皇国の守護者 第02巻 勝利なき名誉
佐藤大輔
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カバーイラスト 塩山紀生
カバーデザイン しばいみつお(伸童舎)
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皇国の守護者2 勝利なき名誉 佐藤大輔
中央公論社
C.NOVELS Fantasia
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IMPERIAL GUARDS Vol.2
Glory without Victory
by
Daisuke Sato
1998
口絵 塩山紀生
挿絵 大西將美
地図 根木儀雄
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目次
第三章 許容もなく慈悲もなく
第四章 俘虜
第五章 熱水乙巡〈畝浜〉
第六章 〈皇国〉
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皇国の守護者2 勝利なき名誉
第三章 許容もなく慈悲もなく
冬の風浪に揉《も》まれながら碇泊《ていはく》するその艦の姿はひどく弱々しげだった。排水量は一千石もないだろう。
天候がさらに悪化したならば、この内膚においてさえ艦位の保持に苦労しそうな大きさであった。
艦はほっそりとした船体に前後二本の檣柱《マスト》を備えており、〈皇国〉水軍艦艇規定色であるくすんだ濃紺に塗装された舷側に一列の砲門が設けられていた。
後方の檣柱が大きいから、そちらが大檣《メインマスト》になる。
艦首に近い檣柱は前檣《フォアマスト》と呼ばれる。備砲は両舷すべてあわせても二〇門を切る程度だった。常識的に言えば、まったく注目に値しない小艦であった。
しかしその小艦には他の艦船とまったくことなる部分があった。前・大檣の中間、並の全帆装艦ならば甲板になっているか、ちょっとした甲板室の設けられている場所に、なんとも無様な構造物がまっすぐに据えつけられていた。
漆黒《しっこく》に塗られたそれの太さは戦艦の主檣ほどもあるが、檣柱にしてはひどく短い。前・大檣の三割もなかった。宙に突きだした先端からは煤煙《ばいえん》が吐きだされ、強い風に吹き散らされていた。舷側にも異様な景観があった。両舷ともに半円状の大きな張りだしがあり、その下部から水車の下半分がつきだしていた。水車の最下部は底面に接している。
「(畝浜《つなはま》)の艦長が気の利いた奴で助かった」北|美《み》名津《なつ》浜を一望する丘に立った笹嶋《ささしま》水軍中佐は言った。
「まさか三〇艘《そう》もの運荷艇をくくりつけてくるとはね。艦の復元性が極端に悪化しただろうに。たいしたものだ」
「護田《もりた》中佐はずいぶんと評判の良いひとです」隣にいた浦《うらべ》辺大尉が言った。伝聞にもとづいた評価ではありえない響きを含んだ声だった。
「そいつはまさに御同慶の至り、だ」笹嶋は答えた。
「たとえどんな野郎でも、この状況で、三〇艘もの運荷艇をくくりつけてくることを思いつく奴ならばかまわない。望むならば、妹を妾《めかけ》にしてやってもいい。残念ながらわたしに妹はいないが」
「護田中佐はよほどの愛妻家ですよ」まぜっかえすように浦辺大尉が答えた。
「ならば面倒はない。護田中佐には最新鋭熱水乙巡の艦長職で我慢して貰《もら》おう。まあ、彼が熱水機関を好んでいるかどうかは別問題だが」笹嶋は言った。
口調とは裏腹に、苦いものを飲みこんだような表情を浮かべている。
「司令、あなたも熱水機関に?」浦辺大尉は訊ねた。
水軍士官のすべてが熱水機関を好んでいるわけではない。当然のことかもしれなかった。この、人がはじめて得た原動機はいまだ実用化されて間もない。
いまだあちこちに問題を抱えている。
「まさか」笹嶋は答えた。「わたしはこれでも新しいもの好きだよ」
彼は熱水巡のことを考えていたのではなかった。
転進作戦を成功させるために面倒を押しっけた男とその部下、そして猫のことを考えていた。
〈大瀬〉遭難の報は、すでに彼にも伝えられている。
もちろん真室《まむろ》の穀倉は傷ひとつついていなかった。
〈帝国〉軍がそこから嬉々《きき》として糧株《りょつまつ》を持ちだしたこともわかっていた。転進作戦自体は熱水巡〈畝浜〉が持ちこんだ三〇艘の運荷艇、そしていくらか回復した天候の影響で調子よく進み、二月二三日――つまり、明日の夕刻には完了しそうな案配《あんばい》だった。
自分が約束を守れなかったこと、笹嶋はそれを思っている。それはあまりにも強い負の感情であった。
彼はあの新城《しんじょう》という陸軍大尉に、後衛部隊指揮官として望むものを可能な限り与えると約束した。
実際そう努力した。それゆえに〈大瀬〉は遭難することになり、乗員全員が冬の海に消えたのだった。
〈大瀬〉艦長の坪田《つぼた》中佐は、笹嶋の水軍兵学校同期だった。八七人中九番の成績で卒業した笹嶋と違い、まったく参謀向きではない士官で、そのかわり、小さな艦を扱わせるとひどくきれのよいところを見せた。だからこそ、荒天下での真室砲撃を任せたのだった。坪田の妻へ、夫が死んだ理由を説明するのは笹嶋の役割になるだろう。いったいなんと言えばよいのか。笹嶋には皆目《かいもく》見当がつかない。
そしてもちろん、新城大尉と彼の大隊も。〈大瀬〉遭難――喪失があきらかになってから導術で連絡をとろうとしたが、うまくいっていない。すべての導術兵が疲労しきってしまったからだった。かといって翼龍を飛ばすこともできない。龍士、龍ともに空を飛べなくなっている。彼等はこれまで無理をしすぎていた。伝令もだせなかった。この海岸に、わざわざ敵に向けて近づこうとする者は一人もいない。
正直なところ、笹嶋自身も同じ気持ちだった。
もちろん彼には転進支援隊司令としての任務があり、この場を離れるわけにはいかない。一度それを試みようとしたが、東海洋艦隊司令部じきじきの命令により禁止された。上官の身を心配した浦辺大尉が、笹嶋の決意を密かに伝えたのだった。
どうにもならないことではあった。しかし、自分はそれを理由に逃げているのだと笹嶋は考えていた。
艦隊司令部から、みずから伝令にでることを堅く禁じた命令が届いた時、内心で深い安堵《あんど》を覚えたからだった。
自分が嫌でたまらなかった。まったく純粋な恥辱の思いであった。状況からいって、新城大尉の大隊が防戦を続ける意味はすでに失われており――彼等自身も撤退すべきであるのに、今の笹嶋にはそれを伝える方法すらなかった。
あの男は、笹嶋は思った。
あの凶相の陸軍大尉は部下や猫と共に最後まで戦うだろう。こちらが伝えた期日を稼《かせ》ぐために。彼にそれを伝えた時、戦況は最悪で、それこそ、どこまで悪化するかしれたものではなかった。そして自分はすべてを彼に押しっけた。そう判断するにあたり、彼の経歴を可能な限り調べもした。ひどく難しい人物だが、野戦将校としては文句をつけがたいほどの出来物だという話だった。だからこそ安心してすべてを押しっけた。そしてこれまで、いや、今もなお、彼は、自分の判断が正しかったこと――期待通りの人物であることを証明し続けている。新城直衛《なおえ》は、敵にだけは絶対にしたくない男だ。
しかし状況は変わった。彼の防戦はいまや無意味なものとなった。だが自分にはそれを伝える方法がない。彼は死んでしまうだろう。すべては自分の責任だ。
それは最悪の予測だった。しかし笹嶋は、自分がもうひとつの最悪を予測していることにも気づいた。
彼が生還した時、自分はなんと言えば良いのだ。
もちろん他のすべての約束は何があっても守る、そのつもりでいる。しかしそれであの男が許してくれるだろうか。何があっても敵にだけはしたくない男に恨まれた時、いったい自分に何ができるのだろうか。
後方の天幕から下士官が報告にやってきた。浦辺大尉がそれを受け、笹嶋に伝えた。
「海岸の残兵は二千以下に減りました。天候がよほど悪化しても、明日には終わるでしょう」
「千になるまではこのままで続ける」笹嶋は答えた。
「残り千名になった時点で、我々も撤収準備を開始する。書類の焼却その他を準備しておけ。ああ、海岸に残った部隊の指揮官は誰だ?」
「現在、現場の指揮官は――」浦辺大尉は小脇に抱えていた書類を調べた。
「近衛第五衆兵旅団の旅団長です」
「まさか、おい」笹嶋は信じられないような声で訊ねた。
「ええ」浦辺は領《つなず》いた。「そのまさかで」
笹嶋は失笑を漏らした。守原《もりはら》大将はこれからどうするつもりだろうと思った。陸軍少将実仁《さねひと》親王殿下よりも先に逃げた将軍として生きてゆくつもりだろ
うか。
まあ確かに、実仁殿下は勇敢で戦上手で兵に慕われる術をこころえた出来物だという評判のあるひとで、おまけに皇位継承第二位の皇族だ。比べられてはたまったものではないのも事実だが。しかし、守原大将もまごうことなき五将家の出。可哀想《かわいそう》に。まさに自業自得ではあるが。
「どうされますか?」浦辺が訊ねた。
「いや、いい。わたしが出向く。まさか親王殿下へこっちへ来いと言上奉るわけにもいかない。その間、君が指揮を代行しろ」
笹嶋には撤退以外にもなすべき仕事があった。この北美名津浜へ大量に残されている装備や物資を敵に度さぬことだった。そのためには、やはり海岸へ大量に残されている玉薬を用いてすべてを吹き飛ばし、あるいは焼き払わねばならない。彼はその協力を少将実仁親王に頼むつもりだった。
用件のついでにあの凶相の大尉に話が及ぶだろうなと笹嶋は予想していた。実仁親王は自分の旅団がうまく撤退できた理由について、誰かと話してみたいに違いない、そう思えたからだった。
2
新城直衛大尉の直率する大隊予備隊が目標を捕捉したのは、二月二三日午後第三刻のことであった。
すでに陽は傾こうとしている。
〈帝国〉軍輜重段列は約六〇頭の荷駄、その三倍の輜重兵、そしておよそ一個小隊と思われる護衛の騎兵よりなっていた。総勢は二四〇名ほどになる。
彼等は、西方から、川沿いの道を東へ進んでいた。
すでに渡河を終えた騎兵と合流するためだろう、新城はそう判断した。
「渡河した敵騎兵はもう五里ほど東へ入りこんでいます。そこで輜重の到着を待っとります」金森《かなもり》二等兵が報告した。
「御苦労」新城は領いた。金森の顔を見る。凶相の大尉はあいかわらずの仏頂面ではあったが、瞳《ひとみ》には、いくらかの感情が添加されていた。若い導術兵の顔色はそれほど悪かった。おそろしげなことに、額の銀盤は黒に近い色合いに変化している。顔色も負けず劣らずの有様だった。
「ただ」金森が言いかけた。
「なんだ」
「なにかもうひとつ、感じ取れるのですが――はっきりしません」金森は眉をゆがめていた。「駄目です、わかりません」
「休め」新城は命じた。「襲撃には参加しなくともよい」
金森は領いた。無理を口にする気力すら失せているようだった。
「療兵をつけておけ」新城は猪口《いのくち》に命じた。彼は返答を待たなかった。襲うべき敵はそこにいる。時間がない。
新城は予備隊の状況を確認した。全員が配置についていた。誰もが疲労を顔に浮かべている。昨日の出撃からつい一刻前まで、予備隊は歩きづめだった。
一刻ごとに小休止、三刻ごとに大休止をとってはいるが、それで疲れが消えたわけではない。
演習の時とは大違いだなと新城は思った。小隊長として部下を率いていた頃、彼は兵をむやみに疲れさせることがなかった。もちろん状況は今とまったく違っているが、内心、それを自慢にしていたのだった。現状を見ていると、正直、自分も化けの皮がはがれたかなと思いたくなってくる。
いや待てよ、と新城は自身の疲労を自覚した。なにを莫迦《ばか》なことを考えている。化けの皮がはがれ、敵に後ろをとられたからこそ、ここにいるのではないか。そんなことにも気づかないとは。やはり自分も疲れているのだ。そして、これから戦わねばならない。ああ、いやまったくなんとも。自業自得ここに極まれり、だ。そいつにつきあわされる兵と猫はいい迷惑だな。
新城は敵に視線を据えた。
彼等を探るのに遠眼鏡は必要なかった。それほどの距離に近づいている。さすがに〈帝国〉軍は規律厳正な軍隊であった。人の話声はまったくきこえない。雪を踏む音だけが徐々に大きくなってくる。伏撃の定番どおり、開けた地形に画した森の樹木線の内側沿いに展開した新城の予備隊には気づいていない。
予備隊は、新城もふくめその全員が白色の布を貫頭衣のようにして被っている。布は適当に薄汚れており、雪景色のなかで奇妙な白きが目立つようなことはない。膝射の姿勢をとっていても、あらかじめそこに敵がいると教えられなければ、まずわからない。千早《ちはや》をはじめとする五頭の剣牙虎《サーベルタイガー》も大丈夫なはずであった。本来が猛獣である彼等は、獲物が十分に近づくまで、まばたきひとつせずに耐えられる。
新城はその時を待った。状況からして、戦果は完璧なものでなければならない。そのためには至近距離から奇襲する必要がある。兵の言う、”屁の臭いが嘆げるほどの”距離で射撃を開始する。第一撃で護衛の騎兵を潰滅《かいめつ》させ、続いて輜重を叩く。後者の方は人間などどうでもよい。輜重品の大部分を破壊せねばならない。
すでに打方《うちかた》用意は発令し、全員が銃への装填《そうてん》を済ませていた。
目標指示も徹底してある。
まずは護衛を狙い、続いて輜重段列。射撃はその二度だけ。あとは突撃で片づける。白昼の白兵突撃は無論、危険な選択ではある。しかし予備隊には、兵に与えられている銃のほか、火力が存在しない。
そしてその程度の火力では敵を織成《せんめつ》できない。よって突撃しかない。
敵はさらに接近した。距離は三〇間を切っている。
新城は鋭剣を鞘《さや》からそっと抜き放った。彼も銃を持っていたが、強行軍の途中で銃に問題のある兵が出たため、自分の銃を与えたのだった。
銃を持たぬ点についてさほどの不安はない。将校は本来そうあるべきとされているし、白兵戦ともなれば、鋭剣はいまだに有効な武器であるからだった。
新城の鋭剣は、通常の銃兵将校用鋭剣と同じ、両刃づくりであった。ただし、量産品ではない。かつて少尉への任官にあたって駒城《くしろ》家から与えられた業《わざ》物《もの》だった。駒洲の名匠、七代目|遠《おんが》賀|寺《じ》房松《ふさまつ》が晩年に鍛えた八本のうちの一本であった。切れ味は重視されていない。敵をどれほど殴りつけても、折れも曲がりもしないという実用性でつくりあげられている。
そのおかげで、並の鋭剣にくらべれば二割ほど重くできている。
しかしいまは、その重さがなんとも頼もしかった。
大きく息を吸いこむ。心臓が早鐘を打ちならしているのがわかった。突然の尿意。もちろん、どうにもならない。凶相の大尉は自分がいつも通りの恐怖感を覚えていることに満足した。
先頭の騎兵との距離が二〇間を切った。
新城の好みと目的からいえばいまだ射撃をひかえたい距離であった。しかし、輜重段列の先頭を進む護衛の一部――一個分隊ほどの騎兵は急に立ち止まり、新城たちのいる森へ馬を向けようとした。
新城は大きく鋭剣を振り上げた。
この時、〈帝国〉騎兵はただ小休止のため、立ち止まっていた。しかし新城にそんなことはわからない。気取《けと》られたのだと確信していた。射撃命令を発する。
「打てッ!」
兵は迅速に反応した。打石器が火蓋《ひぶた》に叩きつけられる乾いた音が次々に響く。そして雪崩《なだれ》のように連続する轟音《ごうおん》。大気中へ、爆燃した玉薬の発した発射煙がひろがる。
予備隊の射撃、その半数は敵の先頭に向けられていた。
集中された銃弾は前衛の騎兵分隊を一瞬のうちに潰滅させた。人も馬も、悲鳴すらあげるまもなく雪面に打ち倒される。
予備隊は次発装墳――次弾の装填を急いだ。突然の射撃に敵があわてふためく貴重な時間が過ぎてゆく。それはほんの一|寸《ミニット》ほどに過ぎない。しかし新城は焦れていた。この時間は万金を積み上げても買い取れないものであると知っている。
次発装填が終わった。新城はすぐに射撃を命じる。
あらたな銃声が轟き、輜重段列の荷駄と輜重兵の列が乱れる。
射撃はこれで充分。そして限界だ。焦りで焼けつくようになりながら新城はそう判断した。ならば次は。彼はあらたな命令を発した。
「目標、敵輜重段列! 総員、突撃にい、移れぇッ!」
新城は森から飛びだした。千早が続く。彼等の両脇には漆原《うるしばら》と猪口が駆けている。そして四頭の剣牙虎と予備隊の全員が続いた。駆けながら新城は、自分の股間《こかん》が小便で濡れてゆくことに気づいていた。
輜重段列は一尺はどの時間で潰滅した。護衛の騎兵は皆殺しにされた。
新城自身も四名の敵兵を刺殺した。うち三名は抵抗する素振りすら見せなかった輜重兵であった。絶望的な戦況、そして疲労からくる異常な興奮が彼を虐殺者にした。
もちろん千早にはかなわない。千早は三〇名以上の喉笛を噛《か》み切っている。その間に、白い冬毛が赤く染まるほどの人血を浴びていた。他の剣牙虎たちも同様の見かけであった。
〈帝国〉軍は劣弱ではなかった。
彼等は懸命に抵抗した。だからこそほとんど皆殺しにされたのだった。結果、予備隊は三八名の損害をだすことになった。戦闘可能な軽傷者は六二名。
歩くこともできぬほどの重傷者はいなかった。その理由に疑問はない。敵も、新城に負けず劣らずの残虐さを示したのだった。異常な状況のもとでは、深傷を負い、戦えなくなった敵にさえ斬りつけずにはいられない。
新城の漏らした小便は股間や足の凍傷、その原因となる前に乾いてしまった。乾いてゆくあいだのどうにもならぬ気色悪さ、悪臭に悩まされることもなかった。新城は充分以上に多忙であり、制服には既にいささかどうかと思われるほど汗や垢《あか》がしみこんでいた(この点については兵も同様だった)。
新城は輜重品をひとところに集めるよう、命じた。
掠奪《りゃくだつ》は、糧株の一部をのぞいて一切許さなかった。
歯獲《ろかく》あるいは捕獲した――敵から奪い取った物を私することを軍が禁じているわけではない。戦争とは利益を求めるための経済活動、その最終形能心であるという原則は否定されてはいなかった。
その意味において、私掠《しりゃく》は神聖な個人的権利ですらあった。皇国であれば陸軍でも水軍でも、敵からこれこれのものを奪ったと報告し、それを司令部に届けでればよい。するとそれは記録され、国家へ適当な値段で買い上げられることになる。これは諸将時代に成立した〈皇国〉の伝統であった。街や村からの掠奪が完全に禁止された現在は、なおのこと、その傾向が強まっている。
その実際は単純なものであった。
部隊や艦艇が捕獲した場合、国が支払う金は現場にいた最上級指揮官が六割をとり、残り四割を全員が階級に応じてわける。戦死者はその家族に、負傷者は傷の程度に応じた増額分を同時に受け取る。
新城が由獲した輜重品、馬、敵兵の装備は、通常ならば皇都の一隅に庭付の家を買えるほどの金を彼にもたらすはずだった。
しかし彼はその権利を捨てた。もちろん、報告すべき司令部がすでに逃げだしているという現実の影響もある。しかしもうひとつは、ひとたび掠奪を許せば、兵が持てるだけのものを奪い取ってしまい、今後の行動が阻害されるからだった(死んだ敵兵の懐から奪い取ったものまで上官に報告する兵はいない)。
もちろん、懐におさまるような物であれば、士気を維持するため、黙認している。馬一〇頭とそれ用の糧株も残した。おそらく剣牙虎の頭数が少ないためだろう、馬の中に、近寄られても暴れないものが含まれていたからだった。新城は馬に樋《そり》をひかせるよう命じた。樋には背嚢《はいのう》などを載せる。
一か所に積み上げたその他の物資には火をかけた。
馬は、尻を銃剣で斬りつけ、勝手な方角へ走らせた。
伏撃の開始から撤退までわずか半刻しか消費していない。見事な手並みであった。
しかし、戦況からみればけして充分な早さではなかった。
小苗《おなえ》川を渡河し、迂回機動をおこないつつある〈帝国〉第3東《オ》方《ス》辺《ト》境《フ》領《ノ》胸甲騎兵《サール》聯隊第一大隊は、小苗橋渡何点に陣取る蛮軍まであと二〇里という距離に到達していた。そこで進撃をやめ、防御能小勢をとっている。
行動を停止した理由は、後続してくるはずの大隊輜重段列との合流が遅れているためだった。つまりは食い物がないために二進《にっち》も三進《さっち》もいかなくなっている。
自分の判断は間違っていない、アンドレイ・カミンスキィ大佐はそう考えていた。
この二日間、聯隊の行動はまさに疾風迅雷と称しうるものだった。そしてその素早さは、シユヴューリン少将が派遣した輜重段列はおろか、手持ちの輜重まで別行動させることによって達成された。荷物が無ければ足は速くなる道理(まあ、三食ぶんだけは各自に持たせたが)。単純な決断だ。並の指揮官であれば、いまだ段列の到着を待って西方渡河点のあたりで時間を無駄にしている。現状は時間との競争。であるならば自分はやはり間違っていない。
あまりにも合流の遅れている大隊輜重段列との連絡に派遣した伝令が到着したのは午後第四刻が第五刻へうつりかわろうとする頃だった。
「全滅?」カミンスキィは訊ねかえした。
「まさしく全戚であります、聯隊長殿」伝令は答えた。敵は輜重兵と護衛を戮殺《りくさつ》し、輜重品をすべて焼いておりました。
「我々の察知しておらぬ、別の部隊がいるのでしょうか?」プレハノフ聯隊首席参謀が言った。
「どうかな」いくらかひきつった表情でカミンスキィは答えた。伝令に訊ねる。
「現場で何か気づいたことは?」
「特には――いえ、人でも馬でもない足跡がありました。数は少なかったです」
「足跡は大きなものか、小さなものか?」
「馬より大きいものでした」
カミンスキィは御苦労と答え、少し休めと伝令の肩を叩いた。伝令が去った後で、坤《つな》り声を漏らす。
「聯隊長殿?」プレハノフ聯隊首席幕僚が案ずるように言った。
「わからないか、マクシム」カミンスキィは答えた。
「なにが、でしょうか?」
「輜重を襲ったのは蛮族の猛獣使いだ。他には考えられない。でなければ、戦場に、馬より大きな動物の足跡が残るはずがないのだ」
「まさか」プレハノフは唖然《あぜん》とした声で言った。
「東方度何点であれだけ叩かれていながら、別働隊をだすなど。それに、どうやって我々の迂回に気づいたのか――」
「戦争だよ、マクシム。戦争だ」カミンスキィは答えた。
「どんなことでも起こりうる。渡河点に哨兵《しょうへい》を置いていたのかもしれない。それに敵は、なにかあやしげな魔術を使っているというではないか」
「魔術師の実在など、自分には信じられませんな」
プレハノフは答えた。
「いやしくも常識ある男子たるもの、なにか都合の悪いことは超自然の存在や陰謀ゆえであるなどと考えるべきではありません。それは理性の欠如、無自覚ゆえの愚かさに他なりません。知性と知識の違いもわからぬ莫迦どもの戯言です。わからないこと、説明のつかないことがあれば、ただ究明すればよいのです」
「ありがとう」カミンスキィは魅力的な苦笑でそれに答えた。
「だからこそ、君を首席幕僚に据《す》えている意味がある」
「光栄であります」プレハノフはちらりと微笑を浮かべ、すぐに消した。この美形の上官の、こうした部分は敬意に値すると彼は思っていた。進言する。
「聯隊長殿、我々はただちに対応策をとるべきだと思われますが。ともかく、輜重と合流しないことには前進はできないのですから」
「一番元気な中隊を選べ」カミンスキィは命じた。
「そして兵が残している食料の半分を与えろ。行動命令はわかっているな?」
「なにがあっても輜重段列を守る」プレハノフが言った。たしかに、こうなっては、シユヴューリン少将の虎達した輜重段列との会合なしには絶対に前進できない。
「彼等はすでに渡河を終えている。このままでは危険だ」カミンスキィは領いた。
「大隊全力で守るという手もありますが」プレハノフが言った。
「戦力の分散には不安があります。それに、他の敵から逆襲を受けるかも」
「その心配はない」カミンスキィは断言した。「あれだけしぶとい防御戦闘をおこなっている猛獣使いの大隊が、みずから別働隊を派遣せねばならなかったのだ。つまり、敵に他の兵力はない。東方渡河点からあらたな別働隊がくりだされる可能性もない。
つまるところ、奴らは戦力の減耗した大隊にすぎない。それに、ようやくここまで距離を稼いだのだ。それを失いたくない」
「はい。では、指揮官はどうされますか? ただの中隊長では不安があります。気の利《き》いた――よほどの男でなければあの猛獣使いを相手にはできんと思いますが」
「フォン・、バルクホルンはどうだ?」カミンスキィは言った。
「バルクホルン大尉。なるほど、確かに彼ならば」
「よし、彼に任せろ」カミンスキィは命じた。「あの情けない敵軍で、ひとり気を吐き続けてきた猛獣使いの相手をさせてやると言えば喜ぶだろう」
予備隊は再び森の中へ戻った。歩き続けている。
明確な目的があって、ではなく、まずは伏撃の現場から離れることを目的とした行動だった。
「大隊長殿」猪口が言った。
新城は彼を見た。いまだ何かに憑《と》りつかれたような顔をしている。
「あの輜重段列についてなんですが」臆《おく》することなく猪口は続けた。彼もまた似たような心理状態なのだった。
「ああ」新城は頷いた。続ける。
「あれは、敵が後方から送りこんだ輜重じゃない。渡河した連中の手持ちだ。頭数が少なすぎる。無茶というか、勇気のある奴と表現すべきか、わからないが」
渡河した〈帝国〉軍騎兵部隊の指揮官について彼は言っていた。彼は思っていた。
とりあえず部隊を進めるだけ進め、もう限界というところで待つ。どうしても行動の遅くなる輜重段列はゆっくりやってこさせる。向こうはそう判断した。しかしこちらは同意見ではない。そうしたやり方では、最終的な行軍距離が短くなってしまうだろうから。いや、この場合はそれでも良いのかも。
つまりは指揮官の性格、その違いというやつか、新城は暢気《のんき》にそんなことを考えた。彼はそれを要約し、猪口に伝えた。
「すくなくともまあ、僕よりは勇気に不足を感じない男ではあるらしいな」
猪口はそれだけですべてを察した。このような場合、つきあいの長い将校と下士官のお互いに対する理解の深さは伝説に登場する大魔導士たちのそれに近くなる。
新城と猪口もその例外ではなかった。彼等が今もなお、戦闘の興奮を引きずっている理由はそこにあった。目的を果たすためには、もう一度戦わねばならない、そのことに気づいているからだった。そしてまことに不幸なことに、彼等は共に、まったく傲慢《ごうまん》に思えるほど自分の限界というものを認識した男たちであった。
珍しく弱音じみた口調で新城が言った。
「なんとかなるかと思ったのだが。金森が捉え損ねたと言った連中だな。最初は的確だったのだから、どこか途中で間違えてしまったに違いない。兵には痛まないことになったな」
「目的は完遂《かんすい》できるでしょう」猪口は答えた。いまさら何を言っているのかという響きがふくまれている。
新城は微笑を浮かべてみせた。
彼等は新たな敵を望んで求めねばならない。となれば、撤退には絶対に間に合わない。つまり、人として抱いていた最後の希望が打ち砕かれたのだった(とはいえ、この段階に至るまで脱出の希望を失っていなかったというのはよほどの神経であった)。
「まあ、俘虜《ふりょ》になれただけで、よほど運が良いと考えねばならないでしょうが」猪口は言った。
まったくその通りだった。〈大協約〉は俘虜の権利を認めている。戦場での無意味な殺戮を禁じてもいる。しかし、敵を殺すことについての規定はまったくない。
そして〈帝国〉軍は、自分たちへまったく好意を抱いてはいない、そう思われた。たとえ指揮官が制止しても、兵は聞き入れず、降伏する自分たちを虐殺するのではないか、そう考えられた。
何か手を考えなければならない。それは確かであった。しかし、その点についてまったく自信はない。
すでに暗くなりはじめている空の下で、新城は地図をひろげた。後方から送りこまれた敵の輜重段列――彼の本当の目標――がどこにいるかを考える。
「小休止だ、曹長」新城は命じた。
「それだけですか、大隊長殿?」猪口が訊ねた。
「いや、西進する。敵が後方からだした補給段列を叩く」新城は気のない声で答えた。笑ってみせる。
「戦争からそう簡単に足抜けできるわけがないだろう、曹長?」
3
気温が低下していた。雲が消えたからだった。新城直衛の直率する大隊予備隊は、薄明るい闇《やみ》の中を西へと駆けている。彼等の頭上には夜空があり、星があった。夜空の一画には太く輝くきらめきの帯が存在していた。光帯だった。地上のすべては、微細な星々より成ると言われるその光帯にぼんやりと照らしだされている。
予備隊が天然の遮蔽《しゃへい》物として利用してきた林が切れかけていた。新城は片手をあげ、小休止を命じた。時間を確認する。
光帯の光をうけてわずかに見える刻時器の文字盤が示していたのは午前第二刻であった。二月二四日午前第二刻。敵の小規模な輜重段列を叩いてから、すでに半日近くを経過したことになる。その間、新城と予備隊は、一刻ごとにとる小休止と、三刻ごとにとる大休止いがい、まったく息を抜かずに雪中を進んできた。
当然、皆、疲労がさらに蓄積している。行動開始から数えるならば、すでに二日が過ぎているからだった。
新城も例外ではない。肩で息をしながら、白い吐息をもうもうと立ちのぼらせている。さすがに見栄を張れるような状態ではなかった。下着にしみた汗が冷え、ひどく気持ちが悪かった。腹が冷えていないことだけが救いだった。
どれほど進んできただろうか、新城は地図を取りだそうとした。腰に手をやったところで、この程度の明るさではそれを読めるはずもないことに気づく。
新城自身の疲労もそれほどのものになっているのだった。彼は猪口に訊ねた。
「どれぐらい距離を稼いだかな、曹長」
「一五、六里はいっとると思います」猪口は答えた。
新城は彼の推定を疑わなかった。幼年学校の野外教練で、まるで頭の中に測量器具一式がおさまっているような正確さで距離、位置を推定してみせた猪口を覚えているのだった。それをふまえつつ新城は言った。
「おい、猪口助教。一五になったばかりの僕をぎりぎり締め上げておった頃の勘は鈍っておらんだろうな?」
「はあ」突然、一〇年以上も昔の職名で呼ばれた猪口は面食らった顔を浮かべた。助教とは幼年学校生徒を指導する下士官教官の呼び名であった。わずかに間をおいて、それが新城のえらく下手な冗談であることに気づく。口元に理解の微笑をつくって猪口は答えた。
「助教の言うことは信じて貰わんと困ります、新城生徒殿」
新城は楽しそうに笑った。疲れ切った様子で雪面に腰を降ろしていた兵たちは、指揮官のそうした様子を呆《あき》れと敬意をないまぜにした視線で眺めていた。
疲労といえばと思いだし、新城は訊ねた。「金森二等兵はおるか?」
返事がない。新城は眉をしかめた。兵が一人、駆けてきた。金森ではない。彼は報告した。
「大隊長殿、あちらに」
「容態が悪いのか」新城は訊ねた。
「はい、かなり。療兵がつききりで。ええ、それに」
「なんだ」
「金森が、御報告すべきことがある、と」
新城は領いた。そちらに向けて歩きだした。猪口と千早が彼に続いた。
金森は橋の上にぐったりと横たわっていた。起きあがる力もないのだった。
新城は彼の傍らにかがみこんだ。
「大隊長殿」かすれた声で金森が言った。
「敵がいっぱいです。そこらじゆうにいます。自分はそいつらをみなつきとめました」
新城は領き、療兵を見た。療兵は首を横に振った。
金森はひっそりと錯乱《さくらん》しているのだった。
「わかった、金森二等兵」新城は答えた。「君は任務を果たした。ん? すこし疲れておるようだな」
「大丈夫です、大隊長殿」金森は言った。「もうすこし、休ませてもらえれば」
金森は意識を失った。顔にはあきらかな死相があらわれていた。
新城の目尻がひきつった。
金森の健気《けなげ》な言葉が、肺腑へ突き刺さる刃のように感じられていた。新城は大抵の悪行に対することができた。しかし、純粋な敬意と勇気の発露だけは例外であった。
指揮官は戦場で死傷する部下、その家族や故郷について思いをはせてはならない。そのことは新城も知り尽くしている。いちいちああこいつの親兄弟はと思っていては、どんな命令もくだせなくなる。軍の冷酷なまでの規則性――この世のありとあらゆる事象を類型化してしまう手法にはそれなりの理由があるのだった。
軍とはこの世の縮図、家庭よりもさらに温情主義的であると同時に、牢獄よりさらに非人間的な場所であった。そうである理由は明確きわまりない。そのただひとつの存在意義、勝利を達成するためであった。そのためには、戦場で犯されるありとあらゆる悪徳は許容される。部下に死を命じることもそのひとつだった。
新城は戦場で部下を失うことに慣れていた。いや、慣れてしまった。恨まれ、憎まれ、畏敬《いけい》されることも同じだった。しかし子犬のようにただ彼を慕い、命令に従い、そして死んでゆこうとしている若者に対する責任のとり方は知らなかった。
演技はできなかった。彼の中にいまだ強く生き残っている何かがそれを許さなかった。彼の背は丸められ、両の瞳は、この世のすべてから解き放たれようとしている哀れな若者へと据えられていた。
「許しは乞わない」
必要とあらばいかなる悪行もなすであろう男は言った。彼は力の失われつつある若者の手を握っていた。
「だが、後悔だけはさせない」
しかし内心では、本当にそうだろうかと確信に近い疑いを抱いていた。
金森淳《じゅん》二等導術兵は夜明を待たずに死んだ。
4
夜明とともに視界は低下した。霧が立ちこめたのだった。しぼりたての乳酪《ミルク》にも似た濃さを持っている。二〇間も見通せない。
霧のおかげでひどく歩きにくい。
しかし新城直衛はそれを喜んだ。もしこの霧が路南半島主要部すべてにかかっているのであれば、北領鎮台の脱出は成功したも同然であるからだった。
そう、今日、二月二四日は新城が稼ぐべき時間、その最終日であった。
だからといって輜重段列への襲撃を中止する気はまったくない。敵に優秀な指揮官がいないとも限らないからであった。もしそんな男がいて、この霧をものともせずに迂回部隊との合流を果たしたならば――ぎりぎりで鎮台主力への追撃が間に合わぬとも限らない。新城は完全主義者からはほど遠い男ではあった。が、やはり独自の規準から、手順を省略することで失敗を招くことに強い恐怖感を覚える質《たち》の持ち主でもあった。
しかし、現在の自分が陥っている境遇、その原因については必要以上に考えることをやめている。それは自分にできうる限りの手順を踏んだのちに看過した危険によってもたらされたもの、そう決めこんだのだった。まったく独善的ではあるが、こうした部分を持たねば指揮官などつとめてはいられない。
新城は予備隊に分隊単位の横列を組ませ、それを縦にならべた縦隊で前進していた。天狼《てんろう》会戦やその後の戦闘で目撃した〈帝国〉軍の戦術を真似たのだった。実際に用いてみると、ひどく具合の良い手法であることがわかった。なにより、ただちに戦闘へ移行できるところが良かった。
もちろんただ敵を真似ていたわけではない。
剣虎兵の基本戦術も併用している。縦隊の前方へ剣牙虎を連れた兵を楔状《くさひしょう》に配置し、敵の捜索にあたらせていた。これは”虎の顎門《あぎと》”戦術と呼ばれる剣虎兵独特の戦闘捜索陣形であった。
装備の輸送に用いた挽馬はすでにいない。うち六頭を人と虎の食用にあて、残り四頭は昨夜のあいだに放している。
新城は自分を例外としなかった。
剣牙虎と五人の剣虎兵によって形作られた楔の頂点には、彼自身と千早がいた。この段階になってもなお、責任の在処《ありか》をはっきりとさせておきたいのだった。指揮官としてはいささか極端にすぎる行為であった。
虎の顎門と隊列はただ雪を踏む音だけをたてながら乳白色の闇を進んだ。むきだしの顔面、そして衣服は、暖かみをまったく感じさせない霧によって冷たく湿っていた。しかし新城の子猫は元気一杯だった。それも当然、殺したての馬を丸々一頭与えられていた。すくなくとも数日は何も喰わずにいられるはずであった。
彼は前に立って進んでいる千早から目を離さなかった。金森を喪《うしな》ったいま、彼に与えられた最良の索敵装備はこの猛獣だけであった。千早の見せるいかなる仕草も見逃すわけにはいかない。でなければ、剣牙虎によってつくりあげた移動式早期警戒線の意味がなくなってしまう。
どういうことになるだろう、千早の後ろ姿をみつめながら新城はそう思った。いま捜している輜重段列は、昨日襲撃したそれよりも規模がはるかに大きい。つまり、護衛部隊もそれなりのものがつけられているはずだった。
となれば苦戦と大損害は必至。というよりも、その程度で済めば新城は賞賛されるべき将校、そうなる。それよりは――逆襲によって予備隊が織成される可能性の方が大きい。
確実に思えるその予測が、新城はまったく気に入らなかった。それは単純な感情的解釈といったものではない。どこか、彼の奥深くでとぐろを巻いた何かが要求したものだった。
確かに彼は万人へ避け難く訪れるものについての、先駆けた了解に到達していた。透明度は低いものの、それについて考えることを自分へ許している。
しかし、安易に受け入れるつもりだけは絶対になかった。可能なすべての手段を試し、どうにもならなくなった末に、渋々と受け入れるべきだと考えていた。
もちろん絶望の意味は知っている。
だが、了承しようとは思わなかった。了承と了解はまったく別物であると知っているからだった。物心ついて以来、その点についての姿勢は常に同じであった。その姿勢は、これほど追いつめられた現状においてもまったく変わらなかった。
それは、これまでさして明るい人生を歩んでこなかった彼が経験からつくりあげた態度であった。最悪の中の最善を希求すること、彼が望むものはそれだけだった。
いまこの時にしても、自分たちが確実に死ぬであろうという運命を可能な限り回避しようと新城は考え、必要な手を打ち続けている。
虎の顎門、〈帝国〉軍の大隊縦隊を真似た分隊縦隊の採用はそのひとつだった。これはまったく不期遭遇戦に――出会い頭の殴り合いに――向いた手法であった。
その意味において、周囲を取り囲んでいる濃密な霧は、まさに天の配剤と言えた。優勢な敵に遠距離から発見されずに済み、くわえて、剣牙虎の鋭敏な感覚を最大限に利用できるからであった。
濃霧の影響は戦闘そのものについても及ぶ。新城はその点についても喜んでいる。
まず、敵はこちらがどこにいるかわからない。そして、こちらの兵力規模も判別がつかない。たとえ予備隊の人数、その見当がついていたとしても、目の当たりにできないのでは、ただ情報を信じて対応するわけにもいかない。これは戦場心理の問題であった。つまるところ、暗闇や濃霧に潜んでいるならば、猫も剣牙虎も同じだけの効果を発揮するのだった。
指揮官を先頭に、カミンスキィの派遣した護衛隊は輜重段列との会合点を目指して霧の中を進んだ。
濃霧によって行軍速度は著しく低下している。状況がこれほど急迫していなければ、停止し、大休止でもとっていた方がましだと思われるほどだった。
じっのところフォン・、バルクホルン大尉は、そうした方が良いのではと何度か考えた。そしていや待てよとその度に思い直した。噂に聴く猛獣使いどもであれば、この濃霧を奇貨として、よほど大胆な行動にでるだろう、そう推量したからだった。その推量は内心のどこかに不安となって、こびりついた。
しかし愛馬にまたがった彼の外見は、勇猛をもって知られる〈帝国〉騎兵の鑑《かかみ》のようにしか見えない。
ゴトフリート・ノルティング・フォン・バルクホルンは、一般的な意味での勇気、その持ち主ではない。おおもとの性格はむしろその正反対、庭いじりや読書を好むおっとりとした人柄の青年だった。領民の生活向上に心を砕き続けている彼の父は、誰からも慕われる君子人で、〈帝国〉騎士とはいえ、これまでただの一度も戦場へでたことがなかった。裕福な商家の次女として生まれた母もこれまた父に似合いのひとで、たいへんに明るい質の、常になにかを愛さずにはいられない女性であった。
ゴトフリート・バルクホルンはそうした両親の愛情をたっぷりと、任がれて育った。やがて妹が生まれ、彼女はフェリラと名付けられた。彼は六つほども年の離れた妹を両親から自分がされたように愛した。
普通の貴族であれば、子供は乳母や守役が育てることになるのだが、彼の両親はその慣習を(特に母親が)あっさりと無視した。結果、彼は〈帝国〉騎士家の世継というよりは、適度に裕福な商家の頼りなげな惣領息子と呼ぶのがふさわしい、人柄のよい少年となった。一方のフェリラは勝ち気な面倒見のよい娘に成長した。
そんな彼を軍に入隊させたのは、父の弟――叔父であるエーベルトだった。たしかに幸せそうではあり、愛すべき人物でもある兄、その息子に、いくらかは〈帝国〉騎士らしさを教えこむため、そのとき自分の率いていた槍騎兵《ランツァー》聯隊に、たよりなげな一六歳の甥子を子弟枠の少尉候補生として入隊させたのだった(〈帝国〉西方諸侯領では、将校としての基礎教育を聯隊でおこなう)。両親はそれに反対しなかった。現当主こそ戦《いくさ》嫌いではあるものの、バルクホルン家は代々勇武をもって知られる家系であるからだった。ただし彼の母は、あの子であれば大きな商家の良い若旦那か、どこかの大学の優しい助教授になれたでしょうに、と残念そうに何度か言った。
少尉候補生になってからの日常は面食らうことばかりだった。
やはり貴族の子弟である候補生仲間は妙に粗暴な人間が多かったし、上官たちは異常なまでに尊大だった。
彼がいくらか心を許せたのは、叔父の領地、その出身者で大半が占められた下士官兵たちであった。
叔父の領地は父の領地に隣接していたから、下士官兵の中には、親戚からフォン・バルクホルン家の優しい若殿について噂を聴いていた者が大勢いた。少尉候補生というより万事に控えめな少年と呼ぶ方がふさわしかった彼が厳しく鍛えられる候補生時代を切り抜けられたのは、彼等の手助けによるところが大きかった。
その優しい若殿が、周囲から信頼を寄せられる青年将校となるにあたってもっとも大きな役割を果たしたのは本人の外見だった。
気性とは裏腹に彼の外見はまったく厳《いか》つかった。
くちさがない者は馬鈴薯《ばれいしょ》のようだと許し、他者に美点を求める者たちは勇武の相だと言った。そして彼は、軍にいる限り、そうした評価に(つまり自分の外見に)あわせて生きなければならなかった。その点、ゴトフリート・バルクホルンはまったく生真面目な男だった。騎兵将校の水準をはるかに越えるまで馬術に習熟し、命令には忠実で、部下の扱いがうまい勇者、〈帝国〉騎士大尉フォン・バルクホルンはこうして誕生した。
彼の悲劇は、自身が勇者たることをまったく望んでいないことであった。できうることならば軍を退いて故郷に戻り、父と同じような生活をしたかった
(フェリラは兄様がお戻りになるまでは絶対に結婚はしませんと頑張っている)。
しかし今、彼はその故郷からはるかに遠い場所にいる。エーベルト叔父が、まったくの親心から、せめて一度は実戦を経験しろと東方辺境領胸甲騎兵聯隊への配属を決めてしまったからだった。槍騎兵として教育を受けてきた彼は、そのことでまた面食らうことになった。正直なところ、あの叔父を好くべきなのか憎むべきなのか、彼にはよくわからない。
相手が善意に満ちているぶん、始末におえないのだった。
とりあえずはこの側道上を進めば道に迷うことはない。そして必ず輜重段列とも出会える。バルクホルンにもそれはわかっていた。この付近に、まともな道は他にないからであった。と同時に、新たな不安がわきあがる。
現在の行軍速度では、敵に先を逸されるかもしれない。猛獣使いどものこれまでの行動からして、その可能性は充分にある。
さらに道を急ぐべきかどうか、バルクホルンは迷った。低下しているとはいえ、現在の行軍速度は霧中行軍の限界に近い。もしこれ以上、急ぐとするならば、少なからぬ数の落伍兵を覚悟しなければならない(たとえ一本道であろうと、そこを外れて迷う者は必ずでる)。だいたい、この数日の行動で兵は疲れ切っている。
、バルクホルンは手綱から左手を放し、口で手袋をとった。手袋を右脇に挟むと、冷たく濡れた顔面を手のひらで撫でる。何度か深呼吸した。手袋をはめなおす。伴走している先任下士官を呼んだ。
「ロボス軍曹」
「はい、若殿様」先任下士官は答えた。アンリ・ロボス軍曹は、上官に負けず劣らずの外見を有する男だった。少尉任官にあたり、エーベルト叔父がつけてくれた従兵で、軍曹になれたのはその能力とバルクホルンの引きが半々というところだった。父親の代までは〈帝国〉軍と戦っていたという北方蛮族の出であった。
「小隊長たちに告げろ。これより急行軍をおこなう。
落伍した者は置いてゆく。迷った場合は、ともかく、この道を西に進むこと、以上だ」
言い終えると、バルクホルンは愛馬に一鞭《ひとむち》くれ、霧中の疾走を開始した。
5
千早が小さく喉を鳴らせた。立ち止まり、新城をちらりと見上げた。”ねぇ、いいの?”という顔つきであった。何かを察知したのだった。
新城は立ち止まり、右手を高く掲げた。霧は相変わらずの濃さだが、それで全員に伝わるようになっている。虎の楔《くさび》をつくりあげている人と猫は互いが視認できる距離に展開しているし、背後に続いている縦列の先頭も新城の姿が見える距離にいる。
