千一夜物語 2
佐藤正彰 訳
目 次
せむし男と、仕立屋、ナザレト人の仲買人、御用係およびユダヤ人の医者との物語(つづき)[#「(つづき)」はゴシック体]
仕立屋の談
ちんばの若者とバグダードの床屋との物語
バグダードの床屋とその六人の兄の物語
床屋の物語
床屋の第一の兄バクブークの物語
床屋の第二の兄エル・ハダールの物語
床屋の第三の兄バクバクの物語
床屋の第四の兄エル・クーズの物語
床屋の第五の兄エル・アスシャールの物語
床屋の第六の兄シャカーリクの物語
アニス・アル・ジャリスの物語
恋の奴隷ガーネムの物語
スーダンの第一の宦官、黒人サウアーブの物語
スーダンの第二の宦官、黒人カーフールの物語
スーダンの第三の宦官、黒人バクヒタの物語
オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語
三つの門についての言葉
訳註
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千一夜物語 2
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
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せむし男と、仕立屋、ナザレト人の仲買人、御用係およびユダヤ人の医者との物語 (つづき)[#「(つづき)」はゴシック体]
仕立屋の談
さればお聞きくださいませ、おお当代の王よ、実は私は、せむしとの事件の前に、ある家に招かれたのでしたが、そこでは、仕立屋とか、靴屋とか、呉服屋とか、床屋とか、指物師とか、その他われわれの都の同業者仲間の、おもな組合員一同を呼んで、ご馳走が開かれたのでございました。
それは早朝のことでした。そこで日が昇ると早くも、私どもは皆、朝食をはじめるために輪になって坐り、今はただその家《や》の主人を待つばかりになっていると、そのとき主人は、一人のバグダード風の服装《なり》をした、美男の異国の青年を連れて、はいってまいりました。その青年は人の望みえられるだけ美貌で、人の考ええられるだけりっぱな服装をしていました。けれどもその男は、いかにも明らさまなちんばでした。そこで、その青年はわれわれのただ中にはいって来て、そしてわれわれに平安を祈りましたので、われわれも皆立って、挨拶を返しました。それからわれわれ一同が坐ろうとし、青年もまたわれわれと共に坐ろうとしたとき、突然彼は色を変え、坐ることをやめ、退いて外に出ようとするのでありました。そこでわれわれ一同は、家の主人と共に、彼をわれわれのあいだに引きとめようと力を尽くし、その家《や》の主人もたって引きとめ、言葉を尽くして、彼に言いました、「まったくのところ、私たちにはなんのことやらさっぱりわかりません。どうか、せめて、あなたをここから立ち去らせる原因《わけ》を話していただきたい。」
するとその若者は答えました、「アッラーにかけて、殿よ、どうかけっして、これ以上たって私をお引きとめにならないでください。というのは、ここに、あなたがたのあいだに、私をして立ち去らせざるをえない原因となる、ある人がいるのです。その人とは、そこにあなたがたのまん中に坐っている、その床屋です。」
この言葉を聞くと、ご馳走の主人は非常に驚いて、われわれに言いました、「たった今バグダードから来たばかりのこの若者が、ここにいるこの床屋の姿を見て、不快を覚えるなどということが、いったいどうしてあることなのでしょうか。」そこでわれわれお客一同も、その若者のほうに向きなおって、彼に言いました、「お願いですから、あなたがこの床屋をおきらいになる動機《いわれ》を、私どもに話してください。」彼は答えました、「殿方よ、この瀝青《チヤン》の顔をし、タールの魂を持った床屋は、私の故郷バグダードにおいて、私の身に起こった災難の原因であり、また私がちんばになった原因も、この呪われたやつのためです。ですから、私は今後この床屋の住む町には断じて住まず、こやつの坐っている席には断じて坐るまいと、誓ったのでした。そして私が故郷のバグダードを去って、この遠国まではるばるやって来ざるをえなかったのも、そのためです。ところが今やちょうどこの場所に、こやつを見かけました。ですから、私は今からすぐさま立ち去って、そして今夜のうちには、もうこの町から遠く離れて、このわざわいの男の見えないところにいるでしょう。」
この話を聞くと、その床屋は顔色が黄色くなり、目を伏せ、ただのひとことも言い出しませんでした。そこで、われわれは若者にたってせがんだので、彼もとうとう次のように、その床屋との事件を、われわれに語ってくれたのでありました。
ちんばの若者とバグダードの床屋との物語
(ちんばの若者によって語られ、仕立屋によって伝えられる)
さればこういう次第でございます、おお並みいる皆さまがたよ、私はバグダードのおもだった商人の一人を父として、世に生まれましたが、アッラーのおぼしめしにより、父には私よりほかに子供がありませんでした。父は非常に豊かで、町全体から重んじられていましたけれども、自宅で、平穏の充ち満ちた、静かな、平和な生活を送っていました。そして父はこうした生活のうちに私を育て、そして私が一人前の年齢に達したときに、その全財産を私にのこし、私を全部の召使と全家族の主《あるじ》として、自分はアッラーのご慈悲のうちに亡くなりました。そして私はもとどおり豊かに暮らし、もっとも豪奢な衣服をまとい、もっともおいしいご馳走を食べつづけておりました。ところが皆さまに申し上げねばなりませんが、全能にして至栄なるアッラーは、私の心のうちに、女性に対する、あらゆる婦人に対する嫌悪を、お置きになりまして、それは、もうただ女を見るだけで、私にとっては苦痛と不快の種となるほどでありました。そこで私は女などには見向きもせず、それで十分幸福に暮らして、それ以上何物も求めるものはないというありさまでした。
日々の中のある日のこと、私はバグダードの街の一つを歩いておりましたが、するとそのとき、たくさんの女の一隊が、私のほうに向かってやって来るのを見ました。そこですぐに私は、これを避けるためにあわてて逃げだし、とある小路に飛び込みましたが、その路は袋小路でした。その小路の突き当たりには、一つの腰かけがあったので、私はその上に腰をおろして、休むことにしました。その小路には、微風がさわやかに吹き渡って、私の額にこのうえなく快かっただけに、なおさらその気になりました。
腰をおろして、しばらくたちますと、そのときふと、私の真向いの一つの窓が開いて、そこに一人の若い女が現われ、手に小さな如露《じよろ》を持って、窓辺にある鉢植えの花に水を注ぎはじめました。
ご主人方よ、申し上げなければなりませんが、私はこの乙女を見ると、自分のうちに、これまでかつて感じたことのない、ある何物かが生ずるのを感じたのでありました。そしてその瞬間ただちに、私の心はすっかり囚えられてしまい、私の頭と想いは、ただその乙女についてのみ働き、昔の女ぎらいは一転して、熱烈な欲情に変わってしまいました。けれどもその乙女は、一度草花に水をやりおえると、ややぼんやりと左のほうを眺め、次に右のほうを眺め、そして私を見ると、ちょっと流し目を送りました。するとその目つきで、私の魂は残らず、からだから引き離されてしまいました。それから乙女はふたたび窓をしめて、姿を消しました。そこで私は日の沈むまで、そこに待ち尽くしていましたが、ついにむなしく、乙女の姿はもはやふたたび見られませんでした。私は夢遊病者のようにと言おうか、さもなければもうこの世の者ではないと言おうか、そんなふうになってしまいました。
私がこうしたありさまで腰かけていると、そこにこの都の法官《カーデイ》自身が、前には黒人たちを、うしろには侍者たちを引き具して、その家の門口に来て、自分の牝らばから降り立ったのでした。それから法官《カーデイ》は、私が窓辺に乙女を見た家の中にはいったので、これぞ乙女の父親に相違ないとわかりました。
そこで私は情けない精神状態で、自宅にもどりましたが、もう悲しみと憂いに充ち満ちて、床《とこ》の上に倒れてしまいました。すると家中の女すべてや、親戚や、侍者たちが私のところに来て、そして一同私を囲んで輪になって坐り、私のこの容態の原因について、いろいろと私に質問し、うるさく尋ねはじめました。けれども私はこのことについては、彼らに何も知らせる気になれず、なんの返事もしませんでした。そして私の悲しみは日々につのる一方で、ついには重い病気になってしまい、絶えず看護を受け、すべての親戚や知友の見舞いを受けるようになってしまいました。
こうしているところに、一人の老婆が私のところにはいって来るのが見えました。その老婆は私の容態を嘆き気の毒がるかわりに、私の寝床の枕もとに坐りに来て、たいそう親切な言葉を言い出して、私の気を静めようとしました。それから注意深く私を眺め、長いあいだ私を見つめたうえで、そっと家の人たちすべてに、私と二人きりにしてくれるように言いました。二人きりになると、老婆は私に言いました、「わが子よ、私はあなたの病気の原因《わけ》を知っていますよ。とにかく、ひとつ詳しく話してくれなければいけませんね。」そこで私も信用して、ことこまかにすべてを詳しく打ち明けると、老婆は私に言いました、「実際のところ、わが子よ、その乙女はバグダードの法官《カーデイ》のお嬢さまで、その家は確かに彼の家です。だが実はね、法官《カーデイ》は自分のお嬢さんと同じ階に住んでいないで、それよりも下の階においでになるのです。ですけれども、その若い女のかたはひとりでお住まいとはいえ、非常に厳しく見張られ、隙間なく監視されています。だが、私はあの家とはお友達の間柄で、始終出入りをしています。だからあなたとしては、私の世話にならなくては、思いを達することはできないものとお考えになって、まちがいありませんよ。さあ、しっかりなさい。そして勇気をお出しなさい。」
この言葉で、私は心じょうぶになって勇気が出ました。そしてすぐに立ち上がってみると、自分のからだがすっかり元気になって、完全に健康に復したように覚えました。これを見て、親戚一同も大いに悦びました。そこで老婆は、さっそくその乙女、バグダードの法官《カーデイ》の娘に会いに行って、その会見の顛末をあす報告に来ると私に約束して、引き取りました。
実際、翌日になると老婆はふたたびやって来ました。しかしその顔を見ただけで、私にはそれが吉報でないとわかりました。老婆は私に言いました、「わが子よ、今私がどんな目にあったかは、聞いてくださるな。いまだにこの胸が鎮《しず》まらないくらいです。何しろこうなんです。私が訪ねて来た趣意を、ちょっとあのかたのお耳に入れたかと思うと、あのかたはすっくと立ち上がって、このうえないお腹立ちで言うのでした、『おおわざわいの婆さんよ、もしも今すぐに黙って、そのようなぶしつけな申し出をやめないならば、わたくしはそれに相当した罰を加えますよ。』それで私も、わが子よ、そのうえもう何も言えませんでした。だが私はもう一度やってみる決心をしました。というのは、私ともあろうものが、こういったもくろみを立てて、やりそこなったなどということがあってはたまりませんからね。こういうことにかけては、私ほどの腕利きは世界じゅうに一人もいはしませんよ。」それから、老婆は私と別れて、出て行きました。
けれども私は、またもや前よりかもっとひどい病気になって、飲食をやめてしまいました。
そうしているうちに、例の老婆は、約束したように数日たつと、ふたたび私のところに来ましたが、その顔ははればれとしていて、そして微笑を浮かべながら、私に言いました、「さあ、わが子よ、私の吉報にお礼をくださいよ。」この言葉を聞いて、私は悦びに自分の魂が自分のからだにまたもどってくるのを感じて、老婆に言いました、「そりゃ、お婆さん、私はどんなことでもしてあげなければならないよ。」すると老婆は言いました、「私はきのうまた、例の乙女のところに行ったのです。私がすっかりしょげてしおれた様子をし、目にいっぱい涙をためているのを見ると、あのかたは私に言いました、『おお、叔母(1)さん、あなたはたいそう胸がふさがっているようですね。いったいどうなすったの。』そこで私はいっそう激しく泣き出して、言いました、『おおわが娘、わがご主人よ、先だって私があなたのところに、あなたの色香にすっかり夢中になった若者のことを、お話しにまいったのを、覚えてはいらっしゃいませんか。ところで、きょうはその若者が、あなたゆえに、いよいよ死にかけているのでございます。』あのかたは心に同情を覚え、非常に気持が和らいで、私に答えました、『ですけれど、そのお話の若いかたというのは、いったいどなたなのですか。』私は言いました、『それは私自身の息子、私の腹を痛めた子です。その子は数日前、あなたが窓辺で花に水をやっていらっしゃるとき、あなたをお見かけして、ちょっとあなたのお顔を拝見することができましたが、するとすぐに、その日まではどんな女も寄せつけず、女たちとの交際におじけをふるっていたその子が、急に、あなたにぞっこんほれこんでしまったのでした。そこで数日前、私があなたにそっけないあしらいを受けたことを伝えますと、その子はまたもや、前よりももっとひどい病気になってしまいました。そしてただいま私は、今にも最後の息を創造者にお返ししようとしているあの子を、寝床の蒲団の上にねかしたまま、ここに伺ったのです。もうとても助かる見こみはないものとさえ思っておりますよ。』この言葉を聞くと、乙女はまっ青になって言いました、『それが皆わたくしゆえなのですか。』私は答えました、『まったくそうでございます、アッラーにかけて。そこであなたは、今となってどうしてくださるおつもりでしょうか。私はあなたの下女《しもべ》でございまして、あなたのお言いつけは私の頭の上と目の上にあります。』あのかたは言いました、『できるだけ早くそのかたのところに行って、わたくしからのご挨拶を伝えてください。そしてわたくしはそのかたのお苦しみを、たいそう心苦しく思っていますと、申し上げてください。それからそのかたに、あしたの金曜日、礼拝の前に、わたくしはこの場所でお待ち申していると言ってください。そのかたがわたくしのところにおいでになったら、わたくしは家の者に「戸をあけてさしあげなさい」と言いつけて、そのかたをわたくしの部屋にお上げして、わたくしたちはごいっしょに、まる一時間過ごしましょう。けれども、そのあとですぐに、お父さまが礼拝からおもどりになる前に、帰っていただかなければなりますまい。』」
この老婆の言葉を聞くと、私は力がわがもとに返って来て、あらゆる悩みが消滅し、心が落ち着くのを覚えました。そこで私は着物の中からディナール金貨の詰まった財布を取り出して、老婆に受け取ってくれるように頼みました。すると老婆は私に言いました、「さあ、今は心を引き立てて、お悦びなさい。」私は答えました、「まったく、これでからだはすっかり治った。」そして実際、親戚たちもすぐに私の回復を認めて、友人ともども、このうえなく悦びました。
それで私はこうして金曜日の来るのを待っていましたが、その日になると、例の老婆がやって来ました。そこで私は立ち上がって、いちばん美しい衣服を着け、ばらの香水で身を香らせ、そして乙女のところに駆けつけようとすると、そのとき老婆が私に言いました、「まだたっぷり時間がありますから、それまで、まず浴場《ハンマーム》に行って、あんまをとり、頭をそって、毛を抜いてもらったほうがいいでしょう。ことに今は病気あがりですからね。そうすれば、いよいよ気持がさっぱりなさるでしょうよ。」私は答えました、「まったく、それは実に妙案だ。だがまず、ここに床屋を呼んで、頭をそってもらうほうがいい。それから風呂を使いに浴場《ハンマーム》に行くとしよう。」
そこで私は若い召使の一人に、床屋を一人呼んで来るように命じて、こう言いました、「急いで市場《スーク》に行って、腕のいい床屋を一人呼んで来い。だが特に物のわかった、つつしみ深い、口数と好奇心の少ない男で、あのおしゃべりと多弁で、耳をつんぼにしてしまうようなやつでないのを、探してくれ。あの商売の連中ときては、たいがいそんな手合いだからな。」そこでその召使は急いで駆けて行って、まもなく一人の年とった床屋を連れて、帰って来ました。
そしてその床屋というのが、おおご主人がたよ、あなたがた皆さまの前にいる、その呪われたやつなのでございます。
床屋ははいって来ると、私に平安を祈り、私もこれに平安の祈りを返しました。すると彼は私に言いました、「願わくばアッラーは、あなたさまのもとより、悲しみ、苦しみ、憂い、嘆き、災いをば、遠く退け、消滅したまいますように。」私は答えました、「何とぞアッラーは、おまえのよき願いをかなえたまいますように。」彼はつづけました、「さてわしはここにあなたさまに、吉報をお知らせ申し上げまする、おおわがご主人よ、あなたさまの体力と健康とのご回復は、しかとまちがいござりませぬ。さて今はわしは、何をいたすべきでござりましょうか。おそり申し上げまするか、それとも血をお取りいたしましょうか。と申すのは、われらの偉大なるイブン・アッバース(2)の仰せられたところは、あなたさまとてご存じないはずはない、『金曜の日に毛を短くする者はアッラーの御意《ぎよい》にかない、七十種の災厄よりよけらる』と。また同じイブン・アッバースは、こうも仰せられました、『されど金曜の日に血を取る者、あるいは吸い玉を当つる者は、視力を失うおそれあり、またあらゆる疾病を招く危険を冒す』とね。」そこで私は答えました、「おお|ご老人《シヤイクー》よ、すぐさま立ち上がって、私の頭をそってくれ。急いでしてもらいたい。私はからだが弱っていて、あまりしゃべってはいけないし、あまり時間をかけてもいられないのだから。」
すると床屋は立ち上がって、手ぬぐいでくるんだ一つの包みを持ち出しましたが、それには、床屋のたらいとかみそりと鋏がはいっているはずです。ところが、彼がそれを開いて中から取り出したのは、かみそりではなくて、七面の天体観測儀でした。彼はそれを持って、私の家の中庭のまん中に行き、仔細らしく頭を太陽のほうにあげ、注意深く太陽を見て天体観測儀を調べ、もどって来て、私に言いました、「きょうの金曜日は、われらの聖なる預言者(その上に無上の祝福と平安あれかし)の回教紀元《ヒジラー》七百六十三年(3)サファルの月の第十日目であることは、あなたさまもご承知に相違ありません。ところで、わしの心得まする数の学によれば、きょうの金曜日は、火星《ミルリク》と水星《フータレド》との会合の行なわれる時限とぴったり符合するが、それは七度六分だということがわかります。さてこれによって、当本日に頭をそるという行ないは、吉にして大いによろしい行ないじゃということが、証せられる。またこれによって見るに、きょうあなたさまはあるかたとお会いになるおつもりだということが、瞭然とわかるが、その首尾は吉と出ている。まだいろいろと、あなたさまの身に起こるべき事柄をお話ししなければならぬところだろうが、それらはわしとしては、黙っておるべき事柄ですわい。」
私は答えました、「アッラーにかけて、おまえはおまえのお談義で、おれの息をつまらせ、おれから魂を引き出してしまう。それに、おまえはどうやらおもしろくないことを占ってくれるようだ。ところで、おれはただ頭をそってもらうために、おまえに来てもらっただけだ。さあ早く立って、これ以上長談義をせずに、頭をそってくれ。」彼は答えました、「アッラーにかけて、もしも事の真相をご存じだったら、あなたさまはもっともっとわしに、詳しいことやら、証明《あかし》された事柄やらを、尋ねなさることだろうがな。いずれにせよ、わしはたとえ床屋であるにせよ、ただ単なる一介の床屋ではないということは、ぜひ心得ておいていただかにゃならん。実際、わしはバグダード随一の名うての床屋であることは言うもさらなり、その他、医学、草根木皮、薬物の道はもとより、星辰の学、国語の規則、詩歌の道、雄弁、数の学、幾何学、代数学、哲学、建築、地上あらゆる国民《くにたみ》の歴史と伝説なぞに、あっぱれ通じておる者じゃ。されば、わが殿よ、わしはでたらめにおすすめするのではない、わしがわが学識と天体測定の調査によって、ただいま見て進ぜた占星の命ずるところを、おまえさまはたがえず行ないなさるがよい。されば、わしをおまえさまのところに来たらしめたもうたアッラーに感謝なすって、わしの言うところに逆らいなさるな。なぜならば、わしは何も悪いことをおすすめするのではなく、おまえさまにこんなことを言うのも、そちらさまの利益《ため》を思えばこそですぞ。それに、わしはただただおまえさまのご用を勤め、たとえまる一年のあいだでも、しかもまったくのただ働きで、おそばにいてご用を承わりたいと念ずるほかに、他意はござんせん。だからともかくも、わしがこれでも、ちっとは取りえのある人間だということを認めて、この点、とっくりわかっていただかにゃなりませんな。」
この言葉を聞くと、私は言いました、「おまえはまったく人殺しだ。よくわかった、おまえはおれをじらして狂い死にさせる気なのだな。」
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の近づくのを見て、つつましく、自分の物語をやめた。
[#地付き]そして第二十九夜になると[#「そして第二十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、若者は床屋に向かって、「おまえはおれをじらして狂い死にさせる気なのだな」と言うと、床屋は次のように答えたのでございます。
「さりながら、ご承知願いたい、おおわがご主人よ、わしはわしの寡言のゆえに、すべての人にエル・サーメト(4)と呼ばれている人物なのですぞ。されば、わしをおしゃべりと思いなすっては、おまちがいというものでしょう。ことに、しばらくわしをば、わしの兄弟たちと較べる労をとってくださるならばですな。と申すのは、実はわしには六人の兄があり、彼らこそは確かに、たいへんなおしゃべりでございます。ひとつ兄どもをご紹介するために、これからその名前を申し上げましょう。いちばん上はエル・バクブーク、すなわち、しゃべるとき、水壺のようにごぼんごぼんと音を出す男、二番目はエル・ハダール、すなわち、らくだのようにひっきりなしにうなる男、三番目はバクバク、すなわち、雌鶏《めんどり》みたいにこっこっこっと鳴くでぶ男、四番目はエル・クーズ・エル・アスアニ、すなわち、アスアンのじょうぶな水壺、第五番目はエル・アスシャール、すなわち、はらんだらくだ、または大鍋、第六番目はシャカーリク、すなわち、ひびのはいった壺、第七番目はエル・サーメト、すなわち沈黙家《だまりや》と申します。そしてその沈黙家《だまりや》こそ、すなわち、ここに控えまするてまえでございます。」
この床屋のまくしたてる言葉すべてを聞いたとき、私は充血した胆嚢《たんのう》がいらだたしさに破裂するような気がして、若い召使の一人に向かって叫びました、「さっさとこの男に四分の一ディナールやって、アッラーへの敬意のために、ここから退散させてくれ。おれは絶対に、顔をそってもらうことはやめたから。」この命令を聞くと、床屋は言いました、「おおわがご主人よ、これはまた、なんというむごいお言葉を承わることでしょう。アッラーにかけて、よくお聞きください。わしがおまえさまのご用を勤めさせていただこうというのは、まったくのただ働きでよいと申すのでございますよ。それというのは、そちらさまのほうでは、わしの値打などてんで買ってくださらないにせよ、てまえのほうではそれに引きかえ、そちらさまのお値打をば非常に高く買っておりまする。そしておまえさまは、お亡くなりになったお父さま(願わくはアッラーはそのおん憐れみを彼にたれたまえ)、そのお父上に恥ずかしからぬ、息子さんであられるにちがいない。なぜならば、お父さまはわしに恩恵のかぎりを尽くされた点、わしの債権者であられた。まったくもって寛仁大度のおかたでいらっして、わしをたいそう高く買ってくだされ、ある日のごときは、わしをわざわざ呼びにおよこしになった。それはきょうの日のように、祝福された日でござった。わしがお宅に着くというと、お父さまはたくさんの訪問客に取り囲まれておいでだったが、すぐにお客さまがたを措《お》いて立ち上がり、わしを出迎えに来られて、おっしゃった、『どうか少し血を取ってください』と。そこでわしは天体観測儀を取り出して、太陽の高さを測り、注意深く測定を調査してみるというと、時刻は凶であって、血を取る行ないははなはだむずかしいということを、発見しました。そこでただちに亡くなったお父さまに、この懸念をお伝えすると、お父さまはすなおにわしの言葉に従われ、吉日にして手術に好適な時が来るまで、じっとしんぼうなされた。そこでわしはほどよく血を取ってさしあげたが、お父さまはすなおにされるがままになっていて、わしにたいそうねんごろにお礼を申された。またその場に居合わせたかたがたも全部、わしにお礼を述べられた。そして血を取って進ぜた報酬として、亡くなられたそちらさまのお父さまは、その場でわしに、金貨百ディナールくだされたものでしたよ。」
この言葉を聞いて、私は床屋に言いました、「おまえのような床屋を頼むほどめくらだったのなら、何とぞアッラーは、亡くなった父上に、けっしてそのおん憐れみをたれたまわないように。」すると床屋はこれを聞いて、頭を振りながら笑いはじめました、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒なり。他を変じみずからは変ずることなき者の御名は、祝福されてあれ。ところでわしはな、おお、お若いかたよ、わしはおまえさまを分別のある人だとばかり思っていたが、今になってみると、おまえさまは病気にかかったために、すっかり気が転倒してしまったということが、よくわかりました。だが、それもわしはさして意外とせぬ。なぜならば、わしは、アッラーがわれらの聖なる貴き書《ふみ》の中で、『その怒りを制し、罪ある人々を赦す者は云々《うんぬん》……』という文句で始まる一節に仰せられている、あの聖なるお言葉を知っておるからな。されば、わしはわしに対するおまえさまの非と過ちは、きれいさっぱり忘れて、何事にあれ、おまえさまをば許して進ぜよう。だがまったくのところ、おまえさまのいらだちとその原因は、とんと合点がゆきませんな。おまえさまのお父さまは、わしに相談なされずには、けっして何事も企てられず、この点については、『人に諮《はか》る者は難を避く』という諺《ことわざ》に従っておられたということを、おまえさまはご存じないのですかな。そしてこのわしときては、だいじょうぶご安心あれ、わしはまことに得がたい人間で、これほどよい相談相手、知恵の訓《おし》えと巧みな処世術とに通じている人間は、どこへ行ったってけっして見つかりっこありません。そのわしが、ここにこうして自分の二本足の上に立って、おまえさまのご命令を待ち、ご用を勤めようと、身も心もことごとく捧げているのですぞ。だがいったいどうしたことで、わしのほうでは少しもおまえさまをうるさがっていないのに、おまえさまのほうじゃそんなにうるさがって、ぷりぷり怒っておいでなのかねえ。いかにも、わしがおまえさまに対して、これほどしんぼう強くこらえているというのは、ひとえに、亡くなったおまえさまのお父さまに対する敬意によるものにはちがいありませんがね。まったくお父さまには、ずいぶんお世話になりましたからな。」そこで私は答えました、「アッラーにかけて、これはまったくひどすぎる。おまえのその減らず口とおしゃべりで、おれはすっかりまいってしまった。もう一度言うが、おれはただおまえに、おれの頭をそらせて、それがすんだら、とっとと帰ってもらおうと思って、ここに来てもらったのだぞ。」
そして床屋にこの言葉を言いながら、私はすでに彼が頭蓋《あたま》をぬらして石鹸を塗ったのもかまわず、すっかり腹を立てて立ち上がり、やつを追い出して、外に出て行こうとしました。それでも、彼は別に心を動かすさまもなく、私に言いました、「なるほど、わしがおまえさまをたまらなくうるさがらせたということを、今になって非常にはっきりとさとりましたわい。だがわしはそのためみじんも、おまえさまに悪い気持は抱きません。なぜならば、おまえさまは頭が鈍くて、まだほんにお若いということが、わしにはよくわかっていますからな。まだ子供のおまえさまを、わしが肩車にのせて運び、そうやって、いやがるおまえさまを学校に連れて行ってあげたのも、さして遠い昔のことではなかった。」私は答えました、「さあ、兄弟よ、アッラーにかけて、お願いだ。アッラーの聖なる真理にかけて、どうぞここから出て行って、おれに自分の仕事にとりかからせてくれ。おまえはおまえの道のまにまに、とっとと行ってしまえ。」そしてこう言いながら、私はもうすっかり癇癪《かんしやく》を破裂させて、自分の着物を裂き、気違いのように、とりとめない叫びをあげはじめました。
床屋は私がこのような挙動《ふるまい》をするのを見ると、やっとかみそりを取り上げて、自分の帯に結びつけてある皮で、とぐことにしました。しかし彼は、こちらはもう今にも自分の魂がからだから抜け出しそうになるほど、長い時間をかけて、そのかみそりを皮の上で、といではまたとぐのでした。そのあげくやっとのことで、私の頭に近づいて、一方をそりはじめ、そして実際何本かの毛を除きました。次に彼は手をとめ、片手をあげて、私に言いました、「おおわが若いご主人よ、激昂は悪魔《シヤイターン》の誘惑ですぞ。」そして次の詩節を誦して聞かせました。
[#ここから2字下げ]
おお賢者よ、汝は汝の計画を永く熟さしめざるべからず。しかしてけっして急ぐことなかれ。わけても汝が地上の審判者たるべく選ばれしときには。
おお審判者よ、苛酷に裁くことなかれ、さらば、めぐりめぐって汝最後に裁かるとき、汝はおのがために慈悲を見いだすべし。
しかして忘るることなかれ、地を知らすアッラーの御手《みて》によりても、なおけおとされえざるがごとき、しかく力強き手は、地上には断じてあらざることを。
また忘るることなかれ、不信にして暴虐の徒は、かならずや、おのれを圧制する暴王を見いだすべきを。
[#ここで字下げ終わり]
それから私に言いました、「おおわがご主人よ、おまえさまはわしの長所と才能に対して、てんで尊敬を持っておらんということが、わしにはよくわかる。さりながら、こんにちおまえさまをそっているこの同じ手は、また王侯、貴族《アミール》、大臣《ワジール》、総督、その他あらゆる高貴高名のかたがたのお頭《つむ》をば、さわったり、なでたりしているのですぞ。詩人がこう歌ったのは、すなわちわしのためなのじゃ。」
[#ここから2字下げ]
世のあらゆる生業《なりわい》をば、われは数々の貴き頸飾りとこそ思え。されどこの床屋こそは、その頸飾りのもっとも美しき真珠なれ。
彼は知恵と大度において、もっとも賢き人々ともっとも大度の人々をもしのぐ。されば彼の手は、その下に王侯の頭《こうべ》を押う。
[#ここで字下げ終わり]
これらすべての言葉に対する返事として、私は床屋に言ってやりました、「おまえは結局自分の商売に取りかかるつもりなのか、どうなのか。実際おまえはおれの胸をふさげ、すっかり脳みそをたたきつぶしてしまったぞ。」すると彼は言いました、「とどのつまり、どうやらおまえさまは、早くすませたいとて、いささかせいておいでらしいですな。」そこで私は叫びました、「そうとも、そうとも、そうともさ。」彼は言いました、「さればおまえさまの魂に、少しばかり、しんぼうと節度ということを教えなさるがよろしい。なぜならば、急ぐということは、かの『誘惑者』の誘いでありましてな、それは所詮、後悔とあらゆる悲運とを得させることしかできませぬぞ。かつは、われらが宗主ムハンマド(その上に祈りと平安あれ)も仰せられた、『世にもっとも佳《よ》きことは、おもむろに機熟してなされしことなり』と。だがただいまおまえさまがわしに言われたことは、どうもたいそう気にかかる。いったい何がおまえさまをば、そんなにせっかちにして、そんなに急がせるのか、その動機《いわれ》をひとつわしに聞かせてくださらぬか。どうかそれが楽しい動機であってくれればよいが、万一そうでなかったとしたら、わしはすこぶる心配じゃ。だがほんに、わしはここでちょっとやめておかねばならん。なぜならば、太陽の都合のいい時間は、もうほんの数時間しかないですからな。」そこで彼はかみそりを放り出して、例の天体観測儀を取り上げ、太陽のほうに行って、中庭にゆうゆうと腰をすえ、相変わらず私から目を離さずに、ときどき何かと私に質問を発しながら、太陽の高度を測っていました。それから、私のほうにもどって来て、言いました、「もしおまえさまがそんなにせいているのが、正午の礼拝のためならば、実際のところ、落ち着いてゆっくり待ってござって仔細ない。なぜならば、まだそれまでにはたっぷり三時間、それよりも多くもなく、少なくもなく、きっかりそれだけは残っていますからな。わしはけっして測定を誤つことはござんせん。」私は彼に言いました、「汝の上なるアッラーにかけて、そうした談義はいっさいやめてくれ、おまえはおれの肝臓をこなごなにしてしまったぞ。」
すると、彼はふたたびかみそりを取り上げて、前にしたようにそれをとぎはじめ、それからまた少しばかり私の顔をそりだしました。けれどもしゃべりつづけずにはいられないで、また私に言うのでした、「わしはおまえさまがせかせかしているのが、心配でなりません。もしもその原因をわしに明かしてくださるならば、それはあなたさまの身の利益、お得となるでしょうがねえ。というのは、亡《な》くなったおまえさまのお父さまが、どんなにわしを高く買われたか、そしてわしに相談なさらずには、けっして何事も企てられなかったということを、今はご承知なはずですからね。」そこで私は、もうこれを逃がれる道はないとさとって、心の中で思いました、「今はそろそろ礼拝の時間も迫って来た。おれはあの若い女のところに行かなければならぬ。さもないと遅すぎて、そこに行き着いたと思うと、人々は礼拝を終わって寺院《マスジツト》から出て来てしまうだろう。そうなったら、いっさいがおじゃんになってしまう。」そこで私は床屋に言いました、「もういいかげんにして、そんな無駄ごといっさいと無遠慮な好奇心は、やめてくれ。どうあっても知りたいと言うのなら、実は、おれはさし迫って、ある饗応に招待されていて、友達の一人のもとに出かけなければならないのだ。」
この招待と饗応という言葉を聞くと、床屋は私に言いました、「アッラーがあなたさまを祝福なされますように、そしてきょうの日はあなたさまにとって繁栄《さかえ》満ちてあるように。というのは、今のお言葉でちょうど思い出しました。わしはきょう友達を四、五人、自宅に招待しておいたのに、その食事の支度をするのを、すっかり忘れてしまっていましたわい。やっと今になって思いついたが、はてもう間に合わないときたか。」そこで私は言いました、「遅くなったことなら、少しも心配することはない。おれがすぐさま間に合わせてやろう。ちょうどおれは自分では自宅で食事をせず、饗応に呼ばれているのだから、家にある料理、食糧、飲み物を、全部おまえにあげるとしよう。ただし、おまえがすぐさまこの仕事をすっかり片づけ、さっさとおれの頭をそり終えてくれればだよ。」彼は私に答えました、「願わくばアッラーはあなたさまにその賜物のかぎりをくだし、いつの日か祝福もてあなたさまにお報いくださるように。けれども、おおわがご主人よ、ひとつそのあなたさまがわしにくださろうという品々の名をあげて、承わらせていただきたいものですな。」私は彼に言いました、「あらゆる種類のうまい物を満たした鍋を五つ、持って行ってよい。挽き肉を詰めたなすと南瓜、挽き肉を詰め、レモンで味をつけたぶどうの葉、挽き割り麦とたたき肉を、丸めてふくらしただんご、羊のヒレの肉切れをあしらったトマト飯、小ねぎを入れたシチューなどだ。そのうえ、丸焼きの雛鳥十羽とあぶった羊一頭、それから糸素麺《クナフア》と、もひとつはうまいチーズと蜜でつくった捏粉菓子と、この二品の大皿二つ、それにあらゆる種類の果物もある。きゅうりとか、メロンとか、りんごとか、レモンとか、取りたてのなつめやしの実とか、その他いろいろの果物だよ。」すると彼は言いました、「ではそれを全部、わしの前に持って来させて、見せてください。」そこで私はこれら全部を持って来させると、彼はそれを調べて、一つ一つ味わってみて、私に言いました、「あなたさまの寛大さは実にたいした寛大さですわい。だが飲み物がございませんな。」私は言いました、「それもある。」彼は言いました、「それを持って来させてください。」そこで私は六種類の飲み物を満たした、六つの壺を持って来させると、これもいちいち味わってみて、私に言いました、「アッラーはあなたさまにそのあらゆるお恵みをくだしおかれますように。なんとそちらさまのお心は寛大なのでしょう。だが香や、安息香や、室内でたく香料が、ござんせんな。それにお客さまにかけてさしあげる、ばらの水とオレンジの花の水も、ございませんね。」そこで私は竜涎香《りゆうぜんこう》や、伽羅《きやら》や、ナッド(5)や、麝香《じやこう》や、安息香など、全部で金貨五十ディナール以上の値のある品を満たした小箱を、持って来させました。そのうえ、いろいろの香油も、また香りの水のはいった銀の香水吹きも、忘れませんでした。そして時間は私の胸と同じように縮まってきたので、私は床屋に言いました、「これを皆持って行くがいい。だが、おれの頭を全部そり終えてくれ、ムハンマド――その上にアッラーの祝福と平安あれ――そのお生命《いのち》にかけて。」すると床屋は言いました。「アッラーにかけて、この小箱をあけて中身を全部見てからでなければ、これをいただくわけにはまいりませんな。」そこで私は若い召使に命じて、小箱をあけさせますと、床屋は天体観測儀を放り出して、床にしゃがみ込み、そして箱の中にある安息香や、麝香や、竜涎香や、伽羅など、全部の香料をいじくりはじめ、ひとつずつ次々にかいでみるのでしたが、それが実にのろくさく、ぐずぐずとするので、私は今にも魂がからだを脱け出してしまうように感じました。それが終わると、彼は立ち上がって礼を言い、そしてかみそりを取り上げて、私の頭をそりつづける気になりました。けれども、やっとはじめたかと思うと、はたと手をとめて、私に言うのでした。「アッラーにかけて、おおわが子よ、わしはきょう、おまえさまと亡くなったお父さまと、このお二人のうち、はたしてどちらを祝福しお讃《ほ》めしてよいやら、わからん次第ですわい。というのは、まったくのところ、きょうわしが自宅で催さねばならぬご馳走は、ひとえに、こちらさまの寛大なお申し出と、おおような下され物のおかげですからな。だが、まあ申し上げたものかな、実はわしのところに呼ぶお客は、こんな豪勢なご馳走には、あまりふさわしくない人ばかりなのでございます。というのは、彼らはやはりわしと同じように、いろいろの商売に従っている身分の者でしてね。だがしかし、いずれも気持のいい人たちで、実もっておもしろい人柄の連中です。いちいちあげてみろとおっしゃるならば、すなわち、まず第一に浴場《ハンマーム》のあんまの、すてきなザイトゥン、いり豆挽き豆屋の、陽気でおどけ者のサリー、納豆(6)屋のハーウカル、野菜屋のハクラシャト、屑掃除屋のハミード、最後に凝乳屋のハカレッシュです。」「わしの呼んだこの友達は皆、あなたさまの召使なるこのわしと同様、おしゃべりでもなければ、無遠慮なせんさく屋でもございません。いずれも、いっさいの憂いを払ってくれる至極よい人間じゃ。この連中の中でいちばんつまらぬやつとても、このわしの目から見れば、世にもっとも勢い盛んな王さまよりも値打がある。実際のところ、彼らはめいめい、いろいろな踊りと歌にかけては、バグダード全市で名うての者でござりますよ。もしそれがお慰みになるというならば、わしはこれからこの連中一人一人の踊りと歌をば、踊って歌って進ぜましょう。」
「さあこちらを向いて、とくとご覧なされ。わしの友達、あんまのザイトゥンの踊りといえば、ほら、こうです……。その歌はというと、こうですな。」
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おいらのあの女《こ》は情が濃い。どんなに優しい仔羊も、あの女《こ》の情けにゃ及びもつかぬ。おいらはあの女《こ》に首ったけ。あの女《こ》もおいらに首ったけ。そのほれようときた日には、ちょいとおいらが離れると、すぐに駆けつけ飛びついて、おいらの寝床に横になる。
おいらのあの女《こ》は情が濃い。どんなに優しい仔羊も、あの女《こ》の情けにゃ及びもつかぬ。
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「だが、おおわがご主人よ」と、床屋はつづけるのでした、「わしの友達、ごみ掃除のハミードはと申しますると、やつの踊りはこうです……。どうです、まったくこの踊りは意味深長で、手のこんだ、愉快極まるものでしょう。だがやつの歌はというと、こうです。」
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おれの女房はな、やつはしわんぼ。やつの言うなりになってた日には、おれはてっきり飢え死にだ。
おれの女房はな、やつは醜女《ぶおんな》。やつの言うなりになってた日には、おれは一生、てめえの家におこもりだ。
おれの女房はな、飯はさっさと戸棚に隠す。これじゃさすがのおれさまも、とんと飯にはありつかず、それにこいつの醜女ぶりは、ぺちゃんこ鼻の黒んぼも、しっぽをまいて逃げるときちゃ、やがては睾丸《きん》を抜かずばなるまい、きれいさっぱり抜かずばなるまい。
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それから床屋は、やめさせる合図をする暇も与えず、自分の友達連のあらゆる踊りのまねをして、また彼らのあらゆる歌を歌うのでした。それから私に言いました、「わしの友達の連中が、わしにして見せてくれることといえば、まあざっとこんなものです。もしおまえさまが大いに笑いたいと思いなさるのなら、そちらさまのお利益《ため》でもあり、またわれわれ一同も悦ぶことですから、ひとつわしの家に来なすって、わしらの仲間にはいり、おまえさまがこれからいらっしゃるおつもりだというお友達のほうは、すっぽかしたがよろしゅうございますよ。というのは、おまえさまのお顔の上には、まだ疲労のあとがお見受けされるし、ご病気が治ったばかりですからな。お友達の中には、つまらぬお談義が好きなかたやら、退屈なおしゃべりやら、無遠慮なせんさく屋なんぞに、お会いにならないものともかぎらない。そんな人たちは、またおまえさまを、前よりももっと重い病気にかからせてしまうでしょうよ。」
そこで私は床屋に言いました、「きょうのところは、どうしてもおまえの誘いを受けるわけにはゆかないのだ。また今度にしてもらおう。」彼は私に答えました、「おまえさまにとっていちばんお得になることは、くり返し申し上げますが、さっそくわしのところにおいでなすって、取りあえず、わしの友達たちのあらゆる風雅《みやび》を味わい、彼らのりっぱな長所を活用なさりに来られることですわい。そうすれば、おまえさまは詩人の言うところに従って、ふるまわれることになりましょう。」
[#この行2字下げ] 友よ、さしいださるる歓楽を利するに遷延することなかれ、過ぎ行く快楽をあすに延ばすことなかれ。なんとなれば、快楽は日々に過ぎ行くものならず、歓楽は日々にその唇を汝《な》が唇にさし出すものならず。福運は婦女子にして、婦女子のごとく、移り変わるものと知れよ。
そのときには、こうした長広舌と饒舌《じようぜつ》を前にして、私は笑い出さざるをえませんでしたが、しかし心は重苦しい憤りでいっぱいでした。それから、私は言ってやりました、「さあ、おまえにしてもらうために来てもらった仕事をすませて、おれにはアッラーの道を行かせることを、おれはおまえに命ずるよ。そしておまえはおまえで、自分の友達に会いに行くがよい。今ごろはさぞおまえを待ちかねているにちがいない。」彼は私に答えました、「だがなぜいやとおっしゃるのか。実際、わしはたった一つのことをお願いしているだけですよ。おまえさまをばわしの友達、けっして無遠慮な連中なぞではないあの気持の好い仲間と、お近づきにさせてくださいと言うだけじゃ。なぜなら、保証いたしますが、おまえさまだって一度彼らとお会いになれば、もうほかの人たちとつき合う気がせず、今のお友達なんか、皆打っちゃってしまいなさるでしょうよ。」私は言いました、「おまえがその人たちと交わって覚える幸福を、アッラーはいっそうお増しくださるように。それじゃおれはそのうち、自分から特にその人たちのために宴会を催して、その人たちに来てもらうことにしようと、おまえに約束するよ。」
するとこのわざわいの床屋は、私の意見に従うことに同意しましたが、しかし言いました、「どうもおまえさまが、きょうのところはなんとしても、わしの友達とつき合うよりも、ご自分のお友達のご馳走のほうがよいとおっしゃるならば、ではちょっとごしんぼう願って、このせっかくちょうだいした食物全部を、ひと走りして自宅に運んで来るまで、待っていただきたいものです。わしはこれをお客の前の卓布に並べてまいります。だいたいわしの友達は、たとえわしがいないで、召し上がってくださいとうっちゃっといたところで、腹を立てるような、そんなやぼなことはけっして言いますまいから、わしは皆に、どうかわしをあてにしないでくれ、わしの帰りを待つには及ばないと、そう言ってまいりましょう。そしてすぐさまここにもどって来て、おまえさまとごいっしょになり、どこなりといらっしゃりたいところに、お伴するといたしましょうぞ。」――そこで私は叫びました、「至高全能のアッラーのほかには頼りも権力もない。おお、おまえはさっさと自分の友達に会いに行って、皆と愉快に楽しむがよい。そしておれには、おれの友達に会いに行かせてくれ。ちょうど今ごろはみんな、おれの来るのを待っているにちがいないから。」すると床屋は言いました、「いやいや、どうあっても、おまえさまをひとりでやるわけにはゆきませぬ。」私はなるべく穏便にしようと思って、非常に努力して自分自身を押えながら、答えました、「だが要するにおれの行くところは、おれが一人きりでなければ訪ねられない所なのだ。」彼は言いました。「ははあ、それで読めましたわい。おまえさまはご婦人と逢引きをなさるのじゃね。なぜといって、そうでもなければ、わしを連れて行ってくださるでしょうからね。だが、わかっていただきたいものじゃ、このわしは世界じゅうのどんな人間よりも、その名誉に値する人間で、そのうえ、おまえさまがなさりたいと思うことにはなんだって、非常な力となって助けて進ぜることができましょう。それにわしとしちゃ、もしやその女が不実なよそ者ではないかと、それが案じられるて。もしそうだとなると、おまえさまが一人きりで行っちゃ、これはとんだことになりますぞ。おまえさまはかならず、そこに自分の魂を置いてきなさることになろう。なぜなら、このバグダードの都は、そういったたぐいの逢引きにはすこぶる適さぬ。いやさ、全然駄目ですわい。ことに新しい総督になってからというものは、この種のことにはまあおそろしく厳しくなりましたからね。なんでも人の噂では、総督さまは陰茎《ゼブ》も卵もないために、業腹と嫉妬《やきもち》から、この種のぬれごとを、こんなにも厳重に取りしまるんだそうですよ。」
この言葉を聞くと、私はもう座にいたたまれず、声を荒げて叫びました、「きさまは不実者や首斬り人の中でも、いちばん呪われたやつだ。いったいおれを悩ますそのうるさいおしゃべりを、やめる気なのか、やめない気なのか。……」するとさすがの床屋も、しばらくのあいだ口をつぐむ気になって、ふたたびかみそりを取りあげて、ようやく私の頭を全部そりあげました。けれどもこんなことをしているうちに、とうに正午の礼拝の時間が来てしまい、それどころか礼拝はもうすでにかなり進み、法話のあたりにさしかかっているころにちがいないのでした。そこで私は、床屋を退散させてしまおうと思って、言いました、「さあこのご馳走と飲み物を全部持って、おまえの友達のところへ行きなさい。おれはかならずおまえの帰るのを待っていて、いっしょに会合に連れて行ってあげるから。」そしてなんとかその気にならせようと、しきりにくり返しました。するとやつは言いました、「いや、おまえさまは、わしに一杯食わせてわしをまき、自分一人でいらっしゃる気にちがいない。だが前もってお知らせしておくが、そんなことをなさると、おまえさまはみずから災難の中に飛び込み、もはや出口が見つからず、もう逃がれられっこありませんぞ。だから、おまえさまの身のお利益《ため》じゃ、この件がどう落着するか見とどけるために、わしがお伴をしにもどって来るまでは、けっしてこの場を去らないように、くれぐれもお頼みしますぞ。」私は言いました、「よろしい、だがアッラーにかけて、あまりぐずぐずせずにもどってきてくれよ。」
すると床屋は私に手を貸してくれと頼んで、私の与えた物全部を背中に載《の》せ、捏粉菓子の大きな二皿を頭に載せ、そして全部をそっくり携えて、私の家を出て行きました。ところが、畜生め、やつは外に出たと思うとすぐに、二人の荷担ぎ人足を呼んで、自分の荷物を渡し、全部をしかじかの場所の、自分の家に持って行けと言いつけておいて、そして自分は薄暗い小路に身をひそめて、私の出るのを待っていたのでした。
さて私のほうは、それから、すぐさま立ち上がって、できるだけ早く顔を洗い、いちばん美しい着物を着て、急ぎ自宅を出ました。するとちょうどその刹那、光塔《マナーラ》の上から、この金曜の聖日に当たり、信者たちを正午の礼拝に呼ぶ、告時僧《ムアズイン》たちの声が聞こえました。
自宅を出るや、私は大急ぎで乙女の家のほうに向かいました。ちょうど法官《カーデイ》の門前に着いたとき、ふとうしろを振り向いてみますと、小路の入口のところに、例の呪われた床屋の姿が見えたのでした。そこで、ちょうどその家の戸が私のためになかば開かれていましたので、私はさっそく中に飛び込んで、急いで戸をしめてしまいました。すると中庭に例の老婆がいて、すぐに私を乙女のいる上の階に、案内してくれました。
ところが、私が中にはいったと思うと、往来に人々の来る音が聞こえました。それは、この若い女の父である法官《カーデイ》とその供の者が、礼拝から帰って来たのでした。そこで往来を見ますと、床屋のやつが突っ立って、私を待っているのが見えました。その若い女は、法官《カーデイ》のことは心配しないでよい、父はめったに自分を訪ねて来ることがなく、それにいざというときには、いつでも、私が見とがめられないですむ手段《てだて》があるから、と言ってくれました。
ところが不幸なことには、アッラーは、私にとって致命的となる事件が起こることを望みたもうたのでした。なぜかというと、あたかもその日、法官《カーデイ》の若い女奴隷の一人が、罰を受けるようなことをしでかしたという、偶然の一致が起こったのでありました。そして法官《カーデイ》は家にはいるやいなや、その若い女奴隷に鞭を加えはじめて、ひどく鞭打ったものにちがいありません。というのは、その女奴隷は途方もない叫び声をあげはじめたからです。すると家の黒人の一人が、その女のために取りなしをしようとして、中にはいって来ましたところ、法官《カーデイ》は怒り猛って、これをも鞭で打ちすえたのでした。それでこの黒人もまた叫び出しました。こうしてその街じゅうが何事かと思ったほどの、たいへんな騒ぎになりますと、そのとき、あのいまいましい床屋のやつは、これはてっきり私がつかまってこらしめられ、こうした悲鳴をあげているのだと思いこんでしまいました。そこでやつは悲鳴をあげ、着物を裂き、頭にごみをかけはじめて、おいおい彼のまわりに集まって来た通行人たちに、救いを求めはじめました。やつは泣きながら言うのでした、「旦那が法官《カーデイ》の家で殺されたんだ。」それから喚《わめ》き立てながら、やつはぞろぞろ群衆を従えて、私の家へ駆けこんで、家人全部と召使たちに、事の次第を告げましたので、一同はただちに棒を携え、喚声をあげ互いに励まし合いながら、法官《カーデイ》の屋敷をさして駆けつけました。そして、自分の着物を引き裂き、声をかぎりに叫びつづける床屋を先頭に立てて、彼らは私自身がいる法官《カーデイ》の家の門前に、着きました。
自分の家の前にこうした騒ぎを聞きつけて、法官《カーデイ》が窓から眺めると、この気負い立った連中全部が、てんでに携えた棒でもって、戸をたたいているのが見えました。そこで、事態があまりにも穏やかならず見えたので、自身で降りて行って戸をあけ、そして叫びました、「おお皆の衆、いったいどうしたというのか。」すると、私の召使どもは彼に向かって叫びかけました、「よくも家《うち》の主人を殺しやがったな。」彼は言いました、「だが、そのおまえたちの主人というのは、いったいだれのことか。それにまた、そもそも余に殺されるようなどんな悪事をしたのか……。」
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三十夜になると[#「けれども第三十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、法官《カーデイ》は驚いて、一同に申しました、「それにまた、おまえたちの主人とやらは、そもそも余に殺されるようなどんな悪事をしたのか。またそこで叫びながら、ろばのように暴れまわっているその床屋は、何をしにおまえたちの中に割りこんで来ているのか。」すると床屋は叫びました、「確かにあなたは今しがた、わしの主人を棒で殴って殺しなすった。現にわしはそのとき往来にいて、ご主人の叫び声を聞きつけた。」法官《カーデイ》は答えました、「だが、そのおまえの主人というのは、いったいだれのことだ。その人はどこから来たのか。またどこに行くのか。いったいだれがその人をここに入れたのか。棒で打たれるようなどんなことをしたのか。」床屋は言いました、「おお不届きな法官《カーデイ》よ、白ばくれなさるな、わしはすべての顛末を承知している。わしのご主人がお宅にはいった原因も、事の詳しい仔細も、皆承知しているのですからね。わしはちゃんと知っているし、今となっては皆さんにもお知らせしたいと思うが、実は、あなたの娘さんは、わしのご主人にほれこんで、ご主人のほうでもまた憎からず思っているというわけだ。わしは自身で、ここまでご主人のお伴をして来ましたよ。するとあんたは、娘さんといっしょに床《とこ》の中にいるご主人をつかまえて、そこで召使たちに手伝わせて、ご主人を棒で殴り殺してしまったんでしょう。さあ、すぐさま家《うち》の主人をわれわれに返して、ひどい目に合わせた償《つぐな》いをなさり、ご主人をば、このわしや身内の人々の手に、つつがなく引き渡してくださればよし、それがいやだと言うならば、これから、われらの唯一の審判者|教王《カリフ》のところに、ぜひいっしょに来てもらいましょう。そうしてくれないと言うなら、わしはやむをえん、無理やりお宅にはいって、自分の手でご主人をば救い出さなければならん。さあ早くご主人を返してもらいましょう。」
この言葉を聞くと、法官《カーデイ》はびっくりして狼狽し、聞いている並みいる人々全部の前で、すっかり恥じ入ってしまいました。けれどもともかくも、床屋に言いました、「もしおまえが嘘を言っているのでないならば、かまわぬ、許してやるから、自身でわが家にはいって、どこなりと探して、その者を救い出すがよい。」すると、床屋は家の中におどり込みました。
さて私のほうでは、窓から木の格子のうしろで、この場面を見ておりましたが、いよいよ床屋が私を探しに家の中におどり込んだのを見たとき、これは逃げ出そうと思いました。けれどもいくら探しても、逃げ場がありません。家人に見つからないような、あるいは床屋の目をのがれるようなところは、手近にどうしてもありませんでした。けれども、逃げ場を探しているうちに、とある一室に、大きな木のあき箱を見つけましたので、急いでその中にはいって身を隠し、自分の上にふたたびふたをしめて、息を殺しておりました。
床屋のやつは、家じゅうを探し回ったあげく、とうとうこの部屋の中にやって来て、右や左を見ているうちに、この箱を見つけたものに相違ありません。すると呪われたやつめは、無言の中に、私がこの中にいると覚って、この箱を持ち上げ、それを頭上に載せて、運び出しました。そして、私が恐ろしさに死ぬ思いをしているうちに、やつは大急ぎで出口に出ました。しかるに宿命の力によって、彼が私を運んでいるうちに、群がる下民どもは、この箱の中に何がはいっているか見たくなって、そこで突然、ふたが取り去られてしまったのでありました。そのとき、私は恥辱《はずかしめ》と冷罵《ののしり》を受けるに忍びず、いきなり立ち上がって、地上に飛びおりましたが、あまり急いだもので、とたんに脚を折ってしまいました。そしてこのときから、私はちんばになったのでございます。この私の脚を折ったということは、「復活」の日まで、この呪われた男の良心の上に、重くのしかかることでありましょう。
けれども、そのときは、私はただ逃げ出して身を隠すことしか思いませんでした。そして、そこにはおびただしい群衆がいたので、私はこれに金貨をつかんで投げつけはじめ、そして皆の者が金貨を拾うのに夢中になっているあいだに、身をのがれ、全速力で走りました。こうして私は、バグダードでもっとも人目のない街々の大半を、駆け回ったのでした。ところが、ふと見ると、突然例の床屋が私のうしろにいて、大声をあげてわめいているのを聞いたときには、私はもうぞっとしたどころではございませんでした。やつは大声で叫んでいました、「おお皆の衆、アッラーのおかげで、ご主人がみつかりましたわい。」次に私のうしろから追いかけて来て、私に言いました、「おおご主人さま、おまえさまが性急にふるまってからに、わしの忠言に耳をかさなかったことが、どんなに悪かったか、今になっておわかりでしょうが。というのは、ご自分でもよくおわかりになったろうが、おまえさまは頭がのろく、短気で、また少し足りないところがありなさる。だが、殿よ、そんなふうに走って、どこに行きなさるのじゃ。まあ待ちなされ。」そこで私は、もう死ぬよりほかに、どうすればこの災難からのがれられるのかわからなくなって、足をとどめて、彼に言いました、「おお床屋よ、おれをこんな羽目に陥れて、これでもまだ足りないと言うのか。きさまはおれを死なせたいのか。」
けれども、ちょうど私が言い終わろうとしたとき、私は市場《スーク》に、自分のまん前に、ある知り合いの商人の店が開いているのを見ました。そこで私はその店の奥に飛びこんで、店の主人に、きゃつをあとから入れないでくれと頼みました。主人は彼に太い棍棒を見せ、こわい目をして、ようやくはいらせないことができました。しかしながら床屋は、その商人を呪い、商人の父や祖父を呪い、私にも商人にもさんざん罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけながら、やっと立ち去ったのでした。やがて姿が見えなくなって、私は、もう観念していた救いを得られたことを、「報酬者」に感謝いたしました。
そこでその商人がわけを問いただしたので、私はこの床屋との顛末を語り、そして私の脚がなおるまで、店に置いてくれるように頼みました。というのは、あの瀝青《チヤン》の床屋の思い出につきまとわれるかと思うと、もう自宅に帰る気になれなかったのです。
さて、アッラーのお恵みで、脚がなおると、私は自分の持っていた金を全部携えて、次に証人を呼んで、遺言書を作り、残りの財産全部、動産不動産を、親戚たちに贈りました。もっとも、私の死後始めて受け取るべきものとしてですが。そして確かな人物を一人差配人に定めて、そのいっさいを監督させ、大小の私の所有物全部を、適当に処理することを託しました。そしてこの床屋とこれっきり手を切るために、私は故郷バグダードを去って、もはや二度とこの仇敵と顔を合わせるおそれのない場所に行こうと、決心したのでした。
そこで私はバグダードをたち、この国に着くまで旅することをやめませんでした。そしてここに来て、首尾よくこの執念深い男からのがれたものと思っておりました。だがそれもつかの間のことでした。なぜなら、おお殿がたよ、せっかくお呼びいただいたこの饗宴の席上、ここに、あなたがたのただなかに、私はきゃつの姿を見いだしたのでございますから。
されば、私としてはかつて故郷を去ったごとく、ここにふたたびこの国を去らないうちは、もはや安らかな思いができないことは、皆さまにもよくおわかりでございましょう。この一切は、呪われたこやつ、この真っ黒な災いの顔、この人殺しの床屋ゆえのことであります。願わくば、アッラーはきゃつとその家族とその子孫をのこらず、こらしめてくださいますように。
――この若いびっこの男は(と仕立屋はシナの王さまの御前でつづけたのでございます)、ただいまの言葉を言いおえると、真っ黄色な顔色をして立ち上がり、私どもに平安を祈って、私どもが引き留めるすべもなく、外に出て行ってしまいました。
さて私ども一同は、この驚くべき話を聞いて、その床屋のほうを見やりますと、彼は黙って、目を伏せておりました。そこで私どもは彼に言いました、「だがあなたは、あの若いかたがほんとうのことを言ったと認めますか。して、そうとすれば、なぜあなたはこんなことをして、あのかたの身に、ああしたいっさいの不幸をひき起こしたりなぞしたのですか。」するとその床屋は頭をあげて、私どもに言いました、「アッラーにかけて、わしは万事よく心得ていたればこそ、ああいうふうにふるまったので、あの仁にもっと悪い災難に合わせまいとて、したことです。なぜならば、このわしがいなかったら、あの仁はむろん助からなかったのです。だからあの仁は、ただ片足が使えなくなったくらいで、まるまる身を滅ぼさずにすんだことを、アッラーに謝し、わしに謝さなければならぬところです。では、殿がたよ、皆さまがたに、わしがおしゃべりでもなければ、無遠慮な男でもなく、われわれ七人兄弟の中のだれなりとも、いかようにも、似ておらぬ証拠をお目にかけ、わしが十分に思慮ある有用な男であり、わけても、きわめて沈黙家《だまりや》であることを、皆さまの前に証明するために、これから自分の身の上をお話し申し上げまするから、そのうえで、よしなにご判断を願うといたしましょう。」
この言葉を聞いて、私ども一同は(と仕立屋はつづけました)、これは疑いもなく、世にも珍しい話にちがいないように思え、黙ってその床屋の物語に、耳を傾けたのでございました。
バグダードの床屋とその六人の兄の物語
(床屋によって語られ、仕立屋によって伝えられた物語)
床屋の物語
床屋は言いました。
されば、おおわがご主人さまがたよ、わしは、信徒の長《おさ》エル・モンタセル・ビルラー(7)の御代《みよ》に、バグダードに暮らしていた者でございます。そのころ、人々は上の御《み》稜威《いつ》の下に幸福に暮らしておりました。というのは、信徒の長《おさ》は貧しき者といやしき者をいつくしみたまい、学者、賢人、詩人たちとの交わりを好みたもうたからであった。
ところが、日々の中のある日のこと、教王《カリフ》は、都よりほど遠からぬところに住む十名の者に対し、逆鱗《げきりん》あそばされるふしあり、その十名の者をば御手のあいだに連れて来るよう、代官《サワーブ》にお命じになりましたのじゃ。そして天運は、ちょうど彼らがティグリス河を舟で渡らせられようとしていたおりに、このわしが河岸に居合わせることを、望んだのでありました。これらの人々が舟に乗りこんでいるのを見て、わしは心の中でひとり言を言った、「さては、この人々はこの舟の中で会合を催して、一日じゅう、遊んだり、飲んだり、食ったりして過ごそうとしているのにちがいない。これはぜひおれもひとつこの人たちのお客になって(8)、ご馳走の仲間入りをさせてもらわなければならんぞ。」
そこでわしは水ぎわに近づいて、「沈黙家《だまりや》」というその名のごとく、一言も言わずに、その舟の中に飛びこみ、この皆の連中の中にまじり入りました。けれども、そこに突然|奉行《ワーリー》の警吏たちがやって来たと思うと一同を引っ捉え、めいめいの首に首かせを、手に鎖をかけ、そしてついにわしをも引っ捉えて、同じように首に首かせ、手に鎖をかけてしまったものでした。こうしたいっさいにもかかわらず、しかもわしはただの一言も言い出さず、ただの一語も口にしなかったのですぞ。これこそ、殿がたよ、わしの剛毅なる気象と寡黙との、何よりの証拠でございましょう。そこでわしは抗弁もせずに、されるがままになって、その十名の者と共に、信徒の長《おさ》、教王《カリフ》モンタセル・ビルラーの御手のあいだまで、ひかれて行ったのでありました。
われわれをご覧になると、教王《カリフ》はその御《み》佩刀持《はかせもち》を召されて、申しつけられました、「即座にこの十名の悪漢の首をはねよ。」すると御《み》佩刀持《はかせもち》は教王《カリフ》のお目の前に、われわれ全部を一列に庭にすえ、その太刀を振りあげて、第一の首を打ってこれをはね、次に、第二、第三と、十番目に至るまで首をはねました。けれども、彼がわしのところまで来たときには、すでに斬られた首の数が十になっていて、彼はそれ以上の数の首を斬るようには命じられておらなんだ。そこで彼は手をとどめて、ご命令が果たされた旨を教王《カリフ》に申し上げました。すると教王《カリフ》はこちらをご覧になると、まだわしが立っているのを見られたので、お叫びになりました、「おお太刀取りよ、余は汝に、十名の悪漢の首をはねよと命じたのであるぞ。なんとして、その十番目の者を見逃がしたるか。」御《み》佩刀持《はかせもち》は答えました、「主君の上なるアッラーの御《おん》いつくしみと、われらの上なる主君《きみ》の御いつくしみとにかけて、私は十の首をはねましてござります。」教王《カリフ》は答えなさいました、「はてな、ではとにかく余の前にて数えてみよ。」数えてみると、はたして首の数は十あった。すると教王《カリフ》はわしをご覧になって、わしに仰せられました、「そもそも汝は何者なるか。して、汝はここに、これら流血の匪族のさなかにあって、何をしていたのか。」ここに至ってわしは、おおご主人さまがたよ、ここに至って始めて、この信徒の長《おさ》のお尋ねを前にして、わしはようやく口をきく決心をしたのじゃ。わしは申し上げた、「おお信徒の長《おさ》よ、私こそは、その寡黙のゆえに、世にエル・サーメトとあだなせられたる老人《シヤイクー》にござります。知恵と申せば、わがうちにあまた貯えがござりまするが、わが判断の正鵠《せいこく》、わが言葉の荘重、わが分別の卓越、わが知力の彗敏、わが贅語の僅少につきましては、あえて何事をも申し上げますまい。なぜならば、わがうちにおけるこれらの長所は、生得のものでござりますから。私の職業はと申すと、頭やひげをそり、腿や脚に乱刺術《らんしじゆつ》を施し、折れたる骨を整え、吸い玉とひるを当てることでございます。私はわが父の七人の息子の一人でありまして、兄弟六人はすべて在世しておりまする。
それはさておき、事の次第はと申しますれば、すなわちかようでございます。あたかもけさ、私はティグリス河のほとりを散歩しておりますると、ふとあの十名の者が舟に乗りこむのを見かけ、そこで私は彼らの中に入り混じり、彼らと共に河を下りました。彼らが河上の饗宴に招かれているものと思ったのでございます。しかるに、向う岸へ着くやいなや、私は自分が罪人のあいだにいるのだということに気がつきました。なぜなれば、私は警吏のかたがたが、われわれに襲いかかって、われわれの首に首かせをかけるのを見たからでございます。しかるに私は、これらの人々とはなんの関係《かかわり》なき身であるとはいえ、あえてみずから喋々することを欲せず、抗弁しようとはいたさなんだ。そはわが平生の剛毅と寡黙とのあまりからでございました。かくて私はこの連中一同と共に、御手のあいだに連れて来られた次第にござります、おお信徒の長《おさ》よ。」
このわしの言葉を聞こしめされ、先ほどここにいたあのちんばの若者、わしによってあらゆる種類の禍いより救われた、あのちんばの若者がなんと言おうと、このわしは沈黙と荘重とを好んで、好奇心と無遠慮をきらい、勇壮活溌の気充ち満ちた人間であるということがおわかりになると、教王《カリフ》はわしに仰せられました、「おお尊ぶべき長老《シヤイクー》よ、才知たけて荘重なる床屋よ、少しく尋ねたいが、汝の六人兄弟はいかに?……彼らもまた汝のごとくなりや。彼らのうちに同様の知恵、蘊蓄《うんちく》、つつしみを持てるや。」わしは答えました、「アッラーは私を守りたまわんことを。彼らはいかばかり、私とは相さること遠いでしょうか。おお信徒の長《おさ》よ、近くも遠くも、私とはなんら共通点なきあの六名の狂人どもと、この私とを比較なさるるとは、まったくのところ、私に大いなる誹謗《ひぼう》をお加えあそばしたと申すものでございます。なぜなれば、彼らの無分別なる饒舌と、無遠慮と臆病とのゆえに、彼らはわれとみずから幾多の災難を招き、心身ともにすこやかにして欠くるところなきこの私とは相反し、おのおの身体の畸形《きけい》をば、身に招いたのでございます。事実、私のいちばん上の兄はびっこです。二番目はめっかちです。三番目は前歯がなく、四番目はめくらで、五番目は両耳を斬り取られ、鼻をそがれ、六番目は唇をちぎり取られているのでございます。
けれども、おお信徒の長《おさ》よ、私が兄弟たちの欠点と自分の長所とを誇張して申しておるとは、けっしてお思いあそばすな。というのは、もし私が彼らの身の上をお話し申し上げたならば、この私はいかばかり彼らと異なっておるか、ご理解あそばさるるふしがござりましょう。そして彼らの話は限りなく心をひき含蓄あるものでござりますれば、遅滞することなく、これよりただちにお話し申し上ぐることといたしましょう。
床屋の第一の兄バクブークの物語
さればでござります、おお信徒の長《おさ》よ、私の兄弟の中でいちばん上の兄、すなわち、ちんばとなったる者は、エル・バクブークと呼ばれておりました。彼がおしゃべりを始めますると、水壺がごぼごぼ鳴るように聞こえたので、かくは名づけられた次第でございます。その職業は、バグダードで仕立屋をいたしておりました。
彼はさる金銭《かね》と財宝をしこたま持つ男から、小さな店を一軒借りて、仕立屋の職業を営んでおりました。その男は、ちょうど兄バクブークの店のある家の階上《うえ》に住んでいまして、その家の階下《した》のどんづまりには、水車場があって、そこには一人の粉挽き屋とその牛がおりました。
さてある日、兄のバクブークが、下には粉挽き屋とその牛と、上には金持ちの家主をひかえて、自分の店に坐って裁縫をしていましたとき、ふと頭をあげてみると、自分の上に、上の明り窓のところに、昇りぎわの月のような一人の女が、通行人を眺めて打ち興じているのが、目にはいりました。それはこの家の持ち主の妻女でありました。
この女を見ますると、兄バクブークは自分の心が熱い思いに燃え立つのを感じて、もはや裁縫も手につかず、その明り窓を眺めること以外には、何もできなくなってしまいました。そしてその日は、夕方まで、こうしてただぼんやりと眺めて暮らしてしまいました。その翌朝は、夜が明けると早々自分の席に坐って、少しばかり裁縫をしながら、例の明り窓のほうに頭をあげ、そしてひと針縫うごとに、自分の指を刺していました。というのは、ひと針ごとに、目を明り窓のほうに向けていたからです。兄は幾日ものあいだ、こういう状態をつづけ、そのあいだはてんでかせがず、一ドラクム分の仕事さえいたしませんでした。
さてその若い女のほうでは、すぐさま私の兄バクブークの気持を察しました。そして、ある日、兄が日ごろよりもいっそうぼんやりしていたおり、女はこれに男殺しの眼差《まなざし》を投げますると、バクブークはすぐにその眼差に胸を刺し貫かれました。そしてバクブークはその若い女をじっと見つめたものですが、それが実に珍妙な様子だったので、女はすぐに内に引っこんで、尻餅をついてしまいました。それほど笑いが爆発したわけです。それでも、バクブークは、きょうは女がいかにも脈ありげに自分を見てくれたと思って、その日は悦びの絶頂でした。
ですから、翌日、自分の店に、絹の風呂敷に包んだ美しい布地を小脇に抱えて、家主が来るのを見たときも、バクブークはさして驚きませんでした。家主は兄に言いました、「ここに布地を持って来たから、これでもって肌着を作ってもらいたい。」するとバクブークは、家主はその細君の差し金でよこされたものだということをもう疑わず、彼に言いました、「私の目と頭《かしら》の上に。きょうの夕方には肌着はできておりましょう。」実際兄は、いっさいの飲食までやめて、一心不乱に仕事をはじめ、こうして夕方、家主が来たときには、二十枚という数の肌着が、裁《た》たれ、縫われて、絹の風呂敷の中にたたまれておりました。すると、家主は兄に聞きました、「いくらお払いしようか。」けれどもちょうどそのとき、明り窓のところに、例の若い女がこっそり姿を現わしまして、バクブークに秋波を送り、眉を動かして、報酬を受けとるなと合図するのでした。そこで兄は、そのとき非常に手もと不如意で、ただの一文でも非常に助かるという際にもかかわらず、家主から何ももらおうとはしませんでした。けれども自分では、ただその細君の顔のために、自分が仕事をしてその亭主に恩を施してやることに、大満悦でございました。
その翌日になると、早朝から、家主はまた別な布地をかかえてやって来て、兄に言いました、「実は、宅《たく》で、あの新しい肌着といっしょに着る、新しい下ばきがいると言われてね。それでここに別な布地を持って来たから、これでもって下ばきを裁ってもらいたい。十分ゆとりのあるように作ってくださいよ。ひだも切地もたっぷりに頼みますよ。」兄は答えました、「お言葉承わり、仰せに従います。」そして、兄はまる三日のあいだ、仕事のしづめで、暇を惜しんで、またことに、必要なものを買い入れるただの一ドラクムの銭《ぜに》さえなかったものですから、食物としては、わずかに飢えをしのぐだけのものしかとりませんでした。
下ばきの仕立てを終えたとき、兄はそれらをたたんで大きな風呂敷に包み、すっかり悦んでもう有頂天になり、自身でそれを家主に届けに上がってゆきますと、家主はすぐに、いかにも金を払おうとするような素振りをしました。けれどもそこに、戸口のところに女のきれいな顔が、にこやかな目と受けとるなという眉をもって、現われ出ました。そこでバクブークは、なんであろうとその夫から何かもらうことは、絶対に辞退しました。すると女は姿を消し、その夫はちょっと座を立って、妻女に相談に行き、まもなく兄のもとにもどって来て言いました、「いろいろお世話になったお礼に、おまえさんに家《うち》の白人の女奴隷の、気立てのいい娘《こ》をさし上げて、これとめあわせて進ぜようと、家内ともども定めました。そうすれば、おまえさんはここの家の人になるわけです。」そこでバクブークのやつはさっそく、これは自分に自由に家に出入りさせるための、若い女の深謀遠慮なのだと考えて、さっそく承知しました。すると即座に、その若い女奴隷を呼んで来て、これを兄バクブークと結婚させたのでありました。
さていよいよ夜になって、バクブークがその白人の女奴隷に近づこうといたしますと、その女は言いました、「いえ、いえ、今夜はいけません。」そして兄がいくら望んでも、そのきれいな女奴隷から、接吻一つ得ることもできませんでした。
ところが、バクブークは平生店に寝泊りしておりましたが、そのときは、彼と新婚の妻と二人には、今少し広いほうがよかろうから、さしあたりその夜は、家の下にある粉挽き場に眠ることにしたらと言われたのでした。そこで、女奴隷が交合《まじわり》を拒んで、ふたたび自分の女主人のもとに帰ってしまったので、バクブークはあとにただ一人寝ざるをえませんでした。ところが翌朝、朝まだき、まだ兄が眠っているところに、突然粉挽き屋がはいって来て、大きな声で言うのでした、「この牛め、もうだいぶん長いことこいつを休ませておいたから、これからすぐさま水車につけて、麦をひかせるとしよう。」そして彼は牛とまちがえているようなふりをして、兄に近づいて言いました、「さあ、怠け者め、起きろ、つないでやるから。」すると兄のバクブークは、なんしろ、そのばかさかげんがひどいので、口をきこうともしないで、そのままつれて行かれ、水車につけられてしまいました。粉挽き屋は、兄の胴中を水車の柱にゆわいつけて、これにしたたか鞭を食わせながら、叫びました、「ヤッラー。」鞭を受けたときには、バクブークは牛みたいに鳴かずにいられませんでした。そして粉挽き屋はかさねてしたたか打ちすえつづけ、長いあいだ、兄に水車を回させつづけました。そして兄はまったく牛そっくりに、もうもうと鳴き、鞭の下に鼻を鳴らしていました。
けれどもやがてそこに家主が来て、こうして兄が水車を回し、鞭を受けているありさまを見ました。そこで彼はすぐに自分の妻に知らせに行きますと、細君はとりあえず兄のところに、例の若い女奴隷をよこしました。そして女奴隷は兄を水車から放して、さも気の毒そうな声をして、兄に言いました、「奥さまからのお伝言《ことづけ》で、奥さまはあなたがこんなひどい目に会わされたということをただいまお聞きになり、まことにお気の毒に耐えない、さぞおつらかったでしょう、私たち一同心からご同情申し上げますとのことでございました。」けれどもかわいそうにバクブークは、返事をしようにもあまり打たれ、まいりきっていたので、ただのひとことも言い出すことができませんでした。
兄がこのようなありさまでいるところに、きのう兄と若い女奴隷との結婚契約書をしたためた、老人《シヤイクー》がやってまいりました(9)。老人《シヤイクー》は兄に平安を祈って、そして言いました、「アッラーがおまえさまに長命を授けてくださいますように。また何とぞおまえさまの結婚が祝福されたものでありますように。おまえさまは昨晩確かに、きっすいの幸福のうちに一夜を過ごし、夜から朝まで、嬉戯《たわむれ》やら、抱擁やら、接吻やら、交合やらのうちに過ごしたに相違ない。」兄のバクブークはこれに言いました、「おまえみたいな嘘つきや不実なやつらは、アッラーがこらしめてくださるように、おおこの途方もない大裏切り者めが。きさまはおれに、ただ粉挽き屋の牛のかわりに、朝まで水車を回させようとばかりに、こんなところに放りこみやがったんだな。」すると老人《シヤイクー》は事の仔細を話してくれるように言ったので、兄はそれを話しました。すると老人は言いました、「それはさしたる仔細もないことだ。おまえの星があの若い女の星と合わないのだね。」バクブークは言いました、「この野郎、とっとと行って、まだこのうえ何か不届きなことを考え出せるものなら、考え出してみやがれ。」それから兄は立ち去って、自分の店にもどり、今までさんざん働いて金をもらわなかったのだから、今度は何か飯代《めしだい》になるような仕事をしようと、待ち始めたのでございました。
さて、こうして兄が坐っておりますと、そこに例の若い白人の女奴隷がやって来て、兄に言うのでした。「奥さまはたいへんあなたを望んでいらっしゃいます。明り窓からあなたのお姿をしみじみ拝見したいから、ただいま露台にお上りになったと伝えてくれとのことでございました。」そして実際、そのとたんに、明り窓のところに例の若い女の姿が現われるのが、兄の目に映りましたが、女は涙にかきくれて、嘆き悲しんでいました。するとこれをただひと目見ただけで、兄はこれまでのあらゆる苦労をけろりと忘れて、じっと目をとどめて、その美しさと魅力をしげしげと眺めるのでした。それから兄は合図でもって女に話せば、女もまた話し、ついに兄は、ああしたいっさいの不幸は、わが身ならぬだれか他人の身の上に起きたのだと、信ずるようになりました。
そしてバクブークは、まだ希望を抱きながら、肌着や下ばきや上衣や下衣を裁っては縫いつづけておりますと、とうとうある日、例の若い女奴隷がやって来て、彼に言いました、「奥さまはあなたによろしく申されて、そして、今夜、私のご主人、あのかたの旦那さまは、あるお友達のところにおよばれに行って、朝までお留守だから、今夜はあなたといっしょに、歓楽《よろこび》とご承知のことのうちに夜を過ごそうと、お待ちかねでいらっしゃいます。」するとバクブークは、この知らせを聞いて、あやうくまったく正気を失ってしまいそうになりました。
そこで夜になりますと、若い女奴隷が、兄を迎えにまいり、兄をその女主人のもとに連れて行きました。女はすぐに立ち上がり、兄に挨拶をして、ほほえみかけて、申しました、「アッラーにかけて、おおご主人さま、ほんとうに、こうしておそば近くお目にかかるおりを、待ちわびておりました。」するとバクブークは言いました、「私もまたそうでした。だがとにかく、早く、何よりもまず接吻をさせてください。それから……。」けれども、まだ言葉を言い終わらないうちに、部屋の戸が開いて、二人の黒人の奴隷がはいって来まして、兄のバクブーク目がけておどりかかり、縛って、床《ゆか》の上に転がし、手始めに、鞭でもって兄の背中をなでてくれたものでした。それから奴隷たちは兄を肩にかついで、奉行《ワーリー》の所に運んで行きました。奉行《ワーリー》はただちに兄を次のような刑に処しました。すなわち、革の鞭二百を加えてのち、これをらくだの背に載せて、縛りつけ、そしてバグダード全市の街々を引き回して、触れ役人に声高く触れさせました、「同胞の妻女を襲う不届き者はすべて、かくのごとく罰せられるぞよ。」
ところで、兄がかように引き回されている途中で、突然そのらくだがたけり立って、横ざまにはね出しました。それでバクブークは地面に転がり落ちざるをえず、そのとたんに片脚を折ってしまいました。そしてこのとき以来、兄はただいまのような、ちんばになったのでございます。そこでバクブークは、ちんばをひきひき、都の外に出ました。けれども、ちょうどおりよく、この私がその顛末を耳にして、おお信徒の統主《きみ》よ、兄のあとから駆けつけ、そして、白状いたさねばなりませんが、実はひそかに兄をこの地に連れもどしまして、傷の手当てやら、費用やら、入用なもの万端、自分でめんどうを見てやったのでありました。そして私はこんにちなお、この兄を肩にしょいつづけているのでございます。
――おおご主人さまがたよ、このバクブークの話を教王《カリフ》モンタセル・ビルラーにお話し申し上げますると、教王《カリフ》は声をあげてお笑いになって、わしに仰せられました、「汝はなかなか話がじょうずじゃ、それにまことにおもしろい話であった。」わしはお答え申しました、「まだまだ、わが君から、そのようなお褒めのお言葉をいただくほどのものはござりませぬ。なんとなれば、もし私の二番目の兄の話をお聞きあそばされたあかつきには、なんと仰せられることでございましょうか。さりながら私は、この私をおしゃべりであるとか無遠慮者であるとかお思いあそばされはせぬかと、それがすこぶる心配でございます。」すると教王《カリフ》は答えなさいました、「そのような心配は無用じゃ。それどころか、すみやかに汝の今ひとりの兄の身に起こりしことを語って、黄金の耳輪もて飾るがごとく、その物語もて余の耳を飾り、委細詳しく述ぶることを恐るるなかれ。そは快く、風味あふるるものであろうと、あらかじめ察せらるるからな。」そこでわしは言いました。
床屋の第二の兄エル・ハダールの物語
さればでござります、おお信徒の長《おさ》よ、私の第二の兄はエル・ハダールと呼ばれておりました。それは彼がらくだのようにうなるからでございまして、そのうえなお、前歯が欠けておりました。職業といたしましては、この兄は絶対に何もいたさず、そのかわり、いつもさんざん私に苦労をかけておりまする。なおそれは、次のような事件の話をお聞きのうえ、ご自身の聖慮によって、ご判断くださいませ。
ある日のこと、この兄がこれといってあてもなく、バグダードの街々を歩いておりますと、ふと彼のほうに、一人の老婆が進み寄って来て、彼に小声で申しました、「もし、もし、お若いかた、ちょっとご相談したいことがあるのですが、それもおまえさんの気向きしだいで、断わろうと引き受けようと、ご随意なのですがね。」そこで兄は足をとめて、言いました、「では、承わりましょう。」老婆はつづけました、「だがまず、おまえさんはけっしてだらしなくおしゃべりをしたり、余計な口をきいたりなぞしないと、約束してくれなければ、そのことを言い出すわけにはゆきませんよ。」そこで兄のハダールは答えました、「いいとも、話してみなさい。」老婆は兄に言いました、「ここにりっぱな御殿があって、流れる水があり、果樹があり、茂みがある。酒は絶えてからになることのない杯の中に、注がれてやまず、目を奪うような顔がいくつも見られ、なめらかな頬に接吻でき、細いしなやかな腰を抱くことができ、それに相応したあらゆる物がある、そしてそんなふうにして、夜から朝までそこにいられるとしたら、おまえさんはこれをどう思いなさるかね。そして、そのすべてを楽しむためには、おまえさんはただ、ひとつの条件を守りさえすればいいのですよ。」この老婆の言葉を聞いて、兄のエル・ハダールは言いました、「だが、ご主人よ、あなたはいったいどういうわけで、アッラーの創《つく》られた人間たちの中で、他のすべての人をさしおいて、特にこの私に、そんな申し出をなさりに来たのですか。私のうちの何があなたの気にかなって、わざわざ私を選ぶなんていうことになったのですか。」老婆は答えました、「だから、たった今、けっして余計な口をききなさるな、口をつぐむことを心得て、不言実行なさいと、言ったところではありませんか。さあ私のあとからついて来て、もう何も言いなさんな。」それから老婆はさっさと遠ざかりましたので、私の兄は、その老婆のあとからついて行きはじめますと、そのうち二人はたいそうりっぱな構えの御殿に着きました。老婆はそこにはいり、兄のハダールをもはいらせました。すると、兄はその御殿の内部《なか》も非常に美しいには美しいが、しかしその中にはいっているものは、さらにずっと美しいのを見ました。というのは、兄は比類《たぐい》のない四人の乙女、月たちから成る一団のただ中に、舞いこんだのでございました。乙女たちは気楽に、甘美な声で、恋の歌なんぞを歌っておりました。
習慣《ならわし》どおりの挨拶《サラーム》をすましますと、その中の一人の乙女が立ち上がって、杯を満たしてそれを飲みました。そこで兄のハダールはこれに言いました、「何とぞそれがおんみのために健康によろしく、味よく、力をみなぎらせるものでありますように。」そして兄は、その手からあいた杯を取ってお酌をしてやろうと、急いでその乙女に近づきました。ところが、その乙女はすぐに自分でその杯を満たして、それを兄にさし出しました。そこでハダールはその杯を受けて、飲みました。するとその乙女は、兄が飲んでいるあいだに、兄の頸筋をなではじめたものですが、それがどうも兄の腹を立てさせるようなやり方です。そこで兄は、いっさい文句を言わずに何事も忍ぶという、先刻の約束も打ち忘れて、出て行こうとして立ち上がりました。けれどもそのとき、例の老婆が兄のほうに近づいて来て、これに目配せして、こういった意味を伝えるのでした、「帰ってはいけない。まあいっそとどまっていて、終りを待ちなさい。」そこで兄もそれに従って、とどまり、その乙女のあらゆる気まぐれを、じっとしんぼうしておりました。すると他の三人の乙女も、だれが最初にこの男をがまんしきれなくするかとばかり、むきになって競争するのでした。一人は耳を引っぱる、今一人は、しっぺいを食わせる、三番目は、好んで爪を立てて一所懸命つねるというふうでございました。しかるに兄はどこまでもしんぼうしておりました。というのは、例の老婆が、絶えず何も言うなと合図をしていたからでした。最後にとうとう、まるでその忍耐のご褒美とでもいうように、その乙女たちの中でいちばん美しいのが立ち上がって、兄に着物を全部脱ぎ棄てるように言いました。そして兄は文句なく、その言葉に従いました。するとその女は、ばら水の香水吹きを取りあげて、兄に振りかけ、そして言いました、「あたしあなたがとても気に入ったわ。けれどあたしは口ひげと顎ひげの毛がきらいなの。だからもしあなたが、ご存じのことをあたしにしてほしいなら、まずその前に、すっかりお顔をそってくださらなければだめよ。」兄は答えました、「それはなんともご無理です。私の身にとってそれ以上の恥辱《はじ》はございますまいから。」女は言いました、「でも、そうしてくださらなけりゃ、あたしはあなたが好きになれないわ。ぜひそうしてちょうだい。」そこで兄はそのまま隣りの部屋まで老婆に連れて行かれますと、老婆はその顎ひげを全部刈ってこれをそり落とし、次に口ひげも眉毛も落としてしまいました。それがすむと、老婆は兄の顔を紅やお白粉で塗り立てて、若い乙女たちのまん中に、ふたたび兄を連れて行きました。これを見ると、女たちはどっと笑い出して、うしろにひっくり返って尻餅をつくほど、笑いこけました。
それから乙女たちの中でいちばん美しい女が、兄のほうに歩み寄って言いました、「おおご主人さま、あなたはその美しいお姿で、すっかりあたしの心を征服してしまいましたわ。もうお願いはたった一つきりよ。ねえ、その裸のかわいらしいお姿で、あたしたちの前で何か優美な踊りをしてくださいな。」そしてエル・ハダールがちょっといやがりますと、彼女はこれに言いました、「後生一生のお願いだから、ぜひ踊ってちょうだい。それがすんだら、あたしはご存じのことをしてあげますから。」そこでエル・ハダールは、老婆が調子よくたたく太鼓《ダラプカ》(10)の音に合わせて、腰のまわりに絹切れをめぐらし、部屋の中央に進み出て、踊り出しました。
兄は踊ったのですが、それがまた実に身をよじりくねってやりましたので、乙女たちはもうどうにも笑いをこらえることができなくなり、そして、兄の頭めがけて、手もとにあるあらゆるものを、枕とか、果物とか、飲み物とか、さてはびんのたぐいまでも、手当たりしだいに投げつけはじめました。そのうち、いちばん美しい女はつと立ち上がり、そして、あらゆる嬌態《しな》を作りながら、またいかにも情欲に燃えたような流し目で、兄を見やりながら、一枚一枚自分の着物を脱ぎはじめ、こうして今は、薄い下着とたっぷりした絹の下ばきだけになりました。これを見ますと、エル・ハダールは踊りを途中でやめて、「アッラー、アッラー」と叫び、そしてもうすっかりのぼせあがってしまいました。
すると例の老婆が兄に近づいて来て、言いました、「さあ、今度はおまえさんの情人《いいひと》を追っかけて、つかまえるのですよ。というのは、うちのご主人は、一度踊りと酒に気をそそられると、着物を全部脱いでしまって、そして自分の好きな人の裸のからだや、陰茎《ゼブ》や、走る身軽さを見届けて、これは自分にふさわしいと見定めないうちは、男に身を委せないという癖がおありになるんですよ。だからおまえさんは、部屋から部屋へとどこまでも、つかまえてしまうまで、追っかけて行きなさい。つかまえさえすれば、あのかたは黙っておまえさんを載せますよ。」
この言葉を聞くと、兄は腰の絹をかなぐり棄てて、いざ駆け出そうとしました。するとその若い乙女のほうもまた、薄い下着やその他をかなぐり棄てて、ふるえる若い棕櫚の木のように、さっぱりとした姿で現われ出ました。そして女は、つと身をひるがえし、声を立てて笑いながら、飛び出して、その広間を二度回りました。そこで兄のハダールは、陰茎《ゼブ》をおっ立て、突き出して、そのあとを追っかけました。
[#この行1字下げ] けれども、ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつしみにあふれて、それ以上話さなかった。
[#地付き]けれども第三十一夜になると[#「けれども第三十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、床屋はこのように自分の話をつづけたのでございます。
私の兄ハダールは、陰茎《ゼブ》をおっ立て、突き出して、その笑い声をあげる身軽な乙女を、追いはじめたのでございました。これを見ますと、余の三人の娘と老婆は、兄のハダールの、顎ひげも口ひげも眉毛もない、紅や白粉を塗りたくった顔を前にして、まためちゃくちゃに突っ立っているそのむき出しの陰茎《ゼブ》を前にして、もうたいへんな笑いに襲われ、足を踏み、手を打って、はやしはじめました。
さてその裸の若い娘は、広間をふたまわりしますと、こんどは長い廊下に逃げこみ、それから、絶えずこの狂乱のハダールに追い迫られながら、次から次へと、他の部屋部屋に逃げまわりました。そして彼女は絶えず、歯をすっかり見せて笑い、腰を激しく動かしながら、駆けていました。
ところが突然、曲り角のところで、その若い娘の姿が消えてしまいまして、兄は、娘がそこから出て行ったとおぼしき扉をあけてみますと、なんと、とある街路のまん中に出てしまったのでございました。その街はバグダードの革屋の街でした。そこですべての革屋は、顎ひげをそり、口ひげも眉毛もそり落とし、顔を娼婦のように塗りたくった、エル・ハダールを見ました。すると、一同はあきれはてて、口々にののしり立て、革ひもを取り上げて、これを鞭打ちはじめ、兄がすっかり気を失うほど、激しく打ちすえました。それから、彼らは兄をさかさまにろばの上に載せ、市場《スーク》全部を回らせて、最後に奉行《ワーリー》の前に連れて行きました。奉行《ワーリー》は彼らに申しました、「これは何者か。」彼らは答えました、「これは総理|大臣《ワジール》さまのお屋敷から突然飛び出して、私どものまん中に降《ふ》って来た者でございます。かような風体のままでございました。」すると奉行《ワーリー》は、私の兄ハダールに、足裏に鞭一百を加えさせ、そして都から追放いたしたのでありました。
そこで、私はおお信徒の統主《きみ》よ、私は兄のあとから駆けつけ、ひそかにこれを連れもどして、かくまってやりました。それから私は自腹で、日々生活の資を提供してやったのでございます。もし私が勇気と美点に満ちた人間でなかったならば、とうてい、かかるばか者はがまんがならなかったであろうということは、今やご賢察にかたくないでござりましょう。
さりながら、私の三番目の兄とその身の上と申しますると、ただいまおわかりになりましょうが、これはすこぶる事変わりまする。
床屋の第三の兄バクバクの物語
通称「でぶのこっこっこ」こと、めくらのバクバクは、私の第三の兄でございまして、その職業は乞食で、われらの都バグダードの乞食団体の、頭株の中に数えられておりました。
ある日のこと、アッラーのおぼしめしと天命とは、この兄が物乞いをつづけながら、とあるかなり広い家の戸口に、行き着くことを望みました。そこで兄のバクバクは、「おお、施してくださるおかたさま、お恵み深いおかたさま」という、施しを乞ういつもの願い言葉を叫びながら、杖でもって、その家の戸をたたきました。
ところで、おお信徒の統主《きみ》よ、ここに申し上げておかねばなりませんが、私の兄バクバクは、乞食仲間のいちばん悪賢い連中と同様に、まずどこかの家の戸をたたいて、「だれだね」という声が聞こえたときには、いつもけっして返事をしないことにしていました。こうして黙っていれば、内部《なか》の人はやむなく戸をあけるものです。さもないと、皆乞食には慣れていますので、戸をあけず、ただ内部から「アッラーがおまえを憐れんでくださるように」と答えるだけです。乞食を追い帰すには、こういうふうにするのでございます。
ですから、その日も、内部《なか》からいくら「戸口にいるのはだれだ」と尋ねても、兄は黙っておりました。ですから、そのうちとうとう足音が近づいて来て、戸をあける音が聞こえました。姿を現わした男たるや、もしバクバクがめくらでなかったら、かならず施しなど乞わなかったにちがいなかったのです。けれども、それが彼の天命でありました。そしてすべての人はおのおの、おのれの天命をば、自分の首に結びつけて、運んでいるのでございます。
その男は兄に尋ねました、「おまえは何がほしいのだ。」兄のバクバクは答えました、「至高のアッラーの御名のために、何かやってくださいませ。」その男は尋ねました、「おまえはめくらなのか。」兄は答えました、「さようでございます、ご主人さま、そのうえたいそう貧乏な者でございます。」その男は答えました、「しからば手を出しなさい。連れて行ってやる。」兄が手をさし出すと、その男は兄を導いて、そして階段を上らせ、非常に高いところにある、露台まで行き着かせました。兄は息を切らしながら、思っていました、「これはきっと、何か大ご馳走の余り物をくれるんだな。」
二人とも露台に着くと、その男は兄に言いました、「さてなんの用だ、めくらよ。」兄は少々めんくらって、答えました、「アッラーのために、施し物をくださいませ。」彼は答えました、「おまえはアッラーに、どこか他の所で一日を始めてもらうがいい。」そこでバクバクは言いました、「おおどこぞのおかたよ、そんならまだ私が下にいるうちに、はっきりご返事をおっしゃっていただけなかったものでしょうか。」この男は答えました、「おお、おれの尻《けつ》よりも下のやつめ、そんならそもそもきさまのほうで、おれが内部《なか》から『だれだ。戸口にいるのはだれだ』と叫んだときに、なぜ返事をしなかったのだ。さあ、とっととここからうせろ。さもないと、きさまを球《たま》みたいに転がしてやるぞ、おお、ねちねちしたいやらしい乞食め。」そこでバクバクは、めくらの身でありながら、ただ一人、大急ぎで階段を駆けおりざるをえませんでした。
ところが、まだ二十段ほど残っているところで、兄は足を踏みはずして転び、戸口のところまで、階段を転がり落ちてしまいました。そしてこの墜落の際、ひどく頭をうって、ふたたび街を歩き出しながらも、うんうんうめきはじめたのでありました。すると仲間のめくら乞食二、三人が、こうして兄がうめいているのを聞きつけて、兄にそのわけを尋ねましたので、兄はこれを彼らに知らせました。それから彼らに言いました、「さて、仲間の衆よ、こんなみいりのない、いやな日は、家に銭《ぜに》を取りに帰って、何か食うものを買ったほうがいいから、ちょっと手を貸していっしょに帰ってもらいたい。こんな目にあったんじゃ、おれたちの貯えに手をつけさせてもらわなけりゃならん。ほら、もうだいぶんたまって、おれがおまえさんたちから預かっているあいつからな。」
ところが、兄のあとからは、例の先刻の男が降りて来て、そっとあとをつけはじめ、追い迫りながら、様子をうかがっていたのでした。そこでその男は、兄と仲間のめくら二人のあとから歩きはじめ、彼らに少しもけどられずに、とうとう一同がバクバクの住居に着くまで、ついて来ました。三人が中にはいると、その男もまた、戸をしめる暇もあらせず、すばやく彼らのあとからもぐりこんでしまいました。バクバクはその二人の仲間に言いました、「何よりもさきに、この部屋の中に、だれかよそのやつが隠れていないかどうか、よくあらためてみろよ。」
この言葉を聞くと、その男は、こいつは実は泥棒渡世で、その道では名うての腕利きだったのですが、やつは天井に結びつけられている一本の綱を見つけ、その綱につかまって、身軽に音もなく天井によじ上り、そっと梁《はり》の上に坐ってしまったのでした。二人の乞食は部屋じゅうをあらためはじめて、杖でもってすみずみを探りながら、何度もくり返して、すっかり部屋を回ってみました。それがすむと、二人は兄のそばにもどりました。そこで兄は、自分の預かっている有金全部を、隠し場所から取り出して、そして二人の仲間といっしょに勘定しました。するとその金は、ちょうど一万ドラクムあるとわかりました。次にめいめいが二、三ドラクムずつ取って、そして全部の金をもとの袋にもどし、それらの袋をば改めて隠しました。それから、三人の乞食の中の一人が、食べる物を買いにちょっと外に出ましたが、やがてもどって来て、そのずだ袋の中から、パンを三つと、玉ねぎを三つと、なつめやしをいくつか取り出しました。そして三人の仲間は車座に坐って、食べることにいたしました。
