸はイブン・アーダムの感じさせるこわさに、しめつけられておりました。おまけに、飲まず食わずでしたので、ひもじさに苦しめられ、喉の渇きもそれに劣りません。それで、もうどうしてよいやらわからず、もう身動きもならずにいると、そのとき前方に、洞穴の入口に、親切そうな優しい目つきをした、一頭の褐色の若い獅子の姿が見え、彼はすぐにわたくしに、信頼と親しみを覚えさせました。若い獅子のほうも、もうわたくしに気がついていて、非常な悦びのあらゆるしるしを見せておりました。それほどわたくしは心中おずおずとしていて、わたくしの様子は、いかにも獅子の心をひきつけたのでございます。そこで獅子はわたくしを呼んで申しました、「おお、かわいい子よ、こっちに来て、ぼくと少し話をしにおいで。」わたくしはこの誘いをたいそう嬉しく思って、ごくしとやかにそちらに進み寄ると、獅子は申しました、「おまえの名はなんというの。どういう種族のものなのか。」わたくしは答えました、「わたくしは鵞鳥と申します。鳥の族でございます。」獅子は言いました、「見れば慄えておびえているようだが、どうしたわけなのかね。」そこでわたくしは、夢で見聞きしたことを話しました。そして獅子がこう答えたときの、わたくしの驚きはいかばかりでしたでしょう、「ところが、ぼくもまたそれに似た夢を見たので、お父さんの獅子にその話をすると、お父さんはすぐに、イブン・アーダムには用心せよ、彼の悪賢いことと腹黒いことには、くれぐれも油断するなとおっしゃったっけ。だが今までのところ、ぼくはいっこうに、そのイブン・アーダムというやつに出会うおりがなかったのだ。」
この若い獅子の言葉に、わたくしの恐怖はつのるばかりで、すぐに叫びました、「もうぐずぐずしてはいられませんわ。今こそひと思いに、こんな禍いの種を片づけてしまわなければならないときで、そしてイブン・アーダムを殺す誉れは、おお動物の帝王《スルターン》の王子さま、ただあなたご一身に与えられなければなりませぬ。それをなされば、あなたの御名《みな》は、空と水と地の創《つく》られしいっさいのものの目に、高まることでございましょう。」そしてわたくしはこうして若い獅子を励まし、おだてつづけて、とうとう、わたくしたちの共通の敵を探しに出る決心をさせてしまったのでございます。
そこで若い獅子は洞穴から出て、わたくしについて来いと言うのでした。彼が意気揚々と、しっぽを背中に打ちつけて鳴らしながら、進んでゆくあとから、わたくしは歩いてゆきました。こうしてわたくしはいつも後ろについて、ともすれば遅れがちに、連れ立って歩いてまいりますと、そのうち一陣の砂煙りが立ち上がるのが見え、それが消えると、荷鞍《にぐら》も面繋《おもがい》もつけずに、裸で逃げて来た、一頭のろばの姿が現われました。そのろばはあるいは飛び上がってはねまわったり、あるいは地上に身を投げて、四足を宙にあげて、ほこりのなかを転げまわったりするのでした。
これを見ると、わたくしの友の若い獅子はずいぶん驚きました。というのは、これまで両親がほとんど洞穴から外に出さなかったからです。獅子はそのろばに叫びかけて、呼びとめました、「おーい、こっちにこい。」すると先方はすぐその言葉に従いました。わたくしの友はこれに言いました、「知恵の足りない獣《けもの》よ、なんだっておまえはそんなまねをしているのだ。それにまず、おまえは獣のなかでどういう種類の者なのか。」相手は答えました、「おおご主人さま、私はあなたさまの奴隷、ろば族のろばでございます。」獅子は尋ねました、「おまえはどうしてここに来たのか。」ろばは答えました、「おお、帝王《スルターン》の王子さま、イブン・アーダムから逃げるためです。」すると若い獅子は笑い出して、言いました、「そんな大きな図体をして、どうしてイブン・アーダムを恐れるのか。」ろばは仔細ありげに頭を振りながら、言いました、「おお帝王《スルターン》の王子さま、あなたはあの悪漢《わるもの》をご存じないと見えますね。私があいつを怖がるのは、あいつが私を殺そうとするからではさらさらありません。それよりももっと悪い目を見せようというのです。実際のところ、まあお聞きください。私が若くて丈夫なあいだは、私はやつの乗用になるのです。その目的で、やつは私の背中に、何か荷鞍とか称するものを置き、それから何か腹帯とか称するもので、私の腹をしめる。そしてしっぽの下には、何か環《わ》をはめる。なんといったか名前は忘れたが、とにかく、そいつは私の痛みやすい部分を、遠慮会釈もなく痛めつける。最後に、口のなかに鉄の片《きれ》を押しこみやがって、そいつが舌と顎を血だらけにする。これは轡《くつわ》といいます。さてそのうえで、やつは私に乗ってからに、私の歩けるよりももっと早く歩かせようとて、突き棒でもって首と臀《しり》を突く。もしか、へたばってしまって、もっと遅く歩きそうなそぶりでもしようものなら、いくら私がろばにしろ、さすがに身ぶるいするようなすさまじい罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかける。というのは、衆人のまえで私のことを、「女衒《ぜげん》め、売女《ばいた》の息子、陰間《かげま》の息子、姉の尻《けつ》、女|漁《あさ》り」なんぞと呼ぶのです。――そのほか数知れずです。またあいにくと、少しばかり胸を晴らそうと思って、おならでもしようものなら、――悪魔《シヤイターン》は遠ざけられよかし――もうやつの癇癪は際限ありません。そんな際に、やつが私にすること、言うことすべては、おお帝王《スルターン》の王子さま、御前をはばかって、ここにくり返し申さないほうがましです。だから私は、やつがずっとうしろに遠く離れているとわかっているときか、自分ひとりきりなことがたしかなときでもなければ、うかつにこうした気晴らしはいたしません。だがこればかりじゃない。私がやがて老いぼれたあかつきには、やつは私をどこぞの水運びの男に売り払うことでしょう。すると、今度は背中に木の荷鞍を置かれて、とんでもなく重たい革袋と大きな水甕《みずがめ》を、両側につけられ、それはもう虐待と困苦に耐えきれず、みじめにくたばってしまうまでつづくことでしょう。そうなれば、私の残骸は建物の崩れた跡に棄てられ、野良犬に投げ与えられるでしょうよ。おお帝王《スルターン》の王子さま、イブン・アーダムが私のために取っておく悲惨な運命は、こうしたものでございます。ああ、およそ創られたもののあいだで、私の不運に比べられるような不運があるでしょうか。ひとつ答えてください、あなた、親切な優しい鵞鳥さんよ。」
そこでわたくしは、おおご主人さまがた、恐ろしさと不満さの身ぶるいがわが身を過《よ》ぎるのを覚え、哀れとおののききわまって、叫びました、「おお獅子のお殿さま、まことにこのろばは無理もございません。なぜって、このお話を聞くだけで、わたくしは生きたここちもいたしませんもの。」すると若い獅子は、ろばがここを立ちのきかけているのを見て、叫びました、「なぜそんなに急ぐのか、おお仲間よ。まあ、もう少しいるがよい、まったくおまえは気の毒だ。ひとつおまえがおれを案内して、イブン・アーダムのほうに連れて行ってくれるとありがたいが。」けれどもろばは答えました。「残念ながら、お殿さま、私は自分とやつとのあいだに、一日分の隔《へだ》たりを置いておきたく存じます。というのは、私はやつがこちらに向かってくる途中、きのうやつのところから逃げ出したのです。そして目下、どこかやつの腹黒さとずるさをよける安全な場所を、探しているところです。それから、今はやつに聞こえないことが確かですから、ひとつお許しを得まして、思う存分胸を晴らし、娑婆《しやば》の空気を楽しみたいと存じます。」こう言って、ろばはながながと鳴きはじめ、それにつづけて、跳ねながら、三百発ばかりのびのびとおならを放ちました。それからしばらくのあいだ、草の上を転がってから立ち上がり、遠くに砂煙りを見つけると、一方の耳をそばだて、次にもう一方の耳をそばだて、じっと見つめていましたが、そのうちわたくしたちに背を向けて、立ちのき、姿を消してしまいました。
ところで、その砂煙りが消えると、そこに、額に一ドラクム銀貨のように白い星形の斑《ふ》をつけ、足には、ほどよい場所に自然に白い毛の冠をめぐらした、みごとな、かっこうのよい、凛《りん》とした、艶々しい一頭の黒い馬が現われました。その馬はたいそう感じのよい声でいななきながら、わたくしたちのほうにやってきました。そしてわたくしのお友達の若い獅子の姿を見ると、敬意を表して立ちどまり、遠慮深く立ち去ろうとしました。けれども獅子は、馬の優美さにすっかり心を奪われ、その風采《ふうさい》に心をひかれて、これに言いました、「あなたはいったいどなたか、おお美しい獣《けもの》よ。この広々とした無人の境を、どうしてそんなふうに駆けているのか、そのように不安げな様子をして。」馬は答えました、「おお百獣の王よ、私は馬のなかの一頭の馬でございます。私はイブン・アーダムの近づいてくるのを避けるため、逃げているのです。」
この言葉に、獅子は驚きの限りに達して、馬に言いました、「そのようなことを言うものではない、おお馬よ。というのは、おまえのようにたくましく、そのような恰幅《かつぷく》と身丈を授けられている身で、イブン・アーダムを恐れるとは、まことに恥ずかしいことだからだ。おまえならば、ただのひと蹴りで、やつごときは、生より死へと境を異にしてやることもできるものを。おれを見よ。おれはおまえほど大きくはない。さりながら、おれはここにふるえているおとなしい鵞鳥に、約束してやったのだ、きっとイブン・アーダムを襲って退治してしまい、これをぺろりと食ってしまって、永久に恐怖を取り除いてやると。そのあかつきには、おれは悦んでこの憐れな鵞鳥を、自分の家族のなかにまたもどしてやるだろう。」
こうしたわたくしのお友達の言葉を聞くと、その馬は淋しい微笑を浮かべて獅子を見つめ、これに言いました、「そんな考えは遠くにお棄てなさい、おお帝王《スルターン》の王子よ、そしてそんなふうに、私の力や身丈や足の速さなぞを、買いかぶってはなりません。そうしたすべては、イブン・アーダムのずるさの前では、無駄なのですから。よくお聞きなさい。私がいったんやつの掌中にあれば、やつは私を思いのままに御する法を見つけるのですよ。そのためには、私の足に、苧《お》と毛で作った足桎《あしかせ》をはめ、壁の私の丈《せい》よりも高いところに打ちこんだ杭に、頭を結《ゆわ》いつけ、こうして身動きもできず、坐ることもできず、寝ることもできない。しかもそればかりではない。やつは私に乗りたいと思うと、私の背中に、何か鞍とか称するものを置き、二本の幅の広い、あざがつくほどひどく固い腹帯で、腹をしめ上げ、口には鋼鉄《はがね》の片《きれ》を噛ませ、それに革ひもをつけてひっぱって、私を好きなところに向かわせる。そしていざ私の背中に乗ると、鐙《あぶみ》と称するものの尖端《さき》で、脇腹を突っついて穴をあけ、こうして私の全身を血だらけにするのです。しかもこれで終りではありません。私が老いぼれて、もう背中が十分にしなやかでなく、持ちこたえもなくなり、筋力がやつの望むほど速く私を飛ばせなくなったあかつきには、やつは私をどこぞの粉挽きに売り払います。すると今度は、夜も昼も水車小屋の挽臼を回させられ、もうすっかり老いさらばえてしまうまでやらされるのです。そうなると粉挽きは私を屠殺人に売り、私はほふられて、皮をはがれ、皮は革屋に、毛はいろいろな篩《ふるい》の製造者に売られてしまう。イブン・アーダム相手の私の運命は、こうしたものでございます。」
すると若い獅子は今聞いた話にたいへん心を痛めて、馬に尋ねました、「おまえたちみんながイブン・アーダムと呼ぶ、その忌わしいやつをば、おれはどうあろうとも造化から取り除いてやらねばならぬことが、よくわかった。ところでおお馬よ、聞かせてもらいたい、おまえはいつどこで、イブン・アーダムを見かけたのか。」馬は言いました、「昼ごろやつのところから逃げてきました。今は私を追っかけて、こっちに向かって駈けてきています。」
ところで、馬がこの言葉を言いも果てず、ほど遠からぬところに砂煙りが立ちました。馬はこれにすっかりおじけ立って、断わりを言う暇もなく、疾駆してわたくしたちのところを立ち去ってしまいました。そして砂煙りの方角からは、一頭のらくだが現われ、あわてふためき、首を伸ばし、夢中になってほえ立てながら、大股にこちらに進んでくるのが見えました。
この途方もなく大きな図体の獣《けもの》を見て、獅子はこれこそてっきりイブン・アーダムに相違ないと思いこんで、わたくしに尋ねもせず、いきなり飛び出して、今にもおどりかかってこれを倒そうとしましたが、そのときわたくしは声を限りに叫びました、「おお帝王《スルターン》の王子さま、おやめなさいまし。あれはイブン・アーダムの仲間ではなく、獣《けもの》のなかでもいちばん害のない善良ならくだです。きっとイブン・アーダムが追ってくるのを逃げているにちがいありません。」すると若い獅子はちょうどよくやめて、すっかりびっくりして、らくだに聞きました、「ほんとうに、おお巨獣よ、おまえもまたきゃつがこわいのか。そいつの顔を踏みつぶせないとは、いったいおまえのその大きな足はどうしたのだ。」するとらくだはゆっくりと頭を上げて、まるで悪夢を見ているような目をして、悲しげに答えるのでした、「おお帝王《スルターン》の王子よ、まあ私の鼻の孔を見てください。毛で作った鼻環のためにいまだに穴があき、裂けています。それはイブン・アーダムが私を御し、引き回そうとて通したものです。その環には一本の綱が取りつけられていて、イブン・アーダムがそれをどんな小さな子供に渡そうと、それでもってその子供は、ごく小っぽけなろばに乗って、私ばかりか、他のらくだたちの一隊全部を、お互いに列を作らせて、思いのままにひいてゆくことができるというわけだったのです。まあ私の背中を見てください。大昔から絶えず載せられているあらゆる重荷のため、いまだに凸凹です。私の脚を見てください。砂と石のあいだを行く長旅と強行のため、たこができ、炎症にかかっています。しかもそればかりではない。眠らぬ幾夜、休まぬ幾日を過ごして、いよいよ私が老いぼれになったあかつきには、私の老衰としんぼうに敬意を表するどころか、やつはまだ私の老躯老骨を利用することを知っているのですぞ。私を肉屋に売り払い、肉屋は私の肉をば貧乏人に、皮をば革屋に、毛をば紡績工と機織《はたおり》工に、売るというわけです。これが、イブン・アーダムの私に会わせるお定まりの待遇なのでございます。」
このらくだの言葉に、若い獅子は果て知れぬ憤りに襲われました。そしてほえて、腮《あご》を動かし、足で地をけって、さてらくだに申しました、「おまえがイブン・アーダムとどこで別れたか、さっそく知らせてもらいたい。」らくだは言いました、「やつは私を追っかけていますから、まもなく姿を見せるでしょう。ですから、後生です、おお帝王《スルターン》の王子さま、どうか私を自分の生国以外の他国に移り、逃げ去らせてくださいませ。砂漠の辺鄙《へんぴ》とても、およそ人知れぬ境とても、とうていやつの捜索から、私を隠しおおせることはできますまいから。」すると獅子はこれに言いました、「おおらくだよ、だいじょうぶだ。もうしばらく待っておれば、おれがどんなふうにイブン・アーダムに襲いかかり、やつを地にたたきつけ、骨を打ち砕き、その血を飲み、その肉をくらってやるか、見せてやるぞ。」けれどもらくだは、全身の皮膚をぶるぶるとふるわせながら、答えました、「ご容赦ください、おお帝王《スルターン》の王子よ、私はやはり立ち去るほうが望ましいです。詩人も言いました。
[#ここから2字下げ]
汝の身を寄する天幕《テント》そのものの下にせよ、また汝の領する国そのもののうちにせよ、もし快からぬ顔の来たり住むことあらんには、
汝のとるべき策はただひとつあるのみ。汝の天幕《テント》、汝の国をこれに残して、早々に退散すべし。」
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの詩節を誦してから、善良ならくだは獅子の手のあいだの地に接吻して、立ち上がり、足の下に地を打ちながら、姿を消しました。そしてまもなく、その背中が、はるかかなたに、上がったり下がったりするのが見えたのでした。
さてらくだが見えなくなったと思うと、突然、どこから出てきたのやら、見すぼらしい風体をし、ずるそうな様子の、膚のしなびたひとりの小柄の老人《シヤイクー》が、指物師の道具のはいった籠を肩にかつぎ、八枚の大きな板を頭に載せて、出てきたのでございます。
これを見ると、おおご主人さまがた、わたくしはもうひと声叫び声をあげるだけの力も、若いお友達に知らせる力もなく、からだがしびれて地上にへたばってしまいました。若い獅子はというと、この小さな妙な男の様子にひどくおもしろがって、もっと近寄ってよく見てやろうとて、そちらに進みました。すると指物師は獅子の前にへいつくばって、微笑を浮かべ、たいそうへりくだった声で言いました、「おお力強く光栄満てる王さま、天地万物で最高の位を占めていらっしゃるあなたさま、私はあなたさまに牛乳の夜(2)を祈り、あなたさまがいや高く世界にあがめられ、御力と御徳を増されるよう、アッラーに願いたてまつりまする。ところで、この私はしいたげらるる者でございまして、敵からいじめられている不幸にあって、あなたさまに、お助けと保護をお願いにまいったのでございまする。」そして泣き、うめき、溜め息をつきはじめたものです。
すると若い獅子は、その涙と憐れげな様子にたいへん心を動かされて、声を和らげて尋ねました、「いったいだれがおまえをしいたげたのか。しておまえは何者か。おまえはおれの知っているあらゆる鳥獣のなかで、いちばん口達者でいちばん慇懃《いんぎん》だ、もっとも彼ら全部のあいだで、とびぬけていちばんみっともないが。」相手は答えました、「おお百獣の殿さま、私の種族と申しますると、私は指物師族に属します。しかし私をしいたげる者と申しますると、それはイブン・アーダムでござりまする。ああ、獅子のお殿さま、どうぞアッラーは、あなたさまをイブン・アーダムの腹黒さからお守りくださいますように。毎日、夜があけるとすぐに、彼は私を自分の安楽のために働かせ、そしてけっして支払いをしてくれません。ですから私は死にそうなほどひもじくて、もうあの人のために働くことはやめにして、彼の住む町々から遠く逃げ出した次第でございます。」
この言葉に、若い獅子はひどく憤りだして、ほえ、はね上がり、あえぎ、泡を吹きました。両の目からは火花がほとばしりました。そして叫びました、「いったいその禍いのイブン・アーダムというやつはどこにいるのだ。いざおれが歯のあいだでかみ砕き、その被害者全部の仇を討ってやる。」その男は答えました、「おっつけ姿を現わすでございましょう。もう自分の家の大工をする者がいないので、腹を立てて私を追っかけて来ていますから。」獅子は聞きました、「だが指物師の獣《けもの》よ、おまえ自身は、その二本足で、そんなに小刻みに、そんなにおぼつかない足つきで歩いてからに、いったいどっちの方角に向かってゆくのか。」その男は答えました、「私はこれからまっすぐ、あなたさまの父君の大臣《ワジール》、豹閣下にお目にかかりにまいります。閣下は密使のひとりの獣をおよこしになって、私をお召しになり、このあたりに近くイブン・アーダムが来るという噂が立って以来、イブン・アーダムの襲撃に備えて、身を隠し身を守るような、頑丈な小舎《こや》を作ってくれとの仰せでございました。そのため、こうして私は板と道具を携えているわけでございます。」
若い獅子はこの言葉を聞くと、指物師に言いました、「わが生命《いのち》にかけて、われわれの注文をさしおいて、まず自分の注文から果たさせようとは、父上の大臣《ワジール》として、言語道断の不敵なふるまいであろうぞ。おまえはただちにこの場にとどまって、まず初めにこのおれのために、その小舎を作れ。豹閣下のほうは、待たせて苦しゅうない。」けれども指物師は立ち去るようなそぶりをして、若い獅子に言いました、「おお帝王《スルターン》の王子さま、豹閣下のご注文の仕事を終えしだいすぐに、かならずここにもどってまいります。なにしろ閣下のお腹立ちが恐ろしくてなりませぬ。そのせつは小舎どころか、御殿を建ててさしあげますから。」ところが獅子はなんと言っても承知せず、怒り出しさえして、指物師に飛びかかり、胸もとに片足を当てました。するとこうしてほんのちょっとなでられただけで、小男はもうよろめいて、板と道具もろとも、地に転がってしまいました。獅子はこの爺さんのこわがりようと憐れな顔つきを見て、大笑いしました。そして爺さんは内心ではこのうえなく無念の思いをしていたけれども、そんなことは少しも色に現わさず、すぐに仕事にかかりはじめました。ところで、それこそ彼の思う壺であり、そのためわざわざやって来たのでございました。
そこで彼は念入りに、あちこち獅子のからだの寸法を測り、ちょっとのあいだに、頑丈に組み立てた箱を作りあげ、これには狭い入口がひとつついているだけでした。それから内側に大きな釘をいくつも打ちつけ、釘の先をば、なかに向けて、前から後ろに向かうようにしました。そしてあちらこちらに、あまり大きくない穴をいくつかあけました。それがすむと、彼はうやうやしく、獅子にご自分の品をお用いくださるようにと申しました。けれども獅子は最初ためらって、その男に言いました、「どうもこれはいかにも窮屈そうだ。どうにもなかにはいれそうもない。」男は言いました、「身をかがめて、はっておはいりください。いったん中にはいってしまえば、いたって楽々といたしますから。」そこで獅子は身をかがめ、そのしなやかなからだはなかにすべり入って、外にはしっぽだけしか余しませんでした。ところが、指物師は急いでそのしっぽをぐるぐる巻いて、手ばやくそれをほかといっしょに全部押しこみ、またたくまに入口をふさいで、しっかりと釘づけにしてしまったものでした。
そこで獅子は、最初身を動かしてあとじさりしようとしてみましたが、鋭い釘の先が肌に突っ立って、からだじゅうを刺し通します。そして痛さにほえ出して、叫びました、「おお指物師よ、きさまの作ったこの窮屈な家と、無惨におれのからだに突っ立つこの針先は、いったいなんとしたことか。」
この言葉に、その男は凱歌をあげて、おどり上がりあざ笑いはじめて、獅子に言いました、「それこそイブン・アーダムの針先さ。おお砂漠の犬め、おまえは高い代金を払って知るだろうよ、かくいうおれさまイブン・アーダムは、醜さ、意気地なさ、弱さにもかかわらず、勇ましさと力と美しさに勝つことができるということをな。」
そしてこの恐ろしい言葉を言い放って、その悪いやつは松明《たいまつ》に火をつけ、その檻のまわりに粗朶《そだ》を積み上げ、全部を燃え上がらせるのでした。わたくしは恐ろしくてこわくて、前よりかもっとからだじゅう痺《しび》れながら、かわいそうなお友達がこうして焼き殺され、残酷極まる死に方をするのを見ました。そしてイブン・アーダムは、わたくしが地上に瀕死のありさまで伸びていたので、わたくしには気がつかず、意気揚々と遠ざかってゆきました。
そこでわたくしは、その後ずっとたってから、やっと起き上がれて、魂は恐れにあふれつつ、反対の方向《むき》に遠ざかりました。こうしてわたくしはここに着くことができ、運命はわたくしをあなたがたに会わせてくれた次第でございます。おおいつくしみ深い魂のご主人さまがた。
孔雀の夫婦はこの鵞鳥の話を聞くと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百四十七夜になると[#「けれども第百四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
孔雀の夫婦はこの鵞鳥の話を聞くと、感動のかぎり感動させられて、雌孔雀は鵞鳥に言いました、「妹よ、私たちはここにいれば安全です。ですから、私たちといっしょに、ここにおいでなさい。いくらでもおよろしいだけ、そして健康に次いで尊い唯一の富である心の平和を、アッラーがあなたに返してくださるまで、ごゆっくりいらっしゃい。ここにいらっしゃれば、あなたは、よきにせよあしきにせよ、私たちと運命を共になさるでしょう。」けれども鵞鳥は言いました、「わたくしはこわくてこわくてなりませんの。」雌孔雀は語を継ぎました、「それはほんとうにいけません。あなたに記《しる》された運命を、ぜがひでも脱がれようとなすっては、あなたは天命を試みるというものです。だが、天命こそはいちばん力が強いのです。私たちの額に記されてあることは、行なわれなければなりませぬ。あらゆる年貢の納めどきには、納めなければなりませぬ。もしも私たちの期限が定められているものなら、どんな力もそれをふいにすることはできますまい。けれどもわけてもあなたの心を安らかにし慰めるはずのことは、どんな魂でも、『正しき報酬者』によって当然与えられている福祉を汲みつくさないうちは、死ぬわけにゆかないという確信ですわ。」
ところが、こうして彼らが話しているところに、あたりの枝々がざわめいて、足音が聞こえてきたので、びくびくしていた鵞鳥はすっかりあわてて、羽を広げて叫びながら、海に飛びこみました、「お気をつけなさい、お気をつけなさい。」
けれどもそれは杞憂にすぎませんでした。というのは、枝を分けて出てきたのは、目うるおった愛らしい牡鹿の頭でしたから。そこで雌孔雀は鵞鳥に叫びました、「妹よ、そんなに怖がることはない。早く帰ってきなさい。また新しいお客さまが見えたのです。これはあなたが鳥の種族のように、動物の種族のやさしい牡鹿で、血のしたたる肉なぞは食べないで、地の草や植物類を食べるだけです。いらっしゃいな、そしてもうそんなにあわてふためくものではありません。心配苦労ほど、からだと魂を衰えさせるものはありませんから。」
そこで鵞鳥は腰を揺り動かしながらもどってきましたが、その心もまた揺り動いておりました。牡鹿は慣例の挨拶《サラーム》をしてから、一同に言いました、「この方面に来るのはこれがはじめてですが、これほど豊かな土地、これほどみずみずしくおいしそうな草木は、ついぞ見たことがありません。どうか皆さまのお相手をして、ごいっしょに『創造主』のお恵みを堪能することをお許し願いたい。」すると三人はそろって答えました、「われわれの頭と目の上に、おお世故にたけた牡鹿さん。あなたはここに安楽と家族とくつろぎを見いだすことでしょう。」そしてみんなでいっしょに、食べ、飲み、よい空気を吸いはじめて、長い月日を過ごしました。けれどもみんな、朝夕には礼拝をすることをけっして怠りませんでしたが、ただ鵞鳥だけは、もうこれからは安らかだと安心して、安泰の「分配者」に対して自分の義務《つとめ》を忘れたのでございました。ところで鵞鳥は、やがてこのアッラーに対する忘恩をば、一命をもって支払ったのでございます。
と申すのは、ある朝、一艘の破船が海岸に打ち寄せられ、船の人々がこの島に上がりました。そして孔雀の夫婦と鵞鳥と牡鹿の一団を見つけると、急いで近づいてきました。そこで二羽の孔雀はけたたましい叫びをあげて、遠く木々のてっぺんに飛び立ち、牡鹿は身をおどらし、いくつか飛びはねて手の届かぬところにのがれましたが、鵞鳥だけは身を処すすべを知らず、右往左往逃げまわろうとしました。しかしやがてとうとう取り囲まれつかまって、島での最初の食事として食べられてしまいました。
孔雀の夫婦のほうは、この島を去って自分たちの故郷の森にもどる前に、鵞鳥の運命を見届けようとそっと来てみると、鵞鳥はちょうど首を斬られているところでした。そこで夫婦は友達の牡鹿をあちこち探したうえで、挨拶《サラーム》をし、今うまく危険をのがれたことを互いに祝いあってから、牡鹿に憐れな鵞鳥の最後の不運を知らせました。そして三匹はともども鵞鳥をしのんでたいそう泣き、雌孔雀は言いました、「まったくおとなしくつつしみ深く、ほんとにいい子でしたのにねえ。」そして牡鹿は言いました、「いかにもそうです、だが近ごろでは、『報酬者』に対する自分の義務《つとめ》を怠っていましたね。」すると雄孔雀は言いました、「おお叔父の娘よ、また信心深い牡鹿のあなたよ、これからわれらの魂をその主のほうに高めましょう。」そして三匹はそろってアッラーの御手のあいだの地に接吻して叫んだのでございました。
[#ここから2字下げ]
正義者、報酬者、権力の至上の御主《おんあるじ》、全智者、至高者の、祝福されよかし。
万有の創造者、万有おのおのの監督者、おのおのの功績と技倆に応じての報酬者に、光栄あれ。
天を展《の》べ、これを円《まろ》め、これを煌《きら》めかせたまいし者、地を広げ、地の衣を海の四方に広げ、あらゆるうるわしさもてこれを飾りたまいし者の、讃えられよかし。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ]
――このとき、この物語を語り終えると、シャハラザードはしばし話すのをやめた。するとシャハリヤール王は叫んだ、「なんとこの祈りはみごとであり、なんとこの動物どもはよき天稟《てんびん》を授けられていることか。さりながら、おおシャハラザードよ、そちが動物について知っているところはこれだけか。」シャハラザードは言った、「これなどは何物でもございません、おお王さま、動物についてわたくしのお話し申し上げることのできるところに較べますれば。」するとシャハリヤール王は言った、「しからば先をつづけるのに何をぐずぐずしているのか。」シャハラザードは言った、「鳥獣の物語をつづけまするに先立って、おお王さま、わたくしは今の物語の結びを確証いたしますようなお話をひとつ、お聞かせいたしたく存じます。言いかえますと、祈りはどんなに主の御心にかなうものかを証するお話でございます。」するとシャハリヤール王は言った、「いかにも苦しゅうない。」
そこでシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
羊飼いと乙女
語り伝えますところでは、昔回教国の山々のうちのある山に、非常な知恵と熱烈な信仰とを授けられた、ひとりの羊飼いの男がおりました。この羊飼いはおのが運命に安んじ、自分の羊の群れからとれる、乳と毛のもので暮らして、安らかな隠遁の生活を送っておりました。そしてこの羊飼いは、自分のうちには、なみなみならぬ柔和さ、自分の上には、なみなみならぬ祝福を持っていたので、野獣どももけっして彼の羊は襲わず、この人自身をもいたく敬って、遠くから姿を見かけると、叫び声とほえ声で、これに挨拶をするほどでございました。こうしてこの羊飼いは世界じゅうの町々に起こることなどほとんど気にかけずに、こうして長いあいだ暮らしつづけたのでございます。
ところがある日のこと、至高のアッラーは、この男の知恵のほどとその徳の真価を試みようとなさいましたが、この男を試みるには、彼のもとに、女性《によしよう》の美しさを遣わしてみることよりほかに、これといって強い誘惑を思いつきなさらないのでした。そこで天使のひとりにお言いつけになって、女性に身をやつし、聖者の羊飼いをあやまたせるために、あらゆる手練手管《てれんてくだ》をつくすようにと、仰せられました。
そこである日、羊飼いがしばらく前から病んで、自分の洞穴のなかに横たわって、心中で創造主を讃えていると、突然自分のいるところに、青年とも見まごうような、白と黒の大きな目の乙女が、にこやかに、なよやかに、はいってくるのが見えました。とたんにその洞穴は馨《かお》り、羊飼いは自分の年とった肉体がわななくのを覚えました。けれども眉をひそめ、自分のいる片すみで顔をしかめて、闖入者に言いました、「ここに何をしにきたのか、おお見知らぬ女よ。わしはけっしておまえを呼んだわけではなく、おまえになど全然用がないが。」すると乙女は近寄ってきて、老人《シヤイクー》のすぐそばに坐って、言いました、「男のお方、わたくしをよく見てくださいな。わたくしは大人の女ではなくて、まだ処女よ。そしてまったく自分から進んで、あなたがもう昔から徳の高いことを聞いたので、あなたにこの身を捧げにきましたの。」けれども老人《シヤイクー》は叫びました、「おお地獄の誘惑者よ、退《さが》れ。そしてわしをば死せざる者の礼拝のうちに無に帰さしめよ。」けれども乙女は腰のしなやかさをゆっくりと動かして、あとじさりしようとする老人《シヤイクー》を見やり、溜め息をつきました、「ねえ、どうしてあたしを嫌うの。あたしはなんでもおっしゃるままになる心と、欲情《のぞみ》で今にもとろけそうな身とを、ここに持ってきているのに。あたしの胸はあなたの牝羊の乳よりも白くはなくって? あたしの裸は真清水《ましみず》よりもさわやかではなくって? この髪にさわってごらんなさい、おお羊飼いさん。母の胎内にいる仔羊のうぶ毛よりか、あなたの指に手ざわりがよくってよ。あたしの腰は温かでなめらかで、まだ初めて花咲いたばかりで、ほとんどきわだっておりませんわ。小さな乳房はもうふくらんでいて、あなたが指で軽くまさぐりさえすれば、ふるえますわ。いらっしゃいな。あたしの唇はあなたの口のなかで溶けるでしょう。あたしは、噛めば死にかけている老人《シヤイクー》にも生命《いのち》を注ぎこむ歯を持っているし、あたしの全身の毛孔から今にもぽとぽととしたたり落ちようとしている、蜜を持っていますわ。さあ、いらっしゃい。」
けれども老人《シヤイクー》は、ひげの毛がひと筋ひと筋ふるえたとはいえ、叫びました、「退《さが》りおれ、おお悪魔《シヤイターン》よ、さもないとこの節くれだった棒で追っぱらうぞ。」
すると天上の乙女は、取り乱した身ぶりで、老人《シヤイクー》の首のまわりに両腕を投げかけ、耳にささやきました、「あたしはまだあまり甘くない、すっぱい果物よ。これを食べればあなたはなおるわ。素馨《そけい》の匂いをご存じ? もしあたしの処女の香をかいだら、そんなものはつまらない匂いだとお思いになりますわ。」
けれども老人《シヤイクー》は叫びました、「失せざる香はひとり祈りの香あるのみ。出てゆけ、おお誘惑者よ。」そして両腕で乙女を追い払いました。
すると若い娘は立ち上がって、身も軽《かろ》く、すっかり着物を脱ぎ棄てて、その房々とした髪をたらして、すらりと裸で、まっ白くしっとりと立ったのでした。その無言の呼び声は、この洞穴の人気《ひとけ》のないなかで、どんな狂乱の叫びにもまして、恐ろしいものでした。老人《シヤイクー》もさすがにうめかずにはいられず、もうこの生きた百合《ゆり》を見まいとして、頭に外套をかぶって、叫びました、「出てゆけ。出てゆけ、おお裏切りの目の女よ。世界の開闢《かいびやく》以来、汝はわれらの災厄《わざわい》の原因《もと》だ。汝は初めの世々の男を堕落させ、今に地の子らのあいだに不和を投じておる。およそ汝に親しむ者は、汝をおのが生活よりしりぞくる者のみ味わいうる、かぎりなき悦びを、永久に断念するものだ。」そして老人《シヤイクー》は、頭をますます外套のひだのなかに埋めるのでした。
けれども乙女は言葉を継ぎます、「昔の人々のことをなんとおっしゃるの? そのなかでいちばん賢い人たちでもあたしを崇めたし、いちばんきびしい人たちでもあたしを歌ったわ。あたしの美しさは、けっしてその人たちを正道からそらしはせずに、行く道を照らし、人生の歓楽となったのです。ほんとうの知恵は、おお羊飼いさん、あたしの胸のなかでいっさいを忘れてしまうことにございます。知恵に立ち返りなさいまし。あたしはあなたにわが身を開け放し、あなたにほんとうの知恵をたっぷり飲ませてあげようと、待ちかまえているのですわ。」
すると老人《シヤイクー》は、すっかり壁のほうを向いて叫びました、「すざりおれ、おお邪智満てる女よ。おれは汝がいやで反吐《へど》がでる。汝はどんなに多くのりっぱな人間を裏切り、どんなに多くの悪人をかばったことか。汝の美しさは偽りだ。なんとなれば、祈ることを知る者には、汝をみつめる者どもには見えぬ美しさが見えるからだ。すざりおれ。」
この言葉に乙女は叫びました、「おお聖なる羊飼いよ、汝の仔羊の乳を飲み、彼らの毛をまとい、孤独と汝の心の平和とのうちに、汝の主に祈り奉れ。」そして天使の子供は、かすかな羽音を立てて飛び去りました。
すると、山の四方八方から、羊飼いのほうに野獣が駆け寄ってきて、その手のあいだの地に接吻して、その祝福を求めたのでございました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは話すのをやめた。するとシャハリヤール王はにわかに心悲しくなって、彼女に言った、「おおシャハラザードよ、まことに、この羊飼いの手本は、余に反省せしめるものがある。余としても、洞穴に引きこもって、永久にわが領地の煩いよりのがれ、仔羊をひいて草を食《は》ますることをもって、唯一の業とするほうが、あるいはまさるやもしれぬ。さりながら、ともかくもまず、鳥獣の物語[#「鳥獣の物語」はゴシック体]のつづきを聞きたく思うぞ。」
[#地付き]そして第百四十八夜になると[#「そして第百四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
亀と漁師の鳥の話
古き書物のうちのある書物に、語られておりますところでは、おお幸多き王さま、ある日一羽の漁師の鳥が、河の崖の上に立って、首をのばし、じっと注意をこらして、水の流れを見守っておりました。というのは、これがその鳥の商売で、これによって暮らしを立て、子供たちを養っていられたわけで、その鳥は、自分の身分上の勤めをたいそう実直にはたしながら、怠りなく業を励んでいたのでございます。
ところで、こうしてちょっとした渦巻や、ほんのささやかな波立ちをも、じっと見張っているうちに、自分の前に、人間の大きな屍体が流れてきて、ちょうど自分が見張りをしている岩にひっかかって、止まるのが見えました。そこでよくよく見ますと、全身到るところに深傷《ふかで》を負って、剣と槍の傷痕がついているのを認めました。そこで鳥は心中考えました、「これはきっとどこかの山賊が、悪事の罰を受けたものにちがいない。」それから両の翼を上げて、「報酬者」を祝福して言いました、「悪人どもの死後に、彼らを善良な下僕《しもべ》たちの仕合せに役立たせたもう御方は、祝福されてあれ。」そして今にもその屍体に飛びかかって、その肉片をさらい、それを子供たちに持って行って、いっしょに食べようと思っていると、そのうち、上のほうの空が、禿鷹《はげたか》とか隼《はやぶさ》とかいうような大きな猛禽たちの影で、かき曇るのが見えました。やつらは、大きな環を描いてぐるぐる回りはじめ、ますますこちらに近づいてくるのです。
これを見ると、漁師の鳥は、これらの空中の狼に、わが身自身が食われてしまうかも知れないという心配にとらえられて、翼の限り急いで、遠くに立ち退きました。そしていく時間か飛んで、ずっと河口のほうの、河のまん中にある木の天辺《てつぺん》にとまって、そこで、さっきの漂う屍体が、流れに曳かれてこの場所までくるのを、待っていました。そしてすっかり心悲しんで、運命の浮沈とその定めないことを思いはじめて、ひとりごとを言ったのでした、「今おれは自分の故里《ふるさと》を離れ、かつておれの生まれるのを見て、現在妻子のいるあの崖から、遠く離れざるを得ない羽目になった。ああ、なんとこの世は儚《はか》ないことだ。そしてこの世の外観《そとみ》にみすみす騙され、運を信じて、あくる日のことを心にかけずに、その日その日を生きている者は、どんなにもっと儚ないことであろうか。もしもおれがもっと賢かったら、きっと今日のように食物のない日々のために、ちゃんと貯えをしておいたことだろう。そうすれば、たとい空の狼どもがおれの獲物を奪いにきたところで、おれはさして心配せずにすんだところだろう。しかし賢人はわれわれに、試練の際には辛抱せよとすすめている。まあ辛抱することにしよう。」
さて、鳥は、このように思いめぐらしていると、ふと自分のとまっている木のほうに、水から出てきて、ゆっくりと泳ぎながら、一匹の亀が近よってくるのを見ました。亀は頭をもたげて、木の上の鳥を見つけました。そしてこれに平安を祈って、言いました、「おお漁師さん、いつもお出かけになっていたあの崖を、お立ち退きになったというのは、いったいどうしたことですの。」鳥は答えました。
[#ここから2字下げ]
「汝の身を寄する天幕《テント》そのものの下にせよ、また汝の有《もの》たる国そのもののうちにせよ、もし快からぬ顔の来たり住むことあらんには、
汝のとるべき策はただひとつあるのみ。汝の天幕《テント》、汝の国をこれに残して、早々に退散すべし。
[#ここで字下げ終わり]
私は、おお親切な亀さん、私の崖が、いまにも空の狼どもに襲われそうになったのを見て、彼らの気持の悪い顔の毒気にあてられまいとして、アッラーが私の運命を憐れみたもうまで、むしろいっさいを棄てて、立ち去ることを選んだのでした。」
亀はこの言葉を聞くと、漁師の鳥に言いました、「そういうわけでございましたら、ここにわたくしが御手の間にいて、骨身を惜しまずご用をつとめ、寄るべなく困っていらっしゃるあなたの、お相手をしてさしあげる心構えでおります。というのは、異国の方は故郷のお身内を離れてどんなに不幸でいらっしゃるか、また、見知らぬ人々の間に、愛情と心づくしとの温かさを見いだすことが、どんなに嬉しいかということを、わたくしはよく存じております。ところでわたくしは、ただお顔見知りというだけではございますが、これからあなたのために、手厚く親身なお友達になってさしあげましょう。」
そこで漁師の鳥は言いました、「おお、愛情溢れる亀さん、表面《うわべ》は固く内心《なか》はほんとに優しいお方よ、私はあなたの偽らぬお申し出を前にして、感に耐えず、今にも泣き出しそうな気がします。ほんとにありがとう。異国の人たちに与える歓待についてのお言葉、またそれが無意義でない人たちでさえあれば、不運にある人たちに与える友情についてのお言葉は、なんと道理のあることでしょう。なぜならば、まことに、友なく、友と語り合うことなく、友と笑い歌うことのない人世とは、そもそもどのようなものでしょうか。賢人というのは、自分の性分に合った友を見つけることのできる人のことです。そして、自分の商売がらつき合わざるを得ない相手を、友と見なすわけにはまいりません。私なんぞは、同じ鳥類の漁師の鳥たちとつき合っていましたが、彼らは私を嫉《ねた》んでは、私の獲物や見つけ物を羨んでばかりいるのでした。ですから、今ごろは、私のいなくなったことを、どんなにか悦んでいるにちがいありません、あれらのけちくさい、馬鹿な仲間のことですから。彼らは自分たちの漁のことを話し、些細な利害のことをしゃべる以外に能がなく、自分たちの魂を、『贈与者』のほうに高めようなどとは、ついぞ思わないのです。彼らはこうして、いつでも嘴を地のほうに向けております。せっかく翼があっても、けっしてそれを用いはしないのです。ですから、彼らはたいがい、かりに飛ぼうとしても、もう飛ぶことさえできますまい。水を潜《もぐ》ることしかできず、しばしば水底にじっとしているのです。」
この言葉に、黙って聞いていた亀は、叫びました、「おお漁師さん、おりていらっしゃい、接吻してあげますから。」そして漁師の鳥が木からおりると、亀はその両の眼の間に接吻して、言いました、「実際、おお、お兄さま、あなたはあなたの種族の鳥たちと共同生活をするには、向いていらっしゃいません。あれらには全然こまかい気持がなく、物腰にすこしも雅《みやび》なところがありませんもの。ですから、わたくしといっしょにここにいらっしゃい。そうすれば、この木の蔭と波の立てる音があるきりの、水のもなかのこの辺鄙な地の一隅で、生活はわたくしたちに爽やかでございましょう。」けれども、漁師の鳥は言いました、「いかにもありがとうございます、おお亀さん、妹よ。けれども子供たちは、また妻は、どうなりますか。」亀は答えました、「アッラーは偉大で慈悲深くいらせられます。きっとわたくしたちが、ここまで妻子の方々を連れてくるのを、助けて下さいます。そしてわたくしたちは、いっさいの憂いなく、このうえとも安らかな日々を送ることでございましょう。」そして二人でそのようにすることにきめたあとで、漁師の鳥は言いました、「おお亀さん、私たちの相会うのを許したもうた『至善者』に、いっしょにお礼を申し上げることにしましょう。」そこで両人は叫んだのでございました。
[#ここから2字下げ]
われらが主《しゆ》に讃えあれ。ある者には富を授け、ある者には貧を投げ与えたもう。御意《みこころ》は賢明にして計算せられてあり。
われらが主《しゆ》に讃えあれ。いかに多くの貧者は微笑に富み、いかに多くの富者は喜悦に貧しきか。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王はこれに言った、「おお、シャハラザードよ、そちの言葉は、いちだんと荒々しからぬ想いに帰る余の気持を、ますます強むるのみである。されば聞きたいが、そちは、たとえば狼とか、その他同様の野獣のたぐいの物語は、知らぬかな。」シャハラザードは言った、「それこそはちょうど、わたくしのいちばんよく存じている物語でございます。」すると、シャハリヤール王はこれに言った、「では、急ぎそれらを語り聞かせよ。」そしてシャハラザードは明晩それらを話すことを約した。
[#地付き]そして第百四十九夜になると[#「そして第百四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
狼と狐の話
さればでございます、おお幸多き王さま、狐は、自分の殿さまの狼の、ひっきりなしの腹立ちや、むやみやたらの残忍や、狐たる自分に残っている最後の権利をも、どんどん侵害してしまうのに、とうとうやりきれなくなって、ある日のこと、木の幹に腰をおろして、考えにふけりはじめたものでございます。そのうち、ふと浮かんできて、これこそ解決策だと思えるような、ある考えを思いついて、嬉しさのあまり、いきなりおどり上がったのでした。そこですぐに狼を探しはじめて、とうとう出会いましたが、見れば毛を逆立て、顔をぴりぴりひきつらせ、たいへんな悪いご機嫌です。そこで、姿を見かけたずっと遠方から、地に接吻し、そして眼を伏せ、平身低頭してその前に着き、お訊ねあるのを待ちました。すると狼はどなりつけました、「何用じゃ、犬の息子め。」狐は答えました、「お殿さま、恐れながら申し上げまするが、もしも拝謁を賜わるを得ますれば、私は言上いたしたき卑見と、お願いいたしたき筋がございます。」すると狼はどなりつけました、「さっさと言ってしまって、できるだけ早く背中を向けろ。さもないと、きさまの骨を叩き折ってくれるぞ。」そこで狐は言いました、「お殿さま、私は気づいたのでございますが、しばらくまえから、イブン・アーダムは私どもに、ひっきりなしに戦さをしかけております。森中どこにも、もういたるところ、あらゆる種類の陥穽《おとしあな》や罠《わな》だらけです。こんなあんばいでもうすこしたったら、森はもう私どもが住めなくなるでございましょう。されば森中全部の狼と全部の狐とが同盟して、イブン・アーダムの攻撃に結束してあたり、われわれの領土に寄せつけないようにしては、いかがなものでございましょうか。」
この言葉に、狼は狐にどなりつけました、「申し聞かせるが、きさまごときがおれとの同盟親善を望むなどとは、もってのほかの僭上の沙汰じゃ、小賢《こざか》しく、非力な、とるにも足らぬ狐めが。さあ、きさまの生意気の報いには、これでも食らえ。」そして狼は狐に前肢で一撃を食わせると、狐は半分死んだようになって、地にへたばってしまいました。
すると狐は、びっこをひきひき起き上がりましたが、しかし恨みを見せることはかたくつつしみ、それどころか、このうえなくにこやかな、このうえなく悔いたような様子をして、狼に言いました、「お殿さま、あなたさまの奴隷に、その無作法と不束《ふつつか》の段、ひらにお許し下さいませ。彼はおのが非を認め、容易ならぬものと思っておりまする。万一おのが非を気付かなかったにしろ、ただいま賜わった、象をも殺すに足るような、恐ろしいまた当然な一撃は、たやすく彼にそれを思い知らせたことでござりましょう。」すると狼は、狐の態度にすこし心を和らげて、言いました、「よろしい、だがこれからは、自分にかかわりのないことには、けっして口出しするなということも、よく思い知ったろう。」狐は言いました、「まことにごもっともでございます。事実、賢人も申したことです、『他人《ひと》に乞われざるうちは、言うことなかれ、けっして何ごとも語るなかれ、他人《ひと》に問われざるうちは、けっして答うることなかれ。わけても、汝の言を解せざるごとき者どもには、情けを仇に汝を恨みかねぬ悪人ばらとともに、これにみだりに忠告をするをかたくつつしめよ』と。」
ところで、狐が狼に申した言葉は、このようなものでございましたが、しかし内心では、こう考えていたのです、「今におれの天下がまわってくるだろう。そしてこの狼は、やつの借金を最後の一文まで、おれにはらうことになろう。なにしろ尊大、高慢、挑発、不遜、愚かな慢心は、早晩天罰を招くものだから。だからここのところは、おいらが偉くなるまでは、卑下しておくとしよう。」それから、狐は狼に言いました、「おおご主人さま、公正は権力者の徳であり、態度の温厚柔和は強者の天賦にして身の飾りであることは、つとにご承知のところでございます。そしてアッラーご自身も、悔い改める罪人《つみびと》をばお許しになります。さて私はと申しまするに、わが罪の大なることは、みずから心得ておりまするが、しかし、わが悔いもまた、それに劣らず大でございます。というのは、ご親切からして、よくぞ私に賜わったあの痛い一撃は、いかにも私の身を痛めつけましたけれども、しかしあれは私の魂にとっては良薬で、歓喜のもとでございました。賢人がわれわれに教えるとおり、『汝の教育者の手によって加えらるる罰の最初の味は、はじめいささか苦味を帯ぶ。されどその後口《あとくち》は、精製せる蜜とその甘さよりも口に甘し』でございます。」
すると狼は狐に言いました、「きさまの詫びを聞き入れて、わざわざきさまに一発食らわせなければならない羽目にして、おれにとんだ迷惑をかけたこととしくじりとは、許してつかわす。それにしても、きさまはひざまずいて、頭を塵《ちり》のなかに埋めなければならんぞ。」すると狐は躊躇なくひざまずいて、頭を塵のなかに埋め、狼を拝んで言いました、「なにとぞアッラーは、いつもあなたさまに勝利を与え、あなたさまのご支配を強めたまいますように。」すると狼は言いました、「よろしい。ではおれの前に立って歩いて、斥候の役を勤めろ。何か獲物を見かけたら、すぐ戻ってきておれに知らせろ。」狐は承わり畏まって答え、急いで先発しました。
さて、狐は葡萄の植わっている地面に着きますと、やがて自分の通り道に、いかにも罠《わな》らしい様子の怪しい場所を、じきに認めました。そこでひとりごとを言いながら、大回りをしてそれを避けました、「自分の足もとにある穴を見ずに歩くやつは、きっとそこに落ち込むことになる。それに、イブン・アーダムめが、近ごろおれに張っているあらゆる罠《わな》の経験から、おれはけっして油断しはしない。だから、たとえば、葡萄の木のなかに、狐みたいなかっこうの物を見かけたとすれば、おれは寄りつきなんぞはせず、一目散に逃げ出すだろうよ。そいつはきっと、イブン・アーダムの裏切りが置いた餌《えば》に、ちがいないのだからな。さて、今この葡萄畑のまんなかに、どうもうさんくさい場所が見える。危ないぞ、いったい何なのか、戻って見てやろう、だがよく用心してな。用心は豪胆のなかばなりだ。」そしてこう分別して、狐はすこしずつ前に進みはじめましたが、時々あとじさりし、ひと足ごとに鼻を鳴らし嗅ぎながらゆきました。這《は》っては耳を欹《そばだ》てて、それから進んではまた退き、こうしてとうとう無事に、そのすこぶる怪しい場所の、すぐ縁《ふち》まで行き着きました。そしてこうしたのは仕合せでした。というのは、それは土を振りかけた軽い柴で表面を蔽った、深い陥穽《おとしあな》だということがわかったからです。これを見ると、狐は叫びました、「おれに用心の美徳と千里眼のいい眼を授けたもうたアッラーに、讃えあれ。」次に、今に狼がまっさかさまにここに落ちるのが見られると思うと、狐は、まるでもう葡萄畑の全部の葡萄に酔ってしまったみたいに、嬉しがって踊りだし、そして次の歌を歌いだしたのでした。
[#ここから2字下げ]
狼よ、獰猛《どうもう》な狼よ、おまえの穽《あな》は掘られているぞ、土は埋めようと待ち構えていらあ。
狼よ、娘を漁《あさ》り、子供を食らう、呪われたやつ、これから先はおいらの糞でも食らうがいい、おいらの尻《けつ》を穽にのせ、おまえの口に降らせてやらあ。
[#ここで字下げ終わり]
そしてすぐに、狐はひき返して、狼に会いに行って、これに言いました、「吉報をお知らせいたします。あなたさまの幸運はなみなみならず、仕合せが労せずして、おんみの上に降ってまいります。ご一家に悦び絶えず、楽しみもまた同様でありますように。」狼は言いました、「どういう知らせだ。そんなにくどくど言わず、さっさと申せ。」狐は言いました、「葡萄畑は今日は晴れやかで、すべてが楽しげです。というのは、畑の持主が死んでしまって、やつは自分の畑のまん中に、枝の下に蔽われて伸びています。」すると狼はどなりつけました、「じゃきさまは何をぐずぐずして、おれをそこに連れてゆかないのだ、この卑しい周旋屋め。早く歩け。」そこで狐は、急いで狼を葡萄畑のまん中に連れてゆき、例の場所をさして言いました、「あそこです。」すると狼はひと声吼えて、ひと跳びで枝の上に飛びかかると、枝はその重さで落ちてしまいました。そして狼はすさまじい吼え声をあげながら、穴の底に転がりこみました。
狐は敵が墜落するのを見ると、もう嬉しくてたまらず、陥穽のところに駈けよって自分の勝利を満喫するまえに、まず躍りはじめて、歓喜の極、次の詩節をみずから誦したのでした。
[#ここから2字下げ]
喜べ喜べ、わが魂よ。大願成就、天運、われに可なりだ。
傍若無人、森の上座、いっさいのご威光はこのおれさまのもの。
みごとな葡萄と幸《さち》多い猟《かり》、鵞鳥の旨い脂肪《あぶら》、家鴨《あひる》のしなやかな腿、雌鶏のこたえられない尻、雄鶏の赤い頭、これらはみんなおれさまのものさ。
[#ここで字下げ終わり]
そこで、狐はぴょんぴょん跳んで、心をときめかせながら、この穽《あな》の縁《ふち》に来ました。そして狼が呻き、落ちたことを泣き悲しみ、身の破滅をまぬがれないことを嘆きながら、絶望しているのを見ては、悦びいかばかりでしたろう。そのとき狐は自分もまた、あからさまに泣き、唸りはじめました。狼は頭をあげて、狐がこうして泣いているのを見ると、これに言いました、「おお、仲間の狐よ、そうしておれといっしょに泣いてくれるとは、さても親切なことだ。されば、今になって、おれはときどきおまえに対してむごかったことがわかった。だがどうか後生だ、さしあたりその涙をおいて、おれの妻子に、おれが危険に陥って、死にかけていることを知らせに、駈けつけてくれ。」すると狐はこれに言いました、「このごろつきめ、百人の釜掘られ野郎の息子め、じゃおまえはとんまにも、おれがこうして涙を流しているのは、おまえのためだとでも思っているのかい。まちがえないでくれ、おお呪われたやつめ。憚りながらおれが泣いてるのは、おまえが今日まで無事に生きのびやがったからのことだ。この災難が、今日よりかもっと前に、おまえの身に降りかかってこなかったのが、残念しごくというわけでなのさ。早くくたばれ、いまいましい狼め。とうとう、おまえの墓の上に小便《しようべん》をひっかけて、おまえの埋まっている地面の上で、仲間の狐全部といっしょに、踊りに行ってやるからな。」
この言葉に、狼は心中ひとりごとを言いました、「こうなってはもう、こいつを威《おど》かしたってだめだ。こいつだけが、まだおれを引き出してくれることができるのだからな。」そこで言いました、「おお仲間よ、まだほんのさっきのことじゃないか、おまえがおれに忠義を誓い、いろいろと恭順の意を表したのは。どうしてそう打って変わったのだ。いかにもおれはおまえにいささか辛くあたったが、しかしおれに恨みを抱くまいぞ。詩人の言ったことを思い出してくれ。
[#2字下げ] たとえ不毛と見ゆる地にとても、惜しみなく汝の好意の穀粒を蒔け。種蒔く者は、遅かれ早かれ、おのが希望をはるかに越えて、増し殖《ふ》えしおのが穀粒の実《みの》りを取り入るべし。」
けれども狐はあざ笑って、言いました、「おお、あらゆる狼とあらゆる野獣きってのあほうよ、いったいおまえは、自分の行ないの非道ぶりは、みんな忘れたのか。あの詩人のまったく賢明な忠告を、どうして知らないんだ。
[#ここから2字下げ]
圧迫を加うることなかれ。なんとなれば、あらゆる圧迫は復讐を呼び、あらゆる不正は反撥を呼べばなり。
なんとなれば、汝らひとたびかかる行為を犯して眠れば、圧迫を受けし者は、片目もて眠るのみ。他の片目は、絶えず汝らを窺うなり。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、おまえはずいぶん長い間おれを圧迫してきたから、今はおれがおまえの不幸を悦び、おまえの屈辱に満悦するのも、道理というものだ。」すると狼は言いました、「おお、妙案つきず、発明の才に富む、賢い狐よ、おまえはそんな言葉なぞ口先ばかりで、きっとそうは思っていないにちがいない。ただ冗談に言っているだけだろう。だが、ほんとうのところ、今は冗談なぞ言ってはいられないときだ。お願いだから、なにか紐を見つけて、一方の端を木に結《いわ》いつけ、もう一方の端を、こっちによこしてくれ。そうしてくれれば、おれは歯で身を支えながら、それを伝ってはい上がり、この穽《あな》から出るからね。」けれども狐は笑いだして、言いました、「まああわてなさんな、狼さん、あわてなさんな。まずおまえの魂が最初に出て、次にからだが出るだろうさ。やがておまえに浴びせかけられる石つぶてが、うまく魂とからだを分けてくれるわ。おお、愚案ばかりで鈍い才の、お粗末な獣《けだもの》よ、おまえの運命は、さしずめ鷹と鷓鴣《しやこ》[#「鷹と鷓鴣《しやこ》」はゴシック体]の運命というやつさ。」
この言葉に、狼は叫びました、「それはいったいどういうことなのか、おれにはとんとがてんがゆかん。いったいどういう話なのか。」
すると狐は狼に言いました。
「さればさ、おお狼よ、ある日、おれは葡萄畑に葡萄の実を少々食いに行ったものさ。おれがそこの葉蔭にいると、突然一羽の大鷹が、小さな鷓鴣をめがけて、空高くから舞いおりるのが見えた。ところがその鷓鴣は、うまく鷹の爪からのがれることができて、大急ぎで、自分の巣に駈け込んで隠れた。すると、鷓鴣を追っかけてつかまえることのできなかった鷹は、その巣の入口になっていた、小さな穴の前にとまって、鷓鴣に言った、『私を逃げるお馬鹿さん、私はおまえさんのことを気にかけて、おまえさんにつくしてあげようと思っていたのを、知らないのかい。おまえさんを追っかけてきたわけはほかでもない。おまえさんがずっと前から腹を減らしていると知って、わざわざ、おまえさんのために拾ってあげた穀粒を、あげるつもりだっただけだ。さあおいで、かわいい小さな鷓鴣よ、怖がらず巣から出て、この粒を食べにおいで。どうかこれがおまえさんの気にいって、胸の上によくこなれるように、鷓鴣よ、私の眼よ、私の魂よ。』鷓鴣はこの言葉を聞くと、信用して、隠れ家から出てきたものだ。ところがすぐに、鷹はこれに躍りかかり、肉に恐ろしい爪を立て、嘴のひと突きで鷓鴣の腹を割いてしまった。すると鷓鴣は、息絶えるまえに鷹に言った、『おお呪われた裏切り者め、どうかアッラーは、私の肉をおまえの腹のなかで毒に変えて下さるように。』そして死んでしまった。鷹はというと、またたく間にぺろりと食ってしまったが、しかしすぐにアッラーの御旨《みむね》によって罰を食った。というのは、鷓鴣がこの裏切り者の腹のなかにはいったと思うと、何か体内の焔に焼かれるとでもいうふうに、そのからだじゅうの羽がそっくり抜け落ちて、やつ自身もまたぐったりと、地上に転がってしまったのだ。