新城は千早の額を撫でた。地面へおしつけるようにする。躾《しつけ》と訓練の行き届いた彼の子猫は雪面へ伏せた。頭だけを高くあげ、聴覚、嗅覚《嗅覚》、あるいはなにかほかの感覚で見つけだしたのだろうものに鼻面を向けた。
漆原と猪口が駆け寄ってきた。新城は二人にかわるがわる視線を向けながら断定的に言った
「何かいる。距離はかなり近い」
彼は剣牙虎の――わけても千早の能力を知り尽くしていた。いかな剣牙虎でも、この濃霧では目標を察知できる距離は短くなる。それに、さきほど千早がみせた表情は、暢気に歩いている場合じゃないよ、という含みがあった。新城はそう解釈した。
猪口はすなおに首肯した。漆原は疑わしげな表情を浮かべた。
新城は苛立《いらた》たしげな声で命じた。
「二人して両脇の猫を確かめてこい。少尉、君は右側だ。かかれ」
彼等はすぐに戻ってきた。報告を聴くまでもなかった。そのあいだに、千早がさらに頭を高くしていたのだった。
「接敵前進に切り替える」新城は命じた。「少尉、君は直ちに全員を小隊横列に配置しろ。僕のすぐ後ろにだ。横列を完成したならばただちに総員着剣。
白兵だけで敵を叩く。玉薬と予備の燧石《ひうちいし》、あるいは燐棒をすぐに使えるようにしておくこと。そいつで、敵の輜重品をみつけ次第、放火する。準備完成後は、僕が命じるまで姿勢を低くし、一切沈黙しておれ。突撃の際も、一切声を発しないこと」
「放火用の松明《たいまつ》ならばすぐに準備できるかと」漆原が言った。
新城は首を横に振った。「本当ならば使いたいが、発見される可能性がある。ここまできて不必要な危険はおかせない」
「敵が輜重段列でなければ?」漆原が重ねて質問した。まったく反抗的な口調だった。
「その時は僕が判断する」新城は答えた。「君にはすでに命令を達した。ならばどうすべきなのだ?」
「はい、大隊長殿」漆原は背筋をのばし、新城の命令を復唱した。すぐに駆けだす。
新城はわずかに眉をひそめ、その後ろ姿を見送った。そんな彼の様子を猪口は哀れむような視線で見つめていた。
「まさに軍隊だな」新城は言った。
猪口は予期せぬ答えを返した。
「いえ、あなたの軍隊ですよ、大隊長殿。まことに失礼かとは思いますが」
新城は片方の眉だけをあげて訊ねた。
「あまり生き残れそうもない戦を前に、少しは正直になりたい、そういうところか、曹長?」
「たまにそうしてみると身体の調子がよくなります」猪口は答えた。「あまり我慢しても良いことはありません、大隊長殿。もうすこし、乱暴な将軍ぶりでも兵は従います」
猪口の真意を新城は理解した。わずかに感情をこめた声で応じる。
「良かった。さぞかしすっきりしたことだろう。僕も今度ためしてみよう。さて、気分の良くなったところで僕の戦争につきあって貰おうか、曹長」
「願ってもないことです、大隊長殿」
新城は前方へ視線を向けた。目をほそめて霧を睨《にら》みつけ、耳を澄ます。まだなにも察知できない。千早を見た。彼の子猫はすぐにでも飛び出したそうな様子だった。後方で金属質の音が生じた。兵が着剣しているのだった。やがてその昔も消えた。漆原が小声で準備完了を報告した。
新城は右手をあげ、小さく前に振った。自分もゆっくりと歩きだす。全員が彼に続いた。二〇間ほど進んだところで停止。千早を見る。剣牙虎の鼻面は真正面に向けられていた。新城は霧が蒸発するほど熱のこもった視線をそこにむけた。
小さな影が視界の隅に浮かんだ。すぐに消えてしまう。
新城はそちらを向いた。何も見えない。動悸が高まってゆく。緊張と小心のあまりか、と疑う。すぐに打ち消す。いやそんなはずはない。千早がこれほどまでに自信ありげなのだから――。
馬の噺《いなな》きが聞こえた。近い。距離は五〇間も――いや、三〇間もない。
そして新たな影が視界にあらわれた。馬と、それを曳《ひ》く〈帝国〉兵の姿だった。
新城は即断した。馬を曳いているということは、騎兵ではない。
彼は鋭剣を抜き放った。鋭剣の背を肩に押しっける。右腕をまっすぐにのばした。走りだす。
予備隊は無言のまま突進を開始した。雪面を蹴る音だけが無数に生じる。濃霧をかきわける顔面が不快な冷たさに痺《しび》れてゆく。そして千早が、最初の獲物に向けて跳躍した。
霧中の不可思議な戦闘が開始された。
いや、奇怪な戦闘と言うべきかもしれない。
隊列の横合いから襲いかかられた〈帝国〉軍輜重段列は警告と恐怖の悲鳴をあげている。いくつもの命令が叫ばれ、あわてて銃に装填をおこなう、あるいは着剣する音が生じた。
しかし攻撃側はまったくの静寂に包まれている。
一四七名はまったく声を発しない。五頭の剣牙虎ですら、喉をうごめかしもしなかった。主人の意を汲んでいるのだった。
最初に発見した〈帝国〉兵の腹に、新城は鋭剣を突き刺した。手に伝わる、柔らかく重い感触。骨が痒《かゆ》くなるような気色悪さ。彼はそれを無視し、柄をねじった。敵兵の体内で刃が半回転する。柔らかく重い感触はさらに強まる。
〈帝国〉兵は絶叫をあげた。鋭剣を引き抜く。無惨に斬りひろげられた腹部の傷から血液が流れだし、雪面を紅く溶かす。生臭い湯気が立つ。
新城は素早く周囲を確認した。予備隊が突入したのは、輜重段列の隊列、その前半であるらしいとわかった。安堵する。これで、輜重品の大部分を敵迂回部隊へ渡さずに済む。もし後半部であれば、前半部の連中が味方のいる方角へ向けて一目散に逃走していただろう。
左手で火の手があがった。激しい馬の噺きも聞こえる。兵が輜重品への放火を始めたのだった。新城はそちらを確認した。すでに一〇頭以上の馬、その背中で火の手があがっている。唇が即物的な満足感に歪《ゆが》む。
彼は頭上で大きく鋭剣をふりまわした。周囲にいた兵が自分に注目したことを確認すると、段列の後半部を切っ先で示す。兵と虎はただちに命令へ従った。狂気の波が進路をかえる。
両脇に兵と剣牙虎を従え、新城は新たな獲物に駆けた。そして見つけたのは新たな荷駄。曳いているのは恐怖で顔面蒼白になった〈帝国〉兵。あどけない、まったく子供のような見かけの輜重兵であった。
しかし、まさに今の新城は最悪の狂獣そのもの、心中には|許容もなく慈悲もない《センサ・ペルドゥーノ・センサ・ピエタ》。彼は少年兵の白い首を切っ先で横薙《な》ぎに撫でた。両手に伝わるわずかな抵抗感。少年兵の喉から血が噴きだす。
もはや気色悪さは感じない。血に酔った者に特有の、異様な高揚感が新城を包んでいる。彼は声もださずに崩れ折れた少年兵を一顧だにしなかった。新たな獲物を素早く捜しだす。そして次なる殺人に嬉々としてとりかかった。
この時、〈帝国〉軍輜重品の大半は炎上していた。
死傷者はすでに一〇〇名を越している。
東方から新たな音響が生じたのはそんな頃合いであった。
不可思議な騒音がフォン・バルクホルンの耳朶《じた》を打ったのは、駆歩による猛進を開始してから一刻ほどのちのことであった。さすがに馬が顎をだしはじめたため、小休止を命じた彼の耳に、それが届いた。
騒音に気づいたバルクホルンは眉をしかめた。霧を見透かすようにする。それは明らかに人の悲鳴であった。馬の噺きも響いている。しかし、戦闘ならばあってしかるべきもの、銃声がまったくしない。
「軍曹」バルクホルンはロボフを呼んだ。訊ねる。
「おまえも聴いたか?」
「はい、若殿様」ロボフは答えた。
、バルクホルンは重ねて訊ねた。「なんだと思う?」
「はあ?」ロボフは意外そうな声をだした。すぐに得心した顔つきになる。返答した。
「若殿様、あれは戦場音楽です。銃を用いない戦闘の。自分の父が戦っていたような、男がその真価をかけるべき戦いの」
バルクホルンは唖然とした表情になり、やがて喉の奥で何かを罵った。そして言った。
「一声も発さずに部下を戦わせることができるのか、この島国の猛獣使いは。よほどの強者だぞ。指揮官も、兵も」
突撃にあたって兵に蛮声を張り上げさせる理由は二つある。一つはそれによって敵を怖れさせること、そしてもう一つは、自身の恐怖感をそれで紛らわせること。沈黙したまま白兵戦を演じているということは、その効果をのぞんで捨てることにつながる。
常識的に考えるならば、バルクホルンの言葉はまったくの真実と言える。
しかしこのとき彼が許した”よほどの強者”が真実かどうかについてはかなりの疑問があった。
たしかに新城直衛は、時には極端にすぎるほど果断な指揮官ではあった。しかし戦術家として満点とはとても言えない。そして彼の率いている兵にいたっては強者の正反対――かき集められた敗残兵が大部分だった。そんな彼等が、なぜ、強者ぶりを見せることができているのか。指揮官の能力、性格が状況に合致していること、〈皇国〉軍下士官教育の程度の高さ等々、あれこれと説明することはできる。
しかしどれも根拠として十分ではない。つまりは時の勢いを得ていたという暖味《あいまい》な結論になるのかもしれない(いや、それを得ることこそが指揮官としてもっとも偉大な能力だとも言えるが)。
そしてバルクホルンは、その勢いを得た敵に対抗せねばならなかった。
護衛隊の状況を確認する。案じたとおり、霧のなかで半数の兵が脱落していた。おそらくは一〇〇騎程度というところだろう。しかし迷っている暇はなかった。、バルクホルンは命じた。
「接敵前進用意。小隊縦列!」
騎兵は素早さを身上としている。たちまちのうちに隊形が整えられた。東方辺境領胸甲騎兵の風評に違わぬ早業だった。バルクホルンは当然のようにその先頭に立つ。ロボフは右半馬身後方に自分の馬をとめた。
「装填を命じますか?」ロボフが訊ねた。
バルクホルンは答えなかった。この濃霧の中で騎銃を用いても、ほとんど効果はない、彼はそう考えていた。彼は腰に下げた鋭剣を鞠から抜き放ち、天へ突き刺すようにして掲げた。大音声で命ずる。
「総員抜刀!」
彼の背後で一〇〇騎の騎兵が鋭剣を抜き放つ音が生じた。ロボフが報告する。
「総員抜刀、確認しました」
バルクホルンは大きく領いた。そして命じた。
「胸甲騎兵前へ。速歩接敵前進始めェッ!」
濃霧の中で繰り広げられている血塗れの火祭り、その新たな参加者に最初に気づいたのは新城でも千早でもなかった。彼の率いる兵と猫ですらなかった。
彼が殺そうとしていた敵兵だった。
新城に突きかけられようとした剃郡《せつな》、その〈帝国〉輜重兵(濃い頬髭《ほあひげ》を生やした、筋骨たくましい男だった)は絶望に満ちていた表情を異常者のように明るく切り替えた。なにかを大声で叫ぶ。
新城は鋭剣の柄を両手で握り、彼に振り下ろした。
斬殺ではなく撲殺であった。全身汗まみれで荒い息を吐く。そして、〈帝国〉兵が死の直前に叫んでいた言葉の意味をようやく理解した。彼は、一種の基礎教養として〈帝国〉公用語を教えられている。といっても軍の一般的な教育に含まれていたのではない。駒城家独自の子弟教育として行われたものだった。
「援軍、だと」息を整えようとしながら新城は呟いた。金壷眼《かなつぼまなこ》の底からこの世のすべてを憎むかのような視線を濃霧の向こうへと突き刺す。音を拾うため、首をあちこちへ向けた。その度に体表で冷えた汗と湿った衣服がふれあい、たとえようもない不快さを生じさせる。
東方から馬の足音が響いていた。それも、奇妙に調子のあった足音だった。
逃げるか、新城はすぐにそう決意しかけた。しかし同時に、逃走が無理であることにも気づく。新たな敵との距離が近すぎ、濃霧のおかげで、その規模、配置もわからない。しかし、発見されるにはもう少し時間がかかるかと思われた。畜生、連中がもう少し遅れていたなら、最低限の損害で脱出できただろうに。
漆原が駆け寄ってきた。切迫した表情だが、何も言わない。新城のだした沈黙命令を守っているのだった。新城は領いた。
「進言いたします、撤退すべきです」漆原はむしろ命令に近い調子でそう言った。
「距離が近すぎる。たとえ最初はうまくいっても、二刻以内に追撃で皆殺しにされる。霧はいつまでもあるわけではない」新城は言った。
「ならばここで? あんたいったい――」漆原は激発し、大声をあげた。
新城はそれを完全に無視した。〈帝国〉軍輜重段列の状況をもう一度確認し、その七割以上に放火したこと、生き残った敵兵はまったく戦意を喪失している(少なくとも今だけは)ことを確認する。そして鋭剣を突き上げ、漆原のそれとは比較にならぬほどの大声を発した。
「第一一大隊集まれ! 急げ!」
それを聞きつけた生き残りの兵の集合には、ほんのわずかな時間――おそらくは二、三寸ほど――しか要しなかった。剣牙虎が二頭減っていた。千早を含めて三頭しかいない。兵の数も明らかに減少している。
新城は漆原に訊ねた。
「これだけか?」
「のようです、大隊長殿」
「なんとも素敵になったものだ」新城は言った。
「しかし、いまさら引き返すこともできない。敵がそこまで来ている。胸甲騎兵だろう。状況から言って他にはありえない」
「総員九四名であります!」
背筋をのばした猪口が、靴の鐘《かかと》を打ちつけんばかりの姿勢をとって言った。彼の背後にいる兵たちも同様であった。薄汚れ、疲れ果て、傷を負い、血を浴びてはいるが、誰にでも見て取れるほどの戦意に満ちていた。
これを戦場ゆえの狂気と表現することは容易《たやす》い。
しかし、すくなくとも指揮官がその狂気を伝染させられる能力を持たねば、こうはならない。でなければ、ただ追いつめられた男たちの群になってしまう。
強姦や掠奪をおこなう敗軍の将兵は、おおむねそうした手合であった。
いま、生き残りの兵たちがそこまで堕ちていない理由はただひとつであった。他にすがるべきものを持たぬが故に、新城直衛を盲信しているのだった。
統制された狂気の源泉となっている凶相の男は秋晴れの空を見上げているような表情で兵をみまわした。
「現状はどう控えめにみても地獄だ」鋭剣の柄に手をかけて新城は言った。
「僕は平気だ。地獄は故郷のようなもの、なんとも心休まる。それに、僕が稼がねばならぬ時間もいま少し残っているしね。しかし、君たちに僕の帰郷へつきあえとは言えない」
「大隊長殿」猪口がさらりと言ってのけた。
「地獄で迷子になるよりも、いかれた指揮官と一緒に鬼どもと一合戦交えたほうがまLです。まあ、降伏でもかまいませんが。失礼ながら、将校というのはそんな役回りじゃありませんか?」
「なるほどね」新城は笑顔を見せた。奇怪さのない、子供のような笑顔だった。彼は表情を変えぬまま続けた。
「ならば、少しばかり楽しんでみるとしようか?地獄へ向けてまっしぐらだ、曹長。なかなかにして得難い経験であることは間違いない」
「御命令を、大隊長殿」猪口は焦《じ》れたような声でそう答えた。
「分隊縦列を組め。打方用意」新城は命じた。
「方陣ですか?」漆原が訊ねた。さきほどはぐらかされたからだろうか、まったく気の抜けた表情を浮かべている。というよりも、村々の偽装襲撃を新城に命じられる前の新品《しんぴん》少尉らしい素直な顔つきと言うべきかもしれない。
「この人数では組むだけ無駄だ」新城は答えた。
「何度かはしのげるだろうが、結局、包囲されておわりになる」
「ならばなにをl
「決まっている。撤退だ」新城は答えた。落ち着いた声だったが、目つきはそれを裏切っている。そこにある光は冷酷非情、残虐非道すら突き抜けたものだった。
「君の望む戦争だ、漆原少尉。正々堂々旌旗翩風《せいきへいふう》、孫の代まで語りぐさになる戦だ」新城は言った。
「僕らは撤退する。敵騎兵の中央を突き破り、その後方へ。どうだ? まるで諸将時代の軍記物語だ。これぞ戦争、そんなところだな」
漆原はなにも答えなかった。衝撃が大きすぎたのだった。
猪口が報告した。「大隊長殿、準備完成しました」
「ありがとう、曹長」新城は答えた。陣形を組んだ際の定位置とされている最後尾ではなく、三列を組んで銃を構えた兵の最前列、その左脇へ千早と共についた。やはり剣牙虎を連れた二名の兵には、自分のさらに左手へ付くように命じる。戦闘準備の完成であった。
敵の新手はついに新城たちを発見したらしい。
6
雪面を叩く無数の蹄《ひづめ》、その轟音が大きくなる。
霧が薄れた。
新城は敵を視認した。なるほどねと感心する。いつものことながら、〈帝国〉東方辺境領胸甲騎兵はその錬度の高さを見せつけていた。すでに突撃隊形をとっているにもかかわらず、みごとなまでに調整のとれた小隊縦列で突進してくる。
さすがに濃霧の中での急行軍は辛かったようだな、新城は妙に落ち着いた気分で〈帝国〉軍をそう観察した。中隊らしく思われたが、それにしては頭数が少なすざるからであった。いまの彼は逃避というより開き直りに近い心境になっている。といっても、背筋は冷たい汗で重く濡れている。大きく深呼吸した。
敵を無視するようにして兵たちを見た。命ずる。
「射撃はただ一度のみおこなう! そののちは、大隊長の命令に従い、敵の中央突破を図れ! なお、突破にあたっては、不必要な戦闘を禁ずる! 敵騎兵への攻撃は、戦友の命を救う場合にのみそれをおこなえ! 攻撃にあたっては、必ず脚、あるいは馬を狙うこと。奴らは胸甲をつけている。銃剣で腹は突けない! 終わーり!」
新城は敵に向かいなおった。敵騎兵は指呼の間に迫っている。雪面を掘り返し、凍結した大地を叩く蹄のたてる地響きが全身を打つ。鋭剣を振り上げ、命じた。
「打てエツ!」
雪上を突進する騎兵の姿に優美さはない。勇壮のただ一語がふさわしい。鋭剣を用いた戦闘に突入する騎兵の場合、特にその保持姿勢が特徴となる。動揺とは絶対に無縁ではない鞍上《あんしょっ》で無用の傷を負わぬため、その瞬間がやってくるまで、柄を握った側の肘《ひじ》を祈り、鋭剣を肩に押しっけている。いずこの国においても、騎兵将校用(騎兵用)鋭剣が片刃づくりであるのはそのためだった。
理由はともあれ、半ば不自然にすら思えるその姿勢で騎走するその姿は暴力の甘美さに満ちている。
先頭を突き進むのが、バルクホルンのような外見を持った男であればなおさらだった。
さすがの猛獣使いも追いつめられ、自棄《やけ》になっている。
、バルクホルンはそう判断した。ほぼ同数の騎兵による突撃を、ちいさな縦列の射撃で止められるはずがない。勝った。勝ったのだ。
彼は背を肩に押しっけて保持していた鋭剣を大きく振りかざした。大声を張り上げる。
「突撃! |〈帝国〉万歳《ウーランツァール》!」
一〇〇騎の騎兵は指揮官の雄叫びを聞き逃さなかった。さらなる蛮声をもって、一斉に唱和した。
猛獣使いの小さな隊列が一斉に発砲した。
射撃の効果はたいしたものではなかった。五、六名の騎兵が雪面へたたき落とされただけであった。
しかし新城は落胆しなかった。この射撃は、むしろ兵に恐怖を忘れさせるためにおこなったものであるからだった。
新城は領いた。大声を発する。
「目標、敵胸甲騎兵後方! 第一一大隊前へ。剣虎兵、我に続け!」
わずか九四名までに減った予備隊は一丸となって突進を開始した。
敵の動きにわずかな混乱が生じた。それはそうだろう。突撃をかけている騎兵に、突撃でもってこたえる銃兵(〈帝国〉軍に剣虎兵は存在しないから、この分類になる)など誰も聞いたことがない。常識をまったく無視している。
駆けだすと同時に新城は彼の子猫へ呼びかけた。
「千早!」
主人と共に駆けだしていた剣牙虎は振り返らなかった。新たな流血への渇望がその全身を狂騒させている。千早はただ猛烈に吼《ほ》えることで主人に答えた。
それこそが主人の望んでいた反応であった。千早につられ、他の二頭もすべての生物を恐怖させるであろう叫声を轟かせる。
莫迦な。バルクホルンは思った。銃兵が、突撃中の騎兵に逆襲するだと? 何を考えている?騎兵突撃には、たとえば方陣を組んで耐えるのが普通であるし、それは実際に最上の策でもある。、バルクホルンが怖れていたのもそれだった。
しかし猛獣使いはそれをとらなかった。みずからもまた騎兵であるように正面衝突をしかけてきた。
なんのつもりだ。バルクホルンは逡巡《しゅんじゅん》した。しかし新たな手を打つ暇はなかった。突撃にはいった騎兵の秩序だった方向転換や急停止は不可能なのだった。人馬ともに異様な興奮へ包まれている。正直なところ、ただまっすぐ進ませるだけでもなまなかな技ではない。
かまうものか。、バルクホルンはすべてを投げ捨てるようにそう決意した。とにもかくにも奴らを蹂《じゅう》躙《りん》する。討ちもらした連中は、追撃で殲滅するよりない。
そして、両者の最前列が接触しょうとした。猛獣の咆哮《ほうこう》が轟いたのはその時だった。それはバルクホルンの右前方から響いてきた。
何も手を打つ暇はなかった。
右翼側の胸甲騎兵、彼等のまたがった馬たちがそれに怯《おび》えた。しかし自分たちも興奮しきっている馬はまともに立ち止まれない。何頭かが前脚を折って雪上につんのめり、騎兵を空中へ放り投げた。
そして大部分の馬は、彼等に可能なかぎり、進路を左へずらせた(中には何事もなかったように走り続ける馬もあった)。
騎兵突撃は大混乱へ陥った。馬と馬が交錯し、衝突し、またがった騎兵を放り投げ、あるいは踏みにじった。全体の半数近くが、戦闘ではなく、馬をなだめるのに懸命になった。
思い切り笑いだしたい気分だった。新城の予備隊は、味方同士の衝突で死傷者をだしている胸甲騎兵の右脇を全力で駆け抜けようとしていた。
うまくゆくかな、新城の意識、その片隅にそうした思いが生じた。
霧は本格的に薄れだしていた。前方にある森が視界に入った。
あそこだな、新城は思った。森に逃げこめばなんとかなる。そこならば、騎兵の突撃をうけるおそれはない。そしてこちらは樹木の陰に隠れられる。こちらが圧倒的な優位を確保する。少なくとも、ひらけた雪原で皆殺しという無様《ふざま》な真似だけはさらさずに済む。
もちろんこうした思考は順序だてて生じたものではない。いまの新城にそのような余裕はなかった。
すべてが同時に思い浮かび、融合し、結論として浮かび上がったのだった。
問題は、敵がそれにどう対応するかだった。もし、敵の指揮官が有能な男であれば、それをなんとしてでも阻止しょうとする。
その時は、新城も責任をとらねばならない。
喉の奥から罵声が漏れる。他の誰に対してでもない、自分自身へのものだった。バルクホルンは自身の失敗を痛感していた。しかし、どうにもならぬとは思っていない。思考を完全に攻撃的なものへと切り替え、突撃の再興を図る。
中隊の半数以上はどうにもならぬほどの混乱に陥っていた。馬が狂騒し、全速であちこちへ散らばり続けている。死傷者は少なく見ても二〇名以上。無論、騎兵としての勢い――突撃衝力はすでに失われていた。
、バルクホルンは敵情を確認した。怒りというより感心したくなる。猛獣便いたちはまったく戦おうとしていなかった。森へ逃げこもうと駆けているだけだった。
ただ感心していられたら、どれほど楽なことだろう、バルクホルンは思った。もちろん彼にそのような自由はない。ロボフを呼んだ。彼とロボフの馬は剣牙虎の咆哮を怖れなかった。
「軍曹、何人動ける?」バルクホルンは訊ねた。
「二〇、いや、三〇騎です。三〇騎いけます!」ロボフは叫んだ。
「集めろ、私に続け!」バルクホルンは命じた。こうなっては、なにがあっても猛獣使いを逃すことはできなかった。
「終わらせてやる」馬を巡らせながらバルクホルンは呟いた。
「貴様の戦争をここで終わらせてやる」
胸甲騎兵の一部が素早く混乱から回復し、行動を再開した。森に向かってかける新城たちの右手を迂回し、追い抜き、前方へまわりこもうとしている。
動きに気づいた新城は愛猫《あいびょう》に再びよびかけた。
「千早!」
剣牙虎は吼えた。しかし、敵にさしたる効果はない。五騎ほどが脱落しただけだった。
さて、ならば。新城は予想していた最悪の事態へ対応する唯一の策をとった。千早と共に進行方向を変え、それでもまだ二〇騎以上はいる胸甲騎兵へと全力で駆けだした。つまるところ、それは彼が先ほど発した命令――戦友の命を救う目的以外の戦闘を禁ずる――に合致した行動だった。彼は自分をその例外とするつもりは毛頭なかったし、指揮官とはそうしたものだと決めこんでいた。
新城がまったく予想していない事態が発生したのはその直後であった。
背後から叫びが聞こえた。漆原だった。猪口ではなく、漆原だった。彼は命じていた。
「総員、大隊長殿を救え! 突撃!」
莫迦野郎。どうしようもない大莫迦野郎。新城は思った。この僕を救えだと?畜生。あいつ、命令を守っている。自分に続けば、半数は死んでしまいかねないことを知りつつ、そう命じている。ええい。命令というのはもう少し厳格でなければいけないな。まったく気に入らない。気に入らないぞ。戦争とはもっと残虐で、救いのないものであるはずなのだ。
こんな戦争は、大嫌いだ。
7
胸甲騎兵と剣虎兵は雪原で激突した。なにもかもが同時に発生した。新城が状況を把握していたのは、千早が二騎を片づけ、自分が最初の一騎、その脚に鋭剣を突き刺したところまでだった。
その後は何も気にする余裕がなかった。
彼は二人目の騎兵、その脚を狙って斬りつけた。しかし鋭剣は逸れ、切っ先は馬の腹に突き刺さった。
血が流れでる。馬は悲鳴をあげ、前脚で雪面を強く叩いた。騎兵が振り落とされかける。馬術巧者らしい。うまく踏みとどまった。
新城は容赦がない。その騎兵の脚にとびつき、体重を利用して雪面にたたき落とした。鋭剣を馬の腹から引き抜こうとする。それで止めを刺すつもりだった。
しかし抜けない。騎兵(剛毅な見かけの、将校だった)が起きあがろうとしていた。
新城は彼の頭を軍靴で蹴った。騎兵将校は再び倒れた。
鋭剣が抜けた。馬が暴れた。新城は素早く飛び退いた。馬は主人の左腕を前脚で踏みつけた。骨の砕ける音が聞こえた。騎兵将校は苦痛の唸りをあげ、意識を失った。
腹から血を流しっつ、馬は駆け去った。その時あらたな敵があらわれた。角張った顔をした人相の悪い騎兵で、下士官らしかった。鋭剣をふりあげ、新城に襲いかかろうとしている。
千早が主人の危機に素早く反応した。あらたな敵の方向をむくと、新城でさえ背筋がすくむほどのおそろしげな狂吼を放った。ただの吼声には耐えられた馬もたまらなかったらしい。前立ちになって暴れだした。新城と下士官の視線が合った。新城は、それを操っている下士官の顔にも恐怖が張りついてい
ることをみてとった。彼はもはや無視してよい存在だった。
新城は三人目にとりかかろうとした。自分を呼ぶ声があり、羽交《はが》い締めにされていることに気づいたのはその時だった。
「もう充分です、大隊長殿!」
漆原の声だった。新城は溺《あぽ》れかけている者のように目を大きく剥《む》きながら振り返った。叫び返す。
「殺す! まだ殺す!」
「敵は下がりました」漆原が言った。「再編しています。いまのうちです」
新城はぼんやりとした表情を浮かべた。ようやく、周囲が見えるようになる。あたりには、主をうしなった一〇頭ほどの馬、そして騎兵の死体があった。
〈皇国〉軍の制服を着用した死体の数は二〇以上。
騎兵と歩兵の殴りあいであれば当然の結果だった。
新城は領いた。その時になってようやく、漆原は声をかけていただけであり、自分を抑えていたのは猪口であったことに気づいた。
「後退する」新城は命じた。〈帝国〉公用語の叩きが聞こえる。
彼はそちらを見た。先ほど腕を砕かれた騎兵将校だった。
「止《とと》めを刺しますか?」ようやく腕をほどいた猪口が訊ねた。
「駄目だ。彼には戦闘力がない。〈大協約〉違反になる」新城は答えた。憑《つ》き物が落ちたような表情であった。
「しかし」猪口は焦れた声で再び言った。「〈大協約〉を遵守するのであれば、奴を捕らえ、手当をしてやらねばなりませんが」
「ああ」新城は領いた。「つまりそれが、僕の命令だ」
彼は制服の内懐から懐紙をとりだすと、鋭剣の血を拭い、鞘におさめた。
予備隊は森にわけいった。樹木のおかげで積雪量はたいしたことがない。しかし、行軍は難渋した。
兵の大部分が負傷していた。どうみても助かりそうにない重傷者も少なくなかった。
新城が最初の小休止を命じたのは森にはいって三刻後、二月二四日午前第一三刻であった。彼等はその三刻のあいだ、わずか二里を進んだにすぎなかった。
この時、予備隊の生存者は新城もふくめてわずか四二名、剣牙虎二頭に過ぎなかった。
彼等が〈帝国〉軍によって完全に包囲されたのは、それから二刻後のことであった。
周囲は〈帝国〉公用語に満ちていた。騎兵だけではない。銃兵もいた。大隊主力に守らせていた小苗橋渡河点が落ちたのか、それとも上苗からさらに兵力を増強したのか、新城には判断がつかなかった。
彼は森中にあった低く小さな丘に生き残りの兵を布陣させていた。陣形は方陣というより円陣に近い。
雪を掘って雪壕《せつごう》をつくり、ないよりましの塹壕がわりにしている。凍りついた地面を掘り返す体力も道具もないからだった。人数も少ない。生き残った四二名のうち、戦闘可能な者は三一名に過ぎなかった。
「来ますな」猪口が言った。彼は雪壕の緑からわずかに顔をだし、素早く周囲を確認していた。
「全周だな」新城は領いた。ここ数日、髭を剃る機会がなかったため、顎には陰ができている。
正直、どうにもならない。逃げることすらできない。負傷者を置き捨てることはできない。森であるため、砲が使えないのが幸いといえば幸いではあるが。
雪を踏みしめる音が響いた。
千早が低く唸った。
新庄は剣牙虎の額を揉んでやった。頭を軽く押さえつける。千早は壕の底に寝そべった。ここのところ汗をかいているためだろうか、首筋が無性に痒《かゆ》くなった。手袋をとった新城は音をたててそこをかいた。ひどく気持ちがよかった。爪をみる。垢がたまっていた。
猪口が報告した。
「来ました。全周。距離一〇〇間。少なくとも中隊規模。猟兵です。分隊縦列を組んでます。地形にあわせとりますな」
「弾はどれだけある?」千早の頭を押さえたまま新城は訊ねた。
「三二発です」猪口は答えた。
「引きつけますか?」漆原が訊ねた。
「いや、間に合わなくなる」新城は言った。たしかに、相手の数が多すぎた。引きつけ、命中率を高めて打っても、弾数より敵の数が多いのではどうにもならない。ともかくも、周りじゆうから近づいてくる敵を足止めせねばならない。
新城は自分も雪壕の緑から顔をだし、敵情を確認した。東側の敵がもっとも多かった。彼のちょうど右手になる。整然たる隊列であった。どれほど損害を受けようと歩幅を変えることなく前進を続け、五
〇間以下の距離で射撃を開始。こちらが隙をみせたら突撃――そうした、手堅い方法で揉《も》み潰《つふ》すつもりなのだった。
「各正面に一人ずつ残して、皆、こちらに集まれ」
新城は命じた。自分も東側正面に移動する。打方用意と伝える。
「斉射五発だ。いいか、勝手に打つな……打てぇ!」
浅い雪壕のなかで膝射《しっしゃ》の姿勢をとった兵たちは一斉に発砲した。敵の隊列、その最前列で二、三人が倒れた。次発装填。発砲。さらに三人が倒れる。次発装填。発砲。今度は五人。次発装填。発砲。七人。
次発装填。
敵の指揮官はついに耐えきれなくなった。いまだ七〇間以上の距離がある位置で隊列に停止を明示させた。装填をはじめている。
新城は五斉射目の発砲を命じた。
結果は確認しない。どのみち、たいしたものではないとわかっていた。今度は西側への移動を命じた。
そちら側は、もっとも敵の人数が少なかった(といっても、新城が率いる兵力の倍はいる)。
「斉射三発」
新城は命じた。人数が少なく、隊列維持の手間が少ないためだろう、西側の敵はすでに六〇間ほどの距離に近づいていた。東側から銃声が響く。頭上を無数の銃弾が飛びすぎる音が聞こえた。
「打てぇ!」
西側に対する射撃が開始された。今度は効果が大きい。敵の距離が近く、数が少ないためであった。
二斉射で二〇名近い敵兵が倒れた。さすがに崩れはしないが、前進は停止する。装填をはじめた。東側からあらたな銃声がおこった。
こちら側はこれで充分だ、新城はそう判断した。
三斉射目ほとりやめ、北側へ移動する。
北側の兵には一度しか斉射を行わなかった。弾数の少なさを気にしたのではなく、人間の心理に期待したからだった。不用意に近づけば、激しい防御射撃を浴びることさえわからせておけばよい、そう新城は判断していた。彼等は東側と西側がどんな目にあったか見ているはずだった。
今度は再び東側。敵の射撃、その合間をついて、二斉射を加える。
「南側、どうだ」新城はそちらへ残して置いた兵に訊ねた。
「並足で近づいてきます。目測四〇間」兵は答えた。
「始末におえんな」新城はぼやくように言った。うまくすれば、南側への射撃はせずとも痛むのではないか、と考えていた。しかしそこは〈帝国〉軍、通り一遍の防御射撃ぐらいで怯《ひる》みはしなかった。彼は兵を南側へ移動させた。装填させる。
「打ったら白兵だ」新城はまったく不本意そうな顔で言った。
「いいか、絶対に壕からでるな。敵を突き上げて殺せ。昔の槍兵のように、膝を付いた姿勢のままで、銃を斜めに構えていろ。その姿勢を絶対に崩すな」
彼は斉射を命じた。ただちに壕へ隠れさせる。周りじゅうから斉射の轟音《ごつあん》が轟《ととろ》いた。新城は銃声が響いてくる方向を確認した。南側からはない。やはり、このまま乗りこんでくるつもりなのだった。
「来るぞ」新城は警告した。鋭剣を抜き、千早を呼ぶ。剣牙虎は雪壕をひどく悠然たる態度で歩き、彼の傍らに寝そべった。もう一頭の剣牙虎を連れている兵も、自分の猫を呼び寄せていた。
雪を蹴る音が無数に響いた。喚声。最初の〈帝国〉兵、その軍靴が壕の端にあらわれ、雪を崩す。
「突けぇ!」
新城は叫んだ。
一斉に銃剣が突き上げられる。十数名の〈帝国〉兵が腹を刺された。半数は後ろに倒れて斜面をすべり、のこり半数は壕へとたおれこむ。
息継ぐ間もなく第二波があらわれた。ふたたび突き上げられる銃剣。新城も目の前にあらわれた敵の太股に鋭剣を突き刺し、雪壕へとひきずりこみ、今度は腹を刺した。二か所から血を噴きだしつつ敵兵は絶命する。
千早は楽しんでいた。うずくまった姿勢のまま壕の緑をみつめ、あらたな敵があらわれるたびにその脚を前脚で引き裂いていた。
「南側の敵、逃げます!」漆原が報告した。ほとんど同時に、東側の兵からも報告がはいる。
「敵縦列、突っこんでくる!」
新城は兵をそちらへすばやく誘導した。装填している暇はない。まともな待ち伏せの姿勢をとることもできなかった。彼は、最初にあらわれた敵兵に身体ごとぶつかるような勢いで鋭剣を突き刺した。
喚声、怒号、悲鳴が交錯した。雪面に紅いものが無数に飛び散る。二頭の剣牙虎が二〇名近い敵兵を瞬殺したが、それでも敵は多すぎた。彼等が後退した時、雪壕に残された戦闘可能な兵はわずかに一七名となっていた。
「いよいよいけませんな」猪口が言った。彼も右腕と太股に軽傷を負っていた。
「もう一度は、やれるだろう」新城は答えた。現状について、感情的に受け取る必要をまったく認めていない声であった。
「曹長、君は参加するな」新城は言った。「もう一合戦済んだならば、君は負傷者を率いてただちに降伏しろ。青い布は持っているか?」
〈大協約〉の定むるところによれば、休戦あるいは降伏を望む者は、青旗かそれに頼するものを敵に示さねばならないとされている。
「ありますが」猪口は答えた。「でも、あなただけ死のうってのは、虫が良すぎやしませんか、大隊長殿?」
「何を言ってるんだ」新城は口元を歪めながら答えた。
「指揮官にはそれなりの特権がある。曹長はそいつの尻拭いをするのが商売だろう。しかしまあ、勝手に死ねと言わないでくれてありがとう」
背後から声が聞こえた。
「自分も反対です。勝手に死なれては困ります」
新城は振り返った。漆原だった。
「降伏するぐらいならば、解囲《かいい》を試みましょう、大隊長殿。敵のもっとも弱い部分を喰い破るのです」
「勇敢だな」新城は答えた。
無茶な進言ではあった。この状況で突撃しても、得られるものはなにもないからだった。解囲はもちろん不可能。打ちまくられて、それで終わりになる。
であるならば、この雪壕でやれるだけやったほうがましだった。どうせならば、敵になるたけ大きな損害を与えておきたかった。卑近《ひきん》な満足感という意味ではそちらの方が大きい。現状はもはや戦術以下の状況なのだった。
しかし、彼の内心にはちょっとした喜びもあった。
漆原が完全に立ち直っていることだった。
「西側に強襲をかけて」漆原は言い、わずかに頭をもたげた。斉射の轟音が四方から響いた。漆原の後頭部から紅いものと白いものが飛び散った。彼は雪壕の底へと崩れ折れた。
「しっかりしろ」新城は漆原を抱き起こした。「療兵! 療兵! 急げー」
漆原は叩き、すべてを拒むように首を振った。
「いいんです」
生気の失せた顔で漆原は言った。
「自分はあなたと違い――」
言い終わらぬうちに彼は絶命した。
新城の顔面が歪んだ。白目が赤く見えるほど充血していた。こめかみに筋が浮かび上がった。
新城は生き残った者たちを見回した。重傷者まで含めても二〇名程度だった。元気なのは二頭の猫だけであった。
彼は空を見上げた。すでに夕焼けに染まりかけていた。
このまま暗くなってくれたならば――新城は思いかけ、違和感を覚えた。どうしてだろうと考えた。
あらたな銃声が四方から轟いた。
「あ」
新城はそれに誘われるようにして思いだした。懐から刻時器をとりだす。卒倒しそうな安堵感を覚える。何呼吸かしたあと、自分が為すべきことを思いついた。
新城は先ほど捉えた〈帝国〉軍将校へ歩み寄った。
「ようやく私を殺すつもりか」苦痛のあまり脂汗を浮かべていながら、〈帝国〉軍将校の声には挑むような響きがあった。
「済まないが、その予定はない」新城は答えた。けしてうまくはないが、母音のはっきりとした聴きとりやすい〈帝国〉公用語だった。
「私を殺せないのか、〈皇国〉人」〈帝国〉軍将校は言った。
「それとも、殺す度胸もないのか?」
「殺さないのだ」新城は明確な意志をこめた声で答えた。
「なぜ?」相手を見直すような表情を浮かべつつ、〈帝国〉軍将校は訊ねた。
新城は答えた。
「貴官と僕に関する限り、ここでの戦争は終わったからだ。そしてもちろん〈大協約〉に違反するつもりもない。それだけのことだ。これはまさに軍事的偽善にすぎない言葉だが、貴官の勇戦に敬意を表する。いましばらくの猶予を。出血がひどいな」
「手荒く運ばれたのでね」〈帝国〉軍将校は答えた。
「だからこそ、貴官が私を殺すつもりだと考えた」
「申し訳ないことをした。心より謝罪する」新城は完全に表情を消したままそう答えた。
「もう一度、療兵に手当をさせる。運が良ければ、死ぬことだけはあるまい」
〈帝国〉軍将校は驚いたような顔になり、考えこみ、やがて無表情となった。彼の顔面に表情が戻ったのは療兵が手当をはじめてしばらくしてからだった。
療兵は、血はもうすぐ止まります、この程度ならばふたつきほども寝ていたら大丈夫でしょうと言った。
「では、失礼する」新城は言った。
「何をするつもりだ」〈帝国〉軍将校は訊ねた。
「現在時は、二月二四日午後第四刻過ぎだ。友軍はこの北領からの脱出を終えている。というより、今から君たちが迎撃をかけても間にあわない。つまりだ、僕と部下の任務は完了した。これ以上、戦闘を続ける意味はない」
新城は経文を読みあげるような調子でそう言った。
「なるほど。貴官のような立場にだけは置かれたくないものだな」〈帝国〉軍将校は同情するように言った。
「戦争の結果はいつでも曖昧だ。勝ち負けでさえ、白黒がついていない。無駄な勝利もあれば、意味のある敗北もある。そこで死んだり手足を失ったりする兵にとってはどちらでも同じだが」新城はそう答えた。彼は続けた。
「さて、これより両手をあげる準備をなさねばならない。貴官の祖国ではいまだに青旗を掲げて降伏をあらわすのかな」
「そうしてもよいが」〈帝国〉軍将校は応じた。「どうやら貴官には、青旗の持ち合わせがないように見受けられる」
「みくびらないで欲しいな」苦笑しっつ新城は領いた。「僕は、なにごとにつけて用意のよい下士官を部下に持っている。貴官も同様なのだろうが」
「貴官の名は?」〈帝国〉軍将校は訊ねた。「私は西方諸公領オイテンブルク〈帝国〉騎士、ゴトフリート・ノルティング・フォン・バルクホルン大尉」
「新城直衛大尉」
フォン・バルクホルンは苦痛に顔をしかめながら敬礼し、言った。「新城大尉、わたしは貴官のごとき敵手とまみえられたことを身に余る光栄とする」
「それは僕も同意見だ、〈帝国〉騎士大尉フォン・バルクホルン。貴官のおかげで僕の大隊は降伏せざるをえなくなったのだから」
新城は答礼した。
降伏交渉はきわめて円滑に進んだ。まず、銃の先に結びつけられた青布が打ち振られ、〈帝国〉軍から歓声があがった。
新城は雪壕から立ち上がった。周囲は無数の〈帝国〉兵がおり、彼が陣地にしていた丘の周囲には二〇〇以上の遺体があった。全員が彼に、注目していた。
まあ、やれるだけはやったな、新城は思った。それになんと言うべきか、これだけの人数に注目されるのは悪い気分ではない。
彼は軍使の派遣について〈帝国〉軍に告げた。隊列からひとりの〈帝国〉軍将校が進みでて、それを受け入れる旨《むね》、返答をおこなった。新城と対面したのは、嫌になるほど美形の〈帝国〉軍将校であった。年齢は自分と似たようなものと新城には思われた階級は大佐であった。
新城は敬礼し、言った。
「〈皇国〉陸軍独立捜索剣虎兵第一一大隊指揮官、新城直衛大尉であります」
「〈帝国〉陸軍第3東方辺境領胸甲騎兵聯隊指揮官、男爵大佐アンドレイ・カミンスキィです」丁寧に答礼した〈帝国〉軍将校は答えた。
新城は領き、カミンスキィに言った。
「大佐殿、自分と自分の部下は、〈大協約〉に基づいた降伏をおこなう用意があります」
「貴官の決断に敬意を表します、大尉」カミンスキーイは答えた。
「〈大協約〉に基づき、貴官とその部隊の降伏を受諾いたします。なお、降伏にあたって、〈大協約〉の保証する俘虜《ふりょ》の権利、その遵守に全力を尽すことを皇帝ゲオルギィ三世陛下の忠臣にして藩屏《はんへい》たる〈帝国〉軍将校、〈帝国〉貴族として誓約いたします」
「貴官の勇気と道義に感謝いたします、カミンスキィ大佐殿」新城は言った。
「新城大尉、まさしく勇戦されましたね」型どおりのやりとりが終わったことを示すため、カミンスキーイは親しげな表情を浮かべてそう評した。しかし新城はそこになにか他の感情が潜んでいることに気づいた。
「過分のお言葉、痛み入ります」新城は答えた。
「しかし、真に賞賛されるべきは兵と剣牙虎たちです」
「そう、まさしく。賞賛されるべきは常に兵たちです」カミンスキィは領いた。
「だが、猛獣は腕のよい猛獣使いによって調教されねば人に馴れない」
「猛獣?」新城はとまどったように訊ねた。「剣牙虎のことですな」
「そうとも言えます」カミンスキィは答えた。「が、我々が貴官をなんと呼び慣わしていたか御存知あるまい。そうです。我々は貴官を猛獣使いと呼んでいた。我々にとってもっとも恐ろしかったのはあの猛獣ではなく、それを使いこなす男だったのです」
「大佐殿――」新城は言いかけた。カミンスキィがそれを制した。彼は言った。
「いやいや、新城大尉。ここはまずわたしの質問に答えてもらいたい」
「可能な内容であれば、大佐殿」
「まさに驚嘆すべき戦術眼に恵まれた貴官がこれほどまでに戦い続けた理由は何なのだろうか?」カミンスキィは言った。
「貴官のおかげで我軍の行動計画は大幅に遅延した。
わたしの聯隊も、まったく予定どおりに行動できなかった。おかげでわたしは先に進めず、とうとう前進を断念し、ここで貴官と話している始末だ――にもかかわらず、これほどまでに無益な戦いを続けた理由は?」
「御質問の意味がわかりません、大佐殿」新城は言った。
「遅滞行動がそれほど不思議なことなのでしょうか?」
「つまり、貴官は御存じないのだな、大尉」カミンスキィは微笑を浮かべながら言った。新城はようやく、さきほど感じ取ったものがなんであるかに気づいた。純粋な敵意だった。憎悪に近いものかもしれなかった。
「ならば説明がつく」カミンスキィは勝ち誇るように断じた。
「何に、でしょうか」新城は言った。
「貴官の抵抗についてだ、大尉。貴官の友軍は、昨日のうちに、その全兵力がこの大きな島から逃走した」カミンスキィは答えた。口調はさきほどまでとまったく違うものになっている。
「つまり、この二日間に貴官がおこなった勇戦はまったく無益なものだったのだ」
<#北領失陥4:終末 皇紀568年2月22日〜24日図挿入>
雪壕から新城の様子を眺めていた伍長がぼつりと言った。
「いったいどういう人なんでしょう、曹長殿?」
「質問は明確にしろ」猪口は答えた。
「ええ。つまり、ああ、よくわからなくなりました」
「莫迦野郎」猪口は失笑した。そして続けた。「新城大尉殿についてならば、わかりきっているぞ」
「なにがですか?」
「いい人だ。信頼に値する人だよ」
「どうしてです。降伏なんかして――」
「莫迦。これ以上戦っても意味はなかった。いまごろ友軍は尻に帆かけて北領から逃走中だ。それに、大尉殿が降伏してくれるからこそ、俺たちはこうして駄《たべ》弁っていられる。どうも本音のわからんところがあるけれど、俺たち兵隊にとってはそれだけで充分以上だ。少なくとも、公明正大明朗闊達《かったつ》な大莫迦野郎に指揮されて玉砕するより、ずいぶんとましだ」
「隣町の羅卒《らそつ》より近所の極道、ですか」
「そんなところだ」猪口は答えた。「それに、考えてみろ。あの大隊の扱い方。位階を持ってるぼんぼん連中なぞ比べものにならん」
「確かにそれは」
「ならば四の五の言わんことだ。もし貴様がくにへ帰ったあとも兵隊稼業を続けるつもりならば、担ぐ相手を選ばにゃならん。大尉殿ならば、すくなくともいくらかはまともな地獄を見せてくれる」
「それでも地獄ですか」伍長は溜息をつくように言い、周囲をみまわした。
