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刑事部屋
佐竹一彦
目 次
第一話 手錠のぬくもり
第二話 恍惚《こうこつ》の刑事
第三話 ニセ刑事
第四話 マドンナ刑事
第五話 迷宮論争
第六話 霊感刑事
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狛江署 刑事課 盗犯捜査第二係
見習刑事 片岡 幸男
係長 安達 金作
主任 佐々木 肇
刑事 関根 真一
刑事 中山 悦郎(入院中)
刑事 朝倉 潤子(派遣中)
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第一話 手錠のぬくもり
一ト月前に書いた辞表を内ポケットに忍ばせて、片岡巡査は副署長の席に向かっていた。
遂に、その時が来た、という思いだった。交番勤務の途中で、急遽《きゆうきよ》呼びつけられた理由はわからない。居酒屋での喧嘩《けんか》の件か、独身寮からの退寮願いを提出した件か、それとも、求職センターに登録していることが発覚したのか……。
だが、理由などは、どうでもよかった。片岡にとっては、きっかけさえあれば、よかったのである。狛江《こまえ》警察署に着任して八年目の春。片岡は警察、というより、警官としての自分の将来に幻滅していた。
独身寮暮らしの片岡は、いまだに午後十一時の門限に縛られている。その上、勤務場所は五坪ほどの広さの町外れの交番。法の番人、警視庁の一翼、と聞こえはよいが、勤務内容は三キロ四方のパトロールと巡回連絡。そして、四日に一度の夜勤の際に行う交通検問だった。大学で学んだ法律知識も、通信教育と特訓合宿で、ようやく手中にした英検二級の資格も、今や無用の長物と化している。
それが八年も続いていた。この間、同期生の大半は昇進し、或いは、恵まれたポストについている。そして六カ月前、自分より三年も後輩にあたる巡査が昇進し、さらに三カ月前、五歳も年下の巡査が本庁へ栄転となった。
適材適所の人事なんて、嘘《うそ》っぱちだ。警察にいる限り、この先、自分が日の目をみることはない……。
片岡はそう悟り、一ト月前に退職を決意した。すぐに辞表を提出しなかったのは、職探しに手間取っていたからである。旧友を頼り、就職情報誌に目を凝らしたが、折からの不況の下、求人状況は最悪だった。
だが……、冷や飯ばかり食わされた上に、頭ごなしの小言まで食らうのは、もううんざりだ。この際、言いたいことを言って、辞表を叩《たた》きつけてやる……。
副署長席に向かう片岡は、悲壮な決意を固めていた。
「ご苦労」
副署長は片岡を一瞥《いちべつ》して、机の引き出しから人事記録を取り出した。見出しの部分には片岡、という名が記されている。副署長は、しばらく、それに目を注いでいたが、
「退寮願いの件だが、却下する。家族と同居でない限り、散宿できないことは承知しているはずだ。単身寮が嫌なら、いい相手を探して結婚することだな」
と、冷たい口調で言った。
「お言葉ですが、私は独身主義者ではありませんよ。いずれは結婚するつもりでいます。ただ、三十にもなって、まだ寄宿舎暮らし[#「寄宿舎暮らし」に傍点]をしていることを、友達にバカにされましてね。尤《もつと》もだと、思ったんです」
片岡は皮肉を込めて反論した。おそらく、副署長の次の一言が、辞表を出すきっかけになる、と身構えたが、
「確かに、君の言う通りだ。今、寮に住む最年長者は三十八歳。最年少は十九歳だ。親子ほども年が違う。俺《おれ》の本音としては、三十歳以上は、さっさと出て行ってほしいんだが、さっきも言ったように内部規則が厳しい。何とかしなければならないとは思っているんだが、頭が痛いよ……」
副署長はため息まじりに言った。冷淡で威圧的な回答を予想していた片岡にとっては、出端《でばな》をくじかれる思いだった。
「とにかく、この願いは却下するが、折を見て、署長に諮《はか》ってみよう。一定の条件を設けて、散宿させるという方法もある。ま、当てにされても困るが、この件は、しばらく考えさせてくれ。前向きに検討しよう。それで、どうだ?」
「はぁ……」
片岡は生返事した。
「それより、来てもらったのは、別のことなんだ。実は、刑事課の方から欠員補充について、せっつかれている。先だって、また一人、欠員が出て、現在、二欠になっているからな。最低一人は補充しなければならんと思っていたんだが、即戦力になる人材が見当たらなくて頭を痛めていた」
「…………」
「ところが、灯台下暗し。様々な面から検討したんだが、経歴から見て、君なら問題はない。いや、適任だろう」
「しかし……、上司が」
と言いかけると、
「もう、承知済みだよ。刑事課の了承も得てある。すぐに、刑事部屋に行ってくれ。首を長くして待ってるはずだ」
副署長は一方的に言った。
もし、三カ月前だったら、片岡は走って刑事部屋に向かっていたかも知れない。欠員の一時的補充員とは言え、それは刑事への登竜門だからだ。意欲のある若い警官は、用事がなくても、刑事部屋に行って、顔と名前を売り込む。
しかし、すでに退職の意思を固め、密《ひそ》かに身辺整理まで終えている身にとっては、煩わしいだけだった。実際、密かに職探しを始めてからは、かつて憧《あこが》れた白バイの制服や、SPのネクタイ、そして、機動捜査隊の腕章さえも、なぜか色褪《いろあ》せて映るようになっていた。おそらく、正式に辞令が下りたとしても、片岡の心は冷めきっていたことだろう。
今更、有難迷惑なことだ……。
そう強がる一方で、失業を免れて、ホッとしている自分にも気づいていた。片岡は唇を噛《か》みながら、一階の奥にある刑事課に向かった。
午後の刑事部屋には人影がまばらで、殆《ほとん》どの刑事は出払っていた。ひっそりとした広い空間の中で、警察無線の音声だけが単調に響いている。
片岡は入口に立って、しばらく部屋の様子を眺めた。粗野で、堅苦しくて、暗い、という印象しか感じられない。
そんな陰鬱《いんうつ》な部屋の窓際で、刑事課長が書類に目を通していた。生まれた時から慢性の頭痛と胃痛に悩まされているというような顰《しか》めっ面である。
片岡は静かに足を進め、その三メートルも前で、相手が顔を上げるのを待った。
「何だ……。制服で来たのか?」
課長は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、険しい視線を上下させた。
「はい。私服で行けとは言われませんでしたから」
と、言い終わる前に、
「デカの見習い勤務となれば、私服に決まっているだろう? そんなことぐらい、わかりそうなもんだと思うがな」
課長は刺々《とげとげ》しい声で言った。その態度にムッとしたが、明らかに辞表を叩きつける相手ではない。
「見習い勤務とは初耳です。私はまた、書類の整理か、印刷作業かなんかの雑用だと思っていました」
「見習いだよ。だが、一人前のデカとして扱うからな。さっさと私服に着替えて、安達《あだち》係長の指示を仰げ。こっちの挨拶《あいさつ》はいい」
と、顎《あご》をしゃくった時、机の上の電話が鳴った。
ドサ回りのポンコツ野郎めが……。
心の中で、そう呟《つぶや》きながら、片岡は会釈もせずに元来た道を引き返した。
独身待機寮は署の建物の六階にある。自室に戻った片岡はテレビをつけて、のんびりと着替えることにした。考えてみれば、まだ昼食後の一服もしていない。些細《ささい》な時間だが、今更、警察のためにサービス≠キる気にはなれなかった。
やがて、バラエティ番組が終わるころ、片岡はスーツにブラシをかけ、髪を整え、ついでに髭《ひげ》も軽く剃《そ》って、自室を出た。
階段を下り、四階の踊り場にさしかかった時、
「うちの係だそうですね?」
盗犯第二係の関根刑事に声をかけられた。階段を駆け昇ってきたらしく、息を切らしている。
関根は片岡の三年後輩に当たる刑事課の若手だった。かつては、交通切符の切り方や、酔っぱらいの取り扱い方を教えたこともあったが、今は、片岡の方が捜査書類の書き方を教わる立場に逆転している。
「どうやら、そうらしいや」
片岡は他人事のように答え、そのまま足を進めた。すると、関根が後に続いた。
「……何だ? ひょっとして、俺を捕まえ[#「捕まえ」に傍点]に来たのか?」
「ええ、まぁ……」
「そうかい。安達という係長は、余程せっかちな男らしいな。先が思いやられるぜ」
「いいえ。呼んでこいと言ったのは、佐々木主任です。係長は急用で検察庁の方に向かいました」
「佐々木主任? ああ、そう言えば、あの爺《じい》さんも盗犯担当だったな。忘れてたよ。あの爺さんのことだ。さしずめ、見習いは見習いらしく、素早く着替えて、刑事部屋の隅に、おどおどしながら立っていろ、とでも言いたいんだろうな」
片岡は鼻で笑って、
「俺は時々、思うことがあるよ。あの爺さんみたいに単純な方が、人生は気楽じゃないかってね。自分の複製を作ることが、これからの警察のためになると信じ込んでいる。一皮|剥《む》けば、不安の固まりのくせにだ」