それでおまえは、おお滅亡《ほろび》の狼よ、」と狐はつづけて申しました、「おまえはおれをつらい目にあわせ、おれの魂を辱かしめの限り辱かしめたから、穽に落ちたのさ。」
すると狼は狐に言いました、「おお仲間よ、後生だ、どうかそうした例をあげることは、ひとまずすべて差しおいて、過去は忘れることにしようじゃないか。これでおれもまあ十分罰を食ったというものだ。このとおり穴に落ちているし、落ちるときには片脚を折りそこなったり、片眼か両眼に痣《あざ》を作りそこなったのだからね。なんとかおれを、この窮地から救い出すようにしようじゃないか。なぜって、いちばん変わらぬ友情というものは、不幸を助けたあとから生まれるものだし、助けてくれる友は、兄弟よりも心に近いということは、おまえも知らないわけじゃないからね。だから、手を貸しておれを救い出してくれ。そうすれば、おれはおまえのいちばんの親友となり、いちばんの賢い忠告者となるだろうよ。」
けれども狐はげらげら笑いだして、狼に言いました、「じゃおまえは賢人の言葉[#「賢人の言葉」はゴシック体]を知らないな。」すると狼は驚いて、訊ねました、「どういう賢人のどういう言葉さ?」狐は言いました。
「賢人たちはわれわれに教えている、おお臭い狼よ、おまえみたいなやつら、面《つら》は醜く、風体《ふうてい》はお粗末で、からだのかっこうの悪いやつらというものは、魂もまた同じようにお粗末で、全然情けなぞない、とな。ところで、こいつはおまえに関するかぎり、まったくもってほんとうだよ。今の友情についての言いぐさは、なるほどそのとおりで、反対の余地はないさ。だがしかしおまえのその裏切り者の魂に、そんなりっぱな言葉をあてはめようとは、なんとも虫がよすぎるというものだ。なぜって、おお馬鹿な狼よ、もしおまえがそれほど目先のきく忠告を、たくさん持ち合わせているというのなら、なぜ自分ひとりで、そこから抜け出す方法を見つけないんですかねえ。またもしおまえが自分で言うほど、ほんとうに力があるのなら、まあせいぜい自分の魂を、まちがいない死から救うんだね。まったくおまえはあの医者の話[#「医者の話」はゴシック体]を思い出させるわい。」――「どういう医者のことだい、こんどは」と狼は叫びました。すると狐は言いました。
「昔ひとりの百姓がいて、右手に大きなできものができて、そのため働けなくなった。そこで困ったあげく、医学に詳しいといわれる男を呼んだ。それで、その学者が病人のところに来たが、片眼に目隠しをしていた。病人はその人に訊ねた、『お目はどうしたのですかね、おおお医者さん。』医者は答えて、『できものができて、目が見えないのだよ。』そこで病人はどなった、『おまえさんは自分にできものができたのを、治さないのかい。そのくせ、このおれのできものを治そうと、のこのこやって来たんですかい。背中を向けて、肩幅の広いところを見せてもらいましょうや。』
それでおまえも、おお呪われの狼よ、まあおれに忠告をしようとか、情けを教えようとか考えるまえに、せいぜい利口なところを出して、穽から逃げ出し、今に頭の上に落っこってくるものをよけるがいい。さもなきゃ、今いるところにいつまでもいて、腹を割かれるのだね。」
すると狼は泣きはじめましたが、すっかり望みを絶ってしまうまえに、狐に言いました、「おお仲間よ、どうかおれを救い出してくれ。たとえば、穽の縁《へり》に近よって、おまえのしっぽのはしを垂らしてくれてもいい。そうすればおれはそれにすがりついて、この穴から出られよう。その暁には、おれは過去のすべての乱暴を悔い改めると、アッラーの前でおまえに約束する。おれはもう隣人を襲う気さえ起こさないように、爪を削り落とし、牙を折ってしまおう。そのうえで、苦行者の粗末な着物を着て、荒野に罪の購《あがな》いをしにひっ込み、もう草しか食わず、水しか飲まないことにする。」けれども狐は憐れを催すどころでなく、狼に言いました、「だがいったいいつから、そんなにわけなく自分の本性《ほんしよう》を変えられるものかね。おまえは狼だから、どこまでも狼だろうよ。おまえの悔悛を、このおれに信じさせようたってだめだ。それにおれがよっぽど迂闊《うかつ》でない限り、おれのしっぽをおまえに渡しはしまい。つまりおれはおまえの死ぬのを拝見したいというわけなんだ。賢人たちも言っていらあ、悪人の死は世のためなり、そは地を清むればなり、とな。……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十夜になると[#「けれども第百五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「悪人の死は世のためなり、そは地を清むればなり、とな。おれのしっぽについちゃ、話は別だ。いまにすぐお目にかけてやるがね。」
この言葉に、狼は憤りをこらえるのと絶望とで、自分の脚を噛みました。けれどもさらに一段と声を和らげて、狐に言いました、「おお狐よ、おまえの一族といえば、その雅《みやび》な態度と、情けと、雄弁と、気性の優しいことで、全世界のあらゆる動物の間で、鳴り響いているものだ。こんな悪ふざけは、おまえともあろうものが、本気なはずはない。もうやめにして、おまえの一家のしきたりを思い出してくれよ。」けれども狐は、この言葉にひどく笑いだして、気を失ってしまうほど笑いました。しかしすぐにわれに返って、狼に言いました、「わかったよ、おおとほうもない獣《けだもの》め、おまえは徹底的に教育してやらなければならんね。だがおれには、今そんな仕事を引き受けてる暇はないから、ただちょっと、おまえのくたばるまえに、賢人たちの言葉を二つ三つ、おまえの耳に入れておいてやりたい。聞くがいい。死を除いては、何にでも薬がある。金剛石を除いては、何をでも腐らせることができる。最後に、自分の天命を除いては、何でも脱がれることができるということだ。
おまえといえば、今さっき、穽から出たらおれに報いるし、これから仲よくしてやると、たしか言ったようだ。だがおまえはきっと、あの蛇[#「蛇」はゴシック体]そっくりじゃないかと思う。なにしろおまえは物を知らないから、その話もまず知らないにちがいないが。」すると、狼はいかにもそんなことは知らないと言ったので、狐は言いました。
「そうだ、おお腐った狼よ、むかし曲芸師の手の間から、うまく逃げおおせた一匹の蛇がいた。この蛇は今まで長いこと、曲芸師の袋の中にじっと丸まっていたので、運動の習慣《くせ》をなくして、地上をろくにはいかねていたから、そのままだったら、きっと曲芸師にまたつかまるか、踏み潰されてしまったにちがいないが、そのとき、ひとりの慈悲深い通行人がいて蛇を見かけ、病気なのかと思って、憐れんで、拾いあげ、温めてやったものだ。ところが、元気を回復して蛇の最初にしたお礼は、自分の救い主のからだじゅうでいちばん大切なところを狙って、そこに毒のある歯を突っ立てることだった。そこでその人はすぐさま、地上に倒れて死んでしまった。――それに、詩人もすでに言っている。
[#2字下げ] 油断すな、戯るる者よ。蝮蛇《まむし》柔和に寄り来たり、媚びてとぐろを巻くときは、遠ざかれよ。やがて身を解かば、その毒は死とともに汝の身内にあり。
それから、おお狼よ、やはり今のおれの場合にじつにぴったり合う、こういうみごとな詩句もある。
[#2字下げ] 若き少年、汝にかくも懐《なつ》きてありしを、汝これを邪険に扱えば、彼は胸奥に恨みを抱き、他日その腕に毛を生ぜしとき、汝を不具になすとも、怪しむことなかれ。
ところでおれは、おお呪われたやつめ、まずおまえの罰にとりかかり、おまえを待つお楽しみと、穴の底で、やがておまえの頭を撫でてくれるすべっこい綺麗な石の、前味《まえあじ》を味わわせてやることにし、今にたっぷりとおまえの墓を潤おしてやるが、さしあたって、まずこれでも進上しよう。頭をあげて、よく見ろよ。」
こう言っておいて、狐はくるりと後ろを向き、二本の後脚《あとあし》で穽の縁《へり》に身構え、狼の顔の上に、末期《まつご》のきわまで聖い油を塗り、薫らせることのできるものを、雨と降らしたのでございました。
次に、それがすむと、狐は斜面の頂上に上って、主人と番人を呼ぶため、金切り声を張りあげはじめますと、一同はすぐに駈けつけてきました。彼らが来ると、狐は急いで退散して身を隠しましたが、あまり遠くに行かず、畑の持主たちが、大悦びで穽のなかに投げこむ大きな石を見、敵《かたき》の狼の、断末魔の吼え声を聞いたのでございました。
[#この行1字下げ] ――ここでシャハラザードは、小さなドニアザードの差し出すシャーベットを一杯飲むために、ちょっと口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は叫んだ、「ああ、余は狼の死ぬのが待ち遠しくてならなかったぞ。それも片づいた今となっては、こんどはなにか迂闊で浅はかな信頼とその結果についての事柄を、聞かせてもらいたいと思う。」するとシャハラザードは言った、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」
小鼠と鼬の話
昔、おお幸多き王さま、胡麻《ごま》の皮をむくことを業とする、ひとりの女がおりました。さて、ある日のこと、その女のところに、極上の胡麻を一升《ひとます》持ってきて、こう言ったひとがありました、「ある病人が、お医者にもっぱら胡麻療法をするようにと、命じられました。そこでこれを持ってきたから、ひとつ念入りにごみを除いて、莢《さや》を取ってもらいたい。」そこで女は受け取って、すぐに仕事にかかり、その日の暮れるまでに、ごみを除き、皮を剥き終えたのでした。莢を取った、いかにも食欲をそそる、その白胡麻を見ると、まことに快いことでした。そこで、その辺をうろついていた鼬《いたち》は、ひどく気を誘われずにはいないで、夜になるとさっそく、胡麻を、入れてある皿から、自分の隠れ家に運ぶことに、とりかかりました。そしてだんだんに運んで、朝になると、皿の上にはもうほんのわずかの胡麻しか残っていないのでした。
ですから鼬は、自分の穴に隠れていて、莢取り女がこのほとんど中身の空《から》になった皿を見たときの、驚きと腹立ちが察せられました。女が叫ぶのが聞こえました、「ああ、この泥棒が見つからないものかしら。これはきっとまた、猫が死んでから家《うち》を荒らしまわっている、あの小鼠の畜生たちのしわざにちがいない。ただの一匹でも見つけたら、やつらの仲間全部の悪事《わるさ》を、きっと懲らしめてやるんだが。」
鼬はこの言葉を聞くと、ひとりごとを言いました、「これは、私がこの女の恨みを少しも買わずにすますには、ぜひとも、女の小鼠にかけた嫌疑を、深めるようにしておかなければならない。さもないと、きっと私のせいにして、脊骨を折られかねないわ。」そこですぐに小鼠に会いに行って、言いました、「おお妹よ、お隣り同士はみんなお互いさまです。ご近所に住んでいる方々のことはちっとも気にかけず、喜びごとのあるときにも、家《うち》の女たちが作ってくれたおいしいお料理とか、大御馳走のためにこしらえたお菓子などを、ひとつもご近所にお届けしないような、自分勝手な隣人ほど、いやらしいものはございませんわ。」すると小鼠は答えました、「ほんとにそのとおりですわ、あなた。ですから、あなたはほんの二、三日前から、こちらにいらっしゃったばかりですけれど、こんどご近所になって下さったことと、そうして嬉しいお気持を言って下さることには、私はどんなに悦ばなければならないことでございましょう。どうかアッラーは、お隣りさまをみな、あなたのように礼儀正しく、お愛想のよい方々にして下さいますように。けれども、どういう知らせをして下さいますのでしょう。」鼬は言いました、「ここの家にいるお婆さんは、とびきり新しくておいしそうな胡麻を、一升《ひとます》受け取ったのです。そこでお婆さんは、子供たちといっしょに腹いっぱいそれを食べて、もうひとつかみかふたつかみしか残っておりません。それで私はこのことをお知らせにあがったわけです。というのは、あんながつがつした子供たちよりは、あなたがおいしい目を見なさるほうが、どんなにましか知れないと思いましたの。」
この言葉に、小鼠はもう大悦びで、ぴょんぴょん跳ねて、尻尾を動かしはじめました。そしてよく考える暇もなく、鼬の偽善者めいた様子にも気づかず、音も立てずに待ち伏せしている女にも、注意をくれず、また鼬にこんな見上げたふるまいをさせる動機《いわれ》はいったい何なのか、いぶかりさえしないで、小鼠は全速力で駈け出して、胡麻が皮をむかれて、まばゆく輝いている皿のただ中に、飛びこんだものでした。そしてがつがつと口いっぱいに胡麻を頬張りました。けれどもそれと同時に、女は戸の蔭から出てきて、棒でひと打ちして、小鼠の頭を割ってしまいました。こうしてかわいそうな小鼠は、軽はずみに信頼したばかりに、他人の悪事を、自分の一命でもって支払ったのでございます。
[#ここから1字下げ]
――この言葉を聞くと、シャハリヤール王は言った、「おおシャハラザードよ、この小話は、まこと慎重の戒めを余に垂れるものじゃ。もしこれを昔聞いていたならば、余はわが手にかけた放埓のわが妃《きさき》と、裏切りの手伝いをしたかの不忠なる黒人の宦官どもに、限りない信頼を置くを控えたことであろうが……。しかし、なにか忠実な友情の物語を聞かせてはもらえぬものかな。」
するとシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
烏と麝香猫の話
わたくしの聞き及びましたところでは、むかし一羽の烏と一匹の麝香猫が、お互いにかわらぬ友情を抱いて、閑《ひま》なときをいろいろと遊び戯れて過ごしておりました。さて、ある日彼らは、周囲に起こっていることに、ほとんど気をくばっていなかったところを見れば、きっとなにか面白いことをいろいろ語らっていたのでしょう。夢中になっていると突然、森に響き渡るものすごい虎の叫び声で、はっと気がついたのでした。
友と並んで木の幹にとまって、下にいた烏は、すぐに、急いで高い枝に飛んでゆきました。麝香猫のほうは、あわてふためき、猛獣の吼え声がどちらに起こったか、はっきりわからなかっただけ、いっそう逃げ場に困ってしまいました。思い惑いながら、麝香猫は烏に言いました、「ねえ、どうしましょう。なにかあたしにこうしろということはないの。なにかうまく助けて下さる道はないの。」烏は答えました、「どうして君を放っておくものか、美しい友よ。君の窮地を救うためなら、ぼくは万難を排する覚悟だよ。けれども君を助けに飛び立つまえに、これについて詩人の言ったところを、まあ言わせてくれたまえ。
[#ここから2字下げ]
真の友情とは、おのが斃るるを顧みず、愛する者を救わんとて、汝を駆って危難に躍り入らしむるがごとき、友情にこそあれ。
汝のとくに選ぶ兄弟に再会せんがためには、汝をして財をも、両親をも、家庭をも、棄てしむるがごとき、友情にこそあれ。」
[#ここで字下げ終わり]
それから、この詩句を誦してから、烏は息つくまもなく翼を動かして、おりから近所を通りかかった羊の群れのほうに、急ぎ飛んでゆきました。それは獅子よりもたくましい、大きな犬たちに守られていました。そして烏は、まっすぐにその犬のなかの一頭に向かって行って、頭上に襲いかかり、嘴でしたたか突っつきました。それから別な犬に襲いかかって、同じようにしました。こうして全部の犬を怒らせておいて、自分はその歯牙にかからない程度に、犬たちをおびきよせ、追いかけさせるにちょうどよいぐらいの距離をおいて、ひらひら飛びはじめました。そして犬を馬鹿にするみたいなふうに、声をかぎりに、かあかあ啼きたてました。それで犬たちはますます怒りたけって、烏を追っかけはじめ、とうとう森のまん中まで、おびき寄せられました。すると、犬の吠え声が森中に充ち満ちたので、これはもう虎も、恐れて逃げたにちがいないと考えて、烏は犬たちを遥かあとに置き去りにして、本気に飛び去ってしまい、犬もやむなく、空しく羊の群れの方に戻りました。それから烏は、こうして友の麝香猫を差し迫る危険から救ってやって、ふたたびそのもとにゆき、二人はいっしょに、まったく太平無事に暮らしたのでございました。
[#この行1字下げ] ――「けれども、おお幸多き王さま、」とシャハラザードはつづけた、「わたくしは早く烏と狐の物語[#「烏と狐の物語」はゴシック体]を、お話し申し上げたく存じます。」
烏と狐の話
語り伝えますところでは、昔かずかずの悪事と掠奪を重ねて、心のやましい一匹の年とった狐が、つれあいの牝狐をいっしょに連れて、獲物の多い山の峡間《はざま》の奥にひっ込みました。そしてそこで、小さな獲物をさんざん取りつくしたので、もう山中に一匹もいなくなってしまい、遂には自分が飢え死にしないためには、ちょうどほどよく肥えた、自分自身の子供たちをまず食べ、次には、非道にもつれあいまで殺して、たちまち食らいつくしてしまったのでした。それがすむと、もう食べるものは何ひとつ残っておりません。
ところが、この狐は、今一度場所を変えるにはあまりに年をとってしまいましたし、兎を追ったり、鷓鴣《しやこ》をすばやくつかまえたりするには、もう十分身軽でなくなっておりました。狐が、こうした面前の世界を暗くしてしまうような思いにふけっておりますと、そのとき一本の木のてっぺんに、一羽の烏が、疲れてとまるのが見えました。そこですぐに、狐は心中考えました、「万一この烏にうまく渡りをつけて、おれの仲間になる決心をさせることができたら、どんなにもっけの幸いというものだろう。あいつは立派な羽を持っているから、おれのきかなくなった老いぼれ脚にはもうかなわない仕事も、できるわけだ。こうして、あいつはおれに食物を取って来てくれるだろうし、それに、そろそろ身にこたえてきたこの淋しさの、相手になってもくれるだろう。」そして考えるが早いか、実行しました。自分の言うことがよく聞こえるようにと、烏のいる木の根元まで進み寄って、このうえなくまことしやかな挨拶《サラーム》ののち、狐は烏に言いました、「おお隣りのお方よ、先刻ご承知のとおり、あらゆる善良な回教徒というものは、隣人の回教徒に対して、二つの長所を持つものです。回教徒たる長所と、隣人たる長所です。ところで、私はためらうことなくあなたに、私に対するこの二つの長所を認めます。それにまた、私はこの胸中深く、自分があなたの優しさのうちかちがたい引力に、とらえられるのを感じ、一方自分にも、あなたに対する親愛の情の否みがたい気持を見いだすのです。だがあなたのほうでは、おお烏さん、私に対してどんな気持をおぼえなさいますかな。」
この言葉に、烏は吹き出して、もうすこしで木から転げ落ちるほど笑いました。それから狐に言いました、「まったくこれは驚いた。いったいいつからのことですかい、おお狐さん、こんないつにもないご好意は。いったいいつから、真心《まごころ》があんたの心のなかにはいったのかねえ、今までついぞ舌の先にしかあったためしがないが。またいつから、われわれみたいにこんなにちがう種族が、そんなにも、まったくひとつにとけ合うことができるようになったのですかね、――あんたは獣《けもの》族だし、私は鳥《とり》族だが。それにわけても、おお狐さん、あんたはじつに口達者だから、ひとつ聞かせてもらいたいが、そもそもいつから、あんたの種族の動物たちは食う側、われわれの種族の烏たちは食われる側ということが、やめになったのですかねえ。そりゃ、こう言えばびっくりするかも知れないが、なにも驚くにはあたらないことさ。さあ狐さん、老獪の爺さんよ、あんたのりっぱなお言葉は、みんな自分の袋に戻して、証拠を見せたこともない友情なんて、願いさげにしてもらいましょう。」
すると狐は言いました、「いや、これは賢明な烏さん、まことに理屈はそのとおりです。けれどもおよそその被造物の心を作り、私の心中に、突然あなたに対するこのような気持を起こさせたもうた御方《おんかた》にとっては、何ごとも不可能というものはないということを、よく心得ておきなされ。ところで、ちがう種族の者どもも、りっぱに相和すことができるということを証明するには、かつはあなたが正当に私に求めなさるその証拠を、お目にかけるには、私の聞き及んだ蚤《のみ》と小鼠の話を、お聞かせするにしくはないと思います、もっとも、あなたが聞いて下さろうというならばのことだが。」
すると烏は言いました、「証拠を見せるというのなら、その蚤と小鼠の物語[#「蚤と小鼠の物語」はゴシック体]というやつを、悦んで聞きましょう、ついぞ聞いたことのない話だから。」そこで狐は言いました。
「おお、外はかくも黒いが、内はかくも白い優しい友よ、古今の典籍に通ずる碩学《せきがく》たちの語るところでは、昔一匹の蚤と鼠が、ある金持ちの商人の家に居を定め、それぞれ自分にいちばん適した場所に、住みついたとのことです。
ところが、一夜、蚤はいつも飼い猫の辛《から》い血ばかり吸っているのにあきあきして、商人の妻女の寝ている寝床に飛びこみ、その着物の間にうまくはいりこんで、そこから肌着の下に滑り入って、腿に行き着き、そこから鼠蹊《ももね》の襞にはいって、ちょうどいちばん微妙な場所に着いた。ところがまったく、この場所は実に微妙で、柔らかく、白く、望みどおり滑《なめ》らかなことがわかった。ざらざらなところはさらになく、無遠慮な毛なぞ一本もない。それどころか、おお烏さん、正反対なのだ。まあ簡単に言えば、蚤はそこに御輿《みこし》を据えて、この慈悲の宿で、妻女のおいしい血を吸いはじめた。しかし蚤はあまり遠慮なく自分の食事をやったので、若い妻女は刺されてちくりとして眼が覚め、急いで大切な場所に手をやった。蚤は、女子特有のこの着物の数知れない襞をくぐって、巧みに下穿きからのがれ出して、そこから床《ゆか》に跳ねおり、自分の前に見えた最初の穴に駈けこんで身を隠したからよかったものの、さもなければ、まちがいなくひねり潰されるところであった。蚤のほうはこういう次第でした。
ところで若い女のほうはというと、痛さにわめき声をあげたので、女奴隷が全部駈けつけてきて、ご主人の痛みの動機《いわれ》がわかると、みんな急いで両袖をたくしあげ、すぐに着物のなかの蚤を、探しに取りかかった。二人が寝衣《ねまき》を見、一人が肌着を見、もう二人が寛やかな下穿きを受け持って、全部の襞をひとつひとつ次々に広げはじめ、一方若い女は丸裸で、燭台の光をたよりに、自分で自分のからだの前を調べ、お気に入りの女奴隷は、祝福の尻をこまかに検査した。しかし、おお烏さん、なにも全然見つからなかったことは、よくおわかりだろう。妻女のほうはこういう次第でした。」
すると烏は叫びました、「けれども、この話全体を通じて、いったいどこに、あんたのいう証拠があるのですかい。」狐は言いました、「ちょうどこれから始まるところですよ。」そしてつづけました。
「はたして蚤の身を隠した穴こそ、小鼠の宿そのものだったのです……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十一夜になると[#「けれども第百五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「はたして、蚤の身を隠した穴こそ、小鼠の宿そのものだったのです。そこで小鼠は、蚤がこうしてなれなれしく自分の家にはいってくるのを見ると、すっかり気色を損じてどなりつけたものだ、『おまえはいったい何をしに、ひとの家にはいってきたのよ、おお蚤よ、おまえは私の一族でもなければ、身内でもなく、元来|居候《いそうろう》なんだから、おまえが来ればろくなことがありはしないのに。』けれども蚤は答えた、『おお、客あしらいのいい小鼠さん、こういうわけなのです、私がこんなにぶしつけにお宅に飛び込んだというのは、けっして私の本意ではなく、この家の女主人に殺されそうになったのを、のがれるためだったのでございます。それというのも、ただちょっとばかり血を頂戴しただけのためなのです。なるほど、その血は極上のもので、すばらしくふっくらして温かく、この上なく消化《こなれ》のよい代物《しろもの》にはちがいございませんでしたけれど。そこで私はあなたのご親切を信じて、こちらさまに頼って、危険の過ぎ去るまで、どうぞお宅に置いていただきたいと存じてまいったのですの。ですから、私はあなたを苦しめて、この住居から逃げ出させるような羽目にするどころか、きっと私たちが出会ったことをアッラーに感謝なさるぐらい、強いお礼心をあなたに対して持つでございましょう。』すると小鼠も、蚤の口調の誠意あることを信じて、これに言った、『ほんとうにそういうわけなら、おお蚤さん、ご心配なくこの宿にいっしょにいて、安らかにここに暮らしていてかまいませんわ。そして善きにつけ、悪しきにつけ、共に苦楽を分かちましょう。けれども、ここの奥さんの腿から飲んだ血のことは、なあに、かまうことはありませんよ。安心しておいしく消化《こな》しなさるがいいわ。誰だって、自分のできる場所で食物を見つけるのですし、それにはなにもいけないことはありませんもの。アッラーが私たちに生命《いのち》を下さったのは、けっして私たちがみすみす、飢えたり餓《かつ》えたりして死ぬためではございませんわ。それに、これについては、こういう詩もあります。往来で、行者《サントン》さまが歌っているのを聞いたのです。
[#ここから2字下げ]
われは地上に、肩の荷となり、あるいはわれを繋ぐがごとき、一物もなし。家具もなければ、頑《かたく》なの妻もなく、家もなし。おおわが心よ、汝は身軽し。
一片のパン、ひと口の水、ひとつまみの塩の塊りだにあらば、もってわが身を養うに足る、われはひとり身なれば、着古せし一着の衣はわが衣服たるべく、それすらなお過ぎたるものぞかし。
パンは、われこれを見いずるところに取り、天命はその来たるにまかす。人は何物もわれより奪う能わず。しかして生きんがため、わが他人より取るところは、彼らの残余なり。わが心よ、汝は身軽し。』
[#ここで字下げ終わり]
蚤はこの小鼠の談義を聞くと、この上なく心を打たれて、これに言いました、『おお小鼠さん、お姉さま、これから私たちは、いっしょにどんなに楽しい生活を過ごすことでしょう。どうぞアッラーは、私にご親切のお返しができる時を早めて下さいますように。』
ところが、そのときはすぐに来たのです。はたして、すぐその夜、小鼠が商人の部屋にうろつきにゆくと、なにか金物《かなもの》の鳴る音が聞こえるので、よく見ると、商人が小さな袋に入れたたくさんのディナール貨幣を、一枚ずつ数えているのが見えた。全部を調べ終えると、商人はこれを枕の下に隠して、寝床の上に横になって寝入った。
そこで、小鼠は駈け戻って蚤に会い、これに今見てきたところを話して、さて言った、『いよいよ、あなたに私の手助けをしてもらうときが来ました。私といっしょに、あのディナール金貨を商人の寝床から、私の宿まで運んで下さるのです。』この言葉に、蚤はあまりにとほうもないことと思って、驚いて気が遠くなるほどだったが、やがて悲しげに小鼠に言った、『あなたは、お気がつかないのですわ、おお小鼠さん。私の丈《せい》をごらんなさいな。どうして私の背に載せて、金貨一枚を運べましょう、蚤が千匹集まったとて、ただ動かすことさえおぼつかないものを。けれどもこの際、私はあなたに非常なお役に立つことができますわ。というのは、私はちっぽけな蚤の身ではございますけれど、あの商人自身を、部屋の外どころか家の外までも、運び出すことを引き受けます。そうすれば、あなたはあの場所を占領して、ゆるゆると、急がずに、ディナール金貨をご自分の宿に運べるというものです。』すると小鼠は叫んだ、『いかにもそのとおりですわ、親切な蚤さん、まったく私は気がつかなかった。私の宿のほうは、十分広いから、あの金貨が全部はいりきるし、それに、万一あそこに閉じこめられ、穴を塞がれるような場合に備えて、私はあそこに七十も出口をつけておきました。では急いで、そのお約束のことを工夫して下さいよ。』
そこで、蚤はぴょんぴょん跳んで、商人の寝ている寝床の上に上がり、まっすぐ商人の尻に向かって行った。そしていちばん微妙な襞をよく選んだうえで、そこに御輿《みこし》を据え、これまでどんな蚤だって、人間の尻に噛みついたことのないほどひどく、大切な場所にじかに噛みついたものだ。それにつづく刺すような痛みに、商人は眼が覚め、急いで大切な場所に手をやったが、蚤は早くも遠くに逃げてしまった。商人は口ぎたなく罵《ののし》りはじめ、その叫び声は家中に空しく鳴り渡った。それから、いく度も寝返りをうって、商人はまた眠ろうとした。けれども敵のことを抜かっていたわけだ。はたして、蚤は商人が寝床のなかに頑張っているのを見ると、ものすごい勢いで、ふたたび襲って、こんどは、大切なところと下の商品との間にある、あの敏感な場所を力いっぱい刺しに行った。
するとそのとき、商人はわめきながら飛び上がって、蒲団も着物もかなぐり棄てて、家の中庭の井戸のほとりに駈けつけ、冷水でからだを濡らした。そしてもう自分の部屋に帰ろうとせず、そのまま中庭の腰掛の上に横になって、夜の残りを過ごすことにした。