するとそのとき、例の泥棒は、そっと綱を伝わってすべりおりて来て、乞食たちのかたわらにしゃがみ、そして皆といっしょに食べはじめたのでした。ところが、やつはバクバクのかたわらに坐を占めたのですが、バクバクは非常に耳が鋭い男なので、やつが食べながら、顎を動かして立てる音を聞きつけまして、とたんに叫びました、「おい、この中にだれかよそのやつがいるぞ。」そして兄は、顎の音が聞こえて来るほうに、すばやく手を伸ばしますと、ちょうどその手は泥棒の腕に当たりました。そこでバクバクと二人の乞食は、その泥棒に飛びかかり、めくらながらも、声をあげ、杖でもってこれを打ちはじめました。そして近所の人々に助けを呼んで、わめき立てました、「おお、回教徒たちよ、助けてくれ、泥棒だ。」そこで近所の人々が駆けつけてみると、バクバクが二人の仲間と共に、もがきながら逃がれようとする泥棒を、しっかりと押えつけているのを見ました。ところが泥棒は、近所の人が来ると、急に自分もまためくらのふりをして、目をつぶり、そして叫びました、「アッラーにかけて、おお回教徒の皆さま、私はめくらでこの三人の者の仲間でございます。こいつらは、私たちが共同で持っている貯え一万ドラクムの中から、私の分だけちょろまかそうとするのです。私はアッラーにかけて、帝王《スルターン》さまにかけて、太守《アミール》さまにかけて、皆さまにこれを誓います。それに、どうぞ私を|お奉行《ワーリー》さまの前に連れて行ってください。」すると奉行《ワーリー》の警吏たちがそこに来て、この四人の者をとらえて、奉行《ワーリー》の手のあいだに連れていきますと、奉行《ワーリー》は尋ねました、「この者どもは何者か。」すると泥棒は叫びました、「どうか私の言葉をお聞きくださいまし、おお、公平でお目の鋭い|お奉行《ワーリー》さま、そうすれば真相はおのずから明らかになりましょう。そればかりか、もし私の言うことを信じられないとおぼしめすならば、私に真相を白状させるために、ただちにまずこの私から、拷問にかけてください。その次に、この他の仲間たちを、拷問にかけてくださいませ。さすれば彼らも、この私どもの件につき、ありていに申し上げざるをえないでございましょう。」すると奉行《ワーリー》は叫びました、「この男を捉え、地にまろばし、白状するまでこれを鞭打て。」そこで警吏たちはこの贋のめくらを捉え、一人がその両足を押え、他の警吏たちが、その上にぴしぴしと鞭を加えはじめました。最初の十打ほど打たれると、もうこの贋のめくらはわめきはじめ、それからにわかに、今までずっとつぶっていた目の、片方をあけました。それからさらにいくつか打たれると、彼はもう片方の目を、ぱっちりと開いたものでございました。
これを見ると、奉行《ワーリー》は激怒して叫びました、「その不届きなる所業《しわざ》は何事じゃ、おお、ずうずうしいかたり者めが。」彼は答えました。「どうか私のお仕置きをとめてくださいませ。いっさいを申し上げます。」そこで奉行《ワーリー》が仕置きをとめさせると、泥棒は言いました、「ここにおります私ども四人は、実は贋めくらでございまして、こうして人目を欺いて施しを受け、ことに、たやすく家々の中にはいりこんで、女たちの素顔を見、たらしこんだり、乗ったり、やったりし、そのあげく盗みを働き、また家々の内部《なか》をよく調べておいて、ぬかりなく盗みをする用意をしたりなぞしているのでございます。そして私どもは、このもうかる商売をもうだいぶん前からつづけておりますので、今では四人で、一万ドラクムの金を積み貯えることができました。ところがきょう、私は仲間に自分の割り前をくれと申しますと、彼らはこれを渡すことを拒み、あまつさえ、寄ってたかって私をさんざんなぐりつけ、もし警吏のかたがたが彼らの手から私を引き出してくださらなかったら、私をなぐり殺してしまったことでしょう。おお、|お奉行《ワーリー》さま、これが真相でございます。さて、私の仲間たちにもまた白状させるには、彼らにも私になさったように、鞭をお加えなさりさえすればよろしゅうございます。そうすれば、口を割るでございましょう。だが十分に打ちすえてやらねば、なにせ彼らは強情者ですから、何事も白状せず、またなかなかこの私がしたように、目をあけることなどしないでございましょう。」そこで奉行《ワーリー》は最初に私の兄を捉えさせました。そして兄がいくら抗弁してもききません。いくら自分は生まれながらのめくらであると叫んでも、だめです。人々は兄にさらにいっそう激しい拷問を加えて、兄はとうとう気絶してしまったほどでした。正気に返っても、兄は目を開きません。すると奉行《ワーリー》はさらに棒三百を加えさせ、それからまたさらに三百を追加しました。他の二人のめくらも、いくら打たれても、またにわか作りの仲間の、ただ一人の贋めくらがなんと忠告しても、目をあけず、やはりこれと同じ目に会ったのでありました。
それから奉行《ワーリー》は、この贋めくらをさし向けて、兄バクバクの部屋に隠してある金を取ってこさせ、そしてこの金の四半分、二千五百ドラクムをば、この泥棒に与え、残りは全部、お手もとに取り上げてしまいました。
私の兄とその二人の仲間、二人のめくら乞食のほうはと申しますと、奉行《ワーリー》は罰を加えてのち、彼らに申し渡しました、「あさましきかたりどもよ、汝らはアッラーの賜物なるパンをくらい、しかもアッラーの御名によって、みずから盲人であると誓いおったな。ただちにこの地よりいでて、二度とふたたびバグダードにて、汝らの姿を見かくることなきようにいたせ。」
そのとき私は、おお信徒の統主《きみ》よ、私はこの顛末を聞き知って、ただちにバクバクのあとを追って、町を出まして、これを見つけ、そしてひそかにバグダードに連れもどして、私の家に住まわせ、その衣食のめんどうを見てやりまして、それがもうずっとのことなのでございます。
これが私の三番目の兄、めくらのバクバクの話でございます。
――この話を聞かれると、教王《カリフ》モンタセル・ビルラーは笑い出されて、仰せられました、「この床屋に褒美を取らせて労をねぎらい、次いで立ち去らせるように。」けれどもわしは、おお殿がたよ、わしはご返事申し上げましたのじゃ、「アッラーにかけて、おお信徒の統主《きみ》よ、私は他に三人の兄たちの身に起こったことをお話し申し上げませぬうちは、何もちょうだいいたしかねる次第でございます。」そしてお許しを得てのち、わしは言いました。
床屋の第四の兄エル・クーズの物語
私の四番目の兄、めっかちのエル・クーズ、「じょうぶな水壺」は、バグダードで肉屋を営んでおりました。この兄は肉類や挽き肉料理の販売がじょうずでございまして、大きなしっぽの羊を、丸々と肥らせるのに妙を得ていました。そしていい肉はだれに売ればよいか、悪いのはだれにとっておけばよいか、いちいちよく心得ていました。ですから、町のおもな顧客《おとくい》やいちばん大尽の商人たちは、兄の店からでなければ買い求めず、兄の羊の肉以外にはほとんど買わないありさまでして、しばらくのうちに、兄は非常に金持ちになり、家畜の大群と大きな地所の持ち主になったのでございました。
さてこの繁昌の状態をつづけているうちに、日々の中のある日のこと、私の兄エル・クーズが店に坐っておりますと、そこに、長い白ひげをはやした、丈の高い老人《シヤイクー》がはいって来て、兄に金子《かね》を渡して言いました、「いい肉を少し切ってもらいたい。」
そこで兄は、そこにあるいちばんいい肉を切って渡し、その金子を受け取って、老人《シヤイクー》に挨拶を返しますと、老人《シヤイクー》は遠ざかって行きました。
そこで兄は、この見知らぬ人から受け取った銀貨を調べてみますと、それらはま新しく、目もくらむほどの白さなのを認めました。そこで、兄は急いでこれを別にして、特別の箱の中にしまい、そしてひとり言を言いました、「この銀貨はきっとおれに福運をもたらすぞ。」
それから五カ月のあいだというもの、この長い白ひげをはやした老人《シヤイクー》は、毎日やって来て、新しい上等の肉を求めては、兄のエル・クーズに、こうしたまっ白い新しい銀貨を、何枚か渡して行くことをやめませんでした。そしてそのつど、エル・クーズは気をつけて、その金子だけ別にしておいたのでした。ところが、ある日のこと、エル・クーズは、この金子でもってりっぱな羊を買い、またとりわけ、私の故郷バグダードでは、牡羊を闘わせることが非常に珍重されているので、牡羊を何頭か買って仕込んでやろうと思って、こうして貯めた金子全部をば、数えてみようと思い立ちました。しかるに、兄が白ひげの老人《シヤイクー》の金子を入れておいた箱をあけてみたと思うと、中には貨幣などは一枚も見当たらず、そのかわりには、いくつかの丸形の白紙《しらがみ》しか見つからないのでした。
これを見て、兄はわれとわが顔と頭をひどく打ちはじめ、嘆きながら叫びはじめました。それでまもなく、そのまわりに大勢の通行人が集まって来ましたので、兄はこれに自分の災難を話しましたが、だれにもこの金子の紛失した原因がよくのみこめないのでした。そしてエル・クーズは叫びつづけ、言いつづけました、「どうかアッラーが、あの呪われた老人《シヤイクー》を、今すぐここにやってこさせてやってくださるように。そしたら、私はこの自分の手で、あいつのひげとターバンをむしり取ってくれるが。」
兄がこの最後の言葉を言いおえたかと思うと、そのとき突然、その年寄りが姿を現わし、そして集まっている群衆を急ぎかき分けて、いつものとおりに、兄に金子を渡そうとするもののように、私の兄の肉屋のそばに近寄って来ました。そこで、兄はすぐさま彼に飛びかかって、その胸ぐらをつかんで叫びました、「おお回教徒たちよ、来てください、助けてください。こいつこそ、そのずうずうしい泥棒だ。」けれどもその老人《シヤイクー》は、落ち着きはらった様子を少しも失わず、身動きせずに、ただ兄だけに聞こえるように、答えました、「選ぶがよい。おまえは黙るか、それともおのが身を危うくしたいか。というのは、わしがおまえにかかせてやる恥は、おまえがわしに加えようとする恥よりも、さらにずっと手きびしいものだぞ。」エル・クーズは答えました、「だがきさまはおれにどんな恥をかかせることができるのだ、おお瀝青《チヤン》のじじいめ。またいったいどうやって、おれの身を危うくするつもりなのだ。」彼は言いました、「おまえは平常、世人に羊肉のかわりに人肉を売っているということを、皆の前で証明してやるのだ。」兄は返答しました、「嘘をつきやがれ、この千倍の大嘘つき、千倍の呪われた野郎め。」老人《シヤイクー》は言いました、「現に今、自分の店で肉屋の鉤に、羊のかわりに人間の屍体をつり下げているやつこそ、呪われたやつ、嘘つきではないか。」兄は急いで抗弁して、言いました、「もしきさまの言うことがそのとおり証明されたら、おお、犬の子の犬め、そのときはおれの財産も、おれの血も、法に従って、きさまにくれてやるわい。」すると老人《シヤイクー》は群衆のほうに向き直って、声を張りあげて叫びました、「おお、皆の衆、わが友よ、この肉屋を見てくだされ。きょうまでこやつはわれわれすべてを欺き、聖典の戒律にそむいていたのですぞ。この男は毎日、羊のかわりに、アーダムの子らを屠殺して、その肉をば羊の肉と称して、われわれに売っているのじゃ。もしわしの言うことの真偽を確かめたいならば、皆でこの店にはいって、調べてみなさるがよい。」
すぐに喚声が群衆から立ち上がり、群衆は私の兄の店になだれこみ、店を占領してしまいました。そしてすべての人の目の前には、皮をはがれ、調理され、洗い清められ、臓腑を抜かれた人間の屍体が、鉤につり下がって現われ出たのでありました。そして羊の頭を載せるまないたの上には、人間の首が三つ、皮をはがれ、洗い清められ、かまどに入れて調理され、売り物になっているのが、見られたのでございます。
これを見ると、居合わせた人全部は、兄に向かって「不信心者、罰当たり、いんちき師め」と叫びながら、兄に襲いかかり、ある者は棒を、ある者は鞭をふるって、打ちすえました。兄にもっとも容赦なく、もっともひどい打擲を加えたのは、兄のもとの顧客《おとくい》といちばん仲のよい友達の連中でした。例の年寄りの老人《シヤイクー》はというと、猛烈な拳固を兄の片方の目に見まうことを引き受けて、そしてそのままもう施す術《すべ》もなく、その目をつぶしてしまいました。それから一同は、その屠殺された人間の屍体と称するものをかつぎ、私の兄エル・クーズを縛り上げ、そして老人《シヤイクー》を先頭に立てて、皆で法の執行者の前に着きました。そして老人《シヤイクー》は彼に言いました、「おお、太守《アミール》さま、われわれはここに、久しい以前より、おのが同胞をほふって、その肉をば羊肉と称して売っていたこの男をば、罪の刑罰を受けしめんがために、御手のあいだに引ったててまいりました。今はもはや詮議は無用、ただ判決をおくだしあって、よろしくアッラーの正義を行なわせられたまわんのみ。なんとなれば、ここにあらゆる証人が、ひかえておりまするから。」こうしたことがすべての次第です。それというのは、この白ひげの老人《シヤイクー》こそは、エジプトはマグレブ地方の妖術師で、まことならぬ事物をまことと見せる力を持っていたのでございます。
私の兄はと申しますと、いくら言い訳しても取り上げられず、裁判官はそれ以上何も聞こうともせず、兄に棒五百を受ける刑を言い渡しました。次に兄の財産と所有地の全部は没収されてしまいましたが、こんなに富を持っていたということは、まったく兄にとって幸いなことでした。というのは、これがなかったら、兄の刑罰はてっきり、もう救われる道のない死刑だったでしょうから。次に兄に対して追放の刑が申し渡されました。
私の兄は、めっかちにはなるし、背中は散々なぐられて、ほとんど瀕死の状態で、町を出て、そしてどこへ行くともなく、まっすぐ前に向かって歩いているうちに、とうとう、自分の知らない、遠く離れたある町に着きました。兄はそこに足をとどめて、この町に落ち着いて、靴直しを商売にしようと、思い定めました。この商売ならば、よい腕さえあれば、他にほとんど資本《もとで》がいらないからです。
そこで兄は、ふた筋の往来のかどのとある片すみに、自分の平生の住居を定めて、糊口《くちすぎ》の道を得るために働きはじめました。ところがある日、兄が古いスリッパの皮を縫っていると、馬のいななきと、大勢の馬に乗った人々の歩く音が、しきりに聞こえて来ました。そこでこのざわめきのわけを尋ねますと、「王さまがいつものように、お供を全部従えて、徒歩《かち》と騎馬のご猟をなさりにお出かけになるところだ」ということでした。そこで私の兄エル・クーズは、しばらくその針と槌とをおいて、王さまの行列の通るのを見ようと、立ち上がりました。そして兄が立ったまま物思いにふけり、自分の過去現在の身の上や、自分を名だたる肉屋から最下等の靴直しにまでなりさがらせた経緯《いきさつ》などを、ぼんやり考えているあいだに、王さまは、その美々しい行列の先頭に立ってお通りになりました。そしてふと、まったく偶然に、王さまのお目は、私の兄エル・クーズのつぶれた目の上にとまったのでございました。これをご覧になると、王さまはさっと色を変えて、叫びなさいました、「願わくは、アッラーはこの呪われし凶兆の日の不幸より、わが身を守りたまえかし。」次に、ただちにお召しの牝馬のくつわをめぐらして、ご自身も、お供も、兵卒も、全部引き返してしまいました。けれどもそれと同時に、奴隷たちに、私の兄を引っ捉え、相当の罰を加えるようにと、命令なさいました。そこですぐに奴隷たちは、私の兄エル・クーズにおどりかかり、ひどく打ちのめしてからに、もう死んだものと思って、路上に兄を放り出して、行ってしまいました。彼らが遠くに行ったとき、エル・クーズは起き上がり、街角にある、雨露をしのぐ小さな天幕《テント》の下の自分の小屋に、やっとこさ、たどり着きましたが、へとへとになって、もう死んだも同然でございました。そのときたまたま、王さまのお供の一人が遅れて、兄の小屋の前を通りかかりましたので、兄は足をとめてもらって、今ひどい目に会った次第を語り、その動機《いわれ》を聞かせてくれと頼みました。するとその男は大笑いをしはじめて、兄に答えました。「兄弟よ、それはわが王さまは、めっかちをご覧になるとがまんができないのだ。ことに、そのめっかちの左の目がないといけないのさ。それは王さまのおんみに不幸をもたらすというので、王さまはいつでも、容赦なくそのめっかちを殺させてしまいなさる。だから、おまえがまだ生きているというのは、よほどの不思議だ。」
この言葉を聞くと、私の兄はもうそれ以上聞きもせず、急ぎ自分の道具とまだ自分に残っている力とをかき集めて、時を移さず逃げ出し、その町を出てしまわないうちは、休みませんでした。そしてさらに歩きはじめて、とうとう、今までの町のように、王さまも暴君もいない、非常に遠い別な町に、たどり着きました。
兄は、用心して、どこにも顔を出さないように注意しながら、この町にかなり長らく住まっておりました。ところがある日、いつもよりもいっそう気がふさぐので、外の空気を吸いがてら、見物しながら少しぶらつこうと思って、ちょっと外に出てみました。するとうしろに馬のいななきが聞こえましたので、すぐにこのあいだの災難を思い出して、大急ぎで逃げ出し、どこか身を隠す片すみはないかと探しはじめました。しかしどうしても見つかりません。そのうち自分の前に大きな扉が見えたので、その扉を押すと開きましたから、急ぎ内部《なか》に飛びこみました。兄の前には、薄暗い広い廊下が長々とつづいていましたので、兄はそこに身をひそめました。ところが兄が身をひそめたと思う間もなく、突然兄の前に二人の男が突っ立って、いきなり兄をつかまえ、兄を鎖でからめて、これに言いました、「アッラーは讃められよ、おかげでようやくきさまを探し出すことができた、おお、アッラーと人間との敵よ。これで三日三晩というもの、おれたちはきさまを探しづめで、きさまのために一睡もできず、ひと休みもできなかった。きさまのおかげで、おれたちは死ぬ苦しみを味わわされた。」そこで、私の兄エル・クーズは言いました、「だが、おお皆さまがたよ、アッラーはいったい私をどういう罪にお定めになったのですか。そして私に対して、あなたがたにどういう命令をお下しになったのですか。」彼らは答えました、「きさまはおれたちを滅ぼし、おれたちもろとも、この家の主人まで滅ぼそうとしているのだ。きさまは自分の友達を全部貧窮に陥れ、この家の主人をも、貧乏のどん底に突き落としておいてからに、それでもまだ足りないのか。そのうえさらに、今度はおれたちを殺そうとしやがる。きのう、おれたちの一人を追っかけたとき、振りまわしていた庖丁《ほうちよう》は、どこにあるんだ。」こう言って、彼らは兄のからだを探りはじめると、帯のあいだに、靴の底革を切るのに使っていた庖丁が、見つかりました。すると彼らはエル・クーズを地上に押し倒して、今にも首を斬りそうにしたので、兄はそのとき叫びました、「まあ聞いてください、よいかたがたよ、私は泥棒でもなければ、人殺しでもありません。私はじつに不思議な話をお聞かせしたいと思うが、しかもそれは私自身の身の上話なのですよ。」けれども彼らはてんで耳をかそうとせず、兄を足で踏みにじり、なぐりつけ、その着物を引き裂きました。こうして着物を引き裂いて、背中をまるだしにしますと、彼らはその背中に、兄が先の日受けたすべての棒と鞭との傷あとを見つけまして、叫びました、「おお呪われた悪党め、この背中にある、むかし昔打たれた痕跡《あと》こそは、過去のあらゆるきさまの罪悪の証拠だ。」そしてそこで、彼らはかわいそうなエル・クーズを、奉行《ワーリー》の手のあいだに引きずって行きました。エル・クーズは自分のあらゆる不幸をつらつら思いみて、ひとり言うのでした、「なんの罪科《つみとが》もないのに、こうして償いをしなければならぬとは、おれの罪業はよほど深いにちがいない。さりながら、至高のアッラーのほかにはわが救いはないわい。」
兄が奉行《ワーリー》の手のあいだに突き出されますと、奉行《ワーリー》は怒って兄を見やり、言いました、「ずうずうしい悪人め、汝の背中に残っておる打たれた痕跡は、汝の過去現在のあらゆる悪行の、十分なる証拠であるぞ。」こう言って、ただちに、鞭百を加えることを命じたのです。それがすむと、兄はらくだの背に載せられて縛りつけられ、そして触れ役人は町中を引き回して、触れました、「他人の家に押し入る者の罰はこのとおりであるぞよ。」
けれども、こうした私の兄エル・クーズの、あらゆる災難の噂は、長いこと私の耳にはいらずにはいませんでした。そこで私はただちに兄を探しに行き、ちょうどらくだの背中から、気絶しておろされているところに、ついにこれとめぐり合ったのでした。そこで私は、おお信徒の統主《きみ》よ、私は兄を引き取り、世話をし、ひそかにバグダードに連れ帰ることをば、おのが義務《つとめ》と心得まして、そしてこの地で、兄が一生を終えるまで、安らかに飲み食いするものを貢いでやったのでございます。
これが、この不幸なエル・クーズの話でございます。さて私の五番目の兄につきましては、その生涯の波瀾はまことに驚くべきものであり、これによって、おお信徒の統主《きみ》よ、私は私の兄弟たちの中で、いかばかり、ひとりずぬけて、もっとも慎重賢明であるかが、明らかになることでござりましょう。
床屋の第五の兄エル・アスシャールの物語
この兄こそはまさに、おお信徒の統主《きみ》よ、私の兄弟の中で、両方の耳を斬り取られ、また鼻も同様にそがれた兄でございます。これがまた大男で、はらんだ牝らくだのように太鼓腹をいたしておりましたゆえ、また大鍋のような男でもありましたゆえ、人呼んでエル・アスシャールとは言っておりました。けれどもそんな図体《ずうたい》をしているくせに、平然と昼間は怠け放題に怠け、夜には、あらゆる種類の頼みを引き受けて、あらゆる種類の不正な手段を用いて、明くる日のための金をかせぐというふうでした。
けれども私どものおやじが死にますと、私どもは各自、銀百ドラクムずつ遺産をもらいました。エル・アスシャールもまた、私どもめいめいと同様、自分の分け前百ドラクムを受け取りましたが、さてこれを何に使ったものやら途方に暮れたのでした。結局、いろいろ考えたあげく、さまざまのガラス細工をひと山買いこんで、これを小売りしてやろうと思いつきました。他のすべての商売よりも好んでそれを選んだのは、この商売ならば、あまりからだを動かさないですむためでございました。
私の兄エル・アスシャールは、そこでガラス細工を売る商人になりました。そのため、兄は大きな籠をひとつ買い求めて、これにガラス細工を入れ、人通りの多い往来の一隅を選んで、そこに腰をすえて、自分の前にそのガラス細工の籠をおきました。兄はのんびりとしゃがみこんで、とある家の壁に背をもたせかけ、そして次のように呼ばわりながら、通る人々に自分の商品をすすめはじめました。
[#この行2字下げ] ええ、ガラスでござい、ええ、太陽のしずく、雪花石膏《アラバスター》の乙女らの乳房、わが乳母の目、処女の硬く冷たい息吹き、ええ、ガラスでござい、幼な児《ご》のへそ、ええ、ガラスでござい、色とりどりの蜜、ええ、ガラスでござい。
けれどもたいがいのときは、兄は呼び売りなぞしないでおりまして、いい気持に背中を壁にもたせながら、声を出して夢想にふけっているのでした。こうした日々のある日、金曜日の礼拝の時刻に、エル・アスシャールは、次のようなことを考えていたのでございました。
『おれは今自分の資本全部を注《つ》ぎこんで、このガラス細工を仕入れた。これがつまり百ドラクムだ。今にきっとこの全部が、二百ドラクムに売れるだろう。その二百ドラクムでもって、おれはまたあらたにガラス細工を仕入れて、それを四百ドラクムに売ってやろう。こうして売っては買い、買っては売って、うんと資本ができるまで、これをつづけてゆこう。そうなったら、薬だの香料だのあらゆる種類の商品を仕入れて、大もうけをしたうえでなければ、商売をやめまい。そのあかつきには、おれは広大な御殿や、たくさんの奴隷や、馬や、黄金仕立ての錦襴《きんらん》の鞍敷きのついた鞍などを、買うことができよう。そして大いに飲んだり食ったりしてやろう。おれの家に呼ばれて歌いに来ない歌妓《うたいめ》は、町じゅうに一人もないということになるだろう。それからおれは、バグダードでいちばん腕利きの取り持ち女全部に渡りをつけて、そいつらをほうぼうの王さまや大臣《ワジール》たちの娘のところにやるとしよう。そうすれば、たいして長いあいだたたないうちに、おれは少なくとも、総理|大臣《ワジール》の娘と結婚することになるだろう。というのは、聞けばあそこの若い娘はとりわけ美人で、あらゆる点で申し分ない娘なそうだからな。そこでおれは金貨一千ディナールの結納金を贈るとしよう。そうすりゃおやじの総理|大臣《ワジール》だって、二つ返事で、この結婚を承知するにきまっているが、万一承知しようとしないようだったら、そのときはかまうものか、おれはやつの鼻にもかかわらず、その娘をかどわかして、おれの御殿に引っぱってこよう。そして特におれ専用の、若い男の子を十人買おう。それから、帝王《スルターン》や貴族《アミール》しか着ないような豪奢な着物を作らせ、いちばんじょうずな宝石細工師に、真珠と宝石をちりばめた金の鞍をひとつあつらえる。そのうえで、このうえなくりっぱな馬を、砂漠のベドウィン人(11)の酋長から買うか、あるいはアヌズィ(12)の部族から取り寄せるかして、それに乗って、まわりにも、前にも、うしろにも、大勢の奴隷を引き連れて、町を歩きまわる。こうしておれが総理|大臣《ワジール》の御殿に着くと、やつはおれが寄って行くと、敬意を表して立ち上がり、自分の席をおれに譲り、おれの下座《しもざ》に立ちつくして、そしておれの義理の父になることを、たいそうな光栄と思うことだろう。そのときおれは、二人の若い奴隷にそれぞれ大きな財布を持たせて連れて行く。その財布の中には、おのおの一千ディナールずつはいっている。おれはその財布の一つを娘への結納として総理|大臣《ワジール》にやる。けれどももう一つのほうは、なんの仔細もなく、ただおれの気前のいいところと、太っ腹なところと、おれの目から見れば全世界もいかに些細なものかということを見せるために、やつにくれてやる。それからおれは重々しく自宅にご帰還になる。そしておれの許婚《いいなずけ》がおれに挨拶を伝えに人をよこしたら、そいつに莫大な黄金を与え、そして高価な織物とすばらしい着物を数々くれてやろう。またもし大臣《ワジール》が、なにかおれに結婚の贈物でも送ってきたら、たといそれがえらく値段の張った贈物であろうと、おれは受け取らないで、突っ返してやるさ。それも皆、おれは気位の高い男、どんな些細な不作法も容赦できない男だということを、やつによく思い知らせてやるためのことだ。そのあとで、おれは自分で結婚の日取りと儀式の細目を定める。ご馳走についても、また、楽手や男女の歌い手や舞妓《まいこ》などの数と質についても、万事抜け目のないように、よく命令を与えておく。そしておれの御殿の中には、必要なあらゆる準備を整え、飾りを施して、至るところに絨毯《じゆうたん》を敷き詰め、入口からご馳走の部屋までの地面は、花でうずめ、ばら水やそのほかの香りの水を、地面にまかせるとしよう。
さて結婚の夜には、おれはいちばんりっぱな着物を着て、一段と高い台の上に載せた玉座の上に上って、腰をおろす。その台は、花模様と気持のよい色の線とを刺繍した、絹張りの台だ。そして式がつづき、あらゆる身の飾りをつけて、九月《ラマザーン》の満月よりもきらめくおれの女房を、人々が部屋のなかを連れて歩くあいだじゅうずっと、このおれはだ、身動きもせず重重しくかまえて、女房のほうを見向きもしないで、右にも左にも頭を向けない。これはおれの性質の重々しいところとおれの知恵のあるところを、よく見せてやるためだ。すると最後にいよいよ、全身に快い匂いを香らして、したたるばかりみずみずしい美しさのおれの女房が、おれの前に連れて来られる。ところがおれは、どっこい、いよいよもって身動きをなさらぬ。こうしておれが平然として重々しくしていると、ついには、結婚式につらなった女どもが全部、おれのところに近寄って、こう言う、「おお、わたくしどものご主人さま、わたくしどもの頭上の冠よ、ここにあなたさまの奥さま、あなたさまの奴隷が、うやうやしく御手のあいだにひかえて、あなたさまがひと目ご覧くださるのを待っております。こうして立っておりなさるのにたいそう疲れて、坐ってよろしいというあなたさまのお言葉を、ひたすら望んでおいでです。」だがおれはただのひと言も口に出さず、ますますおれの返事にもったいをつける。すると全部の女と全部の女客は、おれの威光の前に平伏して、何度も何度も床《ゆか》に接吻をする。そのときようやく、おれはわが目を伏せて、女房を見てつかわすことを承知するが、それもたった一度、ちらりと見るだけだ。そしてすぐに、また目を上げて、てんで取り合わない平然とした態度に返ってしまう。すると侍女たちは女房を連れて行く。おれは立ち上がって、着物を着かえにおりて、今度は、もっとずっとぜいたくで、ずっと豪奢なほかの着物を召す。すると別な着物と別な飾りをつけ、宝石や黄金や宝玉の下にうずまって、もっとずっといい別な匂いを香らせた花嫁が、ふたたび、おれの台の前に連れて来られる。おれは、皆にくり返しさんざん頼まれるのを待って、女房を見てやるが、やはりすぐに目を上げて、もう見てやらん。こうして儀式万端が全部終わってしまうまで、おれはこんなふうにふるまう。』
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、その夜は、それ以上与えられた許しにつけ入ろうとはしなかった。
[#地付き]そして第三十二夜になったとき[#「そして第三十二夜になったとき」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードはシャハリヤール王に言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その床屋は、自分の五番目の兄エル・アスシャールの事件のつづきをば、次のように語ったのでございます。
『……儀式万端が全部終わってしまうまでこうやって、それから、おれは若い奴隷の二、三に命じて、小銭で五百ディナールばかりはいっている財布を持って来させ、その銭をつかんで部屋じゅうにばらまかせて、楽手や歌い手たち全部にも、また、女房の侍女たち全部にも、それをわけてやるように言いつける。それがすむと、侍女たちは、おれの女房を自分の部屋に連れて行くが、おれはさんざん待たせてから、そこに出向く。女房の部屋にはいったら、おれは部屋の中に二列に並んでいる女たちの列を横切って、女房には目もくれず、長椅子《デイワーン》の上に坐りに行くが、女房のそばを通るとき、あからさまにその片足を踏んづけてやることを忘れない。これは男のほうが偉いことをはっきり見せるためだ。そして香りと砂糖のはいった水を一杯所望し、アッラーに感謝してから、悠然とそれを飲む。
さて女房のほうは、寝床の上でおれを迎えようと待ちかまえていようが、おれは相変わらず女房のいることなぞ、てんで目に入れない。そしてやつに恥をかかせ、おれの偉いこととおれがやつなぞ軽く見ていることを十分に感じさせるために、おれはただの一度も言葉をかけてやらず、こうやって、今度おれがやつに対してどういう態度をとるつもりでいるかを、わからせてやろう。これ以外には、女どもを従順に、おとなしく、優しくする道はないからな。するとはたして、やがておれの伯父の細君がはいって来て、近づいて来る。そしておれの頭と両手に接吻して、言い出す、「おお私のご主人よ、私の娘、あなたの奴隷は、あなたが近づいてくださるのをひたすら待っています。どうぞ娘《あれ》のほうを見て、ただひとことでいいから、言葉をかけてやってくださいまし。」だがおれは、伯父の細君が、なれなれしく見えてはいかんと思って、あえておれのことを婿とも呼ばずに、うやうやしくこんなふうに言っても、おれさまはてんで返事をしてやらん。するとおふくろは、なんとかおれの気を和らげようとかきくどきつづけて、ついにはおれの足もとに身を投げ出し、おれの足や着物の裾を、何度も何度も接吻して、言い出すにちがいない、「おおわがご主人よ、私の娘は美人で処女だということを、私はアッラーにかけて誓います。これまでどんな男も、娘の素顔を見たことはないし、娘の目の色を知ったこともないと、私はアッラーにかけて誓います。お願いですから、どうぞあの娘《こ》にそんなひどいことをなさらず、そんなにまで大恥をかかせるのはやめてくださいまし。あの娘《こ》が、どんなにへりくだってかしこまっているか、ご覧ください。あなたの合図ひとつありさえすれば、どんなことでもしてさしあげようと、待ちかまえております。」
そう言って、伯父の細君は立ちあがって、おれのために、杯に極上のぶどう酒を満たし、その杯を娘に渡すと、娘はすぐに、恐る恐るぶるぶるふるえながら、それをおれに捧げに来る。そして、おれは長椅子《デイワーン》の金糸の刺繍をしたびろうどのクッションに、悠然と寄りかかって、娘をおれの手のあいだにまかり出るままに放っておく。そして娘には目もくれずに、やつを、総理|大臣《ワジール》の娘をだ、このおれの前に突っ立たせておいて、いい気持で見物してやろう。おれはといえば、昔はガラス細工売りで、街々の片すみで、こういって商品を呼び売りしていた男だ。
[#この行2字下げ] ええ、太陽のしずく、雪花石膏《アラバスター》の乙女らの乳房、わが乳母の目、処女の硬く冷たい息吹き、ええ、ガラスでござい、幼な児《ご》のへそ、ええ、ガラスでござい、色とりどりの蜜、ええ、ガラスでござい。
そして娘のほうじゃ、これほどの品位と威光を前にしては、おれをどこかの名声天下にあまねき偉い帝王《スルターン》の王子としか思えまい。そうなると、もうすっかり小さくなってへりくだり、おれになんとかそのぶどう酒の杯を受け取らせようとして、しきりにすすめ、自身で優しく杯をおれの唇に近づけるだろう。だがおれさまは、こんななれなれしい仕打ちを見ると、かんかんに腹を立て、やつを恐ろしい目つきでにらみすえ、そしてその横面をしたたか張りとばし、足を延ばして、どてっ腹を猛烈にけとばしてやる、ちょうどこんなふうにな……。』
床屋はつづけて話したのでございます。――私の兄は、この言葉を言いながら、足を延ばして、そのいわゆる女房なるものを、猛烈にけとばす身振りをいたしますと、その足は、ちょうど自分の前にある、ガラス細工を入れた、もろい籠のまん中にぶつかりました。そして籠は、全部の中身もろとも、はるか向うにすっ転がってしまいました。こうして、このばか者の全財産を成していたものすべては、無残にこわれて、ただその破片《かけら》しか残りませんでした。
この取り返しのつかない損害を前にして、エル・アスシャールは自分の顔をぴしゃぴしゃ打ち、自分の着物を引き裂き、顔を打ちつづけながら、泣いて嘆きはじめました。すると、その日はちょうど金曜日のこととて、正午の礼拝がこれから寺院《マスジツト》ではじまろうとしているところだったので、家を出て来た人々は、兄のこのありさまを見て、ある人々は足をとめてこれを不憫に思い、またある人々は、これを気違い扱いにして、自分の道をつづけたのでございました。
こうして、兄が自分の元も子もなくしたことを悲しみながら、嘆いておりますと、そこに、金曜日の礼拝のため寺院《マスジツト》に行く途中の、一人の身分の高い婦人が通りかかりました。その全身からは、麝香《じやこう》のすがすがしい匂いが立ちのぼっていました。その婦人は、びろうどと錦襴《きんらん》の馬具をつけた牝ろばに乗って、大勢の従者と奴隷を引きつれておりました。
このこわれたすべてのガラスと、泣きながら激しく嘆いている兄とを見ると、同情がその心の中にはいり、そして憐れみもはいって、そこでその婦人は、こうした絶望の動機《いわれ》を尋ねたのでした。すると、このかわいそうな男は、ひと籠のガラス細工を持って、それを売って暮しを立てていて、それがこの男の資本《もとで》全部であったのが、事故のためすべてを粉みじんにしてしまって、もうあとには何ひとつないのだということでした。するとその婦人は従者の一人を呼んで、申しつけました、「このお気の毒な人に、おまえが今持ち合わせているお金子《かね》を全部あげなさい。」そこでその従者はすぐさま、ひもで首にかけていた大きな財布を、首からはずして、それを兄に渡しました。エル・アスシャールは受け取って、開いて、勘定してみると、そこには金貨五百ディナールありました。これを見ると、兄は感激のあまり死なんばかりになって、そしてその恩人の上に、アッラーのあらゆる恩寵と祝福とを呼びはじめたのでございました。
こうしてちょっとのあいだに金持ちになって、エル・アスシャールは悦びに胸をふくらして、この財産をしまいに自宅に行き、それから、どこかりっぱな家にはいってのんびり暮らそうと、貸し家探しに出かけようと支度をしていると、そのとき、静かに戸をたたく音が聞こえました。兄は立ち上がって、戸をあけにかけつけると、まったく見も知らぬ一人の老婆がいて、言うのでした、「おおわが子よ、この金曜の聖日の礼拝の時間も、おおかた過ぎてしまうというのに、私はまだ礼拝前の洗浄《みそぎ》もできずにいるのです。ちょっとお宅を拝借して、無遠慮な人たちに見られずに、洗浄《みそぎ》をさせていただきたいのだが。」すると兄は「お言葉承わり、仰せに従う」と答え、戸をあけ放って、老婆を入れ、台所に連れて行って、一人きりにしてやりました。
しばらくすると、その老婆は兄の部屋にやって来て、そこで部屋の敷き物がわりに使っている、古いむしろの上に座を占め、だいぶあわただしく二、三回跪坐の礼をして、それから兄のために、たいへんしかつめらしい祈願を捧げてくれて、その礼拝を終えました。そこで兄は、老婆にひどくお礼を言って、そして帯のあいだから金貨二ディナールを取り出して、気前よくそれをさし出しました。すると老婆は、もったいをつけてそれを押し返しながら、叫びました、「おおわが子よ、おまえさんをそんなに気前よく作りなすったアッラーは讃《ほ》められよ。そういうふうだから、おまえさんはだれにでも、この私みたいに、たった一度初めて会っただけの人にでも、すぐに親しみを感じさせることができるというのも、まったく不思議はござんせんよ。だが私にくださるというそのお金は、もとの帯に引っ込めてください。おまえさんの様子から察するに、おまえさんはきっと貧しい托鉢僧《サアールク》らしい。このお金は私よりか、むしろおまえさんのほうに入用らしい。私はお金なんか別にいらないからね。だがもしおまえさんが、ほんとうにお金がなくてよいというのなら、おまえさんのガラスの粉みじんになったのを見て、それをおまえさんにくれたあの貴婦人に、お返ししさえすればいいことさ。」兄は答えました、「なんだって、おお、お袋さん、ではあなたはあの女のかたを知っていなさるのか。それならどうかすまんが、あのかたに会う手段《てだて》を教えていただきたい。」老婆は答えました、「わが子よ、たいへんべっぴんのあの若いひとが、おまえさんにあんな施しをしたというのは、ほかでもない、おまえさんにおぼしめしがあることを現わすためなのですよ。おまえさんといえば、年も若いし、美男だし、張り切っておいでだが、あのひとの旦那さまは腎虚《じんきよ》で、奥さんにはてんで追いつけないのさ。何しろ、アッラーはその旦那さまに、まったく気の毒なほど冷たい卵一対を、お授けになったんでね。だから、さあ立ち上がって、この家には錠がなくて盗まれるといけないから、あの金貨は帯のあいだに入れて、私といっしょにおいでなさい。というのは、実を言えば、私はもう昔からあの若いご婦人のご用を勤めていて、あのかたの秘密な用向きは、すべて私が足してあげているのです。いよいよ向うに着いたら、ぬかりなくあのかたのご機嫌を取って、おまえさんのできることはなんでも、親切にしてあげてくださいよ。これをうまくやればやるほど、おまえさんはあのかたを自分に引きつけることになるからね。そうすれば、あのかたのほうでも、何事も惜しまずに、おまえさんに悦び楽しみをかなえてくれ、おまえさんはあのかたの美しさと富をば、残らず手に入れるでしょうよ。」
私の兄はこの老婆の言葉を聞くと、すぐに立ち上がり、言われたとおりにして、老婆のあとに従うと、老婆は歩きはじめ、兄はそのあとから歩いて行って、こうして二人がとある大きな玄関に着きますと、老婆はそれを特別なたたき方でたたきました。兄はすっかり胸をときめかして、嬉しくてたまりませんでした。
老婆の合図があると、一人のギリシアの若い女奴隷が、たおやかな微笑を浮かべながら、扉をあけに来て、二人に歓迎の言葉を言いました。すると老婆がはいり、兄もそれにつづきました。そして兄はそのギリシアの少女に案内されて、その広い屋敷の中ほどにある、純金で刺繍した絹の大きな帳《とばり》を張りめぐらし、豪奢な調度で飾った、豪勢な大広間に連れて行かれました。けれどもそこにはいったと思うと、帳《とばり》が左右に開いて、そこから、およそ男たちのみはった目の前で、これに匹敵するものはないというような、無類の乙女が現われました。そこで、私の兄エル・アスシャールは、つと立ち上がりました。
するとその乙女は、兄を見ると、目でほほえみかけはじめ、開いたままになっていた戸を、急いでしめに行きました。それから私の兄のほうに近寄り、その手を取り、金のびろうどの長椅子《デイワーン》の上に、兄を引き寄せました。兄は、これに襲いかかって答える前に、まず二言三言言おうとすると、乙女はいそいで兄の口を片手で押えて、ものを言わせず、もう一方の手で誘い、それだけです。そこで快漢は即刻即座に、交合だの、接吻だの、かみ合いだの、陰茎《ゼブ》の突きだの、身をよじったりねじったりだの、あの手、この手の第一、第二、第三、その他につきましての、その場にふさわしきことすべてを、数時間にわたって、その乙女にせずにはおきませんでした。
この嬉戯《たわむれ》がすむと、若い女は改めて立ち上がって、私の兄に言いました、「私の目よ、私がもどって来るまで、ここを動いてはいけませんよ。」それから急いで出て行って、姿を消してしまいました。
すると突然、やにわに扉が開いて、そこに、ものすごい形相の、燃えるような目をした大男の黒人が、手にひと振りの抜身の剣を提げて、現われ出たのでございます。そして胆《きも》をつぶしたエル・アスシャールに向かって、叫びました、「きさまに禍いあれ、悪党め。よくもずうずうしくここにはいりこみやがったな、おお売女《ばいた》の息子、不義の子めが。」この乱暴な言葉をあびせられると、私の兄はなんと返事をしてよいかわからず、舌はしびれ、全身の筋肉はかたくなって、顔色は黄色く、からだはへなへなになってしまいました。すると黒人は兄をつかまえて、これを素裸《すつぱだか》にし、そして刀の峰《みね》で激しく打ちはじめ、こうして八十回以上も打ちのめして、とうとう兄は床に倒れて、黒人は兄が死んでしまったものと思いました。すると黒人は恐ろしい声をあげて人を呼ぶと、すぐに一人の黒人の女が、塩を盛った皿を持って来ました。女はその皿を床《ゆか》に置いてから、その塩を兄の傷口につめこみはじめました。兄は非常な痛みにもかかわらず、とどめをさされるのを恐れて、あえて声を立てませんでした。次にその女は兄をすっかり塩でくるみ終えて、立ち去りました。
すると黒人は、またもさっきの叫びと同じように、すさまじい叫びをあげますと、今度は例の老婆が出て来て、黒人の手を借りながら、兄の両足を持って、部屋部屋をひきずって、中庭の一隅まで運び、そこの穴から、いつも、計を用いてこの家におびき寄せては、その若い女主人の乗り手に役立てる、すべての男たちの死骸を放りこむことにしている、真っ暗な穴倉の奥へ、兄を投げ入れました。
私の兄エル・アスシャールが投げこまれた地下の穴倉は、広々として真っ暗であって、放りこまれた人々の屍体が折り重なって、累々と積まれておりました。そして、兄はその傷と高いところから突き落とされたためとで、まったく身動き一つできずに、その中にまる二日おりました。けれどもアッラーは(称《たた》えられ、讃められてあれ)、兄が死人のからだのあいだから抜け出して、地下の奥のほうから射すかすかな明りを頼りに、地下をはいずって行くことができることを、望みたもうたのでした。兄はその明りのもれてくる天窓までからだを持ち上げて、そこから、穴倉を出て、天日の光の下にもどることができました。
そこで兄は急いで自分の家にたどり着きましたが、そこにちょうど私が来合わせ、私は植物と草木の汁から薬を取り出すことを知っていたので、その薬で手当てをしてやりました。こうしてしばらく立ちますと、兄はすっかりなおりまして、今度は例の老婆やその他のやつばらに、自分の受けた苦しみをあがなわせてやろうと、決心いたしました。そこで老婆を探しはじめて、その足跡をたどり、やつが自分の女主人を満足させては、次になるようになるべき若者たちをおびき寄せるために、毎日出て来る場所を突きとめました。そこである日、兄は異国のペルシア人に身をやつし、ずっしりふくらした帯を腰にめぐらし、長い着物の下に大刀を隠し持ち、そして老婆の来るのを待っておりますと、やがて老婆は姿を現わしました。兄はさっそくこれに近づいて、私どもの言葉のアラビア語を、うまくしゃべれないようなふりをして、ペルシア人のなまりをまねて、老婆に言いました、「よいお婆さんよ、私は異国の者だが、今、国から持って来た商品を売って、金貨九百ディナールを受け取り、ここに帯のあいだに持っているが、この金の目方を計って検査する貨幣秤のあるところは、どこかないでしょうか。」呪われたばばあめは、答えました、「あるともね、それはちょうどいいところです。というのは、幸い私の息子は、やはりあなたのようにりっぱな若い衆ですが、これが両替屋商売ですから、悦んであなたに貨幣秤をお貸しするでしょうよ。さあいらっしゃい、そこにご案内しましょう。」兄は言いました、「では私の前を歩いてください。」そこで老婆は兄の前を歩いて、兄はそのあとから行き、例の家に着くまで歩きました。するとこの前と同じ若いギリシアの女奴隷が、にこやかにほほえみながら、門をあけに出て来ますと、老婆はこれに低い声で、ささやきました、「きょうはご主人に、筋肉たくましい、ちょうどころあいの陰茎《ゼブ》を持って来てあげたよ。」
すると若い女奴隷は兄の手をとって、絹を張りめぐらした広間に案内し、しばらく兄といっしょにいてお相手をして、それから女主人に知らせに行くと、女主人は出て来て、兄とこの前したとおりのことをすべてしましたが、それをくり返し申したとてなんの益もございません。それからその女が引っ込むと、突然例のものすごい黒人が、手に抜き身の剣をさげて現われ、兄に立ってついて来いとどなりました。そのとき兄は、黒人のあとから歩きながら、いきなり着物の下から刀を取り出し、ただ一撃のもとに、黒人の首をはねてしまいました。
からだの倒れる音がすると、黒人の女が駆けつけて来ましたが、これまた同じ目に会い、それからギリシアの女奴隷の首も、一刀のもとにすっ飛んでしまいました。次には、獲物に手をつけようと待ちかまえて駆け寄った、老婆の番です。やつは、腕に返り血を浴びて、手に刀をさげている兄の姿を見ると、おったまげて地面にひっくり返ってしまいました。兄はその髪の毛をつかんで、叫びました、「やい、きさまはおれを覚えているか、この売女《ばいた》ばばあ、腐った悪党ばばめ。」すると老婆は答えました、「おおご主人さま、存じあげません。」兄は言いました、「それじゃ聞かせてやる、このやり手ばばめ。おれこそは、きさまが先だって洗浄《みそぎ》をしに来たあの家の男だ、おお年寄り猿の尻《けつ》め。」そしてこう言いながら、兄は一刀のもとに、老婆を二つにちょん切ってしまいました。それから、自分と二度|交合《まじわ》った若い女を、探しはじめました。
まもなく奥まった一室で、その女がおめかしをしながら、からだに香水をつけているのが、見つかりました。この血にまみれた男を見ると、女はおびえた叫び声をあげて、生命《いのち》を助けてくれと頼み入りながら、兄の足もとに走り寄りました。すると兄は、この女と共にした快楽を思い起こし、勘弁して生命を許してやることにして、これに言いました、「だがなんだっておまえは、今おれが手にかけて殺した、あんなものすごい黒人に縛られて、この家の中にいるようになったのだ。」女は答えました、「おおご主人さま、この呪われた家に閉じこめられる前は、私は町のさる金持ちの所有《もの》でございました。そしてあの婆さんは家の知り合いで、よく家に来ては、ことに私を、たいへんかわいがるのでした。ところが日々の中のある日のこと、婆さんは私のところに来て言うのでした、『私はある婚礼に招ばれているが、こんな婚礼はこれまで類がなかったね。だから、いっしょに連れて行ってあげようと思って来ましたよ。』私は答えました、『いかにも、お言葉承わり、仰せに従います。』そこで私は立ち上がって、いちばんきれいな着物をきこみ、百ディナール入りの財布を持って、婆さんといっしょに出かけました。ほどなく私たちがこの家に着きますと、婆さんはここに案内し、こうして、私は計略にかかって、あの黒人の手の中に落ち、もうのがれられなくなってしまいました。黒人は私の処女を奪ってから、無理やりここに私を引き止め、そして、婆さんが連れて来る若者たちの生命を奪う、あの罪深い企てに、私を使うのでございました。こうして三年このかた、私はあの非道な婆さんの手のあいだの、一つの品物にすぎなかったのでございます。」そこで兄は言いました、「まったくおまえは運が悪かったな。ところで尋ねるが、おまえがここに来て以来、ああいう悪党どものためた富が、ずいぶんあるだろうが。」女は答えました、「それはありますとも。とてもたくさんあって、あなたお一人で全部運び出すことなど、おぼつかないくらいです。まあおいでになって、ご自身の目でご覧ください。」
そして女は兄を連れて行って、あらゆる国の貨幣とあらゆる形の財布とがぎっしりつまった、大きな箱をいくつも見せたのでございます。兄はこれを見てすっかり目がくらみ、立ちつくしてしまいました。すると女は言いました、「この黄金《こがね》全部を、外に持ち出すことはとてもできません。やはり人足を大勢呼びにいらしって、その人たちといっしょにもどって来て、この黄金全部を担がせることになさいませ。その間、私が自分で荷作りをしておいてさしあげます。」
そこで兄は急いで人足を探しに駆け出しまして、しばらくしてから、てんでに大きなあき籠を持った人足を十人連れて、もどって来ました。
ところが、その家に着いてみると、大門はすっかりあけ放たれているのでした。そして先ほどの若い女は、全部の大きな箱ともども、姿を消してしまいました。そこで兄は、女にだまされたことがわかりました。けれどもともかくも、まだ家の中に残っていたすべてのりっぱな品々や、箪笥の中にしまってあった金目のものなど、自分の余生を十分豊かなものにするに足るすべての品々を見て、兄は心を慰めたのでありました。そこで、これらすべてをあす運び出そうと思い定めて、へとへとに疲れていたので、そのままこの屋敷にとどまり、豪奢な大きな寝台の上に横になって、寝入ってしまいました。
翌日、ふと目が覚めてみると、自分が二十人ばかりの奉行《ワーリー》の警吏に取り囲まれているのを見たときには、兄はすっかり震え上がってしまいました。彼らは言うのでした、「すぐさま起きて、いっしょに|お奉行《ワーリー》さまのところに来い。お召しだぞ。」そして彼らは兄を引っ立て、それぞれの戸口をしめて封印を施し、兄を奉行《ワーリー》の手に引き渡しますと、奉行《ワーリー》は兄に申しました、「汝の件はすべて、汝の犯した殺人も、汝のなさんとしていた窃盗も、逐一聞き及んだぞ。」そこで兄は叫びました、「おお|お奉行《ワーリー》さま、安泰の証《しるし》をくださいませ、そうすれば真相をお話し申し上げます。」すると奉行《ワーリー》は安泰の証《しるし》として、小さな布切れを兄に与えましたので、兄は一部始終、事の次第をのこらず話しました。しかしそれをくり返し申してもなんのたしにもなりません。それから兄はつけ加えました、「さて今は、おお正しくすぐなる考えに満ちた|お奉行《ワーリー》さま、もしおよろしかったら、私はあの家に残っているもの全部を、あなたさまとやまわけにいたして結構でございます。半分ずつでよろしゅうございます。」けれども奉行《ワーリー》は答えました、「なんだと、よくものめのめと分け前などと申しおるな。いな、アッラーにかけて、汝には一物もやれぬ。余は一物もあまさず、全部を召し上げねばならぬからだ。汝は一命を助かったことを、冥加と心得ねばならぬぞ。かつ汝はこれよりただちにこの町を去り、もはやここに姿を現わしてはならぬ。さもないと、最悪の罰を受けるであろうぞ。」こうしてその奉行《ワーリー》は、万一、金をまき上げてしまった一件が、教王《カリフ》のお耳にはいっては困ると思って、私の兄を追放してしまいました。それで兄は、こうして遠くに逃げ出さざるをえないことになりました。
ところが、天命がことごとく成就せんがために、兄は町の城門を出たと思うと、強盗に襲われ、彼らは兄が黄金も金目の物も持っていないのを見ると、着ている衣類をはいで裸にし、さんざん棒で引っぱたいてがまんしました。そして最後に、ひともうけするつもりだったのに、当てをはずされた腹いせに、彼らは兄の両方の耳を斬り、また鼻も同様に斬り落としてしまいました。
ちょうどそのとき、おお信徒の統主《きみ》よ、私はこの気の毒なエル・アスシャールの災難を、聞き知ったのでございました。そこで私はこの兄を探しはじめて、見つけるまでは安き思いもいたしませんでした。そこで私はこれを自分の家に連れて来て、手当てをして、なおしてやり、余生を終わるまで、飲み食いするものを貢いでやったのでございます。
これぞエル・アスシャールの話でございます。
けれども私の六番目の、最後の兄の話と申しますれば、おお信徒の長《おさ》よ、これは私がひと息入れるお暇をいただくに先立って、お耳に入れるだけのことはあるのでございます。
床屋の第六の兄シャカーリクの物語
その兄はシャカーリク、すなわち「ひびのはいった壺」と呼ばれたのでございます、おお信徒の統主《きみ》よ、そして私の兄たちの中で、唇を斬られ、陰茎《ゼブ》までも斬りとられてしまったのは、この兄でございます。その陰茎《ゼブ》と唇とは、実もって驚くべき事情の結果、斬りとられたのでありました。
この六番目の兄シャカーリクは、われわれ七人兄弟の中で、いちばん貧乏でして、まったくひどい貧乏でございました。例のおやじの遺産、百ドラクムなどは問題になりません。なぜなら、その百ドラクムと申せば、生まれてから、一度にそんな大金を見たことのなかったシャカーリクは、さっそくバグダードの左側界隈の、くだらぬのらくら者たちといっしょに、ひと晩で食いつくしてしまったからでございます。
そこでこの兄は、はかなきこの世のむなしきものは何一つ持たず、彼の駄じゃれと滑稽のために、自分のところに呼んでくれるかたがたの情けにすがって、露命をつないでおりました。
日々の中のある日、シャカーリクは、食物にありつけずへなへなになったからだを支えるために、何か食糧を探しに外に出て、街々を歩いておりますと、数段の踏み段のついた大きな門が通りに開いている、豪壮な家の正面の前に出ました。その踏み段の上と入口には、大勢の従僕や、若い奴隷や召使や門番たちがおりました。そこで私の兄のシャカーリクは、そこに立っている人たちの二、三人に近づいて、このすばらしい建物はどなたのものかと聞いてみました。彼らは答えました、「これは王子さまのお一人のさるおかたの所有《もの》だ。」
それから兄は、踏み段をのぼりきったところにある、大きな腰かけに坐っている門番たちに近づいて、彼らにアッラーのお顔のために施しを乞いました。彼らは答えました、「だがおまえはいったいどこから来たのか、黙ってはいって、ご主人さまの前にまかり出さえすれば、すぐさま、たんまりとちょうだい物ができるということを知らないとは。」そこで兄ははいって、その大門を過ぎ、広い中庭と、このうえなく美しい木々や歌を歌う小鳥の満ちた園とを、横ぎりました。まわり一帯には、白と黒の大理石を敷きつめた廻廊がめぐらされ、いくつもの大きな帳《とばり》が下がっていて、暑い時刻のあいだ、そこに冷気を保つようになっていました。私の兄はなおも歩きつづけて、そこのいちばんの大広間にはいりました。その部屋は一面に、花と唐草模様をからませた、青と緑と金の色のついた焼き物の板瓦でおおわれ、部屋の中央には、雪花石膏《アラバスター》の美しい泉水があって、ひややかな水が、静かな響を立てて流れておりました。色のついたすばらしい一枚の茣蓙《ござ》が、床の小高くなった半分をおおっていまして、その茣蓙の上には、金の刺繍をした絹のクッションにもたれて、長い白ひげをたらし、にこやかな微笑に顔を輝かした、一人の非常にりっぱな老翁《シヤイクー》が、悠然と坐っておりました。そこで私の兄は進み出て、その美しいひげの老人《シヤイクー》に言いました、「平安おんみの上にあれ。」すると老人《シヤイクー》もすぐに立ち上がって、答えました、「して、おまえの上に、アッラーの平安とご慈悲とその祝福あれ。おお、いずこかの者よ、おまえは何を望むのか。」兄は答えました、「おおご主人さま、ただお施しを願いたいばかりでございます。私は食物にありつけず、腹が減ってへなへなでございます。」
この言葉を聞くと、その老人《シヤイクー》は叫びました、「アッラーにかけて、このわしがいる都で、一人の人間が、おまえのようにそんなひもじい思いをしているとは、そもそもありうべきことであろうか。まことにこれは、黙視するにしのびないことじゃ。」そこで兄は両手を天のほうにあげて、叫びました、「アッラーがあなたさまにその祝福を授けたまいますように。あなたさまをお生みになったかたがたは、祝福されてありますように。」老人《シヤイクー》は言いました、「ぜひともここにとどまって、わしの食事を共にし、わしの卓布の塩を味わってもらわなければならぬ。」そこで兄は叫びました、「おおご主人さま、まことにはや、ありがたいことでございます。私はもうこれ以上物を食わずにはいられません。さもないと餓え死にしてしまいます。」すると老人《シヤイクー》は手をたたいて、そして、すぐにまかり出た若い奴隷に言いつけました、「手を洗うから、さっそく、銀の水差しとたらいを、持って来なさい。」そして私の兄シャカーリクに言いました、「おお客人よ、さあこっちに寄って、手をお洗いなされ。」
こう言って、老人《シヤイクー》は立ち上がり、そしてその若い奴隷がそれっきり姿を現わさないにもかかわらず、まず自身が近寄って来て、目に見えない水差しの水を、両手にかける身振りをし、まるでほんとうに水が上から注がれたかのように、両手をすり合わせる仕ぐさをしました。
これを見ると、兄のシャカーリクは、なんと考えてよいものやらわかりませんでしたが、しかし老人《シヤイクー》がしきりに、兄にも近寄るようにとすすめるので、とにかく進み出て、老人《シヤイクー》とまったく同じように、手を洗う身振りをはじめました。すると老人《シヤイクー》は言いました、「おお、おまえたち、急いで卓布を広げて、食べる物を持って来なさい。この気の毒なかたは、腹がへってたまらなくておいでだから。」
するとすぐに、たくさんの召使どもが駆けつけて来て、いかにも卓布を広げ、その上にたくさんの料理と縁《ふち》まで盛り上げた皿を載せているみたいに、行ったり来たりしはじめました。そこでシャカーリクは、ひどくひもじくはあったけれども、貧乏人というものは金持ちの気紛れをがまんしなければならんと思って、気をつけて、少しでもじれているような気色を見せないようにしました。すると老人《シヤイクー》は兄に言いました、「おお客人よ、さあここに、わしのかたわらに坐って、急いで召し上がってくだされ。」そこで私の兄は、彼のかたわらの、そのからっぽの卓布のそばに坐りに行きました。すると老人《シヤイクー》はすぐに、いろいろの皿に手をつけ、口に入れるふりをし、ほんとうにかんでいるとそっくりに、顎と唇を動かすまねをはじめました。そして私の兄に言うのでした、「おお客人よ、この家はご自分の家で、この卓布はご自分の卓布じゃ。さあどうぞ遠慮なく、どしどし腹いっぱい食べなされ。どうです、このパンをご覧なさい。なんて真っ白で、ほどよいかげんでしょう。いかがですかな、このパンは。」シャカーリクは言いました、「まったくこのパンは、実に白くておいしい。私はこんなおいしいのは、生まれてから食べたことがないほどでございます。」老人《シヤイクー》は言いました、「それはそのはず、これを捏ねた黒人の女はたいしたもので、わしはその女を、金貨五百ディナール出して買ったものじゃ。だが、おお客人よ、まあこの皿から取って食べてくだされ。ほらそこに、かまどで焼いた、バタ入りケベバ(13)のみごとな菱形の麦粉料理が、金色に見えるでしょう。こいつは料理女が、十分たたいた真っ赤な肉も、精白して挽き割った麦も、|小豆蒄《しようずく》も、胡椒も、ふんだんに使ったものですよ。さあさ、召し上がれ、お気の毒に、ひもじくておいでじゃろう。どうじゃね、この味や匂いや香りをどうお思いかな。」私の兄は答えました、「このケベバは私の口にたいそうおいしく、この匂いは私の胸を広げます。この出来ばえにつきましては、王さまがたの御殿でだって、このようなものはちょうだいできないと、申し上げなければなりませんな。」そしてこの言葉を言いながら、シャカーリクは、顎を動かし、かみ、頬を動かし、のみこみ、すべて実際にしているのとそっくりに、やりはじめました。老人《シヤイクー》は言いました、「まことに嬉しいお言葉じゃ、おお客人よ。だがわしはまだその讃辞に値しないと思いますぞ。というのは、では、そこのあんたの左手にある料理については、なんとおっしゃるかな。ほら、その南京豆と巴旦杏と米と乾しぶどうと胡椒と肉桂と羊の刻み肉とをつめこんだ、すばらしい雛鳥の丸焼きだが。またその香りはいかがなものかな。」私の兄は叫びました、「アッラー、アッラー、なんとまあよい香りでしょう、なんと結構な味で、なんとりっぱな姿でしょう。」老人《シヤイクー》は言いました、「まことに、あんたはなんと礼儀にあつく、わしの料理を文句なくほめてくれるご仁だろう。ではひとつわしの手ずから、この類のない皿を味わってもらいたいものだ。」そして老人《シヤイクー》は、卓布の上の皿から、ひと口分取ってまとめるような手つきをして、それから、それを私の兄の口もとに近づけながら、兄に言いました、「これをひと口やってみてくだされ、おお客人よ、そして肉類をつめたなすを、うまそうな汁《つゆ》の中に浮かせたこの料理について、ご高見を伺いたい。」すると私の兄は首をのばし、口をあけ、そのひと口を呑みおろす動作をしまして、次にさもうまそうに目を閉じて、言いました、「やあ、アッラー、これはまたなんと風味よろしく、消化《こなれ》がよろしいものでござりましょう。確かに、私はお宅以外の場所では、かつてこれほど結構な、肉類をつめたなすをいただいたことはなく、まことに欣快に耐えません。これは万事、老練な指の秘術をつくして、あんばいされております。羊の刻み肉にせよ、エジプト豆にせよ、松の実にせよ、|小豆蒄《しようずく》の粒にせよ、|肉豆蒄《にくずく》の実にせよ、丁子《ちようじ》にしろ、しょうがにしろ、胡椒にしろ、香草にしろ、まったくひとつひとつの香料が味わいわけられるほど、よくできていますね。」老人《シヤイクー》は言いました、「おお客人よ、あんたの空腹と礼儀とをもってすれば、この皿にある四十三の肉類をつめたなすをば、皆召し上がっていただけるでしょうな。」私の兄は言いました、「これを皆いただくことなぞ造作もないことです。何しろ、これは乳母の乳よりもおいしく、若い乙女たちの指よりも、私の口を快くなでてくれますからね。」そして私の兄は、なすをひとつひとつ次々に取り上げて、呑みこむかっこうをして、そのつどさもうまそうにうなずいては、舌つづみを打つのでした。そして兄は心の中でこういう料理全部のことを考えると、空腹はいよいよつのって来て、この空腹を満たすためなら、ただのそらまめ粉か、とうもろこしのパンだけでも、大悦びだがと思いました。けれども、自分の気持を外にもらさないように、十分用心しました。
すると老人《シヤイクー》は言いました、「おお客人よ、まことにあんたのお言葉は、王侯貴顕と共に食事をすることに慣れた、育ちのよい人の言じゃ。友よ、大いに食べてくだされ、これが何とぞあんたのからだによろしく、おいしく消化《こなれ》ますように。」そこで兄は言いました、「まったくのところ、お料理のほうは、もう十分ちょうだいいたしました。」
すると老人《シヤイクー》は手を打って叫びました、「これこれ、おまえたち、この卓布を片づけて、食後の卓布を広げなさい。そして、えりぬきの菓子、砂糖煮、果物の類を、ここに持って来なさい。」するとすぐに若い奴隷たちが駆けつけて来て、行ったり来たり、手を動かしたり、肥った両腕を頭の上に捧げたり、卓布を取り代えて別の卓布にしたりしはじめました。それから、老人《シヤイクー》の手ぶりで、一同引き下がりました。すると老人《シヤイクー》は、私の兄シャカーリクに言いました、「さあ今度は、おお客人よ、甘い物をとるといたしましょう。まず捏粉菓子からやりましょう。この皿にある、巴旦杏と砂糖とざくろを詰めた、この上等な、軽い、金色の、円いカタイエフ(14)、この極上の乱れ髪菓子は、なんともいえずうまそうじゃありませんか。わが生命《いのち》にかけて、まあためしに、ひとつふたつやってみてくだされ。どうです、シロップも十分濃く、ちょうどよいかげんだし、肉桂の粉も、上にふんわりと振りかけられている。こいつなら五十ぐらい食っても、飽きはすまい。だが、この彫りを入れた銅の皿の、上等な糸素麺《クナフア》のためにも、余地は残しておいてもらわなければならん。家《うち》の菓子作り女がどんなにじょうずで、素麺の糸をどんなに手ぎわよく捌《さば》くことができたか、見てやってくだされ。さあ、お願いじゃ、どうぞその汁が流れ出して素麺がきれぎれにならないうちに、早くお口を悦ばせてくだされ、実にうまいですからな。さあさ、ご覧なさい、このらっかせいの粉をふりかけ、ばら水をかけたマハラビーを。それから、香料とオレンジの花の水で風味をそえた、泡立てたクリームを満たしたこれらの鉢も。さあ召し上がってくだされ、客人よ、ご遠慮なく、どしどしお手を入れなされ。」そう言って、老人《シヤイクー》はみずから私の兄に手本を示し、実際の場合とそっくりに、がつがつと手を口に運び、のみくだすのでした。そして私の兄は、食いたくてたまらないのとひもじさから、しきりに喉がひっつるのを感じながらも、そっくりそのまま老人《シヤイクー》のまねをしていました。
老人《シヤイクー》はさらにつづけました、「さあ、今度は果物の砂糖煮と果物にしよう。砂糖煮ときては、おお客人よ、ご覧のとおり、ただもう選択に苦しまれるのみじゃ。そこの、あんたの前には、乾した砂糖煮類と、汁のある砂糖煮類がある。わしは自分が好きなもので、その乾したのをぜひおすすめするが、といってやはり他のも捨てがたい。まあこの薄い、とろけるような、うまそうな刺身形に並べた、すき透って赤く光る、乾したあんずの砂糖煮を見てくだされ。またこの竜涎香の香をつけ、ざらめ砂糖をつけた仏手柑の乾した砂糖煮を、また、ばら色の玉に丸めた、ばらの花弁とオレンジの花の花弁も。そうそう、とりわけこいつときちゃ、わしはそのうちこいつを食べすぎて死ぬじゃろうよ。まあ待ちなされ、待ちなされ。そればかりやらないで、巴旦杏と丁子をつめたなつめやしの、水気のある砂糖煮のほうにも、手をつけなすってはどうか。これはカイロから取り寄せたもの、バグダードじゃこんなにうまく作れませんからな。そこでわしはエジプトの友人の一人に頼んで、このおいしいやつをつめた壺を、百ばかり送ってもらったのじゃ。だが、そう急ぎなさるな、急いで盛んに食べてくださるのは、はなはだありがたいが。わしはこの麝香の香をつけ、砂糖とくるみを入れた人参の乾した砂糖煮について、特にご意見を承わりたいと思うのじゃ。」私の兄シャカーリクは言いました、「いや、これは夢にも見たことのないようなもので、私の口はこのおいしさにぼっとしています。だが私の好みから申しますと、この麝香はいささか強すぎるように存じますが。」老人《シヤイクー》は答えました、「いや、いや、そんなことはない。もっと強くてもいいくらいじゃ。というのは、わしは平生この香りと竜涎香には慣れておって、家の料理女と菓子作りの女は、わしの食べる捏粉菓子や砂糖煮やお菓子類には全部、この二つをたっぷり入れるのです。麝香と竜涎香はわしの魂の二本柱じゃ。」
老人《シヤイクー》はさらにつづけました、「だがこの果物類もお忘れあるな。まだ余地はおありじゃろう。さあ、レモンだの、バナナだの、いちじくだの、取り立てのなつめやしだの、りんごだの、まるめろだの、ぶどうだの、他にもいくらでもありますぞ。それから、ここには取り立ての巴旦杏、はしばみ、取り立てのくるみなんかもある。さあさ、客人よ、召し上がれ、アッラーは限りなく慈悲深くあらせられる。」
しかし私の兄は、からっぽをかんでいるうちに、もう顎が動かなくなり、こんなうまそうな物すべてを、ひっきりなしに思い出させられて、もう胃袋はこれまでになく刺激されて、言いました、「おお殿よ、申し上げなければなりませんが、もう腹いっぱいになり、このうえはひと口も喉を通りません。」老人《シヤイクー》は答えました、「そんなに早く満腹なさるとは、これは意外じゃ。では酒を飲むことにしよう。まだ飲まなかったから。」
そこで老人《シヤイクー》は手をたたくと、若い給仕人たちが、袖と裾をからげて駆けつけ、全部を取り片づけて、それから卓布の上に、二つの杯とびんや冷やし器や重い高価な壺の類を、置く仕ぐさをしました。そして老人《シヤイクー》はその杯に酒を注ぐまねをして、からの杯を取り上げ、それを私の兄にさし出しますと、兄は感謝してそれを受け、口もとに運んで、飲み干して、言いました、「アッラー、やあ、アッラー、なんと上等なご酒《しゆ》でしょう。」そしておいしさに自分の胸をさする仕ぐさをしました。すると老人《シヤイクー》は大きな古酒の壺を取り上げ、それをそっと杯の中に注ぎ入れるまねをしまして、兄は改めてそれも飲みました。そして二人はこんなふうにつづけて、ついには、私の兄はこうした飲み物すべての酒気のために、まいってきたようなまねをしまして、頭を振ったり、少しぞんざいな言葉を使ったりしはじめました。そして、ひとり心の中で考えました、「今こそこの老人《シヤイクー》に、散々おれを苦しめやがった罰《ばち》をあててやるときだぞ。」
そこで私の兄は、さもすっかり酔っぱらったみたいに、いきなり立ち上がり、腋の下が見えるほど高く腕を振り上げ、やにわに腕をおろして、老人《シヤイクー》の首筋めがけて、部屋じゅうに鳴り渡るほど激しく、平手打ちをくらわせました。そしてもう一度腕を振り上げて、前よりかもっと激しく、ふたたびなぐりつけました。すると老人《シヤイクー》はたいそう腹を立てて、叫びました、「何をするのか、このくだらぬ人間の中でも、いちばん卑しい下郎めが。」私の兄シャカーリクは答えました、「おおわがご主人、わが頭上の冠よ、私はあなたさまのおとなしい奴隷でございます。あなたさまが、ただ今数々の賜り物をくだされ、お屋敷のなかに呼び入れ、召し上り物を食べさせて、このうえなく結構なご馳走を、王さまがたさえも味わったことのないようなご馳走をふるまい、このうえなくおいしい砂糖煮や、果物や、捏粉菓子でもって口を和《やわ》らげてくだされ、最後に、このうえなく古く、このうえなく高価な酒を飲ませて、激しい渇きをすっかりしずめてくださった、その当人でございます。だが、なんとしたらよいでしょうか、やつはその酒を飲みくらってからに、すっかり酔っ払ってしまい、あらゆるつつしみをなくして、自分の恩人に手をあげてしまいました。だが、どうかお願いです、やつを、この奴隷を、ご勘弁ください。あなたさまは、やつなどよりもはるかに高いお心を持っておいでなのですから。どうかやつの狂気のさたをお許しくださいませ。」
この私の兄の言葉を聞くと、老人《シヤイクー》は怒った様子を見せるどころか、声高く長いこと笑い出して、そのあげく、シャカーリクに言いました、「わしはこれまですでにずいぶん長いあいだ、世界じゅうに、もっとも剽軽《ひようきん》でおもしろいという評判の人々のあいだに、おまえのような才気、おまえのような気象、おまえのようなしんぼう強い男を探して来たものだ。だが一人として、わしの戯談《じようだん》、悪戯《いたずら》を、おまえほどじょうずに、かっこうをつけることのできたやつはいなかった。おまえこそはこれまで、わしの酔狂と趣向にばつを合わせることができ、最後までわしの戯談を受けこたえ、気をきかしてわしの戯れに相づちを打った、ただ一人の男だ。だからこの結びの一件を許してやるばかりでなく、今度はほんとうに、これからすぐ、今言った料理や菓子や果物全部をば、ほんとうに載せた卓布の前で、わしの相手をしてもらいたい。そして今後わしはけっしておまえと離れまい。」
そしてこう言いながら、老人《シヤイクー》はほんとうにその若い奴隷たちに、すぐさまそれらの物をもれなく、全部出すように言いつけました。それは時を移さず行なわれました。
二人がご馳走を食べ、捏粉菓子や砂糖煮や果物でもって、口を和らげ終わると、老人《シヤイクー》は私の兄に、特に酒宴の間《ま》にあてられた別室に移るように促しました。はいるやいなや、二人は笛太鼓の音と、どれもこれも月よりも美しい、白人の女奴隷たちの歌とに迎えられました。それらの若い歌妓《うたいめ》たちは、私の兄と老人《シヤイクー》とが、好い気持で飲んでいるあいだ、あらゆる音調で、巧みな節回しと合いの手と調子でもって、このうえなくみごとな曲を歌うことをやめませんでした。それから、ある女たちは、身も軽く、みずみずしく、鳥のように、舞いました。そしてその日の酒宴は、兄にとって、その日から翌日まで、自分の選んだ乙女たちとの接吻交合をもって、果てました。
そのときから老人《シヤイクー》は、非常に私の兄が好きになり、自分の親友とし、いたく愛して、毎日新しい、そのつどいっそうりっぱな贈物をくれました。そして二人は無上の楽しみのうちに、食い飲み暮らしつづけて、それは実に二十年に及びました。
けれども天命は記《しる》されていて、とどまってはいられませんでした。はたして、この二十年が過ぎますると、その老人《シヤイクー》は亡くなりました。するとすぐに、奉行《ワーリー》は老人《シヤイクー》の全財産をさし押え、没収して自分のものにしてしまいました。というのは、だれも相続人がなく、私の兄はその息子ではなかったからです。そこで私の兄は、奉行《ワーリー》の迫害と悪いたくらみを逃がれざるをえず、私どもの都バグダードを立ち退いて、身の救いを求めなければなりませんでした。
そこで私の兄シャカーリクは、バグダードを出て旅をはじめ、そしてメッカに行って得度しようと思って、砂漠を横断する決心をしました。ところが、ある日のこと、兄が加わっていた一団は、遊牧のアラビア人、道を擁して行く手をさえぎる追剥ぎ、われらの預言者――そのうえにアッラーの祝福と平安あれ――の掟を少しも実行しない悪い回教徒どもに、襲われたのでございました。そして一行の人はみな裸にされ、奴隷にされてしまいましたが、私の兄は、このベドウィン人の追剥ぎの中でも、いちばん乱暴なやつの手に落ちました。そしてこのベドウィンの男は、遠方の自分の部族の中に私の兄を連れて行って、兄を自分の奴隷にしました。そして毎日兄をひっぱたいては、あらゆる苦しみを受けさせて、兄に言うのでした、「きさまはきっと国もとでは、大金持ちにちがいない。自分の身を買いもどして、おれに身の代金を払え。さもないと、きさまにこのうえなくひどい拷問を加えて、最後にはおれの手でなぶり殺しにしてしまうぞ。」すると私の兄は嘆いては、涙を流して言うのでした、「私は、アッラーにかけて、なんにも持ってはいません、おお、アラビア人の長老《シヤイクー》よ、そして私は金持ちになる道さえ知らず、まったくの無一物です。今となっては、私はあなたの奴隷で所有物《もちもの》で、そっくりあなたのお手のあいだにあるのですから、どうなりとお好きなようにしてください。」
ところでこのベドウィン人は、その天幕《テント》の下に、黒い眉毛と闇夜の瞼をした、女の中での絶品というような女を、妻として持っていました。この女はたいへんな好き者でございました。そこで亭主のベドウィン人が天幕を遠ざかるごとに、いつも私の兄にいどみかけ、アラビア砂漠の産物たるその全身をさし出して、身を捧げに来ることを欠かしませんでした。ところが、私の兄シャカーリクのほうは、元来私ども兄弟一同とちがって、襲撃にかけては剛の者でなかったので、この燃え立ったベドウィン女は、手くだをもって、腰や乳房や腹を動かして、兄を首尾よくそそり立てはするものの、兄はこの女をすっかり満足させるには至っておりませんでした。そこで、ある日、二人がそういうかっこうをして、互いに接吻し合っている最中、突然亭主のベドウィン人が天幕の中に飛びこんで来て、この光景を自分の目で見たのでした。するとベドウィン人は殺気に満ちて、帯のあいだから幅広の短刀を引き抜きましたが、その短刀ときたら、らくだの首を片方の頸静脈から片方の頸静脈まで、一気に断ち切ってしまえそうなやつでした。そして彼は私の兄を捕えて、まずその両の唇を切って、その唇を兄の口の中に突っこみました。そして叫びました、「おお、この不義の裏切り者め、よくもきさまは、うまうまとおれの女房をたらしこみやがったな。」そしてこう言いながら、ベドウィンの男は、私の兄シャカーリクの陰茎《ゼブ》をつかんで、根元からひと打ちでちょん切り、また両方の卵も斬り落としてしまいました。それからシャカーリクの両足を引っ張って、これをらくだの背中に放り上げ、そしてとある山のてっぺんにひいて行って、兄をそこへ投げ棄て、自分は自分の道のまにまに立ち去ってしまいました。
ちょうどその山は巡礼者の道のほとりにあったので、いくたりかのバグダードからの巡礼者が、通りすがりにこれを見かけ、それがあの滑稽で自分たちを散々笑わせたシャカーリク、「ひびのはいった壺」だということがわかりました。そこで彼らは兄に飲み食いする物を与えてから、急いで私に知らせに来てくれました。
そこで私は、おお信徒の統主《きみ》よ、私は兄を探しに駆けつけ、肩にかついで運んで、バグダードに連れ帰りました。それから兄の傷をなおしてやり、そして一生を終えるまで、十分なだけ貢いでやったのでございます。
さて今や私は、おお信徒の統主《きみ》よ、私は御手のあいだにあって、取りあえず、わずかの言葉のうちに、私の六人の兄の身の上をば、お話し申し上げた次第でございます。これはもっとずっと長々と、お話し申すこともできたのでござりまするが、私はごしんぼうに甘えず、また私が元来どんなにおしゃべりな気質《たち》ではないかをご覧に入れ、かたがた、私は私の兄たちの弟であるばかりでなく、実に一同の父であり、人呼んでエル・サーメトというこの私が控えますれば、兄どもはてんで取りえがなくなってしまうということを、証明してお目にかけまするために、みずから好んで、縷々《るる》申し上げることをば、さしひかえた次第でございました。
――教王《カリフ》モンタセル・ビルラーは、この話をお聞きになると、(と、床屋は招客一同にさらに話しつづけました。)たいそう笑い出されて、それからわしに仰せられました、「まことに、おおサーメトよ、汝は実に口数が少ない。汝は無遠慮だとか、物見高いとか、性質《たち》が悪いとか言って、とがめられることはよもやあるまい。されど、余に思う仔細がある。余は汝が即刻バグダードを離れ、他の地に立ち去ることを欲する。特に急いで行けよ。」そして教王《カリフ》は、不当にも、こんな罰の動機をもおっしゃらずに、こうしてわしをば所払いにしてしまいなされたのです。
そこでわしは、おおご主人さまがたよ、わしは諸方の国々と風土を旅しつづけているうちに、とうとうモンタセル・ビルラーがおかくれになり、後継ぎの教王《カリフ》エル・ムスタアスィムの御代になったと聞きました。そこでわしはバグダードにもどりましたが、もう兄たちは皆死んでおりました。そしてちょうどそのとき、ただいまあのように無礼にもここを出て行ってしまったあの若者が、頭をそってくれとて、わしを自分の家に呼んだのでした。そしてあの仁が言ったこととは裏腹に、わしは断言しまするが、おおご主人さまがたよ、わしはあの仁には、ただ最大の善根を施して進ぜただけで、おそらくは、わしが力を貸してあげなかったことには、あの仁は、その若い女の父親の法官《カーデイ》の命令で、殺されてしまったところでしょう。されば、あの仁がわしについて話したことは、全部中傷というもので、わしについて、やれ物見高いの、無遠慮だの、多弁だの、無作法な性質だの、気が利かないの、やぼだのと称して、あなたがたにお伝えしたことは全部、絶対に正しくなく、嘘っぱちで、根なしごとなのでございます。おお、並みいる皆さまがたよ。
[#この行1字下げ] ――「これが、おお幸多き王さま、」とシャハラザードはつづけた。「シナの仕立屋が王にお話し申し上げた、七つから成る物語でございます。それから、仕立屋は次のようにつけ加えて申しました。」
床屋のエル・サーメトがこの話を終えたとき、私ども全部の招客は、これ以上聞くまでもなく、このあきれた床屋は、実際に、おしゃべりの中でももっとも並みはずれたやつであり、かつて地球の全土に見られた床屋の中で、もっとも無遠慮なやつであるということが、十分納得できました。そして私どもには、今聞いたところよりほかに証拠がなくとも、先刻のバグダードのびっこの若者は、この床屋のがまんならない無遠慮の被害者であったことが、信じられました。
そこで、今の話はすべて私どもを非常に楽しませたにもかかわらず、私どもは、やはりこの床屋に罰を加えてやらなければと思いました。それで、わめき叫ぶのもかまわずに、皆で彼をつかまえ、鼠の巣くっている暗い一室に、ただ一人彼を押しこめてしまいました。そしてわれわれ招客は宴会をつづけ、日傾時《アスル》の礼拝の時刻まで、食べたり、飲んだりして、歓を尽くしつづけました。ようやくそのころになると、私どもはそれぞれに引き取って、私は家内に食べ物をやろうと思って、自宅に帰りました。ところが、家に着いてみると、家内は私に背中を向けて、ひどくご機嫌が悪いのでございます。そして私に言いました、「こんなふうに私を一日じゅう放っぽり出しておいて、自分はのうのうとおもしろおかしく楽しみながら、私をたった一人、つまらなく情けない思いをさせて、家に残しておいていいものでしょうか。さあ、これからすぐに、私といっしょに外に出て、日が暮れるまで連れて歩いてくれなければ、もう私とあなたのあいだには、法官《カーデイ》しかないことになりますよ。私は、すぐさま法官《カーデイ》に離婚を請求します。」
そこで私は、元来不機嫌とか、家庭争議などを好まないので、穏便にすまそうと、疲れていたにもかかわらず、家内を散歩に連れて出かけました。そして二人で日が落ちるまで、街々や公園を歩き回っていました。
そしてちょうどそのとき、私どもが住居にもどりかけていたときに、たまたまお抱えのせむしの小男に出会ったのでございます、おお力強く寛大な王よ。そしてせむしはもうすっかり酔っ払って浮かれきって、彼を取り巻く人々に向かって、ひどくおもしろいしゃれを飛ばしている最中で、次の二節を誦しておりました。
[#ここから1字下げ]
透明にして色どられたる杯と、芳醇にして真紅なるぶどう酒と、この両者のあいだに、わが選択はためらい、いずれを選ぶべきかを知らず。
なんとなれば、杯は芳醇にして真紅のぶどう酒のごとし。しかして、ぶどう酒はその透明にして色どられたる杯のごとければ。
[#ここで字下げ終わり]
それからせむしの小男は、並みいる人々に何かおもしろい戯談を言い出そうとしたのか、あるいはその小さな太鼓を打ちながら踊ろうとしたのか、ちょっと口をつぐみました。そこで私と家内とは、このせむしはさぞ愉快な食事相手になるだろうと思って、いっしょに食事をしに来ないかと誘いました。そして私どもは皆で、いっしょに食べておりました。そこには私の家内もいっしょにおりました。というのは、家内は、せむしがいることは、普通の満足な男がいるのとは、わけがちがうと考えました次第で、さもなければ、よその男がいる前で、いっしょに食べることなぞいたさなかったでございましょう。
そして、このとき、家内はふざけるつもりで、せむしの口の中に大きな魚のきれを突っこむ気になったところが、それがせむしを窒息させてしまったのでございます。
そしてこのとき、おお力強い王よ、私どもはその死んだせむしを運び出して、ここにいっしょにおられるユダヤ人のお医者のお宅に、首尾よく始末してしまったのでございます。そしてユダヤ人のお医者はお医者で、またこれを御用係のお宅に放りこみ、御用係は御用係で、これをコプト人の仲買人のせいにしてしまわれたのでございました。
おお寛大な王よ、きょう御前で語られた話の中で、もっとも世にもまれなる話と申すのは、かような話でございます。この床屋とその兄たちの話こそは確かに、せむし男の話よりもはるかに、驚き入ったるものでござりましょう。
――仕立屋が語り終えると、シナの王さまはおっしゃいました、「まことに、おお仕立屋よ、汝の物語ははなはだおもしろく、これはおそらくわが不憫なせむし男の事件よりも、味わいに富むものがあるということは、余も認めなければならぬ。されど、その驚くべき床屋は、今いずこにおるか。余は汝ら四名の者に対して、最後の断をくだす前に、まずその床屋に会って、その言葉を聞きたく思う。しかるのちに、わがせむし男を葬ってつかわすことを考えよう、すでにきのうより息絶えておるのじゃから。彼は生前かくばかり余を楽しましめ、あまつさえ、その死後すらもなお、余に、このびっこの若者と床屋、床屋の六人の兄、その他三つの物語を聞く機会を得させて、余の欣びの種となったのであるからして、われらはこれにりっぱな墓を建ててとらすことといたそう。」
こう仰せられて、王はその侍従の者どもに、仕立屋を連れて床屋を探しに行くように、お命じになりました。そしてひととき後には、床屋を暗い部屋から引き出しに行った仕立屋と侍従たちは、彼を御殿に連れて来て、王の御手のあいだに立たせたのでございました。
そこで王はつくづくその床屋をご覧になりますと、それは少なくとも九十歳にはなった高齢の老人《シヤイクー》で、黒い顔をし、白いひげと白い眉毛を持ち、耳はたれ下がって大きく開き、鼻は途方もなく長く、いかにも横柄な高慢げな様子をしておりました。これをご覧になって、シナの王さまはけたたましく笑い出して、彼に申されました、「おお沈黙家《だまりや》よ、聞くところによれば、汝は感嘆に値する物語を、いろいろと聞かせることができるよしだ。されば、汝がそのようによく知っておるその物語をば、一つ、二つ、三つばかり、余に聞かせてほしいと思う。」床屋は答えました、「おお当代の王よ、私の長所をばいろいろとお耳に入れたよし、それは偽りではござりませぬ。さりながら、何よりもまず私は、ここにこうしてこのナザレト人の仲買人、このユダヤ人、この回教徒、さては、この死んで地上に横たわっておるせむし男などが、皆一時に集まってからに、そもそも何をいたしているのか、私自身まずそれを承わりとう存じます。なんとして、このように奇妙な取り合わせで寄り合っているのでござりますか。」するとシナの王さまはたいそう笑って、仰せられました、「だが何ゆえに、汝にとっては見知らぬ者であるこの者たちのことなぞ、尋ねるのか。」床屋は申しました、「私は、ただわが君に、私が無遠慮なおべんちゃらとは縁が遠く、自分にかかわりのないことにはけっして口を出さず、私について伝えられているさまざまな中傷、すなわち、私がとんでもないおしゃべりであるのなんのということは、まったくの濡衣《ぬれぎぬ》であるということを、わが君に証明してお目にかけたいと存じまして、お尋ねする次第でございます。また、私は沈黙家《だまりや》というあだ名を持っておりまするが、まことにこのあだ名を持つにふさわしい者であるということも、ご承知くださりませ。なんとなれば、詩人は申しました、
[#この行2字下げ] 汝《な》が眼《まなこ》異名を持てる者を見るとき、もし心して探らば、つねにその異名の意義は、汝が前に浮かび出ずるものとぞ知れ。」
すると王は仰せられました、「この床屋こそは、かぎりなくわが意にかなうものである。されば余はこれに、せむし男の話を、次にはナザレト人の語りし話、ユダヤ人の話、御用係の話、及び仕立屋の話をば、聞かせてやることにいたそう。」そして王はこれらの話全部をば、細大もらさず、床屋に話しておやりになりました。けれども、ここにくり返し申し上げることは、何の益もございません。
床屋がこれらの話とせむし男の死んだ原因とを聞きましたとき、彼は仔細らしく頭を振りはじめて、申しました、「アッラーにかけて、これはいかにも驚くべき事柄で、私も驚きに耐えませぬ。皆さまがたよ、この死んだせむしのからだをおおっている布切れを取って、ちょっと私に見せてくだされ。」
そしてせむしのからだのおおいが取りのけられると、床屋は近づいて、床《ゆか》に坐り、そしてせむしの頭を自分の膝の上に載せて、その顔をつくづく眺めました。そして突然、ぷっと噴き出して、あまり勢いよく笑ったので、うしろに尻餅をついて引っくりかえったほどでした。それから言いました、「まことに、およそ死ぬにはそれぞれ、原因の中のある原因があるものですわい。ところで、このせむし男の死の原因たるや、驚くべきことどもの中でも、もっとも驚くべき事柄じゃ。後世の人々の参考のために、これは御代の記録の上に、みごとな黄金の文字をもって、記《しる》しておかれるだけの値打がござりまする。」
そこで王はこの床屋の言葉を聞いて、いたくお驚きになって、仰せられました、「おお床屋よ、沈黙家《だまりや》よ、汝の言葉の意味を説き聞かせよ。」床屋はお答えしました、「おお王よ、私はわが君の恩寵とお恵みにかけて誓いまする、わが君のせむし男は、まだおのれのうちに魂を持っているのでございます。」そしてすぐに床屋は帯のあいだから、膏薬のはいっている薬瓶を取り出して、それをせむしの首にぬり、そして首を毛布で包んでおいて、しばらく待ちました。それから、ふたたび帯のあいだから長い鉄のやっとこを取り出して、それをせむしの喉の中に差しこみ、じょうずにあやつって、やがて、せむしの窒息の原因《もと》になった大きな魚のひと切れ全部と骨とを、その先にはさんで引き出しました。すると即座に、せむし男は激しくくしゃみをひとつして、両の目を開き、両手でもって顔をなで、むっくりと跳び起きて、叫びました、「ラー、イラーハ、イッラーラーフ(15)、ムハンマドはアッラーの使徒なり。その上にアッラーの祈りと救いあれ。」
これを見て、並みいる人々すべては仰天して、床屋の腕前にすっかり感嘆いたしました。それから、この最初の気持から少しく立ち直ると、王をはじめ並みいる人々全部は、せむし男の顔つきを見て、声をあげて笑い出さずにいられませんでした。そして王は仰せられました、「アッラーにかけて、この事件はなんと不思議な事件であろう。余は生まれてより、これ以上奇妙な、並みはずれたことは見たことがないぞよ。」それからつけ加えられました、「おお汝ら一同、ここにある回教徒らよ、汝らの中でだれぞ、かように人間がいったん死んでのち、ふたたびよみがえったのを見たことのある者はおるか。ところで、もしもアッラーの御恵みによって、われらにこの床屋、エル・サーメト老なかりせば、きょうはせむし男の最後の日となったであろう。わがせむし男の一命のまったかりしは、ひとえに、この感嘆すべき床屋の学識と功績にまつものであるぞ。」すると並みいる一同はお答え申しました、「いかにもさようでござります、おお王よ、そしてこの事件は不思議の中の不思議、奇蹟の中の奇蹟でござりまする。」
するとシナの王さまは、御感ななめならず、ただちにこのせむし男の物語と床屋の物語をば、黄金の文字をもって書きとどめ、それを王室の文庫の中に保存するように、お命じになりました。そしてそれは即刻実行されました。それから王は、被告のめいめいに、ユダヤ人の医者と、ナザレト人の仲買人と、御用係と、仕立屋とに、りっぱな誉れの衣をお贈りになって、そして四人とも全部をお召し抱えになり、帝室のご用を申しつけられ、一同をせむし男と仲直りさせなさいました。そしてせむし男には、すばらしい賜り物をくだしおかれ、たくさんの富を賜わって高い職におつかせになり、食卓と酒宴のお相手を仰せつけられました。
また床屋には、ごく特別の敬意を表され、これに豪奢な誉れの衣をお着せになり、彼のために黄金の天体観測儀と、黄金の道具や、真珠と宝石をちりばめたはさみやかみそりを、お作らせになり、そしてこれをご自身と王室の床屋並びに理髪師にご任命になって、やはり親しいお相手となされました。
こうして彼ら一同は、いっさいの歓楽を奪い去る者、あらゆる親交を引き離す者、友だちを相隔つる者、墓穴を掘る者、打ち勝ちえざる者、避けえざる者が、彼らの幸福に終わりをつげに来るまで、このうえなく栄え、このうえなく楽しい生活を営むことを、やめなかったのでございました。
[#この行1字下げ] ――「けれども、」とシャハラザードはインドとシナの島々の帝王《スルターン》、シャハリヤール王に言った、「この物語が美しいアニス・アル・ジャリスの物語[#「美しいアニス・アル・ジャリスの物語」はゴシック体]よりも感嘆すべきものとは、けっしてお思いあそばすな。」すると帝王《スルターン》シャハリヤールは叫んだ、「アニス・アル・ジャリスとはどういう女か。」そこでシャハラザードは言った。
[#改ページ]
アニス・アル・ジャリスの物語
おお幸多き王さま、わたしの聞き及びましたところでは、昔バスラの王座に、大君《おおぎみ》教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードに貢ぎ物を奉る、一人の帝王《スルターン》がおられました。お名前はムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニ王と申されました。王は貧しき者や乞食たちをいつくしみ、不幸な臣下を憐れみ、こういう人たちの中で、われらの預言者ムハンマド――その上にアッラーの祈りと平安あれかし――を信ずる人たちのためには、ご私財を分け与えたもうたのでありました。この王こそは、すべての点で、詩人の讃辞にふさわしいおかたでございました。
[#この行2字下げ] 槍の穂先はその筆となり、敵の心臓はその料紙、敵の血潮はその常用の墨なりき。
さてこの王には二人の大臣《ワジール》がありました。一人はエル・モヒン・ベン・サーウイと申し、一人はエル・ファドル・ベン・カーカーンと申しました。ところで申し添えておかなければなりませんが、このエル・ファドルというかたは、当代随一の高潔な人物で、まことに好ましい品性を備え、素行も実にりっぱで、多くの美質を持っていたので、すべての人々から愛せられ、聡明博識の人々からも敬われておりました。ところが二番目の大臣《ワジール》、ベン・サーウイという人は、これとはまったく事変わりまして、善をにくみ、悪を育てて、それは、ある詩人がわたくしどもにこう伝えているほどでございました。
[#この行2字下げ] われはこの男を見かけたり、近づくやわれはただちにその汚穢を逃がれて、身を縮め、その汚辱の触るるを避けて、衣の垂れを掲げたり。しかしてわれはわが駿馬に救いを求め、この汚れし悪気をば遠く離《さか》りし次第なりき。
ですから、こんなにもちがったこの二人の大臣《ワジール》それぞれには、ちょうどある別の詩人のちがった詩句が、あてはまるわけでございます。
[#ここから2字下げ]
高貴なる人物、貴人の子、高貴なる魂の人との交わりは、欣然としてこれを賞味せよ。なんとなれば、汝はつねに知らん、高貴なる人物は高貴に生まれ、高貴なる父より生まれしを。
されど、卑しき人物、卑しき素姓、卑しき魂の人との接触は、遠くこれを避くべし。なんとなれば、汝は知らん、卑しき人物は卑しき父より生まれしを。
[#ここで字下げ終わり]
それで、人々は大臣《ワジール》エル・ファドルを愛し慕っていたと同じだけに、大臣《ワジール》エル・モヒンをば憎みきらっておりました。ですから、大臣《ワジール》エル・モヒンはその同僚に対して非常な敵意を含み、何かにつけて、王さまの覚えめでたからぬようにしむけずにいませんでした。
さて、日々の中のある日のこと、バスラの王ムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニは、そのお裁きの間《ま》で、王国の王座の上にお坐りになって、全部の貴族《アミール》と、宮廷の重臣大官たちに、取り囲まれておいでになりました。ちょうどその日は、バスラの奴隷|市場《スーク》に、新たにあらゆる国々の若い奴隷が、大勢着いたという日でございました。そこで王は、大臣《ワジール》エル・ファドルのほうをお向きになって、仰せられました、「余はそちに、美しさに欠くるところなく、同時に、優れたる美質を備え、性質あくまで温和にして、世界にまたとないような年若い女奴隷を一人、探して来てもらいたいと思う。」
王さまが大臣《ワジール》エル・ファドルに向かって、こう仰せられるのを聞くと、大臣《ワジール》サーウイは、王が自分をさしおいて、自分の競争相手のほうをご信任あそばされるのを見て、ねたましさやるかたなく、王をいやがらせようと思って、叫び出しました、「しかしながら、たとえそのような女が見つかるといたしましても、それには代金として、少なくとも、金貨一万ディナールを出さなければならぬことでございましょう。」すると王は、かえってこの難題にいこじになられて、即座に財務官を召し出して仰せつけられました、「ただちに金貨一万ディナールを持って、わが大臣《ワジール》エル・ファドルのもとに届けよ。」そこで財務官は急いでご命令を実行いたしました。
そこでエル・ファドルは、とりあえず奴隷の市場《スーク》にまいりましたが、買いとるだけの条件に、遠くも近くも、ともかくもいくぶんかなうというような代物は、全然見当たりませんでした。そこで大臣《ワジール》は、市場《スーク》で白人黒人の女奴隷の売買を事としている仲買人を、全部呼び寄せて、あらゆる手だてを尽くして、王のお望みのような、若い女奴隷を一人見つけてくれるように頼み、そして彼らに言いました、「市場《スーク》にて、女奴隷で少なくとも金貨千ディナールの価格に達するものがあったら、そのつど、おまえたちはかならず、余にただちに知らせてくれなければならぬ。さすれば余がその適不適を見るといたす。」
そして実際、そのときからというものは、日に二人か三人の仲買人が、大臣《ワジール》に美しい女奴隷を持ちこんで来ない日とては、一日もありませんでしたが、そのつど大臣《ワジール》は、一人も買おうとはせず、仲買人をも女奴隷をも引き取らせてしまうのでした。こうして大臣《ワジール》は一カ月のあいだに、千人以上の、いずれ劣らず美しく、千人の腎虚の老人に生命《いのち》を注ぎこんでやることのできるような、若い娘たちを見ました。それなのに、そのなかのどれをも選ぶ気にはなれませんでした。
ところが、日々の中のある日のこと、ちょうど大臣《ワジール》が、これから馬に乗って登城し、王のおそばにまいって、今しばらくご猶予くださるよう、お願いしようとしていたおりに、一人の知り合いの仲買人が、急ぎ足で近寄って来て、その鐙《あぶみ》を捉え、うやうやしく挨拶して、大臣《ワジール》を称《たた》えて次の二節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお君よ。御代の誉れを高からしめ、父祖の旧《ふる》き館《やかた》を再興せしむる君よ。おお、つねに勝利輝く大宰相よ。
君が寛仁と恩恵《めぐみ》とにより、君は貧しき人々と瀕死の人々とにふたたび生気を与えたもう。君の行なうところすべては、つねに「報酬者」の嘉《よ》みしたもうところにして、われらの額に押しいただくところなり。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦してから、その仲買人は大臣《ワジール》に言いました、「おお高貴なるイブン・カーカーンさま、お知らせ申し上げます。かねてかたじけなくもご内意を承わっておりましたような女奴隷が、いよいよまかり出まして、今ならば御意のままになりまする。」そこで大臣《ワジール》は仲買人に言いました、「さっそくわが屋敷に連れて来て、見せてもらおう。」そして大臣《ワジール》は自分の御殿に帰って、その女奴隷を待っていますと、いっときたって、その仲買人はくだんの女奴隷の手をひいて、ふたたびやってまいりました。
その女奴隷の容姿につきましては、それは、高く張ったみごとな胸をして、褐色の瞼、夜の目、ふっくらとなめらかな頬、きゃしゃで、にこやかで、かすかにえくぼの影のさした顎を持ち、豊かな頑丈な腰つき、蜜蜂のように細い胴、たっぷりとして至上のお臀《しり》の、すらりとしたたおやかな乙女であった、とただこれだけ申しておきましょう。その乙女は部屋にはいってまいりましたが、身には珍奇な選り抜きの布地をまとっておりました。けれども、おお王さまよ、申し忘れておりましたが、その乙女の口と申せば花、その唾は|ばら水《ジユラーブ》、その唇は|肉豆蒄《にくずく》、そのからだは柳の若枝よりも、やわらかくしなやかでございました。その声はと申すと、それは微風《そよかぜ》の歌、いえ、それよりもここちようございました。この乙女こそは、あらゆる点で、次の詩人の詩句にふさわしいものでした。
[#ここから2字下げ]
この乙女は絹にも似たる柔肌にして、水にも似たる弁舌なり、安らかに清らかの水のごとき、うねりをたたえて。
またその目たるや、アッラー「在《あ》れ」とのたまいて、この目はありしなり。こはまことに神の業《わざ》。その伏せし眼差《まなざし》は、酒と酵母も及ぶまじく、よく人の心をかきみだす。
夜となりてその美を思えば、わが魂は思い乱れ、わが身は燃ゆ。その夜のたてがみと、曙《あけぼの》の額とを思えば、わが命絶えんとす。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの乙女の備える優美と甘美のすべてゆえに、妙齢《としごろ》になるとすぐ、人々はこれを、アニス・アル・ジャリス(1)と、あだ名したのでございました。
