カクレヒメ2
佐竹彬
人が空気を読める生き物ならば、緊迫感もまた伝播する。たとえ、百メートルもの距離があってもだ。その感覚が強く、また集まる人数が多いほど、共有される緊張も強まる。待機中の刑事、警官、それを取り巻く野次馬たち。一様に、グラウンドを挟んで反対側の校舎を見つめている。強張った顔も少なくない。
あるいは、それらはすべて自分から伝わったものなのか――彼女は自問する。
本音を言えるなら、今すぐにでも走り、グラウンドを突っ切って突入したい。だができないのだ。上からの指示は、最初からずっと「応援が来るまで待て」のテンプレート。それに違反するのを覚悟で単独突入しても、状況を好転できる見込みはない。結果、いつ来るかも分からない応援に焦れつつ、黙って見ていることしかできなかった。
「警視」後ろから声。
「本部から何か?」表面上は努めて冷静に、しかし即座に応じる。
「いえ……。ただ、少し休んでください。ずっとそこに立ちっぱなしでは、体力も失われますし。監視なら我々がやっておりますので」
「気遣いは結構です。わたしはここを動きません」
「お言葉ですが、貴女《あなた》は現場の責任者です。そのような冷静さを欠いた姿勢を見せられては、士気も下がります」声は淡々と続ける。
「わたしが冷静でないと?」
振り向くと、彼女より一回りも年上の男が無表情に見返した。叩き上げの刑事で、階級は警部。キャリア組との違い。
彼はかすかに目を伏せた。
「警視が落ち着いていられない理由も分かります。しかし、焦って行動しては事態を悪化させるばかりです。どうか少し休んでください」
「…………、捜査に個人的感情を差し挟むとは、刑事失格ですね、わたしは」ため息。
「しかし、警察の者が感情を無視すれば、人を見ない捜査しかできなくなります」
「そうですね。それも道理です」
少し下がります、と言い残し、彼女は踵を返した。
その瞬間だった。
「状況が動きました!」双眼鏡で現場を監視していた刑事の一人が叫んだ。
「現場で混乱が発生。犯人が暴れています!」
「被害は?」振り向いた彼女が即応する。
「不明……いえ、どうも様子が――」
彼女は最後まで聞かず、その刑事から双眼鏡を奪って現場に向けた。窓ガラス越しに、ナイフを振り回す犯人が見える。
暴れているというより、それは、怯えているようだった。まるで、恐ろしいものを遠ざけようとする動き。
躰を回転させ、ナイフで空気を切り裂きながら、犯人が揺動している。
救いを求めてか、窓に手を伸ばす。
そして――
「犯人が落ちたぞ!」
その様子も、彼女はしっかり見ていた。
だが、一瞬後には忘れている。今の彼女の目に映るのは、現場――学校の教室の中で、錯乱しているとしか思えない動きで手足を振る一人の少女。
彼女は双眼鏡を放り出した。
「突入して犯人確保! 救護班は後ろから回って校舎に入り、児童の安全を確認! 行きなさい!」
鎮圧用の装備に身を固めた屈強な男たちが、正門を通過してグラウンドに雪崩れ込む。彼女はそれに併走――否、彼らの先頭に立って駆け込んだ。冷静さなど、今は二束三文で売り払っている。
犯人のことなど考えない。頭の中に思い浮かべるのは、一人の少女のことだけ。
「美雨《みう》……!」
三年前のことだった。
第一話 「喜びは甘く」
嬉しいときは、
甘い香りのケーキを焼いて。
終業式の日なんて、通知表の数字にひとしきり一喜一憂したあとは遊びに繰り出すものと相場が決まっている――らしい。比較的よく喋る間柄のクラスメイトたちも、多くはそのルートを選択したようだ。夏至から一ヶ月ほど経った夏の盛りに、よくそこまでアクティブに動けるなと思う。
しばらく授業を受けずに済む解放感と、たった今知ったばかりの成績から目を逸らしたい気持ちが、若さに活力を注いでいるのだろう――なんて分析も、遊びの計画を楽しそうに練る彼らには野暮だ。そういう補助的な要素も確かにあるのだろうけれど、そもそも遊ぶのが楽しいから活動的になるのだ。
そんなことを考える僕は、誰かから誘われることも誰かを誘うこともなく、ホームルームが終わるとすぐ帰ることにした。いじめられているわけではなく、これがいつものスタンスだ。街で偶然出くわした以外、学校の外でクラスメイトと過ごしたことがない。それに、もし街で出会ったとしても、少し言葉を交わせばそれっきりだ。偶然の邂逅を祝してどこかで遊ぶ、ということもなかった。
そんな息子を憂えてか、終業式当日の金曜日、いつものようにバイト[#「バイト」に傍点]に出ようとしたとき、母親がもの言いたげに息を吐いた。いや――
「あのさ」実際言った。「夏休みに入っても、予定は何もないの?」
「え? バイトがあるけど」靴紐を結びながら、後ろを振り向く。
「ほかには? 友達と遊ぶとか」
「今のところ予定はないかな」
「海に行こうとか、そういうのがあるものじゃない? 学生の夏って」
「そうなのかな……」首をひねる。
分からないふりをしつつも、「そういうのがあるもの」と僕は知っていた。なぜなら昨日、下校する生徒たちの口から何度も聞いたからだ。グループで行く話、カップルで行く話、ナンパに繰り出す話、いろいろと。話には聞こえなかったけど、誰か一人くらい、単独で行く計画を練っているかもしれない。
とはいえ、夏の海=人の多い場所である以上、そういう環境が苦手な僕は誘われたところで頷くつもりはなかった。浜が広くて開放的でも、人口密度が高ければ同じことだ。
相変わらず人付き合いの少なさを示す僕の言葉に、母親は苦笑混じりにため息をついた。
「まあ、バイトでも何でも外に出るようになっただけ、明珠《めいじゅ》も変わってきたのかもね」
「人を引きこもりみたいに」苦笑いを返す。
「行ってらっしゃい」
「うん。明日《あした》の……たぶん、夕方までには帰ると思う」
僕はバッグを肩に提げ、玄関を出た。
夏だから当たり前だけど、暑い。日差しも強烈だ。頭をじりじりと焦がされそうな一方、輻射熱で下半身も炙《あぶ》られる。火責めの二重苦だ。
徒歩三分の駅に向かいながら、さっき言われたことを考えていた。夏休みにバイト以外の予定はないのか、という母親の言葉を。
本当は、バイトすらないのだ。僕がこれから行こうとしている『バイト先』では、僕は仕事をしない。だからお金ももらわない。では何のために行くのかと訊かれると、これが判断に困ってしまう。
行き先だけなら、誰に対しても答えられる。この近郊で最大の治療施設である時任《ときとう》病院だ。でも、それさえ実は正確じゃない。厳密にはその地下、時任病院の『第八号棟』こそが真の目的地だ。
この地下施設は、一般には知られていない。国家レベルで厳重に秘匿・管理されていて、時任病院で働いている医者や看護師すら、その全員が知っているわけではない。良くも悪くも、病院内どころか国の暗部なのだ。
そんなところに、ただの高校生に過ぎないはずの僕が何の用で行くのか。
(答えられないよなあ……)
両親にすら話していない、というか話せない僕の秘密。だからこそ、バイトという口実を設ける必要があるのだった。
駅前で買い物をし、電車で三十分ほど揺られ、別の線に乗り換えてさらに数十分。そこで降りたら、時任病院はもう目の前だ。駅自体はそれほど大きくないけど、乗り降りする人は少なくない。ほとんどは、病院に用があるのだろう。僕を含めて。
病棟の白い外壁に、太陽の光が反射している。総合病院だけあって、規模は大きい。もっとも、僕は地下にばかり行っていて、地上部分のことはあまり知らないのだけど。
眩しさに目を細めつつ、地下駐車場に足を踏み入れる。出入り口のゲートを監視する守衛さんに挨拶。歩を進めると、少しだけ涼しく感じた。日陰だし、地下特有のひんやりした空気が火照《ほて》った肌に心地好い。
僕は駐車場の奥にある、搬入用通路の入り口に移動した。横の壁に設置されたパネルを指先で叩き、パスワードを入力してドアを開ける。中に入って潜水艦の中みたいな通路を進むと、奥にエレベータが見えた。念のため周りに誰もいないことを確認してから、指紋認証をクリア。開いたドアからエレベータの中に滑り込む。
普通なら階数のボタンがあるはずのパネルには、上り下りと開閉の四つのボタンしかない。下りと閉ボタンを続けて押し、力を抜く。
ゆっくりと下降していく感覚。ドアの上には、どれくらい下っているかを示すパーセンテージの表示。数字の変化は意外と速い。
最後に一瞬だけ重さを残し、エレベータは停止した。ドアが開く。
地上の搬入用通路とは全く違う、真っ白な世界が広がっていた。病院っぽいといえば病院っぽいのだけど、薬品臭と窓がないので若干の違和感がある。どちらかというと、研究所のような雰囲気だ。人気《ひとけ》がないので、ますますそんな印象を受ける。ここに通うようになってもう二ヶ月以上になる、今でも。
通路を進み、あるドアの前で止まる。無意識でも来られる気がするくらい、馴染みの部屋だ。ノック。くぐもった返事。
「こんにちは」入りながら挨拶した。
挨拶にまず応じたのは、煙草とコーヒーの匂いだった。強力な空気清浄機があるはずなのに、室内から駆逐しきれていない。機械の性能が悪いわけじゃなくて、敵《におい》が強すぎるのだ。煙草とコーヒーが、どれくらいの頻度で消費されているかが分かる。
今も、部屋の主は吸殻の溢《あふ》れた灰皿をキーボードの右に置いて、パソコンのディスプレイと睨み合っていた。左手にはコーヒーカップ。完璧な布陣、といった感じだ。
短い髪。フレームの細い眼鏡。シンプルなシャツとパンツの上に白衣を身につけている。
そういうパーツで見ていくと男性のようだけど、実際はまだ二十代後半の女性だ。新留紗織《にいどめさおり》さん。僕の『主治医』にして、この世界でも有数の研究者なのだとか。
「やあ、瀬畑《せばた》君。ウェルカム夏休みってとこかな?」
「……今日が終業式だって言いましたっけ?」僕は首を傾げた。
「調べたらすぐ分かったよ」新留さんはここでようやく、僕のほうを見た。「それにしても、最近はどこの学校もサイトを立ち上げてるんだなあ。わたしが中学とか高校に行っていたころなんかは、ほんの一部だけだったんだけど」
「何年前のことですか?」
「少なくとも瀬畑君は生まれていた」答えはすぐに返った。
「いえ、分かってますけど……」
「通知表どうだった?」
露骨に話を逸らす新留さんだった。まあ、是が非でも知りたいことではないので、応じることにする。
「まあまあでした」
「とか言いつつ、平均よりできてたり」
「教科にもよりますけど、ずば抜けた評価はありませんよ」
「いや、学生だったころのわたしはそうだったな、と」
「はあ」確かに優等生だったような雰囲気はある。
「成績が良くていいねとか、ねちねち嫌味を言われたこともあったなあ。わたしはわたしで、そっちが勉強してないからでしょ、とか当たり前の反論してたし。今よりもさらに[#「今よりもさらに」に傍点]若かったからね」
今よりもさらに、を強調する新留さんだった。……さっきからしきりに予防線を張ってる感じだけど、何かあったんだろうか。
突っ込んではいけない話題だと本能的に察し、話をスイッチすることにする。
「新留さんたちって、夏休みとかあるんですか?」
「規則上は一応あるけど、出勤する人がほとんどかな。仕事の内容が内容だしね。そう簡単に代役任せにはできないから」
「やっぱり、その……。みんな、短い間だけでも家に帰るとかは……」
「ないね」『みんな』が誰を指すか分かったのだろう、返答は素早かった。「逆に、この時期だけ来る面会者はいるけど」
「そうですか」
「そうですよ。――ところで瀬畑君」
ともすれば重い話になりかけたところを、新留さんのにやにや笑いがストップさせた。救われたという感情と引き替えに、嫌な予感がもたらされる。
「呼んでもないのに来たってことは、瀬畑君のほうで用事があるんでしょ? 早く済ませてきたら?」
「泊まるつもりだから、別に今じゃなくても」せめて言い返してみる。
「あ、そういえばいつも使ってるあの部屋、今日は使用禁止だから、知り合いの部屋にでも[#「知り合いの部屋にでも」に傍点]泊めてもらってね」
「あの、そういう冗談は……」
「あ、赤くなった」
からかわれまくっている。僕は額に手を当ててため息をついた。
捨て台詞の一つでも吐こうかと思ったけど、下手なことを言うと逆襲されそうだったので無言で部屋を出る。ドアを閉めてから、あえて触れなかった年齢のことを言えば良かったかな、と少し後悔。いや、言ったら言ったでぞっとしないことになりそうか……。触らぬ神に崇りなし。
新留さんの部屋を出て、目を瞑《つむ》っても歩けるくらいに通い慣れた道を進む。途中で、新留さんと同じく白衣を身につけた男性と遭遇した。長身に童顔という組み合わせがミスマッチに思える彼は、篠原悠佑《しのはらゆうすけ》さん。新留さんの同僚にして、この施設の関係者で僕が知っている数少ない人物の一人だ。
「やあ、瀬畑君。今日はいつもより早いね」
「学校が終業式だけで早かったんです。暑いから、夕方来ても良かったんですけど」
「終業式? ああ、そうか。もうそんな時期か」ここにいると時間を忘れてね、と篠原さんは少し恥ずかしそうに笑った。「このへんは都会から離れてるから、夏でも日が沈んだらまあまあ涼しくなるね。でも、早く来てくれたほうがあの子は喜ぶと思うよ。……って、あの子の話し相手になってほしいって頼んだ僕が言うのは図々しいかもしれないけど」
「いえ、その、好きでやってることですから」
篠原さんも、僕が来た理由を一つに決めてかかっていた。……まあ、実際それが正しいんだけど。
このままだと癪《しゃく》だし、気になることでもあったので、さっきは口にできなかった話題を出してみる。
「そういえば、さっき新留さんと話したんですけど」
「うん。まだピリピリしてた?」苦笑。
「何があったんですか?」
「実家からの電話で、『見合いをしろ』って言われたんだってさ。『もういい歳なんだから』とか何とかね。だから明日帰るまで、紗織先生の前で歳のことは言わないほうがいいだろうね」
「見合い、ですか。まだあるんですね、そういう制度」僕はそっちのほうが驚きだった。
「たぶん、一部のことだと思うよ。僕は言われたことないし」
男女の違いはあるかもしれないけど、と篠原さんは肩をすくめた。彼にしては珍しい仕種だった。
新留さんとの接し方について重要なアドバイスをもらってから、篠原さんと別れて移動を再開した。といっても、彼と会った場所は目的地に近かったので、少し歩けば到着だ。
入院患者用の区画。その奥まったところにある部屋。
白い、静かな空間では、自分の息遣いさえも認識の対象になる。
それは、僕たちのような『患者』だけに限ったことではないだろう。
誰だって、きっとそうだ。
僕は目的の部屋の前で立ち止まった。ドアの横のプレートには、八年間、この部屋に住み続けた人物の名前が掲げられている。
巫部梓《かんなぎべあづさ》。
僕が会いに来た相手。
時任病院・第八号棟の設立と現状、それらに関わる思惑などは、僕には考えも及ばないほど複雑らしい。とはいえ、「第八号棟とは何か」と訊かれれば、一言で済ませることができる。
つまり――第八号棟も病院である、と。
地上の、いわゆる時任病院として知られる施設と決定的に違うのは、第八号棟が受け入れるのは特定の患者だけで、しかも一人を除いて全員が入院している、という点だろう。
特定の患者。
感覚拡大症を発現した子供たち。
一般には知られていないこの病気がどういうものなのか、説明しても理解が得られるとは限らない。今の自分が抱える常識を、根底から疑ってもらわなければならないからだ。時間の流れは常に一定だと信じている人にウラシマ効果を説明しても、考えをすぐに変えられるかどうか分からない。それと同じことだ。
それでもあえて言うならば、感覚拡大症とは『リスクを伴う超能力』と解釈できる。
この場合、リスクというのは精神的なものだ。拡大症患者は、得てしまった[#「得てしまった」に傍点]超能力――症状を使うたび、程度の差はあれストレスを受ける。おまけに、症状を常にコントロールできるとは限らない。むしろ、患者自身の意思とは無関係に発現することがほとんどなのだ。たとえば――こんな患者がいるかは分からないけど――、他人が書いた文字を見ただけで、それを書いたときの気持ちが聞こえてしまう、といったように。
そしてその都度、心に負担がかかる。拡大症が単なる超能力ではなく病気の一種とされているのは、そのあたりに原因がある。
加えて、拡大症によって精神にダメージを受けたとしても、いわゆる心の病と診断されるケースが多い。実際、別の病院で医者にそう言われ、時任病院に来てから本当の病名を知った患者もいるらしい。拡大症のことは、第八号棟の存在と併せて国家機密だから、それも当然ではあるけれど。
いずれにせよ、感覚拡大症が心に負荷をかけるというのは事実なのだ。しかも、この病気はいまだ治療されたケースがない。さらに、患者の多くは症状に伴うリスクのために外でトラウマを抱えているから、結局、入院という選択をすることになる。第八号棟の中にいる限りは、症状によるストレスをかなり軽くすることができるし、治療法の研究に協力させられることを除けば、基本的に自由を許されるからだ。拡大症の患者であるという事実を伏せなくても良いというのも、入院を選ぶ理由として挙げられるだろう。
さて。
そんな第八号棟と、僕のような学生がどうして関わりがあるかというと、僕もまた拡大症患者の一人だからだ。ただし、僕は第八号棟の患者としては唯一、通院している。入院ではなく通院を希望したのは僕の意思だけど、それが認められたのは入院しなくても大丈夫というお墨付きをもらったからだ。
拡大症患者である以上、僕も症状を使えばストレスを受ける。ただ、それは他の患者に比べて非常に小さいものだ。しかも僕は、完全とはいかないまでも症状をかなり制御できる。何しろ、第八号棟や感覚拡大症のことを知る前から、自分の特殊性について自覚していたのだ。その点でも、僕は拡大症の患者として特異だろう。
もっとも、入院しなくても普通に生活できる程度とはいえ、拡大症患者である以上は避けられないリスクを僕も負っている。だから僕は、通院患者という形で第八号棟と関わることに決めたのだ。これまで、症状のおかげでピンチを切り抜けたこともあったけど、そのピンチ自体が拡大症との関わりで巻き込まれたことだった。だから、治療できるものならしてもらいたい。その研究のためなら、少し協力するくらい安い代償だ。
それに――最近は、それ以外にも第八号棟に来る理由がある。
正確には、できたというべきだろうか。そう、きっかけとしては五月、第八号棟の存在を知ったころ。自覚的には、先月の終わりに。
その理由というのが――
「ようこそ、明珠」
ベッドに腰掛けてこちらに声をかけてきた彼女、巫部梓だ。
地下にいても季節を意識しているのか、今日は半袖のブラウスにリボンタイ、モスグリーンのスカートという服装だった。梓は入院しているにも拘わらず――あるいはだからなのか、学校の制服を普段着にする習慣がある。
とはいえ、たとえ彼女が町中を歩いていても、学生だと判断されることはないと思う。なぜなら、梓の顔の上半分は、黒いゴーグルで隠れているからだ。形はスキーで使うものに似ているけれど、レンズ部分もプラスティックで覆われている。実は、左右のヒンジに小型のカメラが仕込まれていて、そこで写した像を内側のモニタに出力しているのだ。
僕は使ったことはないけど、梓が言うには、肉眼で見ているのと変わらないらしい。
彼女とは、まだ二ヶ月ほどの付き合いでしかない。それも、会うのは週末限定だ。でも、制服にゴーグルという姿は既に見慣れたものだった。
僕はいつものように、駅前で買ってきた土産の袋を掲げて微笑んだ。
「こんにちは、梓」
「思ったより早かったわね」
「終業式なんて、何時間もやるものじゃないよ」僕は苦笑した。
今日で学校が終わりということは、先週のうちに伝えてあった。もっとも、梓は小中高を問わず学校に通った経験がほとんどないから、終業式というものに対して何か独特のイメージを抱いていたのかもしれない。
そんな想像を見抜いたのか、梓が少し口を尖らせた。
「また『常識のない女だ』とか思ったでしょう」
「思ってないよ」正直に答えた。
「終業式がどういうものか知らないんだから、仕方ないじゃない」
「まあそうかも」言ってから、梓の発言が説明を要求するものだと気づいた。「えっと、基本的には校長の話があるだけだよ。部活の壮行会をやる場合もあるけど、今回はなかった」
「校長の話って、何を話すわけ? 現代教育論?」
「そんなことが喋れるなら、それはそれで凄いかもしれない」校長に対して失礼極まりないことを口にする。本心だけど。
「壮行会っていうのは?」
「夏休みって、特に運動部の大会が多いんだよ。だから、大会に出る生徒をみんなで応援しましようって感じの会が開かれるわけ」
「応援なら大会の日にやればいいじゃない」
もっともな意見だった。
喋りながら、袋を床に置いて中身を取り出す。いつもの店で買ったケーキの箱と缶コーヒーという、ちょっとちぐはぐな取り合わせだった。後者は、これまで「缶の飲み物を口にしたことがない」と宣《のたま》う梓のリクエストで買ってきたものである。
準備をしているうちに梓の興味はそちらに移ったらしく、現代の学校における行事プログラムにまつわる謎を放り出して、僕の手元を見た。ゴーグルで隠れていても、梓が何に注目しているか丸分かりだ。
取り出した箱と缶コーヒーを、ベッドサイドのチェストに置く。テーブルなどという気の利いた物体は、この部屋には存在しないのだ。正確にはあるのだけど、普通の病院でも見かける、ベッドの左右を橋渡しするようなあれしかない。いくらなんでも、二人でケーキを食べるのにそのテーブルを使うわけにはいかなかった。
今度、テーブルを入れてもらうよう頼んだらどうかと、梓に言ってみよう。そう思いつつ、ケーキの入った箱を開いた。中身はモンブランとチーズケーキである。チェストを移動させるまでもなく、梓がケーキの箱に寄ってきた。
箱の横に缶コーヒーを置く。彼女の顔がそちらを向く。何だか猫みたいだ――という感想は、もちろん胸の奥にしまっておく。口は災いの元。
「それが缶コーヒーなのね?」
「うん。どんなのがいいか分からなかったから、甘いやつと甘くないのを買ってきたけど」
「そんなに味があるの?」梓は首を傾げた。
「味というか、種類は結構あるね。朝専用とか仕事が終わったあと用とか。砂糖の量も、メーカによってまちまちだし」
「この二本は明珠のお勧めというわけね」
「いや、適当に買ってきた」飲んだことのある種類ではあるけど。
梓は唇を尖らせ、「こういうときは、嘘でも『そうだ』とか言うものじゃないの?」
「そうなのかな……」僕は半眼で彼女を見返した。
「まあいいわ」缶コーヒーという未知の物体に対する興味が優先されているのか、梓はいつもより鷹揚だった。「わたしが先に選んでいい?」
「いいよ。僕はどっちも飲めるから」
梓が選んだのは、甘いほうだった。僕は残った缶を手に取る。プルタブを開けて口をつけようとしたところで、梓が(たぶん)恨めしそうに僕を見上げていることに気づいた。
「……開け方くらい教えてくれてもいいじゃない」
「ああ、ごめん」謝ったあとで、ふと思った。「こういうの、映画なんかで見たことなかったの?」
入院患者である梓は、暇潰しによくDVDを観るらしい。ジャンルは特に問わないと言っていたから、邦画を観たことはあるだろうし、その中で一回くらいは登場人物が缶の飲み物を口にするシーンがあるんじゃないかと思う。
馬鹿にしているわけではなく、あくまで純粋な疑問である、という態度を強調して訊いたにも拘わらず、梓は顔ごと目を逸らした。
「……見たことあるかもしれないけど、忘れたのよ」
これ以上の発言は墓穴を掘ることになる気がしたので、僕は文脈を無視してプルタブ開けについてレクチャした。梓もそれに応じる。
爪が弾かれるというアクシデントが何度か発生したものの、彼女は最終的に自力で成功を収めた。そこはかとなく満足そうな態度で、缶に口をつけ、傾ける。
咳き込んだ。
「どうしたの?」僕はさすがに慌てた。
「甘すぎ……」いがらっぽい声で返答。
「あ、そうか。冷たいのは甘さを強くしてるんだっけ」
冷たさで舌が麻痺するから、という話を、以前どこかで耳にした覚えがある。クラスメイトの誰かが、「これは砂糖水にコーヒーを垂らした飲み物だ」と表現していたのを思い出した。
梓は喉を指先で押さえながら、箱の中に入っていたフォークを取ってモンブランを切り分けた。丸呑みするような勢いで、口の中に放り込む。
ケーキを飲み下すと、ようやく落ち着いたようだった。ふう、と息を吐き、
「ケーキより甘い飲み物ってどうなの?」
「しかも『コーヒー』って名前なのにね」僕は自分の分に口をつけた。無糖ではないけど、梓が飲んでいるものに比べれば全然甘くない。
「なんか、余裕ぶってるのがむかつく……」梓の声が低くなった。
「あー……。何なら交換する? こっちのはそんなに甘くないし」
僕も甘いものが特別好きというわけではないけど、缶一本くらいなら大丈夫だろう。幸い、僕のケーキは甘くないものだ。
梓はなぜか忙しない感じで、互いが持つ缶コーヒーと僕を何度か見比べた。結局、かぶりを振る。
「いい。せっかくだしこのまま飲む」
「せっかくって?」
「それはその……」梓はいきなり挙動不審になった。目元が見えていたら、さぞかし素早く泳いでいるに違いない。「初めて買ってもらっ……じゃなくて、初めて飲んだやつだから、最後まで飲んでみる。せっかく最初に飲んだ缶コーヒーなんだから、わたしが最後まで飲まないとね」
よく分からない論理だった。もう少し詳しく、と言おうとしたところで、梓は銀紙ごとモンブランを抱え、ぱくぱく食べ始める。
質問を許さない雰囲気を感じたので、僕は黙って引き下がった。梓と違い、落ち着いてケーキを食べる。
うん、交互に口に入れていると、チーズケーキの酸味と缶コーヒーの甘さがなかなか良い感じに組み合わさってくる。僕はコーヒーを飲むときはいつもブラックだけど、たまにはこういうのを飲んでみるのも良いかもしれない。
そんなことを考えている間にも、梓は早々にモンブランを食べ尽くしてしまった。嫌そうに缶コーヒーを見下ろしている。対照的に満足そうな僕が気に入らないのか、梓はむすっとした態度を隠そうともせず、口を開いた。
「今度はそっちの甘くないやつ買ってきてよね」
「無糖のもあるけど」
「ブラックのアイス[#「アイス」に傍点]コーヒーなんて、コーヒーに対する許しがたい冒涜《ぼうとく》だわ」
そこは譲れない一線らしく、梓はこれまでにないほど強い口調で言った。
僕は「分かったよ」と言うしかなかった。
結局、梓はブラックのコーヒーを淹れて、口の中の甘さをリセットした。コーヒーメーカとカップは、最近になって導入したものだ。「一人で飲む用にしては、かなり本格的だね」と言うと、なぜか「そうね」と怒ったように応じられたのが謎だ。
ともかく、これで梓の部屋にも少しはものが増えたことになる。カップがもっとあれば新留さんや篠原さんが来ても飲めるのに、今は二つしかないあたり、女の子の部屋にしてはいまだに殺風景だけれど。
まあ、これまでの梓を――先月の事件を通して知ることになった梓の過去を考えれば、仕方のない部分もあると思う。
巫部という一族を繁栄させるためだけに創られ、使い尽くされた生き人形――『巫《カンナギ》の御子《みこ》』の話。
感覚拡大症の発症。
本家で起きた事件と施設で過ごした時間、病院での日々。
それらを考慮すると、梓が今のような情緒を獲得できたのは奇跡的なことなのかもしれない。そう思えてくる。
十八歳という年齢からすれば精神的な幼さが見えるとはいえ、彼女は真っ当な『人間』として生きているのだから。
人がいるところでゴーグルを外すことは、まだできないけれど。
「――何?」
他愛もない話の途中、ついついゴーグルを凝視してしまったらしく、梓が少し不機嫌そうに言った。
「いや、ごめん。何でもないよ」
「また何か、余計なことを考えていたでしょう?」梓が追及してくる。
「余計ではないと思うけど……」
「じゃあ何でもなくはないじゃない。いいから何を考えていたのか話してよ」
語尾の震え――あるいは懇願すら窺えそうな響きにあえて気づかないふりをして、僕は肩をすくめた。分かった降参、というジェスチャだ。
「どうしたら、梓の『顔』を見れるのかなって」言われたとおり、正直に答えた。
「え……」梓は目に見えて動揺した。ゴーグルの下で、両目が左右にせわしなく動いているのを想像する。「何、え? どうゆうこと?」
若干、呂律《ろれつ》が回っていなかった。僕は首を傾げる。
「何って、文字どおりの意味だけど」
「どうしていきなりそんなこと言うのよ」怒られた。
「だって梓が訊いたから……」
「じゃあなんでそんなこと考えたの? 別にそういうこと喋ってなかったわよね?」
「そうだと思う」
思わず肯定してしまった。梓はベッドを両手でバンバン叩く。
「なんで話してもないことを考えるのよ」
「そんなこと言われても……」
つい連想ゲームのように思ってしまったとしか答えようがない。でも、そうすると梓がますますヒートアップしそうで、僕はもごもごと言葉を濁すことしかできなかった。
うー、と梓は子犬のように唸る。それとも猫が威嚇するように、だろうか。どちらにしろ、機嫌を損ねてしまったらしい。
と思っていたら、梓は何やら考え込むように腕組みした。右手の指先は、形の良い顎に。以前、「有能な刑事みたいだ」と評価して以来、梓はたまにこの姿勢になる。その間、話しかけてはいけないらしい。
やがて梓が、おずおずといった感じで僕を見上げた。なんとなく、上目遣いをしている気がする。
「……………………、たい?」ほとんど囁きだった。
「え?」
「だから、わたしの顔見たい?」顔を横に向けつつ、「明珠がどうしてもって言うんなら、少しくらいならゴーグル取ってもいいわよ」
「いや、別にいいよ」
枕が飛んできた。慌てて受け止める。
「何なのよ! どうしてほしいの!」
「いや、だって、そんな無理して外してもらわなくても。さっきだってちょっと考えただけだし」
「だったら紛らわしい言い方しないでよ、もう」
「ごめんごめん」
ふう、と梓は一息ついた。いつもなら不機嫌になると簡単には収まらないのに、今回はあっさり落ち着いてくれたらしい。少しほっとする。
受け止めた枕を抱えながら、今度は僕が上目遣いをする。梓を見上げながら、
「梓って、僕以外の患者に顔を見せたことがある……んだよね?」少し躊躇しながら訊いた。
ためらったのには理由がある。これまで梓が会ったことのある患者のうち、今もなお交流を続けているのは僕しかいない。僕以外の患者は、その患者自身か梓によって接点を奪われているのだ。
性格的に合わないと判断したこともあったようだけど、ほとんどの場合、それは梓の症状が原因だ。いや、この表現は聞こえが悪い。正確には、梓の症状に対する反応が、というべきだろう。
梓の症状――幻視。
肉眼で見た人物の思考を、視覚情報としてダイレクトに認識する視覚拡大症。
拡大症はさまざまな点で患者にストレスを与えるものだけど、それは、第八号棟に入院したら受けなくなるものでもなかったのだ。僕と違って、梓はそういったマイナス面を数多く経験してきている。
だから僕は、ストレートに訊くことができなかったのだ。
でも。
「ええ」梓は何でもないことのように頷いた。
「どんな人がいた? 年齢とか性別とか、そういうののことだけど」
症状まで知ろうとは思わなかった。ほかの病気と同じく、拡大症のことは患者のプライバシィに属する。単純に、どんな人が拡大症患者として入院しているのか知りたかったのだ。
梓はまた考え込む姿勢になった。
「そうね……。性別はどっちもいたわ。わたしが会ったのは、女の子のほうが多かったかしら。歳はいちいち聞いてないから何とも言えないけど、みんなわたしより年下だったと思う」
「つまり、今も十代の子ってこと?」
「そのはずよ。篠原さんから、わたしより年上の患者はいないって聞いたことがあるわ」
「もしかして、入院したらみんな梓に会ってるのかな」
「どうかしらね」梓は首を傾げた。「考えてみたらそうかも。明珠が来る前は、しばらく誰とも会わなかったから。ここ一年くらいは誰も入院してないみたいだし、それまで会った人数を考えると、そういうことになるのかもしれない」
「ふうん、そうか……」
対して、僕が会ったことがある患者は梓一人というわけだ。それは、篠原さんや新留さんから「会ってみないか」と言われたのが彼女しかいないからだけど、ほかの患者とも、話せるものなら話してみたいと思う。
「あ、でも」梓が顔を上げた。「一人だけ、絶対に会ってない子がいるわ」
「そうなの?」
「結構前に、『新しい子が入ったけど、話すにはちょっと難しいと思う』って篠原さんが言ってたの。そのあとに何人か会ったけど、それらしい子はいなかったから」
「へえ……。やっぱり、そういう症状なのかな」
「確かそうだったはずよ。あとは、そのときまだ小さかったっていうのもあるのかも。名前も聞いたんだけど、何だったかしら……」
梓の症状も、人と会うことをためらわせる性質を持っている。でも彼女の幻視であれば、今みたいにゴーグルをつけている限り、症状を気にする必要はない。もちろん、それだって限度があるけれど、今の僕や篠原さんたちなら、ゴーグルのことを忘れて会話することができる。
その子の症状は、そんな対処さえできないタイプのものなのだろうか。
だったら、僕が会おうと思っても無理だろう。梓が会えなかった原因が年齢だけにあったのならともかく、そうじゃなかったらしいし。
考えていると、視界の端で梓が唇を引き結んでいるのが見えた。というより、不満そうに尖らせている。
「……どうしたの?」また機嫌を損ねたかと、僕は少しびくつきながら訊いた。
「急にほかの患者のことを気にするようになったわね」
「そうかな」
「今まで、そんなこと一度も訊かなかったじゃない」
「まあそうだけど」梓がいきなり不機嫌になったのがどうしてかいまだに分からないので、慎重に答える。「単に、たまたま考えただけだよ。そういえば、ほかにどんな人がいるのかなって」
顔を横に向けつつ、「会ってみたいの?」
「機会があれば、まあ」
頷くと、梓は少しだけ無言になった。
「……飽きたの?」
「え? 何に?」
「それは……」梓は口ごもり、「いい。何でもない」
「そう?」
「そうよ。だから、わたしじゃなくてほかの患者に会いたければ、そっちに行ったら? 篠原さんとか紗織さんに言えば、会わせてくれるかもしれないわよ」
思わず反論しかけて、言葉を発する寸前に気づいた。気づけて良かった、と思う。
つまり、梓がさっき何を言おうとしたか分かったのだ。
飽きたかという質問の目的語は、たぶん『梓と会ったり話したりすること』だろう。梓は、僕が急にほかの患者について知りたがったので、自分に会いたくなくなったのではないかと考えたのだ。それが、「飽きたの?」という質問の動機であり、そのあとの台詞に棘を与えた原因だろう。
梓の気持ちが分かると、僕は自然に苦笑を浮かべた。気配を察知したのか、彼女がこちらを見る。顔は僕のほうを向いていないけど、横目で見ているのは確信としてあった。
「心配しなくても、また会いに来るよ」
「……別に、無理して来なくてもいいわよ」
明らかに強がっている口調だった。心配していることを否定しなかったのは、さて、意図してか気づかなかったのか。
「じゃあこう言っておこうか。次に来るときも――まあ明日でもいいんだけど、梓と会って話がしたい。いいかな」
梓はしばらく、首を左右に振り――たぶん僕をちらちら見ているんだろう――、考え込む素振りを見せた。やがて僕の顔を正面から見て、
「仕方ないわね。時間があるとき、来ていいわよ」
「ありがとう」
答えた僕の目には、弓形をした梓の唇が映っていたはずだ。
その夜。
僕は瞼《まぶた》を上げて、どうして目を開けたんだろう、と自分に問いかけた。記憶が正しければ、食堂でばったり会った新留さんと雑談しながら夕食をつつき、自分にあてがわれた部屋に入ってからは、夏休みの宿題を眺めたり読書したりしていたはずだ。十一時を過ぎたあたりでシャワーを浴び、すぐ横になったところまでは、はっきりと記憶している。
今もなお躰を横たえているということは、そのまま眠ったのだろう。では、どうして起きてしまったのか。頭の感覚から、眠りに落ちてそれほど時間が経っていないことが分かる。念のため、ベッドサイドの携帯電話を取り上げて確認してみたところ、その感覚が正しいことが分かった。現在時刻、午前二時四十二分。文句なしに真夜中だ。
僕は昔から、基本的に寝起きが良いほうだ。眠りについたら、夜中に起きることはあまりない。でも、そう頻繁にではないものの、たまにふと目が覚めてしまうことがある。物音を聞いたとか、生理的なアラートがあったとか、そういうわけでもないのに、だ。こういうのが一番困る。原因が分からないのでは、対処のしようがない。
経験上、こういうときは眠ろうにも眠れない。仕方ないので、僕は起きることにした。散歩でもして躰を疲れさせれば、付け入る隙を睡魔に与えることもできるだろう。
ベッドを抜け出して着替える。靴を履くと、夜中であることを考慮し、音を立てないよう気をつけながらドアを開けた。新留さんいわく、研究に没頭していたら時間なんて関係なくなるそうだけど、第八号棟《こ こ》にいる人全員がそうだとは限らない。
夜もなお明るい通路を進み、エレベータまで辿り着いた。誰か知らない人と遭遇したらどうしようと考えていたけど、心配は要らなかったようだ。
エレベータで地上に出る。搬入用通路を、第八号棟に行き来するときとは違うルートで進む。通るのは初めてだけど、時任病院(地上部分)の中庭に直接出られるということで、何かの折に新留さんから聞いていた。周りに人がいなければ第八号棟の外に出られる、という患者も何人かいて、彼らもたまにこの通路を利用するそうだ。夜中に中庭を散歩しようとする患者は地上にはいないし、いても病院の人が止めるだろう。だから拡大症患者は、夜なら安心して外に出ることができる。
僕に関してはこの通路を通らず外に出ても――つまり、周りに人がいても大丈夫ではある。でも、やっぱり人のいない開放的な場所のほうが好きだし、中庭がどういうものかという、単純な興味もあった。
あるいは、期待も。
ほかの患者がいるかもしれないという、期待。
もっとも、会ったことのない患者がいたらいたで、どうすれば良いか分からないのだけど。
(梓のときと違って、事前にそういう話があったわけでもないし)
あのときは、篠原さんから「会ってみてほしい」と言われたのだ。そういう経緯でもなければ、梓と――ほかの入院患者と話すことなんてなかっただろう。
いかにも作業用っぽい階段を上り、狭い廊下を歩く。初めての場所は、あまり好きじゃない。広くなければなおさらだ。何かの拍子に手が触れてしまい、症状が発現してしまったら困る。
僕の症状は、新留さんによって透過触覚と名付けられた。文字どおり、触覚拡大症だ。触れた物体の内部に、触覚だけが潜り込んでしまうという症状。入院せずに済むだけあって、僕は自分の症状をかなり強くコントロールできるし、いざ使ってしまったとしても、それほどストレスを感じることはない。とはいえ、それでも嫌なものは嫌だった。抑制できるからといって、平気でいられるとは限らない。
幸い、廊下は長くは続かず、すぐに無愛想なドアと対面することになった。学校の屋上みたいな感じだ。外に通じているという意味では、雰囲気が似ているのも頷ける。
ノブを握る。冷たい感触に、皮膚がぞわりとする。
ひねった。
隙間から、湿気を含んだ生温い空気が侵入してくる。午後はずっと空調の効いた地下にいたので、不快というよりどこか新鮮だった。
時任病院の中庭は、バスケットボールのコートより二回りほど広いくらいの面積だった。病院の規模に対して狭いのは、中庭が――というより建物がほかにもあって、それぞれにこのような場所が備わっているからだ。ここは総合受付がある第一号棟で、ほかに七号棟まで存在する。地下施設が第八号棟であるのはそのためだ、と新留さんから聞いた。
第一号棟の中庭は、ほぼ全面がコンクリートで覆われている。ところどころに、煉瓦《れんが》で囲まれた花壇や木々。ベンチも点在している。夜の暗さの中でも、昼間は散歩や日向ぼっこに良さそうだ、というのが分かった。空は晴れていて、月の白っぽい光が心を磨いているようだ。しばらくここにいれば、ぐっすり眠れそうな予感がする。
僕は建物の外に出て、ドアを静かに閉めた。心配要らないと思うけど、誰かに見つかると面倒なことになる。
夏だけあって夜でも気温は低くならないものの、じっと立っている分にはそれほど気にならなかった。たまにわずかな風が吹いて、どこかで熱を拾ってきた空気を肌に押し当ててくる。なかなか良い場所だ、というのが僕の感想だった。
不満を挙げるとすれば、四方がすべて壁になっているという閉塞感だろうか。見上げた空が四角に切り取られているから、というわけではなくて、廊下を通ったときもそうだったように、僕は狭くて閉じた場所が苦手なのだ。病的に駄目というほどではないにしろ、できればそういうところには行きたくない。
もっとも、この中庭は僕の嫌悪感をそこまで強烈にあおるものではなかった。これくらいの広さがあれば、充分耐えられる。
壁から離れて、中庭を少し歩いた。正方形のタイルを敷き詰めた地面は綺麗に掃除されている。タイル同士の境界線と、月明かりと建物の影のコントラストが幾何学的に交差していて、絵画的な雰囲気を醸し出していた。
そんな中では、花壇の植物たちは火星あたりに生息する未知の生物のように見えた。あるいは、魔女が栽培した薬草のように。現実を逸脱した、バーチャルな光景。
光と影、白と黒の間を、しばらく歩き回った。といっても、同じところをぐるぐる回っていたも同然だ。
だから、気づかなかった。
僕が出てきたドアから遠い位置、中庭の隅のベンチに、誰かが座っていることに。
(え……?)
