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新任警部補
佐竹一彦
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一
捜査本部には電話番の制服警官が一人いるだけで、他には誰もいなかった。
殺人事件が発生してから、ちょうど一週間。捜査は難航し、早くも長期化する様相を呈していた。気の早い記者たちの間で囁《ささや》かれ始めたお宮入り≠ニいう噂《うわさ》に、まなじりを決した捜査員たちは、連日、早春の街を徘徊《はいかい》していたのである。
その捜査本部の片隅で、県警捜査一課の松本警部補は、たて続けに煙草《たばこ》を吹かしながら、責任者の現れるのを待っていた。事件発生と同時に捜査本部入りしていた同じ捜査一課の警部補が、突然、過労で倒れ、松本はその代役というわけだった。
急な指名に戸惑いつつ、取るものも取りあえず乗り込んだものの、松本を受け入れる立場の人物は、ことごとく席を外していた。よろしく、と手を差し出されるまでは部外者である。松本は机の上の灰皿を手元に引き寄せ、立ちのぼる煙の行方を見つめながら、責任者の現れるのを待っていた。
捜査本部といっても、そこは特別室でも会議室でもなかった。署の講堂をロッカーで仕切っただけの、殺風景な部屋である。狭い割りには、やたらに天井だけが高く、まるで倉庫のようだった。
そんな急ごしらえの捜査本部には、一輪|挿《ざ》しの花もなく、どこを見ても、粗雑で落ち着きのない雰囲気に包まれていた。デスクと呼ぶに相応《ふさわ》しい机は窓際に二つ置いてあるだけで、一つは捜査一課から派遣された責任者用。そして、もう一つは所轄署の代表者用のものだった。
八十名に近い外回りの捜査員に対しては、安っぽい共用の代用机が準備されているだけだった。長机を二つ合わせ、それを二列に全部で八組並べただけの簡単なもので、引き出しもなく、ミニカレンダーや捜査員名簿を挟み込むビニールシートもない。椅子《いす》は運びやすい折り畳み式のスチールパイプ製だった。
しかし、この一見、貧弱で冷淡と思える待遇は、選《え》り抜きの捜査員を軽視しているわけではなく、また、乏しい予算のしわ寄せのせいでもない。
捜査本部は、形式的には一時的な仮の体制であるべきで、決して長引くことを前提にしてはならないという不文律がある。入口に白木の立派な看板を掲げないことも、会議の昼食に麺類《ナガシヤリ》を避けることも、長引くことを恐れた縁起担ぎなのだ。
まだ、荷解きもしていない引っ越し直後のような、雑然とした居心地の悪さ――。それが、捜査本部独特の雰囲気である。
「ご覧になりますか?」
鼻唄まじりに靴を磨いていた電話番が、気を利かせてスクラップブックを差し出した。表紙に報道関係資料、とある。中を開くと、事件に関する新聞記事の切り抜きが貼《は》りつけてあった。
「ありがとう」
車に置いてきた文庫本を取りに行くかどうか、迷っていたところだった。松本は早速、その記事に目を注いだ。
――三月八日付 朝刊――
不動産夫婦 殺される
―居直り強盗の仕業か?―
七日午後四時ころ、深井市青葉台一丁目十一番七号 不動産業|丹羽《にわ》静夫さん(57)と、妻春子さん(54)が、自宅十畳間で血まみれになって殺害されているのを、帰宅した一人娘の芳江《よしえ》さん(27)と、知人の男性(30)が発見、一一〇番通報した。深井署の調べによると、二人は胸や腹など数ヵ所を刃物のようなもので刺されており、出血死らしい。同署では殺人事件として県警捜査一課の応援を求め、捜査に乗り出した。この日、丹羽さん一家は揃《そろ》って外出し、丹羽さん夫婦だけが一足先に帰宅した。同署では、@内から鍵《かぎ》のかかった家の中で殺害されている。A各部屋がかなり物色されている。B被害者は外出着のまま殺害されている――などから、丹羽さん夫婦は留守中に侵入していた空き巣犯に出くわし、殺害されたという見方を強めている。
丹羽さんは三〇年前から、JR深井駅前で不動産業を一人で経営、従業員はいない。現場は、深井駅から北東に一キロの閑静な住宅街で、丹羽さん方は道路に面した場所にあったが、悲鳴などに気づいた住民はいなかったという。
――三月十日付 夕刊――
顔見知りの可能性も
―深井市の夫婦殺し―
七日に発生した、深井市青葉台一丁目十一番七号 不動産業丹羽静夫さん(57)と、妻春子さん(54)が殺された事件で、被害者には、それぞれ十数ヵ所の切り傷刺し傷のあったことが、深井署特搜本部の九日までの捜査で明らかになった。また、当初、奪われていたと思われていた銀行振込用の現金三百万円については、すでに五日に振り込まれていることが、銀行関係者の証言で判明した。
こうした状況から、同本部では、盗みを目的として侵入した者の犯行の可能性もあるが、恨みによる犯行の線も捨てきれないとして、両面で捜査している。
全国五紙と地方二紙。どれを見ても、その内容は大同小異だった。並べて読むと、全紙とも警察側の発表を、そのまま掲載していることがわかる。
電話番の心遣いも、ほんの数分だけ松本の退屈を紛らしただけだった。こんな場合、まともな捜査官なら、ロッカー内に収納されている事件記録や捜査会議録を閲覧したがるものである。しかし、この時の松本には殺人事件も、まだ対岸の火事のような遠い存在だった。
確かに、松本は捜査一課に籍を置く警部補だったが、生え抜きのベテランでも、所轄から引き抜かれた腕利きでもなかった。人事記録の勤務経歴欄には、十年間にわたって総務部教養課勤務、とある。しかも、二度の昇任後、異動した形跡はない。
つまり、松本は警察学校を卒業して間もなく、その特殊技能を見いだされ、以来、一般の警察官とは異なる勤務に服していた。ある時は外国人被疑者や被害者の通訳。またある時は、国内で発行されている英字紙や、英文雑誌の警察関連記事を翻訳し、関係部局に配付する――。それが松本に課せられた任務だった。
最初は不本意だった通訳の仕事も、時がたつにつれ、次第に慣れて行った。余程のことがない限り、残業も、真夜中の呼び出しもないし、給料も他の警察官と変わりがない。その恵まれた環境が昇進試験にも幸いしたと言える。
そして、二年前に結婚し、現在、妻は妊娠六ヵ月。平凡だが、松本は自分の人生に満足していた。
だが、日本社会の急速な国際化は、当然のことながら、松本にも影響を与えた。外国人の増加によって、通訳担当者の需要が増加し、その結果、外事警察部門はもちろん、捜査部門にも語学の堪能な職員が配置されるようになった。
松本もその一人だった。上司から内示を受けた時、軽い気持ちで承諾した。部署が変わっても、仕事の内容は同じだろうと思ったからだ。実際、着任してから、松本のもとに捜査実務に関わる仕事が舞い込むことはなかった。予想していた通り、部署が変わり、肩書が変わっても、仕事の内容が変わることはなかった。
しかし、それは戦場における一時的な休戦状態のようなものだった。戦闘が再開され、戦況が悪化すれば、新兵であろうが、炊事兵であろうが、兵隊と名のつくものは全て、最前線に送り込まれるという戦場の現実を予想していなかっただけのことだ。
松本は、ある日突然、その戦場の真っ只中《ただなか》へ放り出された。
二
「よぉ、とうとう来たか」
背後で聞き覚えのある声がした。振り返ると、捜査一課の石川警部が立っていた。松本は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。だが、その頭を上げる前に、
「小林君を呼んでくれ」
石川は電話番に声をかけながら、窓寄りの席に向かっていた。
石川は、三十年前に巡査を拝命してから今日まで、一貫して捜査畑を歩いてきた超ベテランである。タヌキ、というあだ名の他に、一課の生き字引、という異名を持っていた。
「まぁ、その辺にかけてくれ。今、相棒が来る」
石川はネクタイをゆるめ、シャツの第一ボタンを外した。松本は石川の前に椅子《いす》を据え、一礼してから腰を下ろした。
「一課の仕事は気に入ったかい?」
石川が煙草《たばこ》に火をつけながら尋ねた。松本は返す言葉に窮した。着任以来、通訳や翻訳の仕事を除けば、内部資料の作成と印刷、そして、その配付くらいのものだ。石川がそれを知らないはずはない。
松本が口ごもっていると、
「はっきり言わせてもらうが、捜査一課の警部補ともなれば、誰もが、捜査のベテランかスペシャリスト、と思い込む。だが、君の場合、そのどっちでもない。捜査経験の乏しい警部補を捜査本部入りさせることには、俺は反対したんだ。君自身のためにもね」
「…………」
「だが、一課勤務の他の警部補は、公判準備とか、特命捜査とやらに従事していて、どうしても手が放せないというし、編成の慣例を無視すると、何だかんだと、その筋がうるさい。だから、やむを得ず同意したんだ。君がヘマをすれば、一課の質も地に落ちた、と、俺たちまでがバカにされる。その辺のところを肝に銘じて、慎重に行動してくれ」
石川は念を押すように言った。
「わかっています……」
松本は伏し目がちにうなずいた。
「相棒の小林君は、階級は君より下だが、捜査経験においては問題にならないくらい上の上だ。まぁ、相棒というより、指導教官だと思って付き合うことだな」
「はい。上司からも、そう言われています……」
と、消え入りそうな声で答えると、
「ところで、事件のあらましは、もう承知だろう?」
石川が本題に入った。
「はい。一応は」
「はっきり言って、手こずっている。初動捜査の時からケチがついているんだ。俺の経験から言って、こういう場合は、かなり苦労することになる」
石川は渋い顔で言った。そして、
「松本君は資料室の事件記録で、迷宮入りの事件を研究しているという噂《うわさ》だからな。それに、一応、れっきとした捜査一課員だ。一つ、生の研究材料を提供して、ご意見を拝聴しようか……」
と言いながら、石川は机の引き出しに手を伸ばした。
確かに、何度か記録室に入って、古い事件記録に目を通し、担当者に質問したことはある。しかし、それは警察学校の教官に勧められてしたことだった。物珍しさも手伝い、一時期熱中したが、やがて、記録には結果しか記載されていないことに気づき、興味を失った。最近では、仕事以外で資料室に入ることはなくなっている。
「今までいろんな事件現場を見てきたが、こんなのは初めてだ。きっと、気に入ってくれると思うよ」
石川は書類|綴《つづ》りを取り出し、頁を繰った。やがて、その手を止めると、
「検証の結果を見る限り、犯人は煙のごとく消えている。透明人間か、幽霊の仕業ということになるな」
と言いながら、書類綴りを両手で押し広げ、松本に向けて差し出した。犯行現場の見取図だった。
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「被害者の一家が家を留守にしたのは、一人娘の見合いのためなんだ。花婿候補側と一緒に昼飯を食ってから、両親は隣町のデパートへ買い物に行く予定だったらしい。娘の方は男と、どこかへ行って、ざっくばらんな話をする、というのが、一般的な見合いの段取りだ。つまり、双方とも帰宅は夕方になると考えていた。半日も家が留守になるってんで、きちんと戸締りして出かけたそうだ」
「…………」
「ところが、見合いが終わる頃になると、朝からチラついていた雪が本降りになっていた。そのせいかどうかわからんが、丹羽夫妻は真っ直《す》ぐに帰宅している。そこで、侵入していた犯人《ホシ》と鉢合わせしたというわけだ。死亡推定時刻は午後一時から午後三時。死因は二人とも失血死。凶器は発見されていないが、薄身の刃物《ヒカリモノ》と思われる」
「…………」
「その二時間後、今度は娘が、男に連れられて帰宅した。この辺のしきたりじゃ、男は手|土産《みやげ》を持って、娘を両親に送り届けることになっているらしい。二人はガレージの車を見て、両親がすでに帰宅していることを知り、玄関のドアに手をかけた。ところが、玄関のドアには鍵《かぎ》がかかっていた。娘は鍵を取り出して、ドアを開けようとしたんだが、何と、ドアチェーンがかかっていたそうだ」
「ドアチェーン、ですか?」
「そうだ。娘はすぐ犬走り[#「犬走り」に傍点]、これは家の直近のコンクリートの部分を言うんだが、その犬走りを伝って、家の周りを回った。ドアチェーンがかかっているということは、当然、他の出入口から外へ出たということになる。だが、どこも開いてなかったそうだ」
「密室、というわけですか?」
松本が笑って見せると、
「ほう……。この話をして笑ったのは、君が初めてだよ」
石川は不快そうに口元を歪《ゆが》ませた。
「まぁ、最後まで聞くだけは聞いてくれ。現実の捜査は警察学校の想定問題みたいに、全部、答の出るものばかりじゃない。犯人は挙がっても、疑問が残ることは珍しくないんだ」
「すみません……」
松本は頭を下げた。石川はことさら、大きな咳払《せきばら》いをして痰《たん》をきってから、
「娘が苦労しているのを見て、男が、僕がやってみましょう、と騎士の役をかって出た。雪は止んでいたが、風が出てきていて、身を切るような寒さだったそうだ。男として、年頃の娘を放り出して、帰るわけにはいかなかったんだろう。そんなわけで、今度は男を連れて、家の周りを回った。サッシ戸はもちろん、便所の高窓まで、人の出入りできそうな場所を押したり引いたりしてみたが、やはり、中には入れなかったそうだ。残る方法はただ一つ。車の中からペンチを持ってきて、ドアチェーンを切り、やっと、中へ入ったというわけだ」
「…………」
やはり、密室じゃないか、と松本は思った。それを意識したのか、
「さて、ここからが本題だ」
石川の声に力がこもった。
「ドアチェーンを切って、玄関に入った二人は、上がり框《がまち》に母親のハンドバッグが投げ出されているのを発見した。娘は不審に思い、男を玄関に待たせたまま、家の中を調べると、中廊下に母親、十畳間に父親がそれぞれうつ伏せに倒れ、辺りは血の海だ。娘は悲鳴を上げて、その場に失神。その声を聞いて上がりこんだ男も、かなり動転したようだが、辛うじて持ちこたえ、すぐ居間の電話で一一〇番通報をした。そして、警官の指示に従い、娘を抱いて自分の車まで運び、介抱していると、十五分弱でパトカーが到着した。この間、玄関を出入りした者は二人以外にはいない。ところが、到着した警官が家の各部屋を調べてみると、何と、八畳間、これは娘の部屋なんだが、そこのサッシ戸が五十センチほど開いていた……」
と言って、石川は松本を見つめた。何らかの発言を求めているような目だった。
「発見時のどさくさで、誰かが開けてしまったんじゃないですか?」
松本は敢《あ》えて単純な答を選んだ。石川の機嫌を損ねたくなかったからである。案の定、
「となると、立派な密室殺人ということになるぞ?」
石川はニヤリと笑ってから、
「だが、違う。最初に臨場した警官というのが、つい一ヵ月ほど前に、捜査講習を首席で修了したという刑事候補生で、現場保存については、教本通り対処している。つまり、経歴で見る限り、松本警部補の数ヵ月後輩というわけだが、あの口うるさい鑑識課の連中が、舌を巻くほどの手際のよさだった。娘と見合いの相手にもしつこく聞いてみたが、家の周りを調べた時には、八畳間のサッシ戸は確かに閉まっていたと言っている。まぁ、開いていれば、そこから家の中へ入ったはずだから、これは信用していいだろう」
と言って、石川は再び、松本を見つめた。
プロがアマチュアを見下す時に見せる優越感と蔑視《べつし》の入り交じった独特の目だった。松本の中で感情が理性をほんの少しだけ上回った。
「じゃ、犯人は家の中にいたということだと思います。一一〇番してからパトカーが到着するまでの間に、逃げ出したんじゃないんですか?」
と言うのを、待っていたかのように、
「こいつをご覧よ、松本先生……」
石川は毛深い手で、現場見取図を叩《たた》いた。
「雪だよ、雪。十五センチも積もっていたのに、それらしい足跡はなかったんだ。家の直近、つまり、コンクリートの犬走りは屋根の廂《ひさし》の分だけ雪はない。若い二人はよそ行きの大事な靴を濡《ぬ》らすまいと、そこを伝って家を一周、いや、娘の分を入れれば、二周している。犯人もそこを伝って逃げ出した、ということになるんだ」
「…………」
「さぁ、何とか言ってくれよ」
石川は皮肉な口調で言った。
「理論的には可能です。二人がドアチェーンを切って、中へ入るのを見届けてから、玄関の方に回りこめば逃げ出せますよ」
松本はムキになって答えた。半ば、嘲弄《ちようろう》されることを覚悟したが、石川は笑いも、うなずきもせず、視線を現場見取図に落としただけだった。
「捜査会議でも、その意見が主流だったな……。だが、その後の聞き込みで、丹羽家の向かいの家じゃ、一家四人が総出で雪掻《ゆきか》きの作業をしていることがわかった。その家のカミさんというのが大変な地獄耳で、見合いのことは二、三日前から知っていたらしい。一体、どんな種馬[#「種馬」に傍点]かってんで、スコップを持つ手を休めては、チラリチラリと丹羽家の方を窺《うかが》っていた。誰か出てくれば、すぐにわかると言うんだ」
「…………」
「つまり、犯人は、犬走りから七、八メートル先にある高さ二メートルの塀を飛び越して逃げた、ということになる」
石川は首をひねって黙りこんだ。目は現場見取図に注がれたままである。
「雪の……状態は?」
松本は遠慮がちに尋ねた。
「鑑識が横一列になって調べたが、気になるような痕跡《こんせき》は、何一つなかった。会議の席では、マッチ棒の先ほどの痕跡も発見できなかった、と報告していたが、それは言葉のはずみというものだろう。だが、俺の目から見ても、そう言いたいくらいの状態だったな……」
石川はため息をつき、
「ややこしい話は、まだあるんだが、それは相棒に聞いてくれ。一時に聞くと、こんがらがってしまうからな」
と言うと、壁の時計を見上げてから、
「小林君とは連絡はとれたのか?」
と、電話番に尋ねた。
「間もなく、ということでしたが、ひょっとしたら、渋滞にひっかかっているのかも知れません。確認しましょうか?」
電話番は無線機のマイクに手を伸ばした。
「いや、いいよ。サイレンを鳴らしても、一車線の道路じゃ、大した変わりはないだろう」
石川はブラインドの間から道路を見下ろして、
「全く……、この時期になると、決まって工事だからな。同じ役所でも、えらい差だ。予算が有り余っているなら、こっちへ回してもらいたいよ」
と、八つ当たりぎみにぼやいてから、松本の方を振り向いた。
「できれば、二人|揃《そろ》ったところで話そうと思ったんだが、これから、県警本部のお偉方のところへ行って、一席ぶたなきゃならん。小林君には、君から伝えておいてくれ」
「はい」
松本は内ポケットから手帳を取り出し、二時間前に貸与されたばかりの真新しい記事用紙を開いた。
「実は、昨日の夜、被害者の弟がここに来て、丹羽家の日本刀が盗まれている、と訴え出てきた。事もあろうに、丹羽家には時価数千万円という日本刀があったらしい」
「数千万円!」
松本は思わず大声を発した。石川は顔をしかめて、
「弟の話によれば、だよ。警察に届け出る時は、額は大きくなって当たり前なんだ。五千円しか入っていない財布でも、盗まれたとなると、いつの間にか、五万円に膨らんじまう。それが被害者心理というものだよ」
「…………」
「刀の名は村正《むらまさ》だ。聞いたことがあるだろう?」
「確か、妖刀《ようとう》とか呼ばれている……」
「そう、その村正だ。しかも三振り。俗に言う大刀と小刀と短刀の、三つ揃いだそうだ。その筋に問い合わせてみたんだが、それによると、弟の話も、まんざらはったりでもなさそうなんだ。村正の刀の公示価格は現在、一千二百万円。一振りだけでね」
「公示価格?」
「うん。刀剣専門書の価格表には、その数字が載っているということだった。もっとも、小刀と短刀は、そんな高値じゃないらしい。ところが、大、小、短の三つ揃いとなると、値段のつけようがない、という話だった」
「値段のつけようがない? 値知らず、ということですか?」
「というより、買い手の懐次第、という意味だそうだ。担当者の話では、村正の三つ揃い、というのは、これまで例がなく、好事家《こうずか》の耳にでも入れば、かなりの値がつくだろう、ということだった。そんなわけで、その村正という刀が、本当に盗難に遭っているのかどうか、明日、その確認作業をする」
「…………?」
「実は、事件以来、犯行現場の丹羽家には誰も住んでいない。一人娘は、昨日、訴え出てきた被害者の弟、つまり叔父《おじ》さんの家に身を寄せているというわけだ。引き払う時、身の回りの物以外にも、大切な物はそっちへ運んだが、その中に日本刀は含まれていなかったというわけだ」
「なぜ、その時に届け出なかったんですか?」
松本にとっては当たり前の疑問だった。だが、石川は目を丸くして、
「両親をいきなり殺されて、すぐに金庫の札束を勘定する娘なんて、いるわけがないだろう? いるとすれば、その娘が犯人だ。大抵は茫然自失《ぼうぜんじしつ》、ショックで口もきけないというのが、血の通った人間の姿だよ。物的被害なんて、警察側がしつこく質問しても、わからないことが多いんだ」
「なるほど……。そう言われてみれば、そうですね」
松本は素直にうなずいた。
「えーと、どこまでだったかな……。忘れちまったよ」
石川がため息まじりにつぶやくと、
「運んだ物の中に、日本刀が含まれていなかった、というところまでです」
電話番が笑いをかみ殺しながら言った。
「お世話さん」
と、電話番に声をかけてから、
「もし、物《ブツ》が盗まれていれば、今度の事件は、単なる殺人ではなく、強盗殺人ということになる。そのことを訴え出人に説明し、もう一度、確かめるように指示すると、警察の手で探してもらいたい、と言ってきた。つまり、盗まれた、と訴え出てきたものの、よくよく聞いてみると、単に、その日本刀が見当たらないというだけの話なんだ。だから、その確認作業を明日やる。ここまで話せば察しはつくだろうが、君たちには日本刀の線を追ってもらいたい。明日、村正が出ようが出まいが、殺人の動機になったことは十分に考えられる」
「はい」
「捜索のやり方は相棒が心得ている。署の方からも、何人か助っ人を出してくれるそうだ。君は、ただ見ていればいい」
それくらいしかできないだろう、という口振りだった。犯行の動機も村正とは思っていない。もしそうであれば、腕利き刑事を何人も投入しているはずだ。自分が戦力として期待されていないことは、石川の態度が雄弁に物語っていた。しかし、今の松本は、どのような任務を与えられても、黙々と従うしかなかった。
三
捜査本部が設置されると、そこに派遣された捜査一課員は、所轄署の刑事とペアを組む。捜査一課員の豊富な経験と、地元刑事が把握している詳細な情報――。双方の持つ利点を生かし、弱点を補い合うことで、相乗効果を発揮することが、このシステムの狙《ねら》いである。
もちろん所轄署には、二つとも兼ね備えている名刑事もいる。そして、有能でない刑事が捜査本部入りすることはない。
「小林です。当署で盗犯を担当してます」
やっと姿を見せた小林が、五分刈りの坊主頭を下げた。
よく日に焼けた鬼瓦《おにがわら》のような顔に、ギョッとしたが、その風貌《ふうぼう》に似合わず、物腰は柔らかで、礼儀正しかった。年齢は三十代の前半、つまり、松本と同世代だった。想像していたより若かったことが、なぜか、松本を安心させた。
型通りの自己紹介をしてから、松本は早速、村正のことを説明した。
「そうですか……」
小林は困惑した表情で、空席になった石川の椅子《いす》をしばらく見つめていたが、
「申し訳ないんですが、少し調べたいことがありますので、時間をいただけませんか? 一時までには必ず、戻ってきますから……」
「調べたいこと?」
「はい。呼び出しを受けた時、ちょうど聞き込んでいたんですが、少々、気になる男が浮かんだんです。念のため、それだけ、確かめさせて下さい。引き継ぎやすくなりますから……」
「そう……」
引き止める理由も、そして、勇気もなかった。
「すみません」
小林は頭を下げ、ドアに向かった。壁の時計は十一時を指そうとしている。松本はさらに二時間、殺風景な部屋で待ち続けなければならなかった。
「ち、ちょっと……」
小林を呼び止めようとして、廊下に出た。しかし、すでにその姿はない。慌てて、机の上の煙草《たばこ》とライターを取りに戻り、それを鷲掴《わしづか》みにして、小林の後を追った。
「走らないと、乗り遅れまっせー」
電話番が野次を飛ばした。しかし、松本に振り返る余裕はなかった。
車の助手席に乗った松本は、刻々と変化する見知らぬ街の風景を見つめながら、自分の素性を隣の男に打ち明けるべきかどうか、迷っていた。
自分は捜査の経験どころか、知識さえも、教室で学んだこと以外は知らない。捜査員が日常使っている隠語の大半も、わかっているような顔をしているだけである。聞き込みや張り込みをしたことはないし、取り調べは教官相手に、模擬訓練を一、二度経験しただけだ。空き巣の被害現場さえ見たこともない自分のことを知ったら、一体、どんな反応を示すだろうか……。
松本はそんなことを考え続けていた。
初対面から、まだ数分しか経過していないこともあって、車の中は微《かす》かな緊張感に包まれていた。その息苦しさに耐えかねたように、小林がカーラジオのスイッチを入れた。
一昔前の歌謡曲が流れ、それが終わったところで、井戸端会議のような男女の会話が始まった。他愛のない冗談に、小林が鼻先で笑った時、松本は反射的に小林の方を振り向いていた。自分が嘲笑《ちようしよう》されたと錯覚したのである。
たちまち、小林の顔から笑みが消え、車内には再び、気まずい空気が漂った。松本は卑屈になっている自分に気づいた。
「どこへ?」
その気持ちを振り払うように尋ねた。小林は片手でダッシュボードを開けて、中から地図を取り出し、
「地取《じどり》捜査用の地図です。半分しか潰《つぶ》してませんが、その中に妙な野郎が……」
と言って、差し出した。松本は黙って、その地図を広げた。
赤丸を中心に、周辺の地区が七つに区分けされ、AからGまでのアルファベットが書き込まれている。赤丸から最も離れた北の端は、Fという区画で、そこだけ緑色の蛍光ペンで縁取りがしてあった。
地図の目的も用途もわからない。松本は自分自身の正体を、改めて思い知らされていた。そして、それまで張り詰めていたものが、急速に萎《しぼ》んでいった。
「俺は、たぶん、役に立たないと思う」
松本は言った。
「何せ、去年までは六法全書より、英語の辞書が商売道具だった。捜査のソの字も知らん……」
平静を装い、さりげなく話したつもりだったが、語尾がほんの少し、震えた。
「知ってます」
小林が前を見たままつぶやいた。
「……知っている?」
と、小林の顔を覗《のぞ》き込むと、
「大体のことは、今朝、石川警部からお聞きしました。それに、一課の方も沢山おられますし……」
「そうか……」
小林は全てを知っていたのだ。松本は自分の顔が赤くなって行くのを感じた。
「最初は誰でも素人ですよ。かく言う自分も、実は柔道教官くずれです」
小林が苦笑した。
「柔道教官?」
「はい。元々、肩を脱臼《だつきゆう》する癖がありましてね。その上、肝心の腰が駄目になって、柔道教官への道は諦《あきら》めました。八年前のことです」
「八年前……」
「そうです。どうせ一から始めるのなら、会社勤めも、刑事の仕事も同じだと思いましてね。上司の勧めに従いました。確かに、この仕事には年季が必要ですが、特別の才能が不可欠、とまでは思いませんね。専門分野といっても、常識的な視点を失わなければ、大抵の仕事はこなせるんじゃないでしょうか。わが身を振り返ってみて、そう思います」
「そんなもんかな……」
「そんなもんですよ」
小林はしばらく微笑《ほほえ》んでいたが、やがて、松本の手元にある地図を一瞥《いちべつ》して、
「赤い丸は犯行現場の丹羽家の位置です。区分けしてあるのは、聞き込み班のそれぞれの担当区。我々の担当区、と言っても、今日一日だけになりましたが、Fの区域です。緑色で囲んであるでしょう?」
「F……」
松本は地図に目を凝らした。
「F区の大半は兼業農家なんです。事件当日に、丹羽家付近に出かけた住人はいないかどうか、聞き込んでみたんですが、今までのところ、一人もいません。今日は、タレ込み情報を当たってみたんですが、空振りでした。ビニールハウスの野菜を売っている農家の青年が、時々、軽トラックで直売に出かけるってんで、ひょっとしたら、と思ったんですがね……」
と言って、小林は首をひねった。
「それで、気になる男というのは?」
小林の熱っぽい口調が、数分前までのわだかまりを忘れさせていた。
「そのビニールハウスの青年からの情報なんですが、素性のわからない変な男がいると言うんです。噂《うわさ》によると、有名大学を卒業した男ですが、無職。歳は三十二、三で、独《ひと》り者《もの》。その上、昼間は部屋のカーテンを閉め切って、外へは一歩も出ないそうです。妙でしょう?」
「カルト信者じゃないの?」
「カルト信者なら、布教活動に出かけたり、マントラを唱えたり、場合によっては、歌ったり、踊ったりしますからね。それとわかるはずです」
「…………」
「気になるのは、収入がないはずなのに、結構、いい暮らしをしていると言うんです。殺人事件とは無関係かも知れませんが、別の事件に絡んでいるかも知れませんからね。どっちみち、放っておくわけにはいきません」
「なるほど……」
松本は不思議に心がときめいて行くのを覚えた。
ギアチェンジの軽い衝撃で、ふと顔を上げると、いつの間にか、前方にビニールハウスの目立つ集落が広がっていた。車はそこを一気に抜け、さらに奥に向かった。
やがて前方に、標高四、五百メートルの小高い山が迫った。松本が再び地図に目を落とすと、
「俗に、すり鉢山と呼ばれています」
小林が先回りして答えた。
そのすり鉢山の麓《ふもと》には、幾つものアパートが建ち並んでいる。どれも比較的、新しかったが、貧弱な造りだった。
「町から離れていますが、家賃が格安なんです。でなきゃ、こんな僻地《へきち》に住む人間なんていませんよ。バスは一時間に二本しか通らないし、近くにコンビニもありません。入居者はほとんどが外国からの出稼ぎ労働者です。東京のアパートみたいに、家主は離れているし、住人同士はお互い、干渉しない。泥棒のねぐらには持ってこいですよ」
「…………」
やがて、車は道路|脇《わき》の空き地に入り、ハンドブレーキを引いた小林が、
「ここです」
と言って、車から下りた。
三方に似たような二階建てのアパートが並んでいる。小林が目指したのは壁に緑荘≠ニ書かれてあるアパートだった。
階段脇にある共同郵便受けを見ていった小林が、そのうちの一つを無言で指さした。
表札の文字は風雨と直射日光にさらされて変色し、消えかかっている。松本が、それに目を凝らしていると、小林は早くも階段の中ほどに差しかかっていた。慌ててその後を追い、小林の足元を見ながら、階段を上った。登山靴のような厳《いか》つい靴だったが、その微妙な足捌《あしさば》きは、靴音というものを響かせなかった。
小林が目指したのは、二階の奥にある部屋だった。入口の横に、埃《ほこり》のかぶった古い洗濯機が置いてあり、ドアの中央には新聞勧誘、お断り≠ニいう貼《は》り紙が、錆《さ》びた画鋲《がびよう》で止められている。
小林はドアに体をすり寄せ、しばらく耳をそばだててから、軽くノックした。応答はない。そして、またノック。その行為は繰り返されるごとに、荒っぽくなっていった。
松本は警察学校で教えられた通り、電気メーターを覗《のぞ》いてみた。その動きは極端に遅い。
「留守じゃないのか?」
と、囁《ささや》くように言うと、
「いや。絶対にいるはずです」
小林はなぜか大声で答えた。そして、ドアのノブを回し、鍵《かぎ》のかかっていることを確かめてから、
「恐れ入りますが、反対側に回って、窓に小石をぶつけてくれませんか?」
「小石?」
「はい。もちろん、ガラスを割っては困りますよ」
「よしきた」
松本は小走りに階段に向かった。そして、空き地の隅に行き、豆粒ほどの小石を五、六個拾い上げてから、アパートの反対側に回った。
日当たりのよいアパートの南側は、一面ネギ畑だった。二、三歩、足を踏み入れると、溶けかかっていた霜柱が崩れて、ぬかるんだ土に靴を取られそうになった。
標的の窓には、鼠色の分厚いカーテンが引かれている。松本はその窓に向かって、言われた通り、小石を投げつけた。そして、反応を見たが、カーテンはピクリとも動かない。続いて、二個目。そして、三個目を投げつけてみたが、そのたびに単調な音が、ネギ畑に広がって行くだけだった。
心の片隅に、留守、という思い込みがあった。最後に、残った一握りの石を思い切り投げつけ、手を払いながら、ぬかるみから足を引き抜こうとした時、突然、窓がカーテンごと開いた。
「この野郎、一体、何のつもりだ! いい加減にしろ!」
不精ひげを生やしたパジャマ姿の男が、怒鳴り声を上げた。
それを待っていたかのように、激しくドアをノックする音が響いた。男はドアと窓の外を交互に見比べていたが、頭を掻《か》きむしり、松本を睨《にら》みつけてから、ドアの方に向かった。
不精ひげの男に、小林がしきりに頭を下げていた。しかし、謝りながらも、ドアの内側に踏み込んだ左足は一向に引く様子がない。小林がなぜ、頑丈な靴を履いているのか、松本は納得した。
「やるに事欠いて、石をぶつけることはないだろう!」
松本の姿を見て、男が怒鳴った。
「す、すみません」
その剣幕に、思わず頭を下げると、
「謝るくらいなら、最初からするな!」
男はますます声を張り上げて、松本を睨んだ。その視界を遮るように、小林が身を乗り出して、
「申し訳ありません。彼はあなたが死んでいるのではないか、と心配しただけなんです」
「……死んでいる?」
男は一瞬、息を飲み、きょとんとした目で小林を見た。
「ええ。よくあるんですよ。訪ねて行って、返事がないから、留守だと思って引き上げると、後で、死体になって発見されたりしましてね。すると、ご遺族の方から、『なぜ、ドアをこじ開けてでも、確かめてくれなかったんだ。ひょっとしたら、息子は一命を取り留めたかも知れないのに』などと、お叱《しか》りを受けることは珍しくないんです」
「そんな……。僕はそういうつもりで文句を言っているわけじゃない……」
男は膨れっ面のままつぶやいた。
「恐れ入ります。あなたのように話のわかる方ばかりなら、我々の仕事も楽になるんですがね」
小林がなれなれしい態度で言った。
「うまいことを言ったって、その手には乗らないよ」
男の態度に変化はない。
「お世辞を言えるほど、世渡りがうまくはありませんよ。それが証拠にあなたを怒らせてしまいました。心からお詫《わ》びします」
と、頭を下げてから、
「しかし、私どもは理由もなく、お邪魔しているわけではないんです。どうしても、お話を伺いたいので、少々、荒っぽい方法を使わせていただきました。ガラスが割れたのなら弁償しますよ。協力してくれませんか?」
と、説得すると、男は渋い顔で、
「協力とは、強制から生まれた不義の子か……。けだし、名言ですな」
と、皮肉たっぷりに言ってから、
「相手がお上《かみ》じゃ、仕様がない。早く用件を言って下さいよ。どうせ気になって、眠れやしない……」
「眠る? こんな時間に?」
小林は大袈裟《おおげさ》な身振りで腕時計を見た。
「僕は夜型でね。昼間は勉強が手につかないんです」
「勉強? 一体、何のお勉強です?」
「司法試験」
男はぶっきらぼうに答えた。
「ほう……。司法試験ねぇ……」
小林は探るような目で男を見つめ続けた。男は舌打ちして、
「全く……。信用できないんなら、中へ入って見て下さいよ」
と言うと、ドアを大きく開いて、部屋の奥に消えた。小林は松本を見て、ニヤリと笑ってから、お先にどうぞ、という風に、片方の手を部屋の中に向けて差し出した。
1DKの部屋の台所は、ゴミの集積所のようだった。流しには汚れた食器が積み上げられ、板の間に無造作に置かれた数個のダンボール箱の中には、空き缶、インスタント食品の空容器、ミカンの皮、ソースのついた割り箸《ばし》などが押し込められ、異様な臭気を放っている。
二人がその光景に圧倒されていると、
「いまさら遠慮することはないでしょう? さっさと、入って下さいよ」
男は窓を開け、手すりに寝具を乾し始めた。逆光の中で、塵埃《じんあい》が霧のように舞っている。
六畳間は床が抜け落ちんばかりの法律書がひしめいていた。立ち机と座机が並べられ、テレビやステレオの類《たぐ》いは見当たらない。正体不明の染みが点在している壁には、悪筆だが、几帳面《きちようめん》な筆字で書かれた二次突破≠ニいう貼り紙がしてあり、その横には、かなり古びた湯島《ゆしま》天神の破魔矢がぶら下げられてあった。
「少しは信用する気になりましたか?」
男は椅子《いす》に腰を下ろした。
「この本、全部読んだんですか?」
小林が部屋を見回しながら尋ねた。
「必要なところはね。そんなことより、早く済ませて下さいよ。時間を無駄にできないのは、お互い様でしょう?」
男はもどかしげに言った。小林は畳の上にあぐらをかき、手帳を取り出した。
「ごもっともです。では、率直にお伺いしますが、外出はいつ、されるんです?」
と、最初の質問をしたが、
「一体……、どこが率直なんですか?」
男はうんざりした顔をして、
「そんな回りくどい聞き方をしなくても、殺人事件の捜査だということはわかっていますよ。これでも、日に一度はラジオのニュースを聞いていますからね。僕のアリバイが知りたいんですか?、それとも、指紋が取りたいんですか?」
「こりゃ、どうも恐れ入ります」
小林が頭をかいた。
「アリバイはありません」
男は足を組んで、
「あの日は昼過ぎに目を覚まして、翌日の朝まで、民法のノートをまとめていましたからね。外へは一歩も出ていない代わりに、誰にも会っていません。指紋がご入り用でしたら、その辺にある茶碗《ちやわん》かコップを持って行って下さい。差し上げますよ。でも、紙の上に、いちいち指紋を押すのはお断りします」
男は一方的にまくし立てた。小林は何の反応も示さず、無言のまま、手元の手帳に目を落としていた。松本は後ろから、そっと覗《のぞ》いてみると、そこには何も書かれていなかった。
「どうせ、事件現場の近くで僕を見かけたとか何とか、タレ込んだ住民がいるんでしょう? 確かに、事件の前の日、僕はあの辺りまで足を延ばしています。ジョギングコースですからね。見られてもおかしくはない」
「…………」
「捜査の苦労はわかりますがね、僕に目をつけるなんて、見当違いもはなはだしい。前の日の夜、事件現場の近くを走ったのは、下見のためかも知れん、と考えているんでしょうが、僕が犯人なら、犯行当日と同じ曜日の、同じ時刻に下見しますね。その方が理にかなっている」
「ジョギングは、いつも夜に?」
小林は手帳に目を落としたまま尋ねた。
「あの辺りは犬がいませんからね。吠《ほ》えられずにすむんです。この辺の田舎者には奇妙に映るでしょうが、東京での夜型の生活が、僕の体には染み込んでしまったんですよ。長かったですからね。何度か、昼型に変えようとしたんですが、体はだるいわ、ドアはしょっちゅうノックされるわで、集中できないんです。それに、昼型の生活というのは、何だかんだと雑用を抱え込むことになってしまう。たとえ、用事ができても、その用を足すことができない、という環境づくりが、受験勉強には必要なんです」
「なるほど。でも、なぜ東京から、こんな田舎に引っ越されたんです? 都会の方がお勉強には、いろいろと便利でしょう?」
「その通りです。今じゃ、後悔してますよ。空気の澄みきった自然の中で学べば、効果抜群……なんて話を、真に受けた僕がバカだったんです。でも、ここを紹介してもらうためには、いろんな人に世話になっていますからね。今更、引き払うわけにもいかないんですよ」
男は唇を噛《か》んで、窓の外を見た。
「生活費は、どうされているんです?」
「仕送りです。いまだにすねかじりですが、恥ずかしいとは思いません。まぁ、いずれ弁護士になったら、たっぷり稼いで、親孝行するつもりです」
「そりゃ、親御さんも、さぞお楽しみでしょうな」
小林が抑揚のない声で言った。
「僕をチクったのは、酒屋のオヤジなんでしょう?」
男が突然、身を乗り出して、小林の手帳を覗き込んできた。小林は素早く、手帳を閉じて、
「そういう情報は得ておりません」
と、きっぱり否定した。
「隠そうとしたって、どうせわかっていますよ」
男は椅子に戻って、
「しばらく前に、あのオヤジとはトラブったことがあるんです。ジョギングの途中で立ち小便していたら、生け垣が腐るとか何とか、文句を言ってきやがった。だから、いつもそこに小便をひっかけてやってるんです。あのハゲオヤジめ、江戸の敵を長崎で討とうって腹だ……」
「そのような訴えは、一切、受けておりません」
今度は、強い口調で否定したが、
「どうぞご心配なく。怒鳴り込んだりしませんよ。住居侵入罪や脅迫罪で訴えられたら、目も当てられない。あのハゲオヤジめ、軽犯罪が現行犯でなけりゃ処罰されないことも知らないし、器物損壊で訴えても、立ち小便と植木の立ち枯れには、因果関係を立証しなければならない、ということも、知りゃしないんです。怒鳴り込む代わりに、また、たっぷりと、ひっかけてやりますよ」
「…………」
「全く、あの連中ときたら、自分たちと少しでも違う生活をしている人間を見ると、すぐ変人扱いですよ。そのくせ、覗き趣味だけは人一倍、旺盛《おうせい》なんですからね。困ったもんです」
「しかし、郷に入っては郷に従え、という諺《ことわざ》があるくらいですからね。純朴な地元の人たちと、いたずらに摩擦を起こすのは、いかがなものでしょう?」
と諭したが、男は鼻で笑って、
「何が、純朴なもんですか。連中ほど、底意地の悪い生き物はいませんよ。よそ者を見ると、すぐ邪魔者扱いです。真夜中のジョギングが気に入らないのなら、ガードレールに寄りかかって、ヘドを吐いていた男はどうなんです? そんな酔っぱらいが事件現場の近くをフラついていたというタレ込みはありましたか?」
「さぁ、どうでしょうか。何分にも、私たちの担当ではありませんので……」
小林は視線を逸《そ》らした。
「あるわけがない。消防団のはっぴを着てましたからね。じゃ、車の屋根にスキーを載せて、待ち合わせをしていた頭の弱そうなガキどもについては、どうです? 夜の夜中に、随分はしゃいでいましたけどね……」
「…………」
「ないでしょう? 両方とも、地元の人間だからですよ。それに、ハイキングの格好をして、立ち小便していた男や、煙草《たばこ》の自動販売機を蹴飛《けと》ばしていた高校生はどうです?」
男は憎々しげに言った。小林は軽いため息をついて、
「私どもは住民の方から、まんべんなく情報を頂戴《ちようだい》するのが仕事なんです。あなたが普通の生活……、もちろん、これはこの地域で言う、普通の生活という意味ですが、それとは少々、異なった生活をしておられるようだと小耳に挟んだものですから、こうして、お邪魔しているわけですよ。視点の異なる方からの情報は貴重ですからね。あなたを誹謗《ひぼう》するような情報は耳にしていませんし、仮にあったとしても、私どもは恣意的《しいてき》な情報を鵜呑《うの》みにはしませんよ」
「へぇー、とても、そうは思えませんけどね……」
「本当です。現に、あなたのお話で、事件現場付近がジョギングコースになっていることがわかりました。ひょっとしたら、事件当日にもジョギングをしていた人がいて、何か、重要なことを目撃しているかも知れません。これは、貴重な情報ですよ。おそらく、聞き込みの範囲は、ジョギングの距離を考えて広げることになるでしょう」
「なるほどね」
男がようやくうなずいた。
「やっぱり、こうして、お伺いした甲斐《かい》はあったわけですよ」
小林は手帳をポケットに戻し、松本の方を見た。その仕草が何を意味するのか、松本にはわからない。小林はすぐ、視線を男の方に戻して、
「どうも、お邪魔しました。ご協力感謝します」
と言って、立ち上がった。
「疑いが晴れて、ホッとしました……、と言っていいんでしょうかね?」
男も椅子《いす》から立ち上がった。
「とんでもない。最初から、いい人だと思っていましたよ」
小林はにっこり微笑んで、男に握手を求めた。
四
「すみません。くだらないことに付き合わせてしまいました」
車に乗り込みながら、小林が言った。
「そんなことはないよ。面白かったし、いろいろ勉強になった」
松本は正直に自分の気持ちを述べた。
「嘘《うそ》でも、そう言っていただけると、ホッとしますよ。あのフクロウ男はシロです。口は達者ですが、小心者です。盗みに入ったり、人を刺したりするほどの度胸はありません。せいぜい、誰も見ていないところで、植木に小便をひっかけるくらいしか、できないでしょう」
と言って、苦笑した。なぜ、そう推測できるのか、松本には理解できなかった。理解できた、と思ったのは、たった一つのことである。
「しかし、そのゴツい靴に、あんな使い道があるとは思わなかったよ」
松本は小林の足元に目を落とした。
「……使い道?」
小林が不思議そうな目で、自分の足元を見た。
「ドアの内側に突っ込んでいたろう? その靴じゃ、無理にドアを閉めようとすれば、ドアの方が壊れちまう。あの男、閉めようにも閉められなかった」
松本は声を上げて笑った。
「あの……、この靴には、別に、そんな特別な意味はないんです」
小林は顔を上気させて、
「私の足は人並み外れて、幅広甲高《はばひろこうだか》なんです。5Eの支給靴でも合わないんですよ。それで、靴だけは特注なんです」
「…………」
「悩み事がある時は小さめの靴を履け、という諺が、イギリスにはあるそうですけど、私の山勘が外れるのは、ひょっとしたら、このドタ靴のせいかも知れません」
と苦笑して、その靴でアクセルを踏んだ。
松本は言葉に詰まった。軽率な発言を悔やんだが、後の祭りだった。