「余計なことかも知れませんが、あまり、そういうことは口にしない方がよいと思いますが……」
関根が小声で言った。
「わかっているよ。定年間際のデカ長さんの楽しみを奪うつもりはない。ゲーテやシェークスピアに詳しい関根刑事が、マンガしか読んでいないような顔をしているように、俺もせいぜい、軽薄な新人類を気取るさ。その方が向こうは機嫌がいいだろうからな。どうせ、長い付き合いじゃない。せいぜい三日。長くて、一週間のことだ」
「……どういうことです?」
関根が目を瞬かせた。
「そのうちわかるさ。そうそう……」
と言うと、関根の方を振り返って、
「そっちにだけは言っておく。お偉方が何を言っているか知らんが、俺はデカになる気はないし、お偉方も、俺をデカにする気はない。八年も冷や飯を食ってきたうだつの上がらない男を、いまさら刑事養成講習なんかに推薦するもんか。それがわからないほど、俺は無邪気じゃないよ。だから、何があっても、俺に気を遣わなくていい。気を遣うだけバカバカしいってもんだ」
片岡は吐き捨てるように言った。
盗犯第二係は五名で編成されていた。係長は安達警部補 四十六歳。主任は佐々木巡査部長 五十七歳。そして、刑事が三名。
働き頭は中山巡査長 三十六歳。柔道四段で、署の代表選手である。数日前の試合で、左足を複雑骨折して入院したことが、片岡に見習い刑事勤務をさせることになった。二人目の刑事は関根巡査 二十九歳。片岡とは、ほぼ同年齢だが、関根は大学を卒業してから三年間、会社勤めをしていた。不況のため解雇され、警官になったという苦労人である。三人目は婦警で、朝倉巡査 二十四歳。スチュワーデス試験に合格したが、警官の道を選んだという変わり種で、二カ国語を流暢《りゆうちよう》に話す。すでに昇任試験に合格している朝倉は、各方面から引く手あまたで、現在は都内某署の特捜本部に通訳担当として派遣されていた。
見習い勤務の内容は、片岡の想像していた通りだった。刑事課長の言葉とは裏腹に、書類整理が主な仕事だったのである。
片岡は黙々と仕事を続けた。しかし、その他の雑務には一切、手を出そうとはしなかった。お茶酌みは、見習い刑事の必須科目のようなものであるし、中には、先輩上司の靴まで磨こうとする者もいる。だが、片岡は、その種の作業をことごとく拒否した。
正式な辞令がない以上、自分は地域課の中堅であって、刑事課の新参者ではない……。関根が耳元で忠告するたびに、片岡は周囲に聞こえるような声で答えた。
そんな片岡を、係長の安達は黙って見ていた。当然、片岡に対する周囲の風当たりは厳しくなっていく。やがて、刑事たちが露骨に厭味《いやみ》を口にするようになったころ、
「書類整理は、もういい。今度は、生き物を扱ってみろ」
と、安達が言った。
「生き物?」
「留置場に、泥棒猫を一匹、飼ってある。余罪はごまんとあるはずなんだが、したたか者で、なかなか素直には吐かん。佐々木主任が五日も取り調べたが無駄だった。一件でもいいから、吐かせて、主任の鼻をあかしてみろ」
「何というホシなんです?」
「田中 実。四十歳。前科十三犯」
安達は書類を持って立ち上がり、片岡の前に、それを落として、資料室の中に消えた。
渡された書類は佐々木が作成した弁解録取書と、身上関係だけを書き連ねた供述調書だった。
思いがけない仕事を与えられた片岡は、戸惑っていた。書類を読み返しては、刑事部屋を見回し、刑事部屋を見回しては、書類を読み返した。何から始めたらよいか、わからなかったからである。やがて、安達が自席に戻り、不思議そうな目で片岡を見た。片岡は追い立てられるように席を立ち、留置場に向かった。
それまで片岡は、看守室の前を通りすぎたことはあっても、中に足を踏み入れたことはなかった。看守係には頭脳|明晰《めいせき》、前途有望な若手署員が登用されている。一種の出世コースでもあるこの係は、片岡には縁がなく、従って、内心では反発を感じていた。
看守室の前の廊下を、何度か往復してから、片岡は意を決してドアをノックした。
「こりゃ、珍客だ……」
看守は片岡を見てニヤリと笑った。片岡より一年先輩の巡査部長である。
「一人、取り調べたいんですが……」
と告げると、看守はドア横の壁の方に顎《あご》を突き出して、
「手錠なら、そこにある。気に入ったのを使いな」
と、素っ気なく言った。片岡は壁に下げられた手錠を手にして、再び、看守の方を向いた。
「……何だい? ひょっとして、ホシの出し方を知らないのか?」
看守がキョトンとした顔で言った。
「はい……」
片岡は消え入りそうな声で答えた。
「へぇー、そうかい。風の噂《うわさ》に、勤務態度はベテラン並み、と聞いていたから、何でも、ご存知かと思っていたよ」
と、冷やかに笑ってから、
「気は進まないが、仕方がない。留置人にも飯は食わせているんだ。看守の立場としては、どんな聞かれ方をしても、教えないわけにはいかない。逃げられでもしたら、こっちもとばっちりを食う羽目になるからな」
「…………」
「まぁ、いい。どうせそんなことは、そっちの知ったこっちゃないだろう。とにかく、ここへ来た以上、イロハから教えてやるから、その辺に座れ」
と、顎をしゃくると、横の書棚から古色を帯びた内規集を取り出した。
三十分後。仏頂面《ぶつちようづら》をした看守に頭を下げて、片岡は留置場に向かった。留置人を檻《おり》から連れ出す手続きは煩雑で、慣れない者にとっては手間のかかる仕事だった。それでも何とか、教えられた通りの手続きを経て、容疑者を留置場から連れ出した。そして、取調室の椅子《いす》に座った時、片岡は精神的に疲れ切っていた。
「初対面だ。名前くらいは教えてくれたって、いいでしょう?」
しかし、容疑者の田中にとっては日常茶飯事のことである。
前科十三犯ともなれば、取調室の椅子の座り方も堂に入っている。片方の肘《ひじ》を背もたれにかけ、足を組んだ田中は、喫茶店でコーヒーを注文した客のようだった。声を荒らげ、拳《こぶし》で机を叩いたところで、動じるような相手ではない。片岡は無言のまま、ポケットから煙草とライターを掴《つか》み出し、田中の前に投げ出した。
「こりゃ、どうも……」
田中は早速、煙草に手を伸ばした。
「名前なんか、どうでもいい。煙草なら、いくら吸っても構わんから、俺に話しかけるな。疲れているんだ」
片岡は窓の方に目を注いだ。少し開いた窓から雨に濡《ぬ》れたブロック塀と、曇った空が見えた。
「……夜遊び?」
田中が意味あり気な笑みを浮かべた。片岡は答えなかった。
「うらやましいね、若いってのは……。金がなくても、女に不自由しないで済むからな。全く、うらやましい」
「…………」
「だが、最近は妙な病気が流行《はや》っているらしいからな。気をつけないと、とんでもないことになる。そういう点では、今の若い連中は可哀相《かわいそう》だ」
「そりゃ、そっちだって、同じだろうよ」
片岡は鼻先で笑った。
「いやいや、大違いさ。今度は当分、出られそうもない。いくら本当のことを話しても、裁判長は前科者の言うことなんて信用しないし、否認は心証を悪くするだけだからな。濡れ衣《ぎぬ》なのに、今度ばかりは何年食らうか、見当もつかないよ」
田中はしたり顔で言った。
「お前、相手を間違えているんじゃないのか? そんな寝言は他のデカに言えよ。俺は大根役者の下手な芝居に、付き合う気はないんだ。黙って、煙草を吸って、喉《のど》がいがらっぽくなったら、そう言いな。檻に戻して、いい空気を吸わせてやるよ」
片岡は腹立たしかった。仮に証拠を突きつけられても、犯行を認めない容疑者。田中は、その典型だった。自白し、反省の態度を繕ったところで、初犯のような情状酌量の特典に与《あず》かることは、まずあり得ない。否認の目的は明らかに、犯行の立証を困難にさせようとするものだった。
「変わったデカさんだ……」
そう呟《つぶや》いて、田中は口を閉ざした。
一体、どのくらい、こうしていればいいのだろう……。
そう思いながら、片岡は時計を見た。まだ、十五分しか過ぎていない。
ため息をついて、煙草に手を伸ばした時、取調室のドアが開いた。
「どんな塩梅《あんばい》だ?」
佐々木の声がした。
「全然、駄目です。知らぬ存ぜぬですよ」
片岡は振り向きもせずに、くわえた煙草に火をつけた。
「そんなことだろうと思ったよ」
と言うと、
「おい、田中。見習いだからと言って、舐《な》めるなよ。こちらの旦那《だんな》は、ヤクザ者を三人、素手で畳んだというおっかないお方だ。挨拶代わりに、一番手柄を進呈したら、どうだい?」
「……見習い?」
田中が目を瞬かせた。
「そうとも。けちな嘘《うそ》で誤魔化して、仮に、この場は凌《しの》げたとしてもだ。若いお巡りの恨みを買ったら、先が怖いんじゃないのか? お前の年じゃ、死ぬまで目を付けられることになるぞ。よくよく考えることだな」
そう言い残して、佐々木はドアを閉めた。やがて、その足音が遠ざかると、
「見習いか……。なるほどね、それで読めたよ」
田中が言った。片岡は無言のまま、窓の外に目を向け、煙草を吹かした。無視し続けるつもりだったが、
