[#表紙(夜の犬 barghests march.jpg)]
[#挿絵(夜の犬 barghests march_2.jpg)]
「電撃hp13」DENGEKI MISTERY & HORROR より
電撃的ミステリー&ホラーの世界――――
今、その扉が開かれる――――
夜の犬 barghests march
[#地から2字上げ] 佐藤ケイ
真夜中のビル郡に出没する不気味な犬たち――――。
去年の話ですから、まだ私が中二だった頃《ころ》の夏休み前です。
終業式の終わった後、私たち新聞部は、部室で一学期最後のミーティングをしているところでした。
メンバーは新部長の長沢明美《ながさわあけみ》と副部長|兼《けん》会計の私こと小池沙也香《こいけさやか》のたった二人。これで部員全員でした。二人とも二年生です。三年の先輩は一学期の終わる今日で正式引退でしたし、新入部員はこの時期になっても獲得《かくとく》出来ていませんでした。
ミーティングの議題は、夏休みの特集記事を何にするか、でした。先輩たちが抜《ぬ》け、私たちが名実共に部の中心になってから最初のイベントが、毎年|恒例《こうれい》の夏休み特集記事なのです。代替《だいが》わりした二年生の力を試《ため》す最初の機会であり、この特集記事が以後の新聞の配布数を決定すると言っても過言ではありませんでした。
また、新入部員が不作だった今期の我《わ》が部としては、面白《おもしろ》い特集記事で一年生の気を引きたいという思惑《おもわく》もあって、必死で面白いネタはないかと頭をひねっているところでした。
「最近、夜中になると犬の群れが出るらしいって、聞いた事ない?」
クーラーのない部室で、四十度を超える暑さにじっとりとシャツを濡《ぬ》らしながら、新部長の明美が口を開きました。
「え? あ、一応、チラッと耳にした事は……。あの、川向こうのビル街だよね? 川の向こうにね、夜中になるとどこからともなく怪我《けが》をした犬の群れが現れるっていう……」
「そう。それも何百匹とね。餌場《えさば》になりそうな場所なんて全然ないのに」
最近、私たちの間で急激に広まり始めた噂《うわさ》でした。犬が嫌《きら》いな人はもとより、そうでない人でも、野良犬《のらいぬ》の群れがうろついているというのはちょっと怖《こわ》いものです。それが怪我をしていて、しかも傷口が化膿《かのう》して腐りただれた姿で現れるという事で、一層《いっそう》怖さが高められていました。怪我をした野犬というイメージが、『何をするか分からない』つまり『いつ襲《おそ》ってくるか分からない』という判断へと、無意識のうちに連結していたのだと思います。
また、そういう具体的な危険に加えて、夜中の無人のビル街に出没《しゅつぼつ》するという点や、腐って化け物のように崩《くず》れた姿という要素が、話に怪談じみた彩《いうど》りを添《そ》えていました。襲われるかもしれないという具体的な恐怖と、なにやら得体が知れない不気味《ぶきみ》さとで、当時の私たちの間で広まっていた噂の中では特に怖いものの部類だったと思います。
もっとも、出現する時間帯が夜中の二時頃だという話だったため、私たちが直接出くわす可能性はほとんどありませんでした。ですから、私を含めた大抵《たいてい》の子は、自分とは関《かか》わりのない話だと、どこか安心して噂していたのも事実です。そのためか、犬に出会った人間は病気になるとか死ぬといった、かなり荒唐無稽《こうとうむけい》な噂まで飛び交っていました。
「どうよ? 深夜のビル街に現れる野犬の群れ。生徒の間じゃ結構有名な噂だし、これで特集組めば部数もそこそこ伸びると思わない?」
明美はやる気満々らしいです。でも私は、正直ちょっと怖い気もして、遠回しに反対しました。
「で、でも、そんな噂話の特集なんかでいいのかな……? もっとちゃんとした、真面目《まじめ》な記事じゃないと、先生きっと印刷してくれないと思うんだけど……」
新聞部の新聞は、学校にある輪転機で印刷していましたが、それを直接|扱《あつか》えるのは先生たちだけでした。新しい物を発行する時には、顧問《こもん》の先生に原稿を渡して印刷してもらう形を取っていました。先生は原稿を受け取ると、誤字脱字と内容のチェックをして、それでオーケーが出ないと刷ってもらえないのです。
明美は不服そうに言いました。
「じゃあ沙也香はどんなのがいいって言うわけ?」
「た、例えば、ウチの学校の運動部の様子でも追っかけるとか……」
言いかけた私を、明美はビシッと遮《さえぎ》りました。
「ばか者! そんな校内の生徒同士の、なれ合い記事なんか書いてどーするっ!」
「な、なれ合いって、生徒同士の交流はいい事じゃない……?」
「あのね。言っとくけど、全国大会でベスト8くらいまで進出するようなとこならともかく、やる気だけあって実力は全然ない弱小クラブが、地域予選の一回戦ではかなく玉砕《ぎょくさい》していく様子なんて、そんな切ない記事、誰《だれ》も読みたくないぞ?」
「う……。そ、それはまぁ……、そうだけど……」
「せっかく発行するからには、人に読んでもらえなくちゃ意味ないでしょ。大衆が求める情報を提供するのは、私らジャーナリズムの務めじゃない? 沙也香の書いてるポエム日記とは違うんだよ」
「ぽ……、ポエム日記なんて恥《は》ずかしげなモノ、書いてないよっ」
私は真っ赤になって否定しました。
「だ、大体、ジャーナリズムって、学校の部活程度でまた大袈裟《おおげさ》な……」
私がそう言うと、明美は叱《しか》り付けるように言い返しました。
「あのね。『所詮《しょせん》学校の部活だから』みたいな逃げを打って自らに甘えを許してるようじゃ、いつまでたっても成長しないぞ。自分の現状レベルを自覚する事だってもちろん必要だけど、一段と高みへ到達するには常にトップを目指し続ける必要があるんだよ」
「だ、だけど、噂を興味本位で取り上げただけの記事なんて、どこがジャーナリズムの高みなの……? 大体、絶対に先生にストップされちゃうよ。もっと真面目にやれって……」