そのベンチは、ここから十メートルほど離れている。月の高さと、建物や木の陰が上手い具合に交差して、そこだけスポットライトが当たっているようだった。舞台の上で、独り。これからモノローグを始めそうな、そんなたたずまい。
柄になく詩的な連想をしたのは、その人物の姿が浮世離れしているためだ。顔を覆う、ウェーブがかった長い黒髪。その間に見える白い服。モノトーンの小さな人影は、魂を吹き込まれるのを待っている人形のようだった。
けれど、人間には違いない。こんな時間にここにいるということは、入院しているのだろう。でも、普通の病院は患者に夜の出歩きを許すものだろうか。無断で病室を抜けたとしても、ナースセンタが気づかないなんてことは――
(あ、そうか)
ベンチに座る人物が入院患者だとして、時任病院(地上部分)の、とは限らない。第八号棟の――拡大症の患者である可能性もあるのだ。そっちのほうが、まだありえる話だった。僕も入院していないとはいえ第八号棟の患者だけど、この時間に部屋を出ているわけだし。
件《くだん》の患者は、うたた寝でもしているのか首を前に倒し、じっとしていた。上着から伸びる白い素足が、影の中でぼんやりと光っているように見える。その細さからして、女性のような気がした。あるいは幼い男の子か。わずかに覗く顔は作り物のようで、中性的だ。
(どうしよう)
話しかけてみようか、という考えが、頭をよぎる。でも、拡大症患者に対して不用意なアクションは危険だ。人間を相手にしたときだけ、症状が出てしまう拡大症もある。あの患者がそういう症状の持ち主なら、事前に知らされてもいない相手と接触するのはひどく抵抗があるだろう。
梓以外の拡大症患者と話してみたい、という欲求は残っているけれど、実行するのは新留さんあたりに話してからのほうが良さそうだ。幸い、髪が長いという特徴があるので、名前を特定するのは難しくないだろう。
僕はもう少しだけベンチのほうを見て、踵を返した。出てきたときと同じく、ドアを静かに開け閉めする。内鍵の存在に、そのとき初めて気づいた。最初から分かっていたら、中庭に先客がいることも予測できていたかもしれない。
僕はもちろん鍵をかけず、行きと同じルートで第八号棟に下りた。今度も、誰とも会わず部屋に辿り着いた。
着替えてベッドに潜り込む。
ほぼ黒い天井は、何も映さない。
夜に溶け込むように、僕の意識は拡散していった。
僕が次に第八号棟を訪れたのは、五日後のことだった。世間は夏休み一色で、近所のコンビニに行けば暇を持て余している学生の姿をいくらでも見ることができる。繁華街に出たときも、僕と同年代らしい人々のトピックといえば、どこそこに旅行するとか水着を新調するとか、その手のものが多い。
そんな中を、僕はなるべく地味な格好で家を出た。地下駐車場から搬入用通路を使う必要上、派手な服装では不審に思われるかもしれないのだ。もっとも、目立つ服なんてそもそも持っていないのだけど。
電車の中でも夏休み的雰囲気が全開の会話を耳にしながら、僕は今日の予定について考えを巡らせた。梓に会いに行くのはいつものとおりとして、前回の夜、中庭に出たときに見た人物について調べてみるつもりだ。たぶん拡大症患者で、髪の長い小さな人影。
あの夜のことは、まだ誰にも話していない。意図してそうなったわけではなくて、翌日は新留さんも篠原さんも忙しそうだったからだ。患者のことだから優先して訊くべきだったのかもしれないけど、まだ確信がない段階で二人の時間を奪うわけにはいかなかった。
今回は事前に行くことを伝えてあるから、少しくらいは話す時間もあるだろう。そのときに、あの髪の長い患者について尋ねてみようと決めていた。あの人物が第八号棟に入院しているのであれば、接点を作ることもできるはずだ。もちろん、本人が会っても良いと判断すればの話だけど。
電車が駅に到着する。時任病院までの短い距離を歩き、地下駐車場に下りた。搬入用通路への扉をパスワードで開き、潜水艦の中みたいな通路を進む。奥の壁で指紋認証を済ませ、期待を引き連れてエレベータの中に足を踏み入れた。
いつもの流れで『閉』ボタンに指を触れさせたところで、イレギュラが発生した。といっても、閉まりそうなドアに追いつこうと誰かが早足で近づいてくる気配を感じたというだけだ。
僕は指をスライドさせ、『開』ボタンでドアを開放する。誰かが駆け込んできたのはその瞬間だった。
女性だ。僕とほとんど同じくらいの身長で、髪は肩胛骨くらいまでの長さ。この暑さの中、スーツをきっちり着込んでいた。それがまるで鎧のように、近寄りがたさを付加している。女性に対する表現ではないと思うけど、まるで壁のような感じだ。それも、難攻不落の城壁といった。
とはいえ、体格はむしろスレンダだ。ただ、痩せているというわけではなくて筋肉が無駄なくついているといった感じ。たとえるなら、猫科の動物だろうか。エレベータに入ってきたときの動きも、しなやかで隙がなかった。
鍛えてあるらしいのは、結構な勢いで飛び込んできたはずなのに、息一つ切らしていないところからも窺える。誰なんだろう? このエレベータに乗っている以上、第八号棟の関係者ではあるのだろうけれど、医者とは思えないし。
ドアが閉まり、エレベータが下降を始めるまでの間に、僕はそんなことを考えていた。
このエレベータに誰かと乗るのは初めてではないけれど、その『誰か』が初対面であることは今までになかった。だから、緊張するというか気まずいというか、とにかく落ち着かない。相手に失礼だとは思うけれど、どうしようもなかった。密室《エレベータ》の中であるということも、原因としてあるかもしれない。
そわそわした気配を感じたのか、女性がわずかに振り向いた。横目でこちらを見ながら、
「何か?」落ち着いたアルトだった。
「いえ……」
「知らない相手と密室にいるのでは、落ち着かないのも無理はありません」今度は顔ごと僕のほうを向く。「まして、瀬畑明珠君、貴方なら」
「え……?」どうして僕の名前を?
ドアの上にあるパーセント表示――地下までの距離を示した数字――をちらりと見上げ、口の端をかすかに持ち上げて微笑んだ。
「このエレベータを使う子供というと、拡大症患者だけ――とはいえ、こんな時間に一人でというのは不自然です。でも、例外が存在する。第八号棟唯一の通院患者……つまり貴方です」
どうしてそれを、と訊くことさえできなかった。躰の奥で、緊張がみなぎるのが分かる。
思い出すのは、先月の爆弾テロ事件のこと。
外部にいながら、第八号棟と拡大症について断片的にでも突き止めた犯人。
(まさか、この人は……)
警戒が顔に出てしまったのだろう、彼女は少し慌てたように手を振った。
「誤解しないでください。貴方のことは、入戸野《にっとの》から聞いて知っていたのです。憶えていませんか? 県警の入戸野警部です。先月の爆弾テロ事件では、犯人逮捕に多大な貢献をしてくれたと」
「警察の人……ですか?」思わぬ言葉に、僕は呆然と呟いた。
彼女は内ポケットから警察手帳を取り出した。広げて中を見せる。「自己紹介が遅れてすみません。県警の櫃岡名雪《ひつおかなゆき》です。よろしく、瀬畑君」
警察手帳には、櫃岡さんの顔写真に並び、名前と階級――警視の二文字が記されていた。明らかに入戸野さんより若いのに、階級は櫃岡さんのほうが上だ。キャリア組というやつだろうか。
彼女は手帳を元のポケットに戻しながら、かぶりを振った。
「いえ、警察としてはよろしくするのは好ましくありませんでしたね。忘れてください」
「どういうことですか?」僕は首を傾げた。
「拡大症患者《あなたたち》と警察《わたしたち》が仲良くなるのは、立場上、あってはならないことでしょう。個人的にそうなるならともかく」
「はあ」
櫃岡さんがそう言うのは、第八号棟と警察との間で交わされた契約があるからだろう。その契約というのは、警察が独力で解決できそうにない事件が発生した場合、条件次第では拡大症患者を捜査に協力させることができる、というものだ。もっとも、その条件の中に『患者自身が承諾すること』も含まれているから、実質的に任意の協力になるのだけど。
こんな密約が存在しているあたりに、拡大症や第八号棟が政治的にどんな扱いを受けているかを見て取れる。つまり、症状について都合の良い一面しか見られていないのだ。そしてそれが犯罪捜査に有用であると判断されれば、警察に『貸し出す』ことも許可する。
拡大症の症状が、患者自身の心にどんなダメージを与えるかも考えずに。
確かに、拡大症の症状は一般に超能力と呼ばれるであろう効果を持っている。だけど、第八号棟の中で過ごす人々は――患者であれ医者であれ――それを『能力』とは絶対に表現しない。あくまで『症状』という言葉を使う。第八号棟を知る前の患者も、呪いとかそういう概念を当てはめていたはずだ。
僕は入院しなくても済むくらい、拡大症によるストレスが弱い人間だけど、それでも同じだ。誰かの、あるいは何かの助けになるのなら、という条件付きであれば使われることも受け入れようと思うけど、それ以外のケースで道具扱いされるのはごめんだ。
そういう意味では、刑事である櫃岡さんの言葉も頷ける。拡大症患者と警察は本来、接点すら持たないはずだからだ。
とはいえ。
「でも、今日は警察として第八号棟《し た》に行くわけじゃないですよね」
「どうしてそう思いますか?」櫃岡さんの目が、一瞬、鋭さを帯びた。
「そんなこと、今までなかったからです」目つきの変化には気づかないふりをする。「入戸野さんが来たときも、上の駐車場で合流でしたし」
「ああ、そういうことですか」
「何だと思ったんですか?」僕にはその反応こそ不思議だった。
「いえ、てっきり、わたしの用事を知っているのか、と思いまして」櫃岡さんは表情を和らげた。「失礼しました。職業柄、気になったことには必要以上に懐疑的になってしまうのです。悪い癖だとは思ってるのですが」
「やっぱり、普段からそういう心がけをしているんですか?」
「しようと思ってしているわけではなく、自然とそうなってしまうのですよ。職場に女が少ないから、気を張っているのかもしれません。それとも疑心暗鬼でしょうか」
「大変なんですね」僕は当たり障りのないことしか言えなかった。
「貴方たちに比べれば、たいしたことではありませんよ」
「え?」
「わたしには想像すらできませんが」ドアのほうに顔を向ける寸前、櫃岡さんの表情に苦しげな翳りが見えた。「感覚拡大症は、心に傷を残すのでしょう? それは、本人にしか分からない痛みだと思います。わたしが抱える仕事上の悩みくらいなら共感してくれる人もいるでしょうが、拡大症患者《あなたたち》の苦しみは、ほかの誰にも話せない。自分一人で背負うしかない」振り向く。「違いますか」
僕を見る櫃岡さんの顔に浮かんだのは、どうしようもない諦観だった。自分には何もできないと、自ら一線を引いた人の肩にのしかかる絶望の石。
どうして彼女がそんな顔をするのか、僕には分からなかった。
確かに、拡大症患者がその症状から受ける苦痛は本人以外に分かるものではないけれど、それはほかのどんな病でも同じはずだ。病気で苦しむ人に対して何もできない自分をもどかしく思うとかならともかく、苦しみを共有できないことにネガティブな感情を抱くというのは、何か違う気がする。
僕は少しだけ眉を顰《ひそ》めた。
「拡大症の患者同士なら、そうでもないですよ」
「……そうかもしれません」
言葉による、消極的な同意。でも、櫃岡さんの顔は決して肯定してはいない。
この話を続けても、雰囲気が悪くなるだけだ。僕は話題を戻すことにした。
「ところで、結局、櫃岡さんの用事って何なんですか? 警察として来たわけじゃないっていうことは、何か個人的な――」
言葉の途中で、かすかな加重を感じた。エレベータが第八号棟に到着したのだ。
開いたドアから、櫃岡さんが滑り出る。閉じ込められてしまわないよう、僕もあとを追って通路に出た。
櫃岡さんは、数メートル先で立ち止まっている。真っ白な通路に、真っ黒なスーツ。細くとも、力強い立ち姿。
彼女は肩越しに僕を見た。
「機会があれば、また会いましょう」唇にはかすかな笑み。「でも、刑事としてのわたしと会うことがないように祈っていてください」
それだけ言い残すと、櫃岡さんは律動的な歩調で通路を進んでいった。やがて角を曲がり、姿が見えなくなる。
背後で、ドアが静かに閉まった。
「ああ、それならたぶん美雨だね」新留さんは言った。煙草に火を点ける。
櫃岡さんと別れたあと、僕はいつものように新留さんの部屋に直行した。幸い、特に忙しくはなかったらしく、前回の夜のことについて訊くとすぐに答えてくれた。
新留さんが淹れてくれたコーヒーを受け取りつつ、僕は首を傾げた。
「ミウ?」
「そう。ビューティフル・レインで美雨。『真夜中に中庭で見かけた髪の長い入院患者』って情報からだと、あの子が一番近いと思う」
「有名なんですか?」訊いて、コーヒーを一口。
「ここに来たのが、まだ小さいころだったからね」新留さんは煙を吐き出した。「まだ十二歳だけど、入院歴はもう三年……今年で四年になるかな。瀬畑君より、ちょっと先輩だね」
「ということは、夜中にああいうことをするのも」
「そうだな……。第八号棟の患者の中では、出かけるのは多いほうかな」
「そういう人もいるんですね」
「みんながみんな、お姫様みたいに引きこもりじゃないよ」
新留さんは苦笑した。『お姫様』が聞いたら、顔を真っ赤にして怒りそうだ。
「それにしても」ふと思いついたことがあったので、僕は口を開いた。「わざわざ夜中に外出するっていうのは、拡大症の性質から分かるんですけど、誰かがついていなくていいんですか? 敷地内とはいえ夜だし、危ないんじゃ……」
「瀬畑君だって一人で出たじゃない」軽く睨まれた。
「あ……まずかった、ですか?」
「あのときはわたしも泊まりだったから、せめて一声かけてほしかったって思うだけ」新留さんは肩をすくめた。「それはそれとして、一人で外出するのは特に問題じゃないよ。少なくとも瀬畑君はね」
「そうですか」少しほっとした。
「美雨は、むしろ一人のほうがいい。下手に同行しようとすると、あの子がパニックになるから」
「一緒に行くのが医者でもですか?」僕は驚いた。
「わたしは打ち解けてるほうだと思うけど、それでも駄目だろうなあ。主治医もアレだし」
「アレ?」
「いや、こっちの話」
「一人のほうがいいっていうのは、やっぱり症状の問題ですか?」
「まあね」曖昧な言い方は、それ以上の追及を拒絶する響きを伴っていた。
「たとえば梓だったら、一人でもOKですか?」僕は質問を変えた。
「ゴーグルさえつけていればね。あとは――」新留さんが煙草を灰皿に押しつけ、にやりと笑う。「頼れるナイトがいれば完璧」
「いるといいですね、そういう人」
笑顔で応じると、新留さんは舌打ちした。……こういう話がとことん好きだな、この人。
第一、僕が頼れるナイトになれるわけがない。気持ちはともかく、物理的にそこまでの力がないのだ。もし、梓がまた外に出て、そのとき僕がそばにいたとしても、彼女を危険から守りきれるかどうか自信がない。
そういう意味では、梓の安全を考えると第八号棟の中にいてもらうほうが――
(いや、そんなことはない)
第八号棟の外は、もちろん完璧に安全というわけではないけれど、常に警戒心を持っていなければならないほど危険でもない。それは、普段の僕がよく知っている。
先月末に起きた爆弾テロ事件みたいなのは、本当に例外的なケースだ。いろいろな偶然と必然が重なって、ああいう経緯と結果になった。あんな状況を考えに入れなければ、「梓を危険にさらすかもしれないから第八号棟の外に出るのはやめよう」なんて意見はナンセンスだ。
夏休み中に、それとなく外に出るよう促してみよう。夜、時任病院の中庭に上がるくらいでも良い。一緒に行こうと誘えば、頭から拒否されることはさすがにない……と思いたい。
うん、と一人頷くのと、新留さんが半眼で手を振るのはほぼ同時だった。
「ほら、質問がほかにないならもう行きなー。じゃあねー」
「……いつになく冷たいですね、なんか」
「仲良さげなカップルを見るとムカつく時期なんだよ」
「男女一組《カップル》?」僕と新留さんのことか?
「揚げ足を取るな」
蹴り出されそうだったので、僕は慌てて部屋を飛び出した。前回のリベンジのつもりで買った、缶コーヒーも忘れずに。
「あ、そうか」
新留さんがいきなり不機嫌になった原因。心当たりを思い出した。篠原さんが、お見合いがどうのと話していたんだった。
(……まだ尾を引いてるのか)長すぎないか?
まあ、新留さんはああいう性格だから、次に来るころには以前の状態に戻っていることだろう。僕は楽観しつつ、入院患者用の区画に足を向けた。
第八号棟は、ワンフロアだけの病棟だ。つまり、第八号棟内部での上下の移動が存在しない。だから、全体としてかなり広い構造になっている。内部はいくつかの区画に分かれていて、僕が行ったことがあるのは、研究者区画、治療・検査区画、患者区画、共用区画くらい。立場が上の人たちが利用する会議室などがあるのは、また別のブロックらしい。そこには、通院が正式決定したときの一回を除いて足を踏み入れたことがない。
そんな広い中を移動する人に配慮したのか、ところどころに休憩用と思われるスペースが設けられている。通路の角にソファセットがあるくらいのものだけど、ごくたまに、白衣を着た人たちがそこで談笑しているのを見たことがある。梓の主治医である篠原さんとは、そういうところで遭遇する確率がなぜか高い。
今回は誰とも会わず、梓の部屋に到着した。ノック。返事を聞いてから、ドアを開けた。
部屋に入ると、梓にしては珍しく足を伸ばしてベッドに座っていた。毛布を腰までかけている。制服姿は変わらないので、保健室で休んでいる学生のように見えた。……ゴーグルがなければ、だけど。
読書中だったらしく、彼女はページに栞を挟んでチェストに置いた。こちらを向く。
「こんなに頻繁に会うなんて、初めてね」
「夏休み中だけだよ」僕は前回と同じく、椅子の近くにお土産を置いた。
「いつまで?」
「八月いっぱい。補習を取ってたら、休みも減るんだけど」
「補習?」梓が眉を顰めた気がした。
「えっと、もう少し勉強したい人のための授業って言えばいいのかな。三年生になると受験があるから、取る人が多いみたい。あとは、テストの点が悪かった人のためにも開かれて、それは強制参加らしい」
「明珠は参加しないの?」
「そこまで酷い点は取ってないよ」悪気はないはずだと判断して、真面目に答える。「それほど勉強熱心でもないし」
「じゃあ、八月の終わりまでずっと休み?」
「登校日があるけど、それ以外はね」言って、梓が質問してくるより先に口を開いた。「宿題の中間提出とか、休み中もだらけないようにって注意する目的だと思うんだけど、何日か学校に行かなきゃいけない日があるんだよ。面倒ではあるけど、行かないわけにはね」
「ふうん。変な仕組みね」
全くだ。
僕は頼まれていた缶コーヒーを取り出し、チェストの上に並べた。今回は念を入れて、いろいろな種類を買ってある。ただし無糖のアイスコーヒーだけは、前に梓から警告を出されていたので除外。
十本近く並べると、ただの缶コーヒーといえど壮観だった。梓は興味津々で、ベッドの上から身を乗り出す。
僕は自販機の広告やテレビのCMを思い出しつつ、端から順に指差していった。
「これは糖分控えめ。こっちは、前に買ってきたやつほどじゃないけどそこそこ甘い。この二本は朝専用ってフレーズで売り出したやつ。逆にこれは、仕事が終わってから飲むのにいいみたい」
「そんなに違いがあるの?」
「僕もよく分からないんだけどね」苦笑。「で、このへんは製法に拘りがあるんだって。最後のこれは、コーヒーっていうよりカフェオレかな。一応、買ってみたけど」
「ふーん。いっぱいあるのね。全部ちゃんと売れてるのかしら」
「どうだろう」さすがにそこまでは知らない。
「でも、長く売られているっていうことは、それだけ需要があるってことよね」うんうん、と梓はもっともらしく頷いた。缶に手を触れ、「あ、冷たいのね。これ全部そうなの?」
「うん。あ、ホットなら、無糖のもあったほうが良かった?」
「別にいいわ。ブラックなら食堂に頼めばいつでも飲めるし」
第八号棟の入院患者が食事をする場合、場所の選択肢はいくつかある。主に食堂、主治医の部屋、自室の三つで、列挙した順に選んだ人数が増えていく。梓も自分の部屋――つまりここで食べることにしていて、食事は毎回、運ばれてくるらしい。
時間は大体決まっているものの、ある程度なら早めたり遅らせたりもできる。また、飲み物のオーダなんかもできて、そういう連絡には内線を使うそうだ。梓は食後のコーヒーを注文することが多い、というのは篠原さんから聞いたことがある。
……考えてみれば、いつでも飲めるならどうしてコーヒーメーカを導入したんだろう。訊こうとした矢先、梓は微糖の一本を手に取った。前回の缶コーヒーがよほど酷く感じたらしい。コーヒーメーカの謎についてはまたにしよう、と疑問を保留にし、僕も適当にチョイスする。
苦戦しながらも自力でプルタブを開けた梓を見下ろしながら、僕は「そういえば」と言った。
「今日はケーキとか特にないけど、良かったよね? これだけ本数あるし」
「え?」まさに口をつけようとしていた梓は、(たぶん)呆然と見上げてきた。
「『え?』って」
「……ええ、いいわよ。缶コーヒーがあれば充分よ。デザートだったら食堂に注文すれば食事につけてくれるし、わざわざ明珠に頼む必要はないんだわ」
必死に言い聞かせる口調だった――もちろん自分に。気を遣ってくれているのかもしれないけど、梓がそういうことをすると、可哀想というか申し訳ないというか、そんな気分になってくる。満員電車の中で、座りたいけど我慢する子供を見ている感じだ。
いたたまれなくなって、僕は梓の様子を窺いつつ、
「あの……、買ってこようか? いつもと違う店で良ければ、すぐ用意できると思うし」
「買ってきてなんて言ってないじゃない」梓は少しふてくされた表情をした。「そうよ、わたしだって我儘じゃないんだから。我慢するくらい簡単よ」
「ならいいけど……」
「我慢する」と言っている時点でやっぱりケーキを欲しがっているようにしか受け取れないけど、そう言われたからには重ねて「買ってこようか」とは言えなかった。たとえ、コーヒーの飲み比べをしつつ、終始何か物足りなさそうな顔をされようとも。
次に来るときは、ちょっと豪華なケーキにしたほうが良いかもしれない。
梓の部屋を出たときには、既に午後六時を回っていた。少し空腹を感じる。ここ最近、梓の部屋に行くといつも何かしら甘いものを食べていたから、それがなかった今日は余計にお腹が空《す》いているように感じるのかもしれない。
第八号棟の食堂で出されるものは、基本的にすべて美味しい。病院の食事=病人食とか思っていたわけではないけど、そんなに良い味じゃないと思い込んでいた僕にとっては、嬉しい誤算だった。あれで栄養管理がなされているとすれば、シェフの力は偉大だ。レシピを教えてもらうことを、真剣に検討してみるのも良いだろうか。
そんなことを考えつつ、患者用区画を歩いていると、前方の曲がり角から人の声が聞こえてきた。二人、だろうか。律動的な歩調の陰に、控えめな足音が聞こえる。
第八号棟の通路で、人と遭遇するのは珍しい。患者はもちろん、職員とさえ、すれ違うことは滅多にないのに。
僕は壁際に寄った。体質上、不用意に何かに触ってしまいそうなところはなるべく歩きたくないのだけど、こういう場合は仕方ない。歩調を少し落としながら進む。
曲がり角に差しかかったところで、向こうから歩いてきた人物と出くわした。
「あ」
「……瀬畑君」
今日エレベータで遭遇したばかりの人物――櫃岡名雪さんだった。笑顔でこそないけれど、彼女が刑事であると分かっている人間にも余計なプレッシャを与えずに済みそうな表情だ。雰囲気が柔らかいというのだろうか。
でも一瞬、何かミスを犯してしまったような表情をしたように見えた。授業中に内職を始めようとした瞬間、先生から指名を受けたクラスメイトみたいな顔だ。すぐ無表情になったので、真偽のほどは確かめようがないけれど。
櫃岡さんは周囲に素早く視線を向けて、
「こんなところで何を? 通院しているのなら、あまり用はないと思うんですが」心なしか早口で言った。
「入院患者の一人と知り合いなんです。その子に会いに行ってたところで」僕は素直に答えた。
「患者と……?」櫃岡さんは束の間、眉間に皺を寄せ、「もしかして、あの巫部家の?」
「はい」
梓の名字である巫部というのは、世界的にも有名だ。工業系の大企業カンナギを創設した一族で、今もなお各方面に影響力を持っている。街を歩けば十秒以内にカンナギ製品に当たるといっても過言ではない、それくらいの会社を創った家系。
その巫部家で起きた十年前の事件は、いまだに語《かた》り種《ぐさ》らしい。ただ、世間で言われている本家での強盗殺人事件というのはでっち上げで、事件の真相は、本家の人々が互いに殺し合った[#「本家の人々が互いに殺し合った」に傍点]、というものだ。
梓は、その事件で生き残った巫部の一人だ。櫃岡さんが言ったのは、こちらの意味においてだろう。入戸野さんから僕のことを聞いているのなら、同じく先月の爆弾テロに関わった梓についても知っていておかしくない。
納得したように、櫃岡さんは何度か頷いた。
「なるほど。先月の事件では、彼女にも助けられたそうですね。お礼を言いたいところですが、難しいでしょうか」
「どうでしょう。事前に『行く』と伝えておけば会うとは思いますけど……」
会話を続けられるかどうか分からない。僕の場合、年齢が近く、同じ拡大症患者であるという共通点があったから接点を持てたようなものだ。櫃岡さんは大人だし、梓は警察のことをあまり良く思っていないみたいだから、もしかしたら会うことすら拒否するかもしれない。
櫃岡さんはため息混じりに口を開いた。
「無理に会おうとするわけにはいきませんね。次に会うとき、憶えていたら瀬畑君から伝えてもらえますか」
「分かりました」頷いたところで、僕はふと疑問に思った。「ところで、櫃岡さんこそどうして――」
ここに来たんですかと訊こうとしたとき、僕はようやく気づいた。櫃岡さんの背後、彼女の長身に隠れるように(実際隠れて)、もう一人いることに。
僕が気づいたことに気づいたのか、その人物は櫃岡さんの後ろにさっと隠れた。おかげで、顔が確認できない。
だけど、別の特徴なら目に焼きついていた。
そもそも僕が気づいたのは、その長い髪が揺れて見え隠れしたからだ。腰くらいまでの長さで、緩くウェーブしている。身長は、小柄な梓よりもさらに少し低いくらいだろうか。白い入院着が、シンプルなワンピースに見える。
緩くウェーブした長い髪。入院着。小さな体躯《たいく》。
それらの要素が、記憶の中にある時任病院・第一号棟の中庭で見た人影と直結する。
新留さんが教えてくれた、美雨という名前とも。
僕は長い髪が揺れていたあたりから視線を上げ、櫃岡さんの顔に据えた。彼女は少し苦い表情で、僕の横、染み一つない壁を見つめている。
櫃岡さんは髪をかき上げつつ、
「お見舞いに来たんですよ」ぽつりと言った。「妹の」
「妹さん、ですか」
「ええ。事情があって、わたしは身内が拡大症患者であることを知っています[#「身内が拡大症患者であることを知っています」に傍点]。だから、ここに来ることも特例で認められているのです」
第八号棟の原則として、患者の本当の病名は、家族にすら伏せることになっている。僕も、十年以上前に発症して以来、親にさえ話していないのだ。
もちろん、患者が入院しているのは時任病院だ、ということを知っている人は、それこそ家族の中にもいるのだろうけれど、病室が存在する第八号棟のことは何も知らない。そのため、誰かが患者に会いに来ることがあれば、地上にある第一から第七号棟のどこかに面会用の病室を用意するそうだ。
第八号棟、そして感覚拡大症の機密保持がどれほど厳密かは、この二ヶ月の間に知らされている。だから僕は、櫃岡さんがここにいるという事実がどれほど特殊なケースか、すぐに分かった。
(なるほど、それで……)
エレベータの中で、櫃岡さんがここに来た理由をなぜ言おうとしなかったのか、納得できた気がした。『特別である』ことは、プラスにもマイナスにも捉えることができる。芸能界に入って有名になりたいと願う人がいる一方で、そんな気軽に街を歩けなくなりそうな立場に身を置くのはまっぴらだと考える人がいるように。
櫃岡さんにとって、第八号棟に来ることを特別に認められるというのは、必ずしも歓迎したいことじゃないんだろう。まして刑事の身だ。つまり、場合によっては患者に捜査協力を求めなければいけない立場でここに来るのは、一種のジレンマになる。
とはいえ、拡大症のことを知っている以上、妹さんを見舞うためには第八号棟に来るしかない。もちろん、ほかの患者と同じように地上の病室を用意してもらうこともできるのだろうけれど、それはそれで自分の我儘のように感じてしまうに違いない。真面目そうだし。
エレベータの中から抱いていた、櫃岡さんに対するかすかな不信感が消えていく。櫃岡さんの中で何らかの葛藤があるにせよ、患者側からすればお見舞いに来てくれるだけでも充分だろう。ここでは、面会者がそう頻繁に来ないのが普通らしいし。
そう思って、僕は少し身をかがめた。櫃岡さんとの会話中、またこっちをちらちら見ていた美雨と目を合わせようとして。櫃岡さんの視線が、僕の動きに合わせて下がるのを感じた。
彼女は再び隠れてしまったけれど、梓の傍若無人っぷりに慣れた今となっては、それくらいは気にしなかった。
「お姉さんと会えて嬉しい?」
微笑みかける。姉の上着をぎゅっと握った彼女の指から、力が抜けた――ように見えた。
瞬間、僕は肩を押されてたたらを踏んだ。後ろが壁だったので、倒れることこそなかったものの背中を強く打ってしまう。
息が詰まって、少しくらくらした。
意識が回復するまで、何が起きたか考える余裕もなかった。でも、目の前に立つ人物の目を見たら、考えるまでもなく分かった。
僕を非難するような、厳しい眼差し。
ほのかに殺意さえ感じ取れるような。
櫃岡さんに、突き飛ばされたのだ。
「すみませんが」抑制していることを隠しきれない口調だった。「妹に話しかけるのはやめてくれませんか」
「え……?」
「軽率ではありませんか? 第八号棟《こ こ》では、誰もが貴方のような強さを持ってるわけではありません。考えなしに接触しようとするのは良くないことでしょう」
舌鋒《ぜっぽう》鋭く告げる櫃岡さんに、僕は何も言えなかった。反論しようとか、そんな意思さえも浮かばない。
思考を占めるのは、櫃岡さんの一言だけ。
――誰もが君のような強さを持ってるわけじゃない。
僕が、強い。
物理的な強さを言っているんじゃないことは分かる。つまり、症状への耐性とか、そういうことについての言葉なのだろう。僕が彼女の前で症状を使ったことはないけれど、通院しているという事実や自分の妹との比較から、櫃岡さんが類推できてもおかしくはない。
でも、それが正しいかどうかは別だ。確かに僕は、たとえば梓より――おそらくは美雨よりも――症状に対して耐性がある。ただ、それは比較的[#「比較的」に傍点]耐えられるレベルだというだけであって、全くないわけじゃない。僕も、拡大症患者には違いないのだ。
だから、櫃岡さんの言葉は、僕にとって決して受け入れられるものじゃなかった。
とはいえ、軽い気持ちで話しかけようとした結果、事実として美雨が怯えているらしいのは確かだ。それについては、彼女の言葉を受け止めるしかない。
黙り込む僕を睨みながら、櫃岡さんはしゃがみ込んだ。僕に背を向けて、美雨を抱き締める。耳元で何か囁いているようだけど、聞こえはしない。
やがて、櫃岡さんが美雨の手を引いて歩み去っていく。僕は、二人の背中を見送るしかなかった。
と――櫃岡さんが肩越しに振り向いた。その目に、もう怒りはない。
あるのはただ、罪悪感と悲哀、そしてなぜか、救いを求める色だった。
第二話 「怒りは辛く」
鼻腔の奥がつんとする。
痛みにも似た香りで。
「……ってことがあったんだけど」
「ふうん」
僕の話に、梓はその一言だけで応えた。彼女にしては素っ気ない反応だ。壁のほうを見ながら、部屋で淹れたコーヒーを飲んでいる。僕は立ったまま、その姿を見下ろしていた。
八月に入ったばかりだった。あの日以来、第八号棟に来るのは一週間ぶりになる。夏休みに入ったのにそれだけ間が空いたのは、法事で父方の実家に帰っていたからだ。長居するつもりはなかったのだけど、兄弟姉妹の多い父親が引き留められまくったので延び延びになってしまった。
もっともそれは毎度のことなので、ある程度の覚悟はしていた。それに、宿題を半分近く片付けられたので、悪いことばかりでもない。従妹に邪魔されなければ、もっと進められていたと思う。
