カクレヒメ
佐竹彬
――年前。
彼が、目が覚めてすぐ自分の存在を確かめられる奇跡を知った、初めてのころ。
そのとき彼は、緩慢に死にかけていた。
肉体的にではない。精神的にだ。
ゆっくりと、だが確実に、自我の消滅が訪れつつあった。
顔の上半分は目隠し。耳にはノイズを垂れ流すヘッドホン。躰は囚人に着せるような拘束衣に包まれ、その上から何かに縛りつけられている。
長く続く拘束は、感覚を麻痺させる。
特に触覚が薄れることは、現実感を失うことに直結していた。視覚も聴覚も、一時的であっても、日常の中で制限されることが多い。だが触覚は違う。生きている以上、何にも触れずに過ごすことはできない。
だからそれが消えると、生きていることを感じにくくなる。
生《せい》の実感がなくなることは、ある意味、死ぬことと同じだ。
覚悟しなかったわけではない。いつものように学校から帰る途中、いきなりクルマに押し込まれ、連れ去られたあのときから、自分の死を漠然と予想していた。誘拐された人質が、必ずしも生きて帰れないことくらい、十年も生きていない子供にも分かる。
だが、死ぬ覚悟があることと、死にたいと思うことは別だ。
彼は、まだ死にたくはなかった。
誘拐犯は、彼がまさに死につつあると分かっているのだろうか?
おそらく分かっていない。分かっていれば、定期的に刺激を与えるはずだ。
食事が与えられないことよりも、感覚を遮断されることのほうが人を死に近づける。
それでもなお、生きたいと願うならどうする?
触れたい。
まだ、この世と繋がっていることを感じたい。
そう望むなら。
答えは決まっていた。
奪われたのなら、代わりのもので間に合わせるのだ。
第一話 「感覚拡大」
ひろがるせかい
今年のゴールデンウィークは、雨に捧げられたようなものだった。連日の悪天候に、レジャー関係では閑古鳥の大合唱だそうだ。屋内型のところは多少なりとも客がいるそうだけど、例年に比べて少ないのは確からしい。天気が悪い日は、そもそも外出する意欲が奪われる。小雨ならともかく、それなりの雨量があればなおさらだろう。
僕は雨が嫌いではないので、そんな天気の中でも平然と出かけた。行き先は、近隣の県にあるちょっと有名な高原だ。とはいえ雨宿りができるとは思えないので、こんな日は人が集まることはないだろう。
たまに言われるように、僕はやっぱり物好きなのかもしれない。まあ、行くのは以前からの予定だったし、既に長距離バスの予約もしてあったので、キャンセルするのがもったいないというせこい理由もあったのだけど。当日キャンセルはお金がかかるのだ。
実際、キャンセルした客は多かったらしい。集合場所に着いたとき、予約客の確認をしていた運転手からも不思議そうに見られた。もっとも、行楽シーズンとはいえ十代の男一人で、という珍しさもあったかもしれない。
瀬畑明珠《せばためいじゅ》、と名乗り、チェックを済ませると、彼は目線で乗車口を示した。
「入ってすぐのところに座席表がありますけど……。まあ、好きに座ってもらって構いませんよ」
客が少ないから、ということだろう。僕は軽くお辞儀して、バスに乗り込んだ。一応、座席表を確認してみる。真ん中あたりの窓際だった。
通路に出ると、予想どおり人数が少ない。見える範囲では五人だけだ。後ろ側に二十代と四、五十代という年代の違うカップル二組と、真ん中より少し前側の席に座る若い女性。
女性の一人旅も珍しいかな、と思い、僕は通路を進みながら彼女を一瞥した。ショートヘアで、眼鏡をかけている。シンプルなブラウスにスカート。白い春物のコートを着ているせいか、保健室の先生というイメージだ。文庫本を手にしていて、理知的な印象を受ける。
もっとも、火は点いていないとはいえ煙草をくわえながらなので、不良っぽくもある。
あまりじろじろ見るのも悪いので、僕は足を動かして指定の座席に腰を下ろした。座席表を見たときは分からなかったけど、女性の斜め後ろだった。通路を挟んでいるとはいえ、話そうと思えば話せる距離だ。
隣は来そうにないから、荷物置き場にさせてもらうことにした。もっとも、たいして大きくもないショルダ一つだけだ。
外を見た。降り注ぐ雨が、窓ガラスの上で囁《ささや》いている。内容まで聞き取れはしない。かえって静けさを感じさせる音の群れ。
後ろ側に座る客たちの会話が、静かに耳に滑り込んでくる。周りを気遣ってのことだろう、話しているのは分かっても中身までは聞こえない、そんなボリュームで言葉が交わされていた。
僕はポケットからミュージック・モバイルを取り出し、イヤホンをつけた。お気に入りのアルバムを再生する。雨が作ってくれた静かな雰囲気を壊さない、落ち着いたバラードのシリーズだ。
やがて、バスが定刻の十時半に出発した。僕のあとに乗ったのは運転手だけなので、客は六人だけということになる。座席は四分の一も埋まっていない。
イヤホンから聞こえてくるゆったりしたメロディのバックに、バスのエンジンとエアコンのかすかな排気、それに雨の音が流れる。僕は音楽に耳を傾けたまま、前の座席の背もたれ越しに見える車内の時刻表示を、眺めるともなしに見ていた。
静かな曲は眠気を誘う。朝が少し早めだったこともあり、僕は少しうとうとしていた。
声が聞こえたのは、そんなときだった。
「ごめん、寝てる?」
僕は短い間隔で瞬きしながら、声のしたほうを見た。通路を挟んで反対側の座席に、一つの影がある。
あの若い女性だった。一つ前の席に座っていたはずだけど……。
「起きてるなら、少し話さない? せっかく席を移動したんだし、付き合ってよ」
「はあ」
変わった喋り方をする人だな、というのが、実際に言葉を聞いての第一印象だった。少し早口だけど、聴き取りやすい。最初に感じたとおり、スマートそうだ。ちょっと強引だけど。
僕は音楽の再生を止めて、通路側の席にスライドした。荷物は窓側に。窓の外は、雨に濡れる山道だった。雷雨になっているらしく、ときどき、空が単発的に光った。
彼女は肘掛けに腕を乗せ、微笑の形に細めた双眸を僕に向けていた。相変わらず、唇に煙草を挟みながら。
彼女は眼鏡のブリッジを押し上げる。綺麗な指をしていた。
「悪いね。寝過ごしたらまずいからさ。これから仕事なんだ」
「仕事?」どこでだろう。というか出勤するには遅くないかな。
「そ。一つ目で降りるんだ。修理中でなければクルマで行くんだけど」
一つ目の停留所は、山を一つ越えたあたりだったと記憶している。そう、大きな病院があるところだ。電車も通っているけど、それだと山を迂回しなければならないから、時間的にはバスのほうが早いのかもしれない。
「いつもは自分で運転するから、眠いとか言ってられないんだけどね」彼女は肩をすくめた。
「まあ、そうですよね」
「君は一人旅? どこまで?」
「一人です。終点まで行きます」
「終点っていうと……何とかって高原だよね。二時間以上かかるでしょ? ずっと音楽を聴いて過ごすつもりだったわけ?」
「ええ、まあ。一応、本も持ってきましたけど」
「学生っぽいけど、それであそこに一人で行くっていうのは珍しいね」彼女はすぐに話題を変えた。「ああいうところが好きなの?」
「……広いところが好きなんです。人があんまりいないような」
「ふうん。じゃあ人混みとかも苦手なんだ?」
「そうですね。満員電車とか、人がいっぱい乗り込んだエレベータとかは、ちょっと」
「今日が雨で良かったわけだ」
バスの乗客が少ないから、という意味だろう。確かに、満席にでもなっていたら、ちょっとつらかったかもしれない。座席表を見た限り、キャンセルが一つもなければ大半の席は埋まっていたはずだ。
そういう意味では、彼女が言ったように、僕には雨のほうが好都合だった。もちろん、それを見越して予定を立てたわけではない。あくまで偶然だ。
それにしても、彼女の職業は何だろう。会社員ではないと思う。こんな時間帯に出勤しているくらいだから、時間に融通が利く仕事であることは間違いないんだろうけど……。
尋ねてみようかと彼女を見たところで、どう呼びかけるべきか少し迷った。小説なんかではよく「貴女《あなた》は……」なんて言い方をするけど、現実の高校生でそんな呼び方をする奴は滅多にいない。
ええと、なんて口ごもっていると、彼女は微笑んだまま口を開いた。
「名前?」
「あ、ええ」咄嗟に頷いてしまう。「え? なんで分かったんですか?」
「ほら、ドラマとかじゃよくあるじゃない。初対面で会話しているとき、意味もなく口ごもったら名乗る、みたいなシチュエーションがさ」
「ああ、ありますね」不文律なんだろう。たぶん、ツッコミを入れてはいけないテンプレートなのだ。
彼女は可笑しそうに笑いながら、
「ついでだから、よくあるやり取りを追加しようかな。『人に名前を訊くときは』――」
「『まず自分から名乗るものだ』」自分で言って思わず吹き出した。「実際に言うことが来るとは思ってませんでした」
「わたしもだよ。で、先に言おうか?」
「瀬畑明珠です」僕は自分から名乗った。名前を尋ねたのはこっちが先だから、セオリィに従ってみたのだ。
「わたしは新留紗織《にいどめさおり》。道中、よろしく」
「こちらこそ」
応えると、彼女――新留さんはにやりと笑った。綺麗な顔立ちをしているけれど、不思議と、そういう笑顔が似合っていた。
不意に、車体が揺れた。本能的に、肘掛けを掴む。スリップだろうか。運転手のほうを見ると、ちょうどマイクを手にしたところだった。
『現在、雨の影響で路面が滑りやすくなっております。突然揺れることもありますが、ご了承ください』
「揺れたあとで言われてもね」
新留さんの小声に、僕は苦笑で応じた。
「それにしてもよく続くね、この雨。連休中ずっとだ」
「この時季にしては珍しいですよね」
「ま、雨の観光地も悪くないだろうし、これはこれで面白そうだね」
彼女は頭の後ろで指を組み、口にくわえた煙草を上下に振った。バスを降りたら、すぐにでも喫煙所に走りそうだ。
車内前方の時計を見る。十一時を過ぎていた。バスの前には山道がずっと続いている。新留さんが降りる停留所にはもうすぐ着くけど、僕の目的地まではまだ長い。前を見ても後ろを見てもクルマが無いので、一瞬、道路がループしているように錯覚した。
隣に視線を戻すと、新留さんも横目に僕を見ていた。
「彼女いる?」
「え?」いきなりすぎだった。
「どうなの?」
「いませんけど……」
「人がいないほうが好きだから?」
「というか、なんでいきなり?」
「学生なら恋バナかなって」
どういう理屈なんだろう。
「とにかく、いませんよ。今までもずっと」
「ホントに?」
「嘘言ってどうするんですか」
「わたしの追及を躱《かわ》す」
確かにその目的はありえる。でも、事実としていないものはどうしようもない。
それにしても、女性ってみんなこういう話が好きなんだろうか。クラスでもよく耳に入ってくるし。まあ、男子の間でも全くないわけではないけど、オープン度からすれば女子のほうが圧倒的に上だ。
まさかこんな一人旅の途中で、初対面の人から持ち出される話題とは思っていなかったけど。
窓の外が暗くなった。周期的に、オレンジ色の光が次々と通り過ぎていく。トンネルに入ったようだ。
彼女が肩をすくめた。
「でも、本当に嘘じゃないみたいだね。ちょっとつまらないな」
「新留さんはどうなんです?」反撃のつもりで、僕は言った。
「女の秘密は、そう簡単に引き出せるものじゃないよ」
「それってずるくないですか?」
「冗談だよ。でも、わたしだって話せることはそうそう――」
ない、とでも言おうとしたのだろうか。でも、その続きを聞く機会はしばらくお預けになった。
轟音。
震動。
車体が横滑りする。スリップ。でも、今回はハンドル捌きの問題じゃない。急ブレーキが、この路面で効果を発揮しにくいからだ。進行方向に横面を向け、スライドする。対向車があったらアウトだ。
「何かに掴まりなさい!」新留さんの鋭い叫び。
視界が一瞬で黒に染まった。オレンジの明かりが消える。停電? なぜ――
衝撃が走った。座席に押しつけた躰を、波が容赦なく貫いていく。自分の手足がばらばらに跳ね回る感覚を最後に、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
顔に当たる冷たい感触が、目覚まし時計の代わりだった。とはいえ、ただ起こすだけで、時刻を知らせてくれるものではないのだけど。
だから僕は、携帯電話を取り出して画面を確認した。午前十一時二十九分。ちなみに電波状況は圏外だった。
画面が予想外に眩しくて、僕は目を細めた。そこでようやく、周囲がほぼ完全な暗闇であることを知る。いや、画面の明かりを消してしまえば、本当に真っ暗になるかもしれない。
また、顔に何か当たった。そこに触れた指先が濡れる。水? そうか、上から水滴が落ちてきて――
どうして水滴が。
僕はバスに乗っていたはずだ。いくら何でも雨漏りはないだろう、と鈍い頭で考えたときだった。
「ようやく起きたか、瀬畑君」
聞き覚えのある声が、正面から聞こえた。
顔を上げる。角度や明るさのせいで見えづらいけれど、車内で知り合ったあの女性だ。名前は確か、新留紗織さん。なぜか眼鏡がない。
彼女はしゃがみ込み、僕と目線の高さを合わせた。無造作に腕を伸ばし、僕の首に当てる。
「あの……?」
「動かないで」ぴしゃりとした口調だった。
言われたとおり、できるだけ身動きしないように努める。でも、母親や親戚以外の女性から触られることなんかほとんどなかったから、少しは身じろぎしてしまったと思う。
とはいえ、それくらいなら大丈夫だったらしく、新留さんは何も言わず三十秒ほどで指を離した。
「どこか痛いとか、気分が悪いとかは?」真面目な顔だった。そういえば、煙草をくわえていない。
「いえ、特に」
「何があったかは憶えてる?」
「…………、乗っていたバスがスリップして、何かにぶつかったみたいな衝撃を受けたのは」
「なら大丈夫かな」
彼女はようやく笑った。どこか、強張った笑みだった。
新留さんが立ち上がったので、僕も身を起こす。そのとき、あちこちに打撲したような痛みを感じたけど、耐えられないほどじゃなかったので無視した。携帯電話をポケットにしまう。
予想したとおり、ほぼ完全な暗闇が広がった。でも、視界が全くのゼロというわけでもない。注意して探ると、何ヶ所かに弱々しい光が見える。
網膜が暗順応するにつれて、状況が徐々に分かってきた。一気に暗澹たる気持ちになる。
僕は今、トンネルの中に立っていた。幅は二車線分で、それは記憶しているとおりだ。壁に目立った異変は見受けられないけれど、この暗さでは分からないのが当然ともいえる。
では、道路の前後はというと。
「参ったな……」僕は思わず呟いた。
瓦礫の山と化していた。大小様々なコンクリートの塊が、天井にまで達している。隙間があるとしても、暗すぎて確認できない。また、反対側の端は闇に包まれて見えないけれど、光がないことから、同じような状態であることは想像がついた。
その瓦礫に寄り添うように、車体の歪んだバスがあった。スクラップというほどではないにしても、もう走ることはできそうにない。シャーシやエンジンが無事かどうかも怪しいものだった。
意識を失う前、最後に感じた衝撃は、あの瓦礫にぶつかったときのものだろう。よく生きていたな、と自分でも思う。路面が濡れているので減速していたことと、運転手の判断の速さに助けられたようだ。ブレーキを踏むのが少しでも遅ければ、今ごろ瓦礫の下にいたかもしれないのだから。
助かったのは、僕と新留さんだけではないらしい。僕たち以外の乗客四人と、運転手がすぐ近くに固まっているのが確認できた。重傷者もいないようだ。大事故に巻き込まれたとはいえ、たいした怪我もなかったのはいっそ奇跡に近い。
ただ、これからも無事であるという保証はない。僕は天井を睨んだ。
さっき、水滴が落ちてきたときから気になっていたのだ。本来、トンネルの中で雨漏りなんてありえない。それが現に起きているということは、構造が部分的に破壊されたことを意味する。つまり、耐久性が大きく低下しているということだ。特に、瓦礫が落ちてきた付近は。
また、崩落の件もある。さすがにトンネルのど真ん中で天井が落ちてきたということはないだろうから、あの瓦礫の山は出入り口付近にあると考えて良いだろう。だとしても、どれくらいの幅があるだろうか。素手で撤去できるくらいか。それとも、爆発物でも使わないとどかせられない量か?
(たぶん、素手じゃ無理だ)
ブレーキがかかった状態とはいえ、スリップ中のバスが止まるくらいだ。生半可な質量では崩れるはず。そうならなかったということは、かなりの容積を瓦礫が占めていることになる。
閉じ込められたのは七人。うち二人は年配で、さらに三人が女性。とても人力でどうにかできるとは思えない。
かといって、電波が入らないから手持ちの携帯電話で助けを呼ぶことはできない。たまたま通りかかった人がこの状況を見て通報してくれることを祈るばかりだけど、山道を走っているとき、ほかのクルマはほとんど見なかった。この雨だ、町中ならともかく、こんなところまでドライブはないだろう。
つまり今、このトンネル事故のことは外部に知られてすらいない可能性が強い。救助が来るまでには時間がかかるだろう。
じゃあどうする?
「瀬畑君、こっちに来て」
新留さんの声で、僕は思考を止めた。そうだ、一人で考えていても仕方がない。みんなで対策を練れば、あるいはどうにかなるかもしれない。
僕を除く六人は、バスから少し離れたところで車座になっていた。暗い中でも、全員が憔悴しているのが分かる。新留さんも例外ではないようだった。ただ、彼女だけは冷静に打開策を見つけようとしているらしい。
僕は輪に加わるようにして腰を下ろした。左が新留さん、右は若い男性だった。年配の男女は新留さんの隣で、その向こうが運転手。彼と、僕の隣の若い男性に挟まれて、二十歳《はたち》前後と思われる女性が膝を抱えている。
「先ほども確認しましたが、改めて。全員、無事ですね?」新留さんが言った。
返ったのは沈黙。特に異常はないことを示すものであるのだろうけれど、状況の絶望さに口を開けないという理由もあるだろう。
新留さんはそれに気づいているのか、大きく頷いた。
「では、調べた限りで状況を説明します」彼女は淡々と言った。「最悪ですね」
「……具体的に、どういう感じなんでしょうか?」年配の男性が尋ねた。
「トンネルの出入り口は、完全に塞がっています。道具があったとしても、わたしたちだけで道を通すことは不可能でしょう。救助がすぐに来る可能性も、残念ながら低いと思われます」
「何でだよ? こんな大事故だぞ! 誰かがすぐに見つけて……」僕の隣で声が上がった。
「その誰かが来れば、一目瞭然だろうけどね」新留さんは彼に顔を向けた。「でも、この道を通るクルマはそれほど多くなさそうだ。たまたま通りかかった人が見つけてくれるというケースは、あまり考えられない」
「待てよ……、そうだ、こういうトンネルって非常用の電話とかあるんじゃないのかよ?」
「あったけど、通話できなかった。電源が死んでるか、生きているとしても断線していたら終わりだ。復旧も難しい」
新留さんは、わずかな希望すらも残酷に奪うように、次々と断言していく。もともとそういう性格なのか、手っ取り早く現状を認識させようとしているのか、僕には分からなかった。
「何なんだよ……、なんでこんな――」
若い男性が頭を抱える。隣の女性は、抱えた膝の間に顔を埋め、焦点の合っていない目に地面を映していた。
年配の女性は、連れの男性に寄り添っている。彼は相方の背に手を当て、静かになだめているようだった。彼らの横で、運転手は険しい表情をしている。責任を感じているのかもしれない。
僕は新留さんが調べた結果を、一つずつ検討していった。嘘をついても仕方ないから、すべて事実だと考えて良いだろう。そうすると、確かに、閉じ込められた僕たちの力ではこの状況をどうにもできない。
ただ、一つ可能性を思いついたので、運転手のほうを見た。
「あの、こういう長距離バスって、会社のほうに定期的に連絡するようになっていたりしませんか? サービスエリアなんかで、予定どおり進んでいるとか、ちょっと遅れているとか、そういう報告を入れるように」
「一応、なってはいますが……」運転手は沈みがちな口調で答えた。
「じゃあ、それで定時連絡がなかったら、会社が気づいてくれるってわけだろ?」若い男性が必要以上に弾んだ声を上げる。「それで解決じゃねえか」
「それはいつ?」新留さんが尋ねる。
「十二時の予定でした」
「最初の休憩所か……」新留さんが腕を組んだ。「でもこの雨だ。多少遅れたところで、天候が原因と思われるだけじゃないかな。会社が異常に気づいて通報するまでに一時間はかかるとして、そこから調査が来て救助隊を派遣するまでにどれくらいかかるか、か。二時間程度じゃ救助は来ないな」
しかも、助けが来ても出られるまでにかなりの時間を要することが予想される。あの瓦礫を安全に撤去するのは、外からでも大変だろう。夜までに解決するかどうか。
危険度を上げる要因はさらにある。気温だ。五月に入ったとはいえ、雨の日の屋外だ。十二時前のこの時点で、じっとしていると少し肌寒さを感じるほどである。体温が下がると、体力も消耗しやすい。保《も》つかどうか。
「どうすんだよ、くそっ!」
若い男性が毒づいた。誰も答えられない。
「今はじっとして、体力の消耗を抑えておくのが賢明です。さっきはいろいろ言いましたが、待てば助けは必ず来ます。それまで頑張りましょう」新留さんが言った。
答えはない。助けはいつか来るだろう。永遠に来ない、ということはないはずだ。
でも、どれぐらいしたら来るのか? それが分からない以上、希望にはならなかった。
誰かが泣いている。若い女性だ。気分がますます落ち込むけれど、誰も止めることはできなかった。
三十分ほど経った。十二時半。そろそろお腹が空くころだ。
あのあと、二組に分かれてバスの中を点検し、それぞれの荷物を取り出していた。歪んだ通路、潰れた座席、割れた窓ガラスなどを見ると恐怖がこみ上げてきたけれど、必要なものもあったので、できるだけ急いで回収した。
食べ物や飲み物は、全員がいくらかは持っていた。持久戦になるかもしれないので、一度に全部を消費することはせず、とりあえず腹の虫を抑える程度にしておいた。
誰も、何も喋らない。雑談でもして気を紛らせようという雰囲気ではなかった。
このままだと、躰より先に心がやられてしまうかもしれない。人の心は脆いものだし、容量もそれほど大きくないから、不安や恐怖を注がれ続けるとすぐに破裂するか溢《あふ》れてしまう。そうなったら、今度は行動だ。パニックを起こして暴れる、あるいは気力を失って何もしない。いずれにせよ、手のつけられない状態になってしまう。
今のところ、最初にそうなりそうなのは若い男性だった。彼女がいるからか、大丈夫そうなふりをしてはいるけれど、それだけにオーバフローしやすそうだ。逆に、彼女のほうは新留さんの報告が終わったころより落ち着いていて、泣くこともやめていた。
次に危険そうなのは、年配の女性だ。連れ合いの男性が口にする言葉から推測するに、もともと弱い部分があるらしい。今、言葉少なとはいえはっきりと受け答えしているのは、たぶん男性がいるからだ。互いに支えているというあたりは、若いほうのカップルにはない年季というやつなのだろう。
運転手の男性は、一時の悲壮な表情もなく、比較的落ち着いていた。ときどき、不安そうにトンネル内を眺める以外、目を瞑って座っている。よく見ると、この場で最年長らしかった。それゆえの冷静さなのかもしれない。
新留さんはというと――
信じられないことに、読書中だった。少し離れたところで、煙草を吸いながらページをめくっている。読んでいるのは、僕が貸した本だ。そんなに面白いのか、やたらと熱心だ。
年配の男性に訊いたところ、事故の直後、彼女は誰よりも早く的確に行動したらしい。車内で気を失っていた全員を叩き起こし、起きない者(たとえば僕だ)を担ぎ、クルマの外に出る。続いてバスからできるだけ離れるように指示すると、一人で車体に近づき、いろいろチェックし始めたそうだ。オイル漏れなどがあると、最悪、爆発するかもしれないからと言って。
奇跡的に、ガソリンやオイルのタンクは無傷だったようだ。彼女が煙草を吸っているのも、それを完璧に確認しているからだろう。でなければ、こんな密閉空間で喫煙しようなどとは思わないはずだ。……たぶん。
バスのチェックを終えた新留さんは、さっき報告したことを調べていった。僕が起きたのは、ちょうどそのころだ。「ようやく起きたか」という言葉は、自分がいろいろ確認している間ものうのうと寝ていた僕に対する軽い皮肉だったのだろう。
凄い行動力だ。すぐに避難誘導を行い、ここが安全かどうかチェックし、現状を確認した上で、脱出の手段までも考えている。突発的にこんな状況に置かれてなお、そこまで動ける人がどれくらいいるだろう。
今さらながら、新留紗織という人物に興味を持った。一体、どんな人なのか……。
じっと見ていることに気づいたのか、新留さんが本から顔を上げて僕を見返した。
「どうかした?」
「いえ……」僕は曖昧に答え、彼女に近づいた。「そういえば、眼鏡はどうしたんですか?」
「割れた」簡潔な返事だった。
「見えるんですか?」
「不自由しない程度にはね」
「そうですか」僕は訊くべきか少し迷い、結局、口にすることにした。「あの、なんでそんなに落ち着いてるんですか?」
尋ねると、彼女はどういうわけか自虐的に笑った。くわえていた煙草の火を、地面に押しつけて消す。地面が湿っているせいか、油を引いた鉄板に水滴を落としたような音がした。
「落ち着いてるように見えるんだ」
「え?」
僕は思わず身を引いて、新留さんを観察した。目が慣れたため、この暗さでもある程度は見えるようになっている。
かすかに震えていた。寒さが原因でないのは一目瞭然だ。
隠そうとはしているようだけど、気づいてしまえば見え見えだった。僕以外が気づいていないのは、単に、彼らも同じく不安だからに過ぎない。あるいは、新留さんのごまかしが巧みなのか。
新留さんだって、落ち着き払っているわけじゃない。そう振る舞っているだけだ。
さっきまでの、本を真剣に読んでいた姿を思い出す。あれは一種の逃避だったのかもしれない。二組のカップルのようにパートナもおらず、運転手のような年季もない、彼女の。
歯噛みする。気づけなかった自分の不甲斐なさにだ。確かに彼女は、類稀な行動力があるのかもしれない。それでも、若い女性には違いないのだ。統計的に、女性は男性より度胸があるらしいけれど、こんな状況では五十歩百歩だろう。
軽い自己嫌悪に浸っていると、新留さんが苦笑した。
「瀬畑君こそ冷静じゃない。運転手さんに定時連絡のことを訊いていたし、学生とは思えないよ」
そう思われても仕方ない。実際、僕はほとんど不安を感じていないのだから。
いや、不安はある。でも恐怖はない。
理由は二つだ。一つは、僕が状況を変えられるかもしれない切り札を持っていること。
もう一つは――
「初めてじゃないんです、こういうことは」僕はぽつりと呟いた。
「前にも、こんな事故に遭ったことがあるの?」
「いえ、こういうのとは違いますけど、もっと絶望的な状況に置かれたことがあります。あのときに比べたら、今回はマシと思えます」
「……そう」新留さんは目を伏せた。「ごめん」
「謝らなくていいですよ。確かに、自分でも妙に落ち着いてるなと思ってますし」
僕は笑った。それが、この場で相応しい表情だと信じて。
そして立ち上がる。決心はついた。遅すぎたくらいだ。
見上げる新留さんの顔に、僕は浮かべたままの笑みを向けた。
「僕も、少し調べてきます。時間が経っているから、何か変化があるかもしれないし」
彼女に背を向けた。視線が追ってくるのが分かったけど、振り向きはしなかった。
壁伝いに歩く。彼女にはああ言ったけど、調べるのは一ヶ所だけだ。非常用の連絡手段。新留さんは「繋がらなかった」と言っていたけれど、原因が断線であれば、何とかなるかもしれない。
みんなが集まっているところから十メートルほど離れたあたりの壁に、それはあった。半ば手探りで受話器を見つけ、耳に当てる。反応なし。ここまでは予想どおりだ。
この先はどうか。
やってみるしかない。
僕は念のため、みんなのほうを見た。誰がどこにいるか、全く分からない。
ということは、向こうも同じはずだ。僕の姿は、誰からも見えていない。
なら遠慮は無用だ。僕は右手に受話器を握ったまま、左手を壁に当てた。反射的に接触を断とうとする自分の手を抑える。深呼吸。掌全体で、冷たいコンクリートに触れる。
コンタクト。
掌が、壁の中に潜っていく。もちろん、肉体的には僕の左手は壁に触れたままだ。でも、主観的に、僕にはそう感じられる。
何かに触れている、その感覚だけが、ゆっくりと沈んでいく。
レスポンス。
ここから先、視覚は使い物にならない。だから僕は目を瞑った。左手の感覚に意識を集中させ、壁の中を探る。
これが僕の切り札だ。あるときを境に身についた、特殊な力。触覚を、物質の中に透過させられる能力。アニメや漫画に出てくるような派手な性質はないけれど、こんな状況では充分すぎる。
……壁の中を探し始めてから五分ほどで、それは見つかった。切断されたケーブル。距離を測ろうとしたところで、僕は気づいた。
(……切られてる?)
断面がやけに滑らかな感じがする。誰かが刃物で切ったような――
いや、考え過ぎだろう。崩落の衝撃で破損した金属片か何かで、すっぱり切れたに違いない。
改めて断線箇所を調べると、思ったより浅かった。というか、電話機の中だ。その位置をしっかりと記憶し、みんなのところに戻った。
「どうだった?」
待ち構えていたように尋ねる新留さんに、僕は軽く頷き返した。
「非常電話ですけど、もしかしたら直せるかもしれません。試してみませんか?」
「どういうこと? 通話できないのは電源が原因かもしれないし……」
「いえ、たぶん断線です。しかも、電話機をちょっと分解すれば手が届く位置にあると思います」
「どうして分かるの?」
真実を話すわけにはいかない。僕はあらかじめ用意しておいた答えを脳裏に浮かべ、舌に乗せた。
「こういう電話回線って、そう簡単に電気が止まるようにはなっていないはずなんです。停電のときでも、電話って通じるじゃないですか。あれと同じですよ。だから断線じゃないかなって」
「それはそうかもしれないけど、どこで切れてるかは……」
「この事故、原因は分かりませんけど、崩れてるのは両方の入り口の近くだけです」新留さんの言葉を遮って、僕は続けた。「地震でもなければ、壁の奥のほうにまで損害が出ることはないと思うんです。そっちは厳重にガードされているはずですし。だったら、今の僕たちでも何とかなるんじゃないかと」
新留さんは、なおも反論しようとした。意地悪でそうしているのではなくて、余計な期待を抱かないようにするための行為だろう。気持ちは分かる。望まなければ、裏切られたときの失望もないのだから。
言い古された言葉かもしれないけれど、希望が大きいほど、それを失ったときの絶望は大きくなるものだ。
でも、今回はただの希望じゃない。実際に、確かめたことだ。だから信じて良い。
ただ問題は、それが分かるのが僕しかいないということ。あとは新留さんが、あるいはほかの人たちが、僕を信じてくれるかどうか……。
やがて彼女は、言葉が尽きたように沈黙した。それが消極的にしろ、僕の言葉を受け入れてくれた証拠だと信じたかった。
新留さんのそばを離れ、運転手の人に、工具がないか尋ねる。ああいうバスには常備されているはずだ。
彼は、車体側面の荷物入れの奥に工具箱があると教えてくれた。早速そこを調べ、目当てのものを確認する。中身をチェック。たぶん足りるだろう。そうでないと困る。
実際のところ、僕はこういう配線いじりをやったことがない。切れたケーブルを繋げば良いだろうくらいしか分からない。あとはぶっつけ本番だ。
と、非常電話のほうに行こうとしたとき――
「学生さん」
相方の肩を抱いた年配の男性が、声をかけてきた。振り向く。
「はい?」
「さっき、ちらっと話を聞いたんだが……、電話を直すのかな?」
「ええ、何とかやってみます」
「わたしがやろう」彼は唐突に言った。
「え?」
「貴方《あなた》」連れの女性が、引き留めるように呼んだ。
「こう見えても、若いころは技師だったんでね」彼は安心させるように女性のほうを振り向いた。「細かくて指が動かんところは任せるかもしれないけど、やらせてもらえるかな?」
別に構わない、というよりぜひやってもらいたいところだけど、急にどうしたんだろう。
そんな思いが表情に出ていたのか、彼は苦笑した。
「学生さんやあの女性が頑張ってるのに、こっちがただ座っとるだけじゃ落ち着かんのでな。それに、できることがあるならやっておきたい」
そういうことか。だったら、言うことは一つだけだ。僕は工具箱を差し出し、
「よろしくお願いします」
「よし、じゃあちょっと昔に戻るかね」
彼は立ち上がった。視界の端で、連れの女性が無表情に彼を見上げるのが見えた。
約二時間後の午後三時、僕は雨のやんだ空を見上げていた。濃淡のある灰色の空。その下には、水を含んで色を深めた緑がある。足下のアスファルトはほとんど黒と同じで、けれどところどころが水滴できらきらと光っている。
あの男性は、実に手際よく電話を直してくれた。「もう少し右」「あとちょっと先」などという、根拠がない(と思われるはずの)僕の言葉を信じてくれたのだ。
彼のおかげで、電話はものの十分ほどで使えるようになった。そのあとは警察に連絡して、助けが来るのを待つだけだった。
発破によって瓦礫が撤去され、トンネルの外に出られたのは二時半ごろだった。それから念のため、救急隊員による検査を受け、今、ようやく解放されたところだ。
出入り口付近は人が多く、コンクリートの塊が散らばっていたので、僕は少し離れたところでぼんやりしていた。疲れていたのだ。
といっても、閉じ込められたことで精神的に消耗したからじゃない。それもあるにはあるけれど、何より、マスコミのマイクを捌《さば》くのに苦労した。ああいう人たちって、どうしてああも素早く現場に来ることができるのだろう。警察などから情報が流れるのだろうか。
今はもう、制服の人たちが追い払ってくれている。助け出された人のうち、一部でも担架に乗せられて病院に搬送されたとなれば、自粛もするだろう。
運ばれたのは、年配の女性だった。連れ合いの男性の話によると、彼女はもともと通院しているらしい。どこが悪いのかとか、具体的なことは訊かなかった。ただ、付き添って救急車に乗った男性にお礼を言って、みんなで送り出した。
このあと、僕たちも検査のために病院に行くことになっている。クルマの手配が調《ととの》うまで、待機中というわけだ。
「瀬畑君」
呼ばれて、声がしたほうに顔を向けた。
新留さんが、バスの中で見たそれと同じ笑顔で、こちらに近づいてきた。
「どうも。お疲れ様です」
「疲れたね、全く。瀬畑君もだろうけど」
「時間的にはそんなに長くなかったはずなんですけどね」
「そういえばそうか。トンネルに入ったのが、もう半日も前みたいに思えるよ」
吸うよ、と断ってから、彼女は煙草に火を点けた。よく見ると、新留さんは全身が汚れたり傷ついたりしていた。白かったコートが、今は灰色に見える。
そんなことを気にした様子もなく、彼女は一定のリズムで煙草を唇にくわえている。
「やっぱり、外のほうが美味いな」
「そういうものですか?」
「そういうものだよ。未成年が分かったらいけないけどね、そういうことは」
ふと、トンネルの中でも抱いた疑問が浮上してきた。今なら良いかと思い、僕は口を開く。
「あの、新留さんって何をしてる人なんですか?」
「今は煙草吸ってる」即答された。
「いえ、そういうことじゃなくて……」
「分かってるよ。今のは意地悪」彼女は横目で笑った。「本業は医者だよ」
「あ、そうだったんですか」
納得できた。論理的にでなく、感覚的に。学者っぽいとは感じていたけれど、方向性は間違っていなかったようだ。
「何だと思ってた?」
「いえ、特にどんな仕事をしているとまでは考えていませんでした」
「じゃあ、パティシエって言っても信じたの?」
「それは違う気がしますね」
酷いな、と言いながら、新留さんは笑った。自分でも似合わないと思っているのかもしれない。
まあ、格好だけなら似合うだろうか。なんとなく、そんな妄想をしてみる。
そのタイミングで、
「ところで瀬畑君、あのとき何をしたか教えてくれないかな」
隙を狙う武術家みたいな呼吸で、新留さんはそう言った。
咄嗟に、何も言えなくなる。ただ、彼女の顔を見つめ返すだけだ。
新留さんは、僕を真顔で見ていた。煙草を捨てて足で踏み、すぐ二本目を取り出す。
点火。
煙草の先端が赤く光る。
紫煙が立ち上る。
「実際に配線を直した彼は気づいていなかったかもしれないけど、あのときの瀬畑君の指示は、かなり不自然だったよ。曖昧な言い方をしても分かった。君は、どこを直せばいいか知っていた[#「知っていた」に傍点]だろう?」
「……ただの勘ですよ」僕は苦し紛れにそう言った。「よく当たるんです」
「医者に嘘は通じない。あれがただの勘だったとしたら、わたしは本気でシックスセンスを信じるよ」
偶然だろうけど、新留さんが持ち出したその単語に僕は大きな衝撃を受けた。シックスセンス。彼女が知りたがっている僕の秘密は、まさにそう呼ばれる類のものだからだ。
予知能力とかそういうものじゃなく、純粋に六番目の感覚という意味で。
不意打ちに、僕は動揺を見せた。見せてしまった。
彼女がまた笑う。
「やはり何かあるみたいだね。トンネル内部の状況、特にあの暗さと、瀬畑君が知っていた情報、それに修理中の指示の出し方。それから考えて、君の秘密はたぶん――触覚[#「触覚」に傍点]にあるんじゃないかな?」
ストレートだった。
適当に言ってるんじゃない。カマかけでもない。彼女は分かっている。僕の秘密が。
これまで――友人はおろか親にも隠してきたことだけに、僕は苦し紛れのごまかしを口にしようとした。でも、そのとき見た新留さんの表情に、放つべき言葉を見失ってしまう。
彼女はいつの間にか笑みを消していて、真剣に僕を見ていた。それは、僕の秘密を暴こうとか、僕を利用しようとか、そういうことを考える目じゃなかった。
探究する者の目だ。
(この人なら――)
同時に、信じてもらいたがっている目だった。
隠し事を探る行為は、おおむね歓迎されない。隠し事をしている相手からはなおさらだ。それが分かっているのだろう、新留さんの目には、懇願すら窺えた。
(この人なら、きっと……)
知られても良いかもしれない。理屈でなく、そう思った。
だから僕は――
「……分かりました」両手を挙げた。「お話ししますよ」
「ありがとう。それと悪かったね、無理矢理みたいで」
「信じてますよ、新留さん」僕は言った。
「医者の口は堅いよ」
「新留さんの口は?」
「右に同じ」
僕はやっと笑えた。大丈夫なはずだ、この人は。もう一度そう思う。
覚悟を決めて、口を開いた。
けれど言葉を発する前に、新留さんの腕が僕の肩に回された。顔を胸に押しつけられたような体勢。息苦しさと恥ずかしさで、僕は一気に赤面した。
振り払おうと反射的に手を動かしたところで、空いた耳に彼女の顔が近づくのを感じた。
「場所を変えよう。ここだと聞かれるかもしれない」
誰に、と尋ねようにも、口がほとんど塞がれているので何も言えなかった。
「瀬畑君の秘密がわたしの考えているとおりのものなら、わたしの職場で扱うことになってるんだ。詳しくはあとで話すけど、一応それは国家機密だからね」
え?