それで小鼠は、なんの苦もなく、商人の金貨全部を自分の宿に運ぶことができた。そして朝になったときには、袋の中には、もうただの一ディナールも残っていなかった。
こうして蚤は小鼠の恩義に報いることができ、百倍にして埋め合せをすることができたのです。」
「それであなたも、おお烏さん、」と狐はつづけました、「われわれの間で、取り結んでいただきたいと思う友好条約の報いとして、あなたに対する私の忠義立てがどのくらいの割になるか、やがておわかりになることと存ずる次第です。」
けれども烏は言いました、「実際のところ、狐殿、あんたの話は、なかなかもって私を得心させはしない。それに、結局のところ、善根を施そうが施すまいが、それは自分の勝手でさ、わけてもその善根が多分禍根となりそうなときにはねえ。ところで、今はまさにそういった場合ですよ。現に、あんたといえば昔から、不実と違約にかけては有名なものだ。そんなに名うての誠意のない曲者《くせもの》で、ごく最近も、自分の従兄弟《いとこ》の狼を裏切って、生命《いのち》を落とさせることまでよくもできた者を、どうして私が信用できるものかね。というのは、おお裏切り者めが、その悪事は百も承知だ。噂は動物族全部に、ぐるっと行き渡ったからね。同種じゃないにしろ、同族のある一人と、永いこと付き合い、さんざんお世辞をつかっていたくせに、そのあげく平気でその身を滅ぼさせたとすれば、その分じゃ、自分とは全然ちがう種族の者にならば、そいつを破滅させることなんて、あんたにとっては、朝飯まえのことにちがいあるまいが。だから、それについてはちょうどいいあんばいに、われわれの今の場合にそっくりあてはまる話を思い出すね。」狐は叫びました、「どういう話かな。」烏は言いました、「禿鷹《はげたか》の話だよ。」けれども狐は言いました、「その禿鷹の物語[#「禿鷹の物語」はゴシック体]とやらいうのは全然知らないが。ひとつどんなことか見せていただきたい。」すると烏は言いました。
「昔、おお狡猾《ずる》の親玉よ、一羽の禿鷹がいて、そいつの悪逆ときては、前代未聞、あらゆる度を越えたものだった。大鳥小鳥、どんな鳥もこれにいじめられずにすんだものはなく、あらゆる空の狼と地の狼に、恐怖の種をまき散らし、そのためこいつが近づいてくると、獰猛このうえない猛獣も、持っているものを全部放り出して、その恐ろしい嘴と逆立った羽に、恐れをなして逃げ出したものだ。ところがやがて、やつの頭上に積み重なる歳月が、やつの全身の毛を脱《ぬ》け落ちさせ、爪をすり減らし、怖い上下の嘴をぼろぼろに欠き、そしてからだの不調といっしょになって、全然そのからだを利かなくし、翼を役に立たなくしてしまった。すると禿鷹は、まったく憐れみの的《まと》となりはて、昔の敵たちも、その悪逆の仕返しをすることさえ馬鹿馬鹿しくなり、ただ軽蔑してあしらうだけであった。そして禿鷹はぜひなく、鳥や獣《けもの》の残した残飯で我慢して、身を養わざるを得なかった。
そしてあんたは、おお狐よ、あんたには体力こそなくなったにしろ、悪辣《あくらつ》のほうはまだいっこうなくなってないことがわかる。なぜって、あんたは自分の現在の無力の結果、『贈与者』のご好意のおかげで、まだ翼の元気、目の鋭さ、嘴の光沢《つや》を、そっくりそのままなくしていないこの私と、同盟しようというのだからね。悪いことは言わない。雀[#「雀」はゴシック体]の真似はやめにしてもらおうぜ。」すると狐は訊ねました、「雀の真似とは何のことです。」烏は言いました、「まあ聞くがいい。
私の聞いたところでは、昔、羊の群れが草を食っている牧場に、一羽の雀がいあわせた。そして羊のあとについて、嘴で地を漁《あさ》っていると、そのとき突然、一羽の大鷲が小さな仔羊に襲いかかって、爪にかけてさらい、そのまま遠くに姿を消すのを見た。これを見ると、雀は大得意でわが身を眺め、満足げに羽を広げて、心中ひとりごとを言った、『なあにこのおれだって飛べるぞ。大きな羊をさらうことだってできるさ。』そう言って、見つかったなかでいちばん大きな羊を選んだ。それは腹の下の毛がもう、夜ごとの小便がしみて、ひっついて腐った塊りになっているというほど、古い毛がもじゃもじゃ生えた羊だった。雀はその羊の背中に襲いかかって、そのまま持ち上げようとした。ところが、飛び立とうとするや否や、毛の房に足を取られて、自分自身が羊に捕えられてしまった。そこに羊飼いが駈けつけてきて、雀をつかまえ、翼の羽を引き抜き、足に紐を結《いわ》いつけて、自分の子供たちの玩具《おもちや》にそれをやって、子供たちに言った、『この鳥をよく見るがいい。こいつは自分よりも強い者に、わが身を比べようとしたのが、運のつきさ。それでつかまって罰を受けたわけだよ。』
そしてあんたは、おおからだの利かない狐よ、あんたもずうずうしく私に同盟なんて言い出すからには、わが身をこの私に比べようというわけだ。さあさあ、いんちき爺さん、悪いことは言わない、さっさと背中を向けるがいいぜ。」そこで狐もさすがに、この烏みたいに抜け目のないやつを騙《だま》そうとしたって、もうむだだとさとりました。そしてくやしくてならず、あまり強く歯ぎしりしはじめたので、とうとう大きな歯を一枚欠いてしまいました。すると烏は意地悪く、狐に言いました、「私がことわったため、あんたが歯を欠いたとは、じつもってお気の毒に耐えませんな。」けれども狐は限りない尊敬をこめて、烏を見上げて言いました、「いやこの歯を欠いたのは、なにもあなたがことわったためじゃない。この私よりも悪知恵のある者に出会ったのを、恥じいったあまりですわい。」
この言葉を残して、狐は急ぎ退散して、くやしさを隠しに行ったのでございました。
[#ここから1字下げ]
――「以上が、おお幸多き王さま、」とシャハラザードはつづけた、「『烏と狐』の物語でございます。これは少しばかり長かったかも知れません。けれども、もしアッラーが明日までわたくしに生命《いのち》を授けたまい、そしてもしそれが君の御意《ぎよい》とあらば、わたくしはさらにアリ・ベン・ベッカル王子と美しきシャムスエンナハールの物語[#「アリ・ベン・ベッカル王子と美しきシャムスエンナハールの物語」はゴシック体]をば、お話し申し上げるつもりでございます。」
けれども、シャハリヤール王は叫んだ、「おおシャハラザードよ、鳥獣の物語が余の心を楽しませなかったとか、あるいは長々しく思えたとか、思っては相成らぬ。それどころではなかったぞよ。のみならず、そちがそれに類した他の物語を知るとあらば、それを聞くのもさらにいとわぬ、それによって余の得るところのためのみにても。さりながら、そちが別の物語をと申すからには、してそれは、題名のみにても、すでに申し分なく妙と思われるから、余は悦んで聞くといたそう。」
けれどもシャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、王に翌日まで待つように乞うた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]けれども第百五十二夜になると[#「けれども第百五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
[#改ページ]
アリ・ベン・ベッカルと美しきシャムスエンナハールの物語
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、かつて現われ出ては過ぎ去った教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代、バグダードに、アバールハサン・ベン・ターヘルと呼ぶ、たいへん姿がよく、たいへん金持の、一人の年若い商人がおりました。彼は確かに、「大|市場《スーク》」のあらゆる商人の中で、一番美しく、一番愛想がよく、一番立派な服装《みなり》をしておりました。ですから、彼は王宮の宦官長からとくに選ばれて、御愛妾たちの必要としそうな、反物とか、宝石とか、あらゆる品々の御用達をしていたのでございました。そしてこれらの貴婦人たちも、ときどき命じる御用のことについては、彼のよい趣味と、特に今まで何度も試験済みの、彼の口の固いことを、もう目をつぶって信用しておりました。それに彼は、注文をしにくる宦官たちにはいつも、あらゆる種類の茶菓を振舞い、その度ごとに、彼らがそれぞれの女主人のもとに占めている地位に適わしい、贈物をすることを欠かしませんでした。ですから、若いアバールハサンは全王宮から深く愛されて、ついには教王《カリフ》御自身のお眼にも止まるようになったほどでした。教王《カリフ》は彼を御覧になりますと、その上品な物腰や、人好きのする美貌や、穏やかな容色のために、すぐさま彼を好きになっておしまいになりました。そして彼には昼夜を問わず、どんな時間でも、自由に王宮に出入することをお許しになりました。そして、若いアバールハサンはそのあらゆる美点に加えて、さらに歌と詩の天賦も兼ねそなえておりましたので、美しい声ときれいな朗吟を、何よりも高く評価されていた教王《カリフ》は、彼をしばしば御陪食に召され、完全な韻律の詩句をいろいろ即吟させなすったのでございました。
こういうわけで、アバールハサンの店は、バグダードにいる王族《アミール》や名士の御曹子《おんぞうし》の中の美青年や、貴族《アミール》の顕官や侍従の奥方など、すべての人々に、最も有名なものになっておりました。
さて、アバールハサンの店の一番熱心な常連の一人に、ある若い貴公子がおりまして、これはアバールハサンの格別な親友となっておりましたが、それほど美貌で、人をひきつける貴公子でした。それはアリ・ベン・ベッカル(1)といって、ペルシア古代の諸王の後裔でありました。体つきは愛らしく、顔はみずみずしい薄紅《うすくれない》の頬をして、眉は申し分ない線を描き、歯は微笑をたたえ、話しぶりの快い人でございました。
ところで、ある日のこと、若い王子アリ・ベン・ベッカルが、店の中で友人のアバールハサン・ベン・ターヘルのそばに腰を下ろし、二人で談笑しておりますと、そこに、月のように美しい十人の乙女が、やって来るのが眼にとまりました。この乙女たちは、錦襴の馬具をつけた、葦毛《あしげ》色の牝騾馬に乗っている、十一人目の乙女を取り巻いておりました。そしてこの十一人目の乙女は、薔薇色の絹の大面衣《イザール》で身を包み、大粒の真珠と宝石をちりばめた、五本の指の幅のある帯で、胴を締めておりました。その顔はすき透る小|面衣《ヴエール》に覆われ、二つの眼はこれを通してきらめいておりました。手の肌は、見るからに絹にも劣らぬほど柔かく、白い色のうちに休らい、指は金剛石をぎっしりとつけ、そのためますますほっそりとしか見えませんでした。その胴や身体の輪郭については、見ることのできる僅かから判断しても、いかにも素晴らしいものと察せられたのでございました。
この美わしい一行が店の戸口に着くと、その若い女は奴隷女たちの肩に支えられながら、地上に降りて、店の中にはいりました。そしてアバールハサンに平安を祈りましたので、彼もこの上なく深い敬意のしるしを示しつつ、これに祈りを返し、いそいで座蒲団《クツシヨン》と長椅子《デイワーン》を整え、それにお坐り下さるようにと勧めて、それから直ぐに、御注文を待って、やや離れたところへ、引き下りました。すると若い女は、無造作に金地の反物や、金銀細工や、薔薇香精の瓶などを、いくつか選び始めました。次に、アバールハサンの家では別に気兼ねする必要もなかったので、ちょっとの間、顔の小さな面衣《ヴエール》を上げ、こうして、何のたくらみもなく、自分の美しさを輝きわたらせたのでございました。
ところが、若い王子アリ・ベン・ベッカルは、慎しみから店の奥に引きこんでいましたが、かくも美しい顔をちょっと見たと思うと、すぐに讃嘆の念に打たれて、情熱が肝臓の奥で点火されました。そしてそこを立ち去るような様子をいたしますと、前から同じように彼に気がつき、やはり秘かに心を動かされていた美しい乙女は、アバールハサンに向って、見事な声で申しました、「わたくしのために、お客様方が出ていらっしゃるようではこまります。あのお若い方に、どうかそのままにしていて下さるようにお勧めして下さい。」そして、彼女は彼女の微笑でもって微笑みました。
この言葉を聞きますと、王子アリ・ベン・ベッカルは自分の願いの極に達して、慇懃におくれをとってはならぬと思い、乙女に申しました、「アッラーにかけて、おお御主人様、私が立ち去りたくなったと申しますのは、ただお邪魔になることを恐れたばかりではございません。お姿を拝見したときに、私はあの詩人の詩句を思ったがゆえでもございます。
[#ここから2字下げ]
おお、太陽を仰ぐ汝よ、見ずや、太陽はいかなる人の眼にも計る能わぬ高処に住むを。
されば汝は翼なくして太陽に達し得るものと思うにや。あるいは、おお迂闊の者よ、太陽は汝の許まで降り来たるを見ると信ずるや。」
[#ここで字下げ終わり]
絶望的な口調で唱せられた、この詩句を聞きますと、乙女はこの詩句を吹きこんだ優しい感情に心を魅されましたが、さらに、自分を恋う人の愛すべき様子には、もっと強く心を征服されました。そこで彼女はにこやかな眼差《まなざ》しを彼に投げて、それから、若い商人に近くへ来るように合図をし、これに低い声で尋ねました、「アバールハサン、あのお若い方はどなたなの、どこの方なの。」彼は答えました、「あれは王子アリ・ベン・ベッカルと申されて、ペルシアの諸王の後裔でいらっしゃいます。あの方は美しいと同じように、身分もお高いのでございます。そして、私の一番の親友なのです。」――「好ましい方ね」と若い女は言葉をつづけました、「ですからアバールハサン、わたくしがここを出てから、間もなく、わたくしの女奴隷の一人が来て、あなたとあのお方と、お二人をわたくしに会いに来て下さるように、お誘いしても驚かないで下さいませ。というのは、わたくしはあの方に、バグダードには、ペルシア諸王の宮廷より、もっと美しい宮殿や、もっと美しい婦人たちや、もっと上手な舞妓《アルメツト》たちがいることの、証拠をお見せしたいのです。」すると、アバールハサンは、事を呑み込むのにこれ以上言われる必要なく、身を屈《かが》めて、答えました、「私の頭と眼の上に。」
すると、若い女は小|面衣《ヴエール》をまた顔の上に戻して、後ろに、白檀と素馨《ジヤスミン》のなかにしまっておいた衣裳の香を残しつつ、出て行ったのでございました。
アリ・ベン・ベッカルはと申しますと、ひとたび美の女王が出掛けてしまいますと、しばしの間は、自分がもう何を言っているのかわからない有様で、アバールハサンはこれに、ほかのお客様方がその動揺に気づいて驚きはじめていることを、告げずにいられなかったほどでした。すると、アリ・ベン・ベッカルは答えました、「おお友よ、わが魂がわが身体《からだ》から抜け出して、しきりにあの月に追いすがろうとするのを見て、どうして私が動揺せず、また私自身驚かずにいられようか、あの月は私の心を、精神に相談もせずに、己《おの》れを与えることを余儀なくするのだ。」それから、つけ加えました、「おお、ベン・ターヘルよ、お願いだ、君は知り合いのようだが、あの乙女はどういう人なのだ。急いで話してくれたまえ。」アバールハサンは答えました、「あれは信徒の長《おさ》のとくに選ばれた寵姫なのです。名前はシャムスエンナハール(2)というのです。あのひとは教王《カリフ》から、御正妻の妃《シート》ソバイダ御自身にもまさる敬意をもって、遇せられているのです。あのひとは自分だけのお館《やかた》を持っていて、そこでは、宦官たちの監視の的ともならず、絶対の女主人として号令していらっしゃる。というのは、教王《カリフ》が彼女を限りなく信用しておいでのためなのですが、それもまた無理のないことですよ。というのは、あのひとこそは宮中のあらゆる女の中で一番の美女でありながら、しかも、女奴隷や宦官たちから噂されることの、一番少ない人なのですからね。」
さて、アバールハサンがこうした説明を、友人のアリ・ベン・ベッカルにし終えたか、し終えぬうちに、一人の奴隷の少女が入って来まして、アバールハサンのすぐそばに近寄り、その耳もとで申しました、「私の御主人シャムスエンナハール様が、あなたとお友達のお二方に、王宮にお出で下さいとのことでございます。」するとすぐに、アバールハサンは立ち上って、アリ・ベン・ベッカルに合図をし、店の戸を閉め、アリを連れて、その奴隷の少女のあとに従《つ》いて行きますと、少女は先に立って歩き続け、こうして、二人を教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの王宮そのものに案内いたしました。
するとたちまちにして、アリ王子は、人がこれを言いあらわすことができる前に舌は毛むくじゃらになってしまうほど、すべての物が美しい、妖霊たちの住居そのものに、運び込まれたような思いがいたしました。けれども奴隷の少女は、二人に感激を言いあらわす暇も与えず、両手を打ち鳴らしますと、すぐに一人の黒人の女が、御馳走と果物を盛った大きな皿を担いで現われて、これを台の上に置きました。そこから立ち上る香《にお》いだけでも、すでに鼻孔と心にとっての香油でありました。ですから奴隷の少女は、この上ない敬意を払って、二人にこれを食べさせずにはいませんでした。そして二人が十分満腹したときには、香りの水を満たした金の瓶とたらいを、手を洗うために差し出しました。それから紅玉と金剛石をちりばめた、薔薇水を満たした水差しを差し出して、鬚と顔を洗うために、これを二人の左右の手に注ぎました。そのあとから、小さな金の香炉に入れた沈香《じんこう》を持ってきて、習慣どおり、これを二人の着物に焚きしめました。そして、これが済みますと、少女は二人のいた広間の扉を開けて、後からついて来るようにと申しました。こうして、少女は二人を、すばらしい構えの大広間に招じ入れました。
それは実際、丸天井《ドーム》を戴いた大広間でありまして、その丸天井《ドーム》は、この上もなく純粋な雪花石膏《アラパスター》製の透きとおった八十本の円柱に支えられていて、各円柱の台石と柱頭には精巧な細工の彫りが施され、黄金の鳥と四つ足の動物が飾られておりました。そしてこの丸天井は、黄金地の上に、見るも鮮やかな多彩の線が一面に塗られていて、これが広間を覆う大|絨氈《じゆうたん》と同じ模様を現わしておりました。また円柱と円柱の間に残る空間には、大きな花の鉢だの、あるいはただ、空《から》ではあるけれども、独自の美しさと、碧玉や、瑪瑙《めのう》や、水晶の肌色美しい大盃の類がございました。そしてこの広間は床と同じ高さの庭園に臨んでおりまして、この庭園の入口がまた、彩色陶器で、絨氈と同じ模様を現わしておりました。つまりそれによって、丸天井と広間と庭園とが、露天と静寂な紺青の下に、相連らなっていたのでございました。
さて、王子アリ・ベン・ベッカルとアバールハサンとは、この微妙な配置を感嘆しながら眺めているうちに、気がついて見ますと、はち切れそうな胸をした、眼の黒い、薔薇色の頬の、十人の若い女たちが車座に坐り、手に手に弦楽器を持っておりました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十三夜になると[#「けれども第百五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
薔薇色の頬の、十人の若い女たちが、手に手に弦楽器を持っておりました。そして、あのお気に入りの奴隷の少女が合図をいたしますと、女たちは一斉に、非常な甘美さの序曲を奏でました。それは、美しいシャムスエンナハールの思い出に心がいっぱいになっていたアリ王子は、涙が眼瞼《まぶた》にいっぱいになるのを覚えるような、曲でありました。そこで、彼は友人のアバールハサンに申しました、「ああ、兄弟よ、私は魂が揺り動かされるような気がする。そしてあの調べは、なぜかはっきりわからないが、私の心を泣かせる言葉を話しかけてくる。」アバールハサンは彼に申しました、「若殿よ、あなたの魂が安まり、ひたすらあの合奏に注意を向けなさいますように。やがてすばらしい曲になりそうですから。」
はたして、アバールハサンがこの言葉を言い終えぬうちに、十人の女たちは一斉に立ち上り、琵琶《ウーデイ》で伴奏しながら、次のような前ぶれの歌を歌い出しました。
[#2字下げ] おおわが眼《まなこ》よ、見よ、われらの「月」は進み出《い》ず。何となれば、「太陽」われらを訪れたまえばなり、王子なる若き「太陽」、シャムスエンナハールに敬意を表さんとて来たもうなり。
そこでアリ王子は反対側を眺めますと、十二人の若い黒人の女が、天鵞絨《ビロード》の天蓋に覆われた、銀無垢の玉座を肩に担いで、近づいて参りました。玉座の上には、一人の乙女が坐っておりましたが、玉座の前方に打ちなびく軽い絹の大面衣《イザール》の蔭になっていて、まだその姿は見ることができませんでした。この黒人女たちは胸も脚も露わにしておりました。そして一枚の絹と金糸の軽羅が、胴にぴたりとくっついて、担ぎ手たちの豊かな円味を浮き出して見せておりました。女たちは歌姫たちの真中に着くと、銀の玉座を静かに下ろして、木蔭へと引き退りました。
すると、一本の手が薄絹を押し開き、双《ふた》つの眼《まなこ》が月の顔《かんばせ》の上に輝きました。これぞシャムスエンナハールでした。彼女は金地に青の、軽やかな布地の大きな外套をまとっていました。これには真珠と紅玉がちりばめてありましたが、けしてたくさんではなく、僅かな数です、――ただ、すべてが計り知れぬほど選り抜きの、高価なものでした。さて、帳《とばり》が押し開かれますと、シャムスエンナハールは、顔の小|面衣《ヴエール》をすっかり上げまして、微笑しながら、アリ王子を眺め、軽く頭を下げました。するとアリ王子は溜息を吐《つ》きつつ、彼女を見つめました。そして二人はともに無言で語り合いましたが、この言葉によって、二人はしばしの間に、永い時をかけて語り合うことができたよりも、ずっと多くのことを言い交わしたのでございました。
けれども、シャムスエンナハールはついにアリ・ベン・ベッカルの眼から視線をそらして、女たちに歌を歌うように命じることができました。するとその一人は、急いで琵琶《ウーデイ》の調子を合わせて、歌いました。
[#ここから2字下げ]
おお天命よ、相慕う二人が心惹かれ合い、互いに愛《いと》しと思いつつ、接吻《くちづけ》の中に相結ばるるとき、そは誰が過ちぞ、汝にあらずば。
恋する女は言う、「おおわが心よ、生命《いのち》にかけて、さらに今ひとつ接吻を給えかし。妾《わらわ》も君に、さながらに、熱さも同じき、接吻《くちづけ》を返さん。君さらに熱きを望み給えば、そはまたいかにたやすかるらん。」
[#ここで字下げ終わり]
そのとき、シャムスエンナハールとアリ・ベン・ベッカルは溜息を洩らしました。それから、美しい寵姫が合図しますと、二番目の歌姫が、違った律呂《りつりよ》で歌いました。
[#ここから2字下げ]
おお、最愛の君よ、花々のつどう所を照らす光、最愛の君が眼《まなこ》よ。
おお、わが唇の飲みものを濾す毛孔《けあな》多き肌よ、おお、わが唇にいと甘き毛孔多き肌よ。
おお、最愛の君よ、妾《わらわ》が御身にめぐり会いしとき、「美」は妾《わらわ》を停《とど》めて囁きたり、
「これぞかの人なり。彼こそは神の御指《みゆび》より作り出されし人。彼こそは愛撫なり、豪奢なる刺繍のごとく。」
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞きますと、アリ・ベン・ベッカル王子と美しいシャムスエンナハールは、長いあいだ互いに見つめ合いました。けれども、すでに三番目の歌姫が語っておりました。
[#ここから2字下げ]
おおうら若き人々よ、愉しき時刻《とき》は水のごとく流れ去る、水のごとく速かに。われを信ぜよ、恋人らよ、待つことなかれ。
幸《さち》そのものに乗ぜよ、その約束は空しければ。御身らの年齢《よわい》の美と、また御身らを結ぶ瞬間《とき》をば、今よりして用うべし。
[#ここで字下げ終わり]
歌姫がこの歌を歌い終ったときに、アリ王子は長い溜息をつき、もうこれ以上感動を抑えることが出来なくなり、むせび泣きながら、涙の垂れるにまかせました。この様子を見ますと、これに劣らず感動していたシャムスエンナハールは、同じように泣きはじめましたが、自分の情熱に耐えきれなくなって、玉座から立ち上り、いきなり、広間の扉のほうに歩みよりました。するとすぐに、アリ・ベン・ベッカルも同じ方向へ走って行き、扉の大きな垂幕の蔭に着きますと、そこにいたわが恋人とぱったり出会いました。そして、相抱いたときの二人の感動はまことに大きく、陶酔はまことに強かったので、二人は互いに相手の腕の中で、気を失ったほどでありました。もし間《あいだ》をへだてて女主人のあとをつけてきた、女たちに支えられなかったとしたら、二人はきっと倒れてしまったことでしょう。女たちは急いで二人をともども長椅子《デイワーン》の上に運んで行きまして、そこで、しきりに花の水を振りかけたり、気付け香水を嗅がせたりして、二人に正気を取り戻させたのでございました。
さて、シャムスエンナハールがわれに返って一番初めにしたことは、あたりを見廻すことでした。そして友のアリ・ベン・ベッカルを見つけますと、嬉しそうな微笑を浮かべました。けれども、アバールハサン・ベン・ターヘルの姿が見えなかったので、不安にかられて、その行方を尋ねました。ところで、アバールハサンは慎しみ深く、ずっと遠くの方に退いていたのでしたが、彼としてみれば、もしこんな出来事が王宮中に拡まるようなことにでもなれば、どんな面倒な結果が持ち上るかも知れないと、気懸りでないことはなかったのでした。けれども寵姫が自分の所在を問い合わせていることに気がつきますと、早速、うやうやしく進み出まして、彼女の前に身を屈《かが》めました。するとシャムスエンナハールは彼に申しました、「おおアバールハサンよ、お前の親切な仲立ちは、とてもそれ相応には測りきれないものがあります。およそ、この世にある一番好ましいものと、わたくしの魂が自分の幸福の激しさのために絶え入るばかりのあのたぐいない瞬間《とき》とを、わたくしが知るのは、ひとえにお前のおかげです。おおベン・ターヘルよ、ようく心に留めて置いて下さい、シャムスエンナハールはけして忘恩の女ではございません。」するとアバールハサンは、寵姫の前に深く身を屈めまして、彼女のために、その魂の望み得る一切の願いが成就するようにと、アッラーに願ったのでございました。
そこでシャムスエンナハールは、友のアリ・ベン・ベッカルの方を向いて、申しました、「おお御主人様、わたくしの友情は、あなたの覚えなさることのできるどんな感情をも、熱度の点で凌ぐものではございますが、それでも、わたくしはもうあなたの御友情をお疑い申しません。けれども、悲しいことに、この王宮に繋がれて、自分の優しい思いをほしいままにすることのできないわたくしの天命は、何という天命でございましょう。」するとアリ・ベン・ベッカルは答えました、「おお御主人様、まことに、あなたの愛情は私に深く滲み込んで、それは私の魂と結びつき、完全に一体となってしまいましたので、たとえ私が死んだあとでも、私の魂は必ずあなたの愛情と結ばれたまま、絶対にいつまでもそれを保ち続けるでございましょう。ああ、自由に愛し合えないとは、なんと私たちは不仕合せなのでしょう。」そしてこの言葉を言い終ると、涙が雨のようにアリ王子の頬を浸し、それにひかれて、シャムスエンナハールの頬も涙に浸されました。
けれどもアバールハサンは、慎ましやかに二人に近寄って来て、申しました、「アッラーにかけて、私には、あなた方の涙がとんと合点がゆきません、お二人はこうして御一緒にいらっしゃるのに。では、もし別れていらっしゃったら、一体どういうことになるのでしょう。まったくの話が、今はお歎きなさるときではございません。晴れ晴れとなさって、楽しみと喜びに、時をお過ごしになる場合でございます。」
アバールハサンのこの言葉を聞きますと、かねてその忠告を重んじる習慣になっていた美しいシャムスエンナハールは、涙を干しまして、女奴隷の一人に合図をいたしますと、その女はすぐさま外に出て、間もなく数名の侍女を引き連れて、戻って参りました。その女たちはそれぞれ頭の上に、見るからにおいしそうな、あらゆる種類の御馳走を盛った、大きな銀の盆を載せておりました。そして、これらの皿を、ひとたびアリ・ベン・ベッカルとシャムスエンナハールの間の、敷物の上に下ろしますと、侍女たちは壁ぎわにぴったりと引き退り、その場にじっと控えました。
そこでシャムスエンナハールはアバールハサンに、黄金細工の皿鉢物の前へ、自分たちと差し向いに坐るように勧めました。それには果物が円味を帯び、捏粉菓子が熟しておりました。それから寵姫は自分の手で、それぞれの皿からひと口分を作り始めまして、それを自分で、わが友アリ・ベン・ベッカルの唇の間に入れてやりました。アバールハサン・ベン・ターヘルのことも忘れませんでした。そして彼らが食べ終えますと、黄金の皿が取り下げられて、銀細工のたらいに入れた、ほっそりした金の水差しが運ばれて来ました。そして彼らは水差しから注がれる香り高い水で、手を洗いました。それがすんで、改めて坐り直しますと、若い黒人女たちが、色つきの瑪瑙の盃を、深紅の小皿に乗せ、美酒を盛って差し出しましたが、それはもう眺めるだけで眼を楽しませ、魂を晴れやかにいたしました。そして二人は互いに見交わしながら、これをゆっくりと飲みました。ひとたび盃が空《から》になりますと、シャムスエンナハールはかたわらに歌姫と弾き手の女たちだけを置いて、女奴隷たちを残らず退出させました。