車内には再び、ぎこちない空気が漂い、今度は松本がカーラジオのスイッチを入れる番だった。番組は有名人の訃報《ふほう》を伝えていたが、何となくおかしさがこみ上げ、松本は小林から顔をそむけるようにして、懸命に笑いをこらえた。
やがて、車は再び、ビニールハウスの目立つ集落に差しかかった。日陰の残雪が目に入った時、松本はふと、石川の言葉を思い出した。
「石川キャップから、煙のように消えた犯人のことは聞いたんだが、それ以外にも、ややこしい話があるらしいね」
「ややこしい話?」
小林が車の速度を落とす。
「雪の上に足跡を残さずに逃走した、という話は聞いたんだけど……」
「すると……、自治会の連中のことは聞いておられないんですか?」
「自治会のことかどうかわからないけど、一時に聞くと、こんがらがってしまうと言うんだ」
「こんがらがっているのは、おタヌキ様の方でしょうよ」
と、肩をすくめて見せて、
「実は、犯行当日、丹羽家は自治会の連中に見張られている格好になっていたんです。丹羽家の北と東は広い麦畑で、その畑の雪の上には何の痕跡《こんせき》もありませんでした。つまり、犯人が逃げ出すには、丹羽家の南と西しかあり得ないんです。丹羽家の南西の角は三叉路《さんさろ》になっていて、そこからなら、丹羽家の門はもちろん、南側と西側については、全て見通せるんですが、何と、その三叉路で、自治会の連中が交通量の調査をしていたんです」
「交通量の調査?」
「はい。しばらく前に、抜け道マップとかいう本が出てから、通り抜ける車がやたらに増えたんだそうです。その影響で、子供の事故が増えましてね。自治会は交通規制の陳情をするつもりでいるんですよ。そのための実態調査だそうです」
「…………」
「初動捜査の時は、はっきり言って、気の抜ける思いでしたよ。聞き込みを始めたとたんに、おばさんたちが寄って来ましてね。丹羽さん一家が外出してから帰宅するまでに通った車のナンバーは、この通りです、と、七十数台の一覧表を差し出してきたんです。調べてみたら、覆面パトカーのナンバーまで、しっかり記録してありました。普通なら、五、六人の捜査員が、何日もかけて聞き込まなきゃならないことを、自治会のおばさんたちが代わりにしていてくれたというわけです」
「なるほど」
「例の煙のように消えた犯人のことも、確かに不思議な話ですが、こっちは、もっと不思議ですよ。丹羽家に出入りした車はもちろん、出入りした人間も、一人として目撃されていないんです。もっとも、殺された二人と、発見した二人は別ですが……」
「…………」
「今、岩佐班と河田班が、おばさんたちのリストを必死に洗っているところですが、もし、それで犯人が挙がったら、署長も自治会の陳情を無視できなくなるでしょうな」
小林はニヤリと笑った。確かに、奇妙な話だった。松本の中に、丹羽家そのものに対する興味が湧《わ》き起こってきた。
夕刻、捜査本部に戻ると、大部分の捜査員が姿を見せていた。その中には、顔見知りの捜査一課員も含まれていた。しかし、松本とは肩を叩《たた》いたり、握手するほど親しい間柄ではなかった。部屋に一歩足を踏み入れた時から、松本は自分が奇異な目で見られていることに気づいていた。
「報告は一応、私がやりますけど、何か補足することがありましたら、ご遠慮なくどうぞ」
と言って、小林は窓寄りの席に向かった。松本は無言でうなずき、その後に続いた。
石川は深井署の刑事課長と並んで座り、先着の捜査員たちから報告を受けていた。各捜査員は到着順に、その日の結果を報告し、翌日の捜査予定と、その理由について説明していた。それを受けて、石川たちから細々とした指示がなされた。時には苦い顔で、また、時には笑顔だったが、それは報告の内容、つまり、捜査の成果を、そのまま反映したものだった。
やがて、松本たちの順番になり、二人の前に置かれた椅子に腰を下ろすと、小林は早速、報告を始めた。
午前中二世帯、午後十世帯、いずれも事件に結びつく情報は得られなかった、という簡単な内容で、翌日の予定を省略したのは必要がないと判断したからだろう。
数秒で報告は終わった。松本は二つの仏頂面を予想したが、意外にも、石川たちの表情は穏やかだった。
「わかった……。ところで、急な話で申し訳ないんだが、明日から別な任務に当たってもらいたいんだ」
石川が松本に指示した内容を繰り返した。
「君の担当区は江口班に肩代わりさせることにしたから、今日中に引き継いでおいてくれ。漏れのないようにな」
「はい」
「私の方からは、それだけだ」
と言って、石川は手元の資料に目を落とした。続いて、
「明日の捜索のことなんだが……」
と、隣の刑事課長が口を開いた。
「少し、風向きが変わった。うちの署の保安係がやることになったから、君は立ち会うだけでいい」
「保安係?」
「うん。実は、これは署長の提案でね。別に、君たちが当てにならない、というわけじゃないんだ。捜査本部の連中は、すでに現場を経験している。にもかかわらず、日本刀に気がつかなかったんだから、ここは一つ、視点を変えた方がいい、と、おっしゃるわけなんだ」
「…………」
小林の口が開きかけたが、刑事課長は片手を上げて、それを制して、
「その点、保安係の刑事さん[#「刑事さん」に傍点]は現場を見ていないから、新鮮な目で捜索できるだろう、ということらしい。さすがは国立大学出の署長さんだ。俺たちとは目の付けどころが違う。言われてみれば、確かにその通りだ。俺たちときたら、現場に五、六時間も、突っ立っていながら、一週間後に突如として俎上《そじよう》にのぼる日本刀のことなんか、夢にも思いつかなかったんだからなぁ」
「…………」
「まぁ、これはちょうど、なぜ大穴の馬券を買わなかったのか、と言うに等しい。なけなしの金で、なぜ、みすみす外れ馬券なんかを買ったのか、というわけだ。競馬で損した人間なんか、さぞや、バカに見えることだろうよ」
と言うと、刑事課長は三十センチの定規で、自分の背中をかいた。
「なぜ、そう言わなかったんです? 我々は犯人を追っていたんです。そもそも、被害品の確認なんて、二の次、三の次のことじゃありませんか……」
小林が口を尖《とが》らせた。刑事課長はことさら目を丸くして、
「とんでもない。そんなことは口が裂けても言えるもんかい。署長はこのアイデアに、えらくご執心なんだ。へたに逆らって、ご機嫌を損ねてみろ、捜査会議の昼飯が胸焼けのするカレーばかりになっちまうぞ。つまらない意地を張って、みんなに恨まれたくはないよ」
と言うと、舌を出して、おどけて見せた。
「やれやれ……」
小林はため息をついてから、
「わかりました。仰《おお》せの通りにいたします。食い物の恨みは恐ろしい、と言いますからね」
と同意した。
「そうか。聞き分けてくれて、俺もホッとしたよ。じゃ、明日は宜《よろ》しく頼む」
と言うと、刑事課長は、もういい、という風に目配せした。
小林は一礼して下がると、ストーブの前で談笑している二人の捜査員に声をかけ、早速、担当区の引き継ぎを始めた。
松本は身の置場に迷ったが、足は自然に人影のない部屋の隅を選んだ。
そこはダンボール箱と、予備の折り畳み式|椅子《いす》が積み上げられた場所だった。その最上段の椅子を下ろして腰をかけ、順番待ちの捜査員がしているように、ポケットの手帳を開いた。
「こんな所で、寒くはないんですか?」
椅子を取りに来た若い捜査員が声をかけてきた。まだ十代の面影を残している。松本は素早く手帳を閉じて、
「事件の捜査記録は、どこに置いてあるの?」
と、小声で尋ねた。
「捜査記録? 宇野主任の後ろのロッカーですけど……」
「宇野……」
松本はおぼつかない眼差《まなざ》しで部屋を見回した。若い捜査員は無言のまま電話番の方に歩いて行き、松本の方を振り返ってから、真新しいロッカーを人指し指で示した。
松本は精一杯の笑顔を作ってうなずいた。だが、そのロッカーに近づく気にはなれない。捜査員たちのたむろするストーブの側を遠慮したように、まだ松本にとって、捜査本部はよそよそしく、馴染《なじ》みにくい場所だった。
松本は再び、手帳に目を落とし、時折、部屋の様子を窺《うかが》いながら、時のすぎるのを、ひたすら待ち続けた。
最後の班が報告を終えたのは、午後八時すぎのことだった。上席の二人がボールペンを放り出すと、それまでざわついていた捜査本部が静まり返り、やがて、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔で、石川が立ち上がった。
「残念ながら、発表するほどの成果はない。このままじゃ、刑事部長のお見回り、ということになるぞ。それだけは勘弁してもらいたいもんだ。どんな言い訳をしても、お偉方というものは、結果でしか物事を判断しない。そのつもりで、あと一踏ん張りしてくれ」
と言って、全員の顔を見回して行った。そして、松本と目が合うと、
「そうそう、もう承知していると思うが、玉島警部補の後任が本日、着任した。じゃ……、松本警部補、一応、挨拶《あいさつ》してくれ」
石川に促されて松本は立ち上がり、簡単な自己紹介をして、深々と頭を下げた。パラパラと、三、四人が気のない拍手をした。
「よし、明日も張り切って行こう。解散っ」
石川が両手を打って締めくくった。捜査員は一斉に席を立ち、口々に様々な言葉を発しながらドアに向かった。
一分もしないうちに、捜査本部の人影はまばらになった。最終的に残ったのは六人。石川と刑事課長は、黙々と書類に判を押し続けていた。小林は相変わらず、二人の捜査員と話し込んでいる。長引きそうな雰囲気だった。
松本は静かに席を立ち、捜査記録の収納されているというロッカーに向かって足を踏み出した。
五
まだ、朝日の届かない深井署の中庭に、エンジンをかけたままのワゴン車が止めてあった。
その横で、作業衣を着た若い警官が三人、白い息を吐きながら立ち話をしている。三人とも、首にタオルを巻き、軍手をしていた。
「眼鏡をかけた痩《や》せたのがいるでしょう?」
捜査車両のアイドリングを続けていた小林が言った。
「真ん中の背の高い男?」
松本は三人の方を見たまま尋ねた。
「そうです。あれが噂《うわさ》の、渡辺巡査ですよ。事件当日、現場に先着したパトカー乗務員です」
「講習を首席で卒業した刑事候補生?」
「ええ。でも、ひょっとしたら、鑑識からスカウトされるかも知れません。何しろ、あの若さで、署の幹部と堂々と渡り合ったんですからね」
「ほう……」
「事件現場には立入禁止のテープを張り巡らし、鑑識課がくるまで、指定された捜査幹部以外は、何人《なんぴと》たりとも中に入れないこと――。現場保存の鉄則を忠実に実行したというわけです」
「…………」
「頭ではわかっていても、なかなか実行できないものなんです。帽子に金筋つけた凸凹面《でこぼこづら》に一睨《ひとにら》みされたら、大抵の警官はテープを上げてしまいますからね。ところが、彼は頑固に基本原則を貫き通したんです。なかなか骨のある男ですよ」
「そう……」
松本の目には、十歳も年下の渡辺が、急に大人びて見えた。
「保安の水谷巡査部長です」
小林が署の外階段を見上げた。胡麻塩《ごましお》頭をした五十がらみの男が、やはり作業衣に身を包み、くわえ煙草《たばこ》で階段を下りて来ていた。
「仕事はできますが、一癖ありますから、そのつもりでいて下さい」
「一癖?」
「はい。筋を通さない相手がいると、まるで親の敵《かたき》です。でも、筋を通せば、かなりの無理でも聞いてくれますよ」
「何となく、嫌な予感がするな……」
「先手を取って、こっちから挨拶《あいさつ》を入れておきましょう」
小林に促されて、松本は階段の方に歩き出した。
「これはこれは、わざわざお見届けに?」
水谷がくわえ煙草のまま言った。
「こちらは、捜査一課の松本警部補です」
小林が紹介した。
「お世話になります。今日は捜索要領の勉強をさせていただきます」
松本は本音を告げた。昨日、小林に正体を見抜かれてから、見栄を張るのはよそうと、心に決めていた。
「皮肉はよして下さいよ。それでなくても、穴があったら入りたい気分なんです」
水谷は脂歯《やにば》を見せてから、庁舎の方を振り返り、
「うちの署長《オヤジ》さんにも困ったもんです。いい人なんですがね。時々、トンチンカンなことを言う。それだけが玉に瑕《きず》なんですよ。捜査本部の方々が、うまく捌《さば》いてくれると当てにしていたんですがね。皆さん、気分を害されていませんか?」
と言って、探るような目を二人に向けてきた。松本は小林を一瞥《いちべつ》してから、
「いいえ。そんなことはありません。気分を害している捜査員なんていませんよ。実は、私は昨日、着任したばかりで、まだ現場を見ていません。お邪魔になるかも知れませんが、立ち会わせて下さい」
「どうぞどうぞ。本来なら、そちらでなさるお仕事だ」
水谷は満足げにうなずいてから、最後の一服という感じで、煙草を深く吸い込み、煙幕のような煙を吐き出した。
それを見計らっていたように、ワゴン車のマフラーから、排気ガスが吐き出された。若い警官たちはいつの間にか車に乗り込んでいたのである。
「じゃ、ボチボチ行きますか……」
水谷は指の先で、器用に煙草の火を落とし、吸殻を胸のポケットに入れた。
予定の時刻に十分遅れて、丹羽家の前に到着した。門には南京錠がかけられたままで、車の中で、その後十五分ほど待ってみたが、立会人は姿を現さなかった。ワゴン車のドアが開き、しかめっ面をした水谷が道路に下り立った。
「ちくしょうめ。一体、俺たちを何だと思ってやがるんだ」
独《ひと》り言《ごと》は松本の耳にも達した。
「とうとう怒らせちまった……」
隣の小林が舌打ちした。
「どうするよ。コバちゃん」
水谷が吸殻に火をつけながら言った。
「あと十五分くらい待って、それでも来なかったら、引き上げましょう」
小林が窓から顔を出して、大声で答えた。水谷は煙草を吹かしながら、うつむき加減に近づいて来て、まず松本に、
「すみませんな。この辺の連中は時間にルーズなんですよ。昨日、釘《くぎ》をさしておいたんですがね。この始末です」
と、声をかけてから、小林の方を向いて、
「本署に電話を入れてみるよ。ひょっとしたら、刀を見つけて、こっちのことを忘れてしまったのかも知れん。来ない相手を待っても仕方がないからな」
と言うと、再び、ワゴン車に向かった。戻る途中、水谷は煙草を歩道に落とし、靴の踵《かかと》で揉み消してから、それを丹羽家の生け垣に向かって蹴飛ばした。
「やれやれ。先が思いやられる」
小林が苦笑しながらつぶやいた。
間もなく、水谷を乗せたワゴン車は走り出した。そして、はるか前方の交差点に消えると、小林はカーラジオのスイッチに手を伸ばした。それを見て、
「少し、その辺を歩いて来てもいいかな?」
と、松本が言うと、
「何か、ご用ですか?」
小林はすぐにスイッチを切った。
「いや、用というほどのもんじゃない。丹羽家の外回りを見てみようと思って……」
松本は言葉を濁した。
「じゃ、お供しましょう」
小林はドアに手をかけた。松本はそれを制して、
「その必要はないよ。散歩がてらに、ぶらついて来るだけだ。それに、立会人が来た時に、誰もいないんじゃ、まずいだろう?」
と言って、ワゴン車が消えた交差点に目をやった。
「それもそうですね。じゃ……、これをつけて下さい」
小林はダッシュボードの中から、腕章を取り出した。赤紫色の地に捜査≠ニいう白い文字が張りつけてある。
「ありがとう」
松本は腕章をつけてから、バッグに手を伸ばした。そして、折り畳み式のこうもり傘を掴《つか》んで、車から下りた。
昨日、深夜まで捜査本部に残った松本は、ロッカーに収納されている資料を何度も読み返した。
その結果、丹羽家が完全な密室状態になっていることを確認した。その密室状態は、単に家屋に留まらず、丹羽家の四方を取り囲む道路と麦畑までを含むものだった。つまり、自治会の見張り番は、さしずめ鉄の扉で、その目が南京錠ということになる。そして、さらに資料を読み進めるうちに、犯人が煙のように消える前に、煙のように現れていることにも気づいた。
警察の隠語では、犯罪現場に近づく経路を前足≠ニ呼び、離れる経路を後足≠ニ呼ぶ。例外的な場合を除いて、後足≠フ動きは速く、直線的である。目的は達成されており、できるだけ速く、現場から遠ざかりたいという心理が働くからだ。途中、見られてはまずい相手に遭遇しそうになれば、当然、身を隠すことになり、目撃される確率は低い。
だが、前足≠フ場合はどうか?
この段階では、まだ何の罪も犯しておらず、必ずしも逃げ隠れする必要はない。状況が不利であれば、中止すればすむからだ。仮に、中止できない事情があったとしても、血の通った生身の人間なら、少なからず緊張しているはずである。心の葛藤《かつとう》や動揺は、不自然な軌跡を描かせることが多いという。従って、後足≠ノ比べれば、行動は緩慢で、警戒心に隙《すき》が生じても不思議ではない。たった二、三十メートル進むのに、四、五十分もかかったという、詐欺犯人の告白は広く知られているところだ。
雪がちらついていたとは言え、日曜日という、比較的、人目の多い中で、なぜ、それらしい不審者が目撃されなかったのか?
松本は自治会の見張り番が交通量の調査をしていたという三叉路《さんさろ》に立って、丹羽家の方を眺めてみた。小林が説明した通り、視界を遮るものは何一つない。
次に、こうもり傘を開いて、頭上にかざしてみた。確かに、死角は生じたが、それは空の部分だけで、丹羽家の門や生け垣を見通す上では、何の障害にもならなかった。
見張り番は漫然と立っていたわけではなく、通過車両をチェックするために目を光らせていたはずである。そのような状況下で、いかにすれば、目撃されることなく丹羽家に接近し、侵入し、また、脱出できるのか? 共犯者がいて、囮《おとり》の役を務めたのだろうか? 仮に、そうだとしたら、この行為は二度、繰り返されたということになる。しかも、見張り番だけでなく、たまたま通りかかる車両の運転者や、歩行者の目まで欺かなければならない。そんな離れ業が、果して可能なのだろうか?
松本はこうもり傘を頭上にかざしたまま、丹羽家の生け垣に沿って歩き出した。見張り番の視力と注意力に問題がない、という前提に立てば、丹羽家の方に謎《なぞ》を解く鍵《かぎ》があると考えざるを得なかったからである。
しばらく行くと、通りすがりの主婦が、晴天に傘をさして歩いている男に警戒の目を向けた。だが、すぐに腕章に気づき、ホッとした面持ちで足を止め、深々と頭を下げた。しかし、松本の目に、その主婦の姿が入ることはなかった。
松本は、塹壕《ざんごう》の掘り方も知らないまま、戦場に立たされた新兵のようなものだった。いくら力んでみても、しょせん、その目には、ありのままの戦場の風景が映るだけだったのである。
疑問に思ったことは、事件当日、十五センチもの雪が降り積もったというのに、畑の麦が枯れることもなく青々と繁っている、ということくらいのものだった。
意気消沈して、再び、丹羽家の前の通りに戻ると、待機しているはずの捜査車両が消えていた。漠然とした不安が、反射的に松本を走らせていた。しかし、すぐに丹羽家の門が開かれていることに気づき、松本は胸をなで下ろした。
門をくぐると、ガレージの中に見知らぬライトバン。その先に捜査車両が止めてあり、いつの間にか、水谷たちのワゴン車も戻って来ていた。
丹羽家は、四百坪もあろうかと思われる広い敷地の中にあった。建物自体は、ありふれた今風の造りだったが、旧家であることは、広い敷地と、空高くそびえ立つ大木が如実に物語っている。
家屋の方から、騒々しい物音と話し声が聞こえた。目を凝らすと、客間に若い警官たちの姿が見え隠れしていた。すでに捜索が始まっていたのである。松本は再び、玄関に向かって走り出した。
「こっちですっ」
その玄関先に、小林が現れた。
「す、すまん。つい、夢中になって……」
と、言い訳したが、小林はガレージの前まで松本を連れて行き、
「成り行きで、聞き込みに行ったということになってます。そのつもりでお願いします」
小林は押し殺した声で言った。
「わかった……」
と、うなずくと、
「じゃ、行きましょう」
小林は先に立って歩き出した。
玄関前で、小林は立ち止まり、指先でドアチェーンを弾《はじ》いてから、松本の方を振り返った。長さ二十センチほどのドアチェーンが、ほぼ中央部で切断され、ドアと壁側にそれぞれ、ぶら下がっている。
「当日のままにしてあるわけ?」
と尋ねると、
「はい。別に、その必要があってのことじゃありませんがね。ドアチェーンを含め、屋内の施錠設備に関しては、念のため、この家の施工業者とは無関係の業者に確認させました。欠陥、異状はないということです」
「なるほど」
松本は無意味なことと知りつつ、ドアの開閉を二、三度、繰り返してから、屋内に入った。その時、
「ご苦労様です」
客間の襖《ふすま》が突然開き、初老の男が現れた。見覚えのある顔だった。
「立会人の竹島さんです。亡くなった丹羽静夫さんの、実の弟さんにあたります」
と、小林が紹介した。
面長の顔、狭い額、たるんだ頬《ほお》、厚い唇……。それらの特徴は、昨夜見た死体の顔写真に共通している。
「遅れまして申し訳ありませんでした。出がけに、のっぴきならない急用が」
竹島が遅刻の言い訳を始めると、
「立会人は、どこへフケやがったんだっ」
客間から、水谷の怒鳴り声が響いた。
「は、はいっ」
竹島は上ずった声を張り上げ、松本に頭を下げてから、客間に向かった。
その客間はまるで大掃除をしているかのようだった。
畳は全て中廊下に運び出され、床板が剥《む》き出しになっている。やがて、水谷から号令が下り、廊下の畳は床に敷き込まれていった。ちょうど、床下の捜索が終了したところだった。
畳が元に戻されると、若い警官たちは部屋の隅に、横一列に並んだ。
「よし。じゃ、さっき指示した手順の通り、始めろ」
水谷が指示した。警官たちは一斉に客間の東側に移動し、壁や柱を調べ始めた。長押《なげし》の奥は指の先でなぞられ、柱は固定されているかどうか、両手で掴《つか》まれて前後左右に揺すぶられた。そして、その作業が終了すると、
「異状なし」
警官たちが口々に報告した。
「よしっ。次は南だ」
水谷が指を鳴らした。警官たちはすぐ移動し、同じ作業にかかった。水谷の指揮の下、警官たちの動きは俊敏で活気に満ちていた。
「ちょっと来て下さい……」
小林が松本の耳元で囁《ささや》いてから、客間を抜け出した。後を追うと、中廊下で待ち受け、
「物《ブツ》が出れば、呼ぶでしょう」
と言ってから、
「カミさんの死んでいた場所です」
小林は人指し指を下に向けて、輪を描いた。松本が思わず、後ずさりすると、
「大丈夫です。ざっとですが、後始末はしてありますよ」
小林は座り込んで床を見下ろした。松本もそれに倣《なら》った。床板のつなぎ目に、黒く変色した血痕《けつこん》がこびりついている。
「ダンナの方はこっちです」
小林は廊下を数メートル歩いて、十畳間の襖を開けた。
捜査資料によれば、十畳の和室は丹羽夫妻の部屋である。家具、調度品の類《たぐ》いは現場見取図の通り、整然としていた。だが、部屋中央部の畳の上には黒い染みが残っている。それが血の痕《あと》だということはすぐにわかった。
[#挿絵(img/fig2.jpg)]
死んだ人間が消え、その人間の流した血だけが残っている。松本はある種の感慨を持って、干からびた命の痕跡に目を注いだ。
六
水谷たちの捜索は客間から居間、そして、台所から洗面所を経て、和室十畳間へと進んで行った。
初めのうちは、松本も作業に参加していたが、自分が足手まといになっていることに気づいてからは、一人、八畳間に引きこもった。事件発覚直後に、サッシ戸が開いていたという、一人娘の部屋である。
娘が一時転居しているということもあって、家具類は殆《ほとん》ど残っていなかった。松本は検証調書に記録されていた通り、サッシ戸を五十センチほど開いてから、部屋の中央に胡坐《あぐら》をかき、そこから外を眺めてみた。
第一発見者を疑い、自治会の見張り番二人を疑い、向かいの一家四人を疑い、最後には、その全員を疑ってみたが、どのような仮説を立てても、開いていたサッシ戸に何らかの意味を見いだすことはできなかった。
「よろしいでしょうか?」
八畳間の襖が開き、水谷が姿を現した。
「ど、どうぞ……」
松本は慌てて立ち上がり、中廊下に出た。
入れ替わりに入って来た警官たちは、水谷の指示を待つことなく、畳を上げ、廊下に運び始めた。全員の顔が汗で光っていた。
小林は八畳間を一瞥《いちべつ》しただけで、松本同様、見物側に回った。元々、空き室≠ノなっている八畳間の捜索に、それほどの手間はかからなかった。警官たちの手際のよさも手伝って、作業は、またたく間に終了した。
「ありません……」
渡辺巡査が、娘のテニスバッグを押入れに戻しながら言った。他の警官たちも軍手を外し、タオルで額の汗を拭《ふ》き始めた。どの顔からも捜索を始めたころの覇気は消え、代わりに疲労感が色濃く現れている。
重苦しい沈黙の中で、立会人の竹島がため息をつき、肩を落として台所の方に歩いて行った。やがて、その足音が止まると、やかんに水道の水を入れる音、ガスに点火する音、そして、茶碗《ちやわん》の触れ合う音が聞こえた。
そんな中で、水谷だけが眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、口を真一文字に結んで宙を睨《にら》んでいた。そして、
「まさかとは思うが……」
と、つぶやいて、押入れの襖《ふすま》を開け、中に入り込んだ。
そこで何やら調べていたが、しばらくして出てくると、今度は、隣の納戸《なんど》に向かった。警官たちは訝《いぶか》しげに顔を見合わせ、首を傾げながら、その後を追った。
「一体、何を調べているんです?」
渡辺が尋ねた。
「最後のけじめさ」
水谷は素っ気ない口調で答えた。
納戸に続き、十畳間、そして、客間の押入れを調べて、水谷のけじめ[#「けじめ」に傍点]は終了した。そして、再び、仏頂面をして考え込んでいたが、
「改口《あらためぐち》はないわけ?」
と、廊下の方に向かって尋ねた。竹島がいつの間にか、松本たちの後ろに立っていた。
「さぁ、どうでしょうか? この家のことは、あまり詳しくはありませんから」
竹島が首をひねる。
「そりゃ一体、何のことです?」
小林が尋ねた。竹島は鼻先で笑ってから、
「老婆心から言わせてもらうが、人前で、そういう質問はしない方がいいぞ。長屋住まいということが、すぐバレちまうからな」
「へぇー、何でです?」
「改口とは天井裏の配線を点検するための出入口のことだ。それで別名、点検孔《てんけんこう》とも言う。普通、天井板が一枚分、外せるようになっている。昔は鼠を退治するために、そこから天井裏に上がり込んで、毒饅頭《どくまんじゆう》を仕掛けたもんさ。最近は、電線もよくなったし、鼠も少なくなったから、塞《ふさ》いでしまう家が多くなってきているけど、たまに見かける家もある」
「なるほど」
「ついでに、話しておくが、旧家と呼ばれる家には、必ず隠し戸棚がある。この辺りじゃ奥袋《おくぶくろ》と呼んでいるらしいが、これが、なかなかバカにできない。捜索の時には一苦労する」
「へぇー。まるで、忍者屋敷みたいですね?」
小林が茶化《ちやか》すように言った。
「まぁ、最近のお手軽な家には、そんなものに金をかける余裕はないと思うがね。昔の職人の中には、凝った仕掛けを作る名人もいたらしいからな。油断は禁物だ」
水谷は平手で、壁と柱を二、三回、叩《たた》いてから、客間を後にした。
昼前に、屋内の捜索は終了した。だが、水谷は居間に座りこんだまま、腰を上げようとはしなかった。
世情に通じた立会人が、早合点して寿司《すし》屋に電話しようとすると、水谷はすさまじい形相《ぎようそう》をして受話器を取り上げた。竹島はその剣幕に恐れをなしたのか、しばらくはおとなしくしていたが、今度は急用を思い出した。おそらく、一刻も早く店に戻りたかったのだろう。
だが、水谷は涼しい顔で茶をすすり、煙草《たばこ》を吹かし続けていた。竹島は困惑した面持ちで、居間とガレージの間を数回往復した後、結局、誰かをよこす、と言い残して丹羽家を後にした。
居間では、若い警官たちの雑談に、小林も加わっていた。
やがて、小林の体験談が佳境に入るころ、水谷は無言のまま席を立ち、居間から出て行った。おそらく、それに気づいたのは、松本だけだったに違いない。話し手も、聞き手も、内輪の話に夢中になっていたからである。
確かに、事件の裏事情などというものは、相手構わず話せるものではないし、聞けるものでもない。そして、その話には、体験しなければ得られない貴重な教訓が含まれている。
しかし、松本は小林の体験談よりも、いつになっても戻らない水谷のことが気になっていた。ベテランの警官が意味もなく、仕事を終えた現場に長居するはずがない。松本は水谷を真似て静かに居間を後にした。
屋内を探してみたが、水谷の姿は見当たらなかった。最後に、玄関に並べてある靴の数を確かめると、一足分、消えていた。スリッパ代わりに小林の靴をつっかけ、玄関から外を窺《うかが》った。すぐに、庭先に立っている水谷の姿が目に入った。松本は自分の靴に履き変えてから表に出た。
「何をなさっているんです?」
と、声をかけると、
「ご覧の通りですよ」
水谷は松本を一瞥し、再び、家屋を見上げた。
「家屋の外側を?」
「まぁ……、それもありますがね。こんな風に、のんびり眺めていると、見落とした場所なんかに気づくことがあるんですよ。時間通り、きっちりやることも大切ですが、頭の中を空っぽにして、ポケーと、していることも必要だと思いますね。人間、火事場で握り飯を食っているような時に、閃《ひらめ》きなんか浮かびませんよ」
と言って、水谷は歩き出した。散策するような、ゆったりとした足取りだった。
火事場で握り飯、か……。
そうつぶやきながら、松本は空を見上げた。柔らかな日差しが降り注いでいた。そよ風は肌に心地よく、春の気配を感じさせる。耳に届くものは、木々を渡る小鳥のさえずりと、自分自身の息づかいだけだった。
居間に戻る気にはなれなかった。しばらく庭先をぶらついた後、客間の上がり口にある踏み石に腰を下ろした。
水谷は屋敷の南側にある庭木を見上げている。そこには、椿、樅《もみ》、松、杉などが無造作に植えられていた。築山《つきやま》の植木と異なり、形や空間にこだわらない無骨な植え込みで、むしろ、木立と言った方が相応《ふさわ》しかったが、それなりにバランスは取れていた。丹羽家の敷地のほぼ五分の一は、この植物群に占められている。
水谷は庭木の葉を一枚ちぎってから、歩き出した。まるで子供がするように、その葉を振り回しながら足を進め、赤土の所で立ち止まった。広い庭の中で、そこだけ土の色が異なっている。
「茶室でも、取り壊したのかな……」
と、独り言をつぶやきながら、靴の先で赤土の表面を擦《こす》った。そして、再び、歩き出した。
家屋の西側には竹林がある。水谷は、その中の一本を掴《つか》み、前後に揺さぶってから、爪先《つまさき》で弾《はじ》いた。何の意味もない行為だった。やがて、松本の方を振り向いて、
「いい竹林なのに、もったいないですな」
と、声をかけてきた。松本は立ち上がって、犬走り伝いに竹林に向かった。
「年に何回か、下草取りのようなことをすれば、趣のある、いい図が楽しめると思うんですがね。これじゃ、宝の持ち腐れです」
水谷は竹林を眺めながらつぶやいた。
その言葉通り、見事な青竹が並んでいたが、自然のなすがままにされ、その根元は藪《やぶ》と朽ちた笹の葉に覆われている。
水谷は竹林を横目に見ながら、足を進め、やがて、裏庭の方に消えた。残された松本は、しばらくその場に佇《たたず》んでいた。風にそよぐ笹の音が、子守歌のように聞こえた。
「今日は絶好のゴルフ日和《びより》ですね。仕事しているのがもったいないくらいだ」
突然、後ろから声をかけられ、松本は我に返った。振り向くと、いつの間にか、小林が外に出てきていた。
「水谷長さんは?」
小林は周囲を見渡しながら尋ねた。
「裏庭を歩いている」
「そうですか……。いかにも、水谷長さんらしい」
小林は笑った。
「熱心なのはわかるけど、あれだけ探して、まだ、盗まれたとは考えないのかな?」
と尋ねると、
「考えないようにしているんですよ」
小林は両手を肩の上に上げ、伸びをしながら言った。
「どうせないだろう、なんて先入観を持ったら、見つけられるものも、見つけられなくなってしまうんです。どうしても、詰めが甘くなってしまいますからね。やるからには、必ずある、と思い込まないと……」
「なるほど。しかし、それにしても……」
松本は首をひねった。すると、
「おっしゃる通りです。これだけ念入りに捜索しても見当たらないとなると、やはり、村正はないと考えるのが、常識的な見方でしょう。でも、盗まれたと考えるのは、まだ早計ですよ」
「……なぜ?」
「村正があるというのは、ただの申し立てにすぎませんよ。ひょっとしたら、元々、なかったということも考えられますし、仮に、あったとしても、第三者に預けているという可能性があります」
「…………」
「まぁ、いまさら、そんなことを言っても始まりませんがね。いずれにせよ、我々は明日から本腰を入れて、村正の捜査をしなければならなくなったというわけです。タヌキの言うように、単に、村正があるという噂《うわさ》だけでも、犯行の動機にはなり得ますからね」
「あっても、なくても、関係ないわけか……」
「そうです。村正が犯行の動機ではない、と断言できるのは、誰にでも、簡単に発見できる場所に、村正が残されている場合だけですよ。持って行けるのに、持って行かなかった、となれば、村正目的の犯行ではないということになります」
「言われてみれば、確かに、そうだな。となると……、隠し戸棚なんかから、村正を探し出しても、意味はないわけだ」
「……隠し戸棚?」
と繰り返してから、
「そうですね。まぁ、是非とも、見つけてもらいたいもんです」
小林はニヤリと笑った。気になる笑い方だった。
「何だい?」
と尋ねると、小林は裏庭の方を窺《うかが》ってから、
「あくまでも、私の勘繰りですがね。隠し戸棚のことは、方便だと思いますよ」
と、小声で言った。
「方便?」
「ええ。もちろん、水谷長さんはああいう人です。純粋な捜索へのこだわりもあるでしょうが、何しろ、今回の捜索は、署長直々のお声がかりですからね。迷い犬探しみたいに、ただ、発見できませんでした、じゃ、格好がつきませんよ。発見できないにしても、たっぷりと時間をかける必要があるんです。お偉方というものは不思議な生き物でしてね。完璧《かんぺき》な仕事とわかっていても、それに費やした時間が短いと、不安になるんです。その代わり、穴ぼこだらけの仕事でも、三日徹夜した、と付け加えれば、安心できるものらしいんですよ」
「…………」
「それに、もう一つ。どんな捜索の名人であっても、この屋敷に村正はない、なんて断言することはできません。警察の捜索の方法は、過去の経験則に基づいて実施しているだけですからね。その範囲を越えるような隠匿場所だったら、屋敷を解体でもしない限り、発見することはできません。担当者としては、万が一のことを考え、結論を明確にしてしまうより、曖昧《あいまい》にしておいたほうが無難というわけです。隠し戸棚のことは、言うなれば、掛け捨て保険のようなもんです」
「なるほど……。そんな政治的駆け引きがあるとは、夢にも思わなかったよ。隠し戸棚の話が出た時、ひょっとしたら、空振りの言い訳か、もしくは、照れ隠しかな、とは思ったけどね」
「政治的駆け引き、なんて、そんな大仰なもんじゃありません。不可抗力のミスにまで、難癖をしてくる連中から逃れるための、哀れな宮仕えの知恵ですよ。連中ときたら、ミスしたら最後、箸《はし》の上げ下ろしからトイレットペーパーの使い方にまで、一々、ケチをつけてきますからね。全く、堪《た》まったもんじゃありません」
と言って、小林は声を上げて笑った。その時、家屋の東側から水谷が姿を現した。二人は口をつぐみ、様子を窺った。
水谷は相変わらず、ゆっくりとした歩調で足を進めていた。うつむき加減に前庭を横切り、南側の植え込みに突き当たった所で立ち止まった。そして、おもむろに振り返ると、両腕を組んで丹羽家を見上げた。
確かに、その表情に緊張感のようなものは見て取れない。しかし、松本には、単なる時間稼ぎとは思えなかった。
七
捜査本部入りして三日目。松本は小林とともに、丹羽家の一人娘が身を寄せているという竹島家に向かった。
竹島呉服店は創業百年という老舗《しにせ》であると同時に、深井市でも屈指の旧家だった。殺された丹羽静夫の実弟、庄二は、三十数年前、この旧家の当主に見込まれて、養子に入っている。
明治の面影を残す店舗は、賑《にぎ》わしい表通りに、堂々とその威容を構えていたが、住居用の出入口は、下水の異臭が微《かす》かに漂う、ひっそりとした裏路地に面していた。
小林がインターホンを押すと、帳場のさざめきとともに愛想のよい男の声が返ってきたが、その後もしばらく、二人は底冷えのする路地で待たされた。
表の暖簾《のれん》をくぐらなかったのは、客商売に水を差したくない、という心遣いだったのだが、相手側は全く意に介してはいない様子だった。
小林が再び、インターホンに手を伸ばしかけた。その時、突然、ドアが開き、
「お待たせしました」
和服姿の竹島が、ようやく姿を現した。
薄暗い玄関から、ダンボール箱が横一列に積み上げられた狭い廊下を経て、二人は客間へと案内された。
「こちらで、しばらくお待ち下さい」
と言って、竹島は襖《ふすま》の陰に消えた。
客間の中央には、座卓が据えられていて、その横に座布団が二枚、並べられていた。
二人はその上に腰を下ろし、無言のまま、床の間の掛け軸に目を注いだり、欄干《らんかん》の手の込んだ透かし彫りを見上げたりして、主役の登場を待った。
待つこと四、五分。竹島に続いて、ようやく目当ての娘が姿を見せた。客間の隅に端座し、畳の上に両手をつくと、竹島が、
「芳江です」
と、紹介し、娘は顔を上げた。
目鼻だちの整った色白の美人だった。立ち居振る舞いにも品があって、育ちの良さがうかがえる。ただ、事件のせいか、表情が暗く、やつれが目立った。
「早速ですが……」
まだ、茶碗《ちやわん》が運ばれていないのに、小林は質問を始めた。竹島家のインターホンを押して以来、遅々とした事の成り行きには、松本も内心、苛立《いらだ》ちを覚えていた。
「お父さんの所有されていた刀について、お伺いしたいんですが、村正という刀についてはご存知ですか?」
「はい。手入れしている姿を、何度か見かけました」
か細い声で、芳江が答えた。
「保管場所については心当たりがない、と伺っておりますが、その通りですか?」
「はい。私はてっきり、十畳間のどこかだと思っていました」
「最後にご覧になったのは、いつです?」
「父が亡くなる十日くらい前です」
「外部へ持ち出したということは?」
「ないと思います。細長い白木の箱に入っていましたから、持ち出すようなことがあれば、すぐわかります。父がそのような荷物を持って出かけた様子はありませんでした」
「なるほど。ところで、刀を特定できるものはありませんか?」
「特定……」
「登録証か、鑑定書の写し。それ以外の物でも、刀を特定できるものなら何でもいいんです。ただ、村正、というだけでは、こちらのものかどうか、区別がつきませんからね」
「父の文机《ふづくえ》に、写真はありませんでしたか?」
芳江が訝《いぶか》しげな顔で尋ねた。
「写真?」
「はい」
「村正の写真なんですか?」
「そうです。父に頼まれて、私が写しました」
「…………」
小林は竹島を見た。すると、
「私も初耳です」
竹島も戸惑った顔で答えた。
「ということは、水谷長さんも、まだ知らないということか……」
小林は舌打ちして、
「どうも、やることが、ちぐはぐでいかんなぁ。どうせなら、こっちを先にすればよかった……」
と言って、唇を噛《か》んだ。
「探してみますよ。たぶん、あるでしょう」
竹島が事も無げに言った。
「……あなたが?」
「はい。昨夜《ゆうべ》、水谷さんからお電話をいただきましたが、お話の様子では、まだ、村正の捜索は打ち切ってはいないようですし、私が探してみて、見当たらないようでしたら、ご相談してみますよ」
「…………」
小林が沈黙した。一般人の竹島に対して、水谷は単に時間稼ぎをしているだけ、などとは言えなかったのだろう。
「その写真は、アルバムか何かに貼《は》ってあるのか?」
竹島は芳江に確かめた。
「わからないわ」
芳江は首を横に振って、
「でも……、もし、アルバムに貼ってなかったら、東亜銀行の封筒に入っていると思います。カメラ店の封筒は早苗《さなえ》さんに渡しましたから」
「早苗?」
「薬局の早苗さんです。碁会所の開所式に招待されていたので、残りのフィルムで早苗さんたちの写真を撮ったんです」
「なるほど。そういうことか」
と、竹島だけが納得した。
「どういうことです?」
小林が尋ねた。竹島は薄笑いを浮かべて、
「何、よくあることですよ。薬屋の娘が東京の碁打ちくずれと、くっついてしまいましてね。ところが、この辺じゃ、碁や将棋の類《たぐ》いは博打《ばくち》と同じです。親の死に目にあえない、と言って、毛嫌いされているんですよ。私も子供のころ、兄貴と五目並べをしていて、親父《おやじ》にこっぴどく叱《しか》られたもんです。そのせいで、私たち兄弟は無趣味な人間になり下がってしまいましたがね。でも、私が先代に見込まれたのは、そのためで、そもそも、競馬競輪とか、パチンコ麻雀《マージヤン》なんてものは……」
「お待ち下さい」
小林は竹島の言葉を遮って、
「写真のことを、もっと詳しく聞かせて下さい」
と、芳江の方を向いた。
「赤ちゃんの写真がよく撮れていたんです」
芳江が言った。
「早苗さんにそのことを話すと、ぜひ欲しい、とせがまれたので、届けました。写真はカメラ店の封筒に入れて渡しましたから、その……」
「村正の写真は銀行の封筒に入れて、お父さんに渡した、というわけですね?」
「そうです」
「ネガはどうです? その早苗さんという人には、ネガごと渡したんですか?」
小林は身を乗り出した。
「いいえ。プリントだけです。ネガは全部、父に渡しました」
「そうですか……」
小林は気落ちしたように目を伏せたが、すぐに、
「とにかく、その写真を探してみて下さい。品触《しなぶれ》と言いましてね。盗難品の手配書なんですが、全国の関係業者に送付されるんです。写真を掲載するのと、しないのでは、大違いです。村正のような有名な刀ともなれば、関心も高いでしょうし、はっきりした写真があれば、必ず発見されますよ」
「でも……、錆《さ》びた状態の写真ですけど、それでもいいんですか?」
芳江が消え入りそうな声で言った。
「錆びた状態?」
「はい。見つけた直後に、撮った写真ですから」
「見つけた直後?」
「そうです。その後、研ぎに出して、鞘《さや》も新しく作り直したんです。研いだ後は……」
「ち、ちょっと待って下さい」
小林が片手を上げて、
「見つけた、とは、どういう意味です?」
「見つけたんですよ」
竹島が口を挟んできた。
「去年の秋、兄が偶然、見つけたんです」
「去……、これは驚きましたな。私はてっきり、丹羽家に代々伝わる由緒ある刀だと思い込んでいましたよ」
小林は首を振りながら、手帳にメモをした。
「先祖伝来の村正に違いはありません」
竹島がやや強い口調で言った。
「刑事さんたちは、丹羽家の村正について、あまりご存知ではないようですね」
「ええ。残念ながら、郷土史には疎いものでして」
小林は皮肉な口調で言った。
「石川という警部さんには、かなり詳しく申し上げたつもりなんですがね……」
竹島は不満そうに口元を歪《ゆが》ませてから、
「丹羽家はその昔、れっきとした侍の家柄だったんです。江戸の中期、何らかの事情で商人になっていますが、それまで代々伝えられてきた村正だけは手放さず、密《ひそ》かに持ち続けたという言い伝えがあるんです。ところが、戦後のどさくさで、三振りの村正は行方不明になってしまったんです。亡くなった父によれば、道楽者だった祖父が遊興費に充てたんだろう、ということでした。でも、そうじゃなかったんです。去年の秋、その村正が土蔵の壁の中から発見されたんです」
「土蔵の壁ですと?」
小林が甲高い声を上げた。信じられないという響きがこもっていた。だが、竹島は大きくうなずいて、
「そうです。去年の秋の台風で、屋敷の南側にあった一番太い杉の木が倒れて、古い土蔵が壊れてしまったんです。枯れかかった古木が、壊れかかった土蔵を潰《つぶ》したのも何かの因縁だろう、と言って、兄は両方、取り払うことにしたんです。その際、土蔵の壁の中から、油紙にくるまれた村正を見つけたんです」
「ほう……。でも、それにしても、妙な話ですな。伝家の宝刀を、なぜ、土蔵の壁なんかに塗り込んだんです? 当主から当主へと引き継がれて行くからこそ、伝家の宝刀、と言えるんじゃないんですか?」
小林の皮肉な口調は変わらない。
「それは平和な時代の話ですよ。お年寄りの話によれば、戦争直後、この辺りは比較的、食糧に恵まれていましたので、他に比べれば、人間らしい生活をすることができたそうです。その代わり、見たこともないアメリカ軍に、一体、どんな仕打ちをされるのかと、誰もが怯《おび》えていたそうです。そんな時に耳に入ってきたのが、今にして思えば、武装解除の話で、武器を持っている日本人は、ひどい目にあわされるというんで、大変な騒ぎになったそうですよ。神社に奉納されていたロシアの大砲が境内に埋められたのも、そのためだったと聞いています」
「ロシアの大砲?」
「日露戦争の戦利品ですよ。軍が戦勝記念に奉納したんです」
「…………」
