皇国の守護者 第01巻 反逆者の戦場
佐藤大輔
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カバーイラスト 塩山紀生
カバーデザイン しばいみつお(伸童舎)
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皇国の守護者1 反逆の戦場      佐藤大輔
中央公論社
C.NOVELS Fantasia
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IMPERIAL GUARDS Vol.1
Nowhere Fast
by
Daisuke Sato
1998
挿絵 大西將美
地図 根木儀雄
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目次
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書状  皇紀六二八年 冬配属辞令 皇紀五六七年 春
[#字下げ及びフォント小ここまで]
天狼会戦 皇紀
五六八年 冬第一章  剣虎兵《サーベルタイガーズ》第二章  光帯の下で
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[#<大協約>世界:勢力図(皇紀五六〇年代) 見開きで挿入]
[#<皇国>全図(皇紀五六〇年代) 見開きで挿入]
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皇国の守護者1 反逆の戦場
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世に従えば、身苦し。従はねば、狂ぜるに似たり。
――鴨長明
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書状 皇紀六二八年 冬
先日の御手紙、拝読いたしました。まことにお侵しきお心遣いをいただき、申し訳ないばかりです。皆様が相変わらずお元気にお過ごしとのこと、大変に嬉しく思いました。わたくしの健康についても御心配いただきましたが、いまのところ、健やかに日々を過ごしております。ご安心くださいませ。
あのひとの名を知らぬ若者がいるとのこと、驚かれていましたね。いまだ、あのひとのことをそれほどまで慕っていてくださる貴方《あなた》のお気持ちからすれば、まったく然り、驚くべきことです。わたくしも大変に有り難く思いました。
しかしながら、どうでございましょう? あのひとも同意見でしょうか?
貴方も御存知のとおり、あのひとは一筋縄ではいかぬ人物でした。毀誉衰既《きよほうへん》、功罪相半ば、どちらの表現が適切かわかりませんが、ともかく、公的な面で判断の難しい人物であったことは確かです(娘の時分にあの冴香《さえか》様から伺ったところでは、難しいどころではない、とのことでした)。
夫を西へ送りだした老女の浅慮と叱られるかもしれませんが、わたくしには、あのひどがいつまでも史上の大人物として語られることを喜んでいるとは思えません。むしろ、忘れ去られることをこそ望んでいるのではないかとすら思えます。
生意気なことを書いてごめんなさい。
貴方が、あのひとと苦労を共にし、彼を助け、〈皇国〉に大きな貢献をなしたことは重々承知しています。
ですが、家へ(あのひとは屋敷という言葉を絶対に使いませんでした)戻った時のあのひどは、世の方々が仰《おっしゃ》るような大人物ではありませんでした。ひどく我儘《わがまま》なところのある、普通の夫であり父親でした。失礼を承知でもうしあげれば、あなたも真美子《まみこ》の前ではそうではないかしら?
それにしても、多くの年月が流れてしまいました。あなたが〈皇国〉龍軍龍兵中将。覚えていらっしやるかしら、わたくしが最初にお会いしたとき、あなたはまだ少尉候補生になりたてだったのですよ!
わたくしはあの初々しい候補生さんのことをよくおぼえています。あの頃はまだまだ元気だった千早《ちはや》にすりよられて、冷汗をかいたことを忘れたとは言わせませんからね(そういえば、あの龍殿と最初に会った時も――ごめんなさい、もうよします)。
そのあなたがこの〈大協約〉世界でも最強の〈皇国〉龍兵、その中将閣下ですもの。いまさらながらに驚いてしまいます。わたくしに曾孫が生まれた時と同じほどの驚きであり、喜びです。
曾孫といえば、保和《やすかず》君のこと、それほど心配されることはないと思います。ああした年頃の男の子は皆そうです。むしろ、あまり構わないほうが良いことさえあります。
ああ、ただし、あまりお小遣いが多すぎてもいけませんよ。人の品性とお金は切っても切れない仲だということを教えてあげてもよい、そう思います。
ともかく、焦りすぎが一番いけません。その点は龍兵の訓練の一緒だと思います。もし迷いがあるのならば、あのひとであればどう言ったかを考えてみてください。
良くなる奴は勝手に良くなる。そんなところでしょうね。
戦争によってすべてを奪われ、戦争によってすべてを取り返したあのひとは、よほどの運命論者でした。
といっても、あのひとにとっての運命とは、最後の最後まで、それこそ見苦しいと思われるほど頑張り抜き、それでもどうにもならないと判断した後に渋々と受けいれる絶対的な事実のことなのですが(ああそう言えば、頑張るとか努力するとかいう言葉ほどあのひとが嫌っているものはありませんでした!)。
おそらく、この世で果たさねばならなかったほとんどの事柄が、あのひとにとっては苦痛に他ならなかったと思います。
あの頃、あなたはお気付きだったかしら?あのひとはどうにもならないほど気の小さなところがありました。なにか行動をおこすとき、常に震えがやってきて、すべてが恐ろしくなったのだそうです。嘘ではありません!
本人がそう言っていました。その話をしたとき、あのひとの目は笑っていませんでした。
そうです、いまや忘れられようとしているあのひとは、勇気を示すよりも恐怖を認めるこどを望む男だったのです。
以前の御手紙によれば保和君も曾爺《おじい》様を尊敬しているとのこと、ならば、いつの日か、それを理解できることでしょう。
もちろん、あのひとの生き方をそのまま真似る必要はありません。特に女性については、そうです。ああ、あの頃、わたくしが今では歴史上の人物になってしまった方々――冴香様、ユーリア様、そしてお母様のことをどれほど妬《ねた》んだことか!ええもう、本当に。
そうそう、御時間ができたならば、また、皆様でこちらにおいでください。皇都で一緒にどうかというお誘いは有り難いのですが、わたくしは、この土地を離れることはできません。この家、そして周囲のそこかしこに、あのひとがいるような気がするからです。いっものように扉をそっと開け、あの、いくらかまとまりのない笑顔で現れるような気がして仕方がないのです。老女の愚かな幻想であることは承知していますが、そんな気がしているうちはここを離れられません。
それに、けして寂しくはないのです。
ここにあるのは想い出だけではありません。わたくしのあしもとでは今も千早の曾孫たちがじやれあっていますし、あの優しい龍も義理堅く月に一度は訪ねてきてくれます。ええ、わたくしの娘じぶんの話を持ちだしたがるのが困りものですけれど!
暮らしにも面倒はありません。
身の回りのあれこれは使用人がやってくれて――それに、たいていのことは自分ですませてしまいます。そうした次第ですから、いましばらくは、どうか、好きなようにさせてください。これは貴方の義母としての願いです。それに、あのひともその程度の我儘は許してくれると思います。
とりとめのないことばかり書いてしまいました。どうかお許しください。次に御会いできる日を楽しみにしております。外は雪です。朝になればなにもかもが白く凍ってしまうのでしょう。ちょうど、あのひとが何かを得るために歩きはじめた頃のように。
牧場光信《まきしまみつのぶ》様
皇紀六二六体一月一八日
[#ページ上下に線ここまで]
[#白紙ページ]
配属辞令 皇紀五六〇年 春
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二部中の第一部
[#ページ下段]
発 <皇国>兵部省大臣官房
<皇国>兵部省陸軍局人務部
宛 <皇国>陸軍中尉 駒城家育預 準氏族
新城近衛
転属辞令
<皇国>陸軍剣虎兵中尉 新城近衛 殿
皇主陛下より御預かりし権限をもって、<皇国>陸軍大臣は貴官に以下のごとく命令する。
皇紀五六七年三月末をもって、貴官の
<皇国>陸軍剣虎兵学校付
の任を解く
これにかわり、同四月初日付で貴官を
<皇国>陸軍独立捜索剣虎兵第一一大隊第二中隊
中隊本部付幕僚(中隊兵站将校)に任ずる。本令到着後、貴官は可及的速やかに着任準備を整え、これを遂行すべし。
<皇国>陸軍大臣             東洲伯爵 安藤吉光(印)
(副署)<皇国>兵部省陸軍局人務部長   陸軍少将 準男爵 窪岡淳和(印)
(辞令に配された覚え書きの一部)
”保胤、これで一杯貸しだ――淳和
[#文全体囲みここまで]
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天狼《てんろう》会戦 皇紀五六八年 冬
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[#白紙ページ]
雪明かりで照らされていた単色の世界が赤らみ、蒼く、白く変化した。冬の陽光、その到来をうけ、酷寒の雪原を包みこんだ北領《ほくれい》の大気はわずかにぬくもりを増した。天狼、衆生《かんぷ》の二火山脈に東西をはさまれた天狼原野に冬の朝―皇紀五六八年一月ニハ日午前第六刻が訪れたのだった。
〈皇国〉北領鎮台司令長官、陸軍大将・守原英康《もりはらひでやす》大将はその一刻前に起床していた。
彼を目覚めさせたのはもちろん従兵長であった。
従兵長は五将家のひとつ、都南《となみ》公爵家の次子である守原が一五歳で軍人になって以来ずっと仕えている男たった。もともとは公爵家の家令、その三男であるから、二人の関係は上官と部下というより主人と使用人のそれに近い。守原が現役を退くか、最近、体調を崩しがちな兄のかわりに〈皇国〉政界へのりだすかした場合、彼も軍籍を離れ、守原のより私的な面に仕えることになるだろう。その点、従兵長にはまったく疑問がなかった。彼には軍への執着心などまるでなかった。司令部員先任下士官として与えられる俸給は、守原家から毎月うけとる扶持の二割にも満たないからであった。
従兵長はすべての準備を整えて主人を目覚めさせた。
接収した民家の寝台に起きあがった彼の主人は過秀一五年間の朝と同様にまったく不機嫌だった。もちろん、寝台で主人の隣にいた人物の存在は(やはり過去二五年間の経験を生かし)完全に無視する。
同裳の相手が誰であれ、それに気付かぬことも彼の扶持に台まれているからだった。
守原の隣で起床した人物は、賞賛のほかはなにも浮かばないほど美しかった。男ではない。守原はそれほど守備範囲の広い男ではなかった。しかし、守原の副官をつとめるその人物の美しさにはどうにも奇妙なところがあった。
従兵長はすべてを無視して主人の朝に奉仕した。
顔を洗い、髭をあたった彼へ見事に折目のついた制服を着せ、長靴《ちょうか》をはかせた。室内の寒さについての文句を受け流し、煎《い》った西領豆を荒く挽《ひ》いた熱い黒茶をさしだした。
副官はその間に自らの支度を終え、この部屋へこもった後に届けられた報告書に目を通し終えていた。
特にお気をわずらわせるほどのものはありません、閣下。そう報告する姿は、完璧な魅力を備えた中年女性そのものだった。
だが従兵長は、いまだに副官を女として認めることに抵抗を覚えていた(副官を初めて見たのは二〇年前だった)。彼にとり、その美しさはむしろ蔑視の対象であった。いかにその美しい生物が〈大協約《グラン・コード》〉によって人間として認められていても、好きにはなれなかった。たとえ醜女《しこめ》でも、何者であるかはっきりしている田舎酌婦のほうがよほど自分の好みだ、いつものように彼はそう判断した。
大外套を着用した守原は民家を出た。馬丁が彼の馬を曳き、主人の起床に備えていた。その周囲では北領鎮台司令部参謀たちが司令長官を待ち受けている。全軍は出撃準備を完成していた。将兵の大部分は、この寒空のもと、どう考えても暖かとはいえない天幕の中で着られるものすべてを身体にまきつけて眠ったのだった。
〈皇国〉北領鎮台は喇叭《ラッパ》の号令と共に北領最大の平野部における行動を開始した。ほぼ三万に達する彼等の行動を阻害するのは無能と偶然と寒気のみ。
北領は〈皇国〉の最北部にある大きな島だが、天狼原野はさはどの積雪量をしめす土地ではない。大陸から訪れる大気は、この島の北端にそびえる北背《きたのせ》山脈にぶつかることで、多くの水分を失ってしまうからだった。
将兵は雪を軍靴で踏みしめつつ行軍した。隊列の周囲に吐きだされた息が白くあらわれては消える。
[#<皇国>軍主要軍令系統(北領戦時)図挿入]
雪原に進筆路が刻印されてゆく。しかしそこが泥沼と化し、行軍速度が低下することはなかった。北領の冬は、人間や馬や馬車がどれほどふみしめたところで溶けだすほど柔なものではなかった。
進軍開始から半刻、騎兵斥候からの報告がもたらさればしめた。先発した彼等は、前方で左右に大きく展開し、馬と人回によっておりなされる移動警戒線をつくりあげていた。
二週間前に北領へ突如来襲した〈帝国〉軍、その主力は、北東約二〇里の街道上を南下中。斥候たちはそう報告した。
北領鎮台司令部は緊張した。
今日が決戦の日であることは彼等も承知している。
しかし、その決戦の戦端がひらかれるまでの残り時間が切られるとなれば、また別の感情も湧いてくる。
よく訓練された銃兵であれば、完全装備で一刻に六里ほども歩く。早足をとらせれば七里をこえることもある。兵を軽装で動かすことを好む〈帝国〉軍の場合、ハ里を越えることも珍しくない。
となれば、雪で足をとられる点を割引いても、最短予想会敵時刻はわずか二刻ほどでしかない。軍勢に急いで戦闘態勢をとらせる必要があった。それを具体的に述べるならば次のようになる。
銃兵部隊を縦長の行軍隊形、縦列《じゅうれつ》から、横長の戦闘隊形、横列《おうれつ》に変更する。平均射程が一里に満たない砲兵は適当な位置に配置。軍の両翼を援護する騎兵は、突撃準備隊形で待機させる。
こうした手順を踏むには、北領鎮台のような兵数の場合、最短でも半刻強が必要とされる。横列での行軍はまず不可能であるため、隊形変換の頃合も難しい。敵との接触より早すぎては側背を突かれかねないし、遅すぎた場合は何もかも問題外になってしまう。
北領鎮台司令長官、公爵陸軍大将、守原康英は〈帝国〉軍との接触を三刻前後と予測、命令を発した。北領鎮台主力をなす銃兵七個旅団は縦列のまま並進せよ。
騎兵二個聯隊《れんたい》、砲兵二個旅団は、それぞれ銃兵旅団群がつくりあげる線の左右、直後を占位せよ、と命じられた。左右の友軍から突出せぬように歩調をとらねばならないから、このような場合、行軍速度は低下する。が、精強をもってなる〈帝国〉軍に奇襲をうけぬための―可及的すみやかに戦闘へ突入するための準備行動としては妥当な内容ではあった。
とはいえ、それ以上ではけしてない。ここ100年ほどのあいだに、〈大協約〉世界の常識となった戦術のひとつにすぎない。
守原大将の命令、その例外は近衛衆兵第五旅団ならびに独立捜索剣虎兵第一一大隊であった。
彼等は主力の一里後方で待機するよう命じられた。
守原大将はこのふたつの部隊を総予備に指定していた。
前者は、その名にもあるとおり皇主陛下の禁兵。
[#<帝国>軍主要軍令系統(<皇国>侵攻時) 図挿入]
しかし、ほとんどの兵員が衆民の次男、三男坊であるため、戦力としてまったくあてにならぬ、そう見られていたのだった。旅団長をつとめるのが、今上皇主|正仁《まさひと》の次男、実仁《さねひと》親王であることも影響している(皇室ではすべての皇子を親王と称している)。
後者についてはいますこし複雑な事情がある。
両軍の接触は二刻後、第九刻であった。〈帝国〉軍はその風評にたがわぬ軍隊だった。彼等の行軍速度は〈皇国〉軍を三割も優越していた。
典故は北領鎮台が優越している。奴らはあわてて銃典旅団の隊形変換を実施した。
この日、〈帝国〉軍が戦場へ展開しえた戦力は約二万一千名であった。しかし、彼等は兵力差をまったく無視するような行動をとった。隊形を変更することなく猛攻を開始したのだった。
後に天狼会戦と呼称されることになるこの”決戦”の勝敗は二刻にも満たぬうちに決せられた。
先手をうち、戦場の主導権を握った〈帝国〉軍は、保有する平射砲のすべてを射距離わずか半里の位置へ強引に前進させた。平射砲は直ちに急射を開始する。砲弾は北領鎖音読兵横列へと着弾し、人間と読によってつくりあげられた防壁を崩してゆく。そして|〈帝国〉猟兵《ツァルヌイーェガー》の前進がはじまった。
〈帝国〉猟兵の行動は迅速だった。中隊単位の横列を縦に並べた大隊縦列のまま〈皇国〉軍へと接近した。北領鎮台の大隊横列に向けて前進した大隊縦列の数は六つだった。
銃身の短い猟兵銃のほか、ほとんど何の装備も持だない猟兵は列をなしたまま雪原を駆ける。
各大隊の第一線中隊は、北領鎮台の横列へ近づくにつれて兵を左右へと散開させた。
彼等が膝《ひざ》を雪上についた膝射姿勢をとり射撃を開始したのは、北領鎮台との距離が三〇間ほどになった位置でたった。猟兵たちは、降り注ぐ〈皇国〉軍の砲弾など存在しないかのような勢いで急射を続けた。
北領鎮台も応戦する。横列をとった各銃兵中隊を横並びにつなげた大隊横列へ号令が下る。仕掛け花火のような銃声と白煙が連鎖した。
が、射撃効果は低い。
射撃の――火力の集中度が低下している。前線で直接、戦闘加入した兵散という点では北領鎮台が優位に立っている。が、敵が散開しているため、横列隊形では射撃を集中することができない。横列の両端からでは、いずれも有効射程外への射撃となっている。
砲兵の射撃効果も低かった。〈帝国〉軍の行動速度に、照準が追いつかない。雪に脚がとられるため砲の向きを変えるのに苦労しているのだった。
一方、〈帝国〉軍の戦力は急速に増大した。尖兵中隊の確保した射撃位置−散兵線に、後続の中隊が続々と加わったからだった。猟兵たちは猟兵銃の射撃を自分たちの真正面にだけ集中した。
[#天狼会戦:北領鎮台の敗走 皇紀568年1月28日 図挿入]
やがて、短時間のうちに六個大隊の観兵で充満した散兵線から放たれる火力は、北領鎮台の大隊横列を圧倒しはじめた。現状は〈帝国〉軍一個大隊が北領鎮台一個中隊に向けて集中射撃を加えているようなもの。当然の結果だった。
北領鎮台は増援もままならなかった。
いかなる部隊単位においても横列をとっているため、方向転換、移動にひどく時間が喰われる。崩れかけている横列を支える位置へ速やかに運動できない。雪の影響も無論ある。
北領鎮台横列で空隙が目立ちはしめた。
横列に生じた櫛の歯が抜けたような部分――その雪面には銃兵たちが倒れ伏している。〈帝国〉軍猟兵大隊すべてに直属している銃兵砲中隊、その小口径擲射砲までが至近距離での射撃を開始したことにより、それは、川堤の決壊を思わせるような情景へと悪化した。
〈帝国〉東方辺境鎮定軍《とうほうへんきょうちんていぐん》総司令官、陸軍元帥、東方辺境領姫《とうほうへんきょうき》ユーリア・ド・ヴェルナ・ツアリツィナ・ロッシナは好機を逃さなかった。
間髪をいれず、全騎兵聯隊へ突撃を下命する。その先陣を切ったのは〈帝国〉親衛騎兵に匹敵する獰猛《ねいもう》を謳われた第3|東方辺境鎖胸甲騎兵《オストフッサール》聯隊であった。
集団抜刀突旱――乗馬白兵襲撃をもっとも得意とする重騎兵集団は戦野に解き放たれた。
突撃喇叭が鳴り響く。鋭剣を抜きはなった聯隊長が大音声の万歳《ウーラン》を発する。
三千騎を越える騎兵たちはそれに応じ、口々に万歳を叫びつつ愛馬を疾駆させた。
雪原は地響きと万歳に満ちた。
純粋な暴力の情景。すでに壊乱しかけていた〈皇国〉軍銃兵の士気は完全に粉砕された。
大部分の銃兵が、胸甲騎兵を射程へ収める前に逃亡をはじめる。すでに手ひどく聞かれていた彼等は、騎兵の津波へと立ち向かう戦意を残していなかった。
横列は崩壊した。
胸甲騎兵が突入する。敗走は、統制のきかぬ壊走に転じた。北領鎮台の兵士たちは、重い銃を投げ捨て、ただ雪原を逃げまどった。
予備兵力として拘置されていた近衛衆兵第五旅団と独立捜索剣虎兵第一一大隊は、戦況になんの寄与もなしえぬまま、この壊走の渦に巻きこまれていった。展開の遅れた砲兵旅団のうち一個が、比較的軽微な損害で秩序だった撤退に成功したことだけがわずかな救ったいであった。
〈皇国〉北領鎮台がようやくのことで態勢をたてなおしたのは六日後のことであった。
これをどう評価すべきかは難しい。
ひとたび壊乱した軍が態勢をたてなおしたことは旧時代的な意味では奇跡ではある。しかし、それに六日も必要とされたことは、軍事的常識からいえば無意味にさえ近い。やはり、批判されるべきことだろう。
事実、六日という時間のあいだ、軍は五〇里もの敗走を続けていた。北領の首邑《しゅゆう》たる北府まで失っている。
兵員の損害は一万二千名。残存兵力は約一万八千。
まさに惨敗であった。
再編成に成功したとはいえ、抗戦の継続も難しくなっている。天狼会戦後に増援の到着した〈帝国〉軍の兵数は約四万。装備、士気といった戦力倍増要素を勘案するならば、戦力比に六対一以上のひらきが生じていたからだった。現有戦力による北領の維持はもちろん不可能。どうにもならない。
つまるところ、〈皇国〉北領鎮台に残されたものはさらなる敗北、悲惨な敗走戦だけであった。彼等はすでに失われたものを守るために戦わねばならないのだった。
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第一章 剣虎兵《サーベルタイガーズ》
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二月一〇日午後第八刻、運荷《うんか》艇《てい》が転覆したとの報告を受けた転進支援隊本部は乗船作業の一時中断を決定した。
妥当な判断であった。失われた運荷艇はその日だけで四隻にも達している。天狼会戦から一二日後の夜を迎え、風雪はさらに厳しさを増しつつあった。
北領南端をなす路南半島、その終朱点に近い北|美名津《みなつ》浜、別名〈皇国〉北領鎮台転進海岸の気温は、人間の耐えられる限界を越えようとしているのだった。
〈皇国〉水軍中佐、笹鴫定信《ささじまさだのぶ》はその浜辺を一望できる丘の上に張られた大天幕の一つにいた。
そこは育ちの良い女ならば一呼吸で失神するほどの悪臭に満ちていた。
天幕の内部は、液石を燃やす角灯によって明るく照らされてはいる。しかし、液石の燃臭、そしてそこにいる何人もの男たちが発する体臭に支配されてもいた。
それはもちろん快適さの対極だった。
だが、笹嶋は文句を言うつもりはなかった。冬の嵐に面と向かっているよりはよほどましたった。そしてなにより、この大天幕の内部は火壺で暖められていた。
笹嶋はその真ん中に広げられた折畳式の机で書類と対峙していた。
尻が痛くなっている。裏返して置かれた桶《おけ》に座り続けていたからだった。この岸辺へ運ばれる際、誰かが椅子の準備を忘れたのだった。桶からは強い糠の臭いがした。
導術士の声が聞こえた。
「発、東海洋艦隊司令部。宛、転進支援隊指揮所。
本文。輸送船団第二集団ハ明午前第三刻、泊地|投錨《トウビョウ》ノ予定。輸送手段確保二最大限ノ努カヲ払ワレタシ。追伸。北領鎮台司令長官ハ司令部ト共二旗艦へ座乗セリ。爾後《ジゴ》、旗艦上ヨリ全般指揮ヲ行ウ旨《ムネ》、当方二連絡アリ。留意サレタシ。尚、追伸部分ハ陸軍談部隊へ通達スベカラズ、トノ要請アリ」
笹嶋は声の主をにらみつけた。
そうしても仕方がないことはわかっている。額に銀盤を埋めこみ、目を閉じたまま醒《さ》めた声で喋《しゃべ》っている導術士官《マジック・オフィサー》――導術士は、旗艦の同業者が”送って”きた司令部の命令を伝達しているにすぎないのだった。
導術士の言葉を書き留めていた二導術兵が写しを笹嶋に差しだした。瞼を開いた導術士が済まなそうな視線を彼に向けた。
笹嶋は彼等に御苦労と言い、少し休めと付けくわえた。実際にそうする必要があるように思われたのだった。
この転進指揮所に配属された六名の導術科員――導術士・算術兵のうち、いまだその任務を果たせるのは彼等二人だけだった。
他の四人は銀盤が薄黒く曇るほどに疲労し、艦に戻されている。
笹嶋がそれを命じた。彼等の任務復帰は期待できない。ひとたび疲れ切ってしまった導衛兵は、その能力の回復に一ケ月もの休養期間を要するのだった。
実のところ、笹嶋はそれを見越し、任務を与えられた際に導術科員の大幅な増員を要請してあった。
しかしそれはかなえられなかった。〈皇国〉水軍において、算術の利用はいまだ一般的なものではないからだった。
導術科員の総数は水軍全体で二〇〇名にも満たない。陸軍でも状況は似たようなものであるため、助けを求める訳にもいかなかった。
「”旗艦上ヨリ全般指揮”。ろくでもないことを言いやがる」隣の地図台にかがみこんでいる戦務参謀の浦辺《うわべ》大尉が姿勢を変えずに罵《ののし》った。
「確かにろくでもない。特に”通達スベカラズ”の部分は」笹嶋は答えた。
「しかし、司令部が安全な場所にあるのは必ずしも怯懦《きょうだ》ではないからな。弾雨のもとで万里に策をめぐらせられる奴は少ない。まあ、噂を信じる限り、守原大将はまさにそういう人物のようだが」
「そりゃ、そうですが」
浦辺は鉄筆に青墨をつけながら答えた。
「司令、これ以上、どうやって輸送手段を確保します? このぶんじゃあ、あと二日で運荷艇は無くなっちまいます。第二集団がいくらか―― 一隻あたり一艘は持ってくるでしょうが、それだけでは。それに、輸送方法もどうにかせんと。なにしろ、日に三隻は流れたりひっくり返ったりで。船底の浅い運荷艇ですから無理もありませんが、このままじゃあ助けてるんだか溺死《できし》させてるんだか」
「救命艇をだして貰おう」笹嶋は言った。
「全艦から?」浦辺が訊ねた。救命艇が波に強いことは確かだが、各艦がそれに同意するかどうか不安になったのだった。この悪天下では、軍艦でさえ遭難の危険がある。
「無論だ」笹嶋は答えた。机に置かれた時計を見る。
「といっても、あと四刻ばかりは無理だな。天象士、そのあたりの天候はどうだ?」
「風は弱まりますが」天象士官が答えた。
「雪がひどくなります。気温は、まあ、大した違いはないでしょう。風が弱いので、凍傷者の減少が期待できます」
「海面状況は?」
「がぶりますね」
笹嶋は不機嫌そうな呻きでそれに答えた。積雪は敗残兵の海岸集結を遅らせる。海面状況の悪化は救命艇や運荷艇の漕艇をひどく難しくして、兵員の乗船を(そしてなにより救出を)遅延させるのだった。
「皇海艦隊のほうはどうなんでしょうか?」浦辺が訊ねた。「新鋭の熱水巡洋艦をこっちに急派したという話でしたが」
「期待できんよ」笹嶋は断定した。
「あの熱永遠は試作艦だ。乙巡だから、石数が小さい。これだけがぶってると、北領海峡を越えるのが大変だな。それに、この状況では、熱水巡よりも二千石以上の回船が欲しい。いや、それよりも、内地にあるだけの天龍と気球が欲しい」
「回船。天龍。気球。無いものねだり、ですね」浦辺が言った。
「せめて誰かが、熱水巡に運荷艇を積めるだけ積んでおくことを思い付いていてくれたらいいのですが。ああ、こいつも同じですね」
「子供の頃が懐かしい。駄々をこねたら何もかも良くなることがあった――ま、一応は要請はしてあるんだがな」
笹嶋は大きく伸びをし、濃紺の天外套、その懐から細巻を取りだした。卓上灯で火をつける。
西鎖の奥府でそこそこの回船問屋を営んでいる兄から送られてきた細巻なので、味と香りはなかなかのものだった。といっても、この悪臭の中ではじっくり味わう気分にはなれない。
笹嶋は周囲を見回した。
二〇名あまりの男たちが、疲労の極に達しつつも任務を遂行し続けている。休ませるべきであることはわかっていた。しかし、そう命じるべき状況ではなかった。
せめて息抜きをさせてやろう、笹嶋は思った。
どうすべきか。
そうだな。辛気くさい表情を浮かべている隊司令がちょっと席を外すというのはどうだろう。すくなくとも、自分が候補生や中尉だった頃は、それだけで気が楽になった。
笹鴫は立ち上がった。浦辺に伝える。
「少し、外の様子を見てくる」
「御気をつけて」大外套の前をあわせ、掛棒を上から順に止めている上官へ浦辺は答えた。真意を理解した表情だった。
おそらくは、全員に、煙草や菓子でも許してやるつもりなのだろうと笹嶋は思った。兎の毛皮が裏打ちされた手袋をはめた彼は天幕をでた。
寒気は肌を鞭《むち》打つような厳しさだった。
内陸から吹き付ける風は大外套の生地をも貫き、体表から急速に熱を奪ってゆく。
ツァルラント大陸をとおり、皇海を吹き抜け、官職原と天狼原野を駆けたその風の冷たさは尋常なものではない。雪はそれほどでもないが、顔に当たると痛みすら覚える。寒気の中で吸いこむ葉巻の煙はただ苦いだけだった。
最悪、最悪、なにもかも最悪だと笹嶋は思った。
風雪吹きすさぶ厳冬期。そんな中で、この北領の浜辺から無数の―― 一万八千名の将兵を救いださねばならないとは(何か転進だ、莫迦野郎《ばかやろう》)。
救出開始は四日前。船に乗せたのはニハOO名。
船の数が増えたから、いくらか調子はあがるだろうが。〈帝国〉軍がそこまで待ってくれるものだろうか。
畜生。南西六里ほどにある美名津の港が使えたならばすべてが簡単に済んだだろうに。まあ、市長がそれを拒否した気持ちも当然と言えば当然なので、素直に腹をたてることもできない。なにしろ、〈皇国〉は彼等を見捨てようとしているのだから。
であるならば、〈大協約〉にもとづいて軍役拒否を決定するのもうべなうかな、だがーやはり腹は立つ。あのすばらしい虐殺という行為を命じてしまう指揮官がたまにあらわれる気持ちも、今こそ理解できる。しかしそれも今は昔語り。ここ二〇〇年ほどのあいだにその適用基準をさらに明確なものとした〈大協約〉、その市邑保護条項により、美名津は軍隊の暴虐から守られている。
天空から奇怪な叫びが響いた。
白い息を盛大に吐きだしつつ笹嶋は空を見上げた。
最初は何もわからない。が、徐々に眼が闇へ慣れてゆき、見分けがつくようになる。
低い雲に覆われた冥《くら》い空に、さらに暗い影があった。
鋭剣《さーべる》に大きな翼と尻尾をつけたような影。
龍。翼龍《よくりゅう》であった。
湾内に進入した龍巡――龍巣巡洋艦《ドラゴンクルーザー》から翔艦《しょうかん》した翼龍が、この悲惨な海岸の上空警戒をおこなっているのだった。
翼龍の後方に光源が生じた。自然な明るさではない。
燭燐弾《しょくりんだん》たった。布令に結びつけられているため、ひどく時間をかけて落下してくる。
燭燐弾は、三呼吸ほどの間をあけ、次々と投下されていた。翼龍を操る龍上が、救出作業がいくらかでも楽になるようにと投下しているのだった。おそらくは自主的なものだろう。水軍龍兵隊の正規装備に燭燐弾はふくまれていない。
まったく、誰も彼もが大変だと笹嶋は思った。
あの程度ではただの景気付けにしかならないが、ともかくもありかたい。
一刻もあれば五〇里も飛ぶ翼龍の背は、この岸辺とは比べものにならぬほど強く、冷たい風にさらされている。龍王にも凍傷者が続出しているだろう。
疲労もたまっているはず。なにしろ龍巡にはわずか四匹の翼龍しか載っていない。翼龍は幼いうちに手なずけて仕込まねばならないので、そうそう多数を運用することもできない。
ああ、天龍《てんりゅう》ならば龍王抜きでも同じ仕事をこなせるだろうが。いや、せめて発言権のある天龍が翼龍を説得してくれたなら  畜生。また無いものねだりだ。これまでのところ、天龍とまともな契約をかわせた奴はひどく少ない。
理由? 連中が〈大協約〉を異常なほど字義どおりに解釈するから。ええい。まあ、〈皇国〉以外の土地に、ほとんど天龍のいないことがわずかな救ったいだ。
もっとも、そのおかけで、こちらの思う通りに動いてくれる天龍はせいぜい二〇匹かそこらだけなのだが。そして俺は今、その二〇匹すら与えられていない。
笹嶋は再び翼龍へ視線を向けた。考える。
ともかく、あの龍王と龍の名を後で調べておかねば。この面倒が済んだならば、感状か勲章を申請してやろう。彼等はそれだけの働きをみせている。
冥い雪空に撒《ま》かれた十数個の燭燐弾は風に吹き散らされつつ高度を下げた。闇に沈んでいた北美名津浜の情景が浮かびあがってくる。
岸辺には無数の天幕と、くろぐろとした塊があった。天幕をつくりあげる油布は風が吹きつけるたびに波打ち、重く湿った音を立てていた。塊は体むことなくうごめき続けている。
その正体を知っている笹嶋は暗澹《あんたん》たる思いを禁じ得なかった。
それらはすべて人間なのだった。天狼原野で惨敗するまで、騎兵、銃兵、砲兵、輜重《しちょう》兵であった者たち。〈皇国〉北辺を守る防人、北領を危機より救い出す援兵であった男たち。
だが、今の彼等にその面影はない。
天幕は苦吟する負傷者で埋まり、その周囲には凍死の恐怖におびえつつ一晩中足踏みを続ける敗残兵たちがうごめく。
悲惨な現実だった。重装備ばかりか、銃や馬まで失ってしまった、戦意無き烏合の衆。強風で天幕に引火することを避けるため、焚火も許されていない。
何かいけなかったのだ。笹鴫は思った。
もちろん彼にも思いあたるものはあった。反撃がまず不可能であることも想像がついた。北領、内地、東洲《とうしゅう》、皇嶼《こうしょ》、南塊《なんかい》、西領《さいりょう》という六つの大島よりなる〈皇国〉全土に存在するすべての陸軍をかきあつめてもわずかに二〇万、水軍は四〇隻そこそこ。それで四〇〇万近い陸軍、五〇〇隻を越える水軍を持った〈帝国〉に対抗できるわけがない。なにをどうしようと、絶対に負ける。
しかし、それをこの場で明確に意識するのは無益だと笹嶋は考えてもいた。
彼は気づいていた。敗北の理由を考えることは一種の逃げなのだった。現在の彼はまずもってこの一万八千名を救わねばならなかった。しかし、すべてはまったくうまくいっていない。船と海岸を結ぶ輸送手段の不足から、全員の救出には最低、二〇日は必要だった。
そして勝ち誇る〈帝国〉軍の先鋒は、この海岸から一〇日の距離にいる。
鉛色の空、その下に広がっているのは棺桶におさめられた死体のような大地だった。すべてが雪で覆われた雪原であった。
雪原の中央には、死装東のあわせ目のような道が南北に走っていた。
道の左右、つまり東西両側には針葉樹の林があった。東側にある林の外縁、そのわずか内側には二種類の動物からなる集団が息を潜めていた。
雪の中へうずくまっていた剣牙虎《サーベルタイガー》が僅《わず》かに姿勢を変えた。耳をたて、人間の倍ほどもある頭を左右にめぐらせた。
動きはある一点を向き、止まった。小さくうなる。
灰色がかった白毛に黒毛が縞になったその姿には、冬毛の生えた剣虎兵に特有の、一種名状しがたい神聖さが備わっていた。
剣牙虎の隣には一人の兵士が伏せていた。
貫頭衣のような白布をまとっている。それによって、黒色の制服が目立つことを避けているのだった。
頭には耳覆いのついた毛皮帽を彼は彼っていた。呼気にすら気を配っているらしい。鼻や目冗から漏れる白いものはほんのわずかだった。
彼の傍らには、銃身の短い騎銃が置かれている。
彼と剣牙虎の両側には、五間ほどの距離を開けて、似たような姿勢をとった兵士と剣牙虎が配置についていた。
白布の内側で両手を動かした兵士は、帯革に挟んであった伸縮式望遠鏡を取りだした。それをのばして構え、剣牙虎が示した方角に向ける。
しばらくして望遠鏡を離した。雪焼けした顔面には不満があらわれている。
ありていに言って、魅力的な顔立ちではない。
眉毛の形はよいが、目と離れ気味であるため、奇妙に浮いて見える。
目は小さい。よほど努力して瞼《まぶた》をあけないかぎり、三白眼になってしまう。付け加えるならば、かなりの金壷眼《かなつぼまなこ》でもある。
ならば鼻に救いがあるかと言えば、高い、というより大きいという表現がふさわしい代物だった。口も似たようなものであった。無目的な大きさがある。
そしてそれらのすべてが、旧時代の楯《たて》に似たごつい造りの顔面へ大雑把に配置されているのだった。
正直なところ、凶相に近い。少なくとも、女子供が好んで近づきになりたがる類の顔ではなかった。
剣牙虎はその凶相をみつめ、低く啼いた。
「ああ、済まんな、千早《ちはや》」
凶相の男は謝りつつ剣牙虎の名を呼んだ。苦笑いを浮かべている。意外なことに、笑みを浮かべた彼の顔はひどく印象が違った。奇妙な朗らかさがある。
背後から雪を踏みしめるあいまいな重さを持った
音が聞こえた。声がかけられる。伝令だった。
「中尉殿、新城《しんじょう》中尉殿」
新城直衛《なおえ》は振り返った。剣牙虎――千早も振り返っている。
「なにか」新城は訊ねた。外見を裏切る、柔らかな響きのある声だった。
「中隊長殿がお呼びです」伝令は答えた。
「すぐ行く」
新城は答えた。中隊長の用件が何かはわかりきっている。情況を報告せねばならない。
白身の五感ではなにも感じ取れなかったが、敵が接近しつつあると報告するつもりだった。新城直衛は自分の剣牙虎を疑う習慣を持だない。
剣牙虎は鋭敏な耳と鼻を持っている。酒でも舐めて《な》いない限り、一〇里かそこらの距離にいる獲物を苦もなく見つけだす、そう言われている。
新城の知る限り、それはまったくの事実だった。
彼は自信をもって中隊長へ報告するつもりであった。
とはいえ、報告の前に、千早の嗅覚、聴覚がもたらした情報を人間が理解できるものへと整えねばならない。
腰の雑具袋に入れてあった方位針を新城はとりだした。千早が注意を向けている方角を確かめる。
北北西だった。
内懐にいれてあった地図を新城は開いた。
丸いのか角張っているのか、本人にすら判断の付きかねる顔へぞんざいに配置された目で地図を眺める。
千早が教えてくれた方位は、路南街道、その側道のとおおむね合致していた。空をみあげる。低い雲ごしに弱々しく透けて見える悦陽の高さから言って、午前第一一刻すぎというところ。懐から刻時器を取りだす。針を読む。似たような時刻を示していた。
まず恒陽を確かめたのは、刻時器が狂っていた場合にそなえてだった。
今朝、大隊本部で教えられた敵情から考えて、まず間違いない。時刻を確かめた新城はそう判断した。
〈帝国〉軍の先鋒がこちらに迫りつつあるのだった。
新城は千早の頭を軽く撫でた。
千早は小さく喉を鳴らせ、それに答える。ここで待てという意味だとわかったのだった。
つづいて彼は、自分と千早の両側、やはり林の縁に沿って伏せている兵に、現位置で任務を継続するよう、命じた。兵と剣牙兵の数はあっていない。兵の方が多かった。天狼会戦前は、ほとんど同数だった。理由は明白。すべては負け戦のおかげだった。
新城は腹這いになったまま雪の中で二間ほど後ずさりした。
立ち上がる。中腰のまま、二〇間ほど小走りに進む。
林の中であっても、走るのは楽な仕事ではない。
膝のあたりまで雪が積もっている。
新城は二刻前に剣牙虎と兵がつけた足跡にそって進んだ。とはいえ、極端に歩きやすくなるほどではない。雪面にあいた穴――足跡のおかげで、かえって足をとられそうになる。雪国ゆえの面倒だった。
彼は雪が嫌いではなかったが、なにごとも程度問題ではあった。
中隊主力は、林の中心部、獣道よりはいくらかましという小道の通る両側に待機していた。
〈皇国〉陸軍独立技幸則虎兵第一一大隊、第二中隊。
新城はその中隊本部付将校であった。
押しつけられている仕事は兵站だった。輔重補給を担当する中隊兵站幕僚。兵站将校と通称される役割であった。
本来、〈大協約〉世界  わけても〈皇国〉軍事用語としての幅重、兵站、補給は質が異なる言葉であり、混用するのは危険ですらある。
一般に述ハ姑とは軍の組織・機能を維持するためにおこなわれるすべての支援活動を(そしてそれをおこなう能力を)あらわすからだった。たとえば、療兵によっておこなわれる負傷者への野戦応急処置、砲や銃の整備、剣牙虎や馬の管理、給食、その実際が民間に――つまり女衛《ぜげん》たちに任される慰安所の設置や慰安婦の管理も”兵站”活動になる。弾薬|糧株等《りょうまつ》の物資、その供給は、その一部でしかなかった。
つまり”兵站”とはまったく戦略的概念にほかならない。
これに対し、輔重とは弾薬糧食、装備等々の軍需品、その総称であり、広義にはそれを輸送するという意味まで含む。つまり物資その他の現実的な把握や輸送といったものになる。作戦的概念、その対象といって良い。
最後の”補給”はある部隊に対して弾薬糧株を与えるという作業そのものを意味している。つまり戦術以下の対象でしかない。
こうした分け方は現実の組織にあてはめてみればいくらかわかりやすくなる。それは連鎖として形成され、運用されている。
たとえば北領鎮台の場合、鎮台司令長宮守原大将の司令部に参”兵站”謀一名が配属され、司令長官に直属する組織のひとつとしての鎮台”兵站”部があり、兵站部は大佐の司令が任じられていた。
兵站部に所属する将校たちはすべて専門の教育を受けた”輜重兵”将校であった。彼等が率いる下士官兵も同様によ”輜重兵”という兵科へ属した専門の人材だった。
兵站部は莫大な書類仕事をこなすだけでなく、前線部隊へ”輜重”品を運ぶための輸送部隊、鎮台”輜重”段列を持っている。
輜重段列の任務は、輜重品を各部隊へと輸送(これを傾重輸送と言う)すること。鎮台輜重段列は輜重品を命じられた部隊の輜重品集積所へ運び、そこで荷をおろす――つまり、戦闘部隊への”補給”をおこなう。
ならば、兵站参謀の補佐を受けた守原大将が兵站部に輜重輸送を命じた先が独立剣虎兵第一一大隊だったとした場合、どうなるか。あっさりと言ってしまうなら、鎮台をそのまま小さくした組織が同じことを繰り返すだけ、そうなる。
大隊長と大隊本部の”兵站”幕僚(大尉または中尉)が、大隊”輜重”品集積所に”補給”された輜重品の使い道を戦況にあわせて決め、配下の剣虎兵中隊等々に大隊輜重段列を用いて輜重輸送し、補給する。
中隊以下についてはさすがにそこまで面倒ではない。中隊長と中隊本部の兵站幕僚(中尉または少尉)が各小隊から兵を出させてそれを運び、”補給”してやることになる。部隊の規模が小さいことから、幕僚と担当将校の区分はない。中隊兵站幕僚は輜重補給について、指揮官への助言だけでなく実務まで担当することになる。
しかし〈皇国〉をはじめとするこの〈大協約〉世界の軍隊では、いまだそのあたりの区分にやかましくない。
たしかに〈皇国〉軍は、外征軍としての伝統をもたぬ割には発達した兵站組織(〈帝国〉軍よりも優れた)を持つ軍隊ではあった。けれども、一種の防衛軍であるがゆえに、その組織が現実をそれなりにこなしていればあえて気にする必要はなかった。
じつのところ、概念的な意味の違いにうるさい者は、研究熱心なごく少数の参謀や在野の兵法家がほとんどだった。
たとえば〈皇国〉軍の将校たち、その大部分は、兵站を補給にかかわるすべてをあらわす言葉として大雑把に認識しているだけだった。物資そのものは輜重品と呼ばれ、輜重段列という言葉も用いられるが、その意味を深く認識してのことではない。そして補給という言葉は、弾薬糧食の要求・受領、そして調達といった行為をあらわす際に用いられる。つまり、当の軍隊のほうはどうでも良いと思っているのだった。