国家機密?
どういうことだろう。僕が知らないだけで、僕のアレは以前から知られていたのだろうか。でも、それなら新留さんがこんな言い方をするはずがない。彼女はバスの中で会うまで、僕のことを知らなかった。もちろん、僕の秘密も。これは確実だ。
でもさっきの話だと、僕の秘密がどういうものかは分かっているようだ。しかも国家機密とまで言っている。どうして? 新留さんは、何をどこまで知っている?
僕の混乱を見抜いたか、彼女は空いた手でこちらの頭をぽんぽんと叩いた。
「心配しなくても、悪いようにはしない。身の安全は確実に保証されてるし、万が一わたしの予想が外れても、元の生活には戻れるから」
そこはかとなく不安になる言い方だった。僕を安心させるためなのだろうけれど、悪の組織の一員がアジトに誘っているような感じだ。
でも、心配することはないと思う。信じると決めた。騙されたとしても、半分は自分の責任だ。
新留さんが躰を離した。僕は大きく息をつく。彼女は煙草を捨てながら、
「ちょっと待ってて。話をつけてくる」
このあとは、ほかの人たちと一緒に病院まで行くことになっていた。それが別行動になる、と言いに行ったのだろう。警察や救急隊員と話す新留さんの背中を見ながら、僕はまた空を見上げた。
気のせいだと分かっていても、今までとは違う空に見えた。
三十分ほどで、新留さんが呼んだクルマが現れた。ごく普通の乗用車だ。几帳面そうな運転で路肩に止まったクルマから出てきたのは、まだ若い男性だった。新留さんより年下かもしれない。
服装こそスーツだけど、童顔にぼさぼさの髪のせいで、高校生くらいに見える。少し慌てた感じでこっちに近寄ってくる動きも、遅刻しそうな学生っぽい。ただし背は高かった。百八十センチはあるだろう。
彼は僕たちの――正確には新留さんの前に立つと、盛大に息を吐いた。
「一体何なんですか……。今すぐすべての仕事をやめて全速力で来いとか。あの子の検診が終わったばかりだったのに」
「ちょうど良かったじゃないか。さすがに検診中なら抜け出せとは言わないよ」
「でも電話で確認しなかったですよね?」
「過ぎたことをいつまでも口にしてはいけない」新留さんはきっぱり言うと、僕のほうを向いた。「じゃあ、行くよ」
「新留さんの職場ですか?」
「そうだよ。時任《ときとう》病院ってところ。知ってる?」
知ってるも何も、この近郊では一番大きな総合病院だ。都市部から少し離れているとはいえ、広くて設備が充実している。僕が中に入ったのは十年ほど前に一度しかないけど、この病院の世話になった人なら何人も知っている。そういえば、一つ目の停留所の近くだったか。
だけど、どうしてそこで国家機密が扱われているんだろう。
僕の表情は見たはずなのに、新留さんは説明してくれなかった。来れば分かる、とでも言いたげに。
結局、僕も何も訊かないまま、彼女と一緒に男性のクルマに乗り込んだ。最後に見たトンネルの入り口のほうで、多くの人が僕たちに視線を向けていた。
山道を下りる。窓を叩く雨音は、もうない。
車内では、僕はほとんど喋らなかった。座り込んで疲れがどっと出たというのもあるし、新留さんがひたすら口を動かしていたのも理由だ。応じていたのはもちろんハンドルを握る男性で、彼のほうが立場は下のようだった。
断りを入れてから、僕は目を瞑った。それだけでも、躰は楽になる。
割とハイテンションな新留さんの声が、車内に響き続けた。
クルマが止まる感覚で、瞼《まぶた》を上げた。どこにでもあるような、地下駐車場の一角だ。腰を深く沈めていたためか、外に出ると少し立ちくらみがした。
「大丈夫かい?」運転席から出てきた男性が、慌てた動作で手を差し伸べてきた。
「あ、はい。ちょっとふらっとしただけです」
「そういえば、あれから何も食べてないでしょ?」最後に出てきた新留さんの口には、既に煙草があった。「先に軽く食べる? 食堂あるけど」
「いえ、お腹は空いてないので」
「そう。じゃあ、早速だけど行こうか」
新留さんがさっさと歩き出す。僕は小走りにその背中を追った。さらに後ろに、男性が慌ただしくついてくる。
「あ、もう用はないから行っていいよ」新留さんが、自分と僕の肩越しに言った。
「そんなこと言われても、下に行くには同じルート使うしかないじゃないですか……」男性がげんなりした声で応じる。
「ん? 下なの?」意外とばかりに彼女は眉を上げた。
「そりやそうですよ。紗織先生と同じで、僕も地上勤務ないんですから」
「そうだっけ」
「いつもながら酷い扱いですよね、僕には」
会話から察するに、行き先はこの地下駐車場よりもさらに下らしい。でも、時任病院にそんな施設があったのだろうか。十年前はなかったはずだ。待合室で順番待ちをしているとき、何度も案内図を見たから憶えている。地下にあるのは、駐車場と倉庫だけだった。
いよいよ自分がどうなるか分からなくなってくる。それでも、行くしかない。
新留さんが足を止めたのは、『搬入用通路』とプレートが掲げられたドアの前だった。彼女は壁に埋め込まれたコンパネの上で指を踊らせ、ドアを開けた。
搬入用通路にしては、ロックに手が込んでいる。それとも、病院ならこれくらいは当たり前なのだろうか。劇薬なんかも扱うのだろうし。
通路はそれほど明るくなかった。丸い電球が、点々とぶら下がっているだけだ。壁の一部は配管が剥き出しになっていて、あまり端に寄りたくなくなる。
もっとも、そうでなくても、僕は壁際を歩くのがあまり好きではないのだけど。
何度か曲がり道を見ながらも直進し続けると、突き当たりにエレベータがあった。すぐ横の壁には、指紋認証用の小さいディスプレイがある。新留さんがそれに触れると、ドアはすぐに開いた。中に入る。
普通なら階数のボタンがあるはずのパネルには、三角形と逆三角形の二つのボタンがあるだけだ。ドアの上には小さな電光掲示板があり、その右横に%の記号が書かれていた。
新留さんが下りのボタンを押す。ドアが閉まり、下降していくのが感覚で分かった。
「今のうちに説明しておこうか」新留さんが僕のほうを振り向いた。「もう分かってると思うけど、今から行くのは時任病院の地下部分。一般には存在すら公表されてない。入れるのは医者と、ある症状が確認された患者だけ」
「患者?」
「この場合は君のことだよ、瀬畑君」
「持病とかは特にないんですけど……」体調を崩すことも滅多にない。
「あるんだ。まあ、まだ確定じゃないけど、わたしは確信してる」
僕だって医学に詳しいわけじゃないから、実は何かの病気に罹《かか》っていても気づかない、ということはありえる。でも、ろくに検査をしたわけじゃないのに、新留さんに分かるものなのだろうか。可能性がある、とかじゃなくて、確信を持つまでに。
ドアの上を見る。どうやら、目的地までの時間をパーセンテージで表しているらしい。今は六十パーセントを超えていた。
「それって……、僕の秘密に関わることなんですか?」
「というか、まさにそれが『症状』なんだ。わたしたちはそう呼んでる。一般的にイメージされる病気の症状とは、かなり違うけどね」
「紗織先生、相変わらず意味深な喋り方しますね……」男性が口を挟んだ。「そんなだから、なんか悪者っぽく見られるんですよ」
「うるさいな。そう言ってるのはあの子だけじゃないか」
「いえ、僕もちょっとそう思ってます」
「ふうん……。そうか、そうなんだ。ふふふふふ」
「その笑い方もなんか……」
「今度、灰皿持参でそっちの部屋に行くから」新留さんは一方的に言った。
「ちょ、やめてくださいよ! 僕の部屋、禁煙なんですよ?」
「そんな言葉はわたしの辞書にはない」
「落丁じゃないんですか?」
相変わらず、男性のほうが立場が弱いようだった。本当に、彼も謎だ。ただの運転手ではないはずだけど。
ほんのわずか、躰にかかる重力が強くなった。到着だ。
ドアが開く。
白が広がっていた。
エレベータに乗っていた時間から考えて、かなり深く下りたはずだけど、地下という感じはしなかった。もっと薄暗い場所を想像していたのに、目の前に延びる通路は普通の病院と変わらない。
唯一の違いは、窓がないこと。それも、気になるほどではなかった。
先に二人が降り、僕が通路に出たところでエレベータのドアが閉まる。
少し先に進んだ新留さんが、躰ごと振り向いた。
「ようこそ、時任病院・第八号棟へ」彼女は笑顔を浮かべ、両腕を緩く広げた。「歓迎するよ、瀬畑明珠君」
「第八号棟?」僕は鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
「歩きながら話そうか」
新留さんは踵《きびす》を返し、男性を一瞥した。彼は頷き、小走りに去っていった。
ゆっくりと歩き始める彼女の後ろを、僕は自分でも慎重と分かる足取りで続いていく。
白い通路は、病院というより研究所のような印象を僕に与えた。特有の匂いがしないからかもしれないし、歩いている人の中にナースっぽい人がいないからかもしれない。そもそも、人影がほとんどないのだ。それが余計に、誰もが部屋に閉じこもって研究に没頭しているのではないかという考えを抱かせる。
新留さんは汚れたコートのポケットに手を突っ込み、ぶらぶらと歩いている。
「ここの説明をする前に、瀬畑君のことを訊いていいかな」
「僕の――秘密ですか?」
「そう。あのときは触覚じゃないかって言ったけど、それは合ってると考えていい?」
「……はい」
「なるほど。珍しいな」彼女はぼそりと言った。振り向かないまま、「で、具体的にはどんな感じ?」
即答を避けたのは、今さら迷ったわけじゃない。単に、どう説明しようか考えただけだ。これまで誰にも話したことがなかったから、どう言うべきか分からない。
結局、僕は自分にできることから言うことにした。
「物体の中に、手を入れられるんです」
「入れられる?」新留さんはわずかにこちらを向いた。「文字どおりってこと?」
「いえ、僕にはそう感じられるってだけです。実際のところ、触覚だけを中に潜り込ませることができる、ということになるんだと思います」
「どんな物体でも?」異様に素早い質問だった。
「たぶん……。身の回りにあるものは一通り試しましたけど、全部できました」
「物体って言ったけど、固体だけ? 液体は?」
「試してみたんですけど、通じませんでした。触った感覚がはっきりしてないと駄目そうな気がします」
「じゃあ気体はもっと無理ってことか。距離は?」
「どれくらい潜れるかってことですか?」
「そう」
「十メートルくらい、でしょうか。測ったことはないですけど……」
どう話そうか考えるまでもなく、新留さんが矢継ぎ早に質問してくる。僕はそれに答えるだけで良かった。正直なところ、この能力(?)について厳密な分析をしたことなんてなかったから、一から十まで説明しろと言われても無理だったに違いない。
むしろ僕よりも、新留さんのほうがこのことに詳しそうだった。いや、僕の秘密についてではなく、そういうこと[#「そういうこと」に傍点]すべてに……。
「潜らせることができるのは、手の感覚だけ?」
「いえ、ほかのところでも一応は」これは試したことがある。「でも、やっぱり手が一番敏感らしくて、掌以外を使ったら凄く疲れます」
「まあそうだろうね。人間は手を使う生き物だから」
「あの、結局これは何なんですか? 新留さんは何か知ってるみたいですけど……」僕はとうとう訊いた。
「待って。最後の質問をするよ。瀬畑君のそれは、完璧に制御できる? それとも手が何かに触れたら、感覚が勝手に潜ってしまうのかな?」
「…………、ある程度はコントロールできますけど、心の準備がないと厳しいです」僕は少し考え、「たとえば歩いているときにバランスを崩して、壁に手をついてしまうことがありますよね。そういう場合は、少しではありますけど『手』が入ってしまいます」
「『広いところが好き』って言ってたのは、そういうことか」
新留さんが独り言のように呟く。イエスだった。
広い空間であれば、不意に何かを触ってしまうこともない。人が少ない空間でも同じだ。満員電車なんて何に触ってしまうか分かったものじゃないから、できることなら乗りたくない。
こういうのも、閉所恐怖症になるのだろうか。そう思いながら角を曲がったところで――
二人組の人間に出くわした。
一人は、さっき別れたばかりの人物――あの男性だった。今はスーツの上に白衣をまとっている。彼は少し身をかがめながら、もう一人に話しかけていたらしい。
その、『もう一人』が異様だった。
小柄な少女だった。着ているのは、学校の制服っぽい。いや、たぶんそうだろう。ブレザの左肩に校章らしきものが見える。プリーツスカートともども深い緑色をしていて、首はリボンタイで結ぶタイプだ。白く細い足の先は、よく見かけるようなローファ。
問題は首から上だった。顔の上半分を隠すように、ごついゴーグルをつけている。真っ黒なため、烏《からす》の濡《ぬ》れ羽色《ばいろ》の髪に溶け込んでいるようだ。
いきなりの遭遇に驚いたのか、彼女はこちらに顔を向けた。僕は僕で、突然の出来事にアクションを取れずにいる。頭の中で思考が渦巻くばかりだ。
こうして白衣を着た男性と歩いているということは、患者なのだろうか? でも制服を着ている。お見舞い? でも見舞い客が来るようなところなのだろうか、ここは。
ぐるぐると考え込んでいる間も、彼女は黙ったままずっと僕を見ていた。ゴーグルで隠れているから、実際はどうか分からないけど、顔の向きは変えない。
だんだん落ち着いてきた。そうなると、今度は初対面の礼儀を果たさねば、という義務感を覚え、半ば反射的に口を開いた。
「あの、こんにちは」
彼女はなおも無言。こうなると、もういたたまれなさは限界だ。振り向いて新留さんに助けを求めようにも、こうもじっと見られていては目線を外すのも失礼な気がする。
遭遇した瞬間とは別の意味で硬直していると、彼女は不意に顔を背け、歩き出した。男性がすまなそうに会釈を残し、慌てて続く。もちろん、彼女は何も言わないままだ。
二人の姿は、少し先の曲がり角に消えていった。けれど僕は、思った以上に強い衝撃を受けてしまったらしく、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、目の前で手がひらひらと振られた。はっとして振り向く。
「目は覚めた? 少年」新留さんは少し笑いながら言った。
「あ、ええ……」
「ま、そういう反応になるのは分かるけどね」
「あの、今の子は」僕は早口で訊いた。
「患者だよ」新留さんはすぐに答えた。「それも含めて、わたしの部屋で話そうか」
そう言って、新留さんはすぐそばのドアを開けた。いつの間にか、彼女の部屋まで来ていたらしい。話に集中していたせいで、どこをどう通ってきたか憶えていなかった。
一応、「失礼します」と断ってから中に入る。
煙草とコーヒーの匂いが充満していた。
今日び、屋内は完全禁煙にする建物も多いけれど、新留さんの部屋は時代の流れを完全に無視していた。入ってすぐのテーブルには灰皿が五個も置かれていて、いずれも吸い殻で飽和している。
縦長の部屋だった。幅は四メートル、奥行きは七メートルといったところだろうか。左右の壁際にスチールラックが置かれ、そこに本がぎっしり詰まっているので、余計に細長く見える。奥のデスクにはパソコンが二台。片方はディスプレイがかなり大きい。
デスクの裏には空気清浄機がある。でも、この空気では効果を発揮しているとは思えなかった。それとも、フル稼働してこれなのだろうか。だとしたら、新留さんは日ごろ、どれくらい煙草を吸っているのだろう。
「適当に座って。コーヒーでいい?」
「あ、はい」
コーヒーメーカのスイッチを入れた新留さんは、灰皿を両手に一つずつ持って、奥のダストシュートに中身を捨てていった。コーヒーメーカが静かに音を立てる中、彼女はデスクに体重を預け、煙草を口にくわえた。火を点ける。
唇から勢いよく吹き出される紫煙を、僕はぼんやりと見つめる。
急に、現実感がなくなった。事故がなければ、僕は今ごろ高原で冷たい空気を吸っていたはずだ。天気は悪くても、人がいない開放的な場所で。
ネットで見たそこの景色は、とにかく広さが印象的だった。一人で立っていたら、自分が拡散していきそうな感じだ。それくらい、周りに何もない。地平線さえ見えそうなそこにぜひ行ってみたいと、一ヶ月くらい前から思っていた。
それが、国家機密とかいう地下施設の一室で、煙草とコーヒーの匂いに包まれている。
このギャップは何なんだろう。ただの高校生に相応しいシチュエーションじゃない。
(いや、「ただの」じゃないのか、僕は)
自嘲気味に思う。実際、ただの高校生が来られる場所ではないんだろう。ここにいられるのは、彼女のような医者か、さもなくば、
――ゴーグルをつけた顔。
患者だけ。
気がつくと、目の前にマグカップが置かれていた。湯気を吐き出し続ける黒い液体が、なみなみと注がれている。
「生憎、ミルクも砂糖もないからブラックで我慢して」
どうせ何も入れるつもりはない。僕は舌先で温度を確かめ、まだ熱そうだと判断して口を離した。ほかにコップがないのか、湯飲みを手にした新留さんに視線を向け、話を促す。
彼女はデスクの上に湯飲みを置くと、僕を――僕の手を指差した。
「瀬畑君のそれ――『触覚だけを物体の内側に透過させる』というやつは、実はほかにも似たようなのを持ってる人がいる」
「これを?」思わず自分の掌を見た。
「いや、そういう触覚を持ってるのは瀬畑君だけだよ。でも、ほかの感覚がそういうふうになってしまった[#「ほかの感覚がそういうふうになってしまった」に傍点]って人間は、ここに何十人かいるんだ」
「ほかのって……」
「感覚拡大症」彼女はその名を口にした。「わたしたちは、そう呼んでいる」
もちろん初耳だった。もとより、病名には詳しくない。
それでも、その名前がどういう症状を示すのか、なんとなく分かる。
「拡大症の歴史はそんなに古くない。ここ十年くらいのものなんだ。以前から、そういう症状を見せていた人はいたんだろうけど、発覚しなかったんだろうね」
「僕みたいに隠している人も……」
「いると思うよ。ただ、完璧に隠し通せる人はそんなにいない。さっき『発覚しなかった』って言ったけど、発症しても今までと変わらない生活を送れるって意味じゃないんだ。別の病名をつけられて病院に運ばれることも多い」
「別の病名?」
「精神的なもの」新留さんは短く言った。「拡大症患者の中には、そう判断される行動を取ってしまう人が多い。瀬畑君なら多少は想像できると思うけどね。問題は、それで病院に入ったあと、本当にその病名が与えられるべきなのか、それとも拡大症の一部なのか分からなかったってこと。『発覚しなかった』っていうのは、つまり拡大症だと認知されずそのまま病室に入れられた人もいたんだろうって話」
いきなりショッキングだった。下手を打てば、僕もそうやって強制的に入院させられていたかもしれないというのだ。
病室のベッドに横たえられ、触覚だけが際限なく広がり続ける自分をイメージする。最悪の想像だった。
僕の顔色を見たのだろう、新留さんが苦笑した。
「脅したみたいで悪かったね。今の瀬畑君なら大丈夫さ。ただ、そうなることもあるってことを、君には知っておいてもらいたい」
「感覚拡大症って……、どういうものなんですか?」
僕はやっと質問した。新留さんが真顔になる。
「さっきも言ったように、歴史が浅いから定説はない。だから仮説しか話せないよ。最初にそれだけは言っておく」新留さんは湯飲みを持ち上げ、コーヒーを口に含んだ。飲み下す。「拡大症というのは、一種の超能力みたいなものとされてる。いわゆるESPだね」
「超能力?」いきなりSF――ファンタジィか?
「まあね。ただし超能力そのものではない。……瀬畑君は、小説でも漫画でも映画でもいいけど、超能力が出てくるやつは見たことある?」
「はい。テレパシィとかですよね」
「そうそう。ああいうのって、不思議だと思ったことない? 他人の心を、どうやって知覚しているのか[#「どうやって知覚しているのか」に傍点]って」
「いえ……。でも、心の声とか、頭の中に直接響くとか、そういうのじゃないんですか?」
「うん、そういう描写が加えられてるのもある。ただ、『心の声が聞こえる』っていう表現がされている場合、こうは思わなかった? テレパシィを使っている間[#「テレパシィを使っている間」に傍点]、その人の聴覚はどうなっているのか[#「その人の聴覚はどうなっているのか」に傍点]って」
「なんか、そういう話ありましたね」
現実の音と他人の思考、どちらもが同時に聞こえてくる苦痛に苛まれる超能力者の話だ。心の声に対して耳を塞ぐことはできず、彼は最後まで苦しんでいた。
その作品のことを話すと、新留さんは「まさにそういうことだよ」と笑った。
「ほかにもある。予知能力者は、未来をどう知覚しているのか。サイコメトラは? 透視能力者は? よく『未来を視た』なんて台詞もあるけど、それは現実の視覚と重なって見えているのかどうか。それとも頭の中にイメージが浮かぶのか」
「そう言われればそうですね」
「人類には、五感と言われるように情報の入力経路が五つある」僕に向かって、彼女の白い掌が突き出された。「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。本当は、温度感覚や平衡感覚なんかもあるんだけど。まあ、そういうのを含むにしても、人体に存在する感覚器官は限られてる。だとすれば、人の思考や残留思念なんかを認識するとき、いずれかの感覚器官を使うしかない、と考えられる」
「…………、まさか」
ようやく分かってきた。感覚拡大症とは、つまり――
「人体に備わる感覚では知覚できないはずの情報を、既存の感覚器官で強引に認識してしまう――それが感覚拡大症の正体だよ。人体の不可能に挑戦しているんだから、どこかに負荷がかかるのは当然だね。それが度を超えてしまうと、さっき言ったように別の病気と診断されるような行動に走ることもある、というわけ」
「超能力じゃなくて病気と分類しているのも……」
「そう。実際、これは人間には過ぎたことだと思うよ。人体に備わった感覚器官は、基本的にそれぞれ一つの刺激しか受容しない。網膜なら光、鼓膜なら空気の振動って具合にね。それなのに、別の刺激を無理に受容させるんだから、パンクもするさ」
幼稚園のときにやった、とある遊びを思い出した。いろいろな形の積み木を、板に開けられた穴に通して箱に入れるというものだ。断面の形によって、通せる穴は違う。直方体は四角の、球は円の、星形は星形の穴にしか通らない。
そこに、たとえ断面形状が同じであっても、積み木でない何かを通そうとしたらどうなるか。
穴は通ったとしても、受け入れる箱の大きさには限りがある。いつかその箱は、通るべき積み木と通るべきでない積み木以外のもので溢れかえり、やがてその玩具《おもちゃ》そのものを壊してしまうだろう。
ばらばらになった木箱と積み木、そしてそれ以外の何か。本来、そこにあってはいけない異質な物体が、何もかもを破壊するイメージ。
それが――感覚拡大症。
「僕もいつか、そうなるんでしょうか」
恐怖の幻想は一瞬。
けれど、それで充分だった。
心が内側から破れた自分の幻は、必要以上にインパクトがある。
「どうかな」新留さんは曖昧に答えた。また煙草に火を点け、「わたしは、この第八号棟に入院している拡大症患者を全員知ってる。みんな、多かれ少なかれ自分の症状に悩まされながら過ごしてるけど……、瀬畑君には、そういうのがないんだよね」
「でも、狭かったり人の多い場所は駄目だったりします」
「病的にNGってことはないでしょ? この部屋だって広くないけど、すぐにでも出ていきたいとか思ってる?」
「いえ」
「だったら、それくらいは問題ないよ。まあ、瀬畑君としては問題ありかもしれないけどね、拡大症の副作用としては全然弱い。あの子に比べれば」
「あの子?」訊きながらも、誰のことか直感的に分かった。
「この部屋に入る前、篠原センセが連れてた女の子だよ」
篠原ってのはクルマを運転してくれた彼ね、と新留さんが付け加える。白衣を着ていたことで分かったけど、彼もここの医者らしい。ということは、新留さんは同僚を顎で使っていたのか。
それはともかく。
「あの子は、その、どういう……」症状なのか、と訊きかけ、その問い方が正しいのかどうか迷う。
でも、新留さんは察してくれたらしい。真顔で小さく頷いた。
「ここから先は、瀬畑君に一つ決めてもらってからでないと話せない」新留さんは煙草を消し、きっぱりと言った。
「何をですか?」
「ここに入るかどうかを、だよ」彼女は指を立てた。「時任病院・第八号棟は、別に拡大症患者の隔離施設ってわけじゃない。治療施設[#「治療施設」に傍点]だ。あくまで病院だからね。入院してる患者は、さっきも言ったけど自分の症状に悩んできたし、今もそれは続いてる。だからここにいるんだよ」
でも、
「瀬畑君は、わたしが見たところ拡大症でそれほど悩みを抱えてはいない。日常生活も送れているようだし、入院する必要はないんだ。学校もあるでしょ? その日常を、無理に手放すことはない」
ただ、
「もしここと関わらないと決めたのなら、わたしからこれ以上は話せない。今までの話は、自分の秘密について最低限の知識を持ってもらいたかったからだよ。医者からのインフォメーションと思ってくれればいい。だから、今まで話した以上のことを知りたければ、今後もわたしたちに付き合ってもらわないといけない」
「具体的には、どういうことをしないといけなくなるんですか?」
「ぶっちゃけて言うと、研究協力だね。拡大症患者は絶対数そのものが少ないから、データがあまり集まらないんだ。データがないと、研究も進められない。だから、瀬畑君にはいろいろなテストや検査を受けてもらうことになる」
「え? それだけですか?」もっといろいろあると思っていただけに、僕は拍子抜けした。
「まあ、そうだけど」新留さんは眉を顰《ひそ》めた。「退屈だと思うよ。すぐに成果が出るとは限らないし」
「だって、研究どころか感覚拡大症そのものの歴史が浅いわけですよね? だったら仕方ないと思うんですけど」
「瀬畑君がそう言うんならいいんだけどさ……。じゃあ、入院する?」
「それはちょっと」
「言ってることがおかしくない? それ。結局、どうしたいの?」言い終えてから、もう何本目になるか分からない煙草をくわえる。
僕はさっきから考えていたことを、脳裏でもう一度だけ検討してみた。訊いてみる価値はあるだろう。
口を開いた。
「あの、通院するんじゃ駄目なんですか?」
「え?」口元に近づけていたライタを離し、新留さんがきょとんとする。
「病院だったら、何も入院しなくたって、通うって手段があると思うんですけど」
むしろ、いきなり入院という選択肢を与えられることのほうが少ないと思う。まあ、感覚拡大症という病気の存在を考えたら、そっちのほうが妥当なのかもしれないけれど。
新留さんからも指摘されたように、僕は今の生活を手放したくない。一方、この施設ともこれっきりというのは、もったいない気がする。僕自身、自分の秘密――症状について詳しく知りたいと思うからだ。
それなら、通院というのがベストの形になる。問題は、第八号棟《こ こ》がそれを受け入れてくれるかどうか……。
「なるほど、通院か……。それは考えてなかったな」
新留さんは煙草にゆっくりと火を点けると、吸いながらしばらく考え込んでいた。
やがて、デスク上の湯飲みを掴んで一気にあおると、それを持ったまま僕を見た。
「分かった。正式には上と話してからになるけど、通院患者として受け入れようと思う。これからよろしく頼むよ、瀬畑明珠君」
「こちらこそ」
僕はこの地下施設に入ってから初めて、ようやくにして笑うことができた。
景気づけに、目の前のマグカップを持ち上げ、口をつける。
真っ黒な飲み物は豆を使い過ぎで、しかもとっくに冷めていて、異様なまでに不味かった。
景気の悪い話だ。
第二話 「第八号棟」
かれと
かのじょの
いる ばしょ
時任病院・第八号棟に出入りするようになって、早くも半月が過ぎた。
実のところ、第八号棟への通院が正式に決まるまでにはブランクがあった。新留さんが上層部を「説得」するための期間だ。さらに、実際に通院を始めるにも何日か必要だった。時任病院が僕の生活圏から遠く、週末しか通えないのだ。
トンネル事故以降、初めて第八号棟に行くまで、僕は連休前と変わらない生活を送っていた。例外として、事故の件で警察と少し話したくらいだ。断片的に聞かされた内容によると、人為的なものだった可能性があるらしい。調査の結果、瓦礫の撤去に使ったものとは別の爆発物の痕跡が見つかったそうだ。僕は電話の断線箇所のことを思い出したけど、警察には何も言わなかった。
あの道路は主要な幹線道路というわけではないので、封鎖しても交通網を麻痺させるような効果はない。それだけに、本当にあの事故が誰かの手によるものだとしたら、目的が分からないらしい。
そういう、ちょっとした疑問はあったものの、警察とはそれっきりだ。事故のことも、家族を除いて誰とも話していない。県内で起きたこととはいえ高校生が行くような場所ではなく、事件性もあって報道の一部に規制がかかったようで、学校で話題になることもなかった。
だから、感覚拡大症という自分でも知らなかった秘密を明かされたあとだというのに、僕の日常は少しも変化しなかった。ルーティンを守りながら、目を覚まし、食事を摂り、学校に行く。ただそれだけの日々。
学校での僕は、地味の一言に尽きるだろう。クラスメイトと会話しないわけではないけれど、特に仲の良い友人はいない。成績は中の上くらいをキープしていて、運動もそこそこならできる程度。『雑然とした中から目的のものを見つけるのが得意』という特技を持っているものの、それを活用する場面がそう頻繁にあるわけではないから、目立つことはなかった。
その特技というのは、もちろん拡大症の症状を使ってのことだ。物体の中に触覚だけを延ばせるというもの。探しているものの形さえ分かれば、少しくらい散らかっていたところで見つけるのは容易いものだ。
そう、僕はときどき、違和感を押し殺して『触覚』を使うことがあった。連休前までそれを病気と考えていなかった僕は、有効利用できる場面があるなら使うべきだと思っていたのだ。バレてはいけないと本能的に悟っていたので、おおっぴらに行使することはなかったけれど、それで同級生のピンチを救ったことが何度かある。
今は――どうだろう。感覚拡大症という病の存在を知り、自分がその患者だと分かった今でも、僕は自分の『触覚』を他人のために使おうと思うのだろうか。
僕の『触覚』は、結局のところ拡大症の『症状』なのだ。確かに、有効利用できるものではあるけれど、そのたびに自分が患者であることを思い起こさせるものであるならば――
分からない。僕は、どうするんだろう?