「たしかにまあ、地獄ですね」
「つまりは裟婆《しゃば》と同じだ」猪口は答えた。「安淫売《いんばい》の値段が日によってかわるのと、なんの違いもない。
そいつは大きな違いだぞ」
「ひとつお訊ねしてよろしいでしょうか、大佐殿」
新城はカミンスキィに言った。
「可能な内容であれば、大尉」カミンスキィは先は
69 ど新城が発した言葉をあえて用いた。
「自分が苗川の下流に――小苗橋渡河点に残してきた兵力についてですが」
「ああ、彼等か」カミンスキィは領き、答えた。
「貴官は彼等を誇りに思うべきだ」
「具体的には?」険しさを隠しきれない声で新城は訊ねた。
カミンスキィはまったく朗らかな表情を浮かべた。
そうした新城の態度こそ、彼が望むものであったらしい。彼は快活に言った。
「彼等は最後の一兵まで戦った。今朝、突撃渡河の阻止に失敗し、全滅した」
交渉は終わった。
新城は丘に戻り、全員にそれを伝えた。誰もが無感動にそれを受け入れた。
新城も部下のそうした態度を批判する気にはなれなかった。肉体と精神のあまりに大きな疲労が、彼等から一時的に情動を奪っている。必死の包囲下から降伏――俘虜としての生へ。
あまりにも落差が大きすぎた。気が抜けて当然だった。新城自身がそうした態度を示していないのは、いまのところ、未だ指揮官として果たすべき役割があるからにすぎない。それに、カミンスキィという名の〈帝国〉軍大佐に覚えた不快感もあった。相手の態度はともかく、カミンスキィは、ただ存在するだけで彼の劣等感を刺激する存在であった。このまま俘虜らしいだらしなさを示し、相手を喜ばすのは、まったく気に入らなかった。
新城は猪口に領いてみせた。
「曹長、武器を引き渡すまで、俘虜としての僕らの立場は成立しない。つまり、僕らにはもう少し見栄を張る必要があるのだ」
猪口は背筋をのばし、承りましたと答えた。そして大きく息を吸いこんだ。
「これより、装具点検をおこなう!」猪口が裂帛《れっぱく》の号令を発した。
「整列!」
重傷者をのぞく全員が整列した。新城と猪口は兵ひとりひとりについて確認をおこない、乱れのある者は五〇回の腕立て伏せを命じ、そののちに装具を整えさせた。
新城はふたたび猪口に領いてみせた。猪口は、罰則を与えられた兵に重傷者を担がせた。バルクホルンもその例外ではなかった。それどころか、彼はもっとも丁重に扱われた。いまやそうすべき理由があった。
新城は隊列の先頭に立った。千早がその傍らに位置を占める。新城は命じた。
「第一一大隊前へ。剣虎兵、前進!」
彼等はむしろ勝者のごとく丘を下った。北領紛争はここに終結した。
第四章 俘虜
1
北府の、かつて北領鎮台司令部が置かれていた豪壮なつくりの四階建庁舎、その二階にある一室に新城が放りこまれてから五日が過ぎていた。降伏からは二週間近くになる。
以前は下級将校用の宿泊所だったらしい。狭苦しい部屋だが、軍用寝台と火鉢、それに洗面所と便所があった。扉の向こう側で張り番している兵に湯をもってこいと言えば、日に一度、手洗《ちょうず》で行水することもできた。最初のうちは日に二度、ひどく量の少ない食事がでるだけだったが、それも今日になって改善された。量が増えただけでなく、肉も含まれていた。連中、兵站《へいたん》をようやく整えたなと新城は思った。
〈大協約〉は俘虜《ふりょ》となった将兵の権利について明確にさだめている。たとえば食料は、自軍の同階級の者に与えるものと同じ内容でなければならない。宿泊設備その他についても同様だった。俘虜となったのちの犯罪行為いがい、処罰を受けることもない。
ただし、労役に使用することは認められている。就労時間は一日あたり一〇刻が限度とされていた。
労役にかりだされるのは将校も兵もかわりがない。
ただし、将校を労役そのものに関わらせることは認められていなかった。俘虜となった将校は、兵を指揮することで労役に参加するのだった。その理由はまったく現実的なものであった。
俘虜の労役は、当然、兵によって監視される。異国人とはいえ将校に直接労役させることは、兵の、将校に対する敬意を失わせる原因になりかねない。
そう考えられたのだった(なお、この種の条項が〈大協約〉 へ持ち込まれたのは、ほんの一〇〇年ほど前のことだった)。
将校には他にも特権が認められている。銃をのぞく私物の所持が許されるのだった。
基本的に将校は、ほとんどの装備を私弁するのがたてまえになっている。制服や鋭剣といったものは彼の私物であり、私物をとりあげる権利は誰にもない――〈大協約〉はそうさだめていた。
新城は寝台に寝転がっている。目は覚ましている。
なにもやることがなかった。どういうわけか、〈帝国〉軍は彼を労役の指揮にあてがうつもりはまったくないようだった。部屋には小さな窓があったが、霜がはりつき、息を吹きかけて溶かしてもすぐに何も見えなくなるため、北領の首邑《しゅゆう》である北府の雪景色を眺めることもできない。おまけに、その窓には鉄格子がはめられている。
かといって他に何があるわけでもない。本の一冊もないし、監視付きの散歩も認められていなかった。
結局、時間のすべてを睡眠不足の解消にあてるよりなかった。
とはいえ、五日目ともなると、さすがにそれも飽きてくる。なんとも贅沢《ぜいたく》なことに、寝過ぎで疲労がたまるという有様になってきた。ついには、ただ寝転がり、あれこれと考えているよりなくなった。
暇な人間はろくなことを考えない。
いまの新城もまったくそうだった。まずはぼんやりとし、そうしているうちに昔のことを思いだした。
いまさら取り返しもつかないほど時間の過ぎた、不愉快なことばかりだった。考えているだけで嫌になり、恥辱と憤怒が蘇《よみかえ》るようなことばかりであった。
二四年前、東洲の戦野で彼は五将家の雄、駒城《くしろ》家の跡継ぎである駒城保胤《やすたね》に拾われた。それも、共に彷裡《さまよ》っていた年上の少女――蓮乃《はすの》の添え物として。
幼い彼は、子供ゆえに鋭敏な感覚でそれに気づいていた。彼と蓮乃は相続権その他をまったく持たぬ養《よう》嗣子《しし》よりさらに地位の低い、育預《はぐくみ》として育てられた。
育預という立場はけして不快なばかりではなかった。とりあえず、駒城家の体面を守っていればよいだけで、なんの責任もなかった。生活にはまったく不自由しなかったし、最高の教育を受けられもした。
いずれも、育預に対して与えられるべきとされたものではある。しかし、彼が幼かった頃でさえほとんど顧みられなくなっていた義務でもあった。この点、駒城家は将家としての古風を失っていなかった。
そうしたあれこれについては、正直、感謝すべきであるとわかってはいた。
自分が故郷と家族を奪われた内乱で生じた孤児の中には、戦野をさまよって餓死した者、狼に喰い殺された者、敗残兵の慰み者とされたのち、殺された者がいることを知っていた。運良く皇室救児院や道宣孤児舎に収容されても、そこにあるのは充分からはほど遠い生活であることも伝え聞いていた。
しかし彼は自身の幸福を確信できなかった。すべてが与えられたものであるからだった。やがてそれは、彼の奥底にこびりついた耐えざる不安感へと変わった。
蓮乃をおそらくは永遠に失ったと確信したことにより、不安はさらに高まり、内心の歪みは強くなっていった。戦野で出会い、共に彷裡った少女。育預となった後は、姉となり、美しい女性に成長した彼女を、彼は当然のように深く想っていたのだった。
しかし彼女は彼のものにはならなかった。保胤に恋し、それを成就させた。身分の違いから正妻とはならなかったが、保胤はその点まったく物堅い男で、自分は複数の女性に愛情を注ぐことなどできないと宣言していた。それはまったくの事実でもあった。
すべては新城にとって耐え難い苦痛であった。保胤は駒城家における彼の最大の庇護者であるからだった。そしてなにより、蓮乃はこの世の誰よりも幸せそうであった。
おもてむき、彼は苦痛から生じる感情をよく抑えた。しかし、すべての面で、とはいかなかった。ある意味で、人としてもっとも重要な面でその均衡をとることになった。
保胤が、まったくの善意から彼に伽女をつけたのは、新城が一二歳を迎えた時だった。
伽女は彼より一〇歳ほど年上のふくよかな娘であった。夫を半年ほどで失った商家の四女だった。
奥底で小心な彼は、牡《おす》となるために二晩を必要とした。伽女は一〇日とたたぬうちに彼の寝所から消えた。彼が、あまりにもあさましい手順を踏まねば肉体的な満足を得られぬことに耐えられなくなったのだった。
駒城家を去る時、彼女は首に彩布を巻いていた。
布に隠された首筋と身体のそこかしこには紅《あか》い染みのようなものがつけられていた。首筋にある染みは彼の手形とまったく一致した。
あれは繊細にすぎる子供なのだ、保胤だけが彼をそう弁護し、いくらかの時をおいて、今度は、前任者よりいささか冒険心と包容力の強い伽女を彼にあてがった。
もちろん彼の性癖は改まらなかった。ただ、その時をのぞけば、ひどく控えめな、人によっては愚劣さのあらわれと判断するような態度の持ち主になった。
二人目の伽女は一三歳からの一年半、彼に女性についての虚実を教えこんだ。
彼は良い生徒だった。
一年半後、彼女は”お手付き”でも委細かまわぬという下級官吏の妻となり、彼から去っていった。
そして半年後に女児を死産し、自らもまた産褥熱《さんじょくねつ》で死んだ。
胎内にいたのは彼の子供だった。そう噂された。
もしそれが真実であるならば、彼女は彼女なりに、彼に対する愛情と信義を貫いたことになる。
おそらくは死をもって彼女の彼に対する教育は完成した。彼はその返礼として、内心にある彼女についてのすべてを消し去ろうと努力した。
彼の精神にはそういう部分があった。繊細と怯《きょう》情《だ》がわかちがたく結びついた内心を維持するためには、忘却に頼るより他にない。そう判断し、実行したのだった。一四歳の彼は、自分にそれが可能だと信じた。
要約するならば、彼はまったく利己的な博愛主義者、おそろしいほどに小児的な面を保った少年になっていた。いや、ここまでならば誰にでもあることかもしれない。
彼が他者と異なっていたのは、自分の内心にまったく卑しいものが住み着いていることについて、充分以上の自覚を持っている点だった。自分がそれを嫌悪しているばかりではないことに気づいていた。
卑しさを積極的に活用し、成果をあげているという認識まで持っていた。安易な自己批判、現実と願望を摺《す》り合わせられぬが故の自閉、無自覚ゆえの自己正当化によって生じる防衛的攻撃、他者を蔑《さげす》むことによる逃避――そうした心理的防衛反応のすべてが、生活に必要な技法であると理解した。どこかに逃げ道をみつけようと望めば望むほど、脳の周囲で車座を組んだ何人もの彼が悪罵を投げかけるからであった。
必然として、彼は少なからぬ者たちから嫌われた。
彼の友は放浪の中で出会った剣牙虎と、その子供として生まれた千早だけだった。
結局のところ、少年の彼はそのすべてをあいまいな態度の中におしっつんだ。ひとによっては、相手を莫迦にしていると感じる態度の中に潜めた。逃避のなかでそれがもっとも有効であると判断したからだった。
ただし、他者からの安易な蔑みを甘受することだけはしなかった。なんらかの方法で報復をおこなった。報復にあたっては、自身の卑しさから導きだされる結論に従って行動した。
特に女たちは容赦がなかった。ある日、駒城家当主たる駒城篤胤《あつたね》の家令頭、その娘から言われた言葉はそれを象徴していた。
家令頭の娘はそこそこの美人で頭の回転も速かった。彼女は、育預という立場の意味を理解できず、以前から、自分の方が駒城家で高い地位にあると示し続けていた。
しかし現実は彼女の思いこみを裏切った。彼女は裏切られたものが色々とあった。一時期、保胤の愛人としての地位を蓮乃と争い、敗北していた。すくなくとも本人はそう信じていた。否定された思いこみ、そこから生じた失望はもっとも手軽な対象(すくなくとも、彼女がそう信じるもの)への侮蔑や憎悪、攻撃的な態度へと転化した。
彼の言いつけた、ちょっとした用件を彼女は断った。手にしていた盆を放り投げたのだった。
「あたしに命令しないで頂戴」
彼女は言った。ひきつった声だった。自らの正しさを疑わない者に特有の、まったくあそびのない表情を浮かべていた。美しい娘がここまで下劣な態度を示せるとは、と彼が驚きを覚えたほどだった。
「どうして?」彼は訊ねた。
「女の首を絞める男の言うことなんて、きけるものですか!」
ああなるほどと彼は思った。年齢相応の怒りも感じた。そして、何も言うべきではないと結論した。
きつい反論や気の利いた嫌味は、彼が演じ続けている役柄にふさわしくなかった。彼は小さく溜息を漏らしただけだった。
それを見て娘の態度はさらに悪化した。莫迦にされたと受けとったのだった。なかば事実ではあったが、もう半分は、彼の顔、そのつくりがもたらした誤解だった。
「あんたのような餓鬼《がき》になんで! 気持ち悪い、近寄らないで!」
娘はわめき散らした。
それはやがてまったく支離滅裂なものになった。
彼女は自らの感情に支配されているのだった。
彼はその様子をじっと見つめていた。人がどうしてこうなるのか不思議だった。愚者は愚者。そう切って捨てることができない彼は、その理由を考えていた。
そして面倒になった。理由を探るのではなく、当面の安全を確保しようと考えた。すべてを報復に切り替えた。
自分ではなく、他者の問題にすりかえてしまおうと彼は思いついた。この頃の彼は、憎悪とその結末について後年ほど強い興味をもっていなかった。
わめき続ける娘を無視し、家令頭の部屋に行った。
申し訳ないが、あなたの娘さんをなんとかして貰えませんかと言った。彼にしてみれば、果たすべき役割を持った人間に、その履行をもとめ、問題の解決をはかっただけだった。それがもっとも効率のよい報復だと信じた。
よほどきびしく叱責されたらしい。翌日、彼女の頬は腫《は》れていた。
しかしそれは彼女の父がしたことではないという話になった。駒城家にかかわる誰もが、育預の少年が娘をいたぶったのだと信じた。女たちは特に強くそれを信じた。そうできればどれほどすっきりするだろうと新城は思った。
娘の態度もあらたまらなかった。彼女は遠くから彼を睨みつけるようになり、ことあるごとに彼の批判を口にするようになった。問題はまったく解決されなかった。
最初のうち、彼はそれを無視していた。娘が流す悪い噂はさらに過激な内容になった。嫌悪されていることを知りながら平然としていられる(そのように見える)彼の態度に、あらたな怒りを覚えたのだった。噂は拡大し、やがて、彼にわずかな好意を示してくれていた老女たちまでそれを信じかけるようになった。
ただでさえ致少ない味方を減らされてはたまらない。
彼は最終的な反撃に転じた。再び家令頭を訪ねた。
あなたの娘さんがとっている行動は、駒城家育預たる僕への侮辱です、と言った。つまりそれは、駒城家そのものへの不忠につながる。このままでは、殿様(篤胤)におすがりするより手が無くなります。
娘が他の将家へ”行儀見習い” にだされたのは、その数日後のことだった。彼は問題をまったく物理的に解決してしまった。
しかし噂は残った。彼はそういう人間なのだということになった。大抵の女にとって一種の怪物と化した。心のどこかに底知れぬ深淵が口を開けていると信じられた。
しかし彼は何の手も打たなかった。侮蔑されるより恐れられる方が好ましいと判断したからだった。
彼のみる限り、恐怖は少なくとも積極的ではある。
侮蔑を恐怖へ置き換えるのが、自分の能力、その限界なのだろうと決めこんだ。そしてこれも忘却してしまおうと思った。
もちろんそんなことはなかったな、寝台でだらけている将校俘虜に戻った新城はそう考えている。結局、いまだに何一つ忘れられない。不快な側面だけはすべてを覚えている。自分ではそう信じている。
たしかに、あの伽女はどうにもならなかったとは思う。しかし、もうひとつの方はどうだろう。
ほかにやりようがあったのではないか。過激にも、穏便にも。
たとえばあの家令頭の娘を強姦してしまえばどうだっただろう。あるいは土下座していたならば。どうなったかわからないが、自分が、今とは違った人間になったことだけは間違いがない。いやいや、どうかな。本当にどうだろう。いずれにしろ、今になっては遅すぎる。
しかし、どうでも良いとは思わない。
不快な記憶など封印してしまい、楽しいことだけを思いだせ、そう主張する者が存在することは新城も知っている。しかし彼はそうした考え方に同調できない。
いや、はっきりと蔑んでさえいる。それは何も見ないということ、自分の欠点に気づかぬまま無自覚に生きるということにつながるからだった。とてもではないが耐えられない。
新城は自分が卑しくも愚かでもあると信じていた。
それを恥じてもいる。しかし、無自覚に生きられるほど強い人間ではなかった。そこまで自分を貶《おとし》められはしない。
であるからこそ、不快な過去を望んで蘇らせるのだった。そこに何かを見つけだし、自分がさらなる愚劣さに陥ることを避けていた。
いや、そうなった時、その愚劣さに対応する術を用意しておこうとしているだけかもしれなかった。
そして、こうしたあれこれを考えていること自体が、俘虜という現在と未来からの逃避であることに気づいてもいた。
扉が叩かれた(これも〈大協約〉で認められた将校俘虜の特権の一つだった。常に、将校としての礼を受けられる)。
新城は起きあがった。はみでていた上衣の裾を軍袴《ズボン》に押しこむ。どうぞと答えた。彼は、戦地にいるのでも無い限り、たとえ部下に対してでも、丁寧な言葉を使う。
入室したのは彼より頭ひとつ高い若者だった。少尉候補生らしい。彼は鐘をあわせ、腰をわずかに折り曲げる室内の礼をおこなうと、まったく型どおりの質問を発した。
「自分は鎮定軍司令部付、ロトミストロフ少尉候補生であります。貴官は戦時俘虜新城大尉殿でありましょうか?」
「いかにも新城です」新城は首肯した。「貴官の用件はなんだろうか、ロトミストロフ君?」
「鎮定軍参謀長殿よりの伝言をお伝えにまいりました」ロトミストロフは答えた。
「御迷惑でなければ、参謀長執務室までおいで願えまいか、とのことであります。自分は、大尉殿にお受けいただいた場合、御案内するように命じられております」
敵の参謀長が大尉風情《ふぜい》になんの用件だろうと新城は疑った。そしてすぐに、考えるだけ無駄だと気づいた。彼はロトミストロフに言った。
「喜んでお招きをお受けする」
2
参謀長執務室は四階のなかほどにあった。ロトミストロフの他に、軍曹一名と兵二名が彼の周囲を囲むように歩いた。軍曹の顔に見覚えがあることに新城は気づいた。
ロトミストロフは新城をまったく上官として扱った。彼の左側を半歩遅れて歩きながら、そこを右であります、その階段を昇ります、はい、左側でありますと案内した。この若者の声に純粋な敬意が含まれているように感じられるのは、なにか、悪い冗談なのだろうかと新城は思った。彼は意識してゆったりとした呼吸を維持しなければならなかった。そうすることでようやく緊張の震えをとめることができた。
そして二人は扉の前に立った。そこが参謀長執務室であった。扉に記された〈皇国〉語を見る限り、〈皇国〉軍も、同様の用途にもちいていた部屋であるらしい。
ロトミストロフは扉を叩いた。入れ、でも、おぅ、でもなく、どうぞという声が室内からあった。へぇと新城は思った。部屋の主は、自分と似たような規準で部下を扱う男らしいとわかったからであった。
入室した新城は部屋の主に対して室内の礼をおこない、挨拶をした。
「新城直衛大尉であります。お招きにより参上いたしました」
「鎮定軍参謀長、クラウス・フォン・メレンティン大佐です」立ち上がって新城を出迎えた部屋の主は深味のある発音の〈帝国〉公用語で答えた。そして意外な言葉を付け加えた。
「ドゥゾヨロシク」
〈皇国〉語の挨拶だった。好意的な微笑を浮かべた新城は、それに感謝するように、もう一度礼をおこなった。相手の意図がますますわからなくなっている。
新城は型どおりのやりとりを継続した。
「大佐殿がお望みであれば、鋭剣をお預けいたします」
「貴官は〈大協約〉の遵守を誓われるか?」部屋の主はやはり型どおりに訊ねた。
「誓います」新城は答えた。
「ならばわたしは、〈帝国〉将校としての名誉にかけ、貴官の将校たるの権利を擁護する」メレンティンはそう言うと、両手をひろげ、よくぞいらしたと続けた。
「ロトミストロフ君、御苦労だった」メレンティンは少尉候補生に領いた。はい参謀長殿と答えた少尉候補生は退出した。
「大尉、そちらへ」メレンティンは室内に持ちこまれた背の高い椅子と机を示した。〈帝国〉らしい、重厚な装飾がほどこされたものだった。
対面にメレンティンが腰を下ろすまで待ってから新城は着席した。
「さて、君に何をさしあげようか」メレンティンは訊ねた。「黒茶か、それとも、もう少し強いものか?」
「それが〈帝国〉産であるのならば、大佐殿」新城は言った。
「もう少し強いものを、願います」
「兵隊言葉は使わずともよいのだ、大尉」メレンテインは言った。
「気楽にしてくれてよい。この場の君はわたしの客人だからな――従兵! 従兵! ああ、大尉とわたしに強いものを」
従兵が水晶碗《グラス》に注がれた透明な液体を持ってきた。
新城とメレンティンは水晶碗を掲げると、中身を一気に喉の奥へ放り込んだ。強烈な刺激がある。しかし新城はむせなかった。
「貴官は慣れているようだね、大尉」メレンティンが面白そうに言った。
「はい、大佐殿」新城は領いた。おもねる意味をまったく含めずに続ける。「〈帝国〉の酒を飲みながら、〈帝国〉語の本を読むのは自分の娯楽のひとつでした。無論のこと、三杯目を口にしたあたりで何が書いてあるのかさっぱりわからなくなりますが」
メレンティンは笑った。従兵にうなずいてみせる。
従兵は空になった水晶碗に酒を注いだ。メレンティンは新城に細巻を勧めた。新城は有り難くそれを受け取った。彼等はそれに火を点けた。主人役としては完璧な人物だなと新城は思った。型どおりのやりとりをかわし、酒を飲んだことにより、彼の肉体、その表側にあらわれる緊張と恐怖は完全に払拭されていた。
「貴官はわたしの真意をはかりかねているかもしれないが」紫煙を吐きながらメレンティンは言った。
「つまるところ、今日、君を招いたのは純粋な敬意の表明なのだ。まあ、ちょっとした手違いで五日ほど不自由をさせたがね。なにか希望は?」
「〈帝国〉軍が僕の部下を労役に供しているのであれば、大佐殿」新城は言った。
「将校としての義務を遂行できるよう、お取りはからいいただきたいのですが。僕は彼等を指揮せねばなりません。でなければ、彼等の指揮官たりえなくなります」
「その点については考慮する」メレンティンは言った。「しかし確約はできかねる。鎮定軍司令官閣下が、貴官の取り扱いに興味をもたれているのでな。まあ、興味を持っているのはわたしも同様だが」
「興味?」新城は鸚鵡《おうむ》返しに言った。「我が身の現状からすると、なんとも不安感をかき立てられる言葉です」
「残念ながら貴官は俘虜なのだ」メレンティンは陰のない声で言った。
「多少の不便は覚悟してもらわねばな。つまりわたしは戦場で第一番の武功を掲げた貴官の面識を得たかった、そういうことだ、大尉。処女《きむすめ》たちは恋に恋する。そしてわたしは参謀である前に騎兵将校だ。騎兵将校は英雄たるを生涯の大望とする。となれば、先にそれを実現した者から何かを学ぼうとするのは道理だ。たとえ彼が敵であっても。いや、敵であるからこそ、学べることもある」
「そう言われると、まったく返すべき言葉がありません、大佐殿」新城も苦笑していた。
メレンティンはどこか諧謔《かいぎゃく》を含んだ顔つきで言った。「猛獣使い、か。貴官はどんな男なのだろうかと思っていたよ」
「それが〈帝国〉軍における僕の通り名であるそうですね」新城は言った。
「ところで、僕の猫は――剣牙虎は元気でしょうか?」
「その点についてはいささか問題があってね」メレンティンは言った。
「我が方の俘虜管理担当将校に、貴官は二頭とも自分の私物であり、つがいであると説明したそうだな? しかしどうやら、二頭とも雌であるらしい。
どうしたものかと相談されている」
「それは気づきませんでした」新城はしらじらしく驚いてみせた。「しかし、剣牙虎が自分と兵にとってもっとも頼もしい戦友であることは確かです。本来であれば、私物としてではなく、正式に俘虜としての扱いを要求したかったほどです」
「確かに」メレンティンは領いた。
「その点については腹立たしくなるほどに同意できる。しかし兵器としては弱点もある。勇猛にすぎるな。まあいい、その点も処理しておこう。こちらの方は確約できる。〈帝国〉将校としても、わたし個人としても。ああ、近いうちに対面させてあげよう。
〈大協約〉を違えるわけにはゆかぬ」
「御厚情、痛み入ります」新城は心底からそう答えた。
「互いに忠誠の対象は異なっているが」当然だろうという口振りでメレンティンは言った。
「だからと言って、貴官に対する軍人としての敬意がいささかでも薄れることはない。そうしたものだ。
それが我々の守るべき最後の一線ではないか?」
「最後の一線」新城は同意した。
「かもしれません、大佐殿。他者への敬意は人を人たらしめる唯一の基準です。そしてそれは実績と信頼に依拠します」
「全然、同意する」フォン・メレンティンは首肯した。
「ならば貴官はわたしをどう評価する?」
「わかりません」新城は言った。
「というより、大佐殿、あなたがこの戦いでどのような役割を果たしておられたのか、寡聞にして僕はそれを知りません。僕が申し上げられることは」
「なにかね?」
「〈帝国〉軍はたいしたものである、それだけです。大佐殿。その点についてならばまったく疑問はありません」新城は言った。
「僕の置かれている現在の境遇がそれを証明しております」
「貴官にそこまで評されると嬉しくなるな、大尉」
フォン・メレンティンは答えた。
「わたしの知る限り、君はきわめて実際的な人間のようだから」
「好き嫌いは別にして」新城は同意した。
「その点は、あなたのおっしゃるとおりです、大佐殿。でなければ今頃は凍った骸《むくろ》になっていたことでしょう。そればかりは、いかなる意味においても実際的な選択として採用したくはありません」
「あの場で降伏したのも、かな? いや、答えたくないのならばそれで構わないが」フォン・メレンテインは訊ねた。それが本当に聞きたかったことらしい。
「風聞するところによれば、君の属する民族は大変に勇武を重んじるという話だったが。わたしは子供の頃、はるか東方の地で激しく争う戦士たちの伝説を教えられ、夜も眠れぬほど興奮した覚えがあるのだ。彼等は敗北よりもむしろ死を選ぶと聞いた」
「はい、大佐殿」新城は微笑した。
「それはかつて真実でした。いや、いまもなお真実と申しあげてよいでしょう」
「ならば君はなぜ降伏した?」
「すでに任務は完遂されていました」新城は答えた。
「それが理由です」
「誇りはどうなる?」
「誇りで兵を救えるのならば、それに従っていたかもしれません。いや、僕にとっては兵をただ名誉のためだけに死なせることは恥ずべき行為にすら思えるのです、大佐殿。たとえ歴史と伝統がそれを許しても、僕自身は毛頭それを許容しかねます」
そう言うと、新城は水晶碗を空にし、従兵に領いてみせた。きわめて自然な動作だった。駒城家で育っただけあって、このような場での礼と態度はわきまえている。
従兵はなんの抵抗感も持たずに敵国将校の椀へ酒を満たした。その後で彼は、この蛮人、いったい何者なんだと気づいた。そこらの〈帝国〉貴族よりもよほど偉そうじゃないか。
新城の見解にフォン・メレンティンは不賛成のようだった。が、礼節をわきまえた男らしく、可能な限り好意的な評価を口にした。
「それはなかなかの覚悟だな、大尉。〈帝国〉でも君の祖国でも、多数派の意見というわけにはゆくまいて」
「おそらくはそうかと思われます、大佐殿。まことに残念ではありますが」
「君の兵どもは、君の領地の出身なのかね?」フォン・メレンティンは話題を切り替えた。
「失礼ながら、まず質問をお許しください、大佐殿。〈帝国〉ではそうなのですか?」素直な興味をしめした表情で新城は訊ねかえした。
「そう言ってもよいな。皇帝陛下から聯隊編成の勅許をいただいた者が、自らの責任で部隊を編成し、〈帝国〉に貢献する。そして戦利品の分配にあずかるのだ」
フォン・メレンティンはグラスを持ち上げてみせた。
「実際的ではないか? 嫌々戦場におもむく者は一人もいない。平等とすら言える。もちろん兵士たる栄誉を与えられる者は貴族とその領民だけではない。
〈帝国〉公民もまたしかりだ。彼等は自由意思でもって軍へ入隊できる」
「〈皇国〉の兵制も基本的に同様です、大佐殿。特に陸軍の場合、その大部分は五将家領地の出身者で編成されます。もちろん皇主陛下の勅命によるものもあります。自分の所属する大隊は、その後者です」
新城は答えた。
「兵は〈帝国〉で言う公民たちになります。僕は領地というものを持ちませんので。まあ、書生のような生活をしております」
「つまり我が軍は、書生の率いる公民軍にしてやられた、そういうことになるのかね、大尉?」
「なにをもってしてやられたと評するのかにもよりますが、大佐殿」
フォン・メレンティンは楽しそうに笑った。そして言った。
「となれば、伝統的階級の出身ではないという君の立場は有効であったわけだ。兵にとっては」
「彼等がそう思っていてくれたならば、僕はそれを最大の名誉とします、大佐殿」
「敵である私が認めているのだ、大尉! 兵がそれを認めぬはずはないよ。やはり貴官は我が幕営にこそいてほしい男だな。貴官との会話はまさしく興趣つきせじ、だ」
フォン・メレンティンは新城の肩を軽く叩いた。
敵軍の参謀長と痛を飲むのがこれほど楽しい理由はなんだろうと新城は思った。
帰りには軍曹の指揮する二名の兵が護衛についた。
ロトミストロフはいなかった。
道順が違っている。
新城はいぶかしげな表情を浮かべた。
「新しいお部屋におつれします、大尉殿」軍曹が言った。
扉が開けられた。ほうと新城は驚いた。〈帝国〉貴族の居室に近い(と新城の想像する)調度が整えられていた。暖炉まである。
「軍曹」新城は言った。「明日、僕を銃殺にでもするつもりか?」
「いいえ、大尉殿」軍曹は答え、他の二人に外へでていろと言った。新城に向き直る。新城が腰にさげていた鋭剣を外《はす》すとそれを捧げもつようにして受け取り、部屋の隅に置かれた台へ丁寧にたてかけた。
新城は当然のような顔をしてそれを眺めていた。
軍曹はふりむき、下士官という役柄を捨てた態度で言った。
「俺の名はロボフ。アンリ・ロボフ軍曹だ」
「うん」新城は答えた。「確か、今日で二度目だな、ロボフ軍曹」
「若殿からうかがった」ロボフは言った。
「若殿?」
「フォン・バルクホルン大尉殿だ」
「ああ」
「あんたは若殿の命を放ってくれた」ロボフは真剣な表情で言った。
「そして、俺のしたことを誰にも言わなかった」
「バルクホルン君については、強運のよらしむるところだ、彼自身の。君については――」新城はそこで言葉を切った。贅沢な寝台の脇に置かれた小さな円卓に、二本の酒瓶と四つの水晶碗が置かれていることに気づいたのだった。
微笑を浮かべた彼は続きを待っているロボフに領いてみせた。
「とにもかくにも戦争だ。なにがあっても仕方がない、軍曹」
「本当にそう思っているのか?」ロボフは訊ねた。
新城はさらに領きを大きくした。
「剣牙虎に吼えかけられて平然としていられる者はまずいない。ましてや、あの時怯えていたのは馬だ。君ではなく。軍曹、君はその点について恥じる必要はない」
「そうかもしれない。いや、だからこそ俺はあんたに恩義がある」ロボフは言った。
「軍にかかわらぬことならばなんでもする。その時は言ってくれ。〈帝国〉じゃあ蛮族と言われているが、名誉と恩は知っている。俺の親父はフロイスベルクで〈帝国〉騎士二〇人とわたりあい、そのうち一五人を倒した勇者だった。族長だったんだ」
「立派な父上だな。うらやましい」新城は答えた。
「本当だ」ロボフは強く言った。
「疑ってはいないよ、ロボフ軍曹。君は父上にとって誇りうる息子たらんとしている。尊敬にあたいするよ」
「必要な時は言ってくれ。いつでも恩は返す。この戦が終われば、あんたの部下になってもいい」
「光栄だ」新城は領いた。小さな円卓の上におかれた〈帝国〉の酒をふたつの水晶碗に、任いだ。ひとつをロボフにさしだし、言う。
「ならば軍曹、まずは僕に一杯つきあい、そのあとは一人でゆっくりと寝かせてくれ。着衣の始末はしなくてもよい。ともかく、〈帝国〉貴族の甘い生活、その一端なりとも味わってみたい」
「はい、大尉殿」
ロボフは大変に丁重な態度をとって水晶椀へなみなみと注がれた酒を受け取り、一息で飲み干すと、失礼しますと言って退出した。新城は服と靴を脱ぎ捨てると、寝台にあがりこんだ。将校らしい演技も限界に達していた。
あれほど寝てばかりいたのだ、眠りこむには努力が必要だと思った。しかしそれは間違いだった。彼を包む疲労と不安は五日ばかりの惰眠《だみん》でどうなるものでもなかった。あるいは、ただ酔いつぶれただけかもしれない。透明な〈帝国〉の酒はまことに強烈だった。
3
三月末日のその日は朝から暖かだった。昨日いちにち吹き荒れた風は夜明前に止んだ。冬が終わっていた。〈皇国〉首都――皇都に春が訪れたのだった。
羽鳥守人《はとりもりと》はその往来をゆっくりと歩いていた。皇都の往来でも有数のにぎやかさで知られる銅座筋沿い、その猿楽《さるがく》街四丁目あたりだった。雑貨問屋などが軒を連ね、商家の手代や丁稚《でっち》が忙しげに行き交う商業地区であった。ふた昔前までは、皇室おかかえの猿楽師たちが住む街だった。
一見する限り、羽鳥に連れはいない。もっとも、連れがいたところで大してかわりはしないだろう。
眠たげな顔に丸眼鏡をかけた彼の見かけはまったく自己主張というものを感じさせなかった。よほど腕のよい仕立屋に頼んだに違いない衣服を身につけてはいるが、雀羽色の|二重回し《インバネス》にしても、その下の浅《あさ》黄《ぎ》色の上下にしても、望んでそうしているとしか思えぬほど控えめな着こなしであった。たとえ彼に気づいた者がいるにしても、どこか小さな私立学校の教師が散歩にでもでていると思っただろう。
猿楽街四丁目と五丁目をわける四辻で羽鳥は立ち止まった。羅率が笛を鳴らして人の流れを制止し、馬車鉄道や荷車を通していたからだった。質の良い虎城《こじょう》石が敷き詰められた街路へ埋めこまれた鉄路を、ゆっくりと馬鉄が通り過ぎていった。やはり馬に曳《ひ》かれた荷車や馬車が無数に走り過ぎてゆく。
羽鳥は欠伸《あくひ》をした。これほど馬が使われている割に、往来には馬糞の悪臭がほとんどなかった。拾い屋と呼ばれる回収業者が、それを見つけ次第、背負った桶の中へ放りこんでしまうからだった。回収された馬糞は近郊の農家が買い取り、肥料として用いられる。
紅葉《もみじ》色の鹿追帽に裾を絞った紺の商袴《あきないばかま》、丸に天という紋所の前掛けをかけた若い男が彼の傍らにたった。右手には風呂敷包みをさげている。一見して商家の手代風であった。
「旦那、よい御日和《ひより》になりましたな」男は言った。
光帯が白くかすんでいる青空を楽しげにみあげている。
「春ですな」羽鳥は微笑を浮かべつつこたえた。
「去年の一三月《とあみづき》あたりはよほど寒くて、これはどうなることかと思ったけれど」
「辻陰陽《つじあんみょう》どもの見立てるところじゃあ、今年は豊作間違いなし、なにもかもうまくいく、そんな話なんですがね」手代風の男が言った。
「となれば、年明けの気分も失せないうちに北領があんなことになったってのは、どういうことなんでしょうかねぇ」
「まったく心配だね、君」羽鳥は領いた。
「ま、手前どもの商いには、そう悪いことばかりでもありませんが。あ、手前は馬商《あきな》いの手代をしております」男は帽子を軽く持ち上げてみせた。
「わたしは小さな学校の教師をしている」羽鳥は答えた。
「密理かなにかの博士様で?」
「そんなに大したものじゃないよ」羽鳥は微笑した。
質問する。
「負け戦でも、馬商いは繁盛するの?」
「そりやもう」男は領いて見せた。「守原閣下の軍勢はなにからかにから放り投げて逃げ戻られましたからね。国中の馬商人が二年は遊んで暮らせるほどのご注文をいただいております」
「そいつは大したもんだ」羽鳥は暢気《のんき》に言った。
「なにもかもが悪く転ぶということはないものだね」
「ま、商いってのはそんなものでして」
「馬に緑がないもので、わたしは良く知らないのだけれど」羽鳥は訊ねた。
「あなたがたは、どこから馬を買いつけるの?」
「そりやもう、駒洲《くしゅう》でございます」男は答えた。
「名前のとおり、駒洲は良馬の地でして。代々の駒洲公様がそのあたりを大事にされたおかげで、質の良い馬はもう、あそこの産と決まっております。
〈帝国〉の馬にもひけを取りはしません」
「へぇ」感心したように羽鳥は領いた。
巡査が笛を鳴らし、馬鉄や馬車の往来をとめた。
男は帽子を持ち上げてわかれの挨拶をした。
「くだらない話をもちかけて失礼いたしました。あんまり陽気が良いもので、どたまの中も明るくなったような具合でして」
「いやいや、わたしも勉強になったよ」
「失礼いたします、旦那」
「ああ、さようなら」
猿楽街の四辻から遠からぬ、裏通りへいくらか入りこんだあたりに一軒の屋敷があった。二階建て、金壁造りの朱瓦《あかがわら》というふた昔前のはやりで建てられているが、よい具合に古びているため、練石《ねりいし》造りの三、四階建てがほとんどの周囲から浮き上がって見えることはない。家屋面積の倍近い庭があり、そこに手入れのよい庭木が植わっているともなれば、贅沢にすら思えるほどだった。皇都は一三〇万もの人口を要する、〈大協約〉世界有数の大都市であるからだった。猿楽街あたりではそれほどではないものの、金座筋沿いなどでは、万金を積み上げても家を買うことができなくなっている。
「もうすぐかな」
古びた屋敷の二階廊下、その硝子《ガラス》窓から庭を眺めていた男が呟いた。まったく典雅なものを凛わせている。人間の善性だけを寄せ集めてつくられたような顔つきは若いが、実年齢は四〇の坂を上っている最中であった。彼の視線はそこに植えられた枝振りのよい御門《みかと》桜に向けられている。〈皇国〉の国章ともなっている六弁の花を咲かせる御門桜は、この国の春を象徴する存在だった。
「天象院はそんなことを言っている」彼の隣に立った男が言った。少将の階級章をつけた〈皇国〉陸軍の制服を着ている。先の男と似たり寄ったりの年かさであるようだった。
「去年は開花予想が一〇日もずれたからね。連中、今年は本気だろうさ。あと、五日、六日というところだ」
「そりやもう、皇族御一同から衆民に至るまで楽しみにしている春の桜宴《はなうたげ》をふいにしたのだから」顔つきの若い男――駒城保胤は答えた。
「今年は汚名を雪《そそ》がなければ。二年続けて外《はず》したのでは、新聞に叩かれるだけでは済まなくなる。酔って火をつける奴がでるかもしれない」
「桜は六弁、散りゆく際《きわ》に、か」
陸軍少将は、〈皇国〉に古くから伝わる桜宴歌《はなうた》の一節を口にした。
「子供の頃は楽しみだったな。いつもは怖い顔をしている父があの日だけは優しくなった。家令に命じて屋敷の前を通りかかる物売りをかたはしから呼びとめてね。とても食べきれないほどの菓子を買ってくれた。子供だましの玩具も、抱えきれないほど。
理由はよくわからない。彼なりになにかあったのだろう。しかしまあ、嬉しかったよ。碁と正月は寂しいことが多かったからね。父がどこかで泥まみれになって死んだのも碁だった」
「親爺《おやじ》殿も喜んでおられるだろうさ、いまの貴様を見れば」保胤は言った。
「ろくな後ろ盾もなくその年で陸軍少将なのだから」
「だといいがな」準男爵陸軍少将、窪岡淳和《くぼおかあつかず》は答えた。
「幼年学校で駒城家の世継ぎと親しくなり、そいつのひきがあったおかげで昇進してきたことを実力に含めてよいのならば」
「実力だよ。間違いなく」保胤は言った。
「それにしてもこの屋敷」窪岡は扉でなく、障子で廊下と仕切られている室内を眺めて言った。
「いったい誰の持ち物だ? まさか貴様の妾宅《しょうたく》じゃあるまい。貴様が一穴主義の徒だというのはよく知っている」
「うちの爺様が片づく時に、妾《めかけ》へやったものだそうだ」保胤は答えた。
「もちろんその妾にもとうにお迎えが来たが、その甥子たちが随分と恩義を感じていてくれてね。貸してくれた」
「誰かに命じて、あとで白粉《あぶらごな》を用意させてくれないか?」窪岡は言った。
「他の将家連中をごまかしてきたものでな。このあたりに妾を囲っているという噂を流して。軍監本部に戻る時は少し白粉臭くなければならん。酒の一杯も飲んでおく必要もある」
「いっそのこと、本当に消耗して帰ったらどうだ?」
保胤は笑みを浮かべながら言った。
「どうせなら、あとで娼妓の一人も呼んでやるが。
もちろんこっちは遠慮する」
窪岡は本当に嫌そうな顔になり、言った。
「おい貴様、俺の家は親爺が死んだあとで並の衆民以下にまで落ちぶれたこともあるんだぞ。いまだってようよう人並みというところさ。餓鬼が七人もいるし、そいつらがまた揃いも揃って大食らいの野郎ばかりとくる。奥向きだってそうだ。貴様の家と違って、殿様が何をやっても黙って耐えてくれる奥方というわけじゃない。自慢じゃないが、俺が負傷するのは我が家の狭苦しい居間がもっぱらなんだよ。
皿だって安くはない。いいか、代わりの皿は俺が買ってこなければならんのだぞ。こんな生活をしている準男爵陸軍少将が他にいるか?」
「そいつはご馳走様。うらやましいなと言わせて貰おう」保胤は楽しそうに答えた。半分は本気の言葉だった。
階段を上る足音が聞こえた。保胤と窪岡はそちらを向いた。この家の主人だった。主人は保胤へささやくように伝えた。
「若殿棟、最後の御客様が御着きになりました。ずいぶんと高貴な御身分の方と御見受けします。御付きの方々は当家のまわりに散られたようで」
保胤は微笑しっつ領いた。
「わかっている。済まないが、今日のことは」
「承知しております」主人は答えた。「いくらかでも、駒洲様への恩返しとなれば、そう承知しております」
主人は階下へさがった。新たな足音が聞こえた。
保胤と窪岡は背筋をのばした。
最後の客があらわれた。保胤と窪岡は上体を(刻時器の目盛りにして) 二刻半ぶんほどもさげる室内の最敬礼をおこなった。通常の礼は一刻ぶんでよいとされている。二刻半を下げる対象はふたつだけ
――戦死者の棺《ひつぎ》と皇族であった。
室内には深藍《ふかあい》色の毛氈《もうせん》が敷かれていた。詰物人の織物円座が三つあり、簡単な酒肴《しゅこう》も調えられている。
円座のうちひとつだけは綾錦《あやにしき》がもちいられていた。
保胤はその綾錦を用いた円座に最後の客を座らせた。
「本日の密談、その目的は私の想像通りだと思ってよいのですか、駒城中将?」最後の客、親王陸軍少将実仁は訊ねた。軍の階級では保胤の方が上官であるため、慎重に言葉を選んでいる。今上皇主次男の彼にはそういう部分があった。
「殿下、どうか常の言葉で願います」保胤は言った。
「自分のいまのなりは」保胤は商家の旦那風に仕立てた着流しと羽織を示してみせた。
「このとおりですから」
実仁は苦笑して領いた。彼も似たような身なりだった。行儀良く祈っていた脚を崩す。保胤と窪岡にも、楽にしろと手で示した。彼は訊ねた。
「わかったよ、保胤。で、どんな悪行に俺を巻きこむつもりなんだ?」
言葉遣いがまったく変わっていた。顔つきまで違っている。実仁は、この国の皇族にしては珍しく、幼い頃から武張ったことを好む豪放な人物だった。
ひどく礼節を(つまり皇族としての立場を)重んじ、女子供に優しいという面がなければ、五将家から危険視されていたかもしれなかった。皇族には珍しく、日常的な語彙《ごい》が豊かなのは、幼い頃からがらの悪い御付武官たちにとりかこまれていたからだった。
「そこまでひどい話ではないですよ」保胤は答えた。
彼と窪岡と実仁は特志幼年学校同期だった。保胤の方が先に昇進した理由は、今上皇主正仁《まさひと》が、親王を――息子たちをなるべく苦労させて育てる方針の人物であるからだった。実仁はその方針にもっとも適合した親王であった。
「淳和、本当か?」実仁は窪岡に訊ねた。
「そこが難しいところで」窪岡は答えた。「保胤から概略聞かされましたが、それだけなのかどうか。おい、貴様、どうなんだ」
「軍は――特に陸軍は、北領の喪失を軽く見過ぎている」保胤は答えた。
「あの奪還計画か?」実仁は訊ねた。
「そうです、殿下。夏季総反攻。楽観的に過ぎます」
夏季総反攻は、〈帝国〉に奪われた北領の奪還を目的として計画されつつあった。〈皇国〉の軍事力、そのすべてを投入する、とされている。
「軍監本部はどうなんだ?」実仁は訊ねた。「結局の所、俺は近衛《ガーズ》だからな。陸軍中央が何を考えているのかはわからん」
「参謀の半数以上は反対しています。調べたところでは、水軍も統帥部と皇海艦隊は反対しているようで」
「鎮台の司令長官たちは?」
「龍洲鎮台、都護鎮台、そしてもちろん駒走《こましり》鎮台は反対しています。はっきりと支持しているのは駒城をのぞく五将家につらなる司令長官たち。もちろんその急先鋒は守原家ですが。他の連中は様子見ですね」