それは現実の人員配置にもあらわれていた。
兵站活動の末端で中隊兵站幕僚に任ぜられた新城は兵站あるいは補給をその本業とする輜重兵科の出身ですらなかった。銃兵として基礎教育を受けた剣虎兵にすぎなかった。
もっとも、本人もその是非についてはあまり考えぬようにしている。彼がこなしている仕事はそれだけではないからだった。兵站、輜重、補給という連鎖について何の意見も持たぬわけではなかった。むしろ彼はその点について他者よりよほどしつこく考える将校だった。しかし、現実の要求があまりにも大きすぎた。
中隊長まで含めて総勢わずか四名の本部分隊中隊本部では、一人で何役もこなさねばならない。
情報幕僚が二日前に行方不明になり、三名に滅ったとあってはなおさらであったった。
わずか四名で分隊とは大法螺《おおぼら》もいいところだが、それでも、昔よりはましたった。
一〇年前まで、中隊本部は中隊長と中隊員先任下士官の二名しかいなかった。その二人だけで二〇〇名ほどからなる中隊を動かした。戦というのはよほど単純なものに違いないと見習士官時代の新城が思ったほどだった。
全員が林の中からあらわれた新城に注目した。
「猫が見つけました。北北西、側道上です」新城は中隊長へ報告した。猫とは千早の、剣牙虎のことだった。
新城は距離を報告しなかった。剣牙虎が敵を察知できる距離は剣牙兵にとって常識以前のものであるからだった。
最長で約一五里。最短で約一〇里。相手が騎兵の場合は一五里と考えてよい。距離がのびる理由は、馬によって、臭いや音が強まるためだと言われている。
「どれぐらいで確認できる?」中隊長の若菜大尉が曹長に訊ねた。
「半刻ちょっと、でしょうか」
中隊最先任下士官の猪口《いのぐち》曹長は笞えた。信頼できる男だと新城は知っている。彼とは、ずっと以前からの知り合いたった。
「兵站将校殿、どう思われますか?」
猪口は新城に訊ねた。
「僕も同意見だ。最短でも半刻だろう」新城は言った。若菜に視線を向ける。続けた。
「ただ、火砲は持たないでしょう。街道も舗道も、三尺ほどの積雪があります。いかな〈帝国〉騎馬砲兵でも雪で脚をとられているはずです」
「わかっている」若菜は笞えた。面白くなさそうな声だった。彼は新城よりふたつほど年下であった。
年齢と階級の逆転は、彼等の出身に関係している。
若菜は旧諸将家−−男爵家の次男だった。
新城との関係も良好といいがたい。
それは育ちというより人間性の問題だった。若菜には青年らしい直裁な自負心があり、貴族将校としての誇りがあった。一方の新城はとこをどう見ても円満からはほど遠い男であり、そのおかげて大隊長からも嫌われている。
若菜は新城を理解できなかった。五将家の雄、駒城《くしろ》家の育預《はぐくみ》として育てられた男だというが、新城には、その育ちの影響がまったく感じられないのだった。素直さがどこにもなかった。
それだけひねくれた男でありながら、下士官や具に受けのよいところも気に障った。新城は多くの将校が望みこそすれけして得られぬもの、畏敬を自然とかちとることができた。上官に嫌われていることを知りながら平然としていられる神経についてはなおさらたった。
そしてなによりも気に入らないのは、彼の方が中隊長に適任であろうと若菜白身にも思われることであった。
彼等は共に同じ軍学校――〈皇国〉陸軍特志幼年学校出身たった。無論、卒業は新城の方が五、六年も早い。であるのに彼の階級が若菜よりも低いのは、〈皇国〉の特権階級に属していないためだった。たしかに駒城家の育預ではある。しかしそれは法的に言えば養嗣子《ようしし》よりさらに地位の低い立場であった。
本来の新城は家族を内乱で失った衆民戦災孤児にすぎない。新城と若菜の階級、地位の差はその影響を受けていた。
しかし、両者の経験、能力は若菜も認めているとおりその逆と言ってよい。
〈皇国〉陸軍のすべての青年将校と同様に、新城もこれほど大規模な戦争は初めてだった。しかし、小競り合い程度であれば無数に経験を積んでいた。
〈皇国〉各地で年中行事のように発生する小さな反乱や、大規模な野盗団との戦闘をこなしてきている。
それはたしかに、中隊長たるには十分以上の経験だった。これに対し、若菜はこの戦役がはじめての実戦であった。
若菜は地図をひろげた。
中隊の現在位置は西を浜岡山と南向川、東を大望山にはさまれた路南半島中部の雪原であった。より絹かく言えば、大望山西側|山麓《さんろく》にひろがる森林、その樹本線沿いにいる。
大隊から与えられた任務は敵情の収集。南方でほぼ真東に向けて折れている南向川の支流、真室《まむろ》川――その唯一の渡河点、真室大橋をあと数日は守るためにそれが必要だった。天狼原野の決戦場からかろうじて脱出した独立砲兵旅団の渡河に、それだけの日数が必要とされていた。そして橋の対岸側には、だらだらと南に向かって逃げる敗残の北領鎮台主力がいる。
「将校斥候をたす」
若菜は言った。
「危険です、中隊長殿」新城は口を挟んだ。
「それに、意味がありません。敵の位置はさきほど御報告したとおりですし、この雪では、一度敵と触接してしまえば、逃げるのが骨です」
新城の言うとおりだった。
敵情はすでに剣牙虎によってつかんでいる。つまり中隊は任務を達成していた。今は、大隊本部に報告をおこない、次の指示をあおぐべきだった。だいいち、大抵の馬が剣虎兵を嫌うため、剣虎兵部隊には馬が配属されていない。
となれば、いかに雪中とはいえ、騎兵から逃れるのは難しい。無理ではないが、ひどく面倒なことは確かたった。
しかし若菜はその現実を無視していた。彼は正規教育を受けた将校が陥りやすい病にかかっている。どれほど情報があっても信用できず、必要もないのに斥候を――偵察隊をだしたがるという病だった。
それは平和な時期を長く経験してきたすべての軍隊に共通する疾病であった。すでに二〇年以上、大規模な戦役を経験していない〈皇国〉陸軍もその例外ではなかった。いや、猖厥《しょうけつ》[#厥は獣偏+厥]はを極めていると言っても良かった。これに対して、戦慣《いくさな》れした軍隊は、偵察を必要最低限にとどめる。やたらと斥候をだしてもまともな報告がはいるわけではないし、実戦であれば、その斥候が帰ってこられるかどうかわからない。そして指揮官の手元に与えられた兵力は(実戦では)常に不足気味になる。
若菜はあからさまな渋面をつくっていた。
彼が必要以上に指揮官らしさを示したがる理由は、新城に対するすべての感情が命じるからであった。
まったくの防衛的攻撃たった。
「よくそこまで自信が持てるな」若菜は言った。
「見つけたのは僕の猫ですから」新城は笞えた。
千早は軍で飼育された猫ではなかった。新城が私物として持ちこんだ猫だった。
新城は、毛玉のお化けのようであった子猫の頃から千早とつきあっていた。その能力に全幅の信頼をおいている。
剣牙虎についての一般的な知識も、新城の判断を肯定している。
人間は最初、彼等剣牙虎の獲物であった。だが現在はよく言えば友、露骨に言えば主人という立場に変わった。猫族としか思われぬのに、群をつくって生活するという奇妙な習慣をもった彼等と愛玩や狩猟いがいの目的でつきあおうと思いついたのは、三〇〇年ほど前の〈皇国〉人だった。
といっても、剣虎兵が〈皇国〉陸軍に採用されたのはごく最近のことにすぎない。大隊規模の剣牙兵部隊、その編成が完結したのは、わずか二年前であった。
このため、軍の内部では、いまだ剣牙虎の能力を信用しない風潮が強い。剣牙兵中隊の指揮官でありながら、若菜もその一人だった。
「ならば俺がゆく」
若菜は吐き捨てるように言った。新城という年上の部下が示す態度――なにか鋼のように硬いものに裏付けされた冷酷さと傲慢《ごうまん》さに耐えられなくなったのだった。
同行する兵を三名選べと若菜は猪口に命じた。猪口は手近にいた兵から指名した。
なんとも露骨な選び方だと新城は思った。その三名は、まったく役立たずである割に態度が悪いという連中ばかりだった。若菜をふくめ、誰一人として剣牙虎を伴っている者はいない。
しかし新城はその感想を□にしなかった。猪口はわずかにうかがうような視線を向けてきたが、彼はそれを無視した。なにより、若菜本人が何も気づいていなかった。ならば俺はなにも言うまいと新城は決めた。彼はすでに部下として許される限りの警告を発していた。
「一刻《いっこく》以内に戻る」
若菜は新城に言った。その回、貴官が指揮を代行しろ。
[#上段に剣牙虎図及び説明挿入]
「幸運を祈ります」新城は言った。祈るだけならば誰の損にもならない。
「どうされますか、兵站将校殿?」猪口が期待に満ちた声で訊ねた。並んで立つと猪口の方が頭ひとつぶん、背が高い。新城は一間六尺ほどしかなかった。
短躯と言える。しかし、彼の態度には身長差をまったく意識させないものがあった。
「後退の準備を完成するのだ、曹長」新城は命じた。
それを聞いた猪口の顔に本物の微笑が浮かんだ。
「だが」新城はつけくわえた。
「一刻は待つ。そのつもりで準備しろ」
刻とは時間単位で、一日(三九七日、一三ケ月ある)を二六分割している。午前、午後はそれぞれ一三刻が割り振られていた。
刻以下の単位としては半刻(二分の一刻)、小半刻(四分の一刻)がもうけてあった。それ以下の単位としては尺(一〇分の一刻)と寸(一〇〇分の一刻)、そして点(子分の一刻)がある。たとえば午前第七刻半を正確に記した場合、午前第七刻五尺零寸零点となる。なお、尺・寸・点といった単位呼称、そこで用いられている十進法は長さの単位と同じだが、これは刻時器の文字盤、その目盛りが物差に似ているところから〈皇国〉でそう呼ばれるようになった。
要するに一刻とは、敵がそこまで来ているという状況で用いるべき時間の単位ではなかった。その間に戦闘がはじまってしまう。
「しかし」指目はまったく不満そうだった。
「中隊長殿の命令は発せられている」新城は言った。
「一刻ものあいだ、待機することについて?」指目がいまだ不満そう仁訊ねた。「敵は半刻でやってくるというのに」
「ああ」新城は頷いた。「命令だからな。僕らはそれを達せられた。しかし」
「しかし?」
「その後は代理指揮官としての権限で行動する。中隊長殿の命令を僕はそう解釈している。もちろん自分の責任において」
「了解」
猪口の返答には溜息を吐くような響きが含まれていた。
新城は導術分隊長を呼んだ。孤立した新兵科といってよい剣虎兵部隊には、やはり同様の扱いを受けている導術科の兵が配属されているのだった。厄介者には厄介者を、軍の本音はそんなところだろうと新城は思っていた。
彼は現状を大隊本部へ伝えろと命じた。もちろん大隊長がなにか的確な命令を下すことについて、毛頭期待していない。
[#改ページ]
天候は徐々に悪化し、やがて雪が降りだした。視界が低下する。あまりにも激しすぎる降り具合からみて、それほど長くは続かないだろう、やはり豪雪地帯である龍洲出身の下士官はそう新城に伝えた。
新城は中隊主力の樹本線洽いへの展開を完了していた。予想通り、大隊本部からまともな命令はきていない。既発命令の範疇《はんちゅう》で行動せよ、そう言ってきただけだった。
命令が曖昧《あいまい》な理由は新城にも想像がついている。
敵味方の正面戦力、その差が大きすぎるから、だろう。たかだか大隊程度では、どんな手を打てば良いかすらわからない。そんなところ。まあ、その気持ちは彼にもわからぬではない。
雪の向こうから、馬の噺《いなな》きが響いてきた。千早が首をあげた。
新城は千早の頭をおさえた。刻時器で時間を確かめる。若菜を待つべき時間は、いまだ小半刻を余していた。
望遠鏡を構えた。目を凝らす。雪の向こうに隊列があった。
二〇〇名ほど。全員が騎乗している。みな、良馬であった。馬嫌いの新城が見ても、それがわかる。
それほど馬格が良いのだった。
武装は少数が長鎗《ちょうそう》。他は騎銃。もちろん鋭剣も装備している。
服装は深緑色の外套。頭だけでなく、耳と首まわりを覆うようにつくられた金色の兜《かぶと》。兜の後ろには、紅い羽飾りがつけられている。
新城は外套の襟元に注目する。そこから何かが見えないかと思った。しかし、やはり緑色の生地しかない。微かな安堵感を覚える。
あの騎兵隊は胸甲をつけていない。〈帝国〉東方辺境領胸甲騎兵ではない。おそらくは、通常の捜索騎兵――|驃 騎 兵《ライト・キャヴァルリー》だ。さて、距離はどれぐらいだろう。
新城は勘案した。
肉眼の場合、視界が良ければ、歩幅二〇〇歩程度でいま確認したような情報、つまり服装その他の識別が可能になる。新城はそう教えられていた。これはもちろん並の視力をもった者が、という前提での経験則であった。
さて。俺の視力はまさに人並み。雪の影響と望遠鏡の倍率を考えるならば歩幅で四〇〇ちょっと七、八〇間というところか。
新城は望遠鏡をしまった。溜息をつきたくなる。
なんの支捜もなしに騎兵中隊と殴り合うなど、たとえそれが驃騎兵とはいえ、まったく彼の趣味ではなかった。騎兵とは砲兵その他で無茶苦茶に叩いたあとで追い散らすべきものだと彼の常識は教えている。
本来、捜索剣虎兵中隊はそれが独力でおこなえるように編成されていた。中隊にさえ、様々な兵科が配属されている。
〈帝国〉の猟兵に相当する騎銃を装備した銃兵――尖兵の一個小隊があり、騎兵砲分隊があり、銃兵としての機能も兼ね備える短銃工兵分隊もある。それに加えて、連絡だけではなく、戦場捜索をも任務とする捜水原術兵分隊がつけられ、そこに二個剣虎兵小隊がくわわって総勢ハ○名前後の中隊をつくりあげている。ほぼ完全な三兵戦術対応型の編成といってよい。
なお、三兵とは本来、騎兵、銃兵、砲兵をあらわしていたが、現在では諸兵科聯合《コンバインド・アームズ》といった意味合いに置きかえられている。工兵をはじめとする兵科が軍の編成につけくわえられたからだった。
剣虎兵部隊において実現されていた三兵編成は、〈皇国〉陸軍の伝統的な編成方針から見れば異例であった。
[#上段に<皇国>陸軍独立捜索剣虎兵第11大隊 編成図挿入]
他の兵科では、銃兵、騎兵、砲兵といった主兵科が旅団単位でばらばらに編成されている。これは過去の経験に鑑みたもの、軍の反乱を抑止するための編成と言えた。編成内に主兵科が欠けていれば、そこを突いて、早期鎮圧が可能になるからであった。
ならばなぜ剣虎兵部隊が例外かと言えば、正味のところ、彼等はいまだ実験部隊扱いをうけているからであった。このため、戦術・装備上の新奇な思いつき、そのほとんどすべてを引き受ける立場になっている。このため、捜索剣虎兵中隊の編成上の欠点は、定数一〇〇名以下という頭数の少なさと、騎兵がいないことだけと言ってもよい。装備も無論、新型が交付されている。同数の敵ならば、指揮官さえまともであれば、負けることだけはなかった。ただ防御にまわるだけならば、三倍の敵ともわたりあえるとされていた。各兵科をひとつの部隊として機能させる三兵戦術にはそれはどの効果がある。
特志幼年学校にいた頃、新城はその点について教官に質問したことがあった。
便利なことはわかる気がします。しかし、うまく説明できません。それではわかっていることにならないと思います。彼はそう訊ねた。
「難しく考えるな」
面白い奴だ、という表情を浮かべた教官(大賀という名たった)は答え、まだ一六歳だった彼の疑問を簡単に解いてくれた。
「新城生徒、貴様、石拳の必勝法を知っているか」
大賀は言った。
「わかりません」
「教えてやる」大賀は言い、そばにいた二人の生徒を呼んだ。
「さあ、やってみよう。こっちは三人で、貴様は一人だ。こちらの手はすべて教えてやる。教官は石で他の二人は紙と鋏だ。貴様は何を出してもよい。こちらはとこかで勝てばよいものとする」
「絶対に自分が負けます」新城は言った。
「そういうことだ!」大賀は楽しそうに言った。
「紙、鋏、石が騎兵、銃兵、砲兵のどれかに対応すると考えろ。貴様はなにかひとつには勝てるかもしれない。たとえば騎兵で銃具に勝つ、とか。しかし騎兵にたいしては引き分けるし、砲兵に対しては敗北する。いや、もちろん細かくみれば色々な状況がおこりうる。が、三兵協同の効果とはそういうことだ。どうだ。汚い手だろう。しかし戦争とはそれだ。勝てばよい。勝ち方を気にするのは将軍になったあとでいい」
捜索剣虎兵中隊はそれを実現していた。
そうした特別扱いは、威力捜索(偵察)が主任務のひとつとされているためでもある。
威力捜索部隊は、敵の戦力を肌身で推し量る(つまり戦って確かめる)ことを任務としている。任務の性質上、単独で動き回る機会も多い。このため、いざという場合、他の部隊の支援を得ずとも戦えねばならない。三兵編成の採用は、ある面で当然の処置であった。
しかし、天狼原野での敗北により、いらぬ面倒が生じていた。敗走に巻きこまれたため、騎兵砲を失っていたのだった。敵を遠距離から叩く火砲の威力――火力は、言うまでもなく、戦場でのすべてに関わる要因であった。そうした重要な装備を失った原因については無理からぬところもある。剣虎兵は馬を持だぬため、騎兵砲も人力牽引で運用されていたのだった。
本来、騎兵砲とは、騎兵との協同行動を目的に開発された馬匹《ばひつ》牽引が前提の軽量平射砲であり、その軽快性は馬があってはじめて発揮される。通常の砲より牽引が楽なことは確かだが、混乱した状況、特に敗走下での機敏な行動はのぞめない。
新城は思った。
まともに戦って勝てぬ訳ではないが、それでは損害が増えてしまう。捜索騎兵とはいえ、まがりなりにも〈帝国〉軍だ。楽に勝たせてくれはしない。糞。
せめて騎兵飽かあれば。
といっても、前回は――新城が彼等と最初に出くわした時は、ただ敗走に巻きこまれ、逃げていただけだが。
「捜索騎兵ですな」
猪口が言った。
新城は頷いた。歴戦の曹長は、捜索任務の騎兵中隊であるという新城の判断に同意したのだった。
「〈皇国〉もなめられたもんですな」猪口は言った。
「威力捜索ですらない」
捜索騎兵とは、敵を発見したならば、とにかく司令部へ情報を伝えることが任務の連中だった。でなければ、三兵編成をとらずに――銃兵や砲兵を連れずに単独で行勤しているはずがなかった。〈大協約〉世界と呼ばれるこの天下で最強の陸軍を擁する〈帝国〉の軍人がその不利を知らぬはずがない。あえて騎兵のみで動かすことにより、敵と遭遇した際に重要な行動の自由、戦場での運動力を確保しているのだった。
「そうとは限らない」新城は応じた。
「連中、意外とこちらの情報をつかんでいないのかもしれない」
「そんなもんですかね」猪口は言った。そうかもしれません、という納得の響きがつけくわわっている。
新城の見方には一理あった。〈帝国〉軍は、情報が不足しているため、あぶなくて威力捜索部隊をだせないのかもしれなかった。威力捜索は、前面の敵が対処可能な規模であるという前提においてのみ、その効果を発揮する。なんの情報もなしにだすのでは無謀と同義語になってしまう。
「突っ込みますか」
猪口が訊ねた。そのあたりは彼も剣虎兵であった。
剣虎兵の戦術は人虎一体となった襲撃戦術にある。
他の兵種から剣虎兵が嫌われる理由はその点にもあった。ただ、ある兵科に属する将兵は、他の兵科をどこかで敵対視する、というすべての軍隊、組織に共通する遺伝病ばかりが原因ではない。
剣虎兵は隊列をつくらない。
各小隊が相互に連携をとりつつ、林や丘といった遮蔽物の陰を躍進、敵のもっとも弱い部分に殺到する。剣虎兵の分と人の蛮性によって、文字通り喰い破ってしまう。
剣牙虎は夜目が効くから、夜襲も得意技だった。
夜間はほどんと戦闘不可能な他の兵種にとって、これほど始末におえない敵はなかった。それは一般的な戦術ではなく、むしろ野盗のそれに近い。剣牙虎飼育法の発展と、導術兵の採用がそれを可能としたのだった。
「我慢しろ」
新城は答えた。
「二〇間までつまったら、射撃をおこなう。猫はそのあとで放つ」
「接戦ですな」猪口が苦笑いを浮かべつつ感想を漏らした。
「火力が足りない。よって、引きつけてから一撃で殲滅する」新城はあっさりと言った。
「一仕事ですね」
「殲滅しなければ、追撃される。それでは気分がよくない。だから、殺《や》る」
新城は楽しそうな声でそう笞えた。猪口に訊ねる。
「曹長、意見はあるか?」
「ありません」
新城は丁寧に頷き、命じた。
「ならば、かかれ」
彼にとって重要であったのは、残された小半刻をどのようにつぶすかだけではなかった。その後についても考えねばならない。
もちろん、勇壮ではあっても、軍事的にはまったく意味のない勇戦など御免だと思っている。彼の好みから言えば、この捜索騎兵中隊との戦闘も徹底的に回避したかった。戦闘は、敵にこちらの存在を教えるだけになるからであった。
しかし、若菜が斥候にでているとあれば、そういう訳にもいかない。うまくしたならば、交戦の音を聞きつけ、小半刻のうち戻ってくるかもしれなかった。であるならば、敵が情報を持ち帰れぬよう、近距離で奇襲をかけ、剣牙虎で全滅させてしまう他ない。
「中隊、打方《うちかた》[#原文まま、炊者注:撃方?]用意。射撃は兵站将校のそれに続け」
新城は命じた。着剣――銃剣の銃への装着は命じなかった。兵を突撃させるつもりはない。射撃と剣牙虎だけですべてを片づけられる、そう判断している。
膝だちの姿勢をとり、自分の騎銃にも実包を装填《そうてん》する。剣虎兵部隊では、部隊指揮官以外はすべて銃を持だされている。他の兵科では、将校はまず銃を持だない。将校と兵は仕事が違うから、それが理由とされている。
雪が入らぬよう、銃口に詰めてあった実包の包み紙を新城はとりさった。あらたな実包を腰の弾薬盒《ごう》からとりだす。実包は、言ってみれば腸詰に似た見かけたった。ただし、片端からは丸い弾がなかばはみだしている。
新城は実包の玉薬側、その端をかみ切った。里い粉末状の玉薬が顔をのぞかせる。銃口にあてた。弾丸と、粉状の玉薬が銃身の中ヘ――腔内へと落ちた。
銃身のすぐ下におさめられた朔[#木+朔(さく)]杖を抜きだす。それを銃身の腔内へ突っ込み、王薬を突き固めた。金属のふれあう音が響き、敵に聞こえぬかと不安になる。が、こればかりは仕方がない。
朔[#木+朔(さく)]杖を元の場所にしまう。が、これで準備完丁というわけではない。
新城は銃を水平に持った。引鉄のすぐ上、銃身の後ろ端あたりにつけられている鈎爪《かぎづめ》型の打石器を、留金の音がするまで起こした。続いてその前にとりつけられている火蓋を開ける。腰帯にぶらさげていた王薬袋の蓋を口であけ、火蓋の下に隠れていた火皿に発火用の王薬――発火薬(といっても成分はかわらない)を注ぎ、火皿を黒い粉で一杯にした。火蓋を閉じる。王薬袋を腰に戻した。ようやくのことで射撃準備が終わった。新城は銃を膝撃ちの姿勢で構えた。
敵はゆっくりと近づいてくる。樹木線沿いに展開した剣虎兵には気づいていない。
突然のように新城は思いだす。自分が、まともな軍隊を相手に戦うのはこれが初めてだと。
奇妙な驚き。動悸が烈しくなり、口の中が渇いてゆく。背中と手に震えがはしる。それは武者震いなどではない。
畜生。新城は生乾きの糊が塗りつけられたようになった唇をねじまげる。考えてみれば、これまではどこか山奥に潜んだ悪党や、ちょっとした面倒をおこした田舎貴族の手勢と戦ったことがあるだけだった。
[#騎銃 図挿入]
そんな自分が、あの〈帝国〉軍を待ち伏せている。
つまりは悪党や田舎貴族の立場に立だされているということか。嫌になってくる。その結末はろくなものではないことを知っているから。
新城は歯を食いしばった。歯の視が合わなくなって鳴りだすのだけは避けたかった。自分がこれまで経験した実戦、そのすべてで今と同じような恐怖を感じたことを思いだした。なんたる小心。なんたる情けなさ、となにもかもが嫌になってくる。自嘲のあまり口元に歪《ゆが》んだ笑いが浮かぶ。そんなところまでがこれまでの経験とまったく同じで、さらに嫌になってきた。
同様の不安を覚え、指揮官に視線を向けずにいられなかった兵たちは笑いの意味を完全に誤解した。
勇気づけられ、銃の狙いをさだめなおした。彼等は死ぬまで新城を強く崇めることになる。
敵はほぼ五〇間の距離に迫った。
すでに銃の射程内にはいっている。だがもちろん打たない。この距離では逃げられる。もう少し待てば、敵はこちらへ完全に横腹をさらす。距離も二〇
間  訓練を受けた兵士の必中射程にはいる。そうなれば、一撃で片づけられる。新城はそう判断している。
新城の額に汗がにじみだす。顔にはりついた雪も溶ける。それらは目尻から塩水となってしみこむ。
まばたきをしてもなお痛い。涙がでた。それは頬の上で冷え切り、そこをさらに無感覚な場所へと変えてゆく。
距離は四〇間を切った。敵の位置はこちらの右手。
もう少し。もう少し待てば。新城は異常な緊張と興奮の中で耐えていた。
銃声が遠く響いた。敵の隊列が乱れる。
新城は顔をあげた。怒気を顔にはりつけ、周囲をみまわす。中隊の誰も打[炊者注、原文全て打、撃の誤記?]っていない。
となれば誰が打ったのか。
新城には答えがわかっていた。若菜だ。
敵の後方を確認する。思ったとおりだった。若菜はそこで信じられぬ行動をとっていた。森から出て、たった囚人の隊列をつくり、射撃をはじめていた。
新城の腹から動物的なうなりが漏れた。あの莫迦がと頭に血をのぼらせている。刻時器を見る。一刻までわずかに時間を余している。獣のように歯をむきだし、うなる。
すべてが崩れてしまった。どうにもならない。どうせすぐに敵は逃げだす。そして命令にあった一刻にはまだ満たない。ええい。
「猫はだすな!」
新城は叫んだ。せめてものこと、こちらが剣虎兵であることだけは気づかせずにすませたいからだった。敵がこちらについて持っている情報は少なければ少ないほどよい。戦争と男女の恋愛は似たような面がある。真実の量が少ないほど、あがる戦果は大きい。
新城は銃口を敵に向けた。引鉄をひく。
留金がはずれた。内部に発条《ばね》の巻かれた打石器は火蓋へ燧石《ひうちいし》を叩きつけた。火花が飛ぶ。火蓋が弾かれて開き、火花は火皿に注がれた発火薬を引火させた。火皿にもうけられた小さな穴、火□から熱が腔内に流れこむ。腔内の突き固められた玉薬が引火した。
轟音。銃口から白煙と火花、轟音が吹きでる。新城の肩に蹴飛ばされたような衝撃がつたわり、上体が後方へと逸れた。
中隊は一斉に射撃を開始した。銃声が雪崩のように連続してゆく。といっても、すべての銃から弾が放たれたわけではない。火皿へ火蓋が飛ばず、発砲できないものもある。燧石を用いた銃の不発率は意外に高い。その点では、昔用いられていた、火縄銃《マッチロックガン》の方が確実だった。点火薬に、直接火を(火縄を)押しつけるため、玉薬と点火薬さえまともであれば、不発はまずありえない。であるのに火縄が燧石に置き換えられたのは、誰もが面倒を嫌ったためだった。
戦場で大のついた火縄を保持しているのは大変であるし、仮に火がついていないとなれば、銃としては使えなくなる。燧石銃《フリントロックガン》にはそうした欠点がない。
新城はすでに装填動作をはじめていた。その速度はさきほどの倍ほども速かった。再び構える。発砲。
肩と耳が痛くなる。中隊もそれに続いた。
騎兵たちは大混乱に陥った。まず、突然の銃声に驚いた馬が乱れ、次に人が混乱した。
実際に死傷者が出ると、混乱はさらに拡大した。
銃で使用される弾丸、その大きさは親指の先はどもある。
爆燃した王薬から力をうけとったそれは、馬と人に命中すると恐るべき効果を発揮した。
頭蓋にあたればそれを粉砕する。胸板にめり込めば、その間にあるものすべてを砕いて背中から飛びでる。
と同時に、雪上は血飛沫《ちしぶき》と人体の部分品で装飾されてゆく。白い雪庇に、紅《あか》い彩色をほどこされた緑色の男たちが倒れ、雪まみれになりつつこの世に別れをつげ、あるいは呻き、もがき苦しむ。披弾した馬も悲鳴をあげ、苦痛に身をよじって噺く。
奇怪な合唱。合唱団の参加者は刻々と増大するが、その声の大きさは変わらない。先に参加した連中が次々と死んでゆくから。
新城は射撃をやめていた。すべてを部下に任せ、自分は敵情を確認している。努力して心を落ち着けていた。硝煙の香りが奇妙に不快だった。もちろん、不快の原因はそれだけでない。この場をどうおさめるかについてたった。
若菜の行動には理解できる部分があった。
後方からの銃撃で敵に向きを変えさせることにより、中隊主力に背中を向けさせている。
結果、新城が開始した射撃は、彼等の背中を襲うことになった。一種の挟撃に成功したと言っても良い。その点は新城も認めざるをえない。
しかし、中隊が置かれた状況に適介していない。
距離がありすぎる。新城が横腹を狙って加えるつもりだった射撃ほどではない。〈帝国〉軍に、こちらの兵力を確認する余裕を与えている。そしてこちらは彼等を殲滅できない。無意味な成功であった。
〈帝国〉軍の対応がそれを証明していた。
さすがに彼等は戦慣れしている。
捜索騎兵指揮官は状況を即座にみてとり、部隊を掌握した。後退を命じている。彼等の任務は偵察であり、戦闘ではないからだった。中隊主力は銃砲の射程外へと離れたのち、触接を継続する。一部は伝令として司令部に報告をおこなう。そのつもりなのだった。
あの莫迦野郎が、と新城は思った。
射撃の規模から、こちらが中隊だということが敵にはわかってしまった。向こうも軍人なのだから、その程度のあたりはすぐにつけられる。そしてこちらに馬がいないことも(騎兵ならば横合いから突撃をかけている)。もしかしたら、猫も見られてしまったかもしれない。
畜生。あの若菜の莫迦がいらぬことをしなければ、せめてこちらの兵力規模だけは隠せたものを。おそらく奴は勇気と悲壮美に酔っているのだろう。自分か敵をひきつけたと思って。頭のよい莫迦は自分の正しさを疑わない。糞野郎。まったく始末に負えない。
さきほどまで彼の内心にあった不安と恐怖は、上官に対する怒りで中和されていた。
〈帝国〉騎兵は即座に後退をはしめた。その行動は水際立っている。負傷者や戦死者はすべて、戦友の馬上にひきあげ、早足で駆けていた。たいしたものだと新城は感心した。あれでこそ本当の軍隊だ。
新城は叫んだ。
「打方止め!」
が、射撃はすぐにとまらない。何度か同じ言葉を叫ばねばならなかった。銃声で耳が遠くなっているし、誰もが興奮しているからであった。
「兵站将校殿」
猪口が、雪原の一点をしめした。
新城はそこに視線を向けた。後退する騎兵から一団がわかれ、若葉たちにむけて突撃をかけていた。
「曹長、後退だ」
新城は命じた。彼の顔面には、なにか、自然現象を眺めているような色だけがあった。落ち窪んだ目はただの黒い穴になっていた。
「雪が降っているあいだに、距離を稼ぐ。うまくいけば、敵につかまる前に大隊と合流できる」
新城は猪口にそれだけを伝えた。他に何も言う必要を然していないのだった。
「はい」まことにごもっともと言わんばかりに猪口は笞えた。
遠くから数回の銃声と、まぎれもない悲鳴が響いた。新城はそれを無視した。残された小半刻はとうに過ぎ去っていた。
中隊主力の損害は皆無だった。
人と虎の群は雪の中を後退していった。
銃と背嚢の重みは、時がすぎるごとに耐え難いものへと近づいた。雪まみれになった軍靴が雪中へとめりこむたび、凍傷になりかけた頬が異常な楳みをもたらすたび、すべてを投げ捨てたくなってゆく。
しかし新城はそれを許さなかった。猪口に命じ、兵がそれらを捨てぬように見張らせた。〈帝国〉騎兵から充分に距離をとったと確信したのは、後退の開始から一刻も過ぎたあとで、ようやく全員に大休止を命じた。誰も披もが、雪庇へ崩込むようにして転がった。
新城もそうしたかった。しかし彼はいまや指揮官であり、部下の前で率直ではありえても、正直ではいられない。そしてもちろん、いまの調子で後退を
続けることが不可能であることも理解していた。
千早が寄ってきた。腹が減ったのかと思ったが、そうではないらしい。ただ、主人を心配する表情だった。新城は冷たくなった剣牙虎の額を少し揉んでやり、中隊がやってきた方角をしめした。千早は低く啼いた。歩哨がわりに見張っていろという意味を了解したのだった。
これで、ひとつの面倒は済んだ。今度は次の面倒だった。
「曹長」
新城は猪口を呼んだ。
「各小隊から元気な者を選び出せ。猫に曳《ひ》かせる橇《そり》をつくる。まずは、予備もふくめてー二、三個というところだな。猫も交代させてやらないと」
中隊に残存する剣牙虎は二〇頭あまりだった。
「猫に曳かせるのですか?」猪口は驚いたようだった。
「他に案があるか?」
新城は言った。
剣虎兵部隊では、剣牙虎の疲労を避けるため、彼等を輸送手段として利用することが一般に禁じられている。天狼会戦の敗走、その渦中で騎兵砲を失った一因はそこにもあった。新城はその軍紀を無視する覚悟をかためたのだった。
「わかりました」猪口は笞えた。「ならば、首あても造ります」
「首あて?」新城はとまどった。少し考え込んでから言う。「あの、農耕馬の首につける本の枠みたいなものか」
「ええ」猪口は頷いた。「あれのあるなしで、疲れ具合が大違いになります」
「よく教えてくれた」新城は素直に札を言った。このあたり、彼は人並みの見栄とは縁がない。
「すぐに作業をはじめろ」
「半刻もあればできるでしょう」猪口は言った。彼の判断には裏付けがあった。
剣虎兵部隊には工兵がつけられている。それに、部隊そのものが天領から県民の次男、三男連中をあつめて編成されているから、実家が大工であったり木工所であったりする者が必ずいる。猪口白身も、子供のころ、山師へ徒弟に出された過去を持っていた。
新城は地図をひろげた。橇の完成をまつあいだ、現状を再確認しておく必要があった
といってもその見かけはまったく思索的ではない。
薄汚れた軍装で着膨れているし、両足は、指に凍傷を負わぬよう、貧乏臭い調子で交互に雪を踏みしめ続けている。
まず現在位置を確認せねばならなかった。
そのためには、この一刻のあいだに歩いた距離を確かめねばならない。一〇〇年ほど前に恒陽暦が採用されて以来、どんな季節でも一日は二六刻とされており、一刻がしめす時間も固定されているから、計算は楽だった。
〈皇国〉陸軍は、ハ貫程度の装備を背負った兵を、通常の状況で一刻あたり六里は行軍できるよう訓練している。
平地を歩いている場合、盛夏ならば一里、雪中ならば二里、泥濘《でいねい》であれば三里をひいて計算しろ、そう決められていた。いずれも過去の経験からさだめられた値たった。実のところ、新城はそれにいささかの疑問を抱いている。が、現状では素直に採用するよりない。ともかく、あたりをつけることが先決であるから。
つまり、この一刻で歩いた距離は三里前後という勘定になる。
新城は地図に印をつけておいた先はどの交戦地点を確認した。ええ、側道ぞいに三里ほど南下したとするならば。
彼は方位針をとりだし、地図が示す情報と周囲の地形を照合した。照合する地形は主に山地であった。
このような大地形ならば、よほどいい加減な地図でも間違えようがない。
陸軍測量局が作成した北領の地図は正直なところあてにならないが、それでも、自分の大まかな場所は見当がついた。
真室大橋まで三〇里というところだった。大隊主力はその前方に展開し、一〇里ほどの縦深をとって警戒線を張っているはず。であれば、二〇里も進めば、まず確実に合流できる。
新城は時間をたしかめた。午後第一刻になっている。うまくすれば、日が暮れる頃には合流できるかもしれない。
追撃を受ける危険は常にあるが、どうだろう。
一度かそこらは触接されても、大隊主力と合流でされば対処は可能だ。大隊は砲兵を持っている。三兵編成で行動できる。となれば、単独の騎兵中隊程度など、どうとでもなる。
それに、騎兵が一日あたり行動可能な距離は、この季節ならば、徒歩の銃兵と大して違いはない。最悪、触接をたもたれる――あとをつけられるとしても、向こうも支援部隊をもたぬ騎兵だから、そう積極的な手は打ってこない。
追撃で問題が発生するのはむしろ明日になってからだ。
すでに報告を受けているはずの〈帝国〉軍主力は、それなりの兵力、おそらく聯隊規模の兵力を強行軍させているだろう。真室室大橋の守りを固められる前に突破を図るために。
ところがこちらは一個大隊。そして、真室大橋を守るべき時間は二日残っており、大隊は一〇里の縦深を失うわけにいかない。つまりはひどいことになる。
なるほど。新城は納得した。
やはり、兵の疲労を最低限におさえて大隊と合流しなければならないとわかったからだった。
頭の中で、本末彼が考えるべきではない(上級指輝官が考えるべき)事柄が組み上げられていった。
明日まで放っておいて負けるわけにいかないのならば、今夜中に処置せねばならない。
そう、敵が強引に行軍させてくるだろう増援部隊へ、夜襲をかけ、足止めせねばならない。他に、明日の悪戦を防ぐ方法はない。
いや、北領鎮台が全滅してよいのならば別だが。
畜生。若菜の莫迦が余計なことをしなければ、こんなことは考えずに済んだだろうに。
せめて先はどの捜索騎兵を全滅させていれば(あるいは尻に帆かけていれば)、敵はこちらの状況がつかめず、したがって、増援を強行軍させることもなかったはずなのだ。
つまり、いらぬ戦闘をせずに真室川を渡り、鼻歌まじりで橋を焼いてここから撤退できた。まったく。
真面目な莫迦は死んでも面倒を残す。
ともかく、面倒に巻き込まれずに大隊と合流せねばならない。そのためには何か必要か。もちろん敵の情報。しかし、敵と接触してそれを手に入れるわけにもいかない。
新城は地図をしまった。凍死体のように転がっている兵たちをいささかうらやましげに眺め、そのなかの一人に声をかけた。
「導術」返事がない。眠りこけているのだろう。新城は大声をだした。
「導術分隊長!」
「参ります」
起きあがった軍曹が応え、駆けてきた。
新城は訊ねた。
「何か、察知できるか?」
「きついです」
増谷という名の軍曹は応えた。彼の額にも銀盤は埋められているが、いささかくすんでいる。
「皆、疲れとりまして。冬場ということもありますし」
冬季は術力の消耗が早い。新城は頷いた。
[#北領失陥1図挿入]
「それはわかっている」
「若いのが一人、おりますが」
増谷は探るように言った。
新城は眉をひそめた。導術を用いた敵情の察知にはたいへんな集中力を必要とする。それだけを考えるならば導術捜索には若い兵が適任だった。しかし、同時に、術力の使用には勘所というものも存在する。
勘所は熟練しなければ理解できない。勘所がわからなければ術力の乱用になる。そして術力の乱用は肉体をひどく消耗させる。
導術兵の養成が難しいのはそのあたりにも理由がある。理解のたりない指揮官に無理をおしつけられ、熟練する前に術力を失う者が多い。ひどい場合、乱用は死すらまねくのだった。
手袋をはめたままの手を新城は頬におしつけた。
凍傷が怖いのでこすりはしない。わずかに暖かみをとりもどした頬が楳くなってくる。我慢する。しばらくのあいだ同じ姿勢をとりつづける。手を放した。
増谷に伝える。
「橇に乗せてやる。それ以上は無理だ」
「志願は」増谷が口にしかけた。
「志願ではない」すべての感情を殺した声で新城は言った。
「命令だ」
彼は、軍隊の伝統と言える志願の強制を嫌っていた。ただの人間、将校を指揮官たらしめるもの――あの責任とかいうばかげた重荷の放棄につながる、そう決めつけている。
「伝達します」
増谷は感情を含まぬ声で応じた。理性的な態度は常に好意を呼び起こす訳ではないのだった。
橇ができあがった。
太めの木の枝をしならせて組み、油布で外郭をおおった簡単なつくりのものだった。首あてはやはり太めの枝をまげて造ったものであった。
新城は千早にもそれをつけさせた。首あての左右に革紐を結び、それを橇にしばりつける。ほんのこれだけのことで首にかかる負担が極端に減少するのだった。
「まず、奇数番号の背嚢を載せろ」新城は猪口に命じた。
「小休止ごとに交代する。最後尾の橇には導術が一名乗るからそのつもりで配分しろ。他の具にはあれこれ言わせんように。ああ、尖兵小隊については背嚢を常に載せたままにする」
猪口は命令を復唱し、それをすぐに兵へ怒鴫った。
小休止とは文字どおり、行動中の軍隊がとる休憩のことであった。なお、この休憩には大休止とよばれるものもある。両者の差は時間だった。小休止は小半刻、大休止はその倍――つまり半刻になる。
新城は小隊長を呼んだ。剣虎兵以外については、分隊長も集める。
「中隊長代理として、今後の構想を述べる」新城は言った。手短に説明する。
彼の構想は簡単明瞭だった。敵の偵察路兼進撃路である側道を避け、大坊山麓ぞいの森を抜ける小道を進む。敵との接触はこれを絶対に避ける。
楽な道行きではないが、無理ではなかった。一応の安全策もとられている。森の中を抜ける進であれば、騎兵はまず入ってこない。
「任務はどうします?」第一小隊長の松永《まつなが》軍曹が訊ねた。彼は天狼会戦で行方不明になった少尉にかわって小隊の指揮をとっている。まだ二〇代の前半で、軍曹としては若い。つまりは兵隊の素質があるということだった。
「敵に尻を向けているから、猫はあてにならない。
導術に任せる。一名をあてて、敵情を探りつづけてもらう」
松永の目がわずかにすぼまった。導術分隊長へ視線を向ける。増谷が小さく頷く。彼はそれだけで事情を察したようだった。
「森を抜けるだけだと」第二小隊長の西田《にしだ》少尉が質問した。
「側近付近に展開している友軍との接触も難しくなりますが。大隊主力の手前に、遅れた連中や臨時編成の遅滞防御部隊がいるはずです」
「こちらのつかんだ情報はすべて大隊本部へ送っている」
新城は応えた。鞭の唸りに似た声だった。
「我々は任務は果たしている」
あとは大隊本部の責任だという意味だった。たしかに、理屈から言えばそのとおりであった。
もちろん誰もが新城の本音を理解している。途中で遅滞防御部隊につかまったが最後、永久に大隊とは再会できないとわかっているからだった。遅滞防御部隊の指揮官は、手近なすべての将兵を自分の部隊に組み込む権限を与えられているはずであった。
新城は任務から逸脱することなしに中隊を救おうとしていた。
西田はわずかに唇をねじ曲げた。彼は新城に対して素直な反応を示す数少ない人間、その一人であった。特志幼年学校の一年後輩なのだった。
新城は訊ねた。
「疑問はないか、第二小隊長?」
「はい、兵站将校殿」
西田は頷いた。
新城は全員を見回していた。当然のことながら、誰の表情も暗い。彼は尖兵小隊長に言った。兵科がことなり、正規の指揮官でもないため、言葉遣いは丁寧になった。
「尖兵諸君の背嚢は橇に乗せたままにする。これから先、そちらの方が役に立ちそうだからね。その代わり、銃だけはいつでも使えるようにして、前衛についてもらう」
「了解」
小隊長はまったく尖兵らしい態度で笞えた。
〈皇国〉銃兵は、その装備と任務の違いにより、尖
兵、銃具、鋭兵の三種に大別される。三者の相違点は戦場における射程距離の差にもっともよくあらわれる。通常の銃、滑腔銃を装備した銃兵は横隊で壁をつくり、五〇間程度を主交戦距離とする。より射程の長い旋条銃をそなえた鋭兵は、一〇〇間程度で戦う。尖兵は、銃身の短い――射程の短い騎銃を与えられている。射撃は二〇間程度の至近距離で実施する。そのかわり、銃が軽いため、戦場における移動速度は高い。兵としての機能は〈帝国〉軍の猟兵と同じ役割といってよい。それゆえ、尖兵は銃兵たちの中でもっとも戦闘的な連中が配されることになっていた。
新城は尖兵小隊長に頷いてみせた。この種の人間を彼は嫌いではない。視線を工兵小隊長にうつす。