ですから、大臣《ワジール》はこの女奴隷を見たときには、すっかり驚き入ってしまって、そして仲買人に尋ねました、「この奴隷の値段は何ほどか。」仲買人は答えました、「この持ち主は、私に一万ディナールくれと申しておりますが、それでも私はその値段で手をうちました。と申すのは、これはいかにも適当な値段と思うのでございます。それに持ち主は、いろいろの事柄を数えあげて、それから見れば、この値段でも、手放すのはまったくのところ損だと申しておりました。それらのことは、ご自身で、その男の口からお聞きくださればと存じます。おお大臣《ワジール》さま。」そこで大臣《ワジール》は言いました、「よろしい、ではその持ち主を、すみやかにここに呼んでまいれ。」
仲買人はすぐさまその持ち主を呼びにとんでゆき、まもなくいっしょに連れてもどって来て、大臣《ワジール》の両手の間にまかり出ました。大臣《ワジール》が見ると、そのうるわしい乙女の持ち主というのは、非常な老齢で、老いのために骨と皮ばかりになった、年寄りのペルシア人でございました。
老人《シヤイクー》が大臣《ワジール》に平安を祈りますと、大臣《ワジール》はこれに申しました、「されば話は定まったのであるが、この奴隷を金貨一万ディナールにて余に売り渡すことを、そのほうは承知するかな。かつ、これは余のためではなく、王さまのご用にあてるものだ。」老人《シヤイクー》は答えました、「王さまのご用とあらば、一文も代金をいただかず、むしろ贈物として献上するほうが望ましゅうございます。さりながら、おお寛仁の大臣《ワジール》さまよ、お尋ねとあらば、お答え申すのが私の務《つと》めでございます。はばかりながら、その金貨一万ディナールと申しても、それは私がこの子に幼少以来食べさせた雛鶏や、いつも着せてやった高価な衣裳や、その教育のために費やした費用などの値段をば、ほとんど償《つぐ》なうに足りないものであると、申し上げましょう。なぜと申すに、私は金銭《かね》に糸目をかけずに、これを大勢の先生につかせました。そしてりっぱな筆蹟や、アラビア語とペルシア語の規則や、文法、措辞法《そじほう》や、聖典の釈義や、神権の掟とそれらの淵源や、法学、倫理、哲学、幾何学、医学、土地測量学などを覚えさせました。しかし特に秀でまするは、作詩の術《わざ》と、きわめて多種多様な楽器の演奏と、歌舞の道でございます。最後に、この子は詩人と歴史家のあらゆる書物を読破いたしました。さりながら、こうしたすべても、この子の品性と気質に、ただ一段と光を添えるにあずかって力あっただけでございます。さればこそ、私はこれをアニス・アル・ジャリスと呼んだのでございました。」大臣《ワジール》は言いました、「いかにも、そのほうの言うところはもっともである。しかし余としては、金貨一万ディナール以上を出すわけにはまいらぬ、さればこれよりただちに、そのほうに代金を秤《はか》って検査してもらおう。」
そして実際に、大臣《ワジール》は、すぐさま、この年とったペルシア人の目の前で、一万ディナールを秤らせまして、老人《シヤイクー》はこれを懐に収めました。けれどもこの年とった奴隷商人は、立ち去る前に、進み出て大臣《ワジール》に申しました、「われらのご主人|大臣《ワジール》さまに、お許しを得て一言申し上げたき儀がござります。」大臣《ワジール》は答えました、「よろしい、言いたいことを申せ。」老人《シヤイクー》は言いました、「われらのご主人|大臣《ワジール》さまにおすすめ申しますが、このアニス・アル・ジャリスをば、ただちにわれらの王の御許《みもと》にお連れ申さぬがよろしかろうと存じます。というのは、この子は旅路からきょう着いたばかりで、気候や水が変わったために、いささか疲れておりまする。されば、あなたさまにとってもこの子にとっても最善のことは、さらに十日のあいだ、あなたさまの御殿にお留め置きくださるにしかず。さすれば十分休息し、美しさもいやまさるでございましょうから、それから浴場《ハンマーム》で風呂をつかい、衣服を着かえたうえで、そのとき初めて、これを帝王《スルターン》の前へお連れなさるがよろしいでござりましょう。そのほうが、わが帝王《スルターン》の御目に、あなたさまの面目と手柄をはるかに引き立てることでござりましょうぞ。」そこで大臣《ワジール》は、この老人《シヤイクー》がよいことを言うと思って、それに従いました。そこでアニス・アル・ジャリスを自分の館《やかた》に連れて行って、そのために特に一室を用意させ、十分休息ができるようにいたしました。
ところが大臣《ワジール》エル・ファドルには、昇りぎわの月のように、まことに美しい一人の息子がございました。その顔は驚くばかり白く、頬はばら色で、片頬の上には、竜涎香のひとしずくのようなほくろがありました。すべての点で、この若者は詩人の言うとおりでございました。
[#ここから2字下げ]
その頬のばらよ、紅きなつめやしとその房よりも甘美なるかな。
その姿はたおやかにしてかくも優しきに、その心は固くしてかくもつれなし。ああ、何ゆえにこの心、いささかなりとその姿の性《さが》を享《う》けざるや。
なんとなれば、そのいとも優しく、たおやかなる姿にして、もしいささかなりとその心に影響《ひびき》あらば、彼はわが恋に、かくもすげなく、かくもつれなくはあらざらんものを。
汝、わが陥りし恋ゆえにわれをとがむる友よ、いささかはわれをばゆるしたまえかし。なんとなれば、われはもはやわが身の主《あるじ》たらずして、わが身とわがことごとくの力とは、若き子鹿の虜《とりこ》なれば。
知りたまえ、ただひとり罪ある者は、わが身ならず、彼ならず、そはわが心なり。さてもわが若き暴君にして、寛《ひろ》き心をさえ持ちたらんには、われはかく思いやつるることなきものを。
[#ここで字下げ終わり]
ところで、この若者はアリ・ヌールという名前でございましたが、彼はまだアニス・アル・ジャリスを買ったことについては、何一つ知りませんでした。それに父の大臣《ワジール》は、何はさておき、まず、アニス・アル・ジャリスに向かって、自分が言い聞かせておくことをば、けっして忘れないようにと、くれぐれも言い含めたのでした。実際、大臣《ワジール》はこう言いきかせたのです、「おお、わが娘よ、よいか、余がそちを買い求めたのは、ただわれらの主君たる王さまのおんためであり、そちを特に王のご寵愛を一身に集むるものたらしめんがためである。されば、そちはよくみずから気をつけて、おのが身を危うくし、また余が身を危うくするおそれのあるあらゆる機会をば、心して避けるようにしなければならぬ。ついては、あらかじめ知らせておかねばならぬが、余にはいささか放埓ではあるが、いたって美貌な息子が一人ある。この界隈の若いおなごで、みずから進んでこれに身を与え、やつにその花を楽しませなかったおなごは、ただの一人もないのだ。されば十分にみずから気をつけて、彼に出会わないようにし、自分の声を聞かせることすら避け、素顔を見せたりなぞしないようにせよ。しからずば、そちの身の、頼むすべなき破滅となるであろうぞ。」するとアニス・アル・ジャリスは大臣《ワジール》に答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」そこで大臣《ワジール》もこの点については安心して、彼女のもとを去り、自分の仕事をしに行ったのでありました。
ところが、書き記《しる》されたアッラーのおぼしめしによって、事は大臣《ワジール》が望んだのとは、まったく別な成り行きとはなったのでございます。はたして、その後二、三日たって、アニス・アル・ジャリスは大臣《ワジール》の邸内にある浴場《ハンマーム》に行きますと、奴隷の少女たちは彼女に、一世一代の沐浴《ゆあみ》をさせようと、あるかぎりの腕をふるいました。まず手足と髪をすっかり洗ってから、奴隷たちはあんまをしました。それから、飴のようにした砂糖を練り合わせた物で毛を取り去り、髪の毛を純粋な麝香でこすり、手指と足指の爪を指甲花《ヘンネ》で染め、瞼墨《コフル》をひいて睫毛《まつげ》と眉毛を長く見せ、足もとで乳香と竜涎香を入れた香炉をくゆらし、こうして膚《はだ》全体にほのかな香りをたきしめました。それから、奴隷たちは、オレンジの花とばらの匂いのする大きなタオルをからだにかけ、熱くした幅広の切れでその髪をゆわえ、そして、浴場《ハンマーム》を出て、彼女の私室に案内いたしました。そこには大臣《ワジール》の妻、美男のアリ・ヌールの母が、慣例《しきたり》の湯上がりの挨拶をするために、待ち受けておりました。
大臣《ワジール》の妻の姿を見かけると、アニス・アル・ジャリスは進みよって、その手に接吻しました。すると大臣《ワジール》の妻はその両頬に接吻して、言いました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、どうかこのお風呂で、安らかさと快さを覚えることができなさるように。おおアニス・アル・ジャリスよ、ほんとうにおまえはなんと美しくおなりでしょう、光り輝くばかりで、よい香りを匂わせて。おまえは私たちの家を明るくしてくれるから、おかげでもう家には灯火《ともしび》がいりませんね。」するとアニス・アル・ジャリスはたいそう心を打たれて、手を胸にやり、それから唇と額のところにやって、そして頭を下げながら、答えました、「まことにお礼の申しようもございません、おおご主人、お母さま。どうかアッラーがあなたさまに、この地上でまたあの楽園で、あらゆる賜物と悦楽をお授けくださいますように。ほんとうにお風呂は結構でございました。残念なことと申せばただひとつ、あなたさまが、ごいっしょにおいであそばさなかったことだけでございます。」そこでアリ・ヌールの母は、アニス・アル・ジャリスのところに、水菓《シヤーベツト》と捏粉菓子を運ばせ、その健康を祈りおいしく食べてくれるようにと祈って、自分もまた浴場《ハンマーム》に行って風呂を使おうと思いました。
けれども、いざ浴場《ハンマーム》に行こうとしたとき、大臣《ワジール》の妻は、用心から、アニス・アル・ジャリスをひとり残しておきたくなく、そこで二人の奴隷の少女を残して、アニス・アル・ジャリスに宛てられた室の戸口を、よく気をつけて番をするように命じて、申しつけました、「どんな理由があろうとも、だれもアニス・アル・ジャリスのところに入れてはなりませぬ。この乙女は丸裸で、風邪をひくといけないからね。」すると二人の奴隷の少女はつつしんで答えました、「わたくしどもはお言葉承わり、仰せに従いまする。」
そこでアリ・ヌールの母は、今一度アニス・アル・ジャリスを抱いて別れを告げ、気持よく風呂を召されますようにとの言葉を受けてから、他の女たちに取り巻かれて、浴場《ハンマーム》に出かけました。
ところが、こうしているうちに、若いアリ・ヌールが家にはいって来て、毎日しているように、母の手に接吻しようとして母を探しましたが、その姿が見当たりません。そこで部屋部屋を通って、ちょうどアニス・アル・ジャリスに宛てられた室の、戸口にさしかかりました。見ると二人の奴隷の少女がその戸口の番をしていて、彼に向かってほほえみかけていました。それほどこの若者は美男で、それほどこの二人の少女たちも、心ひそかに彼をしたっていたのでした。彼はこの戸口がこのように固められているのを見て、不思議に思い、そこで奴隷の少女たちに言いました、「母上はここにおいでかね。」二人はその小さな手で彼を追い退けようとしながら、答えました、「いいえ、いいえ、ご主人さまはここにはいらっしゃいません。ここではございません。浴場《ハンマーム》にいらっしゃいます、おお、ご主人アリ・ヌールさま。」彼は言いました、「じゃ、おまえたちはここで何をしているのだい、仔羊たちよ。そこをどいて入れておくれ、はいってちょっと休みたいから。」二人は答えました、「おはいりになってはいけません、おおアリ・ヌールさま、ここにおはいりになってはいけません。中には、私たちのお若いご主人の、アニス・アル・ジャリスしかいらっしゃいません。」アリ・ヌールは叫びました、「アニス・アル・ジャリスとはいったいだれのことだい。」二人は答えました、「あなたさまのお父上が、帝王《スルターン》のために一万ディナールでお買い求めになった、アニス・アル・ジャリスでございます。ただいま浴場《ハンマーム》からお出になったところで、まだ湯上がりタオルをかけていらっしゃるばかりの、丸裸でおいでです。おはいりになってはいけません、おおアリ・ヌールさま、おはいりになってはいけませんよ。ひょっとお風邪でも召されたら、わたくしどもはご主人さまにぶたれます。おはいりになってはいけません、おおアリ・ヌールさま。」
ところが、こうしているあいだに、アニス・アル・ジャリスは部屋の内から、これらの言葉を聞きつけて、ひそかに考えていたのでした、「やあ、アッラー、お父さまの大臣《ワジール》が散々手柄話を聞かせなすった、その若いアリ・ヌールという人は、いったいどんな人かしら。この界隈一帯に、一人として手のつかない娘、襲われない女がいないというほどの美男とは、どんな人かしら。私の生命《いのち》にかけて、なんとかしてその人を見てみたいものだこと。」そしてもうがまんしきれなくなって、彼女はつと立ち上がって、まだ匂いも高く、肌全体に湯上がりの香を漂わし、すがすがしく、毛孔もいきいきと開いて、彼女は戸口のほうに歩みより、そっと戸をなかばあけて、外を見やりました、そして彼を見ますと、こうしてただひと目見ただけで、アニス・アル・ジャリスはいたく心を動かされ、ぶるっとふるえました。またアリ・ヌールのほうでも、そのひまにすばやく一瞥を投げ、そしてアニス・アル・ジャリスのすべての美しさを、見届けてしまったのでした。
そこでアリ・ヌールは、欲情に駆られて、二人の奴隷の少女を、ひどく大きな声でどなりつけ、手荒く押しのけたので、二人は泣きながら、彼の手のあいだからのがれましたが、ちょうど次の間が開いていたので、そこに足をとどめ、そこから首を延ばして、例の部屋の戸口を見ますと、若いアリ・ヌールは、アニス・アル・ジャリスのところにはいりこんだまま、うしろの戸をしめずに、あけ放しておいたものでございます。それで、中で起こったことは全部二人の奴隷に見えてしまいました。
驚嘆したアリ・ヌールが、アニス・アル・ジャリスのほうに進み寄りますと、彼女はそのいきいきした裸身をさらして、待っておりました。そこでアリ・ヌールは自分の胸に手をやって、アニス・アル・ジャリスの手のあいだに身をかがめて挨拶し、優しく申しました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、父上が黄金一万ディナールで買い求めたというのはあなたですか。いったいあれらの人たちは、あなたの値打を知るために、別の秤にあなたをかけてみたのでしょうか。おおアニス・アル・ジャリスよ、熔かした黄金、牝獅子の奔流のようなたてがみ、あらわな胸、渓流《せせらぎ》の快さよ。」彼女は答えました、「アリ・ヌールさま、わたくしの目には、あなたさまは砂漠の牡獅子よりも怖ろしく見えます。わたくしのからだには、豹よりもたくましく、そして、堅い刃《やいば》よりも生命《いのち》をあやめるもののように。アリ・ヌールさま、わたくしの帝王《スルターン》よ。」
そこでアリ・ヌールは、酔いごこちで、アニス・アル・ジャリスのかたわらに身を投げ出しました。それで、外にいる二人の奴隷の少女は、びっくりしてしまいました。というのは、この二人にとって、これはいかにも見慣れないことで、なんのことやら合点がゆかなかったのです。実際アリ・ヌールは、響き高い接吻をしてから、両足と腿を引き寄せて、慈悲の家のなかに分け入ったのでした。するとアニス・アル・ジャリスは両腕をめぐらし、そしてしばらくのあいだというものは、ただもう接吻と身を動かすこと、言葉のない雄弁だけでございました。
そこで二人の奴隷の少女は、すっかりこわくなってしまいました。それでおじけ立って、叫び声をあげながら、駆け出して、浴場《ハンマーム》のアリ・ヌールの母のところに逃げこみますと、アリ・ヌールの母はちょうどお風呂から出るところでした。まだ汗にびっしょりぬれて、からだから汗がしたたり落ちていました。そこで彼女は奴隷の少女たちに言いました、「そんなに叫び立てたり、泣いたり、駆けたりするとは、いったい何事ですか、子供たちよ。」二人は答えました、「おおご主人さま、おおご主人さま。」彼女は言いました、「なんということ、いったいどうしたというのです。しようのない児だねえ。」二人はいっそう激しく泣きじゃくりながら、答えました、「おおご主人さま、わたくしどもの若さまアリ・ヌールさまが、わたくしどもをぶって、追っ払ってしまったのでございます。それから若さまは、わたくしどものご主人アニス・アル・ジャリスのお部屋におはいりになって、その舌をお吸いになり、アニス・アル・ジャリスもまたそうなさいました。それから若さまがどんなことをあそばしたのか、わたくしどもにはわかりません。というのは、アニス・アル・ジャリスはたいそう溜め息をついていたし、若さまはその上に乗っていらっしゃるのです。わたくしどもはこうしたすべてを見て、すっかり恐ろしくなってしまいました。」
この言葉を聞くと、大臣《ワジール》の妻は、浴場用の高い木履《ぼくり》をはいていたにもかかわらず、また老齢の身もいとわず、侍女の一同を従えて駆け出して、やがてアニス・アル・ジャリスの室に着きましたが、それはちょうどアリ・ヌールが、用をすまし終わって、奴隷の少女の叫び声を聞きつけ、早々に逃げてしまったところでした。
そこで大臣《ワジール》の妻は、心配で顔を黄色くして、アニス・アル・ジャリスのほうに進みより、彼女に申しました、「いったい何事が起こったのですか。」すると彼女は、あらかじめ放埓者のアリ・ヌールが、こう言いなさいと言って教えておいた言葉をくり返して、答えました、「おおご主人さま、わたくしが長椅子《デイワーン》の上に横になって、風呂上がりのからだを休めておりますと、ついぞ見たことのない一人の若者がはいって来たのでございます。その若者はたいそう美しく、そして、おおご主人さま、その目もとと眉毛とは、どうやらあなたさまに似通ってさえいらっしゃいました。そのかたはわたくしにおっしゃいました、『私の父上が、一万ディナールで私に買ってくださったアニス・アル・ジャリスというのは、あなたのことですか。』わたくしはお答えしました、『さようでございます、大臣《ワジール》さまが一万ディナールでお買いになったアニス・アル・ジャリスというのは、わたくしでございます。けれども、わたくしは帝王《スルターン》ムハンマド・ベン・スライマーン・ゼイニにお仕えするはずでございます。』するとそのかたはこうおっしゃって、お笑いになるのでした、『それはちがう、おおアニス・アル・ジャリスよ、父上は以前はそんなおつもりでおられたかもしれないけれど、今ではお考えが変わって、あなたをそっくりこの私にくださることになすったのだ。』そこで、わたくしは、もともと子供のおりから、人の言いなりになる奴隷の身にすぎないものでございますから、そのおかたのお言葉に従いました。それにわたくしはこれを悔いてはおりません。ああ、わたくしは、たとえバグダードで世を治《しろ》しめす教王《カリフ》ご自身の正妻となるよりかも、おおご主人さま、奴隷としてご令息のアリ・ヌールさまのものになるほうが、いっそ嬉しゅうございます。」するとアリ・ヌールの母は言いました、「ああ、娘よ、私たち一同にとって、なんという不幸なことだろうか。私の息子のあのアリ・ヌールは、ほんとうに手のつけられない悪者です。そんなことを言っておまえをだましたのですよ。だが、娘よ、あれはおまえに何をしましたか。」アニス・アル・ジャリスは答えました、「わたくしは何事もあのかたのなさるがままになりました。あのかたはわたくしをご自分のものになさいました。」アリ・ヌールの母は尋ねました、「だが、おまえをすっかり自分のものにしてしまったのかい。」彼女は答えました、「はい、そのとおりでございます。そればかりか、三度もです、おお、お母さま。」この言葉を聞くと、アリ・ヌールの母は叫びました、「ああ、娘よ、ではあの放埓者はおまえをきずものにして、台なしにしてしまったのだね。」そして母親は、われとわが顔を両手で打ちはじめ、他の奴隷たちもみんな、大っぴらに泣きはじめ、「まあ、たいへんだ、たいへんだ」とわめきはじめました。というのは、実は、アリ・ヌールの母とアリ・ヌールの母の侍女たちを恐れさせたのは、アリ・ヌールの父のほうが心配だったからです。
実際、大臣《ワジール》は平生は親切で寛大でしたけれども、このような不行跡は許すはずがございません。これには王さまご自身が、またそれに伴って、大臣《ワジール》の名誉と地位とが関係しているだけに、なおさらのことです。大臣《ワジール》は立腹のあまり、自分の息子アリ・ヌールをば、わが手にかけて殺してしまうことさえしかねないわけで、それで今、この場にいる女たち全部は、この若者がもうすでに自分たちの愛や恋から失われてしまったもののように、彼のために泣き悲しんでいるのでした。
それに、とかくするうちに、ちょうどそこに大臣《ワジール》エル・ファドル・ベン・カーカーンがはいって来て、この女たち全部が泣き悲しんでいるのを見たのでした。そこで大臣《ワジール》は尋ねました、「いったいどうしたのか、わが子らよ。」するとアリ・ヌールの母は目をふき、はなをかんで、申しました、「おおアリ・ヌールのお父さま、まず最初にわれらの預言者の御《おん》生命《いのち》にかけて(その上にアッラーの祈りと平安あれ)、誓ってくださいまし、あなたは何から何まで、いっさいわたくしの申し上げるところに従ってふるまいなさるということを。さもなければ、口をきくよりか、死んでしまうほうがましでございます。」すると大臣《ワジール》は誓いましたので、妻はこれに、アリ・ヌールの不行跡と、アニス・アル・ジャリスの処女性の取り返しのつかない災難とを打ち明けました。
アリ・ヌールはこれまでもずいぶん、父母をこうした目にあわせてきていましたが、それでもこの今度の不行跡の話を聞くと、さすがの大臣《ワジール》もしばし茫然としてしまい、それから自分の着物を裂き、われとわが顔をこぶしで打ち、わが手を噛み、ひげを引きむしり、ターバンを遠くに放り出してしまいました。アリ・ヌールの母はこれを慰めようと努めて、言いました、「お悲しみあそばしますな。その一万ディナールの金子《おかね》のほうは、わたくしの持っている金子からなり、それともわたくしの宝石をいくつか売るなりして、そっくりお返し申し上げますから。」けれども大臣《ワジール》は叫びました、「おお妻よ、何を言うのか。そなたは、おれがその金子《かね》のなくなったことを嘆いているとでも思っているのか。そんなことは問題ではない。おれを悲しませるのは、わが名誉が傷つき、一命にかかわるためだということを、そなたは知らぬのか。」すると妻は言いました、「だが結局のところ、王さまはアニス・アル・ジャリスがいるということすらご存じなく、ましてや、その処女が失われたということなど、ご承知のわけがないのであってみれば、少しも心配なさることはございません。一万ディナールはわたくしが出しますから、それでもって、王さまのために、ごく美しい女奴隷をお買い求めあそばせ。そして私たちはアニス・アル・ジャリスをば、家の息子のアリ・ヌールのために取っておいてやることにいたしましょう。あの女もすでにあれを愛しておりますし、実際あの女はすべての点で申し分ありませんもの。」大臣《ワジール》は言いました、「だが、おおアリ・ヌールの母よ、そなたはわれわれの背後《うしろ》に控えている敵のことを忘れているのか。第二の大臣《ワジール》エル・モヒン・ベン・サーウイのことだ。彼はいつかは結局全部を知ってしまうであろう。そのあかつきには、サーウイは帝王《スルターン》の御手のあいだに進み出て、言上することであろう……。」
[#この行1字下げ] ――けれども、ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、自分の物語をやめた。
[#地付き]けれども第三十三夜になると[#「けれども第三十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、大臣《ワジール》エル・ファドルはその妻に申しました、「そのあかつきには、わが敵の大臣《ワジール》エル・モヒンは、帝王《スルターン》の御手のあいだに進み出て、言上することであろう、『おお王よ、申し上げます。何かというとお召し出しになり、その忠勤は疑いなきものと仰せられるかの大臣《ワジール》は、かつてわが君のために女奴隷を買い求むべく、一万ディナールをお受けいたしました。事実、彼は世界にその比を見ないような、一人の女奴隷を買い求めました。しかるにこれが世にもうるわしいと思ったので、彼は息子のアリ・ヌール、あのやくざ者のこせがれに申しました、「わが子よ、あれはおまえのものにせよ。あの老いぼれの帝王《スルターン》は、その処女を楽しむことさえできずにいる側女《そばめ》を、すでにいくたりとなく持っているくらいだから、帝王《スルターン》よりは、おまえがあの女を楽しむほうがましだ。」そしてこのアリ・ヌールというやつは、処女を奪うことを専門としているので、その美しい女奴隷に手をつけて、またたくうちにずぶりと貫《ぬ》いてしまいました。そして今は、やつは父親の邸内で、女どもに取り囲まれて、その女奴隷とさまざまの戯れにふけりながら、楽しく時を過ごしております。こののらくら者の、道楽者の栓抜き野郎の若僧は、しょっちゅう女どものいる部屋に、入りびたっているのでございます。』」
「このわが敵の言葉を聞かれると、」と大臣《ワジール》はつづけたのでございます、「帝王《スルターン》はこのおれを重んじておられるから、その言葉をお信じにならずに、彼におっしゃるだろう、『汝は嘘を申しておる、おおモヒン・ベン・サーウイよ。』だがサーウイは申し上げる、『では、軍勢を率いて、エル・ファドルの家を襲うことをお許しくださいませ。私は立ちどころに、その女奴隷を連れてまいりますから、わが君はご自身の御目で、事をお確かめあそばされるでございましょう。』すると帝王《スルターン》はお気が変わりやすくいられるから、彼にその許しをお与えになるであろう。そしてエル・モヒンは警吏を率いてここに殺到し、そなたどもの中からアニス・アル・ジャリスを奪い、これを帝王《スルターン》の御手のあいだに連れてゆく。そして帝王《スルターン》がアニス・アル・ジャリスを尋問なされば、彼女とて包まず申し上げざるをえまい。するとわが敵は勝ち誇って言う、『おおわがご主君よ、私が君のためいかばかり好い忠言を呈する者であるか、今こそおわかりでございましょう。されど、いかんせん、私はつねにわが君に重んぜられず、一方かの裏切り者はつねにご愛顧をこうむるということは、記《しる》されているのでござります。』すると帝王《スルターン》もおれに対して御心《みこころ》を変ぜられ、おれを厳しく罰せられるであろう。さすれば、おれはこんにちおれを敬愛している人々一統の、笑いぐさとなるであろう。かくて、おれはわが一命をも失い、わが家ことごとくをも失うことになろうぞ。」
この言葉に、アリ・ヌールの母は夫に申しました、「まあわたくしをお信じ下さいまし。この件につきましては、いっさい他言あそばすな。さすればだれも、これについては何事も知らぬことでしょう。そして御運をアッラーの御心《みこころ》におまかせなさいませ。起こらねばならぬことよりほかには、何事も起こらぬでございましょう。」そこで大臣《ワジール》もこの言葉を聞いて心を静められ、さきざきの成行きについては、心中に平安がはいったのでございました。けれども、息子のアリ・ヌールに対しては、やはりたいへん腹を立てておりました。
話変わって、若いアリ・ヌールのほうはと申しますと、彼は二人の奴隷の少女がもらした叫びを聞きつけると、あわててアニス・アル・ジャリスの部屋を飛び出しました。そして一日じゅうそここことさ迷い歩いて、夜になってようやく屋敷にもどり、そして大臣《ワジール》の怒りを避けるために、女たちの室の、母のもとに急ぎもぐりこみました。母は起こったいっさいにもかかわらず、最後には彼を抱いて、許してやったのでした。けれども十分気をつけて、侍女たちみんなの力もいくぶん借りて、息子の身を隠しました。女たちは皆、アニス・アル・ジャリスがこのようなたぐいのない牡鹿を腕に抱いたことを、心ひそかにねたんでおりましたが、いずれも口をそろえて、アリ・ヌールに、大臣《ワジール》のお怒りにはよくよく用心するように申しました。こうしてアリ・ヌールは、さらにまるひと月のあいだ、夜、女たちに母の部屋の戸をあけてもらっては、そっともぐりこむよりほかなく、そして母の黙認を得て、ここでひそかにアニス・アル・ジャリスに会っていたのでございました。
とうとうある日のこと、アリ・ヌールの母は、大臣《ワジール》が平生よりも思い煩っていないのを見て、これに申しました、「私どもの息子アリ・ヌールに対する、その長いお怒りは、いったいいつまでつづくのでございましょうか。おおご主人さま、私どもは、いかにも、あの女奴隷を失ってしまいましたが、あなたは私どもの子供まで失うことをお望みでしょうか。と申すのは、もしもこのようなありさまがつづきますれば、私どもの息子アリ・ヌールは、ついには永久に、両親の家を逃げ出してしまうにきまっております。そうなれば、私どもの臓腑の結実《み》であるこの一人息子を、悼《いた》み悲しむのは、とりもなおさず私どもでございましょう。」すると大臣も心動かされて、言いました、「だがどういう策をとるのか。」母親は答えました、「今夜は、私どもといっしょに夕をお過ごしあそばせ。そしてアリ・ヌールがまいりましたら、わたくしがお二人を仲直りさせて進ぜます。あなたは最初あれを折檻し、あやめてさえしまうようなふりをなさって、そのうえで、最後にはあれとアニス・アル・ジャリスとを、いっしょにさせてやってくださいませ。それというのも、アニス・アル・ジャリスは、わたくしの見ましたかぎりのすべての点で、万事見上げたものでございますから。」
そして事はそのとおりにはこびました。大臣《ワジール》は許してやり、アリ・ヌールは立ち上がって、父と母の手に接吻して、ひたすら恐れ入った態度を見せました。すると父親はこれに申しました、「おおわが子よ、どうしてそちは、心底よりアニス・アル・ジャリスを愛し、そちの日ごろの、一時の出来心などではないということを、言ってくれなかったのか。なんとなれば、そちがわがアニス・アル・ジャリスに対して、あくまで正しくふるまう覚悟があることを知りもせば、おれはあのおなごをそちにつかわすに躊躇しなかったであろうぞ。最後に、わが祝福がつねにそちの上にあらんがために、そちに申し聞かせたく、けっして忘れてもらいたくない一事があるが、それは、今後そちが断じてアニス・アル・ジャリス以外の他のおなごを、正妻としてめとらず、断じてあの女を虐待せず、また断じてあの女を売り払って始末してしまうようなことをしないと、約束することじゃ。」するとアリ・ヌールは答えました、「私はわれらの預言者の御《おん》生命《いのち》と聖なるコーランとにかけて、アニス・アル・ジャリスの存命中は、けっして二番目の正妻をめとらず、けっしてあの女を虐待せず、けっしてあの女を売り払わないということを、父上に誓言いたします。」
これがすむと、家じゅうはあげて悦びました。そしてアリ・ヌールは遠慮なく、アニス・アル・ジャリスをわが物とすることができました。こうして彼はそれから一年のあいだ、喜びのうちに、彼女と暮らしつづけました。
王のほうは、アッラーが、美しい女奴隷を買うために大臣《ワジール》に一万ディナールを与えたことは、すっかり忘れてしまうように、なしたもうたのでした。けれども、意地悪の大臣《ワジール》エル・モヒンはどうかと申しますと、彼はほどなく、この事件の真相を全部知ってしまったのでしたが、アリ・ヌールの父の大臣《ワジール》が、王からも、またバスラの人民全体からも、どんなに気に入られ、愛せられているかを知っていたので、まだ一言もあえて王に言い出さずにいました。
ところが、こうしているうちに、ある日のこと、大臣《ワジール》エル・ファドルは浴場《ハンマーム》にはいって、そのときあまり急ぎすぎて、まだ汗が乾ききらないうちに、外に出ました。ところが、おりから戸外《おもて》では温度がたいへん変わったので、大臣《ワジール》は激しい悪寒を覚え、そのまま倒れて、床につかなければならないことになりました。それから病勢がつのって、もう昼も夜も目を閉じることができず、すっかりやせ衰えて、以前のからだの影になってしまいました。そこで大臣《ワジール》は、これ以上自分の最後の務めを果たすことを延ばしたくないと思って、息子のアリ・ヌールを自分のそばに呼び寄せますと、息子はすぐに、目に涙をあふれさせながら、大臣《ワジール》の手のあいだにまかり出ました。そこで大臣《ワジール》はこれに言い聞かせました、「おおわが子よ、いっさいの幸福には限りがあり、あらゆる福祉には際涯《はてし》があり、あらゆる支払期間には期限があり、あらゆる盃には苦き飲み物がある。きょうは、おれが死の盃を味わう番である。」
次に大臣《ワジール》は次のようにつづけました、「さて今は、息子よ、おれがそちに言いおくべきことはもはやただ一事よりない。そは、そちが自分の力をばアッラーのうちに置き奉り、人間の窮極の目的をけっして見失うことなく、また特にわれらの娘、そちの妻のアニス・アル・ジャリスをば、つねに十分に面倒を見てやることである。」するとアリ・ヌールは答えました、「おお父上さま、父上はわれらを置いて行かれるのでございますか。父上亡きあと、この地上にだれぞかわりの人がいるでしょうか。父上はただ善行によってのみ世に知られ、金曜の聖日には、導師《イマーム》たちは、われらの寺院《マスジツト》の演壇上より、父上のお名前をあげて、父上を祝福し、父上のご長寿を祈っておりましたのに。」すると大臣《ワジール》はさらに言いました、「おおわが子よ、おれはアッラーがわが身を受け容れたまい、斥《しりぞ》けたまわぬように、アッラーにおすがり申す次第だ。」それから、大臣《ワジール》はわれわれの宗教の信仰証言二個条(2)を、声高に唱えました、「アッラーのほかに神なきことをわれは証す、また、ムハンマドはアッラーの預言者なることをわれは証す。」そう言ってから、大臣《ワジール》は最後の息を引きとり、そして永久に、選ばれた至福者の数の中に記されたのでございました。
するとすぐに、屋敷はあげて叫びとうめき声に満ち、そしてその知らせは帝王《スルターン》のお耳に達しました。バスラの全市もほどなく、大臣《ワジール》エル・ファドル・ベン・カーカーンの死を知り、住民全部は、ほうぼうの学校の小さな子供たちに至るまで、大臣を悼んで泣きました。一方、アリ・ヌールは、落胆のうちにも、葬儀を亡き父の名にふさわしくするために、何物をも惜しみませんでした。そしてこの葬儀には、あらゆる貴族《アミール》、大臣《ワジール》、王国の貴顕、大官、それにバスラの全住民が一人残らず、つき従いました。その大臣《ワジール》たちの中には、意地のわるいエル・モヒンもまじっていて、彼も他の人々と同じように、柩《ひつぎ》をになわないわけにはゆきませんでした。そして喪の家を出るに当たっては、葬儀万端の指図をする頭《かしら》立った長老《シヤイクー》は、故人に敬意を表して、数々の弔詩を誦しました。そして一同故人の名を祝福いたしました。
この葬儀のあと、アリ・ヌールは長いこと喪に服し、人に会うことも会われることもきらって、ずっと自宅に引きこもり、ずいぶん長い期間を、こうした悲嘆のうちにおりました。ところが、日々のうちのある日、彼が悲しく坐っておりますと、だれか戸をたたく音が聞こえました。そこで自身立って戸をあけてみますと、亡父|大臣《ワジール》の旧友でいつも食事を共にした人の息子の、自分と同じ年ごろの若者が、はいって来たのでした。その若者はアリ・ヌールの手に接吻して、言いました、「ご主人よ、あらゆる人はおのが子孫のうちに生きております。そしてあなたのようなご子息ならば、お父上のりっぱなご子息に相違ありません。されば、はてしなく悲しんでいられてはいけない。『汝の魂をいやして、人の死を永くいたみ悲しむことなかれ』と仰せられた、古人今人の主《しゆ》、われらの預言者ムハンマド(その上にアッラーの祈りと平安あれ)の、聖なるお言葉をお忘れなさいますな。」
この言葉に、アリ・ヌールは返す言葉がありませんでした。そこですぐに、せめて表面《うわべ》だけでも、ひとまず悲しみを打ちきろうと決心しました。彼は立ち上がって、集会の間《ま》に移り、訪客たちをふさわしく迎えるのになくてはならない品々を、全部そこに運ばせました。そしてこのときからというものは、自宅の門を開いて、老いも若きもあらゆる友人を迎えはじめました。だがとりわけ、バスラの主《おも》だった商人の息子たちである、十人の若者と眤懇《じつこん》にいたしました。そして彼らといっしょに、アリ・ヌールは連日盛宴を張り、歓を尽くして時をすごしはじめ、人さえ見れば何か高価な品を贈らないこととてなく、人を迎えればかならず、すぐにそのために宴席を設けるというふうでございました。そしてこれをするのに、アニス・アル・ジャリスの賢い諌《いさ》めも聴かず、まったく金銭に糸目をつけずにしていたので、ある日のこと、家の執事は、この成り行きに恐れをなして、彼のところに来て言いました、「おおご主人さま、あなたさまは、むやみに気前のよいことは害をなし、むやみにたくさんの贈物は富を涸《か》らすということを、ご存じないのでしょうか。数えることなく与える者はついに貧しくなることを、ご存じありませんか。されば、こういう詩人は、なんと真相を喝破しているのでございましょう。
[#ここから2字下げ]
わが銭《ぜに》、われはこれをあだおろそかにせず。これを気化蒸発せしめんよりは、むしろ熔かして地金とせん。銭《ぜに》はわが剣《つるぎ》なり、またわが楯なり。
われはわが銭をたくわえん。なんとなれば、水飼い場より離れて五日《いつか》をへし、らくだのごとく渇し乾きて、一文の施与を求むる貧者に、禍いあれ。彼の魂は、犬の魂そのものよりも、卑しきものとはなるなり。
おお、銭なく資財なき者に、禍いあれ。たとい賢者のうちもっとも博識にして、その功績は太陽よりも燦たる者なりとも。」
[#ここで字下げ終わり]
執事が誦するこの詩を耳にして、アリ・ヌールはいぶかしげにその顔をみつめて、言いました、「おれはおまえの言葉をひとつとして聞く耳持たぬ。よいか、きっぱりと申し聞かせておくが、おれがおまえに言いたいことはただひとつだ。おまえが勘定をしてみて、まだおれの朝飯があるかぎりは、おれにおれの夕飯の心配苦労をさせるようなことは、きっとつつしんでもらいたい。」
そこで執事はもう、主人アリ・ヌールにうやうやしく礼をして、引き下がるよりほかなく、自分の仕事を見に立ち去りました。執事についてはこのようでございました。
さてアリ・ヌールのほうは、この日以来、もう彼の気前のよさと生来の善良さはとめどがなくなり、自分の持っているものは全部、友達やはては見も知らぬ人たちにまで、やってしまうのでした。招いた客人の一人が彼に向かって、「この品は実にきれいですね」と言いさえすれば、アリ・ヌールはすぐに「ではあなたにさしあげましょう」と答え、また、一人が「おお親しい殿よ、あそこのあなたの地所はなんとりっぱでしょう」と言えば、アリ・ヌールは即座に「ではすぐさまあなたの名前に書き換えましょう」と言って、蘆筆《カラム》と銅の墨壺を持って来させ、家なり土地なりを、その友達の名に書き換え、自分の印をおすといったぐあいでした。そしてまる一年のあいだ、このようなふうにつづけ、朝《あした》に全部の友人にご馳走をしては、夕《ゆうべ》にまた別のご馳走をし、そのつど楽器をかなで、最高の歌手といちばん名の高い舞妓《おどりこ》たちを呼ぶのでした。
その妻アニス・アル・ジャリスのほうはというと、彼女はもう以前のように耳を傾けられなくなり、そればかりか、しばらく前から、アリ・ヌールは多少彼女をうとんずるようになりました。けれども彼女は、けっして不平がましいことを言わず、詩歌や書物を読んで、みずから慰めておりました。そしてある日のこと、アリ・ヌールが彼女の私室にはいって来ましたおり、彼女はこれにやさしく話しておりますと、そこにおもての戸をたたく音が聞こえました。アリ・ヌールは妻の部屋から出て、戸をあけてみますと、それはほかならぬ執事でした。アリ・ヌールはこれを、集会の間《ま》のそばの一室に連れて行きました。集会の間には、このときもやはり、もうほとんど入りびたりの、いつもの友人が数人いたのでした。さて、アリ・ヌールは執事に言いました、「いったいどうしたのか、そんなゆがんだ面《つら》をして。」執事は答えました、「おおご主人さま、私がつねづねあなたさまのためにあれほど恐れていたことが、とうとうやってきました。」彼は言いました、「それはどうしたというのか。」執事は答えました、「お聞きください、私の役目は終わりました。もう私の手もとには、あなたさまに属する管理すべきものは、何ひとつございませんから。もはやあなたさまには、土地にせよ他の物にせよ、何であろうと、びた一文に値するものも、あるいはびた一文以下のものさえも、ございません。ここに、あなたさまのお使いになった出費帳と、あなたさまの財産帳とを、持ってまいりました。」この言葉を聞いて、アリ・ヌールはただ頭をたれることしかできず、そして言いました、「アッラーのみ唯一の強者、唯一の権力者にまします。」
ところが、ちょうどそのとき、集会の間《ま》に集まっていた友達の一人が、この会話を聞きつけまして、さっそくこの話を他の人たちに伝えに行って、言いました、「まあこの知らせを聞きたまえ、アリ・ヌールは今はもう、値のあるものはびた一文持っていませんぞ。」そしてこの瞬間に、アリ・ヌールがはいって来ましたが、彼はまるでこの知らせが偽りでないといわんばかりに、顔色がすっかり変わり、いたく思い悩んだ様子をしていました。
これを見ると、会食者の一人が立ち上がって、アリ・ヌールのほうに向いて、これに言いました、「おおご主人よ、失礼ながら、中座させていただきたいと存じます。実は家内が今夜にも出産しようとしているので、どうにもそばを離れているわけにゆかないのです。できるだけ早く行ってやらなければなりません。」そこでアリ・ヌールはそれを許しました。すると二番目の友達が立って、こう言うのです、「おおご主人アリ・ヌールよ、きょうは兄のところで、息子の割礼のお祝いがあるので、私もぜひとも行ってやらなければならないのです。」そこでアリ・ヌールはこれを許しました。それから、会食者は、一人一人次々に立ち上がって、引き上げる口実を並べ、とうとう最後の一人まで帰って、こうしてアリ・ヌールは集会の間《ま》のまん中に、たった一人になってしまいました。そこで彼はアニス・アル・ジャリスを呼んでこさせて、これに言いました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、おまえはまだ、おれの頭上に振りかかって来た事柄を知らないだろうが。」そして今起こったことをすべて話して聞かせました。彼女は答えました、「おおご主人アリ・ヌールさま、きょうとうとうおんみに来てしまったことを、わたくしはずっと前から、お恐れあそばすよう、絶えず申し上げていたのでございます。けれども、あなたはけっしてわたくしの言葉をお聴きにならず、ある日のごときは、ご返事のかわりに、ただ次の詩句を誦されただけでございました。
[#ここから2字下げ]
もし『福運』にして、一日、汝が門前を過ぎ、門をまたぎたりとせば、すべからくこれを捕えよ。しかして恐るることなく、思うがままにこれを楽しみ、汝《な》が友の群れをしてこれを利せしめよ。何となれば、福運は、巧みに汝の手よりすべり落ちずともかぎらざれば。
されど、もし福運にして、汝のもとにしかと住居を定むるに意を決しなば、汝はこれを惜しみなく用いて可なり。なんとなれば、これを涸《か》らしつくすものは、けっして汝の寛闊にあらざれば。またもしこれが立ち去るに心を定めたりとせば、これを引き止むるは、けっして吝嗇《りんしよく》にあらざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
ですから、あなたがこの詩句を誦されるのを聞いたとき、わたくしは口をつぐんで、もうお言葉を返そうとは思いませんでした。」アリ・ヌールは言いました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、おまえもよく知ってのとおり、おれは友達たちのためにはどんなことでもしてやった。おれは自分の全財産を、ただ彼らの上に使ったのだ。だから、今となって、よもや彼らがおれを不幸のうちに見殺しにしておけるものとは思わない。」するとアニス・アル・ジャリスは答えました、「アッラーにかけて、それはもうきっと、あの人々はあなたにとって、なんのお役にもたちますまい。」するとアリ・ヌールは言いました、「よろしい、ではこれからすぐ、立ち上がって、彼らをひとりひとり訪ねて行き、門をたたいてみよう。だれでも快くいくらかの金額《かね》をくれるだろうから、こうして資本《もとで》を作り、それでもって商売を始めるとしよう。もう娯楽や遊びは、ふっつりやめてしまおう。」そして彼はほんとうにすぐさま立ち上がって、友達たちの住んでいるバスラの街《まち》に出かけました。というのは、彼の友達は皆、市内でいちばん立派なこの街に住んでいたのです。さて彼が最初の門をたたきますと、一人の黒人の女があけに来て、彼に言いました、「どなたさまですか。」彼は答えました、「ご主人にアリ・ヌールが門口《かどぐち》に来て、こう言っているとお伝えしてくれ、『あなたの下僕《しもべ》アリ・ヌールはあなたのお手に接吻し、ご仁慈にすがりにまいりました』と。」そこで黒人の女はもどって主人に告げますと、主人はどなりつけました、「早くもどって、おれは留守だと言え。」そこで黒人の女はもどって、アリ・ヌールに言いました。「おおご主人さま、家のご主人はお留守でございます。」アリ・ヌールは心の中で考えました、「こいつは不義の子(3)だ、居留守を使っていやがる。だが他の友達たちはけっして不義の子じゃないぞ。」そして彼は二番目の友達の門をたたきに行き、最初と同じ言葉を通じさせましたが、これもまた同じように、ことわりの返事を伝えさせたのでした。そのとき、アリ・ヌールは次の詩節を誦しました。
[#この行2字下げ] われ戸口に立つや、ただちにその家のうつろに響くを聞き、家人はことごとく、われによってその寛仁を試みられんことを恐れて、逃がれ去るを見たり。
それから言いました、「アッラーにかけて、こいつは友達を全部訪ねてみなければならぬ。せめて一人ぐらいは、こういう裏切り者どもがだれもしなかったことをしてくれる友が、いるかもしれない。」けれども、自分が出て来るどころか、一片のパンを持たせてよこそうとする者さえ、ただの一人も見いだすことができませんでした。そのとき彼はただひとり、次の賦を誦するばかりでございました。
[#ここから2字下げ]
栄えたる人はなお、樹のごとし。果実満てるあいだは、人々これに寄りつどう。
されどひとたび果実落つるや、人々はさらによき樹を求めて四散す。
当代の人の子はすべて同じ病に陥れり。なんとなれば、この感染を免れし者に、われはただ一人として会いたることなければなり。
[#ここで字下げ終わり]
それから彼は、アニス・アル・ジャリスに、こう言いに行かざるをえませんでしたが、その額はすっかり曇っておりました、「アッラーにかけて、やつらはただの一人も出てこようとはしなかった。」彼女はそれに答えました、「おおご主人さま、だから、あの人たちはこればかりもあなたをお助けしはしないだろうと、申し上げたではございませんか。今となっては、わたくしどもの家にある家具とか貴重品などを、すこしずつ売りはじめなさることを、おすすめするばかりです。そうすれば、まだしばらくのあいだ、暮らすことができましょう。」そこでアリ・ヌールはアニス・アル・ジャリスのすすめたようにいたしました。けれどもしばらくたつと、家じゅうにもう何も売るものがなくなってしまいました。
するとアニス・アル・ジャリスは、涙を流すアリ・ヌールに近づいて、これに申しました、「おおご主人さま、なぜお泣きあそばしますか。まだここに、このわたくしがいるではございませんか。ではわたくしはもう、あなたがアラビアの女の中で水ぎわ立った女とおっしゃる、あのアニス・アル・ジャリスではないのでしょうか。さあ、わたくしをお売りあそばせ。わたくしはお亡くなりになったお父さまが、金貨一万ディナールでお買い求めになったことを、あなたはお忘れになりましたか。アッラーはこの売立てをお助けになって、あなたに実り多いものとしてくだされ、わたくしが前のときよりも、もっと高い値段で売られるようにしてくださることと存じます。わたくしどもが別れることにつきましては、あなたもよくご承知のとおり、もしアッラーがいつの日かふたたび相会わねばならぬものとお書きになったものならば、わたくしどもはふたたび相会うことでございましょう。」アリ・ヌールは答えました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、おれは断じて、たといただひとときなりとも、おまえと別れていることは承知できない。」彼女は答えました、「わたくしとても同じでございます、おおご主人アリ・ヌールさま、けれども詩人の言うように、必要はしばしば掟でございます。
[#ここから2字下げ]
いっさいをあえてするを恐るるなかれ、もし必要に迫らるるとあらば。何事の前にもためらうことなかれ、節度の許すかぎりは。
ゆゆしき謂《いわ》れあらずんば、何事も思い煩うことなかれ。しかして謂《いわ》れゆゆしき憂《う》きことは、げにまれなるものぞかし。」
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞いて、アリ・ヌールはアニス・アル・ジャリスをかき抱いて、その髪の毛に接吻し、双の頬に涙を流して、次の二章を誦しました。
[#ここから2字下げ]
足をとどめよ、しかして汝《な》が目の中に一瞥《いちべつ》を汲ましめよ、旅路の糧《かて》に。
さあれ、なおそれとても過ぎたる願いとあらば、いざ拒め。しかしてわれをば、わが孤独の悲しみと苦しみとに残すべし。
[#ここで字下げ終わり]
するとアニス・アル・ジャリスは、アリ・ヌールをあくまでも優しい言葉でかきくどきはじめて、その家系にふさわしからぬ貧乏を避けるには、ただこの一途しかないということを、よくよく説き聞かせて、とうとう自分が言い出したようにする決心を、つけさせてしまったのでした。そこで彼は妻を連れて出かけ、奴隷|市場《スーク》に行き、そしていちばん名のある仲買人に言葉をかけて、言いました、「おお仲買人よ、おまえにこれから市《いち》で触れてもらう女の値打を、十分に知ってもらいたい。見損わないでくれよ。」すると仲買人は答えました、「おおわがご主人アリ・ヌールさま、私はあなたの下僕《しもべ》であり、あなたに払うべき敬意と尊敬をよく心得ておりまする。」
そこでアリ・ヌールは、アニス・アル・ジャリスと仲買人と共に、隊商宿《カーン》の一室にはいり、アニス・アル・ジャリスの顔をおおっている面衣《ヴエール》を取りました。これを見ると、仲買人は叫びました、「やあ、アッラー、これはつい二年前に、この私が亡くなった大臣《ワジール》さまに、金貨一万ディナールでお売り申した、奴隷アニス・アル・ジャリスではございませんか。」アリ・ヌールは答えました、「そうだ、まさしくあれだ。」すると仲買人は言いました、「おおご主人さま、創《つく》られたるものはそれぞれ、自分の首に結びつけられたおのれの天命を運んでいて、それを逃がれることはかないませぬ。ともかく、私は腕によりをかけて、あなたの奴隷によい値をつけて、市場《スーク》最高の値段で売るように骨折ると、誓って申し上げます。」
そしてすぐに仲買人は、全部の商人が集まることになっている場所に走って行き、商人たちが、売り買いに出ている種々さまざまの若い女、トルコの女だの、ギリシアの女だの、サーカシアの女だの、グルジアの女だの、アビシニアの女だのを、すっかり調べてから、そこに全部寄ってくるのを待ちました。一同集まると、その仲買人はつと立ち上がって、大きな石の上に乗って、叫びました、「おお商人《あきうど》の皆さまがたよ、ならびに富と財とに満てる皆さまよ、されば円きものことごとくくるみではなく、長きものことごとくバナナではござりませぬ。赤きものことごとく肉ではなく、白きものことごとく脂肪《あぶら》ではない。赤茶色のものことごとくぶどう酒ではなく、褐色のものことごとくなつめやしではござりませぬ。おお、バスラとバグダードの音に聞こえた商人衆よ、きょう私が皆さまがたのご鑑定に供せんとするものは、高貴なる真珠|一顆《いつか》、もしそれ公正たらんと欲せば、インドの島々のあらゆる財宝、また黄金を積み重ぬるとも、なお足らぬでござりましょうぞ。されば売立ての最初のつけ値は、まず皆さまがたにつけていただくといたしまする。ともかくも、まずご自身の目で、ご覧《ろう》じろ。」そして彼は一同を連れて来て、アニス・アル・ジャリスを見せますと、すぐさま、まず最初の売り値として、四千ディナールのつけ値からはじめることに、衆議一決しました。そこで仲買人は呼び立てました、「四千ディナール、白人奴隷のうちの真珠でござい。」するとただちに一人の商人が、せり上げて叫びました、「四千五百ディナール。」
ところがちょうどこのとき、大臣《ワジール》エル・モヒンが、馬に乗って奴隷|市場《スーク》の中を通りかかりまして、アリ・ヌールが仲買人のかたわらに立ち、仲買人が値段を呼び立てているのを見たのでございました。そして大臣《ワジール》は心中思いました、「あの道楽者のアリ・ヌールのやつは、おおかた、最後の家財を売りつくして、今自分の最後の奴隷を売っているところなのだな。」けれどもやがて、呼んでいる値段というのが、一人の白人の女奴隷の値段であるのを聞きつけて、大臣《ワジール》は思いました、「アリ・ヌールは今自分の女奴隷、あの例の若い女を売っているにちがいないぞ、やつはもう一文なしだろうから。アッラーにかけて、万一それがほんとうだとしたら、こいつはまったく溜飲が下がることだわい。」そこで大臣《ワジール》はこの競売人を呼びますと、彼は大臣《ワジール》とわかったので、すぐ駆けつけて、大臣《ワジール》の手のあいだの地に接吻しました。すると大臣《ワジール》は言いました、「そのおまえが売りにかけている女奴隷は、このおれ自身が買いたいぞ。すぐここに連れて来ておれに見せろ。」そこで仲買人も大臣《ワジール》の命令とあればぜひもなく、急いでアニス・アル・ジャリスを連れて来て、大臣《ワジール》の前でその面衣《ヴエール》を上げました。
この若い女のたぐいのない顔とあらゆる完全さを見ると、大臣《ワジール》は感嘆して言いました、「この女のつけ値はいくらまで達したか。」仲買人は答えました、「二声目で、四千五百ディナールでございます。」すると大臣《ワジール》は言いました、「よし、ではおれがその値段で買いとるぞ。」こう言って、大臣《ワジール》は全部の商人をねめつけますと、一同はあえて値段を上げることができず、そんな大胆なまねをすれば、かならずあとのたたりが恐ろしいことを知っていたので、だれ一人つけ値を上げる勇気を持てませんでした。次に大臣《ワジール》は言い足しました、「こら、仲買人、なんだってきさまは、そんなところでぼんやりしているのだ、この女奴隷はおれが四千ディナールで買いとり、きさまの骨折り賃として、五百ディナールつかわすというのに。」そこで仲買人は返す言葉もなく、頭をたれて、少し離れたところにいるアリ・ヌールのもとに行って、これに言いました、「おおわがご主人さま、これはとんでもないことになりました。あの奴隷は捨て値で、いや、ただで、われわれの手から離れてしまいました。ほら、ここからご覧になればわかりますが、これは亡くなった父上さまの敵の、あの腹黒い大臣《ワジール》が、これをあなたの所有《もちもの》と察したにちがいなく、そして、われわれにそのほんとうの値段までつり上げさせないのです。たった二声目の値段で、自分の物にすると言うのです。しかもそればかりではない、もし大臣が現金で即座に払ってくれるということが確かなら、こっちも多少はあきらめもつき、些少ながら、ともかくもアッラーに感謝するがものもあるのです。ところが、あの業《ごう》たかりの大臣《ワジール》ときては、世界一払いの悪い男なのです。それは私がずっと前から知っていることで、やつのずるいやり口と性《たち》の悪さは、もう逐一知っています。やつが腹黒く考えたことは、こんなことにちがいありません。まずあなたには、自分の代理人の一人に払わせるからと言って、証文を書いて与え、そしてその代理人には、あなたに一文も渡さないようにひそかに言い含める。そこであなたが、それを取りに行けば、そのつど代理人は『あすお払いします』と言うが、さてそのあすとやらは、いつになってもやって来はしません。そこであなたもあまり長びいていやになり、気を腐らせて、しまいには彼らを相手に話をつけようとなさり、大臣《ワジール》の署名のある証書を渡してしまうでしょう。するとすぐさま代理人はそれをつかんで、ずたずたに引き裂いてしまうのです。こうしてあなたは、あの女奴隷の値を、まるまる踏み倒されてしまうという寸法です。」
この仲買人の言葉を聞くと、アリ・ヌールは、ほとんど抑えきれない怒りに捕えられて、仲買人に問いました、「さて、なんとしたものだろう。」仲買人は答えました、「ではひとつ知恵を貸して進ぜましょう。この手を使えばいちばんうまくゆくでしょう。まずこの私が、アニス・アル・ジャリスをお連れして、市場《スーク》のまん中まで進んで行きます。そこに、あなたは私のあとから飛んで来て、いきなり奴隷を私からもぎとって、これに言うのです、『不届き者め、いったいどこへ行くのか。おれはかつて誓いを立てて、おまえをこらしめ、わが家でのおまえの悪い根性を直すために、奴隷|市場《スーク》でおまえを売り払うようなふりをしてやると、そう言った手前、今ただその誓いを果たしただけだということが、おまえにはわからないのか。』それからあなたはこれを二つ三つ打ったうえで、連れてお帰りなさいませ。さすれば、一同も、また大臣《ワジール》も、実際あなたはただご自分の誓いを果たすために、この女奴隷を市場《スーク》に連れて来たのだと、信ずることでございましょう。」するとアリ・ヌールは賛成して言いました、「それはまったく、このうえない名案だ。」
そこで仲買人はそこを離れて、市場《スーク》のまん中に行き、女奴隷の手をとって、大臣《ワジール》エル・モヒン・ベン・サーウイの前に連れて行って、大臣《ワジール》に言いました、「殿さま、この女奴隷の持ち主は、ここから数歩|上手《かみて》のあそこにいる、あのかたでございます。おや、こちらにおいでになりました。」実際、アリ・ヌールはその群れのほうに近づいて来て、手荒くアニス・アル・ジャリスにつかみかかり、これにどなりました、「汝に禍いあれ、おれが汝を市場《スーク》に連れて来たのは、ただ自分の誓いを果たすためだけだということが、汝にはわからないのか。それに、たとえおれが金に困った場合でも、おれは汝を市場《スーク》に連れて行くことなぞ思うよりは、むしろ最後のわが家財を売り、その名残りを売り、持ち物全部を売ることのほうを選ぶものだ。」
アリ・ヌールの言葉を聞くと、大臣《ワジール》エル・モヒンは叫びました、「汝に禍いあれ、気違い小僧めが。きさまはまるで、まだ買ったり売ったりできるような家財が、何かあるような口を利いているな。きさまにはもうびた一文ないことは、知らない者はいないぞ。」大臣《ワジール》はこう言って、彼のほうに歩み寄り、腕ずくで彼につかみかかろうとしました。これを見ると、全部の商人と仲買人はアリ・ヌールを見やりました。彼はこの人たち一同からよく知られ、たいそう好かれていましたし、またその父が彼ら一同にとって、有力な親切な保護者であったことは、まだ忘れられていなかったのでございます。そのとき、アリ・ヌールは一同に言いました、「皆さんはこの男の無礼な言葉を聞かれましたね。私は皆さん全部に証人になってもらいます。」すると大臣《ワジール》は大臣《ワジール》で、一同に言いました、「おお商人どもよ、おれがこの無礼者をひと思いに殺してしまおうとしないのは、おまえたちに免じてなのだ。」けれども商人たちは皆ひそかに互いに顔を見合わせて、「アリ・ヌールの肩を持とう」というかのように目配せしあって、さて声をあげて言いました、「まったくのところ、これは私どもの知ったことではありません。お二人でいいように話をつけなさるがいい。」するとアリ・ヌールは、生まれつき勇気と大胆に充ち満ちた男でしたから、大臣《ワジール》の馬の轡《くつわ》におどりかかって、片手で大臣《ワジール》を捉え、鞍から引きずりおろして、地面に投げつけました。それからその胸を片膝で押えて、頭や腹やところきらわずげんこを加えはじめ、その顔に痰《たん》をかけて、言ってやりました、「犬め、犬の息子、不義の子め、きさまの父親は呪われろ、きさまの父親の父親も、母親の父親も、おお、腐ったやつめ。」それから、もうひとつ、顎をめがけてしたたかげんこを食わせて、前歯を二、三本折ってしまいました。血は大臣《ワジール》のひげの上に流れ落ち、おまけに、大臣《ワジール》はちょうど泥んこの水溜りのまんなかに、転がりこんだのでございました。
これを見ると、大臣《ワジール》のお伴をして来た十人の奴隷は、抜き身の剣を手にして、アリ・ヌールに襲いかかってなぶり殺しにし、ずたずたにしてしまおうといたしました。けれども、群衆全部がいっせいにさえぎって、彼らに叫びました、「おまえさんたちは何をしようとするんだ、何に手出しをしようというのだ。いかにも、おまえさんたちの主人は大臣《ワジール》だ、だが、こっちの人だって、やはり大臣《ワジール》の息子だっていうことを知らないのか。おまえさんたちはうかつにも、二人があすになれば双方で仲直りをして、そうなれば、そのとばっちりは全部おまえさんたちにかかってくることを、考えないのか。」そこで奴隷たちも、これは手出しをしないほうが得策だと見ました。
ところが、アリ・ヌールは散々打って打ち疲れましたので、やっと大臣《ワジール》を放しますと、そのひまに大臣《ワジール》は泥と血とほこりにまみれて立ち上がり、そしててんで気の毒がる様子もない群衆の目を浴びながら、帝王《スルターン》の御殿のほうに向かって行きました。
アリ・ヌールのほうは、アニス・アル・ジャリスの手をとって、群衆一同に喝采されながら、ふたたび自分の家に帰りました。彼はこのようでございました。
さて大臣《ワジール》のほうはと申しますと、彼はこのみじめなありさまで、ムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニ王の御殿に着きますと、御殿の下に立ち止まって、叫びはじめた(4)のでした、「おお王さま、迫害された者でございます。」すると王さまはこれを御手のあいだに連れて来させ、よくよくご覧になって、驚きの極みに達しなされ、これにおっしゃいました、「そもそも何者が、あえて汝にかかる虐待を加えしか。」すると大臣《ワジール》は涙を流しはじめて、言いました、「おおわがご主君さま、これが、わが君を慕い奉りひたすら忠勤をはげむすべての下僕《しもべ》の、運命でござりましょうか。してまた、君の治下に、かかる恥辱が加えられるのを、かくのごとくご宥恕《ゆうじよ》なしおかれるのでござりましょうか。」すると王は大臣《ワジール》にお尋ねになりました、「だがいったい何者が、汝をそのような目に会わせたのか。」大臣《ワジール》は答えました、「おおわが殿、ご領主さま、わが君はその昔、世にすぐれた女奴隷を一人買い求むべく、大臣《ワジール》エル・ファドル・ベン・カーカーンに一万ディナールをお与えになったことを、定めしご記憶あそばされておいででございましょう。ところで、かの大臣《ワジール》は、事実ほどなくそうした女奴隷を見つけ出し、買い求めたのでございましたが、しかしその奴隷がいかにもすばらしく、また限りなく自分の気に入ったもので、彼はそれを息子のアリ・ヌールに、贈物にしてくれてしまったのでございます。そしてアリ・ヌールは父が亡くなると、濫費と無分別の道を進み、それがあまりにはなはだしすぎたので、ついには自分の家屋敷やら、財産やら、家財道具までも、売り払わねばならぬ羽目になりました。そしていよいよもう暮らしてゆくのに一文もなくなってしまうと、彼はその女奴隷を売ろうと思って、これを市場《スーク》に連れて行き、仲買人に渡しますと、仲買人はすぐにこれをせり売りにかけました。するとただちに商人どもはせりはじめ、女奴隷の値段は、たちまち四千ディナールに達したほどでございました。そのとき私はこの女奴隷を見て、これは自分が買いとって、もともと最初に資本を出された、わがご領主|帝王《スルターン》に献上しようと思い定めました。私は仲買人を呼んで申しました、『わが子よ、その四千ディナールはこのおれがつかわそう。』ところが仲買人は、私にその若い女奴隷の持ち主を示しました。するとその持ち主は、私の姿を見るやいなや、狂人のように駆け寄って来て、私に言いました、『老いぼれの畜生め、おお禍いの不吉なじじいめ、たとえきさまがこの奴隷をくるんでいる大面衣《イザール》いっぱいに黄金を積もうと、これはきさまに譲るよりは、ユダヤ人かナザレト人に売るほうが、ましなくらいだ。』そこで私は答えました、『だが、若者よ、おれがこの奴隷を所望するのは、けっして自分のためではないのだ。われらの殿|帝王《スルターン》のため、われら一同の恩恵者にしてわれらのご主君のおんためなのだ。』けれどもこの言葉を聞くと、譲るどころか、彼はますますいきり立って、私の馬の轡《くつわ》におどりかかり、私の片脚を捉えて引きずりおろし、私を地面に投げ出すのでございます。それから、私の老齢も斟酌《しんしやく》せず、私の白ひげにも遠慮せず、この私を散々に打ちすえ、ののしりはじめ、とうとう今ご覧のごとき、惨澹たるありさまにしてしまったのでございます、おお公正なる王よ。そしてこのいっさいが私の身に起こったゆえと申せば、ただただ、私がわが帝王《スルターン》をお悦ばせ申し上げ、当然わが君に属し、しかもわが君の御閨《おねま》にふさわしいと存ずる一人の若い女奴隷をば、買い求めてさし上げようと思ったがためでございました。」
そして大臣《ワジール》はこう言って、王の足下に身を投げ、潸然《さんぜん》と涙を流しはじめたのでした。この話を聞かれると、王は、額からお目のあいだに汗が流れ出たほどの、ご立腹でございました。そして主長《アミール》や王国の大官など、おそばを警備している人々のほうを向いて、彼らにちょっと合図なさいました。するとすぐさま、抜き身の大剣を持った四十人の警吏が、不動の姿勢をして、御手のあいだにまかり出ました。すると帝王《スルターン》は彼らに命じました、「これより即刻、わが旧《もと》の大臣《ワジール》エル・ファドル・ベン・カーカーンの屋敷に下《くだ》り、これを劫奪し、ことごとく打ちこわせ。次に罪深きアリ・ヌールとその女奴隷を引っ捕え、彼らの両腕を縛し、足を取って泥中を引きずりつつ、わが手のあいだに引っ立ててまいれ。」すると四十人の警吏は承わりかしこまって答え、そのままアリ・ヌールの屋敷に向かいました。
ところが、ここに帝王《スルターン》の御殿に、侍従の中の一人で、サンジャルという年若い侍従がおりました。彼は最初、故|大臣《ワジール》の白人奴隷《ママルーク》で、その若い主人アリ・ヌールといっしょに育てられ、これに対して深い愛情を抱いていたのでした。彼はたまたま、帝王《スルターン》がむごたらしい命令をくだしたおりに、ちょうどその場に居合わせました。そこで大急ぎで、次々と近道をして、アリ・ヌールの家まで駆けつけ、これに言いました、「おおわが愛するご主人よ、今はねんごろな言葉や、挨拶の礼儀などしている場合ではありませぬ。というのは、詩人の言うところをば、お聞きください。
[#ここから2字下げ]
汝もし汝《な》が自由なる魂のために、繋縛の暴逆を怖るるならば、遠く彼方に飛び去れよ。しかして町々の家をして、そを建てし人々の頭上に崩れ落ちしめよ。
おおわが友よ、広大なるアッラーの地上に、汝はおのが国を措いて、他の国々を数多《あまた》見いだすべし。されど汝の魂は、おのが魂を措いて他の魂を見いだすことあらざるべし。」
[#ここで字下げ終わり]
そこでアリ・ヌールは答えました、「おおわが友サンジャルよ、いったい何事を知らせに来てくれたのか。」サンジャルは言いました、「すぐに立ち上がって、ご自身と、奴隷アニス・アル・ジャリスをお救いなさい。というのは、エル・モヒンはただ今、あなたに対して死の網を張りました。それに今や帝王《スルターン》は、厳命をくだして、抜き身の剣をひっさげた警吏四十名を、あなたがたお二人にさし向けています。そこで私の考えは、つまりあなたがたの身に不幸の起きないうちに、ここを逃げておしまいなさいということです。」そして、こう言って、サンジャルは黄金をいっぱいのせた手をアリ・ヌールにさし出して、さらに言いました、「おおわがご主人よ、ここにわずかのディナールがございますが、これでもこの際何かお役に立ちましょう。もっとたくさんさし上げられないのを、どうかお許しください。だがこうしているあいだも、時間つぶしです。早く立ち上がって、おのがれなさい。」
そこでアリ・ヌールは急いでアニス・アル・ジャリスに事を知らせに行き、彼女もすぐに大小の面衣《ヴエール》で身を包み、こうして二人は家を出て、次に町を出て、アッラーの冥護《みようご》によって、つつがなく海岸に着きました。するとそこには一艘の船が、ちょうど出発の間ぎわで、すでに帆をあげかかっているところでした。二人がこれに近づくと、船長は船のまんなかに立って、呼ばわっているところでした、「まだ別れを告げないかたは別れを告げなされ、まだ食糧の支度を終わらないかたは早くなされ、何か忘れ物をしたかたは急いで取って来なされ、もうすぐ船が出ますほどに。」すると旅の人々は皆答えました、「もう何もしのこしたことはない、おお船長よ、全部すんだ。」すると船長は、水夫たちに向かって叫びました。「さあ、帆を張って、航索《もやいづな》を上げよ。」この瞬間に、アリ・ヌールは船長に尋ねました、「この船はどこに行くのか、おお船長よ。」船長は答えました、「平安の住家、バグダードへ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましく、自分の物語をやめた。
[#地付き]そして第三十四夜になると[#「そして第三十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、船長がアリ・ヌールに「平安の住家、バグダードへ」と申したときに、アリ・ヌールはこれに言ったのでした、「待ってくれ、われわれもそこへ行くのだ。」そこで彼はアニス・アル・ジャリスを従えて、そのまま船に乗りこみますと、船はすぐに全部の帆をあげて、巨鳥ロクのように、勇躍飛び立ったのでした。詩人の言うように、
[#ここから2字下げ]
かの船を見よ。その姿は汝《な》が心を捉うらん。疾《と》き風こそはその好敵手、速さをきそいていまだこれを破りし者なし。
そは翼を張りし鳥、海上に舞い下り、海にたゆとう鳥なり。
[#ここで字下げ終わり]
そしてその船はこれらの旅の人々全部を運びながら、順風に乗って進みはじめました。アリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスについては、こういう次第でございました。
一方、アリ・ヌールを逮捕するために、帝王《スルターン》につかわされた四十人の警吏はというと、彼らはアリ・ヌールの屋敷に着くと、四方を隙間なく取り囲み、扉を押し破って、中に闖入《ちんにゆう》し、すみずみまでこのうえなく念入りに捜索しました。けれども、だれ一人つかまえることができませんでした。そこで彼らは腹立ちまぎれに、屋敷をめちゃくちゃにして引き上げ、帝王《スルターン》に捜査がむなしかった旨を復命しました。すると帝王《スルターン》は彼らに命じました、「いたるところ彼らを探し、全市くまなく取り調べよ。」そしてちょうどこのとき敵《かたき》の大臣《ワジール》がまいりましたので、帝王《スルターン》は彼を召され、これを慰めてやろうとて、みごとな誉れの衣を下しおかれて、仰せられました、「何ぴともこの余を措いて、ほかに汝の復讐をするものはあるまい、余は汝に約束してつかわすぞよ。」そこで大臣《ワジール》は、帝王《スルターン》のご長命と、福祉のうちにご安泰であらせられることを祈りました。それから帝王《スルターン》は触れ役人に命じて、全市に次のような布告を触れまわらせました、「おお住民たちよ、もし汝らの中の何者かが、故|大臣《ワジール》の息子アリ・ヌールに出会った節には、これを捕えて帝王《スルターン》の御手のあいだに連れ来たれ。褒美として、みごとなる誉れの衣ひとかさね、並びに金一千ディナールを賜わるべし。されどもし、何者か彼を見かけてかくまうがごときことあらば、見せしめのためきっと重きおとがめをこうむるべし。」けれども、あらゆる捜索もむなしく、だれ一人アリ・ヌールの行くえを知る者はありませんでした。帝王《スルターン》と警吏たちについては、こういう次第でございました。
ところで、アリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスはどうかと申しますと、二人はつつがなくバグダードに到着いたしますと、船長は二人に言いました、「これがあの有名な都、平穏のバグダードじゃ。霜雪や冬の厳しさを知らず、ばらの木の木蔭、春の温暖、花々の園のさなか、潺湲《せんかん》とした水のひびきのうちに日を送る、幸福な都じゃ。」そこでアリ・ヌールは船長に、旅行中の親切を謝し、自分とアニス・アル・ジャリスの船賃として、金貨五ディナールを与えて、それから船をおり、アニス・アル・ジャリスを従えて、バグダードの中にはいって行ったのでした。
さて天運は、アリ・ヌールが普通の路をとらずに、バグダードを囲む花園のさなかに至る別の路をとることを、望んだのでございました。そして二人は、大きな壁をめぐらしたとある庭園の門口に、足を止めました。その入口は、はき清めて、よく水が打ってあり、両側には、透かし細工の大きな腰かけが、ひとつずつ置いてありました。その門はたいそうりっぱな門で、しまっていましたが、その上のほうには、色とりどりのたいそう美しいランプが、いくつも載っていました。そしてかたわらには、泉水があって、透き通った水が流れていました。その門に至る道はと申しますと、濃緑の木々の並み木道のなかにしつらえられ、その木蔭はいかにも涼しげでありました。
そこで、アリ・ヌールはアニス・アル・ジャリスに言いました、「アッラーにかけて、ここは実に美しい場所だな。」彼女は答えました、「ここでしばらく、この腰かけの上で休むといたしましょう。」そこで二人は、泉水のさわやかな水で顔と手をよく洗ってから、腰かけの上に坐って涼を取り、吹き過ぎる微風を快く吸っておりましたが、そのうち、あまりよい心持だったので、まもなく二人は大きなひざ掛けにくるまって、眠り入ってしまいました。
ところで、彼らが門口で眠っていたこの庭園は、「歓楽御苑」と呼ばれ、この園の中央には「至妙殿」と呼ばれる御殿があり、これは教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードのお持ち物でございました。
教王《カリフ》はお胸がせばまる思いのあそばされるときには、いつもここにおいでになって、御心《みこころ》を晴らし、思いをやり、憂えやもくろみをお忘れになるのでした。この御殿は、全体がただひとまの非常に広大な大広間からできているだけで、そこには八十の窓があけられ、ひとつひとつの窓に、貴重な材料でできた、光り輝く大ランプが、黄金の鎖でつるしてありました。そして広間のまん中には、太陽ともいうべき、金無垢の、しかし軽やかな大吊り燭台がございました。この広間は、ただ教王《カリフ》のお見えになったときだけ開かれるもので、そのときには全部のランプと大燭台に火を入れ、全部の窓をあけ放ちます。そして教王《カリフ》は、獅子の皮の上にお坐りになって、歌妓《うたいめ》たちに歌を歌わせ、楽手たちに楽をかなでさせて御心をお楽しませ申すように、お命じになるのでした。けれども教王《カリフ》が特にその声を聞くのをお好みになったのは、お気に入りの歌手、その歌と即興とは全世界に知られている、その名も高いイスハーク(5)でございました。こうして、夜の静けさと、かぐわしい大気の快い暖かさとのさなかで、教王《カリフ》はバグダードの市中で、お胸を晴らされるのでございました。
ところで、教王《カリフ》がこの御殿と御苑との番人としてお置きになった男は、老人《シヤイクー》イブラーヒームと呼ぶ、たいそう人の好い年寄りでした。彼は日夜気をつけて見張りをし、散歩をする人々や、物見高い連中や、ことに女子供が、御苑のなかにはいって来て、せっかくの花や果物をいためたり、盗んだりするのを防いでいました。ところでその夕べも、いつものとおり、御苑のまわりをゆっくりと巡回していると、入口の門のところの大きな大理石の腰かけの上に、二人の人間が、同じひとつのひざ掛けにくるまって、眠っているのを見つけました。そこで彼は大いに腹を立てて、叫びました、「何事じゃ、不敵にも、教王《カリフ》のご命令にそむきおる二人の者がいるわい。よし、さらば教王《カリフ》の直参の者だけに許されているこの腰かけを、このように平然と占領すれば、どういう目に会うかということを、いささか思い知らせてやるとしよう。」
そしてイブラーヒーム老はよくしなう木のひと枝を切り取って、眠る二人に近づき、枝を振り上げて、今にもしたたか打ちすえようとしましたが、そのときふと思ったのでした、「おおイブラーヒームよ、おまえは何をしようとするのか。おまえの知らない人間を打とうというのか。おそらくは、天命がおまえのほうに導いた他国の衆か、あるいはアッラーの路の物乞う人たちでさえあるかもしれないものを。まず彼らの顔を見ざなるまい。」そしてイブラーヒーム老は、二人の顔を隠しているひざ掛けを取りましたが、するとすぐさま彼は、この園の花よりも美しく見えながら、頬をくっつけて眠っている、この二つのうるわしい顔に心を魅されて、そこに立ちつくしてしまいました。そして考えました、「わしはなんということをしようとしたのだ。おお盲目《めくら》のイブラーヒームよ、おまえはなんということをしようとしたのか。おまえの理不尽な怒りをこらしめるために、おまえ自身こそ鞭打たれてしかるべきだぞ。」それからイブラーヒーム老は、眠る二人の顔をもとどおりおおって、二人の足もとに坐り、アリ・ヌールの足をもんでやりはじめました(6)。それでアリ・ヌールは、まもなく目を覚まし、見ると、もんでいる人は人品卑しからぬ老人《シヤイクー》であったので、このような人にもんでもらっていることを、たいそう恥ずかしく思い、すぐに両足をひっこめ、あわてて起きて坐りなおしました。そしてこの尊ぶべき老翁《シヤイクー》の手を取って、自分の唇に持ってゆき、次に額のところに持ってゆきました。するとイブラーヒーム老はこれに尋ねました、「わが息子よ、おまえがた二人はどこから来たのかね。」アリ・ヌールは答えました、「おお殿よ、私どもは異国の者でございます。」そしてこう言うと、涙が目に浮かんできました。そこでイブラーヒーム老は言いました、「おおわが子よ、わしは預言者が(その上にアッラーの祈りと平安あれ)聖典のここかしこにおいて、異国の人々に対して手厚くもてなし、彼らをねんごろに心清く迎えよと戒められたことをば、忘れるがごとき輩《やから》ではない。されば、わしといっしょに来なさるがよい、わが子たちよ。わしはおまえたちに、わしの園と御殿とを見せて進ぜよう。さすればおまえたちも、おまえたちの苦しみを打ち忘れ、胸も晴れやかに、のびのびとするであろう。」するとアリ・ヌールは聞きました、「おお殿よ、この園はいったいどなたの所有《もの》ですか。」するとイブラーヒーム老は、アリ・ヌールを気後れさせないようにと思って、かつはまた、自分を偉く見せようとする気も少々あって、答えたのでした、「この園と御殿とはわしの所有《もの》じゃ。一家相伝のものとして、わしが譲りうけたものだ。」そこでアリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスとは立ち上がって、イブラーヒーム老を先頭にして、一同御苑の門を越えました。
アリ・ヌールはこれまでバスラで、ずいぶん美しい庭園をいくつも見ましたが、この御苑のようなものは、かつて夢にすら、見たことがありませんでした。大門は重なり合ったいくつもの拱廊《アーケード》からできていて、一面にぶどうの蔓《つる》がはい上がり、その蔓には、赤、白、黒のみごとな房が、重たげにたれておりました。一同がはいって行った並み木道には、熟した果実の重みの下にたわんでいる、数々の果樹が蔭濃く繁っていました。枝々の上には、小鳥らがそれぞれの言葉で、空中の調べをさえずっておりました。鶯《うぐいす》はその曲節《ふし》を吟じ、雉鳩《きじばと》はやさしくその愛の訴えをささやき、つぐみはその人間の口笛のような音を出して鋭く啼き、数珠《じゆず》かけ鳩は強い酒に酔ったかのように、それに答えておりました。そこには、おのおのの果樹はその最上の二種類でもって代表されており、甘い核《たね》の果実と辛い核《たね》の果実をつけるあんずの木があり、ホラサーンのあんずの木までありました。美しい唇のような色の果実をつけた梅の木だの、うっとりとするばかり甘いすももだの、みごとな姿の赤いいちじく、白いいちじく、緑のいちじくだのもございました。また、花と申せば、それらは真珠や珊瑚です。ばらはこのうえなく美しい女たちの頬よりも美しく、菫《すみれ》は燃える硫黄の焔のようにほの黒く、桃金嬢《ミルト》の白い花があるかと思えば、いろいろのにおいあらせいとうがあり、ラヴァンドがあり、アネモネがございました。それらの花の花冠は皆、雲の涙の王冠を戴いており、カミツレはすべての歯を現わして水仙にほほえみかけ、水仙は深々とした黒い目でばらを見つめておりました。円いシトロンは取っ手も頸もない盃に似て、レモンは黄金の球《たま》のようにたれ下がっています。地面は一面に、数知れぬ色とりどりの花を敷きつめておりました。それというのは、春は王さまで、あたりの木立ち全部を支配していたからです。豊かな流れには水が漲《みなぎ》り、泉はさらさらと鳴り、鳥は語ってはわれとわが声に耳を傾けていたからです。微風は笛のように歌い、清風は優しくこれに答え、空気は悦びに高鳴っていたからでございます。
このようにして、アリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスは、イブラーヒーム老と共々「歓楽御苑」にはいって行ったのでした。するとそのとき、イブラーヒーム老は物事をはんぱにすることを好まなかったので、そのまま二人を「至妙殿」にはいるように誘いました。彼は二人に扉をあけてやって、一同なかにはいりました。
アリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスとは、この前代未聞の大広間のあらゆる壮麗さと、そこにある世のつねならぬ、驚くべき、そして快さのあふれるあらゆる品々に、幻暈《めくるめき》を覚えながら、立ちつくしました。二人は長いあいだ、そのたぐいのない美しさに見とれておりました。それから、このすべての壮麗から目を休ませるために、二人は園に面した窓ぎわに、肱をつきにまいりました。そしてアリ・ヌールは、この月光に照らされた園と大理石を前にして、過ぎし日の自分の苦しみを考えはじめ、そしてアニス・アル・ジャリスに言いました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、まことにこの清らかな場所は、おれにとって魅惑あふるるものがある。ここはわが魂のうちに平安をくだし、わが身を燃やしつくす火と、わが伴侶なる悲しみとを、消してくれる。」
こうしているうちに、イブラーヒーム老は、食物を取りに行って、二人に出してくれましたので、二人は腹いっぱい食べました。それから手を洗って、またもや窓ぎわに行って肱をつき、美しい果実をつけた木々を打ち眺めました。しばらくすると、アリ・ヌールはイブラーヒーム老のほうを向いて言いました、「おお長老《シヤイクー》イブラーヒームよ、何か飲み物はいただけないでしょうか。普通、食べたあとには飲むべきものと思われますが。」するとイブラーヒーム老は、冷たい甘い水を満たした瀬戸物を持って来てくれました。ところが、アリ・ヌールは彼に言いました、「何を持って来てくだすったのですか。私のほしいものはけっしてこんなものではございません。」老人《シヤイクー》は答えました、「ではほしいのは酒かな。」アリ・ヌールは言いました、「まさにそうです。」イブラーヒーム老はふたたび言葉を継ぎました、「アッラーはそのようなものよりわしを遠ざけ、護りたまえ。わしはすでに十三年前から、かかるいまわしい飲み物を絶っておる。預言者は(その上にアッラーの祈りと平安あれ)いかなる醗酵飲料を飲む者も、これを製する者及びこれを持ち運んで売る者をも、呪いなされたからな。」するとアリ・ヌールは言いました、「おお長老《シヤイクー》よ、どうかひとこと申し上げるのをお許しください。」老人《シヤイクー》は答えました、「言ってごらん。」彼は言いました、「もし私があなたを、酒を飲む人にも、作る人にも、また持ち運ぶ人にもせずに、お願い申すことをしてくださる策をお授けするとしたならば、あなたは聖なるお言葉から見て、過ちを犯すとか呪われるとかいうことは、ございませんでしょうか。」老人《シヤイクー》は答えました、「それは、あるまいね。」アリ・ヌールは言葉を継ぎました、「ではこの二ディナールと二ドラクムとを持って、園の門口に、私どもをここまで連れて来たろばがおりますから、あれにお乗りになり、市場《スーク》においでになって、ばらやその他の花の蒸溜水を売っている商人の戸口に、ろばをおとめください。こういう商人の店の奥には、きっと酒がございます。そこでだれでもよいから、最初にお見かけになった通行人を呼びとめて、その人にこの金子《かね》をお渡しになって、飲み物を買ってくれとお頼みになり、飲み物のほうを金貨二ディナールだけ求め、この二ドラクムは、その人の骨折り賃におやりください。そうして、その人に酒壺をろばに載せてもらえば、酒壺を持ち運ぶのはろばだし、それを買うのはその通行人だし、それを飲むのは私どもということになりますから、結局あなたは、このことについてはまったくかかわりのないことになり、こうしてあなたは飲む人でも、作る人でも、持ち運ぶ人でもないわけです。こういたせば、あなたは聖典への神聖な掟にそむく懸念は、少しもございますまい。」この言葉を聞くと、老翁《シヤイクー》は、声をあげて笑い出して、アリ・ヌールに言いました、「アッラーにかけて、わしは生まれてから、おまえほど愛嬌があって、またこれほど頓智とおもしろみのある人に会ったことがないね。」するとアリ・ヌールは答えました、「アッラーにかけて、私ども二人はほんとうにお世話になりました、おお長老《シヤイクー》イブラーヒームよ。けれどももう私どもはこれっきりほかにはお願い申しません。どうかおりいってお願い申し上げます。」するとイブラーヒーム老は、今までは、この御殿にあらゆる醗酵飲料があることを知らせたくなかったのでしたが、とうとうアリ・ヌールに言ってしまいました、「おおわが友よ、ここにわしの酒蔵と食料室との鍵がある。これは信徒の長《おさ》が、ここにご来臨をかたじけなくしたもうときさし上げるために、いつでもいっぱいに満たしてある。おまえはそこにはいって、何なりと好きなものを、かってに出して来てさしつかえない。」
そこでアリ・ヌールは酒蔵にはいりましたが、ここで見たものは彼を茫然とさせてしまいました。壁に沿ってずらりと、整列した棚の上には、いろいろの器《うつわ》と金無垢、銀無垢、水晶の器《うつわ》が並び、それらの器《うつわ》にはあらゆる種類の宝石がちりばめてありました。アリ・ヌールはやっと思い定めて、その中から自分の好きなものを選び出して、大広間にもどりました。そして絨毯の上にそれらの貴重な器《うつわ》を置き、アニス・アル・ジャリスのかたわらに坐り、黄金のたがをめぐらした水晶の盃に酒を注いで、この御殿にあるすべての物に驚きの目を見張りながら、アニス・アル・ジャリスと二人で飲みはじめました。まもなくイブラーヒーム老は二人に香り高い花を持って来てやって、男が女といっしょに坐っているときにする慣わしに従って、遠慮深く遠くに退きました。そこで二人は更《さら》に飲みはじめて、しまいにはすっかり酒がまわってしまいました。すると二人の頬は色づき、目はかもしかの目のように輝き、アニス・アル・ジャリスは髪をほどいてしまいました。イブラーヒーム老はこれを見ると、ひとり言を言いました、「詮ずるところ何を苦しんでこうして、彼らと共に歓を尽くさずに、遠く離れているのか。二つの月とも見まごう、この二人のみごとな美しい若者を相手にするこのような楽しい酒宴に、はたしていつふたたびめぐり合うことができようぞ。」そこでイブラーヒーム老は進み寄って、この集《つど》いの間《ま》の向う側に座を占めました。するとアリ・ヌールは言いました、「おお殿よ、後生一生のお願いです。まあこちらにいらっして、私どもといっしょにお坐りください。」それでイブラーヒーム老は一応形ばかりことわってから、二人のかたわらに来て坐りました。するとアリ・ヌールは盃を取り上げて、なみなみと酒を注いで、それをイブラーヒーム老にさしながら申しました、「おお長老《シヤイクー》よ、まずこれを受けてお飲みください。さすれば、酒盃の底の歓びを知りなさるでしょう。」けれどもイブラーヒーム老は答えました、「アッラーがわしをお護りくださるように、おお若者よ。わしはそのような違背を犯さなくなってから、おっつけ十三年になるということを、お忘れになったかな。このわしは、二度も光栄あるメッカの地に、おのが巡礼《ハジ》の義務《つとめ》を果たした者であるということを、ご存じないのかね。」そこでアリ・ヌールは、どうでもこのイブラーヒーム老を酔わせてやろうと思ったのですが、さしずめ、それ以上しいませんでした。そしてその酒を満たした盃をば自分で干して、改めてそれに酒を満たして飲み、それからしばらくすると、すっかり酔いどれのようなまねをして、ついには床《ゆか》に倒れて、そこで寝入ったふりをしました。
するとアニス・アル・ジャリスはイブラーヒーム老のほうに、悲しそうな意味ありげな流し目を送って、彼に言いました、「おお長老《シヤイクー》イブラーヒームさま、まあこの人のわたくしに対する仕打ちを見てくださいまし。」彼は答えました、「これはけしからぬ。どうしてこのようなことをなさるのかな。」彼女は言いました、「これがはじめてのことならばまだしもですの。ところがこの人ときては、いつでもこうなのでございます。飲みだすと飲みまた飲んで、盃を重ね、そのあげく酔っぱらって眠ってしまい、こうして、わたくしの相手をしていっしょに飲んでくれる人もなく、わたくしをひとりぽっちに放り出しておくのでございます。わたくしはもう歌を歌う張り合いもなくなってしまいますの、だれもわたくしの歌を、聞いてくださいませんもの。」するとイブラーヒーム老は、この燃える眼差と歌うような声とにふらふらになって、言いました、「まったく、これは愉快な酒の飲み方とは申されませんな。」するとアニス・アル・ジャリスは、盃になみなみと酒を注いで、悩ましげに老人を見つめながら、盃をさして言いました、「一生のお願いでございます。どうかこの盃を取って、わたくしを悦ばせるためにお受けくださいませ。そうしてくだされば、ほんとうに嬉しゅうございます。」するとイブラーヒーム老は手を延べて、盃を受け、それを飲みました。アニス・アル・ジャリスはふたたびその盃を満たしてやると、老人《シヤイクー》はそれを飲み、次に三杯目のときに、彼女は言いました、「おお、わたくしの親しい殿よ、もう一杯だけでよろしゅうございますから。」けれども老人《シヤイクー》は答えました、「アッラーにかけて、もう飲めない。今飲んだだけでもう十分じゃ。」すると彼女はなおも愛嬌たっぷりにしきりにすすめ、老人《シヤイクー》のほうに身を寄せかけながら、申しました、「アッラーにかけて、ぜひとも召し上がってくださいませ。」そこで老人《シヤイクー》は盃を取り上げて、それを唇のところに持って行きますと、ちょうどその瞬間、にわかにアリ・ヌールがけたたましく笑い出して、むっくと起き上がりました……。
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、その物語のつづきを翌日に延ばした。
[#地付き]されば第三十五夜になると[#「されば第三十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、アリ・ヌールはけたたましく笑い出して、むっくり起き上がり、そしてイブラーヒーム老に申したのでございます、「これはいったいなんとしたこと。ついさっきおっしゃりはしなかったかな、わしはもう十三年前からそんなことはやめたと。」するとイブラーヒーム老はたいそう恥じいったものの、急いで言いました、「アッラーにかけて、わしはなんらみずから心にとがめるところはない。すべてはこの女《ひと》が悪いのじゃ、無理じいして勧めたのだからな。」そこでアリ・ヌールは、アニス・アル・ジャリスとともども、散々笑いはじめたのでしたが、そのうちアニス・アル・ジャリスは、彼の耳もとに身を寄せて言いました、「まあわたくしにおまかせになって、もうこの人をからかいなさいますな。今に散々この人を笑ってやることになりますから。」それから彼女は自分の盃に酒を注いでそれを飲み、もう一杯の盃に酒を注いでアリ・ヌールに飲ませ、こうしてもうイブラーヒーム老のことなどてんで見向きもしないで、自分が飲んでは、アリ・ヌールにさしつづけておりました。するとイブラーヒーム老は、すっかり驚いて、この二人のすることをじっと見ていましたが、とうとう言い出しました、「これはなんとしたことじゃ、人をいっしょに飲めと誘うのに、そんなやり方があるものか。ただ自分たちが飲むのを見ておれというのかな。」するとアリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスは、散々笑ったあげく、悦んで老人《シヤイクー》もいっしょに飲ませることにして、こうして一同は夜も三分の一過ぎるころまで飲みつづけました。
そのうちアニス・アル・ジャリスはイブラーヒーム老に言いました、「おお長老《シヤイクー》イブラーヒームさま、お許しがあれば、わたくしは立って、このろうそくのひとつに、火をともしに行きたいのでございますが。」老人《シヤイクー》はすでになかば酔って、これに答えました、「いいとも、お立ちなさい。だがね、ただひとつだけにつけるのですよ、ひとつだけですぞ。」そこで彼女はすぐに立ち上がって、火をつけに走って行きましたが、ひとつどころか、広間の貴重な材料でできた、八十の吊り燭台全部に火をつけてしまって、自分の席にもどりました。すると部屋じゅう、御殿じゅう、御苑じゅうは、煌々《こうこう》と照り渡ったのでございました。するとイブラーヒーム老は言いました、「まったくおまえたちは二人とも、わしよりもずっと癖の悪い者どもじゃ。」そしてもうすっかり酔ってしまっていたので、立ち上がって、あちらこちらとよろめきながら、全部の窓、集《つど》いの間《ま》の八十の窓を残らずあけに行き、もどって来て二人の恋人といっしょに坐りなおして、彼らといっしょに、部屋じゅうに笑いと唄を響かせつづけました。
さりながら、能聞者《サーミ》にして、因果の創造者たる、アッラーの御手のあいだにある天運は、あたかもこの時刻に、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードが、ティグリス河の上に突き出た御殿の窓のひとつによられて、月光を浴びながら、涼をおとりになるようにと、望んだのでございました。そしてたまたま正面の、あたかも至妙殿の方角をご覧になっていらっしゃると、ふとこの御苑の空と河の空とに、煌々とした光が、燦《きら》めき渡るのがお目にとまりました。そこでこれはどうしたことか合点がゆかれず、さしあたりまず、大|宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーをお召し出しになりました。ジャアファルが御手のあいだにまかり出ますと、これに向かって叫びなさいました、「おお大臣《ワジール》の中の犬め、汝は余に仕うる身にかかわらず、わが都バグダードに起こることどもを、余に知らせぬのじゃな。」そこでジャアファルはお答え申しました、「恐れながら、お言葉はどういう仰せやらいっこう合点がまいりませぬ、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》はどなりつけました、「確かに、よしバグダードが今敵によって攻略せらるるとも、この罪にまさるけしからぬ罪はあるまいぞ。おお不届き者めが、ほれ、わが至妙殿は煌々と輝いておるではないか。しかるに汝は、こうして大広間をくまなく明るく照らし、その全部の吊り燭台、全部の灯火に火を点じ、全部の窓を明け放ちうるというごとき、かかる不敵の者、ないしは権力ある者が、そもそも何ぴとであるかを知らずにおる。汝に禍いあれ。かかることが余の知ることなく行なわれうるところを見れば、わが教王《カリフ》の位はもはや余のものではないと言うのか。」それでジャアファルはがたがたふるえながら、恐る恐る答えました、「だがいったい何者が、至妙殿の窓が明け放たれ、吊り燭台や灯火に火がともされているなどと、申し上げたのでござりますか。」すると、教王《カリフ》はおっしゃいました、「ここに寄って、見てみろ。」そこでジャアファルは教王《カリフ》に近寄って、御苑のほうを眺めますと、いかにも、煌々たる光が御殿も燃えんばかりに、輝いているのが見えました。
それでジャアファルは、これはイブラーヒーム老の不始末にちがいないと察しました。そこで、元来親切な気象で同情心にあふれた人であったので、これはなんとか工夫して、御苑と御殿の老番人イブラーヒーム老を、弁解してやろうと、すぐに思い立ったのでした。そこで教王《カリフ》に申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、実はイブラーヒーム老が先週私に会いに来て、こう申したのでございました、『おおわがご主人ジャアファルよ、わしのもっともせつなる願いは、閣下と信徒の長《おさ》とのご在世のあいだに、閣下のご庇護のもとに、愚息どもの割礼の儀式を祝うことにございまする。』私は彼に答えました、『それで私に何をご所望かな、おお|ご老人《シヤイクー》よ。』彼は申しました、『ほかでもございませんが、ひとつお骨折りを願って、愚息どもの割礼の儀式をば、至妙殿の大広間で祝うご許可を、教王《カリフ》から仰ぐことができればと存じます。』そこで私はこれに答えました、『おお|ご老人《シヤイクー》よ、ではただちにこれからでも、そのお祝いに必要な万端の準備をして仔細ない。私は私で、アッラーのおぼしめしのあったおり、教王《カリフ》に拝謁してあなたの希望を言上しておくから。』かくてイブラーヒーム老は立ち去ったのでございました。ところが私のほうでは、おお信徒の長《おさ》よ、私はこの件をお知らせ申し上げることをば、すっかり失念しておった次第でござりました。」
すると教王《カリフ》は答えなさいました、「おおジャアファルよ、このたびは許してつかわす。されどともかくも、わが父祖と祖宗の功績にかけて、われらはこれよりただちに、イブラーヒーム老のもとに行って、われらの夜を終えなければならぬぞ。なんとなれば、あれは正しき人物、実直な人物であり、バグダードのおもなる長老《シヤイクー》全部より尊重せられ、好んで貧者を助け、あらゆる難渋者に対して同情あふるる男じゃ。今彼のもとには、彼がアッラーの御顔のために宿を貸し、食を与えておるかかる輩《ともがら》が、皆集まっているにちがいない。されば、こうしてかしこに行けば、おそらくは、その貧者らの一人はわれらのために、現世とまた来世において、われらを利するなんらかの祈願をしてくれることであろう。またおそらくは、われらの訪れはかの善き老人《シヤイクー》に、なんらかの利をもたらすであろう。」けれどもジャアファルは答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、今や夜も大半過ぎておりまする。イブラーヒーム老の客も、今ごろは皆、まさに引き取ろうとしているに相違ございませぬ。」だが教王《カリフ》は仰せられます、「いな、どうあってもわれわれは彼らのあいだに行かねばならぬ。」そこでジャアファルも口をつぐまないわけにはゆきませんでしたが、今はすっかり当惑して、もはやどうしてよいかなすところを知りませんでした。