するとシャムスエンナハールは、今はすっかり歌う気持になっているのを覚えて、歌姫の一人に、まず序の曲を歌って、節づけするように命じました。その歌姫は早速、琵琶《ウーデイ》の調子をととのえて、しずかに次の序の曲を歌い出しました。
[#ここから2字下げ]
わが魂よ、汝は精魂尽き果てたり。恋の手は汝を弄んで口を割らしめ、あらゆる風に汝の秘密を撒きたり。
わが魂よ。われは汝をわが脇腹のぬくみの下に秘蔵しいたりしに、汝は逃《のが》れ出でて、わが懊悩をかき立つる男のもとに走りゆく。
流れ出《い》でよ、わが涙。ああ、汝はわが瞼より逃れて酷《むご》き男へとゆく。熱涙よ、汝もまた、わが恋人を恋い慕う。
[#ここで字下げ終わり]
すると、シャムスエンナハールは腕を差しのべ、盃を満たして、半分を飲み、そのままアリ王子に献じますと、彼はそれを取って、友の唇の触れたその場所に、わが唇をあてて、飲みました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十四夜になると[#「けれども第百五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……友の唇の触れたその場所に、わが唇をあてて飲みましたが、その間、楽器の絃は、弾き手たちの指の下で、嫋々《じようじよう》と顫えておりました。シャムスエンナハールは、また女たちの一人に合図をいたしまして、もう少し低い調子で、何か歌うように命じました。すると若い女奴隷は、しめやかに囁き出しました。
[#ここから2字下げ]
もしわが双の頬、眼の液に絶えず濡れ、
もしわが唇のひたる盃、掌酒子《しやくとり》の酒より多く、わが涙にて満たさるるとも、
アッラーにかけて、おおわが心よ、この混りたる酒水《ささみず》を、かにかくにも飲み乾せよ。そはわが眼より溢れたるわが魂の余剰《あまり》をば、再び汝がうちに戻すべし。
[#ここで字下げ終わり]
このとき、シャムスエンナハールは、歌の心を揺する音調にすっかり酔いしれるのを感じて、うしろに坐っていた女の一人の手から、琵琶《ウーデイ》を取り、眼を半ば閉じながら、心をこめて、次の見事な詩節を歌いました。
[#ここから2字下げ]
おお、かの君の眼の光よ、おお、うら若き羚羊《かもしか》の美よ、君、遠|退《の》かば、われは死し、君、近寄らば、われは酔う。かくしてわれは燃えつつ生きて、楽しみつつ消え果つる。
君の吐きたもう息吹より、香《かぐ》わしき微風は生れ出ず。かくて砂漠の夜々はなお微風に薫ず、悦ばしげの椰子の下、温かき夜々は。
心せよ、おお、かの人にいとしく触るるを好む微風よ、われは妬む、かの人の顎《おとがい》の微笑《ほほえみ》とその頬の靨《えくぼ》より、汝が奪う接吻《くちづけ》を。
いと軽やかの衣の下、匂いよきその腹の素馨よ、月の宝石のごとく、乳白色のその柔肌《やわはだ》の素馨よ。
唾液よ、薔薇色の唇の花咲ける蕾、かの人の口の、わが愛《いと》おしむ唾液よ。また、愛の抱擁のあとの、汗ばむ頬と閉じし眼よ。
おおわが心よ、汝はいま、珠玉の肌の快き襞《ひだ》のうちをさまよう。油断すな、恋は汝の隙をうかがい、その箭《や》は今にも放たるべし。
[#ここで字下げ終わり]
アリ・ベン・ベッカルとアバールハサン・ベン・ターヘルは、シャムスエンナハールのこの歌を聞いたときは、すんでのことに、飛び立たんばかりでした。それから二人は笑い、かつ泣きました。すると、アリ王子は感極まって、琵琶《ウーデイ》を取り上げ、それをアバールハサンに渡して、これから歌うところに伴奏してくれと頼みました。そこで、彼は両眼を閉じ、頭をかしげて頬杖をつき、次のわが故郷の歌を歌いました。
[#ここから2字下げ]
聴け、おお掌酒子《しやくとり》よ。
わが慕う君こそはかくも美わしければ、われもしあらゆる都市の主《あるじ》なりせば、ただ一度、仇なすその頬の上なる美の雫《しずく》に、わが唇を触れんためには、われはためらわず、この一切をあげてかの君に贈るべし。
その顔《かんばせ》はかく美わしければ、げにその黒子《ほくろ》すらなくして可なり。この顔《かんばせ》はすでに己が美をもてかくも美わしければ、若き生毛《うぶげ》の薔薇色もはた天鵞絨《ビロード》も、そこに新たなる魅力を添うることあらざればなり。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこれは王子アリ・ベン・ベッカルによって、まったく見事な声で誦されたのでございます。ところが、ちょうどこの歌がまさに消え入ろうとしたとき、そこにシャムスエンナハールのお気に入りの若い女奴隷が、顫えながら駈け込んできて、シャムスエンナハールに申しました、「おお御主人様、マスルール様とアフィフ様をはじめ、御殿の宦官たちが戸口にお出でになって、お話し申し上げたいとのことでございます。」
この言葉を聞くと、アリ王子とアバールハサンをはじめ、女奴隷たち一同は極度に動顛して、自分たちの一命を思って顫え上りました。けれども、シャムスエンナハールはただ一人落着き払って、静かな微笑を浮かべて、一同に申しました、「御安心あそばせ。わたくしにお委せ下さい。」次にその腹心の女に言いました、「では、マスルールとアフィフはじめほかの人たちに、皆様の御身分に適わしくお迎え申し上げるため、お時間をいただくからと言って、引き留めて置いておくれ。」そうして、女奴隷たちに広間の扉を全部閉め、大きな垂れ幕を用心深く鎖ざすように命じました。それがすむと、アリ王子とアバールハサンに、もう広間から身動きせず、何も心配しないようにと申しました。それから全部の歌姫を従えて、庭に面した扉から部屋を出て、またそのあとを閉めさせました。そして木々の下へ行き、あらかじめ運ばせて置いた自分の玉座に坐りました。ここで彼女は物憂げな態度をとって、若い娘たちの一人に命じて足を揉ませ(3)、その他のものはもっと遠くへ退《さ》がっているように言いつけ、一方では、若い黒人の女を急がせて、マスルールその他の人たちに、入口の扉を開けにやりました。
すると、マスルールとアフィフと二十人の宦官が、胴には幅広の帯を巻きつけ、手に手に抜き身の剣を持って、進み出て参り、できるだけ遠くの方から、地面まで身を屈め、最大の敬意のしるしを示しつつ、寵姫に挨拶をいたしました。すると、シャムスエンナハールは申しました、「おおマスルール様、アッラーはそなたを吉報の使者たらしめたまわんことを。」するとマスルールは答えました、「インシャーラー(4)、おお御主人様。」それから、彼は寵姫の玉座に近寄って申しました、「信徒の長《おさ》はあなた様に平安の御挨拶を送られて、切にお目もじを得たいと仰せられまする。そして、本日は、陛下にとって、悦びに満ち、あらゆる日々の中にて祝福された日と相成る模様の旨、こちらさまにお伝え申せとのこと。そして、この一日が終始《しゆうし》讃うべき日とならんがため、あなた様のおそばにて一日を終らせたきお望みでございます。けれども、陛下にはまず、これについてあなた様のお気持を伺いたく、あなた様御自身宮殿に出向かれるがよいか、それとも、むしろこちらで、あなた様のもとに陛下をお迎えなさるがよいか、御都合伺いたいとの御意《ぎよい》でござりまする。」
この言葉を聞きますと、美しいシャムスエンナハールは立ち上り、ひれ伏して、地面に接吻し、教王《カリフ》の御所望は御命令と心得る旨を示しまして、それから答えました、「わたくしは信徒の長《おさ》の仕合せな奴隷でございます。されば、おおマスルール様、どうかわたくしどもの御主君様に、わが君をお迎え申し上げることをわたくしがどんなに幸甚に存じていますか、そして御光来によってこの館《やかた》がどんなに輝き渡るであろうかということを、お伝え申し上げて下さい。」
そこで、宦官の長《おさ》とそのお供の一行が急いで退出いたしますと、シャムスエンナハールはすぐに、愛人のいる広間に駈けつけました。そして眼に涙を浮かべながら、彼を胸に抱きしめて、優しく接吻しますと、彼もまたそのようにいたしました。それから彼女は、こんなに早くとは思わなかったのに、もう別れを告げるとは、どんなに悲しいかを述べました。そして二人は、ともに相手の腕に抱かれながら、泣き始めました。アリ王子はやっと恋人に言うことができました、「おお、御主人様、お願いです、このまま、あなたをぴったりと、私の身近に感じさせておいて下さい、宿命的な別離の時が近いのであってみれば。私はこの愛《いと》しい肌触りをわが肉の中に、その思い出をわが魂の中に、持ち続けるでしょう。これは私にとって、遠く隔っている時の慰め、悲しい時の楽しみとなりましょう。」彼女は答えました、「おおアリ様、アッラーにかけて、悲しみに取りつかれるのは、ただこのわたくしばかりでございましょう、わたくしはひとりあなたの思い出のみと共に、このお館《やかた》に残るのですもの。あなたのほうは、おおアリ様、あなたにはお気を紛らすために、いろいろの市場《スーク》がおありですし、バグダードのあらゆる娘たちがおありでしょう。娘たちの優美さと切れ長の眼は、あなたの恋人の、泣き濡れたシャムスエンナハールのことなど、あなたに忘れさせることでしょう。そして、娘たちの腕輪の水晶が触れ合う音は、恐らくあなたのお眼から、わたくしの面影の跡形までも消し去ってしまうことでしょう。おおアリ様、これから先、わたくしはどうしてわが苦しみの爆発に耐えたり、泣き声をわが喉の中に抑えて、これを信徒の統率者のお求めになる歌に代えることができましょう。どうして、私の舌が楽《がく》の調べをきちんと歌い出ることができましょう。またどんな微笑で、陛下御自身をお迎えすることができましょう、ただあなただけしか、わたくしの魂を晴れ晴れとさせることがおできにならないものを。ああ、どんな眼差しでもって、わたくしは、あなたがわたくしのそばにお坐りになった場所を、逆《あらが》いがたく見つめないでいられましょう、おおアリ様。とりわけ、信徒の長《おさ》がわたくしにおさしになる、共に頒《わか》つ盃を、どうして、生命《いのち》絶えることなく、わが唇に運ぶことができましょう。必ずや、それを飲めば、仮借ない毒がわたくしの血管を循《めぐ》ることでございましょう。そうなれば、いかばかり死はわたくしにとって軽くなるでしょうか、おおアリ様。」
このとき、ちょうどアバールハサン・ベン・ターヘルが、二人を励まして御辛抱なさるようにと言おうとしますと、そこに腹心の女奴隷が駈け込んで来て、教王《カリフ》がお近づきになったことを、女主人に告げました。そこでシャムスエンナハールは、涙を眼にいっぱい浮かべて、ただ恋人に最後の接吻する暇しかなく、腹心の娘に言いました、「このお二人をできるだけ早く、一方がティグリス河に臨み、一方がお庭に向っている廻廊に、お連れして頂戴。そして夜が十分に暗くなったら、手際よく河の方へ、お出し申しておくれ。」そしてこの言葉を言った上で、シャムスエンナハールは、息をつまらせていた啜り泣きを抑えて、反対側から進んでいらっしゃる教王《カリフ》をお迎えに、走って行きました。
一方、若い女奴隷は、アリ王子とアバールハサンを件《くだん》の廻廊へと連れて行き、うしろの扉を用心深く閉めてから、引き上げました。すると、二人は真の暗闇のなかにおりました。けれどもほんのしばらくたちますと、明り取りの窓々を透して、明るい光が見え、それが近づくにつれて、手に手に燃えさかる炬火《たいまつ》を持った百人の若い黒人宦官が、行列を作って来たことが、二人にわかりました。この百人の宦官のあとには、王宮の女の常任護衛役を勤める百人の老宦官が、手に手に抜き身の剣を持って、これに続きました。それから最後に、彼らのうしろ二十歩のところに、宦官の長《おさ》を先頭に立て、二十人の月のように白い女奴隷に取り巻かれ、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードが、威風堂々といらっしゃいました。
かくて教王《カリフ》は、マスルールを先頭にして進んで来られました。右側には、宦官の次長アフィフを、左側には、宦官の次長ワシフを従えておられました。まことに、教王《カリフ》はこの上もなく威厳をたたえ、彼御自身によってお美事でございました。こうして教王《カリフ》は、奏楽のうちに進まれて、足下にひれ伏したシャムスエンナハールのところまで、おいでになりました。そして急いで彼女を立ち上らせて、片手をお出しになると、彼女はこれを唇に持って行きました。それから、教王《カリフ》は彼女にお会いになったことをたいそうお喜びになって、こう仰せられました、「おお、シャムスエンナハールよ、王国の煩《わずらい》が、そちの顔の上に余の眼を休ませることを妨げておった。しかし、アッラーは余の眼にそちの魅力を存分に堪能せしめんがため、祝福されたる今宵《こよい》を授けたもうた。」次に銀の玉座に坐りに行かれ、一方寵姫はおん前に席を占め、他の二十人の女は、お二人をかこんで、それぞれ同じ間隔に置かれた腰掛に坐って、ぐるっと輪を作りました。女楽手や歌姫たちはと申しますと、これは寵姫のすぐそばに別な一群を作りましたが、一方、老若の宦官どもは、慣例に従って、木々の下に遠ざかり、遠まきに、点《とも》した炬火《たいまつ》を持ったまま、こうして教王《カリフ》に夜の涼気を存分にお楽しませ申そうとしたのでございます。
御自分もお坐りになり、一同の者もそれぞれ席に着いたとき、教王《カリフ》は歌姫たちに合図をなさいますと、すぐさま、そのうちの一人が、他の女たちの伴奏によって、詩を歌いましたが、それは律呂《りつりよ》の美しさと終曲の豊かな旋律のために、人々のお聞かせ申すどんな詩篇よりも、教王《カリフ》のお好みのものでした。
[#ここから2字下げ]
児よ、思いこがるる朝霧はほころぶ花をうち濡らし、楽園《アドン》の園の微風《そよかぜ》は花の瑞枝《みずえ》を揺すり行く。されど、汝《な》が眼は、
汝《な》が眼こそ、愛《いと》しき友よ、水澄む泉、そこに永々とわが唇の盃の渇を癒すべし。また、汝《な》が口は、
汝《な》が口は、おお若き友よ、真珠の巣箱、そこに蜜蜂のねたむ唾液を飲むべし。
[#ここで字下げ終わり]
こうしてこの素晴らしい詩節が熱情こめた声で歌われますと、歌姫は口をつぐみました。すると、シャムスエンナハールは、アリ王子に寄せる自分の恋心をわかっているお気に入りの女に、合図をいたしました。するとその女は、ちがった調べで、アリ・ベン・ベッカルに対する寵姫の内心の感情に、まさにぴったり当てはまった、次の詩句を歌いました。
[#ここから2字下げ]
うら若きベドウィン乙女、道すがら美貌の騎士に遭うとき、その頬は赤らむ、アラビアの地に生うる月桂樹の花と等しく。
おお冒険を追うベドウィン乙女よ、汝を染むる火を消せよ。芽生えし情熱より汝の魂を護れ。汝の砂漠に物思いなくとどまれよ、恋の苦患《くげん》こそ美貌の騎士らの贈物なれば。
[#ここで字下げ終わり]
美しいシャムスエンナハールは、この詩を聞いたとき、激しい感動に胸を突かれ、椅子の上にのけぞって、女たちの腕の中に、気を失って倒れてしまいました。
これを見ますと、窓のうしろに隠れて、友人のベン・ターヘルと一緒に、この場面を眺めていたアリ王子は、はげしく同感の苦痛に捉えられまして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十五夜になると[#「けれども第百五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……これまた同じように、友人のアバールハサン・ベン・ターヘルの腕の中に、ばったりと倒れてしまったのでした。そうなると、アバールハサンは自分たちのいる場所がら、すっかり困ってしまいました。彼は友の顔に水を振りかけようとして、暗闇の中で空しく水を探しておりますと、突然、廻廊の扉の一つが開いて、シャムスエンナハールの腹心の若い女奴隷が、息せき切って入って来るのを見ました。その娘はおびえた声で申しました、「おおアバールハサン様、早くお立ちになって下さい、あなたも、お連れの方も。今すぐ、ここからあなた方お二人を逃がして差し上げます。それというのは、何もかもが混乱に陥って、私たちによさそうな兆《きざ》しは何ひとつございません。これはもう不吉な日に違いないと思いますの。さあ、お二人とも私のあとについていらっしゃい、さもなければ、私たちはみんな死んでしまいます。」けれども、アバールハサンは彼女に申しました、「おお、救い手の若い娘さん、私の友達の有様が見えませんか。近よって、よく見て下さい。」
女奴隷はアリ王子が絨氈の上で気を失っているのを見ますと、かねて承知のいろいろの瓶《びん》が置いてある机にかけよって、その中から花の水の香水吹きを選び、戻って来て、それで若者の顔を爽やかにしてやりますと、彼は間もなく意識を取り戻しました。そこで、アバールハサンはその肩を、若い娘は足を持ち上げ、二人がかりで彼を廻廊の外に搬《はこ》び出し、御殿の下の、ティグリス河の岸辺まで下ろしました。そこで、二人は彼を静かに腰掛の上に置いて、そして若い娘が手を叩きますと、すぐ河の上に、ただ一人の漕ぎ手しか乗っていない小舟が現われ、急いで岸に近寄り、彼らのところにやって来ました。次に、その男は一言も発せず、腹心の娘のちょっとした合図だけで、アリ王子を腕に抱き上げ、艀《はしけ》の中に置きますと、アバールハサンも早速そこに乗り込みました。若い女奴隷のほうは、もうこれより先へはお伴できないと言い訳をして、たいそう悲しげな声で彼らに平安を祈り、急いで御殿に戻って行きました。
小舟が対岸に着いたときには、微風《そよかぜ》と水と冷気のおかげで、すっかりわれに返っていたアリ・ベン・ベッカルは、今度は、友人に支えられて、地面に足を下ろすことができました。けれども、やがて道標の石の上に坐らざるを得なくなりました。それほど、自分の魂が立ち去ってしまうのを感じたのです。するとアバールハサンは、もうどうして窮状を脱したらよいのかわからなくなって、彼に申しました、「おお友よ、元気を出して、魂を強固にして下さい。実際、この場所ではまだとても安心がゆきません。このあたりには盗賊や悪漢どもが横行していますからね。ほんのちょっと元気を出して下さればいいのです。ここから程遠からぬところに、あすこに見えるあの燈《あかり》のすぐ側に、私の友達の一人が住んでいますから、その家に行けば、もう大丈夫です。」次に彼は言いました、「アッラーの御名《みな》において。」そして友を助け起こし、件《くだん》の家を指して一緒にゆっくりと進み、ほどなくその戸口に到着いたしました。そこで、夜更けの時刻にもかかわらず、その戸を叩きますと、すぐに一人の男が開けに来ました。そしてアバールハサンということがわかると、すぐさまたいそう鄭重に、友達とともに招じ入れられました。そこでとりあえず、何とか口実をでっち上げて、こんなとんでもない時刻に自分たちの現われたことと、このような有様で到着した理由を説明いたしました。するとこの家では、二人に対して、この上なく天晴れな掟に従って、歓待が行なわれましたので、二人はぶしつけな質問に悩まされることもなく、夜の残りを過ごしました。とはいえ、二人ともたいへん悪い一夜を過ごしたのでございます。アバールハサンは、わが家を外にして寝る習慣がなかったので、自分のことをあれこれと心配している家の者たちのことばかりを気にしていたからですし、アリ王子は、教王《カリフ》の足許で、女たちの腕の中に苦悩に蒼ざめて気を失ったシャムスエンナハールの面影を、いつまでも眼の前に見続けていたからでした。
それゆえ、朝になると、彼らは早々に家の主人に別れを告げ、町の方へ向って行きました。アリ・ベン・ベッカルが歩くのにたいそう難渋したにもかかわらず、二人は間もなく、自分たちの家のある街に到着いたしました。けれども、彼らの着いた最初の門口は、アバールハサンのところでございましたので、彼は友人をこんな痛ましい状態のまま放り出しておく気になれず、ひとまず自分の家に入って休息するようにと、口をきわめてさそいました。そして召使たちに向って、この方のために家の一番よい部屋を整え、このような機会のために押入れに丸めて蔵《しま》っておいた、新しい蒲団《マトラー》をのべるようにと命じました。アリ王子はまる幾日かを歩きつめたように疲れ果てて、蒲団《マトラー》の上にくずおれるだけの力しかなく、やっとそこに何時間か目を閉じることができました。
目がさめると、彼は洗浄《みそぎ》をして、礼拝の勤めを果し、外へ出るために着物を着ました。けれどもアバールハサンは彼を引き止めて、申しました、「おお御主人様、もう一日一夜を、私の家で過ごされたほうがよろしゅうございます、私がお相手をして、お苦しみを紛らしてさし上げられるように。」そして無理に引き留めてしまいました。事実アバールハサンは、昼の間じゅう友人とおしゃべりをして過ごしたのち、夜が来ますと、バグダードで最も名のある歌妓《うたいめ》たちを呼び寄せました。けれども、どんなこともアリ・ベン・ベッカルの悲しい思いを紛らすことはできませんでした。それどころか、歌妓《うたいめ》たちは彼の心痛と悲しみをただ掻き立てるばかりでございました。そして彼は前の晩よりもっと安からぬ一夜を送りました。翌朝になると、その状態はたいそう重く悪化しておりましたので、友のアバールハサンはこれ以上引き留めようとは思いませんでした。そこで彼は、王子の奴隷たちが厩舎《うまや》から引いて来た牝騾馬に、手をかして乗せてやった後、その自宅まで見送って行くことにいたしました。そして王子を家人に引き渡し、さしあたってもう自分のいる必要がないことをはっきり確かめた上で、王子にさらに励ましの言葉を述べ、できるだけ早く様子を伺いに戻って来ることを約束して、いとまを告げました。次にこの家を出て、市場《スーク》を指して行き、今までの間ずっと閉めたきりであった自分の店を、また開けたのでございました。
さて、彼が店を片付け終えて、お客を待つために坐ったと思うと、ふと見れば……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十六夜になると[#「けれども第百五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……ふと見れば、シャムスエンナハールの腹心の若い女奴隷がやって来たのでございました。彼女が平安を祈りますと、アバールハサンも挨拶を返しましたが、娘の様子がいかにも悲しげで、心配そうなことに気がつきました。そこで彼はその娘に言いました、「あなたが来て下さったとはなんと有難いことでしょう、おお、救いの娘よ。ああ、お願いです、早くあなたの御主人の御様子を知らせて下さいませ。」娘は答えました、「お願いでございます、あのような御様子のまま、おかまいすることもできなかったアリ王子の安否の方から、まず先にうかがわせて下さいませ。」そこでアバールハサンは、友人の苦しみと手の施しようもないやつれ方を、見たままのとおり、すっかり彼女に語りました。彼が話し終えたときには、腹心の娘はいっそう悲しくなり、何度か溜息を洩らし、切なげな声で、アバールハサンに申しました、「私たちの不幸は何という不幸でしょう。実は、おおベン・ターヘル様、お気の毒な私の御主人の方は、もっともっとお痛わしいのでございます。とにかく、あなたがお友達と広間をお出になったときから、どんなことが起ったか、詳しくお話しすることにいたしましょう。ちょうどあのとき、私の御主人は教王《カリフ》の足許に気を失ってお倒れになったので、教王《カリフ》はたいそうお心を痛め、この突然の不快が何のせいかおわかりにならなかったのでした。それからは、次のような次第でございます。
私はあなた方お二人を船頭の警護に委せますと、もう心配でならず、大急ぎでシャムスエンナハール様のおそばに戻りましたが、見るとやはり真っ蒼になって、お気を失ったまま、横になっていらっしゃり、涙がぽたぽたとお髪《ぐし》の中にしたたっておいででした。信徒の長《おさ》はお歎きの限りで、そのそばにお坐りになっていらっしゃって、おん自らあらゆる介抱をおつくしになったのにもかかわらず、御主人様を正気づけるまでにならないのでした。私たちもみんな、あなたの御想像もつかぬほど悲歎にくれておりました。そして教王《カリフ》がこの突然の病気の原因をお知りになろうとして、御心配げにいろいろとお尋ねになっても、私たちはお手の間の床に顔を打ち伏せて、ただ涙でお答え申し上げるばかりでした。この言い現わすことのできない苦悶の状態は、こうして真夜中まで続きました。その頃になると、何度となく|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を薔薇水と花の水で冷やしたり、扇《おうぎ》で風を送ったりして上げたおかげで、私たちは、御主人が気絶の状態からだんだんとわれに返るのを見る喜びを得ました。けれども、御主人はすぐさま涙を潸然《さんぜん》と流し始めなさったので、教王《カリフ》もすっかりびっくり遊ばし、しまいには御自身もまた同じように、涙を流しなさいました。それにいたしましても、こうしたすべてのことは、まことにうら悲しく、ただならぬことでございました。
教王《カリフ》はやっと寵姫に言葉をかけてもよいと見なさいますと、これに仰せられました、『シャムスエンナハール、わが眼の光よ、話すがよい、余がそなたのため、せめて何かの役に立つことができるよう、そなたの病いの原因を申すがよい。見よ、余は手を束《つか》ねているのに、自身堪えられぬぞよ。』するとシャムスエンナハール様は気を取り直し、教王《カリフ》のおみ足に接吻なさろうとしましたが、教王《カリフ》はその暇もお与えにならず、あの方の手をとられて、優しくお尋ね続けになりました。すると、あの方はしわがれた声で、申し上げました、『おお信徒の長《おさ》よ、妾《わらわ》の苦しんでおります病気は、一時《いつとき》のものでございます。これは昼のあいだに食べましたいろいろなものが、原因でございまして、それらがきっと私の中でお互いにぶつかり合ったのに違いございません。』教王《カリフ》はお尋ねになりました、『では、何を食べたのかな、おおシャムスエンナハールよ。』お答えして、『酸のつよいレモン二つと、すっぱい林檎を六つと凝《こご》った牛乳をお碗一杯と糸素麺《クナフア》の大束と、その上また、たいそうお腹が空いておりましたので、塩味のふすだしゅう[#「ふすだしゅう」に傍点]と南瓜の種を一オックと、それと一緒にまだお竈《かま》から出し立ての、とても熱い砂糖漬けのエジプト豆をたくさん食べたのでございます。』教王《カリフ》はお叫びになりました、『おお、慎しみのないことじゃ、まことに驚き入る。なるほど、そういう品々はこの上なく美味《おい》しく、食欲をそそるものにはちがいないが、それにしても、そなたもちとわが身をいたわって、自分の魂を無分別に好むところに飛びつかせるようなことは、止めねばならぬ。アッラーにかけて、もう二度と再びこのようなありさまにはなるまいぞ。』そして普段なら、他の女たちにはほとんどお言葉も御愛撫もお振り撒きにならない教王《カリフ》が、この寵姫にはたいへん思いやりをこめて、お話を続けられ、こうして翌朝まで、看病なさったのでした。けれども、病状がさしてよくならないのをごらんになったので、宮殿と都のあらゆるお医者さまをお呼ばせになりましたが、お医者さまたちは、みなお医者の習慣に従って、私の御主人の患っていらっしゃる病気の、本当の原因を察するようなことは、固く慎しんだのでございました。この学者たちは、たいそう混み入った処方を申し渡しましたので、私はどんなにお教えしたい気持がございましても、おおベン・ターヘル様、そのひと言さえお伝えすることができないでございましょう。
さいごに教王《カリフ》はすべてのお医者とほかの一同を従えて、お引きあげになってしまいました。そこで私は、思うままに御主人様に近寄ることができました。私はそのお手を接吻で埋め、王子アリ・ベン・ベッカル様には、私が責任をもってあらためてお会わせいたしますと、保証いたしました。そしてまた、花の水を入れた冷たい水を一杯お飲ませしますと、これがおからだに一番よく利いたのでございました。さて、そうなりますと、御主人はわが身を忘れて、私に向って、さしあたり御自分のことは放っておいて、こちらのお宅に走って行き、恋人の消息を伺ってくるように、お言いつけになりました。王子様の極度のお悲しみは、私がすでに委細お話ししてさしあげたからでございます。」
腹心の娘のこの言葉を聞きますと、アバールハサンは彼女に申しました、「おお、お若い娘さん、今はもう、私たちの友の様子について、この上お知らせすることは何もございませんから、急いで御主人様のおそばに帰って、私の平安の祈りをお伝え下さい。そして、私がどんなに悲しみを覚えたかを申し上げて、私としてもあれはたいそう厳しい試練であったと思わずにはいなかったけれど、事が遂には教王《カリフ》のお耳に達するようなことになってはたいへんですから、御主人様にはくれぐれも御辛抱相なって、ことにこの上なく厳重にお言葉をお慎しみあそばすよう切にお勧めいたしますと、申し上げて下さい。あなたが明日またこの店においで下されば、アッラーの思し召しあらば、私たちのお互いに知らせ合う消息は、もっと心慰めるものがございましょう。」