たぶん、実際にそんな場面になってみなければ、答えは出ないと思った。
そう思っていたから、通院初日の僕は少しそわそわしていた。授業の記憶もぼんやりしている。ノートは真面目に取っていたみたいだけど、ちゃんと落ち着いていたか自分でも疑わしい。周りに気づかれなかったかと、授業が終わってから心配になったほどに。
学校から帰った僕は、事故後の経過報告があると母親に言い訳して時任病院に向かった。まあ、あながち嘘でもない。経過報告どころか、これからは頻繁に行くことになるのだけど。
それに、新留さんからも「何か訊かれたらそう答えるように」と言われていたのだ。事故当日のうちに聞かされたことだけど、僕の親が万が一病院に問い合わせしても、辻褄を合わせた答えを告げてくれる予定だったらしい。そのあたりのフォローは抜かりない、とのこと。
事故の情報を――あくまで報道されている範囲だけど――当事者である僕よりもテレビから仕入れていた母親は、その理由をあっさり信じた。僕は「遅くなるかもしれない」とだけ付け加えて家を出た。
息子が特殊な『触覚』を持っていることを、両親は知らない。使わなければまずバレないことであり、僕は家の中では特に慎重だった。この機会に話すべきなのかも――と思わないではなかったけど、結局、まだ秘密にしておくことにした。
身一つで時任病院に向かった僕は、受付で新留さんと落ち合い、搬入用通路からエレベータに乗って地下に潜った。そこで病院の偉い人となぜか会うことになって、いろいろと話をされた結果――
僕は、第八号棟初となる通院患者になることが正式決定した。
その日から半月は、新留さんから最初に言われていたとおり、検査ばかりだった。週末だけとはいえ、二日続けて通うのは時間のロスが大きいので、泊まりがけだ。両親への言い訳は、バイトということにした。経験がないから知らなかったけど、病院でのバイトというのはそれほど珍しいことではないらしい。
これも新留さんの指示だ。曰く、
「拡大症のことは、みんな家族にも秘密にしているんだよ」
とのこと。
実際、僕以外の患者についても、家族には別の病気で入院していると話してあるそうだ。新留さんが「国家機密」と言っていたのは、掛け値なしの事実であるらしい。
確かに、患者の精神のことを考えなければ、拡大症は超能力としか思えない。誰かが利用しようとしても不思議ではなかった。同じ時任病院に勤務していても、地上部分にいる人のうち全員が第八号棟のことを知っているわけではないそうだから、情報操作の徹底ぶりには脱帽する。
だから僕も、搬入用通路に入るところを見られても大丈夫なように、業者っぽい格好で来いと言われている。そんなことを言われても分からないので、ワイシャツにジャケットという服装を選んでみた。篠原さんも似たような感じだから、たぶん大丈夫だろう。薬品を取りに来る医者がいてもおかしくないだろうし。
着慣れない服装にも馴染んできたころ、五月下旬の週末、僕はいつものように搬入用通路の扉を開けた。暗証番号も、もう指が憶えている。
そのまま直進してエレベータに向かっている途中、見覚えのある背中が視界に入った。足音で気づいたのだろう、ほぼ同じタイミングで、その人物が振り返る。
童顔にスーツ。柔和な微笑。
篠原|悠佑《ゆうすけ》さんだった。新留さんより少し遅れて第八号棟勤務になったらしい。顔のせいで分からなかったけど、実は新留さんと同い年だそうだ。
「やあ、瀬畑君。大変だね、毎回。土曜日も学校はあるんだろう?」並んで歩きながら、篠原さんが言った。
「ええ。でも授業は半日だけだし、バイトすることに比べたら、退屈ですけど疲れません」まあ、バイトしたことはないのだけど。
「そっか。紗織先生はどう? 扱いとか」
「いえ、特に困ったことはないです。……ちょっとアバウトですけど」
小声での付け足しに、篠原さんは苦笑した。
「優秀な人ではあるんだけどね。だからなのかな、そういうところがちょっと鈍感だよね、あの人」
「聞かれたら怒られますよ」僕は冗談めかして言った。
「内緒だよ」
エレベータに着いた。指紋認証を済ませると、扉はすぐに開く。乗り込んで下に向かった。
黙っているのも気詰まりなので、僕は雑談目的で疑問を浮かべた。
「第八号棟にいる患者って、全員が拡大症なんですか?」
「そうだね。もともと、そのために創られた施設なんだ。拡大症患者専用の病棟なんだよ」
「入院していない患者は、僕が初めてなんですよね」
「そうそう、あとから聞いて驚いたよ。瀬畑君から言い出したんだって?」
「はい。さすがに入院はちょっとって思って」
「そうだなあ。瀬畑君は、下の患者の中でもずば抜けて安定してるからね。失礼かもしれないけど、拡大症患者で入院しなくても大丈夫っていうのは、凄いことだと思うよ」
「ほかの人は、その、そんなに酷いんですか?」僕はためらいがちに訊いた。
「うん……」篠原さんは曖昧に肯定した。「ここにいる分には、精神的に全く正常って子もいるよ。でも、外に出ても保てるかって言われると、たぶん無理だろうね。リハビリ次第ではあるんだけど」
「リハビリ?」
「僕たちだって、何もあの子たちをここに閉じ込めておきたいわけじゃない。いつかまた、外に出られたらいいと思ってるんだよ。……今のところ、退院できた子はいないけどね」
篠原さんはつらそうに目を伏せた。この場合、退院というのは拡大症が治ることではなく、症状が残ったままでも社会復帰できることを指すのだろう。つまり僕以外の患者は、今ここを出てもまともな社会生活は営めないというわけだ。
僕は、自分が当たり前のように学校に行っていることが、拡大症患者としてはどれほど珍しいかを再確認した。
あれ、でもそうなると。
「あの、じゃあ第八号棟の患者って、入院したらもう外に出ないんですか?」
「そんなことはないよ。頻度はまちまちだけど、地上に出ることもある。夜中に上の中庭を散歩したりね。一度も出ていないのは――」篠原さんは目を瞑り、すぐに開いた。「たった一人だけだ」
「いるんですか? そんな人」
「うん」
エレベータが地下に着いた。ドアが開き、僕から先に出る。
少し進んで振り向くと、篠原さんは思案顔で腕組みしていた。なんとなく、話しかけるのがためらわれる雰囲気だ。
無言で立ち去るのもどうかと思ったので、僕はしばらく待った。やがて篠原さんはこちらをまっすぐに見て、
「瀬畑君、一つ、提案なんだけど……」
篠原さんと別れて、僕は新留さんの部屋に向かった。道順は既に記憶している。というか、僕は半月で第八号棟の大半を把握するまでに至った。検査であちこちたらい回しにされた結果だ。
その結果、この施設が想像以上に広いことが分かった。研究者用、患者用、検査用といくつかの区画に分かれていて、ほかにも食堂やトレーニングルーム、小さいながらも遊戯室まである。
最初に来たとき、病院というより研究所のような雰囲気を感じたけれど、その印象は薄れるどころか強くなった。
実際、感覚拡大症という未知の病気のみを対象に治療法を見つけようとしているのだから、研究所とカテゴライズしてもあながち間違いではないのかもしれない。もっとも、拡大症は生きている人間とセットなのだから、本当に研究目的でいてもらっては困るのだけど。
声をかけてロックを外してもらい、いつものように煙草とコーヒーの匂いに出迎えられた。そこで僕は、検査の前に篠原さんから言われたことを伝えた。それに対する応えは――
「あのロリコンめ」
という新留さんの罵倒だった。本気でないのは分かっていても、その暴言は(特に男にとって)かなり不名誉だ。
「あの、ロリコンって……」僕は半眼で言った。
「いや、さすがにそれはあの子に対して失礼か。でもあんまり成長してないしなあ。二年後は成人式とは思えないよなあ」
「新留さん?」
「へ?」強めの呼びかけに、彼女はやっとこちらを向いた。いつもどおり、煙草を指に挟んでいる。「ああ、ごめんごめん。その提案だけどね、まあ別にいいと思うよ」
「なんか軽いですね……」
「そんなつもりはないけど。ただ、もし受けるつもりなら、ちょっと覚悟しておいたほうがいいかな」
「覚悟?」
「ここには対人恐怖症っぽい患者が少なからずいるけど……」新留さんは眼鏡(新品)のブリッジを押し上げ、やたらと意地悪そうに笑った。「あの子の人間嫌いは筋金入りだからね」
「はあ」
僕が担当する患者の子と話してみないか――それが、篠原さんから受けた提案だった。なんでも、第八号棟で一番の古株らしい。そして、入院してから第八号棟の外に出たことが一度もない、唯一の患者。
二人の医者から聞いた話を総合すると、要するに人間嫌いの引きこもりというわけなのだろうか。外では珍しくもないけど、病院内にもいるものらしい。まあ、その子の場合は拡大症患者ということもあるので、単に部屋から出ないというだけではないのだろうけれど。
ちなみに、篠原さんに確認したところ、半ば予想していたとおり最初の日に会ったあの女の子だそうだ。顔の半分を覆うゴーグルが、否応なしに思い出される。
他人を直視しないための装置。
人間嫌いの少女。
つまりはそういうことなのだろうか。
検査が早めに終わったので、篠原さんに承諾する旨を告げてその日のうちに会うことにした。彼に連れられて向かったのは、存在は知っていたけどまだ足を踏み入れたことがない区画だ。入院患者用のブロックなのだろう。個室のドアと思われる長方形が、片側の壁に等間隔で並んでいた。
白い通路を歩きながら、前を行く篠原さんの背中を眺める。
「篠原さん、いくつか訊いておきたいんですけど……」
「ん? 何かな」彼は肩越しに振り返った。
「相手の子には、僕が行くことは伝わってるんですよね?」
「もちろん。言ったのはついさっきだけどね。まあ、瀬畑君が入ってきたことは、前から言ってはいたけど」
「え?」
「ほら、瀬畑君ってここでは初の通院患者でしょ? それに直前の事故もあったし」そこで、篠原さんは少し目線を上げた。「あ、個人情報は漏らしてないから大丈夫だよ? 名前もさっき教えたばかりだし」
「じゃあ、僕にもその子の名前、教えてください」
「そうそう、それも言い忘れてた。カンナギベアヅサっていうんだ。巫女の巫に部分の部で巫部《かんなぎべ》。アヅサは木の梓《あずさ》だけど、スペルはADUSAなんだってさ」
「AZUSA……じゃなくてですか?」
「そうらしい」変わってるよね、と篠原さんは一人で頷いた。
巫部|梓《あづさ》という字が、僕の脳裏に展開した。その三文字は瞬時に、記憶の中にあるゴーグルの女の子と結びつき――
ん? 巫部?
「巫部ってもしかして……」
「あのカンナギと関係あるよ」途中で察したらしく、篠原さんはそう言った。
カンナギというのは、主に工業系の複合企業だ。重工業で成功を収め、続いてソフトウェアにも手を出し、そちらでも当たった。父親が話すのを耳にした限りでは、先見の明があるだけでなく、経営陣の手腕が並外れているとか何とか。最近は、ロボット産業のほうで有名になっている。うちの学校にも、カンナギ製のロボットが部分的な清掃用に導入されていたはずだ。
どういう関係か少し気になったけど、本人のいないところで詮索するのはさすがに憚《はばか》られる。それに、口ごもっている間に篠原さんがこちらを見て口を開いた。
「ただ、あの子に名字のことは言わないでほしいんだ。呼ぶときも名前で呼んだほうがいい」
「いきなり名前で呼ぶのはちょっと……」
「抵抗があるかもしれないけど、名字について触れると機嫌を悪くすると思う。注意してね」
「はあ」
やがて、彼女が待ち受ける部屋へと辿り着いた。ドアの横にあるネームプレートが、普通の病院にあるそれと同じだったので、第八号棟にあっては逆に違和感を覚える。
篠原さんは僕を横目で一瞥してから、軽くノックした。
「梓ちゃん。篠原だけど、瀬畑君を連れてきたよ。入っていいかな」
「どうぞ」
思ったよりはっきりとした返事だった。篠原さんがノブを掴み、ドアを引く。
入院を前提に設計されているのか、病院の個室にしては広い。目隠しされたまま連れてこられたら、マンションのワンルームと思ってしまいそうだ。入ってすぐ左のドア二つは、たぶんトイレとバスだろう。短い通路を進むと、十畳くらいの床面積があった。窓はなく、全面が壁になっている。あとはキッチンがあれば、居住スペースとして充分に事足りる。
ただ、調度はほとんどない。隅に置かれたベッドこそ、病院特有の無味乾燥なパイプベッドではないけれど、それ以外は普通の病室と大差なく見える。多少なりとも生活感が見えるのは、ベッド脇のチェストに置かれたノートパソコンくらいだ。いや、それすらも、長い入院生活におけるせめてもの慰み、といったものに思える。本棚やCDラック、テレビなどは一切ない。
広すぎて寒々しさすら感じる部屋の中央に、彼女はいた。
ゆったりした肘掛け椅子に、浅く腰掛けている。あのときと同じように、学校の制服っぽい服装だった。今回はオーソドックスなセーラ服である。
顔の上半分を占めるゴーグルも、最初に見たときと変わらない。
正面から見ると、それはゴーグルというより| H M D 《ヘッドマウントディスプレイ》だった。そういう加工をしているのだろう、こちら側からは、中が全く見えない。まるで目隠しのようだ。
どうしてそんなものをかけているのか?
考えている途中で、ここがどこか、そして彼女がどういう立場か思い出す。
第八号棟の入院患者。
感覚拡大症。
視線を遮断するための盾。
「こんにちは」挨拶は彼女のほうからだった。
「こんにちは、梓ちゃん」篠原さんが応じる。「急な話で悪かったね」
「大丈夫。気にしないで」
「じゃあ紹介するよ。彼が瀬畑明珠君」
「こんにちは」僕は一歩進み出た。
彼女からの応答はない。無視しているというわけではなく、観察しているようだ。視線が読めないので断言はできないけれど、僕をひたすら視ているらしいのはなんとなく分かる。
その間、僕も彼女を見ていた。新留さんが篠原さんのことを「ロリコン」と言った理由が分かった気がした。そこまで子供っぽいというわけではないけれど、全体的に小振りなのだ。顎のライン、袖口に見える手首、スカートから伸びた脚。いずれもかなり細い。ただ、病的というほどでもない。体質もあるのだろう。
そんな体格だけに、ゴーグルが改めて異様に見えた。
そのとき、低い振動音が聞こえた。携帯電話のバイブのようだ。でも、ここは地下で電波が届かないから、僕のが着信しているはずがない。
と思っていると、篠原さんがスーツの内ポケットから何かを取り出すのが見えた。携帯――いや、PHSだろう。PHS同士ならトランシーバみたいに使うこともできると、僕は思い出した。
「はい、篠原です」
通話開始。……いや、病院内で使って良いのか?
あ、でもここには拡大症患者しかいないから大丈夫なのか。篠原さんが規則違反をするとは思えないから、たぶん問題ないのだろう。
会話は短かった。篠原さんはPHSをポケットに戻すと、僕たちを交互に見た。
「ごめん、ちょっと急用が入ったから、僕は席を外すよ。どれくらいかかるか分からないから、瀬畑君は時間を見て部屋に戻ってくれるかな。道は分かるよね?」
「あ、ええ」
「じゃあ、そういうことだから。梓ちゃんはまた明日」
「さようなら」
篠原さんは慌ただしく出ていった。僕は彼の背中を見送り、はたと我に返る。
密室に二人。僕と、相手は初対面の女の子。同じ拡大症患者で、だけど症状は全く違うはずの、ゴーグルをつけた彼女。
どうしろと?
まずは落ち着こうとした矢先、視界の隅で彼女の唇が開くのが見えた。
最初に出てきたのは、言葉ではなくため息だった。
「篠原さんにも困ったわね。どうしてこう、わたしを人と会わせようとするのか……」
「え?」
「何を言われてここに来たか知らないけど、わたしと話しても面白いことはないわよ。八年間、ここから一歩も出ていないから、外のことを話されても噛み合わないし」
「八年間? そんなに?」僕は思わず言った。
「彼から聞いていなかったの? わたしは八年前にここに来てから、あのエレベータを使ったことがないわ。ただの一度もね」
「いや、出たことがないとは聞いてたけど、八年とまでは」
「信じられないでしょう?」彼女は口だけで薄く笑った。「そういうことだから、早く帰ったほうがいいと思う。有益な話ができるとは思えないもの」
初めて話すにしては――初めてだから、かもしれないけど――彼女の言葉に柔らかい部分はなかった。あっちも緊張してるのかな、と前向きに考えつつ、言葉を探す。
「いや、ただお喋りしに来ただけだから、有益かどうかとか関係ないよ」
「そのお喋りが合わないと言ってるの。瀬畑君、だったわね。何歳?」
「十七だけど」
「一つ下か。じゃあわたしと瀬畑君では、生きてきた年数の半分は全く別の生き方をしていたことになるわけね。そんな二人が、まともに話せると思う?」
僕は途中から聞いていなかった。それよりも、最初の一言にインパクトがありすぎだ。
(…………年上だったのか)
確実に下だと思っていただけに、ショッキングだった。いや、この体格を見て、自分より上とは今でも考えにくい。
確かに、喋り方は大人びているなと思っていたけど、それでもなあ……。
あ、でもそういえば新留さん、「二年後は成人式」とか言ってたか。聞き流してしまっていたらしい。迂闊だ。
反応がなかったからか、巫部さんは眉を顰めた――ような態度を取った。もちろん、ゴーグルで見えていない。
「聞いてる?」
「あ、うん。でも、今は普通に話せてるし、気にすることはない、と思います」
「なんでいきなり敬語なの?」
「いや、その」まさか年上だと思わなかった、とは言えない。
「どうせ、年上だと思ってなかったんでしょう」
「まあ、白状すると」ごまかしを許さない雰囲気を感じて、僕は素直に肯定した。
「年齢なんてどうでもいいじゃない。少なくともここにいれば、時間の経過はあまり意味がないわ」
「でも、年上には敬語でっていう感じがなんとなくあるし」
「ほら。それが外での常識なの」彼女はなぜか得意げに言った。「いきなり噛み合ってないでしょう?」
「そうかな」
僕は反射的にそう言っていた。口にしてから、どうして否《いな》を唱えたんだっけ、と考える。会話するときはいつもこんな感じだ。
「違うと思うの?」巫部さんの口調は少し刺々しい。
「噛み合ってないっていうか、無理にそうしてるような気がする。巫部さんが――」
「梓」
「え?」
「わたしを名字で呼ばないで」
そういえば、篠原さんに釘を刺されていたんだった。名字について触れただけでも機嫌を悪くするそうだから、ここは素直に従っておこう。
「ええと、梓……さんが、」
「さん付けも禁止」亜光速で禁止が飛んできた。
「じゃあどうしろと」
「呼び捨てでいいから」
「いやあ、それはちょっと」
「じゃあ帰ったら」ブリザード級だった。
「分かったよ」しかし、名字に触れられるのは心の底から嫌いらしい。「何の話か忘れちゃったよ」
「話が噛み合ってないって話」
「そうそう。梓……がさ、なんか第八号棟の中と外を必死に線引きしてるような気がするんだ。実際、違うところはいろいろあるけど、噛み合わないってほどじゃないと思う」
「でも、この八年間に何が起きたか、わたしが知らないのも事実よ。ニュースもほとんど観ないし」
「僕だって観ないよ。第一、そんな話はしない」
「だったら何を話すの?」
改めてそう言われると、少し困る。初対面の相手には、どういうトピックを持ち出すべきなのか。
あ、一つあるじゃないか。相手がここの患者なら、ぴったりのやつが。
「症状」
「え?」
「拡大症の症状。梓はどういうものなの?」
ほかの病気なら訊きづらいけど、拡大症なら構わないような気がする。僕だったら、訊かれても問題なく答えられるし。
けれど、彼女は唇を引き結んだ。睨まれているかもしれない。
「瀬畑君は?」
「あ、僕も明珠で」
「それは嫌」なんでだ。
「まあいいけど……。僕は触覚。新留さんは『透過触覚』って言ってたかな。物体の中を触れるっていう感じ」
ここでは、患者の『症状』の特徴から、それぞれに名前をつけるようになっているそうだ。感覚拡大症《びょうめい》だとみんな同じになってしまうから、区別のためだろう。
「ふうん」
「それで、梓は?」
「教えない」即答だった。
「……さすがに酷くない?」
「そっちが言ったらこっちも、とは言ってないじゃない」
「そうだけどさ」それほど教えたくないのか。
梓は立ち上がった。小さい。僕も長身ではないけれど、それにしたって小柄だ。
彼女はつかつかと歩み寄ると、僕の顔を見上げてきた。ゴーグルのせいか、やたらと威圧感がある。
少しのけぞりながら、視線を受けた。もっとも、ゴーグルの表面に映った引きつり気味の僕の顔しか見えない。
梓は一歩下がると、腕組みして口の端を持ち上げた。
「さようなら。気分を悪くしたくなければ、もう来ないほうがいいと思うわ」
「このあと、何かあるの?」
「言わなきゃ駄目?」
「いや、詮索するつもりはないよ」
僕は入り口のほうに下がっていった。ドアを開け、躰半分を外に出した状態で、また椅子に腰掛けた梓を振り返る。
「それじゃ」
返事はなかった。まあそうだろうな、と思う。気に入られるようなことを言ったわけでもないし。そもそも、会話としてまともに成り立っていたのかも怪しいところだ。
もちろん、お互いに言っていることは理解できていたはずだけど、この邂逅に果たして意味があったのか、よく分からない。
また会うことがあるだろうか。それとも、この一回限りになるだろうか。
もし、二度目があるとすれば――
夜。
僕は、宿泊用にあてがわれた部屋で、ベッドに座りながら本を読んでいた。もともとは、泊まり込みで仕事する医者のために作られた仮眠室の一つだそうだ。とはいえ個室だし、アメニティも揃っているので一泊くらいなら充分すぎる。
何度か寝泊まりして分かったのは、第八号棟では消灯時間というものが決められていない、ということだ。入院患者用の区画は分からないけど、いつも検査で使う部屋が集まったブロックや新留さんの部屋があるあたり、この仮眠室の周辺も、夜だというのに明るい。まあ、だからといって出歩くつもりはないし、仮にそうしたとしても、行くところだってないのだけど。
もっとも、病院=夜更かし禁止というイメージを持っている僕としては、明かりが点いているほうがありがたい。今やっているみたいな、寝る前のちょっとした読書も、入院患者ならできないかもしれないのだ。それとも、第八号棟では特に禁止されていないのだろうか。機会があれば新留さんあたりに訊いてみるのも良いかもしれない。
読書の合間にそんなことを考えていると、ドアがノックされた。反射的に携帯電話を取り出し、サブディスプレイを見る。もう十時過ぎだ。誰だろう、こんな時間に。
僕は本を置くと、ベッドから起き上がってドアに歩み寄った。
「はい?」一応、小声で言う。
「篠原だけど、今、いいかな」
「どうぞ」
ドアを開けると、スーツ姿の篠原さんが立っていた。白衣は着ていない。
僕は一歩下がり、彼を招じ入れた。細身とはいえ背が高いので、近くにいるとちょっと気圧される僕だ。
「悪かったね、こんな時間に。もう寝るところだったりしたかな」
「いえ、まだ起きてるつもりでしたけど……。どうしたんですか?」
「うん」篠原さんはちょっと迷うような様子で、「実は、梓ちゃんが呼んでるんだ」
「え?」
「ついさっき、メールが来てね。部屋に連れてきてくれって。もちろん、断ってもいいんだけど、伝えるだけ伝えておこうと思って」
「なんで今ごろ……」僕は独り言のように呟いた。
「実は、僕も驚いてるんだよ。あの子が自分から誰かを呼ぶなんて、今までなかったからね」
「そうなんですか?」
「『もう来させないで』って言われたことは何度もあるけどね」苦笑。「で、どうかな」
正直、初対面のときと二度目の出会い、そのどちらも相手の態度が態度だっただけに、若干の躊躇はある。一方で、また話してみたいという気もする。何といっても、僕にとっては初めて出会った拡大症患者だ。このまま「はいさようなら」としてしまいたくはない。
それに、自分から会いに行くのならともかく、今は呼ばれた側だ。ということは、梓のほうも僕と話すのは満更ではないということだろう――と信じたい。
篠原さんの顔を見上げる。「断ってもいい」とは言っていたけど、会ってほしいと思っていそうな顔だ。さっきの言葉から察するに、これまで何人も梓に会わせようとして、そのたびに失敗してきたのだろう。だから、梓からの呼び出しというのは篠原さんにとっても喜ばしい事態のはずだ。
自分の心と相談して、僕は決めた。
「分かりました。行きます」
「ありがとう」篠原さんは微笑んだ。「僕は一緒に行けないんだけど、場所は憶えてる?」
「大丈夫だと思います」
「うん。じゃあ、話し相手になってあげて。頼んだよ」
こうして、僕は数時間前に初めて話した女の子と再び喋るために、数時間前に初めて訪れた部屋に向かった。昼間もそうだったけど、入院患者用の区画は本当に静かで、今さらどきどきする。予想していたとおり、ここだけは通路が暗いし。
冷静に考えてみれば、こんな時間に女の子の部屋に入ろうとしているのだ。別に何かするつもりはないけど、そのシチュエーションは僕から落ち着きを奪うのに充分すぎる。
意識して深く呼吸し、ドアを叩いた。
「入って」静かな声が応じた。
僕はゆっくりとドアを開け、隙間から滑り込んだ。入ってすぐのところは明かりが消されているけれど、奥の部屋から光が届くので暗くはない。
部屋に入ると、梓は昼間と同じ格好で、今度はベッドに行儀よく腰掛けていた。もちろんゴーグルはつけたままだ。
「えっと、こんばんは」とりあえず挨拶してみる。
「座って」しかし梓は無視した。
昼間、梓が座っていた椅子に腰を下ろす。なんとなく緊張する。
黙って、梓の言葉を待った。彼女のほうから呼んだということは、何か話があるはずだ。まずはそれを聞いてみなければ。
と思っていたのだけど、しばらく待っても梓は何も言わない。それどころか、
「何か話してよ」当然のように言った。
「え? でも何か話があったんじゃ」
「わたしから言いたいことは特にないわ。話が聞きたかっただけ。瀬畑君が普段、どう過ごしてるのか、とか」
「僕の過ごし方なんか、あんまり面白くないよ。大抵は家にいるし」だから梓と同じだ、とは言わなかった。
「でも、学校には行ってるんでしょう?」梓はすぐに返した。
「そりゃ……ああ、なるほど」僕は納得した。
八年前からずっとここにいるという言葉が事実なら、梓の症状、あるいはそれによるストレスはかなり強いことになる。それこそ、第八号棟に引きこもりでもしない限り、まともに生きられないほどに。そんな彼女からすれば、通院している――つまり拡大症患者でありながらリアルタイムで外のことを知っている僕のことは、興味を感じずにはいられないのだろう。
あるいはこうも考えられる。梓は学校に通ったことがほとんどないか、あったとしても、年齢的に小学校の途中までに限られる。中学や高校のことは、何も知らないに違いない。だから、そういう話が聞きたいのかもしれない。学校の話題をすぐに出したのも、その表れだろうか。
あ、もしかして。
「制服を着てるのって、憧れがあるから?」
「違うわ」即答だった。
「じゃあなんで」
「深い意味はないわ。ネットで調べて、いいなって思ったから取り寄せただけよ」
ネットでまともに服を調べていて、学校の制服が出てくるなんてありえない。そういう趣味の人がサイトを開設していて、梓がそれを見たという可能性もないではないけど、それよりは学校を検索して見つけたと考えるほうが自然だ。
そう思いつつ、口には出さなかった。代わりに、
「じゃあ、とりあえず学校がある日のことを話せばいいのかな」
「ええ」梓は頷き、「でも別に、学校のことが気になってるんじゃないわ。ただ、わたしくらいの歳の子は、普通はどういうふうに過ごすのかなって気になっただけよ」やたらと早口にそう言った。
「あ、うん。分かってるよ」
人によっては生意気だと感じそうな態度も、今はなぜか気にならない。むしろ微笑ましい感じだ。
僕は、普段、特に学校がある平日に自分がどう過ごしているか思い出しつつ口を開いた。
「僕はちょっと早めに学校に行くから、毎朝六時半くらいに起きてるかな。学校に行って授業を受けて、平日は四時くらいに学校が終わるから、それから帰る感じ。部活に入ってたら、また違う過ごし方になると思うけど」
「入ってないの?」
「うん。その、『症状』があるから敬遠しがちでね。委員会くらいならまだいいんだけど」
「委員会?」
「えっと、生徒の手で学校生活の一部を管理するための集団……って感じでいいのかな。美化委員とか図書委員とかがあるんだけど」この説明で合っているのか、いまいち自信がない。
「瀬畑君はそれに入ってるの? 具体的に何をするわけ?」矢継ぎ早に質問が飛んでくる。さっきより身を乗り出していた。
「今はどこにも入ってないけど」食いつきっぷりに少し笑いかけ、気づかれたら厄介だと思い押し隠す。「去年は一回だけ図書委員をやったよ。仕事はカウンタ業務……あー、つまり、本の貸し出しと返却手続きと、新刊のラベル貼りとかかな。カウンタは当番制だし、ラベル貼りは月に一回しかやらないから、基本的にすぐ帰れて楽だったなあ」
「学校からはまっすぐ帰るの? 寄り道とかは?」息もつかせぬ口調だった。
「することもあるよ。本屋に寄ったり、CDを買ったり。買い食いもたまにするかな。ケーキの美味しい店があってね」
「ふうん、そう。ケーキね」
素っ気ない相槌。だけどその裏に、好奇心を隠そうとして隠しきれていなかった。甘いものが好きなのは一目瞭然だ。
もっとも、指摘するとややこしいことになりそうなので、我慢してスルー。
「学校から帰ってからは、いろいろかな。本を読んだりゲームしたり、宿題やったり」
「家にいるときのことはいいわ」梓はすぐに言った。「それより、学校で授業を受けるときってどんな感じなの? それに、休みの日も全く出かけないわけじゃないんでしょう? そういうときはどう過ごすの?」
梓はもう、学校や学生の過ごし方に対する興味を隠そうともしなかった。僕はそれに逐一答えていく。自分は同世代の中では遊んでいないほうだと思っているけど、梓の好奇心を満たすにはそれで充分だったらしい。
小一時間ほど話すと、梓はベッドの上で力を抜いた。
「よく分かったわ。これでぐっすり眠れそうね」
「それは良かった」本心だった。「じゃあ、次に来るときまでに面白そうなネタを仕入れてくるよ」
梓は跳ね起き、「まだ何かあったの?」
「いや、今はないけど」
「だったらわざわざ来なくてもいいわよ。今回はたまたま……そう、なんとなく寝つけなかったから、眠れるようになるまで話し相手が欲しかっただけで」
「そう?」
「……何よ」
「何でもないよ」
僕は微笑を残し、椅子から立ち上がった。実際、とりあえず話は尽きたし、そろそろ眠くなってきた。
部屋を出る直前、ドアの隙間に振り返り、
「おやすみ」言い残した。
返事は、聞こえた気もするし、聞こえなかった気もする。
一週間後。
梓のゴーグルもなかなか悪いものじゃないな、と感じた。いきなりあれで出迎えられたらびっくりするけど、少なくとも表情は隠してくれるし、不機嫌そうに睨まれるよりは良い。
一週間前と同じ位置にある椅子に座り、梓は腕を組んでいた。指先が、自分の腕を一定のリズムで叩いている。
「……どうして来たの」
「どうしてって?」
「別に、また話が聞きたいなんて言わなかったじゃない」
「僕も、話をしに来たなんて言ってないよ」
凄い目で睨まれた気がするけど、やっぱりゴーグルで見えなかった。あからさまに皮肉りすぎたかと反省しつつ、
「とりあえず、今日はお土産持ってきたから機嫌直してくれないかな」
言いながら、駅前で買ってきたパン屋の箱を掲げる。この部屋で飲み物を調達できるか分からなかったので、コーヒー入りの魔法瓶も抜かりなく用意した。
僕の手元を見て、梓はますます口をへの字に曲げた。
「パンなんか買ってきてどういうつもり?」
「だからお土産だって。それに、確かにパン屋の箱だけど、中はこれだよ」
僕は近づいて、箱を開けて見せた。貢ぎ物はシュークリームだ。生クリームも入ってるのとカスタードだけのやつが一つずつ。彼女の唇が少しほころぶのを、僕は見逃さなかった。
だけど素知らぬ顔で、
「ほら、先週話しただろう? ケーキの美味しい店があるって」説明開始。「この店、パン屋なんだけどお菓子も売っててね。ケーキとかエクレアなんかもある。しかも、面白いことにパンよりそっちのほうが人気なんだ」
「……甘いものは好きじゃないの」
「そうなんだ。残念だな、本当に美味しいんだけど」
僕はあっさり箱を閉じ、同じパン屋のロゴが入った紙袋に入れた。魔法瓶のことも内緒だ。
「仕方ない。帰って僕だけで食べよう。あ、それとも篠原さんにあげようかな。あの人、こういうの好きかな?」
「……わたしの二十倍は嫌いよ」
「そっか。それなら、新留さんにプレゼントしよう」
「彼女はわたしの三十八倍は甘いものを嫌ってるわ」
「『糖分の補給が必要だから』って、いつもばくばく食べてるけど」嘘だった。
梓はついに歯軋りを始めた。さすがにからかいすぎたかもしれない。
「じゃあこうしよう。僕は帰りに篠原さんに会えるか分からないから、梓から渡しておいてくれないかな。『同僚の人たちと食べてください』って。新留さんに渡したら二つとも食べられかねないし。いい?」
「分かったわ」ほとんど即答に近いタイミングで、梓は言った。
「あと、コーヒーも入れておいたから。それもどうぞ」
「分か……どうしてわたしが飲むの?」たぶん睨まれた。
「いや、そう篠原さんに伝えてほしいなって」
「人使いの荒い客ね」梓はそう言うものの、どことなくそわそわしてきた。ゴーグルで隠れていても、彼女の視線が僕の手元に注がれているのが分かる。
(短かったけど、今日はここまでかな)
明らかにケーキを食べたそうにしていることだし、ここは早々に退散したほうが良さそうだ。からかいすぎたこともある。梓との接し方が少しずつ分かってきたこのあたりで、今回は身を引くべきなのだろう。
僕は梓に紙袋ごと渡して、彼女の部屋を辞した。第八号棟の中にある食堂で夕食を済ませ、少し宿題をしてから眠った。
翌日、日曜日というのに僕は七時ごろ起きた。別に朝早くから検査があるわけではなく、いつもこれくらいだ。以前、クラスメイトから小学生みたいだとからかわれたことを思い出す。
身仕度を整え、昨夜と同じ食堂に行く。食事しているところで、篠原さんが姿を見せた。
「やあ、おはよう」彼が持っているのはマグカップだけだった。
「おはようございます」
「週末だけ外泊っていうのも、もう慣れたかい?」
「はい。でも、全部無料っていうのが悪い気がします」
そう。仮眠室の使用や食堂の利用を含め、お金は一切要らないのだ。検査費用なんかは、国家機密というくらいだからなんとなく分かるとしても、普通、食事代くらいはこっちが出すものじゃないのだろうか。
そう言うと、篠原さんは笑って、
「そうだね。ほかの病院はそうしてるはずだ。でも瀬畑君は初めてのケースだし、対外的には患者としていないからね。ご両親に請求したら問題だろう?」
「そうですけど」
「だから気にしなくていいよ。こっちも、いろいろ協力してもらってるわけだし」
拡大症患者は絶対数が少ないので、データがなかなか集まらない。それは、新留さんからも言われたことだ。つまり、ギブアンドテイクということなのだろう。サンプル扱いに抵抗が全くないわけではないけど、待遇を考えると文句を言う筋合いじゃない。
篠原さんと雑談しながら、食事を終えた。トレイを返し、仮眠室で時間を潰す。九時過ぎになったのを確認して、新留さんの部屋に行った。それくらいの時間なら、彼女も仕事を始めているはずだ。一度、食事してすぐ新留さんの部屋を訪ね、一時間近く待たされたことがあった。その経験を踏まえてのことだ。
予想どおり、新留さんは既に出勤していた。簡単な問診を済ませ、検査内容を告げられる。新留さんによって透過触覚と名付けられた僕の症状がどの程度のものなのか、いろいろなシチュエーションで確かめるものだ。その結果を見て、透過触覚でできることとできないことのボーダを判断するらしい。
自分では分からなかったけど、僕は拡大症患者としてはいろいろな部分で珍しいそうだ。感覚拡大を原因とする精神的影響、症状発現に対する心理抵抗と制御力。周りに秘密にしたまま触覚を延ばすならともかく、拡大症のことがオープンな場所で透過触覚を行使するときの僕は、血圧やら脳波やらが平常時とほとんど変わらないらしい。唯一の例外は、自分以外の人体を対象にしたときだけだ。
だから検査といっても、僕のほうでは訓練に近い。これまで曖昧だった、透過触覚によってできることとできないことが、どんどん明確になっていく。
それが、少し嬉しくて――少し、不気味だった。
ほかの拡大症患者は、みんな症状の発現とストレスが不可分だという。程度の差はあっても、拡大した感覚を無抵抗に解放することはできないらしい。
僕にはそれができる。でも、果たしてそれは喜ぶべきことなのだろうか。
自分の体質――病気を客観的に考えてみると、かなり異常だ。感覚が拡大する。新留さんじゃないけど、超能力じゃあるまいし、そんなことは普通ありえない。
それなのに、僕はいつもとほとんど変わらないメンタリティを保っている。
僕は、異常なのだろうか。
人間の形をしていながら、心のどこかは人間と違って歪んでいるんじゃないのか?