「興味本位? 失敬な」
明美は不本意だとばかりに顔をしかめました。
「言っとくけど、私はこの特集を、社会の問題を鋭《するど》く切り出す社会派記事として仕立てるつもりだからね。ジャーナリストの使命に則《のっと》って」
「しゃ、社会派? ど、どうやって……」
「大体ね、野良犬が増える理由って何だと思う? 捨てられるからだよ。野良犬同士で交尾して繁殖《はんしょく》してるとか思ったら、大間違いなんだよ。噂になってる犬たちだって、無責任な人間に商品として買われて、キズモノになった途端《とたん》に物のように捨てられた哀《あわ》れな犠牲者《ぎせいしゃ》なんだよ、多分」
「はぁ……」
うっかり私がうなずくと、明美はここぞとばかりに拳《こぶし》を固めて力説しました。
「憎《にく》むべきは、商品流通の中で命の尊厳をも無価値に貶《おとし》めてしまう経済第一の社会構造! 資本主義社会の中で、全《すべ》ての価値がお金に換算され、全てが商品として流通する事に慣らされて、我々はいつの間にか大切なものを見失っているのではないか? どうよその辺?」
「ど、どうよって言われても……」
突然《とつぜん》堅い言葉を羅列《られつ》されて私は一瞬|戸惑《とまど》いました。私も国語の成績は悪くありませんでしたが、将来は記者を目指すという明美には、ボキャブラリーの豊富さでは到底敵《とうていかな》いませんでした。
怯《ひる》んだ私に追い討ちをかけるように、明美はズイと上半身を乗り出します。
「沙也香も犬飼ってんでしょ? だったら他人事《ひとごと》じゃないんだよ。むしろ私なんかよりよっぽど真剣になって考えなきゃいけない立場じゃない?」
「そ……、それは……そうだけど……」
ぼそぼそと口の中で呟《つぶや》きながら、私はしばらく無言で考えていました。本当の事を言うと、明美の言った事が半分以上理解出来なかったのです。
すると、不満があるように見えたらしく、明美が言いました。
「んー? やっぱ話の運びを資本主義批判に持ってくのは、今の時代イマイチ受けが悪いかな……? ソ連|崩壊《ほうかい》からこっち、左寄りの意見は流行《はや》らなくなってるし。どうせなら、命の軽視される風潮と少年犯罪みたいな論調のほうが、世間は喜ぶのかも? どうなんだろ?」
「え? あ、そうそう、それ! そのほうがいいと思うよ。うん」
何にも分かっていない私でしたが、まるで『私もそれが言いたかったの』とでもいうような態度で答えました。「ソ連崩壊からこっち……」などという、アンタ歳《とし》いくつなの、とツッコみたくなる台詞《せりふ》もありましたが、下手な事を言ってヤブヘビになるとマズいので、そこは黙《だま》って流しておく事にしました。
そして結局、なんだかよく分からないうちに、特集は野良犬の群れでやる事に決まってしまいました。
「だ、だけどさ、明美。もし噂がホントにただの噂で、犬の群れなんかいなかったらどうしよう?」
「ん? その時は、『中学生の間で広がる不気味な都市伝説。都会に住む若者の心の闇《やみ》に迫《せま》る』とでも題して、噂をする人間の心理に焦点《しょうてん》当てて書けばいいんじゃない? ま、最初は目撃者にインタビューからだね。今日聞いたんだけど、なんか、校内の生徒でもついに目撃者が出たんでしょ?」
「あ、うん。ウチのクラスの大木《おおき》君。昨日の晩、見たばっかりだって、教室で喋《しやべ》ってた」
大木|一也《かずや》君は私の近所に住んでいて、いわゆる幼馴染《おさななじ》みのようなものでした。
ただし、同じクラスになった事がほとんどなく、ずっと顔を合わせた時に挨拶《あいさつ》する程度の付き合いでしかありませんでした。今年になって、小学校以来初めて同じクラスになったばかりか、席まで隣どうしになったのですが、お互いにどう接してよいものやら困ってしまうような、かなりぎこちない関係でした。一学期も終わろうというのに、教室内で言葉を交わした事などほとんどありませんでした。
物語に出てくるようなラブロマンスは、まず期待出来そうにありませんでしたが、現実の幼馴染みなんて、大抵こんなものなのかもしれません。結構いい男に育っていただけに残念でした。
「よし。じゃ、まずはその子に話を聞いてみるか。家、分かる?」
「うん。私の家のすぐ近所だけど」
「どうする? 今から行く?」
「え? どうだろ……。なんか調子悪そうで、友達に遊びに誘《さそ》われてたけど帰って寝るからって断ってたけど……」
「そっか。じゃ、明日のほうがいいかな?」
結局、大木君を訪ねるのは明日にする事にして、私たちは部室を去りました。
***
次の日、お昼過ぎくらいに、私と明美は大木君のお家を訪問しました。不思議なもので、大木君とはぎこちないのに、おばさんとは小さい頃と同じように気楽に話す事が出来ました。お見舞いだと言うと、快く部屋に通してくれました。
大木君は私たちを見ると、ベッドの上に起き上がって作り笑いを浮かべました。目が落ちくぼんで、息が荒れていました。
「よう。お見舞いだって……?」
私は無言でうなずきました。何とも言えずぎこちない感じでした。下手に小さい頃から顔だけは知ってるせいで、かえって普通の態度が取りづらいというか……。やはり、こういう中途|半端《はんぱ》な知り合いというのが一番やりづらいです。もちろん大木君だって、そんな中途半端な知り合いが突然お見舞いにきたのですから、困惑の度合いは相当なものだったでしょうが。
それを察知したのか、明美がさっさと用件に入りました。初対面の人間のほうがやりやすいと気づいたのでしょう。
「はじめまして、大木君。新聞部の長沢です。実は今日は、お見舞いを兼《か》ねてちょっとした取材をしたいと思ってやってきたんだけど、いいかな?」
「取材って……?」
「いや、実はね、今学校で流行ってる犬の群れの噂、アレを特集してみようかと思っててさ。で、大木君が目撃者だって耳にしたんで、ちょっと話を聞かせてもらいたいなーって思ったんだけど。どう?」
