千一夜物語 1
佐藤正彰 訳
目 次
アッラーの望みたもうところ也
千一夜物語
商人と魔神との物語
第一の老人の話
第二の老人の話
第三の老人の話
漁師と魔神との物語
イウナン王の大臣と医師ルイアンの物語
シンディバード王の鷹
王子と食人鬼の物語
魔法にかけられた若者と魚の物語
荷かつぎ人足と乙女たちとの物語
第一の托鉢僧の物語
第二の托鉢僧の物語
第三の托鉢僧の物語
第一の乙女ゾバイダの物語
第二の乙女アミナの物語
斬られた若い女の物語
美男ハサン・バドレディンの物語
せむし男と、仕立屋、ナザレト人の仲買人、御用係およびユダヤ人の医者との物語
ナザレト人の仲買人の談
シナ王の御用係の談
ユダヤ人の医者の談
訳註
あとがき
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千一夜物語 1
LE LIVRE DES MILLE NUITS ET UNE NUIT
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アッラーの望みたもうところ也
果てしなく慈悲ふかく
慈悲ふかき
アッラーの御名において
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宇宙の主《あるじ》、アッラーに讃《たた》えあれ。しかして、使徒らの王、われらの君主にして宗主ムハンマドの上に、祈りと平安あれ。しかして、その御一統皆様方の上に、報酬の日に至るまで永久に絶対不離の祈りと平安あれ。
次。願わくは、古人の伝説の、今人への教訓となって、人はここにわが身ならぬよそびとらに起こりし出来事を見んことを。しかるとき、人は過ぎし国民《くにたみ》の言葉と彼らに至りしところとを敬いて、とくと思い見、もってみずから身を戒むるべし。
されば、先の世の物語をば伝えて、後の世のために教訓となせし者に光栄あれ。
さて、かかる教訓のうちよりこそ、『千一夜[#「千一夜」はゴシック体]』と名づけられし物語、ならびに、そこに含まるるあらゆる不思議なることどもと箴言とは、選び出されたるもの也。
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千一夜物語
語り伝えられるところでは――さあれアッラーはさらに多くを知りたまい、さらに賢く、さらに力強く、さらに恵みふかくまします――その昔――時のいにしえと時代時世の過ぎし世のうちに、消え去り現われ出たことどものなかに――インドとシナの島々(1)に、サーサーンの諸王のうちの一人の王がいた。その王は多くの軍隊と、左右の臣と、家来と、おびただしい供まわりの主《あるじ》であった。そして二人の子供があり、その一人は大男で、末子は小男であった。二人とも雄々しい騎士であったが、大きいほうは小さいほうにまさる騎士であった。この大きいほうが父王の国々に君臨し、人々のあいだで正しく治めたから、領地王国の住民たちは、彼を慕った。その名をシャハリヤール王(2)といった。小さい弟のほうは、その名をシャハザマーン王(3)といい、サマルカンド・アル・アジャムの王となっていた。
こういう事態がずっとつづいて、兄弟はそれぞれの国に住んでいた。そしてめいめい自分の王国で、二十年のあいだ、信徒の民草の正しい統治者であった。かくて両人とも朗らかと晴れやかの極みにあった。
こうしてなおもつづいていったが、そのうちとうとう、大きいほうの王は小さいほうの弟にぜひとも会いたいと思うようになった。そこで自分の大臣《ワジール》に、出発して弟をつれて来るように命じた。大臣《ワジール》は答えた、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」
大臣《ワジール》は出発して、アッラーのお恵みにより、つつがなく安着した。さっそく王弟のところに参上して、平安《サラーム》(4)を言上した。それから、シャハリヤール王がしきりに会いたがっておられる、今度の旅の目的も、兄上をお訪ねくださるようお招きにまいったしだい、と申しあげた。シャハザマーン王はこれに答えた、「お言葉承わり、仰せに従う。」そして王は出発の準備をさせ、天幕《テント》や、らくだや、牡らばや、家来や、左右の臣に、勢ぞろいをさせた。それから自分の大臣《ワジール》を国の司《つかさ》に任じて、兄王の地を求めて出かけた。
ところが、夜中ごろになると、王は宮殿に忘れものをしたことを思い出した。それはあたかも兄王に贈ろうと思っていた、みやげの品だったので、そのまま立ち帰って、宮殿にはいった。すると、そこでは王妃が寝床に横たわって、奴隷のうちの一人の黒人奴隷に抱かれているのであった。これを見ると、王の面上に世界は暗くなった。そして王は心中で言った、「おれがわが都を出たか出ないかというのに、はやこのような出来事が出来《しゆつたい》したとあらば、兄上のもとでしばらく不在にしていたならば、この自堕落女の身持は、はたしてどんなことになるであろうか。」そこで、王は剣を抜いて、寝床の敷き物の上の両人を斬り、殺した。それから即時即刻引き返し、野営の出発を命じた。そして兄の都に着くまで、夜の旅をつづけた。
兄は弟の到着を悦んで、みずから出迎えにゆき、弟を迎えて、これに平安を祈った。悦びの限りに悦んで、弟のため都を飾り立て、あふれる真情をこめて話しはじめた。しかしシャハザマーン王は、王妃の事件を忘れかねて、悲しみの雲が顔を蔽っていた。その顔色は黄色くなり、そのからだは弱った。それゆえ、シャハリヤール王は弟のこのありさまをみたとき、これはシャハザマーン王が自分の故国と王国を出て、遠く離れているせいと心中で考え、これについてはもう何もたずねず、弟をば彼の道に残しておいた。けれども日々のうちのある日、弟に言った、「おお弟よ、どういうわけか知らぬが、とにかく見受けるところ、おまえのからだはやせ、顔色は黄色くなってゆくな。」弟は答えた、「おお兄上、私はわが身の奥深くに、生傷《なまきず》を受けておりまする。」けれども、自分の妃が何をしているのを見てきたかは、打ち明けなかった。シャハリヤール王は言った、「私といっしょにぜひ、徒歩《かち》と騎馬の狩りに出かけてもらいたい。おそらくそうすれば、おまえの胸も晴れるであろうからな。」だがシャハザマーン王は承諾しようとせぬので、兄はひとりで狩りに出かけたのであった。
さてこの王の宮殿には、庭を見晴らす窓がいくつもあった。シャハザマーン王が、そういう窓のひとつに肱《ひじ》をついて外を眺めていると、そのとき宮殿の戸が開いて、そこから二十人の女奴隷と、二十人の男奴隷が出てきた。そして兄王の王妃は、一同の中央にいて、輝くばかりの美しさを見せて、身を揺すって歩いている。泉水のほとりにつくと、一同はいっせいに着物を脱いで、互いに入り乱れた。と、突然、王の妃は叫んだ、「おおマサウドよ、やあマサウドよ。」するとすぐに一人の頑丈な黒人が駆け寄って、后を抱きしめた。后もまた彼を抱きしめた。それから黒人は后をあおむけに倒して、上に乗った。これを合図に、ほかの男奴隷全部が、女奴隷を相手に、同じようにした。そして一同長いあいだこうしたことをつづけ、明けがた近くなるまで、彼らの接吻、襲撃、交合、その他これに類したことをやめなかった。
これを見ると、王弟は心の中で言った、「アッラーにかけて、おれの災いも、この災いにくらべればずっと軽いわい。」そしてすぐに、自分の悩みと悲しみが消え失せるのを覚えて、ひとり言を言った、「まったく、これはわが身に起こったすべてよりもはなはだしい。」そしてこのときから、ふたたび飲み食いをはじめ、これをやめることはなくなった。
こうしているうちに、兄王は旅からもどってきて、両人互いに平安を祈り合った。それから、シャハリヤール王は弟シャハザマーン王の様子を見はじめたが、弟の血色と顔色がもとに復し、顔も元気を取りもどしたのを見た。そのうえ、あんなに長い間、わずかしか食物をとらなかったのが、魂をうちこんで、食べるようになっているのを見た。兄王はそれをいぶかって言った、「おお弟よ、先だってまでおまえは顔色も黄色かったが、今では血色ももとに復しておる。事の次第を話して聞かせてくれ。」弟王は答えた、「私の最初色蒼ざめていた原因は、申し上げましょう。しかしなぜ血色がもとに復したかお話し申すことは、ご容赦ください。」王は言った、「ではまず、おまえの顔色の変わったことと衰弱した原因を、聞かせてもらおう。」弟は答えた、「おお兄上、実は、兄上が大臣《ワジール》を私のほうにお遣わしになって、御手のあいだに私のまかり出ることをお求めなすったとき、私は出発の準備をして、わが町を出ました。ところがやがて私は、兄上にお贈りしようと思っていた宝石、過日御殿でさしあげたあの宝石を、思い出しました。そこで引き返してみると、私の妃は一人の黒人といっしょに寝ているのでした。しかも両人は、私の寝台の敷き物の上に眠っていました。私は両人を殺して、兄上のところにまいりました。だが、この事件を思い出しては、たいそう悩んでおりました。これが私の最初の色蒼ざめ、やせ衰えていたいわれです。だが私の顔色の回復については、その原因を申し上げることは、ご容赦ください。」
兄はこの言葉を聞くと、弟に言った、「アッラーにかけて、ぜひとも、おまえの顔色の回復の原因を話してくれるよう頼む。」そこでシャハザマーン王は、自分の見たことすべてを、一部始終、放埓《ほうらつ》な王妃と泉水の黒人どもの出来事を、細大もらさず語り聞かせた。しかしそれをくり返しても詮ない。次に弟は言い添えた、「そして兄上の災いは、私の災いよりもいっそう災い多いように思えました。これは私に反省をしい、そして私の顔色と血色の回復の原因となり、また私の魂が食物にもどった原因ともなったのです。しかしアッラーはさらに多くを知りたまいまする。」
こうした次第である。シャハリヤール王は、この弟の話を聞くと、今度は自分が、顔色がすっかり変わり、顔がひきつり、分別が減ってしまった。そしてひと時のあいだ、そういう状態であった。そのあとで、王はシャハザマーン王のほうを向いて、言った、「何よりもまず、おれはそれをわれとわが目で見とどけなければならぬ。」弟は言った、「では、徒歩と騎馬の狩りに出かけるふりをなさるのです。しかし遠くに行くかわり、私の部屋に隠れておいでになるがよい。さすれば兄上はその場のありさまを目《ま》のあたりご覧になり、実際に見てお確かめなされましょう。」
即刻、王は触れ役人に出発を布告させ、兵士たちは天幕《テント》を携えて、都の外に出た。王もいっしょに出て、天幕《テント》の下に落ち着くと、若い奴隷たちに言いつけた、「何ぴとも余のところに立ち入らせぬように。」それから王は変装して、ひそかに立ちいで、宮殿の、弟のいるところへとおもむいた。着くと、庭を見晴らす窓辺に坐った。
さて、ひとときとたたないうちに、白人の女奴隷たちが、女主人を取り囲んで、黒人たちと共に現われてきた。そして一同は、襲撃、接吻、交合、その他これに類したことどもに関し、シャハザマーンの言ったとおりのことをすべてした。一同は日傾時《アスル》(5)まで、こうした楽しみのうちに時をすごした。
シャハリヤール王はこうした事態を見たとき、正気は頭から飛び去った。そして弟シャハザマーンに言った、「いっしょにここを立ちのいて、アッラーの道の上に、われらの運命のありさまを見に出発いたそう。なんとなれば、われわれはもはや、王位とはなんらかかわりあってはならぬ、だれかわれわれの事件と同様の事件を経験した者を、見いだせるまでは。さもなくば、まさしく、われわれの死のほうが、生よりも好もしいものとなろう。」これに対して、弟もしかるべく答えた。それから、二人はそろって宮殿の秘密の門から逃がれ出た。そして日夜旅をつづけて、ついに塩からい海のほとりの、淋しい草原のまん中にそびえる、一本の木のところに着いた。この草原には、淡水《まみず》の目(6)があった。両人はこの目で水を飲み、腰をおろして休息した。
日中のひとときもたたぬうちに、海がにわかに荒れはじめ、そして突如、海から黒煙の柱が出てきて、空に立ちのぼり、この草原のほうに進んできた。これを見ると、両人ひどく恐れて、その高い木の天辺《てつぺん》にのぼり、いったい何事かと眺めはじめた。ところが、たちまちその柱は、一人の魔神《ジンニー》(7)と変じた、丈高く、たくましい恰幅と厚い胸、そして頭上に一つの櫃《ひつ》をのせていた。魔神《ジンニー》は陸に上がり、両人ののぼっている木のほうにやってきて、その下に止まった。それから櫃のふたをとって、中から水晶の大箱をとり出し、そのふたをあげた。するとただちに、水晶からほとばしり出て、ひとりの好もしい、美しさに照り渡り、ほほえむときの太陽と等しく、光り輝く若い娘が現われ出た。詩人が次のごとく言ったのは、まさしくこの娘のことにちがいない。
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闇の中の炬火、その乙女現わるれば、夜は明くる。乙女現われて、その光もて、曙《あけぼの》は明らむ。
太陽はこの乙女の光明もて、月はその眼《まなこ》の微笑もて、光を放つ。
その神秘の面衣《ヴエール》破るるや、ただちに生きとし生ける者は、恍惚としてその足下にひれ伏す。
しかしてその眼差《まなざ》しのやさしきひらめきの前に、熱情の涙の潤いは、あらゆる眼瞼《まぶた》の端をぬらすなり。
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魔神《ジンニー》はこの美しい乙女をつくづくと眺めたうえで、これに言った、「おお絹物の女王よ、おまえの婚礼の当日、おれにさらわれたおまえよ、おれはこの淋しい場所で、ちょっとひと眠りしたい。ここならば、アーダムの息子(8)らの目が、おまえを見ることはできないからな。そうやって海と陸の旅の疲れをいやしたうえで、そのときおれは、おまえといつものことをするとしよう。」乙女はこれに小鳥の歌の声で言った、「おやすみなさい、おお魔神《ジンニー》たちの父、彼らの冠よ。どうかそれがあなたを力づけ、あなたに快いものでありますように。」そして魔神《ジンニー》は乙女の膝に頭をのせて、そのまま眠ってしまった。魔神《ジンニー》のほうは以上のようである。
すると乙女は、そのとき木のてっぺんのほうに顔をあげ、木のなかに隠れていた二人の王を見つけた。すぐに、彼女は膝の上から魔神《ジンニー》の頭を持ち上げて、それを地面におろし、木の下に立って、合図で二人の王に言った、「降りていらっしゃい、この鬼神《イフリート》(9)などこわがることはありません。」二人は合図で答えた、「おお、おんみの上なるアッラーにかけて、そんなあぶないまねはご容赦くだされ。」彼女は言う、「お二人の上なるアッラーにかけて、すぐさま降りていらっしゃい。さもないと鬼神《イフリート》に言いつけます。そうすれば、あなたがたはこのうえなく悪い殺され方で殺されるでしょう。」すると二人はこわくなって、彼女のそばに降りた。女は立ち上がって二人を迎え、すぐに二人に言った、「さあ、槍をふるって、激しくきついひと刺しで、わたくしを突き刺しなさい。さもないと、鬼神《イフリート》に知らせます。」おそろしさに、シャハリヤールはシャハザマーンに言った、「おお弟よ、まずおまえからさきに、この女の命ずることをしてやりなさい。」弟は答えた、「いや、兄上が手本を示してくださらないうちは、私は何もいたしますまい、あなたは年上なのですから。」そして二人は、互いに目で交合の合図をしながら、乙女について譲りあいをしはじめた。すると女は二人に言った、「なぜそんなふうにお二人で目くばせをしているのですか。もしすぐさまお二人が進み出て、きつく、激しく、長いあいだ、してくださらないなら、今すぐ鬼神《イフリート》に言いつけます。」――すると、魔神《ジンニー》がこわいために、二人とも命じられたとおりのことを、女にした。
二人が言うなりになって、所要の条件で事を果たすと、乙女は二人に言った、「お二人ともまったくおじょうずですこと。」次に乙女は衣嚢《かくし》から小さな袋をとり出し、中から五百七十個の印形をつらねた首輪を出して、二人に言った、「これは何かおわかりになりますか。」二人は言った、「わかりません。」すると乙女は言った、「これらの印形の持ち主はみな、この鬼神《イフリート》の何も気づかぬ角《つの》の上に、ひそかに私と交わったのでございます。それゆえ、あなたがた二人のご兄弟も、それぞれご印形をくださいませ。」そこで二人はそれぞれ手からはずして、印形を二つ与えた。すると、彼女は二人に言った、「実はこの鬼神《イフリート》はわたくしを、婚礼の夜にさらって、この水晶の箱の中にいれ、その箱をさらに櫃《ひつ》におさめ、櫃には七つの錠をかけ、そのうえで、波浪と打ちあいぶつかりあう、とどろく海の底ふかく、沈めたのでした。けれどもこの鬼神《イフリート》は、およそわたくしたちのうちの一人の女が、何かを望むときには、もうどんなものもこれに打ち勝つことはできないということを、知らなかったのです。それに詩人も言っております。
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友よ、女どもを信ずることなく、その約束には微笑せよ。なんとなれば、女どもの機嫌不機嫌は、その女陰《ほと》の気まぐれしだいなれば。
女どもは偽りの愛をばらまくも、不実はその心を満たし、その衣服の芯《しん》を成す。
うやうやしくユースフ(10)の『言葉』を想起せよ。魔王《イブリース》(11)は『女』ゆえに、アーダムを追放せしめしを忘るるなかれ。
また汝の非難をやめよ、友よ。無用のことなり。明日ともなれば、汝の難ずる男の心中に、かりそめの恋情につづいて、狂おしき情熱生ずべければ。
しかして言うなかれ、『われもし恋するとも、世の恋する男らの狂気ざたには陥るまじ』と。言うなかれ。まことに、男にして女らの誘惑より、つつがなくのがるるを見るは、世にまたとなき奇蹟たらむ。」
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この言葉に、二人の兄弟は驚嘆の限りに驚嘆して、互いに言いあったのであった、「もしあれが確かに鬼神《イフリート》であって、しかもその威力をもってしても、その身に、われわれよりもさらに災い多いことどもが起こったとあらば、これぞ、われわれの心を慰さむるに足る出来事ではある。」
そこで二人は、平安《サラーム》と言葉を交わして後、即刻その乙女と別れ、心慰められ、啓発せられ、決意をつけられて、それぞれおのが都へと戻った。
シャハリヤール王は自分の宮殿にはいると、妃の首をはねさせ、女奴隷たちと男奴隷たちの首も、同様にさせた。次に大臣《ワジール》に命じて、毎夜処女の若い娘を一人連れてこさせた。そして毎夜、こうして処女の娘と寝ては、その処女を奪った。そして一夜明けると、これを殺した。王は三年の長きにわたって、このような所業をやめなかった。されば人々は、苦痛の叫びと恐怖の動揺に陥り、なお残る娘たちをつれて、逃げ去った。かくて都には、この乗り手の襲撃の相手をつとめることのできる娘は、ひとりもいなくなってしまった。
こうしているうちにも、王はいつものように、新しい若い娘を連れてくるよう、大臣《ワジール》に命じた。大臣《ワジール》は外に出てさがしてみたが、娘は見あたらない。魂は王ゆえに怖れに満ち、大臣《ワジール》はすっかり悲しみ、悩んで、おのが住居にもどった。
ところが、この大臣《ワジール》自身に二人の娘があった。どちらも美しさと魅力と光輝と完全に満ち、滋味あふるる娘であった。上の娘の名はシャハラザード(12)といい、下の娘の名はドニアザード(13)といった。姉のシャハラザードは、多くの書物、年代記、いにしえの諸王の伝説、過去の民族の歴史などを読んでいた。また、過ぎし時代の諸民族と古代の諸王と詩人たちに関する史書千巻を、所蔵するともいわれていた。非常に弁舌さわやかで、話を聞くのはまことに心地がよかった。
父の姿を見ると、彼女は言った、「なぜそのように、打って変わったご様子でいらっしゃるのですか、悲しみと憂いの重荷を負って。それと申しますのは、おお父上さま、詩人も言うではございませんか、『おお汝、悲しむ者よ、気をおとすなかれ。何事も長くはつづくまじ。喜びもなべて消え失せ、悲しみもなべて忘れ去らるるなり』と。」
大臣《ワジール》はこの言葉を聞くと、王に関して起こった委細を、始めから終りまで、娘に語り聞かせた。するとシャハラザードは言った、「アッラーにかけて、おお父上さま、どうかわたくしをその王さまと結婚させてくださいませ。あるいは生きながらえるかもしれませんし、あるいは回教徒《ムスリムーン》の娘たちのための身代りとなり、王さまのお手から一同を救い出すよすがとなるかもしれませぬから。」すると大臣《ワジール》は言った、「おまえの上なるアッラーにかけて、けっしてそのように危険に身をさらすものではない。」娘は言った、「どうあろうともぜひそうしなければなりませぬ。」そこで大臣《ワジール》は言った、「ろばと牛と、地主との間に起こったことが、おまえの身に起こらないように、用心するがよい。」娘はたずねた、「ろばと牛と、地主との間に、いったいどんなことが起こったのでございますか。」そこで大臣《ワジール》は娘のシャハラザードに、次のように語った。
こういう話じゃ、おお娘よ、むかし一人の商人がいて、莫大な富と家畜を持ち、妻があり、子供たちの父であった。至高のアッラーは、彼に鳥獣の言葉の知識をも、授けたもうた。ところで、この商人の住む地は、大河のほとりの肥沃な地方であった。またこの商人の住居には、一頭のろばと牛がいた。
ある日のこと、牛はろばのいる場所にやって来たが、見るとその場所は、きれいに掃かれ、水がまいてある。飼い槽《おけ》へは、よくふるいにかけた大麦と、よくふるいにかけた藁《わら》があり、ろばは寝そべってのびのびと休んでいる。それに、主人がろばに乗るときも、たまたま急を要する場合、ちょっとひと走りするだけで、ろばはすぐにもどって休めるということも見きわめた。ところで、その日、商人は牛がろばにこう言っているのを聞いた。「せいぜいおいしく食べなさいよ。それがきみにとってからだによく、じょうぶになり、よく消化するように。おれのほうはくたびれているのに、きみは元気だ。きみはよくふるいにかけた大麦を食い、かしずかれている。そして、おりおりの間のときたま、主人が乗るにしても、すぐに帰してもらえるのだ。ところが、こちとらときては、畑を耕すのと水車場の仕事にこき使われるばかりさ。」すると、ろばは牛に言った、「おお、頑健と忍耐の父よ、まあ嘆くかわりに、おれの言うようにするがいい。おれは友情からして、まったくアッラーのお顔のため以外に他意なく、言うのだからね。きみが畑に出されて、首に軛《くびき》をつけられたら、地面に転んで、もう起きないのだよ、たとえぶたれてもね。そして起きあがっても、またすぐに寝ころがるのだ。そこで牛小屋にもどされて、そら豆を出されても、少しも食べないのだ、まるで病気みたいなふうに。こうして、がまんして、一日でも、二日でも、三日でも、飲まず食わずでいなさい。そういうようにすれば、きみは疲れと骨折りから休めるだろうよ。」
ところが、そこに商人がいて、隠れて、彼らの話を聞いていたのだ。
家畜係の男が牛のそばに来て、秣《まぐさ》をやってみると、牛はほんの少ししか食わないのであった。翌朝、仕事に引き出すと、牛は病気になっていた。すると商人は家畜係の男に言いつけた、「ろばを引き出して、一日じゅう、牛のかわりに働かせなさい。」男はもどって、牛のかわりにろばを引き出し、一日じゅう働かせた。
日暮れにろばが小屋にもどると、牛はその好意を謝し、その日一日疲れを休めさせてもらったことを謝した。だが、ろばはこれにひと言も答えず、このうえなく強い後悔を悔いた。
翌日は、種蒔き男がやってきて、ろばを引き出し、日暮れまで働かせた。ろばはもう首の皮がすりむけ、疲れてへとへとになって、やっともどってきた。牛はこのさまを見ると、ろばにまごころこめて感謝し、言葉をつくしてほめたたえはじめた。すると、ろばは牛に言った、「以前、おれは実に安らかだったが、思えば、恩ほど仇《あだ》になったものはない。」次に付け加えて言った、「それでもなお、いいかね、おれはきみにもう一度いい忠告をしてあげるものと、知りたまえ。うちの主人がこう言っているのを聞いたよ、『もし牛が自分の場所から起きあがらないようだったら、あれを牛殺しのところにやって、屠《ほふ》ってもらい、その皮で食卓用の皮を作ってもらわなければならぬな』とね。おれはきみの身が心配でならない。なんとか助かる道を考えたまえ。」
牛はろばの言葉を聞くと、お礼をのべてから言った、「あしたは自分から進んで、男たちといっしょに、おれの仕事をしに行くとしよう。」そこで牛はさっそく食いはじめ、秣を全部平らげ、そのうえ舌で槽《おけ》まできれいになめた。
こうしたしだいであったが、彼らの主人は、隠れてこの話を聞いていたのだ。
夜があけると、商人は妻といっしょに、牝牛の牛舎のほうに出かけ、二人で腰をおろした。すると牛|曳《ひ》き男がやってきて、その牛を引き出して、外に出た。ところが、牛は主人の姿を見ると、しっぽをふったり、音高くおならをしたり、右往左往、やたらと駆けまわったりしはじめた。商人はおかしくなって、ひっくりかえって尻もちをつくほど笑いこけた。すると妻が聞いた、「何がそんなにおかしいのですか。」夫は言った、「私が見もし、聞きもしたあることなのだが、それを口外すれば、私は死ななくてはならんのだ。」妻は言った、「どうあっても、それを聞かせてください、おかしいわけを言ってください、たといそのためあなたが死ななければならぬとあっても。」夫は言った、「私は死ぬのがこわいから、それをおまえにもらすわけにはゆかぬのだ。」妻は言った、「それでは、この私のことがおかしいのですね。」それから、夫と喧嘩をはじめ、しつこくからむことをやめず、あまりのことに、ついには夫はすっかり困ってしまった。そして子供たちをその場に呼びよせ、法官《カーデイ》(14)と証人たちを呼びにやった。そして、妻に秘密を打ち明けて死ぬ前に、遺言をしようと思った。なにせ、妻は父方の叔父の娘でもあり、子供たちの親でもあり、これまで自分の年齢の多年にわたって、連れ添ってきたのであってみれば、ひとかたならぬ愛情で、妻を愛していたのだからな。そのうえ、彼は妻の親戚全部と界隈《かいわい》の人たちを呼んでこさせ、一同に事の次第を話し、自分が秘密を言えば、とたんに死ぬのだということを語った。するとそこにいる人たちはみな、妻に言った、「あなたの上なるアッラーにかけて、この件はもう問わぬことにしなさい。あなたのご主人、あなたの子供たちの父親が、死んでしまってはいけないから。」けれども妻は言うのだ、「このひとが私に秘密を明かしてくれないことには、そのままにしてはおけません、たといそのためこのひとが死ぬことになろうとも。」そこでみなも黙ってしまった。商人は一同のもとから立ちあがって、庭のなかの家畜小屋のほうに出かけた。まず洗浄《みそぎ》をし、それから、もどって秘密を明かして死のうと覚悟したのだ。
ところで、この商人は、五十羽の牝鶏《めんどり》を満足させることのできるほど、元気のいい雄鶏《おんどり》を持っていた。また一匹の犬も持っていた。その犬が雄鶏を呼んで、ののしり、こう言っているのが、商人の耳にはいった、「家のご主人が今にも死のうというのに、そんなにうきうきしていて、恥ずかしくないのか。」すると雄鶏は犬に言った、「それはまたどうしたのだね。」すると犬は事の次第をくり返すと、雄鶏は言った、「アッラーにかけて、家のご主人も知恵がないな。おれなんぞは、五十羽の女房を持ちながら、一人を喜ばせ一人を叱りつけながら、ちゃんとなんとかやっていけるぜ。ご主人ときては、たった一人の奥さんきりないくせに、それを御する手だてもやり方も、ご存じないとは。なに造作ないことさ。ご主人は奥さんのために、手ごろな桑の枝を二、三本切って、いきなり奥さんの私室にとびこんでからに、奥さんが死んでしまうか、前非を悔いるかするまで、ぶちのめしてやりさえすればいいのさ。そうすれば、もうどんなことについても、うるさく問いただしたりするなんてことは、二度としはしないよ。」こう言ったのだ。商人は犬としゃべっている雄鶏のこの言葉を聞くと、光明がその分別にもどって、そして妻をなぐってやろうと決心したのだ。
[#この行1字下げ] ここで、大臣《ワジール》は話をやめて、娘のシャハラザードに言った、「ちょうどこの商人がその妻にしたように、王さまはおまえになさりかねない。」娘は言った、「で、どんなことを商人はしたのでございますか。」大臣《ワジール》はつづけた。
[#ここで字下げ終わり]
商人は妻のために桑の枝を切り、それを隠し持って、妻の私室へはいり、妻を呼んで言った、「おまえの部屋に来なさい。秘密を話してあげるが、だれにも見られたくないから。そのうえで私は死ぬことにする。」そこで妻はいっしょにはいったので、夫ははいったとたんに私室の戸をしめきり、そこで妻に飛びかかって、気を失うばかり、打って打って打ちのめした。すると妻は言った、「悪うございました、悪うございました。」それから夫の両手両足に接吻しはじめて、本心から前非を悔いたものだ。その後で、妻は夫といっしょに外へ出た。それで並みいる人々は大いに悦び、親戚一同も大いに悦んだ。こうして皆の者は、死ぬまでこのうえなく仕合せな、このうえなく多幸なうちに、すごしたのであった。
[#ここから1字下げ]
彼はこう言った。大臣《ワジール》の娘シャハラザードは、父のこの話を聞くと、言った、「おお父上さま、それでもやはり、わたくしは、お願いしましたとおりにしていただきとう存じます。」すると大臣《ワジール》は、それ以上たってとめず、娘シャハラザードの嫁入り衣裳を用意させておいて、シャハリヤール王に知らせに参内した。
そのあいだに、シャハラザードは自分の年下の妹に、よくよく言い含めて、こう言った、「わたくしが王さまのおそばへあがったら、あなたを迎えによこします。あなたが来て、王さまがわたくしとの御用をおすませになったのを見たら、こうおっしゃい、『おお、お姉さま、どうぞ何かふしぎなお話をして、わたくしたちに夜を過ごさせてくださいませ』と。するとわたくしはいろいろなお話をいたしましょう。それは、もしアッラーのおぼしめしあらば、回教徒《ムスリムーン》の娘たちの救いの原因《もと》となることでしょう。」
そのあとで、父の大臣《ワジール》は娘を連れにきて、いっしょに王のところに参内した。王は大いに悦んで、大臣《ワジール》に言った、「用意は万端ととのっているか。」大臣《ワジール》はうやうやしく言った、「はい。」
王がその若い娘をわがものにしようとすると、娘は泣きだしたので、王はこれに言った、「どうしたのか。」娘は言った、「おお王さま、わたくしにはひとりの妹がございまして、それに別れを告げたいのでございます。」そこで王はその妹を迎えにやると、妹は来て、シャハラザードの首に抱きつき、とうとう臥床《ふしど》のそばにうずくまってしまった。
しかし王は立ちあがった。そしてそのまま、処女シャハラザードを捉えて、その処女を奪った。
それからみなで雑談をしはじめた。
するとドニアザードはシャハラザードに言った、「あなたの上なるアッラーにかけて、おお、お姉さま、何かわたくしたちにお話をして、今夜をすごさせてくださいませ。」シャハラザードはこれに答えた、「心から悦んで、当然の敬意のお務めといたしまして。けれども、このお育ちよろしく、生れながら挙措みやびの王さまの、お許しがあればのことでございます。」王はこの言葉を聞くと、また一方では不眠に悩んでいたおりから、シャハラザードの話を聞くのをきらわなかった。
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[#この行1字下げ] そしてシャハラザードは、この第一夜に、次の話をはじめた。
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[#地付き]第一夜[#「第一夜」はゴシック体]
商人と魔神との物語
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
おお幸《さち》多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、むかし、商人のなかのひとりの商人がおりまして、数々の富を持ち、あらゆる国々にわたって手びろく商売をいたしておりました。
日々のうちのある日、その商人は馬に乗って、商用のため二、三の地方に向けて、出発いたしました。ところが暑さがあまりひどくなったので、彼は一本の木の下に腰をおろし、そして食料袋を開いて、食物とそれからなつめやしの実をいくつか取り出しました。なつめやしを食べおえると、その核《たね》を手のなかに拾い集めて、それを勢いよく遠くに投げ棄てました。すると突然、その男の前に、丈《たけ》の高い一人の鬼神《イフリート》が現われ、剣を振りかざしながら、商人に近づいてきて、叫びました。「さあ立て。きさまがおれの子供を殺したように、おれもきさまを殺してやるから。」商人は当惑と恐怖の極に達して、これに申しました、「いったいどうして、私があなたのお子さまを殺したというのですか。」鬼神《イフリート》は言いました、「きさまはなつめやしを食ってから、核《たね》を投げたろう。その核が飛んできて、おれの息子の胸に当たったのだ。というのは、おれと息子は、ちょうどそこの空を通っていたのだ、おれは息子を運び、息子はおれに運ばれて。そこでそれが最後となって、子供はそれなり、即座に死んでしまったわい。」商人は、もう自分には頼りも救いもないことがわかりまして、鬼神《イフリート》のほうに両の手のひらをさし出しながら、言いました、「おお大鬼神《イフリート》さま、私は信者でございまして、あなたに嘘などつくことはできませぬ。ところで、私にはたくさんの富があり、また子供たちも妻もある身です。それに、家には人さまから頼まれて、あずかっておいてある品々がございます。ですから、どうか私をいったん自宅にやって、しかるべき人にしかるべきものを返させてください。それがすんだら、私はあなたのところにもどって来ます。そのあとでかならず、あなたのそばにもどって来るという、約束と誓いを立てます。そのうえで私を好きなようにしてください。アッラーが私の言葉の保証人でございます。」すると魔神《ジンニー》は信用して、商人を出発させました。
そこで商人は自分の国に帰って、あらゆる絆《きずな》を絶ち、しかるべき者にしかるべき責務を果たしました。次に妻や子供に、自分の身に起こったことを打ち明けました。すると皆、泣き始めました、親戚も女たちも子供たちも。それから商人は遺言をして、その年の終りまで、家族といっしょに暮らしました。こうしたあとで、いよいよ出発の決心をし、経《きよう》帷子《かたびら》を小脇にかかえて、近親や近所の人々や親戚たちにいとまごいをし、そして鼻にもかかわらず(1)出かけました。皆は彼の身の上を嘆いて、愁傷の叫びをあげはじめました。
さて商人のほうは、友人親戚をそのままに残して、旅をつづけました。そして魔神《ジンニー》の手に身を渡さなければならぬ、くだんの場所に着きました。その日はちょうど、正月元旦でした。ところで商人が腰をおろして、わが身にふりかかったことについて泣いていますと、そこに一人の年とった老人《シヤイクー》(2)が、鎖でつないだ一頭のかもしかをひいて、商人のほうにやってまいりました。老人は商人に挨拶して、その繁栄を祈ってから申しました、「|魔神ども《ジン》の出没するこんな場所に、どうしてたった一人でとどまっていなさるのか。」そこで商人は、鬼神《イフリート》とのあいだに起こったことと、この場所に来ているわけを、話して聞かせました。すると、かもしかの主人のその老人は、非常に驚いて言いました、「アッラーにかけて、おお兄弟よ、あなたの信義はまことに見上げた信義じゃ。またあなたの話は実に不思議な話で、もしこれを針でもって目の内側の片すみに書いておいたならば、うやうやしくものを考える人の反省の種ともなるものであろう。」それから、商人のかたわらに坐って申しました、「アッラーにかけて、おお兄弟よ、わしはあなたと鬼神《イフリート》とのあいだにどんなことが起こるかを見ぬうちは、あなたのおそばを離れますまい。」そして言葉どおり、老人は居残って、商人と話を始めたのでしたが、見れば、商人は深い悲しみと不安な想いに捉われて、こわさと恐ろしさとに、気も失いかねないありさまでした。こうして、このかもしかの主人がそこにずっといっしょにおりますと、そこに突然、もう一人の老人《シヤイクー》が、黒犬の種類の兎猟犬を二頭連れて、二人のほうに向かって進んでまいりました。近づいて来ると、二人に平安を祈り、|魔神ども《ジン》の出没するこんな場所に、二人がとどまっているわけを尋ねました。そこで二人は一部始終を語りました。ところが、その老人が坐ったと思うまもなく、第三の老人《シヤイクー》が、一頭の椋鳥色《むくどりいろ》の牝らばを連れて、彼らのほうにやって来ました。その老人は一同に平安を祈り、彼らがこんな場所にとどまっているわけを尋ねました。そこで彼らは一部始終を話しました。しかし、その話をくり返しても、何の益もございません。
こうしているうちに、一陣の砂ほこりの旋風《つむじかぜ》が立ち上り、大風が激しく吹きつけながら、この草原の中ほどに近づいて来ました。次に砂煙が消えて、例の魔神《ジンニー》が、鋭く研ぎ澄ました剣を手に持って、現われ出ました。双の眼瞼《まぶた》からは、火花がほとばしり出ていました。魔神《ジンニー》は彼らのところにやって来て、まん中にいる商人を引っ捉えて、これに言いました、「さあ来い、きさまがおれの子供を、おれの生命《いのち》のいぶきを、おれの心の焔を殺したように、おれもきさまを殺してやるから。」すると商人は涙を流して、嘆きはじめました。そして三人の老人《シヤイクー》もまた激しく泣き、呻《うめ》き、涙にむせびはじめました。
しかし第一の老人《シヤイクー》、かもしかの主人はとうとう思い切って、魔神《ジンニー》の手に接吻しながら、言いました。「おお魔神《ジンニー》さま、おお|魔神たち《ジン》の王さまがたの頭《かしら》であり、彼らの王冠であられるあなたさまよ、もしわしがあなたに、このかもしかとわしとの物語をお話しして、それに感じなされたなら、どうかその褒美《ほうび》に、この商人の血の三分の一を免じてくださらぬか。」魔神《ジンニー》は言いました、「よろしい、承知した、尊ぶべき老人《シヤイクー》よ。もしおまえが話をして、おれがそれを不思議な話だと思ったら、それに免じて、この者の血の三分の一をおまえにつかわそう。」
第一の老人の話
そこで第一の老人《シヤイクー》は申しました。――
されば、おお大鬼神《イフリート》さま、実はこのかもしかはわしの叔父の娘(3)で、わしの血と肉でござりました。わしはこれがまだ若いころにめとって、三十年近くも連れ添ったのでした。ところがアッラーは、この女にたった一人の子供をもお恵みくださりませんでした。そこでわしは一人の妾《めかけ》をおきましたところ、アッラーのお恵みで、昇りぎわの月のように美しい男の子ができました。その子はみごとな目と、迫った眉と、申し分のない手足を持っていました。だんだんと大きくなって、その子はとうとう十五の少年になりました。ちょうどその頃、わしは大事な商用で、遠く離れた町に出かけねばならぬことになりました。ところで、このかもしかになっているわしの叔父の娘は、子供のときから妖術と魔術に通じておりました。そこでその魔法の知識を使って、わしの留守のあいだに、わしの息子をば子牛に、またその母親である女奴隷をば牝牛に、変えてしまいました。そして家の牛飼い男に、二人の番をさせることにしました。
わしは長いことたって、旅からもどりました。わしは息子とその母親のことを尋ねますと、叔父の娘はこう申しました、「あなたの女奴隷は死んでしまったし、あなたの息子は逃げてしまって、どこへ行ったやらいっこうわかりません。」
そこで一年というもの、わしは心中の悲しみと目にあふれる涙とに、打ちひしがれておりました。
さて例年の祭日「犠牲の日」が来たとき、わしは牛飼いに、よく肥えた牝牛を、別にとりのけておくように伝えました。すると牛飼いは、よく肥えた牝牛をひいて来ました。――だがそれこそ、このかもしかの妖術にかけられた、わしの妾だったのでござります。――そこでわしは袖と着物の垂れとをたくし上げ、手に庖丁《ほうちよう》を持って、その牝牛をほふろうと用意しました。すると突然、この牝牛は悲しい声を立て、涙をおびただしく流して泣き始めました。そこでわしは自分の手を止め、牛飼いにそれをほふるように命じました。牛飼いは言いつけどおりにして、それからその皮を剥ぎました。ところが、その牝牛は脂も肉もなくて、ただ皮と骨ばかりだったのです。わしはそこで、これをほふったことを悔いましたが、悔いたとて今さら詮ないことでした。それで、それをば牛飼いにくれてやり、またこう言いつけました、「よく肥えた子牛を一匹連れて来い。」すると牛飼いは、子牛に変えられたわしの息子を連れて来たのでした。
この子牛はわしを見ると、綱を切ってわしのところに走って来て、わしの足許をころげ回り、なんという呻き声を立てましたことか。なんという涙を流しましたことか。そこでわしもかわいそうになって、牛飼いに言いました、「別の牝牛を連れて来い、そしてこいつは残しておけ。」
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――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射して来るのを見て、これ以上王の許しに甘えずに、つつましく口をつぐんだ。すると妹のドニアザードは言った、「おお、お姉さま、なんとあなたのお言葉は心地よく、優しく、味わい深く、風味よろしいのでございましょう。」するとシャハラザードは答えた、「けれどもこのお話は、もしわたくしになお生命《いのち》があって、王さまがわたくしを生かしておいてくださるならば、明晩お二人にお話し申すものにくらべると、まるで物の数にもならない話でございます。」すると王は心の中で思った、「アッラーにかけて、この話のつづきを聞いてしまうまでは、この女を殺すまい。」
次に王とシャハラザードは、その残りの夜を相抱いて過ごした。そのあとで、王は裁きの仕事をつかさどりに出かけた。すると王は、大臣《ワジール》が、もう死んだものと思って、娘のシャハラザードのための経帷子を腕に抱えて来るのを見た。しかし王はそのことについては大臣《ワジール》に何事も言わず、裁きをしたり、ある者を役目に任じ、他の者を罷免したりして、日の暮れるまでこれをつづけた。そこで大臣《ワジール》は思い惑い、驚きの極に達した。
政務《デイワーン》(4)を終えると、シャハリヤール王は御殿に帰った。
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[#地付き]そして第二夜になると[#「そして第二夜になると」はゴシック体]
ドニアザードは姉のシャハラザードに言った、「おお、お姉さま、お願いですから、商人と魔神《ジンニー》との物語の、あのお話を終わってくださいませ。」するとシャハラザードは答えた、「心から悦んで、当然の敬意と心得まして。――けれども、もし王さまのお許しがあればのことでございます。」すると、王は言った、「話すがよい。」
彼女は言った。
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おお幸多き王さま、正しく直《すぐ》なる想いの持ち主よ。わたくしの聞き及びましたところでは、その商人が子牛の泣くのを見たとき、その心は憐みに捉えられ、牛飼いに「この子牛は家畜の中に残しておけ」と、申したのでございます。
こうした次第で、魔神《ジンニー》はこの驚くべき話にすっかり驚き入りました。次に、かもしかの主人の老人《シヤイクー》はつづけて申しました。
おお魔神《ジン》の王中の主《しゆ》よ、こうしたすべてのことが起こったのです。するとわしの叔父の娘は、すなわちこのかもしかですが、これはそこにいて、様子を眺めていましたが、こう申すのです。「おお、ぜひともこの子牛をほふらなければいけません、ちょうどよく太っておりますから。」だが、わしはかわいそうで、どうもこれをほふる気になれず、牛飼いに連れて帰れと命じました。牛飼いはこれを連れて、いっしょに立ち去りました。
次の日、わしが腰をおろしていると、そこにその牛飼いが来て言いました、「おおご主人さま、私はあなたのお喜びになるようなことを、お話し申しましょう。まったくよい知らせで、ご褒美がいただけるようなことです。」わしは答えた、「きっとあげよう。」すると牛飼いは言いました、「おお、お偉い商人さま、私には、昔家に泊まっていたある老婆から妖術を習って、妖術を使う娘があります。ところで、きのうあなたさまがあの子牛をお渡しになったとき、私は子牛を連れて、娘のところにはいって行きました。娘はその牛を見るやいなや、面衣《ヴエール》で顔を隠して泣き始め、次には笑い始めました。それからこう言いました、『おお、お父さん、いったい神の値打は、お父さんの目からみて、そんなに下がったのですか、こんなふうに、私のところに、よその男たちをはいらせたりなさるとは。』私は申しました、『だがどこにいるんだ、そのよその男たちというのは。それになぜおまえは涙を流したり、そのあとで笑ったりするのだい。』娘は言いました、『そのお父さんといっしょにいる子牛は、私たちのご主人のお子さまですが、今は魔法にかけられていらっしゃるのです。そして、このかたをこんなふうに魔法にかけ、それといっしょに、そのお母さまをも魔法にかけてしまったのは、義理のお母さまです。そして私が笑わずにいられなかったのは、このかたが子牛の顔をしていることであり、また私が涙を流したというのは、父にあたるかたの手にかかってほふられた、この子牛のお母さまのためです。』この娘の言葉を聞いて、私はすっかり驚き、早く旦那さまのところに行ってお知らせしようと、朝になるのを待ちかねていたのでした。」
おお力強い魔神《ジンニー》さま、(と老人は話をつづけたのでございます。)この牛飼いの言葉を聞いたとき、わしは取りあえず、この男と戸外《おもて》に飛び出しましたが、自分の息子に、はからずも再会できるという多くの悦びと嬉しさとに、わしは酒も飲まずに、酔い心地を覚えました。こうしてわが牛飼いの家に着くと、その若い娘はわしを歓び迎え、わしの手に接吻しました。すると、例の子牛がわしのところに来て、わしの足もとをころがりまわりました。そこでわしは牛飼いの娘に言いました、「あんたがこの子牛について話したことは、あれはほんとうのことだろうか。」娘は言いました、「ほんとうでございますとも、ご主人さま。これはあなたさまのご子息です、あなたさまの心の焔です。」わしは申しました、「おお、優しい救いの乙女よ、もしあんたがわしの息子に、最初のアーダムの子の姿を返して、助け出してくだすったら、わしはあんたのお父さんに預けてあるわしの家畜も持ち物も、全部あんたに進ぜよう。」娘はわしの言葉に笑みをもらして、申しました、「おおご主人さま、わたくしは次の二つの条件つきでなければ、その富をいただきたくはございません。第一は、わたくしがご子息と結婚すること。第二は、わたくしのこれと思う人を魔法にかけて閉じこめることをお許しくださること。この二つがなくては、お宅の奥さまの腹黒さに対して、いくらわたくしが手を出しても、うまくいくかどうかわかりません。」
おお力強い魔神《ジンニー》さま、この牛飼いの娘の言葉を聞いたとき、わしは言いました、「よろしい。そのほかに、あんたのお父さんに預けてある富をみな進ぜよう。わしの叔父の娘については、その血をどうなりと、あんたの好きなようにしてさしつかえない。」
わしの言葉を聞くと、娘は銅の小さなたらいを取り出して、それに水を張り、水に向かっていろいろな魔法の呪文を唱えまして、次にその水を子牛に振りかけて申しました。「もしアッラーが汝を子牛に創りたまいしならば、形を変えることなく子牛のままにてあれ。されどもし汝にして魔術にかかりてあるとせば、汝の始めに創られし形にもどれ、至高のアッラーのお許しを得て。」
娘はこう言った。するとすぐに、その子牛は身を動かしはじめ、それから身をゆすって、もとの人間の姿にもどりました。そこでわしは息子に飛びついて、抱きしめました。それから言った、「おまえの上なるアッラーにかけて、わしの叔父の娘がおまえとおまえのお母さんとにしたことを、話しておくれ。」すると息子は、二人の身に起こったことを全部話しました。そこでわしは言いました、「おおわが子よ、運命の主《あるじ》アッラーは、おまえを救いまたおまえの権利を救ってくれる何ぴとかを、取っておいてくださったのじゃ。」
そのあとで、おお善き魔神《ジンニー》さま、わしは息子を牛飼いの娘と結婚させました。そして、その娘は妖術の知識でもって、わしの叔父の娘を魔法にかけ、ここにいるこのかもしかに、変えてしまったのです。そしてわしが先刻この場所を通りかかると、こう皆さまがたが集まっておられるので、何をしていられるのかと尋ねましたところが、この商人の身に起こった事柄をうかがい、いったいこれから先どうなることかと、腰をおろした次第。――これがわしの話でございますのじゃ。
すると、魔神《ジンニー》は叫びました、「この話はなかなか不思議だ。では、褒美に所望の血の三分の一をとらせよう。だがこの呪われた男の血の残り三分の二は、こやつの鼻にもかかわらず、即刻即座にこやつから取ってやろう。」
このとき、第二の老人《シヤイクー》、二頭の兎猟犬の主人が進み出て、申しました。
第二の老人の話
されば、魔神《ジン》の王中の主《しゆ》よ、実は、この二匹の犬はわしの兄たちであり、わしはその三番目の弟でござります。さて、わしたちの父親が死んだとき、父親はわしたちに遺産三千ディナール(5)をのこしてくれました。そしてわしは自分の分け前をもらって、店を開き、売り買いに従事いたしました。そして、一人の兄は取引をするために旅行を始めて、隊商といっしょに、一年にわたって遠く外国《とつくに》におりました。が、さてもどって来たときには、もう一文なしでした。そこでわしは言ってやりました、「おお兄さん、だから旅行などなさるなと、おいさめしたではありませぬか。」すると兄は涙を流しはじめて、言いました、「おお弟よ、力強く偉大なるアッラーは、おれがそうなることをお許しになったのだ。だから今となっては、おまえの言葉ももう詮ないことだ。おれはもう一文なしだから。」そこで、わしは兄を店に連れて行き、次に浴場《ハンマーム》に案内し、極上等のりっぱな衣服をあげました。それから、いっしょに坐って食事をすることになりましたが、わしはこう言いました、「おお兄さん、私はこれからこの一年間の店のもうけを勘定して、資本《もとで》には手をつけずに、そのもうけをば、私とあなた(6)で半分ずつ分けましょう。」そして言葉どおり、わしは店の資金によって得たもうけの勘定をしてみると、その年は一千ディナールの利益がありました。そこでわしは、力強く偉大なるアッラーに感謝し、このうえなく強い悦びを喜びました。次にわしはそのもうけを兄と私とのあいだで等分したのでした。こうして、わしどもはいく日もいく日もいっしょに暮らしておりました。
ところが、二人の兄はまたもや出発する決心をして、二人はわしをもいっしょに出発させようというのです。だが、わしはどうしても承知せずに、こう言ってやりました、「私が兄さんがたのまねをしようという気になるほど、兄さんがたは旅をして、いったい何をもうけましたか。」すると兄たちはわしをいろいろ難じだしましたが、結局どうにもなりませぬ。わしはどうしても、兄たちの言うことを聞かなかったからです。そして旅に出るどころか、まる一年というもの、わしたちはそれぞれの店にいて、売り買いをつづけていました。ところが一年たつと、二人はまたもや、旅行の話を持ち出しました。だがわしは相変わらず承知しませんでした。――こうしてこれがまる六年にわたりましたが、しまいには、とうとうわしも旅に出る気になってしまい、二人に申しました、「おお兄さんがた、私たちの手もとにある金を勘定してみましょう。」勘定してみると、全部で六千ディナールありました。そこでわしは言いました、「この半分は土の中に埋めておいて、万一私たちが不幸に見舞われたときの、用に宛てることにしましょう。そして私たちはめいめい千ディナールを持って、小売り商売をすることにしましょう。」兄たちは答えました。「アッラーがその思いつきをお恵みくださるように。」そこでわしは、金を取ってこれを二等分し、三千ディナールを埋め、他の三千ディナールをば、兄弟三人できっかり分け合いました。それから、わしたちはいろいろの商品を仕入れ、一艘の船を借り、品物を全部積み入れて、出帆しました。
航海はまるひと月つづいて、わしたちはとある町にはいり、そこで商品を売りました。そして一ディナールごとに、十ディナールの利益をあげたものでした。それからわしたちはこの町をひきあげました。
ちょうど海岸に着くと、そのときわしたちは、古いすりきれた着物を着た一人の女に出会いましたが、その女はわしに近づいて来て、手に接吻して言いました、「おおご主人さま、あなたさまはわたくしを助けて、わたくしの力になってくだされましょうか。そのかわりわたくしもかならず、あなたさまのお恵みに、ご恩報じをいたすことができましょう。」わしは言った、「よろしい。きっと助けて面倒を見て進ぜよう。だが何もわしに恩を着なけりゃならんと思うことはない。」女は答えました、「おおご主人さま、ではわたくしと結婚をして、わたくしをあなたさまのお国にお連れくださいませ。わたくしはあなたさまに魂をお捧げ申します。どうかわたくしにご親切を施してくださいませ、わたくしは親切と恵みの値いを知っている女でございますから。わたくしのみすぼらしい姿など、けっして恥ずかしくお思いなさいますな。」この言葉を聞いたとき、わしは心底からこの女がかわいそうになりました。なぜかというに、力強く偉大なるアッラーの御意《ぎよい》をもってすれば、なされぬこととてないからです。そこでわしは女を連れて行って、りっぱな着物を着せてやりました。それから、女のために船の中にみごとな敷き物をのべ、礼儀を尽くして、手厚く十分なもてなしをしてやりました。そしてわしたちは出帆しました。
さて、わしの心はこの女を非常な情愛でいとおしみました。そしてそれからというもの、わしは昼も夜も、女のかたわらを離れませんでした。そして兄弟の中でただわしひとりが、この女といとなみができたのです。だから兄たちは嫉妬でいっぱいになったし、それにまた兄たちは、わしの富とわしの商品の品が良いことも、羨んでおりました。そしてわしの持っている物すべてを物ほしそうに眺めていましたが、とうとうわしを亡きものにして、金を奪おうと企てたものです。それというのも、悪魔《シヤイターン》(7)が彼らにその行動を、このうえなく美しい色のもとに見させたからです。
ある日、わしが妻のかたわらで眠っていると、兄たちはそこにやって来て、わしたちを抱き上げ、二人もろとも、海へ投げ込んでしまいました。家内は水の中で目をさましますと、そのとき突然姿を変えて、魔女《イフリータ》となりました。そしてわしを肩に載せて、とある島に上げてくれました。それから一晩じゅう姿を消していましたが、朝方帰って来て、こう申しました、「わたくしがおわかりになりませんの。あなたの妻ですよ。わたくしが至高のアッラーのお許しによって、あなたを助け出して、あぶないところをお助け申したのでございます。というのは、よくお聞きくださいまし、わたくしは女魔神《ジンニーア》なのです。そしてあなたをひと目見たときから、わたくしの心はあなたが好きになりました。それはただアッラーのおぼしめしだったからでございますし、わたくしはアッラーとその預言者(どうかこのおかたが、アッラーによって祝福され保護されますように)の信者だからでございます。わたくしが、みすぼらしい姿であなたのところにまいりましたとき、あなたはそれでもなお、わたくしと結婚してくださいました。そこでわたくしもお礼に、水におぼれなさるところをお助け申したのです。あなたのお兄さまがたには、ほんとうに腹が立ってなりません。どうしてもあの二人を殺さないでは、気がすみません。」
この言葉を聞いて、わしはすっかりたまげて、してくれたことに礼を述べてから、申しました、「兄さんたちを殺すなど、めっそうもないことだ。」それからわしは、兄たちとのあいだに起こったことを一部始終、話して聞かせました。わしの言葉を聞き終わると、家内は申しました、「わたくしは今夜、二人のところに飛んで行って、船を沈めてやりましょう。そうすれば、二人は亡びてしまうでしょうよ。」わしは言いました、「おまえの上なるアッラーにかけて、けっしてそんなことをしてくれるな。『金言の主《あるじ》』もこう申されておる、『おお、不届き者に恵みをたるる者よ、罪人《つみびと》はその罪自体によりて、すでに十分に罰せられてあるを知れ』と。それに何はともあれ、二人はともかくもわたしの兄だ。」家内は言います、「どうあっても殺さなければなりません」と。わしがいくらゆるしてくれと頼んでも、聞きません。それから、家内はわしを自分の肩に載せて飛び立ち、わしを自家《うち》の露台の上におろしました。
そこでわしは家の戸をあけました。それから、例の三千ディナールを隠し場所から取り出しました。そして必要な近所まわりと慣例の挨拶をすませてから、店を開いて、新しい商品を仕入れました。
夜になると、わしは店をしめたが、自宅にはいってみると、この二匹の犬が片すみに縛りつけてあるのです。犬はわしを見ると起き上がって、涙をたらしてわしの着物にまつわり始めました。ところが、すぐ家内が駆けつけて来て、言いました、「これはあなたの兄さまがたです。」わしは言いました、「だがいったいだれが、こんなふうにしてしまったのだ。」家内は答えました、「わたくしです。わたくしは、わたくしよりもずっと魔法に通じている姉さんに頼みましたところ、姉さんは兄さん二人を、こんなふうにしてしまいました、お二人は十年たたなければ、もとの姿にかえることができないでしょう。」おお力強い魔神《ジンニー》さま、こういうわけで、わしはこの場に来あわせた次第です。というのは、ちょうどその十年が過ぎたので、これから義理の姉のところに行って、兄たちの魔法を解いてもらうように、頼みに行くところなのです。ここに来てみると、この善良な若者がいましたが、その出来事を聞いて、あなたさまとこの男とのあいだに、どんなことが起き上がるかを見ないうちは、一歩も動きたくないと思った次第です。これがわしの話です。
魔神《ジンニー》は申しました、「これはまったく不思議な話だ。では、罪の償いとして、血の三分の一をおまえにとらせよう。だが、核《たね》を投げつけたこの不届き者から、おれの分の血三分の一を、しぼりとってやるとしよう。」
すると第三の老人《シヤイクー》、牝らばの主人が進み出て、魔神《ジンニー》に申しました、「わしはこのおふたかたのお話よりも、もっと不可思議な話をいたしましょう。どうかその褒美に、罪の償いとして、残りの血をくださりませ。」魔神《ジンニー》は答えました、「そういうことにしよう。」
そこで第三の老人《シヤイクー》は申しました。
第三の老人の話
おお、帝王《スルターン》さま、おお魔神《ジン》のお頭目《かしら》よ、このらばは、わしの家内でありました。あるときわしは旅に出て、まる一年、家内から遠く離れて、留守にいたしました。そして、用事を終えるとすぐに、わしは夜、家内のもとにもどりますと、家内は寝床の敷き物の上に、一人の黒人の奴隷と寝ておったのです。そして、二人はそのまましゃべったり、いちゃついたり、笑ったり、抱き合ったりして、ふざけ合いながら気をそそり合っているのでした。家内は、わしの姿を見るとすぐさま起き上がって、水がめを持って、わしに飛びかかって来ました。そのかめに向かって二言三言つぶやくと、わしにその水を振りかけて、言いました、「汝の本来の形を出でて、犬の姿となれ。」するとそのままわしは犬になってしまい、そして家内は、わしを家から追い払ってしまったのです。そこでわしは外に出て、それからというものは、ずっとうろつきまわっていましたが、とうとうある肉屋の店先に着きました。わしは近づいて、骨をかじりはじめました。店の主人はわしを見つけるとひっとらえて、自分の住居《すまい》にわしを連れて行きました。
肉屋の娘がわしを見ると、娘はわしのため急いで顔をおおって、父親に言いました、「こんなことをなさってよいものでしょうか。お父さんは男の人を連れて来て、いっしょにここにはいってきましたのね。」父親は申しました、「だが、その男というのはどこにいるのだ。」娘は答えました、「この犬は男の人です。ある女が魔法にかけたのです。私ならば助けてあげられますわ。」この言葉を聞くと、父親は言いました、「おまえの上なるアッラーにかけて、おお娘よ、助けておあげ。」娘は水がめを一つ取り上げて、その水に向かって二言三言つぶやいてから、わしに二、三滴水を振りかけて、言いました、「今の形を出でて、汝の最初の形にもどれ。」するとわしは最初の形にもどりました。わしは娘の手に接吻して、言いました、「家内が私を魔法にかけたように、今度はあなたのお力で、家内を魔法にかけていただきたい。」娘はすると、わしに水を少々くれて、こう言いました、「奥さんが眠り込んだところを見て、この水をかけておやりなさい。そうすれば、なんでもお望みどおりのものになります。」はたして、家内は眠っていたので、わしはくだんの水を振りかけて、言いました、「この形を出でて、牝らばの姿となれ。」すると即座に、家内は牝らばになりました。
おお帝王《スルターン》さま、魔神《ジン》の王たちのお頭目《かしら》よ、あなたがここでご自身の目で見ておられるのは、その家内なのです。
そこで魔神《ジンニー》は、その牝らばのほうを向いて、これに言いました、「それはほんとうのことか。」すると、らばは頭を振りはじめて、身振りで言いました、「そうです、そうです、それはほんとうのことです。」
この話を残らず聞くと、魔神《ジンニー》は感に耐えずおもしろさに身をふるわし、そしてその老人に、血の最後の三分の一を引き出物にいたしました。そこで……
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――ここで、シャハラザードは朝の光が射して来るのを見て、これ以上王の許しに甘えずに、つつましく話すのをやめた。すると妹のドニアザードはこれに言った、「おお、お姉さま、なんとあなたのお言葉は心地よく、優しく、風味よろしく、みずみずしいうちに、味わい深いのでございましょう。」シャハラザードは答えた、「けれども、もしわたくしになお生命《いのち》があって、王さまがわたくしを生かしておいてくださるならば、明晩あなたに話してあげるものに比べると、これなぞは物の数ではございません。」すると王は思った、「アッラーにかけて、この不思議な話のつづきを聞いてしまうまでは、この女を殺すまい。これは不思議な話だわい。」
次に王とシャハラザードとは、朝まで抱き合って夜を過ごした。そのあとで、王はその裁きの間《ま》に出かけた。すると大臣《ワジール》と役人たちとが入場したので、政務所《デイワーン》は人でいっぱいになった。そして王は裁きをしたり、任命したり、罷免したり、事務を片づけたり、命令をくだしたりして、日の暮れるまでこれをつづけた。次に政務所《デイワーン》は閉ざされ、シャハリヤール王は御殿に帰った。
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[#地付き]そして第三夜になると[#「そして第三夜になると」はゴシック体]
ドニアザードは言った、「おお、お姉さま、お願いですから、あなたのお話を終りまで聞かせてくださいませ。」するとシャハラザードは答えた。「心から悦んで、進んでいたしましょう。」それから彼女は、次のように語りつづけた。
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おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、第三の老人《シヤイクー》が、三人の中でいちばん不思議な話を魔神《ジンニー》にいたしますと、魔神は非常に驚いて、感に耐えずおもしろさに身をふるわせ、そして申しました、「罪のあがないとして、残りの血をおまえにとらせる。おれはこの商人を放してつかわそう。」
そこでその商人は非常に悦んで、老人《シヤイクー》たちの前に進み出て、厚くお礼を述べました。そして三人は三人で、商人が無事に助かったことを祝ってやりました。
そして、めいめいが自分の国と自分の道とに戻りました。
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――「ですけれど、」とシャハラザードはつづけて言った。「これは漁師の物語ほど、不思議ではございません。」
すると王はシャハラザードに言った、「漁師の話[#「漁師の話」はゴシック体]というのはどういう話か。」
[#ここで字下げ終わり]
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漁師と魔神との物語
[#この行1字下げ] するとシャハラザードは言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、むかし一人の漁師で、たいそう年をとり、妻を持ち、三人の子をかかえて、非常に貧しい身分の男がおりました。
この男は一日に四度だけ網を打ち、それ以上はけっしてしないことをならわしとしておりました。ところで日々のうちのある日、ちょうどお昼の時刻、この男は海辺に行って、魚籠を置き、網を投げ、網が水底に落ち着くまで、じっと待っておりました。さて、ひもをたぐり寄せてみましたが、網は非常に重く、なかなか手もとに引き寄せられません。そこで漁師は網の端を岸へ持って来て、それを、地に打ち込んだ棒杭に結えつけました。それから着物を脱いで、網の近くの水の中にもぐり込み、さんざんもがきつづけて、やっと網を引き出しました。漁師は悦んで、着物を着、さて網に近よってみますと、そこには死んだろばがかかっていたのでした。これをみた漁師はがっかりして、申しました、「至高全能のアッラーのほかには権力も力もない。」それからまた申しました、「だがまったく、アッラーは不思議なものをくださったものだ。」そして次の詩を誦しました。
[#この行2字下げ] おお水にもぐる者よ、夜の暗闇のなか、滅亡《ほろび》のなかを、汝は盲目《めしい》のごとくさまよう。いざ、苦しき業《わざ》をやめよ。「福運」はうつり動くを好まざれば。
それから漁師は網をたぐりよせて、水を切りました。そして水を切り終わると、その網を広げました。それから水の中にはいって、「アッラーの御名《みな》において」と唱え、そして今一度網を水中に投げ込み、網が底に着くのを待ちました。それから、網を引き上げようとしましたが、網は非常に重く、最初のときよりもなお強く、水底にこびりついていました。ですから、漁師はこれは大きな魚だなと思いました。そこで、網を岸に結びつけ、着物を脱ぎ、水の中にもぐり込み、骨を折ったあげく、やっと網を引き上げたのです。そしてこれを岸辺へ運んで来ますと、中には泥と砂とがいっぱいつまった大きな土がめがかかっていました。これを見ると、漁師はたいそう嘆いて、数行の詩を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おお運命の転変よ、やめよ。しかして、地上の人々を憐れめよ。
悲しきかな。地上にては、功績にひとしく、行ないにふさわしき、なんらの酬いもあるなし。
いくたびか、われは家をいでて、すなおにも「福運」を求めぬ。さあれ、人はわれに教う、「福運」は死して久しと。
やんぬるかな、おお「福運」よ、かくて汝は、賢者を蔭に追いやり、愚者をして世を支配せしむるか……。
[#ここで字下げ終わり]
次に漁師はそのかめを遠くに投げ出して、網をしぼり、きれいに掃除をして、立腹したことをアッラーにお詫び申し上げてから、三たび海へもどって行きました。漁師は網を投げ込み、網が水底に届くのを待ちました。そして、引き上げてみますと、こわれた壺《つぼ》やガラスのかけらがかかっていました。これを見て、漁師はまたある詩人の一句を誦しました。
[#この行2字下げ] おお「詩人」よ、「福運」の風は、汝のかたに吹くことたえてなかるべし。迂闊や、汝は知らずや、汝の葦《あし》の筆、文字のなだらかなる線も、汝を富ましむることたえてなかるべきを……。
そして天を仰いで叫びました、「アッラーさま、あなたさまはご存じでいらっしゃいましょう。私は網を四度しか打たぬことにしております。ところが、これでもう三度打ったのでございます。」そう言ってから、漁師はもう一度アッラーの御名を唱えて、網を海に投げ込み、それが水の底に落ち着くのを待ちました。ところが今度は、いくら一所懸命に引っ張っても、網は前よりもなお強く水底の岩にひっかかっていて、どうしてもうまく引き上げることができません。そこで漁師は叫びました、「アッラーのほかには力も権力もない。」そして着物を脱ぎ、網のすぐそばにもぐり込み、じょうずにあやつって網をはずし、とうとう陸にたぐり寄せてしまいました。さて網をあけてみますと、今度は、かけてもいず、そっくり元のままの、真鍮《しんちゆう》の大きな壺がかかっておりました。その口は、ダーウドの御子《おんこ》、われらの主スライマーン(1)の、印璽《いんじ》の押し型のついた鉛でもって、封じてございました。これを見て漁師はたいそう悦んで、ひとり言を申しました、「これは金物屋の市場《スーク》で売り払えそうなしろものだぞ。安くとも確かに、十ディナール金貨にはなるだろうからな。」そこでこの壺を振ってみようとしましたが、重たすぎてどうにもならないので、またひとり言を申しました、「これはぜひとも、あけて中身を見てやらねばならんぞ。中身は袋の中に入れて、そのうえで壺を金物屋の市場《スーク》で売るとしよう。」そこで漁師は小刀を取り出して削り始め、とうとう鉛の封を取り去ってしまいました。それから中身を地上に出そうと、壺をひっくりかえして、ゆすぶってみました。ところが、壺からは何も出ないで、ただ一条の煙が立ちのぼって青空にまで上り、そして地面に広がっただけです。漁師はすっかりたまげてしまいました。そのうち煙が全部出きってしまうと、それは固まって、ゆらゆらと揺れ、やがて、頭は雲にとどき、足は砂煙の中を引きずっている、一人の鬼神《イフリート》になりました。この鬼神《イフリート》の頭は円屋根のようで、その両手は熊手のようで、その両足は帆柱のようで、その口は洞穴《ほらあな》のようで、その歯はつぶてのようで、その鼻は冷水びんのようで、その両眼は二本の松明《たいまつ》のようです。髪の毛はもじゃもじゃでほこりだらけです。この鬼神《イフリート》を見て、漁師は肝をつぶし、筋肉は震え、歯は激しく食いしばられ、唾液《つばき》はひあがり、目には光がはいらなくなりました。
漁師を見つけると、鬼神《イフリート》は叫びました、「アッラーのほかに他の神なし、スライマーンはアッラーの預言者なり。」そして漁師に向かって、申しました、「おお偉大なるスライマーンさま、アッラーの預言者よ、私を殺さないでください。これからはもうけっしてあなたさまに逆らわず、ご命令にそむきませんから。」すると、漁師は申しました、「おお、神にそむく不敵な巨人よ、おまえは大胆にも、スライマーンがアッラーの預言者だと言うのかい。そのうえ、スライマーンはもう千八百年も前に死んでしまって、今はすでに末の世じゃないか。いったいそれはなんの話だ。おまえは何を言ってるのだ。またなんだって、おまえはこんな壺の中にはいっていたのだ。」この言葉を聞いて、魔神《ジンニー》は漁師に言いました、「アッラーのほかに神なし。おお漁師よ、きさまに一ついいことを聞かせてやろう。」漁師は言いました、「何を聞かせてくれるのだ。」魔神《ジンニー》は答えました、「きさまの死をさ。しかも、たちどころに、いちばん無残な死に方をするのだ。」漁師は答えました、「おお、|鬼神たち《アフアリート》(2)の副王よ、そんな知らせを聞かせるようじゃ、天はもうおまえをかばってはくださるまいぞ。どうか、天はおまえをわしらから遠ざけてくださるように。いったいなんだっておまえは、わしを殺そうと言うのだ。またわしは殺されるだけの何をしたのか。わしはおまえを壺から出して進ぜた、長いこと海の中に沈んでいたのを助け出して、陸に連れてきてやったのじゃないか。」すると鬼神《イフリート》は言いました、「きさまの好きな死に方と、いちばんいい殺されぐあいを、とくと考えて選ぶがよいぞ。」漁師は言いました、「いったいわしがどんな罪を犯したというので、そんな罰に会うのじゃろう。」鬼神《イフリート》は言いました、「おお漁師よ、おれの身の上話を聞くがよい。」漁師は言いました、「聞きましょう、だが手短かに頼む。どうなることかと気が気でなく、わしの魂はもう足の先から脱け出しそうじゃ。」鬼神《イフリート》は申しました。
「聞け、おれは叛逆の魔神《ジンニー》だ。おれはむかし、ダーウドの子スライマーンにそむいたものだ。おれの名はサクル・エル・ジンニーという。さて、スライマーンはその大臣《ワジール》、バルキイヤの子アセフをおれのところにつかわした。おれはさからったが、ついに引っ立てられて、スライマーンの御手のあいだに連れて行かれてしまった。そこでおれの鼻もそのときは大いに低くなったものだ。おれを見ると、スライマーンはアッラーに誓言なさり、おれに、その宗教を奉じて自分の下に服従しろと、厳命なされた。だが、おれははねつけた。するとスライマーンはこの壺を取り寄せて、おれをその中に閉じこめたのだ。それから鉛で封をして、その上に『至高者』の御名を刻んだ。それから忠実な|魔神たち《ジン》に命令をくだすと、やつらはおれを肩にかついで、海のどまん中に投げ込んだ。おれは海の底に百年いた。さて、おれは心の中でこう思った、『おれを救い出してくれる者には、永久の富を与えてやろう。』だが、その百年は過ぎて、だれ一人おれを救い出してはくれなかった。二度目の百年にはいったとき、おれは考えた、『おれを救い出してくれる者には、地のあらゆる宝物をたずね出してくれてやろう。』だが、だれもおれを救い出してくれぬ。こうして四百年過ぎたのだ。そこでおれは考えた、『おれを救い出してくれる者には、なんでも三つの願いをかなえてやろう。』だが、だれもおれを救い出してはくれぬのだ。そこでおれはひどく腹を立てて、魂の中でこう言った、『今となっては、おれを救い出すやつを殺してやろう。だがそいつに、死に方を選ぶことを許してやるとしよう。』おお漁師よ、きさまが来ておれを救い出したのは、ちょうどこのときだったのだ。それで、おれはきさまに死にようを選ぶことを許してやるわけだ。」
この鬼神《イフリート》の言葉を聞いて、漁師は申しました、「おおアッラー、なんという途方もないことだろう。これを救い出すのが、ちょうどこのわしでなければならなかったとは。おお鬼神《イフリート》よ、わしを勘弁してくだされ。さすれば、アッラーはおまえにお報いくださることじゃろう。だが、もしおまえがわしを亡きものにするならば、アッラーはどなたかを下して、こんどはおまえを亡きものになさるじゃろう。」すると鬼神《イフリート》は言いました、「だが、おれがきさまを殺そうというのは、ほかでもない、きさまがおれを救い出したからなのだ。」そこで漁師は言いました、「おお|鬼神たち《アフアリート》の長老《シヤイクー》よ、おまえさんは、そんなふうにしてわしに、善に報いるに悪をもってするのか。」しかし鬼神《イフリート》は言いました、「つべこべ言うのはもうたくさんだ。よいか、おれはどうあろうとも、きさまを殺さねばならぬ。」そこで漁師は心中に思いました、「わしはただの人間にすぎぬが、相手は魔神《ジンニー》だ。だがわしはアッラーからしっかりした分別を授かっている。ひとつ工夫をめぐらして、こいつをやっつけてやろう、知恵をしぼってはかりごとをかけてやろう。そのうえで、こいつはこいつで、そのこざかしい悪知恵でもって、何をたくらめるものか見てやろう。」そこで漁師は鬼神《イフリート》に言いました、「おまえさんはどうでもわしを殺す気か。」鬼神《イフリート》は答えました、「知れたことだ。」そこで漁師は言いました、「スライマーンの封印の上に刻みつけてある『至高者』の御名にかけて、どうかわしの尋ねることに嘘偽りなく答えてくだされ。」鬼神《イフリート》は「至高者」の御名ということを聞くと、非常に感動し、また非常に心をうたれて答えました、「尋ねるがいい。おれは嘘偽りなく答えてやるわ。」そこで漁師は申しました、「こんな、おまえさんの足か手が、やっとはいるくらいのこの壺に、どうしておまえさんのからだが、全部そっくりはいれたのだろう。」鬼神《イフリート》は言いました、「ははあ、それが不審だと言うのか。」漁師は答えました、「まったくのところ、おまえさんが壺の中にはいるのを、わしのこの目で見ないうちは、わしにはどうしても信じられない。」
[#この行1字下げ] ――けれどもこのとき、シャハラザードは朝の光が射して来るのを見て、つつましく、口をつぐんだ。するとシャハリヤール王は心の中で言った、「いかにも、この物語はまったくもって不思議千万だ。されば、まずこの終りまで待つとして、それから、わが大臣《ワジール》のこの娘をば、ほかの娘どもにしたとおりにしてやろう。」
[#地付き]そして第四夜になると[#「そして第四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、漁師が鬼神《イフリート》に向かって、「おまえさんが壺にはいるのを、わしのこの目で見ないうちは、おまえさんの言うことは、わしにはどうしても信じられない。」と申しますと、鬼神《イフリート》は身もだえをし、からだを揺すぶって、ふたたび空にまでのぼる一条の煙となり、それが固まって少しずつ壺の中にはいり始め、とうとう全部がすっかり納まってしまいました。すると漁師はすばやく、スライマーンの印璽の押してある鉛のふたを取り上げ、それでもって壺の口をふさいでしまいました。それから鬼神《イフリート》に呼びかけて、言いました、「さあ、どんな死にざまできさまは死にたいか、とくと考えて思案しろ。さもなくば、きさまを海に投げこんでやるぞ。そしてわしは岸辺に自分の家を建て、ここではだれにも漁をさせないようにして、こう言ってやる、この場所には鬼神《イフリート》がいる、その鬼神《イフリート》は救い出されると、救い主を殺そうとして、そしていろいろな種類の殺し方をあげて、その人に選ばせるのだ、とな。」鬼神《イフリート》は漁師の言葉を聞いて、外へ出ようとしてみましたが、出られません。そこで、スライマーンの印璽で上から封じられてしまったことが、わかりました。つまり漁師が、|魔神たち《アフアリート》の中でいちばん弱いものでも、いちばん強いものでも、どうにもならない牢屋の内に、自分を閉じこめてしまったことをさとりました。そして漁師が自分を海のほうへと運んでいることがわかったので、言いました、「よしてくれ、よしてくれ。」すると漁師は言いました、「だめ、だめ。」すると魔神《ジンニー》は言葉を和《やわ》らげ始め、降参して申しました、「おお漁師さん、おれをいったいどうするつもりなんだい。」漁師は言いました、「海に投げこんでやるまでさ。というのは、おまえが海の底に千八百年いたというのならば、わしはおまえを、審判のときが来るまで沈めておくことにする。だいたいわしはさっき、わしを助けてくれればアッラーもおまえを助けてくださろうし、わしを殺さなければアッラーもおまえをお殺しにはなるまいからと言って、頼んだじゃないか。それをおまえは、わしの頼みも聞き入れないで、無道なやり方をした。じゃによって、アッラーはおまえをわしの手に引き渡されたのじゃ。だから、わしはおまえをだましたところで、ちっともうしろ暗いことはないぞ。」すると鬼神《イフリート》は言いました、「壺をあけてくれ。お礼はどっさりあげるから。」漁師は答えました、「おお、呪われたやつめ、嘘をつけ。それにおまえとわしとのあいだは、ちょうどイウナン王(3)の大臣《ワジール》と医師ルイアン(4)とのあいだに起こったことそのままじゃ。」
すると鬼神《イフリート》は言いました、「だが、イウナン王と医師ルイアンというのはなんだ。またそれはどういう話だね。」
イウナン王の大臣と医師ルイアンの物語
漁師は申しました。
こういう話だ、おお汝|鬼神《イフリート》よ、時のいにしえと時代時世の過ぎし世に、ルーム人(5)の国はファルス(6)の都に、イウナンという名の王がおられた。王は豊かで強く、軍隊と莫大な兵力とを有し、あらゆる種類の民の同盟軍の盟主であった。ところが王のおからだは癩《らい》に冒されていて、医者も学者も皆さじを投げてしまった。薬剤も丸薬も軟膏類も、いっこうにききめがなく、医者も一人として、きく薬を見つけてさしあげることができなかった。ところがある日、ルイアンと呼ぶ、評判の高い年とった名医が、イウナン王の都にやって来た。この男はギリシア、ローマ、アラビア、シリアの典籍に通じ、医学と天文を究め、その原理と法則、善果悪果をよく心得ていた。また草木、生草《なまくさ》、乾草の効能と、その善果悪果をも熟知していた。そのうえ、哲学やあらゆる医学や、その他いろいろの学問を修めていた。そこで、この医者が都に来て数日滞在していると、王の話と、そのおからだがアッラーのおぼしめしで、癩に冒されておるという話、またあらゆる医者と学者の手当ても、まったく効がないということを耳にしたのだ。この噂を聞くと、医者はじっと思案をこらして夜を過ごした。けれども朝、目をさますと――そして日の光が輝き、かの「至善者」のうるわしい飾りたる太陽が、地に挨拶すると、――医者はいちばん美しい着物を着こんで、イウナン王の御殿に参上した。それから王の御手《おんて》のあいだの床《ゆか》に接吻をし(7)、王のご権勢とアッラーのお恵みとあらゆる最善のことどもとが、永久につづくようにと、お祈りした。それからお話し申し上げて、自分の素姓をお知らせしたうえで、言った、「私は玉体を襲った病のことを承わりました。またたいがいの医者が、その病を阻む術《すべ》を見つけ出せなかったということも、聞き及びました。ところで、おお王よ、この私が、ひとつお手当てを申しあげましょう。私はいささかも薬物をお飲ませ申さず、また膏薬をお塗り申すこともいたしませぬ。」この言葉を聞いて、イウナン王は非常に驚いて言われた、「いったい、そちはどのようにいたすというのか。ところで、アッラーにかけて、もしそちが余をいやしてくれたら、余はそちの孫子の代まで富を与え、そちのあらゆる望みを許して、それをかなえてつかわし、そちを余の酒の相手とし、友人となすであろうぞ。」そこで王さまは、みごとな衣服一着と数々の贈り物をくだされて、仰せられた、「まことそちは余のこの病を、薬物も膏薬も用いずにいやすというのか。」医者は答えた、「確かに相違ござりませぬ。おん身にお疲れもお苦しみもなく、いやして進ぜましょう。」すると王さまはこのうえなく驚いて、おっしゃった、「おお大国手よ、いつなんどき、ただいまそちの申したことが実行できるのじゃ。おおわが子よ、急ぎとり行なってくれ。」医者は答えた、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」
そこで医者は王さまのところから退出して、一軒の家を借り、そこに自分の書物と薬と香草類を収めた。次に薬品と薬草を精製して、それで短い曲がった槌《つち》を作り、その一方の端に穴をあけ、そこに杖をはめた。それからまた、できるだけじょうずに一つの球《たま》を作った。すっかり仕事をし終えると、医者は明くる日、王さまの御殿に参上してお目通りをし、御手のあいだの床に接吻をした。それから王さまに、馬にお乗りになって馬場《マイダン》(8)におもむかれ、球と槌でもって遊戯をなさるようお指図申し上げた。
王さまは、貴族《アミール》(9)や侍従や大臣《ワジール》や国の首長たちを、従えて行かれた。馬場《マイダン》にお着きになったと思う間もなく、医者のルイアンがまかり出て、王さまに例の槌をお渡しして、申し上げた、「この槌をお使いあそばされて、このようにお握りくださいまし。そして馬場《マイダン》の土と球とを、力いっぱいお打ちあそばしますよう。そしてたなごころと全身から汗が出るようになさいませ。かくいたしますると、薬はたなごころにしみこんで、全身にまわることでござりましょう。発汗あそばして、薬が働く時間がたちましたなれば、御殿にお帰りになり、次に浴場《ハンマーム》に行って、沐浴をあそばされませ。さすれば、ご病気はご平癒になることでございましょう。さて今は、平安わが君と共にあれかし。」
そこでイウナン王は医者の槌を取り上げて、これを手いっぱいに握られた。一方選り抜きの騎手たちは馬に乗って、王さまに球をお投げ申した。すると王さまは、槌をしっかりと握りしめてお手から放さず、球のあとを追って、駆け、追いつき、球を激しく打ち始めなされた。こうしてたなごころと全身に十分汗をかかれるまで、球を打ちつづけなさった。そこで薬は、たなごころからしみ込んで、全身にまわった。医者のルイアンは、薬が体内をまわったのを見ると、王さまに、御殿におもどりになり、すぐに浴場《ハンマーム》に行ってお風呂を召されるようにと、申し上げた。そこでイウナン王はすぐにもどって、蒸し風呂の支度をするようお命じになった。さっそくお支度申し上げ、そのために、敷き物を敷く人々は、せっせと大急ぎで立ち働き、奴隷たちは、先を争って急ぎ下着類を用意した。そこで王さまは浴場《ハンマーム》にはいられ、お風呂を召し、次に浴場《ハンマーム》の中でただちに着物を召され、ここを出て、ふたたび馬に乗って御殿にもどり、御殿でおやすみなされた。
イウナン王のほうはかようであった。医者のルイアンのほうはというと、自宅に帰って寝、朝目をさまし、王さまの御殿に参上して、お目通りのお許しを願いいで、王さまのお許しがあったので、中にはいり、御手のあいだの床に接吻をして、まず王さまに向かって、四、五節の詩を重々しく誦した。
[#ここから2字下げ]
もし「雄弁」にして君を父と選びもせば、そはふたたび花を咲かすべし。もはや君を措《お》きて、「雄弁」は他に選ぶものあらじ。
おお、光りかがやける顔容《かんばせ》よ、燃えさかる薪の焔も、その光輝のまえには薄らがん。
この栄《は》えある顔容《かんばせ》をして、そのさやけき輝きをいや長く保たしめ、「時」の面《おもて》に皺の寄るを見るまでに、至らしめんことを。
恵みある雨雲の丘をおおうがごとくに、君は寛仁なる恩恵もてわれをおおいたまえり。
数々の勲功《いさおし》によりて、君は光栄の頂に達したまえり。君こそは「天運」の寵児、「天運」はもはや何物をも君に拒むことあらざるなり。
[#ここで字下げ終わり]
詩を誦し終わると、王さまはご自身の両足ですっくと立ち上がって、親しみをこめて医者の首に飛びつかれた。それから、ご自分の横に坐らせて、数々のみごとな誉れの衣をたまわった。
実際、王さまが浴場《ハンマーム》からお出になって、ご自分のおからだをご覧になると、そこにはもう癩の跡形もなかったのであり、お膚《はだ》は純銀のように清らかになっていた。そこで王さまはもう極度の悦びでお悦びになり、お胸も広々としてのびやかになられた。朝日が昇ると、王さまは政務所《デイワーン》にお出ましになって、王座にお坐りになった。すると侍従たちや国の大官たちがはいって、医者のルイアンもまたはいって来た。そのとき、医者の姿をご覧になると、王さまは急いで立ち上がられ、これをご自分のおそばに坐らせなすったのだ。そこで人々は一日中ずっと、二人の前に料理や食物や飲み物をさしあげた。日暮れがた、王さまは医者に誉れの衣や贈り物のほかに、二千ディナールを賜り、かつご乗用の駿馬一頭を賜った。こういう首尾で、医者はおいとまを乞うてわが家にもどった。
王さまはといえば、王さまはこの医者のあっぱれな腕前に感嘆|措《お》くあたわず、ひっきりなしにこう言っておられた、「あの男は余に軟膏を塗り込みもせずに、からだの外側から病をいやした。これこそ、アッラーにかけて、絶世の腕前じゃ。されば余はこの男に惜しみなく恩恵の限りを尽くし、この男を永久に、親しい仲間、友人といたさねばならぬ。」そして、イウナン王はご自分のおからだがすこやかになって、病を脱がれたのをご覧《ろう》じて、すべての悦びで悦ばれながら、おやすみになった。
さて、王さまが朝お出ましになって、王座におつきになると、国の首長たちは王の御手のあいだに直立し、貴族《アミール》たちと大臣《ワジール》たちは、王の左右に座を占めた。すると、王さまは医者のルイアンをお召しになり、医者はまかり出て御手のあいだの床に接吻をした。すると王さまは医者のために立ち上がり、ご自分のおそばに召されて、いっしょに食事をとり、これに長生をお祈りになって、数々の誉れの衣とその他のさらに豪勢な品々をたまわった。それから夜の近づくまで、終始お言葉を交えることをやめられず、そのうえ、報酬として、さらに五着の誉れの衣と一千ディナールを下しおかれた。こういう首尾で、医者は王さまの幸を祈って、わが家にもどった。
朝日が上ると、王さまは出御されて政務所《デイワーン》にはいられ、そして、貴族《アミール》や大臣《ワジール》や侍従たちにお囲まれになった。ところが、大臣《ワジール》の中に、見るもいやらしい様子で、うさん臭い縁起のわるい顔つきをして、情を知らず、ひどく欲張りで、人をうらみ、全身ねたみと憎しみで固まっている大臣《ワジール》が、一人おった。この大臣《ワジール》は王さまが、おそばに医者のルイアンを坐らせては、あらゆる恵みをお施しになるのを見たとき、さあこれがねたましくなり、「うらやむ者は何ぴとをも襲う。圧迫はうらやむ者の心中に待ち伏せし、強きはこれを陽に現わし、弱きはこれを陰にひそむ」と諺《ことわざ》にも言うように、ひそかにこの医者を亡きものにしようと、心を決めた。そこで大臣《ワジール》はイウナン王のもとに近づき、御手のあいだの床に接吻して、申し上げた、「おお世紀と当代の王よ、み恵みをもって民草を包みたもうわが君さま、君は私のうちに、きわめてたいせつなるご忠言をお持ちあそばします。これは私が真実不義密通の人の子ででもなければ、とうていお隠し申してはおられぬことでございましょう。もしこれを打ち明けよとのご命令がござりますれば、包まずお打ち明け申すでござりましょう。」すると王さまは、この大臣《ワジール》の言葉にいたく不安になられて、言われた、「して汝の忠言とは何じゃ。」大臣《ワジール》は答えた、「おお栄えある王よ、いにしえの人々は申しました、窮極《おわり》と結果とを見ざる者は繁栄を友とせざるべしと。――そして私はあたかも王さまが、その敵に、御代の滅亡《ほろび》を望んでいるその敵に、お恵みを垂れ、ご愛顧の限りを尽くし、恩恵攻めになされ、はなはだもって、ご思慮を欠いていらせられるご様子を拝しました。ところで私はこれがため、王さまの御身を思い奉って、このうえなき心痛を覚えているしだいでござります。」この言葉を聞いて、王さまはすっかり不安になられ、顔色を変えて、申された、「その汝の言う余の敵にして、余の愛顧の限りを受けたとやらいうのは、そもそも何者じゃ。」大臣《ワジール》は答えた、「おお王さま、もしお眠りあそばされているのならば、お目をお覚ましくだされ。私はそれとなく、医者ルイアンのことを申しているのでござりますがゆえに。」王は大臣《ワジール》に言った、「あの男は余のよき友じゃ、余にとっては、世の中でもっとも大切な男じゃ。余の手にただ物を握らせただけで余を療治し、医者どもがさじを投げた余の病気を、救ってくれたではないか。確かに今の世に、全世界を通じて、東洋にも西洋にも、あの男のような医者は、二人とはおらぬぞ。さればじゃ、何として汝ははばからず、あの男についてそのようなことを言うのじゃ。余としては、きょうからただちにあの男を召し抱え、食禄として月々一千ディナールをとらせるつもりじゃ。なお、たとえ余があの男にわが王国のなかばを与えたとて、あの男にとって多しとはせぬであろう。されば、余はかつて聞き及んだシンディバード王の話にあるごとく、汝はただねたみよりして、かかることを申すに相違ないと思うものじゃ。」
[#ここから1字下げ]
――このときシャハラザードは朝の光に驚かされ、自分の話をとぎらせた。
するとドニアザードは言った、「おお、お姉さま、なんとあなたのお言葉は心地よく、優しく、楽しく、清らかなのでございましょう。」するとシャハラザードはこれに言った、「けれども、もしわたくしになお生命《いのち》があって、王さまがわたくしを生かしておいてくださるならば、明晩お二人にお話し申すものに比べると、この話などはまったく何物でもございません。」すると王は心の中で言った、「アッラーにかけて、おれはこの物語のつづきを聞いてしまうまでは、この女を殺すまい、まったくこれは不思議な物語だわい。」次に両人は朝になるまで抱き合って、夜を過ごした。そして王はその裁きの間に出かけ、政務所《デイワーン》は人でいっぱいになった。そして王は裁きをしたり、任命したり、罷免したり、命令を下したり、未決の事務を片づけたりして、日の暮れるまでこれをつづけた。次に政務所《デイワーン》は閉ざされ、王は御殿に帰った。夜が近づくと、王は大臣《ワジール》の娘シャハラザードといつものことをした。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]第五夜になると[#「第五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、イウナン王はその大臣《ワジール》にこう申されました、「おお大臣《ワジール》よ、汝はあの医者をねたむ気持をみずからの心に忍びこませ、余にあれを殺させ、そしてあのシンディバードの王が鷹を殺したあとで悔いたように、余に悔いさせようとするものじゃな。」大臣《ワジール》は答えました、「それはまた、どうしてそうなったのでござりますか。」
すると、イウナン王は次のように話されました。
[#5字下げ]シンディバード王の鷹
昔ファルスの王たちのあいだに一人の王がいて、その王は遊楽や、庭苑内の遊歩や、あらゆる種類の狩猟などを、はなはだ好んだということじゃ。そういうわけで、王は自身で育てた一羽の鷹を持っておって、その鷹は夜も昼も王のもとを離れなかった。というのは、夜のあいださえも、王はこれをこぶしの上にとまらせておいたからじゃ。そして狩猟に行くときには、いつもこれを連れて行って、首に黄金の水飲みをつるしておいて、それから水を飲ませておられた。ある日御殿に坐っていると、にわかに狩猟用の鳥係りの鷹匠《ワキール》(10)が伺候して、申し上げた、「おお、もろもろの世紀の王よ、今こそまさに狩りに出かける時期でござりまする。」そこで王は出発の準備を整え、こぶしの上に鷹をとまらせた。それから一同出発し、とある谷間に着いて、そこに狩りの網をしつらえた。突然、一頭のかもしかが網にかかった。そこで王は言った、「このかもしかをやり過ごした者は命がないぞ。」それから、かもしかのまわりに狩網をせばめ始めると、かもしかはそのとき王に近づき、後肢で立ち上がり、あたかも王の前の地に接吻をしようとするかのように、前肢を胸に近づけたものじゃ。そこで、王はかもしかを遁走《はし》らせようとして、両手を打ち鳴らすと、かもしかは躍り上がって、王の頭上を越えて逃がれ去り、地の彼方に分け入ってしまった。そのとき王が衛兵どものほうを向くと、やつらは王のほうを見やって目くばせをしている。これを見て、王は大臣《ワジール》に言った、「この兵士どもがこんなふうに、余について合図を交わしているとは、いったいどうしたわけじゃ。」大臣《ワジール》は答えた、「主君《きみ》は、何者といえどもかもしかをやり過ごした者は死刑に処す、と仰せ出だされたことを、申し合っているのでございます。」そこで王は言った、「わが首《こうべ》の生命《いのち》にかけて、われらはあのかもしかを追いかけ、引っ捉えて来なければならぬ。」それから、王はかもしかの足跡を追って疾駆し始めた。鷹はくちばしでかもしかの目をつっつき、とうとう目をつぶして見えなくしてしまった。そこで王は棒をふるってこれを打ちすえ、地にまろばせ、つづいて馬をおり、喉を切り、皮をはいで、骸《むくろ》を鞍橋につるした。――ところが天気は暑くて、その場所は荒涼とし、地は乾燥し、水気もなかった。ために王も喉が乾き、馬も喉が乾いた。そこで王が振り返ってみると、一本の木があり、そこから水がバターのように流れ出ているのを認めた。ところで、王は手を皮の手袋で包んでいたがために、まず鷹の首から杯を取り、これにその水を盛って、鳥の前に置いてやった。しかるに、鳥はその杯を蹴飛ばして、引っくりかえしてしまったのじゃ。王はふたたび杯を取り上げて、水を満たし、そしてなおも鳥が喉が乾いているものと考えて、これを鳥の前に置いてやった。しかるに、鷹はふたたび杯を蹴飛ばしては、引っくりかえしてしまった。かくて王は鷹に憤りを覚え、三たび杯を取り上げたが、今度はこれを馬に与えた。すると、鷹は翼をもってその杯を引っくりかえしたのじゃ。そこで王は言った、「おお凶兆の鳥の中にてももっとも不祥なるものよ、アッラー汝をほふりたまわんことを。汝は余の飲むを妨げ、汝みずからも飲まず、また馬にも飲ませなかったのだな。」こう言って、剣をもって鷹を打ち、両の翼を斬り落としてしまった。すると鷹は頭をもたげ、身振りで言い始めた、「樹上にあるものを見よ」と。そこで王が目を上げて見ると、樹上には一匹のおそろしい蛇がおったのであり、そして流れ出ているものは、その毒液であった。そのとき、王は鷹の翼を斬ったことを悔いられた。それから王は立ち上がって、ふたたび馬に乗り、かもしかを引きずりながら発足し、御殿に帰った。そしてかもしかを司厨の者に投げ渡して、命じた。「これをもって行って、料理せよ。」それから王は手に鷹を載せて、王座に坐った。そのとき、鷹は最後の一息をして、死んでしまった。これを見て王は、わが身を死滅より救いくれた鷹を手にかけたとて、悼《いた》みと哀《かな》しみの叫びを発した次第であった。
シンディバード王の物語とはこういう話じゃ。
大臣《ワジール》はイウナン王の話を聞き終わると、王に申し上げた、「おお、おごそかなる大王さま、私めがかつて、おもしろからざる結果をご覧に入れたような不都合事を、何か働いたことがございましたでしょうか。かようなことを申し上げるのも、ただただ、わが君をいとおしく思うがためにほかなりませぬ。わが君はやがて、私の言葉の正しきを知りたもうでございましょう。もし私の言うことをお聞きくだされば、おん身はつつがなくあられましょうが、さもなくば、あの王の中のある王のお世継ぎを欺いた、悪企みの大臣《ワジール》が身を滅ぼしたように、わが君もおん身を滅ぼされることでございましょう。」
[#5字下げ]王子と食人鬼の物語