だったら、ゴーグルで顔を、目を隠す梓は――
検査中の休憩時、僕はそんなことを考えていた。
すべてのプロセスを終えて、梓の部屋に行く前に、僕は新留さんに訊いてみることにした。
「梓の症状について?」彼女はレンズの奥で眉を顰めた。
「ええ。医者として守秘義務っていうんですか? そういうのがあるんだったら無理にとは言いませんけど」
「うーん」
新留さんの指に挟まれた煙草の先端から、細い煙が生産され続ける。空気清浄機の負担がまた増えるな、と全く関係ない思考。
「ストレスがあるかないかってことなら、あるよ、あの子にも」新留さんはぽつりと言った。
「というか、僕以外にはみんな、ですよね」
「まあ、程度の差はあるけどね」煙草をくわえる。唇からも煙を製造。「それにあの子の場合、ストレスの原因は『拡大症である』っていうだけじゃないからね」
「どういうことですか?」
「昔、ちょっとあったんだよ。家で」
「家?」
「巫《カンナギ》の、御子《みこ》」
新留さんは、低い声でそれだけ呟いた。僕は言葉の内容よりも、その言い方に気を取られていた。
巫の御子。梓の姓は巫部。どんな関係がある? 梓のストレス。拡大症であるというだけではない、彼女が抱える負担。
重荷。
巫部家が強い一族であることは、僕のような学生でも知っている。大企業カンナギの創立家系。梓が直系であるのなら、いろいろとプレッシャもあるのだろう。
だけど、それだけとは思えない。新留さんが口にした、『巫の御子』って何のことだろう?
僕はじっと、彼女を見つめた。直感的に、それは知らなければならないことだと気づいたから。
新留さんは黙って煙草を吸った。フィルタ近くまで吸い尽くし、灰皿に押しつける。
ため息混じりに煙を吐き出し、新留さんは僕をじろりと睨んだ。
「本当は、これも黙っておかなきゃいけないことなんだからね」
彼女が何を言おうとしているか、分からないはずがない。僕は頷いた。
新留さんはわずかに顎を引き、煙草に火を点けた。
「巫部というのはね」新留さんは語った。「結構、古い名字なんだよ。それに、与えられた意味もかなり強い」
「意味?」
「巫という字は分かるよね。巫女、巫覡《ふげき》、神巫《いちこ》。いずれも神に繋がる言葉。部というのは、日本史で習ったかもしれないけど、古代では職業を意味していた。物部《もののべ》なんかは有名だね。つまり巫部という言葉は、神とコンタクトできる人々を表しているんだよ」
部民制《べみんせい》、というやつか。確かに、巫部の二字を解体すれば、そういう意味を与えられるかもしれない。でも、
「神様なんて……。もしかして、巫部家では本気でそれを信じているんですか?」
「まさか。それはないよ」わずかに苦笑。「でも、的中率の高い神託を受けることができたら、とは思ったみたいだね。たとえ、トリックがある神託だとしても」
「トリックありの神託って、占いのことですよね」
「似てるけど違う。占いっていうのは、要するに予測――つまり、これから起きる[#「起きる」に傍点]現象を告げることだけど、巫部家が求めたのは、これから起こす[#「起こす」に傍点]ことを前もって知るためのシステムなんだよ」
「誰が何を起こすんです?」
「たとえばライバル会社。あとは取引相手や銀行なんかもそうかな。そういう、自分たちの会社に関わる人たちの経済的なアクションだよ。それが事前に分かっていたら、巫部ほどの力があればいくらでも手を打てるでしょ?」
「だと思います」経済の仕組みはよく分からないけど、先読みが重要であることは想像がつく。
「だから、巫部はそのためのメカニズムを構築した。その完成型が、『巫の御子』と名付けられた子供なんだ」
「子供?」
御子というからには子供でもおかしくないけど……。何をさせた?
新留さんは目を伏せ、煙を細く吹いた。
「与える刺激を減らして自我を可能な限り薄れさせた人物に、別人の情報を与えておく。過去の経歴、現在の立場、業績、簡単な心理分析結果なんかもね。その上で本人と対面させ、言動や癖を見せることで、相手の思考をシミュレートできるようになる。巫部家の計画は、そういうものだった」
「思惑を知りたい相手を真似るってことですか?」
「『真似』じゃ駄目なんだ。『そのもの』にならないと。だから、最初のころは上手くいかなかったらしいよ。『御子』にされたのは子供だし、与えられた情報を捌ききれるとは限らない。負荷に耐えきれなかった子もいたみたい」
「そんな……」僕は呆然とした。「そんなことがあっていいんですか?」
「良くないよ」返事は早く、短かった。「でも、巫部ではそうは考えなかった。さらに実験を繰り返し、ついに実用化したんだってさ。カンナギが今の規模に成長したのはその時期だよ」
「まさか、梓がその『実用例』……」
「の、一人」彼女は短く言った。
「ほかにもいるんですか?」
「不幸なことにね。正確な数は知らないけど、巫部家は数十年に亘って『御子』を使っていたから、梓の前に何人もいたのは間違いない」
その全員が、カンナギという企業を成長させるための贄《にえ》だったというわけか。僕は怒りを感じるより、やるせなさに歯噛みした。
視界の端で、新留さんがこれまでになく表情を消しているのが見えた。あえてそうしているのだろう。彼女は黙って煙草を消し、すぐ次の一本を取り出した。吸わないとやっていられない、とばかりに。
「……そんな子供を、狙った相手に会わせることなんてできるんですか?」僕は機械的に尋ねた。
「条件次第ではね。金のやり取りも市場取引もネットでできるようになったとはいえ、今でも昔ながらの『商談』ってやつは行われてる。そこでは、シミュレートの対象と直接会うことができる。直系に近い子供なら、連れていても怪しまれることはないみたい」
「じゃあ、梓も」
「あの子は、先代の末娘だからね。『御子』にされる条件は満たしていたんだ」
それが、梓のストレスか。
家のために精神を削り、自我を失いかけたこと。自分が自分でなくなる恐怖。相手の形に造型され、相手の色に染められ、そのものにされていく感覚。
想像もつかない。だけど、拡大症どころではないんだろう。そんなものに耐えながら、彼女は今まで――
あれ?
「あの、待ってください」
「何を?」
「いや、何ってわけじゃないんですけど。梓は、その、『御子』だったんですよね?」
「そうだよ」
「今は違いますよね」
「もちろん」
「どうしてですか? もしかして、一定期間『御子』をやったら解放されるとか」
「希望を奪うようで悪いけど、そんな救済はない。『御子』はことごとく使い潰されたよ。梓以前の『御子』は全員、精神的に致命傷を負った。助かったのは彼女だけ」
「それが分からないんです。なんで梓だけなんですか?」
煙草を吸う間、僕は待たされた。新留さんは、ことさらにゆっくりと煙を吐き出す。
伏せたままだった顔を上げたとき、彼女の表情は『沈痛』としか表現しようのない色に染まっていた。
「十年前、巫部家で事件が起きた。その結果、『巫の御子』のシステムは崩壊した」淡々と言葉を並べ、新留さんは煙草を消した。「さて、話はおしまい。早くあの子のところに行ってあげな」
「え、あの……」
「ほらほら。今日は帰らなきゃいけないんだから、お喋りの時間は少ないでしょ。ゴー・ジャスト・ナウ!」
「なんで英語なんですか……」
ぼやきながら、僕は新留さんの言葉に従った。従わざるをえなかった。
言えるのはここまで。そう、言外に告げられたから。
僕は努めて何も考えないようにしながら、梓の部屋に向かった。何も悟られてはならない。昨日と同じように振る舞わなければ。
(正直、隠し通せるか自信がないけれど……)
あんな話を聞いたあとだ。それでも、やらないわけにはいかない。
ノック。返事を聞いてドアをオープン。
四度目の来訪。今度も梓は、あの椅子に座っていた。待ち構えていたかのよう。さすがにそれはないだろうけれど。
梓は一瞬、僕の手を見た――気がした。実際には、一瞬ほころんだ唇が残念そうに引き結ばれるのが見えただけだ。直感に逆らわず、僕はその視線に応じる言葉を探す。
「ごめん、泊まってたからお土産はなしなんだ。悪いね」
「別に要らないわよシュークリームなんて」やたらと早口だった。
「何が好きなの?」さりげなく訊いた。
「モンブラン……」ぼそっと答えてから、梓は物凄い勢いで首を振った。「違う、そうじゃなくて、モンブランが好きな先生がいるから、持ってきてくれたら渡すわよってこと。別にわたしが好きなんじゃないからね」
「うん、そうだろうと思ったよ」
それより首が心配だった。そんなにぶんぶん振って大丈夫かな。ゴーグル、重そうだし。
呼吸を整えてから、梓は改めて僕を見た。
「それより、今日はどうして来たの?」
「ん? またお喋りに」僕は近づきながら軽く答えた。
「わたしだって暇じゃないんだけど」
「何か予定があるの?」
「あるわよ」
「どんな?」
「別に言わなくてもいいでしょ」
「今度モンブラン持ってくるから」
一瞬の間。「そんな取引には応じないわよ」
「今少し迷ったよね?」
「迷ってない」
「迷ったよ」
「迷ってないわよ!」
強情だなあ、と僕は苦笑した。
梓は悔しそうに、あるいは拗ねたよう唇を尖らせている。ゴーグルがなければ、きっと上目遣いに僕を睨む二つの瞳が見えたことだろう。
また前回のように追い出されても困るので、彼女が相手をしてくれそうな話題を探すことにする。
「梓って、普段そのパソコンで何やってるの?」ベッドサイドを視線で示しながら訊いた。
「いろいろよ」少し険のある口調ながらも、彼女は答えてくれた。
「たとえば?」
「だからいろいろ」
「じゃあ、よく見るサイトとかある?」
「それを知ってどうするの?」
「いや、どうもしないけど。ただ、興味があるからさ。僕はパソコン持っててもあんまり使ってないから、暇潰しできそうなところがあったら教えてほしいし」
半ば以上、事実だ。空いた時間は本を読むことのほうが多いし、ネットに繋いでも、ちょっと気になることを調べるくらいだ。ゲームもしない。
ただ、ゲームをしたり動画を観たりしたくないわけではないので、面白そうなことがあれば知っておきたい。
学生なんだから勉強しろよ、という心の声は、この際、黙殺だ。
何だかんだで真面目に考えてくれたらしく、少しの沈黙を挟んで、梓はゴーグルの下の口を開いた。
「学校のサイトを見ることが多いかしら」
「学校?」思わず繰り返す。
「地味だとか思ったでしょう?」また睨まれる。想像上で。
「そんなことないよ」かぶりを振った。「サイトのどんなところを見るわけ?」
「いろいろよ。部活とか委員会とか。学校の敷地が見られたら、過ごしやすそうかどうか考えてみたり」
「へえ……。それは考えたことなかったなあ」
たとえばどの学校のどんなところが面白いか訊いてみた。梓はまた少し考え込む様子を見せ、「緑新館《りょくしんかん》高校なんかはなかなか楽しかったわね。校舎の形が独特で」
「へえ。どんな?」
水を向けると、梓はこれまでになく上機嫌に語り出した。ほかに見つけた面白い学校についても、饒舌に喋る。昨日までに交わしたすべての会話に匹敵するほどの言葉を、一人で紡いでいく。
楽しそうな顔で。
だけど、それは錯覚だ。梓の表情は、決して見ることができない。見えたとしても一部だけ。いや、そもそも、本当はどんな顔をしているのかさえ、僕は知らない。
梓の過去を知ったところで、梓の今が分かるわけじゃない。
まして、今どんな顔をしているのかなんて、その瞬間しか分からないことだ。
「あと、面白かったのは――」
声を弾ませる梓に微笑ましさを感じ、僕も頬を緩めた。
楽しそうな梓の声。唇。
笑顔。
すべては見えない表情。
隠れた顔。
自分でも、半ば意識しない動きだった。
芸術的なほど自然に、ゴーグルに触れる。
そっと、触れる。
梓が気づく。彼女の動きが止まる。
一瞬の透過触覚。意図しない発現。
滑らかな肌。
細い眉。
長い睫毛《まつげ》。
見開かれた彼女の瞳。
眼球を、架空の指先がかすめる。
侵略と/罪悪/支配感/僕の指/制御/失礼だ/触れたい/駄目/これ以上/もっと/このまま/なぜ?/同類/同じ/拡大症/彼女は、
梓は、
彼女の両手が、僕の胸を突き飛ばした。指先がゴーグルをすり抜ける感触。
僕は少し足踏みした程度で、突き飛ばした梓のほうが大きく動いた。
梓は僕から二メートルほど離れたところに立ち、肩で息をする。
僕は冷静なまま。
無言。
僕は両手を掲げ、真顔で彼女の顔を見た。
ゴーグル越しの、双眸を見た。
「ごめん」
まずはそれだけ言った。梓はなおも無言。
「それを取るつもりはなかったよ。誓ってもいい。ただ触りたかっただけだ。それでも――ごめんよ」
「……わたしの顔に触れたわね」冷たい金属みたいな声。「その指で」
「分かったの?」
「やっぱり……」
ブラフか。僕は両手を挙げたまま、思わず肩をすくめた。
「完全にコントロールできるわけじゃないんだ。集中しきっていれば別だけど」
「分かってる。わたしだって拡大症の患者よ」
そうだった。症状の制御に関して、僕は誰よりも安定しているという話だ。
その僕でさえ、たまにこういうことがある。
だったら、梓は――
ようやく手を下ろすと、僕はポケットに手を入れた。梓は、僕の全身をくまなく観察している。いや、警戒している。
無理もないか。僕は気づかれないよう、そっとため息をついた。
「梓は」ぽつりと言った。「ここから出てみようとか、思わないの?」
「どうして?」
「外にも、楽しいことはある」
「そういうことが訊きたいんじゃない。どうして今さら、そんなことを言うの?」
理由は分かっている。でも言えない。巫部のことを知ったと、知られてはならない。
だから僕は沈黙を貫いた。駄目だ。少なくとも、今はまだ。
瞑目する。一秒、二秒。瞼を上げる。
微笑みかけた。
「また、土曜日に来るよ」
お土産を持って、と言い足し、部屋を出た。ドアにもたれかかる。
幸い、ロックの音は聞こえてこなかった。
五月最後の土曜日、僕は先週と同じく第八号棟に向かった。初夏らしく軽く汗ばむほどの日が続く中、季節が一ヶ月ほど戻ったかのような気温だった。
ホームルームが長引いたせいで、お土産を買う時間もなかった。食べ物で釣ろうとしたわけではないけれど、梓には悪いことをしてしまったし、お詫びの品くらいは、と思っていたのだ。
でも、それはまた次の週になりそうだった。
さも「関係者ですよ」という顔をしつつ、搬入用通路からエレベータに乗り、地下に移動する。乗っている時間から、第八号棟がそんなに浅くないことが分かるけど、実際のところどれくらいの深度にあるのだろうか。
相変わらず、通路に人影は見えない。僕みたいに、検査で移動中という患者がいてもおかしくないはずだけど……。時間帯の問題だろうか。
新留さんの部屋に行き、検査スケジュールを聞く。一応、今日で一通りの検査は終わりらしい。あとはデータを分析して、その結果を見てからとのことだ。
「結果が出るまで少しかかるから、来週は来なくても大丈夫かもね」検査の合間に、新留さんが言った。
「定期的に診断とか、しなくていいんですか?」
「ほかの病気なら、いろいろすることはあるけどね。瀬畑君の場合、どこの病院でも受けられる検査なら、わざわざここに来てまで受ける必要はないよ」
「そんなものですか」
「だって、熱が出て薬が欲しいっていうとき、ここは遠すぎるでしょ?」
「そうですね」
拡大症が関わらない範囲で病院に用事があるのなら、手近で済ませて良いということなのだろう。第八号棟の地上部分、時任病院は信用できる総合病院だけど、風邪を引いた程度で来るようなところじゃない。近くの内科で充分だ。
雑談を終え、検査を再開する。立体迷路のミニチュアを目隠しで攻略するという内容だ。透過触覚の効果範囲は既に十メートルと分かっているから、それ以下の道のりでゴールできるようになっているはず。
最短距離を探りながら進んでいたところで、甲高い電子音が響いた。思わず迷路から手を離し、目隠しをずらす。
新留さんが「やべっ」的な顔をしながら、PHSを取り出しているところだった。……病院内ではせめてマナーモードにしましょうよ。
検査助手というのか、機器類をチェックしていた女性の看護師さんと目が合う。通話を始めた新留さんを横目に、お互いに苦笑。すぐそばで電話されては、検査どころじゃない。一時中断だ。
「ええ、うん。何? え? 遅延聴音《ディレイヒア》が出た? どこの……ああ、あのときのか」音高く舌打ち。「分かった。診に行く。部屋にいるわけね? オーケィ。……その辺の判断は上に訊かないと。うん。じゃあ」通話を切ると、新留さんは僕たちのほうを振り向いた。「ごめん、ちょっと出るから、続けてて。終わったら、瀬畑君は部屋に戻ってていいよ」
「何があったんですか?」
「ちょっとね。じゃあ、頼んだよ」
新留さんは慌ただしく出ていった。何が何だか分からない。
看護師さんを見ると、彼女は少し眉を顰めていた。会話の内容から、何があったか分かったらしい。
なんとなく訊ける雰囲気ではなかったので、僕は迷路の攻略を再開した。
電話のことが気になりながらも、集中すると進みは速く、十分ちょっとでゴールに辿り着いた。形式的な問診を受け、部屋に戻る。
時計を見ると、六時過ぎだった。いつもより遅い。検査内容のせいではなく、第八号棟に来るのが遅れたからだ。
食堂は既に開いている時間帯だけど、食事する気分にはならなかった。僕は電気も点けないままベッドに横たわり、目を瞑った。
少しうとうとしていたらしい。目を開けたときに時間を確認すると、三十分ほど経過していた。
梓はどうしているだろうか。ふと、それが気になった。先週もその前も、土曜日は検査が終わったらすぐ部屋に向かった。今日はどうしよう。今からじゃ遅いか……。
ノックもなしにドアが開いた。逆光の中に、細いシルエット。眼鏡のフレームが光っている。
「暗いなあ」新留さんだった。「寝てたの?」
「いえ……。どうしたんですか?」
「ちょっと話があるんだ。電気点けるよ」
新留さんが近づいてくる間に、僕はベッドの上で座り直した。彼女は通路の壁にもたれ、僕を見下ろす。
「突然だけど、明日、警察が来る」
「警察?」
「あ、犯罪が起きたとかそういうことじゃなくてね。いや、そうなんだけど、ここが現場っていうわけじゃない。犯人がいるっていうのでもないよ」
「なのになんでここに来るんですか? 僕が犯罪に関わったことなんて――」
フラッシュバック。
振り払う。
「……ないですけど」
「分かってるよ。ただ、瀬畑君に協力してもらいたいんだ」
「協力って、警察にですか?」
「そう。透過触覚が必要になった」
「待ってください。そりゃ、一般市民として警察に協力するのはいいですけど、拡大症のことは……」
「大丈夫。警察も知ってるから」
「え?」
どういうことだろう。国家機密だったんじゃ?
新留さんは反対側の壁にもたれかかる。
「実はね。第八号棟の患者のうち何人かは、これまで警察に協力したことがあるんだ。いくつか条件をクリアした子だけに限られるけど、一年で、そうだね、二回か三回くらいかな、捜査に関わってる」
「拡大症患者としてですか?」
「表向きは違うけど、実質的にはそうだね」
「どうしてそんな繋がりがあるんですか? 拡大症は秘密のはずでしょう?」
「それでも、知っている人は知っている。いくらなんでも、第八号棟の中だけの秘密にしておくことはできないよ。時任病院は国立だから、お金とか設備とかの面で、国に頼らなきゃやっていけない部分があるからね」新留さんは天井を仰ぎ見て、「政府の一部は当然として、警察のトップも極秘事項として何人かは知ってるはずだよ。具体的な人数や人名までは分からないけど」
「……まさか」自分の声が低くなるのを感じた。「お金とかの支援と引き替えに、患者を警察に協力させるような決まりがあったりしませんよね」
言葉による答えはなかった。新留さんの態度も変わらない。
その変化のなさが、何よりも雄弁な答えだった。僕は目つきを絞る。
「僕たちは患者ですよ」
「分かってる」新留さんはため息をついた。「ごめん。そんな決まりを作ったのはわたしじゃないけど、協力要請を断れないのはわたしの責任だから、謝らせてもらうよ」
「どうしてそんな決まりができたんですか?」後半を無視して尋ねた。
「要するに、有用だと思ってるんだよ。最初に言ったと思うけど、感覚拡大症は患者の負担を考慮しなければ超能力も同然だからね」
「無責任じゃないですか」
「そうだよ。大人の判断ってやつ」
「無理矢理連れ出されて、状態が悪化したらどうするんですか?」
「いや、強引に協力させることはないよ。患者にも拒否権はある。断る機会も与えずに連れ出すことはしない」
「でも、拒否したら事件が……」解決できないんじゃ、と言おうとする。
「それは考えなくていい」新留さんはきっぱりと言った。「病気で苦しんでる人を連れ出さないと、事件を解決できないって思い込んでる警察が悪いんだから」
確かにそうだ。患者が捜査協力するのが年に三回くらいというのが事実なら、九分九厘の事件は警察が独力で解決していることになる。だったら、断ってもたいして問題ないはずだ。意外と、あっさり解決してしまうかもしれない。
でも。
九十九件までは警察だけで解決できるとしても、百件目は拡大症患者の症状が必要かもしれない。患者でなければ解決できないかもしれない。
もし、僕が協力しないことで、誰かが被害を受けるとしたら?
僕が協力すれば助かったはずの人が、死んでしまったとしたら?
それでも僕は、「患者だから協力できない」と言い張るのだろうか。
そう、主張できるのだろうか。
ノイズ混じりの記憶が浮上する。十年以上前。ディテールが分からない灰色の景色。
僕の原風景。
魂の囚人。
死にかけている子供。
あの光景に、救いの手を差し伸べられるとしたら。
僕は――
午後十時を過ぎて、僕は梓の部屋を訪れた。入院患者の病室に行くには非常識な時間だけど、夜の来訪は初めてではないし、あらかじめ篠原さんからメールを送ってもらっているので、彼女も起きているはずだ。
唯一の懸念は、先週の別れ際のこと。
メールを受け取っていても、ドアを開けてくれない可能性はある。
僕は、ロックの音が聞こえてこなかった事実に頼ることにした。あのまま、このドアが僕に対して開かれていることを願った。
ノブを握り、ままよとばかりに回す。
果たして。
ドアは、応じてくれた。
周りの病室では既に寝ている人がいるかもしれないので、静かに入る。暗い。一瞬、単に鍵をかけ忘れただけという可能性が脳裏をよぎったけれど、薄闇の中、椅子に座って僕を待つ人影を見て、思わず安堵のため息をついた。
光源は、廊下の常夜灯しかない。そのため、梓の上半身はほとんど影と同化していた。見えるのは、相変わらず制服っぽいスカートと二本の脚だけだ。
僕は短い通路を進み、部屋に一歩入ったところで止まった。今の僕たちには、これくらいの距離がちょうど良い。
少しの間、無言。
「何の用?」やがて、梓から沈黙を破った。
「二つ、言っておきたいことがあって」努めてゆっくりと発音する。
「長くなるなら、明日にしてほしいんだけど」
「無理なんだ。明日、早い時間帯に出ないといけない。一つ目の話はそれでね。――警察に協力することにした」
気配が少し変わった。梓なら、ここの患者が捜査協力することがあると知っているだろう。それを条件に、第八号棟が成立していることも。
だから、
「本気で?」
こう言われることも、なんとなく予想できていた。
「もう決めた。危険なことじゃ全然ないみたいだし、大勢の前でやらなきゃいけないわけでもないらしいし」だんだんと早口になるのを自覚する。
「どうして、それをわたしに言いに来たの?」
「会っておきたかったんだ。明日も会えないし、先週のことで、その、気になってたし」
あのことを自分から蒸し返す僕は、もしかすると馬鹿なのかもしれない。でも、避けてはいけないことだ。それだけは確信としてある。
「……二つ目の話は」硬い声ながらも、梓は会話を続けてくれた。
「こっちは少し長くなる。面白い話でもないけど、梓には聞いておいてもらいたい」
「何を?」
「僕の――」唾を飲み込む。「ルーツ」
「それもどうして?」
「僕のことを、知ってほしいから」
捜査に協力することを決めたとき、話そうと決心した。迷いを残したままでは、何もできないと思ったから。
先週からずっと、梓に対するわだかまりを感じていた。それは、彼女に対して透過触覚を使ってしまった負い目だと思っていたけど、そうじゃなかった。
一方的に過去を知ったこと。それに、罪悪感を抱いていたのだ。
梓にとって、拡大症患者であること以外のストレス。心の枷。梓が自分の家にどういう感情を持っているか、正確なところは分からないけど、名字に触れられることを嫌っているところから想像はつく。
僕はそれを知ってしまった。僕が知ったことを梓は知らないとしても、このままではイーヴンにならない。
それに――あのことを話さない限り、梓から線を引かれ続けるだけだ。
拡大症患者と、そうでない人間という。
僕は、自分が普通じゃないことを知っている。それこそ、肌で感じている。でも、それが表面に出にくい。強い制御と、軽い抵抗。症状をかなりのレベルでコントロールできていても、その事実そのものが僕の異常性を示しているように感じられる。
それでも。
通院患者の僕は、たぶん彼女からすれば、ここの患者らしからぬ人間なのだと思う。外の世界を知っている、というだけじゃない。症状の制御力。極めて軽いストレス。あんなゴーグルで抑制しなくても、日常生活に支障をきたさない。
僕にも、拡大症に由来する不具合がないわけじゃない。他人との接触に対する忌避感。狭くて閉じた空間に対する嫌悪。だけど、我慢できないほどでないことは、入院せずに済んでいるという事実が証明している。僕がどう感じているかは、この際、問題じゃない。
だとすれば、拡大症患者としてのアイデンティティを共有するにはどうするか――
方法は、一つしかない。
露悪的だな、と自分でも思う。あるいは自虐的なのか。
トラウマをさらけ出して、他人に手を差し伸べる。
傷の舐め合い。
不幸同盟。
だけど。
(僕たちは、感覚拡大症の患者なんだ)
それを認めなければならない。
あの過去があるから、僕が今ここにいるということも。梓はまた少し沈黙した。僕はただ、待ち続ける。拒絶されてなお強いることは、僕にはできない。
そんなことは知りたくもないと言われたら、潔く去ろう。そして、もう会わないでおこう。それが、僕なりのけじめだ。
やがて、息を吸う音。
「話して」短い促し。
僕は頷いた。見えないかもしれないけれど。
呼吸。
記憶が飛翔する。あるいは沈んでいく。
深くて暗い、暗黒の中に。
「十年以上前のことだけど」感情を抑制し、語った。「僕は、誘拐されたんだ――」
小学校に上がりたてのころだったかな。一年のころか二年のときか、そこらへんからあやふやでね。三年生になってなかったのは分かる。学年が変わるとき、引っ越したんだ。事件のせいだったのかもしれない。父親の転勤だって聞かされてるけど。
僕の家は、お金持ちってほどじゃないけどそれなりに裕福だった。特に家は、子供の僕でも分かるくらい立派でね。庭があって、そこでバーベキューしたり、テントを張って寝たりしたこともある。両親が好きなんだ、そういうの。
犯人はそれを見ていたのかもしれない。そのとき住んでいたあたりで、うちより大きな家はなかったんだ。同じくらいのは何軒かあったけど、たぶん、一番お金持ちそうに見えたのはうちだったと思う。庭も手入れをしっかりしてたし。あと、両親がおっとりした性格で、それがなんとなく上流階級な感じだったのかな。よく分からないけど。
目をつけられた原因はどうあれ、そのときの瀬畑家は誘拐犯のターゲットに決められた。人質はもちろん僕だ。一人っ子だからね。登下校のルートがクラスの子と少し離れていたから、誘拐しやすかったっていうのもあると思う。
季節は秋だった。夜になると少し冷えるくらいの時季だ。昼間は動き回ると暑いから、僕は半袖で過ごしていた。変な話で、何を着ていたかは憶えてるんだ。おかしいでしょ?