「つまり、近衛はどうかと俺に尋ねたいわけか、保胤?」
「はい、殿下」保胤は領いた。
「問題は敵情だな」実仁は言った。「北領から逃げ帰ってから再編成で忙しい。その種の情報も入ってこない」
「〈帝国〉軍――彼等が”鎮定軍”と呼ぶ兵力は、この一ケ月で、最低二万は増強されました」保胤は言った。
「夏季総反攻の予定は、六月とされています。総力をあげた計画となると意図の秘匿はまず無理でしょうから、これから三ケ月で最低六万、向こうが本気になった場合は一〇万以上の増援が予想されます。
つまり、現有兵力と合計して約一四万になるわけで、これは我が陸軍総兵力の七割を越えます。それに対してこちらは、総反攻とはいえ、総兵力の七割を投入することなどできません。兵端《へいたん》が崩壊します。よほど徴発をおこなわねば、まず船が足りないでしょう。そして船舶の徴発は、最終的に天領の反発を招きます。ろくなことになりません」
「水軍の反対理由もそれか?」実仁は訊ねた。
「噂では、表向きそうなっています」窪岡が答えた。
「しかし実際は――保胤がいる前で言いにくいのですが――以前からある五将家と衆民の対立がそこへ加わっているようで。水軍ではむしろ衆民が強いですからね。五将家の意地につきあわされてはたまらない、そんなところです。それにまあ、水軍将兵は政治にかかわることを嫌う風がありますから。連中、いまだに嘉門《かもん》ノ変を忘れられないと見えます」
実仁は領いた。快不快、そのどちらをあらわしてよいのか迷っている様子だった。水軍にしろ陸軍にしろ、衆民出身者は皇室尊宗の念が強いからであった。五将家出身者のような後盾を持たぬ彼等は、皇室にそれを求めているのだった。これに対して、五将家はいまだに皇室を政治的な道具として見る傾向が強い。その中でもっとも皇室寄りとされている駒城家ですら例外ではなかった。
「殿下?」保胤は質問した。
「近衛だな」実仁は答えた。
「はい」
「おおむね、貴様等の想像通りだよ」実仁はあっさりと言った。
「近衛は禁士と衆兵で割れている。禁士はもちろん総反攻に賛成だ。衆兵は黙っている。つまり反対だ。むしろ戦など二度と御免だと思っている連中が多い。気持ちはわかるがな」
〈皇国〉軍事力のひとつにかぞえられる近衛は、陸軍・水軍よりさらに歴史が古い。初代皇主明英《めいえい》帝に従った御万騎《ごまんき》衆がそのはじめとされている。時を経るにつれ、御万騎衆は禁衛士へとかわり、皇室の護衛隊としての役割を果たし続けた。しかし、その実力は諸将時代の到来とともにまったく衰微し、五将家による東海列洲制覇が完成した頃になると、実勢わずか三〇名という、宮城の警備すら難しい数にまで落ちこんでしまった。
その再建が始まったのは、ようやくここ二〇年ほどのことにすぎない。皇紀五四一年、駒城家を継いだ駒城篤胤の献策により、それが実働した。しかしその実際は困難に満ちていた。他の将家が皇室独自の軍事力、その拡大に反対の立場を示したからだった。
若年の頃より、政治家、軍政家として卓抜した手腕を示してきた駒城篤胤は、それを一連の交渉によって乗り切った。
まず、皇室独自の陸軍力を保有することは五将家の軍費負担、そのさらなる軽減につながると説得した(これはまったく真実であった。駒城篤胤もこの効果を第一のものとして捉えていた)。皇室が自侭《じまま》に兵を動かす危険については、その指揮官の半数を五将家からだせばよいと説明した。そして、ようやくのことで話がまとまりかけたところで新たな問題が生じた。禁衛士という伝統的名称にはありがたみがありすぎるという反対がでたのだった。
駒城篤胤は、ならば、総称を近衛《ガーズ》とし、五将家出身者を禁士、他の連中を衆兵と呼べばよいと答えた。
そうしておけば、”ありがたみ”を受け継いだ者が誰か、どんな者にも伝わるだろう。
ようやくのことで産みの苦しみが終わり、|近 衛 総 軍《インペリアル・ガーズ》の編成が始まったのは皇紀五四九年のことであった。総軍とはなんとも盛大な名前だが、その実勢は定数一万二千名に過ぎなかった。定数一万五千の鎮台以下の兵力であった。
近衛総軍司令部の参謀、その半数は五将家出身者で占められた。編制についても、五将家の要求が実現された。
近衛総軍司令部は、その隷下に二つの司令部を従えていた。近衛《ナイツ》禁士隊《ガーズ》司令部と近衛衆兵隊《シヴィル・ガーズ》司令部であった。総軍司令部および直轄の近衛兵端部に約三千名が配されているため、実戦部隊たる両者が保有できるのはわずか約九千名にすぎない。
このうち、近衛禁士隊は完全に五将家とその領民の出身者でかためられていた。禁士隊総兵力は約三千名であり、その大部分が近衛禁士騎兵第一及び第二聯隊に配属されていた。実勢一千五〇〇名にもならぬ大隊規模の兵力が聯隊とされた理由は、誇称と言うに過ぎない。
一方の近衛衆兵は、その名のとおり、衆民出身の志願者によっていた。指揮官の半数はやはり五将家出身者だが、他は将兵共に衆民出身者であった。なお、衆兵隊については、必要に応じて皇族出身の指揮官を戴《いただ》くことができるとされていた。約六千名の兵力を与えられた衆兵隊は、銃兵編制の近衛衆兵第五旅団と、近衛衆兵龍火第一旅団(通称近衛砲兵第一旅団)を主力としていた。合計六千名で二個の旅団を名乗っている理由は、禁士隊と同様であった。
なお、衆兵隊はその編制内に騎兵を有していない。
騎兵は禁士隊に集中している。これも五将家の多数意見が希望したものだった。彼等が騎兵を抑えていれば、たとえ皇室が何をたくらもうと、近衛は三兵編成をとれない。三兵編成がとれなければ、五将家が完全に抑えている陸軍には対抗できない――そうした理屈だった。
しかし、実際は心配のしすぎだったのではないか、近年はそう言われるようになってもいた。近衛衆兵隊の実状が、軍としてはどうにも程度の低いものにとどまり続けたからであった。志願者の不足から、衆兵は常に定数割れをおこしつづけていた。兵の士気、訓練にも問題があった。年に一度、霊峰《れいほう》大演習場でおこなわれる陸軍との対抗演習では常に惨敗を喫した。近衛衆兵は、弱兵の代名詞とすら化した感があった。
皇族としてはじめて近衛衆兵第五旅団長に任じられた実仁親王はそれを懸命に改革しようとしたが、彼の努力は、必ずしも報われなかった。
確かに彼は優れた軍人としての才能を有していた。
兵に慕われもした。しかし弱兵としての癖がついてしまった衆兵隊はなまなかなことで改まらなかった。
第五旅団の北領への派遣も、実仁親王がそれを強硬に主張しなければ実現しなかっただろうと言われている。そして実仁親王は、第五旅団の定数を満たすため、近衛砲兵第一旅団から兵を融通してもらわねばならなかったのだった。
北領敗戦後、実仁親王の武名は高まっている。彼がそのあてにならぬ第五旅団を率いて後衛戦闘にあたり、わずか二割の損害で撤退に成功したからだった。
しかし実仁親王はそれを誇る気分にまったくなれなかった。自分の旅団、その損害が少なかった本当の理由を熟知しているからだった。
「衆兵の士気はあがっていると思いましたが」保胤が訊ねた。
「そうでもない。知っているだろう? 後衛戦にあたって、第五旅団はほとんど戦闘をおこなわなかった。名ばかりの殿軍《しんかり》さ。兵はそれを知悉《ちしつ》している。
もちろん、俺もだ」
実仁は不機嫌そうに言った。
「実際に戦ったのは、保胤、貴様の義弟だ。俺の旅団だけだったならば――北領鎮台は全滅しただろう。ともかく、総反攻の反対勢力として衆兵隊はあてにならん」
「ならば殿下は?」保胤は質問した。本当に訊きたかったのはそれであった。
「反対に決まっている」
実仁は答えた。
「残念ながら、すべての兵力をかき集めても〈帝国〉には勝てない。北領の奪還など論外だ。負ける。国が亡ぶ。いやむしろ、〈帝国〉軍の内地侵攻を防ぐのも難しい。つまり、貴様が俺に頼みたいのは、この意見を陛下に奉上することだろう?」
「御明察です」保胤は答えた。
「貴様も同意見か、淳和?」実仁は訊ねた。
「はい、殿下。現状の急務は、各地の鎮台を軍に――完全な野戦軍へと切り替え、敵の上陸適地を予測し、防衛体制を整えることにあります。まずは禁《きん》裏《り》の意思統一をはかり……」
実仁が苦笑した。「やはり危ない話になってきた」
「しかし殿下、まずは国内の意思を統一せぬことにはどうにもなりません」笑いごとではないという調子で保胤は言った。
「五将家の抑える廟堂はもちろんとして、執政府と衆民院の同意も必須です。〈帝国〉 への軍事的対抗策、陸軍と水軍の完全な協調――そうしたものはそのあとです。いま試みても混乱を拡大するだけになります」
「陛下は俺と同意見のはずだ。兄上も同様だろう」
実仁は父を理解している息子の顔で言った。兄上とは直官《じきみや》(皇位継承者第一位)である史仁《ふみひと》親王のことだった。温厚な人物として知られている。気が優しすぎて、滅多に人前にはでてこない。
実仁は続けた。
「兄上はすぐに説得できる。しかし、兄上と俺が口にしても駄目だな。親王に甘いと非難される。というより、陛下がそれをお好みにならない。ならば何か考える必要がある」
「具体的には、殿下?」窪岡が訊ねた。
実仁は右手の中指で額を軽く撫でた。保胤を見て言った。
「貴様の義弟はどうしている?」
「直衛ですか。捕虜になっていることは確認しました。後方から伝えられた後衛戦闘の期限いっぱいまで抗戦を継続したそうです。あれの大隊で生き残ったのは二〇名そこそこであったと」
実仁は大きな溜息を腐らした。
「貴様の義弟は俺に大きな貸しをつくったぞ。〈帝国〉との交渉は? 捕虜交換はどうなっている」
「この半月のうちには成立します」窪岡が言った。
「つまりは〈大協約〉の定めた捕虜拘留期限いっぱいで。月末には全員が帰国できるでしょう。すでに水軍は送還船と帰還船の準備に入っています」
実仁は領いた。窪岡に言う。
「保胤の義弟を――新城直衛大尉を便船第一陣で皇都に戻せ」
「直衛をどうされるおつもりですか、殿下?」保胤がいぶかしげに言った。
「英雄にするのだ、無論」実仁は断じた。
「彼は北領鎮台を救った。そして俺の兵も。だから英雄になって貰う。そして古来より、戦場の英雄は陛下と百冠がいならぶ前で栄誉をうけ、その武功について直接陛下へ奏上することになっている」
「つまり、直衛に」わずかに顔面を紅くした保胤が言いかけた。
「そうだ」実仁は領いた。「〈皇国〉の有力者たちの前で、陛下に、夏季総反攻など妄想に過ぎぬことを吹きこんでもらう。いちどはじめてしまった奏上は誰にもとめられん」
「殿下、それでは直衛があまりにも」保胤が口を挟んだ。そんなことをやらせたならば、この国における新城直衛の立場はひどく難しいものになってしまうからであった。
「おまえが可愛がってきた義弟だ。気持ちはわかる。しかし他に方法がない」実仁は答えた。国家の頂点に座り続けてきた家系の出身者にしか示せぬ態度であった。
「ひとこと言っておくが、新城大尉の将来について俺が何も考えていないわけではないぞ。俺は――近衛衆兵は、彼にかえさねばならぬものがある。それを知っている。保胤、貴様がどうしてもと言うならば、これは親王実仁としての約定であると誓紙に記してもよい。俺は他の皇族連中とは違う。ああ確かに、新城大尉が俺を救ってくれたことは忘れるかもしれない。俺はひとから尽くされて当然の身分だからな。しかし、俺の兵を救ってくれたことは絶対に忘れない。どうだ、満足か? 紙と硯《すずり》を用意しろ。
このあやしげな家にも、道宣院の誓紙《せいし》が一枚ぐらいはあるだろう」
保胤は背筋を伸ばし、親王実仁に深く礼をおこなった。落涙している。
情の男だな、窪岡は友を横目に見つつそう思った。
確かにこいつは有能だ。昔からその点に疑問はない。
まさに次代の駒洲公にふさわしい。しかし、深すぎる情を持っている。それがこの男にとって仇《あだ》にならねばよいが。
いや、それほどの男だからこそ、友とするにたる。
命運を共にすべき朋輩と言える。やはり俺もその程度の人間か。なんともまったく喜ばしいことだ。
障子の向こうで足音がした。三人はそちらを向いた。盗み聴きをしていた者ではないとわかった。足音は階下から近づいてきた。
「まことに相済みません」障子の向こうから主人の声が聞こえた。
「なんだね」懐紙で目元を拭った保胤が訊ねた。
「御付の方が、お邪魔でなければと」
「俺がいってくる」窪岡がたちあがった。実仁と保胤が新城直衛についていくつかの話題を交換しているあいだに彼は戻ってきた。
「何人か、得体のしれん奴ばらがうろついているらしい」窪岡は言った。彼の顔面は蒼白になっていた。
「どこかの将家の者かもしれない。だとするならば、俺が尾行されたのだと思う。軍監本部《HOGS》からずっとついてきたんだろう」
「そうとは限らないぞ、淳和」実仁が言った。
「殿下?」保胤が訊ねた。
「俺がつけられた可能性が高い」実仁は答えた。
「皇族にはつねにそうした連中がついている。だとするならば、とりあえずの面倒ではないが、この先はうまく立ち回る必要がある。連中を敵にまわすわけにはいかん。というよりも、味方に引き入れるため、よほどの算段が必要だ」
「つまり」窪岡が片眉をあげた。
「ああ」実仁は首肯した。
「皇室魔導院だ」
4
〈帝国〉東方辺境鎮定軍による北領支配は、〈皇国〉軍の完全撤退から半月ほどで実働した。本領鎮台の撤退と同時に、〈皇国〉水軍も周辺海域から艦艇を引きあげたため、海上を経由する兵端線の安全が確保されたのだった。東方辺境領姫ユーリアはただちに各所へ命令を発し、〈帝国〉の新領土、その防衛体制の構築を開始した。四月の到来したこの頃、それはすでに確固たるものになりかけている。
ユーリアの執務室は、鎮定軍司令部最上階の中央にある。かつてそこには守原大将が鎮座ましましていた。ユーリアはその内装すべてをはぎとらせ、自分好みのしっとりとした色合いに変えさせていた。
「猟兵二個聯隊、砲兵一個旅団。その他独立部隊をあわせ、約二万二千名がすでに到着、鎮定軍の序列に組み込まれました」
メレンティンは説明した。ユーリアは執務机に直接腰をおろし、実にしどけない様子でそれを聴いている。彼女がそうした隙を見せるのはメレンティンに対してだけであった。愛人であるカミンスキィと同衾《どうきん》している時でさえ、これほど無防備ではない。
室内には他にだれもいなかった。
「これにより、第21東方辺境領猟兵師団は完全編成となりました。侵攻作戦によって生じた損害は次回の輸送船が運んでくる補充兵、装備で完全充足されます」
メレンティンは言った。大陸における大規模な作戦行動を基本とした〈帝国〉軍の部隊編成は、他の国に比してひどく大型になっている。たとえば、いまとりあげられている第21猟兵師団など、
騎兵一個聯隊
猟兵二個旅団(合計四個聯隊)
砲兵一個聯隊
――の、六個聯隊を基幹とする兵力で、そこに司令部直轄部隊をつけくわえると、実に四万名近くになる。他の国であればすくなくとも軍と呼ぶ兵力単位だった。〈皇国〉であれば三、四個軍(鎮台)で編成される総軍に匹敵する。〈帝国〉軍はこの大兵力の運用を、数多の実戦を経験した指揮官、参謀の高い能力と騎兵伝令の巧みな整備で実用に供していた(〈帝国〉では、いわゆる導術の利用はほとんどおこなわれていない。二〇〇年ほどむかし、〈皇国〉とは比較にならぬほどの宗教的弾圧がおこなわれたからであった)。
ただし、図体の大きさ故の面倒もある。たとえば北領侵攻のような渡洋作戦の場合、輸送船の不足からなかなか完全編成をととのえられないのだった
(東方辺境領における〈帝国〉海運業は、〈皇国〉商船団のおかげで沈滞し、隻数が減少していた)。今回、最終的に長蛇を逸することになった一因も、ほぼ半個師団でもって戦わねばならなかった点にあった。兵端の困難さについては無論だった。
「クラウス、今後は予定通りに?」ユーリアは訊ねた。室内には他に誰もいないため、いくらか甘いところのある声だった。メレンティンが覚えている、可憐《かれん》で元気な姫君を思いださせる。人々が彼女を東方の宝玉と称するのも当然至極と納得できた。
「真面目に聞いてくださいよ、姫」メレンティンは苦笑しっつ言った。ユーリアは小さく領いてみせた。
「今後の増援については」かなわないな、という表情を浮かべたメレンティンは続けた。
「第5東方辺境領騎兵師団、第15東方辺境領重猟兵師団を主力とする総計一二万名以上が準備を完了しています。必要とあらば騎兵二個、砲兵三個聯隊が別途に引き抜けます。その場合は支援部隊とあわせ、約二〇万になるでしょう。海上兵力については、姫様、あなたの直轄しているヴァランティ辺境艦隊一一八隻、徴用船舶一九七隻が自由に使えます。陸海軍ともに、他の正面に問題を生じさせずに使えるのはこれが限界です。我が東方辺境領も北部や東部の蛮族どもが静かになったわけではありませんから。
ともかく、これらの兵力は御命令があり次第、この新領土への投入が可能です」
「水軍が期待はずれだったわね」ユーリアはぼつりと感想を漏らした。
「ヴラソフスキィ提督の責任なのかしら」
「どうでしょうか」メレンティンはやんわりと否定した。
「辺境艦隊はその大半を船団の護衛と敵の捜索にあてねばなりませんでした。一一八隻にとって、海は広すぎます。まずは、それほどの損害をださなかったことでよしとすべきでは」
「つまり」いくらか険しさを凛わせた声でユーリアは訊ねた。
「あなたの前任者、ケレンスキィ中将の見積もりが甘かったと?」
「というよりは、〈皇国〉についての全般的な情報の不足ですな」メレンティンは即座に断じた。
「〈|帝国諜報総局《ナイツ・アンド・コーツ》は〈皇国〉をまったく重視していませんでした。だいたい、今回の侵攻は民部省の強い後押しで実現したものです。彼等は、〈皇国〉の経済力を知っています」
「実際に戦ってみると、意外なことが多かった」ユーリアは言った。
「あの蛮族ども、軍にはあまり金をまわしていないという話だったが、そうでもないのではないか?少なくとも、急場であれほど船を集めるというのは、なかなかできることではない。それにあの物資の量! 海岸で焼き忘れられたものだけで鎮定軍が半年過ごせるほど。アスローンの田舎者どもでさえ、そこまで手際は良くない」
「連中の水軍は大した数ではありませんが」メレンティンは答えた。
「商船が多いのです、あの国は。それをかき集めたのでしょう。つまりは民部省が懸念し、あなたが同意されたように、商業が盛んなのですな」
「商業」ユーリアはつまらなそうに言った。〈帝国〉とはずいぶん違うわと思っていた。
彼女の知る限り、〈帝国〉における商業とは大商人のものであった。事実、巨大な帝国領土の経済は、わずか二〇人ほどの大商人がそのすべてを支配しているのだった。もちろんその繁栄ぶりは皇帝をうわまわるほどではあったが、〈帝国〉の商業経済、その全般状況はつねに沈滞気味であった。東方辺境領もその例外ではなかった。
「自分は軍人ですから、姫」メレンティンは言った。
「正直なところ、商業の問題についてはかなりあやしいものです。姫の方がお詳しいはず」
「詳しいからといって、理解が深いとは限らないわよ、クラウス」ユーリアは答えた。
正直な反応であった。他の〈帝国〉皇族よりはずいぶんましとはいえ、彼女も所詮《しょせん》は姫育ちだった。
経済その他で〈帝国〉が抱えている問題について、実感というものを持たない。諜報総局ではなく、彼女自身の送りこんだ間諜たちが、なぜあの蛮国の経済力を高く評価しているのか、本当のところはわからなかった。巨大で強力な〈帝国〉にとり、あの小さな島国の経済がどうしてそれほどの意味を持つのか、納得できない部分が多かった(それは彼女の認識の甘さとは言い切れない。〈帝国〉が総体として強大な経済力を維持しつづけているのは事実だった。民部省の反応は、過剰にすぎる面が多かった)。
正直なところ、彼女は、民草が東方の蛮族について不満を漏らしていることを知ったからこそ、行動をおこしただけであった。それが民を愛する東方の宝玉としての使命だと信じた。民部省の抱いた危機感や彼等のおこなった働きかけは、いいわけじみたものに過ぎない。
無理もないことであった。その理由は、〈皇国〉の人々にもわかっていないからだった。〈皇国〉の経済的繁栄は、彼等がおかれた条件に影響され、段階的にできあがってきたものであるからだった。
〈皇国〉の経済が伸張した最大の理由は、五将家の制覇後、天領全域で国家権力による統制がゆるんだことにある。
もちろん、放置されるばかりだったわけではない。
ことに、徴税については大きな努力が傾けられた。
そしてそれが、〈皇国〉の経済的体質を大きく変化させる原因となった。
徴税へ努力を傾けるほど、その遂行が困難になっていったのだった。資産を持つ者はすべてと言ってよいほど、極端な所得の隠蔽《いんぺい》に努力した。
徴税吏たちは熱心に努力したが、実効はあがらなかった。
やがてあらたな問題も生じた。財産の相続について、めったやたらと訴訟がおこされるようになったのだった。
その頃、〈皇国〉における相続の基本は、古典的な慣習にのっとったものであった。一家の長男にすべてを継がせる、長子相続がおもにおこなわれていた。もちろんどの家でも長男が元気で有能とはかぎらないため、限嗣相続もおこなわれる。ともかく、それらは一家の財産を分散させぬために登場した自然な相続方法であった。
しかし、天領における個人活動の無政府状態は、やがてそれと真っ向から対立するようになった。たとえば多くの次男、三男にとって、それはまったく不自然なものと化した。最初のうちは、都市が地方の余剰労働人口たる彼等を吸収して均衡をとったが、何年かするうちに追いつかなくなっていった。必然的に、長男が無能であるが故に、という理由でおこされる訴訟が増大した。天領中の訴訟院は、どこもかしこもその種の問題でいっぱいになった。
同じ頃、皇室とその執政府官僚団もある種の恐怖を抱くようになっていた。厳密な長子相続制度の維持が、再び諸将家時代をまねき寄せるかもしれない、そう考えられていたのだった。
長子相続とはまず家という組織を生き残らせるためのものであり、その目的は力の維持、拡大、強化にある。つまり、まったく古典的な、地方小領主にとってもっとも有効な方法なのだった。そして力の拡大強化に成功した小領主たちは、〈皇国〉の場合、将家と呼ばれる存在になり、戦乱をもたらした。
かくして、〈皇国〉という組織、その上下で生じた要求が合致した。長子相続は否定され、財産は、家族へそれなりの均衡をとって分与される財産分与法が施行された。皇紀五三六年夏のことであった。
これがすべてのはじまりであった。
まず、大規模土地所有者が次々に姿を消しはじめた。豪商として知られていた者たちも同様であった。
どんなに富裕なものであっても、三代、四代過ぎれば家産の大部分が消滅してしまう――財産分与法が示した未来は、彼等の過剰な反応をよびおこした。
まず、大規模土地所有者たちが小作制度を維持できなくなった。実際の耕作者たちに生活向上の機会を与えない小作制度では、生産効率その他の上昇がまったく見こめない(誰も彼も、できる限り手を抜こうとするのだから当然と言える)。これでは活発化、虎動化の一途をたどる天領経済に対応できないのはあきらかだった。
さらにその資産が分割されるとあってはどうにもならない。大規模土地所有者は、小作農へ土地を売り払うことで、近視眼的な資産の維持をはかった。
こうして、奴隷労働的な制度は完全に消滅した。
自作農となった農民たちは、生活をさらに向上させるため、増産へ努力を傾注した。自分たちが得たものを維持するため、自作農同士で連合するようにもなった。〈皇国〉軍が、従来の意味での兵端活動――農村からの略奪をおこなえなくなった原因のひとつはここにもある。
商業面においても同様の事態が発生した。財産分与の実現により、創業者一族がその資産のほとんどを所有することは商家の自滅をまねきかねなくなった。このため、社会の広い範囲へその財産権を拡散させ、相続によって生じる危険を最低限におさえる必要性が生じた。結果、商家の大部分は(その規模が大きければ大きいほど)、多数の人々からの出資をもとめる合資組織にかわった。それは必然的に所得の再分配を加速することになった。
高山の廊泉から生じた水がすべての平野を潤すように、所得の大部分がこれまでとは比べものにならない速度で社会組織全体へ再分配されるようになった。それは〈皇国〉における旧時代の終焉《しゅうえん》であった。
加速された所得再分配は、多くの人々に生活向上の機会を提供し、それは天領における旧時代的身分制度の消滅と衆民発言権の増大を招いた。
皇室と執政府官僚団もその影響を無視できなくなった。彼等はまず皇撰(官撰) の衆民代表よりなる衆民会でそれに対応したが十分ではなく、衆民代表はやがて大領衆民による公撰となった。
伝統的階層の出身者が多数を占めていた官僚団も、衆民出身者に門戸を解放せざるをえなくなった。あまりにも急速に流動する社会に、伝統的階層の限定された人口では対応しきれなくなったからであった。
それにはもちろん、衆民たちから示される強い不満に対応する意味もあった。
しかし、さらに現実的な問題があった。官僚たちの目論見《もくろみ》とは逆に、財産分与法の施行は、訴訟の数をさらに増大させ、社会のあらゆる側面で、これまでとは比べものにならぬほどの多数の官吏が必要になったのだった。
衆民出身官僚は当初、財貨でもってその地位を買った者たちが大部分であったが、すぐにそれだけでは足りないことが明らかになった。皇都において政治の季節がはじまり、それはひとつの提案を皇主に密奏する結末をもたらした。
皇紀五五四年、御年一七歳で即位したばかりの今上皇主正仁は、提案に対して同意する旨、”感想”を述べた。
こうして公的な裏付けをえた提案は、詔勅ではなく、宣旨として発布の手続きが進められた。
発布に複雑な手続きを要する詔勅では、途中で妨害されるかもしれない、提案者たち――当時、衆民派と呼ばれた急進改革派若手官僚団はそう考えたのだった(実質的には官僚だけでことがすすめられる宣旨の場合、その心配はない)。宣旨は、皇主の承認、その翌日には〈皇国〉全土で宣下されていた。
宣下の対象は万民。つまり天領に居住する全ての人々であった。
その宣旨は次のような一文ではじめられていた。
今後、皇道ハ万民ガ補弼《ホヒノ》協賛ニヨリテ決セラレルベシ。
万民補弼宣旨書として知られるこの文書により、〈皇国〉の――すくなくとも天領の公職はすべての階層に解放されることになった。と同時に、天領における衆民院の発言権も著しく強化されることとなった。
官僚の採用は試験をもっておこなわれるよう、ただちに法改正がなされた。皇紀五六七年現在、試験制度でもって採用された官僚たちは、〈皇国〉執政府枢要機関で中堅官僚の位置を占めるようになっていた。
天領の繁栄は、こうした事柄が互いに影響しあって造りあげられたものであった。北領での戦いにあたり、〈皇国〉がユーリアの驚くほどの物資を輸送できた理由もここにある。〈皇国〉は合資商家の経済力を頼って、直接的な財政の不足を一時的にやりすごし、大量の物資を買いつけた。さらに彼等に金を払って商船を雇い、物資の輸送と兵員の脱出まで成功させた(水軍と商船団の密接な連帯意識は、しろ間接的な効果というべきものであった)。
農奴制、大商人支配がいまだに維持されている
〈帝国〉の権力者、東方辺境領姫ユーリアがそれを理解できないのも無理はなかった。それに、国家権力の弱体が繁栄をまねいた、などという理屈は、とうの権力者にとってまったく不愉快なことでもあった。それは王族その他の伝統的現世権力、その存在意義を真っ向から否定しているに等しいからだった。
正直なところユーリアは、〈皇国〉でいまだ皇主がその地位を維持している理由がまったく理解できなかった。
〈皇国〉における皇主とは、なかば神話の登場人物に近い初代皇主、明英帝にのみ現御神《あきつみかみ》という神聖性が与えられている。その後の歴代皇主は徐々にそれを失った。
はじめのうちは現御神ガ御神子《おんみこ》とされ、半神《デミゴッド》としての政治装飾が行われていた。しかし五将家が東海列朗制覇をなしとげた頃には、社稷《しゃしょく》ガ御血筋という程度にまで地位を切り下げられていた。
皇紀五六七年という時点においてはその傾向がさらに強まっている。誰も彼もが敬いはするが、まずはそれだけであり、現世権力者としての地位はさっぱり無視されていた。要約してしまえば、高峰、巨石、大木といったものを、その存在ゆえにありがたがる原始宗教の対象、そうした扱いであった。
思いがけずも復活することになった天領への統治権も歴史を逆転させることはなかった。天領の衆民すべてが、実際の統治者は執政府官僚団、そして五将家であることを知り尽くしていた。五将家の勢力が弱体化してからは官僚団を統治者としてとらえ、やがてそこに衆民院が加わった。
皇主の有する唯一の現世権力らしきものは、法の発布や戦争といった場合に、必要な書類へ御名御璽《ぎょめいぎょし》をおこなうことだけであった。
そしてそれすらも(万民補弼宣旨書にみられるように)滅多なことではおこなわれなかった。大抵の問題は宣旨で片づけられてしまうのが常だった。
そして正仁皇主は、その宣旨についてすら、周囲へ慎重に諮《はか》ったのちに「同意の感想」を漏らすのだった。衆民に憎まれる危険のあるものを極端に嫌った。
衆民から寄せられるなんとはなしの敬意、それだけが皇家存続の基盤であると熟知していたのだった。国造りがはじまってから二〇〇年後にはほとんどの権力を失っていた人々だけが知る、とてつもなく現実的な生存術であった。
しかし〈帝国〉は違う。そこを支配する者は寓に現世最高最強の権力者たる皇帝であった。支配者とはそういうものだとユーリアも信じている。となれば、権力ではなく権威でもってその命脈を保っている〈皇国〉皇主について理解が及ばないのも当然と言えた。
「連中の動向は?」
ユーリアは訊ねた。
「反攻を企てているようです」メレンティンは答えた。
「詳しいことはわかりません。しかし、早くとも初夏にはずれこむでしょう。あの国の正規軍は、根こそぎ集めても二〇万程度。水軍は四〇隻程度です。
守りにまわるならばかなりのことができますが、反攻には不足しています」
「して欲しいわね、反攻」ユーリアはあざけるように言った。
「たった一度の会戦で全軍をひねり潰してやれるのに。そうしたならば、来年の春には全土を占領しているわ。発言権を確保するために皇帝陛下が――叔父上が親衛一個軍を貸してくれるとまでおっしゃっているのだもの。いざとなれば帝室艦隊《ツァルフロト》も引きだせるかも。そうなれば南北から同時に本土へ侵攻して、片づけられる」
「向うの執政府や軍が莫迦ばかりならばそうなりましょう」メレンティンは答えた。
「そうでもないと言うの?」ユーリアは言った。
「姫、たった一個大隊に苦労させられたばかりではありませぬか」メレンティンはたしなめた。
「ああ、あの男」
ユーリアは顔をしかめた。
「いくらか期待していたのだけれど、見かけは悪いようね? 残念だわ。醜男には少しばかり厳しいの、わたしは」
「いや、面白い男ですよ」メレンティンは答えた。
「見かけで損をしているのは確かですが」
「男の顔は内心のあらわれよ」ユーリアは切り捨てるように言った。
「つまり、いじけた人間ならばそういう顔になってしまうもの。ああ、その点は女についても言えるけれども。知能はあっても知性のない女をみたことがある、クラウス? 曇りのない、水晶玉のような目を持っているわ。だから、きっとあの男、蛮族の猛獣使いは濁った目をしているに違いないわ」
「女性にとっての魅力、その観点から申せばまったくそのとおりでありましょう、姫君」メレンティンは言った。
「でもあなたは高く評価している」
「はい。なろうことなら、敵にだけはまわしたくありません。味方に引き入れるか――〈大協約〉が無ければ処刑したいところです。少しばかり誘導尋問を試みましたが、どうにもうまくいきませんでした。
結局、二人して昼間から酒臭い息を吐くことになっただけです」
「クラウス、あなたがそこまで言うのならば」ユーリアは仕方なさそうに答えた。
「一度会ってみましょう。忍びで。恐いもの見たさ、ね」
「御意に、姫棟」メレンティンは一礼した。
困った姫棟だと優しく思っている。あの新城という男を特別扱いするように命令をだしたのは自分自身だというのに、それを忘れたような顔をする。幼い頃、もう少し素直さに重点を置いた御養育をこころがけるべきだったろうか。いや、もしかしたならば、今からでも。
ああ、なにをいまさら。カミンスキィのような者を愛人にしたあとで、なにをどう素直になれと言うつもりだ。
5
寒地の春は必ずしも心地よいものではない。
確かに暖かくはなる。しかしそれは、降り積もった雪が溶け、凍りついていた大地が温むことを意味してもいる。溶けかけた雪は、夜の寒気によって昼間の間に浴びた埃《ほこり》や泥とともに凍りつき、翌朝、薄汚くも情けない有様を呈することになる。
大地にしても同様であった。表面はひどくぬかるむが、もうすこし深い部分には凍りついた層がある。
とにもかくにも汚らしい。春ゆえの浮き立つような光景があることも否定できないが、全体としての印象には、どこか混沌《こんとん》としたところがある。
わずか二〇名ばかりで、一日あたり四〇本もの樹木を切りだすのは楽な仕事ではなかった。作業にあたる者が素人ばかりとなればなおさらであった。
何かを引き裂くような音響が響いた。実に見事な直円錐状に枝を伸ばした北領松の巨木が、枝葉に降り積もった雪の尾をひきながら倒れてゆく。緩やかな斜面へめりこみ、地響きをたてた。
新城は全員の状況を確認した。誰も怪我はしていない。命じた。
「牽引用意、かかれ」
北領の激戦に生き残った兵たちは切り倒されたばかりの巨木へとりついた。あちこちへ綱をかけ、下士官の号令にあわせ、左右から慎重に力の釣り合いをとる。彼等は労役をおこなっている小山の緩やかな斜面、その切り開かれた部分へと巨木を誘導した。
力が緩められるにつれ、巨木は斜面をゆったりと、やがて勢いをましつつ滑っていった。といっても傾斜の度合はそれほどでもないから、恐怖を覚えるほどの速さにはならない。
麓《ふもと》にいた別部隊の俘虜たちが巨木にとりついた。
綱を馬につなぎ、すこし離れた場所にもうけられた野ざらしの製材所へと曳いてゆく。〈帝国〉軍の俘虜になった兵に山師や椎《きこり》の出身者はほとんどいないから、なにもかもが素人臭い(新城の部下としては猪口だけであった)。
新城も伐採作業についてあれこれ考えたが、その大部分は、兵が傷を負う可能性をいくらかでも低くする工夫ばかりだった。俘虜労役は〈大協約〉にもさだめられている義務に近いものだが、特に熱心にやる必要もない。そのあたり、新城もそれなりの軍歴があるだけに、要領はよくわかっている。実際の監督をおこなっている猪口に至ってはそれどころではない。
「これで二八本です」猪口は言った。
「今日は三二、三本というところにしておきたいと思います」
「昨日は何本だった?」新城は訊ねた。
「三八本にしておきました」猪口は答えた。
新城は領いた。〈帝国〉軍から一日四〇本を要求されているとはいえ、莫迦正直に四〇本を切りだしてはいられない。毎日それを達成していては数が増やされてしまう。
というわけで新城は、猪口とはかり、何日かに一度だけ四〇本を達成させ、他の日はいかにもという致だけに抑えておくことにしていた。たとえば四〇
本の翌日は三〇本前後、前日の疲労によって数が落ちたという見かけをつくる。そして翌日から一、二本増やし、四〇本近くになるとまた落とす。そういった手抜きであった。猪口は山師の従弟あがりであるから、そのあたりを更にそれらしく装うことができた。俘虜労役はまったくの奴隷労働に近いから、奴隷労働で生じる問題がはっきりとあらわれる。俘虜たちが可能な限りの手抜きを試みるのだった。
新城が労役を”指揮”している理由のひとつは、兵個人の判断でそれを行わせていては、何かの面で〈帝国〉軍の報復がおこなわれないとも限らないからであった。指揮官がついていれば、すくなくとも、報復の対象は指揮官だけとなる。
「体調に問題のある者は?」新城は訊ねた。
「本当に風邪で寝ている者が一人、他に二人います」
猪口は答えた。
「うまくやっておるだろうな?」
「療兵じこみです、なまなかな軍医に仮病だとばれやしません」猪口は言った。「〈帝国〉軍の連中も薄々気づいておるのでしょうが、どういうわけか、兵はなかなか気分のよい連中が多くて。毎晩、酒瓶をさげてくる者まであります。むこうの将校殿と兵は、どうも、別人種のようなところがありますな。
我軍にもそういう部分がありますが、比べものになりません」
「ともかく、一日三、四人は必ず病欠させろ」新城は言った。
「若い兵だからといって、例外にするな。連中は古兵ほど要領がよくない。戦でもないのに無理をして怪我でもされたら、そいつの親兄弟に顔向けできない。もちろん、僕等がやる気のない兵を苦労して労役につかせているという印象を与えること、これは忘れないように」
「はい、大隊長殿」猪口は任せておけという調子であった。兵にとり、皇主に継ぐ地位である曹長は他人からは何も教わらない。階級がどうであれ、制服を着用する者すべてに何かを教える立場なのだった。
それはともかく、可能な限り、部下が傷を負うことを嫌うという上官の態度を猪口は好意的に受け取っている。それが怯情や自己保身によるものではないと知っているからだった。蛮勇に満ちているように感じられる新城の実戦における指揮ぶりにしても、可能な限り危険を回避したうえでの、という側面を持つことを彼は知っている。猪口は幼年学校の営庭や演習場で、若い――というより幼い新城にそれを教えた覚えがあった。よほど根性のひねくれた古兵であればあるほど、新城のそうした部分が理解できる。新品少尉や新兵にはかえって難しい。結果、彼等は、新城のような男を好意的、あるいは批判的に誤解することになる。そのどちらも、指揮官にとっては迷惑なことこのうえないものと言ってよい。猪口のみるところ、あの漆原という哀れな少尉はまさにその間を振幅していた。
猪口が新城の、注意を喚起《かんき》したのはそれから一刻ほどのちのことだった。
「大隊長殿」猪口は麓を顎でしめしながら言った。
「なにかまずいことでもやりましたかね?」
新城はそちらを、任視した。麓に、新来者の一団が見えた。
俘虜ではなかった。軍人ですらない。しかし、〈皇国〉の――公職についた者であるのも間違いはなかった。彼等は〈皇国〉執政府中央官庁に所属する官僚であることを示す、紺色の太い腰帯を締めていた。数名の〈帝国〉軍将校による先導を受けている。
〈帝国〉軍将校の一人が斜面を登ってきた。彼はその男に見覚えがあることに気づいた。ロトミストロフ少尉候補生であった。新城の傍らへやってきた彼は、わずかに息をはずませながら、大尉殿、あなたに面会者ですと言った。
「わたしは執政府兵部省人務局の栃沢《とちざわ》二等官だ」官僚のなかでもっとも若い者が挨拶した。どうやら、官僚たちのなかでは一番上位にある者らしい。陸、水軍の軍政を統轄する兵部省は官僚と軍人の相方で運営されている。
栃沢は言った。
「皇主陛下の執政府の命令と〈大協約〉に従い、戦時俘虜交換担当官として派遣された。貴官は新城直衛大尉だな?独立捜索剣虎兵第一一大隊指揮官の」
「はい」新城は領いた。〈帝国〉軍将校たちがそばにいるから露骨な真似はできなかったが、それでも声がわずかにうわずる。彼は信じられぬほどの特別扱いを受けている俘虜だったが、やはり、俘虜ゆえの緊張、不安とは無縁ではない。
栃沢は領き、手にしていた書類ばさみを開いた。
手順に従い、新城へ一連の質問をおこなう。その大半は身元確認を目的としたものだった。
「〈帝国〉が、〈大協約〉にもとづいた俘虜の取り扱いをおこなっているかどうかを確認した」書類ばさみを閉じた栃沢は言った。
「貴官はずいぶんと異例なようだな?」
「そうですね。その真意はわかりかねますが」新城は答えた。相手の言葉に含まれている疑念を感じ取っていた。この官僚は、新城が〈帝国〉軍に懐柔されているのではないかと疑っている。
「駒城家の威光は〈帝国〉にも通用するのかね?」
栃沢は訊ねた。嫌味に近い調子だった。
「わかりかねます。おそらく、〈帝国〉にとって五将家はなんの意味もないでしょう。彼等にしてみれば、蛮族の軍閥、そのひとつに過ぎない」新城は言った。
「それに自分は育預です。血縁ではありません」
「どうにも大変そうな労役を部下にだけおこなわせている理由は? 貴官の上着には、はねた泥ひとつこびりついていない」
「二等宮殿、失礼ですが、軍歴はおありになりますか?」新城は訊ねた。
「ない」栃沢は言下に否定した。
「ああ、ならば理解は難しい」新城はまったく正直にそう言った。本当にそう思っている。
軍における将校――指揮官の役割は、裟婆《しゃば》(民間)の者にはひどくわかりにくい面がある。たとえばいまの新城が置かれているような状況で、兵と共に汗を流すことが必ずしも良いとは限らないのだった。
軍は、職掌について明快な区分をつけた組織と言える。それがもっともはっきりあらわれるのは、将校と下士官兵という分類だった。〈皇国〉陸軍の場合、将校は大将から少尉までの九階級をあらわす。
下士官とは曹長、軍曹、伍長まで。兵は上等兵、一、二、三等兵の四階級になる。
この三者の役割分担は大雑把に言えばこうなる。
将校が判断と決定(つまり指揮)を受け持ち、下士官がそれを実行にうつし、兵が戦う。人間の肉体にあてはめれば、脳髄、骨格(あるいは神経)、そして筋肉という役回りになる。つまり、三者ともにまったく仕事が違う。
民間の者はそれをほとんど理解しない。軍に好意的な者は将校をただ格好良いと思っている。批判的な者はただ威張り散らすだけの莫迦だと信じている。
後者に至っては、下士官兵だけが戦争の真実を知っているとまで断言する。
たしかにそれらは事実の一端であるかもしれない。
しかしすべてではない。安易に過ぎる面をもっている。軍隊が、砲煙弾雨のもとで構成人員を失いつつ機能せねばならない組織であるということを忘れている。このような組織はほかにない。
たとえば〈皇国〉いちばんの商家で、ある日突然、全体の一割にあたる手代や丁稚《てっち》が逐電してしまったらどうなるか。なにもかも混乱してしまう。もう商売はできない。
しかし軍隊は機能し続ける。戦い続けられる。組織そのものが兵員死傷による人員の不足をみこんでつくりあげられている。将校はすべてを超然と受け入れ、砲弾の炸裂《さくれつ》する中で冷静な判断をくだせるように教育されるし、曹長は敵よりもおそろしい声で兵を叱咤する。そして兵はすべてを恨みながら命令を遂行しようとする。
じっのところ、ひとたび軍へ所属した者はそうした点について疑問をおぼえない。
将校は軍の制度を背負わされる代わりに権限を与えられるし、下士官は誰よりも軍の本質を掴んでいる。そして兵は目前の敵を倒すことに忙しくなる。
民間人が語りたがる(そして実在している)、軍隊の本質的な欠陥、恐ろしさについて考える者は少ない。
彼等はその点についてあまり教育を受けないし、また、本能的に、それが無駄であること知っている。
そんなことを考えている者は戦場で生き残れないし、平時であれば、職場としての軍隊は最低の場所となり、毎日後悔だけを友として生きることになってしまう(誰も彼もが才能にあふれ、進取の気風に富んでいるわけではない)。たとえば強制的に徴募された兵にとって、そんな日常は願い下げになる。ただでさえ面白いことの少ない現実をさらに苦くすることはない。
よって彼等が問題視し、憎むのは、お互いの無能だけ。それこそが彼等の役割分担を阻害するからだった。退役・除隊した下士官兵から軍への批判的な言葉が漏らされる時、それは彼がかつて軍で接した将校や下士官が粗暴あるいは無能であったから、という場合がほとんどと考えてよい。これは軍というより個人の資質に属する問題で、軍に責任があるのは、そのような人物を責任ある地位につけたという人務上の部分になる(であるからこそ、軍にしろ商家にしろ、人あつかいを担当する者はすべからく優秀でなければならない)。つまり軍は社会の縮図にはかならない。しかし人々は軍を特別な存在であると考えている。その理由のひとつは、軍自身がそう考えたがっているところにある。
よって、問題解決のため軍もある程度の努力を払わざるをえない。たとえば青年将校たちには、下士官兵を前にした率先垂範が奨励される。それのできぬ者に将校たる資格はない、とまで断言する教育が施《ほどこ》される(このあたり、極論と言うべき選択肢しか示されないところが軍の特質でもある)。
一種の裏技として、自分の肉体的な優越をみせつけろという技法も伝えられる。たとえば部下の危機にあたり、みずからの危険をかえりみずにとびだす指揮官を兵は心底から信頼する。いや、そうした面を(たとえ一端でも)見せる将校でなければ部下はついてこない。たとえば実戦を経験した古兵たちは階級への敬意と、信頼すべき指揮官へしめす忠誠はまったく別物だと心得ている。彼等は完全な実力主義の徒であるから。
結果、至誠を有する多くの青年将校は戦場の露と消えてしまう。率先垂範にしろ、肉体の優越にしろ、敵弾をたっぷりと浴びる得難い機会を提供してくれるからであった。そこで幸運にも生き残り、さらにその先に待ち受ける危険にも対処ができた者だけが、誰もが認める本物の将校、あきらめを知らぬ運命論者としての道を歩める。兵と共に戦うのではなく、罪すべてをのみこんで兵を”指揮”できる人間と認められる。実戦的な軍はそうした将校を尊ぶ。こうした男たちを優遇する組織が民にとって良い軍となるかどうかは、軍だけでなく、民の認識の程度にも大きく左右される。所詮、軍は社会の一部にすぎない。