実家にいる間、僕は梓や美雨のことを、つまり第八号棟のことを考えないようにしていた。離れたところで考えても仕方なかったし、変に思案顔をしていると従妹の追及がうるさいのだ。彼女は自分が納得するまで引かない性格をしている。勢いに負けて国家機密を暴露してしまっては、責任の取りようがない。
そういう事情もあってか、久しぶりに(といっても夏休み前だったら普通のスパンなのだけど)第八号棟に来て梓と会ったとき、僕は美雨との遭遇について一方的に語った。今まで梓に何か話したときは、専ら彼女に何か訊かれてからのほうが多かった。だから今回、自分からいろいろ語ったのは、僕たちの間では珍しかったかもしれない。前回、美雨と会った日の翌日は梓の検査日で会えなかった、というのも理由の一つだろう。
それだけに、梓の反応が気になった。いや、それともこのほうが梓らしいのだろうか。興味のないことにも聞く姿勢を取るというような対応はしなさそうだし。
「梓はどう思う? やっぱり、僕が無神経だったのかな」
それでも何らかの感想を聞きたくて、僕は尋ねてみた。これで「さあ」とか言われたら、話題を変えるしかないと思いながら。
果たして、梓はゴーグルをこちらに向けた。コーヒーカップをチェストに置き、
「その子、何て名前だった?」
「櫃岡美雨、だと思う」断定を避けたのは、本人が名乗ったり櫃岡さん(姉のほう)から紹介されたりしていないからだ。
「ああ、やっぱり」梓は納得したように何度か頷いた。
「やっぱりって?」
「ちょっと前に、わたしも会ったことがない患者がいるって話をしたの、憶えてる?」
「えっと……」僕は記憶をさらい、「ああ、『話すのが難しい』って言われたっていう?」
「そう。思い出したんだけど、その子が美雨のはずよ。確かそんな名前だった」
「そっか……」僕はうつむいた。「軽率だったなあ。梓以外の患者に会ったことがなくて、梓とは普通に話せてるから、ここがどういう場所か失念してたのかな」
第八号棟に来たばかりのころなら、あんなミスは犯さなかったと思う。最近は、通院というのは建前で遊びに来ているも同然だったから、ここがどこで自分が誰か、意識しなくなっていたのかもしれない。
ここは時任病院・第八号棟。僕たちのような感覚拡大症患者の、今のところ唯一の居場所。
後悔の念に駆られていると、梓は少し首を傾げた。
「意外だったわ」
「何が?」
「明珠が自分から話しかけたこと」
「そうかな」自分ではよく分からない。
「わたしのときは、篠原さんに言われなかったらここに来なかったでしょう? でも、その子のことはこの間から気にしていたし、声をかけたのも明珠からだし」
「梓にも、最初こっちから挨拶したと思うけど」
不意の遭遇で「こんにちは」とかそんなことしか言えなかったとはいえ、声をかけたことには違いない。
そのことを指摘すると、梓は口を尖らせた。
「あれは……、その、別よ」
「なんで」反射的に言った。
「なんででも」
意固地になった子供みたいな言い方だった。どうしたものか。ヘソを曲げているのは確からしいけれど。
「で、なんでなの?」梓はいきなり疑問を投げてきた。
「え?」
「だから、櫃岡美雨、だっけ、その子に話しかけた理由」梓は顔の向きを、つまりは目線を僕から外し、わずかな沈黙を挟んでから、「そんなに仲良くなりたかったの?」
「は?」何をいきなり。
いや、初対面の相手に話しかけることが少ない僕が、珍しく自分から会話しようとしたことから、梓がそう考えるのは納得できる。でも、彼女の今の言い方は、なんだかそれが一番訊きたいことのような響きがあった。名前を尋ねてきたのも、そのためのクッションだったような。
気がつくと、梓がまたこちらを見ていた。睨まれているように感じるのは、彼女の態度からか、自分の心境からか。心境――やましさ? 何を後ろめたく思っているんだろう、僕は。
困惑する余裕すら与えてくれない気配を察して、僕は口を開いた。
「そりゃまあ、仲良くなれるに越したことはないと思うけど」
「そう」
短い返答が逆に怖い。ピリピリした空気を感じる。
僕は誇張なく必死に思考し、記憶を探り、梓の態度を読み、答えを探そうとした。彼女が爆発したら手がつけられない。そんな予感がある。梓は子供っぽいけれど感情をいつもストレートに出すとは限らないから、リミットを超えたときのことなんて想像したくなかった。
別に梓が何かしたわけではないけれど、カウントダウンが始まっている気がして焦る。そして数字がゼロになるまで、それほど長くかからないだろうという予感があった。
なんでこんなに危機感を覚えるんだろうという、根源的ではあるものの余計な疑念を無視して考える。と、以前に美雨――そのときは美雨という名前すら知らなかったけど――のことが話題になったときの会話を思い出した。
同時に、梓がなぜあんなことを言い出したか分かった気がした。
肩の力を抜く。かすかな憐憫《れんびん》とともに、「仕方ないな」という感情が湧き起こった。具体的には、苦笑という表情でそれは表現された。
「……何が可笑しいのよ」梓は低い声で言った。
「あのさ、梓」僕はゆっくりと言った。「仲良くなる相手は一人じゃなきゃいけない、なんてことはないよ」
「え?」
「たとえば梓って、新留さんとも篠原さんとも仲いいでしょ?」
実際に梓と新留さんが話している姿を見たことはほとんどないけど、僕がいないときはそこそこ喋っているらしい。直接会うことはなくとも、メールは結構な頻度でしているそうだ。主治医は篠原さんとはいえ、同性で話したいこともあるんだろう。
その言葉で僕が何を言いたいか悟ったらしく、梓はまた唇を突き出した。
「それとこれとは話が別よ」
「どうして?」すぐに尋ねた。
「だって……」口ごもり、「明珠は、その、紗織さんとかとは違うじゃない」
「そうかな。どこが?」
「……そこまで言わなきゃ駄目?」
上目遣い見ているんだろうな、と思う。僕は少しだけ、首を横に傾けた。
「じゃあ梓は、話し相手になってくれる人が増えなくてもいいと思ってる? 僕を入れてくれるにしても、三人くらいだよね。それで満足?」
「…………、満足してるわ」
「ならもう一つ訊こうかな。僕と会う前と会って話すようになったあとで、新留さんたちと話すときに心境の変化とかあった?」
「言いたいことは分かるわよ」梓はちょっと怒った口調で言った。「でも……」すぐに勢いを失う。「わたしには、明珠しかいないんだもの」
「………………………………、は?」
イキナリナニヲイッテルンデスカ。
えっと……(思考停止)。
この部屋、壁も天井も白いなあ。
「あ……、違う!」叫ぶ梓。「そういう意味じゃなくて!」
そこで「どういう意味じゃなくて?」と訊けるほど、僕の思考回路は再起動が速くないようだ。
「だから、その、同年代で話す相手がってことよ。勘違いしないでよね!」
何をどう勘違いしたと思ったのだろう。いや、さすがにそれは想像がつくけど。
僕がようやく現実に復帰したときには、梓は頬を真っ赤に染めていた。たぶん、ゴーグルの下の両目は激しく揺れ動いていることだろう。少なくとも、僕のほうを向いていないことは確かだ。というか僕のほうも、こうして冷静に分析できているのは心のどこかが麻痺しているからであって、そうでなければ梓の顔をまともに見られなかっただろう。
気が抜けた。何だかどっと疲れた気分だ。僕はゆるゆると移動し、のったりと椅子に腰掛けた。かなりだらしない座り方だけど、今は姿勢を正そうという気力もない。
場を持たせようとコーヒーカップの持ち手をつまみ、中身が冷めていることを悟って手を離した。行き場を失った指先で、こめかみをカリカリと引っ掻く。
何か言うべきだろうか。でも、今は梓の動揺――原因はもはや思い出すべきじゃない――も沈静化していないだろうから、落ち着くまで待ったほうが良いような気がする。彼女のほうから会話を始められるくらいに回復するまでは。
それにしても。
(いきなりあんなこと言うなんてなあ……)
僕は思ったことがそのまま口に出やすいタイプで、言葉にしてからその意図を考え直す、ということが少なくない。それで慌てて弁明したことも数知れず、言葉を放つ道具が拳銃じゃなくマシンガンであるような相手だった場合、あとで釈明する機会を奪われたことも一度や二度じゃない。
その点、梓と僕は似ているかもしれない。違うのは、彼女の台詞の発生源が感情のほうにより傾いている、という点だ。考えなしに喋っている、というわけではないけれど、特に興奮してきたら思いつくまま言葉を並べようとする傾向がある。
だから、さっきの言葉は梓の本心ではあるんだろう。思わず言ってしまった、という感じだったし。
まあ、それはそれで嬉しいのだけど、同時に少し悲しくもある。
同年代で話す相手が僕しかいない――それは、客観的な事実でもあるのだから。
「明珠?」ややあって、梓が小さく言った。
「――ああ、うん、何?」
「ホントにそれ以外の意味はないからね?」
「……うん」
一拍、返事が遅れたことには、気づかれなかったと思う。
そのことに気を配っていたせいで、僕はそのときの梓がどんな表情をしたか見なかった。
翌日。
僕は朝食のあと、新留さんから検査結果の報告を受けた。五月から六月にかけて、一ヶ月に亘って受けた検査の結果も、これですべて揃ったことになるらしい。身体検査の結果はもちろん、心理テストのほうも平均の範囲内――つまり、このデータだけでは僕が拡大症患者であることは全く分からない、ということだ。
そうでなければ、通院を続けられない。入院を求められるようなデータが出てくると思ってはいなかったけれど、少しだけほっとした。
報告を受けるとき、新留さんが「一応、定期的にこういう検査はしないといけないから、週一回くらいのペースで来るように」と言ったのは、半ば以上、医者としての義務があるから、という感じだった。それはそれで、医者としての彼女を信用する根拠にもなるので、僕は黙って頷いた。
まあ、ついでのように「こんなこと言わなくても瀬畑君なら毎日のように来るんだろうけどふふふ」とか言っていたのは受け流したけど。
そういったやり取りのあと、僕はふと美雨のことについて訊いてみようと思った。医者である新留さんなら、また美雨と会うことになったとき、どうするべきか(あるいはどうしないほうが良いか)示唆してくれるかもしれない。
「あの……」僕は淹れてもらったコーヒーを一口飲んでから、口を開いた。「美雨って子のこと、訊いてもいいですか?」
「美雨? なんでまた」新留さんは首を傾げた。
「実は先週、直接会ったんですよ。梓と会った帰りに。翌日はすぐ帰ったから、話す機会がありませんでしたけど」
「美雨に会った?」今度は眉を顰めた。「また中庭で見たとかじゃなくて?」
「梓の部屋から帰る途中の通路で会いました。お姉さんと一緒でしたけど」
「……ああ、そういうことか」
合点がいったように、新留さんは何度か頷いた。煙草をくわえ、火を点ける。
紫煙を吐き出し、そのまま天井を仰いだ姿勢で、
「気になるの?」
「え?」
なんかデジャビュを――この言葉が視覚だけじゃなく聴覚にも適用できるなら、だけど――感じた。昨日、梓も似たようなことを言ってなかったっけ。
「気になるっていうか、あんな反応されて心配になったっていうか。まあ、気になるといえば気になるんですけど」
「あんな反応って、何したの」新留さんはなぜか半眼で訊いてきた。
なぜか不穏な空気を感じて、僕は先週の一件について早口で語った。僕にとって、何か致命的な誤解をされている気がする。
話しかけたら怯えられた、という部分で、新留さんは呆れたようにため息をついた。
「迂闊なことするなあ、君も」
「う……。やっぱりまずかったですか?」
「少なくとも、ここに来たばかりの美雨にそんなことしたら、怯えられるくらいじゃ済まなかっただろうね。美雨が入院してからだいぶ経ってるっていうのと、名雪さんがいたから、その程度で終わったんだよ」
「じゃあ、一人のときだともっと危ないってことですか?」
「アプローチのやり方次第だけどね。あの子は、梓と違った意味で、人と話すのが苦手なんだな」
「それはやっぱり……症状が原因で?」僕は少しためらいつつ訊いた。
「もちろん」新留さんはまた煙を吐いた。「どんな症状かは言えないけど、ただ、美雨の場合、梓みたいに見なければ大丈夫ってものでもない。あの子が症状を気にせず人と話せる状況があるとしたら、お互い別の部屋にいてマイクとスピーカで声を飛ばすとか、ウェブカメラで写すとか、そういう手段を使うしかないな」
そんな制約を課されている女の子に、考えなく話しかけてしまったのか。今さらながら、自分がしたことの愚かさに頭を抱えたくなった。
そうと知っていれば……。いや、知っていたとしても、あの場を黙ってやり過ごしていたかどうか分からない。そのとき僕は唐突に気づいたのだ。自分がなぜ、美雨をこれほど気にかけるのか。
僕はたぶん、美雨を梓と重ね合わせているのだと思う。あのときの美雨の姿は、かつての梓なのだ。自分の症状に怯え、それを恐れ、ついには誰とも関わらないことを選んだ梓。新留さんや篠原さんがいるとはいえ、それ以外の人とは話そうとすらしない、第八号棟に隠れた幻視の少女。
梓と話せている僕なら、美雨の怯えも取り除けるかもしれない、などと自惚れてはいない。そもそも、僕は自分が梓を解き放ったとも考えていないのだ。梓が以前より多少なりとも積極的になったのは、あくまで彼女の決意と決断によるもの。僕がそれに関わったとすれば、いくらかの言葉を交わし、ほんの少し背中を押したくらいだろう。
だけど――だからこそ、美雨にも同じことができるとしたら。
いや、背中を押す必要はない。手を引いて、一歩踏み出す手伝いをするだけでも良い。それで、彼女の世界が少しでも変わるのなら。
願わくば、その結果、梓とも関わってくれるとしたら。
それとも、これは干渉、侵略になるのだろうか。美雨が新しい世界を知りたがっているとは限らないのだ。自分のエゴでそこまでして良いものかどうか、今の僕には分からなかった。
「相変わらず、一人で悩むんだな、瀬畑君は」いつの間にか煙草を吸い終わっていた新留さんが、新しい一本をくわえながら苦笑した。「知らなかったんだから仕方ない……とは言わないけど、次に同じことをしなければいいよ。今回だって、無理に会話させようとしたわけじゃないみたいだしね」
それに、と言いながら、新留さんはライタを着火した。煙草の先端に近づけ、
「悪いことばかりでもない、と思うんだよ、わたしは」
「どういうことですか?」
「梓のときと同じ」煙草に点火。「情緒的な面から見ても、あの子に話し相手ができるのはいいことだよ。まだ小さいんだから」
「でも、話しかけたらまずいって……」
「さっき、『ここに来たばかりの美雨に』って言ったでしょ? 今は、あの子も普段は安定してるからね。成長したし、拡大症に対する理解もずっとできてる」新留さんは、珍しく優しげに微笑んだ。「瀬畑君は、自分が話しかけたら美雨が怯えたって言ったけど、それは初対面だったからって理由もあると思うよ。ちゃんと自己紹介して、ゆっくりコミュニケーションを図れば、あの子だってそうすぐにパニックになったりはしない」
「そう……なんですか?」
「わたしがそうだったからね」新留さんは肩をすくめた。
「え?」
「ここに来た当初、美雨がまともに話せる相手っていったら、名雪さんしかいなかったんだよ。わたしは名雪さんにも協力してもらって、少しずつ美雨と話せるようになったわけ」
「協力か……」
あのときのことを思い出し、僕は重い声で呟いた。美雨に話しかけたとき、櫃岡さんは僕に対して明らかに怒っていた。この期に及んで、「美雨と話せるようになりたいから協力してください」なんて言って頷いてくれるとは思えない。
トーンの変化を感じたのか、新留さんが眉を顰めた。
「何? 名雪さんとも悶着起こしたの?」またしても疑うような口ぶりだった。
「悶着って……。いえ、まあ、印象を悪くさせただろうな、とは思いますけど」
「あ、そうか。美雨に話しかけたとき、彼女がいたって言ってたっけ」なるほどね、と言い、新留さんはコーヒーカップを傾けた。「そのとき、こっぴどく怒られたわけだ」
「こっぴどくはなかったですけど」
「厳しくはあった?」
すぐに言われ、僕は頷いた。
新留さんは、意地悪そうに笑った。
「そりゃ堪えるだろうね。相手に威圧感を与えるって意味じゃ、日ごろから仕事で訓練されてるようなものだし」
「何も言い返せませんでしたよ」僕は肩を落とした。
「じゃあ、おとなしく言うこと聞いて、美雨のことは忘れる?」
どこか挑発的な言い方に、僕は――
「いえ」少しの間を挟んで、首を横に振った。「余計なお世話って言われるかもしれませんけど、それならそれで、もう少し『余計なお世話』をしてみようと思います」
新留さんは一瞬、満足そうな笑みを浮かべ、
「一応、彼女たちには瀬畑君のことを説明しておくよ」すぐ真面目な顔で言った。「患者が悪い印象を持たれたままでいるっていうのは、主治医のわたしとしても不本意だしね」
「はい、お願いします」
「『巫部梓との関係性に配慮し、そちらからの積極的なアプローチだけは控えてください』って言っておこうか?」
「言わなくていいです」即答した。
たとえば急いで出かけようとする寸前に電話が鳴ったり、難しい問題の解決法がもう少しで見つかりそうというところで食事の準備ができたと呼ばれたり、観ているテレビドラマがクライマックスに入った瞬間に来客があったりと、世の中には圧倒的なタイミングの悪さというものが存在する。
この状況も、その一つに数えられるだろう。
今、僕は時任病院の地下駐車場で、ある人物を前にしていた。
肩下まで伸びた髪。刃のような双眸。野生動物のような強靱かつしなやかな体躯。装飾を廃したシンプルなスーツが、機能美のようなものを際立たせている。
県警のキャリア、櫃岡名雪警視。
感覚拡大症患者である、櫃岡美雨の姉――
僕に向けられた彼女の目は、敵意というほどではないにせよ、拒絶的な光を宿していた。
(よりによってこんなときじゃなくても)僕は内心、ため息をついた。
確かに、先日の一件のことも含めて話をしたい、いやするべきだと思ってはいた。美雨にも謝らないといけないし、誤解されたままでいるのは気分の良いものじゃない。
だけど、すぐである必要はなかった。まあ、あれから約一週間だし、謝るにはむしろ間が空きすぎかもしれない。でも、櫃岡さん――名雪さんと話すには早すぎる。新留さんがフォローしてくれると言ったばかりなのだ。おまけに、こんな偶然の遭遇から対話を始めろと言われても、心の準備ができていないので上手く言葉を発することはできそうにない。
僕が迷っている間も、彼女は姿勢を変えずこちらを見据えていた。横には、警察のものと思われる濃紺のクルマがある。エンジンは動いていない。今はお互い向かい合っているけれど、最初に見たときはドアを開けようとしていたから、来たばかりではなく美雨に会ったあとなのだろう。周りに人もおらず、静かだ。地下駐車場の出入り口があるほうから、地上の喧噪がかすかに届いてくる。
非常に気まずい。何か言わなければと思いはするものの、具体的な言葉がまるで思い浮かばない。直球でこの間のことを切り出すか、世間話から始めるか、小粋なジョークでも言ってみようか、いや最後のは間違いなく地雷だろうと思考がどんどん分裂していく。泥沼だ。
搬入用通路を出てすぐのところで櫃岡さんに出くわした形である。当然、僕はその場を一歩も動いていない。さすがに訝《いぶか》しく思ったのか、櫃岡さんが眉根を寄せた。
「……帰るのではないのですか?」
「あ、えっと……」
「話がないなら帰れ」というより、「わたしは話すつもりはないから帰れ」というように聞こえた。これで会話を試みようとするのは、あるいは無謀な行いだろうか。
(でも……)
もし完璧に拒絶するつもりなら、そもそも話しかけてこないと思う。そのままクルマに乗り、走り去れば良いだけの話だ。櫃岡さんが僕に対して張った壁は、分厚いけど高くはないのかもしれない。
賭ける価値は――あるはずだ。
深呼吸を一つ。それで、腹を据えた。
その瞬間、櫃岡さんが懐に手を入れた。携帯電話を取り出し、僕を見ながら耳に当てる。出鼻をくじかれた感じだ。
「もしもし? はい、大丈夫です。……え?」視線がそれた。「……はい。はい、分かりました。いえ、現場で担当者から聞きます。ええ、では概要だけメールで。……はい、了解しました。では」
通話を切った櫃岡さんは、携帯電話を畳むとポケットに戻した。僕を一瞥し、でもすぐに身を翻してクルマに乗り込もうとする。
自分でも、半ば意識しなかった。
「待ってください」
ドアに手をかけた状態で、櫃岡さんが止まった。
僕は一歩踏み出し、「事件、ですか」
櫃岡さんは顔だけこちらに向けた。
「それを聞いてどうするんです」
どうするんだろう。またやってしまった、と思う。いい加減、考えなしに発言してしまう癖はどうにかならないものか。
僕は慎重に言葉を選んだ。
「出過ぎた言い分かもしれませんけど……、何かまた、僕にできることはありませんか?」
「貴方にできること?」櫃岡さんの目つきが変わった。「貴方は、わたしが拡大症患者に協力を頼むと思っているのですか? 身内に患者がいるわたしが?」
「櫃岡さんが頼まなくても、協力を要請されることだってあります」
「そんなことはわたしがさせません」
櫃岡さんはきっぱりと言った。惚れ惚れするような、毅然とした態度。そんな言い方をされると、自分がどうしてあんなことを言ったのか、と猛烈に反省したくなる。
それを促すかのように、彼女の唇が「貴方は」と言葉を発した。
「どうして、そこまで警察と関わろうとするんです?」彼女は身を起こすと、クルマに体重を預けて腕組みした。「いいように使われて、とか、警察の不甲斐なさに呆れるとか、そういうことはないんですか?」
「えっと……、ないわけじゃないですけど」本音だった。
「では尚更、警察のことなんて無視すればいいではないですか。協力を要請されても、断ることはできるんです。まして、事件が起きたからといって首を突っ込もうなどと考えることはない。これは、わたしたちの仕事なのですから」
言葉を受け止める傍ら、僕は意外に思っていた。例の一件があったから、てっきり「関係ありません」とか言われるだけだと思っていたのだ。それが、なぜか説得されている。それも、頭ごなしに言い聞かせるわけではなく、僕自身に判断してほしいという態度で。
怒られなくて良かったと安心する反面、どこか引っかかりを感じた。何だろう、何が気になっているんだろう? 櫃岡さんが言っているのは、至極真っ当な内容のはず……。
会話の途中なのに、思わず考え込んでしまう。その態度を見てか、櫃岡さんは少しだけ表情を和らげた。
「警察に協力することは、市民の義務だと言われることもあります。でも、すべての市民が警察に全力で協力しなければならない、ということはありません。できない人だっています。貴方たちのようにね」
「僕たちのように?」無意識に繰り返す。
彼女は頷き、「拡大症は、確かに特殊な病気です。警察の上層部には今でも、拡大症を超能力だと信じている者がいます」そう言った瞬間だけ、櫃岡さんは昏《くら》い目つきになった。「でも、拡大症はあくまで病気ですし、患者は患者です。超能力のように思える症状があるからといって、捜査に引っ張り出していいということにはなりません」
もっともな話だ。反論のしようもない――いや、そもそも反論する必要のない論理。
だけど、引っかかりは強くなった。もどかしい。喉に残った小骨なら、ご飯を丸呑みすれば取れる。だけど僕が感じているのは魚や鳥の骨じゃないし、何を飲み込んでも無駄だ。
「拡大症患者は、治療に専念するべきなのです。悪化する可能性もあるのに、わざわざ誰かのために症状を使う必要はない。そうは思いませんか」
気づいた。
櫃岡さんの言葉を、素直に受け入れられない理由。それが何か、分かった。
僕は櫃岡さんの目を、正面から見返した。ん、と彼女が眉根を寄せる。こちらの態度が変わったのを、鋭敏に察したのだろう。さすが刑事、と頭の片隅で感心する。
今度は、言うべき言葉を最初から決めていた。僕は呼吸を意図的に長く深くし、口を開く。
「櫃岡さんは」軽く咳払い。「拡大症患者は、他人を助けてはいけないって、思ってるんですか」
「どういうことです?」彼女は表情を変えない。
「確かに僕たちは、病人として扱われています。自分でも分かっていますし、そのことに不満はありません。でも……」
「でも?」
「誰かを助けたいという思いを、いつも押し殺さなければいけないんですか」
櫃岡さんが目を見開く。
「困っている人を助けたいって思っても、僕たちは、それを叶えてはいけないんですか?」
「……そのために症状を使って自分を追い込むのは、自己犠牲でしょう?」
「そうかもしれません」というか、たぶんそうなんだろう。でも――「でも、たとえば被害者の命が危なくて、拡大症患者《ぼくたち》なら助けられるというときでも、何もしてはいけないんですか? 治ることだけ考えていればいいんでしょうか?」
僕はむしろ、すがるように言った。
「僕たちは、人を助けたいという願いさえも、持つことができないんですか?」
そう。ここが、櫃岡さんの言葉に引っかかりを感じた部分だ。
彼女の言うことも、間違ってはいない。それどころか、警察という立場でありながら、拡大症患者のことをよく気遣ってくれていると思う。もしかすると、第八号棟のトップにいる人よりも。
その一方で、「患者なんだから自分のことだけ考えていればいい」みたいな考え方には、納得できなかった。これは、拡大症に対するストレスが軽い、僕だからこその反発なのかもしれない。でも、仮にそうだとしても、その考えで否定されるのは僕だけじゃない。
一ヶ月前のことを思い出す。
あのとき僕は、テロリストの人質として廃ビルの一室に軟禁されていた。新留さんや、入戸野という警部も一緒に。
そこで、僕たちを助けに現れたのが、誰であろう梓だった。第八号棟に入院してから八年間、外に一歩も出ることがなかった梓。彼女が来なければ、僕が今ここにいることはなかっただろう。いや、この世にすらいられなかったかもしれない。僕にとって、梓は命の恩人なのだ。
櫃岡さんの言い方は、あのとき梓の気持ちや行為さえも否定しかねない。
だから僕は、彼女の言葉に頷けなかったのだ。
櫃岡さんは、僕から視線を外してうつむいた。それほど長くはない。彼女はすぐに顔を上げ、クルマのドアに手をかけた。その間、僕を一度も見なかった。
その背中に、かけるべき言葉はない。
でも。
「……貴方の言いたいことは、分かりました」肩越しに声。「すみませんが、わたしは仕事に戻らせてもらいます」
「はい」
櫃岡さんは運転席に滑り込むと、エンジンをかけてクルマを出した。あっという間に、僕の視界から消える。
しばらく、その場に立ち尽くした。
少しは、届いただろうか。そう自問する。
答えは、次に会ったときに聞けると良いなと思った。
夏休みに入って毎日が休日とはいえ、学生は一日中だらだら過ごせるわけではない。休みの日には、それなりに義務が発生する。
端的にいえば、宿題というやつである。
しかも、夏休みという言葉を裏切る、登校日なるものが設定されているせいで、「夏休みの最後の日までに片付ければいいんだな」と楽観はできない。その日に提出しなければならない宿題が、いくつかあるからだ。数も量もそれほど多くないとはいえ、早めに手をつけておかないと痛い目を見るくらいではある。
僕が父親の実家で片付けていた宿題は、どちらかというと休み明けに出せば良いものが多かった。明らかに失敗だった。すべての宿題の量を、単純に夏休みの日数で割ってしまったのがまずかったのだろう。去年も同じような失敗をした気がする。あまりに馬鹿馬鹿しいミスなので、記憶から抹消してしまったのかもしれない。
というわけで、僕は四日ほど第八号棟に行けなかった。以前、「夏休みに入ったらもう少し頻繁に来るよ」などと梓に言ったことがあるけれど、これでは休み前とあまり変わらない。まあ、登校日は一回だけだし、それが過ぎたらちゃんと約束を守れるはずだから、それで勘弁してもらおう。
登校日の翌日、夏休みが半分ほど過ぎたころ、僕は昼過ぎから第八号棟に向かった。手土産として、いつものよりちょっと高めの店で買ったケーキ(ドライアイス付き)と缶ジュース、それから新留さんや篠原さん用のお菓子を持参。まあ、お中元みたいなものだ。時季外れではあるけれど。
まずは新留さんの部屋に行ってお菓子を渡すと、彼女は奇妙なリアクションをした。
どんよりと、半眼で、恨みがましく見返してきたのだ。
「あの……、何ですか?」
「悪気はないんだよね、悪気は」
新留さんはかぶりを振り、渡したお菓子の箱を受け取った。でもまともに扱うつもりは一切ないとばかりに、その箱をテーブルの上に投げ出す。所狭しと並べられた七つの灰皿のいくつかが、寝言を放つ休火山みたいに灰を巻き上げた。
早くも灰かぶりになる菓子箱を、さすがにやるせない心境で見下ろす。新留さんの態度からすると、この箱に魔法使いや王子様は現れないだろうな、という気がする。いや、確信か。
「どうしたんですか? あ、お酒入りが嫌いだったとか」アルコールが少し入ったお菓子なので、そう訊いてみる。
「いや、酒はそこそこ好きだよ。別に瀬畑君が悪いわけじゃないから、気にしないで」
「はあ」
じゃあ何が悪かったのか、非常に気になるけど、訊くのはやめておいた。……両親は気に入ってたんだけどな、と内心でぼやく。テーブルの上に投げ出された箱にプリントされた写真――ハート型チョコレートを見下ろしながら。
新留さんは、気を取り直すように煙草に火を点けた。部屋の中央にあるテーブルではなく、パソコンが置かれたデスクの上にある灰皿を、煙草の先端て叩く。
あれ、この部屋の灰皿は七つだったはずだけど、増えたんだろうか。そういえば、デスク上のそれだけは見慣れない形をしている。ハート型だ。新留さんにはちょっと似合わないような。
話題を変えるべく、僕はそれを指差した。
「そういえば、それ、新しい灰皿ですか?」
新留さんの動きが止まった。
彼女は、さらにどよどよした目で僕を睨《ね》め上げた。そのまま膨張した挙げ句、床に堆積しそうな目つきだ。……まずい、地雷を踏んでしまったらしい。
機械的な動きで煙草を灰皿に押しつけると、新留さんは「しっしっ」とばかりに手を振った。
「早く梓のところに行きなよ……」
「…………そうします」
かろうじて爆発は免れたらしい。僕はさっさと回れ右し、部屋を出たところで、一つのミスに気づいた。
篠原さんに、お菓子をどうやって渡そう。
梓に託せば、彼の手に届くはずだ。でも、仮にもお土産だし、手渡しが礼儀だと思う。かといって、僕は篠原さんの部屋を知らないのだ。あんなやり取りのあとで新留さんに訊くわけにはいかないから、このままでは直接渡すことができない。
(夕食のときにでも、食堂で待っていれば会えるかな……)
これまで、食事のタイミングが重なることは何度かあった。会える可能性も、それなりに期待できるだろう。僕は、自分にしては珍しく即決すると、梓の部屋に向かった。
相変わらず、歩いていても誰とも遭遇しない。してみると、通路で会うことが多い篠原さんは、かなり珍しいのだろうか。というか、彼はいつもあんなところで何をしているんだろう? 休憩なら、自分の部屋でもできるはずだし……。
お土産を渡すついでに訊いてみよう。そう決めたとき、ちょうど梓の部屋に着いた。
ノックしながら、「梓、入るよ」
「あ、え、明珠? ちょ、待って!」
「え?」間抜けな声を出したときには、既にドアを開けてしまっていた。
短い通路の向こう、室内が見える。
矩形《くけい》に切り取られた光の中、梓が立っていた。
吊り目気味の双眸を見て、どうしてゴーグルを外しているんだろう、と一瞬の思考。否、そんなことを考える余裕があったかどうか。
梓の白い上半身が見える。それは、白い服を着ているから、というわけではなくて、いや、右腕に関してはそのとおりだけど、その他の部分は真っ白というにはやや色がついていて、特に肩の付け根に走る縦のラインやその下のおにぎりみたいな形は薄いブルーで、
つまり、着替え中。
「シツレイシマシタ」ドアを閉めた。
たぶん、その瞬間からしばらく、死んでいたと思う。
蘇生したのは、一分ほどしてドアが開いたときだった。いつもどおりにゴーグルをつけた梓が、固い表情で(つまりは唇を引き結んで)立っている。
ゴーグルとの境目あたり、頬が赤い気がした。
「入って」何かを押し殺そうと力を入れすぎて、それが外側にまで漏れているような攻撃的な声だった。
僕は彼女に続いて、恐る恐る部屋に足を踏み入れた。梓は早歩きと小走りの中間くらいの速さで進み、ベッドに荒々しく腰掛ける。その拍子にスカートがわずかにめくれたのを見て、さっきのことを思い出し、僕は慌てて目を逸らした。
今日の梓の服装は、今までで一番シンプルだった。白の半袖ブラウスに濃紺のスカート。足元は白のソックスにローファー。典型的な夏の制服といった取り合わせだ。それだけなら良かったのだけど、ブラウスの胸元がなぜか不良みたいに大きく開いているので、目のやり場に困る。