その王さまというおかたは、狩りと猟犬を用いる狩猟とに、非常に熱中しておられる一人の王子をお持ちになり、また一人の大臣《ワジール》を持っておられたのでございます。この王はこの大臣《ワジール》に、王子の行くところにはどこへでもお伴をせよ、とお命じになっていました。日々の中のある日のこと、この王子は狩りと猟犬を用いる狩猟にお出かけになり、父王の大臣《ワジール》も、これにお伴をして出かけました。そして打ち連れて行くと、一匹の恐ろしいけものを見つけました。そこで大臣《ワジール》は王子に申しました、「それ王子さま、あのけものを目がけて追いかけなさいませ。」そこで王子はそのけものを追い始め、そのうちとうとうお姿が見えなくなってしまいました。すると突然、そのけものは砂漠の中に姿を消してしまいました。王子はたいそうお困りになり、そしてもうどこへ行ったらよいか途方に暮れていると、そのとき、道の上のほうにあたって、一人の若い女奴隷が泣いているのが、お目にとまりました。王子はこの女に申されました、「おまえは何者か。」すると女奴隷は答えました、「インドの王の中の一人の王の娘でございます。わたくしが隊商といっしょに砂漠を通っておりましたところ、途中で睡気が襲って来て、気がつかないうちに馬から落ちてしまいました。そしてただ一人とり残され、ほんとうに困っているのでございます。」王子はこの言葉をお聞きになると、惻隠《そくいん》の情を催されて、その女をご自分の馬の背に上げ、うしろにのせて出発なされたのでありました。たまたま、とある人気《ひとけ》のない小さな丘を通りかかると、その奴隷はこう申しました。「おおご主人さま、わたくしはちょっと用を足しとうございます。」そこで王子はその丘におろしてやりましたが、女があまりいつまでも出て来ず、あまりに遅すぎるので、女に気づかれないように、そっとあとからはいって行きますと、なんと、それは女食人鬼《グーラー》でした。そして自分の子供たちに、女食人鬼《グーラー》はこんなことを言っていました、「おお子供たちよ、きょうはおまえたちに、よく肥えた男の子を連れて来てあげたよ。」子供たちは言いました、「おお、お母さん、ここに連れて来て。おいらのお腹の中に入れてしまうから。」王子はこの子供たちの言葉を聞いたときには、もうわが身の最後を疑わず、おからだの筋肉はぶるぶる震え、ご自身の身の上を思って、おそれおののいてもどっておいでになりました。食人鬼は〔その巣から〕出て来ると、王子が臆病者のようにこわがって震えているのを見て、そこで申しました、「何をこわがっていらっしゃるのですか。」王子は答えました、「おれには一人の敵がいて、それを恐れているのだ。」すると食人鬼は申しました、「あなたさまは確かわたくしに、おれは王子だとおっしゃいましたが……。」王子は答えました、「さよう、そのとおりだ。」その女は言いました、「ではなぜ、その敵にいくらかお金をやって、満足させておやりにならないのです。」王子は答えました、「おお、そいつは金などでは満足しない、おれの魂でなくては承知しないのだ。おれはそれが実に恐ろしい、おれは圧迫の犠牲となる男だ。」女は申しました、「もしもあなたさまが、仰せのようにしいたげられていらっしゃるのならば、その敵に向かって、アッラーのお助けをお願いなさりさえすれば、いいわけではございませんか。そうすれば、アッラーはその敵の呪いからも、またあなたさまの恐れていらっしゃる人たち全部の呪いからも、あなたさまを護ってくださいましょう。」そこで王子は天を仰いで、言いました、「おお汝、しいたげられし者祈れば、これに答えたまい、その災厄を知らしめたもう者よ、われをしてわが敵に勝たしめ、これを遠ざけたまえ、汝は望みたもういっさいに権力《ちから》を持ちたまえば。」――女食人鬼《グーラー》はこの祈りを聞くと、姿を消してしまいました。そして王子は父王のもとに帰り、例の大臣《ワジール》の悪い勧めを父王にお告げになりました。そこで王は大臣《ワジール》の死を命ぜられたのでござりました。
〔それから、イウナン王の大臣《ワジール》は、次のような言葉でつづけたのでございます。〕
「さて、おお王さま、もしわが君があの医者をご信任なすっておらるるならば、あやつは死の中の最悪の死をもって、わが君をあやめ奉るでございましょう。そして、わが君はご愛顧の限りを尽くされ、あやつをご親友となされたところで、やはりあやつはわが君のご一命をねらっているのでございます。そもそもあやつが何ゆえに、お手に物を握らせて、それによっておからだの外側から病をいやしたのか、おわかりになりませぬか。それはただただ、今一度第二の物をお持たせ申し、それによって、わが君を亡きものにせんがためだとはおぼしめされませぬか。」するとイウナン王は申された、「汝の言うところはもっともじゃ。おお善言の大臣よ、汝の意見どおりにいたすとしよう。あの医者めが余を亡きものにしようとて、ひそかに間者《まわしもの》になって来ているということも、また大いにありそうなことじゃからな。真実、あやつが余の手に物を持たせ、それによって余をいやしたとせば、たとえば余の鼻に何物かをかがせ、それによって余を亡きものとなすことも、確かにできるというものじゃ。」次にイウナン王はその大臣《ワジール》に言った、「おお大臣《ワジール》よ、いったいあやつをいかがいたせばよかろうか。」そこで大臣《ワジール》は答えた、「ただちにあやつのもとに人をやって、お召しになるがよろしい。そしてあやつがここにまかり出たなら、首筋をはねてやるがよろしゅうござります。さすれば、これによってわが君は、あやつの呪いをはばみ、それをまぬがれて、おん身はご安泰となられましょう。されば、あやつがわが君を陥れるまえに、わが君のほうからあやつを陥れなされませ。」するとイウナン王は言った、「おお大臣《ワジール》よ、汝の言うところは真実じゃ。」それから王さまは医者を呼びにやられると、医者は「寛仁者」が何事を定めたもうたかも知らず、喜んでまかり出て来た。――それというのは、詩人も言った。
[#ここから2字下げ]
――おお汝、「天運」の打撃を怖るる者よ、安んぜよ。汝知らずや、いっさいのことは地を造りたまいしおんかたの御手《みて》にあるを。
記されしことは、記されてありて、消ゆることあらざればなり。記されてあらざることは、これを怖るるに及ばざればなり。
――しかして主《しゆ》よ、君の讃えを歌わずして、われ一日をだに過ごしえんや。いみじくも授かりしわが韻律の文と、わが「詩人」の言葉をば、そもたれがためにかわれは宛てんや。
主よ、君が御手《みて》より受くる新しき賜物は、それぞれにさきの物より美しく、求むるに先立って早くもわれに到るなり。
されば、いかんぞわれは、君の光栄を、君のあらゆる光栄を、歌わざるをえんや。わが心のうちに、また諸人《もろびと》のまえに、君を讃えざるをえんや。
さあれ、真実《まこと》を言わんに、わが口はさまでうるわしき雄弁を持たず、わが背はさまで力を持たず、身にあまる君が恩恵を、歌うに足らざるべく、になうに足らざるべし。
――おお汝、困惑に陥る者よ、汝一身の事柄は、唯一の「賢者」アッラーの御手《おんて》の間に委ねよ。しかるうえは、人の世のことにつきて心に怖るるものはもはやなし。
また知れよ、何事も汝の意によりて成るものならず、「賢者のなかの賢者」の御意《みこころ》にのみよることを。
されば絶望することなかれ、あらゆる憂愁とあらゆる心労とを忘れよ。心労こそは、いと固くいと毅《つよ》き者の心をもすりへらすを、汝知らずや。
いっさいのことを措《お》けよ。われらが企ては、唯一の「組織者」のおんまえにおいて、力なき奴隷の企てにすぎず、成行きに任せよ。さらば汝は永き至福を味わうならん。
[#ここで字下げ終わり]
かくして医者のルイアンがまかり出たとき、王さまはこれに言われた、「余がなにゆえに汝を余の面前に呼びいだしたか、汝は知っているか。」すると医者は答えた、「至高のアッラーにあらずば、何ぴとも未知のことは存じませぬ。」王さまは言った、「余は汝の死のために、汝の魂を引き抜くために、汝を呼び出したのじゃ。」医者のルイアンはこの言葉を聞いて、これ以上なくはなはだしい驚きをもって驚いて、言った、「おお王さま、何ゆえに私をお殺しなさるのでしょうか。また私がそもそもいかなる過ちをしでかしたのでございましょうか。」すると王は答えた、「聞くところによれば、汝は間者であり、余をあやめるためにやって来たとのこと。されば余は汝が余を殺さぬ前に汝を殺してやるのじゃ。」それから王さまは太刀取りに向かって叫んで、言いつけた、「この裏切り者の首をはね、その呪いよりわれらをのがれしめよ。」すると医者は言った、「私の命をお助けくださいまし、さすれば、アッラーはわが君のおん命をもお助けくださりましょう、私をお殺しあそばすな、さもなくば、アッラーはわが君をお殺しになることでございましょう。」
それから医者は王にくり返しくり返しお願いした。ちょうどさっきわしが、おまえに、おお魔神《イフリート》よ、おまえに向かって、なんとしても聞き入れられずに、願ったようにな。だが、おまえはどこまでもわしを殺そうと頑張りおったわい。
そうすると、イウナン王は医者に言った、「余は汝を殺してしまうまでは、信用することも安心することもできぬのじゃ。なんとなれば、汝は余の手に物を持たせ、それによって余をいやしたとすれば、かならずや今度は、何かを余にかがせるとか、あるいはほかのやり方をもって、余を殺すことであろうと思われてならぬ。」すると医者は言った、「おお王さま、それが私へのご褒美でございますか。かくして善に報いるに悪をもってせられるのですか。」しかし王さまは言った、「ぜひとも、時を移さず汝を殺さなければならぬ。」王さまがなんとしても自分の死を望んでいることが確かにわかると、医者は涙を流し、まったくその値打のない人々に尽くしてやったことを、痛く悲しんだ。そのあとで、いよいよ太刀取りが進み出て、医者に目隠しをし、そして剣を抜いて、王さまに申し上げた、「君のお許しを得て。」しかし医者は相変わらず涙を流して、王さまに言いつづけた、「私の命をお助けくださいまし、さすれば、アッラーはわが君のおん命をもお助けくださりましょう。私をお殺しあそばすな、さもなくば、アッラーはわが君をもお殺しになることでございましょう。」そして詩人の句を誦した。
[#ここから2字下げ]
このわれわれの勧告《すすめ》は、なんらの効もなく、無知なるやからの勧告《すすめ》ぞ、効を奏しぬ。わが得たるところは、ただ侮蔑のみ。
されば、われなお生きなば、勧告《すすめ》をなすことをつつしまん。われもし死なば、わがためしは他の人々に役立ちて、その舌をして語ることなからしめん。
[#ここで字下げ終わり]
次に王さまに申し上げた、「これが私へのご褒美でございますか。これではあなたさまは私を遇するに、鰐《わに》がしたようにせらるると申すものです。」すると王さまは言った、「して、その鰐の話とはどういう話じゃ。」医者は言った、「おお、私がこんなありさまでは、とてもお話どころではござりませぬ。」――すると王さまのお気に入りの家来の何人かが、立ち上がって言った、「おお王さま、どうか私どもに免じてこの医者の血をおゆるしくださりますよう。なぜなら、私どもは、この男が主君に対し奉り、不届きを働いたのを、ついぞ見たことがございません。それどころか、医者や学者たちの手に余ったご病気を、この男がおなおし申し上げたのを見たのでございます。」――王はそれらの者に答えた、「汝らはこの医者の死の所以《ゆえん》を知らんのじゃ。もしこやつの一命を助ければ、余はのがれる術《すべ》なく亡びてしまうじゃろう。というのは、余の手に物を持たせて余の病を救った者ならば、何かをかがせて余を殺すことも、確かにできるわけだからな。ところで余は、こやつが余を亡きものにして約束の金を取るために、余を殺すのではないかと、深く憂えられるのじゃ。というわけは、こやつはおそらく、ひたすら余をねらって、ここにやって来た間者にちがいない。さればこやつの死は必定じゃ。さすれば初めて、余はわが身を案ずることなくいられるというものじゃ。」すると医者は言った、「おお王さま、もしまこと私の死が必定とあらば、しばしご猶予をたまわって、私が自宅にさがり、万端取り片づけ、親戚隣人に私の埋葬を取り行なってくれるように頼み、わけても所蔵の医書のたぐいを贈らせていただきたいものでございます。かつ私は真に精髄中の精髄、珍中の珍なる一書を所持いたしておりますが、これをばわが君に献上いたし、御文庫中にたいせつに保存していただきたいと存じまする。」すると王さまは医者に言った、「で、その本とはいかなる本なのじゃ。」医者は答えた、「その中には、値いの測り知れぬ数々の事柄が記されておりまする。そして本書の明かす秘密の中でもっともつまらぬ秘密でも、次のようなものでございます。もしわが君が私の首を切られたならば、その本を開き、そして三枚おめくりくださいまし。それから左のページの三行をお読みくだされば、そのとき切り首は口をきいて、いかなるご質問にもお答え申すでございましょう。」この言葉を聞いて、王さまは驚嘆の限りに驚嘆され、悦びと興奮に身を震わせて、言われた、「おお医者よ……。余が汝の首を切っても、なおかつ汝は口をきくのか。」医者は答えた、「確かにさようでござります、おお王さま。それはまことに不思議なことでござりますが。」そこで王は退出することをお許しなさったが、それは番兵に取り囲まれてのことであった。そして医者は自分の家にさがり、その日は自分の仕事を取り片づけ、次の日もまたそのようにした。それから医者はふたたび政務所《デイワーン》に上って行ったが、貴族《アミール》や大臣《ワジール》や侍従や代官《ナワーブ》(11)や国のあらゆる首長たちも、やはり参内して、政務所《デイワーン》は花咲き乱れる花園のようになった。そこで医者は政務所《デイワーン》にはいり、一巻の非常に古めかしい書物と、粉のはいった、眼瞼墨《まぶたずみ》を入れる小箱を持って、王の前に立った。それから腰をおろして言った、「皿を一枚持って来てくだされ。」そして皿を持って来ると、医者はそこに粉を落として、表面に広げた。それからこう言った、「おお王さま、この本をお取りください。しかし私の首を切らないうちは、これをお用いになってはなりませぬ。首を切ったら、それをこの皿の上に載せ、この粉を十分すりつけて血を止めるように、お命じください。しかるのちに、この本をおあけなされませ。」しかし王さまは気がせいて、もう医者の言うことなど聞いてはいなかった。すぐ本を取り上げてあけてみたが、その一葉一葉がお互いにぴったりくっついていた。そこで王さまは自分の指を口にあて、唾でもって指をしめし、それでようやく第一ページをあけることができた。そして王さまは二番目も三番目も同じふうになさったが、いつでもページは容易なことでは開かなかった。こういうふうにして、王さまは六葉をあけ、さて読もうとしてみたが、どんな種類の文字も見つけることができなかった。そこで王さまは言った、「おお、医者よ、何も書いてないぞ。」医者は答えた、「同じようにして、もっとおめくりください。」こうして王さまはそのうえなおも、一葉一葉をめくりつづけた。しかし何分かたつ間もなく、毒は即刻即座に王さまの体内に回った。その本には毒がしかけてあったからだ。すると王さまは激しい痙攣《けいれん》に陥って、叫んだ。「毒が回った。」――そこで、医者ルイアンは詩を即吟しはじめて、こう言った。
[#ここから2字下げ]
かの審判者ども、彼らは裁けり。されどおのが権利を超え、かつはいっさいの正義にそむけり。しかはあれ、おお主《しゆ》よ、正義は存す。
彼らもまた、やがて裁かれぬ。彼らもし公明にして善良なりせば、宥《ゆる》されしことならん。されど彼らは圧制せり。よって運命に圧制せられ、極悪の憂苦を身に負いぬ。
彼らは道行く人の嘲笑と憐憫の的となりぬ。これ掟なり。このことはかのことに因《よ》るなり。「天命」はただ理路によって成就せしのみ。
[#ここで字下げ終わり]
ちょうど医者のルイアンが朗誦を終わろうとしたその刹那、王さまはぱったりと倒れた。
さて今は知るがよい、おお汝|鬼神《イフリート》よ、もしイウナン王が医者ルイアンの命を助けたとしたら、アッラーもこんどは王さまを助けなされたことだろう。だが王さまは拒んで、ご自分の死を定めてしまったのだ。
おまえも、おお鬼神《イフリート》よ、もしおまえがわしの命を助けてくれる気になったら、アッラーもおまえの命を助けてくだすったろうがな。
[#ここから1字下げ]
――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が輝くのを見て、つつましく話をやめた。すると妹のドニアザードはこれに言った、「なんとあなたのお言葉は楽しいのでございましょう。」姉は答えた、「けれどももしわたくしになお生命《いのち》があって、王さまがわたくしを生かしておいてくださるならば、明晩お二人にお話し申すものに比べると、この話などは全く何物でもございません。」そして彼らは朝になるまで、満ち足りた幸福と歓びのうちに、その夜を過ごした。次に王はその政務所《デイワーン》に上った。そして政務所《デイワーン》を閉ざすと、王は御殿にもどって妻たちといっしょになった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]第六夜になると[#「第六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、漁師が鬼神《イフリート》に向かって、「もしおまえがわしの命を助けてくれたら、わしもおまえの命を助けたろうがな。だがおまえはわしを殺そうとしかしなかった。だから、わしもおまえをこの壺の中に閉じ込めて殺すとしよう、そしておまえをこの海の中に投げ込んでやろう」と申しますと、――すると鬼神《イフリート》は叫んで、申しました、「おまえの上なるアッラーにかけて、おお漁師よ、そんなことはやめてくれ。そしておれのしたことはあまりとがめずに、ひろい心でおれの命を助けてくれ。たとえおれが悪かったにしろ、おまえは恵み深くあれ。人々の知ることわざにも言っている、『おお悪をなす者に善を施す者よ、悪人の罪をことごとく許してとらせよ』とな。おお漁師よ、おまえはウママがアチカにしたようなことは、けっしておれにしてくれるな。」漁師は申しました、「その二人の話とはどんなことだ。」鬼神《イフリート》は答えました、「こうしておれが押し込められていては、話してなどおられぬ。おまえがおれを出してくれたら、その話をしてやろう。」漁師は言いました、「いやいや、いかん、どうあってもおれはおまえを海に投げ込んで、おまえがそこから出る手段《てだて》を一つも残さぬようにせねばならぬ。わしがさんざんおまえに願い、おまえに頼んだとき、わしはおまえに対して不都合を働いたわけでもなく、また何かさもしいことをしたわけでもないのに、おまえはわしを殺そうとしか望まなかった。それどころか、わしはおまえに善いことしかしなかったのだ。わしはおまえを牢から出してやったのじゃからな。だから、おまえがわしに向かってこんなふるまいをしたとき、わしにはおまえが元来悪い種族《やから》の者じゃということがわかった。よいか、よく聞け、わしがこれからおまえを海に投げ込んだら、おまえを引き出そうとする者には、だれにでもかならず、おまえのことを知らせてやるようにするからな。そうすれば、その人はもう一度おまえを投げ込んでしまうじゃろう、そうしておまえはこの海の中に世の終りまでとどまって、ありとあらゆる苦しみを味わうことだろうよ。」鬼神《イフリート》は答えました、「おれを放してくれ、いまこそその話をしてやるから。そのうえ、おれはもうけっしておまえに害を加えないことを約束する、そしておれはおまえを永久に金持ちにするように取り計らって、せいぜいおまえに役立ってやろう。」そこで漁師は、鬼神《イフリート》が放されてももうけっして害を加えない、漁師の役に立ってやるというこの約束をば、承知してしまいました。それから鬼神《イフリート》の誓いと約束を十分に念をおして、全能のアッラーの御名によって誓わせると、漁師は壺をあけました。すると、煙が立ち上り始め、残らず出てしまうと、それは顔の恐ろしく醜い鬼神《イフリート》になりました。鬼神《イフリート》は壺をけとばして、海に放りこんでしまいました。漁師は壺が海の中にしだいに沈んで行くのを見ると、もう自分は駄目だということが疑えなくなって、着物の中で尿をもらして、言いました、「こいつはまったくいいしるしではないわい。」それから努めて心を落ち着けて、申しました、「おお鬼神《イフリート》よ、至高のアッラーは仰せられた、汝らは誓いを守らざるべからず、なんとなれば汝らはその責を問わるべし、とな。さておまえはわしに約束をし、約束をたがえぬと誓った。だからもしおまえが約束をたがえるならば、アッラーはおまえを罰せらるるじゃろう、アッラーはねたみ深くあらせられるからな。またよしアッラーは辛抱強くいらっしゃるとしても、忘れっぽくはいらっしゃらぬ。よいか、わしはおまえに、医者のルイアンがイウナン王に言ったことを言ったのだ、わしの命を助けてくれ、さすればアッラーはおまえの命も助けてくださるじゃろう、とな。」――この言葉を聞くと、鬼神《イフリート》は笑いだしました。そして漁師の前に立って歩きながら、これに言いました、「おお漁師よ、おれのあとについて来い。」そこで漁師はもうだいたい駄目だとあきらめながら、あとから歩き始め、こうして二人はすっかり町を出て、町も見えなくなり、ある山をのぼって、まん中に一つの湖のある、広い荒野におり立ちました。すると鬼神《イフリート》は立ちどまって、漁師に網を打って漁をするように、言いつけました。漁師が水中を見ると、白い魚と、赤と、青と、黄色の魚が見えました。これを見て、漁師はたいそう驚きました。それから網を打って引き上げてみると、そこにはそれぞれ色の違った四匹の魚がいました。これを見て漁師が喜んでいると、鬼神《イフリート》は申しました、「この魚を持って帝王《スルターン》(12)の所に行って献上しろ。そうすれば、おまえを金持ちにするだけのものをくださるだろう。さて、アッラーにかけて、どうかおれの失礼を許してくれ、何しろおれはもう千八百年以上も、地上の世界を見ずに、海の中にいてからというものは、行儀作法も忘れてしまったからな。さておまえは、毎日ここに漁に来るがいい。だが日にたった一度だけだぞ。では、アッラーがおまえを護りたまわんことを。」こう言って、鬼神《イフリート》が両足で地を打つと、地は開いて鬼神《イフリート》を呑み込んでしまいました。
そこで漁師は、鬼神《イフリート》と自分とのあいだに起こったことにすっかりたまげながら、町に帰りました。それから、魚を取り上げて、自分の家に持って行きました。次に素焼きの壺をとり出して、それに水を張って中に魚を入れると、魚は壺にはいって、水の中でぴちぴちはね出しました。次に、その壺を頭の上に載せて、鬼神《イフリート》に言いつけられたように、王さまの御殿へと歩いて行きました。漁師が王さまのところに上って、魚を献上しますと、王さまはこの漁師の献上した魚をご覧になって、驚嘆の極みに驚嘆せられました。なぜかと言うと、王さまはお生まれになってからこのかた、質から言っても種類から言っても、このようなものはかつてご覧になったことがなかったからです。そして王さまはおっしゃいました、「この魚をあの黒人の料理女に渡すがよい。」ところで、その女奴隷というのは、ほんの三日前に、ルーム人の王さまから贈り物として献上された女で、まだその料理の腕前を試してみるおりがなかったのでございました。そこで大臣《ワジール》はその女奴隷に、この魚を揚げるように命じて、申しました、「おお、よき黒人よ、王さまはおまえにこう申せとわしにお託しになった、おお汝、わが目のしずくよ、余はただ攻撃の日(13)のために、汝を宝物のようにとっておいたのだ、と。――さてきょうこそは、ひとつおまえの料理の腕前とおまえのご馳走の手際をみせてくれ。というのは、帝王《スルターン》はただいま贈り物を持って来た男を、ご引見あそばされたのだ。」こう言って、大臣《ワジール》はこまごまと注意したうえで、王さまのところにもどりました。すると王さまは漁師に、四百ディナールを与えるようにお命じになりました。大臣《ワジール》がその金子を漁師に与えると、漁師はそれを着物の垂れの中に入れ、すっかり満足していそいそと、自分の家の妻のもとに帰りました。それから漁師は子供たちに、入用そうなもの全部を買ってやりました。――漁師のほうはこういうしだいでございました。
さて黒人の料理女のほうはと申しますと、その女は魚を取り上げてきれいにし、それを揚げ鍋の中に並べました。それから片側を十分焼いて、次に裏側を返しました。ところがそのとき突然、料理場の壁がぱっと裂けて、そこから、すらりとした丈《たけ》の、なめらかな豊かな頬をした、一点非の打ち所なく美しく、瞼《まぶた》に黒い瞼墨《コフル》を塗り、やさしい顔をし、優美にたおやかなからだつきの、一人の若い乙女が、台所にはいって来ました。頭には青絹の切れをまとい、耳には耳輪をつけ、手頸には腕輪をはめ、それぞれの指には宝石のついた指輪をしておりました。そして手に一本の竹の細杖を持っていました。乙女は近寄って来て、鍋の中にその杖をさしこみながら申しました、「おお魚よ、おまえはいつまでも約束を守りますか。」これを見て料理女は気を失ってしまいました。そして乙女は二度三度と、その問いを繰り返しました。すると魚は皆、鍋の中から頭をもたげて申しました、「はい、守りますとも、守りますとも。」それから、全部が声をそろえて、次のような一節《ひとふし》を歌い出しました。
[#この行2字下げ] 汝が踵《くびす》を返すとならば、われらも汝のごとくせん。汝が約を果たすとならば、われらもわれらの約を果たさん。されど汝がのがれんとせば、われらあくまで言いはりて、汝に約を遂げさせん。
これを聞くと、乙女はその鍋を引っくりかえして、ちょうど自分のはいって来た場所から出て行き、そして料理場の壁は、ふたたびふさがってしまいました。料理女が正気にもどったときには、その四匹の魚は焦げてしまって、黒い炭のようになっていたので、女はひとり言を言いました、「しようのない魚だね、ちょっと攻めたら、もう駄目になってしまったよ。」そしていつまでも繰り言を言っていると、そこに大臣《ワジール》が、うしろから、女の頭の上にぬっと現われて来て、申しました、「魚を帝にさしあげよ。」そこで料理女は泣き始め、そして大臣《ワジール》にその話とその後の顛末《てんまつ》とを知らせました。すると大臣《ワジール》は非常に驚いて、申しました、「それは実に奇態《きたい》な話じゃ。」それから漁師を呼びにやって、漁師が連れて来られると、すぐに言いつけました、「ぜひとも、もう一度、さっき持って来てくれたのと同じような魚を四匹、届けてもらわなければならぬ。」そこで漁師は例の池に出向いて、網を打ち、上げてみると四匹の魚がはいっていたので、それをとって大臣《ワジール》のもとに届けました。大臣《ワジール》はこれを黒人の料理女のところに届けに行って、申しました、「さあ立ち上がって、わしの目の前でこれを揚げてみよ、いったいこれはどういうしだいなのか、わしが見とどけてやるから。」そこで料理女は立ち上がって、魚を作り、それを揚げ鍋に入れて火にかけました。ところが、二、三分たったかと思うと、またもや壁が裂けて、やはり同じ着物を着、やはり手に細杖を持って、例の若い乙女が現われ出ました。乙女は鍋の中に杖をさしこんで、申しました、「おお魚よ、魚よ、おまえたちはいつまでも昔の約束を守りますか。」すると魚は皆頭をもたげ、声をそろえて、次のような一節を歌い出しました。
[#この行2字下げ] 汝が踵《くびす》を返すとならば、われらも汝のごとくせん。汝が誓いを果たすとならば、われらもこれを果たさん。されど汝が裏切らば、われらあくまで叫びたて、汝に償いをなさせん。
[#この行1字下げ] ――このとき、シャハラザードは朝の光が現われるのを見て、許された言葉を措《お》いた。
[#地付き]第七夜になると[#「第七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、魚がこう言い始めますと、その乙女は杖でもって鍋を引っくりかえし、そしてはいって来た場所から出て行くと、壁はふさがってしまいました。そこで大臣《ワジール》は立ち上がって言いました、「これはまったく王さまにお隠ししてはおけぬ事柄じゃ。」次に大臣《ワジール》は王さまの御前に行って、自分の目の前で起こったことをお話し申し上げました。すると王さまはおっしゃいました、「余はそれを余自身の目で見なければならぬ。」そして王さまは漁師を呼びにやり、これに最初と同じような四匹の魚を持って来るように、固くお命じになり、そのために三日の時日をお与えになりました。しかし漁師は急いで例の池にもどり、すぐさま四匹の魚を取って来ました。すると王さまは、漁師に四百ディナール与えよとお命じになりました。そして大臣《ワジール》のほうを向きながら、おっしゃいました、「汝自身、余の前で、この魚を料理せよ。」大臣《ワジール》は答えました、「お言いつけどおりにいたし、仰せに従いまする。」そこで大臣《ワジール》は、揚げ鍋を王さまの前に持って来させ、魚をきれいにしてから、鍋に入れて揚げました。次に片側が揚がると、もう一方の側を引っくりかえしました。すると突然、料理場の壁が裂けて、そこから水牛の中の一頭の水牛にも似たと申しましょうか、でなければ、アード(14)族の巨人《おおびと》の一人にも似た、一人の黒人が出てまいりました。その男は手に緑の木の枝を持っております。そしてはっきりとした恐ろしい声で、言いました、「魚よ、おお魚よ、おまえたちはいつまでも昔の約束を守るか。」すると魚たちは鍋の中から頭をもたげて、申しました、「守りますとも、たしかに。」そして声をそろえて、次の詩のようなものを誦しました。
[#この行2字下げ] 汝があとにもどるとならば、われらもまたもどらん。汝が約を守るとならば、われらもわれらの約を守らん。されど汝がそむきなば、われらあくまで叫びたて、汝に約を遂げさすべし。
それから黒人は鍋に近づいて、それを木の枝で引っくりかえし、そして魚は焦げて黒い炭になってしまいました。すると黒人は、はいって来たと同じ場所から立ち去りました。黒人が皆の人々の目の前から姿を消してしまうと、王さまはおっしゃいました、「これはまったく、われわれとして不問に付してはおけぬ事柄じゃ。かつは、疑いもなきことじゃ、この魚には定めし不思議な来歴があるに相違ない。」そこで王さまは漁師を出頭させるようにお命じになり、漁師が来ると、仰せられました、「この魚はどこから取って来たか。」漁師はお答え申しました、「ご城下を見おろす山のうしろの、四つの丘のあいだにある池からでござります。」すると王さまは漁師のほうを向いて、おたずねになりました、「そこに着くには何日かかるか。」漁師は答えました、「おお私どものご主君|帝王《スルターン》さま、ほんの半時間しかかかりませぬ。」すると帝王《スルターン》は非常に驚かれて、警吏たちに、即刻漁師と同行するようにお命じになりました。漁師はたいそう当惑して、心ひそかに鬼神《イフリート》を呪いはじめました。こうして王さまの一行は出立し、山を一つ越え、だれもが生まれてからいまだかつて見たことのない、広い荒野におり立ちました。そして帝王《スルターン》と兵士たちは、四つの山のあいだにあるこの人気のない広い場所と、赤、白、黄、青と、四色の異なった色をした魚が遊んでいるこの池とに、驚き入りました。王さまは立ちどまって、兵士たちと居合わせた者すべてとに、おっしゃいました。「汝らの中でだれか、この場にこの湖を、これまで見たことのあるものがいるか。」一同は皆答えました、「いえ、いえ。」そこで王さまは申されました、「アッラーにかけて、余はこの湖と、ここにいる魚についての真相を知るまでは、断じてわが都にもどらず、わが王国の王座に坐るまいぞ。」そして王さまは兵士たちにこの山を取り囲むように命じ、兵士たちはそういたしました。すると王は大臣《ワジール》を召し出されました。
ところで、この大臣《ワジール》は博学で、賢人で、雄弁で、あらゆる学問に通じておりました。大臣《ワジール》が王さまの御手のあいだにまかり出ると、王さまは申されました、「余はあることをなす所存であるが、まず汝にそれを知らせよう。余は今夜まったく一人きりになり、そして単身この湖と魚の神秘を究めようと思いついたのじゃ。されば汝は余の幕舎の戸口に立ち、貴族《アミール》や大臣《ワジール》や侍従たちに、こう申せ、『帝はご不快の気味で、わしに何ぴとも中に入れるなというご諚であった』と。そして汝は余の意向を何ぴとにも明かさぬよう。」こういうわけで、大臣《ワジール》はお言葉を返すわけにもまいりませんでした。そこで王さまは変装し、剣を佩《は》き、そしてだれの目にも触れずに、側近《おそば》の者のあいだから遠く忍び出てしまわれました。それから朝まで足をとめず、夜を籠《こ》めて歩き始め、暑さがあまりにひどくなって、休まずにいられなくなるまで、歩きつづけられました。それからまた、その日の残り全部と二晩目とを、ずっと朝まで歩かれました。すると、はるかかなたに、一つの黒いものがみえたのでございます。王さまはお悦びになって、ひとり言を申されました、「あそこに行けば、だれかがいて、湖と魚の話をしてくれるかもしれぬぞ。」その黒いものに近づいて行くと、それは全部黒い石で建てられ、幅の広い鉄板で堅められた、宮殿であることがわかりました。そして門の一方の扉は開き、片方は閉じているのが見えました。そこで王さまはお悦びになって、その門前に立ち止まり、静かに戸をたたきました。けれども返事が聞こえないので、さらに二度三度とたたきました。それから、やはり返事が聞こえないので、四度目は、こんどは非常に激しくたたきました。それなのに、だれも答えるものがありません。そこで王さまはひとり言をおっしゃいました、「疑いない、この宮殿には人が住んでいないのだ。」そこで勇気をふるって、王さまは宮殿の門をくぐって行くと、廊下に着きました。ここで、大きな声をあげて申されました、「おお御殿の主《あるじ》よ、私は外国《とつくに》の者、通りすがりの者でございます。少しばかり旅の食料をいただきとう存じます。」それから二度三度と、この頼みを繰り返しました。けれども返事が聞こえないので、王さまは心を固くし魂を強め、その廊下を通って、御殿のまん中まで進み入りました。しかしだれもおりません。けれども、御殿全体は豪奢に綴錦《つづれにしき》を張りめぐらし、中庭のまん中には、赤銅で作った四匹の獅子の置いてある泉水があり、その獅子の口からは、水がきらめく真珠となり、宝石となって、ほとばしり出ているのがお目にはいりました。その周囲には一面に、たくさんの鳥がいて、御殿の上に張られた広い網にさえぎられ、御殿の外に飛び出せないようになっていました。王さまはこのさまに驚嘆されましたが、しかし、ついに湖や、魚や、山や、宮殿の謎をといてくれる人を、だれも探し出せないことを、悲しくお思いになりました。それから王さまは深い物思いに沈みながら、二つの戸口のあいだに腰をおろしました。ところが突然、悲しみの心からでも出て来るような、かすかな嘆き声が聞こえてまいりました。そして次のような詩を、ひそかに口ずさむ静かな声が聞こえました。
[#ここから2字下げ]
わが悩み、おお、われはそれを秘むるすべなく、恋の病は露顕《あらわ》れぬ。今やわが目の眠りは夜の不眠とはなりぬ。
おお恋よ。声には出ずれど、いかに苦しき想いぞや。
憐れみたまえ。われに休息を味わわしめよ。わけても、わが魂のすべてなる「かの女《ひと》」を訪れ、これを悩ましたもうことなかれ。苦しみと危険とのなかにありて、「かの女」こそわが慰めなれば。
[#ここで字下げ終わり]
このつぶやかれた嘆き声を聞くと、王さまは立ち上がって、それが聞こえて来た方角に向かって、進んで行かれました。すると、幕の垂れている一つの戸をお見つけになりました。この幕をあげてみると、大広間の中に、一人の若者が、一尺あまりの高さの大きな寝台の上に、坐っているのが見えました。この若者は美しく、しなやかなからだをし、やさしくさわやかな物の言い方を授けられておりました。その額は花のようで、頬はばらのようでした。そして、片頬のまん中には、黒|琥珀《こはく》の一滴のような、一つの黒子《ほくろ》がありました。詩人はこれについて申しました。
[#ここから2字下げ]
細り身の優しき若人《わこうど》。夜を作りなすばかり漆黒の、闇の髪。夜を照らすばかり純白の、光の額。かつて人々の目は、この優雅を眺むるばかり、かくも楽しみしことなし。
きみはあらゆる若人のうちにても、これを見分くべし、ばら色なせる頬の上、片方の目のま下に、またとなき黒子《ほくろ》の一つあれば。
[#ここで字下げ終わり]
これを見て王さまはお悦びになって、若者に言われました、「平安おん身の上にあれ。」するとその若者は金の刺繍《ししゆう》をした絹の衣を着て、寝台の上に坐ったままでいましたが、全身にみなぎる悲しみの口調で、王さまにご挨拶を返して申しました、「おお殿よ、私が起き上がらぬことを、おゆるしください。」けれども王さまは申しました、「おお、お若いかたよ、あの湖と色のついた魚との由来、またこの御殿と、あなたがたった一人でいることと、あなたが涙を流しているわけを、わしに明かしてくだされ。」この言葉を聞くと、若者はさらに涙を流し、涙は頬を伝って下りました。王さまは驚いて、申されました、「おお、お若い人よ、どうしてあなたは泣くのですか。」すると若者は答えました、「私がこんなありさまになっているのに、どうして泣かずにいられましょうか。」そして若者は衣服の長い垂れのほうに手を伸ばして、それをたくし上げました。そこで王さまがご覧になると、その若者の下半身全部は大理石でできていて、臍《へそ》から頭の髪までの上半身だけが、人間のからだでございました。それから若者は王さまに申しました、「お聞きください、おお殿よ、その魚の由来は世にも不思議なことでございまして、もしこれが目の内側の片隅に針でもって書かれて、万人に見せられたとしたならば、心して見る人には一つの教訓となることでもござりましょう。」そして若者はその話を次のように物語りました。
魔法にかけられた若者と魚の物語
殿よ、さればお聞きください、私の父はこの都の王でございました。その名はマームードと申し、「黒島」とあの四つの山の領主でした。父は七十年間国を治め、その後「報酬者」の御慈悲のうちに、大往生を遂げました。父の死後は、私が帝位を獲て、叔父の娘と結婚いたしました。妻は私を非常に激しい愛情で愛していて、もし私がたまたま妻から離れて留守にでもしますと、私の姿を見るまでは、飲みも食べもしないほどでした。そして五年間私の庇護のもとにありましたが、ある日のこと、妻は料理人に私たちの夕食の料理をととのえるように言いつけておいて、浴場《ハンマーム》に出かけました。そして私はこの御殿にはいって、いつも自分の眠る場所で眠ることにし、女奴隷の二人に、扇で風を送るように命じました。すると一人は私の頭のうしろに、今一人は足もとに坐りました。けれども、私は妻の不在を思うと眠れず、どうにも寝つくことができませんでした。なぜならば、たとい私の目が閉じていても、私の魂は目覚めていたからです。そのとき、私の頭のうしろにいる奴隷が、足もとにいる奴隷に話すのが聞こえました、「おおマサウダさま、わたくしたちのご主人はお若いのになんとご不運なことでしょう。わたくしたちの女主人、あの不実な、あの罪深い女を奥方としていられるとは、なんというお気の毒なことでしょう。」すると今一人は答えました、「不義の女どもにアッラーのおとがめがありますように。なぜなら、わたくしどものご主人のような善い性質のおかたを、あの不義の娘が夫とするなどということがあってよいものでしょうか、夜ごと夜ごとを、いろいろな寝床の中で過ごしている女なのに。」すると頭のうしろにいる奴隷は答えました、「ほんとうにわたくしどものご主人も、あの女のふるまいを少しもお気になさらないとは、あんまり無頓着すぎるというものですね。」すると今一人は申しました、「何をおっしゃるの。わたくしどものご主人が、あの女のすることを感づくことなどおできになりましょうか。それともあなたは、あの女がご主人を自由にふるまわせておくと思っていらっしゃるの。実はこうなのですよ。あの不実な女は、いつでも、わたくしどものご主人が毎晩お寝《よ》る前にお飲みになる杯に、何かをまぜるんですよ。麻酔剤《バンジ》(15)を入れるのです。それでご主人は寝入ってしまわれます。そうなっては、もうご主人には何が起ころうと、あの女がどこへ行こうと、何をしようと、わかりっこありません。こうしてご主人に麻酔剤《バンジ》を飲ませてから、あの女は着物を着て、ご主人をひとり置き放しにして出かけ、明け方まで帰らないのです。もどって来ると、ご主人の鼻の下で何かかぐ物を燃やします。そうすると、ご主人は眠りからお覚めになるのですよ。」
おおご主人よ、私が奴隷たちの話を聞いたとき、光はわが目に闇と変じました。そして夜になって叔父の娘とまたいっしょになるのが、実に実に待ち遠しゅうございました。妻はやっと浴場《ハンマーム》から帰って来ました。そこで私たちは卓布を広げ、平生どおり飲み物を互いに酌《く》み交わしながら、ひとときのあいだ食事をしておりました。そのあとで、私は毎夜眠る前に飲んでいた酒を求めると、妻は杯をさし出しました。そのとき私はそれを飲まないように用心しながら、いつものように杯を口に持ってゆくふりをしました。そしてす早く着物の上のほうの凹みに流しこんでしまい、即刻即座に眠ったふりをして、寝床の上に横になってしまいました。するとそのとき、妻は言いました、「眠れ。そしておまえなんかもう二度と目が覚めないでくれるといいが。アッラーにかけて、わたしはおまえなんか大きらいだ、顔を見るのもいやだ。わたしの魂は、おまえとのつき合いにもうあきあきしてしまった。」それから妻は立ち上がって自分のいちばん美しい着物を着、からだに香水をかけ、ひと振りの剣を帯び、宮殿の戸をあけて、出て行きました。そこで私も起き上がり、あとをつけて行って、妻が宮殿から出るのを見とどけました。妻は町の市場《スーク》を全部通りぬけて、とうとう町の城門に着きました。すると妻は門に向かって、私には少しもわからない言葉で呼びかけました。するとかんぬきがはずれて扉が開き、妻はそこを通って出て行きました。私も妻に気どられないように、あとから歩いて行きますと、妻は、塵屑《ごみくず》を積み重ねてできている丘のところの、円屋根がそびえている素焼きの粘土作りの砦《とりで》まで来ました。妻は戸口からはいりました。そして私は、円屋根の露台の上に登って、上から妻の様子をうかがいはじめました。みると、妻は黒人の家にはいったのでした。この怖ろしい黒人は、鍋のふたのような上唇をし、鍋そのもののような下唇をしていて、その二つの唇は、砂利と砂を選りわけることができるくらい下まで、垂れ下がっていました。そしてその男は、いろいろの病気でからだが腐っていて、少しばかりの砂糖きびのわらの上に横になっていました。この男を見ると、叔父の娘は男の両手のあいだの床に接吻しました。すると男は妻のほうに頭をもたげて、言いました、「けしからぬやつじゃ。なんだって今ごろまでぐずぐずしていやがったのだ。おれは黒ん坊どもを招いたが、やつらは酒を飲み始め、みんな情婦《いろおんな》といっしょに寝てしまったわい。だがおれは、きさまのために、てんで飲む気にもなれなかったぞ。」妻は言いました、「おおご主人さま、わが心の愛《いと》しきおかたさま、わたくしは叔父の息子の妻の身ですが、その顔を見るのもいやがっており、いっしょにいるのががまんならないでいるということは、よくご存じではありませんか。それにあなたご自身の身にご迷惑のかかる心配さえなかったら、わたくしはもうとっくの昔、あの町を根こそぎつぶしてしまって、ただ鳥とふくろうの声しか聞かれないようにしたことでしょう。そしてこわした跡の石を、コーカサスの山のうしろに運んでしまったでしょうに。」黒人は答えました、「嘘をつけ、このあばずれめ。いいか、おれは名誉にかけ、黒人の男としての強さにかけ、また白人どもと較べて、おれたちが人間としてずっとずっとまさっていることにかけて、誓っていうが、もしもきょうから以後、もう一度きさまがこんなふうに遅くなったら、おれはきさまの愛なんぞは振ってしまい、もうおれのからだをきさまのからだの上に、のっけてやらないぞ。浮気な裏切り者めが、きさまがこうして遅れて来たのは、どこかよそで、きさまの牝の欲を満たしてきたのだろう、おお、すれっからしめ、白人の女の中でもいちばん下等なあまめ。」それから黒人は女の上になりました。そして彼らのあいだには起こったことが起こったのでした。
――その王子は王さまに向かってこう語りました。そして次のようにつづけたのでございます。
この会話を聞き、つづいて彼ら両人のあいだに起こったことを自分の目で見たとき、世界は私の面前で闇と変じ、私はもう自分がどこにいるのやらわからなくなりました。それから、叔父の娘は黒人の手のあいだで涙を流し、神妙になげいて、かきくどき始めました、「おおわが愛人よ、おおわが心の果実《み》よ、わたくしにはもうただあなただけしかありません。もしあなたに追い払われたら、わたくしはもうおしまいです。おお大切《だいじ》なおかたよ、おおわが目の光よ。」そして男が許すまで、泣いて哀願することをやめませんでした。許されるとすっかり悦んで、起き上がり、身に何物もつけず、下ばきまでとって、素裸になって立ち上がり、言いました、「おおご主人さま、何かあなたの奴隷に食べさせるものがおありでしょうか。」すると黒人は答えました、「鍋のふたをとってみろ、鼠の骨で作ったシチュウがあるから、骨が粉になるまで食らうがいい。それから、ほらそこに壺がある、中にブーザ酒(16)がはいっているから飲め。」すると妻は立ち上がって、食い、飲み、手を洗いました。次にもどって来て、黒人といっしょに葦のわらの上に横になりました。そして素裸のまま、臭い襤褸《ぼろ》を着た黒人に寄り添って、身をちぢめました。
叔父の娘のこうしたいっさいの所業を見たとき、私はもう自分を抑え切れなくなり、円屋根の上からおり、そして部屋の中におどり入って、二人もろとも殺す決心で、叔父の娘の持っていた剣を取り上げました。まず最初に黒人の首をめがけて打ちかかりまして、てっきり、黒人は落命したものと思いました。
[#この行1字下げ] ――このときシャハラザードは朝の近づくのを見て、つつましく話をやめた。そして朝の光が輝くと、シャハリヤール王は裁きの間に出御して、政務所《デイワーン》は、日の終りまで混雑していた。それから王は御殿にもどると、ドニアザードは姉に言った、「お願いですから、お話をつづけてくださいませ。」姉は答えた、「心から悦んで、当然の敬意といたしまして。」
[#地付き]さて第八夜になると[#「さて第八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
おお幸ある王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、魔法にかけられた若者は、王さまにこう申したのでございます。
黒人の首を切ろうとして打ちかかった際、私は実際その喉と皮と肉とを切りましたので、それでこれを殺したものと思いました、やつが恐ろしい声高いあえぎ声であえぎましたから。そしてそれから先は、何が起こったのやらもう覚えておりません。
けれども翌日になると、私は叔父の娘が髪の毛を切って、喪の着物を着けているのを見ました。そして私に言いました、「おお叔父のお子さま、ご覧のようなさまをおとがめくださいますな。わたくしはただいま、母が亡くなり、父が聖戦で戦死し、兄弟の一人はさそりに刺されて死に、いま一人は建物が崩れて生き埋めになったということを知ったのです。ですから、わたくしは当然泣き悲しまなければならないのでございます。」この言葉を聞いて、私は何も知らぬふりを装おうと思ってこれに言いました、「必要と思うことをするがよい、私はそれを禁じはしないから。」そして妻は、まる一年間、その年の初めから次の年の初めまで、喪に服し、涙と狂おしい苦しみの発作との中に、こもっていました。その年が終わると、妻は私に言いました、「わたくしはあなたの御殿の中に、自分用に、円蓋《ドーム》形のお墓を建てたいと存じます。そして、そこにただひとり涙のうちに閉じこもり、それに『喪の家』という名をつけましょう。」私は答えました、「おまえの必要と思うことをするがよい。」そこで妻は自分で、ごらんのように、中に穴のような墓があって、上に円屋根のそびえた、その「喪の家」というものを建てました。それから、妻はそこに例の黒人を運んで来て、入れておいたのでした。やつは死んではいなかったのです。もっとも、ひどく病も重くなりすっかり弱って、実際もう私の叔父の娘のためには、なんの役にも立てなくなっていたのでしたが、しかしそんなからだでも、やはりしょっちゅう、ぶどう酒とブーザ酒を飲んでいました。そしてそのけがの日から、もう口がきけなくなったのですが、なお生きつづけていました。その最期の時が、まだ天から与えられなかったからです。そして妻は毎日、明け方と夜と、この円屋根の黒人のところに行って、そのそばで涙と狂気の発作に襲われては、いろいろの飲み物や煮た物を飲ませているのでした。こうして朝な夕な、次のまる一年のあいだ、妻はこういうふうにすることをやめませんでした。しかし私は妻に対して、終始じっと辛抱しておりました。ところが、ある日、不意に妻の部屋にはいってみますと、妻は泣き、自分の顔をたたきながら、悲しげな声で次の詩を言っている最中でした。
[#ここから2字下げ]
おお、いとしき者よ、きみ逝《ゆ》きて、われは世の人を棄てひとり暮らしぬ。わが心もはや何ものをも愛し得ざるべければ、おお、いとしき者よ、きみが逝きては。
いつかはふたたび、きみがいとしき女のもとに来ることもあらば、おお願わくば、彼女のこの世の生の思い出に、その遺骸《なきがら》を取りおさめ、いずこなりとも、ただきみのかたわらに、墳墓の安息を与えたまわれ、もしもきみが愛しき女のもとに来ることもあらば。
きみの声よ、そが昔のわが名を思い起こし、墳墓の上にてわれに語らんことを。おおされど、わが墳墓よりきみが聞きとるは、わが骨々の触れあう悲しき音のみなるべし。
[#ここで字下げ終わり]
妻がこの嘆きを言い終えたとき、私は言ってやりました、抜き身の剣を手にして。「この裏切り者めが、まことこれは、過ぎし日の交情を棄て友誼を踏みにじる、仇《あだ》し心の輩《ともがら》の言葉というものだ。」そして腕をふるってまさに打ちかかろうとすると、そのとき、妻は突然身を起こし、こうして黒人のけがのもとが私だということを知ると、すっくと立ち上がり、そして私には少しもわからない言葉を発して、言いました、「わが魔法の功徳により、アッラーは汝を、なかば石に、なかば人に変じたまえかし。」するとたちまち、殿よ、私はご覧のようになってしまいました。そしてもう歩くことはおろか、身動き一つすることもできませんでした。こうして私は死んだ者でもなければ、生きているものでもないのです。妻は私をこういうありさまにしてしまってから、私の王国の四つの島を魔法にかけて、まん中に湖のある山々に変え、そして私の家来を魚に変えました。しかもそればかりではございません。毎日、私を苦しめては、革ひもをもって私を鞭打ち、血の出るまで百度も打ちすえます。それから、私の着物の下に、肌にじかにあてて、らくだの毛の衣を着せて上半身全部を包むのです。
若者はこう話してから涙を流しはじめ、そして次の詩を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おおわが主《しゆ》よ、汝の正義を期待し、汝の裁きを期待して、われは堪え忍べり、これぞ汝の御意《みこころ》にかのうべければ。
されどわれは不幸のうちに息づまる。わが頼りとするはただ汝のみ、主《しゆ》よ、おお、祝福されたるわれらが「預言者」のあがむる、アッラーよ。
[#ここで字下げ終わり]
すると王さまは若者のほうを向いて、これにおっしゃいました、「あなたはわが悩みの上に、さらに一つの悩みをつけ加えた。だが聞かせてください、いったいその女はどこにいるのですか。」若者は答えました、「円屋根の下の、黒人がいるその墓の中です。毎日私の家にやって来ます。それから、私のいるところに来て、私の着物を脱がせ、鞭で百度打つのですが、そのあいだ私は泣き叫んで、防ぎようもなく、身動き一つできないでいるのです。次に、こうして私を折檻したあとで、黒人のもとに、朝な夕な、酒類とわかした飲み物を運びに帰るのです。」
王さまはこの言葉を聞くと、おっしゃいました、「アッラーにかけて、おおすぐれた若者よ、私はおんみに長く人々の忘れることのない尽力をしてあげ、わが死後にも、青史の域に残るような恩恵を施してあげなければならぬ。」そしてそれについてはもう何も言われず、夜の近づくまで談話をつづけなさいました。それから立ち上がって、魔法使いたちの夜の時刻の来るのを待ちました。いよいよそのときになると、王さまは着物を脱ぎ、剣を佩《は》き、そして例の黒人のいる場所に向かって行きました。そこに行くと、たくさんのろうそくと釣りランプが見えました。またお香や香料やあらゆる膏薬類も見えました。王さまはいきなり黒人におそいかかり、斬りつけ、突き刺し、その魂を吐き出させました。次にこれを背負って、御殿の中にある井戸の底に、投げ込んでしまいました。それからもどって来て、その黒人の着物を着、そして手に抜き身の長剣を振りまわしながら、しばし円屋根の下を歩き回られました。そのあとで、黒人が寝ていたその場所に、横になりに行きなさいました。
さてひとときたつと、例の魔法使いの淫奔な女は、若者のもとにやって来ました。はいるやいなや、叔父の息子の着物を脱がせ、一本の鞭を取り上げて、これを打ちすえました。若者は叫びました、「痛い、痛い、もうたくさんだ。私を憐れと思ってくれ。」女は答えました、「じゃおまえは、わたしを憐れと思ったか。わたしの愛人を手にかけなかったか。そうじゃなかったろう。まあお待ち。」そして女は山羊の毛の着物を着せ、その上にまた別の着物をかけました。こうしてから、酒の杯と煮た野菜の椀を持って、黒人のところにおりて行きました。そして円屋根の下にはいって、涙を流し、「うう、うう」と叫びながら嘆き、そして言いました、「おおご主人さま、お口をきいてくださいまし。おおご主人さま、わたくしとお話をしてくださいまし。」それから、苦しげに次の詩を誦しました。
[#この行2字下げ] なおもつづくにや、おおわが心よ、かくもつれなきこの隔ては。きみがため身にしみし恋は、すでに堪えがたき悩みとなれり。おおいつまでか、きみはかくもわれより逃がれんとはする……。もしやきみが望みしところは、ただわが憂き目と悲境とにありせば、はや喜べよ、きみの望みは達せられたり。
それから女はわっと泣き出して、繰り返し申しました、「おおご主人さま、お口をきいてわたくしにお言葉を聞かせてくださいませ。」そのとき新たな黒人は、自分の舌を横に曲げ、黒人の話しかたのまねをしながら、言いはじめました、「あ、あ、アッラーのお助けによらねば力も権力もない。」その言葉を聞いたとき(口をきかなくなってから実に久しぶりで)、女は悦びの叫びをあげて、気を失いました。けれどもわれに返って、言いました、「おお、ご主人さまはおなおりになったのですか。」すると王さまは作り声をして、ごく弱々しく申しました、「おお、はすっぱ女め、きさまなんかには、言葉をかけてやる値打はないぞ。」女は言いました、「どうしてでございますか。」彼は答えました、「なぜって、毎日、きさまは亭主の折檻ばかりしているので、やつは悲鳴をあげては、助けを求めている。それでおれは、夜どおし朝まで眠れやしない。きさまの亭主はしょっちゅう泣いて頼んで、許してくれと言いつづけるので、その声で、おれは眠れなくなってしまう。こんなことがいっさいなけりゃ、ずっと前から、おれは元気になっていたろうよ。まったくそのために、おれはきさまに返事ができないでいたのだぞ。」女は言いました、「では、あなたのお言いつけとあらば、わたくしはあいつを、今のありさまから放してやりましょう。」そこで王さまは申しました、「そうだ、放してやれ、そしておれたちを落ち着かせろ。」女は申しました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」それから女は立ち上がって、円屋根から出て行きました。御殿にはいると、女は水を満たした銅の鉢を取り上げ、その上に呪文をとなえました。すると、水はまるで湯が鍋の中で煮えたぎるように、たぎりはじめました。そのとき女はそれを若者に振りかけて、言いました、「唱えし呪文の力により、汝この形をいでて、ふたたび最初の形にもどるべし。」すると若者は身をふるわせて、魔法をとかれすっくと立ち上がり、そして解き放されたことを悦んで、そこで叫びました、「われは証言す、アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの預言者なることを。アッラーの祝福と平安、その上にあれかし。」すると女は若者に言いました、「とっとと行ってしまって、もう二度とここにもどってくるな。さもないと殺してしまうぞ。」そして二言三言、真っ向からどなりつけました。そこで、若者はこの女の手から逃がれ去りました。若者のほうはこのようでした。
さて女は円屋根に帰り、中に降りて言いました、「おおご主人さま、起き上がってわたくしにお姿を見せてください。」ところが彼は、ごく弱々しく、言いました、「おお、きさまはまだ何もしてはいないぞ。きさまはほんの少しおれに落ち着きを返しただけで、おれのじゃまの主な因《もと》をなくしやしないわい。」女は言いました、「おおいとしいかた、その主な因というのは何ですか。」彼は言いました、「あの湖の魚だ。つまり、元の町と昔の四つの島に住んでいた、住人たちのことだ。あいつらが毎晩夜中に、水の上に頭を出して、おれときさまを呪いつづける。おれを元気にならせないわけはこれだ。きさまはあいつらを放してやれ。そのうえで帰って来て、おれの手をとって助け起こすがいい、おれはきっと、じょうぶになっているだろうから。」
魔法使いの淫奔女は、王さまの言葉を聞くと、黒人とばかり思っているので、すっかり悦んで言いました、「おおご主人さま、あなたのお望みを、わたくしは頭の上にいただき、目の中に入れます。」そして「ビスミラーヒ(17)」と唱えて、いそいそと立ち上がり、駆け出して、そして湖に着くと、女は少しの水をすくい上げて、そして……
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――このとき、シャハラザードは朝の光が現われそめるのを見て、つつましくその話をとぎらせた。
[#地付き]第九夜になると[#「第九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸ある王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その若い魔法使いの女は、湖の水を少しすくい上げて、そしてその上に神秘な文句を唱えました。すると魚は騒ぎ始め、頭をもたげ、そして即時即刻、ふたたびアーダムの子になり、町の住民を閉じこめていた魔法は、解けました。そして町は、りっぱに作られたたくさんの市場《スーク》のある、にぎやかな町となり、住む人はめいめい自分の商売を営み始めました。そして山々は、昔のように島々になりました。彼らすべてはこのようでございました。
若い女のほうは、すぐさま王さまのもとに帰って、相変わらずこれを黒人と思いこみながら、言いました、「おお愛するおかた、あなたの恵みふかいお手をくだすって、接吻させてくださいまし。」すると王さまは低い声で答えました、「もっとおれのそばに近く寄れ。」女は近寄りました。すると突然、王さまはその愛剣を握って、女の胸をしたたか突き刺し、切っ先が背中を貫き通したほどでした。それから、剣を取り直してまた斬りつけ、まっ二つにたち切りました。
こうして外へ出ると、魔法にかけられていた例の若者が、立って王さまをお待ちしていました。そこで王さまはこれに、魔法を解かれたお祝いと悦びを述べました。若者は王さまのお手に接吻して、真心こめてお礼を申しました。それから、王さまは若者に申されました、「あなたは自分の町にとどまりたいか、あるいはいっしょに余の都に来なさるか。」すると若者は言いました、「おお万世の王よ、ここからわが君の都まで、どのくらいの距離があるか、ご存じでいらっしゃいますか。」王さまは言いました、「二日半じゃ。」すると若者は言いました、「おお王さま、もし眠っていらっしゃるのならば、お目をお覚ましください。ここから君の都まで行くには、アッラーのおぼしめしがあっても、まる一年はおかかりになりましょう。と申すのは、わが君がここに二日半でおいでになったのは、町が魔法にかけられていたからでございます。しかし、私は、おお王さま、私はただ一瞬のあいだなりと、おそばを離れぬでございましょう。」すると王さまは、この言葉に、お悦びになって、おっしゃいました、「おんみをわが道に置きたまえるアッラーに讃えあれ。なんとなれば、アッラーはこれまで余に一人の子をも授けたまわなかったから、おんみは今後わが子であるぞよ。」そしてお二人は互いに首に飛びついて、悦びの限り悦びなさいました。
それからお二人は歩き出して、魔法にかけられていた若い王の御殿まで行きました。そして若い王は、ご自分の王国のおもだった人々に、これからメッカの聖地巡礼に出かけると、告げ知らせました。そこで一同は、すべての必要な準備を整えました。それから、この若い王と帝王《スルターン》は出発しましたが、帝のお心はご自分の都に焦がれていらっしゃいました。一年このかた、そこを離れていられたからです。かくてご両人は、献上の品々を背負った五十人の白人奴隷《ママリク》(18)を伴って、途につきました。そしてまる一年のあいだ、日夜旅をつづけて、帝王《スルターン》の都に近いところまでまいりました。
すると大臣《ワジール》は、もう帝王《スルターン》を探し出すことはあきらめていたところでしたが、いそぎ帝をお迎えに、兵を連れて出てまいりました。そして兵たちは近づいて、御手のあいだの地に接吻して、ご帰還のお悦びを言上しました。そこで帝王《スルターン》は御殿におはいりになって、王座にお坐りになりました。それから大臣《ワジール》をおそばに召して、起こったことすべてをお知らせになりました。大臣は若い王の話を伺うと、若い王に自由の身になられたこととご無事とを、お祝い申し上げました。
そのあいだに、帝王《スルターン》は多くの人々に褒美をくだされました。それから大臣《ワジール》におっしゃいました、「さきに余に魚を持ってまいったあの漁師を、ここに召しいだせ。」そこで大臣《ワジール》は、町の住民を救った因《もと》となった、あの漁師を呼びにやりました。そして王さまはこれをおそばに召して、誉れの衣をたまい、漁師の暮し向きをお尋ねになり、子供たちがいるかと、ご下問になりました。そこで漁師は、息子が一人と娘が二人あることを申し上げました。すると王さまは、その二人の娘の一人を妻にお迎えになり、例の若者が今一人を妻に迎えました。次に王さまはその義父をおそば近く置かれ、これを国庫会計の長《おさ》に任ぜられました。それからその大臣《ワジール》をば、「黒島」の中にある若者の町に派して、その島々の帝王《スルターン》に任じ、これにお伴をしてきた昔の五十人の白人奴隷《ママリク》をつけてやり、それといっしょに、全部の貴族《アミール》に贈る、たくさんの誉れの衣をお持たせになりました。そこで大臣は帝の両手に接吻して、出発のために出て行きました。そして帝王《スルターン》と若者とは、漁師の二人の娘であるそれぞれのお妃とともに、静穏な歓びの生活と心のさわやかさとのうちに、ずっといっしょに住みつづけなさいました。――また漁師はと言えば、国庫会計の長になって、たいそう財産もでき、当代きっての栄華の人となりました。そして毎日、王さまがたのお妃となった、二人の娘に会いに行ったのでした。そしてこのようなありさまのうちに、多くの欠くるなき歳月ののちに、友を相隔てる者、避けえざる者、沈黙の者、和《やわ》らげえざるものがきて、この人たちは世を終えたのでございます。
[#この行1字下げ] ――「けれども」とシャハラザードはつづけた。「このお話は荷かつぎ人足の話[#「荷かつぎ人足の話」はゴシック体]よりも不思議だとは、お思いあそばしますな。」
[#改ページ]
荷かつぎ人足と乙女たちとの物語
昔バグダードの都に、独身で荷かつぎしている一人の男がおりました。
日々の中のある日、この男が市場《スーク》にいて、荷物を入れる籠にぼんやりともたれていると、その前に、モースルの布と、金箔を散らし錦の裏打ちをした絹で作った、広い豊かな大面衣《イザール》に包まれた、一人の女が立ち止まりました。その女はちょっと顔の小|面衣《ヴエール》をかかげますと、その下から、長いまつげをした黒い二つの目が現われ出ましたが、なんという眼瞼《まぶた》でしょう。それにこの女は丈がすらりとして、手足がきゃしゃで、どこも申し分のない様子でした。その女は荷かつぎの男のほうを向いて、優しい口調で言いました、「おお人足さん、籠を持ってわたしについて来てくださいな。」すると荷かつぎはすっかり面食らって、耳にはいった言葉が信じられませんでした。けれども籠を取り上げて、その若い女のあとについて行くと、女はさいごに、一軒の家の戸口の前に立ち止まりました。戸をたたくと、すぐに一人のヌースラーニー(1)の男がおりて来て、これに一ディナール渡すと、一桝《ひとます》のオリーヴの実をよこし、女はそれを籠に入れながら、荷かつぎに申しました、「これを持って、ついて来てくださいな。」そこで人足は叫びました、「アッラーにかけて、なんという祝福された日だろう。」そして籠を持って、その若い女のあとについて行きました。すると今度は、女は果物屋の店先に立ち止まって、シリアのりんごと、オスマニのまるめろと、オーマンの桃と、アレッポーのジャスミンと、ダマスの蓮《はす》と、ナイル河のきゅうりと、エジプトのレモンと、スルタンみかんと、桃金嬢《てんにんか》の漿果《み》と、指甲花《ヘンナ》の花と、血のように紅いアネモネと、すみれと、ざくろの花と、水仙を、買いました。そして全部を荷かつぎの籠の中に入れて、言いました、「持って行ってくださいな。」そこで荷かつぎは持ってあとからついて行くと、女は肉屋の前に止まって言いました、「肉を十アルタル(2)切ってくださいな。」肉屋は十アルタル切りました。すると女はそれを芭蕉の葉で包んで、籠に入れて、言いました、「持って行ってくださいな、ねえ荷かつぎさん。」荷かつぎはそれを持って、あとからついて行くと、巴旦杏《はたんきよう》売りの前で止まり、そこで女はあらゆる種類の巴旦杏を買って言いました、「これを持って、わたしのあとについて来てくださいな。」それで籠を持って、お菓子屋の前までついて行きました。そこで女は一枚の皿を買って、その商人のところにあるものを全部盛り上げました。バター入り砂糖の輪型菓子、麝香《じやこう》入りでおいしくひき肉を詰めた、びろうどのような捏粉《ねりこ》菓子、サブーンと言われるビスケット、小さな肉パイ、レモン入りのパイ、味のよいジャム類、ムシャバク(喉の愛撫)と言われる砂糖菓子、ルクメト・エル・カーディ(法官の一口菓子)と呼ばれる小さな軽焼き菓子、またアサビ・ゼイナブ(ゼイナブの手(3))と呼ばれる、バターと蜜と牛乳でできた別の軽焼き菓子などです。それから女はこういう各種のあまいもの全部を皿に載せ、その皿を籠に載せました。そこで荷かつぎは言いました、「こうと知ったら、らばをひいて来てこれを皆積むのだったのに。」この言葉に女は微笑しました。それから酒造りの店先に止まって、清涼飲料を十種類買いました、ばらの水とか、オレンジの花の水とか、その他いろいろ。また酔う飲み物も一桝《ひとます》もらいました。それからまた麝香入りのばら香水のはいった灌水器を一つと、乳香の粒と、伽羅《きやら》の木と、竜涎香《りゆうぜんこう》と、麝香《じやこう》も、買いました。最後に、アレキサンドリアの蝋で作ったろうそくを、何本かもらいました。女は全部を籠の中に入れて、言いました、「籠を持って、ついて来てくださいな。」そこで荷かつぎは籠を持って、そして、ずっと籠を運びながらあとについて行くと、その若い婦人は、やがて壮麗な館《やかた》に着きました。それは大理石の石塊で建てられ、うしろの庭には広い中庭がありました。四角で非常に高く、いかめしくそびえていました。正面玄関には、赤銅の延べ金を張った二枚の黒檀の扉がありました。
するとその乙女は戸口に立ちどまって、優しいたたき方でたたきますと、戸の二枚の扉が開きました。荷かつぎはそのとき、戸をあけた人をぬすみ見しますと、それはみやびやかで、あでやかなからだつきの少女で、丸く突き出た乳房から言っても、愛らしい物腰、みやび、美しさ、またそのからだつきその他の申し分なさから言っても、ほんとうに模範となるような若い娘でした。その額は新月の最初の光のように白く、その目はかもしかの目のようで、その眉毛はラマザーン(4)の三日月のようで、その頬はアネモネのようで、その口はスライマーンの印璽(5)のようで、その顔は上りぎわの満月、その両の乳は双児《ふたご》のざくろの実です。そのふっくらしてしなやかな、若々しいお腹《なか》はというと、それは手紙を包む巻き物の下のたいせつな手紙のように、着物の下に隠れていました。
ですから、これを見ると、荷かつぎの男は正気が飛び去って行くような気がして、籠が頭の上から落ちそうな気がしました。そしてひとり言を言いました、「アッラーにかけて、生まれてから、きょうほど祝福された日に会ったことがないぞ。」
するとこの戸口の若い女は、部屋の中にはいったままで、使いに行って来た妹と荷かつぎとに申しました、「おはいりなさいませ。どうぞここでのおもてなしが、あなたがたに手厚くここちよいものでありますように。」
そこで二人ははいって、中央の庭に臨んだ、広々とした広間に行き着きました。この広間は一面に絹と金との錦に飾られ、小さな金片をちりばめたみごとなできの家具や、器《うつわ》類や、彫刻をした腰かけや、窓かけや、手入れの行きとどいた衣裳戸棚などが、いっぱいありました。広間の中央には、光り輝く真珠と宝石をちりばめた、一台の大理石の寝台があり、その寝台の上のほうには、赤い繻子《しゆす》の蚊帳《かや》が張られ、寝台の上には、バビロン風の目をして、アリフ(6)の文字のようにまっすぐな胴をし、輝く太陽を恥じ入らせるほど美しい顔をした、一人のすばらしい若い娘がおりました。この娘は、かがやく星の中の一つのようで、いかにも詩人の言う、アラビアの高貴な女らしい人でした。
[#ここから2字下げ]
おお乙女よ、汝のからだをはかりて、しなやかなる小枝のか弱さにくらぶる者は、その言うところ真実を尽くさず、また、才ありといえども判断を誤れり。なんとなれば、汝のからだはその比なく、汝の身はその類《たぐい》なければ。
小枝の美しさは、木の上にありて真裸なればこそ。されど汝は、いかにありてもうるわしく、身をかくす衣類も、ひとしおの甘美にほかならず。
[#ここで字下げ終わり]
さてそのとき、その若い娘は寝台の上から起き立って、二、三歩あるき、広間の中央の二人の妹のそばに来て、二人に申しました、「どうしてそんなふうに、じっと立っているの。荷かつぎさんの頭の上から、荷物をおろしておあげなさいな。」すると使いの女は荷かつぎの前に、戸口の女はうしろに来て、三番目の姉に助けられて、二人で荷物をおろしました。それから皆で籠の中のもの全部を取り出し、一つ一つそれぞれの場所に置き、荷かつぎに二ディナール与えて申しました、「顔をうしろに向けて、おまえさんの道を立ち去りなさい、さあ荷かつぎさん。」けれども荷かつぎは、この若い娘たちを眺めて、娘たちの美しさと申し分なさに目を見張りはじめ、そしてこれと較べられるものはかつて見たことがないと思いました。ところが、この娘たちのところには、男が一人もいないことに気がつきました。それから、そこにある飲み物や、果物や、かぐわしい花や、その他いろいろの結構な品々を全部見て、驚嘆の限り驚嘆してしまって、もうどうにも立ち去る気にはなれませんでした。
すると若い娘たちの中でいちばん年長の娘が、これに言いました、「どうしてそんなふうに動かないでいるのです。お礼が少ないとでも言うの。」そして使いに行った妹のほうに向きなおって、言いました、「もう一枚、三番目のディナールをおあげなさい。」けれども荷かつぎは言いました、「アッラーにかけて、おおご主人さまがた、私の普通の賃金は、ただの一ディナールの百分の一です。ですから、このお礼で少ないなどとはけっして思いません。けれども私の心と私の内心は、どうにもあなたがたのことが気になるのです。あなたがたはひとりで住んでいらっして、ここにだれもあなたがたのお相手をする男の人がいないとは、はて、いったいあなたがたはどうして暮らしていらっしゃるのかと、不審でございます。ひとつの光塔《マナーラ》は、礼拝堂《マスジツト》の四つの光塔《マナーラ》の中の一つということで、初めてほんとうに美しいということを、あなたがたはご存じないのですか。ところが、おおご主人さまがた、あなたがたは三人しかいらっしゃらず、四番目の者がおりません。さてご承知のように、女の幸福というものは、男がいて、初めて全《まつた》いものになるのです。そして詩人の言うように、調べは四つの楽器揃わざれば調《ととの》わずです、竪琴と琵琶《リユート》と長竪琴《シタール》と銀笛と。ところで、おおご主人さまがた、あなたがたは三人きりで、第四の楽器の銀笛が足りません。ひとつ私がその銀笛となりまして、よく気がきいて利口な、思慮のある男、秘密を守ることを心得た、じょうずな吹き手として、ふるまいましょう。」
すると若い娘たちは言いました、「けれども、おお荷かつぎよ、わたしたちは処女《おとめ》だということがわかりませんか。ですからわたしたちは、慎しみのない男を信用することは、ほんとうに恐ろしいのです。それにわたしたちは、こう言っている詩人たちを読んだことがありますよ。すべての信頼を戒めよ、もらされし秘密はたちまちにして失わる、とね。」
この言葉を聞くと、荷かつぎは叫びました、「おおご主人さまがた、私はあなたがたのお命にかけて誓います。私はいろいろな書物も読み、歴史も学んだ、確かで表裏のない、思慮ある男でございます。私は楽しいことしか話しません。そしておよそ悲しいことはすべて、口に出さず、気をつけて腹にしまっておきます。どういう場合でも、私は詩人の言葉に従ってふるまいます。
[#ここから2字下げ]
天稟ある者のみ秘密を黙しうるなり。人のうち最上の者のみ約束を守りうるなり。
われにありては、扉鎖ざされ開《ひら》かん鍵もなき、堅固なる錠前つけたる家のなかに、秘密は閉じこめられてあり。」
[#ここで字下げ終わり]
この荷かつぎの詩句と、そのほかいろいろ誦してきかせた歌詞と、その節回しとを聞いて、三人の若い姉妹はたいそう心が和らぎました。けれども、ともかくうわべだけでは、言いました、「おお荷かつぎよ、おまえさんにもおわかりだろうが、わたしたちはこの館《やかた》に、たいへんなお金をかけたのです。おまえさんは、わたしたちにその埋め合せをするだけのものを、持ち合わせていますか。というのは、わたしたちは、おまえさんとしてもお金を使わないことには、おまえさんをわたしたちといっしょに坐らせてはあげませんよ。おまえさんの望みというのが、わたしたちのところにとどまって、わたしたちの飲み仲間になり、そしてわけても、わたしたちをひと晩じゅう、わたしたちの顔の上に明け方の光が射すまで、起こしておこうというのじゃないの。」次に、家の主人である、若い娘たちのいちばんの姉が、つけ加えて言いました、「愛とても銭なくば、秤《はかり》にかけてよきつりあいをなすあたわずですよ。」そして戸口にいた女は言いました、「何も持っていないのなら、何もなしで出てお行き。」けれどもこのとき、使いに行った女が口添えして、言いました、「おお、お姉さまがた、もうやめにしましょう。なぜって、アッラーにかけて、この男はわたしたちの一日を、ちょっとでも減らしたわけではなかったじゃないの。それに、これがほかの男だったら、とてもわたしたちに向かって、こんなに辛抱してはいなかったことよ。それから、この男にかかる費用は全部、かわりにわたしが持ちますわ。」
そこで荷かつぎは非常に悦んで、その使いに行った女に言いました、「アッラーにかけて、きょうの最初のもうけは、ひとえにあなたさまお一人のおかげです。」すると、三人の女が口をそろえて申しました、「おお善良な荷かつぎさん、ではこの家にいらっしゃい。そしてあなたはわたしたちの頭の上と目の中にいることになるのを、疑いなさるな。」すぐに使いに行った女が立ち上がって、身じたくをととのえました。それから酒びんを並べ、上澄みをとって酒を澄まし、泉水のそば近くに、集まりの席と座蒲団《クツシヨン》を設け、皆の前に、入用そうなもの全部を運んで来ました。それから酒をすすめましたので、一同坐りました。荷かつぎは、この女たちのまん中で、もう目がくらんで、自分は眠って夢をみているのだと思いました。
そこに、使いに出た女は、酒のびんをすすめました。そこで皆は杯を満たして、これを飲みました。それから二度、三度と。次にその女は改めて杯を満たして、まず姉たちに、それから荷かつぎに、さし出しました。そこで荷かつぎはうっとりとして、次の音律を即吟しました。
[#ここから2字下げ]
この酒を飲めよ。これぞあらゆる愉悦の因《もと》。飲む者をして力と健康とを得せしむ。これこそは、万病にたいする唯一の治療薬なり。
いっさいの愉悦の因たる酒を飲む者にして、たのしき心地にならざるはなし。ただ酔いのみぞ、われらを快楽もて満たしうるなり。
[#ここで字下げ終わり]
それから三人の若い娘の手に接吻して、そして杯を干しました。次にこの家の主人のもとに行って、申しました、「おおご主人さま、私はあなたさまの奴隷、あなたさまの品物、あなたさまの持ち物でございます。」そしてその女のために、次の詩人の句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
きみが戸口に、きみの目の奴隷一人立てり。きみが奴隷のうち、おそらくはもっとも数ならぬ者ならん。
されど彼は、その女《おんな》主人《あるじ》をよく識れり。彼女の寛仁と恩恵とを熟知す。とりわけて、彼女にいたすべき感謝を知る者なり。
[#ここで字下げ終わり]
するとその女は、彼に杯をさしながら言いました、「お飲みなさい、おおわが友よ。そしてこの飲み物が、あなたにさわりなくおいしく飲まれますように。また、これがまことの健康に通ずる道で、あなたに力を与えますように。」
荷かつぎは杯を受け、その若い娘の手に接吻して、そして抑揚のある優しい声で、次の詩人の句を微吟しました。
[#ここから2字下げ]
われはわがいとしき女《ひと》に、その頬と等しく輝ける酒を捧げぬ。その明るき頬のきらめきは、ひとり焔の光のみ、そのあざやかな生色を伝え得んか。
彼女は快く酒を受けながらも、笑い興じてわれに言いぬ――
なにとてきみはわれにわが頬を飲ませんとするにや……。
われは言えり――飲めよかし、おお、この心の焔よ。この液はわが貴き涙、その赤きはわが血にして、杯のなかに共にまじりてあるは、わがすべての魂なり。
[#ここで字下げ終わり]
するとその乙女は荷かつぎの杯を受け、自分の唇に運び、それから妹のそばに坐りに行きました。そして一同は踊り、歌い、かぐわしい花をもって戯れ始めました。そしてそのあいだじゅうずっと、荷かつぎは女たちを両脇にかかえて、接吻していました。そして一人が彼に冗談を言うと、今一人は彼を自分のほうに引き寄せ、三番目の女は花で彼を打つというふうでした。そして一同は、酒気が彼らの分別の中に働くまで、飲みつづけました。いよいよ酒がすっかりまわってしまうと、戸口にいた若い女が突然立ち上がって、着物を全部脱ぎ棄て、素裸になって現われました。そして、ざんぶと自分の魂(7)を泉水の中に投げ入れ、水と戯れ始めました。それから口に水を含んで、音を立ててそれを荷かつぎに吹きかけました。そうしながらも、手足とその若々しい腿のあいだに、水を流しました。それから水を出て、そして荷かつぎのふところの中に飛びこんで、あおむけに寝て、自分の股のあいだにある物のほうを指しながら、言いました。
「おお愛する人よ、あなたはこれの名をご存じ?」すると荷かつぎは答えました、「あっは、は、普通それは慈悲の天幕《テント》と申します。」するとその女は叫びました、「ゆう、ゆう、そんなことを言って恥ずかしくないの?」そして男の首筋を捉えて、そこを打ち始めました。すると男は言いました、「違った、違った、それは陰門と言います。」けれども女は言いました。「違うわ。」そこで荷かつぎは言いました、「じゃ、あなたのしものもの。」でも女は言い返しました、「違うわ。」そこで言いました、「あなたの黄蜂《くまんばち》。」この言葉を聞くと、女は首の皮がすりむけるほど、打ち始めました。そこで男は言いました、「じゃ、その名を教えてください。」すると答えました、「橋の羅勒《めぼうき》よ。」そこで荷かつぎは叫びました、「やっとわかった、おお、わが橋の羅勒《めぼうき》よ、おんみの救いのため、アッラーに讃えあれ。」
そこで、一同は杯と盆をまわしました。次に第二の若い娘が着物を取って、泉水の中に飛びこみました。これも姉のようにして、次に出て来て、荷かつぎの膝の中に飛びこみました。そして指で、股と股のあいだにある物のほうを指さしながら、荷かつぎに言いました、「おおわが目の光よ、これの名はなんと言いますか。」男は答えました、「あなたの裂け目。」女は叫びました、「おお、この人ったら、なんていやらしいことを言うの。」そして女は、部屋じゅう響き渡るほどひどく、男の頬を平手で打ちました。それで男は言いました、「知っています、それは橋の羅勒《めぼうき》だ。」女は答えました、「違う、違う。」そしてまた男の首筋を打ち始めました。そこで男は尋ねました、「では、いったいなんという名ですか。」女は答えました、「皮をむいたごまよ。」そこで彼は叫びました、「おんみの上に、おお、ごまのうちの皮をむいたものよ、祝福のうちのえりぬきの祝福あれ。」
すると、第三の若い娘が立ち上がって、着物を脱ぎ、池の中に降りて行って、二人の妹のようにしました。それから着物を着て、荷かつぎの両脚の上に横たわって、自分のいみじき場所のほうを指しながら、言いました、「この名をあててごらんなさい、おお愛する人よ。」そこで男は、「これこれと言い、しかじかと言う」と言い始め、指おりかぞえながら、唖《おし》の椋鳥《むくどり》だの、耳のない兎だの、声のない雌鶏《めんどり》だの、白さの父だの、優美の泉だの、いろいろの名をあげましたが、結局打つのをよしてもらうため、尋ねました、「では、そのほんとうの名を教えてください。」女は答えました、「父《アビ》マンスールの|お宿《カーン》よ。」
すると今度は、荷かつぎが立ち上がり、着物を取って、泉水の中に降りて行きました。そしてその短剣は水面に浮かんでいました。彼もまた若い娘たちが身を洗ったように、自分の全身を洗いました。それから池を出て、戸口の女の膝の中に飛びこみ、両脚を、使いに出た女の膝の中に延ばしました。次に、合図で自分の陽物を指しながら、この家の主人に言いました、「おおわが女王さま、この名はなんと申しますか。」この言葉を聞いて、女たちは三人とも、笑って笑ってうしろに引っくり返ってしまって、皆で叫びました、「あなたの陰茎《ゼブ》。」彼は言いました、「いや違う。」そして一人一人の女を、ひと噛みずつ噛んでやりました。すると女たちは言いました、「あなたのお道具。」彼は答えました、「いや、いや。」そして一人一人の乳をつねってやりました。すると女たちはびっくりして、言いました、「でもたしかにあなたのお道具よ、熱いんですもの。たしかにあなたの陰茎《ゼブ》よ、動いているんですもの。」荷かつぎはそのたびに頭を振って、それから女たちに接吻したり、噛みついたり、つねったり、腕のなかに緊めつけたりしました。そして女たちは笑いこけていました。とうとう女たちは尋ねました、「じゃ、そのほんとうの名を教えてくださいな。」すると荷かつぎはちょっと考えて、自分の股のあいだを見て、まばたきして、申しました、「おおご主人さまがた、この子が、私の陰茎《ゼブ》が、今私にこう言いました。
『おれの名は、橋の羅勒《めぼうき》をとって食べ、皮をむいたごまを毎日ちょうだいすることを無上に悦び、親父《おやじ》のマンスールのお宿に泊まる、去勢してない勢いさかんな、らばだぞ。』」
この言葉を聞くと、女たちはすっかり笑いだし、うしろに引っくり返ってしまいました。それから一同は夜が近づくまで、同じ杯でふたたび飲み出しました。そのときになると、女たちは荷かつぎに申しました、「さあ、今は顔をうしろに向けて、わたしたちに肩幅の広さを見せながら出ていらっしゃい。」けれども荷かつぎは叫びました、「アッラーにかけて、おおご主人さまがた、私があなたがたのお宅を立ち去るよりは、私の魂が私のからだから出て行くほうが、まだ楽です。いっそのこと、今宵《こよい》をば今過ぎ去った昼と連らね、そしてあすになってから、めいめいがアッラーの道の上に、自分の天命の有様を見に立ち去ることにいたしましょう。」すると使いに出たまかない方《かた》の若い女が、口添えして言いました、「わたしの命にかけて、おおお姉さまがた、わたしたちのところで夜を過ごさせてやりましょう。わたしたちはこの男に、ずいぶん笑わされることでしょう。これは恥知らずのしようのない男ですけれど、とても気が利いていますもの。」すると姉たちは荷かつぎに言いました、「じゃ、いいわ。あなたは今晩、わたしたちのところに泊まってもいいけど、それには条件があります。すべてわたしたちの指図にしたがうことと、何を見ても、また何事であろうと、そのわけについて、いっさいわたしたちに問いたださないこと。」そこで彼は言いました、「はい、きっと承知しました。おおご主人さまがた。」すると女たちは言いました、「では立ち上がって、あの扉に刻まれていることをお読みなさい。」そこで立ちあがってみると、扉のうえに金色で書かれた、つぎの言葉を見つけました。
[#この行2字下げ]「汝に関《かか》わりなきことを語るなかれ、しからずんば汝は好まざることどもを聞くならん。」
そこで荷かつぎは言いました、「おおご主人さまがた、あなたがたを証人として申し上げます、私は自分に関わりのないことにはいっさい口を出しません。」
[#この行1字下げ] このとき、シャハラザードは朝の光が現われるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第十夜になると[#「けれども第十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] ドニアザードは姉に言った、「おお、お姉さま、お話を終わってくださいませ。」するとシャハラザードは答えた、「親しみをこめて、そして寛仁のお務めと心得まして。」そしてつづけた。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、荷かつぎが若い娘たちにこの約束をいたしますと、まかない方の女は立ち上がって、皆の前にご馳走を並べ、そして一同はたいそうおいしく食べました。それがすむと、ろうそくに火をつけ、香木とお香をたきました。それから皆はまた飲み始め、市場《スーク》で買ったおいしい物すべてを、食べ始めました。ことに荷かつぎは飲みかつ食べ、それといっしょに、目を閉じ頭を振りながら、いつも節巧みに詩句を誦しました。
すると突然、こつこつと戸をたたく音が聞こえました。けれども、それは一同の楽しみをみだしはしませんでした。しかし、戸口をあずかる若い女は、立ち上がって扉のほうに行き、それからもどって来て、一同に申しました、「まったく今晩は、わたしたちの卓布は満員になりそうですわ。わたしは戸口に、ひげをそった三人の異邦人《アージヤム》(8)で、そろいもそろって左の目のつぶれた男たちを、見受けたのですもの。実際これは不思議な暗合よ。わたしはすぐに、これはきっとルーム人の国から来た、外国人たちにちがいないと、見てとりましたの。そして三人はめいめい違った風采をしているけれど、三人とも本当におもしろい顔貌《かおかたち》で、とてもこっけいなのよ。ですから、もしわたしたちがあの人たちを呼び入れたら、あの人たちをお肴《さかな》にしてずいぶん娯《たの》しめるでしょう。」それからその女は、仲間たちを説きつけるような言葉を、いろいろ言い続けたので、とうとう皆も答えました、「ではその人たちに、はいっていいとお言い。けれども、あの『汝らに関わりなきことを語るなかれ、しからずんば汝らは好まざることどもを聞くならん』ということを言って聞かせ、この条件をよく知らせておおきなさいよ。」そこで若い娘はいそいそと戸口に駆けて行き、その三人の眇目《すがめ》の男を連れてもどって来ました。実際、この三人はひげをそっていて、そのうえ、よじれてねじり上げた口ひげをはやして、この人たちの様子は何から何まで、サアーリク(9)(托鉢僧)と呼ばれている、乞食の団体の人であるということを示していました。
はいってくるやいなや、その三人はかわるがわるあとじさりしながら、一座の人に平安を祈りました。その人たちを見ると、若い娘たちは立ち上がって、坐るように招じました。三人の人たちは坐るとまず、すっかり酔っぱらっている荷かつぎを見て、そしてつくづく眺めて、この男もまた自分たちの団体の人だと考え、そこで言い合いました、「おお、この男も、われわれのように托鉢僧《サアールク》だわい。ではこの男が親切に、われわれの相手をしてくれることだろう。」しかし荷かつぎは、この彼らの思わくを聞きつけると、突然立ち上がり、彼らに向かって目をむき、じろりと横目を使って、言いました、「やい、やい、静かにしろ。おまえたちに仲好くされたんじゃ、おれはありがた迷惑だからね。まずあそこの、扉の上に書いてあることを、守ってもらいましょうや。」
この言葉を聞くと、若い娘たちはどっと笑って、言い合いました、「この托鉢僧《サアーリク》と荷かつぎとで、ずいぶんおもしろくなりそうね。」それから托鉢僧たちに食べ物を出すと、彼らはさかんに食べました。それから戸口の娘が飲み物を出すと、托鉢僧たちはこもごも飲み始め、戸口の若い女の手を借りて、しきりに杯を回しました。杯が十分にめぐると、荷かつぎは彼らに言いました、「よう、兄弟たち、あんたがたの頭陀袋《ずだぶくろ》の中に、何か座興になるような、おもしろい話とか不思議な出来事は、はいっちゃいないかね。」この言葉を聞くと、三人は非常に気をそそられ乗り気になって、楽器を持って来るように求めました。そこで戸口をあずかる女はすぐと、鈴のついたモースルの太鼓と、イラクの琵琶と、ペルシアの銀笛を持って来ました。そして三人の托鉢僧は立ち上がって、一人は鈴の太鼓を取り、今一人は琵琶を、三番目の者は銀笛を取りました。そして三人がそろってかなではじめ、若い娘たちは歌いながらそれに和しました。荷かつぎはというと、嬉しさに気もそぞろになって、しきりに、「はあ、やあ、アッラー」と言いました。それほど、かなでる人々のみごとな、たえなる声音《こわね》に感嘆していたのでした。
こうしているうちに、また戸口をたたく音が聞こえました。それで戸口をあずかる女は立ち上がって、何事かと見にまいりました。
ところで戸口をたたく音の理由《わけ》は、次のような次第なのです。
その夜、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシード(10)は、世上に起こることどもを親しくご見聞なさろうとて、ご自分の都を回りに、降り立たれたのでした。教王《カリフ》はその宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキー(11)とその復讐の遂行者、御《み》佩刀持《はかせもち》マスルール(12)を従えておられました。というのは、教王《カリフ》は、しばしば商人に変装なさる慣わしがおありになったからです。
こうして、この夜|教王《カリフ》が都の街々を歩いておられると、ちょうどこの館《やかた》を途上に見かけられ、楽器の音と宴《うたげ》の響きをお聞きになったのでした。そこで教王《カリフ》はジャアファルに仰せられました、「余は一同でこの館にはいり、この歌声は何ぴとのものなるか見たいと思う。」けれどもジャアファルはお答え申しました、「これは酔漢の群れに相違ございませぬ。さればわれら一同の身に何かまちがいの起こらざるよう、中にははいらぬほうがよいと存じます。」しかし教王《カリフ》は言われました、「われらはぜひともはいらねばならぬ。汝よろしく策を講じて、われらがこの中にはいり、彼らの現場を見るよう取り計らえ。」このご命令をうけて、ジャアファルはお答え申しました、「仰せ承わり、仰せに従いまする。」そこでジャアファルは進み出て、戸をたたいたのでした。戸口の女があけに来たのは、ちょうどこのときでございます。
こうして戸口の若い女が戸をあけましたので、ジャアファルは言いました、「おおご主人さま、私どもはタバリアト(13)の商人でございます。私どもが商品を持ってバグダードに来てから、もう十日になり、私どもは商人の隊商宿《カーン》(14)に泊まっております。それゆえ、その宿の商人の一人が、今晩私どもを自宅に招じ、食事を供してくれました。食事はひと時つづき、私どもに十分飲み食いさせたあとで、その商人は私どもに自由に引き取らせました。そこで私どもは外に出ましたが、なにせ夜になり、それに他国者のこととて、泊まっている宿の道がわからなくなってしまいました。そういう次第で、今私どもはひたすらあなたさまのご慈悲にすがって、私どもを中に入れ、お宅で夜を過ごすことをお許しくださるようお願い申す仕儀でございます。アッラーも、あなたさまのこの善き行ないをお忘れにならぬでございましょう。」
そこで戸口の女はその人たちを見ると、確かに商人らしい風体《ふうてい》をしており、たいそう品位のある様子をしているのを見受けました。そこで二人の身内に会いにもどって、その意見を求めました。姉たちは言いました、「その人たちを中にお入れなさい。」そこで、戸をあけてやりにもどりますと、彼らは尋ねました、「お許しを得て、私どもははいることができましょうか。」女は言いました、「どうぞおはいりください。」そこで教王《カリフ》とジャアファルとマスルールがはいりますと、彼らを見て若い娘たちは立ち上がり、彼らの世話をし始めて申しました、「ようこそいらっしゃいました。どうかここでのおもてなしが、皆さまに手厚くねんごろでございますように。さあお客さまがた、どうぞお楽にあそばせ。けれども、わたくしどもは皆さまに一つの条件をお出ししなければならないのでございます。それは『汝らに関わりなきことを語るなかれ、しからずんば汝らは好まざることどもを聞くならん』ということです。」彼らは答えました、「確かに、承知いたしました。」そして一同腰をおろすと、酒を飲み杯をお互いのあいだにまわすように、招じられました。
それから教王《カリフ》は三人の托鉢僧《サアーリク》を眺めて、いずれもその左の目がつぶれているのを見られ、たいそうびっくりなさいました。次に若い娘たちを眺めて、その美しさと優雅さを見られ、たいそう思い惑いかつ驚きなさいました。けれど若い娘たちは、なおも会食者一同と話を交わしつづけ、共に酒を飲むように招じました。次に娘たちは非常な美酒を教王《カリフ》にすすめましたが、教王《カリフ》はこう言って、おことわりになりました、「私は善き巡礼《ハージー》の者(15)だから。」すると戸口の女は立ち上がって、教王《カリフ》の前に、こまかく象嵌《ぞうがん》細工を施した小さな卓を置き、その上にシナ陶器製の茶碗を載せました。その茶碗の中に清水《しみず》を注ぎ、それを雪片でひやし、そして砂糖とばら水を入れて、全体を混ぜ合わせ、それからこれを教王《カリフ》にすすめました。教王《カリフ》はこれを受け、この若い娘に厚くお礼を述べなすって、心の中でひとり言をおっしゃいました、「あすは、この娘のふるまいと、いろいろしてくれる親切を、賞してやらねばならぬ。」
若い娘たちは、それぞれ接待の務めをつくし、酌をしつづけていました。しかしおいおい酒が回ってきたとき、その家の女主人は立ち上がり、一同にさらに注文を尋ねてから、次に使いの女の手をとって、言いました、「おお妹よ、立って、わたくしたちはわたくしたちの務めを果たすとしましょう。」妹は答えました、「かしこまりました。」すると戸口の女は立ち上がって、|托鉢僧たち《サアーリク》に、部屋の中央から立ち上がり、扉に沿って並ぶように言い、部屋の中央にあるものを全部片づけて、部屋を掃除しました。二人の他の若い娘たちはというと、荷かつぎを呼んで申しました、「アッラーにかけて、ほんとうにおまえは薄情ね。ねえ、おまえはよその人じゃなく、この家の人じゃありませんか。」すると荷かつぎは立って、着物の垂れをあげ、身支度をととのえて、言いました、「お言いつけくだされば、何なりといたします。」すると娘たちは言いました、「自分の席で待っていらっしゃい。」二、三分たつと、使いの女が言いました、「私のあとから来て、手を貸してくださいな。」
そこであとについて部屋の外に出ると、黒犬の種類で、首のまわりに鎖を巻きつけた、二匹の牝犬がおりました。荷かつぎはこれを連れて、部屋の中央にひいて行きました。すると館《やかた》の主人は近づいて来て、袖をまくり、一本の鞭を取って、荷かつぎに言いました、「ここに、その一匹を連れて来てください。」そこで鎖でひきながら、一匹のほうを連れてゆきますと、その牝犬は泣き出して、若い娘のほうに頭をもたげ始めました。けれども若い娘は、そんなことにはおかまいなく、犬におどりかかって、頭を鞭で打ちすえますと、牝犬は泣き叫ぶのでした。そして若い娘は、腕がくたびれるまで、犬を打つことをやめませんでした。それから、鞭を手から投げ捨て、そして犬を両腕に抱え、胸に抱きしめ、涙をぬぐってやり、両手で頭を支えながら、頭に接吻しました。次に、娘は荷かつぎに言いました、「これを連れもどして、もう一匹のほうを連れて来てください。」そこで荷かつぎは言われたとおりにしますと、若い娘は最初の犬を扱ったように、その二番目の犬を扱いました。
そのとき、教王《カリフ》は不憫《ふびん》さでお心がいっぱいになり、悲しさにお胸がせばまるのを覚えられて、ジャアファルに目配せして、このことについて若い娘に尋ねてみるように、合図なさいました。けれどもジャアファルは、黙っているほうがよいということを、合図でお答えしました。
それから館の主人は、妹たちのほうに向いて言いました、「さあ、わたくしたちがいつもすることを、いたしましょう。」妹たちは答えました、「おっしゃるようにいたします。」すると館の主人は、金と銀を張った大理石の、自分の寝台の上に上って、戸口の女と使いの女に言いました、「では今度は、例のことをしてください。」すると戸口の女は立ち上がって、寝台の姉のかたわらに上がり、そして使いの女は出て、自分の部屋に行き、緑の絹のふさをめぐらした、繻子《しゆす》の袋を持って来ました。その女は二人の若い娘の前に立ちどまって、その袋を開き、一張の琵琶を取り出しました。それを戸口の女に渡すと、その女は調子を合わせ、そしてそれを弾じながら、むせび泣くせつない声で、次の詩節を歌いました。
[#ここから2字下げ]
「願わくは、逃がれさりし眠りをわが瞼《まぶた》に返したまえ、わが分別のいずこへ行きしかを告げたまえ。
わが住居《すまい》に恋の宿るをうべないしとき、眠りはわれに怒りて、われを見捨てたり。」
彼らは答えぬ。「いかにせしや、わが友よ、真直《ますぐ》にして確かなる途をあゆめる人々のうちにありし、きみなるを。たれありてかくもきみを迷わせしや。」
われは彼らに言いぬ。「いっさいを明かさん者はわれならず、彼女なり。われはただ答えんのみ、わが血、あらゆるわが血は、彼女のものなりと。われはただ答えんのみ、わが血をおのがうちに重々しくたたえおかんより、彼女のために流さんことの、はるかに好ましと。
われは一人の女を選び、彼女のうちにわが想いを置きたり、すでに彼女の面影そのものを映せるわが想いを。されば、その面影を追いはらいなば、われはわが臓腑《はらわた》に火を放つこととならん、すべてを食らいつくす劫火を。
彼女を見なば、きみらもわれを許さん。アッラーおんみずから、生命の液にて、この宝石を細工したまい、その液の残りをもって、ざくろと真珠とを造りたまえるなれば。」
彼らは言いぬ。「おお素朴なる者よ、きみが愛する者のうちに見いだすは、数々の嘆きと涙と悩みと、ときたまの悦楽、まさにそれのみにはあらずや。
きみ知らずや、澄める水のなかにおのれを眺めんとしても、見るはただみずからの影にすぎざるを。きみが飲む泉は、味わうだになしえざるうちに、早くも飽きる泉なるぞ。」
われは彼らに答えぬ。「その泉を飲みたるによって、われの酔えりと思うなかれ。ただそれを眺めしによるなり。ただそのことのために、眠りは永くわが目より追われぬ。
われのかくもやつれしは、過ぎ去りしことどものためならず、ただ彼女の過ぎ去りしためなり。われのかかるありさまになり果てしは、なつかしきことどもと別れしためならず、ただ彼女と別れしためなり。