栃沢と新城のやりとりも、そうした点についての認識、その違いの影響を受けている。ある意味で新城は〈皇国〉という社会の矛盾がうみだした存在であるから、一般的な将校たちよりは丁寧な説明をおこなえる。
たとえば労役の指揮でなく、労役そのものに参加することは下士官兵の神聖な役割をおかす――彼等への侮辱につながるという認識。新城が声もあらげず表情も変えずに部下に労役をおこなわせているという現実。それは、彼がすでに部下から指揮官としての将校が必要とするものをすべてかちとっているからこそなのだと教えることはできる。
しかし新城はその点について説明しようとは思わなかった。栃沢がそれを反感だけを基底として聞くだろうと予想したからだった。
彼は、若い割に地位の高いこの官僚が、衆民出身者であるとあたりをつけていた。最初から結論を持っている者には、何を説明しても無駄でしかないことが多い。たとえ彼の意見が革新的であっても、現実面では、経験を積んだ機会主義者とくらべ、遥かに劣る。
新城は、新奇な意見を持った(と自分では信じている)者こそが真の教条主義者であると考えていた。
幼児期とその後の環境によって、ある面、見事なまでの機会主義に染まらざるをえなかった彼にとって、それはなによりも忌まわしいものだった。内心に存在する、自身の規則を重んじる性癖が、教条主義へとながれかねない危険があると知っているからだった。
「素人にはわからない、そう言いたいのか?」栃沢は訊ねた。怒ったような声であった。
「というよりも」新城は答えた。「俘虜という立場におかれた現状では、それを説明できるほどゆったりした気分になれないのです」
「ならば俘虜になどならなければ良かったではないか」鼻を鳴らすように栃沢は言った。
可哀想に、新城は思った。
若くして二等官になれるほどなのだから、この男もそれなりに頭が良いはずなのに。自分の知識を過度に一般化し、それに当てはまらぬ者を排斥するという悪癖に陥っている。それはつまりこの男の内心に、実戦を経験した軍人に対する男としての羨望《せんぼう》と人間としての恐怖が存在しているからだろう。
そして彼は、それに半分気づいている。ただの愚者でないのならば、その筈だ。この僕を、官僚としての地位を掴んだ自分の努力を否定する存在として認識している。
それゆえ、僕を懸命におとしめ、安堵しようとしているのだろう。なんと情けない。なんと女々しい。
女性的な思考とは、女に備わっているからこそ敬うべきものであるのに。いや、尊敬すべき部分を持つ女たちであれば、そこにある卑しさをやはり嫌うだろう。
とはいえ、新城も、見ず知らずの相手の歪んだ感情にこれ以上つきあう必要を感じなかった。よって、この男なら理解できるだろうと思われる言葉を口にした。
「つまり名誉のために無意味な死を迎え、兵までそれにつきあわせるべきだったとり 御免被ります。僕はそれほど厚顔無恥にはなれません。そうできれば随分気楽なのでしょうが」
栃沢は面食らった表情を浮かべた。これほど危険なことを言う将校は、兵部省でもあったことがなかった。新城が自身のことを”僕”と表現したのも気にかかった。軍では、その種の言葉遣いを一番最初に”自分” へ矯正するはずだった(実際、新城はよほどうるさい上官の前でもない限り、”自分”とは言わなかった)。
「貴官の帰国については、第一次便船をあてるべしとの特命を受けている」驚きをつくろうための渋い表情を浮かべ、栃沢は逃げるように言った。手元の書類をめくる。彼の顔はさらに渋さをました。
「それと、何が理由かは知らんが、水軍から特に強い要請があった。貴官とその部下、そして剣牙虎はすべて同じ船に乗せるようにとのことだ。水軍は、たとえこちらが断っても、それを強行すると言っている。どうにもただの将家育預とは思えんな。大尉、君は光帯を腰に巻いて生まれてでもきたのかね?ああちなみに、わたしの親は衆民だ。試験を受けて官僚になった」
「僕は戦災孤児です、担当官殿。まあ、他人の家で育つために生まれてきた、そんなところですね」新城は答えた。栃沢は何も答えなかった。しかし新城は気にしなかった。ひどく気分が良くなっていた。
約束を守る男をひとり、見つけることができたからだった。
6
四月中旬にはいると、北領の残雪は目立って少なくなった。境にまみれた雪の薄汚さもようやく薄れ、あちこちで緑が自己主張をはじめた。朝晩の冷えこみをのぞけば、大外套を着こむ必要性も徐々に低くなった。
労役――伐採作業にも問題はない。〈帝国〉軍は新城とその部下に文句をつけなかった。かといって他の俘虜たちが厳しい環境に置かれているわけでもないらしい。〈帝国〉軍は〈大協約〉を完璧に履行していた。つまりは政治的行為なのだろうなと新城は解釈した。俘虜に優しくしておけば、〈大協約〉によって国元へ帰還した彼等は、どこかで〈帝国〉に好意を抱くようになる。そして彼等の意見は、周囲の者たちの戦意をいくらかでも弱めるかもしれない。
〈帝国〉軍の従兵は二日に一度の割で新城へ新しい酒瓶を届けた。最初のうちこそむさぼるように飲んでいたが、やがて、独り占めしていることに罪悪感が湧いた。彼の中の偽善が頭をもたげ、行動を要求した。新しい酒瓶が届けられると、その封を切って一杯だけを寝酒として飲み、残りは翌日の労役でもっとも活躍した(ように見える)者へ褒美として手渡した。
もちろん、労役の実際は計画的な怠業《サポタージュ》にはかならないから、まったくの嘘だった。新城は猪口に、全員で平等にわけて飲むようにと命じてあった。自分から酒瓶を与えられる部下が、嘘とわかっていつつ嬉しそうな顔をするのが、彼に奇妙な後ろめたさを覚えさせた。そんな日は、下士官兵の収容施設の隣にある俄《にわか》造りの檻《おり》に閉じこめられている千早の様子を見に行った。彼の猛々しい子猫は、そのたびにひどく嬉しそうに啼《な》き、身体を新城へとこすりつけた。
ある日、その模様を遠くから眺めていた〈帝国〉軍将校がいた。その翌日から、新城の部屋に届けられる酒瓶の数は二本に増えた。みずから敵軍将校の従兵任務を買ってでたらしいロボフ軍曹が就寝前に新城の豪華な牢獄を訪れ、さらに一本の酒瓶と菓子の類を置いてゆくこともあった。本が届けられたことさえある。〈帝国〉の歴史を批判的に措いたことで知られるファルクハイムの「〈帝国〉史」だった。
たしかにこんな俘虜生活ならば〈帝国〉に好意を抱いてしまうなと新城は思った。他の将校はどんな扱いを受けているのだろうか。少し調べてみるべきかもしれないとすら考えた。
新城はやはりそれを部下に与えた。菓子は酒の飲めない者へ優先して渡すようにと彼は猪口へ命じた。
自分は酒も甘いものも大好きなんですがと猪口は冗談を言った。
東方辺境領姫ユーリア姫が、貴官に拝謁の栄を与えると仰《おっしゃ》っておられるという伝言が届いたのは、彼と彼の部下、そして二匹の剣牙虎たちの解放期限が三日後に迫った午後のことだった。〈帝国〉軍はすでに俘虜労役義務の完了を〈皇国〉軍捕虜全員へ通達しており、新城も昼間から本を読みながら寝転がっていた。
まさかこの段階になって面倒が持ちあがるのではあるまいな、”謹んで”と答えながら新城はそれを疑った。一種の奇襲攻撃であったために、メレンテインに呼ばれた時とはことなり、呼吸に気をつけても緊張の証は消えなかった。まずいなと思いつつ彼はユーリアの執務室へ通された。
まず、以前は副官室としてもちいられていたのであろう部屋があった。メレンティンの時と同じように新城を先導したロトミストロフ少尉候補生がそこで執務していた侍女らしき女性に、新城直衛〈皇国〉陸軍大尉殿をお連れしましたと伝えた。彼の声は奇妙に裏返っていた。
おそらく二〇代の前半であろう侍女はまったく魅力的な容姿の持ち主であった。確かに今の新城は大抵の女性が魅力的に見える精神状態に置かれていた。
〈帝国〉軍の懐柔策にも、さすがに娼妓の手当までは含まれていないからだった。が、その点を割り引いても彼女はまったく美しかった。身長は新城より頭半分高い。
「大尉、こちらへ」侍女が奥の部屋へと続く扉を開けた。軍帽を小脇に挟んだ新城は、一刻ぶんの礼を彼女に行うと、ユーリアの執務室へ入った。
ユーリアらしき人物は窓辺に立ち、外を眺めていた。他には誰もいない。
侍女が報告した。
「〈皇国〉陸軍大尉、新城直衛棟をお連れしました」
後姿の女性は反応を示さなかった。侍女が窺《うかか》うような視線を彼に向け、言った。
「大尉、御挨拶を」
新城は領いた。そして後姿に向けて言った。
「〈皇国〉陸軍大尉新城直衛、参りました。拝謁の栄に浴し、恐悦至極であります」
彼はそれだけ言うと背筋をのばし、後姿に視線を据えた。相変わらずなにも答えない。
誰も何も口にせぬまま、沈黙の時間が過ぎていった。新城は礼に即した態度のまま立っていたが、どうにもおかしいことに気づいた。右頬にわずかな温度を感じた――そんな気がした。彼はそちらへ視線を向けた。侍女が彼の横顔を注視していた。奇妙に冷静な視線だった。
新城はわずかに右眉を持ち上げた。
侍女が笑いだした。鼻にかかった、良く響く笑い声だった。
新城はまじまじと彼女を見つめた。侍女はさらに笑いを大きくした。
「もういいわよ、クラウディア」侍女は言った。窓辺にいた後姿が振り返った。好ましくはあるが、けして美人の範噂《はんちゅう》には人らぬ女性だった。彼女は顔中に汗をかいていた。
「下がっていいわ」侍女を演じていた女が言った。
「着替えてらっしゃい。わたしが呼ぶまで、入ってこないように」
窓辺にいた女性は、あきらかな安堵の表情を浮かべると、礼をして部屋をでた。
「面倒だったのよ、あれこれと」侍女の退出を確認した美しい女は言った。
「大尉、いったい何を驚いていらっしゃるの? わたくLが〈帝国〉東方辺境領姫ユーリアです。あなたの属していた軍隊を敗北させた〈帝国〉東方辺境鎮定軍総司令官よ」
「新城です」彼は二刻半ぶんの礼をおこなった。自分が奇妙に落ち着かないのは、悪戯の対象にされたからか、それともこれほど美しい女がそばにいるからか、そのどちらだろうと思った。おそらくその両方だとも考えたが、なんとも落ち着かない気分だった。
「どうやら、はじめてあなたを奇襲できたみたいね」
うれしそうにユーリアが言った。彼女は円卓の一方に置かれた椅子に腰をおろした。
「はい、殿下」新城は同意した。
「まったくの奇襲でした」
ユーリアは笑った。年齢相応の、何かが転がるような笑い声だった。彼女は円卓の真向かいにある椅子をしめした。
新城は一礼して着席した。
「たまにこうして遊ぶの」ユーリアは言った。
「けして嫌いではないけれど、いつもの調子ばかりでは疲れてしまうから」
「そうしたくなるお気持ちは理解できます、殿下」
新城は答えた。間をもたせるために、円卓に置かれた茶碗を手に取ろうとした。その時はじめて、自分の手が小刻みに震えていることに気づく。あわてて鼻の頭をなでる真似をした。
ユーリアは目敏《めざと》かった。
「小胆なのですね」
新城は押し黙り、小さく溜息をついた。両手をあげてみせる。
「御気付きでしたか、殿下」彼は言った。
「まあ、自分はこういう人間です」
「わたしが莫迦にすると?」
「軽蔑されても仕方ありませんね」
「男としては、そうかもしれません」ユーリアはあっさりと言った。
「正直、男としてのあなたにはまったく魅力を感じません」
「そうばっさりと言われると」新城はさすがに嫌な顔をうかべた。
「まあ、別に魅力を認めていただいたからと言って、なにがある訳ではありませんが」
「急ぎすぎです」ユーリアは叱るように答えた。
「将校としてのあなたについては、また別の感想を持ちます。なにしろ、残兵六〇〇の大隊で全軍の足を止めてくれたのだから」
「しかしまあ、所詮は人殺しの手管《てくだ》というだけで。ああ、自分がそれを好んでいるのは確かですが。申しわけありません。貴族がたのようにあざやかなお答えはできかねます、殿下」新城は答えた。どこまでが本音なのか見当のつきかねる口調であった。事実、ユーリアもその点を疑った。
「戦争と平和にどんな違いがあると言うの?」探るようにユーリアは言った。
「違っているのは、ほんのひとつだけじゃなくって?」
「確かに。しかし、普段ならば傷つけただけで罪に問われる高級品が特価大廉売されるというのは、よほどの大違いである、僕はそう判断いたします」御姫様にこの言い回しで通じるかな、そう思いつつ新城は答えた。
心配なかった。ユーリアは新城の言いたかったことを理解していた。
彼女は見事にやりかえした。
「ならばあなたはよほどの大商人たりうる素質の持ち主だわ、大尉。せめて、店をもう少し大きくすることはできるわね」
へえと新城は感心した。ユーリアが自分を招いた目的が理解できたのだった。彼は何も気づかぬふりをして質問した。「誉めていただいているのでしょうか、殿下?」
「それどころではありません」ユーリアは答えた。
「賞賛しているのです」
「なんとも過分の」
「指揮官には相反する資質が求められます」ユーリアは新城の言葉を聞いていなかった。
「それがなにかおわかりになって?」
「どうも、その種の明快な区分けというのは不得手で」新城は応じた。白い鴉《からす》の実在を信じているような声だった。
「わたしを莫迦にしていらっしゃるのり」ユーリアは新城に視線を据《す》えた。
「いいえ、けして」新城は答えた。
「その、まだ手が震えているものですから」
「なにがあればそれは治るのかしら」
「よほど酔うか」新城は言った。「もう一度、大隊を率いて殿下と対陣するお許しを得られたならば」
ユーリアは再び笑った。この世の男ども、その半分を柔弱にし、残り半分を自暴自棄に駆りたてる笑いだった。
「つまりあなたは繊細と大胆という資質を自分が兼ね備えていること、それを認めるわけね?」
「というよりも、小心と自棄ではないかと」新城は答えた。ちらりと笑って見せる。
「その点にはいささかの自信があります」
「クラウスと話が合うはずだわ」ユーリアは笑いだした。
「クラウス? フォン・メレンティン大佐殿ですか?」
「誉めていたわよ、彼は」いまだ笑いをおさえきれない表情でユーリアは教えた。
「酒を飲ませていくらか尋問じみたことをしてみようと思ったが、かえってこちらが喋りすぎてしまったと」
「僕はたまたま大隊を任されただけの男です。何も知りません。どうも、大佐殿は買いかぶられたのでは。もちろん、大佐殿との会話を大変に楽しんだことは事実ですが」
「たまたま大隊、ねぇ」ユーリアは言った。
「あたしなら、すくなくとも聯隊をあげる。たまたまならば、師団(これはあなたの祖国にはない編成ね)を任せてあげてもいい。もちろん爵位も。とりあえずは準男爵というところね。どうかしら?」
「良い話、なのでしょうね」新城は訊ねた。
「無論よ」ユーリアは明快だった。「この際、わたしの幕営に加わった方が、あなたにとっての幸せだと思うわ。そうに決まっています」
「どうでしょうか。余所者であるばかりか、売国奴ということにもなりますから。そんな人間が周囲から受けいれられるでしょうか」
「どのみち東方辺境領の貴族、その六割は寝返った蛮族の出なのだもの。もう一人増えたところでどうと言うこともないわ」ユーリアは言った。「それに、あなたの後盾はこのわたし。東方辺境領姫よ。誰に文句を言わせるものですか。帝都の叔父上――ああ、皇帝ゲオルギィ三世陛下にも、もちろんね。必要ならば名目上の愛人にもしてあげる。本当の愛人は御免だけれど」
「〈帝国〉では」新城は訊ねた。「誰もが、率直《そっちょく》な態度をとるのですか」
「だからこそツァルラントの過半を征服できたのよ」
「参りました」
「ならばこちらにいらっしゃい」
「嫌です」
「いずれは滅ぶべき祖国が、そんなに愛おしくつて?」
「いえ、別に」新城は答えた。「そういう問題ではありません」
「ならばなにかしら?」
新城は口元をゆがめた。自分はどうしてこういう質なのだろうと思っている。こんな性格でさえなければ、もう少し気楽にやっていけるだろうに。しかし、こうまで言われてはいそうですかと答えることはできない。たとえ相手が姫君でも。ええい、言ってやる。教育してやる。なにもかもどうなとなってしまえ――いや、最悪の事態だけは避けられるだろうが。ああ、なんと姑息な。
新城は口をひらいた。
「面と向かって男としての魅力が無いと言われては、惨めすぎます。たとえそれが事実でも。嫌われるのも莫迦にされるのも軽蔑されるのも平気ですが、舐《な》められるのだけは我慢がならない」
ユーリアは右眉を僅《わす》かにあげ、口をとがらせて言った。
「小胆なのね、やはり。いいえ、他にも小さいものがあるに違いないわ」
「ええ、殿下。まさにそのとおりです」新城は微笑を浮かべつつ答えた。
「ですが、他人の欠点をあげつらっていい気になっている莫迦娘の玩具《あもちゃ》になるような大胆さを持ち合わせる必要性を僕は感じません」
もちろんユーリアのことを罵《ののし》ったのだった。彼女は立ちあがった。顔面は蒼白になっていた。
「ずいぶんと良い覚悟ね」
抑制された発音でユーリアは答えた。
危ない橋を渡りはしたが、とりあえず、逆襲成功というわけだ、新城は満足感を覚えた。それは卑小な喜びではあった。しかし、そうであるが故に本心からのものでもある。
新城に暖かみのない微笑を向け、ユーリアは言った。
「軍へ入隊して一三年にもなって、野戦任官でようやく大尉になった男が、〈帝国〉軍元帥をそこまで罵倒するわけ。どう? わたしは、可能な限りあなたのことを調べたのよ? あなたをわたしの幕営にくわえるために」
「ありがとうございます」新城は朗らかな表情を浮かべ、答えた。
「ですが、自分は〈帝国〉軍元帥を罵倒してはいません。むしろ、軍人として尊敬しています」
青ざめていたユーリアの頬に血が昇った。ようやくのことで、完全に引っかけられたことに気づいたのだった。
お姫様、人間、為人《ひととなり》と心延《ば》えはまったく別物なんだよと新城は声をださずに呟いた。いやもちろん、僕もその例外ではないけれども。それはともかく、そろそろ、総反攻の頃合いだな。
「なるほど」〈帝国〉皇族としての誇りだけですべての感情をおさえこみつつユーリアは言った。
「そういうことについてならば、いつでも度胸があると言うわけね?」
「まことに悲しむべき現実ではありますが、愚かな面をもって生まれつくのは、人の毛深い半分だけではありません。僕はそう思っています」
新城はそう答えた。続ける。
「本当に残念です。心底そう思います」
「その点は認めてもいいわ」ユーリアは答えた。
「あなたの祖国にはどちらでもない連中がいると聞くけれど。高級指揮官の副官として配属するとか」
「います、確かに」新城は領いた。彼女は両性具有者のことを言っていた。つまり新城の言い回しが不適切だと、直接的な意味で批判している。
この姫君、思っていたよりも程度が低いのかな、そう考えつつ新城はユーリアに訊ねた。
「あなたは僕をやりこめようと思ってそれを持ちだされたのですか?」
「そうとまでは言わないわ」
「うらやましい。姫様、あなたはお幸せであるに違いない」
「どういう意味?」ユーリアが訊ねかえした。
新城は即答した。どうなとなれ、そう決意している。
「まさに言葉どおりです、姫様。他人の言葉にいらぬ半畳をいれることが、自身の知性、その表明につながると信じられるとは。正直、驚きです。やはり幸福以外のなにものでもない。もっとも僕はそのような人物と同じ幸福を追求するような趣味は持ちませんが」
「〈帝国〉ならば――」
ユーリアが口を開いた。
「まあ、〈大協約〉で僕の安全は保証されておりますので」
新城は彼女を遮り、片手をあげてみせた。手はまだ小刻みに震えている。
演技ではなかった。
彼の意思は自分を舐めた者を打倒することを求め、その成功に酔っていた。と同時に、その奥底にあるものが目と舌と顔面以外のすべてを支配されてもいる。彼の背中は汗で冷たく濡れていた。
ユーリアは敗北を認めた。
新城の手によって示されたものが、互いの名誉を守るために彼が持ちだせる唯一の材料であると受けとった。彼女は命じた。
「よろしいわ、大尉。おきがりなさい。〈大協約〉への敬意、その証として、”とても残念”そうあなたには申しあげておくわ。後悔することになるわよ」
「僕と僕の大隊は、明日、港へ護送されることになっています」新城は答えた。「もはや二度と、お目もじする機会はないと存じます」
「そうかしら」ユーリアは答えた。
「わたしがあなたの国を戚ぼすまで、絶対に生きていて頂戴。これはわたしの個人的な願いよ。そしてあなたの〈皇国〉とやらが亡びたあとで――必ずあなたを見つけだしてあげるわ。〈大協約〉は自国民に適用されない場合が多いの。本当に楽しみだわ」
「確約はできません」新城は首肯した。「しかし、可能な限り努力いたします」
「期待しているわ」ユーリアも領いた。
新城は退出した。
部屋の奥にかけられていた幕の陰からカミンスキーイがあらわれた。
「殿下、本当に迎え入れるおつもりだったのですか?」カミンスキィは訊ねた。
「嘘はつきません」怒りを抑えかねる声でユーリアは答えた。
「もしも無能であれば、死んでもらえばよいだけだもの。〈帝国〉東方辺境領貴族であれば、わたしはそれを命じられます」
「さきほど、斬ることもできました」カミンスキィは言った。
「あやつの暴言は不敬故の処罰、その対象になりえたのですから」
「無理よ」ユーリアは吐き捨てるように答えた。
「あの男は自分から〈大協約〉を持ちだした。それがどんな意味かわかる? 捕虜になった大尉が、〈帝国〉東方辺境領姫に〈大協約〉の完全な遵守を強制したのよ! 不敬を理由に斬ったのでは、わたしが、あの男の言ったとおりの愚物ということになってしまう」
「どうにも判断の難しい男ですね。小胆であることは間違いないようですが」
「小胆と小人物は必ずしも同義語ではないわ、アンドレイ」
「御意。たしかに彼奴《きゃつ》はよほどの戦上手です。その点に疑問はありません。しかしあの蛮国においては大尉にすぎません。野戦任官の」
「そうね」ユーリアは領いた。
「二度と再びわたしを邪魔できるはずもない。小競り合いが得意なだけのひねくれた性根の持ち主。おそらくはそれだけ。ええい。それにしても惜しいわね。たかが一個大隊ひとつであれほどの戦ぶりを見せた男。本当に、手駒として欲しかったわ。いっそのこと、寝てやるべきだったかも」
「御意」
カミンスキィが言った。わずかに陰のある発音だった。
ユーリアは美形の公認第一愛人を見つめた。それだけで不快感がおさまるような気がした。だが、完全ではなかった。
「さあ、何をしているの?」
「殿下?」
「あたしの伽《とぎ》をなさい」
ユーリアは部屋の奥にある扉を顎でしめした。寝室につながる扉だった。
第五章#熱水乙巡〈畝浜〉
1
すでに街道上の雪は消えていた。
〈帝国〉軍は、俘虜の移送にあたり馬車を用意した。
優遇しているというわけではない。ひとところに押しこめていた方が、警備しやすいという理由であった。彼等は剣牙虎まで専用の馬車に乗せた。剣牙虎を怖れぬ馬がいるという知識は〈帝国〉軍にもひろまっていた。小さな隊列は、新城がユーリアと会った翌日の早朝、北府を立った。天候は快晴に近い。
最初のうちは誰もが陽気だった。しかししばらくするうちに冗談の種も切れ、尻が痛くなってきた。
馬車に用いる板バネについて、〈帝国〉があまり気を使っていないことはあきらかだった。やがて兵の大半は寝てしまい――起きている者たちもぼんやりと周囲を眺めているだけになった。楽しそうな顔をしている者はいない。彼等が眺めているのは、自分たちが守れなかった祖国の一部なのだった。
〈帝国〉軍が俘虜交換場所として指定した真室《まむろ》には一日半後に到着した。〈帝国〉軍は市街のはずれで俘虜たちを馬車から降ろした。
新城たちはそこで身だしなみを整えた。猪口は暇そうな顔をしている兵に命じ、二頭の剣牙虎、その毛並みを整えさせることまでした。彼等は〈帝国〉軍の兵に両脇から監視されつつ、真室市内に入った。
真室は小さな街であった。彼等はその目抜き通りを、港にむけ、歩調をとって進んだ。
〈帝国〉軍の警備兵は通りの両側にも配置されていた。通りにでた真室の衆民たちはその背後にいる。
誰もひとことも喋ろうとしなかった。彼等は、自分たちを守りきれなかった敗残兵にかけるべき言葉を持たなかった。
状況が変化したのは、通りを半分進んだあたりでだった。おそらく子供だろう、背の小さな衆民の一人が、俘虜の隊列に向けて石を投げつけた。そして甲高く叫んだ。
「敗残兵−」
感情の堰《せき》が切れた。真室の衆民たちは口々に悪罵を投げつけ、手当たり次第に物を投げ始めた。〈帝国〉軍はそれを懸命に制止しょうとしたが、俘虜へ向かおうとする衆民の流れをとめることが精一杯だった。
新城の額に激痛が生じた。意識が遠くなる。気がついた時には、猪口ともう一人の兵に両脇から抱えられていた。周囲には部下全員が壁をつくっている。
「ありがとう」新城は額に手をあてながら背筋を伸ばした。指先がなま温かい。額が切れていた。顔面をつたうなま暖かいものを感じながら新城は皮肉を覚えた。自分が北領で負った傷はこれが初めてであることに気づいたのだった。千早の吼声が聞こえた。
「曹長」新城は猪口に命じた。
「なにをしている、隊列を整えろ。僕にこれ以上、恥をかかせるつもりか」
猪口が兵をどやしっけた。新城は怒りに血をたぎらせている千早を呼び、その首輪を強くつかんだ。
千早はつまらなそうな顔をしておとなしくなった。
石から汚物にいたる、ありとあらゆるものを投げつけられながら春の陽光の下を彼等は進んだ。新城は整然たる行進以外のいかなる行動も部下に許さなかった。この街の穀倉へ艦砲射撃を要請したことを彼は忘れていない。衆民たちはもちろんそれを知らない。しかし彼は覚えている。
〈帝国〉軍が厳重な警備を敷いている港へ到着した時、独立捜索剣虎兵第一一大隊の生存者約二〇名の大半が、傷を負うか、汚物の悪臭を発していた。彼等にとっての北領紛争、その終末とはこうしたものだった。
小さな岸壁には、船体をくすんだ濃紺に塗った軍艦が畳帆《ちょうはん》した状態で接岸していた。それぞれ三本の巨木を互い違いにつないでつくられた檣柱は、前檣、大檣の二本を備えている。
前檣の最上部――前上檣《フォアトップスル》には〈大協約〉世界共通の青色休戦旗が掲げられていた。王族(皇族)が乗艦している際はここに王室(皇室)旗が掲げられる。つまり、休戦旗によって示されている現在の休戦状態は、その国の元首が認めたものであることを示している。
同様に、大檣の最上部である大上檣《メイントップスル》、そして艦尾にも旗があった。
白地に措かれた六弁の桜。
〈皇国〉水軍軍艦であった。前・大檣に挟まれた軍艦の上甲板中央には熱水機関の搭載を示す煙突と、煤煙のたなびきがあった。舷側には熱水機関で駆動し、推力を生みだす巨大な水車、外輪がある。
軍艦の右舷と岸壁は舷梯で連結されていた。舷梯の両脇には武装した〈皇国〉水兵が立哨している。
俘虜としてすごしてきた者にはなんとも言えぬほどの頼もしさを感じさせる情景。兵の一人が呟いた。
あの白服を着た半魚人《セイラー》どもがあんなにいい男だとは思わなかったぜ。新城もまったく同感であった。
あちこちに血と汚物をこびりつかせた第一一大隊は、舷梯の一〇間ほど手前で停止した。そこには
〈帝国〉軍の俘虜担当将校と〈皇国〉の俘虜担当官が並んで彼等を待ち受けていた。後者は彼等に背を向けていた――というより、新城たちと向かい合って整列している〈帝国〉軍俘虜に顔を向けているのだった。そして彼は軍艦で運ばれてきた〈帝国〉軍俘虜の確認をはじめた。
前者も同様の作業を開始した。
まず、名簿と実際の人員、その確認が行われた。
彼が名と兵籍番号を呼んだのは人間だけではなかった。二頭の剣牙虎についても名前を呼んだ。返事をしたのは千早だけだったが、俘虜担当将校はそれで満足した。帳面へ必要事項を記入し終えた彼は、やはり作業を終えた〈皇国〉俘虜担当官と向かいあった。そして帳面を交換した。
彼等は自国の将兵に対する同様の作業をはじめた。
俘虜担当官――栃沢は、若手官僚らしい熱心さと横柄さでもって全員の名前を階級順に呼んだ。新城が口を挟んだのは、栃沢がこれでよしと帳面を閉じようとした時だった。
「失礼だが、担当宮殿」新城は言った。栃沢のそれと負けず劣らずの横柄な口調だった。
「なにか?」栃沢は訊ねかえした。
「あなたは全員の名を確認していない」新城は答えた。
「まだふたつ、確認すべき名前が残っているはずだ」
栃沢は眉をひそめた。莫迦《ばか》にするような光が瞳に浮かぶ。しかしそれはすぐに消えた。冷たい視線を自分に向けているのが新城だけではないことに気づいたのだった。
「ああ」渋々といった調子で栃沢は答えた。「まことに申しわけない。失念していた」
彼は二匹の剣牙虎を呼び、帳面に確認の印をつける真似をした。〈帝国〉軍俘虜担当将校もそうしていたのだった。
栃沢と俘虜担当将校は再び向きを変えた。俘虜担当将校は第一一大隊に向けて述べた。
「以上をもって、〈帝国〉軍俘虜であった諸君の交換――解放手続きはすべて完了した。小官は、赫突《かくやく》たる武功を掲げた諸君等に対する責任を完遂できたこと、それを最大の名誉とする。そしてもちろん、諸君等とよりよき敵として再び相まみえる機会を楽しみにしている。おめでとう。互いに奉じる旗は異なるが、いまこの場ではあえてこう呼ばせて貰いたい。さようなら、そして幸運を――戦友諸君!」
「気ヲ付ケー」猪口が号令をかけた。
「担当将校殿に、敬礼!」
新城は軍帽の眉庇《まびおし》に右中指の先をかすかに触れさせる完壁な〈皇国〉式敬礼を送った。全員がそれに続いた。俘虜担当将校は右拳を裏返してこめかみに
あてる〈帝国〉式敬礼でそれに答えた。
乗艦までいくらか間があった。しかし新城は部下に解散を命じなかった。この土地を離れるにあたり、その程度の見栄をはっておいても悪くはあるまいと考えていた。
俘虜担当将校が新城に近づいてきた。耳打ちする。
隊列の左側からこちらを見ている二人の〈帝国〉軍人をしめした。一人は将校、もう一人は下士官であった。二人とも見覚えがあった。新城は俘虜担当将校に領き、猪口に総員休めを命じた。隊列だけは維持させる。
新城は二人の敵国軍人に歩み寄った。彼等は敬礼を送った。新城もそれに答えた。
「迷惑かとも思ったが、見送らせて貰う」傷が癒えたらしいフォン・バルクホルン大尉が乾いた発音で伝えた。
新城も同様の態度で応じた。
「まことにありがとう、騎士大尉フォン・バルクホルン」
彼は続けて隣の下士官――ロボフ軍曹にも領いてみせた。
「君もだ、アンリ・ロボフ君。これからも良い上官を大事にしたまえ。残念ながら、僕にはこの戦が簡単に終わるとは思えない。幸運を祈る。もし君がそうしても良いと思うのであれば、フォン・バルクホルン大尉について痛ませたあとで、僕の幸運も祈って欲しい。そうして貰えたならば、これに勝《まさ》る喜びはない」
ロボフは上体がそりかえるほどに背筋を伸ばし、ぼんやりと見える光帯に視線を据え、答えた。
「有り難くあります、新城大尉殿! 誓って、お言葉通りにいたします!」
微笑を浮かべた新城はふたたびフォン・バルクホルンに視線を向けた。
「僕はどうやら君にずいぶんと世話になったらしい。礼を申しあげる」
「わたしも貴官に教われた。それにくらべれば、なんでもない」フォン・、バルクホルンは表情をまったく変えずに話した。
背後から抑揚をつけた甲高い音が響いた。号笛であった。舷側に立った水兵が吹いている。
「さて、次なる機会までしばしのお別れだ」新城は領いてみせた。そして質問した。
「このような場合、〈帝国〉軍ではどんな挨拶を交わしているのだろうか?」
「大いなる武功と名誉ある敵に」フォン・バルクホルンはそれだけを口にした。
「武功についてはまったく確信を持てないが」新城は伝えた。
「名誉ある敵がどこにいるのか、それについては誰にでも教えられる、僕はそう信じている。偽善といえばこれ以上の偽善はないが」
「わたしも同意見だ、新城大尉」
彼等はふたたび敬礼をかわし、わかれた。
第一一大隊はまったく整然と舷梯をのぼり、守りきれなかった土地を離れた。
新城が舷梯をのぼったのは最後の一人としてだった(もっとも、その前に千早の尻を叩いてやらねばならなかったが)。舷梯を登りきった彼は、舷側の舷門、その左側に立っていた副直将校に言った。
「〈皇国〉陸軍独立捜索剣虎兵第一一大隊指揮官、新城直衛大尉。〈皇国〉水軍軍艦への乗艦許可をいただきたい」
「〈皇国〉軍艦、〈畝浜《うねはま》〉への乗艦を許可します。第一一大隊の本艦便乗を心より歓迎し、また栄誉に感じている、艦長よりそうお伝えするように命じられております」副直将校は答えた。そして彼は役目を忘れた声で小さくつけくわえた。
「お疲れさまでした! お帰りなさい」
2
艦が岸壁から離れるには一刻はどの時間が必要だった。〈帝国〉軍が雇っていた真室の曳船《えいせん》、その船頭たちが、敗残兵の面倒を見るのは嫌だとごねたからだった。結局、手間賃を倍にすることで折り合いがついた。
艦首と艦尾から伸ばされた曳索《えいさく》が、水夫を二〇人ほども乗りこませた曳船とつながれた。船頭の号令にあわせ、櫂が前後する。艦はゆっくりと岸壁を離れた。そして艦尾の曳索が解かれた。艦は、曳船の導きにしたがってゆっくりと艦首をめぐらせ、港の外へと針路をあわせた。そして艦首の曳索も解かれ、艦もまた自由の身の上となった。
煙突から吐きだされる黒煙の量が増えた。微かに火の粉が吹きでる。煙突に沿って設けられた熱水気放出口からも、白いものが大量にたちのぼっていた。
檣楼をはじめとする各所に配された見張員が艦の各方位を確認し、安全を報告する。たとえば左舷側を担当している見張員であれば、左舷船胸《ひたりげんおもて》総て宜《よろ》し、などと叫ぶ。上甲板中央艦首寄り、つまり煙突の手前に設けられた艦橋の定位置についた艦長は、自分でもざっと周囲の安全を確認すると、前進微速を命じた。
命令はただちに伝達された。艦の一番深い部分に設けられた焦熱の缶室で機関員により、熱水缶の放出弁が絞られた。そこにいる二〇名ほどの男たちは汗みずくになった全身に黒石の炭塵《たんじん》がこびりつき、前も後ろもわかりかねる見かけであった。
弁の閉鎖によって熟水気は手近な逃げ場を失い、その圧力を上昇させた。圧力の高まった熟水気は導管を通って機関室に鎮座した熱水機関へと流れこんだ。
熱水気は機関内部の複動室へと突き進んだ。場所をとらぬよう、船体に対して斜めに据えつけられている複動装置の大きな気筒部へと流れこみ、その内部にはめこまれている複動弁を押す。
複動弁にとりつけられた軸棒が外部へと飛びだし、それにつながれていた回転体――はずみ車を回した。
この過程は、はずみ車と連結されている復水弁が開閉を繰り返し、仕事を終えた”古い”熱水気を逃がすことにより、何度も何度も繰り返された。
はずみ車の回転に変換された熱水気圧力は大小の歯車や軸でつくりあげられた変速器を制御された力となって通りぬけ、両舷へつきだしている太い軸棒を回転させた。軸棒の先端にとりつけられた外輪が回転をはじめた。
水面を叩く音響が連続した。両舷海面に白波がたち、水中の泥がかき回されたことを示す汚れがひろまった。熱水巡洋艦〈畝浜〉はゆっくりと行き脚をつけはじめた。
新城と第一一大隊の兵たちはそれぞれ士官と下士官によって部屋に案内された。自分がまったく特別扱いされていることに新城は気づいた。彼が通されたのはひどく狭苦しい個室だった。しかし、一般に軍艦で個室を与えられるのは艦長ただ一人であることを彼は知っていた。
猪口と兵たちはかなり無理をして空けられた兵室のひとつへ全員が入れられた。先ほどまでそこに〈帝国〉軍俘虜が収容されていたのだった。二頭の剣牙虎はさすがに船倉の檻へ押しこめられた。もっとも、あまり心配する必要はない。千早たちはそれに慣れている。彼等はやはり檻に入れられて、北領へつれてこられたのだった。
新城を案内した若い水軍士官は、艦長がそれを禁じない限り、昼間は自由に上甲板へでていただいて結構ですと言った。彼の顔には、もし外海にでてそんな気力が残っているならば、という船乗りらしい思いこみがあらわれていた。
残念ながら新城は、自分はいささか鈍すぎるのではないかと感ずるほどに乗物酔いをしない質だった。
子供の頃は、駒城家の持船で海にでることを楽しみにしていたほどであった。しかし、彼の部下はまさにそうであるかもしれない。部下の半数は、入営するまで海を見たことがなかった。
「しばらく休まれますか」水軍士官は訊ねた。
「いや、せっかくだから」新城は言った。
「さっそく、甲板へでる自由を行使させてもらおうか。それから――誰か手すきになった時にでも、艦のあちこちを見学させてもらえないか。熱水機関というのはどんなものか見てみたくてね。配置についた水軍士官というのは眠る間もないほど忙しいというのは知っている。が、滅多にない機会だから、是非とも頼みたい」
水軍士官はほぅという表情を浮かべ、上甲板であればいつでもどうぞと言った。はい、見学の御要望については艦長の指示をあおざます。もし御要望におこたえしかねる場合は御容赦ください。乙巡《CL》とはいえ、本艦は最新鋭艦ですからね。
その割にはずいぶんと派手に〈帝国〉 へおひろめしたものじゃないか、新城はそう思った。もちろん口には出さない。理由がわかっているからであった。
〈帝国〉ではいまだに鉱山の一部で使用されているだけの熱水機関を現用軍艦に搭載したことをみせつけ、脅威として認識させる。水軍はそう計算しているはずであった。
汚れた服を着替え、水軍の療兵に額の手当を受けた新城は薄暗い艦内通路を上甲板へと歩いた。途中でのぼらねばならぬ階段はひどく急だった。ちょっとしたことで滑り落ちそうなはどであった。艦の奥底から伝わってくる熱水機関の運転音と震動が周囲のすべてを包んでいた。
空はあいかわらず晴れあがっている。〈畝浜〉は汽走のまま真室湾から外海へ向かっていた。左舷側に見える北領の山並みから新城にはそうとわかった。
湾部とはいっても、南方、東海洋にむけて大きく口を開いているから、すでにうねりは大きくなっている。海の色も、より深味のあるものに変化していた。
吹きつけてくる風にはけして不快ではない重たきがある。
拡声筒を構えた下士官が展帆《てんはん》用意と伝えた。あちこちからどやどやと水兵が飛びだし、小猿のような身軽さで檣柱の段索をのぼってゆく。
「たいしたもんですな」いつのまにか隣にきていた猪口が言った。顔色は悪い。檣柱の中程に設けられた足場――檣楼《ヤード》から帆架へひろがってゆく水兵たちをみあげている。
「目の眩《くら》むような気分にならんのでしょうか」猪口は不思議そうに言った。子供のように素直な質問だった。軍隊は人間に、時には単純であれと強制する。
新城が何か答える前に別の声が教えた。
「なるね、もちろん」
新城はそちらを見た。笹嶋だった。
妙に硬い表情のまま笹嶋は続けた。
「少尉候補生と水兵のうちにそいつをたっぷりと味わう。目が眩むどころではない。たよりない足場索と帆架だけをたよりに、横揺れをくりかえす艦の帆を畳むときの気分といったら! 水軍が年がら年じゅう兵員を徴募している理由はそれだよ。誰も彼もが、あの高みに慣れられるわけではないのだ。その前に落ちる者は必ずいる。不思議なことに、艦がどれほど揺れていても、海へ落ちる者は少ない。大抵は甲板に叩きつけられる。そして背骨か頸《くび》を折る。
頭蓋をぱっくりとやる者もいる。もちろん戦争をしていなくても名誉の戦死。|常 在 戦 場《オールウェイズ・オン・デッキ》というわけだ。すばらしいね」
驚いたようにはあはあと猪口は領いていたが、やがて顔色がさらに悪くなった。現実的だが露悪的でもある笹嶋の表現を聞いているうちに船酔いがぶりかえしたらしい。形ばかりの敬礼をして、失礼しますと船室へ戻っていった。
「戻らないほうがいいのに」笹嶋が言った。「いまごろ、彼等の兵室には吐《げ》潟物《ろ》の臭いがこもっている。
みんなそろってげえげえやっているだろうからね」
「それも覚えがあるのですか?」微苦笑を浮かべつつ新城は訊ねた。
「あるよ」笹嶋は答えた。あいかわらず硬い表情だった。
「胃まで吐きだしそうになったことがある。練習艦の、三週間の航海でね。ようやく酔わなくなったのは半年を過ぎたあたりさ。君はそうではないようだな?」
「船は好きです。回船でも軍艦でも」新城は答えた。
「もっとも、海は恐いのですが。光帯のきらめきすら見えない夜、舷側から海を眺めおろす時は特に」
「わたしだって海は恐い。本当だよ。でなければ水軍士官として不見識きわまる」笹嶋は言った。あらためて新城に向き直る。
「ところで、大尉。わたしは貴官とただ雑談をするつもりはないのだが。ああ、わたしがこの艦に乗っている理由は、まあ、統帥部の伝令じみた役柄を与えられてのことだ。船の命令系統には属していない」
新城も向き直った。彼は敬礼を送った。笹嶋も答礼した。
「で、君はわたしに何か訊ねるべき事柄があるのではないかね?」笹嶋は言った。死罪とさだめられた無実の罪人にも似た顔つきだった。
「〈帝国〉軍が教えてくれました」新城は答えた。
「確かに面白くはありませんが、嵐まであなたのせいにするのは、どうかと考えます」
「撤退を連絡できなかったことについてはどうだ?」笹嶋は言った。
「僕にはいろいろと後悔の種があります」新城は答えた。
「とてもそうは見えないが」笹嶋は許諾のかけらもない顔つきで言った。
「ええ、よくそう言われます」新城は首肯し、続けた。
「しかし、あるのです。一五の年《とし》、なぜ水軍に入ることを思いつかなかったのかも、そのひとつです。あれほど船が好きだったのに、まったく考えもしませんでした。おかげでこのざまですよ」
「それがどう関係しているのかな?」
「だからですね、せっかく水軍にできた知己を、俘虜になったぐらいのことで失いたくはない、そう考えています」新城は微笑した。
「つまりは」笹嶋は呆れたように訊ねた。
「わたしは借りを忘れてはいけない、そういうことか?」
「一度や二度は、あるかもしれません」新城は言った。
「しかし、三度はないでしょう」
「わたしは君に一度嘘をついた」笹嶋は相手の言葉を補うように答えた。
「つまり、君にも一度は嘘をつく権利がある。今がその時と君は考えているのかもしれない」
「ありがとうございます」新城は答えた。「理解者はなにものにもまさる財産です。あの話についてはそういうことにしたいと僕は思います」
「ずいぶんと素直になったじゃないか」領きながら笹嶋は笑った。
「俘虜生活の影響か?」
「そんなところです」新城も苦笑した。
「で、どうだね?」笹嶋が言った。
「なにがですか?」新城は訊ねた。
「なにか面倒なことにわたしを巻きこむつもりがあるのかどうかだよ。君の性格、能力から言って、なんらかの信頼を寄せられた人間はとんでもない目にあわされそうだからな。借りがあるのではなおさらだ」笹嶋は言った。
「一体全体、このさきなにをやらかすつもりだね?」
「難しいですね」新城は答えた。「以前にもうしあげたとおり、自分は駒城家の育預なので。あまり露骨なことはできません。というよりも、いまのところは何も思いつきません。皇都へ戻って、だらだらとしたいだけです」
「意外に義理堅いんだな」笹嶋は驚いたようだった。
「路南半島じゃあ、違う面に意外性を感じたんだがね」
「場合が場合でしたから」新城は言った。「僕でも正直になることはあるのです」
笹嶋は微笑を浮かべた。晴れあがった洋上に視線を向け、素っ気なく言った。
「当然というべきか天罰というべきか、やはり君はなかなか複雑な男だな、少佐」
「少佐」新城は否定した。「大尉ですよ、自分は」
「私は約束を守った。守れる限りは」笹嶋は言った。
むしろ自分を納得させるような口調だった。
「少佐なんだよ、君は」
「へぇ」新城はあいまいに答えた。「水軍の、ですか?」
「君もはにかむことがあるのだな」笹嶋は楽しそうだった。
「両方だ。と言っても、水軍の方は名誉階級だから、いきなり駆逐艦が指揮できるという訳ではない。陸軍の方はわからん。おそらく、駒城家から何かあったか、陸軍省に誰かまともな人間がいるか、どちらかだろう。いや、ただ水軍への対抗心だけかもしらん。まあともかく、たいしたもんだ。現役の将校で陸、水軍の階級を持っている人間なんて、五人といないぞ。まあ、それゆえ今後の昇進はひと苦労かもしれないが」
「ようやく人並みになったというわけで」
「君はなにごとも真面目に受け取れないようだな、少佐」笹嶋は言った。
「まあ、その点はわたしも御同様だが」
「いいですね。不幸自慢は嫌いじゃありません」新城は答えた。
笹嶋は笑って続けた。
「あれこれと苦労をしているからね。苦労。うん、まあそう言っていいだろうな。父が早くに死んでしまったから」
「あなたが置かれた立場は理解できると思います」
新城は言った。
笹嶋は笑った。
「君ならばね、少佐。おそらくは。しかし、その不幸自慢とかいう悪癖を許して貰うならば、わたしも楽ではなかった。小さな回船の船主兼船頭だった父は、莫大な借財を残したのだ。父が遭難した時の荷主たちがそれを要求した。子供の私には想像もつかない金額だった。母は子供たちを安堵させる類《たぐい》の気丈さをもった恰幅《かっふく》の良い人だったが、父の死から五年しかもたなかった。その時、彼女の腕は木乃伊《みいら》のように細くなっていた。私と兄にひもじい思いをさせまいとしたのだ」