何か言いたそうで、でも口を開かない梓をなるたけ注視しないように気をつけつつ、僕はいつものように椅子に近づいた。ケーキと缶ジュースを床に置く。
「どこ見てるの?」
と、微妙に梓を見ようとしていないことがバレた。明らかに不機嫌そうな口調だ。僕は一瞬ごまかそうとして、それだと根本的な解決にならないと気づき、指摘することにした。
「あの……、その服、なんだけど」
「何よ」
「そういうファッションなの? えっと、上のボタンの開け方とか」
彼女は自分の胸元を見下ろした。ゴーグルの重さに耐えかねて首が折れたように見えて、僕は少し焦る。
間。
梓は、武術の達人もかくやと思わせるような身のこなしで、こちらに背中を向けた。物凄い大混乱が生じている気配、慌てているせいで、ボタンが上手く留まらないらしい、唸り声が聞こえてくる。何だか湿った唸りだった。
まさか梓が、これほど取り乱すとは思わなかった。声をかけようにも、パニックに陥っている今の梓には、何を言っても無駄な気がする。ここはおとなしく、彼女が自力で沈静化するのを待つことにしよう。
……などと落ち着いて考えていたわけではなく、僕はただ呆気にとられて、しばらく動けなかった。あの格好は、どうやらファッションなんかではなく、ただ着こなしを失敗していただけらしい。慌ててボタンを留めて取り繕った、ということなのだろう。
振り向いた梓は、部屋に入れてくれたときよりも顔を赤くして、僕を睨んでいた。目元はもちろん見えないけれど、どういう目つきをしているか、今は確信できる。
「なんで最初に言ってくれないのよ」
口調が、その確信を裏付けていた。僕は眉尻を下げて、
「その、言いづらくて……」いろいろな意味で。
「おかげで恥かいたじゃない」
「でもほら、大勢に見られたわけじゃないんだし」
「確かに明珠しか見てないのは不幸中の幸いだけど……」うつむきながら言って、梓はすぐに顔を上げた。「って、そういう問題じゃないわよ! 何言ってんのよ!」
「ええ?」
理不尽に逆ギレされてる気がする。梓は勢いよく立ち上がり、こちらに詰め寄った。
否、詰め寄ろうとした。
その爪先が、床に置いたままにしていたケーキの袋に触れたのはその瞬間だった。梓がそれに気づく。このときばかりは、運命は僕に味方してくれたらしい。
底の面積が広いため、口が大きく開く紙袋だったことも幸いだった。いちいち取り出さなくても、中身が分かるからだ。つまり、ケーキと缶ジュースである。
それらを見下ろしながら、梓が顔の向きをわずかに僕のほうにずらした。
「今日は……缶コーヒーじゃないわね?」
「ジュースだよ。缶の飲み物を、いろいろ試すのもいいかと思って」
僕は(多少必死に)口を動かした。ここで話題を逸らすことができなければ、もう部屋を出るしかないと思った。
果たして、梓はその場にしゃがみ、袋の中に手を突っ込んだ。ジュースを取り出し、椅子の上に並べる。フルーツ系、炭酸、スポーツドリンクといった、スタンダードなものばかりだ。
僕はまだわずかにびくつきながら、梓に近寄った。同じように身をかがめる。
「コーヒーとは形が違うわね」
「あれと同じのもあるけど、このサイズが普通かな。材質もアルミが多いし」
「あ、ホントだ」
スチール缶のマークについては、既に説明したことがあった。梓は代わる代わるに何本か手に取り、側面の文字をつぶさに見ていく。
やがて、炭酸のものを手に、彼女は立ち上がった。僕もそれに倣う。
梓はいつもの歩調でベッドに戻り、妙にエレガントな所作で腰を下ろした。
「仕方ないわね。今日は缶ジュースに免じて、さっきのことは許してあげる」
「…………、ありがとう」
忸怩《じくじ》たる思いがないではなかったけれど、蒸し返して機嫌を損ねられてはことなので、僕はおとなしく、彼女の寛大さに礼を言った。
僕は立ったまま、オレンジジュースの缶を開けた。梓がぎこちなくプルタブを引くのを見下ろしながら、ふと新留さんのことを思い出す。
「そういえば、ここに来る前に新留さんのところに寄ったら、何か様子がおかしかったんだけど。何か知ってる?」
「紗織さんなら、強引にお見合いさせられたらしいわ。そのせいじゃない?」
「あ、ホントにやったんだ」篠原さんから、それらしい話を聞いていた。
「お見合いの直後は、『灰皿くらいで買収されてたまるか』って荒れてたらしいわよ。何のことか分からないけど」
「ああ……」
それが、あの反応の理由か。今さらながら、僕は自分が踏んでいた地雷の危険度に鳥肌が立った。そのお見合いで何があったか分からないし、尋ねるなんてもってのほかだけど、触れてはならない暗部であることは間違いなさそうだった。
僕は十字を切る心境で、ジュースを一口含んだ。
篠原さんへのお土産は夕食のときに渡し、食事を終えたあとは自分の部屋に引っ込んだ。今は、学校の宿題をやっているところだ。成績は赤点すれすれというほどには悪くないけれど、上位に食い込むわけでもない。ごく平凡だ。暗記科目は何とかなっても、理数系の応用問題になると空欄が多くなる。
新留さんは優等生だったそうだから、彼女に教えてもらえば分かるようになる気がする。でも、今は仕事中だろうし、そもそも昼間の状態がまだ維持されていたら、地獄の門をノックするようなものだ。触らぬ神に祟りなし。
(そういえば……)ペンを止めて、ふと考える。
梓って、勉強はどうしているんだろう。というか、そもそもしているんだろうか。十年前の事件のあと、施設で過ごした二年間に何か教育を受けた、というのは聞いたことがある。
でも、それは学校で教わるような、いわゆる勉強ではないだろう。それに、梓は今年で十八歳。外であれば、受験生の年齢だ。もちろん、この冬に受験するということはないだろうけれど。
(今度、高校までの教科書を持ってきて、見せてみようか)
梓の部屋で勉強会。
……嫌がるかな。
訊いてみて、手応えがありそうだったら実行してみよう。
適当なところで勉強を切り上げて、一時間ほど本を読んだ。読書感想文のためとかではなくて、純粋に僕の楽しみのためだ。高校の夏休みの宿題における最大のメリットは、読書感想文という宿題がないことだといっても良い。
わざわざ盛り上がるところの直前で、読書をストップした。次に読む楽しみが増える反面、期待が大きくなりすぎて裏切られる可能性も秘めた、スリリングな読み方だ。
ベッドに潜り込む直前に、携帯電話で時間をチェック。午後十一時前。高校生にしては健全すぎるかもしれないと、自分でも思う。
思っていても、その習慣を変えようとは思わなかった。昼型人間だから、変えようにも変えられない、ということもある。
僕はアラームをセットして、目を瞑った。いざ、眠りの世界へ。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………眠れない。
なぜか目が冴えている。あの傍若無人な睡魔が、一向に訪れない。時刻を確認。既に一時間近く経っていた。
今朝は、いつものように八時前くらいに起きた。つまり寝過ぎじゃない。空調が働いているから、暑くて寝苦しいということもない。なのに、全く眠くないのだ。夜中にいきなり目覚めてしまうときの感覚に似ている。
試しに羊を数えてみたものの、計算に集中しすぎて頭が余計にクリアになってしまった。都市伝説なんて信用できないものだな、と責任転嫁してみる。
仕方ないので、起きることにした。地上に出よう、と思う。以前と同じく、躰を動かして眠気を誘う作戦だ。
以前言われたことを思い出し、部屋に備え付けの端末から新留さんにメールを打っておく。第八号棟では、ローカルネットが設置されているのだ。携帯電話は圏外になってしまうから、僕がここでメールを打とうとするとこうするしかない。
着替えて、部屋を出る。いつかのように、静かな廊下を進んでエレベータで地上へ。生理的嫌悪を呼び起こす狭い通路を抜け、中庭に通じるドアを開けた。
生温かくも自然な風が、指先をすり抜けていく。暑いのは苦手だけど、たまにこういう空気に身を浸したくなるから不思議だ。自然への憧憬だろうか。確かにアウトドアは好きだけど。
ドアを閉めて、建物から離れる。中庭というだけあって周りを囲まれているから、閉塞感があるのは否めない。とはいえ、これくらいなら拒絶反応はないも同然だ。僕が恐れるのは『接触』であって、狭かったり閉じたりしているだけなら我慢のしようもある。
雲が出ているのか、月は見えなかった。
花壇の間を、魚のように歩いていく。ゆったりした風の流れを受ける。遠くから伝わる、虫たちの歌声を聞く。どれも、地下にはないものだ。映像からイメージはできても、実感はできない。
隔絶している。
ここはどこだろう、と不意に思う。時任病院の中庭。第八号棟の直上。拡大症患者たちが住まう地下世界と、対をなす場所。
僕が、普段の生活をする世界。
だけど、ここが普通の場所だとか、自然な生活空間だとかいうつもりはない。僕以外の拡大症患者にとって、今を生きているのは第八号棟なのだ。「本来の世界は地上だ」なんて言い放つのは、傲慢な物言いに過ぎない。
僕にしたって、どちらが『自分の世界』かは曖昧だ。拡大症患者であることを、今すぐにやめることはできないのだから、ここも僕の世界には違いない。
生きている場所。
そこでの生き方。
拡大症患者からすれば、第八号棟はただの治療施設じゃないと思う。彼らは、地上では隔意にさらされずしては生きられないのだから。
ここは、拡大症患者たちにとって砦でもあり、家でもある。
櫃岡さんの言葉を思い出す。治療に専念すべきだという、彼女の主張。正しい言葉。だけど、それはあくまで拡大症患者でない人の言い方だ。
治療を受けるということは、自分が病人であると自覚することに通じる。
ここでは、そのことを――少なくとも地上ほどは――意識せずに済むのに。
普通の人間だと、思っていられるのに。
――僕が感じた反発の根源はそこか。
今になって、そう気づいた。
同時に、もう一つのことが意識に浮上した。視覚。見えている風景が鮮明になる。考え事をしていると、周りが見えなくなるのだ。
いつの間にか、ドアから随分離れていた。
中庭の奥。
ベンチ。
一瞬、記憶がフラッシュバックする。
長い黒髪。白い服。細い躰。感覚拡大症の――少女。
記憶の光景が、今、僕の目に映る彼女とダブる。
ベンチに浅く腰掛け、髪を垂らし、虚空を見つめる彼女。
否、どこを見ているかは分からない。
ただ、今の彼女は、とても落ち着いていて、安心しているように見えた。
(櫃岡、美雨)
僕が出会った、二人目の拡大症患者。
いや、「出会った」と表現するのはまだ早い。僕たちはまだ、言葉を交わしていない。こちらから、一方的に話しかけただけだ。あれでコミュニケーションが成立したと思えるほど、僕はおめでたくはない。
お互いの距離は約十メートル。透過触覚の、ぎりぎり範囲外だ。いや、『手』が届く範囲にいたからといって、症状を使おうとしたわけではないけれど。
どうしよう、と少しだけ迷う。
櫃岡さんには、軽率だと釘を刺された。新留さんや、梓にも似たようなことを言われた。今回はちゃんと考えた上での行動だけど、美雨がそう認識してくれるとは限らない。
僕は、彼女の症状も知らないのだ。どの感覚が拡大しているのかも。
あと一歩でも踏み出せば、こちらの存在を気取られるようなものかもしれない。
(でも……)
今さら、回れ右をする選択肢は思い浮かばなかった。
意を決して、足を出す。
気づかれない。また一歩。
さらに進む。あと五歩くらいまで近づいた。
寝てるんだろうか、という疑問が浮かぶ。ここまで接近して反応なしとは、さすがに思っていなかった。もしあるとしたら、寝ているという可能性くらいしか思い浮かばない。
それにしても……寝ているとしたらまずい。朝まで目覚めなければ時任病院(地上部分)の職員に見つかるし、体調を崩す可能性もある。
逡巡は短く。
僕は大股に歩み寄り、ベンチの横に膝をついた。
見上げる。案の定、彼女は目を瞑っていた。無邪気な寝顔。規則的な呼吸音。
手は触れない。
「あの……、風邪、ひくよ」声は抑えた。
それでも、彼女は瞼を上げた。僕を見る。寝起きだからか、とろんとした瞳。純粋な目。
子供の――眼差し。
それが、怯える獣のように引きつった。
美雨は意外にも素早く立ち上がり、距離を取った。一気にベンチの反対側へ。洗練された身のこなし――いや、そんなことに感心している場合じゃない。
ベンチの背もたれをしっかりと握り締め、いざとなればすぐにでも逃げられるよう、膝を少し曲げている。ここまで警戒されるとさすがに傷つくけれど、状況を見ればやむをえない。
僕には前科があるし、うとうとしているところにいきなり話しかけられたら、誰だってこういう反応をするだろう。まして、僕たちは初対面みたいなものだ。
敵意がないことを示す万国共通のポーズ、万歳をして、美雨を正面から見た。
「驚かせてごめん。君をどうこうしようってつもりはないから、安心してほしい」言われたからといって安心できるわけないだろと、頭の片隅でセルフ反論。「僕は瀬畑明珠。君と同じで、第八号棟の患者だよ。憶えて――ないかな?」
たぶん「第八号棟」というタームにだろう、彼女は初めて警戒を緩めるような反応をした。新留さんが、何か言ってくれたのかもしれない。視線に込められたものが、僕へのネガティブイメージばかりではなくなる。
疑問。その色が混じる。
「ちょっと前になるけど、お姉さん――櫃岡名雪さんと一緒に第八号棟の廊下を歩いてるとき、すれ違ったよね。あのとき、僕がいきなり話しかけて驚かせてしまったと思う。今さらだけど、ごめん」
美雨は首を傾げた。憶えていない――のか? あるいは「そういうことがあった」とは記憶していても、それが僕だったと分からないのかもしれない。美雨は隠れっぱなしだったし、僕は櫃岡さんの言葉を聞いてすぐ立ち去ったから。
僕はゆっくりと手を下ろした。美雨がまた身を固くする。両目は、僕の全身をくまなく観察している。警戒はしていても、恐怖はしていない、という感じ。思ったより芯は強いみたいだ。櫃岡さんの庇い方から、無意識のうちに「気の弱い子だ」と思い込んでいたのかもしれない。反省しないと。
僕は美雨に微笑みかけた。
「今夜は、なんでか知らないけど眠れなくて、ここで散歩できるっていうから上がってきたんだ。そしたら君が見えて、話しかけてしまったけど……。迷惑だったかな」
無言。まあ、すぐに返事が来るとは思っていない。
気にした様子を見せずに、あたりをぐるりと見回した。
「いい場所だよね、ここ。よく来るの?」
美雨は少しだけ眉を寄せた。どうしてそう思うのか、という感じ。梓と会うようになってからか、僕は他人の表情や仕種から、思っていることを漠然と読み取れるようになっている気がする。
「えっと、さっきは言わなかったけど、実は僕、ここで君を見たことがあるんだよ。第八号棟《し た》で会うちょっと前に。僕がここに来たのは、今日もそうだけど偶然だから、君も今日たまたま来たって考えるよりは、よく来るって考えたほうが自然かなって」新留さんもそんなこと言ってたし、と続ける。
第八号棟の関係者でないと知っているはずのないことをこれだけ言えば、僕が拡大症患者であることは信じてもらえるだろう。その証拠に、相変わらず警戒はしているけれど、最初に比べると弱くなっているようだ。
それでも気を許してくれないとなれば、理由は一つしかない。
拡大症患者にしかない、
そして患者同士でしか本質的には分からない、理由。
僕は、そこに話を持っていこうとは思わなかった。
それはつまり、いくら話しても一線を引かれ続けることを意味する。仮に、たとえば梓と交わすような会話が成立したとしても、本当の意味で仲良くなることはできないだろう。
僕たちが置かれた立場というのは、そういうものだ。
引き際だ、と心のどこかで声がする。冷静に、冷淡に、冷徹に状況を分析する、冷めた視線の僕の声。そうだね、と同意。それでも、「これ以上は話しても無駄だ」という思いを美雨に見せることだけは、隠さなければならない。
笑いかける。
「じゃあ、僕は帰るよ。邪魔してごめん。寝過ごしたりしないようにね」
最後の一言は余計かなと思いつつ、踵を返す。また会えるだろうか――そんなことを考える。
「まって」
足が止まった。
躰ごと振り向く。驚きは隠せなかったはずだ。
ベンチから手を離し、櫃岡美雨が立っていた。
雲が、晴れる。
髪が左右に分かれ、初めて顔が見えた。体格に見合った小さな顔。起き抜けに見たのと同じ、子供のような双眸。人形のような、という形容がこれほど似合う顔を、僕は今まで見たことがない。
美雨は目を細めた。
「いいにおいがする」
彼女が僕に言葉を向けた、最初のときだった。
五分後、僕と美雨はベンチに並んで座っていた。さすがに密着して、ではない。お互いの距離は四十センチほど。二人で会話するには少し遠い気もするけど、仕方ない。
美雨のほうもあからさまに近いところには座りたくないだろうし、僕は僕で至近距離というのが苦手だから、開くべくして開いた距離といった感じだ。
あのあと――
まさか美雨が呼び止めてくるとは思っていなかったので、僕は完全に硬直してしまった。一分ほどで気を取り直したものの、どう反応すれば良いか全く思いつかなかった点で、思考停止していたのと変わりがない。
結局、無言で座った美雨に倣って、僕も腰を下ろした、というわけだ。ロボットだって、もう少し上手い対応をするんじゃないかと思う。
美雨は目を瞑っている。何も見ないようにしている、という感じじゃない。視覚以外の感覚に集中したい様子だ。そんな顔をされると、声をかけてきた理由を尋ねようとする気も自然と薄れてくる。
横目で美雨の顔を眺める。改めて、綺麗な子だなと思った。瞑目し、ベンチにゆったりと体重を預けた姿が、凄く絵になる。
梓とは、また違ったタイプだ。どちらもお姫様みたい(なんて陳腐な表現だ)だけど、梓が気の強いおてんばな姉姫なら、美雨はおっとりした妹姫という感じだ。
(……梓に知られたら酷い目に遭いそうだ)
想像して、少し身震いした。
美雨が瞼を上げる。
「あの……、どうしたんですか?」
「え?」
「今、ちょっと怯えたみたいでしたけど……」
「まあ、少しね……」反射的に答えて、違和感に気づいた。「え? なんで分かったの?」
愚問だった。美雨は、十二歳という年齢には相応しくないほど、達観した寂しげな表情を浮かべた。
拡大症の症状に決まっている。僕は、それを知っていて話しかけたはずなのに……。やっぱり、このあたりが拡大症患者らしからぬ部分なのだろう。
「いいんです」美雨は微笑んだ。「えっと……、瀬畑さん、でしたよね」
「明珠でいいよ。その代わり……っていうのも変だけど、美雨ちゃんって呼ばせてもらっていいかな。名字だと、お姉さんと間違えそうで」
「はい。でも……、できれば、美雨って呼んでくれませんか?」少し恥ずかしそうに言った。
「そのほうがいいなら、そう呼ばせてもらうよ」
「じゃあ、お願いします」美雨は少し嬉しそうに笑ったあと、目を伏せた。「……もう、そう呼んでくれる男の子もいませんし」
彼女が『発症』した原因を、僕は知らない。でも、強烈な体験だっただろうとは想像がつく。さっきの表情や櫃岡さんの振る舞いから、なんとなくは。
つらい過去を掘り返させるために、名前の話をしたわけではない。僕は、彼女の言い方に努めて気づかないふりをした。
「明珠さんは、わたしの症状のこと、知ってますか?」美雨が口調を変えて言った。
「いや、何も。えっと、言いたくなければ言わなくていいよ」
「大丈夫です」美雨はまた笑みを浮かべた。「わたし、嗅覚拡大症なんです。アロメトリィって言われてます。言葉の意味は、よく分からないんですけど」
「何だろう。アロマと……、語尾はサイコメトリィと同じかな」
「サイコメトリィ?」
「確か超能力の一種で、何かに触ると、それに起きた事実を知ることができるって感じだったと思う。昔、主人公がその能力を使って犯罪に立ち向かう、みたいなドラマがあったような」
似てるかな、と訊くと、美雨は首を傾げた。
「少し、近いかもしれません」
「差し支えなければ、具体的に訊いていい?」
「はい」美雨はあっさり頷いた。「人の感情が、匂いとして分かるんです」
「喜んでるとか、怒ってるとかが?」
「そうです」
「ちょっと、想像しにくいんだけど……。感情によって、匂いは決まってるの?」
「たぶん」美雨はまた頭を傾けた。「嬉しかったり、楽しかったりすると、いい匂いがします。でも、悲しいとかは、嫌な匂いだったりします。鼻がつんとする香りとか」
「でも、感情と匂いにどんな関係が……。あ、待てよ」
そういえば以前、携帯電話のストラップで面白いものを見たことがある。持ち主の感情に反応して、さまざまな匂いを発するというものだ。どういうメカニズムだったか忘れたけど、感情の動きを科学的な変化として捉えるのは間違いない。
ということは、感情が生理学の範囲で、何らかの変化を及ぼす可能性は否定できないものがある。美雨の症状も、そのあたりに由来するのかもしれない。
ストラップの話をすると、美雨は驚いたように目を丸めた。
「そんなのがあるんですか?」
「実物を見たのは一回だけだし、実際に匂いが変わったかは分からなかったけど。僕、鼻があんまり良くなくて」
「今もありますか? それ……」控えめに期待する口調だった。
「どうかな。今度、探してみるよ」
お願いします、と美雨は軽く頭を下げた。素直だ。梓だったら、「探してなんて言ってないじゃない」とかまくし立ててきそうな気がする。
それにしても、と思う。意外によく喋る子だった。物怖じしないし、自分から積極的に質問もする。櫃岡さんの態度が態度だったので、コミュニケーションには消極的だと思っていたけれど、そうでもないようだ。
「ところで、その……、アロメトリィで感じられる匂いだけど、結構強いの?」僕は話題を戻した。
「わたし、もともと匂いに敏感らしいんです。だからだと思うんですけど、強いこともあります。それも、感情の強さによるみたいなんですけど」
「匂いってことは、少しくらい離れても分かるものなのかな」
「そうですね」美雨はこくんと頷いた。「ぼーっとして、感覚に集中しないようにしている間はあんまり感じなくて済むんですけど……」
そうでなければ否応なしに感じてしまう、というわけか。確かに、嗅覚を遮断するのは難しい。マスクをすれば、少しは緩和されるのかもしれないけど、拡大症にどこまで通じるだろうか。
感覚拡大症というのは、五感をあくまでルートとして使うだけであって、実際に五感を働かせているわけじゃない。同じ思考を読む症状でも、梓のように視覚情報として得る患者がいれば、声、つまり聴覚情報として受け取る患者もいるかもしれない。また、僕は物体の内部構造を手探りで知るけど、設計図みたいに目で見た映像として捉える患者がいてもおかしくない。
だから美雨の場合も、嗅覚は単に回路として使われているだけのはずだ。第一、マスクで症状が緩和されるかどうかなんて、とっくに試しているだろう。美雨も、第八号棟に入って長いらしいし。
と、待てよ。
「じゃあ」僕はあえてゆっくりと言った。「今も、僕の感情は分かるってこと?」
「…………、はい」
美雨は暗い顔で頷いた。そっか、と口の中で呟く。
これで合点がいった。梓が美雨と会うことがなかった理由。櫃岡さんのあの反応。こんな真夜中に、たった一人で中庭にいるわけも。
感情を匂いとして読み取ってしまう美雨は、他人と同じ空間にいるだけで症状が出てしまう。梓のように、その発現をオフにする手段がないのだ。つまり美雨にとっては、人と会う行為自体が、症状を使うこととイコールだということになる。
そして拡大症患者は、症状が出ることを嫌う。僕みたいな例外を除けば、症状の発生はトラウマを掘り出すことにも繋がるからだ。
(なるほどね……)
感情の質は、人によって大きく異なることがない。だから、他人の感情というのは、思考や意志と違って直截的に分かってしまう。梓の幻視の場合、思考を視てそれを理解するというプロセスがあるけれど、美雨のアロメトリィにそんな段階はないのだ。
匂いというワンクッションがあっても、たいした違いはない。
善意も、悪意も、
喜びも悲しみも、怒りも嬉しさも、
すべて、そのものとして受け取ってしまうわけだ。
人間の共感能力というのは、普通に考えられているよりよほど強力だ。楽しそうな場所ではなんとなくうきうきしてしまうのと同じように、殺伐とした空間に放り込まれれば、大抵の人は心がざわついてしまう。
美雨が発症したのがいつか分からないけど、世の中が善意ばかりでないことは知っている年齢だったはずだ。
そんなときに、感情をダイレクトに知ってしまう症状を身につけてしまったとしたら。
他人と落ち着いて話すなんて、できるわけがない。
だけど――だからこそ。
僕は今、嬉しい、と感じている。
「……明珠さん?」
それを感じたのだろう。美雨が、目を開いて僕を見つめてきた。
微笑み返す。
「いや、ちょっとね」ベンチに体重をかけ、空を仰ぐ。「それでも話しかけてくれたんだなって思うと、嬉しくてさ」
「……そう、ですか?」
「そりゃそうだよ。あのとき、櫃岡さん……名雪さんから、美雨に話しかけたことを怒られたとき、美雨も怯えてたみたいだったし、もう仲良くなるのは無理かもってちょっと諦めてた」でも、と美雨の顔に視線を下ろす。「そんなことはないって分かったからね。だから、嬉しいんだ」
「わたしと、仲良くしたい……」自問するように呟く。
「もちろん、美雨が迷惑だと思わずにいてくれるなら、だけど」
櫃岡さんに言われるまでもなく、無理強いするつもりはない。あくまで、美雨が良いと言ってくれればの話だ。美雨の場合、症状が症状だから、僕も生半可な気持ちでは接することができない。ある意味、ちょっとした賭けだった。
だけど、せっかく知り合った以上はこれからも付き合いを続けたいし、あわよくば梓とも繋がりを持ってもらえたらな、と思う。二人とも、第八号棟に入院してからは、同世代の同性と久しく話していないはずだ。
僕は黙ったまま、美雨の返事を待った。気持ちを穏やかに。心を波打たせることなく。美雨のアロメトリィがどれくらい『嗅げる』か分からないけど、万が一にも、不安や急かすような気持ちを悟られるわけにはいかない。彼女の決定が、僕の心に流されて行われてはならないからだ。
美雨自身によって決めてもらわなければ、意味がない。
彼女が探るように見上げてくる。それでも、僕は何も言わなかった。
いっそ、もう一押しするほうが良いのかもしれないとも思う。その揺らぎを、僕は抑え込んだ。
やがて。
「明珠さんは……」美雨が、囁くように言った。「それで、いいんですか?」
「え? どういうこと?」
「だってわたし、こんな症状だし……」
「僕だって拡大症の患者だよ」
「抑えることが、できないんですよ?」
「僕が落ち着いていればいいんじゃないのかな」
「面白い話もできません」
「僕もだよ。おあいこだね」
「えっと……」
「美雨」
もしかしたら、名前を呼ぶのは初めてかもしれない。でも、すんなり口にできた。
美雨が、びくっと身を震わせる。
その肩に、
触れた。
症状に対するストレスが弱い僕も、他人の躰だけは例外だ。反射的に、手を離したくなる。それを抑える。だけどそれが限界。心までは装えない。
僕の動揺を、美雨は今、どう感じているだろう?
確認することなく、僕は少し無理をして微笑んだ。
「美雨が僕と会いたくないなら、それでもいい。でもそうじゃないのなら」
美雨が差し出す見えない手を、
「また、話をしよう」
僕は、そっと握った。
感情の揺らぎが、止まる。
美雨が驚いたように目を見開く。
大きな双眸が細くなり、やがて――
心地好さそうな顔で、彼女は頷いた。
翌朝、僕は珍しく遅く起きた。といっても、八時ならまだ早いほうかもしれない。同級生の会話を聞く限り、「休日は昼前まで寝るのが標準」だそうだし。
まあ、明け方近くまでずっと起きていたから、これくらいで起きられたのがむしろ凄いのかもしれない。基本的に昼型人間の僕は、遅い時間まで起きていられないことに加え、寝てもいられないのだ。
それでも眠気はあるので、食欲がないながら、コーヒーをもらいに食堂に行った。
いつもと時間帯がずれているためか、人が多い。見たこともない顔がたくさんだ。「第八号棟ってこんなに人がいたのか」と思う。検査をやっていた時期、担当の医者はいつも新留さんだった。ナースは特に決まった人ではなかったけれど、それでも、二人か三人くらいが交代していただけだったように思う。それだけに、人の多さには驚いた。
おまけに僕は職員の間で有名らしく、「ああ、彼が例の」「紗織先生の担当か」「お姫様とよく話すっていう」などという声が聞こえてきた。第八号棟初の通院患者だから仕方ないとは思うけど、まさかここまでとは。
目立たないよう、隅の席に座って、真っ黒のコーヒーを啜《すす》る。苦さと熱さで、一気に目が覚めた。コーヒーが眠気覚ましに有効というのは、実はカフェインとかじゃなくてこの二つがあるからじゃないかと思う。
二杯目をもらうついでにパンを一つだけ受け取り、ゆっくり食べた。梓に会うにしろ新留さんの部屋に行くにしろ、時間的に少し早い。いつもは部屋で本でも読んで時間を潰すのだけど、たまには食堂でぼんやりしているのも良いだろう。
食器を空にすると、カウンタに返却して食堂を出た。まずは新留さんのところに――いや、機嫌が直っているか分からないから、いきなり訪ねるのはまずいかもしれない。その前に篠原さんから情報を――いやいや、どこで会えるか分からないじゃないか。だったら梓に場所を訊いて――いやいやいや、そうしたら梓と話し込んでしまって、もう新留さんに会うどころじゃなくなることは目に見えている。どうしよう。
とりあえず部屋に戻るか……と考えながら歩いていると、曲がり角で人とぶつかりかけた。反射的に謝りながら、相手の顔を見る。
え?
「瀬畑君?」
「櫃岡さん……。どうも」
目の前にいたのは、櫃岡名雪さんだった。これまでと同じく、シンプルなスーツ姿。隙のない立ち振る舞い。いや、表情に少し疲労が見える。あまり寝ていないのかもしれない。
けれど、疲れているような態度は全く見せなかった。鋭い目つきで、僕を見下ろしてくる。
前回のことを思い出し、僕は対応に困った。口論というほどではなかったけれど、僕は自分の意見をあれほど強く主張することはあまりないから、相手が気を悪くしてるんじゃないかと不安なのだ。間違ったことを言ったつもりはないとはいえ、正しければ良いのかというとそれも違うと思う。
だったら櫃岡さんの前から早々に立ち去れば良いような気もするけれど、それはそれで失礼な気がする。かといって、朗らかな雑談なんて望むべくもない。どうすれば良いだろう。
それに櫃岡さんのほうも、何だかもの言いたげな目をしている。それも気になるところではあった。
僕は覚悟を決めて、とりあえず変化球を投げることにした。
「えっと……、朝、早いですね」
「そう、ですか?」怪訝そうな顔。
「あ、ここに来るのにって意味です。前にエレベータで一緒になったときは午後でしたし」
「捜査がちょうど一段落ついたところでして。近くまで来たので、寄ってみたのです」
なるほど、疲れているように見えるのはそのためか。徹夜か、それに近いくらいのオーバワークをしてきたのかもしれない。
捜査、という単語で、僕は切り出すことにした。
「そういえば、前に駐車場で話したときに事件の連絡があったみたいでしたけど、解決しましたか?」
「……なぜそんなことを訊くんです?」
櫃岡さんは眉を顰めた。一瞬「しまった」と思ったものの、別に怒らせることを口にしたわけではなかったようだ。単純に、疑問に思ったからだろう。
「ちょっと、気になったので。被害に遭った人がいるなら、その人は無事なのかな、とか」
「どうしてですか?」
「え?」
「それを気にする理由です。あのときも言いましたが、なぜそこまで気にかけるんですか」
「……身近で起きた事件のことを話すのって、そんなに変ですか?」
「その場で話に出てきた事件なら、そうでもないと思います」櫃岡さんは淡々と言った。「以前会ったときに知った事件のことをわざわざ持ち出してくるのは、あまり一般的じゃないでしょう。もちろん、瀬畑君がいろいろな事件に関心を持っているというなら別ですが」
そうなのですか、と目線で訊かれたので、僕はかぶりを振った。そうすることで、櫃岡さんの質問に答えなければならなくなった。僕がなぜ、事件について知りたがるのか。
ほんの刹那の間、かつての自分に戻る。
まだ、透過触覚を手に入れていなかったころの僕に。
拡大症を発症してしまった、あの瞬間の瀬畑明珠に。
錆びた鉄の匂いがする。あのとき、死にかけた僕がいた場所の匂いだろうか……。
それは、僕の感情の匂いかもしれない。ある意味、とても傲慢な感情の。
美雨なら、何を感じるだろう?