「でも、それ以上に、町の人たちを不安にしたのは、アメリカ兵による刀狩りだったようです。日本刀を没収されるだけでなく、持っている日本人の首は、ついでにちょん切られる、という噂《うわさ》が、実《まこと》しやかに流れたそうです。おそらく祖父も、そのデマを真に受けた一人だったんでしょう。熟慮の末に、密かに土蔵の壁に塗り込み、周囲の者には、売り払った、と嘘《うそ》をついたんだと思います。その後、祖父は脳溢血《のういつけつ》で世を去ってしまいましたからね。先年亡くなった父も、最後まで、そう信じていました」
「しかし、それは……」
と言いかけて、小林は口をつぐんだ。そして、しばらく、手元の手帳に目を注いでいたが、結局、
「まぁ、戦争直後のことは存知ませんが、いずれにせよ、戦争が傍《はた》迷惑なことだけは確かなようですな……」
とつぶやいてから、再び、芳江に目を向けた。
「ところで、話は変わりますが、先ほど、刀を研ぎに出した、とおっしゃいましたね? どちらの刀屋です?」
「さぁ……」
芳江が首をひねる。
「失礼ですが、同じ屋根の下で一緒に暮らしていながら、そういう話はなさらなかったんですか?」
小林が苛立《いらだ》っているのがわかった。だが、
「父は私に対しては、刀の話をしませんでした。私の方で聞かなかったせいかも知れませんけど、実際、刀なんて、私には怖いというだけで、興味はなかったんです」
芳江は淡々とした口調で答えた。
「なるほど。で……、竹島さんはいかがです?」
「実を申しますと、兄は、私が村正を欲しがっている、と誤解していたようです。村正を見つけた時は、嬉《うれ》しさのあまりだったんでしょうね。私に連絡してきましたが、それ以後は、むしろ村正の話題を避けるようにしていました。そのうち、泥棒を呼ぶことになるから人には言うな、と電話してきたりして。お恥ずかしい話ですが、兄は猜疑心《さいぎしん》が強くなって、まるで人が変わってしまいました。そんなわけで、私は錆《さび》だらけの村正を一度見ただけで、その後のことは、全く蚊帳《かや》の外なんですよ」
と言って、苦笑し、頭を掻《か》いた。
「弱りましたな……」
小林はボールペンの尻《しり》で、しばらく座卓を叩《たた》いていたが、
「仕方がない。刀屋は、私どもで当たりましょう」
と言って、手帳の頁を繰った。
「ところで、お話の様子では、丹羽さんは村正のことを、あまり他人には知られたくなかったようですが、実際のところは、どうなんです? 知られずに済んだんですか?」
「はい。電話がかかってきたり、人が押しかけて来るようなことはありませんでした」
と、芳江が答えた。竹島の方に視線を移すと、
「女房にボヤきはしましたけど、後でゴタゴタするのは嫌ですからね。他人様《ひとさま》には一切、話していません」
「すると、村正のことを知っていたのは、どこかの刀屋以外では、お身内だけということになりますね?」
「ええ。まぁ、身内以外は、今でも知らないと思いますよ」
「なるほど」
と、一旦、うなずいてから、
「くどいようですが、間違いないですか? もし、私たちが刀屋を突き止めて、シロということになると、他のことはともかく、村正を盗んだ犯人は、お身内関係ということになりますよ?」
小林が念を押した。すると、竹島が急に落ちつきを失って、
「そ、そうですか。じゃ、女房とせがれに、もう一度、確かめてみます。口止めはしたんですが、万一ということもありますから……」
と、あっさり前言を翻《ひるがえ》した。
「芳江さんはいかがです?」
小林が横目で尋ねると、
「あの……、父は白井さんには、村正の話をしています」
「白井?」
小林は一瞬、宙を睨《にら》んでから、
「えーと、白井さんというのは確か、お見合いの相手の?」
「はい……」
芳江は伏目がちに答えた。
「いつのことです?」
「お見合いの日です」
「ご家族に口止めしておきながら、なぜ、白井さんには話したんでしょうかね?」
「少し酔っていましたから、そのせいじゃないかと思います」
「なるほど。酒にまでは口止めすることはできなかった、というわけですな」
小林は手帳を閉じた。そして、松本の方を向き、
「何かご質問は?」
と尋ねた。松本が無言のまま首を横に振ると、竹島たちの方に向き直って、
「取り敢《あ》えず、今日はこれくらいにしておきましょう。恐れ入りますが、さきほどの件をよろしくお願いします。まず、写真。それから、村正のことを誰に話したか、もう一度、よく思い出して下さい。これは非常に重要なことなんです。もちろん、奥さんと息子さん、それに店の方たちに対しても、一応、確かめて下さい。よろしいですね?」
小林は二人がうなずくのを見届けるようにしてから、手帳をポケットに戻した。
竹島家での事情聴取を終えた小林は、深井署とは正反対の方向に車を走らせた。
「少し早いようですが、飯にしましょうや」
と言って、小林が目指したのは、町外れの県道沿いにある蕎麦《そば》屋だった。
そこはファミリーレストランのような大きな店で、暖簾《のれん》には深井名物 手打ち蕎麦≠ニある。昼食には早すぎる時間だったが、駐車場には予想以上の車が止めてあった。
店内は五分の入りというところで、客はセールスマン風の中年男、子供連れの主婦、老人のグループ、長距離トラックの運転手など、バラエティに富んでいた。
小林は窓際の席に座ると、メニューも見ずにざるそばを注文した。そして、煙草《たばこ》を吹かしながら県道を通過する車を無言で眺めていた。
松本には、小林が何を考え、これから何をしようとしているのか、全くわからない。
「あの二人の話は信用できるの?」
思い切って、胸のうちの疑問を口に出してみた。小林はすぐには答えず、しばらく間を置いて、
「事件関係者なんて、信用できませんよ」
と、独り言のようにつぶやいた。更に、しばらく間を置いてから、
「信用しない方がいいんです。信用していいのは、確実な裏付けがある場合だけですよ。人の記憶とか、判断力なんて、元々、いい加減なものですからね」
「そんなもんかなぁ……」
松本は首をひねった。
「誤解しないで下さい。私が言うのは、あの二人が信用できるとか、できないとか、そういうことじゃありません。犯罪とは無関係であっても、人間は無意識に、嘘を言ったり、間違ったことを言ったりするものなんですよ」
「…………」
「ところで、これからどうします?」
松本が聞こうとしていたことを、小林の方から尋ねてきた。一瞬、戸惑ったが、
「白井かなぁ……」
松本は自分なりの考えを述べた。
本来なら、刀剣商への聞き込みだろうが、それは竹島たちからの連絡を待ってからでも、遅くはない。二人の言動にはあやふやなところがあり、時間が立てば、刀剣商についての情報も得られるような気がした。となると、白井以外の対象は思い浮かばない。
ただそう考えただけのことだった。
だが、小林は驚いたように大きく目を開き、やがて、嬉しそうに、その目を細めた。
「お見それしました。実は、私も同じことを考えていたんです」
と言うと、手早く煙草を揉《も》み消して、松本の方に身を乗り出して、
「よくよく考えてみると、我々は初動捜査の段階で、勝手に白井を捜査線上から外してしまっているんです。事件当日、被害者の一人娘と行動を共にしていたし、何と言っても、第一発見者の一人ですからね。さらに、見合いの相手方という特異な立場から、事件とは無関係な第三者と見なしてしまいました。しかし、見方を変えてみると、白井ほど事件に近い存在は、他に見当たりませんよ」
「…………」
「なにしろ、見合いの席にいるだけで、丹羽家の留守を把握できるんですからね。それに、芳江は、父親が酒に酔って村正の話をした、と言いましたが、白井が誘導したとも考えられます。いろいろと喋《しやべ》らせて、村正の保管場所について、おおよそ目星をつけたところで、トイレに行く振りをして席を外し、すでに丹羽家に侵入している実行犯に電話連絡する。そして、何食わぬ顔で席に戻る……。丹羽一家は白井を疑うどころか、逆に、そのアリバイを証明してくれるというわけです」
「…………」
なるほど、という言葉を、松本はのみ込んだ。
「それに、例の、煙のように消えた犯人の足取りのことですがね。白井が実行犯の脱出に一役買っていたとすれば、説明がつきますよ」
「一役?」
「つまり、計画段階では、白井が芳江を、丹羽夫妻よりも一足先に送り届けることになっていた、とすれば、どうです? 村正を盗んだ犯人は、庭の茂み辺りに隠れているわけです。そこへ、白井が芳江を送り届けます。玄関のドアを開けると、家の中が荒らされていますから、芳江は慌てて一一〇番するはずです。その隙《すき》に、実行犯は白井の車のトランクにでも潜り込むという手筈《てはず》なら、脱出は可能でしょう?」
「ところが、実際には、両親が二人よりも早く帰宅してしまった?」
「そうです。そのために居直り殺人が行われて、現場を目の当たりにした芳江は失神しました。計画は狂ってしまいましたが、いずれにせよ、実行犯は村正を抱えてトランクに潜り込めますよ。それを確かめてから、白井が一一〇番。警察活動の障害になるものを現場から追い出すのは、先着パトカーの最初の仕事です。それも、かなり遠い場所に移動させたと思いますよ。警察車両や報道関係車両で、丹羽家の周りは埋め尽くされることになりますからね」
「なるほど……」
松本はうなずいた。だが、全てについて納得したわけではない。小林の推理は、謎《なぞ》の半分だけについてなされたものだった。残りの半分、つまり、犯人が丹羽家に煙のように現れた部分については、依然、謎のままである。
しかし、そのことにこだわるより、松本は、たった一つの前提を変えてみるだけで、様々な推理が成り立つことに新鮮な驚きを感じていた。
八
白井の勤務先である化粧品工場は、蕎麦屋の近くにあった。小林が早めの昼食をとったのは、昼休み中の白井を訪れるための時間調整だったのだ。
受付で白井との面会を申し入れると、応接室に案内する代わりに、工場敷地内にあるレクリエーションセンターを教えてくれた。警備員の指示で、見学者≠ニいう名札を左胸につけてから、二人は教えられた場所に向かった。
平成不況にもかかわらず、皺消《しわけ》しクリームとやらのヒット商品のせいか、職場は活気に満ちていた。
様々な形の建物が立ち並ぶ広い敷地の奥には、八面のテニスコートと、ゴルフのミニコース。そして、その横には、真新しいドーム型の建物があった。入口に英語で、レクリエーションセンター、とある。
「こんな職場を見るたびに、なぜ、お巡りなんかになっちまったのかと、つくづく思う時がありますよ。給料だって、あの辺りにいる女の子と、大した変わりはないんですからね」
作業衣のまま、テニスに興じている女子工員を横目で見ながら、小林がぼやいた。
「こんな豪華なレジャー設備を造らなきゃ、兵隊[#「兵隊」に傍点]がどんどん脱走してしまうのさ。それほど仕事がきついんだ……と、勝手に思い込むしかないな」
松本が切り返すと、
「仕事のきつさなら、決して引けは取らないんですがね……」
と、小林がぼやいた。
レクリエーションセンターの入口を抜けると、高い天井のホールだった。
中央に強化ガラス製のテーブルを囲んだソファーが数組。壁側には、コーラやスポーツドリンクの自動販売機が所狭しと並べられている。人影はなかったが、奥に続く廊下の方からは、走り回る足音に交じって、時折、若やいだ声が聞こえてきていた。
「仕方がありませんね」
小林は柱に掲示された館内案内図をしばらく眺めてから、奥へ向かった。
幅二メートルほどの廊下が延々と続き、その両側の所々に派手な原色のドアがある。各ドアの目の高さの位置には、ハーモニカ大の覗《のぞ》き窓がくり抜いてあった。小林はその窓から中を覗き込んで行き、松本もそれに倣った。それぞれの競技室では、昼休み中の従業員たちが球技やダンスに興じていた。
「どうやら、ここらしいですね」
小林が最後の競技室を覗き込みながら言った。そして、
「これはこれは……」
と、絞り出すような声を上げた。
「奇襲戦法ならではの成果ですよ。白井にあんな趣味があるとは、夢にも思いませんでした」
小林は片方の手で、松本を招き寄せた。
中を覗くと、剣道着をまとった男が一人で日本刀を振り回していた。その正面には三脚に乗ったビデオカメラが据えられ、バッテリーランプが点灯している。
「あれは……」
松本が思わずつぶやくと、
「居合《いあい》ですよ」
「居合?」
「はい。県警本部の武道館で、何度か見たことがあります」
「…………」
「刀を調べたいところですね。その結果によっては、事件は早期解決ということになります」
小林はニヤリと笑ったが、思いがけない展開に、松本は混乱していた。そのまましばらく、中を覗いていると、
「すみませんが、事情聴取をしてくれませんか?」
小林が言った。
「……俺が?」
と、驚いて振り返ると、
「はい。こんなチャンスは滅多にありませんよ。初手柄になるかも知れません」
「で、でも……」
「大丈夫ですよ。もし、白井が刀で切りかかってくるとしたら、こっちが警察の名を口に出した時です。その時は、走って逃げればいいんです。向こうは袴《はかま》で、その上、裸足《はだし》ですからね。追いつけっこないですよ」
冗談口調だったが、その真意は明らかに、松本に経験を積ませようとする心遣いだった。
「まず、ドアの近くで、ジャブを入れてみましょう。白井がどんな反応を示すかで、犯人かどうかはわかります。もし、涼しい顔をしていたら、あの刀は村正ではありません」
「わ、わかった……」
松本は生唾《なまつば》をのみ込んだ。
激しい動きを繰り返していた白井は、やがて静かに脱刀すると、深々と一礼して立ち上がり、ビデオカメラの停止ボタンを押した。それを見計らって、松本はドアを開けた。
「お邪魔します」
と声をかけると、白井はまず壁の時計を見上げてから、訝《いぶか》しげな目で二人を見た。松本はポケットを探り、
「警察の者です」
と言って、手帳を呈示した。体の重心が無意識のうちに廊下の方向に移動して行く……。
白井は剣道着の襟元を正し、日本刀を手にしたまま目礼した。
「外れです……」
小林が耳元で言った。その声で、松本は手帳を下ろした。
「じゃ……、事情聴取をお願いしますよ」
「う、うん……」
と、うなずいて、
「お稽古《けいこ》中、恐れ入りますが、少々、お伺いしたいことがあるんですが」
言い古された前口上だったが、他の言葉は思い浮かばない。
「えーと……、署の方に行くんですか?」
白井はビデオカメラを一瞥《いちべつ》してから言った。
「いいえ、どこででも」
「じゃ、ここでお願いします」
白井は刀を床に置き、壁に組み込まれた戸棚に向かった。それを見て、松本は靴を脱いだ。
白井は戸棚から座布団を二枚だけ取り出し、床に並べてから、二人の前に正座した。全身に汗をかいている。松本も掌の汗をズボンで拭《ぬぐ》った。
「居合は長くやっておられるんですか?」
松本は最初の質問をした。
初めは趣味の話から入り、相手が多弁になったところで、本題に入る――。
それが、数ヵ月前に、教官から教わった聞き込みの基本要領である。
「大学生のころ、剣道でアキレス腱《けん》を切りましてね。それ以来、続けています」
「刀は真剣ですか?」
「はい。もちろん、登録済みですよ。登録証をお見せしましょうか?」
「お願いします」
と言ってから、小林の視線の先に気づいて、
「差し支えなければ、刀も拝見させて下さい」
と、付け加えた。
「他人様にお見せするほどの代物《しろもの》ではありませんが、まぁ、どうぞ」
白井は日本刀を掴《つか》んで、松本に手渡した。そして、立ち上がり、ビデオカメラの方へ歩いて行くと、小林が耳元で、
「なかなか、上出来です。その調子で、どんどん質問して下さい。遠慮することはありません」
と、囁《ささや》いた。
白井は刀袋の中を、しばらく探っていたが、やがて、葉書大のカードを手にして二人の前に戻った。それを松本に手渡し、懐の日本|手拭《てぬぐ》いで顔の汗を拭った。
松本は刀剣登録証を確認した。村正という文字は、どこにも見当たらない。
登録証を小林に手渡してから、松本は日本刀の柄《つか》に手をかけ、鞘《さや》を払った。本物を間近に見るのは初めての経験だった。
「なかなか、重いものなんですね」
と感想を述べると、
「刀身だけで、千五百グラムあります。居合には千グラム前後のものが適当とされていますが、僕には物足りない。昔の侍たちは、もっと重い刀を振り回していましたよ。でなきゃ、鎧《よろい》や兜《かぶと》の上から人は斬《き》れません。居合の神髄は、やはり、重刀を用いて初めてわかるものですよ」
「なるほど」
松本は日本刀を鞘に納めた。
「ところで、七日のことなんですが、丹羽さんとも、刀の話をしたそうですね?」
「刀の話?」
「そうです。お見合いの席で、そんな話をしたとか」
「ええ、確かに……」
白井は小さくうなずいてから、
「でも、刀の話というより、まぁ、丹羽さんの一方的な自慢話ですよ。大体、僕は刀剣趣味の人の前では、自分の意見は言わないことにしているんです。必ず、気まずい思いをすることになりますからね」
「気まずい思い?」
「ええ。僕たち居合人にとって、刀に対する関心事は二つ。切れ味と使い易さだけなんですよ。ところが、刀剣趣味の人の関心は、美しさなんです。あの人たちの話題ときたら、古刀には品があるとか、新刀には実用美があるとか、そんなことばかりですよ。僕たちとは、刀に対する考え方が根本的に違いますからね。適当に相槌《あいづち》を打っていても、本音が漏れてしまうことがあります。そんな時は、お互い、気まずい思いをすることになるんです」
「…………」
「僕から見ると、現在の名刀の基準は不合理だと思いますね。切れ味なんかは二の次、三の次で、肌の美しさとか、焼き入れの段階で偶然に出来上がる匂い[#「匂い」に傍点]とか、沸え[#「沸え」に傍点]とかいう模様が重視されている。名物にうまいものなし、と言いますが、刀にも当てはまりますよ。名前や形ばかりにとらわれて、肝心なものを見失っているんです。名刀と言われているものが、たった一度の棟打ちで、四ヵ所も刃切れになり、三、四回の平打ちで、簡単に折れてしまったという実験例があるんですよ。つまり、実用には全く不向きなんです。こんな基準、変だと思いませんか?」
「そりゃ、確かに変ですね」
松本は調子を合わせた。多く話させれば、それだけボロがでる確率も高い――。これも、教官から教わった聞き込みの基本要領だ。
「名馬とは、早く走るから名馬なんです。いくら毛並みがよくても、牛よりのろい馬なんか、駄馬ですよ。それと同じことです。刀はしょせん、人を斬る道具なんです。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。見てくれがいくらよくても、実戦の役に立たないような刀は、刀ではありません。ただの飾り物です」
「なかなか手厳しいご意見ですね。でも、切れ味が同じなら、美しい方が優れている、と言えるんじゃないですか?」
時には、わさび[#「わさび」に傍点]のきいた反論を盛り込むことも、相手の発言を煽《あお》る手段である――。
「もちろんです。別に僕は、醜さを求めているわけじゃない。取って付けたような理由付けは、名刀にとっても迷惑だ、と言いたいんです。美しければいい、古ければいい、というのは、刀の本質を見失っている、と言いたいんです」
白井の言葉に熱がこもってきた。本題に入る潮時だった。
「ところで……、丹羽さんは、どちらのタイプだったんです?」
「丹羽さんですか? 丹羽さんは、どちらのタイプでもないですね。あの人は刀剣に関しては、ズブの素人でした。本人は知ったかぶりをしていましたが、おっしゃることは、どれも的外れな内容で……」
白井はクスリと笑って、
「丹羽さんは正宗《まさむね》……じゃなくて、確か、村正をお持ちと伺いましたが、あの方の場合は刀自慢というより、むしろ、家柄自慢でしょうね」
「その村正について、白井さんは、以前からご存知でしたか?」
「いいえ。あの日、初めて伺いました」
「具体的には、どんな風に?」
「趣味のことを聞かれましたので、居合のことを話すと、刀の話になったんです。いつものパターンですよ。僕のこの刀は、佐賀の刀工に無理を言って作ってもらったものですからね。その苦労話をすると、突然、うちには村正がある、と言い出されて……」
「ほう……」
「丹羽さんは得意満面で、ひとしきり村正の自慢話をされてから、『近いうちに見せてやる』とおっしゃったまでは、僕も黙って聞いていましたが、そのうち、『うちの村正で居合をやったらどうか』と真顔でおっしゃるんで、びっくりしましたよ」
「なぜです?」
「なぜって……。丹羽さんのお話では、一振り一千万円以上もする村正なんですよ。まぁ、酔った勢いの大言壮語だとは思いますがね。いずれにせよ、高価な鑑賞刀なんかで居合をする人間なんていませんよ。美術館に飾ってある柿《かき》右衛門《えもん》の皿の上に、すき焼きの具を載せるようなもんです。村正ほどの刀ともなれば、文化財ですよ。打粉《うちこ》をかける時も、鞘から出し入れする時も、できるだけ静かに、疵《きず》をつけないように取り扱うのが常識です。保管する場合も、温度や湿度に気を配るものなんです」
「つまり、丹羽さんは日本刀の真の価値を知らなかった、ということですか?」
「ええ。そう思います。いろいろと自慢話をされていましたが、僕の印象では話半分、いや、話四分の一、といったところでしょうか……。先祖伝来の村正にしても、にわかには信じられませんね。鞘を払ってみたら、案外、江戸末期辺りの、怪しげな刀だったということになるんじゃないでしょうか。大体が、そんなところで落ちつくもんですよ」
と言って、白井は笑った。
九
犯罪者は、ある日突然、罪を犯すわけではない。ほとんどの場合が、普段から犯罪行為を繰り返しているか、犯罪を誘発するような環境に身を置いている――。
それが、警察学校捜査講習における科学捜査論≠フ講師の第一声だった。
善良な市民が、突如として凶悪犯に豹変《ひようへん》することは現実にはあり得ない。虫も殺さないような人物が、実は冷酷非情な人殺しだった、という報道は、事実を正確に把握したものとは言いがたい。隣人たちは、元々、その人物に対して関心がなく、表面的な接し方しかしておらず、素顔を知らず、正体に気づかなかっただけのことなのだ。現代社会の希薄な人間関係は、犯罪捜査の上でも、憂慮すべき深刻な問題と言えるだろう――。
それが、第一講の締め括《くく》りの言葉だった。
数日かけて、白井の身辺捜査を実施してみたが、その周囲に犯罪的要素は発見できず、村正に結びつく情報も得られなかった。
アパート住まいの白井の生活は慎《つつ》ましやかで、聖人のように潔癖だった。隣人たちの評判も上々で、防犯会長でもある家主の信用もある。丹羽芳江との見合いは、その家主が一方的に取り持ったものだった。家主と借り手という関係上、やむなく見合いの席に臨んだというのが実情で、白井の方から、積極的に見合いを工作したり、丹羽家の内情を詮索《せんさく》したという形跡は認められなかった。
さらに、事件当日の白井の乗用車については、渡辺巡査の証言で、レンタカーであることが判明した。その移動については、同巡査が署専用無線で、業者を呼び寄せるよう依頼し、事件現場で直接、引き取らせている。
レンタカーはその後、営業所の目のつきやすい場所に、閉店時刻まで駐車させておいたが、業者によれば、不審な客が出入りするようなことはなかった、とのことだった。
念のため、鑑識に依頼して、当該車両のトランク内の血液反応テストを実施してみたが、陰性という結果に終わった。
結局、二人の得た結論は、白井を捜査線上から外しても差し支えない、という捜査本部の当初の方針と、全く変わるところはなかったのである。
重い足取りで捜査本部に戻ると、
「今日の結果は、これに書いて下さい」
電話番が便箋《びんせん》大の報告用紙を差し出した。
「へぇー。事務の合理化かい?」
小林が茶化《ちやか》した。
「斉藤班と中村班が一人ずつ、しょっぴいて来ているんです。お偉方はそっちにかかりきりですから」
「斉藤班と中村班?」
小林は真顔になっていた。
「はい。両方とも、別件で十分パクれるんですが、お偉方は渋っているようです」
「本件との関連の可能性は?」
「さぁ……」
電話番は首をひねったが、
「一人がダンマリですから、可能性があるとすれば、そっちじゃないか、というのが、皆さんの意見のようです」
「それそれ、それに間違いない」
小林は報告用紙を電話番に突き返し、
「こんなものはいらなくなるよ。俺の勘じゃ、たぶん今夜中に祝杯だ」
と言うと、小走りに階段に向かった。
小林の後を追って、松本が一階の刑事課に足を踏み入れると、取調室の方から、いきなり罵声《ばせい》が響いた。
――ネタは上がっている。さっさと吐け。往生際が悪すぎるぞっ……。
容疑者を吊《つ》るし上げる時に、刑事がいつも使う決まり文句だ。
刑事部屋は、何十人という男たちでひしめいていたが、異様な静けさに包まれていた。部屋の奥に、いくつか並んでいる取調室の両端のドアは締め切られ、その周辺には数人の男たちが、じっと、聞き耳を立てて中の様子を窺《うかが》っていた。その全員が捜査本部員である。石川もその中にいた。腕組みをしたまま険しい表情で宙を睨《にら》んでいる。
刑事課長は取調室から、かなり離れた自席に腰を下ろし、捜査員の一人と何やら密議を凝らしていた。
小林は深井署の刑事に声をかけ、そのまま連れ立って、資料室の中に消えた。残された松本は、聞き耳を立てている捜査員たちの群れに加わった。
罵声は続いていた。取調担当官は不動産の不正取引について追及していた。事件とは直接関係はないが、犯罪者にとって、犯罪行為は生活の中で緊密に絡み合っている。その全てを明らかにできなくても、違法行為を一つだけ、確実に明らかにできれば、後は芋蔓《いもづる》式に露呈してくるというわけだ。
しかし、厳しく責めたてられても、容疑者は頑強に罪状を否認していた。水掛け論の一問一答だったが、容疑者の答え方には、明らかに余裕が感じられる。
松本はその場を離れ、もう一つの取調室の方に移動した。
ドア越しに、淡々とした取調担当官の声が聞こえた。時折、その声が途切れるが、容疑者の声は全く聞き取れない。椅子《いす》のきしむ音が微《かす》かに聞こえてくるだけだった。
松本が、じっと耳を澄ましていると、
「捜査一課の松本警部補ー、いらっしゃいますかー」
突然、後方で松本を呼ぶ声がした。
「は、はいっ……」
思いがけない呼び出しに、松本は頓狂《とんきよう》な声を上げて振り返った。
深井署の刑事が電話をかざしている。松本は駆け寄って、受話器を受け取った。そして、小声で自分の名を告げると、
「見つけましたよ。すぐ来て下さい」
出し抜けに、ぶっきらぼうな声がした。
「……見つけた?」
電話してきた相手も、その内容もわからない。
「嫌になっちゃうな……」
相手は舌打ちして、
「刀ですよ、か、た、なっ……。もう、必要ないんですか?」
「刀? 保安の水谷さんですか?」
「そうです。自分の仕事をほっぽり出して、余計なことに首を突っ込んでいる大バカ野郎ですよ」
水谷は面倒臭そうに言った。
「刀って……、村正のことですか?」
松本は思わず、受話器を握り締めた。
「それを確かめに来て下さいよ。勝手に荒らしちゃ、まずいんでしょう?」
「わ、わかりました。すぐに向かいます」
松本は、行き先も確かめずに受話器を戻して、小林のところに向かって走り出していた。
丹羽家の門を抜け、車から下りると、
「夜分、ご苦労さまです」
玄関先まで迎えに出た竹島が、深々と頭を下げた。続いて、客間のサッシ戸が開き、
「何はともあれ、ブツを見て下さい」
水谷が顔を出した。松本たちは庭先から直接、客間に上がり込んだ。
客間の中央に、真新しい桐箱が置いてあるのが目に入った。蓋《ふた》は外され、中から鮮やかな西陣織風の刀袋がのぞいている。
「どこにあったんです?」
松本が尋ねると、水谷は黙って床|脇《わき》を指さした。地袋《じぶくろ》の引き戸が外され、その横に、ほぼ同じ大きさの板が二枚、立てかけてある。松本は四つん這《ば》いになって、中を覗き込んだ。地袋の奥に、もう一つの空間があった。
[#挿絵(img/fig3.jpg)]
「言わば、二重の扉。ごくありふれた仕掛けですよ。私のミスです」
水谷は渋い顔をして、
「天袋《てんぶくろ》や地袋の奥を利用する隠し戸棚は、よくあるんです。でも、ここの天袋と地袋の奥は壁でした。だから、仕掛けはないと思ったんです。ところが、どっこい、壁のように見え、壁のような音を立てる素材が使われていたというわけです」
「これが、奥袋ですか?」
「そうです。金庫なんかなかった古きよき時代の名残ですよ。今でも、旧家と呼ばれる屋敷には大抵あります。新築だからといって、ないと思うのは、誇り高い当主の心理を知らないからです。一般に知られていないのは、当人たちが口に出さないからですよ、金庫の番号を教えるようなもんですからね」
「…………」
「こういう場所を探り当てるのは、我々よりも、税務署の連中の方が得意でしてね。実を言うと、私はその極意を伝授されているんです。言い訳に聞こえるかも知れませんが、探り当てるには、その家の当主を立ち会わせることが必要条件でしてね。今回の場合は、それができなかったというわけです」
「じゃ、どうして、見つけられたんです?」
小林が尋ねた。
「この家を建てた大工の棟梁《とうりよう》を探したんだ。とっくの昔に隠居していたが、頑固な爺《じい》さんでね。俺が本物の警官であることを認めさせるまで、一苦労。改口《あらためぐち》のことは、すぐに教えてくれたが、この奥袋のことを聞き出すには手こずらされたよ」
と言って、水谷は苦笑した。
「改口もあったんですか?」
「ああ、八畳間の押入れに作ったらしい。調べてみたが、開かない。最近、塞《ふさ》がれたようだ」
「そうですか……。さすがは、水谷長さん。恐れ入りました」
小林の目は尊敬の眼差《まなざ》しに変わっていた。
「いや、たまにはこういう仕事をするのも面白いよ。それに、これで署長のメンツも立つし、棟梁とも友達になれた。最初は偏屈なジジイだと思ったんだが、なかなか味のある爺さんでね。俺の檀家《だんか》が一軒増えたようなもんだ」
「とにかく、感謝します。おかげで、我々の捜査も一段落です」
小林と松本は、揃《そろ》って頭を下げた。だが、水谷はそれに応《こた》えなかった。
「まぁ、一段落は一段落だろうが……」
と、言葉を濁して、竹島の方を見た。その竹島は畳の上に座り込み、空《うつ》ろな目で桐箱を見つめている。
「どういう意味です?」
小林が尋ねた。
「何はともあれ、見てもらおう。その方が早い……」
水谷は桐箱の前に正座して、おもむろに刀袋に手を伸ばした。紫の房のついた紐《ひも》はすでに解いてある。
「二人を待ちきれなくてね。勝手に見させてもらった。考えてみれば、こいつは証拠品でも、遺留品でもない。……だろう?」
と言って、水谷は小林を見た。
「ええ、まぁ……」
小林がうなずくと、水谷は刀袋の中から、白鞘拵《しらさやごしら》えの日本刀を取り出した。そして、その柄《つか》を握り、静かに鞘を払った。研ぎ上げられた刀身が冴《さ》えた光を放ち、客間に微かな緊張感が広がった。
「村正を見たことは?」
水谷は抜き身を小林の鼻先に差し出した。小林が反射的に後ずさりして、首を横に振ると、
「松本さんはいかがです? ご覧になったことはありますか?」
「いいえ。見るのは初めてです」
と答えると、
「そうですか。これは村正じゃありません」
水谷はさらりと言った。
「何ですって!」
二人は同時に叫んだ。
「私は十五、六年前に、東京の刀剣美術館で一度だけ見たことがあります。村正という刀は、刃文の乱れに特徴がありましてね。細かい説明は省きますが、とにかく、乱刃《みだれば》であることは確かです。しかし、これを見て下さい。これは紛れもない直刃《すぐは》ですよ。村正の刃文を、玄界灘の荒波にたとえれば、これはさしずめ、霧の摩周湖といったところです。こんなのは村正ではありませんよ。今、その証拠をお見せします」
[#挿絵(img/fig4.jpg)]
水谷は桐箱の中から、小さな金槌《かなづち》のようなものを取り出した。松本が珍しそうに覗《のぞ》き込むと、
「目釘抜《めくぎぬ》きです」
水谷は、それを松本の目の前にかざしてから、その先端の突起した部分を回し始めた。すぐにマッチ棒ほどの金属性の芯《しん》が外れた。それを刀の柄の目釘に当てて、小さな金槌で軽く叩《たた》くと、竹製の目釘は簡単に抜け落ちた。
次に、水谷は左手で柄を握って、刀を垂直に立て、右手の拳《こぶし》で、その左手の甲を二、三度と叩いた。そして、再び刀身を横たえ、静かに手前に引くと、柄は音もなく抜け、日本刀は丸裸の状態になった。
「どうぞ、ご覧になって下さい」
水谷が松本に目配せした。松本は吸い込まれるように顔を近づけた。光村≠ニいう文字がはっきり読み取れた。
[#挿絵(img/fig5.jpg)]
「光村……」
松本は思わずつぶやいた。
「偽物、ということですか?」
小林が水谷の肩ごしに尋ねた。
「本物だよ。光村という、立派な本物の刀だ。まぁ、お世辞にも、名刀とは言えない代物《しろもの》だがね。一応、刀には違いない」
「他の刀も?」
「他の二振りは、正しくは、刀とは言えない。刀というのは、刃渡り二尺以上のものを言うんだ。俗に、大刀、と呼ばれているのが、刀だよ」
と言うと、他の二振りに手を伸ばし、
「俗に、小刀、と呼ばれているのは、刃渡りが一尺以上二尺未満で、正しくは、脇差《わきざし》、と言う……。こっちの短いのは、文字通り、短刀。一尺未満のもので、鍔《つば》がないのは、合口《あいくち》とも言われる」
と、一々、説明を加えながら、手際よく目釘を抜いては、畳の上に並べて行った。その脇差にも、そして、短刀にも、光村≠ニいう刀銘が刻まれていた。
石川は光村の刀を両手で持ち、正眼に構えた。その二メートルほど先で、
「でも、村正は盗まれていると思います。犯人はナマクラ刀には目もくれず、そのまま残して行ったものと考えます」
小林は報告の締め括《くく》りに、個人的意見を付け加えた。
「なぜ、そう思う?」
石川は刀身を見つめたまま尋ねた。
「確かに、丹羽家の土蔵から発見されたという刀が、村正だったという証拠はありません。しかし、被害者は娘の見合いの席で、刀剣に詳しい白井に、村正の自慢話をしています。見せてくれ、と言われたら、見せなきゃなりません。ない袖《そで》は振れませんよ」
「いや、振れるね」
石川は間髪を入れずに言った。
「白井の話の様子じゃ、見合いは明らかに不調に終わっている。お断りする相手になら、どんな大ボラでも吹けるさ。それに、父親はかなり酔っていたそうじゃないか。無い地所を売りたくなるのが酒だ、と言うからな。そう言えば、奴《やつこ》さんは不動産屋だったな」
石川はニヤリと笑って、
「丹羽家の先々代が道楽の果てに、家宝の村正を売り払ったという話は本当だった、と見るべきだろう。或《ある》いは、元々、丹羽家に村正なんかなかったんだ。そう考えるのが順当な見方というものだよ。おそらく、被害者は土蔵の壁の中からこのナマクラ刀を発見した時、村正だ、と一人決めしてしまったんだろう。家族や親戚《しんせき》に口止めしたというのは、泥棒よけのためなんかじゃなく、村正でないということが、後でわかったからだ。糠喜《ぬかよろこ》びしたことを笑われたくなかったのさ」
と言うと、日本刀を鞘に納めて、放り出すように机の上に置いた。そして、机の横に立つと、首をぐるぐると回した。次に、両手を腰に当てて体を反らしながら、
「ところで、刀屋もわかったんだって?」
石川は力んだ声で尋ねた。どうでもいい、という響きがこもっていた。
「はい。刀屋の名刺が箱の中に入っていました」
小林は手帳の間から、その名刺を取り出して机の上に置いた。
「どこの刀屋だい?」
石川は見向きもしない。
「山岡市にある春陽堂という店です」
「山岡市? 管轄外だな……」
今度は、膝《ひざ》の屈伸運動を繰り返しながら、
「一応、型通りの事情聴取だけはしておいてくれよ。結末はきちんとしておかないと、後々面倒だからな。報告書は明日の朝一番、で頼むわ」
「明日の朝、ですか?」
「二、三枚でいいよ。あまり細かいことはいらん」
「しかし……」
小林は腕時計を見た。
「どうした? 何か、急ぎの用でもあるのか?」
「いえ、別に……。ただ、これから向かっても、店が開いているかどうか……」
と、首をひねると、
「誰が、わざわざよその県にまで足を運べと言った?」
石川は吐き捨てるように言った。
「電話で十分だよ。答申書なんて必要ない。聞取書だけで、御《おん》の字だ」
「でも……、実は名刺のことで、ちょっと、ひっかかることがあるんです。できれば、直接会って、それを確かめたいと思うんですが……」
「ひっかかること?」
石川が柔軟体操を中断した。
「はい」
小林は机の上の名刺を裏返した。そこには意味不明の数字が書き込まれていた。黒のサインペンを使ってなぐり書きされた76・7=Bそして、77・0≠ニいう二種類の数字である。丹羽家でそれを目にした時、松本は特に気に留めることもなかった。しかし、小林は一目見た時から、この数字にこだわり続けていた。
[#挿絵(img/fig6.jpg)]
「たったこれだけのために、山岡市くんだりまで足を延ばそうってのか?」
石川が呆《あき》れ顔で尋ねた。
「はい。できれば」
「やれやれ……」
と、つぶやきながら、石川は首を横に振った。
もし、この時、松本の脳裏に、数日前の石川の言葉が思い浮かばなかったら、余計な差し出口を挟むことはなかったろう。
「丹羽家の村正が、実際には本物でなかったとしても、動機にはなり得ると思いますが……」
松本は遠慮がちに、その言葉を繰り返した。だが、
「捜査は、生物《なまもの》なんだよ。松本警部補殿」
石川は間髪を入れずに答えた。
「その考え方は、このナマクラ刀が出てくるまでしか通用しない。君たちの捜査で、村正のことは丹羽家の関係者以外には知られていないことがわかったじゃないか。ということは、村正が殺人の動機になったという可能性、ついでに、凶器として使われた可能性もなくなった、ということじゃないのか?」
「でも、その丹羽家の関係者が……」
と言いかけると、
「丹羽家関係者は、山崎班が身辺捜査を継続中だ。そっちから洗えば、いずれボロが出ることになる。この糞忙《くそいそが》しい時に、二度手間をかけることはない」
「…………」
石川の言葉に詭弁《きべん》の臭いを感じ取ったが、それを即座に看破する分析力を、松本は持ち合わせていなかった。松本は沈黙し、小林もうつむいた。すると、
「まぁ、いいか……」
なぜか上機嫌になった石川が、軽い調子で言った。
「意地悪ダヌキ、なんて陰口は叩《たた》かれたくないからな。それに、一課長に直訴でもされたら目も当てられん。小林刑事の職業的勘に敬意を表して、明日一日だけやろう。その代わり、明後日の朝には間違いなく報告書を出してくれよ」
と言うと、床に両手をつき、荒い鼻息を立てながら腕立て伏せを始めた。
十
深井市の南へ、車で一時間あまり。県境を越えた所に山岡市はある。人口五万人ほどの小さな街だが、かつて宿場町として賑《にぎ》わった名残を今に留めていた。
刀剣専門店の春陽堂は、その街の中心的な商店街の中にあった。他の店が軒並み、歩道一杯せり出している中で、春陽堂だけは出入口の前に十分なスペースを設けていた。趣のある店構えが他の店と一線を画し、高級品を扱うに相応《ふさわ》しい品格と威厳をかもし出している。
店の前に車を止めた小林が、丹羽家で発見した三振りの日本刀を小脇《こわき》に抱えて、車から下りた。松本は一足先に、仰々しい家紋入りの檜《ひのき》の看板を横目に見ながら、藍染《あいぞめ》の暖簾《のれん》をくぐった。
午前十時の店内には、予想した通り、客の姿はない。まだ明け方の冷気が淀《よど》む冷え冷えとした店内には、天井まで達するガラスのショーケースが三方を囲んでいた。ショーケースはそれぞれ三段に仕切られ、その一段一段に抜き身の日本刀が陳列されている。ここでも、一見無駄と思えるスペースが商品の価値を高めていた。
店内の中央部には、腰までの高さのショーケースがコの字に組んであり、その中に、鍔《つば》や小柄《こづか》などの小物類と、刀油や拭《ぬぐ》い紙などの手入れ用具が並べられていた。店の奥には接客用のテーブルとソファー。さらにその奥に、三畳ほどの広さの座敷がある。そこで、手拭《てぬぐ》いを後ろ鉢巻きにした六十歳前後の男が、黙々と刀の柄を巻いていた。
「ごめん下さい」
なかなか腰を上げようとしない男に、小林が声をかけた。
「はい。どうぞ、ご遠慮なく」
男はそう答えただけで、手を休めようとはしない。
「警察の者ですが」
小林が手帳を取り出すと、
「これはこれは……」
男はようやく腰を上げて、
「大変失礼しました。てっきり、お客様だと思ったものですから」
と、言い訳を口にしながら、頭の手拭いを解いた。そして、すぐに小林の手元に目をとめて、
「どうぞ、こちらにおかけ下さい」
と言って、座敷から下りた。
二人は勧められるまま、ソファーに向かった。男はインターホンで、茶をいれるように指示した後、机の引き出しから名刺を二枚取り出して、
「店主の平本でございます」
と、いちいち頭を下げて、二人の前に差し出した。丹羽家で発見した名刺と全く同じものだった。
「突然で恐れ入りますが、何はともあれ、この刀を見ていただきたいんです」
小林はテーブルの上で風呂敷包みを解いた。
「かしこまりました。拝見致します」
平本は一礼してから桐箱の蓋《ふた》を外し、中の一振りを手に取った。そして、慣れた手つきで、その鞘《さや》を払うと、幾分、体を反らせ気味にして、じっと刀身を見つめた。
「持ち主の家族の話によると、去年の秋ごろ、研ぎ[#「研ぎ」に傍点]に出されている、ということなんですが……」
小林が急《せ》かすように尋ねた。
「お待ち下さい。この種の刀は出入りが激しいものですから」
平本は刀を鞘に納め、机の上から目釘抜《めくぎぬ》きを取って、昨日の夜、水谷がしたように目釘を抜いた。そして、柄《つか》を外して、刀銘を確かめてから、
「はい。間違いございません。確かに、当店で、研ぎと白鞘製作のご注文を承っております」
と言って、顔を上げた。
「念のため、依頼主の名前をお聞かせ下さい」
と、尋ねると、
「あの……」
平本は一瞬、口ごもって、
「もし、登録のことでしたら、それは、お客様がご自分でなさる、ということでしたので、お任せいたしました。その辺の事情は、よくお確かめいただければ」
「とにかく、名前を聞かせて下さい」
小林は一方的に言った。
「わ、わかりました。確か……」
平本は後ろを振り返って、机の引き出しから、伝票|綴《つづ》りのようなものを取り出した。そして、しばらく、それを繰っていたが、やがて、手を止めて、
「丹羽様です……」
と言いながら、それを二人の前に差し出した。刀剣の預かり書で、日付は十月二十二日となっている。
[#挿絵(img/fig7.jpg)]
「なるほど……。これをコピーして、よろしいでしょうか?」
小林が言った。
「は、はい……。で、でも、一体、丹羽さんは、何とおっしゃっているんです?」
と、不安げに尋ねた。
「丹羽さんは亡くなりました。殺されたんです」
「殺された?」
平本は目を大きく開き、
「い、いつのことですっ」
と、上ずった声を上げた。
「今月の七日です。新聞にも載りましたよ。ご存知なかったんですか?」
「…………」
平本は答えない。かなり驚いている様子だった。
「まぁ、うちの県で起きた事件ですからね。こちらの地域の新聞には、それほど大きくは載らなかったのかも知れませんが」
「七日……」
「そうです。ところで、丹羽さんは村正という刀について、何か言ってませんでしたか?」
村正、という言葉に、平本の体がピクリと反応した。そして、
「やはり、そうですか……」
とつぶやいて、唇を噛《か》んだ。
「やはり、とは?」
と尋ねたが、
「殺された原因は、村正ですか?」
と、逆に問い返してきた。
「それを調べているんですよ」
小林がやや強い口調で言うと、
「実は……、この刀を持参された時、丹羽さんは、錆《さび》だらけの刀身を私に見せて、いきなり、『これは村正だ』とおっしゃったんで、びっくりしたんです。まぁ、お気持ちはよくわかりますがね……。この刀は、土蔵の壁の中から、偶然発見されたものなんです。ご存知ですか?」
「ええ。存知ておりますよ」
「そうですか……。そうでしょうな」
平本はテーブルの上の日本刀に目を落として、
「丹羽さんに限らず、古い長持《ながもち》とか、屋根裏なんかから、錆だらけの刀が出てきたりすると、十人が十人、すぐ名刀ではないかと、期待されるんです。でも、実際には、そんなことはあり得ないんです。名刀の持ち主だったら、錆がつくような保管の仕方はしません。このことは、刀以外のものにたとえてみれば、おわかりになることだと思うんですがね……」
と言って、首をひねり、ため息をついた。
「丹羽さんにも、そうおっしゃったんですか?」
「もちろんですよ。でも、丹羽さんには、その道理が通じませんでした。『わが家には村正の言い伝えがあるから、間違いない』とおっしゃいましてね。頑としてお認めにはならない。中心《なかご》をお見せしても、信用なさらないんですからね」
「中心?」
「刀身の柄に相当する部分です。銘が刻んであるでしょう?」
と言うと、平本は手元の日本刀で、その部分を示した。
「光村、という銘を見ても、認めなかったんですか?」
「そうなんです。こんなにはっきりしているのに、光、という文字に見えるのは、何かの疵《きず》に違いない、と主張されましてね。X線で調べれば、わかるはずだ、と、まるで熱に浮かされているような感じでした」
「それで……、どうされたんです?」
「登録証がないことを口実に、その日は、お引き取り願いました」
「断った、ということですか?」
「はい。丹羽さんとは初対面でしたし、何と申しましょうか、この商売は信頼関係で成り立っている部分が大きいものですから、お断りしたんです。ところが、一週間ほどして、またおいでになりましてね。今度は何も言わずに、ただ、『研いでくれ』と……」
と言って、唇を噛《か》んだ。