「あ、ああ。その事か……」
大木君はうなずくと、しんどそうに小さく喘《あえ》ぎました。思わず私は言いました。
「あ、あの、しんどかったら無理には……。急ぐ事じゃないし、元気になっでからでも別に……」
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》……」
大木君は私の手を振り払うと、息を整えました。
落ち着くのを待って、明美が尋《たず》ねました。
「じゃあね、ぶっちゃけたとこから聞くけど、ホントに犬の群れっていたの?」
私は慌《あわ》ててICレコーダーの録音ボタンを押しました。
「いたよ」
大木君はうなずくと、話しだしました。
……夜中の二時頃に出るって聞いてたから、大体それくらいの時間に自転車で行ったんだ。
え? いや、単なる見物ってんじゃなくて、その……、自分ちの犬がその中に紛《まぎ》れ込んでないかと思ってさ……。
実はさ、ウチで飼ってた犬、アメリゴって名前のスコッチテリアなんだけど、そいつが二、三日前に急に姿を消してて……。もう飼い始めて五年になるし、逃げたとは思えないんだ。しかもその直前に前足怪我してて、散歩の時とかちょっと歩くのが辛《つら》そうな感じだったし……。
かと言って、誰かに盗まれたって事もないと思うんだよな。家の中で飼ってたし、わざわざ忍《しの》び込んで犬だけ盗《と》って帰る泥棒ってのも、あんまりいそうにないだろ。
それで、一体どうしたんだろうって、気になって。
そしたら、おととい……いや、三日前か、知り合いの人から偶然変な噂を聞いてさ。俺と同じように、ある日突然飼ってた犬がいなくなったっていう人がいるらしいんだ。その人の犬も、やっぱり数日前から怪我してて、動物病院に通ってたそうなんだけど。
で、その人、社会人なんだけど、例のビル街に勤めてる会社があるらしくて、結構残業とか泊まり込みとか多いらしいんだ。それである日、むちゃくちゃ帰りが遅《おそ》くなって、でも次の日は休日が取れたから、ちゃんと家に帰ってゆっくり寝ようって思って、家に向かって歩いてたんだって。そしたら、どこからか足音が聞こえてきて、ふと見たら例の犬の大群が道一杯に広がって歩いてたらしいんだ。それで、夜中にそんなのに出くわしたから、思わず道の脇《わき》に避《さ》けて、動かずにじっと見てたら、その群れの中にいなくなった飼い犬が混じってるのを発見したって言うんだ。
それでさ、なんか、もしかしてアメリゴもその群れに混じってたりするんじゃないかって思って、っていうか、その群れに誘い出されたんじゃないのかなって……。
え? その人? 過労で倒《たお》れて入院したらしいけど……。それに俺は、その人とは直接知り合いってわけじゃないから、紹介《しょうかい》してくれって言われてもちょっと……。
それで話|戻《もど》すけど、その話を聞いて、なんか直観的に、アメリゴもその群れの中にいるに違いないって思ってさ。んー、飼い主と飼い犬との間に働く第六感……? 犬と主人の間には、他人には分からない絆《きずな》ってのがあるんだよ。非科学的かもしれないけど……。
とにかくそれで、俺も一回その犬の群れを見に行って、アメリゴのヤツを探してみようって思ったんだ。まあ、いなくて元々、いたら儲《もう》け物って感じで。
それで、夜中にチャリンコ漕《こ》いで、行ってみたんだよ。時間は家を出たのが一時半だったかな。ああ、もちろん一人で。いや、だってさ、下手に友達とか誘ったら、そいつの親から変な目で見られそうだし。夜中に遊びに連れ出す不良とかってさ。あそこの子とは付き合っちゃいけません、なんて言われたらヤだからな。
俺も家出る時は、親には気づかれないようにこっそりと隠《かく》れて行ったよ。十二時過ぎたら両親とも寝るし、起きるのは七時だから、それまでに帰ってきたらいいかって思って。
で、現場に着いてから、しばらくボーッと待ってたんだ。さすがにあの時間帯だと、全然人通りなくてさ。でも車は数分おきに走ってたな。
それで、何分ぐらい待ったかな……。とにかく、全然なんか出てくる気配なくて、道端《みちばた》に座り込んでボケーッと道行く車のヘッドライトを数えてたんだ。やる事なくて、暇《ひま》でさ。
時計? ああ、一応、着いた時に一回だけ見たけどな。一時五十七分だよ。だけど、二時きっかりに出るって決まってる訳じゃないだろうし、時間なんてあんまり気にしてなかった。取りあえず、出るまで待つか、って感じで。途中でコンビニ寄って、飲み物と夜食は用意しといたし。まぁ、あんなに待つって分かってたら、もうちょっと色々準備してったんだけどな。ゲームボーイとか。
え? あ、そうそう。だから、二時頃に出るって噂だけど、必ず二時きっかりに出る訳じゃないんだって。俺の感じでは、最低でも三十分以上は待ったと思うけどな。でもなんか、眠くなってきて意識ボーッとしてたから時間感覚もちょっと怪《あや》しいけど。車が通る間隔《かんかく》が、大体十分に一台くらいの感じで、それを十台ほど数えたから……って、いや、それだと百分も待った事になるな。百分っていったらえっと、一時間と……四十分か。そんなに待ってない。えっとな、多分……。いや、ゴメン。時間はマジでちょっと分からない。悪い。
で、いい加減|退屈《たいくつ》で眠くなってきた頃に、なんか、サーッってラジオのノイズみたいな音が遠くから聞こえてきてな。初めは何なのか分からなかったんだけど、近づいてくるとだんだんはっきり聞き取れるようになってきて。よく聞いてみると、カツカツカツカツ……って感じの音がたくさん連続して重なり合って、それであんな音に聞こえてたらしいんだげど。
え? 爪《つめ》の音だよ。犬の。爪がアスファルトに当たって立てる音。いや、そんな馬のひづめの音みたいなのじゃなくて、もっと軽いプラスチックの棒とかで路面を叩《たた》いたみたいな……。
で、その音が近づいてくるのと一緒《いっしょ》に、なんか臭《くさ》い臭《にお》いがしてきて。