今にして、他の女へ目を転ずることを、われはなしえんや。彼女のかぐわしき身に、彼女の身の竜涎香《りゆうぜんこう》と麝香《じやこう》の香りに、魂ことごとくむすばれたるわが身なれば。」
[#ここで字下げ終わり]
女がこの歌を終わったとき、姉は言いました、「おお妹よ、どうかアッラーがあなたを慰めてくださるように。」けれどもその戸口の若い女は、激しい悲しみに襲われて、自分の着物を引き裂き、すっかり気を失って、床の上に倒れてしまいました。
ところが、こういう動作のために、そのからだがあらわになったので、教王《カリフ》はそのからだに、鞭と笞《しもと》の痕がついているのを認めなされ、驚きの限りに驚きなさいました。けれども、使いの女が近づいて、気を失った姉の顔に水を少しかけると、姉は正気づきました。それから新しい衣服を持って来て、姉に着せてやりました。
そのとき、教王《カリフ》はジャアファルにおっしゃいました、「汝は心を動かしている様子もないが、あの女に、打たれた痕があるのを見なかったか。余としては、もはやとうてい口をつぐんでいることはできぬ。このいっさいとまたあの二匹の犬の件について、真相を見きわめずしては、余の心は安んじないぞ。」するとジャアファルはお答え申しました、「おお、わが主《あるじ》にしてわが頭上の冠よ、あの出された条件をご想起くださいませ、――汝に関わりなきことを語るなかれ、しからずんば汝は好まざることどもを聞くならん、でございます。」
こうしているあいだに、使いの女が立って、琵琶を取り上げました。その女はそれをふくらんだ胸の上に支えて、指の先でひき、そして歌いました。
[#ここから2字下げ]
もし人のわれらに恋を嘆くことありとせば、いかにか答えん。われらみずから恋にいためられなば、いかにかせん。
なんとなれば、人を選みてわれらにかわり答えさせんには、げに彼は、恋する心のあらゆる嘆きを尽くすをえざらん。
またわれら、恋人の逃がれ去りしを黙して堪え忍ばんには、苦しみはやがてわれらを死のほとりに近づけん。
おお苦しみ。われらにあるは、ただ哀惜と愁傷と、頬に流るる涙のみ。
さあれ、居まさぬきみよ、わが目の眼差《まなざし》よりのがれ、わが臓腑《はらわた》にきみをつなぐ糸をたち切りしきみよ。
いかがにや、きみはせめて、過ぎ去りしわれらが愛の名残り、時へても消えぬ小さき名残りだに、きみのうちに残したもうか。
あるはまた、わが力をことごとく汲みつくし、きみがためにわれをかくもやせ弱らせし、そのゆえを、相見ぬうちに忘れたまいしか。
かくて流離ぞわれにあてられたるものとせば、われはこのいっさいの苦悩につきて、われらの主《しゆ》アッラーに、その弁明をいつかは求めなん。
[#ここで字下げ終わり]
この悲しい歌を聞いて、館《やかた》の主人は最初の妹のように着物を引き裂き、涙を流し、気を失ってしまいました。そして使いの女は立ち上がり、顔に水を注ぎ、正気にもどらせる手当てをしてから、別な衣服を着せました。すると館の主人は少し落ち着いて、寝台の上に坐り、そして使いの女に言いました、「どうかもう一度歌ってちょうだい、わたくしたちの負債《おいめ》を返せるように。もう一度だけ。」すると使いの女は、改めて琵琶の調子を合わせて、次の詩節を歌いました。
[#ここから2字下げ]
かくもつれなき別離と遺棄とは、いつまでのことか。きみは知らざるや、わが目にはもはや流すべき涙もなきを……。
きみはわれを棄ておけり。かくてなお長く、古き情愛を棄て去るつもりにや。おお、それもただ、われのうちに嫉妬の炎をともすことにありとせば、きみははや目的を達せるなり。
もしも天運は不誠実にて、恋する男につねに幸いするものなりとせば、憐れにも女は、ただの一日として、不実なる恋人をとがめだてするすべもなからん。
さてもわれは、ああ、たれにか訴えて、わが不幸の荷をいささかにても軽くすべけん、この心を傷つけしきみよ、きみの手によるわが不幸の荷を……。ああ哀《かな》しくも、告訴する者にして、その債権の証書を失い、あるいは支払える債務の証書を失いたらんには、いかなる失望にか当面せざらんや……。
しかもわが痛める心の悲しみは、狂おしくきみを求むる情をあおるのみ。されどきみは今いずこにありや。
おおはらからよ、回教徒らよ、汝らにわれはこの裏切り者の復讐を委ねん。彼もわれと同じき苦悩を味わわんことを。彼の目が憩いに閉じんとせば、不眠のためただちにまた大きく開かんことを。
彼はわれを恋によりて、いともみじめなるさまに至らしめぬ。さればわれは願う、たれかわれにかわり、彼を苦しめてこよなき満足を味わわんことを。
今まではわれこそ、彼を慕いて精根つきたり。されどあすの日よりは、彼ぞ、われをうとんずる彼ぞ、苦しむなり。
[#ここで字下げ終わり]
するとふたたび戸口の女は気を失ってしまい、そしてあらわになったそのからだには、鞭と笞《しもと》の痕が一面についているのが見えました。
これを見て、三人の托鉢僧《サアーリク》はお互いに言い合いました、「たとえひと晩じゅう、塵屑《ごみくず》の山の上に寝て過ごす目に会おうとも、この家にはいらなかったほうがましだったろう。この光景は、われわれの背骨もつぶれるほど、心を痛めつけたからな。」そのとき教王《カリフ》は、彼らのほうに向いておっしゃいました、「それはまたどうしてですか。」彼らは答えました、「私どもはただいま起こったことが、心底気になっているからです。」そこで教王《カリフ》は尋ねなさいました、「ではあなたがたは、この家の人ではないのですか。」彼らは答えました、「とんでもない。私どもは、この家はそこにあなたのそばにいる、あの人のものかと思っているのです。」すると荷かつぎは叫びました、「いや、アッラーにかけて、私がこの住居にはいったのは、これが最初です、たった今夜のことです。この家にいるくらいなら、どろ山塵屑の上にでも寝たほうが、どのくらいましだったことか。」
そこで皆が相談して申しました、「私たちはここに男七人だ、そして女たちは全部でたった三人きりで、ほかにはただの一人もいない。ひとつあの女たちに、この事情の説明を求めることにしよう。もし女たちが答えをしぶるようだったら、無理にも答えさせてしまおう。」そこで皆が相談一決しましたが、ジャアファルだけは別で、こう申しました、「あなたがたは、それが正しく恥ずかしくない考えだと思いなさるのか。私たちは客人であり、女たちはあらかじめ私たちに条件をつけている、私たちはきちんとこれに従わなければならぬはずだということを、考えてごらんなさい。それに、もう夜も明けかかり、私たちはめいめい立ち去って、アッラーの道の上に、おのが天命の有様を見ようとしているところです。」それから教王《カリフ》に目配せして、かたわらにお連れ申して、言いました、「私どもがここにいるのも、もうほんのひと時です。私はお約束申します、あすにはかならず、この女たちを御手のあいだに連れてまいります。そのうえで、私どもは彼らの身の上を尋ねることといたしましょう。」けれども教王《カリフ》はご承知にならず、言われました、「余はもうあすまで待つ辛抱はできぬ。」それから、他の者たちはああ言いこう言いしながら、話し合いをつづけていましたが、やはり結局は、お互い同士でこう尋ね合うことになりました、「だがいったいわれわれの中で、だれが女たちに問いを切り出すか。」そして何人かが、それは荷かつぎのすることだという意見を出しました。
こうしているうちに、若い娘たちは彼らに尋ねました、「おお善良な皆さまがた、何を話していらっしゃるのですか。」すると荷かつぎは立ち上がり、家の女主人の前に立って言いました、「おおわが女王さま、私はこのお客さまがた一同にかわり、アッラーの御名において、この二匹の牝犬の由来と、またなぜあなたがそれをあんなふうに折檻して、それから涙を注いで接吻してやるのか、それを話してくださいますように、お頼みし、お願い申し上げます。またお妹さまのおからだの鞭と笞の痕の原因《わけ》も、私たちにお話しして、聞かせてくださいませ。これが私たちのお頼みでございます。さらば今は平安おんみと共にあれ。」
すると家の女主人は、そこに集まっている人全部に尋ねました、「荷かつぎがあなたがたのお名前で言っていることは、ほんとうでしょうか。」すると、ジャアファルを除いた全部が、答えました、「そうです、ほんとうです。」だが、ジャアファルはひと言も言いませんでした。
するとその若い娘は、人々の答えを聞いて申しました、「アッラーにかけて、おお、お客さまがた、あなたがたは今わたくしどもに対して、無礼の中でもいちばん悪く、そしていちばん罪深い無礼をお働きになりました。わたくしどもは前もってあなたがたに、もしどなたかがご自分に関わりのないことを言ったら、好ましくないことを聞きますよという条件を、ちゃんと出しておいたのです。いったいあなたがたは、わたくしどもの家にはいって、わたくしどもの食べ物を食べるだけでは、すまなかったのですか。だがこれはあなたがたが悪いのではなく、あなたがたをここに連れて来た妹が悪いのです。」
こう言って、その女は手首の上の両袖をからげ、足で三度床を踏み鳴らして、叫びました、「さあ、早く来ておくれ。」するとすぐに、垂れ幕のおりていた戸棚の一つの戸が開いて、そこから七人の頑丈な黒人が、手にとぎすました剣を振りまわしながら、出て来ました。すると、女は彼らに言いました、「この口の軽すぎる人たちの腕を縛って、数珠《じゆず》つなぎにしなさい。」すると黒人たちはその命令を実行して、そして言いました、「おおご主人さま、おお人間どもの目から遠く隠されている花よ、こいつらの首をはねることをお許しくださいますか。」娘は答えました、「もうひととき待っておやり。首を切る前に、いったいどういう人たちなのか、聞いてみたいから。」
すると荷かつぎは叫びました、「アッラーにかけて、おおご主人さま、ほかの人たちのした罪のせいで、私を殺さないでくださいまし。ここにいる人たちはみな過ちをしでかし、ほんとうに罪を犯したのですが、私は何もいたしません。おお、アッラーにかけて、もしこのいまいましい|托鉢僧たち《サアーリク》が現われてじゃまをしなかったら、私たちはどんなに楽しく愉快な夜を過ごしたことでしたろう。というのは、この不吉な|托鉢僧たち《サアーリク》は、ただやつらがそこにいさえすれば、ほんのはいって来るだけで、このうえなくにぎやかな町だって、荒れ果てさせてしまうことでしょうから。」そう言って、次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
強き者よりの容赦は美《よ》きかな、ことには、防禦のすべなき者への容赦は美きかな……。
きみよ、われらのあいだの犯すべからざる友情によって、われはひとえに願う、罪ある者のゆえに無辜《むこ》の者を殺すことなかれ。
[#ここで字下げ終わり]
荷かつぎが誦しおえると、若い娘は笑い出しました。
[#この行1字下げ] ――このとき、シャハラザードは朝の光が近づくのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第十一夜になると[#「けれども第十一夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その若い娘は腹を立てましたが、今度は笑い出して、そして一同のところに近づいて、言いました、「わたくしに話すべきことは、皆話しておしまいなさい、あなたがたは、もうひとときしか生きていられないのですから。それにわたくしがこうしてがまんしてあげているのは、あなたがたが身分いやしい人々だからです。もしあなたがたが、一族の中でいちばん尊ばれている人たちとか、いちばん偉い人たちの中にはいっているとしたら、さもなければ、もしあなたがたが高位高官のかたがただったとしたら、わたくしは確かに、もっと手早く片づけて、罰を与えたことでしょうから。」
そのとき教王《カリフ》は、ジャアファルにおっしゃいました、「おおジャアファル、たいへんなことになったぞ。われらが何者であるか、あの女に明かせ。さもないとわれらは殺されてしまうぞ。」するとジャアファルは答えました、「私どもは当然の目に会うよりいたしかたござりませぬ。」けれども教王はおっしゃいました、「まじめでいなければならぬ際に、戯れなど申してはならぬ。何事にも時機があるものだぞ。」
そのとき、若い娘は|托鉢僧たち《サアーリク》に近づいて、彼らに言いました、「あなたがたは兄弟ですか。」彼らは答えました、「いやいや、アッラーにかけて、われわれは貧しき者の中でももっとも貧しき者にすぎず、吸い玉をあて、乱刺術を行なうことを、業として暮らしております。」すると娘は、その一人一人に向かって尋ねました、「あなたは生まれながらの眇目《すがめ》ですか。」僧は答えました、「いやいや、アッラーにかけて、しかしながら、私の片目を失った話はまことに不思議な話で、もしこれを針でもって目の内側の片すみに書いておいたならば、これをうやうやしく読む者には、一つの教訓ともなることでありましょう。」そして第二の僧も、第三の僧も、同じ返事をしました。次に、三人口をそろえて申しました、「私たちはめいめい、それぞれ異なった国の者で、私たちの身の上は驚くべきものであり、私たちの冒険は実もって不思議きわまるものです。」すると若い娘は、彼らのほうに向いて言いました、「どうか皆さまがためいめいが、その身の上とわたくしたちの家に来なすった理由を、話してくださるよう。それからあとで、ごめいめいが額に手をあててわたくしたちにお礼を述べ、ご自分の天命におもむかれますように。」
そのとき第一番に進み出たのは、荷かつぎでした。そして言いました、「おおご主人さま、私の身分と申せば、私は荷かつぎで、ただそれだけの者です。ここにいらっしゃるお使いのかたが、私に荷物を持たせ、私を連れてここに来なすったのでした。そしてあなたがたとのあいだに、先刻ご承知のようなことが起こったので、それを私は、ここで改めてくり返し申したくはありません、その理由はおわかりでしょう。これが私の身の上の全部です、私はこれ以上ひとこともつけ加えるものがありませんから。されば私はあなたがたに平安を祈ります。」
すると、若い娘はこれに言いました、「さあ、おまえの頭に手をやって、髪をなでつけて、出て行きなさい。」けれども荷かつぎは言いました、「いやいや、アッラーにかけて、私はここにいる私の連れの人たちの物語を聞いたうえでなければ、出ては行きますまい。」
すると托鉢僧《サアーリク》の中の第一の托鉢僧《サアールク》が、自分の身の上を話そうと進み出て、言いました。
第一の托鉢僧の物語
おおご主人さま、私はこれから、自分のひげをそり落とし、片目を失う仕儀に立ちいたったわけを、お知らせ申しましょう。
さればお聞きください、私の父は王でございました。父には一人の弟がいて、その弟はまたある他の都の王でした。私の誕生につきましては、私の母は、あたかも叔父の息子の誕生の日に、私を生み落としたという偶合《ぐうごう》がありました。
それから幾年月が過ぎ、またそれから幾年も幾日も過ぎ、そして私と叔父の息子とは、大きくなってゆきました。お話ししておかねばなりませんが、私は数年のあいだをおいて、叔父を訪れ、幾月も叔父のもとに滞在することさえあったのでした。私が叔父を訪れた最後のときには、叔父の息子は、このうえなく盛大な手厚いもてなしをもって、私を迎えました。彼は私のために何頭もの羊をほふり、あまたの酒を澄まさせました。それから私たちは酒を酌《く》みはじめ、そして酒のほうがわれわれよりも強くなるほどになりました。すると、叔父の息子は私に言いました、「おお伯父の息子よ、ぼくはごく特別に愛しているきみに、ひとつたいせつな事柄をお願いしたいのだが、どうかきみがそれをことわったり、ぼくが決心したことをとめ立てしたりしないでほしい。」私は彼に答えました、「確かに引き受けた。心から悦んで、進んでしよう。」すると十分信用できるようにと、彼は私に『高貴の書』にかけて誓わせ、この上なく神聖な宣誓をさせました。それから彼はすぐに立ち上がり、しばらく座をはずすと、次に、装いをこらし、芳香をくゆらし、非常な大金をかけたにちがいない豪奢な衣裳をまとった、一人の女をうしろに連れて、もどって来ました。そしてうしろの女といっしょに、私のほうに向いて、言いました、「この女を連れて、今知らせる場所に、ひと足先に行ってくれたまえ。(そしてその場所をくわしく知らせたので、私にはよくわかりました。)そこに行くと、他の墓のまん中にこれこれの墓があるから、そこでぼくを待っていてくれたまえ。」そして私は自分が右手で誓った誓約の手前、これをことわることも、この頼みを拒むこともできませんでした。そこで私はその女を連れて出かけ、女といっしょに墓の円蓋《ドーム》の下にはいり、そして二人で坐って、叔父の息子を待っていると、やがて、彼が水を満たした茶碗と漆喰《しつくい》のはいった袋と一挺の斧を持って、やって来るのが見えました。彼は持ち物全部をおろし、斧だけを携えて、円蓋《ドーム》の下の墓石のほうに行きました。彼は石を一つ一つはがして、それをそばに並べました。次にその斧でもって、土を掘り始め、とうとう小さな戸くらいの大きさのふたを掘り出しました。そのふたをあけると、下に穹窿《きゆうりゆう》形の階段が現われました。すると彼は女のほうを向いて、合図をしながら言いました、「さあ、おまえは選びさえすればいいのだ。」すると女はすぐさまその階段を降りて、姿を消してしまいました。そのとき彼は私のほうに向いて、言いました、「おお伯父の息子よ、どうかきみがぼくにしてくれた親切をまっとうしてくれたまえ。ぼくがこの中に降りて行ってしまったら、きみはこのふたをまたしめ、そして以前のように、その上に土をかけてくれ。そうすれば、きみはしてくれた親切をまっとうしてくれることになる。また、この袋の中の漆喰と茶碗の中の水とは、これをよく混ぜ合わせるのだ。それから石を前のように置きなおし、その混ぜた物でもって、石の継ぎ目を前のとおりに塗りつぶすのだ。そしてだれにも見抜けないで、『ここに塗りは新しいが、石は古い新規の墓穴があるな』などと言うことができないように、うまくやってくれたまえ。というのは、おお伯父の息子よ、ぼくはもう丸一年この仕事に取りかかってきたのだ。そして、これを知っているのは、ただアッラーだけなのだ。さあこれがぼくのお願いだ。」それからつけ加えて言いました、「今はなにとぞアッラーが、きみから遠く離れてきみと会わぬために、あまりにぼくに悲しみを覚えさせないでくださるように、おお伯父の息子よ。」それから階段をおりて、墓の中にもぐり込んでしまいました。
彼の姿が私の目に見えなくなると、私は立ち上がって、ふたをふたたびしめ、彼がするようにと言いつけたとおりにして、墓はふたたびもとどおりになりました。
そこで私は叔父の御殿にもどりましたが、叔父は徒歩と騎馬の狩猟に出ていました。そこでその夜は寝に行きました。それから朝になったとき、私はこの昨夜の一部始終と、また私と叔父の息子とのあいだにもちあがった全部の事柄について、想いめぐらし始めました。そして私は自分のした行ないを後悔しました。しかし後悔はけっして役に立ちませぬ。そこで私は墓場にもどり、くだんの墓を探したのですが、それを首尾よく見つけることができません。そして私は夜が近づくまで、あちこち探しつづけましたが、どうしても道を探し出せませんでした。そこで御殿にもどったものの、飲むことも食うこともできず、想いはすべて叔父の息子のことに向かうのですが、それなのに依然として、何一つ手がかりを見つけ出すことができなかった。そこで私は激しい悩みに悩み、ひと晩じゅう朝まで、非常に悩んで過ごしました。朝になると私は今一度、叔父の息子のしたこと全部を考えながら墓地にもどり、そして彼の言葉に従ったことを、大いに後悔しました。それからふたたびその墓を、他の墓全部の中に探し始めたけれども、やはり徒労でした。こうして私は七日にわたって捜索をつづけたのですが、ほんとうの道はどうしても見つかりませんでした。そこで私の心配とあらぬ懸念とはいや増して、果ては気も狂いそうになりました。
わが悲しみに薬と休息を見つけようと思って、私は旅を思い立ち、そして父のもとにもどろうと、出発しました。ところが、いよいよ私が父の都の城門に到り着いたそのせつな、一群の人が現われて私に襲いかかり、私の腕を縛り上げました。そのとき私は、自分がこの都の帝王《スルターン》の息子であり、それらの者は父の従者と、それから私自身の若い奴隷どもだったので、こんなふるまいにすっかり仰天しました。そして私は非常な恐れを抱いて、心の中でひとり言を言いました、「父上の身に何が起こったかわからぬぞ。」そこで私は、このことについて、私の腕を縛り上げた者どもに尋ね始めましたが、やつらはなんの返事もしませんでした。けれどもほんのしばらくたつと、その中の一人で、私の若い奴隷だったやつが言いました、「時の天命は父王にくみしないことになりました。兵士たちが裏切り、大臣《ワジール》は王を弑《しい》しました。私どもはというと、ここに待ち伏せして、あなたが私どもの掌中に陥るのを待っていたのです。」
そう言って、やつらは私をかつぎ上げましたが、私はもう実際のところ、この世にはいませんでした。それほど、このしらせを聞いて茫然とし、それほど、父の死は私を苦痛で捉えたのでした。そしてやつらは、父を殺した大臣《ワジール》の面前に、私を引っ立てて行きました。
ところで、この大臣《ワジール》と私とのあいだには、宿怨があったのでした。その不和のもとはと言うと、私は弩《いしゆみ》を射ることに非常に熱中していたためなのです。それで偶然にも、日々の中のある日のこと、私が父の御殿の露台に坐っていると、一羽の大きな鳥が、大臣《ワジール》の御殿の露台の上に舞い降り、ちょうどそこに、この大臣《ワジール》が居合わせたのでした。私は弩でもってこの鳥を射ち落とそうと思ったところが、弩は鳥をはずれて、大臣《ワジール》の片目にあたり、そしてアッラーのおぼしめしと記された判決とによって、それをつぶしてしまったのであった。それというのは、詩人もいいました。
[#ここから2字下げ]
もろもろの天命をして成就さるるに任せ、地上の法官《さばきて》たちの行ないをただすことのみ試みよ。
あらゆることの前に、喜びを持つなかれ、悲しみを持つなかれ。万事は永遠なるものにあらざればなり。
われらはわれらの天命を成就し、「運命」によってわれらのために記されたる文句に、文字どおり従い来たれり。「運命」によって一行の句を記されたる者は、ただそれをたどり行くよりほかに、なしあたわざるべければ。
[#ここで字下げ終わり]
こうして私が大臣《ワジール》の片目を取り返す術《すべ》もなくつぶしてしまったとき、大臣《ワジール》はあえて何事も言いませんでした。なにせ私の父が都の王だったからです。
これが、私と彼とのあいだにある宿怨の原因でした。
されば、こうして両腕を縛られて、私が彼の前に連れ出されたとき、彼は私の首を切るように命じたのです。そのとき、私は彼に言いました、「私にはひとつの罪もないのに、私を殺そうというのか。」彼は答えました。「だがこの罪よりはなはだしい罪があるか。」そして自分のなくなった目のほうを指しました。そこで私は言いました、「だがそれは粗相でしたのだ。」けれども彼は答えた、「もしおまえが粗相でしたのなら、おれはよく考えたうえでしてやろう。」それから叫びました、「こやつをわが手のあいだに引っ立ててまいれ。」そして、私は彼の手のあいだに引っ立てられました。
すると彼は片手を延ばして、指を私の左の目の中に突き込み、これをすっかりつぶしてしまいました。
そしてそのとき以来、皆さまごらんのように、私は眇目《すがめ》になったのです。
こうしてから、大臣《ワジール》は私を縛って箱の中に入れさせました。それから太刀取《たちと》りに言いました、「こやつを汝に委ねる。汝の剣を鞘《さや》から出せ。そしてこやつを都の外に連れ出せ。こやつをここから連れて行って、殺してしまい、そこで野獣の餌食にさせよ。」
すると太刀取りは私を連れて、都から出てしまうまで歩いて行きました。そして手を縛られ足をつながれた私をば、箱から引き出し、殺す前に、私に目隠しをしようとしました。そのとき私は涙を流して、次の詩節を誦し始めました。
[#ここから2字下げ]
われは汝を、敵の投げ槍を防ぐべき、堅牢なる鎧と心得しに、その汝自身、槍の穂先、刺し通す鋭き穂先なりしよ。
われにあっては、権力を握りいしとき、罰せんとする右手は、力なき左手に武器を渡して、さし控えぬ。かくわれはふるまえり。
されば願わくは、難詰と誹謗とを汝はわれに免じて、苦痛の矢をわれに投ずるは、ただ敵のみならしめよ。
敵にしいたげられて苦しめる、わが憐れなる魂に、沈黙の恵みを授けて、むごき言葉とその重さにより、これを押しつぶすことなかれ。
われはわが友らを、わが固き鎧となるものと心得たり。彼らはしかりき。されどそは、敵の手中にあって、われに逆らうものなりき。
われは彼らを、わが殺戮の矢となるものと心得たり。彼らはしかりき。されどそは、わが心臓を貫くものなりき。
われは幾多の心を、忠実ならしめんと熱意をこめて育てたり。彼らは忠実なりき。されどそは、他方への愛においてなりき。
われは彼らを、堅固ならしめんとあらゆる熱意を配れり。彼らは堅固なりき。されどそは、裏切りにおいてなりき。
[#ここで字下げ終わり]
太刀取りは私の詩を聞くと、そのときかつて自分が私の父の太刀取りで、私自身にも、恩恵の限りを尽くされたことを思い出し、そして私に言いました、「どうして私にあなたが殺せましょうか。私はあなたの従順な奴隷です。」次に私に言いました、「飛び立ってください。ご一命はお助けします。そしてもう二度とこの国に足踏みなさいますな。なぜなら、あなたはご自分も亡び、私をもあなたといっしょに亡ぼすことになるでしょうから。詩人の言うように、
[#ここから2字下げ]
いざ、友よ、脱《のが》れよ、汝の魂を、あらゆる束縛のしいたげより救えよ。すべての家をして、それを建てし者どもの墓場たらしめよ。
行け。汝の土地より他の土地、汝の国より他の国を、汝は見いださん。されど断じて、汝の魂より他の魂を、汝は見いだすことなからん。
想え。アッラーの地は限りなく広大なるに、屈辱の国に暮らすとは、いかに奇怪なることぞ、いかに愚かしきことぞ。
さても、記されてあり……。人はいずれかの地にて死すべき天命にして、おのが天命の地にて死すのほかはなからんと、記されてあり。しかるに汝、おのが天命の地を識れるや……。
ことに、忘るるなかれ、獅子の首の成長し太るは、獅子の魂の存分に発育したるときに限るを。」
[#ここで字下げ終わり]
彼がこの詩を終わったとき、私はその両手に接吻しました。そして自分がすでにはるか遠くに飛び去ったのを見るまでは、ほんとうに助かったとは思われませんでした。
のちになってから、私は自分が死をまぬがれたことを思って、片目を失ったことをみずから慰めました。そして私は旅をつづけて、叔父の都に到着しました。そこで叔父のところにはいり、父の身の上に起こったことと、また私の身の上に起こって、こうして目を失うに至った仔細を、叔父に知らせました。すると叔父はたくさんの涙を流して泣き始め、そして叫びました、「おお兄上の息子よ、おまえはわしのくさぐさの悲しみに、さらに一つの悲しみをつけ加え、わしのくさぐさの苦しみに、さらに一つの苦しみをつけ加えた。というのは、わしはおまえに知らせなければならぬが、おまえの前にいるこの哀れな叔父の息子は、何日も何日も前から行くえが知れず、いったいどうなったのかわからず、どこにいるのか、だれもわしに知らせることができないのじゃ。」それから叔父は、気を失ってしまうほど泣き始めました。正気にもどると、叔父は言いました、「おおわが子よ、おまえの叔父であるこのわしは、自分の息子のために、ずいぶんの悲しみを悲しんだ。そしておまえは今、おまえの身の上とおまえの父上の身の上に起こったことをわしに話して、わしのくさぐさの心痛に、さらに一つの心痛をつけ加えたわい。だがおまえとしては、おおわが子よ、一命を失うよりは、片目を失うほうがまあましであった。」
この言葉を聞いて私は、叔父の息子、叔父の愛児の身に起こったことについて、もう黙っていられなくなりました。そこで私は、叔父にいっさいの真相を打ち明けました。私の言葉を聞いて、叔父は喜びの限り悦びました。まったく彼は自分の息子についての私の言葉に、非常に悦んだのでした。そして言いました、「おお、早くその墓をわしに見せてくれ。」私は答えました、「アッラーにかけて、おお叔父上、その場所がわからないのでございます。私はいくたびも墓探しに行ったのですが、その場所を見つけることができなかった次第ですから。」
そこで、私と叔父とは墓地に行きましたが、今度は、右を見左を見つつ、ついに私はくだんの墓を探しあてました。そこで私と叔父とはこのうえなく喜び、そして二人で円蓋《ドーム》の下にはいりました。私たちは地を払い、次にふたを持ち上げました。そして私と叔父とは、階段を五十段降りました。階段の尽きるところまで来ると、一条の煙が私たちのほうに立ち昇ってくるのが見え、その煙で、私たちは目が見えなくなりました。けれども叔父はただちに、これを唱える者よりあらゆる恐怖を取り去るあの「言葉」を、唱えました。「至高、全能のアッラーのほかには権力も力もなし」という言葉です。
そこで私たちは歩いて行きますと、麦粉や、あらゆる種類の穀類や、あらゆるたぐいの料理や、その他いろいろの物がいっぱいつまっている、大広間に行き着きました。そして広間のまん中には、寝台の上におろした一帳の帳《とばり》が見えました。そこで叔父は寝台の内側を見ますと、いっしょに降りた女の腕に抱かれている自分の息子を見つけ、それが息子であるとわかりました。けれども二人とも、まったく火の孔に投げ込まれでもしたかのように、まっ黒な炭になっておりました。
これを見ると、叔父は自分の息子の顔に唾《つば》を吐きかけて、叫びました、「おお、この不埓者《ふらちもの》めが、きさまはこうなるのが当然だ。これはこの下界の刑罰だが、まだきさまには、もっと怖ろしいもっと長くつづく、あの世の刑罰が残っているぞ。」そしてこう言って、叔父は息子の面に唾を吐きかけてから、自分の|皮スリッパ《バーブジ》を脱いで、その靴底で顔面を打ちつけました。
[#この行1字下げ] ――ここまで語ったとき、シャハラザードは朝の光が近づくのを見て、つつましく、与えられた許しにそれ以上甘えようとはしなかった。
[#地付き]けれども第十二夜になると[#「けれども第十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その托鉢僧《サアールク》は、教王《カリフ》とジャアファルをはじめ、集まる一同が話を聞いているあいだ、若い娘にこう申しました。
こうして、叔父は|皮スリッパ《バーブジ》の底で、そこにまっ黒い炭になって横たわっている自分の息子の顔を打ったので、私はこの打擲《ちようちやく》に非常に驚き入りました。そして叔父の息子と乙女と二人とも、こんな黒い炭になってしまったのを見て、叔父の息子の身を大いに悲しみました。それから叫びました、「アッラーにかけて、おお叔父上、まあ少しお心の憂《う》さをお払いください。私はといえば、あなたのお子さまの身に起こっていることについて、私の心は、私の深い胸裡と共に、非常な苦しみを覚えるのでございますから。ことに、彼が若い娘とともども、こんなふうに、黒い炭になってしまったのを見ることがつらいうえに、なおもあなたが、そのお父さまが、これに飽き足らず、|皮スリッパ《バーブジ》の底で打擲なさることなど見るのは、まことにつらい次第でございます。」すると叔父は、私に次のことを話しました。
「おお兄上の息子よ、こういうわけだ、この子はわしの子だが、幼少のころから、自分の実の妹に恋い焦がれたのだ。そしてわしはいつもこれを妹から遠ざけて、ひとり心の中で言っていた、『まあ心配することはない、二人ともまだ年がゆかぬのだ。』ところが、けっしてそうではなかった。二人がようやく物心がついたと思うと、はや二人のあいだには、けしからぬ所業が出来《しゆつたい》し、わしはそれを聞き知った。けれども実際のところ、わしはそれをとうてい信じ切れなかった。さりながら、わしは息子を叱責した、厳しく叱責して言ってやった、『こういう不届き極まる所業は、十分気をつけるがよい。こんなことは、おまえ以前に何ぴともしたことなく、おまえ以後に何ぴともしないことだろう。さもないと、われらは諸王のあいだで、死にいたるまで、恥辱と汚名とをこうむろう。そして騎馬の飛脚どもは、われらの話を全世界に広めるであろう。されば、かかる行ないは十分つつしめよ。さもないとわしはおまえを呪い、おまえを殺してしまうぞ。』それからわしはこれを妹から隔て、妹をこれから隔てるように、心を配った。だが、どうもこの不届きな女は、非常な愛でこれを愛しておったものと思わねばならぬ。なぜなら、悪魔《シヤイターン》は二人のうちに、着々おのが業《わざ》を固めていったからじゃ。
されば息子は、わしに妹から隔てられたのを見ると、そのとき何ぴとにも言わず、この地下の場所を作ったものに相違ない。そしておまえの見るように、ここに料理その他、こうしたいっさいを運んだのだ。そしてわしが狩りに行っているあいだに、わしの不在に乗じて、妹とここに来おったのじゃ。
至高にして栄誉極まりなき者の正義は、このとき発動したのじゃ。そしてこの場において、二人を諸共に焼き殺したもうた。けれども未来《さき》の世の刑罰は、これよりもさらに怖ろしく、さらに永くつづくのじゃ。」
そしてこう言って、叔父は泣き始め、私もまたいっしょに泣き始めました。それから叔父は言いました、「今後は、今一人の子にかわって、おまえがわが子になるであろう。」
そこで私は、ひとときのあいだ、この世の有為《うい》転変について、またわけても、大臣《ワジール》の命令による私の父の死、その王位の簒奪《さんだつ》、あなたがたご一同の見らるるごとき、私のつぶれた片目のこと、それから叔父の息子の身に起こった奇怪な事柄いっさいなどを、思いめぐらし始めました。そしてみずから涙を禁じえませんでした。
そのあとで、私たちは墓から出ました。そしてふたをまた閉じ、次にそれに土をかけ、その墓をば以前あったと同じ模様にいたしました。それから私たちは住居にもどりました。
私たちが住居に着いて、腰をおろしたと思う間もなく、私たちは武器や、太鼓や、ラッパの音を耳にし、そして軍卒たちが駆け回るのを見ました。そして町全体は、喧騒と、ざわめきと、馬蹄に巻き起こる砂塵にみなぎりました。そしてまったくのところ、私たちの精神は、こういういっさいの原因がいっこうに判明せず、非常に困惑してしまいました。結局、王たる私の叔父は、とうとうその理由を尋ねましたところ、一同はこう答えました、「兄王は大臣《ワジール》に殺されて、大臣《ワジール》は急遽《きゆうきよ》全兵士と全軍を集め、あとうかぎりすみやかにこの地に来たって、突然都に攻め寄せたのでした。そして町民は、これに刃向かうことができないと見て、そこで無条件に都を引き渡してしまいました。」
この言葉を聞いて、私は心の中でひとり言を言いました、「もし私があやつの掌中に陥ったら、あやつはかならず、私を殺すことだろう。」そして改めて、哀しみと憂いは私の魂の中に積もり、私はまたも、父母の身に起こったあらゆる不幸を、悲しくしのび始めました。そして、今はどうしてよいやらわかりませんでした。一方、もし私が姿を現わすようなことがあったら、この町の住民と父の兵士らは私を見つけて、私を殺し亡いものにしようとすることでしょう。そこで私は、自分のひげをそり落とすよりほかには、手段がなかったのでした。ですから私はひげを落とし、別の着物をまとって変装して、その町を去りました。そしてこのバグダードの都に向かって発足し、なんとか無事にそこに至り着き、どなたかにすがって「信徒の長《おさ》」「世界の主《あるじ》」教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御殿にまでたどりつかせていただき、このおかたに私の身の上と出来事とをお話し申し上げたいものと、存じたのでありました。
私はあたかも今夜ようやく、遂にこのバグダードの都に、無事到着したのです。そして私はどこに行ったものか、どこに来たものかわからず、非常に困惑しておりました。ところが突然、この托鉢僧《サアールク》のかたとばったり行き会いました。そこで私はこのかたに平安を祈ってから、申しました、「私は異国の者でございます。」このかたは答えられた、「私もまた異国の者です。」私たちは打ち解けて話をしていますと、そのときこの托鉢僧《サアールク》、私たちの第三番目の連れのかたが、私たちのほうに来られるのを見ました。このかたは私たちに平安を祈ってから、申された、「私は異国の者でございます。」私たちは答えました、「私どももまた異国の者です。」そこで私たちは夜の闇が襲い来るまで、いっしょに歩きました。そのとき天命は幸いと私たちをこの所まで、あなたがたご主人さまがたのもとに、導いてくれたのでござります。
以上が、私のそり落としたひげと、つぶれた目との原因でござります。
この第一の托鉢僧《サアールク》の物語を聞くと、若い娘は彼に申しました、「さあ、よろしゅうございます。今は頭をすこしおなでなさい(16)。そして急いでお引きとりください。」
けれども第一の托鉢僧《サアールク》は答えました、「おおご主人さま、まったくのところ私は、ここにおられる、お連れのかたがた皆さまのお話を聞くまでは、立ち去りますまい。」
こうした話のあいだ、居合わせた一同は皆、この驚くべき話に驚嘆していました。そして教王《カリフ》はジャアファルにこうおっしゃったほどでした、「確かに、生まれてから、余はこの托鉢僧《サアールク》の事件に較べられるような事件は、聞いたことがない。」
そこで、第一の托鉢僧《サアールク》は脚を組んで坐りにゆきました。そして第二の托鉢僧《サアールク》が進みいで、この家の若い女主人の両手のあいだの床に接吻して、そして次のように語りました。
第二の托鉢僧の物語
真実のところ、おおご主人さま、私は生まれながらの眇目《すがめ》ではございません。さりながら、これからお話しする私の身の上は、まことに驚くべきものであり、もしこれを針でもって目の内側の片すみに書いておいたならば、これは学びうる者にとっては、一つの教訓ともなることでありましょう。
ご覧のごとくではありまするが、私は王であり、王の子でございます。また私はけっして無知の者ではないことも、ご承知ください。私はコーランを読みました。また学匠たちの主なる書物、須要な書物も読みました。星の学問(17)と詩人たちの言葉も学びました。要するに、私はわが世紀のあらゆる生者を凌駕《りようが》するまでに、あらゆる学問の研究に専心したのでありました。
されば私の名は、あらゆる筆執る人々のもとに高まりました。かつ私の名声は、あらゆる地方とあらゆる国々とに広まって、私の真価はあらゆる王に知られました。そのときインドの王がこの噂を聞きつけました。そして父のところに人を寄こして、私を自分のもとに派すように乞い、そして私を求めると同時に、豪奢なみやげの品々と、真に王者にふさわしい数々の贈物を父に送りました。それゆえ父も承諾し、私のために、あらゆる品々を満載した六艘の船を準備させ、そして私は出発したのでありました。
われわれの船旅はまる一カ月つづき、そのあとある陸地に着きました。その地で、われわれはいっしょに船に乗せたわれわれの馬とらくだを、陸に上げました。そしてそのらくだの中の十頭に、インド王に献上するおみやげを積みました。ところが私どもが発足するやいなや、万丈の黄塵が舞い上がって近づいて来て、天地のあらゆる場所を包み、こうして日中ひと時のあいだつづきました。次にそれが飛散いたしますと、その下から、怒れる獅子に似た六十名の騎手が、現われ出ました。よくこれを見定めますと、これは砂漠のアラビア人、途を擁する強盗であることがわかりました。そして私どもが逃げ始めて、インド王に献上するおみやげ十駄を携えているのを見つけると、彼らは私どものあとを追い、手綱を全部ゆるめて、こちらに疾駆して来ました。そこで私どもは、彼らに指を挙げて合図をして、言ってやりました、「われわれは強大なインド王への使者だ。さればわれわれに慮外を働いてはならぬ。」すると彼らは言いました、「おれたちはその王の地上にもいなければ、その治下にもいないものだ。」そう言って、私の若い侍者数名を殺し、一方他の者と私とは、ちりぢりばらばらに逃げ、私は非常なけがを受けてのがれたのでした。そのあいだに、砂漠のアラビア人らは、らくだの背に残っている、私どもの富とみやげの品々の掠奪に取りかかっていました。
私はというと、逃走しながら、もはや自分がどこにいるのやら、何をしていいのやらわかりませんでした。あわれ、今の今まで私は権勢のうちにあったのに、今は悲惨と貧窮に陥ってしまったのです。そして私はなおも逃走をつづけ、ついにとある山頂に達し、そこに洞穴を見つけました。そしてやっとそこで休んで、夜をすごすことができました。
朝、私はその洞穴を出て、歩きつづけて行くうちに、ある殷賑繁華《いんしんはんか》な町に行き着きました。この町の気候は実によろしく、冬はここに勢威をふるうことができず、春がつねにそのばらをもってこの地をおおっているというありさまでした。それゆえ、私はこの町に来たことを、大いに悦びました。ことに歩くのと逃げるのとで困憊《こんばい》していたゆえ、この私の陥っている疲労の状態にあっては、なおさらのことでした。実際、私は惨澹たる蒼白の状態にありました。そして私はもうすっかり変わってしまいました。
この町で、私はどこにおもむいたものかわからないでいると、そのとき、店で裁縫をしている一人の仕立屋のかたわらを通りかかったので、そのまま彼のところに行き、平安を祈りました。彼は私の平安の祈願に答礼し、ねんごろに私に腰をおろすように招じ、そして私に接吻し、私を自分の国から遠ざけた原因をば親切に尋ねました。そこで私は自分の身に起こった全部を、一部始終聞かせました。すると彼は私のために大いに悲しみ、そして言いました、「おお優しい若者よ、その身の上話は、何事もだれにであろうと、いっさい話してはなりません。それというのは、私はあなたのために、この町の王をたいそう恐れるのです。王はあなたの父王の一番の大敵で、父王に報うべき宿怨があるのです。」
そう言ってから、彼は私に食べ物と飲み物をととのえてくれました。そして私は食べかつ飲み、彼も私といっしょにそうしました。そして私たちは、雑談のうちにその夜を過ごしました。彼は私に自分の店の一隅に席を与え、私はそこに横になり、彼もまた同じようにして、眠ることにしました。それから彼は、私に入用そうなものすべてと、毛蒲団と、夜具を持ってきてくれました。
こうして、私はこの男のところに三日間滞在しましたが、三日たつと、彼は私に尋ねました、「あなたは何か暮しを立ててゆけるような、商売を知っていなさるかな。」そこで私は答えました、「いかにも知っています。私は法学に通じた学者であり、もろもろの学問に長じた学匠です。読むことも知り、数えることも知っております。」けれども彼は答えました、「いや、それは皆、商売ではないですよ。というよりも、まあそう言いたけりゃ、それも商売だが(彼は私の非常に銷沈《しようちん》した様子を見たのでした)、この町の市場では、ほとんど繁昌しない商売です。ここでは、私どもの町では、だれも学問もできず、読み書き算術もできない。ただ、自分の暮しを立ててゆくことができるというだけなのです。」そこで私は大いに残念に思ったが、彼にくり返しこう言うよりほかに能がなかったのでした、「実際、アッラーにかけて、私は今あげたことよりほかには、何もすることができません。」すると彼は言いました、「では、わが子よ、帯を固く締めなさい。そして一挺の斧と一本の綱を持って、アッラーがもっとましな運命を授けてくださるまで、野にたきぎを切りに行きなされ。くれぐれも、自分の身分はだれにも明かしなさるな、あなたは、殺されるでしょうからね。」こう言って、彼は私のために斧と綱を買いに行き、他の樵夫《きこり》たちによく私を頼んでくれてから、私を彼らといっしょに、木を切りにやってくれました。
そこで私はその樵夫たちと出て行って、薪を作り始めました。次に自分の木材の荷を頭に載せ、それを町に持って行って、半ディナールに売りました。私はわずかの小銭で食べ物を買い、残金はたいせつにしまっておきました。こうして、私はまる一年のあいだ働きつづけ、そして毎日、友人の仕立屋を店に訪れ、自分の片すみで脚を組み合わせながら、風に当たって憩いました。
ある日のこと、いつものとおり私は野に薪を作りに出かけましたが、着いてみると、たくさん薪の作れそうな、繁茂した森を見つけました。そこで一本の枯れている木を選び、その根のまわりの土を取りのぞき始めました。ところがそれをしていると、斧が突然一つの銅の環にひっかかりました。そこであたり全部の土をのけますと、その銅の環が取りつけられている、一つの木のふたを見いだしました。そこでそれを持ち上げました。するとその下に、一つの階段を見つけました。その階段を下まで降りると、一つの戸を見いだしました。その戸をくぐると、しっかりと建てられたすばらしい御殿の、壮麗な広間を見いだしました。そしてその室内には、真珠の中でももっとも美しい真珠にもたぐうべき、みごとな乙女を見いだしました。そしてまったくのところ、この乙女を見ると、いっさいの憂い、いっさいの悲しみ、いっさいの不幸は、心から消し去られてしまったほどでした。私はこの乙女を眺めると、ただちに、この乙女にかくまでの完全とこのような美しさとを与えたもうた「創造者」をたたえて、頭《こうべ》を垂れました。
するとその乙女は、私を見やって申しました、「あなたは人間ですか、魔物《ジンニー》ですか。」私は答えました、「人間です。」すると乙女は言いました、「でもそれでは、いったいだれが、あなたをこの場所に連れて来ることができたのでしょう。わたくしは二十年このかた、かつて人間に会わずにここにいるのですが。」この言葉は快さと優しさにあふれて、私に聞こえましたが、これを聞いて私は申しました、「おおご主人さま、ついに私のいっさいの悩みと苦しみが忘れ去られるようにと、アッラーが私をあなたさまのご住居に導いてくださったのです。」そして私は自分の身に起こったことを全部、一部始終話しました。そしてそれは真実乙女の心を、私のためにたいそう痛めさせたのでした。なぜなら乙女は涙を流して、私に言いました、「わたくしもまた、あなたにわたくしの身の上をお話し申しましょう。」
「お聞きください、わたくしはインドの最後の王、『黒檀島』の主、アクナモス王の娘でございます。父はわたくしを伯父の子と結婚させました。ところがわたくしの結婚の当夜、まだわたくしが処女のままでいるうちに、一人の鬼神《イフリート》がわたくしをさらって行きました。それはジオルジロスと言い、魔王《イブリース》自身の息子ラジモスの息子なのです。彼はわたくしをさらって飛び去り、そしてこの場所におろし、ここに果物の砂糖煮や、砂糖菓子や、着物や、高価な布類や、家具類や、食べ物や、飲み物など、わたくしの望みそうなものを全部、運んでまいりました。そのときから、彼は十日ごとにわたくしに会いに来て、ちょうどこの場でひと晩わたくしと寝、そして朝になると行ってしまいます。またもしわたくしから離れて過ごす、その定めの十日のあいだに、何か用があったら、昼であろうと夜であろうと、この部屋の円屋根の下の、あそこに書かれているあの二行の文句に、手を触れさえすればよいと、わたくしに知らせました。そしてほんとうに、そのとき以来、わたくしがこの銘にさわるとすぐに、姿を現わします。きょうはちょうど行ってから四日になりますから、まだ六日留守をするわけです。ですから、あなたはわたくしのところに五日いて、それから彼の来る一日前に、お帰りになってはいかがですか。」
そこで私は答えました、「確かに、そういたしてさしつかえございません。」するとその女は非常に喜びまして、すっくと立ち上がって、私の手をとり、弓形《ゆみなり》の入口を通らせて、最後に、きれいな快い、そして柔らかい空気の立ちこめた、浴場《ハンマーム》に案内いたしました。そこで、すぐに私は着物を脱ぎ、その女もまた着物を脱いで、丸裸になりました。そして二人で風呂にはいりました。浴後、私たちは浴場《ハンマーム》の台上に、二人並んで腰をおろし、そして女は、私に麝香入りの氷菓《シヤーベツト》を飲むようにすすめ始め、また私の前に結構な捏粉《ねりこ》菓子を置きました。それから私たちは楽しくよもやまの話をし、その女をさらった鬼神《イフリート》の所有《もの》である、こういうすべての品々を食べつづけました。
それから、その女は言いました、「今宵《こよい》はまずおやすみになって、十分お疲れをいやし、それからお元気におなりなさいませ。」
そこで私は、おおご主人さま、女に厚くお礼を言ってから、よく眠ることにしました。そして実際、私はいっさいの憂いを忘れてしまいました。
目が覚めてみると、その女は私のかたわらに坐っておりました。そして私の手足を快くあんまをしていてくれました。そこで私は、この女の上にあらゆる祝福を垂れたもうよう、アッラーに祈りました。そして私たちは坐ってひととき話し合いましたが、その女は私にいろいろと非常に優しいことを言いました。その女は申しました、「アッラーにかけて、以前はこの地下の御殿にただ一人きりで、わたくしはほんとうに悲しく、胸の詰まる思いでした。それというのも、わたくしにはだれも話し相手がなく、それが二十年のあいだのことでしたから。けれども、アッラーに讃えあれ。こうしてあなたをわたくしのかたわらにお導きくだすったとは、どうかアッラーにお栄えがありますように。」
次に優しい声で、その女は次の賦《うた》を歌いました。
[#ここから1字下げ]
きみの来ますを
前に知りなば、
御足《みあし》の敷き物にわれら延べたらん
われらが胸の清き血と、目の黒びろうどを、
さては、さやけきこの頬や
この柔股《やわもも》の若肌も
きみが臥床《ふしど》に敷きたらん、おお夜の旅人よ、
きみの座席は、われらの瞼よりも上《かみ》なれば。
[#ここで字下げ終わり]
この詩を聞いて、私は胸に手を当てて、感謝しました。そしてその女に対する私の恋心は、さらに激しく私のうちに染み入りました。そして私の憂いと苦しみは、飛び去ってしまいました。それから私たちは同じ杯の中に飲み始め、それを夜までつづけました。そこでその夜は、私は至福のうちに、その女と寝ました。生まれてからかつて、私はこの夜のような夜に会ったことはありませんでした。ですから朝になったとき、私たちはお互いにすっかり満足して、まったく幸福のうちに、起きいでました。
そのとき、私はまだすっかりのぼせ上がっていて、ことに自分の幸福を長びかせたいと思って、その女に言いました、「あなたは私があなたを地の下から出して、そしてあの魔神《ジンニー》からあなたを救い出してほしくはありませんか。」けれども女は笑い出して、言いました、「まあ黙っていらして、そしてあなたの今持っているものだけで満足なさいませ。ほら、あの鬼神《イフリート》はかわいそうに、十日のうち一日しかなく、そしてあなたには、いつでもあとの九日を約束してさしあげます。」すると、私は熱情の激しさに取りのぼせて、非常な言い過ぎをしてしまいました。というのは、私はこう言ったのでした、「それでは駄目だ、私はすぐさま、こんな魔法の銘の彫ってあるこの円屋根を、めちゃくちゃに打ちこわしてしまって、鬼神《イフリート》をば私の前に呼び出して、殺してしまおう。というのは、私はかねがね、地上地下のあらゆる|鬼神ども《アフアリート》を、たやすく退治してしまうことに慣れているから。」
この言葉を聞いて、私の気をしずめるために、その女は次の詩を誦して聞かせました。
[#ここから2字下げ]
おおきみよ、別れにのぞみて猶予を求め、別離をつらしとなすきみよ、きみは知らずや、執着することなく、ただ愛するのみの、確かなる途のあることを。
きみは思いわきまえることをえざるにや、倦怠はあらゆる執着の掟そのものにして、訣別はあらゆる愛情の終局なるを……。
[#ここで字下げ終わり]
けれども私は、誦して聞かせられたこの詩などにかまわずに、円屋根をひと蹴り激しくけとばしました。
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が現われるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]そして第十三夜になると[#「そして第十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、第二の托鉢僧《サアールク》は館《やかた》の若い女主人に、次のようにその話をつづけたのでございます。
おおご主人さま、さて私が円屋根にこの激しい足蹴《あしげ》を加えたとき、その乙女は私に言いました。「鬼神《イフリート》です。ここにやって来ました。だから言わないことではありません。アッラーにかけて、あなたはわたくしの身を亡ぼしてしまいました。けれども、あなたは逃がれることをお考えなさい。あなたがはいって来た同じ場所から出ていらっしゃい。」
そこで私は階段にころがりこみました。だが不幸にして、なにせ怖れがはなはだしかったので、自分のサンダルと斧を、置き忘れて来てしまいました。そこで、階段を二、三段よじ登ったところで、私は自分の持ち物のサンダルと斧を最後にひと目見ようと、ちょっと振り向いてみました。ところが見ると、大地が裂けて、そこから怖ろしく醜い大きな鬼神《イフリート》が出て来て、乙女に言っているのでした、「なんだってあんなにひどくぶつかって、おれを驚かしたのだ。いったいどういう目にあったのだ。」女は答えました、「ほんとになんでもないのです。ただ、今さっきわたくしは、淋しさに胸の詰まる思いがして、何か胸をくつろがせる冷たい物を飲みに行こうとして、立ち上がったのですが、それをあまり突然立ち上がったもので、すべって円屋根にぶつかっただけなのです。」だが鬼神《イフリート》は言いました、「おおずうずうしい淫奔女《いたずらおんな》め、なんて嘘がうまいのだ。」それから宮殿の中を右や左と見回し始めて、とうとう私のサンダルと斧を見つけてしまいました。すると鬼神《イフリート》は叫びました、「はて、この道具はどうしたことだ。さあ、この人間どもの使う品物は、いったいどこから出したのだ。」その女は答えました、「見るのは今が初めてです。わたくしは以前一度も見かけたことがありません。きっとそれはあなたの背中のうしろにひっかかっていたので、あなたがご自分でここに持っていらっしたのでしょう。」すると魔神《ジンニー》は憤怒の絶頂に達して、叫びました、「なんというばかげた、怪しげな、いいかげんな言葉だ。そんな言葉でごまかされはせぬぞ、おおあばずれめ。」
こう言って、魔神は女を丸裸にし、床に四本の杭を立てて十字に縛りつけ、折檻を加えながら、何があったのか問いただし始めました。けれども私はもうこれ以上見ていられず、また彼女の呻吟《しんぎん》を聞くに耐えませんでした。それでこわさにふるえながら、急いで階段を上り、やっとのことで戸外《そと》にたどり着き、ふたをもとどおりに直し、上に土をかけて人目につかぬようにしました。そして私は自分の行ないを、後悔のかぎり悔いました。それから、その乙女のこと、その美しさ、またあの悪魔めが、二十年来いっしょにいながら、今になって責めさいなんでいる折檻のことを考え始めました。ことに私のために責められていると思うと、ひしひしと悲しくなりました。そしてそのときふたたび、自分の父や父の領土や今の自分の樵夫《きこり》という情けない身分も、思い合わされました。こうした次第でありました。
それから、私は仲間の仕立屋の家に着くまで、歩きつづけました。彼は私の姿が見えぬので、まるで揚げ鍋にはいって火にかかってでもいるようなふうに、坐っておりました。そして私に言いました、「きのうは、いつものように帰って来るあんたの姿が見えなかったので、心はあんたのところにあったまま、夜を過ごした。森で野獣《けもの》とか、そういうたぐいのものに、会いはしなかったか、ずいぶん心配しましたよ。だがまあ無事で、アッラーに称《たた》えあれ。」そこで私は彼の親切を謝し、店の中にはいって、自分の片すみに坐りました。そして自分の身に起こったことを考え、円屋根をけとばしたことについて自分の魂を責め始めました。そこに突然、友達の仕立屋がはいって来て、私に言いました、「店の戸口に、どうやらペルシア人のような人が来て、あんたがいるかと言うのだが、その男はあんたの斧とサンダルを持っている。この二品を持って、町じゅうの仕立屋全部を歩いて、言ってまわったそうだ、『わしは明け方|告時僧《ムアズイン》(18)の呼び声を聞いて、朝の礼拝に行こうと家を出たら、道でこの品々を見つけたが、いったいどなたの物やらわからずにいる。ついてはあんたがた、この持ち主はだれであろうかな。』するとあんたを知っているこの街の仕立屋たちは、その斧とサンダルを見て、あんたのものだとわかり、とりあえずそのペルシア人に、あんたの居所を教えたものだ。その男はあそこに来て、店の戸口であんたを待っている。出て行ってよろしくお礼を言って、あんたの斧とサンダルを受け取りなさい。」だが私はこの言葉を聞くと、顔色が黄色くなり、全身が怖れに押しつぶされるのを覚えました。そして私がこうして腑抜けのようになっているあいだに、突然、私のいる片すみの前の床《ゆか》がさけて、くだんのペルシア人がそこから出て来ました。それこそは鬼神《イフリート》でした。彼は今までずっとあの乙女を折檻したのでした。しかもなんという折檻でしょう。けれども彼女は何一つ白状しません。そこで鬼神《イフリート》は、例の斧とサンダルを取り上げて、言ったのです、「おれはつねに変わらず魔王《イブリース》の後裔ジオルジロスだということを、きさまに思い知らせてやるぞ。この斧とサンダルの持ち主を、この場に連れて来ることがおれにできるかできないか、まあ見ていろ。」
こうして鬼神《イフリート》は、仕立屋たちのところにやって来て、今申したような計略《はかりごと》を用いたのでした。
そこで地の下からいきなり私のところにはいって来ると、すぐさま一瞬の猶予もなく、私を引っさらって行きました。舞いのぼって宙に上がり、それから降りて地中にくだりました。私のほうは、もうすっかり気を失ってしまいました。こうして彼は私を連れて、あの私が快楽を味わった地下の御殿にはいりました。すると乙女は丸裸にされ、その脇腹から血がしたたり落ちているのが見えました。そのとき私の目は涙にぬれました。けれども鬼神《イフリート》はその女のほうに進みより、彼女を引っ捉えて言いました、「おおあばずれめ、ここにいるぞ、きさまの情夫《いろ》が。」すると乙女は私をじっと見て申しました、「こんな男はまったく存じません。たった今初めて見ました。」すると鬼神《イフリート》は言いました、「なんだと。犯罪の事実そのものが目の前にあっても、きさまは白状しないのだな。」すると乙女は申しました、「わたくしは存じません。これまで一度だって見たことはございません。わたくしとしたことが、アッラーの御前で嘘偽りを申しましょうか。」すると鬼神《イフリート》は言いました、「もしほんとうにきさまがこの男をまったく知らぬのなら、この剣をとって、こやつの首をはねてみろ。」そこで女は剣を受け取って、私のところに来て、私の面前に立ち止まりました。そのとき、私は怖れで黄色くなって、眉毛でもって拒む合図をしました(哀れと思ってくれるようにと)。そして私の涙は頬を伝わって流れました。すると女もまた私に目配せをしましたが、しかし声高く言いました、「私たちの禍いのもとはといえば、皆おまえです。」そこで私はまた眉毛でもって合図をし、舌でもって次の二重の意味のある詩を誦しました。(鬼神《イフリート》にはそれがよくわかりませんでした。)
[#ここから2字下げ]
わが目はよくきみに語りえて、わが舌は無用となれり。われはわが目のみにて、心に秘めし密事をきみに明かすなり。
きみが姿の現われしとき、われはやさしき涙を流せしが、口をつぐみてありき。わが目よく胸の焔をきみに語りたれば。
瞼しばたたけば、いっさいの想い表わる。聡《さと》き者にとりては、手指を用ゆるの用いささかもなし。
われらの眉毛は他のいっさいのもののかわりをなす。されば黙さん。ただ愛のみに言葉をあやつらしめん。
[#ここで字下げ終わり]
すると若い女には、私の合図も私の詩もわかって、そして鬼神《イフリート》の剣を両手から投げ出しました。すると鬼神《イフリート》は剣を拾って、それを私にさし出して言うのです、「この女の頭《こうべ》を斬れ、そうすればおれはきさまを放してやって、なんの害も加えはしないぞ。」そこで私は言いました、「承知しました。」そして私は剣を受け取り、勇気をふるって進み、腕をふりあげた。すると女は眉毛で合図をしながら、私に言いました、「わたくしはあなたの権利を犯したでしょうか。」すると、私の目は涙にあふれました。私は両手から剣を投げ棄てて、鬼神《イフリート》に言いました、「おお強大な鬼神《イフリート》よ、おおたくましい無敵の英雄よ、もしこの女があなたさまのお思いになるように、信仰と分別に乏しいものであったとしたら、私の首をはね落とすのを、法にかなうと思ったことでもございましょう。ところがそうはせず、剣そのもののほうを、遠く投げやったのでした。されば、どうして今度は、私がこの女の頭《こうべ》を斬ることを、法にかなうと思えましょうぞ、ことに私はこの女《ひと》を、今の今まで見たことがないのであってみれば。されば私としましては、たとえあなたさまが私に不幸な死の杯を飲ませることとなっても、そういう所業はいたされませぬ。」この辞《ことば》を聞くと、鬼神《イフリート》は叫びました、「ははあ、今こそよく見届けたぞ、きさまら二人のほれ合っていることを。」
そして、おおご主人さま、この悪魔めは剣をとり上げ、乙女の手を打ってこれを斬り落としました。それからもう一方の手を打って、同じくこれを斬り落とし、それから右足を斬り落とし、それから左足を斬り落とした。こうして四たび剣をふるって、四肢を斬り落としました。私はそれをこの目で見ていたのです。私は死ぬような気がいたしました。
このとき、その若い女はひそかに私をじっと見つめて、目配せしました。だが、ああ、鬼神《イフリート》はこの目配せを見つけてしまって、叫びました、「おお淫売の娘め、きさまは目でもって、姦通《まおとこ》をやりおったな。」そして剣でもってその首を打って、頭を斬り落としました。それから私のほうに向きなおって、言いました、「聞け、汝人間よ、われわれ妖霊《ジン》の掟では、姦婦を殺すことは許されており、のみならず法にかなった、りっぱなこととさえなっているのだ。聞け、この若い女をば、おれは婚礼の夜、まだこれが十二の歳にしかならず、どんなほかの男もいっしょに寝もしなければ、知りもしないうちに、さらって来たのだ。おれはこいつをここに連れて来て、十日に一度訪ねて夜をいっしょに過ごし、おれはペルシア人の風体《ふうてい》をして、こいつと交合《まじわ》っていた。だがこいつがおれを欺いていることを見届けるやいなや、おれはこいつを殺してしまった。もっともただ目だけで、きさまを見て目配せしたあの目で、おれを欺いただけだったがな。さて、きさまのほうは、きさまがこの女と密通し、いっしょになっておれを欺いたところを、おれが見届けたわけではないから、きさまは殺さないでやる。しかしやはり、きさまが蔭で笑えないように、何かひどい目にあわせて、きさまの高慢をへし折ってやりたい。だから、あらゆる禍いのうち、どれでもきさまの好きな種類を選ばせてやる。」
そこで私は、おおご主人さま、私は自分が死をのがれることになったので、悦びのかぎり悦びました。それに力を得て、私は許しにつけこむ気になりました。そして言いました、「あらゆる禍いのただ中で、何を選んでいいか、ほんとうにわかりません。どれもいやです。」すると鬼神《イフリート》はいらだって足で地をけり、叫びました、「選べと言うのだ。つまり、どういう姿に変えてもらいたいか選ぶのだ。ろばの姿がいいか。いやか。犬の姿か。らばの姿か。烏《からす》の姿か。さもなくば猿の姿か。」そこで私は相変わらずつけこみながら、答えました、それというのも、まったく許される望みを持っていたからです。「アッラーにかけて、おお強大な魔王《イブリース》の後裔、ジオルジロスご主人さま、もしあなたさまが私にお恵みをたれれば、アッラーもあなたさまにお恵みを垂れたもうことでしょう。あなたさまにけっして悪いことなどしなかった、善良な回教徒《ムスリム》に赦しを授ければ、アッラーもこれを満足におぼしめされるでしょうから。」こうして私は彼の両手のあいだに神妙に立ちながら、懇願のかぎり嘆願しつづけて、申しました、「あなたさまは私を罪もないのに罰するのです。」すると彼は答えました、「そんな繰り言はもういいかげんにしろ、さもないと殺してしまうぞ。おれの情けにつけこんでも駄目だ。おれはどうあっても、きさまを魔法にかけなければならんのだから。」
こう言って、彼は私を引っ抱え、円屋根と私たちの頭上の土を突き破り、私といっしょに空中に飛び上がり、今はもう大地がひと椀《わん》の水ぐらいにしか見えなくなるほど、高く上りました。するとある山の頂に降り、そこに私をおろしました。彼は手に土を少しばかり握り、「フム、フム、フム」とこんなふうにつぶやきながら、その上に何事かぶつぶつ言い、二言三言大きく唱えて、次にこう叫びながら、その土を私の上に投げかけました、「汝の今の形をいでて、猿の形になれ。」するとたちまち、おおご主人さま、私は一匹の猿になりました。しかもなんという猿でしょうか。少なくとも百年を経た、すこぶる醜い猿です。そこで私は、こんな様子の自分を見たとき、最初はいやでたまらず、とびはね始めました。ところが実際に、とびはねているのでした。次に、そうしたところが詮《せん》もないので、私は自分自身の身と、過ぎしわが身の上とに、涙を流し始めました。すると鬼神《イフリート》はものすごく笑って、それから姿を消しました。
そこで私は運命の苛酷を想い始めましたが、実際運命というものは、いささかも被造物のままにはならぬものであることを、身をもって知りました。
そうしたあとで、私は山の頂からまったく下のほうまで、転げ落ち始めました。そして夜は樹間に眠りつつ、旅を始め、それをひと月つづけてから、海の岸辺に着きました。そこに小一時間とどまっていると、とうとう海のまん中に一艘の船を見つけました。幸い風の吹きまわしで、その船は岸辺に、私のほうに、寄せられてくるのでした。そこで私は岩蔭に隠れて、待っていました。人々が岸に着いて、行ったり来たりしているのを見たとき、私は勇を鼓して、最後に船のまん中に跳りこみました。するとその中の一人が叫びました、「こんな縁起の悪い生物《もの》は早く追っ払ってしまえ。」もう一人は叫びます、「いや殺してしまおう。」三人目が叫びます、「そうだ、この剣で殺してしまおう。」そこで、私は泣き始め、脚でもって剣の端を押えました。そして、私の涙はとめどなく流れ出ました。
すると船長は私を憐れと思って、皆に言いました、「おお商人衆よ、この猿は今私に泣きつきました。私はその願いを聞き入れてやります。この猿は私が保護してやります。どなたもこれを捕えたり、追っ払ったり、いじめたりなさらぬよう。」次に船長は私を呼び、嬉しい親切な言葉を、いろいろ言い始めました。私には彼の言葉が皆わかったのです。それですから、船長は私を召使にし、私は彼のいっさいの用を足し、船で彼に仕えていました。
五十日のあいだ順風を受け、私たちはとある大きな都に上陸しました。そこは、アッラーのみがその数を数えることがおできになるほど、多くの住民が満ちあふれていました。
私たちが着くと、都の王さまにつかわされた数人の白人奴隷《ママリク》が、船のほうにやって来るのが見えました。彼らは近づいて、商人たちに歓迎の挨拶をしてから、言いました、「われらの王は、あなたがたのご安着に祝辞を寄せられ、そしてあなたがたに、この羊皮紙の巻き軸をお渡しするよう仰せられて、おのおのがたが達筆をふるってこれに一筆したためるように、とのお言葉でした。」
すると私は、相変わらず猿の風体をしていましたが、立ち上がって、やにわに彼らの手から、その羊皮紙の巻き軸を奪い取り、それを持って、少しばかり遠くに跳んで行きました。彼らは私がそれを破いて、海に投げ込んでしまわないかと心配しました。そして叫び声をあげて私を呼び、私を殺そうとしました。けれども私は彼らに合図をして、自分は書くことができるし、また書きたいのだということを、知らせました。
すると船長は、彼らに言いました、「あれに書かせてみてください。もしかあれがめちゃくちゃに書くようでしたら、すぐにやめさせるとしましょう。だが万一あれが実際にみごとな字が書けたとしたら、私はあれを自分の息子として扱いましょう。私はあれほど利発な猿を見たことがありませんからね。」
そこで私は蘆筆《カラム》を取り上げ、墨壺《すみつぼ》の印肉《にく》の上に押しあて、蘆筆の両面に十分に墨をふくませて、書き始めました。
こうして私は四連の即興詩を書きました、一々を異なる書体で、かつ異なった書式に従って、第一連は書翰《リカア》体で、第二連は大文字《リハニ》体で、第三連は碑銘《スールシ》体で、第四連はムーシク体に従って(19)。
[#ここから2字下げ]
(イ) 時はすでに、寛仁なる人々の善事と恩恵とを記録せり。されど時もついに、君のそれを枚挙し了する望みを断てり。
アッラーに次ぎて、人類はただ君に頼るのみ。君こそはまことにあらゆる善事の父なればなり。
(ロ) われは彼の筆のことを語らん。
彼の筆こそ、あらゆる筆の最初《はじめ》にして起原《おこり》なり。その威力は驚くべきものにして、彼が著名なる学者の列に加わりしもこれによるなり。
彼が五本の指先に保たれしこの筆よりして、雄弁と詩歌との五条の大河は世に流れたり。
(ハ) われは彼の不滅のことを語らん。
ものを書く者にして死せざるはなし。されど時は、彼の手に書かれしものを永遠に伝う。
されば、汝の筆をして、「報酬」の日に汝を誇らしめうるごときことどもをのみ、記《しる》さしめよ。
(ニ) 汝墨壺を開かば、贈与者の辞句、いつくしみの辞句を、記《しる》すためにのみ、筆をひたせよ。
されど、もし汝贈与を認《したた》むるためこれを用うるあたわずんば、せめて美のために筆をひたせよ。かくのごとくして汝は、最大の著述者のうちに数えらるる人々の列に加わらん。
[#ここで字下げ終わり]
書き終えたとき、私は彼らに羊皮紙の巻き軸をさし出しました。一同はこれを見て、このうえなく感嘆しました。それからめいめいが順ぐりに、一所懸命腕をふるって、一行を記《しる》しました。
それがすむと、奴隷たちは王さまのもとに巻き軸を届けに、立ち去りました。王さまは筆蹟全部をひとわたりご覧になったが、異なった四とおりの書き方で書かれた、この私の筆蹟以外に、御意にかないませんでした。筆蹟にかけては、私はまだ王子であったころ、全世界にその名が高かったものです。
そして王さまは、そこに居合わせたご友人たちと、ご自分の奴隷たちに、申されました、「一同このみごとな筆蹟の主《ぬし》のもとにおもむき、この誉れの衣を授けて着せ、そしてわが牝らば中もっともみごとなものにお乗せして、楽を奏し、盛大にご案内して、余のもとにお連れ申せ。」
このお言葉を聞いて、一同は苦笑し始めました。王さまはこれをお認めになって、いたくお腹立ちで叫ばれました、「何事じゃ。余が命を下すというのに、そちどもは余をわらうのか。」一同はお答えしました、「おお世紀の王よ、私どもはお言葉に笑うまいと、これ努めたのでございます。けれども申し上げねばなりませぬが、かくもみごとなこの筆蹟を書いた者は、アーダムの子(20)ではござりませぬ。あの船の船長の持ち物なる、一匹の猿でございます。」すると王さまは、この言葉にはなはだしくお驚きになりましたが、やがてご満足げに身を揺るがし、お悦びに身をふるわして、お叫びになった、「余はその猿を買い受けたいものじゃ。」そこで宮廷の者全部にお命じになって、牝らばと誉れの衣を携え、船に行って猿を迎えよと仰せられて、こうおっしゃいました、「そのほうどもぜひともその猿にこの誉れの衣を着せ、牝らばに乗せて、ここに連れてまいれ。」
そこで一同は船に来て、船長が初めは承知しなかったが、結局非常な高値で、私を譲り受けました。それから私は船長に、お別れするのはたいそう悲しいという合図をしました。人々は私を連れて行って、私に誉れの衣を着せてから、牝らばに乗せ、そして一同たえなる楽の音のうちに、この都を出発しました。都の住民と人間どもは、みなあっけにとられ、非常な興味をもって、この驚くべき、まったく他に類のない光景を眺め始めました。
王さまの御前に伴われてお姿を拝したとき、私は三たびくり返して、御手のあいだの床に接吻し、それからじっと身動きせずにいました。すると王さまは、私に腰をおろすようにおっしゃったが、私はひざまずきました。居合わせたものはみな、私のこのしつけのよさとりっぱな作法とに驚嘆しましたが、もっとも驚嘆されたのは、またも王さまでした。そして私がこうしてひざまずくとすぐに、王さまは皆の者に、その場を退出するようお命じになり、皆の者は退出いたしました。おおご主人さま、部屋には王さまと、宦官《かんがん》の長と、一人の若いお気に入りの奴隷と、それから私だけになったのです。
すると王さまは、食べ物を持って来るようお命じになりました。人々は卓布を持って来ましたが、その上には、人として願い望むことのできるかぎりのあらゆる料理と、まことに目の法楽ともなるあらゆる結構な品々が、載っていました。王さまは私に、食べよとのご合図をなされました。そこで私は立ち上がって、七たびくり返し別様に、御手のあいだの床に接吻し、極めて慇懃《いんぎん》に自分の猿の臀《しり》の上に坐り、そして昔の自分の教育を全部思い出しながら、食べ始めました。
卓布を下げたとき、私もまた手を洗いに立ち上がりました。手を洗ってから席にもどり、そして墨壺と蘆筆《カラム》と一葉の羊皮紙を取り上げ、わがアラビアの菓子類の優良さについて、次の二連をゆっくりとしたためました。
[#ここから2字下げ]
おお、甘くいみじく絶妙の菓子よ、指もてまるめられたる菓子よ、汝らこそはテリアカ剤、あらゆる毒を消しさるもの。菓子よ、汝らをほかにしては、われは他に何物も愛しえざるべし。汝らはわが唯一の希望《のぞみ》、わが情熱のすべてなり。
おお、見るも心おどるよ、広げられし卓布の中央《まなか》、大いなる皿には、バターと蜜とのなかに浮かびて、糸素麺《クナフア》の香るなり。
おお糸素麺《クナフア》よ、髪の毛ほどの細さになりて、食べたくもあるかな、楽しくもあるかな。おお糸素麺《クナフア》よ、汝に対するわが熱望、叫びたつるわが熱望は、極度の強さ。わが卓布の上に汝なくては、死ぬほどの思い、わが生の一日だにも過ごしえんや、おお糸素麺《クナフア》よ、やあ糸素麺《クナフア》よ。
また汝の汁《つゆ》、あがむべき甘美なる汁よ。よきかな、昼となく夜となく、われこれを食らい、われこれを飲まんとも、のちの世にてもなおこれを摂取せん。
[#ここで字下げ終わり]
こう書いてから、私は蘆筆《カラム》と紙葉を置き、立って、うやうやしく遠くに引き下がって、腰をおろしました。すると王さまは私の書いたものをご覧になり、お読みになり、いたく驚嘆なさって、お叫びになりました、「およそ猿が、かかる雄弁となかんずく、かくもみごとな筆蹟を持つということは、ありうることであろうか。アッラーにかけて、これぞ不思議中の不思議じゃ。」
このとき、王さまの御前に将棋が運ばれて来ましたが、王さまは合図で、私にお尋ねになりました、「将棋を指せるか。」私は頭で、申し上げました、「はい、できます。」そこで私は進み寄り、駒を並べて、王さまのお相手を始めました。そして二度にわたって、私が勝ちました。すると王さまは、もういったいどう考えてよいかおわかりになられず、ご分別は思い惑ってしまい、おっしゃいました、「もしこれがアーダムの子なりせば、おのが世紀のあらゆる生首をしのぐ者であったろうがのう。」
次に王さまは、宦官に申されました、「汝の若いご主人、わが娘のところに行って、『おおご主人さま、早く王さまのところにお越しになってくださいませ』と申し上げよ。余は娘にもこのありさまを楽しませ、この不思議な猿を見せたいのじゃ。」
そこで宦官は退出し、まもなく若いご主人、王さまのお姫さまとごいっしょに、もどってまいりましたが、姫君は私をごらんになると、急ぎ面衣《ヴエール》をもってお顔を隠して、おっしゃいました、「おお、お父上さま、どうしてわたくしをお召しになって、よそ人にわたくしを見せるなどというお心になられたのでございますか。」王さまは言われました、「おお娘よ、ここわがもとには、わしの若い奴隷、そこにいるその子供と、そちを育てた宦官と、この猿と、そちの父たるわしと、その他の者はおらぬぞよ。いったい何者のために、そちは面《おもて》をおおうのか。」若い姫君は答えました、「お聞きあそばせ、おお、お父上さま、この猿はある王のお世継ぎでございます。父王はエーマロスというお名前で、遠い奥地の一国の主《あるじ》でいられます。この猿はただ魔法にかけられているだけのことで、魔法にかけたのは、魔王《イブリース》の後裔、鬼神《イフリート》ジオルジロスでございます。鬼神《イフリート》は自分の妻、黒檀島の主アクナモスの娘を、殺したうえで、そうしたのでした。この猿を、父上さまはほんとうの猿と思っていらっしゃいますが、実は人間で、しかも博学多識、非常に賢い人間でございます。」
この言葉を聞いて、王さまは大いに驚かれ、私を見つめて、仰せられました、「ほんとうか、余の娘が汝について言うことは。」私は頭で「そうでございます、ほんとうでございます」とお答えして、涙を流し始めました。すると王さまは姫君にお尋ねになりました、「じゃがそちは、この者が魔法にかけられていることを見抜く術《すべ》を、いずこで覚えたのか。」姫君は答えました、「おお、お父上さま、わたくしがまだ幼いころ、お母さまのお手もとにいた老婆は、たいそう工夫に富み、また深く魔法に通じた、妖術師でございました。この老婆がわたくしに妖術を教えてくれたのでございます。その後、わたくしはいっそうその術《すべ》をみがいて、蘊奥《うんのう》を極め、こうしてほぼ百七十とおりの魔法を覚えました。その中でもっとも数ならぬ一つの術でも、石一つあまさずに、この御殿そっくりと、この都全部をば、コーカサスの山裏に移し、この国全体を一つの鏡のような海に変え、住民全部を魚にしてしまうことを、わたくしにできさせることでございましょう。」
すると父王はお叫びになりました、「そちの上なるアッラーの御名《みな》の真実《まこと》にかけて、おお娘よ、ではこの若者の魔法を解いてやるように。わしはこれを大臣《ワジール》に取り立てよう。さようか、そちにそのようなたいした才能があるとは、わしは知らなかった。おお、この者の魔法を解いてやって、すみやかにわしの大臣《ワジール》にさせてくれ。さだめし、好ましく才能あふるる若者に相違ないからのう。」
すると若い姫君はお答えになりました。「衷心から悦んで、当然の敬意として。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が近づくのを見て、つつましく話すのをやめた。
[#地付き]けれども第十四夜になると[#「けれども第十四夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、第二の托鉢僧《サアールク》は館《やかた》の女主人に、こう申したのでございます。
おおご主人さま、若い姫君はこうおっしゃって、手にひと振りの小刀をおとりになりました。その上には、ヘブライ語でいくつかの言葉が刻まれていました。そしてこの小刀でもって、御殿のまん中に、一つの円を描き、その円のまん中に、いくつかの固有名詞と数行の呪符《まじない》の文字を書きました。それからご自分がその円のまん中にはいって、口中で呪文を唱え、非常に古い書物をあけて、だれにもわからない事柄を読み上げ、こうしてしばらくつづけていられました。すると、今や私どものいた御殿の場所は、濃い闇に包まれ、私どもは世界が崩れて、生き埋めにされてしまったような思いがいたしました。すると突然、私どもの前に、鬼神《イフリート》ジオルジロスが現われ出ました、世にも怖ろしく、世にも醜い姿で、熊手のような手、帆柱のような足、二つの燃え上がる熾火《おきび》のような目をして。そこで私どもは皆、ふるえ上がってしまいました。けれども王の姫君は、これに言いました。「妾《わらわ》はけっして汝を歓び迎えはいたしませぬぞ。おお汝|鬼神《イフリート》よ。妾《わらわ》は汝を手厚くもてなしはいたしませぬぞ。」すると鬼神《イフリート》は言った、「おお不実者めが、よくも汝の誓いを裏切りおったな。おれたち二人は、双方他人のことにはかかずらわぬ、他人のことにはじゃま立てせぬと、汝も誓い、おれたちも互いに申し合わせたではないか。されば、おお裏切り者め、汝は汝を待つ運命を受けるが当然だ。思い知れ。」
そしてただちに、鬼神《イフリート》は恐ろしい獅子に変わって、大口を開いて、若い姫君に襲いかかった。すると姫君は、すばやくご自分の髪の毛をひと筋抜いて、唇に近づけ、その上に呪文をつぶやくと、すぐにその髪の毛は、鋭く研ぎ澄まされた、ひと振りの剣になりました。そこで姫君はその剣を握って、激しく獅子を撃ち、これをまっ二つに切り離した。しかしすぐさま、獅子の切られた頭はさそりになり、姫君の足もとにはいよって、踵《かかと》を噛もうとした。しかしすぐに姫君は、大きなうわばみとなって、鬼神《イフリート》の化身たる、この呪わしいさそりの上におどりかかり、ここに激しい戦いが始まった。ところが、さそりは突如|禿鷹《はげたか》に変じた。とみるまに、大蛇は鷲となって禿鷹を襲い、これを追いかけ始めた。いっとき追いかけて、まさにこれを捉えようとしたとき、突然禿鷹は黒猫に変じ、姫君もまたすぐ狼になった。そして御殿のまん中で、猫と狼は相撃ち、すさまじい激闘を交えたが、猫はあやうくなるや、またも身を変じて、一つの赤い、非常に大きな大ざくろとなった。そしてこのざくろは、中庭にあった泉水の底に転げこんだが、しかし狼は泉水の中に飛びこみ、そしてまさにこれをつかまえようとすると、そのとき、ざくろは空中に舞い上がった。けれどもあまりに大きかったので、それは大理石の上にずしんと落ちて、割れてしまった。すると実の粒が全部ばらばらに砕け散って、中庭の土一面にひろがった。すると、狼は雄鶏になって、くちばしでざくろの実をついばみ、一粒一粒呑み始め、そして今はただ一粒だけになって、それをも鶏が呑みこもうとしたとき、突然その粒は、鶏のくちばしから落ちてしまいました。なぜなら、宿命と天運がそう望んだのでした。そしてその粒は、泉水のわきの隙間に転がりこみ、鶏には、もうどこに行ったのかわからなくなった。そのとき鶏は、声を立て羽ばたきをし、私どもにくちばしで合図をし始めたのだが、私どもにはその言葉も、また何を言っているのかも、いっこうにわからなかった。すると鶏は、わけのわからぬ私どものほうに、世にも恐ろしい叫び声をひと声揚げ、私どもは、御殿が自分たちの上に崩れ落ちたような気がしたほどでした。それから、鶏は庭のまん中をぐるぐる回って、その粒を探し始め、とうとうそれを泉水の穴の中に見つけて、おどりかかって、これをついばもうとしたとき、たちまちその粒は、泉水のまん中の水中に落ち、魚と変じて、水中深く沈んだ。すると鶏はすさまじい大鯨に変じて、水中におどりこみ、魚を追って深く沈み、いっときのあいだ、私どもの目から姿を消した。いっときたつと、甲高い叫びがあがって来て、私どもは恐ろしさに震え上がりました。するとすぐに、例の鬼神《イフリート》が鬼神の醜い姿をして、現われて来るのが見えたが、彼は燃えさかる炭のように、全身火に包まれ、その口からは焔を吐き、両眼と鼻の孔からは、焔と煙が出ていました。そしてそのうしろには、若い姫君が、王の姫君のお姿で現われたが、姫も熔けた金属のように、全身火に包まれておられ、そして姫は鬼神《イフリート》を追いかけ始めたが、鬼神《イフリート》はすでに、われわれの頭上に襲いかかろうとしているところであった。そこでわれわれは皆、生きながら身を焼かれるか、命を失うかと、こわくてたまらず、一同あわてふためいて水中に飛びこもうとしたのですが、そのとき鬼神《イフリート》は、やにわに、ものすごい叫びをあげて、われわれの足をとどめ、庭に臨む広間のまん中にいる、われわれの上に飛びかかって来て、われわれの顔の上に火を吹きかけたのです。けれども、姫君もまたこれに追いついて、その顔に火を吹きかけました。こういう次第で、火は姫君と鬼神《イフリート》と両方から来て、私どもにも及んだのでしたが、姫君の火のほうはなんの害もないけれど、鬼神《イフリート》の火のほうはそうはゆきませぬ。こうして、一つの火花が私のところに、猿の左の目に飛んで来て、これを永久につぶしてしまいました。また一つの火花は、王さまのお顔に飛び、お顔の下半全部、おひげとお口もいっしょに焼いて、下歯を一本残らず落としてしまいました。また一つの火花は、宦官の胸に飛び、彼は全身に火がついて燃え上がり、そのまま即刻即座に、死んでしまったのでありました。
このあいだ、姫君はずっと鬼神《イフリート》を追いつづけ、これに火を吹きかけられました。ところが突然、こう言っている声が聞こえました、「アッラーこそは唯一の偉大者。アッラーこそは唯一の権力者。そは人間の主、ムハンマド(21)の信仰を拒む背教者を、撃砕し、制圧し、抛棄したもう。」ところで、この声は王女のお声で、姫君はお指で私どもに合図をなされて、すっかり焼きつくされ、一塊の灰となってしまった鬼神《イフリート》を、お示しになりました。それから私どものところにいらっして、申されました、「早く、水を一杯持って来てください。」すぐに持ってまいりました。すると姫君は、その上に何やらわけのわからぬ言葉を唱えなすって、それからその水を私に振りかけて、申されました、「唯一の『真なる者』の御名《みな》において、またその真理《まこと》によって、解き放たれよ。全能のアッラーの御名の真理《まこと》によって、汝の最初の姿に還《かえ》れ。」
すると私は、以前のように人間になりましたが、しかし、依然として眇目《すがめ》でした。若い姫君は慰めるように、私におっしゃいました、「お気の毒です、火はやはり火に還りました。」そして同じことを、おひげを焼かれ、お歯をなくされた父王にも、申されました。それからおっしゃるには、「わたくしはと申せば、おお、お父上さま、わたくしはぜひなく、死なねばなりませぬ、この死は私に記されていたのでございますから。鬼神《イフリート》のほうはと申しますと、これがただの人間でございましたら、なにも退治するのに、こんなにまで骨を折らなかったでございましょう。最初にすぐ退治してしまったでございましょう。けれども、わたくしを困らせ、骨を折らせたのは、ざくろの実が飛び散ったことでございます。最初ついばむことができなかった粒が、ちょうど肝腎の粒で、ただこれだけに、魔神《ジンニー》の魂がはいっていたからでした。ああ、もしこれを、この粒を、つかまえることができましたら、あの鬼神《イフリート》も即座に滅ぼされてしまったものを。けれども悲しいことに、これが見つかりませんでした。なぜなら、それが天運の定めでございました。そういうわけで、わたくしは地の中、空の中、水の中で、あれほど、死闘をしなければならないことになりました。そして鬼神《イフリート》が救いの戸を開くごとに、私は滅びの戸を開いてやり、とうとう最後に、鬼神《イフリート》は恐ろしい火の戸を開いてしまったのでした。ところで、ひとたび火の戸が開かれたら、もう死なねばならないのでございます。さりながら、天運はそれにもかかわらず、わたくし自身が焼かれてしまう前に、鬼神《イフリート》を焼くことを、わたくしに許してくれました。ですけれど、これを殺す前に、わたくしは鬼神《イフリート》に、イスラムの神聖な宗教である、わたくしどもの信仰を抱く決心を、定めさせてやりたいと存じました。けれども彼は拒み、そこでわたくしはこれを焼いてしまいました。そして今度は、いよいよわたくしが死のうとしております。今後は、アッラーが、皆さまがたのもとでわたくしにかわって、皆さまを慰めてくださるでございましょう。」
こう言って、姫君は火を念じ始めると、ついに黒い火花がほとばしり出て、お胸とお顔のほうに昇ってまいりました。そして火がお顔に届いたとき、姫君は涙をお流しになって、次におっしゃいました、「アッラーのほかに神なきことを、われは証す。またムハンマドはアッラーの使徒たることを、われは証す。」
この言葉が発せられたかと思うと、私どもは姫君が、鬼神《イフリート》の灰の塊のすぐかたわらに、一塊の灰となられてしまったのを見ました。そこで私どもは姫君のために悲しみ、嘆きました。私としましては、あの昔の光り輝くお姿、私にこれほどの大恩を施してくだすった若い姫君を、一塊の灰の姿で拝するくらいならば、むしろ、この私がおかわり申すことができたらと、願った次第でございました。けれども、アッラーのご命令には、何事もお言葉を返すわけにまいりませぬ。
王さまは、姫君が一塊の灰となられたのをご覧になると、残りのおひげを引きむしり、われとわが頬を打ち、お召し物をお裂きになりました。私もまた同様にいたしました。そして私たち両人は、姫君をいたんで泣きました。それから、侍従や役所の長《おさ》たちがやって来てみると、帝王《スルターン》は、二塊の灰のかたわらに坐って、涙を流し、呆然としていられるのを、お見受け申しました。彼らはたいへん驚いて、王さまに言葉をかけることもならず、御身のまわりを回り始め、ひと時のあいだ、ただそうしておりました。すると王さまは少しく正気にもどられ、そして彼らに、姫君と鬼神《イフリート》とのあいだに起こったことを、お話しになりました。皆は叫びました、「アッラー、アッラー、なんという大きなご不幸でしょう、なんという禍いでございましょう。」
それから御殿の婦人という婦人は残らず、それぞれ女奴隷を連れて来て、まる七日のあいだ、哀悼と喪のいっさいの儀式をとり行ないました。
次に王は、姫君のご遺灰のために、大きな円屋根のお墓の建立《こんりゆう》をお命じになり、大至急|竣功《しゆんこう》させられ、そこに日夜ろうそくと灯明をとぼさせなさいました。鬼神《イフリート》の灰のほうは、アッラーの呪詛のもとに、空中にまき散らしました。
しかし、帝王《スルターン》はこうしたいっさいのご心労のあとで、危うくおかくれになろうというほどの、病気をなされました。このご病気はまるひと月にわたりました。そしてお力が少しもどったとき、私をお召しになって、おっしゃいました、「おお若者よ、汝が来る前は、ここにいたわれらは皆、運命の悪戯《いたずら》にもてあそばるることなく、何一つ欠くるなき幸福のうちに、暮らしておった。われらにいっさいの悲嘆を招来するには、汝の到着とみごとな筆蹟とを要したのじゃ。われらにして、かつて汝を見ず、汝も、汝の凶兆の面《おもて》も、汝の禍いの筆蹟も、かつて見ることなかりせばやと思わるる次第じゃ。なんとなれば、第一に、汝はわが娘の破滅の基であった。娘は確かに百人の兵にもまさるものであった。また第二には、汝のゆえに、余が身に汝の知るごとき火傷《やけど》が起こり、歯を失い、残りの歯もこぼたれた。また第三には、余の憐れなる宦官、余の娘を育てし申し分なき従者もまた、殺害された。さあれ、こは汝の所為《せい》にあらず、今となって、汝の手はこれをいかんとも救いえぬ。このいっさいは、アッラーの命により、われら一同と汝との身に起こったのじゃ。かつは、身みずからを滅ぼして、汝を解き放すことを、わが娘に許したまえるアッラーは、たたえらるべきかな。こは天運じゃ。さればわが子よ、この国よりいでよ。なんとなれば、すでに汝のゆえにわれらに起こったことのみで、今はもう十分じゃ。さればいでて、安らかに行け。」
そこで私は、おおご主人さま、私はもうわが身も末と思いつつ、王のもとを出ました。だがどこに行ったものかわかりませんでした。私は心の中で、わが身に起こったことどもを一部始終、思い起こしました。どういうふうに、砂漠の強盗からつつがなく逃がれたか、それからひと月間の旅と疲れ、異国の都への到着、仕立屋との出会い、地下の乙女との出会いとあれほど楽しかった睦《むつ》み、最初私をなぶり殺しにしようとした鬼神《イフリート》の手からのがれ出た顛末、要するに、私が猿に変わって船の船長の召使になったことも、みごとな筆蹟のために、王さまに非常な大金で買い受けられたことも、魔法を解かれたことも含めて、全部の一部始終を想い起こしましたが、さらにはことに、あわれや、私の片目を失わせた最後の出来事を思ったのでした。けれども私は、「一命を失うよりは片目を失うほうがましだ」と言って、アッラーに謝したことでした。そのあとで、都を立ち去る前に、私は浴場《ハンマーム》に風呂を使いに行きました。かしこで、おおご主人さま、私はこうして托鉢僧《サアールク》の身装《みなり》で安全に旅行ができるようにと思って、ひげを落としたのでありました。そして爾来、私は日ごと泣かぬ日とてなく、自分の受けてきたあらゆる不幸を、またことに私の左目を失ったことを、思わぬ日とてございません。これを思うごとに、涙が右眼にあふれて来て、見る妨げとなるのですが、しかし涙もけっして、次の詩人の句を思う妨げとなるおりはないでございましょう。
[#ここから2字下げ]
われの困苦を、慈悲ふかきアッラー、知りたまえるや。数々の不幸にわれは襲われ、しかも不幸を感ずることのあまりに遅かりき。
さあれわれは、堪えがたき禍いに直面しつつなおも耐え忍び、忍耐そのものよりもさらに苦きことにも耐えたりと、世の人に知らさん。
なんとなれば、忍耐にもその美あり、ことに敬虔なる人によってなされしときには。さもあらばあれ、アッラーがその万物の上に定めたまいしことは成されざるべからず。
〔わが神秘なる恋人は、われの臥床《ふしど》のあらゆる秘密を識るものなり。いかなる秘密も、秘密のなかの秘密たりとも、彼女に隠されてあるものなからん。〕
この世に歓楽ありと言う者にいたっては、これに答えよ、没薬《もつやく》の汁よりもなお苦き幾日を、やがて味わうことあらんと。
[#ここで字下げ終わり]
そこで私は発足し、その都を去り、国々を旅し、都々をよぎり、「信徒の長《おさ》」のみもとに至り、わが身に起こりしいっさいを申し上げばやと存じて、「平安の住家」バグダードに向かったのでした。
長い月日ののち、あたかも今宵、私はようやくバグダードに着きました。そしてこの兄弟、第一の托鉢僧《サアールク》のかたにお会いしましたが、このかたも非常にお困りの様子でした。私は申しました、「おんみの上に平安あれ。」すると答えられました、「またおんみの上にも平安あれ。アッラーのご慈悲あれ、そのいっさいの祝福あれ。」そこでごいっしょに話を始めていると、そこにわれらの兄弟、この第三の托鉢僧《サアールク》が近づいて来られて、平安の挨拶ののち、ご自分は異国の者であるとおっしゃったのでした。私どもは申しました、「私どももやはり二人の異国の者で、あたかも今宵、この祝福された都に着いたのです。」それから、三人でいっしょに歩いて行ったのですが、私どもは一人として、他のかたの身の上を存じあげぬのでした。そして運命と天運が私どもをこの戸の前に導き、私どもはお宅にはいったのでありました。
おおご主人さま、これが、私のひげを落としたことと、片目のつぶれたこととの動機《いわれ》でございます。
すると家の若い女主人は、この第二の托鉢僧《サアールク》に申しました、「あなたのお身の上はまことに並みはずれたものでございます。されば、アッラーにかけて、あなたの頭上のお髪《ぐし》を少しなでつけ、立ち去ってアッラーの道に、あなたの道の様子をご覧なさいまし。」
けれども彼は答えました、「まったくのところ、私はこの第三のお仲間のお話をうけたまわらぬうちは、ここをば出でぬでございましょう。」
すると第三の托鉢僧《サアールク》が進み出て、申しました。
第三の托鉢僧の物語
おお、栄えに満てる貴婦人よ、私の身の上話も、この同行のおふたかたのお話と、同じくらいの不思議さであろうなどとは、お思いくださるな。と申すのは、私の話は、さらに限りなく驚くべきものなのでございますから。
同行のこのおふたかたにとっては、不幸は単に天運と宿命とによって、身に科せられたのでありまするが、この私の場合は、それとは事変わります。私がひげをそり落とし、片目をつぶした動機《いわれ》は、すなわち私みずから、おのがあやまちからして、われとわが身に宿命を招き寄せ、憂いと悲しみをもて、わが肝を満たしたのでございます。
その次第はこうです。私は王の世継ぎとしての、王であります。父はカシブと呼ばれ、私はその子でございます。父王が亡くなったとき、私は領国を継いで、政《まつりごと》を行ない、正しく治め、臣下に幾多の善事を施しました。
ところで、私は海の旅行というものに、非常な愛好を持っておりました。そして私はこれに不自由いたしませんでした。それというのは、私の都は海辺にあったからです。そしてきわめて広大な海上に、私は自分の所領の島々を持っていて、それらは防備《まもり》と戦《いくさ》に備えて、砦《とりで》が築かれてありました。さてある日、私は自分の島々を全部訪ねてみたいと思い立って、そこで十艘の巨船を準備させ、ひと月分の食糧を用意させて、出帆したのでありました。その視察旅行が二十日間つづきますというと、そのとき、夜々の中のある夜のこと、われわれの行く手に、逆風が荒れ狂い、それが明け方までつづきました。さて明け方になって、風もいささか鎮まり、海もふたたび穏やかになりますと、昇る陽の光に、私どもは一つの小島を認め、そこにしばらくとどまることができました。そこで私どもは上陸して、多少の料理を作って食べ、暴風雨のやむのを待って、二日間休息して、それからふたたび出帆いたしました。旅はさらに二十日つづきますと、ある日とうとう私どもは、航路を失ってしまいました。航海している水は、今や私どもにもまた船長にも、見知らぬものとなったのでした。というのは、実際のところ船長は、もう全然この海に見覚えがないというのです。そこで、私どもは見張りの者に言いつけました、「よく気をつけて海を見てみよ。」すると見張りの者は帆柱に上って、それからおりて来て、私どもに言い、また船長に言いました、「右手に当たって、水の面《おもて》にたくさんの魚が見えました。また海のまん中に、遠くのほうに、何かしら、ときには黒く、ときには白く、見えるものが認められました。」
この見張りの者の言葉を聞くと、船長はその顔色がすっかり変わりました。彼はターバンを床に投げつけ、ひげをかきむしって、われわれ一同に言いました、「お知らせ申します、私ども一同はもうこれまでです。ただの一人も、つつがなく逃がれることはありますまい。」それから船長は泣き始め、私どももまた泣き始めました。それから、私は船長に尋ねました、「おお船長よ、見張り番の言葉をわれわれに説き明かしてくれ。」彼は答えました、「おおわが君、さればでございます。逆風が吹いた日から、私どもは進路を失い、こうしてすでに十一日というもの、進路を失っているのでございます。そしてもはやいかなる順風とても、私どもを安全な途にもどしてくれることなどできませぬ。ところで、その黒くあるいは白く見える物と、付近に浮かんでいる魚との意味は、こうでございます。あすになると、私どもは『磁石の山』と呼ばれる、黒い岩の山に着くことでございましょう。そうして潮はいやおうなく、私どもをその山のほうに引っぱって行って、やがて私どもの船は、みじんに粉砕されてしまうでしょう。なぜかと申しますると、船の釘という釘は残らず、磁石の山に引き寄せられて飛び去り、山の腹に吸いついてしまうのです。というのは、至高のアッラーはこの磁石の山にひそかな効験《ちから》を授けたまい、こうしてこの山は、およそ鉄でできているあらゆるものを、皆自分のほうに引きつけてしまうからでございます。されば、数々の船が、いやおうなくこれに引きつけられてからこのかた、この山に垂れ下がって、積み重ねられている、鉄でできた品々の莫大な分量《たか》といったら、とうていご想像も及ばぬものがございます。ただアッラーのみが、その分量をご存じです。かつまた、この山の頂には、十本の円柱に支えられた、黄銅の円屋根が輝いているのが、海から見えまするが、この円屋根の上には、銅の馬に乗った、一人の騎手がおります。この騎手の手には、ひと振りの銅の槍があり、そしてこの騎手の胸の上には、一面にわからぬ呪文の名前が刻まれている鉛の板が、かかっているのです。ところで、おお王さま、お聞きください。この騎手がこの馬上にあるかぎりは、下を通る船という船は、ことごとくみじんに粉砕され、乗組員は永久に亡び、船の鉄具《かなぐ》という鉄具は、ことごとくみな、山に吸いついてしまうでありましょう。されば、この騎手がこの馬から突き落とされてしまわぬうちは、救いの望みは絶対にござりませぬ。」