訊いてみたいとは、思わなかった。
「やっぱり、『気になるから』としか答えられません」
「それだけですか?」
「まあ……」でも――「あのときも言いましたけど、誰かを助けたいっていう気持ちが、あるんだと思います」
「症状を使って?」櫃岡さんはずばりと訊いてきた。
「正直、拡大症を発症しなかったら、こんな気持ちを抱くことはなかったかもしれません。そういう意味では、偽善だと思わないではないんですけど……」
だけど今は。
症状があるとかないとか、透過触覚を使うとか使わないとか、そういう問題じゃない。
「自分なら助けられる人がいるなら、助けたいって思うんです」
「拡大症患者でありながら、ですか?」
「おかしいですか? 困っている人がいたら助けたいとか、危険が迫っている人に手を差し伸べたいとか、そう思うのは自然じゃないですか?」
櫃岡さんは、しばらく目を瞑って沈黙した。肩を壁に触れさせ、体重を預けるようにして立っている。見た目以上に疲れているのかもしれない。話し込んでしまったかな――と少しの後悔。
静かだった。それなりに長く会話しているはずなのに、人の姿を見ない。誰かいたら、こんな話に展開することはなかっただろうけど、それが良いことなのか悪いことなのか、いまいち判断しにくかった。
たぶん、僕は櫃岡さんに分かってほしいんだろう。だからあれほどいろんなことを言うし、ここまでの話ができて良かったとも思っている。櫃岡さんの言い分も間違っているとは思わないものの、「拡大症患者だから人の心配はしなくていい」みたいに思われているなら、やっぱり納得いかない。
それは、美雨の気持ちさえも否定しかねない論法だからだ。
身内に患者がいる人として、それだけは知っておいてもらいたかった。
やがて、櫃岡さんが目を開けた。
「分かりました」かすかに笑う。「わたしも、別に瀬畑君の気持ちを否定しようとは思いません。ただ、あの子は――美雨は、他人と関わろうとしても関われませんから。身内としては、貴方の意見に全面的に賛成するわけにはいかなかったのです」
「彼女が他人と関われないっていうのは?」僕は首を傾げた。
「もちろん、症状ですよ。いえ、昔から人見知りをする子ではあったのですが、拡大症になってからはそれが強まっているはずですから。知らない人との関わりは、できる限り遠ざけておきたいのです」
内心、僕はまた首をひねりたくなった。どうも、僕が知っている美雨と、櫃岡さんの言う妹の姿が合致しない。
「別に、そういう感じはしませんでしたけど……」考え込んでいたので、そのままの勢いで言った。
「そうですか? でも、」言いかけ、櫃岡さんは何かに気づいたように笑みを消した。「なぜ、貴方がそんなことを言えるのですか」
しまった、とは思わなかった。またやってしまった、と反省はしたけれど。
間違ったことを言ったつもりはないので、僕は素直に口を開いた。
「昨夜、というかもう日付が変わってましたけど、中庭で彼女と話しました」
櫃岡さんが壁から躰を離した。両足で立つ。疲労など微塵も見せない、剣呑な気配を帯びた。
「まさか、あのときのように……」
「違います」僕は素早く言った。「確かに、最初に話しかけたのは僕です。でも、戻ろうとしたところを呼び止めたのは美雨です。無理強いしたり、乱暴なことはしていません。言ってもいません」
「美雨が呼び止めた?」よほど驚いたのか、櫃岡さんは目を見開いた。
「さすがに、二度も同じ間違いはしませんよ。中庭で会ったのも偶然です」
「何を……、話したんですか?」
「症状については聞きました。あと、また話そうって」
「美雨が?」
「あ、いえ、それも提案は僕がしました。けど、美雨も受け入れてくれましたよ」
信じがたいらしい。櫃岡さんは、胸の前で腕組みして、僕を睨んできた。目を逸らしたら信じてもらえない気がして、僕は頑張って耐える。
たっぷり、一分はそのままだっただろうか。
櫃岡さんは、肩の力を抜いた。僕も息を吐く。あと十秒も続いていたら、目が泳いでしまつたかもしれない。危ないところだった。
櫃岡さんは、右手で両目を覆った。ゆっくりと呼吸する。その姿がなぜか、これまでで一番無防備に見えた。
言葉をかけることもできず、僕は櫃岡さんを見守る。
ややあって――
「良かった……」
彼女は、囁くような声で言った。
「美雨にも、そんな相手ができて……」
それはたぶん、僕が初めて聞いた、素の櫃岡名雪の言葉だった。
第三話 「悲しみは酸く」
最初から泣いていたのか、
涙の香りが泣かせたのか。
「ドライブ?」
僕は思わず聞き返した。美雨は笑顔のまま、こくりと頷いた。
八月半ば。中庭で美雨と話してから、十日ほど経っている。その間、僕たちは何度か、こうして深夜の中庭で会っていた。
別に、昼間に話せないわけじゃない。彼女も部屋にパソコンを置いているらしいから、チャットしたり、ウェブカメラを使って会話もできる。僕が美雨の部屋に行っても良いのだ。梓とそうしているように。
ただ、いくつかの理由でその方法は採用されていない。まず、面と向かった対話でなければ意味がないこと。チャットはもちろん、カメラを使っても、解像度や音声のタイムラグの問題で「会話している」という感じがあまりないのだ。
それに、部屋に行くことについては美雨の主治医が良い顔をしないらしい。新留さんが言うには「堅物」だそうで、年頃の男女が密室に二人きりというのが気に入らないのと、僕との接触で治療に障害が発生しかねないと思っているのとで、美雨と会うことに難色を示しているのだそうだ。
密室がどうこうというのは明らかに考えすぎだけど、治療の二文字を出されると僕としては強く出られない。かといって、主治医に黙って部屋に行くのも悪い気がするので、今のところ、美雨と話す機会は夜の中庭に限定されていた。
昼型人間としては夜中に起きているのは少しつらいけれど、徹夜するわけじゃないし、翌日に何か用事でもあるのでなければ特に問題はない。だから最近は、第八号棟に来るたび、夜は中庭に出るのが習慣になっていた。
美雨との会話では、普段の生活に関することが話題の中心だった。梓と違うのは、美雨も自分のことを積極的に話すという点。部屋にいるときは、音楽を聴いたり、読書したりが多いのだという。
あと、誕生日に買ってもらった、電子ヴァイオリンを弾くこともあるらしい。ヘッドホンがついていて、室内でも心おきなく弾くことができるそうだ。聞かせてほしいと言ったら、断られてしまったけれど。
それより驚いたのは、「外に出ることもある」という言葉だった。最初は、今みたいに中庭に出ることが、という意味だと思っていたけれど、そうじゃなかった。文字どおり、病院の外に出ることが多いらしい。
思わず、「どうやって」と訊いてしまった。美雨はその症状からして、人が多いところが極端に苦手なはずだ。嗅覚というのは、考えられている以上に心理的影響があると、何かで読んだ記憶がある。良い香りであっても悪臭であっても、強い匂いはそれだけで不快感を与えかねない。
まして、美雨は症状をほとんどコントロールできない。つまり、近くにいる人の感情を、無差別に『嗅いで』しまうのだ。それだと、どこに行っても心安らかに過ごせるとは思えない。
心配が顔に――匂いに出ていたのか、美雨はそれをほぐすように微笑んで言った、というわけだ。
ドライブに行くんですよ――と。
「お姉ちゃんが、たまに連れていってくれるんです。月に一回くらいですけど、仕事が忙しくないとき、山に登ったりとか」
「そうか。クルマなら、窓を開けない限り匂いは遮断されるのか……」
嗅覚拡大症ならでは、といったところか。なかなか上手い方法だと思う。梓の場合、見たら視てしまうからゴーグルを手放せないけど、美雨の症状が出てしまうのは、あくまで『同じ空間にいる』ときだけだ。
たとえば透明なガラスで完全に遮断されているなら、相手との距離が一メートルしかなくても、アロメトリィは発現しない。車内にいて窓を閉めていれば、どれだけ人の多い街中を走っても、ドライバの感情しか匂わないはずだ。
そして、ハンドルを握るのは姉である櫃岡さん。美雨からすれば、安心して外に出られる条件が満たされているのだろう。
「なるほどね。今まで、どんなところに行ったの?」
「名前までは分からないんですけど……、大体は、一時間くらいで行けるところでした。湖とか山とか、自然がいっぱいあるところが多かったです」
「開けたところのほうが、匂いも薄くなるのかな」
「そうですね。普通の匂いと同じです」言って、美雨は少しだけ唇を尖らせた。「ずっとクルマの中にいるなら、もうちょっと人が多いところでもわたしは大丈夫なんですけど……」
「ここからだと、湖も山も割と行きやすいからね」不満そうな声をなだめるように応えた。
「そうなんですか?」美雨はきょとんとした表情を向けてきた。
「うん。病院の周りはまあまあ都会になってるし、最近は開発が進んでるみたいだけど、ちょっと行くと田舎なんだよ。農家もよく見かけるね」
言いながら、初めて警察に協力したときのことを思い出した。「先生」と呼ばれる人の家で、白骨死体を発見したときだ。あそこもクルマで行ける距離だけど、道は土が剥き出しだった。
第八号棟がこんなところに設立されたのも、もしかするとそれが理由なのかもしれない。もし、患者が病院の外に出たがったら、人の少ないところに短時間で行けるように。梓や美雨のように、人を相手にしたときだけ症状が出てしまう患者であれば、そういう場所のほうが都合が良いはずだ。
「そういえば、明珠さんって外に住んでるんですよね?」
僕が入院じゃなく通院していることは、既に伝えてある。「そうだよ」と僕は頷いた。
「旅行とか、行ったりするんですか?」
「うーん、どうかな」僕は、月のせいで少し白っぽく見える夜空を見上げた。「週末に一人でちょっと遠出するってくらいなら、何回かやったことあるけど。第八号棟を知ったのも、そんな感じで出かける途中だったし」
「何があったんですか?」
「うん。ちょっと、事故に遭ってね」
本当は「事件の一部」だけど、事情を知らないようだから、教えることもないだろうと思った。梓を――ひいては拡大症患者を狙ったテロが起きた、なんて言って、怯えさせてしまっては元も子もない。
でも、美雨は『匂い』から隠し事の気配を察したらしい。黙ってじっと見上げてくる。言葉で要求してこない分、追及を躱《かわ》すのは難しい。
(侮《あなど》ってるのかな……)
年下だからといって、「これは教えていい」「あれは駄目」なんて情報を一方的に取捨選択するのは、相手の人格を無視した行いだ。あえて知らせる必要がないことと、知らせてはいけないことは違う。
仲良くなろうと提案したのに、そんな態度で接してはいけない。まして、美雨にはアロメトリィがある。嘘はかなりの確率でバレるから、彼女のために隠しておきたいことがあるなら、自分自身が嘘を本当だと信じるくらいの気持ちでいなければならない。
それができないなら、最初から話すべきだ。お互いのためにも。
僕はわずかに苦笑した。
「ごめん、事故っていうのは半分くらい嘘だった。そのときは事故だって思ってたけど、あとで、事件だったって分かったんだ。まあ、そのときはもう、第八号棟に通院してたけどね」
「事件?」美雨は、彼女にしては珍しく高い声で繰り返した。
「詳しいことは、警察から口止めされてるから言えないけど」これは本当だ。「あ、その事件はもう解決してるから大丈夫だよ。危ないことも、まあ、そんなにはなかったし」
「明珠さんが解決したんですか?」
「まさか」僕は笑った。「僕は巻き込まれただけ。少しは警察に協力したけど、直接的には何もしてないよ」
そう、あの事件を解決に導いたのは、彼女だ。僕はただ、あの場にいた人を守ろうとしていたに過ぎない。
美雨は、事件という単語に強張らせていた躰から緊張を抜いた。長い息を吐き、背もたれに寄りかかる。
「この間、お姉ちゃんに会ったんです」彼女はぽつりと言った。
「うん」
「明珠さんと仲良くなったって言ったら、良かったねって言ってくれました。でも、事件のことなんて言わなかったのに……」かぶりを振った。「たまに、何も言ってくれないことがあるんです。わたしに心配させないようにっていうことだと思うんですけど……」
「……事件のことを知ったら、どうなったと思う?」
「え?」美雨は顔を上げた。
「僕が事件に巻き込まれたって言われて、何か変わるかな?」
「あ……」少しの間、彼女は口を開けていた。やがて目を細め、「そうですよね。別に、何も変わりませんよね」
「まあ、『僕が事件を起こした』とかってことなら、変わるかもしれないけど」冗談めかして言った。
「それは怖いです」
少しの間、二人して笑った。すると美雨は、笑いながら「そうだ」と言った。
「今度、明珠さんも一緒にドライブに行きませんか?」
「え? でも……」
「大丈夫です。五人くらいなら乗れるクルマです」
「いや、そうじゃなくて」
櫃岡さんが何て言うか。いや、美雨と仲良くなったことはもう認めてくれているらしいし、今さら反対されることはないと思うけど。
それに、姉妹水入らずで出かけるのに、間に割って入るのは気が引ける。誘ってくれたのは嬉しいけど、それでほいほいついていくっていうのもなあ……。
「駄目……ですか?」美雨が表情を曇らせた。
「だって、せっかく二人きりで出かけられる機会なんでしょ? 行きたくないわけじゃないっていうかむしろ一緒に行きたいけど、邪魔しちゃ悪いし」
「邪魔なんかじゃないです」美雨はきっぱりと言った。
「そう?」
「はい」
まあ、そうじゃなきゃ「一緒に行きませんか」なんて言うわけないか。社交辞令で誘うようなタイミングじゃなかったし、第一、美雨がそんなことをするとは思えない。
だったら、気を遣いすぎるのも失礼かな。僕は少し考えて、
「じゃあ、お言葉に甘えてご一緒させてもらうよ」
「はい」美雨は満面の笑みを浮かべた。
「でさ」
「はい?」
「良かったらだけど、もう一人、一緒でもいいかな」
「え……」美雨の顔から表情が消えた。「誰、ですか?」
「僕が知ってる患者の子だよ。ちょっと変わってるけど、悪い子じゃないから」
「お友達、ですか?」
「そうだね」僕は微笑を向けた。「もちろん、人が増えて困るならそう言ってくれていい。そもそも、その子だって誘ってOKするとは限らないし」
美雨はうつむいた。失敗だったかな、とこめかみに指を当てる。友達の友達は友達、とは、必ずしもならない。それは、第八号棟の患者であろうがそうでなかろうが同じだ。
やっぱりいいよ。そう言おうとしたとき、美雨が顔を上げて正面から僕の顔を見た。
「分かりました。いいですよ」
「え? ホントに?」
「明珠さんのお友達なら、会っても大丈夫だと思います」
そう言いながらも、美雨の顔には「一大決心しました」みたいな色が浮かんでいた。
僕は「ありがとう」と言いながら、お姫様は応じてくれるだろうか、と考える。
話を終え、どうかな、と言いかけると同時に、唇が開くのが見えた。
「嫌よ」
「……早すぎるよ」
「だって嫌なの」
梓が何を嫌がっているかというと、もちろん、例のドライブの件だ。善は急げと、美雨から受けた提案をそのまま伝えてみたのだけど。
僕は椅子に座ったまま、身を乗り出した。梓は梓で、「わたしは機嫌を損ねています」という態度をあからさまに表現している。具体的には、足を投げ出してベッドに座り、僕のほうを見ようともしない。
「やっぱり、外に出たくない?」
無視。僕はこめかみに指を当てた。
視覚拡大症『幻視』の症状を持つ梓は、外出に関して美雨以上にハンデを負っている。顔を判別できる程度の距離にいれば、どんな人の思考も問答無用で『視て』しまうのだ。相手の姿が肉眼で見えるなら、だけど、言い換えれば、クルマの中では安心できない。美雨と違って、ガラスでは彼女の症状を遮断できないのだ。
もちろん、ゴーグルをつけていれば問題はクリアできる。肉眼で見なければ梓の幻視は発現しないから、外見さえ気にしなければ外出に支障はない。
とはいえ、そんなことは梓でないから言えるだけだ。彼女は、第八号棟の外に出ることを物凄く嫌がっている。それは、症状や見た目だけが原因じゃない。梓は第八号棟に来る前、年齢が一桁のうちに、外で地獄を見てきたのだ。
しかも、『それ』が地獄であると知らないまま。
今の梓は、外の世界にも楽しいことがあると知っている。でも、それとこれとは別だ。頂上から見える景色が素晴らしいものだと分かっていても、誰もが山を登ろうとするわけじゃない。
梓の横顔を見る。唇が真一文字に結ばれた横顔を。
鉄壁だった。
「分かったよ。無理には誘わないから、機嫌直してくれないかな」
「怒ってなんかいないわよ」電光石火で言われた。
「うん、分かってるから」
「分かってないじゃない」
梓がやっと僕に顔を向けた。口がへの字になっている。睨まれてる、睨まれてるぞ。
怒ってるじゃないか、と返したいのをぐっとこらえた。
「何が分かってないって?」
「そ、……言えるわけないでしょ、そんなこと」
「ええ?」
そう言われたら、どうすれば良いのか。僕は眉尻を下げた。
「意味が分からないよ」
「別に、明珠が気づかないならいいわ。たいした問題じゃないし」
(……たいした問題だと思うけど)
梓の態度からして、ここで気づけなければどういう展開になるか、想像するだに恐怖だった。僕は必死に頭を使う。
分かってない、というのは、梓にとっては自明なことを僕自身が分かっていない、という意味だ。だから、梓になったつもりで考えてみれば答えは分かる――とはいかないのが問題だった。
梓は単純なようでいて複雑というか、感情的になりがちだから、そこが読めない。彼女の立場をイメージすることはできても、それに対して梓がどう感じるのか、そこまでは想像が及ばないのだ。
まして、今回に関しては、特に怒りを感じそうなポジションとは思えない。僕は美雨の提案を伝えただけだし、無理に連れ出そうともしていないし。
時間が経つにつれて、梓の機嫌が急角度に傾いていくのが分かる。垂直になったらどうなるんだろう。反対側に倒れていって、最終的には水平に戻るのか? いや、それはもう完璧に怒り狂っている状態かもしれない。あるいは怒りを通り越している段階か。
(待て待て)
思考が空回りしている。どうする、どうしよう。
唸っていると、梓がまた顔を背けた。まずい、と心が悲鳴を上げるのが分かる。
「……どうせ、ドライブに行くほうが楽しいんでしょ」あるかなしかの呟き。
「え?」
「っ……!」梓がマッハ2くらいで(適当)振り向いた。「……聞こえたの?」
「いいえ全くもって何も耳にしておりませんよ」と言いたくなるのをぐっとこらえた。中途半端な否定は、もはや死を意味する。
「えっと……、まあ、多少」
「どこまで」ずいっと身を乗り出す。
「たぶん、全部」
今度は梓がうずくまる番だった。膝を抱え、背を丸め、爪先でばたばたとベッドを踏みつける。呻きか唸りか、とにかく低い声が効果音のように響いてきた。
「あの……、梓さん?」防衛本能が、敬称をつけろと命じた。
「……何よ」
「誤解がないように言っておきたいんだけど、僕は別に、梓より美雨と話してるほうが楽しいとか、そんなことは思ってないからね?」
「だったらどうしてドライブに行くのよ」怒っているというより、拗ねている声だった。
「誘われたから、かな」
梓がゆらりと顔を上げた。怖い。目元が見えなくても相当怖い。僕は慌てて手を振り、
「誘われたら何でもOKってわけじゃないよ」
「でもOKすることもあるんでしょ」すぐに言われた。
「誘ってきたのが美雨じゃなくても、都合が合えば応じるよ」
梓は少しだけ考え込むように顔の向きを変え、「…………わたしでも?」
「もちろん。何かしたいことがあるなら、言ってくれたらできるだけ応えるよ?」
僕は必死に主張した。言いながら、梓が何に怒っていたか分かった気がした。
梓はまた、口を閉ざした。顎に手を当てる、例の思考ポーズ。僕は針の筵《むしろ》に――というのは誇張で、たわしの上に座らされたくらいの気分で、彼女が口を開くのをじっと待った。
やがて梓が顔をこちらに向け、
「じゃあ、ドライブに行く日、ここで一緒にDVD観ようって言ったら?」
「それは|ドライブ《せんやく》があるから無理って答える」
「嘘つき」
「違うって。僕は約束を破りたくないんだ。美雨とはもう、ドライブに行くって約束をした。日程は決めてないけど、向こうが『やっぱりやめた』って言わない限り、行くって決めたんだよ。DVDを観るのはどうしてもその日じゃなきゃ駄目っていうなら考えるけど、そうじゃないなら、僕は先に入れた予定を優先する」
ここはきっぱり言うべきだと思い、僕はそう言い切った。
梓は口をへの字に曲げたまま、
「分かったわよ」と言った。「我儘を言ってみただけ。ドライブに行くなとか、約束を破れとか、そんなこと言うつもりないから」
僕は胸を撫で下ろした。緊張で張り詰めていた神経が緩む。良かった良かった。
罠だった。
「じゃあ今度、海外ドラマのシリーズ、全部一緒に観ましょう」
「え?」
「ちなみに五十話くらいあるから」
「……一話、何分くらい?」
「一時間よ」
「物理的に、一日じゃ終わらないと思うんだけど」
「一日十話として、一週間あれば終わるじゃない」
「そりゃそうだけど」思わず同意。
「決まりね」
決まってしまった。ちょっと待って、と言おうとしたけど、梓の表情を見て、その言葉を飲み込んだ。
ゴーグルの奥にある双眸は見えないけど、満面に笑みを浮かべているのは分かった。
肩の力を抜く。こんなとき、梓には敵わないな、と思う。美雨を見たとき、梓はおてんばな姫みたいだとたとえたけど、今から思えばあながち的外れじゃなかったわけだ。
とはいえ、やられっぱなしは癪《しゃく》なので、反撃に転じることにした。まあ、謎を解明するためという大義名分もあるのだけど。
「ところで、さっき僕に『分かってない』って言ってたけど、何が分かってないって意味だったの?」
また仏頂面になった。梓の笑顔の寿命は短いのだ。
「……言えるわけないって言ったじゃない」
「でも、もう争いの種はなくなったわけだし、教えてくれてもいいと思う」
「嫌よ」
「そこを何とか」
「駄目なものは駄目」
いつになく頑なだった。思ったよりガードが堅い。
まあ、間接的にでも急所を衝けたみたいなので、今回は良しとしよう。僕は椅子から立ち上がった。
「戻るの?」梓が見上げる。
「いや、コーヒー。梓も飲む?」
「うん」
僕はコーヒーメーカをセットした。梓のカップには砂糖とミルクをたっぷり入れてやろうかと一瞬だけ考えたけど、復讐というにはあまりにもせこいので、やめておいた。
べたべたな甘さなんて、似合わないものだし。
ドライブ計画が実行に移されないまま、一週間が過ぎた。
その間、僕は何度か第八号棟に行き、そのたびに梓の部屋でDVDを観ることになった。当初の一日十話作戦は、時間的な都合で一日五話になり、それに応じて期間も倍に延びたことになる。
三回目の鑑賞会が終わったあと、眉間をほぐす僕に「ねえ」と梓が声をかけてきた。
「明珠って、夜はいつもあの子と会ってるの?」
「美雨のこと? いつもじゃないけど、まあ、そこそこ」
梓はゴーグルをつけながら「そう」と言った。DVDを観るときはゴーグルを外さないと、画面に変なノイズが混じるらしい。
コーヒーメーカのスイッチを入れながら、「なんで」と訊く。
「え?」
「いや、なんでそんなこと訊くのかなって」
「別に……。気になったから」
「会ってみる?」
「はあ?」
ゴーグルで隠れていても、というか見えなくても、梓が顔をしかめたのが分かった。
「なんで会わなきゃいけないのよ」
「いけないってことはないよ」僕は笑った。コーヒーを満たしたカップ二つを持ってベッドサイドに戻り、「話してみるつもりはないかなって思って」
「理由がないわ」
「でも、気になってるんじゃない? 美雨の話になると、なんか態度が変わるし」
チェストに置いたマグカップを両手で持ち、梓は口を尖らせた。僕は椅子の横に立ったまま、熱いコーヒーを一口。
「なんで、……と思ってんのよ」梓がぶつぶつ呟いた。
「え?」
「何でもない」
梓は顔にかかる髪をばさりと跳ね上げ、「とにかく、会う気はないわ」
「美雨が会ってみたいって言っても?」
「言ってるの?」高い声で言った。
「いや、訊いたことはないけど」
「どうせ、その子だって会おうとはしないはずよ。大体、わたしたちが会いたいって言ったところで、許可されるとは思えないわ。前もそうだったんだし」
前、というのは、僕がまだ第八号棟の存在さえ知らなかったときのことだろう。梓がほかの患者と会っていた時期、美雨とだけは話す機会が設けられなかった件だ。
今なら分かる。梓と美雨は、拡大した感覚が違うとはいえ、症状は似ている。どちらも人の心に関わるものだ。それに、二人とも初対面の人と話すのが苦手っぽいから、その点でも話は流れたのだろう。
でも、今なら? 梓も美雨も、偶然の助けがあったとはいえ、僕とは普通に喋ることができている。僕が他人の警戒を解くのが特別得意だ、なんてことはないはずなので、二人とも、機会さえあれば他人と話すことはできるんじゃないだろうか。
僕は少し考え、
「じゃあ、少なくとも美雨のほうから会いたいって言ったら、応じてみてもいいかなくらいは思ってる?」
「考えてみてもいいわ」そんなことになるはずがない、と確信しているような口調だった。
「分かった」
僕はそれ以上、この話を発展させようとはしなかった。コーヒーを口に含む。
それからは、お互いDVDの感想を言い合い、食事どきになったので梓の部屋を出た。食堂に行く前に、新留さんの部屋に向かう。
「おや、いらっしゃい」
例のお見合い事件(事件?)のことはようやく吹っ切れたらしく、最近の新留さんは機嫌が良い。僕は飲み物を断り、用件を単刀直入に告げることにした。
「あの、梓と美雨と会わせるのって、やっぱり許可が要りますか?」
「会わせる?」新留さんは眉を顰めた。箱から出した煙草を唇に挟み、「どうする気?」
「いえ、まだ二人がどうしたいか確認してないんですけど、もし、お互い話してみたいってことになったら、主治医の先生に話を通したりしないといけないのかなって」
新留さんは煙草に火を点け、大きく煙を吐き出した。
「まあ、話の場を無断でセッティングしたら、あとで文句は言われるだろうね」
「やっぱり、そうですか」
「それに文句だけならいいけど、最悪、治療妨害とかって正式に処分を受ける可能性もある。もちろん、瀬畑君じゃなくわたしがね。良くて減俸、悪けりゃ謹慎かな」
「じゃあ、美雨の先生に許可をもらえばいいんですか?」|梓の主治医《しのはらさん》さんはOKするはずだ、と勝手に思い込んでいる。
「そうなんだけど、許すかなあ、あの堅物が」新留さんは眉間に皺を寄せた。
「そんなにお堅い人なんですか? 前もそんなこと言ってましたけど……」
「頭がね。柔軟性が足りない。良くも悪くも理論派の人だよ。思春期の子供の心理ってものを理解してないんだな」
思春期の子供、と言われて、なんとなく気恥ずかしさを覚える。
「というわけで、話を通すのは難しいかもね。ただでさえ、自分の担当患者に干渉されるのを好まない人だから」
「そうですか……」僕は肩を落とした。
「ただ、ねえ」
声が変わる。思わず、新留さんの顔を見上げた。
悪戯っ子そのままの、にやにやした笑み。
「夜、上の中庭に出るときは、主治医に連絡することにしてる。これは、どの患者でも同じだね。だけど、『自分の担当患者が外に出るそうです』なんて、医者の間で連絡し合うことはないんだな」
「えっと……」
「もちろん、エレベータ内にはカメラがあるから、誰が出たかなんて調べればすぐに分かる。でも、そんなことをする職員はいない。患者が夜中にエレベータを使ったってことを、翌朝、出勤してから知る医者もいるくらいだし」
まさか新留さんのことですか、と訊きたいのをぐっと堪え、頭の中で情報を整理する。
答えを出す前に、言いたくて仕方ないという表情で、新留さんが口を開いた。
「だから、患者Sが患者Kを連れて中庭に出たとき、そこにたまたまいた患者Hと会ってしまって、あまつさえ話をしたとしても、それは不可抗力なんだよ」これまで以上に盛大な煙の吐きっぷりを見せ、「そこで何らかのトラブルが発生すれば別だけど、ただ話したってだけなら、誰にもお咎めはなしだね。そもそも発覚しないかもしれないし」
新留さんが医者らしくないと感じることはこれまでにもあったけど、今回ほどそう思ったことはない。僕は呆れるのを通り越して、感心さえしてしまった。
「……新留さん、それでよく誰からも睨まれないでいられますね」
「要領がいいんだよ」
彼女は胸を張って答えた。いや、そんな誇らしげに言われても。
僕はのろのろと腰を下ろした。力が抜ける。新留さんは、パソコンのモニタの向こうで満足そうに煙草を吸っていた。
だらりとした姿勢で虚脱していると、「しかし」と新留さんが言った。
「いきなり仲人の真似なんて、どういう風の吹き回しかな。『我関せず』が信条じゃなかったの?」
「そんなこと、言った憶えがないんですけど……」
「そういうキャラクタだって気がしたものでね。大体、他人に強制とか提案とか、あんまりしないじゃない。自分が当事者になるならともかく、今回はあの二人のことでしょう?」
「まあ、そうですけど」
「さては、お姫様に拗ねられでもした?」
新留さんは煙草を消しながら、またにやりと笑う。僕は苦笑して、
「違いますよ。ただ、梓と美雨は会って話してみるといいんじゃないかって、なんとなく思っただけです」
「あの子たちは、第八号棟《こ こ》の患者の中でも特に難しいよ。症状じゃなくて、生い立ちというか、性格的な面でね」新留さんは新しい煙草に火を点けた。「患者同士で会って、何が変わると思う? 何か変わると思う? 君と、梓みたいに」
「……梓と会ったとき、僕はまだ、自分が拡大症患者だって感じがあんまりしてませんでした。今も、ほかの患者に比べて、その意識が薄いだろうな、と思います」
僕は近くにあった灰皿を押しやり、テーブルに肘をついた。新留さんは黙ったまま、煙草の先から紫煙をくゆらせている。
「でも、梓も美雨も、僕が患者だからって理由で打ち解けてくれたんじゃないと思います。それに、僕が患者に見えないからってわけでもないと思うんです。だったら、僕が患者かどうかなんて、関係ないんじゃないかなって」
「ま、瀬畑君が患者らしからぬっていうのは、そのとおりだけどね」
あえて軽さを装った口調で、新留さんが言った。この位置からは見えないけど、もしかしたら、モニタに僕の検査結果が表示されているのかもしれない。
検査に立ち会った新留さんですら、「拡大症の患者とは思えない」と言い放ったデータ。
僕は微笑んだ。
「僕には、あの二人が会ってどうなるか想像できません。気が合うかもしれないし、反発するだけで終わるかもしれない。『会ったほうがいい』って思ったのは、たぶん――」
「たぶん?」
「お互い、『特別じゃないんだ』って、知ってもらいたいのかもしれません」
拡大症患者である、という点では特別でも、
人間としては、どこにでもいる女の子なのだと。
「なるほどね」新留さんは、珍しく優しげな笑みを見せた。「瀬畑君らしいじゃないか」
「そうですか?」
「自覚なしか。ま、そこも君らしいといえば君らしい」
よく分からなかった。首を傾げる。
新留さんは笑いながら、煙草を灰皿に押しつけた。
「たまたま[#「たまたま」に傍点]三人で会うことがあったら、瀬畑君がちゃんとフォローしないと駄目だよ。共通の知り合いは君だけなんだし」
「分かってますよ」僕は頷いた。
「お姫様の気持ちも分かってあげなよ」
「何言ってるんですか……」
ともあれ。
これなら、お姫様も部屋から出てきてくれるだろうか。
その夜の中庭で、僕は美雨に訊いてみた。僕の友達と、会ってみる気はある?
「前に言ってた患者の人と、ですか?」美雨は眉根を寄せた。
「患者の誰かと、って考えないでくれると嬉しいな。あくまで、僕の友達。もちろん、第八号棟の患者ではあるんだけど、だから友達になったってわけじゃないからね」
「でも、わたし、症状が……」
「うん、それは分かってる」僕は美雨の言葉を遮った。「美雨がOKしない限り、無断で連れてくるなんてことは絶対にしない。約束する。ただ、ちょっとでも会って話してみたいと思うんなら、どうかなってこと」
「その人は、会いたがってるんですか?」
「美雨が会いたいと思うなら来るって。こう言っちゃなんだけど、今のところ積極的に話したいとまでは思ってないみたい」
「じゃあ、その人には無理矢理ってことになるんじゃ……」
「いや、自分と会ってみたいって思うほどの子なら興味がある、って感じだったよ。えっと、つまり、美雨が会いたいって思えば、向こうも乗り気になると思う。今はともかくね」
いつものように、ベンチに並んで座っている。八月も半ばになり、夜はだいぶ涼しくなっていた。田舎だから、というのもあるのだろう。
月が翳っていて、中庭はいつも以上に暗く感じられた。
僕は美雨を刺激しないよう、努めて平静を保っていた。もともと感情の起伏が激しいほうじゃない、と思っているけれど、彼女の『鼻』の感度からいって、些細な揺らぎにも反応してしまう可能性が強い。
美雨は梓と違って、感情を『嗅ぐ』嗅覚拡大症患者だ。こちらが無心でいれば、症状が出てしまうこともないだろう。梓だと、「何も考えないでいよう」という思考さえも視られてしまう。
最近分かったのは、もし心を気取られたくなければ、音楽のことを考えるのが一番だ、ということ。鼻歌とか口笛とかを使っても良い。とにかく、メロディをイメージするのだ。それに集中している限り、心の平穏が破られることはそうそうないし、思考も曲だけに集中できる。
だから、美雨と会っていて、ふと言葉が尽きたときなど、歌を口ずさむことがしばしばあった。
「その歌、よく歌いますよね」不意に、美雨が言った。
「え?」その言葉で、僕は自分が歌っていることに気づいた。「ああ、また歌ってたか」
「ドミトリ、好きなんですか?」
「よく知ってるね」マイナだと思っていたので、僕は驚いた。
「ネットでたまたま見つけたんです。よく聴いてました」
「美雨もゲームとか興味あるの?」
「ちょっと」彼女は少し恥ずかしそうに頷いた。
ドミー・パトリウムは、ゲームやアニメの主題歌として起用されることが多いバンドだ。とはいえ、彼らをテーマソングに使うゲームがそもそも有名ではないので、一般的な知名度は低い。インディーズの中には、ドミトリより有名なバンドも少なからずある。
そういえば、ドミトリには電子ヴァイオリンを使う人がいるな、と思い出した。ささやかな疑問が浮かんだので、訊いてみることにする。
「前、部屋でヴァイオリンを弾くことがあるって言ってたけど、ドミトリの曲も演奏してみたりするの?」
「えっと……、たまに」美雨はますます赤くなった。「楽譜がないので、聞こえたとおりに弓を動かすだけですけど」
「へえ。ますます聴きたくなったなあ」
「え、あの、駄目ですそんなの」美雨はぱたぱたと手を振った。「全然できませんし」
「いや、美雨が弾いてるところが見たいっていうほうが強いんだけどね。まあいいや。いつか、機会があったらってことで」
それで、と僕はさりげなく水を向けた。「考えはまとまった?」
梓とのことだ。美雨はうつむきがちに、
「興味がないわけじゃないんですけど……」
「怖い?」
「…………、はい」頭を落とすように頷いた。
「自分の症状が? それとも相手の反応が?」
「え……。あの、違いがよく分かりません」
「あー、つまり」僕は考えをまとめようと、空を仰いだ。「何かの拍子に自分の症状が出てしまって、気分が悪くなったりするのが嫌なのか、そもそも相手が自分のことをどう思うか分からなくて頷けないのか、って感じかな。あとは……、そう、相手の症状が分からないから、とか」
「……全部、ちょっとずつそう思ってます」
「うーん、まあ、そうなるよね。少なくとも、自分の症状がどうなるかは、会ってみるまで分からないからなあ」
最初から直接会うのではなく、ガラス越しにでも話してみてから……とかだと、まだハードルは下げられるかもしれない。でも、美雨の主治医のことを考えると、そんな段階は踏めなさそうだ。美雨もそれが分かっているから、なかなか判断できないのだろう。
とはいえ、判断できないということは、美雨が自分で言ったように、興味もあるわけだ。ただ、今一歩踏み込めない。今の美雨は、そういう心境なのだろう。
だとしたら。
「でもさ、美雨」僕は、最大限の自制を働かせて言った。「僕以外にも、友達がいたらって思わない?」
「友達……」
「別に、友達って限定しなくてもいいかな。要するに、いろいろ話し合える、同世代の知り合いがいたらって思ったことはない?」
美雨が『発症』した原因を、僕は知らない。でも、これまでの会話から、彼女が話し相手を欲しがっていることはなんとなく分かっていた。それを隠しているのは、主治医が許してくれなさそうということもあるにせよ、自分の症状が症状だからだろう。
この点、梓とは対照的だ。梓の場合、ゴーグルさえあれば他人と話すのに支障はない。少なくとも、症状が出ないように話すのは可能なのだ。ただ、彼女はその過去からいって、他人と話すのを好まない。現に、僕が今みたいに会話できるようになったのは、例の事件のあとからだ。
他方、美雨は誰かと話したいと思っても、相手と同じ空間にいる限り、症状が出てしまうという恐怖から逃れられることができない。話し相手のほうが、症状についてちゃんと把握し、美雨にストレスをかけないよう精神をコントロールし続けなければ、会話を続けるのは無理だ。
そう考えると、拡大症患者が抱えるストレスにもいろいろあるんだな、と思う。最初、僕は患者のストレスに関して、『本来なら感じられるはずのないものを感じてしまう』だけだと思っていた。それが、大なり小なり脳に負担をかけているのだと。
でも、それだけじゃない。拡大症患者には、叶えられない願い、結ばれない想いがある。素顔をさらしたくてもできなかったり、面と向かって気軽に話したいと思っても恐れてしまったり、
……触れたいと願っても、指先が止まってしまったり。
こればかりは、精神論でどうにかなる問題じゃない。そういうストレスは、概して本人のトラウマに直結しているからだ。新留さんや櫃岡さんに言われたことを思い出すまでもなく、よく分かる。拡大症患者の心の傷は、それほどまでに深い。
でも。
いろいろな偶然が重なった結果とはいえ、美雨はこちら側に足を踏み出した。
なら、二歩目を出してみるのも悪くないんじゃないか。そう、思ってくれないだろうか。
「わたしは……」美雨が囁いた。「でも――」
「今でこそ、僕は頻繁に第八号棟《こ こ》に来ることができる」夏休みだからね、と続ける。「でも、九月になったらそういうわけにもいかない。基本的に、週末しか来られないから。美雨は、それでいいの? 誰かと話せるのが、週に一度になるんだよ」
ずるい言い方だな、と思う。でも、その自嘲すら封じる。
「まあ、僕から話しかけて、今みたいにいろいろ話す間柄になったんだから、こういう言い方ができる筋合いじゃないんだけど。そういう意味じゃ、あのとき話しかけたのは迷惑だったかな……」
「そんなことはないです」美雨はすぐに言った。
「うん。そう言ってくれると思ってたよ」僕は微笑んだ。「だけど、それで美雨が寂しい思いをすることになるなら、やっぱり僕にも責任があると思う。だから、日ごろから気軽に話せる相手がいたらいいんじゃないかって、そう思ったんだ。無理強いしないって言っておきながらしつこく勧めてるのは、そういうことだよ」
「……相手の人も、そうなんですか?」
「ん? そうって?」
「えっと……、だから、明珠さんが話しかけて、でも平日は会えないから……」
「うん、まあ、そんな感じ」頷いた。「とはいっても、僕だって会ってからまだ三ヶ月とちょっとだからね。美雨よりは付き合い長いけど、そんなもんだよ」
「じゃあ、わたしが会いたいって言ったら、その人にとっても得なんですか?」
「損得で考えることかどうか分からないけど、いい感じになるんじゃないかって思う。女の子同士、いろいろ話したいこともあるだろうし」
「あ、女性なんですか?」美雨は首を傾げた。
「言わなかったっけ?」
「はい」
「もしかして、それがネックになってた?」
「少し、ですけど」彼女は少し眉を寄せた。
「そっか、言った気になってたみたいだね。うん、女の子だよ」
年上だから女の「子」という言い方は適切じゃないような気もするけれど、まあ、梓はあんな感じだから、構わないだろう。それに、本人も「年齢なんてどうでもいい」みたいなことを言っていたし。
少しと言いながら、相手の性別はそれなりに重要なファクタだったらしい。美雨は、さっきよりだいぶ安心しているようだった。こんなことならさっさと確認しておけば良かった、とちょっと後悔。
と、美雨が表情を少し歪めた。すぐに気づく。『後悔』が洩れたのだろう。ネガティブな感情は『嫌な匂い』として認識してしまうようだから、わずかな感情の揺れにも反応してしまうのだ。
「あ……、ごめん」
「いえ……」
美雨は短く応えると、束の間、思考や情緒といったものを根こそぎ忘れたような態度を取った。人形のような、というか、あえて人形のふりをしているように見える。
これが、彼女なりの『自衛』なのだろう。すべての感覚を鈍化させることで、アロメトリィをシャットアウトする。他人と外的に遮断できないのなら、内側に壁を作るしかない。自分の心を守るため、美雨は守るべき心さえも止めなければならないのだ。
こんなに小さな女の子なのに。
だけど、美雨の前では憐れみも許されない。そんな感情を抱いたら、彼女がまた閉じてしまうから。
だから僕は、感情をリセットした。せめてこの夜の中庭だけでも、自分が拡大症患者であると、彼女が意識せずに済むように。
「美雨」
名前を呼ぶ。
彼女の目に、ゆっくりと光が灯る。
美雨は僕の顔を見上げ、ゆっくりと微笑した。
「明珠さん」
「うん」
「わたし、会ってみたいです」
「分かった」
問い質すことはない。
今は、彼女の意思を尊重しよう。
そう、思った。
「なるほどねえ。そんな話になったのか」
翌朝の食堂。たまたま会った篠原さんに話をすると、彼はそう言って頷いた。お互い、飲み物は熱いコーヒー。加えて、僕は数種類のパン、篠原さんはコーンフレークとヨーグルトを前にしている。
篠原さんは相変わらず、ぼさぼさ頭によれたスーツといった出で立ちだった。「彼女がいない男の一人暮らしです」と全身で主張しているような感じだ。いや、実際どうか分からないけど。
彼はシリアルをのんびり食べながら、
「しかし、紗織先生もまたそんなことを……」少し愚痴っぽく言った。
「本当にいいんでしょうか」
「規則上は、もちろん良くないけどね」篠原さんは斜め上を見て、「だけど、あの人の性格を考えたら、そうするしかないかなあ」
「あの人?」
「海老原先生っていって、美雨ちゃんの主治医の人。えっと……、あ、いた。見えるかな。あそこに座ってる男性」
篠原さんは食堂をぐるりと見渡してから、テレビに近い位置に陣取った中年男性を指し示した。白髪交じりの頭は、遠目には灰色に見える。口髭をたくわえていて、なんとなく大学教授っぽいイメージだ。
純和風の朝食を箸でつつきながら、ニュースを熱心に眺めている。周りには、彼より年下と思われる白衣の男性が二人いて、何事か話していた。彼も、たまに相槌を打っている。
「紗織先生から聞いてるかもしれないけど、ちょっと堅いんだよね。考え方が昔風っていうのかな。内科医としてはベテランなんだけど……」
拡大症の医者としてはそうでもない、ということか。確かに、そういう雰囲気があるように見える。
そもそも、感覚拡大症は認知されて日が浅い。まだ十年くらいだそうで、その意味では、キャリアといってもみんな大差ないのだろう。
ただ、症状がかなり特殊だから、人によってはそれを受け入れにくいのだと思う。実際、警察の上層部なんかでは、超能力と同じという認識しか持っていない人も大勢いるらしいし。
つまり、拡大症をあくまで病気と捉えるには、ある程度の柔軟性が必要なのだ。頭が固いと、患者との接し方もぎくしゃくしてしまうだろう。
そうして食堂にいる人を見てみると、歳を取った人があまりいないことに気づいた。三十代が一番多そうだ。次が二十代、それから四十代といったところか。とすると、海老原さんは最年長の部類に入るのだろう。
僕は、彼に聞こえるはずがないと分かっていながら、篠原さんに顔を寄せた。
「美雨は、それで大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫って?」
「えっと、だから……、適切な扱いを受けているのかな、とか」
「海老原先生も、第八号棟に来る前に患者を受け持っていたし、その中には子供もいたはずだよ。だから、その点では心配ないと思う」
「でも、拡大症ですよ」
「そうなんだよねえ……」篠原さんは語尾に重ねるように息を吐いた。「彼女、瀬畑君には何か言ってない?」
「いえ、何も。なんとなく、拡大症と関わるような話題は避けてるので……」
「ああ、そうか。そうだね」彼は何度か頷いた。「だけど、もし何かありそうなら、訊いてみてくれないかな。患者にこういう話をするのもどうかと思うけど、自分が担当していない患者のことは、症状くらいしか分からないんだよ。紗織先生は、個人的に何人かとコミュニケーションしてるみたいだけど、それくらいだね。患者のほうも、その、他人とコンタクトを取るのが苦手な子が多いし」
「何かあっても発覚しづらいってことですか?」
「残念ながらね」
僕が知っている患者は梓と美雨だけだけど、篠原さんの言うとおり、二人とも他人と関わるのが苦手だ。いざ何か問題が起きても、他人に伝えるのを躊躇してしまうだろう。内容がどうこうという問題ではなく、行為として。
幸い、梓は主治医との間に問題が起きるとは思えないので、気を配るとしたら美雨のほうか。今度、さりげなく尋ねてみたほうが良いかもしれない。
(杞憂であればいいけど……)
「それにしても、瀬畑君も変わったねえ」
考え事に没頭しかけたところで、篠原さんがそう言った。僕は少し驚いて、コーヒーの黒い液面から顔を上げる。
彼はいつものように、柔和な微笑。
「何が変わりましたか?」僕は訊いた。
「うん。今だから言うけど、瀬畑君って最初のころ、梓ちゃんを患者としてしか[#「患者としてしか」に傍点]見てなかったんじゃないかな? もちろん、第八号棟に来たばかりだったし、まだあの子個人のことを何も知らないときだったから、無理もないんだけど」
「そう、見えましたか?」
「僕にはね。まあ、梓ちゃんも『妙な新入りが来たぞ』って感じだったから、瀬畑君がそんな態度でもおかしくはなかったと思う。お互い、初対面が第八号棟《こ こ》だったら、やっぱり相手を患者として見てしまうと思うし」
「じゃあ、今はどうなんでしょうか」
「ちゃんと、患者じゃない部分もしっかり見てくれてるなって思うよ。梓ちゃんのことも、たぶん美雨ちゃんのことも。それでいて、患者として引くべき一線は守ってるよね」
「えっと……、普通、そういうものじゃないんですか?」面映《おもは》ゆくなった。
「そうでもないよ。第八号棟に限った話じゃなくて、上の時任病院でもね。面会に来た友達や家族が、患者を『病人だから』って気遣いすぎて、入院してる側が落ち込んでしまうこともある。相手に悪気はないって分かってても、そういうふうに扱われてショックを受ける患者は多いんだよ」
そうだろうな、と思う。たとえば風邪をひいて家で寝込んでいるとき、トイレに立っただけでも「どうしたの」といささか過剰に心配されることがある。それを煩わしいと感じてしまうことも。
何も、病人に限った話じゃない。子供のころ、ちょっと重いけど充分に持てそうなものを運ぼうとして、「危なっかしい」という理由で取り上げられたことがある。女性だと、成長しても似たような経験をすることがあるかもしれない。年齢とか性別とかは自分ではどうしようもない部分なだけに、一層やるせない気分になってしまうのだ。
ある意味それは、相手を人としてじゃなく、属性として見ていることになると思う。誰だって、子供や女性や病人である前に、一人の人間だ。そこは、間違えてはいけないラインじゃないだろうか。
小さな親切、大きなお世話。そんな言葉を思い出した。
「医者や看護師だって同じだよ」篠原さんはいつの間にかコーンフレークを食べ終わり、ヨーグルトをかき混ぜていた。「人手や効率の問題もあるんだけど、患者を患者としてしか見ることができない人はいる。まして拡大症の場合、患者を『研究対象』という見方をする人もいるからね」
「……やっぱり、そうなんですか?」
「主に、組織の上のほうの話だけど」篠原さんはぽつりと呟いてから、我に返ったように苦笑を浮かべた。「まあ、だから何が言いたいかっていうと、瀬畑君のそういう姿勢は見習うべきものがあるなって」
「そんなに大層なことをしてるつもりはないんですけど……」
「そう言えるのがいいんだよ」
篠原さんはヨーグルトを一気に流し込むと、コーヒーをお代わりしに立ち上がった。僕はその間に、あまり減っていないパンを食べようとお皿に手を伸ばす。
が、パンを千切ったところで、手を止めざるをえなかった。テーブルの向かいに、人が立ち止まったからだ。
見上げる。
灰色に見える頭。口髭。大学教授のようなイメージ。
海老原さんだった。左右には、さっき一緒に見た白衣の男性二人が並んでいる。
彼は、鋭い眼光で見下ろしてきた。その視線に、僕は恐れより寒気を感じる。何だろう、これは……。
「君が」彼は渋い声で言った。「わたしの患者とよく会っているという少年か?」
「……『わたしの』患者って、誰ですか?」その言い方がなんとなく気に入らなくて、あえて訊いた。
「櫃岡美雨だ」海老原さんは断言した。
「夜中に、中庭で会うことはたまにあります」
「ふむ」彼はテーブルの上に少しだけ身を乗り出し、「何か、余計なことを言っていないだろうね」
「余計なこと?」予想外の一言に、思わず反復する。
「そうだ」
「僕がってことですか? たとえば、どんなことを?」
「分からないのかね?」
「はい」本音だった。
「…………、まあいい」彼は上半身を起こした。今ごろ気づいたけど、かなりがっしりした体格だった。「いずれにせよ、わたしの患者とあまり頻繁に会わないでくれ。症状にどんな影響が出るか分からん」
「……雑談しかしてませんけど、それで何か変化があるんですか?」
「失礼だぞ、君」「医学的見地から、慎重にならなければならないんだ」
横の二人が、口々に言ってきた。海老原さんが、片手を上げて彼らを制する。
「患者の身を案じてのことだ。感覚拡大症が未知の領域だからこそ、些細なことにも気を配らなければならないのだよ」
(篠原さんの言ったとおりだ)
堅物どころの話じゃない。考えが固定化してしまっている。さっき感じた寒気は、これが原因か。まるで、相手が人間ではないような……。
この人と会うとき、美雨はいつも何を感じているのだろう?