すると若い娘は、彼の言葉とあらゆる親切な尽力にたいへん感謝をして、別れを告げました。そしてアバールハサンは、その日の残りを店の中ですごしましたが、普段よりもずっと早めに店を閉めて、友のベン・ベッカルの家に飛んで行きました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十七夜になると[#「けれども第百五十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……友のベン・ベッカルの家に飛んで行きました。そして戸を叩きますと、門番が来て開けてくれましたので、中に入ってみますと、友はあらゆる種類の医者や、親戚や、友人の夥《おびただ》しい群れに取り囲まれておりました。一方の医者たちが脈を診ていれば、他の医者たちはてんでんに違った全く反対の薬を処方しているし、さらに年寄りの女たちなどは、医者の連中よりもっとでたらめのことを言い散らし、医者たちを横眼で睨みつけているといった有様でしたので、青年は苛立たしさに、魂がちぢむ思いをしておりました。そして、力も尽き果て、もう何も見ず、何も聞くまいとして、頭を掛蒲団の下に突っ込み、両手で耳をふさいでしまいました。
けれどもこのとき、アバールハサンは枕もとまで進み出て、静かに引き出しながら彼を呼び、吉兆の様子で、微笑しながら申しました、「御身の上に平安あれ、やあ、アリ様。」彼は答えました、「して御身の上にも、平安とアッラーのお恵みと祝福のあらんことを、やあ、アバールハサン。どうかアッラーがあなたを、その顔と同じように白い便りの使者として下さいますように。おお、わが友よ。」そこでアバールハサンは、そこにいる見舞客一同の前では話したくありませんでしたので、ベン・ベッカルにただ目配せをするだけにとどめました。そしてその人たちがみんな出て行ってしまったときに、ベン・ベッカルに接吻し、腹心の娘が自分にいったこと全部を物語って、そしてつけ加えました、「おお兄弟よ、あなたはどんな場合でも、私があなたに絶対に忠実であることと、私の魂があげてことごとくあなたのものであることを、信じて下さってよろしい。私はあなたの心に平静を返してさしあげないうちは、心安まることはないでしょう。」すると、ベン・ベッカルは友の親切な態度につよく胸を打たれ、衷心から涙を流して、言いました、「お願いだから、この夜を私と一緒に過ごして、御親切を全うしていただきたい、あなたと共に語り、私の思いを紛らしてもらいたいから。」アバールハサンはその望みを承知しないではいず、そのそばにとどまって、いろいろな詩を誦したり、愛の短詩を微吟したりしてやりました。それは、あるいは詩人が友に寄せる詩句であったり、あるいは最愛の女を歌った詩句でありました。さて、数々の詩句のうち、まず最愛の女に捧げる詩句というのは、こうでございます。
[#ここから2字下げ]
かの女《ひと》は真白《ましろ》にぞわが眼に現われぬ、樟脳の顎《おとがい》飾る麝香の黒子《ほくろ》一粒のみ黒く。
もしかの女《ひと》にして、心悲しみ、露《あら》わなる胸に手を置きて、吐息を洩らすことあらば、おお、わが眼よ、語れ、汝の見る様を。
眼の曰《いわ》く「われらは見る、先にそれぞれ薔薇色の珊瑚を飾る葦五本、真白き水面《みなも》に憩えるを。」
おお戦人《いくさびと》よ、鍛え上げたる汝《な》が剣とて、かの女《ひと》のやつれし瞼より汝が身をよく護り得ると思うことなかれ。
いかにも、かの女《ひと》は汝を貫く槍を持たず、されどその直《すぐ》なる腰を恐れよ。そは汝を瞬くひまに、世にも心つつましき虜《とりこ》となさん。
その身は黄金の瑞枝《みずえ》にして、胸は伏せられて憩う双つの円《まろ》く透明の盃。またその柘榴の唇は、おのが息吹に打ち薫る。
[#ここで字下げ終わり]
けれどもこのとき、アバールハサンは友がこうした詩句にたいそう心を動かされたのを見て、申しました、「おお、アリ様、ではこんどは、あなたが市場《スーク》の店の中で、私のそばで憂いをこめて吟じるのが大好きだった短詩を、歌って上げましょう。どうかこれがあなたの傷ついた魂の上に、香油を塗りますように。」
[#ここから2字下げ]
おお、来たれ。盃の軽らかの黄金は葡萄酒の紅玉《ルビー》の下に美わし。おお、掌酒子《しやくとり》よ。
過ぎ来し方の憂きことすべて遠きかなたへ撒きちらし、明日を思わず、この盃《はい》を取りて忘却を飲め。汝の手もて、ああ、われをことごとく酔わしめよ。
わが目に厭《いと》わしきかの人々すべてのうちにあって、ひとり汝のみ、解し得る者。来たれ、汝にわれは打ち明けん、かたく秘むる心の秘密を。
されど急げや。歓びの因《もと》、この忘却の佳酒《うまざけ》を、われに注げ、処女たちの口よりも柔《やわ》らかき頬の童子よ。
[#ここで字下げ終わり]
この歌を聞きますと、すでにひどく弱っていたアリ王子は、再び戻って来た想い出のために、非常な銷沈の状態に陥って、またもや涙し始めたほどでした。アバールハサンは、この夜もまたひと晩中、枕もとで、一瞬も眼を閉じずに彼を見守って過ごしました。それから明け方になりますと、何はともあれ、しばらく前からすっかり放り出していた店を、開けに行く決心をいたしました。そして彼は、そこに夕方までおりました。けれども、売り買いを済まして、反物を奥にしまい終え、まさに出て行こうとすると、そのとき、シャムスエンナハールの若い腹心の娘が、面衣《ヴエール》をつけて来るのが眼にとまりました。彼女は慣例の挨拶《サラーム》をしてから、彼に言いました、「私の御主人はあなたとベン・ベッカル様のお二人に、平安の祈りをお送りになり、お約束のとおり、あの方のおからだの工合を承わってくるように、私にお申し付けになりました。あの方のお加減はいかがでいらっしゃいましょうか、お聞かせ下さいまし。」彼は答えました、「おお優しいお方よ、何も聞かないで下さい。私の返事はまったく悲し過ぎるでしょうから。私たちの友の状態は、とうてい元気旺盛などとは参りません。もう眠らないし、食べもしないし、飲みもしません。憔悴を幾分とも紛らすものは、もう詩歌しかありません。ああ、あなたがあの真っ蒼な顔色をごらんになったらなあ。」彼女は申しました、「私たちの上の何という災いでございましょう。では、ともかく、これをご覧下さいまし。私の御主人も、ほとんどおよろしくはならないのですけれど、このお手紙を恋しい方にお届けするようにお託しになり、私はそれを髪の中に入れて持って参ったのでございます。そして、御返事を頂かずには決して戻って来ないようにと、くれぐれも申しつかりました。ですから、私をお友達のところに連れて行って頂けないでしょうか、全然お宅を存じませんから。」アバールハサンは申しました、「仰せ承わり、仰せに従います。」そして彼は急いで店を閉め、腹心の娘の十歩先に立って、歩き出しますと、彼女はこれについて行きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、もともとつつましい女であったので、話を長びかせようとはしなかった。
[#地付き]けれども第百五十八夜になると[#「けれども第百五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そして彼はベン・ベッカルの家に着きますと、若い娘を入口の絨氈の上に坐るように勧めて、言いました、「ここでしばらく私を待っていて下さい。まずよその人たちがいないかどうか、確めて来ますから。」そしてベン・ベッカルの家に入り、アリに目配せをいたしました。するとベン・ベッカルは合図の意味を呑み込んで、自分を取り巻いていた人々に言いました、「失礼ながら、ちょっとお腹が痛くなりましたから。」そこで、人々も了解して、挨拶《サラーム》をしてから、アバールハサンと彼だけを残して、引き上げました。さて一同が出て行くとすぐ、アバールハサンは腹心の娘を呼びに駈けつけて、中に連れて参りました。するとベン・ベッカルは、シャムスエンナハールを思い出させる彼女を見ただけで、早くも元気が大いに恢復したような気がして、彼女に言いました、「おお、好ましい来客よ。」すると若い娘は彼にお礼を言いながら身を屈め、早速シャムスエンナハールの手紙を渡しました。ベン・ベッカルはこれを取って、唇と、つぎに額に当てましたが、これを自分で読むには衰弱しすぎておりましたので、そのままアバールハサンに差し出しました。アバールハサンがこれを見ると、あらゆる恋の悩みが、この上もなく切ない言葉で語られている詩句が、寵姫の手で書かれておりました。これを読めば、友は最悪の状態に陥るだろうと判断しましたので、アバールハサンは、内容をきれいな数語につづめて聞かせるだけにとどめて、そして申しました、「私はこれから早速返事の方を引き受けますから、おおアリ様、あなたはそれに署名して下さい。」そしてそれは申し分なく出来上りましたが、ベン・ベッカルが望んだその手紙の趣意は、「もしも恋愛に切なさがなかったならば、恋人同士互いに手紙を交わしても、あまり歓びは感じないことでしょう」といった意味のことでした。彼は腹心の娘が暇を告げるに先立って、自分の苦しみを見たとおりのこらず、御主人に話してくれるように頼みました。そのあとで、彼は手紙を涙でぬらしながら、返書を渡しました。腹心の娘もすっかり心打たれて、自分もまた明らさまに涙を流し始めたほどでしたが、最後に、彼に心の平安を祈りつつ引きとりました。アバールハサンも同じく外に出て、街の中を彼女を送って行きました。自分の店の前にくるまでつきそって、ここでやっと別れを告げ、わが家へと戻りました。
さて、アバールハサンはわが家に着きますと、始めて現在の情勢をつらつら考えはじめ、長椅子《デイワーン》に腰掛けながら、こういうふうに自分自身に話し掛けたのでございます。
「おお、アバールハサンよ、事態は甚だ重大になり始めたのはお前の見るところだが、もしもこの事件が教王《カリフ》に知られるようなことにでもなれば、一体どんなことが起こるだろう。もちろん、おれはベン・ベッカルが大好きで、わが片目を抜きとって、あの方にさしあげるくらいの覚悟はある。しかし、アバールハサンよ、お前にも家族がある、一人の母と、姉妹たちと、弟たちがいるのだ。お前の向う見ずから、みんながどんな不幸に陥らないだろうか。まったくのところ、こうしたことはこのまま永く続くわけにはゆかぬ。明日になったら早々、おれはベン・ベッカルに会いに行って、こんな歎かわしい結末を見るような恋愛から、あの方を引き離すように努めることにしよう。もしおれのいうことを聞きなさらない場合には、アッラーがおれのとるべき処置をお教え下さるだろう。」そしてアバールハサンは、さまざまな思いに胸を締められて、朝になると早速、友のベン・ベッカルに会いに参りました。彼は友に平安を祈って、尋ねました、「やあ、アリ様、お加減はどうですか。」彼は答えました、「今までよりもよくない。」アバールハサンは言いました、「まったくの話、私は生まれてこの方、あなたのような恋愛事件は見たことも、聞いたこともないし、あなたのような奇妙な恋人に出会ったこともありません。あなたがシャムスエンナハールを愛していらっしゃると同じに、先方もあなたを愛していらっしゃることは御承知のくせに、そういう確信を持ちながら、あなたは苦しんで、日に日に病状が重くなっていきなさる。そんなに愛していらっしゃる女が、もしもあなたと愛情を共にせず、本気の恋愛の代りに、たいていの恋をする女のように、何よりもまず色事の嘘や掛引きが好きだったとしたら、いったいどんなことになるでしょうか。しかしわけても、おおアリ様、もしもこの色事が教王《カリフ》に知れるようなことになったら、私たちの頭上にどんな不幸が襲いかかって来るか、考えてもごらんなさい。ところで、そういうことが起きずに済むような場合は、万が一にもありはしないでしょうよ。というのは、あの腹心の娘が頻繁に出入りすれば、宦官たちの注意や女奴隷たちの好奇心を、呼び醒ますことになりますからね。そうなったときは、われわれ一同の禍いの広さをお知りになれるのは、ただアッラーのみです。おおアリ様、私のいうことを信じて下さい、出口の扉のないこんな恋愛に、いつまでもかかずらわっていらっしゃると、あなたはまずわが身を損ない、それからあなたと一緒にシャムスエンナハール様の身を損ねる、そういう羽目に陥ります。私などはいわずもがなで、まちがいなく、家族全部ともろとも、瞬く間に生者の数から抹殺されてしまうでしょうよ。」
けれどもベン・ベッカルは、こうした友の忠告に感謝しながらも、自分の意志はもう抑えつけられなくなっている、それに、シャムスエンナハールが自分の恋のために一命を危うくすることも恐れないとあらば、自分とて、身にどんな禍いが降りかかろうと構わない、わが身を惜しむような気には到底なれないと、明言したのでした。そこでアバールハサンは、こうなってはどんな言葉も無駄なことがわかりましたので、友に暇を告げて、暗い不安に据えられつつ、わが家への道を引き返して行きました。
ところで、アバールハサンには、極めて足繁く会いに来る友人たちの中に、アミンと呼ぶ、好ましい若い宝石商人がおりまして、この男の口の固いことには、彼もしばしば感心させられたものでした。折から、アバールハサンが座蒲団《クツシヨン》に肘をついて、すっかり途方に暮れていたとき、ちょうどこの若い宝石商人が訪ねて参りました。そういうわけで、この男は挨拶《サラーム》をすませてから、長椅子《デイワーン》の上にそばに並んで腰を下ろしましたが、彼はあの恋愛事件について幾分知っているただ一人の男でしたので、こう尋ねました、「おおアバールハサンよ、アリ・ベン・ベッカルとシャムスエンナハールの恋はどうなっていますか。」アバールハサンは答えました、「おおアミンよ、アッラーがわれわれに御慈悲を垂れたまわんことを。僕にはこれから先は、よさそうな兆しは何ひとつないような予感がしているんだがね……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百五十九夜になると[#「けれども第百五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……これから先は、よさそうな兆しは何ひとつないような予感がしているんだがね。だから僕は、君が確かな人間で、信頼の置ける友達と知って、僕や家族の者がこういう危険な窮地を脱するため、僕の決行しようと思っている計画を、君に打ち明けたいと思うのだ。」すると若い宝石商人は言いました、「何もかも信用して話していいよ、おおアバールハサン。僕は君の役に立つことなら、いつでも身を捧げる覚悟でいる兄弟だと思ってくれたまえ。」するとアバールハサンは言いました、「おおアミンよ、僕はバグダードのあらゆる絆《きずな》を断って、債権を現金にかえ、借金を払い、商品を捨て売りし、金に換えられるものは全部金にして、遠くの方、たとえばバスラにでも立ち退き、そこで静かに成り行きを待とうと、こう考えているのだよ。というのは、おおアミンよ、僕にはこんな事態がやり切れなくなったし、情事に僕が一役買ったものとして、教王《カリフ》から眼をつけられはしないかという恐怖心に取り憑《つ》かれてからというものは、もうここで暮らすことなどできなくなったからね。この情事が遂には教王《カリフ》に知られてしまうことは、全くありそうなことだからな。」
この言葉を聞きますと、若い宝石商人は言いました、「おおアバールハサン、なるほど、君の決心はたいそう賢明な決心だし、君の計画は思慮ある男がつくづく考えれば、ほかに立てようがない計画だ。アッラーが君を照らしたまい、この窮地を出るための、彼の道のうちの最上のものを、君にお示し下さるように。もし僕の力添えで君が悔いなく出発する決心がつくというなら、僕はこれから君に代り、まるで君がいるみたいに立ち働いて、君の友人のベン・ベッカルに、わが眼をもって奉仕するつもりだよ。」すると、アバールハサンは彼に言いました、「そうはいっても、君はアリ・ベン・ベッカルを識りもしないし、王宮とも、シャムスエンナハールとも、関係がないのであってみれば、一体どうするかな。」アミンは答えました、「王宮のほうは、僕は今までにシャムスエンナハールの若い腹心の方《かた》を通して、宝石類を売る機会があった。けれども、ベン・ベッカルのほうは、知合いになって、信用の気持をおこさせることほど、易しいことはないだろうよ。だから魂を安んじたまえ。そして出発したいと思うなら、ほかのことなどくよくよしないがいいよ。アッラーはあらゆる入口を、お好きなときにお開きになれる門番であらせられるからね。」こう言いおいて、宝石商人アミンはアバールハサンに暇を告げて、自分の道へと立ち去りました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十夜になると[#「けれども第百六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
けれども、その三日後に、彼はまた様子を聞きにやって来ますと、もう家はまったく空《から》っぽになっているのでした。そこで隣近所の人たちに事情を問い合わせますと、こう答えました、「アバールハサンは商売の旅行でバスラに行ったのですが、私たちみんなに、留守は永いことはない、遠方のお顧客《とくい》たちに貸してある金を回収したらすぐ、必ずバグダードに戻ってくる、と言って行きました。」そこでアミンは、アバールハサンがとうとう恐ろしさに負けてしまい、恋愛事件が教王《カリフ》のお耳に達するような場合には、姿を消している方が賢明と見たことがわかりました。けれども、まず自分としては、どういう方法をとったらいいのかわかりませんでした。結局、彼はベン・ベッカルの住居の方角に向いました。
そこへ着くと、彼は奴隷の一人に、御主人のもとへ案内してくれるように頼みました。奴隷は彼を集会の間にはいらせますと、若い宝石商人は、ベン・ベッカルが真っ蒼になって、座蒲団《クツシヨン》の上に横たわっているのを見ました。彼が平安を祈りますと、ベン・ベッカルも挨拶を返しました。そこで、アミンは申しました、「おお、御主人様、私の眼がこんにちまであなたを知る喜びを持たなかったとは申せ、御安否を伺いに参るのがこんなに遅れてしまったことを、まずお詫び申さなければなりません。次には、きっと少々御不快な気持をお覚えなさるようなことをお知らせにまいったのですが、しかし同時に私は、すべてを忘れさせてさしあげる良薬も、持参しておりまする。」すると、ベン・ベッカルは感動に顫えて、彼に尋ねました、「アッラーにかけて、不快な気持について、この上まだ私に何事が起きることができるのでしょう。」すると、若い宝石商人は申しました、「おお御主人様、実は、私は常日頃からあなたの御友人アバールハサンの腹心の友でございまして、あの男は自分に起ることは、何一つ私に隠したことはなかったのです。ところが、三日前のこと、普段は毎晩私に会いに来ていたアバールハサンが、姿を消してしまったのです。私はかねて彼から聞いたいろいろな打明け話で、あなたもやはり彼の友人でいらっしゃることを承知しておりますので、彼がどこにいるのか、なぜ友人たちに一言も言わずに、家を出て姿を消してしまったのか、御存じではないかと思って、伺いに参ったしだいです。」
この言葉を聞くと、ベン・ベッカルは蒼白の無上の極に達して、すっかり意識を失いそうになったほどでした。そのうちやっと口がきけるようになって、言いました、「それは私にとっても、初耳です。私も実際、ベン・ターヘルのその三日の留守が何のせいか、わかりかねます。しかし私の奴隷を一人、様子を聞かせにやれば、あるいは事の真相がわかるかも知れません。」そして彼は奴隷の一人に言いました、「急いでアバールハサン・ベン・ターヘルのお宅へ行って、あの方が相変らず、そこにいらっしゃるか、それとも旅行にお出掛けなのか、聞いてきなさい。もし旅行に出られたということだったら、どちらの方面にお出掛けになったか、かならず伺って来なさい。」
奴隷はすぐ外へ出て、様子を聞きに行きましたが、しばらくたつと戻って参りまして、主人に言いました、「アバールハサン様の近所の人たちが私に語ったところでは、アバールハサン様は、バスラに向けてお立ちになったとのことでございます。ところが、そこにやはり一人の若い娘がいて、これもまたアバールハサン様の消息を尋ねておりまして、私に向って尋ねました、『あんたはきっとベン・ベッカル王子の御家中の人でしょうが。』私がそのとおりだと答えますと、その娘は、あなた様にお伝えしなければならぬことがあるとつけ加えまして、ここまで私に従《つ》いて参りました。そして、ただいま御引見をお待ち申しております。」すると、ベン・ベッカルは答えました、「直ちにこれへお通し申せ。」さて、しばらくいたしますと、若い娘が入って参りましたが、ベン・ベッカルは、これがシャムスエンナハールの腹心の娘とわかりました。彼女は近寄って、挨拶《サラーム》の後、彼の耳もとで二、三の言葉を囁きますと、彼の顔はかわるがわる、明るくなったり、曇ったりいたしました。
そのとき、若い宝石商人は今こそ言葉をさしはさむべきだと思って、言いました、「おお御主人様、またおお若いお娘よ、実は、アバールハサンは出発する前に、自分の知っていることをすっかり私に打ち明けまして、この事件が、教王《カリフ》のお覚《さと》りになるところとなりかねないと思うと、それに覚えるあらゆる恐ろしさを、私に話したのでありました。けれども、この私には妻も、子供も、家族もありませんから、私は全精神をうちこんで、あなた方のために彼の代りを務めるつもりでございます。というのは、ベン・ターヘルがあなた方の不幸な恋について伝えてくれた委細に、私は深く心を打たれたのでした。もしあなた方が私の尽力をお拒みにならないで下されば、私はわれらの聖なる預言者(その上に祈りと平安あれ)にかけて、あなた方にわが友ベン・ターヘルと同じように忠実でありながら、もっとひるまず、もっと心変りしない男となることを誓います。そればかりか、私の申し出がお心に叶わぬような場合には、私が秘密を黙っているくらい高潔な魂を持たぬものとは、お思い下さいますな。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十一夜になると[#「けれども第百六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……それに反して、もし私の言葉があなた方お二人を説き伏せることができましたら、私はあなた方の御意《ぎよい》にかなうためには、どんな犠牲であろうと、お引き受けしないことはない覚悟でおります。私の家を、おお御主人様、あなたとシャムスエンナハール様とのお出会いの場所ともいたしましょう。」
若い宝石商人がこの言葉を言い終えますと、アリ王子はすっかり悦びに有頂天になって、急に力が魂を蘇らせるのを感じて、その場に立ち上り、宝石商アミンを抱いて、申しました、「あなたをお送り下さったのは、アッラーです、おおアミンよ。されば、私はことごとくあなたにおまかせして、私の救いを、ただあなたのお手の間にのみ待つことにします。」それから彼はさらに永々とアミンに礼を述べ、嬉し涙を流しながら、別れを告げました。
そこで、宝石商人は若い娘を連れて、引き取りました。彼は娘を自分の家まで案内して、これからは、ここで自分と彼女との会見が行なわれるし、また自分の計画しているアリ王子とシャムスエンナハールの会見も、やはりここで行なわれることになろうと、教えました。若い娘はこうして家の道を教えてもらいましたので、事態を自分の御主人に知らせることを、これ以上長く遅らせようとはしませんでした。そこで彼女は宝石商人に、明日またシャムスエンナハールの返事を持って来ることを、約束いたしました。
果して翌日には、彼女はアミンの家にやって来て、彼に言いました、「おおアミンさん、私の御主人、シャムスエンナハールは、あなたが私たちに対して抱いて下さる御好意をお聞きになりますと、喜びの限りに達しなさいました。そして私にあなたをお迎えに行って、王宮の御自分のところにお連れ申すように、おたのみになりました。御主人はあちらで、あなたが何も計画にお力添えなさる義理もない人々にお寄せ下さるお志と、自ら進んで買って出なさる広いお気持とに対して、御自分の口から、親しくお礼を申し上げたいとのことでございます。」
この言葉に、若い宝石商人は、この寵姫の希望を快諾する様子を見せる代りに、それどころか、全身顫えに襲われて、すっかり真っ蒼になり、最後に若い娘に言いました、「おお私の妹よ、シャムスエンナハール様とあなたは、私にせよとおっしゃる行動については、ちっとも考えておいででないことが、よくわかります。私は一介の平民で、アバールハサンの高名さもなければ、彼が王宮の宦宮たちの間につけておいたような了解も持ち合わせないことを、あなた方は忘れていらっしゃいます。彼ならどんな用向を頼まれても、勝手に王宮の中を歩き廻れたですがね。私には彼のように、会いに行く人たちの慣習について、確信もなければ、立派な経験も持っていません。私がどうして思いきって王宮になぞ出向けましょうか。私はアバールハサンから、彼が寵姫をお訪ねした話を聞いただけで、もう顫えていたくらいですもの。まったく、そういう危険を冒すには、私には勇気が欠けています。しかし御主人様に、私の家は確かに御会合にはこの上もなく好都合な場所ですと、申し上げるのはさしつかえありません。そして、万一ここにお出でになることに御同意下さったら、われわれは何かの危険の懸念なしに、全く気楽に談笑することができましょう。」それでも、若い娘はともかく彼を励まして、自分に従《つ》いて来させようと試みたあげく、とうとう立ち上る決心までさせてしまいましたが、すると彼はいきなり、両脚の上でがたがた顫えるほど身顫いを始め、若い娘は彼を支え、もう一度手を貸して坐らせてやり、冷たい水を一杯飲ませて、気を鎮めてやらなければならない始末でした。
そこで若い娘は、これ以上強いるのは、思慮のないことと覚りましたので、アミンに言いました、「あなたのおっしゃることはごもっともです。私たちみんなの利害を思えば、むしろシャムスエンナハール様が、御自身こちらへお出向きになる決心をなさった方が、ずっとよろしゅうございます。それでは、私は努めてそうするように骨を折って、必ずあの方をお連れしましょう。では、動きなさらずに、私たちをお待ち下さいませ。」
果して、腹心の娘が御主人に、どうしても若い宝石商人が王宮に出向くことができない旨を知らせますと、シャムスエンナハールは、一瞬の躊躇もなく、立ち上り、絹の大面衣《イザール》で身を包み、今まで座蒲団《クツシヨン》の上に身も動かせないでいた衰弱も忘れて、腹心の娘のあとに従《つ》いて行きました。腹心の娘は先にひとり家の中に入りまして、御主人の奴隷やよその人たちなどに見られる危険がないかどうかをまず確かめて、それからアミンに尋ねました、「少なくとも、お宅の召使たちに暇《ひま》をお出しになったでしょうね。」彼は答えました、「私はここに一人で住んでいて、私の生まれたときからいる、黒人の老婆が一緒にいるきりです。」彼女は言いました、「それでもやはり、その老婆はここにはいらせないようにして頂かなければいけません。」そして彼女は内部の扉を全部閉めに行き、それから走って御主人を呼びに参りました。
シャムスエンナハールは入って参りましたが、彼女が通って行くと、部屋部屋と廊下に、その衣裳の香りがいとも妙《たえ》に満ちわたりました。そして、一言も言わず、まわりも見ずに、彼女は長椅子《デイワーン》の上に腰掛けに行き、若い宝石商人が急いで後ろに並べた座蒲団《クツシヨン》の上に、身を支えました。そして彼女はこうしたまま、衰えに捉われ、息も絶え絶えに、かなりの間じっとしておりました。ひとたびこの不慣れな外出の疲れが休まりますと、彼女はやっと面衣《ヴエール》を上げ、大面衣《イザール》を脱ぐことができました。すると、若い宝石商人は眼が眩んで、わが住居に、太陽そのものを見るような思いがいたしました。そして、彼がうやうやしく数歩離れたところに控えておりますと、シャムスエンナハールはこれをちょっと見やって、腹心の娘の耳許で、尋ねました、「お前の話したのは、この人にちがいありませんか。」すると若い娘が、「さようでございます、御主人様」と答えましたので、彼女は若者に申しました、「御機嫌いかがですか、やあ、アミンよ。」彼は答えました、「アッラーに讃えあれ、元気でございます。どうかアッラーが黄金の中の香りのように、あなた様を護り、永らえさせて下さいますように。」彼女は彼に申しました、「あなたは結婚していらっしゃるの、それとも、独身でいらっしゃるの。」彼は答えました、「アッラーにかけて、独身でございます、おお御主人様。それに、私には父も、母も、一人の親戚もないのでございます。ですから、私の仕事といえば、ただあなた様に身を捧げてお仕えするだけで、よろしいでございましょう。そして、あなた様のどんな僅かのお望みとて、私の頭と眼の上にござりましょう……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十二夜になると[#「けれども第百六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
またその上に、私はあなたとベン・ベッカル様とのお出会いのために、自分の持っている一軒の家を、全く御自由にお使いいただくつもりでございます。その家は誰も住んでいず、ちょうど私の住んでいるこの家の向いにあります。私はこれから早速家具を入れまして、そこへあなた方を御身分にふさわしくお迎えして、何一つ御不足のないようにいたしましょう。」そこで、シャムスエンナハールは彼にたいそう感謝をして、申しました、「やあ、アミン、あなたのような献身的なお友達に出会う機会があったとは、わたくしの天命は何と仕合せなものでしょうか。ああ、わたくしはいま、欲得をはなれた友の助けというものが、どんなに力を発揮するものか、ことに、嵐と苦悩の砂漠のあとで安息のオアシスにめぐりあうことが、どんなに快いものか、はっきりと感じます。またきっとシャムスエンナハールも、いつの日か、友情の値いを知っているという証拠をお見せできるものと、お信じ下さい。私の腹心の娘を見てごらんなさい、おおアミンよ。この人は若くて、やさしく、品のよい娘です。わたくしはこの人と別れるのはとても辛いでしょうけれど、やがては必ずこの人を贈物に差し上げて、あなたに光の夜々と清々《すがすが》しい日々とを送らせて上げるものと、お思い下さってまちがいございません。」そこで、アミンは若い娘を眺めますと、なるほど、これはたいそう魅力があって、申し分なく美しい眼のほかに、まったく素晴らしいお臀《しり》を持っていることがわかりました。