そのうちにも教王《カリフ》は即座に、すっくとお立ち上がりになりましたので、ジャアファルもその御手のあいだに立ち上がり、そしてお二人は御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールを従えて、至妙殿のほうへと向かいました。もっともその前にあらかじめ用心して、三人とも商人に身装《みなり》を変えて出かけたのでございました。
一行は都の街々を通り過ぎて、やがて歓楽御苑に着きました。そこで教王《カリフ》が先頭に立ってお進みになると、その大門があけ放たれているのがお目にはいりました。教王《カリフ》はたいそうお驚きになって、ジァアファルに仰せられました、「これを見よ、イブラーヒーム老が門を開け放しにしているではないか。まことに、これはいつもの彼には似げないことじゃ。」そこでともかくも三人とも中にはいって、庭を横ぎり、そして御殿の下に着きました。すると教王《カリフ》は仰せられました、「おおジャアファルよ、余は彼らの前に出るに先立って、まず音なく、ひそかに、彼ら一同の様子を見てやらねばならぬ。それはイブラーヒーム老が客として招いた者を、いささか見ておき、おもだった長老《シヤイクー》たちの数と、彼らがイブラーヒーム老に贈った進物や、息子たちの割礼のため、惜しみなく数々授けた引き出物をば、一応見届けておくためじゃ。だが今は一同が、儀式の宗礼執行に専念しているところに相違ない。というのは、ほとんど彼らの声もせず、またいる様子も見えないからな。」
それから、こうおっしゃって、教王《カリフ》はあたりを見まわされると、一本の非常に高いくるみの大木がお目にとまりました。すると教王《カリフ》はおっしゃいました、「おおジャアファルよ、余はこの木の上に登ろうと思う。この枝は窓に近く、ここからならば中が見えるであろう。汝の手を借せ。」そして教王《カリフ》はその木にお登りになって、ちょうどひとつの窓の真正面にある枝に行きつくまで、枝から枝へと、よじ登ることをおやめになりませんでした。そこで教王《カリフ》はその枝の上にお腰をおろして、そこから窓越しに中をご覧になりました。
するとその御目《おんめ》には、二つの月のような一人の若者と一人の乙女と、――かかる人々を創りたまいし御方《おんかた》に光栄あれ――それから、二人のあいだに坐って、盃を手にしたお庭番のイブラーヒーム老が見えました。そしておりしもこの老人《シヤイクー》は、乙女に向かってこう言っているのが、お耳に入りました、「おお美女のうちの女王よ、飲み物も歌がなくてはその歓びはまったからぬ。さればあなたを励まして、そのたえなる声でわれわれを悦ばせてくれるように、まずわしから、詩人の言うところを歌って進ぜよう。聞きなされ。
[#ここから2字下げ]
ヤア、レイリ、ヤア、エイニ(7)。
いとしい女の歌なくて、酒飲むな。おれは見た、馬さえもいななきの調べなくては水飲まず……。
ヤア、レイリ、ヤア、エイニ。
さてその次は、いとしい女をかきくどき、機嫌をとって、かわいがれ。さてその次は、襲いかかって、横にしろ。おまえは大きく、あちらは小さい……。
ヤア、レイリ、ヤア、エイニ。」
[#ここで字下げ終わり]
イブラーヒーム老がこんなていたらくでいるのをご覧になり、また彼の口から、こんな唄をお聞きになって、教王《カリフ》はお怒りのため、汗が御目のあいだにほとばしり出るのをお感じになりました。そして急いで木からお降りになって、ジャアファルをじっと見すえて、おっしゃいました、「おおジャアファルよ、余は生まれてより、この室にある敬うべき回教寺院《マスジツト》の長老《シヤイクー》たちの光景ほど、かくもありがたい光景を、眼前に見たことがないぞ。彼らは割礼の敬虔な儀式を、いとも敬虔に取り行なっている最中じゃ。まことに今宵《こよい》は祝福に満ちた夜。さあ汝も早く木に登って、急ぎ室内を見よ、これら尊き回教寺院《マスジツト》の長老《シヤイクー》たちの祝福の功徳《くどく》により、せっかく汝が浄めらるる機会をのがしてはならぬから。」
ジャアファルは信徒の長《おさ》のお言葉を承わったときには、非常に当惑してしまいましたが、ともかくも永く躊躇することなく、急ぎ木によじ登って、窓の正面に行きつき、そして中を見やりました。すると三人の酒飲みのいる一座の光景が見えました。イブラーヒーム老は盃を手にして、歌いながら頭を振っているし、アリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスはそれを眺め、聴きながら、笑いこけているのでした。
これを見ますと、ジャアファルはもうわが身の破滅を少しも疑いませんでした。けれども、彼は木から降りて、信徒の長《おさ》の御手のあいだに立ちました。すると教王《カリフ》はおっしゃいました、「おおジャアファルよ、われわれをば今宵のごとく、潔《きよ》めの儀式を熱心に遵奉するともがらとなしたまい、われわれを誘惑の道と放埓者どもの光景とより遠ざけたもうアッラーは、祝福されてあれ。」ジャアファルはただもう途方にくれるばかりで、どうお答えしてよいかわかりませんでした。教王《カリフ》はジャアファルを見つめながら、つづけて仰せられました、「しかし別事ではあるが、あの二人の若者はどうも他国の者と覚えらるるが、そもそも何ぴとが、彼らをこの所にまで導きえたものか、余はぜひ知りたく思う。まことに、おおジャアファルよ、余は汝に言わねばならぬ、わが目はいまだかつて、美しさといい、たおやかな容姿といい、あらゆる種類の魅力といい、かの青年のごとく、またかの乙女のごとき、若人を見たことがないぞよ。」そこでジャアファルは教王《カリフ》にお宥恕《ゆるし》を乞いますと、教王《カリフ》は彼をお許しくださいました。そこでジャアファルは申しました、「おお信徒の長《おさ》よ、まことに仰せのとおりでござりまする。彼らはいかにも美しゅうござります。」すると教王《カリフ》は仰せられました、「おおジャアファルよ、されば汝とともどもふたたび樹上に登って、われらの枝より彼らを見守りつづけるといたそう。」そしてお二人はふたたび樹上に登って、窓の真向かいの枝の上に腰をおろして、中を眺めました。
ちょうどそのときは、イブラーヒーム老が、こう言っているところでした、「おおわが女王よ、ぶどう生《お》うる丘々の美酒は、わしに、詮もないきまじめな慣わしとその醜さをば、きれいさっぱり放り出させてしまいましたわい。だが、あなたの絃楽《いと》の調べを聞かないことには、わが仕合せはまったいとはゆきますまい。」するとアニス・アル・ジャリスは彼に言いました、「ですけれど、おお長老《シヤイクー》イブラーヒームさま、アッラーにかけて、わたくしは何ひとつ絃《いと》の楽器を持っておりませんのに、どうして絃楽《いと》を調べることができましょうか。」このアニス・アル・ジャリスの言葉を聞くと、イブラーヒーム老はすっくと立ち上がりました。そこで、教王《カリフ》はジャアファルの耳もとでおっしゃいました、「いったいこれからどうするのであろう、あの放埓なる老人《シヤイクー》めは。」ジャアファルは答えました、「私にはいっこうわかりかねまする。」
そうしているうちに、イブラーヒーム老はちょっと座をはずしまして、間もなく手に一張の琵琶《リユート》を携えて、広間にもどってまいりました。そこで教王《カリフ》はよくよくその琵琶《リユート》をご覧になると、それはまさしく、お気に入りの歌手イスハークが、御殿で御宴があるときとか、あるいはただお慰め申すおりに、つねづね用いている琵琶《リユート》でございました。そのとき教王《カリフ》は仰せられました、「アッラーにかけて、あまりといえばあまりじゃ、されど余はともかくも、この秀麗なる乙女の歌をぜひとも聞きたく思う。さりながら、もしその歌がつたなかったおりには、おおジャアファル、余は汝ら一同を、一人余さず磔刑《はりつけ》にいたすであろうぞ。またもし巧みに節おもしろく歌ったおりには、彼ら一同、三名は赦《ゆる》してとらせるが、しかし汝、おおジャアファルよ、汝は依然として磔刑《はりつけ》にいたすぞよ。」するとジャアファルは叫びました、「アッラー・ウムマ、それなれば、願わくばあの乙女がよく歌えませぬように。」教王《カリフ》は驚いておっしゃいました、「なぜ汝は第二の場合よりも、第一の場合のほうを選ぶのか。」ジャアファルは答えました、「なぜと申しますれば、彼らとともども磔刑《はりつけ》になれば、私は自分の苦痛の時間を、かなり愉快に過ごす道連れができるわけでございます。私どもはお互いに相手をしあうでございましょう。」この言葉に、教王《カリフ》はお声を忍ばせて、笑い出されました。
そうしているうちに、乙女はすでに、一方の手に琵琶《リユート》を取り上げ、他方の手で、じょうずにその絃《いと》を合わせておりました。非常にほのかで非常に甘美な前奏をいくつか奏《かな》でてから、乙女は鉄をも溶かし、死者をも目覚まし、鋼《はがね》の心をも動かすばかりに、楽器の胴全体をふるわして、絃《いと》を弾じたのでございました。それから突然、自分で伴奏をつけながら、歌いました。
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ヤア、レイル……
わが敵はわれを見しとき、いかばかり恋はその泉にわが渇をいやさしむるを悦ぶかを見たり。されば彼は叫びぬ、「水はにごりてあり、この泉の水は。」
ヤア、エイン……
わが友は、かかる叫びに耳を藉《か》すとせば、ただいと遠くのがれゆけばもって足る。さあれ、かの友はいつの日か忘るべき、われらが恋の味わいし歓楽と痴事《しれごと》とは、すべてわが身に負うことを、おお、われらが恋の歓楽と痴事よ。
ヤア、レイル……
[#ここで字下げ終わり]
歌い終えると、アニス・アル・ジャリスは、絃が生命《いのち》を帯びた調べよい琵琶のみを、打ちふるわせつづけました。教王《カリフ》は「ああ」とか「ヤア、エイン……」とかいう悦びの叫びを、つい夢中になって合いの手に入れそうになるのを、一所懸命こらえて、やっと押えられたのでございました。そしておっしゃいました、「アッラーにかけて、おおジャアファルよ、余は生まれてからかつて、この年若い女奴隷の声のように、ほれぼれするみごとな声は、聞いたことがないぞよ。」するとジャアファルは微笑して、お答え申しました、「この下僕《しもべ》に対する教王《カリフ》のお怒りは、今や消散したことと存じまするが。」教王《カリフ》はお答えになりました、「いかにも、おおジャアファルよ、怒りは消散いたした。」
それから教王《カリフ》とジャアファルは木から降りて、教王《カリフ》はジャアファルにおっしゃいました、「余はこれよりかの室内にはいり、彼らのさ中に坐り、余の面前にて、かの年若い女奴隷を歌わせて聞きたいと思う。」ジャアファルは答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、もしも彼らのさ中にお出ましあそばしたならば、彼らはいたく困惑し、イブラーヒーム老にいたっては、かならずや、恐懼のあまり死んでしまうことでございましょう。」すると教王《カリフ》は仰せられました、「さらば、おおジャアファルよ、彼ら一同に警戒させず、われらたることを覚らすことなく、この件いっさいの真相を知りうべき、なんらかの工夫を講ぜよ。」
そこで教王《カリフ》とジャアファルとは、その手だての工夫に思いふけりながら、御苑の中央にある大きなお池のほうへと、ゆっくりと向かってゆきました。この池はティグリス河に通じていて、ここに逃がれて来ては、安らかに餌をあさるお魚が、それはたいへんなものでございました。それゆえ、以前に教王《カリフ》は、漁師どもがここに集まって来るのをご覧になったことがあり、また至妙殿の窓にお倚《よ》りになっていたある日のごときは、漁師どもの姿を見、声を聞かれたことさえあったほどで、そこで教王《カリフ》はイブラーヒーム老に、非常にきっぱりと、禁漁の命令を出しておかれたのでございました。
ところが、その夜は、御苑の門があけ放しになっていたもので、一人の漁師がはいって来て、心の中で言ったものでした、「これは大漁にありつけるいい機会《おり》だぞ。」この漁師はカリムと申しまして、ティグリス河の漁師のあいだでは、非常に名の売れた男でございました。そこで彼はお池の中に網を投げ入れ、ひとまず、次のみごとな詩句を微吟しはじめました。
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おお旅人よ、汝は危難を忘れ難破を忘れて、水の上を旅行く、そもいつの日か汝、心を悩ますことをやめ、福運は汝よりしてこれを求めずば、けっして汝がもとに至ることなきを覚《さと》るらん。
見ずや、猛る海と、夜々を疲れて倦みてある漁夫とを。夜々は星満ちて、晴朗なるものを。
漁夫はその網を広げぬ。波はその網を打つ。漁夫の目は、おのが網の胸ならぬ、他の胸をば見ることもなく、見守ることもなし。
おお旅人よ、漁夫のごとくなすことなかれ。されどここに人あり。人の世とこの地との値を知り、地上の日々の、地上の夜々の、地上の財宝の値を知る人ぞ。幸福にして、その心は安らけし。彼は地のあらゆる果実もて生く。
歓楽の夜を過ごして、朝《あした》に目覚むれば、彼はかもしかの乙女の微笑のもとにあり、その双眼の眼差《まなざし》の優しきもとに。
わが主《しゆ》に栄えあれ。主は一に与え、他より奪う。一は漁《いさどり》をなし、他は魚を食らう。わが主に栄えあれ。
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漁師のカリムが吟じ終えたとき、教王《カリフ》はただ一人そちらにお進みになり、そのうしろにお立ちになり、これがカリムであるとおわかりになると、突然これに向かって仰せられました、「おおカリムよ。」するとカリムは、自分の名前を聞いてぎょっとして、振り向きました。そして月明りで、教王《カリフ》のお姿を認めました。そして怖れで身動きができなくなってしまいました。そのうち少し気を取り直して、申しました、「アッラーにかけて、おお信徒の長《おさ》よ、けっして、私がご命令をないがしろにして、このようなことをいたしておるとは、お思いくださいますな。今宵《こよい》、私をしてかかるふるまいにいでさせたのは、ただひとりの貧と私の数多い家族のせいでございまする。」すると教王《カリフ》は仰せられました、「よろしい、おおカリムよ、このところは汝を見ないでつかわす。されど、いささかわが運を見るために、余の名において汝の網を打ってみてくれまいか。」
すると漁師はこのうえなく悦んで、アッラーの御名を念じながら、急ぎ網を水に投げて、網が水底に着くまでじっと待ちました。それから引き上げてみると、そこにはあらゆる種類のお魚が、数えきれないほどたくさんにかかっておりました。教王《カリフ》はこれにたいそうご満足になって、仰せられました、「さて、おおカリムよ、汝の着物を全部脱げ。」
そこでカリムは急いで着物を脱ぎ出しました。そして自分の衣類を一枚一枚取って行きました。最初は、広い袖のついたその上衣ですが、それはさまざまの色の布切れと粗末な毛織物で、一面つぎはぎだらけでした。このカリムの上衣は、少なくとも二十年はたっておりまして、もう永いこと、いく千もいく千もの、しっぽのついた種類や、しっぽのない種類の南京虫の、住家となっていました。そのほか、そこには茶色と白の蚤《のみ》が、四十枚の襞《ひだ》つきの衣服を、黒と白に埋めつくすことができるほど、たかっておりました。またそのターバンときては、もう十年以上も、広げたことも、取りかえたこともなく、そこは、大きな虱《しらみ》やら小さな虱やら、灰色のや赤いのや、黒いのや、その他いろいろのやつの群れにとって、安全な隠れ家となっておりました。そこでカリムは、その上衣とターバンを脱いで地上に置き、こうして教王《カリフ》の御前で丸裸になりました。
すると教王《カリフ》もまた、お着物を脱ぎはじめられました。まずイスカンダリア産の絹で作った第一の衣《ころも》と、バーアルベク産の絹で作った第二の衣を取り、次にびろうどの上胴着と胴着を脱がれて、そして漁師に仰せられました、「カリムよ、この衣類を取らせるから、汝はこれを着よ。」次に教王《カリフ》はお手ずから、漁師の広い袖の上衣とターバンを取って、これを召され、そして、彼におっしゃいました、「汝は今は立ち去って、おのれの仕事におもむいてよろしい。」すると、この男は教王《カリフ》にお礼を述べはじめて、敬意を表して、次の二節を誦しました。
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君はわれをば、わが感謝のはてしなからむごとく、はてしなき富の主《あるじ》となしたまえり。君は惜しみなく、われにあらゆる贈物のかぎりをくだしたまえり。
さればわれは、生者のあいだにあらんかぎり、君をば讃えまつるべし。しかして、われ死なば、わが骨は墳墓の中に、なお君に謝し奉るらん。
[#ここで字下げ終わり]
ところが、漁師のカリムがこれらの詩句を誦し終わらないうちに、教王《カリフ》は、この爺さんの襤褸《ぼろ》の中に住居を選んだ南京虫や虱に、全身のお肌が襲われるのをお感じになり、こうしたものすべてが、おからだじゅうを勢いよく動きまわりはじめたのでした。そこで教王《カリフ》は右手でまた左手で、お頭《つむ》やお胸やおからだじゅうから、いくつかみも虫を捉えては、取り乱したお困りの態《てい》で、おじけをふるって、遠くに投げ捨てなさいました。それから漁師におっしゃいました、「不届きなるカリムよ、汝の袖とターバンの中に、かかる有害な虫をかくも集むるとは、なんたることじゃ。」カリムはお答え申しました、「殿よ、だいじょうぶ、お恐れあそばすことはござりません。今はそういう虫どもが刺すのをお感じになりますが、もしごしんぼうなすって、私のようになさいますれば、あと一週間もたつと、もう何もお感じにならず、それからはお刺されにならず、もう少しもお気にかからなくなるでございましょう。」すると教王《カリフ》はおいやでならないうちにも、ついお笑いになってしまいました。けれどもおっしゃいました、「困ったことじゃ、なんとしてこの衣をわが身にまとっておられようか。」漁師は言いました、「おお信徒の長《おさ》よ、私はちょっと申し上げたいことがござりますが、おおけなき教王《カリフ》の御前にて、そのような言葉を言い出すことは、いかにもはばかりがございます。」するとアル・ラシードはお答えになりました、「ともかくも、汝の言わんとするところを言ってみよ。」カリムはお答え申しました、「ふと心に浮かんだのでございますが、おお信徒の長《おさ》よ、わが君は、なんぞ生活《たつき》の道を立てるような商売をおんみにつけようとて、漁の術《すべ》をお覚えになるおぼしめしではございませんでしょうか。万一さような次第でございましたら、その着物とターバンとは、まことにうってつけのものでございます。」すると教王《カリフ》はこの漁師の言葉にたいそうお笑いになって、そして漁師をお帰しになりました。そこでカリムは自分の道のまにまに立ち去りました。
教王《カリフ》は急ぎ、漁《すな》どった魚のはいっている、棕櫚《しゆろ》の葉でつくった魚籠《びく》を取り上げ、それらの魚をもぎ立てのきれいな葉でていねいにおおい、こうしてそれを携えて、ジャアファルとマスルールのところに、おもどりになりました。
そのお姿を見ると、ジャアファルとマスルールとは、それが漁師のカリムであることをつゆ疑わず、ジャアファルはこの漁師のために教王《カリフ》のお怒りを心配して、これに申しました、「おおカリムよ、こんなところに何をしに来たのか。早く逃がれよ。今夜は教王《カリフ》がこの御苑におられるのだ。」このジャアファルの言葉を聞かれたとき、教王《カリフ》はおかしさのあまり尻餅をついてしまわれました。そこでジャアファルは叫びました、「アッラーにかけて、これはわれらがご主君にして御主《おんあるじ》、信徒の長《おさ》そのかたにてあらせられまするか。」教王《カリフ》はお答えになりました、「まさにしかり、おおジャアファルよ、して汝はわが大|宰相《ワジール》にして、余は汝と共にここまで来たのに、しかも汝は余がわからなかった。さらば、すっかり酩酊いたしおるイブラーヒーム老には、何とて余がわかろうぞ。汝はこの場を動かず、余のもどるまで待っておれ。」そこでジャアファルは答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」
そこで教王《カリフ》は御殿の戸口のほうに進み寄って、戸をたたかれました。するとすぐに、大広間の中から、イブラーヒーム老が立ち上がって叫びました、「戸口にいるのはどなたじゃ。」教王《カリフ》はお答えになりました、「私です、おお長老《シヤイクー》イブラーヒーム。」彼は言いました、「そういうおまえさんはだれじゃ。」教王《カリフ》は答えました、「私です。漁師のカリムでございます。今夜はお客さまがおありだと伺いましたので、取りたてのまだぴちぴちしている、上等のお魚を持ってまいりました。」
ところでちょうど、アリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスは、お魚が大好きでございました。そこで、取りたてのまだぴちぴちしている魚という言葉を聞くと、二人ともども悦びのかぎりに悦んで、アニス・アル・ジャリスは叫びました、「はやく戸をあけてやってくださいませ、おお長老《シヤイクー》イブラーヒームさま、そして持って来たお魚といっしょに、その人をここに入れてくださいまし。」そこでイブラーヒーム老も戸をあけてやる気になって、こうして漁師に身をやつした教王《カリフ》は、無事にはいることができて、慣例《しきたり》の挨拶をしはじめました。ところがイブラーヒーム老は、けたたましく笑ってこれをさえぎり、叫びました、「盗人《ぬすつと》であれ、盗人仲間のそのまた泥棒であれ、よく来た、よく来た。さあさ、こっちに来て、おまえの持ってるその上等な魚ってやつを見せてくれ。」そこで漁師はみずみずしい葉をどけて、一同に魚籠《びく》の魚を見せますと、いかにもその魚はまだ生きていて、ぴちぴちはねております。するとアニス・アル・ジャリスは叫びました、「アッラーにかけて、おおご主人さまがた、なんとこのお魚は見事なのでございましょう。あげてないのがほんとうに残念ですこと。」イブラーヒーム老は叫びました、「アッラーにかけて、いかにもそのとおりじゃ。」そして教王《カリフ》のほうを向いて、言いました、「おお漁師よ、この魚を一度あげてから持って来てくれなかったのは、なんとも残念なことじゃ。さあこれを持って行って、急いであげてから、ここに持って来てくれ。」教王《カリフ》は答えました、「お言いつけ、わが頭《かしら》の上に。ではこれをあげて、すぐに持ってまいりましょう。」一同はいっせいに答えました、「そうそう、早くあげて持って来ておくれ。」
教王《カリフ》は急いで外に出て、ジャアファルのところにはせ帰って、これにおっしゃいました、「おおジャアファルよ、彼らは魚をあげてくれというのじゃ。」彼は答えました、「おお信徒の長《おさ》よ、では私にお渡しくださいませ、私があげてまいりましょう。」教王《カリフ》はおっしゃいまして、「わが父祖と祖先の御墓《みはか》にかけて、余以外の何ぴとにも、この魚をあげさせはせぬぞ。余が手ずからいたす。」そこで教王《カリフ》は、お庭番イブラーヒーム老の住居になっている、葦ぶきの小屋に行かれまして、ほうぼう捜しまわり、魚をあげる器具といろいろな材料、塩やたちじゃこうそう[#「たちじゃこうそう」に傍点]や月桂樹の葉や、その他そのたぐいの品々に至るまで、入用なもの全部を見つけ出されました。それからかまどに近づいて、心の中でひとりおっしゃいました、「おおハールーンよ、汝は若いころおい、厨房に行って、女どもといっしょにとどまることを大いに好み、調理にたずさわっていたことを思い起こせよ。今こそ汝の腕前を発揮すべきときだぞ。」
そこで教王《カリフ》は鍋を取り上げて、火にかけ、油を入れてお待ちになりました。油が十分に煮えたぎると、あらかじめよく鱗を落とし、洗い清めて塩し、薄くメリケン粉の衣をつけておいた魚を取り上げて、これを鍋の中にお入れになりました。片側が十分にあがると、非常にあざやかなお手ぎわで、これをひっくりかえして、魚がほどよいころあいになったとき、鍋から取り出して、これを芭蕉の大きな緑の葉の上に、横になさいました。それから庭にレモンをいくつか取りに行かれて、それを切って同じく芭蕉の葉の上にならべ、そして全部を広間の会食者たちのところに持って行って、彼らの手のあいだにお置きになりました。
すると若いアリ・ヌールと若いアニス・アル・ジャリスとイブラーヒーム老とは、それぞれ手を延ばして、食べはじめました。食べ終わると三人は手を洗い、そしてアリ・ヌールは申しました、「アッラーにかけて、おお漁師よ、どうも今夜は、われわれはたいへんおまえのお世話になった。」それから衣嚢《かくし》に手を入れて、バスラで父の年若い侍従であった親切なサンジャルが、惜しみなくくれたディナール金貨の中から、三枚の金貨を取り出しました。そしてそれを漁師にさし出しながら、申しました、「おお漁師よ、これだけしかあげられないのを、どうか許してもらいたい。というのは、アッラーにかけて、もしも最近の出来事が私の身に降りかかる前に、おまえを知ったのであったら、もっともっとたくさんあげて、おまえの心から、永久に貧の苦しみを取り除いてあげたであろうが。されば、今の身分であげられるこれだけを、どうか取ってくれよ。」そして金貨をさし出して、無理に教王《カリフ》に取らせました。そこで教王《カリフ》はそれを取って、アッラーとその恩恵者にこの賜物を謝するかのように、それを唇に持って行き、次に額におやりになってから、衣嚢《かくし》にお納めになりました。
けれども、アル・ラシードが何よりもお求めになっていたことといえば、その若い女奴隷をご自分の前で歌わせて、お聞きになることでございました。そこで教王《カリフ》は、アリ・ヌールにおっしゃいました、「おおわが若いご主人よ、あなたさまのご恩とご大度は、私の頭と目の上にございます。けれども、私のもっともせつなる望みは、その女奴隷のおかたが、そこにある琵琶を少々かなでてくださって、定めし見事なお声にちがいないそのお声で、歌を歌ってくださることでございます。というのは、およそ歌は私の心を奪い、琵琶の調べもまた同様、それは私がこの世でもっとも好きなものでございますから。」するとアリ・ヌールは言いました、「おおアニス・アル・ジャリスよ。」彼女は答えました、「はい。」彼は言いました、「わが生命《いのち》にかけて、もしわが生命がおまえにとってたいせつなものならば、何か歌って、この漁師を悦ばせてやってもらいたい。たいそうおまえの歌を聞きたがっているからな。」この言葉に、アニス・アル・ジャリスは、時を移さず琵琶を取り上げ、試しに二音三音鳴らしてみて、それから突然|絃《いと》をはじいて、序の曲をかなでますと、聞き手は皆分別を奪われてしまいました。それから彼女は自分の微笑を微笑して、改めて琵琶の絃《いと》をかきならしつつ、自分の声で次のように歌いました。
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きみ、若き御足《みあし》もて、われらが地に触れたまえば、地は歓びにおののきて輝けり。きみが眼《まなこ》の輝きは、夜の闇を、遠く彼方に追いやれり。
ふたたびきみにまみえんと、おお若き男《お》の子《こ》よ、われはここに、麝香、ばら水、竜脳をもて、わが住居をば、香らせんとす。
[#ここで字下げ終わり]
そしてアニス・アル・ジャリスの歌声はあまりに見事であったので、教王《カリフ》はお歓びの限りに達せられ、あまりの激しいご感興に、もはやお心の熱狂を制することがおできにならず、叫び出されました、「ああ、ああ、ヤア、アッラー、イ、アッラー。」するとアリ・ヌールは言いました、「おお漁師よ、この奴隷の声と絃の調べが、それほどおまえの気にかなったか。」教王《カリフ》は答えられました、「アッラーにかけて、いかにもさようでございます。」するとアリ・ヌールは、平生から自分の客の気に入ったものは、なんでもどしどしくれてしまう人であったので、これに申しました、「おお漁師よ、この声の持ち主がおまえの意にかなうとあらば、さらば、私はこれをおまえに進上して、贈物としよう。ひとたび進呈したからには、もはや断じて取りもどすことのない、いさぎよい心の贈物だ。さればこの女奴隷を受け取りなさい。今からこれはおまえのものだ。」そしてアリ・ヌールは即座に立ち上がって、手早く自分の外套を取り上げて肩に投げかけ、アニス・アル・ジャリスに別れを告げることさえせずに、集《つど》いの間を出て行こうといたしました。
するとアニス・アル・ジャリスは、涙あふれる眼差《まなざし》を彼に投げて、申しました、「おおご主人アリ・ヌールさま、あなたはわたくしに最後の別れの眼差さえくれないで、そのようにほんとうにわたくしを棄てて立ち去ってしまわれるのでございますか。」
こうした言葉を聞かれて、ずっと漁師に身をやつした教王《カリフ》は、ご自分がこの二人の若者の別離の種となったことを、たいそう心苦しくお感じになりましたが、一方、アリ・ヌールがこのような絶世の美女を、しごく無造作にご自分に贈るということに、非常にお驚きになりまして、彼におっしゃいました、「おお、お若いかたよ、私はあなたのお父上なみの年齢《とし》をしているのですから、懸念なく包まずお聞かせください。あなたはひょっとしたら、この若いご婦人をかどわかしたために、捕えられて罰せられるのを、恐れていらっしゃるのではないのですか。それともまた、借財の穴埋めに、この女《ひと》を私に譲ろうとでも思っていらっしゃるのですか。」するとアリ・ヌールは申しました、「アッラーにかけて、おお漁師よ、私とこの女奴隷との身には、実もって驚くべき事件と、実もってなみなみならぬ不幸が起こったのであり、もしこれを針でもって目の内側の片すみに書いておいたならば、これをうやうやしく読む者には、ひとつの教訓ともなるものだろう。」そこで漁師は答えました、「さっそくあなたの身の上を私たちに聞かせ、事細かにそのお話をしてください。なぜというに、それがあなたにとって、苦しみを軽くし、身を助ける原因《もと》とならぬものともかぎらない。なぜなら、慰めとアッラーのお助けとは、つねに近きにあるものですから。」するとアリ・ヌールは言いました、「おお漁師よ、おまえは私のその話を、どういうふうに聞きたいかね。詩か散文か、どちらがよいか。」教王《カリフ》はお答えになりました、「散文は絹の上に施した刺繍で、詩は真珠の首飾りでございます。どうして私の望みを、どちらかにきめることができましょうぞ。」するとアリ・ヌールは言いました、「では、まず最初は真珠だ。」そして彼は両の目をなかば閉じ、額をたれて、こうしてひとときじっとしておりました。それからふたたび頭を上げると、突如、詩の泉が流れ出ました。それは、悲調の韻文で即吟された、アリ・ヌールとアニス・アル・ジャリスの物語の、一部始終全部でございましたが、それをくり返し申し上げるまでもございません。彼はその韻文の話をば、次のように結びました。
[#ここから2字下げ]
さて今は、おお漁師よ、よくぞ知れ、われはこのわが友のほかには、宝とて一物もなし。しかも、われはこれをば汝に贈るなり、おお漁師よ。
よくぞ知れ、わが汝に与うるは、わが心の最愛の者、この女と共に、汝はわが心そのものをば、われより奪うものなるぞ、おお漁師よ。
[#ここで字下げ終わり]
アリ・ヌールは吟じ終わると、口をつぐみました。すると、教王《カリフ》はおっしゃいました、「おおわがご主人さま、私はこの一連の真珠を十分感嘆させていただきましたから、今度は、この驚くべきお話をば、絹の上の刺繍をもって、さらに細かくお話しくださいませんか。」そこでアリ・ヌールは、ずっと漁師のカリムに話しているつもりで、自分のバグダード到着から歓楽御苑にはいった顛末を、細大もらさず、韻律ととのった散文で、話しました。
全部の次第がよくお呑みこめになると、教王《カリフ》はおっしゃいました、「さて、あなたはこれから、どこへおいでになるおつもりですか、おおご主人アリ・ヌールさま。」アリ・ヌールは答えました、「おお漁師よ、アッラーの土地は限りなく広大だ。」すると教王《カリフ》は彼におっしゃいました、「お聞きください、おお、お若いかたよ。私は名もない一介の漁師にすぎませんが、これからすぐに、手紙をひとつ書いてさし上げますから、これを持って、信徒の長《おさ》のご家来の、バスラの帝王《スルターン》ご自身の御手に、お渡しなさい。帝王《スルターン》がこれを読めば、すぐにきっとあなたにとってよいようになるでございましょう。」
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]そして第三十六夜になると[#「そして第三十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、教王《カリフ》がアリ・ヌールに向かって、「私が手紙を書いてさし上げますから、ご自身でこれをバスラの帝王《スルターン》の御許にお届けなさい。帝王《スルターン》がこれを読めば、万事あなたにとってよいようになるでございましょう」とおっしゃいますと、アリ・ヌールは答えました、「だが、一介の漁師が自由かってに王侯に手紙を書くなどということが、かつて地上にあったろうか。これはいまだかつてためしのないことだ。」すると教王《カリフ》はお答えになりました、「いかにもごもっともです、おおご主人アリ・ヌールさま。しかしそれではすぐに、私にこんなことができる動機《いわれ》を、ご説明いたしましょう。こういう次第です。まだ子供のころ、私はバスラの帝王《スルターン》と同じ学校で、同じ先生について、読み書きを習ったものです。そればかりか、私はあの人よりもよくできて、文字もずっとうまければ、詩にせよ、聖典の文句にせよ、あの人よりもずっとわけなく暗《そら》んじたのでした。そして私たち二人は、切っても切れない親友でした。ところがその後、あの人は運がよくて王さまになり、一方、アッラーは私をば単なる一介の漁師になさったのでした。しかし、あのかたはアッラーの御前で高ぶった心をもってはいないから、やはり私との交際をつづけられました。そしておよそ私の頼むことで、すぐにかなえてくれないという事柄は、ひとつもございません。そればかりか、たとえ私が毎日千の事柄を頼んでやったとしても、かならず、それを全部かなえてくれることでしょう。」アリ・ヌールはこの言葉を聞くと、言いました、「ではおまえの言いたいことを書いて、わが目で見せてもらおう。」すると教王《カリフ》は床《ゆか》に坐って、片脚を他のお脚の上に重ねられ、矢立と蘆筆《カラム》と一枚の紙を取り上げなされ、その紙を左手のたなごころの上にお載せになり、右手で蘆筆《カラム》をお持ちになって、次のようなお手紙をおしたためになりました。
[#ここから2字下げ]
果てしなく寛仁にして慈悲ふかきアッラーの御名において[#「果てしなく寛仁にして慈悲ふかきアッラーの御名において」はゴシック体]
次のごとし。
本書状は、朕ハールーン・アル・ラシード・ベン・エル・マハディにより、バスラの帝王《スルターン》、わが臣下ムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニにつかわさるるものなり。
汝よろしく想起すべし、わが恩顧汝にあまねく、ひとえにわが恩顧によってのみ、汝はわが領土中の一領土において、わが名代に任ぜられたるものなるを。
さて、朕は汝に通告す、親しくわが手に成りし本書状の持参者は、かつて汝の大臣《ワジール》にして、今は至高者のご慈悲のうちにいこうエル・ファドル・ベン・カーカーンの息子アリ・ヌールなり。
わが綸言《りんげん》を読み終えなばただちに、汝は領土の王座より立ちて、そこにアリ・ヌールを置くべし。彼は汝にかわって王たるべき者なり。なんとなれば、朕は今親しく、先に汝に授けし権限をば、この者に授けたればなり。
くれぐれも心して、勅命の執行に遅滞することなかれ。しかして汝の上に救い至れかし。
[#ここで字下げ終わり]
次に教王《カリフ》はその手紙をおたたみになり、それに封をして、アリ・ヌールにはその内容を明かさないで、これを彼にお渡しになりました。アリ・ヌールはその手紙を受け取って、それを自分の唇と、次に額のところに持ってゆき、ターバンの中にしまって、そのまま、バスラに向けて船にのるために、出て行きました、一方、痛ましいアニス・アル・ジャリスは、置き去りにされて、片すみで泣き崩れていたのでございました。
アリ・ヌールのほうは、さしあたり、かような次第でございました。さて、教王《カリフ》のほうはと申しますと、次のような次第でございます。
イブラーヒーム老は、このあいだずっと、ひと言も言わずにいましたが、こうしたいっさいの成り行きを見ると、彼は相変わらず教王《カリフ》を漁師のカリムと思いながら、そちらに向き直って、どなりつけました、「おお、漁師の中でもいちばん不届きなやつめ、きさまはせいぜい銅貨一枚の値もないくらいの魚を、二、三匹持って来てからに、金貨三ディナールをせしめて、なおそれに飽き足らず、今度はこの若い女奴隷まで、自分の物にしようとしやがる。不届きなやつだ、さあすぐさま、せめて金貨半分はおれによこせ。またこの女奴隷は、これまたいっしょに分けろ。まず最初はおれで、きさまはそのあとだ。」
この言葉を聞くと、教王《カリフ》は、つと窓のひとつに走り寄って、手を打たれました。ジャアファルとマスルールとは、この合図を待ちわびていたところでしたから、急いで部屋に駆けこみました。そして教王《カリフ》の合図のもとに、マスルールはイブラーヒーム老に飛びかかって、押えつけてしまいました。ジャアファルのほうは、かねて侍者の一人をさし向けて大急ぎで取り寄せておいた、みごとな御衣《ぎよい》を手にして、教王《カリフ》にお近づき申し、その漁師のぼろをお脱がせして、絹と黄金の御衣をお着せ申し上げました。
これを見ると、ふるえ上がったイブラーヒーム老は、教王《カリフ》のお姿を認め、恥ずかしさに、指を噛みはじめました(8)。けれどもいまだにこれが現実《うつつ》とは信じかねて、ひとり言を言っていました、「はて、結局わしは眠っているのか、それとも覚めているのか。」すると教王《カリフ》は、平生のお声で、これにおっしゃいました、「何事か、イブラーヒーム老、汝のその態《ざま》はそもそもなんとしたことじゃ。」このお言葉に、イブラーヒーム老は今はすっかり酔いもさめ果てて、面《おもて》を床《ゆか》にこすりつけました。すると教王《カリフ》はこれに仰せられました、「まあよい、起きよ。このところは許してつかわす。」それから教王《カリフ》はアニス・アル・ジャリスのほうに向かれて、おっしゃいました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、余が何ぴとであるかそちにわかった今となっては、そちは王宮に伴い行かれよ。」そして、一同は至妙殿の広間を引き上げました。
アニス・アル・ジャリスが宮殿に着くと、教王《カリフ》はこれに、彼女ひとりだけの別室をあてがわせなされ、多くの侍女と奴隷をおつけになりました。それから、そこに会いに行かれて、申されました、「おおアニス・アル・ジャリスよ、さしあたりそちは余の物であるぞ、一方において、余はそちを欲するがゆえであり、また他方、そちはアリ・ヌールによって、かくもいさぎよく余に譲られたるものであるから。ところで実は、余は余で、この贈物に謝せんがため、先刻、アリ・ヌールをばバスラの帝王《スルターン》となして派したのである。そしてアッラーのおぼしめしあらば、余は近日、そちにみやげ物を託して、彼のもとにつかわし、そちを彼といっしょにし、彼のかたわらにて王妃《スルターナ》となすであろう。されど今のところは、憂い悲しみを忘れて、そちの心をさわやかにせよ。」それから教王《カリフ》はアニス・アル・ジャリスを抱かれ、その夜は二人は抱き合って過ごしました。この二人に起こったところは、かようでございました。
ところでアリ・ヌールにおきましては、どうかと申しますと、アリ・ヌール・ベン・カーカーンはアッラーのお恵みによって、バスラの都に着きますと、そのまままっすぐ、帝王《スルターン》ムハンマド・エル・ゼイニの御殿に行き、王座の間《ま》に上って、ひと声大きく叫びました。すると帝王《スルターン》はこの叫び声を聞きつけて、その男を御前に連れて来るように命じました。そこでアリ・ヌールは、ターバンから教王《カリフ》の玉翰を取り出して、これをお渡ししました。そこで帝王《スルターン》はその手紙を披《ひら》いてみると、教王《カリフ》のご手蹟を拝したのでございます。帝王《スルターン》はすぐにすっくと立ち上がって、その内容をとくと読み、読み終えると、玉翰をみたび唇と額のところにやって、申しました、「謹んで承わり、至高のアッラー並びに信徒の長《おさ》教王《カリフ》の御心《みこころ》に従いたてまつる。」
そして帝王《スルターン》はすぐに、都の四人の法官《カーデイ》(9)とおも立った主長《アミール》を召し出して、ただちに教王《カリフ》のご命令に従って、王位を退こうとのご決心を、一同に知らせようとしました。ところが、こうしているおりからそこに、アリ・ヌールとその父の旧敵の、総理|大臣《ワジール》エル・モヒン・ベン・サーウイがはいってまいりました。そこで帝王《スルターン》は彼にこの信徒の長《おさ》の玉翰を渡して、申されました、「拝読せよ。」大臣《ワジール》サーウイは玉翰をお受けして、一読再読し、そしてびっくり仰天してしまいました。けれどもいきなり、すばやく手を翻して、お手紙の下のほうの、教王《カリフ》の黒い玉璽のあるところを破り取り、それを自分の口に持っていって、かみ砕き(10)、次にそれを遠くに吐き棄ててしまいました。そこで帝王《スルターン》は非常にお怒りになって、叫びました、「汝に禍いあれ、おおサーウイ、汝はいかなる悪魔にそそのかされて、かかるふるまいに及んだるか。」するとサーウイは答えました、「おお王よ、されば、この無頼の徒は断じて教王《カリフ》にも、またその宰相《ワジール》ジャアファルにすら、お会いしたのではございませぬ、こやつは単に一介の詐欺漢、狡智と奸計に満ち、悪徳にむしばまれたる不宵の徒にすぎませぬ。きゃつはたまたま、教王《カリフ》のご筆蹟ある紙片を手に入れたものに相違ありませぬ。そしてそのご筆蹟をまね、偽造をし、こうしてかってなことを書いたのでございます。されば、教王《カリフ》がいまだ、その尊きご筆蹟もて記《しる》されたるご沙汰書を捧持せる特使を、ご派遣あそばされぬに、おお帝王《スルターン》よ、何とてご退位をお思いあそばすことがござりましょうぞ。かつまた、万一|教王《カリフ》が真にこの者をおつかわしになられたものとすれば、かならずやこれに、だれか侍従とか大臣とかを随行せしめられたでござりましょう。しかるに、こやつは単身ここに来たことは、われわれの知るところでございます。」
すると帝王《スルターン》は答えました、「しからば、なんとなすべきか、おおサーウイよ。」彼は言いました、「おお王よ、この若者をば私におまかせくださいませ。さすれば、私はかならず真相を突きとめてご覧に入れます。私はこれに一人の侍従をつけてバグダードへやり、正確に事実を取り調べさせましょう。もし事が真なれば、この若者は、今度は、教王《カリフ》の尊きご筆蹟もて記された真のお沙汰書をば、持ち帰るでございましょう。されど、もし事が真ならずば、その侍従にこの若者を連れもどさせ、その節は、私はきつくこの者に復讐し、過去と現在を償のわせてやることができるでございましょう。」
この大臣《ワジール》サーウイの言葉を聞くと、帝王《スルターン》もついにはアリ・ヌールがほんとうに罪あるものとお信じになり、しばしの猶予さえなさろうとしないほど、たいへんなお怒りにはいりました。そして警吏たちに叫びました、「この者を捕えよ。」そこで警吏たちはアリ・ヌールを捕えて、地に押し倒し、鞭を加えはじめて、すっかり気を失ってしまうまで、打ちのめしました。それから帝王《スルターン》は、彼の手足に鎖をかけることを命じて、次に牢番の長を呼び寄せさせました。牢番の長はさっそく王の御手のあいだにまかり出ました。
ところで、この牢番の名はクータイトと申しました。大臣《ワジール》はその姿を見ると、彼に言いました、「おおクータイトよ、われらのご主君|帝王《スルターン》の御命により、おまえはこの男を引っ立てて、土牢の中にうがたれている穴のうちのひとつに放りこみ、夜となく昼となくこれに拷問を加え、しかもきっと手きびしくいたせよ。」クータイトは答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」そしてアリ・ヌールを引いて、すぐさま地下牢に連れてゆきました。
クータイトはアリ・ヌールといっしょに地下牢にはいりますと、まず戸をしめて、それからすぐに地面をていねいに掃かせ、戸のうしろの腰かけをきれいに掃除させ、その腰かけに敷き物を敷いて、クッションを置きました。それからアリ・ヌールに近づいて、そのいましめをとき、まず腰かけの上で休息するようにすすめてから、申しました、「おおわがご主人よ、この私がご先代の亡くなった大臣《ワジール》さまには、ひとかたならぬお世話になりましたことを、私はけっして忘れませぬ。さればどうぞご心配あそばすな。」そして、すぐに彼はアリ・ヌールを、鄭重親切に待遇しはじめて、何ひとつ不自由させませんでした。そして一方では、毎日|大臣《ワジール》のところに人をやって、アリ・ヌールはこのうえなくひどい罰を受けていると、報告させました。そしてこのようにして四十日の間つづきました。
さて四十一日目になりますと、教王《カリフ》から王に宛てて、すばらしい贈物が、御殿に届いたのでございました。王はこの贈物のりっぱさに驚嘆なさったのですが、なぜ教王《カリフ》がこのような贈物をくだされたのか、その動機《いわれ》がまったくわからないので、そこで主長《アミール》たちを集めて、その意見を求められました。するとそのうちの数人のものが、この贈物は、教王《カリフ》のご意向では、さきに新しい帝王《スルターン》になるためにここにつかわされたかたに、宛てられているとしか考えられないという意見を、陳《の》べました。ところが、大臣《ワジール》サーウイは叫びました、「おお王よ、ですから私はあのとき、あのアリ・ヌールをば片づけてしまったほうがよろしい、それこそもっとも賢明な策であると、申し上げたではござりませぬか。」すると帝王《スルターン》は叫びました、「アッラーにかけて、そうそう、そのほうの言葉で今、きゃつを思い出したわい。すみやかに連れてまいって、容赦なく首をはねよ。」そこでサーウイは答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。さりながら、私はその前に、触《ふ》れ役人をして、全市にきゃつの死刑を布告せしめ、『アリ・ヌール・ベン・カーカーンの処刑に立ち会いたい者はすべて、王宮の下に来たれ』と触れさせてやりとうございます。そうすれば全市民がこの処刑を見にまいるでございましょうから、かくて私は讐《かたき》を取り、私の胸はせいせいいたし、私の憎しみは満足させられるでございましょう。」すると帝王《スルターン》は答えました、「そのほうのよきに計らえ。」
すると大臣ベン・サーウイは大悦びで、奉行《ワーリー》のもとにはせつけ、アリ・ヌールの処刑の時刻と、先ほど言ったようなことすべてを、全市に触れさせるようにと命じました。それはすぐに行なわれました。そこで触れ役人たちの言葉を聞くと、町のすべての住民は悲しみいたみ、そして、学校の小さな子供や市場《スーク》の店主に至るまで、皆泣きはじめました。それから、ある者は、アリ・ヌールの通る姿を見、その死刑の痛ましい光景に立ち会うために、良い場所を取ろうとあわただしく駆けつけ、また他の人々は、アリ・ヌールが出て来たらすぐにそのあとからつき従おうと、群れをなして牢屋の戸口に押しかけました。
さて大臣《ワジール》のほうは、自分の衛兵十名を引き連れて、いそいそと牢に駆けつけ、その門をあけて自分を通せと命じました。すると牢番クータイトは、大臣《ワジール》がここに来たわけを知らないようなふりをして、これに言いました、「いかなるご用でございましょうか。おおわれらのご主人|大臣《ワジール》よ。」大臣《ワジール》は答えました、「かの悖徳無頼の若僧を、すみやかにわが前に連れて来い。」牢番は言いました、「あの男は、散々打擲を受け、拷問を加えられたために、今はもうこのうえなくまいっております。さりながら、ただちにお言いつけに従いましょう。」そして牢番は遠ざかって、アリ・ヌールのいる場所のほうへと向かいました。
そしてクータイトは彼に近づいて、急いで事情を説き明かし、ひそかに着せていたさっぱりとした着物を、手を貸してすばやく脱がせ、みじめな囚人らしく、ぼろぼろの古びた着物を着せてやり、そして、憎しみにじだんだを踏みながら彼を待っている、大臣《ワジール》サーウイの手のあいだに連れて行きました。アリ・ヌールは大臣《ワジール》を見ると、この自分の父の旧敵が、自分に対してどんな敵意を抱いているか、よくわかりました。けれども彼はこれに言いました、「私はここにいる、おおサーウイよ。しかしあなたは、このように運命に信を置いているが、それがいつもご自分に幸いするものと思っていられるのか。さらば、詩人の言葉をご存じないか。
[#この行2字下げ] 彼らは権威をもって裁き、権威を利しておのが権利を越え、公正を傷つけたり。やがて彼らの裁決はもはや裁決にあらずして、無のうちについえ去ることを、彼らは知らず。」
そしてアリ・ヌールは言いそえました、「おお大臣《ワジール》よ、ただアッラーのみ権力を持ちたまい、唯一の実現者たることを、十分に心得なされよ。」すると大臣《ワジール》は答えました、「そんな御託《ごたく》を並べて、おれをおどかそうという気か。ところが知るがよい、このおれはきょう即日、きさまの鼻にもかかわらず、またバスラの全住民の鼻にもかかわらず、きさまの首をはねてやるわい。そしてきさまの顰《ひそ》みにならって、おれもひとつ、詩人の言いぐさに従ってやろう。
[#この行2字下げ] ただ一日なりとも、その仇敵の死ののちに生き永らえし者は、望みの目的を達したる者なり。」
こう言って、大臣《ワジール》はいきなり、自分の衛兵に、アリ・ヌールを捕えて、らばの背中に投げ上げるように命じました。けれども衛兵たちは、群衆がじっと見つめているのを見ては、しばらく躊躇しましたが、ついに決心しました。そして彼のほうに近づくと、彼は次の詩節を誦していました。
[#この行2字下げ] いっさいの人には、地上にて過ごすべき一定の時あり。その時を過ごさば、死せざるべからざるなり。されどまた、たとえ獅子どもわれをおのが森にひき行くとも、わが時いまだいたらざるうちは、われに、怖るべき何事もなからん。
そこで衛兵たちはアリ・ヌールを捕えて、これをらばの背中にかつぎ上げ、帝王《スルターン》の窓下の、宮殿の下に着くまで、町じゅうを引き回しはじめました。そして彼らは道々ずっと触れ歩きました、「文書の偽造を犯す者を待つ刑罰は、かくのごときものであるぞ。」それから彼らはアリ・ヌールを、ちょうど処刑場のまん中に、平生血がよどんでいる場所に、引きすえました。そして処刑者は、手に抜き身の剣を持って、進み出てアリ・ヌールに言いました、「私は何なりとあなたのお言葉に従う奴隷でございます。さればもし何事かしてほしいご所望がありましたら、どうぞお言いつけください。何なりといたしましょう。もし飲むとか食べるとかいうご所望があれば、お言いつけください、お言葉どおりにいたしましょう。というのは、もうあなたは、帝王《スルターン》が窓からお首を出されるまでの、ほんのつかの間しかお生命《いのち》がないのです。」するとアリ・ヌールは右と左を見まわして、言いました、「ただ、水を少々もらいたい、わが心臓の団扇《うちわ》のために(11)。」
すると並みいる人はみなむせび泣きはじめ、太刀取りの男はすぐにひと壺の水を取りに行って、それをアリ・ヌールにさし出しました。ところが、大臣《ワジール》ベン・サーウイはすぐに、自分の席を立って走り寄り、そしてその壺を手で打ち砕いて、怒りたけって、太刀取りにどなりつけました、「何をぐずぐずして、こいつの首を斬らぬのか。」そこで太刀取りは目隠しを取って、アリ・ヌールの目にかけました。これを見ると、群衆は総立ちになって大臣《ワジール》に向かい、大臣《ワジール》をののしりはじめ、悪口雑言を浴びせはじめました。そしてほどなく、喧騒はその極に達し、騒ぎと叫び声とは、口に尽くせないほどになりました。するとにわかに、こうした喧騒が満場にみなぎっているところに、はるかに一陣の砂煙りが巻き上がって、何事か呼ばわる、かまびすしい叫びがとどろき、地と空に充ち満ちながら、近づいてまいりました。
この大騒ぎを聞きつけ、帝王《スルターン》は、御殿の窓から外を眺めて、側近の者におっしゃいました、「何事かすみやかに見てまいれ。」けれども大臣《ワジール》サーウイは答えました、「そのようなことをしているときではございません。何よりもまず、あの者の首をはねることが肝心でございます。」けれども帝王《スルターン》は申されました、「黙れ、おおサーウイよ。まず何事であるか見るといたせ。」
ところでこの砂煙りとは、実は教王《カリフ》の大|宰相《ワジール》ジャアファルの馬と、部下の騎士たちが立てた砂煙りなのでございました。
彼らが突然ここに駆けつけて来たわけは、次のような次第でございます。教王《カリフ》は、アニス・アル・ジャリスの腕の中で過ごされた愛の一夜ののち、三十日のあいだというもの、もうこの女のことを思い出されず、またこのアリ・ヌール・ベン・カーカーンの事件も、すべて思い出さずにおられました。まただれひとりとして、教王《カリフ》にこれを思い浮かべさせるような人が、いなかったのでございます。ところが、夜々の中の一夜のこと、ちょうど教王《カリフ》がアニス・アル・ジャリスの別室のかたわらをお通りになると、忍び泣きと、次のような詩人の句を微吟している優しい美しい声とが、聞こえてまいりました。
[#この行2字下げ] きみが御影《みかげ》は、きみいまさずとも、またわが身に近くありとても、絶えてわがもとを去ることなし。しかしてわが舌は、嬉しくも、きみが御名をくり返してやまず。おお快き御名よ。
そして、こう歌ってから、むせび泣きがますます激しくなってゆくので、教王《カリフ》は扉を開いて、その別室におはいりになりました。すると泣いているのは、アニス・アル・ジャリスでございました。教王《カリフ》のお姿を見ると、アニス・アル・ジャリスはその御足の下に身を投げ出しましたが、教王《カリフ》のほうは、相変わらず、まだアニス・アル・ジャリスとアリ・ヌールのことを思い出されないで、これにおっしゃいました、「そもそもそちは何者であるか、おお若い女子《おなご》よ。」彼女は答えました、「わたくしは、アリ・ヌール・ベン・カーカーンが、わが君に奉った贈物でございます。そしてただいまわたくしは、わが君がしかるべきすべての栄誉とともに、わたくしをば彼のもとに送り返してくださるという過日のお約束を、お果たしくださることをひたすら待ち望んでおりまする。そしてわたくしがここにまいってから、やがて三十日と相なります。」この言葉に、教王《カリフ》は大急ぎでジャアファル・アル・バルマキーを召し出されて、仰せられました、「余がアリ・ヌール・ベン・カーカーンについての消息を聞かなくなってから、すでに三十日と相なるぞ。ところで余は、わが頭《こうべ》にかけ、わが父祖と祖先の御墓《おんはか》にかけて誓う、万一かの若者の身に、なんらかの不幸が振りかかったならば、余はその禍根となりし者をば、たとい世界で余のもっとも愛する人間なりとも、亡ぼさずには措《お》かぬぞよ。されば余は、おおジャアファルよ、汝が即刻バスラに向けて出発いたし、ムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニ王の消息、並びに彼がイブン・カーカーン・アリ・ヌールに対する行動の消息をば、ただちに余にもたらすことを欲するぞ。」そこでジャアファルは、すぐさま旅路につきました。
こうしてジャアファルがバスラに到着しますと、今のすべての喧騒と叫喚と、また激昂した不穏な群衆が見えたので、彼は尋ねました、「この喧騒はいったい何事か。」するとすぐさま、民衆のあいだから千もの声が答えて、アリ・ヌール・ベン・カーカーンの身に起こったすべての仔細を、話して聞かせました。
彼らの言葉を聞くと、ジャアファルはさらに一段と、王宮に着くことを急ぎました。そして帝王《スルターン》のもとにまいって、平安を祈り、自分の来た趣旨を伝えて、言いました、「万一なんらかの不幸がアリ・ヌールの身に振りかかったならば、その禍根となった者をば亡ぼし、汝、おお帝王《スルターン》よ、汝をして犯されし罪を償わしむべき御諚を、余は奉じて来たのであるぞ。されば、アリ・ヌールはいずこにありや。」
そこで帝王《スルターン》はすぐさま警吏を広場にやって、アリ・ヌールを連れて来させました。アリ・ヌールが中にはいるやいなや、ジャアファルは立ち上がって、衛兵に帝王《スルターン》自身と大臣《ワジール》エル・モヒン・ベン・サーウイとを、捕縛するように命じました。そしてすぐにアリ・ヌールをバスラの帝王《スルターン》に任命し、ムハンマド・エル・ゼイニをば大臣《ワジール》と共に幽閉して、そのかわりに彼を王座にすえました。
それからジャアファルは、この新しい王のもとに、規定の三日間の饗応期間を、バスラに滞在しました。けれども四日目の朝になると、アリ・ヌールはジャアファルのほうに向いて、申しました、「まことに、私は切に今一度信徒の長《おさ》にお目にかかりとう存じます。」するとジャアファルは聞き入れて、申しました、「まずわれらの朝の礼拝をすませて、そのうえでバグダードに立つといたそう。」すると王は言いました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」そして両人は朝の礼拝をいたしまして、それから護衛と騎士を従え、それにもとの王ムハンマド・エル・ゼイニと大臣《ワジール》サーウイをいっしょに連れて、共々バグダードの道を取りました。道々、さすがの大臣《ワジール》サーウイも反省して、いたく後悔してわがこぶしをかむところがございました。
こうして彼らは旅につき、アリ・ヌールはジャアファルと並んで馬を進めながら、とうとう一行は、平安の住家バグダードに着きました。そこで二人はとりあえず、教王《カリフ》の御許に参上いたし、ジャアファルからアリ・ヌールの件を言上いたしました。すると教王《カリフ》はアリ・ヌールをおそば近く召されて、仰せられました、「この剣を取って、そちの敵手、この不届きしごくの大臣《ワジール》の首を、手ずからはねよ。」そこでアリ・ヌールは剣を取って、ベン・サーウイに近づきました。けれども相手は彼をじっと見つめて言いました、「おおアリ・ヌールよ、私はおまえに対して、自分の性質に従ってふるまった。それは私のまぬがれえぬところであった。しかしながら、おまえはおまえで、また自分の性質に従ってふるまってくれよ。」するとアリ・ヌールは剣を遠くに投げやって、教王《カリフ》を見つめ、そして申し上げたのでした、「おお信徒の長《おさ》よ、この者は私から剣を奪ってしまいました。」けれども教王《カリフ》はお叫びになりました、「よろしい、そちはやめよ。」そしてマスルールに仰せられました、「おおマスルール、立ってこやつの首をはねよ。」するとマスルールは立ち上がって、一刀のもとに、大臣《ワジール》エル・モヒン・ベン・サーウイの首を打ち落としてしまいました。すると教王《カリフ》はアリ・ヌールのほうに向かれて、おっしゃいました、「さて今は、何事なりと余に所望するがよい。正しく評価せよ。」アリ・ヌールはお答え申しました、「おおわがご主君、私は王国などいささかも望みませぬ。バスラの王座とは、全然かかわりなくありとう存じます。と申しますのは、私には、陛下の玉顔を拝する幸《さち》を持つことを措いてほかには、他に申しあぐべき願いとてございませぬゆえに。」すると教王《カリフ》はお答えになりました、「おおアリ・ヌールよ、心より悦び、当然の務めとしていたすであろうぞ。」それから教王《カリフ》はアニス・アル・ジャリスを迎えにやられて、これをアリ・ヌールにお返しになり、二人にたいそうな財産とたいそうな財宝を賜わり、バグダードでいちばん美しい御殿の中の一つをお与えになり、国庫より莫大な扶持を下しおかれました。そしてアリ・ヌール・ベン・カーカーンが、ご自分の心友となり、お相手となるようにとお望みになりました。また帝王《スルターン》ムハンマド・エル・ゼイニをば結局お許しになって、今後配下の大臣《ワジール》たちには十分気をつけるようにとおさとしになったうえで、旧《もと》の地位にお復《かえ》しになりました。そしてすべての人は、「分け隔てる者」の到来まで、悦びと栄えのうちに暮らしたのでございました。
[#この行1字下げ] ――「けれども」と弁舌さわやかなシャハラザードはつづけた、「おお王さま、このアニス・アル・ジャリスの物語は、どのようにおもしろいものでございましょうとも、これがガーネム・ベン・アイユーブとその妹フェトナーの物語[#「ガーネム・ベン・アイユーブとその妹フェトナーの物語」はゴシック体]と同じくらい不思議であるとか、また驚くべきものであるとは、けっしてお思いあそばしますな。」するとシャハリヤール王は答えた、「だが余はその物語を知らぬ。」
[#改ページ]
恋の奴隷ガーネムの物語
[#この行1字下げ] するとシャハラザードは言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、時のいにしえと世紀時世の過ぎし世に、商人たちの間に、二人の子供を持った、たいそう金持ちの商人がおりました。その名はアイユーブと申しました。「贈与者」は彼に一人の息子を授けたまいましたが、これぞ夜々の間の満月、まじり気なき歓びでございました。その名はガーネム、けれども運命によるその渾名《あだな》は、「恋の奴隷(1)」でございます。また、父アイユーブには一人の娘、ガーネムの妹がございましたが、美しさと感じのよいことは、兄とそっくり。身に備わる沁み入るばかりの魅力すべてのゆえに、フェトナー(2)、すなわち「金ねむの花」と呼ばれました。
ところで、ご慈悲のうちに亡くなりましたときには、商人アイユーブは、二人の子供に、巨万の富と数々の財宝を遺しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三十七夜になると[#「けれども第三十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
父が二人に残したものの中には、すばらしい絹織物百駄(3)と、生粋《きつすい》の麝香の袋をいれた壺百個とがありました。それらの荷物は、全部|梱《こり》に入れてあって、そのひとつひとつの梱の上には、上手な文字で大きく「バグダード行[#「バグダード行」はゴシック体]」と記されていました。というのは、商人アイユーブは自分ではそんなに早く死ぬとは思わないで、自身バグダードに出向いて、その高価な商品を売るつもりでいたからでございました。
服喪の日々が過ぎますというと、青年ガーネムは父にかわって、自身バグダードに旅立とうと思い立ちました。そこで母や、妹のフェトナーや、近親や、近所界隈の住民一同に別れを告げて、それから市場《スーク》に行って、必要な駱駝を傭い入れ、全部の梱をその駱駝の背に積み、同じく旅立つ他の商人たちと連れ立って、行を共にすることにしました。そして至高のアッラーの御手の間に、自分の運命をお委せした上で出かけました。アッラーは彼のために安泰をお記し下され、かくて程なく、その商品全部と共に、つつがなくバグダードに到着いたしました。
そこで、彼はさっそく、たいそう立派な家を一軒借りて、これを豪奢に飾りつけました。そしてそこにじっとして旅の疲れを休めながら、バグダードのあらゆる商人が、次々に自分のところに平安を祈り、歓迎の言葉を述べに来るのを、静かに待っておりました。
それがすむと、彼は市場《スーク》に出かけて自分の商品を売りはじめようと、思い立ちました。彼はすべての商人から鄭重に扱われ、みな迎えに出て来ては、平安を祈り、茶菓をすすめて、たいそうねんごろにもてなしました。それから市場《スーク》の長老《シヤイクー》のところに案内されて行くと、長老《シヤイクー》は商品をひと目見ただけで、即座に買い取りました。こうしてガーネム・ベン・アイユーブは、商品一ディナールについて、金貨二ディナールずつの利をあげました。彼は、こうして毎日、何反かの珍しい布地といくつかの麝香の袋を、一ディナールにつき二ディナールの利をあげながら売りつづけ、これがまる一年に及びました。
第二年目の初めのある日のこと、彼はいつものように市場《スーク》に出かけました。ところが、全部の店は戸を閉ざし、市場《スーク》の大門もやはり閉まっているのでした。その日は別に祭日でもなかったので、彼は驚いて、そのわけを訊ねました。すると、それは主だった商人の一人が亡くなって、商人全部が、その葬式につらなりに行ったのだということでした。そして通りすがりの一人が彼に言いました、「あなたもそこにいらして、葬列についてゆかれるがよろしいでしょう、功徳になりますから。」そこでガーネムは答えました、「いかにもさようです。だが、ちょっとうかがいたいが、お葬式の場所はどこでございましょうか。」するとそれを教えてくれました。で、彼はすぐに、とある回教寺院《マスジツト》の中庭にはいって、水盤の水で念入りに洗浄《みそぎ》をしてから、大急ぎで教えられた場所に向かいました。そして商人たちの群れに立ちまじって、大寺院《マスジツト》までついて行きますと、人々はそこで故人の遺骸《なきがら》の上に、型どおりの礼拝を捧げました。それから葬列は、バクダードの城門の外にある、墓地へと向かいました。一行は墓地にはいり、墓の間を進んで、とうとう故人を納める丸屋根の建物のところまで着きました。
遺族の人々は、すでに墓の上に大きな天幕《テント》を張りわたし、そこに吊り燭台や炬火《たいまつ》や灯火を吊るしておきました。それで参列者は全部、天幕《テント》の下にはいることができました。すると人々は墓をあけ、遺骸を納め、ふたたび上蓋《あげぶた》を閉ざしました。次に導師《イマーム》や、その他の葬儀執行者や、コーラン読誦者たちは、墓の上に、聖典の聖句と規定の章を誦しはじめました。そして宗教の儀式が終了すると、奴隷たちがお料理とお菓子類を盛った、大きな皿をいくつも持ってやってきて、参列者一同にたっぷりと配りましたので、一同は故人をしのんで飲みかつ食べました。それから水差しとたらいがまわされて、一同は手を洗い、そして無言のうちに、輪になって坐りました。
ところが、その一座は翌朝にならなければ引き取らないことになっていたので、しばらくたつとガーネムは、番人もつけずに自宅に残して来た商品を思うと、心配でたまらなくなりはじめ、心の中でひとりごとを言いました、「私は異国の者であり、たいそう金持ちな人と見られている。だから、もしもひと晩でも家を離れて過ごすようなことがあったら、盗人どもが屋敷じゅうを荒らしまわって、金《かね》も商品もかっぱらって行ってしまうだろう。」そして心配はいよいよ募るばかりだったので、とうとう決心して立ち上がり、そして列席の人たちに、ちょっと用を足してくるからと言って、申しわけをしました。そして大急ぎで外に出まして、闇の中を歩きはじめて、とうとう町の城門に着きました。
ところが、折からもう真夜中だったので、町の城門はしまっていまして、近づいたり遠ざかったりする通行人とては一人も見えず、聞こえるものといえば、ただ犬の吠え声と、狼の吠え声に入り混じる、金狼の遠吠えばかりでございました。そこで彼は叫びました、「アッラーのほかには力も権勢もない。さきほどまでは自分の財産が心配だったが、今となっては自分の一命が心配だ。」そこで、引き返して、どこか朝まで無事に夜を過ごせる宿りはないかと、探しはじめました。そしてさいごに、丸屋根がついて、四方に壁をめぐらした、ひとつの墓所《トウルバー》の前に出ました。この墓所《トウルバー》は、ちょうど建物の内側に植えられた、たった一本の棕櫚の木の、蔭になっておりました。その花崗岩の扉が開いていたので、ガーネムはこの墓所《トウルバー》の中にはいって、眠ろうとして横になりました。けれども眠りは来ないで、こうして墓場《トウルバー》の間にたったひとりでいる怖さが、ひしひしと身に迫って来るのでした。そこで彼はつと立ち上がって、戸をあけて外を眺めました。すると町の城門の方にあたって、遥かに煌めくひと筋の光が見えました。それでその光の方に向かって、進みはじめましたが、見ればその光は、道を、こちらに向かって近づいて来るのでした。
そこでガーネムはあわてて引き返し、改めて墓所《トウルバー》の中にはいって、用心してその重い扉を念入りに閉ざし、掛金をかけました。それでもまだ安心できなくて、棕櫚の木のてっぺんによじ登って、枝々の間に小さく跼《くぐ》まって、やっと落ちつきました。そこから見ていると、その光はますます近づいて来て、ついには三人の黒人の姿が見えました。二人は大きな箱を担ぎ、三人目は手に灯火《あかり》と鶴嘴を持っていました。
いよいよ彼らがその墓所《トウルバー》のすぐそばにさしかかると、箱を担いだ一人は、灯火をさげた仲間がびっくりして立ち止まったのを見て、その男に言いました、「どうかしたのか、おいサウアーブ(4)。」サウアーブは答えました、「変じゃねえか。」相手は言いました、「何がよ。」サウアーブは答えました、「おおカーフール(5)、変じゃねえか。だって、おれたちは夕方、この墓所《トウルバー》の戸をあけっ放しにしておいたのに、今ではしまっていて、内からぴったりと鍵がかかっているぜ。」するとバクヒタ(6)と呼ばれる三人目の黒人が、二人に言いました、「なんて気の利かねえ野郎どもだ。畑の持ち主たちは毎日町から出て、自分の畑地を見まわってから、ここに来て休むっていうことを、知らねえのかい。やつらはこの中にはいって、日が暮れると、おれたちみたいな黒人に襲われやしまいかと、用心して戸をしめてしまうんだ。やつらときちゃおれたちをどえらくおっかながっていやがる。何しろ、おれたちにとっつかまったら、どんな目にあわされるか、やつらはよく承知していやがるからな。」するとカーフールとサウアーブは、黒人バクヒタに言いました、「本当のところ、おいバクヒタ、おれたちの中で誰かすこしばかり足りねえ野郎がいるとすれば、それはたしかにきさまよ。」けれどもバクヒタは答えました、「じゃおまえたちは、おれたちが墓所《トウルバー》の中にはいって、一人か二人の人間が現在いるのを見ないうちは、おれの言うことを本当にはしないのだな。だが、おれは最初から言っておいてもいいぞ。もし今この墓所《トウルバー》の中に誰かいるとすれば、そいつは、おれたちの灯光《あかり》が近づいて来るのを見て、胆っ玉を潰して、この棕櫚の木のいちばんてっぺんまでかけ上がっちまったにちがいないぜ。」
この黒人バクヒタの言葉を聞くと、ガーネムは慄えあがって、心の中で言いました、「何とぞアッラーは、心に腹黒い悪意を抱く、あらゆるスーダン人をこらしめて下さるように。」それからますますおじ気づいて、言いました、「至高全能なるアッラーのほかには、力も権勢もない。今となってはいったい誰が、この頼るすべのない災いから、自分を救い出してくれることができるだろう。」
こうしているうちに、箱を担いだ二人の黒人は、灯火と鶴嘴を持った黒人に言いました、「おいサウアーブ、ちょっと壁に登って墓所《トウルバー》の中に飛び込んで、内からしまっているこの戸を、あけてくれよ。その骨折り賃には、中でつかまえた人間どものうち、いちばん若いいちばん肥えたのを、きっとお前にやると約束するぜ。」ところがサウアーブは答えました、「おれは、まあえらく脳味噌の足りない男だが、いっそこうやった方がよくはないかと思うんだ。この箱はおれたちが頼まれたものだから、こいつを壁の上から墓所《トウルバー》の中におっぽり込んで、始末しちまうのがいちばん手っとりばやいぜ。所詮この墓所《トウルバー》の中に納めろっていう、言いつけなんだからね。」けれども他の二人の黒人は言いました、「そんなこと言って、壁の上からおっぽり込んだんじゃ、この箱は壊れちまうにきまってるぞ。」そう言って、その二人の黒人は箱を地上におろして、三人目の黒人に灯火を向けさせながら、壁を乗り越え、墓所《トウルバー》の中に飛び込んで、急いで扉をあけることにしました。三人は力を合わせて箱を中に入れ、後ろの花崗岩の扉をしめ、墓所《トウルバー》の中で腰をおろして休みました。するとその中の一人が言い出しました、「まったく、なあ兄弟、おれたちはずいぶん歩いて、その上、壁を越えたり、戸をあけたりして、えらくくたびれた。それにもう真夜中だ。まあ二、三時間ゆっくり休んでから、言いつけられたように、穴を掘って、中身は何だか知らないが、この箱を埋めるとしようじゃないか。まあたっぷり休んでから、仕事をはじめるとしようぜ。ひとつこうしてはどうだ。その休んでいるしばらくの間を面白く過ごすために、おれたちめいめいがだな、ひとりひとり順ぐりに、どういう動機《いわれ》から去勢者《きんぬき》になる羽目になったか、どういうわけあいから抜かれたかを、話しあうのさ。自分の身の上を初めから終わりまで、詳しく話すというわけだ。そうすれば、今晩をひどく面白く過ごせるというものじゃないか。」
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三十八夜になると[#「けれども第三十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、スーダン生まれの黒人の一人が、三人でお互いに、自分が去勢された理由《わけ》を話し合おうではないかと申し出た時、例の灯光《あかり》と仕事道具を持って来た黒人サウアーブが、まず最初に口をきって申しました、「じゃまずおれから、去勢された動機《いわれ》を話していいか。」他の二人は答えました、「いいともさ、早く話してくれ。」
すると、スーダンの宦官サウアーブは言いました。
スーダンの第一の宦官、黒人サウアーブの物語
さればだ、兄弟たち、おれはまだ五歳《いつつ》にもならない時、奴隷商人の手に渡って、自分の国から連れ出され、このバグダードに引っぱってこられたのだ。そして御殿のさるお武家さまに、売られたのだ。ところが、その人には小娘が一人いて、その時はちょうど三歳《みつつ》だった。そこでおれはその娘と一緒に育てられたが、おれがそのお嬢さんの遊び相手をして、おれの同類の、黒人踊りをしてみせたり、知っている唄を歌ってあげたりする時には、家じゅうの慰みものになったものだ。みんなが、この黒人の小僧のおれを、かわいがっていた。
こうしておれたちは一緒に大きくなって、おれは十二になり、小娘は十になった。それでも家ではおれたちを引き離さずに、相変わらず一緒に遊ばせておいた。そこで、日々のうちのある日のこと、ちょうど娘がひとりで、引っ込んだ片隅に坐っていたから、おれはいつものように、そばに近よって行った。
ところがちょうどこの時、小娘は浴場《ハンマーム》から出てきたところだった。というのは、ずっと遠くからでもぷーんといい匂いがして、こうして好いたらしく、まったく頃合というところだったぜ。そしておれを見つけると、こっちに駆けてきて、そこで二人で、遊び出し、跳ねまわり、さんざっぱらふざけはじめた。娘がおれをかじれば、おれは娘を引っ掻き、むこうがつねればこっちもつねり返すというふうにしていると、とうとうしばらくすると、おれの陰茎《ゼブ》がでっかく、鍵みたいになりやがって、着物の下からえらく突っ立ってしまった。すると小娘は笑い出して、おれに飛びついてきて、おれを仰向けざまに引っくり返し、おれの腹の上に馬乗りになった。そうしてからに、体をこすりつけ、おれをこすりはじめて、とうとうおれの陰茎《ゼブ》を丸出しにしてしまった。すると、娘はそれを自分の手でつかんで、それで自分のものをこすりはじめたが、だが着物の上からだけのことだった。ところがこの仕ぐさでおれはひどく催してきて、思わず小娘に乗りかかってしまった。すると娘も、おれの首っ玉にぶらさがって、力いっぱいぎゅっとおれを抱きしめた。そうすると、おれの陰茎《ゼブ》は鉄のようになって、小娘の着物と下穿きを突き破って、入るべきところに入りこみ、奪うべきものを奪ってしまったのだ。
一度ことが終わると、小娘はまた笑い出して、おれを接吻したり、口説いたりしはじめたが、おれの方じゃ、もうおっかなくてたまらず、この上ぐずぐずしちゃいられないと、小さな女主人の手をすりぬけて、駆け出し、友達の一人の若い黒人のところに、身を隠しに行ったわけだ。
小娘のほうも、間もなく家に帰ったが、やがてお袋さんは、娘の着物と下穿きを見て、ひと声大声をあげて、小娘の股の間にあるものを調べてみた。すると見たものを見たわけだ。そこで仰向けにぶっ倒れて、仰天して気を失っちゃった。だが正気に返ると、とにかく所詮今さら取り返しのつかないことなんだから、やがて気を落ちつけ、そして、なんとかこの事件を丸くおさめ、とりわけ、亭主、つまり小娘の父親には、この出来事を内緒にしようと、用心に用心を重ねたものだ。そうしてそいつは首尾よくいって、こうしてお袋さんは二カ月の間じっと辛抱していたが、そのまに家の人たちは、とうとうおれを見つけ出し、おれを主人の家に帰らせようと、ひっきりなしに口説いたり、ちょっとした贈物をくれたりした。そしていったんおれが戻ると、このことについては、相変わらず決しておくびにも出さず、父親にはよく気をつけて内緒にしておいた。親父はおれを殺したにちがいないからな。お袋さんにしろ、誰にしろ、おれがそんなひどい目にあうのは望んじゃいなかった。おれは皆に好かれていたからな。
その二カ月が過ぎると、お袋さんはうまい工合に、その小娘を一人の若い床屋に片付けることにした。それは父親のかかりつけの床屋で、よくこの家に来ていた男だ。お袋さんは自分の金で持参金もつけてやり、支度もしてやり、一所懸命尽くしてやった。それからいよいよ婚礼をすることになった。ちょうどその時のことだ。その若い床屋に、道具を持って家に来させたのだ。そしておれがじたばたするのもかまわず、いきなりおれをつかまえてからに、床屋はおれの陰嚢《ふぐり》を結えて、おれの両方の卵をちょん切り、こうしておれをいっぺんに去勢者にしやがった。
そして結婚式が催されて、おれは若い女主人の宦者にされた。そしてそれからはおれは、女主人が市場《スーク》に行くにしろ、人を訪ねるにしろ、里に帰るにしろ、どこなりと行くさきざき、女主人の前に立って歩かなければならん身となった。お袋さんは極秘で事を運んだから、花婿も親戚友人も、誰一人、例の一件はこればかりも知らなかったものだ。そしてお客がたに、娘の処女だったことを信じさせるためには、お袋さんは一羽の鳩の首を斬って、その血でもって花嫁の肌着を染め、そして慣わしに従って、夜の明ける頃、その肌着を客間の、招いた女客一同の前に、回させたのだ。女たちはみんな感きわまって泣いたものだ。
それでその時から、おれはその若い女主人と一緒に、亭主の床屋の家に住み込んだ。こうして、おれは何の咎めも受けず、心ゆくままに、おれの力のできるだけ、この女の美しさとそのこたえられない体のいいところを、堪能することができたのだ。というのは、なるほどおれの卵はおさらばしたにちがいないが、陰茎《ゼブ》は残っていたからな。そこでおれは、危ない目もみなけりゃ疑われる心配もなく、とうとうその女が死に、女の亭主も、お袋も親父もみんな死ぬまで、おれの小さなご主人を接吻したり、抱いたりしつづけることができた。みんな死んでしまうと、おれは当然国庫の持ち物となって、そして御殿の宦官の一人となった。それでおれはおまえたちの仲間となったわけだ、おおスーダンの兄弟たちよ。
これが、おれの睾丸《きん》をとられて去勢されたことの次第だ。今は平安おんみらの上にあれ。
――こう言って、黒人サウアーブは口をつぐみ、そして第二の黒人カーフールが、口を切って言いました。
スーダンの第二の宦官、黒人カーフールの物語
さればだ、おお兄弟たち、おれの身の上話のはじまりは、八歳《やつつ》の時のことだ。だがそのころもう、おれは嘘つきの名人だった。そして毎年、一年に一度だけにしておいたが、おれは奴隷商人に、尻《けつ》の筋《すじ》が引きつって、仰向けざまに引っくり返るような、大嘘をついてやったものだ。
そこで奴隷商人は、結局一刻も早くおれを始末してしまおうと思って、おれを競売人の手に渡し、市場《スーク》で「悪い癖のある黒ん坊の小僧を、買ってくださる方はございませんか」と、触れてくれと頼んだものだ。
そこで競売人はおれを連れて、そう触れまわりながら、市場《スーク》という市場《スーク》を全部回りはじめた。するとやがて、商人のなかに一人の男がいて、近づいてきて競売人に訊ねた、「その黒ん坊の子供の悪い癖というのは、いったいどういう癖なのかね。」競売人は答えた、「なあに、毎年一年にたったひとつだけ嘘をつくというだけで、それだけのことでさあ。」商人は訊ねた、「それで、その悪い癖のある黒ん坊に、今までいくらの値がついたね。」競売人は答えた、「たったの六百ドラクムです。」商人は言った、「じゃおれが買おう。お前さんには、手数料二十ドラクムあげる。」そこでその場で、売り渡しの証人を集めて、競売人と市場《スーク》の商人との間に売約が成り立った。競売人は、おれを新しい主人の家に連れて行って、金と手数料を受けとって、行ってしまった。
こんどの主人は、おれにさっぱりとした、よく似合う着物を着せるのを忘れなかった。こうしておれはその年の残りの月日を、何ごともなく、この主人のところで過ごした。ところが年が改まると、その年はえらい豊年満作で、果物類もたくさんとれそうな、好い年らしい模様だった。そこで商人たちは、お互いにそこここの庭園で、宴会を開きあわずにはいなかった。そしてめいめい順ぐりに、お客を招《よ》んで散財しはじめ、とうとうおれの主人の番になった。するとおれの主人は、町の郊外にある庭園に、商人たちを招んで、入用な食べ物飲み物全部を、そこに運ばせた。一同は坐って、朝から昼まで、飲んだり食ったりした。ちょうどそのとき、おれの主人は、家に忘れてきたある品が入用になったので、おれに言いつけた、「おお小僧、おれのらばに乗って、急いで家に行き、しかじかの品を奥さまからもらって、大至急帰って来い。」そこでおれは言いつけに従って、大急ぎでわが家に向かった。
いよいよ家の近くに来ると、おれは大きな叫び声をあげ、大粒の涙をぽろぽろこぼしはじめたものだ。それですぐに、その街の近所界隈の住人全部、大人も子供も、いっぱい寄ってきて、おれを取り巻いた。そして女たちも、あちこちの戸口や窓から顔を出したが、おれの主人のおかみさんは、おれの叫び声を聞きつけて、娘たちを連れて、戸をあけに来た。そしてみんなで、こうしておれが来たわけを訊ねた。おれはおいおい泣きながら、答えた、「ご主人さまはお客さまがたと一緒に庭にいたが、ちょっと座をはずして、土塀の前に、用を足しに行きなすった。するといきなり、その土塀が崩れて、ご主人さまの姿は、崩れたなかに消えてしまった。おれは夢中で、らばに飛び乗って、大急ぎで、皆さんに様子を知らせに来たのです。」
おかみさんと娘たちはおれの言葉を聞くと、大きな叫び声を立てて、着物を引き裂き、自分の顔や頭をたたきはじめた。それで近所の人も全部駆けつけてきて、みんなを取り囲んだ。それから主人のおかみさんは、一期喪のしるしに、家長が不慮の死を遂げると普通そうやるように、家じゅうを引っくり返し、棚や家具を破り壊して、それを窓から放り出し、壊れるものは何でも壊し、戸や窓をみんなはずしはじめたものだ。それから、家の外側の壁を全部青く塗らせ、そこに泥をべたべたなすりつけた。そしておかみさんはおれをどなりつけた、「ろくでなしのカーフール、なんだってそんなところでぼんやり突っ立っているの。こっちにきて、ここらの箪笥を壊したり、道具をみんなたたき潰したり、瀬戸物をみんな粉々に割ったりする手伝いをなさいよ。」そうなれば、おれは二度と言われるまでもなく、待ってましたと飛び出して、箪笥も、上等な家具も、瀬戸物も、いっさいがっさい、片ぱしからたたき壊して、めちゃめちゃにしはじめた。敷き物も、寝床も、窓掛も、上等な布も、座蒲団も、みんな焼いてしまい、それがすむと、こんどは家そのものに手をつけて、天井と壁をたたき破り、そして全部、徹底的にたたき壊してやった。その間ずっと、おれは嘆きつづけ、わめきつづけた、「おお、おかわいそうなご主人さま。お気の毒なご主人さま」とな。
それが終わると、女主人と娘たちは面衣《ヴエール》を取り、顔をむき出しにし、髪を解いて、往来に出ておれに言った、「おおカーフールよ、私たちの前に立って道案内をし、ご主人が崩れた下に生埋めになりなすった場所まで、案内しなさい。私たちはご主人を探し出し、お棺に納めて家にお連れし、それから、しかるべくお葬式をしてさしあげなければならないからね。」そこでおれは女たちの前に立って、「おお、おかわいそうなご主人さま」と叫びつづけながら、歩いて行った。するとみんながおれのあとからついて来た、女たちは顔をむき出しにし、髪を振り乱して、叫び声と呻き声をあげながら。そのうちにだんだんおれたちの行列は、通ってゆくさきざきの、あらゆる通りのあらゆる住人たちで、どんどん大きくなっていった。男だの、女だの、子供だの、若い娘だの、年とった婆さんだの。そしてみんなが自分の顔を打って、ひどく泣いた。それでおれは、こうしてみんなに町をぐるっと回らせるのが面白くて、町の全部の通りを通らせてやった。道行く人たちが、こうしたすべての原因《わけ》を聞きただすと、みんなおれから聞いたとおりの話をする。それを聞くと、みんな叫ぶのだ、「全能者、至高のアッラーのほかには力も権力もない」とね。
こうしていると、二、三の人がおれの主人のおかみさんに、これはまず奉行《ワーリー》に会いに行って、不幸を話した方がよいと勧めた。そこで皆は奉行《ワーリー》のところに出かけたが、一方おれは、ひと足お先に、庭園のご主人を生埋めにした崩れた場所に行っていますからと、そう言った。
[#この行1字下げ] ――けれども、ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第三十九夜になると[#「けれども第三十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、宦官カーフールは、次のように自分の身の上話を続けたのでございます。
そこでおれは、庭園の方に駆けつけた。そして女たちは、ほかの人たち全部と一緒に、奉行《ワーリー》のところに行って、事の次第を話した。すると奉行《ワーリー》は立ち上がって、馬に乗り、道具と袋と籠《クーフア》を持った土方を、五、六人連れて出た。そして一同はおれの教えておいた道順を踏んで、庭園の方に向かった。
一方おれは、頭の毛を土だらけにして、われと自分の顔を打ちはじめ、叫びながら、庭園に着いた、「おお、おかわいそうなおかみさん、ああ、おかわいそうなお嬢さん方、ああ、おかわいそうなご主人方。」こんなふうにして、おれはお客のまん中にはいった。
おれが土だらけの頭をして、自分の顔を打ちながら、「ああ、これから先、いったい誰がおれを引き取ってくれるやら。ああ、おれのとこの気の毒なおかみさんほど親切な女が、ほかにどこにあるだろう。」とわめいている、この様を見ると、主人は色を変えて、顔色が黄色になって、おれに言った、「どうしたのだ、おいカーフール。何ごとが起こったのだ、ええ?」おれは言った、「おおご主人さま、お言いつけの品を奥さまのところに取りに行けとおっしゃられて、さっそく行ってみると、お家はぶっ潰れて、その崩れた下に、奥さまとお子さまがたを埋めてしまっていたのでした。」すると主人は叫んだ、「奥さまは逃げられなかったのか。」おれは言った、「残念ながら、だめでした。一人も逃げられなくて、最初にやられたのは大きい方のご主人、うちの奥さまでした。」主人は言った、「小さいほうの主人、うちのいちばん小さな娘は、のがれられなかったのか。」おれは言った、「いや、だめでした。」主人は言った、「らばは助からなかったか、あのおれの平生乗っているやつは。」おれは答えた、「だめでした、おおご主人さま、なにしろ家の壁と家畜小舎の壁が、家じゅうの生きているもの全部の上に崩れ落ち、羊や鵞鳥や鶏の上にまで、落っこったのですから。それでこういったものは全部、ぐちゃぐちゃな肉の塊りになっちまって、崩れた下に、隠れて見えなくなってしまいました。もう誰ひとり残っちゃいません。」主人は言った、「おまえの大きなほうの主人、うちの長男までもか。」おれは言った、「残念ながら、だめです。生きている人はもうひとりもいません。もう家もなければ、住んでいる人もおりません、そういったものすべての跡形《あとかた》さえ、もうありはしません。羊や鵞鳥や鶏なんぞは、今ごろは犬や猫の餌食になっているにちがいありません。」
主人はおれの言葉を聞くと、やつの眼には、光は闇と変わった。何の感じも気力もなくなってしまい、脚はふらふらし、筋肉はしびれ、背中はぐったりしてしまった。それから、自分の着物を引き裂き、髯を引きむしり、顔を打ち、頭からターバンをむしり取りはじめた。そしてこうやっては自分の身を打ちつづけて、顔じゅう血だらけになるのを見るまでやめなかった。そして叫んでいた、「ああ、子供たち、叔父の娘。ああ、何という災難だ。おれのような、こんな不仕合わせがまたとあろうか。」それからその仲間の商人全部も、一緒になって同じように嘆き、泣きはじめ、同じように自分の着物を引き裂いた。
そうしてから、おれの主人は、われとわが身を、たいがいは自分の顔を、ぴしゃぴしゃ激しくたたきつづけながら、その庭園を出ると、お客全部が後からついて来た。やつはまるで酔っぱらった人間みたいになってしまった。ところが庭園の門をまたいだと思うと、えらい砂煙りが見え、えらい嘆きの叫びが聞こえた。そして間もなく、奉行《ワーリー》が部下一同を引き連れ、その後からうちの女たちと、界隈の住人全部と、道々それに加わった弥次馬の、通りかかった人たち全部がついて、現われるのが見えた。その人たちは皆、涙を流して嘆いているのだ。
おれの主人が最初に顔をつき合わせた人間は、おれの女主人、おかみさんで、その後ろには、子供たちがいた。妻子を見ると、おれの主人はあっけにとられて、正気が飛び去るのを感じた。それから笑いだすと、みんなその腕の中に飛び込み、首にぶらさがり、泣きながら、「おお、お父さん、よくまあ逃げ出せた、全くアッラーのお蔭だ。」と言っていた。主人は一同に言った、「だが、おまえたちはいったいどうした、家でおまえたちの身にどんなことが起こったのか。」おかみさんは言った、「全くアッラーのお蔭です、私たちにあなたのご無事な顔を見せて下さったのは。だがあなたはいったいどうやって、ひとりで壁崩れの下からはい出して、助かることができたのですか。だって私たちの方は、ご覧のとおり、無事でぴんぴんしていますよ。それで、カーフールが知らせに来たあの恐ろしい知らせさえなかったら、家の方にも、何にも別状なかったことでしょうに。」主人は叫んだ、「知らせとは?」おかみさんは言った、「カーフールは頭に何もかぶらずに、着物をやぶいて、家に来ました。そして叫ぶのです、『おお、おかわいそうなご主人さま、お気の毒なご主人さま』って。私たちは聞きました、『いったいどうしたの、おおカーフール。』すると言うのです、『ご主人さまは、用を足そうとして土塀の前にしゃがみなさったら、突然その土塀が崩れて、ご主人さまを生埋めにしてしまいました』って。」
するとおれの主人は、自分のほうからも、みんなに言った、「アッラーにかけて、だがカーフールはたった今、『おお、おかみさん、おおご主人のかわいそうなお子さまがた』と叫びながら、おれのところに来たのだ。おれは言った、『いったいどうしたのだ、おおカーフール。』すると言うのだ、『おかみさんもお子さんも全部、家が潰れて圧し殺されてしまいました』とな。」
そう言って、おれの主人はおれの方に向きなおって見ると、おれは相変わらず頭の毛の上に埃《ほこり》をふりかけ、嘆いては着物を引き裂き、ターバンを遠くにおっぽり出しているじゃないか。そこでやつは恐ろしい声でどなって、おれに来いと言った。おれが行くと、やつは言った、「ここな不届きな奴隷め、縁起の悪い黒ん坊、淫売と千匹の犬との間の息子め。やい、呪われた人種のなかの呪われた野郎。なんだってわれわれをこんなひどい目にあわせ、こんな騒ぎをひき起こしたのだ。とにかく、アッラーにかけて、おれはきさまを罪に応じて懲らしめ、きさまの皮を肉から離し、肉を骨から離してやるぞ。」そこでおれは、すこしも騒がず、言ってやった、「アッラーにかけて、おれにほんのすこしでも、害を加えられるものなら加えてみなさい。なぜって、旦那はおれを、おれの悪い癖と一緒に買いなすったんで、しかもそれは証人を前においてしたことだから、旦那はちゃんと委細承知の上で、おれを買ったということは、証人たちが証明してくれるでしょうよ。つまりおれの悪い癖というのは、毎年一度嘘をつくことだっていうのは、先刻ご承知のはずだ。それに、競売人も現にそう触れていたわけだ。ところで、おれははっきりお断わり申しておかなけりゃならないが、今やったこと全部なんぞは、まだ嘘の半分で、果たさなけりゃならない嘘全体の残り半分は、この年末までには果たすつもりでさ。」
この言葉を聞くと、主人は叫んだ、「おお、黒ん坊のなかでも、いちばん卑しいいちばん呪われた畜生め、何だと、今やったこと全部はたった嘘の半分だけだと? 全くなんというどえらい災難だ。出て行け、犬の犬息子めが、もう追い出すぞ。今後きさまは、いっさいの奴隷の身分から自由の身だ。」おれは答えた、「アッラーにかけて、旦那の方じゃ、おれを放すと言ったって、おれの方じゃ、どっこいそうはゆかない。なぜって、今年が終わって、おれが嘘の残りの半分を果たさないうちは、おれは決して旦那を放したくはないんだからね。それがすんだら、旦那はおれを市場《スーク》に連れて行って、悪い癖と一緒におれを買った時と同じ値段で、売りなさるがいい。だが今からそれまでの間、旦那はおれを放り出すわけにはゆかない。何しろ、おれには食ってゆく仕事がひとつもないのだから。このおれの言うことすべては、ちゃんと法にかなったことで、おれを買った時、裁判官たちが法に従って認めたことなのだ。」
こうしておれたちが話している間、葬式に立ち会おうとしてここに来ていた住人全部は、いったいどうしたのかと聞きただした。そこで人々は、奉行《ワーリー》と商人全部と友達全部も含めて、その人たちに、おれの仕業のこの嘘を話して聞かせた上で、みんなに言った、「ところがこうしたすべては、まだ嘘の半分だけなんだそうだ。」こう聞かされると、並みいる人はみなこの上なく呆れ返って、今の半分だけでも、もう途方もないものだと思った。そして皆でおれを呪って、われがちに口汚なく、あらゆる悪口をおれにたたきつけたものだ。だがおれは平気でつっ立って、笑って言ってやった、「おれを咎めるわけにはゆくまいさ。おれは自分の悪い癖と一緒に買われたんだからな。」
おれたちはやがて、おれの主人の住んでいる街に着いた。主人は自分の家が、もう屑の山にすぎないのを見届けたが、家を壊すのにいちばん奔走して、金目の品物をたたき潰したのは、このおれだということを知った。というのは、女房が言いつけたのだ、「家具や器《うつわ》や瀬戸物をたたき潰し、全部をめちゃめちゃにしたのは、カーフールです。」そこでおれの主人の怒りは、ますますひどくなるばかりで、そして言った、「この不届きな黒ん坊野郎みたいな、淫売婦の息子、不義の子は、生まれてから見たことがない。それで、まだこんなものは嘘の半分だけだとぬかしやがる。全部の嘘だったら、いったいどんなことになるのやら。少なくとも、ひと町全体かふた町ぐらいは、ぶっ潰すことだろう。」そこで、おれを無理やり奉行《ワーリー》のところに引っ立てて行くと、奉行《ワーリー》はしたたか笞を食らわせ、おれは気を失って、引っくり返ってしまった。
おれがこうしたていたらくになっていると、そこに床屋に道具を持って来させた。床屋はごっそりおれの睾丸《きん》を抜いて、それから焼鏝《やきごて》で、おれの傷痕を焼いた。それで眼がさめてみると、おれはもう卵がなく、あとは一生、去勢者になったことがわかった次第だ。その時、おれの主人は言った、「きさまはおれの心中のいちばん大切なものを奪おうとして、おれの心の臓を焼きやがったから、同じように、こんどはおれも、きさまのいちばん大切なものを奪って、きさまの心の臓を焼いてやるのだ。」それからおれを一緒に市場《スーク》に連れて行き、おれがこんどは去勢者になったものだから、値段が高くなったというわけで、自分が払ったよりもずっと上値で、おれを売り払いやがった。
その時から、おれはおれを宦者に抱えた行くさきざきの家に、いざこざと騒ぎの種をまくことをやめなかった。そしてしょっちゅう、売買につれて、貴族《アミール》から貴族《アミール》へ、ご大家《たいけ》からご大家へと渡り歩いて、最後にある時、信徒の長《おさ》ご自身の御殿の持ち物となったわけだ。だがもうおれもすっかり衰えたし、卵がなくなると一緒に、力もからっきしなくなってしまったわい。
これが、兄弟たちよ、おれの睾丸《きん》をとられて去勢されたことの次第だ。これで終り。ワサラーム。
――二人の黒人は、仲間の黒人カーフールのこの話を聞くと、笑いだし、ひやかしはじめて、言いました、「おお悪戯者《いたずらもの》、ならず者の息子め、おまえの嘘は全くどえらい嘘だったなあ。」
次はバクヒタと呼ばれる、第三の黒人が、こんどは自分の番になって口をきり、自分の二人の仲間に向かって、言いだしました。
スーダンの第三の宦官、黒人バクヒタの物語
さればさ、おお叔父の息子たちよ、今おれたちがここで聞いたようなことはみな、てんで馬鹿馬鹿しくて話にならんぞ。これからおれが、卵をとられた原因《もと》と去勢された動機《いわれ》を話して聞かせよう。そうすれば、おれのほうが、ずっと引きあわない目にあったことがわかるだろうよ。何しろおれは自分の女主人とやってさ、それから、その女主人の息子にあたる子供を犯したのだからな。
だがこのやったことの詳しい話は、なんしろいろいろと仔細があって、なみなみのものじゃないから、さしあたり、今話すには長すぎるだろう。だって、なあ、いとこたち、もうおっつけ朝になって、この分じゃ、穴を掘って、ここまで持ってきたこの箱を埋める間《ま》もなく、光《ひ》が射してきそうだぜ。そうなると、ひょっとするとおれたちはとんだことになって、おいらの魂をなくなしかねないぞ。まあ、そのためここまでよこされたんだから、その仕事をやってしまうとしよう。それがすんだら、まちがいなく、おれはおれのやったことと去勢されたことの詳しい話を、おまえたちに聞かせてやろうぜ。
――こう言って、黒人バクヒタは立ち上がり、他の二人の黒人も今は十分に休んで、立ち上がりました。そして三人はそろって、灯火《あかり》の光をたよりに、例の箱の大きさだけの穴を作ろうとして、丸屋根の下の、地を掘りはじめました。カーフールとバクヒタが鶴嘴で掘ると、サウアーブが土を籠《クーフア》に入れて、外に投げ出すのでした。こうして三人は、人間の丈《たけ》半分ほどの深さの穴を掘るまでつづけて、それから箱を穴の中に入れて、土をかぶせ、地面をならしました。それがすむと、彼らはそれぞれ仕事道具と灯火を持って、墓所《トウルバー》を出て、扉をしめ、足早に遠ざかってしまいました。
こうした次第でございます。さてガーネム・ベン・アイユーブは、その間ずっと棕櫚の木のてっぺんに隠れて、この話をすっかり聞いて、宦官たちが姿を消すのを見ました。そしてたしかに自分一人になったとわかると、にわかに箱の中身がひどく気になりだして、ひとりごとを言いました、「いったいあの箱の中には、何がはいっているのだろう。」けれどもまだ棕櫚の木からおりる決心がつかず、曙の初光が射してくるのを待ちました。いよいよ夜が明けると、隠れていたところからおりて、地面を掘りはじめ、箱を掘り出して穴から引きあげるまで、それをやめませんでした。
そこでガーネムは小石を拾って、箱の蓋を閉じている錠をたたきはじめて、とうとう錠を壊してしまいました。そして蓋を上げてみました。すると箱の中には、眠っている一人の乙女がいて、呼吸《いき》が静かに上がったり下がったりしていました。その顔色はほのかに色づき、その顔は素馨とばらの合わさったものです。全身は、宝玉や宝石や金銀珠玉に埋まっています。首には、宝石をちりばめた黄金の首環を、両耳には、素晴らしい耳飾りを、足首と手首には、黄金と金剛石の環をつけていました。こうして、その身につけているものは、一王国全体ほどの値がありました。