「兄上がいらっしゃるのですか?」
「ああ。あれほど責任感にあふれた人をわたしは他に知らない」
笹嶋は洋上遠くを見つめていた。
「母が死んだあと、彼がすべての面倒をみてくれた。
彼は回船の下働きから身をおこしたのだ。稼いだ金のほとんどすべては、わたしを育てることに費やした。わたしがそれなりの教育を受けられたのはすべて兄のおかげだ。努力の結果、若くして雇われ船頭の地位をつかんだ彼が、危険な請負仕事で千金をつかんだ時、わたしはこの世には良い面もあると実感した。それまでは断然不賛成だったのだが。彼が南領でも有数の回船問屋になってからはもちろんだ。
わたしが水軍を選んだ時は、おまえもあの親父の息子なんだなとひどく喜んでくれた。おそらく、いまでも喜んでいてくれるはずだ」
新城も海面へ視線を投げた。思わずのぞきこむことになった笹嶋の過去は、古い暗桑《あんきょ》のようにさまざまなものがこびりついていた。不快とさえ言ってよかった。しかし新城には、親しい者たちに、もっとも不快な過去を口にさせたくなるような雰囲気があった。
「中佐殿」新城は言った。
「笹嶋でいい、新城君」水軍中佐は答えた。
「笹嶋さん」新城は言い直した。「失礼を承知で申し上げるならば、僕はあなたがひどくうらやましい」
「その種の評価は初めてうけたまわるな。これまでこの話を聞いた者たちは、どこか居心地悪そうになるか、涙ぐむかだった」
「すくなくともあなたは、自分がどこから来たのか、それを確信している。要約がすぎますか?」
「いや。それは我々の職業病だ。君も忘れちゃおるまい。我々は軍人なのだ」
「そうですね」
新城は複雑な微笑を浮かべた。
「我々は軍人です。なんとも回ったことに、その点に疑問はありません」
「同感だ」
3
駒城家下屋敷は、皇都の南、宮城《きゅうじょう》から二〇里ほども離れた場所にある。本来は皇主から隠居所にでも使え、と言われて下賜《かし》されたものだった。地所は宮城とほとんど同じ広さの敷地面積を有しておりその周囲は駒鵬楓《くしゅうかえで》の並木で囲まれており、秋になれば紅葉ですべてがあかく染まったような眺めになる。
塀はない。何代か前の当主が、駒城に塀はいらぬと断じて取り払わせてしまった。駒城家の家風を示す代表例、そのひとつと考えてよいだろう。
近年、現当主駒城篤胤はこの下屋敷で過ごすことが多い。五将家として有する権力、それにかかわる実務を息子の保胤にほとんど任せてしまったからだった。隠居の届けこそだしていないが、皇都の街中へでることもあまりない。宮城へは年賀その他、儀礼上、かかせぬ用向きの際にだけ参内する。駒洲老公は気楽なお暮らしがお好み、そう巷《ちまた》で噂されるほどだった。かつての盟友にしてこんにちの競争者たる他の四将家も、政治的魔術を縦横に駆使することで知られた篤胤も老いたか、と考えている。
いま、篤胤は書斎の椅子に腰を降ろし、すでに忘れられた人々について記された物語を漫然と読んでいた。前髪から頭頂にかけてほとんどはげ上がっている短髪が白いことをのぞけば、彼がとうに六〇を趨えた人間であることを示すものはほとんどない。
目尻に刻まれた級は、渋みを増すことだけを手伝っている。
先代まではよく使われていた書見台を篤胤は用いていない。彼はだらだらとした姿勢で本を読むことを好むようになっていた。
もとからそうであったわけではない。以前は、幼い頃にしつけられたとおり、背筋をのばして正座し、書見台に置いた本をめくっていた。彼の習慣を変えてしまったのは息子が東洲で拾った男の子――育預として育て、一家をたてさせてやった新城直衛であった。彼がまだ直衛とだけ呼ばれていた頃、彼が本好きであることを知った篤胤は、書斎への出入りを自由にしてやった。すると彼の育預は、本を持ちだして、あるいはこの書斎で、おそろしくだらしない姿勢で読みあさるようになった。
育ちとはこういうものか、それを見て篤胤は呆れた。もちろん叱りもし、手ずから書見の礼儀を教えてやったこともあった。
しかし態度はあらたまらなかった。篤胤は往生した。育預とはいえ、一応は駒城の係累《けいるい》に加わった者ではある。せめて他の将家連中の前で恥をかかずに済むようにはしてやらねばならなかった。古来より、書見の手ほどきをする役割は父親と決まっている。
そして直衛には父がない。であるならば、育預を引き受けた家の当主が代役をつとめてやらねばならない。そのためには、なかば保胤へ任せきりにしていたこの少年を理解するところから始めねば。
いったい、そんな風に読んで頭にはいるのかと篤胤は訊ねた。いくらかは、と直衛は答えた。もちろん暗記はできません。もとよりそのつもりもないので。
ならば何のために読んでいると篤胤は言った。知らないことがいっぱいあるのだとわかります、それが面白くてと直衛は答えた。確かに彼は読めるものであればなんでも良いらしかった。数代前の駒城家へ仕えた者が記した堤防工事の技術書を楽しげに読んでいたこともあった。
篤胤は妙に感心した。将家における書見――習慣とは、〈皇国〉における地位にふさわしい教養を備えるための暗記術に等しい。彼もこれまではそのためだけに本を読んできた。直衛のように、自分が物知らずであることを知るために本を読むなど、考えたこともなかった。
あとになって考えてみると気の迷いゆえとしか思えなかったが、ある日、篤胤はならばおまえのように一度読んでみるかと直衛に言った。なるべく気楽に読めそうな本を手にとり、椅子へ腰をおろし、崩れた姿勢で読み始めた。
そしてやめられなくなった。
これほど楽しいものかと思った。最初のうちこそ直衛に、おまえのせいだと文句をつけていたが、そのうちそれも口にしなくなった。やがて篤胤と直衛は、毎日就寝前の二刻ほどを、好き勝手な姿勢をとった書見で過ごすようになった。
二人のあいだにまともな会話はなかった。一刻を過ぎたあたりで篤胤が家令を呼び、黒茶をもとめる時に、おまえもいるかと訊ねる程度だった。はいという一言だけを常に直衛はかえした。
それに領いた篤胤は、ならばなにか菓子も一緒にと家令に命じるのだった。
そのうちそこに細巻が加わり、やがては酒もはいった。直衛は女遊び以外のほとんどを、書見のあいまに篤胤から教えられたのだった。ある時、書斎に顔をだした保胤が、父上、あなたが手ずから悪いものに染めてどうするんですと苦笑したことがあるほどであった。
やがて直衛は駒城の一字をとった新城の名を与えられ、特志幼年学校に進み(篤胤にとっては少し意外であった)、陸軍将校になった。篤胤が一人、くだけた姿勢で本を読むようになった理由とはそれであった。あの頃の情景に懐かしさを覚えないわけではないが、なかなか見所のある将校になったらしい直衛にもう一度つきあえ、とまでは言えなかった。
扉が叩かれた。
「永末《ながすえ》か」篤胤は家令東の名を口にした。
「いいえ、父上」
保胤の声であった。篤胤は振り向いた。彼の背後には酒瓶の載った盆をもった家令がいる。
「いかがでしょうか」
保胤は酒瓶を示しつつ父に尋ねた。駒城家当主は領きをかえした。
家令が下がり、アスローン・モルトの一杯目を空にしたあたりで保胤が言った。
「すべては御指示通りにいたしました。いささか意外な展開もありましたが、うまくいけば、あぶないところで夏季総反攻はくいとめられそうです」
「守原はどう動いている?」抑えた発音で篤胤は質問した。
「こちらの邪魔をしているのか」
「まあ、邪魔といえば邪魔ですが」保胤はこたえた。
「むしろ連中はそれを隠しません。家風なのでしょうか、素直でかえって扱いやすいほどです。まあ、北領失陥の責任が誰にあるのか、それはあきらかですし。問題は、宮野木《みやのぎ》のほうですね。あの家は裏にまわってなにかするのが大好きですから」
「安東《あんどう》と西原《さいはら》は?」
「西原は明確に守原支持を打ちだしています。先日、西原信英《のふひて》卿が参内され、陛下に、北領早期奪還の方策について述べられたそうで」
「陛下はもちろん?」
「はい」保胤は領いた。「周囲と諮ってとっくと考えよとの仰せであったそうです」
篤胤は微笑を浮かべ、領いた。今上皇主正仁の真意はすでに密使をだして確かめてある。彼もまた戦乱の拡大を望んでいなかった。篤胤は、まずは国論の穏やかな統一、そして〈帝国〉との交渉をはかるべLとの内意を女房奉書のかたちで受け取っている。
「安東は揺れています」二杯目を注ぎながら保胤は伝えた。
「当主光貞《みつさだ》卿は総反攻に反対ですが、奥向きが」
「あの家もかわらんな。いつまでたっても女が強い」
篤胤はあきれたように感想を腐らした。
「うちも確かに強いが、あれほど目先にのめりこむわけではない」
「光貞卿の奥方はよほどの出来物ではありますがね」
保胤は答えた。安東光貞と保胤はほんの三年ほどしか違わない。在校時期は重なっていないが、幼年学校の先輩にあたる。そのせいか、いまだに親しくつきあう機会がある。光貞の妻にも挨拶をしたことがあった。
「この一〇年、安東が家格を維持できたのはあの奥方が計数に強いがゆえです。それまで、家産は滅茶苦茶でした。おそらく今回も、なにか、儲けがでると踏んでいるのでしょう」
「総反攻で我々が消耗してしまえばよい、そう考えているのだ。賢《さか》しらにもほどがある」篤胤は低い声のまま断定した。
「もし総反攻をおこなえば、そのとおりになるでしょう。本来、安東は失うべきものが一番少ないのですから、損害も少ない道理です」保胤は答えた。
「その後で国が亡びたらどうなる?」篤胤は訊ねた。
「これまで〈帝国〉がとってきた方針からみて、五将家はまず戮殺される。〈帝国〉が貴族として召し抱えるのは、現在の境遇に不満を持っている昔の諸将家だ。まったく。当座のことに熱心であればそれで良いと思っている輩はこれだから。間違った方角へ早駆けしても、絶対に目的地へは着かないことに気づかず、事態を一生懸命に悪化させてしまう。つける菜がない。ああ、安東の場合は女ばかりではないな。男も似たようなものだ。あそこの先代はひどかった」
保胤は失笑に近い顔つきになった。血というよりは家風でしょうね、と答えた。
「用向きはそれだけか?」篤胤は訊ねた。
「いえ、もうひとつ」保胤は答えた。
「直衛が帰ってきます」
篤胤は首肯した。「すでに手の者が知らせてきた。元気でいるようだ。おまえ、あれを少佐にしてやったそうだな? それにどうしたわけかしらぬが、水軍まで少佐の名誉階級を授けている」
「さすがですね」保胤は水晶椀の緑を撫でながら答えた。
「あれの剣虎兵配属と同様、窪岡少将に頼みました。いや、直衛はそれだけのことをしています。赫突たるものです。水軍の方はよくわかりません。どうも、それなりの人物に貸しをつくったようですな。まあこれで、あれにも義兄《あに》らしい真似がしてやれます」
「理由はそれだけではあるまい」
「はい」保胤は水晶椀を空けた。
「総反攻阻止のとどめを、あれにやって貰おうと思っています」
「直衛は小心だぞ」篤胤は断定した。
「確かに、いざとなればなにをしでかすかしれないところはあるが。おそらく、自分が小心であることを知っているからだろう。それに、腹の底が見えない時もある」
「蓮乃もそう言っています。子供の頃からかわらぬようです」保胤は妻の名をあげた。
「しかし、大丈夫でしょう。あれはあれなりに駒城へ恩義を感じているようです。やってくれましょう」
「あとはどうする」篤胤は言った。
「何か考えているのだろうな? 育預とはいえ、あれも駒城の者だ。ただ使い捨てにはできぬ」
「一応、手は打ってあります。直衛にとって、そう悪くはない手が」保胤は答えた。わずかに頚をかしげて続ける。
「あれのことですから、なにやかやと文句はつけるでしょうけれども」
「おまえにはそうであるらしいな?」
「あれは人を選びます」保胤は答えた。
「といっても、上にこびへつらうという類のものではないので、けして卑しくはありませんが」
「いや、人はすべからく卑しい。我々もその例外ではない。だから儂もこんな真似をしている」篤胤は言った。
「本当に隠居するのも悪くはないか、そう考えているほどだ」
「ならば、卑しさの表し方が面白い、そう申しあげます」保胤は言葉を足した。まだまだ気楽になって貰っては困りますと言いたげであった。
「それならばわかる。確かにその通りだ」篤胤は領いた。そこで思いついたように付け加える。
「皇室魔導院の方はどうだ?」
保胤は首肯した。
「それです、父上にお願いしたかったのは」
4
熱水乙巡〈畝浜〉は、完全に帆走へ切り替え、帆をいっぱいにふくらませて東海洋を西進していた。
天候はあいかわらず良いが、完全な外海であるため、さすがにうねりは大きい。
新城は割り当てられた自室で寝転がっていた。
のりこんで三日目ともなると、さすがに物珍しさも薄れていた。昨日、笹嶋と若い士官の案内で艦内見学を終えてしまったともなればなおさらであった。
士官室にでもいって暇を潰そうかと思ったが、それも面倒だった。水軍士官は概して口が堅く、身内意識が強い。親しくなるまでが面倒だった。昨日気づいたのだが、あの笹嶋でさえ、他の水軍士官がいる前ではそれほどふざけた表現を用いなかった。
何もすべきことがない。艦が北領海峡を抜けて東海洋から皇海にはいり、皇都へ到着するまでの予定時間はあと四日。それも天候と風向きがよければのことで、運が悪ければもうすこしかかるかもしれない、とのことだった。
熱水機関を使えばどうなのだろうと新城は思った。
昨日、それについて案内してくれた水軍士官に訊ねもした。
かえって面倒になるかもしれません、水軍士官はそう答えた。熱水機関を搭載することにより、艦の航続距離はかえって低下しましたから。
ええ、たしかに本当の逆風でも進めるようにはなりました。
しかし、熱水機関は大食らいですからね。すべてをそれで走ろうとした場合、艦に積みこんだ黒石ぐらい、すぐに無くなってしまいます。帆だけであれば、食糧が切れるまで海にいられたものが、熱水機関にしたばかりに、あちこちに給石所がいるようになってしまいました。ええ、上のほうでは頭を抱えているそうです。あっ、ちょっと言い過ぎたかな。
どうかご内聞に。あほん、ともかくですな、本艦は必要な際に熱水機関を使用する、そうした方針で造られたわけです。艦底に溜まる汚水もそいつを利用した[#不明漢字]筒《ポンプ》で汲《く》みだしています。ああ、もうひとつありますな。缶を燃やしているあいだは、いつでも風呂に入れます。乗員の誰もが湯に浸かることが可能な船は、軍艦、回船ふくめて、〈大協約〉世界で本艦だけです。これまでは舷側に設けた洗い場で海水を浴びるだけでしたからね! これまで船に長いあいだ乗っておられたことがありますか? ならば、風呂がある意味はおわかりになりますね。そうですな、新城少佐も今日のうちに是非とも。海水風呂ですが、まあ、すべてが手にはいるわけではありませんからね。それに明日からはほとんど帆走になります。いまのうちですよ。 海水風呂は思ったほどべたつかなかった。妙に重みのある湯で、むしろ面白味すら覚えた。
昨日の会話と風呂からの連想だろう、寝台に寝転がったままの新城はくだらないことを思いだした。
どこか海辺の湯治《とうじ》場で、海水風呂で人気を博しているところがあったはずだが。どこだったろうか。
記憶が蘇った。嫌な気分になる。それは北領の湯治場なのだった。
起きあがった。本でも読もうかと考えたが、どうかなと思いなおした。彼が持っている本は、俘虜として過ごしたあいだに〈帝国〉軍から――フォン・バルクホルンから差し入れられたものだけ。俘虜生活がえりの少佐が、自室で〈帝国〉語の本を読んでいるという情景はどうにも、と思えた。新城本人はどうでもよいが、もし誰かが訪ねてきたならば、どう思われるかわからない。檻の中でくさっている千早の相手をしてやってもよいが、自分があらわれるとはしゃぎすぎるため、それはそれで艦に迷惑をかける。
かといって寝ることもできない。船というものは揺れるうえに足下が硬すぎるため、疲労が生じやすい。本来ならば眠るためには最高の環境なのだが、最近の新城はかえって眠りが浅くなっている。
なぜかは本人もわからない。
あちこちから響いてくる構造材のきしみが原因かとも思ったが、自分はそこまで神経質でもないと否定した。ならば、夜毎、艦のどこかから響いてくるあの悲鳴だろうか。
直接目撃したわけではないが、それはまず確実に私的制裁による悲鳴だった。どこかの通路に集合がかけられて始まる一方的な暴力行為。古兵が新兵に”気合いを入れる”と称しておこなうそれを、水軍はいまだ黙認しているようだった(将校、下士官による私的制裁はおこなわれない。そういう不文律がある)。
陸軍では、修正の名を借りた私的制裁がまったく禁じられている。それが露見した場合、懲罰の対象となる。正直なところ、それは、新城が〈皇国〉陸軍でもっとも評価している部分だった。
実際、私的制裁を看過しただけでも懲罰の対象となるほどであった。旧来の軍からみれば信じられぬほどに”甘い”この方針は、軍のすべてを五将家が統括できなくなったこと――大量の衆民が軍に参加したことで実現した。五将家領民にくらべ、衆民たちはひどく自分に正直であるからだった。
つまり、誰であるにしろ、兵に気合いを入れようと思えば、すべて訓練にしてしまわねばならない。
そして、自分もそれに参加せねばならないのだった。
唯一、鬢汰《びんた》の類は、その理由が正当なものであった場合は、例外とされている。もっとも、張り方によっては鼓膜が破れる場合もあるから、〈皇国〉陸軍が楽園の軍隊にかわったわけではない。それに、こうした方針の対象となっているのは勅許を受けて編制された〈皇国〉陸軍部隊だけであり――五将家が抑える大部分の正規部隊ではまったく事情が違う。
五将家はともかく、衆民が強い水軍でなぜそれが許されているのだろうと新城は不思議だった。おそらくは伝統、そこに含まれてしまうものが原因ではあるのだろう。現在の水軍は、その建設の際に、旧海欺衆や回船乗りを大量に採用している。私的制裁は、彼等の持ちこんだものに違いあるまい。
もし自分が水軍士官になっていたならば、それをどうしただろうか、新城はそれを想像し、さらに嫌な気分になった。なにもしなかっただろうとわかったからだった。つまりは楽園など、どこにもないということか。そんなことを思い、暗い記憶をよみがえらせた。特志幼年学校で、夜、家を恋しがって泣いていた同期生がいたことを思いだした。
仕方がないので上甲板へでることにした。本当はそれすらも嫌だった。なにをするでもない便乗者が甲板をうろついても邪魔になるだけであると新城は知っていた。
しかし、無理してそこにいたおかげで珍しいものを見逃さずに済んだ。
騒然としていたわけではない。しかし、上甲板にはなにか緊張した空気があった。〈畝浜〉は右に開いた帆で艦首右舷三刻あたりから吹いてくる風の力を強引にうけとめ、航走していた。真上から見れば、艦の軸線に対して前檣・大檣の帆桁が右肩あがりになっている。
「君、いったいなんだね?」手近にいた水兵に新城は質問した。
「龍であります」まだ二〇《はたち》にもなっていないだろう水兵は教えた。
「右舷四刻方向上空です」
礼を言った新城はそちらを見上げた。何もみつけられない。迷ったように見回す。ようやくで目に入った。空中に細い線のようなものがうねっている。
天龍だった。
笹嶋が隣に来ていた。
「珍しいな」笹嶋は言った。「東海洋では、普段、滅多に天龍をみかけない」
「そうなのですか」新城は妙に落ち着いた声で答えた。
「君、ようやく船酔いにでもかかったのか?」新城の態度に不自然なものを感じた笹嶋が言った。
「いえ、鈍さは相変わらずです」新城は答えた。今後は味方にしようと決めた男へ説明する。
「あの天龍は、どうも、僕の知己であるように思えるので」
「知り合いなのか?」笹嶋は驚いたように訊ねた。
当然だった。〈皇国〉で――つまり〈大協約〉世界で、天龍が知己であると言える人間は二〇人ほどしかいないからであった。ちなみに、〈皇国〉の総人口は約四千万人、天龍の総数はおよそ一〇万と見積もられている。後者の数は研究者による推定にすぎないため、かなりの誤差を見こむ必要がある。
「右舷四刻方向の天龍、本艦に近づく!」檣楼台の見張員が報告した。
新城と笹嶋は天龍を注視した。
「艦橋につきあってくれ」笹嶋が頼んだ。命令に等しい響きが含まれている。
「護田艦長は機転の効く男だが、いささか真面目すぎるきらいもある。合戦《かっせん》準備を発令しかねん」
否《いや》も応もなかった。二人は露天艦橋にあがった。
「新城少佐」笹嶋から説明を受けた護田は疑わしげに新城を見た。
「あの天龍は君の知己だというのか?」
「はい」水軍の士官相手に暖味な表現を用いぬほうが良いことを新城は以前に教えられていた。
「なにか事情があるのか?」護田は重ねて訊ねた。
「〈大協約〉がらみです、艦長」新城は端折《はしょ》って返答した。
「それに、なにか害をなすつもりであれば、もう少し慎重に近づくのでは、と自分は判断します。あの天龍はあえて見つかりやすい位置から接近してきました。導術で合図も送っていると思いますが」
「君は導術もやるのか」護田艦長は言った。
「いえ、あの天龍の行動からの判断です」やはり簡潔に新城は説明した。
導術の感知は、額に銀盤を埋め込み、それなりの訓練を受けた者にしかできない。例外的に常人がそれを可能とするのは、相手がよほど強い術力を有しており、距離がほとんどない場合に限られる。
「どうかな」
護田はあいかわらず疑わしげだった。あの天龍が”じゃれついて”くる可能性を怖れていた。それは天龍にとってまったくの遊戯にすぎないが、人間にとっては一大事だった。悪戯好きの若い天龍がじゃれついたおかげで転覆した小舟は、ふた昔ほど前まで年に数十隻にもなった。
もちろんすぐにまずいと気づき、水夫を救ってはくれるのだが、助けて貰っても素直に感謝できるものではない。
熟練水軍士官である護田は、それを少尉候補生の頃に教えられていた。その数年後には大聖議で人間側からの要求として討議されたから、最近では”じゃれつく”天龍は皆無だった。むしろ、船をみると近づきたがる性癖のある水龍の方が面倒なほどであった。しかし護田は、若い頃に仕込まれたものを忘れられずにいる。
「導術が通じていないとわかれば」新城は言葉を重ねた。
「それが我々にも届くぎりぎりの距離を飛びすぎてゆくでしょう。あの動きからして、すぐにそうすると思います」
彼の予測はすぐに裏付けられた。
聴楼台から新たな報告が響いた。
「右舷四刻方向の天龍、急降下に入った」
護田は迷っていた。合戦準備を命じるべきか命ぜざるべきか。半呼吸のあいだ唇を噛んだあと、彼は緊張を解いた。新城に言う。
「なにかあったら君に責任を押しっけるからな」
新城は微かに領いてみせた。
大気を切る音がきこえ、〈畝浜〉の右舷二〇間あたりの低空を天龍が飛び過ぎた。
誰もが驚いて周囲をみまわし、やがて気の抜けた顔になった。導術の”声”が全員の頭に響いたのだった。
”当方に敵意なし、当方に敵意なし、貴艦便乗中の友人に挨拶を送りたし”
天龍が名誉に関わる嘘を絶対につかないことはよく知られている。新城は艦長に一礼し、露天艦橋を下りた。
天龍は右舷五間ほどの距離、上甲板とほとんど同じ高度で〈畝浜〉と併走していた。
この仕組みだけはどうにもわからんなと新城は思った。翼のある翼龍はまだ説明のつく気がする。しかし天龍が飛ぶ仕組みだけは見当もつかない。
「お出迎え、痛み入ります」新城は天龍に向けて叫んだ。
「とある筋より貴官の生還を知りました」北領の戦場で坂東一之丞《ばんどういちのじょう》と名乗った天龍は導術で答えた。
感知できる者は新城だけに絞っている。
「御迷惑かと思ったが、とにもかくにも、二言お祝いを申し述べたくなり、参上した」
新城は大きな笑みを浮かべた。
「貴殿の御厚情、まったくの喜びといたします」
「よろしければ」坂東は伝えた。
「皇都までお乗せしたいのだが?」
「お志のみ有り難くお受けいたします」新城は瘡まなそうに言った。
「部下と共に帰府することも、自分の任務に含まれます」
「恥ずかしい。気の利かぬことを申しあげた」坂東は頭を軽く振ってみせた。
「このままでは艦の邪魔になる。今日のところは、これまでとしたい。おお、御昇進なされたか。ならば、その御祝いもまたの機会に」
「皇都での再会を楽しみにしております」新城は叫びかえした。
龍は再び領き、別れの挨拶を送った。導術をあえて用いずに、一声大きく吼《ほ》えた。了承したのだった。
そして高みへと去っていった。
坂東を見送った新城はしばらくして視線をもとに戻した。周囲の底面にちょこちょこと水龍が顔を出しているのが見えた。龍族すべてがそなえている導術の力で坂東を察知し、集まってきたものらしい。
現実はどうであれ、巡洋艦一隻を青ざめさせられるのだから、その威力はたいしたものだ。なるほど天龍が龍族の長であるのは嘘ではないのだと彼はあらためて感心した。そのことについていささか生々しい思いつきが浮かんだが、それはすぐに消した。
「君は随分面白い友人の選び方をするんだな」笹嶋が鼻にかかった声で彼を辞した。
あなたもその一人ですよと口にしてやるほど、新城は愚かではなかった。
5
昨夜遅くあたりから再び動きだした熱水機関の震動が個室に満ちていた。扉が叩かれた。はいと新城は答えた。
「失礼します、少佐」扉を開けたのは水兵だった。
「なんですか」新城は答えた。水軍相手であるため、兵であっても(兵であるからこそ)言葉遣いが丁寧になっている。
「艦長よりの御誘いを伝達に参りました」水兵は言った。背筋の伸ばし具合は陸軍と随分違うが、水軍には水軍の流儀があると新城も理解している。
「はい、どうぞ」
「弓勢《ゆみせ》湾、本艦艦首右舷方向視界に入った。現在快晴。風浪ともに低し。本艦熱水機関によって航走中。大隊御一同ともに上甲板へあがられることを御勧めする。故国なり、とのことであります」
「喜んで、艦長にはそう御伝えください。僕の部下にもそれを達してください。僕が艦長の御誘いを受けるように言っていたと」
「はい、失礼します」
寝台へ腰掛けていた新城は、扉が閉まると同時に立ちあがり、傍らに置いていた制服の上衣を着た。
壁に留められている小さな鏡で乱れがないかどうかを確認し、制帽を小脇に抱えた。
大気の匂いが違っているかもと新城は期待した。
しかしゆるやかな風は海から陸に向けて吹いていた。
それでも匂いが違うように思えたが、やはり気のせいなのだろうなと彼は思った。自分にこれほど里心がついていたとはまったく意外だった。
〈畝浜〉は外輪を回転させ、弓勢湾へ進入しっつあった。皇《すめらぎ》湾とも呼ばれる、〈皇国〉北岸最大の湾部であった。そのもっとも奥には〈皇国〉首都、皇都がある。
巡洋艦は外輪の騒音と共に進んだ。右舷側に見える弓勢半島の緑が目に痛いほどの弾やかさになってゆく。
船縁からすこし離れた場所で新城はそれをぼんやりと見つめていた。この国に自分のなにがあるのだろうと思った。それはかつて何度か覚えた疑問だったが、いまだに結論をだせなかった。彼にとっての故国とはまったく暖昧模糊《あいまいもこ》としたものであり、そうだからこそ、故国たりえているのかもしれなかった。
はっきりしているのは、その故国が、彼のまったく気に人らぬ面を山のように抱えていることだけであった。敗亡の際に立たされていることもそのひとつだった。
誰かが肩を叩いた。笹嶋だった。
「さて」笹嶋はつとめて朗らかに話しかけた。
「故国《ホーム》だ」
新城は領いた。
「故国です」
二人とも、それ以上はなにも言わなかった。再び視線を弓勢半島の山並みに戻した。熱水で走る船が珍しいのだろう。周囲を帆走する船舶の甲板からこちらを眺めている者が多かった。誰かが手を振った。
「おーい」
背後から大声が響いた。
新城は驚いて振り返った。大声をだしたのは彼の部下だった。普段であれば、手を振りかえすことも絶対にしないように思われる古兵であった。彼の周囲にいる兵たちもそれに加わっていた。驚いたことに猪口まで参加している。
新城は彼等を眺めまわした。
全員が指揮官の視線に気づき、あわてて手をおろし、気ヲ付ケの姿勢をとって顔を引き締めた。
新城は彼等を黙ったまましばらく眺めていた。そして小さく息を吐くと、おそらく部下には初めて見せる表情で――まったく衒《てら》いのない笑顔を浮かべ、彼等に語りかけた。
「諸君、故国だ。御苦労でした」
兵たちは思いがけぬ言葉に唖然とし、やがて全員が満面の笑みを浮かべ、歓声をあげて指揮官にかけより、彼を取り囲んだ。独立捜索剣虎兵第一一大隊はいまこそ任務の完結を実感していた。
第六章〈皇国〉
皇都の水軍|埠頭《ふとう》でおこなわれた帰還の式典はごく簡単なものであった。
〈皇国〉軍部は兵と民の士気高揚にそうしたものがひどく重要な役割を果たすことを知っていたが、なんといっても、負け戦からの帰還であった。見捨てられたと感じている北領の衆民たちとことなり、ことに内地の衆民たちは軍の勇戦に好意的ではあったけれども、素直にそれをもりあげてしまうわけにもいかなかった。一時的な好意は、その後の冷静な批判につながるからだった。〈皇国〉軍部にはそれに耐える勇気がなかった。
他の問題もあった。北領で恥をかいた守原家から、あまり派手にするのはどうかとの文句がつけられていた。彼等は、負け戦の英雄として帰還した部隊の指揮官が駒城家育預であることをなによりも重視しているのだった。
軍監本部から来た代表は、ひととおりの手順(そこには新城の少佐昇進に関わるものも含まれていた)を済ませたあと、これより諸君には一ケ月の休暇が与えられると伝えた。当座の路銀も支給される。土産でも買って、家でゆっくりしてきたまえ。
兵たちは歓声をあげたが、新城は素直に喜べなかった。彼等は、いうなれば、〈帝国〉軍の現状にもっとも詳しい者たちのはず。ならば、記憶の薄れぬうちに可能な限りの情報を引きだしておくべきではないのか。
しかし軍にはそのつもりはなかった。式典は半刻ほどで終わり、第一一大隊の兵たちは家路についた。
新城が解放されたのは軍監本部の人間と軍務に関わる会話を済ませたあとだった。さすがに溜息がでる。肩の力を抜いた。
そして、自分を待ち受けている人々がいることに気づいた。いや、最初から気づいてはいたが、わざと気づかぬふりをしていたのだった。
新城は彼等へむけてゆっくりと歩いた。兵は猪口を含め全員帰してしまったので、私物も自分で持たねばならなかった。彼を待ち受ける一座の中にいた初老の男が駆けだした。いまだ筋骨|遥《たくま》しげではある。片足をわずかに引きながら駆け寄ると、ひったくるようにそれをうけとった。
「お持ちいたします、少佐殿」
「ありがとう」新城は丁寧に答えた。男は彼個人の(たった一人の人間からなる新城家の)家令であった。
新城は人々に歩み寄った。その中央にいた駒城保胤の前で立ち止まり、姿勢をただし、敬礼を送った。
保胤は陸軍中将の礼装姿であった。
「駒城閣下。新城少佐、ただいま戻りました」新城は硬い声で言った。
「御苦労でした、少佐」保胤も同様の態度で答えた。
彼等は階級の順に手をおろした。しばらく言葉がでない。沈黙を破ったのは、乳母が抱いていた女児であった。
微笑を浮かべて新城は言った。
「麗子《れいこ》様、初姫《はつひめ》様ですか? 大きくなられましたね」
「ああ、驚くほどだ」保胤はこたえた。
「直衛、とにもかくにも、よく戻ってくれた」
「はい、義兄上《あにうえ》」新城は領いた。保胤の隣で自分をみつめている女性へ、努力して視線を向ける。
彼女は新城よりいくらか背が低いだけだった。つまり女性としては大柄の部類になる。
しかし、大柄な女性にありがちなまとまりのかけた印象は弱い。柔らかくつくりあげられた顔立ちが良いのだった。みかけは三〇代はじめというところ。
ただ漫然と生きているだけであれば、不美人としての道をまっしぐらだったかもしれないが、いまはひどく魅力的に見える。幸福な生活が彼女の内面を満たしているからだった。新城はそれをよく知っていた。
彼女の名は蓮乃、東洲の戦野をともに彷徨《さまよ》ったかっての少女だった。彼と共に駒城家の育預となった。
形式上は新城の義姉《あね》になる。蓮乃は、新城がこの世で愛情の対象としているただ一人の女だった。そして彼のものではなかった。
彼女は、いまや駒城蓮乃と名乗ることを許されている。駒城家の初姫である麗子の母親であるからだった。駒城保胤の愛妾、実質的な正妻だった。〈皇国〉の上流既婚女性であればそうあるべきとされている肩長の髪型、しっとりとした深小豆《あすき》色の宮羽織、さらに深い色を用いた宮袴が似合っている。彼女は目に虞を溜めていた。
新城は蓮乃に領いてみせた。
「ただいま戻りました、義姉上」
蓮乃は何もいわずに右手の指先を新城の額にあてた。そこには、真室で受けた投石、その傷跡がある。
「怪我をなさったのね」抑えた声で蓮乃は言った。
「たいしたことはありません。転んですりむいたようなもので。もうなおりました」
はにかんだ表情で新城は領いた。彼が蓮乃に対して抱いている感情は、むしろ宗教的崇拝に近い面があるのだった。彼がこのような面を見せる他者は、他にはまずいない。様々な恩義を感じている保胤でさえ例外となることがある。
「気をつけなければ駄目よ」額の傷を撫でながら蓮乃はいった。
「はい」額の感触に、戦懐に近いものを覚えつつ新城は領いた。
「直ちゃん、わかっているのり」蓮乃は再び訊ねた。
詰問に近い調子だった。
「はい、義姉上」新城は同じように答えた。
「わかっちゃいないわ」蓮乃は怒ったように応じた。
「ちいさな境からいつもそう。無茶なことばかりして見栄を張って。本当はなにもかも恐くてたまらないくせに
新城は何も答えられなかった。真実であるからだった。それに、蓮乃であれば何を言われても許せた。
遂に耐えきれなくなった蓮乃は新城の胴に腕をまわし、強く抱きしめた。胸に顔をうずめて泣きだす。
新城は両腕にそっと手をあてかえしただけだった。
この女を強く抱きしめる自由を自分は与えられていないのだと思い知る。悲しみというより痛みに近い自覚だった。よほどのことがあっても、人前で感情的な行動をとれない自分の性癖がまったくうとましくなった。蓮乃の柔らかみ、温もり、全身から発散される香りが脳天へとつきあげてくる。
わけのわからぬ破壊への衝動がこみあげそうになった。たとえば彼女をこのままどこかへ連れ去り、強姦でもかまわぬから自分のものにしてしまう。そんなことすら妄想した。そしてそれが、畜生道に堕《お》ちた息子が母親に抱くそれとなんら違いのないものであると気づいていた。蓮乃は彼が女性に求めるすベてを有していた。この世のすべてを疑ってかかるこの男が、それだけは素直に信じていた。
だとするならば、もっとも恩義を受けている駒城保胤こそ憎むべき男だということになる。
なるほどまさに、新城は思った。
ある女を憎からず思う男がいて、その願いが叶《かな》えられぬ時、彼が考えることは決まり切っている。彼女が、内心に設けた特等席に最悪の酔客を招いているのだと考える。これは誰でも同じ。独創性などまったくない本音というやつ。それを否定したがるのは、よほど手ひどく幻想を打ち砕かれたか、あるいは自分が相手に嫌われていると気づかぬほどの大莫迦者であるかのどちらか。そして純粋な愛情は大莫迦者にならねば抱けない。いやはや、やはり生きてゆくには幻想が必要だ。
もちろん現実に生きる彼はすべてを大きな微笑と細めた両目の中へ潜伏させていた。目尻はわずかに赤らんでさえいる。すべてが演技であるとするならば、古今のあらゆる俳優たちがうらやむであろうほどの名演だった。
接岸した巡洋艦から、新城の耳に親しい轟吼が響いた。蓮乃の胸と両手にある蓮乃の感触を楽しみながら新城は首から上だけを無理に向けた。檻からだされようとしている彼の子猫に大声で呼びかける。
「千早! おいで!」
主人の声を聴きとめた剣牙虎は、獲物に襲いかかるような勢いで跳躍すると、ふた呼吸にも充《み》たぬ時間で三〇間近い距離を突っ切った。新城の足下で急停止すると、顔をみあげて可愛く噂き、頭と胴を脚にこすりつける。恐怖よりも諧謔を感じさせる動きだった。
埠頭は大騒ぎになりかけていたが、駒城の者たちは乳母をのぞき、笑っている。この乳母は以前から猫嫌いで通っていた。
度胸が据わっているのだろう、千早とはほとんど初対面であるはずの麗子まで乳臭い笑い声をあげていた。彼女は乳母の胸に両手を押しっけた。おろせというのだった。
「姫様」さすがに乳母がとめた。
「かまわない、大丈夫だ」保胤が言った。
乳母はおそるおそる麗子を降ろした。三歳になるかならぬかの幼女は、まったく恐怖感を感じぬ足取りでちょこちょこと剣牙虎に歩みより、上顎から恐ろしげに突きだした牙を掴んだ。
千早は小さく暗いてみせた。剣牙虎なりの愛想を示したのだった。雌であるがゆえに、ほとんどの動物が理解できるとされる幼きものへの愛情を示したのかもしれない。
皆が笑った。新城も微笑し続けていた。彼を抱きしめて上位き続けている蓮乃、内心の暗く歪んだ想い。
剣牙虎と遊ぶ麓子。自分の血が入っていればどれほど幸福だったろうかと思われる娘。そして駒城の人々。それが彼の故国であった。
水軍統帥部は笹嶋中佐に迎えをだしていた。かつて彼が新城へ予定として語ったように、彼の現在の配置は統帥部戦務課甲課員――総統部参謀であった。
並の中佐ならば想像もできぬほどの役得がある。
統帥部の馬車で彼を迎えに来ていたのは浦辺大尉だった。北領でその能力を良く知ったため、笹嶋が要路に話をとおし、統帥部員として転属させ、副官のように用いている。
「あれが新城大尉――いや、少佐ですか?」敬礼をかわしたあとで浦辺は訊ねた。
「なんというか、出来過ぎた光景ですね。うらやましいというより、恥ずかしくなるほどの」
「戦場の英雄、武功の鑑というのが、まず出来過ぎている。いまさらあれぐらいでは気にもならんよ」
笹嶋は答えた。
「それにまあ、誰にだってちょっとした弱みはあっていいのだ」
「あなたのお話では、ずいぶん難しい人物のように見受けましたが」浦辺が言った。
「難しい? 実に控えめなる表現だな、それは」笹嶋は答えた。
「だが確かに、あれほど難しい者はそうもいるまいよ。しかし振り返ってみるに、我々はどうなのだ?この亡びかけた国で、あの男ほど難しくない人間であることを喜ぶべきか、はたまた悲しむべきか?」
2
朝餉《あさげ》時を告げる柔らかな鈴の音が響いた。帰国から八日過ぎた朝であった。
新城はすでに目を覚ましていた。
と言っても、寝台から起きだしはしない。自分が兵舎や野営地にいるわけではないことを思いだしていた。というより、一刻半も前に――第五刻半、つまり軍の起床喇叭《らっは》が鳴り響く頃合いに目を覚ましていた。それに気づいた時は、自分も根っから兵隊になっちまったなと嫌になった。
新城は朝が嫌いだった。
棺桶へまた一歩近づいたことを実感するからであった。死への怖れと、そのあまりの強さ故にもたらされる意図的な怠惰さは、彼が子供の頃から強く抱き続けたものだった。
できうることならば何刻でも布団の中で過ごしたい、それが彼の本音だった。そうしていればそのうち夜が訪れ、なにもかもがうやむやになってしまう。
酒に酔える。醜男や醜女でさえ、それなりの幸福を手に入れることすらできる。そして最後には寝床の夢が待っている。よほどの悪夢でもない限り、それはたとえようもなくすばらしい。そこに理屈はない。
いや、だからこそすべての夢は悪夢だという見方もあるが、新城はそこまで考えたくはなかった。ひたすら怠惰に時を虞して生きたかった。それが最高の贅沢であると彼は信じている。
しかし、駒城家に拾われて以来、彼がそのような贅沢を許されたことはなかった。かつては自らも田畑を耕し、下っては農民を支配してきたためだろう、駒城家には朝食を、幼児をのぞく家族全員で摂るという習慣があった。
それは育預たる彼も例外ではなかった。食堂に置かれた縦長の食卓、その末席に座り、二〇名近い人々と朝食を共にせねばならなかった。
将家をはじめとする〈皇国〉貴族階級では、男女の膳部をわけて置く習慣がある。女は男の給仕をしたあとに食事をとる。
おおもとまでたどることが許されるならば、それは、筋道の通った行為だった。男は、なにか危険があればすぐに飛びだして戦わねばならない。それが雄としての役割であるから。よって、食事は早くすまきねばならない。
もちろん、その”役割”は、現在ではほとんど形骸化している。しかし、であるからこそ、習慣として根強く残されてもいた。頼るべき幻想がなければ男は生きていけない。本来、生物としての強靭《きょつじん》さは女性が遥かに勝っている。”役割”を失えば、男は倭小化《わいしょうか》するよりない。
しかし駒城家はいささか違っていた。食卓の両側に男女がわかれて座るだけであった。
理由は単純なものだった。六代前に、様々な事情から女が当主をつとめたことがあるのだった。だからと言って特に女が強い家柄ということではないが、将家に限るならば、女性の発言権が大きな家柄ではあった。駒城家がむしろ衆民に近い子弟養育をおこなう理由のひとつかもしれない。
通常、〈皇国〉の名族では子弟の養育を乳母へ任せる。親子の関係はそれほど濃密にはならない。諸将時代にできあがった習慣だった。その頃、親子はいつ敵になるかわからぬものであり、衆民が当然と考える情を強く持ちすぎることは一族の亡びを招いた。
駒城はそれを無視していた。女が当主をつとめる以前から親子の関係は衆民並であった。真の理由はやはり農民あがりであるからかもしれない。現在でこそそれなりの家系図を持っているが、その大半はでっち上げだと誰もが知っている。だからこそ朝食も盛大なものになる。育預に過ぎぬ蓮乃と新城が実子の保胤と同じに扱われたわけもそこにある。二人の拾われ子は、駒城家という共同体に迎え入れられた。だからこそ、基本的な権利はすべて有している。
やはり農民的な発想と言える。
食事に差はつけられない。
彼にも当主と同じ膳がだされる。たっぷりとよそわれた駒洲米(もちろん新米)は何杯でも食べて良いし、膳には朝だというのに肉までのっている。いつなんどき出陣するやもしれぬ将家らしい食事だった。
彼はそれをいつもひとの倍ほども食べた。幼い頃、篤胤から、おまえはもう駒城の者なのだから、妙な遠慮はしなくてもよいと申し渡されている。それは肉体が栄養を欲したためばかりではなかった。
かつて、食卓における彼の対面は蓮乃だった。
それが飯を他人の倍もかきこむ理由であった。食ベることに集中せねばどうしても彼女を見てしまう。
それが幸いのだった。
辛さは年を経るごとに強くなった。
蓮乃は常に彼を甘やかしてくれたが、彼の真意に気づいた様子はなかった。年と共に蓮乃への思慕は強まっていった。それはやがて性欲に裏打ちされたものとなった。
だが行動は許されなかった。
美しい娘に成長したもう一人の孤児、その将来はすでに決定されていた。駒城家の長子、保胤のものになることが決まっていた。
無論、正妻としてではない。
しかし保胤は、正妻を迎えるつもりがないことを周囲に宣言していた。
保胤は駒城家における彼の最大の庇護者であった。
そしてなにより、蓮乃は幸福を実感しているようであった。
彼の割りこむべき場所はなかった。やはり蓮乃のおこぼれで生きているのだと思った。安らぎを得られるのは自讀[#規格外漢字、言のところがさんずい]にふける僅かな時間だけになった。
報われぬものを抱き続けたまま、彼はゆっくりと歪んでいった。大抵のことに、まったくと言ってよいほど無気力な態度を示すようになった。そして誰もが、あの子供はどこかに問題があるのではないかと考えだした。
もちろんそれは演技であった。
誰からも愛されず、ただひとつだけその実在を信じていた愛情も期待とはかけ離れたものであることを知った子供にできたもっとも高等な防衛的反応だった。
扉が控えめに叩かれた。寝台に寝ころんだまま新城はどうぞと答えた。入ってきたのは彼につけられた家令だった。”新城家”は駒城家下屋敷の一隅――つまり、ただ直衛と呼ばれていた彼が幼い頃に貰った部屋であった。四間続きの、衆民感覚からいえば贅沢なつくりになっている。家令は下屋敷の裏手に建てられた家令専用の棟続きの家に住んでいた。
「おはようございます、少佐殿」
家令は言った。わずかに右脚をひきずっている。
名は瀬川《せがわ》。上背のある、六〇手前の男で、駒城篤胤の元従兵だった。新城とは、彼が元服して以来のつきあいになる。
といっても、彼は元服後すぐに軍へ入ったから、直接的なつきあいというよりも間接的なものが多かった。
新城は駒城家からわたされる賄金のすべてを彼に預け、その運用を任せていた。普段の生活は軍の俸給だけで済ませている。運用して儲けた金の三割は好きに使ってよいと命じてもいた。
一三年前、一五歳の主人からそう言われた瀬川は驚いたような顔をした。いったいどうしてそれほど厚遇してくださるのですかと訊ねた。
「あなたは年輩者だ。少なくとも僕よりは世間に詳しいはずだから」一五歳の主人は答えた。「それに、駒城の殿が選んでくれた男だ。あなたを信頼しないということは、駒城の殿を信頼しないことになる」
「はい」驚きをわずかな尊敬の表情に変えて瀬川は答えた。そしてさらに訊ねた。「三割の理由はなんでしょうか? 通常の御給金はいただいておりますが」
「人間、仕事にはちょっとした楽しみをみつけられた方がいいと思う」新城は答えた。