「話はそれだけだ。食事の邪魔をした」
立ち去ろうとする海老原さんの背中に向けて、僕は反射的に口を開いた。
「一つだけ、質問があります」
「何だね」彼は肩越しに振り向いた。
「美雨が……」唾を飲み込む。「どんな音楽を好きか、ご存じですか?」
「ヴァイオリンを弾くようだが。それがどうかしたかね?」
「いえ……。分かりました。ありがとうございます」
海老原さんは片方の眉を上げると、何も言わずに歩いていった。男性二人が、あとに続く。僕はそれを最後まで見送ることなく、テーブルの上に目線を落とした。
入れ違いに、篠原さんが向かいの席に腰を下ろした。
「どうかした? 海老原先生と話してたみたいだけど」
「どういう人か分かりました」
僕はそれだけ言って、食事を再開した。
少し気持ちが悪かったけど、それは、冷めてしまったコーヒーのせいにした。
食後、部屋で気持ちを落ち着けてから、梓のところに行った。食堂でのことは、何も考えない。梓がゴーグルをつけていようといまいと、この感情を、思考を、気取られるわけにはいかなかった。
入院患者用の区画は、いつものように低いノイズが聞こえるだけ。
全くの無音に置かれると、人は痛みを感じるらしい。耳か、脳か、それは分からないけれど、たぶん本当だろう。このノイズは、それを消すためにあえて流しているのだろうか。一瞬、そんなことを考えた。
この中に、美雨もいるのだろう。中庭で何度も話しているのに、いまだ彼女の部屋を訪ねたことはない。場所も知らない。
海老原さんのことを連想してしまう。
キャンセル。
梓の部屋に着くと、ドアをノックした。上機嫌な返事。ドアを開け、中に入る。
「おはよう」
ベッドに腰掛けた梓は、ちょうどゴーグルをつけるところだった。今日はオーソドックスなセーラ服に、紺色のスカートといった服装だ。長い髪を払い、立ち上がる。
「おはよう。ちょっと遅かったわね」
「そう?」自覚がなかった。
「ほんのちょっとね。まあ、もう少し早く来ても、着替えてる最中だったから困ったと思うけど」
「それはまずい」
真面目くさって応えると、何が可笑しかったのか梓はくすくすと笑い出した。妙にテンションが高い。レベル2くらい上がっていそうだ。
「機嫌、良さそうだね」
「まあね。ま、ちょっとしたことなんだけど」梓は気取った口調で応えた。
コーヒーメーカのほうに歩いていく梓の背中を見ながら、今なら良いかな、と判断する。
「あのさ、梓」
「何?」
「会ってみたいって」
梓の動きが止まった。誰が、と言わなくても、通じたのだろう。
ゆっくりと振り向く。口元が微笑のまま引きつっているように見えるのは、たぶん錯覚じゃない。
「……ホントに?」
「もちろん。いつかはまだ決めてないけど、まあ、夜なら中庭に行けばたぶん会えるし、いつでもいいんじゃないかな」一応訊いてみるけど、と補足する。
美雨が「会いたい」と言うとは思っていなかったのか、梓は露骨に動揺していた。以前、話を持ちかけたときは、「どうしてもと言うなら会ってもいい」くらいの感じだったのに。
髪を整えたり、無意味にコーヒーメーカに触れたりと、見事に落ち着きがない。ゴーグルの下で、目も左右に揺れていることだろう。今ごろ逃げ道を探しているようだ。
「あ、でも、夜だといろいろ危ないんじゃない? 夜だし」意味不明だった。
「たぶん、昼間でも事前に言えば大丈夫だと思うけど……」
「ただ話すだけでしょう? どこかでばったり会ったとき、お互い時間があればお茶でも飲みながら、って感じでいいんじゃないかしら」
「そんなこと言っても、梓は部屋を出ないじゃないか」シリアスな指摘のはずなのに、単なるツッコミになってしまった。
「そうだけど……。あ、そうだ」梓は両手を軽く打ち鳴らした。「患者同士が会うには、主治医の許可が必要なはずよ。篠原さんはともかく、相手の子のほうは、いいって言ってるの?」
予期せぬ反撃だった。僕は言葉に詰まる。梓の指摘がこちらの急所を突いたというより、海老原さんのことを思い出してしまったからだ。
表情を隠しきれなかった。梓が、動揺を瞬時に消し去る。唇を真一文字にし、こちらに一歩だけ踏み込んできた。
「何かあったの?」
「いや、別に……」思わず、顔を背けながら答える。
梓の逡巡は短かった。視界の端で、彼女が素早く手を上げるのが見える――自分の顔に向けて[#「自分の顔に向けて」に傍点]。
何をしようとしているか、分からないはずがない。
僕は咄嗟に近寄り、梓の手首を掴んだ。
何も考えていなかった。
自分の症状のことも。
透過触覚。
指先が彼女の皮膚に食い込み、掌が沈んでいく。
肌の張り。脂肪の柔らかさ。筋肉の弾力。血管と、そこに流れる生命の赤色。意志の断片を伝える神経が、僕の触覚を次々にすり抜けていく。
そのとき感じたのは、紛れもなく――
嫌悪、だった。
拡大症患者でありながら症状へのストレスがほとんどない僕にも、例外がある。それが、他人の躰だ。自分の躰や、他人でも一瞬だけ肌に触れる程度ならともかく、体内への干渉には強い拒絶を感じる。
まして、今は意識しない行動だったので、心の準備が全くできていなかった。熱した鉄板に触れてしまったときのように、手を振り払う。よろよろと後退った。
息が荒い。眩暈《めまい》がする。血の気が引いているのが分かった。視界がぼんやりして、梓の顔をまともに見られなかった。
呼吸を整え、自分の鼓動を意識する。リズムをコントロール。数をカウントし、拍動を同調させる。
たぶん、三十秒くらいで平常に戻れたと思う。僕は深呼吸しながら、上目遣いに梓の顔を見た。
息を呑む。
彼女は、困ったように微笑んでいた。夜の暗闇に怯える子供を落ち着かせるために、母親が浮かべるような微笑にも見えた。
ゆっくりと近づいてくる。手を伸ばし、触れるか触れないかくらいの動きで、僕の髪を撫でた。
ぽん、と肩を軽く叩く。
「大丈夫?」羽毛のような声だった。
「え……」
「ほら、こっちに来て座りましょう」
梓に促されて、僕はのろのろと歩いた。ベッドの端に座る。梓は隣に腰を下ろした。少しだけ、距離を空けて。
触れないように。
けれど、体温が感じられるくらいに。
「なんで……」思わず呟いた。
「こんなに落ち着いていられるか?」梓はくすりと笑った。「ゴーグルを取らなくたって、それくらいのことは分かるわ」
そういえば、梓は僕より年上なんだな、と思い出す。そう感じたのは、もしかしたら初めてかもしれない。いつもの梓の喋り方は、どことなく作っているように思えるけど、今だけは自然に聞こえた。
「ごめんね」唐突な謝罪だった。
「え?」
「わたしがゴーグルを取ろうとしたせいで。症状も出させたし」
「いや、それは」僕がごまかそうとしたから、と続けようとする。
「悪いのはわたしよ」梓はそれを遮った。「普段は感覚拡大症《こんなもの》なんてなければいいと思ってるのに、都合のいいときだけ使おうとしたわたしが悪いわ」
「でも、僕がすぐ言わなかったから」
「秘密を持つのは悪いこと?」
「違うけど……」
「それに、知りたいことがあったら訊けばいいだけでしょう? わたしはそれをしなかった。それどころか、一方的に覗き見ようとしたのよ。こんなの、対等じゃ、ない」
梓はゴーグルをしたまま、まっすぐうつむいた。さっきの僕みたいに自虐的になっているのかと思ったけれど、すぐに、そうじゃない、と考え直した。
自戒しているのだ。
自分に言い聞かせるような、真剣な眼差し。ゴーグルの下に、それを想像する。
気持ちがすとんと落ち着く。いろいろなものがクリアになる。
シンプルに考えよう。もともと、複雑なことを考えるには向いていないのだ。
僕は上半身を折り曲げ、自分の腿に肘を置いた。体重を預ける。目線は正面に。
「美雨の先生、海老原さんっていうんだけど、美雨に干渉されるのを嫌ってるんだ」僕は姿勢を変えずに話し始めた。梓は、止めも促しもしない。「新留さんは、そんなの無視して会えばいいって言ってた。でも……」
「その子が心配?」
「このままで大丈夫かなって。上手く言えないけど、いつかストレスでどうかなってしまう気がする。あの人は、まずいよ」
感情を匂いとして認識する美雨にとって、無感情な人は一緒にいてストレスにならないのかもしれない。もしそうなら、海老原さんほど美雨の主治医に適任の人はいないだろう。
でも。
一緒にいても自分に何の感情も向けない人がいるというのは、どうなんだろう。いや、自分に、と限定しなくても良い。同じ部屋にいても、感情を全く動かさない人がいるという状況、それは――
何に対しても、関心を持っていないのと同じことじゃないのか。
患者と主治医という関係で、そんなことがあるものなのか? 僕には分からなかった。
「さっきのことは、それを思い出したから?」
梓が淡々と訊いてきた。僕は首肯する。
「篠原さんから聞いたことはあったけど、やっぱり、そういう人もここにはいるのね」梓は何かを確かめるように、一度だけ大きく頷いた。「うん、決めた」僕のほうに体重を傾け、「ドライブに行きましょう」
「え?」僕は顔を上げた。
「ほら、前に言ってたじゃない。あれ、わたしも参加するわ」やたらと軽く言った。
「でも、『絶対行きたくない』って感じだったじゃないか」
「気が変わったの」梓はすまし顔だ。「それとも、わたしが一緒だと迷惑?」
「いや、そんなことはないけど……」
「じゃあ決まりね。相手の子……何ていったっけ」
「櫃岡美雨だけど」
「そうそう。その子も、わたしが行くことに反対はしてないんでしょ? 問題ないじゃない」
「あの、それこそ、医者の許可が要るんじゃないかな」病院内で会うだけならともかく、外出となるともう少し手続きが必要な気がする。
けれど、梓は一笑に付した。
「許可なんか要らないわよ。いい? その子は、いつもお姉さんとドライブに行くんでしょ? 身内と一緒だから、そのことをとやかく言われることはないはずよね」
「それはまあ、たぶん」
「明珠は、櫃岡美雨のお姉さんとは知り合いって言ってたわよね。じゃあ、帰りにクルマに乗せてもらうのは不自然じゃないんじゃない?」
なんか新留さんみたいだなと思いつつ、僕は口を開いた。「でも、梓はどうするの?」
「明珠と外に出るって言ったら、篠原さんは反対しないわよ」断言した。
「そうかなあ」
「本人がそう言ってたから間違いないわ」
「え? 訊いたことあるの?」二人で出かける計画なんて話したこともなかっただけに、むしろそっちに驚いた。
梓は口をつぐんだ。ゴーグルを縁取る肌の色が、白から赤に変わっている。
咳払い。
「とにかく」何事もなかったかのように続けた。「偶然だって言い張れば、ドライブに行くなんて簡単よ。心配ないわ」
「そう、かな」
「うじうじしないの。大丈夫だから」
お姉さんぶった口調で、梓は言い切った。確かに、新留さんも似たようなことを言っていたし、ドライブに行くだけならどうにでもなりそうだ。
僕はその計画をざっとシミュレートして、頷いた。
「分かった。その方向でいこう」
「決まりね」
梓はにやりと笑った。あまり見たことのないタイプの笑顔だったけれど、それもまた、自然に見えた。
彼女も、そんな顔をするのだ。
決行は、八月最後の金曜日になった。
櫃岡さんが、運良く連休を取れたらしい。僕はそれに合わせて、二泊の準備をした。ドライブは日帰りだけど、いろいろ回ったり遠出することになったら戻りが遅くなる。それを見越してのことだった。
親には、「バイトが終わったあと先輩のところに泊めてもらうから」と説明した。先輩――僕より入院歴の長い梓や美雨がいる第八号棟に泊まるのだから、バイトのこと以外、嘘はついていない。たぶん。
前日、つまり木曜日の夜は、中庭で簡単に打ち合わせをしただけで、そこに長居はしなかった。お喋りなら、ドライブ中にいくらでもできる。それに、あまり夜更かしすると車内で寝てしまいそうな気がしたので、それに対する予防策、という意味もあった。
金曜日の朝は、計画していたとおり、九時半ごろ地上に出た。梓と一緒だ。美雨は、迎えに来た櫃岡さんとともに先行する手はずになっている。万が一にも、第八号棟の中で一緒にいるところを海老原さんに見られるわけにはいかない。
幸い、第八号棟の通路はいつも人通りがない。時任病院の地下駐車場に出るまで、誰とも会わなかった。緊張を隠しきれない梓を見咎められれば、厄介なことになっていただろう。
櫃岡姉妹は、搬入用通路から少し離れたクルマのそばで既に待っていた。櫃岡さん(姉)は、上半身をシンプルなTシャツに多機能ベスト、しなやかな脚をジーンズとブーツで固めている。妹の美雨は、ベストがカーディガンに、ブーツがスニーカになっている以外は、お姉さんとほぼ同じ服装だった。
僕は地味としか形容しようがないファッションで、梓は制服以外には見えない上下だった。要所にグレイのラインが走る半袖に、コンクリートを連想させる色のプリーツスカート。
搬入用通路から出てきた僕たちを見て、彼女たちは固まっていた。梓も一緒だということはもちろん伝えてあったし、ゴーグルのことも言ってあったけど、実際に見るのとではやはり違うのだろう。
僕はさりげなく一歩踏み出し――たところで、梓に袖を引っ張られた。さっきまで平静を装っていた顔に、今は何か咎めるような色。
「……どうしたの?」小声で訊いた。
「まさかと思うけど、あの小さい子が例の女の子なの?」
「そうだけど……。え? なんで?」
梓は答えてくれなかった。「あんなに小さいなんて聞いてないわよ」みたいなことを呟いてるみたいだけど。
いや、ひとまず挨拶をしなければ。僕は改めて、姉妹に向き直った。
「おはようございます。遅れてすみません」
「……はい、おはようございます」先に返事をしたのは、櫃岡さん――名雪さんのほうだった。
「おはよう、ございます」美雨が続ける。
「えっと、紹介します。こちらは――」
「巫部梓よ」僕の言葉を遮って、後ろから声。「今日はよろしく」
ぶっきらぼうだけど、最低限の礼儀は保っている感じの声だった。いや、保とうとしている、か。口調が強張っている。二人には分からないだろうけれど。
名雪さんは、僕と同じように一歩だけ前進した。
「わたしは櫃岡名雪です。この子は妹の美雨。梓さん……でいいのですか?」
かつて僕が篠原さんから言われたように、名字には触れないよう念を押してある。美雨はともかく、社会人である名雪さんは、カンナギについてもちろん知っているはずだ。梓と同じ名字を持つ人々が経営する、大企業カンナギ。その話をするのは、マイナスにしかならない。
梓が肯定すると、名雪さんも頷いた。
「分かりました。では、そういうことで。美雨も、それでいい?」妹に話しかけるときだけ、名雪さんの口調は和らいだ。
「うん」美雨は細い声で応じた。
「OK。と……、そうだ、梓さんにはお礼を言おうと思っていたのです」
「お礼?」梓が首を傾げる。
「はい。以前の事件のことで」
「ああ……」例の爆弾テロのことだと気づいたのだろう、梓が頷いた。「別にいいわよ、お礼なんて」
「しかし、助けられたのは事実ですから。どうもありがとうございました」
大人に頭を下げられるなんて、初めてのことなのだろう。梓は戸惑いながらも、「どういたしまして」と小さく応じた。
顔を上げた名雪さんは梓に微笑を向け、次いで、僕に視線を転じた。
「瀬畑君、ちょっといいですか?」
「はい?」
名雪さんに手招きされて、僕は梓から離れた。彼女も、妹のそばを離脱する。初対面の二人だけで大丈夫かと振り返ると、梓がかすかに頷くのが見えた。
ここは任せよう。そう判断して、名雪さんのほうに向き直る。
「何ですか?」
「ええ。出発前に、言っておきたいことと頼みたいことが一つあります」
「はあ」
「実は……」彼女は美雨を横目で一瞥し、「あの子は、わたしの妹ではありません」
「え?」思わず、声が高くなった。
「正確には、わたしがあの子の姉じゃない、と言うべきですね。従姉妹なのです。母親同士が姉妹でして」
「ああ、なるほど」血の繋がりはあるわけだ。
「もっとも、わたしは幼いころに両親と死別して、それ以来、美雨の家で育てられました」名雪さんはあっさりそう言った。「だから、実の姉妹も同然です。歳は離れていますが、あの子もそう思ってくれていると思います。これが、まず言っておきたかったことです」
「えっと……、どうして、このタイミングなんですか?」
「頼み事に繋がるからです」名雪さんは淡々と言った。「できる限りでいいんですが、美雨のそばにいてあげてください」
「え?」
「ドライブ中に、というだけではなく、今後も含めての話です」
「ちょっと、意味がよく分からないんですけど……」というか、今するべき話なんだろうか。
名雪さんは一瞬だけ寂しそうに笑うと、また美雨のほうに視線を飛ばした。
僕も、目を横に向ける。驚いたことに、梓が何やら話しかけていた。美雨も、おどおどしながらではあるもののそれに応じている。
美雨の表情に、何か耐えているような色はなかった。つまり、梓の感情は美雨にとって悪臭となるようなものではないのだろう。不安や怯えは不快な匂いになるようだから、今の梓は、そういう感情を抱いていないことになる。
僕は感心した。良くも悪くも感情的な梓が、あくまで感情を制して振る舞おうとしている。前回、海老原さんと初めて会った直後もそうだったけれど、今なら年齢相応に見ることができた。
彼女の努力が功を奏しているらしく、美雨も僕と話すときのように表情豊かだ。傍目にはそうは見えないかもしれないけど、最近は違いが分かるようになってきた。
僕は目線を戻す。名雪さんは、まだ妹を――従妹を見ていた。
「あんな顔を、わたしはあまり見たことがありません」彼女はぼそりと言った。「わたしが悪いんですが。……美雨の家に引き取られてから、わたしは自立しようと必死でした。親戚とはいえ、迷惑をかけたくなかったんです」一瞬、彼女は遠い目をした。「大学に入ってからは一人暮らしを始めて、美雨ともあまり会わなくなりました。警察に入ってからは尚更です。一人前になってから、改めて挨拶しに行こうと思っていたのです」
名雪さんは過去形で話した。それは、つまり――
「あの子が拡大症を発症したのはそのころでした。わたしは、家を出ていた数年のブランクを埋める前に、『患者としての美雨』としか接することができなくなった。だから今も、以前のように話すことができません。気の持ちよう一つ、とは思うのですが」
「だから、さっきみたいなことを僕に言ったんですか?」
「そうです。できれば、彼女……梓さんにも。入院患者同士なら、話そうと思えばいつでも話せるでしょうから」
「櫃岡さんは、それでいいんですか?」
言うと、彼女は目つきを変えず、僕のほうに顔を向けた。
何か言おうと、名雪さんが口を開く。だけどその前に、
「美雨にとっても、それがいいと思ってるんですか?」僕はそう続けた。
「何……?」
「中庭で、美雨が櫃岡さんのことを話したことが何度かあります。そのときの美雨は楽しそうで、少し寂しそうでした。あえて訊くことはありませんでしたけど、会いたいんだな、と思いましたよ」
「しかし、わたしは」
「櫃岡さんも言ったじゃないですか。『気の持ちよう一つ』だって」僕はそのまま続ける。「美雨はもう、家族と会えません。症状がある限り、少なくとも以前のようには話せないんです。それに面会できても、拡大症のことは隠さなきゃならない。でも、櫃岡さんとだけは、そのことを考えずに喋ることができるんです。――家族として」
僕はまた、彼女たちのほうを見た。梓がゴーグルに触れている。自分の症状のことでも話しているのだろうか。
そちらを見たまま、口を開いた。
「これからも、第八号棟に来たらできるだけ美雨とは会うつもりです。梓も、そうすることになるかもしれません。だけど、櫃岡さんもちゃんと来て、美雨と会ってください。そうでないと、頼み事は引き受けられません」
名雪さんの顔を、上目遣いで見やる。彼女は目を細め、僕を見下ろした。
逸らさない。
逸らしてはならない、と思った。美雨のためにも。
そのとき、背後で音がした。振り返る。その間に、搬入用通路だ、と気づいていた。
現れたのは、白衣の男性。
海老原さんだった。
険しい表情で、僕を睨んでいる。初対面のときには見なかった、感情的な態度だった。
「う……」
呻き。声が聞こえたほうを横目で見る。美雨が口元を押さえ、うずくまるところだった。
迷いは一瞬。
僕は名雪さんと視線を交わすと、美雨のもとに駆け寄った。このままクルマに乗って、予定どおりドライブに行くのが一番だ。今ここで、海老原さんと論争している暇はない。美雨も心配だ。
エンジンがかかる音が聞こえる。アイコンタクトをしっかり解読してくれたらしく、名雪さんが運転席に腰を落ち着けていた。シフトレバーを操作しつつ、窓越しにこちらを見る。
あとは乗り込むだけだ。海老原さんがこちらに駆け寄ってくる。だけど距離がこちらに味方してくれる。
(良し……)
そこで僕は、動きを止めてしまった。
美雨をクルマに乗せるには、躰に触れる必要がある。
僕が。
透過触覚を持つ手で。
ためらいは一瞬で、けれどそれは永遠に等しい。
その静止した時間を、梓が破った。
美雨に肩を貸し、引きずるように歩き始める。僕はその横顔を見た。
ゴーグルがずれた横顔。
視たのだ。こちらの意図を。
「明珠!」
梓の叫び。意識が再起動に成功する。
同時に、急角度でターンしたクルマが眼前に滑り込んできた。僕は横面をさらすクルマのほうに走り、後部座席のドアを開けた。ちょうど追いついた梓が、美雨とともに飛び込む。
「待ちたまえ、瀬畑君」
どこで知ったのか、海老原さんが僕の名前を呼ぶ。振り向きながら、助手席のドアを開けた。
視線が交差する。
「ドライブに行くだけです」短く告げた。
「待――」
聞き入れず、助手席に滑り込む。ドアをロック。
「ベルトを。出しますよ」
言い終わると同時、名雪さんはアクセルを踏んだ。冷静な発車だった。
バックミラーに、美雨の主治医が映る。すぐに見えなくなった。
力を抜く。最低限の義務として、のろのろとシートベルトをかけた。
「大丈夫ですか?」ハンドルを握りながら、名雪さんが言った。
「後ろの二人は」僕は応じた。
「平気よ。この子も」
首を捻ると、ゴーグルをつけた梓が微笑んでいた。その横で、美雨がぐったりしている。だけどその顔は、どこか満足そうだった。
第四話 「楽しみも時には苦く」
楽しい時間も、
ひとまずおしまい。
五分ほど走ったところで、名雪さんがクルマを路肩に寄せた。郊外に出たらしく、車道は閑散としている。停車したのは何かトラブルでも、とベルトを外したところで、彼女が財布を差し出した。
「瀬畑君、すみませんが、何か飲み物を買ってきてくれませんか」
「え? ああ……。分かりました」
意図を察し、僕はクルマを降りた。空は曇っているけれど、湿度は高くない。それほど不快ではない暑さだった。ドライブには良い気候かもしれない。
近くの自販機で、いろいろと買い込む。梓には最近お気に入りの炭酸、名雪さんにはコーヒー、美雨は好みが分からないので、あとはお茶とスポーツドリンクにした。腕に抱えてクルマに戻る。
飲み物を分け、全員で一斉にプルタブを引――くには美雨がやり方を知らなかったので、隣の梓が得意げに教えた。自分も知らなかったくせに、とは言わないし思わない。
改めて、缶の中身をあおる。そういえば、缶入りのお茶って久しぶりに飲んだな……。最近はペットボトルばかりで、缶のはあまり売ってないように思う。
一息ついたところで、車内に笑い声が響いた。いや、響いたというほど音は大きくない。広がった、という感じだ。
笑っているのは、梓だった。
「してやったり、ね」身を乗り出し、シートの隙間から僕のほうに顔を覗かせる。
「どういうこと?」
「通路から出てきたのが、例の人でしょう?」
「そうだよ」
「上手く出し抜いたじゃない」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「瀬畑君は、海老原先生のことを知っているのですか」名雪さんが会話に入ってきた。
「あ、はい。話したのは一回だけですけど」
「どういうことです? 今の話からすると、あまりいい印象を持っていないように聞こえました」
「うーん、説明に困りますね」
「素直に『気に入らない』って言えばいいじゃない」
「梓」
茶化す梓に、すかさず制止の声をかけた。目線で、右後ろの少女を示す。
美雨は、少しだけ強張った顔で缶を握り締めていた。が、こちらの視線に気づいたか、ぎこちなくも笑い返してくる。
「あ、大丈夫です。これくらいなら、まだ」
「やせ我慢は良くないわ」梓が後部座席に戻った。「つらいならつらいと言いなさい。今のはわたしと明珠と明珠が悪いんだから」
「……なぜ二回も。いや、そうじゃなくて、僕は別に……」
「明珠はちょっと黙ってて。たまには悪者になりなさいよ。それで丸く収まるんだから」
「そうかなあ」
「また口答えを」
「口答えって」
ただの会話にしては棘がある、けれど言い争いというには毒のない言葉の応酬。そんなことを続けていると、また誰かが笑った。
今度は、美雨だった。
どこにでもいる、十二歳の少女のように笑っている。
思わずまじまじと見つめていると、彼女は目元を拭いながら呼吸を整えた。
「あ……、ごめんなさい」
「いや、いいよ」僕は微笑みかけた。「面白かった?」
「はい」美雨は素直に頷いた。
「漫才じゃないのに」梓がぼそりと呟く。
「梓は黙ってて。たまには悪者になりなよ」
「く……」
梓が歯噛みする。僕はにやりと笑い、美雨がまた肩を震わせた。
会話が途切れたところで、名雪さんが「さて」と言った。
「しかし、本当に良かったのですか」
「何がです?」
「あんなふうに振り切ってしまって」地下駐車場でのことだ。「美雨は、もともとドライブに行く予定だったと話してあるからともかく、貴方たち二人の立場が悪くなりませんか?」
「それなら、たぶん大丈夫です。偶然だって言い張るつもりですし、新留さんや篠原さん……僕と梓の主治医も、フォローしてくれることになってますから」
「大体、あの考えがおかしいのよ」梓が割って入った。「患者同士の接触が症状にどんな影響を及ぼすか分からない、とか言ってるみたいだけど、じゃあ医者と患者が会うのはいいのかしらね。それだって分かったものじゃないわ」
梓の言い分には難癖に近い部分もあったけど、全くの言いがかりというわけではなかった。同じような感想を抱いたのか、名雪さんが頷く。
「それを言うなら、わたしもそうですね。身内とはいえ、医者でも患者でもない、外部の人間なのですから」
珍しく、皮肉っぽい言い方だった。と、美雨がさっきの梓のように、上半身をこちらに向けてきた。
「あの、わたし、みんなと会えなくなるのは嫌です」
「もちろん」僕はしっかりと頷いた。「みんなそうだよ」
「心配しなくても、いつだって会いに来るよ、美雨」名雪さんが続ける。
三人目《あづさ》の声は、なかなか追ってこなかった。僕は思わず振り返る。名雪さんも、バックミラー経由で彼女に視線を向けた。
梓は、なぜかちょっと居心地悪そうにしていた。少し考え、原因に思い当たる。
美雨のストレートな言い方に、率直な返事をしにくいのだろう。さっきの言い方からして、彼女が美雨を悪からず思っていることは分かっている。それを素直に言えば良いのに。
気がつくと、美雨までも梓を見ていた。三対の視線に囲まれ、梓は軽く咳払い。
「まあ、わたしも、また会うのに吝《やぶさ》かじゃないわ」
「……………………、梓さあ」思わず脱力。
「……何よ」
「いや、いい……」
「言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
「それは梓のほうじゃないか」
反射的に言い返してしまった。梓が言葉に詰まる。
「ところで」やや呆れたように、名雪さんが言った。「これからどうします? 美雨とは、山に行こうと話していたんですが。二人とも、どこか希望は?」
「あ、僕はどこでも。どちらかというと、人が少ないほうがいいですけど」
「わたしもそれ以外に条件はないわ」梓が同意する。
「分かりました。美雨、前に話していたところでいい?」
「うん」
「では出発しましょう。飲み物に気をつけて。瀬畑君はシートベルトを」
指示に従ったところで、クルマが動き出した。
このあたりは、標高が大雑把に西高東低になっている。普段、僕が暮らしているのが東側で、西に向かうにつれて坂が増え、最終的には山に行き着く。時任病院は、東西のほぼ境目に位置していた。大病院があるからなのか、中途半端に都会化しているのだ。
名雪さんが言った「山」というのがどれか分からないけど、ほとんどはクルマで上れるし、眺めも大差ないそうだ。数学の先生が山歩きを趣味にしていて、「あのへんはコンビニみたいな感覚で行ける」と言っていた。さすがにそれはジョークだと思うけれど、素人でも挑戦しやすいのは間違いないらしい。
もっとも、このメンバと荷物で登山をするわけにはいかない。体力的に、山頂まで行けそうなのは名雪さんだけだろう。僕も怪しい。大体、梓は服装からしてアウトだ。
まあ、クルマで上って眼下を一望するだけでも価値はあるだろう。もし、梓たちが山に興味を持ったら、また連れていけば良い。僕だけだと、運転できないから移動がちょっと難しいけど、そこはどうにかなるし。
せっかくのドライブ、無言で走り続けるのも変なので、僕は後部座席を振り向いた。
「美雨は、山登りってしたことあるの?」
「クルマでなら、何回か……。歩いてみたいと思うんですけど」運転席を横目で一瞥する。
「駄目だよ」名雪さんがばっさり切った。「美雨の躰じゃ、まだ耐えられない。鍛えれば別だけど」
「どれくらい鍛えればいいの?」
「最低限、瀬畑君くらいかな」
「いや、僕はそこまで鍛えてないですよ」慌てて否定する。
「だから最低限と言ったでしょう?」名雪さんは口の端を上げた。「それに、言うほど柔《やわ》ではないはずですよ。躰つきを見れば分かります」
「そうなんですか?」
「警察に入るのに必要で武道をやっていましたから、おおまかには」
「わたしは?」梓が早口に言った。
「梓さんも、そのままでは登山は無理ですね。脚が細すぎます」
「部屋の中で、脚なんか鍛えようがないじゃない」ふて腐れた。
「そうでもないですよ。スクワットなら一人でもできます」
「あれを一人で?」梓は嫌そうに呟いた。「……暗いわ」
「なら、登山はずっとできないままですね」
名雪さんが笑いながら言うと、梓は唇を尖らせた。が、すぐに表情を消す。理由は、それとほぼ同時に気づいた。
美雨を見る。笑顔になる前、顔をしかめているのが一瞬だけ見えた。
無理もないか。美雨は今、特に広いわけではないクルマの中、三人分の感情を『嗅いで』いる。一つ一つが良い香りでも、混ざれば別だ。美味しいケーキと絶品のキムチを同時に食べても、不味いとしか思えないように。
感覚を鈍化させれば、症状によるストレスを軽くできる、と言っていた。今も、自分の心を守るためならそうすれば良い。誰も、そうすることを責めないはずだ。彼女を楽しませるためのドライブでもあるのだから。
でも、美雨はたぶん、そうして隠れることはない。
今の、この時間を楽しみたいから。
だからせめて、余計な気遣いはなしにしよう。そして精一杯、楽しもう。
みんなで。
展望台には、一時間もかからずに到着した。展望台といっても、広大な駐車場の片隅に有料の望遠鏡とトイレがあるくらいで、特に設備はない。とはいえ、名前だけあってこの高さからの見晴らしはなかなかのものだった。何より、人がいないのが良い。
(それもそうか)
僕たちはともかく、社会人にとって今日は普通の平日だ。曇りとはいえ、十一時を回って気温も上がっている。行楽には向かない場所だし、人混みを嫌うカップルだってこんなところまでは来ないだろう。
だからこそ、僕たちにとっては絶好の場所だった。
クルマから降りると、梓が真っ先に走り出した。丸太を組んだような形の落下防止柵に手をかけ、それが意味をなくしそうなほど身を乗り出す。
「すごーい!」
叫ぶ。遅れてその横に立った美雨が、こちらを振り向いてふんわりと微笑んだ。甘い香りでも感じているのかもしれない。
僕はクルマのそばに立ったまま、美雨に手を振った。彼女はそれに応じ、梓に倣って下界に躰を向けた。はしゃぎまくっている梓が、感嘆文を連発している。
名雪さんのほうを見ると、彼女は苦笑していた。でも、満足そうだ。
「喜んでもらえたようですね」
「そうですね。梓はたぶん、初めての景色でしょうから」
「瀬畑君は、ここには?」
「いえ、初めてです。来れて良かったです」
山道に入るあたりに、バス停があった。たぶん、駅から出ているはずだ。展望台まではたいした距離でもないから、今度、一人で来ても良いかもしれない。
僕はクルマを離れ、梓たちのほうにのんびり歩いていった。梓が飛び跳ね、美雨がそれを穏やかに見つめている。どっちが年上か分からない。というか梓、その格好でジャンプするとスカートが……。
言うまい。僕は騎士道精神に則《のっと》って目を逸らした。
梓を挟んで、美雨と反対側に立つ。
「明珠! ほら見てあれ。畑よ畑! あそこで芋とか育ててるのね?」
「芋とは限らな」
「隣は田圃《たんぼ》ね。きっと両生類がうようよいるんだわ」
「というかたぶん稲を」
「あ、何かしらあれ!」
聞いていない。まあ良いか……。
梓は何か面白いものを見つけたらしく、展望スポットを変更した。走り、別の方角が見下ろせる位置に陣取る。そこでも、何度か飛び跳ね――咄嗟に顔の向きをずらした。
美雨と目が合う。
「楽しい?」
「はい」
偽りなく、彼女は微笑んだ。その笑顔だけで、僕は穏やかな気持ちになれる。
(ああ、そうか)
美雨が症状のことを忘れ、ストレスも感じずにいるためには、まずこちらが感情をコントロールしなければならないと思っていた。いや、今でもそれは正しいと思う。ネガティブな状態で近づけば、たとえそのあとにポジティブなことが起こるとしても、美雨は心を閉ざしてしまうだろう。
でも、自分の感情だけを安定させれば良い、というわけでもない。それでも、美雨はストレスを感じなくて済むかもしれないけれど、あくまでそれだけだ。美雨の心を開くようにしなければ、二人で笑い合うことはできない。どちらかだけでは足りない。
お互いが、相手のほうに踏み込まなければ。
考えてみれば、当たり前のことかもしれない。拡大症患者でなくても同じだ。誰かと友達になりたいと思っても、一方的なアプローチではいつまで経っても友情は成立しない。相手にも、自分に向き直ってもらわなければならないのだ。
人は、一人では握手できないのだから。
「どうしたんですか?」何も言わないことに不安を抱いたのか、美雨が訊いてきた。
「いや、これからのことを考えててね」
「あ、どこか行きたいところがありますか?」
「そうじゃないよ」僕はゆるゆるとかぶりを振った。「ちょっとね。まあ、帰ってからのお楽しみってとこかな」
美雨は首を傾げた。僕はあえて何も言わず、眼下の風景に目を向けた。
角度的に、晴れていたら太陽の方角を向いているはずだ。その意味では、今日が曇りで良かったかもしれない。眩しさを感じずに、広い世界を眺め渡すことができる。
「それにしても、こんな景色を見るのも久しぶりだなあ」
「そうなんですか?」
「うん。ホントはゴールデンウィークに、ちょっとした高原に行く予定だったんだけどね。中止になったし」
「中止……?」美雨は唇に人差し指を当て、「あ、事故……事件に遭ったって言ってましたけど」