「でかい態度だな、全く……」
田中は薄笑いを浮かべた。それを見て、片岡の中で何かが弾けた。
田中が身を乗り出して、二本目の煙草を取ろうとした時、片岡はその手を片手で押さえ、煙草を持った方の手で、田中の横顔を張った。火と灰が宙に飛び散り、田中の顔が恐怖に歪《ゆが》んだ。
「てめぇ、あのデカ長の話を聞かなかったのかい?」
片岡は火の消えた煙草を、田中の顔めがけて投げつけた。
「俺は好き好んで、見習いなんかになったんじゃない。こんな辛気臭いところからは明日にでも、おさらばする身の上よ。置き土産に、てめぇの前歯をへし折ってやろうか?」
「…………」
「俺がてめぇに一体、何をした? 煙草を吸わせてやっただけじゃねぇか。泣けの歌えのと頼んだわけじゃない。四の五の抜かさずに、そこにおとなしく座ってろっ」
とまくし立てて、片岡は田中を睨《にら》みつけた。田中は両足を揃《そろ》え、肩をすぼめて、目を机の上に落とした。
片岡の田中に対する取り調べ≠ヘ、その翌日も続いた。初日に脅しをかけたためか、その後の田中の態度は神妙だった。しかし、片岡には、そんな田中は眼中になかった。頭の中は、転職のことだけに占められていたからである。収入を優先すべきか、社会保障面を優先すべきか、それとも、生き甲斐《がい》にこだわり続けるか……。取調室に身を置いていたものの、片岡の目は相変わらず窓の外に向けられたままだった。
そして、三日目。田中の取り調べは、再び、佐々木が担当することになり、片岡も元の雑用に従事することになった。
だが、重荷≠ゥら解放されて、ホッとする間もなく、その日の夕方、片岡は安達に声をかけられた。
「田中に一体、どんな話をした?」
安達は探るような目で尋ねた。隣には、腕組みした佐々木が、同じ目つきをして立っている。
「ただの……世間話をしただけですけど」
と、嘘をつくと、
「世間話? どんな?」
安達の目がキラリと光った。
「どんなって……。煙草の好みとか、仕事の……話とか、いろいろです。あの容疑者は、とてもじゃありませんが、私のような素人の手に負える相手ではありません。やはり、佐々木主任のようなベテランでないと歯が立ちませんよ」
片岡は、いかにも難渋したかのように、顔を顰《しか》めて見せた。
「ところが、そうでもなさそうなんだな」
安達は首を捻《ひね》って、
「田中は、君に調べを担当してもらいたいと言ってるそうだ」
「私に?」
片岡は佐々木を見た。佐々木が苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔で頷《うなず》いた。
「念のために聞くんだが、裏取引のような話を持ちかけてはいないだろうな?」
「とんでもない。第一、話なんか全然……」
と言いかけて、
「裏取引と誤解されるような話なんか、一切、していません。ただ……、煙草だけは吸いたいだけ吸わせましたから、案外、それが理由かも知れませんね」
一時凌ぎの言い訳だったが、
「煙草?」
安達は佐々木を見上げた。
「そう言われれば、奴に何度か、泣きつかれたことがありますが、私は一切、吸わせませんでした。確かに、片岡君の言う通りかも知れませんね」
佐々木が頷いた。
「煙草か……」
安達は指先で机を叩いていたが、
「よし。明日、もう一度、片岡君が調べを担当しろ。ただし、煙草は抜きだ。お茶も飲ませるな。喉《のど》が渇いた、と言ったら、水道の水でも飲ませてやれ。それで、奴の思わせぶりな態度も、底が割れるかも知れん」
と、不機嫌な顔で言った。
翌日――。
「お前、見習いに調べを担当してもらいたいと、言ったそうだな?」
取調室のドアを閉めると同時に、片岡は尋ねた。
「ええ……」
田中が愛想笑いをしながら答えた。
「何を考えているか知らないが、今日は煙草抜き、お茶抜き、ついでに、椅子も抜きだ」
片岡は容疑者用の椅子を窓際に蹴《け》った。そして、手錠を外さずに、田中を壁の前に立たせて、
「いいか。留置場に戻りたくなったら、いつでも、そう言いな。今、すぐにでも帰してやる。お前が黙秘しようが、否認しようが、無罪になろうが、有罪になろうが、俺の知ったこっちゃないんだ。お前はお前で、せいぜい頑張れ。首を吊《つ》ろうが、シャブを打とうが、俺は止めない。だから、お前も俺に構うな」
と言うと、椅子に腰を下ろして、煙草に火をつけた。田中は何も答えなかった。片岡は窓の外に目を向けたが、さすがに、いつものように考え事をすることはできない。
静寂の数分がすぎて、
「旦那……」
と、田中が言った。それを待ち兼ねていた片岡は、すぐに立ち上がった。すると、
「違いますよ。まだブタ箱へ戻るつもりはありません」
田中は窓の方に後ずさりした。
「この野郎。小便でもしたいと言うのか? つまらない小細工をするなっ」
片岡は声を荒らげた。
「違うんですよ。実は、旦那を見込んで、相談に乗ってもらいたいことがあるんです」
「何? 相談だと?」
片岡は鼻先で笑って、
「だったら、佐々木の旦那にでも持ちかけるんだな。俺は悪党の相談事に乗るつもりは、さらさらない。それでなくても、自分の相談事で頭がパンクしそうなんだ」
と言いながら、田中に近づき、その腕を掴《つか》もうとすると、
「あんた、悪党だって人間だぞっ。女房もいれば、子供もいるんだっ」
田中が叫んだ。その豹変《ひようへん》ぶりに、片岡は息をのんだ。相手が牙《きば》を剥《む》いたからではない。悪党が弱点をさらけ出したからである。
「他のデカじゃ聞いてくれそうもないから、あんたに持ちかけようとしたんじゃねぇか。それを何だい。どんなわけがあるのか知らねぇが、頭っから俺をバカにしやがって、それでも、お巡りかっ」
田中は唇を震わして怒鳴った。だが、片岡の耳には、悲鳴のように聞こえた。
対応に戸惑っていると、取調室のドアが開いて、
「……どうした?」
暴力団担当の刑事が顔を出した。
「何でもありません。ちょいと、ゴネているだけです」
片岡は首をすくめて見せた。
「大丈夫かよ。何だったら、一人貸してやるぞ」
刑事は片岡と田中を見比べながら言った。
「それには及びません。こんな野郎、片手でも捻《ひね》り潰《つぶ》せますから」
と、鼻で笑うと、
「それが困るんだよ。片岡先生[#「先生」に傍点]の噂《うわさ》は聞いている。調室なんかで半殺しにでもされたら、刑事課全体が迷惑を被《こうむ》ることになるんだ。特に、うちは、それが専門だと思われているからな」
「わかってます。手は出しませんから」
「頼むぜ、先生。それから、あまり、でかい声を出させるなよ。下卑た声は紅茶の味を不味《まず》くする。こう見えても、俺は繊細なんだ」
刑事は田中を一睨《ひとにら》みしてから、ドアをピシャリと閉めた。
「聞いたろう? その辺のチンピラみたいに騒ぐな」
片岡は窓際の椅子を、元の場所に戻し、座るように目配せした。田中は険しい目を片岡に向けていたが、結局、その椅子に腰を下ろした。片岡は手錠の鍵《かぎ》を外して、
「久しぶりで、威勢のいい啖呵《たんか》を聞いたぜ。最近のヤクザ者は小利口になって、ろくに啖呵も切らない。その啖呵に免じて、お望み通り、話を聞いてやるよ」
「…………」
「ただし、他のデカにできないことは、見習い風情《ふぜい》なんかにもできるはずがない。それを承知の上で、話すんだったら話せ」
と言って、片岡は腰を下ろした。田中はしばらく、うつむいていたが、
「大声上げて、すみませんでした」
と、神妙な顔で頭を下げた。そして、
「じゃ、聞くだけ聞いて下さい……」
田中は話し始めた。
「実は、こんな男ですが、女房と子供が二人います。まだ籍には入っていませんから、世間で言う、内縁関係というやつです。女房は夜の勤めに出ているんですが、私が捕まっていることは知らないと思います。心配していると思うんで、その……、今、旅行中だとか何だとか、うまいことを言って、安心させてやってもらいたいんです」
「そんなに心配なら、看守に頼んで、電話してもらえばいいじゃないか? 俺に相談するほどのことじゃないだろう?」
「旦那。私の調書は読まなかったんですかい? 私は女房のことを喋《しやべ》っちゃいませんぜ」
「そうか……。忘れていたよ」
片岡は苦笑して、
「だが、それにしても、弁護士か、ブタ箱を出る連中に頼めるだろう? なぜ、そうしない?」
「冗談じゃない。ブタ箱に入っている連中なんか信用できませんよ。それに、ここだけの話ですけど、国選の弁護人ってのも、ちょっとね。だから、女房のことは喋っちゃいません」
「そうかい。だが……、とうとう俺には喋っちまったな」
と言って、田中の顔を覗《のぞ》きこむと、
「ええ。旦那を見込んでのことです。でも、あのデカ長さんに、ご注進しても、私は知らぬ顔の半兵衛《はんべえ》を決め込みますよ。証拠はないんですからね」
「そんな野暮はしないから、安心しろよ。で、どうしてもらいたい? 俺が電話で作り話をするのか?」
「はい。ついでに、変わりはないかどうか、聞いてもらえれば、助かります」
「なるほど。それを合図に、盗んだお宝が処分されるわけか?」