「それに、一割二割では吝嗇《けち》[#原文では吝の「文」左に点]と思われるだろうし、四割五割ではあなたに家令という仕事を越えることを要求したくもなる。だから三割と言った。丁度いいと僕は思う。どうだろう?」
瀬川はあきらかな敬意を含めた声で御意のままにと答えた。
以来、両者は約束を守り続けている。
とはいえ、その実際を周囲の者が理解することは難しい。
一八の頃、蓮乃がらみでひどく自棄になった新城が色街で問題を起こした時、瀬川が誰にもわからぬようにもみ消したことがあった。その時、新城はまったく礼を口にしなかった。
しかし数年ののち、瀬川の甥子が不行跡をなした時、新城は必要な相手に賄《まいない》を積み、軍へ入れて更生させるという一札をいれてすべてをうやむやにした。その時も新城は何も言わなかった。瀬川はそれを兄弟からの連絡で知った。そして主人の内心をおもんばかり、やはり礼のひとつも言わなかった。
それらは厳密な計算から言えば三割という原則を逸脱しているように見えた。
が、両者ともそれを気にしなかった。
彼等は厳密に言えば主従関係でしかないが、その実際面にはどこか親子のようなところがあった。互いにそうした存在を求めているのかもしれない。瀬川には妻も息子もなかった。若い頃に、はやり病で喪っている。
もちろん、そうした事柄について口にすることは生涯ないだろうとは二人ともわかっていた。
「まことに勝手ながら、こちらに朝餉をお持ちしました」瀬川は言った。「いまだお疲れかと思いましたので」
うんと答えて新城は半身を起こした。
気分はいまだ退嬰《たいえい》している。目が覚めてからいらぬことを考えていた影響だった。妙なことに、帰ってきてからの方がよく眠れなくもなっていた。故国に戻ってはじめて、精神の一部がいまだ北領の戦野にあることに気づいたのだった。
正直なところ、なにも食べる気にならない。人前ではなおさらだった。実戦を経験した兵隊あがり、そして新城の性格をよくのみこんだ瀬川はそのあたりをよく理解している。
「昨晩おそく、羽鳥様より御言づけがありました」
小さな円卓に食事の用意を整えながら瀬川は言った。
「守人から?」新城は言った。
羽鳥守人は彼の数少ない友人、その一人であった。
特志幼年学校同期だが、五年間の強制服役期間を過ごしたのち予備役編入を申しでて、現在は皇室魔導院にいる。
「凱旋のことは聞いていたが、用務で遠出していたため、挨拶が遅れたとのことです。今日からならば、いつやってきても歓待させて貰うと。まことに羽鳥様らしい御言づけです」
「そうか」新城は領いた。「凱旋とはまた。あいつ、言ってくれるな」
素直な微笑を浮かべる。
羽鳥の歓待がどんなものか想像がついたのだった。
彼が買い溜めた古本の山によりかかりながら酒を飲む、そんなところであった。夜になれば色街に繰りだすかもしれないが、奴は買わないだろうから、こっちも買えない。まああいつ、酒の趣味だけはいいからなと新城は思いだした。それにしても、女出入りが激しいわけでもないのに、なぜあんなに卵が好きなんだろう。
「ならば、今日にでも訊ねてみよう」新城は言った。
廊下から子供の泣き声が響いた。まあまあいけませんというなだめすかす声も聞こえる。換気のためだろう、瀬川が開けたままにしていた扉からばたばたという足音が伝わってくる。そして言葉にならない言葉。麗子だった。
寝台にいる新城に向けてかけてくる。よほど泣いたらしく、目元が腫れていた。寝台にあがろうとする。
新城は抱きあげてやった。とっておきの微笑を浮かべている。正直なところ迷惑だったが、三つにもならぬ麗子が相手ではどうにもならない。彼女には、港での再会以来、千早と同様、えらく気に入られてしまった。
失礼いたしますと声がかけられた。麓子の乳母だった。新城が幼女を抱き上げている様を見て、ただ申し訳ないというばかりではない表情、いくらかの嫌悪感を含んだ顔を見せる。新城はこの屋敷の女たちが自分に見せるそうした態度に慣れていた。それなりに理由があるのだった。彼女たちは、新城の性的な性癖を噂で知っていた。頸を絞められてはたまらないと思っている。
まことにあいすみませんと乳母は言った。
ずいぶんとお泣きあそばされるものですから。手を放すと、こちらに駆けだされたという次第で。いとちいさき姫御なれど、まっことお気が強くあられ――まさに駒城が初姫らしき御気性におわします。
さあ、もうよろしいでしょうと乳母は言い、手をのばした。麗子はいやいやをし、新城の寝間着、その袖を強く握った。泣きだす。
「戻って、朝餉を済ませせなさい」新城は乳母に言った。「そのあいだは僕が守をする」
乳母はあきらかな警戒の表情を浮かべた。新城がその理由を教えられる必要はなかった。彼女は、以前の新城をはっきりと覚えているのだった。なにか反論しょうとした。
新城は先手を打った。
「僕には子供の首を絞める習慣はないよ」新城は言った。それは個人としての彼ではなく、凄惨《せいさん》な体験をもった陸軍将校としての彼が口にさせた言葉だった。その言葉を発した新城の目には意図的な狂気があった。
乳母は蒼白になった。
彼女は目に見えて慌て、それではのちほどと退出した。手が震えていた。
新城は鼻で笑った。自分はこういうところがいけないのだなとは思っている。
人は、適度に莫迦でなければいけない。そのことは新城もよく知っている。ときには意図的に感性を鈍らせることで、現実に対処せねばならない。それができねば、疲れ切ってしまう。
ところが今の新城にはそれがひどく難しかった。
子供の頃、自分にできる限り莫迦の真似をしていたからだった。だから嫌な経験もした。莫迦という仮面の下で、常軌を逸するほどに緻密な人間観察力を身につけてしまった。
乳母の心理が手に取るようにわかるのもそのおかげだった。
他者――特に女性にとっては嫌でたまらぬかもしれない。自分自身すら認識していない思考の過程とその結果としての行動を、ほんのわずかな反応を示すだけで読みとられてしまうからだった。誰も彼も、自分は他人より複雑であると考えて生きたがる世間において、新城のそうした才能は罪悪に近かった。
これで彼が自身のことを複雑な人間だと思っていればただの莫迦ということになり、周囲との釣り合いがとれる。
しかし彼は自分のことを嫌になるほど単純な人間だと考えていた。始末におえなかった。話せば話すほど誤解されることが多くなった。
かといって、昔のように黙ってばかりいるのも面白くないと新城は考えている。ことに最近は、北領の戦いが彼に与えたものが、いまだ内心のどこかを高ぶらせてもいた。いや、孤児、育預、そして将校として過ごしてきた時間のすべてが、彼に、新しい何かを要求しているのかもしれなかった。
「おめしあがりください」
素知らぬ顔をしていた瀬川が言った。
見ると、いつのまにか麗子の分も準備されていた。
三歳になろうとしている麗子はすでに乳飲み子ではないから、食べる物は同じでいい。
並べられていたのは新城の好みにあわせたものだった。暖かい飯、汁物、赤根鱒《あかねます》[#鱒は尊の代わりに八+西+寸]の甘塩焼、薄垂をかけた緑菜の刻み。卵の素焼き。素材は良い物が使われているが、品目そのものは並の衆民が食べる朝食とかわらない。
「ああ」膳をみまわして新城は言った。「ずいぶん、気をつかってくれたね」
「赤根鱒はいささか時期が遅く、脂が落ちておりますが、それもまた趣というところで。緑菜は豊麗物の南領早づくり、まあまあの旬になります。米は駒洲錦でございます。お好みの長木誉は、良い物が品薄でこざいまして」
「うん」新城は領いた。命じる。「ああ、姫様に暖めた乳酪を。熱くしすぎぬよう、気をつけて」
「これは気づきませんで。ただちに」
新城は半刻ほどもかけて食事をとった。
よほど嬉しいらしく、麗子はいささかはしゃぎすぎだった。彼はその相手もしてやらねばならなかった。飯をこぼしそうになった時は、やんわりとでもたしなめてやる必要があった。
しかし、不快でも面倒でもなかった。自分がこのような時間を持てたことに緩やかな満足を覚えていた。ゆっくりと飯を喰うのが贅沢に思えるなんて、自分はなんと安上がりな人間だろうと考えている。
程度の低い自己満足であるとわかってはいた。しかしまあ、元服からこっち、ゆっくりと食べる機会はあまりなかったのだから仕方がないか、とも思っている。
なにがおかしいのか、麓子がいまだ乳臭さの残る声をあげて笑った。ちあや、ちあやと言っている。
千早と遊びたいらしい。
なんとまあと新城は呆れた。確かにこの姫様はなかなかの御気性だ。剣牙虎と遊びたがる幼女など聞いたこともない。
乳酪をもって戻ってきた瀬川に新城は命じた。
羽鳥に、訪ねるのは夕方になると使いをだしておけ。午前中は姫様の御相手でつぶれてしまうから。それから、千早を連れてこい。先に肉を喰わせておけ。
承りましたと瀬川は答えた。見れば、麗子に前掛けをつけてやっていた。なるほど気働きとはこういうことかと新城は感心する。他者への気遣いが、自分にこの半分ほどもできたならば。
そうであるならば、女の首を絞める悪癖にはそれなりの理由があったことを周囲に納得させられるだろうに。そしてなぜ今、自分がそれなりの金をとる商売女としか寝ないかも。難儀なものだ。笑うしかない。
3
半日を過ぎても麓子は新城から離れたがらなかった。手水《ちょうず》にまで彼が連れてゆかねばならなかった。
ついには膝で寝てしまった。寝台に寝かそうとするたびに目をさまし、いやだいやだと身体ごと強硬に主張した。
正直なところ往生している。
共に麗子の遊び相手をつとめさせられた千早もぐったりしていた。狩りや戦以外であれば、雌の剣牙虎は優しい猛獣になる。真実かどうかわからぬが、自分の子供を失った野生の剣牙虎が、山で迷子になった人の子供をふたつきものあいだ守り育てたという話まである。おそらく本当だろうと新城は信じていた。千早の母猫と戦野で出あった経験からそう判断した。
しかし猛獣は猛獣、その剣牙虎を消耗させるなど、この姫様、なまなかではないと新城は妙な感心をした。やはり、よほどの大人物なのではあるまいか。
それによく考えてみれば、これほど人相の悪い自分に平気で甘えてくるのだ。もしかしたら審美眼が歪んでいるのかもしれない。
扉が叩かれた。保胤の家令が顔をだした。
「失礼いたします、若殿が――」家令はそこまで言いかけ、新城の現状に気づいた。
「これは、これは」
新城は静かにするように素振りで示した。そっと訊ねる。
「用件は?」
「若殿が、お施しいただけると有り難いとの仰せにございます、が、それでは――」
新城は領いた。
「若殿に、この有様であるから、申しわけないが、こちらへお運び願えないかと」
新城がそこまで言ったとき、麗子が目を覚ました。
目をこすり、新城の顔を見上げ、安心する。今度は千早をみて、ちあやと呼んだ。
新城は笑いだした。家令も笑っている。なにがどうしたのかと瀬川まで顔をだした。
「義兄上に」麗子を片腕で抱えながら新城は言った。
「姫棟と猫が一緒でもよいのかとお訊ねしてくれ。御迷惑でないのなら、すぐにでも伺う」
なんだそこにいたのかという返事だった。新城は幼女と剣牙虎を連れ、部屋をでた。
家令が扉を開けると、保胤の愛犬がいっさんに駆け寄ってきた。優秀な狩猟犬として知られる龍洲犬だった。成犬ともなると、体長は一間半にもなる。
しかし寄ってきたのは、まだ玩具のようにむくむくとした見かけの子犬だった。艶《つや》のある黒毛で全身が覆われている。額にだけ、わずかに星形の白毛があった。
子犬は新城と麗子をみあげ、何度か鼻を鳴らすとすぐに興味を失った。千早に意識を集中する。恐怖や警戒ではなく、好奇心に裏付けられた行動だった。
千早はわずかに頭をさげ、子犬の顔を大きな舌で嘗《な》めた。図体が違うから、ほとんど全身を濡らす結果になった。子犬は甲高い悲鳴をあげ、部屋の隅に逃げた。
「こら、そんなことでどうする」椅子に腰掛けていた保胤が犬を叱った。笑いながら新城を手で差し招く。新城は一礼すると入室した。
椅子に腰をおろした新城は麓子を立たせてやった。
麓子は頼りなげに歩くと父親の膝に手をかけた。保胤はにっこりとして娘の頭と頬を撫でてやった。抱きあげはしない。駒城の衆民ぶりといっても、この程度が限界だった。
麗子は手近なところに寝そべった千早へ近づいていった。千早はうんざりとしたように欠伸《あくび》をかいたが、それでも辛抱強く麗子を受け入れた。さきほど逃げた黒毛の子犬まで近づいてきた。
「あれに」娘と動物たちを眺めながら保胤が言った。
千早のことを言っている。
「雄猫を見つけてやらんとな」
「何度か引き合わせてやったんですが」新城は答えた。
「好みが難しいらしくて。一度は血みどろの喧嘩になりかけました」
「主人と同じで始末におえない、か?」
「まったく不徳のいたすところで」
保胤は家令に黒茶をもてと命じた。葉は早瀬干し、湯は二度沸かし。麗子と犬猫にもなにかやれ。
「それでよいか?」保胤は訊ねた。
「新茶の蔵置きかなり」新城は家令に訊ねた。
「若殿様のお好みにあわせ、いくらか日置したものでございます」家令は答えた。
「ならば、僕も若殿様と同じでよい」
黒茶が届くまで、彼等はどうでもよい話をして時間を虞した。
黒茶が置かれると二人は黙ってそれを飲んだ。保胤が細巻をとりだし、新城に勧めた。彼等は火をつけた。
保胤が紫煙をゆったりと吐きだした。そして言った。
「冬場で良かったな」
「今度の戦ですか」新城は領いた。「そうですね。まったくそうです」
保胤は続けた。
「夏場の戦で重傷にでもなろうものなら、大変だ。むかし、自分の傷口にわいた蛆《うじ》をじっと眺めている兵を見たことがある」
「蛆がわくならまだ幸運ですよ」新城は言った。
「どういう意味だ?」さすがに嫌そうな顔で保胤は訊ねた。
新城は説明した。
「蛆が何を食べるか御存知ですか? 傷口の膿《うみ》です。そしてもちろん、化膿は、ろくなことにはなりません。腐るわけです。戦場で内臓がそうなれば終わりですよね? 腐った傷口には蛆もわかなくなります。つまり、生きて傷口に虹がわくということは、まだ助かる見込みがある、そういうことです」
「そんな目にあったことでも? よほど運が強いのか、おまえ、これまでまともに負傷したことがないだろう」
「なに、療兵から教えられたのです。小隊長をしていた頃に。七、八年前、龍州の州境あたりがあやしくなりましたでしょう? その時です。ちょっとした盗職団をおいかけていましてね。頭目はなかなかの人物でしたが、二〇人ほど殺されたところで観念し、縛につきました。総勢で一〇〇人にもなったでしょうか。負傷者も大量にでており、街からは遠かった。で、療兵が活躍したわけです。僕も手伝いました」
「そんなことまで覚えたのか?」
「いえ、療兵がどうあっても助かりそうにない者を教えてくれましてね。傷口からなにから膨れ上がっている奴が駄目だと」
「どうしたのだ?」
「僕が殺しました。兵に押しっけるわけにもいかないので。四人、だったかな。自分の手で人を殺したのはその時が初めてです。人というのは簡単に死ぬものだとわかりましたよ」
「なればこそ二八で少佐か」保胤はいくらか口惜しそうに言った。
「そう悪くはない。が、せめて、なにか位階も貰ってやりたかった。済まない。いや、実際、わたしは父上にそう申し上げたのだ。父上もそうお考えだった。しかし、あちこちから反対が多くてな」
「お気になきらずに、義兄上」新城は少し大きな声で答えた。千早をおもちゃにしていた麗子が目を丸くして彼を見た。新城は顔じゅうを笑みにして彼女に領いた。
「で、義兄上」新城は言った。
「僕になにをさせたいのです? 仰《おっしゃ》ってください」
「わかっていたか?」保胤はばつの悪そうな表情を浮かべた。
「なにか面倒なことでしょう」新城は答えた。「命までとられるのでなければ、まあ。生きるの死ぬのであれば、すこし考えます」
「そうした点だけは正直だよ、おまえは」保胤は呆れたように感想を漏らした。
「僕は根っからの貴族ではありませんからね。一命を賭して、などとは言えません。命というやつは、うまく使えば長持ちします。それだけは随分と勉強しました」
「だろうな。わたしよりは詳しいだろう」保胤は苦い顔で言った。
「だからおまえを幼年学校になどいかせたくなかった」
「たしかにあのとき、義兄上は反対なさいました。嬉しかったですよ。義兄上は真剣でしたからね、でもなぜですか?」
「わたしの見る限り、おまえはまったく軍人向きではなかった。人前で滅多に口を開かなかったからな」
保胤は答えた。
「それにおまえは望んで面倒を背負い込む質だ。やめたほうが良いと思った。結局のところ、おまえに騙されていたことに気づくには五年もかかった。ここまでの戦上手とは思わなかった。よくもやってくれたよ」
「申しわけありません」
「しかし半分はあたった。面倒が寄ってくる質だな、やはり」
「全然気に入りませんね」新城は笑った。「確かにこのあいだはえらく面倒でしたが。で、義兄上の面倒はなんですか?」
「北領の敗北――いや、おまえにとってはまごうことなき勝利だが――について、皇主陛下へ奏上する機会をつくる」保胤は言った。
「それは守原閣下の役回りでしょう? 少佐風情の仕事では」
「いや、おまえでなくてはならん」保胤は否定した。
「守原一派の企みを虞すために、おまえにあることを奏上して貰う」
「なんですか?」
「陸軍部内では、現在、夏季北領総反攻論が主流を占めている」
新城は眉をひそめた。
「信じられない、と言いたいところですが」
「理由はわかる、と?」
「義兄上のおかげで、他の将家がどんな連中かはわかっています」
「そういえば、昔はおまえをあちこち連れて歩いたな」
「ええ。実に興味深い経験でした」
「そういうことだ」
「夏季総反攻。守原家が関わっているとならば、陸軍が中心ですね」
「ああ」保胤はいぶかしげに訊ねた。
「なんだ、おまえ? まさか賛成だとでも?」
「陸軍を投入した総反攻には反対です。我軍の現状では、大会戦で〈帝国〉軍を打ち破ることなど不可能です」
「他に方法があるとでも」
「ええ」新城はあっさりと答えた。「苦労もしますし、時間もかかりますが、負けることだけはないですね」
「話してみろ」
「一〇〇隻の船があればすぐにでも始められます。
水軍の艦艇はいりません。脚のはやい回船の船主に海賊をやらせてしまえばいいんです」新城は説明した。それは彼が北領の戦場で思いついた海上兵端線の遮断を、さらに大規模にしたものだった。つまるところ、国をあげて海賊になってしまえばよいのです、義兄上。いずれ〈帝国〉はつきあいきれなくなります。
保胤は黙ってそれを聴いていたが、やがて困ったような顔になった。
「おまえ、ろくなことを言わないな」
「なんでですか?」新城は片眉だけをあげて訊ねた。
「わたしの方が宗旨がえしてしまいそうだ」保胤は言った。
新城は笑った。そして、しかしまあ無理ですねと続けた。現状では、妄想に過ぎません
「そうかな」保胤は眉をしかめた。
「そうですよ」
「なぜだ?」
「誰も喜びません」新城は答えた。「すくなくとも、この国の統治に関わっている連中は。いいですか、たとえば血の気の多い回船の船頭、水夫たちがどれほど活躍しても、五将家にはなにもはいってきません。名誉すらない。反対は強烈でしょうね。水軍もそうです。彼等は回船の船乗りたちと良好な関係を保っていますが、自分たちの仕事を奪われたならば、やはり、良い顔はしないでしょう。なんといいますか、〈皇国〉は、そうした荒っぽい手際で戦争をするには、進歩しすぎているんです。海賊をやるのならば、水軍にそうした組織がなければ駄目ですね」
「一五の年、おまえを水軍の兵学寮に送るべきだったかな」
「どうですかね。まあ、僕にとっては随分と違ったでしょうけれども」
「まあいい」保胤は右手を小さく振った。新城に視線をあわせる。
「やってくれるか」
「つまり僕が陛下へ奏上仕る際に、夏季総反攻とその首謀者についてなにかを述べればよいのですね」
「ああ」保胤は答えた。「文面は任せる」
「いいですよ。やります」あっさりと新城は承諾した。
「当然、おまえは将家連中から――特に守原からは恨まれる。命を狙われるかもしれない
「諸将時代じゃあるまいし」新城は言った。「そこまで血なまぐさい権謀術策に巻きこまれるとは。我が国の刻時器は逆にまわりはじめたんですかね」
「どうかな」保胤は言った。「わたしはむしろ、踏みつぶされてしまったのではないかと思う」
「踏みつぶされた? それはまた剣呑な」
「ああ、剣呑だ」保胤は領いた。
「踏み潰されたのならば、新たに買い直せばいいからな」
新城は楽しそうに笑いだした。彼は麓子に向かって領いてみせた。彼女は新城に近づいてきた。だっこだっこと要求する。彼は幼女を膝にのせてやった。
「もうひとつある」保胤は辛そうな表情で言った。
「なんでしょうか」麗子に笑いかけたまま新城は訊ねた。
「おまえは陸軍にいられなくなるだろう」保胤は言った。
「後備役編入ですか」新城の表情に変化はなかった。
「それだけはなんとかくい止める」保胤は答えた。
新城はようやく顔を保胤に向けた。「ならばどこに、義兄?り」
「近衛だ」
保胤は言った。まったく申しわけない、という表情だった。
「近衛」新城の顔面から笑みが消えた。麗子の手が頬と顎を叩く。彼は両手で彼女の上半身を揺らせた。
麓子は大きな笑い声をあげた。彼女はこのようにしてあやされても普段は喜ばない。むすっとしておられる、家令の一人からそんなことを聞いていた。新城にだけは別であるらしい
「将家だけではなく、うちの内部であれこれ口にする者たちがでてくるだろうからな」可能な限り直截《ちょくせつ》な表現で保胤は説明した。「駒洲鎮台でもあぶないと考えた」
「育預」新城はつぶやいた。「それですね?」
「頼む。皆まで口にさせるな。自分が情けなくなってくる」
「申しわけありません」新城は言った。
理由については大方の想像がついた。駒城家の重臣たちから文句がついたに違いなかった。佐脇《さわき》、河田《かわだ》、益実《ますみ》、そのあたりだろう、新城は思った。佐脇家の跡継ぎである、佐脇|俊兼《としかね》あたりが急先鋒かもしれない。奴は俺を妬んでいる。
なぜか?
枚より俺のほうが将校として優れているから。なんて理由だ。二親がそろっていて、育ちが良くて、金持ちで、堂々たる美丈夫で、よほどの美人という噂の許嫁《いいなずけ》がいて、皇都で一番人気を争うほどの歌姫が愛人で――そんな奴がどうしてこの俺を。むしろ、妬むのはこちらのはずだ。
ふん。人殺しの手管に長けていないことがそれほど悔しいのか。莫迦な奴だ。見ていろ。そのうち。
「あまり考えるな」保胤が言った。心配そうな顔をしている。「なにかを考えている時、おまえの顔には陰がでる。まあ、いつもの仏頂面《ぶっちょうづら》もあまり見栄えのよいものではないが」
「気をつけます」
新城は領いた。顔面の筋肉をゆるめる。失敗した、そう思う。人前では感情を読まれぬよう、気をつけているのに。この義兄と義姉の前では警戒感が薄れがちになる。気をつけねば。子供の頃から可愛がられているのだから、仕方ないところはあるが。
「ああ、もちろん」保胤は話題を変えた。「近衛での配属先は禁士隊ではない。衆兵だ。理由は、わかっているな?」
「ええ」新城は答えた。わかりきっていた。五将家をはじめとする有力貴族の子弟にほとんどが占められた禁士隊に配属されるはずがない。
「ああ、もちろん、衆兵への配属は実仁殿下の御内意を受けてのものでもある。おまえ、よい御方と懇意になった。せいぜいうまくやって後盾になって貰え」
「懇意というわけでは」新城は正直に答えた。「ただ、僕の部隊が戦場でより多く貧乏籤《ひんぼうくし》を引いた、それだけのことです。だいたい、僕は拝謁の栄に浴したことすらありません」
「そうだったのか?」保胤は言った。驚いたようだった。
「しかし、過日、いただいた御言葉では、おまえのことをよほど案じておられたぞ。部下と共に命を救われたが、苦労はしておらぬだろうか、と。まあよい、拝謁の機会はつくってやる。あまり生意気な態度はとらぬと約束するのならば」
「義兄上の御言葉とあれば」新城は領いた。
「それを生意気と言うのだ」保胤は叱るように言った。怒るというより、心配する口調であった。
「僕の後盾は義兄上と義姉上だけですよ」新城は麗子に微笑みながら言った。「これからも、せいぜい甘えさせて貰います」
「及ばずながら、力になろう」保胤は答えた。どこか嬉しそうな声だった。
「蓮乃も喜ぶ」
衆兵か。麗子の遊び相手になりつつ新城は思った。
要するに後備役編入とほとんど同じというわけだな。
新城は正しかった。旧天領に住む衆民の次男坊、三男坊といった連中ばかりを集めて編成された近衛衆兵隊は、〈皇国〉軍事力中、弱兵中の弱兵として知られていた。まともな軍隊としての扱いを受けていないのだった。
そうした風評を新城も疑うつもりはない。北領の負け戦でよくわかっている。近衛衆兵がいくらかでも頼りになる連中であれば、なにか別の手を打てたはずであり――捕虜にもならずに済んだであろうから。
危険を呼び寄せる奏上。周囲の妬み。近衛衆兵への転属。常人であれば後備役の方がまだましと考えるかもしれなかった。その意味において、確かに彼の後盾はまったく頼りがなかった。
柔らかな足音が響き、扉が開かれた。新城と保胤は振り向いた。蓮乃だった。
御免あそばせ、旦那様も直ちゃんもここにいると教えられたものだから、と彼女は言った。まあ麗子まで。
さすがに母親にはかなわない。麗子は蓮乃に手をのばした。
蓮乃は保胤へ伺いをたてるような表情をむけた。
保胤は微笑して領いた。蓮乃は娘を愛おしげに抱きあげた。
友人と会う約束がありますのでと新城は言った。
この場にいてはいけない気がしたのだった。
あまり遅くなってはいけませんよと蓮乃はたしなめた。義姉上の仰せのままにと新城は答えた。
4
門から声をかけ、やあやあようようと適当な挨拶を交わしたふた呼吸あとにはもう飲みだしていた。
羽鳥は酒瓶を抱えて彼を出迎えたからだった。新城と羽鳥はそういう関係であった。
羽鳥は新城と似たような背丈の持ち主ではあったが、痩《や》せぎすだった。顔立ちはほとんど特徴らしいものがなかった。誰の印象にも残らない質の顔であった。度の弱い眼鏡もその印象を変えることはなかった。
「また、増えたな」
室内を見まわした新城は言った。
羽鳥が住んでいるのは皇室魔導院から与えられた役宅だった。
表通りにこそ面していないが、二条大路と金座筋のまじわるあたりから歩いて小半刻もかからぬ皇都の一等地に建っている。あれやこれやで部屋が七つもある家だった。小さいながら、立虎な庭もついている。
「こればかりはどうにもならん」
羽島は答えた。彼はその七間すべてを本で埋めているのだった。庭は荒れ果てている。
彼等が痛を飲んでいるのは、玄関脇に設けられた狭い部屋だった。本来は小使か書生に与えられる部屋であった。羽鳥はそのような場所で寝起きして平然としていた。その部屋でさえ、すでに三割ほどが本で埋められていた。
すべてが新城の予想どおりだった。羽鳥は龍洲産の米酒、渡来物のアスローン・モルト等々、よほどの金満家でなければ飲まないような酒を五、六本用意していた。まさか全部飲み干すつもりじゃないだろうなと新城は思った。
羽鳥はまず、素直に友の生還を喜んでみせた。本心からのものであることはわかっているため、新城も素直にああ良かったよと答えた。自然と、幼年学校の頃の言葉遣いに――俺、貴様のやりとりになっていた。
つきあいの長い友は気遣いの手法が他者と異なっている。
「しかし、大変だな」羽鳥は言った。「正直なところ、貴様、あちこちで恨みを買っている」
「目立たぬようにしているのだがな」新城は応じた。
「あまり他人と関わらぬように」
「莫迦野郎」羽鳥は笑った。「だからこそ、恨む奴がでる。貴様の莫迦面を見ただけで軽蔑し、やがてそれが間違いであったことに気づかされて恨む。世の中、貴様が期待するほどの莫迦ばかりじゃないんだ。俺だって最初のうちは騙された」
「どういう意味だ?」
「その態度がいかんのだ」羽鳥は答えた。
「本当の莫迦は、何も気づかずに貴様を蔑《さげす》み続ける。おそらく、大部分はそうだろう。が、ちょっとした莫迦はそうじゃない。貴様の態度に演技が含まれていることに気づく。そして、恨む。正直、貴様はわざと人を怒らせている面がある。というより、人を試さずにはいられない悪癖をもっている。そして、自分の基準にあわぬ者は排除する。容赦がない」
「つまり俺の友人はよほどの大人物ばかりということになるな」新城は意地悪い笑みを浮かべた。「自分のことをそんなに誉めて、楽しいか?」
「楽しいね」羽鳥は平然と答えた。「しかしまあ、俺は善人だからな」
「わかっている」新城は領いた。「貴様、どう見る」
「考え方はふたつある」羽鳥は答えた。糸のような目には高い悟性があらわれている。
「言ってみろ」新城はうながした。
「ひとつは、まあ、順当に、しばらく静かにしているという手だ。そのうち別の面倒が出来《しゅったい》して、みんな、忘れてしまうかもしれない」
「望み薄だな。もうひとつは?」
「逆。英雄でいられるうちにやれるだけやって、生き残る力を手に入れる」
「なにか話は入っているのか?」
「いくら貴様にでも、話せないこともある。役務柄、手に入れた話はな。まあ、守原大将が貴様のことを好いていないのは確かだ。駒城家だって、全面的な信頼を寄せていいという訳じゃない。ああ、貴様の義兄殿は別だが。あのひとは本物の善人だ。善人ゆえの欠点いがい、美質だけでできあがっているような人だな。ともかく、奏上はよほどの覚悟を固めてかかったほうがよい」
「知っていたか。さすが勅任特務魔導宮《ヒズ・インペリアル・マジェスティス・マジシャン》殿」新城は言った。魔導官とは、皇室に雇用された導術士の通称であった。
「貴様が三〇前で少佐になるぐらいだからな」羽鳥は笑った。
導術士とはいえ、羽鳥は額に銀盤をはめているわけではなかった。
それどころか、導術に必要な能力はまったく持っていない。
実のところ、皇室魔導院に所属する ”勅任特務魔導官” の大半がそんな連中だった。
皇室魔導院の起源は五〇〇年以上も昔にさかのぼることができた。当時の公聖《こうせい》帝が布《し》いた部省制、そのひとつとしてつくられた導部からすべてが始まっている。
当初、その任務は導術をもって皇室の将来を占うことだった(当時は未だ導術にそのような能力があると信じられていた)。
やがて部省制は崩れ、諸将時代が到来した。導部に属していた導術士たち、その大半は各地に散り、諸将家に仕えた。遠距離との即時通信を可能とする彼等の能力は諸将家にとって得難いものとなり――導術士の需要は爆発的に増大した。
衰微の一途をたどっていた皇室はそこに目をつけた。
正確に言えば、当時、政務大輔であった真岡長麻《まあかながまろ》呂が、干上がっていた皇庫に金を流れこませる策のひとつとしてそれを実行にうつした。戦乱の影響をそれほど受けていなかった〈皇国〉の旧都、故府に、導術士の養成学校、魔導師範校をつくったのだった。
当時すでに文化的な意味での重要性しか持っていなかった政府は、諸将家から非武装都市としての扱いを受けていたのだった(当時も今も、〈大協約〉は国内に対する強制力をあまりもたない。それは国際関係――たとえば人と龍、国と国といった面で厳格に適用される)。
魔導師範校卒業者が全国で示した活躍がその安全性をさらに高めた。
つねに戦乱へ備えねばならない諸将家にとり、導術士の養成はあまりにも金がかかりすぎた。というよりも、故府のように安全が保証された場所でなければ、充分な養成はおこなえなかった。
魔導師範校は諸将時代の皇室へ、生き残りに充分なだけの資金をもたらした。
それには、養成された導術士たちの助力もあった。
導術士たちの中には、あの津奈木《つなぎ》玄英《げんじょう》のように、自ら将家をおこす者まで出たのだった。
もちろん、すべてがうまく進んだ訳ではない。反動もあった。
五将家による東海列洲制覇の初期、導術士たちは徹底的に駆り立てられ、戮滅《りくめつ》されていった。全国に散った導術士たちが、彼等の価値を維持するため、あえて”間違った”情報を主君へ伝えている疑いがもたれたのだった。
滅魔亡導と呼ばれたそれは、当時最大の導術士勢力であった霊峰導宣院が五将家によって焼き払われたことにより頂点に達した。
かろうじて生き残った全国の導術士たちは、政府へ、皇室の庇護をもとめて逃げこんだ。
皇室は、主に伝統的理由から彼等を保護した。しかし、従来のように魔導師範校でおおっぴらに養成することもできない。
皇室魔導院はこうして成立した。
それは、かつての導部と同じ役割を担うものだと五将家には説明された。嘘であることはわかりきっているが、五将家もそれを受け入れた。彼等にしてもいささかやり過ぎたと思っていたのだった(もっとも、感情的な面での拒否反応は強く残り続けた)。
当初、皇室魔導院の実体は魔導師範校と変わるところがなかった。初代院長であった津奈木|錬界《れんかい》の残した記録(「錬界諸実記」として知られている) によれば、わずか三〇〇名というところまで減じた導術士の数を旧に復することがその最大の任務だった。
なお、錬界は玄英の孫にあたる男で、導術士としてはともかく、その政治手腕は祖父をはるかにしのいでいた。
変容が始まったのは五将家支配の確立された頃からだった。
皇紀五三七年、第四代院長|志村《しむら》長柄《ながえ》が新英帝に皇室魔導院を養成機関以上の存在として〈皇国〉へ貢献させるべしと献策した。養成については魔導師範校を再建することでこれにあて、魔導院は導術の研究、”その他”を任とすべきだというのだった。
志村は”その他”の任務として、皇室関係の通信についての業務をあげていた。これは、旧天領を押しっけられた皇室の現状にも適合した提案だった。
志村が遺した記録はいまだ公開が禁じられているため、彼が本当は何を考えていたのかはよくわからない。しかし、導術による通信をその任務のひとつとしたことにより、皇室魔導院はその実態を急速に変化させていった。
まず、国内外すべての導術を用いた通信は、すべてその監視対象となった。
通信には無論偽物も含まれるから、その真偽を確かめるため、かつて透破《すっぱ》、忍《しのび》、間者《かんじゃ》と呼ばれた諜報員《エージェント》たちが大量に必要とされた。
もちろん、形式上、彼等をそのままの役目で雇うことはできない。
このため、公式には、彼等もまた導術士であるとされ、勅任特務魔導官と呼ばれるようになり――物量の原則に従い、彼等が皇室魔導院を支配するようになった。
つまるところ皇室魔導院は、〈皇国〉最大の諜報機関になりおおせ、現実的な必要性から、限定的な警察権まで握るようになったのだった。
五将家は自分たちがたばかられたことに遅蒔《おそま》きながら気づいたが、何の手も打てなかった。
彼等はすでに役所を自儘に虞せるような政治力を失っていたし、〈皇国〉が接触するようになった諸外国――〈帝国〉やアスローンには、やはりそれなりの諜報機関があった。
つまり、この世が楽園とならぬ限りは、皇室魔導院は絶対に必要なものなのだった。
五将家にできたのは、予算面でときたま嫌味な真似をすることぐらいだった。皇室魔導院を軍のように支配はできなかった(軍で導術兵の増員が遅々としている理由はそこにあった)。滅魔亡導の後遺症により、公式には、彼等は未だ導術士を嫌悪していることになっていた。
羽鳥守人の正式な階級は勅任二等特務魔導官《ロイアル・セカンド・コントロール》だった。
所属は皇室魔導院特務局内国第三部(将家担当)。
いまだそれなりの現場活動をこなさねばならない立場であった。
完全な管理職、つまり一等特《ファースト》務魔導官《コントロール》への昇進には、通例からいって、いまだ五、六年を要する。
「その少佐が問題、か」新城は溜息を吐くように言った。
「さて、どう動くべきか」
「俺の意見はもう言った」羽鳥は杯をあおった。新城は苦笑した。自分にできるのはここまで、という意味の言葉であるからだった。
もしさらに助力を求めるのであれば、一蓮托生《いちれんたくしょう》でもかまわないと羽鳥が判断するほどの人間でなければいけない、そう言っている。たしかに羽鳥は新城の眼鏡にかなう男であった。
「いじめられるのは好きじやない」新城はそれだけを口にした。羽鳥に酒を注いでやる。
「わかりきっている」羽鳥は領いた。「いっそ、逆の立場に?」
「そいつも趣味じゃない。そこまで暇でもない」新城は答えた。「もちろん、俺の邪魔をする奴はその限りにあらず、だけれども」
羽鳥はげらげらと笑いだした。貴様は昔からそうだったよと言った。それから真面目な顔になり、確かに貴様は人をいじめはしないな、と続けた。確かに歪んじゃいるが、そこまで下卑てもいない。
ああそうだ。ところであの優しい義姉上は御元気か。そうか。ああ、そうだな。いい表現を思いついた。貴様は誰もいじめはしない。それは確かだ。じゃあなにかって? 決まっている。
ただ、敵を完膚無きまでに殲滅するだけなのだ。
5
戦野と化した生地でめぐりあい、ひとつき余りを共にさまよったあの子供を一番理解しているのはわたし、駒城蓮乃はそう考えたがった。
あの頃は自分もまだ子供、一〇歳にもなっていなかった。しかし、そうであるからこそ本当の直衛を知っているのだと思っていた。
それでいながら、どこか、打ち消しきれない不安があった。いや、正直に言えば、不気味さを感じ取っていた。
蓮乃は両親のこと、故郷のことを覚えている。
父は手間賃仕事をうける庭師だった。母は自分が一生着ることのない着物を縫う針子仕事で家計を助けていた。彼等はともに無学で、もちろん貧しかった。
家の中に畳を布いた部屋はひとつしかなかった。
あとはぎしぎしと歩く度にきしみ、隙間から風が吹き込んでくるような板張りだった。部屋数だけは六間あった。それは両親の努力によるものではなく、祖父の代に田畑を失うまで、そこそこの自作農であったことの名残だった。
しかし蓮乃がその点に悲しさを覚えたことはない。
両親はその古びた家を懸命に手入れしていた。ひとつきのうち二五日は他人のために働き、のこり五日は家を修繕し、入念に掃除をおこなった。そして一年のすべてを蓮乃のために生きた。
蓮乃は両親にそれは駄目だと言われたことがなかった。もちろん彼女は自分の家が貧しいことを知っていたから、無理を言ったこともない。もっとも無理に近かったのは、読み書きを習いたいと言ったことだった。
しかし両親は、それを素直に喜んだ。勤労と倹約の度合をさらに強め、月謝をひねりだした。
彼女が村にただひとつある私塾で一番の成績になった時、普段は酒を一滴も飲まぬ父は大酔した。顔中を笑みにしながら、大きな手で何度も彼女の頭を撫でた。母は彼女の膳に白米を盛った椀とお頭付きをだし、さあさあたくさんおたべなさいと言った。
両親の膳にあるものは沢庵《たくわん》だけだった。蓮乃がそれを訊ねると、母は、父さんと母さんはおなかがいっぱいだからと答えた。
そうした人々に愛されながら蓮乃は育った。
そんな両親が、なぜあれほど悲惨な人生の終わりを迎えねばならなかったのか、彼女はいまだに理解できない。
東洲乱が勃発《ぼっぱつ》した夏、父は東洲公の軍に徴兵され、どことも知れぬ場所で戦死した。母は、敗北し自暴自棄になった東洲軍の敗残兵が村を襲った時、娘を逃がすため、楯となって死んだ。勤勉と倹約と献身、その結末としてはあまりにも納得のいかぬものだった。ただひとつ納得したものは、軍人に対する強い憎悪であった。
両親を失った彼女はまず山に逃げこみ、数日間を湧水と木の実だけで過ごした。やがて空腹と薮蚊に耐えきれなくなり、村へと戻った。
何もかもが焼かれていた。
彼女の世界をつくりあげていたすべてが原型をとどめていなかった。家も、人も消し炭になっていた。
焼けなかった村人の死体は、腹だけが奇妙に膨れ、悪臭を発する物体に変わり果てていた。膨れあがっていない死体には蝿がたかり、虹がわいていた。母を見分けることもできなかった。
そして蓮乃の放浪がはじまった。悲しみすら押しつぶしてしまった現実のもとで、彼女はただぼんやりと歩いた。数日後――正確な日数を蓮乃は覚えていない――直衛と出会った。
直衛は奇妙な子供だった。
おそらくは四、五歳であろうと思われるのに、火の付け方も知っていた。
彼は平然と腐敗しかけた兵士の死体に近づき、懐を探り、必要なものを探し出した。火を起こすのにもちいた燵石《ひうちいし》は、打ち捨てられた銃から取り外したものだった。水はかならず沸かして飲むという知識も持っていた。
と同時に、信じられぬほど臆病な面も持っていた。
夜になると蓮乃に抱きつき、風が木を鳴らせただけで泣きだした。三日に一度は必ず寝小便を漏らした。人を怖れ、初めて会った者にはけして口を開かなかった。それでいながら、必要とあれば平然と闇の中に食料を探しにいった。
主を失った剣牙虎が突然あらわれた時も平然としていた。
楽しそうな顔をして近づき、手の甲を舐めてたっぷり唾をつけてこすり、剣牙虎の鼻面にそれをつきだした。
剣牙虎はしばらくのあいだその臭いを嗅ぎ、やがて舐めた。蓮乃が呆然と見守っているうちに、直衛は剣牙虎をてなずけ、平然としていた。
そして夜になればやはり位き、小便を腐らした。
そんな時、蓮乃は行を共にするようになった剣牙虎と一緒になって懸命に彼をなだめねばならなかった。
そのためかどうか、放浪のあいだ、彼女は恐怖というもっとも素直な感情に支配される暇がなかった。
ただ、奇妙な年下の子供を心配していればよかった。
蓮乃は直衛の両面に誰よりも詳しくなった。それは事実であった。
しかし、暴力的なまでの行動力と、どこかに問題があるのではないかと思われるほど臆病な性格という相反する要素をうまくすりあわせられたわけではなかった。後年、あれはあるいはただの幼さだったのかと思った時期もある。
だが、直衛の行動はそれを否定した。必要に迫られた際に示す反応の素早さはまさに果断そのものだった。それに対して、普段は、人の輪から離れた場所にぽつんとし、本を読むか、どこか遠くを見ているだけだった。一度、ひどく難しげな本を読んでいるのを周囲の者にからかわれてからは、ただ遠くを見ているだけになった。
それに関した事柄で蓮乃は未だ疑問を抱いていることがあった。噂は彼女の疑いを肯定していたが、まったく証拠がなかった。
もちろん彼女は噂を信じなかった。いや、信じることを拒絶していた。こと直衛に関するかぎり、すべてを好意的に考えねばならない、蓮乃はそう思っているからだった。わたしが信じてあげなければ、あの子は本当に一人になってしまう。
駒城家は、一族郎党の子供を集め、独自の初等教育をほどこす習慣を持っていた。育預である蓮乃と直衛もその例外ではなかった。食事と同様の理由から、男女の教育は一緒におこなわれた。
それは蓮乃が一二歳、直衛が九歳であった秋におこった。
その頃、教育用に割り当てられた広間へ一番乗りするのは直衛だった。いつも小脇に本を一冊かかえていた。それを皆がそろうまで読み、家庭教師の講義を聴き、それが終われば、本を抱えて自室に戻っていった。
ただの本好きからではないらしい、蓮乃はそう思っていた。ふたつきほど、直衛の読んでいた本を確かめ続けてだした結論だった。
たしかにそのとおりだった。ある日、くすりともせずに滑稽本を読んでいたかと思えば、次の日は幼児にこそふさわしいような絵本を楽しげに読んでいた。またある日は軍記物を読み、別の日になれば史書に目を通していた。さらに日が立てば、春画が挟まった艶笑譚を表情ひとつ変えずに読んでいた。その時は蓮乃の方が頬を紅くした。彼女はさすがに理由を尋ねざるをえなくなった。どうしてそんな本まで読んでいるの。
面白いから。直衛はうつむきかげんのままそうとだけ答えた。
それらの本、その一部は保胤のものであり、大部分は篤胤の書斎から持ちだしたものでもあった。後者について駒城家の者たちは、直衛の不作法を怒るより、驚き呆れていた。篤胤が書斎への出入りを自由にさせていることについてだった。ある時、篤胤はその理由をひとに語ったことがあった。普段、ろくに目を合わせようともしないあの子供が、本を借りにくるときだけは別人のようになるからだ。面白い。
それにしても艶本《えんぼん》はどうかしらんと蓮乃は思った。
おそらくそれは保胤のものだろうと考え、ある日、そのことについて文句を言った。彼女と保胤はその時までほとんど会話をかわしたことがなかった。
保胤はひどく恥ずかしそうに詫《わ》びた。しばらくするうちに、どうやら別な話をしたくなっているのだとお互いに気づいた。
それからの蓮乃は、直衛についてのあれこれを名目にして、保胤の部屋を毎日のように訪ねるようになった。彼女が保胤に身体を開いたのはそれから三年後だった。
それは彼女にとって好ましい記博だった。直衛について抱いた疑いの原因となった情景は別にある。
広間は暗かった。低い鉛色の雲から降り注ぐ雨、そしていまだ消えぬ残暑の相乗効果で、子供たちの集められたそこは地下牢のような不快さに満ちていた。それに耐えきれなくなった家庭教師は、子供たちに自習だと伝え、自分の部屋へ戻っていた。直衛はいつものように本を読んでいた。
おそらくそれが理由だったのかもしれない。五人の男児がたちあがり、直衛の机を取り囲んだ。蓮乃はそれを見てまずいことになったのがわかった。
「おまえ、生意気なんだよ」
一人がそう言った。直衛よりふたつ年上の河田|吉政《よしまさ》だった。
「ただの育預のくせに、殿の子供みたいな顔をしやがって」もう一人が言った。直衛と同い年の佐脇|俊兼《としかね》であった。