「工兵も同じだ。位置は尖兵のすぐあと。よろしいか?」
「はい」
全員が新城をみつめた。それであんたはどうするのだという当然の沈黙。
新城はそれに応えた。
「よろしい。ああ、もちろん、前衛には僕と僕の猫も加わる。最後尾は猪口曹長にしめてもらう。以上だ。わかれ」
納得と同意。全員が部下のもとへと走った。いや、増谷だけが残っている。
新城は訊ねた。
「なにかあるのか?」
「一人、選びました」
「橇に乗せたか」
「はい」
「名前は?」
「金森《かなもり》です。二等導術兵」
「会おう」
新城と増谷は最後尾の橇に近づいた。橇にはすでに剣牙兵がつけられていた。金森は橇に腰をおろしている。彼は新城たちが歩いてくるのを見て、あわてて立ち上がろうとした。
「そのままでいい、金森二等導衛兵」新城は言った。
「はい、兵站将校殿」金森は応えた。丘ハになっているのだから、すくなくとも一七歳より上のはずだが、見かけはそれよりもおさない。額の銀盤はくすんでいないだけでなく、いまだ真新しい。文字通りの新兵なのだった。
「任務は了解したな」新城は訊ねた。
「はい。なにも見逃しません」金森は答えた。はためにもそれと見て取れるほど緊張していた。
「苦労だろうが、君にやって貰うほかない」
新城は右手の手袋をとり、金森の目の前に差しだした。彼の手は小刻みに震えていた。本当に震えているのだった。新城はおどけた口調で言った。
「寒いから震えてるわけじゃない。もちろん酒が抜けてるからでもない。つまりは君も僕も同じ病気というわけだ。〈皇国〉陸軍の精兵二人が困ったもんだな、ええ?」
「はい」金森は嬉しそうに笞えた。
新城は微笑を浮かべ、右手で金森の肩を叩いた。
手袋をはめる。将校であれば誰もがうらやみたくなるような態度であった。まったく見事な野戦将校ぶりを示している。
しかし、本人の内心はそれをまったく認めていない。
軍隊における大抵の不快事に新城は慣れている。
いや、慣れねばならなかった。そうでもしなければこの一三年をやり過ごせなかっただろう。
しかし、こうした瞬間、装飾された勇気という偽善を用いねばならぬ瞬間にだけは、いまだ強烈な感情がわきあがる。それは、恐吼《きょうこう》し、自殺したくなるほどの自己嫌悪だった。
確かに新城は冷酷で、傲慢な男かもしれなかった。
それは短所だった。しかし、勇気を道具に用いることに耐えされない何かを覚えもした。美徳という言葉を忘却しきれないからであった。それが彼の長所だった。そして長所は常に容赦なく彼の短所を貴めたてた。
しかし彼は短所を改めることができなかった。それが自身のほとんどすべてをなりたたせていると知っているからだった。よって苦しまねばならなかった。聡を知っているのだった。
人と虎は後退を再開した。
雪は止んでいた。森道にはそれはどの積雪はない。
左右から張り出した樹本の枝葉に守られている。積雪の少なさについてはもうひとつ理由もある。天狼会戦前、北領鎮台の一部がここを通っていた。
踏み固められた雪の表面は凍結していた。膝まできそうな雪の中を歩くよりはまし、そうは言えるだろう。しかし、足の裏が痛み、足首がひどく疲れるのは困りものだった。
最後尾から伝令が駆けてきた。なにか報告すべきことがあるのだった。新城は小休止を命じた。正直、それを命じて自分もほっとしている。歩きはじめて二刻近くがすぎていた。
「兵站将校殿、曹長殿より報告!」
伝令は言った。ともかく来て欲しいというものだ
った。猪口にしては珍しい、要領を得ない内容、新品《しんぴん》少尉のような報告であった。もちろん、兵にとっては神に次いで偉大な曹長は絶対に過ちをおかさない。つまり、何かおおっぴらにできない理由があるということだった。
新城は最後尾に急いだ。途中で他の猫と橇を交替した千早もついてくる。走りはしない。将校が慌てては部下に無用の混乱を招く。
猪口も最後尾から前へ歩いてきた。兵たちが注目している。新城は微笑を浮かべて質問した。声は小さい。
「敵か?」
「はい、中尉殿。そうではありません」猪口は軍に特有の”はい――いいえ”式に答えた(上官に対する真っ向からの否定は許されない)。彼の声も小さい。
「龍です」
「龍?」新城は言った。「水軍のか」
「天龍です」猪口は答えた。「怪我をしているようで」
新城は頷いた。溜息を吐く。
面倒なことだと思う。一刻も早く撤退しなければならないのに。怪我をした龍とでくわしてしまうとは。
しかし、〈大協約〉は、人と龍の互助をさだめていた。天龍は、その中でも最上の扱いをせねばならないとされている。
「亜龍じゃないだろうな」わずかな可能性にすがるように新城は訊ねた。亜龍は〈大協約〉の対象とみなされていないからだった。
「いいえ」猪口は残念そうに答えた。「見る限り、混じりっけなしの天龍です。まだ若いようですが。三〇かそこらだと」
逃げ道なしか、新城はあきらめた。
天竜は翼龍より知性が高い。ほぼ人間と同じだと言ってよい。おまけに、ある程度は導術も使える。
放置できない。下手をすると、〈大協約〉違反が龍族全体にひろまってしまい――それは最後に、年に一度ひらかれる人龍合同の大聖議に持ちだされることとなる。そして違反に対する罰則はただひとつ。
死罪だった。
「わかった。挨拶してみよう」新城は言った。「曹長、療兵を連れてこい」
「はい、中尉殿」
新城は龍が伏せている林に向けて歩き出した。千早は何も言わずとも付いてきた。
龍はわずかに開けた場所に伏せていた。新城は安心した。長い胴体の(つまり、前脚と後脚のあいだの)右上、鱗の生え際に傷を負っていたからだった。出血もさはどのものではない。
新城は作法どおりに行動した。龍の頭、その前に出て、敬礼した。龍が首を動かした。答礼したのだった。彼は言った。
「〈皇国〉陸軍中尉、新城直衛であります。お困りのようであれば、〈大協約〉に基づき、可能な限りお助けいたします」
龍は黙ったまま彼を見つめた。
猪口の言ったとおり、まだ若い。体長は七間ほど。
三〇歳になったかどうかという猪口のみたては当たらずといえ遠からずだな、と新城は思った。龍――特に天龍ではまだまだ若者の範暗にはいる年齢だった。天龍の寿命は二〇〇年ほどと言われている。
「わたくしの姓は坂東《ばんどう》。名は一之丞《いちのじょう》。あなたがたが天龍と呼ぶものです」
龍は”言った”。実際は導術で語りかけている。
「よって、〈大協約〉のさだめた義務の履行を求めます」
まさに予想どおりだった。新城の知る限り、数字の含まれた名は天龍にとっての幼名であった(なぜ龍が人と似たような名を名乗るのか、その理由までは知らないが)。天龍の成人は三、四○歳と言われているから、少なくとも二〇代のはずだった。
「光栄とするところです、坂東殿」新城は笞えた。
「ただちに傷の手当を。すぐに療兵が参ります」
「感謝します、中尉」
療兵がやってきた。新城は手当するように命じた。
坂東に話しかける。
「よろしければ事情をお聞かせください。自分は、行動の遅延、その理由について、上官に報告せねばなりません」
「わたくしの落度です」坂東は言った。
「風に流され、戦場の上空に迷いこみました。風を避けるため、低空に降りたところを撃たれたのです。
撃ったのはあなたの同胞だが、人の責ではない。これまでのところ、〈大協約〉違反はありません」
「なるほど」新城は頷いた。
「人には龍の見分けがつきがたいですから。契約を結んでいるかどうかも、見ただけではわかりません」
「おっしゃるとおりです」坂東は言った。
「この件に関して、人に恨みや怒りはありません。自分の過失に腹が立っているだけで
「寛大なお心、人として感謝いたします」新城は一礼した。療兵へ視線を向ける。古兵ではなく新兵だった。彼は注意した。
「鱗に気を付けなさい」
新城は、いわゆる”おい、そこの兵隊”式の話し方をしない男たった。少なくとも兵に対しては権柄ずくの態度は絶対にとらない。
はいと療兵は答えた。
坂東が笑いだした。好意を含んだ笑いだった。
「すると中尉殿、あなたも、あの迷信を信じていらっしゃる?」
「というよりも」新城は答えた。
「できうる限りの配慮を。逆鱗が実在するかどうかはともかく」
「なるほど」坂東は答えた。思慮深げな光を目に浮かべている。
[#天竜図 挿入]
「あなたはそうお考えになるわけですね。まあ、我々天龍が翼龍どもとは異なるのは確かですが。翼龍に鱗はありませんからな」
千早が坂東の顔へ鼻面を近づけた。悪い癖がでやがったかな、と新城はあわてた。珍しいものに出くわすと、子猫の頃と同じように、好奇心だけで行動することが千早にはあるのだった。
新城は千早を止めようとした。遅かった。千早は坂東の前で一声唸っていた。
「申しわけ――」新城は言いかけた。
「いえ、良いのです」坂東は笞えた。長い舌をのばし、千早の鼻先を凪める。
千早は飛びすさった。しばらく警戒するようにうろうろしたあと、再び坂東に近づいた。
坂東はもう一度鼻先を凪めた。千早は喉を啼らせた。新城の方へ許可を求めるような視線を向け、子猫のように可愛い啼き声をあげた。新城は頷いた。
坂東の、傷ついていない側の胴へ千早は身体をすりよせた。
「良い猫を連れておられる」坂東は言った。
「いたずらもので、困ります」新城は答えた。「ご迷惑でなければよいのですが」
「いや、可愛いものです」
「有り難くあります」
手当には半刻ほどかかった。療兵が軟膏《なんこう》を塗り、精綿をあて、えっちらおっちらと胴へ包帯を巻いている間、人と龍はのんびりと会話を続けた。
坂東は新城の故郷について質問した。
いえ本当の故郷はよくわからないのですと新城は正直に答えた。
それだけで龍はすべてを理解したようだった。まことに申し訳ないと新城に謝罪した。いえ、すべては子供の頃にあった戦のせいですからと新城は答えた。貴官の御両親、その御言が安らがれんことをと坂東は言った。ときにあなたの故郷はと新城は訊ねた。やはり。
ええ、龍塞《りゅうさい》の山奥ですよと坂東は答えた。
貴官は御存知かな、伏龍《ふくりゅう》河水源の大鱗《おおうろこ》峰《みね》のあたりですと言った。
新城は驚いた。大鱗峰と言えば、龍族の大聖地とでも言うべき場所であるからだった。皇部に駐在している龍族利益代表も天晴縁の出身だと聞いていた。
療兵が手当の終わったことを報告した。血止めと悪黴《あくばい》はなんとかなりました。ですが、なるべくはやく薬師《ドクター》にみせてください。
「わかりました。龍族にも、薬師の役目を果たすものがおります」坂東は答え、療兵へ丁寧に頷いて見せた。「療兵殿、まことにありがとう」
「過分なお言葉、光栄であります」療兵は棒を飲んだような姿勢で敬礼した。
「さて、私と部下はそろそろゆかねばなりません」
新城は言った。
「坂東殿、他に何かお困りのことは」
[#翼龍図挿入]
「いや、特には」坂東は答えた。
「できうるならば、いますこし貴官との会話を楽しみたいが」
「残念です」新城は答えた。
「御存知かどうか、現在、我軍はあまり芳しくない状況に置かれております。自分は軍人としての義務を果たさねばなりません。ああ、ただいまお話しもうしあげたことについては、どうか、ご内聞に」
「いかさま」天龍は頷いた。新城は微笑んだ。天龍の約束は絶対であるからだった。
坂東は言った。
「かなうならば、貴官とは是非とも再会したいものです。このたびの御礼はぜひともその際に申し述べたい」
「ならば、いつか、拙宅においでください」儀礼的な意味ばかりでなく新城は答えた。
「生還がかなえば、皇都に戻ります。そこの、駒城家下屋敷で自分の名をだしていただけば、まずまずのおもてなしができると存じます」
そこまでまじめな顔で言った新城は突然にやりとし、続けた。
「まあ、正直にもうしあげるならば、その際、龍族について人につたわるもうひとつの伝承が真実かどうか、確かめてみたくもあります」
〈皇国〉には、龍の一斗樽《いっとだる》という言葉がある。新城はそのことを言っていた。ひらたく言えば礼を知る者はそれなりの恩を返すという意味だが、もちろん、そうした意味についてだけ言ったわけではない。あえて文字どおりの意も含めている。つまりは彼なりの冗談であった。
「なるほど」
天龍は笑った。そして言った。すべてを理解した表情を浮かべていた。
「貴官についてならば、まさにその伝承は真実なるでしょう。しかし、一斗ではすみません。わたしはこの四本の手足にひとつずつ樽を抱えることもできますからな」
人と龍は声をあわせて笑った。
「では、御無礼いたします」新城は敬礼を送った。
天龍は彼の一族における厳粛さをしめす表情で答えた。
「中尉殿、|兵法の極みとは戦わざること《自・アート・オブ・ファイティング・ウィザウト・ファイティング》にあります。つまりは無手勝流ですな。それをお忘れなきよう。常に水のようであること、それが肝要です」
「心得ました」
「貴官に龍神の加護があらんことを!」
坂東は答え、ゆっくりと宙へ浮かんだ。ある程度の高度をとった龍は新城の上空で一度旋回してみせると、内地へ向けて飛び去った。
千早が東しげに鴫いた。この凍土から自儘《じまま》に飛び去る自由を持った坂東との別れを惜しんだのだった。
新城も、彼の愛すべき猛獣にまったく同感であった。
彼等はいまだ戦場という牢獄にとらわれていた。
大隊との合流は約一刻遅延した。
第二中隊は大隊本部の置かれた寺に入った。寺の名は開念寺といった。二〇〇年ほど前、北領の開拓がはじまったばかりの頃に建立された寺であった。
宗派は幸連宗。皇部幸連寺派の末寺になる。
すでに陽の落ちた境内にはいった中隊を出迎えたのは大隊戦務幕僚たった。
「若菜大尉は?」戦務幕僚はいきなり新城に訊ねた。
「すでに御報告したとおりです」新城は言った。あれこれ手を打ったとは言え、さすがに疲労している。
はやく腰をおろしたかった。
「助けられなかったのか?」
「無理でした」
新城は素早くそう応じた。
戦務幕僚は疑わしそうな顔つきをつくった。
「事実なんだな?」
「中隊長殿は、中隊主力の離脱を援護するため、敵を背後から攻撃されたのです。高貴な自己犠牲心の発露だと自分は判断します。中隊長殿こそまさに〈皇国〉軍人の鑑《かがみ》です」
新城は答えた。言葉に嘘はない。現象面から見た場合、まさにそうなるからだった。新城が省いたのは、行動の原因と評価、そしてそれが及ぼした影響であった。
戦務幕僚は彼を睨んだ。あまりにも立派な言葉ばかりを並べ立てているので、質問のしようがないのだった。
「大隊長殿がお待ちだ。来い」いまいましげに彼は言った。
「兵を休ませてやりたいのですが」
戦務幕僚は同じ表情をはりつけたまま頷いた。
新城は重ねて言った。
「屋内で。暖かい食い物も」
「新城中尉」執務幕僚はあきらかな怒気を含んだ声で言った。「それは俺の任務ではない。自分たちでなんとかしろ。大体だな、貴様、いまの本業は兵站だろうが」
「はい。部下にそう命じます」新城は答えた。彼がある種の者だちからひどく嫌われるのも当然だった。
もちろん、無自覚なまま示している態度ではない。
「急げ」執務幕僚は捨て台詞のように言い、歩み去った。新城は背後にいた猪口に頷いてみせた。
大隊本部は寺の本堂におかれていた。そこには椅子や机が置かれていた。火壺もある
机にひろげられた地図には戦況が書きこまれている。新城が伝えたもの以外、まともな報告は届いていないようだった。
本部の幕僚たちが新城を見た。視線の大部分は冷たかった。いくらか好意的なものもあったが、あからさまではない。この大隊における新城の立場とはそうしたものだった。
大隊長は本堂の奥にもうけられた部屋にいた。幕僚の一人が顎《あご》でそれを示した。
新城は扉を叩いた。
「新城中尉、入ります」
ぞんざいな返事があった。
新城は入室した。部屋には火鉢が置かれていた。
大隊長は火鉢を抱え込むような姿勢で葉巻を吸っていた。数年前まで騎兵だった彼は、剣虎兵に転科を命じられて以来、世のすべてを恨んでいるという噂だった。第一印象が悪かったためか、彼と新城とはこれまでほとんど話したことがない。彼が制服の上着につけている少佐の階級章は、金ではなく、薄汚れた黄色にくすんでいた。
「寒い。閉めろ」大隊長は言った。新城はそれに従った。
「若菜大尉については報告をうけた」大隊長は言った。
「叙勲を申請してやろうと思っとる。悪くても司令長官からの感状はでるはずだ。遺族も喜ぶだろう」
「はい」
新城はそれだけを笞えた。他に言うべきことはなかった。
大隊長は火鉢から顔をあげた。あちこちが角張った、疲労の蓄積した顔だった。彼はいまは亡びた将家、その家臣団の出身だった。
大隊長は言った。
「なぜ予定時刻より到着が遅れた」
「すでに導術兵が」
「莫迦野郎」大隊長は怒鳴った。
「撤退の途中で天龍と出くわした? そんな都合のいい話、誰が信じる? 貴様、若菜大尉を見捨てて後退したんだろう。それで妙に時間がかかった。そうじゃないのか?」
大隊長の目尻は青白かった。
「はい、大隊長殿。そうではありません」新城は答えた。
「すべてはすでに御報告したとおりであります」
「なるほどなるほど」大隊長は言った。
「まあいいさ。やくたいも無いぼんぼんの大尉と莫迦な兵隊三人の犠牲で、中隊がまるごと帰ってきたことの方が大事だ。貴様のことは好きになれんがな」
新城はなにも答えなかった。少なくとも正直という美徳の持ち主なのだなと考えている。
大隊長は細巻に火鉢で火を着けた。無論、新城に勧めはしない。
「中尉、他に報告すべきことは?」
「敵の可能行動について、意見があります」
「言ってみろ」
「状況から判断して、今夜中に夜襲をかけねばなりません。放置した場合、明日は――
「中尉、中尉、貴様はわかっておらん」大隊長は言った。彼は大きく手をひろげた。
「俺の手元にはあれやこれやと報告がくる。信用できるやつも、できないやつも。だのに、何もかも信じたならばどうなる? 俺が阿呆に見えるだけだ」
新城は何も言わなかった。
「まあいい」これは大隊長の口癖らしい。
「あと二刻で指揮官集合をかける。今後の方針はそこで決定する。ああそれから、第二中隊は今後貴様が面倒をみろ。これで貴様も中隊長殿だ。せめて若菜よりはましなところを見せてくれ」
新城は敬礼した。この男、騎兵だった頃はそこそこ有能な将校だったのではないかと思い直していた。
指揮官集合がかかるまで、新城はほとんど休む暇がなかった。特に疲労の激しい兵は屋内で休ませねばならないし、暖かい糧食の手配もあった。消耗した弾薬その他もなんとかせねばならなかった。鎮台兵站部はいまだどうにか機能し、補給はおこなわれているとはいえ、それはけして楽な仕事ではなかった。雪と敗北によって、すべての手順が狂っている。
火力の回復についても手を打たねばならない。
状況からして、あらたな騎兵砲の人手が不可能なことはわかりきっていた。ならば何か代わりの物をと考えた新城は大隊兵站幕僚にそれを相談した。
なお、〈皇国〉陸軍では指揮官を補佐する将校――五将家を生みだした諸将時代で言う軍師――のことを、旅団・聯隊・大隊・中隊では幕僚と呼ぶ。
旅団より大きな組織、たとえば鎮台などでは、参謀と呼ばれる。同様に、司令部という名称が用いられるのも鎮台以上の組織に対してだけであり、旅団以下の組織では司令部を本部と呼ぶ。
同じ兵站幕僚でも新城は中隊、相手は大隊。くわえて大隊兵站幕僚は大尉だった。つまり相手が完全に格上であった。しかしひとつだけ良い材料がある。
兵站幕僚は彼を批判的に見ない少数派の一人であった。有能云々というより、親切な質《たち》の男なのだった。
「無茶を言うな」訊ねられた兵站幕僚は呆れたように答えた。
「騎兵砲は無理だぜ。大隊騎兵砲小隊からわけてやる訳にもいかん。かといって、まともに要求をだしたのでは100年たっても何もとどかない。鎮台の輔重段列は食料と弾薬だけで手一杯だ」
「それはわかっています」新城は答えた。
「いっそのこと、、真室大橋まで誰か見に行かせた方がいい」兵站幕僚は言った。
「あの付近なら、泡喰って逃げた連中の装備が山のように捨ててある。うまくいけば、その手前で何か拾えるかもしれない」
「街道は除雪してありますか?」新城は訊ねた。敵の進撃を阻害するとかいう理由で、除雪されていない場合、装備を捨いにゆくのはえらく手間がかかる。
不可能と言ってもいい。
「除雪してあるよ、誰にとっても喜ばしいことにな」
兵站幕僚は答えた。
「急いだ方がいい。今夜は雪がひどくなるという話だ」
「どこかに馬がありませんかね」
「四頭ばかり、どこかの部隊からほぐれた奴がうろついている。輓馬《ばんば》だ。すぐに抑えないと輜重に徴発されるぞ」
大隊輜重段列はその任務上、剣虎兵部隊で唯一、組織として馬を装備していた。
「一筆、願います。できるならば、橇についてもなにかつけくわえて」新城は言った。輜重段列が先に手をだしていた場合にそなえ、馬とつくりのよい橇を融通しろと記した書面をつくってくれと言うのだった。
兵站幕僚は苦笑しつつ手早く書面をしたためてくれた。指揮権を持たぬ幕僚の書面には、軍紀上、なんの拘束力も持たないが、それを無視できる者は少ない。軍隊とはそういうものだった。
新城は猪口を呼び、命令を与えた。
集合した指揮官の会合は本堂でおこなわれた。
全員に椅子があてがわれ、着席が許される。
腰をおろした時、新城は沈み込むような感覚をおぼえた。この半日で腰をおろしたのは初めてだとようやく気づく。猪口たちはまだ戻っていなかった。
「二中隊の報告によれば、敵の先鋒隊は増援を受けつつ我が方へ接近中である」
全員の正面に立った大隊長が言った。
そこにいた二〇名ほどの将校たちが一斉に呻《うめ》きを漏らした。新城へ冷たい視線を走らせる者もいた。
真実を知らせる者は常に歓迎されない。それを招きよせた者は新城なのだと判断した者もいるようだった。いや、大隊長は皆がそう誤解するように話している。
大隊長は続けた。
「つまり、明日になれば、我々は少なくとも聯隊規模の敵と戦わねばならん。なぜか? すくなくともあと丸二日、撤退は許されないからだ」
新城が報告したとおりの内容だった。しかしそのことについてはまったく触れられない。
「その結果はわかりきっている」大隊長は言った。
「誰も生きて故郷《くに》に還れん」
もう誰も呻きを漏らさなかった。大隊長は全員をみまわした。
「大隊が置かれた状況は以上だ。これより、この状況に対応した大隊の行動について、大隊長の構想を述べる。説明は執務がおこなう」
執務幕僚がかわって立ち上がった。
「本構想の目的は、真室川渡河点を必要最大限の期間援護し、なおかつ、大隊の損害を最低限にとどめることにある」
地図を示しつつ執務幕僚は説明した。
計画は常識的な――そう言って悪ければ、まったく手堅い内容だった。この寺から北方六里の側近付近に大隊戦力の大半を配置し、敵増援の接近を待つ。
赤色燭燐弾一発を合図に、これを奇襲。優先目標は敵本部部隊。戦闘時間は最大限でも一刻。青色燭燐弾一発と同時に、全員が開念寺まで引きあげる。燭燐弾が打ち上げられない場合は、戦闘開始から一刻過ぎた時点で後退を開始すること。完全な|伏 撃《アンプッシュ》であった。
その態度や性格はともかく、戦務幕僚は無能な将校ではなかった。新城も夜襲計画そのものについては何の疑問もない。命令の伝達について導術兵を頼らないのは、彼等があまりにも疲労しているから、とされていた。その点も納得がいっている。
しかし、計画の前段階については引っかかりがあった。
中止する場合、どうするのだろう。いや、赤色燭燐弾が打ち上げられなければよいのだが、その場合、どのような手順で引きあげるのか。どうにも不安だった。
大隊が担当している正面の幅は、本来、聯隊規模の部隊がようやくこなしきれる広さがある。結局のところ、新城の捜索しえた範囲はこの戦場のごくわずかな部分にすぎないのだった。第二中隊の目がとどかぬ場所で、敵がどのような行動をとっていたのか知れたものではなかった。あれこれ言いながら、大隊長は新城のもたらした情報に頼りすぎているようであった。
戦務幕僚が全員を見回しつつ言った。
「なにか質問は?」
新城は立ち上がり、不安な点を質問しようとした。
しかし疲労のあまり、ひどく腰が重い。息を吐く。
そうしているうちになにもかもが面倒になった。まあいいか、という気分になる。どのみち正面全域に対して充分な捜索を実施するだけの兵力はない。
大隊長が会合の終了を命じた。伝達された出撃時刻は午前第一刻であった。
猪口たちは出撃の一刻あまり前に戻ってきた。彼は報告した。
「砲は駄目でした。融通のきかない憲兵が頑張っとりまして」
「あの荷物は?」新城は馬車の荷台を示した。いくらかもりあがったそこには油布がかけられていた。
猪口は具に頷いてみせた。兵は二人がかりでそれをはいだ。荷台には細長い箱があった。具が蓋をとる。あらわれたのは長い銃身をもった燧石銃だった。
新品らしい。猪口はそれを一丁とりだし、上官に手渡した。
銃をうけとった新城は、それをためつすがめつし、最後に銃口をのぞきこむ。片眉をわずかにあげた。
腔内には|腔 綫《ライフリング》がきざまれていた。
「旋粂銃じやないか」新城は感心したように言った。
「最新型です」猪口は答えた。得意そうだった。風雪にうがたれた岩のような見かけの顔面に似合わぬ素直な表情だった。無論、新城にもその表情の意味は理解できている。
この時期、〈大協約〉世界の兵に与えられた銃、その大部分は腔内が滑《なめら》かな滑腔銃であった。
その技術程度は、約二〇〇年前に、世界のあちこちで開発された銃とさして変わりがない。
銃身の精度・強度、発火方法には様々な工夫がこらされてきたが、銃身そのものの技術的欠陥は是正されていないからであった。生産は比較的簡単だが、至近距離以外での命中卒は急速に低下するという欠点を持ち続けている。王薬によって勢いをつけられた弾丸が、腔内と同様に空中を前のめりに”転がって”ゆくため、距離がのびて勢いがおちると、弾道が弾丸の”転がる”勢いの影響をうけ、ねじまがりやすくなるからであった(なお、この時代の弾丸とはまさに文字どおり、球状をなしている)。
たとえて言えば硬い木材に軟鉄製の釘を打つようなものかもしれない。最初はまっすぐに打ったつもりでも、途中で妙な方向にねじまがってしまう。木材を大気、釘を弾丸に置き換えてみれば、まさに同じことだった。
となれば、その欠点を改良する方策もおのずと明らかになる。木材のたとえを再び用いるならば、釘でなくネジにしてしまえばよい。銃と弾丸の関係に戻すならば、弾丸が垂直方向へ回転しつつ大気中を進むようにすることだった。しかし、弾丸をネジ型にすることもできない。それでは銃身が保たない。
そこで考えだされたのが、腔内にいくつも螺旋状の溝をもうけることであった。銃身ヘネジ切りの機能を持たせた、そういうことになる。玉薬で加速された弾丸は、腔内をころがっているあいだにネジにつくりかえられ、空中へと飛びだす、と言う仕組みであった
もちろん、そうした効果が発揮されるには、弾丸が腔綫へめりこまねば――その径が銃のそれ、口径よりいくらか大きくなければならない。
しかし、本当に大きくては銃口から装填できない玉の時期の銃はすべて銃口から装填をおこなう前装式であった)。
このため、弾丸の径は口径よりわずかに小さくされている。ならばなぜ腔綫が効果を発揮するかといえば、発射の際に生ずる爆燃した王薬のつくりだす圧力が弾丸を変形させ、その外縁を腔綫に触れさせるからだった(弾丸自体にも、圧力で変形しやすいように加工が施されている)。となれば弾丸は、腔内をネジのように回転しつつ進むよりほかにない。
実のところ、人がこうした旋条銃の発想に到達しだのは新城が生まれる以前の話になる。より細かくいえば皇紀五二〇年前後のことだった。その頃、〈皇国〉と〈帝国〉でほぼ同時にこの発想が発表されている。〈皇国〉で言えば、それを考えだしたのは宮野《みやの》木《ぎ》家の顧問官理博士であった日《ひ》生《なせ》天童《てんどう》だとされていた。彼は後に皇室密理院の次席密理大師になったほどの人物であるから、この点はまず間違いがない。
しかし、発想が現実のものとなるにはひどく時間が必要になった。誰も、腔内に螺旋状の溝(腔綫)を掘る効率的な方法を思いつけなかったからであった。
〈皇国〉がその解決に到達したのは、ここ二〇年ほどのことであった。
まず、銃身の基本形は鋳造で製作される。文字通り、鋳型へ溶けた鉄を流しこみ、銃の筒をつくりあげてしまう。滑腔銃の場合、これで銃身はほとんど完成してしまう(以前は、鉄棒へ然した板金を巻き付けて打つ鍛造法がとられていたが、鉄の研究が造むにつれて鋳造でも充分な強度を持つようになった)。
旋条銃の場合、ここからが重要となる。腔綫を掘るという作業が待っている。
その方法は、簡単に言えば、銃の口径と同じ大さを持った長く大きなネジをつくり、掘削するというものであった。
しかし、その実際――特に量産は簡単ではない。
掘削に力がいるためであった。人力は問題外であり、風車、水車からもたらされる動力も不安定だった。
旋条された銃身の量産を可能としたのは、熱水機関だった。
黒石を燃やして湯を湧かし、その湯気を動力とする熱水機関は、当初、鉱山その他での使用を目的として開発された。天領の経済発達にともなう鉱工業需要の爆発的な増大が、それまでならば手を付けられなかったような深さへと坑道を掘らせ、その深い坑道から一石でも多くの鉱石を搬出する動力源をもとめたのだった。
こうして熱水機関は実用化された。その発明は、他の技術と同様、〈大協約〉世界各地でほぼ同時になされたが、〈皇国〉では、皇紀五四九年、好事家として知られた大富豪、須《す》ヶ原《はら》三郎太《さぶろうた》の手によって実現された。〈帝国〉での発明は五四三年、アスローンでは五四七年であるから、もっとも遅いと言って良い。
[#旋条銃図挿入]
しかし、〈皇国〉における熱水機関の利用拡大、その速度は〈帝国〉やアスローンと比べればひどく急なものであった。前者では農奴が、後者では宗教がその利用を阻んだからであった。発明者の性格も影響していた。すべての研究をまったくの道楽としておこなっていた須ヶ原三郎太は、研究結果を誰がどう利用しても気にしなかった。むしろ、その技術を喜んで教え歩いた。〈皇国〉執政府から兵器の製造を請け負っていた大手武器商たちもその例外ではなかった。彼等はそれを兵器の大量生産へ応用した。
熱水機関のもたらす安定した動力を工作機械へ連結した。旋条銃の銃身掘削もそのひとつであった。
従来の滑腔銃に対する旋条銃の優位はあきらかだった。極端な話、有効射程が五〇間から一〇〇間にのびていた。戦場におけるその効果は、特に横列隊形に対しては圧倒的といってよい。
しかし、軍への採用は遅々として進まなかった。
これは〈皇国〉だけでなく、〈帝国〉、そしてアスローンも同様であった。
旋条銃の生産にはそれなりの技術力が要求される。
つまり、金がかかる。これらの国でいまだ採用されている半封建的軍事制度では、その金を充分にまかなうことができないのだった。
〈皇国〉においても、それは充分に残存している。このため、銃兵の一種である鋭兵にしか支給されていない。いや、その鋭兵にすら充分にゆきわたっているわけではなかった。
「どこで手に入れた」新城は訊ねた。
「迷子になっていた鎮台の輜重兵どもがおりまして。
三台の大きな馬櫓つきで」猪口は言った。
「でまあ、連中に道を教えてやったんです」
新城はちいさく笑った。どんな教え方をしたのか、想像がついたからだった。
「何丁ある?」
「一OO丁。実包は二千発きりですが、そっちのほうは手持ちの奴が流用できますから
新庄は頷いた。滑腔銃と旋条銃の弾薬は、まったく同じものが使用されている。旋条銃専用の特殊な形をした弾丸が開発されているという話を聞いたことはあるが、いまのところ、それはどこにも姿をあらわしていない。
新城は旋条銃を様々な姿勢で持ってみた。使い慣れた騎銃に比べれば三割方は重い。銃身が長いためだった。もちろん、無意味に長いわけではない。玉薬のつくりだした圧力をなるべく長い時間、弾丸に与えるためのものだった。弾丸へと”移った”力が大きければ大きいほど、その速度は増し、射程ものびる。
新城は旋条銃を肩にかけた。荷台の箱から実包の箱をひとつとる。中隊長は銃を持たぬという規則をあえて無視している。猪口に命じた。
「曹長、貴様の判断で中隊に配分しろ。ああ、まず尖兵へ優先的にわたすように。足が遅くなると嫌がるようだったら、僕からの命令だと伝えろ」
「はい、兵站将校殿」
「大隊長殿によれば、第二中隊は今後も僕が指揮をとるそうだ」
「おめでとうございます」
「大隊は午前第一刻に出撃する。時間はあまりない。急げ。君たちの飯は確保してある。まだ暖かいはずだ」
「はい、中隊長殿」
大隊は予定どおりに行動を開始、伏撃予定地点を取り囲むように各隊を布陣させた。
そこは北領街道の側道からの視界が、この付近でもっともとりにくい場所であった。側近の両脇はわずか一〇間ほどしかひらけておらず、その先は左右とも森になっている。また、側道自体も二〇〇回ほど先で大きく左に折れ曲がっており、先を見通すことができない。
大隊長は主力をなす剣虎兵三個中隊を舗道の左右、そして屈曲点付近に配置した。右翼――側道東側は第一中隊、西側は第三中隊、屈曲点は第二中隊。
なお、第三中隊は捜索剣虎兵ではなく、完全に攻撃のみが任務の鉄虎兵編成をとった部隊だった。三兵編成はまったくとっておらず、所属するすべての小隊が人と剣牙虎のみでつくりあげられている。
大隊長ならびに大隊本部は大隊支援部隊の主力、大隊鋭兵中隊ならびに大隊騎兵砲小隊と共に、第三中隊の後方で敵を待ち受けている。
歯の根があわぬほどの寒さだった。
もちろん火を使うことはできない。敵に見つかってしまう。
同様の理由から、煙草を吸うこともできなかった。
誰もが、別命あるまで、いかなる光を発することも禁じられていた。
常識的な処置であった。先にみつけられたのでは、伏撃は成立しない。兵たちは互いに戦友の背中をさすりあいながら寒さに耐えていた。自分の剣牙虎に抱きついている者もいる。
新城はその欲望を懸命におさえている。指揮官としての見栄であった。そのかわり、ゆっくりと千早の額を撫でつづけている。主人の気持ちを汲《く》んでいるのか、千早はうるさそうなそぶりひとつみせずにうずくまっている。雌らしい、優しい態度だった。
千早は主人を守るべき子猫として認識しているのかもしれない。
背後で雪を踏む音がきこえた。猪口だった。
「配置、確認しました。異常ありません」
「御苦労」
振り返った新城は言った。夜目に價れたとはいえ、猪口の姿はただの影でしかない。空が低く重い雲で覆われつづけているためだった。天になんの尤もないため、雪明かりすらない。闇に近かった。風が弱いのが唯一の救いだった。これで風が吹いていたならば、凍死しかねない。
猪口は新城の隣で配置についた。披は役目柄、自分の剣牙虎をもっていないので、身が軽い。
新城は闇を睨みつけつつ夜襲計画を反芻《はんすう》した。
この闇は願ったりかなったりだった。こちらが静かにしている限り、敵はまず気づかない(〈帝国〉軍も導術兵の導入にはそれほど熱心ではなかった)。
伏撃は、まず成功するだろう。
問題は、こちらも敵の状況がひどくつかみにくいことだった。剣牙虎がいくらかの情報をもたらしてはくれるが、それだけ。こんな時こそ導術兵の出番だったが、それも無理だった。通信もできぬほど疲れ切った導術兵が、この寒さのなか、敵の動きを読めるはずもない。
大隊主力はまず敵の前衛をやりすごす。それは偵察隊であるから。そして増援部隊主力を叩く。計画はそうなっている。
まったく正統的な計画であった。しかし新城には不安がある。
まず、偵察隊をやりすごすという贅沢ができるかどうか。なぜか? 午前中に第二中隊と接触したおかげで、その兵力は増強されている  つまり、威力捜索部隊にかわっているかもしれない。
そして、偵察隊と主力の距離。このような環境で夜間強行軍をおこなう部隊が、通常と同様の整然たる隊列を維持している保証はとこにもない。乱れている可能性が高い。
これは指揮官の性格にもよるが、偵察隊と主力の距離がそれほど開いていない可能性もある。この闇の中で距離をあけすぎると、相互に支援しあえぬまま、各個撃破される可能性がある。慎重な指揮官ならばそれを考えるはず。
闇の中で雪庇にうずくまりつつ、新城は不安を弄《もてあそ》び続けた。なにもかもが恐ろしくなってくる。
歯の根があわなくなる理由が変わりそうになっていることに気づく。あわてて歯を食いしばった。口元に歪んだ微笑が浮かぶ。
千早の頭が動いた。新城は悲鳴を漏らしそうになる。
しかし彼の剣牙虎は敵に気づいたのではなかった。
主人が徐々に恐怖へと包まれる様子になんらかの感覚で気づいたのだった。千早は子猫のように顔をすりよせ、臭い息を吐きかけながら新城の頬を舐《な》めた。
主人は猫の額を強く撫でてやりつつ、左手袋の甲で砥められた頬をぬぐった。放っておけば凍傷になってしまう。
再び千早が頭を勤かした。新城はあわてて頭から遠ざかる。しかし今度は舐められなかった。彼の大きな猫は闇の一点を見つめていた。
新城も闇を見据える。接眼鏡をとりだし、闇に向けた。対物鏡がこの闇にも存在するわずかな光をかきあつめたおかけで、地平線のあたりがいくらかみてとれる。
限られた視界のなかでなにか小さなものが動いた。
剣牙虎が獲物をみつける距離にしてはひどく近い。
しかしそれは千早の責任ではなかった。風が弱く、臭いが流れてこなかったためであった。だいいち、夜ともなれば充分以上の距離でもある。
「装填、中隊|膝射《しっしゃ》姿勢。復唱の要なし」
新城は小さく言った。猪口がそれを小声で伝達する。玉薬をつきかためる朔[#木+朔}杖が銃身に触れる音があちこちでおこる。みずからも身をおこした新城も自分の銃に装填した。旋条銃であっても装填法はかわらない。
装填を終えた彼は中隊に待機を命じた。膝射姿勢のまま旋条銃の銃床《ストック》を左脇へはさみ、右手をあける。
その右手を用い、再び闇へ望遠鏡を向ける。里い影がはっきりとみてとれた。
時の流れが耐え難いほどゆるやかになる。焦燥が新城の脳を焼く。接眼鏡のなかであきらかになってゆく敵影のほか、なにも知覚できない。浅くなりがちな呼吸を懸命に制御する。
新城は望遠鏡をしまった。すでに敵影は肉眼でも確認できるようになっていた。自前の目と耳で多くのものが感じ取れるようになっていた。
人馬が雪を踏む音がきこえている。馬の噺《いなな》きが響いている。
そしてなにより、すべてがまずい方向へ勤いていることがわかった。
敵は予想をはるかにこえる規模の大軍だった。長くつらなる影を見る限り、少なくとも旅団規模であった。威力捜索部隊のつもりかもしれないが、いかに伏撃夜襲とはいえ、大隊には荷が勝ちすぎる獲物だった。
どうするつもりだと新城は思った。まさか、撤退発令のため、青色燦燦弾をいきなり打ち上げるつもりではあるまいな。そんなことをしたならば滅茶若茶になってしまう。向こうに、夜戦を厭《いと》わない肝の据わった指揮官が一人でもいたら、それで終わりだ
逃げにかかった軍隊は弱い。追撃で滅茶若菜にされてしまう。
内心が悔恨に満ちた。あのとき、自分の疑問について発言していればと思う。と同時に彼の一部はどこかで冷笑している。そんなことをしても変わりはなかった。おまえは大隊長からあれほど嫌われているじゃないか。敵の進撃路を任されたのがその証拠だ。
新城は頭を振った。いやそうなのか。そればかりではない。敵の真正面に無能と信ずる部下を配置する指揮官はいない。そのはずだ。そのはずだ。畜生め、どうしたらよいのだ。
新城は敵に視線を向けた。その輪郭は徐々にはっきりしてくる。やはり旅団規模の部隊であった。当初の計画――前衛をやりすごすという計画は崩壊したといってよい。そしてこの側道上には、新城の属する大隊のほかにまともな兵力はない。
攻撃するしかない。
しかし新城はそれを独断できない。大隊本部が燭燐弾を打ち上げるまで、待たねばならない。
独断専行すべきか。新城はそれを思った。大隊長は計画どおりにことを進めようとしているのかもしれない。なにか、彼の手元に、それでも構わないと言う判断材料があるのかも。いや、見込みはずれの大軍にただ怯《おび》えているだけか。ええい。どうなっている。
敵との距離は一〇〇間あまりにまで狭まった。新城の混乱は限界近くにまで高まっている。旋条銃であれば問題のない射距離。
独断専行の誘惑がさらに強まる。新城は迷い続けた。ここで一斉射撃を加えたならば、敵は壊乱するはず。一度はじめてしまえば、大隊主力も火蓋をきらざるをえない。若菜のおかけで自分かそうせざるをえなかったように。
若菜と同じ? いやしかし、自分は間違ってはいない。そのはずだ。だが。糞、足がしびれてきた。
彼は膝射姿勢のままたった。
新城は口に手袋の甲をおしあてた。眉毛は奇妙なかたちに歪んでいる。彼は限界を越えようとしていた。開に光が差しだのはその時だった。
玉薬のはじける音が響く。一瞬遅れて、毒々しいほどに赤い光点が宙に生じた。赤色燭燐弾。攻撃開始命令であった。
間髪を入れずに新城は叫んだ。
「打てえ!」
一〇〇丁の旋条銃が轟然と火を吐く。新城も発砲した。開が消えた。
敵の隊列が崩れた。開の向こう側でも次々と閃光がまたたく。大隊主力も射撃を開始したのだった。
新城は次弾を装填しなかった。混乱しやすい夜戦環境では、みずからも射撃に参加しつづけるという贅沢を昧わうのはあまりにも危険だった。まずもって部隊の掌握に全力を傾けねばならない。
「装填急げ」
新城は命じた。あちこちで金属質の雑音が響く。
急がねばならない。敵を混乱させ続けねば、逆襲を受ける。
大隊主力の布陣した東西の森からあらたな閃光と轟音がきらめいた。大隊砲――騎兵砲小隊が発砲したのだった。おそらく、まともな照準はつけていないだろう。砲弾は葡萄《ぶどう》のような小玉をつめた、霰弾《さんだん》を用いているはずだった。敵が近くにいるからではなく、まともな狙いをつけられないから。
しかし効果はある。〈帝国〉軍将兵の肉体ではなく、精神に衝撃をくわえられる。闇の中から突如として発せられる閃光と轟音は、訓練を受けた将兵を恐怖に怯えるただの子供へと変えてしまう。
猪口が叫んだ。
「装填よぉし!」
「打てえ!」
再び一斉射撃。新たな悲鳴。閃光のため、夜目がきかなくなる。大隊主力も再び発砲した。別の光も生じる。白色燭燐弾が続々とうちあげられているのだった。竹を縄できつく巻いてつくられた軽臼《けいきゅう》砲《ほう》が用いられている。祭りの花火、その打ち上げとなんら変わりはない。実際に、まったく同じ技術が用いられている。
白色燭爆弾のきらめきが敵を照らしだした。
新城はそれを見た。わずかに呆然とする。が、自失はしない。彼の口から漏れたのは乾いた短い笑いだけだった。
敵は旅団規模などではなかった。すくなくとも、その倍はいた。新城が面と向かっている敵先鋒隊は銃兵部隊だった。少なくとも大隊規模。先鋒だけで大隊規模。
「中隊長殿?」
猪口が声をかけた。怖じ気づいたわけではなかった。上官の精神、その在処に不安を覚えたのだった。
新城は叫んだ。
「打てぇ!」
中隊の発砲は大隊主力の第三斉射とほぼ同時だった。敵の壊乱する様が見える。旋条銃も効果を発揮している。燭燐弾の照明を得たとたん、命中率がはねあがっている。一〇〇間の距離で一挙に二〇名以上の敵兵を死傷させていた。
新城は満足した。〈帝国〉軍の指揮官はいまだ状況を掌握しきれていない。
「なんともごつい眺めですね」猪口がわめくように訊ねた。
「まったくだ」新城はこれ以上はないほどの朗らかさを示しつつ同意した。やれる、そう判断している。