「冗談じゃない。こっちは接見禁止を食っているわけじゃないんですぜ。ブツの処分に、そんな手間をかける必要なんか」
と言ってから、慌てて、口を噤《つぐ》んだ。
「そうだな。お前さんほどのベテランともなれば、盗品からアシがつくような手抜かりはないんだろうよ。わかった。それで……、見返りは何だ?」
片岡はからかい半分に尋ねた。
「旦那、ひょっとして、電話代でも払えってんですかい? 旦那は見返りをせびるようなお人ではないと見込んで、打ち明けたんですけどね。こいつは、こっちの早とちりだったかな?」
田中が顔を強張《こわば》らせた。
「冗談だよ。そう向きになりなさんな」
片岡は手帳を取り出し、記事用紙を一枚、破ってから、鉛筆を添えて、田中の前に差し出した。
「承知してくれるんですかい?」
田中の目が輝いた。
「ああ。電話代くらいは奢《おご》ってやるよ。ここでこうしているのも、前世の因縁かも知れんからな」
「ありがてぇ……。恩に着ます」
田中はペコリと頭を下げてからペンと紙に飛びついた。
その姿を見つめながら、安達たちに、どう報告するか、片岡は頭を悩ませた。
田中を看守に引き渡して、留置場の外に出た時、片岡の脳裏に一瞬、してやったり、と北叟笑《ほくそえ》む田中の姿がよぎった。
だが、刑事部屋の中に入る時、今度は、内縁の妻の涙する姿が浮かんでいた。そして、安達の前に立った時、片岡は結局、田中が煙草目当てだった、と報告した。
ほんの僅《わず》かだったが、憐憫《れんびん》の情が猜疑心《さいぎしん》を上回ったのである。
その日の昼休み。片岡は署の前にある公衆電話ボックスに入り、田中のメモした番号をダイヤルした。
飲み友達を装って、話を進めようとしたのだが、意外にも、電話に出た内縁の妻は、田中が逮捕されたことを知っていた。何度も警察署の前まで来てみたが、恐ろしくて、玄関に向かうことができなかった、と、その胸中を打ち明けた。
「やはり、面会に行った方がいいでしょうか?」
不安気な口調で、女は言った。
「さぁ、何とも言えませんね。田中さんは奥さんのことを警察には秘密にしているようですから……」
「…………」
女はしばらく沈黙していたが、
「何か、欲しいものを言ってませんでしたか?」
「それは別になさそうです。奥さんと子供さんが元気かどうなのか、それだけを心配していました」
「そうですか……」
と言って、言葉が途切れた。すすり泣く女の声に混じって、子供たちがおもちゃの取り合いをする声が聞こえた。
「友達か誰かに面会に来てもらったら、どうです?」
片岡は言った。面倒なことからは、早めに手を引きたかった。
「友達か誰かに、ですか?」
「はい。田中さんからは、警察に捕まっていることは内緒にしてくれ、と釘《くぎ》をさされましたが、奥さんはご存知なわけですから、問題はないと思いますけど」
「でも……」
女は口ごもったが、
「じゃ、迎えの車が待っていますので」
と告げて、一方的に電話を切った。
女が突然、面会に訪れたのは、その二日後のことである。
田中は住居不定を取り繕っていたので、佐々木の動きが急に慌ただしくなった。女は参考人として事情聴取され、直ちに、家宅捜索が執行されることになった。
しかし、結局、女の部屋からは何も発見されず、捜索は空振りに終わった。
片岡にとっては後味の悪い出来事だった。苦々しい思いで、捜索結果の書類に目を通していると、
「片岡君。また、ご指名だ」
安達が言った。
「ご指名?」
「田中だよ。デカ長なんかじゃ、役不足だとさ」
安達は苦笑した。内縁の妻のことが発覚して以来、田中は連日、佐々木の厳しい取り調べを受けている。
「もう、勘弁して下さいよ。どうせ、時間の無駄です」
片岡は渋面を作った。田中の目的がわかっていたからである。
事情を勝手に憶測して、筋違いの逆恨みをするのは、田中のような男に共通する持って生まれた資質のようなものである。片岡はそれを嫌ったわけではない。ただ、煩わしかっただけだった。
「そんな嫌な顔をするなよ。俺は、主任を休ませたいだけなんだ。年だからな。あまり無理をさせたくない」
「しかし……」
と、首を捻ったが、
「第三取調室だ。すぐにかかれ」
安達が顎をしゃくった。
「……はい」
片岡は渋々と重い腰を上げた。気の進まない仕事でも、給料を貰《もら》っている間は従わなければならない。
柄にもなく仏心を起こした報いか……。
片岡は自虐的な笑みを浮かべながら、第三取調室に向かった。
取調室のドアを細目に開けて、
「長さん。係長が呼んでいます」
と、まず佐々木に声をかけた。そして、田中に目を向けると、意外なことに、片岡に対して深々と頭を下げた。
佐々木と入れ代わりに取調室に入り、
「どういう風の吹き回しだい?」
と尋ねると、
「女房のことについては、お世話になりました。この通りです」
田中は改めて頭を下げた。
「へぇー。俺はまた、逆恨みされているんじゃないか、と思っていたよ」
「とんでもねぇ。女房に、いろいろ聞いています。あれは、あれなりに考えて、面会にきたんですよ。私の素性はバレちまいましたがね。却《かえ》って、すっきりしました」
「そうかい。だが、もう、忘れたよ。恩に着る気持ちがあるのなら、もう、俺を呼ぶな。はっきり言って、迷惑だ」
片岡は敢えて冷たい態度を取った。田中とは関《かか》わり合いたくなかった。
「そう邪険にしないで下さいよ。ひょっとして、旦那は、私が例の話を、バラすと思っていたんですかい?」
田中は探るような目で言った。片岡は答えなかった。
「そんなことはしませんよ。恩人に対して、そんなことをする奴は人間じゃない」
「…………」
「女房も驚いていましたよ。まさか、刑事さんが電話をかけてきたとは、夢にも思わなかったそうです。前科者の振りをするなんて、旦那も、なかなかの役者だ」
と言って、ニヤリと笑った。
「何が言いたい?」
片岡は田中を睨《にら》んだ。陰湿な企《たくら》みの気配を感じ取ったからである。
「別に……。こんな話は、同房の連中には話せないじゃないですか。だから、旦那に話して、一緒に笑いたいんですよ」
「なるほど。で、笑った後は、どうなる? 今度は、金でも貸してくれとでも言うつもりか?」
「とんでもねぇ。金なら、少しですが、女房が差し入れてくれました。お蔭で、旦那に煙草をたからなくても済む」
「…………」
「そんな、おっかない顔をしないで下さいよ。話があることは確かですがね。旦那の損になることじゃありません」
「とうとう、お出でなすったか……」
片岡は鼻先で笑ってから、
「面白い。大体の見当はつくが、退屈しのぎに聞いてやるよ。さぁ、言ってみろ」
と、横目で睨んだが、
「実は、女房に説教されましてね。正直言って、その時は癇《かん》に触ったんですが、毛布にくるまるころになると、妙に気になりましてね……」
田中はしみじみとした口調で話し始めた。
「殊に、子供のことを言われたのが、利きました。盗んだ金なんかで学校にやるくらいなら、学校にはやらない。読み書きは、自分が教える。子供たちも、理由を話せば、学校や友達のことを諦《あきら》めるだろうってね……。これには、参りました。思っていた以上に、あれは芯《しん》の強い女でした」
「…………」
「それで……、女房と相談して、これを機会に、すっぱり足を洗おう、と決めたんです。女房も、それを条件に、今までのことは忘れてくれる、と約束してくれましたから」
「そうか……」
思いがけない言葉に、拍子抜けする思いだったが、
「まぁ、俺には関係ないけど、足を洗わないより、洗った方がマシかも知れんな。警察も振り回されずに済むし、何よりも、女房子供のためには一番だ。だが……、ついでに、これまでのことをチャラにしてくれったって、世の中、そう都合よくは運ばないぜ」
「わかってますよ。覚悟はできてます」
田中はきっぱり言った。
「ほう……。一体、何の覚悟だ?」
「今までのことを、包み隠さず、申し上げます」
「そうか……」
片岡は伏目がちに頷《うなず》いて、
「正直なところ、それを聞いて、ホッとしたよ。俺も多少の面倒を見た甲斐があるってもんだ。じゃ、そう伝えよう」
と言って、腰を浮かしかけると、
「何言ってるんです? 私は、旦那に申し上げたいんですよ。あのデカ長には、何の恩も受けちゃいません。それどころか、はっきり言って、恨んでいますよ。煙草一本、吸わせてはくれなかったんですからね」
「…………」
「旦那に喋《しやべ》れば、旦那の手柄になる。せこいやり方かも知れないが、それが私なりの、あのデカ長への鬱憤《うつぷん》晴らしです」
「なるほど……。だが、折角のお志だが、俺は手柄なんて欲しくない。そんなものは今更、邪魔っ気だ。ぶっちゃけた話、俺の場合、刑事見習いなんて、ただの呼び名でね。実質的には、臨時雇いの下働きだ。やはり、ここは手慣れたデカ長さんに任せた方が、そっちのためだよ」
と説得したが、