この言葉を申して、おおご主人さま、船長はおびただしい涙を流して泣き始め、そして私どもも、今は頼むすべなく亡びることがしかとわかり、おのおの自分の友人に、最後の別れを告げました。
はたして、翌朝になったと思うと、私どもはこの磁石の黒い岩でできた山のすぐかたわらにいて、潮はいやおうなく、私どもをそちらのほうに引き寄せるのでした。そして、われわれの十艘の船が山の下に着くと、一時に船の釘はあらゆる鉄具と共に、幾千となく飛び去り始め、そして山に吸いついてしまいました。そしてどの船もばらばらにこわれて、私どもは全部海に投げ出されてしまいました。
そこで私どもは一日じゅう、波のまにまにもてあそばれ、ある者はおぼれ、ある者は助かりましたが、大多数は水におぼれてしまいました。そして助かった者といっても、その後二度とお互いに相知ることも、相見ることもできませんでした。というのは、恐ろしい激浪と逆風が、皆の者を八方に、ちりぢりにしてしまったからでした。
私はというと、おおご主人さま、至高のアッラーは、その後にさらに他のくさぐさの苦しみと、大いなる悩みと、大いなる不幸をば、私に定めたもうて、わが身をお助けくだされたのでありました。私は板片《いたきれ》の中の一枚の板片にすがりつくことができ、そして浪と風とは、私を浜辺に、その磁石の山のふもとに、打ち上げたのでした。
すると私は、岩の中に刻まれた階段のような形に作られた、山の頂上に通じる道を見つけました。そこですぐさま、私は至高のアッラーの御名《みな》を念じ、そして……
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が輝くのを見て、つつましく、自分の物語をやめた。
[#地付き]そして第十五夜になると[#「そして第十五夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、第三の托鉢僧《サアールク》は、他の連れの仲間たちが、抜き身の剣を手にした、七人の黒人に見張られつつ、腕を組んで坐っているあいだ、その館《やかた》の女主人《あるじ》に向かって、次のように話をつづけたのでございます。
されば私はアッラーの御名《みな》を念じ、そしてそのご加護を祈って、祈祷の三昧境に入りました。それから、できるだけ岩角とくぼみにすがって、おりから風もアッラーの命によって、ようやく鎮まったので、首尾よくこの山上に登ることができました。私は自分の救われたことを、悦びの限りに、いたく悦びました。そして今は円屋根に達するだけとなり、ついにそこにも達して、その中にはいることができました。そこで私は平伏して、わが身を救いたもうたことを、アッラーに謝しました。
そのとき、私はもう疲労に打ちひしがれていたので、そのまま地にころがって、眠ってしまいました。すると眠っているあいだに、私に次のように告げる声が、聞こえたのでした。「おおカシブの子よ、汝の眠りより目覚めたるとき、汝の足下を掘れ。しからば一張の銅の弓と、呪文の刻まれたる、三筋の鉛の矢とを見いだすべし。汝この弓をとり、これをもて、円屋根の上なる騎手を射ち、かくして、人類をこの恐るべき災害より放ちて、これに平穏を与うべし。汝騎手を射たば、この騎手は海中に落ち、弓は汝が手より地上に落つべし。しからば汝はその弓を拾いて、そを落ちしそのところの地中に埋めよ。この間《かん》、海はわき始め、次いで汝のあるこの山頂に達するまでに、あふれ始むべし。そのとき、海上に、一隻の片舟《へんしゆう》現われ、その舟に一人の人間を見ん。されどそは、海に投じられし騎手とは別人なり。その者は、手に一挺の櫂《かい》をたずさえて、汝がもとに来るべし。しからば、汝怖るることなく、その者と共に、その舟に乗れ。されど心して、アッラーの聖なる御名を唱うることなかれ、くれぐれも心せよ。唱うべからず、いかなることありとても、唱うるなかれ。ひとたび舟に乗らば、その者は汝を導き、十日にわたり汝を船旅せしめて、ついに汝を『救いの海』に至らしむべし。この海に至らば、そこに何ぴとかありて、汝を故国にまで、行き着かしむべし。されど、忘るるなかれ、このいっさいは、汝として、断じてアッラーの御名を唱えざる条件のもとにのみ、なさるべきものなり。」
このとき、おおご主人さま、私は自分の眠りから目覚めました。そして勇気にみちみちて、ただちに、この声の命令の実行に取りかかりました。私は見つけた弓と矢をもって、騎手を射ち、これを落とした。騎手は海に落ちた。すると弓も私の手から落ちた。そこで、ちょうどその場所にこれを埋めました。するとただちに、海は立ち騒ぎ、わき上がり、あふれ出して、私のいる山の頂まで達しました。そして数瞬たつと、海のまん中に、私のほうに向かってくる一艘の小舟が、現われるのが見えました。そこで私は、至高のアッラーに謝しました。やがてその小舟が間近に来たとき、見ると、そこには一人の銅の男がいて、その男は胸の上に、いろいろの名前と呪文の刻まれている、一枚の鉛の板を下げていました。そこで私は舟に乗ったが、ただのひとことも言い出しませんでした。そして銅の男は、一日、二日、三日と私を導き始め、かくして十日目の終りになりました。するとはるかに、島々が現われるのが見えました。これぞ救いだ。私は悦びのかぎり悦び、そして感激と至高者に対する感謝の念とに満ちあふれたがために、ここにアッラーの御名を唱え、これを讃えて申しました、「アッラーフ・アクバル(22)。アッラーフ・アクバル。」
ところが、私がこの神聖な言葉を発したと思うと、銅の男はいきなり私をつかまえて、舟から海中に投げこみ、そして自分は海底はるかに沈んで、姿を消してしまいました。
私は泳ぐことができたので、泳ぎだし、まる一日をたって夜になるまで、腕は力尽き、肩は疲れ、そしてもうぼんやりするまで泳ぎました。このとき、死が近づくのを見て、私は信仰証言《シヤハーダ》(23)を唱え、死の覚悟をいたしました。ところがそのせつな、海中のあらゆる浪よりも、ひときわ大きな一つの大浪が、巨大な城砦《とりで》のごとく、はるかから押し寄せて来て、私をさらい、たいへんな勢いで、はるか彼方に私を投げ出しましたので、気がついたときには、私は一挙に、さっき見た島々の一つの、浜辺にいたのでした。アッラーはかくあれと望みたもうたのでございました。
そこで私は浜辺に上り、衣類の水をしぼり始め、そしてこれを干すために衣類を地上に広げて、それからひと晩じゅう眠りました。目が覚めると、まず乾いた衣類を着て、それから、立ち上がって、さてどこへ足を向けたものかと見まわした。すると自分の前に、肥沃な小さな谷間を見つけたので、そこに分け入って縦横に歩き回り、それから自分のいる場所をぐるりと一周してみると、海に取り巻かれてはいるが、ともかくも小さな島にいることが、わかりました。そこで私は魂の中で言いました、「なんという災いか。私は一つの不幸から逃がれるごとに、さらに悪い新たな不幸に陥るのだ。」
こうして悲しい想いに沈んで、今はせつに死を望ませられているときに、ふと海上に、人々を載せた一艘の舟が近づくのを認めました。そこで、またもやいまわしい出来事が身に降りかかって来ることを恐れて、私は立ち上がり、一本の木の上に登って、じっと見ながら、待っていました。やがてその舟は陸に着いて、そしてそこから十人の奴隷が、手に手に鋤《すき》を持って、出てくるのが見えました。彼らはこの小島のまん中に来るまで歩いて、そしてそこで地を掘り始め、ついに一つの上げぶたを掘り出して、それを持ち上げ、その下にある一枚の戸を開きました。そうしたうえで、ふたたび舟のほうに取って返して、そこからたくさんの品々を取り出しては、それぞれ肩に載せて運ぶのでした。パンだの、麦粉だの、蜜だの、バターだの、羊だの、口を締めた袋だの、そのほかたくさんの品物だので、およそ一家をかまえる人の望みうるあらゆる品々でした。そして奴隷たちは、地下室の戸口から舟へ、舟から上げぶたへと、いくたびも往復しつづけて、ついには舟の中のおもな品々を、残らず取り出してしまいました。それがすむと、今度は数々の豪奢な着物とすばらしい衣類を持ち出して、それを腕に載せて来るのでした。そしてそのとき、奴隷たちのまん中に、一人の非常に年をとった、歳月に老いさらばい、時の移り変わりにやせ衰え、今はただ形ばかりの人間というほどまでになった、一人の気品高い老人が、舟から出て来るのが見えました。この長老《シヤイクー》は、一人のうっとりとするほど美しい、年若い男の子の手をひいておりました。まことに、完全の鋳型にはめて作られたと言うべく、柔らかく、しなやかなるひと枝、完全無欠の身体の典型、深く人を魅了し去る魅惑を備えた、男の子でございまして、たちまち私の心中に魅力を投じ、私の全身の髄をおののかせたのでありました。
一行は戸のところに着くまで歩いて、そして下におりて行って、私の目から隠れてしまいました。けれども、しばらくたつと、一同はその若い男の子を除いて、全部ふたたび地上に出て来ました。彼らは舟のほうにもどって、舟に乗り、そして海上を遠ざかってしまいました。
一行の姿がまったく見えなくなったとき、私は立ち上がって木を降り、そして彼らがもとのとおり土をかぶせて行った場所のほうに、駆け寄りました。そして改めて土をどけ始め、力をふるって、とうとう上げぶたを掘り出しました。その上げぶたは、水車場の挽き臼ぐらいの大きさの木でできていたのでしたが、それにもかかわらず、私はアッラーのお助けを得て、これを持ち上げてしまいました。するとその下には、穹窿《きゆうりゆう》形の階段が見えた。私は非常に思いまどいましたが、ともかくもこの石の階段を降りて、ついに下まで降り着きました。下には、非常に高価な絨毯《じゆうたん》と絹やびろうどの織り物を敷きめぐらした、広い一室があり、そして、低い長椅子《デイワーン》の上に、火のついた数々のろうそくとか、花のあふれた花瓶とか、果物の満ちた壺とか、菓子の満ちた壺などのあいだに、先ほどの少年が腰をおろして、うちわで風を入れておりました。
私を見ると、その少年は非常な怖れに襲われましたが、私はできるだけ声を和らげて、これに申しました、「平安おんみの上にあれ。」すると少年は安心して、答えました、「またおんみの上にも平安と、アッラーの御恵みと、祝福とあれ。」そこで、私は言いました、「おおわが殿よ、何とぞおんみの心中にご安堵がありますように。かかる姿こそいたしておりますが、私は王の子息に生まれ、かつ私みずからも、王の身でございます。お見受け申せば、人々はおんみをこの地下の場所に降《くだ》らせて、おんみをば死に至らしめんとしているようですが、アッラーは、私をしてこの場所よりおんみを救い出さしめんがために、私をおんみのほうへ導きたもうたのであります。私はおんみを救いにまいりました。そしておんみはわが友となっていただきたい。なぜならば、おんみの姿をひと目見たばかりで、すでにわが分別は奪われてしまったのでございます。」
するとその少年は、私の言葉を聞いて、口もとに微笑を浮かべてほほえみ、まず私に自分のかたわらに来て長椅子《デイワーン》に坐るように誘って、そして言いました。「やあ殿《シデイ》よ、私はけっして死ぬためにこの場所に来たのではありません。かえって死を避けるためにまいったのです。実は私は、その富とそのおびただしい財宝をもって、全世界に知られている、さる大宝石商の息子でございます。父の評判は、父が地上の王侯貴族に、宝石類を売りに遠く派す隊商によって、あらゆる国々に広まりました。晩年に及んで私が生まれたとき、父は占いの大家たちから、この子は父母に先立って死ぬことになろうと、知らせられました。そこで父はその日、私の誕生の悦びと、アッラーのおぼしめしによって、九カ月の月満ちて私を世に生んだ母の歓喜とにもかかわらず、ひとかたならぬ悲しみに陥ったのでした。ことに、星辰のうちに私の運命を読んだ学者たちが、父に次のように申したときは、悲しみもひとしおでございました。『このご子息は、ある王、カシブという名の、王の世継ぎによって殺されるであろう。そしてそれは、その王が磁石の山の銅の騎手を海中に投じたのち、四十日目のことであろう。』そこで宝石商の私の父は、はなはだ心痛いたしました。けれども父は私を手塩にかけて、私が年齢十五歳に達するまで、非常に注意して育て上げてくださいました。するとこのとき、父はその騎手が海中に投じられたということを聞き知り、そこで父は、母とともども泣き始め、痛く悲しみ始めて、顔色も変わり、からだもやせ、歳月と不幸とに老いさらぼうた、非常な老人のようなありさまになってしまったほどでした。そこでこのとき父は、銅の騎手を倒してのち、私を十五歳のおりに殺すはずの王の探索を逃がれさせようとて、かねて私の誕生以来、人々を使って準備させておいたこの島の、この地下の住居に、私を連れて来たのでございました。父も私もこうすれば、いかにカシブの息子とても、よもやこんな人知れぬ島の中まで、私を探しに来ることはできまいと思ったのでした。私がこの場所に滞在している理由は、こういう次第でございます。」
そのとき、私はこの愛らしい少年の言葉を聞いて、心の中で考えました、「その星辰を読む連中とかは、よくもまあ、これほどまでにまちがえられたものだ。なぜといって、アッラーにかけて、この年若い少年こそは、私の心の焔だ。この児を殺すくらいなら、私はまず自分自身を殺さなければならない。」それから、私は彼に言いました、「おおわが児よ、全能のアッラーは、よもや、おんみのごとき花の断ち切らるることを望みたまわぬことでしょう。私はここにあっておんみを守り、そして終生おんみと共におりましょう。」すると彼は答えました、「父は四十日目の末に、改めて私を連れに来るでしょう。そのときがすめば、もう危険はありませんから。」そこで私は言いました、「アッラーにかけて、わが児よ、では私はその四十日のあいだ、おんみと共におりましょう。そしてそれが過ぎたら、私はお父上に申し上げて、おんみをわが王国によこしていただき、おんみをわが友として、わが王座の後継ぎといたしましょう。」
するとその宝石商の息子の少年は、優しい言葉をもって、私に感謝いたしましたが、私はどれほどこの子が礼節欠くるところなく、またどれほど彼は私に対し、私は彼に対して、愛慕の心を抱いているかがわかりました。そこで私たちは打ちとけて話し始め、彼の貯えの、あらゆる結構な品々を食べ始めました。それは一年のあいだ、百人の客を招くに足るほどでありました。
さて食べ終わってのち、私は自分の心が、この少年の魅力にどれほど心を奪われているか、いよいよ確かにわかりました。そこで私たちは横になって、一晩じゅう寝ました。
朝が近づくと、私は目が覚めたので起き上がり、そして少年に、香水を満たした銅のたらいを持って行ってやると、彼は顔を洗いました。そこで私が食べ物の支度をして、二人でいっしょに食べ、それから話し始め、いっしょに遊戯をし始めて、夕方になるまで、笑いさざめきました。そこで私たちは卓布を広げて、巴旦杏《はたんきよう》や、乾しぶどうや、|肉豆蒄《にくずく》の実や、ちょうじや、胡椒《こしよう》などを詰めこんだ羊肉を食べ、甘いひややかな水を飲み、西瓜や、メロンや、蜜とバターのはいった菓子や、また、バターも、蜜も、巴旦杏も、肉桂もふんだんに使った、髪の毛のように柔らかく軽い捏粉菓子を食べました。それから前の晩と同じように、共に寝ましたが、私はわれわれがどれほど仲よくなったか、いよいよはっきりとわかりました。こうしてわれわれは四十日目まで、愉快に事なく過ぎました。
すると、それはちょうど最後の日にあたり、宝石商が来るはずの日であったので、少年は全身浴をしたいと言うのでした。そこで私は大きな釜に湯を沸かし、薪に火をつけ、それから大きな銅のたらいに、湯を注ぎ入れ、ほどよいかげんにするために、水を加えました。そこで少年はその中にはいりましたので、私は手ずから洗ってやり、摩擦をしたり、あんまをしたり、香水をかけたりしてやって、それから寝台に運んで行って、蒲団をかけてやり、頭に銀の刺繍《ししゆう》をした絹布をめぐらし、そしておいしいシャーベットを飲ませてやりますと、少年は寝入ってしまいました。
目を覚ますと、彼は何か食べたいと言い出しましたので、そこで私は西瓜の中からいちばんみごとな、いちばん大きなのを選んで、これを皿の上に載せ、その皿を絨毯《じゆうたん》の上に置いてから、少年の頭上の壁にかけてある、大きな庖丁《ほうちよう》を取ろうとして、その寝台の上に乗りました。するとなんとしたことか、少年はふざけて、突然私の脚をくすぐったものでした。私はひどくくすぐったかったので、思わず少年の上に倒れかかってしまいました。そして私の持っていた庖丁は、少年の胸もと深く突き刺さり、かくて少年は、その場で息絶えてしまったのでございます。
これを見て、おおご主人さま、私はわれとわが顔を打ち、叫び声と呻き声をあげ、おのが着物を引き裂いて、絶望と涙のうちに、地上に身を投げ出したのでありました。さあれ、わがいとけなき友は命絶えて、その天命は、占星学者の言葉に偽りなく、成就してしまいました。そこで私は眼《まなこ》と双手を至高者のほうへとあげて、申しました、「おお宇宙の主よ、もし私にして罪を犯したのでありますれば、私はあなたさまの正義によって、いさぎよく罰せられる覚悟でございます。」このときは、私は死を前にして、少しも臆するところがありませんでした。されども、おおご主人さま、われらの願いは、悪にせよ善にせよ、けっして聞き届けられることのないものでございます。
されば私は、これ以上この場所を見るに忍びず、かつは少年の父親の宝石商が、四十日目の末には、来るはずになっていることを承知していたので、私は階段を上って外に出て、上げぶたを閉ざして、もとどおり土をかけました。
おもてに出たとき、私はひとりごちました、「これからどうなることか、ぜひとも見とどけなければならぬ。しかし私は身を隠していなければならぬ。さもないと、わが身はあの十人の奴隷になぶり殺しにされて、最悪の死をもって殺されてしまおう。」そこで私は、上げぶたのほとりにあった大木の上にのぼって、腰をおろして見ておりました。ひとときたつと、海上に例の老人と奴隷をのせた舟が、見え始めました。一同は全部上陸して、とりあえず木の下に来ましたが、しかし土が新しく掘り返したばかりなのを見ました。そこで彼らは非常に心配して、ことに老人は魂が立ち去って行く思いです。しかしともかくも奴隷たちは地を掘って、戸を開け、そして皆で降りて行きました。すると老人は声を張りあげて、息子の名前を呼び始めましたが、少年の答えはありません。そこで一同は酔ったもののように、駆けずりまわって探し始めますと、その少年は心臓を貫かれて、寝台の上に横たわっているのを、発見したのでありました。
これを見ると、老人は魂が身を離れる思いがして、そのまま気を失ってしまい、奴隷たちもいたみ悲しみ始めました。それから彼らは、まず老人を、次に死んだ少年を、肩にかついで、階段の外に運び出し、そして土を掘って、経帷子《きようかたびら》の少年を埋めました。それから老人を舟に移し、残っている財宝全部と食糧とを舟に運んで、一行は海上はるかに見えなくなってしまいました。
そこで私は暗澹とした気持で、木から降りて、この不幸を思い、大いに泣きました。そして悲嘆のうちにこの小島を歩き始め、一日ひと晩歩きました。そしてこうしたありさまをつづけているうちに、最後に私は、海が刻々にひいて遠ざかり、この小島と対岸の陸地とのあいだにある場所が、全部乾いて行くのに気づきました。そこで私は、ついにこの呪わしい島から、私を離れさせてくださるアッラーに感謝して、対岸の砂上に至り着きました。それから陸地にあがって、アッラーの御名を念じながら、歩き始めました。こうして日没の時刻までおりました。すると突然、はるかかなたに、大きな赤い火影が現われるのが見えました。これはたぶん人間たちが羊を焼いているのであろうと思って、私はその赤い火のほうに向かって進みました。ところが、近くに寄ってみると、その赤い火は、真鍮造りの大きな宮殿が、入り日を受けて、そのように燃え上がっているのでありました。
そこで私はこの総真鍮造りの、堂々とした宮殿を見て、驚きの極に達し、しばしこの堅牢な建物に見入っておりましたところ、そのとき突然、その宮殿の大門から、まことにみごとな容姿と、かくばかり美しく作りたもうた創造者を讃えているがごとき風貌の、若者十人が、出て来るのが見えました。しかるに、第十一番目に出て来た、気品ある堂々とした老人を除いては、その十人の若者は全部が全部、左の目のつぶれた眇目《すがめ》であるのを見たのでした。
これを見て、私はひとりごちました、「アッラーにかけて、なんという奇妙な暗合だろう。十人がそろいもそろって、あんなふうに左の目がつぶれているとは、そもそも彼らは何をしたのであろうか。」私がこうした思いに沈んでいるうちに、その十人の若者はこちらに近づいて来て、私に言いました、「平安おんみの上にあれ。」そこで私も彼らの平安の祈りに挨拶を返して、それから自分の身の上を、一部始終話して聞かせたのでありました。されど、おおご主人さま、今一度それをくり返しても、詮なきことでございます。
私の言葉を聞くと、青年たちは驚きの絶頂に達して、私に申しました、「おお殿よ、まずこの住居におはいりください。どうかここでのおもてなしが、たっぷりと手厚くありますように。」私がはいると、彼らもまた私といっしょにはいり、そして私どもは、いずれも繻子《しゆす》の布を張りめぐらした、数々の部屋を横切って、ついに最後の部屋に行き着きました。それは広々とした、ほかのどれよりも美しい部屋でした。この大広間の中央には、毛蒲団の上に敷いた十の敷き物があり、その十のりっぱな寝床のまん中に、毛蒲団はないけれども、他の十のものと同じように美しい、第十一番目の敷き物がありました。すると例の老人は、その第十一番目の敷き物の上に坐り、十人の若者は、それぞれ自分の席に坐って、一同で私に申しました、「どうぞ、殿よ、上座のほうにお坐りください。だが何事であろうとも、これよりこの場でごらんになることについては、いっさいお尋ねくださいますな。」
すると、しばらくして老人は立ち上がって、外に出て、料理と飲み物を携えて、いくたびとなく、もどってまいりました。そして一同は食いかつ飲み、私も彼らといっしょにそういたしました。
それがすむと、老人はあまったものすべてを掻き集めてから、ふたたび帰って来て座につこうとしました。すると若者たちは、彼に言うのでした、「私どもに自分の務めを果たす品を持って来てくださらないうちに、なんとしてお坐りになることができましょうぞ。」すると老人は黙って立ち上がって、十たび外に出まして、そのつど、頭の上には、繻子《しゆす》の布巾をかぶせたたらいを、手には、提灯《ちようちん》を携えてもどって来ては、ひとつひとつのたらいと提灯を、一人一人の青年の前に置くのでした。ところが、私にはなんにもくれないので、私は内心非常におもしろくありませんでした。
一同がいよいよその布巾をとり上げたとき、見るとそのおのおののたらいには、灰と炭の粉と瞼墨《コフル》とが、はいっているのでした。それから彼らはその灰をつまんで、それを自分の頭の上にふりかけ、炭をば顔の上に、瞼墨《コフル》をば右の目の上に塗りつけて、そして嘆き、泣き、言い始めるのでした、「われらのこんにちあるは、ただおのが非行と過ちとによって、当然受けるべきであったところにほかならぬ。」そして彼らは夜の明けるころまで、こうしたことをやめませんでした。夜明けになると、彼らは老人が持って来たほかのたらいで顔を洗い、別な着物を着て、またもとのようになりました。
この始終を見たとき、おおご主人さま、私はもう、もっともはなはだしく驚き入ったのでありましたが、しかし、あらかじめ申し渡されていた命令の手前、あえて何事も尋ねませんでした。そして彼らは、翌日の夜も前夜のようにし、第三の夜も、第四夜もそのとおりでした。さてそうなると、私はもうこれ以上黙っていることができなくなって、そこで叫び出しました、「おおご主人がたよ、何とぞあなたがたの左の目のつぶれていることと、またあなたがたが顔につける、灰と炭と瞼墨《コフル》とのいわれを、私に説き明かしてください。というのは、アッラーにかけて、私はあなたがたによって投げ入れられたこの困惑よりは、むしろ死をすら選ぶくらいです。」すると彼らは叫びました、「おお憐れな者よ、なんということを尋ねなさるのか。それはあなたの身の破滅ですぞ。」私は答えました、「私はこの困惑よりは身の破滅を選びます。」けれども彼らは言いました、「あなたの左の目の心配をなさるがよい。」私は言いました、「この困惑にとどまらなければならぬとすれば、私はこの左の目なぞいりませぬ。」すると、彼らは私に言いました、「さらばあなたの天運が成就せんことを。やがてあなたの身には、われわれの身に起こったことが起こるでしょう。しかし託《かこ》ってはなりませぬ。それはあなた自身のせいでしょうから。なおまた、あなたは片目を失ってからのちにも、ここにはもどって来られませぬ。なぜなら、われわれはすでに十人いて、第十一番目の人を容れる余地はないのだから。」
こう言って、老人は一頭の生きた羊を連れて来て、一同これをほふり、その皮をはぎ、皮をきれいに掃除しました。それから彼らは私に言いました、「あなたはこれから、この羊の皮の中に縫いこまれて、そしてこの銅の御殿の露台の上に出しておかれることになります。すると、象でもさらって行くことのできるような、大きな『怪鳥ロク(24)』が、これをほんものの羊と思って、あなたの上に襲いかかり、あなたを雲までつりあげて、それから人間の近づきえない高山の頂上におろして、あなたをひと呑みにくらおうとするでしょう。だがそのときあなたは、この刀をさしあげますから、これでもって羊の皮を破って、外に飛び出してしまうのです。すると恐ろしいロクも、人間は食わないから、あなたを食べないで、どこかに見えなくなってしまうでしょう。そしたらあなたは、このわれわれの御殿の十倍も大きく、千倍もりっぱな御殿に行き着くまで、お歩きなさい。その御殿は全部黄金の薄板をもって張られ、その壁には一面に大きな宝石が、ことにエメラルドと真珠がちりばめられています。あなたは、あたかもわれわれ自身がはいったように、そこの開いている戸から、はいりなさるがよい。しからばあなたは、あなたの見るものを見なさるでしょう。さて私どもについては、私どもはそこに自分の左の目を置いてきた次第で、いまだにその当然の罰を受けて、毎夜、ご覧になったようなことをして、それを償っているのです。かいつまんで申せば、要するにこれがわれわれの身の上話です。こまかに申せば、一巻の四角な大冊の紙葉を満たすことでありましょう。さてあなたについては、今はあなたの天命が成就せんことを。」
こう言って、なおも私が断乎として決心をひるがえさぬので、彼らは私に刀を与えて、私を羊の皮の中に縫いこみ、そして私を宮殿の露台の上に出したまま、遠ざかりました。すると突然、私は恐るべき怪鳥ロクに捉えられ、さらわれて、飛び立ったように感じました。そして山頂の地上におろされたと感ずるや、ただちに私は、刀でもって羊の皮を破り、そして恐るべきロクを追い払うために、「ケッシュ、ケッシュ」と叫びながら、外に飛び出しました。すると鳥は翼も重く飛び立ちましたが、見れば、十頭の象ほど厖大《ぼうだい》な、二十頭のらくだほど巨大な、純白な鳥でありました。
そこで私は歩き始め、そして急ぎ始めましたが、それほどまでに、私は焦慮の火の上にいたのでございました。そして日のなかばには、その宮殿に着きました。この宮殿を見ると、かねて十人の若者の口から聞いてはいたものの、私は驚嘆のかぎりに驚嘆してしまいました。何しろそれは、聞きしにまさる壮麗なものでありました。私は黄金の大門から、宮殿の中へとはいって行ったのですが、その門たるや、伽羅《きやら》の木と白檀《びやくだん》の木でできた、九十九の扉に取り囲まれていて、そして部屋部屋の扉は、黄金と金剛石をちりばめた黒檀でできており、それらの扉はすべて、数々の部屋と庭とに通じ、そこには、地と海のあらゆる財宝が積み重ねられているのでした。
私が最初の部屋にはいりますと、とたんに、私は四十人の乙女のまん中に、出てしまったのでありました。その乙女たちは、実にもう驚くばかり美しく、心はそれらの乙女たちのさ中でわれを失い、目も目移りがして、これぞと言って特にその中の一人の上に、落ち着くことができないほどで、私はただただ感嘆のあまり頭がぼうとして、そのまま立ちつくしてしまいました。
すると私の姿を見て、全部の乙女はいっせいに立ちあがって、快い声で、私に言うのでした、「どうかわたくしどもの家は、あなたさまのお宅でございますように、おお、わたくしどもの会食者よ、そしてあなたさまのお席は、わたくしどもの頭の上と目の中にございますように。」そして乙女たちは私に坐るようにすすめて、私を高い壇の上に据え、自分たちは皆私よりも下の、敷き物の上に坐りまして、それから私に言いました、「おお、お殿さま、わたくしどもはあなたさまの奴隷、あなたさまの持ち物でございます。あなたさまはわたくしどもの主《あるじ》で、わたくしどもの頭上の冠でいらっしゃいます。」
それから一同で何くれと、私の世話をし始めました。一人は、湯と布切れを持って来て、私の足を洗う。今一人は、黄金の水差に入れた香水を、私の手に注ぎかける。第三番目は、絹ずくめの着物を着せて、金糸銀糸で刺繍した帯をしめてくれる。第四番目は、いろいろの花の香りをつけた、味のよい飲み物を満たした杯を、さし出してくれます。そしてこちらの乙女は、私をじっと見つめているかと思うと、向こうの乙女は、私にほほえみかける。一人は、私に目配せをするかと思うと、今一人は、私に詩を誦して聞かせる。あちらの乙女は、私の前に両腕を伸ばし、今一人は、私の前で腿の上に胴をくねらす。そして一人が「ああ」と言えば、今一人は「うう」と言い、こっちの乙女は「おおあなた、わたくしの目」と言うし、あっちの乙女は「おおあなた、わたくしの魂」と言い、今一人は「わたくしの臓腑」と言い、別の一人は「わたくしの肝《きも》」、またある乙女は「おおわたくしの心の焔よ」と言うのでした。
それから一同は、私のそばに寄って来て、私のからだをあんましたり、なでたりしはじめて、言いました、「おおわたくしどもの会食者よ、わたくしどもにあなたさまの身の上を、話してお聞かせくださいまし。と申しますのは、わたくしどもは年久しく、一人の殿方もなく、わたくしどもだけで、ここにこうしておりましたが、もう今となっては、わたくしどもの仕合せは欠けるところがございません。」そこで私も、前よりは落ち着いてきまして、一同に私の身の上のほんの一部分だけを話しました。そして夜の近づくころまで、こうしておりました。
夜が近くなると、たいへんなたくさんのろうそくが運ばれて、部屋は、このうえもなく煌々《こうこう》とした太陽に照らされているように、明るくされました。それから卓布が延べられ、このうえなく結構な料理と、このうえなく酩酊する飲み物が出されまして、そして私が食べつづけているあいだじゅう、皆で楽器をかなで、このうえなく心を蕩《とろ》かす声で歌い、そしてあるものは舞い始めてくれたのでございました。
こうした歓びを尽くしてのち、乙女たちは私に言いました、「おおいとしいかたよ、今はそろそろ、内容《なかみ》のある楽しみと臥床《ふしど》の時刻でございます。わたくしどもの中から、あなたのお好きな一人をお選びください。そしてわたくしどもの気を悪くしないかなどとのご心配は、なさらないでくださいませ。なぜなら、わたくしども四十人の姉妹は、それぞれ一夜のあいだ、自分の順番を持つことにいたしますから。そしてひとわたりすみましたら、また初めから、毎晩順ぐりに、あなたと臥床の中で遊ぶことといたしましょう。」
ところが私はそのとき、おおご主人さま、この姉妹たちのうち、どれを選んでよいものやらわかりませんでした。何しろ、どれもこれも、いずれ劣らず好ましい乙女でしたので。そこで私は目をつむって、両腕を延ばし、一人をつかまえて、目を開きました。けれども私はその乙女の美しさのまぶしさに、いそいでまた目を閉じてしまいました。するとその乙女は、私に手をさし出して、私を自分の寝床の中に連れて行きました。そして私は終夜、その乙女といっしょに過ごしたのでした。私は突撃者の一回分の突撃として、四十ぺんも彼女を突撃したものですが、その乙女もまた負けず劣らずそうでございまして、一回ごとに、彼女は私に言うのでした、「ゆう、おおわたしの目よ。ゆう、おおわたしの魂よ。」そして彼女は私を愛撫し、私は彼女を噛み、彼女は私をつねり、まあひと晩じゅう、かようなありさまでありました。
かくして私は、おおご主人さま、毎夜その姉妹たちの一人と、そして毎夜こちらからもあちらからも、多くの襲撃をくり返しながら、こういったふうにつづけていったのでございました。そしてこれがまる一年、心ものびやかに、歓喜のうちにつづきました。そして毎夜明けて、朝になると、次の夜の乙女が私のところに来て、私を浴場《ハンマーム》に伴って行って、全身を洗ってくれ、力をこめてあんまをしては、アッラーがその下僕《しもべ》らに授けたもうありとあらゆる香りでもって、私のからだを匂わしてくれるのでした。
こうしているうちに、私どもはその年の終りに達しました。さて大《おお》晦日《みそか》の朝になると、にわかに、全部の乙女が、私の寝床のほうに駆け寄ってまいりまして、皆さめざめと泣き、悲しみのために、髪をふり乱して、嘆いておりましたが、それから、私に申しました、「こういう次第でございます、おおわたくしどもの目の光よ、わたくしどもはあなたの前にも、ほかの男のかたがたとお別れしましたが、それと同じように、今また、あなたとお別れいたさなければならないのでございます。というのは、お知らせ申さなければなりませんが、実はあなたが最初の男のかたではなく、あなたの前にも、たくさんの突撃者があなたのように、わたくしどもに乗り、あなたのように、わたくしどもにあれをしたのでございます。ですけれど、ほんとうのところ、あなたはいちばんたくさん、縦横自在に、跳躍なさるやり手でいらっしゃいます。それにまたあなたは確かに、これまでのどなたよりも、いちばん好きもので、いちばんお優しいかたです。こういうわけでございますから、わたくしどもはこれから、とうていあなたなしでは生きてゆけないことでございましょう。」そこで私は言いました、「だがいったい、なぜあなたがたは私と別れなければならないのか、聞かせてください。それは私とても、あなたがたの中での私の生活の悦びを失うことはいやですから。」乙女たちは答えました、「こういう次第でございます、わたくしどもは皆、腹違いではございますが、さる王の娘でございます。わたくしどもは年頃になって以来、ずっとこの御殿に暮らしておりますが、毎年アッラーはわたくしどもの道に、わたくしどもを満足させ、そしてわたくしどものほうからも同様に満足させてさしあげる、一人の突撃者をつれてきてくださいます。けれども毎年、わたくしどもは父と母たちに会いに行くために、四十日のあいだ留守をしなければなりません。そしてきょうは、ちょうどその日なのでございます。」そこで私は言いました、「だが、おお甘美な乙女たちよ、私はあなたがたの帰って来るまで、じっと家にいて、アッラーを讃えていることにいたしましょう。」乙女たちは答えました、「どうぞそのお望みが成就いたしますように。ここに、この御殿の全部の鍵がございますから、これでもって全部の扉が開きます。この御殿はあなたのお住居で、あなたはここのご主人です。けれどもよく気をつけて、この庭の奥にある銅の扉は、おあけにならないようにしてくださいませ。さもないと、あなたはもう二度とわたくしどもに会えないことになり、そしてお身の上に、かならず大きな不幸が起こるのでございます。よく気をつけて、銅の扉をおあけにならないようにしてくださいませ。」
こう言って、全部の乙女が寄って来て、泣きながら、「アッラーおんみと共にあれかし」と言いつつ、次々に私を抱いて接吻しました。そして一同は泣きながら私をしみじみ見て、それから出発いたしました。
そこで私は、おおご主人さま、私は鍵を手にして広間を出て、この宮殿を見物しはじめました。その日まで暇がなくて、まだ宮殿を見ていなかった次第で、それほど私の心身は、寝床の中でのこの乙女らの腕につながれていたのでございました。そして私は第一の鍵でもって、第一の扉をあけにかかりました。
第一の扉をあけますと、私は果樹の充ち満ちた大きな庭園を見ました。それらの果樹は、生まれてから、全世界にこれにたぐうものをかつて見たことのないほど、大きくまた美しいものでございました。幾条もの小さな掘割りの水が、すべての木々をあまねくうるおして至らざるなく、かくてそれらの木の果実は、目を見はるばかり、大粒でまた美しいのでありました。私はそれらの果実を食べました、特にバナナや、アラビアの高貴な女性の指ほど長いなつめやしの実や、ざくろや、りんごや、桃などを。食べ終えたとき、私はアッラーにその賜り物を謝して、それから第二の鍵でもって、第二の扉をあけました。
その扉をあけますと、私の目と鼻は、幾条もの細流《せせらぎ》にうるおされている、広い庭園一面に咲き乱れた花々に、恍惚とさせられたのでございました。この庭園には、およそ地上の王侯貴族《アミール》の庭園に生ずる、ありとあらゆる花がありました。素馨《そけい》、水仙、ばら、すみれ、ヒヤシンス、アネモネ、石竹、チューリップ、きんぽうげ、その他四季おりおりのあらゆる花です。すべての花を嗅ぎ終わったとき、私は一茎の素馨をつみ取って、それを鼻の中にさしこみ、その匂いを吸うために、そのまま鼻に入れておいて、そして至高のアッラーにそのご厚意を謝しました。
次に、私は第三の扉をあけました。すると私の耳は、地のあらゆる種類、あらゆる色どりの鳥の声に、恍惚とさせられたのでございました。それらの鳥はすべて、伽羅《きやら》の木と白檀との小枝で作られた、大きな籠の中におりました。それらの鳥の飲み水は、色のついた上質の硬玉と碧玉との小皿にはいっており、穀類は金の小さな碗の中にはいっていました。地面ははき清められ水をまかれて、鳥たちは創造者を祝福しておりました。私はこれらの鳥の声に聞き入っているうちに、そのうち夜が近づきました。そこでこの日は引き上げました。
けれども翌日になると、私は急いで部屋を出て、そして第四の鍵でもって、第四の扉をあけました。すると、おおご主人さま、私はたとえ夢にすら、人間のとうてい見ることのできないような物を見たのでございます。広い中庭の中央に、一つのすばらしい建築の円屋根が見えます。その円屋根には斑岩の階段がついていて、それを登ると、金銀をちりばめた黒檀の木でできた、四十の扉に行き着くのでありました。それらの扉は双の戸があけ放たれていて、おのおの広々とした部屋を見せておりました。そのおのおのの部屋には、それぞれ違った宝物が蔵《おさ》められていて、その宝物ひとつひとつは、私の領国全体よりも値のあるものでした。まず第一の部屋には、大小の真珠をうず高く積みあげた小山が、ぎっしりとつまっているのが見られました。大小と申しても、最大のもののほうが、小さなものよりもはるかに数が多く、いずれも鳩の卵ほどの大きさで、照り渡る月ほどに輝いておりました。けれども第二の部屋は、富の点で、第一の部屋をしのぐものでした。そこには天井まで、金剛石や、紅いルビーや、碧いルビー(25)や、ざくろ石が、ぎっしりとつまっているのでした。第三の部屋には、ただエメラルドだけがありました。第四の部屋には、純金の山、第五の部屋には、地上のあらゆる金貨、第六の部屋には純銀、第七の部屋には、地上のあらゆる銀貨でした。けれども他の部屋部屋には、地の底、海の底のあらゆる宝石が、ぎっしりとつまっておりました。黄玉、トルコ玉、風信子石、ヤマン(26)の石、あらゆる色彩の光玉髄《こうぎよくずい》、硬玉の器《うつわ》、頸飾り、腕環、帯、その他王侯貴族の宮廷で用いられる、ありとあらゆる宝玉類がございました。
そこで私は、おおご主人さま、私は双の手と眼《まなこ》を天にあげて、至高のアッラーにその御恵みを謝しました。こうして私は日々、一つか二つか三つの扉をあけながら、四十日目までつづけました。私の驚嘆は日ましに強まってゆくのでしたが、さて今は、もはや最後の鍵、すなわち銅の扉の鍵しか、手もとに残っていないこととあいなりました。そこで私は四十人の乙女のことを考えましたが、この乙女らを思い、彼女たちの挙措のしとやかさ、肉体のみずみずしさ、腿の堅さ、陰門の狭さ、臀の丸さとふくよかさ、さては彼女たちが私に言う、「ゆう、おおわたしの目よ。ゆう、わたしの焔よ」という叫び声などを思いますると、私はもう無上に悦ばしくなりました。そして私は叫びました、「アッラーにかけて、いよいよあしたから、われわれの夜は祝福された夜、白の夜(27)となるぞ。」
けれども、呪われた悪魔はしきりに、私にこの銅の扉の鍵を気にさせるのでありました。そしてこの扉は途方もなく私を誘惑いたし、その誘惑は私よりも強く、ついに私はその銅の扉をあけてしまったのでございました。ところが私の目には何も見えず、ただ私の鼻だけが非常に強い、私の感覚にまったく合わない臭いを感じて、私はそのまま即時即刻気を失って、扉の手前に倒れてしまい、そして、その扉はふたたびしまったのでありました。
けれども正気に返ったとき、私はあくまで、この悪魔《シヤイターン》に吹きこまれた決心をひるがえさずに、改めてその扉をあけ、おもむろにその臭いが弱くなるのを待ちました。
そこで中にはいってみますと、そこには、床《ゆか》一面にサフランをまき散らし、竜涎香《りゆうぜんこう》と薫香を匂わしたいくつものろうそくをともし、香りのある油を入れた、いくつもの金銀の美々しいランプで照らされた、広々とした一室がありました。その油が燃えて、先刻の強い臭いを放っているのでした。そしてその黄金の燈火と黄金のランプとのあいだには、額に白い星のひとつついた、世にもみごとな一頭の黒い馬が見えました。その左足と右手には、それぞれ両端に白い斑点《ふ》がはいっておりました。鞍は錦で、手綱は金の鎖で、秣桶《まぐさおけ》には、よく篩《ふるい》にかけたごまと、大麦の粒とが満ちていて、水飲み桶には、ばらの水の香りをつけた清水が張られていました。
ところで私は、おおご主人さま、元来私は駿馬ときては目がなく、かつ私自身、わが王国きっての名うての騎手でございましたので、この馬ならば、まことに自分に打ってつけであろうと思ったのでありました。そこで轡《くつわ》をとって、庭にひき出し、上に乗ってみました。ところが、いっこうに動きません。そこで私は、その金の鎖で馬首を打ちました。するとすぐさま、おおご主人さま、その馬は今の今まで見かけなかった、二つの大きな黒い翼を広げまして、ものすごい叫び声をあげ、蹄で地を三たびけって、私をのせたまま、空中高く舞い上がったのでございました。
そのとき、おおご主人さま、大地は私の目の前でぐるぐる回りましたが、しかし私は両股をしめつけて、じょうずな騎手らしく、しかと身を保っておりますと、そのうち、ようやく馬は下降して、そしてはじめ私が十人の眇目《すがめ》の若者に会った、あの赤銅《あかがね》の宮殿の露台の上に、止まったのでありました。そのとき、馬は非常な勢いで棒立ちになり、ころがりざま激しく身を揺すったので、私は振り落とされてしまいました。それから馬は私に近づいて、その翼を私の顔のほうに下げ、そして翼の端を、私の左の目の中に突っこんで、かくて私の左の目をば、救いの道なくつぶしてしまったのでありました。そして空中に舞い上がって、姿を消しました。
そこで私は、失った目を手で押えて、嘆きながら、また痛さに手をふるわしながら、露台の上を、あちらこちらと歩き回った次第でした。すると突然、例の十人の若者が出て来るのが見えて、彼らは、私の姿を見て言いました、「あなたはわれわれの言うことを聞こうとはしなかった。これはあなたの不祥な決心の結実です。われわれとしては、あなたをわれわれの中に入れてあげるわけにはゆかない、もうすでに十人いますから。だが、これこれしかじかの路をたどって行けば、あなたはバグダードの都に至り、われわれのもとにまで名声の達している、信徒の長《おさ》ハールーン・アル・ラシードのみもとに、行き着くでしょう。あなたの天命はこの主君《きみ》の掌中にあるでありましょう。」
そこで私は、他の不幸に会わないですむようにと、自分のひげを剃り落とし、この托鉢僧《サアールク》の衣服をまとってから、発足し、日夜旅をつづけて、この平安の住家バグダードに着くまで、歩くことをやめませんでした。そのとき私は、この眇目《すがめ》のおふたかたをお見受けしたので、挨拶をして申しました、「私は異国の者でございます。」するとお二人は答えられました、「われわれもまた異国の者です。」おおご主人さま、われわれ三人が連れ立って、この祝福されたお館《やかた》に至り着きましたのは、かかる次第でございます。
またこれぞ私が片目を失い、ひげを落とした理由でござります。
世のつねならぬこの話を聞き終わったとき、館の若い女主人は、この第三の托鉢僧《サアールク》に申しました、「では、頭を少しなでなすって、お引きとりくださいませ。」
けれども、第三の托鉢僧《サアールク》は答えました、「私はほかの皆さまがた全部のお話をうけたまわったうえでなければ、アッラーにかけて、立ち去りますまい。」
するとその若い娘は、教王《カリフ》のほうに、ジャアファルのほうに、マスルールのほうに向いて、三人に申しました、「あなたがたの身の上話をお聞かせください。」
するとジャアファルは進み出て、すでにこの住居にはいるおり、若い戸口の娘に話した次第を物語りました。そこでジャアファルの言葉を聞き終えると、その若い娘は、一同のもの全部に向かって申しました。
「どなたさまも全部許してさしあげます。けれども、できるだけ早く出て行ってくださいまし。もはや朝となり、ここにあなたがたがおられては、世間の聞こえもあり、私どもの迷惑となりますから。」
そこで一同は外に出て、往来に着きました。すると教王《カリフ》は|托鉢僧たち《サアーリク》に申されました、「お連れのかたがたよ、あなたがたはこうしてどこへ行かれるのですか。」彼らは答えました、「どこへ行ったらよろしいものか、わからないでおります。」すると教王《カリフ》は申されました、「われわれのところに、残りの夜を過ごしにおいでなさい。」そしてジャアファルに申しつけられました、「この者どもを汝の家に伴って、あす余のもとに連れてまいれ。そのうえでよしなに取り計らうといたそう。」ジャアファルは教王《カリフ》のご命令を実行することを怠りませんでした。
そこで教王《カリフ》は御殿にご帰還になられましたが、その夜は、まったく眠りを味わいなさることがおできになりませんでした。そこでお起きになって、王国の玉座におつきになり、ご領土の首長たちを召し入れられました。次に、ご領土の首長たち一同が退出してから、ジャアファルのほうにお向きになって、申しつけられました、「昨夜の三人の若い娘と二頭の牝犬と、三人の托鉢僧《サアーリク》を、ここに連れてまいれ。」そこでジャアファルはただちに退出して、全部の者をば、教王《カリフ》の御手のあいだに連れてまいりました。若い娘たちは面衣《ヴエール》で顔をおおって、教王《カリフ》の御前に立ちました。するとジャアファルは、この女たちに申しました、「われらはそのほうたちをゆるしてとらせる。なんとなれば、そのほうたちは、われらを何者とも知らずしてわれらをゆるし、われらに施すに善をもってしたからである。さて今やそのほうたちは、かしこくもアッバースの後裔第五世、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御手のあいだにあるものなるぞ。されば、ただ真実をのみ言上すべきなれ。」
信徒の主君《きみ》にかわって、こう告げたジャアファルの言葉を、乙女たちがうけたまわったとき、その中のいちばんの姉が、進み出て申し上げました、「おお信徒の主君《きみ》よ、わたくしの身の上でありまする物語は、まことに思いもかけないものでございまして、もしこれを針でもって目の内側の片すみに記しておきましたならば、これをうやうやしく読む者には、一つの教訓となることでもござりましょう。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射して来るのを見て、つつましく自分の物語を語るのをやめた。
[#地付き]けれども第十六夜になると[#「けれども第十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、若い娘たちの中のいちばんの姉は、信徒の長《おさ》の御手のあいだに進み出て、次のようにその物語を語ったのでございます。
第一の乙女ゾバイダの物語
おお信徒の長《おさ》よ、さればわたくしの名は、ゾバイダと申します。戸口をおあけいたしました妹は、アミナと呼ばれ、末の妹は、ファヒマと呼ばれます。わたくしたちは三人とも、父親は同じでございますけれども、同じ母親から生まれたのではございませぬ。ここにおります二匹の牝犬はと申しまするに、これは同じ父と同じ母から生まれた、血を分けた、わたくしの姉たちなのでございます。
父がなくなりますと、五千ディナールを残してくれましたので、わたくしどもはこれを公平に分けました。そこで妹のアミナとファヒマとは、わたくしたちに別れて、生みの母親の家にすむことになりまして、そして、わたくしと他の二人の姉たち、つまり、ここにおりまするこの二匹の牝犬ですが、この三人はいっしょに暮らしましたが、わたくしは三人のうちでは、いちばん年下です。けれども、ただ今、御手のあいだにおりまする、腹違いのアミナとファヒマよりは、年上なのでございます。
父の死後ほどなく、二人の姉、この二匹の牝犬は、結婚の準備をいたし、めいめい一人の男と結婚しましたが、しばらくの間は、わたくしといっしょに、同じ家にすんでおりました。ところがまもなく、二人の姉の夫たちは、商用の旅に出る用意をし、それぞれ妻の千ディナールを使って、商品を買い調え、妻を伴って、皆打ちそろって出発いたし、わたくしをたった一人残しました。
姉たち夫婦は、このようにして、四カ年間にわたって不在をいたしました。この間に、二人の姉の夫たちは破産してしまい、商品を全部なくし、そして、異邦人たちの国のただ中に、自分の妻たちをただひとり置き去りにしてしまって、どこかへ行ってしまったのです。
姉たちはありとあらゆる困苦に耐えて、最後に貧しい乞食のような姿になって、わたくしのもとへ帰り着いたのでございます。この二人の女乞食を眺めて、まさかこれが自分の姉たちだとは、とてもわかりませず、わたくしはその場から遠ざかりました。しかしそのとき、姉たちはわたくしに話しかけましたので、姉たちだということがわかり、わたくしはこう申しました、「お姉さまがた、こんなお姿になられたとは、いったいどうしたのですか。」二人は答えました、「妹よ、こうなっては、どんな言葉も、もはやなんの役にも立ちません。蘆筆《カラム》はアッラーのお命じになったとおりをたどって走ったのですから(28)。」これを聞くと、わたくしの心は姉たちに対する憐れみでいっぱいになり、風呂屋《ハンマーム》へ二人をやり、めいめいに新しい美しい衣を着せてあげ、こう申しました、「おお、お姉さまがたよ、あなたがたは二人の姉上ですし、わたしは妹でございます。ですから、わたしはお二人を、父さま母さまがわりのかたと心得ます。そのうえに、あなたがたと同じくわたしに分け与えられました遺産は、アッラーに祝福されて、大そうな額にふえました。あなたがたは、わたしといっしょに、その果実《み》を食べることにしてくださいませ。そういたしませば、わたしどもは、りっぱな恥ずかしからぬ生活を送れることになりましょう。ですから、これからは、いっしょに暮らしましょう。」そしてわたくしは二人を、自分の家と自分の心のなかに引きとどめました。
そして、事実、わたくしは姉たちに恩恵のかぎりをつくし、二人はまる一年のあいだわたくしのところにおりまして、わたくしの財産は姉たちの財産でございました。ところがある日のこと、姉たちはこう申したのです、「まったく、結婚したほうがわたしたちにはよい。もはや結婚しないではおられない。こうしてひとりきりでいるのは、もうがまんしきれない。」そこでわたくしは申しました、「お姉さまがた、結婚などなさって、いいことは何もございませんよ。なぜって、ほんとうに正直でよい男は、当節めったにないものですからね。それに、あなたがたはもう結婚はためしずみではありませんか。それでどういう目にあったかを、お忘れになりましたの。」
けれども、姉たちは、わたくしの言うことに耳を傾けませず、わたくしが賛成しなくとも、ともかくも結婚すると申すのです。そこでわたくしは自分のお金を出して、入用な嫁入り支度をしてあげ、結婚させました。それから姉たちは、自分の運命に従って、その夫たちといっしょに立ち去ってしまいました。
ところが、出発してからほんのわずかたったかと思うと、夫たちは姉たちをもてあそんで、わたくしの与えたものを全部奪い取り、置き去りにして、どこかへ行ってしまいました。そこで、姉たちは丸裸になって、わたくしのところへもどって来ました。そして、さんざん言いわけをならべて、こう申しました、「妹よ、わたしたちをおとがめでない。なるほどおまえは、わたしたちの中ではいちばん年下だけれども、いちばん分別が欠けていないひとです。もちろんわたしたちは、もう結婚という言葉なんか、けっして口にしないことを約束します。」そこでわたくしは申しました、「おお、お姉さまがた、わたしのところでのお迎えが、あなたがたにねんごろでありますように。あなたがたお二人より大事な人はありませんもの。」そして、姉たちに接吻をして、前にもまして寛大の限りをつくしてあげました。
こうして、まる一年のあいだいっしょにおりましたが、一年たちますと、わたくしは、一艘の船に商品を積みこみ、バスラ(29)へ商売に出かけようと思い立ちました。そして、実際に、一艘の船を用意し、それに商品やら、雑貨やら、船の旅のあいだ入用そうなものをすべて積みこみまして、さて姉たちに言いました、「おお、お姉さまがた、わたしが帰って来るまで、旅行中ずっと、わたしの家にいらっしゃるほうがおよろしいか、それとも、わたしといっしょにお出かけになるほうがおよろしいかしら。」すると、姉たちは答えました、「おまえといっしょに出かけましょう。おまえがいなくては、とてもがまんできまいからね。」そこでわたくしは姉たちをつれて、いっしょに出かけました。
けれども出発する前に、わたくしは注意深く、自分のお金を二つに分けておきました。つまり、その半分を身につけて、あとの半分をかくしましたが、こう思ったのでございます、「船が不幸に見まわれて、しかもわたしたちの生命《いのち》は助かるということも、あるかもしれない。そうした場合、もしわたしたちがいつか帰って来られるとしたら、帰って来たときに、これは何かの役に立つだろう。」
わたくしたちは日夜旅をつづけましたが、不幸なことに、船長が針路をまちがえてしまいました。潮流はわたくしたちを、外海《そとうみ》のほうにひいてゆき、目ざす海とは全然違った海の中へ出たのです。そして非常に強い風が、十日間もやまずに吹きつけ、わたくしたちを押し流しました。すると、はるか彼方に、町が一つぼんやり見えましたので、船長に尋ねました、「わたしたちが向かって行く町の名前は、なんと言うのですか。」彼は答えました、「アッラーにかけて、とんと存じませぬ。一度も見たことがありませんし、生まれてから、私はこの海へ来たことがないのです。しかし結局のところ、肝心なことは、私どもは幸いにも危難を脱したことです。ですから、今はあなたがたは、あの町へはいって、商品を陳列なさりさえすればよいわけです。もしお売りになれるものなら、お売りになるようにお勧めします。」
ひとときたつと、船長はわたくしたちのところへまたやって来て、こう申しました、「急いでお出かけになって、町へいらっしゃり、アッラーのご創造になった不可思議をご覧なさいまし。」
そこで、わたくしたちは町のほうへとおもむきましたが、そこへ着くやいなや、びっくり仰天してしまいました。この町の住民たちが全部、黒い石になっているのを見たからです。けれども、住民たちだけが石と化していたのです。と申しますのは、どこの市場《スーク》でも、またどこの商人町でも、商品はもとどおりのそのまま、金や銀でできた品物も全部、そっくりそのままだったからなのでございます。これを見て、わたくしたちは満足の極に達して、語り合いました、「こうしたすべての原因は、定めしびっくりするようなことにちがいない。」そこでわたくしたちは別れ別れになって、めいめいが町の道を、好きなほうへと行きました。そして、一人一人、金銀や貴重な布地などでできたものを、持てるだけ自分のものにするために、拾い集めにかかりました。
さてわたくしは、ひとり城砦へ登って行きましたが、この城砦には、王さまの宮殿があるのに気づきました。金無垢《きんむく》造りの大きな正面玄関から、はいって行き、入口のびろうどの大きな垂れ幕をあげました。すると、内部にある家具全部とあらゆる品々が、金と銀とでできているのを見ました。そして中庭でも、どこの部屋でも、衛兵や侍従たちが、立ったり坐ったりしていましたが、みんな石と化していながらも、生きているようでした。侍従や代官や大臣《ワジール》たちが、ぎっしりと詰めかけている最後のお部屋へ来ますと、王さまが玉座に坐ったまま、石になっておいでになり、見ていると気が変になるほど豪奢でりっぱな、お召し物を着ておられました。そしてその周囲を、絹の長衣をまとい、抜き身の剣を片手に持った、五十人の白人奴隷《ママリク》が取りまいていました。王さまの玉座には、真珠や宝石の類がはめこまれており、どの真珠も星のように輝いていました。
けれどもなおも歩きつづけますと、後宮《ハーレム》の広間へ来ました。これがまた一段とすばらしいものでございました。何もかも、窓の格子までが、黄金でできていました。四方の壁は、絹の壁布でおおわれていましたし、戸口や窓には、びろうどや繻子《しゆす》の垂れ幕がかけてありました。そして、最後にわたくしは、石になった女たちのまん中に、王妃さまご自身のお姿を認めたのですが、貴い真珠を散らし縫いにした長衣を着、頭にはありとあらゆる種類の宝石で飾った冠をいただき、そして首には、いくつもの首環や、みごとな彫りこみ細工を施した黄金の網飾りなどを、かけていらっしゃいました。しかし、王妃もまた、黒い石になっておいでなのでした。
そこから、さらに歩きつづけますと、両扉が純銀でできている、戸が開いていて、その内側には、七つの段のついた雲斑石の階段が見えました。この階段をあがって、上に登りつめますと、全部真っ白い大理石ででき上がった大広間へ出ましたが、金糸織りの絨毯が敷きつめてありました。そして、この広間の中央に、大きな黄金造りの燭台にはさまれて、碧玉とトルコ玉をちりばめた金の台座があり、この台座の上には、高価な布や刺繍を施された布を張り、真珠や宝石をはめこんだ、雪花石膏《アラバスター》の寝台が一台置いてありました。そして奥のほうに、燈火が一つ輝いておりました。近づいてみますと、この光は、床几《しようぎ》の上に置かれた、駝鳥の卵ほどの大きさのある金剛石であり、その切り子面がこの光を放っているとわかりました。その光だけで、この広間全体を照らしていたのでございます。
けれども、けれどもそこには明りもともされていたのですが、それらはこの金剛石の前では恥じ入っておりました。わたくしは思いました、「この明りがともされている以上、これはだれかがともしたのにちがいない。」
そこでわたくしは歩きつづけて、いくつもの別な部屋へはいりましたが、行く先々で驚嘆しながら、行く先々で、誰か生きている人を見つけようと、探しまわりました。わたくしはもうすっかり夢中になって、自分自身のことも、旅のことも、船のことも、姉たちのことも、忘れておりました。そして、このようにずっと驚嘆しておりますうちに、夜になってしまったのでございます。そこで宮殿から出ようとしますと、方角をまちがえ、道がわからなくなってしまいましたが、とうとう雪花石膏の寝台と、金剛石と、火のともされた黄金の燭台とがある、例の広間へ出られました。そこでわたくしは、寝台の上に坐り、銀と真珠の刺繍のついた青い繻子の夜着でなかばからだを包み、『高貴の書』を手に取りました。そして、微妙な色どりの飾り画がそえられ、赤と金の文字で壮麗にしたためられた、この書物を開いて、何節かを読誦し始め、わが心を浄化し、アッラーに感謝し、またわが身をいましめようと思いました。そして預言者(アッラーの祝福したまえかし)のお言葉を瞑想いたしました。それから眠るために横になり、眠ろうと努めたのです。しかし駄目でした。そのまま、寝つかれずに夜のなかばまで、目をさましておりました。
このとき、だれかがコーランを誦える声を耳にいたしましたが、それは気持のよい、やさしい、心がひかれるような声でした。そこで、わたくしは急いで起き上がり、その声のほうへと進んで行きました。そして、とうとう扉の開かれた一室へ着きましたので、そこへ来るまでに足もとを照らしていた明りを外に置いて、戸口からそっと中へはいりました。どんなところかと見ますと、それは礼拝所でございました。いくつも釣り下げられた、緑色のガラス製のランプで照らされており、中央には、東のほうへ向けて敷かれた、礼拝用の敷き物が広げられ、この敷き物の上に、ひとりの非常に美しい様子の若者が坐って、高低の調子を十分につけて、一心に声高に、コーランを読んでおりました。わたくしはこのうえなく驚いてしまい、どういうわけで、ただひとりこの若者だけが、町全体の受けた運命をのがれられたのかしらと、考えたのでございます。そこでわたくしは進み出て、この若者のほうに向き、平安の挨拶をいたしました。すると、若者もわたくしのほうに目を向けて、平安の挨拶を返しました。そこでわたくしは、申しました、「あなたの誦えていらっしゃる、アッラーの御書《おんふみ》の章句の聖なる真理《まこと》にかけて、お願いでございます。どうぞ、お尋ねすることにお答えくださいませ。」
そうしますと、若者は静かに、またやさしく微笑して、こう言いました、「おお、ご婦人よ、まずあなたから先に、どういうわけでこの礼拝室へはいって来られたかを、私に明かしてください。そうすれば、私もお尋ねになることにお答えしましょう。」そこで、わたくしは今までのことを話しましたところ、若者は非常に驚きました。そしてわたくしは、この町のただならぬありさまはどうしたのかと尋ねました。すると彼は言いました、「ちょっとお待ちください。」そして聖なる経典を閉じ、それを繻子の袋へ納めました。それから、わたくしにそのかたわらへ坐るように申しました。わたくしは坐りまして、こうやってしげしげと若者を眺めますと、この若者は、満月のように、あらゆる美点を残りなく具え、好ましさに充ちあふれ、風采もほれぼれするばかり、姿もすらりと整っているのを見ました。双の頬は水晶で、その面《おも》は新鮮ななつめやしの実の色をしていて、かの詩人が次の詩節で言おうとしたのは、さながらこの若者のことであるかとばかりに思われました。
[#ここから2字下げ]
星辰を読む者、夜の中に観測しいたり。突如として、その眼前に現われいでしは、うるわしき男子《おのこ》のたおやかさ。かくて思えらく、
この星に、広がれるこの黒髪、箒星を、与えしは、「土星《ゾハル》」そのものなり。
またその頬の淡紅色《ときいろ》は、みずからこれを掃《は》き広げしは「火星《ミルリク》」なり。またその目の鋭き光芒は、七つの星の「射手《いて》」の矢にこそあれ。
されど、このたえなる利発さを贈りしは、「水星《フータレド》」にして、一方、この黄金の値いを授けしは、「アビルススーハ」なり。
されば、星辰の観測家、今は考うるところを知らず、思いまどいてありき。このときなり、この星は彼のかたに傾きて、ほほえみぬ。
[#ここで字下げ終わり]
このようにしてこの若者を眺めておりますうちに、わたくしはこのうえなく激しい官能のみだれの中に、きょうまでこの人を知らなかったということについての、このうえもなく強い遺憾の中に、陥ってしまいました。そして、真っ赤な炭火がわたくしの心の中にともされました。そこで、わたくしは申しました、「おおわがご主人、お殿さま、さあお願いしたことをお話しなさってくださいまし。」若者は答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」そして、次のような話をいたしました。
「されば、おお栄誉に充てる貴婦人よ、実はこの町は、私の父の町なのでした。そしてこの町には、父の親戚と臣下が全部住んでおりました。私の老父は、あなたがご覧になったとおりの、玉座に坐ったまま石と変じたあの王です。あなたがご覧になった王妃は、私の母です。父も母も、恐ろしいナルドゥン神を礼拝する道士たちでした。両親とも、火と光、暗がりと熱気、回転する星辰《ほし》に賭けて誓言し、宣誓していたのです。
長いあいだ、父には子供ができませんでした。その晩年に至ってようやく、私は老いの授け子として生まれたのです。そして父は非常に注意して育ててくれました。そのうち、私はどんどん大きくなってゆきましたが、長ずるに及んで、私は真の至福を受けるため選び出されたのでありました。
事実、私どもの家に、宮殿に、非常に高齢の老婆が一人おりましたが、回教徒で、アッラーとその使徒を信じていたのです。この老婆は、心ひそかにこうした道を信じながらも、表面は、私の両親どもと同じ意見のようなふうを装っていました。そして、父もこの老婆に忠節と貞潔を見て、非常にあつく信頼していました。これに対しては、非常に寛仁であり、寛仁の限りを尽くしてやっていました。そして父は、この老婆が自分と同じ信仰を持ち、同じ宗教を奉じていると、固く思いこんでいたのです。
ですから、私が成長するにつれ、父は私をこの老婆に託して、こう申しました、『この子をあずかって、十分に育ててやってくれ。わが拝火教の掟を教え、りっぱな教育を授けてやってくれ。そして、注意に注意を重ねて、よく仕えてもらいたい。』
そこで、老婆は私をあずかりました。しかし、私には、きよめの勤行や洗浄《タハーラ》の勤行から祈祷の聖なる文句まで、イスラムの宗教を教えてしまったのです。また預言者の国語で、コーランを教えたり説き明かしたりしてくれたのです。そして、私の教育が全部終わると、老婆はこう申しました、『おおわが子よ、父君の前では、これを大事にかくしていなければいけないし、絶対に秘密にしておかねばなりませぬぞ。さもなくば殺されます。』
そして私は、事実、秘密を守りました。私の教育が終わるとほどなく、この老齢の聖女は、私に最後の教えを残しながら亡くなりました。そして私はその後もひそかに、アッラーとその預言者とを信じておりました。しかし、町の住民たちは、その不信、叛逆、暗愚の中で、ますますかたくなになるばかりでした。ところが、市民たちが相も変わらぬありさまで暮らしているうちに、ある日のこと、どこからともなく、見えざる告時僧《ムアズイン》の響きの高い声が聞こえてきました。そして近くにいる者の耳にも、遠くにいる者の耳にも、同じように聞きとれる、雷のような強い語調で告げたのです、『おお汝らこの町の住人よ、火やナルドゥン神を礼拝するをやめて、唯一の力強き王者を礼拝せよ』と。
この声を聞いて、市民たちの心中には深い恐怖が起こり、この町の王である私の父のもとに集まって、尋ねました、『今聞こえましたあの物恐ろしい声は何でございますか。あの呼び声にまだわれわれはおびえきっております。』私の父は申しました、『あのような声におびえてはいけない、恐れをなしてはならぬ。心を断乎と持するがよい。』
そこで皆の気持は、わけなく私の父の言葉のほうへ傾きました。そして、依然として火の礼拝を、断乎として守りました。こうやって皆はなおも一年のあいだ、初めてあの声を聞いた日から一周年を迎えるまで、その状態をつづけたものです。ところが、またしても例の声が聞こえたのです。そして二回、三回と、一年に一度ずつ、三年間つづけて聞こえたのでした。しかし、市民たちは、誤謬《あやまち》の勤行をあくまでも熱心に守りつづけました。そのときついに、ある朝のこと、明け方、災厄と呪詛とが天から市民たちに襲いかかり、一同はもとより、馬も、らばも、らくだも、家畜も、皆黒い石になってしまったのです。あらゆる市民中、ただ私だけがこの禍いを免れました。つまり、私だけがただひとり信者だったからなのです。
ですから、その日以来、私はここで、もっぱら礼拝と、断食と、コーランの読誦とで暮らしているのです。
しかし、おお栄誉と美質に充てる貴婦人よ、私のかたわらでやさしく相手になってくれる人がだれ一人おらず、こうやって寂しい生活を送るのは、ほんとうに倦んでしまいました。」
これを聞いて、わたくしは申しました。
「おお、長所に充てる若者よ、わたくしといっしょにバグダードの町へいらっしゃれませんか。あの町には、もろもろの掟や宗教に関して造詣の深い、学者たちや尊敬すべき長老《シヤイクー》たちがおられます。ですから、こういうかたがたとお近づきになって、あなたは、神法に対する知識や理解を、もっとお深めになるのがよろしいでしょう。このわたくしは、歴とした家の者ではございますが、わたくしはあなたの奴隷、あなたの物になりましょう。ほんとうに、わたくしは何人もの人々の女主人ですし、いろいろな人たち、召使ども、たくさんの童子たちを使っている身なのです。そして当地に、商品を満載した船を持って来ております。しかし、天命はわたくしどもをこの海岸に打ちあげ、わたくしどもにこの町を知らせ、こんな事件をひき起こしたのでございました。それというのも、運命はこうしてわたくしたちが結びつくことを望んだのでございます。」
それからわたくしは、いっしょに出発する気持を起こさせようとしてくどきつづけましたので、とうとうこの若者もうべなって答えてくれました。
[#この行1字下げ] ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、その習慣に従ってつつましく、自分の物語を語るのをやめた。
[#地付き]けれども第十七夜になると[#「けれども第十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、乙女ゾバイダは、絶えずその若者の心をひくようにいたし、いっしょに行きたい気持にならせようとつとめて、とうとう若者も承諾してしまったのでございます。
そして、二人とも、睡眠に打ち負かされてしまうまで、語り合うのをやめませんでした。こうして若いゾバイダは、その晩は、若者の足もとに横になって眠りました。そして彼女は、歓喜と幸福とにわれを忘れておりました。
(さて、このようにしてゾバイダは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシード、ジャアファル、及び三人の托鉢僧《サアーリク》に向かって物語を語りつづけたのでございます。)
暁の光が輝いたときに、わたくしたちはつつしみぶかく起きいで、あらゆる宝物庫を開きにはいり、運ぶのには重すぎないで、いちばん値打のあるものを全部取り出しまして、城砦から町へとおりますと、長いあいだわたくしを尋ねあぐんでいた、わたくしの奴隷たちや船長に出会いました。わたくしの姿を見たとき、一同は非常に喜びまして、わたくしが留守にしたわけを尋ねました。そこで、自分の見たことや、くだんの若者の話や、町の住民たちの変身の理由などを、委細もらさずに物語ってやりました。すると一同はわたくしの話にたいへん驚きました。
姉たちは、わたくしがこの美貌の青年といっしょにいるのを見るやいなや、たいへん嫉妬心を起こし、わたくしをうらやみ、憎悪でいっぱいになり、心ひそかに、わたくしに対して腹黒いことをたくらみました。
それはそれとして、わたくしどもは皆船へ乗りこみまして、わたくしはこのうえもなく仕合せでしたし、わたくしの福楽は若者の愛のために、いやがうえにも増しました。そして、順風になるのを待ち、やがて帆を広げて、出発しました。姉たちは、相変わらずわたくしたちといっしょにおりましたが、ある日のこと、わたくし一人にこっそり申しました、「おお、妹よ、おまえはあの美男子の若者をどうしようと思っているのだい。」そこでわたくしは申しました、「わたしの目的はあのかたを夫にすることです。」それから、わたくしは若者のほうを向いて、そのかたわらへ行って、こうはっきり申しました、「おお、わたくしのご主人さま、わたくしの願いはあなたの物になることです。どうかわたくしを拒まないでくださいまし。」すると若者は答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」これを聞いて、わたくしは姉たちのほうを向いて、申しました、「わたしはこのかたがあれば、ほかに何もいりません。わたしの財宝は皆、もう今からあなたがたにさしあげます。」すると姉たちは答えました、「おまえの志はうれしい。」しかし姉たちは、心の中では、わたくしを裏切り仇をしようと思っていたのでございます。
わたくしどもはこうやって、順風に乗って航海をつづけました。そして「恐怖」の海から出て、「安堵」の海へはいりました。この海原をその後何日か航海してしばらくすると、バスラの町の間近に来まして、町の家並みがはるかに遠く見えるようになりました。しかしおりから夜が近づきましたので、船を停めて、ほどなくみんな眠りこんでしまいました。
ところが、わたくしたちが眠っているあいだに、二人の姉たちは起き上がり、わたくしとその若者とを、蒲団やその他のものといっしょにかつぎ出し、海へ投げ入れてしまったのでございます。その若者は泳ぎを知りませんために、おぼれ死んでしまいました。それと申すのも、あのかたが殉教者の一人となることは、アッラーによって記されていたからなのです。わたくしのほうは、生きのびるべき人々の一人のあいだに、記されておりました。ですから、海へおちるやいなや、アッラーはわたくしに一片の木材を授けてくださり、わたくしはその上に馬乗りになり、その木材もろとも波に運ばれて、さして遠くない島の海岸へ打ちあげられました。そこで、わたくしは衣を乾かし、まる一夜を過ごしました。そして朝になって目をさまし、行くべき道を尋ねました。すると、アーダムの子孫の人間の足跡のついた道を、発見いたしました。この道は岸辺から始まり、島の奥へとはいっていました。そこでわたくしは乾いた衣服を身にまとい、この道をたどりまして、その島の向うの岸に出るまで歩きつづけましたところが、目の前に陸地が現われ、そこには、遠く彼方にバスラの町が見えたのです。ところが、そこに突然、わたくしのほうに一匹の青大将が走って来ましたが、そのすぐあとから、一匹の太い大きなまむしが、青大将を殺そうとして追いかけてまいりました。青大将は走るのに疲れきっており、舌を口からだらりとたらしていました。そこでわたくしは、これがかわいそうになりましたので、大きな石を一つつかみ、まむしの頭めがけて投げつけ、それを打ち砕いて、立ちどころに殺してしまいました。するとたちまちこの青大将は、透き通った両翼を広げて、空高く舞い上がり消え去りました。わたくしは驚きの極みに達しました。
ところで、わたくしは疲れきっていましたので、その場に坐りこみ、それからからだを横たえて、その後ひとときのあいだ眠りました。そして、目をさましてみますと、足もとにきれいな黒人の女が坐って、わたくしの足をなでたり、さすったりしているのでした。ですから、わたくしは急いで足を引っこめましたが、わたくしは非常に恥ずかしく感じました。と申すのは、このきれいな黒人の女が何をわたくしに求めているのか、それがわからなかったからです。そこで、これに申しました、「おまえさんはいったいだれなの、どうしてほしいの。」すると黒人の女は答えました、「わたくしは大急ぎであなたさまのおそばへまいりましたが、あなたさまには敵を殺していただいて、ほんとうにありがとうぞんじます。つまり、わたくしは、あなたさまにまむしから助けていただいた、あの青大将ですから。わたくしは女魔神《ジンニーア》なのです。そして、あのまむしも、魔神《ジンニー》だったのでございます。けれどもあれはわたくしの敵で、わたくしを犯したうえで、殺そうとしていたのでした。あやつの手からわたくしを救ってくださったのは、あなただけです。あれからわたくしは、難をのがれるとすぐに、風に乗って飛び去りまして、大急ぎで、あなたさまが二人のお姉さまから突きおとされなすった船のほうへ、行きました。わたくしは魔力を使って、あなたさまの二人のお姉さまを、二匹の黒い牝犬にしてしまいました。そしてその二匹の犬を連れて来ました。」すると、二匹の牝犬が、わたくしのうしろの立ち木に、つながれているのに気づいたのでございます。さらに女魔神《ジンニーア》はつづけて申しました、「それからわたくしは、あの船の中にあった宝物をば全部、バグダードのお宅に運んでおいてから、あの船を沈めてしまいました。あの若者は、おぼれ死にました。わたくしも死に対しては、どうとも手の施しようがございません。と申すのも、ただアッラーのみがよみがえらしたもうおかたですから。」
こう言って、その女魔神《ジンニーア》はわたくしを抱きしめました。そして、わたくしの姉である二匹の牝犬の綱をとき、これをいっしょにかかえたかと思うと、飛び上がり、たちまちわたくしたちを全部運んで、そして、今ここにあるバグダードのわたくしの家の屋上へ、無事におろしてくれたのでございます。
わたくしは自分の家を見まわりましたところが、船に積んであった財宝も品物も皆、きちんと並べてありました。何一つ紛失いたしませず、いたんでもおりませんでした。
それから女魔神《ジンニーア》は申しました、「スライマーンの印璽《いんじ》に刻まれた聖なる文字にかけて、お願い申します、毎日毎日、この二匹の牝犬を、それぞれ三百度ずつ鞭打ってやってくださるように。もしあなたがこの命令を行なうことを一日でも忘れたら、わたくしは馳せつけて、あなたもまた姉さまがたと同じ姿に変えてしまいますからね。」
ですから、わたくしもやむなく答えました、「お言葉よく承わり、仰せに従います。」
そして、このとき以来、おお信徒の主君《きみ》よ、わたくしはこの牝犬を鞭で打つことにいたしましたけれども、打ってからあと、憐れを覚えて、接吻してやらずにいられないのでございます。
これがわたくしの身の上話でございます。
けれども、おお信徒の主君《きみ》よ、ここにおりまする妹のアミナが、その身の上話を言上いたしましょうが、これはわたくしのよりもはるかに不思議な話でございます。
この物語を聞かれて、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、驚嘆の無上の極に達しなさいました。けれども思う存分に、ご自分の好奇心を満足させようと、いそぎなさいました。ですから、前の晩戸口をあけてくれた若いアミナのほうを向いて、これにお尋ねになりました、「だが、優しい乙女よ、そちのからだの上に残っている打撲傷《うちきず》の痕は、いったいどうした理由《わけ》なのじゃ。」
第二の乙女アミナの物語
この教王《カリフ》のお言葉に、若いアミナは、おずおずと伏し目がちに進み出て、申しました。
おお信徒の長《おさ》よ、わたくしどもの両親につきましては、姉ゾバイダの言葉をくり返し申し上げることはいたしますまい。されば、わたくしどもの父が亡くなりましたとき、わたくしと、わたくしども五人姉妹の中でいちばん末の妹ファヒマとは、二人だけで自分の母といっしょに暮らすことにいたし、一方姉のゾバイダと他の二人は、やはり自分たちの母といっしょに暮らすことにいたしたのでございます。
その後まもなく、わたくしの母はわたくしをある金持ちの老人で、町随一の、また当代きっての富裕な男と結婚させました。そこで一年たつと、わたくしの年とった夫はアッラーの平安のうちに亡くなり、そしてわが公けの法《のり》に従い、法律上の遺産の分け前として、わたくしに金貨八万ディナールを遺《のこ》しました。
そこでわたくしはさっそく、一着千ディナールもするすばらしい衣服を、十着注文いたしました。そして、まったく何ひとつ不自由なく暮らしておりました。
日々の中のある日のこと、わたくしが心静かに坐っておりましたところに、一人の老婆がはいって来て、わたくしを訪れました。この老婆はそれまでついぞ見たことのない女でございました。それはまったくぞっとするような女で、その顔は年寄りのお臀《しり》のようにみっともなく、鼻はつぶれ、眉毛は落ち、目は淫乱な老婆の目で、歯は欠け、鼻には汗がにじみ出て、首は曲がっておりました。それは次のように申す詩人の、よく写しているところでございます。
[#ここから2字下げ]
この凶兆の老婆よ。もし魔王《イブリース》これに会うことあらば、老婆は言葉を用いることすらなく、ただその沈黙のみによって、よくこれにあらゆる奸策を教えもすべし。この老婆は、くもの糸にからまりし千頭の剛情なるろばをも解き放ちえて、しかもこのくもの糸を破ることなかるべし。
こは悪運を下し、あらゆるおそるべき所業を犯すを知る者なり。少女の尻をくすぐり、若き女と交合《まじわ》り、年増女と姦淫し、老婦をそそりて情火を点ぜし者にこそあれ。
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さてその老婆は、わたくしのもとにはいって来て挨拶をし、それから申しました、「おお優美と美質充ちた貴婦人さま。私のところには一人の孤児《みなしご》の若い娘がおりまして、今夜はその婚礼の夜でございます。それで、私はあなたさまにお願いに上がりました。――アッラーはあなたのご親切のご褒美と報いとを授けたもうことを、お忘れにならぬでございましょう、――どうぞこの不憫《ふびん》ないやしい娘の婚礼に、ご列席をいただけないでしょうか。かわいそうにこの娘は、当地にだれも知合いがなく、ただ至高のアッラーのほかには、頼るものとてないのでございます。」こう言って、老婆は涙を流してわたくしの足を抱き始めました。そこでわたくしは、この女の不実をいっこうに存じませんでしたので、不憫になり、同情を覚えて申しました、「お言葉よく承わり、仰せに従います。」すると老婆は言いました、「ではお許しを得て、私はひとまずお暇《いとま》いたしますから、あなたさまはそのあいだにお支度をし、着物をお召しくださいませ。夕方またお迎えに参上します。」次に老婆はわたくしの手に接吻して、立ち去りました。
そこでわたくしは立ち上がって、浴場《ハンマーム》に行き、からだに香水をつけました。それから、新調の十着の着物の中でいちばんりっぱなのを選んで、それを着ました。それから上等な真珠の美しい頸飾りや、腕輪や、耳飾りや、宝石全部を身に着けました。絹と金の青い大面衣《イザール》をまとい、腰に金襴の帯をめぐらし、目に瞼墨《コフル》をさして長く見えるようにしてから、顔にかける小|面衣《ヴエール》を着けました。するとやがてそこに、先ほどの老婆がもどって来て言いました、「おおご主人さま、家にはもう新郎の親戚のご婦人がたが、いっぱいお見えになりました。いずれも、この都でいちばん高貴な貴婦人たちでございます。このかたがたに、あなたがかならずお見えになりますとお伝えすると、たいそうお悦びになって、皆さまお待ちかねでいらっしゃいます。」そこで、わたくしは女奴隷を二、三人伴に連れて、一同で外に出て、さわやかな微風の戯れている、よく水を打った、とある広い街に着くまで、歩いてまいりました。すると、多くの拱門《アーチ》に支えられ、全部|雪花石膏《アラバスター》でできた宏壮な円屋根のそびえ立った、大理石の大玄関が見えました。そしてその玄関からは、中のほうに、雲に届くほどの高い御殿が見えました。そこでわたくしどもは中にはいりまして、その御殿の戸口に着きますと、老婆は戸をたたき、戸はあけられました。そこをはいるとまず、絨毯と壁布とを張った廊下があって、天井には色のついたランプがいくつもつるされて、それぞれ火がはいっており、また火のついた炬火《たいまつ》がずっと並べてありました。また金銀の品々や、宝石や、貴重な金属で作った武器なども、壁にかかっておりました。わたくしたちはこの廊下を通り過ぎますと、もう口で述べても詮もないほどの、みごとな広間に着きました。
この広間には、一面に絹布が張りつめてありまして、そのまん中には、選り抜きの真珠と宝石で飾り、繻子の蚊帳《かや》でおおわれた、雪花石膏《アラバスター》の寝台がございました。
わたくしどもの姿を見ると、一人の若い乙女がその寝台の中から出てまいりましたが、まるで月のような乙女でございました。そしてわたくしに申しました、「マルハバ(30)、アハラン、ワ、サハラン。おお、お姉さま、ほんとうにこれ以上ありがたいことがございましょうか。アナスティナ、あなたさまはわたくしどもの快い慰めでございます、わたくしどもの誇りでございます。」次にわたくしのために、次の詩人の句を誦してくれました。
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もしこの家の石なりとて、うるわしき賓客《まろうど》の訪れを知りもせば、と歓びて、かたみによき知らせ告げ合い、その御足《みあし》の跡に傾き寄りしならん。
石は彼らの言葉をもて叫びしならん、「アハラン、ワ、サハラン、寛仁と偉大とに充ち満てるかたがたのために。」
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次に乙女は坐って、わたくしに言いました、「おお、お姉さま、あなたさまに申し上げなければならないのでございますが、実はわたくしには一人の弟がございまして、ある日ある婚礼の席上で、あなたさまをお見かけ申し上げたのでした。たいそう器量のよい、わたくしよりもずっと美しい青年でございます。そしてその夜からというもの、弟はあなたさまをば熱い恋心で、お慕い申してしまいました。あの老婆にいくらかお金をやって、あなたさまのもとに行かせ、老婆に策をめぐらしてあなたさまをここにお連れ申させたのは、その弟でございます。弟はわたくしのところであなたさまにお会いしたいばかりに、このようなことをしたのでございます。なぜというと、弟は、アッラーとその使徒とによって祝福された今年じゅうに、ぜひともあなたさまと結婚したいというよりほかに、望みとてないのでございますから。そして掟にかなう事柄をいたすことには、少しも不面目はございません。」
この言葉を聞き、そして自分がこのようなお屋敷で知られ、重んじられているのを知りましたとき、わたくしはその乙女に申しました、「お言葉よく承わり、仰せに従います。」すると乙女は悦びにあふれて、両の手を打ち合いました。この合図で、一つの戸が開き、そして月のような若者がはいってまいりました、詩人の申すところさながらに。
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彼は美のいと高きに達し、まことに創造者にふさわしき作品《わざ》とはなれり。まことにこれを刻みし細工師の誉れともなる宝玉なり。
彼は美の完璧《かんぺき》そのもの、美の準縄《じゆんじよう》にまで至りし者。されば、この者のあらゆる人間をして、恋情に狂わしむるを見るとても、怪しむことなかれ。
その美は人の目に著《しる》し、その面《おもて》に刻まれてあればなり。さればわれは誓う、この美を措《お》きて他に美はなしと。
[#ここで字下げ終わり]
この若者を見て、わたくしの心はそのほうに傾きました。すると彼は進んで来て、姉のかたわらに坐りました。そしてすぐに、法官《カーデイ》が四人の証人といっしょにはいって来て、挨拶して坐りました。それから法官《カーデイ》はわたくしとこの若者との契約書をしたためて、証人たちはその契約書にそれぞれの印璽《いんじ》を押し、そして一同はおのが道へと立ち去りました。
すると、わたくしの夫はわたくしに近づいて来て、申しました、「われわれの夜が祝福された夜でありますように。」次に言いました、「おおご主人よ、私はあなたに一つの条件を出したいものと存じますが。」わたくしは言いました、「おおご主人さま、おっしゃってくださいませ。その条件とはどのようなものでございましょうか。」すると彼は立ち上がって、聖典を持って来て、申しました、「ではこれから、アル・コーランにかけて私に誓ってください、私以外の男をばけっして選ばない、他の男にはけっして心を傾けないと。」そこでわたくしはこの条件を誓約いたしました。すると彼は非常に悦んで、わたくしの首のまわりに双の腕を投げかけ、そしてわたくしは、彼に対する愛がわたくしの臓腑にまで、心の全体にまで、しみ入るのを感じたのでございました。
それから、奴隷たちがわたくしたちのために卓布を用意し、わたくしたちは飽き足るまで、食べまた飲みました。次に夜になると、彼はわたくしを連れて、いっしょに寝台に横たわりました。わたくしたちはこの祝福された一夜をば、互いの腕に抱き合って、抱擁とかその他それに似たことどものうちに、朝まで過ごしました。
こうしてわたくしたちはひと月のあいだ、このような状態で、悦びの極みに暮らしつづけました。そのひと月目の終りに、わたくしは夫に、ちょっと布地を買いに市場《スーク》に行く許しを求めましたところ、夫はその許しを与えました。そこでわたくしは自分の着物を着て、あのとき以来家にいる例の老婆を連れて、市場《スーク》におりて行きました。わたくしは一人の若い絹織物商人の店に、足をとめました。老婆は、その店は反物の品がよいからと言ってしきりにすすめ、自分はずっと前から知っていると申すのでございました。それから、さらにつけ加えて言いました、「この主人は若い独身の男で、父親が死んでたくさんのお金と富を継いだのですよ。」次にその商人のほうに向いて、言いました、「ひとつおまえさんのところにある反物全部の中で、いちばん上等な、いちばん高いものを見せてごらん、なにしろこのべっぴんさんのお目にかけるのだからね。」すると商人は言いました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」それから老婆は、その若い商人が一心に、わたくしどもの前に反物を並べているあいだ、ずっとわたくしに、この男のことを讃めたたえ、いろいろとその男の美点を並べつづけました。だが、わたくしは答えてやりました、「おまえがそんなにこの男のいろいろな美点を言ったり、ほめたりしたって、わたしにはなんの用もありませんよ。わたしたちはこの人から入用なものを買って、自宅に帰りさえすれば、用は足りるのですから。」
望みの反物を選び出したとき、わたくしどもは、その商人に代金の金子《かね》をさし出しました。ところが商人は、その金子を受け取ることを拒んで、言うのでした、「きょうのところは、あなたがたから一文もちょうだいいたしません。この品は、ご進物にさし上げることにいたします。」そこで、わたくしは老婆に申しました、「お金を受け取らないというのなら、その反物を返しておくれ。」けれども商人は叫びました、「アッラーにかけて、私はあなたがたからは何もいただきません。これは皆、私の手からの贈物といたします。けれどもそのかわり、おお美しい乙女よ、私にたった一つの接吻を許してくださいませ、たった一つだけ。その接物をば、私はこの店にある商品全部を集めたよりも、もっと高価なものと思うのでございます。」すると老婆は笑いながら、彼に言うのでした、「おお美男の若者よ、その接吻をそれほど価の知れぬものと思うなんて、おまえはよほどどうかしているねえ。」それから、わたくしに言いました、「おおわが娘よ、この若い商人の言うことをお聞きになったでしょう。何も心配なさることはありません。この男にちょっとばかり接吻されたとて、べつに困ったことになりっこありますまいに。そしてそのかわりには、ここにある高価な反物全部の中から、どれでも好きなものを選んで、もらうことができるのですよ。」そこで、わたくしは答えました、「わたしは誓いを立てて縛られている身だということを、知らないのかい。」するとまた言いかえしました、「この男に接吻させておいて、あなたは口も利かず、身動きもせず、じっとしていらっしゃい。そうすれば、あなたには少しもやましいところがありますまい。そのうえ、あなたはこのご自分のお金と、それに反物も持ってお帰りになれるのですよ。」結局、老婆はこうしてこの行ないを何かとわたくしに取りなしつづけたので、わたくしもとうとう頭を袋に入れて(31)、この申し出を承知する気にならずにいられなくなってしまいました。けれども、わたくしは目を隠したうえで、通行人にそれを見られないように、面衣《ヴエール》の垂れをひろげました。すると、その若者はわたくしの面衣《ヴエール》の下に頭を入れ、わたくしの頬に口を近づけて、接吻しました。けれどもそれと同時に、わたくしの頬にかみつき、しかも肌に傷がつくほど、ひどくかんだのでした。それでわたくしは、痛いのとびっくりしたのとで、気を失ってしまいました。
さてわれに返ったとき、見ればわたくしは、老婆の膝の上に横たわっておりました。老婆はわたくしのためにたいへん心配しているような様子でした。そしてその店はもうしまっていて、若い商人の姿は見えませんでした。すると老婆は申しました、「アッラーは讃むべきかな、おかげで私たちは、もっとひどい不幸に会わずにすんだ。」それからわたくしに言いました、「さあ私たちは家に帰らなければなりません。ところで、あなたはおかげんが悪いようなふうをしていらっしゃい。そうすれば私が薬を持って行ってあげますから、それを傷口につければ、なにすぐになおりますよ。」そこで、わたくしもとりあえず起き上がって、そして物思いに沈み、あとの成行きに恐れおののく気持でいっぱいになりながら、家まで歩き始めましたが、家に近づくにつれて、わたくしの恐れはいよいよ募るのでございました。家に着くと、わたくしは自分の部屋にはいって、病気のようなふうをしました。
そうしているうちに、夫がはいってまいりまして、いかにも心配そうに、わたくしに申しました、「おおご主人よ、外出中に何か災難があったのかい。」わたくしは答えました、「いいえ、なんでもないのです。わたくしは元気でございます。」すると、夫はじっとわたくしを見つめて言いました、「だがおまえの頬の、ちょうどいちばんやわらかくてふくよかな場所にある、その傷はどうしたのだ。」そこでわたくしは言いました、「お許しを得て、きょうこの反物を買いに出ましたおりに、薪を積んだ一頭のらくだが、人混みの往来の中で、わたくしのすぐそばを通って、わたくしの面衣《ヴエール》を破り、ご覧のように、頬に傷をつけたのでございました。ほんとに、バグダードの往来は狭くていやでございます。」すると夫は非常に怒って、言いました、「あすになったら、さっそく総督のところに出向いて、らくだ曳きと樵夫《きこり》どもを全部訴えてやろう。そうすれば、総督はやつらを一人残さず、しばり首にしてくれよう。」そこで、わたくしは不憫でたまらなくなって、申しました、「おんみの上なるアッラーにかけて、他人の科《とが》をおんみにお引き受けなさいますな。それに実は、これはまったくわたくしだけが悪かったのでございます。というのは、わたくしがろばに乗っておりますと、そのろばが急にはね出して駆け始め、そのためわたくしは地面に落ちて、そのはずみに、たまたまそこに木ぎれがあって、それで顔をすりむかれ、こうして頬に傷を受けたのでございますから。」すると夫は叫びました、「あす、おれはジャアファル・アル・バルマキーのところに出頭して、この仔細を話してやろう。そうすれば、この町のろばの馭者全部をみなごろしにしてくれよう。」そこでわたくしは叫びました、「それではあなたは、わたくしのためにすべての人を殺そうとなさいますの。これはただアッラーのおぼしめしとそのお命じになる天運とから、わたくしの身に起こったことなのでございますのに。」この言葉を聞くと、夫はもうその腹立ちをおさえきれなくなって、叫びました、「この不実者めが、嘘もいいかげんにしろ。いでや汝の罪の罰を受けさせてくれるぞ。」そしてこのうえなくむごい言葉をわたくしに浴びせかけ、足でもって地面を打ち、大きな声で叫んで、人を呼びました。すると戸が開いて、七人の恐ろしい黒人がはいってまいりまして、わたくしを寝床の中から引きずり出し、家の中庭のまん中に放り出しました。すると、夫は黒人の一人に、わたくしの両肩を押えてわたくしの上に坐るように命じ、今一人の黒人に、わたくしの膝の上に坐って両足を押えるように命じました。すると第三の黒人が、手に剣を持って、進み出て申しました、「おおご主人さま、私は剣をふるって、この女を一刀両断してしまいましょう。」そして、今一人の黒人がつけ加えて申しました、「それから私どもはめいめいこの女の肉をぶつ切りにして、デジュラの河(32)の中に放りこみ、魚の餌食としてやりましょう。およそ愛の誓いを裏切る者の刑罰は、こうしたものであらねばなりませぬから。」そして自分の言葉に重味をつけるために、その黒人は次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
われもしわが愛する者に他人《あだしびと》ありと知らば、わが魂は安からず、本意なくもかかる滅びの愛を断ち切らん。
しかしてわれはわが魂に言うならん、「おおわが魂よ、われらむしろ潔く死するにしかず。敵とともにある愛に、幸福はあらざればなり」と。
[#ここで字下げ終わり]
すると、夫は剣を手にする黒人に言いました、「おお猛《たけ》きサアードよ、この不実の女を斬れ。」そしてサアードは剣を振りあげたのでございます。すると夫はわたくしに言いました、「さあ、汝は今は声高く信仰の証言《シヤハーダ》を誦えよ。次に汝の所持するあらゆる品々、衣類、調度の類をいささか思い出してみて、遺言をするがよい。これぞ汝の生命《いのち》の最後であるから。」そこでわたくしは夫に申しました、「おお至善のアッラーの下僕《しもべ》よ、せめて、わたくしが信仰の証言《シヤハーダ》と遺言をするだけの時間を、お与えくださいませ。」それから、わたくしは頭を天のほうにあげ、わが身のほうに伏せ、そしてつらつら身を顧み、ただいまのこの情けない、恥ずかしいありさまを考え始めました。すると涙がわいてまいり、泣けてしまいました。そこで、わたくしは次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
おんみはわが臓腑に情火を点じて、次いでみずからはひややかにいます。おんみはわが眼《まなこ》を長き夜々にわたって閉ざさしめず、次いでみずからは安らかに眠る。
されどわれは。われはおんみをわが胸とわが眼との間《あわい》に置けり。さればいかにしてわが胸はおんみを忘れうべきや、はたわが眼はおんみのため涙をとどめうべき……。
おんみは尽くることなき赤心《まごころ》をわれに誓いたまいき。されどわが心をかちうるや、ただちに意を翻えしたまえり。
今はこの心を憐れともおぼしたまわず、わが悲しみをいとおしみたまわんともせず。そもおんみは、ただわが不幸とあらゆる若き人々の不幸とをかもさんとてか、生まれたまいしや。
――おお、わが友どちよ、われはアッラーにかけてこいねごう、われ死なばわが墓石の上に記したまえ、「ここに大いなる罪人《つみびと》あり。この者は愛せり」と。
――かくもせば、愛の苦しみを知る心悲しき通行者は、わが墓を見て、そぞろあわれみの一瞥を投ずらん。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦し終えて、わたくしはなおも泣きました。夫はわたくしの詩句を聞き、涙を見ますと、なおいっそう憤りいらだって、次の対句をわたくしに聞かせました。
[#ここから2字下げ]
そもそもわが心の愛する者をわが棄てしは、厭きたるにあらず、倦んじたるにあらず。そは棄て去るに値する咎《とが》を、かの者の犯せしなれ。