で、犬が群れてんだから、当然犬の臭いがするのは当たり前なんだけど、なんか、なんて言うのかな、それだけじゃなくてこう、腐った肉の臭いっていうか……。いや、俺は腐った肉の臭いなんて嗅《か》いだ事ないから分からないけど、多分腐ったら肉ってこんな臭いなんだろうなって感じのさ、そういう臭い。そんなのが漂《ただよ》ってきて、で、ふと見たら道一杯に犬がズラーっと並んでてさ。いや、ギョッとしたよ、マジで。
足音も、あれだけ数が集まると物凄《ものすご》いんだよ。夜中で音が響《ひび》くってのもあって、周囲のビルに反響《はんきょう》して、もう、音に飲み込まれるような錯覚《さっかく》すら覚えたな……。臭いもすごいし。朦朧《もうろう》としてくる。あの音とあの臭いの中にいたら。
群れの数? どうだろ……? とにかく、無茶苦茶《むちゃくちゃ》たくさんいたけど……。列の最後尾が見えなかったしな……。
でさ、犬たちは静かに列を作ってゾロゾロと歩いてるんだ。なんか、不自然なくらいきちんと行列作ってて。ん? いや、群れのリーダーみたいのは特にいなかったみたいだけど。先頭? いや、どうだったかな……? 先頭……。見たはずだけど、ちょっと憶《おぼ》えてないな。ゴメン。俺、アメリゴ探すのが目的だったし、他はあんまり注意してなかったから。
怪我? ああ、言われてみれば確かに、噂どおりどの犬もひどかったな。顔面の皮が半分ただれてたりとか、胸の肉がえぐれて、骨みたいな白っぽいのが見えてるのとか……。なんでこいつら生きてるんだろうって思った。なんか、ゾンビ犬って感じっていうか……。変な臭いってのも、多分傷口が腐敗して臭ってたんだろうな。そんなのが、行列組んで静かに行進してるって、かなり不気味だったぞ。真夜中だし。
アメリゴ? うん。いた。ただ、真ん中の列にいて、近寄れなくて。さすがに、群れを掻《か》き分けて近づく根性なんかないよ。
それでも勇気出して名前呼んだんだけど、全然聞こえてないみたいで。そう。全く無視された。足音がうるさくてかき消されたような感じもするんだけどな。俺の臭いだって、あの中じゃちょっと分からなかっただろうし……。
それから後って、実はちょっと憶えてないんだ。え? いや、なんか、知らないうちに眠っちゃっててさ。っていうか、眠る直前の事って完璧《かんぺき》に記憶《きおく》から抜けてて……。なんで眠ってしまったか、ちょっと自分でもよく分からない。でもまあ時間が時間だから、眠いのは当然なんだけど。
とにかく目が覚めたら路上で寝てたんだよ。気がついたら、朝の六時でさ。慌てて自転車飛ばして家に戻って、親に気づかれないように階段上がってベッドに潜《もぐ》り込んで。
多分、道路で寝てたせいで風邪《かぜ》ひいたんだよ。うん。
ん? あ、場所は国道×号線。えっと、川の下流に向かって歩いてたから、進行方向は西になるのかな……?
治ったら、もっかい行くつもりだけどな。今度こそアメリゴ連れて帰らないと。怪我してるのに野良なんかさせてる訳にはいかないからな……。
***
「……ぷはぁっ。空気が美味《おい》しい」
大木君の家を出ると、明美は大袈裟に深呼吸をしました。閉め切ってたせいもあるんでしょうが、確かにあの部屋はすごい臭いでした。明美は顔をしかめて、服や髪に臭いが移っていないかと気にしていました。
「思春期の男子ってなんか臭そうだけど、男の子の部屋ってあんなもんで普通なのかな?」
「いや、ちょっと違うと思うよ……。うちもお兄ちゃんいるけど、あんな臭いじゃないし……。どっちかって言ったら、シャワー嫌いな犬とか、そういう臭いに近い気がするんだけど」
「そう? じゃ、あの部屋で飼ってたのかな、アメリゴ。その残り香か」
明美はそう呟いて、首を傾《かし》げました。
「で、どう思う?」
「ど、どうって……?」
「さっきの、大木君の話」
「え? あ、そうだね。アメリゴ、見つかるといいよね」
私がそう言った途端、明美がグーで頭を殴《なぐ》りました。ゴツンとすごい音がしました。
「アホかアンタは。誰もそんな事聞いてない。本当だと思うかどうか聞いてんの」
「ほ、本当って、じゃあ明美は嘘《うそ》だと思ったの……?」
「いや、嘘ついてるとは思わないけど、ただ、話聞いてると、なんか夢でも見てたんじゃないかって印象がさ……」
「夢……?」
「だからね、犬の群れが出てくるのを待ってる間に退屈で眠くなってきたって言ってたでしょ? そのまんま眠っちゃったんじゃないのかって気がしてさ」
「そう?」
私が首を傾げると、明美は、非現実的だと考える理由をいくつか挙げました。
まず、そもそも最後尾が見えないくらいたくさんの犬が、一体どこから湧《わ》いて出てくるのか。
それに、車道を歩いてたというけれど、あの時間帯でも車は十分に一台くらいの割合で走ってたはずなのに、犬が完全に車道ふさいじゃってたら、車はどうなるのか。
私は全然気づきませんでしたが、言われてみれば確かに、その二点だけでも十分変でした。
「なんか、色々と考えてみたら、おかしなところが多すぎるっていうかさ。そのまま大木君の話を鵜呑《うの》みにするのはどうかと。やっぱちょっと、一度自分達で確かめに行かないと駄目《だめ》だね。本当にただの噂って可能性もあり得るし……。あー、でも、ホントに単なるデマだったりしたら、社会派記事はちょっと無理だなぁ……」
明美はそうぼやくと、残念そうに地面を蹴《け》っとばしました。
「ま、どっちみち現地で確かめてみてからだけどね。事実だとしても、写真とか欲しいし」
明美はそう言うと、こちらを向いて手帳を取り出しました。
「んで、いつにする?」
「え?」
私は一瞬ぽかんとしてから、慌てて言いました。
「ちょ、ちょっと待ってよ。私は駄目だよ。だって私、門限七時だよ? そんな深夜に取材とかって、絶対親が許してくれないって……。明美のとこと違って旧《ふる》いんだよ、ウチの親」