「へぇ、そうですかい。じゃ、私も喋らないことにします。実は、これは女房の考えでしてね。旦那に任せれば、間違いはないだろう、と言うんです。私だって、あんな血も涙もないデカ長にゲロするよりは、その方がいい。旦那が調書を取ってくれるんでしたら、喋ります。他のデカさんだったら、金輪際《こんりんざい》、喋りません」
と言うと、田中は腕組みして、口を真一文字に結んだ。
予想に反し、田中の希望≠ヘあっさりと受け入れられた。
安達も佐々木も、未解決の犯罪が解決するのなら、取調担当者の問題など、どうでもいい、という態度だったのである。こうして、取り調べは引き続いて、片岡が担当することになった。
翌日の朝九時から午後五時まで、片岡は田中とともに取調室にこもった。田中は約束通り、それまで犯してきた犯行を次々に自供していった。件数は、初日だけで、およそ五十件。盗犯第二係としては久しぶりの快挙だった。
夕刻、田中を留置場に送り届けて、刑事部屋に戻ると、数人のベテラン刑事が拍手した。他の刑事たちの眼差しも、昨日までのそれとは明らかに変化している。片岡は照れ笑いをしながら自席に向かった。
「お手柄ですね」
関根が笑顔で握手を求めてきた。
「安っ煙草を恵んでやっただけだよ」
片岡は仏頂面で答えた。しかし、悪い気はしない。
「謙遜《けんそん》無用。見事だ……」
安達も調書に目を通しながら呟《つぶや》いた。
「長さんは、早速、裏を取りに出かけましたよ」
関根が言った。
「裏を取りに?」
片岡は佐々木の席を振り返った。書類は片づけられ、茶渋に染まった茶碗《ちやわん》も見当たらない。
「ここには、いたたまれなかったんだろう。自分が何日もかけて、できなかったことを、昨日今日入ったばかりの見習い刑事に、あっさりと、片づけられてしまったんだからな」
安達はため息をついて、
「この前、片岡君に佐々木主任の鼻をあかして見ろ、とハッパをかけたが、まさか、本当にそうなるとは思ってもみなかった。結果論だが、たとえ冗談にせよ、佐々木主任には聞かせるべきじゃなかったな」
と言って、唇を噛《か》んだ。そして、
「まぁ、仕方がない。それより、片岡君」
安達は調書を閉じて、
「明日は、七つ道具に的を絞ってくれないか?」
「七つ道具、ですか?」
「そうだ。気がついていると思うが、奴の仕事の特徴は、必ず、金庫を狙《ねら》っているという点だ。金庫破りは特技なんだよ。七つ道具をどこに隠しているのか、聞き出してほしい。もし、その在りかを話すようだったら、奴の自供は本物だ。仮に、公判廷で自白を翻したとしても、動かぬ証拠となる」
「わかりました」
片岡は頷いた。刑事部屋の光景が、いつもとは違って見えた。
翌日、田中は片岡に問われるまま、七つ道具の隠し場所を自供した。そして、捜索の結果、自供通り、公園のトイレの天井裏から布に包んだドライバーやプライヤーなどの工具類が発見された。
次々に立証されていく未解決の事件。それは他署管内にも及んでいた。片岡はいつしか我を忘れて、田中の取り調べに没頭するようになっていった。
ところが、一通り、取り調べを終えたところで、片岡は突然、別の任務を与えられた。それは、昨年度の空き巣事件を季節別にデータ化するという任務である。明らかに、片岡を捜査から外すための方便だった。一方、田中の取り調べは、三たび、佐々木が当たることになった。
捜査方針は係の責任者が決定するものであり、一介の見習い刑事が口を差し挟む事柄ではない。かつて地域課で、何度も意見具申するたびに、冷たくあしらわれてきた片岡には、警察署上層部の官僚的体質には、すでに免疫ができていた。
にもかかわらず、見過ごすことができなかったのは、田中に対して、一段と厳しさを増した佐々木の態度と、日に日にやつれて行く田中の健康状態だった。
「なぜ、佐々木主任に調べさせるんですか?」
たまりかねて、安達に尋ねた。
「慣れているからだよ」
安達の答えは素っ気ないものだった。
「慣れてるからって、田中の顔色は普通じゃありませんよ。佐々木主任は腹いせに、何かしているんじゃないですか?」
「ほう……。まるで、保護者みたいな口ぶりだな。心配するな。佐々木主任はベテランだ。その辺のことは十分、心得ている」
「しかし……」
「煙草なら十分に吸わせているよ。あの野郎、女から差し入れられた金で、洋モクなんて吸っていやがる。顔色の悪いのは、そのせいかも知れんぞ。そもそも、田中が君に自供する気になったのは、煙草のせいなんだろう?」
安達は探るような目で言った。
「ええ、まぁ……」
片岡は伏目がちに答えた。
「だったら、何も心配することはない。それに、田中は自分の煙草を吸っているんだからな。吸いすぎて肺癌《はいがん》になったとしても、佐々木主任の責任じゃないよ」
「…………」
「確かに、田中を落とした[#「落とした」に傍点]のは君だ。だが、この捜査の責任者は俺なんだ。餅《もち》は餅屋に任せてくれ。一区切りついたら、いずれ君にも調べさせてやる」
と言って、安達は手元の資料に目を落とした。片岡は黙って引き下がらざるを得なかった。
数日後、ようやく安達から取り調べの許可が出た。待ちかねていた片岡は、すぐ留置場に向かった。
田中は憔悴《しようすい》していたが、片岡を見て、弱々しく微笑《ほほえ》んだ。
「大丈夫か?」
と声をかけると、
「ええ。何とか……」
田中はふらつきながら、鉄格子の外に出た。頬《ほお》はこけ、目の下には隈《くま》のようなものができている。
片岡は怒りに燃えていた。佐々木がどんな仕打ちをしたのか、一刻も早く、聞き出したかった。
だが、その目的は果たせなかった。取調室に入り、片岡がドアを閉めて間もなく、田中は突然、倒れたのである。驚いて、抱き起こしたが、机の端に額が当たったため、田中の顔は夥《おびただ》しい血に塗《まみ》れていた。
片岡はドアを開けた。すでに、異常に気づいた刑事たちが、駆けつけていた。
「救急車を呼んだ方がいいな」
人垣の後ろで、安達が言った。
「パトカーで運びましょう。その方が早いですよ」
片岡は電話に駆け寄り、受話器を掴《つか》んだ。
「聞こえなかったのか? 俺は救急車でいいと言ったはずだ」
安達は、ゆっくりと近づいて来て、片岡の受話器を取り上げた。
間もなく、救急車が到着したが、安達は片岡が付き添うことさえも許さなかった。その横暴な措置に、片岡は激しい怒りを感じた。
事と次第によっては、このままでは済まさない……。
片岡は拳《こぶし》を握り締めて、病院からの連絡を待ち続けた。刑事部屋にいる男たちは全員、敵のように思えた。中でも、最も許せないのが安達である。その安達は涼しい顔で、書類に目を通している。そして、その次に許せない男が……、と、刑事部屋に、その姿を探すと、
「大丈夫です。バッチリですよ」
と言いながら、佐々木が取調室から出てきた。
「そうか。そりゃ、よかった」
安達が微笑んだ。そして、片岡をじっと見つめて、
「話がある。ちょっと来い」
と言って、席を立った。
行き先は捜査資料室だった。安達はドアを開け、中に入るように目配せした。
「一体、何の用ですか?」
片岡は喧嘩《けんか》腰で尋ねた。
「まぁ、そう怒るな。仕方なかったんだ」
と言って、今度は佐々木に目配せした。
佐々木は資料室にあるテレビに近づき、ビデオデッキの再生ボタンを押した。やがて、その画面には、片岡と田中が映し出された。田中が取調室で負傷した時の映像である。
「なるほど。素人の俄《にわか》仕事にしては、よく撮《と》れている」
安達は満足気に微笑んでから、
「おそらく、このテープがなかったら、君は特別公務員暴行致傷罪で告発されていたぞ。まぁ、君が起訴されるかどうかはともかく、奴が自供した罪状について、弁護人は間違いなく、証拠能力に疑いあり、と主張してくるだろうな」
「…………?」
「まだ、わからんのか? 田中はわざと倒れたんだ。君に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せるためにな。額のケガは、その証拠というわけだよ」
「そ、そんな馬鹿な」
「まぁ、聞けよ。……例の七つ道具だが、あれは、田中の女が準備したものなんだ。おそらく、田中の指示だろう。女は金物屋を回って、買い物袋から卵を落としたり、商品棚につまずいて、売り物に疵《きず》をつけて、弁償までしている。なぜだと思う? 店員に買い物をした日時と品物、それに買った人間の顔を覚えてもらうためさ。後で、重要な証人になるからな」
「…………」
片岡は生唾《なまつば》を飲み込んだ。
「君にはショックだろうが、今回、田中は逃れられないと読んで、大博打《おおばくち》に出たんだ。手頃な相手を選んで、自白する。そして、その自白を法廷でひっくり返そうとした。いわゆる爆弾発言というわけだよ。『荒っぽい刑事に殴られ、自白を強制させられた』とね。例の七つ道具については、『在りかを言わないと、酷《ひど》い目にあわすぞ、と脅されたんで、女に準備させました。警察での自白は、あの暴力刑事の作文です』と涙ながらに訴える。当然、弁護人は金物屋の店員を法廷に呼んで、七つ道具を確かめさせることになるだろう。その結果、裁判官は、警察が用意した証拠は全く信用できない、という判決を下すことになるというわけだ」