最初に敵の頭を潰すことさえでされば、大戦果がのぞめる。
「曹長、装填は?」
「終わりました」
「早く打て」
轟音。新たな悲鳴。新城はすでにそうしたものへ興味を示していない。敵先頭集団の本部が――指揮官がどこにいるか、それだけに意識を集中していた。
おおまかな見当はすぐにつく。乱れきった隊列の中央、第二中隊から三〇〇間ほどの位置、そこにだけ騎兵が多い。銃兵部隊におけるそれは、すなわち、将校の集団を意味している。
新城は命じた。
「曹長、もう一撃だ」
「了解!」
一斉射撃。新城は白分か間違っていないことを確かめた。騎乗した連中の周囲だけ、混乱が少ない。
指揮官の声が届いているからだった。
「突撃準備」新城は命じた。
「総員、着剣!」
命令が復唱された。すべての兵が腰帯にさげていた銃剣を抜き放ち、筒先の下部に設けられた窪み、銃創装置へそれをはめこむ。よわまりつつある燭燐弾の輝きを反射した銃剣がきらめく。
「次に主力が射撃を実施したならば、ゆくぞ」新城は誰にともなく命じた。
敵の両脇であらたな射撃。何頭もの剣牙虎の咆哮《ほうこう》が低く轟いた。大隊主力が突撃にうつろうとしているのだった。千早も新城を物欲しげに見上げていた。
新城の口元がこれまでより大きく歪む。猫と主人の願望は一致していた。
猪口が訊ねた。
[#夜襲 図挿入]
「よろしくありますか、中隊長殿」
「よろしい?」新城は訊ねかえした。
「よろしくないわけでもあるのか、曹長? 命令はでている。僕等は剣虎兵なのだ。断然攻撃あるのみだ。粉砕してやる」
普段の彼からは想像もつかない言葉だった。猪口は思わず上官を見つめ直した。この男と最初にあった頃、一度だけ、そういう表情を見たことがあるのを思いだしたのだった
いま、新城の凶相は燭燐弾に照らされ、闇から白く浮かび上がっている。目と口元には、あの戦場を知る者だけが理解できる管制された狂気が張りついていた。
新城は自分の旋粂銃に着剣した。腰にさげた鏡銅を使うつもりはない。この状況では、銃剣をとりつけたことにより長槍と化した旋条銃の方が役に立つ。
遠く、突撃喇叭が響いた。剣牙虎のあらたな叫び。
大隊主力が突撃を開始したのだった。
新城は完全に身をおこした。背筋をのばす。敵先鋒部隊の本部部隊にむけて右腕を槍のようにつきだし、大声を発した。
「目標、敵先鋒本部部隊!躍進距離三〇〇!総員、突撃にぃ、移れェッー」
彼は大きく息を吸いこんだ。再び叫ぶ。
「突撃!」
新城は駆けだした。千早が大きく吼《ほ》え、主人を追い、併走し、追い抜いた。彼等の両脇からも人と剣牙虎が飛びだす。猛獣の咆哮と望んで狂した人間の蛮声が津波のように連鎖する。
〈帝国〉軍はさらに乱れた。森の中から突如として出現した人虎の群は、衝撃以上のなにものかを彼等に打ちつけたのだった。
千早が再び吼えた。跳躍する。
一〇間もの距離を一挙に跳んだ剣牙虎は、恐怖に身をすくませた敵兵の群に飛びこんだ。着地する前に前脚の一撃で一人の胸を引き裂く。悲鳴。着地と同時に小隊長らしい〈帝国〉軍将校の頭を喘み砕く。
そのまま頭を左右に振り、突きだした長い牙を両側の敵兵、その腹に突き刺す。素早くふりかえり、主人の安全を確認した。そして新たに吼える。
奇怪な蛮声をあげつつ新城は進んでいる。
銃はまっすぐのばされた両腕で前方へと突きだされていた。彼は背を向けている敵を相手にしなかった。倫理からでは無論ない。とりあえずの危険ではないからだった。
とりあえずの危険はすぐに出現した。一人の敵兵が、彼へ銃を構えようとしていた。
新城は跳ねるように駆けた。敵兵の腹へ銃剣を突き剌す。身体ごと突き刺さるような勢いだった。銃剣が柔らかいものへしずみこむ感触が両手に伝わる。
敵兵は腰を析った。嘔吐するような呻きをもらし、両手で銃剣を抜こうとする。
新城は旋条銃をひねった。敵兵は悲鳴をあげることもできない。腹部から血が噴きだす。
新城は銃剣をひきぬこうとした。しかし敵兵の手が離れない。喉の奥からわけのわからぬ唸りを発しつつ新城はさらに銃を引く。嫌な音が響いた。
銃剣が折れたのだった。銃身もわずかに歪んでいた。骨かなにかへあたった銃剣を無理に引いたためらしい。いや、旋条銃の設計か材質に問題があるのかもしれなかった。
新城は銃を捨てなかった。
しかし姿勢は変える。血塗《ちまみ》れになった筒先を脇の下で拭うと、そこを両手で握った。梶棒として使うつもりだった。再び駆けだす。千早の頼もしい咆嘩が左隣で轟いた。新城も叫び返す。安堵した彼のおそるべき子猫は、主人の前方に存在する脅威にむけ、再び殺戮の跳躍をおこなった。
たちまちのうちに五、六名が絶命する。新城も新たな敵とでくわす。彼は相手の順に銃床をふりおろした。毛皮帽が飛び、銃床は頭蓋を叩き割った。白いものと赤いものが飛び散り、新城の顔面にあらだな色彩をつけくわえる。彼の心理はそこからまともな人間がうけとるべきすべてを棚上げにしていた。
そうした贅沢は後でゆっくりと楽しめばよい。
新城は素早く状況を確認した。
突撃は成功していた。ちらりと見ただけで十分にそれがわかった。十数頭の剣牙虎が暴れ狂い、肉片と血飛沫を量産している。中隊は彼の左右で蛮声をはりあげ続けていた。死体についてはいまさら述べるまでもない。
敵情も確認した。問題ない。敵の指揮官はまだ同じ場所にいる。
新城は猫を呼んだ。
「千早!」
千早は二人の敵兵を瞬殺することで主人の呼びかけに応じた。剣牙虎の毛皮は白と黒ではなく、赤と黒へ変わっていた。新城の傍らへ駆け寄る。
新城は新たに大声を発した。
「総員、我に続けえ!」
〈帝国〉軍指揮官にむけ、駆けだす。千早も続く。
周囲で戦っていた人虎すべてが、新城の目指す目標へ向かう奔流と化した。
目標は三呼吸と満たぬ間に殺戮された。
新城は時刻を確認した。定められた時刻まで、いまだ半刻以上をあましている。しかし彼の周囲での戦闘は終結していた。ただ逃げまどう敵兵に対する虐殺が展開されているだけ。戦術的には無意味な状況であった。
第二中隊がここを離れても容易に敵は回復できまい、新城はそう判断した。つまり退路を絶たれる心配だけはなくなった、そう考えた。
猪口がやってきた。彼の銃剣も血で汚れていた。
報告する。
「ここの敵は片づきました。大半が逃げてます」
「損害は?」
「兵が一〇名ほど。第一小隊の松永軍曹は行方不明。猫は皆無です」
「そんなに死なせたか」新城は吐き捨てるように言った。彼の計算ではもっと少なくできるはずだった。
「将校にも戦死者が」猪口は付け加えた。「西田少尉殿です」
「なるほどね」新城はあっさりと答えた。「幼年学校の頃、あいつを初めて色街に連れていったのは僕なんだ。猫とのつき合いかたも教えてやった。なにもかも無駄になったな
猪口は新城の真意を誤解しなかった。彼は上官に本題をもちだした。
「撤退しますか?」
「青色燭燐弾があがってない。時間もたっぷり余っている」新城は答えた。
「それでは、中隊長殿?」
「曹長、幼年学校の営庭で君が僕に何を言ったか覚えているか?」
「兵隊は走るのが商売」
「その商売をしようじやないか。敵の側面を回りこみ、大隊主力を援護するのだ。猫を無闇に突っこませぬよう、注意しろ。ただちに伝達」
「了解、集合かけます」
新城は剣虎兵以外の全員へ、突撃発起地点へさがり、退路を確保せよと命じた。こういった点、彼はまったく慎重だった。自分の判断を過信しなかった。
この混戦下では、三兵編成がさはどの意味をもたず、かえって面倒をおこしかねないという常識もあった。
この場で重要なのは均衡よりも速度だった。
第二中隊は敵の東側面を森沿いに駆けた。敵は全軍が混乱していた。誰も彼等に気づかない。白色燭燐弾の発射が中止され、闇が徐々に勢力を盛り返しつつあることも有利に働いた。
第二中隊は駆け続けた。おそらく旅団級以上の本部部隊を狙っているのであろう大隊主力との距離がすぐに狭まる。銃声、咆眸、悲鳴、蛮声で編成された戦場音楽が、神経を引きちぎるような、それでいて見事に溶け合った協和音を奏で続けていた。
名を知らぬ兵が新城に伝えた。
「中隊長殿!左一〇刻方向!」
新城はそこを見た。なんと続制のとれた散部隊がいる。中隊程度の銃兵だった。距離は一〇〇間ほど。
散兵線を形成し、射撃準備を急いでいた。新城たちには背中を向けている。大隊主力を狙っているのだった。
新城は報告した兵の背中を叩き、大きく頷いてみせた。中隊へ命じる。
「目標、左一〇刻方向の敵部隊、続けえ!」
敵が第二中隊に気づいたのは距離が二〇間に詰まってからだった。遅すぎた。装填中たった彼等は抵抗もできなかった。新城白身はさらに二人を撲殺した。
さすがに息が切れてくる。誰かが彼に呼びかけた。
「どうした、もう疲れたか!」
新城は相手と視線をあわせた。最初は誰だかわからない。意外の念にかられる。
大隊長だった。普段とはあまりにことなる精気にあふれた表情であるため、彼とは気づかなかった。
大隊本部要員まで戦闘へ投入したらしく、わずかに二名の兵だけを供としている。やはりそういう男なのだった。
新城は報告した。
「前衛は潰《つぶ》しました。退路は確保してあります」
「御苦労」
大隊長は頷いた。
「ついでだ、こっちも手伝え」大隊長は主力が挑みかかっている相手を鋭剣で示した。
「願ってもないことです」
「側面が意外に堅い。方陣を組みかけている。その前に前方から突いてくれ。頃合いはこっちの動きにあわせろ」
方陣とはまさに読んで字のごとく、正方形型の陣形であった。突撃に対して、もっともおそるべき効果を発揮する防御陣形といってよい。正方形の各辺を横隊がなす。兵はすべて、外側にむけられている。死角というものがない。また、敵に対して、辺と追があわさった頂点を向けるよう形作られるため、つねに半数が射撃をおこなえる。
方陣が連続してつくりあげられると、その防御力はさらに高まる。やはり方陣同士の頂点と頂点(つまりそれぞれ二辺をなす横隊)が面するような直線上に配置されるため、どんな方向から攻撃しても二追分の射撃を浴びることとなる。もちろん、方陣それぞれは互いを銃の射程内におさめている。各追をなす横隊は、みずからの前面だけを射撃するため、味方が邪魔になることもない。ひとたび組まれた方陣を破壊できるのは銃の射程外から加えられる平射、擲射《てきしゃ》砲の集中砲火だけであった。
「了解」
「頼むぞ」
大隊長は駆け去った。
新城は中隊に命じた。
「全員、深呼吸三回」
兵たちは大きく息をした。それにあわせたつもりなのだろうか、剣牙虎たちが欠伸《あくび》をかいてみせた。
千早も例外ではない。人間どもがなぜのんびりしているのか理解できないのだった。
第二中隊は新たな敵に対して二度の突撃をかけ、組まれかけていた方陣を突き崩した
大隊主力も呼応している。彼等はようやくのことで態勢をととのえつつあった敵の反撃を全身に浴びつつ襲撃を繰り返し、〈帝国〉軍の将校たちを捕捉した。
すべてが混乱していた。味方も、であった。突撃の連続により、第二中隊の半数はどこにいったかわからなくなっている。新城の右手で敵指揮官にむけて強襲を加えている大隊主力も似たような状況であった。
〈帝国〉軍が白色燭燐弾を一斉に打ち上げたのは、大隊主力が目標をとらえようと飛びだした瞬間だった。
再びすべてが照らしだされた。
敵の後方で一斉射撃の轟音が生じた。人と虎の群があっけなく打ち倒される。〈帝国〉軍が逆襲を開始したのだった。
駄目だ。新城は即断した。
ここまでだ。すぐに後退しなければ、玉砕しかねない。
暗闇から敵兵が飛びだしてきた。兵ではなかった。
将校だった。銃を持っていない。鋭剣で突きかけてきた。
自分の鋭剣を抜く間はなかった。新城は壊れた旋条銃の銃身を両手で握り、ふりあげた。臓俯の奥深くから絞りだされる奇怪な叫びと共に銃床を横薙《よこな》ぎに振る。
硬い厳樫材を削ってつくられた銃床は帝国軍将校の首を襲った。彼の首は半ば潰れ、頭が奇妙な角度に垂れた。
帝国軍将校は崩折れた。
新城は彼の上半身に足をかけ、銃床を抜こうとした。離れない。わけのわからぬ呻きを漏らしつつ新城は同じ動作を繰り返した。視野が狭まる。呼吸があまりにも浅くなる。動悸だけが無闇に高まる。
自棄《やけ》になった。銃身から手を放す。死体が倒れ伏す。無意識のうちに両手を胸と腹にこすりつけた。
まったく意味のない動作だった。しかし理由はある。
両手につたわった妙な歌らかさのある手応えは、あまりにも気色が悪すぎた。
剣牙虎の雄叫びが耳朶《じだ》を打つ。新城は呼びかけられた方向へ視線を向けた。
ほんの二身ほどの場所に、口のまわりを朱に染め、牙に奇妙なものを突き刺したままの千早がいた。相貌には歓喜の輝き。主人を励ましているようだった。
新城は大きくよしと笞えた。自分が愚かな真似をしていたことに気づく。壊れた旋粂銃などどうでもよい。腰帯には鋭剣と拳銃がある。
彼は鋭剣を抜き放った。
千早へ歩み寄る。おそらく、これだけ間の抜けた真似をしても生きていられるのは、千早が他の邪魔者を喘み殺してくれたから。誉めてやらねばならない。
千早は血なまぐさい息を吐きながら喉を鴫らせた。
額を揉んでやる。彼の子猫は目を細める。
新城は牙に注目した。
突き剌さっていたのは人間の腕、その一部だった。
切り裂かれた断面を見つめつつ彼は妙な納得をした。
人間にも赤身だけでなく脂身があるんだな、あの白いものがそうなんだろう。牙からそれを抜き、放り投げる。今の彼は嘔吐感など覚えない。
猪口が駆け戻ってきた。後方には二名の兵。猫も一匹。うん、いいぞ。新城は満足した。猫一匹は銃兵二〇名に匹敵する。すくなくとも、このような環境であれば。
新城は訊ねた。
「大隊本部の位置はわかるか?」
「全滅です!大隊長殿も戦死されました」猪口は報告した。悪罵を吐きつけるような声だった。
「なるほど」
新城は冷然たる表情でそれを受け止めた。白分か嫌っていた者。好意を持っていた者。再評価しようとしていた者。すべてが死んでしまった。なんとも現実的なことだなと思った。
「そいつは素敵だ。面白くなってきた」
新城は静かな声で応じた。様々なもので薄汚れた顔面に邪悪な笑いをはりつかせている。
それを正面から受け取った猪口の顔から一瞬表情が消え、やがて復活した。窃盗の常習犯が国事犯をあおぎ見るような顔つきであった。
あきらかな敬意を示しつつ猪口は相槌を打った。
「ええ、まったく楽しくなってきました、中尉殿」
新城は訊ねた。
「ほかに楽しい話は?」
「いまのうちに下がらねば全滅ですな」猪口は応えた。
「いまのところ、そいつが一番いい話です」
「誰が指揮をとっている?」
「何を仰っとるんですか」猪口は大声をあげた。
なにをいまさらという響きがある。
「この大隊の指揮官はあなたですよ、中尉殿」
「負傷者を可能なかぎり救助しろ。孤立している者も、だ。もちろん僕も参加する」わずかな迷いも見せずに新城は命じた。
「難しいですが」猪口が言った。
「だからどうだと言うのだ」新城は僧侶の悪夢にあらわれる魔大のような表情を浮かべ、猪口をみつめていた。
「莫迦と勇者は命の値段が違う。曹長、その程度の勘定は誰にでもできるはずだ。違うか? 急げ、君に小半刻やる」
その時間の間に新城と猪口たちは五〇名以上の負傷者を救出した。
孤立していた兵と虎を自分たちの手元に集めてもいる。
救出によって生じた損害は二〇名を越えた。新城はその損害について罪悪感を覚えなかった。
救える者を救いだし、さてとばかりに周囲の状況を新城は確認した。そして猪口に訊ねた。
「青色煽情弾は打てるか?」
「あります。軽臼砲の砲兵は生きてました」
「すぐに打ち上げろ」
新城はむしろ楽しげな声で命じた。
「ただちに撤退する。今宵の地獄はここまでとしよう」
8
硝煙の臭いが染みついたような空気の中を馬は進んだ。
すべてがひどく埃《ほこり》っぽい。それでいながらねっとりとした夏の暑さに満ちてもいた。否応なくそれを吸いこまねばならない人間たちは皆不機嫌になった。重い背嚢と銃を持だされているとなればなおさらたった。時は皇紀五四四年。〈帝国〉軍北領襲来より二四年前の夏、〈皇国〉北東領をなす大島、東浦《とうしゅう》内陸部の情景であった。
しかし、駒洲《くしゅう》公・〈皇国〉陸軍大将、駒城《くしろ》篤胤《あつたね》には、殺伐たる環境へ文句をつける資格はなかった。
彼自身、東洲の穀倉地帯を焦土へ変えた責任、その一端を担っているのだった。
駒城篤胤は、威厳と寛容と勇気、その三つをこね上げて造りあげられた外見を持つ男たった。なかば銀色になったこわい髭の生えた顔面に、そのすべてがあらわれている。
篤胤の顔が示すもの、その効果を増すにあたっては、二間近くにもなる背丈も効果があった。彼は大抵の者より頭ひとつは大きかった。肉体は、六〇を数年後に控えた男とは思われぬほどに引き締まっている。
彼の内面もまたその外見を裏切らない。
は駒城家当主として、初代の昌胤《まさたね》に勝るとも劣らぬ出来物だとの風評を得ている。人を心服させ、心根は優しく、敵に対してはどこまでも勇敢だった。
この時、篤胤が示していた態度も、その風評に違わぬものであった。延々故里の隊列をなして行軍する軍勢の先頭近くにいた。彼の先を進むものは、わずか一個中隊の騎兵にすぎない。篤胤は、指揮官が先頭を進むことをひどく重視する将軍でもあった。
彼は一個軍あまり、約一一万の兵を率いてこの戦いに参陣していた。
「ひどい有様ですね」
半馬身ほど遅れて右についていた若い将校が言った。彼の一粒種である保胤《やすたね》たった。特志幼年学校を卒業したばかりの少尉候補生ながら、父の伝令としてこの戦に参加していた。彼はこの東洲で無数の現実に触れている。
「これが戦なのだ」
篤胤は答えた。内心で、息子の言葉にまったく同意している。
東洲公目《め》加《か》田《た》英直《ひでなお》による乱が勃発《ぼっぱつ》するまで、東側は〈皇国〉でも有数の豊かさを誇る土地であった。
農作物はそれほどでもないが、あちこちで特産品を産するからだった。
ことに、東洲灘を挟んで内地に面した大倉山系の存在が大きかった。そこに設けられたいくつもの鉱山が、良質の鏡鉄鉱を大量に産出するのだった(もっとも、鏡鉄鉱の鉱山は、山間よりも、その東側の平野――夷野《えみしの》平野に面したあたりに集中している)。
大倉山系については他にも重要な面がある。長年にわたっておこなわれてきた植林事業のおかけで、〈皇国〉有数の木材生産量を誇ってもいるのだった。
このため、東洲は農業生産量に比してふつりあいなほどの人口(乱の直前で約五〇〇万)を擁していた。
商工業も発達している。鉱業・本村業はもちろん、その生産物を用いる製鉄業、造船業、生産物を輸送する運送業、それらのすべてに必要な物資を供給する商業全般が盛んな土地であった。必然的にそれは東洲各地に対する資本投下を呼び起こし、農業生産その他も大きな発達を見せていた。
いまにして思えば、篤胤は思った。
農業生産の増大が問題だった。東洲の弱みであった食料が自給可能となったこと、それが東洲公に自活、〈皇国〉からの独立という幻想を与えてしまった。
「覚えておくことだ」鳥胤は息子に言った。「戦はとおりいっぺんの損得勘定だけではじめてよいものではない。間違うと――」
彼は荒れ果てた夷野平野を指し示した。
「ええ、父上」保胤は頷いた。いまさら言われるまでもなかった。敵味方あわせて一〇万を越える軍勢があちこちで戦いを繰り返した結果、東洲は完全に破壊されていた。
おそらくはこれが最後の大乱であろう、篤胤はそう考えていた。
別に高度な戦略的判断力から導きだされた結論ではない。東海列洲全土に、五将家と直接の利害を争う有力将家は残っていないからであった。そうした存在は、この東浦を支配していた目加田英直で最後だった。
しかし鳥肌は明るい気持ちになれなかった。東洲乱の終結は、反五将家勢力の消滅だけを意味してはいないからであった。
五将家もまた疲弊しきってしまった。篤胤はそれを実感していた。かつて全土を統一し、名目上、皇主をもり立てることで東海列洲を支配した五大軍閥。
その勢力は徐々に衰えつつも、軍費を抑え、あるいは皇室に押しつけることで維持されてきた。
しかしこの東洲乱は五将家にとてつもない濫費《らんぴ》を強いた。駒城はまだしもだが、他の四家は経済的な破綻の一歩手前にある。皇室は軍の維持についてそれなりの資金を拠出してはいるか、乱のあいだに必要とされた莫大な戦費、そのすべてを支出した訳ではない。そして、近代化されつつある軍を行動させるために必要な戦費はあまりにも巨額なものだった。
篤胤にとり、なんとも皮肉に思われたのは、戦費の増大、その一因が、五将家間に存在する反目によって助長されたことであった。東洲のあちこちを恩賞として確保するため、五将家は、必要以上なほど活発にその軍勢を作戦させ、東洲全土へと戦火を拡大したのだった。
となれば、篤胤は思った。
戦場で敗北した東浦公の軍勢が最後に示した非道にも、それなりの意味があったことになる。
雲散した東洲勢は、各地で手当たり次第に徴発をおこなった  と言えば聞こえは良いが、つまるところ、略奪たった。指揮官を失い、ただ追いつめられた武装集団と化した彼等は、各地で村を焼き、住民を殺し、女を犯した。それは最悪の野盗でさえひるむような蛮行だった。〈大協約〉、その保護の対象とされているものも襲われていた。
彼等が破壊したものは村や人ばかりではなかった。
富裕な商家はほとんどすべてが襲われたし、鉱山の設備も破壊されている。
東洲全土をつないでいた街道の橋も落とされた。
内陸と海をつないでいた運河、その水門も壊れ、あちこちで川が氾濫《はんらん》をおこしていた。郵便その他に至っては完全な潰滅状態といってよい。東洲の社会資本は完全に破壊されていた。
恩賞。篤胤は正直ぞっとした。
ある程度までは皇室がたてなおすとしても、恩賞として下賜された領地についてはこちらが責任を持たねばならない。街道、運河、郵便制度その他の再建。半壊し、治安が極端に悪化した町々のたてなおし。その実現にどれはどの金穀が必要とされることか。
恩賞は、すべて返上しよう、篤胤はそう決意した。
その場合、この乱で使った戦費はただの持ちだしになるが、恩賞で貧乏になるよりはましだ。
もちろん、一族の中にはそれに反対する者も多いだろうが、なんとかしてねじ伏せなければ。他に、さらなる|凋 落《ちょうらく》を逃れる方法はない。駒城塞の本拠である駒洲――駒走《こましり》ノ国は、農産物、いくらかの鉱物、そして馬の飼育で喰っている土地にすぎないのだから。
やはりこれは皇室の陰謀なのだろうか、篤胤は突然思った。東洲乱の果実(もしそんなものがあるとして)をもっともむさぼることができるのが、彼等であることに気づいたのだった。
もちろん最初のうちは金もかかるだろう。しかし、最終的には、皇室の力がさらに増すことになる。東洲再建にあたり、皇室は、旧天領と同様の極端な自由化政策でのぞむはずだから。というより、皇室はそれ以外の統治法をとれない。すべてを支配するだけの軍事力を持たぬから。
篤胤は急におかしくなった。自由化政策の結末がどこに落ち着くか、それを思いついたからだった。
衆民。すべては衆民の利益になってしまう。それは旧天領の現状が証明している。つまり皇室もみずからの首を締めているということか?前方を進んでいた騎兵の隊列が乱れた。
保胤が注目した。攻撃を受けたのではないらしい。
馬が暴れているのだった。怯えた噺きをあげている。
「物見してまいります」保胤は言った。篤胤はおうと頷いた。保温のまたがった栗毛が駆けだす。篤温は息子の後ろ姿を満足げにみつめた。一人息子は優しすぎる人間なのではないか、それが彼の悩みのひとつであるからだった。
保胤の愛馬もすぐに怯えはじめた。はねあがり、前に進みたがらない。
彼は年齢相応の勇気でもって馬をおりだ。手綱をそばにいた兵に預けると、隊列の乱れたあたりへと駆けた。まぎれもない野獣の咆眸がきこえた。
「司令官閣下の命により物見に参った」保胤は叫んだ。
「若殿」怯える馬をなだめていた騎兵指揮官が振り返った。彼の階級は大尉で、もちろん、少尉候拙生である保胤より高い地位にある。しかしながら、彼の率いる中隊は篤温の  駒城家の私兵に近いものだった。保胤に乗馬の手ほどきをしたのも彼であった。
彼の名は益満敦紀《ますみつあつのり》。駒城家重臣団名門の出身だった。益満家は、かつて諸将家のひとつにかぞえられたこともある家であるから、一般的な意味での家格は主家に次ぐほどだった。同じ重臣団の河田《かわだ》、佐《さ》脇《わき》といった家も似たようなものであった。
「いったいなにが?」保胤は訊ねた。公的、私的な地位の逆転をあいまいにするため、ひどく言葉を惜しんでいる。
「妙な餓鬼が」敦紀は答えた。
「子供?」
「ええ。二人連れの。そいつらが、剣牙虎を」敦紀は慌てているようだった。無理もない。彼の中隊が進まないため、全軍が足止めを喰っている。
らちがあかないと見た保胤は行動をおこした。
騎兵たちをかきわけるようにして連む。怯えた馬が邪魔だった。危険でもあった。若をおまもりせよ、という敦紀の声が聞こえる。自分も馬を降りたらしい。
兵たちは保胤を押しとどめた。いや、大丈夫だよと応じつつ彼は前に進む。
薄汚い子供たちだった。男の子と女の子。後者が数歳年上に思える。埃と垢《あか》――そして、恐怖に塗り固められた見かけであった。
剣牙虎は彼等の前でこちらを睨みつけている。守っているつもりなのだった。首輪が填《は》[#第二水準外漢字につき置き換え、土+ヒ+県(下部”小”の中央の棒なし)]められている。どこかで飼われていたものが逃げだしたようだ。東洲に野生の剣牙虎はいない。そういえば、剣牙虎を軍に採用し、部隊を編成するという計画はどうなったんだろうと保胤は思いだした。
「射殺しますか?」保胤の脇に立った兵が訊ねた。
「いや」
保胤は首を横に振った。
剣牙虎がどれほど危険な獣か、彼は熟知している。
子供の頃、わずかな供勢だけを連れて鷲狩にでかけた虎城の山道で剣牙虎につけ狙われたことがあるのだった。あの時の恐怖はいまだに忘れられない。
いまも、射殺する前に、少なくとも七、ハ人は噛み殺されてしまうなと判断していた。もちろん射殺についてあっさり頷くこともできる。しかし、それは保胤にとって許し難い愚かさを意味した。
保胤は兵に訊ねた。
「あの子供たちは?」
「何も喋りません」敦紀は笞えた。「さきほど、曹長殿が声をかけられたんですが、剣牙虎が吠えまして」
「うん」保胤は頷いた。先ほどの吠え声はその時のものだったようだ。
「若殿」
ようやくのことで追いついた敦紀が言った。
「困ります。もしものことがあれば」
「大尉殿」保胤は突然言った。背筋をのばし、敦紀に視線を据える。
「自分にあれを任せてもらえませんか? まず、話してみます」
敦紀の困惑はさらに深まった。保胤が、少尉候補生としての態度をとってみせたこともそのひとつたった。彼は言った。
「危険です」
「どうか、自分に」保胤は重ねて言った。
敦紀は眉をひそめ、ふた呼吸ほどためらった。それから、兵に銃の照準をつけさせてからですよと言った。
馬をさげてください、保胤は言った。剣牙売はあれを敵と見ているようです。
準備が整うのを待ってから保胤は前にでた。剣牙虎が低いうなりを漏らす。
「君たちのかい?」保胤は訊ねた。可能な限り朗らかな表情をつくっている。背中に噴きだした汗は、夏の暑さだけが理由ではもちろんない。
二人の子供と剣牙虎は彼に視線を据えた。猛獣より子供の方が恐ろしい目をしているとは何か理由だと保胤は思い、すぐに反省した。まったく。この乱が元凶に決まっているではないか。
何を言ったらよいだろう、保胤は迷った。月並みな言葉を口にする。
「何かしてあげられることはないかな?」
それを閉いて、男の子はさらに冷たい目を浮かべた。対照的に、女の子はわずかに顔をゆるめた。風呂に入ったあとならばずいぶんと可愛く見えるんじゃないか、保胤は思った。
女の子が口を閉こうとし、再び閉じた。保胤は微笑を浮かべた。
「お家はどこ? 誰かに送らせよう」
「ないの」
消え入りそうな声で女の子が言った。
「なくなっちゃったの」
保胤は頷いた。戦災孤児。しかし、姉弟にも見えないが。どうすべきか。
「一緒においで」彼は言った。「まず、御飯を食べさせてあげる」
女の子は彼の言葉を誤解したようだった。男の子の腕をつかんだ。
「もちろん、二人ともだよ」
保胤は言った。どうも男の子のほうはあれだなと思ってはいたが、そうとでも言わなければいつまでたっても行軍を再開できない。
女の子が笑みをうかべた。花のようだった。誰もが嬉しくなるような笑みであった。
しかし男の子は相変わらずたった。視線が、保胤、女の子、剣牙虎のあいだを揺れている。
仕方がない。保胤は思った。剣虎兵は好きじゃないんだが。彼は言った。
「君の剣牙虎も一緒だ。誓うよ」
「子供二人に剣牙虎一匹」白乙子から報告を受けた篤胤は呆れたように言った。
「どういうつもりだ? 貴様の行為が偽善だとわかっているのか? おまえはその調子ですべての孤児と獣を救ったうつもりか? 白分かそれはどの人間だとでも?」
「申し訳ありません、閣下」保胤は父に答えた。
「しかし、他に方法がないと自分は判断いたしました」
「で、どうするつもりなのだ?」
「面倒を見てやろうと思います。父上のお許しをいただいて育預《はぐくみ》ということに。まあ、姉弟という立場で育ててやりたいです。いずれは、なにかのかたちで身が立つように」
やはり優しすぎるな、篤胤は思った。しかし、けして不快ではなかった。この息子を産んですぐに儚《はかな》くなった正室のことが思いだされた。つまりはこれが親子というものか。
「困ったことをしてくれる」篤胤は言った。
「申し訳ありません。しかし、自分は彼等に誓ったのです。それに」
「それに?」篤胤は訊ねた。
「戦はもう終わりました、父上」保胤は言った。
「ならば、我々は人として為すべきことを為さねばなりません」
この時の彼は、自分か歴史に対して何を為したのか知りもしなかった。ただ自らの正義を信じていただけであった。
いや、自分か二人の子供――女の子と男の子を救った本当の意味について、生涯気づくことがなかったかもしれない。
女の子はのちに彼の愛妾《あいしょう》、実質的な正室となった。男の子は軍人となり、寒気と風雪に閉ざされた冬の地獄へと赴いた。
[#改ページ]
最初は何かわからなかった。
自分がしっかりと顔をうずめているものの柔らかさ、そこから発せられる甘い香りに包まれてひどく幸せだった。しばらくしてそれが何であるかに気づいた。義姉の胸だった。新城はそこへ幼児のように身を寄せていた。
となればこれは夢だと新城は考えた。自分か義姉の身体へ触れたのは幼い頃だけ。その後は、あの甘やかな香りをわずかに嗅ぎとることいがい許されていない。
まずいな。夢の中にある者に特有の反応で彼は考えた。このまま楽しんでしまいたいのはやまやまだが、そうしてしまえば、目覚めたあとでずいぶんと情けない思いをするのではあるまいか。
目が覚めた。
小さな天幕の中につくられた寝台だった。雪の上に積まれた藁《わら》、その上に油布や毛布を布いてつくられている。空気がひどく冷えこんでいた。なにもかも重ね着して寝ていたというのに、背筋が震えた。
ああと新城は思う。股間の感触に気づいたのだった。早めに目を覚ましてよかった。もう少し楽しんでいたならば、あぶないところだった。こんなもので凍傷にでもなったら、情けないどころではない。
突然、義兄――駒城保胤に組み敷かれてあえぐ義姉の姿が思い浮かんだ。もちろんそんな光景を目にしたことはない。しかしそれは現実に存在するものだった。頭から血が引き、寝床へ再び潜りこみたくなる。しかしその欲望にはかろうじて耐える。
細巻をくわえた彼はそれを吸って気分を落ち着けた。いれかわりに尿意が強まってくる。外にでなければならない。天幕の中は明るい。すでに陽が昇っているのだった。あの夜襲から三日が過ぎている。
[#〈皇国〉陸軍独立捜索剣虎兵第11大隊 編成 図 挿入(底本P129)]
夜襲は〈帝国〉軍へ大損害を与えていた。すくなくとも三個大隊が潰滅したはず、新城はそう判断している。友軍の斥候が手に入れた情報もそれを裏付けていた。
だが、独立捜索剣虎兵第一一大隊も深傷をおっている。ひどいものだった。大隊の残存兵力は三〇〇名に満たなかった。小隊を上等兵が、中隊を少尉と軍曹が指揮していた。残存兵力には戦闘可能な負傷者も含まれている。通常ならば、組織として機能できなくなるような――全滅と判断されるほどの損害であった。
新城はその部隊で生き残った最上位の将校であった。生き残りを集めて指揮をとり、悲壮からは縁遠い心理で二日のあいだ悪戦した後、真室大橋を渡った。橋は、彼等が渡った直後、工兵隊によって爆破された。橋の向こうにはいまだ千名以上の友軍が取り残されていると考えられていたが、これ以上待つことはできない、そう判断されたのだった。
天幕の外にはきちんと衛兵が立てられていた。すくなくとも部隊の士気は維持されているということだった。
新城はそれを特に喜ばなかった。自分は、それを可能とするだけの手を打っていると思っている。
彼は宿営地の風下側に造られた便所へとゆっくり歩いた。将校はいかなる時も慌ててはならない、そう定められているからだった。正直なところ苦痛であった。しかし、小便が我慢できないという程度で兵の士気を揺らがせるわけにもいかない。
我慢してゆったりと歩き続ける。歩いてゆくに連れ、股間から血液が引いてゆくのがわかった。寒気と心理の影響だった。同時に、走りだしたくなるほどに尿意が強まってゆく。陰茎が無感覚になるような強さだった。
露天の便所(と言っても雪庇にいくつもの穴が等間隔で据られているだけだが)にたどりついた彼は
軍袴《ぐんこ》の前留をあけた。並の状態でもさほど雄大とは言えない彼の道具は、寒さと小便を耐えていた緊張でさらに悲しむべきありさまとなっていた。放尿をはじめるには膀胱のあたりを一度おさえてやらねばならなかった。
虚脱に近い解放感。股間が引きつるほどの勢いで放尿する。おはようございますと言う声が横から聞こえた。新城はそちらをむき、おうと答えて視線をそらした。声の主は猪口であった。ふんばっている。
小使はなかなか終わらない。新城は、ただ何も考えず、雪庇にうがたれてゆく黄色い穴を見つめていた。湯気が奇妙にだのもしかった。背後で喉をならせる音がきこえた。新城は振り向かずともわかった。
千早だった。前脚をまっすぐにのばし、尻を雪庇につけた姿勢でごろごろと言っていた。朝の散歩にでもでていたらしい。
大隊本部は林中の宿営地、その中央に置かれていた。三〇人ほどが入れるような大天幕であった。本来は大隊の装備ではない。先に撤退した部隊が捨てていったものを徴発したのだった。新城は、よほどのことがないかぎり、そこで兵が眠ることを許していた。しかしすでに起床時刻はすぎており、なんとも寂寞《せきばく》たる陣容となった大隊本部要員のほか、誰もいなかった。それでも、とにかく火鉢があるだけ有り難かった。火鉢は一人の兵がどこからか工面してくれたものだった。あの夜襲以来、新城は兵からそうしてしかるべき指揮官と見られている。
「おはようございます」
机にひろげられていた地図を眺めていた漆原少尉が挨拶した。新城もおはようと笞えた。漆原をふくめ、大隊には四人の少尉しか残されていない。いや、四人残っただけでも運が良かった、そう考えねばならなかった。当番兵が新城へ黒茶を煎れた。彼はありがとうと言った。
「なにか連絡は?」新城は訊ねた。
「部隊行動については特にありません、大隊長殿。
ああ、それと――あなたの野戦昇進が正式に認可された旨、連絡がありました。おめでとうございます、大尉殿」
新城は首の骨を鳴らせた。
「正直、嬉しくないわけじゃないが、そんなものより撤退の命令が欲しい。たかだか大尉に昇進したおかげで名誉の戦死では、割があわない」
「お察しします。ええ、まあ、正直なところ、自分もまったく同感です」
新城はちらりと微笑した。漆原は彼の五年後輩
特志幼年学校出身者たった。彼と同様に、名のある家の出身ではない。皇部にある大きな読本屋の三男であった。父親は衆民院の議員だったことがある。
新城は訊ねた。
「大隊の状況は?」
「大きな変化はありません」漆原は即答した。「銃弾薬は一人あたり八〇発――」
「失礼します」
猪口だった。新城に敬礼し、漆原に伝える。
「少尉殿、失礼ながら、弾薬はひとり当たり八七発です。申しわけありません。少尉殿がお寝《やす》みのあいだに再配分いたしました」
「そうか」漆原は素直に頷いた。「ありがとう、曹長。申しわけありません、大隊長殿」
いいよと新城は手をあげた。
漆原はいささか真面目すぎるところのある若者だった。しかし、愛嬌もある。そこに経験というものが加われば、よい将校になるのではないかと新城は考えていた。たしかに、愛嬌が意図的な諧謔昧《かいぎゃくみ》へと進化したならば、そうなれるかもしれなかった。
兵は劣勢のもとで焦りを面にださぬ指揮官こそ信頼の対象とする。
天幕の中へ千早が顔をだした。啼《な》く。新城は頷いた。彼の大きな子猫は嬉しげに身をすり寄せ、傍らへどっかりと寝そべった。頸《くび》を微妙にかしげ、鋭く突きだした牙が邪魔にならぬようにしていた。いつものことながら器用なものだと新城は感心した。
漆原は現状の説明を続けた。ありていに言って、どこにも明るい要素がなかった。
まあ、大隊を野戦昇進の不良大尉と殴り倒した憲兵の数は敵より多い曹長が指揮しているのだからなと新城は思った。このさき何か可能だろうと考える。
大隊はその重装備のほとんどを失っていた。つまるところ、頼りになるのは兵と猫にすぎない。しかし兵は疲労しきっており、猫は五匹しか生き残っていなかった。兵のうち一〇〇名近くは、どこかほかの部隊の敗残兵をむりやりかきあつめたものだった。
まともな任務には使えない。
しかしながら、もちろん抗戦の継続は可能だ。新城はそう判断している。
問題は、あと二度殴り合えば、こちらが皆殺しになることだけ。なんとも明快きわまる。
この戦は、〈帝国〉軍の奇襲上陸によって始まった。おかげで、こちらの対応はすべて後手後手にまわり、ついには主導権をとられっぱなしになってしまった。なにしろ、北領の防衛を司る指揮機構を、鎮台から軍へ切り替える間もなかったほどなのだから。いかに大差はないとはいえ、鎮台は平時向きの、軍政機能を重んじた組織になっている。そこにあれこれと参謀や支援部隊をつけくわえた軍に切り替えた方がなにかと便利であったに違いない。いや、便利であるからこそ、”戦時ハ鎮台司令官ヲシテ一軍ノ将帥《しょうすい》ニ任ズ”――つまり北領鎮台を北領軍へ切り替えると軍制綱領に定めてある。しかし混乱がそれを許さなかった。北領の〈皇国〉軍は、軍政機構のまま侵略に対処せねばならなくなった。そしていまはこの為体《ていたらく》。はたしてそのうち、どれほどが必然のなせるものだったのか。
面白いものだな、新城は思った。
状況は絶望的を通りこしている。なのに、自分はそれなりに平静を保っている。戦度胸《バトルプルーフ》という奴だろうか。どうかな。自棄になっているだけかも。
彼は千早の喉を撫でてやった。猫の頭と喉、どちらを撫でたらより喜ぶのかは、いまだに議論のあるところだった。まあ猫によりけりだろうと新城は思っていた。千早にしても、常に同じ反応を示すわけではないからだった。迷惑そうな顔をする時もある。
「猫に餌はやったか?」新城は訊ねた。
「肉を準備しとります。問題はむしろ糧抹《りょうまつ》の」
漆原は答えた。
天幕の入り口がめくられた。失礼します、と兵が顔をたす。彼は馬肉らしい塊を抱えていた。
新城は頷いた。兵は肉を千早の前に置いた。千早が新城を見上げる。新城は背を軽く叩いてやった。
千早は肉に飛びついた。入に飼われる剣牙虎がなぜ人肉だけは喰らわないのか、その理由はよくわかっていない。
新城は訊ねた。
「問題は?」
「糧抹の糧、こっちの糧食です」漆原は笞えた。
「糧食は〈帝国〉軍から分捕った洋餅《パン》がぼちぼちで。
ひとり片手ぶんです。鎮台の兵站《へいたん》はここ数日でさらに滅茶苦茶になりましたから、まともに届きゃしません」
新城は頷いた。漆原の言うとおりだった。真室川を越えて以来、鎮台輔重《しちょう》段列による補給の実際はさらに悪化していた。輜重品そのものは船で大量に送りこまれているから、ものが足りない、というわけではない。撤退作戦の進行にともない、誰も彼も、まともに戦争をやる気が失せつつあるのが理由であった。
輜重兵の身になってみれば、はるばる輔重輸送にでかけ、帰ってみれば誰もいない、ではたまらない。
新城にはどうにも対処のしようがない問題であった。
実のところ、他にも糧食を手に入れる方法はあった。剣牙兵たち同様に、戦場に転がっている敵味方の馬の死骸、その肉を喰えばよい。
だが、調理のために火を熾《おこ》せば、敵に発見されてしまう。たしかに敵の主力はいまだ真室川を渡っていないが、斥候のほうはわからない。いや、絶対に渡河しているだろう。現状で不必要に目立つことは避けねばならない。
だからといって、凍りかけた生肉をそのまま喧うこともできない。生肉から滋養分をとりこむ前に、その冷たさで腹を壊しかねない。下痢にでもなれば致命的であった。体力が低下するだけではない。鼻の良い敵兵に臭いで発見される可能性もあるのだった。これはこれで大変にまずい。渡河している可能性のある敵は斥候程度とはいえ、そこは〈帝国〉軍、中隊規模の戦力はもっているはずだった。下痢便の臭いが原因で奇襲されたのではたまらない。
うまくいかない時はこれだからな、新城は苦笑いを浮かべた。死ぬ原因までくだらなくなる。
しかし、兵に空きっ腹をかかえさせることは、できうる限り避けねばならない。
新城は訊ねた。
「警戒線はどうなっている?」
「昨日のご命令どおり、宿営地から五里北方に張ってあります。報告はありません。いまのところ、真宗川南岸にはまだいくらか友軍がおりますので。しかし、街道で引っかかっている砲兵旅団が後退したあとは」
漆原は口ごもった。
新城は地図をみつめた。
彼の(そう、彼の)大隊は爆砕された真室大橋の南方に一〇里はなれた側道脇に宿宮地をおいている。
彼等より敵に近い位置にいるのは、天狼会戦でさはどの損害を受けなかった独立砲兵第七旅団だけだった。しかし、彼等もまた後退を開始している。数日中にはここからひきあげてしまう。
となれば、他にあてになりそうな友軍は、北領街道上で頑張って(というか、取り残されて)いる近衛衆兵第五旅団だけになる。なんとも頼りない。近衛衆兵は天領衆民によって編成された志願兵部隊だが、その弱兵ぶりはつとに知られていた。さらに困ったことに、第五旅団の旅団長は皇族――実仁親王であった。であるならば、第五旅団と新城の大隊、どちらが貧乏籤《びんぼうくじ》をひかされるかはわかりきっていた。
「ともかく、増援は要請してみよう」新城は言った。
「導術の連中、休養はとれたのか?」
「二、三人は大丈夫なようです。といっても、五人きり生き残っとりませんが」漆原は答えた。
「一人呼べ」
やってきたのは金森であった。新城は可能な限りの増援をよこせという要請を伝えろと命じた。もし許可が得られないのであれば、撤道中の砲兵に猫をけしかけてでも兵力を増強するつもりであった。
兵たちが騒いでいる。
新城は眉をひそめた。立ち上がる。剣牙虎の啼き声も響いた。急いで外にでる。
周囲をみまわす。地上にはなんの問題もない。兵と虎は空を見上げていた。
新城もそこを見た。そういえば、意識して空をみあげるなど坂東を――あの天龍を見送って以来だなと思った。
晴れていた。冬にだけ存在する、あの清涼な青空であった。ここ一〇日ほどではじめての晴天だった。