門限よりもむしろ、得体の知れない犬の群れなんか見に行きたくないというのが本音でした。ただの噂だった時でさえ結構怖かったのに、今は目撃者から直接話を聞いた直後です。話に現実味が増して、怖さは一層|募《つの》っていました。いくら話におかしなところがあるとはいっても、それだけで夢だと決めつけられるわけじゃありませんし。
ですが、明美は全然平気なようでした。むしろ楽しげな調子で言いました。
「大丈夫だって。黙ってこっそり抜け出してきたらいいじゃん。大木君みたいに」
「だ、黙ってこっそりって……」
「だって、犬が出るって言われてる時間って、午前二時頃だよ。大木君の話なら、もっと遅いわけでしょ? 健康的な生活送ってる人なら、もう寝てる時間だよ。バレっこないって」
「駄目だって。だってウチ、玄関の建てつけ悪くて、戸を開けたら凄い音するんだよ。あの音聞いたら絶対起きるって。完璧バレるよ」
「じゃ、窓から抜けて来れば? 沙也香の部屋って一階でしょ、確か」
「いや、そりゃそうだけど……」
私にしては珍《めずら》しく、頑《かたく》なに拒《こば》んだ甲斐《かい》があって、とうとう明美は折れてくれました。
結局、誰かいい付き添いが見つかるまで、現場取材は見送る事にして、私たちは別れました。
その日はそれから、私の飼い犬である雑種のポチを散歩に連れて行って、テレビゲームをやって、ドラマを見て、夏休みの宿題を少しやってから寝ました。
それから数日は、これといったこともなく過ぎました。
変わった事といえば、実はちょくちょく大木君のお見舞いに行きました。この間の取材以来、なんだか今までのぎこちなさが消えて、小さい頃の気安さが徐々《じょじょ》に戻ってきていました。
大木君のほうも、私がお見舞いに行くのを結構楽しみにしていてくれていたように感じました。ただ、それは私と会う事が楽しいというよりも、犬の群れの取材がどう進展しているかが知りたいだけのようでした。アメリゴの事が気になっていたんだと思います。アメリゴの写真を渡されて、現場に取材に行く時には、ぜひアメリゴがいないかどうか見てきてくれと頼《たの》まれたのが、何よりの証拠《しょうこ》でした。
大木君の病状はなかなか回復しませんでした。夏風邪は治りにくいものですが、長引くどころか少しずつ悪化しているような印象でした。部屋に籠《こも》った獣《けもの》臭い臭いも、なんだか日毎《ひごと》に強くなっている気がしました。でも、窓を開けようとすると何故《なぜ》かとても嫌《いや》がるので、空気を入れ替える事ができませんでした。窓を開けるのが何故そんなに嫌なのかと聞いたのですが、はっきりした答えは返ってきませんでした。
「せっかくクーラーが効いて涼しいのに、窓なんか開けて暑苦しい空気を入れたくない」
これが一番まともそうな答えだったので、なんとなく私はこれを本当の理由という事にして理解していました。
私がお見舞いに行くたびに、犬の群れはどうだったかとしつこく尋ねられて、正直なところ少し参りましたが、ある日、とうとう業《ごう》を煮やしたのか、大木君はもう一度自分で探しに行くと言い出しました。病気も治っていないのに無茶だと言って止めましたが、夜中にそばで見張っているわけには行きません。一応おばさんに、夜中に大木君が抜け出さないよう気をつけるように言っておくくらいが精一杯でした。
次の日、私がお見舞いに行くと、おばさんは「病気をこじらせた」と言って会わせてくれませんでした。心配になって、どんな具合なのか尋ねましたが、詳しい事は話そうとしませんでした。その時、二階で何かがうなるような声が聞こえました。アメリゴが戻ってきたのかと思っておばさんに尋ねましたが、おばさんは顔色を変えて、まるで私を追い返すようにして戸を閉めてしまいました。
それから何日かして、入院したという噂を耳にしたのを最後に、大木君の消息は途絶えてしまいました。
***
話を戻して、大木君の病状が悪化した次の日の晩です。
眠りこけていた私は携帯の呼び出し音に起こされました。時計を見ると、もう一時半を過ぎていました。こんな夜中に一体誰だろうと思って見ると、明美の携帯からでした。
「はい、もしもし?」
「あ、沙也香? 私だけど。ゴメン、寝てた?」
「寝てたよー。大体何時だと思ってるの? もう一時四十分だよ?」
「あっはっは。ゴメンゴメン。いや、ちょっと退屈でね。話し相手が欲しかったんだよ」
「退屈って、もう夜中だよ。おとなしく寝てなよ……。それとも何? 寝そびれちゃったとか……?」
「いや。そうじゃないけど」
私はその時、電話の向こうで車の音を聞きました。
「あれ? もしかして明美、今、外にいる?」
「お? よく分かったね。当たりー」
「こんな夜中に、外なんかで何してるの?」
「何って、取材というか張り込み調査というか」
「え? もしかして、例の犬の群れの? 誰かついてきてくれる人、見つかったんだ」
「いや、それが全然駄目。しょうがないから一人で来たよ。カメラ二台もぶら下げてきたら、さすがに重い重い。荷物持ちとして、やっぱりもう一人必要だね。大失敗」
女の子がこんな時間に一人で外出するなんて、私の感覚では考えられませんでした。しかも、例の怪談じみた犬の群れを見に行っているのです。すごい度胸だと思いました。
「もー……。ちゃんと事前に言ってくれたら、私も一緒に行ったのに」
「だって沙也香、門限厳しいから駄目って言ってたしさ」
「そりゃそうだけど……。何も明美一人で行くこと……」
「そんな引け目感じなくても大丈夫。原稿書きとか写真|貼《は》ったりとか、その他|煩《わずら》わしい地味な作業は全部沙也香に押しつけたげるから」
笑い声を聞きながら、私は呆《あき》れたような感心したような、微妙《びみょう》な心境でした。少なくとも私には、一人で夜中にゾンビ犬の群れを待ち受ける勇気はありません。たとえ親が外出を許してくれたとしても、とても真似《まね》できそうにありませんでした。
「でね、とりあえず、犬が出るまでやる事ないから、ちょっと電話で話の相手になってよ。新聞部員として、それくらい構わないよね」
「うん。それはもちろんいいけど……」