「そ、そんな……」
「気持ちはわかる。この俺でさえ、一時、奴は本当に改心したと思った。だがな、ちょっと、ひっかかることがあって、念のために、佐々木主任に試し掘り[#「試し掘り」に傍点]をしてもらったんだ。すると、案の定、馬脚を現したよ。ある事件について、しつこく追及してみると、結局、奴は自供した。だが、ある事件とは、俺が創作した架空の事件だったんだ。奴は、なぜ、そんなつまらない嘘をつく? 後で、調書の内容をひっくり返す目的以外、考えられないじゃないか」
「…………」
「それで、七つ道具の方も、慌てて洗い直してみたというわけだ。金物屋は、あの女のことを覚えていたよ。尤《もつと》も、卵や商品をひっくり返したことより、二百円、三百円の買い物で、領収書を請求されたことが印象に残ったらしいがね」
安達はクスリと笑って、
「まぁ、君にも、いずれわかるさ。看守に確かめたが、奴はここ数日、出された飯に手をつけた振りをして、その実、こっそり同房者たちに食わせていたそうだ。おそらく、自分の体を衰弱させるためだろう。だが、病院に行けば、額の傷とともに、その証拠は残せたことになる。戻ったら、奴の態度は百八十度、変わっているはずだ」
「…………」
「卑劣極まる企《たくら》みだが、奴の立場にしてみれば、そうせざるを得なかったんだと思う。ここで長期の懲役刑でも食う羽目になったら、残された女房子供が路頭に迷うことになる。身から出た錆《さび》だが、奴は奴で、藁《わら》をも掴《つか》む思いだったんだろう」
と説明されても、片岡は半信半疑のままだった。
「心ならずも、君を騙《だま》した形になってしまったが、気を悪くしないでくれ」
佐々木が言った。
「率直に言わせてもらうが、片岡君は気持ちが顔に出る。まぁ、それだけ純粋で素直、ということなんだろうけど、刑事部屋は生き馬の目を抜くような所でね。つまり、何と言うか……、田中は勘の鋭い男だし、見抜かれたくなかったんだ」
「…………」
「わざわざ救急車を呼んだのも、そのためなんだ。パトカーなんかで運んだら、奴のことだ。また、どんな作り話を考え出すか、わからない。慎重に事を運ぶ必要があったんだよ。そんなわけだから、勘弁してくれ」
と言って、片岡の肩を叩《たた》いた。
しかし、それでもなお、片岡には信じられなかった。
病院から戻った、と、関根から耳打ちされても、片岡はすぐに留置場に行く気にはなれなかった。安達や佐々木の言葉を頭の中で繰り返しているうちに、次第に自信が揺らぎ、不安になってきたからである。
結局、片岡が腰を上げたのは、留置場で夕食が始まる頃だった。看守室の前で佇《たたず》んでいると、出てきた看守が、片岡を見て小さく頷《うなず》いた。すでに事情は承知している、という態度だった。
その看守に続いて、片岡は留置場に足を踏み入れた。そして、祈るような思いで、田中の入っている房を覗《のぞ》いた。
田中は安達の言う通り、旺盛《おうせい》な食欲を見せていた。表情も見違えるほど明るい。やがて、片岡に気づいた田中は、愛想笑いを浮かべて頭を下げた。片岡も笑顔を作った。
片岡が田中に声をかけなかったのは、気持ちが顔に出る、という佐々木の言葉が、頭の隅に残っていたからである。
片岡は重い足取りで留置場を出た。そして、そのまま、安達の席に直行すると、
「先程、ひっかかることがあった、とおっしゃいましたね? 一体、どういう点が、ひっかかったんです?」
「どういう点?」
安達は顔を上げ、しばらく片岡の顔を見つめていたが、やがて、一つ頷いてから、近くに寄るように手招きした。片岡は数歩前に出て、体を前傾させた。
「特別に伝授しよう。誰にも言うなよ」
と、囁《ささや》くように言った。片岡は頷いて、耳を澄ました。
「手錠だよ」
安達は言った。
「手錠?」
片岡は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「そうだ。君にも経験があるだろう? 告白する前というのは、心臓がどきどきするもんだ。寒空の下でも、脇《わき》の下や掌に汗をかく。ホシだって同じだよ。だから、手錠には、その痕跡《こんせき》が残る。つまり、ぬくもりが伝わるんだ。それに比べて、何か企んでいる奴は頭の中で考えているからな。心も体も冷めきっている。そういう奴の手錠に、ぬくもりはない」
「…………」
「嘘だと思ったら、確かめてみることだ」
数日後、拘置所に移送された田中が警察での自白を翻した、という連絡があった。安達はその日のうちに、すでに作成ずみの取調状況報告書とビデオテープを送付した。
その時以来、片岡は刑事部屋の出入口を気にしながら、仕事をするようになった。そして、手錠をかけられた容疑者が到着すると、そのたびに駆け寄り、留置場や取調室まで付き添った。
他の刑事たちは、担当でもない片岡に訝《いぶか》し気な顔を見せながらも、容疑者を預けた。片岡は手錠が外されるやいなや、そのぬくもりを確かめた。
「腰が軽くなったのは結構なことだが、愛想の方も、もう少し、よくはならないもんかな」
ベテランの刑事が苦言を呈した。しかし、手錠のぬくもりを確かめ、そして、首を傾げる片岡の耳に、その言葉が入ることはなかった。
[#改ページ]
第二話 恍惚《こうこつ》の刑事
片岡の見習い勤務は続いていた。
退職の意思に変化はなかったが、制服の時のように、辞表を胸に忍ばせることはできなかった。私服の内ポケットには警察手帳を携帯しなければならなかったからである。
そのことが、片岡に緊張感を失わさせ、妥協の心を生じさせていたのかも知れない。先輩格に当たる関根刑事のお茶酌み姿を目にすることが、次第に苦痛になっていった。そして、何時しか、渋々とではあるが、片岡は見習い刑事としての、この義務を果たすようになっていった。
お茶酌みは、まず早目に出勤することから始まる。全員の茶碗《ちやわん》を洗い、たっぷりと湯を沸かして、部屋の隅に立ち、刑事たちの出勤を待つ。そして、出勤してきたら、その座る席を見届けて、配置表で名前を確かめ、茶碗の裏底にマジックインクで書かれた同じ名前を探す。茶碗の数は三十から四十。署によっては五十を越えることもある。だが、いくら茶碗選びに手間取っても、中堅クラスの刑事までは苦労することはない。彼らの殆《ほとん》どは、朝の一杯≠ノそれほどこだわってはいないからだ。
しかし、ベテラン刑事が出勤するころになると、新米はパニック状態に陥る。彼らは椅子《いす》に腰を下ろすと同時に、茶碗が運ばれないと、不機嫌な顔を見せるからだ。おまけに、その茶碗には名前が書いてない。ベテラン刑事たちは、自分の茶碗の裏底に名前が書かれてあることを極端に嫌う。そもそも、先輩や上司の顔を一目見ただけで、直ちに、その名前、その席、そして、その茶碗を見分けられないようでは、刑事として使いものにならない、というのが彼らの持論だ。
お茶酌みには反発し、屈辱的な思いで茶碗を運んでいた片岡も、この体験に裏付けられた教訓的言辞の前には、口を噤《つぐ》まざるを得なかった。
その夜の一時すぎ、片岡は独身寮を出た。寮は署の六階。刑事部屋は一階である。
刑事部屋に明かりがないことを確かめて、片岡はドアを開けた。そして、部屋の隅に積み上げられた茶碗を机に並べ、その形と模様だけを見て、刑事の顔と、その席を思い出す訓練を繰り返した。上司や刑事たちに認められるためではない。お茶酌みに付き添っている関根刑事の負担を少しでも軽くしようと考えたからである。尤《もつと》も、物覚えの悪さをバカにされたくはない、というプライドがあったことも事実だったが……。
茶碗を見て、持ち主の名前と顔と机が思い浮かべられるようになったら、次は、その逆の訓練である。机を見て、その主の顔を思い浮かべ、茶碗を選ぶ。これらの訓練はシルエットを見て、都道府県名と特産物を言い当てるクイズによく似ている。簡単なようだが、結構、難しい。刑事たちの茶碗は土産物や引き出物が多く、色や形が酷似しているからだ。
この時も、ベテラン刑事の茶碗について、片岡は迷っていた。腕組みして、数個の茶碗に目を凝らしていると、
「感心、感心……」
と、後ろで声がした。驚いて振り返ると、盗犯第一係の竹村巡査部長が立っていた。反射的に縁の欠けた寿司屋の茶碗が脳裏に浮かんだ。ひびが入り、今にも割れそうなのが竹村の茶碗だ。勿論、その裏底に名前は書いてない。竹村は刑事課でも一、二の古株だった。
「せっかくだから、熱いのを入れてもらおうか」
竹村はゆっくりした足取りで自席に向かった。仮眠中にトイレに立ったついでなのだろう。肌着の上にジャンパーをはおり、素足にスリッパ履きという姿だった。片岡は手早く茶を入れ、竹村の前に運んだ。
「ありがとう。ま、その辺に座れや」
竹村は茶碗に口をつけた。静まり返った刑事部屋に、ぼろ布が裂けるような鈍い音が響いた。片岡が四、五メートル離れた椅子に腰を下ろすと、
「ちょうど、よかった。前から一度、聞きたかったんだが、いいかな?」
竹村は言った。
「はい。どうぞ……」
おそらく、見習いらしからぬ自分の態度に対して、苦言か皮肉でも言われるのだろうと、覚悟したが、