「そう。またいつか、行きたいとは思ってるんだけどね」
美雨は顔を下に向けた。てっきり、町並みに視線を下ろしたのだと思ったけど、そうじゃないと気づく。彼女は唇を真一文字にして、何事か考えているようだ。
いや――ためらい、だろうか。
梓の声が、また響いてくる。
それに重ねるように、美雨が隣で息を吸った。
「……わたしも、事件に遭ったことがあります」
生きているんだからそれくらいは――などとは考えなかった。拡大症患者が遭遇した事件。このタイミングで口にするということは、つまり、
「美雨」僕はあえて会話を切った。「無理して言わなくてもいいよ」
「無理はしてません」
「そう?」
「事件って言葉で、考えちゃったんです」あと、と語を継ぐ。「たぶん、話したいんだと思います。わたしが」
「それなら、聞き役にはなるよ。でも……本当に、大丈夫なのかな」
美雨が話そうとしているのは、発症の原因となった事件のことだ。僕の中で、それはもう確信としてある。感覚拡大症患者としてのルーツ。症状を自覚した、最初の瞬間。
それは、患者にとってトラウマだ。痛みや喪失、恐怖を伴わずに発症する患者は、たぶん、どこにもいないから。
僕にも、それはある。
客観的に話すことができるといっても、何も感じないわけじゃない。発症したときの記憶は曖昧だけど、あのとき、死にかけていたのは確実なのだ。
まして、美雨の場合はどうなのか分からない。アロメトリィ――周りにいる人の感情を、ダイレクトに察してしまうようになった瞬間を憶えているとしたら。
それを自分で掘り返すのは、どういう気持ちだろう。
心配しないわけにはいかなかった。僕は、それをあえて剥き出しにした。美雨が、本当に耐えられるのかを確かめるために。
果たして、彼女は頷いた。固い表情で、けれどはっきりと。
それが、美雨の決意だった。
「分かった。じゃあ、聞くよ」
美雨は下方の町並みを眺めながら、ゆっくりと口を開いた。
小学校三年生のとき、通っていた学校で、事件が起きたんです。
どうしてか分かりませんけど、ナイフを持った男の人がいきなり教室に入ってきて……。担任の先生が怪我をして、みんな泣きましたけど、その人が「黙れ」って大きい声で叫んだから、泣くこともできませんでした。
わたしたちは教室の真ん中に集められて、じっとしていました。それ以外、どうすることもできなかったんです。逃げようとした子がいましたけど、ナイフを振り回されて……。
いえ、怪我とかはしなかったんですけど、もう逃げようって気になれなくなったみたいでした。当たり前ですよね。最初に、逃げようとできたことが凄かったんです。ほかの子は誰も、とにかく身動きしないようにするのに必死でした。
わたしはずっと、膝を抱えていました。目を瞑って、耳も塞いで、何も感じないようにしました。
その男の人を見たり、声を聞いたりしたら、悲鳴を上げてしまいそうだったんです。そんなことをしたら、殺されるかもしれないって思いました。だから、何に対しても反応しないようにするしかなかったんです。
警察が来ていたことも、あとで知りました。それくらい、自分の中に閉じこもっていたんです。ずっと。
周りにクラスの子たちがいっぱいいたから、みんなと肌が触れていたはずなんですけど、その感覚もありませんでした。ただ、みんな怖がってるなって雰囲気だけは、なんとなく伝わってきました。もちろん、怖くないはずないんですけど、そういうことじゃなくて……。
時間も曖昧でした。事件が起きたのは午後の最後の授業の途中で、助け出されたときに夕日が見えた記憶がありますから、閉じ込められていたのはたぶん二時間か三時間くらいだったと思います。
感情の匂いを感じられるようになったのは、助けられる直前でした。というか、わたしがそうなったから、警察が動いたみたいです。だいぶあとになって、お姉ちゃんからそう聞きました。
最初は、何が起きたか分かりませんでした。
鼻の奥がつんとして、いきなり気分が悪くなったんです。説明しにくいんですけど……。
その匂いがみんなの感情だっていうことも、すぐには気づきませんでした。とにかくわたしはパニックになって、滅茶苦茶に暴れたみたいです。それも、あんまり憶えていません。
結局、わたしがパニックで暴れている間に犯人が窓から落ちて……あ、教室は二階で、下が花壇になっていたから、脚の骨を折ったくらいで済んだそうです。クラスの子たちも、みんな無事でした。わたしが暴れたせいで怪我をした子もいましたけど、軽傷だったみたいです。
犯人がいなくなっても、まだ落ち着けなかったのはわたしだけでした。みんな心配してくれたのに……。それが原因ってこともあったかもしれませんけど、今から思えば、悪いことしたなって。
だから、真っ先に飛び込んできたのがお姉ちゃんで助かりました。お姉ちゃんだけは、わたしを心配するより、「安心した」っていう感じだったんです。抱き締められてる間は、その匂いだけ感じていられたから、わたしはぎりぎりのところで、その、『自分』を保っていられたんだと思います。
もう一つ、運が良かったのは、お姉ちゃんが拡大症のことを少し知っていたことです。一緒に働いてる刑事さんから、それとなく聞かされたことがあったらしくて。だからわたしは、みんなと同じ病院じゃなくて、時任病院に運ばれました。
それから一度も、学校の子たちとは会っていません。親とは、入院してから二回くらい会いましたけど、それだけです。
喋り終えた美雨は、透明な液体で頬を濡らしていた。僕はポケットに手を入れ、その顔をじっと見つめた。
美雨はこちらを見返し、うっすらと微笑んだ。
「話せて、すっきりしました。ありがとうございます」
「いや……、うん」僕は曖味な返事をした。
「やっぱり、話さないほうが良かったですか?」美雨は眉尻を下げた。
「そんなことはないよ」今度はすぐに言った。「特に、コメントできなくて悪いけど」
「聞いてもらえただけで充分です」
「なら良かった」
「二人とも」
タイミングを見計らっていたかのように、後ろから名雪さんが声をかけてきた。美雨が慌てて涙を拭う。それについては、名雪さんは一言も触れなかった。
少し離れて、とりあえず落ち着いたらしい梓がこちらを見ている。
「お腹が空いたりしてませんか?」名雪さんが何事もないかのように訊いてきた。
「特には。食べようと思えば食べられますけど」
「わたしは、ちょっと空いてる」美雨は恥ずかしそうに手を挙げた。「朝、あんまり食べなかったから」
「梓さんは?」名雪さんが振り向いて訊いた。
「任せるわ。でも、どうするの? 山を下りる?」
僕もちょっと気になっていた。食事なんて用意してないから、買うとしたら下山するしかない。このへん、売店もないし。
名雪さんはなぜか誇らしげに微笑み、
「心配はいりません。用意してあります」
そう言って、クルマのほうに戻った。トランクを開け、中から取り出したのは大きめのクーラボックスだった。
「瀬畑君。ちょっと手伝ってくれませんか」
「あ、はい」
僕もクルマに駆け寄り、奥のほうに丸められていたビニルシートを引きずり出した。それと、砲弾みたいに巨大な水筒も。
梓たちと協力して、柵のすぐそばにシートを広げた。風がほとんどないので、飛ばされる心配はしなくて良さそうだ。ぴったり敷いたところで、それぞれシートの上に靴を脱いで上がり、名雪さんが中央にボックスを置いた。
蓋を開ける。梓が真っ先に覗き込んだ。
「サンドウィッチ?」
「そうです」
「ひょっとして、全部一人で作ったんですか?」僕は思わず訊いた。
「ええ。出来合いを詰めただけではありませんよ」
そういえば、高校を出てすぐ一人暮らしを始めたんだっけ。なら、料理もお手のものだろう。あ、一人暮らししている人がみんな自炊しているとは限らないか。でも、名雪さんに限ってはその公式は当てはまりそうだ。
梓が早くもうずうずしている。今にも飛びかかりそうだ。
「お姉ちゃんの料理、久々に食べる」
「ドライブのときしか振る舞えないからね」名雪さんは美雨に微笑みかけ、「じゃあ、食べましょうか」
『いただきます(!)』
一人だけ感嘆符つきで、なおかつ速攻で手を伸ばした。早業。亜空間に飲み込まれたかのような速さで、サンドウィッチの半分が口の中に消える。
「美味しい!」梓が叫んだ。
「それは何よりです」
こうして、約一名が和やかでないランチタイムが始まった。
腹が膨れたところで、食後のコーヒーを楽しんでいた。美雨だけは、病院を出てすぐ買ったスポーツドリンクだ。それだけ五百ミリの缶で、中身がまだ余っていたらしい。
「このあとはどうするんですか?」デザートとして入っていたアイス(至れり尽くせりだ)を食べながら、僕は訊いた。
「特に決めていませんね」名雪さんは少し考えてから答えた。「美雨は、何か希望ある?」
「え? うーんと……」
「わたしは山に登りたいわ」梓が割り込んだ。
「無理だって言ったでしょう」名雪さんが呆れる。
「あそこを歩いていくだけでしょう?」
梓は、山頂方向に続く展望台の出口を指差した。石畳のような地面が少し続き、ある地点から土が剥き出しになっている。ここから見る分には、梓がそう言うのも無理はないくらい、勾配は緩やかだ。
でも、坂道というのは実際の角度よりも急に感じるものだ。三十度ほどの勾配でも、歩いてみたら四十五度くらいだと錯覚してしまう。山歩きに慣れていないと特にだ。僕も含めて。
その錯覚に、梓が耐えられるとは思えなかった。
名雪さんが、横目で僕を苦々しく一瞥する。「どう言えばいいでしょう?」なのか、「代わりに説得してください」なのか、それだけでは分からなかった。
とりあえず、美雨の希望が先だ。僕は名雪さんの視線を中継するように、顔の向きを転じた。
「美雨はどう?」
「えっと……、わたしも、ちょっと上まで行ってみたいです」登山の提案に対する質問だと勘違いしたのか、おずおずと言った。
「あ、そういう意味じゃなくて……」
「ほら、これで二対二よ」梓が勝ち誇る。「検討の余地はあるわ」
「しかしですね、ここからだと緩く見えるかもしれませんが、実際はきついですよ。それに、その靴は登山に向いていません」
「そんなに長々と歩かないから平気よ。ちょっと行って、すぐ戻る感じで」
「ふむ……」
名雪さんが、また目配せしてきた。今度は分かる。「どうします?」だ。
二人とも無理はしないはずだし、本当に負担が大きくなりそうなら、強引にでも連れ戻せば良いだろう。いざ歩いてみると、意外とすいすい登れたり、逆に音を上げてしまうかもしれない。いずれにせよ、行ってみなければ分からない。
僕はわずかに顎を引いた。それを見て、名雪さんがため息混じりに口を開く。
「分かりました。ただし、ちゃんとこっちの言うことを聞くこと。無理をしないこと。この二点は守るようにしてください。いいですか?」
「はい」
「分かったわ」
名雪さんは苦笑気味に肩をすくめた。だけど、本音は喜んでいるのかもしれない。その態度は美雨と話すときのように、良い意味で隙があるものだった。
とりあえず、食べたばかりなのですぐには動けない。しばらくコーヒーを飲んだりアイスを食べたりしながら、食後のまったりムードを楽しんだ。
三十分ほどして、動き始める。シートを畳み、軽くなったクーラボックスや水筒とともにクルマのトランクへ。
最後にもう一度だけ、本当に登るつもりなのか確認。それに、二人の少女から即座にイエスが返ると、名雪さんは何も言うまいとばかりに山道を進み始めた。時刻は一時前。都会から離れているためか曇りだからか、思っていたほど暑くない。少し蒸す感じがするけれど。
先頭から名雪さん、美雨、梓、僕の順で歩く。スニーカの美雨はともかく、梓はローファーなので歩きにくいだろう。土の地面とは、最悪なまでに相性の悪い靴だ。ぬかるんでいないだけ、まだマシだけど。
歩き始めてから五、六分で、早くも荒い息が聞こえてきた。
「梓、大丈夫?」後ろから声をかける。
「平気、よ、これ、くらい」虚勢たっぷりだった。
とはいえ、スタミナはともかく足腰はまだ問題なさそうだった。部屋で運動しているわけではなさそうだけど、ミーハーだから、アクション映画を観たあとにその動きを真似する、とかやっているのかもしれない。
梓の躰の横から見上げると、美雨も特に疲れてはいないようだ。まあ、まだ十分も歩いていないから当然かもしれない。
土の道は歩きにくいという先入観があったけど、この道はそれほどでもなかった。たぶん、ハイキングコースとして使われていく中で、踏み固められていったのだろう。大きな石が露出しているようなこともないので、勾配さえ気にしなければ、それほど苦になる道ではないなと思った。
山道というのは、常に坂になっているわけではなく、ところどころに平坦な部分も存在する。登ってばかりだと、そういうところはまるで休憩所に思えた。ペースを落として、足を休めることにする。
左手は、上に続く長い長い斜面。右側は木々があまり密生しておらず、その分、足を踏み外したらどこにも引っかかることなく、かなり転がり落ちてしまいそうだ。こういう山道に落下防止の柵なんて期待してはならないので、反対側を歩くことで自衛するしかない。
「ねえ、明珠」少しだけバックして、梓が声をかけてきた。
「何?」
「ご飯を食べる前、あの子と何を話していたの?」
「美雨と? あー……」言うべきか、少し悩んだ。
「言えないことならいいわ」
「何を話したか、くらいならいいかな。えっと、美雨が発症したときのこと」
「え?」
梓は足を止め、高い声で言った。少し距離の空いた櫃岡姉妹が、何事かと振り向く。
何でもないですとジェスチャでアピールしていると、梓がさらに詰め寄ってきた。ゴーグルの表面に、僕の顔が映る。
「まさか、問い詰めたの?」
「違うよ」慌てて否定した。「美雨が話したいって言ったんだ。どうしてか分からないけど」
「……本当でしょうね?」
「なんでそこで疑うわけ?」さすがにムッとした。
「前科があるから」梓はすぐに言った。
「いつ」
「わたしの家のこと、わたしが言う前に紗織さんから聞いてたじゃない」
「ああ……」
梓が、まだ僕を名字で呼んでいたときのことだ。拡大症のことというより、巫部家についてだったけど、本人がいないところで過去を詮索していたことに変わりはない。
それは認めざるをえなかった。僕は諸手を掲げ、
「まあ、そっちはそうなんだけど。今回は、本当に違うよ」
「でも、あの子はどうしてそんな話をしたのかしら」
「さあ」
分からないふりをしながら、推測はしていた。
あれは、僕と同じだったんじゃないか、と。
つまり、お互い拡大症患者ならば、症状や発症の原因を話しておくことが、相手との距離を縮めるベストな方法だと考えたのではないか。
拡大症を発症したときのことは、他人に話してそのトラウマを軽減できる類のものじゃない。普通、百害あって一利なしなのだ。だから、誰かに話そうとするのは、それによって得られるものがあるときだけに限られる。
以前、僕は頼まれもしないのに、自分のルーツを梓に語った。それも同じだ。
もちろん、真相は分からない。自分一人の中に抱え込むことに、限界を感じたのかもしれない。美雨はこれまで、ほかの患者と会ったことがないそうだから、拡大症患者ゆえの心の傷を共有できそうな相手は、僕が初めてのはずだ。こればかりは、残念ながら名雪さんでは無理な役目だ。もちろん、海老原さんでも。
どちらにせよ、過去を話す相手として選ばれたのは、少し嬉しいことだった。
求められている、ということだから。
それには応えよう。そう思う。
再び登り道になったので、会話が途切れた。前を行く櫃岡姉妹も無言だ。そろそろ、梓や美雨の足取りが乱れるころかもしれない。フォローの準備をしておいたほうが良いだろうか。
雲が晴れないので、頭上を木の葉に覆われた山道は、昼だというのに暗かった。鬱蒼とした、というほどではないけれど、木々を見ながら歩こうという気にはなれない。展望台と違い、梓の口数が少ないのはそのためか、と推測。
道も少し変わってきた。土ばかりだったところに、石が現れ始める。慎重に歩かなければ。
歩きにくさが増大したからか、梓のペースが落ちた。スカートから伸びる脚が、地面を踏みしめるたびに震える。もう三十分くらい歩いているはずだ。そろそろ頃合い、か?
「梓」
「大丈夫よ」
こっちが言葉を続ける前に、梓は言い放った。背中から、物凄い決意が放射されている。
強情だな、と思う反面、できるだけ一緒に登ってみたいという気もする。
頂上までじゃなくても良い。ゴールまで着かなくても、できるだけ長く。
そんなことを考えていると、梓の決意が揺らぎそうなことが起きた。
空気の、低い振動。
雷鳴。
「ひゃっ……」
梓より前から、短い悲鳴が聞こえた。美雨だ。名雪さんが大股で戻り、彼女を抱き締める。
咄嗟に、不安の感情を封じ込めた。脳裏で音楽を再生させつつ、二人のところに集合。梓も、努めて無表情だった。
「光ったの、見えました?」僕は名雪さんに尋ねた。
「いえ。そこまで近くはなさそうです。でも、降るのは時間の問題でしょうね」
大丈夫、と小声で告げる美雨を離し、名雪さんは腕組みした。僕の隣では、梓がもっともらしく顎に指を当てている。
名雪さんは短い思案を経て、大きく頷いた。
「残念ですが、登山はここで終わりです。戻りましょう」
「え? でも……」意外にも、美雨が先に否を唱えた。
「これは、美雨が歩けるかどうかという問題じゃないんだ」名雪さんは優しげな口調で、言い聞かせるように言った。「もうすぐ雨になる。この道も、わたしたちが歩ける状態じゃなくなる。今までは、ちょっとハードな散歩道くらいで済んだけど、雨が降ったら本当の山道になるんだ。そうなったら、戻るだけでも一苦労だよ」
「もう少しだけでも、駄目?」
「美雨」名雪さんは、語調だけを少し強めた。「言うことを聞くって、約束したでしょう?」
「…………、はーい」
約束と言われては引き下がるしかないのか、美雨は納得したようだった。名雪さんは彼女の頭をぽんと軽く撫でて、その横をすり抜ける。
「帰りも、わたしが先頭を歩きます。瀬畑君は美雨をお願いします。わたしは梓さんを見ておきますから」
「分かりました」
「信用ないわね」梓が余計な一言を口にした。
「人となりは信じてますよ」
そう言い残して、名雪さんは歩き出した。梓は口をへの字にしながら、いまいち理解できなかったのか、首を傾げた。
まあ、追及は後回しだ。さっきから、雷の音が何度か聞こえている。気のせいか、だんだん大きくなっているようだ。急いだほうが良い。
山道というのは、とにかく下りのほうが神経を使う。体力的にもつらい。名雪さんでさえ、ことさらに慎重な足取りだった。必然、後ろ三人も足下を気にしながらになる。
石があれば、それを足がかりにして少しずつ歩を進めていく。名雪さんは梓を、僕は最後尾の美雨に気を配りつつ、行きの半分くらいの速度で展望台への距離を縮めていった。
雷鳴。
後ろの美雨が、息を荒くしている。体力がそろそろ尽きるころなのかもしれない。できるだけ急いだほうが良いだろう。
下り斜面が一旦途切れ、上りのときも通った平坦な部分に辿り着いた。ここは、地面を気にせず歩くことができる。梓たちと少し距離が開いてしまったので、今のうちに詰めておくべきだ。
「美雨――」ちょっと急ごうか、と言おうと振り向く。
彼女は、青い顔で口元を押さえていた。一応、しっかり歩いてはいるものの、躰が不安定に揺れている。
原因を、一瞬で悟る。僕や名雪さんの焦り、不安。梓の不満もあったかもしれない。とにかく、そういった諸々の感情を一気に受けてしまったのだ。足下にばかり気を取られ、心の手綱を手放していた。
加えて、彼女自身の疲労もある。もう、限界だった。
(しまった)
その思考が、ミスを上書きした。
感情《におい》が洩れる。
雷鳴。
「う……」
美雨がぎゅっと目を瞑る。
躰が泳いだ。
僕から見て右、つまり、下り斜面のほうへと――
「美雨!」
咄嗟に手を伸ばす。
そのとき、僕の中で何が起きたのか。
手が届かない。
届くはずの距離を、縮められない。
恐怖。
躊躇。
逡巡。
それが、すべてを分けた。
落雷。至近だ。思わず、目を瞑ってしまうほどの。
瞼を上げたとき、美雨の躰は視界の下に移動していた。足を滑らせたのだ、と冷静すぎる思考。
彼女の躰が重力に、絡め捕られる。
雷鳴。
衝撃。
突き飛ばされる。
上り斜面のほうによろめく。
その空間を駆け抜ける、灰色の影。
梓が、奈落に向かって滑り落ちる美雨の躰を抱き留め――
二人の少女は、僕の目の前から消え去った。
冗談抜きに、気絶していたのかもしれない。なぜなら僕は、目の前で起きた出来事だったにも拘わらず、二人が落ちていくところを記憶していなかったからだ。
最後の光景は、折り重なって落下する少女たちの姿。
いつの間に見えなくなったのか、憶えていない。
音も聞こえたはずなのに。
大袈裟でなく、『消えた』ように思えた。
認識が復活する。霞む視界。茶色と緑の風景。ノイズ。濃密な草の匂い。
雨が、降り始めていた。
「……梓! 美雨!」
僕は身を翻し、下り斜面に飛び込もうと膝を曲げた。
けれど、寸前に物凄い力で肩を引かれた。後ろに倒れる。地面は意外と固い。倒れる瞬間に腕を掴まれなければ、腰を強く打っていたかもしれない。
視線を前方に。
投げ飛ばした姿勢のまま、名雪さんが僕を見下ろしていた。
「何をしようとしました」冷たい声だった。
僕は、尻餅をついたまま見上げるしかなかった。
名雪さんが腕を引っ張った。強引に立たせられる。呆然としていると、「謝りませんよ」と一言告げて、
左頬に、衝撃と熱。
痛みはいつも、遅れてやって来る。
足を踏ん張り、倒れることだけは免れた。殴られた頬を押さえることもなく、名雪さんを見返す。
一瞬、彼女の双眸に見えた感情が、怒り以外の何かであるとは思えなかった。
名雪さんはすぐに感情を消した。刑事の顔だ。踵を返す。
「展望台に戻ります。応援を呼ばなければ」
「あの、何を、」
「何を?」足を止めた。「瀬畑君こそ、今、何をしようとしましたか」
さっきと同じ質問。「二人を助けようとして」と言おうとする。
名雪さんはこちらを向くと、つかつかと歩み寄り――僕の胸倉を掴んだ。
「助けようとして?」声の温度は下がりっぱなしだ。「貴方に何ができますか。ここを下りて、二人を捜すとでも? 馬鹿馬鹿しいですね」吐き捨てるように言った。「二重遭難するのがオチです。いいですか。貴方は、何も、しないで」
一言ずつ、区切るようにして告げると、名雪さんは突き飛ばすようにして僕の躰を離した。それから、振り返ることなく歩き出す。うなだれた僕の目には、雨を吸って柔らかくなった地面に刻まれた、名雪さんのブーツの跡だけが見えた。
頭や肩が、少しずつ湿っていく。
山の中にいると、枝葉のおかげであまり濡れずに済む。現に今も、音から察するに結構な勢いで降っているようだけど、僕には小雨くらいにしか感じられない。
だけどそれは、もちろん、降ってまだ間もないからだ。ずっとこの環境にいたら、いくら山の中といってもずぶ濡れになってしまう。
そうなれば――
最悪の想像を、一瞬で消し去った。足跡を辿るようにして、展望台に向かう。
斜面は滑りやすく、何度か転びそうになった。姿勢を低くし、バランスを取りながら下っていく。
山道を抜けて展望台に下りると、雨の強さがよく分かった。水滴に打たれる、という感じではない。固体的な雨だ。冷たさや鬱陶しさよりも、痛みをより強く感じてしまう。
打楽器を乱打しているかのような雨音。暴力的な、音の洪水。
クルマのほうに駆け寄る。名雪さんが運転席に乗り込み、ドアを開けたまま電話をかけていた。
「本当に一台もないんですか?」苛立たしげな口調だった。「ほかに手段は? ええ、ここには二人だけです。え? それができないから電話しているんです」
僕はクルマの外に立ったまま、彼女が電話口に叫ぶのを聞いていた。
「そんな気休めを――いえ、分かってます。すみません。はい。大丈夫です。……はい。分かりました。なるべく早くお願いします。では」
携帯電話を畳むと、名雪さんはハンドルに顔を伏せた。髪の毛から雫が垂れ、シートを濡らしている。
雨粒がクルマに当たり、マシンガンみたいな音を立てていた。
「……乗ってください」名雪さんが、ぼそりと言った。
僕は助手席側に回り、乗り込んだ。名雪さんと同じく、濡れ鼠だ。今度、掃除を手伝ったほうが良いかな、と思う。こんなときでも、シートの心配ができるのだ、人間は。
心が麻痺している。
動いているけれど、それは『反応』でしかない。
僕はまだ、『行為』ができるほど正常じゃなかった。
「どう、なったんですか」機械的に尋ねる。
「警察と救急に連絡しました」名雪さんも、自動的な感じで答えた。「しかし、突然の雷雨によるトラブルで、人手が足りないそうです。交通事故と、停電による被害がいくつか。そちらの処理がどれくらいで終わるか分かりませんが、すぐには無理でしょう」
異様に淡々としていた。少なくとも、妹が――妹同然の少女が山道を転がり落ち、行方不明であるとはとても思えない。
でも、それは僕も同じか。
友達が二人、僕の目の前で落ちていった。
しかも、そのうち一人は僕の身代わりになったも同然だ。
僕は、我が身可愛さのあまり、彼女に手を差し伸べることができなかったのだから。
それでも僕は、感情が揺れない。
今、僕の躰を縛りつけているもの、それは、
無力感、だった。
(――僕には、何もできない)
感覚拡大症のことを知る前から、僕は、自分の『手』についてネガティブな感情を抱いていた。
誘拐され、命の危機に瀕し、自分を救うために得た透過する指先。呪われた感覚。便利さを感じたこともあるけれど、デメリットを考えなかったことは一度もない。本来なら触れられるはずのないところに侵入する手。他人の体内に触れたときの、虫がまといつくような嫌悪。
特別な感覚を得たことによる代償、とだけ考えるわけにはいかなかった。それほどまでに、忌避すべき感覚なのだ。
普段はあまり意識することがないけれど、ふとした瞬間、その恐ろしい触覚を思い出す。
そう、たとえば、他人の手を握らなければならないとき[#「他人の手を握らなければならないとき」に傍点]。
普通に生活していれば、そんな機会はそうそう訪れない。あったとしても、回避するのは簡単だ。
だからこそ、偶然そういう状況に置かれたら、僕は何もできなくなる。
たとえ、友達が落ちていく場面であっても。
――うなだれていた頭に、ふわりとした感触があった。
頬に当たっているのは、乾いたタオル。焦点が合った視界の中で、名雪さんの手がダッシュボードを閉めた。
「ちゃんと拭いておきなさい。貴方まで体調を崩されたら困ります」
「櫃岡、さんは」
「まだ何枚かありますから、心配は要りません」
名雪さんは、既に別のタオルで頭を拭いたあとらしい。髪の毛が湿ってはいるものの、毛先から水滴が落ちるようなことにはなっていない。今はハンドルやシートから、できるだけ水気を取ろうと手を動かしていた。――まるで、何かを忘れたいかのように。
僕はのろのろと動いた。頭、首、肩、腕。タオルを順に当てていく。ある程度、躰や服が乾いたところで、僕は手を止めた。
こんなことをしている場合なのか?
彼女たちは、今も冷たい雨に打たれているのに?
僕だけが、こんな、快適に……。
二人を救えなかった僕が。
助けに行くべきだという暴力的な感情と、どうせ何もできないくせにと告げる虚無が、僕の中で衝突する。いや、衝突じゃない。前者が一方的に暴れ、後者はそれを冷たく見つめるだけだ。勝ち負けは目に見えている。僕には、何も、できないのだ。
雨粒が、クルマを打ち据える。
いっそ、僕を撃ち抜いてほしい。そう、思った。
*   *   *
……頬を、温かい感触が滑っていく。
湖底に沈めたものたちが浮かび上がってくる。それらを丁寧に、一つの取りこぼしもなくすくい上げていく。浮かんできたものは、一つにまとまり――意識を形成した。
静かな覚醒。
巫部梓は瞼を上げた。今から目覚めるのだ、という兆候を感じ取れたのは、彼女にしては珍しいことだった。梓はいつも夢を見ない。見たとしても、忘れないうちに目を覚ますことはなかった。眠っている間の意識は常に闇に包まれていて、その間、自分は生きていないのだと思うこともしばしばだ。
今回は夢を見たわけではないものの、目覚める前にそれと分かった、という時点で稀有なことだった。何がそうさせたのか……。寝起きでぼんやりしたままの感覚が鮮明になるまでの間に、そんなことを考える。
感覚。
何か、足りない気がした。
「あ……、起きました?」
それを考える前に、声が降ってきた。それに引きずられ、まずは聴覚のノイズが消える。
否《いな》、ノイズは混ざったままだった。ただし、今度はそれが何か分かる。雨音。リズムがバラバラでありながら、どこか秩序を感じさせる音の羅列。
雨が降り始めたのだ、と気づいた。しかし、それにしてはおかしい。どうして、その感触がないのだろう。二ヶ月前の一回を除き、八年間も外に出なかったとはいえ、雨のことは知っているし憶えてもいる。第八号棟に入る前、雨の中を歩いたこともあるのだ。記憶は曖昧だが。
連鎖的に、触覚が復帰した。どうやら、固いところに寝かされているらしい。背中にごつごつした何かが当たる。掌が触れているのは、岩か、固まった土か。
気づくと同時、頬を撫でる感触のことが意識に浮上した。反射的に、それを掴む。
「ひぇっ……」短い悲鳴。
手だった。小さい。自分と同じくらいか。滑らかさから。女性と知れる。
「あの……、梓、さん?」
「美雨?」
瞬間的に、その名を思い出した。櫃岡美雨。第八号棟の住人。嗅覚拡大症、アロメトリィの持ち主。
そうだ、なぜすぐに気づかなかったんだろう? おどおどして、姉に庇護されている小動物みたいでありながら、どこか芯の強さを感じさせるあの声に。
顔が見えないからだ、と思った。しかし、視界はいつまで経っても回復しない。暗く閉ざされたままだ。
頭が妙にすっきりしている。思考が冴えているという意味ではなく、物理的な話だ。心許ない、とも思うが、冷静に考えるには役立つ。躰のあちこちに走る痛みと雨の音、それと草の匂いから、梓は状況を思い出していた。
雷鳴。山道から落下する美雨。止めようと手を伸ばし、けれどためらってしまった明珠。それを見て、反射的に飛び出し、美雨とともに斜面を転がり落ちた。
その途中で、記憶が途切れている。頭でも打ったのかもしれない。梓は美雨を掴んでいるのとは逆の手を、顔に近づけていった。
「あ、今、ハンカチを載せてます」美雨が言った。
「ああ……。それで見えないのね」
「えっと……、その、すみません」
「どうして謝るの?」
「ゴーグルが取れたの、わたしのせいだから……」
「取れた? そう……」
頭の感触から予想はしていたが、やはりそうらしい。ハンカチで目元を覆っているのは、美雨なりの気遣いなのだろう。朝、時任病院の地下駐車場で、自分の症状については話してあった。視覚拡大症たる幻視。ゴーグルがなくても、通常の視覚を封じれば幻視も出ない、とも言った。それを憶えていたのだ。
遠く、雷鳴が聞こえる。
梓は握り締めていた美雨の手を離し、目を瞑ったまま躰を起こした。節々が痛む。落下中、いろいろぶつかったのだろう。擦り傷らしい、ひりひりした熱も感じる。足首が脈打って感じるのは、捻挫でもしたのかもしれない。
ただ、骨折はないようだった。それがせめてもの救いだ。
「ここはどこ?」努めて冷静に尋ねた。
「よく、分かりません。どう落ちてきたか分からないので……」
「わたしたち、二人だけで山を下りられそう?」
「……分かりません。周りをちょっと見てみましたけど、道とかなさそうです」
「ここ、屋根はあるのね? 地面は土かしら」
「近くに岩が突き出していたんです。今、その下にいます」頷く気配がした。
「わたし、どれくらい気絶してた?」
「たぶん、十五分くらいです」
「美雨は大丈夫なの? どこか痛いとかない?」
「はい。あの……」美雨は少し言い淀み、「ありがとうございました。それと、すみません」
「何が?」
「助けてもらって……。あと、ゴーグルのことも」
「いいのよ」梓はかなり頑張って微笑んだ。表情を作るのはこんなに難しいのか、と驚きながら。「咄嗟のことだったし。それに、明珠が動けなかったから」
「動けなかった?」美雨が声を高くする。
「知らないの? 明珠の症状」
「はい」
「なんで教えてないのかしら」梓は前髪をかき上げながら、「彼は触覚拡大症なの。『何かに触る』っていうことに、凄い抵抗があるのね。あのとき、美雨の手を取ろうと思えば取れたはずなのにしなかったのは、できなかったのよ」
「そう、だったんですか」
「こればかりは、どうしようもないものね」
普段、明珠は症状をほぼ完璧にコントロールしている。だから、咄嗟の状況ではかえってためらってしまうのだ。特に、他人の躰に触れるときは。
それが分かったから、梓は明珠を責める気にはならなかった。いや、そもそも、こんな状況にあることが誰かのせいだとは思っていない。美雨を助けようとしたのは、あくまで梓の意思なのだ。誰かの代わりだとか、強制されたからとか、そんな理由はない。
落雷。
近かった。もしかすると、美雨には光ったのが見えたかもしれない。押し殺した悲鳴が聞こえた。腕にしがみつかれる。震え。雷が怖いのだろうか。
対して、梓は妙に落ち着いていた。完全に冷静というわけではないが。
あのとき、覚悟を決めたからかもしれない。
ゴーグルがなく、ここがどこかも分からない。外は雨。冷たく湿った空気が躰から熱を奪い、自分は足を痛めている。自力で下山するのは無謀だから、助けを待つしかない。けれど、救助がいつ来るかも不明だ。
だけど、自分で選んだこと。
そこに、後悔はなかった。
*   *   *
通報から、そろそろ一時間になる。
その間、雨は降り続いていた。雨脚が弱くなったと感じるのは、単に慣れたせいだ。依然として、それなりの勢いでクルマを打ち、コンクリートを潤していた。ガラス越しに駐車場を見渡すと、あちこちの水溜まりが陸地を侵蝕しようとしている。
これだけの雨に、あの二人は一時間も身をさらしているのだ。
いくら八月の終わりでまだ暑い時期とはいえ、躰が耐えられるとは思えなかった。
それとも、洞窟みたいなところで雨宿りできているのだろうか。岩陰でも良い。とにかく、雨を凌げるのなら体力の低下も抑えられるはずだ。
今は、そうやって待っていてもらいたかった。
(――誰を?)
もちろんレスキューをだ。でも、本当にそれで良いのか。僕の中で、誰かが囁く。
最初にあの二人を見つけるのが、知らない人間で大丈夫なのか?
幻視の梓と、アロメトリィの美雨。
梓なら、ゴーグルさえあれば何とかなるかもしれない。問題は美雨だ。心配や不安は、悪臭の側に分類されるらしい。助けに行く人が、そういった感情を抱いていないなんてことはまずありえないだろう。
それで、以前のようにパニックに陥ってしまったら。
悪循環になるに決まっている。そうなったら、もう誰にも止められない。梓や僕はもちろん、名雪さんでもだ。もし美雨を落ち着かせようとするなら、気絶させるくらいしか方法はないだろう。
そうしないためには。
僕か名雪さんが、あの二人を最初に見つけるしかない。
結局、行き着くところはそこだった。やはり、僕たちが助けに行かなければならないのだ。
思考が加速する。感情を封じ、一点に向かって考えを進めていく。
まず、二人がいるところまで行くには、大雑把でも良いから、その位置を知っておく必要がある。
どうやって?