私が門限という自分の都合で取材の同行を断ったせいで、明美一人で行く事になったのですから、電話の相手くらいはしないと申し訳がないと思いました。
それからしばらく、学校の先生の愚痴《ぐち》やクラスのお友達の話、更《さら》にはここには書けないような猥談《わいだん》など(これは明美が一人で喋って、私はひたすら聞き役でした。本当です)をダラダラと喋っていましたが、そのうち携帯の電池がなくなってしまったので切りました。ちゃんと充電していなかったのでしょうか。喋った時間は精々《せいぜい》十五分程度でした。普段の長電話からすると、余りにも短すぎて、なんだか私は消化不良な気分でした。更に、変な時間に起こされてしまった事もあって、再び寝つくまでにものすごく時間がかかってしまいました。明美は犬の群れに遭遇《そうぐう》したのかどうかと考えると、妙に不安な気持ちでした。
***
次の日、目が覚めた時には、もう十時を過ぎていました。
お父さんはとっくに会社へ行っていましたし、お兄ちゃんとお母さんもそれぞれバイトや買い物に出かけていて、私はパジャマのまま一人で遅い朝食を摂《と》りました。
お昼を過ぎて、ダラダラとワイドショーを見ていたところへ、明美から電話がかかってきました。犬の群れの写真を撮ったから、すぐに来いとの事でした。私は慌てて服を着替えると、明美の家へと急ぎました。
「あ。早かったね」
私が部屋に入ると、明美はベッドから体を起こして笑いました。その顔は、別人のようにやつれていました。
「あれ? 病気?」
「うん。ちょっとね。どうも、昨日帰ってから調子悪くて。夜風に当たり過ぎて冷えちゃったみたい」
苦笑いを浮かべる明美ですが、普段と違って弱々しく、まるで別人のようでした。そして、それよりも気になったのは、部屋中に嫌な臭いが籠っていた事でした。獣じみた臭いと、何かが腐った臭いとが混ざったような感じで、大木君の部屋の臭いととてもよく似ていました。明美の部屋には何度か遊びに来た事がありましたが、以前はこんな臭いはしませんでした。
「空気、入れ替えたほうがよくない……?」
私はそう言いましたが、明美は窓を開けるのを何故かとても嫌がりました。それも、大木君によく似ていました。
「それより、ちゃんと写真撮ってきたぞ。暗いし、フラッシュたくのはどうかと思ったから、高感度フィルムと赤外線フィルムの二通り準備してったんだ。もうバッチリだから」
詳しい事はよく分かりませんが、普通のカメラでも、フィルターをかぶせて赤外線力メラにする事が出来るのだそうです。
「とりあえず、沙也香が現像に出してきてくれる? それだけ頼みたかったんだ。私、今ちょっとこんな状態だからさ。ゴメンね」
「ん。分かった」
私はフィルムを受け取ると、鞄《かばん》のポケットにしまいこみました。
「ところでさ、犬の群れってどんな感じだったの? 大木君が言ったのと同じだった?」
「ん……。なんて言うか……」
明美は珍しく、ちょっと口ごもりました。
「同じって言や同じなんだけど……。いや、やっぱいい。言っても多分信じない」
「信じないって……。何があったの?」
なんだか妙に興味をそそられて、私はしつこく食い下がりました。
何度か問い質《ただ》すうちに、明美はついに根負けして重そうな口を開きました。
……だからね、基本的に、大木君が言ってたのと同じものを見たんだよ。道一杯にワラワラと広がる、ゾンビ犬の行列。それは写真に撮ってきたし、ズームでも何枚か撮ったから、何がどうゾンビ犬なのかはすぐ分かると思うんだけど。とにかく、まともに見れたもんじゃないね。あれはひどすぎる。臭いもね、傷口が腐ってるその臭いだよ。ホントに参ったね。沙也香は来なくて良かったよ、マジで。生で見たら泣くよ、絶対。
え? うん。私は歩道橋の上で、カメラ構えて待ち伏《ぶ》せてたんだ。電話もね、歩道橋の上から。うん。あんなすぐに電池なくなると思わなかったね。ちゃんと充電してったんだけどな。充電池がもう古いのかもね。換《か》えないといけないのかも。
でね。電話切ってから五分と経《た》たないうちに、大木君が言ってた足音が聞こえてさ。あ、これだ、って思って、慌てて下を覗《のぞ》いたら、いつの間にか道一杯に犬の群れが広がっててね。うん。どうやったらあんなに大量の犬が湧いて出てくるんだろうってぐらいに、道中が犬で埋《う》め尽《つ》くされててさ。それがまた、不気味なまでに静かなんだ。吠《ほ》え声やうなり声だけじゃなくて、舌出して「ハッハッ」ていうアレ、アレさえもないの。ただ黙々《もくもく》と、なんて言うかな、葬式《そうしき》行列みたいな感じで、真っ暗な無人のビル街を歩いて行くんだよ。シーンとした状態で、ただ爪がアスファルトに当たる音だけがやけに反響してね。確かにちょっと異様な空間だったよ。
でね、一体どこに向かってるのかって思ってさ、歩道橋から降りて、しばらく一緒に歩いてみたんだ。一応、川下のほうへ向かってるのは確かなんだけど、目的地がどこなのかとかちょっと気になるでしょ、普通。え? ならない? まあ、沙也香はならないかもね。んなこた、どうだっていいんだけどね。
でね、一緒に歩いてたら、……いや、やっぱ言っても信じないだろうな。っていうか、私自身がいまだに信じられないからな。……まあいいや。見たまんま喋るから、どういう事なのか沙也香も考えて。
えっとね、国道沿いに真《ま》っ直《す》ぐ西に行くと、途中で川にぶつかるでしょ。そうそう。稲川《いながわ》。でね、そこに橋が架《か》かってるじゃない。犬たちは真っ直ぐその橋を渡っていくんだよ。ぞろぞろと。で、私も一緒に橋を渡ろうとしたんだけど、ふと気がついたら、例の足音が聞こえなくなっててさ。まあ、広いところに出たから反響しなくなったのかとも思ったんだけど、それにしても静か過ぎると思って、どうしたんだろうって、ちょっと後ろを振り返ってみたんだ。そしたら、いつの間にどこへ消えたのか、後続は一匹もいなくてね。脇の路地とかに入ってったのかもしれないんだけど、とにかくあれだけいた犬が完全に姿を消してたんだ。