ガーネム・ベン・アイユーブは、よくよくこの美女を眺めて、そして彼女をここまで運んで来て、生きながら埋めようとしたあの宦官たちからは、なんの辱しめも受けていないことを見届けると、彼はこの乙女のほうに身をかがめ、腕にかかえて抱き上げ、おもての大理石の上に、そっと寝かしました。乙女は爽やかな空気を呼吸しますと、深い溜息を洩らしました。そのはずみに、愛らしい口から、大きな麻酔剤《バンジ》の塊りが転げ出ましたが、それは、象でも一日一晩眠らせることができそうなものでした。すると乙女はかすかに眼を開きましたが、それがまたなんという眼でございましょう。そしてまだ麻酔が覚めきらず、乙女はその魔法の眼差《まなざし》を、ガーネム・ベン・アイユーブのほうに向けて、つぶやくような声で、優しい味わい深い言いぶりで、申しました、「どこにいるの、小さなリハや。急いで飲み物を持ってきてちょうだい。ザハラや、おまえはどこにいるの。サビハや、シャガラト・アル・ドルや、ヌール・アル・ハダや、ナグマや、スーブヒアや、それに、わけても、小さなノズハ(7)や、どうしたの。まあおまえたちみんなどこにいるの、どうして返事をしないの。」それでも誰も返事をする者がないので、乙女はとうとうすっかり眼を開いて、自分のまわりを見まわしますと、怯えきって、叫びました、「まあ大変、お墓のまん中にたった一人きりだわ。いったい誰がわたしをさらって、あの美しい窓掛のついた御殿の中から、連れ出し、こんな死人の石の間に投げ込んでしまったのでしょう。」
こうした次第でございます。そしてガーネムは驚きのあまり、ただ突っ立ったきりで立ち尽くしておりました。けれどもさいごに、進み出て、申しました、「おおかもしかたちの女王よ、私はあなたさまの奴隷、ガーネム・ベン・アイユーブでございます。いかにもここには、窓掛垂るる御殿もなく、死人を容るる墓もござりませず、あるはただ、あなたさまをあらゆるご不快より防ぎ、あらゆる悲しみより護り、お望みをお遂げ申させることを念ずる、あなたさまの奴隷ばかりでございます。されば恐らくは、あなたさまのご好意の眼差を、これに賜わりますことと存じまする。」そして口をつぐみました。
乙女は、自分の見ていることの真相がはっきりと呑みこめると、言いました、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒なることを証します。」それからガーネムのほうを向いて、その金剛石の眼《まなこ》で彼を見つめ、胸の上に手を置いて、甘美な声で言いました、「おお祝福された若者よ、わたくしは今、見知らぬ境に眼覚めました。誰がわたくしをここに連れて来たのか、教えていただけましょうか。」彼は答えました、「おおご主人さま、三人の黒人の宦官が、あなたさまを箱に入れて、ここに運んで来たのでございます。」
それからガーネムはその乙女に、ありし次第を逐一話し、自分がどうして町の外で夜に襲われることになったか、どうして自分が乙女を箱の中から救い出すことになったか、またどうして、もし自分がいなかったら、乙女は地下に窒息《ちつそく》して生命《いのち》を落とすところであったかを、聞かせました。それから彼は乙女に、その身の上と、この事件の動機《いわれ》を、話してくれるように乞いました。けれども乙女は答えました、「おお若者よ、あなたのような方の手の間に、わたくしを委ねたもうたアッラーにたたえあれ、それではさしあたり、どうぞ立ち上がって、わたくしをまた箱の中に戻して下さいませ。それから、往来に出て、だれかろば曳きとか、何かこの箱を載せることのできそうな獣《けもの》を曳いている人を呼んで来て、わたくしをば、あなたのお宅に運ばせていただきとう存じます。その時はじめてあなたには、そうすることがどんなにか、ご自分のお得になるかがおわかりになるでございましょう。わたくしはそれから、自分の身の上をお話しして、この事件をすっかりお知らせ申しましょう。」
この言葉を聞いて、ガーネムはたいそう悦んで、すぐにろば曳きを探しに駆け出しました。事はさしてむずかしいことではございませんでした。というのは、ほんのしばらくたつと、彼はろば曳きを連れて帰って来ましたから。そしてかねて乙女を箱に戻しておいたので、自分も手伝って、その箱をろばの背につけ、急いで家路につきました。
道々、ガーネムはこの乙女に対する恋が、自分の肝を貫いたことを感じました。そしてあれこれと楽しい想いに耽りつつ、早く自分の家に着くのが、待ち遠しくてなりませんでした。無事に、ろば曳きを従えてようやく家に着くと、彼はろば曳きに手伝って箱をおろし、それを家の中に運び入れました。
[#この行1字下げ] ――けれども、ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四十夜になると[#「けれども第四十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ガーネム・ベン・アイユーブは、箱を持って無事に自分の家に着くと、その箱をあけて、乙女を出してやったのでございます。乙女はこの家をつくづく見ますと、ここには、貴重な家具類や、大きな商品の梱《こり》や、麝香の袋のつまった壺などが、いくつもあるのが見えました。そこでガーネムは豪商で、数々の富を持っていることが察せられました。すると彼女は、顔を蔽っていた小さな面衣《ヴエール》を取り去って、つくづくと若いガーネムを眺めました。すると、これは感じのよさと美しさが完全に入りまじり、ひじょうに人々の心に近い男なのを見ました。彼女は彼が好きになり、彼に言いました、「おおガーネムさま、ご覧のように、わたくしはあなたの前では、すこしも顔を蔽っておりません。とにかく、わたくしはたいそうお腹《なか》がすいていますから、どうか何か食べるものを、早く持って来て下さいませ。」ガーネムは答えました、「わが頭上と眼の上に。」
そこでガーネムは自身で市場《スーク》に駆けつけて、蒸焼きの仔羊一頭だの、捏粉菓子一皿だの、ハラウア(8)一皿だの、それに、巴旦杏だの、南京豆だの、よく熟した果物だの、古酒を満たした甕《かめ》だの、最後に種々様々の花だのを、買いととのえました。そして全部を家に運んで、果物をば瀬戸物の大きな鉢の中に、花をば貴重な壺の中に盛り上げ、全部を乙女の前に置きました。すると乙女は彼に微笑みかけ、ぴったりと寄り添いました。それでガーネムは、恋情がますます深く、自分の心の中に刻み込まれるのを感じました。それから二人は飲んだり食べたりしはじめて、日が暮れるまで、続けました。そしてこの間に、ちょうど二人とも同じ年頃でもあり、またいずれ劣らず美しくもあったので、お互いにすっかりなじみあう時間が、たっぷりございました。
夜になると、ガーネム・ベン・アイユーブは立ち上がって、吊り燭台と蝋燭に火をともしました。それから、彼は楽器を持って来て、乙女のそばに坐り、盃を満たしては、一緒に飲むことを続けました。こうしたことは、二人のうちに、いよいよ情熱を募らせるばかりでした。されば、人の心を動かして、心を恋にひらきたもう御方こそ、祝福され、たたえられよかし。
かくてガーネムと乙女とは、こうして彼らの嬉戯《たわむれ》をつづけましたけれども、しかし乙女は肝心なことは何も許さず、また彼らの遊戯は行きつくところに行くことがありませんでした。二人の情熱はじっとこらえられ、とうとう、ガーネムは乙女に言いました、「おおわが女王さま、どうぞあなたのお口に接吻して、その接吻で私の団扇《うちわ》を冷《さ》ますことを、お許し下さいまし。」乙女は答えました、「おおガーネムさま、もうちょっとたって、わたくしがいっさいの考えをなくしてしまうまで、待って下さい。そうなったら、わたくしのほうでは良心にとがめなく、あなたはわたくしの口から接吻をお取りになることができます。そうなれば、わたくしはもう、あなたの唇をこばむことができますまいから。」そう言って、やがて酒でのぼせてくると、彼女はつと立ち上がり、その着物を全部脱ぎ棄て、からだにはただ薄い肌着を、髪にはただ絹の軽羅を、まとっているだけになりました。
これを見ると、欲情はガーネムのうちにいよいよはげしく波立って来て、彼は言いました、「おおご主人さま、では今は、あなたはお許し下さいますか。」乙女は答えました、「アッラーにかけて、こればかりは、どうしても許してさしあげることができないのです。それというのは、ここにわたくしの下穿きの紐の上に、ほんとうに困ったことが書かれているのですの。今はそれをお見せするわけにはゆきませんけれど。」するとガーネムは、大へん気になったものの、ますます自分の狂乱と熱狂の度が募り、情火が身内で火花を散らすのを覚えました。こうした次第でございまして、乙女は同じ思いらしいあらゆるそぶりを見せつづけながらも、彼に何ものも与えないのでした。そしてこのようにして、男のほうは点火され、女のほうは何も与えないままに、日の暮れるまで過ごしました。すると、ガーネムは立ち上がって、蝋燭と吊り燭台に火を入れて、部屋じゅうを照らしました。それから、彼は乙女の足もとに身を投げて、その美わしい両足に、自分の口を押しあてました。その足は乳であり、また柔らかくとろけるばかりの、新鮮なバタであると思いました。彼は自分の頭を、この両足の間に埋めました。すると乙女は、素直な鳩が顫えるように、身を顫わせていました。ガーネムは叫びました、「おおご主人さま、あなたの恋の奴隷、あなたの眼に征服された男のほうに、身をかがめて下さいませ。あなたさえなく、あなたのおいでさえなかったならば、私は安らかに落ち着いていられたでしょうものを。」すると乙女は彼に言いました、「アッラーにかけて、おお、わが眼の光よ、わたくしは誓って申します、わたくしはあなたへの恋に心をとらわれております。ですけれども、よく聞いて下さいませ。わたくしは決してあなたに身を与えはしないでしょう、決してあなたを深く寄せつけはしないでしょう。」ガーネムは叫びました、「だが、それにはいったいどういう妨げがあるのですか。」彼女は言いました、「すぐ今晩、そのわけをお話ししましょう。そうすれば多分、あなたも無理はないと思って下さいますでしょう。」こう言って、乙女は彼に寄り添って来て、両腕を彼の首にめぐらし、そして接吻したり、機嫌をとったりしはじめたのですが、それ以上のことはなく、またガーネムに自分の身を与えるのを妨げるわけは、打ち明けないのでした。
こうして二人は、情熱あふれる禁欲のうちに暮らしつづけて、これがまるひと月に及びました。そしてお互いの恋心は、ますますはぐくまれてゆくばかりでございました。ところが、夜々のうちのある夜のこと、おりからガーネムは乙女に寄り添って長々と横たわり、二人とも酒もなく、ただ恋情に酔っていた時、ガーネムは薄い肌着の下に手を延ばし、そっと手を乙女のお腹の上に滑らせて、顫えるなめらかな肌を撫ではじめました。それからそろそろと、手を下ろして、水晶の盃のように開いているお臍《へそ》までやりました。すると、乙女は身を起こして、あわてて手を下穿きにやってみると、それは変わりなく、金の総のついた紐でしっかりと結ばれていました。それで安心して、またうとうとと眠りにおちました。
するとガーネムは再び、若やかなお腹にそっと手を滑らし、そして下穿きの紐まで行きつくと、その紐をほどいて、この歓楽の園を閉じこめている下穿きをおろそうとして、いきなりその紐を引っ張りました。すると乙女はすっかり眼を覚まして、床《とこ》の上に起き直り、そしてガーネムに言いました、「何をなさるの、おおわが臓腑のガーネムさま。」彼は答えました、「あなたをいよいよわが物として、残る隈なくあなたを愛しようと思うのです。」すると乙女は言いました、「おおガーネムさま、お聞き下さい、それではいよいよわたくしの身の事情をお話しして、わたくしの秘密をお知らせいたしましょう。」ガーネムは言いました、「いかにも、承わりましょう。」すると乙女はその肌着の片隅をもちあげて、下穿きの紐を手に取って、言いました、「おおご主人ガーネムさま、この紐の端に書いてあることを、読んでごらんなさいませ。」そこでガーネムはその紐の端を取ってみると、そこには緯《よこいと》の中に金文字で縫い取られて、次の言葉が書かれておりました。我は汝の有にして、汝は我が有なり、おお預言者の叔父の後裔[#「我は汝の有にして、汝は我が有なり、おお預言者の叔父の後裔」はゴシック体](9)よ。[#「よ。」はゴシック体]
ガーネムは紐の端に書かれた、この金文字の言葉を読むと、あわてて手を引っこめて、乙女に言いました、「早くこのいっさいの意味を、明かして下さいまし。」すると乙女は言いました。
「こういうわけでございます、おおガーネムさま、わたくしは実は教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの寵姫《おきにいり》でございます。このわたくしの下穿きの紐に記《しる》されたこの言葉は、わたくしが信徒の長《おさ》のもので、わたくしはこのお方に、わたくしの肉身の深秘を取っておかねばならぬ身であることを、示しております。わたくしの名は、おおガーネムさま、クーアト・アル・クールーブ(10)と申します。幼ない時から、わたくしは教王《カリフ》の御殿に育てられ、大きくなりますと、教王《カリフ》のお目にとまって、主《しゆ》の寛大さのお蔭をもって授けられた、わたくしのうちの長所と完全さがお目についたほど、美しい女になったのでございました。そしてわたくしの美しさは深くお心に留まって、教王《カリフ》はわたくしに深い愛情をお覚えになり、御殿の中に、わたくし一人だけに特に別室を賜わり、吉兆の顔をした、気持のよい十人の若い女奴隷を、つけて下さいました。それから、あの箱の中で、わたくしは宝石だの宝玉だの美しい物に埋もれていたのをご覧になったでしょうが、あれは皆|教王《カリフ》が贈って下さったものです。そして教王《カリフ》は、わたくしを御殿じゅうのどんな女の方々よりもお好みになって、わたくしのためには、あのお気に入りのお妃、おいとこのエル・セット・ゾバイダすらも、疎んぜられました。ですから、ゾバイダ妃はわたくしにお憎しみをお抱きになり、それは程なく結果に現われたのでございました。
ある日|教王《カリフ》は、その代官の一人が反乱を起こしましたので、それをご征伐に行かれてお留守をあそばしたおりに、ゾバイダ妃はこの機会をとらえて、わたくしに対する企みをめぐらされました。お妃さまはわたくしの侍女の一人を首尾よく抱き込んで、ある日これをご自分のところに召して、おっしゃいました、『そなたの主人クーアト・アル・クールーブが眠ったら、この麻酔剤《バンジ》の塊りを、その口の中に入れておくれ。その前に、まず飲み物の中に入れておいてね。そうしてくれれば、きっとご褒美をあげて、そなたに富と自由を与えましょう。』すると、その若い奴隷は、やがてご褒美が貰えると思うと悦び勇んで、わたくしのところにやって来て、わたくしに麻酔剤《バンジ》のはいった飲み物をすすめました。その飲み物がわたくしの体内に下ったと思うと、わたくしはばったり床《ゆか》に倒れ、からだは痙攣に陥り、踵は額に来て、わたくしはどこかほかの世界に行くような気がいたしました。
わたくしが眠ってしまうのを見ると、その奴隷はゾバイダ妃を呼びに行き、お妃さまはおいでになって、わたくしをあの箱の中に入れさせました。それから、ひそかにあの三人の宦官をお召しになって、彼らと御殿の門番たちにたくさんの心付を与えて、そして夜、宦官の背にになわせて、わたくしを連れ出し、あの墓所《トウルバー》に運ばせなすったところが、そこに、おおガーネムさま、アッラーはわたくしをお救い下さるために、あなたを導き、棕櫚の木のてっぺんに、あなたをおおき下さったのでございました。それというのは、わたくしが墓所《トウルバー》の穴の中で、窒息して死なずにすんだのは、おおわが眼のガーネムさま、ひとえにあなたのお蔭でございます。また、わたくしが今こうしてあなたのお宅で、安泰にしていられるのもやはり、あなたのお蔭でございます。
けれどもわたくしの思いをなやますことは、教王《カリフ》が御殿にご帰還になって、わたくしの姿が見えなかった時、どのようなことをお考えになり、またなされるやら、皆目見当がつかないことでございます。またそれゆえに、おおガーネムさま、わたくしは、この下穿きの紐によって縛られている身でございますから、自分の身を残らず与えて、あなたにぴったりくっついて、顫えおののくわけにゆかないのでございます。
これがわたくしの身の上でございます。どうかくれぐれもお気をつけになって、うっかり秘密を洩らさないように、お願いします。」
ガーネム・ベン・アイユーブは、このクーアト・アル・クールーブの物語を聞き、どういう繋縛《つながり》がこの乙女を信徒の長《おさ》に結んでいるかを知り、これは実にその御寵姫であり、おもちものであることがわかると、彼は教王《カリフ》のお名前に対する畏れから、身をひいて部屋の奥に下がり、もう敢えて乙女のほうに、眼をあげることさえしませんでした。それほど、この乙女は今は神聖なものになってしまったのでございます。そして彼は、ただ一人片隅に行って坐り、いろいろとわが身を責めはじめ、乙女のやんごとない肌に触れただけでも、すでにどんなに不遜なことであったかなど、思いめぐらしはじめました。そして自分の恋は不幸で、自分の運命は悲しいものであると、さとりました。そして天命に自分の不当な災いを恨みました。彼は次の詩人の句を思い出したのでした。
[#この行2字下げ] 友ありてわれに問えり、「恋とはそも何ぞや。」われはこれに言う、「恋とは、その汁《つゆ》の味よくして、その捏粉は苦き菓子にこそあれ。」
すると乙女はガーネムに近づいて、彼を胸に抱き締め、そして彼を慰めようとて、ただひとつを除いて、あらゆる手段《てだて》を尽くしました。けれどもガーネムは、もはや信徒の長《おさ》の御寵姫の愛撫には答える勇気もなく、抗《あらが》いこそしないけれども、接吻も抱擁も返すことなく、黙ってされるがままになっていました。そして御寵姫は、ガーネムがこんなにすぐにうって変わって、今さっきまではあんなに元気であったのが、今はこんなに畏《かしこ》まってしまおうとは、思いがけなかったので、ますますはげしくご機嫌を取るのでした。けれどもガーネムは、ひと時の間ずっと、すこしも耳を傾けようとせず、優しく押しやりさえして、言いました、「おおご主人クーアト・アル・クールーブさま、どうぞアッラーがそのようなことから私をお護り下さいますように。主人のものは奴隷に属することはできますまい。」それから彼は乙女の手からのがれて、悲しく憂いに沈みつつ、片隅に坐りに行きました。けれども乙女はその手を取って、敷き物の上に連れて来て、無理に自分のそばに坐らせました。けれども、しばらくたつと、彼は立ち上がって、そして毎夜するように、蒲団を床に広げる支度をしました。ところが、毎夜のようにひとつの寝床をとるかわりに、今夜は二つの寝床を、互いに間を隔てて、とるように気を配りました。するとクーアト・アル・クールーブは、すっかり機嫌をそこねて、彼に言いました、「この二番目のお床は誰のですの。」彼は答えました、「ひとつは私ので、今ひとつはあなたのです。今夜からは、私どもはこうして寝《やす》まなければいけませぬ、おおクーアト・アル・クールーブさま。」けれども、彼女は言葉をつぎました、「おお愛するご主人さま、わたくしたち、そんな固苦しいことはやめにしましょう。それに、起こるべきすべては起こるでしょうし、天命によって記されていることは、成就しないわけにはまいりませんもの。」けれども、ガーネムはいっかな承知いたしません。すると彼女は、そのためにいよいよ燃え立って、叫びました、「アッラーにかけて、今宵《こよい》はけして、ほかの夜々のようには過ぎないでしょう。」けれども彼は言いました、「どうかアッラーは私どもをお守り下さいますように。」彼女は言葉をつぎました、「いらっしゃい、おおガーネムさま、今はわたくしはわが身をあけひろげます。そしてわたくしの欲情《のぞみ》はあなたを呼び、あなたに向かって叫びかけています。」ガーネムは言いました、「どうかアッラーはそのようなことから私を護って下さいますように。」彼女は叫びました、「おおガーネムさま、今はわたしは自分が欲情に濡れそぼつのを覚えます。」そして乙女は琵琶《リユート》を取って、歌いました。
[#ここから2字下げ]
われは美しくたおやかなるを。何とても君はわれより逃《のが》れたもうぞ。われは、美しからぬところとてなく、いみじさに溢るるものを。何とても顧みざるぞ。
われは人々の心を焼き、瞼《まぶた》より眠りを奪い去りしよ。さるを何ぴとも、われを摘まざりき。
われは香りよく匂やかの花。ああ、何とても君はわれをば嗅がんとしたまわぬにや。
[#ここで字下げ終わり]
けれどもガーネムは、常よりもいっそう恋い焦がれていたものの、教王《カリフ》に払わなければならぬ敬意を欠くことを望まず、そして乙女のあらゆる望みにもかかわらず、さらにまるひと月の間を、こうして我慢しつづけました。ガーネムと信徒の長《おさ》の御寵姫クーアト・アル・クールーブについては、かような次第でございました。
ところで、アル・ラシードのお妃、ゾバイダのほうはと申しますと、こうでございます。教王《カリフ》が戦さにお出かけになってお留守になり、その間に、お妃はその競争者をばなされたようになさると、やがて非常な悩みに陥らずにいられなくなられて、心の中でひとりごとを言われました、「教王《カリフ》がご帰還になって、クーアト・アル・クールーブの消息をお訊ねになったら、さてなんと申し上げたものであろう。私はどういう顔をして、お出迎えしたものであろうか。」そこでお妃は、幼ない時からお馴染みになっていて、そのよい忠告にいつでも非常に信用をおいていらっしゃる、一人の老婆を召し出すことになさいました。そしてこの老婆に秘密を打ち明けた上で、申されました、「クーアト・アル・クールーブの身に、起こったことが起こった今となっては、さてなんとしたものであろうか。」老婆は答えました、「委細わかりました、おおご主人さま。さりながら、時は迫っております、なぜなら、教王《カリフ》は今にもお戻りになりますから。そこで、教王《カリフ》にいっさいお隠しする手段《てだて》は、いくらでも教えてさしあげられますが、まずその中でいちばん造作なく、いちばん手っ取り早く、それでいていちばん間違いのない策を、ご伝授するとしましょう。まずさっそく、指物師を呼んで来て、これに大きな木材で、死人の形をした人形を彫るように、お命じあそばせ。この人形を、盛んな葬儀を営んで墓に入れるのです。そのまわりには、ずらりと炬火《たいまつ》と蝋燭をともし、御殿じゅう全部、あなたさまの奴隷たちにも、クーアト・アル・クールーブの奴隷たちにも皆、喪服を着け、黒ずくめの服装《なり》をするように、お命じなさいませ。そしていよいよ教王《カリフ》ご到着とわかったら、その前に、この奴隷たちや、また全部の宦官に命じて、御殿全体と全部のお廊下に、黒布を張りめぐらせなさいませ。そして教王《カリフ》が驚いてその訳をお訊ねになったら、こう申し上げさせるのです、『おおわが君さま、ご愛妾クーアト・アル・クールーブさまは、アッラーの御慈悲のうちに入りなさいましてございます。何とぞわが君さまが、あの方の生きなかった数々の日をば、お生きあそばしますように。なお妾《わらわ》どものご主人ゾバイダさまは、あの方に、あらゆる礼をつくしてご葬儀を営まれ、この御殿の中に、特にしつらえた丸屋根の下に、あの方を埋葬なされたのでございます。』すると教王《カリフ》は、あなたさまのお志にたいそう感銘なすって、涙を流され、あなたさまを非常に多となされることでしょう。それから定めし、コーランの読誦者たちを呼ばれ、それに葬式の経文を誦《ず》しながら、墓を護らせなさいましょう。けれども、万一、こう運ばず、教王《カリフ》は、あなたさまがクーアト・アル・クールーブを好いていらっしゃらなかったということをご存じだから、ひょっとして、あなたさまに疑いをかけ、『わが叔父の娘ゾバイダが、クーアト・アル・クールーブを亡きものにせんとて、計らなかったものとも限らぬわい』なぞと、ご心中でひとり言を仰せられ、その疑いがいよいよ募り、はては、墓を開いて、御寵姫《おきにいり》がどのような死因で死んだのかを、確かめようとまでなさったとて、あなたさま、おおご主人さまよ、そんなことにびくびくなさることはございません。というのは、いよいよ穴を掘り返して、アーダムの子の姿に似せて作られた人形を引き出したとき、そのとき、万一|教王《カリフ》が今一度最後に御寵姫《おきにいり》を見ようとて、その経《きよう》帷子《かたびら》と布をあげようとでもなすったら、ご主人さまよ、あなたさまはすぐにそのお手をおとめになり、一同もまたそのお手を押しとどめて、こうおっしゃいませ、『おお信徒の長《おさ》よ、死女を見ることは、法にかなわぬことでございます。』すると教王《カリフ》も結局、改めて埋葬させ、あなたさまのなすったことを多となさるでございましょう。こうしてあなたさまは、アッラーの思し召しあらば、この心配よりおのがれになることでございましょう。」
この老婆の言葉に、ゾバイダ妃はこれはまことに結構な忠言を聞いたものと思われて、すぐに老婆に数々の見事な贈物をなさり、たいそう美しい誉れの衣と多額の金子を与え、自身でこの計画の実行を取り計らってくれるようにと、お頼みになりました。そこで老婆は、せっせと指物師に人形を作らせて、その人形をゾバイダ妃のところに持って行きました。そして二人で、その人形にクーアト・アル・クールーブの豪奢な着物を着せ、見事な経帷子で包《くる》み、たいそう立派な葬式をして、これをば、御殿の中に、多額の費用をかけて造った、丸屋根の墓の中に納め、炬火《たいまつ》や吊り燭台や大蝋燭をともして、墓のまわりにぐるっと、祈祷と慣例《ならわし》の儀式とのための敷き物を敷きつらねました。それからゾバイダは、御殿じゅうに黒布を張り、全部の女奴隷に、黒の喪服を着けるように、申し付けなさいました。それで、クーアト・アル・クールーブの死の噂は御殿全体に広まり、マスルールはじめ全部の宦官もふくめて、誰しも本当にそう信じたのでございました。
こうしているうちに、教王《カリフ》は遠征からご帰還になり、御殿におはいりになりましたが、想いは、ただクーアト・アル・クールーブでいっぱいになっていられたので、そのまま大急ぎで、その部屋に向かわれました。すると、御寵姫の従者や奴隷や侍女たちが皆、黒の喪服を着ているのをご覧になって、胸騒ぎがして顫え出されました。そこに間もなく、ゾバイダ妃が、やはり喪服を着て、お出迎えにおいでになりました。そこでおそばの者にこうしたいっさいの理由をお訊ねになると、クーアト・アル・クールーブが亡くなったということでした。この知らせを聞かれると、教王《カリフ》は気を失って倒れてしまわれました。そして、正気にお返りになると、お墓を訪れようとなすって、その在所《ありか》をお訊ねになりました。すると、ゾバイダ妃は申し上げました、「さればでござります、おお信徒の長《おさ》よ、わたくしはクーアト・アル・クールーブへの愛ゆえに、わたくし自身の宮殿に、葬ってあげることにいたしたのでございます。」すると教王《カリフ》は、まだご旅装のまま、御殿のクーアト・アル・クールーブのお墓のある場所に向かわれました。すると、炬火や大蝋燭に火が点《とも》され、ぐるりに敷き物が敷きつらねられているのが、お眼に入りました。それをご覧になると、教王《カリフ》はゾバイダ妃のけなげな振舞いに感謝なさり、お讃めの言葉を賜わりました。
けれども、教王《カリフ》は元来お疑い深いほうであらせられたので、間もなく、いろいろと疑念を抱かれ、安らかならぬ思いに駆られなさいました。そこで、お心を悩ますこうした疑いを、ひと思いに晴らしてしまおうとて、お墓をあばいて、御寵姫の死体を掘り出すように、お命じになりました。それはすぐに行なわれました。ところが教王《カリフ》は、ゾバイダの計略におかかりになって、経帷子に蔽われた木像をご覧になり、それが御寵姫だと信じてしまわれました。そこで改めてそれを埋葬させ、そしてただちに導師《イマーム》たちとコーランの読誦者たちを召し出され、一同がお墓の上に、葬式の経文を誦しはじめますと、その間ご自身は、敷き物の上にお坐りになって、あらゆる涙をそそぎ尽くされ、はなはだしく感動なされて、ついには、心衰えお悲しみのあまり、気を失ってしまわれたほどでございました。
そして教王《カリフ》はまるひと月の間、導師《イマーム》とコーランの読誦者たちをお呼びになり、御寵姫のお墓のそばにお出かけになっては、さめざめとお泣きになることを、やめなさりませんでした。
[#この行1字下げ] ――けれども、ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四十一夜になると[#「けれども第四十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、教王《カリフ》はまるひと月の間、その御寵姫のお墓のそばにお出かけになることを、おやめにならなかったのでございます。そしてその月の最後の日には、祈祷とコーランの読誦は、早暁よりあくる日の早暁まで続き、朝になってようやく、めいめい自宅に引き取ることができました。教王《カリフ》は涙とお疲れで、精根尽きて御殿に戻られ、今はもう誰にも、宰相《ワジール》ジャアファルや、お妃のゾバイダにすら、お会いになることをおいといになって、やがて、交代で教王《カリフ》の夜々を見守る、御殿の女奴隷二人の間で、寝苦しい眠りにお落ちになりました。
ところで、その女の一人は教王《カリフ》のお頭《つむり》のそば近く、今一人は御足《おみあし》のところに坐っていました。ひと時たって、教王《カリフ》がそのまま熟睡なされずにいらっしゃると、お頭《つむり》のそばに坐っている女が、御足のところにいる女に、話しているのがお耳に入りました、「何というお気の毒なことでしょう、ねえスーブヒヤさま。」スーブヒヤは答えました、「それはまたどうしてですの、おおノズハさま。」ノズハは言いました、「だってわが君さまは、あのことをいっさいご存じないにちがいないのですもの。毎晩、お墓のところで夜を明かしていらっしゃるけれども、あの中にはこしらえものの木片《きぎれ》しかはいっていないことよ。あれは指物師の作った人形なのよ。」スーブヒヤは言いました、「なんですって、おおノズハ姉さま。では、クーアト・アル・クールーブさまはいったいどうなられたの。どういう目におあいなさったの。」ノズハは言いました、「じつは、おおスーブヒヤさま、わたくしはご主人ゾバイダさまのお気に入りの奴隷の、お仲間のお姉さまから、全部聞きましたの。ゾバイダ妃はこの奴隷を召されて、クーアト・アル・クールーブさまを眠らせるようにと、麻酔剤《バンジ》をお渡しになったのよ。そしてその奴隷が、麻酔剤《バンジ》をクーアト・アル・クールーブさまに差し上げると、すぐさま眠っておしまいになったわけ。するとご主人さまは、これを箱の中に入れさせて、宦官のサウアーブとカーフールとバクヒタに、その箱をお渡しになり、どこか遠くの墓穴に埋めるように、お命じになったのです。」するとスーブヒヤは眼に涙を浮かべて、言いました、「ああノズハさま、お願いですから、早く教えて下さいな、わたくしたちのお優しいご主人、クーアト・アル・クールーブさまは、そんな恐ろしい亡くなり方で、亡くなられてしまったのですの。」ノズハは答えました、「どうぞアッラーは、あの方のお若さを、死よりお護り下さいますように。ところがそうではないのよ、おおスーブヒヤさま。というのは、ゾバイダ妃がそのお気に入りの女奴隷におっしゃってるところを、わたしは聞いたのです、『なんでもクーアト・アル・クールーブは、墓穴から逃げおおせて、今はガーネム・ベン・アイユーブ・エル・モティム・エル・マスルーブとかいう、ダマスの若い商人の家にいるそうですよ。それからもう四月になるということです。』ですから、ほら、スーブヒヤさま、わが君|教王《カリフ》さまは御寵姫が生きていることもご存じなく、死人なんかいもしないお墓のところで、毎晩夜を明かしていらっしゃるなんて、ほんとにお気の毒だっていうことが、おわかりになったでしょう。」そして二人の奴隷は、さらにしばらくの間、こんなふうに話しつづけていて、教王《カリフ》はその言葉を、ずっと聞いていらっしゃったのです。
二人の奴隷が話し終わって、もう何も聞き出すことがなくなると、教王《カリフ》はいきなりお床《とこ》の上に起きなおられて、二人の小さな奴隷がびっくりして逃げて行ってしまったほどの、恐ろしい声でお叫びになり、御寵姫がガーネム・ベン・アイユーブとやらいう若い男のところにいて、しかもそれがもう四月にもなるとお考えになると、大変なご立腹に入られました。そして立ち上がられて、ただちに、主長《アミール》や重臣たちや、また宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーを、御前に召し出されました。ジャアファルは大急ぎで駆けつけて来て、御手の間の床《ゆか》に接吻しました。すると教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「おおジャアファルよ、ただちに警吏を引き連れて、ガーネム・ベン・アイユーブと称する、ダマスの若き商人の家を捜索いたせ。しかして、汝と汝の一隊は、その家を襲い、そこよりわが寵姫クーアト・アル・クールーブを奪い取り、その若き不宵の徒を引っ立ててまいれ。そやつの拷問は余がよしなにいたすであろう。」そこでジャアファルは、承わり畏まってお答え申しました。そして一隊の警吏を率いて退出し、念のため町の奉行《ワーリー》とその配下をも引き連れて、一同はガーネム・ベン・アイユーブの家が見つかるまで、捜索して歩くことをやめませんでした。
ちょうどこの時は、ガーネムは一日の食糧を買いととのえて、市場《スーク》から帰ってきたところで、クーアト・アル・クールーブのそばに坐り、挽肉を詰めた羊の炙肉や、その他いろいろのご馳走を、前にしているところでございました。戸外《おもて》に聞こえる騒々しい音に、クーアト・アル・クールーブは窓から外を眺めてみますと、ひと目見て、この家に降りかかろうとしている禍いを察しました。家のまわりは、警吏や太刀持ちや白人奴隷《ママリク》や隊長らに、すっかり取り囲まれ、その先頭には、町の奉行《ワーリー》と宰相《ワジール》ジャアファルの姿が見えるのでした。そして一同は、ちょうど黒眼が眼瞼《まぶた》のまわりを回るように、家のまわりを回っておりました。
そこで彼女は、教王《カリフ》がいっさいの顛末をご承知になったことを、もはや疑いませんでした。それでその顔色は黄いろくなり、その美しい顔立ちも変わってしまい、恐れおびえて、ガーネムのほうに向いて、申しました、「おお愛《いと》しい方、何よりもまず、お身をのがれることをお考え下さい。さあ立ち上がって、お逃げなさいまし。」彼は答えました、「おおわが眼の光よ、敵にすっかり取り囲まれた家から、どうやって逃げ出し、どうやって身をのがれられましょうか。」彼女は言いました、「ご安心なさいませ。」そしてすぐに、彼女はその着物をすっかり脱がせて、擦り切れてぼろぼろになった古着を着せ、大きな肉鍋をその頭に載せ、鍋の上には、パンを入れた皿をひとつと、食事の残り物を詰め込んだ瀬戸物をいくつか載せて、そして言いました、「さあこうして、出ていらっしゃい。そうすれば、仕出し屋の奉公人だと思って、誰もあなたに害を加える人はございますまい。あとのことは万事、ご安心なさいませ。わたくしがちゃんといいようにいたしますから。わたくしは自分が教王《カリフ》さまに、どういう勢力《ちから》を持っているか、知っております。」クーアト・アル・クールーブのこうした言葉を聞くと、ガーネムは、別れを告げる暇もなく、急いで外に出て、頭にお料理の荷物を載せたまま、警吏や奴隷の並んでいる間を、通り抜けて行きましたが、はたしてなんの面倒も起こりませんでした。というのは、彼は「庇護者」のご庇護の下に、いたからでございます。
けれども間もなく、宰相《ワジール》ジャアファルは馬からおりて、家の中にはいり、その別室に着きました。すると商品と絹織物の梱《こり》がぎっしりと詰まった広間のまん中に、美しいクーアト・アル・クールーブの姿が見えました。彼女はつと立ち上がって、身を屈め、彼の両手の間の床《ゆか》に接吻して、言いました、「おおわがご主人ジャアファルさま、今や蘆筆《カラム》は、アッラーのご命令によって書き記されねばならぬところを、書き記しました。さればわたくしは、あなたの御手の間に戻りまする。」けれどもジャアファルは答えました、「アッラーにかけて、おおご主人さま、教王《カリフ》はただガーネム・ベン・アイユーブを捕えよとのみ、お命じになりました。されば、彼の居所をばお教え下さいまし。」彼女は言いました、「おおジャアファルさま、ガーネム・ベン・アイユーブは、自分の商品をおおかた荷造りした上で、数日前に、母親と妹のフェトナーに会いに、故郷ダマスに向けて出発したのでございます。わたくしはそれ以上のことは何も存じませず、これ以上何も申し上げることができません。けれども、ここにございますこの箱は、わたくしのもので、わたくしのいちばん大切な衣類がはいっておりますから、これはどうかなくなさないようにして、信徒の長《おさ》の御殿に、運ばせていただきとう存じます。」するとジャアファルは答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」次に、その箱を受け取って、部下に運ぶように命じ、クーアト・アル・クールーブには懇切丁重、慇懃の限りを尽くした上で、信徒の長《おさ》のところまで、同行してくれるようにと乞いました。そこで一同は引き上げましたが、もっともそれは、教王《カリフ》の御諚に従って、恋の奴隷ガーネム・ベン・アイユーブの家を散々に掠奪、劫掠したあとのことでございました。
ジャアファルは教王《カリフ》の御手の間にまかり出ると、自分のしたところと、ガーネムのダマス出発と、御寵姫クーアト・アル・クールーブの御殿到着をば、言上いたしました。すると、ガーネムはクーアト・アル・クールーブに対して、およそ若い女に対してなし得る限りのことをしたものに相違ないと信じておられる教王《カリフ》は、大変なご立腹になられて、クーアト・アル・クールーブを見ようとさえなさらず、マスルールに命じて、これを暗い一室に閉じこめ、普通被疑者の番人の役目に当たる、一人の老婆の監視の下におかせました。
一方ガーネムのほうは、教王《カリフ》は騎馬の者どもをして隈なく捜査させ、その上、ダマスの帝王《スルターン》、ご配下の太守ムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニに、お手ずから、ご親書を認《したた》めようと思し召されました。そこで蘆筆《カラム》と墨壷と一葉の紙をお取り上げになって次のお手紙を、お認めになりました。
[#この行1字下げ]バニ・アッバース王朝の光輝ある後裔第五代|教王《カリフ》、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードより、ダマス太守|帝王《スルターン》ムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニ公へ[#「バニ・アッバース王朝の光輝ある後裔第五代|教王《カリフ》、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードより、ダマス太守|帝王《スルターン》ムハンマド・ベン・スライマーン・エル・ゼイニ公へ」はゴシック体]
[#ここから2字下げ]
果てしなく寛仁にして慈悲深きアッラーの御名において[#「果てしなく寛仁にして慈悲深きアッラーの御名において」はゴシック体]
われらの軫念《しんねん》するところたる卿が健康を訊ね、しかして、快暢適意のうちに卿の長寿を保たれんことを、われらアッラーに祈りてのち……
以下のごとし。
おおわれらが太守よ、卿が都の弱冠の一商賈にして、ガーネム・ベン・アイユーブと名乗る者、バグダードに来たりて、わが女奴隷中の一奴隷を惑わして、そのなせしところをこれになせしものと知るべし。しかして彼はわが復讐と逆鱗《げきりん》とを逃がれて卿が都に隠れ、今はその母妹と共に御地に在るべし。
卿はこれを捕えて縛し、鞭五百を加うべし。しかるのち、卿が都の全市を曳き回し、触れ役人は、これを運ぶ駱駝の前方を歩みて、『おのが主《あるじ》の財を奪う奴隷の罰はかくのごとし』と触るべし。次いで、朕自らこの者になすべきところをなすにつき、当方に差し送るべし。
次、彼が家を劫掠し、棟より礎石まで取り毀《こぼ》ち、その存在の痕跡に到るまで湮滅せしむべし。
次、ガーネム・ベン・アイユーブには実母と若き一妹とあれば、両人を捉えて全裸となし、三日にわたり卿が都の全市民の眼に曝してのち、追放すべし。
上命を奉じて精励懈怠することなかれ。
ワサラーム。
[#ここで字下げ終わり]
そして時を移さず、教王《カリフ》のご命令で、一人の飛脚がダマスに向かって立ち、大急ぎで歩いて、二十日とかそれ以上もかかるようなことなく、一週間ののちにはダマスに到着しました。
そこで、帝王《スルターン》ムハンマドは教王《カリフ》の宸翰をお受けしますと、それを唇と額に持って行き、拝誦し終わると、時を移さず、教王《カリフ》のご命令を実行しました。そして全市に触れ役人たちを回して、触れさせました、「略奪したき者は、ガーネム・ベン・アイユーブの屋敷に参り、略奪勝手次第たるべし。」
それからすぐに帝王《スルターン》は、ご自身警吏を率いてアイユーブの家に向かい、その戸をたたきますと、ガーネムの若い妹フェトナーが、戸を開きに駆けつけて来て、申しました、「どなたでいらっしゃいますか。」帝王《スルターン》は答えました、「余であるぞ。」すると彼女は戸を開きましたが、フェトナーはまだ一度も帝王《スルターン》ムハンマドを拝したことがなかったので、すぐさま被衣《かつぎ》の隅でもって顔を蔽い、ガーネムの母親に知らせに駆け出しました。
ガーネムの母親は、もはや一年以来、息子のガーネムについてなんの音沙汰も聞かなかったので、もう死んだものと思って、息子のために堂宇を造らせていたのでしたが、この時も、そのお墓の丸屋根の下に、すわっておりました。母親は涙にかきくれて、もう食べもせず、飲みもしないのでした。そこで母親は娘のフェトナーに、客人をご案内するようにと言いましたので、ムハンマド王は家の中にはいって、墓のところに来られ、泣いているガーネムの母親を見て、申されました、「余はそちの息子ガーネムに会い、これを教王《カリフ》に差し向け奉ろうとて来たのである。」母親は答えました、「私こそは不幸な者でございます。息子のガーネム、私の臓腑の結実《み》は、私と妹を置いて去り、そのままもはや一年以上になりますが、どうなったものやら皆目わかりませぬ。」するとムハンマド王は、仁慈溢るるお方でございましたけれども、教王《カリフ》のご命令とあらば是非なく、実行いたさないわけにまいりませんでした。王はただちに家じゅうを掠奪させ、敷き物とか、壺とか、瀬戸物とか、その他の金目の品々を奪わせて、それから家全体を取り壊し、その石全部を町の外に運び出させてしまいました。それから、そのようなことは非常においやであったにもかかわらず、ガーネムの母親と、妹の若く美しいフェトナーをば裸にして、袖のない下着一枚を纒うことも禁じて、三日の間、町に曝し物にした上で、両人をダマスから追放してしまいました。両人のほうは、このようでございました。
さて恋の奴隷、ガーネム・ベン・アイユーブにつきましては、彼はひとたびバグダードを出ると、歩きはじめ、泣きはじめて、心が粉々になるまで泣きました。そしてこのような有様で、食わず飲まずで、日が沈むまで続けました。ようやく、とある村里に辿り着きましたので、彼は村の回教寺院《マスジツト》に行き、その中庭にはいって、力尽きて茣蓙《ござ》の上に倒れ、背を壁にもたせました。こうして彼は、身動きして何か求める力さえなく、朝方までいました。朝になると、村人たちが礼拝をしに寺院《マスジツト》にやって来て、彼が生きた色もなく横たわっているのを、見つけました。彼が饑《ひも》じく渇《かわ》いていると知って、村人たちは一壺の蜜と二切れのパンを持って来て、それを食べさせ、飲ませてやりました。それから、一枚の下着をくれて着させてやり、彼に聞きました、「あなたはどなたで、どこからおいでになったのかね、おお異国の方よ。」するとガーネムは眼を開いて見つめましたが、しかしただのひと言を言い出すことも、ひと言返事をすることもできないで、ただ泣き出すだけでした。そこで村人たちはしばらくの間、そのまわりにいましたが、やがてめいめい自分の道に、立ち去ってしまいました。
ガーネムは、自分の悲しみとまた窮乏のために、とうとう病気になって、その寺院《マスジツト》の古茣蓙の上にさらにひと月の間、寝ておりました。そしてすっかり身体が弱り、顔色も変わってしまい、身体は、虱と南京虫に食い荒らされてしまいました。それがあまりにみじめな有様に陥ったので、寺院《マスジツト》の信者たちは、ある日一緒に相談して、病院といえばバグダードよりほかにまずないので、彼をバグダードの病院に連れてゆくことにいたしました。そこで彼らは、駱駝を連れている駱駝曳きを呼びに行って、それに言いました、「この病気の若者をば、おまえさんの駱駝の背に載せて、バグダードまで運び、病院の戸口におろしてやってもらいたい。そうすれば、空気も変わり、病院で手当ても受けられて、きっと治ることだろう。それから駱駝曳きのおまえさんよ、おまえさんの手間賃と駱駝賃は、帰ってから、私たちのところに取りに来て下さいよ。」すると駱駝曳きは答えました、「お言葉承わり、仰せに従います。」それから、駱駝曳きは居合わせた人々の手を借りて、寝ている茣蓙ごとガーネムを持ち上げ、駱駝の背に積み上げて、しっかりと結いつけました。
駱駝曳きがいよいよ出発しようとして、ガーネムは自分のみじめさを泣き悲しんでいたちょうどその時、見送る群集に立ちまじって、大層貧しい服装《みなり》をした二人の女が、この病人の姿を見て、言ったのでした、「このお気の毒な病人は、何と家《うち》の息子ガーネムに、よく似ていることでしょう。」そして、埃にまみれて、たった今この土地に着いたこの二人の女は、ガーネムのことを思って、泣きはじめました。というのは、この二人こそ、ダマスをのがれて今バグダードへの道を続けている、ガーネムの母と妹フェトナーだったからでございます。
さて駱駝曳きは、程なく自分はろばに乗り、駱駝の頭絡《おもがい》を執って、バグダードへと向かいました。やがてそこに着くと、まっすぐに病院に行き、ガーネムを駱駝の背からおろして、おりからまだひじょうに早朝で、病院が開いていなかったので、戸口の階段の上に病人を置いて、自分の村に引き返しました。
ガーネムがこうして戸口に横たわっていると、やがて住民たちが家から出てまいりました。そして彼が影のような有様になって、茣蓙の上に寝ているのを見ると、一同はそのまわりに寄って来て、いろいろと推量しはじめました。そしてみんなが、互いに自分の考えを述べあっていると、そこに市場《スーク》の頭《かしら》立った長老《シヤイクー》が通りかかって、すぐに群集を追いやり、近づいて、この若い病人を見て、心の中でひとり言を言いました、「アッラーにかけて、もしこの若者が病院に入れられたら、ろくな手当ても受けないで、助かりっこないことは今からわかっている、死刑をくった人間も同然だ。では、アッラーのお顔のために、ひとつおれが自宅に引き取ってやるとしよう。」そこで市場《スーク》の長老《シヤイクー》は、自分の若い奴隷たちに、この若者を連れて自分の家に移すように、言いつけました。そして自身それについて行って、着くや否や、よい蒲団とま新しい清潔な枕をそろえて、ま新しい寝床を設《しつ》らえてやりました。それから、妻を呼んで言いました、「おお妻よ、これはアッラーがわれわれのところによこされた客人だ。十分大切にみとってあげなさい。」妻は答えました、「承知いたしました。この客人をば、私の頭上と眼の上に置くでございましょう。」それからすぐに両の袖をたくし上げて、大釜に湯を沸かさせ、病人の手足や全身を洗ってやりました。次に、自分の夫の清潔な着物を着せて、おいしいシャーベットを一杯持って来てやり、顔にばら水を振りかけました。するとガーネムは、呼吸も楽になりはじめ、体力も次第に復《かえ》って来はじめ、それと共に、わが身の過去と友クーアト・アル・クールーブの思い出も、立ち帰りはじめたのでありました。恋の奴隷、ガーネム・ベン・アイユーブについては、かような次第でございます。
さてクーアト・アル・クールーブのほうはどうかと申しますと、教王《カリフ》が彼女に対していたくお腹立ちで……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四十二夜になると[#「けれども第四十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、クーアト・アル・クールーブのほうはどうかと申しますと、教王《カリフ》が彼女に対していたくお腹立ちになり、これを暗い一室に閉じこめて、御殿の老婆に見張りをおさせになってからというもの、彼女は八十日の間、御殿の誰ともいっさい交渉なく、こうした有様でおりました。そして教王《カリフ》は、遂には彼女のことをすっかりお忘れになっていたとき、日々の中のある日、ふと教王《カリフ》がクーアト・アル・クールーブの部屋のそばを通りかかられますと、彼女が悲しげに詩人たちの詩句を歌い、そのうちぷつっと歌をやめて、声高に自分に話し出し、ひとりごとを言っているのが、お耳にはいりました、「おおガーネムさま、あなたはご自分に迫害を加えた方に対しても立派で、ご自分の家の女たちを奪った方の女に対しても敬意を失われませんでした。」
この言葉をお耳にせられると、教王《カリフ》は、急いで御殿にお戻りになって、宦官の長に、クーアト・アル・クールーブを呼んでくるように、お言いつけになりました。するとクーアト・アル・クールーブは御手の間にまかり出て、眼に涙をたたえ、悲しい胸を抱いて、頭を垂れておりました。教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「おおクーアト・アル・クールーブよ、余はそちが、余を不正呼ばわりし、余の迫害を責めているのを耳にいたした。そちの言うところによれば、余は余に善をなせる者に対して、よからぬ振舞いに出でたる由。余に属する女を敬したるに、余はかえってその者の女らを危地におとしいれたとやら言い、また、余の女らを庇護したるに、余はその女らを辱しめたとやら言う、その者は、そもそも誰のことか。」クーアト・アル・クールーブはお答え申しました、「それは恋の奴隷、ガーネム・ベン・アイユーブでござります。おお教王《カリフ》さま、わたくしは君のご恩寵にかけて誓い奉ります、ガーネムはかつてわたくしを犯そうなどとはいたさなかったのでございます。破廉恥や粗暴の振舞いなどは、思いもよらない人でございます。アッラーのおん前で、『高貴の書』にかけ、またわたくしにとって大切なわが君のおん生命《いのち》にかけて、わたくしはこれを誓言いたします。」
すると教王《カリフ》は、この言葉を聞かれて、もはやおん魂もお顔も晴れやかになり、おっしゃいました、「至高全智のアッラーのほかには、叡智も権力もない。さらば、おおクーアト・アル・クールーブよ。望むがよい、そちのあらゆる願いは叶えらるるであろう。」そのときクーアト・アル・クールーブは叫びました、「おお信徒の長《おさ》よ、それではわたくしにガーネム・ベン・アイユーブを賜わりませ。」すると教王《カリフ》は、この御寵姫に対して、今なお抱きつづけておられるすべての愛情にもかかわらず、おっしゃいました、「アッラーの思し召しあらば、そは行なわれるであろう。余はそちに、ひとたび与えし以上は断じて取り消すことなき潔《いさぎよ》い心をもって、しかと約束いたす。かつ彼は名誉の限りを尽くされるであろうぞ。」クーアト・アル・クールーブは言いました、「おお信徒の長《おさ》よ、ガーネムが戻りました暁には、どうぞわたくしを彼に贈物として遣わして、彼の妻として下さいますようお願い申し上げまする。」教王《カリフ》はお答えになりました、「戻ったおりには。ガーネムをそちに与え、そちは彼の有《もの》となり、妻となるであろう。」するとクーアト・アル・クールーブは言いました、「おお信徒の長《おさ》よ、ガーネムがどこにおりますやら、何ぴとも存じませぬ。そしてダマスの帝王《スルターン》ご自身すら、彼がどうなったか知れないと、申し上げておられます。さればこのわたくし自身が、アッラーはわたくしに彼を見つけ出させて下さるであろうとの希望のうちに、必要な捜索をいたしますことを、お許し下さいませ。」教王《カリフ》はお答えになりました、「そちは、よしと思わるところをなす許しを持つ者である。」
このお言葉に、クーアト・アル・クールーブは、悦びに胸ふくれる思いがいたしました。そして金貨千ディナール入りの財布を用意してから、急いで御殿を出ました。
最初の日は、彼女は各区の長老《シヤイクー》と街々の長たちに会いに行って、問いただしましたが、何の手懸りも得られませんでした。
二日目は、商人たちの市場《スーク》に行き、全部の店を訪れ、市場《スーク》の頭立った長老《シヤイクー》に会いに行きました。そしてこれに事情を告げ、多額の金貨を渡して、それを自分のために、貧しい異国の人々に分け与えてくれるようにと、頼みました。
三日目に、またもや千ディナールを身につけてから、金銀細工商の市場《スーク》と宝石商の市場《スーク》に行って、金銀細工と宝石商たちの長老《シヤイクー》を呼んで来させ、貧しい異国の人々に分ける黄金を、これに渡しましたところが、その市場《スーク》の長老《シヤイクー》は言いました、「おおご主人さま、私はちょうど自宅に、名前や身分は存じませんが、異国の若い病気の男を、引き取っております。けれども、それはきっとどこぞの豪商の息子で、身分の高い両親の子にちがいありません。というのは、その男はまるで影のようではありますが、ひじょうに美しい顔で、人好きのする長所と美質を授けられています。きっと、非常な負債を負って支払えなかったとか、不幸な恋をして愛する人と仲を裂かれたとか、そんなことで、こうした羽目に陥ったものにちがいありません。」
この言葉を聞くと、クーアト・アル・クールーブは、心臓が不規則な鼓動でときめき、臓腑が感動で揺すられるのを感じました。そして、金銀細工商と宝石商の市場《スーク》の長老《シヤイクー》に言いました、「おお長老《シヤイクー》よ、あなたはこの時刻では、市場《スーク》を離れることはおできにならないでしょうから、どなたかに、わたくしをお宅まで案内させて下さいまし。」すると金銀細工商の長老《シヤイクー》は言いました、「わが頭上と眼の上に。」そして自分の家を知っている市場《スーク》の少年をつけて、少年に言いつけました、「さっそく、おおフェルフェルよ、このご主人さまをば、家までご案内申し上げなさい。」そして市場《スーク》の少年フェルフェルは、クーアト・アル・クールーブの前に立って歩いて、病気の異国の人がいる、市場《スーク》の長老《シヤイクー》の家に、案内いたしました。
クーアト・アル・クールーブは家の中にはいると、長老《シヤイクー》の妻女に挨拶しました。すると長老《シヤイクー》の妻女は、バグダードのすべての貴婦人のところによく出入して、そういう人たちを皆知っていましたから、すぐに誰であるかを知って、立ち上がり、身をかがめて、その手の間の床を接吻しました。そこでクーアト・アル・クールーブは、型のごとき挨拶をすませてから、訊ねました、「おお、わたくしのお母さま、あなた方がお宅に引き取ったという、若い異国の病人は、どこにおいでか教えていただけますか。」すると長老《シヤイクー》の妻女は、泣き出して、そこにある寝台を指さして、申しました、「あの床《とこ》の上においでです。あの方はきっと立派な家柄の若者でございます。」
そこでクーアト・アル・クールーブは、その異国の若者の横たわっている寝台のほうを向いて、注意深く見つめますと、それは痩せ衰えて、影のような若者でございました。そしてそれがガーネムであるとは、とうてい見抜けませんでした。けれども、それにもかかわらず、彼女は涙を流しはじめて、言いました、「おお、たとえご自分の国では王侯《アミール》であろうとも、異国に来ている方々は、なんとお気の毒なことでしょう。」それから彼女は、金銀細工商の長老《シヤイクー》の妻女に金貨千ディナールを渡して、この病気の若者のためによいことならば、どんなことでも糸目をつけずしてくれるように、くれぐれも頼みました。次に病人に手ずから処方薬を与えて、飲ませてやりました。それから、その枕もとにひと時以上も留まってから、市場《スーク》の長老《シヤイクー》の妻女に平安を祈り、再び牝らばに乗って、御殿に戻りました。
それから毎日、彼女はあちこちの市場《スーク》に行き、絶えず捜索して時を過ごしておりましたが、ある日のこと、例の長老《シヤイクー》が訪ねて来て、言いました、「おおご主人クーアト・アル・クールーブさま、先日、バグダードを通るあらゆる異国人をば、御前に連れて来てくれとのお頼みでございましたが、今日私は、二人の女を、あなたさまのお恵み深い御手の間に、ご案内してまいりました。一人は人妻で、一人は若い娘でございますが、二人とも、恐らくごく身分の高いものらしゅうございます。それはその様子、顔付きに現われておりますから。しかし二人は見すぼらしい服装で、山羊の毛の衣《ころも》をまとい、めいめい、乞食のように、首に頭陀袋を下げております。眼は涙に溢れ、心はいたみ悲しんでおります。そこで今私は、二人をここに連れてまいったのでございます。それというのも、おお恵みの女王さま、ただあなたさまのみが、彼らを慰め、力づけてやり、不躾《ぶしつけ》な質問の恥辱を避《よ》けてやることが、おできになるでございましょう。あれはたしかに、不躾な質問を浴びせかけてよいような、人柄ではございません。」クーアト・アル・クールーブは答えました、「アッラーにかけて、おおご主人よ、お言葉を承わると、是非ともその方々にお会いしたくなりました。どこにおいでですか。」すると長老《シヤイクー》は外に出て、戸の蔭に二人を呼びに行って、クーアト・アル・クールーブの手の間に連れてまいりました。
若いフェトナーとその母が、自分のところにはいって来た時、クーアト・アル・クールーブは二人をつくづく眺め、その美しさと、気品と、まとっている襤褸《ぼろ》を見ると、涙を流しはじめて、叫びました、「アッラーにかけて、この方々は身分高い生まれのご婦人で、決して貧困に慣れた方々ではございません。というのは、そのお顔を見れば、名誉と富裕のうちにお生まれになったことが、よくわかりますもの。」すると市場《スーク》の長老《シヤイクー》は答えました、「いかにも、おおご主人さま、仰せのとおりでございます。定めし、不幸がその家に下り、暴虐がこの二人を迫害したものに相違ありません。」この言葉を聞くと、母娘は涙を流して、恋の奴隷、ガーネム・ベン・アイユーブのことを思いはじめました。そして二人が泣くのを見ると、クーアト・アル・クールーブも、一緒になって泣きはじめました。するとガーネムの母は、彼女に申しました、「おお恵み満てるご主人さま、何とぞアッラーは、私どもが痛ましき心もて尋ねているものに、めぐり会うことができますよう、お計らい下さることを。私どもの尋ね人とは、わが臓腑の息子、わが心の焔、わが子、恋の奴隷ガーネム・ベン・アイユーブでございます。」
この名を聞くと、乙女はひと声、大きな叫びをあげました。というのは、ここにいるのは、ガーネムの母親とガーネムの妹であることが、わかったからでございました。そして乙女はそのまま気を失って倒れてしまいました。やがてわれに返ると、彼女は涙にかきくれて、二人の腕の中に身を投げて、言いました、「アッラーとわたくしとに、ご期待なさいませ、おお姉妹よ、なぜなら、この日はあなた方の幸福の最初の日で、数々のご不幸の最後の日でございましょう。さあ、すべての悩みをおやめなさいまし。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四十三夜になると[#「けれども第四十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
それから、彼女は金銀細工商と宝石商の市場《スーク》の長老《シヤイクー》のほうに向いて、これに金貨千ディナールを渡して、言いました、「おお長老《シヤイクー》よ、あなたはこれからお二人をお宅にご案内した上で、あなたの奥さまに、お二人を浴場にお連れして、それからごく立派な着物をさしあげるように、おっしゃって下さいませ。どうか奥さまが、お二人のためとあらば、どんなことでも糸目をつけず、懇切丁寧の限りを尽くして下さいますように。」
翌日、クーアト・アル・クールーブは、自身|市場《スーク》の長老《シヤイクー》の家に出かけて、果たして万事自分の指図どおりに、行なわれたかどうかを、自分の眼で確かめにゆかずにはいませんでした。彼女がはいったと思うと、長老《シヤイクー》の妻女はすぐに迎えに出て来て、両手に接吻し、厚意を謝しました。それから、ガーネムの母と妹を呼んで来ましたが、二人は昨日|浴場《ハンマーム》に行って、気品と美しさに輝く顔をして、浴場《ハンマーム》から出て来たのでございました。そこでクーアト・アル・クールーブは、ひと時の間、優しくこの母娘と話しはじめ、それから長老《シヤイクー》の妻女に向かって、例の病人の様子を訊ねました。すると長老《シヤイクー》の妻女は答えました、「相変わらずでございます。」するとクーアト・アル・クールーブは言いました、「ではひとつ、みんなでお見舞いをして、元気をつけてあげようではありませんか。」そして、婦人部屋に引きこもっていて、集《つど》いの間《ま》に寝ている病人を、まだ見ることができなかった二人の女を連れて、一同は若者の部屋にはいり、そして優しみと憐れみをこめて、若者の顔を見てから、そのまわりに坐りました。すると話のうちに、ふとクーアト・アル・クールーブの名前が、言い出されました。するとその若い病人は、このクーアト・アル・クールーブという名が言い出されるのを聞いたと思うと、すぐにその蒼ざめた顔色は色づき、痩せた身体は力づき、魂が彼に戻ってまいりました。そして生気満ちた眼をして、頭をもたげて、叫びました、「どこにいるのですか、おおクーアト・アル・クールーブよ。」
クーアト・アル・クールーブは、この若者がはじめて唇を開いて、自分の名を呼ぶのを聞いた時、それが恋の奴隷の声であることがわかり、急いで彼のほうに身を傾《かし》げて、言いました、「おおわたしの愛しい方よ、あなたはガーネム・ベン・アイユーブですね。」彼は言いました、「そうです。私です、ガーネムです。」この言葉を聞くと、乙女は気を失って、仰向けに倒れてしまいました。ガーネムの母と妹フェトナーのほうも、この言葉を聞いて、二人とも叫び声をあげ、気を失って、仰向けに倒れてしまいました。
しばらくたつと、一同はやっとわれに返り、ガーネムに飛びついて、そして、涙と気絶については、起こったことが起こったのでございました。
それから、クーアト・アル・クールーブは、いちばんにすこし落ち着いて、彼に言いました、「わたくしとお母さまとお妹さまと、皆ともどもに、こうしてとうとう一緒になることをお許し下さったアッラーに、栄光と頌《たた》えあれ。」それから彼に一部始終を語りましたが、それはくりかえすまでもございません。そして付け加えました、「こうした経緯《いきさつ》の後で、教王《カリフ》はわたくしの言葉をお信じになられて、あなたにご好意を垂れ、あなたに会いたいとの思し召しをお洩らしになりました。その上、わたくしをばあなたに贈物として賜わるとのことでございます。」この言葉に、ガーネムは悦び極まって、クーアト・アル・クールーブの手に接吻し続け、一方彼女はその頭と眼に接吻しつづけました。それからクーアト・アル・クールーブは、一同に申しました、「ここでわたくしを待っていて下さい。すぐ帰ってまいりますから。」
そして彼女は大急ぎに御殿にゆき、自分の貴重品を入れてある箱を開いて、たくさんのディナール金貨を取り出し、それをば、市場《スーク》の長老《シヤイクー》に渡しに行って、言いました、「あの二人の方それぞれとガーネムのために、いちばん美しい布地のひと揃いの衣裳四着と、二十枚の手帛と、十本の帯と、それぞれ身につける品十とおりずつを、買いととのえて下さい。」そして彼女は、ガーネムたちのいる家に戻り、三人を浴場《ハンマーム》に案内しました。それから、三人のために雛鳥や、蒸肉や、上等の清酒などを用意させて、こうして三日の間、自分の前で、手ずから三人に飲ませたり、食べさせたりしました。三日にわたって、こんなに元気をつける食餌をとりますと、三人とも生気が身に立ち返り、魂がそのあるべき場所に戻ってくるのを感じました。それからクーアト・アル・クールーブは、今一度三人を浴場《ハンマーム》に連れてゆき、着物を着替えさせて、再び市場《スーク》の長老《シヤイクー》の家へ連れ帰りました。
そして自分のほうは、そのとき教王《カリフ》にお目にかかることを思いました。そしてその御手の間にまかり出て、床まで身をかがめ、ガーネム・ベン・アイユーブ及びその母と妹の戻って来たことを、言上いたしました。またその時、若いフェトナーがどんなに美しさに溢れているかを、吹聴することを忘れませんでした。すると教王《カリフ》は男奴隷に仰せられました、「速やかにジャアファルを呼んでまいれ。」ジャアファルが来ますと、教王《カリフ》はこれに仰せられました、「速やかにガーネム・ベン・アイユーブを呼んでまいれ。」そこでジャアファルは長老《シヤイクー》の家に出向きましたが、そこにはすでにクーアト・アル・クールーブが先がけしていて、ガーネムにジャアファルが見えることを知らせ、言い含めておいたのでした、「おおガーネムさま、今こそ特に、あなたの弁舌と、心の毅然《しつかり》としたところと、潔白さをば、教王《カリフ》にお目にかけて下さらなければなりません。」それから彼女は、市場《スーク》で買いととのえた新調の衣服全部の中で、いちばん豪奢な衣服を着せ、ひと袋のディナール金貨を渡して、言いました、「御殿に着いて、宦官や従者たちの列を通る時には、黄金《こがね》をつかんで投げ与えることを、お忘れなさいますな。」
こうしているうちに、ジャアファルが牝らばに乗って、この家に着きました。ガーネムは急ぎ出迎えに出て、歓迎の言葉を述べ、その手の間の床に接吻しました。彼は今は、昔のように、輝かしい顔と、しっかりした様子に、返っていたのでございます。するとジャアファルは彼に同行を願って、彼をば教王《カリフ》の御手の間に案内いたしました。
ガーネムは諸々の大臣《ワジール》、侍従、太守、顕官、国軍の大将の面々にずらりと取り囲まれた、信徒の長《おさ》のお姿を、拝しました。ところで、ガーネムはもともと、弁舌が爽やかで、上手な即吟家でございました。そこで彼は、教王《カリフ》の御手の間に立ち止まり、沈思の態《てい》でしばし地をみつめ、それから教王《カリフ》のほうに頭をあげて、陛下のために、まことに見事な詩節を、即吟いたしましたので、アル・ラシードは、格式も儀礼もお忘れになって、つとお立ちになり、恋の奴隷ガーネムをばお抱きになったのでした。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、許された言葉を長びかせなかった。
[#地付き]そして第四十四夜になると[#「そして第四十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ガーネム・ベン・アイユーブがこうして、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードのお心を魅してしまいますと、教王《カリフ》は次にこれに仰せられました、「汝の身の上をば委細詳しく、いささかも真実を隠すことなく、語り聞かせよ。」そこでガーネムは坐って、自分の身に起こったことをば始めから終わりまで、残らず教王《カリフ》に言上いたしました。けれども、ここにそれを繰り返したとて、なんの益もございません。すると教王《カリフ》は、殊に御寵姫の下穿きに記された文字に対する、ガーネムの畏《おそ》れをお知りになった時には、全くガーネムの意思の潔白をお信じになりました。そしてこれにおっしゃいました、「余は汝に対して犯したる不正より、わが良心を釈放いたしてくれることを、汝に乞うぞよ。」するとガーネムは申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、いかにも釈放あそばされますよう。なんとなれば、奴隷に属するものはことごとく、ご主人さまの所有にござりますれば。」
教王《カリフ》は、ご満足のうちに、ガーネムをば王国の最も重い要職に取り立てずにはおかれず、これに御殿と、莫大な扶持と、おびただしい男女の奴隷を賜わりました。そこでガーネムは、急いでその新しい御殿に、母と、妹フェトナーと、愛人クーアト・アル・クールーブを、連れてゆきました。それから教王《カリフ》は、かねてガーネムには、フェトナーという名の、まだ処女で、非常にうるわしい妹があることを聞こし召されて、その妹をガーネムにご所望になりますと、ガーネムはお答え申しました、「あれは君の侍女でございます。」教王《カリフ》はこれにお礼を申されずにはおかず、金貨十万ディナールを賜わりました。それから法官《カーデイ》と証人たちをお呼びになって、フェトナーとの結婚契約を認《したた》めさせられました。そして教王《カリフ》とガーネムが、各々その妻の部屋に、教王《カリフ》はフェトナー、恋の奴隷ガーネム・ベン・アイユーブはクーアト・アル・クールーブのところにと、はいったのは、同じ日の、同じ時刻のことでございました。
そして教王《カリフ》は、朝、お眼覚めになると、処女フェトナーの腕の中でお過ごしになった昨夜と、得られた結果とに、非常にご満足あそばされ、そこでいちばん美しい筆蹟を授けられた祐筆を召されて、これに仰せつけなさいました、「おお、最も美しい筆蹟を授けられる祐筆よ、この物語をば、一部始終、金文字にて認《したた》め、これを文庫の中に保管して、将来の子孫のために役立たせ、また恭《うやうや》しくこれを読んでは、日と夜の創造者の御業《みわざ》を感嘆するべく約束せられたる賢人たちの、驚きと歓びともなるようにいたせよ。」
[#この行1字下げ] ――「けれども」とシャハラザードは、シャハリヤール王に向かって、続けて言った、「おおもろもろの世紀の王さま、このすばらしいお話とても、オマル・アル・ネマーンとその王子シャールカーンとダウールマカーンの勇壮な戦さ物語[#「オマル・アル・ネマーンとその王子シャールカーンとダウールマカーンの勇壮な戦さ物語」はゴシック体]よりも、驚くべきものとは、決してお思いあそばされますな。」するとシャハリヤール王は言った、「いかにも、話して苦しゅうない、その戦さ物語とやらを余は全く知らぬ。」
[#改ページ]
オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語
[#この行1字下げ] するとシャハラザードはシャハリヤール王に言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、むかしバグダードの都に、歴代の教王《カリフ》の御代の後で、また他の歴代の教王《カリフ》の御代に先立って、オマル・アル・ネマーン(1)と呼ばれる、一人の王がおいでになりました。この王は大変にお強くいらっしゃって、あり得る限りのあらゆる|ペルシア王《ホスロー》(2)を打ち破り、想像される限りのあらゆる皇帝《カエサル》を打ち従えてしまわれました。燃えさかるご気象のお方で、それはもう、暖める火などはこの王には不要な物といえるくらいでしたし、角逐《かくちく》の場に出ては、何ぴとも武力の争いに太刀打ちできる者はいないほどでございましたし、ひとたびお怒りになると、双の鼻孔から焔と火花をお発しになるというほどでございました。王はあらゆる国々を征服し、あらゆる町々と都々に、支配を及ぼされました。そして、アッラーの神助を得て、生きとし生けるものを従え、その勝ち誇る軍隊を、もっとも遠い地の涯まで入り込ませました。東洋から西洋にわたり、かずかずの国の中で特に、インド、シンド、シナ、エーメン、ヘジャズ、アビシニア、スーダン、シリア、ギリシア、ディャルベクル(3)の諸地方、また海上のあらゆる島々と、たとえばセイウーンやジハーン、ナイルやユーフラテスというような、地上にある名高い大河は、あげてことごとく、その治下にありました。王は地の隅々まで使者を遣わして、ご自分の領土の、出来事と消息との真相を探らせなさいましたが、使者たちはいずれも戻って来ては、全世界が謹んで服従し、支配者たちはうやうやしく、王の至上権を認めている旨、ご報告申し上げるのでした。一方、王はその支配者たち一同に、ご仁慈の恩恵を垂れさせられ、ご寛仁の波に彼らを溺れさせなされ、そして彼らの間に、和やかな和親と安泰をみなぎらせられたのでございました。というのは、王はまこと寛仁大度であらせられ、ほんとうに、高邁な魂のお方であらせられたからでございます。
されば、贈物と献上品とは、縦横の土地のあらゆる貢物《みつぎもの》とともに、東西南北から、この王の王座の方へと、寄り集まりました。というのは、王はまこと公平であらせられ、ほんとうに、無上に慕われていらっしゃったからでございます。
ところで、オマル・アル・ネマーン王には、シャールカーン(4)と呼ばれる一人の王子がございました。そしてこの王子は、その時代の、非凡な人物中の非凡な人物として立ち現われ、武勇の点では、もっとも勇敢な勇士たちをも凌ぎ、野試合でうち負かしてしまわれ、また、槍と剣と弓の絶世の名手であったがゆえに、かくは呼ばれたのでありました。ですから、父王は何ものにもまさった、並びないご寵愛をもって、この王子を愛され、これをご自分の王国の王座のお世嗣《よつぎ》に、お立てになりました。
はたして間違いなく、成人の年頃に達したと思うと、この驚くべき二十歳のシャールカーンは、アッラーの神助を得て、あらゆる頭《こうべ》が、ご自分の光栄の前にひれ伏すのを見たのであり、それほど、王子は大勇と豪胆を身に備え、それほど、赫々たる武勲で光り輝いていました。というのは、王子はその時すでに、あまたの砦《とりで》を攻め落とし、あまたの国々を切り従え、名声を全世界に馳せていたのでございます。そして絶え間なく、いよいよ剛勇と威力を増しつづけてゆきました。
ところが、オマル・アル・ネマーン王は、シャールカーンを除いては、他に一人もお子さまがありませんでした。いかにも王には、聖典と行録《スンナ》(5)によって許されているように、四人の正式のお妃がありましたが、しかしそのうちのただお一方だけが懐妊して、他のお三方にはお子さまが出来ませんでした。けれども、同じ王宮に住んでいるこの四人の正式のお妃のほかに、オマル王は、コプト人の一年の日数と同じく、三百六十人の側女《そばめ》を持っておられ、その一人一人が、別の人種の女でした。王はそのめいめいに、それぞれ離れた別室を与え、そしてその別々の部屋は、一年の月々のように、十二の館《やかた》に分けてひと群れとし、いずれも王宮の構内に建てられていました。そしてこの十二の館々《やかたやかた》には、それぞれ三十人の側女《そばめ》がいて、その一人一人が、自分の別室におりました。こうして、つまり三百六十の別々の室があったわけでございます。
ところで、オマル王はまったく公平に、一年のうち一夜を、その側女の一人一人に順々にあてられ、こうしておのおのの側女と、一年に一夜だけお寝《やす》みになり、翌年にならなければ、もはや再び会われないのでございました。そしてオマル王はひじょうに永い間、かつはご生涯を通じて、このように遊ばされることをおやめになりませんでした。このゆえに、その感嘆すべきご叡智のほどとそのご精力をもって、王は諸国の王の間にとどろき、彼らの冠でございました。
ところである日のこと、万物の「組織者」のお許しを得て、オマル王の側女の一人が懐胎して、その懐妊は間もなく王宮中に知れ渡り、その噂が王のお耳にまで達しますと、王は悦びの限りお悦びになって、叫ばれました、「願わくばアッラーは、わが子孫と後裔をばすべて、ただ男子をもってのみ成るように、なされたまえかし。」それから帳簿に懐妊の日付を記入させになり、その側女に、あらゆる種類のご配慮と贈物の限りをお尽くしになりはじめました。
そうするうちに、王子のシャールカーンは……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましく、自分の物語を翌日にのばした。
[#地付き]けれども第四十五夜になると[#「けれども第四十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そうするうちに、王子のシャールカーンも、やはりこの側女の懐妊の噂を聞き知って、あるいはこんど生まれる子供が、自分と王位継承を争うかも知れないと思うと、ひじょうな憂いに陥りました。そして心の中で、もしもそれが男の子であるような場合には、かならずその側女の子を亡きものにしようと、決心したのでありました。シャールカーンのほうは、こうした次第でございました。
さて、その側女のほうはどうかと申しますと、それはサフィーア(6)と呼ばれる、若いギリシアの女奴隷でございました。この女はカイサリア(7)のギリシア人の王によって、あまたの豪奢な品々とともに、オマル王に、贈物として届けられたのでありました。王宮のあらゆる若い女奴隷のなかで、たしかにとびぬけてもっとも美しく、もっとも顔が愛らしく、もっとも腰がしなやかで、もっとも腿と肩がたくましいのは、この女でした。そのうえさらに、彼女は世にもまれな才智と、ざらにない長所を授かっていて、今はオマル王が彼女とともに過ごす夜々の間に、王のお心を魅し、王をすっかりお悦ばせ申すような、たいそう優しい言葉を申し上げることができました、泡立っては沁み入るような、たいそう優しい沁み入るような言葉でございます。そして彼女は、いよいよ臨月になるまで、このようにしておりました。その時になると、彼女は産みの苦しみに襲われて、分娩の椅子につき、そして敬虔の思いをこめて、アッラーに祈りはじめました。疑いもなく、即座に、アッラーはこの女の言葉をお聴き下さったのでございました。
一方オマル王は、一人の宦官に、子供が生まれたらすぐ、その誕生と男女いずれかを知らせるように、お託しになりました。そして一方シャールカーンもまた、別の一人の宦官に、同じ用件を託しました。サフィーアが産み落とすやいなや、産婆たちはその赤子を受け取って、あらためてみたうえで、それが女の子であるとわかると、急いで並みいる女たちと二人の宦官に、その由を告げて、言いました、「お姫さまです。お顔は月よりも輝かしくいらっしゃいますよ。」すると王の宦官は、急いでその由をご主君に伝えに行き、シャールカーンの宦官もまた同じように、この便りを知らせに駆け出しました。シャールカーンは、これを聞いてひじょうに悦びました。
ところが、二人の宦官が出て行ったと思う間もなく、サフィーアは産婆たちに言うのでした、「おお、待って下さい。どうもお胎《なか》の中に、まだ何かはいっているような気がしますから。」それからまたもや、「ああ」とか「うう」とかの、産みの苦しみに襲われたのでした。そのうち、アッラーの神助を得て、とうとう二番目の赤子を産み落としました。そこで産婆たちは、あわてて身をかがめて、その赤子をあらためてみました。するとそれは輝くばかり白い額と、花咲いたばらの頬を持った、満月に似た、男の子でございました。そこで女奴隷たちや、侍女たちや、またそこに呼ばれていた女たち一同は、ひじょうに悦んで、サフィーアの分娩がすむとすぐに、並みいる女たちは皆声を揃え、いちばんかん高い調子を張りあげて、けたたましい歓声で、王宮を満たしました。それで他の側女たち全部もこれを聞きつけて、それと覚り、羨ましく面白くなく、いたたまれない思いをしたのでございました。
オマル・アル・ネマーン王のほうでは、この知らせをお聞きになるやいなや、悦びのうちにアッラーに感謝し、それから立ち上がり、サフィーアの部屋に駆けつけて、彼女に近づき、その頭を両手ではさんで、額に接吻をなさいました。次に嬰児《みどりご》の上におかがみになって、これに接吻なさいました。するとすぐに、全部の女奴隷たちは、調子よく太鼓を打ち鳴らし、楽器を奏でる女たちは、調べよい絃《いと》を弾き、歌姫たちは、その場にふさわしい歌を歌ったのでございました。
こうしてから、王は男の子にダウールマカーン(8)と、女の子にノーズハトゥザマーン(9)と、名づけよと、ご命令になりました。そして一同は頭を垂れ、仰せ承わり畏まった旨、お答え申しました。
それから王は、この二人の赤子のために、乳母と侍女を、奴隷と侍女ともども、お選びになりました。そして王宮の全部の人たちに、酒や飲み物や香料や、その他、口ではとても挙げきれないほどたくさんの品々を、届けさせられたのでございます。
バグダードの市民たちは、この双児の誕生の報知を聞き知りますと、さっそく市中を飾りつけ、さかんに明りをともし、盛大に祝意を表わしました。次には、王族《アミール》や大臣《ワジール》や国の大官たちが参殿して、オマル・アル・ネマーン王に、王子ダウールマカーンと王女ノーズハトゥの誕生の、ご挨拶とお慶《よろこ》びとを、申し上げました。王は一同にお礼を申され、誉れの衣を贈って、恩恵と優遇の限りを尽くされ、高官たちにも一般人民にも同じように、伺候者たち全部に、莫大な賜り物を下されました。そして四年の歳月がたつまで、かようにすることをおやめになりませんでした。この間じゅうずっと、ただの一日も、人をやって、サフィーアと子供たちの様子を見させないことはなく、またサフィーアには、おびただしいかずかずの宝石とか、金銀細工とか、衣服とか、絹織物とか、また金銀やみごとな品々を、お届けになることを怠られず、一方、子供たちの教育とお守りとを、近臣の間でいちばん忠実な、いちばん心利いた者たちに委ねるよう、十分にご注意あそばしました。
こうした顛末でございます。そしてシャールカーンのほうは、遠方にあって戦さをし、剣を交じえ、町々を奪って武名を揚げ、もっとも勇壮な勇士たちと争っては、打ち破っておりましたが、王子は宦官の口から、ただ妹君ノーズハトゥの誕生しか、聞かなかったのでございました。宦官が行ってしまってから突然生まれた、弟君ダウールマカーンの誕生については、誰一人これを王子にお知らせすることを、思いつかなかったのでした。
日々の中のある日のこと、オマル・アル・ネマーン王が王座に坐っていらっしゃると、そこに王宮の侍従たちが伺候して、御手の間の床《ゆか》に接吻して、言上しました、「おお王さま、ただ今ルーム人と大コンスタンティニア(10)の君主、アフリドニオス王の使者たちが、到着いたしました。彼らはお目どおりを賜わって、御手の間に敬意を表したき希望でございます。もしもこれをお許し下さるとあらば、ここにはいらせまするでござりましょうが、さもなくて、お目どおり叶わぬとあらば、言葉を返させぬでござりましょう。」すると王は許しをお与えになりました。
使者たちがはいってまいりますと、王はねんごろにこれを迎え、近く召されて、彼らの健康をお訊ねになり、何故に来たのか、その動機《いわれ》をご下問になりました。すると彼らは御手の間の床に接吻して、申しました。
「おお、高邁にして限りなく寛仁の御心の、偉大にして尊ぶべき大王さま、されば、今ここに私どもを遣わしましたるは、ギリシアとイオニアの国、ならびにキリスト教地方の全軍の主にして、居をコンスタンティニアの王座に据うる、アフリドニオス王にござります。主君は過般、暴虐なる暴王、カイサリアの主ハルドビオス王に対し、一大戦争を構えし旨を、わが君に言上すべく、私どもに託したのでございます。
そもそもこの戦争の原因と申しますれば、次のごとき次第にございます。さきにアラビア種族の一人の族長が、新たに征服したある国で、双角のエル・イスカンダール(11)時代の、古き世々の宝蔵を見つけたのでございました。その宝蔵には、とうてい評価することすら叶わぬほどの、数えきれぬかずかずの財宝がはいっておりましたが、その稀代の品々のうち特に、駝鳥の卵ほどの大きさの、円く白い、三つの円い宝玉がございました。まことに一点の瑕瑾なく、美しさと価格とにつきましては、およそ地と海のあらゆる宝石を凌ぐ、絶品でございます。この三つの貴重なる宝玉は、おのおの中央に孔が穿《うが》たれ、紐を通して首飾りに用いるようになっておりました。それには、イオニア文字で、何やら不思議な銘が彫られてありましたが、ともかくも、これらには、きわめてかずかずの霊験が隠れていることがわかっておりまして、たとえば、そのもっともとるにたらぬ効能のひとつを申せば、誰でもこの宝玉のひとつを首に懸けておれば、いっさいの病い、ことに熱病と便秘にかからぬというのでございます。なかんずく、赤子にはこの霊験がいちじるしいのでございます。
されば、そのアラビアの族長は、これらのあらたかな効能を知り、また他のあらゆる不思議な霊験を推測するや、これこそ、私どもの王のご機嫌を取り結ぶまたなき機会と考え、ただちに、おおかたの稀世の宝物とともども、くだんの貴重なる三つの宝玉をば、私どもの王に献上しようと思い立ったのでございました。そこで二艘の船を用意させ、一艘には、私どもの王アフリドニオスに進上すべき財宝と、貴重なる三つの宝玉とを載せ、他の一艘には、この貴重な宝物を護衛し、海賊あるいは敵の襲来よりこれを守るべき人々を、載せたのでございました。さりながら、かのアラビアの族長は、あるいは、直接彼自身に対してにせよ、あるいは、彼によって私どもの強大なる王アフリドニオスに送られる品々に対してにせよ、よもや何ぴとも敢えて襲撃するようなことはあるまいと、確信していたのでございました。ことに船の辿るべき航路は、その果てにコンスタンティニアの聳える海でありますれば、なおさらのことでございました。
されば、その二艘の船は準備成るや、すぐに出発し、私どもの方角に出帆いたしました。しかるに一日、船が私どもの国よりほど遠からぬ、ある湾に寄港しておりますると、突如として、私どもの臣下たる、カイサリアのハルドビオス王の配下の、ギリシア兵が船を襲い、そこにあるいっさいの財宝、うずたかき宝物および稀世の品々、わけても例の貴重なる三つの宝玉を奪い去り、次いで乗組員をことごとく殺戮して、船をも横領してしまったのでございます。
この振舞いがわが王の知るところとなるや、王はただちにハルドビオス王に、一軍をさし向けたのでありましたが、それは殲滅せられてしまいました。そこで、さらに第二軍をさし向けましたが、これまた殲滅せられてしまいました。そこで、私どもの王アフリドニオスは激怒せられ、いでや全軍を集結して、ご自身指揮に当たり、カイサリアの都を壊滅し、ハルドビオスの全領土を劫掠し、王の所領下にある全町村をば、ことごとく蹂躙せざるうえは、断じて帰らじと、誓ったのでありました。
さて今や、おお光栄満てる帝王《スルターン》よ、私どもはここに陛下のご助力を仰ぎ奉り、有力にして強大なるご同盟を請い奉らんものとて、罷《まか》り越したる次第にござりまする。ご威力とご兵力とをもって、私どもに力を貸したもうことにより、ご光栄はいやまさり、ご武勲はいや輝くのみでござります。
さてここに、私どもの王は、君のご寛仁に敬意を表し奉って、数々の目方重き贈物を私どもに託し、何とぞご好意ある目をもって、これをみそなわされ、寛容の御心をもってこれをご嘉納あらせらるる、ご厚情を垂れたまわんことを、切に乞い奉っておりまする次第でございまする。」
こう言って、使者たちは口をつぐみ、平伏して、オマル・アル・ネマーン王の御手の間の床《ゆか》に接吻したのでございました。
ところで、コンスタンティニアの主、アフリドニオス王のそれらの御進物は何かと申しますと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四十六夜になると[#「けれども第四十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、コンスタンティニアの主、アフリドニオス王のそれらのご進物は何かと申しますと、次のようなものでございました。
まず、ギリシアの娘たちの中でもっとも美しい娘たちの間でも、特に美しい、五十人の若い処女がおりました。それから、ルーム人の国でもっともりっぱな体格の若者たちの間から、選りすぐった、五十人の若い少年がおりました。そしてこれらのみごとな少年は、一人一人、金の模様に極彩色の絵を描いた総絹の、広袖のゆったりした上衣を、身にまとい、錦とビロードの長短二重の下衣が取りつけてある、銀の彫り物を施した金の帯を締め、そしてその一人一人が、公定の金貨千枚以上の値のある、純白な円い真珠玉の下っている、黄金の耳環を、耳につけておりました。それに、若い娘たちもまたやはり、それぞれ、数えきれないほどの豪奢な品々を、身につけていたのでした。
二つの主な進物は、かようなものでしたが、そのほかにも、今あげた贈物に少しも劣らぬ、ひじょうにりっぱなかずかずの贈物がございました。
そこでオマル王も、ご機嫌斜めならず、これをご嘉納になり、そして使者たちにくれぐれも相当の礼を尽くすように、命じられました。それから、コンスタンティニアのアフリドニオス王の、救援請願について意見を徴するために、大臣《ワジール》たちをお集めになりました。すると大臣《ワジール》たちの中から、万人に敬われているとともに慕われている、一人の卑しからぬ老人が立ち上がりました。それは総理|大臣《ワジール》で、ダンダーンという名前の人でありました。
そこで総理|大臣《ワジール》ダンダーンは申しました。
「おお光栄の帝王《スルターン》よ、いかにも、この大コンスタンティニアの主、アフリドニオス王なるものは、キリスト教徒であり、異教の徒であり、アッラーとその預言者(その上に祈りと平安あれかし)との律法に忠ならず、またその人民も異教の民であるには相違ござりませぬ。そして、王がわれらに救援を求めているその相手の者も、これまた同じく忠ならず、異教の徒でござります。されば、彼らの事件は、ただ彼らにのみ関するものにて、信徒たちにはかかわりなく、影響を及ぼし得ぬものでござりましょう。さりながら、それにもかかわらず、やはり私は、アフリドニオス王に同盟をお与えになり、これに多数の軍隊をお送りあそばし、その総帥には、あたかもはなばなしきご遠征よりご帰還あいなった、王子シャールカーンさまをばお立てなさることを、お勧め申す次第でございます。私の申し上げまするこの意見は、二つの理由よりして至当と存じまする。第一は、ルーム人の王は、ただ今ご嘉納あらせられたる贈物を携えた使節たちを御許に派し、助力と庇護とを仰いでいるということであり、第二は、われらとしては、かのカイサリアの小王のごときいささかも恐るるに足らぬのでありまするからして、アフリドニオス王を助けて、その敵を破らしむれば、わが君は、この挙よりして良好なる結果を収められ、わが君こそ、真の征服者と仰がるるでございましょう。そしてこの武勲はあらゆる国々に知られ、遠く西洋にまでも及ぶでありましょう。さすれば、西洋の諸王はわが君のご友誼を求め、あらゆる種類の進物と珍奇な贈物を携えたかずかずの使をば、御許に派すことでございましょう。」
帝王《スルターン》オマル・アル・ネマーンは、総理|大臣《ワジール》ダンダーンの言葉をお聞きになると、それに対してひじょうにご満足の意を表されて、これははなはだ聴くに足ると思し召され、彼に誉れの衣を授けて、おっしゃいました、「まことにそのほうは、王者らの知恵袋であり補佐たるにふさわしき者じゃ。されば、そのほうが前衛にあって、軍隊の指揮にあたるということは、絶対に必要である。して、わが子シャールカーンにいたっては、彼はただ殿軍を指揮するのみであろうぞよ。」
ここにおいて、オマル王は王子シャールカーンをお召しになり、種々ご下問になり、先の使者たちの申したことと、総理|大臣《ワジール》ダンダーンの言上したこととをお話しになり、そして、出陣の準備をし、兵士を全軍中最も優秀な者の間からひとりずつ選び出し、こうして、よく困苦、疲労に耐える一万の騎兵を、完全に馬具をととのえて一団と成したうえで、その兵士たちに、通例の手当てと贈与を分かち与えることを忘れないようにせよと、ご注意なさいました。そこでシャールカーンは、謹んで父王オマル・アル・ネマーンのお言葉に従い、すぐに立ち上がって、配下の兵士たちの間から、勇気凛々とした一万の騎兵を選び出し、彼らにたっぷりの黄金財宝を分かち与え、そして一同に申し渡しました、「今より、汝らにまる三日間、休息と自由を与える。」すると一万の騎兵は、その命令に服して、王子の手の間の床《ゆか》に接吻し、そして、たっぷりと給与を賜わって、出発の前に静養し、美々しく武装をととのえようとて、退出いたしました。
そこでシャールカーンは、宝物箱と武器、軍用品の予備品とを入れてある部屋にはいって、黄金の象眼細工を施し、象牙と黒檀の上に銘を刻んだ、いちばん美しい武器類を選び出し、自分の趣味と好みを誘うものを全部、取り出しました。それから、ネドジェドとアラビア産の最もみごとな駿馬が集められている、王宮の厩舎《うまや》に出かけました。それらの馬は一頭一頭が、絹と金の細工を施し、トルコ玉の宝石を飾った、皮の小袋に入れた自分の系譜を、首につけている逸物でした。ここで、王子は最もなだたる血統に属する馬々を選び出し、そして自分の乗用には、つやつやしい毛並みの、目のとび出た、大きな蹄の、すばらしく尻尾の立った、かもしかの耳のようにしなやかな耳の、栗毛の駒を取りました。この馬は、ある有力なアラビア種族の酋長《シヤイクー》によって、オマル・アル・ネマーンに贈られたもので、ダーウドの御子スライマーンの御世以来(このおふた方の上に庇護と平安あれ)、その系譜に欠けるところのない、セグラウイ・ジェドラーン(12)種の馬でした。
さて、いよいよ三日の日が過ぎると、兵士たちは都の城外に、列を作って集合いたしました。そしてオマル・アル・ネマーン王も同様に、王子シャールカーンと大|宰相《ワジール》ダンダーンとに別れを告げに、お出ましになりました。そしてシャールカーンにお近づきになりますと、王子はその御手の間の地に接吻しました。王はこれに、貨幣をぎっちりとつめた、七つの箱をご下賜になり、そしていかなる時も、賢い大臣《ワジール》ダンダーンに諮《はか》るようにと、ご注意になりました。シャールカーンは謹んで承わり、父王にそれを約束いたしました。すると王は、大臣《ワジール》ダンダーンのほうに向きなおられて、これに、くれぐれも王子シャールカーンとシャールカーンの兵士のことを、お頼みになりました。大臣《ワジール》は御手の間の地に接吻して、お答え申しました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」それからシャールカーンは王と大臣《ワジール》の前で、自分のセグラウイ・ジェドラーンの馬にうち跨がり、配下のおもだった隊長と一万の騎兵をば、自分の前に分列行進をさせたのでした。それから、王子は戻って、オマル・アル・ネマーン王の御手に接吻し、そして大臣《ワジール》ダンダーンを従えて、馬にひと鞭あてて疾駆させました。すると一行は前進しはじめ、軍鼓の轟き、笛、喇叭《らつぱ》の音のただなかに、出発いたしました。彼らの頭上には、旗や幟《のぼり》がひるがえり、さまざまの旌旗《せいき》が風にはためくのでございました。
例の使者たちは案内役をつとめました。こうして一行は進軍をはじめ、その日一日行軍を続け、次の日一日も、他の日々も同じようにして、かくて二十日にわたりました。そして一行は夜しか、止まって休息しないのでした。こうしているうちに遂に一行は、森に蔽われ、ざわめく水の溢れている、広々とした谷間に行き着きました。おりしも夜に近かったので、シャールカーンは野営の命令を下し、三日間休息する旨を申し渡しました。そこで、騎兵たちは馬をおり、天幕をたて、右や左に、八方に散りました。大臣《ワジール》ダンダーンは、谷のまん中に自分の天幕を張らせ、そのすぐそばに、コンスタンティニアのアフリドニオス王の使者たちの天幕を、張らせたのでございました。
さてシャールカーンのほうは、彼は全部の兵士が行ってしまうまで待って、そのうえで、護衛の者どもに、自分をひとり残して、大臣《ワジール》ダンダーンのもとに行っているようにと命じました。それから、自分の駿馬の手綱をすっかりゆるめて、自分自身でその谷間全体を偵察しようと思ったのでありました。それはかねて父王から、敵にせよ味方にせよ、ルーム人の国に近づいたならば、あらゆる用心を怠らぬよう、ねんごろに注意されたその戒めを、実行しようと思ったからです。そして馬の背に乗ったまま、夜の四半分が経過するころまで、谷の周囲を歩きまわることをやめませんでした。すると、眠りが眼瞼《まぶた》の上に重たくおりて来て、もうどうにも馬を駆けさせることができなくなりました。そして王子は馬の背の上で眠る癖がついていたので、馬をなみ足で歩かせておいて、そのまま眠ってしまいました。
馬はこうして歩き出して、とうとう夜半になりますと、にわかに、樹木の茂った淋しい場所のまん中で、ふと立ち止まり、蹄で激しく地を打ちました。それでシャールカーンは眼が覚めて、見ると自分は、森の木々のまん中にいるのでした。おりから森は、月の光に明るく照らされていました。そこでシャールカーンは、こんな寂しい場所のまん中に来てしまったのに、いたく心を痛めさせられましたが、そこで声高く、勇気づける言葉を唱えたのでした、「至高のアッラーのほかには、権勢も力もなし。」するとすぐに自分の魂が鎮まって、もはや森の野獣どももこわくなくなるのを覚えました。おりしも、正面には、驚くばかりの月が林の空地を銀色に染め、地はさながら天国の林間の空地のひとつと思われるばかり、美しくなっておりました。すると、シャールカーンは、自分のすぐそばと思《おぼ》しきあたりに、非常に快いいくつかの人語と、ひとつの申し分なく美しい声と笑い声を、耳にしたのでした。それがなんという笑い声でしょう。およそ人間ならば、これを聞いて、えもいえぬ心地よさに夢中になり、この笑い声をば、それが出る口そのものの上から飲んで、そして死んでしまいたい欲望《のぞみ》に、夢中になることでございましょう。
そこでシャールカーンは馬より地に飛びおりて、その声を追って、木々の間にわけ入りました。そして歩いてゆくうちにやがて、水が楽しげに流れ歌っている、白い川のほとりに出ました。その水の歌には、小鳥らの自然の声と、かもしかのやるせない歎息と、すべての動物たちの同じ思いの叫びが答え、そして全体がひとつになって、悦びの充ち満ちた、調べよい歌を成しておりました。そしてその場所そのものも、詩人の言うように、花々と草木に縁どられ、点綴されているのでした。
[#ここから2字下げ]
おおわが熱愛の地よ、地はその花々に彩《いろど》られずば、美わしからず、水は花々と相並び結ばれざれば、美わしからず。
地と地の花々と地の水をば創り、しかして、汝《なんじ》、おおわが熱愛の地よ、汝《なれ》をば地の花々と水とのほとりに置きし者に、栄えあれよ。
[#ここで字下げ終わり]
そこでシャールカーンはあたりを見まわすと、川の向う岸に、空中に突っ立つ、どっしりとした高い塔の聳えている、白人のキリスト教僧院の正面が、月に照らされて、屹立《きつりつ》しているのが見えました。そしてその僧院は、川の清水に下部をひたし、その前には、芝生が広がっていて、そこには十人の若い女が坐って、十一番目の女を取り巻いていたのでした。その十人の女といえば、どれも月のようで、ゆるやかなやわらかい着物を軽やかに身にまとい、いずれも処女で、眼をみはるばかり美しい女たちでした、次の詩人の詩句の言っているように。
[#ここから2字下げ]
そは輝く。かくて今や芝生は輝く。そは、芝生にあるあどけなき肉体の白き乙女ら、空高き微光に煌《きら》めく、あどけなき白き乙女らすべてのゆえぞ。かくて芝生は身を顫わせて、おののくなり。
この世ならぬ美しき乙女ら。細《ほそ》らかの、なよやかの腰、しなやかの、巧みなる、なだらかの足どり。かくて芝生は身を顫わせて、おののくなり。
乱れ髪、葡萄の株に葡萄の房の垂るるごと、項《うなじ》に垂るる。金色|或《ある》は栗色の髪、金色の房、栗色の房、おお髪よ。
心惹く乙女らかな、おお、惑わしの乙女らよ。またその眼《まなこ》よ。汝らの眼の誘い、汝らの眼の箭、ああ、わが死ぞ。
[#ここで字下げ終わり]