天空には白くぼんやりとした太い帯があった。光帯と呼ばれている。夜になれば、まさにその名のとおり、美しく輝く天上の帯となる。それは無数の小さな星でできているのだとかつて新城は教えられた。
しかし兵と虎はそれを見上げているのではなかった。そこを飛んでいるものだった。
龍であった。天龍ではなかった。翼龍であった。
翼に白い線を描いている。友軍の翼龍たった。
なにか連絡があって命令文を詰めた通信筒でも落しにきたのかと新城は思った。違うようだった。翼龍は速度と高度を落しはしめた。着陸するつもりなのだった。千早が大きく吼えた。
翼龍には二人の人間が乗っていた。一人は龍士、もう一人はえらく着膨れた水軍の中佐であった。中佐の名は答嶋と言った。千早を先頭に、五頭の猫たちが翼龍の鼻面へ顔を近づけた。翼龍は高い声で小さく啼いた。
猫たちはあわててとびのいた。しばらくすると再び近づき、一緒に遊びはじめた。新城は龍士になにか暖かいものをやれと命じた。
水軍の中佐が探るような表情で新城を見つめ、訊ねた。
「新城大尉かね?」
「いかにも新城直衛大尉ですが」新城は答えた。
「自分の名を知るあなたは?」
「笹嶋中佐。水軍だ。転進支援隊本部司令」着膨れた水軍中佐は何かに面白昧を覚えた表情を浮かべていた。
「転進? 敗北や撤退の姑息《こそく》な言い換えですな」新城は言った。
「軍事的表現と言ってくれ給え、君」笹嶋は答えた。
彼等はお互いの顔をふた呼吸ほど見つめ合ったあと、どちらともなく笑いだした。
失礼しました、中佐殿と新城が先に言った。
笹嶋と敬礼をかわし、大隊本部へ案内した。火鉢をすすめ、暖かいことだけが取り柄の黒茶をだしてやる。笹嶋は両手で金《かな》茶碗を覆い、ありがたそうにそれを飲んだ。人払いをしてくれと言う。新城は漆原と猪口に頷いてみせた。
「それで」新城は人心地ついた笹嶋に訊ねた。
「当方への御用件は、中佐殿?」
笹嶋はそれに答えず細巻をくわえた。新城にもすすめる。新城はそれを受け取った。香りをかぐ。驚いた。南領産の上物だった。疑念が生じた。たいした意味もなくちょっとした善意をしめすものは信用ならない、そう彼は信じている。
「部隊の現状は? 戦闘は可能なのかね?」紫煙を吐きながら笹嶋は訊ねた。
「役人される戦況によります」新城は答えた。わずかに険のある声だった。自分も細巻に火をつける。
やはり旨かった。
「ああそうか」笹嶋は理解した。
たしかに、自分の質問はなんの意味もないことに気づいたのだった。能力評価は、その能力が用いられるべき状況が明確に示されないと意味がない。彼は詫びた。こうした点、笹嶋はまったく素直な男たった。
「済まない。私は水軍なものだから、陸式の正確な表現に自信がなくてね」
「殿軍《しんがり》ならば、五日や六日は続けられます」
新城は言った。
笹嶋の質問、その本意を理解した返答だった。水軍士官にもわかりやすいように、殿軍という古典的な用語で表現している。そうした言葉は、最近、慣用句、あるいは部隊指揮官の好みでもない限り用いられなくなっていた。通常は後衛戦闘と表現される。
撤退援護戦闘などという装飾過剰な用語もある。
「攻撃は?」笹嶋は訊ねた。「たとえば敵の後方へ潜りこんで、待ち伏せを行うと言うような」
「情報があれば、可能です。兵員は半減していますが、猫はまだまだ元気なので。五頭だけですが。一〇〇名の兵に匹敵します」新城は笞えた。
「猫?」笹嶋は質問した。
「剣歯虎のことか?」
「剣歯虎。娑婆《しゃば》の言葉ですな。いや、学者言葉かな」
新城は言った。莫迦にしている口調ではない。
「陸軍では、公式には剣牙虎と呼びます。兵科として呼称する場合は剣虎、あるいは剣牙兵。そして自分らは猫と呼びます。まあ、本物の猫よりずいぶんと性格は素直ですが。子猫のうちからつきあっていると、むしろ犬に近い性格になります。かわいいですよ」
「かわいい?」笹嶋は呆れたような表情をうかべた。
新城の背後でうずくまっている千早を眺める。彼は言った。
「たしかに、ずいぶんと頼もしくはあるが」
「そう思わなければつきあえません。船乗りにとっての船と一緒です」
「なるほどね」笹嶋は納得してみせた。用件を持ち出すための雑談はここまでだった。彼は言った。
「君に頼みがある」
「失礼ですが、中佐殿」新城はそれまでとうってかわった醒めた声で訊ねた。
「あなたの権限はどのようなものでしょうか?」
「当然の質問だな」笹嶋は頷いた。
「私は転進支援隊司令として、転進作業全般を監督する権限を与えられている」
「監督」新城の眉が一瞬、疸學した。
「妙な言葉ですね。すくなくとも指揮ではない」
「そのとおり。上からそう伝えてきた。北領鎮台司令部も承認してはいるか、正直なところ、どんな権限が与えられたのか私自身にもよくわからない。そうした次第だから、こうして下手《したで》にでている訳だ。まあ、わたしの階級が君に効かんのはわかっておるが」
「ああ、そうだったのですか」新城は答えた。諧謔味を含んだ声だった。
「で、まあ、頼みたいのだ」いくらか意外そうな表情を浮かべつつ笹嶋は言った。
「嫌だな」新城は呟くように答えた。幼児のように言葉を反復させる。
「嫌が嫌だ。凄く嫌だ。英雄なんて冗談じゃない」
「何を頼むかわかったのか?」笹島は驚いたように訊ねた。
「僕も我軍のおかれた現状は理解しているつもりです」新城は答えた。
「すぐに撤退しろという命令のはずがない。だとするなら、その逆のはずです」
「一〇日だ、大尉」笹嶋は言った。
「予定が遅延している。残兵を救いだすのに、あと、一〇日必要なのだ。君がこの半島で一〇日の時間を稼いでくれたならば、なんとかなる。いや、救出そのものにはもう二日ほど必要だが、敵も歩かねばならないからな。なんとかなる。皆を救い出せる」
「私の大隊をのぞいて?」
新城は訊ねた。
「美名津の港が使えたら良かったのだが」答嶋は答えた。
「なぜ使えないのですか」
「おそらく〈帝国〉に寝返っているのだろう。しかし証拠がない。それに、どちらにしろ〈大協約〉は守らねばならない。美名津の人口は二千人を越えている。つまり、〈大協約〉の市邑保護条項、その対象に含まれる。無理強いはできん。〈大協約〉が交わされたころ、二千人もいれば大都会だったからな。
まったく、歴史以前の時代に交わされた約定のおかげで大迷惑だ。いや、内地でないだけましだな。内地ならばどんな町や村でも勝手な真似はできんからね。ともかく、こちらが使えるのは寒風に吹きさらされた北美名津の浜辺だけだ」
「おかけで面倒が自分の大隊へ押しつけられるわけですか」新城は細巻を火鉢に投げた。笹嶋が差しだす新しい細巻を受け取った。さきほど投げ入れた細巻を拾い、火を点けた。熱かったらしい。細巻を拾い上げた右手の親指と人差指を嶮で濡らせた。
「家名はあげられる」笹嶋は言った。
「家名? そんなものありはしませんよ。自分ひとりきりですから」新城は答えた。にべもない調子だった。
「いやそれだけではない。君、あの駒城家の係累《けいるい》だろう? 調べたのだ」
「ええ。しかし、血はつながってません。育預――僕がちょっとしたおこぼれをあずかっている家です。姓もそのひとつで。一字貰って一家を立てたのです」
新城は頷いた。
「つまり、なにもかもが借り物貰い物と言うわけで」
「別に全滅する必要はないのだ」笹嶋は言った。
「似たようなものです」新城は答えた。
「どうあっても受けてくれないとあれば」
「脅し、ですか?」
「ああ。脅迫だ。軍の命令系統によらずして軍事的奇跡を期待するからには、お互い、それなりの覚悟が必要というわけだ」
笹嶋は素直に答えた。
「正直、一万二千名の脱出と、残存兵力三〇〇名の剣虎兵大隊、その全滅はずいぶん歩の良い取引だからね。軍事的にみるならばまさにそうだ。必要なら君を抗命の答で斬首《ざんしゅ》させ、だれかもうひとり運の悪い大尉か少佐をみつけて君の大隊を率いさせる。兵士は君のことを恨むぜ。もしかしたら、君のかわいい大きな子猫たちもね」
新城は細巻を吹かした。眉を揉む。細巻を半分ほど灰にしたところで口を開いた。
「まず、いくらか増援がいります。新たな導術兵や猫は無理としても、せめてもう二〇〇名の銃兵、騎兵砲、馬車、それに糧抹。無理をするからには、きちんとした部隊でなければ」
「手配する」笹嶋は答えた。
「僕と同じ不幸に見舞われている友軍はおりますか?」
「近衛衆兵第五旅団も、ああ、後衛戦闘は続ける。
君たちほど過酷な運命を嘆いているわけではないが」
「親王殿下の率いている部隊が、ですか?」
「これは聞いた話なんだが」笹嶋は言った。
「殿下は―−実仁准将はなかなかのひとらしい。撤退しろという命令を断ったそうだ。負け戦なればこそ、皇族がいいところを見せる必要があると言って。
本当ならば、皇室尊宗の念をあらたにしてもいいぐらいだよ」
「本当ならばね」新城は言った。「しかし兵にとってはどうでしょうか」
「不敬だぜ、その言いぐさは」笹嶋はごまかした。
本気でそう言っているわけではなかった。
新城は眉毛をわずかにあげ、言い直した。
「ならば、一水軍中佐の言葉を、五将家がどう捉えるか、そう言ってもいい。僕は確かに五将家のひとつとかかわりがあります。しかし、誰からも愛されているわけじゃない。その点についてはよほど自信があります」
笹嶋は両手を火鉢にかざし、応えた。
「それほど気にする必要はない。水軍は皇宗の直轄だ。五将家の影響力は、陸軍にくらべ、よほど小さい」
事実だった。歴史に関係がある。
〈皇国〉上代、水軍の政治的地位はたいへんに高ものだった。
よく知られているように、歴代皇主の事績を記した「皇記」は、”狼牙《ろうが》剥シテ島影薄シ。のという一文ではじめられている。これは、初代皇主・明英《めいえい》帝が1艘の軍船に乗りこんだ二〇〇名の男女と共に皇嶼へ臨んだ情景を描いている。あまりにも出来過ぎた場面で、とてものこと、同時代の記録(かつて、「皐記」はそうだとされていた)とは思えない。実際、後代の加筆による創作であることが、すでに明らかになってはいる。
が、史実の一部を象徴的に描いたものであろう、とは今もなお認められていた。それは水軍なくして皇宗による東海列洲制覇は実現しなかったことを表しているのだろうと考えられている。それが証拠に、上代――皇紀二〇〇年頃まで、〈皇国〉における水軍の地位は大変に高かった。皇室の双璧として耶麻城《やましろ》家と共に権勢をふるった長瀬《ながせ》家は、水軍の長をつとめる家柄であった。
しかし、現在の水軍は、完全に陸軍の下位に置かれている。その原因は皇紀二〇七年に勃発した嘉門《らもん》ノ変にもとめられるだろう。
嘉門ノ変は、〈皇国〉正史において、謀反を企んだ長瀬家を誅滅《ちゅうめつ》した義戦とされている。もちろん現実はそこまで素直なものではない。激化の一途をたどっていた長瀬家と耶麻城家の政争、その最終段階で、耶麻城家が先手を打てた、というだけのことであった。
嘉門ノ変によって長瀬家は絶えた。真相はともかく、これにより水軍と陸軍の地位は逆転した。耶麻城家は陸兵の長たる家柄であるからだった。耶麻城家から枝分かれした二〇以上の将家が相争った後の三〇〇年間、諸将時代においてもその点に変化はなかった。各将家は独自の水軍を保有したが、その規模は比較的小さなものにとどまり続けた。つまるところ、南北三千里に途する東海列洲は、当時、〈皇国〉に居住していた人口に比すれば、ひとつの大陸と言ってよい広大さを持っていたからであった。
国家に直接奉仕する軍事力としての水軍が復活したのは皇紀五三六年であった。
この前年、皇室に対する名目上の臣従を再び誓約、連衡した安東《あんどう》、西原《さいばら》、駒城、守原、宮野木の五将家が、すべての地方勢力をその支配下に組みこみ、統一目家としての〈皇国〉を復活させた。国土の三割を占める峻険《しゅんけん》にすぎる山岳地帯以外のすべてが豊穣と呼ぶほかない平野であるという東海列洲の極端な地形が、人口と農業・商業生産の爆発的な増大をもたらし、全土を支配するだけの軍事力、その動員を可能にしたのだった。
とはいえ、いつの時代も戦乱の終息は兵備の削減を強制する。
五将家もその例外ではなかった。彼等は、規模の割には無闇に全を喧う水軍を、一斉に皇室へと献上、そののちに陸兵の削減をおこなった。陸兵削減は将家間の軍事的均衡を保ちつつ実施されたため、その完全な実現には三〇年もの時が費やされることになった。
この時間の浪費は五将家の体力を著しく減じた。
ことに、商工業への参入がほぼ完全に自由化された旧天領とのあいだに大きな経済格差が生じることになった。陸兵の直接指揮権を持つ五将家は、皇主よりその維持をゆだねられた陸兵――陸軍のさらなる削減でそれに対抗し、結果として、〈皇国〉陸軍正規兵部隊の弱体化を招いた。
それは半封建的性質をもった軍事制度の必然的欠陥であった。
五将家は、〈皇国〉陸軍正規兵部隊を、白身の領内から徴募、編成する権利を有していた。より形式的に言えば、皇主からその権限を与えられていた。武をもって覇をなした者だちとしては当然の権利だった。
しかし、権利には義務が付随している。この点について言えば、義務とは、装備その他を自弁せねばならないことだった。技術の発展とともに、それには莫大な費用が必要になっていた。正規兵部隊弱体化の一因はここにもあった。五将家の経済力では、最新の技術を用いた武装をととのえることができないのだった。たとえば、正規兵部隊への旋粂銃導入が遅れている原因はその点にあった。訓練にも同様のことが言える。それについても予算が必要とされるからであった。ある意味、北領における苦境は、〈皇国〉みずからが招きよせたものなのだった。
結局のところ、五将家が守りえたものはそうした既得権と、〈皇国〉陸軍、そして廟堂《びょうどう》における主要大臣位だけだった。とはいえ、政治中枢のすべてと軍事力の半分を支配する彼等の権力はいまだ強大なものであった。
一方、邪魔者を押しつけられる形で水軍を手にいれた皇室も、白身の勢力拡大に成功したわけではない。水軍維持には莫大な予算が必要とされるし、部分的な無政府状態とすることで爆発的な発展をみせた経済は、同時に無数の難問を生みだしてもいた。
ことに貧富の差、その拡大がよほど深刻な様相を呈しつつあった。これを解消する策は税制を改めることだけだが、五将家の反対により、その実現は期しがたい。国家予算である皇室の成人にかかわる義務を持たず、歳出から恩恵を受ける権利を持つ彼等は、税制改革が自身の既得権をおかしかねないと考えたのだった。
後備役《リリーフ》制度の問題もあった。この戦時兵力動員制度は、名目上皇室の指揮下にあり、予算も皇室がだしていた。しかし、動員令の発令は五将家が支配する廟議の賛同を得ねばならない。動員後の指揮権も、五将家が支配する陸軍にあった。
となれば、水軍にそれはどの金がまわるはずもない。水軍は皇海艦隊、東海洋艦隊のふたつを主力としていたが、その実勢はわずか四〇隻ほどにすぎなかった。さらに言えば、そのうち東海洋艦隊については高級士官の大半が五将家出身者でかためられている(水軍予算はもちろん全額が皇室の出費であった)。
水軍について皇室が維持できたのは、実戦部隊総司令部である水軍統帥部および皇海艦隊の人事権だった。これについては兵部省水軍局人事部以外に、皇室の同意が必要とされている。となれば、そこに五将家出身者を任じるわけにはいかない。
皇室は、神話上の存在に近い旧水軍の血族につらなる者、ならびに旧海賊衆から人材を登用し、それらがあてにならぬとわかると、旧天領衆民から有能な者を徴募した。水軍将兵と回船問屋水夫たちが意外なほど親密である理由はそこにある。彼等は同じ幹から生じた大い枝なのだった。回船問屋の大半は旧海賊衆あがりであった。
〈皇国〉の一般的な政治体制から言えば、このような者たちはいずれ位階を与えられ、貴族化させるべきであった。しかし五将家がそれを嫌った。既得権の侵害と受けとった。
こうして奇妙な現実ができあがった。陸軍高級将校の全員が位階を有する貴族であったのに対し、水軍高級士官の大半が無位の衆民階層出身者によって占められたのだった。
「統帥部総長、皇海艦隊司令長官――ともかく、皇海側にある水軍の要職は全員が衆民だ。こいつはかなりの勢力と言っていい。それに私はいずれ統帥部に転属する。おそらく執務課だろう。そのような内示をすでに受けている。本当に面倒はないよ」笹嶋は言った。
「執務課上級課員ともなれば、それはなかなかのものなのだ、水軍では」
「陸軍でも同じです」新城は頷いた。「横暴、凶暴、乱暴が通り相場で、それに陰謀、無謀、奸謀の三つをつけくわえてようやく一人前の軍監部参謀になれる、そう言われています。知謀だけが必須とみなされておりません」
「わたしもその一人になるのだ。陸式ほど派手じゃあないがね」笹嶋は言った。「だから、安心してもらいたい」
「そいつはずいぶんと頼もしい」
あなたは美男子ねと言った女性に対するような声で新城は笞えた。本当の要求を口にだす。
「約束してもらえますか、個人的に」
「いったいどんな?」
「兵と猫と僕が生き残り、捕虜になった場合」
「捕虜交換名簿の上位に載せる?」
「順番は言ったとおりで」
「兵が最初。すくなくとも、いかなる将校よりも先に。そして」
「もちろん、猫」
「もちろん、猫。最後に君」
「せめて、僕より階級の高い将校だちよりも先に」
笹嶋は苦笑した。
「はっきりした男だな、君は」
「あなたも似たようなものですよ、中佐殿。失礼を承知で申しあげるならば」
笹嶋は両手をあげ、答えた。
「辛い辛いが浮き世の定め、か? 任せてくれ。名簿をつくりあげるのは転進本部の事後業務の一つだ。どうとでもなる。他になにか?」
「兵には規定外の慰労金も出していただきたい。除隊したあと、自前で猫が飼えるか、そこそこの田畑を買えるような額の。僕は必要ありません。金はありますから。ああ、もちろん、戦死したり腕や脚を失った連中の場合は年金の増額を」
「意外に欲がないな」笹嶋は言った。
「皇都一番の小町娘にさあどうぞと口説かれている気分なもので」新城は言った。
笹嶋は笑った。
「そいつはいいな。しかしわたしは小町娘ではない。
いいか? 君たちには水軍の名誉階級と勲章も申請する。前者は何もしなくても一生俸給がでる。後者は年金がついている。もちろん私の勲章も適当な人物に推薦させるがね。心配ない。話は絶対に通る。先ほども言ったように、わたしはいずれ執務課へ転属して――それなりの影響力を手に入れる。それに、いくらか貸しのある衆民出身の提督が皇都に何人かいるのだ」
笹嶋はあぶられた手を両頬におしつけ、くぐもった声で続けた。
「それに、もし君が望むならば、水軍に移ることもできる。我々にも陸兵隊《マリーン》があるからね。もしかしたら陸軍よりも居心地がよいかもしれない。陸兵隊は君のような士官を熱望している、その点は間違いない。この負け戦での戦功を見る限りはそのはずだ。ともかくもまあ、こっちに並べられる飴玉はこれだけだよ」
「あちこちに友達がいていいですね」
「嫌味か?」
「正直な感想です。僕は友達が少ないので。特志幼年学校でできた何人かの友達は、みな、娑婆に戻りました。軍を辞めた理由はそれぞれ違いますが。皇室魔導院に入った奴もいます」
「面白い友達だ」
「ええ、個人的にはまったく同感です」
「わたしも似たような意味で言ったつもりだよ」
「個人的な約束ですね」
「個人的で、公的な約束だ。もちろん順番はこのとおり」
「すばらしい。まあ、こんな状況でなければ疑ってかかるべきなのでしょうが」
「こんな状況でなければ約束はしない。それに、十中八、九は戦死するだろう人間には、どんなことでもしてやろうという気になるものだ。ことに自分が関わっていると」
「なんとも率直ですな」
「たまに美徳になることがあるからね、それは。しかし、約束する」笹嶋は言った。
「大尉、君が生き残ったならば、なんとしてでも約束は守る。絶対に助けてやる。これは約束だ。笹嶋定信としての確約だ」
「細巻がもう少し欲しいな」
新城は言った。笹嶋は懐に手を入れ、細巻をおさめた袋ごと彼に手渡した。
新城は背筋をのばした。
「了解しました。中佐殿。独立捜索剣虎兵第一一大隊は北領鎮台の後衛戦闘を承ります
「大尉、殿はいらないよ、殿は」笹嶋は言った。
「水軍ではそう言う決まりになっているのだ」
そいつは面倒がなくていいですなと新城は応じた。
本音だった。彼の周囲に存在するのは面倒ばかりであった。ああそれからと、立ち上がった笹嶋に彼は言った。もうひとつお願いがあります。これは、可能な限りに実現していただかねばなりません。よろしいですか。
後に真室川防衛戦と称された戦いはこうして始まった。とはいえ、その呼称はいささかの誤りを含んでいると言わねばならない。この段階――皇紀五六八年二月三百当時、戦闘の焦点はすでに真室川になかった。その衛岸、長く南北に横たわる路南半島こそが凄惨きわまりない遊撃戦の舞台であった。
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第二章 光帝の下で
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焼き落とされた橋の修復には意外に手間がかかった。
冬季であるから、無理もない。工兵が胸まで水に浸かり、杭を打ちこみ、あっという間に騎兵や砲兵の渡河可能な橋をつくりあげる――そうした通常の工兵作業は不可能であった。一本の杭を打ち込む前に凍死してしまう。
橋の早期再建を命じられた工兵指揮官は、手持ちの資材ではどうにもなりませんと返答した。なにがあれば大丈夫なのかという質問が上官からすぐに届いた。ともかくは人手。そして斧《おの》。太い綱。輓馬。
工兵指揮官はそう返答した。彼に必要なものが与えられたのは二日後、二月一五日のことだった。
「面白いことを考えたな」
〈帝国〉東方辺境鎮定事総司令官は言った。いまだ若さに満ちた女性であった。こぶりな鋭剣をベルトからさげていた。参謀団と共に、真室川北岸に近い丘から川を眺めているのだった。
彼女は長身の持ち主であった。
いかなる見栄だろうか、その優美な肢体を包んでいるのは、東方辺境領事の緑色を基調とした制服、そして腰の下まであるライティング・マントだけだった。マントは目にも鮮やかな鮮紅色で、裏地は制服と同じ緑色のものが用いられている。
帽子の類は彼っていない。優雅にうねる豊かな金髪を寒気にさらしている。それはむしろ豪奢《ごうしゃ》さを感じさせなかった。純度を高めた黄金と言うより、陽光を浴びた御影石に似た静謐な輝きを発しているからだった。
彼女の地位と階級を示すものはベルトのバックルに示された三ッ首龍――帝室の紋章だけであった。
それだけで十分だとも言えた。
〈帝国〉軍には他に女性はいないし、なにより、その凛然たる気迫に満ちた整った顔立ちがすべてを教えてくれる。彼女の碧眼に見つめられ、普段の態度をとり続けられる者は、〈帝国〉貴族のなかにも少ない。
「興味深い光景でしょう、閣下?」
鎮定軍作戦参謀、クラウス・フォン・メレンティン大佐は訊ねた。四八歳。細長い頭の持ち主で、騎兵凰に短く刈り込まれた金髪は半白になっている。
表情は常に哀しげでーほとんど泣き面に近い。鼻の下には薄い髭がある。軍参謀長のケレンスキィ少将が激務のあまり倒れてしまったため、参謀長としての任務も代行している。
「この技法が実戦で用いられるのは初めてのはずです」
上官を見上げながらメレンティンは言った。ほっそりとした体つきの彼は、上官より頭ひとつぶん、背が低い。黒地に銀の縫い取りが施された制服が良く似合っている。
緑地が用いられた東方辺境領軍の制服を着用していない理由は、彼が〈帝国〉軍の軍規に従っているためであった。〈帝国〉の貴族将校(と言っても、〈帝国〉軍の将校は例外なく貴族だが)は、自分の出身地域ごとに制定されている制服の着用を義務づけられているからであった。大まかに言って、東方辺境領ならば緑地、〈帝国〉本領であれば白地、西方諸侯領出身者は黒地となる。
メレンティンの故郷もまさにそうで、彼の生地は西方けるかに離れたマルデン子爵領であった。〈帝国〉政府高等外務官の現マルデン子爵ギュンタ!フォン・メレンティンは彼の兄たった。彼自身は軍功により東方辺境領男爵位を授けられている。ただし、東方辺境領はそのすべてが帝室直轄領であるため、領地は持だない。屋敷と年金を与えられているだけであった。
「これまで御覧になったことは?」
メレンティンは東方辺境鎖軍の制服を着用した上官仁訊ねた。彼女は制服について一切の制約を受けない。貴族ではないからだった。彼女は〈帝国〉を支配するロッシナ家、つまり帝室の一員であった。
「ある」
総司令官――東方辺境領姫ユーリア・ド・ヴェルナ・ツアリツィナ・ロッシナ〈帝国〉軍元帥は笞えた。まったくの男言葉だが、その響きはただ険しいだけではなかった。たとえようもない優美さ、そしてどこか押し隠されている明るさがあった。誰もが心地よくなるような、それが震わせた大気すら甘く変えてしまう声だった。
「何年も前に、帝都のボロフスカヤ演習場で。しかしあれは展示演習だった。川も、演習場の中に造られた偽物の小川であった。また、誰かが点数稼ぎに思いついた詐欺《さぎ》だと思った」
「ゴドノゥフ大佐はなかなかの男です」メレンティンは工兵指揮官を誉めた。
「彼もボロフスカヤ演習場でその詐欺を見学していた筈です」
ユーリアは首肯した。そんな仕草までが優美であった。夭折《ようせつ》した父、東方辺境領副帝ルーポフの跡を継ぎ、〈帝国〉の東半分を統治してきた人物としては希有の資質かもしれない。彼女はいまだ二六歳であった。
川とその北岸で行われている作業は、素人にはなんともまわりくどく感じられる手順を踏んで進められていた。
もっとも大きな人員が割かれているのは、川岸近くにある森での作業だった。そこでは斧や鋸《のこぎり》を持った兵たちによって、何本もの木が切り倒されていた。製付附のように、切り倒した本から枝やらなにやら切り払い、大きさを整えている一団もいた。形を整えられた本は、競馬に曳かれて川岸へ運ばれている。
川岸ではその本をいくつもの筏に組み続けている兵たちがいた。二つ目の筏ができあがろうとしているところだった。最初の筏はすでに川へ浮かんでいる。
その筏はすでにコ茨、対岸へ人を渡していた。太い綱と測量器具をもった一〇名ほどの将兵だった。
彼等によって、真室川の両岸をつなぐ綱がはりわたされている。
「時間は、あとどれほど必要か?」ユーリアは訊ねた。
「まず、二日でしょうか」
メレンティンは答えた。
工兵作業は常に地道な積み重ねと言ってよい。浮橋《ふきょう》の架橋作業も例外ではなかった。
綱と筏を足場として川底へ杭を何本も打ち込み。その杭にひとつずつ、舳先《へさき》を(というか、まあ、そうした向きで)川上に向けた筏をつなぐ。そして筏の上に板を張り、浮橋とでもいうべきものをつくりあげる。確かに、最低でも二日は必要であった。真室川は一〇〇間ほどの幅をもった川なのだった。
急げとユーリアは命じなかった。必要な命令はすでに発しており、最適の人材も配置してある。その一人であるメレンティンが断言するならばそれ以上は短縮できない。
「まわりくどく見えますが、浮橋を敷設した方が全体的な危険は滅少します」
メレンティンは言った。
「ひとたびできあがってしまえば、工兵隊が並の方法で造った橋よりよほど頑丈で、大量の兵力を渡せます。ま、船に弱い者は難儀でしょうが」
最後の言葉はもちろん冗談であった。ユーリアはメレンティンを柔らかく睨んだ。微笑を浮かべている。小さな声で叱る。
「クラウス、軽口の癖はなにがあっても直さないつもりね! まったく。あたくしが守役《じいや》を必要としなくなってから何年になると思って?」
「五年など、考えようによってはほんの一瞬にすぎません。おお、軽口ですな。こればかりは、いかなあなた様のおおせでも、姫」
[#北領失陥2 図挿入]
メレンティンは答えた。
ユーリアは豊かな胸に右手をあて、ためいきの真似をして見せた。もとの言葉遣い戻って言う。
「対岸の状況は?」
「無理をさせて三個猟具中隊を渡しましたが、いまのところ、なにも。少なくとも一〇リーグ以上は足を延ばしているはずです」メレンティンは答えた。
リーグとは〈帝国〉で使用される距離の単位で、〈皇国〉の一里にほぼ等しい。
ユーリアは遊びのない表情で訊ねた。
「泳いでか?」
「まさか、まさか」
メレンティンは否定した。上官へ説明する。
「敵軍が焼き忘れた川船が三股ばかりみつかりましたので、それを用いて渡しました。半分腐りかけたものなので、もう、使いものになりません。渡河した連中も、兜で水をかきだしながらようやく、でした」
「ならば良い」
ユーリアは安堵したように言った。彼女は兵に優しい人物だという評判を得ていた。〈帝国〉の特権階級に属する者としては珍しい評価と言える。
メレンティンは言った。
「敵は一部をのぞいてまったく潰乱し、路南半島南端の港町近くの海岸に集結、船に乗りこんでいます」
「知っている」ユーリアは笞えた。
その港町――名津の市長へあらかじめ全を渡し、安全を保証するという工作が侵攻前に行われていた。目的は〈皇国〉軍への協力を拒否させることだった。それは彼女の命令によって実施された工作であった。
「ここで浮橋づくりに二日費やしたとしても、敵の大多数は逃げ切れません」
メレンティンは言った。安心させようとしているのだった。
「全軍が逃げだすには、すくなくとも七日は必要なはずです。すべてを希望に満ちて眺めることが許されるのであれば」
ユーリアは何かを言おうとする。対岸から砲声が響いたのはその瞬間だった。
砲声はひとつだけであった。メレンティンをはじめとする参謀たちは、反射的にユーリアの楯となるように勤いた。もっとも素早く勤いたのは、長身の美形騎兵将校であった。彼はほとんどユーリアヘ覆い披さるような位置へ立った。大袈裟《おおげさ》ではあるが、それが奇妙に似合っている。
砲撃は川に向けてのものだった。敵は対岸にある丘の後方から打っていた。
「初弾、弾着。近」
遠い目をした金森が言った。川岸に派遣した前進観測班の導術兵が送った報告を受けている。
騎兵砲指揮官が怒鳴った
「一番砲車、増せ、ふたあつ!」
一直線に砲列を敷いたコー門の騎兵砲、その最右翼の周囲で砲負たちが忙しげに動いた。砲車とは各砲のことを意味している。
騎兵砲の外見は、迫力よりは愛嬌がより多く感じられる。小さな砲身が、笹の葉でつくる筏のような台座の端にちょこんとのり、その両脇に車輪がついていた。しゃくれあがった形をした台座の一方の端は雪面についている。
砲員が作業をはしめた。                    ;‘1
まず、砲員二大がかりで、砲身の中に煤払《すすはら》いの化け物を突っ込み、そこにたまった玉薬の滓《かす》をぬぐい去る。
つづいて、樽から専用の計量桶に注がれた玉菜が砲口から流し込まれ、砲弾が続き、ふたたび煤払いのお化けが突っ込まれ、玉薬を突き固める。
今度は別の二人が発射の反動によって後退した砲をごろごろともとの位置に押し戻す。砲尾真上の火皿に点火薬が注がれる。
各砲の前に出た砲員が紅白に塗り分けられた旗竿のようなもの――標桿《ひょうかん》をまっすぐに立てる。
各砲は、それぞれの位置から、標桿の塗り分けふだつぶんだけ砲の仰角をあげた。仰角の変更は台座の、砲尾の真下あたりに設けられたネジ型の装置を回すことで変えられる。
準備が完了した。
騎兵砲指揮官が命じた。
「砲車、打て!」
砲尾真上の発火装置につながった組を握った兵がそれを引っ張った。銃で用いられる燧石《ひうちいし》‐火花‐点火薬発火という仕組みをさらに頑丈なものとした装置が作動した。轟音。一門の四斤騎兵砲が火を吐く。
弾着までしばらくの間。金森が再び伝える。
「弾着。左右よし。遠」
再び同じ手順。
その模様を眺めながら新城は焦れていた。いっそのこと、川岸まで砲をもってゆき、釣瓶《つるべ》打ちさせようかとまで思う。
もちろん、無理なことはわかっている。〈帝国〉軍は短時間のうちに一〇〇門程度の砲を対岸へ展開し、こちらの砲への標定《プロッティング》をおこない、ついには反撃を――対砲迫射撃をはじめるだろうから。あるいは指揮官が無茶をして、銃兵に冷たい川を突撃渡河させるかもしれない。そうなってしまえばなんのために砲撃したのかわからなくなる。
笹島が帰ってから半日もせぬうちに最初の増援が到着した。運の悪いことこのうえない鋭兵一個中隊であった。全員が旋条銃を装備している。騎兵砲と糧抹《りょうまつ》その他は同時に到着した。人力ではなく、馬匹牽引された騎兵砲二個小隊であった。予定よりも数が多いのは笹嶋の努力によるものらしかった。
馬についてはちょっと面倒だなと新城は思ったが、意外なことが判明した。馬のすべてが剣牙虎《サーベルタイガー》を嫌ってはいないことだった。考えてみれば、馬と剣牙虎の相性、その悪さについて、新城は自分の目で確かめた経験を持だなかった。あれこれと疑う性格でありながら、その点だけは常識が正しいと思いこんでいたのだった。
[#騎兵砲 図挿入P159]
ともかくも、脚の早い砲兵が手に入ったことは有り難かった。
新城は好きなものから箸をつける習慣の持ち主であった。さっそくそれを活用した。
南岸へ渡河していた敵兵の一部を駆逐すると、敵の渡河点、つまり焼けた真室大橋まで二里の位置に前進、砲撃を開始した。
二里という距離は、騎兵砲指揮官を命じた軍曹が、効果を期待できる限界の距離はそれだと断言したからだった。危険ではある。南岸とは、わずか丘ひとつを挟んだ位置でしかない。しかし、基本的には平射砲とみなされている騎兵砲の実用最大射程は、それが限界であった。
砲弾が届く距離、射程は使用される王薬の成分と量、そして砲弾の重量を同一とした場合、砲身の長さ(砲身長)と砲身の角度(仰角)によって決定される。
砲身長は、基本的に長ければ長いほど砲弾の速度を大きくする。玉薬の生じさせた圧力が拡散することなく砲弾へ加えられる時間がのびるからであった。
もちろん限界はある。玉薬の完全燃焼点が砲口と一致しない場合、力の損失が生じ、射程が短くなってしまう。実用面での問題もおこる。たとえどれほど強力でも、一里もあるような砲身をもった大砲を戦場で使うことはできない。そんなものは馬でも船でも運べない。
このため、砲身長は各国でほぼ同様の値が採用される傾向にある。この場合の値とは、直接的な長さではあらわされない。砲口の大きさ――ロ径を単位とした倍数で考えられる(ちなみに、”大・小”口径とある場合、砲口自体の大きさをあらわし”長・短”口径とある場合、砲身長をあらわしている)。
一般的な王薬を用いた場合、もっとも大きな射程を得られるのは二七口径であった。これはきわめて具体的な実験によって確かめられている。それは一〇年ほど前、〈皇国〉陸軍砲兵学校でおこなわれた。
まず四〇口径ほどの長大な砲身を造り、それを一口径ごと輪切りにしつつ射撃試験をおこない、各口径における射程を計測したのだった。もちろん算学的な手法も併用されてはいる。それによれば、砲身重量は砲弾の一五〇倍、砲弾重量を使用する王薬の三倍、そして砲身長は一ハロ径とした場合、もっとも使い勝手のよい砲ができあがるとされていた。
これらの研究により、〈皇国〉陸軍では、平射砲を一八口径、擲射《てきしゃ》砲を二二口径、曲射砲一二口径以下と定めている。射程のみならず、運用のしやすさ、用途の違いを勘案して決定された値であった。
砲の射程は仰角にも影響を受ける。
真空中で砲弾を飛ばした場合、半直角で奇麗な放物線弾道を描くこと――最大の射程が達成されることは〈皇国〉でも知られている。
しかし実際の砲弾は真空中を飛ぶわけではない。
大気の抵抗を受ける。特に、最大高度に道した(玉薬から与えられた力を消耗しつくした)あと、その影響は特に大きくなるため、まともな放物線が描かれることはない。急角度で落ちてゆく。
いまだ砲弾が弾丸状――円弾であることも影響を与えている。このため、砲の最大射程は常に半直角度で達成されるわけではない。半直角の仰角がとれなくても最大射程を達成できる場合もある(同様に、半直角以上でなければ達成できない場合もある)。
また、距離が遠ければ遠いほど砲弾の落下点には偏差が生ずるから、射程が長ければよいというわけでもない。一〇〇里彼方の、明後日《あさって》の位置にしか落ちない砲弾を何千発打っても戦争の役には立だない。
このため、仰角をあえて制限する場合(意図的に最大射程を短くしたつくりの砲とする場合)もある。
その砲で、狙いがつけられる距離の上限を最大射程とする。これを実用最大射程と言う。兵器としての火砲にとって重要なのはこれであった。
〈皇国〉軍は、その用途、仰角によって砲を三種類に大別している。平射砲、擲射砲、曲射砲の三つだった。
平射砲とは六分ノー直角までの仰角をとれる砲のことを言う。その任務は、最前線における敵兵の直接射撃であった。実用射程――照準をつけて打てる距離はせいぜい一里というところだった。そのかわり、弾着精度(命中率)は良い。
一方、半直角まで仰角がとれる飽か擲射砲と呼ばれる。その任務は、味方後方からの間接射撃であった。砲弾を弓なりの弾道でとばし、目標を遠距離から叩く。その実用射程は六里というところだった。
基本的に砲弾は重いものが用いられるから、その破壊力は大きい。しかしそれゆえに、戦場で小回りが利かないという欠点があった。
半直角以上の仰角をとれる砲は曲射砲と呼ばれる。
弾道は弓なりというより山なりになる。その役割は当初、旧時代の臼砲に近かった。要塞その他を上から叩くことだった。
しかし、擲射砲の発達がその役割を奪った。
このため、一時期はどの国の軍隊でも曲射砲が採用されていなかったほどだった。〈大協約〉世界でそのあたりの事情が変わったのは最近と言って良い。
三兵編成の重視とともに、銃兵部隊その他にも独自の火砲を持たせるという発想がでてきたのだった。
曲射砲がその火砲として選ばれたのは、構造が単純で軽量、くわえて短口径でもある程度の射程を持てるという特質のためであった。射程は半里――五〇〇間というところだった。短口径のため、爆燃した王薬の力を受け取っていられる時間が短いためであった。
同様の理由から、砲弾の速度が遅くなるため、弾着精度は一般に悪い。砲弾が弾薬から受け取った力が少なければ少ないほど周囲に存在するもの(たとえば風)の影響を受けやすくなるからだった。ただし、弾道の頂点をすぎて落下に転じたあとは砲弾が大地へと引き寄せられる力が強く作用するため、まったくあてにならないと言うわけではない。
なお、装備が一種類の砲で統一されていない理由は、帯に短し襷《たすき》に長しという事態を避けるためであった。平射砲は短い射程が、擲射砲はその重さが、曲射砲は弾着精度と射程が、という欠点がある。三者を併用することによってそれを袖いあっているのだった。
新城の大隊へ配属された騎兵砲は、平射砲の枠に含まれる。騎兵部隊で運用しやすいように軽量化されている。また、仰角も例外的に三分ノー直角までとれるよう、設計されていた。独力で行動すべき騎兵部隊の火力として、なるべく運用上の柔軟性を与えるためだった。
[#平射砲 擲射砲 曲射砲 図挿入]
つけくわえるならば、いまだ旋条の火砲への利用は行われていない。それを用いて効果があるほどの射程まで砲弾を飛ばしても、まともな弾着修正ができない。厳密な照準や弾着観測をおこなう技術が、いまだ不充分であるからだった。
実際、最前線へ前進観測班を派遣した弾着観測、それにもとづく弾着修正という手法は導術兵の登場によって(即時通信が可能となったことで)ようやく実用化された技術で、いまだ、密理より経験にたよる部分が大きかった。旋条砲自体を製作する工作技術、それに必要とされる資金の問題もあった。
「あまり細かくやる必要はないぞ」
新城は軍曹に言った。権藤《ごんどう》という名の軍曹は、どうも完全主義にすぎるところがあった。優秀な下士官というものの限界かもしれなかった。全体の状況ではなく、目の前の技術的な問題にだけ、意識が集中しすぎになる。
もちろん権藤の責任ではなかった。下士官とはそのように教育される。であるから新城は口をだしている。それが将校の任務、そのひとつであるからだった。彼は技術について権藤にはかなわないが、その技術を用いる目的はわかっている。
この砲撃の目的は、ひらたく言ってしまえば嫌がらせにすぎない。わずか一二門の四斤騎兵砲(四斤とは砲弾の重量)で構築されつつある敵の橋を破壊できるわけもないからだった。ともかくも、作業中の工兵、その周辺へ砲弾が落下し、作業が遅れたならばそれでよい。しかつめらしく言えばちょっとした阻止砲撃《インターディクション》――いや、そこまでも行かない。せいぜい、擾乱《じょうらん》射撃というところであった。やはり嫌がらせ以上のものではない。
しかし砲兵下士官としての権藤は手順を守らずにいられない。まず基準砲として指定した一門(いまの場合、一番砲車)でもって算定値と現実を必要充分な程度にすりあわせねば責任を果たしたことにならぬ、そう思っている。
使用している砲弾は、銃兵たちがあられ王と称する霰弾であった。
と言っても、銃兵に対して近距離で使用する、散弾を直接放つ形式のものではない。通常の砲弾、その内部に散弾と玉薬をつめたものだった。よって、射程は通常の砲弾と変わりがない。砲弾が空に描く弾道の終末、その直前まで、通常の砲弾として飛行する。そして敵の上空で破裂し、弾殼の破片、爆風、そして内部に詰められていた散弾を周囲へ飛び散らせる。
砲弾の発火と爆発は、散弾と玉薬を流し込んだ穴にはめこまれた点火栓で行う。砲の発射によって点火栓の導火線に火がっき、それが燃え尽きることで爆発する。導火線の長さは二里という射距離にあわせて切ってある。
丘へ向かわせた前進観測班の報告によれば、導火線の長さは適正であるようだった。でなければ、砲弾の効果についての報告が届いているはずであった。
砲弾がまともな位置へ落下するようになるまで、一番砲車は四度、単独で射撃をおこなわねばならなかった。
報告を受けた新城はただちにすべての砲車を用いた射撃――効カ射の実施を命じた。間をおかず、一番砲車の方位と仰角にあわせたすべての砲が砲撃を開始するまでいくらか間が生じる。方位は、砲車自体の向きを力技で変える他に変更の方法がないからだった。
新城は焦れていた。しかし何も言わない。それは将校の仕事ではない。彼は隣で暇そうな顔をしている千早の頭を撫でてやった。
金森が遠い目のまま新たな報告を伝えた。〈帝国〉軍の制服を集め終わったという内容だった。新城はよくやったと応じた。
効力射が始まった。
砲撃は半刻ほど継続した。架橋途中の浮橋自体にはそれはどの損害はでなかった。
しかし、兵には五〇名ほどの死傷者が生じた。それよりさらに大きな損害は、作業の調子がくずれてしまったことだった。いつ砲弾が降ってくるかわからない、そんな思いを抱きつつ作業をおこなうというのは、良い気分のものではない。
「いまいましい」
ユーリアは言った。吐き捨てるような口調であった。質のよいうわぐすりをかけて焼かれた白磁のような肌がわずかに紅潮していた。
「砲声が近い。先行した猟兵――我々の斥候を排除して、かなり近い距離で打ったようです」メレンテブノがなだめるように言った。
「〈皇国〉にも、度胸のある指揮官はおるようですな」
「だから喜べと言うのか?」ユーリアは訊ねた。噛みつくような声であった。それでいながら声音は柔らかい。メレンティンの発言、その意図がわかっているからだった。
お好きなようにとばかりにメレンティンは肩をすくめた。
ユーリアが小声で訊ねた。
「何かわたしに教えたいようね、クラウス」