僕は学校帰りに、クルマで連れ去られた。車内で縛られて目隠しもされたから、どこに連れて行かれたかは知らない。いまだに分からないんだ。僕は解放されるまで、ずっと目隠しされたままだったから。
気がつくと、ソファか何かに寝かされていた。そのときには既に、拘束衣を着せられていた。
あ、知らないかな。囚人とかパニック状態の患者なんかに使うやつでね。寝袋みたいになってて、首まで完全に包まれる。場合によっては、上からさらにベルトで縛られることもあるらしいよ。
実際、僕は最終的にそうされた。椅子に縛り付けられたんだ。まあ、さんざん暴れたからね。自分で言うのもどうかと思うけど、子供が暴れたら手に負えない。身動きさせないようにしておくのが、犯人にとっては一番楽だったんだ。
椅子に固定されてから少しして、ヘッドホンをかぶせられた。会話内容を聞かれないようにするためじゃないかって、あとで警察の人が話してたのを聞いたことがある。ヘッドホンからはノイズみたいな音がずっと流れていて、僕が聞けるのはそれだけしかなかった。
そうそう、口はもちろん――というのかな――塞がれてたよ。布か何かをくわえさせられた。噛み切ろうとしたけど、さすがに無理だったね。
その状態で、僕はしばらく放置された。
文字どおり放置だったよ。話しかけられることはなかったし、まああってもヘッドホンで聞こえなかっただろうけど、憶えてる限り食事も与えられなかった。もしかしたら、記憶が飛んでいる間に何か食べさせられたかもしれないけど。あと、さっきも言ったように目隠しはされたままだった。ずっと。
新しい刺激が与えられないでいると、時間の感覚が曖昧になる。そのあとは、『自分』っていうものが分からなくなる。夢か現実か見分けがつかなくなるってレベルじゃない。自分が生きてるかどうかさえ、ぼんやりしてくるんだ。
子供でも、それが分かった。子供だったから、なのかな? 僕は直感的に、このままじゃ死ぬって思った。でも、どうしようもなかった。身動きできなかったんだ。大切な何かが、心の中から少しずつ削られていく気がした。
もしかすると、それが記憶だったのかもしれない。そういうものを犠牲にすることで、僕は僕のまま生きていられたのかもしれない。
だけど、そのときの僕は、自分が死にかけてるってことがたまらなく怖かった。怖いっていうか、嫌だったのかな。本能的に受け付けないって感じ。
死を遠ざけたい僕に必要だったのは、自分がここにいるっていう実感だった。そのために、何かに触れたいと思った。でも、いくら手を動かしても、触れるのは拘束衣の裏地だけだった。大袈裟に言うと、僕はそのとき、世界と断絶していたんだ。
僕は必死に願った。何かに触りたい。何かに触れたい。自分はここにいる、この世界でまだ生きてるっていう確かな感触が欲しいって。死にたくない――ってね。
……気がついたときには、僕の『触覚』は普通じゃなくなっていた。拘束衣や自分の躰を通して、離れたところを触れるようになっていたんだ。
見えない指先で、木の椅子を撫でた。
遠く離れた掌が、コンクリートの床を掴んだ。
不思議と、自分がおかしくなったとは考えなかった。もちろん、そのときは感覚拡大症なんて知らなかったけど、それがそういうものだっていうことはなんとなく分かった。
分かった瞬間、それは知られちゃいけないものだって悟った。だから僕は、犯人に気づかれないように、慎重に振る舞った。まあ、拉致監禁中の人質なんだから、身動きしたって怪しまれることはなかったと思うけど。
僕は新しく得たその触覚に縋《すが》って、なんとか生き延びることができた。大袈裟じゃなくてね。あのときに『発症』していなかったら、今ごろここにはいないと思う。
監禁中の記憶はそこまでだ。次に目覚めたとき、僕は病院のベッドで寝ていた。事件は結局、犯人逮捕で解決したらしい。どういう流れでそうなったのかは知らない。あの庭のある家を手放して家族で街を出たのは、そのすぐあとのことだった……。
話を終えても、しばらくはどちらも口を開かなかった。喋っている間は気にならなかった、夜に特有のノイズが耳にうるさい。
梓は影の一部と化している。彼女から見た僕はどうだろうか。逆光に、シルエットだけが際立っているかもしれない。
亡霊のように。
いや、そのものか。過去というゴーストを放出した直後だ。僕にそれがまとわりついているとしても、おかしくはない。
だけど、それなら、梓も同じかもしれないと思った。
巫部という姓を、話題にすることすら嫌う梓もまた、過去から抜け出せていないのかもしれないと。
そんなことを、考えた。
「……分かったわ」たっぷり一分以上は沈黙を続けたあと、梓は囁いた。「話が終わりなら、今夜はもう出ていって。寝るから」
「……そうするよ」
踵を返す。彼女の声からは、僕に対する判断は見えなかった。
ただ、背中をじっと追ってくる視線は感じていた。
錯覚か、それとも――
どちらであるかは、次に会ったときに分かるはずだ。
第三話 「透過触覚」
ゆびさきがとおる
五月最後の日曜日は、先週と同じく第八号棟で迎えた。午前七時過ぎ。食堂に行くと、篠原さんがいた。いつもどおり、人好きのする微笑。だけど今は、少し翳《かげ》りが見えた。
「おはよう」トレイを受け取って座ったところで、彼が言った。
「おはようございます」
「例の件、受けてくれてありがとう。それと……すまないね」
断ることができるとはいえ、患者が捜査協力しなければならない制度には篠原さんも忸怩《じくじ》たる思いがあるのだろう。目を伏せる姿は、ジレンマに苦しんでいるように見えた。
気の毒には思うけど、同情はできなかった。実際に協力させられる立場からすれば、新留さんや篠原さん個人が悪いわけではないと分かっていても、割り切れるものじゃない。
僕はちまちまと食事を続けながら、篠原さんの顔を何度か盗み見た。
「そういえば……」ふと気づいたことがあったので、疑問を投げかけてみる。「篠原さんのほかに、警察の人が一人つくそうですけど、その人の前で拡大症っぽいことをしてもいいんですか?」
警察に協力することになった患者には、医者が同行することになっている。今回、それは篠原さんの役割になった。僕の主治医は新留さんなので、彼女と一緒に行くのが自然だと思うけれど……。何か事情があるのだろうか。
僕の疑問に、篠原さんは頷いた。
「大丈夫。その人は拡大症のことを知っているからね。僕の個人的な知り合いで――紗織先生じゃなくて僕が行くのはそういう事情もあるんだけど――、打ち明けたことがあるんだ」
「いいんですか? 知り合いに喋っても……」
「ちゃんと許可は取ったから問題ないよ。実は警察に協力しなきゃいけないなら、現場にも拡大症のことを知っている人がいないとまずいんだ。だから、審査に合格した人だけは、全員ってわけじゃないけど拡大症について情報が与えられている。人数は少ないけどね」
なるほど。国家機密といっても、上層部のごく限られた人だけが知っているわけではないらしい。秘密というのは、それを知っている人が少ないほど機密性が保たれるものだけど、だからといって過剰に隠匿していたらどこかでボロが出てしまう。そのための安全弁といったところか。
食事を終えると、新留さんの部屋に行って少し話をした。といっても、捜査協力が終わったら一度戻って簡単な検査をする、というようなことを言われただけだ。僕は着の身着のままで、篠原さんと一緒にエレベータに乗った。
搬入用通路を抜けて、地下駐車場に出る。すぐ近くに停められたクルマの横に、一人の男性が立っていた。
年齢的には中年だけど、体格はがっしりしている。目つきも鋭い。いかにも現場の人といった様子だ。ネクタイを緩めたスーツ姿で、僕たちを待ち受けていた。
「お久しぶりです、入戸野《にっとの》警部」歩み寄りながら、篠原さんが言った。
「半年ぶりくらいか」入戸野と呼ばれた男性は、低い声で応じた。僕を見て、「で、この子が今回の?」
「ええ。瀬畑明珠君です」
入戸野さんは一瞬、睨むように僕を見据えた。さすがに迫力がある。目を逸らそうにも、それを許さない強さを感じた。
だけどすぐに、彼は表情を和らげた。
「悪いな、瀬畑君。無理を言ってすまない」実直な口調だった。
「あ、いえ……」
「問題を感じたらすぐに言ってくれ。来てもらっていながら言うのも何だが、最悪、警察の力だけでもどうにかなる事件なんだ。無理をする必要はない。いいかな」
「はい」
入戸野さんのクルマに乗り込んだ。篠原さんが助手席、僕は後ろだ。スムーズな運転で地下駐車場を出ると、灰色の天井が覆い被さってきた。
ぽつぽつと言葉を交わす二人を見ながら、僕は事件について知った情報を整理することにした。
発端は、昨日、一人の患者の症状が発現してしまったことだった。新留さんが担当する患者の一人で、詳しくは知らないけど、『過去の音が聞こえる』という聴覚拡大症だそうだ。それによって、『埋められた死体』の存在が発覚したらしい。
その症状は場所も特定できるらしく、新留さんは専用のルートを使って警察に通報した。すると、しばらくして見えない場所を探れる患者を警察に協力させるよう、病院の上層部から指示された。
というのも、そこが個人の邸宅になっていて、死体を探すためにあちこち掘り返されるのを家主が嫌がったからだ。職人を呼んで整えた庭園があり、それがぐちゃぐちゃにされるのが耐えられないという。
警察は、機材を使えば掘り返す場所を限定できると主張したものの、大勢で庭を踏み荒らされることに変わりはないだろうと反論された。一方、警察は警察で引き下がるわけにはいかない。どうも、その死体というのが行方不明者の一人である可能性も考えられるらしい。
そこで、庭に入らなくても地中を調べられる僕にお鉢が回ってきた、というわけだ。
確かに、壁の中や地面の下を探るのに、透過触覚はうってつけだ。でも、対象が死体というのはどうなんだろう。僕の拡大症は触覚だから、探すものに触れる必要がある。
生物の成れの果てに触る。拡大症患者であることを除けばただの高校生に過ぎない僕には、それを想像して平静でいることはできなかった。
「瀬畑君」
考え事をしていると、ハンドルを握る入戸野さんが声をかけてきた。
「はい?」
「君は、ゴールデンウィークに起きたトンネル事故に巻き込まれたそうだね」
「ええ」
「あれが事故ではなかった可能性がある、という話は?」
「聞いてます。爆発物の痕跡があったとか」
「分析の結果、事件であることが確定した。どうもテログループの犯行らしい。以前から追っていた連中でね。トンネル事件が失敗したからか、このごろ不審な動きも見られるから、これを機に逮捕できそうだ」
「それは良かったですね」
「ああ。だが……」信号で止まったところで、彼は少し言葉を切った。「おかしな点があるんだ」
「何です?」
「トンネルを封鎖したのがそのグループだとすると、目的が分からない。爆弾の製造ルートからして、そのグループがやったことであるのはほぼ間違いないんだが」
「犯行声明っていうんですかね、そういうのはなかったんですか?」
「なかった。だから問題なんだ」
「トンネルを封鎖すること自体が目的だった可能性は?」篠原さんが話に入る。
「ゼロとは言えないが、考えにくい。あの道を封じたところで、あまり意味がないからな。山を迂回するルートがあるし、電車も使える」
「どういうことでしょうか」
「まあ、分からないことはグループを逮捕してから連中に訊けばいい。とにかく、そういう結果になったということだけ、当事者の君には伝えておこうと思ってね」
「分かりました」
たぶん、普通は当事者に対してもこんな情報を与えないんだろうな、と思う。僕に話してくれたのは、拡大症患者として捜査協力させることに対して負い目があるからだろうか。そんなことを考えた。
患者の捜査協力が拡大症の秘密を守る条件の一つになっているということは、警察の人間がそれに関わっているのは当然だ。だからそのことを知ったとき、警察に対して良い感情は抱けなかった。
でも、入戸野さんは信用できそうだ。都市部を出て郊外に抜けたとき、僕はそう思った。
三十分ほどクルマで移動し、目的地に辿り着いた。田園に囲まれた、ドラマに出てきそうな和風の屋敷だ。漆喰の塀と正門の上が、瓦葺《かわらぶ》きになっている。クルマのまま乗り入れられそうな正門の横に、人間用の小さい(といっても普通の大きさだけど)通用口。
入戸野さんは出入りを妨げない位置に駐車し、クルマから出た。僕と篠原さんも倣う。まだ十時にもなっていないとはいえ、五月末にしては涼しい。肌寒いほどだ。靴底を通して感じる土の感触が、こんな郊外に来ることのない僕には新鮮だった。
通用口の横にインターフォンがあった。入戸野さんがそれを押す。
『はい』若い女性と思われる声が聞こえた。
「朝早くに失礼します。ご連絡した警察の者です」
『ああ、はいはい。伺っております。横のドアからお入りください』
ロックはされていないらしい。僕たち三人は、通用口を開けて中に入った。
綺麗に整えられた砂利の中に、飛び石が連なっている。緩くカーブする飛び石の先、十メートルほど先に玄関が見えた。左手は木が多く、建物の壁もほとんど見えない。一方、右手の木は塀に沿って植えられているだけで、あとは広く見渡せた。件《くだん》の庭だ。
見事な庭園だった。様式が分かるほど僕は庭に詳しくないけれど、石灯籠の配置バランスや砂利の敷き方など、ちゃんと計算されていそうだ。中央には、中で鯉が泳いでいなければならないような池があった。
飛び石は途中から庭のほうに枝分かれしていて、庭に面した濡れ縁に続いている。示し合わせたように三人がそこで立ち止まっていると、玄関が開く音が聞こえた。
地味な服装の上にエプロンを身につけた、二十代と思われる女性だった。インターフォンの人だろうか。目鼻立ちは整っていて、髪を後ろでアップにしている。
「おはようございます。庭をお調べするとか……」
「はい」入戸野さんが応じた。「ご協力いただき感謝します」
「先生のほうから言われていると思いますけど、なるべく庭を荒らさないでいただきたいのです」
「承知しております。ところで先生はご在宅では?」
「いえ、今日は朝早くからお出かけで」
「そうですか。分かりました。では早速、調べさせていただいても?」
「ええ、どうぞ。あ、お茶を淹れてきますね」
「お構いなく」入戸野さんは少し言葉を切って、「それと、昨日お願いした業者についてですが」
「ついさっき、先生からFAXが届きました。ご覧になります?」
「お願いします」軽く頭を下げてから、入戸野さんは振り向いた。小声で、「では、彼女と家の中にいる間に頼む」
「はい」
「ではこちらに」
入戸野さんと女性は、屋敷の中に入っていった。業者って何のことだろう。先生というのは、たぶん例の家主のことなのだろうけれど。
「業者って何の業者ですか?」篠原さんに訊いた。
「一年前にこの庭を工事した業者のことだよ」
「一年前?」
「例の聴覚拡大症の子の症状は、場所だけじゃなくて時間も分かるんだよ。それで、死体が埋められたのが一年前のここであることが特定できた」篠原さんは庭を見渡した。「見た感じ、この庭ができてから掘り返したとすれば、痕跡を消すことはできそうにない。だから死体を埋めたとすれば、庭が整備される前だ」
「そのための工事が、一年前に行われたってことですか」
「うん。それは昨日のうちに、この家の人に確認したらしいよ」
「じゃあ、死体を埋めた犯人は業者の人なんですか?」
「そこまでは僕には分からないけど、可能性はあるだろうね」篠原さんは頷き、わざわざ僕に顔を近づけ、「じゃあ、瀬畑君。今のうちに」耳打ちしてきた。
「そうですね」
僕は庭のほうに延びる飛び石を少し進み、しゃがみ込んだ。自分が踏んでいる石に掌を当て、目を瞑る。
接触に対する本能的な恐怖と嫌悪をねじ伏せ、触覚を浸透させる。
探すものは、それなりの大きさがある。だから、多少は大雑把でも見つけられるはずだった。明かりの消えた迷路を進むときのように、土の中で手を動かしていく。
なかなか見つけられないので、移動して同じことを繰り返した。
飛び石はそれほど長く続いていない。二回目の移動で、濡れ縁の近くまで来てしまった。ここで何も反応がなければ、砂利の部分に足を踏み入れることを考えなければならない。
ただ、それを許可なしにやって良いものか分からない。あの女性に訊いたところで、最終的に先生とやらの判断を仰ぐことになりそうな気がした。彼女がここの家主であれば別だけど、それはなさそうだし。
三度目の挑戦も、手応えなしで終わった。立ち上がり、どうしようかと考える。
「見つからないかい?」いつの間にか近づいてきていた篠原さんが言った。
「ええ。この飛び石からだと、どうしても限界がありますし」
「とはいえ、砂利のところに入っていいか分からないしねえ」
「どうしましょう」
先に、敷地内の庭以外のところを調べるべきだろうか。でも、死体が埋まっているとすればこの庭のどこかである気がした。一年前に工事があったそうだし、それを差し引いても、ほかの場所は木が多すぎる。小さいものならともかく、人間の躰みたいな大きな物体は埋められない。
工事中の庭なら、あちこち穴を掘ったはずだ。夜中にでも忍び込んで埋めてしまえば、あとは業者が勝手に土をかけてくれる。犯人がそう考えるのは、自然なことのように思えた。
だとすると、探すべきはやっぱり庭ということになる。何とかして、砂利を乱さず踏み入ることはできないだろうか。
ふと、自分がやたらと真剣になっていることに気づいた。内心で、少し苦笑する。患者として協力するのに消極的だった瀬畑明珠は、どこに行ったのだろう。
たぶん、拡大症で人を助けられることを嬉しがっている自分が、どこかにいるのだろう。拡大症のことを知る前から失せ物探しなんかはやっていたけれど、拡大症のことをオープンにしていたわけではなかった。
今回は違う。最初から、拡大症患者として協力を求められた。この、僕にとってはどちらかというと厄介だった『見えない手』に、プラスの役割が与えられたのだ。
だから、報いようとする気持ちが生まれているのだと思う。患者なのに使われていることに対する不満や義憤が消えたわけではないけれど――
(やれることがあるなら、やっておこう)
立派な庭園を眺めながら、少しだけ積極的になることにした。
濡れ縁に面した障子が開いたのは、そんなときだった。現れたのは入戸野さんと、あの女性だ。入戸野さんは、何か紙束を抱えている。
「どうだった?」彼は僕をまっすぐに見た。
「まだです。庭のどこかだとは思うんですけど」
「ふむ……」
「それは?」篠原さんが、入戸野さんの手元を見ながら言った。
「工事をしたときの簡単な図面だ。どこにどう手を入れたか書いてある。コピィを保管しておいてもらって助かった」
工事のときの図面。その言葉で、僕は何か掴めた気がした。
「ちょっと見せてくれますか?」
「ん? 構わないが……」
図面を受け取り、眺める。池の形や石の配置などに並んで、外周部の木々についても描かれている。
僕は女性を見上げた。
「あの、塀のそばにある木も、工事のときに植えたんですか?」
「えっと、はい、そうです。もともと別荘にあったものだと聞いています」
「ということは、あのあたりも全部掘り返したんですね?」
「はい」
「なるほど……」
僕は図面を返すと、飛び石を戻った。通用口のほうに向かう。
後ろから、篠原さんが追ってきた。
「瀬畑君、何か分かった?」
「確信があるわけじゃないですけど」
通用口をくぐり、道路に出る。道路といっても、クルマの通りは皆無に等しい土の道だ。左側、つまり庭があるほうの塀に沿って少し移動し、地面に触れる。
予想が正しければ、ここからなら見つけられるはずだ。僕は視界を閉ざし、触覚に集中した。脳裏に浮かぶ暗黒のイメージが、透過触覚に従って少しずつ削られていく。
大質量の土に挑むこと数分。僕は、透過触覚の範囲内であるにも拘わらず『手』を延ばせなくなった。つまり、その先に隙間があるということだ。そこを中心に、周辺をなぞっていく。
やがて僕の指に届いたのは、土とは明らかに異なる感触だった。ざらざらしている。表面を探ると、細長い物体であることが分かった。両端は少し膨らんでいて、さらに同じ感触が続いている。
少しの間、それが何か分からなかった。けれどすぐに、正体は判明した。
骨だ。
白骨化した遺体が、土と砂利と木を頭上に抱え、暗闇に横たわっていた。
一時間後、僕は再び入戸野さんが運転するクルマの後部座席に腰を沈めていた。あの屋敷には随分長くいたように感じていたけれど、ダッシュボードの時計が示しているのはまだ昼前の時刻だった。
白骨を発見したあと、僕は入戸野さんにその位置を伝えた。あらかじめ待機していたのか、彼が連絡すると十分ほどで捜査員が押し寄せてきた。それからは、あの女性に家主の先生と連絡を取ってもらったり地面を掘り返す準備をしたりと忙しくなり、入戸野さんはもちろん、僕も篠原さんもその場を離れられなかった。
現場での指示を終え、入戸野さんがひとまず役目を終えたのはほんの十分ほど前のことだ。今は、時任病院に戻っているところである。
市内に入り、コンクリートのビルが見え始めた。あの屋敷の周辺とは、景色が全然違う。まるで、異世界に旅してきたような感じだ。異世界に行ったことはないけれど。
それにしても、思ったより疲れた。やったことは第八号棟での検査と同じなのに、どうしてこんなに違うのだろう。見つけたのが白骨だから? でも、それにショックを受けている自覚はない。透過触覚で人の骨に触れたとはいえ、実物は見ていないから、リアリティがないのである。
結局のところ、透過触覚を誰かのために使うという気負いがあったからなのだろう。拡大症の患者であると自覚して初めて、人助けをしたのだ。誰しも初陣は緊張するものだし。
「瀬畑君」
ぼんやりしていると、入戸野さんが名前を呼んだ。
「何ですか?」
「今回は助かった。ありがとう」
「いえ……」ゆるゆるとかぶりを振った。「僕にとっても、悪いことばかりじゃなかったですし」
「そうか?」
「ええ」
入戸野さんは、詳しく訊こうとしなかった。僕も、答えるつもりはない。症状を役立てることに対するポジティブな感情は、まだほんのかすかなものだ。口に出せば、あっという間に消えてしまうほどに。
「ところで、庭の外側を探したのは見当がついていたからだったのかい?」助手席から篠原さんが言った。
「ええ、まあ」
「図面を見て何か考えついたみたいだったけど」
「ちょっと、犯人のつもりで考えてみたんです。犯人が工事について多少でも知っている人だとしての話ですけど……、見つけてほしくないものを埋めるとしたら、どこにするかって」僕は窓の外を眺めながら、「何かを隠すには、誰も調べないところがベストですよね。その点、あの庭はほとんど全部がその条件を満たしていました。だから、あくまで『見つけられないようにする』ことだけに配慮するなら、庭の中のどこでも良かったんです」
「でも違った?」
「あくまで想像ですけど……、たとえば、死体を入れた棺をまたいだり、墓石の上に乗ったりすることを、ためらいなくできますか? たぶんほとんどの人は、本能的にできないと思うんです。死者の尊厳を損なうから、というのも理由の一つではあるんでしょうけど、それよりも原始的で自然な感情が、『足の下に死体がある』ことを拒絶するんじゃないでしょうか」
「その感情というのは?」入戸野さんが低い声で言った。
「恐怖です」僕は短く答えた。「今でも、幽霊を完全に否定しきっている人って少ないんですよね。肝試しとかしますし。仮に、そういう霊的なことを無視したとしても、死体そのものに対する恐怖というのはあると思うんです」
「確かに」入戸野さんが頷いた。「警察の中でも、新人は死体を見たときの反応が大きい。まして今回の事件、殺したのと埋めたのが同一人物だとすれば、死体を生んだのは犯人自身だ。……ん? ああ、なるほど。だからか……」
「なるほどって何が?」篠原さんが言った。
「埋めたのは、死体を見たくなかったからなんだろうな、と思っただけだ。発見されるのを恐れたというより、自分が見たくなかったから埋めたんだ」
「僕もそう思います。でも、ただ埋めただけでは自分がその上を歩き回ることになってしまう。埋めたのは、工事の途中だったはずですから。そうならないようにするためには、歩けない場所に埋めるしかありません。たとえば、木が植えられたところとか」
「なるほどね。木があるところなら、そもそも歩けないからね。砂利を敷いてしまえば、近づくこともないし」
篠原さんが納得したところで、話は終わった。あとは無言のまま、時任病院に着いた。
地下駐車場で僕たちを降ろすと、入戸野さんは現場に取って返した。忙しくなるのは、むしろこれからだろう。彼を見送ると、僕と篠原さんはエレベータで第八号棟に下りた。
篠原さんは自分の、僕は新留さんの部屋に向かった。僕は簡単に問診を受けて終わり。精神的に疲れていることを見抜かれたものの、それ以外は特に不調もない。いつもの検査もないし、あとは帰るだけだ。
そう思っていたのに、気がつくと、僕は仮眠室でもエレベータでもないところに向かっていた。既に足が憶えている感じだ。第八号棟は基本的にどこも静かだけど、このあたりは音のなさが――気配の希薄さが際立っている。
入院患者の病室が集まった区画。
等間隔に並ぶドアの一つを前にして、僕は自分が何をしに来たのか自問した。謝りに? 捜査に協力した結果を報告しに? どちらも違う。お土産――はそもそも持っていない。
考えるふりをしてみたものの、答えは最初から決まっていた。
会いに来た。それだけだ。
控えめにノックをする。はい、とかすかな声。
「瀬畑だけど」
――誰?
「いや、瀬畑明珠だけど……」誰って。
沈黙。もしかして名前を思い出しているところなのだろうか。僕の名前、そんなに印象薄いかな? 確かに、名字を言ったのは最初だけだったけど……。
微妙にショックを受けていると、ドアが物凄い勢いで開いた。立っていたのは、もちろん梓だ。
そのはずだけど、僕は一瞬、確信を持てなかった。
素顔をさらした[#「素顔をさらした」に傍点]その少女が、ゴーグルをつけた彼女と同一人物だと。
初めて見るはずのその顔は、けれどどういうわけか以前に一度見ている気がした。そこで思い出す。そう、僕は先週、透過触覚で梓のゴーグルの下をなぞったのだ。だから、大体の形を知っていた。
気づくと同時に、目の前の少女と僕が知る巫部梓が急速に結びついていく。間違いない。これが、彼女の素顔なのだ。
吊り目気味の真っ黒な双眸。すっと通った鼻梁。顔の下半分は何度も見ていたけれど、改めて眺めると全体的にも整った顔立ちをしていた。
だけど、どうしてゴーグルを外しているのだろう。僕は今さら、そんな疑問を抱いた。
「梓……」思わず、彼女の名前を呼ぶ。
軽く混乱したまま立っていると、梓は僕の手首を掴んだ。ずるずると引きずり込まれる。接触、特に人体とのそれを嫌う僕も、いきなりの出来事に拒絶反応が出る間もなかった。
部屋に入ったところで、手が離れる。ほっと息をつく間もなく、梓が顔を寄せてきた。近い。反射的にのけぞる。
「大丈夫だった?」彼女はいきなり言った。
「え? 何が?」
「だから……、外に出たんでしょう? 警察に協力とかいって。何ともなかったの?」
「あ、いや……」
白骨死体を見つけた、と言おうとしてためらった。死体の話をしても仕方ない。というか、そういうことを訊いているんじゃないはずだ。
特に何もなかった。そう言いかける寸前に、梓の目がさらに吊り上がった。
「死体を見つけた……?」
「は?」なんでそれを?
「どういうこと? 危険じゃないって言ってたでしょ?」
「言ったけど――って、いや、そうじゃなくて」
「やっぱり嘘だったの?」だんだんと、梓が近寄ってくる。なんで僕が問い詰められているんだろう。
「あの、だから」
「死体が出てくるなんて聞いてないわ。何を考えてるのよ、警察は。もしものことがあったらどうするつも」
り、と言おうとしたのだろう。でも、口にする前に、梓は止まった。はっと何かに気づいた様子で身を離し、慌てて背を向ける。
その変貌ぶりを、僕は呆然と見ていた。何が何だか。
梓が何やらぶつぶつ呟き始めたので、僕はようやく冷静さを取り戻すことができた。いくつもの疑問が浮かんでくる。
そもそも、梓はどうしてあんなに取り乱していたのだろう。それに、何も言っていないのに僕が死体を見つけたことを知りえたのは……。
交わした言葉を思い返していくと、一つ目の疑問の答えは分かった気がした。それが正解なら――凄く、嬉しい。
違っていたとしても、素顔を見せてくれただけで満足だ。許された、という気がして。透過触覚を一方的に使ってしまったことと――僕が、梓の近くにいることを。
僕は思わず微笑んで、自分から間を詰めた。
「心配してくれてたの?」
物凄い勢いで振り向かれた。
上目遣いに睨んでくる。それだけなら怖いけど、頬の赤が僕の笑みを深めた。
「なんで笑ってるの?」恨みがましい声で言われた。
「いや、嬉しかったから」素直に答える。
「違う、別に心配してたわけじゃないわ。ただ、危険がないなんて言ってたのに何かあったら、嘘つかれたことになるから悔しいと思ってただけよ」
「心外だなあ。そんな嘘つかないよ」
「それに……それに……」正面の壁に向き直り、また何か呟き始めた。「そうだ、危険が全くなかったなら、お土産の一つくらい買ってくるべきだわ」
「観光じゃないんだけど……。それに、行ったのはクルマで一時間もかからないところだよ」
「とにかく、お土産がないなら話すことはないわ」
やたらとお土産にこだわるのが、なんとなく可笑しかった。引っ込みがつかなくなっている状態って、こういうことを言うのかな。
これ以上ここにいたら何か投げつけられかねないので、僕は退散することにした。次に来るときは大丈夫だ。僕は既に、部屋に入れてもらうための魔法を教えてもらった。
帰るよと一言告げて、部屋を出る。
ドアを閉める直前、
「今度、またお土産を持ってくるよ」
僕は、魔法の欠片を落とした。
六月に入った。
それだけなのに、じめじめして感じるのはどうしたことだろう。雨の日が増えたわけではないし、湿度が上がったとも感じられない。ただ六月であるというだけで雰囲気が変わったように思えるのは、ちょっとしたマジックだ。
相変わらずジャケットを着て第八号棟に向かう途中、僕はそんなことを考えていた。そろそろ夏服を用意しておくべきだろう。搬入用通路を使っても怪しまれなさそうな服か……。あったかな、僕の部屋に。
先週で検査は終わったはずの僕がまた来たのは、昨夜、新留さんから連絡を受けたからだった。一つ、やり忘れていた検査があるという。ゴールデンウィーク以降、週末は基本的に空けているから、直前に言われても対応することができた。まあ、ゴールデンウィークの前も、休日に予定が入ることはあまりなかったけれど。
そんなわけで、六月最初の土曜日、僕は新留さんの部屋を訪れた。時刻は午後三時過ぎ。今日はホームルームもすんなり終わったので、余裕がある。お土産も買えた。
とはいえ、やっていない検査は一つだけだそうだから、終わるのはそれほど遅くないだろう。日帰りでも良かったかもしれない。
そう思って新留さんの部屋に入ると、彼女はにやにやしながら待ち受けていた。なぜか眼鏡を外していて、そのフレームをなぞっている。まずい。何か猛烈に嫌な予感が……。
「あの、今日の検査は」
「なし」答えは短かった。
「え? でも……」
「そうでも言わないと、瀬畑君は来ないだろう?」
「そんなことはないですけど」つまり、嘘をついてまで僕を来させたかったのだろうか。「あの、じゃあどうして」
「お姫様がお呼びだからさ」
新留さんは笑みをさらに深めて、机の上にあった一枚の紙片を差し出した。受け取って見てみると、丁寧な文字の並び。
『お土産』
(これだけか……)
思わず脱力する。でも、まあ、こんな文言にした理由はなんとなく想像できたので、僕は笑った。
「入室の許可は下りてるよ。行っておいで」
「……はい」
僕は紙をポケットにしまい、新留さんの部屋を出た。
梓の部屋の前まで行き、深呼吸を挟んでノック。
「入って」
ドアを開けて通路を進み、部屋に入る。
硬直した。
梓がゴーグルを外している[#「梓がゴーグルを外している」に傍点]。
素顔を見るのは二度目。先週も、確かに見たことは見た。でも、またしてもいきなりそれで出迎えられるなんて……。
幼いながらも、達観を感じさせる笑みが浮かんでいる。ゴーグルをつけているときとはまた違った存在感が、彼女の全身に宿っていた。
「驚いた?」
僕は言葉もなく頷いた。
梓の唇が三日月型になる。
「もっと驚かせてあげる。後ろ向いて」
催眠をかけられたかのように、僕は彼女の言うとおりにした。
背後でかすかな動き。
何をしている?
「『何をしている?』」
分からない。彼女は何をしようとしているのか。
「『わたしが何をしようとしてるか』」
え?
何だ、この感じ。いや、先週もそんなことが――
「手紙の意味、ちゃんと分かってるわよね?」
お土産……。
「そう、『お土産』」
まただ。
何かおかしい。
「『何かおかしい』? 別におかしくないわ。ここでは[#「ここでは」に傍点]ね」
ここでは。
それで分かった。
僕は思わず振り向いた。言葉の呪縛は、いつの間にか消えていた。
目の前、至近距離に梓がいた。
彼女の双眸があった。
黒く、深い。茫洋として、捉えどころのない瞳だった。何もかもを映し出してしまいそうな一方で、すべてを吸い込みそうな気がする。
見えたのは一瞬だった。梓はすぐに目を伏せ、後ろを向いた。
「分かった?」
「テレパシィ……」僕は呆然と呟いた。
「篠原さんは『幻視』と呼んでいるけれど」
幻を視る眼。幻想の視覚。それが梓の拡大症か……。
彼女が視る幻は、人の心。正確には、たぶん思考だろう。そしておそらく、彼女はその症状を――
「制御できないわ」肩越しに振り向いた梓が言った。
「人を見たら、確実に『視て』しまう?」
「そう。直視すればね。サングラスなんかじゃ気休めにしかならない。肉眼で視ていることに変わりはないから」
「そんなに?」
もう呪いも同然じゃないか。僕とは全然違う。
あれ、でも「サングラスなんかじゃ気休めにしかならない」ってことは……。
「ゴーグルは」「特別製」彼女は僕の言葉の後半を引き取った。
横顔だけをこちらに向けたまま、ベッドサイドを指差す。そこに置かれたゴーグルを手に取る。意外と軽い。見た感じ、スキー用のゴーグルを少し大きくしたくらいのものだけど――
(……カメラ?)
両側のヒンジ部分に、小さなレンズが見えた。よく見ると、内側もガラスやプラスティックのレンズじゃなく小型のディスプレイだ。液晶か有機ELか。
梓の症状と「特別製」という言葉から、仕掛けが分かった。
「なるほど。カメラで映した映像を、ゴーグルの内側に投影してるんだ?」
「そう。わたしの症状は、直視しない限り出ないから。そのゴーグルなら、肉眼で見るのとほとんど同じように見えるし」
彼女はまた僕に背を向けた。深呼吸。肩が緊張に強張っているのが分かる。
「わたしが八年間もここにいる理由、分かった?」
「ああ……。でも、どうして?」僕はゴーグルを置きながら尋ねた。
「何が?」
「急に症状のことを教えてくれた理由だよ。僕があの話をしたから?」
「それは……」
言いよどむ。それで、僕は篠原さんの言葉を思い出した。
梓が患者と話すのは、僕が初めてというわけではない。これまでに何人も会っている。でも、関係が続いている患者は一人もいない。梓が、会うのを断ったからだ。
それを梓のわがままと断じてしまうのはたやすい。でも、そうでなかったら? たとえば今のように、彼女の症状である幻視を見せて、その結果相手の患者が避けるようになった[#「相手の患者が避けるようになった」に傍点]としたら?