「ほう……。村正のことについては?」
「それが不思議なことに、一言もおっしゃらないんです。私も気になって、そのことを口に出すと、『そんなことはもういい。とにかく、これをぴかぴかに研ぎ上げて、白鞘《しらさや》を作れ』とおっしゃるんです。正直なところ、気は進まなかったんですが、二度も、当店にお運びいただいたわけですからね。お断りしづらくなってしまって……」
平本は再び、預かり書に目を落として、
「でも、心配は心配でしたので、丹羽さんご自身の目で、光村の刀銘を確認していただき、預かり書にも、このように書き加えることにしたんです。普通は、こんなに詳しくは書かないものなんですがね……」
と言って、苦笑した。確かに、光村という但し書がしてある。
「なるほど……」
と、うなずいて、
「それでは、刀が仕上がった後は、どうでした? 揉《も》めるようなことはありませんでしたか?」
「はい。お蔭様《かげさま》で、心配していたようなことはありませんでした。二月の半ばに仕上がって、すぐにお渡ししたんですが、料金は即金でお支払いいただきましたし……」
「それだけですか?」
小林は探るような目で平本を見た。
「と……、おっしゃいますと?」
「口止めはされませんでしたか?」
「まぁ、口止めといえば、口止めとも……。『この刀のことは忘れて、以後、道で会っても、挨拶《あいさつ》なんかするな』と、おっしゃって、料金に十万円ほど上乗せして下さいました。もし、最初から、そういう条件であることがわかっておりましたら、お断りしたんですが……」
と、ばつが悪そうに頭を掻《か》いた。
「つまり、仕上げた後では、否《いや》も応もなかった、というわけですか?」
小林は皮肉な笑みを浮かべて、松本を一瞥《いちべつ》した。だが、すぐに真顔に戻って、
「ところで、その後、この刀、もしくは、村正について、第三者から問い合わせがあったと思うんですが、どんな相手でした?」
「いえいえ、それはありませんでした」
平本は首を横に振った。
「ない?」
「はい。私も内心、はらはらしていたんですが、問い合わせなどは、一切、なかったんです」
「…………」
小林は首をひねって黙り込んだ。
熱のこもった質問が、急に途絶えただけに、その後に訪れた沈黙は気の抜けたものだった。味気のない静寂が松本に対して、何かを喋《しやべ》れ、と催促していた。
「光村、という刀|鍛冶《かじ》は……、有名なんですか?」
松本が尋ねた。確かめたいと思っていた唯一の疑問点だった。
「全く無名です。しかしですね……」
次元の異なる質問が、平本を安心させたのかも知れない。強張《こわば》っていた表情が、急速に緩んでいった。
「日本刀の歴史は千年以上にもなります。現品によって存在が確認されている刀工だけでも、およそ一万四千名。そのうちで有名な刀工となると、約千名ですが、光村という刀工は、この中には見当たりません。しかし、無名の田舎鍛冶を含めれば、刀工の数は何万人、或《ある》いは、何十万人ということになろうかと思われます。従って、屁理屈《へりくつ》を言わせていただくならば、どのような銘の刀剣が出てきても、別に不思議ではないということになるんです」
「…………」
「もっとも、刀工の名は大体が二文字で、使用する文字も似通っていますがね。光とか、正とか、その他、兼、助、国、平、房。その組み合わせのようなものです。ちなみに、光という名のつく刀工は、吉光、国光、行光、まだまだあります。上に光のつく刀工となると、光平ですね。下に村のつく刀工は、何といっても、国村でしょう。それに、三条|宗近《むねちか》の一派に、近村というのがいたはずです」
「しかし、光村という刀工は見当たらない、ということですね?」
松本が念を押した。平本は大きくうなずいて、
「そうです。この刀をお預かりしてから、私なりに調べて見たんですが、光村という名の刀工は、私の所有する資料の中にはありませんでした。ただ、国光[#「光」に傍点]の系列に貞村[#「村」に傍点]、というのがいるんです。ひょっとしたら、その弟子か、孫弟子あたりの刀工かも知れません。刀剣界に限らず、師匠の一文字を受け継ぐというのは、日本の伝統ですからね」
「貞村……」
松本が手帳にメモしようとすると、平本がそれを遮るように、
「あ、あくまでも、私の個人的見解ですよ。片田舎で、細々と商売をしている一介の刀屋の、単なる思いつきです。その辺のことは、ちゃんとした学者先生にお確かめ下さい」
と、付け加えた。しかし、すぐに、手元の日本刀に目を注いで、
「でも、刀の出来を見る限り、先ほど申し上げた刀工とは比較になりません。横綱と序の口ほどの違いがあることは確かです。それだけは、この私にも、はっきり申し上げられます」
平本は自信ありげに言った。
「具体的に、どのくらいの値段がつくものですか?」
「そうですね……。九十万円、というところでしょうか。それ以上で引き取る業者は、まず、いないと思います」
「ほう、そんなもんですか。で、他の二振りは?」
「い、いや、三振りまとめて、という意味です」
「三振りまとめて?」
松本は耳を疑った。
「はい。丹羽さんには、お気の毒で申し上げられませんでしたが、これらは、とてもじゃありませんが、鑑賞刀と言えるものではありません。目の利くお客様は、見向きもしないでしょう。ただ、この二尺五寸の刀は、多少|疵《きず》がありますが、居合《いあい》をなさる方に需要があると思います。しかし、後の二振りは、捌《さば》くこと自体が一苦労というところです」
「…………」
予想外の安値に唖然《あぜん》としていると、
「最低でも、その二倍の値はつくと思っていましたよ」
小林が口を挟んできた。いつの間にか、その手には、丹羽家で発見した名刺が握られている。
「ところで、この箱の中から出てきたんですが、これは平本さんの名刺ですよね?」
小林はテーブルの上に名刺を置き、平本がうなずいてから、それを裏返した。
「知りたいのは、こっちなんです。この数字は平本さんが書かれたものですか?」
と尋ねると、
「いいえ。お渡しする名刺にメモをしたことはございません」
平本は即座に首を振った。
「すると、これは丹羽さんが書き込んだということになるんですが、この数字に、何かお心当たりはありますか?」
「…………」
平本は名刺を手に取って、しばらく、その数字を眺めていたが、やがて、壁にぶら下げてあるメジャーに手を伸ばした。それは、メートル法と尺貫法兼用のメジャーだった。平本は、その目盛りに目を注いで、
「少なくとも、この光村の長さのことではありませんね。この光村は二尺五寸ですから、約七十五、八センチということになります。名刺の数字が刀の長さを表しているとしたら、一センチ前後の違いがありますよ」
[#挿絵(img/fig8.jpg)]
と言って、メジャーを小林の前に差し出した。だが、小林は、それを一瞥しただけだった。すでに、昨夜のうちに、確認ずみだったからである。
「長さ以外の数字だとしたら、いかがでしょう?」
「長さ以外ですか……。さて……」
平本が再び、名刺に注目した。そして、
「重さ……のことではないですね。後は、七十六万七千円か、或いは、七六年七月……」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せながら、平本が口にしたことは、全て、小林と松本が十二時間前に検討したものだった。
三人が腕組みをして、テーブルの上の名刺を睨《にら》んでいると、奥のドアが静かに開いた。現れたのは、乳飲み子を背負った三十歳前後の女だった。手には茶碗《ちやわん》を載せた盆を持っている。
「せがれの嫁と、孫の俊太郎です」
平本が相好《そうごう》をくずした。
テーブルの上の日本刀と名刺は、三つの茶碗を置くために片づけなければならなかった。
やがて、女がドアの奥に消えると、
「息子さんも刀剣関係のお仕事を?」
小林が尋ねた。
「いいえ。せがれは内装関係の会社に勤めております。高校を出て、一時期、岐阜の方で研ぎ師の修業をしたんですが、どうも、職人には不向きだったようで……」
「すると、この刀を研いだのは息子さんですか?」
「とんでもない」
平本は首を振って、
「刀なんか、もう見向きもしませんよ。店にも、顔を出しません。休みの時は、車で出かけてしまいますし、刀の手入れも手伝ってくれませんよ。下手に、私の手伝いなんかしたら、後を継がされるとでも思っているんでしょう」
「もったいないですな。こんな立派なお店があるのに……」
「ご時世ですよ。こればかりはどうにもなりません。最近は、横文字の職業が大はやりのようですし、収入もいいですからね。刀屋なんて辛気臭い商売は、嫌がられるんでしょう。どこの店でも、同じ悩みを抱えているようです」
「…………」
「せがれを研ぎ師の修業に出したのは、後を継がせたいという、私のわがままでしてね。刀を見る目を養うには、研ぎの修業をするのが、一番の近道なんです。でも、間違いでした。人には、それぞれ、向き不向きというものがありますし、近道といっても、一人前になるまでには、かなりの年月と、努力精進が必要です。それに、一人前になれたとしても、苦労の割りには収入が少ないんです。まぁ、儲《もう》けようとすると、お客様は離れていってしまいますしね。職人に限らず、評判のいい刀屋ほど、貧乏ですよ。考えてみれば、因果な商売です。余程の刀好きでないと、この仕事は勤まりません。そんなわけで、この店も、私一代限りということになりそうです」
平本は寂しげに笑った。
「そりゃ、残念ですな……」
とつぶやいて、小林は茶碗に手を伸ばした。そして、茶を一すすりすると、急に思い出したように、
「そうそう、これは余談になりますが、村正は妖刀《ようとう》と呼ばれていますね? あれは一体、どうしてなんです?」
と、くだけた口調で尋ねた。
「たぶん、そのことを聞かれると思っていました」
沈みこんでいた平本の表情が、刀の話題になると、急に明るくなった。
「刀剣に興味のない方でも、正宗は天下の名刀で、村正には祟《たた》りがあるなどと、よく口にされますからね。この商売に入って、正宗と村正のお話をしたのは、何百回、いや、何千回ということになるかも知れません」
「私は村正の話だけで結構ですよ」
「そうですか。では、遠路はるばるおいでになったお慰めに、お話し致しましょう」
平本は茶を一口飲んで、
「村正が妖刀というのは、もちろん迷信です。そもそも、村正が有名になったのは、徳川家康が天下を統一したからなんです。家康が三河の小豪族のまま、武田信玄あたりに滅ぼされていたら、村正は単に切れる刀という以上の評価は得られなかったと思います」
「徳川家康と関係があるんですか?」
「そうです。家康の祖父が家来に切り殺されたというのが、ことの発端です。その時の刀が村正だったんです。その後、家康の父も村正で大怪我《おおけが》をしていますし、家康自身も、駿河《するが》の宮崎で今川氏の人質になっていたころ、村正の短刀で怪我をしています。有名な築山殿との間に生まれた長男信康が切腹した時、介錯《かいしやく》した刀も村正でしたし、石田三成が放った刺客に、家康の家来が身代わりになって殺された時の刀も、村正でした。関が原の戦いの時、今度は村正の槍《やり》で、家康は怪我をしています。家康の孫、駿河|大納言《だいなごん》忠長が高崎城で自害した時に使用した短刀も村正でした。まぁ、これだけ続けば、ただでも不吉な刀ということになりますが、剣相術の流行が、さらに拍車をかけることになるわけです」
「剣相術?」
「はい。人相や家相と同じように、焼き刃の形などで、刀剣の吉凶を占う方法ですよ。江戸中期になると、多くの流派が生まれ、大いに吉凶禍福を強調したそうです。今から見ると、こじつけと言ってもいいような、全くいい加減なもので、流派によっては、吉凶が逆になるものもあります。江戸時代ですから、時の権力者である徳川家に不幸をもたらした村正を、吉剣とするわけにはいきません。当然、凶剣中の凶剣ということにされてしまったわけです。村正は祝儀の席に差して行くものではない、とまで、説いていますよ」
「ほう……」
「さらに、そのお先棒を担いだのが、当時の演劇や文学です。多くは、村正の祟りで身を滅ぼす、という筋立てになっています。この影響で、大正時代くらいまで、村正の妖刀観は根強く残っていたようです。災難や不幸があると、すぐ村正のせいにされ、そういう話が、刀剣とは縁のない人々の間にまで広がってしまったんです。これが真相ですよ」
「なるほど。いい勉強になりました。いずれにせよ、丹羽家の不幸は、村正の祟りとは無関係ということになりますね。それとも、ナマクラ刀を村正と偽ったり、村正の話をしただけでも、祟られるということになっているんですか?」
小林が冗談口調で尋ねた。
「ご安心下さい。もしそうだとしたら、私なんか、のべつ祟られていますよ。でも、お蔭様《かげさま》で、ご覧のとおり元気です」
「それを聞いて、ホッとしました」
と言って、小林は声を上げて笑った。それにつられるようにして平本が笑い、二人に合わせて、松本も笑った。
十一
深井署に戻った時、玄関から、捜査本部員の三島警部補と永井刑事が連れ立って出てきた。二人とも冴《さ》えない表情だった。
「どうしたんです?」
と、小林が声をかけると、
「もう一度、聞き込んでくる」
三島が渋い顔で答えた。
「今からですか?」
小林は腕時計を見た。すでに午後七時を過ぎている。
「明日は刑事部長をお迎えしての、緊急捜査会議だとさ。その露払いで、補佐官が来ている。どこの班も絞られているよ。今日の聞き込みは坊主[#「坊主」に傍点]だったからな、みっともなくって、報告なんてできない」
三島はため息まじりに言った。
「とうとう、そうなりましたか……」
小林は唇を噛《か》んで、捜査本部のある四階を見上げた。三島も同じように四階を見上げて、
「巡り合わせというのは不思議なもんだ。あの野郎め、補佐官にまで出世して舞い戻って来やがった。三課の連中は当分、泣かされることになるぞ」
と言うと、玄関|脇《わき》に止めてある黒塗りの高級車に目を注ぎながら、
「そっちは、どんな按配《あんばい》だい?」
と、抑揚のない声で尋ねた。
「似たようなもんですが、まぁ、鍋《なべ》の底をかっさらえば何とか……」
「そうか。そりゃ、実にうらやましい。こちとらは空っぽだ。当てはないけど、二、三時間、靴の底を減らしてくるさ」
三島は自嘲《じちよう》ぎみに言ってから、ネオンのつき始めた繁華街に向かって歩き出した。
「ご苦労様です」
小林は三島の背に向かって声をかけ、しばらく、その姿を見送っていたが、
「大将のところは凶器担当だから、大変だ……」
とつぶやいた。
「刑事部長は、そんなにうるさいの?」
松本は不安にかられた。
「うるさいのは取り巻き連中ですよ。特に、刑事部長補佐官なんて、こんな時でもなけりゃ表舞台に出られませんからね。久方ぶりの出番だってんで、張り切っているんでしょうよ。それに、三島主任のプライドもあります。凶器捜査は足取り捜査と並んで、最も捜査が遅れていますからね」
「…………」
松本は複雑な思いで、三島たちの歩いて行った方向に目を注いだ。すでにその姿は闇《やみ》に紛れている。
「でも、わが村正捜査班は大丈夫です。三島主任には、ああ言いましたけど、タヌキの口ぶりでは、村正捜査は、それほど重要視されていませんからね。私としては、もう少し、むしってみたい気もするんですが、お偉方は幕引きにかかるでしょう」
と言って、玄関の階段に足をかけたが、すぐに振り返って、
「細かい報告は私がしますが、例の名刺の数字のことは、黙っていた方がいいと思います。ひょっとしたら、補佐官の耳に届いているかも知れません。その時は、ありのままを報告して、後は、タヌキにゲタを預けてしまいましょう。その方が無難ですよ。今日の報告は、捜査方針を検討するためのものではありませんからね」
小林は奇妙な釘《くぎ》のさし方をしてから、署の階段を上って行った。
松本は首を傾げて、その後に続いた。捜査方針を検討するためのものではない、という言葉の意味が理解できなかった。
小林の言葉の意味が理解できなくても、捜査本部に足を踏み入れた時、松本は本能的にそれを感じ取った。
いつも騒々しく、雑然としている捜査本部は、まるで通夜のように静まり返っていた。
捜査員たちは、それぞれ二人一組の班ごとに、部屋のあちこちに腰を下ろし、一様に神妙だった。コーヒーカップを手にしている者はいないし、灰皿も伏せたままである。
昨日の今頃は、部屋中に煙草《たばこ》の煙がたちこめ、ホワイトボードの文字が霞《かす》んで見えるほどだった。電話の音は引きも切らず、喧嘩腰《けんかごし》の捜査員は受話器に向かって怒鳴り声を張り上げていたものだ。
「ご苦労さん」
上席の方で、石川の声がした。
だが、その石川の席には、黒縁の眼鏡をかけ、紺のスーツを着込んだ初老の男が座っていた。髪は短く刈り上げた上に、きちんと撫《な》でつけている。県警本部の廊下で、一、二度、見かけたことはあったが、それが刑事部長補佐官であることを、松本はこの日、初めて知った。
補佐官の左側に深井署の署長。右側には副署長が座っている。石川と深井署の刑事課長は、その横に設けられた長机の席に並んで座っていた。まるで、公判開始直前の法廷のような雰囲気だった。三島が聞き込みに出かける気持ちがよくわかる。
小林に促されて、補佐官の正面に進み出た松本は、その場の雰囲気にのまれて、思わず直立不動の姿勢をとっていた。
「一課の松本警部補と、深井署の小林巡査部長は、村正の捜査を担当しております」
石川が上席に向かって説明した。補佐官は手元の資料に目を落とすと、無言でうなずき、ほぼ同時に、
「かけなさい」
と、副署長が言った。
「じゃ、まず、今日の結果を報告したまえ。昨日までの概要は、お話ししてあるから、要点だけでいい」
石川までがいつもとは違う口調だった。
松本はうつむいたまま黙っていた。小林が報告するものとばかり思い込んでいたからである。しかし、小林は一向に口を開く様子がない。その代わり、肘《ひじ》で松本の脇腹《わきばら》を突いてきた。不審に思って顔を上げると、前にいる五人の目が松本に注がれていた。松本は、ようやく事の次第に気づいた。
「失、失礼しました。小林巡査部長が、ご報告致します」
名目上であれ、一応、松本が村正捜査班の班長[#「班長」に傍点]であり、報告責任者ということになる。
松本の前口上を受けて、
「では、ご報告致します」
小林が手帳を開き、説明を始めた。
丹羽家で発見された日本刀は村正ではなかったこと。刀剣商の証言によって、被害者がその事実を隠し、登録手続きも回避したこと……。三分に満たない短い報告だったが、その内容は過不足のないものだった。補佐官を除く全員が、満足げにうなずき、
「何か、ご質問は?」
石川が補佐官に対して尋ねると、
「松本君、今後の方針は?」
補佐官が質問した。
「方、方針?」
突然の指名質問に、松本は戸惑った。打ち切り、という結論が下されるものとばかり思い込んでいたからである。
「どうした?」
補佐官が返答を催促した。隣の小林が見かねたように身を乗り出して、
「もし、被害者が村正を」
と言いかけると、
「君には尋ねてはいない」
補佐官は小林の発言を遮った。そして、
「私は、この班の責任者に尋ねている」
と、厳しい口調で言った。
捜査本部は物音一つしなかった。重苦しかっただけの部屋に、今は息の詰まるような緊張感が張りつめている。後ろにいる捜査員たちが、固唾《かたず》をのんで事の成り行きを見届けようとしているのを、松本は背中で感じ取っていた。
「わ、わかりません……」
そう答えるしかなかった。
継続捜査の必要性は感じていたが、ただ漠然と、そう思うだけで、理路整然と説明できるだけの明快な根拠はなかった。おそらく、小林も同じに違いない。二人の違いは、漠然とした捜査の必要性を、漠然とした刑事としての勘≠根拠に、主張できるかできないかの差だった。数日前に、いきなり現場に配属された松本が、もしそれを口にすれば、失笑を買うことは目に見えている。
「わからない、とは、どういう意味だ?」
補佐官は冷たい口調で尋ねた。
何とか、この場をしのぎたいという、姑息《こそく》な考えが松本の中にあった。
「ニ、ニセ村正が犯罪の動機になったことは、一応、考えられますが、確信を持つまでには至りません。ま、まだ、我々には気のつかない背景というものがあるような……気がしますし……」
発言しながら、自分が墓穴を掘っているのがわかった。案の定、
「一体、何を言っているんだ? 君は……」
補佐官は呆《あき》れたように、しばらく松本を見つめていた。そして、
「いいかね? 具体的に、明日から何に重点を置いて、捜査するつもりなのか、と、私は聞いているんだよ。村正が偽物だったということはわかったし、取り扱った刀剣商に対する裏付捜査も終了した。村正捜査の今後の展望はどうなのか、担当責任者としての見解を知りたいんだ」
容赦のない追撃の質問が浴びせかけられた。素直に、打ち切りたい、と言うべきだったのかも知れない。しかし、なぜか、そう発言することができなかった。
「捜査は続けさせていただきたいと考えております。例、例えば……」
口の中が渇き、声が喉《のど》に引っかかった。
「例えば……、被害者と犯人が、何らかの理由で、狂言強盗を仕組んだが、仲間割れをしたということも考えられなくはありません。つ、つまり、被害者の丹羽静夫にとっては、村正盗難事件が解決されてしまうと、困、困るわけでありまして……、ただ、丹羽静夫が、まさか、自分が殺されるとは、思ってもいなかったわけでありまして、そ、その辺の捜査は鑑賞、い、いや、確証がないために、まだ、あの……」
途中から、何を話しているのか、自分でもわからなくなっていた。もう一人の自分が、勝手に話しているような感じだった。
「もう、いい!」
補佐官が拳《こぶし》で机を叩《たた》いた。そのまま、じっと松本を睨《にら》んでいたが、やがて、石川の方を向いて、
「こんな、しどろもどろじゃ話にならんな。刑事部長にコップの水をぶっかけられるのが、関の山だ」
と、聞こえよがしに言った。
「実は、松本警部補は、例の通達五号による捜査員でして……。当捜査本部に欠員が生じたため、補充員として途中から参加しております」
石川が猫なで声で弁解した。
「刑事部長にも、そう申し上げるつもりか? そんな言い訳は通らんぞ」
補佐官は吐き捨てるように言ってから、松本を一睨みして、
「発言能力が欠如しているだけじゃない。具体的な問題点を全く把握していないじゃないか。ただ漠然と与えられた仕事を追っている証拠だ。これじゃ、駄目だよ」
松本にとっては、心臓をえぐられるような言葉だった。補佐官の指摘は、偏見や誤解に基づくものではなく、紛れもない事実だったからである。
「この班の発表は、石川君がやりたまえ」
補佐官がメモをしながら言った。
「……私が? 小林君では不都合でしょうか?」
と、石川が尋ねると、
「相手は刑事部長だぞ。もし、関連質問をされたら、どうするんだ?、巡査部長の彼に、対応できるのか?」
補佐官が顎《あご》をしゃくった。
「はぁ……」
石川は釈然としない面持ちで、署長の方を見た。すると、
「私は小林君で十分だと思います」
署長が言った。
「もし、それで不都合を生じるようなことがあったら、私が全責任を負いますよ」
淡々とした口調だったが、その声は部屋の隅々まで響き渡った。能面のような補佐官の頬《ほお》が微《かす》かに紅潮した。そして、
「署長さんが、そこまでおっしゃるのなら、どうぞご自由に……」
と、突き放すように言った。
誰もいない署員食堂で、自動販売機のコーヒーを飲みながら、松本は窓の外の風景を眺めていた。
いつの間にか振り出した雨は、まるで自棄《やけ》を起こしたように、激しく路面を叩いていた。横殴りの雨は風にあおられて、開いたままの窓から舞い込み、床を水浸しにして行ったが、松本は足を運ぶ気力さえ失っていた。
補佐官の先乗り調査≠ヘまだ続いていた。しかし、松本は捜査本部には居たたまれなかった。補佐官の歯に衣《きぬ》を着せない言葉は、捜査本部員全員の胸の奥にある言葉だと思ったからだ。
「あまり深く考えないで下さいよ」
ドアのところで、小林の声がした。
「わが班はスケープゴートにされたんですよ。それだけのことです」
「スケープゴート?」
「叱《しか》られ役ですよ。一癖も二癖もあるベテランに、露骨な嫌味は言えないでしょう? そこで、手頃な新米を血祭りに上げて、他の捜査員の尻《しり》をひっぱたくわけです。帝王学のイロハですよ」
「そうかなぁ……。それだけじゃないような気がするんだが」
松本はため息をついてから、紙コップに口をつけた。冷えたコーヒーの苦さが舌にしみた。
「とにかく、いちいち気にしていたら、身が持ちませんよ。肩の力を抜いて、気楽にやりましょうや」
小林はゆっくりした足取りで、松本の前を通りすぎ、開けっ放しの窓を閉めた。そして、振り返ると、
「今日はお帰りになったらどうです? 久しぶりに奥さんの手料理に舌鼓を打って、しっかりと馬力《ばりき》をつけてきて下さいよ」
小林はことさら明るい口調で言った。
「うん……。そうしようかな……」
松本はコーヒーの残りを流しに捨て、紙コップを握りつぶしてクズ箱に落とした。
妻は出産のために実家に戻っている。アパートに帰ったところで、自分を迎えてくれる者はいない。せいぜい隣の老夫婦が、留守中に預かった宅配便の小荷物を届けてくれるくらいのものだ。しかし、せめて今夜だけは、妻の声を聞き、自分の布団にくるまって眠りたかった。
2DKの六畳間で、出前の寿司《すし》を肴《さかな》に、ビールを三本、立て続けに空にしたが、少しも酔わなかった。
目はぼんやりとテレビの画面に向けられている。バラエティ番組の馬鹿騒ぎも、松本を笑わせることはできなかった。脳裏には常に、補佐官の顔が見え隠れしている。
その残像を振り払うように、コップに残った最後のビールを一気に飲み干し、松本は風呂《ふろ》に向かった。
まだぬるい湯船に身を沈め、立ちのぼる湯気を見つめていると、次第に酔いが回ってきた。それとともに、惨めな自分に対する腹立たしさは、やがて、補佐官に対する憎しみへとすり替わって行った。立場が弱く、反抗できないと計算ずくの上で、自分が口汚く罵《ののし》られたのだと思うと、無性に腹が立った。
「ちくしょうめ……」
松本は片手で湯面を叩いた。あの高慢ちきな鼻をへし折ってやりたい……。稚拙な発想だったが、松本は真剣にそう思った。
湯船の縁に腰をかけ、両足にできたまめを見つめながら、改めて、丹羽家の事件に考えを巡らせた。自分を見くびっている補佐官や石川、そして、捜査本部の全員に一泡吹かせたい、という一心だった。
一体、どれだけの時間、湯船と洗い場の間を行き来したことだろうか……。とにかく、長湯にさらされて、肌に痛みを感じ始めていたことだけは確かである。腕組みし、目を瞑《つむ》り、後頭部を湯船に擦《こす》りつけていた時、突如としてその閃《ひらめ》きは浮かんだ。松本は口元まで湯に浸かり、身じろぎもせずに一点を見つめ続け、そして、湯船から出た。
壁の時計を見ると、午後十一時。腰にバスタオルを巻いた姿で、松本は深井署に電話した。署に泊まり込んでいる小林に、自分の閃きについて、意見を聞きたかったからだ。
起き番の警官は、まず捜査本部へ内線電話をつないだ。次に刑事部屋、さらに鑑識室、と、たらい回しされ、記録倉庫につながったところで、
「こんな時間に一体、何のご用です?」
小林の声がした。
「そっちこそ、記録倉庫なんかで、一体、何してるのさ?」
と尋ねると、
「布団に入る前に、ちょいと般若湯《はんにやとう》などを頂戴《ちようだい》しております」
「そうか。こりゃ野暮《やぼ》だった」
書庫の陰で、缶詰やピーナッツを肴にして寝酒をあおっている姿が目に浮かんだ。
「何か……、お取り込みでも?」
と、小林が勘繰るのも、時刻が時刻だけに、当然のことだった。
「いや、そんなことじゃない。実は、思いついたことがあってね。そっちの意見を聞こうと思って」
「なるほど。すると、私が寝酒代わりというわけですね? いいですよ。悩み事があるなら伺いましょう」
小林が笑った。
「被害者の丹羽静夫が、なぜ、遠く離れた県外の刀屋を訪れたのかが、わからないんだ。刀屋なら、県内にもあるだろう?」
「ええ、まぁ、それはそうですが、でも……」
「電話帳に春陽堂の広告は載っていないよ。念のために、調べてみた。うちの県のタウンページには載っていない」
「それじゃ……、たぶん、誰かに紹介してもらったんじゃないですか?」
「俺も最初はそう思った。でも、刀屋を紹介するような人物がいたとすれば、刀屋に見せる前に、まずその人物に、刀を見せると思うんだ。あのナマクラ刀が村正でないことは、銘を見れば、すぐにわかる。わざわざ、刀屋まで足を運ぶ必要はなくなると思うんだ。それに、もし、その人物の鑑定が不服だったら、そんな人物の紹介した刀屋に、刀を持ち込む気にはなれないと思う」
「…………」
「もう一つの視点から考えても、やはり疑問は残る。仮に、丹羽静夫が何かを企《たくら》み、作為的に県外の刀屋を訪れたとする。この場合は、なぜ本名を使ったのか、理解できない。偽名を使えば、口止め料なんて払う必要はないんだ」
「なるほどね。降参しますよ。じらさないで、結論を言って下さい」
「これは思いつきなんだが、春陽堂に現れた男は、果して丹羽静夫本人だったのだろうか、と思って……」
「何ですって?」
「やはり、土蔵から発見された刀は村正だった、という前提に立った方がいいような気がする。丹羽静夫本人は、発見された刀を春陽堂以外の店に持ち込んでいるんじゃないだろうか? 誰かが、そのことを知って、村正を横取りしようと企んだんじゃないかな」
「…………」
「だが、仮に、村正を手に入れることができたとしても、手配されてしまえばそれまでだろう? 売りに出せば、必ず、盗まれた村正じゃないかと、警察が調べに来る。結局は、宝の持ち腐れ、ということになってしまうよ。そこで、犯人は、盗み出す前に、丹羽家で発見された刀はナマクラだった、という事前工作をする必要があった」
「そのために、丹羽静夫を装って、県外の春陽堂を訪れ、あのナマクラ刀を預けた、という筋読みですか?」
「うん。去年の十月、春陽堂に現れた男は、丹羽静夫ではなく、丹羽静夫を装った犯人、もしくは、犯人の一味の者じゃないか、と思うんだ。あのナマクラ刀はダミーだよ」
「でも、丹羽静夫本人は、別の刀屋へ村正を持ち込んでいるわけでしょう? その刀屋が申し出れば、その時点で、犯人の企みは破綻《はたん》しますよ?」
「でも、その刀屋がグルだとしたら?」
「グル?」
「或《ある》いは、主犯格の黒幕だ。三月七日に起きた事件は、偶発的な居直り強盗殺人じゃない。屋敷に押し入って、丹羽静夫を脅して村正の在り処《か》を吐かせ、本物とナマクラ刀をすり替え、そして、口塞《くちふさ》ぎに殺害した。そう考えれば、辻褄《つじつま》が合う」
「…………」
しばらくの間を置いて、
「いけますよ。なかなか面白い発想です」
小林が嬉《うれ》しそうな声を上げた。だが、
「何か、見落としていないかな?」
松本は不安だった。閃きには自信があったが、丹羽家殺人事件の全てに、精通しているわけではない。
「いやいや、十分ですよ。春陽堂に十万円も上乗せして、口止め工作したのは、犯行前に、丹羽静夫本人の耳に入らないようにするため、と考えれば、辻妻《つじつま》が合います」
小林は即座に、松本の推論の不足を補った。そして、
「これで明日、いや、今日の会議で、補佐官に一矢《いつし》報いることができますよ。敵討ちができまっせ」
と、巻き舌でまくし立てた。本音なのか、酒の勢いなのか、判断できない。それが不安だったので、
「もう少し、裏付捜査をした方がいいんじゃないかな。少なくとも、モンタージュ写真くらいは……」
と、遠慮がちに言うと、
「もちろん、いずれモンタージュは作りますよ。でも、モンタージュなしでも、春陽堂に現れた男が丹羽静夫本人かどうか、確かめる方法はあります。松本仮説が当たっているかどうかは、それでわかりますよ」
小林は自信ありげに言った。
十二
午前十時前に署内放送が流れ、捜査本部関係者に召集がかかった。
講堂の半分近くを占めていた捜査本部の机や椅子《いす》は片づけられ、ほぼ半月ぶりに、そこは本来の姿を取り戻していた。
県警のトップクラスを迎えるとあって、床にはワックスがかけられ、窓ガラスは磨き上げられ、天井の蛍光灯は全て新品のものに交換されていた。
続々と参集する出席者は、捜査本部員に留《とど》まらなかった。深井署の外勤課から交通課に至るまでの各部門の責任者。さらに、隣接署の強行犯捜査担当者の席まで準備されていた。
それらオブザーバー$ネは、名札によって指定されていたが、捜査本部員については、全くの自由席≠セった。この種の会議は、常に後方から席が埋まって行く。松本と小林は、事前の下調べに手間取ったため、結局、最前列の席に座る羽目になった。
定刻になると、気をつけー、という大声が響き渡り、署長の先導で、刑事部長が登場した。その後に、県警本部の捜査一課長、鑑識課長、刑事部長補佐官。続いて、深井署の副署長と刑事課長、そして、しんがりは石川だった。
全員が上席につくと、互いの礼。休め、の号令で、出席者は腰を下ろした。
進行役の石川から、緊急全体捜査会議を開会する旨の発言があり、刑事部長のお言葉、ということになった。刑事部長はおもむろに立ち上がり、簡単な訓示を述べた。その要旨は、今年度の刑事警察の重点目標を単になぞったものにすぎなかったが、出席者は神妙な面持ちでメモを取っていた。
続いて、事件概要と現時点までの捜査状況について、刑事部長に報告するという形式で、捜査一課長から説明がなされた。
退屈な儀式はここまでだった。捜査一課長が腰を下ろすと、現状における捜査上の問題点と、今後の具体的方針≠ニいう仰々しいテーマで、各捜査班の発表となった。
石川が最初に指名したのは、情報担当班だった。この班は五班十名で構成されており、ベテランが多かったが、最も若い警部補が代表して発表を行った。声はよく通り、聞きやすい。しかし、歯切れがよかったのは言葉だけだった。肝心の内容については、困難な現状を説明することに終始した。それまで、手元の資料に目を通していた補佐官は、発表者が発言を終えて腰を下ろすより先に、厳しい質問を浴びせかけた。若い警部補になす術《すべ》はなく、耳障りのよい言葉の羅列は、瞬く間に化けの皮を剥《は》がされた。
その点、凶器担当の三島警部補は老練だった。三島は厚さ十センチに及ぶ刃物のカタログをかざし、死体検案書や検視調書を引き合いに出した上に、数十年前の事件にまで言及して、上席を煙《けむ》に巻いた。長々とした説明は割り当てられた持ち時間を遥《はる》かに上回り、その分、補佐官の質問時間が短縮されることになった。
続いて、不動産関係、前歴者関係の担当班が発表したが、三島の発表後、上席から、要点のみを述べるように釘《くぎ》をさされたため、再び、補佐官の独壇場になった。発表者は些細《ささい》なことにも注文をつけられ、平伏させられた。そして、
「村正捜査班」
石川の声が響き、小林が立ち上がった。
小林は他の発表者同様、手帳を開き、軽く咳払《せきばら》いをしてから、
「実は、会議の三分前まで、重要情報の確認作業に追われておりましたので、事前にご報告できなかったことについて、まず、お詫《わ》び申し上げます」
と、前置きした。そして、松本が投げかけた疑問点と、その捜査結果について発表を始めた。
「本日、春陽堂店主、平本栄治氏に対し、電話による聞き取り捜査を行ったところ、次の通りであります。昨年の十月十五日、及び、同二十二日、今年二月半ばの三回、春陽堂に現れた丹羽静夫と名乗る人物の人相特徴は、年齢六十歳くらい、中肉中背、顔面にほくろ等の目立った特徴はない。頭髪はやや薄く、ヒゲが濃かったような気がする。眼鏡はかけておらず、言葉は県南|訛《なま》り、つまり、深井市地域の訛りがある……ということでした」
「…………」
「しかるに、実際の丹羽静夫氏は、年齢五十七歳で、これはほぼ一致しておりますが、身長百七十五センチで、五十六キロ。かなりの痩《や》せ型です。鼻の右横には小豆大のホクロがあり、髪はいわゆる胡麻塩《ごましお》頭で、禿《は》げてはおりません。また、本人は視力が弱く、いつも、黒縁の眼鏡をかけていたことは、すでに確認ずみのことであります。言葉についても、今朝、被害者の一人娘に確認したところ、酔った時以外は標準語に近い話し方をしていた、ということでした。これは、東京で働いていたころ、田舎訛りを馬鹿にされたために、話し方教室に通ったためだということです。……以上のことから、村正捜査班は、昨年十月及び今年二月、春陽堂に現れた人物は丹羽静夫氏本人ではないと思料《しりよう》し、本事件との関連について、捜査を開始したいと考えております。以上です」
小林は一気にまくし立てて、着席した。
爆弾発言≠ノ会議場がざわついていた。中でも、補佐官が戸惑っている姿が、松本には目についた。昨日の下調べは今日の会議のための、言わばシナリオを作るためである。村正捜査班に対して、どのような注文をつけるか、昨夜のうちに決まっていたはずだ。
静粛に、という石川の声で、会議場に静寂が戻った。しかし、今度は奇妙な空気が広がっていた。それまで、発表者が腰を下ろす暇もなく、鋭い質問が浴びせかけられていただけに、意外な印象を与えた。上席中央の刑事部長も、訝《いぶか》しげな表情で補佐官の方を見た。それを意識したのか、
「その春陽堂という刀屋が……」
と言いかけて、補佐官は手元の資料に目を落とした。そこに必要な書類があるはずがない。必要とする書類は松本の前にあった。昨夜、小林に電話した後も、松本は寝つくことができず、様々な角度から自分の閃《ひらめ》きに検討を加え、捜査の可能性を探り続けた。そして、結局、一睡もせずに夜明けを迎えた。
補佐官が資料を確かめるふりをして、質問を考えていることが、松本にはわかった。やがて、補佐官は上気した顔を上げ、
「松本警部補だったかな?」
と、攻撃の矛先を変えてきた。
「小林です」
隣の小林が腰を浮かしかけたが、
「捜査責任者に聞きたいんだが」
と、再び、松本を指名してきた。松本は戸惑いながら立ち上がった。
「それで、今後の捜査は具体的にどうするつもりなんだ?」
狙《ねら》いは明らかだった。昨日のやりとりを、もう一度、繰り返すつもりなのだ。
松本の中に激しい怒りがこみ上げてきた。しかし、感情の赴くままに行動して、褒《ほ》められる年齢ではない。深呼吸して、その怒りを鎮めた。そして、
「まず、モンタージュ写真を作成すべきだと思います」
松本は結論だけを述べた。
「それから?」
予想通り、相手は畳みかけてきた。だが、松本の立場からすれば、質問の内容は、あまりにも漠然としたものだった。
「ご質問の意味が、よくわかりませんが……」
と問い返すと、
「言葉通りだよ。モンタージュ写真を作ってから、どうする気か、と聞いているんだ」
昨日の口調が甦《よみがえ》っていた。松本は慎重に言葉を選んだ。
「もし、手配についてのお尋ねでしたら、まだ時期尚早だと思います。単に偽名を使ったとしても、丹羽氏本人の依頼を受けていたという可能性もあり得ると思うからです。もちろん、現段階において、我々は」
「ちょっと待てっ」
補佐官がせわしくメモを取りながら、
「偽名を名乗った人間が、丹羽氏本人の依頼を受けていたという可能性もあり得る、だと? どうして、そう言いきれるんだ? そんなことがあり得るのか?」
と、早口でまくし立てた。松本は困惑した。それは洞察力の不足から生じる疑問ではなく、寝耳に水の報告を受けた直後であれば、誰しもが抱く疑問だった。
「どうした? 質問の意味が、まだわからんのか?」
補佐官が催促した。わかりやすい的確な表現を吟味している暇はなかった。松本は卑近な例ですますことにした。
「偽名を名乗る行為というものが、即、犯罪に結びつくとは限りません。我々の日常生活にも、よくあるからです。例えば、飲み屋でビールや摘《つま》みを追加注文する際には、自分の名前を名乗るより、幹事の名前で注文した方が、間違いなく運んできてくれますし、勘定を間違えることもありません。領収書を書く上でも、その方が確実です」
真面目《まじめ》なたとえ話のつもりだったが、会議場はドッと沸き、松本は発言を中断しなければならなかった。
そんな中で、補佐官だけが真剣な表情で、松本を見つめていた。やがて、その口が開きかけたが、
「それでいいよ。その方針でやりたまえ」
刑事部長が白い歯を見せて言った。
鶴の一声で、村正捜査班の発表は打ち切りになった。引き続いて、各班の発表に移ったが、会議場の雰囲気は一変していた。その後も、補佐官が時折、声を荒らげることはあったが、会議場全体から緊張感は失われていた。
「お偉方も、ようやく、納得しましたよ。何しろ、背景が入り組んでいますからね。黒板を使って説明しても、なかなか、ご理解いただけない。補佐官なんて、最後の最後まで、首をひねっていましたよ」
廊下に出て来た小林が、松本を見て、満面に笑みを浮かべた。会議終了後、小林は石川に呼び止められ、三十分以上も足止めを食ったのである。
「しかし、松本警部補が指名された時は、正直なところ、返り討ちにあうかと、冷や汗をかきましたよ。いやぁ、実に、お見事でした。自分じゃ、ああは行かない。お蔭様《かげさま》で、久しぶりに、胸がスッとしました。当分の間、酒の肴《さかな》にさせていただきます」
小林は、まだ興奮している。
「でも、闇討《やみう》ちしたような気分だ。後味が悪い。アウトラインだけでも伝えておくべきだったんじゃないかな……」
松本は唇を噛《か》んだ。
「冗談じゃない。あんな野郎に気遣いは無用です。事前に報告すれば、なぜ、もっと早く報告しなかった、と、ケチをつけられるのが関の山ですよ」
「…………」
「奴《やつ》の頭の中には、数字しかないんです。言うなれば、血も涙もない数字のロボットですよ。ああいう人間には、多少汚い手を使っても、罰《ばち》は当たりません。数字を楯《たて》に、部下をさんざん苛《いじ》め続けてきたんですからね。自業自得ってもんですよ。恥をかいたら、大声で笑ってやればいいんです。ざまぁ見ろってね」
小林は高笑いしながら、階段を駆け降りて行った。松本は複雑な思いを抱いて、その後に続いた。
階段を一段一段、踏みしめるようにして下りて行くと、三階の踊り場で、
「補佐官がお呼びです」
下から駆け上がって来た制服警官に声をかけられた。
「俺を?」
嫌な予感がした。
「はい。すぐに、ということです」
警官が急《せ》かせた。逃げ場はなく、無視するわけにはいかなかった。
律儀な警官は、署の玄関前まで松本に付添い、与えられた任務を果たした。補佐官は黒塗りの乗用車の中で、松本を待ち構えていたのである。
「乗りたまえ」
補佐官は内側からドアを開けた。その顔は確かに、ロボットのように無表情だった。松本は覚悟を決め、居直った。
「失礼します」
形ばかりの会釈をして、補佐官の隣に乗り込んだ。エンジンはかかっていたが、運転手はいない。
「会議では、刑事部長に水を差されてしまったんでね。それで来てもらった」
補佐官は前を見たままつぶやいた。松本は答えなかった。呼びつけられた理由はわかっている。
「あの推論は、君が考えたそうだな?」
補佐官が尋ねた。推論、という言い方が、癇《かん》に障《さわ》ったが、反論は思い止《とど》まった。どうせ相手はロボットである。
「どうした? それとも、推論に自信がないのかな?」
いつもの口調が甦っていた。もう、うんざりだった。
「推論とは思っていません」
松本は前を見たまま言った。
「ほう……。じゃ、何だ?」
補佐官も前を見たまま尋ねた。
「事実だと思っています」
「事実? 根拠は?」
「失礼ですが、小林が申し上げたことを、ご理解いただけなかったのでしょうか?」
松本は皮肉を込めて言った。
「理解? まぁ、理論の上で、という意味なら、完全に理解はしている。あんな回りくどい説明を聞かなくても、大体のところは予測がついた。確かに、見事な論理展開だ。だから、会議の席では、正直なところ、慌てたよ。面食らってしまった」
補佐官は松本の方を向いて笑った。松本は目を見張った。初めて見る、いや、予想もしなかった笑顔だったからだ。
「だから、心配なんだ。とかく、直観というものは独善をはらみ、独善は錯覚を生む――という教えがある。あの推論、いや、君によれば事実ということだが、僕の印象では、かなりの無理を感じる。はっきり言わさせてもらえば、こじつけに近い」
補佐官は静かな口調で言った。松本は言葉を失っていた。その態度が、今までのものとは、かけ離れていたからだ。
「まぁ、こじつけだとしても、他の班に比べれば、数段上だ。まだ、救いがある。その点は評価するよ。……足取り捜査班の発表を聞いたか?」
「は、はい……」
「君はあれを聞いていて、どう思った? 腹は立たなかったか?」
「…………」
松本は返す言葉に窮した。補佐官の真意を計りかねていた。
「確かに、あの連中は手抜きはしていない。だが、ただ、漠然と聞き込みをしているだけだ。何も考えていない。足取りに結びつく情報が得られないのなら、なぜ得られないのか、悩むべきなんだ。どうすれば、人に見られずに現場に出入りできるか、実験してみるくらいの創意工夫がほしい。自殺、偽装他殺、事故、自然現象、何でもいい。ヘリコプター、トンネル、どんな非現実的な思いつきでもいいんだ。突きつめて考え、行動すれば、真実の一端に迫れる。彼らには、そういう面が欠如している」
「…………」
「君の場合は、その正反対だ。しかも、極端すぎるきらいがある。率直に言って、よくも考えついたものだと感心している。だが、揚げ足取りに聞こえるかも知れんが、過ぎたるは及ばざるがごとし、とも言う。僕の拙《つたな》い経験によれば、全ての犯罪は単純なものだよ。複雑に見えるのは、見る方が、勝手に複雑に見ているからだ。君の推論は、その典型だ。だから、心配なんだよ」
「じゃ、一体……」
どうすればよいのか?