直衛は本から顔をあげ、自分を取り囲んだ連中の顔を眺め回した。五人は一斉に身構えた。しかし彼は再び本に視線を向けた。
それが五人の態度をさらに悪化させた。吉政が手をのばし、直衛から本を取り上げた。開かれた頁《ページ》を見て書政は顔をしかめた。表紙を見て、それは歪みに変わった。表意文字である皇字ばかりが多いため、なんの本であるのか見当もつかないのだった。
「莫迦にしやがって」書政は吠えた。本を仲間のあいだで毯のように投げあった。
直衛はしばらくのあいだその様子をじっと眺めていた。そして言った。
「それ、殿様の御本なんだ」
全員の動きがとまった。本は床に落ちた。直衛はそれを拾い、埃をはらう仕草をしめしたあと、机においた。
「畜生」
吉政が再び吠え、直衛につかみかかった。他の四人に、剥くぞ、と命じる。五人の子供は、直衛をおさえつけ、彼が着ていた緩い上衣、半袴、そして下帯を引き剥がした。直衛はまたたく間に全裸となった。それは人数の差と言うより、直衛が無抵抗であったためだった。
吉政たちは直衛の着衣を持って広間を走り回り、窓から外へと放り投げた。彼等は楽しそうだった。
確かに、子供にとってこれほど楽しい遊びは他にないかもしれなかった。
直衛は彼等を追わなかった。服を取り返そうとしなかった。立ちあがったまま、半ば倣然《ごうぜん》とした表情でその様子を見ていた。彼の心理を示していたのは股間だけだった。陰茎と陰嚢がひどく小さく縮こまっていた。
やがて吉政たちはそれに気づいた。そのことについて嚇《はや》したてた。しばらくするうち、広間にいた三〇名はどの子供、全員がそれにくわわった。
直衛の態度はかわらなかった。一度だけ、ただ呆然とすべてを見ていた蓮乃に視線を向け、微かに迷うような表情を浮かべ――すぐにそれを消した。
彼は裸のまま腰をおろすと、再び本を読みはじめた。彼をあざける声は徐々に小さくなり、やがて消えた。誰もが気味悪さを覚えたのだった。
投げ捨てられた服は蓮乃が拾い集めた。それ以外、彼女には何もできなかった。自分もまた育預であるという現実が彼女の行動を制約していた。すくなくとも、自分ではそう信じていた。実のところ、ただ恐ろしく、何をしてよいのかわからなかっただけであった。
蓮乃が集めた服を渡された直衛は、小さな声でありがとうと言った。
彼はいつものように本を抱えて部屋に戻った。しかし翌日からは本を持たなくなった。
吉政たちは怖れていた。直衛が誰か大人に事実を伝えたならば、手厳しく叱責されることはわかりきっていた。
しかし、大人たちはそれを知らなかった。直衛は誰にもそれを口にしなかったのだった。安堵した彼等はその後、何度か直衛をいじめの対象とした。それがやがて無くなったのは、直衛がほとんど反応を示さなかったためだけではない。倣然とした表情が、実は侮蔑を示すものであることに気づいたからだった。
一方、蓮乃はそれを保胤に伝えた。なんとかしてくださいと言った。
哀しげな表情を浮かべた保胤は、わかったと答え、まず直衛の話を聴くと言った。そして数日後、どうにもならないと答えた。あいつは何も言わないと呆れたように伝えた。
事件が終結した――蓮乃がそう疑ったのは、それから一年後のことだった。何日か前から行方不明となっていた河田吉政が、皇都の西を流れる淳川《あつかわ》で水死体となって発見されたのだった。
遺体に外傷はなかったが、駒城家の屋敷から一〇里ほどもはなれた場所でなぜ死んでいたのか、まったく理由がわからなかった。
あの子がやったのだ、蓮乃は直感した。
そして次の瞬間、それを否定した。論理ではなく、感情ですべてを押さえつけた。
しかし他の者たち――子供たちは違った。誰もが直衛の報復であると信じていた。そして、誰一人としてそれを大人に伝えなかった。彼等にとり、直衛はいまや恐怖の象徴だった。
あるいはこの出来事によって、蓮乃の現在は決定されたのかもしれない。それまで、蓮乃の内心には、生涯を直衛と共にせねばならぬのではないかという思いがあった。もちろん保胤に強く惹かれてはいたが、直衛は恋愛だのなんだのといったものとはまったく別の意味で彼女の内心、その上席を占めている存在だった。
しかし直衛は、この一件で誰の助力も仰がず、すべてを解決してしまった。懸命にそれを否定しっつ蓮乃はそう信じた。この時、裸に剥かれた直衛が一瞬だけ浮かべたあの表情の意味はまったく無視されていた。
あの気弱な子は誰も必要としていない。ありとあらゆるものに脅えながら、すべてを自分で解決してしまう。
蓮乃はそう判断した。それが好意からのものでないことに彼女は気づいていなかった。
もちろん彼女はそれからも直衛に愛情を抱いてはいた。それを示し続けもした。しかし、生涯を共にする義務感だけはきれいに消え去っていた。彼女が本当の意味で安堵を覚えたのは、保胤と実質的な夫婦となった一七歳の春のことであった。その頃、直衛という存在は、彼女にとり一種の呪縛《しゅばく》に似たものになりはてていた。
あの子はいったいなんなのかしら、蓮乃はいまだにそう考えることがあった。
彼女の内部には、いまだあの寝小便を漏らす子供としての彼がいた。と同時に、おそらくはもっとも残酷な報復を平然と実行したであろう得体の知れぬ少年もいた。そして今、様々な栄誉とともに生還した勇猛な軍人――彼女がもっとも憎悪する人種としての新城直衛少佐がいた。意気地無しで、冷血漢で、残虐。要約するならばそういうことになる。
直ちゃん、蓮乃は直衛のことをこれからもそう呼び続けるだろう。しかし、その彼は、人間としてもっとも軽蔑すべき要素をたっぷりと持った男なのだった。
彼女はもちろんそれに気づいていた。誰にでもある気の抜けた時間、それを思って背筋が震えることすらあった。
であるにもかかわらず、なぜあの子のことがこんなにも可愛く思えるのだろう、彼女にはその理由がわからなかった。三十路《みそじ》間際になってようやく産むことのできた一人娘を直衛があやす様を見て、ひどく嬉しくなってしまうのはどうしてなのかしら。
わからない。全然わからない。おかしいわ。わたしは、あの子のことを誰よりも理解しているはずなのに。
6
二人で飲んだ数日後、同期会をしようと羽鳥から連絡があった。新城は二つ返事で承知した。あれ以来、奏上文をどのようにするか考え続けて疲れ、なにもかもが嫌になりかけていたところだった。あいかわらず、良く眠れないためでもある。
駒城の下屋敷をでる前、蓮乃に見つかり、小言を言われた。
「また羽鳥様とですね?」蓮乃は優しげに睨みながら詰問した。
「よくおわかりに」新城は答えた。義姉を前にするといつも感じる安堵感、慕情、焼けつくような何かが全身に満ちてゆく。正直、はやいところ逃げだしたかった。やはり皇都のどこか別の場所に家を構えるべきだとも思った。
いや待てよ、そう思い直す。義姉の性格からいって、そこを度々訪ねてくるだろう。そんなことになってはたまらない。二人きりになった時、自分がどうなるかわからない。
しかし、とも考える。そうなったら、どれほどよいだろう。その後でどのような目に遭おうと、すくなくとも、納得だけはしていられるに違いない。
蓮乃は相変わらず新城のそうした面を理解していない。というよりも、あえてわかろうとはしなかった。自ら任じている母親がわりの演技を続け、彼にあれこれと説教をした。新城が神妙な表情で領き続けていたのは、鼻孔を刺す蓮乃の香りになかば陶然としていたからにすぎない。しかしそのおかげで蓮乃は、女であれば生涯に一度は味わいたいと熱望する男への圧倒的な優越感を堪能することができた。
結局のところ彼女は、楽しんでいらっしゃいと微笑んで彼を解放してくれた。
羽鳥からの連絡にあった店は、宮城の北西、中木場街《なかぎばまち》にあった。名前から想像がつくように、中木場街は製材屋がよりつどう場所で、その北緑は弓勢湾に画している。商売が商売であるから気の荒い者が多く住む。あまり、柄のよいところではない。もうすこし上手《かみて》――呂城へ近づいた木座街《もくさまち》あたりになると材木問屋の大店が軒を並べるから、そうした店の旦那連中を相手にした品の良い店が増えてくる。
新城は自前の馬車を持っていない。馬は軍の厩舎《きゅうしゃ》へ預けたきりだった。いずれも、どうでもよいと思っている。
そのため目的地まで、駒城の馬車を借りた。市中を通っている馬車鉄道を用いるのでは時間がすぎるからだった。
木座筋《もくぎすじ》を店の近くまで来たとわかったあたりで馬車を止め、御者に心づけをつかませ、戻ってよいと伝えた。同期が集まるのであれば、どのみちまともな時間には帰れない。それがわかっていて馬車を待たせていられるほどの神経を彼は持っていなかった。
駒城で育ちながら、そのあたり、まったく貴族風の男ではない。
すでに暮れかけようとしていた。わずかに雲があるけれども、茜《あかね》色から暗色へ急速にうつりかわってゆく様がよく見える。光帯の輝きが増し始めていた。
今日の彼は軍袴仕立ての細袴に鹿革靴、上にはゆったりとした皇嶼《こうしょ》織の上衣、肩にはアスローン・ウーステッドの二重回しをひっかけている。全体の色調は浅紫色だが、色違いの糸が微妙に縫いこまれた二重回しのおかげで、深みのある印象が加わり、あまり安っぽくは見えない。頸もとに巻いている派手な赤地の飾り布の効果もある。いうなればちょっとした遊び人風の着こなしだが、新城の場合、それが制服のようにも見えてしまう。やはり損な見かけの男だった。喧嘩を売る相手を捜して生きているような連中に挨拶までされてしまった。なにか、それ風に見えたらしい。仕方がないので鷹揚《おうよう》に領いてやった。
羽鳥から伝えられた店は木座筋から通りひとつ入りこんだ場所にあった。店じまいの時間に重なったため、木座筋の混雑は相当なものだったが、それが嘘のような静かさになる。なかなかの落ち着きすら感じさせた。
店を見つけた。新城は唇をすぼめた。不調法をもって鳴る羽鳥のことだからどんな店かと思っていたが、そこにあったのはしっとりとしたつくりの店だった。表構えこそ控えめだが、奥行はそれなりにある。まあ、料亭と呼んでよい店であった。新城は門をくぐつた。
下足番が挨拶し、どちら様でと訊ねた。幼年学校の同期が来ている筈なんだが、と新城は言った。下足番はそれだけで得心した顔つきになり、へぇどうぞおあがりくださいと勧めた。仲居があらわれ、新城の二重回しを脱がせ、どうぞこちらへと案内した。
仲居はちょっとした色気のある娘だった。どこかで見た顔だなと新城は思った。
店の一番奥まったあたりにある小部屋へ通された。
お連れ様がおみえでございますと仲居が伝え、扉をあけた。円卓があり、その周囲には懐かしい顔が揃っていた。羽鳥を含め、四人いる。新城が最後だった。
「なんだ、こいつ酒落《しゃれ》めかしやがって。制服も着てない」面長の男が言った。
古賀《こが》亮《りょう》、同期生のひとりだった。顔の特徴をどう表現すべきか、と言えば濃いとしか言えない。鼻筋は通っている。くろぐろとした太い眉の下に配された吊り上がり気味の目は、愛橋と凶暴さの双方をあらわすことができそうだった。とはいえ、軍にいた頃は、その態度と正反対の――常に冷静な判断しかしない男だった。いまは皇室史学寮の研究員を務めている。
古賀の左隣には羽鳥がいる。新城の席はその隣だった。
「芸がないのも嫌なんでな」新城は答えた。皆が笑った。仲居のひいた椅子に座ろうとする。
と、突然、全員が立ちあがった。背筋をのばす。
羽鳥が久しぶりに聞く張りのある声で言った。
「新城少佐殿の武功と無事生還を御祝いする。敬礼!」
今や現役ではないとはいえ、誰もが一五の年に叩きこまれている。見事に均整のとれた動作で四つの手があがった。新城は丁寧に答礼した。誰も座らない。
「少佐殿」古賀が言った。
「着席の御許しを」
「座ってくれ。いい加減にしろ」新城は照れながら答えた。腰をおろす。皆がそれに続いた。
新城の左隣に座っていた槇氏政《まきうじまさ》が言った。
「樋高、はじめちまおう」
彼の隣にいた樋高惣六《ひだかそうろく》がにっこりとし、仲居へ頷いてみせた。それを見た新城はようやく思いだした。
その娘は、樋高と良く似ているのだった。
「なんだ樋高、御家族か?」娘がでていったところで新城は訊ねた。
樋高は小さく領いた。頭頂部の目立つ、顎がほっそりとした、典雅な顔立ちは昔と変わっていない。
彼は言った。
「従妹だ」
「許嫁だよ、こいつの」古賀が言った。「この店の一人娘だ。つまりこいつはこの店の若旦那というわけさ」
「そういうことか」新城は領いた。「ならば、きちんと挨拶しておかないとな」
「別にいいよ」樋高は恥ずかしそうに答えた。五年前、演習中の事故で重傷を負うまで、たとえ相手が大佐でも平気で噛みつく男として知られていた少尉の面影を兄いだすことは難しかった。
「俺もおかしいと思ったんだ」横が言った。太り気味の福々しい見かけで、軍にいた頃はその見かけどおりの人格で部下をまとめていた。兵の面倒をみるというよりは、兵が面倒をみたくなってしまうという型の将校であった。現在は、親の仕事を手伝っている。彼の父は〈皇国〉有数の造酒屋で、外国とも手広く商いをしている。
「羽鳥がこんな気の利いた店を知っているはずがないからな」
「悪かったな」羽鳥は横を睨んだ。「まあ、そのとおりだが。いぜんに樋高から教えられていたんだ」
扉が開き、酒と料理が運ばれてきた。先頭は樋高の許嫁だった。後に五人ほど続いている。
樋高が確認した。「面倒だから全部一緒にもってこさせた。足りなければいくらでも追加できる。作法通りではないが、それで構わんなり」
なにをいまさら、と全員が答えた。各々、〈皇国〉の中流以上の出身ではあるが、同期生だけとなると、妙な見栄は張らない。
円卓に酒と料理が置かれた。酒は井戸水で良く冷やされた南幌冷酒。南幌だけで採れる朱山橙《しゅざんたいたい》を使った果実酒で、ほんのりと讃桃色に透きとおっている。並の料亭ではだせない酒であった。
樋高の許嫁が全員に注いでまわった。新城は丁寧に挨拶した。彼女は耳まで桜色に染め、あのひとがいつもお世話になったそうでと答えた。樋高が、おいやめてくれと言った。酒を飲めぬ彼の前には水が置かれていた。
その間にも料理が配されてゆく。川黒鷺の腿炙り。熱せられた鉄皿の上で盛大に脂を弾かせている。鯖亀の脇肉。軽く炙られたあとで漬け汁に浸されており、ねっとりとした表面がなんともいえない色合いになっていた。中海《なかみ》鮭の蒸し焼き。立ちのぼる湯気が香ばしい。腹に香草が詰めこまれているのだった。
薄垂のかかった緑菜も青々としてよい。他にもいろいろと運ばれてくる。
「卵はどうした卵は」羽鳥が言った。樋高が笑った。
各自の前に小鉢が置かれた。やはり湯気がたっている。沼長柄鳥の半熟卵が三つ入っていた。
全員が水晶碗を掲げた。古賀が強要した。
「おい、新城。貴様が何か言え」
「じゃあ、〈帝国〉軍から教わった言葉を」新城は答えた。
「大いなる武功と名誉ある敵に」
全員が唱和し、痛と水を飲んだ。横が満足げな坤きを漏らした。たしかにその南嶼冷酒は素晴らしい味だった。舌触り、喉越しともによく、それでいて口に味が残りすぎない。
全員が物も言わずに食べ始めた。新城もそうしている。集まってしまえばこうなるのは昔も今も変わらないなと思っていた。
新城が一五歳となる日が訪れた。正確に言えば、駒城家がそうと定めた日がやってきた。実際は一四歳、あるいは一六歳かもしれなかった。彼はその日、最初の選択を行った。
彼はすべての準備を整えた大人として認められた。
姓も与えられた。駒城から一字をとって新城。名は、拾われた時に着ていた服に記されていた直衛のままだった。
新城直衛。くだらない名だ。彼はそう思った。姓は田中や山田や鈴木、名は一郎・太郎がいい。すっきりしている。それに、親が自分に期待していることが、子供のうちからよくわかる。
もちろんそれを態度にあらわしはしなかった。その程度の知恵はついていた。この頃までに、彼のどこか知恵の足りぬ演技は童にいったものになっていた。第二の人格と化していた。保胤どころか蓮乃でさえ、彼が本当にそうなのではないかと疑念を抱いたほどだった。それがまったくの嘘であったと彼等が知るのは、初めての実戦を経験した新城が帰省する五年後のことになる。
駒城篤胤は一五歳の彼に二つの選択肢を示した。
ひとつは駒城家官僚団へと加わることであり、もうひとつは陸軍だった。
前者の場合、最終的には町長程度にはなれる。後者の場合、悪くても中佐で後備役編入と言う結末を迎える。
彼は――新城は後者を選んだ。
年齢相応の軍服に対するあこがれはもちろんあった。さらに強かったのは、そこでならば、自分で何かを手に入れることができるのではないかという期待だった。
誕生日から一ケ月後、彼は故府にある〈皇国〉陸軍特志幼年学校へ入校した。
屋敷を離れる際、蓮乃は大鹿きした。
新城は上位かなかった。むしろ喜びが大きかった。
日々、保胤のものとなり続けてゆく蓮乃を見ずにすむからだった。
むしろ、いまだ子猫であった千早とわかれることの方が辛かった。いや、蓮乃の泣き声を聞かぬために千早のみゃあみゃあという声を聴いていたという方が正しかった。
馬で四日ほどかかる故府までの旅程は、瀬川が供としてついた。
新城はほとんどなにも喋らなかった。
瀬川と何を話してよいのかよくわからなかったし、自分を待ち受けているものへの怖れもあった。そしてなにより、乗馬が得意ではなかった。
馬へ最初に乗ったのは五歳のことだったが、いまだにまともな乗馬姿勢をとることができないのだった。必然的に、尻の皮もそう厚くなっていない。
瀬川は、主人が無口な理由、そのひとつを明瞭に見て取った。彼は若い主人から半馬身ほど自分の馬を遅らせつつあれこれと話した。
「軍について何か御存知ですか」
「たいして知らない」新城は正直に答えた。「入ってから覚えたらよいと思っているんだ」
それを聴いた瀬川は微苦笑を浮かべ、すぐに消した。どうやら、この坊やになにか教えてやらねばならないらしいな。
「自分は陸軍曹長でした」瀬川は言った。「駒城の殿様、その従兵を命じられるまでは騎兵でした。軍歴は二〇年以上にもなります」
新城は何も答えなかった。二〇年という時間、その長さの想像がつかないからだった。
「ろくでもない軍歴でしたが」瀬川は言った。「いくつか、覚えたことがあります。それは実際役に立ちました」
「教えてくれ」新城は訊ねた。声がわずかに緊張していた。
「裟婆でも通じるものです」焦らすように瀬川は言った。「どこでも、役に立ちます」
新城は何も言わなかった。自分の質問はすでに発しているからだった。この種の沈黙が、主人の叱責であることに瀬川が気づいたのは、この時から三年ほど後のことだった。
「まず第二瀬川はいささか得意気な声音で言った。
「見栄えを良くする」
「見栄え?」
「服装、姿勢、態度です」
「優先順位は?」
「それは御自分で見つけていただくほかありません。場合によりけりですから。ともかく、この三つを保っている限り、無用の反感は買いません。もちろん、適度に保つことが重要ですが。なにごともやり過ぎは禁物です」
「第二は?」
「軍に一五年以上いる下士官の言うことはすべて真実です。特に彼が実戦を経験した古強者であれば。彼等に逆らってはいけません。卑屈にならぬ範囲で敬意を示してください。将校には威厳が必要ですから」
「その頃合いも」
「ええ、御自分で見つけていただくほかありません」
「第三は?」
「前線で肩を並べるまで、誰に対しても、過剰な信頼を寄せないでください。本当の価値はその時までわかりません。いえもちろん、何か特別な事情があれば別ですが」
新城は黙ったまま領いた。信頼と信用はまったく別、そういうことだろうと了解した。正直なところ、それは大の得意だった。
「第四は、どうにもならないほどの莫迦野郎とでくわした場合です」
「無能?」
「というより、頭のいい莫迦も含まれます。ああ、天がせっかく与えてくれた力の使い方を知らないという意味では、やはり、無能と言ってもいいでしょうね。ひどい場合、力のすべてを逆向きに使う奴もいますから」
「それで? そういう奴はどうする?」
「なるべく関わりにならぬことです」
「あっさりしているな」
「実際にどうするかはl
「自分で考えろ、か」
「よく見られました」瀬川は楽しげに答えた。彼はかつて、あまりにも無自覚な中隊長を戦場で見捨てたことがあった。もちろん彼は戦死した。そして周囲のすべてから感謝された。
瀬川は言った。「ともかく、真面目すぎる奴、自分に疑いを持たない奴を見分け、そばに寄らないようにしてください」
「まず、僕がそうならぬように気をつける、そういうことだね」新城は納得したように言った。
瀬川はつけくわえた。
「必要な相手だけに。妙に出来過ぎるところを見せても、あまり得になりません。いらぬ面倒を押しっけられるのがおちです。下士官風にすぎる考え方かもしれませんが――まあ、軍隊も妥婆も極楽ではありませんから。将校もその例外ではないと思います」
「うん、必要な相手だけ、ね」
新城は領き、そこではじめて低い笑いを漏らした。
それもまあ得意と言えば得意なのだった。
いや待てよと思う。自分がもし本当の無能者であったとしたならば?ああ、気にする必要はないか。本物の無能であるならば、他者が自分をどう評価しているのか、気づく筈もない。むしろ他者を蔑み、それなりに幸せな日々を過ごせるだろう。はは、つまり、どっちでもいいってことじゃないか。いやいや。本当にそうか? よくわからない。
そのとおりだった。彼はまだ一五歳であった。
瀬川の”講義”は故府に着くまで続いた(宿でも、新城が眠りこむまで続いた)。
彼が最後の一言を口にしたのは、故府の北部市街、北二条街にある特志幼年学校の正門で、新城が馬を降りた時だった。
「まずは我慢されることです」瀬川は言った。「軍隊ってのは、無理と理不尽が徒党を組んで進撃しているようなところですから」
なんだよと新城は思った。当面、自分にとって一番大事なのはそいつに対する心構えじゃないか。家令から荷物を受け取りつつ、彼は自分のことを嫌っているのではないかと新城は思った。尻が痛かった。
新城が入校した当時、特志幼年学校はすでに三〇年ほどの歴史を持っていた。
といっても、上代にまでその歴史を遡ることが可能な〈皇国〉の公的機関がほとんどの中では昨日できたも同じようなものだった。であればこそ、幼年学校は伝統についてひどくやかましい場所であった。
「諸君は輝かしき流れの中に身をゆだねることとなる」新生徒八〇名を整列させた春の練兵場で校長は大声を発した。
「本校は入校志願者によってのみなりたち、卒業生の大半は近衛禁士隊並びに陸軍の枢要な地位で活躍している。彼等がどのような功績をなしたか、それは諸君も知ってのとおりである。南嶼の変、龍洲の乱、豊麗事変の戦場に諸君らの先輩はいた」
なんだ、内乱ばかりだなと新城は思った。
「……東洲乱を野戦指揮官として戦ったのも諸君らの先輩たちであった」
つまり、自分の故郷(であろう土地)を焼き、おぼろげな記憶しか残っていない両親を殺した責任者たちというわけだな。新城は思った。へへ、父も母もずいぶんと喜んでくれるだろうな。ねぇ父さん母さん。すくなくとも、あんたがたの息子は殺される側ではなく殺す側にいますよ。
新城はその先の話を聞かなかった。ただ真面目そうな顔をして立っていただけだった。瀬川の講義がさっそく効果を発揮していた。
校長の話は立っているのがつらくなりかけた頃にようやく終わった。かわって主任教官が壇上に立ち、生徒としての心得を述べたあと、これより生徒班の編成をおこなうと告げた。
五名単位で一六班をつくり、今後二年間、すべてそれを単位として行動する。班員はこれより戦友であり、ありとあらゆる過失は連帯責任となる。なお、斑の人員は完全な抽選で選ばれたものである。
教官たちの指示に従い、生徒たちは斑番号順に整列しなおした。各班には現役将校の専任教官一名、現役下士官の助教一名がついた。この点はまったく贅沢であった。
「自分は貴様たちの教官をつとめる大賀大尉である」新城たちの前に立った教官は自己紹介した。一間五尺もない背丈の、小さな男だった。ただし、引き締まった肉体を持っており、顔には独特な気迫があった。実戦経験者なのかなと新城は思った。
「こちらは助教をつとめる猪口軍曹である。貴様たちは班員を兄弟、教官と助教を父、兄と思って貰いたい。では各自、自己紹介をおこなえ。ここでは家柄は関係ないから述べないでよろしい。なにかあれば教官が質問する。一番より、はじめ!」
「樋高惣六、抽洲出身!」
「抽洲?」大賀は訊ねた。「油洲といえば丈夫の地だぞ、樋高生徒、その割には小さいな。飯は食っているのか?」
樋高と名乗った生徒は、はい教官殿と大声で答えた。大賀はもちろん自分の背丈にあわせた冗談のつもりで言っているのだが、緊張している樋高にはそんなこともわからない。大賀は笑い、まあいい、これからは無理矢理飯をつめこんでやると言った。
「次!」
「古賀亮、豊洲出身!」
「古賀生徒、貴様の父上は、乱でどちらにつかれた?」
「豊公であります!」
「よろしい」大賀は言った。豊公とは〈皇国〉に反乱をおこした豊洲公|堅山基信《かたやまもとのぶ》のことだった。「豊公軍は〈皇国〉軍を苦しめた精兵ぞろいだった。貴様は父上の勇武のみを継ぎ、名をなせ」
「はい!」
「次!」新城の番だった。
「新城直衛であります」
「新城生徒、出身地を忘れとるぞ!」
「わかりません!」新城は大声で答えた。
「わからない?」大賀は呆れた声をだした。「貴様、駒洲ではないのか?」
「いいえ」
「莫迦者、新城生徒、軍では上官にいいえという返答はない。返答はすべて、”はい”だ。説明はそのあとにつける」
「はい、教官殿」
「質問に答えろ」
「わからないのであります、教官殿」
「貴様、少し足りんのか。駒洲ではないのか?」大賀は言った。自分が受け持たされる生徒の経歴その他は、すべて頭に叩きこんであるのだった。ここで自己紹介させているのは、軍隊というもの、その基本教育の手始めとしてだった。生徒全員をひとしくあつかってみせることで、彼等に連帯感を抱かせるという目的もある。
新城は答えた。
「はい、教官殿。駒洲は拾われた後で育った土地であります。生まれは東洲らしく思われますが、自分にはわからないのであります」
「御両親は?」
「共に東洲乱で死んだと聞かされております、教官殿!」
「よろしい」教官は答え、同じ動作の中で新城の頬に鬢汰を張った。新城の頭は真っ白になり、上体は大きくゆらいだ。かろうじて持ちこたえ、姿勢を元にもどす。鼻血が垂れていた。無理と理不尽が徒党を組んで、と思っている。
大賀は言った。
「教官の質問が不適当であったことは認める。しかし、貴様の返答も不充分であった。よって指導した!」
「はい」
「指導には礼をもって答えろ、新城生徒」
「はい、御指導有り難くあります、教官殿!」鼻血を流しながら新城は答えた。
「次!」
「羽鳥守人、皇都出身! 焼物屋の息子であります!」
「莫迦者」大賀は羽鳥にも鬢汰を張った。「今から要領をつかんでどうする!」
「はい、御指導有り難くあります、教官殿」
「次!」
「槇氏政、龍洲出身!」
「槇生徒、貴様の父上は上戸《しょうご》か?」
「はい、教官殿。下《げこ》戸です。造酒屋をやっております。皇室へ酒を献上するのを誇りにしております。よろしければ、教官殿も――」
「商売気はいらん、横生徒」大賀は怒鳴り、鬢汰を張った。
なんだと新城は思った。
こんな土地の出身者ばかり集めておいて、なにが抽選で決めた斑編成だ。どいつもこいつも、出自があやしげか、以前は叛徒と呼ばれた土地の出身者ばかりじゃないか。
畜生め。人の面を張るのはまあ我慢する――自分は好んで入校したことになっているのだから。しかし、しらじらしい嘘を吐くことはどうにも納得できない。あるいはそれが軍隊というものなのか。瀬川の言ったとおりだな。教官もその一党なのか。
「よろしい、貴様たち五名は、これから二年間、何があっても一蓮托生だ」大賀は言った。
「そしてその関係は、往々にして一生続くものだ。別に押しっける訳ではない。自然とそうなる。ならねば二年はもたん。それを覚えておけ。これからは何があっても、自分の行動が、他の四人に影響があると考えろ」
「はい、教官殿!」五人の少年は一斉に応じた。
「まあ、本当のところはそのうちわかる。よろしい、助教からの話を聞け。猪口軍曹は教官と同様に南嶼の出身である。東洲乱を新兵として戦った実戦経験者だ。彼の言葉と助言はすべて傾聴せよ」
「はい、教官殿!」なるほどと新城は思った。教官、助教も叛徒の子供か。妙なところで統一はとれている。そして教官の言葉は瀬川の教えてくれたものに合っている。彼は年齢相応の率直さでそう考え直した。
「生徒殿全員にもうしあげます」猪口は言った。
「自分は、特に野外教練の際に皆さんへ御助言もうしあげることになります。そして自分は、教官殿から、ひとりも落伍者をださぬことが最大の目的であると命じられております。なにか御質問はありますか?」
もちろん誰も答えなかった。
「御了解いただき、嬉しくあります」猪口は言った。
口元に浮かんだ笑みは肉食獣のそれに近かった。
「よって、野外教練の際は、自分の助言に注意していただきたくあります。自分は、教官殿から、生徒殿が助言を必要としなくなるために、あらゆる方法をとってよいと命じられておるのであります」
まどろっこしい表現だった。つまり、陸軍将校としてもとめられる野戦での行動規範を、死ぬほどの目にあわせながら叩きこんでやるということだった。
急に不安が湧く。駒城家の官僚になるべきだったかなと新城は後悔した。もちろん手遅れであった。
彼はすでに特志幼年学校生徒だった。
彼等が幼年学校生徒とした過ごした頃から、すでに一〇年以上が経過している。その間に新城をのぞく全員が後備役に編入されていた。樋高のように負傷でやむなく、という場合もあるし、羽鳥のように自ら望んで、という者もいる。しかしこうした場所でのお互いの関係に変化はない。
冷えては駄目なものを食べてしまうと、自然に言葉が多くなった。酒がなくなり、樋高が許嫁を呼んだ。彼女が持ってきたのは各自の好みにあわせたものだった。新城の前には龍洲米酒が置かれた。透銚子《ちょうし》に入れられている。よく冷やされていた。古賀の前にも同じものが置かれた。羽鳥はアスローン・モルトのケルミノシユだった。瓶に張られた紙には二五と数字が記されている。新しい水晶碗にそれを、任いで口に含んだ羽鳥は、実に嬉しそうな顔になった。
「うん、いい趣味だ」
「大事に飲めよ」横が渋いことを言った。「そいつはアスローン沖にある〈帝国〉水軍の封鎖線を突破した回船から買ったんだ」
「アスローンの状況は、そんなにひどいのか?」古賀が訊ねた。
「気息奄々《えんえん》、そんなところらしい」積が領いた。
「しかしあの民族は戦上手だからな。陸では〈帝国〉も苦労している。なかなか進撃できんようだ。それにまあ、アスローンが〈帝国〉と喧嘩するのは今にはじまったことじゃない。一〇年に一度やってくる災厄のようなもんだ」
「となると我国の方が問題か」古賀が呟いた。彼はそこで新城に気づき、いや、痛まんとあわててつけ加えた。
「構わない」新城は領いた。「実際、楽ではない。俺はまだ現役だから、負けるとだけは絶対に言えない。やれるだけはやる。しかし、覚悟はしておいた方がいい。すくなくとも、内地と東洲は戦場になるだろう。それも近いうちに」
「北領はどうなんだ?」卵の殻を割りながら羽鳥が訊ねた。
「軍は、なにか景気のいいことを考えているそうだが」
「そんな連中もいるな」新城は領いた。「俺はどうも、好みではないが」
「”好みではない”ね」古賀が鼻をうごめかせた。
卓を眺め回しつつ、次の獲物を捜している。
「貴様、昔からそれが口癖だな」古賀は続けた。
「ほら、上級生徒に赤杉《あかすぎ》って嫌な野郎がいただろう」
「ああ」槇が領いた。「あの、嫌味な野郎。たしか宮野木の家臣団じゃなかったか」
「それは忘れたが、ある日そいつに新城がからまれてな。難癖をつけられた。まあ、こいつはてんから人を莫迦にしているところがあるから無理もないんだが」
「その時の答えが?」樋高が言った。
「”上級生徒殿、そうしたなさりようは、特志幼年学校生徒として自分の好みではありません”」
「よく言ったなあ」卵の黄身を畷《すす》っていた羽鳥が呆れたように感想を述べた。
「で、赤杉の野郎、どう答えた?」
「名前どおり真っ赤になったな。”ふさわしくない”ならまだわかるが、”好みではない”だからな。
まるで大将閣下の御言葉よ。新城を滅茶苦茶に殴りつけた」
「それで貴様は何をしていた」とがめるような顔つきで横が訊ねた。
「教官室のそばまで走って、大声で私闘だ私闘だと喚《わめ》いて逃げた」古賀は鯖亀の脇肉に視線を据えていた。手を伸ばし、皿ごととってしまう。
「それで野郎、放校になったのか」横が言った。
「知らなかった」
「結構有名な話だったぞ」古賀は答えた。
「有名なのはどっちだ」樋高が笑みを浮かべながら言った。
「騒いだ貴様か、相手をはめた新城か? どうせ新城のことだ。計算ずくだろう」
「そりゃ決まっている。それに俺はもともと口舌の徒だからな。なあ新城、俺が史学博士になれそうもないとわかったら、貴様の大隊で使ってくれんか?なに、贅沢は言わん。大隊首席幕僚でいい。そのかわり、気の利く従兵を二人つけてくれ」
「俺は戦務幕僚がいいな」槇が尻馬に乗った。
「莫遡、貴様は兵站だ」樋高がいなした。「噂は聞いているぞ。大周屋の若旦那は、えらく遣《や》り手だと。うちの商売じゃ有名だ」
「じゃあ、貴様は何をする?」横は言った。
「捜索がいいな。捜索中隊。そいつを貰う。戦務は新城に任せておけばいい」樋高は決めつけた。
「俺は情報幕僚だ」羽鳥が加わった。
「頼む、俺の大隊を勝手につくらないでくれ」新城は苦笑した。もちろん冗談であることはわかっているが、そうした布陣であれば願ってもないだろうと思っている。彼等四人もまた、後備役へ編入される以前に、血を見たことがある男たちだった。
「それにな」新城は言った。「いま、俺は難しい立場にいる。大隊はまあ、全威したようなものだし、なにか別の面倒にも関わることになりそうだ」
新城は腿炙りをとり、かじりついた。味が濃いため、冷しても美味い。横もそれをとった。
「噂は聞いてる」羽鳥が小さく言った。
「〈帝国〉がらみか?」横が言った。「ならばすこし、面白い話がある。新城よりも羽鳥向きの話だがな」
「なんだ」卵の殻を弄《もてあそ》びながら羽鳥が訊ねた。「教えろ」
「今頃、奴らは頭を抱えているはずだよ」横は得意そうに話し始めた。
「〈大協約〉世界をどう支配するか?」古賀が口を挟んだ。
「もともと、〈帝国〉経済はろくなものじゃない」
炙り肉で口を一杯にしながら横は言った。
「無茶なところがある。そうだな。新城、貴様の前でなんだが、五将家の台所事情に近い。駒城家は例外とも思えるが、やはり、楽ではない。すくなくとも、儲けをだすのはえらく難しいはずだ」
「それはそのとおりだな」龍洲酒で口内の脂を流しながら新城は答えた。
「たしかに儲けはでていないだろう。苦労しているようだよ。おい、その白いやつはなんだ」
「綿貝。茄《ゆ》でてある。旬だ」相変わらず楽しそうな表情で樋高が答えた。水しか飲んでいないはずだが、一番酔ったような見かけだった。
「二つ三つ、とってくれ」新城は小皿をだした。
「早く話を進めろよ」
鯖亀の脇肉を切り分けていた古賀が愛想のない声で言った。彼は脇肉をみつめながら嬉しそうに漏らした。
「みろ、この切り口。いい具合の桃色になってる。樋高、貴様の叔父上はよほど腕のいい板前を抱えているな。これだけの店構えができて当然だぞ」
「ありがとう。うまくいけば支店も出す予定なんだ」
「うまそうだ。俺にもくれ」槇は言った。
「なら早く説明しろ。新城にしろ貴様にしろ話をもったいぶりすぎる」
「悪かったな。ええと」
「〈帝国〉経済の問題点だ」相変わらずアスローン・モルトを嘗めながら沼長柄鳥の半熟卵をすすっていた羽鳥が教えた。口のまわりには黄身がべったりとついている。
失礼しますと樋高の許嫁がはいってきた。全員の前にあらたな小鉢を置く。浜薯《はまいも》の梅煮だった。これをお使いくださいと、羽鳥の前に何個か水晶碗を置いた。卵を食べながら飲んでいるので、水晶碗がすぐに汚れてしまうことに気づいたらしい。
「ああ、どうも」羽鳥はありがたそうに言った。樋高に、おい、貴様がうらやましいぞと伝える。樋高は軽く領いてみせた。
一方、なんともいえぬ香りの湯気をたてている浜薯の梅煮を箸で割りながら横はだらしなく口を開けている。何か考えている時の癖だと皆が知っているから、誰も邪魔をしなかった。
「誰でも財布を持っている」横は話しだした。
「国にも、それはある。国庫というやつだ。だから、俺たちの財布と似たような問題も当然発生する」
「なんだ?」剣呑な声で古賀が訊ねた。本人は合いの手のつもりらしい。自分の銚子が空になっていたので、勝手に新城の銚子から注いでいた。
横は続けた。
「つまりだ、妾を何人もつくつちまった俸給取りみたいなもんさ。俺たちの中では、新城と羽鳥だけか。しかし新城はちょっと違うしな。羽鳥も高給取りだからな。古賀も違うだろ? 皇室史学寮はたしか――」
「いいから、それで?」古賀がうながした。
「妾には毎月手当をださなきやいけない。でなきや甲斐性なしってことになる。でまあ、その手当の合計が常に俸給よりも多い。するとどうなるか? どんなに働いても借金だらけ。国の場合、歳出が常に歳入をうわまわる状態だな」横は唇をほとんど動かさずに言った。
「景気がよくなればいいんじゃないのか?」古賀が食べ残していた半熟卵へ勝手に手をのばしながら羽鳥が質問した。
「俸給云々って言ったろ」浜薯を箸で弄びながら横は答えた。
「この場合、歳入は期待しうる最高額に到達していると考えるんだ。そして歳出は常にそれよりも多い。ならばどうなる? いずれは手に負えなくなって心中するしかない。〈帝国〉はその領土のすべてを国家が自歴に使えるわけじゃないからな。貴族の領地がけっこうでかい。皇帝が国の経営に使える金は、意外と限られてる」
「これまでの〈帝国〉経済はどう説明する?」綿貝を噛みながら新城は訊ねた。貝肉は思ったよりも硬い。しかし、噛めば噛むほど味がでてくる。おもわず口元がほころぶ。
「そこさ」槇は領いた。まだ薯をいじっている。
「だから〈帝国〉は領土拡張にいそしんできたんだ。侵略して手に入れた土地から搾れるだけ搾り取る。
新領土の住民は農奴にしちまう。奴らのやりかたはそうだろう? つまりだな、俸給だけでは足りないもんだから押し込み強盗と人さらいも兼業した、そんなところだよ。それで保ってきた。北領に攻め寄せた理由のひとつにはそれもあるはずだ」
「それが限界に達したとり」卵の殻を慎重に割りながら羽鳥が訊ねた。
「そうなるかもしれない、というところだ」横は答えた。
「このところ、〈帝国〉の領土拡大は頭打ちだった。
簡単に儲けがでそうなところはもう奪っちまったからな。かといってアスローンや南冥《なんめい》は面倒。で、我が〈皇国〉だ。天領の商人が揃って頑張ったものだから、あっちの景気をさらに悪化させ、歳入をさらに減らした。もちろん税を重くはしているが、とてもおっつかない。戦争の理由としては満点だね」
「それで、奴らが頭を抱えているというのは?」最後の綿貝を名残惜しそうに飲みこみながら新城が言った。
「戦争には金がかかる。兵端だ。貴様の戦争はそうだったろう?」横は答えた。
「よく知っているな」舌に残った味をもうすこし楽しんでいるべきかどうか悩む顔つきで新城は答えた。
「いまだに特幼会記事は読んでいる」横は言った。
特志幼年学校の卒業生たちが金をだしあって発行する研究雑誌のことだった。近況報告的な意味合いも持っている。
「貴様が北領でとったやり口について賛否両論だった。まだまともな研究もしてないうちにだしたやつだから、あまり信用はできんが。それで、けなしてたのは、軍監本部にいる――」
「朝凪《あさなぎ》? 荻名《おぎな》? 西原《さいはら》?」訊ねたのは新城ではなく羽鳥だった。
「荻名だ。荻名中佐」横は言った。
新城は苦笑するほかなかった。以前の上官だった。
あまりいい関係だったとは言えない。諦めて痛を飲み、綿貝の味を消した。
「誉めてたのは、おい、誰あろう大賀教官だ。いまじゃ大佐だそうだ。出世したんだな。やはり軍監本部にいるらしい」横は両眉をあげてみせた。
「あのひとは出来物だからな」古賀が口を挟んだ。
「で、〈帝国〉の話はどうなった?」
「え?」横は眉をしかめた。思いだしたらしい。本題を再開した。
「ああ、兵站だな。そいつはつまり戦費の問題になる。そいつがとてつもない額になるはずだ」
「〈帝国〉は市邑保護条項の対象外は手当たり次第に掠奪するぞ」殻にのこった黄身、その最後のひとかけらまで掬《すく》おうとしながら羽鳥が言った。
「そんなものじゃおっつかない」横は断じた。
「しかし、船で運ぶだろう」古賀が反論した。
「船ならば、輸送の経費はよほど安くあがるはずだ」
「それは〈皇国〉のような海国の話だ」積は否定した。
「もとから船をたっぷり持ってる。船頭、水夫にも不足はない。港も使いやすくできてる。何代も前からそのあたりに金を使ってきたからな。しかし〈帝国〉はそうじゃない。連中が持ってる質の良い船乗りはみんな水軍にいる。港も、軍港のほかはそれほどでもない。回船の数は多いが、大抵は沿岸用の小舟だ。おまけにむこうの回船問屋は、ここ一〇年ほどで(我国のおかげで)ばたばたと潰れた。となると徴用するにしろ新造するにしろ面倒だ。いまある回船を徴用すると交易がさらに悪化する。戦争に必要なだけ新造するとえらく金がかかる」
「つまり?」古賀が訊ねた。よく冷えた出し什に痩けられた西領鳩の胸肉をとり、二口ほどで食べてしま、つ。
「そのうち困り果てて向こうから和議をのぞむかもしれない」槇は言った。
「その結論はいただけないぞ」羽鳥が否定した。
「結論以外は、そうかもしれないとは思うがね」
「どうして結論がいかんのだ?」槇が怒ったように訊ねた。
「国家は筋道だけで動かない。筋道ではじめたものでも、最後には意地になる。筋道を放りだしてでも、意地を通そうとする」羽鳥は答えた。
「それに、困れば困るほど向こうは本気になる。〈皇国〉を潰せば楽になると思いこむ。つまり、あいもかわらず我国は風前の灯火だ」
「そいつはどうにも素敵だな」古賀が感想を述べた。
「いや、これはむしろ新城の科白だな」
「構わんよ、別に」新城は言った。
「ともかく、これからが大変だ。おい、貴様等、いまのうちに楽しんでおくべきだ。樋高もそうしてる。俺も俺なりにそうしてる。もう半年もしたならば、本当に新城の部下になるかもしれんのだから。おそらく、こいつを上官に持つと死ぬ目にあうぞ。〈帝国〉の意地にどこまでもつきあうだろうからな」そう言った羽鳥は卓じゅうを眺めまわしている。卵はもう残っていなかった。
「頼もうかり」樋高が訊ねた。
「あ、いや、そうだな」羽鳥は困った表情になり、続けて恥ずかしげに答えた。
「済まん」
「意地か」腿炙りの最後の一本をとった新城は呟いた。
「そいつがいつも面倒なんだ」
「面倒? そうかもしれないな」椅子の背もたれによりかかった古賀が言った。満足気な吐息をつく。
円卓に出されていた新城の細巻袋から勝手に一本とりだし、吸い口を噛み切ってくわえた。新城は肉を皿に置き、火をつけてやった。
燐棒の炎と細巻の煙、その向こうに見える古賀が続けた。
「しかし貴様、そいつが大好きだろう?」
燐棒を消しながら、そうでもないよと新城は答えた。
「そうは思えんな。俺は古賀に賛成だ」浜薯をつつき続け、粥《かゆ》のようにしてしまった槇が言った。
「俺も同感だ」卵を楽しげに待っている羽鳥も賛成した。
新城は困ったように樋高を見た。
樋高もやはり楽しそうな笑みを浮かべながら、ちいさく領いてみせた。水を飲んでいる。彼も同意見らしい。
「面倒は嫌いだよ、本当に」新城は重ねて否定した。本音だった。
「なら、面倒が貴様を好いているんだ」横がとどめを刺すように言った。彼は粥のようになった薯の小鉢を哀しげに眺めていたが、まあいいかと呟き、小鉢へ直接口をあて、ずるずると畷《すす》りこんでしまった。
彼等は翌日の朝方近くまで飲み続けた。誰もが真実に気づいていたのだった。
これまでとなんの変わりもない日常が続いている
〈皇国〉。それは幻想に過ぎなかった。この国はこれから史上最大の悪戦にまみれねばならないのだった。
そして彼等もその戦いと無縁ではいられない。この日の集まりは、言うなれば、楽しくもあった過去への訣別の宴なのだった。〈帝国〉が再び動きだした時、これまでのすべてが酔夢のように思える日々を彼等は過ごすことになるだろう。
翌日午後、新城直衛少佐は奏上文の草稿をかきあげた。決意はかたまっている。宮中への参内は数日後に迫っていた。それは彼にとり、何事かの始まりとなるはずであった。
「皇国の守護者2 勝利なき名誉』一九九八年六月 C★NOVELSファンタシア
皇国《こうこく》の守護者《しゅごしゃ》2
勝利《しょうり》なき名誉《めいよ》
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2004年6月11日発行
著者 佐藤大輔《さとうだいすけ》
発行者 中村 仁
発 行 中央公論新社 〒104−8320東京都中央区京橋2−8−7
制作中央公論新社
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