そして十人の若い白人の奴隷たちが取り巻いている女と申せば、彼女はまったく満月さながらでございました。その眉毛はみごとな弓形をなし、その額は曙の微光のごとく、眼瞼《まぶた》は、ビロードのようなそった睫毛の縁飾りをつけ、こめかみのあたりの髪の毛は、なだらかな渦を巻いて縮れていました。まことに、詩人が次の詩句に描いたとおりの、非のうちどころのないうるわしさでございました。
[#ここから2字下げ]
昂然と、女《おみな》はわれを視《み》つむ、さあれ、その眼《まなこ》のいかに美わしき。直《すぐ》にして硬き腰。おお、直にして硬き槍よ、汝らは恥じて折れよ。
女《おみな》は歩む。今や来たりぬ。見よ、その頬を双頬のばらの花を。われはこの頬の柔らかさと、みずみずしさを、すべて知る。
見よ、その髪の黒き綰《わがね》の、額の純白の上に円《まろ》まるを。こは、清爽の暁の上に憩《いこ》う夜の翼なり。
[#ここで字下げ終わり]
シャールカーンが先ほど聞きつけたのは、この女の声でした。今、彼女は口を開いて、その手の間にいる若い奴隷たちに向かって、にこやかに、アラビア語で言っているところでした、「救世主《メシア》にかけて、おまえたち小さな放埓者よ、おまえたちがそこでしていることは、けしていいことではありません。ひどいこととも言えます。もしも誰かもう一度そんなことをはじめたら、わたくしは帯でもって縛って、お尻を撲《ぶ》ってあげますよ。」それから、笑って言いました、「さあ、少女たちよ、おまえたちの中で、誰かわたくしと相撲をとって、わたくしを負かすことができるかしら。おまえたちの中でわれと思うものは、立ち上がって、月が沈んで朝の光が射さないうちに、向かっておいで。」
すると若い乙女の中の一人が立ち上がって、その女主人に立ち向かおうとしましたが、すぐさま投げ倒されてしまいました。次に、二番目、三番目と、向かって行きましたが、皆同じことでした。そこで、その若い女は、全部負かして、その勝利の褒美に、乙女たちに対してしてやるべきことをしてやろうとしますと、そのとき突然、森の中から一人の老婆が出てきて、この若い競技者のやさしい一団に近づいて、勝利をおさめた若い乙女に、言葉をかけたのでした、「おお、極道の淫奔女《いたずらおんな》(13)よ、おまえはこの若い娘たちに何をしようとするのだね。いったいおまえは、こんなか弱い若い娘たちを投げ倒して、いっぱし大した手柄を立てたとでも思っているのかい。もしおまえがほんとうに相撲がとれるというのなら、さあ私が相手になってやろう。年こそとっているが、私はまだおまえなんかに敗けやしない。さあ来い、かかっておいで。」すると勝利をおさめた若い乙女は、内心ではひじょうに怒りを覚えましたが、我慢して、微笑を浮かべ、そして老婆に言いました、「おお、災厄《わざわい》の母さま、救世主《メシア》にかけて、あなたはほんとうにわたくしと相撲をとろうとおっしゃるのですか。それとも、ただ冗談におっしゃるだけなのですか。」老婆は答えました、「とんでもない、本気だとも。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射しはじめるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四十七夜になると[#「けれども第四十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、「災厄《わざわい》の母」という名前の、その老婆は、「とんでもない、本気だとも」と言ったのでございます。すると勝利の美女は言いました、「おお、災厄《わざわい》の母さま、もしもあなたにほんとうに相撲をするだけの力があるというのなら、わたくしの腕があなたをためしてあげましょう。」そう言って、彼女は老婆のほうにおどりかかってゆきますと、老婆はこの言葉を聞いて、怒りで喉がつまり、全身の毛を針鼠のように逆立てたのでございました。そして老婆は言いました、「救世主《メシア》にかけて、双方とも素裸《すつぱだか》になったうえでなければ、勝負はすまいぞ。」そしてこの淫らな老婆はすばやく自分の着物を全部脱ぎ棄て、下穿きをはずして遠くに放り投げ、ただ腰のまわりに、手帛《ハンケチ》だけを臍の上にめぐらし、こうして、そのおぞましい醜さを残らず見せて立ち現われると、まるで、何か黒と白のまだらの蛇のようでございました。それから老婆は、若い女のほうを向いて、言いました、「何をぐずぐずして、早く私と同じにならないんだね。」
すると若い女は静かにからだを延ばして、しとやかに一枚一枚着物を脱ぎ、最後にその白無垢の絹の下穿きを脱ぎました。するとその下からは、大理石に型どられて、両腿が光り輝いて現われいで、牛乳と水晶でできたその腿の上には、柔らかな、輝かしい、円い、発達した小山と、ばら色のくぼみのある、アネモネの花壇のように麝香の香りを放つ、かぐわしいお腹《なか》と、さきに蕾のついた、まるまると膨らんだ二つの対の柘榴《ざくろ》に飾られた胸が、見えました。
と見るまに突然、二人の相撲う女は、腰を落として、取り組み合いました。
こうした次第です。そしてシャールカーンは、一方では、老婆の醜さを見ては、これを冷笑《あざわら》い、一方では、均整のとれた肢体の、若い相撲う女の完全さに見入っておりました。そして天を仰いで、熱心に、若い女が老婆に勝つようにと、アッラーに念じたのでございました。
たちまち、最初に取り組んだと思うと、若いほうの女は身も軽くからだをはずし、左手でもって老婆のそっ首をとらえ、右手を老婆の股の間に突っ込み、これを空中に持ち上げて、足もとの地面《じべた》に投げつけますと、老婆は身をもがきながら、ずしんと仰向けにひっくり返りました。とたんに、両脚は空中にはねあがり、笑うべきおぞましさのうちに、皺だらけの肌の、毛むくじゃらのこまかい部分をさらけ出しました。そのはずみに、老婆は恐ろしいお屁《なら》を二つ放ち、その一発は万丈の黄塵を揚げ、いま一発は煙の柱となって、天のほうに立ちのぼったのでした。そして月は天上から、このすべての場面を照らしていたのでございます。
そこでシャールカーンは、声を忍ばせながらひどく笑い出して、後ろに引っくり返ってしまいました。だが起きなおって、ひとりごとを言いました、「まったくあの老婆は、いかにも災厄《わざわい》の母という名前にふさわしいな。あれはたしかにキリスト教徒らしい。それから、あの勝った若い女も、十人の他の女も、皆そうらしい。」次に彼は、すこしばかり相撲の場所に近づいてみると、その相撲をとった若い女が、老婆の裸の上に、純絹の大面衣《イザール》を投げかけてやって、手伝って着物を着せながら、言っているのでした、「おおご主人よ、勘弁して下さいね。だって、わたくしがあなたと相撲をしたのは、おことわりをしては悪いと思ってのことだったのですもの。それからあとで起こったことは、わたくしのせいではありません。あなたが転んだというのは、あなたがわたくしの手の間から滑り落ちたのです。でも、アッラーのお蔭で、すこしもお怪我はなかったですね。」けれども老婆はひとことも答えず、恥じいって、そそくさと遠ざかり、僧院の中に姿を消してしまいました。そして芝生の上には、今は、若い主人を囲む、十人の若い乙女の群れだけになりました。
そこでシャールカーンは心の中で言いました、「天命はどうあろうとも、それは常に何事かに役立つものだ。おれが馬上で眠って、ちょうどこの場で眼覚めることになり、しかもこれがおれの幸運のためだということは、はじめから記《しる》されていたのだ。なぜなら、あの申し分のない筋骨を持った、好ましい相撲をとった女をはじめ、また劣らず心を酔わせるあの十人の仲間は、今やおれの欲望の火の餌食となるだろうからな。」そして彼はふたたび自分のセグラウイ・ジェドラーンの馬にうち跨って、芝生の方向へ駒を進めました。手には鞘を払った剣を振りかざしていました。馬は、引き絞った弓から力強い手に放たれた矢のように、すみやかに駆け出しました。そして見る見るシャールカーンは芝生に着いて、叫びました、「アッラーこそは唯一の偉大なる者なり。」
これを見ると、若い女は急いで立ち上がり、幅六腕尺ばかりの河の岸辺に駆け寄り、すばやく身をひるがえして向う岸に跳び越え、すっくと立ちました。そして高い、けれども、涼しい声で、叫びました、「そのほうはいったい何者です。そのようにわれわれの人知れぬ楽しみを敢えてかき乱し、兵士たちのなかの一人の兵士のように、白刃をかざして、われわれの上に襲いかかることを恐れない者は? そもそもどこから来てどこへ行くのか、ただちに告げ、ありていに申すがよい。偽わりは身のためではありませぬぞ。そのほうは、つつがなくこの場を出ることは、とてもおぼつかない場所にいるということを、よく心得なさるがよい。というのは、妾《わらわ》がただひと声呼ばわれば、ただちに四千のキリスト教徒の武士が、主長《アミール》たちに率いられて、わたしたちを助けに、駆けつけてまいりましょうぞ。されば望みのことを告げるがよい。もしもそのほうがただ森に踏み迷っただけならば、わたしたちは道を見つけて進ぜましょう。さあ、お言いなさい。」
シャールカーンは、この相撲をとった美しい女の言葉を聞くと、これに言いました、「私は異国の者で、回教徒のなかの一人の回教徒だ。私はけして道を踏み迷ったのではない。それどころか、今宵、月光の下に、わが欲情の火を冷ますに足る、なんぞ若い肉体の獲物はないかと、漁っているだけなのだ。しかるにあたかも今ここに、十名の若い女奴隷がいた。これらはアッラーにかけて、すこぶるわが意に叶ったし、私もきっと十分に堪能させてやろう。もし女らが悦ぶならば、私は一緒に、わが仲間のところにともなって行ってやろう。」すると若い女は言いました、「不敵なる兵士かな、そのほうの言う餌は、まだそのほうの掌中に陥ろうなどとはしていませぬぞ。それに、そのほうの目的はそのようなものではなかったにちがいない。妾の注意にもかかわらず、そのほうは今偽わりを言ったのです。」彼は答えました、「おお貴婦人よ、しからば、ただアッラーのみにて万事足れりとなして、おのれに他の欲情を持たぬ者は幸いだ。」彼女は言いました、「救世主《メシア》にかけて、妾は武士どもを呼び寄せて、そのほうを捕えさせねばならぬところでありましょう。さりながら、妾は異国の人々の運命に同情を寄せることを好みます、ことに彼らが、そのほうのように、年若く心惹く人々であるときには。そのほうはわが欲情の餌とやら言うが、よろしい、承知します。ただし、そのほうが馬よりおりて、わたしたちに対してけして武器を用いず、そして、妾と一騎打をするのを承知する旨、そのほうの信仰にかけて誓うならばですぞ。もしもそのほうが妾を打ち負かしたならば、妾をはじめ、この若い乙女らも全部そのほうのものとなり、のみならず、そのほうは妾を自分の馬に乗せて運び去っても仔細ありませぬ。しかしもしそのほうが敗れたら、そのほう自身がわが命に従う奴隷となるのです。いざ、そのほうの宗教にかけて誓いなさい。」
そこでシャールカーンは、心の中で思いました、「いったいこの若い娘は、このおれの力のほどをも知らず、おれとはとうてい勝負にならぬということを、知らないのかな。」それから彼は言いました、「おお若い乙女よ、いかにも私はけして武器に手を触れず、そなたの望みどおりのやり方でなければ、けしてそなたと戦わぬことを、約束いたす。もしわが身が敗れたならば、私は自分の身代金を払うに十分の金銭を持っている。しかしもしわが身が破ったならば、そなた自身をわが有《もの》としますぞ、まことに王者にふさわしい獲物じゃ。されば私は、預言者――その上にアッラーの祈りと平安あれ――預言者の功績にかけて、これをそなたに誓いますぞ。」若い乙女は言いました、「もろもろの肉体の中に霊魂を吹き入れ、人類にその掟を授けたもうた者にかけて、さらにお誓いなさい。」そこでシャールカーンは誓約しました。すると若い乙女は、ふたたび身をひるがえして、軽やかに河を跳び越え、岸辺の芝生のほとりに戻って来ました。そして満面に笑《えみ》をたたえて、シャールカーンに言いました、「おお殿よ、まことにそなたが立ち去ってしまうのは残念ですが、しかしそれがおんみのためです。お立ち去り下さい。というのは、もはや朝も近づいてまいって、やがて武士どもが来ます。そうすれば、そなたは彼らの掌中に陥ってしまいましょう。というのは、見れば、妾《わらわ》の侍女たちのうちのただひとりにさえも、よく敵せず打ち負かされてしまいそうなそなたが、どうしてわが武士どもに刃むかうことができましょうぞ。」こう言って、若い乙女は、先ほど言った一戦を交じえずに、僧院の方をさして遠ざかろうとしました。
そこでシャールカーンは驚きの極に達して、若い女を引きとめようと思い、これに言いました、「おおわがご主人よ、お望みなら、私と戦うことなどどうでもよろしい。だが、お願いです、どうか行ってしまわないで下さい。ここにただひとり、私を置き去りにしないで下さい。私は真情溢るる異国の者でございます。」すると彼女は微笑して言いました、「おお、お若い異国の方よ、そなたは何をお望みですか。おっしゃれば、希望を叶えてあげましょう。」彼は答えました、「おおわがご主人よ、おんみの地を踏み、かつはおんみの優しいふぜいをもって、わが心を和らげられたからには、何とて、おんみの歓待を味わうことなくして、立ち去ることができましょうぞ。今や私は、おんみの奴隷のうちのひとりの奴隷と相成りました。」彼女は微笑を添えながら、答えました、「いかにもごもっともです、お若い異国の方よ、歓待を拒むは、ただ情《つれ》なく寛《ひろ》からぬ心のみです。では、殿よ、なにとぞ妾《わらわ》の歓待をお受け入れ下さいませ。おんみの席はわれらの頭上とわれらの眼の中にございましょう。ではふたたびおんみの馬に乗って、河岸に沿いつつ、妾と並んでお進み下さい。今よりは、おんみはわが賓客《まろうど》となりましょう。」
そこでシャールカーンは悦びに溢れて、ふたたび馬に乗り、他の全部の女に付き従われて、その若い女と並んで進みはじめますと、やがて一同は、白楊樹《ポプラ》の木で作った跳ね橋に着きました。それは鎖と滑車でもって上げおろしされ、僧院の正門の正面の、河上にかかっていました。そこでシャールカーンは馬からおりますと、若い女は侍女の一人を呼んで、ギリシアの言葉で言いつけました、「馬を受けとって、厩舎《うまや》に連れて行き、ゆきとどかない節《ふし》のないように、よく言いつけなさい。」そこでシャールカーンは若い女に申しました、「おお美の女王よ、今は、あなたは私にとって神聖なものとなりました。あなたの美しさのゆえに、またあなたのご歓待のゆえに、二重に神聖なものでございます。もはやこれ以上進むことなく、このまま踵《くびす》をめぐらし、私といっしょに回教徒の国、わが故郷、バグダードへおいでになりませんか。かしこにはみごとなもののかずかずがあり、りっぱな武士があまたおります。さすれば、私が何者であるかおわかりになるでしょう。おいでなさい、お若いキリスト教徒よ、いざバグダードにまいりましょう。」このシャールカーンの言葉を聞くと、美しい女は申しました、「救世主《メシア》にかけて、わたくしは今まで、あなたが分別のある方とばかり思っておりました、おお、お若い方よ。一体あなたの望んでいらっしゃることは、わたくしを拐《かど》わかすことなのですか。しかもわたくしを連れてゆこうというのは、あのバグダードなのですね。ご自分の臥床《ふしど》のために、ちょうど一年の日と月の数に合わせて、十二の館《やかた》に住む、三百六十人の側女《そばめ》を置いているという、あの恐ろしいオマル・アル・ネマーン王のいる、あんな都に行ったならば、わたくしはきっと王の掌中におちてしまうでしょう。そしてわたくしは、一夜王の欲望《のぞみ》にかしずいて、そのまま顧みられなくなってしまう、こうして王は、わたくしの若さを無慚に楽しむことでしょう。これはあなた方、回教徒の許す風習《ならわし》です。もうそのようなことはおっしゃいますな。わたくしを説き伏せようなどとは、決してお思いなさいますな。今、オマル・アル・ネマーン王の王子シャールカーンの軍隊が、わたくしどもの領土にいることは、わたくしも知っておりますが、たとえあなたがそのシャールカーンご自身であろうとも、わたくしはあなたの言うことは聞きませぬ。事実、バグダードの騎兵一万騎が、シャールカーンと大臣《ワジール》ダンダーンに率いられて、ただ今、わが国の国境を横ぎり、コンスタンティニアのアフリドニオス王の軍隊と、合戦しようとしていることを、わたくしは存じております。もしもわたくしがその気になれば、わたくしは彼らの野営のただ中に単身飛び込んで、手ずから、シャールカーンと大臣《ワジール》ダンダーンを斃してしまうことでしょう。なぜなら、二人はわたくしたちにとって敵でございますから。さあ、ではわたくしといっしょにいらっしゃいませ、おお異国のお方よ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第四十八夜になると[#「けれども第四十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その若い女は、相手がシャールカーンとはつゆ知らず、彼に申したのでございます、「さあ、ではわたくしといっしょにいらっしゃいませ、おお異国のお方よ。」それでシャールカーンは、こうした言葉を聞いて、この若い女が、自分や大臣《ワジール》ダンダーンや自分の身内一同に対して、寄せている敵意を知って、たいへん癪にさわったのでありました。たしかに、もしも彼が自分の心の最初の気持にしか耳を傾けなかったとしたならば、ここでみずから名を名乗り、この若い女につかみかかったことでありましょう。けれども彼は、歓待に対する礼儀からして、またことに、その愛すべき相手の美しさの魔力のために、これを思いとどまらせられました。そして彼は次の詩節を誦したのでした。
[#この行2字下げ] 汝あらゆる罪を犯せばとて、おお乙女よ、汝《な》が美しさのあるありて、その罪を消し、そをばさらにひとつの歓びとはなさん。
すると彼女は静かに跳ね橋を渡って、僧院のほうに向かいました。シャールカーンはその後から歩いて、こうして後ろから彼女を眺めると、そのふくよかな臀部が海上の波のように、上がったり下がったりするのが見えました。そして彼は、大臣《ワジール》ダンダーンが居合わせず、このみごとな光景を、いっしょに感嘆することができないのを、残念に思いました。彼は次の詩人の詩句を思いうかべて、われとみずからに誦したのでした。
[#ここから2字下げ]
その白銀《しろがね》の腹の真白きを見よ、さらば瞠《みは》る汝《な》が眼に、満月の現わるるを見ん。
その祝福されし臀の円《まろ》きを見よ、さらば宙天に、相並ぶ二つの三日月を見ん。
[#ここで字下げ終わり]
こうして一同は、透きとおる大理石の拱門《アーチ》のついた、大きな正面玄関に着きました。そこをはいると、雪花石膏《アラバスター》の柱に支えられた、十の拱門に沿ってめぐっている、長い廊下に着きました。そのおのおのの拱門の中央には、太陽のように照り渡る、水晶のランプがかかっておりました。そこまでゆくと、いくたりもの若い侍女が、かぐわしい匂いを放つ灯火を持って、女主人を迎えにまいりました。その女たちは、あらゆる色の宝石をちりばめた絹の帛《きれ》を、額にめぐらしておりました。そして階段の戸をあけて、この二人の若者をば、僧院内の大広間に案内いたしました。するとシャールカーンは、すばらしい座蒲団《クツシヨン》が部屋のまわりにぐるりと、壁にもたせてきちんと並べられているのを見ました。そして戸口と壁にはすべて、それぞれ黄金の王冠を載せた大きな帳《カーテン》が垂れ、床一面には、上手に切り取った、貴重な色大理石が敷きつめられていました。部屋の中央には泉水があって、二十四の金の水口から水が流れ、水は金属や銀のような煌《きら》めきを放ちながら、快い音をたててしたたり落ちていました。部屋の奥には、王宮の中にでなければないような、絹を張りつめた一台の寝台がありました。
すると若い女は、シャールカーンに言いました、「殿よ、どうぞあの寝台にお上がりになって、そしてあとはおまかせ下さいませ。」そこでシャールカーンは、すっかりまかせる気になって、その寝台に上がりました。すると彼女は部屋から出て行って、シャールカーンをひとり、額に宝石をちりばめた、若い奴隷たちといっしょに残しました。
ところがなかなか彼女が戻って来ないので、シャールカーンは若い乙女たちに、彼女はどこに行ったのか訊ねました。乙女たちは答えました、「あのお方はお寝みに行かれました。そしてわたくしどもは、そのお言いつけに従って、ここにあなたさまの御前にいて、おもてなしをいたします。」そこでシャールカーンは、どう考えてよいか、わかりませんでした。すると若い乙女たちは、金銀の細工をほどこした大きな盆に載せて、あらゆるたぐい、あらゆる種類の、立派なご馳走を運んでまいりました。そこで彼は十分に、腹いっぱいたべたのでした。それがすむと、金の水差しと、銀の縁《ふち》のついた金のたらいを、差し出し、両手にばらとオレンジの花の香りのついた水を注いでくれました。けれどもそのとき彼は、谷間に残して来た、自分の兵士たちのことも気になりはじめ、父王の訓戒を忘れたことを、われとわが身にたいそう責めはじめたのでした。そして、この御殿の若い女主人と、自分のいる場所については、何事もいっさい知らないということのために、苦しみはいっそう募って行くのでした。〔(14)そのとき彼は、詩人の次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
われ心の剛毅と勇気とを失いたりとも、わが過失は重からず。なんとなれば、われは幾多の事柄によって欺かれ、裏切られたればなり。
おおわが友どちよ、わが悩みよりわれを救え、われをして、わが力とわがいっさいの快闊とを失わしめし、恋の悩みよりわれを救え。
今やわが心、恋に迷えり、迷いては、くず折れぬ。わが心くず折れて、われはそも誰にか、わが苦悶の叫びを寄すべきやを知らず。
[#ここで字下げ終わり]
シャールカーンはこの詩節を誦し終わると〕眠りに陥って、そして朝になるまで、眼が覚めませんでした。ふと見ると、部屋に一群の美女がはいって来るのが見えました。それは、二十人の月のような若い乙女たちが、女主人を囲んでいるのでした。そしてその女主人は、諸星《もろぼし》の間の月のように、乙女たちの中央におりました。図案と模様に飾られた絹の布を、美々しく身にまとい、その胴はいっそう細く見え、その腰は、それをしっかと捕えている帯の下に、いっそうふくよかに見えました。それは一面に宝石をちりばめた、黄金の帯でした。こうして、彼女はその腰と胴とをもって、さながら、中央に細い銀の小枝がしなやかに撓《たわ》んでいる、透きとおった水晶の塊りのようでございました。双の乳はいっそうみごとに、いっそう突き出ておりました。その髪はというと、あらゆる種類の宝石を入れまじえた真珠の網で、とめられていました。そして彼女は、その引き裾をかかげる二十人の若い乙女に、左右を取りまかれて、身を揺すりながら、光り輝くばかりに、歩み寄ってくるのでした。
これを見ると、シャールカーンは自分の分別が、感動のために飛び去るのを覚えました。そして自分の兵士のことも、大臣《ワジール》のことも、父王の訓戒のことも、すっかり忘れてしまいました。彼は、これほどまでの魅力に、磁石にかけられたように、すっくと立ち上がり、そして次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
腰重たげに、身をかがめ、身を揺する。そがしなやかにして紡錘形《つむがた》の肢体。やわらかに、滑らかに、輝く胸。
おお、いと美わしき君よ、君は内裡《うち》なる君が宝を秘む。されどわれは、あらゆる雲翳《うんえい》を貫く鋭き眼光を持てり。
[#ここで字下げ終わり]
するとその若い女は、彼のすぐそばに来て、いつまでも、いつまでも、じっと彼をみつめました。それから突然、彼に言いました、「あなたはシャールカーンです。もはや疑いございません。おお、オマル・アル・ネマーンの王子シャールカーンよ、おお英雄よ。おお大度の君よ、今、あなたさまはこの住居を輝かし、光栄を与えて下さいました。いかがでございました、おお、シャールカーンさま、あなたさまの夜は、安らかでご無事でございましたか。うかがわせて下さいませ。それにどうかもうお佯《いつわ》りにならず、嘘言《うそ》は嘘言《うそ》の大家たちにおまかせあそばすよう。なぜなら、佯りと嘘言《うそ》とは、王者の性《さが》ではございません、ことに王者のうちの最大の王者ともあろうものの。」
この言葉を聞いたとき、シャールカーンは、もう打ち消してもほとんど益のないことを覚って、答えました、「おお、いとも優しい君よ、いかにも、私はシャールカーン・イブン・オマル・アル・ネマーンです。私こそは、運命に傷つけられ、身を防ぐ術なく痛手を蒙って、おんみの掌中に投じられた者です。私をばおんみの御意《ぎよい》のまま、望みのままにして下さい、おお、黒き眼の知らざる女《ひと》よ。」すると知らざる女《ひと》は、しばらく眼を床《ゆか》のほうに伏せて、思いふけっておりましたが、やがてシャールカーンをみつめながら、申しました、「お心を鎮め、御眼《おんめ》を和らげなさいませ。あなたさまはわたくしの賓客《まろうど》で、わたくしたちの間には、すでにパンと塩とがあったことを、お忘れになりましたか。それに、わたくしたちの間には、すでにいろいろとうちとけたお話があったことも、お忘れになりましたか。あなたさまは、今からわたくしの保護のもとにあって、わたくしの真心の恩恵をおうけなさいます。どうぞお恐れあそばしますな。と申すのは、救世主《メシア》にかけて、たとい全地があなたさまに向かって襲いかかろうとも、わたくしの魂が、あなたさまを護って、わたくしのからだより抜け出さぬうちは、あなたさまは指を触れられることがないでございましょう。」彼女はこう言って、優しくそのかたわらに坐りに来て、たいそうやさしい微笑を浮かべながら、四方山《よもやま》の話をしはじめました。それから女奴隷の一人を呼んで、ギリシア語で言いました。すると女奴隷は部屋を出て、やがて、あらゆる種類のご馳走を盛った、大きな盆を頭に載せた侍女たちと、あらゆる種類の瓶と、いろいろな飲み物を入れた容器を持った、他の侍女たちを引き連れて、戻ってまいりました。〔(15)けれどもシャールカーンは、これらのご馳走に手をつけるのをためらいました。すると若い女は、それを見咎めて、言いました、「ためらっていらっしゃいますのね、おおシャールカーンさま、あなたは裏切りを思っていらっしゃいますのね。わたくしは、きのうからでも、あなたの一命を奪うことができたということを、ご存じありませんの。」そして、彼女はまず自分から手をのべて、おのおのの盆からひと口ずつ取りました。そこでシャールカーンも、自分の疑いを恥じて、食べはじめ、彼女もいっしょに食べ、こうして満腹するまで食べました。それから、手を洗ってのち、二人は金、銀、水晶の大きな容器《うつわ》に盛った、花と飲み物を持って来させました。いずれも色とりどりの極上の品でございました。〕すると若い女は金の盃を満たして、まず自分からそれを飲み、次に、改めてその盃を満たして、これを彼にすすめますと、彼はそれを飲みました。彼女は言いました、「おお回教徒のお方よ、こうしていれば、なんと人の世は生きやすく、愉楽《たのしみ》に満ちていることでございましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]けれども第四十九夜になると[#「けれども第四十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その年若い見知らぬ女は、シャールカーンに申したのでございます、「おお回教徒のお方よ、こうしていれば、なんと人の世は生きやすく、愉楽《たのしみ》に満ちていることでございましょう。」それから二人とも、こうして飲みつづけ、遂には酒気が二人の正気のうちに働き、恋心がシャールカーンの心のうちに強く刻みこまれたのでございました。すると若い女は、「珊瑚(16)」という名前の、お気に入りの侍女の一人に言いつけました、「おお珊瑚よ、急いで楽器類を持っておいで。」すると「珊瑚」は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そしてちょっと座をはずして、やがてダマスの琵琶と、ペルシアの竪琴と、韃靼《ダツタン》の六絃琴と、エジプトのギターを持った、若い乙女たちを連れて、戻ってまいりました。すると若い女は琵琶を取り上げ、上手に調子をととのえ、そして絨氈《じゆうたん》の上に坐っている、三人の若い乙女に伴奏させながら、打ち顫う絃をしばらくはじき、それから、快さの充ち溢れ、微風よりもやわらかく、岩清水よりも清らかな声で、歌いだしました。
[#ここから2字下げ]
君が眼《まなこ》の犠牲者を、おお情《つれ》なき愛人よ、君知るやその数を。君が眼差より放たれて、もろもろの心臓の生血を流す箭の数を、君知るや。
さあれ、君が眼《まなこ》に傷つけられし心臓は、幸《さち》多きかな。しかして、君が恋の奴隷こそは、さらに幾千度《いくちた》び幸いなるかな。
[#ここで字下げ終わり]
歌が終わると、彼女は口をつぐみました。すると、楽器を奏でていた若い乙女の一人が、もっとゆるやかな声で、シャールカーンにはわからない唄を、ギリシア語で歌って、先をつづけました。そして若い女主人は、ときどき同じ調子で、それに答えるのでした。この歌は、なんと甘美なものでしたろう。マンドラの胴そのものから流れ出るように思える、この歌いかわす愁訴《なげき》の歌は。若い女はシャールカーンに言いました、「おお回教徒のお方よ、わたくしたちの歌がおわかりになりまして。」彼は答えました、「いいえ、少しもわかりません。けれども、ただ音と調べだけで、私はすっかり心を動かされ、そして微笑む歯の潤《うるお》いと、楽器の上を走る指の軽らかさは、私の心を限りなくうっとりさせました。」彼女は微笑して言いました、「では、おおシャールカーンさま、もしもわたくしがアラビアの歌を歌ったとしたら、あなたはどうなさるでしょう、どうなさるでしょうか。」彼は答えました、「それはきっと、まだ残っている正気を、すっかり失ってしまうことでしょう。」すると彼女は、自分の琵琶の調子と調律鍵を変え、しばしそれを弾じてから、次の詩人の歌詞を歌いました。
[#ここから2字下げ]
訣別《わかれ》の味はいと苦《にが》し。されば、なお耐え忍ぶ術《すべ》ありや……
選べとて、われ、三つの事をいだされぬ。遠のくと、別るると、棄て去ると、怖れ満てる三つのことを。
いかにして選ぶべき。わが心を征服し、今はかくばかり切なき試練《こころみ》にわれを置く、美わしき人への思慕に、ことごとく水と溶けにしわが身なり。
[#ここで字下げ終わり]
シャールカーンは、この唄を聞くと、またずいぶん酒を過ごしてもいたので、そのまますっかり酔いしれて、まったく意識を失ってしまいました。そしてわれに返ったときには、もはや若い女はそこにいませんでした。シャールカーンが女奴隷たちに訊ねると、答えました、「お寝みになるためにお部屋にお戻りになりました。もう夜になりましたから。」そこでシャールカーンはひじょうに気色を損じたけれども、言いました、「なにとぞアッラーがあの方をお護り下さるように。」しかし翌日、眼覚めたと思うと、例のお気に入りの若い奴隷「珊瑚」が、彼を迎えに来て、そのご主人の部屋そのものに案内しました。そして、敷居をまたごうとすると、シャールカーンは、楽器の音と歌妓《うたいめ》の歌に迎えられ、一同はこうして彼を歓迎したのでした。そして真珠と宝石のちりばめられた、厚い象牙の扉をはいると、一面に絹とホラーサーンの絨氈とを敷きつめた、大広間が見えました。そしてその部屋は、いくつもの大きな窓から明りをとり、それらの窓は、繁った庭と水の流れにのぞんでいます。壁ぎわには、生きた人間のように装った彫像が、ずらりと並んでいて、それらは驚くばかり手足を動かし、その内部には巧みなしかけがしてあって、まるでほんとうのアーダムの子のように歌ったり、口をきいたりするのでした。
ところで、この住居の女主人はシャールカーンの姿を見ると、すぐに立ち上がって、彼のところに来てその手をとり、自分のそばに坐らせて、心をこめて、昨夜をどのように過ごしたかと訊ね、そのほかいろいろと訊ねましたので、彼はよしなにそれに答えました。それからいろいろと話をはじめて、そのうち彼女は訊ねました、「あなたは、恋人たちや恋の奴隷になった人たちについての、なにか詩人の言葉を、ご存じでいらっしゃいますか。」彼は言いました、「ええ、ご主人さま、二つ三つ知っています。」彼女は言いました、「ぜひうかがいとうございます。」彼は言いました、「雄弁で心利いたクーサイール(17)が、自分の愛した、欠けるところなく美しいイザーについて、こう申しました。」
[#ここから2字下げ]
否々、イザーの魅惑をば、われは断じて世に洩らすまじ。イザーへのわが恋を、われは断じて語るまじ。かつは、かのひとは、いくたびかわれに誓わしめ、いくたびかわれに約せしめたり。ああ、イザーのあらゆる魅惑を、人知らば……。
塵埃のうちに涙して、かくばかり恋の苦患《くげん》を避くる苦行者らとても、もしわが知る愛《いと》しき囁きを耳にせば、駆け寄りて、イザーの前に跪《ひざま》ずき、拝《おろ》がまん。ああ、イザーのあらゆる魅惑を、人知らば。
[#ここで字下げ終わり]
〔(18)すると若い女は言いました、「まことに、雄弁はこの見事な詩人、クーサイールの独壇場でございました。なおこう付け加えております。」〕
[#ここから2字下げ]
もしイザーにして、彼女《かれ》にふさいその美にふさう審判者の前に、和やかの朝日とともに、立ち出でて、朝日と競わば、かならずや彼女こそ選ばれん。
さあれ、性《さが》悪しき女ら二、三、わが前に敢えてイザーの美の細かき節《ふし》を、とやかく言えり。願わくばアッラー彼らを懲しめて、彼らの頬をば、イザーの靴裏の踏みにじる絨氈ともなしたまえかし。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの館《やかた》の若い女主人は、さらに言いました、「このイザーというひとは、なんと愛されていたのでございましょう。それから、王子シャールカーンさま、もしもあなたが、やはりこの同じイザーに向かって、美貌のジャミル(19)が言った言葉を覚えていらっしゃるならば、聞かせていただければまことに嬉しゅうございます。」するとシャールカーンは言いました、「イザーに寄せたジャミルの言葉のなかで、私はただこの一節しか覚えておりませんが。」
[#この行2字下げ] おお美わしき惑わしの女よ、汝《なれ》はただわが死をのみ願い、汝《な》がいっさいの望みはそこに止まる。さもあらばあれ、何事のあらんとて、わが族《やから》のあらゆる乙女らのうち、わが欲《ほ》りするは、ただ汝《なれ》のみぞかし。
そしてシャールカーンは言い添えました、「というのは、もしおわかりにならないならば、申し上げますが、おおわがご主人よ、じつは私は、ジャミルとまったく同じ境遇にいるのでございます。そしてあなたは、ジャミルに対するイザーのように、あなたはあなたの眼の前で、私を死なせようと願っていらっしゃるのです。」この言葉に、若い女は微笑《ほほえ》みましたが、しかし何も言いませんでした。そして二人は、朝の光の射すまで、飲み続けました。すると彼女は立ち上がって、姿を消してしまいました。そしてシャールカーンはその夜もまた、ただひとり自分の寝床に過ごさなければなりませんでした。けれども朝になると、いつものように、侍女たちが楽器の音と手太鼓《ドーフーフ》(20)の拍子をとりながら、彼を迎えに来て、その手の間の床《ゆか》に接吻してから、申しました、「わたくしどものご主人がお待ちでございます。どうかごいっしょにおいであそばして下さいますように。」そこでシャールカーンは立ち上がって、奴隷たちといっしょに出ると、彼女らは楽器を奏で手太鼓《ドーフーフ》を叩いて、そしてまた別の広間に着きました。これは前の広間よりもいっそうすばらしく、そこには彫像や、鳥獣を描いた絵や、その他とうてい言い現わすことのできない、他のたくさんの品々がございました。シャールカーンは、眼に見るものすべてにすっかり心を悦ばされて、次の詩節が自然と口の端にのぼったのでした。
[#ここから2字下げ]
われは、七星の射手座の、黄金の果実の間より立ちのぼる、星を摘まん。
そは、白銀の曙告ぐる気高き真珠。そは星座の黄金の雫。
そは、銀の編毛を成して流れいずる水の眼《まなこ》。そは、生ける頬の肉身のばら。そは、燃ゆる黄玉《トパーズ》、黄金の面《おも》。
その眼《まなこ》よ。そは色濃き菫の色ぞ、青き瞼墨《コフル》もて縁どられしその眼は。
[#ここで字下げ終わり]
すると若い女は立ち上がって、シャールカーンの手をとり、自分のそばに坐らせて、言いました、「シャールカーン王子さま、あなたはきっと将棋を遊ばしますでしょう。」彼は言いました、「いかにも、おおわがご主人よ、だがお願いです、どうか詩人の喞《かこ》つ女のようなまねは、なさらないで下さい。
[#ここから2字下げ]
われ語るとも詮なしや。恋情に打ち砕かれしこのわれの、何とても、かのひとの幸多き口にわが渇を医《いや》し、かのひとの唇にひと口飲みて、生を吸い得ざるにや。
かのひとのわれを疎んずるにあらず、また、われに心おろそかなるにはあらず、わが心紛らさんとて、将棋を持ち来たらしむるを怠るにはあらず。さあれ、わが魂の渇する娯《なぐさ》み、はた、遊びは、ここにあらんや。
かつは、われよくかのひとと争い得んや。われは、かのひとの眼のひそかなる戯れに、わが胆を刺し貫くかのひとの眼の眼差《まなざし》に、魅入られし身なり。」
[#ここで字下げ終わり]
けれども若い女は、にこやかに、将棋を近づけて、指しはじめました。そしてシャールカーンは、自分の番になるごとに、勝負に注意を払うかわりに、じっと彼女の顔を見つめていて、まったく指し手をまちがえ、象の場所に馬を置き、馬の場所に象を置くのでした(21)。そこで彼女は笑いだして、言いました、「救世主《メシア》にかけて、なんとあなたの将棋はお上手なのでしょう。」彼は答えました、「いや、だがこれは最初の一番です。ふつうこれは数にはいりません。」そして改めて駒を並べました。けれども二番目も彼女が勝ち、三番目も、四番目も、五番目もそうでした。それから彼女は言いました、「何をしても、皆あなたの負けでございますのね。」彼は答えました、「おおわが女王よ、あなたのようなお相手には、負けるのが似つかわしいのです。」すると彼女は卓布を広げさせて、いっしょに食べ、手を洗いました。それから、あらゆる飲み物を飲むことを、欠かしませんでした。すると彼女は竪琴を取り上げました。そして彼女は竪琴の名手でございましたので、はじめまず、ゆっくりとした弱い調べをしばらく序奏して、それから次の詩節を歌いました。
[#ここから2字下げ]
天命は隠れてありとも、あらわなりとも、晴れやかの面《おも》なりとも、浮かぬ面なりとも、人は決しておのが天命を脱《のが》るることなし。されば、友よ、いっさいを忘れたまえ、しかして
能うべくんば美のために飲み、生のために干せ。われは、いかなる地の子も、ひややかに眺め得ざらん生ける美なり。
[#ここで字下げ終わり]
彼女は口をつぐみました。そしてただ竪琴のみが、細い水晶の指の下に、鳴り響くのでした。シャールカーンは心を奪われて、自分が限りない欲情のうちに溺れているのを覚えました。するとまた新しい序曲を奏して、彼女はさらに言いました。
[#この行2字下げ] 誠ならぬ友情のみぞただ、別離の苦渋を能く耐えめ。太陽すらも、地を去るべきとき、色蒼ざむるものを。
ところが、この歌が終わったと思う間もなく、二人の耳には、戸外に、たいへんな騒ぎと叫喚が聞こえたのでございました。見ると、抜き身の剣をたずさえた、キリスト教徒の武士の大軍が、「今こそ汝はわれらの掌中に陥ったぞ、おおシャールカーンよ。今や汝の破滅の日だ。」と叫びながら、押し寄せてくるのが見えました。シャールカーンは、この言葉を聞いたとき、はじめはさては裏切られたと思って、その疑いは自然、この若い女に向けられました。そして、それを責めようとして女のほうに向きますと、彼女はまっさおになって、室外に飛び出し、武士たちの前にゆくと、一同に申すのでした、「何用か。」すると首領《かしら》が進み出て、彼女の両手の間の床《ゆか》に接吻して、言いました、「おお光栄《さかえ》満てる女王よ、われらがご主人アブリザさま、海の真珠のうちもっとも高貴なる真珠よ、あなたさまは、この僧院の中にいる男をご存じないのでございましょうか。」するとアブリザ女王は言いました、「いったい誰のことを言うのか。」一同は言いました、「人呼んで勇者の主、都市の破壊者、恐るべきシャールカーン・イブン・オマル・アル・ネマーンという強の者、一つの塔もうち壊さずにはおかず、一つの砦《とりで》もうち潰さずにはおかぬ者のことでございます。ところで、おおアブリザ女王さま、あなたさまのお父上にして、われらの主なるハルドビオス王は、その都カイサリアにて、老婆|災厄《わざわい》の母の口よりして、王子シャールカーンがここにいるということをお聞きになったのでございます。というのは、災厄《わざわい》の母は、シャールカーンが森の中にて、僧院のほうに向かってゆくのを見たと、王に言上したのでございます。されば、おおわれらが女王さま、獅子をあなたさまの網にとらえ、かくて回教徒軍に対する、われらが未来の勝利の因をおつくりになられましたることは、まことになんというお手柄でございましょうか。」
この言葉に、若きアブリザ女王、カイサリアの主ハルドビオス王の王女は、怒りを含んで武士の首領を眺め、これに申しました、「そちの名はなんというか。」彼は答えました、「あなたさまの奴隷、貴族《パトリキウス》(22)マスーラ・イブン・モソラ・イブン・カシェルダでございます。」彼女は言いました、「不遜なるマスーラよ、そちはことわりもなく、許しを得ずして、この僧院に入るを敢えてしたとは、そも何事であるか。」彼は言いました、「おおわが君よ、門番は一人も私の道をさえぎらず、それどころか、皆立ち上がって、われわれをお部屋の戸口まで、案内してくれたのでございます。さて今は、父王さまのご命令により、あなたさまがわれわれにかのシャールカーン、回教徒のうちでもっとも恐るべき武士をば、お引き渡し下さることを、一同お待ち申す次第でございます。」するとアブリザ女王は申しました、「それは何を言うのか。あの老婆|災厄《わざわい》の母は、不実に満ちた嘘言者《うそつき》であることを、そちは知らないのか。救世主《メシア》にかけて、いかにも、ここにはたしかに一人の男がいます。しかしそれは、そちの申すシャールカーンとは似もつかぬ者、われらのもとに歓待《もてなし》を求めて来た、異国の者であり、われらはただちにこれを手厚くもてなした次第です。それにまた、万一この異国の者がシャールカーンであるとしても、歓待の義務は、妾《わらわ》に彼を全土に対して庇護すべきを命じはしませぬか。このアブリザが、自分と彼との間にすでにパンと塩とがあった後におよんで、客人を裏切ったなどとは、断じて人に言われてはなりませぬ。さればそちのなすべきことは、おお貴族《パトリキウス》マスーラよ、ただちにわが父王のもとに帰るばかりです。そちは父王の御手の間の床に接吻して、災厄《わざわい》の母は偽わりを申し、欺き奉ったのであると、言上しなさい。」貴族《パトリキウス》マスーラは言いました、「アブリザ女王よ、私は、王より逮捕の命を拝したその当人とともにでなければ、お父上ハルドビオス王の御許に戻るわけにはまいりませぬ。」姫は怒りに満ちて言いました、「何事に立ち入るのか、兵よ。そちは戦うために禄を食《は》んでいるのであるから、戦うことのできるおりに戦いさえすればよいものを。そちにかかわりなき事柄に立ち入ることは、きっとつつしむがよい。そのうえ、かりにその異国の者がシャールカーンであったとして、そちが敢えてシャールカーンを襲うならば、そちはいたずらにそちの一命と、そちといっしょの武士全部の一命をもって、支払うであろうぞ。さらば妾《わらわ》は、彼に剣と楯とを携えて、ここにお連れ申すぞよ。」貴族《パトリキウス》マスーラは言いました、「禍いなるかな、たとえ私があなたさまのお怒りをのがれるとしても、王の逆鱗《げきりん》をのがれることはできないでございましょう。されば、もしそのシャールカーンがここにまかり出ますならば、私はただちに部下の武士らをしてこれを捕えしめ、憐れなる俘虜《ふりよ》として、お父上カイサリアの王の御手の間に、ひっ立ててまいりましょう。」するとアブリザは言いました、「そちは武士にしてはたいそう口数が多い、おお貴族《パトリキウス》マスーラよ。そしてそちの言葉はうぬぼれと不遜に満ちています。そちたちはここに、一人に対して百人の武士であることを、そちはお忘れか。されば、もしもそちの貴族《パトリキウス》の称号が、勇気を跡形《あとかた》もなく失わせてしまわなかったならば、そちは単身これと相戦うがよい。もしそちが敗れたならば、誰かがそちに代わって戦い、そしてシャールカーンがそちたちの掌中に陥るまで、続けるがよい。さすれば、そちたち一同のうち勇者が誰か、おのずと定まるでありましょうぞ。」
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十夜になると[#「けれども第五十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、若き女王アブリザは言いました、「さすればそちたち一同のうち勇者が誰か、おのずとわかるでありましょうぞ。」すると貴族《パトリキウス》マスーラは言いました、「救世主《メシア》にかけて、仰せいかにも道理《ことわり》でございます。さらばこの私こそ第一に、戦いの場にのぞむでございましょう。」姫は言いました、「では待つがよい、これよりその方にお知らせして、ご返事をいただいて来るによって。もし承引なされば、事は行なわれるが、もし拒絶なされても、やはりあの方は、尊ぶべき庇護を受くる客人であろうぞ。」そしてアブリザは、急ぎシャールカーンに会いに行って、事情を伝えましたが、しかし自分が何者であるかはまだ言いませんでした。するとシャールカーンは、自分がいかにこの若い女の高潔さを悪く考えたかわかって、非常にわが身を責めましたが、それは二重に責めたのでございました。ひとつには、この若い女を悪く考えたこと、ひとつには、軽率にルーム人の国のただ中に身を投じたことです。それから、彼は言いました、「おおわがご主人よ、私はそんなふうに、たった一人の武士を相手に戦う習慣はまったくございません。いつも、一度に十人の武士と戦います。されば、そのようにして、戦いをはじめるつもりです。」こう言って、彼はすっくと跳ね起きて、キリスト教徒の武士たちに向かって飛び出しました。手には、自分の剣と楯をたずさえていました。
貴族《パトリキウス》マスーラは、近寄ってくるシャールカーンの姿を見ると、いきなりひととびで飛びかかって、勢い激しく襲いかかりました。けれどもシャールカーンは、打ちかかる剣をかわして、獅子のように相手におどりかかり、肩先に激しい一刀を浴びせかけますと、剣は腹と臓腑を貫いて、脇腹から、きらめく穂先を見せたほどでした。
これを見ると、シャールカーンの値打は、若い女王の眼にひじょうに増して見え、姫はひとりごちたのでした、「この方こそはほんとうの英雄だこと。私が森で力を競べてみても恥ずかしくなかった。」それから、姫は武士たちのほうを向いて、皮肉をこめて呼びかけました、「何をぐずぐずして、戦いを続けないのですか。おまえたちは、もうこの貴族《パトリキウス》の仇を討とうとは思わないのですか。」すると、見るからに獰猛な様子をした、精悍の気溢れる顔付きの巨人が、大またで進み出ました。これは、貴族《パトリキウス》マスーラの弟その人でした。けれどもシャールカーンは、これへ身をかわすひまもあらせず、剣が腹と臓腑を貫いて、脇腹から、きらめく穂先を見せたほどの一刀を、肩に浴びせかけました。すると他の武士が、一人一人進み出ましたが、シャールカーンはどれも同じ運命にあわせ、彼の剣は、武士どもの首を飛ばすのにうち興じるのでした。こうして、彼は五十人の武士を片づけてしまいました。残りの五十人は、自分の仲間たちに加えられた待遇《あしらい》を見ると、急に一団にかたまって、一度にどっと、シャールカーンめがけてなだれかかりました。けれども、それが彼らの身の終わり。一同は、石よりも固い心を持ったるシャールカーンに迎えられ、麦打ち場で麦粒が打たれるように打たれ、身も魂も、永久に飛び散ってしまったのでございます。
すると、アブリザ女王は侍女たちに叫びました、「僧院には、まだほかに男がいますか。」侍女たちは答えました、「門番のほかには、もう男はおりませぬ。」するとアブリザ女王は、シャールカーンを迎えに進み寄り、そして両腕にかかえて、力をこめて抱きしめました。それから死人の数をかぞえてみると、八十ございました。他の二十人はというと、手傷を受けながらも、身をのがれて姿を消すことができたのでした。そこでシャールカーンは、剣の血したたる刃を拭うことを思い、そしてアブリザに手を引かれて、次の戦さの詩節を誦しながら、僧院に引き上げました。
[#ここから2字下げ]
わが武勇の日、敵はわれを討たんとて、群れを成し勢い猛に、襲いかかれり。
われは、彼らが気負い立つ栗毛の駒を、獅子どもの餌食に投げ与えたり、わが兄弟《はらから》の獅子どもに。
――いざ、若者ら、望みとあらば、わが身より、わが衣の重さを取りのけよ。――
――わが武勇の日、われはただ一過せしのみ。さるを、ここにこの武者ら、わが砂漠の燃ゆる地上に、一人あまさず、長々と横たわってあり。
[#ここで字下げ終わり]
そして二人が僧院の大広間に着くと、若いアブリザは、悦びに満面に微笑をたたえて、シャールカーンの手をとり、それを自分の唇に持っていったのでした。それから、姫は自分の着物をひろげてみせました。すると非常に目のつんだ鎖《くさり》帷子《かたびら》の上衣と、インド産の上等な刃金《はがね》の剣が、現われ出ました。シャールカーンは驚いて、訊ねました、「おおわがご主人よ、なにゆえに、そのような鎖帷子の上衣と剣とを召されたのですか。」彼女は言いました、「おおシャールカーンさま、あなたの激戦の火の中で、わたくしはお助太刀申そうと存じて、取り急ぎこれを着けました。けれども、わたくしの腕は、なんのお役にも立ちませんでした。」
次にアブリザ女王は、僧院の門番どもを呼びつけて、これに申しました、「汝らはわが許しなくして、ここに王の旗本たちを侵入させたのは、いかなる仔細か。」彼らは言いました、「王の旗本、わけても王の大|貴族《パトリキウス》に対して、入室のご許可を仰ぐということは、まだ前例がござりませぬので。」彼女は言いました、「どうも汝らは、妾《わらわ》の身を滅ぼし、わが賓客《まろうど》を亡きものにせんと欲したかに、疑われるぞよ。」そして彼女はシャールカーンに、彼らの首を刎《は》ねることを願いましたので、シャールカーンは一同の首を刎ねました。すると彼女は、他の奴隷たちに言いました、「まことに彼らは、もっとひどい目にあってもよいくらいです。」それからシャールカーンのほうに向いて、言いました、「おおシャールカーンさま、今となっては、これまでお隠ししていたことを、お明かし申し上げることといたしましょう。」そして彼女は言いました。
「お聞き下さいませ、おおシャールカーンさま、わたくしこそは、カイサリアの主、ギリシアのハルドビオス王の一人娘でございまして、名をアブリザと申します。そしてわたくしには、災厄《わざわい》の母という、不倶戴天の敵がございます。この老婆は、かつてわたくしの父の乳母でございまして、宮中で、その言葉はたいそう取り上げられ、一同に恐れられております。そしてわたくしとこの老婆との確執の原因《もと》は、お話し申すことをご容赦願いたいような、原因《もと》なのでございます。というのは、そのうちには、きっと委細をご承知になられましょうが、この顛末には、いろいろと若い娘たちがかかりあっているからでございます。そこで、災厄《わざわい》の母はあらゆる手段を講じて、わたくしを滅ぼそうとするは必定で、わたくしが、貴族《パトリキウス》と武士との首領の、死の原因《もと》となった今となっては、なおさらのことでございます。老婆はきっとわたくしの父に、わたくしが回教徒たちに荷担したと申しましょう。されば、わたくしといたしましては、災厄《わざわい》の母がわたくしを迫害する限り、とるべきただひとつのみちは、自分の故国と両親とを離れて、遠く立ち去ることでございます。そしてわたくしはあなたに、出発する上に力となって下さり、わたくしがあなたに対して振舞いましたように、あなたがわたくしに対して振舞って下さることを、お願いする次第でございます。というのは、こういうことになりましたのも、多少は、あなたが原因《もと》になっているのでございますから。」
この言葉に、シャールカーンは、悦びに正気は飛び去り、胸は広がり、全身は伸び伸びとするのをおぼえて、言いました、「アッラーにかけて、わが魂のわが身にある限り、おんみに敢えて近づこうとする者は、そも何者でしょう。けれどもあなたはほんとうに、お父上やお身内から離れていることに、我慢がおできになるでしょうか。」彼女は答えました、「大丈夫でございます。」そこでシャールカーンは、彼女にできるということを誓わせますと、彼女は誓言して、それから言い添えました、「今はわたくしの心は落ち着きました。けれどももうひとつ、お願いしたいことがございます。」彼は言いました、「どのようなことでしょうか。」彼女は言いました、「それはあなたが、部下の兵を全部引き連れて、故国のバグダードに、お帰りになることでございます。」彼は言いました、「おおわがご主人よ、私の父オマル・アル・ネマーンが、私をルーム人の地に派したのは、他でもない、コンスタンティニアのアフリドニオス王の求援に接して、あなたのお父上と戦い、これを打ち破らんがためなのです。というのは、お父上は、多くの財宝や、若い奴隷や、またあらたかな霊験を備えた三つの宝石などを積んだ船を、捕獲させなされたからです。」するとアブリザは答えました、「あなたの魂をしずめ、お眼をお和らげなさいまし。と申すのは、われわれがアフリドニオス王を敵にまわしたまことの由来を、これからお話し申し上げましょう。」
「こういう次第でございます。われわれギリシア人には、例年、この僧院を祭るお祭がありまして、毎年、その時期になると、キリスト教徒の王が全部、あらゆる貴族や大商人ともども、あらゆる国々から、この地に集まってまいります。したがって、王侯その他の妻女や娘たちも、来ずにはいません。このお祭はまる七日続きます。ところである年のこと、わたくし自身もこの参詣者に加わってまいりましたが、そこにはまた、コンスタンティニアのアフリドニオスの王女もおられたのでした。それはサフィーアというお名前で、今はあなたのお父上、オマル・アル・ネマーンの側室で、子供たちの母になっておいでですが、そのおりは、まだうら若い乙女でいらっしゃいました。
祭も終わって、いよいよ出発の日である七日目が来ますと、サフィーア姫は言いだされました、『わたくしは陸路から、コンスタンティニアに帰りたくはない。海路からにしたい。』そこで一艘の船を調えて、姫とその一行はこれに乗り、またご自分の物は全部それにお積ませになって、そして帆を張って出発いたしました。
ところが、船がようやく遠ざかったと思うと、にわかに逆風が起こり、そしてその船の航路を逸《そ》らせてしまったのでした。そして神の摂理は、おりしもそのあたりの海上に、カーフール島のキリスト教徒の武士、五百名のアフランジ(23)を満載した大船がいることを、望みたもうたのでございました。彼らは全部武装して、鉄具に身を固め、海に出てからずっと、獲物を得んとて、このような機会をひたすら待ちわびていたのでした。そこでサフィーア姫の乗った船を見かけるや、すぐにそれに近づいて、掛鉤《かけかぎ》を投げ、これを捕獲してしまい、それから曳き船して、ふたたび航海しはじめました。ところが、そのうち暴風雨が激しく起こって、その一行はわれわれの国の海岸にうちつけられ、もう動けなくなってしまいました。そこで、わが家来どもは、彼らに襲いかかり、海賊を殺し、サフィーア姫をふくめて六十人の若い乙女たちと、二艘の船に積まれているすべての財宝をば、奪ったのでございました。それから皆の者は、わたくしの父カイサリアの王に、その六十人の乙女を献上して、財宝を自分たちのものといたしました。するとわたくしの父は、十人のいちばん美しい乙女を自分のものに選んで、残りを家臣に分かち与えました。次にその十人の中から、さらにいちばん美しい五人を選抜して、これをお父上オマル・アル・ネマーン王に、進上したのでございます。そしてその五人の中に、ちょうどアフリドニオス王の王女サフィーア姫がおられたのでしたが、わたくしどもはそんなこととはつゆ思いませんでした。なぜなら、王女をはじめ誰も、わたくしどもにそのご身分にせよ、お名前にせよ、何もお明かしにならなかったのです。そしてこういうわけで、おおシャールカーンさま、サフィーア姫はお父上オマル・アル・ネマーン王の側室となられたのでございます。姫は、たとえば絹織物とか、毛織物とか、ギリシアの刺繍など、その他たくさんの品々といっしょに、王に贈られたのでありました。
ところが今年の初めのことでございます。私の父王は、サフィーア姫の父アフリドニオス王より、一通のお手紙を受けました。そのお手紙には、まことに、ここで繰り返して申し上げるに忍びないような事柄が、記《しる》してございました。それに付け加えて、次のようなことが述べられておりました。
[#この行2字下げ] 今を去る二年前、貴殿は海賊輩より、わが娘サフィーアを含める、六十名の若き娘らを奪いたり。しかるに、余のこれを知りしはわずかに今日のことなり。なんとなれば、おおハルドビオス王よ、貴殿はこれに関し、余にいっさい知らしむるところなかりしがゆえなり。こは余にとって、余が上に、はたまた余が周囲に対し、実に最大の侮辱にして、最大の恥辱たらずんばあらず。されば、もし貴殿にして余を敵とするを好まざれば、よろしく、この書状落手早々、ただちにわが娘サフィーアをば、完全無垢の身をもって、余に返還すべし。しからずんば、もし貴殿その返還を遷延することあらんか、貴殿は貴殿にふさわしき道をもって遇せられ、貴殿に対する恐るべき報復は、わが憤怒と怨恨とによって、執行せらるべきものなり。
そこで、わたくしの父は、この手紙を読むとひじょうに困惑して、ひじょうに心痛いたしました。なにせ、若いサフィーア姫は、お父上オマル・アル・ネマーンに贈物に差し上げてしまい、姫はオマル・アル・ネマーン王によって、またたくまに、どちらにも悶着なく、すでに母の身となってしまわれた以上は、姫が今なお完全無垢の身でいられるという望みは、もはやないわけでございましたから。
そこでわたくしたちは、これは大変なことになったということをさとりました。そして父は他に詮方なく、アフリドニオス王に手紙を送って、事情を申し述べ、サフィーア姫とは知らなかった旨を重ね重ね誓言して、いくえにもそれを陳謝したのでございました。
父の手紙を受け取りますと、アフリドニオス王は言い現わせないほどの激怒に陥り、立ったり、坐ったり、身を動かしたり、泡を吹いたりして(24)、言いました、『あらゆるキリスト教徒の王たちが、争って縁組を求め、手を求めた、わが娘ともあろうものが、一回教徒の奴隷中の一人の奴隷となり、その欲情に屈せしめられ、法に叶いし契約もなくして、その臥床《ふしど》に侍《かしず》くなどということは、そもそもあり得ることか。さあれ、救世主《メシア》にかけて、かくもあまたの婦女に乗る、飽くを知らぬかの回教徒めに対して、余はかならず、東洋西洋の永く語り伝えるがごとき、復讐をいたしてくれよう。』
そしてこの時、おおシャールカーンさま、アフリドニオス王は、お父上に豊かな進物を持たせて、使節を派し、あたかも自分がわたくしの国と戦いをしているかのように見せかけ、援軍を求めることを、思いついたのでございます。けれども実際は、おおシャールカーンさま、これはただあなたご自身をはじめ、あなたの一万の騎兵をば、穽《わな》にかけ、それによってかねて謀った復讐を遂げようという腹に、ほかならないのでございます。
さて、そのあまたの霊験を備えている、三つの霊妙な宝玉につきましては、それは実際にございます。それはサフィーア姫の所有《もの》でしたが、海賊の手に落ち、ついでわたくしの父の手にはいって、父はそれをわたくしに贈りました。そして今それはわたくしが持っております。のちほどお見せいたしましょう。けれどもさしあたり、あなたは何はさておき、まず部下の騎兵のもとにお帰りになって、コンスタンティニア王の網にかかって、あなた方にとって、あらゆる連絡の道が絶たれてしまわないうちに、一同とともに、ふたたびバグダードの道をお取りにならなければなりません。」
シャールカーンはこの言葉を聞くと、アブリザの手をとって、それを自分の唇に運び、そして言いました、「その創りたまいしものにおいて、アッラーに讃えあれ、アッラーはおんみがわが救いならびにわが戦友の救いの原因《もと》とならんがために、おんみをわが途上に置きたもうたのでした。さりながら、おお好ましき救いの女王よ、私はもはやあなたから離れることはできませぬ。ことに、こうしたいっさいが起こったからには、あなたがただ一人ここにとどまることは、とうてい忍び得ないところです。あなたの身に、どのようなことが起こるかわかりませんから。いらっしゃい、アブリザ姫、バグダードにまいりましょう。」
けれどもアブリザは、かねて十分に考えておいたので、彼に申しました、「おおシャールカーンさま、まずあなたから急ぎ立って、あなたの陣地のただなかにいる、アフリドニオス王の使者たちをひっとらえ、そして真相を白状させるようになさいませ。さすれば、わたくしの言葉の真偽をおただしになられましょう。そしてわたくしは、三日たたないうちに、おあとを追って、その上でごいっしょに、バグダードにはいることといたしましょう。」
それから彼女は立ち上がって、彼に近づき、彼の顔を両手にはさんで、これに接吻いたしました。そしてシャールカーンもまた同様にいたしました。彼女はおびただしい涙を流し、石をも溶かすばかりの涙を垂れました。シャールカーンは、この涙を流す眼を見ますと、さらにいっそう不憫を催し、心を痛めさせられて、やはりたいそう涙を流して、次の二節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
われはかの女《ひと》に訣別《わかれ》を告げぬ。わが右手《めて》はわが涙を乾《ほ》し、わが左手《ゆんで》はかの女《ひと》の首《うなじ》を巻く。
かの女《ひと》は物おじて、われに言いぬ、「おお、君は妾《わらわ》が、わが種族の女らに、後ろ指ささるを恐れたまわずや。」われはこれに言えり、「否々。なんとなれば、訣別の日はすでにそれみずから、恋する者の裏切りにあらずや。」
[#ここで字下げ終わり]
こうしてシャールカーンはアブリザと別れて、僧院を立ちいで、二人の若い乙女が轡《くつわ》を取る愛馬に跨って、立ち去りました。彼は鋼鉄の鎖のついた橋を渡り、森の木々の間に分け入り、そして森の中央にある空地に、到り着きました。そこに着いたと思うと、三人の騎士が、自分の正面に出て来て、突然疾駆する駒を停めるのを見ました。そこで彼は燦爛《さんらん》とした剣を抜き放ち、剣を構えて、果し合いの用意をしました。ところが急に、彼は相手がわかり、相手も彼がわかりました。というのは、その三人の騎士こそは、大臣《ワジール》ダンダーンと、自分に従って来た二人のおも立った大将《アミール》でございました。そこで三人の騎士は、急いで地におり立ち、寄ってきて、うやうやしく王子シャールカーンに平安を祈り、そして王子のお留守のために全軍が陥った、すべての不安を申し述べました。そこでシャールカーンは、いっさいの顛末を一部始終、細大洩らさず彼らに話し、アブリザ女王がやがて来ることも、アフリドニオスの使者のもくろむ反逆も話して、彼らに言いました、「おそらくやつらは、おんみら三人の留守に乗じて脱れ出し、自分たちの王に、われらが彼の領地内に着いたことを知らせに行ったということも、ありそうなことだ。そして今は、やつらの軍隊が、すでにわが軍を打ち破っていないとも測り知れぬ。されば、能う限りすみやかに、われらの兵の間に駆けつけよう。」
そして間もなく、一同は駒を駆って、天幕の張ってある谷間に着きました。秩序は整然としていましたが、しかしはたして、使者どもは失踪しておりました。そこで一同、急いで陣を撤して、バグダードに向かって出発したのでございました。そして数日すると、一行は見覚えのある最初の国境に着きました。ここまで来れば、実際に、もはや安全でした。その地の住民は皆いそいそと、兵のためには食糧を、馬のためには飼料《かいば》を、持って来てくれました。そこで一行は、この場にしばらく休んだ上で、ふたたび発足しました。けれどもシャールカーンは、前衛全軍の指揮を大臣《ワジール》ダンダーンに委ね、自分は殿軍として残って、全軍の騎兵の精鋭の中から、一人ずつ選び出した騎兵を、わずか百騎しか手もとに置きませんでした。そして全軍をまる一日だけ先発させ、一日遅れて、その百人の武士を従えて、自分も進軍を開始したのでございました。
こうして彼らが、すでに二パラザンジュ(25)近く道を進むと、一行は、二つのたいそう高い山の狭間《はざま》にある、ひじょうに狭い山路に行き着いてしまいましたが、そこに足を踏み入れたと思うと、その山路の向うの端にあたって、ひじょうに濃い砂煙りが立ちのぼるのが見えました。それは見る見るこちらに近づいて来て、やがて消え失せたと思うと、そこからは、鎖《くさり》帷子《かたびら》の上衣と鋼鉄の前庇の下に隠れた、獅子のように猛々しい、百名の騎士が現われ出たのでございます。そして声の届くあたりまで来ると、彼らは呼ばわりました、「回教徒ども、馬からおりろ。そして汝らの武器と馬とを引き渡して、われらの言うがままに従え。さもなくば、マルヤムとユーハンナ(26)にかけて、汝らの魂はただちに、汝らの身体より飛び立つであろうぞ」
この言葉を聞くと、シャールカーンは世界が彼の眼前に暗黒となるのを見て、その両眼は憤怒の電光を発し、双の頬は燃え上がりました。そして叫びました、「おおキリスト教徒の犬どもめ、大胆にもすでにわが国境に足を踏み入れ、わが国土を踏みにじっておきながら、なおも敢えてわれらを威《おど》すとは、そも何事ぞ。しかもそれのみならず、汝らはよくもわれらに、かかる雑言を浴びせおったな。今や汝らは、われらの手中よりつつがなく身をのがれ、ふたたびおのが国に見《まみ》え得るとでも、思っているのか。」彼はこう言い放って、そして部下の武士に向かって叫びました、「おお信徒たちよ、それ、この犬どもをやっつけろ。」
そしてシャールカーンからまず第一番に、敵に躍りかかりました。するとシャールカーンの騎士百騎は、蹶然《けつぜん》と馬を駆って、アフランジの騎士百騎に襲いかかり、ここに両軍の軍勢は、巌より固い心をもって、互いに入り乱れました。鋼鉄は鋼鉄と相撃ち、剣は剣と相撃って、薙ぎたてる刃は火花を発して雨と降り、身体は身体と相からみ、馬は前肢を上げて突っ立っては、馬の上に|※[#「革+堂」、unicode97ba]《どう》と落ち、聞こえる音といえば、ただ武器の戞々《かつかつ》と鳴る響きと、金属が金属にぶつかる、騒然たる響きのみでございました。戦闘はこうして、夜と夜の闇が近づいてくるまで、続きました。その時ようやくにして、両軍は相別れて、人員をかぞえてみることができました。そしてシャールカーンは、部下の間に、重傷を負った者はただの一人も見いだしませんでした。そこで、彼は言いました、「おお戦友よ、皆も承知のように、おれは全生涯にわたって、剣と槍の波濤相撃つ、轟く戦闘の荒海を渡って来た。そして勇者ともずいぶん戦ったものだ。しかしいまだかつて、今日の敵手のように、手剛い相手、勇敢な武士、雄々しい強者《つわもの》に会ったことはない。」すると一同は、彼に答えました、「シャールカーン王子よ、お言葉まさしくそのとおりでございます。さりながら、これに加うるに、あのキリスト教徒の武士の間には、首領がおりまして、これこそは彼ら一同の間で、もっともあっぱれで、もっとも勇壮でございました。それに、われわれの誰かが、彼の手中に陥るごとに、彼はこれを殺すまいとして身をひるがえし、死をのがれさせたのでした。これはいかにも、われらの理解を越えるところです。」
この言葉に、シャールカーンはたいそう思い惑いました。それから言いました、「明日《あす》の日には、われら隊伍を整えて、彼らを攻めよう。なぜなら、われらは百騎と百騎だ。そしてわれらは、天の主《あるじ》に勝利をお願い申そう。」こう決心して、その夜は一同眠りました。
キリスト教徒の軍のほうはと申しますと、彼らは首領のまわりを取り巻いて、これに言いました、「今日のところは、まったく彼らを負かすことができませんでしたね。」すると首領は言いました、「だが明日は、われらは隊伍を整えて、彼らを次々に打ち負かしてやろう。」こう決心して、彼らも同じように眠りました。
そこで、黎明が輝き出るやいなや、――黎明がその光をもって世を照らし、太陽が安らかな人々の顔の上にも、戦う人々の顔の上にも、無差別に立ち昇り、ありとある美しき事物の飾りなるムハンマドに挨拶するやいなや、――王子シャールカーンはおのが馬にうち乗って、整列する部下の騎士二列の間に、駒を進めて、一同に申しました、「今や、敵軍は戦闘序列を整えている。いざ、やつらの上におどりかかろう、しかし一騎対一騎にいたせ。まず、こちらの一人が列をいでて、声高らかに、キリスト教武士の一人に、一騎打ちを求めよ。次に各自、順ぐりに、同様に争闘を挑め。」
すると、シャールカーンの騎士の一人が列を出て、敵のほうに馬を駆って、呼ばわりました、「おお汝ら一同よ、汝らのうちに誰ぞ闘士ありや。今日拙者との闘いに応ずる、豪胆なる戦士ありや。」この言葉を発したと思うと、キリスト教徒の中から、武器と鉄具と、絹と黄金とに、満身蔽われた一人の騎士が、出てまいりました。彼は灰色の馬にうち跨がり、頬に鬚なく、ばら色の顔をしておりました。そして戦場のまん中まで、馬を駆って、剣を振りかざして、回教徒の戦士に打ってかかり、たちまち、槍を振るって、相手を馬から突き落とし、降服せざるを得なくして、こうしてキリスト教徒の武士一同の凱歌と歓声のさなかに、みじめな捕虜《とりこ》にして、これを引っ立ててゆきました。するとすぐに、一人の別なキリスト教徒が列を出て、戦場のまん中に進み出ました。そこには、すでに別な回教徒、今捕虜になった騎士の弟が、待ちかまえていました。そして二人の戦士は戦闘にはいりましたが、それはほどなく、キリスト教徒の勝利によって終わったのでした。というのは、回教徒が身をかわしそこなった、その失策に乗じて、槍の柄頭《つかがしら》で一撃を加え、これを馬から落としてしまったからです。こうしてこれまた捕虜にして、引っ立ててしまいました。このようにして、互いに力較べを続けてゆきましたが、そのつど、闘いは回教徒がキリスト教徒に負かされ、捕虜になって終わるのでした。そのうち日が落ちて、回教徒側のうち、二十人が捕虜になってしまいました。
シャールカーンはこの結果を見た時、たいそう心を痛めました。そして自分の配下を集めて、言いました、「どうも今日わが方に起こったことは、実もって奇怪千万ではないか。さらば、明日こそは、余みずから単身敵前に駒を進め、かのキリスト教徒らの首領に、戦いを挑んでやろう。その上で、なにゆえに彼がわが領土を犯し、われわれに攻撃を加えるに至ったのか、その理由を問おう。もしも説明を拒むようなら、われわれは彼を殺してやろうが、もしもわれわれの申し出を受け容れたら、われわれは彼と和を結ぼう。」こう決心して、一同は朝まで眠りました。
朝になると、シャールカーンは、早くも馬に跨って、ただ一人、敵の軍列のほうに進み寄りました。すると、馬からおりた五十人の武士のまん中から、一人の騎士が進み出るのが見えました。それこそキリスト教徒側の首領その人にほかなりません。彼は青繻子の陣羽織《クラミデイス》を両肩にとめて羽織り、それは、ひじょうに目のつんだ鎖《くさり》帷子《かたびら》の上に、ひるがえっておりました。彼はインド風の刃金の、抜き身の剣を振りかざし、額に一ドラクム銀貨ほどの大いさの白い星のある、黒い馬にうち跨っていました。そしてこの騎士は、鬚のないばら色の頬をして、子供のようにみずみずしい顔を持ち、東方の地平線にさしのぼる齢《よわい》十四夜の月ほどに、美しゅうございました。
試合場の中央に来ると、その若い騎士は、世にも涼しい音調で、アラビア語でもって、シャールカーンに言葉をかけて、言いました、「おお、シャールカーンよ、おお、いくたの都邑と城砦と望楼に君臨する、オマル・アル・ネマーンの王子よ、いざ闘いの用意をせられよ。そは酷烈であろうからな。して、おんみはおんみの一党の首領にして、われはわが一党の首領なれば、今よりして、われらの間に申し合わせん、この一戦に勝つ者は、敗れし者の配下をおのが有《もの》となし、われひとともに許す主《あるじ》たるべし。」
けれどもすでにシャールカーンは、心に激怒を満たし、たけりたつ獅子のごとく、キリスト教徒めがけて、おのが駿馬を駆けさせました。そして両騎は、互いに雄壮にぶつかり合い、剣撃は火花を発し、さながら、二つの山が相衝突し、二つの海が突如遭遇して囂々《ごうごう》と入りまじるのを、見るような思いがいたしました。そして両人は、朝から暗い夜になるまで、戦うことをやめませんでした。いよいよ暗くなると、二人は分かれて、おのおの自陣の間に引き上げました。
するとシャールカーンは、配下の者に言いました、「生まれてから、かつてあのような闘士に出あったことはない。さりながら、彼について余の最も不審に思ったことは、彼はいつも、相手に隙が見えるたびごとに、そのとき決して相手を傷つけず、単に槍の柄頭《つかがしら》で、軽くその隙の個処に触れるだけなのだ。どうもこの事件すべて、とんと解《げ》しかねる。ともかくも、あのような勇猛さを授けられた武士が、わがほうに大勢あって欲しいものだ。」
翌日、ふたたび同じ闘いをはじめましたが、前日以上の結果はありませんでした。しかるに、三日目になると、次のようなことになったのでございました。決戦の最中、突然若いキリスト教の美丈夫は、馬に拍車を入れて駆り立て、そしていきなり馬を停《と》めて、手綱を不手際に引き絞ったものです。それで馬は後肢で立ち上がり、若者は鞍からずり落ちて、ほとんど自然に地に落ちてしまいました。そこでシャールカーンは、すぐに馬から飛びおり、剣を振りかざして、相手におどりかかり、これを刺し貫こうとしました。すると、そのキリスト教徒の美丈夫は叫びました、「勇者ともあろうものが、そのような振舞いをいたすものでしょうか。また、慇懃《いんぎん》は婦人に対して、このようなことを命ずるのでしょうか。」この言葉に、シャールカーンは驚いて、その若い騎士を注意深く見つめ、よくよく見てみると、そこにアブリザ女王の姿を認めました。なぜなら、これぞまさしく、僧院で、彼との間に起こったことが起こった、あのアブリザ女王にほかならなかったのでございます。
そこでシャールカーンは、すぐに自分の剣を遠くに投げやって、この若い乙女の前に平伏し、その手の間の地に接吻して、言いました、「だがいったい、おお女王よ、このいっさいはどうしたわけですか。」彼女は言いました、「わたくしは、自身であなたさまを戦場で試み、ご忍耐とご勇気のほどを、拝見いたしたかったのでございます。そして、あなたさまの配下と戦ったわたくしの武士、百名の者全部は、じつは若い乙女で、処女であり、わたくしの配下でございます。わたくしとても、もしあの馬が、後肢で立ち上がりさえしなかったならば、あなたさまもまた、別の目にお会いになったことでございましょう、おおシャールカーンさま。」そこでシャールカーンは微笑を浮かべて、答えました、「われわれを再会せしめたもうたアッラーに讃えあれ、おお、アブリザ女王よ、おお、万世の女帝よ。」すると女王はすぐに、その部下に出発の命令を下し、そしてシャールカーンに、その二十人の捕虜を一人ずつ返しました。捕虜たちは皆、女王の前に出て跪《ひざま》ずき、女王の手の間の地に接吻いたしました。シャールカーンは、その美しい乙女たちのほうを向いて、一同に申しました、「諸王とても、そなたたちのごとき勇者の予備軍を期待し得れば、光栄であろうぞ。」
それから一同野営を引き払って、かくて二百騎の軍勢は、共にバグダードの道を取りました。〔(27)そしてシャールカーンは、皆のものすべてを前衛にやり、アブリザと二人きりで、後衛にあり、供にはただ一人の奴隷をつれ、さながら新婚の夫婦のように、楽しく旅をしました。旅の途中、二人の夜の散歩は、すばらしいものでございました。〕そして六日たつと、一行は、遥かに「平安の都」の燦とした光塔《マナーラ》が輝くのを、望みました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十一夜になると[#「けれども第五十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
一行は、遥かに、「平安の都」の燦とした光塔《マナーラ》が輝くのを、望んだのでございました。するとシャールカーンは、アブリザ女王とその配下に、武装の甲胄を脱いで、本当のギリシアの婦人服に着がえてくれるように、頼みました。一同はそういたしました。それから王子は、部下数名をバグダードに先発させ、父王オマル・アル・ネマーンに、自分の帰還とアブリザ女王の来着を知らせ、盛大な行列を迎えによこすように計らいました。それから、その夕は、一同地におりて、夜のために天幕を立て、そして朝まで眠りました。
そこで、日が昇るとすぐに、王子シャールカーンとその騎士、女王アブリザとその女武者たちは、ふたたびそれぞれの駿馬に乗って、都への道を取りました。するとそこに、大|宰相《ワジール》ダンダーンが従者一千騎とともに、彼らを迎えに、都から出て来ていました。大臣《ワジール》は若い乙女とシャールカーンに近寄って、二人の手の間の地に接吻しました。それから一同うちそろって、都にはいったのでした。
まず最初にシャールカーンが、父上オマル・アル・ネマーン王にあいに、参殿しました。すると王は、王子のために立ち上がられて、王子を抱き、消息をお尋ねになりました。そこでシャールカーンは、カイサリアのハルドビオス王の王女、若いアブリザとのすべての顛末や、コンスタンティニア王のふた心や、アフリドニオス王の王女その人にほかならぬ、側室サフィーアのゆえの、王の怨恨などをお話し申し、またアブリザの歓待と親切な忠言と、彼女の最後の武勲と、そのりっぱさとうるわしさのあらゆる長所を、お話し申し上げました。
オマル・アル・ネマーン王は、この最後の言葉を聞かれると、その驚嘆すべき若い乙女を、ぜひとも見たくてたまらなくなられ、その全身は、委細を聞いて燃え上がられたのでした。王は心の中で、このように戦さに鍛えられ、まだ男を知らず、また部下の女武者たちからそれほど慕われている乙女の、がっしりとした、均整がとれてすらりとしたからだを、おのが臥床《ふしど》で感ずる歓楽を、お考えになったのでした。それにまた、軍衣の下に、鬚もなく薄髭もない、みずみずしい頬をした子供のような顔の、その部下の女武者たち自身も、王はまんざらではございませんでした。というのは、オマル・アル・ネマーン王は、若者よりも鍛錬された筋骨を持つ、したたかなご老人でしたから。そして王は決して男性の戦いを恐れず、ご自分のもっとも燃え上がった女たちの腕の間からでも、いつも勝ち誇って出られるのでございました。
そこでシャールカーンは、父王が若い女王に対してもくろむところがあるなどとは、思いもよらなかったので、彼は急いで女王を呼びに行って、父王に引き合わせました。王は王座の上に坐って、宦官を残して、全部の侍従と奴隷を退出させていました。若いアブリザは王のもとまで来て、御手の間の床《ゆか》に接吻し、まことに快い爽やかさと優美さの言葉を述べました。それでオマル・アル・ネマーン王も驚嘆の極に達して、これに、息子のシャールカーン王子に対していろいろと尽くしてくれたお礼を言い、賞め讃えて、坐るようにすすめなさいました。するとアブリザは坐って、顔を蔽っている小さな面衣《ヴエール》を取りました(28)。するとそれは目もくらむばかりで、まったくオマル・アル・ネマーン王は、もう少しで正気を失うほどでした。そこですぐに王は、宮殿の中に、女王とその部下の女のために、別室の中でもいちばん豪奢な一室を与えさせ、その身分にふさわしい供まわりその他を、お定めになりました。そしてそれがすむとはじめて、例の霊験溢れる三つの宝石について、お訊ねになったのでした。
するとアブリザ女王は、申し上げました、「おお当代の王よ、その三つの白い宝石は、このわたくし自身が持っておりまして、片ときも身を離しませぬ。ではお目にかけましょう。」そして一つの箱を取り寄せて、それを開き、中から一つの小函《こばこ》を取り出して、その蓋をあげ、その小函から、彫刻を施した金の宝石|筐《ばこ》を取り出して、それをあけました。すると燦然とした、純白の、円い三つの宝石が、燦然と、現われ出たのでございます。アブリザはそれらを取り上げて、ひとつひとつ自分の唇に運び、そして自分に賜わった歓待のお礼に、これをオマル・アル・ネマーン王に、贈物として献じました。そして退出しました。
するとオマル・アル・ネマーン王は、ご自分の心が姫と共に立ち去る思いがなさいました。けれども、ともかくも宝石がそこにあってきらめいていたので、王は王子シャールカーンを呼び寄せて、その中のひとつをお贈りになりました。するとシャールカーンは、他の二つの宝石をどうなさるのか伺いますと、王はおっしゃいました、「ひとつはそちの妹、幼きノーズハトゥに与え、今ひとつはそちの幼き弟、ダウールマカーンに取らするつもりである。」
全然いるとは知らない、この弟ダウールマカーンとかいうお言葉を聞くと、シャールカーンはたいそう不快な気がしたのでした。それは彼は、ノーズハトゥの誕生しか知らなかったからです。そこでオマル・アル・ネマーン王のほうに向いて、申しました、「おお父上、それでは私のほかにも、王子があるのでございますか。」王はおっしゃいました、「いかにもさようじゃ。当年六歳となり、ノーズハトゥと双生児《ふたご》であり、ともにコンスタンティニア王の娘、わが奴隷サフィーアより生まれし子である。」するとシャールカーンは、この知らせに気も顛倒して、口惜しさといまいましさに、自分の着物を揺すぶることを禁じ得なかったのですが、しかしそれにもかかわらず、じっと自分をおさえて、言いました、「願わくは両人とも、至高のアッラーの祝福のもとにありますように。」けれども父王は、彼の内心の動揺と悲憤を認めて、彼におっしゃいました、「おおわが子よ、なにとてそちはそのような様子をするのか。わが死後は、ただそちにのみ王位の継承は帰するを、そちは知らざるか。余は霊異満てる三つの宝石のうち、最も美しきを、まずそちに与えたではないか。」けれどもシャールカーンは、とうていお答えする気になれず、父上に逆らったりまたご心配をかけたりしてはと思って、そのまま頭《こうべ》を垂れて、王座の室を退出しました。
そして彼は、アブリザの私室のほうに向かいました。するとアブリザは、すぐに立って彼を迎え、自分のためにしてくれたことを優しくお礼を述べ、自分のかたわらに坐るように言いました。それから、彼の顔がくもって悲しげなのを見てとると、彼女はねんごろにその訳をただしました。そこでシャールカーンは、自分の心痛の動機《いわれ》を打ち明けて、言い足しました、「けれども、とりわけ私を案じさせることは、おおアブリザよ、それは父の心中に、あなたに対して、疑うべからざる意図を認めるにいたったことです。父の両眼が、あなたをわが有《もの》といたしたき欲望に光るのを、私は見ました。あなたご自身は、これをどうお思いになりますか。」彼女は答えました、「おおシャールカーンさま、どうぞお心を安らかにあそばせ。なぜなら、お父上は、わたくしが死ななければ、わたくしをわが有《もの》とはなされぬでございましょう。そもそもわたくしの処女の身を渇望するとは、かの三百六十人の妻妾とその他の女子では、もはや王にご不足というのでございましょうか。いえ、いえ、わたくしの身は、断じて王の歯牙にかかるようなものではござりませぬ。されば、おおシャールカーンさま、ご安心あそばして、憂いをおはらいなさいませ。」それから彼女は食物と飲み物を運ばせて、二人で食べかつ飲みましたが、シャールカーンはずっと心浮かず、その夜は、自室に寝に帰ったのでした。シャールカーンについては、かような次第でございました。
さて、オマル・アル・ネマーン王はどうかと申しますと、ひとたびシャールカーンが退出すると、王はすぐに、側室サフィーアをその部屋に訪ねて行きました。お手には、それぞれ金の鎖に吊るした、例の二つの宝石を携えておられました。王がはいって来られるのを見ると、サフィーアはすっくと立ち上がって、まず王からお坐りになるまで、坐りませんでした。すると、少女のノーズハトゥと幼いダウールマカーンの二人のお子が、王のもとに来ました。王は二人に接吻して、それぞれの首に、宝石をひとつずつ懸けてやりました。二人のお子はたいそう悦びまして、母親は王に繁栄と幸福を祈ったのでした。その時、王はこれに仰せられました、「おおサフィーアよ、そなたはコンスタンティニアのアフリドニオス王の王女の由であるが、かつてひと言もそれについて、余に言ったことがない。そもそもなにゆえに余に事情を隠し、かくして、余がそなたの身分にふさわしき敬意を授け、そなたをば尊重と栄誉に高むるを、妨げるのじゃ。」するとサフィーアは申し上げました、「おお寛大な王さま、まことに、妾《わらわ》はこの上、何を望むことができましょうか。あなたさまはすでに、妾に贈物とご寵愛の限りを授けられ、そして妾をば、月のように美しい二人の子の母親として下さいましたのに。」するとオマル・アル・ネマーン王は、この答えをまことに快く、嗜《たしな》みと気転と作法と巧みの溢るるものとお思いになり、たいそう御意に叶いました。そして王は、サフィーアに最初の御殿よりもはるかに美しい御殿を賜わり、その供まわりや出費などを、多分にお増しになりました。それから、いつものとおり、裁きをし、罷免し、任命するために、宮殿にお帰りになったのでした。
ところが王はずっと、若い女王アブリザについて、すっかり心と胸を悩ましつづけておられたのでございました。それで、毎夜姫のもとに行って、姫と語らってはそれとなくほのめかして、夜を過ごされるのでした。けれどもアブリザはそのつど、答えとして、ただ言うばかりでした、「おお当代の王さま、実際のところわたくしは男性に対しては、少しも欲望を覚えませぬ。」しかしこれはただいよいよ、王のお心をそそり立て、悩ますばかりで、遂にはそのため王はご病気になってしまいました。この時、王は大臣《ワジール》ダンダーンを呼んで、うるわしいアブリザに対して、胸に抱く恋慕の情と、いっこうに手ごたえがないことと、とうてい姫をわが有《もの》とすることが叶わぬ絶望とを、これにお打ち明けになりました。
大臣《ワジール》はこのお言葉を聞くと、王に申し上げました、「こうなさいませ。夜になったら、ぬかりなく、かの確実に利く眠り薬、麻酔剤《バンジ》の一片をお携えになって、アブリザに会いに行かれ、そして姫を相手に、少しく酒を飲みはじめて、その最後の杯の中に、その麻酔剤《バンジ》の一片をお落としなさいませ。さすれば、姫が自分の寝床に着くや着かずのうちに、これをいかようにもあそばすことがおできになりましょう。その時、お望みを満たし、想いをおしずめになるに適当と思し召さるることは、何なりと、姫に対してなさることが叶いましょう。私の考えはかようなものでございます。」すると王は答えました、「まことに汝の忠言は妙であり、これのみぞ実行し得る唯一の道である。」
そこで王は起きて、ご自分の箪笥のひとつのところに行き、それをあけ、中から生粋《きつすい》の麻酔剤《バンジ》の一片を取り出しました。それはただ臭いを嗅いだだけで、象をも、一年のはじめから翌年の終わりまで、眠らせてしまうというほどの、強いしろものでした。そして王は、この麻酔剤《バンジ》の一片を衣嚢《かくし》に入れて、夜になるのを待っていました。夜になると、王はさっそくアブリザ女王を訪れますと、女王は立ち上がって王を迎え、王がご自身坐ってお許しを与えるまで、坐りませんでした。王は彼女と話をはじめて、そして酒をのみたいとご所望になりました。するとすぐに彼女は、飲み物をはじめ、果物類、巴旦杏、胡桃《くるみ》、南京豆その他といった、あらゆる添え物を、金と水晶の大盃に盛って、持って来させました。そして二人は飲みはじめ、互いに勧め合っているうちに、とうとう、酔がアブリザの頭の中に根をおろしはじめました。これを見ると、王は衣嚢《かくし》の中から、例の麻酔剤《バンジ》の一片を取り出して、それをご自分の指の間に隠し、それから杯を満たして、それを半分飲んで、ひそかにそこに麻酔剤《バンジ》の一片を落とし込んだうえで、これを若い乙女に勧めて、言われました、「おお王者の乙女よ、この杯を受けて、わが望みの酒を飲んで下され。」そこでアブリザ女王は、少しも気付かずその杯を受けて、笑みを浮かべながら、飲み干しました。飲んだと思うと、すぐに世界は姫の眼の前に回りだし、自分の臥床《ふしど》にはってゆくのがようやくで、そのまま、ぐったりと、手を広げ、脚を開いて、仰向けに臥床に転がってしまいました。そこには二つの大きな燭火が、ひとつは枕もとに、今ひとつは寝床の足もとに、置かれていました。
〔(29)その時オマル・アル・ネマーン王は、アブリザに近づいて、まずそのゆったりした下穿きの絹の紐を解きはじめ、そして薄い軽い肌着だけしか、肌の上に残しませんでした。そして肌着の裾を掲げると、その下からは、股の間に、燭火の光にくまなく照らされて、何物か王の心も正気も奪ってしまうものが、現われ出ました。しかし王は努めてこらえて、ご自分もまた、衣服と下穿きを脱ぐ余裕を持ちました。そして王は、ご自分を駆る極度の熱情に、ぞんぶん身をまかせることがおできになりました。王は横たわっている若やかな身体の上に飛びかかって、その上にかぶさりました。そしてそのとき起こったいっさいの程合いを、そも誰が知りましょうか。かくして、若き女王アブリザの処女は、滅び消え失せたのでございます。〕
ひとたび事が終わると、オマル・アル・ネマーン王は起き上がって、隣りの部屋にいる、アブリザの気に入りの奴隷、忠実な「珊瑚」に会いに行って、これに申しました、「早くそちのご主人のもとに駆けつけよ、そちに用があるそうじゃ。」そこで「珊瑚」は、急いでご主人のところにはいってみると、ご主人は取り乱して仰向けに横たわり、肌着はめくれ、股は血だらけで、まっさおな顔をしているのでした。「珊瑚」は、これは至急手当てをしてさしあげねばならぬとさとって、すぐに手帛《ハンケチ》を取って、ご主人の尊ぶべき物にそっとあてがい、次に別の手帛《ハンケチ》を取って、腹と股とをていねいに拭い、それから、顔と手足を洗い、ばら水を振り注ぎ、唇と口を、オレンジの花の水でもって、洗ってあげました。
するとアブリザ女王は、嚏《くさめ》をしました。そして眼を開いて、寝床の上に起き上がりました。彼女は気に入りの「珊瑚」の姿を認めて、これに言いました、「おお珊瑚よ、いったいわたくしの身にどんなことが起こったの。教えておくれ。なんだか気が遠くなるような気がします。」そこで「珊瑚」も、自分が来たときご主人がどういう有様であったか、仰向けに横たわり、股の間を血が流れていたことを、話さないわけにゆきませんでした。そこでアブリザは、オマル・アル・ネマーン王が、自分の上でおのが欲望を満足させ、自分のうちに取り返しのつかぬことを仕遂げたと、わかりました。そしてその苦しみと悲しみとはひじょうなもので、彼女は、いっさいの人に自分の部屋にはいってくることを断わるように、「珊瑚」に言いつけ、オマル・アル・ネマーン王が消息を尋ねに来たら、「ご主人はご病気で、どなたともお会いすることができません」と言ってくれるように、言い含めたほどでした。
そこで、オマル・アル・ネマーン王は事情を知ると、毎日アブリザのもとに、あらゆる種類のご馳走と飲み物を盛った大皿や、果物とジャム類を満たした杯や、またクリームと甘いものを満たした瀬戸物の壺などを、いっぱい携えた奴隷たちを、よこしはじめたのでした。けれども、彼女はいつまでも自分の部屋に閉じこもりつづけていましたが、そのうちとうとうある日のこと、自分のお腹《なか》が大きくなって、胴が厚くなり、確かに懐妊したのに、気付いたのでございました。するとその悲しみはますますはなはだしくなって、世界はその顔の前に狭《せば》まりました。もう「珊瑚」の慰めの言葉も、聞こうとしませんで、これに言いました、「おお珊瑚よ、わたしがこんなことになったのも、みんなただこのわたしだけの所為《せい》、父と母と自分の国を捨てて、自分自身に対して悪く振舞ったのです。今はもう、わたしは自分自身に愛想がつき、生きているのがいやになりました。わたしの勇気は消え失せ、わたしの力は立ち去ってしまった。自分の処女といっしょに、わたしはいっさいの強い心を失って、わたしの身重《みおも》は、もう童子にぶつかられても、よく耐えられなくしてしまいました。今となっては、わたしは自分の駿馬の手綱をとることさえ叶うまい、このアブリザ、若きアブリザ、昔は焔と生気に充ち満ちていたこのわたしが。これからどうしようぞ。もしわたしがこの宮殿で子供を産み落としたら、わたしは、ここに住んでいるあらゆる回教徒の笑い草となるだろう。彼らはわたしが、どのようにして処女を失ったかを知ることだろう。またもし父上のところに戻るにせよ、そもそもどんな顔をして、敢えて父上に見《まみ》えましょうぞ。おお、詩人のこの言葉は、いかばかり真実だろう。
[#この行2字下げ] 友よ、よく知れぞかし、不幸にあっては、汝はもはや両親も、祖国も、歓待の家も、見出《みいで》ざるべきを。」
そこで「珊瑚」は言いました、「おおご主人さま、このわたくしは、あなたさまの奴隷でございます。わたくしは何事なりとお言いつけのままに、仰せに従います。お言いつけ下さいませ。」彼女は答えました、「では、おお珊瑚よ、よく聞いておくれ。ともかくも、わたしは誰にも感づかれずに、この宮殿を出て、なにはともあれ、父上と母上のみもとに帰ることが、絶対に必要なのです。なぜなら、おお珊瑚よ、おわかりだろうが、もしも死屍《しかばね》が物を感ずるようになるとすれば、それは骨肉の力がなくては叶いません。そしてわたしはもはや、生命《いのち》のないからだにすぎません。そのあとのことは、どうかアッラーが思し召しを成就なさいますように。」すると「珊瑚」は答えました、「おお女王さま、あなたさまのなさろうとお望みになることは、最上のことでございます。」
それから彼女はすぐさま、ひそかに出発の準備を始めだしたのでした。けれども、二人はつごうのよい機会を待たなければなりませんでしたが、それは間もなく到来しました。ちょうど王は狩猟に出て、シャールカーンは、城砦を検分しなければならないことになって、王国の国境に出発したのでした。ところが、二人がこのように手間どっているうちに、分娩の時期が近づいて来てしまい、そこでアブリザは「珊瑚」に言いました、「わたしたちは、今夜のうちに出発しなければならない。けれども、わたしの額に記《しる》して、この三、四日のうちに、わたしのお産が起こらなければならぬと書きつけた、この天命に逆らって、どうしたらよいだろうか。だがやはり、出発しよう。この宮殿で子供を産むくらいならば、どんなことでもまだましだから。そこでおまえは、わたしたちの旅について行ってくれるような男を一人、見つけてくれなければならない。わたしはもう自分では、どんなに軽い武器でも、持つだけの力がないから。」すると「珊瑚」は答えました、「アッラーにかけて、おおご主人さま、いっしょについて行って、護ってくれることができるような男といえば、ただ一人しか心当りがございません。それは、オマル・アル・ネマーン王の黒人の一人で、大男の黒人「偏屈屋(30)」でございます。というのは、わたくしはその男に、幾度も恩を施し、幾度も心付けを与えたのでありました。それに、わたくしに申しましたところでは、昔は強盗で大道の追剥ぎをしていたそうでございます。そしてわたしどもの御殿の門番は、その男でございますから、これから会いにまいって、黄金を与え、そして国もとに着いたら、われわれは彼に、カイサリアでいちばんきれいなギリシア娘と、りっぱな結婚をさせてやると申しましょう。」するとアブリザは言いました、「おお珊瑚よ、そなたからは何事も言わないで、ここに連れて来ておくれ。わたしが自分で話をするから。」
そこで「珊瑚」は外に出て、その黒人に会いに行って、申しました、「おお偏屈屋さん、いよいよ、おまえさんの運のひらける日がやって来ました。それには、ただわたくしのご主人さまがおまえさんにお言いつけになることを、しさえすればよいのです。さあ、来て下さい。」そして彼女はその手をとって、これをアブリザ女王のもとに連れて行きました。
黒人「偏屈屋」は若い婦人を見ると、進み出て、その両手に接吻しました。けれども彼女は、自分の心がこの男を嫌うのを感じ、その様子はたいそう気に入りませんでした。しかしながら、彼女は心の中で考えました、「必要とあらばやむを得ないこともあるものだ。」そして覚えるあらゆる嫌悪の情にもかかわらず、これに言いました、「おお偏屈屋よ、おまえはわれわれの力となって、時の逆境とわれわれの不仕合せの際に、われわれを助けてくれることができると、自分で思いますか。もしわたくしが自分の秘密を打ち明けても、決して言いふらさないだけの慎しみが持てますか。」すると黒人「偏屈屋」は、アブリザをひと目見て、恋情が自分の心を燃え立たすのを感じて、言いました、「おおご主人さま、私はご命令になることなら、なんでもいたします。」そこでアブリザは言いました、「それでは、今すぐに、われわれの荷物を運ぶ二頭のらばと、われわれの二頭の馬とを用意して、わたくしと、この奴隷の珊瑚をば、ここから出して下さい。そして、われわれが三人とも自分の国に着いたらすぐに、おまえをギリシアの女の中でいちばん美しい女、おまえの好きな女と、結婚させてあげることを、きっと約束します。そしておまえに、黄金と財宝の限りを与えましょう。そのうえ、もしおまえがそれから自分の国に帰りたかったら、授け物と恩恵の限りを尽くして、おまえの国に戻してあげよう。」
この言葉に、黒人「偏屈屋」は、たいそうな朗らかさで朗らかになって、叫びました、「おおご主人さま、私はあなた方お二人に、この両の眼をもってお仕えします。いかにも、ごいっしょに出発しましょう。ではこれからすぐに、馬やその他必要なものいっさいを、調えてさし上げます。」それから〔(31)彼は心の中で考えながら、出て行きました、「なんという獲物で、なんという好機だ。かならずおれはあの二つの月の肉体を楽しんで、堪能してやろう。もしどちらかがおれをはねつけるようなことをしやがったら、そいつを殺してやろう。そして二人の財宝をば、全部奪ってやろう。」こう堅く思い定めて、〕彼は必要ないっさいの準備をして、そしてアブリザ女王のからだ工合にもかかわらず、三人とも見咎められずに、出ることができました。
ところが、陣痛に悩まされていたアブリザ女王は、第四日目になるや、もう途中で止まらざるを得ないことになりました。今はこれ以上我慢ができなくなって、彼女は黒人に言いました、「おお偏屈屋よ、手を貸してわたしを馬からおろしておくれ。とても苦しくて我慢がならない。もうだめだ。」そして「珊瑚」に言いました、「おお珊瑚よ、おまえも馬からおりて、わたしのからだの下にはいって、産み落とすのを助《す》けておくれ。」
ところが、一度三人が馬からおりると、黒人「偏屈屋」は、女王の好餌を見て、極度に催してしまい、その道具は恐ろしくいきり立って、着物を持ち上げたのでした。そこでもうおさえることができなくなって、道具を外に引き出して、若い婦人に近づきますと、彼女は憤りと恐ろしさに、今にも気絶しそうになりました。黒人は言いました、「おおご主人さま、後生ですから、おそばに寄らせて下さい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、もともとつつましい女であったので、物語のつづきを翌日にのばした。