「矛盾しているようだが、当面は、今のままでいい。ただ、僕の言ったことを、頭の片隅に入れておいてもらいたいんだ。僕が正しいか、君が正しいかは、いずれはわかることだ。僕が言いたいのは、たとえ、誤った方向に進んだとしても、懸命に仕事を続けてさえいれば、真実を見失うことはないということさ。失敗したり、間違いに気づいても、決して、落ち込む必要はないんだ」
「…………」
「もう一つ言いたいことは、人間、死に物狂いになれば、大抵のことはできるということだ。捜査の経験のない肩書だけのヘボ警部補でも、一晩寝ないで、必死に知恵を絞れば、ベテランを驚かす推論を考え出すことができることもある、ということだよ。……目が赤いぞ」
と言って、補佐官は、再び笑顔を見せた。そして、背もたれに寄り掛かるようにして目を瞑《つむ》ると、
「欲を言えば、犯罪や犯人に対して悔しさが募り、夜も眠れなくなるほど必死になれればいいと思うんだが、残念ながら、現実は、そう甘くない……。数字を楯に尻《しり》を叩《たた》き、満座の中で恥をかかせて、追い立てなければ、必死にはなれない。情けないことだ……」
「…………」
「元々、人間は自分を甘やかすようにできている。そして、わずかな甘えが、少しずつ増殖していき、結局は、隙《すき》だらけの警官が出来上がってしまうことになるんだ。さらに始末の悪いことに、本人はそれに気づかない。君は昨夜《ゆうべ》の気持ちを、いつまでも忘れないことだ。捜査本部は仲良しクラブじゃない。経験なんて関係ないんだ。不器用であっても、無我夢中で働いている人間が、幅を利かせる場所なはずだからな」
「は、はい……」
松本は両|膝《ひざ》を揃《そろ》え、肩をすぼめて頭を下げた。
「話はそれだけだ。すまんが、運転手を呼んでくれ。受付前のソファーに座っているはずだ」
「はい」
松本は車から下り、受付に走った。運転手が戻ると、補佐官の車は、すぐに出発した。松本は、それを見送った。車が遠ざかり、やがて視界から消えても、松本はしばらく、その場を離れることができなかった。
十三
石畳の細長い道を、松本は一人で歩いていた。
外国の街だが、どこかはわからない。下町の狭い裏路地で、両側には古いレンガの見すぼらしい安アパートが続いていた。辺りに人影はなく、足を踏み出すたびに、自分の靴音が長い余韻を残して、響き渡って行った。両側のアパートのベランダが洗濯ロープでつながれていて、そこに、無数の様々な衣類が干されていた。それらが青空の下で、万国旗のように風に舞っている。しかし、頬《ほお》に風の感覚はなかった。
不思議な光景だった。洗濯物が音もなく風に舞っている中で、誰かが囁《ささや》くように、松本の名を呼んだ。立ち止まり、後ろを振り返ったが、誰もいない……。アパートを見上げても、何十、何百というベランダにも人影はなかった。
再び、歩き始めると、また、誰かが松本の名を呼んだ。そして、突然、大きな白いシーツが頭上から落ちてきた。反射的に顔をそむけ、払いのけようとした時、夢から醒《さ》めた。
懐中電灯が松本の顔を照らしていた。思わず顔をしかめると、光は消え、辺りは漆黒の闇《やみ》に変わった。
「お休みのところ、恐れ入ります。水谷さんがお呼びです」
夢の中で聞いた声が、囁くように言った。松本の意識は、まだ朦朧《もうろう》としていた。やがて、体を包んでいる毛足の短い毛布の感触で、深井署の仮眠室にいることを思い出した。
わかった、と答えたが、相手は立ち去る気配がない。仕方なく上半身を起こし、闇の中でズボンに手を伸ばした。すると、それを見計らっていたように、黒い人影はドアの方へ向かって歩き出した。
ライターの火で腕時計を見ると、午前四時。なぜ起こされたのか、見当もつかなかった。捜査本部には、輪番制の当直が、必ず詰めている。松本が叩き起こされなければならない理由はないはずだった。
しかし、水谷には日本刀発見の借りもあり、無視するわけにはいかなかった。暗闇の中で、大雑把に身支度を整え、松本は仮眠室を後にした。
一階に下りてみたが、深井署の宿直は通常態勢だった。二名の私服員は、それぞれのデスクで事務処理中。一名の制服員は電話交換台の前で、カップラーメンをすすっていた。当の水谷は、副署長席の電話を使って通話中だったが、松本と目が合うと、素早く、手元のメモ用紙に何やら書きつけて、それを頭上にかざした。
しょぼつく両目をこすりながら、松本は水谷の側に向かった。そして、そのメモに目を注いだ瞬間、雷に打たれたような戦慄《せんりつ》に襲われた。
春陽堂でコロシがあった模様――。
松本は息をのんだ。夢の続きを見ているような気分だった。呆然《ぼうぜん》として、メモに目を注いでいると、
「小林君に連絡する前に、お耳に入れるのが筋だと思いましてね」
水谷が受話器を戻しながら言った。
「わざわざ、すみません」
取り敢《あ》えず、礼だけを先に言った。
「県警無線が、時々、妙なことを口走っているんで、チャンネルを動かしてみたんです。しばらく前のことですが、隣の県で連続放火があったのに、通信指令本部の判断ミスで手配が遅れたことがありましてね。それ以来、署長命令でやっていることなんですが、ドンピシャリでした。殺人事件の発生地は山岡署管内。被害者は平本栄治。こりゃ、主任さんたちにとっては、訳ありの対象でしょう?」
「ええ……」
訳ありどころではない。平本とは、すでに一週間近く、モンタージュ写真作成のための折衝を続けてきていた。昨日の夜遅く、ようやく日程の調整がつき、今日の正午までに、平本を鑑識課に送り届ける手筈《てはず》になっていたのである。
「それで、すぐにお知らせした方がよいと考えたわけです。実は、山岡署の連中とは、半年ほど前に、覚醒剤《かくせいざい》の密造事件で捜査協力をしたことがありましてね。出すぎたことだったかも知れませんが、電話を入れてみました。残念ながら、詳しい事件概要まで聞き出すことはできませんでしたが……」
水谷は、再びメモ用紙を手元に引き寄せて、
「現場には、当時、私と組んだ捜査係が出張っているそうです。一応、本人の方に、こちらの事情を連絡してくれるように依頼はしましたが、当てにしない方がいいでしょう。何しろ、蜂の巣をつついたような騒ぎでしたからね」
と言うと、刑事課巡査部長 藤井健一≠ニ書きなぐったメモを、松本の前に差し出した。
「ありがとうございました」
と、頭を下げて受け取ったものの、まだ信じられなかった。だが、水谷がボリュームを上げた無線機のスピーカーからは、春陽堂で殺人があったことを克明に伝えていた。
松本は途方にくれた。相棒の小林は自宅に戻っている。呼び出したとしても、今日の小林は、朝の定例会議に出席する予定になっていた。だが、松本には、それがすむまで何の予定もない。
「取り敢えず、現場に向かいたいと思いますが、小林君と」
まず、打合せをしたい、と言うつもりだったが、
「わかってますよ。後のことは、どうぞお気遣いなく。小林君と石川警部には、私の方から詳しく説明しておきます。お任せ下さい」
水谷は独り合点して、胸を叩《たた》いた。
街は、まだ眠っていた。目につくものは、荷降ろしのトラックと新聞配達員。そして、生ゴミを漁《あさ》る野良犬の姿くらいのものだった。
閑散とした大通りを制限速度で走っていると、後方から来た車が、けたたましいクラクションを鳴らしながら松本の横を通り過ぎて行った。サイドボディに新聞社、とあるのが、辛うじて読み取れた。猛スピードで遠ざかって行った車は、遥《はる》か前方でウィンカーを二、三度点滅させ、やがて、建物の陰に吸い込まれて行った。
そこは松本の目的地と同じ場所だった。後を追うようにして商店街に入ると、狭い通りの両側には夥《おびただ》しい数の車が駐車していた。その横を、腕章を巻いた報道関係者が慌ただしく行きかい、春陽堂の周辺は黒山の人だかりだった。
商店街を避けて大通りに車を止め、松本は徒歩で現場に向かった。
野次馬の人垣の間から中を覗《のぞ》き込むと、春陽堂の入口で刷毛《はけ》を持った鑑識係が、指紋採取している姿が目に入った。店の中では、時折、フラッシュが光り、そのたびに、責任者らしい男の声がする。
野次馬をかき分けて、その前に出ると、立入禁止のテープに遮られた。そのテープをくぐり抜けようとした時、
「ちょっと、君っ」
店の前にいた制服警官が、血相を変えて駆け寄って来た。
「勝手に入っちゃいかんっ」
警官は険しい口調で言った。
「警、警察官です……」
腕を掴《つか》まれ、すさまじい力で押し返されながら、松本はポケットから警察手帳を取り出し、呈示した。
「……警察官?」
警官は疑いの眼差《まなざ》しで、念入りに手帳をあらためた。そして、顔写真と松本の顔を交互に見比べた後、
「失礼しました」
と言って、一歩下がり、挙手の敬礼をした。
「藤井健一というデカ長さんはおられますか?」
松本はよじれた服を直しながら尋ねた。
「はい。現場の方におりますが」
「そうですか、実は、お会いしたことがないんですが」
「かしこまりました」
警官は先に立って歩き出した。そして、店の入口で立ち止まり、中を覗き込んで藤井の名を呼んだ。間もなく、店の奥から、五十歳くらいのずんぐりした男が現れた。
「検事さん?」
男は訝《いぶか》しげな目で松本を見た。
「深井署の捜査本部から参りました。松本と申します」
と言って、会釈すると、
「はいはいはい……」
男は何度もうなずき、
「どうぞお入り下さい。事情は伺っております。何はともあれ、ホトケを見て下さい」
と言ってから、手袋をした手を後方に伸ばした。刑事には不釣り合いな真っ赤な手袋だった。やがて、それが血の色だと気づき、松本は息をのんだ。
これまで松本は、殺人現場の死体を見たことがなかった。それどころか、本物の殺人死体を目にしたのは、たった一度きりである。捜査講習の実習で、医科大学の解剖室を訪れ、ガラス越しに、ほんの数分間、垣間見《かいまみ》ただけだった。
「さ、どうぞ、ご遠慮なく」
制服警官に促されて、松本は通行帯のシートの上を、おずおずと足を進めた。
店内は五、六人の鑑識課員が、懐中電灯の斜光線を頼りに床面の観察を実施していた。藤井はそこを抜け、奥のドアを開けた。
現場は屋内ではなく、三十坪ほどの広さの庭だった。
平本栄治は、その庭の片隅で横向きに倒れていた。作務衣《さむえ》に草履ばきという軽装である。胸の中央、やや左寄りに、日本刀が突き刺さり、その切先《きつさき》は体を貫いて、背中の十センチ先にまで達していた。両手は刃の部分を直《じか》に掴《つか》んでいる。顔は苦悶《くもん》に歪《ゆが》み、すでに輝きを失った両目は虚空を見つめていた。
「先着のパトカーは『自分で胸を突き刺している』と報告してきました。それで、こっちも、自殺と思いました」
と言って、藤井は家屋の壁を指さした。モルタルの壁には、固い物で引っかいたような跡が残っている。
「刀の柄頭《つかがしら》の跡、という感じです。ホトケは刀の切先を胸にあてがい、刀身を握り、壁に向かって突進しているように見えます。そして、絶命して倒れた……。誰の目にも、そんな風に見えるはずです。地面にも、ご覧の通り、ホトケ以外の足跡は見当たりません」
「…………」
松本は地面を見下ろした。藤井の言う通り、数個の足跡がくっきりと残っている。
「危ないところでしたよ。私だけだったら、自殺と決めつけていたかも知れません。でも、幸いなことに、昨夜は刑事課長が泊まりでしてね。おかげで大恥をかかずにすみました」
藤井は死体の反対側に回り込むと、中腰になって日本刀を覗き込むようにして、
「課長はこれを見て、自他殺の早期判別は困難、と判断し、後々のことを考え、取り敢《あ》えず他殺と認定したんです。転ばぬ先の杖《つえ》、というわけです」
「転ばぬ先……の杖?」
「はい。理由はホトケの手です。ご覧のように、血糊《ちのり》のため、ちょっと見には、わかりにくいんですが、刀身には紙が巻かれていないんですよ。ホトケは刃を直に握っているんです」
藤井は首をひねって、
「もし、これが自殺とすれば、自殺者の心理から考えて、刀身には紙を巻くはずです。仮に、紙を巻くのが面倒だったとすれば、手頃《てごろ》な長さの脇差《わきざし》や短刀を選んだはずです。店内にはそれこそ、売るほど置いてあるわけですからね」
「…………」
「つまり、課長に言わせれば、ホトケの姿は、突き刺された刀を引き抜こうとしているようにも見える、というわけなんです。……松本さんには、どう見えます?」
藤井が意味ありげに眉《まゆ》を上下させた。
だが、松本には何も答えることができなかった。初めて直面したすさまじい現場の状況に、ただ圧倒されていた。
小林だったら、こんな時、一体どんな質問をするのだろう?
松本はそう自問した。聞くべきことは数多くあるはずなのに、具体的な質問事項が浮かんでこない。視覚への強力な刺激が、思考力を失わせてしまっていた。
「鞘《さや》は、そこにありました」
藤井が、松本の斜め後方を指さした。慌てて後ずさりすると、黒地に白文字で、B≠ニ記された札が置いてある。それ以外にも、中庭の所々に、アルファベットや数字の札が置いてあることに、松本はこの時、初めて気づいた。
「今のところ、遺留品らしきものは、発見に至っておりません」
藤井は腰を上げて、
「そんなところですかな……」
と、つぶやきながら周囲を見回した。
犯行現場は、犯行の状況を捜査員に囁《ささや》く、という言葉を、松本は以前、誰かから聞いたことがある。
だが、今の松本の耳には、何の声も聞こえてはこなかった。目の前には、生活臭に満ちた庭があり、なぜか、そこの時間だけが停止しているように思えた。そして、隔離された静寂の中で、倒れかかった物干し台と、地面に散乱した洗濯物が、死に往く者の最後の断末魔を垣間見せているだけだった。
「何か、ご質問は?」
藤井が尋ねた。
「別に……ありません」
やっとのことで、それだけ答えた。
「では、こちらへ」
藤井は松本を、再び店内に誘った。
腋《わき》の下に、流れる汗を感じたということは、幾分、落ちつきを取り戻したということなのだろう。死体から遠ざかったことが、松本を緊張感から解放した。
改めて、店内を見渡してみると、前回に訪れた時と、ほとんど変わりはない。ただ、テーブルの上は、きちんと整頓《せいとん》されており、クリスタルの灰皿の中には、塵《ちり》一つ、落ちてはいなかった。
「すみませんが、事件の概要をお聞かせ下さい。事件があったということ以外、何も知らないんです」
と申し入れると、
「ごもっともです」
藤井はポケットからメモを取り出した。
「午前二時すぎに、本署の宿直に匿名の通報がありましてね。それが事件認知の端緒です」
「通報?」
「そうです。内容は、『近所で、女の悲鳴がした。気味が悪いから調べてくれ』というものでした。関西|訛《なま》りの男の声だったそうです」
「女の悲鳴?」
「そうです。男は、『春陽堂の家から聞こえた』と具体的に、その場所を指摘しましたが、自分の名前は言わなかったんです。宿直員がしつこく尋ねると、『はよ、してんか』と言って、電話を切ったそうです。最初、酔っぱらいのいたずら電話だと疑ったようですが、内容が内容ですからね。念のため、待機中のパトカーを差し向けたところ、この有り様だったんです。店には明かりがついて、入口のドアも開いていたそうです」
「…………」
「今、その通報者を探しているんですが、まだ見つからないんですよ」
「家族は? 息子夫婦は何をしていたんです?」
「いません。不在です。三日前から子供を連れて、女房の実家の方に戻っているそうです」
「実家?」
「岐阜だそうです。毎年四月に、行灯御輿《あんどんみこし》が何十基も繰り出す有名な祭りがあるそうです。連絡はしましたから、今頃は新幹線に乗り込んでいるでしょう」
「…………」
松本は店内のショーケースを見た。一振り数百万円という日本刀は、飾られたままで、手をつけようとした形跡は見られない。それは明らかに、物取りを目的とした犯行ではないことを裏付けていた。
十四
春陽堂で発生した未明の惨劇は、山岡署にとって前代未聞の大事件だった。
のどかな勤務に慣れきった署員たちは浮足立ち、右往左往するばかりだった。しかし、現場経験のない松本の目には、署員たちの行動は、ごく当たり前に映った。地元署の警官たちと共に、遺留品の捜索活動をしたり、死体運搬の際には、進んで手を貸した。そして、この珍妙な部外者の勇み足[#「勇み足」に傍点]を咎《とが》める警官もいなかった。
正午過ぎに、松本はパトカーの警官に声をかけられ、ようやく山岡署に向かった。藤井はじめ主だった捜査員たちは、すでに何時間も前に引き上げていることを、その時、知らされた。
「被害者の息子が顔を出していますよ」
署の玄関前で待ち受けていた藤井が言った。
「息子が?」
松本は腕時計を見た。事件認知から、すでに十時間が過ぎていた。
「一通り、事情は聞きましたが、松本さんも本人に会って、確かめたいことがあるだろうと思いましてね。帰宅させずに待たせてあります」
「ありがとうございます」
と答えたものの、特別、確かめたいことはない。松本は戸惑いながら、藤井の後に続いた。
行き先は刑事課だった。ドアの開け放たれた取調室で、三十歳前後の男がコーヒーを飲んでいた。
藤井に促されて、松本が取調室に入ると、男は立ち上がって会釈した。
「息子さんの克彦君です」
藤井が紹介したので、どうも、と、目礼したが、どう対応してよいか、わからない。奇妙な沈黙が続き、
「じゃ……、私は自席におりますから、終わりましたら、声をかけて下さい」
藤井は取調室の外に出てドアまで閉めた。気をきかせたつもりなのだろう。
「まぁ、どうぞ、おかけ下さい」
と言って、松本も椅子《いす》に腰を下ろした。しかし、向かい合って座っても、これという質問事項は浮かんでこない。代わりに浮かんだのは、平本栄治がため息まじりにつぶやいた言葉だった。
「お父さんとは仕事の関係で、つい先だって、お会いしたばかりです。とても信じられませんよ」
松本は差し障りのない言葉をかけた。
「僕も……、もっと、親孝行しておくんだった、と後悔しています」
克彦の答えも、弔問客への儀礼的な挨拶《あいさつ》のようだった。
「いろいろとお話を伺いましたが、特に印象に残っているのは、お父さんが、お店の将来を心配されていたことです」
松本にして見れば、単なる思い出話のつもりだったのだが、
「皆さん、どなたも、同じことをおっしゃるんですねぇ……」
克彦はうんざりした顔を左右に振った。
「藤井さんにも説教されましたが、いまさら刀屋を継ぐつもりはありませんよ。店にある品物は父と懇意にしていた方に引き取っていただこうと考えています」
「…………」
「刑事さんのお考えはわかっています。店を継げば、亡くなった父も喜ぶし、僕の修業も無駄にならない、と、おっしゃりたいんでしょう? でも、僕が刀剣の世界と訣別《けつべつ》したのは、それなりの事情があってのことなんです。もし、春陽堂が東京のど真ん中にあったら、店を継いでいましたよ」
「東京の、ど真ん中?」
「ええ。東京なら、名刀に接する機会が多いですからね。商売を続けながら、目を養い、腕を磨くこともできます。外国に流出した刀が里帰りして、持ち込まれることもあるでしょう。ひょっとしたら、一振り数千万円という貴重な刀にめぐり合うことも、何回か、あるかも知れません。でも……」
克彦は窓の方を向いて、
「こんな小さな田舎町で、いくら大きな看板を掲げても、ろくな刀にはめぐり合えません。持ち込まれるのは、せいぜい道中差《どうちゆうざし》か、戦争のころに粗製乱造された、いわゆる昭和刀の類《たぐ》いです。僕は、ボロ市の古民具屋のような商売をするために、血の滲《にじ》むような苦労をしたわけじゃありません。東京で一流の店を構えるために、辛《つら》い修業にも耐えたんです」
「だったら、その夢を実現されたら、いかがです? お父さんだって、二代目を継ぐのであれば、この土地を離れても喜ぶと思いますよ」
「おわかりになっていませんね」
克彦は苦笑して、
「東京の一等地に店を構えるのに、一体、どれくらいの資金が必要だと思います? 今の春陽堂の店舗、それに、店にある刀を全部売り払っても、立ち食い蕎麦《そば》屋ほどの広さも確保できませんよ」
「…………」
「まぁ、若い頃には、デパートの一坪の出店からでも頑張ろう、と思ったこともあります。でも、先輩の苦労を目の当たりにして、諦《あきら》めました。別に、苦労するのが嫌だったわけじゃありませんよ。これでも、父の血は受け継いでいますからね。刀に関してのことなら、自信がありますし、そのための苦労も厭《いと》いません。でも、店を維持するために、借金返済や、資金繰りで苦労するのは、真っ平です。野球選手が自分のプレーを見せたいがために、森を切り開いて、グラウンドを造るようなもんですよ。大木を伐採し、切り株や毒蛇と格闘しているうちに、肝心の野球のことなんか忘れてしまうんです。たぶん、グラウンドが完成する頃には、開拓屋になっているでしょうね」
「なるほど……。おそらく、あなたの言う通りなんでしょうが、私には惜しい気がしますね。あの店もそうだが、お話を伺って、克彦さんの技能も惜しい。世の中には、技能がなくても、その仕事をしなければならない人間もいるんです」
松本は我が身を振り返っていた。
「いや、これでいいんですよ。もし僕に、人並み以上の能力があれば、他の仕事をしても、それなりの結果を得られると思います。中途半端な技能にしがみつき、こんな田舎で刀屋商売をしても、女房子供を苦労させるだけです。父のようにね……」
「…………」
「父は、村正のトラブルに巻き込まれていたとのことですが、もし、父が本当に田舎の刀屋に徹していたら、トラブルに巻き込まれずにすんだはずです。父もやはり、一流の刀剣や、大きな取り引きに憧《あこが》れていたんでしょう。それが、刀屋の業《ごう》というものですよ」
「刀屋の業?」
「そうです。父はそれで、ずいぶん損をしているはずです。おかげで僕は子供のころ、給食費が払えず、嫌な思いをしたことがあります。僕は自分の子供だけは、そんな目に遭わせたくありません。結婚する時、今後一切、刀剣とはかかわり合いを持たない、と、自分に誓ったんです。父の希望には反するでしょうけど、僕にとって大事なのは家庭なんです。だから、誰が何と言おうと、春陽堂の暖簾《のれん》を継ぐつもりはありません」
淡々とした口調が、かえって意志の固さというものを示していた。松本の脳裏に、春陽堂の趣ある店構えが浮かび、色褪《いろあ》せ、消えて行った。
深井署に戻る途中、松本は、捜査本部に一度も連絡していないことに気づいた。そのことを含め、また質問責めにあい、醜態をさらすのかと思うと、気が重かった。
しかし、意外にも、石川は上機嫌で松本の労をねぎらい、夕食の心配までしてくれた。すでに石川の元には、山岡署から詳細な連絡が入っていたのである。
質問責めにあわなかった理由は、他にもあった。石川は県警本部と協議し、すでに一つの結論に達していた。それは、合同捜査本部の設置については見合わせ、当分の間、静観するというものだった。つまり、上層部は春陽堂事件を他殺と推断したものの、丹羽家の事件との関連性については、懐疑的な見方をしていたのだ。
確かに、丹羽家の事件と春陽堂の事件とでは相違点があった。
丹羽家の場合、被害者の体には、それぞれ十数ヵ所の刺創、切創が見られたが、いずれも致命傷には至らず、失血死がその死因だった。凶行の痕跡《こんせき》は襖《ふすま》や畳にまで及び、犯人自身がパニック状態に陥っていたことを示していた。しかも、凶器は発見されていない。
一方、春陽堂の場合、日本刀は狙《ねら》いすましたように心臓を一突きしており、ほぼ即死状態だった。その上、凶器の日本刀は死体に突き立てられたままだった。
双方を分析すれば、少なくとも、実行犯が同一人物でないことは明らかで、双方の捜査本部は緊密な連絡を取りつつ、それぞれ捜査に当たる≠ニいう決定は止むを得ないものだった。
だが、村正担当班にとっては、春陽堂事件は捜査の鍵《かぎ》となる重大事だった。モンタージュ写真を作成する直前に発生しており、事件の背景には、丹羽静夫を名乗って春陽堂を訪れた人物の影がちらついていた。
「うちだけでも、特別に捜査させてもらえないもんかなぁ……」
検討会終了後、トイレ待ちの列に並んだ松本が、ため息まじりにつぶやいた。
「お偉方の決定です。我々だけ特別、というわけには行きませんよ」
小林が素っ気ない返事をした。
「それはそうだけど……」
独断専行が許されないことは、松本も承知している。しかし、それでもなお、釈然としないものが残った。
「今度のことに当てはまるかどうかわかりませんがね」
小林が言った。
「一つのことを追いかけていると、それに共通することは、全て関連があるように思えてくるものなんです。現に我々も、春陽堂事件で使われた凶器が日本刀と知った時、すぐ、白井のことを思い浮かべたでしょう? それと同じですよ」
「そのことは、朝飯を食いながら、三島警部補にも言われたよ。肝心なのは、表面的な共通性ではなく、春陽堂との接点だ、ということだろう?」
「ええ……」
「確かに、昨夜の捜査で、白井と春陽堂との接点がないことはわかった。それはそれでいい。じゃ、春陽堂と丹羽家はどうなんだ? 接点は、十分すぎるほどあるんだぜ? お偉方の言ってることは、矛盾しているよ」
周囲の耳目を憚《はばか》ることなく、松本は声高に自分の主張を述べた。
「まぁ、おそらく、我々には思いもつかない様々な事情があるんでしょう。お気持ちはわかりますが、あまり心配しないで下さいよ。そのために、県警本部の専門官が全国の事件を分析しているんです。もし、共通性があれば、嫌でも、合同捜査本部が設置されることになりますよ。船の舵取《かじと》りはお偉方に任せて、我々はせいぜい、かま焚《た》きに専念しましょうや」
小林が間延びした声で言った。まるで他人事《ひとごと》、という口ぶりだった。松本には、それが不満だった。しかし、周囲の人影がまばらになると、
「ところで、今夜、時間はありますか?」
小林が小声で尋ねた。
「別に、用事はないけど……」
「よかったら、一杯付き合って下さい。まだ一度も飲んだことがありませんし……」
「そう言われてみれば、そうだけど……」
と答えたものの、酒を飲む気分ではなかった。
「付き合って下さいよ。自分はこれでも人見知りするタイプでしてね。初対面の相手と、差しで飲むのは苦手なんです」
「…………?」
「実はですね……」
小林は辺りに目を配ってから、
「水谷長さんを拝み倒して、山岡署の藤井さんに渡りをつけてもらいました。あまりいい返事はしなかったそうですが、とにかく、顔だけは出してくれるそうです」
と、押し殺した声で言った。
十五
松本の腹は鳴り続けていた。
山岡署に近い小料理屋の二階に上がり込み、二時間近く待ったが、藤井は現れない。
下の調理場の方から、板前が威勢のよい声を上げるたびに、酒と肴《さかな》の香りが漂ってくるような気がした。
「場所がわからないんじゃないかな?」
松本はしびれを切らして立ち上がった。
「いや。この店は向こうが指定した店です。道に迷うはずがありません」
両足を投げ出し、壁に寄りかかった小林が週刊誌をめくりながら言った。
松本は窓の障子を十センチほど開け、路地を見下ろした。入って来る時は、シャッターの下りていた店も、今は縄暖簾がかかり、提灯《ちようちん》には明かりが入っている。通行人の中には、早くも千鳥足のサラリーマンの姿も目につくようになっていた。
「まぁ、気長に待ちましょうや。看板[#「看板」に傍点]までには来てくれますよ」
小林が間延びした声で言った。障子を閉め、自席に戻ったが、空腹のせいもあり、次第に苛立《いらだ》ってきた。
「全く……。酒が売り切れちまうぞ」
精一杯の悪態をついてから、枕代わりに、座布団を二つ折りにして、仰向けに寝ころんだ。そのまましばらく、天井の模様を眺めていると、胃袋が、また切ない音を上げた。それにつられるようにして、小林の腹も鳴った。小林が含み笑いをし、松本も急におかしくなって、二人は笑い声を上げた。
その時、廊下側の襖が勢いよく開いて、
「遅れてすみませんっ」
藤井が姿を見せた。弾《はじ》け返ったように、二人は正座して、
「こちらこそ、ご無理をお願いして、申し訳ありません」
松本が代表して挨拶《あいさつ》した。
お決まりの押し問答の末に、藤井を上席に据えた。小林が襖を開け、階段の下に向かって手を叩《たた》いた。
こうして酒宴は始まったが、松本が座の主役だったのは、最初の二、三分だけで、膝《ひざ》を崩すころになると、小林が主導権を握るようになった。やがて、初対面の二人は、まるで十年の知己のごとく話し始めた。松本はひたすら、春陽堂事件の話題になるのを待った。だが、小林は一向に、その話題に触れようとはしない。
一体、何のために自腹を切ってまで酒席を設けたのか……。
松本は生ぬるい盃《さかずき》の酒を、時折、口に含んでは、二人の世間話に耳を傾けた。
酒の追加が二度目をすぎると、さすがに世間話の種も尽きていた。話が途切れがちになった時、
「ところで、お宅たちの捜査は、どんな具合です?」
藤井の方から、仕事の話に及んだ。
「いやいや、さっぱりですよ」
小林は渋い顔をして、
「実は、初動捜査段階の措置が悪かったと、内々にクレームをつけられています。ブン屋なんかに漏《も》らすわけにはいきませんがね」
と、今まで聞いたこともない話を始めた。
「ほう……」
藤井が目をしばたたかせた。
「ここだけの話ですがね。警察車両が、現場に残っていたタイヤ痕を消してしまった、ということなんです。それに、エンジンをかけたままの車両もあったらしくて、警察犬の活動に支障をきたしたと……」
「そんな……。それは、言いがかりってもんでしょう?」
「捜査が行き詰まったときは、いつもそんなもんですよ。必ず初動捜査が問題視されることになるんです。それが一番、手っとり早いし、納得しやすい。後から乗り込んできた自分たちのせいにされなくてすみますからね」
「…………」
「連中には我々の立場がわかっていないんです。卵の黄身を調べるには、まず、殻を割らなきゃならない。ある程度の現場破壊は、最初に駆けつける者の宿命ですよ」
と言って、小林はため息をついた。
「正に、その通りです。おっしゃる通りですよ」
藤井が徳利を差し出し、小林は無言のまま、酌を受けた。
「でも、あまり、気にされることはありませんよ。デスク組は、しょせんデスクの目でしか、物を見れないんです」
と言うと、松本にも酌をして、
「実を言いますとね……。今日、私が遅くなったのも、そのためなんですよ。もし、お誘いを受けていなければ、今頃は相棒と、お清めの酒を飲んでいるところです」
「ほう……」
今度は、小林が目をしばたたかせた。
「帰りがけに、足止めがかかりましてね。何のことかと思って待っていたら、別室に呼ばれました。事件当日、最初に現場に入った警官は全員集められていましてね。一人一人、名前を言って、その時の自分の行動を詳細に説明させられたんです。制服の連中に対してならともかく、この私に対してもですよ」
と言うと、盃の酒を一気にあおった。すかさず、小林が酌をする。
「ムッとしましたが、階級には、逆らえませんからね。がまんして、説明しましたよ。連中は、ふんふん言いながら聞いてました。そして最後に、『君は煙草《たばこ》は吸わないのか?』なんて質問してきたんです。それを聞いて、ようやく連中の考えていることがわかりました。私は言ってやりましたよ。『今どき、日本国中、どこを探したって、くわえ煙草で犯行現場をうろつく刑事なんていやしませんよ』とね」
藤井は吐き捨てるように言った。小林は首をひねって、
「わかりませんな。なぜ、そんなことを聞いてきたんです?」
「証拠ですよ。現場には証拠らしい証拠が、全く残されていないんです。驚いたことに、店内には、ホトケさんの指紋さえもなかったんです。ゼロですよ」
「ゼロ? 住居の方は、どうだったんです?」
「住まいの方には普通にありました。ないのは、事件現場と、店内だけです。指紋、掌紋、足跡……。何もないんです」
「それじゃ……」
と、小林が言いかけると、
「その通りです」
藤井が先に答えた。
「誰かが消してしまった、と見るのが順当です。それらしい痕跡《こんせき》は、現場の庭に残された真新しい足跡だけです。でも、ほんの三日前までは、息子夫婦も生活していたんです。特に、嫁さんは洗濯物がありますからね。そこら中に足跡が残っていても、おかしくはない。それなのに、古い足跡が全く見当たらないんです。……そうだったでしょう?」
藤井は松本に同意を求めてきた。
「え? ええ……」
自信はなかったが、相槌《あいづち》を打たざるを得なかった。
「何者かによって、現場の痕跡が故意に消された、という点では一致したんですがね」
藤井は続けた。
「あのデスクワーカーどもは、よりによって、我々がその張本人だと考えているんですよ。とんでもない連中です。さしずめ、私なんかは、事件を自殺と決め込んで、ソファーに寄りかかり、のんびりと煙草を吹かしていた田舎刑事だというわけです。雲行きが怪しくなったんで、泡を食って、台所の流しか、裏の川あたりで灰皿を洗い、知らぬ顔の半兵衛《はんべえ》を決め込んでいる、と、そんな風に勘繰っているんですよ」
「なぜ、そこまでこだわるんでしょう?」
小林は楽屋話[#「楽屋話」に傍点]に執着した。松本は、ようやく、その狙《ねら》いに気づいた。小林は、公式な記録や報告書に表れない裏の情報を知ろうとしていたのだ。
「おそらく、完璧《かんぺき》を期そうとしているんでしょうよ。少々、やりすぎという感は拭《ぬぐ》えませんがね。ずっと、そんな風でした。刀を突き刺したまま死んでいたことにも、かなりこだわっていましたからね。大学の先生に問い合わせて、ようやく納得するといった具合でした。何でも、突き刺した刀や槍《やり》を、抜かないままにしておくというのは、戦国時代のころ、蘇生《そせい》させないためになされた方法なんだそうです。抜こうが抜くまいが、あんな刺され方をされたら、助かるわけがないと思うんですがね」
藤井は苦笑しながら首を振り、そして、ため息をついてから、
「全く、昨日という日は厄日でしたよ。松本さんには、いい時に帰っていただいたと思っています。本署に引き上げると、刑事調査室の連中が待ち構えていましてね。交番の連中に対してまで、『何か、気づいたことはないか?』と聞いて回っているんです。驚きましたよ。あのしつこさは半端じゃない。でも、散々、現場で振り回されて、みんな、うんざりしていましたからね。口を揃《そろ》えて、異状なし、です。ところが……」
藤井は嬉《うれ》しそうに歯を剥《む》き出しにして、
「去年、配属されたばかりの新米巡査がトンチンカンなことを言ったものだから、連中、本気になって怒り出しましてね……」
と言うと、とうとう吹き出した。
「何です?」
小林も笑いながら尋ねた。
「その新米が『店構えは立派だが、商売はうまく行ってなかったんじゃないか』と言い出したんです。なぜだ? と聞かれて、『ミカンの皮なんかが、捨てずに干してあったし、物干し竿がやけに太いので、よく見たら、ステンレス管にペンキを塗ったものだった。植木鉢を調べたら、漬物の容器をアルミホイルで包んだものだった』なんて、真面目《まじめ》な顔で……」
酔っていたためかも知れない。藤井はしばらくの間、涙を浮かべて笑い転げていた。
「まぁ、今の若い人たちには、倹約とか、廃物利用ということが、不思議に思えるんでしょうな」
小林は藤井の笑いが収まるのを待って、
「自他殺両面で、捜査されているということは伺っておりましたが、他殺と認定されたのは、いつごろです?」
と、さりげなく話題を変えた。
「他殺と認定したわけではありませんよ」
藤井は首を横に振った。
「まだ、認定してはいません。内部の意見は、八分二分で他殺派が優勢ですがね。刀の鷲掴《わしづか》みの問題が片づかなくても、指紋と足跡の問題さえ片付けば、その比率が逆転するというのが、自殺派の強みです。しかし、その少数派も、通報者が判明しないとなれば、気持ちを変えるでしょうな」
「通報者?」
「はい。『春陽堂から、女の悲鳴が聞こえてきた』と警察に通報してきた男ですよ。聞き込みをしてみたんですが、該当者がいません。そもそも、あの状況下で、女の悲鳴が聞こえてくること自体が不自然なんです。そのうち、男の関西|訛《なま》りも、少々怪しいということになりましてね。目下、この通報者の発見に全力を挙げているところです。自殺派は、自殺を裏付ける重要参考人と見ていますし、他殺派は、その男を犯人と見ています」
「通報者が犯人?」
「そうです。当初から、犯行時刻を明らかにするために通報してきた、という見方はあったんです。つまり、犯人は春陽堂関係者に近い人物というわけです。捜査が開始されれば、すぐに浮上する人物ですよ。つまり、不自然な関西弁で、わざわざ通報してきたのは、その人物のアリバイ工作、と見ているわけです」
「なるほど。つまり、犯人の早期検挙に自信がおありというわけですね。当方の捜査本部を当てにされない理由が、それでわかりましたよ」
小林はニヤリと笑った。
「とんでもない。うちのお偉方は臆病《おくびよう》なだけですよ。内弁慶なんです。県境を越えた大がかりな捜査態勢を組むことに、二の足を踏んでいるんですよ。まぁ、近い将来、お宅の捜査本部に日参する羽目にならなきゃいいと思っているんですがね」
と、首をすくめて見せた。
「ところで、藤井さんは、どっちなんです。多数派ですか、それとも……」
と尋ねると、
「私は、中間派ですよ。科警研の結果が出るまではね……」
「科警研?」
「誰も注目しませんでしたが、日本刀の柄頭《つかがしら》のへこみ具合が気になりましてね。今、鑑定を依頼中です」
「柄頭の鑑定、ですか?」
「はい。自殺派の主張は、物理的に自殺が実行可能である、ということを論拠の一つにしています。被害者が軽装であること、素手で日本刀を鷲掴みにしていること、衣服の上から体を傷つけていることなど、自殺にしては、不自然な点も見られますが、絶対に、あり得ないとは言い切れません。発作的な自殺には、あり得ることです。発作的な自殺であれば、遺書がないのも当然というわけですよ。死体に、ためらい傷[#「ためらい傷」に傍点]が見られないことも、壁に体当たりするわけですから、不自然ではないというわけです。私も、この意見に関しては賛成ですね。あれが自殺の場合、ためらい傷ができる余地はないでしょう。せいぜい、ためらい走り、をするくらいのもんです」
「…………」
「ところが、日本刀の柄頭のへこみ具合と、壁にできた跡が、私の目には不自然に映ったんです。素人目に、そう映っただけですからね。科学的に鑑定してもらうことにしたんですよ。物理的な面から検証すれば、慎重|居士《こじ》の方々も、納得してくれるんじゃないかと思いましてね」
と言って、藤井は盃《さかずき》に手を伸ばした。
「なるほど……」
小林は、しばらく沈黙した、そして、
「実は……、藤井さんを見込んで、お願いがあるんですが……」
と言いながら、徳利を差し出した。その一言で、藤井の顔から笑みが消えた。しかし、すぐにニヤリと笑い、
「わかっていますよ。春陽堂の身辺捜査のことでしょう?」
と言って、小林の酌を受けた。そして、一口つけると、それをテーブルの上に置いて、内ポケットから手帳を取り出した。
「でなけりゃ、お忙しいお二人が、はるばる隣の県まで足を延ばされるはずがない」
「恐れ入ります」
小林が頭を下げた。
「いいんですよ。水谷さんには借りがありますからね。御大《おんたい》ごひいきのお二人に恨まれたら、後が怖い」
藤井は太い指を舐《な》めて、頁を繰り始めた。
「座が白けますので、要点だけを申し上げますよ。結論から言えば、例の新米巡査の見方は見当外れではなかったということです。その筋の情報によると、春陽堂の経済状態は見かけほどよくはない、ということなんです。と言っても、破産状態というほどでもない。過去三十年、商売は順調で、それなりの財も成していましたが、そのほとんどをドブに捨てた、と理解して下さい」
「ドブに捨てた?」
「ええ。結果的には、そういうことになります。店主の平本栄治は、若いころから商売の傍ら、扇会《おうぎかい》、という地方史の研究会に入っていました。商売が順調に行き、店の経営が安定してくると、そっちの方にのめり込んで行ったようです。そのうち、市の郷土資料館の館長と懇意になり、その右腕として活動するようになるんです。……河上史郎という人物をご存知ですか?」
「いいえ」
「七年ほど前に亡くなりましたが、我が県では、知る人ぞ知るという文化人だったそうです。有名大学の教授を勇退し、悠々自適の生活をしていた河上氏を、当時の市長が拝み倒して完成したばかりの郷土資料館の初代館長に祭り上げたわけです。従って、元々、河上氏自身は、それほどの熱意はなかったんです。にもかかわらず、平本は、館長亡き後も、その遺志を果たすという名目で、積極的な活動を続けました。活動といっても、資料館の予算はごく僅《わず》かで、大したことはできません。市長が替わってからは、資料館は、それほど重要視されなくなったんです。ところが、平本は、郷土展、というイベントを市側に持ち込んだんです。しかも、経費は平本が捻出《ねんしゆつ》する、という条件をつけてです」
「身銭ですか?」
「一応、寄付で賄った、ということになっています。県内はもちろん、県外で働いている地元出身者にまで、一口一万円の寄付を募ったそうですよ。しかし、イベントは大失敗。収支はとんとんということですが、実際は、平本が赤字の穴埋めをした、という噂《うわさ》です。おそらく、この噂は本当でしょう。当時、私も何度か、会場の前を通りかかりましたが、いつも閑古鳥が鳴いていました。元々、無理だったんですよ。駐車場も、出店もなく、薄暗い会場に、壊れかかった織機や、黴《かび》の生えたような算盤《そろばん》が並べてあるだけですからね。にぎわったのは、授業の一環で、小学生が見学した時だけだったそうです。でも、これは市側の要請で、入場無料。赤字になるのは、当然のことだったんです」
「平本さんは、どうしてそこまで?」
「館長職ですよ。平本は二代目の郷土資料館の館長になりたかったんです。その証拠に、東京から舞い戻った美術雑誌の元編集長が、二代目に就任してからは、ぷっつりと顔を出さなくなったそうですよ。考えてみれば憐《あわ》れです。その悔しさもあったんでしょうな。平本はその後、まるで人が変わったように、汚い商売をするようになったという噂です。今回の事件も、起こるべくして起こったと言えなくもありません」
「なるほど……」
小林は二度、三度とうなずいて、
「お願いついでに、もう一つ。春陽堂の顧客名簿というか、交友関係のリストが欲しいんですが、お手を煩わすわけにはまいりませんか?」
「交友関係のリスト、ですか?」
藤井は手帳をポケットに戻し、盃に手を伸ばした。
「はい。ご存知だと思いますが、我々は日本刀の線を追っています。いろいろと込み入った事情がありましてね。うちの事件と、おたくの事件に共通する人物がいるかどうか、それだけでも確認したいと思いまして……」
「まぁ、当然でしょうな」
藤井はニヤリと笑って、
「お安い御用です。確か、春陽堂の顧客名簿を含め、郵便物や名刺を整理して、一覧表を作成中のはずです。出来上がったら、コピーを送りますよ」
「ありがとうございます。助かります」
小林が頭を下げると、
「ただし、条件がありますよ」
藤井は松本を一瞥《いちべつ》した。
「もちろん、取り扱いには十分注意を」
と、小林が言いかけたが、
「いやいや」
藤井は首を左右に振って、
「私にも、丹羽家の交友関係リストを譲っていただきたいんです。……いかがです?」
「お安い御用ですよ」
小林が笑いながら徳利を掴《つか》むと、藤井はことさら低い声で、
「では、結構。これで契約成立ですな」
と囁《ささや》き、高笑いしながら盃に手を伸ばした。
十六
二日後、藤井から資料が送られてきた。リストアップされていたのは五百名あまり。重複を避けるため、氏名はアイウエオ順に整理され、さらに、住所、電話番号、職業などの欄が設けられていたが、その半分は、まだ空白のままだった。
深井署の捜査本部にも、被害者の顧客を中心に交友関係を捜査している専従班があり、やはり、似たようなリストがある。
松本たちは二つのリストの比較照合にかかった。双方に共通する人物を発見することができれば、八方塞《はつぽうふさ》がりの現状を打破できるだけでなく、一気に犯人に迫ることができるかも知れない。
それぞれのコピーを二部ずつ作り、松本と小林は別々に、その作業にかかった。そして、三十分後、
「ちくしょうめ……」
まず、小林が鉛筆を放り出し、腕組みして宙を睨《にら》んだ。それに続いて、今度は、松本が鉛筆をくわえて腕を組んだ。リストの中に、共通する名前を発見することができなかったのである。
だが、松本は諦《あきら》めきれなかった。再び、リストに目を注ぐ。やがて、
行き詰まった時には視点を変えろ……。
どこかで誰かが、そんなことを言っていたのを思い出した。
松本は視点を横にずらした。文字通り、視点を変えたのだ。その時、ありふれた名前の中に、情趣ある風景を見た。
銀雪、東風、紫山、桜花……。
それらの雅号を見て、すぐに、
「名前じゃないっ。人物だっ」
松本は立ち上がった。ロッカーから定規とカッターを取り出すと、リストを個人別に切り離す作業にかかった。住所欄で、比較照合することを思いついたのである。
そして、三十分後、遂に、双方のリストに共通する人物を突き止めた。
その人物は、井上正芳、またの名を有馬一水。住所は深井市の隣町で、電話番号も一致していた。丹羽家の葬儀には、井上正芳の名で香典を包み、春陽堂の顧客名簿には、有馬一水の名で登載されていた。
まる一日かけて身辺捜査を実施したところ、井上正芳が男の本名で、五年前に定年退職した小学校の元校長であることが判明した。
昨年、末娘を嫁がせてから、妻と二人暮らしになり、表面上は慎《つつ》ましやかな生活を送っていた。聞き込んだ相手からは、いずれも異口同音に、好意的な答ばかりが返ってきた。もちろん、前科前歴はなく、任意捜査の対象になったこともない。近隣の評判から判断する限り、むしろ、名士に属する人物だった。
別件で身柄を拘束し、徹底的に叩《たた》く、という小林の思惑は外れた。任意の取り調べも不適当、と、石川にも釘《くぎ》をさされ、やむなく、捜査協力を乞《こ》うという形を取りつくろって、二人は井上に接触することにした。
井上は、自宅から一キロメートルほど離れた家庭菜園で、鍬《くわ》を振るっていた。車から下りた松本が、大声で呼びかけると、麦藁《むぎわら》帽子を取って頭を下げ、ゆっくりとした歩調で二人の方に足を運んだ。
「もう、校長先生と呼ぶのはやめて下さい。今は、一介の農夫ですから」
井上は屈託のない笑みを浮かべた。その言葉通り、顔から首にかけて、よく日に焼けている。しかし、手入れの行き届いた口髭《くちひげ》と、上品なノンフレームの眼鏡が、知的な雰囲気を漂わせていた。
松本が手帳を呈示しようとすると、
「警察の方でしょう? わかっています。でも、こんなに、お早いとは予想していませんでした」
「なぜ、ご存知だったんです?」
「まぁ、いいじゃありませんか。それを申し上げると、色々、差し障りが出ます。私の予知能力ということにしておいて下さい」
「…………」
気の抜ける思いだった。井上が、どのようにして情報を入手したのか、思い当たる節はない。
「あぜ道に腰を下ろしながらでは、まずいですか?」
井上が言った。
「構いません」
「じゃ、そうしましょう。素朴な土の香りというものは、なかなかいいものですよ」
井上は、自転車の荷台に括《くく》り付けてある新聞紙を引き抜いて、草の上に広げ、
「もっとも、ズボンが汚れるのは難点ですがね。まぁ、どうぞ」
と言って、井上自身は直接、草の上に腰を下ろした。
「早速で恐れ入りますが、深井市の丹羽静夫さんという方をご存知でしょうか?」
事前の打合せ通り、まず、松本が事実確認を始めた。
「はい。丹羽さんとは、釣り仲間でした」
「釣り仲間?」
「もっとも、ここ二、三年は、丹羽さんはお忙しかったようで、ご一緒していませんがね。以前は泊まりがけで、海釣りなんかに、よく出かけたものです」
「なるほど。ところで、先生は刀剣の趣味をお持ちと伺いましたが……」
「刀剣? 一体、どなたがそんなことを?」
井上の顔から笑みが消えた。
「間違いですか?」
「もちろんですよ。私は刀剣には興味がありません」
「そりゃ、妙ですね……」
松本は十分に間を置いて、
「では、有馬一水、という名前も、ご存知ないんでしょうか?」
と、矛盾点をついた。
「これは驚きましたな」
井上は目を丸くして、
「それは、私の筆名ですよ。ずいぶん昔に使っていた筆名です。どこで、お調べになったんです?」
「ほう、筆名……」
松本は井上の目の奥を見つめた。澄んだ目が善人の証《あか》しなどというのは、俗説にすぎない。
「その筆名が、ある刀屋の顧客名簿に登載されているんですけど、これは、一体、どういうことでしょうか?」
松本は勢いこんで、その非をついた。しかし、
「刀屋? ああ、なるほど」
井上は顔色一つ、変えなかった。
「その刀屋さんというのは、春陽堂さんでしょう? それなら、鍔《つば》のことです」
「鍔?」
「はい。昔、鍔の収集をしていたことがあります。でも、ブームになった頃、同好の士と思わぬトラブルを起こしましてね。人間の嫌な面を見せつけられました。それ以来、すっかり嫌気がさすようになりましてね。鍔は全部、春陽堂さんにお頼みして、処分していただいたんです」
と、涼しい顔で言った。悪党が悪党面をしているのなら、納得も行く。しかし、井上の善人面には、腹が立った。
「何事もカネが絡めば、生臭くなるもんですよ。そんなことより、先ほど先生は、刀剣には興味がない、とおっしゃいましたよね? 鍔に興味はあったが、刀剣にはなかったなんて、巨人軍は好きだが、野球は嫌いだ、と言ってるようなもんじゃないんですか?」
松本は語気を荒らげた。だが、
「まぁ、皆さんどなたも、そのようにおっしゃるわけなんですが……」
井上は白い歯を見せて、
「鍔には刀剣と切り離しても、十分に堪能《たんのう》できる魅力があるんです。おカネのことを引き合いに出すと下卑《げび》てしまいますが、一流の鍔となると、下手な刀剣よりも高値がつきます。それだけ価値の高い芸術品ということなんです。趣味としては、刀剣の添えものではなく、立派に独立したものなんです。信じていただけないかも知れませんが、刀剣には見向きもしないという鍔収集家は珍しくありません。まぁ、たとえてみれば、そうですな……、キーホルダーの収集家が、鍵《かぎ》の方には全く興味を示さないことに似ています」