けれども、シャムスエンナハールは続けました、「わたくしはこの女《ひと》を限りなく信用しています。ですから、この女《ひと》には、アリ王子があなたにおっしゃることを、何ごとによらず打ち明けても、心配はありません。そして、この女《ひと》を愛してやって下さいね。この女には、心を爽やかにするような感じのよい美点が、いろいろとありますから。」そしてシャムスエンナハールは、宝石商人にさらにいろいろと優しいことを言って、そして腹心の娘を従えて引きあげましたが、娘は微笑をたたえた眼で、自分の新しい友に別れを告げました。
二人が出て行きますと、宝石商人アミンは自分の店に走って行き、そこから貴重な器《うつわ》全部と、彫りを施した盃全部と、銀の茶碗をとり出して、二人の恋人を迎えるつもりの家に、これらの品を運びました。それからあらゆる知人の家に行き、ある人たちからは絨氈を、他の人たちからは絹の座蒲団《クツシヨン》を、またその他の人たちからは陶器や皿や水差しなどを借りました。こうして、とうとうその家を華かに飾りつけたのでございました。
そこで、彼はすべてを片付け終え、ちょっと腰を下ろして、あらゆる物にひとわたり眼をやっていますと、そのとき、彼の友、シャムスエンナハールの腹心の若い娘が、静かに入って来るのを見ました。彼女は腰の上で優しく身を揺すりながら近寄って来て、挨拶ののちに言いました、「おおアミン様、私の御主人はあなたに平安の祈りと感謝をお送りになり、あなたのお蔭で、アバールハサンの出奔のことも、今は心慰められたとおっしゃっておられます。それから、教王《カリフ》が御殿をおあけなさったので、今晩はここへ出向くことができるだろうから、その旨をあなたから恋人に通知して下さるように、御伝言をお頼みなさいました。ですから、あなたから早速、アリ王子にお知らせしていただかなければなりませんの。この知らせで王子はきっとすっかり恢復なすって、元気と健康をお取り戻しになるにちがいありません。」この言葉を言ってから、若い娘は懐からディナール金貨の詰まった財布を取り出し、これをアミンに差し出して、申しました、「私の御主人は、お金に糸目をつけずに使って下さるようお願いしております。」けれどもアミンは財布を押し戻して、叫びました、「それでは、私の値打ちは、あなたの御主人の眼には、おおお若い方よ、御主人がこの黄金を褒美に下さるほど、僅かのものにお見えになるのですか。アミンはあの方の黄金のお言葉と御眼の眼差しで、十分以上に支払われていますと、こう申し上げて下さい。」そこで若い娘は、アミンの無欲恬淡振りにすっかり嬉しくなって、走り帰ってシャムスエンナハールに事の次第を物語り、あの家ではもう準備万端整っている旨を知らせました。それから、彼女は御主人が風呂をつかい、髪を梳き、香水をかけ、一番美しい衣裳を着るのを手伝い始めました。
宝石商人アミンの方では、急いで王子アリ・ベン・ベッカルのところに赴きましたが、それは、花瓶に清々しい花を入れたり、捏粉菓子や、ジャムや、飲み物や、あらゆる種類の御馳走を満たした皿を並べたり、琵琶《ウーデイ》や、六絃琴《ジーターラ》や、その他の楽器類を、壁を背にしてきちんと並べたりしてからのことでした。そしてアリ王子のところに入りますと、王子はすでに、彼が前の晩に希望を心の中に入れておいたために、幾分元気を恢復しておりました。そこで、しばらく経てば、自分の涙と幸福の原因《もと》である恋人に、ついに再会することになったと知らされたときには、若者の嬉しさはまた格別なものでした。彼はいっぺんにあらゆる悲しみを忘れてしまい、顔色にもそれが現われました。というのは、顔色は晴れ晴れとして、心ひく優しさを加えて、以前よりも遥かに美しくなったからでした。
そこで、彼は友のアミンに手伝われて、美々しい衣服を着け、まるで墓場の扉のほとりにいたことなどなかったように、しっかりとして、宝石商人と一緒に、その家への道を取りました。二人が家の中に入りますと、アミンは早速王子に坐るように勧めまして、その背中のうしろにやわらかい座蒲団《クツシヨン》をならべ、そのかたわらには、右と左に、花を盛った水晶の美しい花瓶を置き、彼の指の間に、香りの母たる一輪の薔薇をさしてやりました。そして二人はしずかに談笑しながら、寵姫の到着を待ちました。ところが、ほんのしばらくたったと思うと、誰かが戸口を叩きましたので、アミンは走って行ってこれを開け、間もなく戻って来ましたが、後ろに従《つ》いて来た二人の女の中の一人は、黒絹の分厚い大面衣《イザール》で、全身を包んでおりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十三夜になると[#「けれども第百六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その時はちょうど、諸方の光塔《マナーラ》の上から、日没の礼拝に呼ぶ時刻でございました。そして外では、澄み切った告時僧《ムアズイン》の恍惚とした声が、四方の地平線に向っておもむろにひろがってゆくと、そのときシャムスエンナハールは、ベン・ベッカルの眼の前で、その面衣《ヴエール》をかかげました。
二人の恋人はお互いの姿を見ると、気を失って倒れてしまい、気を取り戻すことができるまで、ひとときの間そのままの有様でした。やっと眼を開いたとき、二人は黙って長い間見つめ合っただけで、まだ自分たちの情熱を言い現わすことができませんでした。ようやく口をきけるくらい落ち着いてきますと、二人は互いに非常にやさしい言葉を言い交わしましたので、隅にいた腹心の娘と若いアミンは、涙を禁ずることができませんでした。
けれども、やがて宝石商人アミンは、今は客人たちをもてなすべき時と思って、若い娘の手を借りて、急いでまず快い香《こう》を運んできました。この香りが客人たちに、たっぷりとある上等の料理や果物や飲み物に、手をふれる気持をうながしました。それが済むと、アミンは二人の手に水差しの水をかけて、そして絹の房のついた手拭きを差し出しました。この頃になりますと、二人は心の動揺からすっかり立ち直り元に戻って、本当に再会の歓喜を味わいはじめたのでした。そこでシャムスエンナハールは、これ以上延ばすことなく、若い娘に申しました、「その琵琶《ウーデイ》を取っておくれ。わたくしを息苦しくしている情熱の叫びを、それに語らせてみましょう。」そこで腹心の娘が琵琶《ウーデイ》を差し出しますと、彼女はそれを取って膝の上に置き、素早く絃《いと》の調子を合わせてから、まず歌詞のない歌を前奏しました。楽器は彼女の指の下で、あるいは啜り泣き、あるいは笑いさざめき、彼女の魂は調べよく息を弾《はず》ませて、立ち昇ったのでございました。そのとき、彼らの恍惚が始まりました。そしてその時はじめて、彼女は眼を友の眼の中に溺れさせつつ、歌いました。
[#ここから2字下げ]
おお、恋する女のわが肉体よ、愛《いと》しき人を待ちわびて、汝《なれ》は透明となり果てぬ。されどかの君は来ませり。泣きぬれて涙の下《もと》、焼けただれしわが頬は、かの君の来たりたまいし微風《そよかぜ》に、爽やかとなる。
おお、わが友のかたわらの祝福されしこの夜よ、汝《なれ》はわが天運のあらゆる夜にまして、わが心に楽しさを与う。
おお、わが待ち、わが望みいし夜よ。愛《いと》しき人は右の腕もてわれを抱けば、嬉しや、われは左の腕もて彼を包む。
われは彼を包みて、唇もてその口を啜る。かくしてわれは、蜜房そのものと蜜ことごとくをば、しかと掴むものなり。
[#ここで字下げ終わり]
この歌を聞き終ったとき、三人ともたいへんな興奮に陥って、胸の底から叫んだのでございました、「ヤア、レイル、ヤア、サラーム(5)。これこそ、これこそ、至楽《しらく》の言葉だ。」
つぎに宝石商人アミンは、もう自分のいる必要はないと見て取り、二人の恋人が互いに腕に抱き合っているのを見て、無上の悦びに達し、慎ましく引き取りました。彼は自分の平生住んでいる住居へと向い、今は心静かに、友人たちの幸福を思いながら、ほどなくわが寝床の上に横になりました。そして朝まで眠りました。
ところが、眼を醒ましてみますと、自分の前には、恐怖に顔を引きつらせた彼の黒人の老婆が、歎きながら、われとわが両手で頬を打っておりました。そこで、いったいこの女の身に何ごとが起こったのかたずねようとて、口をひらこうとすると、おびえきった黒人女は、細目にあけた戸口にいる隣りの男を、指さしました。
アミンに乞われると、隣りの男は近寄りまして、挨拶ののち、彼に言いました、「おおお隣りの方よ、私は昨晩あなたのお宅を襲ったあの恐ろしい御災難を、お見舞いに伺いました。」そこで宝石商人は叫びました、「アッラーにかけて、災難とおっしゃるとどんなことですか。」男は言いました、「まだ御存じでなければ、お聞き下さい。昨晩、あなたがお宅に戻られるか、戻られぬうちでした。最初の手柄をまだあげていない盗賊どもが、恐らく、あなたが前夜貴重な品々を二番目の家に運び込んでいるとき、あなたを見ていたのでしょう、あなたが出て行かれるのを待って、二番目の家のなかには、誰もいまいと思ってそこに入りました。ところがそこには、昨晩あなたがお泊めしたお客様方がいらっしゃったので、おそらく奴らは、あの方たちを殺して、どこかに隠してしまったに相違ありません。というのは、あの方々の痕跡《あとかと》も見つかりませんでしたから。お宅のほうはというと、盗賊どもは茣蓙《ござ》ざ一枚、座蒲団《クツシヨン》一枚も残さず、すっかり掠奪してしまいました。それはもう、今までにもなかったほど、綺麗さっぱり、空っぽになっております。」
この知らせを聞きますと、若い宝石商人は絶望に両腕を上げて、叫びました、「やあ、アッラー、何という災難だろう。私自身の財産も、友達たちに貸してもらった品も、とりかえしがつかなく失《う》せてしまったが、それでも、お客様たちの亡くなられたことに比べれば、何でもありはしない。」そして狂乱のていで、彼は裸足《はだし》で下着のまま、その不幸に同情している隣りの男に、すぐあとから附き添われ、二番目の家まで走って行きました。すると、なるほど、その部屋部屋は空っぽで、がらんとしていることに間違いはありませんでした。そこで彼は涙を流しながら、崩折れて叫びました、「ああ、今はどうしたらいいだろう、おお、隣りの方よ。」隣りの男は答えました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十四夜になると[#「けれども第百六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
隣りの男は答えました、「おおアミンさん、一番いい策はやっぱり、不幸を堪え忍んで、盗賊どもが逮捕されるのをお待ちになることだと思います。奴らは遅かれ早かれ、必ず捕《つか》まるでしょう。というのは、今回の窃盗ばかりでなく、最近奴らの犯した数々の悪事についても、代官の警吏たちが奴らを捜査しているところですから。」すると哀れな宝石商人は叫びました、「おおアバールハサン・ベン・ターヘルよ、君は賢い男だ、バスラへ穏やかに身を引くなんて、よくもいい考えが浮かんだものだ。しかし、記《しる》されたことは、行なわれなければならない。」そしてアミンは群れなす人々のなかを通り、悄然と自分の住居へと向いましたが、人々は委細を聞いて、通ってゆく彼の姿を見ながら、深い同情を寄せたのでした。
ところが、宝石商人のアミンは、わが家の戸口に着きますと、玄関のところに、一人の見知らぬ男が自分を待っているのを見かけました。その男は彼を見ると立ち上って、平安を祈りましたので、アミンもこれに祈りを返しました。すると男は彼に申しました、「私は私たち二人だけの間で、申し上げたい密談がございます。」そこでアミンは、彼を家の中に入れようとしますと、男は言いました、「まったく二人っきりの方がよいから、いっそあなたの二番目のお家に参りましょう。」それでアミンは驚いて、尋ねました、「だが私はあなたを知らないのに、あなたの方は私を、私のことも、私の二軒の家のことも、みんな知っているんですね。」見知らぬ男はにっこり笑って、言いました、「そういうことは、いずれすっかり御説明申しましょう。そして、アッラーの思し召しあらば、私はあなたをお慰めする上に、何かのお役に立つでしょう。」そこでアミンは見知らぬ男と外に出て、二番目の家に着きました。ところが、そこで見知らぬ男はアミンに向って、家の戸は盗賊どもに穴をあけられているから、従って無遠慮な人々を避けられないおそれがあると、注意をいたしました、それから彼は言いました、「私に従《つ》いていらっしゃい。私の心当りの安全な場所にお連れしましょう。」
そこで男は歩き出しましたので、アミンもそのあとから歩き出し、一つの町から他の町へ、一つの市場《スーク》から他の市場《スーク》へ、一つの戸口から他の戸口へと、日の暮れるまで従いて行きました。さて、二人がこうしてティグリス河まで行きつきますと、男はアミンに言いました、「向う岸に行けば、たしかにもっと安全でしょう。」するとすぐさま、どこからともなく一人の船頭が現われ、二人のほうに近づき、アミンは、断わろうと思うことすらできないうちに、すでに見知らぬ男と共に、小舟に乗っておりまして、舟は橈《かい》を数回力強くひくうちに、二人を反対側の岸に運んでしまいました。すると男はアミンを助けて地面に飛び下りさせ、その手をとると、狭い入り組んだ街をいくつも通りぬけて、どんどん連れて行きました。アミンはもうまったく心細くなって、一人でこう考えておりました、「おれは生まれてこのかた、こんなところに足を踏み入れたことはない。おれの冒険は何という冒険だろう。」
けれども、男は最後に一枚の鉄ずくめの、低い扉のところに着きました。そして帯から錆びた大きな鍵を取り出し、鍵穴に差し込みますと、その鍵穴はものすごく軋んで、扉が開きました。男ははいって、アミンを入れました。それからまた扉を閉めました。そしてすぐさま、手足で逼《は》って歩かねばならぬような、廊下にもぐり入りました。この廊下が尽きると、二人は突然、まん真中にあるただ一本の松明《たいまつ》に照らされている、一つの部屋に出ました。そしてアミンが見ますと、松明の周りには、同じ着物を着た、そっくりの顔つきの十人の男が、身動きもせずに坐っておりまして、そのそっくり同じなことといったら、ただ一人の同じ顔が、いくつもの鏡で十回繰り返されたものと思ったくらいでした。
これを見ると、朝から歩き通して、もう疲れ切っていたアミンは、全身の衰弱に襲われて、地上に倒れてしまいました。すると彼を連れて来た男は、水を少しばかり振りかけて、正気を取り戻させました。次に、折からもう食事が用意されていたので、双生児《ふたご》のような十人の男は、まさに食べ出そうとしましたが、しかし一同はその前に、ただ一つの似たような声で、アミンに、自分たちの食物を一緒に食べるようにすすめたのでした。アミンはこの十人が全部の皿から食べるのを見て、独り思いました、「あの中に毒が入っているとしたら、彼らは食べはしないだろう。」それで恐ろしさにもかかわらず彼は近寄りまして、朝からずっとひもじかったために、腹いっぱい食べました。
食事が終ると、一つで十倍の同じ声が、彼に尋ねました、「お前はおれたちを知っているか。」彼は答えました、「いいえ、アッラーにかけて。」十人は言いました。「おれたちこそは、昨夜、お前の家を荒して、歌を歌っていたお前のお客の、若い男と若い女をさらって来た、盗賊なのだ。だがあいにくのことに、露台から逃げおおせた女中がいるのだ。」そこでアミンは叫びました、「皆様御一同の上なるアッラーにかけて、殿様方よ、どうか後生です、私の二人のお客様がいらっしゃるところをお教え下さい。そして私の乱れた魂に、元気を取り戻させて下さい、ただ今、私の飢えを満たして下さった気前のよい方々よ。どうかアッラーは、あなた方が私から奪いなすったすべてのものは、そのまま安らかに皆様に使わせて下さいますように。ただ、私の二人の友人だけを、私に見せて下さいまし。」すると盗賊たちはみな一斉に、一枚の閉めてある戸の方に腕を差し延べて、申しました、「両人の運命は以後心配無用だ。彼らはおれたちの家にいた方が、代官屋敷よりも安全だし、それにお前とて同様だ。いいか、実はこうなのだ。おれたちがお前に来てもらったのは、ほかでもない、お前から、あの二人の青年男女について、真相を聞きたかっただけだ。あの二人の美しい顔付きと気品のある態度には、おれたちもひどく打たれて、一旦これはとんだ相手だったとよくわかると、もうとても直接問いただす勇気さえなくなったのだ。」
そこで宝石商人アミンはたいそう安堵しまして、もう盗賊どもをすっかり自分の味方につけてしまうことしか考えず、彼らに言いました、「おお御主人様方、今は私にもはっきりわかりましたが、たとえ人道と礼儀とが地上から消え失せるようなことがありましても、皆様方のお宅には、そういうものがそっくりそのまま見出されることでございましょう。そして、それに劣らずはっきりとわかったことですが、あなた方のように寛大な方々を相手にするときには、その信用を博するために採るべき最良の方法とは、真実を一切隠さないことであります。では、私の物語とあの方たちの物語とをお聞き下さい。それは、あらゆる驚きの無上のかぎりに、驚くべきものでございますから。」
そして宝石商人アミンは、盗賊たちに、シャムスエンナハールとアリ・ベン・ベッカルの一切の物語と、二人と自分の関係とを、始めから終りまで、委細洩らさず語りました。けれどもそれをここに繰り返しても、まったく益のないことでございます。
盗賊たちはこの不思議な物語を聞くと、果して非常に驚いて、叫びました、「いまおれたちの家に、美しいシャムスエンナハールと王子アリ・ベン・ベッカルをお匿いしているとは、まったく何という名誉なことだろう。だが、おお宝石屋よ、お前は本当はおれたちを担いでいるのじゃあるまいな。あれは本当にそういう方々なのか。」アミンは叫びました、「アッラーにかけて、おお御主人様方、絶対にあの方々です。」すると盗賊たちは、まるでただ一人の男のように、立ち上り、件《くだん》の戸を開けました。そして一同地まで頭を下げて、アリ王子とシャムスエンナハールを外へ出し、いろいろとお詫びを申しながら、言いました、「どうかわれわれの不躾《ぶしつけ》な仕打ちをば、お許し下さるように切にお願いいたします。何せ、よもや宝石屋の家などで、あなた方のように高位の方を捕えようとは、つゆ思いもよらなかったからでございます。」それから、彼らはアミンの方に向って、言いました、「お前については、われわれの奪った貴重な品々はこれからすぐ返してやろう。しかしたいへん残念なことだが、お前の家具は、やや到るところの公開の競売《せりうり》で売らせて、四散してしまったから、これは同じように戻してやるわけにゆきかねるのだ。」
(6)そして彼らは言葉どおりに、早速貴重な品々を大きな包に束《たば》ねて、私に返してくれました。それで私も他のことはすっかり忘れながら、彼らの寛大な振舞に厚く礼を述べることを怠りませんでした。すると彼らはわれわれ三人に言いました、「今は、皆様方がわれわれのただ中にお留り下さる大いなる名誉をお与え下さることが、御意《ぎよい》に叶うならばともかく、さもなければ、われわれはこれ以上長くここにおひきとめいたそうとは思いません。」そして彼らは、ただ私たちに彼らのことをひとに洩らさず、過去の不愉快な時を忘れるように約束させただけで、すぐに私たちのために奔走し始めました。
彼らはそこで私たちを河のほとりに案内して行きました。だが、私たちは互いにまだ不安を語り合おうなどとは、思いもしませんでした。それほど、まだ気遣いに息をはずませ、こうした事件はすべて、夢の中で起っていると信じがちな有様でした。それから、この十人は深い敬意を表しながら、私たちを助けて小舟に乗せ、みんなで非常に力強く橈《かい》を漕ぎ出しましたので、われわれは瞬く間に向う岸に着きました。けれども、舟から降りたとたんに、何と恐ろしかったことでしょう、私たちはいきなり八方から代官の警吏に取り囲まれ、直ちに引っ捕えられてしまったのでした。盗賊たちについては、彼らは舟の中に残っていましたので、何度か漕ぐと、全然手の届かぬところまで逃げる暇がありました。
すると、警吏の頭《かしら》は私どもに近寄り威《おど》かすような声で、私たちに尋ねました、「貴様たちは何者だ、どこから来たのだ。」ところが恐怖に捉えられた私たちは、ただ茫然としているばかりでした。これがまた、さらに警吏の頭《かしら》の疑惑を強めまして、彼は言いました、「おれにありのまま返答をするんだ。さもなければ即座に、貴様たちの手足をふん縛り、部下たちに引っ立ててゆかせるぞ。さあ、貴様たちはどの地区の、どの街の、どこに住んでいるか、申してみろ。」そこで、私は何を措いても、この場を繕おうと思いましたので、口を切るべき場合だと判断して、答えました、「おお、お殿様、私どもは楽手でございまして、この女は専門の歌妓《うたいめ》でございます。私どもは今晩お祭りに出演を頼まれまして、あの私どもをここまで連れて来た人たちの家に参ったのでございます。あの人たちの名前を申し上げることは、それは私どもにできることではございません。と申しますのは、普通こういう商売ですと、そんな細かなことなどは一向調べないことになっていて、ただ報酬さえ十分に貰えれば、それで十分なのでございますから。」けれども、警吏の頭《かしら》は私を厳しく睨《ね》めつけて、言いました、「貴様らはいっこう歌い手のような様子をしておらんぞ。むしろ、貴様たちは祭りから出て来たばかりの者にしては、ひどくおびえて、びくびくしているように見受ける。それに貴様たちの連れの女だって、そんな立派な宝石などつけていて、いっこう舞妓《アルメツト》らしい様子が見えん。おい、警吏ども、こやつらを引っ捉えて、直ちに牢屋に連れてゆけ。」
この言葉を聞きますと、シャムスエンナハールは、自分で仲に入ろうと決心いたしまして、警吏の頭《かしら》の方に進み出て、彼を傍らに引っ張って行き、その耳もとで数語を囁きますと、これがききめをあらわしまして、彼は数歩引き下り、極めて慇懃な敬意の口上を呟きながら、地面まで身を屈めました。そしてすぐさま部下に、二隻の舟を近寄せるように命令を下しまして、その一隻にはシャムスエンナハールを助けて乗せ、一方、他の一隻には私を、王子ベン・ベッカルと一緒に乗らせました。それから、彼は船頭たちに、私たちの行けというところまでお連れするようにと命じました。そして二艘の舟は、直ちにそれぞれ違った方向へ、シャムスエンナハールは彼女の宮殿の方へ、私ども二人は私どもの地区の方へと向ったのでございました。
まず私どもの方はと申しますと、王子の家に到着しますや、王子は打ち続く激動に力尽き弱り果て、召使や家の女たちの腕の中に、失神して崩れ落ちてしまいました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十五夜になると[#「けれども第百六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それというのは、彼が道すがら私にわからせ得たことによりますと、このようなことが起きたあとでは、彼がその友シャムスエンナハールと改めて会見する望みは、今後まったく絶えてしまったからなのでした。
そのとき、女たちや召使たちが王子を気絶から正気に戻すのに努めている間、王子の御両親は、御自分たちのわからぬこうした不幸のすべての原因は、この私に違いないと想像なさいまして、私にあらゆる種類の詳細を、言わせてしまおうとされました。けれども私は、何であろうと説明することをさしひかえまして、お二人に申しました、「よい方々よ、王子の御身に起りましたことは、まことに並々ならぬことでございますので、ただ御自身だけが、皆様にお話しすることができましょう。」すると、私には幸いなことに、このとき王子がわれに返ったのです。で御両親も、当人の前では、もはやあくまで問いただすことはなさりかねたのでした。私は新たな質問を恐れもしましたし、ベン・ベッカル様の状態にやや安心もしましたので、自分の包みを持って、大急ぎでわが家の方へと向いました。
家に着きますと、家《うち》の黒人女が、自分の顔を叩きながら、この上もなく鋭い、この上もなく絶望的な叫び声を上げているところでした。そして近所の人々全部がこれを取り巻き、てっきり私が死んでしまったものと思い、彼女を慰めておりました。ですから、私を見ますと、黒人女は走って来て、私の足もとに身を投げて、これまた新たに私を糺問責めにしようとしました。けれども私はその下心を遮って、これに、さしあたりもう眠りたくてたまらないだけなのだと、言ってやりました。私は弱り果てて、蒲団《マトラー》の上に倒れてしまい、枕の中に顔を埋めて、朝までぐっすりと眠りました。
朝になると、黒人女は私のところへやって来て、いろいろ尋ねました。私はこれに言いました、「早くお茶碗をくれ。」それを持ってくると、私は一息に飲みほしました。そして黒人女がなおもしつこく尋ねますので、私は言ってやりました、「起ったことが起ったのだ。」それで彼女も立ち去りました。私はすぐにまた眠りに落ちまして、今度は二日と二晩後でなければ、眼を醒ましませんでした。
そのとき私は、やっと床《とこ》の上に坐ることができまして、独りごとを申しました、「おれは浴場《ハンマーム》に行って風呂を使わなければならぬな。」そして、ベン・ベッカルとシャムスエンナハールの様子を誰も知らせに来てくれませんので、これがたいへん気に懸ってはいたものの、すぐ浴場《ハンマーム》に行きました。浴場《ハンマーム》に行って風呂を使うと、早速自分の店の方に向いました。そして戸を開けようと、鍵を隠しから引き出したとき、ひとつの可愛い手が後ろから私の肩を触り、ひとつの声が私に言いました、「やあ、アミン様。」そこで振り向きますと、それは私の若い友、シャムスエンナハールの腹心の娘であるとわかりました。
けれども私は、その姿を見て悦ぶかわりに、隣り近所の人たちから、彼女と話を交わしているところを見つけられては大変と、急に無性《むしよう》に恐ろしくなってしまいました。それで、急いで鍵をまた隠しに戻し、後をも見ずに、まっすぐ前に逃げ出しまして、停ってくれと頼みながら、後から駈けてくる娘の呼び声にもかかわらず、疾走を続け、絶えず腹心の娘に追いつめられながら、とうとう、あまり人の出入りしない、ある回教寺院《マスジツト》の戸口まで、行き着きました。そこで私は、すばやく戸口に|皮スリッパ《バブーシユ》(7)を脱ぎ捨ててから、中に飛び込みまして、一番薄暗い隅の方に向い、そこで直ちに礼拝の姿勢をしました。この時こそ私は、今までにもまして、安穏にバスラへ身を引いて、このような困った紛糾をのがれてしまった私の旧友、アバールハサン・ベン・ターヘルの賢さが、どんなに大したものであったかと思いました。そして心中で考えました、「まったくだ、もしもアッラーが、この事件から私を恙《つつが》なく救い出してさえ下さるなら、私はもう金輪際このような冒険には飛び込まず、金輪際こんな役割は果さないことを、誓うことにする。」
ところが、私がこの薄暗い片隅に来たと思うと、私に追いついたのは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十六夜になると[#「けれども第百六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……私に追いついたのは、腹心の娘でありました。今度は誰も目撃者がいないので、私も彼女と思うままに話し合おうと、決心することができました。彼女はまず最初、私に尋ねました、「御機嫌はいかが。」私は答えました、「申し分なく元気です。だが、私たちみんなが、こうしたひっきりなしの不安のうちに生きているよりは、どんなに死ぬほうがましに思えることか。」
彼女は私に答えました、「悲しいことですわ、でももし私のお気の毒な御主人の有様を知りなすったら、あなたは何とおっしゃるでしょうか。ああ、やあ、|君よ《ラツビ》、私はもうあの方が御殿にお戻りになったときを思い出しただけで、自分自身がへたへたとなってしまう気がします。あのときは、私自身はあなたのお家を逃れて、露台へ渡り、それから、最後の家の高いところから、地上に飛び降りて、お先に御殿に帰って来ることができました。やあ、アミン様、もしあなたがあの方をごらんになったらねえ。まるで墓場から出て来た人のような、あの蒼ざめた顔が、輝かしいシャムスエンナハール様のお顔だとわかる人があったでしょうか。ですから、私はあの方を見たときは、もう堪らなくなって、わっとばかりに泣き崩れ、その足もとに身をなげ、おみ足に接吻をしたのでした。けれどもあの方は御自身のことは忘れて、まず船頭のことをお思いになり、それにすぐ、お駄賃として金貨千ディナールを渡すようにと、仰せつけられました。それから、それが済みますと、あの方は力がぬけて、私たちの腕の中に気を失って倒れておしまいになりました。そこで、私どもは大急ぎでお寝床にお運び申して、私がお顔に花の水を振りかけ始めました。そして私はお眼を拭い、おみ足とお手を洗い、お召物を上から下までお替えしました。すると嬉しいことに、御主人様はわれにお返りになり、少しく息をなさるのを見ました。そこで、すぐさま私は薔薇入りのシャーベットを飲ませて差し上げ、素馨《ジヤスミン》をお嗅がせして、申し上げました、『おお御主人様、お身の上なるアッラーにかけて、お大事になさいませ、お大事に。私たちはこんなことを続けたら、一体どうなることでございましょう。』けれども、あの方は私にお答えになりました、『わたくしの忠義な腹心の娘よ、わたくしはもう地上には、自分をまだ引き留めておくようなものは何ひとつありません。けれどもわたくしは死ぬ前に、恋人の御様子を知りたいと思います。だから宝石商人アミンを訪ねて行って、金貨のつまったこれらの財布を持って、わたくしたちが行ったため、あの人にかけた損害の埋合せに、これを受け取ってくれるように頼んで下さい。』」