「まあ、戦争というのは、こんなものです、姫」
メレンティンは笞えた。彼は若い頃に西方諸侯鎖で無数の戦いを経験している。それどころか、先帝パーヴェル三世の死を契機として勃発した大内乱、カルパート僣帝《せんてい》乱では、若き騎兵聯隊長として活躍した。その功績によって東方辺境領男爵位と幼きユーリア姫の守役――副帝家筆頭継嗣御付武官長という地位を与えられたのだった。それはどの人物である彼が大佐という階級にとどまっている理由は、〈帝国〉陸軍省を牛耳っている連中と祈り合いが悪いためであった。彼等の一部は、カルパート僣帝乱で親族をメレンティンに殺されている。
メレンティンは言った。
「拙速を忘れてはなりませんが、いたずらに焦慮するばかりでも、よくありません。なんと言っても美容に一番よくない。ともかくここは、ありとあらゆるものを眺めておかれる手です」
ユーリアはわずかに苦笑し、そして素直に頷いた。
たしかに、彼女がこれほど本格的な戦争を経験するのは初めてだった。彼女は思っていた。
これまでのところあたしは失点を最小限におさえてきた。過去に鎮圧した叛乱、その際の経験があったから、軍の指揮に不安を持っていたわけではない。
しかし、正直なところ、ここまで楽に済むとも考えていなかった。つまり、ようやくにして現実と出会った、そういうことかしら。クラウスはそれをあたしへ教えたいに違いない。彼は〈帝国〉でも一、二を争うほどの作戦家なのだから、きっとそう。ええいもう。なにもかも恥ずかしくなってくるわね。いや、こんな時こそ普段どおりの態度であらねば。
「誰が邪魔してくれたのか、それを知りたい」
ユーリアは訊ねた。自分でも驚くほど冷静な声であった。
メレンティンは優しげに微笑んだ。それをすぐに消し、情報参謀に頷いてみせた。
「我々の正面には二つの敵部隊がおります」情報参謀のリュイバルコ中佐が報告した。
「右翼――街道上は戦力の減耗した銃兵旅団で、連中の近衛です。指揮官は親王。左翼はあのわけのわからぬ猛獣使いどもで」
「猛獣使いだな。邪魔をしてくれたのは」ユーリアは断定した。
「剣虎兵、だったか? まったく、いまどき、猛獣を使った連中に痛い目を見せられるとは。三〇〇年前に弓と槍だけで象兵を打ち破った先祖に笑われるぞ。猛獣使いどもの指揮官は誰だ?」
「正規の指揮官は五日前に、あの夜に戦死しています。遺体を収容しましたから、間違いありません」
「それはいい」ユーリアは不機嫌そうに言った。わずか一個大隊の兵力による夜襲で三個大隊を失った不快感が蘇《よみがえ》ったのだった。振り払うような声で彼女は質問した。
「現在の指揮官は? どんな男だ?」
「不確実ですが、捕虜から得た情報によれば、野戦昇進した大尉が率いているそうです。名前はわかりません。手持ちの情報からは特定できませんでした」
リュイバルコは言った。
「野戦昇進の大尉」ユーリアは呟いた。
「なんとも始末におえん。その程度の男が不利な状況でこれほど気の利いた擾乱射撃をかけてくるとは。〈皇国〉軍はそれほど下級将校の程度が高いのか?上級指揮官とは随分進うな。あのモリハラとやらは扱いやすかったぞ」
「そういう軍隊なのでしょう。上の無能を下が捕うという類の」メレンティンが口を扶んだ。本音であるらしい。彼の声音には子供をあやすような響きがいっさいなかった。
「戦が続けば、いずれはその者たちが昇進してくる。
つまり負ければ負けるほど強くなる軍隊ということか?」ユーリアは言った。努力して感情の表出を抑えている響きがあった。
「それが真実だとするならば、我らが征途いまだ遥か、ではないか」
それまで黙っていた将校が口を開いた。
「わたくしめにお任せください」
全員が注目した。あからさまに嫌な顔つきをする者もいた。発言したのは第3東方辺境鎖胸甲騎兵聯隊を率いるアンドレイ・バラノヴィッチ・ド・ルクサール・カミンスキィ大佐だった。白色の制服を着用している。
階級の割にはいまだ若い。二八歳であった。上背のある引き締まった体つきを持っている。通俗的に評するならば、古代の美神が自身の手で彫琢《ちょうたく》したかのような美形でもあった。髪は白金色に輝き、瞳は透けるような淡い水色だった。あっさりと言ってしまえば、周囲の男たちが見ているだけでなにもかも嫌になるほどの美形だった。
「必ずや」カミンスキィは断言した。周囲からの視線、その意味に気づいているにもかかわらず、まったく傲然としている。
「自分が猛獣使いどもを撃滅して御覧にいれます」
ユーリアはわずかに感情をこめた視線で白身に匹敵するほどの美しさを有した青年将校を見つめた。
そして静かに言った。
「期待しているよ、大佐」
彼女は振り返った。やれやれと言いたげなメレンティンに命ずる。
「わたしは川岸に降りる。兵を鼓舞したい」
「はい、閣下。ですが、危険です」メレンティンは押しとどめようとした。
「危険はない」
ユーリアは断言した。
「おまえは敵の指揮官、その野戦昇進の大尉とやらがなかなかの猛獣使いだと、戦度胸のある男だと言った」
「はい、閣下。確かに」
「ならば案ずる必要はない」
ユーリアは微笑を浮かべていた。
「それはどの男ならば、今頃、雲を霞《かすみ》と逃げ去っている。次の手だて、その準備を整えるために。違うか?」
そう言われては、〈帝国〉最良の参謀将校として知られるメレンティンもさすがに反論できなかった。
彼は答えた。
「御意にございます、閣下」
美しい姫将軍を先頭に、一団は丘を下りはじめた。
ユーリアはあらたに小さく声をつくりつつ、メレンティンヘ言った。
「クラウス」
「はい、姫?」
「わたしの好みに文句をつけないで頂戴」
「好み?」
「莫迦にしているの?」
「というより、賛成できないだけです」
メレンティンは答えた。たちの悪い男に引っかかった愛娘の将来を案ずる甘い父親のような口調だった。
ユーリアの公認第一愛人であるカミンスキィは、権力者の愛人となるべき人間のまさに類型であるとメレンティンには思えた。一種の歴史主義者である彼は、そうした人間が最終的にどんな面倒を引き起こすか予想がついていた。血みどろの政治的混乱。その他にない。
カミンスキィはたしかに有能な軍人ではあった。
戦術家としての才能はメレンティンも認めてはいる。
しかし、カミンスキィはその能力と外見に見合った欲望もたっぷりと持っている。メレンティンはそうも判断していた。であるからこそこの愛すべき姫将軍と〈帝国〉の将来にとっての危険となりうる、そう見てもいた。
彼の知る歴史は、欲望とは際限もなく成長する怪物であると教えているからであった。
[#改ページ]
星々のきらめく広大な虚無のなかに、その一つとして恒陽が存在している。〈大協約〉世界は、その恒陽の周囲をめぐる遊星であった。
その遊星の周囲には、こまごまとした星屑が輪をなすようにしてとりまいている。それは基本的に遊星の回転軸中央に対して水平、つまり赤道上空をめぐっているが、それなりの厚みを持っているため、遊星表面の北部や南部からでも明瞭に見て取ることができる。
遊星の表面には大気があり、陸地があり、海洋が存在する。
陸地のなかでもっとも巨大なものはツァルラント大陸として知られ、北半球側を長く東西にのびた形をしている。ツァルラント大陸の西端側は南半球に存在する幾つかの大陸への巨大な陸橋としての機能を持っているが、その先についてはあまり詳しく知られていない。先進的な国家が存在しないためであった。
〈帝国〉はこのツァルラント大陸の過半を制した超大国であった。領上があまりに巨大でありすぎるため、西から順に、西方諸侯領、本土、東方辺境領の三つにわけてようやく国家としての機能を維持しているほどだった。言うまでもなく、この〈大協約〉世界で最大の国家であった。
その強盛ならぶところのないこの超大国は、皇紀前四一五年頃に成立した。〈帝国〉白身の暦で言う帝紀元年のことであった。
現在の〈帝国〉本領中枢部で諸部族を制した遊牧王ケリウス・マクシノマスが、ツァルラントの東西をつなぐヴァーランツァ陸橋部に帝都を置き、そこで〈マクシノマス家ならび諸郷の合意による聯合帝国〉の建国を宣言、自らをゴーラント一世と称したのだった。
マクシノマス聯合帝国は基本的に遊牧騎馬民族帝国であり、そうであるからには、その力を維持するために侵略王朝たらざるをえなかった。
当初、マクシノマス聯合帝国の領土は主に西方へ拡大した。東方にくらべ、領土拡大の障害となる山岳その他の大地形が少なかったことがその原因であった。皇紀前二〇〇年頃、すでに後の西方諸侯領、そのほとんどすべてが聯合帝国の版図へ合まれるようになっていた。
〈帝国〉の歴史用語で”西方への拡大《ドンク・ナッハ・ヴェステン》”と称されるこの侵略は皇紀前▽几○年頃までには停滞へと陥った。諸勢力との接触、その強力な抵抗がその原因であった。諸勢力は三種に大別できた。ツァルラント西端北部諸部族、アスローン諸王国、南冥《なんめい》民族国家群であった。
これらの中でマクシノマス聯合帝国ともっとも大規模な衝突を繰り返したのは南冥民族国家群たった。
彼等は、ツァルラント大陸の西南端とつながった南半球の大陸――冥州《めいしゅう》大陸を支配しており、マクシノマス聯合帝国と桔抗《きっこう》するだけの国力は充分に有していた。
なお、南冥民族国家群、冥州大陸といった呼称は〈皇国〉史学会によって後にさだめられた用語、それも過去に用いられた蔑称から転じた言葉であり、彼等白身は白分たちの国をそう呼んではいない。
たとえば、この時期にマクシノマス聯合帝国の対抗者となったよ”冥民族国家群”は、彼等白身の呼称に従えば磐《ばん》ノ国――磐帝国とでも通称すべき国家となる(なお、南冥とは政治・歴史用語としてあらたにつくりだされた言葉であり、はるかな南海をしめすよ”南冥[#さんずいに冥]”ごとは意味が異なっている)。
西方への拡大、それを終わらせたもう一つの強力な対抗者はアスローン諸王国であった。
その先祖が温か南に存在する大島からの漂流民であったとされるこの王国は、やはりツァルラント西南に存在する大きな半島部(後にアスローン大半島と呼ばれるようになる)を支配し、時に南冥民族国家群と合従しつつ、マクシノマス聯合帝国への交戦を継続し続けた。
ちなみに、アスローン諸王国は、諸王国中の最強国が大王位を手に入れ、すべての王国を統治するという政治形態をとっているため、個別の王国名をあげることにそれほど意味はない。
かくして西方への拡大は終わりを告げた。そしてそれは、マクシノマス聯合帝国の終焉《しゅうえん》にもつながった。拡大の過程で無数の異民族をその配下に加えた地方鎖主たちが中央政治への介入をはじめたのだった。それはやがて、ヒルデルップ新帝乱として知られる最初の大内戦へと拡大する。
内戦はほぼ二〇年の長きにおよんだ。その間に、マクシノマス家一族は皆殺しの憂き目にあった。その後継者としてハルトラント家のヒルデルップが登場した。彼はみずからをヒルデルップー世皇帝と称し、〈聯合帝国〉の建国を宣した。皇紀前四八四年のことであった。
ヒルデルップー世の治世はおおむね平穏のうちに過ぎた。その三〇年ほどのあいだ、聯合帝国は領土の整備と周辺諸国との融和に努めた。それは、対抗勢力にとっても願ってもないことだった。南冥では磐帝国が亡びかけ、新興の麟《りん》帝国にとってかわられようとしていたし、アスローンは大洋の諸島国家群と貿易の不均衡を原因とする小紛争をくりかえしていた。
聯合帝国の伸張が開始されたのは皇紀前八二年、八代皇帝ライテンダール四世治下でのことだった。
今度の目標はツァルラント東方。
”東方への猛撃《シュトルム・ナッハ・オステン》”と呼ばれたそれは、そこに存在したいくつもの内陸国家を二〇年にひとつ征服してゆく勢いで展開されていった。皇紀元年、ツァルラント東部の過半はすでに〈聯合帝国〉鎖となっていた。ツァルラントの度量衡が統一されたのもこの頃のことだった。
聯合帝国時代はほぼ三〇〇年間続いた。
その終焉は皇紀一一八年に勃発した東西諸侯乱によってであった。
西方諸侯と東方の新興諸侯、その政治対立が頂点に達して勃発したこの内戦により、ハルトラント家の支配は終わり、東西諸侯を手玉にとることによって権力をつかんだロッシニウス家のアレクサンドロスが新帝に即位、アレクサンドロスー世として〈帝国〉の建国を宣言した。皇紀一四三年のことであった。
アレクサンドロスー世治下の〈帝国〉は、やはり内治の再建に力が注がれた。
その中でも注目すべきはその文化政策、〈帝国〉公用語の開発と普及だった。
東西諸侯乱の原因が両者の文化的差違にもとめられることを知っていたアレクサンドロスー世は、〈帝国〉公用語の使用を全土に命じた。
彼はけして臣民にだけそれを押しつけたわけではなかった。
その範となるため、みずからもまた公用語だけを用い、名もロッシナ家のアレクサンドルー世とあらためた。ツァルラントという大陸の呼称もこの時さだめられたものだった。なお、〈帝国〉公用語は数種類の主要言語を混ぜ合わせたものであるため、〈帝国〉の文化を知る者にとっては大変に理解しやすい言葉であった。
以来、〈帝国〉はロッシナ家の皇帝によって統治され続けている。その統治は理想的とは言えぬにしろ巧妙なものであり、数次の大内乱にも耐え抜いたほど強固であった。
領土も著しく拡張されていた。
西方ではアスローン、南冥(今度の相手は凱《がい》帝国)を主敵とした戦いが一〇年に一度の割合でおこっていた。
そして東方では、ついにツァルラント東部主要域のすべてがその領有に帰している。あちこちでおこる小叛乱、いくつもの周辺部族(〈帝国〉人の言う”蛮族”)との対立はあったものの、〈帝国〉の勢威を脅かすには至らなかった。
ツァルラント東端より海洋によって隔てられた洋上に存在する〈皇国〉もそうした勢カのひとつー
〈帝国〉はそう判断していた。
しかし、やがてその判断を改めねばならなくなった。それはこれまで〈帝国〉の認識してこなかった力によって強制されたものであった。
海洋力。ひらたく言えば〈皇国〉商船隊(〈皇国〉人自身は回船問屋などと呼ぶ)による海洋交易の独占であった。彼等はそれを純粋に商業的な方法で、つまり他の誰よりも安く荷を運ぶという手段で成し遂げた。これは、皇紀五四〇年代から二〇年をかけて徐々に明確になっていった。
彼等によって〈帝国〉の貿易収支は(すくなくとも東方辺境鎖に関する限り)完全な赤字に転落し、それは諸物価の混乱を引き起こした。
〈皇国〉商船隊が〈大協約〉世界各地からかき集めた物資が怒濤《どとう》のように〈帝国〉へとなだれこんだからだった。当初それは経済を活発化させるものとして〈帝国〉側も歓迎した。しかし、やがて輸入品は莫大な量に増大し、〈帝国〉の同様の産品を扱う中小商家を潰し、大量の失業者を生みだした。最初のうち、〈帝国〉諸物価は下落傾向にあったが、最終的には諸物価の高騰へと転じた。
〈大協約〉世界の国際交易は全・銀・銅貨によって決済される。大抵の国で、この三種類の金属がそれ自体で価値を持つ貨幣、正貨とされている。
貿易の決済には、必然的にこの正貨が必要とされる。しかし、貿易量が増大してゆけば、いちいち正貨を運ぶ手間(危険)が増大する。入超となった国で、正貨の不足をまねく危険もある。
この問題を解決するため、〈皇国〉、〈帝国〉ともに両替商――為替制度が自然に成立していた(この制度自体は皇紀四OO年頃までに〈大協約〉世界の大国で一般化している)。
つまり、交易をおこなう商家が実際に輸送するのは産品だけで、正貨の支払こ受取は両替商の手形に依存するという方式であった。信用力のある関係者によって裏書きされた手形それ自体に全としての価値が生じる取引と言える。
手形をおさめた文箱は、商家にとり、万金をおさめた宝箱よりさらに大きな価値を持つ。裏書きのある手形は、おそろしく額面の大きな紙幣でもあるのだった。国家の保証する兌換制度がさほど一般化されていないにもかかわらず、正貨という表現を用いた理由はそこにある。
為替による取引の実際は次のようになる。
たとえば〈皇国〉に遠藤屋という鉱物問屋があったとする。
遠藤尾は〈帝国〉のレフチェンコ物産に千百の鋼材を売った。鋼材は〈皇国〉の回船問屋、阿川屋の船によって〈帝国〉へ運びこまれた。
これにより、遠藤尾はレフチェンコ物産に対して鋼材千百分(諸経費込み)の債権を持つことになる。
古典的な取引の場合、商品を受け取った時点でレフチェンコ物産は債権分の正貨を遠藤尾に送ればよい。これで決済が成立する。しかし、遠藤屋、レフチェンコ物産ともに取引量が莫大になれば、そうも言っていられない。そこで両替商へ依頼することになる。
遠藤屋はやはり〈皇国〉の両替商、北屋と契約している。具体的に言えば、支払に必要な全を預けている。レフチェンコ物産も同様。〈帝国〉の両替商、ラストボロフ商会と同様の契約を交わしている。北屋とラストボロフ商会は提携関係にある。
この場合、取引にあたってまず鋼材千万分の債務が存在することを証明するレフチェンコ物産の手形が遠藤尾によって北屋に持ちこまれ、取立の依頼が行われる。北屋はそれを手数料込みで引き受ける。
北屋はラストボロフ商会に取立業務の協力を依頼する。ラストボロフ商会も手数料込みでそれを引き受ける。
まず、ラストボロフ商会は、レフチェンコ物産から取立をおこなう。実際はレフチェンコ物産の預託全からの引き落としがおこなわれる。これについてもラストボロフ商会は手数料をとる。ここでレフチェンコ物産についての決済は完了する。
ここで問題は、債権分の全額をどのようにして遠藤屋へ入金するかになる。
ラストボロフ商会は〈帝国〉で〈皇国〉に債権をもつものを探し、その手形を、レフチェンコ物産から引き落とした金を用いて買い取る。そして、その手形を北屋に遠る。手形の額面は千石分の鋼材と等しいわけではない。少なければいくつもの手形が送られることになる(ここで、ラストボロフ商会から北屋への依頼と、手数料支払いという関係が生じ、両者の差益は相殺《そうさい》されてゆく)。
手形を受け取った北尾は、その債務者から取立をおこない、手数料を差し引いたあと、遠藤屋の預託金にそれを付け加える。必要があれば遠藤屋はそれを引きだす。
こうして決済は本当に完了する。ふたつの国の間を物品は勤くが、正貨はほとんど勤かない。〈大協約〉世界における両替商を介在した貿易とは、おおむねこのようなものになる。いや、なっていた。
〈皇国〉の大小回船問屋が運航する無数の商船による輸送(交易)の独占がそれを変えた。
まず、輸送費用に関して、〈帝国〉側が一方的な持ちだしになった。国内での価格競争で体力をつけた〈皇国〉の回船問屋が、同様の手法で海外交易にのりだし、〈帝国〉の常識から言えば格安の料金で輸送を引き受けたからだった。
回船問屋は、収益をあげるため、まず〈皇国〉で手数料の高い(つまり値段の高言商品の輸送を引き受けた。そして〈帝国〉では、現地の商家と契約するか、あるいは独白に〈皇国〉で不足する原材料を買い付け、それを〈皇国〉へ運びこんだ。国内産業を育成するため、〈皇国〉は加工製品について輸入制限をおこなっていたからだった。
最初は均衡がとれていた。しかし、徐々にそれが崩れだした。直接的な要因としてあげられるのは、〈皇国〉鉱工業分野における熱水機関使用の一般化であった。これによって〈皇国〉の鉱工業生産高は爆発的に増大した。鉱石、工業製品の国内価格は下落した。つまり、輸入量は減少し、輸出量をどうあっても増やさねばならなくなった。
結果、〈皇国〉内で〈帝国〉に債権を持つ者の数が異常に増大した。債権総額については無論、同様となった。〈皇国〉―〈帝国〉間に存在する債権の差額は、これまで機能していた為替取引では補いがつかなくなった。
まず、〈帝国〉の両替商がこれに耐えられなくなった。皇紀五五一年、景気を刺激するため、手持ち資金量以上の手形を取り扱っていた〈帝国〉大手両替商、バクーニン商会が潰れた。
〈皇国〉の両替商たちはこれを危機の兆候として受け止めた。彼等は〈帝国〉に自分たちの支店を問いた。〈帝国〉へまったく金をおとさない方式へ切り替えたのだった。
回船問屋大手も同様の対応をおこなった。この時すでに、景気動向を読んで必要になるであろう原材料を独白に輸入、販売するという事業内容へ切り替えていた彼等は、〈帝国〉へ進出した両替商と完全に結託して事業をおこなうようになった。〈皇国〉の両替商であれば、回収不能の未払い金を生ずる可能性が極端に低くなるからだった。両替商と回船問屋の中には、経営効率の改善を図るため、合併をはがるものも続出した。彼等はあまりにも強力な存在となった。
結果、〈帝国〉では、交易の際に支払われる正貨が国外へおそろしい勢いで流出しはしめた。正貨の不足が発生した。
本来ならば、正貨の不足は産業の停滞、物価の下落を引き起こす。結果としてそれは輸出の増大、輸入の減少にいたる。つまり、自然に均衡がとれる側面を持っている。事実、〈帝国〉、特に東方辺境領の物価は皇紀五五二年まで下落の傾向にあった。
しかし〈帝国〉は、正貨の増産でそれに対抗しようとした。これを決定したのは帝都の〈帝国〉民部省であった。彼等はまず、正貨の不足を当面の最大の危機として認識し、それへ直接的に対応したのだった。
これが事態をさらに悪化させた。〈帝国〉における貨幣価値の下落を招いたからであった。産業が停滞しているにもかかわらず物価の上昇が発生した。
それには、〈帝国〉民部省のもうひとつの政策が影響していた。彼等は、景気の停滞、悪化によって生じた〈帝国〉公民(臣民とことなり、移動、職業選択の自由を持つ)の高い失業率を抑制することを最重要課題としたのだった。
だが、強引な雇用の創出は物価のさらなる上昇を引き起こした。雇用された公民たちは、これまでの物価上昇をみてさらに高い賃金を要求し、結果、それはすべての価格に上乗せされたからであった。
物価上昇については他の要因もあった。貿易品の大量流人によって資産が実質的に目減りした各地の大領主たちが大商人と組んで穀物の値をつりあげたのだった。物価高騰はこれまで〈帝国〉が経験したことがないほどのものになった。そしてそれは、〈帝国〉の伝統的体制、地方領主と臣民の主従関係によって成立した部分にも影響を及ぼすようになった。
諸物価高騰は〈帝国〉のような大領主による農奴(小作)支配をとっている体制にとり、致命的な問題となりうる。生活の向上、その機会がない彼等は可能なかぎり仕事の手を抜く――生産効率が上昇しないからであった。
それでもなお物価があがり続ければ、やがて大領主たちは効率の悪い生産体制を維持できなくなる。
臣民の本格的な反逆がはじまる。つまり〈帝国〉の崩壊にいたる。
〈帝国〉がこの危機を明確に認識したのは皇紀五六六年のことであった。その年、〈帝国〉各地における臣民の暴動発生件数は、従来の五倍を記録したのだった。
もっとも、〈帝国〉のこうした認識には過敏にすぎる部分があった。貿易の不均衡というものは、長期的に見るなら必ず調整されるという性格を持っているし、それは物価の高騰についても同様であった。
民衆のおこす小さな暴動もそうだった。それは、〈帝国〉のようになかば強圧的な統治体制をとった国にとっての宿痾《しゅくあ》であり、うまく扱う限り、たいした問題にはならない。むしろ、適度な欝憤《うっぷん》ばらしをさせることで、全体の危険を減少させるという効果すら見込める。国家という組織は、民衆の不満を管制し、最低限の調和をとるために存在しているのだから当然と言って良い。事実、〈帝国〉総体の経済状態は、伸び率こそ低いものの、堅実に成長し続けていた。
ならばなぜ〈帝国〉が過剰な危機感を抱いたのか。
金の恨みが人としての情を刺激したのだとしか説明できない。
彼等が新たに出くわした蛮族、〈皇国〉に対する密やかな恐怖感――得体の知れなさ(無理解)が原因であるとしか考えられない。〈大協約〉世界最大の国家である〈帝国〉の驕《おご》りと、新興国たる〈皇国〉のあまりにも機会主義的な態度がそれを生じさせた。
そして無理解は恐怖と侮蔑を生み、恐怖と侮蔑はやがて様々な蛮行に至る。その最小のものは他者への故無き嫌悪や差別であり、穀大のものは国家回戦争となる。
東方辺境鎖姫ユーリアによる〈皇国〉侵攻はこうして決せられた。
もちろんそれは皇帝の裁可を受けたものであった。
主に東方辺境領をかき乱した物価高騰は、徐々に、〈帝国〉全土へ拡大する傾向を見せていたからだった。
侵攻は短期間で――すくなくとも二年ほどで終わるだろうと考えられていた。商船隊はともかく、〈帝国〉の国力、軍事力は〈皇国〉を懸絶している、そう考えられたからであった。そしてなにより、〈皇国〉を自称する彼等は所詮島国の蛮族に過ぎぬ、〈帝国〉の誰もがそう考えていた。
いや、それは〈皇国〉の存在を知る〈大協約〉世界の人間すべてに共通した見方でもあった。〈皇国〉の命運はすでに尽きている。誰もがそれを確信していた。
〈皇国〉人でさえその例外ではなかった。この、まったく経済的な理由から発生した戦争について、確信をもって軍事的打開策を示すことのできる者は国内にただ一人として存在しない、〈皇国〉人のほとんどがそう信じていた。
こうして〈北領紛争〉、のちに〈皇国本土決戦〉と呼ばれるようになる一連の戦いが始まった。それは僅かな休止期間を挟みっつ拡大してゆくさだめを負っていた。つきつめるならば、その原因は(史上のすべての国家間戦争、革命と同様に)金の恨みにすぎないのであるから、まさに必然と言って良い。
貧乏を経験した常人であれば、その本質を体感的に理解できる。政治、道徳、思想、宗教上の理由など、すべて、人が命を捨てやすくするための方便に過ぎない。
つまるところ、戦争とは異なる手段をもってする経済活動に他ならない。
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砲撃実施から二日間、新城とその大隊は活発に運効した。
先行渡河した敵の猟兵をさらに叩き、敵司令部がつかむであろう情報を徹底的に減少させた。さらに二度、嫌がらせの砲撃を行いもした。そのうちの一度は、昼間の観測結果をもとにして、夜に実施したものだった。心理面以外での効果はもとより期待してはおらず、まさに新城が考えていたとおりの擾乱射撃であった。その間に大隊主力は一〇里以上後退し、側近を見下ろすような位置にある丘の頂上と、側近の両脇に陣を張った。皇紀五六八年二月一七日午後のことであった。
導術を用い、友軍の状況も確認している。
北領鎮台主力の脱出はあいかわらず遅れ気味であった。笹嶋の転進支援隊本部は、それでも、約束どおりの時間を稼げばなんとかなると返事をしてきた。
新城は自分たちの後方で、似たような運命におかれた連中がまだいるのではないかと疑った。
街道を守っている近衛衆兵旅団はかなり苦労しているようだった。頻繁に敵の触接を受けている、そう伝えてきた。士気の維持も大変であるらしい。脱走兵がかなりでているという話たった。
おそらくは陽動だろうと新城は判断した。旅団と大隊、そのどちらを叩くのが楽か、子供にもわかる理屈だと考えている。主攻正面とまではいかないが、結果的に猛攻の対象となるのは自分の大隊だと思っていた。
そこに最大の問題があった。
「まともに戦って目的を達成できるとは思えない」
三名の少尉と猪口を集めた小さな会議の席で彼は口を間いた。
「それとも、誰か自信のある者は?」
誰も答えなかった。自分の考えた今後の構想が邪道に近いものであるため、”我々はこのように行動する。なぜならばこれこれこうであるから。以上”という軍隊式の命令下違法はとらないつもりだった。
各自が抱くであろう疑問、反論にも応え、納得ずくで先に進むつもりでいる。
しばらくして、漆原がおずおずと口を開いた。
「一度、まともに態勢を整えた敵軍に接触しちまったら、二刻と保たないでしょう」
「まさにそのとおりだ」
新城は頷いた。暖かい響きがある。
「このままでは、どうにもならん。この二日、ずいぶんと嫌がらせをしたが、稼いだ時間という意味では半日にも足りないだろう」
「そうですね。このまま迎え撃っても、もう半日稼げるかどうか、でしょう」漆原の隣に座っていた妹尾《せのお》少尉が言った。剣虎兵中隊でただひとり生き残った将校だった。
「しかし、あきらめることも」白けた顔つきで地図を眺めていた兵藤《ひょうどう》少尉が言った。彼はもともと第二中隊の尖兵小隊長であったため、新城との会話に慣れている。
「つまり、根性を悪くして戦うしかない」新城は全員を見回した。こうした場合の彼には、奇妙な諧謔味があった。
漆原が失笑を喘み殺す表情になった。妹尾は妙な顔になっていた。兵藤はあーあという顔つきだった。
猪口は眉毛を徴かに持ち上げただけであった。ともかく全員の気分が変わった。
「兵藤少尉、君も幼年学校で教えられたはずだ」効果を確認した新城は生費《いけにえ》を選んだ。
「〈帝国〉軍の特徴はとこにある?」
「はい、鉄の規律、優れた将校団、勇猛な兵、です。まさに軍隊の理想であります」兵藤は素早く笞えた。
「それが生みだすものはなんだ?」
「大きな行軍能力、的確な戦場運動、堅固な陣形の維持、そしてその柔軟な運用です」
「大きな行軍能力の背景には、他に何もないのか?」
「はい、大隊長殿。大きな要因があります」兵藤は笞えた。
「〈帝国〉軍は兵站集積所に重きをおきません。それが行動を制約するからです。彼等はまず現地徴発を重視します。敵地に糧をもとめ、行動します。輔重《しちょう》段列は、その兵力にくらべ、著しく小規模であります。各部隊は基本的に自活すべしと定められております。であるからこそ、身が軽いのです。北領における行動も、北府の糧秣庫を抑えられた影響が」
「ならば」
新城は遮るように言った。
「簡単じゃないか。そうだろう? 輜重段列の能力、北府糧秣庫の大きさから言って、渡河してから数日で問題があらわれるはずだ。連中もこちらと同じだと考えるなら、三日だろう。三口分以上の食料を兵に渡した場合、何かおきる?」
「連中、それで酒を造りますね」妹尾が言った。
「おそらく、〈帝国〉軍も事情は同様でしょう。部下から教えられたところでは、洋餅からでも酒はできる、と。味の方はとてつもないものだそうですが」
「だろう?」新城は言った。
「この先に糧秣庫は――友軍の集結した海岸まで、ありませんが」漆原が訊ねた。
「君、疲れてるのか?」新城は言った。
「現地徴発は糧秣庫だけが対象じゃない。街や村だって同じだ。連中の場合は」
漆原は虚を突かれたような表情を浮かべた。
仕方のないことだった。〈皇国〉の、特に内地では都市、街、村といったものの権威が強い。容易なことで軍に協力しない。下手に徴発を行おうものならば、そのまま衆民との戦闘がおこりかねない。
それは五将家が東海列洲制覇を早期にすすめる過程でとった政策の名残だった。彼等はそうした地方共同体に大きな自治権を認め、味方に引き入れていった。
〈皇国〉単が単糧秣庫と輜重段列をひどく重視した兵站組織を有している原因はそこにあった。
糧秣庫を持たぬ地域へ進軍する場合、たとえ国内であっても小規模な兵力しか作戦させられない理由も同様であった。手近に糧秣庫がない場合、はるか遠方から延々と輜重段列の連鎖をつくりあげねばならない。そしてその構築と維持に莫大な経費と人員資材――糧秣品それ自体をも喰われてしまう(カ仕事をしている輜重段列の人馬がまず、大量の糧秣を消費する)。結果、前線へ到着する物資の量はひどく減少し、大兵力の展開は不可能になるのだった。
この北領の場合は、北府に大きな軍糧秣庫が存在し、水軍による輸送支援という協力があったからこそ、数万という規模の兵力展開が可能になった。例外的な状況と言って良い(結果的に、それは敵を利しただけに終わったが)。
このため、漆原のように苦労のない育ちをした将校には、現地徴発を街や村からおこなうという発想が現実的なものとして理解されていないのだった。
衆民から食料を奪って戦うという戦争はほとんど理解の外にあった。
しかし新城は違った。幼い頃の経験がそれを実感のあるものとしている。現地徴発――つまり略奪をおこなわないという〈皇国〉軍の伝統がいかにあやういものかを承知していた。彼は内地ではなく東洲の生まれであった。そこでは一度、叛乱がおこっていた。
「大隊長殿、まさか」
兵藤が言った。さすがに意外であったらしい。
「うん」
新城は頷いた。
「僕らは敵と戦わない。しかし、後方の友軍と敵との間に存在する使えそうなものはすべて焼く。井戸には毒を投げこむ。毒についてはすでに手配させている」
「衆民はどうします?」妹尾が険しい声で訊ねた。
彼も衆民の出身であった。
「荷物を持てるだけ持たせて、美名津まで下がらせる」新城は言った。
「あそこにはかなり大きな市有《しゆう》の穀倉がある。よって、美名津で面倒を見させる。なに、美名津の市長が断ってきたならば、街を焼くと言えば良いのだ。本気ではないが、向こうはそうとらないだろう」
「輸送手段が不足します」兵藤が言った。彼も反感を覚えているようであった。
「後方からの補給は、あと三日は続くことになっている」
新城はさらに明快さを強めながら答えた。
「やってきた輔重段列の馬車や情をすべて徴発し、年寄と女子供をのせる。男は歩かせる。避難民の脚が一日あたり一〇里としても、大部分は敵に捕捉されることはない。その時間は我々が稼ぐ。と言うより、渡河直後で猛追とはいかないはずだ。いかな〈帝国〉軍でも。この点の予測は実際的なもの、そう僕は判断している」
「しかし我が方の転進後に、美名津へ敵が迫ったならば」漆原が口を挟んだ。
「頼むぞ、おい」新城は呆れたように言った。
「あの街の人口は二千人を越えている。流れこんだ避難民も、市長が引き受けに同意したとなれば市民扱いになる。後は〈大協約〉が彼等を守ってくれる。現地徴発が得意な〈帝国〉軍でも〈大協約〉だけは守る」
「北府は略奪されましたが」兵藤が重ねて言った。
「市内に我軍の施設が存在したからだ。その場合、軍を追いださないことには市邑保護条項の対象とはならない。それではどうにもならん」新城は答えた。
喘んで含めるような調子だった。彼は全員の顔をみまわして訊ねた。
「おい、僕はここでいつまでも〈大協約〉の中級講義を続けねばならないのか?」
いやそうではと皆が笞見た。しかし、彼等が新城ほど〈大協約〉に知悉《ちしつ》していないのは事実であった。
と言うより、この〈大協約〉世界で、その秩序の根幹をなす〈大協約〉そのものに興味を持つ者はひどく少数であった。その大部分が一般常識として日常へ溶けこんでいるからだった。それは二千年ほど前に人と龍の間で結ばれたものとされているから、無理もなかった。常識を法則性と論理性で捉え直すことは、大抵の連中にとり、知的拷問でしかない。
結果、近頃では〈大協約〉に詳しい知識を持つものはひどく限られるようになっていた。王族、大貴族、史学者、法学者、そして趣味人と天龍たちその程度のものだった。軍人の一部もそこに含まれる。市邑保護条項に見られるように、〈大協約〉は戦争についてあれこれと枷《かせ》をはめているからであった。
もっとも、新城個人については別の事情があった。
子供のじぶん、彼はそれを一種の歴史物語として捉え、わけもわからぬまま読みふけったのだった。
「よろしい。我々は衆民の疎散を誘発する。そののち、すべてを焼き払う。そこまではいいな?」
新城は再確認した。質問はない。彼は続けた。
「となれば、真室川から美名津までの五〇里、そのどこかで敵の糧株は無くなる。必然的に行軍速度は低下する。我々は後方の苗川《なえかわ》、その渡河点に布陣して、連中の息切れを待つ。街道と側連は苗川渡河点、ああ、小苗《おなえ》橋の一〇里ほど手前で交差し、右左が入れ替わっている。西側の連が側近になる。つまり、僕らの後退経路が街道にかわる。本当はそこで待ち伏せたいところだが、兵力差がありすぎて無理だ。だから渡河点まで下がる」
妹尾が訊ねた。
「敵がその、側道側を回りこむ可能性は考えんでもよいのでしょうか?」
新城は首を横に振った。
「とりあえずは村の破壊と後退を優先する。ああ、もちろん、側道上の村も破壊の対象だ。とはいっても、大して人は住んじゃいないが。ここから南の側道は、本来、夏秋の大水で街道が使えなくなった時のために敷かれたものなのだ。軍の兵要地誌にはそう書いてある。それに、側近は大規模な兵力を通すには狭すぎる。除雪もおこなわれていない。敵の主攻はこちらに向くはずだ。僕らは渡河点の南岸に野戦陣地を築城し、その攻撃に持久する。一苦労だが、けして絶望的ではない。それどころか、うまくいけば、僕らも北領から脱出できる。それが可能な場合はただちに連絡をとる手筈ができている」
「真室の町はどうします? あそこにもそれなりの糧抹庫があります」漆原が訊ねた。
真室川の河口にある人ロー千人ほどの街のことだった。そこは現在、戦局からほとんど無関係なものと両軍からみなされている。
「こっちが進撃路沿いの村を焼けば、〈帝国〉軍もそれに気づくのじゃないでしょうか。市邑保護条項の対象にもなりません」
「笹嶋中佐に頼んだ」当然だろうと言う声で新城は答えた。
「敵がそれに気づいた段階で、巡洋艦が真室の糧食庫――ああ、この場合は穀倉だな――を艦砲射撃する。〈帝国〉軍の旗を掲げて」
「しかし、我々がほかの村を焼けば。北領の衆民は誰も軍を信用しなくなります」漆原が言いつのった。
「誰が正直に野盗の真似をすると言った」新城は答えた。猪口を見る。
「〈帝国〉軍の制服と装備を二〇人分ばかり、かきあつめてあります」猪口は全員に伝えた。
「それを着て、夜、いくつかの村を襲う。もちろん村民は殺さない」新城は説明した。
「そして翌朝、服を着替えて村長の前に顔をだす。
〈帝国〉軍が追っているから逃げてくれと伝える。
それで充分だ。あとは道洽いに噂が流れ、誰もが南へと逃げだす。我々は無人の村を焼きながら後退するだけでいい。以上が僕の、大隊長としての構想だ」
「汚い」漆原が言った。
「そこまでして戦わねばならんのですか」
新城は漆原を見つめた。他の少尉たちも同感らしい。猪口ですら、全面的に賛成してはいないようだった。
「ならば、ありとあらゆる道徳を守って勇敢に戦うとでも?」
新城は訊ねた。
「半日後には、みんな揃って討死にだ。そんな運命、少なくとも僕は御免こうむる。死して無能な護国の鬼となるより、生きて姑息な弱兵と誹《そし》られたほうが好みだ。どのみち地獄に落ちるにしても、せめてものこと、納得だけはしていたい」
誰も反論できなかった。新城があえて刺激的な表現を用いていることを全員が理解していた。彼の顔面には、その言葉と正反対のものが現れていたからであった。
彼は、すべての要素を勘案した末に、この方法がもっとも〈皇国〉に対する損害を少なくすると判断していた。
その損害には、衆民が受けるそれも含まれていた。
彼等は逃げだすことにより、〈帝国〉軍の本格的な略奪を受けずに済むのだった。
たしかに、新城の考えだした策によって、大きな悲劇の一部――たとえば必然的に発生するであろう無数の強姦――は回避できるはずであった。
〈帝国〉軍の軍規には、住民に対する暴力の禁止事項は、市邑保護規定の遵守を唯一の例外として、まったく含まれていなかった。いや、兵の士気を高める狙いで、強姦や略奪はむしろ奨励されている傾向すらあった。
その意味で、新城たちの敵はまったく今日的な軍隊であった。国家の統制力、軍の統率がその程度の悪行ではゆるがないことを意味してもいるからだった。
これと比べれば、〈大協約〉の庇護下にない村々にいたるまで暴行、略奪の対象から外さねばならぬ〈皇国〉軍こそ、むしろ前時代的な存在だと言えた。
そして〈皇国〉では、その”前時代性”はますます強化される傾向にあった。
五将家の影響力低下と天領の無自覚な経済発展がその主な要因をなしていた。現在では、内地のみならず、〈皇国〉の主要領土をなす、すべての大島で軍の現地徴発が禁じられている。なんとも恐るべきことに、〈皇国〉軍は国内での行動中に、炊事用の薪を勝手にとることも禁じられているほどだった。
山が入会権《いりあいけん》をもって保護されていた場合、あとあと問題になりかねないからであった。
つまり〈皇国〉軍にあっては薪ですら後方から輸送される軍需物資なのだった(陣地の構築――野戦築城における木や家の使用は原則的に認められていた。それによって資産に被害を受けたものは、国家へそれを請求する権利があった。薪がそこから除外されているのは、どれほど損害を受けたか、算定が不可能だという理由もあった)。
それはなにかの芽生えである、そう唱える者もいたが、少数派にすぎなかった。敵側の視点――〈帝国〉の立場から捉えるならば、あきらかな短所だった。
いま、その短所(そして〈帝国〉軍の”長所”)を新城は利用しようと言っていた。すべてを逆手にとるつもりなのだった。
「質問は?」
新城は全員を見回した。自分の組み上げた理屈が一種の偽善、愚劣な策術の類にすぎぬことなど他者から言われるまでもない、そう確信している態度であった。
「近衛衆兵はどうします?」兵藤が質問した。「連中にもやらせるのですか?」
「いや、伝えない。親王殿下の率いる部隊にそんなことをさせて、秘密が守られるとは思えない。殿下は民草にお優しいという風評のある方だから、なおさらだ。むしろ僕は、殿下の部隊が衆民の逃亡、その手助けをするように仕向けたい。よって、近衛衆兵には、偽装襲撃が実際の襲撃だと信じさせるよう、情報を流す。いい加減、士気がさがっている部隊だ。それだけで慌てて後退するだろう。つまり我々はこの負け戦、それを単独で支える英雄となるわけだ。楽しいぞ。軍人としてこれ以上の名誉はない」
新城は言った。ひどく卑《いや》しい表情になっている。
しかし声音は娼妓《しょうぎ》に純愛を告げる詐欺師のようであった。再び全員を見回す。誰も口を開かなかった。
彼は命じた。
「無ければ行動する。漆原少尉、〈帝国〉軍への偽装は君に任せる。兵を選べ。馬を調達してあるから、それを使え。偽装襲撃の実行は今夜だ。明日の午前第三刻までにせめてふたつの村を襲うこと。現場には〈帝国〉軍とわかるもの、そうだな、帽子かなにかを落としておけ。気づかれなければ意味がないからな。大隊主力とは午前第五刻までに合流。村長に話を信じさせるには将校の数が多いほうがいい」
「夜は魔王、朝は天主、ですか」漆原は言った。それまで新城へ抱いていた好意のすべてが消え去った顔つきだった。
「まさにそのとおり」
新城は言った。穏やかな口調であった。
「君は得難い機会を持つことになる。天主と魔王の両方を演じられる者は滅多にいない。僕を恨んで気が楽になるのならばそうしろ。さあ、他に確認すべき事項はあるか? ない? ならばよろしい、行動開始だ。急げ。僕らは戦争をしているのだ」
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再び厚く雲の張りだした空のもと、大隊が村へ到着したのは二月一八日午前節六刻すぎのことであった。いまだ早朝と言ってよいが、冬とはいえ、農村では誰もが目を覚ましている時間でもある。そしてその朝、村では誰も彼もが普段よりもさらに早起きをしていた。深い嘆きと恐怖に包まれていたのだった。
村人は兵の到来に気づき、歓声をあげた。村長のもとへ何人かが走り、それを伝えた。
「どうかお助けください」
村長は指揮官へ懇願した。
「〈帝国〉軍が村へ鉄砲を射かけよりました。それで、それで――」
彼はまともな言葉すらみつからぬまま、指揮官へ事情を説明した。指揮官は恐ろしげな猛獣を傍らにおいていた。