二人が落ちていった斜面を、僕たちも下りてみるか。いや、それは無謀だ。二人が落ちた直後は僕もやろうとしたけど、冷静になって考えればその案は採用すべきじゃない。
命綱をつけ、上に残った一人がその端をキープしておくにしても、限界がある。そもそもロープがないのだ。少なくともトランクには見当たらなかった。どこかで手に入れようにも、下山するしかない。そんなことはできなかった。
なら、落下地点まで行って大声で呼びかける? それも望み薄だろう。木々や土が音を吸収するし、何よりこの雨だ。万が一、こちらの声が通ったとしても、彼女たちのレスポンスをこちらが受け取れるとは思えない。
となれば、方法はもう、一つしかなかった。
*   *   *
躰が冷えてきた。
音を聞く限り、雨はかなりの勢いで降っているようだ。水滴が直接当たることこそないものの、湿った土が体温を奪っていく。食事中に明珠が言っていたが、山の中は気温が少し低いらしい。夏の暑さを感じているうちは良かったが、今はそれがマイナスに作用していた。
第八号棟は、空調が常に管理されている。美雨と違い、この八年間で一度しか外に出たことがない梓は、環境の変化に対する抵抗力が弱くなっている。このままだと、体調を崩すのも時間の問題だった。
身震いする。
震えはなかなか止まらなかった。自覚していないだけで、自分の躰はまずいことになっているのかもしれない――他人事のように考え、そうではないことに気づいた。
この震えは、伝播したもの。
発生源は、梓の腕にしがみついている、小さな少女だった。
雷への恐怖が持続しているのか、それとも、自分と同じく躰が冷えたのだろうか。どちらもありそうだ。しかし、それにしては震え方がおかしい。息も荒くなっている。体調が本格的に悪化しているのでなければ、これは――
「……美雨?」
呼びかける。反応なし。もう一度、声を少しだけ大きくしてみる。やはり無反応だった。
どうしたのだろう。視界を封じている今の梓には、確かめる術がない。それでも状態だけは確認しようと、自分の腕に巻きついた美雨の指に触れた。冷たいが、異常なほどではない。
何がどうなっているのか分からなかった。瞼を上げれば、手に入る情報は一気に増えるし、美雨の状態も分かるだろう。だができない。状況が把握できないという不安より、自身の症状に対する恐怖のほうが強いのだ。
(……考えては駄目)自分に言い聞かせる。
美雨の前でそれは、彼女に負担を与えることにしかならない。
だが、と思う。本当に、症状のことを考えないでおくべきなのか。あえて恐怖を呼び起こそうというつもりはない。ただ、症状を使ってでも、美雨のコンディションを知っておくべきではないかと思う。いや、幻視を使うというより、単に見るだけだ。
もちろん、梓に関しては、肉眼で見ることがそのまま症状の発現に繋がる。明珠と違い、それをコントロールすることはできない。しかし、症状そのものではなくそれに対する拒絶反応であれば、短時間なら抑え込むこともできる。長い付き合いなのだ。
それに――この状況。『眼』を使わなければ、助かるものも助からないかもしれない。
深呼吸。
(……大丈夫)
ほんの少し、見るだけだ。視ようとする必要はない。視えてしまうだろうが、関係ないことなら忘れてしまえば良い。
明珠のことを考える。そうか、と少し得心した。彼が、他人に触れようとしない理由。それは、本来は便利とされるだろう症状を梓が使わないことに似ているのだろう。
相手の身体と思考。対象は違えど、二人の症状は、他人を侵略することに等しいのだから。
開眼。
美雨を視界に入れないようにしつつ、裸の視覚を得る。ゴーグルを通さない、生の世界。
目に入るのは、土と木と細い糸。否、最後のは雨だ。すぐに分からなかったのは、ずっと目を瞑っていたからというのもあるが、そもそもあたりが見えづらくなっているからだ。ところどころ、ソフトフォーカスをかけたように輪郭が漠然としている。霧が出ているらしい。
自分の居場所を確認する。斜面だった。ところどころに岩が露出している。その中でも最大級なのは、今まさに二人の屋根になっているそれだろう。斜面から、巨人の拳のように突き出している。その下の地面――梓たちが座っているところがやや窪んでいるため、ちょうど良い雨宿り場所になっていた。
前方に視線を落とす。十メートルより手前のところで、不自然なラインが見えた。崖のようになっているらしい。落差がどれほどか分からないが、あそこから落ちていたら骨折くらいはしていただろう。どこかの木に引っ掛かってくれたのだ、と判断。幸運に感謝だ。
そこまで把握してから、梓は決意を固めなおし、隣に目を向けた。
自分の腕にしがみつく、小柄な梓よりなお小さな躰。髪にウェーブがかかっているせいなのか、躰のパーツが全体的に小ぶりに見える。
そういった外見に重なって、視えた。美雨の思考。それは今や、感情と同義だった。
怖い、という感情と。
プラスティックが割れるような音がする。美雨がびくりと震える。恐怖の思考が増大する。足元を、頭上の巨岩から剥離した破片が転がっていった。
それが、引き金だったのかもしれない。
「っ……!」
声にならない悲鳴とともに、美雨が急変した。梓にしがみつく腕に力がこもる。片手だけ。それでも、皮膚に爪が食い込むほどだった。梓も息を吐く。
もう一方の手は、自分の頭を掴んでいた。鷲掴み――文字どおりの意味で。爪を立て、対象を掌握しようとするかのように。破壊しても構わないと考えているかのように。
小さな頭が左右に振られる。自身の手から逃れようとしているのか、痛みをこらえるためなのか。梓は咄嗟に瞼を下ろした。これは、視てはならない。
流されるから。
狂乱の気配だけを感じる。慄然とした。これほど統制を離れた人間を、梓は知らない。いや、知ってはいるが、間近に感じるのは初めてだった。――十年前のことは、今は考えない。
呻きが聞こえる。目を閉じた梓にとって、それは恐怖を呼び起こした。だが耐える。隣にいるのは、知らないモノじゃない。櫃岡美雨。
もう友達になったはずの、少女。
梓は自分の感情をねじ伏せ、暗闇に動いた。美雨の手を頭から引き剥がし、できた隙間に自分の腕を入れる。腕の痛みを無視し、彼女を抱き締めた。力強く。
守るように。
「美雨」できるだけ、耳元に唇を寄せた。「大丈夫。大丈夫だから」
根拠のない言葉。だが保証はできる。信じるという心の働きが、それを可能にする。
揺らいではならない。疑念を挟んではいけない。美雨が感情を『嗅ぐ』というのなら、それを逆用して彼女の恐怖を押し流す。
これも、一種の侵略かもしれない。だが、他人と関わるということは、常にそういうことなのだと思う。思考を視る。体内に触れる。心中を慮《おもんぱか》る。感情を推し量る。
他者に踏み入る行為。しかし、受け入れられればそれはただの関わりになる。
「怖いなら怖いと言っていいの。わたしだって怖いわ。だけど、一人で抱え込むことはない。美雨の『怖い』を、わたしに教えて」
背中に腕が回される。美雨がしがみついてくる。必死に。だが、腕を掴む力は少しだけ弱まっている。
梓は彼女の髪を撫でた。優しく。慈しむように。恐怖を覆い、美雨自身にすらそれを感じさせないように。
「こんな状況だから、怖がるのは当たり前よ。だから、それを隠す必要なんてない」ゆっくりと囁く。「わたしたちはお互いに、人の心を知ることができるわ。今、美雨もわたしの感情が分かるでしょう? わたしも怖い。でも、それだけじゃない。分かる? 落ち着いて、わたしを感じて」
震えが小さくなった気がした。雨の音が、鼓動のように二人を包む。静かなリズム。
「大丈夫」繰り返す。「わたしは流されない。だから――」だから。「美雨の心を、わたしにも分けて」
止まった。
美雨が鎮静化する。視なくても、それが分かる。腕と背中に感じる力が弱まり、代わりに、少女の体重を感じる。
信じてもらえた、ということも。
「いいにおいがする」まどろむような声。「安心、できます」
「そうね」梓は頷いた。
美雨が感じる匂いが『気遣い』のそれならば、そう、そのはずだ。
梓もまた、信じているから。
「きっと、彼が来るわ」
躰を預ける美雨の体温。それを肌で感じながら、梓は髪を撫で続けた。
心を分かち合った二人の脳裏には、たぶん、一人の少年の姿があるはずだ。
「何を考えているんです?」名雪さんの声を久しぶりに聞いた。
彼女はタオルで躰を拭いたあと、腕組みしてじっとしていた。瞼を下ろしたその姿は、しかし何かと戦っているようにも見えた。
相手はたぶん、すぐにでも助けに行きたいという自分の衝動。
名雪さんはそれを、必死に押し殺していたのだ。
今はこちらを見ている。心を見透かすように。
僕は決意を固めるため、三秒ほど瞑目した。
開く。
「やっぱり、助けに行きます」
「駄目です」即答だった。「言ったでしょう。わたしたちにはもう何もできないんです。救助を呼んだ以上、待つことしかできない。瀬畑君も分かっているはずです」
「分かっています」
「なら、」
「助けに来た人たちに、あの二人がどんな反応をするかも」
同じことを考えていたのか、名雪さんは押し黙った。例の事件のとき、美雨を最初に見つけたのは彼女だ。思い至らないはずがない。
名雪さんはそれでも、かぶりを振った。
「それは、何とかして捜索に参加して、彼らより先にこちらが見つければ……」
「僕か櫃岡さんのどちらかが先に見つけられればいいですけど、そうならない可能性もあります。もし、救助の人たちが先に見つけたらって思うと……」
拡大症患者だからといって、他人と会うのが悪いとは思わない。でも、それは事前に準備して、万一のときのフォローもできるようにしてからの話だ。こんな状況で、突発的な遭遇まで歓迎するつもりはなかった。
名雪さんは、何だか泣きそうな顔をした。
「じゃあどうするんです? 貴方まで遭難でもしたら、わたしはどうすればいいんですか?」
別に、名雪さんがそこまで弱りきっているわけではないのだろう。ただ、身内に拡大症患者がいる者として、あるいは大人として刑事として、拡大症患者がみすみす危険に身を投じるのを見過ごせないのだ。
六月の事件のとき、新留さんに感じたことを思い出す。
僕は――僕たちは、守られている。
周りのみんなに、守られている。
だったら、せめて――
みんなの一部でも、僕が守ろう。
微笑む。
「大丈夫です」ドアに手をかけた。「僕の手は、広いですから」
およそ一時間ぶりに、外に出た。
相変わらずの豪雨だ。痛いほどの。たちまち、全身が濡れそぼる。せっかくタオルを借りたのに、申し訳ないことをした。
雨の中を歩く。山道に向かって。大雨といっても、視界が塞がるほどでもない。それに、一度は歩いた道だ。足場の悪さを差し引いても、あの場所までは行けるはず。
独り、土を踏み進んだ。
前髪が額に張りつく。流れてくる水が瞳を覆う。僕は細目を開け、細心の注意を払って上っていった。
辿り着いたのは、二人が落ちた場所。
頭上を木々の枝葉が覆っているので、雨は駐車場よりも弱く感じられた。まだ小雨と呼ぶには強すぎるくらいだけど、シャワーだと思えば快適だ。そう思い込む。
これからやることは、僕の限界への挑戦だ。壁を破る行為。失敗すればすべてが水の泡、成功しても、自分の心を部分的に失う可能性がある。
ますます人間ではなくなる、と実感することで。
それでも僕は助けたい。そして守りたい。
みんなを。
「せめて、手の届く距離にいてくれよ……」呟く。
僕はその場にしゃがんだ。地面に触れるか触れないかの位置まで、両手を下げた。
瞼を下ろす。意識をクリアに。心を一点に絞るイメージ。
恐怖を圧殺し、
反発をねじ伏せ、
呼吸。
鼓動。
体内で、何かが脈打った。
瞬間、両の掌を接地した。
透過触覚を、最大限に解放。
僕の『手』の効果範囲は、最大十メートル。それは、第八号棟で検査を繰り返した結果、ほぼ間違いない数値として出ている。数センチの誤差はあっても、メートル単位で延びることはない。そのことは、僕自身が誰よりもよく知っている。
通常なら[#「通常なら」に傍点]。
例の事件のとき、ごくわずかな時間ながら、透過触覚の範囲が劇的に広がったことがある。三階建てのビルを、丸ごと掌握できるほどに。相変わらず固体にしか通じないけれど、普段の数倍は先にまで『手』を届かせていた記憶がある。
今、それができれば、二人を捜し当てることもできるはずだ。範囲内にいれば、だけど、そこは賭けるしかない。
問題は、僕の精神が耐えられるかどうかだ。あれは、自分でも明らかに異常な現象だった。あのときは必死だったから奇跡的にできただけであって、二度と不可能なことかもしれない。
でも、必死なのは今回も同じ。
無理なら透過《とお》す。
それが、僕の症状なのだから。
「ぐ……」
やはり、十メートル先で壁に突き当たる。もちろん比喩的な意味だ。土は土、草は草、木は木。山の中に、壁なんてない。
あるのは、僕の心の中。
突破してやる。
「梓……」心の底から名を呼ぶ。「美雨……!」
二人の姿を思い描く。
守りたい相手を。
救いたい、僕の大切な友達を。
突き抜ける。
掌から伝わる情報量が、一瞬にして桁違いになる。
壊れそうだ。
それでも僕は、手を離さない。
もう、離さない。
躰がふらつく。落ちる、と冷静に判断する。
静止。
いつの間にか、後ろから抱き留められていた。
誰だ?
誰でも良かった。
助けてくれて、ありがとう。
そのとき、反応があった。
大きな岩の塊。その下に、二つの熱。
指先で、繊細になぞる。
間違いない。
「見つけた」
囁きは、自分の耳にも届かなかった。
際限なく広げた『手』の大部分を、自分の躰に引き戻す。
触覚情報が瞬時に消え失せ、かえって混乱する。
けれど、二人の位置は掴んだまま。
今度は、離さなかった。
シートが汚れるから、と(一応)断ってみた。
「掃除すればいいだけです」と右前方から名雪さん。
「すみません、ありがとうございます。今は休んでください」と正面から美雨。
「言うとおりにしなさい」と頭上から梓。
というわけで、僕は今、名雪さんのクルマの後部座席で横になっている。僕はどちらかといえば小柄なほうだけど、座るスペースが余るほどじゃない。女の子二人を助手席に押し込むわけにもいかない。必然、こういう体勢にならざるをえなかった。
つまり、その……、膝枕だ。
膝を貸してくれているのは梓だ。名雪さんが用意していたタオルで躰を拭き、別の一枚を太腿に載せ、僕はそこに頭を置いている。体力的に限界に近かったとはいえ、座っていられないほどではなく、何度か躰を起こそうとしたけれど、そのたびに額を押さえられた。
抵抗を続ける気力はなかった。
――あのあと。
僕は透過触覚を使ったまま、フォローしてくれた名雪さんと一緒に斜面を下った。『手』の感覚からして、二人のいる場所までは約四十メートル。随分落ちたなと思うべきなのか、意外と近かったと安堵するべきなのか。そのときは余計なことを考える余裕もなく、僕たちは必死に二人を捜した。
大きな岩の下、意外なほど穏やかな表情で寄り添う二人を見つけたあと、僕は名雪さんの制止を無視してまた透過触覚を使った。二人を捜したときと同じやり方で。駐車場から斜面の上まで行った感じと、そこから二人がいた場所までの距離を考えると、一旦上に戻るよりは水平に移動したほうが早いのではないか、と思ったからだ。
実際、予想は正しかった。直線距離だと、駐車場まで百メートルもなかったのだ。木々を迂回しながら進まなければならないことを差し引いても、上って下りて、をするよりは明らかに近いし楽だ。
もっとも、これが僕を決定的に疲弊させたらしい。クルマに辿り着くまで、梓に肩を貸していたのか預けていたのか分からないほど、足に力が入らなかった。
かろうじて、頭や躰を拭くところまでは自力で頑張ったものの、そこで限界がきた。思わず倒れ込んでしまったところ、梓が膝を貸してくれて、現在に至る、というわけだ。
クルマは既に、山道を出て平野部を走っている。道が舗装されていないためか、振動が激しい。そのたびに梓の躰の柔らかさを知らされ、僕は表情を変えずにいるのに必死だった。
レスキューには、二人は見つかったと名雪さんが連絡した。一応、診察をしたほうが……と言われたのは当然で、それに対しては「時任病院に主治医がいるから」と断っていた。嘘はついていない。いろいろな意味で、真実は語っていないけれど。
それに、これから第八号棟に戻るのも本当だ。梓も美雨も軽いとはいえ怪我をしているから、治療を受けなければならない。僕も、できれば早くシャワーを浴びて休みたかった。
いや、その前に、言わなければならないことがある。
「美雨」横になったまま呼びかけた。
「何ですか?」彼女は、運転席との間から顔を覗かせた。
「あのときは、ごめん」
「え?」
「落ちそうになったとき、助けられなくて」
「そのあと、ちゃんと助けてくれました」
「いや、でも……」
「はいストップ」梓がぴしゃりと言った。「二人とも、ほっとくと謝り倒すばっかりで話が全然進まないじゃない。言いたいことは一回言えば充分でしょ?」
お姉さんぶった言い方をする梓の顔に、ゴーグルはない。落下中に外れてどこかに飛んでいってしまったようだ。回収はしていない。捜している時間がなかったからだ。
梓の素顔を見るのは、久しぶりだ。夏休みに入ってから、着替えているところに入ってしまったりDVD鑑賞しているときに見たりしたけど、まともに目にするのは、六月の事件以来か。
小さな笑い声が聞こえた。
「お姉ちゃん?」美雨が呼ぶ。
「いや……」名雪さんは笑声を抑えるように軽く咳払いし、「不思議なことだ、と思っただけだよ」
「不思議って?」
「ついさっきまで、二人がいなくて動揺していたのに、見つかったらもうこんな雰囲気だ」
「『こんな』って何よ」梓は口を尖らせているだろう。
「いいコンビですね、貴女たちは」名雪さんは不意討ちのように言った。
「え……」
「美雨。これからも、二人と仲良くね」
「うん」美雨は即答した。「でも……」
「ん?」
「お姉ちゃんも、仲良くしようよ」
ハンドル捌きがぶれた――ように感じたのは、たぶん、気のせいじゃない。
僕の位置からは、名雪さんの顔は見えないけれど……、どんな表情をしているかは、たぶん、分かった。
今朝《けさ》、出発前に知らされたこと。
そして、頼み。
これなら受けても良いかな、と思えた。美雨から直接言われたのだ。名雪さんだって、もう今までと同じ気持ちではいられないだろう。もちろん、良い意味で。
難しいことじゃなかったんだ。
素直になる。それだけで、人は変われる。
気持ちは、伝わるのだから。
匂いみたいに、具体的な感覚ではないけれど。
なんとなくの無言を乗せて、クルマは走り続けた。雨は、いつの間にか小降りになっていた。内緒話をしているみたいだ、なんて、詩的すぎるだろうか。
たまに、他愛もない話をしながら、クルマは時任病院に到着した。地下駐車場に入る。体力も多少は回復していたので、僕は躰を起こした。ありがとう、と囁くと、梓はお姫様のように頷いて応えた。
駐車スペースにクルマを滑り込ませ、エンジンを止める。僕は先に出てから反対側に回り込み、目を瞑ったままの梓がクルマを降りるのを手伝った。肩を貸す。その間に、櫃岡姉妹も出てきた。
ゆっくりと、搬入用通路のほうに目を向ける。クルマが停まる前から、気づいていた。
扉の前、険しい顔で待ち受けていたのは、美雨の主治医である海老原さんだった。後ろには、なぜか新留さんと篠原さんもいる。
僕たちは連れ立って移動し、海老原さんの前で立ち止まった。憤怒の形相、というほどではないにしろ、友好的な態度とは一ミリも思えない表情だった。
「どうしたんですか?」僕は先手を打った。
「レスキュー隊から連絡があった」
その一言で、事情は飲み込めた。梓たちを助けたあと、レスキューに連絡するとき、櫃岡という名前も伝えていたのだ。時任病院のことも言ったから、ことの顛末《てんまつ》を海老原さんたちが知っていてもおかしくはない。
「それで、どういうつもりかね」彼の声は低かった。
「何がですか?」
「とぼけないでもらおうか。わたしの患者を勝手に連れ出して、どういうつもりかと訊いたのだ。事故に巻き込みまでしたそうだな」
「僕は誰も連れ出していません。みんなでたまたまドライブに行っただけです」
「そこにいるのはわたしの患者だぞ。勝手な真似はしないでもらおうか」
振り向く。海老原さんが指差しているのは、当然というか何というか、美雨だった。こんなときでも彼は感情を抱いていないのか、美雨が不快な匂いに悩まされている様子はない。
ただ、顔を青ざめさせている。その様子は、いっそ悲壮と形容しても良いくらいだった。
僕はまた、海老原さんのほうを向いた。
「僕が一緒だったのは、櫃岡美雨です。『わたしの患者』なんて人じゃない」
「同じことだ」
「違いますよ」
「……この件は、問題にさせてもらってもよろしいか?」
海老原さんは、肩越しに振り向きながら呻いた。言葉が向けられたのは、僕の主治医である新留さんだ。
「どの件でしょうか」彼女はことさらに冷たい声で返す。
「主治医の許可なく、患者に外出させるなど……」
「彼女が外に出ることを、許可していなかったのですか?」新留さんは(たぶんわざと)驚いたように言った。
「そうではない。彼が、わたしの患者と無断で外出したことだ。わたしは何も知らされていなかった」
「あの、口を挟んで申し訳ないですが、それは問題になりません」篠原さんが遠慮がちに告げた。「病院内で面会したり、最初から一緒に行動することが分かった上で外出したり、といったことであれば、主治医の許可を得るべきだとガイドラインにありますが、外で偶然会っただけなら、患者としても予期しない事態のはずですし」
「しかし今朝見たとき、この四人は明らかに計画的だったぞ」
「そうなの?」と、新留さんは僕を見た。
彼女の横で、篠原さんが不器用にウインクしている。
思わず笑いそうになった。表情を慌てて引き締める。
「いえ。海老原さんにどう見えたか分かりませんが、僕と梓が一緒に出ようとしたとき、たまたま櫃岡さんたちがいただけです。それで、ドライブに行かないかと誘われました」
「だそうですが」
新留さんの言葉に、海老原さんは歯噛みした。火を噴くような目で、僕を睨みつけてくる。
……こんな表情をしているのに、感情的でないなんてことがありえるのだろうか。僕はまた、美雨のほうを振り向いた。唇を噛み締め、何かに耐えているようだ。
(耐える、だって?)
「一つ、いいかしら」いきなり、耳元で声がした。
梓だった。目を瞑ったまま、けれど正確に海老原さんに顔を向けている。
突然の割り込みに、海老原さんは眉を顰めた。
「何かね」
「明珠から聞いたんだけど、『症状にどんな影響が出るか分からない』って理由で、美雨と会うことを咎めたらしいわね」
「咎めたのではなく――」
「そのへんのニュアンスはどうでもいいわ」梓はあっさり遮った。「とにかく、拒絶したわけでしょう?」
「もちろんだ。わたしは主治医――」
今度の絶句は、梓が何か言ったわけじゃない。
彼女はただ、目を開けただけだ。
すべてを視通す、幻視の瞳が露わになる。
「悪いけど、もう一つ」
拒絶を認めない口調だった。
「『影響』というのは、悪い影響ということ? それとも、リハビリが一歩前進するような、いい影響も含むの?」
「それは、すべての、」
「悪い影響だけね」断言した。「なら――あの子を見るといいわ」
梓はそれだけ言って、瞼を下ろした。呼吸が少し荒い。躰も震えている。
こうなることが分かっていて、梓は幻視を使った。
真実を、明らかにするために。
こちらの肩に回っている梓の手が、僕の服を掴んだ。梓の言いたいことは、それだけで分かる。篠原さんがこちらに近づき、僕に代わって梓を支えた。
互いに目を合わせ、頷く。
僕は海老原さんに背を向け、美雨のそばに寄った。少し腰を曲げ、目の高さを合わせる。
「美雨」できる限り、口調を和らげた。「今、どんな匂いがする?」
尋ねると、彼女は一瞬、泣きそうな顔をした。
傷ついたり、悔しかったりしたときの顔じゃなく、
安心の涙を予見させる、泣き笑いの顔。
確信する。
美雨はもう、大丈夫だと。
彼女の唇が開く。
「お日様に当てたシャツの匂いと――」
二つの瞳が、僕の背後に向けられた。
「鉄が錆びたような、匂いです」
後ろで、彼がどんな顔をしたか分からない。でも、僕はそちらを見なかった。
美雨と視線を交わしたまま、
「鉄錆の匂いは、いつからしてた?」問う。
「車を降りたときから」
「そう」僕は微笑み、美雨の頭に手を乗せた。「よく、頑張ったね」
美雨はつらそうな、けれど力強い表情で応じた。次いで、守られるばかりの人間では絶対にできない鋭い目つきを、僕の背後に向ける。
「海老原先生」震える声。はっきりした口調。「初めて、わたしに感情を向けてくれましたね。そのこと自体は嬉しいです。でも」
僕は振り返った。美雨のそばに立ったまま。
「わたしが明珠さんや梓さんと会うと、そんな感情を向けられるなら――わたしは、先生と一緒にいたくありません」
それは、僕も初めて聞いた、美雨による拒絶だった。
口をむなしく開閉させる彼の前を横切り、僕は梓のそばに行った。ぽん、と肩に手を置く。
「ありがとう」
「今度は、支えられた?」まるで、何が起きたか分かっているかのように、梓が言った。
僕は首を縦に振った。見えないと分かっていても。
「できたよ」
「そう」梓も、唇をほころばせた。「良かったわね」
僕はもう一度、大きく頷いた。
ふと、駐車場の入り口に目を向ける。
いつの間にか、雨が上がっていた。
エピローグ
今月もあと三日で終わりという日、僕は第八号棟に向かった。
八月三十一日はずっと家にいることにしたので、夏休み中の来訪は今日が最後だ。もっとも、週末はまた来ることになるので、特に意味はない。まして、梓や美雨はずっとこの中なのだから、僕が行く頻度が落ちる、といった程度だろう。
とはいえ、行くのがあのとき以来なので、少し緊張する。
毎度のように新留さんの部屋に入ると、何だか機嫌が良さそうな彼女に迎えられた。
「どうも」
「おや。今日はいつもより早いじゃないか」
「そうですか?」荷物を置きながら応じる。
「時間の経過を忘れるほど、わたしが浮かれていたということかな」
「何かいいことでもあったんですか?」
「あったとも。灰皿の有効利用ができたんだよ」
僕は固まった。恐る恐る、室内の灰皿を数える。七つ。
一つ足りない。
一番新しかったはずのやつが、どこにも見当たらなかった。
「あの、何があったんですか?」訊かなければ良いものを、と思いつつ。
「ふふふ」新留さんはやばい感じの笑顔を見せた。「先月の終わりから、わたしが不機嫌だったのは分かっていたと思う。理由は分かる?」
「えっと、確かお見合いが」
今度こそ、言わなければ良かった。
新留さんの目から、笑みが消えた。顔は笑っているだけに、相当怖い。
「そのとおり。さて、暴露したのは誰かな?」
「さあ……。誰から聞いたか忘れてしまって」冷や汗をかく。
「問い詰めれば分かることだな」あっさりと恐ろしいことを宣《のたま》った。「それで、一昨日の話になるけど、また同じ部屋の中で二人きりにさせられる羽目になってしまったんだよ」
断じて「会うことになった」とは言わない新留さんだった。
「はあ。それで……」
「で、まあ、いろいろわけの分からないことを言ってきたから、つい手が滑ってしまってね。すると、あの灰皿が予想外にも優れた空力特性を発揮して、相手の額に直撃してしまったというわけだ。偶然とは恐ろしいな。そう思わない?」
「エエ、ソウデスネ」逆らったら死だ。
新留さんは満足そうに煙草をくゆらせつつ、コーヒーメーカをセットした。僕は立ったまま、その姿をぼんやりと眺める。
「海老原先生が、研究区画に異動になったよ」彼女は唐突に言った。
「え?」
「櫃岡美雨の主治医でなくなった、ということさ。自分から言い出したんだけど」
一瞬、その意味を理解できなかった。
次の一瞬で、テーブルの上に身を乗り出した。
「それで、どうなったんですか?」
「次の主治医がね……」声のトーンが落ちた。「若い女性で、優秀だし、若くて美人だから、もうなんか絶対的に信頼できるんだけど、既に患者を一人受け持っているからね。どうなるかな」
「二人以上を担当するって、やっぱり難しいんですか?」
「患者によるけどね。手のかからない……って言ったら語弊があるけど、要するに常に気を配っていなきゃいけない子でなければ、何とかなるんだけど」
「そう、ですか」
何か引っかかりまくっている気がするけれど、とにかく、担当が海老原さんでなくなったのは確かだ。あの人に任せなくて良くなったのだから、ひとまず喜ぶべきだろう。
うん、と頷き、躰を起こした。
新留さんが、煙草を灰皿に押しつけながら振り向く。
「ところで、瀬畑君は美雨の部屋を知ってるんだっけ?」
「いえ」
「教えてあげるよ」あっさり言った。
「え、でも」
「主治医が許可してるから、大丈夫だよ」
新留さんは、パソコンが乗った机から紙を取り出すと、素早い手つきでペンを走らせた。僕はそちらに近寄り、紙を受け取る。
短時間で描いたとは思えない、分かりやすい見取り図があった。
「行っておいで。待ってると思うよ。梓と一緒に」
「はい。…………え?」危うく聞き逃すところだった。
「何、えって」
「梓も一緒なんですか?」
「あの二人、最近よく会ってるからね」
そうか。そういうことになったわけか……。
僕は荷物を提げて、新留さんの部屋をあとにした。最近、コーヒーを飲ませてくれる機会がないな、と考えつつ。
入院患者用の区画に行き、見取り図を頼りに歩いた。梓の部屋とは少し離れている。もちろん、同じ建物の中だからたかが知れているけれど。
そういえば、部屋に行くことを事前に言っていなかったけど、大丈夫なんだろうか。その心配が頭をよぎったのは、間抜けなことにドアを探し当てる寸前だった。
(ま、ここまで来たら、挨拶くらいは)
櫃岡美雨、とネームプレートのかかったドアをノック。
「はい」
「瀬畑だけど、いきなりごめん。今、入っても大丈夫?」
「いいですよ」
許可はあっさり下りた。声が弾んでいる。面白い映画でも観ているのかな、と思いつつ、ドアを開けた。部屋の構造はどこも同じだ、と新留さんから聞いている。
確かにそうだった。ドアを開けてすぐ、短い通路。左手には、それぞれバスルームとトイレに続くドアが二つ。通路を直進すると、そこがメインのフロアになる。ただ、美雨は通路の終わりのところにカーテンをかけていた。
通路を進み、カーテンを開ける。部屋が狭く感じるのは、ものが多いからだろう。散らかっているわけではないけど、通路から見て正面の壁際に棚が並び、本やメディアが整理されていた。右手の壁にも、いくつか収納ケースのようなものがある。その一つの上に、例の電子ヴァイオリンが載っていた。
ベッドは梓の部屋にあるものと同じ。その手前に、丸いテーブルと椅子のセットが据えられている。椅子は二脚で、今は片方が使われていた。
そして、
「こんにちは」ベッドに座った美雨が、こちらに笑顔を向けた。
「遅かったじゃない」やたらと自然に、梓が言った。
なるほど、新留さんが言ったとおりだ。僕は二人に声を返しつつ、テーブルに寄って椅子に腰掛けた。
持ってきた袋から、いつものようにケーキを取り出す。美雨にもあげようと思っていて、ちようど三つ買っておいて良かった。
「あ、やっぱり、梓さんが言ってたとおりですね」袋を見ながら、美雨が言った。
「何が?」
「パン屋さんでケーキを買ってくるって」
「美味しいのよ」梓が胸を反らした。……なぜ梓が威張る。
紙皿に取り分け、プラスティックのフォークを添えて並べていると、梓がコーヒーの準備をした。魔法瓶に入れてきたらしい。
空の箱を潰しつつ、さっきから気になっていたことを訊こうと美雨に目を向けた。
「そういえば、美雨。さっき新留さんから、主治医が替わったって聞いたんだけど……」
「あ、はい」彼女は何でもないことのように頷いた。
「新しい先生って、大丈夫なの? なんか、担当する患者がもう一人いるから忙しい人だって言ってたよ」
梓がくすくす笑い出した。僕は少し眉を顰めて、
「何か可笑しいの?」
「いいえ? ただ、それのどこが問題なの?」
「よく分からないけど、いざってときに対応が遅れたらまずいじゃないか」
「もともと担当してた患者が、面倒をかけなければいいんじゃない?」当たり前のことのように言った。
「そりゃそうだけど、それができるとは限らないわけでさ……」
「日ごろ[#「日ごろ」に傍点]、第八号棟にいない患者でも[#「第八号棟にいない患者でも」に傍点]?」
潰した空き箱を紙袋に戻す手が止まった。
えっと……、
今、何て言った?
美雨に視線を転じると、彼女はちょっと困ったような笑みを浮かべていた。
まさか。
「あのさ」ゆっくりと発音する。「美雨の新しい主治医って、もしかして、」
「紗織先生です」美雨は申し訳なさそうに言った。
彼女の殊勝な態度をぶち壊しにするように、梓が爆笑する。
僕はずるずると、椅子に体重を預けた。
何だ……。
結局、良い感じに収まるんじゃないか。
心配して損した、とまでは思わないけれど、僕が気にすることでもなかったな、とは思う。
(でも……)
横目で美雨を一瞥する。
心からの、笑顔。
この顔が見られたなら、満足だ。
彼女の症状は、自分の感情だけは対象にならないそうだけど。
もし、今の自分がどんな感情を抱いているか、知ることができたら――
それはきっと、テーブルの上に並んだケーキより、甘い香りに違いない。
僕はまだ笑っている梓を見やり、にやりと笑った。
「じゃあ、謎も解けたことだし、ケーキ食べようか。美雨、好きなの取っていいよ」
「はい。じゃあ、チーズケーキを」
「僕はこれにしよう」
「あ! 明珠、モンブランはわたしの――!」
「早い者勝ちだよ。笑い転げてた梓が悪い」
「駄目―!」
この感情を、どう表現すれば良いのか。
彼女でさえも、たぶん、分からないだろう。
それで良い。
表現できなくても、感じることはできる。
拡大症患者でも、そうでなくても、同じだ。
だから、今は――
楽しもう。このひとときを。
カクレスギヒメ(早く出てこい!)
(どこまで書いたらネタバレになるんでしょうか?)
いきなり舞台裏を書いてしまいますが、この作品、これまでで二番目に短いスパンで出せたにも拘わらず、これまででもっとも長い執筆時間をかけました。「そこまで練りに練って書き上げた作品なのだ!」と胸を張って言えれば良いのですが、必ずしもそれだけではなく、全国各地に刀を振りに行っていたのが一つの原因です。
しかも、調子に乗って新しい刀を一振り買ってしまって、感動的なバランスのあまり、家で素振りしまくって握力を使いすぎてキーボードを打てないこともしばしばありました(やりすぎ)。いえ、これは言い訳ですけれど……。
あと、温泉にも行ってきました。射的屋がなぜか十軒くらいある温泉街で、これまた謎なことに、和洋の弓を引ける店もありました。アーチェリーは一度だけ射ったことがありましたけど、和弓は初めてだったので新鮮でした。引き方を失敗すると、左腕の内側がズタズタになることが分かりました。矢尻が引っかかるようです。非常に痛い。しかし、胸筋と背筋の偉大さを学べたので無駄ではありませんでした。
そんなこんなで時間をかけすぎて、ストーリィも大幅に変更してしまいましたが、これはこれで良い感じになったのではないかな、と自己評価。考えたら、こういう話を書いたことは今までありませんでしたね。良い経験ができたと思います。
武道の話ばかり書いたので、この際ですからいろいろ書いてしまいます(おい)。あとがきの機能をアンドロメダくらいに放り投げるような暴挙ですが、まあ、これまであとがきらしいあとがきを書いたのか、というとそうでもないので、今さらですね(笑)。
ちょうど、この作品の原稿に手を入れているころ、静岡まで居合の大会に行きました。模範演武だけで午前中が潰れるという、(いろいろな意味で)素晴らしい大会なのですが、そこで初めて、生で見ることができたものがあります。
名前だけは知られているものの、実態は闇に包まれた……そう、鎖鎌です。
鎌の部分はさすがに刃を落としていると思いますが(未確認)、鉄球は本物らしく、床に落とすと「ごとっ」とやたら重そうな音が響きました。あんなものを投げられた日には、鎖の部分を刀で払おうなんて気にはなれません。逃げるのみです。演武していた人も、あの数分で神経をすり減らしたことでしょう。
鎖鎌のほかには、槍(目算で全長三メートルくらいありそうでした)、短杖、脇差あたりが見どころでした。特に脇差は完全に組み討ちで、相手の関節を極《き》めてから心臓に突きつけるとか、床に投げ倒して馬乗りになってから頸動脈に当てるとか、「そこまでやるか」というくらい実戦的でした。比較するものではないと分かっていても、あれを見ると、現代武道って武術ではないんだな、と感じます。
さて、そろそろ作品の話でも……(笑)。
とはいえ、今回は前巻みたいなエピソードはありません。きっとまた言われるだろうと予測して最初からツ○○レに書きましたし、その他のキャラも外面的な指摘がメインで、内面に関してはそこまで言われませんでした。ストーリィ上のチェックもあったので、これまでと同じ感じで打ち合わせを終えられるだろうと思っていました。
……途中までは。
一つだけ、予想を遥かに上回るチェックが入りました。あとがきでネタバレしないということにしたのでダイレクトには書きませんが、「ラブコメであれば必須のイベント」であろうアレです。ある意味、今回最大のファンタジィと言えるでしょう。
幸か不幸か、それは意外にもあっさりクリアできたので、その後はノータッチでした。一巻よりも気楽に書けた点があるとすれば、まさにその点に尽きます(尽きてどうする)。
しかし今回、もっとも嬉しかったのは、あまり間を置かずに新刊を出せたことです。もっとも、そのために担当の和田・小原《こばら》両氏やイラストの草野《くさの》ほうきさんを始め、幾多の方々にご迷惑をおかけしたことと思います。直接言えば良いのですが、ここでもお詫びと感謝を。
今後の展望は不明ですが、とりあえず「小説を書かない」ということはないので、気長にお待ちいただければと思います。
二〇〇八年十一月 室内ではいまだ半袖   佐竹彬《さたけあきら》
発行 二〇〇九年一月十日 初版発行
[090314]