心を読まれることへの恐怖。特に、拡大症患者なら誰もが発症に関わるトラウマを抱えている。それを――梓が実行するかどうかに拘わらず――掘り起こされると思えば、彼女を避けようとするのも無理はない。
だから梓は、自分から彼らを遠ざけた。傷つかないように。傷つけないように。
それでも、僕には教えてくれた。それが、一つの証のように思える。
僕との距離を縮めてくれる、許可証。
梓が不安そうに振り返る。たぶん、僕を視たのだろう。すぐにまた背中を向けた。
なんとなく、安心したように見えた。
「別に。フェアじゃないって思っただけ」やがて梓は早口に言った。
「フェア?」
「だって、瀬畑君は自分の症状を話してくれたじゃない。なのにわたしが黙ったままっていうのはね」
喋りながら、口調がどんどん速くなっていく。なぜか慌てているようだ。
それが必死の照れ隠しに感じられて――僕は、思わず笑っていた。
「最初は教えてくれなかったくせに」軽く反論してみる。
「うるさいわね。ちょっと、意地悪してやろうと思っただけよ」
「ふーん」
「……なんか引っかかる言い方ね。何? 言いたいことでもあるの?」
「別に?」
軽く答えると、梓はしばらく唸っていた。そのままどすどすとベッドサイドに移動し、チェストに置いたばかりのゴーグルを持ち上げる。
彼女はそれをすんなりかけると、こちらに鋭く振り向く。
以前なら動揺させられていたかもしれないそんなアクションにも、今は微笑で応じられる。
梓は悔しそうに歯噛み。
僕は可笑しくなって、紙袋を掲げた。
「ほら、そんな不機嫌そうにしないで。お土産買ってきたから食べようよ」
「わたし一人で食べるから出ていけ」
「あ、やっぱり梓が食べるんだ、ケーキ」
枕を投げられた。
検査結果が出るのが月末以降になりそうだというので、僕はしばらくの間、第八号棟に来る必要を失った。でも結局、毎週末は地下で過ごしている。土日のどちらかだけ行って日帰りということもあったけれど、全く行かないことはなかった。
行って何をするかというと、基本的には梓と話すだけだ。応用的には、話し相手が新留さんや篠原さんであることもある。時任病院から帰るとき、新留さんにクルマで送ってもらったこともあった。彼女の自宅は僕の家とさほど離れておらず、「ちょっと寄り道するくらい」とのこと。
とはいえ、新留さんも篠原さんも医者だから、何かと忙しい。また、ほかの職員や患者に会うこともないので、喋る相手は専ら梓だった。
最近は、学校や家よりも、第八号棟で過ごす時間が僕の生活の中心になっている。梓と過ごす時間が、のほうが正しいかもしれない。
梓には、外の世界の常識が通じない部分がある。そこが面白い。世間知らずの梓が可笑しいということではなく、見方が新鮮なのだ。
まあ、彼女にそれを言うと、馬鹿にされていると感じるようで拗ねるのだけど。
そんな感じで過ごした六月も、そろそろ終わりだ。白骨死体を見つけてからまだ一ヶ月しか経っていないけれど、もう半年くらい前のことだったように思える。
六月最後の土曜日、いつものように授業を受けてから第八号棟に向かった。仮眠室はいつでも使って良いと言われてはいるけれど、一応、新留さんに声をかけてから荷物を置かせてもらうことにしている。そのたびに「いちいち言わなくてもいいのに」と返されるのが常だ。
ところが。
「ああ、今日は梓に会えないと思うよ」部屋に入るなり、新留さんが言った。
「え? なんでですか?」
「言わなかったっけ。一ヶ月に一度の定期検診が月末にあるんだよ。ちょっと疲れてるはずだから、部屋には行かないほうがいいね」
医者として、患者の身を心配する口調だった。そう言われて無理強いするほど、物分かりは悪くない。
僕は頷いた。
「分かりました。じゃあ、お土産だけ置いていきますから、渡してもらえますか?」
「いいよ。今日はすぐ帰る?」
「えっと……、特に何もなければ」
「あるといえばあるかな。今日は早く上がれそうだから、何なら送っていくよ。大サービスでご飯も奢ってあげる」
「あ、ホントですか? どうしようかな」
第八号棟の食堂もなかなかの味だけど、食べに連れていってもらえるというのは魅力的だ。送ってもらえるというし。
「まあ、早くっていっても一、二時間はかかりそうだから、その間に決めて。先に帰るときは一言残してくれればいいから」
「分かりました」
まだ仕事があるみたいなので、僕は新留さんの部屋を出て仮眠室に向かった。暇潰しに本も持ってきているし、とりあえず読みながら考えよう。
……とか思っていると、いつの間にか一時間以上も経っていた。面白かったので、ついつい集中してしまったのだ。こうなると、もう先に帰るのが馬鹿らしくなる。新留さんが仕事を追加されて帰りが遅くなる、なんてことがなければ、厚意に甘えよう。
開き直って読書を続けること約三十分、ノックに続いて新留さんが現れた。帰り支度を済ませたあとらしく、肩にバッグをかけていた。白衣を脱いだ姿を見るのは、トンネル事故の日以来かもしれない。すっきりしたパンツスタイルが、細い躰に似合っていた。
「ああ、やっぱりいた。ずっとここで本読んでたの?」
「ええ」
「暗いね」ばっさりだった。「わたしはもう帰るけど、どうする?」
「あ、乗せてもらえますか?」
「オーケィ。準備は?」
本をバッグに入れ、「終わりました」
二人でエレベータに乗る。これも、最初に来たときと同じだ。もっとも、あのときとはエレベータの上り下りが逆だけど。
駐車場に出て、やたらと中途半端な位置に止めてあったクルマに乗り込む。車種は分からないけど、ツーシータの小さいやつだ。
「ベルトはしっかり締めてね」
「あ、はい」
鞄は足下に置いて、準備完了。新留さんはバッグを後ろに放り投げてから、いつものようにくわえ煙草でキーを捻った。エンジンがかかる。
「じゃ、しっかり掴まってて」
「え――」まさか。
内臓が圧死した。
それくらいの重圧を感じた。駐車スペースからロケット弾のように飛び出したクルマは、慣性を無視したとしか思えない方向転換を完了し、そこでカタパルトに乗ったかのような加速力を見せた。僕はドアの手すりを全力で握り締める。自分が引きつった笑みを浮かべているのが分かった。
地下駐車場から飛び出した――文字どおり一瞬浮いた――クルマは、公道に出たところで法定速度ぎりぎりまで減速、車体を左右にぐらつかせながら走っていく。
全身が強張っている。腕に力を入れ過ぎて痛い。透過触覚が出る余裕すらない、理解不能な時間だった。
「やっぱ、これやんないと仕事終わった気にならないね」
こうして送ってもらうのは今回が初めてではないけど、今までにも何度か、今日みたいなロケットスタートをしてくれたことがある。回数そのものは多くないので、すっかり油断していた。
僕は全身の力を抜いた。意識的に、大きく息を吐く。
新留さんは窓を開け、煙草の煙を外に逃がしながら片手で運転していた。さっきからぐらぐら揺れているのはそのせいか。……大丈夫かな。
「瀬畑君、学校のほうはどう?」新留さんはいきなり言った。
「どうって……」
「あの調子だと拡大症……透過触覚との折り合いをつけながら上手くやれてるんだろうけどさ。普段はどんな感じなのかなって」
「別に、普通ですけど」
「普通、ねえ」新留さんは、なぜか馬鹿にするように鼻を鳴らした。「その言葉、嫌いだな」
「なんでですか?」
「普通って言葉はね。『自分としては自然なつもりです』って意味だよ。あえて不自然に振る舞う奴なんかそうそういるもんじゃない。だから、普通なのは当たり前」
「でも、僕は拡大症です」僕は淡々と言った。
「それは身体的な問題。わたしが言ってるのは精神というか意識というか、行動原理のこと」新留さんは、僕を横目で見た。「たとえば、殺人犯は普通じゃないと思う?」
「人を殺すことが普通だとは思いたくないです」
「それでも、殺人は起こり続ける。どうして? 異常者がそんなに多いってこと?」
「人を殺す瞬間だけ普通じゃなくなるってことじゃ駄目なんですか?」
「わたしはそうじゃないと思う。ほとんどの殺人犯は、普通なまま[#「普通なまま」に傍点]人を殺すんだってね。普通に起きて、寝て、普通に食事して、お喋りして、普通に歩いて普通に切符を買って普通に電車に乗って――普通に[#「普通に」に傍点]人を殺す」
「それじゃあ、殺人犯はもっと増えると思うんですけど」
「うん、実はそうなってもおかしくない。ただ、多くの場合、それ以外の選択肢のほうがベターだと判断されるんだ。だから殺さない」
「その程度の差なんですか?」
「わたしはそう思う。極端な話になるけど、人が何か行動するとき、その選択の中には必ず破壊的なものが含まれてると思うんだ。まあ、多くは妄想的だけど。ただ、選択肢の一つに組み込まれているからには、何かの拍子でそれが選ばれることもないわけじゃない」
「それが殺人っていうことですか?」
「まあね」ここで急力ーブ。ベルトが躰に食い込んだ。新留さんは平然と、「ほら、『ついカッとなってやった』って犯人が言うことあるでしょ。あれは、『ついカッとなって』殺人を選んじゃったんだよね。興奮状態にあるとき、選択肢の優先順位というか重み付けが、その人の中で変わるのはよくあることだよ。『ついカッと』なるのも」
「何の話でこうなったんでしたっけ」
「瀬畑君が梓をどう思ってるかについて」
「それは間違いなく嘘です」
新留さんは舌打ちして、車内の灰皿に煙草を押しつけた。やっぱり、どうしてもそういう方向に話を持っていきたいらしい。
『……区で起きた火事についてですが、警察の調べにより放火と断定され――』
新留さんが気紛れに入れたラジオから流れてきたのは、意外にもニュース番組だった。理由を尋ねると、音楽はそれに相応しい場所じゃないと聴かないとのこと。そこは拘りがあるらしい。
僕自身はテレビを観ないし新聞を読むこともないので、時事問題に疎い。大学受験をするときは、少し配慮しなければならないだろうか。
『――党議員の汚職事件で、企業との関連が新たに――』
『今日午後三時二十分ごろ、那須パーキングエリア付近で玉突き事故が――』
『今月十二日、爆弾テロを予告した犯行グループの一部が逮捕された事件で――』
『――以上、ニュースでした。続いて天気予報です』
こういうニュースも、梓は知らないのだろう。部屋のパソコンはネットに繋がっているそうだけど、ニュースサイトはチェックしていないと言っていたし。
そのくせ、芸能関係には詳しいようだった。暇に飽かせて映画やドラマを観まくっているので、俳優の名前だけでもかなり知っているらしい。
ニュースキャスタの声をしばらく聞きながら走る。と、信号で停車したところで、新留さんがこちらを向いた。
「そういえば、食べたいものある?」
「特に希望はないです。お任せで」
「じゃあ食べられないものは?」
「それもないですね。アルコールが入ってるやつはちょっと苦手ですけど」
「クルマだからそんなの頼まないよ」新留さんは苦笑した。
それもそうか、と僕は納得した。
新留さんが連れて行ってくれたのは、高くもなく安くもなく、といったレベルのイタリアンレストランだった。単品料理をいくつか注文し、二人で分けながら食べる。
新留さんは食事中に会話しない主義なのか、黙々と料理を口に運んでいった。単にお腹が空いているだけかもしれない。そんなことを言ったらただでは済まされないような気がしたので、黙っておく。
あらかたの皿を空にしたところで、新留さんが「ちょっとごめん」と言い残して席を立った。さすがに、「どこに行くんですか」などと無粋なことは訊かない。それくらいのデリカシィはあるのだ。
残った僕が水をちびちび飲んでいると、新留さんがテーブルに置いていた携帯電話が着信で震えた。十秒、二十秒。メールにしては長いから、たぶん電話だろう。勝手に出るわけにもいかないので、少し気まずい思いを抱えながら振動が止まるのを待った。
新留さんの携帯電話が沈黙してから二秒後、今度は僕のポケットが震えた。取り出した携帯電話のサブディスプレイには、『篠原さん』と表示。
身をかがめて、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『ああ、良かった。繋がった』明らかにほっとした様子だった。
「あ、もしかして新留さんにもかけました?」
『たった今ね。ということは、まだ二人一緒にいるってこと?』
「はい。ご飯を食べ終わったところです」
『なら良かった。……すまないけど、今から行ってほしいところがあるんだ』本当にすまなそうな口調だった。
「僕がですか?」
『いや、二人で。入戸野警部から連絡が入ってね』
警察からの連絡という時点で、すぐに予想できた。僕は目を細める。
「また捜査協力ですか?」感情を封じて尋ねる。
『いや、まだそうなるか分からない。ただ、一刻を争うかもしれないらしいんだ。行くだけ行ってみてくれないかな』
「……危険なことではないですよね」
『それは保証する。彼もそう言っていた』
「分かりました」かすかにため息をついた。「どこですか?」
場所を頭にインプットして、通話を切った。ポケットに戻したところで、いつの間にか新留さんが戻ってきていたことに気づく。
「警察からって?」電話の相手が誰か分かったのだろう、それについては何も触れず、いきなり本題に入った。
「はい」
「全く……」彼女は乱暴に腰を下ろした。「たった一ヶ月の間に二件って、何を考えてるんだか……」
「とりあえず危険はないみたいですけど」
「当たり前だよ、そんなの」吐き捨てた。「駅までしか送れなくなっちゃったね」
「え? なんで駅まで行くんですか?」
「なんでって……」言いかけて何かに気づいたらしく、なぜか横目で睨まれる。「瀬畑君、協力するつもりなの?」
「呼ばれましたし」
「あのね、断っていいんだよ。最初のときも言ったと思うけど」
「それは憶えてますけど……」僕は言うべきか少しためらい、結局口を開いた。「僕に助けられるのなら、やっぱり放っておけません。捜査に協力させられるのは、正直、気が進みませんけど……、あくまで人を助けるためなら、僕は行きます」
レストランの窓越しに、空を仰ぐ。今さらだけど、黒々とした分厚い雲が広がっていた。
それを見ながら、
「僕が昔、透過触覚で自分自身を助けたように、誰かを救えるのなら」
「……瀬畑君って、さりげなく損するタイプだよね」ため息混じりに言われた。
「何ですか? その評価」
「気にしないで。それより、どこに来いって?」
僕は大体の場所を告げた。新留さんが頷き、バッグ片手に席を立つ。僕もそれに倣った。支払いを済ませ(といっても新留さんが全額払ってくれたのだけど)、クルマに乗り込む。エンジンをかけ、静かに走り出した。
車内は沈黙で満たされていた。新留さんはラジオも切って、無言で運転している。僕は、呼ばれたところに何があるのか、ずっと考えていた。
十分ほどで、近くまで辿り着いた。繁華街の一角で、少し奥まったところにあるビルが目的地だ。でも、そこに行くまでの道路が封鎖されている。代わりに、それほど広くない通りいっぱいに人が押し寄せていた。
「何? あれ……」
「分かりません。でも、パトカーらしいものが見えます」
「歩いていこう」
近くのコインパーキングにクルマを置いて、僕たちは封鎖された道路に入った。大通りから一本横に折れた道で、左右に並ぶのは居酒屋やバー、クラブがほとんどだ。駅にそこそこ近いので、会社帰りのサラリーマンがよく利用するらしい。もちろん、僕には無縁の一帯だ。
既に店が営業を始めてもおかしくない時間帯なので、人通りがあるのは分かる。でも今は、そんな表現では生温いくらい、大勢て溢れかえっていた。何か事件が起きたのは確実だった。それも、僕が――拡大症患者が呼ばれるような事件だ。
人混みをかき分けながら進む。現場から遠いところでは、人も多くない代わりに誰も具体的なことを知らないようだった。ただ、「爆弾」という単語が聞こえたのが気になった。
(まさか……)
だんだん、気持ち悪くなってくる。人が密集したところは嫌いなのだ。とはいえ、この状況では引き返さない限り人が少なくなることはない。僕はなるべく視界に意識を集中させ、接触を感じないようにした。
と――
いきなり、人垣が割れた。ただでさえ密集していたところでそうなったので、押し潰されそうになる。振り返ると、少し離れたところで新留さんが顔を歪めていた。
また前方に視線を転じる。すると、割れた人混みの間をこちらに向かって静かに進んでくる、巨大な金属の塊が見えた。
トラックだ。暗色の車体に白で染め抜かれた文字は、それが警察車両であることを教えてくれる。祝日なんかにたまに見かける、機動隊のものだ。
人が多いからか、トラックはゆっくりと通りを抜けていった。最初の一台に続き、同じ車両がもう一台、さらにワゴンが二台走っていく。その四台で終わりらしく、人がまた散らばった。それでも多いことは多いけど、さっきに比べれば密集度は断然マシだ。
「瀬畑君」合流した新留さんが、横から僕の顔を覗き込んだ。「大丈夫?」
「何とか、平気です。それより、進みましょう」
前のほうにいた人は、どういう事件か知っているらしい。これで終わりか、といった声が聞こえてくる。実際、僕たちに逆行する人の流れも一部で生じていた。さっきの四台が、事件に一幕下ろすものだったのだろう。
人混みを抜ける。そこには、薄汚れたビルの前に停車した二台のパトカーと紺色の作業服を着た大人たち、それに――
「入戸野さん」
一ヶ月ぶりに会う刑事が、ビルを睨んでいた。
呼びかけに、彼はすぐこちらを向いた。僕を見て、片方の眉を少し上げる。
「来てくれたか。先月に続いて二度までも……。ありがとう」
「こんなに連続して協力させるなんて、警察は何をしてるんです?」新留さんが割って入った。
「新留先生ですね。篠原から聞いています」入戸野さんは彼女に向き直った。「返す言葉もありません。しかし、最悪の事態に備えて、いてもらったほうがいいだろうと判断したのです。幸い、前回のような協力はしていただかなくて済みそうです」
「ということは、もう解決したんですか?」今度は僕が訊いた。
「まだ全面的には解決していないが、君の力を借りる段階はもう終わったと判断していい。来てもらってすまないが……」
「何があったんです?」
質問に、入戸野さんはまたビルを見上げた。僕もそちらに顔を向ける。
よくあるような、三階建てのビルだった。壁面から、中に入っているテナントの看板が突き出している。一階は空き、二階と三階は同じ企業だ。社名は聞いたことがない。全体的に薄汚れていて、リフォームしないと一階は埋まらないんじゃないかと素人ながら思う。
「今から二時間前、ここに小型の爆弾を二十発設置したという通報が入った」入戸野さんはビルを見たまま口を動かした。「捜査の結果、事実だと判明したんだが……。厄介なことも分かった」
「というと?」新留さんが訊いた。
「爆弾の所在が掴めなかったんだ」
「え?」
さっきは「事実と判明した」って言ったのに、爆弾が見つからないっていうのはどういうことなんだろう。
僕の疑問を察したのか、入戸野さんは頷いた。
「正確には、見つからない爆弾があった、と言うべきだな。予告された二十個のうち、十六個までは発見し、最低限の処置を済ませることができたんだが……、残りの四発が見つからない。通報でも、『警察の力では見つけることはできない』と言っていた。だから、手持ちの装備で残りを見つけられなかった場合、少しでいいから手助けしてもらおうと思っていた」
「爆弾探しをやらせようとしていたわけ?」新留さんは眼鏡を押し上げる。敬語を使わなかった。
「……そうです」入戸野さんは目を伏せた。「もちろん、建物の外からです。前で機動隊が盾になるつもりでしたし、警察では手が出ないと上が判断してから探してもらう予定でした」
「言い訳にもならないな」
「ええ」
新留さんの容赦ない一言に、入戸野さんは頷いた。彼が悪いわけではないだけに、これ以上責められるのは見ていられなかった。話題を戻すことにする。
「でも、それならどうして僕が来なくてもいいことになったんですか? まだ全部見つかったわけじゃないんですよね?」
「確かにそうだ。いずれ、徹底的に捜査する必要があるだろう」入戸野さんは首肯した。「しかし現時点で、『二十発』というのが犯人のハッタリだという説が濃厚になった。この手の予告犯罪では、予告内容と現場の状況が食い違うことも珍しいことではない」
「そうなんですか?」
「ああ。だから、とりあえず今は見つかった十六発の処理を優先することにしたんだ」
さっきのクルマのことだろう。あの機動隊の車両内には、爆弾が眠っていたのだ。
それにしても、数の合わない爆弾か……。予告までする犯罪者なら、神経質に数を揃えたがるような気がする。その一方で、愉快犯だとすればあえて不一致を狙ったとも考えられる。
僕は犯罪に詳しいわけじゃないので、入戸野さんがそう言うのならそうなんだろう、としか思えない。とにかく、当面は事件解決と考えて良いみたいだ。
それなのに――なぜか、僕はすんなり納得できなかった。何度見直しても完璧な自信を持てない数学の問題のように、理由のない不安だけが胸の片隅に凝り固まっている感覚。透過触覚を使えば、それを探ることもできるのだろうか? 一瞬、そんな益体もないことを考えてしまった。
馬鹿馬鹿しい、と自分を納得させる。犯罪捜査のプロが言うことに、素人が疑義を唱える筋合いじゃない。僕は体内の違和感を隠し、微笑を見せた。
「分かりました。今回は、もう協力する必要がなくなった、ということでいいんですよね?」
「そうだな。いや、今後も助けを求めることがないよう、最善を努める」入戸野さんは静かに、けれど強く言った。
新留さんはなおも不満そうにしていたものの、僕が警察に協力させられることがなくなったと確信できたからか、肩の力を抜いた。息を吐く。
「分かったよ。刑事さんも、ちょっと言い過ぎました」
「いえ、事実ですから。こちらも反省します」
そう言うと、入戸野さんはまだ何か作業を続けている警察の人たちのほうに歩いていった。彼に背を向け、新留さんが煙草を取り出す。
爆弾が仕掛けられていたビルや僕たちを遠巻きに眺めていた人々は、十分もするといなくなった。僕と新留さんは、その間、一言も喋ることなくその場に留まっていた。
時計を見ると、九時前だった。活動中のこの通りを見るのは新鮮だ。空は黒が色濃い。時間帯と、雲が厚いせいもあるだろう。雨が降ってもおかしくないな、と思った。湿度が上がっているのか、ジャケットを着ていると少し蒸し暑い。
僕は通りの左右を交互に見て、営業中を示すネオンを網膜に焼きつけた。場所柄か、色遣いも多様だ。
暖色を中心にした、きらびやかな電飾。
深海を思わせる、シックなブルーのサイン。
視界が残像に塗り潰される。
たぶん梓は、こういう光景を見たことがないんだろうな、と思った。ゴーグルで輝度が調節されるから、という理由じゃなしに、そもそもこの時間帯のこういう場所をリアルに見たことがないだろう。
といっても、年齢的に僕が案内するわけにはいかない。第一、彼女が第八号棟から出るかどうか。
忙しそうに立ち回っていた入戸野さんがやって来たのは、そんなときだった。
「そういえば、まだここにいますか? 何ならこちらでお送りしますが」
「クルマはあるのでご心配なく。これを吸い終わったら帰ります」
新留さんが煙草を掲げると、入戸野さんは渋面になった。
「……路上喫煙は感心できませんね」
「目を瞑ってください、これくらい」
呼び出しに応じたんだから――と言外に告げているのは、僕にも分かった。入戸野さんも察したのだろう、無言でため息をついた。
と――
「あのう……」
投げかけられた声に、僕たちは一斉に反応した。問題のビルの横にある駐車場のほうから、中年の男性が近づいてくるところだった。髪は白いものが混じりつつある。身長は僕より少し高いくらいだけど、肩幅は広い。がっしりした躰を、ポケットが沢山ついた作業服のようなもので包んでいる。
(ん……?)
何かが記憶を刺激した。
それを探るより早く、入戸野さんが前に出た。
「何でしょう。この近辺は、事後処理のためもうしばらく立ち入り禁止とさせていただいていますが」
「そこのビルに、事務所を入れる予定にしている者なんですが……。今日、内装の視察をさせてもらえると聞いていたんですが、何があったんですか?」
「爆弾を仕掛けたとの予告がありましたので、それを調査していたところです。爆弾は設置されていましたが、既に撤去は完了しています。今は念のため、確認作業を行っているところです」入戸野さんはそれだけを口にした。
「爆弾?」彼は声を高くした。
「失礼ですが、お名前は?」
「飯塚といいますが……」
「以前にこのビルを訪れたことは?」
入戸野さんはさりげない調子で尋ねた。男性――飯塚さんは「爆弾」の一言に動揺を隠せていない。無理もない、と思う。自分が事務所を据えようとしていたビルに爆弾が仕掛けられたと言われて、冷静でいられるほうが変だ。
彼は汗をかきながら、何度か口を開閉させた。
「いえ……、今日が初めてです。もちろん、立地を確かめるためにこの近くまで来たことはありますが」
「なるほど。事務所は何階に入れる予定ですか?」
「二階と三階ですが……」
「以前の所有者とお会いになったことは?」
「あの、どうしてそんなこと……」
「行方が分からなくなっているのです」入戸野さんは淡々と答えた。「ビルのオーナの方から連絡先を控えてはいるのですが、繋がらないもので。もし貴方がご存じなら教えていただきたいのです」
「いえ、すみませんが……」
「ご存じない?」
「あ、ええ……」
「分かりました」
二人の会話が途切れる。僕はぼんやりと、聞こえてきた情報に頭を働かせた。
爆弾が仕掛けられたビルと、そのビルの中にテナントを持っていた人物の行方不明。関係があるのだろうか。
まさか、行方知れずのその人が犯人というわけではないだろうけれど……。
それに、内装を視察に来た、飯塚という男性。やっぱり、どこかで見た憶えがある。
失礼にならないよう見ていたつもりが、すぐに気づかれた。訝しげにこちらを見た飯塚さんの顔は、すぐに明るく変じる。
「君は確か、あのときの学生さん?」
「え?」疑問符を浮かべた瞬間には、記憶が浮上していた。「もしかしてトンネルの……」
「そうそう。奇遇だな、こんなところで」
思い出した。彼はあのトンネル事故のとき、非常電話の配線を直してくれた男性だ。確か、以前は技師をしていたという。
トンネルの中は暗く、顔をはっきり見たのは救出された直後のわずかな間だったけれど、声はなんとなく憶えている。それが引っかかっていたのだ。
思わぬ再会に頬を緩めていると、入戸野さんが眉を顰めた。
「知り合いですか?」
「あ、はい」僕は頷いた。「僕たち、先月の頭に起きたトンネル事故に二人とも巻き込まれたんですよ。会うのはあれ以来ですけど」
「なるほど。あのときは災難でしたね」後半は飯塚さんに向けられた言葉だった。
「ええ、まあ」
入戸野さんはしばらく僕たちの近くに立っていたけれど、少しして紺色の作業服を着た人に呼ばれ、また立ち去っていった。現場の指揮を執っているようだから、事後処理中といってもいろいろやることがあるのだろう。
なぜか少し離れたところで、新留さんが相変わらず煙草を吸っている。「吸い終わったら帰る」と言ったときにくわえていたものより長いから、新しく出したのだろう。
今度はそれを吸い終わるまで、僕が待たなければならないようだ。まあ、せいぜい五分くらいだろう。そう考えて、僕はまた空を見上げた。
月も星も見えない。
光は、地上だけにあった。
一定のペースで煙を吐き出し続ける新留さんを一瞥し、飯塚さんが近寄ってきた。
「そういえば、君はどうしてここにいるんだ?」
「まあ、その、いろいろありまして」
僕は言葉を濁した。拡大症に触れることは言えない。
話題を変えるのが得策だと考え、トピックを探す。
「そういえば、事故のときに一緒だった女性はどうされていますか? かなりショックを受けていたみたいでしたけど」
「ああ……。うん、大丈夫だよ」彼はなぜか曖昧な言い方をすると、ビルを見上げた。「しかしさっきの刑事さんじゃないけど、災難だなあ。こんなところで爆弾騒ぎなんて」
「事務所と仰ってましたけど、今は何のお仕事をされてるんですか?」
「リフォーム関係になるかな。大がかりなやつじゃなくて、一部屋だけ模様替えするとか、そういう感じの。あとは運送だね」
「新しく事務所を持つっていうことは、上手くいってるみたいですね」
「おかげさまでね。でも、今回の一件で客足が遠のかないといいけど」彼は苦笑した。「誰がやったか知らないけど、どうしてこのビルに仕掛けるかなあ[#「どうしてこのビルに仕掛けるかなあ」に傍点]」
そうですね、と頷きかけ、思考に歯止めがかかった。
なぜこのビルが標的に選ばれたのか? 爆弾が発見され、処理されたとはいえ、その問題はいまだ残っている。
警察に爆弾設置の通知をしたことからして、犯人は多くの人にこの事件を知ってもらいたかったはずだ。単に目立ちたかったからなのか、主張したいことがあったからなのかは分からないけど、秘密裏に処理されるのが一番困ることだと思う。
なのに、こんな地方都市の飲み屋街にある空きビルを現場に選んだのは、どうしてなんだろう。
それに、いまだ見つかっていない、存在すらも定かではない四個の爆弾。空白の四発。警察が判断したとおり、本当にハッタリなのか? それとも――
胸騒ぎがした。入戸野さんに話しておくべきかもしれない。僕は飯塚さんに断ってから、警察が集まっているほうに近づいていった。
入戸野さんはすぐに気づいた。作業服姿の人と話し終えたところだったらしく、こちらに振り向く。
「どうかしたかな」
「あの――」
言いかけたところで、入戸野さんの胸あたりから電子音が響いた。携帯電話に着信。彼は眉を顰めつつ、ちょっと待ってくれと手振りで僕に示してから電話に出た。
「もしもし? どちら様――何?」
入戸野さんの顔に、緊張が走る。僕は直感的に動いた。彼のそばに寄り、相手の声を拾う。
『だから、残り四つの爆弾は見つかったかと訊いたのさ』機械を使っているのか、人工的な声だった。
残り四つの爆弾。そのキーワードで、相手は特定できたも同然だ。
(犯人……?)
このタイミングで? だけど、どうしてわざわざそんなことを……。
「爆弾を仕掛けたのはお前か?」
『そうさ。でなければ言えないだろう? こんなことは』からかうような口調だった。
「残り四つと言ったな。存在するのか?」
『ちゃんと予告しておいたはずだがな。二十個仕掛けたと。宣言は守るさ』
「探知機には反応しなかったが」
『そういう爆弾だからなあ。警察では見つけられないとも言っておいたはずだ』
明らかに楽しんでいる様子だった。入戸野さんにもそれが分かったのだろう。彼は目つきを険しくし、
「どこにある」
『それを言ったら面白くないじゃないか。ヒントはもうやったぞ』
「ヒントだと?」
『警察では見つけられないってことさ。じゃあ、せいぜい頑張りな。一時間くらいは待ってやるよ』
「待――」
入戸野さんの制止もむなしく、電話はあっさり切れた。当然のように非通知だったのだろう、彼はかけなおす素振りも見せず電話をしまった。
「くそ……。まさかこんなことをしてくるとは」
「機械で見つけられなかったというのは、事実なんですか?」僕は訊いた。
「ああ。処理班が何度も確認しているはずだ。だが最新の装備を使ったんだぞ。それで見つからないなんて……」
かぶりを振る。信じられない、といった様子だ。警察の目をごまかす爆弾が存在していることが――あるいは犯人そのものが。
異変を察知したのか、新留さんが近寄ってきた。
「トラブル?」くわえ煙草で尋ねる。
「犯人から電話があったんです。爆弾がまだ残ってるって……」小声で言った。
「警察の電話に直接? 個数は言ってた?」
「四つってはっきり言いました。犯人に間違いないと思います」
「数まで言ってたならそうだろうね。で、どうするの?」
僕に訊かれても困る。僕たちの視線は、自然と入戸野さんに向いた。
彼は厳しい表情を崩さず、こちらを――否、僕を見返した。
それだけで、入戸野さんが何を言い出すか分かった。
でもそれは、新留さんも同じだったらしい。僕をかばうように前に出て、入戸野さんと向かい合う。
「やっぱり彼にやらせるつもり?」
入戸野さんは無言。その反応に、新留さんはため息をついた。
「一刻を争うっていうのは分かるんだけどね……。それに、もっと危険のない捜査なら妥協できなくもないけど、今回は危なすぎる。患者を巻き込ませることはできない」
「分かっています」入戸野さんは淡々と言った。「いえ、この期に及んで情けない姿を見せてしまいました。万が一のことを考え、お二人は早くここから――」
「待ってください」
僕は思わず口を挟んだ。新留さんが振り向く。入戸野さんともども、不思議そうな顔をしていた。
「僕なら構いません。警察では見つけられない爆弾も、僕なら探せるかもしれない。行きますよ」
「ちょっと瀬畑君……」新留さんがかぶりを振った。「いくら何でもそれはまずい。担当医としては認められないよ」
「さっきの電話で、犯人は『一時間は待つ』と言っていました。それだけあれば、このビルを調べきることはできます」
「犯人がそれを律儀に守るとは限らないでしょ?」新留さんはすぐに言った。
「『宣言は守る』とも言っていました。タイムリミットも信用できると思います」
「だからって……」
思い留まらせようとする新留さんを見つめながら、自分はどうしてこんなに必死なんだろうと思った。さっきまで、危ないところに向かわずに済んだことを喜んでいたはずなのに。
それに、もし爆弾がまだ残っているとして、誰かが巻き込まれたりビルが爆破されたりしても、僕には関係ないことだ。いや、既に多少の関わりは持っているけれど、すぐに忘れる程度の繋がりでしかない。
知り合いが事務所を入れるビルだから?
それとも、関わった以上は放っておけないという義務感?
僕は、そういう動機で人助けをしようとする人間だっただろうか。
(それもある……。でも――)
「やっぱり駄目だよ。死んだらどうするの?」新留さんは、いつになく真剣に言った。
「それを言われるとどうしようもないんですけど……」
僕にしか発見できない爆弾があるとすれば。
僕がやらなければならないのだ。
強迫観念。
あるいは使命感。
自分の『症状』を使うべきだという、強い衝動。
僕は病人だ。しかもただの病人じゃない。
普通の人間には備わっていない感覚を持っている。
だから――
普通の人では手が出せないところにこそ、僕だけの居場所がある。
僕は、それが欲しいのかもしれない。
僕の見えない手を受け入れてくれる、普通じゃない場所。
それを得ようとして、死んだとしても構わない。
そのときは、この世界に僕のいるべき場所はなかったというだけのことだ。
梓の顔が、脳裏をよぎる。
彼女が第八号棟から出ない理由。それは、何かつらいことがあったからなのかもしれない。
だけどそれ以上に、今の僕のように感じていたからじゃないだろうか。
第八号棟は、少なくとも外の世界よりは、拡大症患者の居場所になれるから。でも、僕は今さら、あの中に籠もることはできない。
だから、見つけるんだ。
この世界に、僕のいるべき場所を。
僕の『手』が存在を許される領域を。
新留さんは、険しい眼差しを向けてきた。でも、僕はもう目を逸らさない。
一分ほどだろうか。睨み合いを経て、彼女は息を吐いた。
「……全く。意外と頑固だね、瀬畑君。やっぱり損をしそうだよ」
「人助けは損得じゃありません」
「分かってるよ。わたしも医者だからね。いや、医者だけど、なのかな? まあいいや」新留さんは肩をすくめ、「いいよ。行っておいで」
「あ……」あっさりした言い方に、理解が少し遅れた。「ありがとう、ございます」
「ただし、わたしも行く」彼女はすぐに言った。
「え?」
「まさか一人で行かせるわけにもいかないでしょ?」当然だ、と言わんばかりだった。
「待ってください」慌てて口を挟んだのは入戸野さんだ。「そんな軽々しく――」
「患者の監督責任がありますから」刑事の言葉を遮り、新留さんはさらっと告げた。
僕が行くのなら新留さんも巻き込むことになる……。どうしよう。さすがにそれはまずい。半分は僕の我儘なのだから、付き合わせるわけには――
そう思って彼女を見ると、携帯灰皿に煙草を押し込むところだった。
「患者のオーダは可能な限り聞き入れるのが、わたしのポリシィなんでね」ウインク。
「でも――」
「ま、気にせずいこうよ」
「…………、はい」
そうだ。残り四発の爆弾が本当に存在しているとしても、僕が見つけ出す。さっき、そう決めたばかりじゃないか。
大丈夫。誰も死なない。危険なんてない。僕は、自分に言い聞かせた。
「二人とも、本気なんですか?」入戸野さんが低く抑えた口調で言った。
「はい」
「わたしはさっき言ったとおり」新留さんが肩をすくめる。
「……分かりました」刑事は息を吐いた。「ただし、時間は切らせてもらいます。今から機動隊の処理班を呼び戻すので、彼らが戻るまで……そうですね、二十分です。二十分経ったら、爆弾が見つかっていようがいまいがビルから出てください。いいですね」
僕は頷いた。それだけあれば間に合うはずだ。
ビルを見上げる。薄汚れたビル。今は空っぽの箱。
最悪、その中を満たすのが自分の死体、ということになるかもしれない。
死んだとしても構わない、とは思ったけど。
こんな棺桶は嫌だというのが、正直なところだった。
第四話 「核心幻視」
こころは みえるもの
一階は、もう随分長く使われていなかったらしい。全体にうっすらと埃が溜まり、朽ち果てた蜘蛛の巣が天井からぶら下がっている。壁にスプレーの落書きでもあれば、完全に廃屋の様相を呈していただろう。
そういう状態だから、もちろん、電気は来ていない。そもそも、蛍光灯が一本もなかった。照明の調達が少し問題になったけれど、すぐに要らなくなった。
というのも、一階は太い柱が二本あるだけで、奥までぶち抜きになっているからだ。街灯と、向かいのビルに掲げられたネオンの光があれば充分見える。
テナントが入っていたころはどうだったか分からないけれど、今は床から天井に至るまでコンクリートの打ちっ放しだった。事前に警察が調べたところ、建設が終わってから構造自体に手が加えられた形跡はないらしい。一階の壁に爆弾が埋め込まれている可能性は考えなくて良さそうだ。
念のため、二本の柱を基点に透過触覚を使ってみたけれど、一階部分から届く範囲に爆弾らしきものはなかった。どこまで延ばしても、触れられるのはコンクリートと鉄筋だけだ。
早々に二階に上がった。爆弾が実際に見つかった階だ。飯塚さんが視察する予定だったのも、ここと一つ上の階らしい。一階の状態を見たあとだと、事務所を入れるなら二階から上だけのほうが良さそうだと思う。二階部分は、以前テナントが入っていたときと同じ状態なのだろう、床も壁もちゃんとした内装が施されていた。ただし、電気は止められているので、各自が警察から渡された懐中電灯のスイッチを入れた。
ビルに入る前に見せてもらった平面図を、頭の中に思い浮かべる。二階と三階はどちらもいくつかの部屋があるので、隅から隅まで調べ尽くすのは簡単なことではない。透過触覚に、距離と『固体にしか通じない』という空間的な制約がある以上、ほとんどの部屋には入らなければならなくなりそうだ。
そうして、ルートを模索しているときだった。
かすかに、何か音がしたと思った瞬間、「誰だ!」と入戸野さんが叫んだ。僕はむしろその声に驚き、彼が懐中電灯の光を向けた先――ついさっき通ったばかりの階段に目を向ける。
最後の段に足をかけた姿勢で止まっていたのは、作業服を着た中年の男性。
飯塚さんだった。
入戸野さんが、懐中電灯の角度を下げる。相手が彼だと分かったからだろうけれど、厳しい表情は崩していない。
「飯塚さんでしたね。なぜここに?」低い声で尋ねる。
「え、いや、皆さんが入っていくのが見えたので……。学生さんや医者の先生も一緒ですし、もう入っても大丈夫だと思ったんですけど」
入戸野さんは舌打ちしそうな顔をして、「外にいた警察は何と言っていましたか?」
「誰もいなかったので、黙って入ってきたんですが」
「そうですか……」
どうやら、警察が本部への連絡か何かでたまたま持ち場を離れているときに入ってきてしまったらしい。その前の出来事――犯人からの電話を知らず、僕たちが入るところだけを見ていたのなら、もう安全だと判断してもおかしくはない。
完全に予想外だった。爆弾がまだ残っていることを知らないのなら、飯塚さんだけをビルの外に出すよう説得するのは難しい。そもそも、説得する時間もない。かといって、彼のそばで透過触覚を使うわけにもいかなかった。トンネル事件のときとは違うのだ。
どうすれば良いのだろう。
それまで陰にいた新留さんが、そっと姿を現す。
「残りの爆弾のことも知らないみたいだし、追い返せないと思いますよ。どう説明するかも問題ですけど、彼と話してる時間もありませんからね」入戸野さんに耳打ちする。
「だがいられたら困るでしょう」彼は僕を一瞥した。「知られるとまずいはずだ」
「わたしが引きつけておきます。瀬畑君も、それでいい?」
選択肢はない。飯塚さんを説得しようとすれば、それだけ爆弾を探す時間が減っていく。それならいっそ、言い方は悪いけど見張っているほうが良い。
僕は頷き、
「はい。お願いします」
「じゃ、そっちも頼むよ」
新留さんが飯塚さんに近づき、何事か声をかけて歩き出した。上手く誘導して、引き離してくれるようだ。僕は少し考え、なるべく遭遇しないようにと先に三階を調べることにした。入戸野さんがついてくる。
三階も、二階と同じような感じた。僕は部屋を移動するごとに、基点を決めて透過触覚を使っていく。その都度、集中するために明かりを消した。今のところ、おかしな点はない。
二部屋ほど回ったころだった。
「瀬畑君」渋い声で呼ばれた。
「はい?」
「君は、その……、第八号棟の患者なんだな?」
「そうですけど」
「先ほどから壁やら床に触っているのは、例の症状とやらを使っているわけか」
「ええ」
しゃがみっぱなしだったので腰が痛い。僕は伸びをしながら応えた。そういえば、透過触覚を使うのを見るのは初めてなのか。一ヶ月前の死体探しのとき、入戸野さんの前で使ったことはなかったから。
警部は僕のほうを見ながら、
「協力してもらっている最中におかしな話だが……、なぜそれを使おうとする?」
「どういうことですか?」
「つまり、協力を申し出てくれたのはどうしてか、と思ってな。無理強いしたつもりはなかったんだが、もしそう感じたのなら……」
「違いますよ」僕は苦笑した。「僕なら爆弾を探せるかも、というのは、自分から言ったことですから」
「そう、それだ。黙っていれば、症状のリスクを負うこともなかったんだろう? なのにどうして……」
僕は少し考え――結局、言えることは一つしかないなと結論を出した。次の部屋に向かいながら、
「たぶん、言っても分かりません」
「……そうか」
「でも、いつか分かってもらえたらいいな、とは思います」
それだけを告げた。
爆弾探しに戻る。不思議と、緊張感や恐怖心はない。透過触覚を使うのに、気兼ねする必要がないからだろうか。小部屋の中央で膝をつき、『手』を四方に延ばすときも、思考は驚くほどクリアだ。
頭の中にビルの構造を立体的に展開し、『手』で触れた部分に着色していく。透過触覚の性質からか、空間的なイメージは昔から得意なのだ。
壁、天井、床下。壁伝いに下に向かって『手』を動かしていると、たまに二階部分にまで届かせてしまうこともある。二階は二階でまとめてやろうと思っているので、そこは色を変えずに残す。
と――
(あれ?)
二階の壁に触れている途中、明らかにコンクリートではない感触に当たった。不審に思ってさらに『手』を進めてみるも、すぐに消えてしまう。
(あの二人のどちらかが壁に寄りかかってたのかな)
確かに、感触が変化した瞬間は、服と人肌に触れていたような感じだった。でもそのあとは。
僕は床から手を離し、自分の胸に触れた。目を瞑り、体内に向かって触覚を透過させる。皮膚。脂肪。筋肉。骨。内臓。血管。異様に細いのは神経だ。最終的に、ジャケットの背中まで進んで止まる。
やっぱり違う。さっき、一瞬だけ触れたときは、自分の躰で試したのとは別の何かに指先がかすったような――
「大丈夫か?」
いつの間にか、入戸野さんが隣にしゃがみ、こちらの背中に手を当てていた。どうしてそんなに心配そうなのかと考え、自分の姿勢に思い当たる。
うずくまって胸に手を当てていたら、具合が悪くなったと思うだろう。しかも透過触覚を使ったあとだ。さもありなん。
僕は床に置いていた懐中電灯を拾い、
「大丈夫です。ちょっと確かめただけで」立ち上がりながら答えた。
「何を?」
「説明しづらいですね……。僕の症状からお話ししないといけないですし」
「なら今はやめておこう」彼はあっさり引き下がった。「部屋はあとどれくらい残っていたかな」
「こっち側はここで終わりですね。あとは反対側に三部屋だったかな」
「もしかすると、そろそろ彼らが上がってくるかもしれない。そうしたらとりあえず下に行くのか?」
「そうですね。そのほうがいいと思います」
新留さんが上手く誘導してくれるなら同じ階にいても大丈夫だろうけど、万が一ということがある。
僕らはこれまで通ってきた部屋を逆に進んでいく。調べていたときは何ともなかったのに、戻るときは闇に包まれた部屋を不気味に感じた。人の気配がないので、余計に。
いや。
(人の気配?)