彼はわれら二人の情熱の中に、さらに他男《あだしおとこ》を交えんと欲せしなり。わが心、わが官能、わが理性は、かかる共有に傾くをえざるものを。
[#ここで字下げ終わり]
夫がこの詩句を言い終えたとき、わたくしはその心を動かそうと思って、ふたたび泣き始めました。そして心の中でこう思ったのでした、「これはどこまでも下手《したて》に出て、泣きつくことにしよう。言葉を和らげてかきくどこう。そうすればひょっとすると、持っている富は全部とられても、一命だけは許してもらえるかもしれない。」そこでわたくしはひたすら嘆願し始めて、次の詩節を優しく誦しました。
[#ここから2字下げ]
まこと、われ誓いて言う、きみもし正しからんと欲したまわば、われをして死なしめたもうことよもあらじ。別離をば避けがたしと観《み》し者の、正しくありえたること絶えてなきは、人の知るところなり。
きみは愛にまつわるいっさいの重荷をば、わが身に負わせたまいしが、わが肩は薄き肌着の重さにも、あるはまた、さらに軽《かろ》き重さにすらも、よく耐えざるものを。
さあれ、われはわが死に驚かざれど、別れてのちになおわが身、ひたすらきみを欲《ほ》りするこそは怪しけれ。
[#ここで字下げ終わり]
この詩句を誦し終えたとき、わたくしはまた泣きました。すると夫はじっとわたくしを見つめ、そして手を振って激しくわたくしを退け、わたくしを散々ののしったのでした。それから、例の黒人に呼びかけて言いました、「この女を両断せよ。こんな女はもはや何ものでもない。」
黒人がわたくしのほうに進み寄ったときには、もうわたくしは死を逃がれられないものと観念し、生きる望みを捨てました。そして今は自分の運命を、至高のアッラーに委ね奉ることしか思いませんでした。するとその瞬間に、例の老婆がはいって来て、若者の足下に身を投げ伏し、その足を抱きながら、申したのでございました、「おおわが子よ、あなたさまの乳母であるこの私が、これまでお世話申し上げたよしみにかけて、どうかこの乙女をお許しくださるように、伏してお願い申します。というのは、この娘《こ》はそれほどの罰に相当するような過ちは、けっして犯していないのでございます。それに、あなたさまはまだお若い身ですから、さきざきこの女の呪いが、おんみの上にふりかかることも案じられます。」そして老婆は泣き始め、言葉を尽くしてかきくどきつづけたので、とうとう夫も我《が》を折って、言いました、「しかたがない、おまえに免じて助けてやる。だがこいつのからだに、これから一生のあいだ残っているような痕をつけてやらずにはおかぬ。」
こう言って、黒人どもに一つ二つ合図をしますと、彼らはすぐにわたくしの衣をはぎ取って、こうしてわたくしを丸裸にしてさらしました。すると夫は自身で、よくしなう、まるめろの小枝を取りあげて、わたくしに襲いかかり、それでもってわたくしの全身を、とりわけ、背中と胸と脇腹を鞭打ち始めましたが、それがとてもきつく激しくて、わたくしはこんなにぶたれたのでは、もうとても命はないものと観念しているうちに、気を失ってしまいました。するとようやく夫は打つのをやめて、わたくしを地べたの上に横たえたままにして、奴隷たちに、夜になるまでこのまま放っておき、夜になったら、闇に紛れて、わたくしをもとの自分の家に運びこみ、品物のようにそこに投げこんで来いと命じて、立ち去ってしまいました。そして奴隷たちは言われたとおりにして、主人の命令のままに、わたくしをもとのわが家に投げこんで行きました。
正気づいたとき、わたくしは打撲傷《うちみ》のために、長いこと身動きもできずにおりました。それからさまざまの薬を用いて、傷の療治をいたしておりますうちに、おいおい傷も治りました。けれども打たれた痕と創痕《きずあと》とは、まるで革ひもと鞭でぶたれたように、手足と肌にいつまでも残りました。その痕は、皆さまご一同のご覧になったとおりでございます。
四月《よつき》のあいだ手当てを加えて、ようやく治りましたとき、わたくしは自分がこんなひどい目に会った御殿をひとめ見たいと思って、その方角にまいりました。けれどもその御殿はと申せば、跡形もなくつぶれて、それがあった町筋も、端から端まで、残らず取りはらわれておりました。そしてあのすばらしい建物などのあったところには、今は町の屑物を積みあげた、汚物の山しかございませんでした。そしていろいろと手を尽くして探してみましたけれども、わたくしの夫の消息はかいもくわかりませんでした。
そのときわたくしは、相変わらずとつがずに娘のままでいる、いちばん末の妹のファヒマのもとに帰りました。そして二人で、父を同じくする姉のゾバイダを訪れました。これはただ今、牝犬に変えられた二人の姉との物語をお話し申し上げた、あの姉でございます。そして慣例の挨拶をすませてから、姉はわたくしに自分の身の上を話し、わたくしは姉にわたくしの身の上を話したのでございます。すると、姉のゾバイダはわたくしに申しました、「おお妹よ、この世ではだれしも運命の不幸をまぬがれる者はありません。けれども、アッラーのおかげで、わたくしどもは二人ともまだ生きながらえております。ではこれからは、いっしょに暮らすことにいたしましょう。そして特に気をつけて、今後は二度と、結婚という言葉を言い出さないことにしましょう。わたくしたちは、その思い出さえも忘れてしまわなければならないくらいです。」
それからまた末の妹ファヒマも、わたくしどもといっしょにいることにいたしました。そして家でまかない方の役目をして、毎日|市場《スーク》に買い物をしに行き、必要な品々をすべて買い求めることは、この末の妹がし、わたくしは、訪ねて来る人々に戸をあけて、わたくしどものお客さまを迎えることを特に引き受け、そしていちばん上の姉ゾバイダは、家事万端を切りまわすことにいたしているのでございます。
こうしてわたくしども一同は、男をまじえずに、たいそう幸福に暮らしつづけているうちに、妹ファヒマが、たくさんの品物をかついだ人足を連れて来て、わたくしどももこれに、しばらく休んでゆくようにと申した日となったしだいでございます。そしてこのとき、あのそれぞれ身の上をお話しになった、三人の托鉢僧《サアーリク》のかたがたが見え、つづいて、あなたさまがたお三かたが、商人の姿をして、お見えになったのでございます。それからいかようになったか、またどのようにしてわたくしどもが御手のあいだに召し出されたかは、ご承知あそばさるるところにござります、おお信徒の長《おさ》よ。
これがわたくしの身の上でございます。
このとき教王《カリフ》はいたく驚嘆あそばされ、そして……
[#ここで字下げ終わり]
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、自分の物語をやめた。
[#地付き]けれども第十八夜になると[#「けれども第十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは次のような言葉でつづけた。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、末の妹ファヒマと二匹の黒い牝犬と三人の托鉢僧《サアーリク》と共に御前にあった、乙女ゾバイダとアミナとの二人の身の上話の始終を聞きなすって、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードはいたく驚嘆あそばされ、そしてこの二つの物語をば、三人の托鉢僧《サアーリク》の物語と共に、役所の書記たちにいとも美しい金文字をもって記録させ、そのうえで、その手稿を王室の文庫に収めておくようにと、お命じになりました。
次に、教王《カリフ》は乙女ゾバイダに仰せられました、「さて、おお高貴あふるる貴婦人よ、そちはそちの二人の姉を魔法にかけて、この二頭の牝犬の姿と変えた魔女《イフリータ》の、その後の消息を知らざるか。」すると、ゾバイダはお答え申しました、「信徒の長《おさ》よ、知ろうといたせば知ることもかなうでございましょう。と申しますのは、魔女《イフリータ》はわたくしに自分の髪の毛をひと房くれて、こう申しました。『いつでも私に用があったら、この毛を一本お焼きになりさえすればよろしい。そうすれば、私はどんなに遠い所にいようと、たとえコーカサスの山のうしろにいようとも、すぐさまあなたの前に姿を現わします』と。」そこで教王《カリフ》は仰せられました、「おお、その毛をこれへ持ってまいれ。」ゾバイダはその毛の房をお渡し申しますと、教王《カリフ》はそこからひと筋の毛を取り出して、それを燃しました。すると髪の焼ける臭いがしたと思うまもなく、にわかに宮殿全体が震動して、激しく揺れ動きました。そして突然その女魔神《ジンニーア》が、豊かな服装をした若い娘の姿をして、現われ出ました。女魔神《ジンニーア》は回教徒でございましたので、教王《カリフ》に向かってご挨拶することを、怠りませんでした、「平安君の上にあれ、おおアッラーの御名代《みなしろ》よ。」そして、教王《カリフ》もそれに答えて、仰せられました、「して、汝の上に、平安とアッラーのご慈悲と祝福と降《くだ》れかし。」すると女魔神《ジンニーア》は申しました、「お聞きください、おお信徒の大君よ、お望みにより、私をここに現われ出させたこの乙女は、私に大恩を施して、私のうちに種をまき、その種が芽生えたのでございます。されば、私がいかなることをしてさしあげようと、私の受けた恩義に十分報いることはとてもできないのでございます。さてその二人の姉のほうは、私はこれを牝犬と変じましたが、二人を取り殺さなかったのは、ただこのお妹さまにあまりに大きな悲しみを与えまいがためのみでございます。ただ今、おお信徒の大君よ、もしわが君が二人の釈放をお望みとあらば、君に免じ、かつはそのお妹さまに免じて、私はこれを解き放ってやりましょう。それに、私は自分が回教徒であることを、けっして忘れはいたしませぬ。」すると教王《カリフ》は申されました、「いかにも、余はそちが二人を解き放ってくれることを望む。しかるのち、われらは、この打たれてからだを傷つけられたる若き婦人の件を、詮議いたすとしよう。もしその述ぶるところに偽りなきを確かめえたりとせば、余はこの婦人をかばい、これをかくも不当に罰せし男に復讐してつかわそう。」すると魔女《イフリータ》は言いました、「信徒の長《おさ》よ、この若いアミナをこうした目にあわせ、しいたげたあげく、その富を奪った男を、私は立ちどころにお知らせ申しましょう。なぜならば、その男は、人間の中でわが君にもっとも近しい人でございますから。」
それから魔女《イフリータ》は一杯の水を取りよせて、その上に呪文を唱えました。次にその水を二匹の牝犬の上に振りかけて、これに向かって申しました、「とく汝らのもとの人間の形に還れ。」すると即刻、二匹の牝犬は、彼らを創った者の光栄ともなるような、美しい二人の乙女となりました。
それから女魔神《ジンニーア》は、教王《カリフ》のほうに向き直って、言いました、「若いアミナに対して、ああした不届きなあしらいをした当人こそは、わが君ご自身の王子、アル・アミーン(33)でございます。」そして女魔神《ジンニーア》は事の顛末をお話し申し、こうして教王《カリフ》は、第三者の口から、と申しても人間ではなく、女魔神《ジンニーア》の口から、事の真偽を確かめることができなすったのでございました。
すると教王《カリフ》はたいそう驚きなさいましたが、最後にこう結論なさいました、「わが仲立ちにより、この二頭の牝犬の解き放たれしは、まことにアッラーに讃《たた》えあれ。」次に王子アル・アミーンを御前にお呼び出しになって、釈明をお求めになりますと、アル・アミーンは真相を話してお答え申し上げました。そこで教王《カリフ》は、いずれも王の世継ぎであった三人の托鉢僧《サアーリク》と、三人の乙女と、魔法にかけられていた二人の姉とのいる、その同じお部屋に、法官《カーデイ》と証人たちを召し寄せられました。
そのうえで、教王《カリフ》は法官《カーデイ》と証人を前にして、王子アル・アミーンをふたたび若いアミナにめあわせ、若いゾバイダをば、王の世継ぎである第一の托鉢僧《サアールク》にめあわせ、今しがた人間の姿にもどった他の二人の若い女をば、他の二人の王の世継ぎである托鉢僧《サアールク》にめあわせ、そしてご自身は、五人の姉妹のいちばん末の処女ファヒマ、快く優しい使いの女との、結婚の契約書を作らせなさいました。そして荷かつぎ人足は、これを召し出されて、侍従長に任命し、後宮《ハーレム》の中でいちばん美しい少女をめあわせられたのでございました。
そして教王《カリフ》は、おのおのの夫婦にそれぞれ御殿を新築させて、彼らが仕合せに暮らせるようにと、一同に、莫大な富をお与えになりました。そしてご自身は、夜になると早々に、急いで若いファヒマの腕の中に横たわりに行かれ、そして祝福の初夜をお過ごしになったのでございました。
[#この行1字下げ] ――「けれども、」とシャハラザードはシャハリヤール王に向かってつづけた。「おお幸多き王さま、この物語とても斬られた若い女の物語[#「斬られた若い女の物語」はゴシック体]よりもいっそう驚くべきものとは、けっしておぼしめされますな。」
[#改ページ]
斬られた若い女の物語
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
夜々のうちのある夜、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、ジャアファル・アル・バルマキーに仰せられました、「今宵《こよい》われらは町のほうに下り、総督や奉行《ワーリー》どものなすところを知りたいと思う。わがもとに苦情を訴えらるるがごとき者はことごとく、断乎罷免いたす所存じゃ。」するとジャアファルは答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」
そこで教王《カリフ》とジャアファルと御《み》佩刀持《はかせもち》マスルールは身を窶《やつ》して、下りてゆき、バグダードの街々を歩きはじめますと、そのとき、ある路地を通りかかっているおりに、一人のたいへん年とった老人を見かけました。その老人は、魚網と魚籠《びく》を頭にのせ、片手に杖を持って、次のような詩節を口ずさみながら、ゆっくりと歩み去っておりました。
[#ここから2字下げ]
彼らは我に言えり、「おお賢者よ、君は君の智によって、人間の間にあって、暗夜の中の月のごとし。」
我は彼らに答えぬ、「願わくは、その言葉を措け。『天運』の智のほかに、智はあらざるなり。」
何となれば、この我は、わが一切の智、わが一切の原稿と著書と墨壺をもってするとも、ただの一日もだに、「天命」の力に拮抗すること能わざるべし。しかして、わが方《かた》に賭くる者は、彼らの賭金を失うのほかなからむ。
まことに、貧者と、貧者の境涯と、貧者のパンと、その生活にもまして、悲しむべきものあらんや。
夏にしあらば、身の力を使い尽くす。冬にしあらば、身を温むるものとては、ただ灰壺のみ。
歩みを停むれば、犬ども襲いてこれを追う。悲惨なるかな。侮辱と嘲笑の的《まと》なり。おお、これにまして悲惨なる者は誰ぞ。
彼にして意を決し、世の人々に不平を訴え、己が悲惨を示さざるかぎり、そも何ぴとのこれを憐れまん。
おお、かくのごときが貧者の生活なりとせば、いかばかり、墳墓は彼にとって好ましきものぞ。
[#ここで字下げ終わり]
この嘆きの詩をお聞きになると、教王《カリフ》はジャアファルにおっしゃいました、「あの憐れな男の詩と様子には、悲惨はなはだしいものがあるようじゃ。」それから老人に近づいて、申されました、「おお|ご老人《シヤイクー》、あなたのご商売は何ですか。」老人は答えました、「おおご主人さま、漁師です。しかもたいへん貧乏です。それに家族もございます。今日は昼から今まで、家を出て働いておりましたが、アッラーはいまだに、子供たちに食べさせなければならないパンを、お恵み下さいません。そこでもうつくづくわが身がいやになり、生きているのに疲れ、今はただ死を願うばかりです。」すると教王《カリフ》はこれにおっしゃいました、「もう一度、われわれといっしょに河にもどり、岸からティグリス河に網をうってはもらえまいか。私の名で網をうち、私の運を見てほしいのだが。そして水からあがったものは全部、私が買うことにし、百ディナールお払いしよう。」この言葉に、老人はたいそう悦んで、答えました、「お申し出承知し、わが頭上に置きまする。」
そこで漁師は一同といっしょに、ティグリス河のほうに引きかえし、河に網を投げ入れて、待ちました。次に網の紐をたぐると、網は水から出ました。年とった漁師が見ると、網には、ぴったりとしまった箱がひとつかかっていまして、なかなか持ち上がらないほど重いのでした。教王《カリフ》もためしてごらんになって、いかにも重たいとお思いになりました。けれども、いそいで漁師に百ディナールつかわされますと、漁師はほっとして立ち去りました。
そこでジャアファルとマスルールはその箱を背負って、御殿まで運びました。そして教王《カリフ》は炬火《たいまつ》をつけさせ、ジャアファルとマスルールが箱に近づいて、それを壊しました。なかには、棕櫚の葉で編んで、赤い毛糸で縫い合わせた、大きな籠《クーフア》がありました。両人はその毛糸を切ると、大籠のなかには、毛氈があります。毛氈を取りのけると、その下に、婦人用の白い大面衣《イザール》があります。大面衣を持ちあげると、その下には、純銀のように純白な、一人の乙女が切りきざまれているのでした。
これをごらんになると、教王《カリフ》は両頬に涙を流されました。それから、お怒りに溢れて、ジャアファルのほうを向かれ、お叫びになりました、「おお、宰相《ワジール》の犬め、今この通り、わが治下において、殺人が犯され、被害者は水中に投ぜられておるぞ。その血は、審判の日には、余の身に落ちかかり、余の良心の上に、ずっしりとこびりつくであろう。されば、アッラーにかけて、余はぜひとも、この加害者に復讐を加え、その一命を奪わねばならぬ。また汝、おおジャアファルよ、余は、わがバニ・アッバース一族の歴代|教王《カリフ》の直系たることの真実にかけて、誓言いたす、余はこれなる乙女の仇《かたき》をとってやりたいと思うが、もし汝がその加害者をば、余の面前に引っ立ててまいらぬとあらば、余は汝をわが宮殿の門の上にて、磔刑《はりつけ》にいたすであろうぞ、汝をはじめ汝の眷族、バルマク家の四十名ともどもに。」そして教王《カリフ》は逆鱗に満ちあふれなさいました。そこで、ジャアファルは言上いたしました、「三日間のご猶予をお授け下さいまし。」教王《カリフ》は答えなさいました、「授けてとらせる。」
そこでジャアファルは御殿から退出して、悲しみにあふれながら、町なかを歩きつつ、心中ひとり言を言いました、「あの若い女を殺した奴を、いったいどうして突きとめられようか、どこで見つけて、教王《カリフ》の御前に引っ立てられよう。一方、万一殺人犯でない者を引っ立てて行って、真の犯人の代りに、別人を死なせるようなことがあったなら、その行ないはわが良心を悩ますこととなろう。さればもはやどうしてよいやらわからぬわ。」そしてジャアファルは、こうしてわが家に帰って、猶予の三日間、絶望のうちに、家に引きこもっていました。四日目になると、教王《カリフ》からお呼び出しがきました。御手《おんて》の間にまかり出ますと、教王《カリフ》はおたずねになりました、「若い女の虐殺犯人はどこにおるか。」ジャアファルは答えました、「私に見えざる者、ひそめる者を見ぬいて、全市のただ中で犯人を突きとめることが、できるものでしょうか。」すると教王《カリフ》はお怒りはなはだしく、王宮の御門の上に、ジャアファルを磔刑《はりつけ》にするようご命じになり、触れ役人たちに、次のように言いながら、町中と近在一帯に、事を触れるようご命じになりました。
「教王《カリフ》の宰相《ワジール》、バルマク家のジャアファルの磔刑の光景と、その親族、バルマク一族の者四十名の、城門上で行なわれる磔刑を、見物いたしたく思わん者は、何ぴとたりとも、家を出ずれば、この光景を見物するを得べし。」
そこでバグダードの全住民は、ジャアファルとその眷族の磔刑を見物しようと、あらゆる街々から出てまいりましたが、誰もその原因を知るものはありません。全部の人は嘆き悲しんでおりました。それというのは、ジャアファルはじめバルマク一族はみな、恩恵と寛仁のゆえに、慕われていたからでございます。
処刑台が建てられると、処刑される人たちはその下に立たされ、今は教王《カリフ》の処刑のお許しを待つばかりでした。ところが、こうです。全住民が泣いていると、そこに、豪奢な身なりをした、一人の美男の青年が、いそぎ群衆をかきわけて、ジャアファルの手の間に行きつき、彼に言いました、「どうぞ閣下に釈放が与えられますように、おお大貴族たちのご主人にして最大のお殿さま、おお、貧者の避難所たるあなたさま。と申しますのは、あの切りきざまれた女を殺し、それをば、あなたさま方がティグリス河で、網にかけなすったあの箱に入れましたのは、この私でございます。されば、埋め合せに私を殺しなすって、私に復讐なさいまし。」
ジャアファルはこの言葉を聞くと、わが身のためには、大そう喜びましたが、しかしその若者のためには、たいへん悲しみました。そこで、若者にさらに詳しい説明を聞こうとすると、そのとき突然、一人の人品いやしからぬ老人《シヤイクー》が、群衆を押しわけて、いそぎジャアファルと若者のほうに進みより、二人に挨拶して、言いました、「おお宰相《ワジール》殿、この若者の言葉をお信じなさるな。というのは、あの若い女の殺害者は、ただこのわし一人、ほかにはありませぬ。されば閣下が、あの女の仇を討ってやるべきは、ただこのわしのみです。」けれども若者は言います、「おお宰相《ワジール》殿、この年とった|ご老人《シヤイクー》は耄碌しておりまして、自分で何を言っているのかわからないのです。繰り返し申し上げますが、女を殺したのは、この私です。されば、同様の目にあって罰せらるべきは、ただこの私だけでございます。」すると老人《シヤイクー》は言います、「おおわが子よ、お前はまだ若いから生命《いのち》を惜しまねばならぬ。しかしわしは年をとり、この世はもう飽きあきした。わしはお前のため、宰相《ワジール》とご眷族のため、身代りの役に立って進ぜよう。されば繰り返し申し上げるが、このわしが殺害者じゃ。わしに対してこそ復讐すべきじゃ。」
そこでジャアファルは、警吏の長《おさ》の同意を得まして、その若者と老人を伴って、いっしょに教王《カリフ》の御許《みもと》に上がってゆき、申し上げました、「信徒の長《おさ》よ、かの若い女の殺害者は、御前《おんまえ》におりまする。」教王《カリフ》はお尋ねになりました、「どこにおるか。」ジャアファルは言いました、「この若者は、自分自身が下手人であると称し、また言いはっておりまするが、しかしこの老人は、それを否認し、自分自身こそ下手人であると、これまた言いはっております。」そこで教王《カリフ》は、老人《シヤイクー》と若者をごらんになって、両人におっしゃいました、「その方たち両人のうち、いずれがあの乙女を殺したるか。」若者は答えました、「私でございます。」老人《シヤイクー》は言いました。「いや、ただこのわしでござります。」すると教王《カリフ》は、それ以上お尋ねなく、ジャアファルにおっしゃいました、「両人を連れて行って、磔刑《はりつけ》に処せ。」けれどもジャアファルはお言葉を返しました、「下手人が一人しかないとすれば、二番目の者の処罰は、非常なる不公正と相なりましょう。」すると若者は叫びました、「天をそのあるところの高さに高め、地をそのあるところの深さに拡げたまいし御方《おんかた》にかけて、私は誓います、あの若い女を殺したのは、ただこの私一人です。ここにその証拠があります。」そして若者は、教王《カリフ》とジャアファルとマスルールだけが、たまたま見つけて知っている事柄を、述べたのでした。それで教王《カリフ》も、この若者の罪状を信じなすって、極度の驚きに陥りなされ、若者におっしゃいました、「だがこの殺人は何ゆえか。棒を加えられて強いらるることなく、自分から白状いたすとは、何ゆえか。して、かくのごとく、みずから返報の罰を受けたいと求むるとは、そもいかなるわけか。」すると青年は申しました。
されば、おお信徒の長《おさ》よ、かの切りきざまれた乙女こそは、私の妻でありまして、これなる年とった|ご老人《シヤイクー》の娘でございます。私はその女が処女の娘であったとき、結婚しました。そしてアッラーは私に、この女によって、三人の男の子を授けて下さいました。妻はずっと私を愛し、私に仕えつづけ、私としては、ずっと、妻に何の咎めるべき点も認めなかったのでありました。
ところが、この月のはじめ、運命は、妻が重い病にかかることを、望みました。そこで早速、最も学識のある医者たちを呼びますと、彼らはアッラーのお許しを得て、すぐに妻を治さずにはおきませんでした。それで私は、その発病以来、妻といつものことをしていなかったところ、ちょうどその時、その気が起こりましたので、まず最初に、妻に風呂を使わせたいと思いました。ところが、妻の言うに、「浴場《ハンマーム》に行く前に、叶えたい望みがひとつございます。」私はこれに言いました、「その望みとは何かね。」妻は言いました、「林檎《りんご》がひとつ欲しく、その匂いをかいで、ひとかじりかじりたいのです。」そこで私は直ちに、たとい金貨一ディナールの値いなりとも、買ってやろうと思って、町に出かけました。そして果物屋を残らず探しましたが、林檎はどこにもありません。それですっかりがっかりして家に戻りましたが、妻に会う元気もなく、ひと晩中、林檎を手に入れる方法を考えました。翌日は、夜明けに家を出て、果樹園のあるほうに向かい、園をひとつひとつ、木を一本一本、見まわりはじめましたが、やはり見つかりません。ところが、途上で、ひとりの庭番の老人に出あったので、この男に、林檎のことをたずねてみました。彼は言うのでした、「わが子よ、それはめったに見つからない品だ。理由は簡単さ。それはバスラの、信徒の長《おさ》の果樹園よりほかには、どこにもないからだ。だがそこに行っても、手に入れることは非常にむずかしい。なにしろ番人が、林檎は教王《カリフ》の御用のために、大切にしまっておくからね。」
そこで私は、妻のもとに戻って、事の次第を話してやりました。けれども妻に対する愛情から、私はすぐに旅の用意をととのえました。そして出発して、バスラまで往復、夜に日をついでまる十五日かかりました。けれども運よく、私は、バスラの御苑の番人から、三ディナールの代金で買った、三つの林檎を携えて、妻のもとに戻りました。
そこですっかり心楽しく家にはいって、妻にその三つの林檎を差し出しました。ところが妻は、これを見ても、いっこうに満足の色を示さないで、かたわらにぞんざいに放り出しました。とはいえ、見れば、私の留守中に熱が再発し、しかも非常にひどく、まだ退かない様子でした。妻はさらに十日の間寝こんでおりましたが、私はその間ひと時もそばを離れませんでした。でもアッラーのお蔭で、十日たちますと、妻は健康を回復しましたので、私は外に出て、店に行くことができるようになり、また売り買いをはじめました。
ところで、こうして私が自分の店に坐っておりますうち、お昼ごろ、私の前を、ひとりの黒人が通りかかり、手に林檎をひとつ持って、おもちゃにしているのを見かけました。そこで、私はこれに言いました、「おい、おい、友達よ、お前さんはいったいどこで、その林檎を手に入れることができたのか。教えてくれ、おれもまた、そんなのをいくつか買いに行きたいからね。」私の言葉に、その黒人はにやにやしはじめて、言いました、「おれの情婦《いろおんな》からせしめたのだよ。おれが会いにゆくとね、もうしばらく会わなかったのだが、女は加減が悪いようで、そばに、林檎が三つあった。聞いてみると、こう言うのだ、『考えてもごらんなさい、かわいい人よ、あのみじめな角《つの》の生えた父《とう》さん、私の亭主はね、私のためにこれを買いに、わざわざバスラくんだりまで行って、金貨三ディナールでこれを買ってきたのだよ。』それから女は、この林檎をおれにくれたので、今ここに持っているわけさ。」
この黒人の言葉に、おお信徒の長《おさ》よ、私の両眼は、黒い炭となった世界を見たのでございました。私はすぐと店を閉めて、家に戻りましたが、途々《みちみち》、激しい怒りの爆発力で、もうすっかり分別を失ってしまっておりました。そして寝床の上を見ると、はたして、三番目の林檎が見あたりません。そこで私は妻に言ってやりました、「三番目の林檎はどこにあるのだ。」妻は答えました、「存じません。林檎のことなど全く覚えがございません。」これによって私は、黒人の言葉が嘘でないことがはっきりわかりました。そこで私は、手に刃物を握って、妻に躍りかかり、腹の上にわが両膝をのせ、刃物を振って、切りきざんでやりました。こうして頭と手足を切り離し、大急ぎで全部を大籠に入れ、それをば面衣《ヴエール》と毛氈で蔽い、これを箱に詰めて、釘づけにしました。その箱を私は牝らばに積んで、すぐにティグリス河に投げこみに行ったのですが、これはすべて自分で手ずからやったのでございます。
されば、おお信徒の号令者よ、どうぞ私の罪の罰として、私の死をお急がせ下さいますように。かくして私はわが罪を償いたく、それと申すは、私は復活の日に、この罪を報告するのを、いたく恐れておりますれば。
さて私は、誰にも見咎められずに、箱をティグリス河に投げこんで、家に戻ってきました。すると、長男が泣いております。そこで、子供はたしかに母親の死を知っているはずはないと思いながらも、とにかく聞いてみました、「なぜ泣くのかね。」子供は答えました、「だって、お母さんのところにあった林檎を一つとって、弟たちと遊ぼうと思って、表に下りて行ったら、大きな黒人が、そばを通りかかって、ぼくの手から林檎をひったくって、ぼくに言うんです、『この林檎はどうしたんだ』って。ぼくは答えて、『お父さんが持ってきたの。お父さんは旅に出て、これと同じのをもう二つ、バスラで、三ディナール出して、お母さんのため買ってきてあげたのだよ。』こう言ったけれど、黒人はぼくに林檎を返してくれないで、ぼくを撲《ぶ》って、林檎を持って行ってしまった。だからこんどは、あの林檎のことで、ぼくがお母さんに撲《ぶ》たれはしないか、こわいの。」
この子供の言葉で、あの黒人が、私の叔父の娘について、でたらめな嘘を言いちらしたことがわかり、こうして私は、これを非道にも殺してしまったことがわかりました。
そこで私は、おびただしい涙を流しはじめますと、そこに、私の妻の父親、今ここに私といっしょにいる、この尊ぶべき老人《シヤイクー》が、見えたのでした。私はこれにこの悲しい話をいたしました。すると彼は私のそばに坐って、泣きはじめました。私たち二人は共に、夜中まで泣きつづけました。そして私たちは五日にわたって、葬儀を営みました。それに、今日に至るまでなお、私たちはこの死について嘆きつづけております。
されば、おお信徒の長《おさ》よ、君が祖宗の聖なる誉れにかけて、切にお願い申し上げます、私の刑罰を急いで、この殺人の仇をとるために、私に報復して下さいますように。
この話に、教王《カリフ》は驚きの極に達して、叫びなさいました、「アッラーにかけて、余はその黒人め以外には殺したくない……」
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第十九夜になると[#「けれども第十九夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、教王《カリフ》はその黒人のほかには殺すまい、若者は無理もないふしがあるから、と誓いなされたのでございます。それから、教王《カリフ》はジャアファルのほうに向かって、おっしゃいました、「この事件の原因となった、その松脂《まつやに》と瀝青《チヤン》の黒人めを、余の面前に引っ立ててまいれ。もし汝そやつを探し出すこと能わずば、代りに汝を殺すことにいたすぞ。」
そこでジャアファルは、泣きながら退出し、ひとり言を言うのでした、「いったいどこから、そやつを君の御前に引っ立てることができようか。ちょうど壺が落ちてこわれないのは、偶然のことなのと同様、この私が、最初のとき死をまぬがれたのも、偶然のことなのだ。しかしこんどは?……まあともかくも、最初のとき私をお救い下された御方《おんかた》は、もしその思し召しあらば、二度目もまたお救い下さるだろう。私としては、アッラーにかけて、この猶予の三日間を、じっと身動きせず、家に引きこもっているとしよう。なぜなら、むだな捜索をしたとて、何になろうぞ。私は至高の正義者の御意《ぎよい》に、ただおまかせ申す。」
そして事実、ジャアファルは、猶予の三日間、自宅から動きませんでした。そして四日目に、法官《カーデイ》を呼びにやって、その前で遺言書を作りまして、泣きながら、子供たちに別れを告げました。次に教王《カリフ》のお使が来て、教王《カリフ》はやはりもし黒人が見つからぬ節は、彼を殺すおつもりである旨、告げました,それでジャアファルは泣き、子供たちもいっしょに泣きました。次に彼は、自分のいちばん末の娘を、全部の子供たちよりもかわいがっていたので、その娘に最後の接吻をしようと、引きよせ、胸にしっかりと抱きしめ、もうこの娘とも別れざるを得ないと思いながら、おびただしい涙を流しました。ところが突然、その娘をぴったり抱きしめていますと、その小さな娘の隠《かく》しに、なにか丸いものがあるのを感じましたので、彼は言いました、「隠しのなかに何がはいっているのかな。」娘は答えました、「おお、お父さま、林檎です。家の黒人リハン(1)からもらったの。四日前から持っていますけれど、でもリハンに二ディナールやって、やっともらえたのです。」
この黒人と林檎という言葉を聞きまして、ジャアファルは非常な喜びの感動を覚えて、叫びました、「おお、救いの御方《おんかた》よ。」次に、黒人リハンを来させるよう命じました。リハンが来ると、ジャアファルは尋ねました、「この林檎はどうしたのか。」黒人は答えました、「おおご主人さま、五日前のこと、町を通ってとある路地にはいりますと、子供たちが遊んでいましたが、そのなかに一人、この林檎を持っている子がいました。私は林檎を取りあげて、子供を撲《ぶ》ってやると、その子は泣き出して、言うのでした、『それはお母さんのだ。お母さんは病気なんだ。お母さんが林檎をほしがるので、お父さんは旅に出て、バスラで、金貨三ディナール出して、これともう二つの林檎を、お母さんのため買ってきたのだ。ぼくはそのひとつを取ってきて、遊んでいるのだよ。』そう言って泣き出しました。だが私は、子供の涙などとりあわず、この林檎を持って家に帰り、それを二ディナールで、私の小さなご主人さまに、差しあげたのでございます。」
この話に、ジャアファルは、自分の黒人リハンの過ちから、こうしたすべての騒ぎと、若い女の死が持ち上がることになったのに、この上ない驚きを覚えました。そこですぐさま、これを土牢のなかにぶちこむように命じました。次に、こうして自分自身は、まちがいない死からのがれたことを、大そう悦んで、次の詩人の二句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
汝の禍《わざわ》いはただ汝の奴隷によるのみとあらば、何とて、その奴隷を片づくることを思わざるや。
知らずや、奴隷は氾濫するも、汝の魂はただ一にして、取り代うる能わざるを……。
[#ここで字下げ終わり]
けれども、彼は思い直して、黒人を連れ、これを教王《カリフ》の御前にともない、事の次第をお話し申し上げました。
教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードは、いたく驚嘆なされて、この物語をば記録におさめて、人々への教訓とするよう、ご命じになりました。
けれどもジャアファルは申し上げました、「この物語にあまり驚嘆あそばされますな、おお信徒の号令者よ。と申しまするは、これは美男ハサン・バドレディンの物語には、及びもつかぬものでありますれば。」
すると教王《カリフ》は叫びなさいました、「今われらの聞いたところよりも、さらに驚くに足るというその物語とは、そもそもどのようなものか。」ジャアファルは言いました、「おお信徒の大君よ、わが君が私の黒人リハンに、その軽はずみな行ないを、お許し下さるという条件でなければ、その物語はお話し申し上げますまい。」すると教王《カリフ》は答えなさいました、「よろしい、とくに彼の血を免じてつかわす。そして余はかの青年をば、友人伴侶に取り立てよう。その叔父の娘、切り刻まれた乙女を失ったことを慰めてやるため、わが隠し女のうち最も美しい女をば、嫁入り衣裳と大臣《ワジール》の禄をつけて、正妻としてこれに与えよう。さて今は、おおジャアファルよ、汝の言葉をもって、われらの悟性を甘くいたせ(2)。」
[#改ページ]
美男ハサン・バドレディンの物語
するとジャアファル・アル・バルマキーは言いました。
さればでござります、おお信徒の号令者よ、昔エジプト(1)の国に、公正にして恵み深い一人の帝王《スルターン》がおわしました。この帝王《スルターン》は、賢明にして博識な、学問文芸に通じた一人の大臣《ワジール》を持っておられたが、その大臣《ワジール》は非常に高齢な老翁《シヤイクー》でした。けれども彼には、二つの月にも似た二人の子供がありました。上の子はシャムセディン(2)と呼ばれ、下の子はヌーレディン(3)と呼ばれたが、下のヌーレディンのほうが、確かにシャムセディンよりも美しく、美男子でありました。シャムセディンとてももとより申し分なかったのですが、ヌーレディンにいたっては、全世界に並ぶ者がない、まことにみごとな男ぶりでありましたので、その美貌は諸国に聞こえ渡り、たくさんの旅行者が、ただ彼の完全さを眺める悦びのためとその顔のためばかりに、遠い国々から、はるばるエジプトにやって来るありさまでありました。
さて運命のさだめによって、彼らの父の大臣《ワジール》はついに亡くなりました。帝王《スルターン》はいたくこれを嘆かれました。そこでこの二人の息子を召し出して、彼らに誉れの衣を着せて、仰せられました、「これより汝ら、余のもとにあって汝の父の役目に従うこととせよ。」そこで二人の兄弟は大いに悦び、帝王《スルターン》の御手のあいだの床に接吻しました。それから兄弟はまるひと月のあいだ父の葬儀の儀式をつづけさせ、それをすませてから、自分たちの新しい大臣《ワジール》の役につきました。そしておのおのが一週間ずつ交代で、大臣職《ワジラート》の役目を果たしました。そして帝王《スルターン》が旅にお出かけのおりには、兄弟の中の一人だけが、交代でお供をすることになっていました。
ところで、夜々の中のある夜、おりしも帝王《スルターン》が翌朝ご出発なさることになっていましたが、その週はあたかも兄のシャムセディンが、大臣《ワジール》の番に当たっていたので、二人の兄弟はよもやまの話をして、夜を過ごしておりました。雑談を重ねているうちに、兄が弟に言いますには、「弟よ、おまえに言っておかねばならぬが、おれの意向では、われわれもそろそろ身を固めることにしたい。そしてその結婚は、二人が同じ夜にすることにしたいものと思っているが。」ヌーレディンは答えました、「それはお心のままになさいませ、兄上よ。私は何事についても、兄上のご意見には逆らいませぬから。」二人のあいだでこの最初の相談がまとまると、シャムセディンはヌーレディンに言いました、「アッラーのご同意を得て、われわれが二人の若い娘と結ばれ、同じ夜に妻の優美を楽しみ、そして妻がおのおの同じ日に子供をうみ、そして――もしアッラーのおぼしめしあらば――おまえの妻が男の子を、おれの妻が女の子をあげたあかつきには、そのときはわれわれは、この子供たちを、いとこ同士として互いにめあわせなければなるまいな。」するとヌーレディンは答えました、「おお兄上よ、そのときは、私の息子にあなたの娘をくださる支度料として、こちらに何を要求なさるおつもりですか。」シャムセディンは言いました、「おれの娘の値いとして、おまえの息子から、金貨三千ディナールと、灌漑設備のある果樹園三カ所と、エジプト最上の地の三カ村をもらおう。実際それだって、おれの娘の代償としては少なすぎるというものだ。それでも万一若者が、おまえの息子がだね、この契約を承知しないというようだったら、われわれのあいだでは、もうその話はいっさい打ちきりだ。」この言葉を聞いて、ヌーレディンは答えました、「そんな法はない。あなたが私の息子に要求なさろうというその支度料は、いったいなんとしたことですか。われわれ二人は兄弟であり、そればかりか、われわれは二人で一人の大臣《ワジール》になっているということをお忘れになったのですか。そんな要求どころか、とかくの支度料を請求することなど思わずに、私の息子にあなたの娘を熨斗《のし》をつけてくださるのが当然でしょう。それに、男というものは、いつでも女よりも値打があるものだということを、ご存じないのですか。ところで私の息子といえば男なのに、それなのに、あなたはご自分の娘のほうからこそ持って来てしかるべき支度料を、かえってこちらに請求なさるとは、それではまるで、自分の商品を手放したくないと言って、お客を追い払うために、バタの値段を四倍にも糶《せ》り上げ始めるバタ売り商人のやり方と、選ぶところがないではありませんか。」するとシャムセディンは弟に言いました、「おれはおまえが、おれの娘よりも自分の息子のほうが尊い身分のものだなどと、本気に考えているということが、はっきりとわかった。ところで、これはおまえにはまったく思慮分別というものがなく、そのうえことに感謝の念がないことの、何よりの証拠だ。なぜかというに、おまえは大臣職《ワジラート》について云々《うんぬん》しているが、その顕職につけたのは、ひとえにこのおれのおかげだということを、おまえはまるで忘れている。おれがおまえを自分の仲間にしてやったというのも、もとをただせば、ただおまえを気の毒に思い、おれの仕事の手伝いをさせてやろうと思ったればこそなのだ。だが、アッラーにかけて、まあなんとでも好きなことを言うがいい。しかしおれのほうでは、おまえがそんな口をきくからには、もういくら黄金を積んだとて、おまえの息子におれの娘をやることは、お断わりしよう。」この言葉を聞いて、ヌーレディンは非常に悲しんで言いました、「私もまた、もうあなたの娘を息子の嫁にもらうのは、お断わりします。」するとシャムセディンは答えました、「よろしい。こうなってはもうなんといっても駄目だぞ。だがおれはあすは帝のお伴をして出発しなければならない身だから、きょうのところは、おまえのその広言を思い知らせてやるいとまもない。しかし、おれが帰って来たおり、もしアッラーのおぼしめしあらば、起こるべきことが起こるであろうぞよ。」
そこでヌーレディンは、こうした顛末にいたく打ちしおれて座を離れ、悲しい物思いにふけりつつ、ただひとり寝に行きました。
翌朝、帝王《スルターン》は大臣《ワジール》シャムセディンを従えて、旅立ち、ナイル河の方角に向かって進み、これを舟で渡ってゲジラ(4)に着き、その地からピラミードの方角におもむかれました。
さてヌーレディンのほうは、兄の仕打ちのために、心中鬱々としてその夜を過ごしてから、翌日は早朝に起きいでて、身を浄めて、朝の最初の礼拝をしました。次に自分の戸棚のところに行って、頭陀袋を取り出し、それにいっぱい金貨を詰めました、自分に対する兄の軽蔑の言葉と、受けた恥ずかしめをずっと思いつめながら。そしてそのとき、次の詩人の詩節を思い出したのでありました。
[#ここから2字下げ]
行け、友よ、いっさいを措《お》いて行け。友どちを捨つるとも、かならずや他の友どちをまた得べし。行け、家々をいでて汝の天幕《テント》を張れよ。そが下にこそ住め。人の世の悦楽の住まうは、かしこぞ、ただかしこのみぞ。
堅牢にして開化せる住居の中には、絶えて真情のあることなし、また友情のあることなし。わが言を信ぜよ、汝が家郷を逃がれて、遠き奥地の国々に根をおろすべし。
聴け、われは見たり、よどむ水は腐るを。さりながら、その水とてもふたたび流れ出さんには、腐敗よりいえもせめ。されどさもなくば、ついにいゆることなし。
われはまた満月を観たり。月の目の、その光の目の数を知れり。されど、われもしその運行をつぶさに究むる労をとらざりしとせば、各弦の目を、われを見るその目を、いかにして知りえたらんや。
また獅子はいかに、われもし鬱蒼たる森をいでざりせば、馬上に獅子を猟《と》りえたらんや……。また矢はいかに、もし引きしぼられし弓より猛然と離れざりせば、その矢、よく人をあやめえんや。
また黄金《こがね》はいかに、白銀《しろがね》はいかに。鉱床の奥深くあらば、そは価なき砂塵に似たらずや。調べよき琵琶《リユート》にいたっては、汝これを知る、もし工人これを作らんとして地より引き抜かざりせば、そは一片の薪木にすぎざらん。
されば家郷を去れ。しからば汝山巓に至らん。されどもし汝おのが地に恋々としてとどまらんには、ついによく高処に達することあらざるべし。
[#ここで字下げ終わり]
詩句を誦し終えたとき、彼は若い奴隷の一人を呼んで、丈の高い、よくはしる、葦毛《あしげ》の牝らばに鞍を置くように命じました。そこでその奴隷は、いちばん美しいらばを引き出して、それに金襴と黄金で飾った鞍を置き、インド渡来の鐙《あぶみ》や、イスパハーンのびろうどの鞍敷きなどをつけて、美々しく装ったので、その牝らばはさながら、新装をこらした、光り輝く花嫁のように見えた。次にヌーレディンはさらに命じて、これらの上に、大きな絹の毛氈と小さな礼拝用の毛氈を載せさせた。そして金貨と宝石のつまった頭陀袋を、その大小の毛氈のあいだにしまいました。
それがすむと、彼はその少年をはじめ、他の奴隷たち全部に向かって、言いました、「余はこれよりとりあえず、都の外のカリウビア方面を一巡し、その地に三晩ばかり泊まる所存である。なんとなく胸せばまる心地がするゆえ、大気を吸って胸をくつろげたいと思う。だが、何ぴとも余について来ることはまかりならぬ。」
それから、さらに道中の食糧をいくらか携えてから、葦毛のらばに乗って、足早に遠ざかって行きました。ひとたびカイロを離れると、ひたすら道を急ぎ、正午にはベルベイス(5)まで行き着いて、足をとどめたほどでした。そこで、自分も休みらばをも休ませるために、らばを降りて、わずかの食べ物を食べ、ベルベイスの町で、自分のためにも、らばの食糧のためにも、入用そうなものを全部買い調えて、ふたたび旅路につきました。そして二日後、きっかり正午の時刻に、らばの駿足のおかげで、聖都エルサレムに着きました。この地でらばを降りて、自分も休みらばをも休ませ、食糧袋から食べ物を取り出して食べました。それがすむと、大きな絹の毛氈を地にのべて、食糧袋を枕にして、相変わらず兄の自分に対する仕打ちを腹立たしく思いながら、眠りに入りました。
翌日あけ方に、彼はふたたび鞍にまたがり、今度はアレプの町にはいるまで、らばをはしらせることをやめませんでした。その地では市中の隊商宿《カーン》の一軒に宿をとり、自分も休みらばをも休ませて、静かに三日の日を送りました。それから、アレプの好い空気を十分に吸い終わると、ふたたび出発を思い立ちました。そのために、彼が子供のときから大好物の、らっかせいや巴旦杏《はたんきよう》をいっぱい詰めて砂糖の衣をかけた、あのアレプ名産のすばらしい砂糖菓子を買いこんでから、ふたたび自分のらばに乗りました。
それからは、もうらばの行くままにまかせました。というのは、いったんアレプから出てしまうと、もう自分がどこにいるのやらわからなくなったからです。そして夜に日をついで進んで行くうちに、とうとうある日の夕方、日が沈んでから、バスラの町に行き着きました。もっとも自分では、その町がバスラであるなどとは全然知らなかったのです。なぜなら、隊商宿《カーン》に着いて人に教えられて、始めてその町の名を知ったような次第でしたから。そこで彼はらばを降りて、らばの背から毛氈や食糧や頭陀袋をおろし、そしてらばがいきなり休んでかぜをひいたりしてはいけないと思って、旅宿の門番に、少しのあいだらばを引き回してくれと頼みました。そしてヌーレディン自身は、自分の毛氈をのべて、腰をおろして旅宿で休んでいました。
旅宿の門番は、そこでらばの轡《くつわ》を取って、歩かせはじめました。ところが偶然にも、ちょうどそのとき、バスラの大臣《ワジール》が自分の屋敷の窓の前に坐って、往来を眺めていたのでした。そこでこのみごとな葦毛のらばが目にとまり、そのたいした値打のりっぱな馬具を見て、このらばはかならずや、ある他国の大臣《ワジール》の中での大臣《ワジール》か、ひょっとしたらどこかの王の中の王さえもの、持ち物にちがいないと考えました。そこで大臣《ワジール》はこれをよくよく眺めはじめて、たいそう思いまどったのでありました。それから自分の若い奴隷の一人に命じて、そのらばをひいている門番をば、ただちに自分のところに連れて来るように、言いつけました。その少年は門番を呼びに走って、これを大臣《ワジール》の前に連れて来ました。すると門番は進み出て、この大臣《ワジール》、きわめて老齢のきわめて敬うべき老人の、両手のあいだの床に接吻しました。大臣《ワジール》は門番に言った、「このらばの主《あるじ》はどういうかたであるか、してそのご身分は何か。」門番は答えました、「おお殿よ、このらばの主は非常に美しく、まったくもってほれぼれとするような、お若いかたでございます。まるでどこぞの大商人の若旦那さまのように、りっぱな着物を召されていて、風采《ふうさい》すべてに、自然と人をおそれ入らせるところがござります。」
この門番の言葉を聞くと、大臣《ワジール》はつと立ち上がって馬に乗り、大急ぎでその隊商宿《カーン》に来て、中庭にはいりました。この大臣《ワジール》の姿を見ると、ヌーレディンはつと立ち上がり、駆け寄ってこれを迎え、馬から降りるのを助けました。そこで大臣《ワジール》は彼に慣例の挨拶をし、ヌーレディンはこれを返して、きわめて鄭重に請じ入れました。大臣《ワジール》は彼のかたわらに坐って言いました、「わが子よ、いずこより来られ、また何ゆえにバスラにおられるのじゃ。」ヌーレディンは言いました、「わが殿よ、私はカイロよりまいりました。これが私の住む町であり、生れ故郷でございます。父はエジプトの帝王《スルターン》の大臣《ワジール》でございましたが、今は亡くなって、アッラーのご慈悲のうちにまいりました。」次にヌーレディンは大臣《ワジール》に一部始終身の上を話しました。そしてつけ加えました、「しかし私は、まず到る所を旅し、諸方の町々と国々とを訪れぬうちは、もはやエジプトにもどるまいと、堅く決心したのでございます。」
ヌーレディンの言葉を聞くと、大臣《ワジール》は言いました、「わが子よ、不断に流浪の旅をつづけるというような、そんな不祥な考えを追うてはならぬ。そは身の破滅となるであろうからな。異国を旅して歩くということは、よいかな、それは身を滅ぼす基であり、末期《まつご》の中でも最悪の末期というものじゃ。わしの忠言を容れなさい、わが子よ、わしはおんみのために人の世と時の、不慮の出来事を痛く恐れるのじゃ。」
それから大臣《ワジール》は奴隷たちに命じて、らばの鞍をおろさせ、毛氈と絹類をほどかせました。そしてヌーレディンをば自宅に連れて行き、これに一室を与え、必要そうなものすべてを与えてのち、彼を休ませました。
こうしてヌーレディンはしばらくのあいだ、大臣《ワジール》のもとにおりました。大臣《ワジール》は毎日彼に会っては、親切と好意のかぎりを尽くしました。そしてついには、ヌーレディンをなみなみならず愛して、とうとうある日、こう言い出したほどでした。「わが子よ、わしはずいぶん年をとったが、わしにはついぞ男の子というものがなかった。けれども、アッラーはわしに一人の娘をお授けくだされた。この娘は、美しさにかけても、心身の麗質にかけても、まったくのところ、貴殿に劣らぬものと思う。そしてこれまで、わしは娘を嫁にくれと申しこんでくる男を、皆断わってきた。しかし今は、わしは貴殿を衷心からの大いなる愛情で愛しておるがゆえに、わしのほうから進んで、この娘を貴殿に仕える奴隷として、貴殿の手もとに置いてくれることを承諾してはくれまいかと、お尋ねする次第じゃ。それというのも、わしは貴殿がわが娘の夫となってくれることを、心から望んでいるからだ。もし承知してくれるならば、わしはただちに帝の御許に参内し、貴殿はこのたびエジプトより来たったわしの甥《おい》で、わしの娘を所望して、わざわざバスラまで来たのだと、言上しよう。さすれば帝はわしのゆえに、貴殿をばわしのかわりに、大臣《ワジール》として召し抱えてくださろう。それというのは、わしも非常に年をとり、休息が必要となった身じゃ。そしてわしはもとのわが家に帰って、もはや家を出ないですむとあらば、まことに悦ばしい次第であろう。」
この大臣《ワジール》の申し出を聞くと、ヌーレディンは口をつぐんで、目を伏せました。それから言いました、「お言葉よく承わり、仰せに従いまする。」
そこで大臣《ワジール》はこのうえなく悦んで、すぐさま奴隷たちに命じて宴会の用意をし、貴族《アミール》の中でも最高の貴族たちの用に特にあてられている、いちばん大きな応接の間を飾りつけ、燈火を入れるように申しつけました。
それから大臣《ワジール》は自分の友人全部を集め、王国の大官全部と、バスラの名だたる商人全部を招きました。すると一同打ちそろって、彼の両手のあいだに出向いてまいりました。そこで大臣《ワジール》は、他のすべての男をさしおいて、ヌーレディンを選んだことを一同に説明するために、こう言いました、「私には、もとエジプトの宮廷で大臣《ワジール》をしていた一人の兄がおりました。そしてアッラーは兄に二人の息子を恵みたまい、また私のほうには、ご承知のごとく、一人の娘を恵みたもうた。ところで兄は、亡くなる前に、私の娘を自分の息子の一人にめあわせてくれと、くれぐれも私に頼み、私もそれを約束したのでありました。さて、今あたかも皆さまの前にいるこの若者こそ、すなわち大臣《ワジール》であった私の兄の、二人の息子の中の一人です。そしてこの者は結婚の目的のために、はるばる当地に来たわけじゃ。私といたしましては、ぜひこの者と私の娘との結婚契約書をしたため、これにわが家に来て娘と共に住んでもらいたいものと、そう望んでおりまする。」
すると一同は答えました、「それは結構。あなたのなさることはわれわれの頭上にありまする。」
そこで招客全部が大宴会に加わって、あらゆる種類の酒を飲み、おびただしい量の捏粉菓子と果物の砂糖煮類を食べ、それから習慣どおり、部屋部屋にばらの香水を振りまいてのち、一同は大臣《ワジール》とヌーレディンにいとまを告げました。
すると大臣《ワジール》は若い奴隷たちに命じて、ヌーレディンを浴場《ハンマーム》に案内させ、彼に快い風呂を使わせるように言いつけました。そして、自分の衣服の中でいちばん美しい衣服の一つを彼に与え、それから入浴用の手ぬぐいとか、金だらいとか、香炉とか、その他あらゆる必要な品々を送り届けました。ヌーレディンは風呂を使い、その新しい美服を着けて浴場《ハンマーム》を出たが、彼は、夜々のうちもっとも晴れわたった夜の満月と同じくらい、美しくなりました。次にヌーレディンは例の葦毛のらばに打ちまたがり、街々を通って大臣《ワジール》の御殿に行った。街では住民すべてが彼の姿に見とれて、その美しさとアッラーの御業《みわざ》とに、感嘆の声をあげたのでした。彼はらばを降りて大臣《ワジール》のもとに入り、その手に接吻しました。すると大臣《ワジール》は……
[#この行1字下げ] けれどもここまで語ったとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、もともとつつましい女であったので、この夜はこれ以上話そうとはしなかった。
[#地付き]けれども第二十夜になると[#「けれども第二十夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードはつづけた。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、すると大臣《ワジール》はつと立ち上がって、非常な悦びをもって美しいヌーレディンを迎え、そして言いました、「行け、わが息子よ、走っておまえの妻の部屋にはいり、幸福に過ごすがよい。あすはおまえといっしょに、帝の御許にまいろう。今はただ、おまえのために、アッラーにそのあらゆる御恵みとあらゆる善き事をば、お願いするばかりじゃ。」
そこでヌーレディンは今一度、自分の義父となった大臣《ワジール》の手に接吻してから、若い娘の部屋にはいりました。そして起こったことが起こったのでした。
ヌーレディンのほうは、かような次第でありました。
さてカイロにある、その兄シャムセディンのほうはと申しますと、次のような次第です。彼がエジプトの帝王《スルターン》のお伴をして、ピラミードの方面に行き、そこからまたよそにまわって旅を終え、こうして家にもどって来ますと、弟のヌーレディンの姿が見えないので、すっかり心配になりました。召使たちにその消息を尋ねますと、こう答えました、「あなたさまが帝とごいっしょにお立ちになったとき、そのすぐの日、私どものご主人のヌーレディンさまは、行列の日のときのように美々しく仕立てた牝らばにお乗りになって、私どもに仰せられました、『余はカリウビア方面に行き、一両日留守をする。なんとなく胸がせばまって、いささか空気が必要なようなここちがするから。だがおまえたちはだれも余について来ないように。』そしてその日からきょうまで、ついぞお便りがございませんでした。」
そこでシャムセディンは弟の不在に非常に心を痛め、そしてその心痛は日々につのり、ついには極度の傷心を覚えるようになりました。そして思いました、「確かに、この家出の因《もと》はといえば、おれが帝のお伴をして旅立つ前夜、ひどい言葉を言ってやった、あれ以外にはない。定めしあれが、弟をおれから逃げる気にならせたものであろう。されば、おれはわが咎《とが》を償い、弟を探しにやらなければならぬ。」
そしてシャムセディンはただちに帝王《スルターン》の御許にまいって、詳しく事情をお知らせ申し上げました。すると帝王《スルターン》は、玉璽《ぎよくじ》をもって封じた書状を幾通か書かせて、八方に早馬の飛脚を立て、あらゆる地方のあらゆる代官に書状を送り、その中で、ヌーレディンが失踪したゆえ、くまなく探索すべき旨を、仰せつけられました。
けれどもしばらくたつと、どの飛脚も皆むなしくもどってまいりました。なぜというと、一人として、ヌーレディンのいるバスラまで行った者はなかったからです。そこでシャムセディンは嘆きのかぎり嘆いて、そして自分に言いました、「これは皆おれが悪かったのだ。これというのもただ、おれが機転と分別に乏しいばかりに起こったことだ。」
けれども、なにごとにも終りがあるからして、シャムセディンもついには気を取りなおし、そしてしばらくたつと、あるカイロの紳商の娘と婚約し、その若い娘と結婚の契約をして、それと結婚しました。そして起こったことが起こったのでした。
ところが、偶然にも、シャムセディンが婚姻の部屋にはいったその当夜は、あたかもヌーレディンがバスラで、大臣《ワジール》の娘の、妻の部屋にはいった夜でありました。しかしながら、この二人の兄弟が同じ夜に結婚したという、偶然の符合をお許しになったのは、アッラーが、彼こそその創りたもうた者どもの運命の主《あるじ》にましますことを、明らかに示したまわんとて、なされたことでございまする。
そのうえ、万事は、二人の兄弟がそのいさかいの前に筋書きを立てた、そのとおりに運びました。すなわち、二人の妻は共に同じ夜に身ごもり、同じ日の同じ時刻に分娩したのでした。エジプトの大臣《ワジール》シャムセディンの妻は、全エジプトに美しさこれに次ぐ者のない、一人の女児を生み、バスラのヌーレディンの妻は、その時代の全世界に美しさこれに次ぐ者のない、一人の男児をあげたのであった。詩人も言うごとく、
[#ここから2字下げ]
童《わらべ》よ……。愛らしきかな、いみじきかな、またその肢体よ……。口あててその口を吸わばや。この口を吸い、もって、満ちし酒杯とあふるる酒器を忘ればや。
その唇に飲み、その頬の清冽に渇をいやし、その目の泉に姿を映し、もって、ぶどう酒の真紅と、その香気と、その味と、陶酔を忘ればや。
――もし「美」親しく来たりておのれをこの童に較ぶることあらば、「美」もさすがに恥じらいて頭を垂れん。
もし汝これに問いて、「おお『美』よ、いかんぞ。かつてこれに並ぶ者を見たまいしや」と言わば、「美」は答うらん、「かくのごときをか。いな、まことにかつて見ず」と。
[#ここで字下げ終わり]
ヌーレディンの息子は、その美しさのために、ハサン・バドレディン(6)と名づけられました。
この子の誕生を機として、広く大祝宴が行なわれました。誕生後七日目には、まことに王者の子にふさわしい宴会と饗宴が、催されたのでありました。
ひとたび祝宴が終わると、バスラの大臣《ワジール》はヌーレディンを連れて、いっしょに帝王《スルターン》の御許に参内いたしました。そこでヌーレディンは帝王《スルターン》の御手のあいだの床に接吻しました。そして彼は天性言葉の雄弁とりりしい心を授けられ、かつは詞藻にも精通しておりましたので、帝王《スルターン》に向かって、次の詩人の句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
この御方《おんかた》の前にこそは、最大の恩恵者も身をかがめ、姿を消すなり。なんとなれば、そはあらゆる選ばれし人々の心をえたる者なれば。
われは彼が仕業を歌う。なんとなれば、そは仕業にあらずして、美しき品々なり、もって項《うなじ》を装う頸飾りを作りうべき、美しき品々なれば。
かくてわれその指《および》の端に接吻《くちづ》くるは、そはもはや指《および》にあらず、あらゆる恩恵の鍵なればなり。
[#ここで字下げ終わり]
帝王《スルターン》はこの詩句に御感斜めならず、ヌーレディンの結婚についても、また彼のいることさえも、まだひとこともご存じなかったけれども、ヌーレディンとその養父の大臣《ワジール》とに対して、数々の引き出物をくだしおかれました。帝王《スルターン》はヌーレディンにその美しい詩句に対する讃辞をたまわってから、大臣《ワジール》にお尋ねになりました、「この雄弁美貌の若者は、そもそも何者であるか。」
そこで大臣《ワジール》は帝王《スルターン》に一部始終の話を言上して、申し上げました、「この若者は私の甥でございます。」すると帝王《スルターン》は仰せられた、「だがなんとして、余はいまださような話を聞かなかったのか。」大臣《ワジール》は申し上げた、「おおわが殿、ご領主さま、私には、もとエジプトの宮廷にて大臣《ワジール》をしていた一人の兄がおりましたことを、申し上げねばなりませぬ。兄は死後二人の息子をのこし、長男は私の兄にかわって大臣《ワジール》となり、一方ここにおります次男は、私に会いにまいりました。と申すのは、私はこれの父に対し、甥のいずれか一人に私の娘をめあわすと約束し、誓ったのでございます。それゆえ、到着するやただちに、私はこれを娘と結婚させました。ご覧のごとく、これは若年の者でございます。私はすでに老齢と相成り、いささか耳も遠くなり、国事にもうとくなりました。されば私はご領主|帝王《スルターン》さまにおかせられては、何とぞわが甥であり、同時にわが婿であるこの者をば、私の大臣職《ワジラート》後継者として、ご聴許あらせられんことを、お願いにまいった次第でござります。そして私は、この者が真にわが君の大臣《ワジール》たるにふさわしき者であることを、保証いたすことができまする。なんとなれば、これは善言の者であり、名案にも富み、事務の処理の道にもきわめて通暁いたしておりますれば。」
そこで帝王《スルターン》はさらによくこの若いヌーレディンをご覧になり、そのご観察にすこぶる満足せられて、この老|大臣《ワジール》の言葉をご聴許になり、時を移さず、ヌーレディンをその養父のかわりに総理|大臣《ワジール》に任命せられ、お手もとにある中で最も美しい、みごとな誉れの衣一着と、ご自身の厩舎《うまや》の牝らば一頭をたまわり、その護衛と侍従どもをご指定に相なりました。
ヌーレディンは、そこで帝王《スルターン》の御手に接吻して、養父と共に退出し、二人ながらこのうえもなく悦んで自宅に帰り、生まれたばかりのハサン・バドレディンを抱きに行って、申したことでありました、「この子の誕生はわれわれのために幸福を書きしるした。」
翌日、ヌーレディンはその新しい職務を果たすために、王宮におもむきました。そして到着すると、帝王《スルターン》の御手のあいだの床に接吻して、次の二節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
君がために至福は日々にこれ新たなり、また繁栄も。かくてねたむ者はこれがため怨恨に打ちしおれおえぬ。
願わくば君がために、日々はこれ白くあれかし、しかしてあらゆるねたむ者の日々は黒く。
[#ここで字下げ終わり]
すると帝王《スルターン》はこれに|大臣の座《ワジラート》に坐ることをお許しになったので、ヌーレディンは|大臣の座《ワジラート》に坐りました。そしてまるで永年来|大臣《ワジール》であったかのように、自分の任務を果たし、平常の事務を処理し、裁きをしはじめ、まことにてきぱきと、しかもすべて帝王《スルターン》のお目の前で、次々に片づけていったので、帝王《スルターン》も彼の聡明と、事務の理解と、あざやかな裁きぶりには、驚嘆なされました。そしてますますこの者がお気にかない、これを腹心の、日夜の友となされたのでありました。
さてヌーレディンは、自分の要職をりっぱに果たしつづけていましたが、さればといって、多端な国事にもかかわらず、自分の息子ハサン・バドレディンの教育をおろそかにはいたしませんでした。というのは、ヌーレディンは、日ましに帝王《スルターン》の覚えめでたく有力となり、侍従、召使、護衛、小者の数を増していただくありさまでした。そしてヌーレディンは非常に富裕になり、そのため手広く貿易を行ない、全世界におもむく商船数隻を、自分で仕立て、貸家を建て、水車場や水を揚げる車輪を築き、りっぱな花園や果樹園を経営することができるようになった。これらすべては、息子のハサン・バドレディンが四歳の年齢に達するまで、行なわれたのでありました。
このとき、老|大臣《ワジール》、ヌーレディンの養父が、たまたま亡くなりました。そこでヌーレディンは盛大な埋葬式を営み、彼をはじめ王国のあらゆる大官が、この埋葬に列しました。
それ以後、ヌーレディンはひたすら自分の息子の教育に身を捧げました。彼は息子を、宗教と社会との掟にもっとも精通した学者に委ねました。この尊ぶべき碩学《せきがく》は、毎日幼いハサン・バドレディンの家に来て、自宅で読書の稽古を授けました。そして少しずつ、しだいに、聖典《アル・コーラン》の知識を伝授して、ついには幼いハサンは、その全部を暗記してしまいました。その後、さらにまた幾年も幾年もにわたって、この老学者は弟子にあらゆる有益な知識を教えつづけました。そしてハサンはとどまることなく、美しさと優雅さと完全さのうちに、すくすくと伸びてゆきました、詩人の言うがごとく、
[#ここから2字下げ]
この若き少年、彼は月なり。月のごとく、美しさいやまさり、いや輝くのみ。かくて太陽はその光線のきらめきをば、彼が双頬のアネモネに借るるなり。
彼はその比類なき卓越により美の王者なり。人疑うらくは、牧場と花のうるわしきはこれを彼に借りたるかと。
[#ここで字下げ終わり]
けれどもこのあいだじゅうずっと、幼いハサン・バドレディンはただのひとときも、父ヌーレディンの御殿を離れませんでした。それというのは、老学者がその学業に非常な注意を要求したからです。けれどもハサンが十五歳に達し、もはや老学者に何も学ぶ必要がなくなったとき、父ヌーレディンはこれを呼んで、自分の手もとにある衣服の中でいちばんみごとな衣服を着せ、自分の牝らばの中でいちばん美しく、いちばん元気のよい牝らばに乗せ、これを連れて隊伍堂々とバスラの街を横切って、帝王《スルターン》の宮殿をさして進みました。そこですべての住民は、年若いハサン・バドレディンを見ては、その美しさ、きゃしゃなからだつき、優雅さ、愛らしい物腰に、感嘆の叫びをあげたのでした。一同はこう叫ばずにはいられなかった、「やあ、アッラー、なんと美しい子だろう。なんという月だろう。アッラーがこの子を凶眼からお護りくださるように。」こうした嘆声は、バドレディンとその父が宮殿に着くまでつづきました。
帝王《スルターン》におかれましては、この年若いハサン・バドレディンとその美貌をご覧ぜられたときには、まったく惘然《ぼうぜん》としてしまわれ、呼吸が止まり、しばしはその呼吸も打ち忘れておいでになったほどでした。そしてこれをおそば近く召されて、いたくおかわいがりになりました。帝王《スルターン》は彼を寵臣とせられ、恩恵のかぎりを尽くして、その父ヌーレディンに仰せられた、「おお大臣《ワジール》よ、汝はぜひとも、この子を日々ここによこさねばならぬ。余は、もはやこの者なしでは過ごされぬであろうというここちがいたすから。」そこで大臣《ワジール》ヌーレディンもこうお答えせざるをえませんでした、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」
とかくするうちに、ハサン・バドレディンは帝王《スルターン》のお相手となり、寵臣となったが、その父ヌーレディンは重い病気にかかったのでありました。そしてアッラーの御許に呼ばれるときの遠からざるを感じて、彼は息子ハサンを呼び寄せて、これに最後の注意を与えて、申しました、「おおわが子よ、この世はかりの住居であるが、未来の世は永遠のものであると知れよ。されば、死に先立ち、わしは汝に二、三の忠言を与えたいと思う。よく聴いて、これに汝の心を開けよ。」そしてヌーレディンはハサンに、自分の同輩との交際における身のふるまい方、生活における身の処し方について、最善の心得を授け始めました。
それが終わると、ヌーレディンは自分の兄、エジプトの大臣《ワジール》シャムセディンや、自分の故国や、親戚や、カイロのすべての友達を思い起こしました。さて思い出してみると、ついにこれらのものに再会できなかったことを、泣かずにはいられませんでした。けれどもやがて、彼は息子のハサンにさらに注意しておかなければならないことがあると思って、申し聞かせました、「わが子よ、これからわしの言う言葉をよく記憶せよ、非常に重大なことであるから。それはこういうことだ。わしにはカイロに、シャムセディンという名の一人の兄上がある。汝の伯父上に当たり、かつエジプトで大臣《ワジール》を勤めておられる。昔われわれはいささか仲たがいして袂《たもと》を分かち、わしは兄上の同意なくして、当バスラにおるのである。さればわしはこの件につき、これより汝にわが最後の指図を口授しよう。紙と蘆とをとって、わが口授のもとに書き取るがよい。」
そこでハサン・バドレディンは一葉の紙を取り上げ、帯のあいだから矢立《やたて》を取り出し、筆筒の中から、いちばんよく削られている、いちばんよい蘆筆《カラム》を引き出し、その蘆筆《カラム》をば、矢立の内にある墨を含ませた填物《つめもの》の中につけました。次に腰をおろして、紙を折って左手に載せ、右手で蘆筆《カラム》を持って、父のヌーレディンに申しました、「おお父上さま、お言葉を承わります。」そこでヌーレディンは口授し始めました、「慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において……」云々。つづいて自分の身の上すべてを、一部始終、息子に書き取らせつづけました。そのうえ、自分のバスラ到着の日づけ、老|大臣《ワジール》の娘との結婚の日づけを書かせ、また自分の系図をもれなく、直系傍系の先祖たちの名、彼らの父と祖父の名、自分の家柄、自分のかち得た位階勲等などとともに、最後に自分の父方母方の全血統を、書き取らせたのでありました。
それから彼は息子に申しました、「この書付をたいせつに保存せよ。そして万一運命の力によって、汝の生涯に何事か不幸が起こった場合には、汝の父の出身地、汝の父たるヌーレディンの生国、繁栄の都カイロにもどれ。かしこにて、汝の伯父上の大臣《ワジール》の住所を尋ぬれば、伯父上はわれわれの家に住んでおられる。そして伯父上に、わしからの平安の伝言を伝えて挨拶し、わしは兄上より遠く離れて、異郷にて死するをいたく悲しみつつ死し、死ぬ前には、ただ兄上に会うよりほかに、なんの望みもなかった旨を伝えよ。わが息子ハサンよ、これがわしの汝に与えんと欲した訓戒である。なにとぞくれぐれもこれを忘れないでもらいたい。」
そこでハサン・バドレディンは、この紙に砂をかけて乾かし、父|大臣《ワジール》の印璽を捺《お》して封印したうえで、これを、丁寧にたたみ、次に、これを自分のターバンの裏の、布地と帽子とのあいだに入れて、縫いつけました。しかし湿気を防ぐために、これを縫いつける前に、生《き》の蜜蝋で蝋引きした布切れで、しっかりとくるむよう念を入れました。
これをすませると、まだ年端もゆかぬうちにただ一人きりになり、父の姿を見ることができなくなると思うと悲しさに耐えず、ただもう父ヌーレディンの手に接吻しながら、泣くことよりほかに考えられませんでした。そしてヌーレディンは最後まで、息子のハサン・バドレディンにねんごろに注意を与えることをやめずに、とうとう息を引き取りました。
すると、ハサン・バドレディンは非常な哀悼に沈み、帝王《スルターン》をはじめ、あらゆる王侯貴族《アミール》、上下をあげてそうでした。次に人々はこれをその階級に応じて、埋葬いたしました。
ハサン・バドレディンのほうは、葬儀の儀式をふた月にわたってつづけ、そしてこのあいだずっと、ただのひとときも自宅を離れず、宮殿に参内してつねのごとく帝王《スルターン》に拝謁することさえ、打ち忘れておりました。
帝王《スルターン》は、ただ傷心のためだけで美貌のハサンがおそばに来ないとはお思いにならず、ハサンは帝王《スルターン》をなおざりにし、敬遠しているものとお考えになった。それゆえいたくお腹立ちで、ハサンをば、父ヌーレディンの後継ぎの大臣《ワジール》に御任じにならずに、この役目には他の者を御任じになり、他の年若い侍従を寵愛なされたのでした。
けれどもこれにあきたらず、帝王《スルターン》はさらにそれ以上のことをなされた。まず彼の全財産、家屋と所有地すべてに、封印を施して、没収せよとお命じになり、それからハサン・バドレディン当人をも引っ捕え、縛って引き具してくるようにお命じになりました。そこでただちに新しい大臣《ワジール》は、侍従の中から数名を従えて、身に振りかかろうとしている不幸を思いもかけずにいる、若いハサンの家のほうへとおもむきました。
ところが、宮殿の若い奴隷のあいだに、ハサン・バドレディンを深く愛する、一人の若い白人奴隷《ママルーク》がおりました。それゆえこの知らせを聞くと、その若い奴隷は大急ぎで、若いハサンのもとにかけつけてみますると、彼は頭をたれ、心を痛め、いつまでも亡父を思って、悲しみに沈んでいるのでした。そこで、まさに彼の身に起ころうとしていることを教えてやりますと、ハサンは尋ねました、「だがせめて、私が国外に逃げて行って暮らせるだけのものを、携える暇がまだあるだろうか。」すると若い奴隷《ママルーク》は答えました、「時は迫っています。すべてをさしおいて、まず身をもって逃がれることだけしか、お考えなさるな。」
この言葉を聞いて、若いハサンは着のみ着のままで、一物も携えずに、だれにも見とがめられないように、衣服の垂れを頭の上にたくし上げて、早々に家を出ました。そして歩き始めて、とうとう都の外に出てしまいました。
バスラの住民たちのほうでは、故|大臣《ワジール》ヌーレディンの息子の、若いハサン・バドレディンに対して企てられた逮捕や、その財産の没収や、また恐らく死に処せられるであろうという噂を聞くと、いずれも皆このうえなく心を痛めて、言い始めました、「あの男ぶりからいっても、あのよい人柄からいっても、なんと惜しいことだろう。」そして、だれにも見とがめられず街々を通り過ぎている途々、こうした嘆声と叫び声は、若いハサンの耳にも聞こえました。けれども彼はさらにいっそう道を急ぎ、さらに足を早めて歩きつづけてゆくうちに、運命と天命とは、彼がちょうど父の墓所《トウルバー》のある墓地のほとりを、通りかかるようにさせたのでありました。そこで彼は墓地にはいり、墓のあいだを進んで、父の墓所《トウルバー》にたどり着きました。そこで始めて、頭にかぶっていた衣服をおろして、墓所《トウルバー》の円蓋《ドーム》の下にはいり、ここで夜を過ごそうと思い定めました。
ところで、いろいろの物思いに捉われてここに坐っていると、ふとバスラのさるユダヤ人で、全市に広く名の売れている商人が、自分のほうに来るのが見えました。おりからこのユダヤの商人は、隣村からもどって市に帰るところでした。彼はヌーレディンの墓所《トウルバー》の横を通りかかって、その内部《なか》を見ると、若いハサン・バドレディンを見かけ、すぐにハサンとわかったのでありました。そこではいって来て、うやうやしく彼に近づいて言いました、「殿よ、あの美男子のあなたさまが、なんとおやつれになり、お変わりになったお顔をしていらっしゃるのでしょう。お父上|大臣《ワジール》ヌーレディンさまのお亡くなりになって以来、またなんぞ新しいご不幸が、お身の上に起こったのでもござりましょうか。大臣《ワジール》さまは、私もご尊敬申し上げ、また私にもお目をかけ、たいせつにしてくだされたものでございました。願わくは、アッラーはそのお恵みをお父上に垂れたまわんことを。」けれども若いハサン・バドレディンは、自分の顔つきの変わったほんとうの動機《いわれ》を言うことを好まないで、答えました、「きょうの午後、自宅で寝床に眠っていると、突然私の眠りの中に、亡くなった父が現われて来て、私が父の墓所《トウルバー》を訪れるのをとかく怠りがちだと、きびしく叱責されるのを見たのでした。そこで私は、怖れと後悔にあふれてはっと目を覚まし、気も顛倒して、取るものも取りあえず、ここに駆けつけました。今もまだその苦しい思いが抜けきらずにいるありさまです。」
すると、ユダヤ人は言いました、「殿よ、前々からある用件についてお話し申したく、お訪ねしなければならなかったのでございましたが、ここでお会いしたとは、まったくきょうは運がよろしいというものでございます。そのお話と申すのは、若殿さまよ、お父上の大臣《ワジール》さまとは私もかねがね取引を願っておりましたが、先に大臣《ワジール》さまが遠方に数隻の船を派遣しておかれたのが、ただいま、大臣《ワジール》さまご名義の商品を積んで、もどってまいります。もしもあなたさまが、これらの船の積荷を私に譲ってくださるとあらば、私は一隻の積荷に対し、それぞれ一千ディナールずつお納めし、そして即座に現金で、お払い申し上げますでござりましょう。」
そしてユダヤ人は、衣服の中から金貨のつまった財布を取り出し、千ディナールを数えて、ただちに若いハサンにさし出しました。ハサンは、目下一文なしの状態から、彼を救い出してくださるための、アッラーのおぼしめしによるこの申し出をば、さっそく承知いたしました。次にユダヤ人はつけ加えました、「では殿よ、ひとつこの紙に領収証を書いて、御印を捺してくださいまし。」そこでハサン・バドレディンはユダヤ人のさし出す紙を受け取り、また蘆も受け取って、蘆を銅の矢立の中にひたし、紙上に次のように記しました。
「この一札をしたためし者は、故|大臣《ワジール》ヌーレディン――願わくはアッラーその恵みを彼に垂れたまえ――の息子ハサン・バドレディンにして、彼はバスラの商人、某の息、ユダヤ人某に対し、父ヌーレディンの所有に属せし船舶の一艘にして、最初にバスラに帰着する船の積荷を売却せるものなるを、余は証す。こは正一千ディナールの金額をもってせしものなり。」次に紙片の下に自分の印璽をもって捺印して、これをユダヤ人に渡しますと、ユダヤ人はうやうやしくお辞儀をして、立ち去りました。
するとハサンは亡父を思い、わが身の過去の身分と現在の運命とを思って、涙を流し始めました。けれどもすでに夜となったので、こうして父の墳墓の上に横たわっているあいだ、いつしか眠くなってきて、そのまま墓所《トウルバー》の中に眠ってしまったのでした。そして月の昇るまでこうして眠っておりましたが、そのとき、彼の頭が墓石の上からずり落ちたので、自然とぐるりと寝返りを打って、あおむけに寝ることになりました。そのため、その顔はくまなく月に照らし出され、こうして、そのすべての美しさを見せて輝き渡りました。
ところが、ちょうどこの墓地は、善い種類の|魔神たち《ジン》、回教徒で、信徒の魔神《ジン》の、出没する場所でありました。そしてこのときちょうどやはり偶然に、一人の美しい女魔神《ジンニー》が、月光の下を飛び回っておりましたが、その散歩の途中で、ふと眠るハサンのかたわらを通りかかって、これを見かけ、そしてその美貌と美しいからだつきに気がつき、すっかり感嘆して、言いました、「アッラーに栄えあれ、まあ、なんと美しい男の子でしょう。この子の美しい目は、まったくほれぼれとしてしまう、この目が真っ黒で、そして真っ白なことがよくわかるわ……。」それからひとり言を言いました、「この子の目が覚めるまで、もうすこし空を飛び回って、散歩をつづけるとしましょう。」それからまた飛び立って、涼をとるために、空高く翔《か》け上がりました。こうして天上で、飛び歩いているうちに、おりよく仲間の一人の、やはり信者である、男の魔神《ジンニー》に出会いました。そこで優しく挨拶しますと、その魔神《ジンニー》も鄭重に挨拶を返しました。そこで女魔神《ジンニーア》は申しました、「お仲間よ、どこからおいでになりましたか。」相手は答えました、「カイロから。」女魔神《ジンニーア》は言いました、「カイロの善い信者たちは、皆さまお変わりありませんか。」相手は答えました、「アッラーのおかげで、皆変わりがありません。」すると女魔神《ジンニーア》は言いました、「いかがですか、お仲間よ、私といっしょに、バスラの墓地に眠っている一人の若者の美しさを、見物においでになりませんか。」魔神《ジンニー》は言いました、「仰せに従いましょう。」そこで二人は手をとって、いっしょに墓地に降り、眠っている若いハサンの前に止まりました。すると女魔神《ジンニーア》は、魔神《ジンニー》に目配せしながら、言いました、「いかが、私の言ったことはもっともでしょう。」すると魔神《ジンニー》は、ハサン・バドレディンの驚くべき美しさに茫然として、叫びました、「アッラー、アッラー、これは無類だ。この男は、あらゆる女陰を燃え上がらせるように創られているわい。」それからちょっと考えて、つけ加えました、「だが姉妹よ、私はかつてある人間で、この美しい若者にも較べることのできる者を見たことがあると、申し上げなければなりませんね。」そこで女魔神《ジンニーア》は叫びました、「まさか。」魔神《ジンニー》は言いました、「アッラーにかけて、私は見ましたよ。エジプト地方の、カイロでのことです。それは大臣《ワジール》シャムセディンの娘です。」女魔神《ジンニーア》は言いました、「でも私はそんな娘を存じませんね。」魔神《ジンニー》は言いました、「お聞きください、それはこういう話です。」
「父の大臣《ワジール》シャムセディンは、目下その娘のために不幸に陥っているのです。なぜかというと、エジプトの帝王《スルターン》は、自分の妻妾の口から、大臣《ワジール》の娘のなみなみならぬ美しさの噂を聞いて、大臣《ワジール》に娘をもらいたいと所望しました。だが大臣《ワジール》シャムセディンは、かねて娘については他に心に期するところがあったので、非常に困って、帝王《スルターン》に申し上げた、『おおわがご領主ご主君よ、何とぞ私のもっとも卑しいお詫言《わびごと》をお聴き入れのうえ、この件については、ご容赦くだされんことを願い奉ります。なんとなれば、かつて私と共に大臣《ワジール》たりし、私の憐れな弟ヌーレディンの話は、とうにわが君のご承知あらせらるるところでございます。弟は一日出奔いたし、爾来ようとして消息なきことは、ご承知のとおりでございます。しかもこれは、まったくたわいもなき動機のためでございました。』そして大臣《ワジール》は帝王《スルターン》にくわしくその動機を申し上げて、それからつけ加えて、『されば私はその結果、娘の誕生の日に、何事が起こりえようとも、私はこれをわが弟ヌーレディンの息子以外の者とは結婚させぬと、アッラーの御前《みまえ》で誓ったのでございます。そしてそれから、すでに十八年たちました。しかるに幸いにして、つい数日前のこと、私は弟ヌーレディンがバスラの大臣《ワジール》の娘と結婚いたし、妻とのあいだに一人の息子をもうけたということを知りました。されば、この私の娘、その母と私との交りによって出生いたしました娘は、わが弟ヌーレディンの息子たる、その従兄《いとこ》の名に定められ、記されておるしだいでござります。わが君におかれましては、おおわが殿にしてご領主よ、わが君はいかようなる乙女なりとも、お持ちあそばすことのおできになる御身でござりまする。エジプトは乙女に満ちております。王者らにふさわしき尤物《ゆうぶつ》も数々おりますことでございます。』」
「けれどもこの言葉を聞くと、帝王《スルターン》は非常に憤って、叫んだのです、『なんじゃと、不届きな大臣《ワジール》めが、余はかたじけなくも汝の娘を妻に迎え、汝の身分にまでみずから下ってつかわそうといたしたのに、汝は、まったく冷たき(7)言いぐさに口をかり、あえてこれを拒まんとするか。よろしい。されど、わが首《こうべ》にかけて、余は汝をして、汝の鼻にもかかわらず(8)、わが臣下のうちもっとも浅ましき者に、汝の娘をめあわせるといたそう。』ところがちょうどこの帝王《スルターン》は、前にも瘤《こぶ》、うしろにも瘤のついた、畸形のせむしの、ちっぽけな馬丁を持っていた。帝王《スルターン》はさっそくこれを呼び出し、父親の嘆願も聞き入れず、これに大臣《ワジール》シャムセディンの娘との結婚契約書をしたためさせ、それからこの小男のせむしに、その夜ただちにその若い娘と寝ることを命じました。なお帝王《スルターン》は勇壮な騎馬仕合いのほかに、男女の歌手、道化役者と祝宴、祭典と踊りのついた、盛大な結婚式を開くようにとも命じたのでした。」
「さて、おおわが姉妹よ、こうしたおりから、私はちょうど、宮殿の若い奴隷たちが、小男のせむしを取り囲んで、エジプトらしい冗談を浴びせかけながら、もう手に手に火のついた婚姻のろうそくを持って、婿のあとからついて行こうとしているさいに、彼らのところを離れて来たのでした。私の出て来たとき、婿はというと、若い奴隷たちのあざけりと笑いのただなかで、浴場《ハンマーム》でゆあみをしている最中でした。奴隷たちは、『おいらだったら、このせむしの情けない陰茎《ゼブ》よりは、毛の抜けたろばの道具を持つほうがまだいいな』などと言っていました。まったく、姉妹よ、そのせむしときては、ひどく醜く、胸が悪くなるようなやつです。」そして魔神《ジンニー》は思い出して、ひどく顔をしかめながら、地に唾を吐きました。それからつけ加えました、「だがその若い娘のほうは、これは私が生まれてから見た、いちばん美しい人間でした。その娘のほうが、この若者よりももっと美しいということは、私が保証します。その名はセット・エル・ホスン(9)と申しますが、まったくそのとおりです。私がそこを離れたとき、父親は祝宴に出ることを禁じられてしまったので、娘は父親から離れて、さめざめと泣いておりましたっけ。楽手や舞妓《まいこ》や歌妓《うたいめ》たちのただ中に、たったひとりぽっちで、祝宴にいるのです。あのいやらしい馬丁は、やがて浴場《ハンマーム》を出ることでしょう。祝宴を始めるのに、今はもうそれを待つばかりです。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、その物語を翌日に延ばした。
[#地付き]そして第二十一夜になったとき[#「そして第二十一夜になったとき」はゴシック体]
[#この行1字下げ] シャハラザードは言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、魔神《ジンニー》が「今はもうせむしが浴場《ハンマーム》を出るのを待つばかりなのです」と言って、その話を結んだとき、女魔神《ジンニーア》は言いました、「そうですか、でもお仲間よ、あなたが、セット・エル・ホスンのほうがこの若者よりも美しいと断言なさるのは、たいへんなおまちがいだと存じますわ。そんなはずはございません。だって私は、この若者こそ今の世でいちばん美しいと、断言いたしますもの。」けれども鬼神《イフリート》は答えました、「アッラーにかけて、おおわが姉妹よ、私は、その若い娘のほうがもっと美しいと保証します。それに、あなたは私といっしょに来て、娘をご覧になってみさえすれば、すぐわかる。なんの造作もないことです。私たちは、ひとつこの機会を利用して、あのいまいましいせむしから、あのすばらしい肉身を取り上げてやりましょう。この二人の若者はどちらもお互いに似つかわしく、まるで二人の兄妹か、少なくとも従兄妹《いとこ》同士と言えるくらい似通っている。あのせむしめがセット・エル・ホスンとまじわるなどということができたら、どんなに惜しいことだろうか。」
すると女魔神《ジンニーア》は答えました、「本当にそうですね、兄弟よ。では、この眠っている若者を、私たちの腕に載せて運んで行き、あなたのおっしゃる乙女といっしょにしてやりましょう。そうすれば、私たちはよいことをすることにもなりましょうし、それに、二人のうちどちらがいちばん美しいかも、見極められるというものです。」鬼神《イフリート》は答えました、「お言葉承わり、仰せに従います。お言葉はいかにも、分別と道理に満ちておりますから。さあ、そうしましょう。」こう言って、鬼神《イフリート》は若いハサンを自分の背中に載せて飛び立ち、女魔神《ジンニーア》はかたわらにつき添って、いっそう早く行けるように、これを助けました。こうして二人は、荷物を持って全速力で進み、とうとうカイロに行きつきました。ここで、二人は美男のハサンをおろし、人々の立てこんでいる宮殿の中庭のほとりの、往来にある腰かけの上に、ずっと眠りつづけているハサンを置き、そしてその目を覚まさせました。
ハサンは目を覚まし、そして自分がもうバスラの墓地の、父の墓の上に横たわっていないのを見て、驚愕の無上の極に達しました。彼は右を見ました。左を見ました。けれども何もかも見知らぬものばかり。もう同じ都ではなく、バスラとはまったく別な都です。彼はすっかり仰天して、口をあけて危うく叫ぼうとしたが、ちょうどそのとき、自分の前に非常に丈の高い、長いひげのはえた一人の男が、目配せをしているのを見ました。そこでハサンは自分を制しました。するとその男は(それこそ魔神《ジンニー》だったのです)、彼に一本の火のついたろうそくを渡して、手に手に火のついたろうそくを持って、結婚式につき従っている人々の群れの中にまじるように、厳しく申しつけて、彼に言いました、「よいか、わしは魔神《ジンニー》であり、信者であるぞ。おまえが眠っているあいだに、ここまで運んで来たのは、ほかならぬこのわしだ。この都はカイロの都だ。わしがおまえをここに運んで来たのは、おまえのためによかれと思ってのことである。わしは無報酬で、単にアッラーのお顔のためとおまえの美しい顔のために、おまえに尽くしてやろうと思うのだ。されば、この火のついたろうそくを持って、群衆の中にまじり、あそこに見えるあの浴場《ハンマーム》まで、皆といっしょに行け。そこに着くと、小さなせむしのようなやつが出て来て、人々がその男を宮殿に案内するのを見るだろう。おまえはそのあとについて行く、というよりもむしろ、せむしの脇に並んで歩くがよい。そのせむしが花婿なのだから。それからおまえは、せむしといっしょにこの宮殿の中にはいって、大広間に着いたら、おまえはまるで家族の者ででもあるように、花婿のせむしの右に坐りなさい。そしてそのとき、おまえたち二人の面前に、楽手にせよ、舞妓《まいこ》にせよ、歌妓《うたいめ》にせよ、だれでも前に来るのを見たら、そのつど、おまえは衣嚢《かくし》に手を入れれば、わしの計らいで、そこにはいつでも黄金がいっぱいつまっているから、ためらうことなく、これをわしづかみにして、そういう人たち全部に、無造作にばらまいてやりなさい。けっして黄金がなくなりはしないかと、心配することはない、それはわしが引き受ける。おまえは近づいて来る者全部に、黄金をひとつかみやりなさい。そして、あくまでも悠然とした態度を取って、何事も恐れてはならぬ。おまえをこのように美しく創りたもうたアッラーと、またおまえを愛するわしとを、信頼するがよい。かつ、かしこにおいておまえの身に起こるところのいっさいは、至高のアッラーのおぼしめしと権力《みちから》とによって、おまえの身に起こるのじゃぞ。」こう言って、魔神《ジンニー》は姿を消しました。
そこでバスラのハサン・バドレディンは、この鬼神《イフリート》の言葉を聞いて、心の中でひとり言を言った、「これはいったいどういうことだろう。あの不思議な鬼神《イフリート》は、いったい私に何をしてくれるつもりで、あんなことを言ったのだろう。」けれども、それ以上いつまでも自問して立ちどまっていないで、彼は歩き出し、消えてしまったろうそくに、招客の一人のろうそくの火を移して、ふたたびともし、そしてちょうど、せむしが今や沐浴《ゆあみ》を終わり、馬に乗って真新しい着物を着て、浴場《ハンマーム》を出ようとしていたおりに、浴場《ハンマーム》に着きました。
そこでバスラのハサン・バドレディンは、群衆の中に立ちまじわり、じょうずにふるまって、首尾よく行列の先頭の、せむしの脇に出ました。ここにおいてか、ハサンのあらゆる美しさは、その驚くべき光輝のうちに、燦然と現われ出たのであります。それに、ハサンはずっと彼の豪奢なバスラの着物を着ていました。頭上には、かぶり物として、みごとな絹のターバンをめぐらし、一面に金銀の刺繍を施して、バスラ風にまいたトルコ帽を戴き、そして金糸を入れ混ぜた絹でもって織った外套を、まとっておりました。この装いは、いよいよ彼の艶なる姿と美男子振りを、引き立てるばかりでありました。
さて行列の進む途々、歌妓や舞妓が楽手の群れから離れて、彼のかたわらに、せむしの前に近づいて来るごとに、そのつどハサン・バドレディンは、すぐに手を衣嚢《かくし》に突っこんで、黄金をいっぱいにした手を引き出し、その黄金をわしづかみにしては、自分のまわりにばらまき、また若い舞妓や若い歌妓の鈴のついた小さな太鼓の中にも、わしづかみにして入れてやり、いつでも来るたびごとに、いっぱいにしてやりました。それがまた、たぐいのない態度と風情をもってするのでした。
ですから、そういう女たちすべても、群衆すべてとともども、このうえなく感嘆し、また彼の魅力にすっかり心奪われたのでありました。
行列はついに宮殿に着きました。そこで、侍従の人たちは群衆を追いやって、楽手たちと舞妓の群れとしか、せむしのあとから入れませんでした。そのほかはだれも入れません。
すると歌妓と舞妓たちは、口をそろえて、侍従の人々に詰め寄って申しました、「アッラーにかけて、あなたがたが皆さんを、私どもといっしょに後宮《ハーレム》に入れないで、新嫁さまのお支度を見るのをさしとめられたことは、それはいかにもごもっともです。けれども、もし私たちといっしょに、この私たちにたっぷりとお恵みくださった若いおかたを、入れてくださらないとおっしゃるのなら、私たちもまた絶対に、中にはいることはご免をこうむります。この私たちのお友達の若いおかたの前でなければ、花嫁さまのおもてなしをするのは、ご免をこうむります。」
そして女たちはむりやり、若いハサンを捕えて、いっしょに後宮《ハーレム》の中の、大広間のまん中に連れて行きました。こうして彼は、後宮《ハーレム》のまん中に、はばむことができなかったせむしの鼻にもかかわらず、そのちびのせむしの馬丁とともに、ただひとりの男ということになりました。大広間には、あらゆる貴婦人、貴族《アミール》たちや大臣《ワジール》たちや宮殿の侍従たちの妻が、集まっておりました。これらの婦人全部は、めいめい一本の大きなろうそくを持って、二列に並び、そして二人の男子がいるので、皆、白絹の小|面衣《ヴエール》で顔をおおっていました。ハサンとせむしの花婿とは、この二列のあいだを通り、そして広間から婚姻の間《ま》、やがて花嫁が式のために出て来ることになっている部屋まで連なっている、この女の二列を横切って、高い台の上に腰をおろしに行きました。
ハサン・バドレディンを見て、その美しさ、その魅力あるみやびやかさ、新月のように輝かしいその顔を見ると、女たちははっとして、息がとまり、正気が飛び去るのを感じました。そしてめいめいが、このたえなる青年を抱きしめ、膝の上に身を投げかけ、一年でも、ひと月でも、あるいはせめてひととき、たった一度されるあいだなりとも、じっと膝の上にいて、自分の中にこの男を感じることができればという思いに、燃えたのでありました。
しばらくすると、この女たちは皆いっせいに、もうこれ以上がまんしきれなくなって、自分の面衣《ヴエール》を取って顔をあらわしてしまいました。そしてせむしのいることも忘れて、つつしみのないふるまいを示しました。皆がハサン・バドレディンのほうに近づき始め、彼をいっそう間近に眺めては、一言二言愛の言葉を言い、あるいはせめて、自分がどんなに彼を望んでいるかをわからせるような、目の合図をするのでした。それに舞妓と歌妓たちは、ハサンの気前のよいことを話し、この貴婦人たちに、できるだけ彼をもてなすように促して、いっそうこれをたきつけたのでした。貴婦人たちは言い合いました、「アッラー、アッラー、これこそほんとうの若者です。そうよ、この人こそセット・エル・ホスンと眠ることのできる人。二人はお互いに似合いの夫婦ですもの。だがこののろわれたせむし男なんかは、アッラーがひどい目に会わせてくださればよい。」
貴婦人たちが、広間でハサンをたたえて、せむしに呪いをあびせつづけているうちに、突然、女楽手たちがそれぞれの楽器を打ち鳴らし、婚姻の間の戸が開いて、そして花嫁セット・エル・ホスンが、宦官と侍女たちに取り囲まれて、応接の間に出てまいりました。
大臣《ワジール》シャムセディンの娘セット・エル・ホスンは、女たちのまん中にはいってまいりましたが、彼女は天女《フーリー》(10)のように輝き渡り、そのかたわらにいる他の女たちは、諸星《もろぼし》が雲の下から出る月を取り巻くように、彼女につき従うための星にすぎませんでした。彼女は竜涎香《りゆうぜんこう》と、麝香《じやこう》と、ばらの香を、くゆらせていました。頭はくしけずられ、髪の毛はそれをおおっている絹の下に輝き、両の肩はそれをおおっている豪奢な着物の下に、みごとに浮き上がっていました。その服装はまったく華麗なものでありましたが、わけても、身に着けている着物は、赤金で総縫い取りをしたもので、その切地《きれじ》の上には、獣《けもの》や鳥の形が描かれていました。けれども、これはほんの外衣だけのことです。というのは、その下に重ねている着物に至っては、ただアッラーのみそれを知り、その価いを計り知ることがおできになるほどのものでしょう。首にしていた首飾りときては、いったい何千ディナールするやら、とてもわからない。その首飾りをなすひとつひとつの宝石は、いかなる人も、ただの現身《うつしみ》の人間ならば、たとい王さまご自身なりと、かつてそのようなものを見たことのないほど、珍稀なものでありました。
一言で言えば、花嫁セット・エル・ホスンは、十五夜のおりの満月と同じくらい、美しかったのであります。
バスラのハサン・バドレディンのほうは、貴婦人たちの群れ全体の讃美の的になりながら、ずっと坐っていました。ですから、花嫁が進んで来たのは、彼のほうに向かってでした。花嫁はからだを非常に優美に、右左に動かしながら、その台に近づいて行きました。するとすぐに、せむしの馬丁は立ち上がって、接吻しようとしてあわてて歩み寄りました。けれども花嫁はいやがってこれを避け、すばやく身をそらして、つと美男のハサンの前に立ちました。これが自分の従兄弟《いとこ》であるというのに、彼女はそうとは知らず、彼もまた知らないとは!