「書道というのは、やはり、大筆で練習した方がいいのかな? 別に俺《おれ》は、展覧会に出すつもりはないんだ。結婚式とか葬式に行って名前を書く時に、まぁ、年相応の字を書きたいと思っているだけなんだが……」
「…………?」
片岡には何のことかわからない。
「最初から小筆で練習した方が手っとり早いと思うんだが、やはり邪道なのかな?」
「あの、よくわかりませんけど」
と答えると、
「そんな意地悪言わないで、教えてくれよ。習い事に年上も年下もない。その道の達人が先生だ」
「達人……」
その言葉で、竹村が人違いしていることに気づいた。
地域課に書道三段という警官がいる。今年の正月、市主催の書初展覧会で審査員特別賞を受賞した若手の巡査だ。
「書道のことなら、私なんかより、地域課の岡田君に聞いた方がよいと思いますよ。何しろ、彼は市から表彰《ひようしよう》されるほどの腕前ですからね」
と、婉曲《えんきよく》にその誤りを指摘したが、
「……そっちが、表彰されたんじゃないのか?」
竹村はキョトンとした顔で尋ねた。
「違います。私は片岡ですよ。片岡幸男です」
「片岡?……。字のうまいのは?」
「岡田です」
「片岡と……岡田か。そうか、人違いか……」
竹村は首を捻《ひね》ってから、茶を一すすりして、
「書道をやったことはある?」
と、抑揚のない声で尋ねた。
「いいえ、小学校以来、筆なんか握ったこともありません」
「字には自信がある?」
「回りの連中は、ミミズがのたくったような字だと言ってます」
「ミミズ? そうか、ミミズか……。じゃあ、まだヘビの方が、マシなのかも知れんな」
竹村は低く呟《つぶや》いて、また茶碗を口元に運んだ。片岡は次の言葉を待った。しかし、竹村はそれ以上、何も言わなかった。十分ほど、茶をすすった後、
「ごちそうさん……」
と言ってから、両手で机を叩《たた》いて立ち上がり、骨董品《こつとうひん》のような茶碗を残して刑事部屋を出て行った。
深夜の努力の甲斐あって、お茶酌みも次第に手際よくこなせるようになっていった。だが、ささやかな満足感を覚える一方で、いつの間にか現状に慣れ親しんでいく自分に、微かな不安も感じた。
それは雑用に留《とど》まらない。人間関係においても同様だった。お茶酌みをするようになって以来、刑事たちから気軽に声をかけられるようになったし、時には酒場にも誘われるようになっていた。
「どうだい? 調子は」
今日の安達は、ガムを一枚差し出してきた。軽く会釈して受け取り、
「まあまあというところです」
片岡はそれを被害届の脇に置いた。地域課から届けられた被害届に目を通して、記載漏れをチェックし、分類整理するというのが、この日の仕事だった。
「屋根の下ばかりにいるのも退屈だろう。たまには表の空気でも吸ってみるか?」
安達は言った。
「外回りですか?」
「うん。実は、助《すけ》っ人《と》を頼まれている。一係長から、関根君を貸してほしい、という根回しがあった。だが、知っての通り、関根君は例の置き引きの捜査で、当分、手が離せない。それが片づき次第、検討するとは答えておいたが、俺としては、君なら勉強になるんじゃないかと思うんだ」
「はい……」
勉強のためとは思えなかったが、嫌だとも言えなかった。
「そうか。じゃ、頼むよ」
と言うと、安達は盗犯第一係のデスクの方を向いて、
「太田君。例の助っ人のことなんだが、片岡君でよかったら、すぐにでも出せる。係長にお伺いを立ててくれ」
「はい……」
太田は片岡を一瞥《いちべつ》してから、電話に手を伸ばした。
別室で会議中という係長との通話は、ほんの数秒で終わった。太田は受話器を戻すと、
「よろしく、ということです」
と言って、会釈した。
「そうか。じゃ、善は急げだ。ところで、竹村|御大《おんたい》は外かい?」
「……竹村?」
片岡は思わず呟いていた。
「うん。大ベテランだからな。得るところは大きいと思うよ」
安達が片岡を見て微笑《ほほえ》んだ。
太田によれば、竹村は正午に商工会館へ行く、とのことだった。
安達に急《せ》かされて、片岡はすぐに署を出た。商工会館は狛江《こまえ》署から歩いて十分ほどのところにある。
正午前に商工会館に到着し、玄関ロビーで立ったまま待ったが、竹村はなかなか現れなかった。やがて、受付嬢が交代し、それにつられるように、片岡もソファーに場所を変えた。
一時になっても、竹村は現れず、朝に封を切った煙草は空になった。片岡は本署に電話を入れたが、安達も太田も席を外していた。空腹のせいもあって、苛立《いらだ》ちが募っていく……。
やがて、再び、受付嬢の交代。そのうちの一人が片岡を見てクスリと笑い、もう一人に何事か囁《ささや》いた。片岡は堪《たま》らず、電話機のある場所に向かった。
鼻息荒くダイヤルを回してから、ふと奥のエレベーターに目を注ぐと、そこに竹村の胡麻塩《ごましお》頭が見えた。片岡は受話器を戻し、駆け出した。
「長さんっ」
思わず大声を上げていた。竹村は不思議そうな目で片岡を見て、
「君は、確か……」
「片岡ですよ」
「そうそう、そうだった。ここのランチに目をつけるなんて、なかなかの食通だな」
と言って、不揃いの脂《ヤニ》歯を見せた。
「違いますよ。私は長さんのお手伝いをしろと言われて来たんです。太田さんから連絡があったでしょう?」
「……俺の手伝い?」
一瞬、宙を見つめて、
「あっ、そうか。忘れていた。すまんすまん」
竹村は掌で自分の額を叩いた。
「いえ。いいんです……」
片岡は伏目がちに答えた。空腹のために胃袋が切ない音を立てた。
「そうかそうか。そりゃ、悪かった。実は、蕎麦《そば》屋の前で、ここの広報課長と鉢合《はちあ》わせしてね。そのまま、職員用のエレベーターで上がったんだ。奴の話に、つい夢中になってしまって……。受付に話しておけばよかったな。すまん」
「いえ。私こそ、館内放送でも頼めばよかったんです。気がつきませんでした」
と、頭をかきながら、食事は? という問いかけを期待した。しかし、
「じゃ、ぼつぼつ行こうか」
竹村は出口に向かって歩き出した。片岡は肩を落として、その後に続いた。
商工会館を出た竹村は、ゆったりとした足取りで商店街の通りを進んだ。
途中、スポーツショップの店先に並べられたバーゲン品を手に取ったり、電気店のショーウインドを覗《のぞ》いたり、まるで政治家が、年の瀬の商店街を視察しているかのようだった。
「私は何をすればいいんです?」
片岡は尋ねた。
「そんなに心配してくれなくてもいいよ。別に、俺は一人でも構わんのだが、近頃、係長が妙に心配し出してね。まぁ、階段を上っても息切れがする体たらくだからな。もしかしたら、行き倒れになるのを心配してくれているのかも知れん」
「…………」
「とは言うものの、もし、そんなことになったら、ひとつ宜《よろ》しく頼むよ。息を引き取ってから、野良犬なんかに小便をひっかけられたくはないからな」
「はぁ……」
「人間、一寸先は闇《やみ》だ。何が起こるかわからねぇ」
と言うと、
「明日ありと、思う心の徒桜《あだざくら》……」
竹村は奇妙な節の歌を口ずさみながら、魚屋に向かって片手を上げた。店の奥で捩《ねじ》り鉢巻《はちま》きをした男が、それに応えた。
その後、竹村は箒《ほうき》と塵取《ちりと》りを持った喫茶店の店主と路上で立ち話をした。話題はお互いの孫のことだった。三十分以上の長話だったが、おそらく、その店主が中から声をかけられなければ、二人の話はもっと長引いたことだろう。
更に、視察≠ヘ続いた。映画館の前にさしかかった時、
「最近、映画を見たことはある?」
竹村が尋ねた。
「いいえ」
と、首を横に振ると、看板を見上げて、
「この映画は面白いよ。一昨日、見たんだが、戦車に轢《ひ》かれる場面なんて、本当に轢かれているみたいだった。驚いたよ。外国物は、やはり違うな」
竹村は感心したように顎《あご》を引いた。一昨日の竹村は当直で、映画を鑑賞している暇はなかったはずである。
「今、何の捜査をしているんですか?」
片岡は尋ねた。
「何の?……」
竹村はチケット売り場を覗《のぞ》き込みながら、
「いろいろだな。下着泥から万引きまで、多すぎて、頭がこんがらがりそうだ」
「…………」
「まぁ、今は一応、一番新しい事務所荒らしに的を絞っているつもりなんだが、これが、てんで目星がつかない。宮川兄弟の手口に似ているし、角田の手口にも似ているんだが、三人ともお務めしているしな。さっぱりわからん……」
と言うと、
「チンプンカンプン空の下、闇夜の烏《からす》はどこかいな……」
今度は首を左右に振って、リズムを取りながら、奇妙な歌を歌った。
「どんな……手口なんです」
片岡はため息まじりに尋ねた。すると、竹村は足を止めて、
「それもそうだな……。近場だし、もう一回、現場を見てみるか……」
と、独り言のように呟《つぶや》いた。
商店街から路地裏に抜け、住宅街をしばらく行くと、堤防に出た。竹村は堤防の階段を上り、そこで、川の方に体を向けたまま、二度三度と深呼吸をした。