「…………」
明らかに、井上の方が一枚上手だった。松本は焦った。
「しかし……、しかしですね。なぜ、本名を使わなかったんです?」
「それは……」
井上は苦笑して、
「在職中だったからですよ。これは、あなた方なら、おわかりになると思いますが、公務員が本来の仕事以外で目立つと、必ず、色眼鏡で見られることになるでしょう? 一般市民というものは、公務員が正当な休暇を利用して、ささやかな温泉旅行をしても気に入らないものなんです。まして、趣味となると、その熱意を、なぜ本来の仕事に注がないんだ、ということになるんです。私は在職中、公務以外のことは全て、有馬一水で通しました。また、そうすることが、公私にけじめをつける一つの方法でもあったんです」
井上の言い分は道理に叶《かな》っていた。答え方にも余裕が感じられ、付け入る隙《すき》はない。追いつめられていたのは、むしろ、松本の方だった。思わず、隣の小林に視線を移したが、素知らぬ顔で道端の畑を眺めている。
「丹、丹羽さんの刀について、何か、ご存知ですか?」
人間、切羽詰まれば、その下心があらわになるだけだ。苦し紛れの、何の計算もない質問だった。老練な井上が、柳に風と受け流すことは目に見えていた。ところが、
「困りましたな……」
井上は唇を噛《か》みながら首を傾げた。予想外の反応だった。
「どういうことです?」
松本は覗《のぞ》き込むようにして尋ねた。井上はしばらく腕を組んでいたが、やがて、宙を睨《にら》んで、一度うなずいてから、
「まぁ、相手が刑事さんなら差し支えないでしょう。それに、私は誤解されているようですし、身の潔白を証明するためなら、あの世の丹羽さんも納得してくれると思います」
と、前置きしてから、
「実は、丹羽さんからは口止めされていましたけど、私は村正という刀について、ご相談を受けております。しかし、先ほど申し上げたように、私は鍔には多少の知識がありますが、刀剣については素人同然です。そこで、春陽堂さんをご紹介したわけです」
「何ですって!」
松本は大声を上げていた。思いもよらない言葉だったからだ。小林も半ば口を開いたまま、凍りついたように井上を見つめている。
それも当然のことで、これまで二人は、丹羽静夫と春陽堂は無関係という前提に立って、捜査を進めてきていた。
「丹羽さんに春陽堂を紹介した?」
松本は繰り返した。
「はい……。そうですけど……」
キョトンとした顔で、井上が答えた。
「す、すみませんが、その辺の事情を詳しく教えていただけないでしょうか?」
松本は手帳の頁を繰った。
「よろしいですとも……」
井上はうなずき、そして、訝《いぶか》しげに首を傾げて、
「丹羽さんは、私が鍔の収集をしていたことをご存知でしたからね。刑事さんたちのように、刀剣にも詳しいと思われたんでしょう。『蔵から刀が出てきたから、見て欲しい』と言ってこられたんです。そこで、鍔なら、多少わかるが、刀はわからない、とお答えすると、『それじゃ、信用できる刀屋を紹介してくれ』というお話になったわけです。私も困りましてね。考えた末に、日本刀剣協会という団体があるから、そこに相談されるよう、お勧めしたんです」
「日本刀剣協会?」
「はい。鑑定を主に、刀剣や鍔の保存や研究に努めている団体です。本部は東京の渋谷《しぶや》にあるんですが、電話か手紙で問い合わせても、懇切丁寧にアドバイスしてくれるんです。営利が目的ではないし、日本で最も権威ある団体だから、と、お勧めしたんですが、丹羽さんは『それはそれとして、信用できる刀屋を紹介してくれ』の一点張りなんです。それで、春陽堂さんの名を出したわけです」
「…………」
「鍔仲間の間では、昔から、春陽堂さんの評判は上々でした。だからこそ、私も鍔の処分をお任せしたわけです。確かに、信頼のできるお店ですが、丹羽さんの場合、私のような安物の鍔なんかの売り買いじゃなく、先祖伝来の由緒ある刀の鑑定でしょう? 春陽堂さんのお人柄はともかく、刀に関しては、どの程度の鑑定眼をお持ちなのか、私にはわかりません。それに、もし、村正だと鑑定されたとしても、今度は、鑑定書はどうするか? ということになります。結局は、権威ある団体の審査を正式に受けて、鑑定書を発行してもらおう、ということになるんです。結局は二度手間になる、と思いました」
「で、丹羽さんはどうしたんです?」
「研ぎは春陽堂さんに任せ、鑑定は刀剣協会に任せた、と伺っています」
井上は事も無げに言った。
松本は混乱するばかりだった。小林も一言も発することなく、井上を見つめている。
「まぁ、最善の方法ですよ。よくよくお聞きしたところ、刀は錆《さび》だらけで、刃文も見えないような状態だったそうですからね。鑑定審査に出すには、どの道、研ぎ上げなくてはなりません。何も私が、あれこれと気を揉《も》むことはなかったんです」
「先生……」
それまで沈黙していた小林が口を開いた。
「光村、という刀について、何かご存知でしょうか?」
と尋ねると、
「光村は、村正の別名なんでしょう? 丹羽さんからは、そのように伺っていますよ」
「村正の……別名?」
またもや、寝耳に水の言葉だったが、小林は微《かす》かに眉《まゆ》を動かしただけだった。
「ちょうど、私が有馬一水を名乗っているようなもんですな。もっとも、この有馬は村正ほど切れ味はよくありませんがね」
井上が冗談を言ったが、二人には、笑って見せるほどの余裕はなかった。
「あの……、光村と村正について、もっと詳しく、ご説明下さい」
と申し入れたが、
「詳しく、とおっしゃられても、あまりよく知らないんです。丹羽さんは、一区切りついたら話す、とおっしゃって、細かい説明はされませんでしたから……」
「先生がご存知の範囲で結構ですから」
「そうおっしゃられても」
井上は困惑した顔をして、しばらく考え込んでいたが、
「早い話が、つまり、こういうことらしいです。浮世絵師の葛飾北斎《かつしかほくさい》が、画狂人とか、為一とか、卍とか、いろいろと雅号を変えたでしょう? それと同じように、村正の場合は、その作があまりにも毛嫌いされたので、やむなく、名を変えて作刀した、ということのようです」
「自分の名を伏せて刀を作った、というわけですか?」
「はい。生活のために、そうしたんじゃないか、と」
「信じがたい……話ですな」
と言って、小林は何かを言いかけたが、すぐに口を噤《つぐ》み、視線を足元に落としていった。松本も言葉を失ったまま、前方に広がる田園風景を見つめていた。
会話が途切れ、井上だけが、手持ち無沙汰《ぶさた》を紛らすように、足元の土塊《つちくれ》を弄《もてあそ》んでいた。やがて、不意に空を見上げ、
「ヒバリですな……」
と言って、微笑《ほほえ》んだ。
松本もつられるようにして空を見上げた。しかし、鳥らしき影はどこにも見当たらず、霞《かすみ》を帯びた春の空から、ヒバリらしき鳥の声が聞こえてくるだけだった。
無言で田舎道を運転していた小林が、道路|脇《わき》にある一時退避所に車を止めた。
「あの校長の話、どう思います?」
小林はハンドルに両手を置いたまま尋ねた。
「驚き、の一言だ……」
松本は素直に本心を口に出した。
全てが、そうだった。井上に対する疑惑が的外れだったことも、その井上が明らかにした新たな事実も、そして、補佐官が懸念していた通りになったことも、驚きだった。
とりわけショックだったのは、補佐官の指摘が的中したことである。松本が風呂《ふろ》の中で思いついた推論は、確かに、真実の一端に迫るものだったが、深読みをしたがゆえに、結果的に真実を歪《ゆが》めていたのだ。
井上の説明によれば、春陽堂に日本刀を持ち込んだ人物は、丹羽静夫の関係者、しかも、本人の意向を受けた代理人ということになる。くしくも、それは、捜査会議の席上で、松本が発表した例外的なケース≠サのものだった。だが、いつの間にか、松本はそれを無視し、村正を実在させるための虚構の世界に遊んでいたのだ。それは正に、こじつけ以外の何ものでもない。
直観は独善をはらみ、そして、独善は錯覚を生む――。補佐官の重い言葉を、松本は苦い思いで噛《か》みしめていた。
「しばらく前に起きた刀剣偽造事件を覚えていますか?」
出し抜けに、小林が言った。
「刀剣偽造事件?」
「はい。現代刀に偽銘を刻んで、由緒ある古刀に見せかけた全国的詐欺事件です。確か、有名な刀剣団体の大幹部も絡んでいたはずです。偽物と知りつつ、鑑定書を乱発したというんで、刀剣界は大騒動でした」
松本の脳裏に朧気《おぼろげ》ながら、社会面の派手な見出しがよぎった。
「あの事件の特徴は、被害者が刀剣よりも、鑑定書や認定証を重視していた点にあります。刀剣そのものに、多少の疑問があっても、権威ある団体のお墨付きがあるから間違いはない、と過信したところに、落とし穴があったんです」
小林の話が、単なる回想でないことはわかっていたが、
「丹羽家の刀は、素人の水谷長でさえ一目で、ナマクラと見破った代物《しろもの》だぜ」
松本は首をひねらざるを得なかった。
「それに刀銘も光村だ。詐欺事犯にしては、手口がお粗末すぎるよ。玄人《くろうと》相手の刀剣団体なら、もっと手の込んだ騙《だま》し方を思いつくんじゃないかなぁ」
「もちろん、組織ぐるみの犯行とは思っていません。どんな立派な団体でも、最初に応対に出るのは、一人の人間ですよ。金看板を傘に着て、セコいつまみ食いをしようとする小悪党は、どこにでもいるもんです」
「…………」
「別に、あの刀を類《たぐ》い稀《まれ》なる名刀、などと言う必要はないんです。一目でナマクラとわかっても、言葉を濁して、結論を先延ばしにすれば、その間、手数料とか、調査費とか、適当な口実をでっち上げて、小遣い銭くらいは巻き上げられますよ」
「だが……、仮に、そうだとしても」
「けち臭い詐欺事件、ですか?」
「うん……」
「確かに、丹羽家のナマクラ刀を、村正らしいと臭わせることは、けち臭い詐欺事件かも知れません。でも、そのことが、殺人事件を誘発したという可能性は高いと思いますよ。天下の日本刀剣協会に属する何者かが、仮に嘘《うそ》にしても、村正らしい、と言えば、その情報は千里を走ります。見栄っ張りの不動産屋が、酒の勢いで口走ったのとは、重みが違いますよ」
「…………」
「東京へ行きましょう」
小林が言った。
「東京?」
「反対ですか?」
「別に、反対というわけじゃないけど……」
「行きましょうよ。こうなったら、行くところまで行きましょう」
小林の表情には、活気が戻りつつあった。松本にも出張捜査に反対する理由はない。差し当たって、捜査する対象は見当たらなかったし、単なる詐欺事件にすぎないとしても、村正が絡んでいる以上、確認作業は必要だと思った。
東京出張に異論はなかったが、二の足を踏んでいたのは、別の理由からだった。
「問題は、あのタヌキオヤジが許可するかどうかですが、申し入れるだけは、申し入れましょう。ダメ元です」
小林が松本の気持ちを代弁した。
十七
出張捜査について、小林はまず、直属の上司である刑事課長を説得した。
過去に発生した刀剣偽造事件の資料を準備し、類似事件までも引き合いに出して、捜査の必要性を力説した。その熱意に、当初、難色を示していた刑事課長は徐々に態度を軟化させて行った。
小林の巧みな根回し術と、普段の人間関係。それに加えて、おそらくは、先行きの見えない捜査事情も手伝ったのだろう。捜査幹部は村正捜査班に対して、渋々とではあるが、二泊三日の東京出張を許可した。
二人の望みは叶《かな》ったものの、浮かれるほどの好条件ではなかった。行き帰りの日にちを除けば、捜査にさける日数は、たった一日ということになる。翌日出発し、三日後の夕方までには、報告のために捜査本部に戻らなければならないからだ。
その夜遅く、松本と小林は慌ただしく最終電車に乗り込んだ。出発を早めたのは、東京に滞在する時間を一分でも長く確保したかったからだった。そして、もう一つの理由は、出発間際になって、突然の中止命令を受けたくはなかったからだった。
財団法人・日本刀剣協会は、渋谷駅から歩いて十数分のところにあった。
レンガ色の五階建てのビルが、松本の目に地味に映ったのは、きらびやかな装飾が施された駅前の繁華街を通り抜けて来たせいだったかも知れない。
ひと気のない受付で来意を告げずに名刺を差し出した。数分後、その名刺を手に現れたのは、刀剣協会の事務長と名乗る中年の男だった。
受付前のフロアで挨拶《あいさつ》の後、二人は応接室へ案内された。その途中、
「刀の鑑定を希望した場合、こちらでは、どのように対処されるんですか?」
小林が歩きながら尋ねた。
「一応、その刀をお預かりして、審査会にかけることになりますね。それに合格すれば、鑑定書の発行ということになります。審査員は、いずれも当代一流の先生方ですから、当協会発行の鑑定書は全国、いや、全世界に通用しますよ」
事務長は誇らしげに胸を張った。
「なるほど。でも、刀の持ち主が、直接、その偉い先生方に刀を手渡すわけではないでしょう? 審査料を払い込んだり、書類に名前を書き込んだり、事前に細々とした手続きがあると思うんですが、そういった下準備に立ち会われる方はどなたです?」
「あの……」
事務長は足を止めて、
「ご用件は、刀剣一般についてのご質問なんでしょうか? それとも、当協会に何か、不審な点でも?」
「まだ、その辺のことは、はっきりとは……」
小林は言葉を濁した。だが、事務長の顔からは余裕の笑みが消えていた。そのまましばらく、不安げな眼差《まなざ》しで、小林と松本の顔を交互に見ていたが、やがて、
「とにかく、こちらへ……」
と言うと、足早に奥へ向かった。
不在、と表示された理事長室の隣が特別応接室だった。大きな一枚ガラスの窓から、渋谷の街が一望できる凝った造りである。部屋の所々には、時代物の鎧兜《よろいかぶと》や、蒔絵《まきえ》を施した鞍鐙《くらあぶみ》。そして、ガラスのケースに収められた抜き身の日本刀が飾られてあった。
二人がソファーに腰を下ろすと、
「どうぞ、何でも、お聞きになって下さい。包み隠さずに、お答え致します」
事務長は緊張した面持ちで言った。
「ありがとうございます」
小林は軽く会釈してから、
「実は、一人の田舎者が、こちらの協会に三振りの日本刀を持参し、鑑定を受けました。その日本刀は箸《はし》にも棒にもかからないナマクラ刀でしたが、こちらでは、あたかも天下無双の名刀のごとく鑑定された、という情報を得ております。その真偽を確かめるためにお邪魔しました」
「そ、そんな……」
事務長は生唾《なまつば》をのみ込んで、
「い、いつのことです?」
「はっきりした日にちは不明です。ただ、状況から、半月以内ということだけはわかっています」
「半月以内……。その田舎者、い、いや、刀をお持ちになった方は、何とおっしゃる方です?」
「丹羽です。丹羽静夫」
「丹羽静夫、様……」
事務長は、しばらく考え込んでいたが、結局、
「心当たりはございません」
と、首を左右に振った。
「たぶん、事務長さんはご存知ではないと思っていました。しかし、丹羽さんと接触された職員の方はおられるはずです。その方にお会いし、事情をお伺いしたいのですが、ご協力いただけないでしょうか?」
「わかりました。本日は、全職員が出勤しております。早速、該当者を調査いたしますので、少々、お時間を下さい」
事務長は緊張した面持ちで頭を下げた。
豪華な革張りのソファーに身を沈め、テーブルの上の接客用の煙草《たばこ》を、贅沢《ぜいたく》な吸い方で三本も灰にしたが、事務長はなかなか戻って来なかった。
「甘かったか……」
そうつぶやいて、小林が腰を浮かしかけた時、ドアがノックされ、ようやく事務長が現れた。後ろに、若い男を引き連れている。事務長は相変わらず硬い表情だったが、若い男の方は不貞腐《ふてくさ》れた顔をしていた。
「土屋行雄という者です。当協会の研究員です」
と、事務長が紹介しても、その男は仏頂面のまま立っているだけで、挨拶をしない。
「丹羽さんと会った方ですね?」
小林が事務長に確かめると、
「そうです。それがどうかしましたかっ」
土屋が喧嘩腰《けんかごし》で言った。
「君っ……」
と、事務長がたしなめたが、
「一体、何だと言うんです? 私が何か罪を犯したとでも言うんですか?」
土屋は二人の刑事を睨《にら》みつけた。
「それを、今、調べているんだよ。君が丹羽さんと会った時の一部始終を、まず、聞きたいんだ」
小林がなだめるような口調で言った。
「ええ。いくらでも、説明しますよ」
土屋は吐き捨てるように言ってから、
「その前に一つだけ、教えて下さい。丹羽さんは、私にどんな言いがかりをつけているんです? それだけを聞かせて下さいよ。事と次第によっては、弁護士と相談しなければなりませんからね」
「言いがかりなんかつけていない。つけたくても、もうつけられないよ」
「…………?」
「丹羽さんは亡くなった」
「亡くなった?」
「正確には殺されたんだ。……知らなかったのか?」
「……殺された?」
土屋は唖然《あぜん》とした面持ちで、事務長と顔を見合わせて、
「い、いつです?」
「およそ一カ月前」
「誰にです?」
「…………」
「ま、まさか」
土屋の目に畏怖《いふ》の色が浮かんだ。
「そういうことなんだ。君には不本意だろうが、犯人が捕まるまでは、我々にとって、全ての人間が捜査の対象になる」
「わ、わかりました」
殺人事件、という言葉が土屋の態度を一変させていた。土屋はポケットから手帳を取り出し、落ちつかない様子で頁を繰った。
「去年の九月二十一日、丹羽さんから電話がありました。その電話を受けたのが、私です。丹羽さんは『村正について聞きたい』とおっしゃるので、知っていることを、お話ししました。すると、『うちにも、村正らしい刀があるので、鑑定してほしい』と言い出されたんです。私は、てっきり、刀を持参されるものとばかり思って、ご承諾すると、十月十九日になって、刀の写真だけが送られてきたんです」
「写真?」
「そうです。それも錆《さ》びた状態の写真でした。私は、すぐに電話して、現物を持参されるように、お勧めしたんです。写真だけ、それも、錆びた状態の刀の写真では鑑定のしようがありません」
「でも、君は写真を見て、村正らしいことを匂わせたんじゃないのか?」
と、小林が念を押すと、
「ちょ、ちょっと、待って下さい。最後まで聞いて下さいよ」
土屋は泣き出しそうな顔で言った。
「村正らしい、と電話したのは、確かに私です。でも、その時じゃありません。その日の午後、佐伯《さえき》先生が、たまたま、その写真をご覧になって、村正かも知れない、とおっしゃったので、電話したんです」
「佐伯先生?」
「はい」
土屋がうなずくと、
「当協会の顧問で、刀剣美術館の前館長です。刀剣研究家としては、日本では屈指の権威です」
事務長が口を挟んだ。
「なるほど。すると、その偉い先生が、ナマクラ刀を村正と鑑定したわけですな」
小林は皮肉な口調で言った。
「ええ、まぁ……。でも、佐伯先生のお話によれば、あの刀は、最初から人を騙《だま》すために作刀されたものですからね。それに、刀身には白雲状の錆《さび》。しかも、素人が写した写真です。見間違えたとしても、仕方がないと思いますよ。先生は刃文や肌[#「肌」に傍点]を見ずに、刀の形だけで、村正の可能性を指摘されたんです。これは、先生の鑑定眼が、並外れて優れているという証拠ですよ。現に、今年になってから、丹羽さんは現物を持参して上京されましたが、その際、立ち会われた先生は、鞘《さや》を半分も払わないうちに偽物であることを見抜かれ、ご立腹になって席を立たれました」
「ほう……」
小林は首をひねった。
「私が去年の十月十九日、丹羽さんにお電話を差し上げたのは、上京をお勧めするためだったんです。今時、村正が発見されるなんて珍しいことですからね。しかも、刀、脇差《わきざし》、短刀と、三振り揃《そろ》った村正が発見されたとなれば、これは村正に興味のない方でも、注目しますよ。普通、長刀の得意な刀工は短刀が苦手で、短刀の得意な刀工は長刀が苦手とされていますからね。私としては、一刻も早く、この目で確かめたかったんです」
「…………」
「ところが、『刀は研ぎに出してしまった』というご返事でした。もし、あの時、面倒がらずに」
「ち、ちょっと待って下さい」
小林が発言を遮って、
「十月十九日の時点で、刀は研ぎに出した……。それに間違いありませんか?」
と念を押すと、土屋は手帳を見て、
「はい。そうです。それが、何か?」
「いいえ、私たちが調べたところによると、丹羽さんは十月二十二日に刀を研ぎに出しているんです。その日付の預かり書も目にしています」
「それは変です。去年のこの時期は、京都での名刀展が迫っていましたし、学会の方の準備もあって、十月の第四週は、この日だけしか協会には出勤していません。ですから、私のこのメモは確かなものです。もし、お疑いであれば、NTTの通話記録をお確かめ下さい」
土屋は強い口調で言った。
「わかりました。話の続きを、どうぞ」
と、目礼すると、土屋はうつむいて、
「そんなわけですから、最初に電話を受けた九月の段階で、私の方から丹羽さんのご自宅の方へ出向いていれば、よかったんですよ。そうすれば、佐伯先生のご機嫌を損じることもなかったんです。でも、いろいろと雑用があって……」
と言って、唇を噛《か》んだ。その時、
「いや、土屋君。私はいい勉強をさせてもらったと、感謝しているよ」
ドアの方で、しわがれた声がした。振り向くと、八十歳前後の白髪の老人が立っていた。和服姿でステッキをついている。小柄で痩《や》せた体つきだったが、目に輝きがあり、堂々たる風格を備えていた。
「これは、先生……」
事務長が両足を揃え、頭を深々と下げた。
「文部省の役人が日を間違えよって、とんだ無駄足を踏んだ。それで、散歩がてらに寄ってみたんだが、こういうのを、虫の知らせというのかな」
穏やかな微笑《ほほえ》みをたたえ、その老人はゆっくりと足を進めた。そして、松本たちの前に立つと、
「私が佐伯です」
と、自己紹介した。
「写真の刀は、十中八、九、村正だと思いました。今になって、それを取り消すつもりはありません。もし、そのことで、何か不都合を生じているのであれば、全て、私の責任です。土屋君に非はありませんよ」
佐伯は淡々とした口調で言った。
「そうですか……」
と言って、小林は黙り込んだ。手帳をめくり、何かを探している様子だった。
「失礼ですが、先生」
代わりに、松本が言った。
「片田舎の名もない刀剣商、それに、素人の警官でさえ、あの刀はナマクラと見抜いているんです。先生ほどの大家が、たとえ、写真鑑定にしても、見誤るとは、信じがたいのですが……」
「全く、お恥ずかしい限りです。返す言葉もございません」
佐伯は小指の先で頭を掻《か》いてから、
「ただ、日本刀剣協会の名誉のために、一言付け加えさせていただきますが、あの刀は、ただの偽物ではありません。我々のような専門バカを騙すために作刀されたものじゃないか、と考えられるわけなんです。その春陽堂という刀屋さんの鑑定眼をけなすわけではありませんが、素人ほど、あの刀をナマクラと見るでしょうな。つまり、裏を返せば、玄人であればあるほど、あの刀に村正の可能性を見いだすはずです。言い訳がましくきこえるかも知れませんが、今、その説明をさせていただきます」
と言うと、袖《そで》の中からパイプを取り出し、悠然と吹かし始めた。どこかで嗅《か》いだような懐かしい香りが応接室に広がって行った。しかし、一向に口を開く様子はない。佐伯を除く全員が、訝《いぶか》しげに、お互いの顔を見つめ合っていた。やがて、ドアをノックする音がすると、
「やっと来たか……」
とつぶやいて、佐伯はパイプをテーブルの隅に置いた。
事務長がドアを開けると、女子職員が両手にダンボール箱を抱えたまま一礼し、佐伯の前まで、それを運んだ。
「ありがとう」
佐伯が箱の蓋《ふた》を開ける。女子職員は一歩下がって一礼し、すぐに出て行った。
佐伯はダンボール箱の中から、一冊のファイルホールダーを取り出して、
「現物がお手元にある以上、錆びた刀の写真なんか、専門家にお見せにはなっていないでしょうな」
とつぶやきながら、頁を繰り始めた。
「写真は入手しておりません」
と、松本が答えると、佐伯の手が止まった。
「入手されていない? すると……、写真をご覧には?」
「はい。見ておりません」
「それはそれは……」
佐伯は再び、頁を繰り始めた。やがて、
「これですよ。これが丹羽さんから送られてきた写真のカラーコピーです。研ぎに出されたと聞きましてね。コピーをとらせていただきました」
と言って、松本たちの前に差し出した。二人は身を乗り出すようにして、それを覗《のぞ》き込んだ。
透明シートのポケットに、数枚のカラーコピーがファイルされていた。それが、丹羽芳江の撮影した写真のコピーであることは明らかだった。鞘《さや》はもちろん、柄《つか》も外された丸裸の状態で、刀の下には、伸ばした巻き尺が添えられてある。土屋が説明した通り、刀身は、白雲状の錆《さび》に覆われていた。
もし、中心《なかご》の部分にまで、錆が広がり、刀銘を覆い尽くしていたのなら、おそらく、二人はファイルから目をそらし、佐伯の説明に耳を傾けていたことだろう。しかし、写真の中には、中心《なかご》の部分だけを接写したものもあり、そこに刻まれた刀銘は、はっきりと読み取ることができた。
松本は小林を見た。小林が微《かす》かにうなずいた。
「刀銘は、光村ですね?」
松本が尋ねた。
「はい」
佐伯の表情に変化はない。松本は、再び小林を見た。今度は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せただけだった。
「すると……。やはり、光村を村正の別名、と、お考えになったわけですか?」
と念を押すと、
「……別名?」
佐伯は訝しげな眼差《まなざ》しで、しばらく松本の顔を見つめていたが、やがて、破顔一笑して、
「これは失礼致しました。てっきり、ご存知かと思ったものですから」
というと、事務長の方を向いて、
「すまんが、これだけじゃ足りなくなった。南山社の刀剣銘鑑を持ってきてくれ。百聞は一見にしかず、だ」
と、指示した。事務長はすぐにドアに向かい、土屋がその後を追った。廊下に出た二人の足音が遠ざかり、やがて、聞こえなくなると、
「お二人は、なぜ、村正が迫害を受けてきたか、ご存知ですか?」
佐伯が尋ねた。
「徳川幕府との関係だと伺いましたが」
「その通りです。そもそも、家康の祖父・清康が村正で切られたというのが、始まりです。さらに……」
佐伯は村正についての解説を始めた。それは、春陽堂の平本が話した内容と、ほぼ同じだったが、佐伯の場合は、さらに微に入り、細に亘《わた》っていた。
「偶然の出来事とは言え、徳川に災いした村正を、諸大名や旗本が避けるようにしていたことは事実です。しかしながら、三河後風土記には、家康の言葉として『如何《いか》にして、此作の当家にさわることかな』とありますが、家康、或《ある》いは、徳川家から、村正廃棄令が出された、というような記録は確認されておりません。さらに、名古屋の徳川美術館には、尾州徳川家の伝来刀が保管されていますが、その中には、村正の刀も含まれているんです。しかも、刀剣台帳には、駿河《するが》御分物、とある。つまり、家康の形見分けの品だと、明記されているんです」
「…………」
「それだけではありません。徳川御三家や、その分家においても、村正は堂々と所蔵されているんです。それだけ村正は、侍の差料《さしりよう》としては捨てがたいということだったんでしょう。妙な話ですが、徳川家以外で、村正は問題視されていたんです。平たく言えば、阿諛追従《あゆついしよう》の茶坊主侍が、お上《かみ》を憚《はばか》って、必要以上に目くじらを立てていた、というのが実相のようですな。そんなわけで、おおっぴらに差料にすることは、徳川家に反抗心を持っていると見なされたんでしょう。事実、寛永時代に不正事件を起こした長崎奉行は、島流しの罪ですむところ、村正を二十数振り所蔵していたという理由で、切腹を命じられています。その時の罪状申渡書には、『村正を多く蓄え置きたるは不忠の徒と云わん』とあります」
「…………」
「しかし、それでも、差料として村正が欲しい、という気持ちが、侍たちの間には根強くあったようです。現代のバイオリニストたちが、ストラディバリウスに焦がれる気持ちと同じだったと思いますよ。村正は欲しい、しかし、咎《とが》め立てられたくはない。正に、フグは食いたし命は惜しし、ですよ。あなた方だったら、どうなさいます?」
佐伯はニヤリと笑って、二人の顔を窺った。
「見当もつきませんね」
松本は首を横に振って、答を待った。
しかし、佐伯は再びパイプをくわえ、苛立《いらだ》つ松本を尻目《しりめ》に、悠然と煙をくゆらせ続けた。松本は、視線をファイルに戻した。百聞は一見にしかず、と言うからには、佐伯が今、その答を口にするはずがない。
やがて、廊下を蹴立《けた》てる靴音が、次第に近づいて来て、事務長が手垢《てあか》のついた分厚い書物を持って現れた。佐伯がそれを受け取ろうとしたが、事務長は栞《しおり》の挟んであった箇所を開いて、直接テーブルの上に置いた。佐伯の言葉から、その意図を察知していたのだろう。佐伯も開かれた頁を一瞥《いちべつ》しただけで、
「これが、その答ですよ」
と言いながら、刀剣銘鑑をクルリと、百八十度、回転させた。
それは、刀銘が刻まれた中心《なかご》の部分だけの図柄を、まるで標本のように並べたものだった。佐伯が示した図柄は二つあって、一方の中心には、『村正』という文字が刻まれていたが、もう一方には、『正廣』と刻まれていた。しばらく、その図柄を見つめていたが、松本も小林も佐伯の言う答を見いだすことができなかった。
[#挿絵(img/fig9.jpg)]
「わかりません。私たちは刀剣に関しては、全くの門外漢なんです」
松本が言った。
「そうおっしゃらずに、よくご覧になって下さい。刑事さんであれば、おわかりになるはずです。銘の位置に注意して……」
「…………」
「銘の位置がズレてはいませんか? 正廣の銘の方は、丁度一字分だけで、下にズレているでしょう?」
「まさかっ」
松本が思わず叫んだ。佐伯は満足そうに微笑《ほほえ》んで、
「その通り。その、まさか、ですよ。徳川家を憚《はばか》った侍たちは、村正の村[#「村」に傍点]の方の文字だけを消し、残った正[#「正」に傍点]の文字の下に、宗[#「宗」に傍点]という文字を刻して、正宗、としたり、この押形《おしがた》のように、廣[#「廣」に傍点]という文字を刻して、正廣、としたんです。或いは、村正の正[#「正」に傍点]の文字に手を加えて、村忠、としたものも見られます。つまり、持ち主の好み、思いつきで、様々な銘に改変したわけですよ。従って、村正の正[#「正」に傍点]の文字を消し、残った村[#「村」に傍点]の文字の上に、光、という文字を配して、光村、と改変された村正が発見されたとしても、別に不思議ではないわけです」
「…………」
狐に化かされたような気分だった。村正の刀には、必ずしも、村正という刀銘が刻してあるとは限らないという指摘は、二人にとって、青天の霹靂《へきれき》だった。
「もちろん、私は光村という刀銘だけで、これを村正と鑑定したわけではありません」
佐伯は続けた。
「村正の特徴は、その独特な刃文にあるということはご存知だと思います。しかし、中心《なかご》の形にも、特徴があるんです。いささか専門的になりますが、村正の中心は、たなご腹|中心《なかご》≠ニ呼ばれ、これを刀剣界では、村正型、と通称しております。私は、むしろ、この中心《なかご》の形から、村正の可能性を見いだしたわけでして、実を申しますと、光村の銘については、その後に思いついたことなんです」
[#挿絵(img/fig10.jpg)]
と言うと、佐伯はため息をついて、
「しかし、もっと慎重に言葉を選ぶべきでした。ここからは、私の個人的意見になりますが、この光村は、故意に錆びさせた上で、売買するために作刀されたものじゃないか、と思います。しかも、売り手側は、刀剣の素人を装うはずです。買い手側が一定の鑑定眼の持ち主であれば、村正の可能性を見いだすでしょう。その結果、買い手側の心には、様々な思いが駆けめぐるでしょうな」
「…………」
「まぁ、村正の評価は、人によって様々で、中には、名刀の基準には達しない野卑なもの、と決めつけ、毛嫌いする向きもおりますが、そうでない愛好家も少なくありません。本物の村正で、しかも、三振り揃《そろ》いとなれば、かなりの高値がつくと思いますよ。巷《ちまた》では、いわゆる大小揃いの場合だけでも、それぞれの価格を合わせた五割増しが、相場だそうです。買い手側は、頭の中で皮算用をするでしょうな。問題は、それを口に出すかどうかです」
「…………」
「ただし、断っておきますが、丹羽さんが詐欺師だと申し上げているわけではありませんよ。その証拠に、丹羽さんは錆刀《さびがたな》をピカピカに研ぎ上げて、刀剣協会に持参されました。これは、丹羽さんが、刀剣に関してはズブの素人であると同時に、善良な市民であることを証明しています。私の推測では、丹羽さんのご先祖のどなたかが、この光村をお買いになった……。つまり、まんまと騙《だま》された被害者だった、と考えます」
と言うと、佐伯は二人の反応を見定めるかのように、しばらく沈黙した。
「すると、先生……。もし、光村という刀銘を根拠にして、村正ではない、という刀屋さんがいたとしたら、信用できない人物ということになりますね?」
松本は尋ねた。もちろん、信用できない人物とは春陽堂の店主、平本栄治のことだ。
「いや、一概に、そうは言えませんね」
佐伯は首を振った。
「村正の刀銘が改変されていると言っても、光村に改変されたものは、現在までのところ、確認されていないんです。繰り返しますが、光村という銘から村正の可能性を見いだしたのは、この私なんです。しかも、中心《なかご》の形と関連づけて、たまたま思いついたんです」
「…………」
「私のように研究だけしている人間は、物事を積極的というか、肯定的に見る癖があるんですよ。学者的発想と言われるゆえんです。その点、店を構えている刀剣商の方々は、物事を現実的に見ます。お金が動くわけですからね。シビアにならざるを得ないわけです。前例がないという理由だけで、光村なんて銘は村正とは無縁だ、と言い切っても過ちではないと思います。むしろ、堅実、そして、慎重な見方と言えると思います」
「そうですか……」
そう言って、松本は刀剣銘鑑に目を落とした。
佐伯は満足そうに微笑み、事務長の方を振り返って、茶をせがんだ。
「恐れ入りますが、先生……」
小林がバッグの中から、ビニールのケースに入った名刺を取り出した。数字が記された平本栄治の名刺である。
「ご迷惑ついでに、もう一つだけ教えて下さい。実は、この数字の意味がわからなくて、困っています」
と言うと、それを佐伯に向けて差し出した。
どれどれ、と言って、佐伯は袖《そで》を探った。今度は老眼鏡を取り出すためだった。
結局、刀剣界の重鎮である佐伯にも、名刺になぐり書きされた数字の意味までは解明することはできなかった。
刀剣協会からの帰途、小林が突然、単独行動を申し出た。野暮用《やぼよう》と言うだけで、行き先を明らかにしなかったが、松本も敢《あ》えて詮索《せんさく》はしなかった。改札口で小林と別れ、松本は重い足取りで、宿に選んだビジネスホテルに向かった。
フロント係が、まだカウンターの準備をしている最中に、早々とチェックインをすませ、松本はベッドに仰向けになり、考えを巡らそうとした。しかし、天井のモザイク模様を見つめているうちに、いつしか、眠りに落ちていた。夜行列車の中で、一睡もできなかった皺寄《しわよ》せが、横になったとたんに押し寄せてきたのだ。そして、数時間……。
「すみません。遅くなりました」
という声と、ドアの音で目が覚めた。
体を起こすと、小林が両手にコンビニのビニール袋をさげていた。
「お休みだったんですか?」
小林が恐縮した面持ちで言った。
「いや、ちょっと考え事をしていただけだ」
松本はベッドから下りた。
「欲を出したら、きりがありませんよ。かなりのことがわかりましたからね。それで、よし、としましょうや」
小林はテーブルに袋を置き、ベッドに腰を下ろしてネクタイを緩めた。
「実は、警視庁に行って、刀剣協会の情報について、ちょいと探りを入れてみました。どうやら、刀剣協会そのものは、叩《たた》いても、埃《ほこり》は出ないようですね」
「警視庁に? なぜ、一人で行ったんだ?」
と、詰《なじ》るように尋ねると、
「敵[#「敵」に傍点]に出張捜査だと知られたくなかったんです。いくら研修仲間だといっても、仕事上のライバルとなれば、口が固くなってしまいますからね」
「ライバル?」
「ええ。もし、警視庁が、何らかの容疑で刀剣協会を内偵しているとしたら、我々にだって、情報は漏らしませんよ。先に花火を上げた方に優先権がありますからね。だから、姪《めい》の結婚式をでっち上げ、そのついでに来たと思わせる必要があったんです」
「なるほど……」
「それにしても、取り越し苦労だったことを、喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら……」
小林は苦笑しながら、ビニール袋の中に手を伸ばした。
「でも、まぁ、事件そのものに結びつかなかったことは残念ですが、光村の素性がわかっただけでも、我々にとっては大収穫です。春陽堂が何を考えていたかも突き止めることができました。後は、山岡署と協力して共犯者を挙げれば、いずれ、事件は解決しますよ。時間の問題です」
と言って、缶ビールを二本、掴《つか》み出した。そして、一本を松本に手渡すと、
「花の東京と、我らの偽村正に乾杯と行きましょう」
小林はプルトップを引き、缶を目の高さに上げた。松本はそれに応《こた》えた。小林は喉《のど》を鳴らして一気に飲み干し、
「やっぱり、東京のビールは一味違いますね」
と、満面に笑みを浮かべて、袋の中の二本目に手を伸ばした。
だが、徹夜の旅で松本の胃は荒れていた。ビールは一口飲んだだけで、立ち上がり、窓の外に目を向けた。夜の闇《やみ》に様々な明かりが浮かび上がっていた。
色とりどりのネオンサインが遥《はる》か彼方《かなた》まで続き、高速道路を走る車のヘッドライトが、絶え間なく流れていた。遠くから、レールを走る車輪の音が近づいて来て、ネオンサインの間から、電車が見えた。
長い電車は、やがてビルの陰に消えた。松本の目は、そのビルに向けられた。屋上に巨大なスニーカーを乗せた都会的な感じのするビルだった。スニーカーの下に掲げられた広告写真の中で、愛くるしい娘が微笑《ほほえ》んでいた。両手に靴を持ち、ウィンクした顔の横に、素足のタッチ云々《うんぬん》、とある。松本はすぐ、小林の靴を思い出した。
「なぁ……、履き心地のいい靴があるから、買ってくれとさ」
と、その写真を見たままつぶやいた。
「何ですって?」
小林が松本を見上げた。
「冗談だよ……」
松本は窓を離れ、再び、ベッドに腰を下ろした。ビールは苦く、体はだるかった。
「靴じゃ、ガキのころから苦労しましたよ」
小林が言った。
「何の因果か、自分の足は極端な幅広甲高ですからね。靴屋にも合う靴が売ってないんです。高校生のころは、本気で親を恨みましたよ」
「特注なの?」
松本は小林の足元を見た。出張のためか、いつもの靴とは色が違う。しかし、形はほとんど同じだった。
「ええ。靴屋で自分の大足をぼやくと、規格品の靴に合う足なんてありはしない、なんて妙な慰められ方をされましてね。いろいろ教わりましたよ。規格品の靴を履いた場合、誰もが足に無理な負担をかけているんだそうです。無理がすぎると、変な病気にかかってしまうこともあるそうですよ」
「ほう……」
「特注品を履いてみて、確かに、そう感じましたね。楽だし、第一、疲れません。試しに、一足、作ってみたらどうです? 店を紹介してもいいですよ」
「まぁ、そのうちにね……」
靴談義を締めくくるつもりの一言だったのだが、
「最初、足型を作らなきゃならないんで、少し、面倒ですがね。何、大して手間はかかりませんよ」
小林の話は続いた。
「足型といっても、型紙なんかじゃありませんよ。靴の場合、洋服みたいに所々、測るだけじゃ駄目なんです。長さはもちろん、幅や高さが同じでも、足の形は人によって千差万別だそうです。そこで、客の足と寸分違わぬ模型を作るわけですよ」
「…………」
「靴屋の親父《おやじ》の話では、そもそも、靴のサイズは、大量生産のために考え出されたものなんだそうです。同じサイズでも、実際に履いてみると、メーカーによって大きさが違うそうですよ。つまり、サイズなんてものは、売り手側の都合に合わせた便宜的な数字にすぎないんだそうです」
「なるほどね。いい勉強になったよ」
と答えたが、小林の口にした言葉が耳に残った。
便宜的な数字……。
心の中で、松本はその言葉を繰り返した。
そして、再び、窓際に立って、東京の夜景に目を向けた。松本はスニーカーの看板に目を凝らした。
便宜的な数字……。
松本の脳裏で何かが動き始めていた。
たぶん、潜在意識の中では、名刺に書かれた数字の謎《なぞ》にこだわっていたのだろう。
見定められないもどかしさが最高潮に達した時、その数字の正体は姿を現した。
「そうか!」
松本は叫んだ。
「ど、どうしたんです?」
小林がビールをこぼした。
「刀の長さだよ。刀の長さなんて、取り引きのために考えだされた便宜的な数字にすぎないんだ」
松本はベッドの上で、日本刀の風呂敷包《ふろしきづつ》みを解いた。
「測る物。何か、測る物はないかな?」
「測る物……」
小林が辺りを見回した。
「フロントだ。フロントにあるかも知れん」
松本はドアを指さした。
十八
予定通り、三日目の午後に捜査本部に戻った松本と小林は、石川が自席に戻るのを待ち続けていた。
出張捜査の結果に満足した小林は、自信に満ち、晴々《はればれ》とした表情をしていた。だが、松本の心には、一抹の不安感が淀《よど》んでいた。ビジネスホテルでの閃《ひらめ》きも、アパートの風呂の中での閃きも、全く同じ質のものだったからである。直観を錯覚に発展させない術《すべ》は何か――。それを今、松本は補佐官に質《ただ》してみたかった。
「待たせたな……」
静かにドアが開き、石川が現れた。その顔を見て、松本は目を見張った。たった三日の間に、石川の頬《ほお》はこけ、目の下には隈《くま》ができていた。
小林も唖然《あぜん》として、石川を見つめていた。県警本部の対策会議で、どのような議題が討議され、どのような結論に達したか、明らかだった。おそらく、捜査員の増員も、編成替えによる再捜査も認められず、現状打開の様々な提案は、現態勢のまま実施するように、申し渡されたのだろう。
成果だけを求めてくる上層部と、暗中模索状態の捜査。石川の憔悴《しようすい》した姿は中間管理職の悲哀を象徴していた。
「ここのところ、調子が悪くてね。食欲がない。俺も年かな……」
石川が弱々しく笑った。
「昨日は電話をくれたそうだが、早めに帰らせてもらったんで、失礼した。成果があった、ということは聞いているが……」
と言って、松本を見上げた。
「いや、まだ推論の段階です。ご迷惑をかけることになるかも知れません」
松本は報告をためらった。錯覚≠ヨの不安があった。
「そんなことは気にするな。とにかく、聞こう……」
石川は背もたれに寄り掛かるようにして、目を瞑《つむ》った。
「村正は……すり替えられたんです」
松本は遠慮がちに言った。石川の瞼《まぶた》は微《かす》かに震えたが、目は閉じたままだった。そして、
「続けろよ。いまさら、遠慮するな……」
渇いた唇が動いた。
「丹羽家の土蔵から発見されたのは、間違いなく本物の村正です。私たちが丹羽家の隠し戸棚から見つけたこの刀は、すり替えられたものだったんです」
松本は、写真の錆刀《さびがたな》が村正の条件を整えている、という佐伯の説明をそのまま繰り返してから、
「佐伯顧問の写真による鑑定は正しかったんです。丹羽氏は刀を研ぎになんか出さずに、錆刀のまま刀剣協会に持ち込めばよかったんです。そうすれば、佐伯顧問に本物の村正という鑑定を受けられたはずです」
「すると……、春陽堂がすり替えたと言うのか?」
石川が目を閉じたまま尋ねた。
「はい。平本は丹羽氏から刀を預かった際、或《ある》いは、預かった後、村正であることを知って、すり替えることを思いついたんです。研ぎと白鞘《しらさや》の製作には何ヵ月もかかりますからね。時間はたっぷりあります。適当な時期を見計らって、丹羽氏に連絡し、注文通り、刀を仕上げたと言って、実は、全く別の刀を渡したんです。しかし、丹羽氏の方は、発見直後に撮影した写真を刀剣協会に送っていて、村正らしい、という回答を得ていました。刀剣協会でナマクラだと鑑定されても、すんなり、諦《あきら》めたとは思えません。いろいろ考えを巡らせたと思います。写真鑑定が村正で、実物がナマクラとなれば、誰が考えても、すり替えられたという結論になります」
「…………」
「しかし、証拠もなしに、いきなり春陽堂に乗り込んでも、不毛な水掛け論になることは目に見えています。そこで、丹羽氏は、刀を調べてみたんです。しかも、素人らしく初歩の初歩から始めました。その単純な方法が、功を奏したわけです。つまり、丹羽氏は刀の長さを測ってみたんです。それが、あの名刺に書かれてあった数字だったんですよ。名刺には二種類の数字が書かれてありました。土蔵から発見された直後に測った刀の長さと、春陽堂から受け取った刀の長さです」
「長さが違うのか?」
「いいえ。同じです」
三日前の石川だったら、ここで目を剥《む》いているはずだ。だが、今の石川は薄目を開けただけだった。松本は続けた。
「刀屋とあろうものが、すり替える刀の長さを違えるはずがありません。しかし、丹羽氏は刀剣に関しては、ズブの素人でした。それが今回の事件の盲点だったんです。春陽堂も我々も、刀剣界の大御所にも見抜けなかった落とし穴だったんですよ」
と言って、松本は光村を手に取り、その鞘を払った。
「刀剣関係者は、刀の長さの測り方なんか、知り尽くしています。でも、刀剣に縁のない人間は、刀の長さというと、文字通り、その湾曲した刃の部分の長さだと思い込みがちなんです。実際、私も警察学校で教わった時、不思議に思ったものです。その時に教官が口にした、便宜的な数字、という言葉を思い出したんです。つまり……」
松本は抜き身を机の上に横たえると、ポケットからメジャーを取り出し、その刃の部分にあてがった。石川は少しずつ身を乗り出してきた。
「警察庁のコンピューターで、錆刀の写真を解析してもらいました。幸い、巻き尺の目盛りが、はっきり写っていましたので、それほど手間はかかりませんでした。その結果、名刺の数字と一致したんです。丹羽氏独特の測り方によれば、土蔵の壁から出てきた錆刀の刃の部分の長さは、七十六・七センチ。一方、春陽堂から渡されたこの刀を実測してみたところ、七十七・〇センチ。研ぎ減りして、短くなったというのなら納得できますが、反対に長くなっています。これは、すり替えられたという、動かしがたい証拠ですよ」
[#挿絵(img/fig11.jpg)]
「…………」
「おそらく春陽堂の平本は、店にあった無銘刀に、光村の銘を刻んで、長さ、この場合は、もちろん、本来の刀の長さ、つまり、切先《きつさき》の先端から棟区《むねまち》までの直線距離ですが、それを丹羽氏から預かった村正と同じ長さに調整したんでしょう。ただ、すり替え用の刀の方が、反りが僅《わず》かに大きかったんです。平本が、いかにすり替え用の刀を選び抜いたとしても、刀が手作りである以上、一振りとして、同じものは存在しませんからね」
「刀剣協会の連中は、それに気づかなかったのか?」
静かな口調だったが、詰《なじ》るような響きを含んでいた。
「それは無理でしょう。元々、すり替えられたかどうかの鑑定ではありません。写真を脇《わき》に置いて、双方を見比べる理由も必要もないわけです。仮に、見比べたとしても、片方は錆刀の写真。片方はナマクラとは言え、見事に研ぎ上げられた実物。しかも、双方の長さの違いは、湾曲した部分の、たった三ミリです」
「…………」
「わからないのは、すり替えに気づいた丹羽氏が、その後、刀剣協会に何の連絡もしていないことです。ナマクラとわかってからの刀剣協会の対応は、それほど丁重ではなかったようですし、丹羽氏がかなり屈辱的な思いを抱いて帰郷したことは確かです。その悔しさがバネになって、決定的な証拠の発見につながったわけですからね。手紙の一本くらい書き送っても、不思議ではないと思うんですが……」
と言って、首をひねると、
「そりゃ、恥の上塗りになるからだよ。現物を取り戻さない限り、何を言っても、負け犬の遠吠《とおぼ》えだ。しょせんは、泣き言としか受け取られない。だが、少なくとも、平本の前では、刀剣協会に連絡した、と嘘《うそ》をつくべきだったな、そうすれば、命を落とす羽目にはならなかった。……だろう?」
「おっしゃる通りです。春陽堂に乗り込んだ丹羽氏は、長さの矛盾を指摘して、村正の返還を要求したと思いますが、平本の方では、表面上はともかく、そんな気はなかったんです。そして、すり替えた三振りのナマクラ刀を盗んでしまうことを思いついたんでしょう。証拠である現物を盗んでしまえば、偽物、本物の議論そのものが成立しなくなってしまいますからね。確かに、名案でした。ただ、実際に盗みに入ってみると、肝心のナマクラ刀が見当たらなかっただけのことです。我々が第一回目の捜索で発見できなかったように、平本も隠し戸棚には気がつかなかったんです。もたもたしているうちに丹羽夫婦が帰宅し、出くわす羽目になったんでしょう」
「…………」
「もちろん、殺人は計画的なものではなく、偶発的なものでしたが、平本にとっては、もはや詐欺罪ですむ問題ではなくなってしまったわけです。犯行後、二時間も現場に留《とど》まったのは、おそらく刀を探し出すためだったんでしょう。すり替えの事実が発覚すれば、殺人の動機として浮上するということが、平本にもわかっていたんです。しかし、結局、刀は発見できず、次善の策として、写真を盗むことにしたんです。刀の方は残っても、写真がなくなれば、すり替えの事実は立証できなくなることに気づいたんでしょう。まさか、刀剣協会の佐伯顧問が、研究のためにコピーを取っていたとは、夢にも思わなかったんです」
「なるほど。確かに筋は通る……。君たちとしては、春陽堂事件を洗う必要ができたというわけだ」
石川はしばらく沈黙した後、