そして腹心の娘は、持ってきた非常に重い包を私に差し出しましたが、それには、金貨五千ディナール以上が入っていたに違いありません。それからさらに続けました、「次にシャムスエンナハール様は、あなたへの最後のお願いとして、王子アリ・ベン・ベッカルの御様子を、たとえおよろしくとも、歎かわしくとも、とにかく私どもに知らせて下さるようにお頼み申せと、私にお託しになりました。」
そうなると私は、この娘に後生だからと頼まれたこの件を、とてもことわりきれず、こんな危険な問題にはもうかかわるまいと、断乎たる決心をしていたにもかかわらず、あなたが今晩私の家に来れば、必ず必要な詳細を持ってお目にかかることにすると、いってしまいました。そして私は若い娘に、まず私の家に寄って、持って来た包を置いて行ってくれるように頼んだ後、回教寺院《マスジツト》を出ました。そして、私はベン・ベッカル様の家へ赴きました。
さて、行ってみますと、女たちも召使たちも、みんなが三日前から私を待っており、アリ王子が深い溜息をつきながら絶えず私を求めるので、どうしてその気を鎮めていいのか、わからずにいる有様でした。そして彼自身は、眼はほとんど光を失い、生きている人よりか、むしろ死人のような様子をしているのを見ました。そこで、私は眼に涙を浮かべて、王子をわが胸にしっかと抱き締めまして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十七夜になると[#「けれども第百六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
……王子をわが胸にしっかと抱き締めまして、少しは彼を慰めようと、いろいろと優しいことを言ってみましたが、今度はうまく参りませんでした。というのは、彼は私にこう言うのです、「おおアミンよ、私は自分の魂がのがれ去ろうとしているのを感ずるので、君には少なくとも、死ぬ前に、君の友情に対する謝恩の印を残して行きたいと思う。」そして彼は奴隷たちに申しました、「これこれしかじかの物をここに持って来なさい。」するとすぐに、奴隷たちはいくつもの籠に入れた、あらゆる種類の貴重な品々や、金と銀の鉢や、高価な宝石などを運んで来て、私の前に並べました。そして彼は私に言いました、「君の家で盗まれた品々の埋合せに、どうかこれを受け取って下さい。」そしてすぐに、召使たちに全部を私の家に運ぶように命じました。それから、私に申しました、「おお、アミンよ、されば、この世では一切のものが一つの目的を持っている。恋愛において自分の目的を失った者こそ不幸だ。そういう者には死のほかには残っていないのだ。それゆえ、もし預言者(その上に平安あらんことを)の掟を重んずる気持がなかったとしたら、私は、この間近に感じる死の瞬間を、すでに自ら早めていたことだろう。ああ、アミンよ、私の肋骨がどんな積もる苦悩を下に隠しているか、君が知っていたらなあ。およそ人間が、未だかつて私の心に満たされているほどの苦悩を味わったとは、とても思えない。」
そこで私は、少し気をそらすために、私のところで待っている腹心の娘にあなたの様子を知らせに行くが、彼女はその目的でシャムスエンナハール様から遣わされて来ているのだ、と申しました。そして私は彼と別れまして、これから若い娘のもとに赴き、王子の絶望を語り、王子はわが身の最後を予感し、やがては恋人とわかれるのを唯一の心残りとしながら、地上を去るだろうと、話してやることにしました。
事実、私が帰宅してからしばらく経ちますと、あの若い娘が私の家に入ってくるのを見ましたが、しかし彼女は想像もできないような激動と動顛の状態にありました。その眼はおびただしく涙を流していました。そこで、私もますます気が気でなくなって、彼女に尋ねました、「アッラーにかけて、今まで起ったすべてのことよりも、まだ悪いことが何かあるのですか。」彼女は身顫いをしながら、答えました、「前から恐れていたことが、とうとう私たちの上に降りかかって参りました。私たちはみんな、最後の一人まで、施すすべなくもうだめです。教王《カリフ》は一切を知っておしまいになりました。まあ、お聞き下さい。私たちの女奴隷の一人の失言のために、宦官の長《おさ》が疑いを抱くことになりまして、シャムスエンナハール様付きのすべての女を、一人一人別々に訊問し始めました。みんなが否認したのにもかかわらず、彼は集めた情報の食い違いから、手がかりを得ました。そして一切の事件を教王《カリフ》にお知らせしますと、教王《カリフ》はすぐさま人をお遣わしになり、シャムスエンナハール様をおそばにお召しになりましたが、いつもとは違って、宮殿の宦官二十人を付き添わせなさいました。ですから、今はもう私たちは、みんな恐怖の極におります。それで、私はやっと一瞬の隙を見つけて、そっとのがれ出し、私たちに迫った最後の不幸をお知らせに駈けつけました。ですから必要な手配をめぐらしなさるよう、すぐアリ王子にお知らせして上げて下さい。」こう言いおえると、若い娘はまた大急ぎで、宮殿の方角に立ち去りました。
すると私は、全世界が顔の前で暗くなるのを見て、叫びました、「至高全能のアッラーのほかには、頼りも力もない。」けれども私は、天命に直面してこれ以上何を言うことができたでしょうか。それで私は、ほんのちょっと前に別れて来たばかりとは申せ、意を決してアリ・ベン・ベッカルの家に戻り、そして、どんな些細な説明をも求める暇を与えずに、彼に叫びました、「おお、アリ様、あなたは即刻、何を措いても、私に従《つ》いて来て下さらなければなりません。さもないと、死がこの上もなく屈辱的な工合にあなたを待っているのです。教王《カリフ》は一切をお知りになったので、今ごろはもう、あなたを逮捕させに人を出しているにちがいありません。一瞬も遅れずに、出掛けましょう。そしてわが国の国境の外へ出ましょう。」そしてすぐに、王子の名で奴隷たちに命令し、三頭の駱駝《らくだ》に、最も貴重な品々と旅中の食糧とを積ませ、それから、王子を助けて他の駱駝に乗せ、私も王子の後ろに坐りました。そして王子が母君に別れを告げるや、時を移さず、直ちに私たちは出発し、砂漠への道をとりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、許された言葉をやめた。
[#地付き]けれども第百六十八夜になると[#「けれども第百六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところが、すべて記《しる》されたものは行なわれねばならず、天命はいかなる天の下にあろうとも、成就せざるを得ないのです。果して、私たちの不幸は続かざるを得なかったので、一つの危険を逃れたことは、さらにもっと悪い危険の中に、私たちを投げ入れたのであります。
事実、私たちが夕暮近く砂漠の中を進んで行き、椰子《やし》の樹々の真中に尖塔《マナーラ》が見える緑地《オアシス》を望んだときでした、突然われわれの左手に、野盗の一隊が現われて、間もなく私どもを取り巻いてしまったのでありました。私たちは、生命を全うする唯一の方法は、いかなる抵抗も試みないことだということを、よく知っておりましたので、だまって武器を取られ、身を剥がれるままになっておりました。すると、野盗どもは私たちの動物をその全部の積荷もろとも奪い、私たちの身に付けていた着物まで取り上げ、私たちの身体の上には下着だけしか残しませんでした。その上で、彼らはもう私たちの運命などは気にも懸けず、遠ざかってしまいました。
私の憐れな友人については、彼はもう私の両手の間の一つの品物に過ぎませんでした。それほど、こうした重ね重ねの激動に弱りきってしまったのでした。私はともかくも彼に力を貸し、少しずつ足をひきずらせながら、緑地《オアシス》の中に認めた回教寺院《マスジツト》まで歩かせることができました。そして私たちは夜を過ごすために、そこに入りました。アリ王子はその場で地上に倒れ、私に言いました、「私は遂にここで死ぬことであろう、シャムスエンナハールも、今頃はもう生きてはいないはずであってみれば。」
ところで、このとき回教寺院《マスジツト》では、一人の男が礼拝をしておりました。それが済みますと、その男は私たちの方に振り向き、ちょっと眺めて、次にこちらに近寄って、親切に申しました、「おお、お若い方々よ、あなた方はきっと他国の方でござろうが、ここへ夜を過ごしにお出でになったのかな。」私は答えました、「おお、御老人《シヤイクー》、私どもは仰せのとおり他国の者でございますが、今し方、砂漠の野盗にすっかり剥ぎ取られまして、全財産と申せば、身に付けているこの下着だけしか、残されなかったのでございます。」
この言葉を聞きますと、老人《シヤイクー》は私たちにたいそう同情を寄せて、申しました、「おお、お気の毒なお若い方々よ、ここにしばらく待たっしゃれ、わしはまた戻って来ますでな。」そして立ち去って、間もなく、包を持った子供を従えて戻って来ました。そして老人《シヤイクー》はその包から着物を取り出し、私たちにどうぞこれを着てくれと申しました。次に言いました、「一緒にわしの家へお出でなされ、この寺院《マスジツト》にいるよりはよろしかろう。というのは、あなた方はきっとひもじく、喉も渇いておられるに違いないからな。」そして彼は私たちを無理に家へ連れて行きましたが、そこに着きますや、アリ王子は息もせず、ただ絨氈の上に横になってしまっただけでした。するとそのとき、遠くの方から微風に乗って、どこかの貧しい女の声が、次の詩句を、かこつがごとく歌っているのが聞えて来ました。
[#ここから2字下げ]
わが青春の終り近きを見て、われ泣きてありぬ。されどわれはその涙をとどめぬ、ただ友との別離のみを泣かんとて。
死の刹那はわが魂に苦きにせよ、そは不安の生と別るるが辛《つら》きにあらず、友の眼《まなこ》より遠く立ち去るがゆえなり。
ああ、訣別のときかくも近く、われは永久に友を失うものと、われもし知りもせば、われは旅路の糧《かて》として、いささかのいとしき眼《まなこ》の美を、身に携えて運び去りしものを。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、アリ・ベン・ベッカルはこの歌を聞きはじめたと思うと、すぐに頭をもたげ、われを忘れて、聴き出しました。そしてその声が消えたとき、私たちは突然、彼がひと息大きな溜息をついて、再び倒れるのを見ました。彼は息絶えていたのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見ると、つつましやかに口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第百六十九夜になると[#「けれども第百六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
これを見ますと、老人《シヤイクー》と私とはわっと泣き伏して、一晩中そのままでいました。私は涙ながらに、この悲しい物語を老人《シヤイクー》に語ったのでした。それから、翌朝になりますと、私は彼にこの遺骸を、私の知らせで両親たちが取りに来るまで、大切に保管して下さるようにと頼みました。そしてこの親切な男に暇を告げ、バグダードに向かう隊商《キヤラヴアン》の出発に便乗して、大急ぎでその地に赴きました。そして着物を着換える暇もなく、まっすぐにベン・ベッカルの家にゆき、王子の母君の前に罷《まか》り出て、悄然と平安を祈りました。
ベン・ベッカルの母君は、私が令息を連れずに一人きりで着いたのを見、私の悲しげな様子に気がつきますと、不吉な予感に身顫いし始めました。私は申し上げました、「おおアリ様の尊ぶべき母君よ、アッラーの御命令とあらば、被造物《いきもの》はただ従うよりほかございません。そして、召喚状が一つの魂に宛てて書かれたときには、その魂は遅滞なく御主人の御前《みまえ》に罷り出なければなりません。」
この言葉を聞きますと、アリの母君はただひと声切ない悲痛の叫びを上げ、俯伏《うつぶ》せに倒れながら、私に申されました、「おお、禍いよ、わが子は死んだのでありましょうか。」
そこで私は眼を伏せて、一言も発することができませんでした。すると私は、お気の毒な母君が、嗚咽《おえつ》に息をつまらせて、すっかり気を失いなさるのを見ました。私も、わが心の涙をことごとく流して泣き始めましたが、一方、女たちは凄じい叫び声を家中に満たすのでした。
アリの母君がやっと私の話を聞かれるようになったとき、私はその死を詳しく物語りまして、それから言いました、「願わくはアッラーはあなた様の功績の広さを認めたまい、おお、アリ様の母君よ、その御恩恵と御慈悲とをもってこれに報いたまいますように。」母君は私に申されました、「けれども、あの子は何かあなたに、母親に伝えるように言いのこしませんでしたでしょうか。」私は答えました、「いかにも、御令息は、自分のただ一つの願いは、この身をバグダードに移してもらいたいことだと、母上に伝えてくれとお頼みになりました。」すると、母君はわが着物を引き裂きながら、再び泣き崩れ、これからすぐ隊商《キヤラヴアン》と一緒に緑地《オアシス》まで出向き、息子の遺骸を連れ戻そうと、私に答えました。
そして事実、しばらく後には、私は出発の支度にいそがしい一同を後にのこして、魂の中でこう思いながら、わが家へと戻りました、「おお、不幸な恋人、アリ・ベン・ベッカルよ、あなたの青春がこんなに美しい開花期《はなどき》に刈り取られてしまったとは、何という残念なことだったろう。」
こうして私は家に着きましたので、隠しの中に手を入れて、入口の鍵をとり出そうとしますと、そのとき、私は自分の腕が、そっと誰かに触《さわ》られるのを感じました。そこで振り返ってみますと、喪服をまとい、顔に憂いを帯びた、シャムスエンナハールの若い腹心の娘を認めました。そこで私は逃げ出そうと思いましたが、彼女は私を押しとどめ、無理に一緒に私を家の中にはいらせました。そして私は、何はともあれ、まだ何も知らないのに、彼女と共に泣きはじめました。それから、私は彼女に言いました、「あなたは悲しい知らせを聞きましたか。」彼女は答えました、「どういう知らせですか、やあ、アミン様。」私はこれに言いました、「アリ・ベン・ベッカル様の亡くなったことです。」すると、彼女がますます泣くのを見ましたので、私は彼女がまだ何も知っていないことがわかり、そこで彼女とともども苦しみの溜息をつきながら、詳しく知らせてやりました。
私が話し終ると、今度は彼女が私に言いました、「ではあなたのほうでも、やあ、アミン様、あなたも私の不幸を一向ご存じないことがよくわかりました。」私は叫びました、「ひょっとシャムスエンナハール様は教王《カリフ》の御命令で、殺されなすったのでしょうか。」彼女は答えました、「シャムスエンナハール様はお亡くなりになりました、けれどもあなたの御想像なされるような工合にではありません、おお、私の御主人様は。」それから、彼女は言葉を途切らせて更に泣き、そのうちやっと言いました、「では聞いて下さいまし、アミン様。」
「シャムスエンナハール様が、二十人の宦官に付き添われて教王《カリフ》の御前に到着なさると、教王《カリフ》はその者たち一同に合図をして退出させ、次におん自らシャムスエンナハール様に近寄られ、これをおそばにお坐らせになり、有難い御親切のこもったお声で、仰せられました、『おお、シャムスエンナハールよ、そちには宮中にいろいろと敵があることは、余も承知しておるが、その敵どもはそちの行動を歪曲《わいきよく》し、これを余にもそちにも適《ふさ》わしからぬ形に見せかけて余に通じ、余の心中にてそちを傷つけんものと試みたのであった。余は常にもましてそちを愛しているものと、しかと心得よ。されば、これを全宮中に更によく証さんがために、余はそちの召使一同と、奴隷の数と経費を増《ふ》やさしめるよう、命令を下したのじゃ。されば、余自身まで悲しませるような、さような悲しげな様子は、もうどうかやめてもらいたい。そちの気晴らしの助けになるよう、これより直ちに、宮中の歌姫どもを呼び、果物と魚を盛った皿を取り寄せるといたそう。』
するとすぐに、女楽手と歌姫たちが入って参りました。そして奴隷たちは、中にはいっているものすべてでずっしり重い大皿を持って、到着いたしました。そしていよいよ用意万端が整うと、これほどの御好意にもかかわらず、ますます弱ってゆくのを覚えるシャムスエンナハール様の、お側に坐った教王《カリフ》は、歌姫たちに序曲を歌うようお命じになりました。そこで、歌姫たちの一人は、仲間たちの指に操《あやつ》られる琵琶《ウーデイ》の音につれて、次の歌を始めました。
[#ここから2字下げ]
おお涙よ、汝《なれ》はわが魂の秘密を洩らし、無言の中に培《つちか》いし苦悩を、ただわれ独りのため秘めおくを妨ぐるかな。
われはわが心の愛する友を失いぬ……
[#ここで字下げ終わり]
けれども、歌われた詩節がまだ終らぬうちに、突然、シャムスエンナハール様は弱い溜息を洩らして、仰向けにお倒れになりました。教王《カリフ》は極度に驚かれ、気を失ったものと思いなされて、いそぎ彼女の方に身をお屈《かが》めになりました。けれども、教王《カリフ》は死んだ彼女をお起こしになったのでございました。
すると教王《カリフ》は持っていらっしゃった盃を遠くへ投げ出され、皿小鉢をひっくり返されました。そして、私どもが恐ろしい叫び声を上げますと、教王《カリフ》は饗宴の琵琶《ウーデイ》と六絃琴《ジーターラ》をみな壊してしまうようにお命じになったのち、一同を退出させておしまいになりました。そして広間には、私一人だけしか留めてお置きになりませんでした。そこで教王《カリフ》はシャムスエンナハール様をお膝にお抱きになり、広間には何ぴとも入れさせぬよう私にお命じになって、夜をこめて、彼女の上に涙をお注ぎになり始めました。
翌朝になりますと、教王《カリフ》はその遺骸を泣き女と、洗い女たちにおあずけになり、寵姫のために、御正妻としての、またそれよりももっと立派な葬儀をするように、お命じになりました。それが済みますと、教王《カリフ》は御自分のお部屋にお引き籠りに行きなさいました。そしてその後は、再び教王《カリフ》をお裁きの間《ま》と玉座の床上《しようじよう》にお見掛けしたものは、ございませんでした。」
そこで、私は若い娘とともに、さらに二人の恋人の死に涙を流したのち、アリ・ベン・ベッカルをシャムスエンナハールのかたわらに埋めることに、彼女と意見が一致しました。そして、私たちは母君が緑地《オアシス》に取りに行かれた遺骸の帰るのを待って、王子のために立派な葬式を営み、これをば首尾よく、シャムスエンナハールの墓のかたわらに埋めさせることができました。
そしてこのときから、私も、私の妻になった若い娘も、二つの墓におまいりに行っては、私たちの友であった恋人たちの上に、涙を流すことをやめませんでした。
[#ここから1字下げ]
――「以上が、おお幸多き王さま」とシャハラザードはつづけた。「教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの寵姫、シャムスエンナハールの悲話でございます。」
このとき、ドニアザードはもうこれ以上長くこらえきれなくなり、頭を絨氈の中に埋めて、わっと泣き伏してしまった。するとシャハリヤール王は言った、「おお、シャハラザードよ、この物語はいたく余を悲しませた。」するとシャハラザードは言った、「さようでございます、おお王さま。それなればこそわたくしは、わけてもその中に含まれている見事な詩句ゆえに、他の物語とは種類を異にするこの物語をば、お話し申し上げたので、それは主として、もしお許し下さいますれば、わが君にお話し申し上げるつもりでおりまする物語が、必ずやお覚え遊ばさせずにはおかぬあらゆる悦びに、君のお心をよりよくお向け申さんがためでございます。」するとシャハリヤール王は叫んだ、「よろしい、おおシャハラザードよ、余の悲しみを忘れさせてくれい。そしてそちの約束する物語の題を早く申してみよ。」するとシャハラザードは言った、「それは、あらゆる月のうち最も美しい月、ブドゥール姫の妖精物語[#「ブドゥール姫の妖精物語」はゴシック体]でございます。」
すると小さなドニアザードは、頭をもたげながら、叫んだ、「おお、シャハラザードお姉さま、その物語をすぐ始めて下さったら、どんなに御親切なことでしょう。」けれどもシャハラザードは言った、「親しみこめて心から悦んで、そしてこのお育ちよろしく挙措みやびな王さまに対する当然の敬意として。けれども、それはただ明晩のことでありましょう。」そして、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見たので、元来つつましい女であったゆえ、口をつぐんだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
訳註
オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語(つづき)[#「(つづき)」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) Al-Zahli. 不詳。
(2) 前出、正統派第二代カリフ。
(3) 前出、アレクサンドル大王。
(4) Lakm穎 le Sage. アラビアのイソップと言われる伝承文学の賢人。コーラン第三十一章の表題となる。
(5) Sabet. 不詳。
(6) Safi穎. 前出、不詳。
(7) Baschra le D残haus仔. おそらく「跣足のビシル」Bish[#「sh」はゴシック体]rメauxpiedsモ と呼ばれた Bish[#「sh」はゴシック体]r al-Ha-fi- (767?―841?) のこと。大学者、大神学者で、履物を用いなかった。次にあるようにハンバルらの尊崇を受けた。
(8) アブラハムのことか?
(9) Ahmad ben-Hanbal. (780―855)「バグダードのイマーム」と言われた大神学者、法学者。スンニー四派中のハンバル学派の創始者。
(10)八冊本に欠く。
(11) Malek ben-D貧ar. 不詳。
(12)八冊本に欠く。
(13) Mansour ben-Omar. 不詳。
(14)八冊本に欠く。
(15) Moslima ben-D貧ar. 不詳。
(16) Moussa. Mo不e(モーゼ)のこと。預言者の一人。モーゼが二人の羊飼いの女に水を汲んでやる話は、コーラン二八『物語り』にある。
(17) 八冊本に欠く。
(18) Ibn-Adham. 不詳。
(19) 八冊本に欠く。
(20) Mohammad ben-Edris Al-Sch映i (767―820) 前記のイスラム法学四大派中のシャーフィイー派の祖。
(21) 八冊本に欠く。
(22) Le geune Ibn-Fou嬰. 不詳。
(23) Abi-Hanifa. (699―7679) イスラム四大法学派中のハニーファ派の開祖。アッバース朝の興起に協力し、マンスールがバグダードに新都を造営したとき(七六二年)の監督官の一人となった。
(24) Le De浜am. 裏海に北方を限られるペルシアの地方。デイラム人はいわゆるペルシアよりも、むしろ韃靼トルコ群に属するものであろう(マルドリュス)。
(25) 一ドラクムは確定していないようだが、だいたい三グラムから五グラムの間らしい。
(26) 前出、一パラサンジュは約五千メートル。
(27) 前出、「アッラーは偉大なり。」
(28) 前出、聖母マリアのこと。
(29) Le mihrab. 礼拝堂内部の、礼拝の方向を示す壁面の凹んだ場所。
(30) 八冊本に欠く。
(31) 八冊本では「二時間」とある。
(32) 前出、聖母マリアとその母聖アンナ。
(33) Zamzam. カアーバの東南にある神聖な井泉。アブラハムの妻がイスマイルのために水を求めてさまよったとき、アッラーによって迸り出たと伝えられる。
(34) Antar (Antarah). 六世紀中頃の有名な勇士、詩人。アラビア族の民族的英雄となり、これを主人公とした「アンタル物語」は「アラビアのイーリアス」と言われる。
(35) Kanmak穎.「彼は在ったところのもので在った」の義(マルドリュス)。なお八冊本では註なく、代わりに本文中次に「何となれば『彼は在るべきところのものである』がゆえに。」と加えてある。
(36) 八冊本では、同じことであるが「シナイの地のトールにおけるモーゼの叫び」とある。この詩は十六冊本による。
(37) Y営oub. ヤアクーブ(ヤコブ)は、息子ヨセフが兄弟によって井戸に投げ込まれたのを悲しんで、盲目となった。
(38) 八冊本に欠く。
(39) La mahallabia. 澱粉、牛乳、米の粉をもとにして作った脇付《アントルメ》(マルドリュス)。
(40) La baklawa. 東洋全体を通じての国民的捏粉菓子。南京豆と巴旦杏を詰めたパイの類(マルドリュス)。
(41) La kata鋲f. 胡桃その他のものを詰めた輪形の小さなパイ(マルドリュス)。
(42) Ayoub. 聖書のヨブのこと。回教徒から非常に尊重されている人物である(マルドリュス)。コーラン第三八章四三節に「あれはたしかに我慢強い男だった」とある。
(43) 前出、モーゼ。岩から十二の泉を湧き出させたことは、コーラン第七章一六〇節に見える。
(44) コーランの別名五十五のうちの一つ。
(45) 八冊本に欠く。テキストも多少の差異がある。
(46) La Sunna (Sunnah, Sunnat). ムハンマドの言行。回教では預言者の言行を尊び、実行する。また、六名の法学者の著わした「聖伝」Hadisをも言う。
(47) 八冊本に欠く。
(48) Radou穎 (Rizwa-n). 天国の番人。
(49) 八冊本になく、「そして口をつぐんだ」とある。
(50) 八冊本に欠く。
(51) 八冊本に欠く。
(52) アラビアのアルファベットの第一の文字。
(53) Les Bani-Ta瀕. タイムの息子たち、子孫、タイム一族。
(54) Le Nahr-Issa.「イサ河」の意だが不明。
(55) 八冊本に欠き、ただちに次につづく。
(56) ナザレト人(ナスラーニー)はキリスト教徒の意。
(57) La ilah illユAllah, oua Mohammad rassoul Allah! 回教徒の信仰証言。回教徒であることを証するには、これを一度言いさえすればよい。さすれば何ぴとも他の証拠を求めようなぞとは思わぬ。割[#「割」に傍点]礼[#「礼」に傍点]については、これは奨励されているけれども、回教徒となるにけっして必須ではない(マルドリュス)。「アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」の意。
(58) 十六冊本では「アフランジ」とある。ヨーロッパ人のこと。
[#ここで字下げ終わり]
鳥獣佳話
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) Ibn-Adam.「アーダムの息子」の意。アダムの後裔、人間のこと。
(2)「ミルクのように白い夜」の意味だろう。十六冊本には「良き夜」とある。
[#ここで字下げ終わり]
アリ・ベン・ベッカルと美しきシャムスエンナハールの物語
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) Ali ben-Bekar. ガランは Ali Ebn Becar、エリセエフは Ali ibn Bakkar、バートンは Ali bin Bakkar と綴る。これは後裔であって王子ではないという意味と、バートンは註する。
(2) Schamsennahar.「晴れた日の太陽」の意(マルドリュス)。――ガランは Schemselnihar と綴り、このアラビア語は「昼の太陽」の意と註す。エリセエフでは Chams an-Nahar、バートンでは Shamsal-Nahar.
(3) 今まで眠っていたことを示すため。
(4) 前出、「アッラーの思し召しあらば」の意で、ここでは謙遜の気持を現わす返事。
(5) 前出、「おお夜よ、おお平安よ」の意。
(6) このときから、物語はいきなり、宝石商人自身によってなされることに注意されたい(マルドリュス)。
(7) Babouche. 踵も踵の周囲の革もない、つっかけの皮スリッパ。
[#ここで字下げ終わり]
佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年五月、ちくま文庫に収録された。
なお電子化にあたり、解説は割愛した。