このありさまを見て、またことに、年若い花嫁が美しいハサンの前に立ち止まって、ひと目見て熱い思いに焼き尽くされ、両手を天にあげて、「アッラーウムマ、どうかこの美男子が、わが夫となるようにしてくださいまし。そしてあのせむしの馬丁から、わが身を救いたまえ」と叫んだときには、その場にいた女は、一人残らず笑い出したのでありました。
するとハサン・バドレディンは、魔神《ジンニー》の教えに従って、衣嚢《かくし》の中に手を突っこみ、黄金をいっぱいにした手を引き出し、黄金をつかんでは、セット・エル・ホスンの侍女たちと舞妓と歌妓たちにばらまきますと、みな叫びました、「ああ、どうかあなたさまが花嫁をわが物となされますように。」そしてバドレディンは、この願いの言葉と彼らの挨拶に対して、優しく微笑しました。
せむしのほうはというと、この場面のあいだずっと、相手にされずに放り出されて、猿のように醜く、ひとりぽつねんと坐っていました。そしてたまたま彼のほうに近づく者は皆、そばを通るとき自分のろうそくを消して、ばかにするのでした。そして彼はこうして始終手持ちぶさたで、ひとり心の中でやきもきしていました。女たちは皆彼を見やっては冷笑して、手ひどい冗談を浴びせかけました。ある女は言いました、「お猿さん、おまえなんか湿り気なしで手淫でもして、空気と交《す》るがいい。」またほかの者は言いました、「ほら、おまえときちゃ、身ぐるみ全部で、うちのきれいなご主人の陰茎《ゼブ》ほどの大きさもないよ。おまえの二つの瘤こそは、ちょうどあの方の卵の寸法さ。」第三の女は言いました、「もしあのかたが陰茎《ゼブ》でもって、おまえをひと打ちなすったら、おまえなんか厩舎《うまや》まですっ飛んで、尻もちをつくことだろう。」そしてみんなが笑うのでした。
花嫁はというと、引きつづき七たび、そしてそのつど別な服装《なり》をして、全部の貴婦人につき従われて、広間をひと巡りしました。そして巡り終わるごとに、ハサン・バドレディン・エル・バスラウイの前に立ち止まるのでした。新しい衣裳はそのたびごとに、前のものよりもずっともっと美しく、装身具はそのたびごとに、それまでの装身具をはるかにしのいでおりました。そしてそのあいだじゅうずっと、花嫁がこうしてゆっくりと一歩一歩、歩を進めているあいだ、女楽手たちはすばらしい腕前を示し、歌妓たちはこのうえなく艶めいた、そそり立てるような唄を歌い、舞妓たちは鈴のついた小さな太鼓を打ち鳴らしながら、小鳥のように踊りました。そしてそのつど、ハサン・バドレディン・エル・バスラウイは黄金をつかんでは、部屋じゅう一面にばらまいてやることを欠かしません。すると女たちは皆、この若者の手のふれたものを何かさわろうとして、それに飛びつくのでした。その中には、一同がはしゃいで興奮しているのにつけこみ、楽器の音と、歌の酔いごこちとに乗じて、床《ゆか》の上に重なり合って寝て、坐って微笑しているハサンを見ながら、交合《まじわり》のまねをする女さえもいました。そしてせむしはこうしたすべてを、すっかり不機嫌になって見ていました。その不機嫌は、女たちの仕ぐさを見るごとに、ますますつのってゆきました。一人の女はハサンのほうを向いて、手を延ばしたと思うといきなり下にさげ、合図をして彼を自分の陰門のほうに招き寄せるのでした。また他の女は、流し目を使いながら、自分の中指を動かすのでした。また今一人の女は、腰を振り、身をよじりながら、開いた右手を、閉じた左手の上に重ねて、打ち鳴らすのでした。またある女は、もっとみだらな身ぶりをして、両方の尻をたたいてせむしに言うのでした、「あんずの頃におかじりな。」そしてみんなが笑いました。
七回目のひと巡りがすむと、それで結婚式は終わりました。もはや夜もたけなわになるまでつづいたからです。そこで女楽手たちは楽器をひく手をとどめ、舞妓と歌妓は芸をやめて、並みいる貴婦人たちと共に、みんなハサンの前を通り、あるいはその手に接吻し、あるいはその衣の垂れにさわって、一同はあたかもハサンにこの場に残れと言うふうに、今一度最後に彼を見送りながら、退出しました。そして実際、部屋の中には、ハサンとせむしと花嫁とその侍女たちだけになりました。すると、侍女たちは新妻を脱衣の間に案内して、その衣裳を一枚一枚、そのたびごとに凶眼をはらうために、「アッラーの御名において」と唱えながら、脱がせました。それから侍女たちは、年とった乳母《めのと》をつけて、新妻をただ一人残して出て行きました。乳母は新妻を婚姻の間に連れて行く前に、新郎のせむしが、まずそこにはいって来るのを、待たねばならないのでした。
そこでせむしは台から立ち上がりましたが、ハサンが相変わらず坐っているのを見て、非常に不愛想な口調で、彼に言いました、「旦那、まったく今夜はご臨席くださって非常にありがたく、そのうえ数々のいただき物まで賜わりました。けれども今となっては、ここから出て行くのに、追っ払われるのを待っておいでですかね。」するとハサンは、結局のところ、自分がどうすればよいのかはっきり知らなかったので、立ち上がりながら、「アッラーの御名において」と答えて、立ち上がって出て行きました。けれども、その部屋の戸の外に出たと思うと、例の魔神《ジンニー》が姿を現わして、彼に言いました、「そんなふうにしてどこに行くのか、バドレディンよ。とどまってよくわしの言うことを聞き、わしの指図に従いなさい。今せむしは厠《かわや》に行ったところだ。こいつのほうはわしが引き受ける。おまえはそのあいだに、この足で婚姻の間に行き、花嫁がはいって来るのを見たら、こう言いなさい、『あなたの本当の夫はこの私です。帝王《スルターン》もあなたのお父上も、ただあなたのためにねたみ深い人々の凶眼を恐れて、こんな計略《はかりごと》をお用いになっただけのことです。あの馬丁のやつは、馬丁の中でもいちばんいやしいやつですが、骨折り賃に、厩舎《うまや》に壺一杯の固まった牛乳を支度してやって、私たちの健康を祝して、それで一杯やらせることにしてあります。』それからおまえは恐れるところなく女を捉え、躊躇せずにその面衣《ヴエール》を取り、そしておまえのすることをするがよい。」そう言って魔神《ジンニー》は姿を消しました。
実際せむしは、花嫁のところに行く前に用便をしに厠にやって来て、大理石の上にしゃがんで、用を足し始めたのでした。だがすぐに、例の魔神《ジンニー》は大きな鼠の姿になって、厠の穴から出て来て、鼠の鳴き声を聞かせました、「ズィク、ズィク。」そこで馬丁は、これを逃げさせようとして手を拍《う》って、言いました、「ヘッシュ、ヘッシュ。」ところがその鼠はだんだん大きくなり始めて、爛々《らんらん》と目の光る大きな猫になり、むちゃくちゃに鳴き始めました。それから、せむしがなおもしゃがんで用を足しつづけていると、猫はだんだん大きくなり始め、今度は大きな犬になって、「ハウー、ハウー」と吠えました。するとせむしはこわくなってきて、叫びました、「あっちへ行け、畜生め。」すると、犬はまたもや大きくなり、ふくれ上がってろばになり、せむしの鼻先で「ハァク、ヒ、ハァク」と嘶《いなな》き始め、またものすごい音を立てておならをし始めました。するとせむしは怖ろしくてたまらず、腹全体が溶けて下痢してしまうような気がして、やっとのことで叫びました、「助けてくれ、だれかいないか。」すると、せむしがここから逃げ出すといけないと思って、ろばはまた大きくなり、途方もなく大きな水牛になって、厠の戸をすっかりふさいでしまいました。そして今度は、この水牛は人間の声を出して口をきいて、言いました、「おれのけつのたんこぶめ、きさまに禍いあれ。おお馬丁の中でもいちばん汚ならしいやつめ。」この言葉を聞くと、せむしは死の冷気に襲われたような気がして、半分裸で臀《しり》をさらしたまま、自分の下痢といっしょに床の敷き石の上にずり落ち、両顎はがたがた打ち合って、ついには恐怖のためにくっつき合ってしまいました。すると水牛はこれにどなりました、「瀝青《チヤン》のせむしめ、おれの情婦《おんな》よりほかに、きさまのけがらわしい道具を入れる女を、だれか見つけることができなかったのか。」だが馬丁はこわさのあまり、ひとことも言い出すことができません。すると魔神《ジンニー》は言いました、「返事をしろ。さもないと、きさまのくそを食わせちまうぞ。」せむしはこの恐ろしいおどかしを聞くと、やっと言えました、「アッラーにかけて、これはけっして私が悪いのじゃありません。無理じいされたことなのです。それに、おお、力強い水牛の王さま、私としては、あの若い娘さんが水牛の中に情夫《おとこ》を持っていようとは、てんで察しもつきませんでした。だが誓います、私はこのとおり後悔して、アッラーとあなたさまにお詫びを申します。」すると魔神《ジンニー》は言いました、「きさまはこれからおれの命令に従うと、アッラーにかけて誓え。」せむしはあわてて誓いを立てました。すると魔神《ジンニー》は言いました、「では日が出るまで、ひと晩じゅうずっとここにいろよ。日が出たらはじめて、出て行ってもよろしい。だがこのことについては、だれにもひとことも言ってはならん、さもないと、きさまの頭を粉みじんにしてくれるぞ。そして今後二度と、この宮殿のほうに、この後宮《ハーレム》の中に、足を踏み入れてはならん。さもないと、くり返して言うが、きさまの頭をぶち割って、糞壺《ふんつぼ》の中にたたきこんでやるぞ。」それから、つけ加えました、「さあ、これからきさまをいいかっこうにしてやるから、そのまま、夜が明けるまで身動きしてはならんぞ。」そして水牛は、歯で馬丁の両足をつかまえ、厠の糞壺の大きく開いた穴の奥に、頭から先に突っこみ、両足だけを穴の外に出しておきました。そしてくり返し言いつけました、「いいか、けっして動くなよ。」それから姿を消してしまいました。
せむしのほうはかような次第でした。
さてハサン・バドレディン・エル・バスラウイのほうはというと、彼はせむしと鬼神《イフリート》を争わせておいて、自分は私室の中にはいって行き、その部屋部屋を通って婚姻の間に入りこみ、ずっと奥のほうに腰をおろしました。彼がそこに坐ったと思うと、花嫁が乳母の老婆に支えられて、はいってまいりました。乳母は戸口に足をとどめて、セット・エル・ホスンだけをひとり送りこみました。そして老婆は奥に坐っているのがだれだかわからずに、せむしに話すつもりで、言いかけました、「起きなされ、勇ましい勇士《つわもの》よ、あなたの妻を受け取って、めざましくふるまいなされ。さらばわが子たちよ、アッラーおんみらと共にあれ。」それから老婆は引き取りました。
すると新妻セット・エル・ホスンは心も弱く、心中でひとり言を言いながら、進んでまいりました、「いえいえ、あのけがらわしいせむしの馬丁に身をまかすくらいならば、いっそ死んでしまいましょう。」けれども、二足三足歩いたと思うと、彼女はうるわしいバドレディンの姿を認めたのでした。そこで彼女はひと声歓声をあげて、言いました、「おおいとしいおかた、ほんとに長いあいだよく待っていてくださいました。あなたおひとりなの? まあ嬉しい。ほんとう言えば、わたくしは最初、あなたが広間で、あのいやらしいせむしと並んで坐っていらっしゃるのを見て、これは、あなたがた二人のあいだで、わたくしを分け合おうとしているのかしらと思いましたの。」バドレディンは答えました、「おおわがご主人よ、何をおっしゃるのですか。あのせむしがあなたにふれることなど、どうしてできましょうか。あの男があなたを私と分け合うなどということが、どうしてありえましょうか。」セット・エル・ホスンは答えました、「では結局あなたがた二人のうち、だれがわたくしの夫になるのでございますか。あなたですの、それともあの男ですの。」バドレディンは答えました、「私です、おおご主人よ、このせむしの茶番すべては、ただ私たちを笑わせるために、仕組まれたものです。それからまた、あなたから凶眼を避けるためもある。というのは、宮殿の女たちは、皆あなたのたぐいない美しさの噂を聞いているから、それであなたのお父さまは、凶眼をそらせる引立役にさせようと、あのせむしを雇われたのでした。お父さまはあれに十ディナールのお礼をおやりになりました。それに今ごろは、あのせむしは厩舎《うまや》で、私たちの健康を祝して、冷たい固まった牛乳一壺をすすっている最中でしょう。」
このバドレディンの言葉を聞いて、セット・エル・ホスンは悦びの絶頂に達しました。そして優しくほほえみ始め、それよりもいっそう優しく笑い始めました。次に、突然、もうがまんできなくなって、叫びました、「アッラーにかけて、いとしいおかた、わたくしを取ってちょうだい。取ってちょうだい。抱きしめてちょうだい。お膝の上にしっかりと乗せてちょうだい。」そのときセット・エル・ホスンは下着を皆脱いでいたので、着物の下は丸裸でした。それで、「お膝の上にしっかりと乗せてちょうだい」という言葉を言いながら、彼女は着物を陰門の高さまで軽く持ち上げて、こうしてその素馨《そけい》の腿と尻をば、そのすべてのすばらしさのうちにさらしました。
これを見て、またこの天女《フーリー》の肉体の細かい部分を眺めますと、バドレディンは、欲望が全身を巡り、眠っていた子供をもたげるのを感じたのでした。そこですぐに急いで立ち上がり、着物を脱ぎ、無数のひだのついたゆるやかな股引きをとりました。彼はバスラのユダヤ人からもらった、例の千ディナールのはいった財布をはずし、それを長椅子《デイワーン》の上に、股引きの下に置きました。それからあの美しいターバンをぬいで、それを椅子の上に置き、せむしのために置いてあった、軽い夜のターバンをかぶりました。そして今は、金の刺繍をした絹モスリンの薄い肌着と、金のふさのついたひもで腰に結んだ、青絹の太い下ばきだけしか、身につけておりませんでした。
バドレディンはひもをほどいてから、全身を彼のほうにさし出している、セット・エル・ホスンに飛びかかりました。そして二人は抱き合いました。バドレディンはセット・エル・ホスンを抱き上げ、寝床の上に倒して、その上に襲いかかりました。彼は脚を広げてしゃがみ、セット・エル・ホスンの両腿をつかまえて、それを広げながら自分のほうに引き寄せました。そこで彼は、すっかり用意成っている破城槌《はじようつち》を、砦《とりで》の方向に向け、そのたけだけしい破城槌を突破孔の中にさしこみながら、突き入れました。するとすぐに突破孔は破れました。そしてバドレディンは、この真珠がまだ閉塞していて、彼の前にはどんな破城槌もこれを貫いたことがなく、鼻の先さえも触れたことのないのを確かめて、狂喜したのでした。またこの祝福の臀は、いまだかつて一人の乗り手の攻撃の下にもさらされたことがないことも、確かにわかりました。
そこで歓喜の絶頂のうちに、彼は女の処女を奪い、心ゆくまでこの青春の味を満喫しました。そして一撃また一撃と、破城槌はつづけざまに十五回、休みなく出たり入ったりして活躍しました。それでも少しもいやになりませんでした。
されば、この時よりただちに、おお信徒の長《おさ》よ、後に見らるるごとく、セット・エル・ホスンはいささかの疑いもなく、懐妊したのでございます。
ちょうどバドレディンが十五本目の杭を打ち終わろうとしたとき、彼は思いました、「まあさしあたり、これでよかろう。」そこで彼はセット・エル・ホスンのかたわらに横になって、その頭の下に優しく手をさし入れ、セット・エル・ホスンもまた同じように、双の腕を彼にめぐらし、そして二人はしっかりと抱き合って、眠ることにしました。次のように言った詩人は、まさにあやまってはいなかった。
[#ここから2字下げ]
「寛仁なる者」は、臥床《ふしど》に相抱く二人の恋人にもまして美しき光景を、かつて創りたまわざりき。
彼らの手と腕とはかくも柔らかき枕をなす。相ならびて、上にかくるものとてはただ祝福のみなる二人を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
ハサン・バドレディンとその伯父の娘セット・エル・ホスンのほうは、かような次第でした。魔神《ジンニー》はというと、彼は急いで連れの女魔神《ジンニーア》を呼びに行って、二人で来て、この若者たちの戯れを見物し、破城槌《はじようつち》の突きを勘定してから、眠っている二人を眺めました。次に鬼神《イフリート》は連れの魔女《イフリータ》に言いました、「どうです、姉妹よ、私の言うことは正しかったでしょう。」次につけ加えて言いました、「さあ今度はあなたに若者を持っていただいて、あの私の連れて来たもとの場所に、運んで行っていただかなければならない。バスラの墓地の、父親ヌーレディンの墓所《トウルバー》の中でしたね。早くしてください。私もお手伝いしましょう。もうじき夜が明けそうだ。明けてはたいへんです。」そこで魔女《イフリータ》は眠っている若いハサンを持ち上げ、ただ肌着だけを着けたそのままのなりで、これを肩の上に乗せました。というのは、下ばきははね回っている最中に脱げてしまったのです。そして魔女《イフリータ》は鬼神《イフリート》につきそわれて、ハサンと共に飛び立ちました。しばらくすると、この空中を駆けている途中で、鬼神《イフリート》は魔女《イフリータ》に対して淫念を起こし、こうして美男のハサンを背負っている魔女《イフリータ》をば姦しようとしました。魔女《イフリータ》も確かに鬼神のするがままになったところでしょうが、しかしそのときハサンの身が心配になったのでした。それに幸いにして、アッラーが中にはいってくださって、この鬼神《イフリート》に対して天使をおつかわしになり、天使たちはこれに火の柱を投げて、焼き殺してしまいました。かくて魔女《イフリータ》とハサンは、この恐ろしい鬼神《イフリート》から無事に逃がれたのでありました。さもなければ二人はおそらく身を亡ぼされてしまったことでしょう。なにせ鬼神《イフリート》の交合《まじわり》といえば、たいへんなものですから。そこで魔女《イフリータ》は地に降り、鬼神《イフリート》が墜落したその場所に、降り立ちました。ハサンの身をたいそう心配したればこそしなかったものの、もしハサンがいなかったら、確かにこの鬼神《イフリート》と交わったところだったのです。
ところで魔女《イフリータ》が、自分ひとりでは、もうそれ以上遠く運んで行く気になれなくなって、若いハサン・バドレディンをおろす場所は、シャム国(11)のダマスの町のほとりであろうということは、元来「天運」によって記されていたのでした。そこで魔女《イフリータ》は、町の城門の一つのすぐかたわらにハサンを運び、これを静かに地上に置いて、飛び去ってしまいました。
夜が明けると、町の城門が開かれ、そして人々は外に出てみると、うるわしい青年がただ肌着だけを着け、頭にはターバンのかわりに夜帽をかぶり、しかも下ばきもはかずに眠っているのを見て、びっくりしてしまいました。そして一同は言い合いました、「いくら夜ふかししても、今になってまだこんなにぐっすりと寝こんでいるとは、驚いたことだ。」しかしある人々は言いました、「アッラー、アッラー、まったく美男の青年だな。こんな男と寝た女は仕合せな果報者だ。だが、なぜこんなふうに素裸なのだろう。」他の人々は答えました、「たぶんこのかわいそうな若者は、酒屋で時を過ごしすぎてしまったのだろう。そして飲める以上に飲んだものだ。夜になっていざ帰ろうとすると、城門がみなしまっていたので、そこで地面に眠ることにしてしまったのだろう。」
ところで一同がこうして話し合っていると、朝の微風《そよかぜ》が吹いて来て、美男のハサンをなぶり、その肌着を広げました。するとすべてが水晶のような、腹やへそや腿や脚や、また陰茎《ゼブ》と非常に形のよい卵が、現われるのが見えました。この光景は、このすべてに見入る人々を驚嘆させました。
このとき、バドレディンは目を覚まし、自分がこんな見知らぬ城門のかたわらに横たわり、こうしたすべての人々に取り囲まれているのを見ました。そこで非常に驚いて叫びました、「私はどこにいるのですか、おお皆さんがた。どうぞ教えてください。またあなたがたは、どうしてこんなふうに、私のまわりに寄っているのですか。いったいどうしたというのです。」彼らは答えました、「なに、私たちはただおもしろいから、足を停めて、おまえさんを見ているだけだ。だがおまえさんは、自分がダマスの城門のところにいるということを知らないのかい。そんなふうに素裸でいるとは、いったいどこで夜を過ごしたのだね。」ハサンは答えました、「アッラーにかけて、善いかたがたよ、あなたがたはいったい何をおっしゃるのです。私はカイロで夜を過ごしたのです。それなのに、私がダマスにいるとおっしゃるのですか。」すると一同はどっと笑い出して、その中の一人は言いました、「これはひどい麻酔剤《ハシシユ》服用者《のみ》(12)だ。」また他の人たちは言いました、「おまえは確かに気違いだ。こんなにりっぱな青年が気違いとは、なんとも惜しいことだ。」また他の人たちは言いました、「だがとにかく、おまえさんの言う、その奇妙な話はどういうことかね。」するとハサン・バドレディンは言いました、「アッラーにかけて、善いかたがたよ、私はけっして嘘を言っているのではありません。私ははっきりと申します、くり返し申します、私はきのうはカイロで、おとといは故郷のバスラで、夜を過ごしたのです。」この言葉を聞いて、一人は叫びました、「どうもはや不思議なことだ。」今一人は、「これは気違いだ」と。そしてある者は笑って腹をよじり、両手を打ち合い始めました。また他の人々は言いました、「まったく、このみごとな青年がこんなふうに正気を失ってしまったとは、残念なことではないか。だがまた、なんとたぐいのない気違いだろう。」そしてもっと心きいた一人は、彼に言いました、「わが子よ、少し気を確かにして、そんなばかなことを言いなさんな。」するとハサンは言いました、「私は自分の言っていることはわかっています。それに、きのうの夜は、カイロで、私は花婿になってとても楽しい時を過ごしたのです。」そこで一同はますます、気が触れたものと信じこみました。そしてそのうちの一人は、笑いながら叫びました、「どうです皆さん、かわいそうにこの若者は夢で結婚したのです。よかったかい、夢の結婚は。何度だった。天女《フーリー》だったかね、売女《ばいた》だったかね。」けれどもバドレディンはたいそう気色を損じ始めて、一同に言いました、「ええ、そうとも、天女《フーリー》でしたよ。私はけっして夢で交合《まじ》わったのじゃない、確かにその女《ひと》の股のあいだで、十五回したのです。私はあるきたならしいせむしの身代りになって、そいつのかぶるはずの、ほらここにあるこの夜帽までかぶったのです。」それからちょっと考えて、叫びました、「だが、アッラーにかけて、親切なかたがたよ、私のターバンはどこにありますか。下ばきはどこです。着物と股引きはどこです。ことに私の財布はどこにありますか。」
そしてハサンは立ち上がって、身のまわりに自分の着物を探しました。すると一同は目配せして、この青年はまったくの気違いだという合図をし始めました。
そこで憐れなハサンは、ともかくその変な身なりのまま、町にはいってみようと決心しましたが、それには、「気違いだ、気違いだ」と叫びながら、ぞろぞろとついて来る大人や子供に取り囲まれて、街々や市場《スーク》を通らなければなりませんでした。そしてもう憐れなハサンは、どうなることやらわからないでいると、そのときアッラーはこの美男子が暴行を加えられることを心配なされて、ちょうど今しがた店をあけた、ある菓子屋の店のかたわらを、通るようにしてくださったのでした。そこでハサンはこの店の中に飛びこみ、ここに避難しました。この菓子屋の主人はたくましい快男子で、その腕前は町じゅうに鳴り響いていたので、みんなは恐れをなして、ハサンをそのまま残して、散ってしまいました。
この菓子屋はエル・ハジ・アブドゥラーと申しましたが、彼が若いハサン・バドレディンを見たとき、これをゆっくりと仔細に眺めることができて、その美しさ、魅力、天与の麗質を見て、驚嘆いたしました。そしてすぐさま愛情が彼の心に満ちて来て、若いハサンに言いました、「おお優しい若衆よ、おまえさんはどこから来たのか。心配することはない。おまえさんの身の上を話して聞かせなさい。私はもうおまえさんが自分の魂よりも好きになったから。」そこでハサンは菓子屋のハジ・アブドゥラーに、自分の身の上を、一部始終残らず話しました。しかしそれをここにくり返しても益なきことです。
菓子屋はひとかたならず驚嘆して、ハサンに言いました、「バドレディンの若殿よ、この身の上話は実もって驚き入ったもので、あなたのお話は稀代なものです。だが、おおわが子よ、この話はもうだれにもしないがよい、打明け話をするということはあぶないことだから。そして私はあなたにこの店を提供してあげるから、あなたは身に受けているご不興を、アッラーが終わらせてくださるまで、私といっしょに暮らすことにしなさい。それに私には子供が一人もないから、もしあなたが私を父として迎えてくれるというならば、こんな嬉しいことはない。そうなれば私はあなたを養子に迎えましょう。」そこでハサン・バドレディンは答えました、「親切な叔父よ、どうぞお望みどおりになさいまし。」
すぐに菓子屋は市場《スーク》に行き、豪奢な衣類を買って帰って、これを着せました。それから法官《カーデイ》のもとに連れて行って、証人の前で、ハサン・バドレディンをば、自分の養子といたしました。
そしてハサンはこの菓子屋の息子として、その店にとどまりました。顧客《とくい》の金を受け取ったり、捏粉菓子や、ジャムの壺や、クリームを満たした磁器《うつわ》や、ダマス名産のあらゆる菓子類を、客に売るのが、彼の役目でした。そしてほどなく菓子の作り方も覚えました。これについては、バスラの大臣《ワジール》ヌーレディンの妻である彼の母が、彼の子供のころ、彼の前で捏粉菓子やジャム類をこしらえては、いろいろ教えてくれたために、彼にはごく特別なたしなみがあったのでした。
そしてバスラの美男の若者、菓子屋の養子であるハサンの美貌は、ダマスの町じゅうに知れ渡りました。それで菓子屋エル・ハジ・アブドゥラーの店は、ダマスのあらゆる菓子屋の店の中で、いちばん繁昌する店となりました。
ハサン・バドレディンのほうはかような次第でした。
ところで、花嫁セット・エル・ホスン、カイロの大臣《ワジール》シャムセディンの娘につきましては、次のような次第です。
結婚初夜の朝、セット・エル・ホスンが目を覚ましたとき、自分のかたわらには美男のハサンがいませんでした。そこで、これはハサンが厠《かわや》に行ったものと思ったのです。そしてその帰りを待ち始めました。
とかくするうちに、父親の大臣《ワジール》シャムセディンが、様子を見にやって来ました。彼は非常に気づかっておりました。そして、こうして自分の娘の美しいセット・エル・ホスンを、せむしの馬丁などと無理に結婚させた帝王《スルターン》の非道な仕打ちに、内心非常に憤っていました。それで娘のところにはいる前に、大臣《ワジール》はこう思ったのでした、「もし娘があんな汚らわしい馬丁ふぜいに身を委せたとわかったら、きっとわが手にかけて殺してしまおう。」
そこで彼は婚姻の間の戸をたたいて、呼びました、「セット・エル・ホスン。」彼女は内から答えました、「はいお父さま、今すぐあけにまいります。」そして急いで立ち上がって、父のため戸をあけに駆り寄りました。彼女はつねよりもいっそう美しくなっていて、その顔は照らされたように冴《さ》え、その心は、あの美しい牡鹿のいみじい抱擁を感じたことに、満悦しきっておりました。ですから彼女は嬌態《しな》を作りながら、いそいそと父の前に来て、身を屈め、その両手に接吻しました。けれども父親は、せむしとの添い寝を悲しむどころか、満悦している娘を見ると、叫びました、「ああ、恥知らずの女め。あんな不潔なせむしの馬丁と寝てからに、そんな嬉しそうな顔をして、わしの前にのめのめ出て来るとは何事じゃ。」この言葉を聞いて、セット・エル・ホスンは、さものみこんだ様子で微笑し始めて、申しました、「アッラーにかけて、おお、お父さま、もう冗談はたくさんですわ。昨夜のわたくしのほんとうの夫、わたくしの美しい恋人の、爪の削り屑ほどの値いもない、あのわたくしの花婿とかいうせむしのために、お客さまがた皆さまに散々からかわれて、笑いぐさになったというだけで、わたくしはもう十分すぎるほどでございます。おお、昨夜は、あのいとしいかたのおそばで、なんと歓びに満ちあふれた夜でございましたことでしょう。お父さま、さあもうあの冗談はやめにして、あんなせむしのことなど、おっしゃらないでくださいまし。」この娘の言葉を聞くと、大臣《ワジール》は非常に立腹して、その目は激怒で青くなって、叫びました、「禍いあれ、いったい何を言っているのじゃ。何だと、せむしはおまえといっしょにこの部屋に寝《い》ねなかったのか。」娘は答えました、「おお、お父さま、おんみの上なるアッラーにかけて、あのせむしの名などわたくしにおっしゃることは、もうたくさんでございます。あのせむしなぞ、その父もその母もその家族全部をも、どうかアッラーがひどい目にあわせてくださいますように。凶眼を避けるようにとお仕組みになったたくらみは、もうわたくしにわかっていることを、お父さまはご承知のくせに。」そして彼女は、結婚とその夜の委細を、残らず父親に知らせました。そしてつけ加えました、「おお、上品な物腰、すばらしい黒い目、弓なりの眉を持っていらっしゃる美しい若者の、わたくしの最愛の夫の膝の中にうずまって、わたくしはなんとここちよいことでございましたろう。」
この言葉を聞いて、大臣《ワジール》は叫びました、「娘よ、そなたは気が違ったのか。何を言うのだ。そなたが自分の夫だという、その若い男は、いったいどこにいるのだ。」セット・エル・ホスンは答えました、「厠にいらっしゃいました。」そこで大臣《ワジール》は非常に心配になって、外に転げ出て、厠のほうに駆けて行きました。するとそこには、両足を宙にあげて、便所の穴に深く首を突っこんだまま、じっと身動きしないでいる、せむしがいたのでした。そこで大臣《ワジール》はすっかりたまげて、叫びました、「なんだこれは。おまえはせむしではないか。」そして声高くその問いをくり返しました。けれどもせむしはひとことも返事をしません。というのは、せむしは今もってびくびくしていて、自分に物を言っているのは、魔神《ジンニー》だろうと思っていたのでした……。
[#この行1字下げ] ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二十二夜になると[#「けれども第二十二夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ジャアファルは、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードに、次のように物語をつづけたのでございます。
びくびくしたせむしは、自分に物を言っているのは魔神《ジンニー》だと考えて、返事をするのがこわくてなりませんでした。そこで大臣《ワジール》は怒り立って、叫びました、「返事をせい、不届きなせむしめ。さもないとこの剣で汝のからだを斬ってしまうぞ。」するとせむしは、相変わらず頭を穴に突っこんだまま、奥のほうから答えました、「アッラーにかけて、おお鬼神《アフアリート》と魔神《ジン》のお頭《かしら》さま、私を憐れと思ってください。誓って申します、私はひと晩じゅうここから動かないで、お言いつけに従っていたのです。」この言葉を聞いて、大臣《ワジール》は何が何やらわからなくなって、叫びました、「いったい何を言っているのじゃ。わしは鬼神《イフリート》などではないわい。花嫁の父親じゃ。」するとせむしは大きなため息をついて、言いました、「おまえさんなんか、とっととここを出て行ってしまうがいい。おまえさんの知ったことじゃない。恐ろしい人殺しの鬼神《イフリート》が来ないうちに、さっさと出て行ってもらいましょう。それに、もうおまえさんなんか見たくもない。おまえさんこそ、私の禍いの因《もと》だ。よくも水牛やろばや鬼神《イフリート》たちの情婦《いろおんな》なぞを、私にめあわせてくれましたね。おまえさんにしろ、おまえさんの娘にしろ、悪者どもは皆呪われろ。」そこで大臣《ワジール》は言いました、「気違いめ、さあそこから出ろ、おまえの言いぐさを少し聞いてやるから。」けれどもせむしは答えました、「どうせ私は気違いでしょうが、あの恐ろしい鬼神《イフリート》の許しがないのに、ここを出て行くほど、ばかじゃありませんよ。何しろ、日の出ないうちに穴から出てはならんと、堅く禁じられているんですからね。さああっちへ行って、私をここにうっちゃっといてもらいましょう。だがちょっとその前に聞きたいが、日が上るまで、まだだいぶんまがあるんですか。もうすぐですかね。」大臣《ワジール》はますます思い惑って答えました、「だがおまえの言うその鬼神《イフリート》とは、いったい何なのだ。」そこでせむしは仔細を話しました。花嫁の部屋にはいる前に用を足しに厠に来たこと、鼠や猫や犬やろばや水牛など、いろいろな形になって鬼神《イフリート》が現われたこと、最後に言いつけられた命令と受けたあしらいとを。それからせむしは呻き始めました。
そこで大臣《ワジール》はせむしに近寄って、その両足をつかんで、穴から引きずり出しました。せむしは黄色くけがれた惨澹たる顔をして、大臣《ワジール》の面前で叫びました、「おまえとおまえの娘、水牛の情婦なんか呪われやがれ。」そして鬼神《イフリート》がまた出て来はしないかと心配して、びくびくしたせむしは、わめきながらあとをも見ずに、力いっぱい駆け出し始めました。そして宮殿に着き、帝王《スルターン》の御許《みもと》に参上して、自分と鬼神《イフリート》との事件を言上しました。
大臣《ワジール》シャムセディンのほうは、気違いのように娘のセット・エル・ホスンのもとに帰って来て、娘に言いました、「娘よ、どうもわしは自分の分別が飛び去ってしまうような気がする。この事件をよく説明してもらいたい。」そこでセット・エル・ホスンは言いました、「こういう次第でございます、お父さま。昨夜ずっと結婚式の光栄を持ちなすったお若い愛らしいかたは、わたくしといっしょにおやすみになって、わたくしの処女を得られたのでございます。そしてきっと、わたくしには子供ができることでございましょう。わたくしの申し上げることの証拠には、ほれここに、椅子の上にはあのかたのターバンが、長椅子《デイワーン》の上には股引きが、それからこの寝床の中には下ばきがございます。それに、その股引きの中には、わたくしにはわからなかったけれども、何かあのかたのお隠しになったものが、はいっているようでございます。」この言葉を聞くと、大臣《ワジール》は椅子のほうに行って、ターバンを取り上げ、よく調べ、あちらこちら裏返してみて、それから叫びました、「これは、バスラやモースルの大臣《ワジール》たちのかぶるようなターバンじゃが。」次にその布をほぐしてみると、帽子の上に縫いつけた封書があったので、急いで取っておきました。それから股引きを調べて、それを持ち上げてみると、そこには、例のユダヤ人がハサン・バドレディンに渡した、千ディナール入りの財布がありました。その財布の中には、他に一枚の小さな紙片があって、それにはユダヤ人の手で、次の文句が認められてありました。「バスラの商人余某は、大臣《ワジール》ヌーレディン(アッラーその恵みを彼に垂れたまえ)の息子ハサン・バドレディン殿に対し、近くバスラに到着する最初の船の積荷の代金として、合意により、一金一千ディナールの金額を引き渡せるものなるを証す。」
この書付を読むと、大臣《ワジール》シャムセディンはひと声大声をあげて、気絶してしまいました。正気に返ったとき、大臣《ワジール》は急いでターバンのなかに見つけた封書を開いてみると、ひと目見て、弟ヌーレディンの筆蹟を認めました。そこで、「ああ、憐れな弟よ、憐れな弟よ」と、言いながら涙を流し、悲嘆に暮れ始めました。
少し気が静まったとき、彼は言いました、「アッラーは全能じゃ。」次に娘に言いました、「娘よ、おまえは昨夜身を与えた者の名を知っているか。あれはわしの甥じゃ、おまえの叔父ヌーレディンの子、ハサン・バドレディンだ。そしてこの千ディナールはおまえの支度料だ。アッラーは讃《ほ》められよかし。」
次に大臣《ワジール》は弟の文書を注意深く読み返してみると、そこにはヌーレディンの伝記全部と、その息子バドレディンの誕生が、記載されてありました。そしてことに、弟の記している年月日を確かめ、それと、自分自身のカイロでの結婚および娘のセット・エル・ホスンの誕生の年月日とを、照らし合わせてみたときには、いたく驚嘆いたしました。その両方の日づけは、いちいちぴったりと符合しているのでありました。
大臣《ワジール》は非常に驚嘆して、急ぎ帝王《スルターン》に拝謁におもむいて、書類をお目にかけながら、逐一お話し申し上げました。すると、今度は帝王《スルターン》が非常に驚嘆せられて、ただちに宮殿の祐筆《ゆうひつ》たちに命じて、この感嘆すべき物語を記載し、これを鄭重に文庫の中に保存するように、ご下命になりました。
大臣《ワジール》シャムセディンのほうは、自宅の娘のそばに帰って、甥の若いハサン・バドレディンのもどりを待ち始めました。けれども結局、その原因はついに不明のままに、ともかくも、ハサンは姿をくらましてしまったものと、認定することになりました。そしてひとり言を言いました、「アッラーにかけて、この事件はなんたる不思議な事件であろう。まことに、人はかかる事件にいまだかつて遭遇したことがない……」
[#この行1字下げ] ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、インドとシナとの島々の王、帝王《スルターン》シャハリヤールがお疲れになってはと、つつましく、自分の物語をやめた。
[#地付き]けれども第二十三夜になると[#「けれども第二十三夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ハールーン・アル・ラシード王の宰相《ワジール》、ジャアファル・アル・バルマキーは、教王《カリフ》に次のように物語をつづけたのでございました。
大臣《ワジール》シャムセディンは、その甥ハサン・バドレディンが姿をくらましてしまったのを見たとき、彼はひとり言を言いました、「人の世は生と死よりなるものであるから、甥のハサンがもどって来たあかつきに、去ったときのままの状態で、わが家を見ることができるよう、あらかじめ配慮をめぐらしておくのが、賢明なるやり方というものじゃ。」そこで大臣《ワジール》シャムセディンは、筆匣《ふでばこ》と蘆筆《カラム》と一葉の紙を取り上げて、自分の家のあらゆる品物とあらゆる家具とを、ひと品ひと品書き留めました。こういうふうに書いたのです、「しかじかの箪笥はしかじかの場所に置かれ、しかじかの帳《とばり》はしかじかの場所にあり」等々……。書き終えたとき、それを娘のセット・エル・ホスンに読み聞かせてから、その書付に封をして、文箱の中にたいせつに納めました。それがすむと、例のターバンと帽子と股引きと着物と財布をまとめて、ひと包みにし、これまた念を入れてしまいました。
大臣《ワジール》の娘セット・エル・ホスンのほうは、はたして結婚初夜の結果懐妊いたしまして、まる九カ月の後、月満ちて月のような男子を生み落としました。その子はすべての点で父親に生き写しで、同じように美しく、同じように愛らしく、同じように欠けたところがありませんでした。生まれ落ちると、女たちはこれを清らかにして、その両眼を瞼墨《コフル》で黒く染めました(13)。次にそのへその緒を切って(14)、子供を侍女たちと乳母の手に渡しました。そして、その驚くべき美しさのゆえに、この子はアジブ(15)と命名されました。
うるわしいアジブが日を追い、月を追い、年を追って、七歳の年齢に達したとき、祖父の大臣《ワジール》シャムセディンは、これを非常に名声の高いある先生の学校にやり、この学校の先生にくれぐれも頼みました。そしてアジブは毎日、父の善良な宦官、黒人奴隷のサイードを連れて、その学校に通い、正午と夕方とに、家にもどりました。こうして十二歳の年齢に達するまで、五カ年のあいだ学校に通いました。
けれども、このあいだに、アジブは学校の他の子供たちにとって、がまんのならない子になってしまいました。他の子供たちをぶったり、ののしったりしては、言うのでした、「おまえたちの中でぼくみたいな子がいるかい。ぼくはエジプトの大臣《ワジール》の息子だぞ。」そこでとうとう、子供たちは連れ立って、先生のところに、アジブの悪いふるまいを訴えに行きました。すると先生は、大臣《ワジール》の息子に訓戒してもきき目がないと見て、またその父|大臣《ワジール》の手前、自分のほうから退校処分にすることは好まなかったので、その子供たちに言いました、「好いことを教えてやるから、おまえたちであの子にそう言ってやれば、今後あの子はもう学校に来なくなるだろうよ。あした、遊び時間に、おまえたちは皆でアジブのまわりに集まって、お互いにだれでもこう言い合いなさい、『アッラーにかけて、これからみんなでとてもおもしろい遊びをしよう。だけど、自分の名と、自分のお父さまとお母さまの名とを、大声で言わなければ、この遊びに入れてやらないんだ。お父さまとお母さまの名を言えないようなやつは、不義の子なわけなんだから、ぼくらはいっしょに遊んでやれないよ』と。」
そこで翌朝、アジブが学校に来ると、子供たちは彼の周囲に集まって、互いのあいだでしめし合わせて、なかの一人が叫びました、「うん、そうしよう、アッラーにかけて、とてもすてきな遊びだよ。だけど、だれでも自分の名とお父さまとお母さまの名とを言わなければ、この遊びにはいっちゃいけないんだよ。さあ、順々に言おうよ。」そしてその子は一同に目配せしました。
すると、一人の子供が進み出て言いました、「ぼくの名はナビー。お母さまの名はナビハ。お父さまの名はイゼディン。」次に別の一人が進み出て言いました、「ぼくの名はナギブ。お母さまの名はガミラ。お父さまの名はムスタファ。」次に第三、第四、その他の子たちも同じように言いました。アジブの番が来ると、アジブは大得意で言いました、「ぼくの名はアジブ。お母さまはセット・エル・ホスン。お父さまはエジプトの大臣《ワジール》シャムセディンだ。」
すると子供たちは、皆口をそろえて叫びました、「違うよ、アッラーにかけて、大臣《ワジール》はきみのお父さまじゃないや。」そこでアジブはすっかり怒って、叫びました、「アッラーはきみたちみんなをやっつけてくださるように。大臣《ワジール》はほんとうにぼくのお父さまだい。」けれども子供たちはあざ笑って、手をたたき始め、そして彼にこう叫びながら、そっぽを向いてしまいました、「向うへ行け、おまえはお父さまの名を知らないんだ。シャムセディンはおまえのお父さまじゃないやい。おじいさまだよ、お母さまのお父さまだよ。おまえのお父さまがめっかったら、ぼくらのところに遊びにおいで。」そして子供たちはどっと笑いながら、散らばってしまいました。
するとアジブは胸がせばまる思いがして、嗚咽《おえつ》にむせ返りました。けれどもすぐに、学校の先生が近づいて来て、申しました、「なんだって、アジブ、おまえはいまだに大臣《ワジール》はお父さまでなくておじいさま、すなわちおまえのお母さまセット・エル・ホスンのお父さまだということを、知らずにいるのか。おまえのお父さまについては、おまえも、われわれも、だれも知りはしないのだ。それは、帝がセット・エル・ホスンをせむしの馬丁にめあわせなすったのだが、その馬丁はセット・エル・ホスンと寝ることができなくて、馬丁が町じゅうに話したところでは、なんでもその婚姻の夜に、|魔神たち《ジン》が、セット・エル・ホスンと寝るために、その馬丁を閉じこめたのだそうだ。また、水牛とかろばとか犬とか、そのほかそういったたぐいのいろいろな動物の、不思議な話も伝えている。こういうわけで、アジブよ、だれ一人おまえのお父さまの名を知らないのだ。だから、アッラーの御前《みまえ》でも、おまえを不義の子と見るおまえの朋輩たちの前でも、おまえはへりくだっていなければいけない。何しろ、アジブや、おまえは、市場で売られて自分の父親をてんで知らない子供と、まったく同じ身の上なのだ。今一度言って聞かせるが、大臣《ワジール》シャムセディンはただおまえのおじいさまなので、おまえのお父さまは不明なのだよ。だから今後はへりくだっているがよい。」
この学校の先生の説教を聞くと、少年アジブは逃げ出して、母親セット・エル・ホスンのもとに駆けつけましたが、もう涙でむせび返って、初めのほどは、口もきけないくらいでした。そこで母親はいろいろなだめ始めましたが、子供がそんなにも心を痛めているのを見て、母親の心は憐れみで溶けてしまって、申しました、「さあ、何がそんなに悲しいのか、お母さまにわけをおっしゃいな。」そして子供を抱いて、なでてやりました。すると少年アジブは言いました、「教えてください、お母さま、ぼくのお父さまはだれなの。」そこでセット・エル・ホスンはひどく驚いて言いました、「だって、それは大臣《ワジール》じゃないの。」するとアジブは泣きながら答えました、「ううん、違う、大臣《ワジール》はぼくのお父さまじゃない。ほんとうのことを隠さないでよ。大臣《ワジール》はお母さまのお父さまなんだ。ぼくのじゃないんだ。違う、違う。ほんとうのことを教えてくださらなけりゃ、ぼくは今すぐこの短剣で死んでしまう。」そして少年アジブは、学校の先生の言葉を、母親にくり返して聞かせました。
すると、自分の従兄弟《いとこ》であり、一夜の夫である人を思い出して、美しいセット・エル・ホスンは、婚姻の初夜と、あのいみじいハサン・バドレディン・エル・バスラウイの美しさと魅力のすべてを、想い浮かべ始めたのでした。そしてこの思い出に、彼女は心を痛めて泣き、次の詩節を切々と誦しました。
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かの人はわが心に欲情《のぞみ》をともし、立ち去りぬ、遠く離《さか》りて。立ち去りぬ、住居を外に。
出で立ちしわがうつつ心、憐れ、ふたたび帰らじな、かの人のもどり来るまで。さあれ、われはかの人待ちて、安らけき眠りと、わが耐うる力をことごとく失いぬ。
かの人はわれを棄て、わが幸もともにわれを棄てたり。かくてかの人はわが身より静心《しずごころ》を奪いたり。それよりはわれ、ことごとく静心を失いぬ。
わが目の涙、かの人のいまさぬを泣く。涙流れて、その川はげに海をも満たすべし。
ひと日とて過ぎよかし、わが欲情《のぞみ》かの人の方《かた》へとわれを運ぶことなく、わが心、かの人のいまさぬゆえの苦しみに、ときめくことのあらずして。
たちまちにしてかの人の面影はわが前に立つ、わが魂の前に立ち、われは愛と欲情《のぞみ》と思い出をいや増すのみぞ。
おお、ほのぼのと夜の明け来れば、いつの日もまず初めわが目に浮かぶは、懐しきかの人の面影にこそ。そはつねにかくのごとし、他にわれは思いとてなく、愛とてもなければなり。
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それから、もう彼女はただむせび泣くばかりでした。そしてアジブは母親の泣くのを見て、自分もまた泣き始めました。そして二人がともに泣き沈んでいたとき、大臣《ワジール》シャムセディンは叫び声と泣き声を聞きつけて、はいって来ました。そして自分の子供たちがこのように泣いているのを見て、彼もまた非常に心痛して、胸を痛め、二人に申しました、「子供たちよ、なぜそのように泣いているのか。」するとセット・エル・ホスンは、少年アジブと学校の子供たちの出来事を話しました。大臣《ワジール》はこの話を聞くと、すでに自分の身にも、弟ヌーレディンの身にも、甥のハサン・バドレディンの身にも、また最後に少年アジブの身にも起こった、過ぎ来しかたの不幸の数々をすべて、今さらのように思い出し、そしてこれらすべての思い出が集まって、彼もまた涙を禁じ得ませんでした。そして思いあまって、彼は帝王《スルターン》の御許にまいり、委細を言上して、こうした状態は自分の名前のためにも、子供たちの名前のためにも、もはや忍ぶことができない旨を申し上げ、そしてバスラの町に行けば、甥のハサン・バドレディンに会えるであろうから、そこに至り着くため、東方の国々に向かって出発するお許しを、乞うたのでした。それからまた、帝王《スルターン》に勅書を賜わり、それを携えて、行く先々のあらゆる国で、甥を見つけて連れ帰るに必要な捜索を行なうことができるようにということも、同時にお願い申し上げました。そして大臣《ワジール》はさめざめと泣き始めました。そこで帝王《スルターン》も不憫におぼしめされ、あらゆる国とあらゆる地方に対して、必要な勅書を賜わりました。すると大臣《ワジール》は非常に悦んで、帝王《スルターン》にくり返しお礼申し上げ、また御《み》稜威《いつ》の栄えをくり返し祈りまして、御手のあいだの床《ゆか》に接吻しながら、ひれ伏しました。それからおいとまごいをして、退出しました。そして即刻、出発のために必要な準備を整え、それから娘のセット・エル・ホスンと少年アジブを伴って、出発したのでありました。
一行はダマスのかたを指して、最初の日も、二日目も、三日目も、その次の日も、また次の日も進んで、とうとうつつがなくダマスに安着しました。そこで一行は城門のすぐそばの、ハスバのミダンにとどまり、そこに天幕《テント》を張って、さらに道中をつづける前に、二日間休むことにしました。彼らは、ダマスは木々と流れる水とに満ちた、感嘆すべき都であり、いかにも詩人によってかく歌われただけの都であると思いました。
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ダマスにて、われはひと日ひと夜を過ごせり。そを創りし者は言挙げしたり、彼とても絶えてまたかかる作をばなしえざらんと。
夜は情こまやかに、その翼をもてダマスを包む。朝《あした》は生い繁る木々の葉陰を、そが上にさし伸ばす。
その木々の枝葉に宿る朝露は、露にはあらず、真珠なり。微風《そよかぜ》のまにまに揺れて、雪と降る真珠なり。
かしこ、その繁みの中に、自然はいっさいをなして余すなし。鳥はその朝《あした》の読書を誦せば、真清水は開かれし素白のページ、微風《そよかぜ》はこれに答えて鳥の言葉を書き取れば、白雲は水したたらせて文字をなすなり。
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そこで大臣《ワジール》の従者たちは、町とその市場《スーク》を訪れて、自分たちの入用の品々を買い、エジプトから持って来た品々を、売りに行くことを忘れませんでした。また、諸方の名高い浴場《ハンマーム》に沐浴《ゆあみ》に行き、都の中央にある、全世界に並ぶもののない、バニ・オムミヤ(16)の回教寺院《マスジツト》に行くことも忘れませんでした。
さてアジブはと申しますと、彼もまた善良な宦官サイードを伴って、町に気散じに行きました。そして宦官はその数歩後に従い、手にはらくだでも打ち殺せるような鞭《むち》を持っていました。というのは、かねてダマスの住民の評判を聞き知っていたので、この鞭でもって、自分の主人のかわいらしいアジブのそばに寄って来る市民を、防ごうと思ったのでした。そして、はたしてそれはまちがっていませんでした。なぜなら、ダマスの住民たちは美しいアジブを見かけるやいなや、彼がどんなに優雅で愛らしく、北の微風よりもやわらかで、渇いた者の口の中の冷水よりも味わいよく、病後の人にとっての健康よりも甘美であるということに、感づきました。そしてすぐさま、街や家や店の人々すべてが、アジブと宦官のあとを追いかけ始め、宦官の大きな鞭にもかまわず、いつまでもそばを離れないで、アジブの後をつけ始めました。また他の連中は、もっと早く走って、アジブを追い越し、もっとよくもっと長いあいだその顔を見ようとして、通り道の地面の上に坐っていました。最後に、「天運」の欲するところにより、アジブと宦官は一軒の菓子屋の店先にさしかかり、そしてこの不遠慮な群衆を逃がれようとして、二人はここに足をとどめました。
ところがこの店こそ、あたかもアジブの父ハサン・バドレディンの店でした。ハサンの養父の年老いた菓子屋はすでに死んで、ハサンが店を継いでいたのでした。さればこの日も、ハサンはちょうど、ざくろの実とか、その他の味のよいいろいろな物で、おいしい食べ物をこしらえている最中でありました。そこで、ハサンがアジブと奴隷とが足をとめるのを見たとき、彼は少年アジブの美しさに魅せられ、ただ魅せられたばかりでなく、何か霊妙に、衷心から、まったくなみなみでなく、心を動かされまして、愛にあふれて叫びました、「おお、わが若殿さま、私の心を征服して、もはや私の心の奥まで支配してしまったあなたさまよ、臓腑の底から、あなたさまのほうへひきつけられるように覚えられるおかたよ、ひとつ私の店におはいりになっていただけないでしょうか。ただ不憫とおぼしめして、私のお菓子を味わって、私を悦ばせていただけないものでしょうか。」そしてこの言葉を言うと、ハサンはわれにもあらず涙が目にいっぱいになり、そして同時に、過去のわが身の境遇と、現在の自分の運命とが思い出されてきて、いたく涙を流しました。
アジブが自分の父の言葉を聞いたとき、彼もまたすっかり心をひかれて、奴隷のほうに向いて申しました、「サイード、ぼくはこのお菓子屋に心をひかれてしまった。きっとこの人は遠方に、自分の子供を残してきたにちがいない。そしてぼくがその子を思い出させるのだろう。店にはいって、この人を悦ばせてあげ、ぼくらにさし上げたいというものを食べてやろう。ここでこうして、ぼくらがこの人の苦しみに同情しておけば、アッラーもまたぼくらを憐れんで、今度はぼくのお父さまを、首尾よく探りあてさせてくださるかも知れないよ。」
アジブの言葉に、宦官サイードは反対して叫びました、「アッラーにかけて、おおご主人さま、そんなことをなすってはいけません。とんでもないことです。大臣《ワジール》の子弟ともあろうものが、市場《スーク》の菓子屋の店にはいって、ことにそんなふうに人前で物を食べるなどとは、もってのほかのことです。けれども、もしあとについてくるこういうろくでなしややじうまどもを恐れて、この店にはいろうとおっしゃるのなら、私がやつらを追っぱらって、この鞭で十分おんみを護ってさしあげます。だがこの店にはいるということは、断じてなりませぬ。」
宦官の言葉を聞いて、菓子屋のハサン・バドレディンは非常に悲しみ、目に涙をたたえ、頬をぬらして、宦官のほうに向いて、言いました、「おお、お偉いかたよ、なぜあなたは、不憫におぼしめして、私の店にはいってくださろうとはなさらないのですか。おお、栗のごとく黒けれども、内心はまたそのごとく白いあなたさま、おお、あらゆるわが詩人たちがみごとな詩句をもってたたえたあなたさまよ、私はあなたが内に白きと等しく外に白くなる秘訣を、お教えすることができますよ。」すると人の好い宦官は、たいそう笑い出して叫びました、「ほんとうかい、ほんとうにできるのかい。じゃどうするのだい。アッラーにかけて、急いで言ってくれ。」すぐにハサン・バドレディンは、宦官をたたえたみごとな詩句を、誦して聞かせました。
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彼をして世に仰がるる王者らの家の護衛《まもり》となしたるは、その都雅なる礼節と、その挙措のゆかしさと、その風姿の高貴とにこそよるなれ。
後宮《ハーレム》にとりては、彼はいかばかりたぐいなき侍者ならざらんや。さればその温雅のゆえに、ここに空の天使らは、降《くだ》りて彼にかしずくなれ。
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この詩句は実際、時にとっていかにもふさわしく、また誦し方がまことにじょうずであったので、宦官も心をうたれ、かつひどく悦ばされました。そこでアジブの手を取って、いっしょに菓子屋の店の中にはいりました。
するとハサン・バドレディンは悦びのかぎりに達し、二人を迎えるために、まめまめしく立ち働きました。次に彼はいちばんきれいな瀬戸物の鉢を取って、砂糖と皮をむいた巴旦杏《はたんきよう》をまぜてこしらえ、さらにおいしくほどよく香りをつけたざくろの実を、それに満たしました。次にその鉢を、模様を打ち出し彫刻を施した、銅製のいちばんりっぱな盆に載せて、二人の前にさし出しました。そして二人が満足げな様子でそれを食べるのを見て、非常に悦ばされ心嬉しく、彼らに言いました、「まことに、私にとってなんという名誉なことでございましょう。なんという幸運でございましょう。どうぞこれがおふたかたに、快くおいしくめしあがれますように。」
すると少年アジブは、ひと口食べてから、菓子屋にも坐るように誘うことを忘れず、申しました、「あなたもここでいっしょにおあがりなさい。そうすればアッラーはわれわれに尋ね人を探りあてさせて、報いてくださることでしょう。」そこでハサンは言いました、「なんですと、わが子よ、そんなに若い身空で、もうどなたかたいせつなおかたに、生き別れになるようなつらい目に、お会いなされているのですか。」するとアジブは答えました、「そうなのです、おじさん、この年で、ぼくの心はたいせつなかたがいらっしゃらないので、つらくてせつないのです。そのたいせつなかたというのはほかでもない、ぼく自身のお父さまです。そしておじいさまとぼくとは、自分の国を出てあらゆる国々を回り歩いて、お父さまを探しているのです。」それから少年アジブは、思い出して涙を流し始めました。そしてバドレディンもまたこの涙を共にせずにいられないで、涙を流しました。宦官自身も非常に同情して、頭をふりました。けれどもこうしたことも、実に巧みに香りをつけてこしらえられた、おいしいざくろの皿を、賞翫《しようがん》する妨げとはなりませんでした。そして二人は腹いっぱいになるまでたべました。それほど結構だったのです。
けれども、もう時間も迫っていたので、ハサンはこれについて、それ以上詳しく知ることができませんでした、そして宦官はアジブを連れて、大臣《ワジール》の天幕《テント》に帰るために立ち去りました。
アジブが出て行くやいなや、バドレディンは自分の魂も少年といっしょに行ってしまうように感じ、その後を追って行きたい気持に逆らいきれず、急いで店を閉め、そして少年アジブが自分の息子であろうとは露知らず、家を出て、彼らの後を追って足を急ぎ、彼らがまだダマスの大門を越えないうちに、これに追いつきました。
すると、宦官は菓子屋があとを追って来たのに気がつきまして、振り返って言いました、「菓子屋よ、なぜわれわれのあとについて来るのか。」するとバドレディンは答えました、「いやただ、郊外に片づけなければならないちょっとした用事があるからです。ついでに、あなたがたお二人とごいっしょになって同じ道をまいり、その上でもどろうと存じました。それに、お二人が行ってしまわれると、私の魂はからだからもぎとられてしまいました。」
この言葉を聞くと、宦官は非常に怒って、叫びました、「まったくあの一鉢はとんだ高いものについたわい。何という禍いの鉢か。この菓子屋のおかげで胸が悪くなりそうだ。ほら、やつはどこまでも私たちのあとからついて来ます。」そこでアジブは振り向いて見ると、菓子屋の姿が見えたので、真っ赤になってつぶやきました、「サイード、まあ放っておけ。アッラーの道はあらゆる回教徒が歩いてかまわないのだ。」次につけ加えて言いました、「だがもしやつがしつこくわれわれの天幕《テント》までもついて来るようだったら、そのときこそは確かにぼくの後をつけているのだから、かならずやつを追っ払ってやることにしよう。」こう言って頭をたれて、道を続け、そして宦官はその数歩後に従いました。
ハサンのほうは、天幕《テント》の立てられているハスバのミダンまで、二人の後をつけ続けました。そこでアジブと宦官は振り返ってみると、うしろ数歩のところに、彼の姿が見えました。ですからアジブは、今度は立腹して、それに、宦官がすべてをおじいさまに話してしまいはしないかと、非常に心配になったのでした。アジブがある菓子屋の店にはいって、それからその菓子屋はアジブの後をつけて来たというようなことをです。こう思うと心配でたまらず、少年は石を拾い上げて、ハサンを見ますと、彼は立ちつくしてじっとこちらを見つめ、その目には異様な光がひらめいていました。そこでアジブは、菓子屋の目のこの焔は怪しい焔であると考えて、さらにますます怒りを覚え、そして彼を目がけて、力一杯その石を投げつけて、その額にひどくぶつけました。それからアジブと宦官は天幕《テント》へと急ぎました。ハサン・バドレディンのほうはというと、彼は気を失って地に倒れ、顔じゅう血だらけになりました。しかし幸いにして、まもなくわれに返って、顔の血を止め、ターバンから一片の布をちぎり取って、額にまきました。それからわれとわが身を責め始めて、ひとり言を言いました、「これはまったく自分が悪かった。だいたい店をしめたということが軽はずみなふるまいだし、またこの美少年の後をつけ、怪しい動機からあとをつけたように思わせたということが、無作法なふるまいであった。」次に彼は「アッラー・カリーム(17)」と嘆息をして、町にもどり、また店を開いて、自分がごく小さなとき、最初に菓子作りの法を手ほどきしてくださった、バスラのお気の毒な母上のことを、やるせなく思いながら、前のように菓子を作っては、これを売り始めました。そして彼は涙を流し、心を慰めるために、みずから次の詩節を誦しました。
[#この行2字下げ]「運命」に対して公平を求むることなかれ。汝はただ幻滅を得るのみならん。なんとなれば、「運命」は断じて汝に公平を与うることなければなり。
菓子屋ハサン・バドレディンの伯父、大臣《ワジール》シャムセディンのほうは、ダマスに三日休むと、ミダンの野営を撤しさせて、バスラへの旅を続け、少年アジブと共に、ホムスの道、次にハマの道、アレプの道をとりました。そして行く先々で捜索することを怠りませんでした。アレプからマルディンに、次にモースルに、ディアルベキールに行きました。そして最後にとうとうバスラの町に到着しました。
大臣《ワジール》はしばし休らうまもなく、急ぎバスラの帝王《スルターン》に拝謁におもむくと、帝王《スルターン》はただちに招じ入れ、きわめて丁重に迎えなすって、バスラまで来た理由を、ねんごろにお尋ねになりました。そこでシャムセディンは委細を残らずお話しして、自分は帝王《スルターン》のもとの大臣《ワジール》、ヌーレディンの兄である旨を申し上げました。すると帝王《スルターン》は、ヌーレディンという名を聞かれて、仰せられました、「アッラーその御恵みを彼に垂れたまえかし。」そしてつけ加えられました、「しかり、わが友よ、ヌーレディンは確かにわが大臣《ワジール》であった。余は深く寵愛していたが、今を去る十五年前、惜しむべし、世を去った。また確かに、ハサン・バドレディンなる一人の息子をあとにのこし、彼は余がもっとも鍾愛《しようあい》した寵臣であったが、一日突然、姿を消してしもうた。爾来その噂を耳にしたことがない。されどなお当地バスラには、その母がおる。令弟ヌーレディンの妻、ヌーレディンの前任者たるわが老|大臣《ワジール》の娘じゃ。」
この消息に接して、シャムセディンはこのうえなく悦んで、申し上げました、「おお王よ、それがしはぜひともわが義妹に会いとうございます。」すると王はこれをお許しになりました。
そこでシャムセディンはその住所と方角とを承わってから、ただちに亡弟ヌーレディンの屋敷をさして駆けつけ、やがてほどなくそこに着きましたが、道々ずっと、自分を抱擁することもできないで、悲しみのうちに、自分から遠く離れて死んだ弟ヌーレディンのことを、考え続けていたのでした。そして涙して、みずから次の二節を誦しました。
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おお、わが過ぎし夜々の住居に帰らばや。しかしてその四辺の壁を抱かばや。
さりながら、住家の壁をいとしみて、わが心、ただなかに痛手を負いしにはあらず、その家に住まいし人をいとしみてなれ。
[#ここで字下げ終わり]
大臣《ワジール》は大きな門を通って広い中庭にはいりますと、その奥に家がそびえておりました。家の戸は、あらゆる色の大理石をはめた、花崗石《みかげいし》と拱門でできたすばらしいものでした。その戸の下に、みごとな大理石の上に、弟ヌーレディンの名が、金文字で彫ってありました。そこで彼は身をかがめてその名に接吻し、そして非常に心を動かされ、涙を流して、みずから次の詩節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
日ごと、朝《あした》に、われは昇る太陽《ひ》に汝が消息を問い、夜ごと、煌めく電光に問う。
われ眠ればとて、欲望《のぞみ》の針、欲望《のぞみ》の錘《おもし》、欲望《のぞみ》の鋸の歯は、われをさいなむかな。われは絶えてわが苦しみを静むることなし。
おおわが懐しき友よ、せつなき留守を今さらに永びかしむることなかれ。わが心|千々《ちぢ》に砕けぬ。この留守の苦しみゆえに。
われらついに相会うことを得ん日は、いかばかり至福の日ならんや。
さあれ、信じたもうことなかれ、汝《な》が留守にわが心|仇《あだ》し人《びと》もて占められしとは。わが胸は広からず、次なる愛を容るるに耐えざればなり。
[#ここで字下げ終わり]
それから大臣《ワジール》は家の中にはいって、その義妹、ハサン・バドレディン・エル・バスラウイの母が平常いる、特別の一室に着くまで、全部の部屋を横切って行きました。
ところで、息子のハサンが姿を消してからというもの、母親はずっとこの一室に閉じこもったきりで、日夜涙を流し、すすり泣いていたのでした。そして憐れな息子はとうの昔に死んでしまったものと思って、その墓をかたどる小さな円蓋の建物を、室の中央に建てさせました。そしてそこでひねもす涙の中に時を過ごし、苦しみに力尽き果てては、そこに頭をもたせて眠るのでありました。
その室の戸口近く着いたとき、シャムセディンは義妹の声を聞きつけましたが、その痛ましい声は次の詩句を誦しておりました。
[#ここから2字下げ]
おお墓よ、アッラーにかけて、告げよかし、わが友の美は、魅惑は、消え失せにしや。うるわしのかの人の心楽しき眺め、そは永遠《とわ》に消え果てしや。
おお墓よ、げに汝《なれ》は歓楽の園にもあらず、九重《ここのえ》の天にもあらず。されど告げよかし、さるを何とても、われは汝《な》が奥処《おくか》に、月の輝きて小枝《さえだ》に花咲くを見るならん……。
[#ここで字下げ終わり]
そこで大臣《ワジール》シャムセディンははいりました。大臣《ワジール》は最大の敬意をこめて義妹に挨拶をして、自分は彼女の夫、ヌーレディンの兄である旨を告げました。それから委細を語り、彼女の息子ハサンが、一夜自分の娘セット・エル・ホスンと契り、翌朝姿を消し、またさいごに、セット・エル・ホスンが懐妊してアジブを産み落とした、その顛末を語りました。それからつけ加えて申しました、「アジブは私といっしょにまいっております。この子はわが娘による、おんみの息子の子である以上、すなわち、おんみの子であります。」
このときまで、世のいっさいのしきたりを捨て、ひたすら喪に服している婦人のように、ただじっと坐っていた寡婦は、自分の息子が生きていて、自分の孫がここにおり、かつここに現在、義兄エジプトの大臣《ワジール》シャムセディンがいるという便りに接すると、急ぎ立ちあがり、その足もとに身を投げて足に接吻し、敬意を表して次の二節を誦しました。
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アッラーにかけて、今ここにこのよろこばしき便りを告げし者に、賜物のかぎりを尽くせよ。なんとなれば、彼こそはかつて聞きしもののうちもっとも悦ばしく、もっともよき便りを告げたれば。
もし彼にしてわが贈物を甘んじて受けたまわんか、われは贈るに別離にて破れし心をもってせん。
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そこで大臣《ワジール》はすぐにアジブを呼びにやって、アジブが来ました。すると祖母は立ち上がって、泣きながらアジブの首にとびつきました。シャムセディンはこれに言いました、「おお母上よ、まことに今は涙のときではありません。おんみがわれわれとともに、エジプトへと出発する準備のときでござります。願わくはアッラーがわれわれ一同を、おんみの息子、わが甥ハサンに引き合わせてくださいまするように。」アジブの祖母は答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」そして即座に立ち上がって、あらゆる必要な品々とあらゆる食糧と、あらゆる侍女を集めて、ほどなく用意ができ上がりました。
そこで大臣《ワジール》シャムセディンは、バスラの帝王《スルターン》にお別れを申し上げるために、参殿いたしました。帝王《スルターン》は彼のために、またエジプトの帝王《スルターン》のために、数々の贈物とみやげの品々をお託しになりました。次にシャムセディンと二人の貴婦人とアジブとは、それぞれ従者全部を従えて、帰途につきました。
一行は休まずに進みつづけて、とうとうふたたびダマスに到着いたしました。そしてカーヌーンの広場に足をとどめ、ここに天幕《テント》を張りました。すると大臣《ワジール》は言いました、「われらはこれよりまる一週間ダマスに滞在し、そしてその間に、エジプトの帝王《スルターン》に捧ぐるにふさわしき、みやげと献上品を買い調えることといたす。」
さて、大臣《ワジール》は天幕《テント》のもとにいろいろと商品を持って来る、富裕な商人たちを相手に忙殺されているあいだに、アジブは宦官に言いました、「ババ・サイードよ、ぼくは気散じに出かけたい。ひとつダマスの市場《スーク》に行って、いろいろの消息を知り、また先だってお菓子をご馳走になったあのお菓子屋が、その後どうなったか、ちょっと見ようではないか。ぼくらはまったくあの男の歓待に満足すべきところだったのに、かえって帰り途に、石をぶつけて額を割ったのだからね。実際、善に報いるに悪をもってしたわけだった。」すると宦官は答えました、「お言葉承わり、仰せに従いまする。」
そこでアジブと宦官とは天幕《テント》を出ました。というのは、アジブは知らず識らず、親子の情愛によって誘われる盲目の気持に駆られて、こうしたふるまいにいでたのでありました。町に着くと、二人はずっと諸所の市場《スーク》を歩きつづけて、とうとう例の菓子屋の店に着きました。おりしも、信者たちが日傾時《アスル》の礼拝に、バニ・オムミヤの回教寺院《マスジツト》におもむく時刻でありました。
ちょうどそのとき、ハサン・バドレディンは自分の店の中で、この前のおりと同じ、おいしい菓子を調製しておりました。あの巴旦杏と砂糖とほどよい香りとを入れた、ざくろの実です。ですから、アジブは菓子屋をつくづく眺めることができましたが、その額には、自分が投げた石の創痕《きずあと》が見られました。そこでさらにいっそう強く心を動かされて、彼に言いました、「平安おんみと共にあれ、おお菓子屋さん。ぼくはおじさんのことが気になって、わざわざ様子を見に来ました。ぼくを覚えていますか。」ハサンはこれをひと目見ると、臓腑《はらわた》は引っくり返り、心臓はめちゃくちゃに打ち、頭はまるで落ちてしまうかのように地面の方にたれ、舌は一言も言い出せないで、口の裏にくっついてしまうのを感じました。やっと頭を少年のほうにもたげることができると、彼は恐縮してうやうやしい様子で、次の詩節を誦しました。
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われはかねてわが友を責めんとぞ思い定めてありしものを、ただひと目見てすべてを措《お》きぬ。われはわが舌もわが眼《まなこ》も、意のままになしあたわざりき。
われは口つぐみ、目を伏せぬ。みずから感ずるところを包まんとせしも、よく包むあたわざりき。
われはかねて恨みの数々をば書き連ねおきしも、さてふたたび相見ては、そのただ一語だに読むあたわざりき。
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次につけ加えて申しました、「おおご主人さまがたよ、どうかただ不憫とおぼしめして、中にはいり、私の一皿を味わってくださいまし。というのは、アッラーにかけて、おお、祝福されたお坊ちゃま、先日あなたをひと目見ると、私の心はあなたのほうに引き寄せられてしまったのでございます。そしておあとをつけたことは、きつく後悔いたしております。まったく正気のさたではございませんでした。」けれどもアジブは答えました、「アッラーにかけて、どうもおじさんは実にけんのんな友達だ。このあいだは、ひと口ご馳走になったばかりに、とんだひどい目に会いそこなった。今度は、けっしてぼくらのあとから外に出ないし、またぼくらのあとをついて来ないって、誓いを立ててくれなけりゃ、ぼくは中にはいって物を食べることなんかしませんよ。さもないと、ぼくらはもう二度とここには寄りません。実はぼくらは、おじいさまが帝王《スルターン》におみやげを買いなさるあいだ、まる一週間ダマスに滞在するんですけれどもね。」するとバドレディンは叫びました、「あなたがたお二人の前で、私は誓いを立てます。」そこでアジブと宦官がはいりますと、バドレディンはすぐさま二人に、おいしい特別製のざくろの実を満たした、瀬戸物の器をさし出しました、するとアジブは彼に言いました、「ここに来ていっしょにおあがりなさい。こうしてあげれば、アッラーはわれわれに首尾よく、尋ね人を探し当てさせてくださるかもしれない。」ハサンはたいそう悦んで、二人と向き合って坐りました。けれどもそのあいだじゅうずっと、彼はアジブをしげしげと見つめずにはいられませんでした。そして彼があまり変な様子で、また執拗に見るので、アジブはうるさく感じて、彼に申しました、「アッラー、おじさんはなんてしつっこく、うるさく、たまらない深情けの人なんだろう。さっきもいけないって言ったじゃないか。そんなふうにぼくばかり見つめて、そんなふうにうっとりぼくの顔に見とれるのは、もうやめてくださいよ。」この言葉を聞いて、バドレディンは次の詩節をもって答えました。
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君がために、われはわが胸の奥処《おくか》に明かしえぬ秘密あり、言葉もてついに現わしえざる内奥の秘めたる思いあり。
おお、君よ、その美を誇る輝く月に面《おもて》を伏せしめ、朝《あした》と輝く暁とを恥ずかしむる君、おお君よ、燦然たる顔容《かんばせ》よ。
われは君に言葉なき崇拝を捧げたり、おお選ばれし器《うつわ》よ、われは君に永遠の徴証《あかし》を捧げ、いよよ大きく、いよよ美しくなりまさる、誓願を捧げたり。
今やわが身ことごとく燃えて溶く。君が面《おもて》はわが楽園ぞ。まこと、われはわが焼くる渇きに死なんとす。さあれ、おお君よ、君が唇こそはよくわが渇をいやすを得め。
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この詩節のあとで、彼はまた別の詩節を、宦官に向かって誦しました。そのあと、二人とも十分満腹いたしますと、ハサンは急いで、手を洗うに必要なものすべてを持って来ました、ごく清潔な銅製の美しい水差しと、香水と。次に帯に下げていた、色のついたきれいな絹の手ぬぐいで、二人の手をふいてやりました。それから、これぞというおりに使おうと、店のいちばん高い棚の上に、たいせつに取っておいた、銀の香水吹きの中にはいっているばらの水を、二人の手にふりかけました。しかもそればかりではありません。彼はちょっと店から出ていって、やがてすぐに、麝香《じやこう》入りのばらの水でもって味をつけたシャーベットを満たした、素焼きの冷水壺を二つ、手にして帰ってまいり、二人に一つずつ、その冷水壺をさし出して、言いました、「どうぞ。召し上がっていただければ、かたじけない極みでございます。」するとアジブは冷水壺を取り上げて飲み、次にそれを宦官に渡すと、宦官はそれを飲んでふたたびアジブに渡し、アジブが飲んで宦官に渡すというふうにつづけ、こうして二人は腹がいっぱいになり、生まれてからこんなに満腹したことはないほどになるまで、こもごも飲みつづけました。それが終わると、二人は菓子屋にお礼を述べて、その夕は、日の没する前に天幕《テント》に帰ろうと、大急ぎで引き上げました。
天幕《テント》に着くと、アジブは急いで祖母と母親セット・エル・ホスンの手に、接吻しに行きました。祖母は彼を抱くと、自分の息子のバドレディンを思い出し、たいそうため息をついて、たいそう涙を流しました。そのあとで、次の二節を誦しました。
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別れしものはいつの日か会うべきものと思わずば、汝《な》が去りしあと、ふたたび汝《なれ》を待つことの絶えてなかりしものならんを。
さてわれはみずから誓いを立てたり、わが心のうちに汝が愛ならぬ他の愛を、断じて容るることなしと。しかしてわが王アッラーは、わが誓いの証人にして、いっさいの秘密を識りたもうなり。
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それから祖母はアジブに言いました、「わが子よ、どこに散歩に行きましたか。」彼は答えました、「ダマスの市場《スーク》へ。」祖母は言いました、「ではさぞお腹《なか》がへっていることでしょう。」そして立ち上がって、例のざくろの実をもとにしていろいろ取り合わせた、上等な菓子を満たした焼物の鉢を、持って来てくださいました。祖母が非常に得意で、息子のバドレディンがまだ子供のころ、バスラで手ほどきをしてやった、あのおいしい特別製の菓子です。
祖母はまた奴隷にも申しました、「おまえもご主人アジブのお相伴をしてよろしい。」けれども宦官は心の中で顔をしかめて、思いました、「アッラーにかけて、もうまったく何も食べたくはない。ひと口も喉を通るまいぞ。」けれどもともかくも、アジブのかたわらに坐りました。
アジブのほうもまた、坐ったには坐ったものの、やはり菓子屋で飲み食いしたもので、まったくお腹がいっぱいに張っていました。けれども、ともかくもひと口、口に入れて味わいました。だがなんとしても呑みくだせない。それほどいっぱいなのでした。それに、どうも砂糖が少し足りないように思えたのでした。実はそんなことはなかったので、ただ満腹していたというだけのことだったのですが。そこで顔をしかめて、祖母に言いました、「おばあさま、これはまったくまずいや。」すると祖母はいまいましさに息をつまらせて、叫びました、「なんですって、わが子よ、おまえはよくも私のお料理がまずいなんて言えますね。お料理や捏粉菓子や甘いお菓子を作ることにかけては、私から伝授を受けたおまえのお父さまのハサン・バドレディンはまあ別だろうが、その他に、世界じゅうに私ほどじょうずに作れるものは、まずだれもいないということを知らないのかい。」けれどもアジブは答えました、「アッラーにかけて、おばあさまのお菓子はまだ十分とはゆきません。少しお砂糖が足りませんよ。こんなふうじゃいけないの。ほんとうに、おばあさまがあれを食べてごらんになったらなあ。白状するけど、ぼくらは市場《スーク》で(これはおじいさまとお母さまに、黙っていてくださいね)、お菓子屋と知り合って、ちょうどこれと同じお菓子を食べさせられたの。だけどそれがね……。その匂いをかいだだけで、嬉しくなって胸が透《す》くような気がするの。その味といったら、消化不良にかかっている人間の心だって、食欲を起こしちまうくらいおいしいですよ。まったくおばあさまのおこしらえになったものなんて、近くも遠くも寄りつけやしない、とても駄目よ、おばあさま。」
この言葉を聞いて、祖母はひとかたならず腹を立てて、宦官をにらめつけて、こう申しました……。
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――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の近づくのを見て、つつましく、自分の物語をやめた。するとその妹、年若なドニアザードは姉に言った、「おお、お姉さま、なんとあなたのお言葉は優しく快く、そしてなんとこのお話は、楽しくおもしろいのでございましょう。」
するとシャハラザードはこれにほほえみかけて言った、「そうですね、妹よ、けれども、アッラーの御恵みと王さまの思召しとによって、もしわたくしになお生命《いのち》がありますれば、明晩お二人にお話し申し上げるものに比べれば、これなど物の数ではございませんよ。」
そこで王は心中で言った、「アッラーにかけて、この物語の続きを聞いてしまうまでは、この女を殺すまい。これはまことに、世にも不思議な、この上なく驚くべき物語であるわい。」
次にシャハリヤール王とシャハラザードは、二人とも夜の明けるまで相抱いて、残りの夜を過ごした。
するとシャハリヤール王はその裁きの間のほうに出むいた。すると政務所《デイワーン》は大臣《ワジール》、侍従、警吏、公事《くじ》係たちの群れでいっぱいになった。そして王は裁きをしたり、役に任命したり、罷免したり、命令を下したり、未決の事務を片づけたりして、日の暮れるまでこれをつづけた。
次に政務所《デイワーン》は閉ざされ、王は御殿に帰った。そして夜が来ると、大臣《ワジール》の娘シャハラザードに会いにゆき、彼女とつねのことをするのを欠かさなかった。
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[#地付き]そして第二十四夜になった[#「そして第二十四夜になった」はゴシック体]
年若なドニアザードは、ひとたび事が終わると、毛氈から立ち上がって、シャハラザードに言うことを怠らなかった。
「おお、お姉さま、あの味わいぶかいお話、美男のハサン・バドレディンとその妻、伯父シャムセディンの娘との物語を、どうぞ終りまで聞かせて下さいませ。ちょうどこういう言葉のところまででございました、『祖母はそのとき宦官サイードをにらめつけて、こう申しました……』いったいなんと言ったのでしょう、ぜひ伺わせてくださいませ。」
するとシャハラザードは妹にほほえみかけて、これに言った、「よろしゅうございますとも、心から悦んで、このうえなく進んで、その話を終わってさしあげましょう。けれども、この挙措みやびやかな王さまのお許しがないうちは、かないませぬ。」
そのとき王は、話の終りを大いに待ち兼ねていたので、シャハラザードに言った、「話すがよい。」
そこでシャハラザードは言った。
[#ここで字下げ終わり]
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、アジブの祖母は怒って、奴隷をにらんで申しました、「なんということです、おまえとしたことが、この子にいけないことをさせたのですか。なんだってこの子を、料理屋だの菓子屋だのの店にはいらせるなどという、大それたことをしたのです。」このアジブの祖母の言葉に、宦官は非常に恐れをなして、あわてて一所懸命これを打ち消しました。彼は言います、「私どもはけっして店の中にはいりはいたしません。ただ前を通っただけでございます。」けれどもアジブはあくまでも叫びました、「アッラーにかけて、はいったどころじゃない、はいって食べましたよ。」そして意地悪くつけ加えました、「おばあさま、もう一度言いますけれど、それは今おばあさまがくださったのよか、ずっとおいしかったですよ。」
すると祖母はいっそう口惜しがって、ぶつぶつ当たり散らしながら、義兄の大臣《ワジール》に、「真黒々《まつくろくろ》の宦官めの恐ろしい犯罪」をいいつけに行きました。そしてこの奴隷に対して大臣《ワジール》をすっかりたきつけたので、生来怒りっぽく、とかくどなり立てて、人々に怒りをぶちまけるシャムセディンは、老婦人と共に、急ぎアジブと宦官のいる天幕《テント》の下におもむきました。そして叫びました、「サイード、汝はアジブを連れて菓子屋の店にはいったのか、はいらないのか、どちらなのじゃ。」宦官はおじけづいて、答えました、「私どもはけっしてはいりはいたしませんでした。」けれども意地悪くアジブは叫びます、「いやいや、はいりましたとも。そこで食べたものときたら、とてもうまくて、ぼくたちは鼻まで詰めこんじゃった。それから雪を砕いて入れた、おいしいシャーベットも飲んだっけ。アッラー、まったくなんてうまかったろう。そのじょうずなお菓子屋さんは、おばあさんみたいに、お砂糖を倹約しやしなかったよ。」すると宦官に対する大臣《ワジール》の怒りはいよいよ激しくなって、同じ質問がふたたびくり返されましたが、宦官はやはり否定しつづけるのでした。すると大臣《ワジール》は彼に言いました、「サイード、汝は嘘をついて、図々しくもこの子の言うことを打ち消すが、きっとこの子の言葉がほんとうにちがいない。だが、もし汝がわが義妹のこしらえたひと鉢全部を呑みこむことができたら、汝の言うところを信じてつかわそう。さすれば、汝がいまだ飲食していないことが立証されよう。」
するとサイードは、バドレディンのところで飲み食いしたために満腹していたけれども、進んで試みを受けることにして、ざくろの実の鉢の前に坐り、覚悟して、手をつけはじめました。けれども一口食べると、もうやめざるをえませんでした。それほど、全く喉までつまっていたのです。そして口に入れた分まで、吐き出してしまいました。けれども彼は、前夜他の奴隷たちと天幕《テント》の下で食べ過ぎたあまり、消化不良に陥ってしまったのだと、急ぎ言い繕《つくろ》いました。だが大臣《ワジール》はただちに、これは宦官がはたしてその日、菓子屋にはいったのだと覚りました。そこで奴隷たちに宦官を地面に横たえさせ、上からつづけさまに、力いっぱい打ちすえました。すると宦官はしたたか打たれて、ついにたまらなくなって、「おおご主人さま、きのうから消化不良になってしまったのでございます」と叫び続けながら、赦しを乞いました。大臣《ワジール》はなぐっているうちに疲れたので、手をとどめて、サイードに言いました、「どうじゃ、本当のことを白状せよ。」すると宦官は肚《はら》を決めて、言いました、「はい申し上げます、お殿さま、実はさようでございます。私どもは市場《スーク》で、一軒の菓子屋の店にはいりました。その男の菓子はまことにおいしく、私は生まれてから、こんな結構なものは味わったことがないほどでございます。だがまた、今になってこんないやなたまらないものを味わわされたとは、どうもとんだ災難でございました。アッラー、なんてこれはまずいのでしょう。」
すると大臣《ワジール》は大笑いをし始めましたが、祖母はもう口惜しくてたまらず、血の出るほど無念に思って、叫びました、「嘘をおっしゃい、ではできるものなら、おまえの言うその菓子屋の菓子を、ここに持って来てみるがいい。それは皆おまえの作り事です。よろしい、ではこれと同じ品のはいったひと鉢を、買いに行って来なさい。それに万一買って来れたならば、少なくともその男の腕前と私の腕前とを、較べてみることができるわけです。そのとき、お義兄《にい》さまに裁いていただきましょう。」そこで宦官は答えました、「はい、かしこまりました。」すると祖母はこれに半ディナールの貨幣と、からの瀬戸物の鉢を渡しました。
そこで宦官は外に出て、ついに例の店に着き、菓子屋に言いました、「実はな、今われわれは家《うち》の人々と、おまえの菓子について賭けをしたのだ。家でもまたざくろの実の菓子をこしらえたのでね。だからひとつあれを半ディナールだけもらいたい。いいかい、特別念入りに、腕をふるってくれよ。さもないと、おれはまたもや、さっきみたいに鞭《むち》をくらうからね。アッラーにかけて、ほらこのとおり、いまだに歩けないくらいだよ。」するとハサン・バドレディンは笑い出して、言いました、「心配ご無用です。このあなたにさし上げる分は、私の母を除いては、ほかにこんなふうにうまくできるものは、世界じゅうにいませんからね。そして私の母は、今は遠い遠い国にいらっしゃるのだから。」
次にバドレディンは十分念を入れて、奴隷の瀬戸の容物《いれもの》を満たし、そしてそこにさらに少しの麝香《じやこう》とばらの水を加えて、仕上げをしました。そこで宦官はいれものを持って、急ぎ天幕《テント》にもどりました。するとアジブの祖母はそれを受け取って、その味とおいしさかげんを見ようと、急いでその中身を味わいました。けれどもそれを口もとに持って行ったと思うと、祖母はひと声大きな叫びをあげて、あおむけに倒れてしまいました。