[#地付き]けれども第五十二夜になると[#「けれども第五十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、恐ろしい黒人「偏屈屋」は、女王に言ったのでございます、「おおご主人さま、後生ですから、わが有《もの》となって下され。」するとアブリザ女王は言いました、「おお黒人めが、黒人の子、奴隷の子が、汝はよくも憚りなく、そのように、わが面前におのれを曝すことができるものかな。今や身を防ぐ術《すべ》もなく、黒人奴隷のうちの最下の者の掌中にあるとは、なんというわが恥辱だろう。不届き者め、アッラーがお力をお貸し下さって、わがある窮境よりわが身を救い、わが身を無力になしているわが女身の部分を癒やしたまいさえすれば、この手をもって、汝の無礼を罰するものを。汝ごときに手を触れられんよりは、むしろわれとわが身を殺して、わが苦痛とわが生の不幸を、終わらせるほうが望ましいぞよ。」そして彼女は次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
〔(32)おお、わが後を追うをやめざる汝よ、いつまでか追い続くるぞ。われはすでに、わが運命と天運により惹き起こされし、試練の苦しみをば、余すところなく味わいたり。さあれ、せめて主《しゆ》は、わが身を兇暴の野獣どもより救いたまわんことを念ず。
何とても執念《しゆうね》く求む。われは卑しき放埓にいささかの欲情も、何らの嗜好をも持つことなしと、汝に言わざりしや……。浅ましき飢えし者の貪婪《どんらん》なる眼《まなこ》もて、われを見つむるをやめよ。
しかして、刃金《はがね》をばヤマンの地にて健淬《けんさい》せし剣《つるぎ》の刃《やいば》もて、まずわが身を斬り刻みし上にあらざれば、断じてわが身に手を触れ得ると、思うなかれ。〕
われこそは最も純血の女の一人、最も高貴にして卓越せる血統の一人なるを、忘るるなかれ。いかんぞや、奴隷の身にて、敢えてわが方に眼を挙ぐるぞ、高雅にして洗練せられし種族に属すること遠き、汝風情が……。
[#ここで字下げ終わり]
黒人「偏屈屋」はこの詩句を聞くと、ひじょうな憤怒に陥って、その面《おもて》は憎悪に充血し、その顔は無念さに痙攣し、鼻腔はふくらみ、厚い唇はわななき、全身は震えました。〔(33)そしして彼もまた詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお女よ、汝への恋の犠牲者、汝が勝ち誇る眼差《まなざし》に殺されしわれをば、かくは斥くることなかれ。わが心は汝を望みて、すでに千々に砕けたり。わが身体は、残りてありし忍耐と共に、ことごとく衰え尽くしたり。
汝《な》が声は、ただ聞くのみにて、われを魅し、われを捉う。しかしてわが身は欲望に殺されてある間《ま》に、われはわが正気の飛び去りしを覚ゆ。
されどわれは告ぐ、おおつれなき女よ、汝たとえ汝が護衛者と守護者とをもて地を蔽うとも、われはかならずわが欲望《のぞみ》の目的を達し、われに禁ぜられたる水、わが渇を医《いや》すべき自然の水をば、飲むを得んぞ。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を聞くと、アブリザは怒りに涙を流して、叫びました、「破廉恥の奴隷めが、おお姦淫の黒人めが、汝はどのような女でも同じと心得ているのか。この上とも敢えて妾《わらわ》に向かって、そのようなことをしゃべりつづけるのか。」〕すると黒人「偏屈屋」は、アブリザが何としても彼をしりぞけるのを見て、もはや憤怒をこらえることができなくなり、手に剣を持って、いきなり彼女におどりかかりました。そして彼女の髪の毛をつかんで、兇器をからだに突きとおしました。かくてアブリザ女王は、この黒人の手にかかって、このようにして亡くなったのでございました。
すると黒人「偏屈屋」は、急いでアブリザの財宝と所有物《もちもの》を積んだらばを横領して、それらを自分の前に駆り立てながら、全速力で山中に逃げこんでしまいました。
アブリザ女王はと申しますと、彼女は息の絶えぎわに、忠実な「珊瑚」の手の中に、一人の男の子を産み落としたのでした。「珊瑚」は悲痛のあまり、頭を埃にまみらせ、着物をひき裂き、血のほとばしり出るほど両頬を打って、叫んだのでした、「おおご不運なご主人さま、お強い武士《もののふ》、勇敢なあなたさまが、浅ましい黒人奴隷の手にかかって、このようにして世を終わりなさるとは、そもそもなんとしたことでございましょう。」
ところが、「珊瑚」が慟哭をやめたと思う間もなく、万丈の黄塵が空にみなぎり、どんどん近づいて来るのが見えたのでした。そして突然、黄塵が消えると、その下から、いずれもカイサリアの軍装をした、兵士と騎士が現われ出ました。ところで、それは事実、アブリザの父、カイサリアのハルドビオス王の軍隊だったのでございます。というのは、噂がハルドビオス王のもとまで達して、アブリザが僧院を脱出したということを伝えたのです。そこで王は、すぐさま軍勢を集めて、みずからそれを率い、バグダードをさして進軍して来た次第で、こうして、王は娘アブリザが今しがた息を引き取った場所に、到着したのでございます。
自分の娘の血にまみれたからだを見ると、王は馬から飛び下りて、横たわる屍体を抱きながら、気絶してしまいました。そこで「珊瑚」はまたもやいっそう激しく泣きはじめ、慟哭しはじめました。それから、やがて王がわれに返ると、彼女はいっさいの顛末をお話しして、申し上げました、「王女さまを殺《あや》めたのは、王女さまに対してしたことをした、あの淫心満ちた王、オマル・アル・ネマーン王の黒人のなかの一人の黒人でございます。」この言葉に、ハルドビオス王は全世界がまっくらになるのを見て、恐ろしい復讐を心に決しました。けれども急いで轎《かご》を取り寄せて、それに王女の屍体を乗せ、そして埋葬の礼と葬儀のために、いちおうカイサリアに戻らないわけにゆきませんでした。
ハルドビオス王はカイサリアに着くと、すぐに宮殿にはいり、そして乳母の災厄《わざわい》の母を呼んで、これに言いました、「乳母よ、回教徒どもがわが娘をいかにせしかを見よ。王は娘の処女を奪い、奴隷は娘をはずかしめんと欲して、これを殺したのじゃ。そして娘よりは子供が生まれ、今は珊瑚がその世話をしておる。されば、余は救世主《メシア》にかけて誓言する。余はかならずわが娘の仇をうち、わが身に浴びせられし恥辱をばそそぐであろうぞ。しからずんば、むしろわれとわが手をもって、自害するにしかぬ。」そして王は熱涙を流して、泣きはじめました。すると災厄《わざわい》の母は言いました、「復讐につきましては、おお王さまよ、ご心配あそばすな。この私がただひとりで、その回教徒に罪をつぐのわせてやりますわ。というのは、私はその王も王の子供たちも、皆殺してやり、しかも、永い間、さきざきの世に、地上のあらゆる国々で、語りつぐ話の種となるようなふうに、殺してやりますからな。だがそれには、私の申し上げることをよっくお聴きになって、たがうことなく、実行して下さらねばなりませぬ。それはな、まず御殿に、カイサリアでいちばん美しい若い娘、この上なく美しい乳房を持った、無垢の処女の身の娘五人を、連れて来なければなりませぬ。また同時に、この王国のほとりの回教徒の国々から、いちばん偉い学者たちと、いちばんすぐれた文人たちを、連れて来なければなりませぬ。そしてこの学者たちに、その乙女たちをば、彼らの流儀で教育せよとお言いつけになるのでござります。そうすれば、彼らは娘たちに、回教徒の掟や、アラビア人の歴史や、歴代|教王《カリフ》の本紀や、回教徒諸王のあらゆる事蹟を教えましょう。そのうえ、身を振舞う術《すべ》、礼儀作法、王侯の前での物の言い方、王侯に酒を勧めてお相手をする仕方、もっとも美しい詩歌や、それを誦するもっとも優美なやり方、歌謡の術《すべ》とともに詩文の作り方、こうしたすべてをも教えることでしょう。そしてこの教育は、たとい十年かかるおそれがあろうとも、ぜひ完全無欠というところまでやらねばなりませぬ。なぜなら、私どもはじっと辛抱して、砂漠のアラビア人たちのいう、『復讐はたとえ四十年を閲《けみ》すとも、なおかつ遂げうるもの』ということを知らねばなりませぬ。なぜとならば、私のはかる復讐は、この乙女たちの完全な教育をまたねば、しとげられぬものなのです。ご理解がゆくように申し上ぐれば、その回教徒の王というのは、自分の女奴隷たちとの交合《まじわり》に目がなく、すでに三百六十人もたくわえているところに、その上、私たちの今は亡きアブリザ女王ののこされた百人のお伴《とも》や、四方八方から、貢物《みつぎもの》として届けられる献上の女たちも、たくさんおるのでございます。されば私は、この王を好きな道のほうから、亡きものにしてやりましょうほどに。」
この言葉に、ハルドビオス王はひじょうな悦びで悦んで、災厄《わざわい》の母の頭に接吻し、すぐさま回教徒の学者たちと、円い乳房を持った、無垢の処女の身の、若い乙女たちを探しに、人を遣わしたのでございます。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十三夜になると[#「けれども第五十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ハルドビオス王はすぐさま、回教徒の学者たちと、円い乳房を持った、無垢の処女の身の、若い乙女たちを探しに、人を遣わしたのでございます。そして王は、学者たちに懇切と贈物の限りをつくし、たいそう丁重に彼らを迎えました。それから、一人ずつ選びに選んだ、美しい乙女たちを彼らにゆだね、この乙女たちに、至れりつくせりの回教徒教育を授けてくれるように頼みました。そこでこの学識豊かな学者たちは、王命に従って、命じられたとおり、すこしもたがえずに行なったのでありました。ハルドビオス王のほうは、このような次第でございました。
ところで、オマル・アル・ネマーンのほうはどうかと申しますと、王は狩りから戻って来て、宮殿にはいり、そしてアブリザが逃亡して、姿を消してしまったことをお知りになると、ひじょうに心を痛めて、叫ばれました、「そもそもいかにして、女の身で、何ぴとにも知られずに、わが宮殿より抜け出すことなどかなうのであろうぞ。もしもわが国土が、わが宮殿のごとく警護されているとすれば、まことに、われら一同の取り返しのつかぬ破滅というものだ。ともかく今後狩りに行くおりには、固くわが城門を警護させるとしよう。」そして王がこのように申しておられると、そこにちょうど、シャールカーンもまた遠征から帰って来て、父王の前に伺候したのでした。そこで父王は、これにアブリザの出奔を知らせました。そのため、その日からというもの、シャールカーンはもはや、父王の宮殿を見るに忍びなくなったのでした。それは少女ノーズハトゥと少年ダウールマカーンとが、父王のもっとも気を配る心づかいの的《まと》であっただけに、ひとしおのことでした。そして王子は日ましに傷心して、遂には王がお訊ねになったほどでした、「おおわが子よ、そちは顔色が黄色くなり、からだが痩せて来たようだが、そもそもいかがいたしたのか。」するとシャールカーンは申しました、「おお父上、今やさまざまの理由からして、この宮殿に滞在することは、私にとって耐えられないことと相成ったのでございます。されば何とぞご慈愛をもって、私をば城塞のうちのどこかの城塞の、太守に任命していただきたく、私はその地に行って、わが余生をば隠棲したいと存じます。」それから王子は、次の箴言の大家の詩句を誦しました。
[#この行2字下げ] わが身には、遠ざかるこそ、止まるよりも楽しけれ。失いし優しき女《ひと》を偲ばすることどもを、わが眼はもはや見ざるべし、わが耳はもはや聞かざるべし。
するとオマル・アル・ネマーン王は、王子シャールカーンの悲歎の理由をさとって、王子を慰めはじめて、申されました、「おおわが子よ、そちの希望の満たされんことを。して、わが全領土のうちもっとも重要の地点といえば、すなわちダマスの都であるからして、ここに余は、今よりして、そちをば、ダマスの太守に任命するとしよう。」そしてさっそく王は、王宮の書記と王国のあらゆる高官を召し出して、一同の面前で、シャールカーンをダマス地方の太守に任命いたしました。その任命の勅令は、即刻|認《したた》められ、公布され、そしてすぐに出発に必要な準備いっさいが整えられました。シャールカーンは、父上と母上と大臣《ワジール》ダンダーンに別れを告げ、大臣《ワジール》にくれぐれも後事を託しました。それから、貴族《アミール》や大臣《ワジール》や高官たちの挨拶を受けてのち、衛兵を率いて、ダマスに到着するまで、旅することをやめませんでした。すると住民たちは、横笛と鐃鉢《シンバル》、喇叭《トランペツト》とクラリネットを鳴らしてこれを迎え、王子のために町を飾り、炬火《たいまつ》をともし、整然と二列に並び、ある者は右を行き、他のものは左を行って少しも乱れず、全住民が一大行列をなして、王子をお迎えにまいりました。シャールカーンのほうはこのような次第でございました。
さてオマル・アル・ネマーン王はどうかと申しますと、シャールカーンがダマスを治めに出発して、しばらくたってから、お子さまのノーズハトゥとダウールマカーンの養育を託されていた学者たちが、御前に伺候しました。そして学者たちは、言上しました、「おおわがご主君さま、私どもは、今や王子さま方が完全に研鑽をご終了になり、知恵と礼節の教えにせよ、文芸にせよ、身の処し方にせよ、十分にご会得《えとく》あそばされた旨を、ここにご報告申すべくまかり越しました。」この知らせに、オマル・アル・ネマーン王は、安堵と悦びに胸晴れて、学者たちにみごとな贈物を賜わりました。そして事実、ことに王子ダウールマカーンは、今や十四歳になって、ますます優雅で美しくなり、頑丈な凛々しい騎士になってゆくと同時に、一方では、宗教上の勤行に熱心で、ひじょうに敬神の念が深く、貧しい人たちを恵み、世上のなによりも、学者詩人との交友や、法律と聖典《コーラン》に通暁した人々との交際を、好んだのでした。それでバグダードの住民は、男も女もことごとく、王子を愛して、彼の上にアッラーの祝福を呼ぶのでした。
ところで、ある日のこと、その日は、イラク地方から来た巡礼たちが、メッカにおもむいて例年の巡礼《ハジ》(34)の義務を果たし、それからメディナ(35)に預言者(その上にアッラーの祈りと平安あれかし)の墓参に詣《もう》でようとて、バグダードを通りかかった日でございました。
されば、そのとき、ダウールマカーンは、その神聖な行列を見ると、敬神の心が急にかき立てられて、そこで父王のもとに走って行って、申しました、「おお父上さま、私はお許しを得て、聖なる巡礼《ハジ》をいたしたいと存じて、ここにまいりました。」けれどもオマル・アル・ネマーン王は、どこまでもこれを思いとどまらせようとなすって、お許しを与えず、おっしゃいました、「わが子よ、そちはまだあまりに年が若い。来年になって、アッラーの思し召しあらば、余も親しく巡礼《ハジ》におもむくであろうから、そのおりにはかならず、そちを連れて行ってあげよう。」
ところが、ダウールマカーンは、来年では遠すぎると思って、そのまま双生児《ふたご》の姉ノーズハトゥのところに駆けつけると、姉はちょうど礼拝をしようとしているところでした。そこで、礼拝のすむのを待って、さてこれに言いました、「おおノーズハトゥさま、私は巡礼《ハジ》に出かけて、預言者(その上に祈りと平安あれかし)のお墓に詣でたくてたまらなくなり、父上にご許可を仰いだところが、お許しが出ませんでした。そこで私の今のもくろみは、いくらかの金子を持って、とくに父上にお知らせしないようにして、秘かに聖地詣でに出かけようと思うのです。」するとノーズハトゥもまた感激して、叫びました、「おんみの上なるアッラーにかけて、ぜひわたくしもいっしょに連れて行って、ここにひとり残して、預言者(その上に祈りと平安あれかし)のお墓に詣でさせないようなことを、しないで下さいね、おお、弟よ。」彼は言いました、「よろしゅうございます。では夜になったら、私に会いにおいでなさい。特に気をつけて、誰にであろうとも、このことは口外しないようになさいませ。」
そこで夜中になると、ノーズハトゥは起きて、ちょうど身丈《みたけ》も年齢《とし》も同じの、弟からもらった男の着物を着て、身をやつし、いくらかの金子を携えて、外に出て、宮殿の門のほうにまっすぐに向かいました。そこには弟のダウールマカーンが、二頭の駱駝を連れて待っておりました。そこでダウールマカーンは姉を助けて、うずくまっている駱駝の一頭に乗せ、自分も別の駱駝に乗りました。駱駝はふたたび起き上がって歩きはじめ、こうして二人は闇に乗じて、巡礼者たちのただなかに行き着き、二人が来たことを誰にも気付かれずに、一行に入りまじったのでした。そしてイラクの一隊はそろってメッカの道をとり、バグダードを出ました。アッラーは一同に安泰を書き記《しる》されました。そこで彼らは皆安らかに、ほどなく「聖なるメッカ」の地に、到り着きました。
その地で、ダウールマカーンとノーズハトゥは、アラファート山上に到着し、儀式どおりに、神聖な勤めを果たして、悦びの極に達したのでした。カアーバ(36)をめぐったときの二人の幸福は、いかばかりでございましたろう。けれども二人はメッカだけでは満足しようとせず、さらに信心を押し進めて、メディナに預言者(その上に祈りと平安あれかし)のお墓を拝みに行くまでになりました。
お墓詣りがすむと、巡礼たちはそれぞれ自分の国に戻ろうといたしましたが、そのときダウールマカーンはノーズハトゥに言いました、「おお姉上、私はこれからさらに、アッラーの友イブラーヒーム(37)の聖なる都、ユダヤ人とキリスト教徒がエルサレムと名付けている、あの都をぜひ訪れたいと思います。」するとノーズハトゥは言いました、「わたくしもまたそうです。」そこでこれについて相談が一決して、二人はある小さな隊商《カラヴアン》の出発に便乗して、イブラーヒームの聖なる都に向かって、発足することにいたしました。
たいそう難儀な旅行の末に、二人はとうとうエルサレムに行き着きました。けれどもその途中で、ダウールマカーンとノーズハトゥは、熱病の発作を起こし、若いノーズハトゥのほうは、四、五日して治ってしまいましたが、ダウールマカーンは依然として病みつづけ、病状はますます重《おも》ってゆくばかりでした。そこでエルサレムで、二人は隊商宿《カーン》の一つに、小さな一室を借りて、ダウールマカーンは病いに悩まされながら、片隅に横たわったのですが、その病いはたいそうひどく募って、ダウールマカーンは遂にすっかり意識を失い、人事不省の時期に陥ってしまいました。親切なノーズハトゥは、ただのひとときも弟のそばを離れず、こうしてただ一人異国にいて、誰一人、慰めてくれ力になってくれる人もいなく、たいそう憂えたいそう悲しんでいたのでした。
ところで病いはいっこうに去らず、もうずいぶん永い前からつづいているので、ノーズハトゥは遂にその最後の所持金を使い果たし、今は手中にただの一ドラクムもなくなってしまいました。そこで彼女は、隊商宿《カーン》の旅人たちの用を足している小僧に、自分の着物を一枚渡して、それを売り払ってそこばくの金子《かね》にしてもらおうと、その小僧を糶売《せりうり》人の市場《スーク》にやりました。すると隊商宿《カーン》の小僧は、そのとおりしてくれました。ノーズハトゥはこのようにして、毎日自分の所持品のなにかを売り払って、弟の手当てをしつづけているうちに、とうとう持っているもの全部が、すっかりなくなってしまいました。もはや全財産といっては、自分の着ている古い着物と、自分と弟二人の寝床になっている、ぼろぼろの古い茣蓙《ござ》と、それだけしか残っていません。そのとき、自分がこんな窮迫の有様でいるのを見ると、かわいそうなノーズハトゥは、忍び泣きに泣きはじめたのでございました。
ところがちょうどその夜、ダウールマカーンは、アッラーの御心によって、正気づき、すこし気分がよくなって、姉のほうへ向いて、言ったのでした、「おおノーズハトゥさま、いよいよ力が返って来るようです。羊の炙肉《あぶりにく》の小さな片《きれ》を一串、ぜひ食べてみたい。」そこでノーズハトゥは言いました、「アッラーにかけて、おお弟よ、その肉を買うには、どうしたらよいでしょうか。まさか慈み深い人々に、物乞いに行く気にはなれませんしね。けれども安心なさい。明日になったらすぐ、わたくしはどこかお金持ちのえらい人の家に行って、その人のところで、召使に雇われましょう。そうすれば、入用なお金を手に入れることができましょう。そうしたところで、わたくしにつらいことは、ただひとつよりございません。それは、昼の間、あなたをただひとりにしておかなければならないことです。けれども他にどうしましょうか。おお弟よ、至高のアッラーのほかには力も権勢もありませぬ。そしてひとりアッラーばかりが、わたくしたちを、故郷に帰して下さることがおできになるのです。」そしてノーズハトゥはこう言って、わっと泣き崩れずにはいられませんでした。
そこで翌日になると、早朝から、ノーズハトゥは起き出して、隊商宿《カーン》で隣りあわせた、親切な駱駝曳きが二人にくれた、駱駝の毛の外套の古い切片《きれはし》で、頭を蔽い、そして弟の頭に接吻し、泣きながら弟の首のまわりに両の腕を投げかけ、そしてどこに向かって行くのかよくわからぬままに、涙に暮れて隊商宿《カーン》を立ち出でました。
その日一日、ダウールマカーンは姉の帰るのを待っていました。けれども、夜になっても、ノーズハトゥは戻ってまいりません。そして夜中、眼を閉じずに待っていましたが、ノーズハトゥは帰りません。それからあくる日も、あくる夜も、やはり同じでした。そうなると、ダウールマカーンは、姉の身が心配でたまらなくなり、心臓はわななきはじめました。その上、二日というものは、なんの食物もとらずにいたのでした。そこで彼は、やっとのことで、自分の小さな部屋の戸口まではい出して、そこから隊商宿《カーン》の小僧を呼びはじめますと、そのうちようやく聞きつけました。そこでダウールマカーンはこれに、市場《スーク》まで行くのに手を貸してくれるように頼みました。すると小僧は、彼を肩に背負って、市場《スーク》に運び、そしてとあるこわれた店先の、しまっている戸口の前に彼をおろして、行ってしまいました。
すると全部の通行人と市場《スーク》の商人たちは、彼のまわりに群がり寄って来て、その痩せ衰えた有様を見ては、彼の身の上をいたみ、不憫がりはじめました。ダウールマカーンは、口をきく力がないので、ひもじいという合図をしました。すると人々は、市場《スーク》の商人たちの間に、銅の皿をまわして、急いで彼のために醵金をして、すぐさま食べるものを買ってくれました。そして醵金は三十ドラクムになったので、一同は、この病人にとって、どうしてやるのがいちばんよいか協議しました。すると市場《スーク》の年とった一人の親切者が、言いました、「このかわいそうな若者のために、駱駝を一頭雇って、これをダマスに運び、教王《カリフ》のお仁慈《めぐみ》によって病人のために建てられた、あの病院に入れてやるのが、上策じゃ。何しろここにいては、手当てを受けられず、往来で死んでしまうにちがいないからな。」すると一同も、これに賛成しましたが、おりしももう夜になったので、翌日にのばすことにして、ダウールマカーンのそばに、手の届くところに、水甕《みずがめ》と食物を置いてやり、そして市場《スーク》の入口の閉鎖時間になると、この病気の若者の身の上をたいそう不憫がりながら、皆は自宅に引き上げました。そしてダウールマカーンは、一晩じゅう、眼を閉ざすこともできずに過ごしました。それほど、姉の身の上が気がかりだったのです。またほとんど飲み食いもできませんでした。それほど、疲れ衰えていたのでした。
そこで、翌日になると、エルサレムの市場《スーク》の親切な人たちは、一頭の駱駝を雇って、駱駝曳きに言いました、「おお駱駝曳きよ、この病人をおまえの駱駝に乗せて、ダマスに連れて行って、病院に入れてあげておくれ。ことによると治るかも知れない。」すると、駱駝曳きは答えました、「私の頭の上に、おお殿方よ。」けれども心の中では、この腹黒い男は言ったのでした、「こんな今にも死にかけている男を、どうしてエルサレムからダマスくんだりまで、運べるものか。」それから、彼は自分の駱駝をこごませて、そこに病人を乗せ、市場《スーク》の人々の祝福に包まれて、駱駝の頭絡《おもがい》を引きながら、駱駝に言葉をかけると、駱駝はふたたび立ち上がって歩き出しました。ところが、彼は二つ三つ街を通り過ぎたと思うと、足を止めたのでした。そしてちょうどそこは、一軒の浴場《ハンマーム》の戸口の前だったので、彼はもはや意識のないダウールマカーンをおろして、浴場《ハンマーム》の燃料にする薪束の上において、とっとと立ち去ってしまいました。
そこで、明け方その浴場《ハンマーム》の、風呂焚きが、自分の仕事に取りかかろうとしてやって来ると、戸口の前に、この身体が死んだように、仰向けに、横たわっているのを見つけて、心の中でひとりごとを言いました、「いったい誰がこんなふうに、屍骸を埋めもしないで、浴場《ハンマーム》の前なんかに、うっちゃって行きやがったのだ。」そしてその屍骸を、戸口から遠くに押しやろうとすると、ダウールマカーンはちょっと身動きをしました。そこで風呂焚きは叫びました、「こいつは死人じゃないぞ。これはきっと麻薬《ハシシユ》を食らいやがって、昨夜この薪束の上にころがり込みやがったのだな。ほう、酔っぱらい、麻薬《ハシシユ》飲み。」次にこの言葉をまっこうから浴びせかけてやろうと、のぞき込んでみると、これはまだ頬に毛もないごく若い男で、痩せ衰えて、病気ですっかりやつれてはいるものの、その顔つき全体に、ひじょうな高貴さとひじょうな美しさが、あらわれているのを見ました。すると、ひじょうな憐れみが風呂焚きの心に浮かんで、彼は叫びました、「アッラーのほかには力も権勢もない。われらの預言者(その上にアッラーの祈りと平安あれ)は、早急な判断を慎しみ、異国人《いこくびと》に対しては、ことに病気の異国人に対しては、恵み深く手厚くもてなすように、あれほどわれわれを戒《いまし》めなすったのに、おれは今、異国の病人の、気の毒な若者に、軽はずみな判断をしてしまったことだ。」そして風呂焚きは、一刻の躊躇もなく、その若者を肩にかついで、自宅に帰り、妻のところに行って、介抱をするように言いつけて、これを妻の手に託しました。すると風呂焚きの妻は、床《ゆか》に毛氈をひろげ、毛氈の上に、新しい、こざっぱりした枕をおいて、病気の客人を静かに寝かしました。それから、火を起こしに台所に駆けつけ、湯を沸かし、若者の手と足と顔を洗いに戻って来ました。風呂焚きのほうもまた、市場《スーク》にばら水と砂糖を買いに行き、急いで戻って来て、若者の顔にばら水をふりかけ、砂糖とばら水入りのシャーベットを飲ませました。次に、大きな箱の中から、こざっぱりした下着を取り出し、素馨《ジヤスミン》の花の香りをつけて、自身でそれをからだに着せてやりました。
こうした介抱がひととおり終わったと思うと、ダウールマカーンはすぐに、さわやかさが身内にはいって来て、快い微風のように、自分を活気づけるのを覚えました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十四夜になると[#「けれども第五十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ダウールマカーンはすぐに、さわやかさが身内にはいって来て、快い微風のように自分を活気づけるのを覚え、そして少しばかり頭をもたげて、座蒲団《クツシヨン》にもたれることができるようになりました。これを見て、風呂焚きは喜んで、叫びました、「健康を取り戻して下さったアッラーに讃えあれ。おお主《しゆ》よ、あなたさまのはてしなきご慈悲にすがって、なにとぞ、私の世話により、この年若い少年に平癒を授けたまいますよう、お願い申します。」そしてさらに三日の間、風呂焚きは平癒の祈願を捧げることをやめず、また元気をつけるような煎薬の類やばら水を飲ませ、この上なく行き届いた介抱を、十分につくすことをやめませんでした。すると、力が少しずつ身体の中をめぐりはじめて、ようやく光に対して眼を開き、自由に呼吸をしはじめることができました。そしてちょうど彼の気分のよくなったおりに、風呂焚きがはいって来ると、彼が生き生きした顔色をして、安らかに坐っているのを見ました。そこで言いました、「わが子よ、気分はどうかな。」ダウールマカーンは答えました、「回復して元気になったようにおぼえます。」すると風呂焚きは、アッラーに感謝して、市場《スーク》に駆けつけ、市場《スーク》でいちばんよい雛鳥を十羽買い求めて、帰って来てそれを妻に渡して、言いつけました、「おおわが叔父の娘よ、ここに雛鳥を十羽持って来たから、毎日、朝に一羽、晩に一羽と、二羽ずつつぶして、おいしくして、病人に出してやってもらいたい。」
そこですぐに、風呂焚きの妻は立ち上がって、一羽の雛鳥をしめ、それを煮立たせました。次にそれを病人のところに運んで行って、それを食べさせ、肉汁《スープ》を飲ませました。次に、食べ終わると、湯を持って来て、両手を洗わせました。それから、風邪をひかないように、風呂焚きの妻に十分に身体を包んでもらってから、座蒲団《クツシヨン》によりかかって、安らかに休みました。こうして、午後の中ごろまで眠りました。すると、風呂焚きの妻は立ち上がって、二番目の雛鳥を煮立たせ、それをていねいに切り刻んでから、運んで来て、言いました、「おおわが子よ、召し上がれ。どうかこれがからだによく、あなたを丈夫にしてくれますように。」そして彼が食べていると、そこに風呂焚きがはいって来て、妻が自分の指図どおり、よくしてくれているのを見ました。彼は若者の枕もとに坐って言いました、「おおわが子よ、工合はどうかな。」彼は答えました、「アッラーのおかげで、力がついて丈夫になったようです。なにとぞアッラーは、その御恵みをもって、あなたに報いて下さいますように。」すると風呂焚きは、この言葉を聞いてたいそう悦んで、市場《スーク》に行き、すみれのシロップとばら水を買って帰って、存分に飲ませてやりました。
ところで、この風呂焚きは、浴場《ハンマーム》で、日に全部で五ドラクムしか稼ぎませんでした。そしてその五ドラクムのうち、二ドラクムをダウールマカーンのためにさいて、雛鳥や、砂糖や、ばら水や、すみれのシロップを買っていたのでした。こうしてさらにひと月の間、お金をかけつづけていましたが、ひと月後には力が完全にダウールマカーンに戻って来て、病気の痕跡《あとかた》はすっかりなくなってしまいました。
すると風呂焚きとその妻は大いに悦んで、そして風呂焚きは、ダウールマカーンに言いました、「わが子よ、どうかね、私といっしょに浴場《ハンマーム》に行って、久しぶりで、ひと風呂浴びないか。きっとからだにいいだろうよ。」ダウールマカーンは言いました、「ええぜひお願いします。」すると風呂焚きは市場《スーク》に行って、ろば曳きとろばを連れて戻って来て、ダウールマカーンをろばに乗せ、そして道々|浴場《ハンマーム》に着くまでずっと、そばにつきそって、気をくばり注意をはらって彼を支えながら、歩いて行きました。そして彼を浴場《ハンマーム》に入れ、ダウールマカーンが着物を脱いでいる間に、風呂焚きは、入浴に入用なものすべてを買い求めに、市場《スーク》に行き、浴場《ハンマーム》に戻って来て、言いました、「アッラーの御名において、私がしてあげよう。」そして、まず足からはじめて、ダウールマカーンの身体をこすりだしました。こうして彼が身体を洗っていると、そこに浴場《ハンマーム》の按摩《あんま》がはいって来て、風呂焚きが、自分の按摩の仕事を勤めているのを見ると、すっかり恐縮してしまい、自分が按摩室に来るのが遅れたことを、風呂焚きにたいそう詫びるのでした。けれども親切な風呂焚きは言いました、「いや、お仲間よ、おまえさんから恩に着られ、それと同時に、この若者の世話をしてあげることは、まったく嬉しいことだ。この人はうちの客人だからね。」すると按摩は、床屋と毛抜き屋を呼ばせ、彼らはダウールマカーンの頭を剃り、毛を抜きました。それからたっぷりと湯をかけて、身体を洗いました。そこで風呂焚きは、彼を台の上にあがらせて、上等の下着と、自分の着物の中の一着を着せ、たいそうかわいらしいターバンをかぶらせました。そしてさまざまの色の羊毛の、美しい帯でもって胴を締め、例のろばに乗せて、家に連れ帰りました。
するとちょうど、風呂焚きの妻は、これを迎える用意をすっかりととのえておりました。家をくまなく洗い清め、茣蓙《ござ》も毛氈も座蒲団《クツシヨン》も、すっかり掃除ができていました。そこで風呂焚きは、ダウールマカーンをゆっくりと寝かして、これに砂糖とばら水入りのさわやかなシャーベットを飲ませ、次に、例の雛鳥を一羽、手ずから良い肉《み》を切りとってやり、肉汁《スープ》を飲ませて、腹いっぱいになるまで、食べさせました。するとダウールマカーンは、アッラーにその御恵みと健康の回復を謝し、そして風呂焚きに言いました、「まことに、私のためにして下さったすべてに対しては、なんともお礼の申しようもございません。」けれども風呂焚きは言いました、「わが子よ、そんなことはどうでもよい。それよりも、今お訊ねしたいことといえば、あなたがどこから来たのか、そしてお名前はなんというのか、今は教えていただきたいのです。というのは、お顔やご様子を拝見するに、あなたが誰か高貴の身の、身分の高い方であることは、もはや疑えないからです。」すると、ダウールマカーンは彼に言いました、「まずどういう次第で、またどこで、私を見つけて下すったのかうかがって、それから、私も自分の出来事をお話し申しましょう。」
すると風呂焚きは、ダウールマカーンに言いました、「私のほうはというと、ある朝私が仕事に行くと、浴場《ハンマーム》の戸口の前の薪束の上に、あなたが捨てられていたのです。いったい誰が、そんなふうにあなたを放り出していったのか全然わからないが、ともかく私はただ、アッラーのお顔のためにあなたを自分の家にお連れしました。これだけのことです。」この言葉を聞くと、ダウールマカーンは叫びました、「生命《いのち》なき骸骨に、ふたたび生命を与えたもう御方《おんかた》に讃えあれ。そしてあなたよ、わが父よ、あなたは決して、恩知らずの者に親切を施されたのではないことを、ご承知下さい。ほどなく、あなたはその証拠を得なされるでしょう。だが、どうか教えていただきたいが、いったい私は今どこの国にいるのでしょうか。」風呂焚きは言いました、「あなたは今エルサレムの聖都においでです。」するとダウールマカーンは、自分がはるか遠くにいることと、また姉のノーズハトゥに別れたままになっていることを、しみじみと感じて、涙を禁じ得ず、そして自分の出来事を風呂焚きに語りましたが、しかし高貴の生まれのことは、明かしませんでした。それから次の詩節を誦しました。
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わが肩は、よく担い得ざる荷を載せられ、その重みは、われに重く息苦し。
われは友に言えり、わが苦しみの因《もと》、わがすべての魂なる女《おみな》に、「おおわが主《あるじ》よ、救い得ぬ別離《わかれ》の前に、今しばらく忍び得ざるや。」友は言いぬ、「また何をか言う。忍ぶとや。わが習慣《ならわし》に忍耐はあらざるを。」
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すると、風呂焚きは彼に言いました、「わが子よ、もうお泣きなさるな。それよりも、あなたの救いと平癒とを、アッラーに感謝なさい。」ダウールマカーンは彼に訊ねました、「ここはダマスから、どのくらいへだたっているでしょうか。」風呂焚きは言いました、「ここからは、歩いて六日かかります。」ダウールマカーンは言いました、「私はぜひとも、あそこに行きたいと思いますが。」しかし風呂焚きは言いました、「おお若いご主人よ、あなたのようなそんな若い少年を、どうしてただひとり、ダマスにやることができましょう。あなたの身が心配でなりません。もしもあなたがあくまでその旅をしたいというのなら、私は自身でおともしましょう。また家内にも、いっしょに来るように決心させましょう。そして、私たちは皆で、シャムの国のダマスに、暮らしに行こう。旅行者たちはあの国の水と果物を褒めちぎっていますね。」そして風呂焚きは、自分の妻のほうに向きなおって、言いました、「おお叔父の娘よ、おまえは私たちといっしょに、シャムの国の、あの好ましいダマスの都に行くかね。それとも、ここに残っていて、私の帰りを待つほうがよいかね。というのは、私はどうあろうとも、客人についてあちらに行かなければならないのだ。なにせ、アッラーにかけて、ここでお別れして、噂によると、住民がたいへん風儀が悪く放埓だという都の、不案内の街々を、あんな若い身そらで、ただひとり行かせるということは、私はなんとしても辛いからな。」すると風呂焚きの妻は、叫びました、「そりゃもう、私もおともいたしましょうとも。」そこで風呂焚きはすっかり悦んで、言いました、「こうして、われわれの考えをぴったり合わせて下さるアッラーに讃えあれ、おお叔父の娘よ。」そして即座に、風呂焚きは立ち上がって、茣蓙《ござ》とか、座蒲団《クツシヨン》とか、鍋とか、釜とか、乳鉢とか、皿とか、毛蒲団とかいった、家じゅうの家財家具をまとめて、それを糶売《せりうり》人の市場《スーク》に持って行き、糶売にして売りはらいました。全体で五十ドラクムになったので、彼はまずそれを使って、旅のためにろばを一頭雇いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十五夜になると[#「けれども第五十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、風呂焚きは、一頭のろばを雇って、それにダウールマカーンを乗せ、自分と妻とは、ろばの後ろから歩いて、そして聖都を去ってダマスへと向かい、一同その都に着くまで、旅することをやめなかったのでございます。彼らは日の暮れ方そこに到着すると、隊商宿《カーン》に泊まりに行き、風呂焚きは急いで市場《スーク》に、三人分の食べ物と飲み物を、買いに行きました。
この状態をつづけて、こうして三人はさらに五日の間、隊商宿《カーン》におりましたが、五日たつと、風呂焚きの妻は、旅の疲れに力つきて、熱病にかかり、そして二、三日ののちには、死んでしまいました。風呂焚きの妻は、アッラーの恩寵とご慈悲のうちに、死んだのでございました。
それでダウールマカーンは、この死にひじょうに心を悲しませました。なぜなら、自分にこれほど骨身を惜しまず、侍《かし》ずいてくれたこの慈み深い女に、彼はすっかりなじんでいたからです。彼は心の中で喪に服し、そして心痛に沈んでいる、気の毒な風呂焚きのほうへ向いて、これに言いました、「父よ、悲しみなさるな。われわれは皆同じ道を辿っていて、やがては同じ門を潜るでしょうから。」すると風呂焚きは、ダウールマカーンのほうへ向いて、言いました、「ご同情に対して、アッラーはあなたに報いて下さるように、おおわが子よ。そしてなにとぞアッラーは、いつの日か、われらの苦しみを悦びに変じ、われわれより悲しみを遠ざけて下さいますように。されば、これ以上悲しむとて詮もない、すべては書かれているのです。さあ立ち上がって、すこしこのダマスの都を歩いてみましょう。今まで見るひまもなかった。あなたに、すっかり胸ひろく心楽しくなっていただきたいものです。」ダウールマカーンは言いました、「あなたのお考えはご命令です。」
そこで風呂焚きは立ち上がり、そして手をたずさえて、ダウールマカーンといっしょに外に出て、二人はダマスの市場《スーク》と街々を、ゆっくりと歩きまわりはじめました。そのうち二人は、とある大きな建物の前に着きましたが、そこはダマスの奉行《ワーリー》の厩舎《うまや》でした。というのは、門口に、ひじょうにたくさんの馬とらばがいて、それに駱駝が何頭もうずくまって、駱駝曳きが、毛蒲団や、座蒲団《クツシヨン》や、梱《こり》や、箱や、あらゆる種類の荷物を載せているのが見えたからです。またそこには、大勢の老若の奴隷と召使がいて、それらの人々が皆、呼ばわったり話したりして、ごったがえしておりました。そこでダウールマカーンは、心の中でひとりごとを言いました、「いったいこの奴隷や駱駝や箱全部は、誰の物なのかしらん。」それから、とうとう召使の一人に聞いてみますと、その男は答えました、「これはダマスの奉行《ワーリー》の贈物で、オマル・アル・ネマーン王に進上するのです。他の全部の品は、オマル・アル・ネマーン王へのダマスの都の年貢です。」
ダウールマカーンはこの言葉を聞くと、両眼に涙が溢れてきて、そこで静かに、次の詩節を誦したのでした。
[#ここから2字下げ]
遥かなる友どちにしてわが沈黙を咎め、そを悪しざまに取りなば、われはそも何と答え得べき。
わが不在、彼らの心に旧情を衰えしめ、滅ぼし尽くさば、われはまた何をかなさん。
たとえわれ、わが苦しみを忍ぶとも、いっさいを失い、気力をも失いしわが身は、果たしてよく常に残んのわが忍耐を保証し得んや。
[#ここで字下げ終わり]
次にしばらく口をつぐんでいると、次の詩句が、おのずと彼の記憶に歌いました。
[#ここから2字下げ]
彼はおのが天幕《テント》を撤して立ち去りぬ。彼を崇むるわが眼を避けて、遥かかなたに、立ち去りぬ。
美しき人は遠く立ち去れり。おおわが命よ、さあれ、わが欲望《のぞみ》はここにとどまりて、遠く立ち去ることのなき。
あわれ、あわれ、われは再び君に見《まみ》ゆることのあらんか、おお美しき人よ。そのおりは、いかばかりか綿々と恨み言連ねざらんや。
[#ここで字下げ終わり]
ダウールマカーンはこの詩節を言い終わると、涙を流しました。すると親切な風呂焚きは、彼に言いました、「おおわが子よ、しっかりなさい。私たちはずいぶん骨折って、やっとのことであなたに健康を取り戻させたのです。それにそんなに涙を流しては、また病気になってしまいますよ。どうか、気をしずめて、もう泣きなさるな。私は心配でならない。あなたの病気が再発しはしないか気が気でない。」けれどもダウールマカーンは、またもや自分を抑えきれず、姉のノーズハトゥと父王を思い出して、涙に暮れながら、次の見事な詩句を誦したのでした。
[#ここから2字下げ]
現《うつ》し世と生を楽しめ。なんとなれば、現し世は止《とど》まるとも、汝が生は止まらざれば。
生を愛し、生を楽しめ。それがためには、死の避け得ざるを思うべし。
されば生を楽しめよ。幸福はただひと時ぞ、急げやよ。余の一切は空なるを想えかし。
なんとなれば、余の一切は空なれば。なんとなれば、生への愛を除いては、汝は地上に、ただ空虚と虚無を摘むのみならん。
なんとなれば、この世は旅する騎士の宿《やどり》にも似たるは必定。友よ、よろしく現し世を旅する騎士たるべし。
[#ここで字下げ終わり]
彼がこの詩句を誦している間、風呂焚きはうっとり聴き入って、いくたびも繰り返して、自分もこれを覚えようとしていましたが、ダウールマカーンは誦し終わると、しばらくの間、思いにふけりはじめました。すると風呂焚きは、彼の思いをみだすまいとしていましたが、とうとう言い出しました、「おおわが若いご主人よ、あなたはどうやら、いつでも故国とご両親のことばかり、考えておいでのようですね。」ダウールマカーンは言いました、「そうです、わが父よ。私はもうこれ以上一刻も、この土地にとどまっていられない気がしますから、ここであなたにお別れして、小刻みに進むあの隊商《カラヴアン》といっしょに出発して、あまり疲れないようにし、こうして彼らといっしょに、故郷のバグダードに行き着こうと思います。」すると風呂焚きは彼に言いました、「私もごいっしょにまいりましょう。というのは、私はとてもあなたをただ一人やることはできないし、またあなたとお別れすることもできない。すでにあなたの護衛になろうと乗りかかったうえは、もう今さら途中でやめることはいやです。」するとダウールマカーンは言いました、「なにとぞアッラーは、あなたのご厚情を、恩恵とあらゆる種類の賜物とでお返し下さいますように。」そして彼は、この幸運をひじょうに悦んだのでありました。
すると風呂焚きは、彼にろばに乗るようにたのんで、彼に言いました、「道中、あなたはお好きなだけ、ろばに乗っていらっしゃい。そしてその姿勢に疲れたら、よかったらおりて、すこしお歩きになったらよいでしょう。」そこでダウールマカーンは心からお礼を述べて、彼に言いました、「まったく、あなたが私にして下さることは、兄でも弟にしてはやれないことです。」それから二人は、日が落ちて夜の涼しさがくるのを待って、隊商《カラヴアン》といっしょに旅にのぼり、バグダードを指して、ダマスを出発いたしました。ダウールマカーンと浴場《ハンマーム》の風呂焚きについては、こうした次第でございます。
ところで、ダウールマカーンの双生児《ふたご》の姉、若いノーズハトゥはどうかと申しますと、彼女はエルサレムの隊商宿《カーン》を出て、どこかえらい人のところに召使の口を見つけ、こうしていくらかの金子《かね》を得て、弟を介抱し、弟の欲しがっている、羊の炙肉の串を買ってあげようとしたのでした。彼女は駱駝の毛の外套の古切れで頭を蔽い、そしてどこに向かうとも知らず、あてもなく街々を歩きまわりはじめました。頭と心とは、弟のことと、また二人とも両親と故国から遠ざかっているために、それでいっぱいになっておりました。そこで彼女は、思いを慈悲深いアッラーの方に高めますと、次の詩句が、おのずと唇に浮かんでまいりました。
[#ここから2字下げ]
闇は濃くなりまさりて、四方よりわが魂を包み、厳しき焔はわれを焼き尽くし、衰えしむ。わがうちの欲望《のぞみ》は痛ましく叫び、わが面上に、わが内裡《うち》の苦しみを現われしむ。
別離の苦悩は、切なくもわが臓腑の中に住む。何物も冷《さ》ますことなき情熱は絶ゆることなく、悲しくもわれを滅ぼす。
不眠はわが愁傷の伴侶となり、欲望《のぞみ》の火はわが糧《かて》。爾来、いかにしてわが魂の秘事《ひめごと》を黙《もだ》し得んや。
そが激流の中にわれを溺らす、流るる愛の焔もて、焼き滅ぼされしこの心、
われは、この心の中にかき抱く悲哀をば、隠さん術《すべ》も、はた道も、いささかも知るところなし。
おお夜よ、汝《なれ》は知る。汝《な》が時刻の静謐《せいひつ》の裡に、おお使者よ、汝が知る人のもとに行き、わが苦悩の激しさを伝え、汝《なれ》かつて汝《な》が腕《かいな》のうちに、眼《まなこ》閉ざせしわれをば見たることなきを、証明《あかし》せよ。
[#ここで字下げ終わり]
こうして、若いノーズハトゥが定めなく街々を通って進んでいると、向うから、子分のベドウィン人を五人引き連れた、ベドウィン人の酋長が来るのが見えました。その酋長は、長い間じっと彼女を見つめていました。そして彼はずうずうしくそのほうに進み、彼女が人気《ひとけ》のないごく狭い小路にさしかかるのを待って、彼女の前に立ち止まって、言いました、「おお娘さん、あなたは自由の身か、それとも奴隷かね。」このベドウィン人の言葉に、若いノーズハトゥはじっと立ちすくんで、それから言いました、「お願いです、おお、通りすがりの方よ、わたくしの苦しみと不幸を掻き立てるような問いを、おかけにならないで下さいまし。」彼は言いました、「おお娘さん、私がこんなことをお訊ねするのは、じつは私には六人の娘があったのだ。ところがもう五人亡くして、今は六番目のが一人だけになり、たったひとり、淋しく家に暮らしている。そこで私はこの娘のために、誰か相手になって、愉快に時を過ごさせてくれるような友達を、ぜひ見つけてやりたいと思うのだ。あなたが自由の身であって、ひとつ私の家の歓待《もてなし》を受け、私の養女になって身内となり、家の小娘に、姉たちの死んで以来持ちつづけている悲しみを、忘れさせてもらえれば、この上ないことと思うのだが。」
ノーズハトゥはこの言葉を聞くと、すっかり恐縮して、言いました、「おお長老《シヤイクー》さま、わたくしは異国の娘で、ヘジャズの国からいっしょにまいった、病気の弟が一人ございます。いかにも、お宅にうかがって、お嬢さまのお相手をさせていただきたいとは存じますが、しかし毎夜、弟のもとに帰ってさしつかえないということにして下さいまし。」するとベドウィン人は彼女に言いました、「よろしいとも、おお娘御よ、昼間だけ、娘の相手をしてくれれば結構だ。そればかりではない。もしよかったら、弟さんを私の家に連れて来て、一日じゅう、ひとりきりにしておかないようにしてもよろしい。」そしてベドウィン人は言葉巧みに話し、説きつけて、とうとうこの少女に、いっしょに来る決心をさせてしまったのでした。だがこの腹黒い男は、こうしたすべてのことをしながら、ただ少女を誘拐《かど》わかすことしか、考えていなかったのです。なぜなら、彼には、男にせよ女にせよ、子供なぞは影かたちもなく、住居も家もありはしなかったのでした。はたして、やがて彼は、ノーズハトゥと他の五名のベドウィン人といっしょに、町の外の、とある場所に着きましたが、そこには万端出発の準備がととのっておりました。駱駝は皆もはや荷が積まれ、革嚢《かわぶくろ》には水が満たされています。そしてベドウィン人の酋長は、自分の駱駝に乗って、ノーズハトゥを手荒く、自分の後ろの、駱駝の尻に乗せ、そして出発の合図をしました。こうして一行はたちまち遠ざかって行きました。
そのとき憐れなノーズハトゥは、このベドウィン人が自分を誘拐して、すっかり騙《だま》したのだということを覚って、嘆きはじめ、わが身と、よるべもなく置き去りにされた弟の身とを、悲しみはじめました。しかしベドウィン人は、彼女の歎願などに頓着なく、夜どおし明け方までぶっとおしで進んで、とうとう誰も住む人のない、砂漠の安全な場所に着きました。そこで、いまだにノーズハトゥが泣きつづけていると、ベドウィン人は一行を止めて、駱駝をおり、ノーズハトゥをおろして、ひどく腹を立てながら、彼女に近づいて、言いました、「おおこの兎の心を持った、家にすっこんでばかりいやがる、賤しい都会女《まちおんな》め、いい加減に泣くのをやめねえか。それとも、くたばるほど鞭でひっぱたかれてえのか。」
この粗暴なベドウィン人の荒々しい言葉を聞くと、憐れなノーズハトゥはむらむらと反抗心が起こって、いっそひと思いに死んでしまいたくなって、叫びました、「おお、砂漠の盗賊の首領《かしら》、おぞましい人間、地獄の燠火《おきび》よ、なんだっておまえは平気で、こんなふうにわたくしの信頼を欺き、自分の信仰を裏切り、自分の約束を破ったりするのですか。おお、不実の裏切り者よ、いったいおまえはわたくしをどうしようというのです。」この言葉を聞くと、ベドウィン人はひどく怒って、鞭をふり上げながら、彼女に近づいて、どなりました、「賤しい都会女《まちおんな》め、きさまは尻《けつ》に鞭を受けるのが好きなんだな。いいか、断わっておくが、もしもきさまがそのうるさい涙と、小癪な舌でもって、おれの面前でつべこべ口答えしやがる言葉とを、すぐさまやめねえなら、この指できさまの舌を引っこぬいて、きさまの股の間の一件のまん中に突っこんでやるからな。こいつはおれの頭巾《ずきん》にかけて、誓言するぞ。」この恐ろしい脅迫を聞くと、こんな乱暴な言葉遣いには慣れていない憐れな乙女は、顫えだし、恐ろしさにじっと辛抱して、頭を面衣《ヴエール》の中に埋めながら、次の嘆きを洩らさずにはいられませんでした。
[#ここから2字下げ]
おお、何ぴとか、わが住み慣れし懐かしの住居に行きて、わが涙をばその注がるる人のもとへと、届かしめ得んや。
あわれ、苦渋と苦悩満ちし生のうちに、われはさらに永くわが不幸を耐え得べきや。
あわれ、今にしてこの憐れむべき悲惨の境涯に陥らんとて、かくも永く幸福に、諂《へつ》らわれて、生き来たりしか。
おお、何ぴとか、わが住み慣れし懐かしの住居に行きて、わが涙をばその注がるる人のもとへと、届かしめ得んや。
[#ここで字下げ終わり]
この見事な韻律の詩を聞くと、本能的に詩歌を熱愛するそのベドウィン人は、さすがにこの不幸な美女に憐れみを催し、彼女に近づいて、涙を拭ってやり、大麦のパン菓子を与えて、言いました、「こんどは、おれが怒っているときには、口答えなどしようとするなよ。おれの性分として、そんなことは我慢ができないのだからな。またきさまは、おれがきさまをどうするつもりかと訊ねるから、聞かせてやろう。いいか、おれはきさまを何も妾《めかけ》にしようとも、奴隷にしようとさえも、思っちゃいない。おれはきさまを誰か金持ちの商人で、ちょうどおれがしてやるように、きさまを優しく扱って、世の中を楽しく生きさせてくれるような人に、売りつけてやろうと思うのだ。そのために、きさまをこれからダマスに連れてゆくところだ。」するとノーズハトゥは答えました、「いいようにして下さい。」そして一同はすぐに再び駱駝に乗って、ダマスをさしてまた出発しました。ノーズハトゥは相変わらず、ベドウィン人の後ろの、駱駝の尻に乗せられていました。そしてお腹《なか》が減ってしかたがないので、彼女は誘拐者のくれた、大麦のパン菓子の一片を食べました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十六夜になると[#「けれども第五十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ノーズハトゥは自分の誘拐者のくれた、大麦のパン菓子の一片を食べました。そのうち間もなく、一行はダマスに着いて、バブ・エル・マレクの近くにある、隊商宿帝王館《カーン・スルターニ》に宿を取りました。ノーズハトゥはたいそう心悲しく、心労に色蒼ざめて、泣きつづけておりますと、ベドウィン人は、怒った口調でどなりつけました、「いいかげんに涙をよさねえか、顔がまずくなって値打がなくなるわい。そうなりゃもう、きさまをどこかの薄汚ねえユダヤ人ぐらいにしか、売れなくなるぞ。ここんところをよく考えろよ、この都会女《まちおんな》め。」それから、ベドウィン人はノーズハトゥを、隊商宿《カーン》の一室に用心深く閉じこめておいて、急いで奴隷|市場《スーク》の奴隷商人に会いに行きました。そして彼は商人たちに、掠奪して来た美しい少女の件を持ち出して、言いました、「おれのところに、エルサレムから連れて来た、若い女奴隷が一人いるんだがね。こいつの弟は病気で、おれはやむなく、そいつをあちらにいるおれの身内のところに置いて来て、十分看病させることにしてある。そういうわけで、おまえさん方のなかで、この女を買ってくれようという人は、あいつに、おまえの弟はエルサレムで、わしの、つまり買い主のだね、わしの家でよく看病されているよと、こう言って安心させてやることを、ぜひ忘れないでもらいたい。こういう話し合いで、なに安くまけとくことにするよ。」
すると商人の一人が立ち上がって、彼に訊ねました、「その女奴隷はいくつだね。」ベドウィン人は答えました、「まだ未通女《おぼこ》だが、もう年頃のごく若い娘だ。利巧だし、行儀はよし、気が利いてるし、器量はよし、申し分のない娘だ。あいにくと、弟の病気以来、苦労のために弱って痩せ、いくぶん身体のふっくらしたところがなくなったが、なに、そんなことは、少し大切にして忘れさせてしまえば、もとどおりなるのは造作もないことだよ。」するとその商人は言いました、「おまえさんがそんなにいろいろいい点を言うのなら、これからいっしょに行って、その女奴隷を見るとしよう。だがそれには条件がある。もしそれがわしの気に入らない時は、この話は打ち切りにする。が、それがいかにもおまえさんの言うとおりだったら、値段の折り合いをつけて、その値で買い取ろう。けれども、その値段は、わしがその女奴隷を他に転売した上で、はじめておまえさんに支払うことにする。というのは、まあわしの意向を聞いてもらいたいが、こういうわけなのだ。わしはその女奴隷を、バグダードとホラーサーンの主、オマル・アル・ネマーン王に向けるつもりだ。その王子さまのシャールカーン王子は、この都ダマスの太守でいらっしゃる。王子さまはわしをご存じだから、わしがシャールカーン王子さまの御許に参上して、訳をお話し申し上げれば、オマル・アル・ネマーン王のところに紹介状を下さるだろう。王は有名な処女の女奴隷好きであられるから、そこでかならず十分儲かる値段で、わしからその女奴隷を買い取って下さるだろう。そこでわしはおまえさんに約束の値段を払おうという、こういう寸法なのだ。」するとベドウィン人は答えました、「よろしい、そのおまえさんの条件でさしつかえない。」
そこで二人は連れ立って、ノーズハトゥの閉じこめられている帝王館《カーン・スルターニ》のほうに向かいました。そしてベドウィン人は、仕切り壁の後ろに、人目に立たないように隠してある若い娘を、声高く呼んで、言いました、「ほう、ナヒヤ、ほう、ナヒヤ。」というのは、これが、ベドウィン人が自分の女奴隷につけたらよかろうと思った名であったからです。けれども、こんな自分の知らない名前で呼ばれて、憐れな乙女は泣き出して、返事をしませんでした。するとベドウィン人は、奴隷商人に言いました、「ほら、あそこにいる、あの後ろに。かまわないから近よって、よく調べてみるがいいが、怖がらせないようにして、平生おれがしているように、優しく言葉をかけてくれよ。」そこで商人は、仕切り壁の後ろにまわって、乙女のほうに歩みよって、言いかけました、「平安おんみの上にあれ、おお娘御よ。」するとノーズハトゥは砂糖のように甘い声と、この上なく美わしい発音でもって、アラビア語で答えました、「そしておんみの上にも平安とアッラーの祝福とありますように。」この語調に、商人はすっかり心を惹かれました。そしてこの粗末な面衣《ヴエール》で顔を包んでいる、若い女奴隷をつくづく眺めて、心の中でひとりごとを言いました、「アッラー、なんと優美な娘で、なんという正しい言葉遣いだろう。」彼女もまた商人を眺めて、考えたのでした、「この老人はたいそう柔和な顔付きで、上品なたいそう人好きのする様子をしている。どうかアッラーは、わたしをこの老人の奴隷にして、品性が乱暴でおぞましい様子の、あの粗野なベドウィン人から、わたしをのがれさせて下さいますように。これはぜひ賢い返事をして、わたしの躾《しつけ》のよいところと優しい話し振りとを、際立たせるようにしなければならない。この商人がわざわざここに来たのは、わたしを調べようとして来たのだから。」そして商人が「ご機嫌はいかがじゃな、おお娘御よ」と言って訊ねたので、彼女はつつましく地を見つめて、静かに答えました、「おお尊ぶべきご老人よ、あなたはわたくしの有様についてお訊ね下さいましたが、わたくしの有様は、あなたの最悪の敵にも望み得ないものでございます。けれども、人はすべておのが天命をおのが首に懸けて持っていると、われらの預言者ムハンマドは仰せられております、――その上にアッラーの祈りと平安あれかし。」
商人はこの言葉を聞くと、驚嘆の限り驚嘆いたしまして、正気は悦びのあまり飛び去りました。そしてひとりごとを言いました、「これは大丈夫だ。まだ顔立ちは見ないけれど、たいしたものに相違なく、オマル・アル・ネマーン王から、望みの代金《しろ》をせしめられることは、もうまちがいないぞ。」それからベドウィン人のほうに向きなおって、言い出さずにいられませんでした、「この奴隷はじつにすばらしい。おまえさんはいくらお望みだね。」この言葉を聞くと、ベドウィン人はたいそう腹を立てて、叫びました、「こいつがすばらしいなんて、どこから割り出して言えるんだ、人間の中の屑じゃないか。下手《へた》におだてやがると、やつはほんとうに自分がすばらしい女だと思い込みやがって、もうおれの言うことなんか、きかなくなろうというものじゃねえか。とっとと行きやがれ。おれはもう売るのをやめた。」そこで商人は、このベドウィン人が手のつけられないわからずやで、どんな理屈を言ったって、無駄だということを覚りました。それでこんどは手をかえて、機嫌をなおさせようと努めて、言いました、「おおベドウィン人の中の長老《シヤイクー》よ、いかにもこの奴隷は人間の中の屑にはちがいないが、とにかく引き取ろう。瑕瑾《きず》はいくらもあるが、まあ買うとしよう。」するとベドウィン人は少ししずまって、言いました、「よし、だがいったいいくら出すね、ええ。」商人は答えました、「諺《ことわざ》に、息子に名をつけるのは親父《おやじ》だというから、おまえさんのほうから、適当と思うだけ切り出してもらおう。」だがベドウィン人はてんで耳をかそうとしないで、言います、「なんだっていいから、そっちのほうから言いなよ。」そこで商人は思いました、「このベドウィン人は、まったく頑固な始末におえないわからずやだ。わしにはいったいいくらと言い出すことができようか。ことに、この若い娘が気持のいい話し振りと雄弁で、わしの心をすっかり虜《とりこ》にしてしまった今となっては、言い出しようがないわい。それにきっと、あの娘《こ》は読み書きもできるにちがいないぞ。これはまったく、あの娘《こ》の上にくだったアッラーのたぐいまれな祝福の結果だ。それなのに、このベドウィン人は、あの娘《こ》をその値打なりに値をつけることができないとはなあ。」次に商人はベドウィン人のほうを向いて、言いました、「ではわしは金貨二百ディナール差し上げよう。国庫に収める保証金と売却権は別で、これはわしが支払いを引き受けます。」けれども、ベドウィン人はたいそう腹を立てて、叫びました、「おお商人よ、別れるとしよう。おれは売らねえよ。こいつが頭にかぶっている、襤褸《ぼろ》切れだって、二百ディナールじゃ譲れねえからな。やめた、おいらは売りたくねえよ。いっそ手もとに置いて、砂漠に連れ戻し、おれの駱駝に草をやったり、穀物を挽かせたりするほうがましだ。」次に彼は若い娘に叫びかけました、「ここに来やがれ、腐った女郎《めろう》。出発するぞ。」そして商人がその場を動かないでいると、ベドウィン人はそのほうを向いて、叫びました、「おれの頭巾にかけて、おいらはもう何にも売らねえよ。あっちを向いて、行っちまえ。さもねえと、お気に召せねえようなことを、聞かされるぞ。」
その時、商人はひとり心の中で考えました、「もう疑いない、頭巾にかけて誓ってなぞいる、このベドウィン人は、とほうもない狂人だわい。だがとにかく、この男に手放させてやるとしよう。なにせあの娘は、宝蔵いっぱいの宝石ぐらいの値打はあるからな。ここにその代金の持ち合わせがありさえすれば、さっそくこのわからずやにくれてやって、話をつけてしまうのだが。」次に商人は、いかにも納得させるように、ベドウィン人の外套をつかまえて、穏やかに申しました、「おおベドウィン人たちの長老《シヤイクー》よ、まあ、後生だ、そう短気を起こさないものだよ。おまえさんは売り買いに慣れていなさらない。こういったことには、どこまでも辛抱とかけひきが肝心だ。まあ落ち着きなさい、大丈夫、わしはおまえさんの欲しいだけあげますよ。だがともかく、こうした取引でふつうするように、何よりもまず、ひとつこの奴隷の顔容《かおかたち》を見せてもらいたいものだ。」するとベドウィン人は言いました、「いいとも、好きなだけ見るがいい。なんならすっ裸にして、どこなりと、気のすむだけ、撫でたりさわったりするがいい。」だが商人は両手を天に挙げて、叫びました、「ふつうの奴隷なみに、この娘を裸にすることなど、アッラーがわしにおさせになりませぬように(38)。わしはただ顔がみたいだけだ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十七夜になると[#「けれども第五十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、商人は申しました、「わしはただ顔が見たいだけだ。」そしていくえにも失礼を詫びながら、ノーズハトゥのほうに進み寄り、恐縮しきってそのそばに坐ってから、優しく訊ねました、「おおわがご主人よ、あなたのお名前はなんとおっしゃるか。」彼女は吐息を洩らしながら、申しました、「お訊ねなさるのは、わたくしの現在の名前でしょうか、それとも過ぎし日の名前でしょうか。」商人は驚いて、言いました、「では、あなたは今の名と昔の名をお持ちなのかな。」彼女は答えました、「さようでございます、おおご老人よ、わたくしの昔の名は『当代の歓び』と申し、今のは『当代の虐《しいた》げ』と申します。」世にも悲しい調子で言い出されたこの言葉に、年とった商人は、両眼が涙に濡れるのをおぼえました。ノーズハトゥもまた、涙を禁じ得ず、やるせなく、次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
わが心、君を忘れず、おお旅人よ。そもいかなる見知らぬ土地に、君は立ちしや、いかなる民のもと、いかなる住居にか、君の住まうや。
そもいかなる泉にか、君は飲むらん、おお、さすらい人よ。われはここに、君がため涙するわが身は、思い出のばらもて身を養い、わが眼《まなこ》の溢るる泉にて渇を医すなり。
君遠く在《いま》すことより外に、およそわが想いに苦しくまた辛き何ごともなし。なんとなれば、これに較ぶれば余の一切は、今やわが身には楽しくまた易きことなれば。
[#ここで字下げ終わり]
ところがベドウィン人は、どうも二人の話が長びきすぎると思って、鞭を振り上げながら、ノーズハトゥに近づいて来て、言いました、「何をそんなふうにしゃべくっていやがるんだ。さっさと顔の面衣《ヴエール》を取って、片づけちまえ。」するとノーズハトゥは商人の顔をみつめて、憂いに沈んだ調子で、これに言いました、「おお尊ぶべき|ご老人《シヤイクー》よ、お願いでございます、どうぞ、アッラーを知らないこの信仰のない山賊の手から、わたくしを救い出して下さいませ。さもなければ、今夜にも、きっとわたくしは自害してしまうでしょう。」すると商人はベドウィン人のほうを向いて、これに言いました、「おおベドウィン人たちの長老《シヤイクー》よ、実際この娘はおまえさんにとっては、足手まといになるだろう。おまえさんの望みの値段で、わしに売ってもらおう。」けれども、ベドウィン人は叫びました、「さっきも言うとおり、そっちから言いだしてもらおう、さもなきゃ、すぐさま引っ込めて、砂漠に連れ戻し、駱駝に草をやったり、獣《けもの》の糞を拾わせたりすることにするぞ。」すると商人は言いました、「よろしい、では話をつけましょう、よく聞いて下さい、わしは金貨五万ディナールの金額を差し上げよう。」だが、この頑固なわからずやは答えました、「いやだ、おれたちにアッラーのお助けあるように(39)。お話にならねえ。」すると商人は言いました、「七万ディナールだ。」だがベドウィン人は言います、「おれたちにアッラーのお助けがあるように。それだけじゃ、こいつを養ったり、大麦のパン菓子を買ってやったりして、使った資本《もと》だけにも、足りやしねえ。なにしろ、おい商人よ、よく知ってもらいてえが、おれはこいつのために、大麦のパン菓子だけでも、金貨九万ディナールがとこ使っているからな。」そこで商人は、わからずやの大でたらめにあきれ返って、言ってやりました、「だが、おおベドウィン人よ、おまえさんや、おまえさんの身内や、またおまえさんの部族の者が全部、一生かかったところで、せいぜい百ディナールの大麦だって、食いはしなかったに相違ない。だが最後にわしのぎりぎりの言い値をつけ、ぎりぎりのところを言うから、もしこれで不承知というなら、わしはこの足で、ダマスの太守シャールカーン王子さまのところに行って、この若い女奴隷が受けた虐待を、訴え出ることにする。おまえはきっとこの娘を盗んで来たに相違ない、この泥棒の山賊め。」この言葉に、ベドウィン人は言いました、「よし、じゃ、まあその金高を言ってみろ。」そこで商人は言いました、「十万ディナールだ。」するとベドウィン人は言いました、「まあその値で、この奴隷を譲ってやろう。おれは市場《スーク》に行って塩を買わなけりゃならねえからな。」そこで商人は、笑いを洩らさずにいられませんでした。そしてベドウィン人と若い女奴隷を連れて、自分の家に案内し、公定の衡《はか》り人に、一ディナールずつ、慎重に目方を衡《はか》らせたうえで、ベドウィン人に約束の金額をそっくり払ってやりました。するとベドウィン人は外に出て、ふたたび駱駝に乗って、ひとりごとを言いながら、エルサレムへの道をとったのでした、「姉が十万ディナールになったのなら、弟のほうも、少なくともそのくらいにはなるだろう。こいつはひとつ弟を探しに行くとしよう。」
そしてエルサレムに着くと、実際、全部の隊商宿《カーン》を回って、ダウールマカーンを探しはじめたのでしたが、しかし彼はすでに風呂焚きといっしょに出発したあとだったので、この強欲なベドウィン人には見つかりませんでした。ベドウィン人のほうは、こういう次第です。ところで、若いノーズハトゥのほうはどうかと申しますと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは、朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十八夜になると[#「けれども第五十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ところで、若いノーズハトゥのほうはどうかと申しますと、次のようでございます。その親切な商人は、一度彼女を自分の家に連れてくると、たいそうりっぱで、ひじょうに上等な、自分の持っているいちばん美しい衣類を全部与えて、それからいっしょに、金銀細工師と宝石商の市場《スーク》に行き、彼女の好みに従って、気に入った宝石宝玉を選ばせ、それらを全部繻子の風呂敷に包んで、家に持って帰って、彼女の手の間に置きました。それから申しました、「さて今は、この返礼に、わしがおまえにしてもらいたいことといえば、これからおまえをシャールカーン王子の御殿に連れて行ったときに、わしがおまえを買いとった代金を、はっきりと王子さまに申し上げることを忘れないでもらいたいという、それだけだ。わしはバグダードのオマル・アル・ネマーン王さまあての推薦状を、王子さまからいただきたいのだが、そのとき王子さまがお手紙の中に、その代金のことをお書き落としなさらないように、おまえにぜひそう言ってもらいたいのだ。それにわしは、シャールカーン王子さまから、通行免状と免許状をいただいて、今後わしがバグダードに持って行って売ろうと思う商品に、バグダード入市の際、租税も課税もかからないようにしていただきたいものと、そう思っているのじゃ。」
この言葉を聞くと、ノーズハトゥは溜息を洩らして、双の眼は涙に濡れました。そこで商人は言いました、「おおわが娘よ、なぜおまえは、わしがバグダードという名を言い出すごとに、そのように溜息をついて、眼に涙を浮かべるのかね。そこには誰かおまえの愛している人とか、身内とか、商人とかでもいるのかな。言ってごらん、何も恐れることはない。わしはバグダードの商人なら全部知っているし、その他にもいろいろの人たちを知っているよ。」するとノーズハトゥは言いました、「アッラーにかけて、わたくしはあちらには、バグダードの主、オマル・アル・ネマーン王ご自身のほかには、誰一人知り合いはございません。」
ダマスの商人は、このとほうもないことを聞いたときには、悦びと満足の大きな溜息を洩らさずにはいられないで、心の中でひとりごとを言いました、「これでわしの目的は達せられたぞ。」それから、彼は少女に訊ねました、「ではおまえさんは、これ以前に、誰か奴隷商人に、王さまに推挙されたことでもありなさるのかな。」彼女は答えました、「いいえ、ただわたくしは王さまの御殿で、王女さまとごいっしょに育てられただけでございます。王さまはたいそうわたくしをかわいがって下さっていましたから、わたくしのお願いすることならばどんなことでも、王さまには神聖な事柄でございましょう。ですから、もしもあなたが、何か王さまの特別の思し召しを賜わりたいとお望みなら、わたくしにそれをおっしゃって、筆と墨壺と一枚の紙を、持って来て下さりさえすれば結構です。わたくしから手紙を書いてさし上げますから、あなたはそれをば、オマル・アル・ネマーン王ご自身の御手に渡して、こう申し上げなさいませ、『おお王よ、あなたさまの卑しい奴隷ノーズハトゥは、運命と時節の転変《うつろい》と、日ごと夜ごとの苦しみを身に受けて、売られてはまた売られ、主《あるじ》をかえ、家をかえたのでございました。そして今のところは、あたかもダマスのあなたさまの代行者のお住居におりまする。なお、ご挨拶と平安の祈願をば、御許にまでお送り申し上げるとのことでございます』と。」
この意想外な、しかし明快な言葉を聞いて、商人は悦びと驚きの極に達して、ノーズハトゥに対する愛情は、その心の中にひじょうにつのったのでございました。そして尊敬あふれて、商人は問いました、「これは定めし、おお美わしい乙女よ、あなたはご自分の御殿からかどわかされ、騙されて、売られなすったのに相違ない。定めしあなたは、文芸や聖典《コーラン》の読誦に通じていらっしゃることでしょう。」ノーズハトゥは言いました、「いかにも、おお尊ぶべき長老《シヤイクー》よ。わたくしは聖典《コーラン》と知恵の戒律とを存じております。そのほかにも、医学を存じ、『秘義入門』の書とか、ヒポクラテスと賢人ガレノス(40)の著作の釈義類を心得、その釈義には自分で注釈もいたしました。また、哲学、論理学の書物もひもとき、薬草の効能とイブヌル・バイタール(41)の解説も知っており、イブン・スイーナー(42)の『医学法典《カーヌーン》』を、学者たちと論じたこともございます。さまざまな寓喩の謎の説明も発見して、自分で解きました。幾何学のあらゆる図形を描いてもみましたし、建築についても、いちおうの話をいたしました。長い間、摂生とシャーフィイー学派(43)の書物を研究し、また国語の文章法、文法、口伝を修めました。また、あらゆる部門にわたって、博学碩学の方々と交じわり、わたくし自身も、雄弁、修辞学、算術、純粋三段論法などについて、いろいろの書物を書いております。心霊、霊知の学も心得、教わったことは皆忘れませんでした。では、お望みならば、手紙を書いてさしあげますから、蘆筆《カラム》と紙を下さいませ。わたくしは全文を、調べととのった韻文で書いてさしあげて、あなたがダマスからバグダードに行く道々、いくたびも読み返して興をおぼえなさるようにし、道中の読み物など、お持ちにならないでよいようにいたしましょう。というのは、その手紙があなたにとって、淋しさのおりの慰めとなり、閑暇のおりのつつましい友となるでございましょうから。」
すると商人はかわいそうに、度胆を抜かれてしまって、感嘆の声をあげました、「やあ、アッラー、やあ、アッラー、あなたのお宿になる住居は仕合せじゃ。あなたといっしょに住む人は、なんと仕合せ者でしょうか。」そして彼は、墨壺やらその他の品々を、うやうやしく持参しました。ノーズハトゥは蘆筆《カラム》を取り上げて、墨を含んだ綿に涵《ひた》し、まず自分の爪の上にためしてみてから、次の詩句を書きました。
[#ここから2字下げ]
この文字は、歎きてやまぬ波のごと、立ち騒ぐ想い乱るる女《おみな》の手にて成るものぞ。
不眠はその眼瞼《まぶた》を焼き、徹宵はその美を磨り滅ぼしぬ。
悩みのうちに、今ははや夜を昼と分けやらず、独り寝の床に悶々と反輾するのみ。
語らう人とてはただ、夜々のせつなき孤独のうちに、黙々たる星辰あるのみぞ。
[#この行2字下げ]ここにわが愁訴あり、おお君よ、君が御眼を偲び、わが天然の指をもて、調べととのえ、等しき韻を踏み、詩句に織り成せし愁訴なり。
われは、人の世の愉楽の絃《いと》の、いささかもわが魂のうちに打ち顫うをおぼえず。
わが青春は、溢るる悦びも、はた至福の日の幸ある微笑をも、いささかも感じたることなし。
なんとなれば、君|在《いま》さずして、わが眼は徹宵を知り、わが眠りは永久に奪われたれば。
詮なしや、わが溜息を微風に委ぬるとて。かつて微風は、わが溜息の立ち昇る人のもとへと、そを伝えたるためしなし。
されば、望み失せ、われははやあながちに敢えて言わず。されど、われはわが愁訴にわが名を記さんとぞ思う。
われは悩める者、両親と故郷より遠ざかる者、胸と想いをさいなまるる者。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]ノーズハトゥザマーン[#「ノーズハトゥザマーン」はゴシック体]
ノーズハトゥは書き終わると、紙の上に砂をまき、それをていねいにたたんで、商人に渡しますと、商人はうやうやしくそれを受け取って、まず唇に、次に額に持って行って、それを繻子《しゆす》の布にしまって、叫びました、「おんみを形づくりたもうた者に光栄あれ、おおうるわしい人の子よ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第五十九夜になると[#「けれども第五十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、商人は叫びました、「おんみを形づくりたもうた者に光栄あれ、おおうるわしい人の子よ。」そして彼は、この客人にふさわしい礼をつくすには、どうしてよいかわからない有様でした。そしてあらゆる敬意と感嘆のしるしをふりまきましたが、まず最初、きっと風呂にはいりたいだろうから、風呂をすすめたらよかろうと思いました。するとはたして、若い乙女は悦んで承知したので、浴後に着るさっぱりした衣類を、ビロードの布に包んで運びながら、先頭に立って歩いて、浴場《ハンマーム》までついて行きました。そして浴場《ハンマーム》きっての流し女を呼んで、くれぐれも若い乙女のことを頼んでから、言いました、「風呂がすんだら、すぐわしを呼んで下され。」そしてノーズハトゥが、流し女に助けられて、風呂を使っている間に、年とった商人は市場《スーク》に、あらゆる種類の果物とシャーベットを買いに行き、ノーズハトゥが着物を着に来る台の上に、それらを置きに来ました。
すると流し女は、沐浴《ゆあみ》が終わると、ノーズハトゥを支えながら、その台のところまで連れて来て、香りのよい下着類とタオルで、身を包みました。そして二人で果物を食べ、シャーベットを飲みはじめました。それがすむと、二人は残りを浴場《ハンマーム》の女番人にやりました。
ちょうどそのとき、例の親切な商人がやって来ましたが、彼は白檀の木の箱を持っておりました。彼はその箱を台の上において、アッラーの御名を唱えつつそれをあけ、そして流し女に手伝ってもらいながら、ノーズハトゥの着付けに取りかかり、いよいよシャールカーン王子のもとに連れて行くことにしました。
商人はまずノーズハトゥに、白絹の薄い肌着と、また頭にかぶせるために、それだけでも一千ディナールするくらいの、黄金で織った肩掛を与えました。次には、一面金糸の刺繍をした、トルコ風に裁《た》った着物を着せ、足には、麝香を香らせた赤皮の長靴をはかせました。この長靴は、上に金箔を張り、真珠と宝石をちりばめた花模様がついていました。次には、一粒一粒が金貨一千ディナールもする、上等の真珠の耳飾りを耳にはめ、黄金線条細工の首飾りを首につけ、宝石の網を乳房のまわりにめぐらし、それから、琥珀の玉と半月形の黄金を十列連らねた帯を、腰のお臍《へそ》の上部に締めてやりました。その琥珀の玉のひとつひとつには、紅玉がはめこまれ、半月形の黄金のひとつひとつには、九つの真珠と十の金剛石がはまっていました。若いノーズハトゥの着付けはこのようなものであり、こうして、十万ディナール以上の宝石類を、身につけたのでございました。
すると商人は、彼女に自分の後についてくるように頼んで、いっしょに浴場《ハンマーム》を出て、途上の通行人を遠ざけながら、重々しい謹厳な様子で、彼女の前に立って進みました。するとすべての通行人は、彼女の美しさにびっくりし、うっとりと彼女を眺めて、口々に叫ぶのでした、「やあ、アッラー、マーシャーアッラー(44)。その被造物《つくられしもの》においてアッラーに光栄あれ。この女を所有《もちもの》とする男は、まったく果報者だわい。」そして商人は歩きつづけ、彼女はそのあとについて、とうとう二人は、ダマスの太守、シャールカーン王子の御殿に着きました。
商人はシャールカーン王子のところにはいると、王子の手の間の床《ゆか》に接吻して、申しました、「私はここに無双の贈物をお持ちいたしました。当代随一の美しく妙《たえ》なる代物《しろもの》にして、そのうちにいっさいの魅惑といっさいの天稟、いっさいの美質といっさいの悦楽を、あわせ持つ逸物でございます。」
するとシャールカーン王子は言いました、「疾《と》く見せよ。」
そこで商人は退出して、ノーズハトゥの手をひいて連れて来ながら、戻って来て、これを王子の前に立たせました。ところが、シャールカーン王子は、このうるわしい乙女が、まだ幼いうちにバグダードに残してきた、自分の妹のノーズハトゥであろうとは、つゆわかりませんでした。それに王子は、彼女とその兄ダウールマカーンが生まれたときに、これに嫉妬をおぼえたために、ついぞこの妹を見たことがないのでした。そこで王子は、このみごとな体躯《からだ》と容姿《すがた》の前で、恍惚の極に達し、ことに商人が付け加えてこう言ったときには、なおさらでございました。「自然の天稟なる美しさのほかに、この乙女は、宗教、民政、政治、数学に関するあらゆる学問に、通暁しておりまする。ダマスならびに全帝国最大の学者たちの、あらゆる質問にも、いつなりと答えるでございましょう。」
そこでシャールカーン王子は、一刻の躊躇もなく、商人に申しました、「財務官に、そのほうに対してこのものの代金を支払うように申しつけ、これをわがもとに置いて、安らかに立ち去れよ。」すると商人は申し上げました、「おお、勇ましき王子さま、この乙女は、はじめ私の考えでは、お父上オマル・アル・ネマーン王に差し上げるつもりでございました。それで、ただお父王あての推薦状を賜わりたいと存じて、あなたさまにお目どおり願った次第でした。しかし、この乙女がお気に召したとあらば、乙女はここにとどまりますように。あなたさまのお望みは、わが頭上と眼の中にございます。さりながら、その代わりなにとぞ私に、今後私の商品全部に対する免税権と、いかなる種類の課税をも、もはや支払わないでよい特権とを、賜わりますよう、それだけお願い申し上げます。」するとシャールカーンは言いました、「いかにもさし許す。さりながら、そのほかに、この乙女はそのほうに何ほど値したか申してみよ。余のほうからも、その代価を返済してつかわしたい。」商人は言いました、「金貨十万ディナールでございました。それに、別に金貨十万ディナールがところ、身につけておりまする。」するとシャールカーンは、すぐに財務官を召し出して、申しつけました、「この尊ぶべき老人《シヤイクー》に、ただちに金貨二十万ディナールを支払い、別に、その正直に対して、二十万ディナールを与えよ。かつ、わが戸棚のうちのもっとも美しき誉れの衣をとらせよ。そして爾後、この者はわが権力の庇護を受くる者にして、いかなる租税をも、この者より取り立つることまかりならぬ旨を、一同に伝えよ。」
それからシャールカーン王子は、ダマスの四人の大|法官《カーデイ》を召し出して、彼らに申しました……
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をとざした。
[#地付き]そして第六十夜になると[#「そして第六十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「そのほうたち一同をわが証人として、余はただ今|購《あがな》いしこの若き女奴隷を、今よりしてただちに、解放し自由の身となし、余の妻となすものである。」そこで四人の法官《カーデイ》は、取り急ぎ釈放証書を認《したた》め、次に結婚契約書を認めて、おのおのの印璽をおしました。そしてシャールカーン王子は、ご自分の悦びを祝うために、惜しみなく、なみいる一同におびただしい金貨をふりまかずにはおかず、手いっぱいにつかんでは投げ与え、金貨は四方に散乱して、侍者や奴隷たちに拾い集められたのでした。
するとシャールカーン王子は、一同を退出させて、その部屋には四人の大|法官《カーデイ》と商人だけを残しました。そして法官《カーデイ》たちのほうに向いて、申しました、「さてこれより、余はそのほうたちにこの乙女の話す言葉を聞かせ、もってその雄弁と学識の証拠を得、この年老いた商人の確言を、みなに吟味してもらいたいと思う。」法官《カーデイ》たちは答えました、「われら仰せ承わり、仰せに従いまする。」そこでシャールカーン王子は、部屋のまん中に大きな帷《とばり》を垂れさせ、乙女が窮屈を感じないように、またよその男たちに見られずに、くつろいで話せるようにと、その帷《とばり》の後ろに乙女を坐らせました。
帷《とばり》がおろされるとすぐに、かしずく女たちは新しい女主人のまわりに集まって来て、女主人がくつろぎ、着物の一部をとって身を軽くするのを、手伝いました。そして一同は目をみはってご主人を眺め、そのうるわしさに感嘆し、悦びのあまり、その手足に接吻したのでした。また一方、貴族《アミール》や大臣《ワジール》の妻たちも、ほどなく噂を聞きつけ、ノーズハトゥに敬意を表し、そして彼女がこれから、シャールカーン王子とダマスの四人の大|法官《カーデイ》の前で話す言葉を聞こうとて、急いでここにやってまいりました。そして彼女のもとに行く前に、それぞれ自分の夫に許しを求めることを忘れませんでした。
ノーズハトゥは大臣《ワジール》や貴族《アミール》たちの妻がはいってくるのを見ると、すぐに立ち上がってこれを迎え、ねんごろに接吻して、帷《とばり》の後ろの、自分のそばに坐らせました。彼女は一同に優しく微笑《ほほえ》みかけ、歓迎の言葉をのべて、一同の挨拶や祝詞に答え、たいそう優しくふるまったので、誰しもその礼儀、美しさ、態度、聡明に驚嘆して、お互いの間で言いあったのでした、「なんでも自由の身になった奴隷とかいうことだけれども、この方はまぎれもなく、生まれながらの女王さまで、王のお姫さまでないはずはございませんわ。」そして一同は彼女に言いました、「おお、わたくしどものご主人さま、あなたさまのお出ましによって、わたくしどもの都は明るくなり、わたくしどもの土地とこの御国は、光栄《さかえ》溢れる次第でございます。この御国はあなたさまの御国、この御殿はあなたさまの御殿、そしてわたくしどもはみなあなたさまの奴隷でございます。」すると彼女はその言葉に対して、この上なく優しく、この上なく快い言い方で、厚く一同にお礼をのべました。
ところが、ちょうどこのとき、シャールカーンは帷《とばり》の向う側から彼女を呼んで、申しました、「おお愛《いと》しい乙女よ、当代の宝玉よ、そなたはあらゆる学問に通暁し、わが国の文章法の至難の規則にさえも、通じているということであるが、われら一同はここに、そなたが何か話してくれるのを聞こうとて、待ちもうけているぞよ。」すると若いノーズハトゥは、砂糖の声でもって、帷《とばり》の後ろから答えました、「君のお望みはお言いつけでございまして、わたくしの頭上と眼《まなこ》の中にございます。されば、ご所望に添いまするために、おおご主人さま、わたくしはこれより『人生の三つの門』について、二、三の言葉を申し上げましょう。」
そしてノーズハトゥは、帷《とばり》の後ろから申しました。
三つの門についての言葉
おお、勇ましい王子さま、私はまず「第一の門」「処世術」[#「「第一の門」「処世術」」はゴシック体]について、申し上げましょう。
お聞き下さいまし、人生にはひとつの目的があって、そしてその人生の目的は、熱誠《まごころ》を発達させることでございます。
ところで、主なる熱誠《まごころ》は、信仰上のうるわしい熱情でございます。
けれども、ひとは誰でも熱烈な感激の生活を営まずには、熱誠《まごころ》に到り着けません。そして感激の生活は、人間の四つの大道、「政治《まつりごと》」と「商業」と「農業」と「技芸」と、このいずれの道に従っても、営むことができ、実行されることができまする。
政治[#「政治」はゴシック体]につきましては。この方々、世を治めるように定められた数少ない方々は、広大な政治上の見識と、欠けるところのない慧敏《さかしさ》と、この上ない手腕とを、授けられていることが必要でございます。そしてどのような際にも、ご自分の気分に導かれるようなことがあってはならず、至高のアッラーを最後の目的とする、高い志に導かれなければなりませぬ。そしてもしもその方々が、この目的に則《のつ》とってご自分の行ないを合わせなすったらば、正義が人間のあいだを支配して、不和は地上から絶えることでもございましょう。けれどもたいがいは、この方々はご自分の気持のおもむくところにしか従わず、取り返しのつかないふるまいに及んでしまわれます。と申すのは、およそ人の上に立つ者は、公平無私であって、強き者が弱き者と小さき者を虐げるのをはばむことができればこそ、有益なわけで、さもなければ必要のないものでございます。
それに、ペルシア人の第三代の王、サーサーンの後裔のなかのお一人、大アルデシールー王(45)は、次のお言葉を申されました、「権威と信仰とは双生の姉妹である。信仰は宝物にして、権威はその番人である」と。
そしてわが預言者ムハンマド(その上に平安と祈りあれ)は、仰せられました、「二つのものが世を治める。その二つが正しく汚れなければ、世は正道を行く。そこなわれて悪しければ、世は頽廃に堕する。そは『権威』であり、そは『知』である。」
また「賢人」は仰せられました、「国王は、信仰と、すべて聖なるものと、おのが臣下の権利との、番人であらねばならぬ。しかしながら何よりもまず、筆をとる人々と武人との間の融和を保つに、意を用いなければならぬ。なんとなれば、筆とる人をゆるがせにする者は足を滑らし、傴僂《せむし》となって起き上がるであろう。」
また、大征服者であられたアルデシールー王は、ご自分の領土を四つの地方に分かたれました。そして四つの指環に、四つの玉璽をお作らせになって、お指にはめなされましたが、そのひとつびとつの玉璽は、四つの地方のひとつに宛てられていました。第一の玉璽は、「海岸地方」の指環でございました。以下、他の三つについても、同様でございます。王は、ご自分の王国のすべての部分に秩序を確保なさるため、このようになされたのでした。そしてこの方法は回教時代まで行なわれたのでございます。
また、ペルシア人の王、大ケスラ王(46)は、ご自分の軍隊のうちの一軍をお託しになった王子のもとに、ある日のこと、書面をお寄せになりました。「おおわが子よ、……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、自分の物語をやめた。
[#地付き]けれども第六十一夜になると[#「けれども第六十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ペルシア人の王、大ケスラ王は、ご自分の軍隊のうちの一軍をお託しになった王子のもとに、ある日のこと、書面をお寄せになりました。「おおわが子よ、憐憫の情を頼むことなかれ。そはなんじの権威を失わしむべし。さりながら、またあまりに酷薄にふるまうことなかれ。なんとなれば、そはなんじの士卒の間に、反抗を醸成せしむべし。」
また次のようなことも、わたくしどもに伝えられております。一人のアラビア人が教王《カリフ》アブー・ジャアファル・アブドゥラー・アル・マンスール(47)に拝謁して、申し上げました、「ご自分の犬についてこさせたかったら、これをひもじくしておかれなさいませ。」すると教王《カリフ》はそのアラビア人に対してお怒りになりました。するとアラビア人は申し上げました、「けれどもまた、通りすがりの者が、陛下の犬に食物を差し出さないように、ご注意あそばしませ。なぜなら、さすれば犬は陛下のもとを離れて、その通りすがりの者の後を追うでございましょう。」そこでアル・マンスールもご了解あそばして、それをご参考になさり、アラビア人に贈物を賜わって、お帰しになりました。
また教王《カリフ》アブドゥル・マリク・ベン・マルワーン(48)は、軍を率いてエジプトに派した、弟君アブドゥル・アズィーズ・ベン・マルワーンに、次のような書面を送られた話も、伝えられております。「汝の顧問官や祐筆どもはいなくとも仔細ない。なんとなれば、彼らは汝の知る事柄について汝に教えるのみであろう。これに反し、決して汝の敵をおろそかにすることなかれ。ただ敵のみぞ、汝の士卒の力量を汝に知らしむるものなり。」
讃うべき教王《カリフ》ウマル・イブン・アル・カターブ(49)は、人を用いなさるとき、かならずこれに次の四つの条件を課されました。けっして駄獣に乗らざること、けっして敵から獲た鹵獲品《ろかくひん》を私せざること、けっして豪奢な衣服を着けざること、けっして礼拝の時刻に遅れざること、この四つでございます。――この王の、好んで繰り返しおっしゃったお言葉がございます。「知恵に匹敵する富なく、精神修養にまさる試金石なく、学問研究より大いなる光栄はない。」
次のことを仰せられたのも、やはりウマル王でございます(なにとぞこの君にアッラーのご寵愛あらんことを)。「女に三種ある。自分の夫以外に気を取られず、夫以外眼中にないよき回教徒と、結婚ということに子孫を持つこと以外求めぬ回教徒と、および万人の首輪となる娼婦とである。また男にもやはり三種ある。熟慮し、熟慮ののち行なう賢い者と、熟慮し、しかも識見ある人々の意見を徴するさらに賢い者と、けっして賢人らの忠言を仰がぬ軽はずみの者とである。」
また卓絶せるアリー・ベン・アビー・ターリブ(50)(何とぞこの君にアッラーのご寵愛あらんことを)は、申されました、「女どもの不実に対して油断することなかれ。けっして女に意見を徴するな。しかし、女がますます術策と裏切りを重ねるのを見たくないと思うならば、これを圧迫してはならぬ。〔(51)なぜなら、中庸を知らざる者は狂気におもむくものである。そして万事において、公正にしなければならぬ、ことに奴隷に対しては。〕」
そしてノーズハトゥがこの件《くだり》について、つづけて敷衍《ふえん》してゆこうとしていると、そのとき法官《カーデイ》たちが叫ぶのが、帷《とばり》の後ろから、聞こえました。「マーシャーアッラー、かくもみごとな言葉は、いまだかつてわれら聞いたことがない。だが今は、ほかの二つの『門』について、ぜひ何か聞いてみたいものだ。」そこでノーズハトゥは、たいへん上手に話を変えて、言いました。
またいつの日かわたくしは、他の三つの人間の大道での熱誠《まごころ》について、お話しいたしましょう。というのは、そろそろ「第二の門」[#「「第二の門」」はゴシック体]について、皆さまにお話し申し上げるときでございますから。
この第二の「門」は、「行儀」[#「「行儀」」はゴシック体]と「精神修養」[#「「精神修養」」はゴシック体]の門でございます。
この「門」こそは、おお当代の王子さま、すべての門のなかでいちばん広い門でございます。というのは、これは「完全の門」ですから。おのが頭上に、生まれながらの祝福を持つ人々だけしか、この門内を、広く全体にわたって経めぐることができません。
わたくしはただいくつかの事蹟を選んで、皆さまにお聞かせ申しましょう。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、いつものとおりつつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六十二夜になると[#「けれども第六十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
わたくしはただいくつかの事蹟を選んで、皆さまにお聞かせ申しましょう。
ある日のこと、教王《カリフ》ムアーウィヤー(52)の侍従の一人が、愉快な彎脚男《かまあしおとこ》、アバ・バハル・ベン・カイスが、おめみえを待って戸口に控えておりますと、言上いたしました。すると教王《カリフ》は申されました、「ただちにはいらせよ。」そして彎脚男《かまあしおとこ》アバ・バハルがはいってくると、教王《カリフ》ムアーウィヤーはこれに申されました、「おお、アバ・バハルよ、近う寄れ、そちの言葉をいっそう楽しく聞きたいから。」それから仰せられました、「おお、アバ・バハルよ、そちは余をどう思うか。」彎脚男《かまあしおとこ》は答えました、「はて、私がですか? しかし私の商売はと申せば、おお信徒の長《おさ》よ、人さまのお頭《つむ》を剃り、お鬚を刈り、爪を磨き手入れをし、腋《わき》の毛を取り、鼠蹊《ももね》を剃り、歯の掃除をし、必要とあらば歯茎の血を取りまする。しかし金曜日には、このようなことはいっさいいたしませぬ。それは涜聖を犯すことに相成りましょうから。」すると教王《カリフ》ムアーウィヤーは仰せられました、「してそちは、そち自身をどう思うか。」彎脚男《かまあしおとこ》アバ・バハルは申しました、「私は一方の足をもう一方の足の前に出し、そしてゆっくりと、足を眼でよく見ながら前に進めまする。」教王《カリフ》はそこでお訊ねになりました、「してそちは、そちの上役どもをどう思うか。」彼は答えました、「部屋にはいると、私は科《しぐさ》をせずに上役たちにご挨拶をして、私に挨拶を返して下さるのを待っておりまする。」すると教王《カリフ》はお訊ねになりました、「ではそちは、自分の女房をどう思うか。」けれどもアバ・バハルは叫びました、「こればかりはご容赦下さい、おお信徒の長《おさ》よ。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「いや、ぜひとも答えよ、おおアバ・バハルよ。」彼は申しました、「うちの家内も、すべての女と同様、最後の肋骨《あばらぼね》でもって創られまして、それは質の悪い、よじれ曲った肋骨でございました。」教王《カリフ》はおっしゃいました、「そちは妻女と寝ようと思うとき、どうするか。」彼は答えました、「まず愉快に話をしてやって気を持たせ、それからしかるべきところを撫でまわしてやり、そしておお信徒の長《おさ》よ、そしておわかりのころあいに達しましたとき、私はこれを仰向けに倒しまして、襲いかかります。それから、螺鈿の雫が臀部に十分にちりばめられましたとき、私は叫びます、『おお主よ、なにとぞこの胤《たね》が祝福に包まれるようになしたまえ。そしてこれを悪しき形に仕上げず、美に型どって形づくりたまえ。』それがすむと、起き上がって、急いで洗浄をしにゆきます。水を両手に汲んで、身体に流します。そして最後に、私はアッラーの御恵みを讃えまする。」すると教王《カリフ》は叫ばれました、「まことに、そちの答えは滋味豊かである。さればそちに、何ごとかを余に所望させてやりたい。」すると彎脚男《かまあしおとこ》アバ・バハルは申しました、「公正が万人の間に等しく行なわれることを願うのみでございます。」そして立ち去ってしまいました。そこで教王《カリフ》ムアーウィヤーは仰せられたのでございました、「かりにイラク全国に、あの賢い男が一人しかいないにせよ、それで十分というものだ。」
〔(53)同じように、教王《カリフ》ウマル・イブン・アル・カターブの御世に、大蔵卿は老モアイカブでございました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六十三夜になると[#「けれども第六十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、若いノーズハトゥは次のように申しました。
教王《カリフ》ウマル・イブン・アル・カターブの御世に、大蔵卿は老モアイカブでございました。ところが、ある日のこと、ウマル王のいとけない王子が、乳母を連れてモアイカブに会いに見えました。そこでモアイカブは王子さまに、一ドラクム銀貨を差し上げました。けれどもその後しばらくたってから、教王《カリフ》は彼を召し出して、仰せられました、「ここな横領者よ、なんということをしたのか。」モアイカブは清廉潔白な人物であったので、叫びました、「いったい私が何をしたのでございましょう、おお信徒の長《おさ》よ。」するとウマルは申されました、「おおモアイカブよ、そちがわが子に与えたあのドラクム銀貨は、全回教国民に対して犯した窃盗であるぞよ。」そこでモアイカブは、それが過ちであったことを認めて、一生の間絶えず嘆じておりました、「この地上にウマル王ほどりっぱなお方が、またとおられようか。」〕
またこのような話もございます。この教王《カリフ》ウマルはあるとき、尊ぶべきアスラム・アブー・ゼイドを従えて、夜、散歩にお出ましになりました。すると遥かに、燃えあがる火をご覧《ろう》ぜられたので、ご自分が行けば何かの役に立とうと思われて、近づいてゆかれると、一人の貧しい女が、鍋の下で薪を焚きつけているのでした。その両脇には、二人の見すぼらしい子供がひいひい泣いております。そこでウマルは仰せられました、「おおご婦人よ、平安おんみの上にあれ。おまえさんはこの夜なかに、こんな寒いなかを、たった一人で何をしているのかね。」女は答えました、「お殿さま、私はすこしお湯を沸かして、寒さと飢えで死にそうになっている子供たちに、飲ませてやろうと思っています。けれども、そのうちいつか、アッラーが教王《カリフ》ウマルさまに、私どもが苦しい目を見ているわけを、お訊ね下さることでしょう。」そこで、身をやつしていられた教王《カリフ》は、いたくお心を動かされて、おっしゃいました、「だがおおご婦人よ、ウマルさまはおまえさんの苦しい目を助けて下さらないとすれば、それをご存じないのじゃないかね。」女は答えました、「でも、もしそんなふうに、人民と臣下めいめいの苦しい目をご承知ないとすれば、どうしてウマルさまは教王《カリフ》になっていられるでしょう。」すると教王《カリフ》は口をつぐんで、アスラム・アブー・ゼイドに仰せられました、「早く、行くといたそう。」