あの子は、苗木《なえぎ》香奈《かな》は当年とって五歳、村でも評判の娘でございました。素直で優しい性根の、愛想の良い子でございました。誰もが揃でてやりたくなるような子でございました。生き物の好きな子でございました。あい、そうでございます。それがいけなかったんでございます。今朝はやく、まだ一番鳥も鴫く前の刻限でございます。あの、あの、音が響いて参ったんでございます。あれほどたくさんの蹄の音、あれほど恐ろしげな販きはこれまで聞いたことがございません。あい、その音に驚いて、あの子の可愛がっておりました子大が外に飛びだしました。あの子は、それを追って、連れ戻そうとして、自分も外に。誰も止める暇がございません。どうにもなりません。あい、それであの音が。あの筒音が響いたんでございます。音が消えても、しばらくは恐ろしゅうて誰も勤けませなんだ。手前もそうでございました。やがて子大の啼き声が聞こえました。
安心いたしました。あの子も無事だったんか、と。
あい、でもって、でもって家の者が外にでてみれば。
あの子のそばにはこれ、このやくざな毛皮帽が落ちてございました。
あい、手前でございますか。この里の長でございます。苗水|井介《いすけ》ともうします。苗木香奈は手前の孫娘でございます。早死にいたしました一人娘が遺した、ただ一人の孫でございます。
涙すらだせないほど深い悲しみのなかにある老人へ、指揮官は丁寧に言った。どうか、お孫さんに手をあわさせてもらえませんか。
老人は大きく目を見開き、あい、あいと頷いた。
家族に周囲を囲まれ、少女は布団に横たえられていた。彼女の肌はいまだに柔らかなものを感じさせたが、同時に、これ以上はないほど無機質でもあっ
た。悪童に壊された女神像のような見かけたった。
帽子をとって家にはいった指揮官は、少女の遺体へ軍隊式の礼――靴の踵《かかと》をあわせ、背筋をのばし、機械のように腰をおってみせた。それからほんの一瞬だけ、両手をあわせた。老人に向きあった。
「孫の仇を」老人は言った。すがりつくような口調であった。
「必ずや」指揮官は頷いた。そして済まなそうに続けた。
「しかし、今は村のことを考えねば」
「どういうことでございますか?」
「あなたもお気付きだろう」指揮官は言った。
「我軍は撤退作戦を開始している。そんな有様では、とても村を守れはしない」
「なんという情けないことを」老人は言った。「儂の若い頃は――儂が北領公様御先代の手勢に加わっておった頃は」
「であるから」指揮官は言った。「せめて、残りの者は守らせて貰う。皆、すぐに荷物をまとめるように。鍋釜、着物、それに食べ物。鋤鍬や種籾もいくらかならば。すぐに南へ逃げてもらいたい。僕らはここで敵を防ぐ」
「南? 南と言われても」
「美名津の市長にはすでに伝令をだしてある。逃げこむものすべてを肋けろと。美名津までの五〇里。それだけを頑張ってくれたなら、もう大丈夫。〈大協約〉がみんなを守ってくれる」
「この冬場に、荷物をもって五〇里も。年寄りも、女子供も」
「荷物を運ぶために、軍の馬車を四台、貸してさしあげよう。それを使うといい。足の弱い者もそれに乗ってゆきなさい。ああそうだ、街道沿いのすべての村にもこのことを伝えて欲しい」
しかし、葬式もしてやらねばと老人は言った。墓地はどこだね、兵に手伝わせようと指揮官は言った。
急いで欲しい。そうしなければ、今度は皆殺しになるかもしれないよ。
村は午前中に無人となった。新城直衛は将校に集合をかけた。彼等はあわてて荷物を持ちだしたため荒れ放題となった村長宅に集まった。
「よくやった」新城は言った。
「これで、他の村も逃げだすだろう。兵藤少尉、君に一〇名の兵をつける。慌てた様子で彼等を追い抜け。いかにも逃げているように。真実味が深まる。
輜重段列の馬車や馬植をみつけたら、すべて徴発し、手近な村にわたしてやれ。噂も広めろ。合流は二日後、この村から一五里の南。そのあたりなら街道と側道は一緒になっているから、心配はない。かかれ」
「はい」兵藤は立ち上がり、外へ飛びだした。
新城は一座をみまわした。そこではじめて欠けた面子に気づいたようだった。彼のような男にしては、奇妙なほどの手抜かりであった。普段ならば絶対に考えられない。
「漆原少尉は?」新城は怒鳴りつけるような声で訊ねた。
「少尉殿は」猪口があわててこたえた。「ええ、あの。自分がお呼びしてまいります」
「僕がゆく」新城は言った。「居場所はわかっている」
新城は外にでた。歩調が徐々に早くなる。猪口と妹尾があわてて後を追った。
新城は東の村はずれへと急いだ。そこには墓地があった。漆原はそこにいた。丸木を削ってつくられた真新しい墓標の前に座りこんでいた。周囲に数名の兵がいた。
「立て、少尉」
彼の背後に駆け寄った新城は命じた。どこまでも冷酷な、恋人の愛撫さえはねのけるような態度であった。
「いまの僕に、君の趣味につきあっている暇はない」
「まさか、本当にあたるとは思わなかった」うずくまったまま漆原は言った。視線をあわせようともしなかった。
「子供でした。子供だったんです」
「すでに報告は受けた。遺体も確認した。埋葬も済ませた。君もそれは確認したはずだ」新城は答えた。
「ただちに任務へ戻れ」
「あなたのせいだ」漆原は怒鴫った。立ち上がる。
振りかえった。ひきつった顔を新城に向ける。全身が震えている。
漆原は喚《わめ》いた。
「あなたがわたしに子供を殺させた」
「それは君の意見にすぎない」新城はきっぱりとはねのけた。
「僕にわかっているのは、君が、供の命令を忠実に実行し、それを果たしたということだけだ。僕の命令を、だ」
彼の言葉、その最後の部分はひどく大きな声で発せられた。叩きつけるような勢いがあった。
漆原は左右に大きく頸を振った。
「もう、あなたの命令には従えない」
「つまり抗命するわけだな」新城は言った。「ならば、処罰する」
披は手袋を脱ぎ捨てた。銃剣の柄に手をかける。
漆原はそれに応ずるように背筋をのばす。
「お待ちください、大隊長殿」猪口が飛びだした。
「少尉殿は錯乱しておられます」
猪口は兵たちに顎で命じた。数名の兵が漆原の両腕をつかむ。真っ赤な顔をして歯を食いしばっている彼を新城の前から連れ去った。
新城はまったく表情の失せた顔でそれを見送った。
鏡銅を握った手が白く変わっていることに猪口は気づいた。彼は手袋を拾い上げ、上官へと差したしか。
新城は、はりついたようになった右手を努力して柄から離した。手袋を受け取り、はめる。その手がわずかに震えていることを猪口は見逃さなかった。
「子供」新城は呟いた。彼は周囲のすべてを無視していた。ふたたび呟く。「命令だと?」
新城の声にはひとを不安にさせるような甲高さがあった。
「大隊長殿」猪口は案ずる声をかけた。
新城は猪口を見た。彼がそこにいることに初めて気づいたような表情だった。やはり普段の状態ではない。彼は言った。
「莫迦な奴だ」
「大隊長殿」不同意な口調で猪口は笞えた。
「賛成できないか、曹長? 別にそれでも構わない。だがあいつは莫迦だ。大莫迦野郎だ」新城は言った。
「少尉にもなって、軍隊の基本を理解しとらんのだから」
「なんですか?」猪口は訊ねた。正直、疑問を感じた顔つきだった。
新城は噛みつくような表情を浮かべた。「君も忘れたのか? 僕はそれを幼年学校の営庭で修正を受けて学んだ。君もそこにいたはずだ」
新城は断言した。
「軍の行動によって生じた問題の責任は、それを命じた者だけが背負う。命じられた者ではけしてない」
彼は指目に背を向けた。猪口の耳に、上官の漏らした呟きが、かすかに届いた。
「子供だと? 畜生め」
それは暗く深いなにかへと沈みこむような声であった。いまの新城は人前で正直になる自由を持たなかった。となれば、みすがらの持つ良き部分を白身で食い荒らしつつ、すべてに対するよりないのだった。
千早が心配そうに近寄ってきた。新城はうるさそうに手を振った。剣牙虎は驚き、そして哀しそうな声をあげた。
上官の呟きを耳にした猪口は、やはりそうなのかと考えていた。
この歪んだ上官が時にあまりにも冷酷な態度を示す理由がわかった気がした。あるいはただ、生い立ちの影響だろうかとも思った。容易に判別はつき難かったが、おそらくその両方であろうと判断し、受け入れることにした。彼がのみこんだものは冷たさと暖かさの混淆《こんごう》した不可思議な安堵感であった。
村人たちが村を立ち去ってからきっかり一刻後、新城はすべてに火を放てと命じた。兵の作った松明を持だされ、最初に火を着けたのは漆原であった。
もちろん、そうしろと命じたのは彼の上官だった。
毒は新城直衛大尉自身が井戸へと投げこんだ。
外海から真室湾内への進入は二月一八日午後第四刻に予定されていた。
北の海はひどく荒れている。夕刻近くなってそれはさらにひどくなった。
〈皇国〉水軍乙型巡洋艦〈大瀬《おおせ》〉は、ほっそりした船体と前後二本の檣柱《マスト》を前後左右に揺らせつつそこを進んでいた。この種の艦、その通例に従い、艦首よりの檣柱が一番大きな大檣となっている。大檣・後檣では帆装の種類もことなっている。|大 檣《メインマスト》は帆装艦といえば誰でも思い浮かぶ横帆、後檣は比較的小さな商船でよく採用される縦帆であった。新迫持は完全な横帆で建造されたが、一〇年ほど前におこなわれた第三次夫改装でそのように変えられたのだった。
美名津湾内ではいくらかましになっていた波が、ただひとゆれで艦を大きく揺さぶり続けていた。艦首から艦尾にかけて張られ、いっぱいに膨らんだ白帆だけが奇妙に鮮やかであった。人が、あらがいがたい何かに立ち向かう決意の表明であるかとすら思える情景だった。
と同時に、海はどこまでも恐ろしげであった。
紺よりさらに暗い表面に、鍋からふきこぼれたあぶくのような色合いの波頭が無数に生じている。波はすべて小山のようだった。
〈大瀬〉はその振幅のただ中を進み続けた。艦を造りあげるすべてのものが互いに擦れあい、嫌な音を立て続けている。
〈大願〉艦長、坪田《つぼた》典文《のりふみ》中佐は艦尾甲板に設けられた掘っ立て小屋のような艦橋構造物、その屋上にいた。この艦の指揮はそこで――露天艦橋でおこなわれるからだった。全身、濡れ鼠であった。もちろん、油布を用いた外套を着こみ、顕には手ぬぐいを巻いている。しかし荒れ狂う海水はその弱々しい防御縁を易々と突破して、彼の身体から体温と体力を奪い続けている。
左舷側に生じた巨大な波に艦首がのりあげた。見る間に海水の奔流が甲板へなだれこむ。
坪田は手摺《てすり》にしっかりと掴まった。腰には命綱をしぼりつけてあるが、安心はできなかった。彼の周囲にいる者たち――信号士官、掌帆長、伝令も手近なものにつかまり、腰をかがめた。
〈天瀬〉は大きく右舷側へ傾斜した。
なにもかもがおしまいかと坪田が思った直後、左舷側へと立ち直る。この動揺のおかけで風を受けて膨らんでいるはずの帆がばたばたという音を立てた。
しかしそれもすぐに消えた。〈大瀬〉の周囲には冬の暴風が吹き荒れているのだった。
坪田の右肩を叩くものがあった。
砲術長の森本《もりもと》大尉だった。彼は口を大きくあけていた。しかし何もきこえない。すべて風に吹き飛ばされているのだった。嵐のおかげで、たとえ怒鴫っても、甲板での意思疎通はひどく難しくなっている。
坪田は艦橋構造物内へと通じる階段を指さした。
二人はそこを下りた。轟音がいくらかましになった。
艦橋構造物の一階(と言っても”二階”は露天艦橋だけだが)には、艦首寄りに操舵室、艦尾寄りに海図室が設けられている。坪田たちが下りたのは後者だった。操舵室は部屋とは名ばかりの場所にすぎないからであった。その前側は、視界を確保するため、吹きさらしになっている。そこでは、舵手が自分の背丈よりも大きな二重式の舵輪にしがみつき、針路を保持しているはずであった。
坪田は室内を見回した。五、六人の者が配置についていた。若い航海士が蒼い顔で海図台へはりついている。おい貴様、しばらく上で潮風を浴びてこいと坪田は命じた。こら、扉はきちんと閉めんか。
「全砲門の閉鎖は維持されています。あやしげな奴が二つほどありましたが、補強させました。砲の固縛も問題ありません」森本は報告した。
「漏水は半刻あたり二石というところで。いま、副長が船艙《せんそう》へおりて船匠班の指揮をとっておられます。
何カ所か、かしめを詰める必要があるようで」
「溜まった汚水は?」坪田はぬれそばった手ぬぐいをしぼり、それで顔を拭いた。
「膝下でおさまっています」森本は言った。「ともかく、浮力の低下はさけられそうです。いまのところは。副長から、いざという場合、砲術科員で船匠班を増強したい、そうお伝えせよと命じられました」
「可能な限りそれは避けろ。副長にはそう伝えろ」
坪田は即答した。
「連中にはこの先で一仕事ある。射撃目標は海のすぐそばだが、人家へあてる訳にもいかん。砲術科員はなるべく元気でいて欲しい。君もだ、砲術長」
雪崩のような轟音が響いた。坪田と森本は手近な手摺につかまった。艦が左舷へ傾斜し、やがてしぶしぶとおきあがった。
「射撃計画は?」坪田は訊ねた。
「現状では、変更の必要なし、です」森本は応えた。
「ともかくあの町に  真室に思いきり近接するわけですから。払暁直前でもなんとかなります。それよりも問題は」
「天候か」坪田は頭を軽くかしげた。そればかりはどうにもならなかった。海図台を取り囲んで設けられた手摺を掴み、海図をのぞきこんだ。
〈大瀬〉は転進支援隊本部の指揮下に置かれた数隻の艦艇、そのひとつたった(大部分の艦艇は東海洋艦隊司令部の指揮下に置かれたまま、北領救援に参加している)。全長五九間、全幅一一間、排水景物ハハ○石というほっそりとした見かけの全帆装艦。
ここ二〇年ほどのあいだに建造された水軍の駆逐艦級以上の艦は、ほぼ全艦が三本以上の檣柱を備えているから、つまりはかなりの旧式艦であった。
ただし、その火力はなかなかのもので、両舷あわせて二四門の一二斤艦砲を備えている(艦首の追撃砲、そして艦尾砲を加えた場合、ニハ門になる)。
真室の穀倉、その破壊を命じられた理由はそこにあった。いざという場合失ってもおぎないのつく旧式艦で〈大願〉ほどの火力を持つ艦は他にいなかった。
しかし現状では、任務を果たすよりも先にこの海での生き残りに努力せねばならなかった。北へ進めば進むほどがぶりのひどくなる海を、あえてそちらへと進み続けねばならないからであった。
とにもかくにも、危険きわまりなかった。
波によって海岸や暗礁へ打ちつけられる危険を避けるため、荒天航行の常套手段――沿岸航法も使えなかった。
おかけで針路にもいくらかの不安があった。陸標の視認ができないため、時振儀と羅針儀以外、頼りになるものがなにもないのだった。
天測も不可能であった。雲にいくらかでも切れ目があれば、恒陽と光帯を天測議で測り、必要充分な精度で現位置を知ることができる。しかし空は厚い雲で覆われ、恒陽がどのあたりにあるかさえ見当がつかない。
坪田は定規を片手に持ち、すでに海図へ書きこまれた航路と予定航路を確認した。船の推定現在位置は美名津湾と真室湾をへだてるように南へ突きだした御崎《おんざき》岬の坤合一ハ里であった。細巻を吸いたいと思ったが、これほど揺れているのではそれもできない。
やがて坪田はあきらめたように定規を海図台横につくりつけられた箱へ戻した。この状態では、ともかく北へ進みつつ難破を避けること以外、何を考えても無駄だと悟ったのだった。
現在、〈大願〉は左舷艦尾測からの風を受けて航行している。速力測定器が使えたのは四刻も前のことだからさっぱりあてにならないが、艦の速力はいまも毎刻一二、三里を維持しているだろう。
せっかく風向きが良いのに惜しいことだと坪田は思った。
帆装艦は、風を真後ろから受けた時に最大の速力を発揮するわけではない。
考えてみればあたりまえで、真後ろからの風では、最後尾の檣柱(後檣《リアマスト》)に備えられた帆以外、まともに風を受けられなくなってしまう。方位を一三刻きざみの刻時器の目盛りにあわせて示す水軍式の表現で言えば、右舷第五刻か、左舷第九刻あたりからの風を受けた場合、艦はもっとも早く進む。現在の〈大瀬〉はまさにそれで、波がこれほど荒くなければ、風から受け取った力をもっと効率的に消費できるはずであった。
波が艦を叩く轟音が響いた。艦尾からきこえてくる。追風を受けて帆走しているため、追浪からも逃れられないのだった。後ろからも波がやってくること、それが操艦と航走の困難を増している。
ともかく、うまく風を利用し続けて進むしかない。
坪田はそう思った。風にあわせ、帆の開きを加減しつつ進んで、明日払暁直前までに、目標の二、三〇○間以内へ近づかねばならない。面倒なことだ。畜生め。これならまだ逆風の方が楽かもしれない。いっそあきらめがつく。
坪田は濡れた頭をかいた。
海図に海水がとぶ。あわてて拭き取ろうとして、自分の手ぬぐいを使えばもっとひどくなるだけだと気づいた。海関白の上に置かれていた薄汚れた布で吸い取るようにした。彼は白身の疲労を自覚していた。手前けがいる、そう思った。
「副長に伝達」坪田は海図室にも待機している伝令へ命じた。
「露天艦橋へ出頭」
下の甲板へとつながる階段のそばにいた伝令は、それを下に向けて叫んだ。命令は、船艙にいたる各甲板の階段に待機している伝令づたいに、下へと伝わってゆく。
「御苦労」坪田は砲術長へ頷いた。
「君は配置へ戻れ。俺も露天艦橋にあがる。ひとつ、あの航海士がどんな顔をしているか、確かめてこなきやならん。ついでに本艦の面倒も見てやるがな」
この四日、すべては新城の目論見どおりに推移していた。村々は焼かれ、井戸には毒が流しこまれ、農民たちは南へと逃げている。〈帝国〉軍の歩みは徐々にゆっくりとしたものになっていた。捜索剣虎兵第一一大隊はすでに三〇里あまりを後退していた。
もう半日もしたならば、彼がこの後衛戦で唯一の防御拠点と見定めている前川渡河点――小苗橋に到達するはずであった。北領鎮台主力の撤退はやはり予定通りにはいかず、丸一日ぶん遅延している。笹嶋がそれを伝えてきた。
新城は文句をつけなかった。すでに彼はその任務を受け入れていたし、まあ、一日ならば仕方はあるまいと考えてもいた。
新城は隊列のなかほどを歩いていた。さすがに疲れている。ここ数日歩きづめだし、天候が再び悪化し、気温がさがりはじめていた。空模様からいって、もうしばらくで雪が降り始めるかと思われた。風も強い。
そんな彼の耳に兵たちの会話が聞こえた。
「井戸に毒を入れて、どうにかなるんですか、曹長殿」
訊ねているのは子供のような幼い兵だった。
猪口の声がきこえた。
「雪があるのに、か?」
「はい」
「貫禄、雪を喰ったことがないな?」猪口は言った。
「はい。たくさんは」
「それが答えだ」猪口は言った。「雪をどれほど喰っても、喉の渇きはおさまらん。せめて、鍋で溶かしたあとでなければ。それに、水をつくるのにいちいち火を焚《た》くんでは、面倒でしょうがない。薪もいる。井戸から汲みあげて水筒に入れ、どこか外気にあたらんところに入れて持ち歩く方が楽だろう」
「はあ」兵は領いた。理解している声ではなかった。
「大隊長が教えてやる」新城は口をだした。驚いている兵に話す。
「いいか、井戸が使えないということは、一個軍、つまり三万人ぶんかそこらの水を雪から造る、そうなる。つまり、必要な薪は、三度三度の煮炊きに使う量の倍以上にもなる。おい、毎日、いつもの倍も薪を拾わされたら、貴様、どうなる?」
「きついです」兵は答えた。
「それでいいんだ」新城は言った。「毒を入れたのは敵をきつくするためだよ。わかったか?」
兵は要領を得ない声ではあと答えた。新城は苦笑を浮かべつつ言った。
「水を飲むのは人間様だけじゃない。馬も飲む。〈帝国〉軍がどれだけ馬を持っていると思う?」
そこまで言われてはじめて、兵はいくらか納得できたような顔をした。〈帝国〉軍の人馬が毎日消費する薪、その量がおそるべきものになるとわかったのだった。
猪口が大度ですなという表情をしてみせた。新城はなにが大度なのだという顔でそれに応じた。内心では、猪口の領分をおかさずに済んだらしいことがわかり、ほっとしている。彼と猪口のようなつきあいの長いあいだがらであってすら、将校と下士官の関係には難しい部分がある。どんな下士官でも、将校に自分の領分――兵隊の国、その統治に容喙《ようかい》されることを嫌う。それは将校の仕事ではないからだった。
前方に騎影があらわれた。四騎いる。
新城は望遠鏡をとりだし、それを構えた。兵藤であった。俯抜けたようになった漆原の代わりに大隊の尖兵を命じてある。
「渡河点は確保してあります」
戻ってきた兵藤は報告した。
一個小隊、残しました。気の利いた軍曹に率いさせてあります。可能な限り、築城資材を集めておけと命じておきました。陣地の縄張は御命令どおりにするよう、これも命じました。あと、やはり御命令どおりに馬鋤《ばすき》を手に入れましたが」
「御苦労」新城は頷いた。なかば質問になっていた兵藤の言葉には答えない。
すぐそばを進んでいる馬車に視線を向ける。その荷台には導術兵たちが乗りこんでいた。誰の顔も疲労しきっている。他の兵とは違い、彼等の疲れは一晩ゆっくり寝たところでどうなるものでもないのだった。
新城は彼等を眺め回した。もっとも元気そうなのは金森であった。
「金森、できるか?」新城は訊ねた。
隈ばかりが目立つ青白い顔でぐったりとしていた金森が朧を開けた。彼は言った。
「御命令とあらば、大隊長殿」
新城は何かを言いかけ、それを飲みこんだ。疲れ切った男に命じる。
「敵の動きを探れ。主力がどのあたりにいるか、それを中心に」
「はい」
新城は兵藤へ視線を戻した。若い少尉はとこかとがめるような顔つきで上官を見ていた。
「工兵を連れて渡河点仁戻れ」新城は命じた。「到着したならば、騎兵砲の砲座を優先して作業を開始しろ」
「橋はどうしますか?」兵藤は訊ねた。
「爆破準備は砲座のあとだ。友軍の残兵を可能な限り収容する」
新城は言った。兵藤は妙な顔を浮かべた。
新城が口にしたのは戦場心理にかかわる問題であった。
橋を爆砕するということは、戦況が不利であることを意味している。つまり、誰もの心に焦りと恐怖が巣くう。
そのような場合、橋の破壊は往々にして予定どおりには済まない。もっとも効果的なのは、敵がその橋を渡りけじめ、橋の中央あたりに達した頃合だが、そこまで待てる者は滅多にいない。大抵の者は、準備完丁と同時に吹き飛ばしてしまいたがる。後退してくる味方や避難民で一杯の橋を吹き飛ばす者すらいる。これは何も極端な事例ではない。過去に何度もあったことだった。
新城は白分か特殊な勇気の持ち主であるという確信がなかった。それどころか、いざとなれば何をするかわからないとすら思っていた。最後先にすべき爆破準備を後回しにしたのはそれが理由だった。
「大隊長殿」弱々しい声が彼を呼んだ。金森であった。
新城は金森に視線を据えた。若い導術兵の顔色は、このわずかな間にもひどく悪化したように思われた。
「我々は敵の先鋒からは一五里、主力からはほぼ二〇里離れています」金森は報告した。
「近衛余呉は街道上を、我々より一〇里先行しています。先頭はすでに小苗橋の近くです」
「御苦労、しばらく休め」新城は笞えた。期待していたとおり、〈帝国〉軍の行軍速度にしてはかなり遅かった。付々を焼き、井戸に毒を投げこんだ効果が出ているのだった。
近衛衆兵に連絡を、と言いかけ、向こうが導術兵を配備されていない部隊であることに気づいた。
腰の物入れから紙と黒革をとりだした新城は、それに手早くなにか書き付けた。紙を巻くと紐でしぼり、合わせ目に署名した。
「これを殿下にお渡ししてくれ」新城は兵藤に命じた。「海岸から運びだせない物資と装備を可能なかぎり融通してくれるよう、書いてある。工兵は追及させるから、気にしなくともよい。急げ」
兵藤はそれを受け取るやいなや馬へまたがった。
駆けだす。
敵がどこにいるかわかって、誰も彼も足が速くなったらしい。捜索剣虎兵独立第一一大隊は弱々しい陽光と光帯のもとを黙々と進み、冬のはやい日没が訪れる前に小苗橋へと到着した。川から一里ほど西にある林の周囲には、いくつもの大天幕が張られていた。
築城作業を指揮していた兵藤が報告した。
「殿下よりの御返書です。大隊長殿の御要望はおおむねかなえられました。ええ、妙な意味ではありませんが、殿下はたいへん感激しておられる御様子でした。あの大天幕は」呉藤は西にあるそれを指さした。
「殿下の御配慮により、近衛衆兵が張ってくれたものです」
新城はわずかに眉をひそめ、返書を受け取った。
戦場でやりとりする軍用文書というより、女房奉書として御簾《みす》の陰から差しだされたような紙にそれは書かれていた。
予想していたような、装飾ばかりに満ちた文章ではなかった。むろんのこと、皇族としての地位、官職その他は麗々しく書き並べられていたが、本文の方はその正反対であった。まったく虚飾を廃した筆致で、新城の要望へ最大限にこたえる旨、記されていた。
貴官と大隊の幸運を祈る、と返書はしめくくられていた。それを見る限り、実仁殿下はきわめて実際的な性格の――つまり軍人向きの人物ではないか、そう新城には思われた。
おそらくそのとおりなのだろうと新城は判断した。
〈皇国〉随一の弱兵をもって知られる近衛衆兵を率い、後衛戦闘にあたるなど、大抵の指揮官にとっては悪夢以外のなにものでもないはず。それをともかくもやりおおせたのだから、将校として無能であるはずがない。
新城は書状を内懐へしまった。大休止を命じてある部下の様子を確認する。大隊の半数は大口を開けて眠りこんでいるのではないか、そう思われた。
刻時器の文字盤を見た。まだ午後第四刻前であった。猪口を呼ぶ。
「第四刻になったら、総員起こしをかけろ」新城は命じた。
「工兵小隊長の指示を受けたのち、築城作業を開始。給食班は起きているか?」
「寝とります」猪口は答えた。
「連中はすぐに起こせ。湯を沸かさせろ。兵が目を覚ました時に、せめて白湯の一杯でも飲ませてやりたい。黒茶があればもちろんそちらを分配してやれ。
ああそれから、二割に半刻は休息をとらせること。
休息には大天幕を用いろ。ごろ寝はさせるな。いまはともかく、夜は冷える。天幕を暖めるためにいや、そこまで僕が口にだす必要はないな。曹長、よろしく整えてくれ」
「はい」猪口は言った。納得した表情であった。
「農家の息子を何人か選べ。自作農の息子だ」新城は続けて命じた。
「あたりはつくか?」
「いくらかはおりますが、大隊長殿?」猪口は不思議そうに答えた。
「連中に輓馬《ばんば》と馬鋤をあてがえ。縄張を済ませた場所をそいつでまず据り返させろ。うまくゆくかどうかわがらんが、凍った地面をそのまま掘るよりはましなはずだ。兵が円匙《シャベル》を使って壕を造るのはそのあと。いいな? よろしい、曹長、君も第四刻まで休め」
新城は兵藤に視線を向けた。感に堪えぬ、という表情を浮かべた若い少尉に命じる。
「兵藤少尉、君には囚刻半まで休息を命じる」
「自分は」兵藤は不服そうにこたえた。「大丈夫ですが」
「明日の昼になっても、同じことが言えるか?」新城は訊ねた。わずかな諧謔をふくんだ口振りであった。
兵藤はにやりとし、了解しました、休みますと答えた。
妹尾少尉がやってきた。気になることがあるらしい。彼は質問した。
「大隊長殿、上流の渡河点ですが」
「上苗《かなえ》の橋はすでに爆砕されている。それに、あちら側をまわりこんで海岸へ到達するには、街道を進むより一一日ばかり余計にかかる。道が悪いからね。その時間を短縮できるのは騎兵だけだ。しかし騎兵は糧抹をばか食いする。連中の兵站能力からいって耐えられないほどの量を。つまり、それほど心配する必要はない」新城は笞えた。
「しかし、一部だけならば」納得しきれない声で妹尾は再び言った。
「たとえば大隊程度で」
「そんな兵力では海岸につっこめない」新城は否定した。
「返り討ちにあう。北領鎮台の現状はともかく、敵はそう判断する。〈帝国〉軍はまともな軍隊なのだから」
「我々の後方を突き、挟撃されるかも」
「かもしれない」新城は素直に頷いた。「だから一応、導術に見張らせてはおく。しかし、他は無理だな。ともかく、敵と接触した時点で大隊の全力がここにいる必要がある。でなければ頭数が少なすぎて出鼻をくじけない」
「なにか構想がおありなのですね」妹尾は勝手に納得した。
「ある」新城は答えた。妹尾の声に、すがるような響きがあることに気づいていた。
「まあ、君は僕の指示する敵を片づけていてくれたらよい。いいから今は休め」
妹尾は心底安堵した表情を浮かべ、はい、休みますと笞えた。
新城は冷や汗をかいていた。
実際は、敵が迂回した場合、なにもできないだろうと考えている。と言うより、敵をひたすら自分の方へ誘引し続けたのはそれを怖れるが故なのだった。
もし〈帝国〉軍が騎兵部隊の迂回をおこなった場合――村々の破壊はそれにそなえての行動でもあった。糧株が不足してしまえば、いかな〈帝国〉東方辺境領騎兵といえども無理はできない。それにより、新城は二日ほどの時間を稼いだと考えていた。敵の迂回行動に一日、糧抹の輸送と補給に一日。つまり、笹嶋から伝えられた稼ぎがすべき日数に、どう考えても二日たりない。戦略的な劣勢に戦術で対抗せざるをえない新城の限界であった。
ならばそれが発生した場合どうするのか。
責任をとるしかないと新城は思っていた。正直、それを想像するだけでなにもかも嫌になってくるほど強い恐怖だった。
新城は北方に目を向けた。そこには幅二五間ほどのゆるやかな流れ、前川があった。そこにかけられているひどく粗末な橋が小前橋たった。対岸は――彼の大隊がすべてを破壊しつつ後退してきたそこは――まったくたいらかな地形であった。条件がよければ、森によって視界が遮られる五里さきまで完全に祖語できる。
防御戦には好適、そう判断すべきだなと新城は思った。
大隊が布陣した小苗橋の南側には、街道脇に標高一五間ほどの丘がある。新城はそこに戦闘指揮所を設けるつもりだった。騎兵砲はその反対斜面に据えて強引に仰角をあげ、必要とあらば五里先にまで砲弾を降らせるようにする。
新城はゆっくりとした足取りで丘をのぼりはじめた。風が吹きつけるためだろうか、積雪はそれほどでもない。風はさらに強くなっていた。
さてさて、一足ごとに軍靴の半分ほどまでめりこむ斜面をのぼりつつ新城は思った。
これで自分の思いつきも種切れだ。あとは、敵の出現と同時に橋を落とし、ここで踏ん張るより手はない。
まあ、やれるだけやってみるさ。すべてがうまくいっていれば、敵の攻撃はそれほど激しいものにはならない。たとえば夜陰に乗じて撤退し、最後の救出船に乗りこむという真似だって不可能ではない。
坪田は露天艦橋に立ちつくし続けている。
風浪はさらに激しさを増していた。なにもかもが意志を持った径物のようになって〈大瀬〉に襲いかかる。締め付けのあやしくなった索具の補強に出た甲板員三名が波にさらわれた。救出は無論、不可能であった。
漏水量も増大している。船匠班を指揮するため、再び船艙へ下りた副長から、どうあっても増員して貰わねば、本艦は浸水で沈むという報告があった。
波が右舷から押し寄せた。〈大瀬〉は右舷に大きく傾斜した。復元する。と、艦内から何か乾いた大音響が轟いた。それは坪田の耳にも届いた。
しばらくして、砲員が階段から顔をつきだし、坪田に叫んだ。
「右舷六斎砲回縛索切断! 砲術長負傷! 現在、復旧指揮は掌砲長が代行しあり!」
坪田は頷いた。森本大尉の負傷がどの程度のものか気にかかるが、いまは彼よりも艦を心配せねばならなかった。それに、指揮を代行しているのは掌砲長であるから、たいていのことは安心できる。
掌砲長とは砲術科の先任兵曹長に与えられる一種の名誉称号であった。こと砲と水兵に関する限り、知らぬことのない男だけがそれを名乗ることを許される。言ってみれば、彼は水兵の提督ということになる。檣楼員と甲板員の上に立つ掌帆長も同様の役回りと言ってよい。陸軍でいえば、旅団や大隊の最先任曹長がこれにあたる。いまの坪田の立場から言えば、正直なところ、森本大尉に任せるよりよほど安心できるのだった。
触先が波にのりあげた。持ち上げられるような感覚すら覚える。落下。艦首から海水の奔流がおしよせてくる。
妙に騒がしい音がした。坪田はそこを見た。艦首に突きだした斜楼に張られていた三角帆がはためいていた。索具が切れたのだった。
坪田は喉の奥から抑え切れぬ唸りを漏らした。今度は艦尾が持ちあげられるような感触。身構えるまもなく背後から激浪が浴びせかけられた。どこかで悲鳴が聞こえた。誰かが流されたのかもしれなかった。
坪田は決心した。
浪浪帆走はもはや限界であった。たとえ任務がどうであろうと、まともに帆を張り続けることはできなかった。
「掌帆長」坪田は言った。「大檣上帆《だいしょうじょうはん》より縮帆《しゅくはん》。中帆《ちゅうはん》だけを残せ。後檣も縮帆。艦首風上舷に鎮波油を用意」
「はい、艦長」
彼の隣でやはり生命の危険にさらされていた掌帆長は、その素振りも見せずに応じ、左手首に輪でぶらさげていた拡声質を構えた。大声を発する。
あちこちで待機していた甲板員たちが、帆を捲きあげる揚帆索《ハリヤード》にとりつく。大きな波。上甲板が白く洗われる。
坪田はその情景を眉毛ひとつ動かさずに眺めていた。もちろん内心は正反対であった。甲板員が流されぬかどうか、心配でならない。
とりあえずは無事なようだった。揚帆索《みなほ》がひかれるたびに、大檣に四柱とりつけられている横帆、その上側がたわんでゆく。ひどく長く感じられる時間が過ぎて、ようやく捲きあげられた。続いて、下側の帆がたわんでゆく。
掌帆長があらたな命令を発した。
檣楼員たちが、大きく左右に揺れ続ける二本の檣柱に張られた縄梯子状の網にとりつく。それは檣柱を安定させるために張られた何本もの網――支檣索《シュラウド》であった。支檣索《ししょうさく》のあいだには、互い違いに投網が張られ、縄梯子をなしている。支檣索と投綱でつくりあげられた縄梯子は各檣柱につき面舵ともにもうけられていた。
まったく胃に悪い光景であった。白い水兵服のままの檣楼員たちは、地獄の振り子、その針のように揺れる檣柱の継ぎ目にある足場へ風浪に吹き飛ばされそうになりつつ昇っていった。
何本もの巨木を継いでつくられている檣柱に設けられている足場は、檣楼と呼ばれている。帆の展張や収納の際に利用されることはもちろん、見張所や狙撃拠点としても用いられる。
檣楼にたどりついた檣楼員たちは、帆架に腹をおしつけ、それにそって張られている足場綱だけを頼りに左右へとひろがった。帆に通されている帆角索をつかみ、それを引っ張り、風の力にあらがいつつ丸めてゆく。どうにかうまくいっている。誰も落下しないのが不思議に思えるような光景だった(実際、帆架からの転落事故は、帆装艦にはつきものだとすら言える)。
坪田は安堵した。予定より遅れはするが、この危機を乗り越えられもする、そう確信したからであった。
〈大瀬〉がこの荒海で昧わった最大の横波に襲われたのはその瞬間だった。
波高は檣柱の頂上――檣頭の二倍にも達していた。
その巨大な海水は、旧式乙巡へ右舷側ほぼ正横から殴りかかるようにして押し寄せた。
一瞬であった。
なにもかもがあまりにも大きな力をうけ、押し流され、へし析られ、ひねり潰された。怒濤の向こうから檣柱の析れる音が響き、幾つかの悲鳴が聞こえた。坪田を含む上甲板にいた三〇名以上が、命綱を縛り付けていた手摺が引き剥がされたことによって海へ放りだされた。
船体もまた大きく右に傾いた。
それは通常であれば〈大願〉の復元力でもって対抗できる暴力であった。しかし、右舷側へ祈られた檣柱の重みと抵抗がそこに加わっていた。〈大願〉はついに荒海へ屈し、横転した。鋼板の張られた船底はしばらく波間に顔をだしていたが、それも夜のうちに海中へ没した。生存者は皆無であった。
〈大瀬〉喪失は、〈皇国〉水軍が北領鎮台救出作戦で被った最大の損害となった。
朝靄《あさもや》の向こうからあらわれたその姿は整然、堂々たるものであった。〈帝国〉軍はまるで閲兵を受けているかのように隊列を組んでやってきた。丘の上に設けられた指揮所からはそれが手に取るように良く見えた。新城は現在時を確認した。二月二〇日午前第七刻上小半。
「なんとまあ」
その様子を望遠鏡で眺めまわした新城は呆れたように呟いた。隣にいる猪口に言う。
「まさに圧倒的じゃないか、敵軍は? 一度でいいから、あんなに立派な軍隊を率いてみたいものだ、曹長」
猪口はまったく実際的な答えを返した。
「少なくとも八千はおります。糧抹は不足しておらんのでしょうか、大隊長殿?」
「不足しているよ、もちろん。僕らはそうなるように戦争をしている」新城は笞えた。
「追撃を円滑ならしめるため、先鋒集団へ優先的に補給したのだろう。後方では大変なことになっている。元気なのはあの連中だけだ。まあ、追撃戦の通例どおりと言えばそれまでだが」
「どうされますか?」
「どうもこうもない」新城は言った。「ここで戦うよ。たった一個大隊で。なにかこう、楽しくなってくるな、ええ?」
猪口はわずかに頬をひきつらせて上官の横顔を見た。呆れよりも恐怖を覚えている。もちろん敵にではなかった。新城がまったく言行一致した表情であるからだった。本当に楽しんでいるのかもしれなかった。
新城は訊ねた。
「曹長、漆原が言っていたな? まともな敵軍に接触したならば」
「二刻と保だない。ええ。そのとおりであります、大隊長殿」
「野戦築城でそいつをどれだけ延ばせるものか、確かめてみようじゃないか。すくなくとも、あと四日はなんとかせねばならんのだから」
「橋は」猪口は訊ねた。
「まだた」新城は答えた。
「敵が近づくまで残しておく。あまりはやく吹き飛ばしたのでは、向こうがなにか他の手を考えるかもしれない。そうなっては面倒だ」
「罠だとばれているのでは」
「もちろんそうだ」新城はあっさりと言った。「しかし、万にひとつ、無傷のまま奪取できる可能性も考えている。こちらがどこかでへまをやらかすかもしれないと考えて。それがあるないでは大違いだよ」
〈帝国〉軍は中隊横列を縦に並べた陣形のまま前進した。さすがに騎兵を左右へ展開させはしなかった。
このあたりで、ほかに渡河のできる場所がないことを知っているらしい。
橋が落ちた場合、兵を強引に渡渉《としゃく》させるだろう、新城はそう予測していた。対岸に彼の大隊が布陣している限り、架橋は無理であるからだった。となれば、凍傷者の大量発生を顧みず、兵に冷水のなかを突っ切らせるしかない。手近な場所に、他の渡河点はないからだった。戦術は時にいかなる非道をも肯定する。
御苦労なことだと新城は思った。
彼もまた必要とあらば手段をえらばない男ではあった。しかし、独特な癖の持ち主でもある。
人命の損失を最低限におさえることに、勝利よりも大きな喜びを感ずるのだった。それはけして安易な人道主義からくる幼児的な思いこみではなかった。
それこそが、白身の能力を推しはかる最良の評価基準だと考えているからだった。
新城にはこの場所を必要充分なだけ(つまり、敵先鋒集団が追撃戦を諦《あきら》めるほど疲弊するまで)守りきる自信があった。そのために必要な手も打ってある。大きくとらえるならばそれは彼の命じた村々への焼き討ちであった。ちいさく見た場合、部隊の布陣によくあらわれている。彼は、大隊のほぼ全力を壕や遮蔽物へ潜ませていた。
変転急なこときわまりない野戦環境における防御施設の構築(野戦築城)は、古来、多くの軍隊が等閑《なおざり》に伏してきた事項のひとつと言って良い。
雨を浴びたくないのならば、軒下に隠れるか、傘を差す――戦場における陣地の役割はそれにつきる。
雨滴が砲弾や弾丸にかわっただけにすぎない。戦場では傘や軒下の役割を全身がはいるほど深く据られた壕、木材で組まれ、その上に土砂のかぶせられた掩体《えんたい》がその役割を来たす。樹木や丘といった自然地形、家屋その他も有効になる。
しかし、〈大協約〉世界におけるほとんどの軍隊はそれを重視していない。伝令、喇叭、太鼓といったもの以外に、壕や掩体へと散らばった部隊に連絡をつける方法がないからであった。これは特に戦況が混乱した場合、大きな問題を引き起こす。
横列や縦列といった密集隊形が銃砲の出現後も用いられ続けている原因はそこにある。いってみればそれは人によってつくりあげられる可動式の陣地なのだった。
野戦築城の軽視――その例外は要塞だけであった。
要塞の堅固さは、大抵の欠点を打ち消してしまう。
〈帝国〉と〈皇国〉が本格的な衝突をはじめていたこの皇紀五六〇年代、要塞に対する攻撃法、いわゆる攻城術は充分な発展をみせていない。工兵を利用した戦術はそれなりに効果を発揮しているが、銃砲の火網と石材のつらなりで造り上げられた要塞は易々と陥とせるものではなかった。
しかしこの場の新城はそうした常識をまったく気にする必要がなかった。彼の手元にはいまだ三名の導術兵が残されているからであった(分隊長の増谷は夜襲の晩に戦死していた)。
彼はうち一人、金森二等算術兵を指揮所に残し、他の二人を兵藤と妹尾に預けた。二人はそれぞれ橋の左右に設けられた防衛線を任されている。二人の少尉はそれぞれ一個中隊相当の兵と、後退の途中で回収した平射砲六門を与えられている。導術でもって連絡がとれる限り、彼等が壕や掩体にこもっていても何の問題もなかった。
おそらく、導術をこのようなかたちで活用した指揮官はこの時の新城直衛大尉をもってその嚆矢《こうし》とする。こののち二〇年ほどのあいだに彼と〈皇国〉が歴史に対してなした役割からして、さほど意外とは言えない。
〈帝国〉軍中隊縦列は前進を続け、約二里半の距離に迫った。その付近の雪庇には幾つかの穴が問いていた。新城が事前に試し打ち――標定射撃を行わせた痕だった。
新城は静かな声で命じた。
「騎兵砲、打方はじめ」
騎兵砲隊には導術兵がつけられていない。命令は伝令によって伝えられた。しかし、騎兵砲は指揮所のすぐ裏手といってよい斜面に仰角をました姿勢で展開しているから、手間はかからなかった。無論、仰角についてはすぐに修正できるようにしてある。
背筋をはい上がるように砲声が響きはしめた。思わず首をすくめたくなる。しかし新城はその欲求に耐えた。部下の前でそこまで無様な真似はさらせない。
しばらくして、敵の最前列付近で一斉に弾着が生じた。一二個の爆発、そのうち半数は空中で生じている。爆発して弾片と子弾を飛び散らせる霰弾の効果は、空中でー敵の頭上で爆発した場合にもっとも高くなる。
少なくとも三〇名以上が一斉に粉砕された。
「いいじゃないか」新城は明るい狂気に満ちた声で言った。それを耳にしてだろうか、これまでひどくおとなしくしていた千早が起きあがり、敵に向けて大きく吼えた。
新城は顔面に笑いを張りつかせた。
東方の蛮族はまったく小癪《こしゃく》であった。〈帝国〉軍トレパノフスキィ将軍士官学校の砲術教範に載せたいような巧みさで統制のとれた射撃を浴びせかけてきた。
前線から駆け戻ってきた伝令が報告した。
「第18猟兵聯隊第37猟兵大隊、第一及び第三中隊壊乱」
「撤退したいとでも言うのか」
ユーリィ・ティラノヴィッチ・ド・アンヴァラール・シュヴェーリン少将は答えた。まさに容貌魁偉《かいい》という表現が似つかわしい大兵肥満の将軍であった。
東方辺境領事随一の闘将として知られている。いまの彼は、約ハ四OO名よりなる先鋒集団の指揮を任されていた。命令は簡単明瞭。出くわすものすべてをなぎ倒し、敵が脱出しつつある海岸へ突入すること。
「砲兵の布陣を急がせろ」シュヴェーリンは命じた。
幾多の戦陣で甘さのはぎとられた、鋼を引き裂くような声であった。
「敵の対砲迫射撃を受けますが」隣にいた参謀長のハンス・アルター中佐が心配そうに言った。
「ああ、受けるだろうさ」シュヅェーリンは答えた。
「それがどうしたと言うのだ?」
アルターはただ肩をすくめてそれに答えた。
「カスキネン大佐に伝えろ」シュヅェーリンは伝令に命じた。カスキネンとは第18猟兵聯隊の聯隊長であった。