「よし、わかった。山岡署の捜査本部には、俺の方から協力を依頼しておく。ついでに、合同捜査についても、意見交換してみよう。この際、メンツにこだわっている場合ではない」
石川は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「お心遣いはありがたいんですが、合同捜査の必要はなくなるかも知れません」
松本が言った。
「どういう意味だ?」
石川が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。それに答える代わりに、松本は肘《ひじ》で、小林の脇腹《わきばら》を突いた。数字の謎《なぞ》を解いたのは松本だったが、それを元に、一連の事件を総括したのは、小林だったからである。
「春陽堂事件は他殺ではない、と考えるからです」
小林が言った。石川は唖然《あぜん》とした表情で、しばらく小林を見つめた後、
「君は、山岡署から送付されてきた捜査資料に目を通したんだろう? その上で、あれが他殺でないと言うのか?」
「はい。東京から戻る途中、さまざまな視点から検討してみたところ、自殺の線に収まってしまうんです」
「わかった。とにかく、説明してみろ」
石川は身を乗り出すと、両肘を机に付き、両方の手を顔に当て、上下に擦《こす》った。
「春陽堂事件の現場は、死体の形は自殺で、周囲の状況は他殺、というものでした。従って、自殺か、自殺を偽装した他殺の、どちらか、ということになります。私が自殺と推定した理由は、たった一つ。他殺を思わせる周囲の状況です。つまり、店内の隅々まで、指紋を拭《ふ》き取り、庭の足跡を消した、という他殺に見られる証拠|湮滅《いんめつ》工作こそが、自殺と推定する根拠になるんです」
「すまんが、もっとわかりやすく説明してくれんか。君たちは、じっくり考えを巡らせたんだろうが、こっちは違う。出し抜けに聞かされる方の身になってくれ」
石川が珍しく弱音を吐いた。
「はい……。つまり、あれを他殺とすると、犯人は平本を殺した後、犯行現場の庭と、春陽堂の店内を、隅々まで掃除して逃走したということになります。しかし、山岡署には、女の悲鳴が聞こえた、という匿名の通報がありました。もし、それが本当だとしたら、外にまで聞こえる悲鳴ということになります。とすれば、当然、中にいる犯人にも聞こえたはずです。そんな状況下で、庭に残った足跡、それも、平本以外の足跡だけを消し、さらに、店内に残った指紋を一つ残らず拭き取ってから逃走するなんて、考えられませんよ。しかも、パトカーは十分少々で現場に到着しているんです。物理的に考えても不可能です」
「…………」
「気がつけば、実に単純なことなんです。今まで、それが複雑に見えていたのは、平本を被害者、あるいは、単なる事件の脇役、と思い込んでいたからです。平本を窮地に陥れた主犯格の人物、という視点で捉《とら》えれば、すぐに気づくことなんです」
「そうか……」
石川が低い声でつぶやいた。小林は続けた。
「確かに、自殺説に立っても、不自然な点はあります。しかし、平本が自殺する前に、それを工作した、と考えれば、全てクリアできるんです。つまり、自殺する前に、店内のあらゆる箇所の指紋を拭き取り、庭の足跡も消した。元々ない指紋や足跡をあったように見せかけるためです。そして、自殺の道具には、わざと長い刀を使い、紙を巻かずに直《じか》に掴《つか》んだ。しかも、あらかじめ刀の柄頭《つかがしら》をへこましておき、壁にも不自然な痕跡《こんせき》を残しておいたんです」
「…………」
「仕上げは、女の悲鳴が聞こえた、という匿名通報ですよ。平本がわざとらしい関西|訛《なま》りを使ったのは、通報者を犯人と思わせたかったからです。関西訛りが作りもので、近所に、そんな人物がいないとなれば、通報者が怪しいということになります。おそらく、自殺したのは電話の直後でしょう。もたもたしていたら、パトカーが到着してしまいますからね」
「なるほど。俺もだんだん、そんな気がしてきたよ。だが、平本はなぜ、そこまで手の込んだ自作自演をしたんだ?」
「素人がわざとらしい偽装をしても、海千山千の捜査員には見破られてしまう、と考えたからでしょう。そこで逆手を考えたんです。平本は今までに類のない偽装、言うなれば、二重の偽装を考えたんです。つまり、自殺を偽装した他殺、というものを偽装したんです。これなら、実際に自殺しているわけですから、現場慣れした捜査員たちも面食らってしまいます」
「自殺を偽装した他殺の……偽装か」
「そうです。平本にとって、春陽堂事件が他殺と認定されれば、それに越したことはありませんが、最悪でも、自殺の認定に疑問を抱かせたかったんじゃないでしょうか……。不透明のまま、捜査が打ち切られるだけで十分だったんです。春陽堂事件が不透明に終われば、丹羽家殺人事件も不透明に終わることになりますからね」
「なるほど」
と、うなずいたが、
「それにしても……」
石川は再び、首をひねった。
「死ぬ直前まで、平本は何のミスも犯していないぞ。刀剣協会の佐伯顧問が、写真をコピーしていることは知らなかったはずだし、そんなことは全体から見れば、些細《ささい》なことだ。当時、君たち二人は、去年の十月に春陽堂を訪れた第三の男に振り回されていたし、一切が、平本の思惑通りに運んでいた。慌てて、自殺する理由は、どこにもない」
「いいえ、それがあるんですよ」
小林は渋い顔をして、
「事もあろうに、我々がその張本人なんです。春陽堂を訪れた際、名刺に書かれた数字について、平本に質問しているんです。丹羽氏が、この数字を根拠に、村正の返還を迫ったことは明らかです。平本にとって、名刺を警察に押さえられたことは、かなりの不安材料だったと思います。あの数字の謎が解けた時こそ、すり替えの事実が明らかになる時ですからね」
「事が露顕するのは時間の問題だった、というわけか?」
「はい。平本は、逃げ場のない自分の立場を悟ったんだと思います。そこで、自分の命を投げ出すことによって、殺人者の汚名を免れ、店の暖簾《のれん》を守ろうとしたのだと思います。まぁ、生き長らえたとしても、捕まれば死刑。よくて、無期懲役ですからね」
「もし、それが事実だとすれば、平本は商人の鑑《かがみ》だ。自分の命まで秤《はかり》にかけたんだからなぁ……」
石川は皮肉な口調で言うと、
「だが、死人から供述は取れない。正に、平本の思う壺《つぼ》になったわけだ。犯行を裏付けるのは、いずれにせよ物的証拠しかない。本物の村正と、丹羽夫妻の血のついたズボンでも発見できれば、県警本部の石頭どもも納得するだろうが、おそらく、発見は無理だろうな。死ぬ直前に通報までして、他殺を偽装するほどの男となると、証拠は残さんだろう。村正も、ひょっとしたら、粉々に打ち砕いてしまっているかも知れん……」
と言って、唇を噛《か》んだ。熱弁を振るっていた小林も口を閉ざした。重苦しい沈黙の中で、
「そうは思いません」
松本が言った。二人は無言のまま顔を上げた。
「刀剣に、何十年もかかわってきた人間が、いかなる事情があろうとも、天下の村正を屑鉄《くずてつ》のように処分するとは思えません。たとえ、そうしたくても、できないと思います」
根拠はないが、確信があった。厳格な石川も、慎重な小林も反論してこない。
「他の証拠はともかく、村正は必ずあると思います。平本が刀屋の端くれなら、死ぬ前に、村正がいずれ日の目を見るようにしていったはずです。戦争直後、丹羽家の先々代が土蔵の壁に塗りこんだように、平本も後世に、村正を伝えようとしたに違いありません」
と言って、二人の反応を確かめると、
「試しに、平本の息子夫婦をシゴいてみましょう。何らかの形で、知らされているかも知れません」
小林が言った。石川は両手で、やつれた顔をしばらく擦っていたが、やがて、その手で机を叩《たた》き、
「よし、やってみよう。ただし……、慎重に運んでくれよ。ひょっとしたら、息子夫婦にとっては、先刻承知のことかも知れん。村正が発見されるということは、春陽堂の罪状が明らかになるということだ。父親が命と引き替えにしてまで隠そうとしたこととなると、それこそ、死に物狂いでかばい立てしてくるぞ」
「はい。それは覚悟しています」
小林が答えた。その横で、松本も思わず、うなずいていた。
十九
春陽堂の家族に対する事情聴取は、まず、長男の平本克彦に対して行われることになった。
その場所については、まだ事件の余韻の醒《さ》めやらぬ自宅は避けたい、という克彦の要望を入れて、山岡署の取調室を借り受けることになった。
しかし、松本たちが東京で得た新事実と、そこから浮上した春陽堂店主、平本栄治に対する疑惑は、山岡署関係者には内密にされた。まだ仮説の段階であり、多くの裏付け作業を必要とする現時点で、手の内を明かすことは得策ではない、という判断からだった。
山岡署関係者への事情説明は、春陽堂の家族への事情聴取を終え、しかも、何らかの成果を得た後でも遅くはない、というのが、石川の考えだった。
午前十時。平本克彦は山岡署の刑事課に現れた。まず顔見知りの藤井と挨拶《あいさつ》を交わし、雑談の後、促《うなが》されて取調室に入った。
それを見届けて、松本と小林も取調室に向かった。
克彦はあくまで参考人であり、任意の事情聴取なので、取調室のドアは大きく開いて、ストッパーで止めた。いつお帰りになっても、ご自由ですよ、というわけだ。
ところが、閉めても構わんだろう? と藤井が言い出し、克彦も同意した。取調室の中が丸見えの場合、刑事部屋での仕事に支障をきたす場合がある。それが本音だったかどうかはともかく、藤井は取調室の外に出ると、ドアをピシャリと閉めた。もちろん、事情聴取する側にとっては、その方が仕事がしやすい。
小林が松本に目配せした。それを受けて、
「じゃ、そろそろ始めますか……」
取調官の席には、まず、克彦と面識のある松本が座った。
「早速ですが、三月七日の日曜日、お父さんは外出されているはずなんですが、覚えていらっしゃいますか?」
「三月七日……」
克彦は五、六秒ほど宙を見つめてから、
「三月の日曜日なら、店か、自宅ですね。外出はしていません」
と、明確に答えた。
「ほう……。なぜおわかりに?」
「毎年四月から、父は各地の刀剣研究会に出かけます。三月は、その準備のために、店の方にこもりきりですから」
「刀剣研究会?」
「そうです。刀剣研究会や鑑定入札会は、新しいお客さまを獲得するよい機会なんです。大体、ゲストとして招かれることが多いんですが、父が主催することもあります。その場合は、父が日本刀を準備しなければなりませんからね。下準備には時間をかけていたようです」
「なるほど」
松本は一応、うなずいた。事がスムーズに運んだのはここまでだった。
「しかし、三月七日、お父さんは外出されているはずなんですがね。その日、克彦さんご自身は自宅におられたんですか?」
と、質問を掘り下げようとすると、
「一体、何をお調べなんです?」
克彦の表情が、急に硬くなった。
「それは……」
思いがけない逆質問に慌てたが、
「別に深い意味はありません。型通りの質問とお考え下さい」
松本は辛うじて、その場を取り繕った。克彦は探るような目で、しばらく松本を見ていたが、
「先月、父が休みの日に遠出をしたことはありません。たぶん、店にいたと思いますが、朝から晩まで、見張っていたわけではありませんからね。二十四時間の全ての行動についてはわかりかねます」
と、素っ気なく答えた。
「三月七日でおわかりにならなければ、大雪の降った日と申し上げれば、ご記憶にあるんじゃないですか? 交通がマヒして、大騒ぎだったでしょう?」
「大雪、ですか?」
克彦は小林の方を一瞥《いちべつ》してから、
「大雪の降った日は、僕は午前中、二日酔いで寝ていました。前の日、パーティがあって飲みすぎたんです。あの日は、父の姿を直接、見てはいませんが、店の方から、ずっと物音がしていましたからね。外出はしていないと思いますよ」
「いや、午後なんですよ。午後は、いかがでした?」
松本が身を乗り出すようにして尋ねた。
「ちょっと、お待ち下さい」
克彦が厳しい口調で言った。
「ひょっとして、それは丹羽さんという方が殺された日のことではないんですか?」
「…………」
核心を突かれて、松本は言葉に詰まった。克彦は予想していた以上に手ごわい相手だった。適当な言いわけを考えていると、
「やっぱり、そうですか……」
克彦は険しい目で、松本と小林を睨《にら》んだ。そして、
「あなた方は、父があの事件にかかわり合っているとお考えなんですね?」
「別に、そういうわけでは……」
「僕はバカじゃありませんよっ」
克彦は声を荒らげた。
「これじゃ、まるで騙《だま》し打ちじゃありませんかっ、父の交友関係や、取り引き上のトラブルについて確認したい、というお話だったから、僕は予定を潰《つぶ》してまで足を運んだんですよ。見て下さい……」
克彦はポケットを探り、四つ折りに畳んだ数枚のコピーを机の上に叩きつけた。
「店の金庫にあった刀剣商のブラックリストですよ。店も構えず、全国を渡り歩いて、怪しげな商売をしている業者の一覧表です。あなた方のお仕事に少しでもお役に立てば、と思って、わざわざコピーして持参したんです。僕は父を殺した犯人を、一刻も早く捕まえていただくために足を運んだんです。父の名誉を汚すためじゃありません」
と言って、そのコピーをポケットに戻すと、両腕を組んで、そっぽを向いた。
事情聴取は一歩も進まないうちに行き詰まっていた。克彦の憤りは誤解に基づくものではなかったからだ。取調室は気まずい空気に包まれた。仕切り直す方法は一つしかなかった。
「どうも、ご機嫌を損じてしまったようですなぁ……」
それまで、出入口近くで傍観していた小林が、ゆっくりと近づいて来た。そして、松本の背中を軽く叩《たた》いた。
松本はホッとする思いで立ち上がり、小林に席を譲った。
「しかし、私どもの立場も理解していただきたいんです。克彦さんには不本意でしょうが、お父上にとって不利な事実を知った以上、見過ごすわけにはいかないんですよ。確認するのは、私たちの義務なんです。それで給料を戴《いただ》いているわけですからね」
小林は穏やかな口調で釈明した。だが、
「それならそうと、なぜ最初から言わないんです? 僕は、あなた方の卑怯《ひきよう》なやり方に腹を立てているんです。はっきり言っていただければ、はっきりお答えしますよ」
克彦は不快感を隠さなかった。
「その点についてはお詫《わ》びしますよ。申し訳ありませんでした」
小林は机に両手をついて、蟹《かに》のような格好をして、頭を下げた。そして、顔を上げると、
「私たちも、できることなら、率直にお尋ねして、率直なお答をいただきたいんです。その方が捜査の手間も省けますしね。でも、実際のところはそうはいきません。率直にお尋ねすると、十人が十人、気分を害されてしまうんです。ひどい時なんか、塩なんか撒《ま》かれたりされましてね。そこでやむなく、先ほどのようにオブラートに包み、それとなくお尋ねするわけです。普通の場合、大体、この方法ですむんですが、時たま、あなたのような洞察力の鋭い方に出会うと、逆効果になってしまう。全く、ままならないものです」
「そして、バレた時は、おだて上げるというわけですか?」
克彦が皮肉な口調で言った。
「これは、どうも恐れ入ります」
小林は頭を掻《か》いてから、
「では、恥を忍んで、率直にお尋ねすることにします。ただし、このことは山岡署の捜査本部も、まだ把握していません。もちろん、藤井さんも知らないことです。従って、克彦さんお一人の胸のうちに収めていただきたいことなんですが、よろしいでしょうか?」
「それも、一つの作戦ですか?」
小林は冷やかな目で言った。
「どのようにお考えになっても結構です。とにかく、そうしていただかないと、困るんです。もし、お嫌なら、これ以上、お引き留めするつもりはありません。お引き取りになって結構です」
と言って、小林は口をつぐんだ。
克彦は何の反応も示さず、沈黙を守り続けた。そのまましばらく睨《にら》み合いが続き、
「まぁ、いいでしょう。父に不利なことなら、僕にとっても不利なことです。口外はしませんよ」
結局、克彦が折れた。
「恐れ入ります。では……」
小林は内ポケットから、茶封筒を取り出した。その中身は、丹羽静夫が刀剣協会に郵送した写真のカラーコピーである。小林はそれを克彦の前に差し出した。
「何です?」
克彦が尋ねた。
「丹羽家から発見された刀の写真です。正確には、刀の写真をコピーしたものです」
「ほう……」
克彦はそれを手に取って、しばらく眺めていたが、
「こんな物が、お仲間にも内緒にしなければならないほどの大事な秘密なんですか?」
と、相変わらず皮肉な口調で言った。
「はい。この写真によって、丹羽家の土蔵から発見された刀と、研ぎ上がった刀は、全くの別物であることが証明できるんです」
「別物?」
克彦は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、
「ということは、つまり、父が刀をすり替えたと?」
「そうです」
小林ははっきり答えた。
「様々な証言を整理してみると、お父さんの主張さえ否定すれば、筋道が立つんですよ、克彦さん。一連の矛盾は解消してしまうんです」
「…………」
「去年の十月、春陽堂に現れた人物が、丹羽さん本人で、この写真の刀を持参したとすれば、ですよ。今年二月、研ぎ上げられて丹羽さんに渡された刀とは、全くの別物、ということになるんです。おわかりですか?」
「なるほど。あなた方にとっては、父を詐欺師にした方が物事がわかりやすくなる、というわけですか……」
克彦は鼻先で笑った。だが、その目は笑ってはいない。
「物事がわかりやすくなる、というのは事実ですがね。私どもの都合だけで、お父さんが嘘《うそ》をついていると結論づけているわけではありません。お父さんの話には、他にも腑《ふ》に落ちない点が、二、三、あるんです」
小林はポケットから手帳を取り出した。
「十月十五日、春陽堂を訪れた人物が何者であれ、お父さんは、最初、その依頼を断った、とおっしゃいました。初対面だったので、気が進まなかったんだそうです。しかし、その一週間後、つまり、十月二十二日、再び、来店したため、断りづらくなって、受注したということでした。私どもも確かに、その時の預かり書を拝見しています。ところが、東京の日本刀剣協会の関係者の話では、十月十九日に丹羽さんに電話してみたところ、刀はすでに研ぎに出してしまった、という返答だったそうですよ。つまり、二十二日付の預かり書は偽造された疑いが濃厚なんです」
「…………」
「まだ、ありますよ。村正の刀には、必ずしも村正という銘が刻んであるとは限らない、ということは、刀剣界の常識であると伺いました。お父さんにお話を伺いましたが、丹羽さんには、そのことを説明した形跡がありません。それどころか、光村、という刀銘を理由に、村正ではない、と説得した節さえあるんです。腑に落ちないでしょう?」
「それは……、色眼鏡で見るから、そう思えるんですよ」
克彦は口を尖《とが》らせて、
「父は、丹羽さんに過大な期待を抱かせないために、敢《あ》えて、そう言ったんじゃないんですか? 村正なんかじゃないことは明らかだったんですから」
「いやいや」
小林は首を左右に振った。
「この写真の錆刀《さびがたな》は、十中八、九、という高い確率で、村正に間違いないんです。そう鑑定した有名な刀剣研究家がいるんです。十中八、九ですよ、克彦さん。残りの一、二については、すり替えられたという事実によって、十分、充当されていると、私たちは考えています。おそらく裁判所も、そう判断すると思いますよ」
小林が半日かけて練り上げた論理の前に、克彦は沈黙した。唇を噛《か》み、眉間に皺を寄せて、コピーを睨《にら》んでいた。
「日本刀剣協会の佐伯顧問が、刀剣の収集と研究を始めたのは、戦後間もなくのことだったそうです」
小林は続けた。
「当時は、数々の日本刀が粗末に扱われ、海外に流出して行ったそうですよ。かけがえのない数多くの日本刀が、異国の空の下で、ケーキを切るナイフ代わりにされたり、やがて飽きられると、キャンプ用のナタ代わりにされているという話を聞いて、日本刀の保護を思い立ったんだそうです。佐伯氏のような方がいたからこそ、伝統的な文化は辛うじて生き残ることができたんでしょうな。半世紀近くも、必死になって日本刀を守ってきた、その佐伯氏が、この写真を見て、村正らしい、と鑑定したんです」
「…………」
「それとも、佐伯氏の鑑定では、不十分ですか?」
小林は克彦の顔を覗《のぞ》き込むようにして尋ねた。
長い沈黙の後、
「なるほど……」
と、克彦が口を開いた。
「これでも、刀屋のせがれですからね。佐伯先生のことは存じています。異論を挟むなんて、そんな身の程知らずじゃありませんよ。佐伯先生のご鑑定とあれば、もちろん、この刀が村正らしいということは認めましょう。しかし……、先程、刑事さんは、確か、『去年の十月、丹羽さんが、この写真の錆刀を店に持参したら』と、おっしゃいましたよね」
「はい。申しました」
と、小林。
「では……、もし、丹羽さんが、この写真の錆刀を店に持参していなかったとしたら、どうなるんでしょうか?」
「持参していなかった、としたら?」
「そうです。もっとわかりやすく言うと、この写真に写っている錆刀が、当店に持ち込まれた、という確かな証拠はあるんでしょうか?」
「…………」
思いがけない反論に、小林の言葉が途切れた。
松本も心の中で驚きの声を上げていた。
もし、写真の刀が、丹羽家の土蔵から発見された刀とは別のもの、という前提があれば、小林の主張は根本から崩れてしまう。克彦は針の穴のような、僅《わず》かな隙《すき》をついてきたのだ。
たった一言で、立場は逆転していた。その証拠に、小林は顔色を失っている。今や、余裕のかけらさえもなかった。頬《ほお》をこわばらせ、ただコピーに見入っているだけだった。
一方、克彦の顔には、微《かす》かな笑みが浮かんでいた。
「やはり、僕は父の肩を持ちますね。父に、もし落ち度があったとすれば、このような怪しげな刀を不用意に預かったことです。せめて、窓開け≠ュらいはしておくべきだったと思いますよ。窓開け≠フことをご存知ですか?」
「いや……」
小林は硬い表情のまま首を横に振った。
「刀身の一部を研ぐことです。このような白雲状の錆の場合、試しにほんの一部分だけ研いでみて、刃文や肌[#「肌」に傍点]の状態を確かめる作業を窓開け≠ニいうんです。父は研ぎの心得はありませんが、隣町に一心堂という研ぎ屋さんがいることはいます。そこへ同道すべきだったと思いますよ。でも、それは、今だから言えることです。結果論というものですよ。お客様が見えるたびにそんなことをしていたら、商売にはなりません」
「…………」
「丹羽さんという方がどういう方なのか、僕は知りません。会ったこともありませんからね。だから、あまり軽々しいことは言いたくはありませんが、丹羽さんは計算ずくで、村正らしい形をした錆刀の写真を、佐伯先生にお見せしたんじゃないんですか? 写真の刀は研いでみるわけにはいきませんからね。それに、正式な鑑定じゃない。おそらく佐伯先生も、軽いお気持ちで、村正らしい、とおっしゃったんでしょう。でも、それこそが、丹羽さんの思う壺《つぼ》だったんですよ。今度は、写真とは異なる別な刀を、父のところへ預けるわけです。村正らしいという刀は、一旦、持ち主を離れたということで、すり替えられたことになってしまう。そういう考え方はできませんか?」
「…………」
「それから、これは余計なことかも知れませんが、今後のために、申し上げておきます。父が亡くなったから言うわけじゃありませんが、実は、父は半年くらい前から、まだらボケの症状が出るようになりましてね。ひょっとしたら、その他にも、父は矛盾することを申し上げているかも知れません。でも、それは、おそらく病気のせいだと思いますので、どうか、ご了承下さい」
克彦は慇懃《いんぎん》無礼に一礼した。
「し、しかし……」
小林が何かを言いかけて、すぐ口をつぐんだ。
「ひょっとして、十月十九日に、『刀は研ぎに出してしまった』という丹羽さんの発言ですか?」
「ええ、まぁ……」
「それは単に、丹羽さんが刀剣協会の方に、そう言った、というだけの話でしょう? それが事実という裏付けは、どこにもない。それに対して、当店には、十月二十二日付の、ちゃんとした預かり書があるんです。僕は物的証拠のある方を信じますね。おそらく裁判所も、そう判断すると思いますよ」
克彦は自信に満ちていた。見事な反論だ、と松本は思った。と同時に、砂を噛むような敗北感が込み上げてきた。
「丹羽さんは……刀剣には素人のはずです。とても、それほどのことを……」
小林が力なくつぶやいた。おそらく、白井や井上、そして佐伯の供述を主張したかったのだろう。
だが、そんな主張は無意味なことだった。克彦は単に、警察側の論理を逆手に取ったにすぎなかったからだ。
「素人を装っていたんですよ、刑事さん。全てが計算ずくだったんです。刑事さんたちほどの専門家が騙《だま》されるくらいですからね。お人好《ひとよ》しの父なんか、一溜《ひとたま》りもなかったでしょうよ」
克彦は勝ち誇ったように高笑いした。
松本の目の前には、奇妙な光景が展開されていた。参考人の克彦が胸を張り、取調官の小林はうなだれ、まるで自白寸前の容疑者のようだった。
「もう、よろしいでしょうか?」
克彦は勝ち誇った笑みを浮かべて、小林の顔を覗き込み、そして、松本を見上げた。
「ええ、まぁ……」
小林はうつむいたまま、生返事した。
「ご期待に添えなくて残念です」
克彦はゆっくりと立ち上がり、二人に対して、再び、慇懃無礼な礼をしてから、ドアに向かった。
「あ、あの……、ブラックリストは?」
小林が言った。無理な作り笑いまで浮かべている。小林らしくない卑屈な態度だった。
「ブラックリストが、どうかしましたか?」
克彦が振り向いた。薄笑いは消えていた。
「お貸し願えないでしょうか?」
「ほう……。一体、何のためにです?」
「もちろん、今後の捜査のためにです」
「捜査? 無実の父を、犯人にでっち上げる捜査のためにですか?」
「でっち上げ?」
小林が一瞬、気色《けしき》ばんだが、すぐに、
「そんなつもりはありませんよ……」
と、伏し目がちに言った。克彦は鼻先で笑ってから、
「せっかくですが、お断りします。もう懲りましたよ。当方ばかりを狙《ねら》い撃ちにせず、もっと広い視野に立って捜査されたらいかがです? もう一度、最初からやり直すんですね。昔から深井市辺りには、妙な連中が多いと聞いていますよ。落選した候補者が、当選した対立候補者を轢《ひ》き殺そうとしたり、客の入らないパチンコ屋の経営者が、ライバル店に火をつけたり……。ひょっとしたら、今度の事件も、案外、丹羽さんの碁敵あたりの逆恨みかも知れませんよ」
と、からかうような口調で言った。そして、ドアを半分開けた時、急に思い出したように、
「そうそう、碁で思い出しましたがね。碁石の置き方にも、村正の妖刀《ようとう》、というのがあるそうですよ。ご存知でしたか?」
克彦は得意げに言った。
その瞬間、小林が椅子《いす》から勢いよく立ち上がった。目を大きく見開いている。
松本は、小林が怒りを爆発させるのではないか、と思い、身構えた。だが、拳《こぶし》は開いたままだった。やがて、その目は松本に向けられた。
「まるで、鳩が豆鉄砲を食ったようなご面相ですな」
捨て台詞《ぜりふ》を残して、克彦はドアのノブに手をかけた。その時、
「待てっ、まだ、終わっちゃいないっ」
小林が怒鳴った。
「何だと?」
克彦が険しい目で振り返った。
「ここに、もう一度、座れっ」
小林は右手で机を叩《たた》いた。
「ほう……、今度は脅しですか? 残念ながら、そんなコケ威《おど》しは、僕には通じない。これ以上、引き留めるというのなら」
「ぐだぐだ言わずに、さっさと座れっ、このイカサマ野郎っ」
耳をつんざくような大声だった。その声で克彦の顔に畏怖《いふ》の色が浮かんだ。
「おいっ」
小林は顎《あご》をしゃくって、
「なぜ、碁敵だと思うんだ? 丹羽静夫と会ったこともないお前さんが、なぜ、当人の道楽を知っている?」
「それは……」
克彦の視線が宙を泳いだ。
「親父《おやじ》から聞いたとは言わせないぞ。碁好きの知り合いから聞いたとも言わせない。丹羽静夫は元々、碁の道楽なんて持ち合わせていなかったんだからな」
と、まくし立ててから、小林は横目で松本を見た。その目を見て、松本は竹島家を訪れた時のことを思い出した。
――碁や将棋の類《たぐ》いは博打《ばくち》と同じ。親の死に目にあえない、といって毛嫌いされ、おかげで、私も兄貴も無趣味な人間になり下がってしまった……。
丹羽静夫の弟、竹島は、そんな風なことを言っていた。つまり、小林の言う通り、丹羽静夫に碁の趣味はなかった。
克彦は何かを言おうとして、口を動かしかけていたが、言葉は出てこなかった。逆に小林は、やっと掴《つか》んだ尻尾《しつぽ》を離してなるものかと、手繰り寄せ、揺さぶり始めた。
「お前さんは例の写真を見たんだろう? 親父が掻《か》っ払ってきた村正の写真を見たんだ。その写真の入った袋の中には、ネガも入っている。親父は当然、それをプリントしたはずだ。他にどんなものが写っているか気になるからな。それで、碁会所の開所式の写真もプリントされることになったわけだ。お前さんは、あの写真を撮ったのは丹羽静夫本人だろう、と勝手に思い込んでいた。だから、碁の道楽を漠然とイメージしていたんだ。だが、あれは娘が撮った写真だったんだよ。友達の亭主が碁打ちだったというだけのことだ」
「…………」
克彦は一歩も動かず、その場に立ち尽くしていた。顔面は青ざめ、額には脂汗が光っていた。小林は克彦の側に行き、その真正面に回り込むと、
「ズブの素人が、殺人事件の犯人を、殺し屋とか、商売敵とか、女房の浮気相手と考えるのならわかる。だが、なぜ、碁敵なんて突拍子もない相手を思いついたんだ? その理由を言ってみろ!」
と怒鳴って、ほぼ十センチ前から克彦の顔を睨《にら》みつけた。克彦は初めのうちは、小林の視線を避けるようにしていたが、やがて、そのこわばった顔が次第に歪《ゆが》んで行った。
二十
「あの刀は、村正だったんだろう?」
小林が尋ねたが、克彦は押し黙ったままだった。
取調室の椅子に、再び腰を下ろした克彦は、その頭を両手で抱え込んだまま、十分近く動かなかった。
「気持ちはわかる。父親をかばうのは、子として当然のことだ。私が君の立場だったら、やはり、同じことをしたかも知れん」
小林はため息をついて、
「だが、君は警察の力を過小評価しすぎているよ。私が言うのも変な話だが、警察をあまり見くびらない方がいい。君は新聞の隅々まで目を通し、今度の事件についての情報を収集、分析して、対策を考えていたんだろうが、新聞に出る情報なんて、警察が把握している事実の三分の一にも満たないし、おそらく、新聞記者の把握した事実の半分にも満たないだろう。なぜか、わかる?」
「…………」
「最近の警察は法廷審理まで意識しているからだよ。立件送致もできないのに、ペラペラしゃべれば、名誉|毀損《きそん》ということになる。その点はマスコミも同じだ。報道した内容が、曇り一つない真実だとしても、公益性がないと判断されれば、名誉毀損罪は堂々と成立するんだ。つまり、真実を明らかにしても、罰せられるわけだ。従って、特ダネを掴んでも、記事にできないことはある。新聞記事を真に受けるのは、一向に構わんが、それが全てではないんだ」
「…………」
「例えば、今度の事件でも、我々は、お父さんが殺されたとは、毛頭考えていない。君たち家族の期待には反するだろうが、不幸な被害者とは見ていないんだ」
小林の言葉に、克彦の体がピクリと反応した。それは明らかに、何らかの事実を認識しているという証拠だった。
小林は両|肘《ひじ》を机について手を組み、その上に顎をのせて、
「なぁ……、克彦君よ。俺たちが勘づいている以上、もう、どうにもならないぜ。先は見えてる。つまらない意地の張り合いは、そろそろ幕にしようじゃないか」
と、諭すように言った。その一言で、克彦は顔を上げた。
「わかりました……。そこまでご存知なら、これ以上、隠し立てしても意味がありません。正直に申し上げます」
と言って、深々と頭を下げた。小林は組んでいた両手を外し、静かにうなずいた。
やった! 遂に、勝った!
その瞬間、松本は飛び上がりたい衝動にかられた。外に出て、万歳し、勝利の雄叫《おたけ》びを上げたかった。
だが、小林の表情に変化はない。冷静な眼差《まなざ》しで、じっと克彦を見つめていた。それを見て、松本は我に返った。そして、拳《こぶし》を握り締め、高ぶる気持ちを抑えつけた。
「ところで……、君は、どの程度、関与しているんだ?」
小林が淡々とした口調で尋ねた。
「父に言われて、窓開け≠しました。最初、断ったんですけど、父は、言った通りにしろっ、と、物凄《ものすご》い剣幕で怒り出しましてね。仕方なく、物置の奥から道具を出して、恐る恐る研いだんです。元々、腕が悪い上に、久しぶりだったもんですから、手を切ってしまいましたよ」
と言って、机の上で両手を開いた。その手のひらには、まだ傷の痕《あと》が残っていた。
「でも、不思議なことに、痛みというものを感じませんでした。砥石《といし》が血に染まっているのを見て、初めて怪我《けが》をしていることに気づいたんです。名刀は切れても痛みは感じない、と話には聞いていましたけどね。本当でした。あんなに錆《さ》びていたのに、恐ろしいくらい切れる刀です……」
と、空《うつ》ろな目でつぶやいた。
「窓開け≠した後、どうした?」
小林が供述を促すと、克彦は両手を膝《ひざ》の上に戻して、
「刃文が見えてくると、父は、もういい、と言って、刀を自分の部屋に持って行ってしまいました。それ以後、僕は見てません」
「その後の、親父さんの行動は?」
「父は店にあった無銘刀の中から、丹羽さんの刀に似たものを選んで、長さを合わせたんです。それを見て、僕は、父が何をしようとしているのか、すぐわかりました。信じていただけないかも知れませんが、僕は止めようとしたんです。研ぎ師の修業を途中で放り出した僕が言うのは筋違いかも知れませんが、そんなことをしたら、今まで苦労して築き上げた信用を失い、結局は、店を畳むことになる、と……」
克彦は再び、うつむいた。
「でも、聞く耳を持たなかったんだな?」
「はい。父はまるで人が変わってしまいました。あんな父を見たのは初めてです。夜中に急に起き出して、一晩中、店の真ん中に、じっと座っていたり、シャッターの下から、表の様子を覗《のぞ》いてみたり、かと思うと、雨戸を閉め切った部屋に一日中、閉じこもって、食事もせずに正座しているんです。僕はともかく、女房が気味悪がって……」
「村正はどうした? 今、どこにある?」
小林の目がキラリと光った。
「情けない話ですが、父は息子の僕でさえ、信用していなかったんです。父の死後、心当たりに尋ねてみたんですが、今のところ、まだはっきりしません。でも、間違いなく、岐阜か京都の方に研ぎに出していると思います」
「岐阜か京都?」
「はい。父の親友の研ぎ師が店を構えているんです。高価な刀は、いつもそちらへ任せていました」
「なるほど。後で、その店のことを教えてくれ」
「はい……」
「ところで、すり替え用の日本刀の白鞘《しらさや》は、どこで作らせたんだ?」
「たぶん、一心堂さんだと思います。白鞘の製作も手がけていますから」
「ついでに、光村の銘も刻ませたというわけか?」
「いえ……」
克彦は生唾《なまつば》をのみ込んでから、
「銘は父が自分で刻んだようです。直接、見たわけではありませんが、タガネとガンブルが、倉庫の隅に隠してありました」
「ガンブル?」
「錆の色を出す薬品です。それを使うと、自然な錆の色が出るんで、玄人にも見分けはつきません……」
と言って、克彦はため息をついた。
「わかった。じゃ……、話を元に戻そう。君は、三月七日に親父さんが店にいた、と言ったが、訂正するね?」
「はい。実は、父は一泊二日の史跡巡りのツアーに参加すると言って、六日の朝早く、家を出ました。父は昔から、扇会、という地方史の趣味の会に入っているんです。そのツアーだと言うので、安心していましたが、帰宅予定の七日の昼過ぎになっても帰って来なかったんです。夕方、心配になって、扇会の関係者の方のご自宅に電話してみると、ご本人が電話口に出られて、そんなツアーはない、とおっしゃるんです。驚いて、あちこち心当たりに尋ねてみましたが、どなたもご存知ではありませんでした。困り果てて、警察にご相談しようかと迷っていると、父から電話があったんです」
「……どこから?」
「わかりません。父は、『少し遅くなるが、心配するな。警察に捜索願なんか出したら、承知せんぞ』と言って、すぐに電話を切ってしまったんです」
「周りの音は聞こえなかったか?」
小林は身を乗り出していた。
「いえ」
「電話が遠いとか、近いとか、屋内、屋外……。とにかく、何でもいい。気づいたことはないかい?」
「何か、こもったような……声でした」
「こもったような?」
「はい。ハンカチで押さえたような……。でも、雑音が入っていましたし、はっきりわかりません」
「雑音?」
「電話の雑音です」
「…………」
小林は、しばらくの間、眉間《みけん》に皺《しわ》をよせていたが、
「まぁ、それも後にしよう……。親父《おやじ》さんは、結局、いつごろ帰ったんだ?」
「翌日です。八日の明け方に帰宅しました」
「どんな様子だった?」
「土気色の顔をして、ひどく疲れた様子で帰ってきました。僕たち夫婦は一睡もしないで待っていたんです。事情を聞こうとしたんですが、帰ってくるなり、玄関に倒れ込んでしまい、話どころじゃありませんでした。女房が、救急車を呼ぼうとすると、父は突然、顔を上げて、『そんなものを呼んだら、この家から追い出すぞ』と睨《にら》みつけるんです。仕方なく、部屋に担ぎ込んだんですが、父は、その後、三日ほど寝込んでいました」
「帰ってきた時、何か、気づいたことはなかったか?、靴の汚れ具合、着衣に付着していたもの、臭い……」
「あの……、濡《ぬ》れていました……」
克彦は消え入りそうな声で言った。
「濡れていた? どこが?」
「全部です。史跡巡りには、いつも、ハイキングの格好をして出かけるんですが、帽子から靴まで、洗濯機の脱水機から取り出したみたいに、ぐっしょり濡れていました。最初、汗かと思ったんですが、汗らしい臭いがしないんです。これも、女房が脱がせようとしたんですが、父は触らせませんでした」
「…………」
小林が沈黙した。松本の脳裏が閃《ひらめ》いたのは、その数秒後のことである。
「ハイカーだ。フクロウ男が見た、あのハイカーが」
そこまで言いかけた時、小林が素早く片手を上げて、松本の言葉を封じた。そして、
「写真のことについて、聞かせてくれ。まだ、手元にあるね?」
小林は次の質問にかかった。
「いえ、ありません」
「…………」
「本当です。僕が村正の写真を見たのは、満期になった預金証書を探そうと、金庫の中を調べている時に、偶然、目にしたんです。父の初七日がすぎ、金庫の中を整理した時には、見当たりませんでした。お疑いなら、家捜しをして下さい。いまさら、嘘《うそ》をついても仕方がありませんよ」
と言って、克彦は肩を落とした。
「そうか……。よし、信用しよう。どうせ、今となっては、あってもなくても、大した変わりはない」
小林は手早く、机の上の物を片づけると、
「今の話を調書にするけど、いいね?」
と言いながら、足元のバッグに手を伸ばした。
二十一
小林が参考人供述調書を作成している間、松本は山岡署の外に出て、公衆電話を探した。
中間連絡の際は署外の電話を使用のこと、というのが石川の指示だったからだ。おそらく、山岡署員を刺激しないための配慮だったのだろうが、わずか数分後に、それは現実のものとなってしまう。
石川に結果を報告すると、受話器を通して、捜査本部に拍手と歓声が上がるのが聞こえた。よくやった、という石川の声も上擦っている。
松本自身は何もしていないので、気恥ずかしいような、誇らしいような、奇妙な気分だった。
報告をすませて、再び、山岡署の刑事部屋に戻り、取調室のドアを横目で見ながら、煙草《たばこ》に火をつけた。ゴールは目の前だった。村正も、遠からず発見されるはずだ。それを思うと、松本の頬《ほお》は自然に緩んだ。
「ずいぶん、頑張っていますな」
耳に鉛筆を挟んだ藤井が、盆の上にコーヒーを四つ並べて、摺《す》り足で運んで来た。
「もう少しで、終了しますから」
松本は差し障りのない答を返した。金鉱脈を探し当てても、然《しか》るべき手続きを済ませなければ、権利は得られない。
「それは、ちょうどよかった。そろそろ飯でしょう? 少し遠いですが、いい店を知ってるんです。ご案内しますよ」
藤井は満面に笑みを浮かべて、コーヒーカップを一つ差し出した。
「外出は無理だと思います。日を改めて、こちらでご招待しますよ」
松本は笑顔を取り繕って、盆の方に手を伸ばした。だが、
「まぁまぁ、そう固いことを言わないで。お宅たちばかりに散財はさせられませんよ。水谷さんに何と言われることやら……」
藤井は盆を手にしたまま、取調室の方へ歩き出した。
「お待ち下さい」
松本は慌てて呼び止めた。
「今、調書を作成中なんです。恐れ入りますが、それが終わるまで、ご遠慮下さい」
「……調書?」
藤井の顔から笑みが消えた。
松本が事情を説明しようとすると、廊下の方から、荒々しい靴音が聞こえた。複数の靴音は次第に近づいて来て、やがて、険しい表情の男が二人、入口のところに現れた。
「深井署の連中はどこだ!」
そのうちの一人が怒鳴った。赤ら顔をした、いかにも鬼刑事という風貌《ふうぼう》をしている。その声で、刑事部屋にいた記録係と電話番が顔を上げ、すぐに松本の方を向いた。
「私ですが……」
松本は一歩前に進み出た。赤ら顔の男はジロリと松本を見て、
「一体、どういうつもりなんだっ。コロシのヤマを追っているのは、そっちだけじゃないんだぞ!」
窓ガラスが割れるかと思うほどの大声だった。赤ら顔の男の後には、続々と、見知らぬ男たちが駆けつけて来ている。その全員が殺気立っていた。
理由は明らかだった。刑事部屋にいる誰かが、松本たちの取り調べの様子を、深井署の捜査本部に連絡しない限り、彼らの耳に入るはずがない。春陽堂事件に関しては、ほとんど言及していないのに、彼らが過剰な反応を示しているのは、立ち聞きと又聞き、そして、邪推のなせる業だ。
しかし、情報の伝わり方と、その分析の仕方はともかく、結果的に、彼らの判断は的外れではない。松本としては、居直る以外、道はなかった。
「私たちも、つい先ほど、供述を得たところで、実は驚いているんです。別に、こちらの捜査本部を、ないがしろにしているわけではありません」
苦しい弁明だった。案の定、
「何を言いやがるっ。最初から目星はつけていたそうじゃねぇか。余所《よそ》のシマを勝手に荒らしやがって……。そんなにまでして、点数を稼ぎてぇのかっ」
男は感情を剥《む》き出しにした。その時、取調室のドアが開いて、小林が怪訝《けげん》そうな顔で現れた。男は小林の方を振り向き、
「てめぇも、抜け駆けの片割れだなっ」
と、怒鳴ってから、
「とにかく、参考人はこっちで預かる。文句は言わせないからなっ」
男は取調室の方に歩き出した。
傍若無人なその態度を見て、松本の頭に血が上った。小走りに男の後を追い、その前に立ちはだかると、
「そういうてめぇこそ、どこの馬の骨だ!」
気がついた時には、自分でも信じられない言葉を発していた。怒りと焦りが言わせた言葉だった。そして、怒鳴り声を張り上げたことが、なお一層、松本を興奮させた。
「何だと!」
男が目を剥いた。
「どこの馬の骨だと聞いているんだ!」
一旦、迸《ほとばし》り出た感情は抑えきれなかった。もし、藤井が素早く、二人の間に割って入らなければ、どちらかが相手を殴り倒していたに違いない。男は松本たちによって、体面を汚されたと思い込んでいたし、松本は、大事な証人を渡してなるものか、と思っていた。
「うちの捜査係長です……」
藤井が松本の両腕を押さえつけたまま、押し殺すような声で言った。
「捜査係長? どうせ周りの連中の足を引っ張っている鼻摘《はなつま》み者だろう。黴《かび》の生えた能書きばかりを専売特許にしているトンチキだ。虎の巻がなきゃ、雄と雌の区別もつけられない単細胞のくせに、自分は犯罪者より利口だと自惚《うぬぼ》れていやがる。捕まえられる犯人が捕まえられないのは、てめぇみたいな、ヘボお巡りのせいだというのが、まだわからないのか!」
松本は思いつく限りの悪口雑言を並べたてた。そのほとんどが、トイレや酒の席で小耳に挟んだ刑事たちの愚痴や陰口である。
「貴様……」
捜査係長は赤ら顔を、更に紅潮させて身を乗り出した。だが、その血走った目の奥で、不安の色がよぎるのを、松本は見逃さなかった。興奮は急速に醒《さ》めて行き、今度は自己嫌悪が松本を襲った。
「二人とも、頭を冷やせ。いい大人がみっともないぞ」
人垣の後ろで、野太い声がした。全員が振り返ると、警部の階級章をつけた大柄な男が立っていた。
「お巡り同士が殴り合っても、喜ぶのは悪党どもだけだぞ……」
男は笑みをたたえながら、二人の側まで来ると、まず、小林の方を振り向き、
「いいから、君は仕事を続けたまえ」
と、声をかけてから、松本に正対した。
「刑事課長の佐々木だ。君たちのことは石川という警部さんから聞いたよ。とにかく、おめでとう、と言わせてもらう」
「どうも……」
松本は戸惑いながら頭を下げた。刑事課長は周囲を見回しながら、
「みんなは誤解しているぞ。深井署の捜査本部の方でも、寝耳に水、というご様子だ。これまで松本君たちは、孤立無援、独自の視点で捜査を展開して来たんだそうだ。第一、俺たちをないがしろにするつもりなら、山岡署の取調室なんかを使うはずがない。……だろう?」
と言って、松本を横目で見た。
「は、はい。私たちは村正という刀の線を追っているだけのことです」
松本は話を合わせた。刑事課長の真意は定かでなかったが、仲裁人まで敵に回すわけにはいかない。刑事課長は大きくうなずいてから、再び視線を部下たちに向けた。
「ということなんだ。あちらさんでも、今日の結果を期待していた捜査幹部は一人もいなかったらしい。松本君たちは僅《わず》かな手がかりを追って、地道な捜査を続けているだけのことなんだ。そんな二人を一方的に責めるのは、可哀相《かわいそう》だぞ」
刑事課長のとりなしで、険悪な空気は幾分、鳴りを潜めた。だが、捜査員たちの怒りが収まったわけではない。
「とは言うものの、ここの連中の気持ちも痛いほどわかる。一つ、事の次第を説明してくれないか? 頼むよ」
刑事課長は松本の肩を叩《たた》いてから、傍らの椅子《いす》を引き寄せて、腰を下ろした。それを見て、松本を取り囲んでいた男たちも、身近の椅子に腰を下ろして行った。
刑事部屋に、松本を中心とした男たちの輪ができた。赤ら顔の捜査係長だけは、遠く離れた窓際の席に座り、書類に目を通し始めたが、耳だけは松本の方に向いている。
松本は、着任第一日目のことから話し始めた。話を長引かせたのは、調書作成中の小林のために、できるだけ多くの時間を稼ぎ出したかったからである。
煙のように現れ、煙のように消えた犯人。隠し戸棚から発見した日本刀。春陽堂を訪れた第三の男≠ニ丹羽静夫との関係。村正の伝説と逸話。そして、その刀銘にかかわる由来。日本刀の計測上の盲点……。
話を進めていくうちに、捜査員たちの表情は、次第に和らいで行った。やがて、うなずいたり、相槌《あいづち》を打つようになり、中には、含み笑いをする者も現れた。
だが、終始、硬い表情を崩さない捜査員が二人だけいた。一人は、集団を離れた赤ら顔の捜査係長。そして、もう一人は、松本の真横に座っていた藤井だった。
「あの……、水を差すようで、言いにくいんだが……」
その藤井が、沈鬱《ちんうつ》な表情で言った。
「お二人は勘違いをされていますよ。肝心な点を見落としています」
それまで、松本に注がれていた視線が、一斉に藤井に移った。
「クロの捜査ではなく、シロの捜査。つまり、三月七日の平本栄治のアリバイを確かめましたか?」
藤井が言った。それは質問ではなく、確認だった。
「いいえ。まだ、とてもそこまでは……。裏付けについては、これから捜査本部に戻って上司と検討しようと考えています」
「その捜査を省いて差し上げますよ」
「……省く?」
「殺された丹羽夫婦の死亡推定時刻は、確か……」
「午後二時です」
松本はすかさず答えた。
「三月七日に間違いありませんね?」
「は、はい……」
「日曜日で、午後に雪が降りましたよね?」
藤井はしつこく念を押してきた。
漠然とした不安が松本の脳裏をかすめた。赤ら顔の捜査係長も、今は真剣な眼差《まなざ》しを藤井に向けている。
「三月七日に間違いなければ、平本栄治は、少なくとも実行犯ではありません。午後二時には、窪川《くぼかわ》市の市民体育館にいました」
「窪川市?」
と言って、松本は生唾《なまつば》をのんだ。手足が小刻みに震え出していた。
「犯行現場の深井市からは、おそらく百キロは離れているでしょう。その日、窪川市の市民体育館では、恒例の武道まつりが開催されています。私の長男が、少年剣道の部に出場することになっていましたので、出かけたんですが、一階のフロアで、私は平本栄治と話をしていますよ。彼は日本刀の展示コーナーを一人で受け持っていました」
「…………」
「幸い、長男のチームは午後の決勝まで勝ち進みましたが、昼休みの間、平本は食事もしないで、客の相手をしていました。午後一時すぎに、私がトイレに行こうとすると、平本が食券片手にうろうろしているんで、声をかけたら、弁当がない、ということでした。それで、チームに残っていた弁当を渡したんですが、大喜びして、残り弁当を二つも平らげましたよ。それが、午後一時半ころのことです。その後、体育館の事務所から、マイクロバスのことで呼び出されたのが、午後二時すぎ、正確には、十五分ころでしょうか……。その時も平本は展示コーナーにいました。結構、見物客が多かったですからね。途中で抜け出すことは不可能でしょう」
「…………」
松本は言葉を失った。
それみろっ、と、吐き捨てるような声が、静まり返った刑事部屋に響き渡った。
しかし、松本と小林のミス≠非難しようとしたのは、おそらく、その赤ら顔の捜査係長だけだったに違いない。
もし、三月七日の事件当日、殺人犯人と目された春陽堂の店主、平本栄治が窪川市の市民体育館にいたとすれば、そこから百キロも離れた深井市の丹羽家で、夫婦二名を殺害した犯人は一体、誰なのか?