そこで大臣《ワジール》始め一同は、あきれ返ってしまいましたが、取り急ぎ祖母の顔にばらの水をかけますと、老婦人はひとときたってようやく正気にもどりました。そして言いました、「アッラー、このざくろの菓子を作った者は、わが子ハサン・バドレディンを措《お》いてほかになく、ほかの者でありようはずがありませぬ。これをこういうふうに作れるのは、私一人のほかになく、私はこれをハサンに教えたのです。」
この言葉を聞くと大臣《ワジール》は、甥に巡り会う悦びともどかしさの極みに達して、叫びました、「アッラーはついにわれわれの相会うことをお許しになったのか。」そしてただちに従者たちを呼び出し、しばらく考えて、ある計画を立て、一同に命じました、「汝らのうち二十名の者はただちに、市場《スーク》にてハサン・エル・バスラウイの名のもとに知らるる、菓子屋ハサンの店におもむき、彼の店を根こそぎこわしてしまえ。さてその菓子屋は、彼のターバンの布にて両腕を縛し、うむを言わせずここに引き立ててまいれ。されどよく心して、いささかもその身にけがを負わせてはならぬ。行け。」
大臣《ワジール》のほうは、エジプトの帝王《スルターン》から賜わったお墨つきを身につけてから、時を移さず馬に乗り、政庁ダール・エル・サラムにまいりました。ダマスにおいて、その主君エジプトの帝王《スルターン》にかわって治めている、副太守の屋敷です。ダール・エル・サラムに到着すると、大臣《ワジール》は副太守に帝王《スルターン》のお墨つきを渡しました。副太守はただちに身を屈め、つつしんでそれに接吻し、うやうやしく頭上に押し戴きました。それから大臣《ワジール》に向かって言いました、「お命じくだされ、何者を逮捕なされたきか。」大臣《ワジール》は答えました、「単に市場《スーク》の一菓子屋でござりまする。」すると副太守は言いました、「それはまたいとやすきこと。」そして警吏に命じて、行って大臣《ワジール》の家来に力添えするように、申しつけました。そこで大臣《ワジール》は副太守のもとを辞して、天幕《テント》の下に帰りました。
ハサン・バドレディンのほうはというと、こういう人々が、てんでに棒やつるはしや斧を携《たずさ》えて、自分のところに来たと思うと、自分の店を襲い、すべてを粉々にして、捏粉菓子や糖菓の類を全部地に引っくり返し、店全体をこわしてしまうのでした。次に彼らはおののくハサンを捉え、一言も言わずに、彼をターバンの布で縛ってしまいました。ハサンは考えました、「アッラー、こうしたいっさいの原因は、あのざくろの菓子にちがいない。はて、あれにどんな不都合があったのかしらん。」
そこで結局一同はハサンを天幕《テント》の下に、大臣の前に、連れてまいりました。するとハサンはすっかり度を失って、叫びました、「殿さま、私がいったいどんな罪を犯したのでございましょう。」大臣《ワジール》は彼に尋ねました、「あのざくろの菓子を調製したのは、そのほうに相違ないか。」彼は答えました、「さようでございます。殿さま、もしやあの菓子の中に、なんぞ私の首をはねなければならぬような物でも、お見かけになったのでござりましょうか。」すると大臣《ワジール》は厳しく答えました、「そのほうの首をはねると? 否、そのような罰は最も軽いものであろうぞ。さらに重きものと覚悟せよ。今にわかろう。」
ところで、大臣《ワジール》は二人の貴婦人に対して、万事自分のやるなりに任せておくように、言い含めておいたのでした。というのは、大臣《ワジール》はカイロに着くまでは、自分の捜索については、二人に細かく話したくなかったのでした。
そこで大臣《ワジール》は、自分の若い奴隷たちを呼んで、言いつけました、「伴《とも》のらくだ曳きを一人、ここによこせ。また大きな木の箱を一個持ち来たれ。」奴隷たちはただちに従いました。次に大臣《ワジール》の命令で、彼らはおびえるハサンを引っ捉えて、その箱の中に入れ、念入りにそのふたをしめました。次にこれをらくだの上に載せて、一同は天幕《テント》を取り払って、帰途につきました。
一行は夜まで歩き続けました。それから足をとどめて、何か食物を取ることにしました。そして一時ハサンを箱から出して、これにも食う物を与え、ふたたび箱にもどしました。そして途を続けました。時々足をとどめては、ハサンを引き出し、大臣《ワジール》が重ねて訊問しては、改めて箱に押し込めました。大臣《ワジール》はそのつど彼に尋ねるのでした、「あのざくろの菓子を調製したのは、そのほうに相違ないか。」そしておののくハサンは、相変わらず答えるのでした、「さようでございます、殿さま。」そして大臣《ワジール》は叫ぶのでした、「この男をいましめて、箱の中にもどせ。」
一行はこういうふうにして、カイロに着くまで旅をつづけました。けれども都にはいる前に、まずザイダニヤの郊外に足をとどめ、そして大臣《ワジール》はふたたびハサンを箱の中から出して、自分の前に引いて来させました。そしてそのとき大臣《ワジール》は言いました、「すみやかに大工を連れて来い。」そして大工が来ますと、これに申しつけました、「この男の縦と横の寸法をとり、その身丈《みたけ》に合わせて、ただちに柱を建て、その柱をば、一対の水牛の曳く車に取りつけよ。」そこでハサンは恐れおののいて、叫びました、「殿さま、私をどうあそばすのでございますか。」大臣は答えました、「そのほうをさらし台に載せ、かくして市中に入らしめ、住民一同にさらしものといたすのじゃ。」そこでハサンは叫んで、「だが、そんな罰に値いするほどの罪とは、いったいなんでございましょう。」すると、大臣《ワジール》シャムセディンはこれに言うに、「ざくろの菓子の調理に当たって、そのほうがおろそかにするところがあったからじゃ。そのほうは十分なる薬味も、香料も入れなかったぞ。」この言葉を聞くと、ハサン・バドレディンは自分の両頬を打って、叫びました、「やあ、アッラー、それが私の罪なのですか。そんなことのために、私にあの長い旅の拷問を受けさせ、一日一度の食事しか与えず、今となっては、さらし台の上に載せようとおっしゃるのですか。」すると大臣《ワジール》は非常に重々しく、答えました、「いかにもさようだ、調味料の不足のゆえじゃ。」
するとハサン・バドレディンはこのうえなくあきれ返ってしまい、天に両手を差し延べて、深い物思いに耽《ふけ》り始めたものです。それで大臣《ワジール》は言いました、「何を考えているのじゃ。」彼は答えました、「アッラーにかけて、気のふれた連中のことをです。それというのも、もしあなたが気違いの親玉ででもなかったら、ざくろの菓子に香料がひとつかみ足りなかったと言って、私をこんな目にお会わせになるようなはずはありませんからね。」すると大臣《ワジール》は言いました、「とはいえ、ともかくもそのほうが今後重ねて罪を犯さぬよう、きっといましめてやらねばならぬ。さてそのためには、かかる手段のほかなかったのじゃ。」そこでハサン・バドレディンは言いました、「いずれにせよ、私に対するお仕打ちこそ、さらにいっそう容易ならぬ罪でございます、まずおんみご自身を、罰しなければならぬところでございましょう。」すると大臣《ワジール》は答えました、「かれこれいう余地はない、そのほうには、はりつけ柱が必要なのじゃ。」
この会話のあいだに、大工はそのかたわらで、刑の柱を作りつづけていて、時々まるで「ほう、おまえには当り前のことさ」とでも言うように、ハサンのほうを盗み見するのでした。
こうしているうちに、夜になりました。すると人々はハサンを捉えて、またもとの箱に入れました。そして大臣《ワジール》は彼に叫びました、「あすは、そのほうの磔刑《はりつけ》だぞ。」次に大臣《ワジール》はハサンが箱の中で寝つくまで、何時間か待ちました。そこでその箱をらくだの背に載せさせ、出発の命令を下し、そして一行は、ついにカイロの自宅に着くまで歩きました。
そしてそのときになって始めて、大臣《ワジール》は自分の娘と義妹とに事を明かすことにしました。事実、大臣《ワジール》は娘のセット・エル・ホスンに言いました、「おおわが娘よ、ついにわれらに、そなたの従兄弟《いとこ》ハサン・バドレディンと巡り合うことを許したまえる、アッラーに讃《たた》えあれ。彼はかしこにおる。娘よ、さあ立って悦べよ、そしてよく注意して、わが家とそなたの婚姻の間《ま》の家具毛氈のたぐいを、そなたの結婚当夜のときと寸分たがわぬ模様に、置くようにせよ。」そこでセット・エル・ホスンは感慨と幸福の極みにありましたけれども、すぐ必要な命令を侍女たちに下し、侍女たちはすぐに立って仕事につき、燈火《ともしび》をつけました。大臣《ワジール》は女たちに言いました、「よく思い出せるようにしてやろう。」そして自分の文箱を開いて、家具とあらゆる品々、およびそれぞれの場所を書きつけた、目録の紙を取り出しました。そしてこの目録を女たちにゆっくりと読み聞かせ、いちいちの物がもとの場所に置かれているかどうか、十分監督いたしました。それで万事は非常によく行なわれて、このうえもなく注意深い人が見ても、今なおセット・エル・ホスンとせむしの馬丁との婚礼の夜にいるとしか、思えないくらいでした。
次に大臣《ワジール》は手ずから、バドレディンの着物を、昔あった場所に置きました。そのターバンをば椅子の上に、夜の下ばきをば取り散らかした寝床の中に、股引きと外套をば長椅子《デイワーン》の上に、またこの二品の下には千ディナール入りの財布とユダヤ人の書付を。そして帽子とターバンの布とのあいだの蝋引きの布のひだを、ふたたび縫い合わせることも忘れませんでした。
次に彼は娘に、当夜と同じような服装《なり》をして、婚姻の間にはいり、従兄弟《いとこ》で夫であるハサン・バドレディンを迎える用意をし、そして彼がはいって来たら、次のように言えと、言い含めました。「まあ、なんていつまでも厠《かわや》にいらっしゃったの。アッラーにかけて、もしどこかおぐあいが悪いのなら、なぜわたくしに言ってくださらないのですか。わたくしはあなたの物、あなたの奴隷ではございませんか。」それから大臣《ワジール》はまた、これはセット・エル・ホスンにとっては、ほとんど言われるまでもなかったのですが、従兄弟《いとこ》に対してどこまでも優しくし、おしゃべりや詩人たちの麗句を忘れないで、あたうかぎり愉快に夜を過ごさせてあげよと、ねんごろに言い聞かせました。
次に大臣《ワジール》は、この祝福された日の年月日を記録しました。そしてハサンが縛られてはいっている箱の置いてある、部屋のほうに向かいました。大臣《ワジール》は眠っているままこれを引き出させ、ゆわかれている脚をほどき、着物を脱がせ、そして婚礼の夜とそっくり同じに、ただ薄い肌着だけを着せて、頭に帽子をかぶらせました。それがすむと大臣《ワジール》は、婚姻の間に通ずる戸をあけて、すばやく身をひそめてしまい、ハサンを一人きりで目覚めさせるようにしました。
ほどなくハサンは目が覚めましたが、どうも見たことがあるような気のする、この煌々《こうこう》と照らされた廊下の中に、こうして自分がほとんど裸でいるのを見て、すっかり仰天して、心の中でひとり言を言いました、「アッラーにかけて、おいおまえは、このうえもなく深い夢の中にいるのか、それとも現《うつつ》にいるのかな。」
しばらくは茫然としてから、彼は思いきって立ち上がり、開いている戸の一つを通って、廊下の外に二、三歩踏み出してみました。するとすぐさま、息が止まってしまいました。せむしをひどい目に会わせて、彼のために盛大な祝宴が行なわれたあの広間が、そっくりそのまま目に映ったのであり、そして婚姻の間に通ずる開いた戸口からは、ずっと奥のほうに、椅子の上には自分のターバンが、長椅子《デイワーン》の上には股引きと着物が見えるのです。そのときには汗が額に浮かんで来て、彼は手でぬぐいました。そしてひとり言を言いました、「らあ、らあ、いったいおれは目が覚めているのか、眠っているのか。つお、つお、おれは気が変になったのかな。」まあともかくも、進み始めましたが、一方の足で進んでは、他の足で退き、それ以上あえてできず、ぬれた額の冷汗をしきりにぬぐうありさまです。次にとうとう叫びました、「だが、アッラーにかけて、今はもう疑いない。あれはけっして夢じゃない。おまえは、確かに箱の中に押しこめられて、縛られていたのだ。いや、あれはけっして夢じゃない。」そしてこう言っているうちに、婚姻の間の戸口に着いたので、用心深く、中に頭をさし入れてみました。
するとすぐに、青い薄絹の蚊帳の中から、その裸身のあらゆる美しさを見せて横たわっている、セット・エル・ホスンが、優しく蚊帳の裾を掲げて、彼に言いました、「おおいとしいわたくしのご主人さま、なんていつまでも厠《かわや》にいらっしゃったの。さあ、早くいらっしゃいませ。いらっしゃいな。」
この言葉を聞くと、憐れなハサンはまるで麻酔剤《ハシシユ》をのんだ人のように、けたたましく笑い始めて、わめき始めました、「ふう、ひい、ふう、なんて不思議な夢だ。なんてとりとめのない夢だ。」それから進み続けましたが、まるで蛇の上を歩くみたいに、用心に用心を重ね、一方の手では、肌着の垂れを掲げ、一方の手では、盲人《めくら》か酔っ払いのように、空中を手探りしながらです。
次に、心の激動に今は耐えかねて、彼は毛氈の上に坐り、両手で何がなんだかわからないといった、気違いじみた手ぶりをしながら、じっと考えこみ始めました。けれどもそこに、自分の前には、ふくらんだ、きちんと折り目のついた、もとどおりの股引きや、バスラのターバンや、外套や、またその下には、垂れ下がっている財布のひもが、現に見えているのでした。
そして重ねて、セット・エル・ホスンは寝床の中から話しかけて、言いました、「どうなすったの、あなた。何かたいへんまごまごして、それに少しふるえておいでのようですが。宵の口はそんなふうではいらっしゃらなかったのに。ひょっとしたら、何か……。」
するとバドレディンは、ずっと坐ったまま、両手で頭を抱えながら、とめどなく笑いこけて、口を開いたり閉じたりし始めて、やっと言うことができました、「は、は、その宵の口っていうのはなんのことだ、またいつの夜のことだ。アッラーにかけて、だが私はもう幾年も幾年も前から、ここにいはしないのだ。は、は。」
すると、セット・エル・ホスンは彼に言いました、「おお、いとしいおかた、落ち着いてくださいませ。おんみの上、またおんみのまわりのアッラーの御名《みな》にかけて、落ち着いてくださいませ。わたくしの申しますのは、あなたがわたくしの腕の中でお過ごしになったあの昨夜のこと、破城槌《はじようつち》がわたくしの突破孔の中に、勢いよく十五回もはいった、あの昨夜のことでございます。いとしいおかたよ、あなたはただ何か用を足しに厠に行くとて、お出かけになっただけでございます。そしてそこに、おっつけ一時間近くもいらっしゃったのです。きっとおかげんがお悪いにちがいありません。さあ、いらっしゃいませ、温めてさしあげますから。いらっしゃい、あなた、いらっしゃい、わたくしの心、わたくしの目。」
けれどもバドレディンは、気違いのように笑いつづけて、それから言いました、「ひょっとしたらそうなのかもしれない。だが……。じゃ私はきっと厠で眠って、そこでじっとしたまま、たいへんいやな夢を見たのにちがいない。」それからつけ加えました、「そう、まったく、たいへんいやな夢だった。まあ考えてもごらん。その見た夢というのは、私がシリアの国のダマスという名の町で、何か料理人か菓子屋みたいなものになったのだ。そう、とても遠い国だよ。そしてその商売をしながら、その町で十年過ごしたのだ。また一人の若い男の子の夢も見た、確かに貴族の子で、宦官を一人連れていたっけ。そしてその二人とは、これこれしかじかの出来事が起こった……。」そして憐れなハサンは、額が汗にぬれるのを感じて、額をぬぐいましたが、この動作をすると、自分を傷つけた石の痕を感じましたので、彼は、飛び上がって叫びました、「いや、いや。ここにその子供の投げつけた石の痕があるぞ。なんといってもひどいことをされた。」次にちょっと考えこんでつけ加えました、「いや、やはり、ほんとうじゃない、確かに夢なのだ。この傷はひょっとしたら、今しがた二人ではね回って、おまえから、セット・エル・ホスンから、受けた傷かもしれないね。」それから彼は言いました、「私の夢の話をつづけよう。そのダマスの町に、私はどうしたのか知らないが、とにかくある朝、ほらこのとおりの、肌着と白い帽子だけの服装《なり》で着いたのだ。あのせむしの帽子だ。するとそこの住民たちにつかまって、どんな目に会うかわからなかった。そのあげく、私はある菓子屋の店を継いだ。親切な老人だった。……いや、そうとも、確かにそうだ、あれはけっして夢ではない。私はざくろの実の菓子を作ったところ、どうもそれに十分香料がはいっていなかったらしい……。はて、……これはみんな夢だったのかな。現実《うつつ》じゃないのかな……。」
するとセット・エル・ホスンは叫びました、「いとしいおかた、ほんとうに、なんという変わった夢をご覧になったのでございましょう。お願いですから、残らず聞かせてくださいませ。」
そこでハサン・バドレディンは、途中で話を切っては叫び声をあげながら、夢にせよ、現実《うつつ》にせよ、とにかくあった次第を一部始終、残らずセット・エル・ホスンに話して聞かせました、それからつけ加えました、「なにしろ私は、もう少しで磔刑《はりつけ》にされるところだった。幸い夢がちょうどよく覚めてくれたからよかったものの、さもなければ、もう磔刑《はりつけ》にされてしまったかもしれなかった。アッラー、私は今でも、あの箱の中でかいた汗でびっしょりだ。」
するとセット・エル・ホスンは尋ねました、「だけれど、なぜあなたを磔刑《はりつけ》になんかすると言うのでしたの。」彼は答えました、「それが何度聞いても、ざくろの実の菓子の中に、香料が足りなかったからだと言うのだよ。そうなのだ、恐ろしいさらし台が、一対のナイルの水牛に曳かれた車に着けられて、私を待っていたのだ。けれどもとどのつまり、アッラーのおかげで、こうしたすべてはただの夢にすぎなかった。実際、私の菓子屋の店を、あんなふうに根こそぎこわされてつぶされてしまったのでは、なんともやりきれないことだったろうからね。」
そのときセット・エル・ホスンは、もうこらえ切れなくなって、寝床から飛び出して来て、ハサン・バドレディンの首に飛びすがり、抱擁し、接吻を浴びせかけながら、彼を自分の胸に抱きしめました。だが彼は、あえて身動きすることができませんでした。そして突然叫び出しました、「いや、いや、こうしたすべてはけっして夢ではない。アッラー、私はどこにいるのだろう。ほんとうはどうなのだろう。」
そして憐れなハサンは、セット・エル・ホスンの腕に抱えられて静かに寝床に運ばれ、力尽き果てて横たわり、セット・エル・ホスンに見守られて、昏々《こんこん》と眠りに陥ってしまいました。眠りの中で、あるときは「これは夢だ」という言葉を、あるときは「いや、これは現実《うつつ》だ」という言葉を、つぶやくのが聞こえました。
朝と共に、ハサン・バドレディンの心中にも、落ち着きが帰って来ました。覚めてみると、自分はやはりセット・エル・ホスンの腕の中にいて、そして自分の前には、寝床の足もとのところに立って、伯父の大臣《ワジール》シャムセディンがいて、ただちに彼に平安を祈るのでした。そこでバドレディンは、言いました、「アッラーにかけて、私の両腕を縛らせ、私の店をこわさせたのは、ほかならぬあなたその人ではございませんか。そのいっさいのもとはといえば、ざくろの実の菓子に香料が不足だったというので。」
そのとき大臣《ワジール》シャムセディンは、もはやもだすべきなんの理由もないので、言いました。
「おおわが子よ、真相はこうじゃ。そなたこそは、わが亡弟、バスラの大臣《ワジール》ヌーレディンの子、わが甥ハサン・バドレディンである。実は、余がそなたにかかるいっさいの憂き目を見させたのも、ただ、そなたが本人である証拠をさらに一つ得て、わが娘の婚姻の当夜、娘の臥床《ふしど》に入りしものが、まさしくそなたであることを、しかと確かめたいばかりであった。して、そなたがわが家と家具、次にはそなたのターバンと股引きと、財布、なかんずく財布の中の書類と、そなたの父ヌーレディンの諭《さと》しのはいっておるターバンの封じ目をば、見識っているのを見るに及んで(というのは、余はそなたのうしろにひそんでおった)、余はたしかにその証拠を得たのである。されば、わが子よ、余を赦してたもれ。そなたはバスラにおいて生まれたゆえに、従前かつてそなたを見たことのない余としては、そなたを見分くるに、さしあたりこれよりほかに途がなかったのじゃ。ああ、わが子よ、かかるいっさいは、そもそもの初め、そなたの父わが弟ヌーレディンと、そなたの伯父たる余とのあいだに生じた、些細な誤解に基づくものであった。」
そして大臣《ワジール》は、事の次第を逐一語り聞かせて、次に言いました、「おおわが子よ、そなたの母上については、余がバスラよりお連れ申して来たから、そなたの息子アジブ、母親とそなたとの婚姻初夜の結実共々、ほどなく会えるであろう。」そして大臣《ワジール》は二人を迎えに、駆け出しました。
そして最初に来たのはアジブでした。今度は、慕い寄る菓子屋を恐れたように恐れることなく、父の首に飛びすがりました。そしてバドレディンは悦びのうちに、次の詩句を誦しました。
[#ここから2字下げ]
汝《なれ》行きしのち、われは泣きぬ、長く泣きぬ。涙はわが眼瞼《まぶた》よりあふれたり。
われは誓いぬ、もしアッラーにしていつの日か、別離を傷む恋人を相逢わしめたもうことあらば、故《ふる》き日の別離てふ言葉をば、再び口の端《は》に上《の》せまじと。
幸福はその約を守りて負債《おいめ》を払いたり。かくてわが友はわれに帰りぬ。されば汝、立って幸福をもたらせし者のかたへと行き、衣服の垂れを掲げてこれに仕うべし。
[#ここで字下げ終わり]
彼がこの詩を誦し終わったと思うと、アジブの祖母、彼バドレディンの母が、むせびなきながら駆けつけて来て、悦びにほとんど気を失って、彼の腕の中に身を投げかけました。
そして思いのたけを吐露してのち、悦びの涙にかき暮れながら、一同は互いに、自分の身の過ぎ来しかたと、苦しみと、あらゆる悩みの数々をば、語り合いました。
次に一同は、ついに自分たち皆をつつがなく会わせてくださったことを、アッラーに感謝して、そして友を相分かつ者、幸福をこぼつ者、償えざる者、避けえざる者の至るまで、至福のうちに、何ひとつ欠けるところのない、曇りなき歓楽のうちに、ふたたび暮らし始めたのでありました。
[#この行1字下げ] ――「これが、おお幸多き王さま、」とシャハラザードはシャハリヤール王に言った、「宰相《ワジール》ジャアファル・アル・バルマキーが、バグダードの都なる信徒の長《おさ》、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードにお話し申し上げた、世にもまれなる物語でございます。」
「さようでございます、大臣《ワジール》シャムセディンとその弟|大臣《ワジール》ヌーレディンとヌーレディンの息子ハサン・バドレディンの波瀾の物語は、以上でございます。」
すると教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードはお叫びになりました、「アッラーにかけて、まことにこの一切は、驚くべく、また見事なものじゃ。」そして、驚嘆のかぎり驚嘆なすって、宰相《ワジール》ジャアファルの魅力ある顔に向かって、微笑を洩らしなさいました。そして王宮の祐筆たちに命じて、このふしぎな物語をば、最も美しい筆蹟を揮って、金文字で書き記し、これを孫子《まごこ》の教訓へ役立たせるため、文庫のなかに大切におさめておくよう、申しつけられたのでございました。
[#ここから1字下げ]
――「けれども、」と才たけてつつましいシャハラザードは、インドとシナの島々の帝王《スルターン》、シャハリヤール王に向かって、つづけて言った、「おお幸多き王さま、この物語が、もしお疲れでなければ、お話し申し上げようと存じて取っておきました物語と、同じくらい興ふかいものとは、けっしてお思いあそばすな。」するとシャハリヤール王は言った、「して、その物語とはどんな物語か。」シャハラザードは答えた、「それはほかのどれよりも、はるかに興ふかいものでございます。」するとシャハリヤールは言った、「して、その名はなんというのか。」彼女は答えた。
「それは仕立屋とせむし男とユダヤ人とナザレト人とバグダードの床屋の物語[#「仕立屋とせむし男とユダヤ人とナザレト人とバグダードの床屋の物語」はゴシック体]でございます。」
するとシャハリヤール王は答えた、「よろしい、それを話すがよい。」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#この行1字下げ]せむし男と、仕立屋、ナザレト人の仲買人、御用係およびユダヤ人の医者との物語
[#この行1字下げ] そこでシャハラザードはシャハリヤール王に言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、その昔、時のいにしえと時代世紀の過ぎし世に、シナのある町に、仕立屋をして、その身分に満足している一人の男がございました。この男は気晴しと静かな楽しみが好きで、いつも妻といっしょに出かけて散歩をし、街《ちまた》と庭々を眺めてわが目を楽しませるのを、つねとしておりました。さて、ある日、夫婦は一日じゅう家の外ですごし、夕方になって、自宅に帰りかけますと、その途中で、一人のせむしの男に出会いました。その男の様子は、あらゆる憂《うさ》を晴らし、このうえなく心悲しむ者をも笑わせ、憂え悲しみを遠ざけるというふうでした。すぐに仕立屋夫婦はこのせむしの男に近づいて、挨拶《サラーム》をして話しかけ、その男の冗談に興じるうち、すっかりおもしろくなり、そのあげく、今宵《こよい》はもてなしをするから、いっしょに家に来るようにと誘ったのでした。するとせむしはこの招きに対ししかるべく返事をして、夫婦と連れ立って、いっしょに家に着きました。
そこで、仕立屋はちょっとせむしの男を待たせておいて、市場《スーク》に走り、商人たちが店をしめないうちに、お客をもてなすだけの品を買いにゆきました。魚のフライ、できたてのパン、レモン、それに食後の、砂糖とごま入りの白いハラウア(1)の大きなひときれなど。それからもどって、これらの品を全部せむしの男の前にならべ、みんなで坐って、食べることにしました。
こうして愉快に食べているうち、仕立屋の妻は、魚の大きなひときれを指のあいだにつまみあげ、ふざけ半分に、それをそっくりせむしの男の口のなかに押しこみ、吐き出さないようにと、その口を手で押えて、言いました、「アッラーにかけて、ぜひとも口の中のものを、ひと息でぐっと呑みこんでしまわなければいけません。さもないと手を放してあげませんよ。」
そこでせむしの男は一所懸命努力しはじめて、とうとうそのひと口を呑みこんでしまいました。ところが気の毒なことに、それが彼の運命でございまして、そこには一本の太い骨があり、それが喉にひっかかって、せむしを即座に死なせてしまったのでございます。
[#ここから1字下げ]
――ここまで話したとき、大臣《ワジール》の娘シャハラザードは、朝の光が射してくるのを見て、いつものとおりつつましく、シャハリヤール王の与えた許しに甘えないようにと、これ以上話を長びかせようとはしなかった。
すると妹の、年若なドニアザードは、姉に言った、「おお、お姉さま、あなたのお言葉は、なんと優しく、快く、味わいふかく、清らかなことでございましょう。」姉は答えた、「でも、明晩、このつづきを聞いたら、あなたはなんと言うでしょうかしら。と申しても、もしもわたくしになお生命《いのち》があって、それがみやびな挙措と礼節とに満ちた、この王さまの御意《ぎよい》とあらばのことでございますが。」
シャハリヤール王はその心中で言った、「アッラーにかけて、この物語の残りを聞いてしまうまでは、この女を殺すまい。まことに驚くべき物語であるわい。」
次にシャハリヤール王は、シャハラザードを両腕に抱いて、朝まで二人は相抱いて、残りの夜をすごした。次に王は起きいでて、その裁きの間に行った。ただちに大臣《ワジール》がはいってき、長官《アミール》たちと侍従たちと警吏たちもはいり、政務所《デイワーン》は人ですっかりうずまった。そして王は裁きをし、国務を決裁し、ある者を役に任じ、ある者を罷免し、未決の訴訟を片づけ、このように政務につきはじめて、日の暮れるまでつづけた。政務《デイワーン》が終わると、王は自室にもどって、シャハラザードに会いにいった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]そして第二十五夜となると[#「そして第二十五夜となると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] ドニアザードはシャハラザードに言った、「おお、お姉さま、お願いでございます、あのせむし男と仕立屋夫婦との物語のつづきを、話してくださいませ。」姉は答えた、「心から悦んで、そして当然の敬意として。けれども王さまがご同意くださいますかしら。」すると王はいそいで言った、「苦しゅうない。」それでシャハラザードは言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、仕立屋はせむしの男がこうして死んでしまったのを見ると、叫んだのでございます、「至高全能のアッラーのほかには力も権力もない。この男、あわれな男が、こうしてちょうど私たちの手のあいだにやって来て、死んでしまうとは、なんという災難だ。」けれども妻は叫びました、「おまえさんの考えちがいはなんという考えちがいでしょう。こういう詩人の句を知らないのですか。
[#ここから2字下げ]
おおわが魂よ、至るべきはただ憂いか苦しみのみのことどもに、なにゆえに思い煩ろうや。
しからば汝は、火を恐れずして、そこに坐するや。火に近づかば、燃え上がるおそれあるを知らずや。」
[#ここで字下げ終わり]
すると夫は言いました、「では、この際どうしたらよかろう。」妻は答えました、「まあ立ち上がりなさい。私たちふたりで、この死体を持ってゆきましょう。上に絹の肩かけをかぶせて、これをふたりで運ぶのです、おまえさんは私のあとから歩き、私がおまえさんの先に立って。今夜すぐにですよ。そして道々ずっと、大きな声で言うのです、これはおれの子で、そっちは母親だ。子供の手当てをしてもらいに、お医者さんを探しているのだが、どこかにお医者はいないかな、って。」
仕立屋はこの言葉を聞くと、立ちあがって、せむしの男を両腕にかかえ、妻を先に立たせて、家を出ました。妻のほうでは、言いはじめました、「おお、かわいそうに、坊や。どうか無事に助かってくれればいいが。ねえ、どこが痛いの。ほんとにしようのない天然痘《ほうそう》だねえ。からだのどこに吹出物がしてるの。」この言葉を聞くと、通りすがりの人はめいめい、「父親と母親だな。天然痘にかかった子供を連れているな」と思って、大いそぎで風と共に遠ざかるのでした。
仕立屋夫婦のほうは、このようにして、医者の住居をたずねながら、歩きつづけているうち、とうとうあるユダヤ人の医者の戸口まで、案内されました。そこで夫婦が戸をたたくと、すぐに一人の黒人の女がおりてきて、戸をあけ、子供を腕に抱いている男と、いっしょについている母親とを見ました。すると母親は言いました、「私たちは家《うち》の子供をお医者さまに見ていただきたく、ここにつれてきました。この四分の一ディナールのお金をお渡ししますから、まずこれを先生にさしあげ、子供がたいへんぐあいが悪いから、おりてきて見てくださいましと、お願いしてください。」
すると女中は上にあがってゆきました。仕立屋の妻はすぐに、家の敷居をまたいで、夫をはいらせて言いました、「はやく、ここにせむしの死体を置きなさい。私たちは大いそぎでとっとと逃げ出しましょう。」そこで仕立屋はせむしの死体を、医者の階段の上に、壁にもたれかけさせて置き、妻を従えて、いそいで外に出てしまいました。
さて黒人女のほうは、主人のユダヤ人の医者のところにはいって、これに言いました、「下に、一人の病人を連れた女のひとと男のひとが来ていまして、先生にといって、この四分の一ディナールを渡し、その病人になにか利く薬を処方していただきたいとのことです。」ユダヤ人の医者はその四分の一ディナールを見ると、大喜びで、いそいで立ち上がりましたが、いそいだもので、明りを持ってゆくことを思わずに、下におりてゆきました。それなもので、せむし男にけつまずいて、これを倒してしまいました。こうして人間を転がしたのを見てひどくびっくりし、いそいで診察してみると、もうこと切れているのを認め、これは自分がもとで死んだと考えました。そこで彼は叫びました、「主《しゆ》よ。ああ復讐の大神よ。十戒にかけて。」そしてハールーン(2)やヌーンの子イウシャー(3)やその他の人々の名を、唱え続けました。そして言うに、「このとおり、おれはこの病人にけつまずいて、これを階段の下まで転げ落ちさせてしまった。さて今はどうすれば、この死人をかかえて、自分の家から出ることができるかしらん。」だがとにかく、結局死人を抱きあげ、中庭から家のなかに運び入れ、それを妻に見せ、事情を打ち明けました。すると妻はふるえ上がって、叫びました、「いいえ、いけません、ここに入れては。はやく、外に出してしまいなさい。これを日の出るまでここにおいといたら、私たちはもうどうしても助かりはしませんよ。だからこれから私たち二人で、これを家の露台に運びあげて、あすこから、隣りの回教徒の家に、投げこむことにしましょう。というのは、あなたも知ってのとおり、家の隣りは、帝王《スルターン》のお台所の御用係で、バターや脂肪や油や麦粉のたくわえがあるので、鼠や猫や犬が露台からおりてきては、あばれまわり、食いちらして、あの家を荒らしているでしょう。だから、こういう動物がきっとこの死体も食べて、跡形もなくしてしまうにきまっています。」
そこでユダヤ人の医者夫婦は、せむしの男を持ちあげ、露台にあがり、そこから死体をそっと御用係の家におろし、台所の壁に立てかけて、立たせておきました。それから二人は立ち去って、音を立てないように自宅におりました。彼らは以上のようでございます。
さて、せむしの男がこうして壁に立てかけられてからほんのちょっとたつと、留守をしていた御用係が家にもどり、戸をあけ、ろうそくをつけて、なかにはいりました。すると、一人のアーダムの子が、台所の壁にもたれ、片すみに立っているのを見つけました。御用係はたいそう驚いて、考えました、「あれはなんだろう。アッラーにかけて、今やっとわかったぞ、おれの貯えをいつも盗んでいるやつは人間で、動物じゃなかったわい。おれは肉と脂肪を、猫や犬を恐れて大切にしまっておくのに、あの男が盗むのだな。おれはこの界隈《かいわい》の犬猫を全部殺してやろうと思っていたが、そんなことをしたところがむだなことが、はっきりわかった、露台からここに忍びこむのは、こやつよりほかにないのだからな。」
そこで御用係はすぐさま大きな棍棒《こんぼう》をとりあげ、その男のところに駆けよって、したたか打ちすえ、打ち倒し、胸の上をはげしくなぐりはじめました。すると男は身動きしないので、御用係は、これは死んでしまったとわかりました。彼は困りきって言いました、「至高、全能のアッラーのほかには、力も権力もない。」それからすっかりこわくなって言いました、「バターも、脂肪も、肉も、今夜も、呪われてあれ。こんなふうにこの男を殺してしまって、それがわが手のあいだに転がっているとは、おれもずいぶん不運だわい。」そしてもっとよくよく見ると、それはせむしの男とわかりました。それで彼は言いました、「おまえはせむしであるだけじゃ足りなかったのか。そのうえ泥棒にまでなりたがって、おれの貯えの肉や脂肪を盗もうとしたのだな。おお、守護神よ、御《み》稜威《いつ》のおん名の蔭に私を守りたまえ。」そこで、夜もしだいに終わりかけてきたので、御用係はせむしの男を肩にかついで、自分の家をおりて歩きはじめ、市場《スーク》のとっつきのところに着きました。そこで足をとめ、街路の曲り角にある一軒の店のかどに、せむしの男を立てかけておき、そのまま立ち去りました。
せむしの男がそこに置かれてからほどなく、一人のナザレト人が通りかかりました。それは帝王《スルターン》の仲買人でした。その夜、彼は酔っぱらって、まださめないままで、風呂屋《ハンマーム》に風呂を使いにゆくところでした。酔いはいろいろなことを考えさせ、「さあ、おまえは救世主《メシア》ご自身に近づいたぞ」などと、彼にささやきました。こうして彼はふらふらしながら、千鳥足で歩いているうち、最後に、ちょうどせむしの男と向かいあいになりましたが、まだ気づきませんでした。そのとき、彼は立ちどまって、せむしの男のほうを向き、小便をするかっこうをしました。ところが突然、自分のまん前に、壁にもたれたせむしの男を見たのです。
この動かない男を見ると、彼はこいつはてっきり泥棒だ、その宵の口に、自分のターバンを盗んだやつだと考えました。それというのは、実際、このキリスト教徒の仲買人は、無帽でした。そこで彼はその男に飛びかかって、首筋に猛烈な一撃をくらわせて、相手を地面にすっころがしました。次に大きな叫び声をあげて、市場《スーク》の番人を呼びました。そして酔いの興奮にまかせて、せむしの男の上に乗りかかり、したたか打ちすえ、そのうえ、両手でその首を締めて、締め殺しさえしそうな勢いでした。このとき、市場《スーク》の番人がやってきて、見ると、キリスト教徒が回教徒をひっくりかえして押えつけ、殴って今にも締め殺しそうになっています。それで番人は叫びました、「その男を放して、立ち上がれ。」キリスト教徒は立ち上がりました。
そこで市場《スーク》の番人は、地上にのびている回教徒のせむし男に近寄って、調べてみると、死んでいます。番人は叫びました、「いったいキリスト教徒がこんなふうに、ずうずうしくも回教徒に手をふれて、殺してしまうなどということがあるものか。」次に、番人はキリスト教徒を捕えて、両手をうしろ手に縛り、これを奉行《ワーリー》(4)の屋敷に引っ立ててゆきました。キリスト教徒は嘆いて、言いつづけました、「おお救世主《メシア》さま、マリアさま。どうして私はこの男を殺しなんぞしてしまったのだろう。それになんと簡単に死んでしまったのか、たった一発、張りとばしただけなのに。酔いがさめてみると、分別がついてきたわい。」
奉行《ワーリー》の屋敷につくと、キリスト教徒と死んだせむしの男は、朝になって奉行《ワーリー》が目をさますまで、夜通し監禁されました。朝になって、奉行《ワーリー》はキリスト教徒を吟味すると、彼は市場《スーク》の番人の報告する事実を否定できませんでした。奉行《ワーリー》は、回教徒を殺害したこのキリスト教徒を、死刑にせざるをえませんでした。そこで、死刑執行者の太刀取りに命じて、キリスト教徒仲買人の死刑判決を、町じゅうに触れさせました。それから絞首台を建てさせ、絞首台の下に死刑囚を連れてくるように命じました。
やがて太刀取りが来て、縄《なわ》の用意をし、輪差《わさ》を作り、それを仲買人の首に通し、いよいよ縄をまきあげようとしたとき、そこに突然、帝王《スルターン》の御用係が、集まる群衆を押しわけ、絞首台の下に立っているキリスト教徒のところまで、人をかきわけて進み出て、太刀取りに叫びました、「やめろ、この男を殺したのは私だ。」すると奉行《ワーリー》はこれに言いました、「そのほうはなぜこの男を殺したのか。」彼は言いました、「こういうわけでございます。昨夜、私が自宅にはいりますると、この男が私の貯えを盗みに、露台からおりて私の所に侵入しているのを認めました。私が棍棒でこの男の胸を殴りつけると、すぐさまこの男は倒れて死んでしまいました。そこで私はこれを肩にかついで、市場《スーク》にゆき、これこれの街路の、これこれの場所の店先に、立てかけておきました。なんとも私は不運な男です。そして今や、自分で一人の回教徒を殺しておきながら、口をつぐんで、このナザレト人の死の原因になろうとしていたのでした。さればこの私こそ、絞り首にされなければなりません。」
奉行《ワーリー》は御用係の言葉を聞くと、キリスト教徒の仲買人を釈放させて、太刀取りに言いました、「ただちにこの男を絞り首にいたせ、いま自身の口から白状したのじゃから。」
そこで太刀取りは、はじめキリスト教徒の首に通した縄をとりあげて、それを御用係の首に回し、御用係を絞首台のま下に連れてゆき、まさに宙吊りにしようとしたとき、そこに突如、ユダヤ人の医者が、群衆を押しわけて出てきて、太刀取りに向かって叫んで、言いました、「待った、何もしてはなりませぬ。この男を殺したのは、ほかならぬこの私です。」それから、次のように事の次第を話しました。「事実、皆さんお聞きください。この男は病気を治してもらおうと、診察を受けに私をたずねてきたのです。私は会おうと思って階段をおりかかったところ、まっ暗だったので、この男にけつまずいてしまった。するとこの男は階段の下まで転がり落ちて、魂のないからだとなったのであります。こういうわけですから、御用係を殺してはならず、ただこの私を殺すべきです。」
そこで奉行《ワーリー》はユダヤ人の医者の死刑を命じました。そして太刀取りは御用係の首から縄をはずして、それをユダヤ人の医者の首にかけ、まさに医者を処刑しようとすると、そのとき仕立屋が、群衆をかきわけやってきて、太刀取りに言いました、「おお、おひかえください。この男を殺したのは、ほかならぬこの私だ。こういうわけです。きのう私は一日ぶらぶら歩いて過ごし、夕方家にもどりました。その途中、このせむしの男に出会ったが、彼は酔ってたいへんなご機嫌で、手に鈴のついたタンブリンを持ち、それで、伴奏しながら、一心にたいへん節おもしろく歌っていました。それで私は見て楽しもうと足をとめましたが、なんとも愉快を覚え、とうとういっしょに家に来るように誘いました。私はいろいろなものを買ってきましたが、そのなかに魚がありまして、みんなで坐って食事をはじめたとき、家内はその魚のひときれをとりあげ、それをパンのなかに包んで、ひと口分にこしらえ、それをばこのせむしの口の中に押しこんだものです。それでこのせむしは息がつまり、すぐさま死んでしまった。そこで私は家内といっしょに、これを抱きあげて、このユダヤ人のお医者の家に運びました。黒人の女がおりてきて、戸をあけた。そこで私はこれに私の言ったことを言いました。それから先生にといって四分の一ディナールを、その黒人女に渡しました。女は急いで上がっていったので、私はすばやくこのせむしをはしご段の壁に立てかけて、家内といっしょに、できるだけ早く立ち去りました。その間に、ユダヤ人のお医者は病人を見におりてきなすったが、せむしの死体にぶつかって倒したので、このユダヤ人は、自分がこの男を殺したのだとお考えになったのです。」
このとき、仕立屋はユダヤ人の医者のほうを向いて、聞きました、「そうではありませんか。」医者は答えました、「いかにもそのとおりです。」すると仕立屋は奉行《ワーリー》のほうに向き直って、言いました、「ですからこのユダヤ人を釈放して、この私を絞り首になさらなければいけません。」
奉行《ワーリー》はこの言葉に、ひどく驚いて言いました、「まことにこのせむし男の話は、年代記や書物に載《の》せるに値するわい。」次に太刀取りにユダヤ人を釈放して、罪を自白した仕立屋を絞り首にするよう命じました。そこで太刀取りは仕立屋を絞首台の下に連れてきて、首に縄をまいて言いました、「今度こそ、これが最後だ。もうだれとも人を代えないぞ。」そして縄をつかみました。
この人々については、以上のようでございました。
さて死んだせむしの男はと申しますと、これは帝王《スルターン》の道化師で、帝王《スルターン》はこの男を片時もお側を離させないのでございました。そこで翌日、帝王《スルターン》が彼の消息をお尋ねになっていると、こう申し上げる者がございました、「おおわがご主君さま、奉行《ワーリー》から言上いたしましょうが、あのせむし男は死んでしまい、その下手人は、今まさに絞首刑に処せられようとしています。事実、奉行《ワーリー》は下手人を絞首台の下に引っ立てて、太刀取りが処刑いたそうとしますると、そこに、第二の人物、また第三の人物が出てまいりまして、めいめいが、『このせむし男を殺したのは、ほかならぬこの自分だ』と申しまする。そしてめいめいが、奉行《ワーリー》に殺害の動機を述べておりました。」
帝王《スルターン》はこの言葉をお聞きになると、もうそれ以上黙って聞いておられず、お声をあげ、侍従を呼び、仰せられました、「すみやかにさがって奉行《ワーリー》のもとに走り、絞首台の下にいるその者ども一同を、即時連れてまいれと伝えよ。」
侍従は退出して、絞首台のそばに着きましたが、それはちょうど太刀取りが仕立屋を処刑しようというまぎわでした。侍従は叫びました、「やめい。」次に彼は奉行《ワーリー》に、このせむし男の話が王のお耳に達した旨を告げました。そして奉行《ワーリー》を連れ、また仕立屋と、ユダヤ人の医者と、キリスト教徒の仲買人と、御用係も連れ、せむし男の死体をも同様に運ばせ、一同そろって、王のもとにまいりました。
奉行《ワーリー》は王の御手《おんて》のあいだに出頭いたしますと、身をかがめて床《ゆか》に接吻してから、せむし男の話を残らず、一部始終こまかに王さまに言上しました。しかしそれをくり返しても詮なきことでございます。
王はこの話をお聞きになると、たいへん感嘆なさり、ご満悦の極に達しなさいました。それから王宮の書記たちに、この話を金の水をもって書きしるすようお命じになりました。そして座につらなる人々におたずねになりました、「そのほうたち、このせむし男の出来事に類《るい》する出来事を、かつて聞いたことがあるか。」
するとナザレト人の仲買人が進み出て、王の御手のあいだの床《ゆか》に接吻して、申しあげました、「おお、もろもろの世紀と当代の王よ、この私は、せむし男とわれわれとの出来事よりも、さらにはるかに驚くべき物語を存じておりまする。もし君のお許しあらば、お話し申し上げるでございましょう。それと申すは、それはせむし男の話よりもずっとずっと不思議で、奇妙で、またおもしろいものでございます。」
すると王は仰せられました、「よろしい、そのほうの持つところを、われらのため荷ほどきして、見せてみよ。」
そこでナザレト人の仲買人は言いました。
ナザレト人の仲買人の談
されば、おお当代の王よ、私がこの地にまいりましたのは、ある商用のためだけだったのでございます。私は、運命によって君の王国のほうに導かれた異国の者。事実、私はカイロの町に生まれ、コプト人(5)のなかの一人のコプト人です。そして同じくカイロにおいて育てられ、その町で私の父は、私に先立って、仲買人をいたしておりました。
父が亡くなった時、私はすでに成人の年齢に達しておりました。ですから私は父のあとをついで、仲買人になりました。このわれわれコプト人の特技である職業については、私は自分にあらゆる種類のよい素質があると見ましたので。
さて日々のうちのある日、私が穀物商人の隊商宿《カーン》の門口に坐っておりますと、一人の青年が通るのを見ました。このうえなく豪奢な着物を着て、赤い鞍を置いたろばに乗り、満月のときの月さながらの青年です。その若者は私を見ると、挨拶しましたので、私は彼に敬意を表してすぐに立ちあがりました。すると彼は、わずかばかりのごまを包んだ絹ハンケチを取り出して、私に言いました、「この手のごまは一アルデブ(6)いくらぐらいの値段でしょう。」私は言いました、「百ドラクムは確かにいたします。」彼は答えました、「では、穀類を量る人たちをいっしょに連れて、バブ・アル・ナスル区の隊商宿《カーン》アル・ガウアリに来てください。私はそこにおりますから。」そして、ごまの見本を包んだハンケチを私に渡してから、私を残して遠ざかりました。
そこで私は穀類を買う商人たちを回りはじめ、自分では百ドラクムと値踏みした、その見本を見せました。すると商人たちは、一アルデブにつき百二十ドラクムと値踏みするのでした。そこで私はこのうえなく喜んで、四人の穀物を量る男を連れて、すぐに若者に会いにゆくと、はたして隊商宿《カーン》で私を待っていました。私の姿を見ると、こちらにやってきて、その穀物のおいてある倉庫に案内しました。量る男たちは袋に詰めてごまを量ると、全部で五十アルデブに達しました。すると若者は私に言いました、「あなたは手数料として、百ドラクムに売れた一アルデブにつき、十ドラクムおとりください。しかし私のかわりに金を全額受け取って、私が請求するまで、それを大事にお宅にあずかっておいていただきたい。総額五千ドラクムになりますから、あなたの分五百を差し引くと、この分は四千五百ドラクム残るわけです。私は用事がすんだらすぐ、お宅に伺って、おあずけした金をいただきましょう。」そこで私は言いました、「お言葉承わり、仰せに従います。」次に彼の手に接吻して、遠ざかりました。
事実その日のうちに、私はこうして手数料として、売り手から五百と、買い手たちから五百と、都合千ドラクムをもうけたのでした。われわれエジプトの仲買人の習慣に従い、こうして二割をはねたわけです。
さてその若者はと申しますと、一カ月留守をしたあと、私をたずねて来て言いました、「あのドラクムはどこにありますか。」私はすぐに言いました、「かしこまりました。この袋の中にちゃんと用意してございます。」けれども彼は言いました、「今度また私がいただきにくるまで、もうしばらく、お宅にあずかっておいてください。」そしてそのまま立ち去り、さらに一カ月留守をしてから、またやってきて言いました、「あのドラクムはどこにありますか。」そこで私は立ちあがって、挨拶をしてから言いました、「どうぞいつでもお持ちください。ここにございます。」次に私は言いました、「さて、どうか私の家のお客さまになって、ごいっしょに、一皿か二皿か三皿か四皿召しあがることを、ご承諾願えませんか。」ところが彼はことわったうえで、言いました、「金子《かね》のほうは、二、三の急用をすませてから、いただきにまた伺いますから、今しばらくおあずかり願いたい。」そして遠ざかってしまいました。私はこの若者の分の金子《かね》をたいせつにしまって、また来るのを待ちはじめました。
ひと月たつと、若者はもどってきて言いました、「今晩ここにお寄りして、金子《かね》をいただきます。」そこで私は金子《かね》をちゃんと用意しておきましたが、夜まで待っても来ないし、次の日も、その次の日も来ず、ひと月たってやっと来ましたが、そのあいだ、私はこう思っていました、「あの若者は、なんと人を信用する気持が厚いのだろう。生まれてから、おれが隊商宿《カーン》と市場《スーク》で仲買人をやってこのかた、こんなに人を信用するのは見たことがない。」さて、彼は私のところにやって来たのですが、相変わらずろばに乗り、豪奢な着物を着ていて、満月のときの月のように美しく、浴場《ハンマーム》から出てきた湯上がりのように、輝かしくみずみずしい顔をし、頬はばら色、額はまばゆい花のよう、唇の一隅には、黒い琥珀《こはく》のしずくのようなほくろがあり、まさに詩人の言うごとくです。
[#ここから2字下げ]
満月の月輪、塔の頂きにて、日輪と相会う、二つながらうるわしく。
二人の恋人もかくのごとし。両人を見る人々は、愛を覚えて驚嘆せざるをえず、幸福を念じ、魂を捉われて。
されば、かかる奇蹟を成就したもうアッラーに栄光あれ。被造物をばその御意のままに作りなしたもうなり。
[#ここで字下げ終わり]
私は彼を見ると、その手に接吻し、その身の上に祝福を祈ってから、言いました、「おおわがご主人さま、今度こそは、あなたのお金を受け取っていただけましょうね。」彼は答えました、「もうしばらくしんぼうしてください、私の仕事をすっかりしおえますから。そのうえで金子をいただきにまいりましょう。」次に背を向けて、遠ざかってしまいました。そこで私はまだ永い先のことだろうと思いまして、その金を取り出し、これを二割の利潤の投資に使い、こうして自分のために十分利殖しました。そして心の中で言いました、「アッラーにかけて、あの若者が今度きたら、私の招待を受けてくれるようぜひ頼み、費用を惜しまず迎えよう。なにしろ、あの人の金でたいへんもうけさせてもらい、今では私はえらく金持ちになったのだから。」
こうして一年はすぎ去り、その年の終りに彼はやってきました。前々よりもはるかに豪奢な衣服を着て、純血種の白ろばに乗っていました。
そこで私は、ぜひいっしょに拙宅に来て、賓客となってくださいと、真心こめてせつに頼みました。彼は答えました、「いかにも承知しました。しかし、ご馳走になる費用を、今おあずけしてあるこの私の金から、さし引くことはしないという条件で願いましょう。」こう言って笑い出しました。私も笑いました。そして私は申しました、「はい、確かに、悦んでそうしましょう。」そして彼をわが家のなかにともなって、坐るように願いました。それから市場《スーク》へ駆けつけ、あらゆる種類の食料や、飲み物や、それに類した他の品々を買いととのえて、全部を卓布の上の彼の手のあいだに置いて、「ビスミラーヒ(7)」と言いながら、手をつけるように勧めました。すると彼は出された料理に近づきましたが、左の手を出して、そのまま左手で食べはじめたものです。私はたいへんびっくりして、どう考えてよいかわかりませんでした。私たちが食べおわると、彼は右手を使わずに、その左手を洗うのでした。私は手ぬぐいをさし出して手をふかせ、それからいっしょに坐って雑談をすることにしました。
そこで私は彼に言いました、「おおご主人さま、お願いです。どうか私に重くのしかかる重さと、私を悩ます悲しみをば、軽くしてくださいませ。どうしてあなたは左手で召し上がったのですか。もしや、右手がお悪くお痛みにでもなるのでしょうか。」この言葉に、若者は私を見やって、次の二節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
わが抱く魂の苦悩と苦痛につきて問うなかれ。きみはわが不具を見たもうべし。
なかんずく、わが身の幸《さち》を問うなかれ。われは仕合せなりき。されどそははるか遠きむかしのことなり。爾来、いっさいは変われり。さあれ、避けえざるところに対しては、知恵を用いざるべからず。
[#ここで字下げ終わり]
次に彼は着物の袖から右手を出して見せましたが、私は、その手が切られているのを見ました。つまり、その腕には手首から先がなかったからです。私はすっかり驚いてしまいました。けれども彼は言いました、「どうか驚きなさらぬように。またとりわけ、私が左手で食べたのは、あなたをないがしろにしたためとは、もはやお思いくださるな。それは私の右手が切られているゆえだということが、今はよくおわかりでしょうから。この原因はまことに驚くべきものがあるのです。」そこで私はたずねました、「そしてその原因とはどんなことですか。」すると彼は、嘆息をもらし、目に涙を浮かべてから、私にこう話したのでした。
お聞きください、私はバグダードの者です。父は都の高官の一人、有力者の一人でした。私は一人前の年頃になるまで、父のところに来て、エジプトの諸国の珍しい事柄を話してきかせる、旅行者や巡礼や商人たちの物語に、耳を傾けていました。そして私はこれらの物語すべてをよく心中にとどめて、ひそかに思いをたくましくしていましたが、そうしているうち父がなくなりました。そこで私は集められるだけの財産すべてと、多額の金を持って、バグダードとモースルの布地の商品多数をはじめ、その他多くの高価で極上の商品を買い求めまして、それらすべてを行李にして、バグダードを出発しました。アッラーは私がつつがなく目的地に着くべく記《しる》したまいましたので、私はほどなく、このカイロの町、あなたの町に、着きました。
次に若者は涙を流しはじめて、次の詩節を誦しました。
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往々にして、盲者、生来の盲者は、明視の人の陥る穴をよく避け得。
往々にして、愚者は、賢者これを言いいだせば、賢者の身の破滅を来たらすがごとき言葉を、よく避け得。
往々にして、篤信の信者にして貧苦に悩むべし、不信の徒、狂人にして福楽にあるものを。
されば、人はおのが無力をとくと心得よかし。ただ宿命のみぞ世を支配するなれ。
[#ここで字下げ終わり]
詩句を誦しおわると、若者は次のようにその話をつづけました。
かくて私はカイロにはいり、隊商宿《カーン》スルールへゆき、自分の行李を開き、らくだの荷をおろして、場所を借りる手配をして、その場所に、自分の商品をぎっしりと詰めました。次に従僕にいくらかの金を与えて食物を買わせ、それからちょっと寝て、目がさめると、バイン・アル・カスレイン方面をひと廻りしにゆき、隊商宿《カーン》スルールにもどって、そこで夜を過ごしました。
翌朝目がさめると、私は布地の行李一個を開いて、心中で言いました、「この布地を市場《スーク》に持っていって、ちょっと取引の相場を見てみるとしよう。」そして私は、その布地を若い従僕の一人の肩にかつがせて、市場《スーク》へと向かい、取引の中心地になっている、廻廊と店と泉水にかこまれた大きな建物に着きました。ご承知のように、仲買人がいるのはここで、この場所はゲルゲスの大市場《カイサーリーヤ》(8)と呼ばれています。
私が着くと、仲買人たちは全部、すでに私の来ることを知らされていたので、私を取りまきました。そこで私は彼らに自分の布地を渡しますと、彼らは八方に出かけて、私の布地を方々の市場《スーク》のおもな買い手に見せにゆきました。けれどもやがて帰ってきて言うには、私の商品について人々の言い出す値段は、私の仕入れ値段にも、バグダードからカイロまでの運賃にも、足りないとのことでした。それで私は途方にくれていると、仲買人の頭《かしら》の長老《シヤイクー》が言ってくれました、「いくらかもうけを得るために、あなたの採るべき道をわしは知っている。なんでもない、ただすべての商人がやっているとおりのことをすればよいのだ。つまり、あなたの商品を、店を開いている商人たちに小売りするのだが、それを、証人たちの前で一定期間貸し売りにして、双方証文を交わし、そして両替人を仲介にしてやるのだね。そうすると、毎木曜日と毎月曜日に、あなたはきちんきちんと、そこからあがった金を受け取れることになる。こうなされば、一ドラクムについて二ドラクム、またはそれ以上さえ利があがるだろう。そのうえ、そのあいだに、あなたはゆるゆるとカイロを見物し、ナイル河の探勝もできるというものだ。」
この言葉を聞くと、私は言いました、「なるほどこれは妙案だ。」そしてすぐに、仲買人と競売人を連れて隊商宿《カーン》スルールまでゆき、私の商品を全部渡しますと、皆はそれを大市場《カイサーリーヤ》に運んでゆきました。そして、大市場《カイサーリーヤ》の両替人を仲介にして、証人たちの前で、双方契約条項をしたためたうえ、私は全部を、商人たちに小売りいたしました。
これをすませて、私は自分の隊商宿《カーン》にもどり、そこに静かに滞在いたしましたが、どういう楽しみにも事欠かず、どういうついえも惜しみませんでした。毎日、卓布の上には酒盃をおき、豪奢な昼食をとりました。いつも羊肉と甘い物とジャム類を備えておきました。このようにして、その月がおわり、私の定期収入を取り立てるはずのときまで、つづけました。事実、その月の第一週以来、私はきちんきちんと自分の金を受け取りはじめ、毎木曜日と毎月曜日、私の債務者にあたる商人ひとりひとりの店に、腰をおろしにゆくのでした。すると、両替人と代書人がやってきて、ひとりひとりの商人のところをひと廻りし、金を受け取ってきて、私に渡すのでありました。
そこで私は、こうしてあるときはこっちの店に、あるときはあっちの店に行って、腰をおろす習慣となりましたところ、ある日のこと(おりから、私は風呂を使いに行って浴場《ハンマーム》から出て、それからひと休みし、昼飯に若鶏《わかどり》をたべ、ぶどう酒を二、三杯のみ、つぎに手を洗って、匂いのよい香水を、からだにふりかけたところでした)、ちょうどゲルゲスの大市場《カイサーリーヤ》の地区に来て、バドレディン・アル・ボスタニと呼ばれる呉服屋の店に、坐ったのでした。主人は私を見ると、大そう慇懃《いんぎん》丁重に迎え、私たちはひととき、雑談をはじめました。
さて、こうして雑談をしておりますと、そこに青絹の大面衣《イザール》で包まれたひとりの女が、やってきまして、反物を買いに店にはいり、私のそばの円椅子に坐りました。頭に巻いてふわりと顔を包んでいる布切れが、少々斜めにずれていまして、ほのかな香気と薫《かお》りを漂わせていました。面衣《ヴエール》の下の、瞳《ひとみ》の黒は、人々の魂を殺し、正気を奪うものがありました。こうしてその女は坐ってバドレディンに挨拶をすると、商人も平安の祈りを返し、女の前に立って、いろいろな種類の反物を見せながら、女に話しはじめました。私はその心地よい、魅力あふれる声を聞くと、恋情が私の肝臓を突き刺すのを覚えました。
いくつか反物をしらべて、どれもあまり美しいものには思えないと、その女はバドレディンに言いました、「もしや、純金の金糸を織りこんだ、白絹の切地《きれじ》の持ち合わせはございませんか。」そこでバドレディンは店の奥にいって、小|箪笥《だんす》をあけ、何反もの布地の下から、純金の金糸を織りこんだ白絹一反を取りだし、それを乙女の前に広げました。乙女はそれがちょうど気に入りまして、商人に言いました、「今わたくしは持ち合わせがないけれど、いつものように、今これをいただいて行って、よろしいでしょうね。家に帰ったらすぐ、お代をお届けしますから。」ところが商人は言いました、「今度だけは、そういたしかねるのでございます、おおご主人さま。何しろ、この布地はてまえのものではなく、ここにおいでの、この商人のかたのものですから。そしてちょうどきょうが、このかたへの支払期日という約束になっているのです。」すると、その目は怒った眼差《まなざし》を投げました。そして言いました、「不埓《ふらち》な。いったいあなたは、いつもわたしがとても高価な反物をいろいろ買ってあげて、あなたのほうから請求するよりも、ずっとたくさんもうけさせてあげていることを、お忘れなの。それに、わたしが代金を届けるのにおくれたためしがないのを、お忘れなの。」商人は答えました、「いかにも、ごもっともです。おおご主人さま。だがきょうばかりは、今すぐ即金がいる羽目に立ちいたっているのでございます。」この言葉を聞くと、女はその反物をつかんで、商人の胸もとに投げつけて、言いました、「この呪われた商売仲間では、おまえたちはみんな同じ手合いです。」次にたいへん腹を立てて立ちあがり、背を向けて立ち去ろうとしました。
ところが私は、その乙女と共に自分の魂が立ち去ろうとするのを感じました。そこであわてて身を起こし、立ちあがって、乙女に言いました、「おおご主人さま、お願いです、どうか少々私のほうをお向きくださって、おとがめなくおもどりになってくださいませ。」すると彼女は私のほうに顔を向けて、ちょっと微笑して、私に言いました、「この店に引っ返してあげますけれど、それはひとえにあなたのためですよ。」次に彼女は店のなかで、私と向きあって腰をおろしました。そこで私はバドレディンに言いました、「この反物は、お店では原価いかほどですか。」彼は答えました、「一千百ドラクムです。」そこで私は言いました、「よろしい。では私はそのうえ、利益百ドラクムをさしあげよう。では紙をください、証文で代金をさしあげたいから。」そして私は商人からその金糸を織りこんだ絹の反物をもらって、証文で代金をとらせました。それからその反物を貴婦人に渡して、言いました、「どうぞお持ちください。もう代金のことなぞご心配なく、お帰りください。お好きなときお払いくだされば結構です。日々のうちのある日、この市場《スーク》に私をたずねて来てさえくだされば、私はいつでもどこかの店に坐っております。そればかりか、もしこの反物を敬意のしるしとしてご受納くださいまするとあらば、これはあなたさまのものでございます。」すると彼女は答えました、「アッラーはあらゆる種類のお恵みで、あなたにこのお返しをしてくださいますように。どうかあなたは、わたくしの持っているすべての富をお手に入れなさることができますよう、そしてそれがわたくしのご主人となり、わたくしの頭《かしら》の冠となってのうえでありますように。ああ、どうぞアッラーはわたくしの願いをかなえたまいますよう。」そこで私は答えました、「おおご主人さま、ではこの絹地をおおさめください。それに、さしあげるのは何もこの絹地ばかりではございますまい。けれども、お願いです、私に隠されているお顔を、しばし拝見するお恵みをおさずけください。」すると乙女は、顔の下方をおおって、両眼だけしか現わしていない軽い布切れを、持ちあげてくれました。
私はこの祝福の顔を見ましたが、このたったの一瞥《いちべつ》は、私を極度の心の乱れに投げ入れ、私の心臓に恋を打ちこみ、私から正気を奪うに足りました。けれども彼女はいそいで面衣《ヴエール》をおろし、反物をとりあげて、私に言いました、「おおご主人さま、お目にかかれないことがあまり長くつづきませんように。さもないと、わたくしは悲しみのために死んでしまいましょう。」次に彼女は遠ざかり、私は商人と二人きりで、日の傾くころまで、市場《スーク》に残りました。
私はそこにいたのですけれど、もうまったく感覚と正気を失ってしまったみたいで、この突然の恋情の狂乱に、すっかり取りつかれてしまっていました。この感情の激しさのあまり、私は思いきってその貴婦人について、商人に質問をしたのでした。つまり、立ちあがって立ち去る前に、私は商人に言いました、「あの婦人がどなたかご存じですか。」商人は言いました、「いかにも。あれはたいそう金持ちのご婦人です。父親は有名な大官《アミール》だったが、今は亡くなり、あのかたに莫大な財産と財宝をのこされました。」
そこで私は商人に別れを告げて、遠ざかり、泊まっていた隊商宿《カーン》スルールにもどりました。従僕たちは食事を出しましたが、私は例の女のことばかり考えて、全然手がつけられませんでした。そして眠ろうとして横になったが、眠りは少しも来ず、こうして私は朝になるまで、夜通し目をさましたまますごしました。
朝になると、私は起きあがって、前の日よりももっとりっぱな衣服を着こみました。そしてぶどう酒を一杯のみ、軽くひと口食べて、例の商人の店にもどり、挨拶をして、いつもの場所に坐りました。私が坐ったと思うと、そこにあの乙女が姿を現わしたのでした。女奴隷をひとり連れていました。彼女ははいってきて、坐り、バドレディンにはこればかりも平安の祈りをせずに、私に挨拶しました。そしてさわやかな声で、くらべるもののない話しぶりとたぐいのない優しさで、私に言いました、「あの絹地のお代の千二百ドラクムを受け取りに、だれかをわたくしといっしょに寄こしてくださいませ。」私は答えました、「いや、何もいそぐことはございません。どうしてそんなにおいそぎになりますか。」彼女は言いました、「あなたはなんとおうようでいらっしゃるのでしょう。けれどそれにしても、わたくしのためにご損をなさるといけませんから。」それから、私がことわるのも聞かずに、自分自身で、切地の代金を私に手渡すことにきめてしまいました。次に、私たちはよもやまの話をしはじめました。そのうち突然、私は大胆になって、いろいろなしるしで、私の思いの激しさを相手に知らせました。すると彼女はつと立ちあがって、礼儀上ひとこと別れを告げはしましたが、そのまま遠ざかってしまいました。私はもうがまんしきれず、心は激しく女のほうにひきよせられながら、自分も店を出て、ずっと遠くから、そのあとをつけはじめ、とうとう市場《スーク》の外に出てしまいました。すると急にその姿を見失いましたが、そのとたんに、ひとりの若い娘がこちらにやってくるのを見ました。まったく知らない娘ですし、面衣《ヴエール》のため、だれやら見当もつきかねましたが、その娘は私に言いました、「おおご主人さま、私の女主人のところにいらしてください、あなたにお話があると申しますから。」そこで私はたいへん驚いて言いました、「だがこの土地で私を知っているひとはありませんが。」すると若い娘は言いました、「あら、すぐお忘れになりますのね。お思い出しになりませんの、私は、たった今|市場《スーク》で、商人某の店で、若いご婦人といっしょにごらんになった召使ですが。」そこで私はそのあとについて歩きはじめると、そのうち、両替屋通りの一隅に、その女主人の姿が見えました。
彼女は私を見ると、いそいそと歩み寄ってきて、私を街かどにつれていって、言いました、「わたくしの目よ、実はあなたはわたくしの思いを占め、わたくしの心を恋で満たしていらっしゃるのです。お姿を見たときから、わたくしはもう眠りの憩いを味わわず、食べも飲みもいたしません。」私は答えました、「この私だって、まったく同じことでございます。けれども私の今の幸福は、いっさいの嘆きを封じてしまいます。」彼女は言いました、「わたくしの目よ、ねえ、わたくしがお宅にいったほうがよろしいか、それともあなたのほうからわたくしの家に来てくださいますか。」私は言いました、「私は異国の者です。そして隊商宿《カーン》よりほかに住居がございませんが、あそこはまったく、あまりに人の出入りが多すぎる場所です。ですから、もし私の友情を十分信用してくださって、私をお宅に入れていただければ、私の幸福はこれにすぎるものありますまい。」彼女は答えました、「よろしゅうございますとも。だけど今夜は、金曜の夜ですから、とてもだめです……。けれどもあす、お昼の礼拝のあと、あなたはろばにお乗りになって、ハッバニア区とおたずねください。そしてそこに着いたら、アビ・シャーマという名で知られている、もとの総督バラカットの屋敷はどこかと、お聞きなさいまし。そこにわたくしは住んでおります。とにかくきっときっと、来てくださいませ、お待ちしておりますから。」
そこで私は無上の悦びに達しました。そしてその場はわかれました。私は自分の住んでいる隊商宿《カーン》スルールにもどりましたが、その夜はまんじりともしないですごしました。けれども夜明けがた、私はいそいで起きて、着物を着かえ、身にかぐわしい匂いを香らせ、金貨五十ディナールを、ハンケチに包んで携えました。そして隊商宿《カーン》スルールを出て、バブ・ザウイラという名前の場所を指してゆき、そこでろばを雇って、ろば曳きに言いました、「ハッバニア区にやってくれ。」するとすぐ、またたくまに、そこに連れてゆきまして、ダルブ・アル・モーンカリと呼ばれる街に着きました。そこでろば曳きに言いました、「今度はこの街で、総督《ナキーブ》(9)アビ・シャーマの屋敷というのを聞いてみてくれ。」ろば曳きは立ち去って、ほんのしばらくすると、わかったといって帰ってきて、私に言いました、「もうろばをおおりになってよろしいです。」そこで私は地におりて言いました、「先に立って歩いて、道を教えてくれ。」するとその屋敷に案内したので、私はこれに言いました、「あしたの朝、ここに迎えにきて、私を隊商宿《カーン》に連れかえってくれ。」ろば曳きは承わりかしこまって答えました。そこで私はそれに金貨四分の一ディナールを与えると、彼はそれを受け取って唇にあて、次に額に押しいただいて、お礼を述べ、そして立ち去りました。
そこで私は屋敷の門をたたきました。門は、二人の小娘、月のように丸い、盛り上がったまっ白い胸乳《むなぢ》の生娘《きむすめ》によってあけられて、その二人は私に言いました、「おはいりください、お殿さま、家《うち》の女主人《あるじ》はお待ちかねでいらっしゃいます。熱い思いのため、もう夜もおやすみになりません。」
そこで私は中庭にはいると、七つの門のついたすばらしい屋形《やかた》が見えました。正面は、広々とした庭園に臨んだいくつもの窓で飾られています。この庭園は、果樹と色とりどりの花についての驚異を養い、いくすじものやり水を通され、鳥の歌と言葉で魔法にかけられていました。家はと申しますと、これは半透明の白大理石造りで、そこに自分の顔が映って見えるほど、よくみがかれています。黄金の飾りが内部の天井をおおい、ぐるりには碑銘と模様が走り、夢まぼろしです。一面に高価な大理石が敷きつめられ、さわやかな寄木細工《モザイク》です。大広間の中央には、真珠や宝石をちりばめた大泉水がありました。絹の絨氈が嵌木《はめき》の床《ゆか》をおおい、織物が壁をやわらげております。家具類にいたっては、雄弁な人の言葉も、これを描くことには打ち負けてしまうことでありましょう。
私がはいって腰をおろしたと思うまもなく……
[#この行1字下げ] ――けれども、ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が近づくのを見て、つつましく、自分の物語を語るのをやめた。
[#地付き]けれども第二十六夜になると[#「けれども第二十六夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸《さち》多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、商人はこうしてカイロのコプト人仲買人に、自分の身の上話をつづけ、仲買人がそれをば、このシナの都で、帝王《スルターン》にそれを語り伝えたのでございます。
そこに真珠と宝石を飾り立てたあの乙女が、輝かしい顔と人殺しの黒い目をして、私のほうにやって来ました。彼女は私にほほえみかけ、私をぴったりと抱きしめました。それから自分の口を私の口に押しあて、舌を吸いました。私も同じようにしました。そして女は言いました、「ほんとうにあなたですの、夢ではないかしら。」私は答えました、「私はあなたの奴隷です。」女は言いました、「まったく祝福の日です。アッラーにかけて、わたくしはもう生きた身でなく、飲み食いの悦びも味わいません。」私は答えました、「私とて同様でございます。」それから私たちは坐りましたが、私はこの応接ぶりにすっかり恐縮して、頭をたれておりました。
そのうち卓布が広げられ、豪勢な料理とご馳走が供されました、焼肉だの、肉を詰めた若鶏だの、甘味をつけた麺類《めんるい》だの、そこで私たち二人はいっしょに食べましたが、彼女は、そのつどやさしい言葉と満足げな眼差で、すすめながら、食物を私の口に入れてくれるのでした。それから水差しと銅の水盤が出されたので、私は手を洗い、女も洗いまして、次に二人とも麝香《じやこう》入りのばら水で身を馨らせ、坐っておしゃべりをすることにしました。
すると彼女は、打ちとけて、心のせつなさを語りはじめ、私も同様にいたしました。とたんに私はいっそう恋しさがつのりました。そこですぐに私たちは楽しみと戯れ、数知れぬ接吻と愛撫をはじめ、日暮れまでつづけました。しかしそれらをくり返し申しても詮なきこと。次に私たちは横になり、相抱き、朝まで過ごしました。その他のことは、その委細とともに、神秘の領分です。
翌朝になると、私は起き上がって、寝床の枕もとに、金貨五十枚を入れた財布を、そっと忍ばせ、乙女に別れをつげて、出ようといたしました。ところが乙女は泣き出して言いました、「おおご主人さま、またいつあなたの美しいお顔を見られるのでしょうか。」私は言いました、「すぐ今夜、またまいりましょう。」
外に出ると、前日私をつれてきたろばが戸口にいて、ろば曳きもそこに待っていました。私はろばに乗って、つつがなく、隊商宿《カーン》スルールに着きました。おりると、ろば曳きに金貨半ディナールを与えて、言いました、「今夕、日暮れ時分に、また来てくれ。」ろば曳きは答えました、「お言いつけ、わが頭上にございます。」そこで私は隊商宿《カーン》にはいって、朝食をし、次に諸方の小売商のところに、商品の集金をするため、外出しました。金を受け取ってもどると、羊の焼肉を作らせ、甘いものをいろいろと買い、人足を呼んで、乙女の住所と屋敷の模様を教え、前払いをして、これらの品をそこに届けさせました。そして夕方まで商用をしつづけ、やがてろば曳きが迎えにきましたので、金貨五十ディナールをハンケチに包んでたずさえ、出発しました。
家のなかにはいってみると、そこはすっかり掃除され、嵌木の床は洗い清められ、食事道具はみがかれ、燈火《ともしび》は用意され、ちょうちんには火を入れ、ご馳走は支度され、飲み物と酒類は上澄みをとってありました。乙女は私を見ると、私の腕のなかに飛びこんできて、私を愛撫しはじめて、言うのでした、「アッラーにかけて、どんなにあなたがほしかったことでしょう。」それから、私たちは夜中まで、巴旦杏《はたんきよう》やはしばみの実を割ることをやめませんでした。そのうえで、朝まで相抱いてすごしました。そして私は起き上がり、いつものように、金貨五十ディナールを渡して、外に出ました。
戸口にろばがいましたので、それにまたがり、隊商宿《カーン》にいって眠りました。夕方、起きると、宿《カーン》の料理人に食事をこしらえさせました。バターでいためて、くるみと巴旦杏をまぜた米一皿、揚げた菊芋《きくいも》一皿、その他いろいろの品。次に、果物や巴旦杏や花を買い求め、それらを先方に届けました。私自身は、ハンケチに包んだ金貨五十ディナールを携えて、外に出ました。その夜の乙女と私とのあいだには、その夜のために記《しる》されたところが起こったのであります。
こうした状態がずっとつづいて、私はついに、たちまちにして完全に破産してしまい、もはや一ディナールはおろか、ただの一ドラクムも、自由にならない身とはなりました。私は言う言葉を知らず、心中で、こうしたすべては悪魔《シヤイターン》の仕業と考えました。そして詩人の次の詩句を思い出しました。
[#ここから2字下げ]
福運にして富者を見捨てんか、富者は消ゆ、日没のころ、太陽の黄ばむがごとく。
爾来、富者姿を消さば、その思い出はあらゆる記憶より消し去られざるをえず。
いつの日か彼帰り来たるとも、好運は絶えてほほえむことあらじ。
羞恥にとらわれては姿を現わすことなく、かくておのれとただひとり、おのが双眼の涙を流すらむ。
ワッラーヒ(10)、人はその友になんら頼みうるところなし。貧困身を襲わんか、身内すらもこれを知らずと言うなり。
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そこで私はもうどうしてよいやらわからず、悲しい思いに耽りながら、少し歩いてみようと宿《カーン》を出て、ザウイラ城門のほとりの、バイン・アル・カスラインの広場に着きました。そこは大へんな人だかりで、群衆が広場にあふれていました。祭礼で市《いち》の立つ日でしたから。それで私は群衆にまじっていると、天命のいたすところにより、自分のそばに、たいそう身なりのよい、馬に乗った男を見かけました。たいへんな人混みのため、私はその気もないのに、その男のほうに押しやられまして、私の手がちょうどその男のポケットのところにゆき、ポケットにさわりました。そこには、ふくらんだ小さな包みがはいっていることがわかりました。すると私は、自分の手をつとそのポケットのなかに突っこんで、巧みに小さな包みを引き出しましたが、男が私のそぶりに気づかないほど、すばやくはやれなかったのです。そこでその騎馬の男は、ポケットが軽くなったのに気づいて、ポケットに手をやってみると、からっぽなことがわかりました。そこで大いに怒って私のほうを向き、鎚矛《つちほこ》をふりあげて、私の頭上に激しい一撃を加えました。たちまち私は地に倒れ、まわりをぐるりと大勢の人たちに囲まれましたが、数人の人が、これ以上やらせまいと、手綱をとらえて馬を押え、騎馬の男に言いました、「こうした混雑にまぎれて、防ぐすべのない男を打つとは、恥ずかしいことだぞ。」けれども騎馬の男は彼らに叫びました、「皆の衆、実はこやつは泥棒にほかならぬのだ。」
この言葉に、私は気絶していたがわれにかえって、人々が言っているのが耳にはいりました、「そんなことはない、こんな品のよい若者が、何であろうとひとのものを盗むはずはない。」そしてそこにいあわせた全部の人たちは、私が盗みをしたかそれともしなかったかと議論をし、負けず劣らず反対の説をなし、論議がはずんだのでした。私は結局人波に押し流されていって、私を放そうとしない騎馬の男の監視を、もうおおかたのがれそうになったところ、天命のいたすところにより、たまたま奉行《ワーリー》が衛兵をつれてそこを通りがかり、ザウイラの城門を横ぎって、われわれを中心とする人だかりに近づいてきて、そして奉行《ワーリー》はたずねました、「ここで、どうかしたのか。」すると騎馬の男は答えました、「アッラーにかけて、おお長官《アマール》さま、ここにいるのは泥棒でございます。私はポケットに、金貨二十ディナール入りの青色の財布を入れておりましたが、この男は人だかりにまぎれて、それを私から首尾よく盗みとったのでございます。」すると奉行《ワーリー》は騎馬の男に問いました、「だれかそれを証拠立てる目撃者がいるか。」騎馬の男は答えました、「いいえ。」すると奉行《ワーリー》は警察長《ムカツダム》を呼んで、言いつけました、「この男を捉えて、身体検査をせよ。」警察長《ムカツダム》は私を捉えました。それというのは、もはやアッラーのご加護が私の上にはなかったのです。そして私の着物を全部脱がせまして、とうとう財布を見つけました。それは事実青絹でできていました。奉行《ワーリー》は財布をとりあげ、金子を数えてみると、はたして、騎馬の男の断言したとおり、きっかり金貨二十ディナールあることがわかりました。
すると奉行《ワーリー》は警吏とお供の者どもを呼んで、叫びました、「その男を近く寄らせよ。」私がその手のあいだに近よせられると、奉行《ワーリー》は言いました、「ありていに白状いたせ。そもそも汝はこの財布を盗みしことを、みずから認めるやいなや、申せ。」私はすっかり恥じ入って、頭をたれ、しばし考えて、心の中でこう思いました、「おれが、自分の仕業じゃないといったところで、信じられはすまい、現におれのからだから財布が見つかった以上は。またおれが自分が盗みましたといえば、おれはすぐに捕縛されるわけだ。」けれども最後に観念して、私は言いました、「いかにも、私がそれを盗みました。」
奉行《ワーリー》はこの言葉を聞くと、たいへんびっくりして、証人たちを呼び、彼らの前でもう一度私にくり返させて、私の言葉をみんなに聞かせました。こうした場面はすべて、バブ・ザウイラで起こったのであります。
すると奉行《ワーリー》は、盗賊に適用される法に従い、私の手を切るよう、太刀取りに命じました。太刀取りはすぐに私の右手を切り落としました。これを見ると、騎馬の男は私を憐れんで、奉行《ワーリー》に取りなして、もう一方の手は切らないようにと頼みました。奉行《ワーリー》はその特赦を許して、遠ざかってしまいました。その場にいた人たちは、私がおびただしい血を失って、ぐったりしているため、私を気の毒がって、元気づけるための飲み物を飲ませてくれました。騎馬の男はというと、彼は私に近づいて、くだんの財布をさし出し、それを私の手に握らせて、言いました、「あなたはれっきとした若者だ。泥棒稼業などふさわしくない。」次に、こうして私にむりに財布を受けとらせてから、私を残して立ち去りました。私もまた、遠ざかり、ハンケチで腕をくるんで、着物の袖のなかに隠しました。私はいま起こったことすべてのため、まっ青になり、みじめなていたらくと相なりました。
そして自分がどこに行くのかもよくわからぬまま、私は乙女の家の方角に向かいました。着くなり、ぐったりとして、寝床の上に身を投げました。乙女は私が色青ざめて銷沈しているのを見て、言いました、「どこがお悪いの。なぜそんなに顔色が変わって青ざめていらっしゃるの。」私は答えました、「頭がいたく、どうもぐあいが悪いのです。」この言葉に、彼女はたいそう心を痛めて言いました、「おおご主人さま、そんなふうに、私の心にやけどをさせないでくださいまし。どうかお坐りになって、少しこちらを向き、きょういったいどんなことがあったのか、おっしゃってください。お顔の上にいろいろなことが見えますもの。」けれども私は言いました、「お願いだから、返事をするのは勘弁しておくれ。」すると女は泣き出して言いました、「ええ、今はよくわかりました、もうわたくしはあなたに何もさしあげるものがなく、あなたはわたくしにあいて、疲れてしまいなすったことが。だってあなたはもうわたくしに対して、いつものようではないのですもの。」それから、泣きじゃくりながらさめざめと涙を流し、ときどき泣きやめては、問いをくりかえすのでしたが、私はそれに全然返事をせず、夜になるまでこんなふうでした。夜になると、食物が運ばれ、いつものように、ご馳走が出されましたが、私は用心して食べませんでした。食物を左手でとるのは恥ずかしいし、彼女にその理由をきかれては困るからです。そこで私は言いました、「今は全然食べたくないからね。」彼女は言いました、「わたくしちゃんと察しているのがおわかりでしょう。いったいきょうどんなことがあったのか、なぜそんなふうにやつれ悲しみ、心も精神も沈みきっていらっしゃるのか、お聞かせくださいまし。」そこで私もとうとう言いました、「やがて、少しずつゆっくり、事の次第を話してあげよう。」この言葉に、彼女はほっとした様子で、私に一杯の酒をさし出しながら、言いました、「さあ、あなた、つまらない思いは追い払っておしまいあそばせ。これはすべての憂いを払いのけてくれるもの。まあ、このお酒を召しあがって、それからご苦労の種を話してくださいませ。」私は答えました、「もしぜひ飲ませたいというのなら、あなた自身で、手ずから私に飲ませてください。」すると彼女は盃を私の唇に近づけて、静かにそれを傾けて、飲ませてくれました。それから改めて盃を満たして、私に差し出しました。そこで私はじっとこらえて、左手をのばして、その盃を受け取りました。けれども私は涙をとどめることができず、心の底から嗚咽《おえつ》にむせんでしまいました。
こうして私が泣くのを見ると、女のほうでももうたまらなくなって、私の頭を両手ではさんで、叫びました、「ねえ、お願いです、もう今度こそ、あなたの涙のわけを聞かせてくださいませ。あなたは私の心をやけどさせました。またどういう次第で、そんなふうに左手で盃をお受けになるのかも、聞かせてください。」私は答えました、「右手におできができたのだよ。」女は言いました、「ではそのおできを見せてくださいな、つぶしてあげますから。そうすればお楽になりますよ。」私は答えました、「まだつぶすには時期でない。これ以上せがまないでおくれ、私はこの手を人に見せまいと、かたく決心したのだから。」こういって私は盃をぐっと飲み干し、女が満たした盃を差し出すごとにあおりつづけ、忘却の母たる酔いに、正体がなくなるまで、そうしました。そしてその場に横になって、眠ってしまいました。
翌朝、眠りからさめると、もう朝飯の用意ができておりました。それというのは、皿の上に、煮た若鶏四羽と鶏のスープとぶどう酒がたくさんのせてありましたから。そして彼女はこれらすべてを私にすすめました。私は食べ、飲みました。それから別れを告げて、立ち去ろうと思ったら、女は私を引きとめて、言いました、「そうやってどこへおいでになるの。」私は答えました、「どこでもいいから行って、気晴らしをし、私を押しつぶし、心を押えつけている憂《うれ》いを、追い払おうと思うのです。」女は言いました、「いいえ、行かないでください。もう少しここにいらっしゃって。」そこで私が腰をおろすと、彼女は長いあいだじっと私を見つめてから、言いました、「わたくしの目よ、あなたの無分別はなんという無分別でしょう。わたくしを愛してくださったばかりに、お金をすっかり使わせてしまったのですね。それに、あなたの右手がなくなったのも、きっとわたくしのせいです、それは、察しがつきます。眠っていらっしゃるまに、あなたのご不幸がわかってしまいました。さて、アッラーにかけて、もうわたくしはどんなことがあっても、あなたから離れません。そればかりか、わたくしは今はあなたと正式に結婚したいと思います。」
そして彼女は猶予なく証人を呼びにやって、証人がくると彼らに言いました、「この若いかたとわたくしとの結婚の証人になってください。さっそくこのかたとの契約書をしたため、わたくしがこのかたから結納金を受け取ったことを、証明してください。」
そこで証人たちはわれわれの結婚契約書をしたためました。すると彼女は一同に言いました、「わたくしの有《もの》になっていて、ここにご覧のこの櫃《はこ》にはいっている全財宝と、わたくしの持っているものは残らず、ただ今から、この若いかたの持ち物になるということを、わたくしはあなたがた全部に証人になっていただきます。」証人たちはこれを証明し、彼女の申立てと私の承諾を書き留め、報酬を受け取ってから立ち去りました。