「貴聯隊は委細かまわず攻撃を続行。橋が爆砕されたる場合、突撃渡渉を敢行、橋頭堡《きょうとうほ》を確保すべし。全砲兵をもってこれを支援す。以上だ」
伝令はその言葉に青ざめたようになり、敬礼して前線へと戻った。
「損害が増えます、ユーリィ」他の誰もが聞いていないことを確かめたあとでアルターが言った。
「他に方法がない」シュヴェーリンは答えた。外見、態度と裏腹に、彼は兵を愛する将軍であった。無用の損害を嫌うというより、人間一般についての愛情が深い男なのだった。
「兵站が滅茶苦茶になっている。まったく、井戸すら使えんとは!我々はまだいいが、軍主力では今日の飯にも困る有様なんだぞ。であれば、なんとしてでも殿下の御期待に背くわけにはいかんのだ」
シュヴェーリンは背筋をのばした。対岸を睨み付ける。
「おまけに、あの敵!おい、あれを率いているのは、例の猛獣使いか?」
アルターはあいまいに頷きかけた。その点については、いまだ情報がはいっていないからだった。銃声と砲声の向こうから紛れもない剣牙虎の咆哮が響いてきたのはその時だった。アルターは言った。
「まさにそうですな、ユーリィ。他の部隊はすでに海岸へ撤退しています」
「たいした野郎だぞ、ハンス。伏撃、夜襲、突撃、今度は野戦応急築城ときた。ええ? ずいぶんと手際よくこなしているじゃないか?」
「村を焼き払ったことも。よくもまあ、やってくれたものです。まさか、自国領の村々、その井戸に毒まで投げ入れるとは」アルターは言った。
シュヴェーリンは不機嫌そうな呻き声を返した。まさにそのとおりであるからだった。
〈帝国〉東方辺境鎮定軍の兵站、その現状は危機的と言って良い。
直接的な意味におけるそれは、徴発すべき村々の焼失によって生じた糧秣の不足であった。その報告を受けた鎮定軍司令部は、もちろん手を打った。東方辺境領のあらゆる港町に船を送り、糧抹等の買い付けをおこなっている。
しかし、それが短期間で効果を発揮することはない。彼等がこの北領における策源地としている奥津港にどれほど物資を揚陸しても、前線となった路南半島へ輸送できないのだった。おりからの悪天候に加えて、輔重輸送カ――つまり馬車が決定的に不足している。限界以上の重荷を背負わされた輔重段列はすでに疲弊しきっていた。
問題をさらに悪化させているのは、水の不足であった。井戸が使えなくなり、すべての部隊に対して、川か雪から水を供給せねばならなくなっていた。
川から水をとることは簡単だったが、部隊が進撃し、川から離れてゆくごとに輸送の困難が増した。
雪から水をとることは、それを溶かすために大量の薪を必要とし、やはり問題となった。腹を空かせた兵に、薪をつくらせねばならないからだった。たとえ川から汲み上げられた水が前線に到着しても、問題の解決にはならなかった。輸送中に凍結してしまうからであった。
結局のところ、現状では雪を溶かして湯を沸かしたほうがよい、そうなっている。薪を拾い集める面倒は同じであるからだった。
シュヴェーリンは言った。
「おい、ハンス、消極的なことはもういい。なにか意見を、この泥沼から足抜けできるような意見を」
「独力で、となれば、あなたが命じた以外の方法は思いつきません」アルターは答えた。
「もったいぶるな」シュヴェーリンは焦れた声で言った。「早く言え」
「西方に、もうひとつ橋があったはずです」アルターは言った。
「ある。いや、あった。敵がすでに爆砕した」シュヴェーリンは答えた。
「西方渡河点か。人の足では渡渉ができん。深さは胸まであるし、流れがきつい。工兵に架橋させるのも難しい。連中、任務がきつい割には、優先的な補給を受けていない。いい加減、疲れ切っている」
「騎兵ならば渡れるかも」アルターは言った。「迂回させ、敵の主力ではなく、あの猛獣使いの後背を突くのです。もちろんその間も敵には強襲をかけ続けます。気づかれては面倒ですから」
「カミンスキィにやらせるのか?」シュヴェーリンは反問した。すぐに自分で答えをたす。
「いかん、駄目だ。奴は駄目だ」
「カミンスキィ大佐はなかなかに優秀な男ですが」
「だからいかんのだ。これ以上、昇進されたら始末におえなくなる。いまでさえ――」
そこまで言ってシュヴェーリンは黙った。残りの言葉を飲みこんだのだった。東方辺境領姫を批判することになりかねないことに気づいたからであった。
彼は表現を変えた。
「どのみち、現在の輜重品備蓄量では、別働隊をたす余裕はない。こちらの食べるぶんが足りなくなる」
一理あった。先鋒集団に与えられた幅重品、特に糧株は必要最低限をわずかに切っていた。〈帝国〉軍の兵站はそこまで悪化しているのだった。
もしカミンスキィの胸甲騎兵聯隊を別働させる場合、彼等には充分な糧抹を与えねばならない。
なぜならば、カミンスキィの騎兵は主攻正面をはずれ、別の渡河点から(つまり大きく迂回して)敵を突くことになるからだった。激しい運動をおこなえば腹が滅る、その道理であった。シュヴェーリンがいま持っている糧抹の量からみて、それはまさしく不可能だった。
「その問題を持ちだされると」
アルターは肩をすくめた。解決の方法を思いつけないのだった。幅重品、ことに糧株が弱点であるとわかってもいた。しかしそれは彼が無能であることを意味しない。指揮官に策を獣じるのは参謀の任務であるからだった。
前方で一斉に爆発が発生した。布陣しつつあった砲兵に砲撃が加えられたのだった。
猟兵の先鋒が橋に追っていた。隊列を崩し、橋の上を駆けだす  と同時に、そこは赤く染まった。
対岸に隠れていた数門の砲が瑕弾を浴びせかけたのだった。しかし猟兵はひるまない。第二波が橋を渡りだす。
黒煙と白煙、そして森音。何名もの兵が空中へ吹き飛ばされる。〈皇国〉軍が橋を爆砕したのだった。
シュヴェーリンは歯を音がでるほどにかみしめた。
兵站の悪化から、増援も期待できない(腹を空かせた兵は動けない)この状態で、これほどまでに損害をだしつづけていて良いのか、それを思っている。
しかし、東方辺境領姫からの命令は攻撃の続行を伝えていた。
しばらく目を閉じたあと、シュヴェーリンはアルターに命じた。
「ハンス、迂回渡河に必要な行動命令を策定しろ。それが終わったなら、カミンスキィを呼べ」
「糧株は」アルターは訊ねた。
「カミンスキィの手持ちでやって貰うしかない」
アルターは難しい表情を浮かべた。カミンスキィの反応、その想像がついたのだった。
呼びだされたカミンスキィはまさにアルターが危惧していたとおりの返答をした。
「糧株をなんとかしていただかないことには、閣下」
カミンスキィはシュヴェーリンに言った。
「西方の渡河点まで迂回して敵の背後に潜りこむには、移動だけでも一日以上は必要です。聯隊の手持ちだけではどうにもなりません。腹を空かせた馬で突撃はできません」
「わかっている」シュヴェーリンは容姿美麗な騎兵指揮官をにらみつけながら言った。
「他に方法がないのだ」
「しかし、それでは二個大隊も動かせません。危険すぎます。聯隊全力が動けるようにしていただけないと」
実際は大隊ひとつでも充分にすぎるほどだった。
彼等にとって唯一の障壁となっている新城の大隊は実勢六〇〇名以下、それは〈帝国〉軍で言えば増強された中隊ほどの戦力でしかない。
しかし彼等は、いま白分たちの正面にいる”猛獣使い”に対し、過大な評価を与えつつある。新城の手駒が戦力の減耗した大隊にすぎないとは信じられなくなっているのだった。この北領での主要な戦闘、そのすべてに勝ち続けてきた〈帝国〉軍を、まともに戦うことなく苦境へと追いこんだ敵であるから、無理もない話ではある。
「これは命令なのだ、大佐」
シュヴェーリンは笞えた。できうるかぎり□にしたくはない、彼がそう考えていた言葉であった。軍隊における命令には、それはどの力がある。よって、それをもってして無理を押しとおす指揮官は無能者の烙印《らくいん》が押される。
「はい、閣下」カミンスキィは応じた。
「しかし、小官がそれに反対したことだけは御記憶にとどめていただきたい」
「無論だ。文章にもしてやる」シュヴェーリンは頷いた。ただちに準備を整え、それが終わりしだい出撃せよと命じた。焦っている。
すでに午後であるからだった。冬は陽が落ちるのが早い。そして、夜になれば、街道をはずれた場所での行軍速度は著しく低下する。この戦場は〈帝国〉軍のすべての将兵にとって見知らぬ土地であるからだった。地図があり、兵要地誌も作られているとはいえ、まったく安心できない。だいたい、方角を間違えてしまえば、迂回の意味がなくなってしまう。
明るいあいだにできる限り距離を稼ぐ必要があった。
カミンスキィは聯隊に戻り、準備を整えた。
調べなおしてみたところ、持っていける糧株は一個大隊を賄うのも難しいことがわかった。実際は、渡河したあたりでほとんど消費しつくしてしまうだろうと予想された。彼はその旨シュヴェーリンに報告し、聯隊の、第一大隊だけを率いて出撃した。いかに糧抹が不足しているとはいえ、それ以上小さな部隊で危険な迂回行動を試みるわけにはいかなかった。
先鋒集団のもとへ思いもよらぬ届け物があったのはそうした情景の半刻後だった。二個猟兵大隊の増援と、糧抹であった。
ことに後者はどこから工面したものか、シュヴェーリンとアルターはそれを疑った。兵站参謀はマムロという街で手に入ったものですと報告した。
シュヴェーリンはカミンスキィを呼び戻そうとはしなかった。東方辺境領姫公認第一愛人の聯隊はすでに行動を開始していた。
しかし、シュヴェーリンは無能な指揮官ではなかった。
届けられた糧抹には限りがあったが、その中から割ける最大限の量を計算させた。一個大隊ぶんならばどうにかなりそうだった。彼は渡河の面倒を考え、荷馬車でなく馬の背に糧株を載せた  荷駄にした輜重段列を編成させ、カミンスキィの後を追わせた。
さすがに護衛はつけられなかった。兵力の余裕がない。増援の猟兵大隊もただちに戦闘へ役人せねばならなかった。
ただし、夜になれば、損害を受けた猟兵大隊を再編成し、増援としてカミンスキィの後方に送ってやるつもりだった。ここに残された胸甲騎兵聯隊主力は、陣地を突破した後におこなわれる追撃戦の主力として保持しなければならない、そう判断したからだった。
輜重段列の編成を命じると同時にシュヴェーリンは伝令をだした。無論、カミンスキィに対してであった。伝令はカミンスキィが糧株を受け取る頃合いは明日の昼過ぎになると伝えられている。場所はもちろん西部渡河点対岸――上苗橋渡河点を渡った任意の地点であった。実際の会合地点は戦況にあわせ、カミンスキィが決定することになっていた。
橋が爆砕されたのちも〈帝国〉軍は攻撃を続行した。猟兵を川に飛びこませ、泳ぎわたらせようとした。
川岸に設けられた壕からの射撃が始まった。水面に小さな水柱が無数に生じる。悲鳴があがり、赤いものが川面へひろがってゆく。前川とその対岸付近に弾着標定をすませてある六門の平射砲が次々に発砲する。何十名もの猟兵が水中で肉体を引きちぎられ、下流へ、海へと流れ去ってゆく。
騎兵抱は、あいかわらず敵砲兵を叩き続けている。
絶対量からいって、いずれ猛烈な応射を受けることは明らかだが、ともかく、効果はあがっていた。
〈帝国〉軍の射撃による損害はほとんどない。すべての兵と抱か身を隠しているからであった。
「やれますな」猪口が明るい声で言った。「弾さえ続けば、いくらでも持久できます」
「そうもいかないだろうが」新城は答えた。手袋をはめたまま手をこすりあわせつつ続ける。
「やはり四日や五日は大丈夫だ。少なくとも、友軍の撤退は成功する」
猪口は上官がまったく面白くなさそうであることに気づいた。彼は訊ね。
「大隊長殿?」
「ああ? いや、いらぬことを考えただけだ」新城は答えた。
彼は、この北領で〈皇国〉軍が勝利をおさめる方策を思いついていたのだった。
まず、この苗川ぞいの重要な場所に、ここと同様の陣地を築城する。そしてあちこちで〈帝国〉軍に攻撃を強要し、疲弊させる。やがて機会をとらえ、全兵力でもって逆襲に転じる。
たとえば、すでに輸送船へ乗りこんだ部隊を敵の後方へ上陸させて戦闘を強要し、混乱に追いこむ。東海洋艦隊はその戦力の大半を北領北岸部、つまり〈帝国〉軍の腹背にまわし、港を封鎖し、増援部隊、補充兵、輜重品を運ぶ輸送船を拿捕、撃沈する。つまり〈帝国〉東方辺境領から延々と引かれている兵結線を、洋上で完全に断つ。
それをひとつきほども続けたならば――北領の〈帝国〉軍は潰滅するだろう。たとえ陸上における反撃が失敗しても、しまいにはそうなる。
たしかにそのとおりかもしれなかった。いや、実際、この時の東方辺境領鎮定軍司令部はそれを怖れていた。その危険にいちはやく気づいたのはユーリアたった。であるからこそ、先鋒部隊による強襲突破を厳命していた。
だが、その可能性が実現することはない。新城はそれを知っていた。彼が軍司令官ではなく、ただの大隊長にすぎないからであった。それも、戦死した上官にかわって指揮をとっている野戦昇進の大尉。
北領鎮台の全力に加え、東海洋艦隊のすべてを役人する必要のある反撃作戦をどうこうできる立場ではなかった。
おそらく、新城は思った。後方でも、自分より高い地位にいる誰かが同じことを思いついてはいるだろう。この程度の思いつきは軍事の基本中の基本なのだから。であるのに、反撃への動きがまったく伝わってこないのはなぜか。
鎮台司令部にその気がないからだ。なぜ司令部に戦意がないか。それも想像がつく。守原大将がいけない。彼はいち早く船上へ逃げてしまった。天狼会戦での敗北で、まったく戦意を失っていたから。そんな司令長官が反撃を認めるはずがないのだ。おそらく、すべてが終ったあとで何か大がかりな案をもちだす、そんなところだろう。畜生め。
背後で人の倒れる音が聞こえた。
新城は振り向いた。負傷者ではなかった。考えようによってはそれよりも悪かった。疲れ切った導衛兵――金森が失神したのだった。
「休ませてやれ」
新城は命じた。本当は殴りつけてでも目を覚まさせてやりたいところだが、無理であることがわかっていた。それに、この先、状況がよりきびしくなった時、金森に頼らねばならない度合はさらに強まる。
この渡河点を攻めあぐねるであろう帝国軍が思いつくであろう新たな方策、それを監視させねばならない。
新城は敵がいずれ上流の渡河点――上苗橋のあったあたりの渡河を試みるだろうと予測していた。しかし、いまのところそこにはいっさい兵力を配置していない。手持ちの兵力が少なすぎるからであった。
導術にたよって敵の動静をつかんだのち、対応するしかない。
帝国軍後方で一斉に砲煙が生じた。帝国軍がついに砲兵の布陣を完了したのだった。
「退避!」新城は命じた。
しかし自分は背筋をのばしたままでいる。胃のひきつるような恐怖感にかろうじて耐えつつ、周囲の全員が壕や掩体に飛びこんだことを確認した。そのあとで、ようやく自らも掩体壕に入る。足取りがゆったりしたものであったのは見栄ばかりではない。
急ぐと、恐ろしさのあまり足がもつれそうであるからだった。千早があとに続く。
弾着の轟音が響いた。思ったとおり、戦闘指揮所を目標としている。
掩体壕のあちこちから埃がたち、上がこぼれ落ちた。新城にとっていくらか意外なことに、通常の円弾による砲撃であった。これならば、直撃を喰らいでもしないかぎり、たいした損害はでない。もしかしたならば、敵は霰弾も不足しているのかもしれなかった。
それならそれで有り難いこと、新城は思った。さてさて、これからが本当の河川陣地防御戦闘、その開幕というわけだ。
彼は内懐から細巻のはいった袋をとりだした。あの水軍の中佐から貰った昧と香りのよい細巻をくわえる。燐揮でそれに火をつけた。ひどくのんびりとした動作であった。
それを見つめていた千早は子猫のような声で小さく啼いた。砲声のなかでやることがないため、いくらか心細くなっているらしい。砲声や銃声に怯えぬようしつけられたとはいえ、無理もないことであった。
新城は喉の奥で小さく笑うと、剣牙虎の額を揉んでやった。それが、戦場の恐怖からの子供じみた逃避であることに気づいた者は一人もいなかった。
翌二月二一日午前第九刻になっても、防御戦闘は新城の望むかたちのまま継続されている。
大隊はすでにこの日最初の突撃渡河を跳ね返した。
現在おこなわれているのは二度目の突撃だった。
銃砲の火線をくぐり、敵の一部が川を渡った。一〇〇名ほどだった。陣地に配した兵力で十分に相手のできる兵力だった。
しかし新城はそれだけで済まそうとはしなかった。
彼は命じた。
「予備隊だ。予備隊を投入して逆襲」
「しかしそれでは敵に」猪口が言いかけた。
「構わん」新城は答えた。「急げ」
猪口がなにを理由として反諭しかけたのか新城にはわかっている。
通常、後置された予備隊は滅多なことで役人されない。彼等が最後の楯であるからだった。
実際、優れた指揮官であればあるほどなにがあっても予備隊を維持しようとする。そうした常識から言えば、現状で予備隊の役人を命じた新城の判断は早計にすぎた。
しかし新城には別の発想があった。
彼は、こちらが予備隊を持っていることを敵に”見せて”おく必要があると判断していた。
たかだか六〇〇名の大隊による時間稼ぎは、気の抜けない仕事でありすぎる。偵察等により、新城の兵力がどの程度のものか、敵に掴まれているだろう――となればなおさらたった。どれほど準備を整え、それなりの自信を持っているとはいえ、不安をぬぐいさることはできない。
それ故、新城は予備隊を”見せ”ようとしている。
その効果は二つ考えられた。これは敵の指揮官の性格、彼がつかんでいる情報への評価――この二つに影響された判断の違いとしてあらわれるはずであった。
戦意あふれる指揮官の場合、いまおこなっている強襲を継続するだろう。新城が予備隊を役人するほど追いつめられている、そう考えて。つまり過小評価。
慎重な指揮官の場合、事前に与えられていた情報を疑いだす。つまり、自分が考えていたより新城の兵力は大きいのではないか(あるいはどこかに別働隊が存在するのではないか)、と過大評価する。つまり強襲は中止される。
さあどちらだろうと新城は思った。
前者ならばこのまま戦い続けるだけ。つまり、敵に大損害を与えられる。
仮になにか面倒があって自分の大隊が潰滅したとしても、敵も疲弊しきってしまう。つまり、救援作戦の実施されている海岸へ充分な兵力を送りこめなくなる。
後者の場合、なによりも貴重な時間を稼ぐことができる。新たに採用する方策は上苗渡河点を経由した迂回行動になる。
新城にとって、最悪の事態。しかしその場合、強襲を中止するほど慎重な指揮官であれば、それなりの兵力と糧秣をそろえて行動をおこすはずで、となれば数日の時間がかかる。つまり、北領鎮台主力を捕捉することはできない。
確かに、どちらに転んでも良かった。任務は達成できる。予備隊の使用は損にならない。
それに加え、敵味方が河岸で混淆《こんごう》しているあいだは、誤射を避けるため敵の砲火がゆるむ。陣中の兵たちをわずかになごませることも可能になる。
もちろんそうした贅沢な思いつきは、渡河した敵兵力が予備隊で充分に撃退可能な戦力にすぎないという現実が可能にしたものだった。
命令はただちに伝達された。
丘の背後で待機していた予備隊が駆け足で川岸に向い、そのまま突撃に移る。なかば凍りつきながらようやくのことで渡河した敵はひとたまりもない。新城が何度かまばたきをしている間に揉み潰されてゆく。
予備隊の先頭に立っているのは漆原だった。それが任務とはいえ、勇敢であった。つまりはこれが彼の許容できる戦争ということらしい。
新城が逆襲を命じた理由にはそれも関係している。
戦場ですべてに疑問を抱いた者に対する最良の治療法は、血に酔わせるか、戦死させてやること――新城はそう考えていた。彼にもその経験があるのだった。彼はそれを血に酔うことで切り抜けた。
漆原はどちらだろう、と新城は考えた。実際問題、数少ない将校の一人がいつまでも俯抜けていては困るのだった。
渡河した敵は短時間で鏖殺《おうさつ》された。新城は予備隊の撤収を命じた。損害は少ない。一〇名にも達していなかった。
すべてはうまくいっている。もしかしたならば、なにもかもが自分の目論見どおりに転がるのではあるまいか、たっぷり三呼吸ぶんのあいだ、新城がそう信じかけたほどだった。
過信の報いはすぐにやってきた。
カミンスキィの胸甲騎兵は苗川渡河にあたって少なからぬ損害を彼った。敵によって生じたものではない。彼等は敵の陸前を突撃渡河したわけではなかった。
第3東方辺境鎖胸甲騎兵聯隊第一大隊の渡河点到達は午前第九刻過ぎであった。
橋脚の一部だけが残された上苗橋渡河点の水深は一間半以上もあった。騎乗していてさえ、腰の上まで濡れる深さだった。川の流速も早い。
「聯隊長殿、よほど覚悟を固めないと」聯隊首席幕僚、マクシム・コンスタンティノヴィッチ・プレハノフ中佐は進言した。本人は警告のつもりでいる。
「気を抜くと、手痛い損害を披ることになりかねません」
アンドレイ・バラノヴィッチ・ド・ルクサール・カミンスキィ大佐はそれを無視した。自らの質問を発する。
「聯隊で馬上水練がもっとも得意な者は?」
「バルクホルン大尉でしょう」プレハノフは笞えた。
「ゴトフリート・ノルティング・フォン・バルクホルン大尉。筋念入りの西方諸侯鎖貴族です。爵位は〈帝国〉騎士だったはずです」
「あの、ちょっとごつい顔をした男か?」
「はい、聯隊長殿。そうとも言えます」プレハノフは言った。内心で、そりゃあんたに比べれば大抵の野郎はごついことになっちまうよと思っている。
「呼べ」カミンスキィは命じた。バルクホルンはすぐにやってきた。
たしかにごつい顔立ちの男たった。〈帝国〉公用語施行後も名を変えなかった守旧派貴族と言うよりは、盗賊の頭目にこそふさわしい雰囲気を持っている。しかし、声だけが外見を裏切っていた。
「聯隊長殿、フォン・バルクホルン大尉参りました」
カミンスキィは意外そうな表情を浮かべた。バルクホルンの声が優しげなものであるからだった。発音に至ってはまったく典雅なものであった。
「貴官に頼みたいことがある」
アンドレイ・カミンスキィは言った。不快感に近い感情を覚えている。
アンドレイの生家――カミンスキィ家は〈帝国〉本領の古い家柄ではあったが、彼のうまれた頃にはまったく落魄《らくはん》していた。祖父、そして、父と続いた浪費のつけがまわり、帝都の屋敷をのぞくすべての財産が失われていた。いや、そのままでは屋敷すら失いかねなかった。
父は早くに死んだ。愛人と享楽の限りを尽くしたのち、さらなる快楽を求めて訪れた売春窟で階段を踏み外し、顕の骨を析ったのだった。アンドレイが六歳の時であった。
家は当然彼が継ぐことになったが、あまりにも幼すぎた。祖父と父の残した負債、屋敷の維持などできるはずもない。実際の切り盛りは彼の母がこなすことになった。
アンドレイの母、テルシアは帝都随一の美女とうたわれたひとだった。父が死んだとき彼女はすでに三〇代の後半に入っていたが、その美しさはいっかな衰える様子をみせていなかった。
一家の命運を拒うことになったテルシア。しかし自身もまた落魄した貴族家の出身である彼女は頼るべき相手が一人もいなかった。現実と向かい合い、懸命に考えたぬいた末に彼女が結論に到達したのは夫の死から半年をすぎた頃であった。カミンスキィ家にとって最大の財産は自分の美しさであるとわかったのだった。
テルシアは有力者たちの宴へ頻繁に頻をたすようになった。となれば男どもが放ってはおかない。瞬く間に彼女の寝室は満員御礼という有様になった。
贈り物の頻は無論、ひきもきらない。テルシアはそのあらたな環境になんなく適応した。彼女にもまた多淫の血がながれていたのかもしれなかった。
しかし、それでもなお、負債を帳消しにするところまではいかなかった。そこで彼女は新たな手を考えた。自分の娘たち――アンドレイの姉二人にも自分と同じ道を歩ませることにしたのだった。母親同様に美しい彼女たちもまた、帝都の青年貴族たちに人気を博すことになった(カミンスキィ家自体もまた美形の家系なのだった)。
なぜ母様や姉様たちは恋人がいっぱいいるのですか、子供の頃、アンドレイはそうテルシアに訊ねたことがある。ねえ、なぜですか。一人に決めてしまえばいいのに。
愛の数が多いほど喜びが増すからよとテルシアは答えた。そして、あなたにももうすぐわかるわと言った。
母が何を言っているのか、アンドレイはわからなかった。彼がその意味を知ったのは一三の夏、母から一人の男を紹介された時だった。帝弟マランツォフ。一代の遊蕩児《ゆうとうじ》として帝都に知らぬ者のない彼は、衆道趣味においてもまた豪の者であった。父と母からその美しさを受け継いだアンドレイは了フンツォフにとりいかなる美女よりも魅力的な存在だった。
アンドレイはそれから三年間をマランツォフの愛人――稚児として過ごした。ひとびとは貴族売笑婦の息子が男娼になったと噂した。
マランツォフは寝台で頓死した。いつものように、アンドレイヘいままさに挿人せんとする直前、心臓がすべての荒淫につきあいされなくなったのだった。
アンドレイは家に帰った。しかしそこは彼の知っていた場所ではなくなっていた。二人の姉は、倫理よりも快楽を重んずる貴族の娘たちを集めて夜毎淫楽のままに生きていた。母は貴婦人というより淫売宿のやり手婆に似た人間になっていた。
アンドレイにはマランツォフから遺贈された莫大な遺産があった(帝弟はそれを事前に遺言状へ書き記していた)。彼は母と姉たちに言った。お全にはもう困らないのですから、そろそろ。
彼女たちはそれを聞き入れなかった。まさに文字通り、盛りのついた雌猫のそのままの卑しさをあらわにし、彼を痛罵した。あなたの尻穴にそそがれた金になど触れたくありませんとまで彼女等は言った。
特に母は、息子をそのような立場においたのが自分であることをされいさっぱり忘れ去っていた。
アンドレイは、マランツォフの遺産、その半分を家産として残すと、家族を捨てた。家から受け取ったものは男爵位だけであった。帝弟の稚児であったという経歴を生かして要路にはたらきかけ、軍に入った。そして将校としての道を歩みはじめた。
彼のことを稚児として莫迦にする者はいまだ多かったが、内部に備わっていた軍人としての才能でそのすべてを押さえつけた。東方辺境領副帝の娘――ユーリアの次席御付武官という地位を弱冠一ハ歳で射止めたのはまったく実力のよらしむるところだった。
公認第一愛人も同様であった。彼には、多くの女性に抗しがたいものを感じさせる魅力があった。それは外見だけではないなにかだった。たとえ疑問や危険をおぼえていても、ひとたび夜を共にしてしまえばそれは消え失せた。寝台におけるアンドレイは口舌甘美、精力絶倫、逸物雄渾《ゆうこん》、技術巧緻の極みに達した男たった。ユーリアの寵愛を受けるようになったのはむしろ当然であった。寵愛は、彼が戦場での勇者であることを証明したことによりさらに強まった。
そうした自分の過去について、アンドレイ・カミンスキィはなんら恥じるところはなかった。常に、できうる限りのことはしてきたと考えていた。しかし、当然の歪みはある。自分がけして得られなかった環境で育った者に対する妬みの感情がそれであった。彼のみるところ、バルクホルンはまさにその典型的な対象だった。
「渡河の先駆けだ」カミンスキィは時代がかった表現で言った。
「馬ならば渡ることができるはずだが、まず確かめてみたい」
バルクホルンは逡巡《しゅんじゅん》しなかった。
「了解しました、聯隊長殿。渡ります」
あざやかな返答であった。カミンスキィは頷く。と同時に、内心ではさらなる嫉心がうずまいていた。
黒駒にまたがったバルクホルンは、川岸で馬をとめ、わずかに流れを読んだ。鞭をあてる。水にはいった。
川のなかほどあたりの流れはかなりきついらしい。手綱を左右させ、苦労して操っている。しかし、水深がそれほどでもないことは確認できた。バルクホルンは腰まで濡れた程度で苗川を渡りおえた。騎兵たちは歓声をあげなかった。むしろ、その馬術の巧みさに驚き呆れている。
カミンスキィは部隊に渡河を命じた。
第一中隊が川へ入った。何事もなくなかほどまで進み――そこで混乱した。手綱をさばくが、うまくゆかない。馬が噺く。それに連れて後方の馬も暴れだす。それでも第一小隊はなんとか渡河する。問題が発生したのは第二小隊だった。
水の冷たさに耐えされなくなった馬がとびあがろうとして倒れた。乗っていた兵は水中に投げだされる。悲鳴があがった。流されてゆく。
しかしカミンスキィは渡河の強行を命じた。が、人馬ともに水を怖れ、なかなかはかどらない。
焦れたカミンスキィは愛馬にまたがった。さまになっている。美形の騎兵指揮官、その愛馬は額の中央に黒斑がひとつだけある白馬であった。馬格は並の軍馬、その二割り増しほどもある。
愛馬に回報くれたカミンスキィは川へとのりこんだ。白馬が噺く。彼自身の腰から下は濡れ、その冷たさに無数の針で剌されたような痛みを覚える。
カミンスキィは巧みに馬をあやつると、わずかな時間で川を渡り終えた。対岸の小高い場所ヘー人立つ。聯隊を見つめた。
聯隊長がこれはどの勇気を示したのでは従わないわけにはいかない。第一大隊はほぼ一刻ほどの時間を費やして全兵力を渡河させた。さすがに馬車は無理であるから、輜重段列の馬、その背に直接食料その他を駄載して渡らせた。
聯隊が渡河によって彼った損害は、溺死等六七名であった。一個大隊という現勢からみればやはり無視できぬ損害だった。
進撃の再開にはそれからさらに二割を要した。濡れた下半身を暖め、被服を乾かさねば凍傷を負ってしまうからだった。なによりも先に火を熾《おこ》さねばならなかった。シュヴェーリンからの伝令はその間に到着した。
誰かが新城を呼んだ。
猪口ではなかった。彼はさきほど予備隊の状態を慎認しにいかせていた。新城を旺んだのは猪口の出した伝令だった。予備隊に導術兵はまわしておらず、指揮所にいるはずの金森も休ませたままであるから、昔ながらの連絡手段に頼ることになっている。
「予備隊までおいでいただきたい、曹長殿がそうもうしておられます、大隊長殿」
新城は頷いた。なにか問題が発生したことがわかった。すぐに指揮壕をでる。騎兵飽か砲撃を続けている脇の斜面を滑るようにしてかけおりだ。もちろん千早も一緒だった。彼の猫は飛ぶようにして斜面を駆け下りている。遊んでいるつもりらしい。
そのあいだも新城は思考をめぐらせている。漆原の問題だろうか、と考えていた。下士官兵の問題であれば、猪口が自分で処理してしまうはずであるからだった。
予備隊は丘から半里ほど離れた場所にいた。敵の砲、その射程外になっている。それでもなお、兵たちは円周警戒の態勢をとっていた。特別なことではない。前線近くで待機している部隊にとっては通常の手順であった。
してみると、やはり下士官兵の問題ではないなと新城は思った。しかし、予備隊がやるべきことをやっているとなれば指揮官――漆原少尉の問題でもないらしい。ならばなんだ。
猪口は円周の中央付近にいた。そばには漆原も立っている。
「用件は?」答礼もそこそこに新城は訊ねた。
猪口の顔面はひきつっていた。異様に感じられるほどだった。漆原は妙に惚《ほお》けた顔つきだった。
「導術から報告があります」猪口は言った。二間ほど離れた場所をしめす。そこには一人の導術兵がうずくまっていた。金森であった。若い導衛兵は大隊長に気づくと立ち上がった。体力の消耗がひどいらしく、それだけのことにも努力が必要に見えた。
「君は体むように命じたはずだが」新城は金森に言った。自分でも嫌になるほど権柄ずくの声だった。
本当に嫌になった。彼はそれをごまかすように猪口へ訊ねた。
「どういうことだ、曹長? 僕は命令が滞りなく実行されているかどうか、常に自分で確かめねばならんのか?」
「その点についてのお叱りはごもっともです」猪口は答えた。
「ですが、ここはまず、金森の報告をお受けください」
新城は頷いた。金森に視線を据える。
「大隊長殿に御報告申しあげろ」猪口が言った。
「はい」金森は青白い顔を頷かせた。うつむきかげんのまま新城に伝える。
「敵が、上苗を渡河しました。一個大隊。騎兵です。申しわけありません、大隊長殿。勝手にのぞいていました。どうしても気になったもので」
新城は左手の手袋を脱いだ。寒気のなかで指を屈仲させながらしばらくそれを見つめていた。反射的にそうしてみたものの、なぜそんなことをしたのかわからなくなったらしい。
新城は手袋をはめなおした。顔を上げる。金森に訊ねた。
「糧抹についてはなにかわかるか?」
「そこまではわかりませんでした、大隊長殿」金森は答えた。
「ですが、川向こうを動いている別の敵も察知できました」
輜重段列だ。新城は直感した。状況からみて、他の解釈はありえなかった。
「真室を叩きそこねたのでしょう」漆原が口を挟んだ。彼の声には明快な悪意の響きが含まれていた。
[#北領失陥3 図挿入]
新城の背筋がのびた。それを聴いて発作的に生じた殺意をかろうじて抑制したのだった。他にも理由があった。内心へ恐怖が蘇っていた。
なにをどう考えても、逃れようがないことに新城は気づいていた。
真実が時に恐ろしいものであることを彼も知ってはいる。
しかし、これほどとは思わなかった。いや、忘れていただけかもしれない。とにもかくにも、彼は指揮官であり、その責任をとらねばならないのだった。
新城はほんの一瞬だけ空を見上げた。
雲はあいかわらず厚かったが、但陽が中天にむけて昇りかけているのは感じ取れた。両の瞼を閉じ、ほんのわずかなぬくもりだけでも味わおうと試みるが、寒気と恐怖でひきつった彼の肌に触れたものは着弾した砲弾のつくりだす衝撃波、その僅かな名残だけだった。似合わぬ真似をした自分か莫迦に思えてくる。妙に納得してしまう。自嘲の笑いを浮かべる。瞼を開けた。
「転進支援隊本部と進絡はとれるか?」金森に新城は訊ねた。
「はい、難しくあります」金森は答えた。「すでに試みました。答えがありません。自分の力が落ちているか――向こうも疲れ切っているか。おそらく両方が理由であります」
新城はそうか、と答えた。確認ができないのであれば、手持ちのもっとも正確な情報を元に今後の行動を決めるしかない。思わずわき上がった笹嶋への殺意を、内心のどこかにしまいこむ。今はそれを楽しんでいられるほど暇ではないからであった。
兵藤と妹尾を呼べと新城は命じた。現在、戦闘はちょっとした小康状態をみせており、そうしても危険はないはずであった。二人の少尉はすぐにやってきた。
「兵藤少尉、君が大隊主力の指揮をとれ」新城は命じた。
「僕は予備隊を直率し、上苗橋渡河点を渡った敵の迎撃に向かう」
「大隊長殿」兵藤と妹尾がほとんど同時に言った。
一瞬、お互いに譲り合ったあと、妹尾が代表して言った。
「そちらは白分かやります」
当然の発言だった。軍隊の原則にも合致している。
指揮官は常に主力を掌握していなければならない。
戦力の有効活用ができなくなる。
新城は首を横に振った。その点についてはすでに判断を済ませてある。
「海岸から遠すぎる」新城は答えた。「撤退できなくなる」
二人とも黙りこんだ。これほど直接的な物言いを新城がした意味を考えたのだった。
新城は言った。
「僕は漆原少尉と猫を連れてゆく。それでなんとかなる。君らはこれから二日間、何かあってもここを守れ。いいか、まことに済まないが、死守だ。その後は自由に行動してよい。撤退が可能ならば救出海岸ヘー目散に逃げろ。不可能な場合は、降伏するのだ。この命令は文言にしておく。君たちに一通わたす。もう一通は転進支援隊本部へ伝令をだして届ける。いいか、三日だ。そのあとは兵と自分の命を第一に考えろ。けして僕に合流しようなどと考えるな。それは禁止する。それともこれは僕の思い上がりか? まあいい。さっ、なにか質問は?」
二人とも、何も言わなかった。
「難しく考える必要はない」新城は言った。凶相が笑いに歪んでいた。
「危険な目にあうのは、僕よりも君らのほうかもしれないのだから。では、頼む」
新城は紙に手早く書き付けた。命令書と、転進支援隊本部への報告書をあっという間につくりあげる。
一通を兵藤に渡した。猪口に訊ねる。
「大隊で一番若い兵は?」
「一八になったばかりの者が三名おりますが」猪口は答えた。
「すぐに呼べ」
青年というより少年に近い兵が三名、駆けてきた。
新城の前で背筋をのばす。その様子でさえ子惧のようだった。
「一番はやくに生まれた者は?」新城は訊ねた。
「自分だと思います」右端に立った兵が答えた。
「うん」新城は頷いた。「君、名前は?」
「はツ、陸軍剣虎兵二等卒、市原斤司《いちはらきんじ》でありますツ!」
「よろしい」新城は言った。「市原二等兵、君は他の二名とともにこの報告書を転進支援隊本部へ届けること。なにがあっても、だ。いいな?」
「は!」
「報告書は支援隊の隊司令、笹嶋水軍中佐殿に直接お渡しせよ。僕がよろしく言っていた、そうお伝えするのだ」
「はッ!」
「大隊長から与えられた任務を果たしたのちは」
「はッ! ただちに原隊へ復帰――」市原が先走った。
「違う」新城は大きな声で否定した。三人は青ざめた。
「莫迦者。そののちは、笹嶋水軍中佐殿の指揮下にはいれ。原隊復帰はこれを禁ずる。その旨、この報告書にも記してある。わかったな? 復唱の要なし」
新城は報告書を市原に手渡した。
「よろしい、兵隊!ただちに行動開始、駆け足前へ、進め!」
三人は剣牙虎も追いつかぬほどの勢いで後方へと駆け去った。
新城は兵藤たちへ振り向き、言った。
「何をしている。ただちに任務を遂行しろ」
兵藤と妹尾は閲兵にこそふさわしい、規則通りの敬礼を新城に送った。新城はきわめてぞんざいな答礼をおこなった。彼は偽善を為す誘惑に耐えされなかった自身の弱さを恥じていた。
「漆原少尉」新城は命じた。
「予備隊の現状を報告」
「戦闘可能人員一七八名であります、大隊長殿。弾薬は最大で三交戦が可能。人員には軽傷者を含めてあります」
漆原はよどみなく答えた。親の仇に斬りつけているような歯切れの良さをもった声だった。もし彼が新城に対する復讐を意図してそう言ったのならば
(この場合はまさにそのとおりだが)、それは完全に失敗した。よろしい、と答えて頷いた彼の上官は実に満足気な表情を浮かべたのだった。楽しそうにすら見える。
新城は命じた。
「糧株は三日分用意しろ。それが済んだならば、直ちに行軍隊形をつくれ。もういちど普通の戦争をしてみようじゃないか。かかれ!」
「はッ!」
漆原は拗《す》ねたような目つきで新城を一瞥《いちべつ》し、駆けていった。
「大隊長殿」金森が新城を呼んだ。
「なにか?」新城は応じた。
「自分も」金森は言った。「自分も連れていってください」
「その有様でか」新城は訊ねた。
金森の体調は、この短い時間のあいだ、さらに悪化したと彼には思えた。額の銀盤は、ほぼ完全に輝きを失っていた。
「敵を掴んだのは自分であります、大隊長殿」金森は泣くような声で答えた。
「自分以外の者では”追う”のが難しくなります」
新城は金森を睨みつけた。
確かにそうかもしれないと考えた。子供の頃に読んだ本に、そんなことが書いてあったなと思いだしている。しかし、もし導術の原則に従ってこの若者を連れていけばどうなるか。その結末はまったく気に入らない。
しかし新城は現実の必要性に抗しきれなかった。
そして金森に命じた。
「よろしい。君もただちに装具を整えろ」
金森は嬉しそうな顔をすると、屈強な体格の戦友二人に抱きかかえられるようにして天幕へと戻った。
彼の装具はそこに置かれたままなのだった。
「曹長」新城は猪口に命じた。
「金森二等兵を乗せる橇を準備しろ。それから各部署へ伝令。猫をまだ連れている者は予備隊へ集合」
「はッ!」
新城は軽く頷き、予備隊の兵たちを見回した。もともとこの大隊に所属していた兵の数は、一七八名の二割にもみたなかった。他のハ割はまったくの敗残兵で、戦場をのろのろと彷徨っているところでこちらに引っ張られた運の悪い連中だった。正直、戦力としてはまったく期待できない。
つまりは僕が立派な指揮官ぶりを示すほかに手はないわけか。新城は微苦笑を浮かべた。すぐにそれを消し、腰帯からさげた地図入れから地図を取りだす。考えた。
さて、とうとう追いつめられた。しかし時間は稼がねば――なろうことならば、大隊主力も脱出する時間を稼がねばならない。どうしたものか。
新城は恐怖で岸れたようになっている脳を無理矢理に現実へ向き合わせた。すぐに、どのようにするべきかに気づく。
問題は糧抹なのだから、つまり、それに合わせた行動をとれば良い。
新城は自分を納得させた。なんとも簡単じやないか。とてつもなく危険であることをのぞけば。はは。はは。はは。
新城は地図をしまった。
細巻をくわえ、それに火をつけた。煙を天へ吐きかけるようにして吹きだす。
内心に生じた、自分はこんなところで何をしているのだという疑問をほんの少しだけ昧わった。思いのほか贅沢な気分になる。自殺する者にありかちな、妙に高揚した気分がこれなのかと、取り留めもない思いを弄ぶ。そしてやはり自分も莫迦のひとりなのだなと決めつけた。無理をしてあれこれと考えてみても、諦めについてだけは何も思い浮かばないからであった。
このあたり、曖昧さをまったく認めないという点で新城の性格を女性的と評する者がいるかもしれない。
しかし実際の彼は一般に言う女性的性格からはほど遠かった。新城は判断の際に感情というものを徹底的に排除する習慣を持っている。己が一種の愚物であり、邪悪な側面すら有しているという自覚を保ち続けていた。それに基づいて行動することを怖れなかった。誰の内心にもある自虐性を完全に加虐性へ転換することのできるーそしてその無理をまったく論理的に了解している、そんな性格の持ち主だった。つまり彼は男というより最悪の犯罪者、怪物じみた精神を所有しているのだった。でなければ現状を心のどこかで楽しむことなどできるはずもない。
彼の気持ちは剣牙兵にも伝わったらしい。
しばらく主人を見つめていた千早は、彼が細巻を投げ捨てるのを見ると同時に、周囲を素早く眺め回した。安全を確認したのだった。もちろん、その鋭敏な嗅覚で、恐怖を抱いた人間の発する臭いがまわりじゅうに漂っていることも確認した。しかしこの剣牙虎はそんなものには慣れっこだった。気にするほどのことではないと判断した。ひどくのんびりした様子で小さく欠伸をする。
そして、すべてに挑むがごとく一声大きく吼えた。
新城は実に嬉しげな表情をつくり、彼の猛々しい子猫を見つめた。どうにもなんともぴったりじゃないか、などと考えていた。
確かにそうかもしれない。
千早の轟哮《ごうこう》は北領における防御戦闘、その晩鐘にほかならなかった。人と売はいまや最悪の戦場へと期待を膨らませるよりない。新城直衛大尉とその剣牙虎は、戦野という名の血塗れた遊技場に向け、嬉しげに疾走しようとしている。
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『皇国の守護者I 反逆の戦場』一九九八年六月 C★NOVELSファンタジア
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皇国《こうこく》の守護者《しゅごしゃ》I
反逆《はんぎゃく》の戦場《せんじょう》
[#仕切棒挿入]
2004年5月14日発行
著者  佐藤《さとう》大輔《だいすけ》
発行者 中村 仁
発行  中央公論新社 〒104-8320 東京都中央区京橋2-8-7
製作:中央公論新社
DTP:オフィストイ
本文FONT:morisawa リュウミンL-KL
[#仕切線挿入]
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