階段近くに誰かいる。かすかだけど、息遣いが聞こえた。
二階の二人が上がってきたのだろう。僕と入戸野さんは、その一部屋を通り抜け――
予想どおり、二人がそこにいた。
予想外にも、一人はナイフを手にしていた。
首筋にナイフを当てられた彼女は落ち着いた双眸を。
切っ先を揺らめかせる彼も、冷静な瞳を僕に向けていた。
予想外の事態に遭遇しても、意外と冷静さを保てるものだな、と頭のどこかが考えていた。いや、どこかが麻痺しているだけなのかもしれない。あるいは鈍いだけなのか。
とにかく、知り合いが知り合いにナイフを突きつけているという状況を見て、僕は全く取り乱さなかった。といって、気の利いたことが言えたりすぐに対応策を思いついたりしたわけではないのだけど。
二人は、階段を上がってすぐのところにいる。僕たちとの距離は三メートルほど。普通の人間には、相手に反応させず近づくのは無理そうだ。
僕は普通の人間ではないけれど、運動能力は平凡なものだ。動いた瞬間に気づかれるのがオチだろう。ひとまず、言葉で応酬するしかなさそうだ。
「どういうことだ、これは」
僕がぼんやりしている間にも、入戸野さんは交渉を始めていた。言葉を向ける先はもちろん、新留さんを盾にするように立たせている飯塚さんだ。いっそ不気味なほど、態度が落ち着いている。
彼はむしろ穏やかに微笑みながら、
「まあ、見てのとおりで。皆さんには人質になってもらいますよ」
「人質だと?」
「ええ。交渉の」
「何の交渉だ」
「我々の要求を叶えるための」
「……テロリストか」入戸野さんが呻いた。
「その呼ばれ方は好きじゃないですがね」
彼はナイフを持ったまま、器用に肩をすくめた。ナイフも揺れるけれど、新留さんは身動きしない。さすがに、相手の隙を衝いて拘束を抜けるのは無理だろう。
テロリストという単語から、トンネル事故のことを思い出した。入戸野さんの話によると、あれはそういうグループが起こした事件だったらしい。それと、今月半ばに爆弾テロを予告した犯行グループの一部が逮捕されたというラジオのニュース。あれを受けてのものか。
僕は心のどこかが麻痺したまま、交渉の傍観者を続ける。
「分かった」入戸野さんは落ち着いた口調で言った。「ひとまず、交渉のテーブルを用意しよう。その前に彼女を解放してくれ」
「いいでしょう」
彼はあっさり言って、新留さんからナイフを離した。背中を押されたのか、彼女がつまずくように前に――こちらに進む。
そのままさらに一歩踏み出し、僕たちと彼の中間で止まってから、新留さんは彼のほうを振り向いた。
「どうして放した?」
「あのまま捕まっていたほうが良かったんですか?」
「言葉遊びをするつもりはない。切り札は早めに見せてもらいたいな」
新留さんは、攻撃的な言い方をした。「切り札……?」と僕の隣で警部が呟く。
彼はすぐに目を見開いた。
「……まさか」
「残り四つの爆弾[#「残り四つの爆弾」に傍点]は見つかりましたか? 刑事さん」彼は微笑んだまま言った。「まあ、見つかってないですよね。刑事さんたちが探していたのはあくまで建物でしょう? 人は対象にしていませんよね」
言いながら、彼はファスナを下ろし、上着を広げた。
六月の末にしては、随分と厚着だ――爆弾を四つも身につけているというのは。
予告を成就する最後の鍵。破壊する力そのもの。麻痺した状態でも、これには驚いた。それが引き金となり、感情が激しく揺れ動く。
どうして飯塚さんが?/人質/交渉?/テロ=恐怖/見つからない爆弾/身につけた爆弾/探索中の不自然な感触/人の服と躰と――あれは爆弾か?/誰がどこでどうなっている?
ここまで混乱したのは久しぶりだ。動揺を鎮めようと、頭に右手を当て、
指先が頭蓋骨の中に侵入した。
制御を外れた透過触覚が、頭の中を物理的[#「物理的」に傍点]に動き回る感覚。
髪の中を――皮膚の隙間を――骨の内部を――脳を神経を血管を、自分自身の指が次々とかすめていく。
頭に付随する部分は、当然のように標的となった。視神経、眼球、瞼。鼓膜、耳小骨《じしょうこつ》、三半規管。鼻腔、口腔、舌。自分が何に触れているのか、全く把握できていない。
でたらめに動き回る指先は、触れた部分をかき回される錯覚を呼び起こす。
生理的な嫌悪感が、瞬間的に躰を動かした。
右手を頭から離し、逆の手に持った懐中電灯を全力で握る。呼吸をストップ。目を瞑り、一から十までをゆっくり数えた。
パニックが沈静化する。
息を止めていたせいで、頭がくらっとした。深呼吸。だいぶマシになる。
透過触覚の暴走は数分あった気がしたけれど、実際は数秒しか経っていないらしい。新留さんは、相変わらず僕たちと飯塚さんの間に立って彼のほうを向いている。
「まあ、言うまでもないと思いますがこれは四つとも爆弾です」彼は淡々と告げた。「同時に爆破すれば、この階が軽く吹き飛ぶくらいはあるそうです。もちろん、皆さんも死にます。それは憶えておいてください」
「分かった。だが、人質なら三人も要らないだろう。わたし以外の二人は民間人だ。ビルから出させてほしい」
「残念ながらそれはできません」にべもない返答だった。
「なぜだ? 言っておくが、この二人は本当に警察関係者ではないぞ」
「知っていますよ。しかし、我々が求めている『力』を手に入れるのに役立ちそうなので、今は手放せません」
「『力』だと?」
「そうです。たとえば――彼のような」
そう言って飯塚さんが指差したのは――
僕だった。
彼はナイフを揺らめかせ、
「トンネル事故のときはあえて言いませんでしたが、君、普通の人間じゃないですよね」確信的に言った。「そういう力がぜひ欲しいのですよ。まあ、君はどちらかというとついでで、本命は別にいるんですけど」
緊急用の電話を修理してもらったとき、僕は透過触覚で得た情報をそのまま伝えていた。あのときは単に信じてくれているのだと思っていたのだけれど……。
どうやら、そういうことらしい。思わず歯噛みする。
「僕は人間ですよ」
「でもただの人間じゃないでしょう? 分かっているんですよ、もう。君たちと警察との関係もね」
暗い中でも、新留さんの肩が揺れるのは見えた。もちろん、彼にも分かっただろう。
「過去、何回かしかありませんけど、時任病院の人が警察に協力していますね。どういう協力かまでは突き止められませんでしたが、秘密があることが分かれば充分です」
「彼に何か力があるとして、それを得てどうするつもりだ」入戸野さんの声は硬い。
「さあ。どういうものか知らないと、どうするか決められませんし。それに――言ったでしょう? 彼はあくまでついでです。本当に欲しい『力』の持ち主は別にいます」
彼は両手を肩の高さまで上げた。
「さて、お喋りはここまでにしましょう。そろそろテーブルを用意してくれますか? 外にいる警察も、異変に気づくころでしょうしね」
「待て。その前に二人の安全だけは――」
「勘違いしないでもらいましょうか」ぴしゃりと言った。「わたしが言ったテーブルというのは、対等の交渉するためのものじゃないんです。我々は常に要求する。この場においてもそうです。拒否権や選択肢は、そちらにはないんですよ」
上着の裾を揺らし、爆弾をちらつかせる。それを見て、入戸野さんは双眸を鋭く細めた。
新留さんはその場に立ったまま、こちらを振り返らない。
僕は――
ある種の諦観を抱いていた。
またか、と。
交渉――彼の言葉を使うなら『要求』――の場は、用意されて一分で畳まれた。
入戸野さんの携帯電話経由で県警とコンタクトした彼は、人質を解放する条件を一方的に告げた。条件というのは、逃走用の手段やお金といったもの。てっきり、仲間の解放を要求するものと思っていたけれど、その手のことは一切言わなかった。代わりとばかりに口にしたのは、短い一言だった。
僕には、その中に『巫部』という単語が聞こえた気がした。
胸がざわつく。だけど、尋ねることはできなかった。
電話のあと、僕たちは、三階の一室に閉じ込められることになった。といっても、縛られたり猿轡を噛まされたりはしていない。あまりうろうろするな(いや、「しないでください」)と言われているだけだ。携帯電話は奪われたけど、この状況では持っていてもあまり意味がない。もちろん、爆弾を抱えたテロリストを前に下手な動きをしようとは思わなかった。
僕は隙を見て、床伝いに透過触覚を使って爆弾が本物かどうかを調べてみた。空き箱をぶら下げているだけという可能性もあったからだ。
残念ながら、本物らしい。起爆装置っぽいものも見つけた。だけど、それを奪ったら終わりかどうか分からないので、口にするわけにはいかなかった。奥歯にスイッチがあって、それを押したら爆発、という可能性もないではない。
要するに、すぐさま身に危険が及ぶことはなさそうだけど、あっさり解放されることもなさそうな状況だった。電話の前に言っていたこと――僕が目的のために必要といった言葉――が本気なら、なおさらだ。
さっきから、入戸野さんの携帯電話が断続的に鳴っている。警察が交渉しようとしているのだろう。
けれど、飯塚さん――犯人は取ろうとしない。彼が求める答えはただ一つ、「要求を受け入れる」だけのはずだ。こんな短時間で叶うはずもないと分かっているのだろう。
犯人《かれ》も人質《ぼくたち》も、何も言わないまま数十分が過ぎた。沈黙に部屋の暗さがプラスされて、精神的にちょっとしたプレッシャだ。
「ええと、君、学生さん」
犯人が呼びかけてきたのは、そんなときだった。
「何ですか?」
「君の力というのは、結局どういうものなんですか?」
「言いたくないです」
「この状況でそう言えるとは、なかなかたいしたものですね」彼は苦笑した――らしい。暗くて見えないけど。「どうやら、物体の内部構造が分かるようなものらしいですが」
トンネル事故のときのことを考えれば、それくらいは予測できるはずだ。僕は肯定も否定もせず、無反応を貫いた。
「じゃあ、代わりに医者の先生に訊きましょう。時任病院には、彼のような力を持った人間がまだいるのでしょう? ほかにはどんな力があるんですか?」
「病院にいるのは医者と看護師と患者だけだ。超能力者はいない」
「では超能力という病気に罹った患者[#「超能力という病気に罹った患者」に傍点]はどうです?」
僕の隣で、新留さんが息を呑むのが分かった。気持ちは分かる。僕も似たような思いだからだ。
彼は――
感覚拡大症のことを知っているのか[#「感覚拡大症のことを知っているのか」に傍点]?
「時任病院は十年前から二年間、工事を行っていますね」口調を変えずに喋り出す。「表向きは老朽化した部分の改装ということになっていますが、それにしては期間が長すぎますし、搬入された資材も多い。工事を担当した会社もバラバラで、何が起きたのか調べきれないんですよ」
彼は、まるで事件の推理をする探偵のように喋っている。
「ところで、十年前というともう一つ、大きな事件が起きていますよね。あの大企業、カンナギを創設した巫部家の本家で起きた大量殺人事件です」
「殺人?」僕は思わず言葉を挟んだ。
「学生さんは知らないかな? 当時はかなりのニュースになったんですが、まあ若いですからね」
僕は半分、彼の話を聞いていなかった。十年前、巫部家で事件があったことは新留さんから聞いている。それが、彼女を束縛から解放したことも。だけど、殺人とまでは知らなかった。
今、僕の頭の中にあるのは、たった二つのことだけ。
巫部家の大量殺人事件。
巫部の姓を持つ少女。
彼女は、まさか――
「巫部本家の人間がお互いに殺し合った[#「巫部本家の人間がお互いに殺し合った」に傍点]という例の事件……生存者は何人かいますが、そのうちの一人は施設に預けられました。しかし、二年後から行方が知れません。施設を出たのは確からしいですが、ではどこに行ったのか」
暗闇の中でも、彼が笑ったのが分かった。
にんまり、と。
悪意たっぷりに。
「時任病院の工事と、巫部家の生き残り。何か関係があるんじゃないですか? 先生」
「……よくもまあ、べらべらと喋るな」新留さんは低い声で言った。
「イエスと考えていいんでしょうかね?」
「妄想にしては面白い。しかし、それだけいろいろ調べたなら、分かっているだろう? 時任病院に巫部姓の患者はいない。あんな事件があったから、いればすぐに気づく」
「では、さらに妄想してみましょうか。病院の工事で、隔離施設のようなものが造られた。巫部の生き残りはそこにいる、と」
「そんな施設もなかっただろう?」
「調べた限りでは」彼はあっさり肯定した。「しかし隠されている可能性は充分にあります」
「隠してどうする。巫部の人間であろうが、患者なら普通に受け入れるさ。そもそも巫部と時任病院に何か関係があるとして、どんな意味が――」
新留さんは言葉を切った。犯人が何かしたわけじゃなく、彼女が自分から口を閉じたような感じだった。ただでさえ険しい目つきが、眼鏡の奥で細くなる。
「まさか、お前は……」
新留さんの声にかぶり、着信音が響いた。床に置いた、交渉用の携帯電話だ。暗い中でいきなりこの音は、心臓に悪い。
彼は時間を計っていたのか、新留さんの言葉を無視して最初の通話から初めて電話に出た。
「もしもし」
『ようやく出てくれたか……。人質は無事か?』スピーカをONにしているらしく、警察側の声がノイズ混じりに聞こえる。
「無事ですよ。傷一つありません。……皆さん、一言ずつ喋ってください。証明したいので」
僕たちは順番に、無事であることを証言した。名前は最初の電話のときに伝えてある。彼はすぐに電話を引っ込め、
「というわけです。さっきから何度も電話をかけてきていますが、要求を受け入れる準備はできたんですか?」
『残念ながら時間がかかる。その間、そんなビルの中にずっといるのはつらいだろう。毛布や食料などを差し入れしたい。君が良くても、人質が――』
「要求を受け入れる態勢が整ったらまた連絡してください」抑揚のない声で、相手の言葉を遮る。「次に連絡してくるとき、引き延ばしを図ったら『無傷の人質』が一人いなくなります」
彼はまた一方的に通話を切った。携帯電話を床に投げ出す。
「すいませんね。食べ物なんかは欲しかったかもしれませんが、我慢してください」
誰も反応しなかった。少なくとも、その言葉には。
人質が複数いるというのは、そういう意味もあるのだ。人質が最低でも一人いれば、警察はおいそれと手が出せなくなる。民間人ならなおさらだ。
いきなり殺されることはないとしても、ではどうされるか分からない。指を切り落とすくらいは、彼の選択肢に入っているだろう。示威行為としては充分だ。
その上、一人の人間には指が二十本も生えているのである。
とはいえ、僕以外の二人が黙っているのは、そんな想像をして恐怖に怯えているからではなさそうだ。僕自身、ふと考えついたことがあって、それについて推測を重ねていたに過ぎない。
「一つ訊きたいことがある」しばらくして、新留さんが唐突に言った。
「どうぞ。黙ったままではお互い退屈ですからね」
「仮に、仮にだ。彼に何か特殊な力があったとしよう。――テロリストがなぜそんなものに興味を持つ? 病院の工事記録や巫部家の事件まで調べて」
「別に、学生さんの力が欲しいわけではありませんよ」犯人はあっさり言った。
「どういうことだ?」
「最初に言ったでしょう? 彼はあくまでついでです。本当に欲しいのは、もっと強力かつ有用な『力』ですよ」彼はうっすらと笑った。「――『巫の御子』。名前くらいは知ってるんじゃないですか?」
まただ。また、巫部のことを口にしている。さっきといい、今といい。
人の行動を予知するために創られ、使い潰されてきた子供たち。限られた範囲ではあっても、世界をコントロールする力だ。
「何のことだか分からないな」新留さんはかぶりを振った。
「巫部のことを調べれば、すぐに出てくる言葉ですよ」
「『|好奇心、猫を殺す《Curiosity killed the cat》』という諺を知っているか? 過ぎた詮索は身を滅ぼす。相手が巫部ならなおさらだ」
「確かに巫部家は、そのせいであんなことになったのかもしれませんね」
「何……?」新留さんが眉を顰めた。
「彼らは、私欲のためだけに『御子』の力を使った。だからあんなことになったんですよ。しかしわたしは違う。人類にとって理想的な世界を創るために、『御子』の力を借りようとしているだけです」
「お前にとって理想的な、だろう? その『御子』の力とやらが何なのか知らないが、ろくでもないものに決まっている。……ああ、巫部家の事件がそのために起きたというのは一理あるかもしれないな。核兵器と同じだ。――使えば、災厄しかもたらさない」
「核エネルギィは有効利用されていますよ」
「適切に運用している限りではな。力とはそもそもそういうものだ。お前があの巫部の事件のような損害を出さないとは、わたしにはとても思えない」
「それを言われると痛いですね」言いながらも、痛痒を感じていないような笑顔だ。「しかし、新世界を創ろうとするならば、犠牲は必要ですよ」
新留さんはせせら笑った。相手が自分を軟禁しているテロリストだという事実と関係なく、発言そのものを嘲るように。
「言うと思ったよ」すぐ真顔になる。「お前みたいな奴はそこらにごまんといる。自分にない力の持ち主がいると分かればそれを欲しがり、『犠牲はつきもの』と語る一方で自分は絶対に安全地帯を出ない。世界を創るといっても、要するに自分の[#「自分の」に傍点]安全地帯を広げるだけだろう? それこそ私欲の塊だ」
「人類にとって理想的な世界というのは、結局のところ全員の私欲が満たされた世界のことです。巫部家が擁していた『御子』がいれば、すべての私欲が分かるんですよ」
「『御子』自身の私欲もか?」新留さんは鋭く切り返した。「それとも、それも『必要な犠牲』というわけか。どちらにしても、わたしはそんなやり方で創られる世界が理想だとは絶対に思わないな」
「いずれ分かりますよ。どうするのがベストなのか」
「議論するだけ無駄か……」彼女はため息をついた。「なら永遠に理想を抱いていればいいさ。永遠に成就することのない理想を」
力の抜けたような呟き。けれどその奥に、僕は一つの決意を見た。
犯人の野望を阻止するという、強い意志。
そういうものに守られているのだと、僕はそのとき初めて気づいた。
犯人はさらに反論しようとしたのか、こちらに身を乗り出した。でも、それを止めるかのように、携帯電話が鳴った。
彼は舌打ちして、床に置いた電話のところに戻る。それを見ながら、今は何時ごろだろうと考えた。時間の感覚がいまいちはっきりしない。ここに閉じ込められてから何時間も経っているわけじゃないと思うけど……。
「もしもし」
『聞こえているか?』前回と同じ声だった。
「ええ、はっきりと」
『ては、まず人質の無事を確認させてほしい』
「疑い深いですねえ。要求を受け入れる準備ができたのなら、真っ先にそう言ってください。こちらもだんだん焦れてきてますから、何をするか分かりませんよ」
束の間、電話の向こうが沈黙した。
嫌な予感がする。同じように感じているのか、左右の二人が緊張に身を固めるのを感じた。
「聞こえてますか?」
『あ、ああ』声が揺れる。『……すまないが、もう少し時間がかかりそうなんだ。あと一時間もらえれば、色よい返事をすると約束する。だから――』
「駄目だ!」入戸野さんが叫んだ。「その先は言うな!」
最後は、もはや絶叫になっていた。おかげで、僕には相手が何を言ったか聞き取れない。
でも、携帯電話を持つ犯人には、はっきりと聞こえたようだった。
気配が変わる。
後戻りを許さない、冷厳な気配に。
「そうですか」平坦な声だった。「分かりました。では、こちらはこちらで『約束』を果たします」
『待――』
通話が切れた。
犯人が、携帯電話を静かに置く。
その手が次に持つものが何か、分かり過ぎるほど分かっていた。
「さて」
口調は変わらない。
一歩、近づいてくる。
「警察にも困りましたね。どこまで本気か、分かっていないんでしょうか」
二歩。
ランタンの光に、何かがきらめく。
「だったら、分かってもらうしかありませんね」
曲線を描く金属の輪郭。
三歩目。
「教えてあげてくれますか? 医者の先生」
四歩目で、彼は新留さんを射程に収めた。
入戸野さんが身を起こすのを、気配で悟る。
「待て。二人には手を出すな!」
「刑事を相手にしようと思うほど馬鹿ではないのでね」彼は微動だにしない。「ああ、今のところそっちの二人を殺すつもりはありませんが、下手に動かれると手元が狂ってどうなるか分かりませんよ」
「……本当にそうですか?」
僕の呟きには、犯人も反応した。目つきを変えず、こちらを見下ろしてくる。
「どういうことですか?」
「僕たちを殺してしまう可能性があるような言い方をしましたけど、本当に死んでしまったらまずいんじゃないですか? 少なくとも、今はまだ」
「なぜそう思うんです?」
「ただのテロリストなら、警察に電話したときに出した要求に仲間の解放を組み込むはずだと思っています。でも、そんなことは一言も言わなかった。じゃあ、電話の前にちらっと言ったように僕が狙いなのかと考えましたけど、それだと不自然なんです。本当に僕だけを手に入れるのが目的なら、学校帰りにでも拉致すれば済む話です。犯罪の宣言をして、実際に爆弾を仕掛けるなんて大がかりなことをするより、はるかに簡単なはずです」
「なるほど。そうかもしれませんね」軽く揶揄するような口調だった。
僕は相手の態度を無視して、「それに、気になっていることもあります」
「何ですか?」
「医者の先生」僕は短く答えた。「最初から、彼女をずっとそう呼んでいますよね。どうしてですか? 二階にいるときに聞いた、というのはなしです。ビルに入ってきたとき、彼女を医者と呼んでいましたから」
「あのトンネルの中で聞いたんですよ」
「嘘ですね。彼女は事故の直後から、荷物を運んだり状況を調べたりと、ずっと動いていた。その間、職業のことで誰かと喋る余裕があったとは思えません。僕が起きたあとも、そんな会話はしていませんでした。ということは、彼女が医者であることを最初から知っていた[#「最初から知っていた」に傍点]と考えるしかないんです」
「ほう、それなりに考えているようですね。それで?」無感情に促してくる。
「気になっていることはもう一つあります。なぜあの場所でテロを起こしたのか[#「なぜあの場所でテロを起こしたのか」に傍点]。これは警察も疑問に思っていることです。山道を一つ封鎖したところで、テロに効果的とは思えません。でも……、人質に、意味があったとしたら」
「……まさか」入戸野さんが息を呑む気配を感じる。
「さっき、トンネルの中で僕に目をつけて、それから時任病院を調べ始めた、みたいな言い方をしてましたけど……、本当は、その前から調べていたんじゃないですか? さっき話していたような考えを本気で実践しようと考えているなら、僕を知る前から、巫部家のことを探っていたはずです。そうやっていろいろ調査を進めていくうちに時任病院に辿り着き、そこで働いている彼女を連れ出そうとして、トンネルを封鎖した。あのバスは予約制だから、事前に彼女の予定を知ることはできます」
「……よくそこまで考えましたね」彼は一瞬だけ笑った。すぐ無表情に戻る。「それ以上は、もう言わなくていいですよ」
そう言って、彼はまた新留さんを見下ろした。もはや、僕でさえ眼中にない。
新留さんは静かに、彼を見上げている。
不意に気づいた。
こんなとき、反論しない新留さんじゃないはずだ。あるいはブラフでも、相手がためらいそうなことを――武道の達人だとか武器を隠し持っているとか――言うだろう。なのに黙っている。なぜか?
決まっている。受け入れる覚悟を決めているからだ。
なぜなら、そうしないと僕に切っ先が向くかもしれないから。
たとえはったりであっても、犯人は僕に害をなす可能性を示唆した。最悪の場合、殺すことも。僕の見立てが正しければ、少なくとも殺されることはないはずだけど、実際どうなるかはそのときになってみないと分からない。
だから、新留さんは受け入れようとしている。
患者である僕を、守るために。
……駄目なのか?
僕は何もできないのか?
犯人が言うように、僕には常人にないものがある。でも、それはこんなときに誰かを助けられるものじゃない。ただ、物体の中を触れるだけのものだ。
そんなものに、何の意味がある?
絶望と無力感で、何も見えない。
それなのに、新留さんと彼女に向いたナイフだけは、はっきりと瞳に映った。
躰から力が抜ける。
後ろで誰かが動く気配がする。でも、確実に遅い。
このまま、彼女は、
僕は、
何もしないまま/何もできないまま、
ただ、その結果を受け入れるしか――
「そんなことはないわ」
ありえない声が聞こえた。
一瞬、幻聴かと疑う。
急速に回復する視界。引かれるナイフと髪を翻す新留さん。
入戸野さんが息を呑む気配。
誰もが、部屋の入り口を見た。
すべての視線の先に――
闇に溶ける漆黒のセーラ服をまとった、小柄な少女の姿があった。
そして僕の目は、巫部梓の双眸を映す。
*   *   *
ゴーグルを外せるのは、人がいないときに限られる。正確には、ゴーグルを取っても穏やかでいられるのは、だ。以前と違い、幻視が発現した状態でも多少は平静を保てるようになったとはいえ、長くは続かない。
梓は部屋に備え付けのシャワーを浴び、着替えたところだった。月末の検診があった日は、疲れがあるので早く寝ることにしている。髪を念入りに乾かし、寝る前に整えようとしたところで、ノックが聞こえた。
夜になると、たまに誰かが様子を見に来ることがある。誰かといっても、ここ数年は二人しかいない。篠原悠佑と新留紗織。患者はもちろん、その二人以外の医者は、彼女に関わろうとしないからだ。
検診のときの事務的な対応を思い出しかけ、慌てて頭を振る。椅子に座ったままドアのほうに背を向け、「どうぞ」と声をかけた。
「夜遅くにごめん、梓ちゃん」
篠原だった。梓は彼に背を向けて髪を梳《す》きながら、
「別にいいけど、どうしたの?」
「いや、様子はどうかなって。今日は疲れただろうし」
「別に。疲れはしたけど、もう慣れたわ。――八年もいるんだし」
「そっか。もう八年にもなるのか……」
感慨深そうに言っているが、彼が普段からその数字を数えていないはずがない。しかし、梓は黙っていた。それくらいの分別は身につけているのだ。
梓は目を瞑り、少しだけ振り向いた。
「最近は、ここが家みたいに感じる」
「だとしたら、僕はどういう立場なのかな。君のお兄さん?」
「お父さんって言ったらショック?」
「さすがにね」苦笑する気配。
「紗織さんはお姉さんかしら」
「それは分かる気がするなあ」
「彼は……」顔を正面に戻し、髪の手入れを再開する。「友達、かな」
「瀬畑君のこと? 彼とは上手くやってる?」
「まあまあね」
これまで、その「まあまあ」すらいなかったことを考えれば、最上級の評価である。梓はそれを自覚していながら、どうとも訂正しなかった。
事実だからだ。
疲れからか時間帯のせいか、頭が少しぼんやりする。
だから、
「最初から、こんな家に生まれれば良かった……」
そう、言ってしまった。
十年前に育った家。
巫部という一族。
そこで与えられた、自分の役割。
だが、その役割がなければ、この場所を得ることはなかったのだ。
篠原や、紗織や、彼と出会うことも。
だとしたら、感謝すべきなのだろうか?
自動人形の働きに。
自分を傀儡《くぐつ》に仕立てた、あの連中に――
無機質な電子音が、眠りの世界に入りかけていた梓の意識を現実に引き戻した。曖昧な思考も、一瞬で霧散する。
何を考えていたのか、もう、思い出せない。
わずかに不愉快な気分だけが残っていた。
電子音は、篠原のPHSの着信音らしい。マナーモードに切り替えるのを忘れていたのだろう。ポケットから慌てて取り出す様子が、衣擦れの音で分かる。
「はい、篠原です。今は梓ちゃんの……え?」
緊張。
動揺。
その気配が伝わってくる。
梓は手を止めた。ゆっくりと立ち上がる。
「あの二人が……?」
振り向いた。
瞼を上げる。
篠原が目を見開くが、もう遅い。
しまった、という思考が視えた。
電話で伝えられた内容も。
梓は目を開けたまま、ベッドサイドのゴーグルを手にした。
視るべきときは、今じゃない。
長い黒髪は、部屋にわだかまる暗闇と服との境界を曖昧にしている。その中でも際立っているのは、黒に縁取られた白い容貌だった。細い眉。吊り目気味の双眸。まっすぐに通った鼻筋の下、引き結ばれた朱唇。
彼女は、完全に素顔をさらしていた。瞼を軽く伏せ、半眼で僕たち全員を視ている。
その姿が何を意味しているのか、僕と新留さんだけは分かる。
だけど、梓がここにいることは、にわかに信じられなかった。八年間、第八号棟から一歩も外に出ることがなかった彼女だ。それなのにどうして――
「やっと来たか」
犯人が、静かに声を放った。ナイフの切っ先は、依然として新留さんに向けられたままだ。鋭い刃を見つめながら、新留さんが静かに眼鏡を取る。
犯人のその言葉で、僕は確信した。たぶん、新留さんもだろう。
確信したのは――この事件の真相。
警察に最初の電話をかけたときから、胸をざわつかせていた予感。それが今、心を揺さぶる爆弾となって居座っている。
犯人が胸に抱いているものと違い、すぐにでも爆発しそうだ。
(こいつは……)十年前、あんなことがあったというのに。(まだ梓を……)
立ち上がりかけた瞬間、梓は犯人の言葉を無視して、僕に顔を向けた。少しだけ瞼を上げる。
視られた。
僕は彼女のように、相手の思考を読めるわけじゃない。それでも、目を見て分かった。
彼女は――
助けに来たのだ。
思い当たると同時に、梓はかすかに頷いた。やはりそうか。
梓が助けに来た、という事実は、なぜかすんなり受け入れることができた。自惚れや信頼とは違う。梓ならそうすると、直観的に分かったのだ。
逆の立場なら、僕だって同じことをするだろう。
同じ拡大症の患者だから? 違う。
もっと、シンプルな理由。
人間として[#「人間として」に傍点]、普遍的な感情。想い。
それが、体を動かす。
拡大症の患者であるかどうかなんて、関係ない。
それが分かった途端、僕の中に生じた爆弾は、すぐに解体された。
「待っていたよ。警察に焦らされた甲斐もあったというものだな」犯人の口調はやや高揚していた。「ご覧のとおり、二人は無事だ。安心したかね?」
もはや決定的だった。犯人にとって、僕と新留さんは餌だったということが。
巫部梓――否、『巫の御子』を釣るための、撒き餌。
梓は彼を視た。軽く息を吐く。
震えていた。
それはそうだろう。医者と患者以外の人物に会うのは、八年ぶりなのだ。まして、相手がテロリストだと知らないわけがない。加えて、彼女の症状はコントロールできないのだ。だからこそ、普段はゴーグルで身を守っている。
梓が平静を保てているのは、自制心を最大限に働かせているからだ。少しでも弱さを見せれば、一瞬で瓦解するだろう。
だけど、それは覚悟していたはず。
その証拠に、梓は彼の顔を直視している。
彼女の唇が、開いた。
「……嫌味な喋り方をするわね、××××」
嫌悪感を隠さない言葉の最後に、何か人名を口にした。僕の知らない名前だ。
反応は劇的だった。犯人は切っ先を新留さんから外し、梓のほうに向ける。
「――なぜその名前を知っている!」
「人に名前を訊くときは――と言うでしょう? そっちが名乗る手間を省いただけ」梓は硬い声で応じた。
「なぜ……その名前を……」
「わたしが知っているのはそれだけじゃない。年齢や出身地、これまでの経歴、すべて分かるわ。今、何を考えているかも」
「何だと……」犯人は呻《うめ》き、信じられない、とでも言うようにかぶりを振った。「ありえない。お前にそこまでの『力』はないはず……」
「それを知っているということは、よほど後ろ暗い人生を歩いてきたらしいわね」梓は眉を顰めた。「殺人、強盗、放火、爆弾テロも計画だけならいくつも練ってきた。ただし今回はテロじゃないわね。わたしを手に入れることが目当てで、もともとグループのアジトだった[#「もともとグループのアジトだった」に傍点]このビルを利用した、と」
「もともとアジトだった?」入戸野さんが反復した。
「どういう計画でこの騒ぎを起こしたのか、わたしにはすべて分かっているわ」梓は目を糸のように細めた。「……爆弾を仕掛けたと宣言し、それをあえて処理させることで、このビルの近くに少数の警察しか残らないように仕向ける。タイミングを見て警察に接近し、どうにかしてビルに入る。ああ、彼らがいなければ、強引に押し入ろうとしていたみたいね。そうすれば、警察の誰かは追わざるをえないから」
梓は、僕がこれまで聞いたことがないほど無感情に言葉を並べている。人形のように、と表現するのは失礼だろうか。
いや、彼女は今、あえて人形になっているのかもしれない。
自分を守るために、感情を捨てて。
唇が、機械的に開閉する。
「そのあとは人質を取って、逃げるための手段を警察に要求する。仲間が捕まった以上、自分も時間の問題だと考えたんでしょう? でも計画はまだ終わりじゃない。もう一つの目的を達する必要があった。それが――わたし」
梓が、僕と新留さんを一瞥した。無機質な視線。抑制の証。
「爆弾のことを警察に知らせたのは、わたしを呼ぶ餌としての彼らをここに来させるためでもあった。……へえ、そのために、わざわざ『警察では見つけられない』とまで言ったのね。そうすれば、壁の中を探れる彼を警察が呼ぶと計算して。爆弾の数のことも、残り四発についてそこの刑事さんにわざわざ教えたのも、すべては今のこの状況を作り出すためだった」
彼はトンネルでの出来事から、僕の症状がどういうものかある程度は予想できている。それに、警察が第八号棟の患者――第八号棟とまでは知らないとしても――に協力を仰ぐことがあると知ってもいた。
僕が第八号棟、あるいは時任病院と関わりがあることまで突き止めているかどうかは分からない。ただ、トンネルから脱出したあと、僕は医者である新留さんと二人で姿を消している。以前から時任病院の秘密を知っていたのなら、それと僕を結びつけたとしてもおかしくはない。
実際、警察は僕を呼んだ。到着前に爆弾の大半が見つかったから出番がなくなったと思ったけど、結局、爆弾探しのためにビルに入ることになった。僕は、犯人のお膳立てにまんまと引っかかってしまったというわけだ。
梓は軽く息をついた。白く細い喉が上下に動く。
彼女の言葉――つまり犯人の思考を消化していると、一つの疑問が浮上してきた。反射的に口を開く。
「もしかして、事件を今日起こしたのは、僕たちが一緒に帰る日だったから?」
梓は犯人を一瞥し、「そうよ。どうやら、時任病院の監視役がいたみたいね。それも――そう、トンネル事故の直後から。だから、貴方たち二人が一緒に帰ることがあると確信できていた」梓は目を細める。「最初は、もっと大勢で誘拐する予定だったのね。でも、その矢先に仲間が先走ってグループが逮捕されてしまったから、計画の変更を迫られた。その仲間というのが、トンネル事件のときに一緒だった女性。自分が捕まるわけにはいかなかった彼にとって、アジトのビルがここにあることは幸いだった。貴方たちの帰り道とほとんど重なるから」
テログループが逮捕されてから練った計画にしては、変な表現だけど上手くできている。不確定要素が多く危険だったとはいえ、成功したときのメリットは大きい。すべての懸案を一気に解決できるからだ。
彼の誤算はただ一つ、梓が『巫の御子』よりも遥かに強力な読心を行えるようになっていたこと。
彼女の前では、どんな隠し事もできないのだから。
梓は少しだけ目を瞑った。
瞼を上げたとき、そこにいたのは僕が知っている梓だった。
さっきまでの、人形のような彼女ではなく。
「反論があるならどうぞ」
「これが『御子』の力か……!」
犯人は、忌々しそうに、それでいて歓喜しているような声で呟いた。
彼はまだ、自分のミスに気づいていない。
巫部に伝わる秘密――『巫の御子』と、感覚拡大症に由来する梓の幻視とは、根本的に異なる。
前者は、さまざまな方法で精度を高めているとはいえ、結局は『想像』に過ぎない。あるいは再現と言い換えることもできるだろうか。つまり、同じ人間が同じ状況に置かれたら同じことを考えるはずだ、という理屈に従ったコピィ行動。
後者は違う。梓の眼は、他人の思考を、その人物にとっての真実をダイレクトに読む。そこに間違いはありえない。しかも、幻視の場合は下準備が何も要らない。完全に初対面の相手でも、視れば見えるのだ。
ただし、どちらであろうが当人がリスクを負うという点で共通している。その力を利用しようとする連中が、周りに存在していることも。
そう、ちょうど、この事件の犯人のように。
彼が、梓の幻視について知っているとは思えない。でも、拡大症に関する知識が多少あるらしいことは、新留さんとの会話から推測できる。巫部家の事件と第八号棟の関連を疑っているくらいだから、梓と拡大症を結びつけていてもおかしくないかもしれない。
いや、そんなことはどうでも良い。
重要なのは、理由や目的がどうであれ梓を利用しようとしていることだ。
十年前に起きた殺人事件で、解放された彼女を。
それだけは許せなかった。
何とか、状況を打破できないかと周りを観察してみる。新留さんは、梓が姿を見せたときこそ驚いていたものの、それ以降は態度を変えていない。梓と犯人を見ながら、いつでも動けるように腰を浮かせている。ナイフを突きつけられていたときといい、つくづく剛胆な人だ。呼吸を乱している様子もない。
入戸野さんも同じく、全身に緊張をみなぎらせている。両手を開いたり閉じたりして、機を窺っているようだ。
そして梓は、一瞬だけ全員から目を逸らすように顔を伏せた。
「やっぱりそれが狙いなのね。……もう、終わったことだと思っていたのに」
「本当に、『御子』に会うことができるとは……」犯人はやや興奮気味に言った。「素晴らしい。これこそ理想を築く礎となるべき『力』だ」
「勘違いしないでほしいわね。わたしがここに来たのは、大切な人たちを取り戻すためよ。貴方の理想なんて知らないわ」梓の口調は鋭い。
「我々の理想については、これからゆっくり教えてやる。そこの二人が一緒でも構わないぞ。お前が来てくれるのなら」さっきから、彼の態度はがらりと変わっている。こちらが本性なのだろう。
「下手な誘い方ね。それに――」梓は、瞬間的に僕を一瞥したようだった。「わたしはもう、かなり理想的な世界を手に入れたから」
思わず、名前を呼んでしまいそうになる。普段は決して明かすことのない『真実』を語る、彼女の名を。
梓にとって理想的な世界というのがどういうものか、具体的には分からない。今の、第八号棟での日々がそれにどれだけ近いのかも。だけど、これだけは言える。
巫部家での境遇も、テロリストに利用されることも、彼女は望んでいないということだ。
「違うな。そんな理想はまやかしだ」犯人が断定的に言う。「お前は、幻を視ているに過ぎない」
「そうかもしれないわね」ため息。視線が揺れていた。「でも……」さっきとは違った意味で、抑揚のない喋り方。「触れることができれば、一時的にでも相手との距離を、孤独を埋めることができるのよ……」
声の震えは、だんだん大きくなっている。平静を装ってはいるけれど、そろそろ限界に近いのが口調から分かった。会話も微妙に噛み合っていない。
無理もない。八年ぶりに外に出て、幻視を解放しつつテロリストと対面し、今もなお思考を視続けている。視ているのは彼だけじゃない。僕や新留さん、入戸野さんも視界に入っているのだ。暗闇とはいえ、現実の風景と重なった四人分の思考を視ていることになる。耐えられるものじゃないだろう。
どうすれば良い?