しかも、実の息子、克彦は、父親は史跡巡りと称して外出している、などと、まことしやかな虚偽を申し立て、暗に父親が殺人犯であるがごとき証言をしているのだ……。
松本の周りにいた捜査員たちは、いつしか全員が、取調室の方を見つめていた。
取調室からは、読経のような声が聞こえていた。調書を取り終えた小林が、その内容を克彦に読み聞かせている声だった。松本を含む全員が、険しい表情で、その声に耳を傾けた。
「間違いないね?」
調書を読み終えた小林が念を押した。
「はい。間違いございません」
克彦は神妙な声で答えている。
「じゃ、ここのところへ、署名して」
二人のやりとりがドア越しに聞こえ、やがて、すりガラスの影が揺れ、ドアが開いた。
「どなたか印肉を……」
と言いながら、小林が姿を現し、そして、ギョッとして、立ちすくんだ。自分の方を見つめている何十という目と、しばらく向かいあっていた小林は、やがて、その視線の先に気づいたかのように、ゆっくりと後ろを振り返った。その気配は、取調室の中にも伝わったのだろう。それまで、ドアの陰に隠れていた克彦の姿が徐々に迫《せ》り出してきて、やがて、松本とも目が合った。
その皮肉な口調さえ耳にしなければ、実直そうな、そして、虫も殺さないような顔に見える。単に、目鼻だちが整っているというだけではなく、品の良ささえも感じさせた。だが、この先、何百人という凶悪犯に出会うことはあっても、おそらく、これほど罪深い男に出会うことはないだろう……。
松本はそう思った。
二十二
捜査報告書
――――――――――――――――――――――――――――
平成十一年四月二十二日
[#地付き]捜査第一課
[#地付き]警部 石川敏夫 印
捜査第一課長殿
自白状況報告書
本籍 山岡市中町二丁目一番二号
住居 右 同
無職(元会社員) 平 本 克 彦
[#地付き]昭和四十四年八月一日生(二九歳)
右の者、参考人として、平成十一年四月二十日山岡署において事情聴取中、次の通り強盗殺人事件を犯したことを自白した。その自白に至った状況は、次の通りであるから報告する。
記
一 自白による強盗殺人事件の概要
被疑者は平成十一年三月七日午後二時ころ、
深井市青葉台一丁目十一番七号
不動産業 丹羽静夫(五七歳)
[#1字下げ]方に侵入、窃盗行為中を、帰宅した同人に発見され、その罪跡を湮滅するために同人及び、同人の妻、春子(五四歳)を、あらかじめ準備していた登山ナイフを以て、殺害したものである。
二 自白の状況
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(一)被疑者は当初、単なる参考人として、事情聴取を受けていたものであるが、その供述内容に不明な点があり、追及したところ、
[#ここで字下げ終わり]
被疑者の実父
平 本 栄 治
[#1字下げ] が、殺人犯人であるが如き供述をするに至った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(二)右供述に基づき、深井署 小林巡査部長は山岡署において、参考人供述調書作成にかかり、また、捜査第一課 松本警部補は、山岡署の捜査本部関係者の強い要望もあって、供述内容を説明した。
[#ここで字下げ終わり]
その際、
山岡署刑事課 藤井健一巡査部長
の記憶により、
[#2字下げ] 事件当日における平本栄治のアリバイが成立、被疑者の供述内容の矛盾点が明らかになった。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(三)被疑者に対し、右事実を指摘し、追及したところ、申し開きすることができず、全面的に自白したものである。
[#ここで字下げ終わり]
三 措置
[#1字下げ]被疑者を直ちに、深井署特別捜査本部に移送し、所要の手続きを取った。
四 備考
[#1字下げ]自白内容の詳細については、深井署移送後に松本警部補が作成した別添、被疑者供述調書の通りである。
[#改ページ]
供述調書
――――――――――――――――――――――――――――
被疑者供述調書
本籍 山岡市中町二丁目一番二号
住居 右 同
職業 無職(元 内装会社総務課勤務)
氏名 平 本 克 彦
[#地付き]昭和四十四年八月一日生(二九歳)
右の者に対する強盗殺人被疑事件につき、平成十一年四月二十日、本県深井警察署において、本職はあらかじめ、自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 私は平成十一年三月七日午後二時ころ、深井市青葉台一丁目にある丹羽さん方において、丹羽静夫さんと、奥さんを殺しました。そのことについて申し上げます。
二 (一)昨年(平成十年)の十月十八日は日曜日で、店は定休日でした。刀屋という商売は特定少数のお客様相手ですので、一般の買物客の多い日曜祭日が、必ずしも商売になるとは限りません。休日の客は、ほとんどがひやかしだからです。逆に、休日は刀剣にかかわる催しが各地で行われますので、むしろ、その会場に出店した方が、新しいお客様を獲得しやすいのです。
[#ここから1字下げ]
その日(十月十八日)も、父は朝から、催し物会場に出かけておりました。
私も当時勤めていた会社が休日でしたので、午前十一時ころから店の前で、自分の車を洗っておりました。正午少し前、洗車を終え、後片付けをしていると、六十歳くらいの男の人が店の前に車を乗りつけたのです。それが、丹羽静夫さんでした。
丹羽さんは店のシャッターが閉まっているのを見て、
[#ここから5字下げ]
定休日とは知らなかった。人づてに、お宅の店の評判を聞き、わざわざ深井市からやって来たのだが、特別に刀を見てもらえないだろうか
[#ここから1字下げ]
と、風呂敷包みを差し出したのです。
話の様子では、研ぎと白鞘《しらさや》の製作ということでしたので、後で父に引き継げばよいだろうと考え、丹羽さんを店の中にご案内しました。
丹羽さんが持参したのは、
[#ここから5字下げ]
刀 一振り
脇差《わきざし》 一振り
短刀 一振り
[#ここから1字下げ]
でした。いずれも、白雲状の錆《さび》に覆われていて、三振りとも、
[#ここから5字下げ]
光 村
[#ここから1字下げ]
という刀銘でした。
早速、預かり書を書こうとすると、丹羽さんは、その時になって、
[#ここから5字下げ]
村正だと思うが、どうだろうか?
[#ここから1字下げ]
と言い出したのです。私は光村という刀銘を理由に一笑に付したのですが、丹羽さんは、丹羽家の家柄や言い伝えを持ち出し、納得しようとはしませんでした。
その口振りで、丹羽さんに刀剣知識がないことがわかったので、私は、
[#ここから5字下げ]
村正かどうかは、研いでみればわかるが、当店としては、そんな大事な刀を預かるわけにはいかない
[#ここから1字下げ]
と言って、日本刀を返そうとしました。素人相手の取り引きは、後々、トラブルに発展することが多く、父は一切、取り扱わないようにしていたからです。
ところが、その一言で、丹羽さんの態度は変わり、拝むようにして日本刀を押しつけてきました。私はかなり強い口調でお断りしたのですが、丹羽さんは一向に店から出ようとはせず、結局、根負けするような形で、日本刀を預かることになったのです。
その際、預かり書とともに、父の名刺も渡しております。
[#ここから1字下げ]
(二)丹羽さんが帰った後、私は近くの公園に出かけ、ゴルフクラブの素振りをしていましたが、不思議に、日本刀のことが気になって仕方がありませんでした。丹羽さんの話を思い浮かべているうちに、刀身、特に中心《なかご》の形と刀銘などから、村正の可能性もある、と気づきました。
日本刀のことが頭から離れなくなり、私は「窓開け」だけでもしてみよう、という気持ちになりました。「窓開け」とは、錆びた刀身の一部分だけを、試しに研いでみて、刃文や地肌の状態を調べる作業のことです。
自宅に戻り、倉庫の奥から修業時代に使った道具を取り出して、早速、その作業にかかりました。すると、
[#ここから5字下げ]
「箱乱れ」という村正独特の刃文
[#ここから1字下げ]
が現れてきたのです。
私は驚いて、刀剣銘鑑や専門書で調べてみました。その結果、村正であることを確信したのです。すぐに丹羽さんに連絡しようと思いました。しかし、三振りの村正を見ているうちに、別の考えが浮かんできたのです。それは、
[#ここから5字下げ]
丹羽さんの村正を、他の日本刀にすり替えてしまう
[#ここから1字下げ]
ことでした。私はこの邪《よこしま》な考えを、何度も振り払おうとしたのですが、村正を見るたびに、邪心がぶり返し、欲望を抑えることができませんでした。
(三)翌日、私は会社を休み、すり替え用の日本刀を求めて、東京へ向かいました。県内の刀屋を回らなかった理由は、業者に顔を知られていたからです。
東京で四、五軒の刀屋を訪れ、村正と同じ長さの無銘刀を探し、現金で購入しました。
二尺五寸の刀については、
[#ここから5字下げ]
池袋の、刀剣福永、という店
[#ここから1字下げ]
で入手しました。
丹羽さんの日本刀に比べ、少し反りが大きいような気がしましたが、それは私だからわかることで、素人の丹羽さんにはわかるはずがない、と、その時は思ったのです。
脇差は、
[#ここから5字下げ]
中野の、常石刀剣店、という店
[#ここから1字下げ]
短刀は、
[#ここから5字下げ]
目黒の、相州屋、という店
[#ここから1字下げ]
で、それぞれ入手しました。
すり替え用の日本刀を入手してからは簡単でした。元々、研ぎ上げてある日本刀でしたし、私は長さを調節した後、中心《なかご》の形を、ダイヤヤスリを使って、丹羽さんの日本刀と同じ形に仕上げ、更に、タガネで、光村、という銘を刻みました。そして、修業時代に知り合った鞘師に白鞘の製作を依頼したのです。
只今、刑事さんの方から、その鞘師について、何度もお尋ねを受けましたが、私は口が裂けても、その鞘師の氏名や住所については申し上げるつもりはありません。その鞘師には、修業時代、数々の恩を受けていますし、今回の事件とは全く無関係だからです。事情を知らずに、私の注文に応じただけであり、名前を明らかにすれば、今後の商売に悪影響を及ぼすおそれがありますので、ご容赦下さい。
(四)ほぼ一ト月後、白鞘は完成しましたが、私は、父が趣味の会の旅行に出かけるまで待ちました。注文通りに仕上げても、客によっては、いろいろ難癖をつけに、店に来ることがあるからです。丹羽さんと父が顔を合わさないようにするためには、父の留守を利用するしかありませんでした。
今年(平成十一年)の二月十三日、父が六泊七日の予定で、九州旅行に出かけました。
私は早速、丹羽さん方を訪れ、すり替えた三振りの日本刀を渡しました。普通、刀屋の方から届けるようなことはしませんが、相手は素人でしたし、私は待ちきれなかったのです。
丹羽さんは、しきりに首を傾げていましたが、私は、いろいろと作り話をして、日本刀が村正ではないことを認めさせました。
苦情や問い合わせは、大体、三日から五日以内だ、という父の話を覚えていましたので、私は一週間の休みを取り、店の電話の前で待機しました。しかし、丹羽さんからは、何の連絡もありませんでした。
ところが、翌月の三月五日、会社の方に直接、丹羽さんから電話がかかってきたのです。その内容は、
[#ここから5字下げ]
君の素性も、刀をすり替えたこともわかっている。春陽堂を紹介してくれた人の顔を潰したくはないから、できうることなら、表沙汰《おもてざた》にはしたくない。だが、素直に村正を返さなければ、警察に訴えるつもりだ
[#ここから1字下げ]
というものでした。私は咄嗟《とつさ》に
[#ここから5字下げ]
日本刀の研ぎと白鞘の製作は、修業時代の知り合いが、仕事が欲しい、と言うので、父に無断で任せたのだが、もし、すり替えられたとすれば、自分にも責任がある
[#ここから1字下げ]
と嘘《うそ》をついて、何とか、その場をしのぎました。そして、
[#ここから5字下げ]
自分の目で確かめたいので、これからお邪魔したい
[#ここから1字下げ]
と申し入れました。できれば、日本刀を取り戻したかったからです。しかし、丹羽さんは、
[#ここから5字下げ]
今日と明日は大事な商談があるし、明後日は娘の見合いがあるので、家は留守になる。来るなら、三日後の月曜日にしてくれ
[#ここから1字下げ]
という答でした。
その時のやりとりで、
[#ここから1字下げ]
ア 発見直後に撮影した村正の写真があること。
イ 丹羽さんは上京して、日本刀剣協会に出向き、佐伯先生に会っていること。
[#ここから1字下げ]
を知ったのです。
[#ここから1字下げ]
また、この時、日本刀の長さが違っていることも指摘されましたが、長さについては、私自身の手で寸分の狂いもなく調整していましたので、丹羽さんの勘違いか、はったりだろうと考え、気にはしませんでした。
(五)村正の写真が存在し、刀剣界の権威である佐伯先生が、その写真をご覧になったということは、私にとってショックでした。刀剣協会が乗り出した以上、私に勝ち目があるはずがなく、村正をどうするか、もはや、選択の余地はありませんでした。
問題は、どうすれば、父に迷惑をかけることなく村正を返せるか、の一点でした。いろいろ考えた末に、私は、丹羽さんに対して咄嗟《とつさ》についた嘘を、そのまま押し通すことを思いついたのです。つまり、すり替えたのは職人であるにもかかわらず、その責任を私がとる、という形を装えば、父に迷惑はかからないと考えました。
しかし、その日の夜、最後の別れのつもりで村正を取り出し、眺めているうちに、またもや、邪心が湧《わ》き起こってきたのです。それは、
[#ここから5字下げ]
もし、丹羽さんに渡した日本刀が盗まれ、村正の写真も紛失したということになれば、すり替えたという証拠はなくなってしまう
[#ここから1字下げ]
ということでした。
そして、恐ろしいくらいに、そのやり方が頭に浮かんできたのです。昼間は人通りの多い道でも、真夜中なら人目につかないとか、運悪く人目についても、ハイカーの姿をしていれば、週末登山だと思われるとか、夜中に敷地に入り込み、植木の陰に身を隠していれば見つからないとか、そんな考えが、次から次へと浮かんできました。
その一方で、罪を重ねることへの後ろめたさもありました。しかし、しがないサラリーマンの身では、この先、一生かかっても、村正のような有名な日本刀とめぐり合えるとは思えず、結局、村正を自分のものにしたいという欲望には勝てなかったのです。
(六)私は本気になって、計画を練り始めました。二月に丹羽家を訪れた際、私は、その広い敷地に驚き、丹羽さんの許可を得て、見せていただいておりましたので、屋外の様子は隅々まで頭の中に入っていました。中でも、竹林は全く手入れがされておらず、地面が枯れた笹で覆われていたことは、はっきり覚えておりました。私はそれを利用することにしたのです。
娘さんの見合いの日に、丹羽家が留守になることはわかっていましたし、先ほど申し上げたように、丹羽家の敷地内に忍び込むことは比較的、簡単なような気がしました。
しかし、問題は、日本刀と写真を盗んだ後、人に見られずに丹羽家を抜け出す方法でした。
さんざん知恵を絞った末に、私は忍び込む時と同じ方法を取ることにしました。つまり、盗んだ後も丹羽家に留まり、真夜中まで待つという方法です。この方法を成功させるためには、外出から戻った丹羽さんたちが、空き巣に入られたことに気づかないことが必要でした。その方策として、私は少年野球のボールを準備しました。丹羽家の屋内に入る際、ガラスを破っても、そこにボールを転がしておけば、空き巣が入ったとは思わないだろう、と考えたのです。
更に、翌日(六日)、私は丹羽さんに電話をかけ、
[#ここから5字下げ]
職人に電話したが要領を得ないので、直接、岐阜の方に出向いて、事の次第を確かめ、もし、丹羽さんの言う通りなら、日本刀も取り返してくる。ついては、五、六日、待ってほしい
[#ここから1字下げ]
と申し入れました。
日本刀は細長い形の関係で、普通の金庫には入りません。丹羽さんが、初めて所有する日本刀のために専用の収納庫を準備しているとは思えず、保管場所は、せいぜい押入れの奥か、長持の底辺りだろうと考えていました。もし、二日後の八日に訪問するということになると、手近で、目につきやすい場所に置きかえるという可能性が十分考えられました。
その場合、盗まれたことが、すぐにわかってしまいます。しかし、五、六日先、ということになれば、元の保管場所に戻すはずですし、持ち主の目に触れなければ、なくなったことにも気づかないだろうと考えたわけです。
しかし、結局、このことが計画を狂わすことになりました。
(七)三月六日の午後十一時ころ、私は自宅を出発し、丹羽家から五百メートルほど離れた空き地に車を止めました。その空き地を選んだ理由は、他にも沢山、止めてありましたし、一昼夜くらい放置しても怪しまれないだろうと思ったからです。
車の中で身支度を整え、リュックサックの中の食糧や水を点検してから、午前二時すぎに、徒歩で丹羽家に向かいました。途中で出会ったのは、酔っ払いの男一人と、ジョギングをしていた男一人ですが、私は顔を見られないようにしていましたので、詳しい人相はわかりません。
丹羽家に到着すると、私はすぐに、
[#ここから5字下げ]
門から十メートルくらい西側の生け垣から、丹羽家の敷地に入った
[#ここから1字下げ]
のです。時刻は午前二時三十分ころだったと思います。
そのまま、竹林に向かい、家の中の丹羽さんたちに気づかれないように、風の音に合わせるようにして、リュックと自分の体の上に、笹の葉を被《かぶ》せました。かなりの寒さでしたが、天気予報を聞いて、あらかじめ冬山用の服装をしていましたし、笹の葉も被りましたので、それほど苦にはなりませんでした。
(八)夜が明けても、しばらくは誰も庭には出てきませんでした。午前十時ころになって、正装した三人が、揃《そろ》って玄関先に出てきたのです。奥さんが車に乗る時になって、
[#ここから5字下げ]
トイレの窓に鍵《かぎ》をかけ忘れた
[#ここから1字下げ]
と言い出したのですが、丹羽さんが、面倒臭そうに
[#ここから5字下げ]
大丈夫だ。あんな所から入る泥棒なんか、いるもんか
[#ここから1字下げ]
と答え、三人は、そのまま出発しました。その話を聞いたことで、私の仕事はやりやすくなりました。
忘れ物を取りに戻ることを考え、念のため、三十分ほど様子を見てから、家の西側にある、
[#ここから5字下げ]
トイレの高窓から、屋内に入った
[#ここから1字下げ]
のです。
私は、すぐに家捜しにかかりました。そして、一時間くらいで、台所の西側にある和室の文机《ふづくえ》の中から、
[#ここから5字下げ]
村正の写真とネガを発見し、自分のリュックの中に入れた
[#ここから1字下げ]
のです。しかし、肝心の日本刀は、どうしても見つけ出すことができませんでした。
丹羽さん一家が夕方まで帰宅しないことは、前日の電話でわかっていましたし、日本刀を見つけ出したとしても、どうせ夜中まで、竹林の中で待たなければならないわけですから、私は腰を据えることにしました。居間で、持参した握り飯を食べ、一服してから、今度は念入りに探し始めたのです。しかし、どうしても見つけることはできませんでした。探していない場所は天井と床下ということになり、私はまず、天井から手をつけました。その時、偶然、改口《あらためぐち》を発見したのです。
このとき本職は被疑者と次の問答をした。
[#ここから1字下げ]
問 改口とは、何のことか?
答 詳しくは知りませんが、天井裏の電気配線を見たり、屋根裏の状態を見るために、天井板が外せるようにしてある出入口のことです。
問 その改口は、丹羽家の、どの部分にあったのか?
答 八畳間です。押入れの天井板が一枚、外せるようになっていました。
問 間違いないか?
答 はい。ただ、丹羽家から逃げ出す時、その板は接着剤で塞《ふさ》いでしまいましたので、家族の人以外は、気づかないかも知れません。このことについては、後ほどお話しすることになると思います。
[#ここから2字下げ]
改口を見つけた時、私は、日本刀の隠し場所に間違いない、と確信しました。しかし、天井裏に上がり込んで、夢中になって探してみたのですが、やはり、日本刀は見つかりませんでした。諦《あきら》めて、押入れに下りかけた時、突然、
[#ここから5字下げ]
貴様! 何をやっているんだ!
[#ここから2字下げ]
と、大声で怒鳴りつけられました。いつの間にか、丹羽さんが戻っていたのです。
只今《ただいま》、刑事さんから、丹羽さんに怒鳴りつけられた時刻について、お尋ねを受けましたが、正確な時刻についてはわかりません。私は夢中になって天井裏を探しておりましたし、時間のことを忘れていたような状態でした。ただ、今にして思うと、午後一時半すぎくらいのことだったかも知れません。
丹羽さんの姿を見て、私は慌てて、玄関の方に逃げ出そうとしたのですが、
[#ここから5字下げ]
春陽堂、待て!
[#ここから2字下げ]
と怒鳴られて、私は、全てがバレてしまったことに気づいたのです。
その後のことは、はっきりとは覚えていません。覚えているのは、丹羽さんと揉み合いになったこと。ぐったりした丹羽さんを介抱していると、いつの間にか、奥さんが廊下に立って、私を見つめていたこと。逃げだそうとした奥さんを引き止めようとして、後ろから飛びついたことです。信じていただけないかも知れませんが、私は、お二人を殺そうという気持ちはありませんでした。ただ、怖かったんです。
[#ここで字下げ終わり]
このとき本職は被疑者と次の問答をした。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
問 二人とも、刃物のようなもので全身を刺されていたのだが、それについて、何か心当たりはないか?
答 我に返った時、私は右手に登山ナイフを握っていましたし、登山ナイフは血だらけでした。今、考えてみると、私が刺したと思います。
問 具体的には覚えていないのか?
答 はい。思い出そうとしても、いつ、ナイフを取り出し、どんな風にお二人を刺したのか、はっきりと思い出せないのです。記憶にあるのは、右手でお二人を殴っているような、そんな感じだけです。
問 それは、素手で殴ったという意味か?
答 いいえ。ナイフを握った手という意味です。つまり、刺したということです。しかし、私の意識の中には、刺した、という感覚が残っていないのです。おそらく、興奮していたためだと思います。
問 登山ナイフは、どこにあったのか?
答 私が持参したものです。ハイキングの七つ道具の一つで、右腰のベルトにケースごと携帯していました。
問 その登山ナイフは、いつ、どこで、手に入れ、また、何のために携帯していたのか?
答 十年ほど前、登山雑誌の広告を見て、通信販売で購入しました。携帯していた理由は、ハイキングの服装には欠かせないものだからです。他人を傷つけるために、あらかじめ準備していたということでは、絶対にありません。
問 その登山ナイフは、今、どこにあるのか?
答 丹羽家から自宅に戻る途中、県境にある巴川《ともえがわ》の橋を渡る時、車の窓から川の中に投げ捨てました。
問 なぜ、捨てたのか?
答 丹羽さんご夫婦を殺した、という証拠だからです。
[#ここから1字下げ]
(九)動かなくなった二人を見て、私は逃げ出そうと思い、玄関に向かいました。しかし、ドアを半分くらい開けると、門の方から人の声がしたので、逃げ出せなくなってしまったのです。家の裏の方から逃げ出せないかと、様子を窺《うかが》ったのですが、雪が止んでいたため、どこの家の人も、道路に出て、雪掻《ゆきか》きをしているようでした。私は動きがとれなくなり、とにかく、雪掻き作業が終わるのを待つことにしました。
風呂場《ふろば》に行って返り血を洗い、証拠になるものが残っていないことを、何度も確認してから、再び玄関に行き、逃げ出すチャンスを窺いました。しかし、逃げ出そうとするたびに、向かいの家の奥さんらしい人が、門のところまで出て来て、私のいる玄関の方を覗《のぞ》き込むのです。
そうこうしているうちに、突然、一台の車が丹羽家に入って来ました。車に乗っていたのは、若い男女で、それが丹羽さんの娘さんと、見合いの相手であることは、すぐにわかりました。
私は慌ててドアを閉め、内鍵をかけた上に、両手で把手《とつて》を押さえつけました。娘さんが合鍵を持っていても、家の中に入れなければ、二人は時間つぶしに、どこかへ出かけるかも知れないと思ったからです。今にして思うと、子供染みた行動だったとは思いますが、その時は、他の方法を考える余裕はなく、必死だったのです。
しかし、私はすぐに、トイレの高窓のことを思い出しました。高窓に鍵のかかっていないことは、娘さんも知っているので、他から入れないとなれば、男がよじ登って来る可能性がありました。私は念のためにドアチェーンをかけてから、トイレに走りました。そして、高窓に鍵をかけ、急いで戻ったのですが、把手を掴む前に、ドアが開き、ドアチェーンが、ガチャガチャと鳴り出したのです。
そのうち二人は家の周りを調べ始め、中に入れないことがわかると、ドアチェーン を切ると言い出しました。私はどうしてよいかわからず、奥の八畳間に引き返して、オロオロするばかりでした。
やがて、キャー、という悲鳴が家の中に響き、私は後先のことを考えず、八畳間のサッシ戸を開け、コンクリートのたたきの上に飛び下りました。そして、雪の上に足を踏み出そうとした時、道路の方から、けたたましいクラクションが、二、三回、鳴って、
[#ここから5字下げ]
何をやってやがるんだ!、このバカ野郎!
[#ここから1字下げ]
という男の罵声《ばせい》がしました。それを聞いて、私の足はすくんでしまったのです。
表にいることもできず、中に入ることもできず、私は身の置き所に困りましたが、咄嗟に、改口から天井裏に潜り込むことを思いつきました。いずれは見つかってしまうとは思いましたが、潔く、人前に出る勇気がなかったのです。
私は天井裏に上がり込むと、改口の板の上に座り込み、じっと息を殺していました。
(十)どのくらい時間がすぎたのか、わかりませんが、しばらくすると、静かだった下の様子が、急に騒がしくなりました。最初に入ってきた警察官は、丹羽さんが死んでいることや、屋内の様子を、無線機を使って、上役らしい人に報告し始めました。その声に耳を澄ましていると、間もなく、その警察官は興奮した口調で、八畳間のサッシ戸が開いている、と報告したのです。それを聞いて、私は、もう駄目だ、と思いました。私は身を隠すことばかりに気を取られ、また、うろたえていたため、サッシ戸を閉めずに、天井裏に逃げ込んでいたのです。
警察官が報告し終えると、無線機から、
[#ここから5字下げ]
現場はそのままの状態を保つこと。立入禁止の場所を広く取ること
[#ここから1字下げ]
というようなことを、命令している声が聞こえました。
私は絶望的な立場を悟り、ただ震えていました。見つけられる前に名乗り出よう、と何度か思いましたが、警察官の声が聞こえてくるたびに、身が竦《すく》んでしまい、最後まで、その勇気を出すことができませんでした。
ところが、その後に聞こえてきた刑事さんらしい人たちの話で、すでに犯人は逃げた、と思われていることを知ったのです。私は、ひょっとしたら、見つからずにすむかも知れない、と思うようになりました。それからは、ひたすら音を立てないことだけに全神経を集中させました。何時間も動かずにいるということは、言葉では説明できないほどの苦しさでした。しかし、私は歯を食いしばって耐えたのです。
時間の感覚が麻痺《まひ》していましたので、時刻については、その時はわかりませんでしたが、責任者らしい人が、
[#ここから5字下げ]
今日は、ここまでにしよう。立入禁止のテープは、そのままにしておけ
[#ここから1字下げ]
という声が聞こえ、警察が引き上げることを知りました。そのうち、下からは物音がしなくなり、天井板をずらして様子を窺うと、家の中の明かりは消えていたので、私は安心して下に下りました。そして、居間のサッシ戸から表を見ると、門の前にパトカーが一台止まっていましたが、他に警察官の姿はなく、門以外の場所からなら、逃げ出せると思ったのです。
先ほども申し上げましたが、私は丹羽家を後にする前に、改口の板を接着剤で塞いでおります。
その理由は、天井裏に隠れている時、警察の方に何度か、改口の板を調べられたような気がしたからです。後日、天井板が外れることがわかれば、私が隠れていたことがわかってしまいますし、天井裏は暗く、証拠になるような物を落としたかどうか、調べにくかったからです。
以上のことから、万が一のことを考えて、塞いでしまうことにしたのです。接着剤は、写真を見つけた文机の引き出しにあったものを使用しました。
改口を塞ぎ終わったのは、午後十一時ころです。その後、一時間ほど、様子を見てから、私は台所のドアから表に出て、パトカーから見えない西側の生け垣から丹羽家の外に出たのです。車を止めた空き地に向かう途中、何度か、人に見られそうになりましたが、そのたびに物陰に隠れましたので、見られずにすんだと思います。
[#ここで字下げ終わり]
三 次に、村正と、父のことについて申し上げます。
[#ここから1字下げ]
(一)人を殺したというやましさは、ずっと付きまとっていましたが、その一方で、村正を自分のものにすることができた、という喜びがあったことも事実です。
翌日から毎夜、私は倉庫に閉じこもり、村正を本格的に研ぎ始めました。村正は話に聞いた通り、よく切れる刀で、いつの間にか手に食い込み、傷つけていました。しかし、痛みは感じず、奇妙な恍惚《こうこつ》感があって、私は村正のために両手が切れ落ちて、なくなってもいいと思ったくらいです。村正の刃が食い込めば食い込むほど、血がふき出ればふき出るほど、村正と一体になって行くような、そんな気がしました。
三月十一日の夜も、私は倉庫に閉じこもっていました。夢中で研いでいたのですが、何らかの気配で、ふと顔を上げると、そこに父が立っていたのです。父から、何やら声をかけられましたが、私は酔っているような精神状態だったので、よく覚えていません。そのうち父は、私の顔に平手打ちを食わせ、私の手から村正を引き放そうとしたようですが、村正は、まるで吸いついたように手から離れませんでした。今にして思うと、私が村正を研いでいたのではなく、私の方が、村正に研がされていたのだと思います。
ようやく、手から村正が離れましたが、それと同時に、急に辺りが暗くなり、私は気を失ってしまったのです。
(二)翌日、私は両手に激しい痛みを感じて目を覚ましました。両手には、いつの間にか包帯が巻かれ、枕元には妻が座っていました。妻は私を見ると、すぐ父を呼びに行き、間もなく現れた父は、私を厳しく問い詰めました。三振りの村正を突きつけられた以上、誤魔化《ごまか》しようがなく、私は、丹羽さんの村正をすり替えたことを白状しました。しかし、丹羽さんを殺してしまったことまでは話せませんでした。
その後、父が村正をどうしたのか、私にはわかりません。なぜなら、それ以後、父は私に対して、全く口をきかなくなってしまったからです。
(三)しばらくして、刑事さんが二人、店の方に来られたようですが、父がどのようなことを聞かれたのか、私は知りません。ただ、その夜、父から、
[#ここから5字下げ]
本気で店を継ぐ気なら、岐阜に行き、もう一度、研ぎ師の修業をし直して来い。ただし、今度は刀だけでなく、心も研いで来ることだ
[#ここから1字下げ]
と言われました。
元々、刀屋を継ぐつもりはありませんでしたが、その場の雰囲気で、何となく逆らえなくなり、翌日、会社に辞表を出し、その翌日には、妻を残して岐阜に向かったのです。
妻の話によると、その後、父は塞ぎ込むようになったそうです。特に、モンタージュ写真を作る話があってからはひどい状態で、眠れない、と、よく妻に漏らしていたそうです。
その理由は、警察の方から、突然、丹羽さんの人相について尋ねられ、似ても似つかない人相を言ってしまったためだと思います。父は丹羽さんとは会っておらず、山岡市内に配達される新聞には、丹羽さんの顔写真は載りませんでした。いきなり、お尋ねを受ければ、デタラメを答えるしかなかったのだと思います。父は私をかばおうとして、自分が窮地に陥ってしまったのです。
只今、刑事さんから、丹羽さん宛に書いた日本刀の預かり書について、お尋ねを受けましたので、お答えいたします。
父が刑事さんたちにお見せしたという預かり書は、父が偽造したものです。実際の預かり書は、私が丹羽さんに渡しており、その後、すり替えた日本刀と引き替えに取り戻し、すぐ焼却しました。父が預かり書を偽造した理由は、丹羽さんが亡くなったことを知ったからだと思います。或《ある》いは、私が犯人だということに気づいていたからかも知れません。
なお、丹羽さんが、去年の十月十五日と二十二日の二回、春陽堂を訪れたということは、もちろん、父の作り話です。また、丹羽さんが実際に来店し、私と会った十月十八日は日曜日で、父は不在でした。それで、父は、預かり書の日付を十月二十二日にしたのだと思います。このことも、私をかばうためにしたことだと思います。
(四)岐阜に到着して二日がすぎ、師匠のところへ挨拶《あいさつ》に行こうとしていると、妻が子供を連れて、私の当宿先に現れました。事情を聞くと、しばらく私の側にいるように、と父に言われ、追い立てられるようにして家を出されたということでした。
父から電話があったのは、その翌日のことです。その内容は、
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昔から懇意にしている寿司《すし》屋に、研ぎの名人が来る。お前のことは話してあるから、挨拶《あいさつ》をして、顔を覚えてもらえ
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というものでした。早速、その寿司屋に行って、閉店時間まで待ちましたが、それらしい人物は現れませんでした。店から、父に電話すると、
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それならいい。帰ってゆっくり休め。仕事と家族を大事にするんだぞ
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と言って、電話が切れました。
父が死んだのは、その数時間後のことです。警察からご連絡を受けた時、自殺かも知れないと思いましたが、半信半疑でした。しかし、帳簿を調べてみると、父でなければわからない仕事は全て処理されている上に、中には、無理に急いだような仕事もあり、私は父の自殺を確信しました。
寿司屋に私を釘付《くぎづ》けにしたのは、私にあらぬ疑いがかからないようにするためだったと思います。私をかばいきれなくなった父は、殺人事件の被害者になることで、私と、店の暖簾《のれん》を守ろうとしたのだと思います。
元々、父は私に負い目を感じていたようです。郷土資料館のイベントで大失敗し、多額の借金を抱え、未《いま》だに、その返済をしていることを恥じていました。私が研ぎ師の修業を放り出したのも、それが原因だと、勝手に思い込んでいたようです。村正を盗んだのも、私が一財産つくるためだったと誤解していたのかも知れません。
(五)父に取り上げられた三振りの村正の行方については、二、三、心当たりがあります。しかし、今、私は非常に疲れておりますし、また、軽々しいことを申し上げて、無関係な方々に、ご迷惑をおかけするおそれがあります。もし、お許しをいただけるのなら、明日、店の帳簿を見た上で、はっきりしたことを申し上げたいと思います。
[#地付き]平本克彦 指印
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右のとおり録取して読み聞かせたところ、誤りのないことを申し立て署名指印した。
前 同 日
[#地付き]県警捜査第一課 司法警察員
[#地付き]警部補 松本 豊 印
二十三
憔悴《しようすい》しきった克彦を留置場に送り届け、再び松本が捜査本部に戻ると、机の上にあったものは全て片づけられ、代わりに、数本の一升瓶と、山積みにされた湯飲みが置かれていた。
何人かの捜査員は、早くも茶碗酒《ちやわんざけ》に頬《ほお》を染め、他の捜査員たちも部屋のあちこちで、湯飲み片手に談笑していた。しかし、石川と、刑事課長の姿だけは見当たらなかった。
「お疲れ様でした」
小林が冷や酒の入った湯飲みを差し出してきた。
「お偉方は?」
松本は二つの空席を顎《あご》で示した。
「県警本部へ事情説明に行ってます。事件は解決しても、それとは別の問題が発生しましたからね。頭が痛いでしょうよ。一難去って、また一難です」
「…………?」
「例の、改口《あらためぐち》のことですよ。何しろ、犯人の足取りについては、当初から関心が持たれていましたからね。犯人が煙のように消えたってんで、白バイの警官までが、謎解《なぞと》きに熱中していたという話です。克彦逮捕の報告をすると、県警本部のお偉方は、犯人の素性や動機のことより、そのことを聞いてきたそうですよ」
「…………」
「結果的に、警察活動の盲点をつかれた形になりましたからね。この問題は尾を引くかも知れません」
小林は渋い顔で言った。その時、
「心配ご無用。一ヵ月もすれば、笑い話になる」
突然、凶器捜査班の三島が話に割り込んできた。
「誰も文句はつけられないさ。何人《なんぴと》もミスを犯していないんだからな。最初に駆けつけた渡辺巡査は、閉まっていたはずの八畳間のサッシ戸が開いていると報告しただけだ。その報告を受けた通信指令本部は、全パトカーに、半径一キロ以内の徹底検索を指令し、現場の渡辺巡査には、立入禁止区域の設定と、現場保存を指令した。犯人が逃走した、などと口走った人間は誰一人いない」
三島は湯飲みの酒をあおって、
「ただ、誰一人、口にしなかったが、誰もが頭の中では、犯人は逃走したと信じて疑わなかったんだ。新米からベテランまで、そう思い込んでしまった。その元凶は、あのサッシ戸だ。あのサッシ戸が、中途半端に開いていたことが、錯覚を生んだのさ。その結果、現場の主役は、犯人から証拠へと変わってしまった。この二つは、両立しない。正に、所轄の捜査課と本部の鑑識課みたいに、水と油だ」
「…………」
「トイレの中の犯人を探そうとして、ドアを開ければ、把手の指紋は消えてしまう。証拠確保のための現場保存が優先されれば、犯人の捜索は事実上、不可能になってしまう。開いたドアの角度は発見時のまま。畳の上のヘアピンだって、一ミリたりとも動かしてはならない――というのが、現場保存の基本原則だ。勝手に押入れの中に入り込んだりしたら、現場保存責任者に睨みつけられちまう。……だろう?」
「ええ、まぁ……」
「たっぷりと時間をかけて、鑑識の連中が採証活動した後、どうぞ、と言われても、もうその時点では、犯人を探そうとする捜査員はいないよ。鑑識は証拠だけを追っているだけなんだが、犯人の捜索もしたように思えてくるから不思議だ。今回の場合、このことも錯覚の原因になった」
と言うと、苦々しい顔で舌打ちして、
「いまいましいのは、八畳間のサッシ戸だ。あのサッシ戸さえ閉まっていたら、事件は小一時間で解決していたよ。あれが閉まっていて、丹羽家が完全な密室状態だったら、誰が何と言おうと、現場保存なんかより、犯人検索に重点を置いたさ。外に出られなけりゃ、まだ中にいるということになる。屋根に梯子《はしご》をかけて瓦《かわら》をひっぺがし、スコップで床下の土まで掘り返していたさ。今度のことは、不可抗力だ。前にも似たようなことを経験したが、問題にはならなかったよ」
と言って、三島はニヤリと笑った。
「それを聞いて、ホッとしましたよ。内心、顛末書《てんまつしよ》でも書かされるのかと、ハラハラしていたんです」
小林は苦笑しながら、三島の湯飲みに酒を注いだ。
「安心しろよ。三日前ならともかく、今は大丈夫だ。何しろ、今度の新補佐官はカッポレが踊れるし、三味線も弾ける。捌《さば》けた男だから、細かいことは言わん」
「……新補佐官?」
小林が目を丸くした。松本も初耳だった。
「何だ? 知らんのか?」
三島は、テーブルの上の裂きイカに手を伸ばしながら、
「この前、ここで演説していった補佐官殿は、二日前にお亡くなりになったよ」
「……死んだ?」
信じられない言葉だった。
「ああ、名誉の戦死ってやつだ。あの歳で、四日も徹夜仕事をすれば、ぶっ倒れない方がおかしい」
三島は茶碗の酒を空にすると、口から長い息を吐いて、
「ホトケ様の悪口は言いたくないからな。これ以上、前補佐官の話はしたくない……」
と言うと、裂きイカをくわえたまま、ストーブの方に歩いて行った。
松本と小林は無言のまま顔を見合わせた。そして、小林が何かを言いかけた時、三、四人の拍手する音が、捜査本部に響いた。振り返ると、入口のところで、角樽《つのだる》をさげた中年の男が立っていた。その顔には松本も見覚えがあった。
「玉島警部補っ」
小林が湯飲みを置いて、その男の所に駆け寄った。過労で入院した松本の前任者だった。小林は玉島と握手し、大声で冗談を言い合っていたが、やがて、松本の方を振り返り、手招きした。松本は上着の前ボタンをかけながら、その側に向かった。
「松本警部補が頑張ってくれましてね。助かりましたよ」
小林が笑顔で言った。
「へぇ……、そうかい」
玉島は松本に目を向けた。その目を見て、松本は、初めて捜査本部を訪れた時のことを思い出していた。玉島の態度は、一ヵ月前の石川と同じ種類のものだったからである。
「話を聞かせてくれよ」
玉島は小林の肩を抱くようにして、ストーブの方に誘った。
松本は湯飲みを置いた場所に戻り、一瞬、座る場所に迷ったが、結局、定席になった部屋の隅に向かった。
目の前には、昨日までとは打って変わった光景が広がっていた。いつも仏頂面しか見せなかったベテランの捜査員は、目を糸のように細めて談笑していたし、決して席を温めることのなかったせっかちな捜査員も、今は頬づえをついてスポーツ新聞に目を注いでいる。全ての捜査員が、普段とは異なるもう一つの表情を見せていた。
そんな中で、松本の心は重かった。その原因は、補佐官の死を知ったためだった。ほんの一瞬、すれ違った程度の間柄であり、悲嘆に暮れるほど身近な相手ではない。だが、松本は複雑な思いの中にいた。それはちょうど、二度と訪れない旅先に、大事な忘れ物をしてきたような思いに似ていた。
松本は湯飲みの酒を一口飲んで、そして、身震いをした。昨日まで気づかなかった冷気を、この日、初めて感じ取っていた。ストーブで体を焙《あぶ》れば、冷や酒も悪くはなかったが、今は無性に熱燗《あつかん》が恋しかった。
松本は酒の入った湯飲みを椅子の上に残して、ドアを目指して歩き出した。廊下に出て数歩行くと、後ろで、誰かが自分を呼んだような気がした。すぐに振り返ったが、人影はなく、ドアが動く気配もない。
松本は再び足を進め、ひと気のない深井署の階段を下りて行った。
留置場の克彦が自殺したのは、その数時間後のことである。
看守には、あらかじめ、克彦の行動に目を光らせるように指示が下されていたが、その夜は逮捕事件が連続して発生し、看守がほんの七、八分、目を離した隙に、克彦はシャツをロープ代わりにして、首を吊《つ》った。驚いた看守が蘇生《そせい》のための人工呼吸を施したが、克彦が再び、息を吹き返すことはなかった。
その数日後、春陽堂の家宅捜索が実施された。ショーケースはもちろん、あらゆる箇所の捜索が徹底して実施されたが、村正は発見されなかった。引き続いて、取引先、交友関係、郷土資料館等、捜査の手は多方面に及んだが、結果は同じだった。
平成の世に、突如として発見され、人々の注目を浴びた三振りの丹羽村正≠フ行方は、その後も不明のままである。
本書は'93年1月、光文社より『凶刀「村正」殺人事件』として刊行されたものです。
角川文庫『新任警部補』平成12年2月25日初版発行