すると乙女は私の手をとって、箪笥のほうに連れてゆき、それを開き、ひとつの大きな箱を見せて、それをも同じくあけて、私に言いました、「この箱のなかに何があるか、ちょっとご覧ください。」見ると、その箱には、ひとつひとつが小さな包みになっているハンケチが、いっぱいつまっておりました。女は言いました、「これは全部あなたご自身の財産です、以前わたくしがあなたからいただいたものです。あなたが金貨五十ディナール入りのハンケチをくださるごとに、わたくしは念を入れて、それをたいせつにしまって、この箱のなかに隠しておいたのでございます。今はどうぞ改めてご自分の財産をお受け取りください。これをあなたのためにとっておいて、あなたの運命のなかに書いておいてくださったのは、アッラーです。きょう、アッラーはあなたをお守りくださって、お書きなされた事柄が成就するために、わたくしをお選びなされたのです。けれども、あなたが右手をなくしてしまったのも、やはりわたくしのためで、それはもうなんの疑いもございません。それでわたくしはとても、あなたの真心とわたくしの愛情にふさわしく、あなたにお報いすることはできません。たといわたくしが自分の魂を犠牲にしましても、十分とは申せず、やはりあなたのご損でございましょう。」次に言いそえました、「あなたの財産をご自分のものとなさいませ。」そこで私は新しい箱をひとつ買わせて、乙女の箱から次々に品物を取り出して、いちいちそのなかにしまいました。
そこで私は立ち上がって、乙女を腕に抱きしめました。乙女は私にこのうえなくやさしい言葉を言いつづけ、私が彼女のためにしたことにくらべれば、彼女は私のためにわずかのことしかしてさしあげられぬと、詫びつづけるのでした。それから、自分が今までしたこと全部に、さらにおまけをつけたいと、彼女は立ち上がって、自分の持ち物になっている高価な衣類とか、宝石とか、証券とか、土地家屋とか全部を、私の名に書き換え、それを自筆で封印した証書を作って、証人たちの前で、いたしました。
そしてその夜は、楽しみやそれに類したことどもにもかかわらず、女は自分ゆえに私の身に不幸が起こったと言って、心悲しく眠ったのでした。
そのとき以来、彼女は私のために嘆き、心を痛めることをやめず、とうとうひと月後には、衰弱の病に陥り、それが進み、重くなり、五十日後には、ついに息をひきとってしまったのでありました。
そこで私は、彼女のために葬儀の用意をし、自身で彼女を地に埋め、埋葬の儀を終了する全部の儀式を営ませました。そのあと、私は墓地からもどって、家にはいり、彼女のしてくれた遺贈と贈与を調べました。すると、いろいろの品々のなかでとくに、ごまの実を満たした大きな倉庫を、幾棟も残してくれたことがわかった。おおご主人よ、私が売却をお頼みしたのは、まさにそのごまなのです。これに対し、あなたはお骨折りにとても及ばぬ、わずかの手数料しか受け取ってくださらなかったが。
私がたびたびぶさたをし、さぞ不思議に思われたかもしれぬが、それは妻の残した全部のものを、整理しなければならなかったためのことであり、やっと今、どうやら集金も終わったところです。
されば、私があなたにさしあげたいと思う謝礼をば、なにとぞおことわりにならないでいただきたい。あなたはこうして私をお宅で手厚くもてなし、私にお食事を共にさせてくださったのですから、おあずかりくださった、あのごまの実の売上金全額を、ご受納くださればありがたい次第です。
私の身の上と、私が左手で食べるにいたった原因は、このようなものです。
――そこで私は、おお権勢高き王よ、その若者に申しました、「まことに、あなたは私に恩恵と好意のかぎりを尽くしてくださいます。」すると若者は答えました、「いや、そんなことはなんでもありません。さて今は、おおよい仲買人よ、あなたはひとつ私といっしょになって、私の国バグダードに来なさらぬか。ちょうど私はアレクサンドリヤとカイロの商品を大量に仕入れたところで、これをバグダードで転売して、大いにもうけようと思っているのです。だから私の旅の道連れとなり、仲間となって利益にあずかる気はありませんか。」私は答えました、「あなたのお望みは私の目の上にありまする。」次に私はわれわれの出発の日取りを、月末と定めました。
そのあいだ、私は自分の全所有物を、少しも損なく売り払うことに奔走しました。そしてそれで手に入れた金で、やはりいろいろ商品を仕入れました。そしてその若者とつれ立ってその故国バグダードに出発し、そこから、私たちは莫大な利益と別の商品を携えて、このお国、すなわち、おおもろもろの世紀の王よ、君のご領土に向かって、旅立ったのでございます。
その若者はと申しますれば、彼はすぐにこの地で商品を売って、ふたたびエジプトにむけ出発いたしました。私もあとを追って行こうとしていたところに、昨夜、せむし男とのこの事件が持ち上がったわけでございますが、これは私がお国について無知なるために起こったことで、御地《おんち》では、私は商用で旅する一介の異国の者にすぎないのでございます。
これが、おおもろもろの世紀の王よ、せむし男の話よりも、さらに世にも珍しいと存じまする話でございまする。
――けれども王は答えなさいました、「余はそうは思わぬ。されば余は、これよりただちに汝ら一同を絞り首にいたし、もって余の道化師、汝らの殺したかの憐れなせむし男の身に加えし、汝らの罪を罰するであろうぞ。」
[#この行1字下げ] ――ここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が近づくのを見て、つつましく、自分の物語を語るのをやめた。
[#地付き]けれども第二十七夜になると[#「けれども第二十七夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女は言った。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、シナの王さまが「余はこれより汝ら一同を絞り首にいたす」とおっしゃると、そのとき、御用係が進み出て、王の前に平伏して、申し上げました、「恐れながら君のお許しがござりますれば、私は過日私の身に起こった話で、このせむし男の話よりもいっそう驚くべく、いっそう不思議な話を、お話し申し上げまする。もしもお聞きのうえ、はたしてそのようにお考えあそばした節は、何とぞわれら一同をご容赦くださいまするよう。」するとシナの王さまはおっしゃいました、「述べてみよ。」そこで彼は言いました。
シナ王の御用係の談
おお、もろもろの世紀と当代の王よ、さればお聞きくださいませ。私は昨夜、法律の博士たちと、『高貴の書(11)』に通暁した学者たちの呼ばれている、ある婚礼の披露宴に招かれたのでございました。コーランの読誦が終わったとき、人々は卓布を広げ、料理を並べて、饗宴に必要なものを全部運んで来ました。ところが、卓布の上のいろいろの物のあいだにとくに、ロズバジャと申しまして、その基《もと》になっている米のぐあいがよろしく、それに味をつけるにらと香料との、分量がほどよくありさえすれば、たいそうおいしくいただける、名代のにら料理のひと皿がありました。そこでわれわれ招かれた者一同、非常な食欲でこれを食べ始めましたところ、私どものなかで一人だけが、なんとしても、このロズバジャの皿に手を触れることをがえんじないのでした。そして私どもが、せめてひと口でもいいから味わうようにと、たってすすめますと、その男は断じてそんなことはできないと誓うのです。そこで私どもはさらに再三、ぜひにとすすめましたが、その男は言いました、「どうぞお願いです、もうそんなふうにおすすめにならないでくだされ。かつて私は、不幸にして一度これを味わったばかりに、とんだ目にあわされたのです。」そして次の詩節を誦しました。
[#この行2字下げ] もし汝もはや汝の旧友に会うを欲せず、これを避けんと欲せば、いたずらに術策を弄して汝の時を失うことなかれ。すみやかに逃がれ去れよ。
そこで私どももそれ以上しいないことにいたしましたが、その男に尋ねました、「アッラーにかけて、こんなおいしいロズバジャを食べないその動機《いわれ》は、一体全体何ですか。」彼は答えました、「私はそれを食べたあとで、両手をソーダでもってつづけざまに四十度、灰《あく》でもって四十度、石鹸でもって四十度、都合百二十度洗うことができる場合でなければ、断じてロズバジャを食べないという誓いを立てたのです。」
そこで家の主人は召使どもに言いつけて、すぐさまその客の求める三つの品を、持ってこさせることにしました。するとその客は、私ども一同の食べているいっしょの大皿のほうに手を伸ばして、ぶるぶるふるえながら、おずおずと、そのロズバジャの料理を食べはじめました。私どもはこのさまを見て大いに驚いたのですが、彼の手を見たときには、さらに一段と驚き入りました。その手には親指が欠けていて、指が四本しかないのです。つまり、この客は四本の指だけで物を食べているのでした。そこで私どもは言いました、「おんみの上なるアッラーにかけて、いったいどうしてあなたの親指がなくなったのか、そのわけをお聞かせください。あなたは生れつきの片輪で、それはアッラーの御業《みわざ》にすぎないのですか。それとも何か災難にお会いになったのですか。」すると彼は答えました、「兄弟たちよ、まだまだこれだけではないのです。私には親指が一本ばかりか、二本ともないのです。というのは、左手にもやはり親指がありませんから。それに私は両足にも四本の指しかありません。まあご自身でご覧ください。」そして彼は今一方の手を見せ、両足を出して見せましたが、なるほどどちらの足にも、四本しか指がありません。そこで私どもの驚きはいっそう増して、彼に言いました、「もう私どもはこのうえがまんができません。そんなふうに、あなたに両手と両足の親指を失わせた理由《わけ》と、また、あなたに百二十度つづけて手を洗わせる動機《いわれ》とを、ぜひとも私どもに聞かせていただきたいものです。」すると彼は次のように語って、言いました。
されば、おお皆さまがた、私の父は大商人中の一人の大商人であって、のみならず、教王《カリフ》ハールーン・アル・ラシードの御代、バグダードの都の商人の中でも、最大の商人でさえありました。父は盃の中の酒、花の中の香、茎の上の花、歌妓《うたいめ》と女楽手、黒白の目とその持ち主たちをば、無上に好みました。そこで父が死んだとき、私には、一文の金ものこしてくれませんでした。というのは、父が全部使い果たしていたのです。だがなんといっても自分の父親のことですから、私は父の身分相応に埋葬を営み、追善の宴も催し、幾日も幾夜ものあいだ、喪に服しました。それをすましてから、私は父の物であった店を見に行って、あけてみますと、多少とも値打のあるものは何一つありません。それどころか、多額の負債をのこしていることがわかりました。そこで私は父の債権者に会いに行って、しばらく待ってもらうように頼み、できるかぎり彼らを安心させるようにしました。それから仕事に従事して売り買いをし、一方、あげた利益に従って、来る週も来る週も、負債を支払いました。こうして私はこれをつづけて、とうとう全部の負債の支払いをすませ、のみならず着々と利益をあげて、自分の初めの資本をふやしさえいたしました。
ところがある日のこと店に坐っていると、そこに、勇み立つひばり毛の牝らばの上に乗って、奇蹟の中の奇蹟のような一人の乙女、これぞまさしく全き愛にふさわしい乙女が、進んでくるのが見えました。前には一人の宦官が歩いて、うしろには、今一人宦官がついていました。そして乙女は、市場《スーク》の入口にらばをとどめて、地に降り、二人の宦官の中の一人を従えて、市場《スーク》にはいって来ました。するとその宦官は言うのでした、「おおご主人さま、お願いでございます、どうかそのように市場《スーク》におはいりになって、通行人にお姿を見せることなど、あそばさないでくださいまし。私どもの身にとんでもない災難をお招きなさりましょう。さあ、ここから出るといたしましょう。」そして乙女を制止しようと努めました。けれども乙女はその言葉にはろくに耳もかさず、市場《スーク》の店を次々に調べはじめましたが、私の店ほど、きちんと整ったきれいな店は見当たりませんでした。そこでその乙女は、相変わらず宦官を従えて、こちらに向かって来て、私の店に坐り、私に平安を祈りました。ところで私は、生まれてからかつて、これ以上優しい声も、これ以上快い言葉も、聞いたことがありませんでした。そしてその乙女は顔をあらわしました。そこでこの顔を見たのですが、ひと目見ただけで、もう私はこのうえなく思いが乱れ、心を奪われてしまいました。そして私はその顔から目を離すことができなくて、次の二節を誦しました。
[#ここから2字下げ]
山鳩の翼のごとくやわらかき面衣《ヴエール》のうちなる、佳《よ》き人に告げたまえ。
告げたまえ、われひとたびわが苦しみを思えば、死はいかばかりわが身を救うものならんと。
告げたまえ、今少し優しくあれと。かの人のため、われはおのれの静心《しずごころ》をばなげうてり、かの人の翼に近づかんため。
[#ここで字下げ終わり]
その乙女は私の詩句を聞くと、すぐに次の詩人の言葉で、私に答えてくれました。
[#ここから2字下げ]
わが心、君を愛して衰えぬ。さあれ、この心は、君ならぬほかの愛をば拒むなり。
わが眼《まなこ》、ゆくりなく他人《よそびと》のみめよきを認むることのありとても、今はそを悦ぶこともかのうまじ。
君が愛をばわが心より放たじとわれは誓えり。さあれわが心は悲しく、君が愛に渇してあり。
われはいつわりなき愛を見いだし、その盃に、飲みたり。何とても、われ愛を見いでしこの盃に、君は唇をぬらしたまわざりし……
[#ここで字下げ終わり]
次にその乙女は、私に言いました、「おお、お若い商人よ、何か美しい切地を見せていただけますか。」私は言いました、「おおご主人さま、あなたさまの奴隷は貧しい商人でございまして、あなたさまにふさわしいようなものは、何一つ持ち合わせておりません。どうかちょっとのあいだ、ごしんぼうなさって、お待ちくださいませ。と申しますのは、まだ早朝でございますゆえ、他の商人たちが店を開きません。ほどなく私自身出向いて、ご入用とおぼしき高価な切地を、すべて買いととのえてまいりましょう。」それから、私はその乙女と話を交わしはじめましたが、私はもう、助からぬおぼれた男でありました。
けれども他の商人たちが店を開いたとき、私は立ち上がって、注文の品々すべてを買いに外に出ました。私の買った物は全部私の勘定《つけ》にして、それは五千ドラクムの額に達しました。そして私は全部の品を宦官に渡しました。するとその乙女はすぐに立ち上がって、今一人の奴隷が、らばといっしょに待っている方角に向かって、遠ざかってしまいました。それで私のほうでも立ち上がって、恋に酔って、自宅に帰ってしまいました。やがて食事が出されましたが、私はほとんど手をつけませんでした。それというのも、私の思いはあの美貌の乙女のことでいっぱいだったからです。そして眠ろうと思ったときにも、どうしても寝つかれませんでした。
こういう状態で一週間おりましたが、一週間たつと、商人たちが私に代金の請求に来ました。しかし、私はまだ例の婦人から便りがなかったので、彼らに今すこし待って、さらに一週間貸しておいてくれるように、頼みました。すると一同も承知してくれました。はたして一週間たつと、その婦人が朝早く、牝らばに乗って姿を現わすのが見えました。今度は一人の従者と二人の宦官を連れていました。彼女は私に挨拶して、言いました、「おおご主人よ、どうもたいそうお払いが遅くなってすみませんでした。さあ、これがお代です。どうぞ両替屋(12)を呼んで、金貨を調べてくださいませ。」私が両替屋を呼んで来ますと、宦官の一人がこれに金子《かね》を渡し、両替屋に検査させると、りっぱなものでした。そこで私は代金を受け取って、それから、市場《スーク》が開いて、商人たちがそれぞれ自分の店に来るまで、その乙女といっしょに話しておりました。すると彼女は私に言いました、「わたくしはこのほか、まだこれこれしかじかの品がほしいのです。どうぞ買いととのえてください。」そこで私は頼まれた品全部を、金貨一千ディナール分を、自分の勘定《つけ》で、買いととのえて、それを渡しました。乙女はただ受け取っただけで、そのまま立ち去ってしまいました。このとき私はその姿が見えなくなってしまうと、心の中で言いました、「あの女のおれに対する気持は、どうもてんで合点がゆかぬ。四百ディナールの金子をおれのところに持って来て、今度はおれから一千ディナールの商品を持って行った。そして自分の手がかりも住所も残さずに、行ってしまった。しかしアッラーだけがひとり、人々の心の秘密を知りたもうのだ。」
こうして私はまるひと月のあいだ、せつない思いにいっぱいになっておりましたが、ひと月たつと、商人たちが代金を請求しに来て、あまり厳しく催促するので、私は彼らを納得させるために、近く自分の店も、店にあるものも、自分の家も、全財産も、ことごとく売り払うからと、言わざるをえない羽目になりました。こうして私は破産に瀕してしまって、いたく憂えて坐っておりますと、そのとき不意に、その乙女が市場《スーク》の上手《かみて》に姿を現わし、市場《スーク》の門をくぐって、私のほうにやって来るのが見えました。私はすぐさま自分の疑いも心配も、吹っとんでしまうのを覚えて、女が姿を見せないあいだ、ずっと陥っていた不幸な状態をも、忘れてしまったのでした。そして彼女は私に近づいて、あの心を動かす声で、私に言いました、「貨幣秤を持って来て、わたくしの持って来たお金をはかってください。」そして実際に、私が彼女のためにしてあげた買い物の代金として、貸してあるだけのもの全部と、なお余分のものまで、渡してくれました。
それから彼女は私のかたわらに坐って、たいそう親しげに打ちとけて、話しはじめました。私はもう嬉しさに死にそうになってしまいました。最後に彼女は言いました、「あなたは独身《おひとり》ですか、それとも奥さまがおありですか。」そこで私は言いました、「アッラーにかけて、私には正妻もなければ、妾もありません。」そしてこう言いながら、私は泣いてしまいました。すると彼女は言いました、「何をお泣きになるのですの。」私は答えました、「ちょっと心に思い浮かんだことがございましたので。」それから私は従者のほうを向いて、これに金貨数ディナールをさし出して、この件につき、乙女と私とのあいだの仲立ちをしてくれるように、頼みました。すると従者は笑い出して、私に言いました、「だがあのかたのほうでも、あなたにまいっていますよ。切地なんか少しもほしかったわけじゃないんだけれど、ただあなたと口をきいて、あなたに思いのたけを言いたいばかりに、あんなものをお買いになったのです。だから、あなたはあのかたに、なんでも言ってみなさるがよい。そうしたところで,あのかたはきっとなんのとがめ立てもせず、あなたを失望させるようなことは、よもやありますまい。」
ところが彼女は、いよいよ帰ろうというまぎわに、私がお伴の従者に金貨をさし出しているのを見つけました。するとふたたび店の中にもどって来て、微笑しながら、腰をおろしました。そこで私は彼女に言いました、「あなたさまの奴隷のお願いの筋をとくにお聞きくださり、彼があなたさまに申し上げたい事柄を、あらかじめお許しくださいまし。」それから私は、自分の心のたけを語りました。すると彼女はいやそうな顔色を見せずに、私に申しました、「この召使がやがて私の気持のご返事をお伝えします。あなたは、この召使がなさいと言うこと全部を、まちがいなくしてください。」それから彼女は立ち上がって、行ってしまいました。
そこで私は商人たちにそれぞれの代金と、またそれ相当の利益を渡しに行きました。私のほうは、女の姿が見えなくなった刹那《せつな》から、毎夜ずっと一睡もしませんでした。ところが、四、五日たつと、とうとう例の従者が私を訪ねて来ました。私は慇懃丁重にこれを迎えて、どうか消息を伝えてくれるようにと頼みました。彼は言いました、「ここしばらくあのかたはご病気でした。」そこで私は言いました、「早く、少しばかり詳しくお知らせください。」彼は言いました、「あの乙女は、ハールーン・アル・ラシードの寵妃《ちようひ》、われらのご主人ゾバイダ(13)さまの御手で育てられて、その侍女の一人になられたのです。そしてわれらのご主人ゾバイダさまは、まるでご自分のほんとうの娘のようにおかわいがりになり、あのかたのことなら、どんなことでもお聞きとどけになります。ところで先だって、あの若いかたは、そのご主人にこう申し上げて、外出のお許しを求めた、『わたくしの魂は、しばらく散歩をして、それから御殿にもどりとう存じます。』そしてお許しが与えられました。その日以来、あのかたはたえず町に出ては、御殿にもどっておりましたが、度重なるうちに、ついには買い物が非常におじょうずになって、こうしてわれらのご主人ゾバイダさまの、お買い物係になりました。ちょうどそのとき、あのかたはあなたに会って、そしてご主人にあなたのことを打ち明けたのでした。するとご主人は申された、『わたしが自分でその若者を見ないうちは、望みをかなえてあげるわけにゆきません。もしその人が、長所の点で、あなたに似つかわしいということを見届けたら、あなたをその男といっしょにしてあげましょう。』それで、今私があなたに会いに来たのは、さしあたってのわれわれの目的は、まずあなたを宮殿の中に入れることだということを、お伝えに来たわけです。そこでもし私たちが、だれにも感づかれずに、あなたを宮殿の中にはいらせることができたら、あなたはあの方と結婚できるものと思ってまちがいない。だが、万一、事が露顕したら、あなたはかならず、首をはねられるにちがいない。さあ、どうしますか。」私は答えました、「よろしい、ごいっしょにまいりましょう。つまりあなたは、その計画を変えるにはおよびません。」すると従者は私に言いました、「夜になったら、セット・ゾバイダ(14)がティグリス河のほとりに建てられた回教寺院《マスジツト》に出かけて、その中にはいり、礼拝をしながら、そこで待っていらっしゃい。」そこで私は答えました、「かしこまりました、私は愛し、敬意を表します。」
夕方になったとき、私はその回教寺院《マスジツト》に行って、中にはいり、礼拝の姿勢をして、そこでひと晩じゅう過ごしました。夜が明けそめると、河に臨んだ窓から、数人の奴隷が小舟に乗ってやって来るのが見えました。彼らはいっしょにいくつものあき箱を持って来て、それを寺院《マスジツト》の中におろし、そして自分たちの小舟のほうに帰って行きました。けれどもその中の一人は、他の人たちのあとに残りました。よく見ると、それは私の仲立ちをしてくれた男であることがわかりました。そしてしばらくたつと、私は私の友、ゾバイダ妃の侍女が、寺院《マスジツト》に上って来て、私のほうに来るのを見ました。
彼女が近づいて来ると、私は急いでそちらに行って、腕に抱こうとしました。けれども彼女は、いそいで私をあき箱のほうに連れてゆき、宦官の一人に合図をすると、その宦官は私を抱きあげ、さからう暇もなく、そのあき箱の一つに私を入れてしまいました。そして、片方の目をあけ片方の目を閉じるまに、もう私は教王《カリフ》の宮殿の境内におりました。
すると人々は私を箱から出して、そして、確かに五万ドラクムはすると思われる衣類や着物を、持って来ました。次に私は、いずれも処女の乳房を持った、二十人の別な白人奴隷を見ました。そのまん中に、セット・ゾバイダがいらっしゃいましたが、王妃はおへそから下、お身につけたかずかずのきらびやかな品々すべてのために、お身動きもならずいらっしゃいました。
お后《きさき》がすぐ近くにおいでになると、侍女たちはその御前に、二列に並びました。そこで私は進み出て、御手のあいだの床《ゆか》に接吻しました。すると私に坐るように合図をなされましたので、私は御手のあいだに坐りました。すると私の商売や、両親や、血統などについて、種々ご下問になりました。私はお尋ねを受けたことすべてについて、いちいち適当にお答え申しました。すると非常にご満足になって、おっしゃいました、「ワッラーヒ、これで今までこの娘を育ててきたかいがありました、こんな夫を見つけてやれたのですから。」それから私に仰せられました、「よろしいか、私たちはこの侍女をば、わが髄の子そのものと等しなみに思っているのです。これはアッラーとそちの前で、従順で優しい妻となることでありましょうぞ。」そこで私は身をかがめて床《ゆか》に接吻をし、そしてこの侍女と結婚することを承諾いたしました。
するとセット・ゾバイダは、私に十日間、宮殿にとどまるように仰せられました。そこで私はその十日のあいだとどまっていましたが、そのあいだ、あの若い娘がどうなったのか、かいもくわかりませんでした。そして私の食事のときには、別の若い侍女たちが、昼飯や晩飯を運んで来て、かしずいてくれるのでした。
結婚の準備に必要な期間が過ぎると、セット・ゾバイダは、信徒の長《おさ》に、御殿の侍女をひとりとつがせるお許しをたまわるよう、お願いなさいますと、教王《カリフ》はこれをお許しになって、その侍女に金貨一万ディナールを賜わりました。そこでセット・ゾバイダは、法官《カーデイ》と証人たちを呼び寄せられ、彼らは結婚の契約書をしたためました。それを終えると、祝宴が開かれました。あらゆる種類の菓子類や慣例のご馳走をこしらえて、一同が食べ、一同が飲みました。そして皿に盛ったご馳走を町じゅうに配りました。こうして饗宴はまる十日間つづけられました。そのときになってはじめて、例の若い乙女を浴場《ハンマーム》に連れて行って、慣例どおり、私に引き合わせる準備をすることになりました。
そのあいだに、私と私の招客のために卓布が広げられて、いろいろと結構なご馳走が持ち運ばれましたが、その中で特に、雛鳥の丸焼きや、捏粉菓子や、おいしい挽き肉料理や、麝香《じやこう》とばら水とで香りをつけた砂糖菓子などのまん中に、世にもっとも落ち着いた心の人をも、逆上させてしまうことのできるような、ロズバジャのひと皿があったのです。そして私は卓布の前に坐るやいなや、アッラーにかけて、いきなりこのロズバジャに飛びついて、腹いっぱいこれを食べずにはいられませんでした。それから私は手をふきました。
食べ終えると、私は立ち上がって、夜までじっとしていました。夜になると、人々はたいまつに火をつけて、後宮《ハーレム》に、歌妓《うたいめ》と女楽手たちを呼び入れました。それから、花嫁に衣裳を着せはじめました。そして歌と楽器の吐息とのさなかで、七たび、七種の別々の衣裳を着せました。御殿は招かれた婦人たちの群れで、くまなくいっぱいになりました。いよいよこの儀式も終わって、私が別室にはいりますと、やがて新婦が連れて来られました。そして侍女たちはその美々しい着物を全部脱がせて、出て行きました。
こうして花嫁がまる裸になったのを見たとき、そして私たちが寝床の上にただ二人きりになったとき、私は彼女を両腕に抱き締めましたが、私は悦びのうちに、彼女がほんとうに自分のものになっているとは、とても信じられませんでした。ところが、まさにこの瞬間、彼女は私がにらのはいったロズバジャを食べたほうの手の臭《にお》いをかぎ、この臭いをかぎつけると、ひと声大きな叫びを立てたのでした。
するとすぐにわれわれのほうに、あちこちから侍女が駆けつけて来ましたが、一方私はただ驚きに身をふるわせるばかりで、こうしたいっさいのわけがいったい何なのか、とんとわからずにいました。すると侍女たちは言いました、「おお、お姉さま、どうなさいましたか。」彼女は言いました、「皆さまの上なるアッラーにかけて、早くこのばかな男を追い払ってください。行儀のよい男とばかり思っていたのに。」そこで私は言いました、「一体全体どうして、私をばかだの気違いだのと言うのですか。」彼女は言いました、「あなたはどうかしています。アッラーにかけて、あなたのあさはかさとふるまいゆえ、こうなってはもうあなたなんかに用はありません。」こう言って、彼女はかたわらにあった鞭を取り上げて、私の背中を激しく打ちすえましたが、それがあまり強く、あまり長いあいだだったので、鞭を受けているうちに、私はすっかり気を失ってしまいました。すると彼女は手をとめて、侍女たちに言いつけました、「この男を引っ立てて、この都の総督のところに連れて行き、にらを食べるのに使ったほうの手を、切り落としてもらっておいで。」けれどもこの言葉を聞いたとき、私は正気に返って、叫びました、「全能のアッラーのほかには頼りも力もない。にらを食べたばかりに、この手を切り落とされなければならぬのか。いったいこんなことってあるものだろうか。」すると侍女たちは、彼女に私を取りなしはじめて、言いました、「おお、お姉さま、今度だけは、このかたのしたことをとがめないでください。お願いですから、許してあげてくださいまし。」すると彼女は言いました、「では今度だけは、手を切り落とさせることはやめましょう。けれどもやはり、手足のどこかを切り落としてやらなければ。」そして出て行って、私をただひとり残しました。
それから私は十日のあいだ、その女の姿を見ずに、こうしてひとりでおりました。けれどもその十日が過ぎると、女は私に会いに来て、言いました、「おお、このまっ黒々の顔の持ち主よ(15)、結婚の初夜に、にらなどたべたところを見ると、おまえの目には、わたしはよほどつまらない女に見えるのね。」それから侍女たちに叫びかけて、言いました、「この男の両腕と両足を縛りなさい。」すると皆で私の両手と両足を縛りました。そこで女は鋭い刃のかみそりを取りあげると、私の両手と両足の親指を、二本とも切り落としてしまいました。こういう次第で、おお皆さまよ、ご覧のとおり、私はこうして、手にも足にも親指がないのでございます。
さて私のほうは、その場に悶絶してしまいました。するとその女は、私の創口に何か香りのする草根の粉をふりかけますと、血はとまりました。そのときのことです、私は魂の中で、次には、声高く、こう言いました、「今後私は食後に、灰《あく》でもって四十度、ソーダでもって四十度、石鹸でもって四十度、両手を洗わないでは、けっしてロズバジャを食うまい。」この言葉を聞くと、女はただいま私のした約束に対して、誓いを立てさせました。すなわち、今後はただいま私の言ったことを正確に果たさなければ、けっしてロズバジャを食べないという約束です。
そのために、ここにお集まりの皆さまがたが、この卓布の上にあるロズバジャを食べよとおすすめになったとき、私は色を変え、顔色が黄色くなり、心の中で言ったのでした、「これこそ親指を失う原因《もと》となった、あのロズバジャだな。」そして皆さまがぜひとも食べよと強《た》っておっしゃったとき、私は自分の誓いの手前、あのようなことをしないわけにゆかなかった次第でした。
――「そのとき私は、おお、もろもろの世紀の王よ」と、この物語をしていた御用係はつづけたのでございます。「私は満座の者が耳を傾けているときに、そのバグダードの若い商人に、言ったのでありました、『だがそれからあと、あなたの奥さまとあなたとは、いったいどういうことになりましたか』と。」彼は言いました。
私が女の前で誓いを立てますと、女の心は私に対してしずまって、そしてついには私を許してくれました。そこで私は、女を連れて行っていっしょに寝ました。アッラーにかけて、私は失った時を取りもどし、苦しみも忘れてしまいました。こうして私たちはその後長いあいだ、このような状態でいっしょになっておりました。それから、彼女は私に言いました、「この教王《カリフ》の宮中では、私とあなたとのあいだに起こったことを知っている者は、だれもいないということを、よく心得ておかねばなりません。あなたを除いては、これまでかつてだれ一人、この御殿の中にもぐり入ることはできませんでした。そしてあなたがここにはいれたというのも、ひとえにエル・サイエダ(16)・ゾバイダさまの、ご親切なご配慮のおかげなのです。」それから私に金貨五万ディナールを渡して、言いました、「このお金を全部持って行って、私たち二人のために、美しい広い屋敷を買っておいてください。そこでごいっしょに住むことにしましょう。」
そこで私は外に出て、豪奢な家を一軒求めました。そして妻の財宝全部、贈られた品物全部、貴重な品々や、織物や、美しい家具家財や、その他あらゆる美しい物を皆、そこに運びました。そしてこれらすべてをば、こうして私の買ったその家に入れました。そして私たちはそこで、楽しみと愉快を極めていっしょに暮らしました。
ところが、一年たちますと、アッラーのおぼしめしによって、妻は亡くなりました。そして私はもう他の女を迎えずに、旅をしようと思い立ちました。そこで自分の財産全部を売り払って、バグダードを出ました。かくて自分のあり金全部を携えて、旅につき、とうとうこの都にたどり着いたのでございます。
――「これが、おお当代の王よ」と御用係はつづけたのでございます。「バグダードの若い商人が、私に語った物語でございます。そこで、この家《や》に招かれたわれわれ客一同は、さらに食べつづけ、それから立ち去ったのでございました。
そしてちょうどその夜私が外に出たときに、夜間に、あのせむし男との事件が、私の身に降りかかったのでありました。そしてそのとき、起こったようなことが、起こったのでございます。
これが私の物語でございます。けだしこの話は、せむし男と私どもとの事件よりも、さらにいっそう驚くべきものであると、私は確信いたす次第であります。
ワサラーム(17)。」
――するとシナの王さまは申されました、「汝はまちがっておるぞ。その話はせむし男の事件よりも、少しも不可思議ではない。それどころか、せむし男の事件はそのいっさいよりも、はるかに驚くべきものじゃ。さればもはや遅疑するところはない。余は汝ら一同を、最後の一人まで、磔刑《はりつけ》にいたすであろうぞ。」
けれどもこのとき、ユダヤ人の医者が進み出て、帝王《スルターン》の御手のあいだの床《ゆか》に接吻して申しました、「おお当代の王よ、私はこれより、今度こそはまちがいなく、かつてお耳になされたいっさいよりも、またせむし男の事件そのものよりも、はるかに世にもまれなる物語を、お話し申し上げるでござりましょう。」するとシナの王さまは仰せられました、「汝の持てるところをいだせ、このうえ猶予は相ならぬからな。」
するとユダヤ人の医者は言いました。
ユダヤ人の医者の談
私の若いころ、わが身に起こったもっとも世にもまれなる事柄とは、まさしく、皆さまがたのこれよりお聞きなさるところでございます、おお優雅満てるご主人さまがた。
そのころ私はダマスの町で、医学はじめもろもろの学問を修めておりました。そして自分の職業を十分に習得したとき、私は開業して、生活《たつき》の道を立てはじめたのでございました。
ところが、日々の中のある日、ダマスの総督のお屋敷の奴隷が、私のところに来て、同行してくれと申し、私を総督のお屋敷に案内しました。行ってみると、大広間のまん中に、黄金の薄板を張った大理石の寝台がありました。その寝台の上には、一人の病気の、アーダムの子が寝ていました。それはまことに、当代の世界に、その比を見られないほどの美しい若者でした。そこで私はその枕もとに行って、すみやかな回復と健康を祈りました。けれども彼はただ目で合図をして、答えただけでした。私は彼に言いました、「殿よ、お手をお見せください。」すると彼は左手を出しましたが、これには私も非常に驚いて、心の中でひとり言を言いました、「アッラー、なんというあきれたことだ。この若者はたいそう端正な様子をしているし、身分も非常に高そうだ。それなのに、てんで礼儀をわきまえていない。」けれどもともかくも脈をとって、ばら水を基《もと》にした薬の処方を書いてやりました。そしてそれから十日のあいだ、毎日診察に行きましたが、十日たつと体力も回復して、平生のように起き上がることができるようになりました。そこで私は、浴場《ハンマーム》に行って沐浴《ゆあみ》をした上で、自宅に帰って休養するように命じました。
するとダマスの総督は、私に謝意を表するために、私に非常にみごとな誉れの衣を着せ、そして私を自分の侍医に任じ、またダマスの病院(18)の医師に任命してくれました。例の若者は、病中ずっと左の手を出しつづけていましたが、彼は私に浴場《ハンマーム》まで同行してくれるようにと、頼みました。浴場《ハンマーム》はあらかじめ全部のお客の入場をことわって、彼一人のために、特別に用意してありました。
われわれが浴場《ハンマーム》に着きますと、下男たちが若者に近よって、着物を脱ぐのに手を貸し、その着物を持って行って、他の清潔な新しい着物を出しました。ひとたび裸になってみると、私はその若者には右手がないことを認めました。これを見ると、私は極度に驚いて心を痛めました。だが、そのうえ彼の全身に鞭の痕を見たときには、私の驚きはさらに増しました。するとその若者は、私のほうに向いて言いました、「おお世紀の国手よ、私がこんなありさまをしているのを驚いてくださるな、まもなくあなたに、この原因をお話しするつもりでいますから。あなたはまことに世にもまれな話を、お聞きになることでしょう。しかしそのためには、われわれが浴場《ハンマーム》から出てしまうまで、待ってください。」
浴場《ハンマーム》を出てから、私たちは屋敷に着いて、そこでいろいろ話をしながら、坐って休息し、それから食べました。すると若者は私に言いました、「上の部屋にあがるほうが、よろしくはございませんか。」私は言いました、「いかにもさよう。」すると彼は家僕に命じて、われわれのために羊肉を串焼きにして、それから上の部屋に持って来るように言いつけ、私たち自身も上にあがりました。奴隷たちはほどなく、羊のあぶり肉と、またあらゆる種類の果物を持ってまいりました。そして私たちは食べはじめましたが、そのあいだ、彼はいつも左手を使っていました。そこで私は言いました、「さあ、では私にそのお話を聞かせてください。」彼は私に答えました。「おお世紀の国手よ、ではこれからお話し申しましょう。さればお聞きください。」
されば、私はモースルの町に生まれた者でございまして、私の一家は、町でももっとも有力な家柄の一つに数えられております。父は、祖父の死後のこされた十人の子供の一人で、兄弟の中の長男でした。祖父の亡くなったときには、父も全部の叔父も皆、すでに妻をめとっていました。けれどもただ父だけに、私という一人の子供があったので、叔父たちには、だれ一人子供がありませんでした。それで私は長ずるにしたがって、全部の叔父の寵愛を集め、叔父たちは皆私を愛し、私を眺めてはよろこんでおりました。
ある日のこと、私が父と共に、金曜日の礼拝をするために、モースルの大|回教寺院《マスジツト》にいたときに、礼拝が終わると、他の人々は皆引き取って、ただ父と、やはり来あわせていた叔父たちとだけになったのでした。父や叔父はみんな大きなむしろの上に坐り、私もいっしょになって坐りました。そして一同はよもやまの話をしはじめましたが、話はたまたま、旅行と外国や遠方の大都会などの驚異に及びました。けれども人々の口にのぼったのは、とりわけカイロの町とエジプトのことです。そして叔父たちはこもごも、かつてエジプトを訪れた旅行者たちのおもしろい話を、いろいろ私たちに伝えたのでしたが、それは皆、地上にこれ以上美しい国はなく、ナイル河ほどすばらしい河はないということでした。まったく、詩人たちがこの国とそのナイル河とを歌ったのは、無理からぬことでした。こう叫んだ詩人は、確かにもっともです。
[#この行2字下げ] アッラーにかけて、われは汝にせつに乞う。わが故里《ふるさと》の河、わが故里のナイルに伝えよ、この地にありてわが渇はいゆることあたわず、この地にありてユーフラテスの水は、わが覚ゆる渇をいやすことあたわずと。
そこで叔父たちは、エジプトとその河の驚異をいろいろとあげはじめましたが、それが非常に雄弁な、非常に熱のこもった話だったので、叔父たちが話をやめて、それぞれ自宅に帰ったときには、私は感心しきって、すっかり物思いにふけってしまったのでした。私の心は、このうるわしい国について、今しがた聞いたこれらいっさいの事柄の快い思い出から、もう離れられなくなってしまいました。家に帰ってからも、夜通し目を閉じることができないで、食欲を失い、飲食も拒んだのでありました。
こうしているうちに、その数日後、私は叔父たちがエジプト旅行の支度をしたということを聞いて、さっそく、父に私を叔父たちといっしょに旅にやってくれるように頼みはじめ、涙を流してあくまでもせがんだので、父もついに承諾して、そのうえ、もうかるような商品をいろいろ買いととのえてまでくれました。しかしながら、父は叔父たちに言い含めて、私をエジプトまでは連れて行かず、途中のダマスに残して、そこで私の商品の利益をあげさせてくれるようにと頼んだのでした。そこで私は父にいとまを告げ、叔父たちの一行に加わって、一同そろってモースルを去って、出発しました。
こうしてわれわれはアレプまで旅をして、その地に数日とどまり、そこからダマスに向かって道をつづけ、ほどなくそこに着きました。
われわれはこのダマスの都が、多くの庭園や、流れや、果樹や、鳥のただなかに、うずもれた場所であるのを見ました。われわれは隊商宿《カーン》の一つに宿をとりました。そして叔父たちは、自分たちのモースルの商品を売り、カイロで売るためのダマスの商品を仕入れるまで、ダマスに滞在しました。また私の商品も売ってくれましたが、それは非常な利をあげ、商品一ドラクムについて、銀貨五ドラクムをもうけたほどでした。次に叔父たちは、私をひとりダマスに残して、エジプトに向かって立ちました。
さて私のほうはダマスに住み続けて、そこですばらしい家を借りましたが、それは、人間の言葉のどんな讃め言葉も及ばないような家でした。それは月に金貨二ディナールもしました。だがそればかりではありません。私はふんだんに金子《かね》をつかい、あらゆる欲望を満たして暮らし、どんな料理も、どんな種類の飲み物にも、不自由せずに、生活しはじめました。そしてこれは、とうとう自分のあり金全部を使い果たしてしまうまで、そういうふうにつづきました。
こうしているうちに、ある日、私が家の門口に坐って風にあたっていると、どこから来たのか、一人のぜいたくな身なりをした、私が生まれてから見たすべてをしのぐ優美さの乙女が、私に近づいて来るのを見ました。私はいそいで立ちあがって、私の宅にお立ち寄り願えればと招じました。その女は別に遠慮もしないで、愛想よく敷居をまたいで、内にはいりました。そこで私はうしろの戸をしめて、悦び勇んで彼女を両手で抱きあげ、大広間に連れて行きました。そこで彼女は顔を現わし、大面衣《イザール》を取り去って、そのすべての美しさのうちに現われ出ました。まったくうっとりとするような女で、私はもうすっかり恋に夢中になってしまいました。
そこで私は、すぐに食膳をととのえるのに奔走することを怠らず、滋味あふれる料理や、選《え》りぬきの果物や、その他こうした際に私のなすべきところにかなうすべてのものを、卓布の上に盛りました。そして私たちは食べたり戯れたりしはじめ、次には飲みはじめ、二人ともすっかり酔ってしまうほど飲みました。そのとき、私はこの女を手に入れました。そして私がこの女といっしょに朝まで過ごした夜は、確かにもっとも祝福された夜の中に数えられるでしょう。
翌日、私は惜しみなく金子《かね》をやるつもりで、女に金貨十ディナールをさし出しました。ところが女はそれを拒んで、私からは何であろうと、断じて受け取ることはできないと誓うのでした。それから私に言いました、「それに、愛する人よ、私は三日たったら、夕方またあなたに会いにまいりましょう。ですからきっと待っていてくださいまし。それで、なにしろ私のほうからあなたのところに押しかけるのですから、そのため、ついえをおかけするのはいやです。ですから、私からあなたにお金をさしあげて、きょうのようなご馳走の用意をしておいていただくことにいたしましょう。」こう言って、女は私に金貨十ディナールをさし出して、無理に受け取らせました。それから私に別れを告げて、私のすべての分別をいっしょに持ち去りながら、行ってしまいました。
さて、三日たつと、女は約束どおり、ふたたび会いに来ましたが、今度は最初のときよりも、さらにぜいたくな身なりをしていました。私のほうでも、あらかじめ必要なものをすっかりととのえておき、まったく金に糸目をつけませんでした。そこで私たちは、この前のときのように食べはじめ、飲みはじめ、もちろん二人でしたことをいっしょにするのを欠かさず、こうして朝までいました。するとそのとき、女はこう言うのです、「わが愛するご主人よ、あなたはほんとうにわたくしを美しいとお思いになりますか。」私は答えました、「そりゃ、そうです、アッラーにかけて。」女は言いました、「それでは安心してお願いしますけれど、今度はここに、私よりももっと美しく、もっと若い一人の乙女を連れて来て、私たちといっしょに楽しませてあげ、皆で笑ったり遊んだりしてよろしゅうございますか。というのは、その女《ひと》自身のほうから、ぜひいっしょに連れて行ってもらって、皆でおもしろく遊び、私たち三人で騒ぎ散らしたいと言って頼まれましたの。」そこで私は二つ返事で承知しました。彼女は今度は金貨二十ディナールを私に渡し、抜かりなく必要なものすべてを準備して、自分とその連れの乙女とが来たら、十分にもてなしてくれるように頼みました。それから私に別れを告げて、立ち去りました。
そこで私は四日目になると、いつものように、またことにきょうは新客を十分にもてなさなければならないというので、すべてをたっぷりととのえておくことを怠りませんでした。そして日が没したと思うと、私はいつもの友が、今一人、大面衣《イザール》でくるまれた女を連れてやって来るのを見ました。二人は中にはいって、腰をおろしました。私は悦び勇んで立ち上がり、燈火《ともしび》をつけ、ひたすら二人の言うがままに従いました。すると二人は面衣《ヴエール》を取りましたので、私はこの新来の若い女をつくづく見ることができました。アッラー、アッラー、その女は満月の月のようでした。そこで私はまめまめしく二人に給仕をして、料理と飲み物を満たした皿を、いくつも持って来ました。そして二人は飲んだり食べたりし始めました。私はこのあいだじゅう、新しい若い女を抱きしめては、その杯を満たし、この女といっしょに飲みました。ところが、これは最初の乙女をねたませずにはおかなかったのですが、彼女は少しもそんな気ぶりを見せず、こんなことさえ言いました、「アッラーにかけて、この若い女《ひと》はほんとうに気持のいいひとです。それにあなただって、この女《ひと》のほうが私よりかずっといいとお思いになるでしょう。」私は無邪気に答えました、「まったくそのとおりですね。」彼女は私に言いました、「じゃこの女《ひと》をお連れになって、いっしょにおやすみなさいな。そうしてくだされば私も嬉しゅうございます。」私は答えました、「仰せとあらば、つつしんでこれを頭の上と目の中に置きましょう。」すると彼女は立ち上がって、自分で私たちの床の支度をして、そこに私たちを引っ張って行きました。そこで私はすぐに、その新しい友に寄りそって横たわり、そして朝まで彼女をわが有《もの》といたしました。
ところが、目が覚めてみると、私は自分の片手が血だらけになっているのを見いだしました。それは確かに現実《うつつ》なのです。もう日も高く上っているので、私はまだ眠っている乙女を起こそうと思い、軽くその頭にさわりました。するとすぐさま、その頭は胴を離れて、地上に転がり落ちてしまいました。
最初の友については、もうその跡も匂いもありませんでした。
どう心を定めてよいやらわからず、私はひととき思いめぐらして、それから決心して、起き上がって着物を脱ぎ、ちょうど自分たちのいる部屋の中に、穴をひとつ掘ることにしました。そこで大理石の敷石を起こして、つるはしをふるいはじめ、からだがはいるくらいの大きさの穴をうがって、すぐさま死体を埋めました。次にその穴に土を盛って、以前と同じぐあいに、大理石の敷石を並べました。
これがすむと、私は着物を着て、まだ残っているあり金全部を携え、外に出て家主に会いに行って、さらに一年分の家賃を前払いした上で、言いました、「私はこれからエジプトに行って、あちらで私を待っている叔父どもに、会わなければならないことになりました。」そして頭のほうが足よりも先になって、出発しました。
カイロに着いてみると、叔父たちはそこにいて、私を見ると非常に悦び、どうしてエジプトに来る気になったのか尋ねました。私は答えました、「それはただ、たいへん叔父さまがたにお会いしたくなったのと、残りの金子《かね》を、ダマスで使ってしまいはしないかと、心配したものですから。」すると叔父たちは、彼らといっしょにとどまるように誘いましたので、私も承知しました。こうして私はまる一年のあいだ、楽しんだり、飲んだり、食ったり、町のおもしろい物を見物したり、ナイル河を探勝したり、あらゆる仕方で享楽して、叔父たちと共に暮らしました。不幸にして、その時が過ぎると、叔父たちは、自分の商品を売って利をあげてしまったので、今はモースルにもどろうと思い立ちました。だが私はそこにいっしょにもどる気は全然なかったので、彼らを避けて姿を隠してしまいました。そこで叔父たちはこう思いながら、自分らだけで出発しました、「甥はダマスの町をよく知っているから、おおかた住居の用意でもするつもりで、われわれよりもひと足先に、ダマスに行ったのだろう。」
彼らが立ってしまうと、私はふたたび自分の金子《かね》を使い、減らしはじめて、こうしてさらに三年のあいだカイロにいました。そして毎年、私はダマスの家主のところに、自分の家の家賃を、きちんきちんと送りました。この三年が過ぎると、もうようやく旅費だけぐらいしか残金がなくなったし、かたわらすることもなく、退屈していたということもあって、ふたたびダマスにもどろうと決心しました。
そこで出発してダマスに着き、すぐに自分の家に行きまして、門をくぐったと思うと、家主が非常に悦んで私を迎え、歓迎の挨拶をして私の家の鍵を渡し、錠前がその後いまだに手を触れられず、ずっと私の印璽のついた封印がはってあるままなのを、見せてくれました。実際、はいって見ますと、いっさいが私のしておいたのと、寸分違わないありさまでした。
私のした最初のことといえば、ただちに床《ゆか》を洗って、嫉妬深い友に殺された若い女の血痕を、きれいに消してしまうことでした。それがすむと、やっと落ち着いて、私は旅の疲れを休めようと、寝床のほうに行きました。そして寝床を整えようとして蒲団をあげると、その蒲団の下に、申し分のないみごとな真珠が、間隔を置いて三列につらなっている、黄金の頸飾りがありました。これはまさにあの若い女の頸飾りで、われわれの嬉戯の夜、枕の下に置かれたものでした。そのときを思い起こして、私は哀惜の涙を流し、あの乙女の死をいたみはじめました。それからその頸飾りを、たいせつに自分の着物の裏に隠しました。
自宅で三日休息してのち、私は市場《スーク》に出かけて行って何か仕事を探し、また旧知の人々に会おうと思い立ちました。市場《スーク》に着くと、私は悪魔《シヤイターン》に誘惑されその誘惑に屈するべく、「天運」の命令によって書き記《しる》されていたのです。なぜなら、あらゆる天命は成就せざるをえないからです。はたして、私はふと、その黄金と真珠の頸飾りを売り払って、始末してしまおうという気持に、誘われたのでありました。そこで私はそれを着物の裏から引き出して、市場《スーク》のいちばん腕利きの仲買人に見せました。仲買人は店に腰をおろすように招じて、市場《スーク》がにぎわってくるとすぐに、自身でその頸飾りを携え、自分が帰って来るまで待ってくれと言いおいて、それを商人とお客に値をつけさせに出かけました。そしてひとときたつと、帰って来て、私に言いました、「私は最初この頸飾りがほんとうの黄金と本物の真珠だと思い、少なくとも、金貨千ディナールの値打はあるはずだと思っていました。ところがそれは思いちがいで、この頸飾りは贋物です。これは黄金や真珠や宝石類を模造することのできる、フランク人(19)の細工で作られたものです。だから、市場《スーク》では、千ディナールのかわりに、たった千ドラクムしか値をつけませんでした。」私は答えました、「いかにもごもっともです。この頸飾りは贋物です。私はちょっとある女をからかってやろうと思って、これをこしらえさせて、贈物にくれてやったのです。すると偶然の中でももっとも大きな偶然によって、最近その女が死んで、これを遺産として私の妻にのこしたのでした。そこで私どもは、いくらでもよいから、こんなものは売ってしまうことにきめました。こういうわけだから、これを持って行ってその値段で売り払い、その千ドラクムを持って来てください。」すると仲買人は、頸飾りを持って出てゆきましたが、しかし、私を左の目で見やってからのことでした。
[#この行1字下げ] ――けれどもここまで話したとき、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、つつましく、口をつぐんだ。
[#地付き]けれども第二十八夜になると[#「けれども第二十八夜になると」はゴシック体]
[#この行1字下げ] 彼女はつづけた。
おお幸多き王さま、わたくしの聞き及びましたところでは、ユダヤ人の医者は次のように若者の話をつづけたのでございます。
さて、私は仲買人が金子《かね》を持って帰るのを待っていると、そこへいきなり、警吏が来て取り囲み、私を捕えて、奉行《ワーリー》のもとに引っ立てて行きました。そして奉行《ワーリー》は頸飾りについて訊問しましたので、私は仲買人にしたと同じ話をしました。すると奉行《ワーリー》は笑いだして、言いました、「ではこれから、きさまにこの頸飾りの正しい価格を教えてつかわそう。」そして警吏に合図をしますと、彼らは私を引っ捕えて、着物を剥ぎ取り、木や皮の鞭をふるって、私の上に襲いかかり、全身血だらけになるまで打ちすえました。そこで苦しさのあまり、私は叫びました、「ありていに申し上げます。そうです、この頸飾りを仲買人の親方から盗んだのは、私にちがいありません。」そして私は心の中で、恐ろしい真相を白状するよりは、こう言っておくほうが、まだしも身のためだろうと考えたのです。
ところが、私がこの窃盗を自白するやいなや、人々は私の腕を捉えて、盗賊なみに、右手を斬り落としました。そして創口を癒着させるために、私の腕を、煮えたぎる油の中に入れて焼かせました。私は痛さのあまり悶絶しました。すると何か飲ませられて、それでもって正気に返りました。そこで私は切られた手を拾いあげて、そして自宅に帰りました。
自宅に帰ると、家主は事情を聞き知って、私に言いました、「あなたが、かっぱらいをして、法に触れる事柄をしたと認められた以上は、もうあなたを私の家に置くわけにはゆかない。すぐ家具類を持って立ちのき、どこか他の宿を探してもらいましょう。」私は答えました、「殿よ、どうか他の住居を見つけるまで、ほんの二、三日のあいだ、猶予を与えてください。」彼は言いました、「それではその猶予を与えて進ぜよう。」それから私を残して、出て行きました。
私のほうは、地に身を投げて泣き、自分自身に向かって言いはじめました、「どうしてこれから故郷のモースルにもどり、こんな切られた手をして、のめのめ、ふたたび両親にお目にかかる勇気を持つことができようぞ。両親は私が罪のない者だと言ったところで、信じてはくださるまい。されば、今はもうアッラーのおぼしめしに身をまかせるより、いたしかたがない。ただアッラーのみが、何か救いの道を授けてくださることができるのだ。」
私の抱きつづけた苦しみと悲しみは、私を病気にしてしまい、私は他の家を探しに行くことができませんでした。それで三日目になって、私が寝ていると、私の家は突然ダマス市の総督の配下の者に襲われ、そして家主と仲買人の親方が、私のほうに進んで来るのを見ました。そして家主は私に言いました、「お知らせしなければならないが、|お奉行《ワーリー》さまはあの頸飾りの窃盗の件を、総督さまに委細ご報告申し上げたのです。するとそのいっさいの結果、頸飾りは実はこの仲買人の親方のものではなく、総督さまご自身のお持ち物、というよりは、そのお一人のお嬢さまの物であるということが、判明した。そのお嬢さまもまた、もうおっつけ三年前に、行方不明になられたとのこと。こういうわけで、今皆さんはあなたをつかまえに来なすったのだ。」
この言葉を聞くと、私の全身の関節がふるい出し、四肢もまたそうでした。そして考えました、「こうなっては、今さら頼むすべとてない。おれはきっと殺されるにちがいない。いっそ総督にすべてをありていに申し上げてしまおう。そのうえで彼のみが、おれを殺すとも生かすとも、裁くであろう。」だがすでに私は捕えられ、縛りあげられ、頸に鎖をつけて、総督の前に引っ立てられ、その手のあいだに、私と仲買人の親方とが、引きすえられました。すると総督は私を見やりながら、配下の者に言いました、「汝らが連れて来たこの若者は、けっして盗人ではない。その手は不当に斬り落とされたるものに、相違ないぞ。この仲買人の親方とやらは、こやつは嘘つきにして、虚偽の訴えをなした者だ。さればこやつを引っ捕えて、入牢を申しつけよ。」次に総督は、この仲買人の親方に向かって言いました、「汝はただちにこの若者に対し、その切られた手の償いをいたせ。しからずんば、汝を絞罪に処し、汝の全財産と全財宝を没収するであろうぞ、おお呪われたる仲買人よ。」そして彼は警吏に向かって、叫びました、「こやつをわが面前より引っ立てて、一同退出いたせ。」すると広間の中には、今は総督と私だけになりました。しかし私はもう首に首かせもなく、両腕のいましめも解かれていました。
こうして私たちが二人きりになると、総督は非常に気の毒そうに私を見て、言いました、「わが子よ、今は包まずに打ち明け、何事も隠し立てすることなく、すべてをありていに告げてくれよ。さればこの頸飾りが、いかにしてそちの手にはいったか、語ってもらいたい。」私は答えました、「おおわが主君にしてご領主よ、ではありていに申し上げまするでございましょう。」そして私は最初の乙女とのあいだに起こったすべてと、いかにして、その乙女が第二の乙女を世話し、私の家に連れて来て、またいかにして、それから嫉妬に駆られて、その友達を殺害したかを語りました。そして私はその次第を、細大もらさず話しました。しかしそれをくり返してもせんなきことです。
総督は私の言葉を聞きながら、苦しみと悲しみとに首を胸の上にたれ、手帛《ハンケチ》で顔をおおいました。こうしてひとときのあいだ、嗚咽に胸をはずませておりました。ようやく口をきけるようになると、顔をあらわして、私に言いました、「されば、こういう次第じゃ、おおわが子よ、その最初の乙女とは、余の長女だ。この娘は幼少のころより、はなはだしく性《さが》あしく、そのゆえに、余はきわめて厳格に監督しておった。ところが、年頃になるとただちに、余は取り急ぎ結婚させてしまおうと思い、そのために、これをわが甥、娘自身の従兄《いとこ》の一人とめあわせんとて、カイロにある叔父、すなわち、わが弟のもとにやった。かくして娘は結婚したが、その後しばらくしてその夫が死し、娘は余のもとにもどって来て、ふたたびわが家に住むことになった。されど娘は、すかさずそのエジプト滞在の期間を利して、エジプトの女どもより、あらゆる種類の放埓を覚えこんだものだ。そちもエジプトにいたからには、かの国の女どもが、遊蕩にかけていかにしたたかであるかは、知っていよう。彼らは男だけでは飽き足りず、女同士で相愛し相交わり、互いに夢中になっておぼれ合っている。されば、娘はこの地にもどってくるとすぐに、そちに会って、そちに身を与え、つづけて四たび、そちに逢いに行ったのだ。しかるにそれのみでは飽き足らず、おりしもわが二番目の娘、自分の妹をも、すかさず悪化し、妹に自分を熱愛させてしまっていたので、自分がそちとなしていたところすべてを妹に語り聞かせて、これを苦もなく、そちのところに行くように、説き伏せてしまった。そこで二番目の娘は、姉について市場《スーク》に行く許しを余に求め、余はこれを許した。そして起こったことが起こったのじゃ。
されば、上の娘がただひとりで帰って来たとき、余はこれに、妹はどこにいるかと問うた。娘はただ涙をもって答えるのみであったが、ついに泣きくずれつつ、余に言った、『市場《スーク》ではぐれてしまって、それから妹がどうなったものやら、さらに存じません。』娘は余にはこう言ったのだ。しかしながらほどなく、娘は母親に打ち明けて、結局いっさいの経緯《いきさつ》と、そちの家で、自分自身の手にかけて妹を殺したことを、内密に母親に話した。そして爾来、娘は涙のうちにあって、『私は死ぬまで泣いていなければなりません』と、日夜くり返し言いつづけている。おおわが子よ、そちの言葉は、余がすでに知るところを、いよいよ裏書きするのみであり、娘の言葉に偽りなきことが、これによって明らかになった。わが息子よ、余がいかに不幸なる身か、そちにもわかったであろう。されば、余にかなえたき一つの希望があり、そちに頼みたき一つの願いがあるが、どうか聞き入れてもらいたい。余はぜひとも、そちをわが家族の一員となし、わが三番目の娘をばそちにめあわせたきものと、切望するしだいだ。この娘は賢く、無邪気で、若い処女の身であって、姉たちの悪徳を一つとして持っておらぬ。余はこの結婚に対し、そちになんの結納金をも求めぬ。それどころか、余のほうから、十分に報ゆるところあるであろう。そしてそちは息子として、余のもとに余の家にとどまるがよい。」
そこで私は答えました、「お心のままに行なわれますように、殿よ。けれどもその前に、最近私は岳父が死んだということを聞きましたから、人をやって、父の遺産を受け取りたいと存じます。」
すぐに総督は私の故郷モースルに特使を派して、父ののこした遺産を、私の名で受け取らせにやりました。そして私は実際に、総督の娘と結婚し、その日以来、われわれ一同は、ここでもっとも富み栄えた、もっとも平穏な生活を送っているのです。
あなたご自身、おお国手よ、私がこの家《や》でどんなに愛せられ、敬せられているかは、ご自身の目で、見届けることがおできになったところです。そして私が病中ずっと、あなたに対し、左の手をさし出して非礼を犯したことも、私の右手が斬り落とされてしまっている以上、もはや意に介されぬことと存じます。
――私としては、(とユダヤ人の医者はつづけたのでございます。)私はこの物語にいたく驚き入り、そしてその若者に、この事件をこういうふうに切り抜けたことを、祝しました。彼は私に贈物のかぎりを尽くし、三日間私をお屋敷の中に、自分のかたわらに引きとどめ、多くの富と宝を持たせて、私を帰しました。
そこで私は、さらに自分の技術にみがきをかけようと思って、旅行をはじめ、世界を遍歴しはじめたのでありました。こうして、私はわが君のご領内に、たどり着いたのでございます、おお勢威盛んにして寛仁なる王よ。そしてこのときに当たって、昨夜、あのせむし男とのむしろ不愉快というべき事件が、私の身に降りかかったのでございます。これが私の物語でございます。
――するとシナの王さまは申されました、「この物語はややおもしろかった。しかし汝はまちがっておるぞ、おお医者よ、これはせむし男の事件ほど不可思議でもなく、また驚くべきものでもない。されば余としては、もはや汝らを四名ともすべて、ことには汝らの犯罪の原因《もと》であり、端緒《おこり》であるこの呪われたる仕立屋をば、絞り首にいたすよりほかになすこととてないぞよ。」
このお言葉を聞くと、仕立屋はシナの王さまの御手のあいだに進み出て、申しました、「おお光栄満てる王よ、われわれを絞り首になさる前に、なにとぞ私にも口をきかせてくださいませ。私は、単にその話一つで、あらゆる話を寄せ集めたよりも、いっそう世にもまれなる事柄をあまた含み、不思議の数々においては、せむし男の話そのものさえもしのぐ話を、お話し申し上げるでござりましょう。」
するとシナの王さまは仰せられました、「もし汝の言葉に偽りなくば、汝ら一同を皆許してつかわすであろう。されどもし汝にして、興趣乏しく絶妙の点なき物語を語るとせば、汝に禍いあれ。なんとなれば余は、汝と汝の三名の仲間をば、底からてっぺんまで、貫き通して風孔をあけ、串刺しの刑に処するに躊躇いたすまいからな。」
すると仕立屋は言いました。
[#地付き](つづく[#「つづく」はゴシック体])
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訳註
千一夜物語
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(1) 『千一夜物語』中の固有名詞と地理の漠としていることは、感嘆すべき事柄である。したがって穿鑿は無用だ(マルドリュス)。
(2) Schahriar.「町の主」の意。ペルシア語(マルドリュス)。他に Shahriy, Chahriar, Chahriyar 等の表記も見られるが、アラビア語のローマ字表記はすべてマルドリュスのままに従う。
(3) Schahzama-n.「世紀または当代〔随一〕の主」の意。ペルシア語(マルドリュス)。ガランは Schahzenan と書く。これらはペルシア伝説に出てくる名であるという。
(4)「平安(または救い)汝と共にあれ」というのは、回教徒間に用いられる挨拶である(マルドリュス)。
(5) Asr. 太陽が傾きはじめるころの時刻(マルドリュス)。正午から日没までの時刻。
(6) すなわち、泉のこと(マルドリュス)。
(7) Genni.「精霊」を意味する(マルドリュス)。回教徒の信ずる妖霊で、後出のようにいろいろの種類がある。複数は genn (Jinn)。
(8) アダムの子孫、人間のこと。
(9) Efrit (Ifrit).「狡猾なる者」。genni と同義語(マルドリュス)。のちに「ジン」と同じになったが、それらの中で特に悪魔的で邪悪な妖霊を言うよし。
(10) Youssouf. ヨセフのこと。有名な『創世記』中の「エジプトのヨセフ」の話。『コーラン』第十二章。
(11) Eblis (Iblis). 妖霊一族の中で、特に悪質な一党の首領。
(12) Schahrazade.「都市の娘」の意(マルドリュス)。ガランは Scheherazade(月の娘)。他にShehreza-d, Schahraza-d, Sh刺屍azade, Chahrazad 等いろいろの表記がある。
(13) Doniazade.「世界の娘」の意(マルドリュス)。ガランは Dinarzade(黄金のごとく貴き女)とする。イスラム辞典は Di-na-za-d.
(14) Kadi. 裁判官(マルドリュス)。民事、司法、宗教に関する裁判官。公証人の役もつとめる。
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商人と魔神との物語
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(1)「しぶしぶ」「いやいやながら」を意味する。
(2) Cheik (Shaikhu). 尊敬すべき老人(マルドリュス)。
(3) 婉曲な語法として、アラビア人は自分の妻をしばしばこのように呼ぶ。義父とは言わずに叔父と呼ぶのである。ゆえに「私の妻[#「私の妻」に傍点]」と言うかわりに「私の叔父の娘[#「私の叔父の娘」に傍点]」と言うのである(マルドリュス)。
(4) Diwan. 政務会議の義。この語は会議の催される部屋もさす(マルドリュス)。
(5) 一ディナールは現在ではわが数百円にあたる。
(6) アラビアでは話者は王に対する場合でも、自分を先に置く。
(7) Cheitane (Shaita-n). サタンと同じ(マルドリュス)。烈火より創造されたといわれる。
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漁師と魔神との物語
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(1) Sole瀕an, fils de Daoud.「ダヴィデの子、ソロモン」の意。アラビア人は、善悪両精霊の主と見なす(マルドリュス)。ソロモンは回教では預言者にはいらない。
(2) Afarit. Efrit の複数(マルドリュス)。
(3) Iounane. エリセエフでは Younan. ガランでは単にギリシア王。
(4) Rouiane. ガランでは Daubon. エリセエフでは Doban とある。
(5) Roumann. ビザンチンのローマ人。広義には全キリスト教徒、特にギリシア人を言う(マルドリュス)。コーラン第三十章の表題に「ルーム」とあるが、井筒俊彦氏はこれを「ギリシア人」と訳しておられる。
(6) Fars. もっとも狭義の古代ペルシア。現在のシラスを首府とするイランの東南部のペルシアの一地方で、ペルシア人の発祥地とされる。
(7) 床まで身を伏せ、王の御前の床に接吻したという意味である(マルドリュス)。
(8) M歯dane. 運動競技にあてられた広場(マルドリュス)。
(9) Emir (ami-r). 指揮者、首長、貴族。イスラム国家の指導者を指すが、ガラン注には、文官の長官とある。訳語を一定しない。
(10) Wekil (waki-l). 執事、王室管理人(マルドリュス)。
(11) Nawab. 王の代理官またはその代表者(マルドリュス)。
(12) Le sultan. 権力者の意。イスラム国の皇帝、主権者をいう。はじめはエジプト太守のことをいったが、後には東洋のほとんどあらゆる君主にもちいられ、王と同義である。
(13) すなわち、いざという日、晴れの日(マルドリュス)。
(14) Had. 伝説上のアラビア先住民族。巨人で偶像崇拝の罪悪の民であった。
(15) 麻酔剤 bang または banj は、古代アラビア人にあっては、通常|菲沃斯《ヒヨス》の精《エキス》を意味し、またはなんらかのカンナビス(麻の一種)を基としたあらゆる催眠剤さえも意味する(マルドリュス)。
(16) 黒人のはなはだ珍重する醗酵飲料(マルドリュス)。エジプトの船頭や下層民の飲料で、黒人が好み、大麦を醗酵させて作るビールに似たものという。
(17) Bismillah.「アッラーの御名において。」「神かけて。」回教徒が祈祷、食事、沐浴等の前に唱える慣用句。
(18) Mamalik は mamelouk の複数で、奴隷の義である(マルドリュス)。ママルークは近侍または護衛兵の白人の男奴隷をいう。
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荷かつぎ人足と乙女たちとの物語
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(1) Nousrani. すなわちナザレト人である。回教徒がキリスト教徒に与えた名(マルドリュス)。イエスの住んでいたヌーシラ村にちなんでいう。
(2) Artal. ratl の複数。地方によって異なり、二オンスから十二オンスまでの間の目方(マルドリュス)。
(3) この三つの菓子の名、アラビア名は十六冊本により、訳語は八冊本による。
(4) 回教暦第九月、断食の月である。陰暦であるから夏になることも冬になることもある。
(5) スライマーン(ソロモン)の印璽は二つの二等辺三角形を組み合わせた六角の星。
(6) Aleph. アラビアのアルファベット第一字。
(7) アラビア語では、この「魂」という語を「自分自身」「おのれ自身」「彼ら自身」等の語のかわりに用いる(マルドリュス)。
(8) Ahjam. Ajami の複数。この語はアラビア語以外の言葉を話すあらゆる国民を示すが、特にペルシア人を、また一般には、すべてアラビア語をよく話せない人を示す。しかしたいがいは、この語はペルシア人を示すためにしか用いられぬ(マルドリュス)。
(9) ペルシア人は彼らを Kalendars または Calenders と呼ぶ。sa瑛ouk という語は複数になるとsa瑛ik となる(マルドリュス)。
(10) Haroun A-Rachid (763-809). アッバース朝第五代のカリフ。この治世はサラセン文化の一黄金時代をなし、『千一夜物語』には「ハールーンの物語群」と称せられる一群の物語がある。Le calife (khali-fah) は「後継者」の義で、ムハンマドの後継者の意。信徒の統率者として、預言者の没後、政治的宗教的に統治する制度となった。
(11) Al-Barmaki あるいはle Barm残ide(マルドリュス)。実在のイラン族の名門。多くの名宰相を出す。ジャアファルはハールーンの寵遇を得、文人・学者を保護し、寛闊をもって鳴る。その邸はバグダード文化の中心となる。八〇三年突如カリフにより斬首され、この名家は亡びる。『ジャアファルとバルマク家の最期』参照。
(12) Masrour. 実在の黒人の宦官長で、ハールーンの寵愛した刑吏である。この名は「幸福」を意味する。
(13) Tabariat. チベリアードのこと(マルドリュス)。すなわちパレスティナの町(あるいは湖)、ヘロデ・アンティパス王の建てた都。エルサレム崩壊後ガリレヤ随一の町となる。
(14) Khan. 店舗および商人たちの宿屋に用いられる建物。隊商はここで安価に宿泊することができる。
(15) Hadj. メッカの巡礼者(マルドリュス)。メッカ巡礼を完了した人であり、回教徒は飲酒を禁じられているから、これを破れば巡礼は無効となる。
(16) すなわち、頭に手を持って行って、挨拶の動作をせよということ。これは東洋の挨拶の仕方の一つである(マルドリュス)。
(17) 占星学のことで、天文学ではない。これは禁ぜられた学問であったが、アラビア人のあいだには学ぶ者が多かった。
(18) Muezzin. 礼拝堂の塔の上から、礼拝の時刻を告げ知らせる呼び出しの役僧。訳者は回教での訳語をつまびらかにしない。
(19) Rikaa. 書翰を書くときに用いられる書体。Rihani. 優美な曲線を用いた大文字。Coulci. マホメットの墓のおおいに記されているので有名である。碑銘等に現在でも用いられている、大きなさらに形式的な文字。Mouchik. 不明。
(20) 前出、アダムの子孫、人間。
(21) Mohammad. いわゆるマホメットであるが、マルドリュスは Mahomet という字を一度も使っていない。
(22) Allahou akbar! 神を頌えるのに用いられる言い方。「神は全能なり」の意(マルドリュス)。回教徒のつねに唱える言葉。
(23) Schehada.「アッラーのほかに神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という文句を言う。
(24) Rokh (roc). しばしばアラビア文学に出るおとぎ話の怪鳥。
(25) すなわちサファイアのこと(マルドリュス)。
(26) Ye士en(エーメン)。アラビア半島西南部地方。南部アラビアの中心であった。
(27) 白は黒の反対で、吉、福、善等の意。
(28)「それは記されていた」と同じ(マルドリュス)。「運命によってきめられていた」の義。
(29) Bassra (Basrah, Bassora). 十七世紀に、カリフによって建てられたこのペルシア湾の港は、八世紀末から海上貿易の中心地として、バグダードとならんで繁栄した。
(30) Marhaba! Ahlan oua sahlan! および Anastina! は歓迎の挨拶で、逐語的には訳しがたい。「迎接がねんごろで、手厚く、気の置けぬものであるように」の意である(マルドリュス)。
(31)「罠に陥る」の意。
(32) Dejla. ティグリス河のこと(マルドリュス)。
(33) El-Amin (al-Ami-n, 787-813). アル・ラシードとゾベイダの子。母が高貴の出のため、兄アブドゥッラーをおいて太子となり、第六代カリフ(八〇九―八一三年)となるが、兄と争い殺された。
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斬られた若い女の物語
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(1) Rihan. 桃金嬢《ミルト》を意味し、またすべて香気ある植物を意味する(マルドリュス)。
(2) この物語の結びは、次の物語の終りにある。
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美男ハサン・バドレディンの物語
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(1) 十六冊本では「メスルの国」とあり、Mesr あるいは Massr は、アラビア人がエジプトにもまたカイロの市 (Al-Kahirat) にも与えた名である、との註がある。
(2) Chamseddine.「宗教の太陽」の意(マルドリュス)。ガランは Schemseddin と、エリセエフは Chamsad-Din、「イスラム辞典」では Sham al-di-n と綴る。
(3) Noureddine.「宗教の光」の意(マルドリュス)。ガランは Noureddin、エリセエフは Nourad-Din、「イスラム辞典」では Nu-ral-di-n と綴る。
(4) Gu市irah (gesira). 現在のカイロ対岸の島。
(5) Belb司s. 昔のカイロからシナイ半島に行くキャラヴァン道路上の町。カイロから北上し、カリウブを経て約六〇キロにある。
(6) Hassan.「うるわしき」、Badreddine「宗教の満月」の意(マルドリュス)。ガランは Bedreddin Hasan. エリセエフは Hasan Badrad-Din と書く。
(7)「むなしい」「愚かしい」「ばかげた」の意。
(8) 前出、「ことごとく汝の意に反して」を意味し、今でも用いられる由。
(9) Sett El-Hosn.「美の女王」の意(マルドリュス)。
(10) houria. 古アラビア伝説による、天上の楽園に住む神女フール hur(白色の乙女たち)のこと。西洋ではペルシア化されて「フーリー」という名でよく知られる。回教伝承で、死後信者は楽園でこの女たちに迎えられ、地上で断食した日数と善事を行なった数だけ交わることを許されるが、彼女らは永久に処女であるという(井筒氏による)。
(11) Scham. シリアの国。またダマスの町をもいう(マルドリュス)。
(12) 麻酔剤 haschich は特にカナビス・サティヴァ(麻の一種)の若葉と小花から製した飲み物をいう。字義どおりでは「干した草」ないし「草」を意味する。この麻酔剤は、法悦境を作り出し、「おのれ自身を神仙とし、妖霊と自然の精霊との敬意を受けるために」魔術師たちに愛用された(バートン)。
(13) 幼児の目を強くするためにコフルで染める。
(14) 赤児に命名する前の準備行為。
(15) Agib. すなわち「驚嘆すべき者」の義(マルドリュス)。
(16) Bani-Ommiah あるいは les Ommiades(ウマイヤ王朝)。ダマスにある、カリフの王朝(マルドリュス)。これはいわゆる「ダマスクスの大回教寺院(グランド・モスク)」として、今に有名である。
(17) Allah Karim.「神は寛大なり」(マルドリュス)。
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[#この行1字下げ]せむし男と、仕立屋、ナザレト人の仲買人、御用係およびユダヤ人の医者との物語
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(1) Halaoua. ごま油、砂糖、くるみ等で作った白い捏粉菓子で、半球状の大きなパンの形をしたもの(マルドリュス)。
(2) Haroun. アーロン(モーゼの兄)(マルドリュス)。
(3) Iouschah. ヨシュア(ヌンの子)(マルドリュス)。
(4) Wali. 一帝王(スルターン)の名において、一地方を治める者(マルドリュス)。
(5) エジプト人の義。アラビア人は初期キリスト教を信ずるエジプト人をこう呼んだ。
(6) ardeb または irdab は、いわゆる des arides というアラビアの升目で、こんにちなお用いられている(マルドリュス)。
(7) Bismillah.「アッラーの御名において」の義。
(8) Ka不aria. 大きな公共建築物で、廻廊をめぐらし、そこに商店や仕事場や倉庫や住居などもあり、昔は市場 suk の大規模なものであった。
(9) Nakib. 地方を治める者(マルドリュス)。
(10) Ouallah.「アッラーに誓って」の意。回教徒の誓いの言葉。
(11) コーランのこと。これには別名が五十五ある。
(12) 両替屋はしばしば買い手の出す金子の検査に雇われる。両替屋はたいていユダヤ人かキリスト教徒である。
(13) Zob司da (Zoba錨a ; Zubaida). 愛称で本名は Amatu'l-Azi-z. アッバース朝のカリフ、マンスールの孫。従兄ハールーンの妃となり(七八一年)、貞淑でめぐみ深く芸文の保護者として聞こえた。
(14) Sett (Sitt). 婦人への敬称。
(15) きわめてよく用いられる表現である。これは何ぴとかが、なんらかの行為の遂行に、はなばなしからざりしことを意味する。これに反して、「あなたの顔は白くなった」と言うときには、これはあることを、非常にはなばなしく有利に切り抜けたことを意味する(マルドリュス)。
(16) El Sa鋲dat.「高貴の貴婦人、女主人」の意(マルドリュス)。
(17) Ouassalam! いとまを告げる、または退出するときの挨拶。「平安おんみの上にあれ」の意(マルドリュス)。
(18) ダマス(ダマスクス)の病院は、回教紀元八八年(西暦七〇六―七年)、ウマイヤ朝の全盛時代を現出した第六代のカリフ、アル・ワリードによって建てられた、最初の回教徒の病院。
(19) フランク人は、フランス人ばかりでなくヨーロッパ人一般を指す。
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あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
本書は『千一夜』ALF LAILAH OUA LAILA(新修イスラム辞典では Alf Layla wa-Layla と綴る)のマルドリュス博士による仏訳『千夜一夜の書』――マルドリュス博士によるアラビア原典の逐語的完訳Le Livre des Mille Nuits et une Nuit. Traduction litte屍ale et compl春e du texte arabe par le Dr. J. C. Mardrus――の全訳である。仏訳は一八九九年から一九〇二年まで、la Revue Blanche が刊行、続いて Fasquelle に移り、一九〇四年完成、全十六巻。
○ マルドリュスの仏訳には、訳者の知るところではテキストが二種ある。日付はないが、おそらく十六冊本が出て程なく、同じファスケルから、「ペルシア及びインドの原典筆写本を飾る微細画《ミニアテユール》、本文|縁飾《ふちかざ》り及び彩色挿画《アンリユミニユール》の複写」を入れた、絵入り本八巻が出た。その後多くの画家によって、このなかの種々の物語に挿画された豪華単行本が出ているし、全体としては、カレの挿画による Piazza 刊の記念版十二巻をはじめ、数種あるらしいが、いずれも未見であり、はたしてテキストに異同があるかどうか知る由がないが、最も近く出たと思われる一九五五年版、ヴァン・ドンゲンの水彩画を入れた、Fasquelle-Gallimard 版三巻は、全く八冊本のテキストをそのまま採っている。
○ 八冊本テキストは十六冊本と細部にかなりの相違があるうえ、大体においてより簡潔で、かなりの部分が省略され、付加されている個所は少ない。わけて韻文がしばしば省かれているが、これは同じ韻文が種々の物語に反復利用されているためであろうか。また八冊本では註を最小に止めて、能うかぎり本文でもって理解できるようにしてある。いずれにせよ、両者の差異は、単に修正や改訂によるばかりではなく、しばしばアラビア原典を異にするのではないかと思われるが、事情を詳らかにしない。(マルドリュス博士はテキストとしてブーラク本を底本とし、第二カルカッタ本、ブレスラウ本、ことに所蔵の種々の写本に、細部の材料を求めて、独特の『千一夜』を編集したということである。)
○ 訳者はテキストとして八冊本を採り、細部をしばしば十六冊本から取り、長文にわたる場合や重要と思った個所は、註記した。(最も異文のはなはだしい一例として、本巻では『ガーネム・ベン・アイユーブ』があるので、これだけは見本の意味で、全く八冊本に拠ってみた。)さして深い理由からではなく、さきに豊島与志雄、渡辺一夫、岡部正孝の諸先生との共訳によって、岩波文庫で全訳を試みた時には、十六冊本を底本として、それは現在なお発売されているので、いささか趣きを変えてみたまでである。訳者の感じでは、十六冊本のしばしばくだくだしい叙述や端的な絵画的なあるいは稚拙な表現などのほうが、古いテキストのように思われ、ときに捨てがたい気がして残したのであるが、あるいは思いきりよく、全部を八冊本のみによるべきであったかもしれぬ。
○ ただしマルドリュス註は、上記のように、八冊本には殆んどないから、すべて十六冊本による。(訳者の使ったテキストは一九二五年版である。)少なくとも八冊本は、註なしで読ませるのがマルドリュスの趣旨であるらしいが、ガラン訳の『千一夜物語』を知らぬ者なしと言われ、十八世紀以来「東洋趣味」の流行を見たフランス読者と、この翻訳隆盛の国柄にかかわらず、未だアラビアやペルシア文学の原文直接訳のごく乏しい我が国の読者とでは、同日の論ではあるまいと思って、マルドリュス註は全部保存し、更にそこにない小註や、不明のものまで付した。結局訳者の無智を標準にしたのである。アラビア語もペルシア語も知らぬままに、註のさいの表記はすべてマルドリュス原典に従い、それに御教示を得たり、若干の主として邦語文献で見た読み方や訳語や註解をあてた、すこぶる覚束ないものである。識者の御高教を得て、補足訂正の機を得れば幸いである。
[#この行1字下げ] 註のうちガランとあるのは、アントワヌ・ガランの世界最初のフランス訳をさし、エリセエフとあるのはNikita Eliss仔ff, 'Th塾es et Motifs des Mille et une Nuits', Beyrouth, 1949, イスラム辞典とあるのは、現在刊行中の'Encyclop仕ie de lユIslam', Maisonneuve, 1956――を言う。
○ 訳文中アラビアやペルシア起原の特有の名称は、わが国に慣用化されていると思われる若干の語以外は、仏語乃至英語読み等を避け、なるべく原音に従いたいと思った。(たとえばターバンは、テュルバンとも、イマーマーとも、捲頭巾ともしなかった。しかし人名・地名等の固有名詞は若干のものを除いて、邦語慣用の呼称を用いず、註を入れておいた、ソロモンをスライマーンとし、ローマをルームとしたように。)けれどもその取捨をあやまっていることのほかに、不明のものも少なからず、読み方や訳語の誤りや不正確をまぬがれていない筈である。これまた御教示を得たいものと思っている。
○ 本全集に収めるにあたって、上記岩波文庫本において、他の諸先生の担当せられた物語は、既に立派な翻訳があり、屋下に屋を、しかもより不出来な屋を架する感を禁じ得ないが、それはすべて十六冊本によったということもあり、責任上一応訳し直したものの、負うところ極めて多い。拙訳の部分の転載を許可して下さった岩波書店と共に、諸先生に深く感謝しなければならない。
佐藤正彰(さとう・まさあき)
一九〇五年、東京に生まれる。一九二九年、東京大学仏文科卒業。一九四九年より明治大学文学部教授。戦後日本を代表するフランス文学者。一九五九年、渡辺一夫・岡部正孝との共訳、マリュドリュス版『千一夜物語』で第一一回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七二年、長年にわたってフランス文学の紹介に寄与した業績などにより紫綬褒章を受賞。一九七四年にも『ボードレール雑話』で第二六回読売文学賞研究・翻訳賞受賞。一九七五年歿。主な著書に、詩注釈『ボードレール』、訳書にヴァレリー『私の見るところ』『レオナルド・ダ・ビンチ論』など多数。
本作品は一九六四年六月から一九七〇年三月、筑摩書房より刊行された「世界古典文学大系31〜34」を底本に、一九八八年三月、ちくま文庫に収録された。