そして王室の経理局に着くまで、大急ぎで歩いてゆかれ、経理局のお庫におはいりになって、粉袋のなかから一袋と、羊の脂《あぶら》の詰まった甕をひとつ取り出されて、そしてアブー・ゼイドにおっしゃいました、「手を貸して、これを余の背中に背負わせよ、おおアブー・ゼイドよ。」けれどもアブー・ゼイドは叫んで、申しました、「どうぞこの私に背負わせて下さいまし、おお信徒の長《おさ》よ。」王は静かにお答えになりました、「されど『復活』の日にも、汝アブー・ゼイドが、わが罪の重荷を背負ってくれるであろうか。」そしていやおうなくアブー・ゼイドに、粉袋と羊の脂の壺を、ご自分のお背に載せさせました。そして教王《カリフ》はこうして荷物を背負って、例の貧しい女のところにお着きになるまで、大急ぎで歩きなさいました。それから粉を取り出し、油を取り出して、火にかけてある鍋に入れ、お手ずからその食物をお作りになり、ご自身火の上に身をかがめて、お吹きあそばしました。そしてひじょうに豊かなお鬚をたくわえていらっしゃったもので、薪の煙が、お鬚の隙間をかきわけて、通り抜けるのでした。いよいよその食物が出来上がりますと、ウマルはこれをその女と子供たちにお出しになり、彼らはウマルが吹いて冷《さ》まして下さるにつれて、次から次へと、思うぞんぶんいただいたのでございました。するとウマルはその粉の袋と脂の甕をそこに残して、アブー・ゼイドにこう仰せられながら、立ち去りなさいました、「おおアブー・ゼイドよ、余があの火を見た今は、あの火の光が余の蒙を明るくしてくれたわい。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六十四夜になると[#「けれども第六十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、若いノーズハトゥは次のように話をつづけたのでございます。
またこの同じ教王《カリフ》ウマルは、ある日のこと、主人の山羊の群れを野に曳いてゆく、一人の奴隷に出会われますと、これをとどめて一頭の山羊を買おうとなさいました。けれども、その羊飼いは申しました、「これは私のものではございません。」すると教王《カリフ》は羊飼いに仰せられました、「感心な羊飼いだ、おれはおまえ自身を買い取って、自由の身としてやろう。」そしてその主人から羊飼いを買い取って、放してやりました。と申すのは、ウマル王はお心の中でひとりおっしゃったのでした、「一人の清廉な人間に、毎日出会うわけにはゆかぬ。」
またある日、ウマル王のお身内のハフサさまが、王にお目にかかりにきて、申されました、「おお信徒の長《おさ》さま、このたびあそばされたご遠征で、たいそうお金を儲けられたと承わりました。つきましては、わたくしはお身内の権利として、少しく頂戴いたしにまいりました。」するとウマルは仰せられました、「おおハフサよ、アッラーは余を回教徒の福祉の番人に任じたもうたのだ。あの金はすべて、回教徒の共通の福利のためにある。余はそちの悦びとそちの父とのつながりのためには、あれに手はふれまい。かくして、余は余の民全体の利益をば侵さぬつもりじゃ。」
ここでノーズハトゥは帷《とばり》の蔭から、満足の極に達した眼に見えない聞き手たちの、感嘆の声を聞きました。そこでしばし話すのをやめて、それから言いました。
ではこれから「第三の門」[#「「第三の門」」はゴシック体]についてお話し申しましょう。これは「徳の門」[#「「徳の門」」はゴシック体]でございます。
これは、預言者(その上に平安と祈りあれ)のお仲間と、回教徒の間の義《ただ》しい人々との生活から取り出した、いくつかの例をもって、お話しいたしましょう。
〔(54)ハサン・アル・バスリはこう申されたと、伝えられております。「息を引き取るに先立って、この世で三つの事を憾《うら》みに思わぬ者とてない。一生の間自分が貯えたものを、十分に享楽し得なかったこと、常に変らず望んだところに、遂に到達し得なかったこと、それから、永い間考えを練った計画を、実現し得なかったこと。」〕
また一人の友人があるとき、サフィアーン(55)に訊ねました、「金持ちの人は有徳になることができましょうか。」サフィアーンは答えました、「いかにもできるが、それは、金持ちが運命の浮沈に対してよく耐え忍ぶときと、自分が恩を施した人に対して、『おお、わが兄弟よ、君のお蔭で私はアッラーの御前で香気ある行ないをすることができた』と言って、これに感謝するときに、そうなれるのだ。」
〔(56)アブドゥラー・ベン・シェダッドは死の間近いのを見ると、わが子のムハンマドをそば近く呼んで、言いました、「おおムハンマドよ、わしの最後の戒めを聞かせよう。公私ともに、アッラーへの信心を涵養せよ。汝の言において常に真実であれ。アッラーの賜物に対して常にアッラーをたたえ、アッラーに感謝せよ。なんとなれば、感謝はさらに他の恵みを招くからだ。そしてわが子よ、幸福はけっして〕積み重ねた富のうちにはなく、信心のうちにこそあると知れよ。なんとなれば、アッラーは汝にあらゆるものを授けたもうであろうからだ。」
またこのような話も伝えられております。信仰篤いウマル・イブン・アブドゥル・アズィーズ(57)が、ウマイヤ朝第八代の教王《カリフ》となられると、王は裕福を極めるウマイヤ家の一族全部を集めて、そのあらゆる富と財産をご自分に引き渡させて、これをそのまま国庫に納めさせなさいました。そこで一同はうちそろって、マルワーンのご息女で、教王《カリフ》の叔母君にあたり、ウマル王が深く敬意をはらっていられた、ファーティマさまをお訪ねして、どうかこの災難を救って下さいとお願いしました。そこでファーティマは、ある夜|教王《カリフ》に会いにいらっしゃって、黙って敷き物の上にお坐りになりました。すると教王《カリフ》はおっしゃいました、「おお叔母上、どうぞお話し下さいませ。」けれどもファーティマはお答えになりました、「おお信徒の長《おさ》よ、おんみこそご主君でありますから、私から先に口を切ることなぞかないませぬ。それに、おんみには何ごとも隠れたことなぞなく、私がここにまいったわけさえも、おわかりのことです。」そこでウマル・イブン・アブドゥル・アズィーズはおっしゃいました、「至高のアッラーは、人類のための慰安となし、あらゆる後代の人々のための慰藉たらしめんとて、その預言者ムハンマド(その上に平安と祈りあれ)をば、お遣わしになられました。そこで預言者(その上に平安と祈りあれ)は、必要とお思いになったいっさいを取り集め、取り上げられましたが、しかし人間に、世々の末までその渇を医する河川をば、残しておいて下さいました。そしてこの私、教王《カリフ》には、この河川を決して横に逸《そ》らしたり、砂漠のなかに紛れ入らせたりしないという、義務《つとめ》が与えられたのでありまする。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六十五夜になると[#「けれども第六十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、年若いノーズハトゥは、シャールカーン王子と、四人の法官《カーデイ》と、商人とが、耳傾けているなかで、帷《とばり》の蔭で、このように話をつづけたのでございました。
「そしてこの私、教王《カリフ》には、決してこの河川を横に逸《そ》らしたり、砂漠のなかに紛れ入らせたりしない義務《つとめ》が与えられたのでありまする。」すると叔母君ファーティマは申されました、「おお信徒の長《おさ》よ、お言葉はよくわかりました。私の言葉は無用となりました。」そして立ち去って、お待ちしている|ウマイヤ一族《バニ・ウマイヤ》の方々に会われて、一同に申されました、「おおウマイヤの後裔たちよ、あなた方はウマル・イブン・アブドゥル・アズィーズを教王《カリフ》にいただくことが、どんなにあなた方の大きな幸運であるか、ご存じないのです。」
またやはり清廉な教王《カリフ》、ウマル・イブン・アブドゥル・アズィーズのお話でございますが、教王《カリフ》は死の近きをお感じになるや、全部のお子さま方をまわりにお集めになって、仰せられました、「貧の香気は主《しゆ》に快いものであるぞよ。」すると、いあわせた一人、モッスリム・イブン・アブドゥル・マレクは、申し上げました、「おお信徒の長《おさ》よ、わが君はなにとてこのように、王子さま方を、貧しさのうちに残してゆかれるのでございましょうか、わが君は国庫のなかから引き出して、王子さま方を富ませてさしあげることもおできになるものを。これらいっさいの富をば、お世継にお残しあそばされるにしかぬのではございますまいか。」すると瀕死の床《とこ》に横たわっておられた教王《カリフ》は、いたくお憤りになり、いたくお驚きあそばして、仰せられました、「おおモッスリムよ、なにとて余は末期のきわにのぞんで、今さら子らに、かの腐敗の範を与え得ようぞ、余は終生彼らに正しき道を歩ませていたものを。おおモッスリムよ、余は世にあるとき、先王のお一人の葬儀に列したことがあったが、余の眼は種々の事柄を見て、それを解した。そしてそのとき余は、万一余が他日|教王《カリフ》となることに相成っても、その先王が生前なされたごとくには、断じていたすまいと、固く心に誓ったのであるぞ。」
そしてこの同じモッスリム・イブン・アブドゥル・マレクは、わたくしどもに次のように語っております、「ある日のこと」と申されます。「ちょうどある苦行者の老翁《シヤイクー》の埋葬から戻って、眠ったと思うと、わしは夢を見た。その尊ぶべき老翁《シヤイクー》は、素馨の衣服をまとって現われてきた。幾条もの流水が注ぎ、花咲くレモンの樹上に止まって酔心地の微風が、さわやかに渡る歓楽郷を、遊歩しておられたのだ。そしてわしに言った、『おおモッスリムよ、末にはこのようになるためならば、人は世にあるうち、そもそも何事をしないであろうか』と。」
またわたくしの耳にいたしましたところでは、ウマル・イブン・アブドゥル・アズィーズの御代に、羊の乳をしぼるのを業としている一人の男が、友達の羊飼いに会いにゆきますと、羊の群れのなかに、二匹の狼がいましたが、彼はそれを犬と思い、そのたけだけしい様子にたいそう恐ろしがって、羊飼いに言いました、「あんなものすごい犬を何にするんだね。」すると羊飼いは言いました、「おお乳しぼり君、あれは犬じゃなくて、馴らした狼なのだよ。だがこいつらは羊の群れに害をしない、おれが頭《かしら》で取り締まっているからね。頭がすこやかなら、からだもすこやかなものさ。」
またある日、教王《カリフ》ウマル・イブン・アブドゥル・アズィーズは、泥で築いて乾《かわ》かした壇上から、人民を集めて説教をなさいましたが、それはただの三つの文句のお説教でございました。次の言葉でお結びになったのでした。「アブドゥル・マレクは亡くなったし、その前後の方々もまた亡くなられた。そして余ウマルもまた、この方々すべてと同様、やはり死ぬであろう。」そのとき、モッスリムが言上しました、「おお信徒の長《おさ》よ、この講壇は少しも教王《カリフ》たるものにふさわしくございませぬ。手すりの鎖さえついておりませぬ。せめて手すりの鎖だけでも、取りつけさせて下さいませ。」けれども教王《カリフ》は、静かなお声で仰せられました、「おおモッスリムよ、さらばそちは、このウマルが審判の日に、その鎖の一端を頸につけていることを望むのか。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]けれども第六十六夜になると[#「けれども第六十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、若いノーズハトゥはつづいて申しました。
〔(58)同じ教王《カリフ》は、ある日仰せられました、「余はアッラーが余に死を免じて下さることを、いささかも望まぬ。なんとなれば、そは真の信徒に授けらるる、最後の恩恵であるからじゃ。」〕
またカレド・ベン・サフーアーンはある日、侍史と従者に囲まれて、天幕の下におられた、教王《カリフ》ヒシャームのもとに伺候しました。そして御前に出ますと、申し上げました、「なにとぞアッラーが、わが君に御恵みの限りをつくしたまわんことを、おお信徒の長《おさ》よ、そしてなにとぞわが君の至福に、一滴の苦汁をもまじえたまわざらんことを。さて今私は、いささかもこと新しくはござりませぬが、古き事柄の値打を帯びた言葉を、いささか申し上げとう存じます。」すると教王《カリフ》ヒシャームは申されました、「申したきことを申せ、おおイブン・サフーアーンよ。」彼は申しました、「むかし、おお信徒の長《おさ》よ、この地上に過ぎ去った、もろもろの年月《としつき》のうちのある年月に、わが君に先立つ、もろもろの王のうちの一王がいらせられましたが、その王は、まわりに坐っていた人々に向かって、言われました、『おお汝ら一同よ、汝らのうちに、栄うること余に等しく、あるいは余の寛仁に等しく寛仁なる王を、かつて識《し》った者が誰ぞあるか。』ところで居並ぶ人々の間に、巡礼によって祝聖せられ、真の知恵を授けられた一人の人物がおりまして、申しました、『おお王さま、わが君はわれわれに非常に重大な問いを発せられましたが、それに対して、私は敢えてお答え申すお許しを、仰ぎとう存じまする。』王は言われました、『よろしい。』その方は言いました、『わが君の現在おられまする誉れと栄えとは、永続するものでございましょうか、それともよろずのことどもと同じく、ただひとときのものでござりましょうか。』王は答えられました、『ひとときのものじゃ。』その方は言いました、『しからば、そのようにただひとときの事柄で、そして他日、わが君が委細復命申さねばならぬであろう事柄に対して、なにとて、かくも由々しき問いをお発しあそばすことができましょうぞ。』王は答えられました、『汝の言うところはもっともである、おお尊者よ。されば余はいま果たして何をなすべきであるか。』その方は申しました、『おんみを祝聖せらるることでございます。』すると王は、ただちに王冠をおいて、巡礼の衣をまとい、聖都へと出発されたのでありました。――そしてわが君、おおアッラーの後継者《カリフ》よ」とイブン・サフーアーンはつづけて言いました。「わが君にはいかがあそばさるるおつもりでしょうか。」すると教王《カリフ》ヒシャームは感動の限り感動なさいまして、はなはだしく涙をお流しになり、それがあまり長い間のことでございましたので、お鬚をすっかりお濡らしになったのでありました。そしてひき籠ってとくとお考えになろうとて、御殿にお戻りになったのでございます。
このとき、帷《とばり》の向うで、法官《カーデイ》たちと商人とは叫びました、「やあ、アッラー、なんとこれはあっぱれなことか。」
するとノーズハトゥは言葉を切って、そして言いました、「この『道徳の門』には、もっともっと崇高な事蹟がまだいくらでもございまして、それらをただの一度の席上で、皆さま方にお話し申し上げることは、とてもいたしかねる次第でございます、おおご主人さま方。けれどもアッラーがわたくしたちに、給うにさらに長い時日をもってして下されば、その節は、皆さま方に十二分にご会得していただくこともかないましょう。」
そこでノーズハトゥは口をつぐみました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、自分の物語を明日にのばした。
[#地付き]けれども第六十七夜になると[#「けれども第六十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、こう申して、ノーズハトゥは口をつぐんだのでございます。
すると四人の法官《カーデイ》は叫びました、「おお当代の王子さま、まことにこの年若い乙女は、今の世の、またあらゆる世々を通じての、驚異でございます。私どもにおきましては、私どもはいまだかつて、この乙女に類《たぐ》うべき何ぴとかを、見たこともなければ、もろもろの時代のうちのある時代に、かほどの乙女がいたという話を、聞いたこともございません。」
こうのべて、一同は無言のうちに立ち上がり、シャールカーン王子の手の間の床《ゆか》に接吻して、おのが道に立ち去りました。
そこでシャールカーンは侍者たちを呼んで、これに申しつけました、「汝ら急ぎ婚礼の準備をいたし、饗宴のために、あらゆる種類の茶菓、馳走の用意をいたせ。」そこで侍者たちは急いでご命令に従い、申しつけられたもの全部を、すぐさま準備いたしました。そしてシャールカーンは、ノーズハトゥの言葉を聞きに来た貴族《アミール》と大臣《ワジール》たちの妻女を、そのまま婚礼に引き止めて、花嫁の行列に加わるように招じました。
こうして、日傾時《アスル》になると早々、饗宴が始まって、卓布が広げられ、耳や舌を満足させ、眼を楽しませることのできる、あらゆる品々が出されました。そして招客一同は、心ゆくまで食べかつ飲みました。するとシャールカーンは、ダマスで最も名うての歌妓《うたひめ》たちと、御殿の舞妓《まいひめ》全部を呼び寄せました。そして婚礼は、饗宴の間《ま》を鳴りどよめかし、悦びは、すべての人々の胸を満たしました。夜になると、御殿全体は、砦から城門まで、お庭の右左の並み木道も全部、すっかり火がともされました。そしてひとたびシャールカーンが浴場《ハンマーム》から出ると、貴族《アミール》と大臣《ワジール》たちは、王子の手の間に祝辞を奉り、繁栄《さかえ》の祈りを呈上しにまかり出ました。
そしてシャールカーンが、特別にしつらえた新郎新婦の座につくと、そこににわかに、二人の代母に支えられた、花嫁ノーズハトゥといっしょに、御殿の女たちが、二列に並んでしずしずと、はいってまいりました。そして更衣の儀式がすむと、一同はノーズハトゥを婚姻の部屋に案内して、着物を脱がせ、からだのお化粧に取りかかろうといたしました。けれども一同は、この一点の汚れもない鏡、薫香の肉身には、お化粧は全然入用がないとわかりました。そこで代母は、世間の代母が婚礼の夜に、若い娘たちにするような注意を、若いノーズハトゥにして、あらゆる種類の歓楽を祈ってから、薄い肌着だけを着せて、ただひとり、寝床の上に残して行きました。
するとシャールカーンは、婚姻の部屋にはいってまいりました。彼は、この妙なる乙女が自分の妹のノーズハトゥであろうなどとはつゆ思わず、また乙女のほうも、ダマスの王子が自分の実の兄シャールカーンであろうとは、まったく知らなかったのでございました。
さればその夜、シャールカーンは年若いノーズハトゥをばわが物といたしました。二人の歓楽は、双方にとって、たいそうなもので、ノーズハトゥはその夜とたんに身ごもったほど、万事はうまく行ったのでした。そして彼女はシャールカーンに、その旨を打ち明けずにはおきませんでした。
するとシャールカーンは非常に悦んで、朝になると早々に、御典医たちに、この懐妊の幸ある日を記録しておくように命じました。そして王座に上がって坐り、貴族《アミール》や大臣《ワジール》や国の大官たちの祝辞を受けました。
それがすむと、シャールカーンは自分の祐筆を召して、次のことを口授し、父君オマル・アル・ネマーン王に書き送るよう、命じました。自分はある商人から、美貌と、知恵と、学識教養なにひとつ欠くるところのない、一人の若い乙女を買い取って、妻としたこと、その乙女を奴隷の身分から解放して、自分の正妻となしたこと、その妻は、初夜ただちに、自分の胤《たね》を宿したこと、ほどなく妻をバクダードに遣わして、父君オマル・アル・ネマーン王をはじめ、妹ノーズハトゥと、弟ダウールマカーンに会わせるつもりであるということ。次に、手紙を書き終えると、シャールカーンはそれを封じて、早飛脚に託しますと、飛脚はすぐにバグダードに向けて出発し、二十日後には、オマル・アル・ネマーン王の御返書を捧じて、戻ってまいりました。その御返書には、次のように認《したた》められておりました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六十八夜になると[#「けれども第六十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
その御返書には、次のように認められておりました。
まずアッラーへの祈願を記《しる》してのち、
[#ここから2字下げ]
「この書面は、懊悩し、自失し、苦悶と悲嘆とにやるせなき者、おのが心魂の宝と子らとを失いし者、不幸なるオマル・アル・ネマーン王よりして、愛児シャールカーンに送らるるものなり。
おおわが子よ、余の不幸を聞け。汝ダマスに向けて立ちてのち、余は余の心魂の上に館《やかた》のすこぶる狭まるをおぼえ、かくてもはや悲哀に耐えず、大気を吸い、いささかわが憂いを払わばやとて、狩猟にいで立ちぬ。
かくてひと月を狩猟に過ごしてのち、帰来せしところ、余は汝の弟ダウールマカーンおよび汝の妹ノーズハトゥ両人が、聖メッカの巡礼隊とともに、ヘジャズへ向けて発足せる旨を知れり。両人はかくて余が不在に乗じて、出奔せるなり。なんとなれば、余はダウールマカーンに、いまだ齢《よわい》足らざるをもって、本年は巡礼《ハジ》を試みるを許容せず、しかれども、来年はともに相携えて出発せんと約せしなり。しかるを、彼はよく待つ能わず、ほとんど路用の資にも足らざるものを携えて、姉とともども、かくして出奔せり。その後|杳《よう》として消息なし。巡礼たちは帰来せしも、汝の弟妹はともにあらず。何ぴとも両人の行方を告げ得る者なかりき。かくて今や余は彼らのために喪服をまとい、わが涙と苦悩とのうちに沈湎す。
おおわが子よ、汝の消息を伝うるに遷延することなかれ。余はわが平安の祈りを、汝および汝がもとにある一同に送るものなり。」
[#ここで字下げ終わり]
さてシャールカーンは、このお手紙を受け取ってから数カ月たつと、父王のこのご不幸を妻に知らせることにしました。それまでは、懐妊の身にさわりがあってはと思って、控えていたのですが、今はもう娘を産み落としていたので、シャールカーンは妻の部屋にはいって、まず最初に娘に接吻しました。すると妻は申しました、「この娘《こ》は生まれてから、ちょうど七日になりました。ですから七日目の今日は、習慣《ならわし》どおり、この娘に名前をつけて下さらなければなりません。」そこでシャールカーンは娘を抱き上げて、そしてよく見ると、その首には、あの不運なカイサリアの王女アブリザの、霊験あらたかな三つの宝石のうちの一つが、金の鎖で吊るされているのが、眼にとまったのでした。
これを見ると、シャールカーンは非常に心を乱されて、思わず叫びました、「いったいどこでこの宝石を手に入れたのか、おお奴隷女よ。」するとノーズハトゥは、この奴隷女という言葉を聞いて、憤りに息もつまる思いで、叫びました。
「わたくしはあなたさまの女《おんな》主人《あるじ》で、この御殿に住む者一統の女主人でございます。わたくしはあなたさまの王妃《おきさき》でございますものを、なにとてこのわたくしを奴隷呼ばわりあそばしますか。いえ、こうなっては、もはやわたくしの秘密を守ってはおられませぬ。そうでございます、わたくしはあなたさまの王妃《おきさき》でございます、わたくしは王の女《むすめ》でございます。わたくしこそはオマル・アル・ネマーン王の女、ノーズハトゥザマーンでございます。」
シャールカーンはこの言葉を聞くと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第六十九夜になると[#「けれども第六十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
シャールカーンはこの言葉を聞くと、たちまち全身うち顫え、茫然として、頭を垂れてしまいました。そのうち次第に蒼ざめて、やがて気を失って倒れてしまいました。そしておのれに返ったとき、彼はまだ事を信じきれずに、ノーズハトゥに訊ねました、「おおわが主人よ、そなたはまさしく、オマル・アル・ネマーン王の王女その人なのか。」彼女は答えました、「いかにも、わたくしは王女でございます。」すると彼は言いました、「その貴い宝石がすでに真実のしるしではあるが、さらに他の証拠をも示してもらいたい。」そこでノーズハトゥはシャールカーンに、その身の上を委細語りました。それはここに繰り返すまでもございません。
そこでシャールカーンもまったく疑う余地なく、心の中で言いました、「何ということをいたしたのか。なにとて、実の妹と結婚するなどということを、仕出かしたのか。されば、万事を救う唯一の手段としては、ただこれに誰か他の夫を見つけるよりほかにない。そのためには、わが侍従の一人にこれを与えて、結婚させよう。そして万一、事が知らるるに到った場合は、おれはともに寝《い》ねる前に離別したという噂を、立てさせるとしよう。」次にシャールカーンはその妹のほうに向いて、これに言いました、「おおノーズハトゥよ、こんどはそちに知らせよう、じつはそちはわが妹なのだ。というのは、そちはおそらくわれらの父上の御殿で、かつて余の噂を聞いたことがなかろうが、余はオマル・アル・ネマーンの王子シャールカーンである。なにとぞアッラーのわれらを許したまわんことを。」
ノーズハトゥはこの言葉を聞くと、ひと声大きな叫び声をあげて、気を失って倒れてしまいました。やがておのれに返ると、彼女はわれとわが頬を打ち、悲しみ、泣きはじめました。そして言いました、「ああ、わたくしたちは恐ろしいことに陥ってしまいました。これから先どういたしましょう。父上、母上が『この娘はどこの子か』とお訊ねになったとき、何とお答え申したものでしょう。」するとシャールカーンは言いました、「万事を取りまとめる最上の道は、そちをばわが侍従長と結婚させることと思うのだ。なぜなら、かくすれば、何ぴともこの件を疑い得ないであろう。されば、おおノーズハトゥよ、これこそたしかに、この場を救う最上の策だ。われらの秘密が洩れぬうちに、これよりただちにわが侍従長を呼びよせよう。」それからシャールカーンは妹を慰めはじめ、優しく頭に接吻してやりました。すると彼女は言いました、「おおシャールカーンさま、それで結構でございます。けれども、この娘《こ》には、どういう名前をお選び下さいますか。今日はちょうどそのおりでございます。」するとシャールカーンは言いました、「『運命の力』と呼ぶことにいたそう。」
そしてシャールカーンは、急ぎ自分の侍従長を召し出して、これにノーズハトゥを与えて、その場で結婚させ、これにその他さまざまな贈物をつくしました。そして侍従長は、ノーズハトゥとその娘を自分の屋敷に連れて行って、彼女自身に十分の敬意と手当てをつくし、小さな娘をば、乳母や侍女の世話に委ねることを怠りませんでした。
こうした次第でございます。そして一方では、ノーズハトゥの兄ダウールマカーンと親切な浴場《ハンマーム》の風呂焚きとは、ダマスの隊商《カラヴアン》といっしょに、バグダードに向けて出発しようとしていたのでございました。
ところが、こうしているうちに、オマル・アル・ネマーン王よりして、第二の飛脚が到着して、シャールカーン王子に第二のお手紙を届けたのでございます。そのお手紙の文面は次のようでございました。
まず祈願を記《しる》してのち、
[#ここから2字下げ]
「この書面は、おおわが愛児よ、余は依然としてわが苦悩に捕われ、わが子らと境を異にしてある苦渋を味わいつつある由を、汝に知らせんとて認《したた》めらるるものなり。
次。この書状を受け取り次第、汝はシャム地方の年貢を当方に届け、同時にその一行を利して、汝が若き妻女を当方に遣わすべきものなり、余はぜひともその妻女を見知りおきたく、とくにその者の学識教養のほどを、試みたき念切なり。じつは先ごろわが宮殿に、ルーム人の国より一人の人品卑しからざる老婆、乳円く、純潔無垢の五人の乙女を従えて、まかり来たれり。この五人の乙女は、およそ人間として、学識人知の及び得るいっさいを識るもの。この乙女らの美質と老婆の知恵とは、とうてい言語をもって名状するあたわず。およそありとあらゆる完璧を備うるものなればなり。されば、余はかれらに対して真の愛情を覚え、これをばわが宮殿と王国内とに、身近に置きて、わが有《もの》といたしたく思いたり。なんとなれば、地上のいかなる王も、おのが宮殿にかかる装飾を持つ者なければなり。されば余は老婆に、その代価を問いしところ、答えて曰く『シャムならびにダマスの地方の年貢と換うるにあらずんば、手放すあたわず』と。余をもってすれば、アッラーにかけて、この値はけっして高価なるものとは思われず、むしろこの乙女らには、過分ならざるものとすら思われたり。この五人の乙女は、おのおのその一人すらも、これよりも価値あるものなればなり。されば余はすなわちこの代価を承諾して、一同をわが宮殿に住むよう請じて、年貢の近き到着を待つこととせり。されば余は、おおわが子よ、汝の配慮により、一日もすみやかにその到るを待つ者なり。なんとなれば、老婆は永く当地にとどまるを欲せず、帰国を急ぐ次第なればなり。
わけても、わが子よ、同時に、汝が若き妻女を当方に派するを忘るることなかれ。その学識は、五人の乙女の知識のほどを鑑定するに、われらに役立つべし。しかして、もし汝の若き妻女にして、学識教養においてこの乙女らを打ち破るに至らば、余は汝自身に、この乙女らを贈物として遣わし、あわせて、バグダードの都の年貢を汝に贈るべき旨を、ここに約す。
汝および汝が館の者一同の上に、平安あれかし、おおわが子よ。」
[#ここで字下げ終わり]
シャールカーンはこの父君の御親書を読むと……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十夜になると[#「けれども第七十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
シャールカーンはこの父君の御親書を読むと、さっそく義弟の侍従を呼び寄せて、これに言いました、「余がそのほうにめあわせた若い奴隷を、ただちに呼びにやれ。」そしてノーズハトゥが来ると、シャールカーンはこれに言いました、「おお妹よ、このわれらの父王のお手紙を読んで、そちの考えを言ってもらいたい。」するとノーズハトゥは手紙を読み終わって、答えました、「兄上さまのお考えになることは、いつでもよく考えられたことですし、兄上さまのお計画は、最上のものでございます。さりながら、もしわたくしにお訊ねとあらば、わたくしのもっとも切なる望みは、ご両親と故郷を見ることでございますと、申し上げましょう。そしてわたくしをば、夫の侍従長と連れ立って出発させて下さって、わたくしが口ずから、父上にわたくしの身の上をお話し申し上げ、わたくしとベドウィン人との間に起こったいっさいやら、どうしてベドウィン人がわたくしを商人に売ったか、またどうして兄上さまが、お寝《やす》みにもならずにわたくしを離別して、侍従の頭《かみ》に与えて結婚させなすったかなどの顛末を、父上にお話し申すことができるようにして下さればと、お願いいたすでございましょう。」するとシャールカーンは答えました、「しからばさようにするといたそう。」
そこでシャールカーンは、自分が王子の義弟であろうとはつゆ知らぬ、侍従の頭《かみ》を呼んで、これに申しました、「そのほうはこれより、わが父君にダマスの貢物をお届けする一行を従えて、バグダードに出発せよ。して、そのほうの妻、余が汝につかわしたる若き奴隷を、ともに引き連れよ。」侍従の頭《かみ》は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そこでシャールカーンは、彼のために、みごとな駱駝に載せた轎《かご》一台を用意させ、またノーズハトゥのために、旅中の轎をさらに一台用意させました。そして侍従長に、オマル・アル・ネマーン王あての書面を託し、小さな娘「運命の力」をば、自分の御殿に引き取って、もとどおりその頸に、不幸なアブリザ姫の三つの宝石のなかの一つが、金の鎖で吊るされているかどうかをとくと確かめた上で、二人に別れを告げました。そして王子は、この娘を御殿の乳母と侍女たちに託しました。ノーズハトゥは、娘が何一つ事欠くことがないと安心できると、夫の侍従といっしょに遠ざかって行きました。そして夫妻は、めいめいみごとな乗用の単峰駱駝に座をしめて、一行の先頭に立って進んだのでございました。
ところで、浴場《ハンマーム》の風呂焚きとダウールマカーンが、連れ立って、ダマスの太守の御殿まで散歩に出かけ、この駱駝や、ろばや、炬火《たいまつ》持ちなどを見たのは、ちょうどその夜のことだったのでございました。それでダウールマカーンは従者の一人に訊ねました、「この荷物全部はいったいどなたのものですか。」その男は答えました、「これは、オマル・アル・ネマーン王へのダマスの都の貢物だよ。」
するとダウールマカーンは訊ねました、「この一行の首領はどなたですか。」その男は言いました、「あの学問と知恵にたいへん通じていらっしゃる若い女奴隷を、奥さまにしていなさる侍従長さまだ。」するとダウールマカーンは、ひどく泣きはじめたのでした。それは、姉のノーズハトゥや、自分の家族や、故郷のことなぞの思い出が、立ち返って来たからでございます。そして彼は親切な風呂焚きに言いました、「さあ兄弟よ、この一行といっしょに出発しようではありませんか。」すると風呂焚きは言いました、「ではわしもごいっしょに行くとしよう。せっかくエルサレムからダマスまでおともをしたのだから、今さらバグダードまで、おひとりでやるわけにはゆかない。」ダウールマカーンは答えました、「おお兄弟よ、私はおんみを愛し、敬います。」そこで風呂焚きは万端の用意をととのえ、ろばの上に荷鞍を置き、ろばの上に袋を置き、袋の中に食糧を入れました。次にしっかりと帯を締め、衣服の垂れをたくし上げて、それを帯に結びつけ、ダウールマカーンをろばに乗せました。するとダウールマカーンは彼に言いました、「あなたも私の後ろにお乗りなさい。」けれども風呂焚きは辞退して、言いました、「まあご遠慮いたしましょう、おおご主人よ。わしはどこまでもあなたにかしずきたいと思うから。」ダウールマカーンは言いました、「ではせめてひとときなりと、私の後ろに、ろばに乗って休んで下さい。」彼は答えました、「もしひょっとしてひじょうに疲れたら、あなたの後ろに乗ってひととき休むことにしましょう。」そこでダウールマカーンは言いました、「おお兄弟よ、今のところはまったく、私としてひと言も申し上げることができません。だが、われわれが私の父母のもとに着いた暁には、私がどんなにあなたの献身に報いることができるか、わかっていただけることと思います。」
そしてその一行が、夜の涼しさに乗じて、進発しようとしていたので、徒歩の風呂焚きと、ろばの上のダウールマカーンも、そのあとについて行きました。一方侍従長と妻のノーズハトゥは、多くのおともに取り囲まれながら、おのおの純血種の単峰駱駝に乗って、一行の先頭に立っておりました。
こうして一同は、太陽の登るまで、夜どおし進みました。そのうち、暑気があまりに厳しくなったので、侍従長は、とある棕櫚の茂みの木蔭に止まることを命じました。そこで人々は地におりて休憩し、駱駝や荷を負う獣《けもの》に水をやりました。それがすむと、一同はふたたび出発して、さらに五夜を進んで、ある町に着き、そこに三日滞在しました。それからさらに旅をつづけてゆくうちに、いよいよもうバグダードからいくらもへだたっていないところまで、行き着きました。そのことは、バグダードから吹いて来る微風によってわかりましたし、それはただバグダードからだけしか吹いて来るはずのない、微風でした……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十一夜になると[#「けれども第七十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
ダウールマカーンは、この自分の故郷の微風を身に感ずると、風の息吹きは、姉ノーズハトゥや父や母の思い出で、彼の胸を満たしました。そして彼はすぐに姉がいないこと、また、彼がノーズハトゥといっしょでなく、ただ一人帰って来たのを見たときの、ご両親の嘆きを考えたのでした。そこで涙を流し、胸迫って耐えがたい思いがいたしまして、次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
わが愛する者よ、われは遂に汝に近づくを得ざるか。わが愛する者よ、しかして、この沈黙は永久に勝ち誇るものならんか。
ああ、共に在りし時とその歓びの、いかばかり短き。ああ、相見ぬ日々のいかばかり長き。
来たれ、来たって、わが手を執れ。今やわが身は、燃え熾《さか》るわが欲求《のぞみ》に溶けて了《おわ》んぬ。
来たれ、しかしてな言いそ、忘れよと。アッラーにかけてな言いそ、わが心を慰めよと。わが唯一の慰藉《なぐさめ》は、汝《なれ》をわが腕《かいな》の中に感ずることにこそあれ。
[#ここで字下げ終わり]
すると親切な風呂焚きは、彼に申しました、「わが子よ、もうそんなにお泣きなさるな。それに、私たちは侍従さまご夫婦の天幕の、すぐそばに坐っているということも、お考えなさい。」彼は答えました、「かまわずに私を泣かせておいて下さい。私をあやして、多少はこの心の焔を消してくれる詩を、誦させておいて下さい。」そして今は風呂焚きの言葉も聞かずに、月光の下で、顔をバグダードの方角に向けたのでした。するとちょうどこのとき、ノーズハトゥのほうでもまた、天幕の下に横たわりながら、別れた人々のことを思って眠られず、眼に涙を浮かべながら、悲しく物思いにふけっていると、そこに、天幕からほど遠からぬところに、夜の中に、熱情こめて歌う声を、聞きつけました。
[#ここから2字下げ]
〔(59)至福の電光は、一刹那閃きぬ。さあれ、電光消ゆれば、夜は更に夜なり。かの友のわれに歓びを飲ませし楽しき盃もまた、わがためにかくのごとくに変じたり。
運命の面《おもて》現われしとき、わが心の平安《やすらぎ》は、遥かかなたに立ち去れり。わが魂は死してあり、愛《いと》しき人との待たるる再会の日到るまで。
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの歌を誦し終わると、ダウールマカーンは気を失ってくずおれてしまいました。
侍従の妻、年若いノーズハトゥはと申しますと、夜の中に立ちのぼるこの歌を聞きつけますと、〕彼女は胸騒ぎをおぼえて起きなおり、そして天幕の入口に眠っていた宦官を呼びますと、宦官はすぐさま駆けつけて、訊ねました、「何ご用でございますか。おおご主人さま。」彼女は申しつけました、「今の詩を歌った男を急いで探しに行って、ここに連れて来て下さい。」すると宦官は言いました、「はて、私は眠っておりましたので何も聞こえませんでした。ですから、この闇の中では、眠っている人たちを全部起こさないことには、その男を探しかねるでございましょうが。」彼女は言いました、「ぜひとも探してきなさい。眼を覚ましている人が見つかったら、その人こそきっと、今聞こえた歌声の主でしょうから。」そこで宦官も、それ以上たって言葉を返すわけにゆかず、声の主を探しに出て行きました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十二夜になると[#「けれども第七十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこで宦官も、それ以上たって言葉を返すわけにゆかず、声の主を探しに出て行きました。しかしどちらを見ても、どの方角を歩いてみても、見あたらず、眼を覚ましている者といえば、年とった浴場《ハンマーム》の風呂焚きの男だけしか見つかりません。というのは、ダウールマカーンは、気を失って横たわっていたからでした。それに、親切な風呂焚きは、月光にすかして見ると、たいそう不機嫌そうな様子の宦官を見て、これはダウールマカーンが、侍従の奥方の眠りを乱したのではないかとひじょうに心配して、じっと黙っておりました。けれどもその時はもう、宦官はその姿を見つけて言いました、「今しがたご主人さまは、詩をお聞きになったとおっしゃるが、それを歌ったのはおまえか。」すると風呂焚きは、これはてっきり侍従の奥方が聞き咎めたものと思い込んで、叫びました、「いえ、いえ、私めではございません。」宦官は言いました、「ではいったい誰だ。そやつを教えろ。おまえは眠っていなかったからには、その男の声を聞き、姿を見たに相違ない。」すると親切な風呂焚きは、ますますダウールマカーンの身を心配して、言いました、「とんでもない、私はいっこうに存じません。それに何も聞こえませんでした。」宦官は言いました、「アッラーにかけて、よくのめのめと嘘をつきおるな。きさまは眼を覚まして、この場に坐っていたからには、何も聞かなかったなぞとは言わせないぞ。」すると風呂焚きは言いました、「ではほんとうのことを申し上げます。あの詩を誦したのは、今しがた駱駝に乗って、ここを通りかかった流浪の男でございます。そやつのいまいましい声で、私は眼を覚まされたのです。あんなやつはアッラーがこらしめて下さればよい。」すると宦官は、うさん臭そうな様子で、頭を振りはじめましたが、やがてぷりぷりしながら、戻ってご主人に申し上げました、「あれは流浪の男で、もう駱駝に乗って遠くに行ってしまいました。」するとノーズハトゥは、このあいにくのことに力を落として、宦官を見やったきり、もう何も申しませんでした。
こうしているうちに、ダウールマカーンは気絶からわれに返りました。そして見ると、頭上には、天空の奥に月があります。すると彼の魂のうちには、遥かな回想の恍惚たらしめる微風が立ち起こり、胸のうちには、無数の鳥の鳴き声と、精神の見えざる笛の歌声が、歌ったのでした。そして、自分を飛び立たせるばかりにしている内心の希願をば、歌にして洩らしたいという、逆《あら》がうことのできない欲求《のぞみ》に襲われました。そこで彼は風呂焚きに言いました、「さあ聴いて下さい。」けれども風呂焚きは訊ねました、「何をなさるのかな、わが子よ。」彼は言いました、「私の心を鎮めてくれるような、みごとな句を二つ三つ誦すのです。」風呂焚きは言いました、「では、何が起こったのかご存じないのかな。わしが宦官をうまく言いくるめて、やっとのことで、われわれの身の破滅をまぬがれることができたものを。」ダウールマカーンは訊ねました、「それはいったいどうしたというのですか。どこの宦官です。」風呂焚きは答えました、「おおご主人よ、あなたが気を失っている間に、侍従さまの奥方の宦官が、仏頂面をしてここに来たのです。巴旦杏の木で作った、大きな棒を振りまわしていましたよ。そして、眠っている人の顔を、いちいちのぞきこみはじめたのだが、眼を覚ましているのはこのわし一人しか見あたらないので、腹を立てた口調でわしに、声を立てたのはわしかと聞くのです。だがわしは答えてやった、『いえ、いえ、とんでもない。まったくのところ、道を通った流浪の男ですよ。』すると宦官はどうも怪しいというような様子でした。というのは、帰りしなに、こう言いおいて行きました、『もしも万一声を聞きつけたら、その男をつかまえておれに引き渡せ、ご主人さまのところに引っ立ててやるから。いいか、きさまにたしかに引き受けさせるぞ。』だから、ご主人よ、わしがこの疑い深い黒人の注意をそらすには、大骨を折ったということが、おわかりでしょう。」
ダウールマカーンはこの言葉を聞くと、たいそう悲しんで、叫びました、「私が自分の気に入る詩を、われとわが身に歌って聞かせるのを、おこがましくもいけないなどというのは、いったい何やつだろうか。私は自分の好きな詩句を全部歌いたい、あとはなるようになるだろう。それに、こうして故郷のすぐ近くまで来た今となっては、私は何を恐れることがあろう。もう今後は、私の邪魔をすることのできるものなど何ひとつあるまい。」すると気の毒な風呂焚きは言いました、「それではあなたは、ぜひともわが身を滅ぼしたいと望んでいるというものじゃ。」彼は答えました、「ぜひとも私は歌わなければならぬ。」風呂焚きは言いました、「わしをあなたと別れさせるような羽目にしないで下され。というのは、あなたの身に禍いが降りかかるのを見るくらいなら、いっそわしは行ってしまいたいからな。わが子よ、お忘れか、あなたはもう一年半もわしといっしょにいる、そして一度でも、わしはあなたに咎められるようなことは、何ひとつしなかった。なぜ今さら、あなたはわしを行ってしまわせたいのか。ここにいる皆の衆は疲れきって、静かに眠っていることも、お考えなされ。どうか後生じゃ、詩を歌って、皆さまの邪魔をするようなことはしないで下され。そりゃあなたの詩は、じつもって美しいということは、わしにもよくわかるが。」けれどもダウールマカーンは、それ以上我慢ができなくなって、そして、彼らの上を渡る微風が繁った棕櫚の間で歌うと、彼も声を張りあげて叫びました。
[#ここから2字下げ]
おお、時よ、われら運命の寵児たりし日々、われら世にもすぐれしうまし国の懐かしき住居に、相共に在りし日々、今いずくにかある。
おお、時よ……、さあれ、かのいっさいは過ぎ去りしかな。なんとなれば、われらはそのかみ、笑い満てる日々と微笑《ほほえみ》満てる夜々とを持ちたれば。
ああ、ノーズハトゥザマーンと呼ばるる花のかたわらに、ダウールマカーンの花咲きし日々、今いずくにかある……
[#ここで字下げ終わり]
そしてこの歌を歌い終わると、彼は三度大きな叫び声をあげて、悶絶してしまいました。すると親切な風呂焚きは立ち上がって、急いで自分の外套で彼をくるんでやりました。
ノーズハトゥのほうはというと、この自分の名と弟の名とが挙げられていて、自分の不幸がまざまざと感じられる詩句を聞くと、嗚咽《おえつ》にむせび、それから急いで宦官を呼びつけて、叫びました、「汝に禍いあれ。先ほど歌った男は、今また歌ったではないか。今あそこで、すぐそばに、声が聞こえました。さあ、アッラーにかけて、もしもおまえが今すぐその男を連れて来てくれないならば、私はこれから主人の天幕に行ってそう言って、おまえに鞭を加えて追い出してもらいます。さあ、この百ディナールを持って行って、あの歌の主《ぬし》にこれを与え、そして丁重に、ここに来るようにお誘いなさい。もしも断わったならば、こちらの千ディナールはいっている、この財布を与えなさい。それでも断わるならば、それ以上たって言わないでもよろしいが、その人の住んでいる場所と、何をしておいでなのか、またどこの国の生まれなのかをたずねて、早くここに戻って来て、知らせなさい。ともあれ、ぐずぐずしてはなりませぬ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十三夜になると[#「けれども第七十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
「ともあれ、ぐずぐずしていてはなりませぬ。」
そこで宦官はご主人の天幕を出て、声の主《ぬし》を探しに行きました。そして眠っている人たちの足の間を歩いて、一人一人、皆の顔をのぞきこみはじめました。けれども、眼を覚ましている者は一人も見当たりません。そこで風呂焚きのところに近づいてみると、彼は外套も着ず、何もかぶらずに、坐っています。そこで宦官はその腕を捕えて、どなりつけました、「歌を歌ったのは、きさまのほかにないぞ。」けれども風呂焚きは慄え上がって叫びました、「いえ、いえ、アッラーにかけて、けっして私ではございません、おお宦官の長《おさ》さま。」宦官は言いました、「詩を誦したやつを教えない限り、断じてきさまを放しはせぬぞ。かくなるうえは、その男を連れずには、おれはとうていのめのめご主人さまのところに戻れないのだから。」この言葉に、気の毒な風呂焚きは、ひどくダウールマカーンの身を案じて、泣き悲しみはじめて、宦官に言いました、「アッラーにかけて、歌を歌ったのは、路上を通りかかった人に相違ございません。どうかこれ以上私をいじめないで下され、アッラーの審判の日に、きっと報いがありましょうから。私は、アッラーの友、アブラハム(60)さまの都からまいった、憐れな巡礼にすぎません。」けれども宦官は言いました、「よろしい。だがしからばおれといっしょに来て、きさまの口から、そのことをご主人に申し上げろ。ご主人さまはおれの言うことをお信じにならぬから。」すると風呂焚きは言いました、「おお、おえらいごりっぱなおつきのお方さま、どうか私の言うことを信用して、このまま静かに天幕にお帰り下さいまし。もしももう一度歌声が聞こえましたら、こんどこそは、絶対に私のせいになってよろしゅうございます。その場合は、ただこの私だけが、罪を負います。」それから、宦官の心をしずめて立ち去らせることにしようとて、いろいろと気に入るような言葉を言い、お世辞をたくさん並べ立てて、その頭に接吻をいたしました。
すると宦官も丸めこまれて、風呂焚きを放してやりました。しかし、ご主人の前にはさすがに出かねて、そちらには戻らずに、引っ返して行ってまた戻り、この浴場《ハンマーム》の風呂焚きからほど遠からぬところに、待ち伏せしてうずくまっていました。
こうしている間に、ダウールマカーンは悶絶からわれに返っておりました。そこで風呂焚きは彼に言いました、「さあ起きて下さい。あなたの詩のために、今私たちの上に降りかかったことをお話ししますから。」そして事の次第を話して聞かせました。けれどもダウールマカーンは、上《うわ》の空で聞いていて、言いました、「おお、もう何も聞きたくありません。今はもう、自分の気持をわがうちに抑えておかなければならないというような理由はありません。ことに今となっては、私の故国のすぐ近くにいるのですから。」すると風呂焚きは、怖気《おぞけ》をふるって言いました、「おおわが子よ、そんなふうに心の誘いに耳をかすことは、もうたくさんじゃ。このわしがあなたのため心配しきっているというのに、どうしてあなたはそんなに安心しているのですか。あなたがすっかり自分のお国の中にはいりきってしまわないうちは、どうぞもう詩など歌わないように、くれぐれもお頼みします。まったく、わが子よ、わしはあなたがこんなに強情だとは、ついぞ思いませんでしたわい。よくお考えなさい、侍従さまの奥方はあなたを懲らしめようとしているのですよ。それは旅の疲れでお加減が悪いところを、あなたのおかげでお寝《よ》れないのです。もう二度も宦官をよこして、あなたを探させていらっしゃるのですよ。」
けれどもダウールマカーンは、風呂焚きの言葉もいっこう気にとめないで、三たび声をあげて、一心に、次の詩節を歌ったのでした。
[#ここから2字下げ]
退《さが》れ、わが魂に擾乱《みだれ》を、わが眼に不眠を投ずるかかる非難は、われもはやこれを欲せず。
人々はわれに言いぬ、「まこと汝の変わりしことよ。」われはこれに言う、「汝らは知らず。」彼らはわれに言いぬ、「そは愛なり。」われはこれに言う、「愛は、果たしてかくのごとく衰えしめ得るものなりや。」
彼らは言いぬ、「そは愛なり。」われはこれに言う、「われははや、愛も、愛の盃も、はた愛の悲しみも、欲せず。
ああ、われははや、わが心を鎮め、さいなまるるわが心に、香油ともなるいみじきことどものほかに、欲することなし。」
[#ここで字下げ終わり]
ところが、ダウールマカーンがこの詩句を歌い終わったと思うと、突然その前に、例の宦官が姿を現わしました。これを見ると、気の毒な風呂焚きはすっかり慄え上がって、一目散に逃げ去って、遠くのほうから、いったいどうなることかと見守りはじめました。
すると宦官は、うやうやしくダウールマカーンのそばに進み寄って、彼に言いました、「おんみの上に平安あれ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十四夜になると[#「けれども第七十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、宦官は申したのでございます、「平安おんみの上にあれ。」すると、ダウールマカーンは答えました、「しておんみの上にも、平安とアッラーのお慈悲と祝福あれ。」そして奴隷は言いました、「おおご主人さま、今や私の女主人は、三たび、あなたさまをお迎えに私を遣わしました。主人はあなたさまにお会いしたいと申すのでございます。」けれどもダウールマカーンは答えました、「汝の女主人というのか。大胆にもおれを迎えによこすとは、そもそもなにものか。」そしてこの詰問だけでは気がすまず、ダウールマカーンは長いこと、たてつづけに宦官を罵《ののし》りはじめました。だが宦官はひと言も答えようとしませんでした。それというのは、ご主人から、その歌い手を丁重に扱い、けっしてむりやり引っ立てて来てはならぬと、くれぐれも言い含められていたからでございます。そこで宦官は、できるだけのことをして、相手の心を動かすような言葉を使い、憤りをなだめるようにしました。そしていろいろと言ったあげく、こう申しました、「わが子よ、私があなたさまに対して取り計らうことは、けっしてお気にさわったり、ご迷惑をかけたりするようなものではありません。ただ、なにとぞ寛大な御足《おみあし》をわれらのほうにお向け下され、ぜひともあなたさまにお目にかかりたいと言わるる私の主人に、お言葉をおかけ下さるよう、おりいってお願い申すだけのことでございます。かつは私の主人も、あなたさまのご芳志に厚くお報い申すことでございましょう。」
すると、ダウールマカーンも心を動かされて、立ち上がって宦官と天幕の下に行くことを、承知いたしました。一方気の毒な風呂焚きは、ますますダウールマカーンの身を案じて顫えながら、遠くからあとをつけてゆくことに心を定め、心中で考えました、「あの若い身そらでなんという不幸なことだろう。きっと朝、夜明けには、首をくくられてしまうだろう。」次にひとつの恐ろしい考えを思いついて、それでこれまでよりもいっそう激しく、おびえたのでした。というのは、彼は思ったのです、「ひょっとするとダウールマカーンは、自分の身をかばうために、罪をわしになすりつけて、詩を歌ったのはわしだなんぞと、言い張らないものとも限らない。」
ところで、ダウールマカーンと宦官のほうは、眠っている人々と獣類《けもの》の間を、骨折ってかきわけはじめて、最後にノーズハトゥの天幕の入口に着きました。すると宦官は、ダウールマカーンにしばらく待ってもらって、ただ一人でご主人に知らせにはいって、申しました、「仰せの男を、ただいま連れてまいりました。たいそうみめ美しく、高位高貴の生まれを示す風采の、ごく若い方でございます。」この言葉に、ノーズハトゥは胸の鼓動がときめくのを感じて、宦官に言いました、「その方をば、この天幕にずっと近く坐らせて、さらに今少し詩を歌って、そば近く聞かせていただきたいと、お願いして下さい。それから、そのお名前と生国をうかがいなさい。」すると宦官は出て行って、ダウールマカーンに言いました、「私の主人は、あなたさまにいくつか詩を歌って下さるように、お願い申しております。主人は天幕の中で、お聴きになっておられます。それからまた、あなたさまのお名前とご生国とご身分をも、承わりたい由でございます。」彼は答えました、「心から悦んで、当然の務めとして。さりながら、私の名前については、それは久しい以前からもはや消え失せてしまった、わが心が力つき、わが身が傷つきはてたごとく。私の身の上は、目の内側の片隅に、針をもって記《しる》されるにふさわしいものです。いやはや、私は、あまりにも酒を用いすぎて、生涯廃疾の身となった酔漢《よいどれ》のようになってしまいました。私は夢遊病者のような身です。狂気に溺れる者のようです。」
ノーズハトゥは、天幕の中で、この言葉を聞くと、すすりなきはじめて、宦官に言いました、「あの方は、たとえば、お父さまとかお母さまとかご兄弟とかいった、誰か懐かしい方を失われたのではないか、お尋ねしてごらん。」そこで宦官は外に出て、主人に言いつけられたとおりに、ダウールマカーンにただしました。彼は答えました、「いかにも私はそういう人たち全部を失いました。あまつさえ、私を愛していた一人の姉をも失い、もはやゆくえが知れませぬ。」ノーズハトゥは、宦官の伝えるこの言葉を聞いて、言いました、「なにとぞアッラーは、この若者がおのれの不幸の中に慰藉《なぐさめ》を見いだし、その愛する人々と再会することができるように、なしたまいますよう。」それから宦官に言いました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十五夜になると[#「けれども第七十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、侍従の妻ノーズハトゥは、宦官に言ったのでございました、「ではこれよりあの方に、われわれのために、別離の苦《にが》さについての詩を少し歌って下さるように、お頼みしなさい。」そこで宦官は、主人の言いつけたとおりに、彼に頼みに行きました。するとダウールマカーンは、天幕からほど遠からぬところに腰をおろして、頬杖をつき、そして眠った人たちと獣類《けもの》を照らしている月光の下で、彼の声は沈黙の中に広がりました。
[#ここから2字下げ]
〔(61)調べよき韻のわが詩句のうちに、われは不在の苦渋と、かくばかりその別離にわが心痛めし、情《つれ》なき女の勝利とを、すでに心ゆくばかり歌いたり。
今は、金粉をちりばめて、わが詩句をみごとに細工せしわれは、もはやただ楽しき事と悦びと、
ばら香る園、はた黒き眼の羚羊《かもしか》と、羚羊の髪のみぞ、歌わまほしけれ、
かの情《つれ》なき女こそは、すでにわが歓楽の園、双頬は花園のばら、胸乳《むなぢ》は梨と柘榴《ざくろ》の実、肉体《ししむら》は蜜と露とにてありたるが。
さあれ、今よりは、便々と心執することなく、われは朗らかにわが生を過ごさんと欲す、
たおやかの若枝のごと、たおやかの優しき処女らの間に、閉ざせる真珠のごと、人触れぬ美女らの間に、
妙なる琵琶と六絃琴の音《ね》に、掌酒子《しやくとり》の手より盃を飲み、ばらと水仙の牧場のうちに。
われは肉身のあらゆる香を吸わん、われは唇より甘き唾《つば》を啜《すす》らん、濃き紅の厚き唇を選びては。
われはわが眼を、女らの温き眼瞼《まぶた》の上に憩わしめん。われらはともに、わが園の歌う清水のほとりに、車座に腰をおろさん。〕
[#ここで字下げ終わり]
ダウールマカーンがこの絶妙の詩を歌い終えたとき、ノーズハトゥは今までうっとりと聞き惚れていましたが、もう我慢できなくなって、熱に浮かされたように、天幕の垂れ幕をあげ、外に頭を出してのぞきこみ、月光をたよりに、歌い手をじっと見ました。そしてひと声大きく叫んで、そして腕を広げて、「おお弟よ、おおダウールマカーン」と叫びながら、外に飛び出したのでした。
これを見て、ダウールマカーンはその若い女をじっと見ると、わが姉のノーズハトゥの姿を認めました。そこで二人はお互いの腕のなかに飛びこんで相抱《あいいだ》くと、そのまま、二人とも気を失って倒れてしまいました。
宦官はこの有様を見ると、驚きの極に達しました。けれども、急いで天幕のなかに大きな掛布を取りに行って、尊敬を表わして、それを二人の上に掛けました。そしてじっと物思いにふけりながら、二人が気絶から覚めるのを待っていました。
やがてはたして、まずノーズハトゥが、つづいてダウールマカーンが、われに返りました。そしてノーズハトゥは、もうこの刹那から、これまでのいっさいの苦労を忘れて、仕合せの絶頂に達し、そして彼女は次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお運命よ、汝はさきに誓えり、わが苦しみは遂に移ろうことなからんと。今やわれは、汝にその誓いを破らしめたり。
なんとなれば、わが幸《さち》は欠くるなく、友はわがかたえにあり。しかして汝みずから、おお運命よ、汝は、衣の裾をかかげてわれらにつかうる、奴隷とはならん。
[#ここで字下げ終わり]
これを聞くと、ダウールマカーンは姉をひしとわが胸に抱き締め、悦びの涙は眼瞼《まぶた》から溢れ、そして次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
幸《さち》はわが身内に沁み入り、そのはなはだしきこと、わが眼より涙ほとばしりいずるばかりなり。
おおわが眼よ、汝は涕涙に慣れたり。昨日は悲しみに泣き、しかして今日は幸いに泣く。
[#ここで字下げ終わり]
そこでノーズハトゥは、弟を誘っていっしょに天幕の下にはいって、申しました、「おお弟よ、それではまずあなたの身に起こったすべてのことを、私にお聞かせなさい。それから次に、私の身の上話をお聞かせしましょう。」けれどもダウールマカーンは、言いました、「いや、まず姉上から、委細お聞かせ下さい。」そこでノーズハトゥはわが身に起こったことすべてを、細大洩らさず、弟に語り聞かせました。それをここに繰り返すことは、無用でございます。そして付け加えて言いました、「私の夫の侍従には、やがてすぐ引き合わせましょう。きっとあなたの気に入ることでしょう、たいへんよい人ですから。だがまず急いで、私があなたを聖都の隊商宿《カーン》に病気のまま置いて行った日から、あなたの身にふりかかったすべてのことを、私に聞かせて下さい。」そこでダウールマカーンは、その希望をかなえずにはおかず、そして次のように言って、自分の身の上話を結びました。「だがとりわけ、おおノーズハトゥさま、その親切な浴場《ハンマーム》の風呂焚きが、どんなに私によくしてくれたか、とうてい十分に言いつくせません。なにせ、私の世話をするため、貯えておいたお金というお金を全部、使いはたしたのですし、日夜私の面倒を見てくれ、そして私に対して、父親であれ、兄弟であれ、またごく忠実な友人であれ、決してしてくれないようなふるまいをしてくれました。そのあくまで私《わたくし》のない気持は、自分では食物を食わずに私に食べさせ、自分ではろばに乗らずに私を乗せ、そして自身は、私のからだを支えながら、ろばを曳いてくれるというほどでありました。まったく、今もって私が生き永らえているというのは、ひとえにあの男のおかげです。」するとノーズハトゥは申しました、「アッラーの思し召しあらば、私たちは力の及ぶかぎり、その人の親切に報いることができましょう。」
次にノーズハトゥは宦官を呼びますと、宦官はすぐに駆けつけて、ダウールマカーンの手に接吻して、その前に直立しました。するとノーズハトゥは、これに言いました、「吉兆の顔のよい召使よ、おまえが最初によい知らせを伝えておくれだったから、さっき渡した財布は、中の千ディナールといっしょに、そのままおまえが取っておおき。けれども、急いでおまえのご主人のところに走って行って、私がお会いしたいと申し上げなさい。」すると宦官は、これにすっかり喜んで、急いで主人の侍従のところに知らせにゆきますと、侍従はすぐに妻の天幕の下にやって来ました。そして妻のところに、しかもこんな夜中に、一人の若いよその男がいるのを見て、驚きの絶頂に達しました。けれどもノーズハトゥは急いでこれに、二人の身の上を初めから終わりまで話して、付け加えて申しました、「こういう次第で、おお尊ぶべき侍従よ、あなたはご自分では奴隷のつもりで私を妻となすったのですが、じつはオマル・アル・ネマーン王の女《むすめ》、ノーズハトゥザマーンそのひとを妻となすったのでございます。そしてこれは、弟のダウールマカーンです。」
侍従長は、この不思議な話を聞いたとき、自分がオマル・アル・ネマーン王の婿そのひとになったと知って、愉快の限りに達しました。そして心の中で考えました、「そうとしたら、おれは少なくとも、州の中の一州の太守ぐらいにはなれるぞ。」それからうやうやしくダウールマカーンに近づいて、いっさいの苦難から放たれたことと姉上と再会なすったことについて、御慶《およろこび》を申し上げました。そしてすぐに、新しい賓客をお迎えするために、新たな天幕を張るように、従者に命じようとしましたが、ノーズハトゥは申しました、「今はそれには及びません。というのは、もう私たちの故郷から、いくらもへだたってはおりませんし、それに、私と弟とはお互いに永いこと会わずにいたのですから、同じ天幕の下にいっしょにいて、向うに着くまで、お互いに思うぞんぶん顔を見ていられれば、いっそ嬉しいことでございましょう。」すると侍従は答えました、「ではお望みのままになさるように。」そして二人が憚らず思いを語り合えるようにと、自分は出て行って、かねてダマスを出る前に、バグダードの名士たちに、歓迎の挨拶への答礼に進物として配ろうと思って、二頭のらばと一頭の駱駝にになわせておいた、あらゆる種類の菓子と果物の砂糖煮や、炬火《たいまつ》や、糖蜜《シロツプ》や果物の類を、二人のところに届けました。またダウールマカーンには、このうえなく豪奢な衣服三|襲《かさね》を送り、色とりどりの長い打ち紐の垂れた鞍敷を置いた、すばらしい純血種の単峰駱駝一頭を、用意させました。それから彼は、うれしさに胸を膨らませ、アッラーに授けられた栄誉と、自分の現在の勢力と、未来の栄達を思いふけりながら、自分の天幕の前を、右往左往しはじめたことでした。
それから、朝になると、侍従は急いで妻の天幕の下に、義弟に挨拶にゆきました。するとノーズハトゥは言いました、「浴場《ハンマーム》の風呂焚きのことをお忘れなく、またその人のために立派な乗馬を用意し、朝夕の食事に給仕してよくお世話するよう、宦官に言いつけることを、ぬからずなすって下さい。わけても、その人が私たちから離れるようなことがあってはいけません。」そこで侍従は宦官に必要な命令を下すと、宦官は答えました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」
そして実際に、宦官は急いで侍従の供の者数人を連れて、みんなでその風呂焚きを探しにゆきました。そしてやっと、一行のいちばん殿《しんがり》のあたりに、怖さに震えながら、自分の若い友達ダウールマカーンを奪い取られたこの場から、すこしも早くのがれようとして、ろばに鞍をつけている彼を見つけました。ですから、いきなり自分のところに駆けつけて、ぐるっと取り巻いてしまった宦官と奴隷たちを見ると、彼はもう助からないと思って、顔色は黄色くなり、膝はがくがくし、からだじゅうの筋肉は、怖さにぴくぴく顫えました。もうこれはきっと、ダウールマカーンが身のあかしを立てるため、侍従の奥方に、自分に制裁を加えるように言ったものにちがいないと思いました。というのは、宦官はすぐにどなりつけたのです、「この嘘つきめ……」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十六夜になると[#「けれども第七十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その宦官は、おびえきった風呂焚きに、どなりつけました、「この嘘つきめ、なんだってきさまは、自分が詩を歌ったのじゃないと言ったばかりか、いったい誰が歌ったのか、いっこう知らんなんぞと言ったのだ。ところが今じゃ、歌ったのはきさま自身の連れだということが、よくわかったのだぞ。だから、ここからバグダードまで、おれはもう一歩もきさまのそばを離れないから、そう心得ろ。向うに着いたら、きさまはあの連れの男と、同じ目を見るだろう。」この宦官の言葉に、縮み上がった風呂焚きは、嘆きはじめて、心の中で考えました、「これはてっきり、おれがあれほど避けたいと思っていた目にあうことになるぞ。」そして宦官は奴隷たちに言いました、「この男のろばを取りあげて、やつをこの馬に乗せろ。」そこで奴隷たちは、哀れな風呂焚きの涙にもかかわらず、そのろばを取り上げて、侍従の馬のなかの、一頭のみごとな馬に、無理に乗せてしまいました。それから宦官は、別に奴隷たちに言い含めました、「おまえたちは旅の間ずっと、この風呂焚きの警護をするのだぞ。そしてこの人の頭から、髪の毛ひとすじがなくなれば、そのつど、おまえたちのうち一人がいなくなることになろうぞ。だからこの人に対しては、くれぐれも粗略にすることなく、どんな些細な御用にも、気を配ってぬかりなくいたせ。」
そこで風呂焚きは、自分がこうしてこの全部の奴隷たちに護衛されたのを見たときには、もう自分の死を疑いませんでした。それから、宦官に言いました、「おお心のひろい隊長さま、誓って申しますが、あの若者は、私の兄弟でもなければ、身内でもございません。私は世界中でたった一人きりですし、浴場《ハンマーム》の風呂焚きのうちの、貧しい一人の風呂焚きの身です。ただあの若者が、浴場《ハンマーム》の戸口の屑と薪束の上に、死にかけて横たわっているのを見かけたので、アッラーのために拾いあげてやっただけです。何ひとつ、罰せられるようなことをした覚えはありません。」そして泣きはじめ、ひとつは他のひとつよりも心をかき乱す、くさぐさの思いを思いはじめましたが、その間にも、一行は歩みを進め、そして宦官はずっと彼のそばを歩いて、ときどきこんなことを言うのでした、「おまえとあの若者は、下手な詩で、われわれのご主人さまの眠りを乱したのだ。そのくせ、おまえはあのとき、しゃあしゃあとした様子をしていたぞ。」けれども、休止のたびごとに、宦官はかならず風呂焚きに、同じ器でいっしょに食べ、同じ冷水壺でいっしょに飲み、まず自分が最初に毒味をしてから、すすめることを、欠かしませんでした。けれども、どんなことがあろうと、涙はこの風呂焚きの眼に乾くことがありませんでした。彼はかつてなくとほうに暮れ、また宦官が気をつけて話さないでいるので、友達のダウールマカーンの消息が、皆目わからないためでした。
ノーズハトゥとダウールマカーンと侍従のほうはと申しますと、彼らは一行の先頭に立って、バグダードをさして旅するのをやめませんでした。そしていよいよ、待望の目的地に着くのに、今はもうただ一日の行程だけとなりました。そして、最後の夜の休止を終わった最後の朝、道をつづけようと支度をしておりますと、そのときにわかに、前方に濃い砂煙りがあがって、空を暗くし、あたりを夜にするのを見たのです。そこで侍従は一同に心配するなと言って、動くなと命じ、自分はその数五十人の白人奴隷《ママリク》を連れて、砂煙りのほうに向かってゆきました。
ところで、ほんのしばらくたつと、砂煙りは一同の前に薄れて、眼の前には、旗、指物を風になびかせ、戦闘の隊伍を備えて、太鼓を鳴らして進んでくる、大軍が現われ出たのでした。そしてただちにその軍隊から、一隊の武士が離れて、こちらのほうに馬を走らせてやってきました。そして侍従の白人奴隷《ママリク》はひとりひとり、乗馬の五人の武士に取り囲まれてしまいました。
これを見ると、侍従はひじょうに驚いて、彼らに訊ねました、「われらに向かってかかるふるまいに及ぶとは、汝らは何者なるぞ。」彼らは答えました、「だが汝らこそいったい何者か。いずれより来て、いずれに行くのか。」侍従は答えました、「われこそは、ダマスの長《アミール》の、バグダードとハウラーンの国の主《しゆ》、オマル・アル・ネマーン王の王子、シャールカーンの君の、侍従長なるぞ。これはシャールカーン王子が、バグダードなる御父君《おんちちぎみ》に、ダマスの貢物と進物を奉るべく、余を遣わせられたのじゃ。」
この言葉を聞くと、その武士はみな突然手帛を取り出して、眼にあて、むせび泣きながら泣きだしました。これには侍従もすっかり驚きました。
すると彼らの隊長が、侍従のほうに進み出て申しました、「悲しいかな、オマル・アル・ネマーン王はいずこにおられましょうぞ。オマル・アル・ネマーン王はおかくれになりました。おおわれらの絶望ぞ。」次に付け加えました、「とにかくおんみは、おお尊ぶべき侍従よ、ひとまずわれわれといっしょにおいで下さい。あそこの、軍のまんなかに、総理|大臣《ワジール》ダンダーンがおられますから、ご案内いたしましょう。大臣《ワジール》から、このたびのご不幸について、委細お話し申し上げるでしょう。」
すると侍従もまた泣かずにはいられなくなって、叫びました、「おお、われらは、なんという不幸な旅をしたのか。」それから、総理|大臣《ワジール》ダンダーンのもとに案内してもらうと、すぐに引見を許されました。そして侍従が大臣《ワジール》ダンダーンの天幕の下にはいると、大臣はこれに坐るようにすすめました。そして侍従は、大臣《ワジール》に自分の託された使命を話して、オマル・アル・ネマーン王のために携えて来た進物のかずかずを、詳しく告げました。
けれどもこの言葉を聞くと、総理|大臣《ワジール》ダンダーンはご主君、わが王を思い出して、泣きはじめ、それから侍従に言いました、「さしあたり、オマル・アル・ネマーン王は毒害せられたとだけご承知あれ、後刻委細お話しいたしますほどに。とにかくまず最初に、現在の状況をお伝えいたさねばならぬ。こういう次第でござる。
王がアッラーのご慈悲と際涯なき寛仁のうちに崩御あらせられると、人民は、王位継承者にどなたを選ぶべきかを知らんとして、蜂起した。万一高位高官の人々が阻止しなかったら、もろもろの派が腕力沙汰に及ぶところでありました。そして結局、バグダードの四人の大|法官《カーデイ》の意見を徴し、彼らの決定に従うことに、衆議一決しましたのじゃ。そして相談を受けた四人の大|法官《カーデイ》は、王位継承者は、ダマスの太守シャールカーン王子たるべしと、決定した。そこでわしは、この決定を知らさるるや、ただちに、軍を率いて、ダマスのシャールカーン王子の御前にまいって、かつは父王の崩御、かつは王位に選ばれなすった旨を、お告げ申そうと思いました。
されどここに申さねばならぬが、おお尊ぶべき侍従よ、バグダードには、お若いダウールマカーンを、王に擁立しようとする一派もあるのです。けれども、絶えて久しく、この王子がいかが相成られたやら、何ぴとも知らぬ。またその姉君ノーズハトゥザマーンも、同様です。というのは、お二人がヘジャズの地に立たれて、消息をたたれてから、やがて五年にもなりまするからな。」
この総理|大臣《ワジール》ダンダーンの言葉を聞くと、ノーズハトゥの夫の侍従は、オマル王の崩御でいたく心悲しんだとは申せ、ダウールマカーンがバグダードとホラーサーンの王となる望みがあることを考えて、悦びの限り嬉しかったのでありました。そこで、総理|大臣《ワジール》ダンダーンのほうに向いてこれに申しました……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十七夜になると[#「けれども第七十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、侍従は総理|大臣《ワジール》ダンダーンのほうに向いて、これに申したのでございます、「まことに、ただいま承わったお話は、まことに異様な驚くべきものでございます。そこで、閣下は私に全幅のご信任をお示し下さいましたからには、こんどは、私からもお心を悦ばせ、ご憂慮を晴らすがごとき便りをひとつ、申し上げさせていただきたい次第です。されば、おお大|宰相《ワジール》よ、アッラーはダウールマカーン王子と姉君ノーズハトゥを、われらの手もとに帰しなされて、われらの道を平らかにして下さったのでございます。」
この言葉を聞くと、大臣《ワジール》ダンダーンは無上に悦んで、叫びました、「おお尊ぶべき侍従よ、されば急ぎ、わが心の団扇《うちわ》を動かす、その幸運の便りをば、詳しくお話し下され。」
そこで侍従は、姉弟の話を委細話して聞かせ、またノーズハトゥが自分の妻になったことも、知らせずにはおきませんでした。すると大臣《ワジール》ダンダーンは、侍従の前に身をかがめて、臣下の礼をいたし、忠誠を表わしました。それから、そこにいあわせたすべての貴族《アミール》と、軍の将帥と、国の大官らを、集合させて、一同に事情を知らせました。するとただちに、一同は侍従の手の間の地に接吻しに来て、敬意と祝辞を呈し、このような奇蹟を仕組んだ、「天運」のしわざに感嘆しながら、この新しい事態の秩序を、このうえなく悦んだのでありました。
それがすむと、侍従と総理|大臣《ワジール》ダンダーンは、おのおの台上に設けた大きな座席の上に腰をおろして、大官や貴族《アミール》や他の大臣《ワジール》たちを集めて、現状について会議を開きました。そして会議は一刻《ひととき》にわたりましたが、結局ダウールマカーンをオマル・アル・ネマーン王の王位継承者に任じ、ダマスにシャールカーンをお迎えにゆくのは見合わせることに、満場一致、衆議一決しました。そこで大臣《ワジール》ダンダーンは、ただちに自分の席から立ち上がって、今は王国随一の身分となる、尊ぶべき侍従に敬意を表し、そして自分に目をかけてもらおうとて、みごとな進物を捧げて、その繁栄を祈りました。そして全部の大臣《ワジール》も、貴族《アミール》も、大官も、みな同じようにいたしました。そして大臣《ワジール》ダンダーンは、一同の名において申しました、「おお尊ぶべき侍従よ、われわれ一同は、あなたさまの宏量にすがって、新帝の御代になっても、われわれ各人が、そのまま現在の役目に止まるよう、希望いたす次第であります。ところでわれわれは取り急ぎ、あなたさま方よりひと足お先にバグダードに戻って、われらの若き帝王《スルターン》をそれにふさわしくお迎えする準備をいたしまするから、そのまにあなたさまは、ご自身御許に行かれて、われらの決議によって帝位に選ばれた旨、言上して下さいませ。」そこで侍従は一同に、今後の庇護とそれぞれの現職の維持を約束して、一同と別れ、ダウールマカーンの天幕のほうに戻り、一方|大臣《ワジール》ダンダーンと全軍は、バグダードの都に引き返しました。
そしてノーズハトゥとダウールマカーンの天幕のほうに進む道みち、侍従は心中に、妻ノーズハトゥに対する敬意がますますつのるのをおぼえて、心の中で言いました、「なんという祝福された吉兆の旅行であろうぞ。」そして到着すると、自分の妻にまず許しを仰がずには、中にはいろうとしませんでした。そして習慣《ならわし》の挨拶をしてから、自分が見たこと聞いたことすべてを語りました、オマル王の崩御も、シャールカーンを措《お》いてダウールマカーンが選ばれたことも。それから付け加えました、「さて今は、おおダウールマカーン王よ、残るはただあなたさまが、躊躇なく王位をお受けなさることのみでございます。お断わりになった場合には、代わりに選ばれなさるお方から、あなたさまのおんみに禍いが及ぶ恐れがございますから。」
この言葉に、ダウールマカーンは、父君オマル王の崩御によって、悲しみひとかたならぬものがあったけれども、そしてノーズハトゥとともども、涙にかきくれていたものの、申しました、「では『天運』の命令を受けるといたそう。それをのがれることはかなわず、あなたのお言葉は分別と知恵に満ちているから。」そして付け加えました、「しかし、おお尊ぶべき義兄上《あにうえ》よ、兄君シャールカーンに対して、私はどうふるまったものだろう。兄君にはどうすべきであろうか。」彼は答えました、「公平なただひとつの解決策は、領土をあなた方お二人の間で分けなさることで、あなたさまはバグダードの帝王《スルターン》となり、兄君シャールカーンさまはダマスの帝王《スルターン》となられるのです。あくまで固くこの決心をお守りになれば、ただあらゆる平和と和合の事柄よりほかに、出来《しゆつたい》いたしますまい。」そしてダウールマカーンは、この義兄侍従の忠言をよしとしました。
すると侍従は、大臣《ワジール》ダンダーンの渡した王服を取り出して、それをダウールマカーンに着せ、大きな黄金造りの王剣を渡し、両手の間の地に接吻して、引きさがりました。それからすぐに小高い場所を選んで、そこに大臣《ワジール》ダンダーンから受け取った、王の天幕をしつらえさせました。それは高い円蓋を載せ、木と花の模様のついたあらゆる色の絹布で、内側を裏打ちした布でできた、大きな天幕でございました。それから彼は、飾りつけをする者どもに命じて、天幕のまわり一帯の地面を、十分にうち固めて水を打ってから、地上に大きな敷き物を敷かせました。そして急いで王のところに行って、その夜はどうぞそちらでご休息あそばされるようにと、申し上げました。そして王は朝までそこでお寝《よ》りになりました。
さて、夜が白みそめたかと思うと、遥かに軍鼓と軍楽の音が聞こえました。やがて万丈の黄塵のなかから、バグダードの軍隊が出て来て、その先頭に立って、大臣《ワジール》ダンダーンが進んで来ました。それは、バグダードでいっさいのてはずをととのえたうえで、王をお迎えに来たのでした。そこでダウールマカーン王は……
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光の射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第七十八夜になると[#「けれども第七十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
そこでダウールマカーン王は、その王服を召して、高い円蓋の下の、天幕のまん中に据えた王座に上がって、腰をおろし、両膝の上に、その大きな指揮刀を横たえ、その上に両手を置いて、じっとお待ちになりました。そのまわりには、ダマスの白人奴隷《ママリク》と侍従の旧《もと》の護衛が、手に抜き身の剣を携えて、ずらりといならび、一方侍従自身は、王座の右に直立して、うやうやしい態度で、両手を合わせて控えました。
そしてすぐに、侍従の定めた順序に従って、拝謁の行列が始まりました。そこで、王の天幕に通ずる布の廊下を通って、軍隊の将帥たちが十人ずつ、階級別に、下級から始めて、はいってまいりました。そして十人ずつ、ダウールマカーン王の御手の間に忠誠の誓いをして、黙って地に接吻しました。そして残るはただ、四人の大|法官《カーデイ》と総理|大臣《ワジール》ダンダーンの順番だけになりました。そして四人の大|法官《カーデイ》がはいってきて、忠誠の誓いをなし、ダウールマカーン王の御手の間の地に接吻しました。けれども総理|大臣《ワジール》ダンダーンがはいってきたときには、ダウールマカーン王は、王座から立ち上がって敬意を示し、御みずからこれを迎えに出て、申されました、「われら一統の父、尊ぶべき人物、その行ないは高き知恵に香り、取りきめは巧みなる手もていみじくなす人よ、ようこそおいでなされた。」すると総理|大臣《ワジール》ダンダーンは「聖典」と「信仰」にかけて忠誠の誓いをして、王の御手の間の地に接吻しました。
そして侍従が外に出て、必要な命令を下し、祝宴の準備をし、卓布を広げさせ、選り抜きのご馳走を料理させ、掌酒子《しやくとり》にぬかりなく給仕をするように申しつけている間に、王は総理|大臣《ワジール》に仰せられました、「なによりもまず、わが即位を祝うために、兵士とその隊長たち一同に、たっぷりと施してやらねばならぬ。そのためには、われらがダマスの都から携えてきた貢物全部を、一物も惜しむところなく、彼らに分配させるように。そして思うぞんぶん飲み食いさせてやらねばならぬ。それがすんだうえで、おおわが大|宰相《ワジール》よ、おんみここに来たって、わが父上の崩御とその崩御の原因を、委細詳しく語り聞かせてもらいたい。」そこで大臣《ワジール》ダンダーンは王の命令に従って、兵士に三日の休暇を与えて遊ばせるようにし、王はその三日間は、ずっと誰にもお会いになられぬ旨を、隊長一同に申し渡しました。すると全軍は王の万歳と御代の栄えを祈り、大臣《ワジール》ダンダーンは天幕の下に戻りました。
けれども王はその間に、姉君ノーズハトゥに会いにいって、申されました、「おお姉上、お父上オマル王の亡くなられたことは、姉上もご承知になられたが、しかしまだそのご死因はご存じないわけです。されば私といっしょに来られて、大臣《ワジール》ダンダーンの口から親しく、その語られるを聞くことになさいませ。」そして王はノーズハトゥを円蓋の下に連れ行かれて、彼女と一同の者との間に、大きな絹の帳《とばり》をおろさせました。そしてご自分は王座に坐って、ノーズハトゥだけひとり、絹の帳の蔭に座をしめました。
そこで王は、大臣《ワジール》ダンダーンにおっしゃいました、「さて、おおわが父上の大臣《ワジール》よ、さらば王者のうちもっとも英邁の王の、崩御の詳細をわれわれに伝えてもらいたい。」大臣《ワジール》ダンダーンは申しました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そして大臣《ワジール》は、次のように語ったのでございました。
[#地付き](つづく[#「つづく」はゴシック体])
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訳註
[#この行1字下げ]せむし男と、仕立屋、ナザレト人の仲買人、御用係およびユダヤ人の医者との物語
(つづき)[#「(つづき)」はゴシック体]
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(1) Ya Khalati(母の姉妹)。老人に対する親しみの呼びかけ。男子に対しては「叔父」と言う。
(2) Ibn-Abbas. アブドゥラー・イブン・アッバースはマホメットのいとこであり、同志であった。コーランの注釈者、マホメットの伝統の保存者として有名。回教紀元六八年に死す。
(3) 回教紀元(H使ire. 聖遷、移住、逃亡の義)は、教祖マホメットがメッカを逃亡し、メディナに移住した時期にはじまり、西暦六二二年七月十六日に当たる。サファルは回教暦第二月。なお、ここはたとえば、ガランとバートンでは六百五十三年、レーンでは二百六十三年とあるように、まちまちだから、ここから物語の記録年代を推定することは無理なようだ。
(4) El-S盈et.「沈黙家」の義(マルドリュス)。
(5) Nadd. 麝香と白檀と竜涎香とを混ぜ合わせた香料。また単に竜涎香だけを原料にしたものも言う。
(6) 蚕豆を納豆のようにしたものという。
(7) Montasser Billah. すなわち「アッラーの神助によって勝利者たる者」(マルドリュス)。一二二六年から四二年まで在位した。アッバース朝三十八代中の第三十七代のカリフ、アル・ムスタンスィルのこと。
(8) 饗宴の席に見知らぬ人が飛び込んで来ることは、アラビアでは昔からよくあった(レーン)。なおバートン註には、饗宴に行くのだと思って死刑囚のあとからついて行って、結局許されたというこの話は、実話の由。
(9) 贈物をあてにして来たのである。
(10) La darabouka. 木もしくは土器で作った太鼓で、エジプトにおいて広く用いられていた。
(11) B仕ouin. 砂漠のアラビア人。北アフリカ、アラビア、シリアに住む遊牧のアラビア人を指す。
(12) Anezi. Neia の都 Anaiza の部族民を指すものであろう。
(13) K暫暫a. バタの多くはいった菱形のビスケットの類。
(14) Kataief. 種々の甘味まんじゅうを指す。特に精製粉と水とをこね合わせ、幅三インチ厚さ六インチくらいのものをこしらえ、銅板の上で焼いて、蜂蜜や砂糖をつけて食う小さなパン菓子を言う。ここに言うシロップは、糖蜜を火にかけて煮つめたもの。
(15) La ilah illユ Allah!「アッラーのほかに神なし」の意。これにつづいて「ムハンマドはアッラーの使徒なり」というのが、回教徒のいわゆる「信仰証言」。
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アニス・アル・ジャリスの物語
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(1) Anis Al-Djalis. マルドリュスは、これを読むうえの便宜から「優しき友」Douce-Amie と訳しておくと註し、全篇を「優しき友の物語」としているが、ここでは原名に従った。Anis Al-Djalis は「伴侶たる励ます人」の意。Anis は「元気をつけてくれる人」「慰藉者」、Djalis は「伴侶」「つねに連れのかたわらに坐っている人」の意。
(2) 回教徒は死に際し、神の一なることとムハンマドの使徒たることとを証言するこの二カ条を唱える。訳注の「せむし男と、仕立屋、ナザレト人の仲買人、御用係およびユダヤ人の医者との物語(つづき)」註(15)を参照。
(3) 普通に用いられる単なるののしりの言葉である。
(4) アラビア人は支配者の宮殿の下に立って、声高く叫んでその注意をひくことができる。
(5) Ish洩 ibn Ibr栄im柩-Mausili. アッバース朝の宮廷に仕えた歌手で、父イブラーヒームル・マウスィリーと共に、アラビア音楽史の全盛期を来たしたペルシアの音楽家(七六七―八五〇年)。「モースルのイスハーク」として「千一夜」にしばしば登場する。
(6) この好々爺はこの青年を疲れた子供なみに扱ったのである。
(7) Ya leili! ya eini!「おお夜よ、おお目よ」という意味のこれらの語は、あらゆるアラビア歌謡の主導調である。これはあるいは序曲として、あるいは伴奏として、あるいは終曲として、絶えず立ちもどってくる(マルドリュス)。
(8)「おのが指をかむ」は、たとえばフランスでは焦慮、いら立ち、または後悔などのしるしであるが、これは困惑、落胆等のしるしという。
(9) 回教徒の大部分を占める正統派(スンニー)の中の四派、ハナフィー派、シャーフィイー派、マーリキー派、ハンバリー派の法官を指す。
(10) その後何ぴとも見たり、発見したりできないようにするためである。
(11) アラビア人はそのころ、心臓はうちわによって肺に血を送ると信じていたという。十六冊本のテキストでは、韻文になっていて、「わが受刑の苦悩を鎮むるために」いささかの水をほしいとあるが、本文は胸の動悸を静めるぐらいの意味であろうか。
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恋の奴隷ガーネムの物語
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(1) 十六冊本では El-Motim El-Massloub すなわち、「心身を奪う恋によって奴隷となされた者」の意と註す。
(2) 十六冊本では、Fetnah すなわち、「魅力ある誘惑」の意。これはまた金ねむ (Acacia farnesiana) 属のきわめて香り高い黄色の花の名前でもある、と註す。
(3) 駱駝に積む一駄で、約三〇〇ポンド。長途の旅行では、二五〇ポンドという。
(4) S頴u叡.「実直」の意。
(5) K映our. アラビア語の「樟脳」である。白いものであるが、黒人に名をつけるのに、反語を用いることはごく普通という。
(6) Bakhita.「小さな幸運」。
(7) Riha. 微風。Zahra. 園の花。Sabiha. 曙。Schagarat Al-Dorr. 真珠の枝。Nour Al-Hada. 途の光。Nagma. 夜の星。Soubhia. 朝の星。Nozha. 園の悦び(マルドリュス)。
(8) Halaoua. バタのたくさんはいったビスケットの類。
(9) アッバース王朝の教王《カリフ》は、ムハンマドの父方の叔父アル・アッバースの後裔であるから、これはハールーン・アル・ラシードを指す。
(10) Kouat Al-Kouloub. 心の力の意(マルドリュス)。
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オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子の物語
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(1) Omar Al-n士穎. いっそう文法的であるためにはヌen-n士穎ネ と書くべきであろう。ここに冠詞ヌalネ をヌenネ の代わりに用いるのは、ヨーロッパの読者を混乱させまいためである。(アラビア文法の「月性文字」と「陽性文字」参照)(マルドリュス)。アラビア語文法では、すべてのアルファベートを月性文字と陽性文字に分かち、N.. は陽性文字ゆえこの註がある由。エリセエフは、ヤOmar b.an-No ヤman と書き、イスラム辞典ではUmar b.al-Nu ヤma-n と書く。なおこの物語の登場人物はすべて架空という。
(2) Chosro・/T-FONT> はペルシアのササーン朝の王の、Ka不sar (C市ar) はビザンチン皇帝の、アラビアにおける通称。
(3) Diarbekr. メソポタミアのこと。ティグリスとユーフラテス両河の間に含まれるアッシリアの部分。
(4) Schark穎.「敵手を滅ぼす者」。
(5) La Sunnat は伝承による、「預言者」の伝承の律法、決定、忠言、及び預言者の生活の詳細な細部の集録である(マルドリュス)。イスラムでは、ムハンマドの言行を尊重し、言行録をコーランにつぐ権威あるものとみとめる。
(6) Saf蚤.「水のごとく澄明にして清らかな女」(マルドリュス)。
(7) Ka不saria. 恐らくカパドースのセザレ(マルドリュス)。即ち小アジアの昔の王国 Cappadoce の首府。はじめ Eusebia あるいは Mazaca と呼ばれていたが、ティベリウス皇帝の時、改称された。回教徒に占領せられたことがある。
(8) Daoulユ mak穎.「場所の光」(マルドリュス)。
(9) N凛hatouユzam穎.「当代の歓び」(マルドリュス)。
(10) Constantinia la Grande. コンスタンティノープルのこと(マルドリュス)。ルーム人は前註のように、ビザンチンのローマ人ないしキリスト教ギリシア人。
(11) El-Iskandar aux Deux Cornes. アラビア人は、アレキサンドル大帝をかく呼ぶ。王の乗馬「ビュセファール」のゆえである(マルドリュス)。アラビア民話では、大帝はその強大な勢力の象徴として、額に二本の角が生えていたと伝えられているともいう。「ビュセファール」は「牛頭」の義。
(12) Seglaoui-jedran. 北部及び中部アラビアのもっともりっぱな馬種の一つである(マルドリュス)。
(13) こうした言いまわしは単なるなれなれしさで、別に侮辱ではない。男女が分離されている社会では、言葉は極度に自由になるという。
(14) 〔‥‥〕の中、八冊本に欠き、「けれども、すでに侍女たちは引きとり、夜もふけていたので、彼は座蒲団の上に横たわって、」とある。
(15) 八冊本に欠く。
(16) Grain-de-Corail.「珊瑚の粒」。Narjnah は 珊瑚、珊瑚の枝を意味し、特に黒人の女奴隷に好んでつけられる名前である。
(17) Kou溝瓶. ―― Kuthayyir ibn Abi Jumah. 詩人であり、高名な物語吟誦者である。Azzah(マルドリュスは Izzat と綴る)という女の美を歌い、「アザーの恋人」Shib Azzah という異名があった。回教紀元一〇五年(西暦七二六年)に死んでいるから、この話に出て来ることはひじょうな時代錯誤である。架空のシャールカーンという人物は回教紀元六五―八六年以前に活躍している(バートンによる)。
(18) 八冊本に欠く。
(19) Djamil. ――Jamil bin Maユamar. クーサイールと同時代の詩人にして恋人。
(20) Doufouf. タンブリンのような楽器。
(21) 象はチェスのビショップ、馬はナイトにあたる。
(22) Patrice. コンスタンティヌス帝によって創設された、ローマ帝国の貴族。
(23) Afrangi. Fran溝is(フランス人)という語の転化とアラビア化により、あらゆるヨーロッパ人に与えられた通称(マルドリュス)。
(24) すなわち彼はひじょうに興奮したという意味である。
(25) 1 parasange (pharsakh) はほぼ五キロに相当する(マルドリュス)。pharsakh は距離の単位よりもむしろ時の単位で、一時間の行程、乃至それに相当する一リーグ、英国の約三マイルという。
(26) Mariam は聖母マリア、Youhanna は聖ヨハネ。
(27) 十六冊本に欠く。
(28) 彼女がなおキリスト教徒であることを示す。
(29) 八冊本に欠く。
(30) Morose. Al-Ghazb穎 すなわち怒りっぽい乱暴な男。
(31) 八冊本に欠く。
(32) 八冊本に欠く。
(33) 八冊本に欠く。
(34) Hadj. イスラム暦十二月八日から十日まで、メッカの聖地を巡礼して、宗教的儀式に加わることは、回教徒の五大義務の一つとなっている。
(35) M仕ine. メディナ Madinah は「町」すなわち「預言者の町」の義。「聖遷」後十年ムハンマドこの地に没す。預言者 Nabi は、コーランに二十五人あり、大預言者六名あるが、最後のムハンマドを最大とする。
(36) Arafat は、メッカの東北約一〇マイルにある、高さ五〇メートルの丘でメッカ巡礼者は、徒歩でここを訪れ、最初の一夜をここで明かすのが、古来の儀式になっている。LaKa叡a (Kaaba, Caba, Kaヤbah) は、「聖殿」で、メッカの寺院の中心に安置された神聖な「黒い石」の名。アッラーの家ともいわれ、イスラム信仰の中心。巡礼者はこの神殿を七回まわることになっている。
(37) アブラハムのこと。コーラン第十四章の名となり、アブラハムはアッラーの友Khaliluユ llah と呼ばれ、純正な信仰の人とたたえられている。回教の真の創建者で、カアーバの再建者といわれ、ムハンマドはその子孫という。
(38) これは回教の厳重な掟で、購入者は少女が自分の所有となるまではその裸体を見てはならず、それは老婆を通じて行なわねばならぬ。
(39) 申し出に不満を意味する言い方という。
(40) Galien le Sage. (Galenos. 129頃―199) ギリシアの医学者、解剖学者、哲学者。ヒポクラテスを宗として、とくに解剖学は、中世に至るまで医学の標準となった。イスラム医学は他の科学に先んじて発達したが、他の諸科学とともに、主としてギリシア医学の伝統にもとづき、七五〇年から約百年間は翻訳期であった。
(41) Ibn-Bitar. (Ibnuユl-Ba付ar. 1248死).. 植物学者。ダマスクスのマリクル・カミールの薬草官となる。その著『薬草集』は、アラビア本草書中の白眉といわれる。
(42) Ibn-S馬a. (980―1035) アラビアの大哲学者で、サラセン医学史上最大の医学者。大著ヌAl-Qa-nu-nネ は、ギリシアとアラビア医学の集大成といわれ、メCanonモ の名でクレモナのジェラルドによってラテン訳されて、ヨーロッパの各大学の教科書となり、十二世紀から十七世紀にわたって西洋医学の基本書とされた。
(43) Chaf蚤t. 古今を通じてのイスラム法学の第一人者で、その大成者と見られる法学者シャーフィイー(七六七―八二〇年)の学派。スンニー四派の一つ。
(44) Maschallah.「アッラーの望みたまうように。」回教徒の常用語。
(45) Ard残hir III. (在位629―30) サーサーン朝二十七代。
(46) LegrandKesra. 不詳。
(47) Abou-Giafar-Abdallah Al-Mansour. (775死).. アッバース朝第二代カリフ。アッバース朝の基礎を固め、七六二年バグダードの都を創設した明君。
(48) Abd El-Malek ben-Merou穎. (647―705) ウマイヤ朝第五代、ウマイヤ朝中興の名主。
(49) Omar ibn-Al-Khatta-b. (664死).. 正統派第二代。対外発展の無二の大指導者として外征し、イスラム帝国の基礎を築いた。
(50) Ali ben-Abou-Taleb. (661死).. 正統派四代最終カリフ。ムハンマドの従兄弟。
(51) 八冊本に欠く。
(52) Moawiah. ウマイヤ朝初代カリフ(在位661―80.)。軍人、政治家として手腕あり、カリフ世襲の例を開く。
(53) 地の文をのぞいて、八冊本に欠く。
(54) 八冊本に欠く。
(55) Safi穎. 不詳。
(56) 八冊本に欠く。
(57) Omar ben-Abd El-Aziz. (682―720) 敬虔な信徒として簡素な生活をし、平和的伝道を主義として、回教徒から聖徒と仰がれた。
(58) 八冊本に欠く。
(59) 八冊本に欠く。
(60) 前出のように、イブラーヒームの都はエルサレム。
(61) この詩八冊本に欠く。
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佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年四月、ちくま文庫に収録された。