で、慌てて前を見たら、こっちも同じ。後ろを振り返ってる間にどっか行っちゃった。っていうより、突然消えたってほうが実感だけど。わけ分かんなかったよ、ホントに。気がついたら、夜中の街にポツンと一人きり。正直言って、ちょっとゾッとした。
なんかね、見ちゃいけないもの見た気分で、早々に家に帰ったよ。なんか、そのフィルムが二本とも撮り終えてなかったら、夢と思ったかも知れないね。
え? アメリゴ? ああ、大木君の飼ってたっていう犬? いや、知らないけど。だって、スコッチテリアとか言われても分かんないし。何、この写真? これがアメリゴ? ふーん。こういう犬か。
……いたかも。見た気がする。うん。毛並みとかもっとぼろぼろで、右前足がグジャグジャだったけど、でもこの首輪が多分同じだったと思う。たまたまね、私のいるほうの列にいたから。そうと知ってたら、連れて帰ってきたのにな。
え? 大木君、入院しちゃったの? なんで? あ、いや、知らないならいいけど。
とにかく、お大事に、って伝えといてね。って、私も人にお見舞い言える状態じゃないけどさ。
ああ。うん。とりあえず、写真の現像だけはよろしく。そうだね。じゃ、現像出来たら持ってきて。あ、ううん。やっぱり、回復したらまたこっちから電話する。風邪ひいただけだろうし、明日くらいには回復してると思うから。
うん。そうだね。どういう方向で記事をまとめるかも、またその時に決めよう。っていうか、もっと色々調べないと、今の状態じゃ全然何にも分かってないからね。どこから湧いてきてどこに消えてったのかとか、せめてそれくらい押さえておかないと。
うん。じゃ、また……。
***
明美の家を出ると、私は大きく深呼吸しました。明美が口を開くたびに、口から嫌な臭いが漏れていました。部屋に籠っていた臭いは、どうやら明美自身から出ていたようでした。あんな臭いが出るようになる病気って何なのか知りませんが、少なくともただの風邪ではない事だけは確かだと思いました。
その日の帰り、私は駅前の写真現像屋さんにフィルムを出しました。一番早いのだと四十五分で仕上がるというので、それでお願いしました。現像している間、近くの本屋さんで時間を潰《つぶ》し、仕上がった頃にお店に戻って写真を受け取ってから帰宅しました。
家に帰って、現像された写真を見てみましたが、どの写真にも何も写っていませんでした。
何も写っていないというのはちょっと誤解を招くかもしれないので、もう少し正確に言うと、道路や夜の街は写っているのですが、肝心《かんじん》の犬たちは全く写っていませんでした。
どういう事かと思って、明美に電話しようかと思ったのですが、今日のしんどそうな様子を思い出してやめました。元気になったら電話をくれるという話でしたから、私は明美から電話が来るのを待つ事にしました。
ですが、それきり明美から電話はかかってきませんでした。
待ちきれずにこちらから明美の携帯に電話したのですが、電話口の向こうで何かが喘ぐような息遣いが聞こえたと思うと、すぐに切れてしまいました。奇妙に思ってもう一度かけ直すと、今度は『電源が入っていないか、電波の届かないところにいます』というメッセージが流れました。そして次の日にかけたら、いつの間にか『この番号は現在使われておりません』というメッセージに変わっていました。
仕方ないので、携帯ではなく家の電話のほうにかけたのですが、病気で寝ているからという事で明美にはつないでもらえませんでした。
それきり、明美とは会っていません。
***
明美の家に電話をかけた翌日です。
うちのポチがどこで怪我をしたのやら、右目の上を一センチばかり切っているのに気づきました。大した傷ではなさそうでしたので、消毒してそのままにしておきました。消毒液が少し目に入ってしまったらしく、しきりにまばたきして前足でこする様子が、可哀相《かわいそう》なんだか滑稽《こっけい》なんだか、とにかく可愛《かわい》かったです。
ところが、大した傷じゃないと油断していたのがまずかったのでしょうか。傷口がだんだんとただれてきたのです。我が家ではポチは外で飼っていたため、土などで汚れた前足で傷口をこすったりしていたのかもしれません。とにかく、傷口に雑菌が入って化膿してしまっている事は確かでした。傷口から、嫌な臭いが漂い始めていました。
これはまずいと思って、慌ててお医者さんへ連れて行ったのですが、なかなか治る気配は見られませんでした。それどころか、日毎に傷口が広がっているような様子でした。ポチは少しずつ元気もなくなり、散歩にも行きたがらなくなりました。
そんなある朝、私がポチに餌をあげに行くと、ポチの姿が見当たりませんでした。
びっくりして犬小屋やその周辺を確認しましたが、鎖《くさり》と首輪はそのまま残っていました。思わず残された首輪を拾い上げた私の右手に、何か嫌な感触《かんしょく》のものが触《ふ》れました。ポチの、ただれて腐れ落ちた毛皮でした。
思わず手を離して、大急ぎで石鹸《せっけん》で洗い流しましたが、手のひらに嫌な臭いがこびりついて落ちませんでした。大木君や明美の部屋に籠っていた臭いとそっくりでした。
それでも、とにかく手を洗い終えると、私は家族にポチがいなくなった事を告げてから再び犬小屋へ戻りました。
鎖が引きちぎられたりした様子はないし、争った気配もありません。誰かが手懐《てなず》けて、首輪を外して連れ去ったとでも考える他に、説明のしようがなさそうでした。でも、怪我の治療中の雑種犬をわざわざ盗むなんて、それこそ理由が分かりません。
忽然《こつぜん》と消えてしまったという表現が一番ぴったりくるような消え方でした。
不意に、大木君の家のアメリゴを思い出しました。アメリゴも確かいなくなるまえに怪我をしていて、突然姿を消したと言っていました。
うちのポチも、もしかしたら夜の街を行進してる犬の仲間に入ってしまったのではないでしょうか。そんな気がしました。腐った肉の臭いが、大木君や明美の話とポチの失踪《しっそう》を確かに結び付けているように思えました。