梓が僕たちを助けに来てくれたのだということは、僕の中では確信どころか真実だ。ただ、彼女一人で僕たちを助け出すつもりだとまでは考えていない。仮に梓がそのつもりでも、可能だとはとても思えなかった。
ならば、今度はこちらが助ける番だ。梓に何もかもを任せるわけにはいかない。
そのためには――
考えた瞬間、梓は虚勢を張るように腕組みした。それは実際、虚勢だったのかもしれない。でも一瞬、僕のほうを見て、犯人から死角になる脇腹のあたりを指先でタップする。
意味を理解した。床に手を置き、透過触覚を使う。梓まで五メートルほど。高低差をプラスしても、充分に届く。
彼女が上着の下に隠しているのは、缶コーヒーに形もサイズもそっくりの何かだった。それだけでは、正体は分からない。
でも、梓はちゃんと僕にだけは分かる仕掛けを施してくれていた。表面に、不自然な凹凸がある。
厚みのあるインクで書かれた、数文字のアルファベット。
FLASH
形とその文字で、正体は掴んだ。このご時世だ、僕だって大きな事件があれば少しくらいニュースを観るし、面白そうな特集なら目を通すこともある。
あれは、今回みたいに人質がいる状況で、相手を殺さずに無力化するためのものだ。強い光や音を発し、見当識《けんとうしき》を失わせる非殺傷兵器。
(……閃光弾《フラッシュバン》)
この暗さの中では、犯人に対して絶大な効果を発揮するに違いない。
もちろん、それは人質である僕たちも同じだ。全員、目は暗さに慣れきっている。閃光弾を使えば、誰もが視界を封じられるだろう。
でも、見えなくても状況を知ることが、僕だけは可能だ。
距離を超えて触れられる、僕には。
梓の狙いはそこにある。
正解とばかりに、彼女はまた小さく頷いた。
……問題は、僕がそれを実行できるかどうかだ。ただの物体ならともかく、人体に対して透過触覚を使うことに、僕はかなりの抵抗を持っている。自分の躰くらいは耐えられても、他人のとなると透過触覚を使いながら冷静に行動できるか分からない。でも、やるしかない。今さら泣き言はなしだ。
やり取りを見ていたらしい新留さんが、僕を振り向いて顔を強張らせる。やめろ、危険だと、表情が雄弁に語っていた。
今回ばかりは、従うわけにはいかなかった。僕はかぶりを振る。せめて決意は分かってほしいと、真剣に見つめ返して。
新留さんは、わずかな間、瞑目した。
瞼を上げたとき、彼女は口の端を上げた。
微笑み、梓に目を向ける。あとはやるだけだ。
梓は、最後の力を振り絞る感じで、まっすぐな視線を犯人に突き刺した。
「そろそろお喋りは終わりにしましょうか。あとは警察に任せることにするわ」
「できるものならやってみ――」
梓が動いた。
上着の裾を跳ね上げ、閃光弾を掴む。
自然な動きで、床に放る。
金属音。
僕は身を起こし、新留さんの頭を抱える。
梓は相手を油断させ続けるためか、犯人を見たままだ。
もう、互いを見る必要はない。
僕は目を瞑る。
閃光。
瞼を下ろしていても、目が痛くなるほどの光を感じる。これで、犯人の視界はほぼ殺されたはず。
同時に透過触覚。嫌悪感をねじ伏せながら、犯人の位置と姿勢を認識。咄嗟に目を庇ったらしいけど、見えているとは思えない。
新留さんから離れ、床を蹴る。
犯人に駆け寄り、透過触覚で知った手首の位置にパンチ。
手応えあり。ナイフが落ちる音がする。
さらにタックル。触覚を延ばしつつ上着のポケットに手をねじ込み、起爆装置らしきものを奪い取る。
お腹に衝撃。膝で蹴られた。
息が詰まる。耐えられないほどじゃない。相手の体勢から、寸前に察知済みだ。
勢いを弱めず、相手を床に倒し、肩の上に膝を落とす。
奪い取ったスイッチを床に転がし、その手で三度目の透過触覚。
探ったのは口の位置だ。そこに、ポケットから出したハンカチを押し込んだ。
「刑事さん!」叫ぶ。
犯人が暴れる。下半身はフリーだから、反動を使って僕を跳ね飛ばそうとしている。
何か叫んでいるようだけど、ハンカチで口が塞がっているせいで、唸り声にしか聞こえない。
その動きもあって、躰の下にいるのが人間とは思えなかった。まるで獣だ。
必死で抑え込む。透過触覚が暴走しているのか、自分の感覚は滅茶苦茶だ。
現実感が希薄になる。
自分が曖昧になっていく。
だけど、ここで犯人を自由にしたら、全員が死んでしまうかもしれない。
僕だけじゃなく、新留さんも、入戸野さんも――梓も。
それだけは、絶対に許してはならない。
だから僕は、全力を注ぎ続ける。
制御を外れた『手』が、犯人を、床を、床に立つ人々を、このビルを撫でていき――僕の意識は、そこで途切れた。
最初に見えたのは、灰色の天井だった。
目覚めは良いほうの僕も、すぐには自分がどこにいるか分からなかった。というより、いつの間に寝ていたのかが判然としない。夢を見ていた記憶はないけど、これがその続きだと言われたら信じてしまいそうだ。
夢中夢、というやつの可能性を考えてみる。何のドラマもない夢。平和で退屈な非現実。
ぼんやりしているうちに、だんだんいろいろなことを思い出した。爆弾が仕掛けられたビル。爆弾探索の依頼。テロリストに閉じ込められ、梓が来て――
そうだ、あのあとどうなったんだろう。
僕は跳ね起きた。どれくらい横になっていたのか、少し頭がくらっとする。首を何度かスイングさせると、いつもどおりに血が巡るようになった。
灰色に見えた天井は、もともと白いらしい。天井だけでなく、壁も床も。寝ている自分にかかっていたシーツまでとなると、ちょっと病的かもしれない。服装は意識が断絶する前と同じで、それだけが白くなかった。少しほっとする。
周りが白く見えないのは、明かりが消えているからだ。少なくともこの部屋の照明は。右手の壁の奥側は通路になっていて、その先は薄ぼんやりとオレンジ色に光っている。
窓はなく、例の通路がある右側を除く三面はすべてフラットな壁だ。その構図に既視感。ベッドと通路の位置関係といい、真っ白な部屋といい、ここはたぶん、
「第八号棟……?」
呟いたつもりだけど、喉が渇いていてかすれ声にしかならなかった。いきなり喋ったせいで、少し咳き込む。
部屋の明かりが点いたのは、そんなときだった。反射的に目を瞑る。周り全部が白いので、眩しさはかなり強烈だ。
視界を光に塗り潰された僕の耳に、ぱたぱたという軽い音が聞こえる。足音。通路のほうから誰かが近づいてくる。
かろうじて細目を開けるのと、
巫部梓がベッドに両手を叩きつけるのはほとんど同時だった。
「明珠!」
「梓?」
何かおかしいな、と思いつつ名前を呼んでみるけど、さっきと同じでまともな声にならない。喉が、溶けて癒着したゴムになったような感覚だ。咳をしてもあまり変化がない。この渇き具合からすると、一晩くらいは眠っていたようだ。
首筋を押さえていると、回復した視界の隅に水の入ったコップが現れた。それを握る指、手首、セーラ服に包まれた腕、と辿っていく。
終点に、ゴーグルをつけた梓の顔があった。小さな顎の上で、薄い唇が一文字に結ばれている。
何を緊張しているんだか、と苦笑したいのを堪え、ありがたくコップを受け取った。まず一口、それから一息に飲み干す。
「――ふう」
「もう一杯、飲む?」
「うん、もらうよ」
コップを返すと、梓はベッドの下にしゃがみ、すぐに立ち上がった。また水で満たされたコップを握っている。……もしかして、水差しを床に直置きしているのだろうか。
よく冷えた水をちびちび飲んでいると、梓が何か言いたそうに僕を見ていた。相変わらずゴーグルで見えないものの、たぶん間違いない。
躰の前で指を絡ませ、もじもじしていたら誰だって分かる。やっぱり、このへんは子供っぽいのかな、と実年齢を忘れて考えてみた。
「――何?」今度は苦笑を隠しきれなかったらしく、梓が眉を顰めたのが刺々しい口調から分かった。
「いや、何か言いたそうだなって」
「別に、言いたいことなんて何もないわよ」
「じゃあ、先にこっちから訊かせてもらおうかな。――あのあと、どうなったの?」
犯人を押さえ込んでいるところまでしか、僕の記憶にはない。こうして生きているということは、無事に解決したのだと思ってはいるけれど。
ゴーグルを付けているにも拘わらず、幻視を使ったかのように梓は頷いた。
「刑事さんが取り押さえてくれたわ。爆弾もちゃんと取り外して、誰も怪我一つなく済んだみたい。ああ、一人だけ無事じゃなかった人がいたけど、今はこうしてちゃんと喋れているから問題なし」最後は、梓にしては珍しく婉曲な皮肉だった。
「ここは第八号棟?」
「わたしの部屋の隣よ」
「なるほど」僕は腕組みしながら頷き、「で、梓は何が言いたいの?」
「…………、だから、言いたいことなんてないって」
「そう? さっき、僕の呼び方を変えたのはそういうことだったんじゃないかって少し期待したんだけど……」
「あっ、れはその、何ていうか……」
「ん?」
我ながら意地悪だと思いながらしつこく追及すると、梓はどこからか引っ張り出してきた椅子に勢いよく腰掛けた。
「だって、もうわたしの正体は知られたようなものだし、いつまでもわたしだけ名字で呼ぶのも違う気がするし」あからさまにふて腐れた口調だった。
「関係あるかなあ、その二つ」
「いいの、関係なくても」
「それに正体って言われても、まだ分からない部分はあるし」
「それだけでも充分なの。それに、あれだけ知ったあとなら篠原さんも紗織さんも話してくれるはずよ」
「梓は?」
「わたしは……」彼女は少し口ごもり、「やっぱり、わたしから言わなきゃ駄目?」
「できればね。梓のことだから、梓から聞きたい」
それに、梓はああ言ったけど、篠原さんや新留さんが話してくれるかどうかは疑問が残る。それこそ、梓が「話してあげて」と頼みでもしない限り、口を割らなさそうだ。
梓はまたもじもじし始めた。話そうか迷っているというより、どう話そうか考えているようだ。焦ることはない。僕はその間に、ベッドサイドに置かれていた自分の携帯電話を回収した。時刻を確認。そろそろ夜明け、といった頃合いだった。
やっぱり、一晩近く眠っていたようだ。梓が現場に現れたのが何時ごろか分からないけど、日付が変わってからということはないだろう。だとすれば、まだ数時間前のことだ。それなのに、新留さんとドライブしたのが、もう遠い昔のように思える。
両親に、事件のことは伝わっているんだろうか。たぶん知っているだろう。
事故に遭ったことも含めて、二ヶ月以内に二度も心配させてしまった。自分が原因ではないとはいえ、少し申し訳ない気もする。トンネル事故はともかく、昨夜のことは自分から関わろうとした面も多少はあるし……。
そんなことを、つらつらと考える。
やがて、覚悟を決めたような気配がした。梓のほうを見る。
彼女はゆっくりと、ゴーグルを外すところだった。
見るのは四度目になる、梓の素顔。ただし、今度はしっかりと目を瞑っている。
梓はゴーグルを膝の上に置き、閉ざした瞼を僕に向けた。
「せば……」口ごもる。「……明珠は、巫部のことをどこまで知ってるの?」
「それほどは知らないよ。カンナギを創立した一族ってことくらい。あとは……」
「十年前の殺人事件」
幻視を使わなくても、僕が言い淀んだ理由は分かったらしい。見えないと分かっていながら、僕は頷いた。
「事件の内容とか原因については?」
「それは知らない。でも……、その事件のあとから、梓が道具扱いされなくなったっていうことは新留さんから聞いた」
「『巫の御子』」
僕は頷いた。
それで何か確認でも終わったのか、梓は「よし」と小さく呟いた。
「二つだけ、約束してほしいことがあるの」
「何?」
「一つは、これから話すことは誰にも言わないでってこと。篠原さんや紗織さんは知ってるからいいけど、それ以外で誰が知ってるかわたしにも分からないから、ほかの人がいるところでは話題にしないで」
「分かった。絶対に言わない」
もう一つは、と促すと、梓は曖昧にかぶりを振った。
「話し終わってから言う」
「それでいいの?」
「そうしないと駄目なの」
よく分からないけど、梓がそう言うのならそうなんだろう。
僕は力を抜いて、壁に背を預けた。顔を傾け、梓の横顔を眺める。
薄い唇が、開いた。
自我を削り、代わりに別人の情報を得て、さらに当人を観察することによって読心能力を得た子供――『巫の御子』。
巫部家が生み出した、呪いの武器。
その成果は、今のカンナギを見れば分かる。多方面に手を出し、そのすべてで成果を上げているのは、経営陣の手腕が優れていたからだろう。でもそれだけじゃない。成長に必要な情報を事前に掴んできたからこそ、カンナギはほかに類を見ない発展を遂げてきたのだ。
梓は物心ついたときから『御子』として仕込まれ、実際に成果を上げていた。もっとも、そのころ既に業界では敵なしだったカンナギは、もう『御子』の力を使う機会も減っていたらしい。梓が自我を保っていられたのは、それが理由だろう。人の思考をトレースする回数が少なかったのだ。
だから、誰も気づかなかった。
梓も、『御子』の機能を与えられたがゆえに、最後の瞬間まで分からなかったに違いない。
自分が、本当に心を読めるようになったことに。
感覚拡大症、『幻視』の発症である。
「あの日のことは、今でもよく憶えてる」目を瞑ったまま、彼女は夢を見ているような口調で語った。「人に会うたび、わけの分からないものが視えるの。文字だったり、何かのイメージだったりすることが多かったけど、たまに抽象的な模様が視えることもあった。そのときは、相手の思考だって気づかなかったわ。でも、わたしには何か分からないことでも、気づいたことはすべて言うように父親に言われていたから、わたしはそのとおりにした」
組織が順調に成り立っている時期、注意すべき相手は外よりもむしろ内にいる。巫部家の人々は、それがよく分かっていたらしい。梓が発症する前後、彼女は身内に対しても『御子』の力が使えるよう、さまざまな情報を与えられていたそうだ。当主からだけでなく、本家の乗っ取りを画策する分家の人間からさえも。
だから、ソースが『御子』の機能であれ幻視であれ、梓が口にすることはそのとき彼女が対峙した相手の思考であると誰もが考えた。その中には、当主や嫡子、当主の正妻を暗殺して巫部家を自分の手中に収めようとする計画もあったのだ。
その結果――
「気づいたときには、家の中は血の海になっていた」
梓は、いつの間にか目を開けていた。僕を見てはいない。何かを視ているかどうかさえ、怪しい。
宇宙のような黒さと深海のような暗さを同居させた双眸を見開き、その縁《ふち》から、静かに涙を流していた。
「そのとき、自分がどうして殺されなかったのか今でも不思議なの。元凶はわたしのはずなのに。みんな、疑心暗鬼に陥ってそれどころじゃなかったのかもしれない。わたしの周りで嵐が起きているみたいだった。何かが強く暴れるたびに、生温かくて赤いものが、わたしの躰を染めた。わたしは――ずっと、立ち尽くしてた。嵐の中で」
「……そのあとは?」僕は控えめに口を挟んだ。
「誰かが通報したみたいで、しばらくすると警察が来たわ。わたしは保護されて、施設に入れられた。二年くらい、そこにいたのかな。その間、家のことは一切知らされなかった。わたしも知ろうとはしなかったし」
「それで、八年前にここに来たんだ」
梓はただ、黙って頷いた。
「第八号棟が設立されたのは、その事件があったから?」
「たぶん、そうだと思う。あとになって調べてみたんだけど、表向き、事件のことは強盗殺人ということになっていたわ。いくら巫部家の力でも、あれだけの事件に干渉できるとは思えないから、情報操作があったとすれば、やったのは国でしょうね。――拡大症患者を、隠しておくために」
「梓がここにいることは、その、家には知られてるの?」
「どうかな」梓はまた目を伏せ、髪を払った。「知っている人は知っている、といったところじゃないかしら。ここに来るまで、わたしがどこにいたかは調べれば分かるはずだし。第八号棟のことを含めて知っているのは、そんなに多くないと思うけど」
「誰か来ることはなかったの?」
「誰が?」梓は嘲るように笑った。――自分と、僕に対して。「誰も来るはずがない。わたしは忌子《いみご》だから、関われば相手を不幸にする。そうしないように頑張っても、わたしの眼は、視たくないものまで見えてしまうから」
「……僕も?」
「え?」
「僕も不幸になると思う? 梓と関わることで」
「…………、分からない。これまで篠原さんが患者を連れてきたことは何回もあったけど、みんな三回も会えばもう来なくなった。でも明珠は――いつも、会いに来てくれる。だから、どうなるか分からない」
「それって、梓が来させないようにしてたんじゃないの?」僕は静かに指摘した。
「だって、どうすればいいの?」乾きかけた涙を拭う。「幻視のことを教えた子もいたわ。その子は二度と来なくなった。そんなことをされて平気でいられるほど、わたしは強くない」
深い慟哭が見える。強い孤独を感じる。ここに来るまで、自分を剥奪され続けた少女の隔絶感。
人の思考を読む行為は、一種の侵略だ。心を犯すことだ。だけどそれで傷つくのは、読まれた側だけじゃない。他人の心に入ることは、自分を傷つけることと同じだ。梓もまた、制御できない自分の症状に苦しんでいる。
感覚拡大症。
相対する相手と自分、互いの精神に闇を落とす呪い。
でも――
「僕は、梓に会えて良かったよ」
「え……」
「実を言うとさ。僕は、ここに通院することが決まってからずっと不安だったんだ。透過触覚のことは前から自覚していたけど、それが病気だって言われて、リスクについても聞いて。梓に会ってくれって言われたときも、期待ばかりじゃなかった」精一杯の微笑みを見せる。「だけど、梓と会ったとき、安心したよ。上手く言えないけど……、拡大症を抱えていても大丈夫だって、そんな気がした。第八号棟に来るたびに会おうとしたのは、もしかするとその安心感を得たかったのかもしれない」
「でもわたし、制御できないのよ?」
「あ、そういうことじゃなくて。何ていうかな、うん、普通な感じがしたんだよ。悪い意味じゃなくてね。悩みはあるし、苦しいこともあるけど――僕が知ってるクラスメイトたちと、そういう姿は同じに見えた」
梓は、なぜか呆然と僕を見ている。僕はその双眸を、真摯に見つめ返した。
「それで思ったんだ。僕たちが拡大症の患者であることは、今さら否定できることじゃないけど、だからって『普通の人と違う』なんて思い込まなくてもいいんだって。特殊な立場ではあっても、特別な人間じゃない。僕たちも、周りのみんなと同じように生きている、人間なんだから」
梓は、なおも僕をまじまじと見つめてくる。なんとなく気恥ずかしくなって、苦笑に切り替えた。
「だから、会えて良かったなって。まあ、そういうこと」
どういうことか自分でもよく分からないまま、強引にまとめた。
梓はしばらく、黙ってうつむいていた。長い髪が垂れ、顔を隠す。
それも、長くはない。
再び顔を上げた梓は、うっすらと笑っていた。
「そう」目を瞑る。「分かったわ」
真意が伝わったのかどうか、それは分からない。梓になら分かるかもしれないけど、それを確かめるために彼女が幻視を使うことはないだろう。
それで良い。
人と人との距離は、もともと埋められないものだ。僕の透過触覚をもってしても、隔たりを消すことはできない。自分の中にある何か一つでも、百パーセント完璧に受け取ってもらえることなどありえないのだ。
誤解や齟齬は、いつだって互いの間に横たわっている。それを埋められるかどうかは、付き合いを続けなければ分からない。
透過触覚がなくても、
幻視がなくても、
僕には、二本の手がある。
梓には、二つの目がある。
それで触れ、見れば良い。それだけの話だ。
誰もがやっているように。
とにかくこれで、ほとんどの謎は解けた。あと、疑問があるとすれば一つだけ。
「梓」
彼女の名を呼んだ。
「もう一つの約束って、何?」
話の前に口にしたことだ。一つは口外法度。もう一つは――
梓は何度か瞬きすると、なぜか慌てた様子でゴーグルをつけた。さっきまでの忘我状態はなかったかのような態度だ。
とことん怪しい仕種で、ゴーグルの具合を確かめたり髪を整えたりしている。
それを見ただけで、僕には彼女がどういうことを言おうとしているか想像できた。
梓には悪いけど――たぶん、とても微笑ましいことだ。
ただ、僕にとっても嫌じゃない。それどころか、きっと嬉しいこと。
ゴーグルをつけた理由も分かった。自分の発言に、僕がどう答えるか――いや、僕が答えながら何を考えるか、知るのが怖いから。
梓にしか分からない恐怖。だけど、気が小さいと笑うことはない。むしろ、可愛いところもあるんだな、と思う。
今の梓は、これまでに見た中で一番、女の子らしい。
だから、僕は苦労して笑顔を隠した。拗ねられては困る。
幸い、ゴーグルをつけて幻視を封じた梓は、狙いどおり僕の心中を読めなかった。わざとらしく咳払いして、ゴーグルがあっても分かるくらい赤くなった顔をこちらに向ける。
「あのね」
「うん」
「あのね――」
もちろん僕は、その『約束』を果たすことにした。
エピローグ
温暖化のせいか知らないけど、ここ数年は梅雨らしい梅雨がない。というのに、降るときには降るものだった。湿度の高さもあって、七月の雨の日はじとじとして気分が滅入る。雨自体は嫌いではない僕でも、この気候で爽快な気分にはなれない。
とはいえ、ずっと屋内にいる人にはあまり気にならないらしい。じっとりした服に辟易しながら新留さんの部屋に入ったとき、彼女はからっとした顔で煙草を吸っていた。確かに、第八号棟の空調は相当に行き届いている。
「ああ、やっぱ雨降ってきた?」吸い殻の山に煙草を突っ込みながら、新留さんが言った。
「朝はまだ降ってませんでしたっけ?」
「ぎりぎりね。今にも降りそうな天気だったけど」
もっとも、新留さんはクルマで通勤しているから天気はあまり関係ないだろう。少なくとも、僕みたいに濡れることは気にしなくて済む。
用意していたタオルで湿り気を取っていると、横合いから封筒が差し出された。僕はタオルを首にかけ、それを受け取る。
県警の封筒だった。宛先の住所は第八号棟だけど、名前は僕宛になっている。
「何です、これ」
「剃刀レター」
「……本気で何ですか?」
「え? 知らないの?」
「ええ」
剃刀で作った手紙だろうか。……どんな手紙だ。
何かショックを受けたようにぶつぶつ呟く新留さんを尻目に、僕は封筒を開けた。中にはB5サイズの紙が一枚入っているだけだ。
「感謝状の贈呈……?」目に留まった文字を口に出す。
「ほら、例の爆弾騒ぎのときに犯人を取り押さえたでしょ」復活した新留さんが解説してくれる。「その功績に対する感謝ってこと。もちろん、受け取るかどうかは本人の自由だけどね」
「これ、受け取っちゃってもいいんですか?」
「ここの患者なのにってこと? ホントはあんまり良くないけど、内密のことだから。欲しければもらってもいいよ」
「内密って?」紙を封筒に戻しながら尋ねる。
「拡大症のことは、警察でもごく一部しか知らないからね。知らない人を集めて贈呈式やるわけにはいかないんだよ」新しい煙草を一本抜き出す。「ただ、感謝状そのものは正式なものを作るだろうから、受け取ることにしたら誰かにあの事件の裏事情を怪しまれる可能性が……まあ、ほんのわずかとはいえ出てくる。そこをちょっと考えておいてねってこと」
「なるほど。……まあ、もらうつもりはないですけど」
「あれ? そうなの?」火を点けようとした手を止め、新留さんが瞬きする。
「なんで意外そうなんですか?」
「その年頃なら、もっと自己顕示欲があってもおかしくないと思って」
「拡大症の患者が自己顕示しちゃったらまずいじゃないですか……」
「いやあ、これくらいならいいと思うけどね」
眼鏡のレンズを拭きながら、他人事みたいに宣う新留さんだった。本当に医者か?
改めて感謝状の受け取りを拒否してから、五月に受けた検査の結果が一部出たというので、その説明を受ける。基本的に、透過触覚の効果に関するデータだった。スペック表とでもいうのか、具体的にどこまでできてどこからできないのかが細かくまとめられている。
大体のことは既に分かっていたけれど――何しろ自分の症状だ――、再確認できたのは幸いだ。
話は数分で終わった。コーヒーメーカのスイッチを入れた新留さんを見て、まだ時間がありそうだと判断。事件のことを訊いてみる。
「あの爆弾事件って、今はどうなってるんですか?」
「わたしも事後報告は詳しく聞いてないけど、犯人が逮捕されたテログループの仲間だって証拠が見つかったみたいね」
「じゃあ、もうちゃんと解決しそうなんですね」
「らしいね。安心した?」
「ええ」
「そう」にっこり。「じゃあ、今度は君が安心させてきなさい」
「え?」
「こっちが呼ばないからって、先週はここに来なかったでしょ。不安で不安で仕方ないって思ってるはずだけど」
「新留さんがですか?」
「馬鹿者」ストレートだった。「お姫様だよ」
まあ、言われなくても主語は分かっていた。僕はコーヒーも飲ませてもらえないまま、部屋を出た。
例のソファで、篠原さんと遭遇した。ここで会うことが多いと、部屋をもらえていないんじゃないかと勘繰ってしまう。さすがにそれはないと思いつつ。
「やあ」相変わらず柔和な微笑だった。「久しぶりだね、瀬畑君」
「はい。ご無沙汰してます」
「事件のときは大変だったみたいだね。怪我もなかったみたいで何よりだよ」
「精神的にはかなりプレッシャでしたけど」
「さすがにそうだろうなあ。家の人も心配しただろう?」
「まあ、そうですね」
実際はかなりまずかった。何しろ僕は、以前も誘拐されているのだ。本当は隠しておきたかったけど、犯人と警察が交渉中に名乗らされた段階で、家には連絡が行ってしまっていた。
それにしても、両親があれほど安否を気遣ってくるとは思っていなかった。拡大症や第八号棟のことを隠し通せたのは、我ながら奇跡に近い。
だけど、少し嬉しくもある。
普段は放任同然だけど、僕のことを子供として見てくれているんだって。
「あの、ところで篠原さん」
「ん?」
「梓に訊いてもいいんですけど……、新留さんや僕が人質にされたことを、彼女はどうやって知ったんですか?」
「ああ……、それねえ」彼はため息をついた。「結果的には助かったんだから良しとするべきなのかもしれないけど、あれは僕のせいなんだよ」
あの夜、梓の部屋でどういうやり取りがあったかを聞いて、僕は困惑した。
「梓にしては行動が早いですね」
「そうだね。事情を知った直後に『わたしも行く』って言い出すとは思わなかったよ。あれほど外に出たがらなかったのにね」篠原さんは微笑を復活させた。「これも、瀬畑君のおかげかな?」
僕はそれには答えず、挨拶の言葉を残して再び足を動かした。
向かう先は、もちろん決まっている。
会ったとき、彼女は何て言うだろう?
「待ってた」? たぶん、それはない。
「よく来てくれたわね。お茶を出すわ」? もっとありえない。
どうせ、素直な言葉は聞けないだろう。
まあ良い。覚悟の上だ。
なぜなら、僕は約束を果たしに来たのだから。
――今度、モンブラン買ってきてくれる?
(断る言葉は、見つからないよな)
僕はドアをノックし、返事を聞いてから開いた。
通路を進み、部屋に入る。
視線の先には、椅子に腰掛ける一人の少女。
「ようこそ、明珠」
隠れ身の姫は、そう言って笑う。
カクレナイヒメ(隠れないのが普通か?)
(あとがきでネタバレしても、特に楽しいことはないなと最近気づきました)
確か今年の二月くらいですが、打ち合わせのため担当和田・小原《こばら》両氏と会ったときのことでした。
既にメールでの話し合い(?)は何度かしていて、そろそろ詰めに入るので……ということで実際会って話すことになったのです。お互い原稿を前にして、さあ打ち合わせを始めようかというところで、和田氏が口を開きました。
「いやあ、まさか佐竹さんがツンデレを書くとは思いませんでしたよ」
耳を疑いました。
ツンデレ? それはあの「現実に存在すると嫌われそうなキャラ属性ナンバ・ワン」と言われる(言われるか?)ツンデレのことか?
思わず「誰のことですか」と訊き返しそうになりましたが、思い当たりがありすぎるキャラクタが一人いたので、その名前を出しました。当たりでした。今さら「そんなつもりで書いたわけじゃないんですけど」などと言ったところで「またまた」と返されそうな気がしまくっていたので半笑いでその場を凌ぎました。
…………ちくせう。
というわけで。
本作『カクレヒメ』は、佐竹|彬《あきら》初の「萌えキャラが登場する作品」となりました。僕自身、現実でもフィクションでも、属性やタイプ、ジャンルといった「カテゴリそのもの」に惹かれるということがほとんどないので、これまでキャラクタ類型を意識して書いたことがなかったのですが、まさかこんなところで経験することになるとは思ってもみませんでした。
全く考えたことがなかったかというとそういうわけではないのですが、天邪鬼なので類型があれば外したくなるのです。デレのない、最後までツンだけのキャラとか(それは単なる「嫌な奴」では?)。しかし、今回はそういうことになりました。
おまけに前述の打ち合わせの話には続きがあって、回数を重ねるごとに「もっと恥ずかしく書いてください」「もうちょっと可愛さが欲しいですね」「パソコンの前で赤面するくらいの勢いで」とオーダを受け、泣く泣く従った佐竹です。従いきれたかどうかは、また別の問題ですが。
最後のほうになると、指摘を受ける事柄の半分がそのキャラクタ関連のものになりました。いえ、決してツンデレ関連に限ったことばかりではなかったのですが、そのキャラを書くときはやたらと神経質になってしまい、「こいつの可能性はまだこんなもんじゃないぜ!」などとやりすぎなくらい書き換えてしまったような気がしてなりません。
まあ、「あの程度でツンデレと称するなど片腹痛いわ!(戦国武将っぽく)」とか言われる可能性もまだありますが、それはそれで望むところです。
いっそ、最後にデレずドライになるキャラとかどうでしょうか。属性名称は「ツンドラ」とか。寒いぞ!(永久凍土《ツンドラ》だけに←もうやめろ!)
イラストについて。
今回は草野《くさの》ほうきさんに描いていただきました。あとがきを書いている時点で、表紙や口絵などはまだ見ていません。が、過去の作品に関してはサイトで拝見しました。読者の方々は、もちろん表紙その他でご覧になっていることでしょう。お分かりのように、非常に可愛らしいイラストをお描きになります。
なのに。
なのに、です。
ヒロインの設定があんなのですみません。
担当両氏からも言われてはいたんですよ。「これはイラストにしたとき可愛くできるんだろうか」と。極めて構造的な問題で、どうにもならないとしたら百パーセント作者である僕のせいです。「なんでこんな設定に!」と詰め寄られたら「ごめんなさい」としか言えませんすみません。
いや、でもほら、ね? 人って、知覚・認識できないものにこそ惹かれるとか言うじゃないですか。お化けとか魔法とか天使とか悪魔とか運命とか神様とか(スケールでかすぎ)。だから良いかなって思……ごめんなさい。
一応、少しは何とかしようとは思いました。担当さんにも訊きました。「変えたほうがいいですか?」すると答へて曰く(古文)「それはこっちで考えますから、佐竹さんはもっと恥ずかし(以下略)」と言われたのでした。
そんな感じで、この作品はできあがりました。次はもっと短いスパンで出せるよう頑張りたいと思います。終わり。
二〇〇八年五月 不発の黄金週間明け   佐竹彬
二〇〇八年七月十日 初版発行
[090314]