探しに行かなくてはいけません。怪我をしたポチを野良のまま放っておくわけにはいきません。飼い主として最低限の責任です。
もちろん夜中の二時頃に外出するなんて、親が許してくれるはずはありません。また、説明したところで、子供の噂と笑い飛ばされるのが関の山でしょう。私は、親が寝静まってから、こっそり窓から抜け出す事に決めました。そして、夜に備えてたっぷり昼寝をして過ごしました。
***
夜中です。私は首尾よく窓から抜け出して、明美が待ち伏せしてたのと多分同じ歩道橋の上にいました。
腕時計を見ると、時間は夜の二時十五分です。夜中のビル街は本当に無人で、しかもこの一帯は街灯が切れているらしく、ほとんど真っ暗といっていい状態でした。私のような怖がりが一人でじっとしているには、とても不気味な場所です。
本当にこんな場所に犬の群れが出てくるんでしょうか。少し疑問に思いました。というのも、人間だけじゃなく、およそ生き物というものが全然存在していないような、そんな冷たくて暗い印象なのです。熱帯夜の続く八月だというのに、空気はとても冷え冷えとしていました。大木君や明美は、この冷たい空気で体調を崩したのかな、と思いました。犬の群れを見たら病気になるという噂も、案外根拠のある噂だったのかも知れないな、などと考えてみたりしました。あの二人の症状が風邪なんかじゃない事は分かっていましたが、自分を安心させるために科学的な説明をつけようとしていたのだと思います。あの奇妙な臭いについては、意図的に考えるのを避けていました。
私は歩道橋の上に小さくしゃがみ込んで、犬の群れが現れるのを待っていました。
もちろん、犬の群れの中にポチがいる確証なんてありません。第一、本当にそんな犬の行列が出没しているのかどうかすら疑わしい事も分かっています。大木君の話は夢を見たのではないかという感じが拭《ぬぐ》えませんし、明美にしたって肝心の写真に何も写っていなかったのですから。
でも、上手く説明出来ませんが、ここで待っていれば絶対にポチに会えるという確信めいたものがありました。大木君が言っていた飼い主と飼い犬の間の第六感というヤツでしょうか。単に思い込みが強いだけと言われてしまえばそれまでですが。
じっと待っていると、だんだん眠くなってきました。いくら昼に寝ておいたとはいえ、なにもせずに暗い所でぼんやりしていれば眠くなるのは当然です。口に手を当てて、大きくあくびをしました。その途端、ひどい臭いがしました。ポチの毛皮からうつった臭いは、まだ落ちていませんでした。あまりの悪臭に肺が腐ったような気がして、思わずむせ返りました。
その時、下の道路から、軽いカツカツという音が聞こえてきました。
ハッとして下を見ると、いつの間に現れたのか、一匹の年老いた犬がヨタヨタと車道の左車線を歩いていました。毛並みはボサボサで、皮膚《ひふ》病にかかっているらしく、所々毛が抜け落ちていました。更に、右前足の膝《ひざ》から下がありませんでした。
噂どおりの気持ち悪い姿に、思わず息を呑みました。
ふと気がつくと、いつの間にか似たような犬がもう一匹現れて、道の反対側を同じ方向に歩いていました。こちらは足は四本ともありましたが、顔半分がえぐり取られたようになっていました。ポチの傷を、そのまま数倍悪化させたような感じでした。ポチも、顔の皮が落ちていたという事は、今はあんな顔になっているのでしょうか。そう思うとゾッとしました。
その犬は顔半分がえぐれているためバランスが取りにくいのか、歩くたびに頭が左右に大きく揺《ゆ》れるのですが、その都度《つど》顔面の傷口から腐れた肉片が地面にごぼれ落ちました。見ているだけで吐《は》き気を催《もよお》しました。
どこから現れたのか、更にもう一匹、似たような犬が現れました。やはり毛が抜けていて、後ろ足を引きずっていました。更にもう一匹、更にもう一匹と、犬の数はどんどん増えていきました。
犬種は様々でしたが、どの犬にも共通しているのは、みんな毛並みがボサボサで醜《みにく》い姿だという事でした。健康な姿の犬は、一匹もいませんでした。
聞いていたとおり、犬たちは気持ち悪いほど静かでした。それも、おとなしいとか行儀《ぎょうぎ》が良いというのではなく、およそ、生気といったものを微塵《みじん》も感じないといった意味での静けさでした。そんな犬たちが道一杯にひしめき合って、不気味なほど静かに、暗い道をゾロゾロと行進していくのです。
私は、見てはいけないものを見ているような気がして、慌てて頭を引っ込めました。そしてうっかり声を漏《も》らさないよう、口を押さえて体を縮めていました。うっかり腐臭のする右手で口を押さえていましたが、そんな事を気にしている余裕《よゆう》はありませんでした。
ポチを探して連れ帰るという当初の目的は、もう完全に忘れていました。ただ、犬の群れに悟《さと》られないようにする事だけで頭が一杯でした。犬の群れがみんな通り過ぎてしまうまで、この場所で静かに隠れている事しか考えられませんでした。
どれくらいそうしていたか分かりません。気がつくと、犬の足音は止《や》み、あれほどいた大群はまるで幻《まぼろし》のように姿を消していました。私はホッと全身で安堵《あんど》し、大慌てで家に帰りました。
帰ると同時にものすごい寒けに襲われて、三日間寝込みました。ポチの体が腐臭を発しながらグジュグジュと崩れていく夢を、何度も繰り返し見て、ずっとうなされました。
四日目の朝になってようやく目を覚ましましたが、布団《ふとん》から出る元気はありませんでした。例の腐ったような臭いがやけに鼻につきました。起き上がって鏡で自分の顔を見るまで、臭いの元が何なのか分かりませんでした。
それ以来、私は家から外に出ていません。
あれから一年経ちました。
この辺りで犬を飼っているのは五丁目の田中さんだけになりました。
犬の群れの噂は、今では誰も口にしようとしません……。
[#地付き]了
[#地付き]校正 2007.10.23