午後の多摩《たま》川は太陽の光を反射してきらめいている。平日の河川敷に人影はなく、グラウンドにはそよ風が渡っているだけだった。
ハッ、ウンッ、と喉《のど》を鳴らして痰《たん》を切ると、それをペッ、と草むらに吐き捨てて、竹村は堤防の上の遊歩道を歩き出した。相変わらず散策するようなゆったりとした足取りだった。風下を歩く片岡は、異様な臭いに思わず顔を顰《しか》めた。乳製品の腐ったような臭いである。それは明らかに竹村の体臭、或いは、身につけている衣類からのものだった。さり気なく進路を変え、むせかえるような異臭から逃れた。
遊歩道を二十分も歩いてから、竹村は左腕を上げて、あそこあそこ、と甲高い声を上げた。
その手の先に目を向けると、堤防沿いの道路脇に、モルタル造りの建物がある。両側を駐車場に挟まれた百坪ほどの建物で、敷地の入口に、上田商事、という三角形の立て看板が立てられていた。
付近に道路に降りる階段はない。竹村は堤防の草の斜面を駆け降りた。ホーホイホイホイ、と奇声を上げて駆け降りる様は、まるでサーカスのピエロのようだった。
道路を渡り、上田商事の敷地に入ると、竹村は正面の入口ではなく、建物の脇を通って裏手に回った。建物の裏側は幅十メートル、奥行き三メートルほどの空き地で、梱包《こんぽう》に使われた紐《ひも》や板切れが散乱している。奥に置かれた焼却炉からは煙が上がっていた。
竹村はノックもせずに、いきなり裏口のドアを開けた。一瞬の出来事だった。片岡は息をのみ、思わず後ずさりしていた。
案の定、大きく開かれたドアの向こうに、中年女の驚く顔があった。だが、竹村は一向に気に留める様子がない。片手をヒョイと上げると、
「この間は、御馳走《ごちそう》さま」
と声をかけ、ずかずかと中に入りこんで行った。少し間をおいて、片岡も後に続いた。呆《あき》れ顔をしていた女は、やがて複雑な笑みを浮かべ、視線を手元に落とした。
そこは倉庫のような部屋だった。壁沿いの棚には、数字が記された木箱が整然と並べられ、中央部の広い机の上には、荷造りされたダンボール箱が置いてある。
「所長さん、いる?」
竹村が親指を立てた。
「はい。おりますけど」
女は伝票に目を落としたまま答えた。
「お客さん、来てるの?」
「さぁ、どうでしょうか。私はずっと、こちらで仕事をしておりますので、わかりません」
「商売の邪魔しちゃ悪いと思ってさ。裏から入ったんだけど……」
「そうですか」
素っ気ない答え方だった。
「じゃ、ちょいと、覗いてみるか」
竹村は奥のドアを細目に開けた。事務機類の音に混じって、複数の人の声が聞こえる。竹村はドアを少しずつ開いて行き、やがて、大きく開くと、
「よぉっ、所長さん」
と言って、片手を上げた。
「これは……、刑事さん。いらっしゃい」
事務所で、男の声がした。
「お客さんがいちゃ、まずいと思ってさ。裏から入らせてもらったんだ」
竹村が言った。
「そんなお心遣いはご無用に願います。どうぞ表からお入り下さい。……おや?」
所長は片岡を見て、目を瞬かせた。だが、竹村は、そんな相手の反応は眼中にはないかのようだった。コートも脱がずに接客用のソファーに座ると、テーブルの上の煙草に手を伸ばし、火をつけた。
「どうです? 何か、捜査に進展はございましたか?」
所長が竹村の前に座りながら尋ねた。
「夏の高原の日の出前、というところかな」
「…………?」
「まだ霧の中だ」
「なるほど」
と苦笑して、
「ところで……、今日はどのようなご用件で?」
「今日? 何だっけ?」
と言って、片岡の方を振り向いた。片岡は返答に窮した。片岡自身、竹村が何のために事務所を訪れたのか、わからなかったからである。
「失礼ですが、こちらのお若い方は、やはり狛江署の?」
所長が尋ねた。
「こちらの?」
竹村は怪訝《けげん》そうに片岡の方を振り向き、
「そうそう、それだった」
と、掌で額を叩《たた》いて、
「所長さんに引き合わせしようと思って、連れてきたんだよ。こっちは、その……、うちの署の……、その……」
「片岡と申します」
と、堪りかねて自己紹介すると、
「そうそう、片岡君だ。今日から俺の手伝いをしてもらうことになってね」
「そうですか。ご苦労さまです」
所長は片岡に対して会釈した。
「一ト月ばかり前に、泥棒に入られたんだよ、ここは」
竹村が言った。すかさず、
「十日前ですよ、刑事さん」
所長が訂正した。
「そうだっけ?」
「十日前です」
と言って、カレンダーの方を振り返った。十日前のところに、×印がついている。
「そうか、十日前か……。他の事件と勘違いしていたかな」
竹村は内ポケットから、手帳を取り出し、頁《ページ》を繰った。そっと覗いてみたが、何も書かれてはいない。
「何でメモしなかったのかな……」
竹村は独り言のように呟き、首を捻《ひね》った。
「もともと、大した被害じゃないんですよ」
所長は片岡に言った。
「倉庫の方も荒らされましたが、泥棒は品物よりも現金が欲しかったんでしょうね。確かに、私共は健康器具の通信販売をしておりますけど、お客様からの現金が送られてくることはないんです。銀行の口座に代金を払い込むシステムですからね。従って、ご覧の通り、ここには金庫も置いてありません」
「すると、被害は?」
「小型テレビを一台、盗まれただけなんです。私が激安ショップで買った安物ですよ。従業員たちが昼休みにはテレビを見たいと言うものですから、ポケットマネーで買いました」
「…………」
「警察にお届けするかどうか、迷ったくらいなんです。でも、表のドアがこじ開けられていることを教えて下さった方は防犯協会の方でしてね。朝早くに、犬の散歩をされていて、気づかれたということでした。その方の強いお勧めもあって、遅ればせながら一一〇番させていただいたというわけです」
「なるほど……」
「まぁ、安物のテレビ一台で、ご多忙な刑事さんたちにまで、わざわざご足労いただくことになって、却って恐縮しておりますよ。他に、もっと重要なお仕事を抱えていらっしゃるんでしょう?」
と言って、所長は竹村を一瞥した。その口調に、片岡は単なる社交辞令とは別の響きを感じ取った。
「いやいや、そんなことを気にする必要はないよ。泥棒を捕まえるのは、俺たちの仕事なんだ。それで飯を食っている」
竹村は煙草を吹かしながら言った。
「そうですか。そういうことでしたら、まぁ、ひとつ宜《よろ》しく……」
所長は僅《わず》かに会釈して、窓の外に目をやった。
やがて、女子社員が紅茶とケーキを運んできた。竹村はそれを見ると、
「おっ、来た来た。何だ?……、今日はケーキか」
と言って、女子社員を見上げた。
「お嫌いですか?」
所長が尋ねた。
「いやいや、食べれりゃ、好物」
竹村は満面に笑みを浮かべて、早速、ケーキに手を伸ばした。
「そうですか。それは結構でした。仕事がありますので、申し訳ないんですが……」
所長が腰を浮かしかけた。
「どうぞどうぞ」
竹村はケーキを口に含みながら言った。その一部が口からこぼれ、テーブルの上が汚れた。
「冷や汗が流れたよ。いつもあんな調子なのかい?」
片岡が眉を顰《しか》めると、向かいの席の関根は周囲を見回してから、
「よくは知りませんけど、そういう話は、よく耳にしますね」
と、小声で答えた。
「一緒に動いたことはないの?」
「ええ。竹村長は、どういうわけか、一人で仕事をすることが多いですから」
「だろうな。あれじゃ、相棒が逃げ出すよ。紅茶は音を立てて飲むし、むしゃむしゃと音を立てて、ケーキを食う。おまけに、帰りがけに、俺の分のケーキをポケットに入れ、その上、俺が飲みかけの紅茶まで、一滴残らず飲み干した。後ろの方で、女子社員たちがクスクス笑っていたよ」
「そうですか。目に浮かぶようです」
関根が苦笑した。
「あの所長は明らかに迷惑がっていたよ。追い出されなかったのは、俺たちが警察の人間だからだ。おそらく、引き上げた後、塩を撒《ま》かれただろうな」
「…………」
「一体、あの長さんは、どういう事情でデカなんかになれたんだ? まさか、伯父《おじ》さんが捜査一課長だったというわけでもなかろう?」
「とんでもない」
関根は首を横に振って、
「今はあんなですが、竹村長の経歴は凄《すご》いんです。総監賞を何十本も受けているはずですし、トンプソン事件を解決に導いたのも、実は、竹村長の功績だという話ですよ」
「トンプソン事件って、あのトンプソン事件か?」
トンプソン事件とは、三十数年前、米陸軍のジェームス・トンプソン大尉が奥多摩《おくたま》湖において、溺死《できし》体で発見された事件である。様々な憶測を呼んだが、結局、事故死と判明した。海外でも話題になったこともあって、数年後に映画化され、鬼気迫る主人公の演技が話題になった。
「あの事件は目撃者の発見が解決の糸口になったわけですが、実は、その目撃者の存在を主張したのは竹村長だったそうですよ」
関根は続けた。
「焚《た》き火の痕跡《こんせき》から、それを見通したそうです。映画では、トンプソン大尉の交友関係や足取り捜査に重点が置かれていますけど、実際は脇役の聞き込みが事故死を証明したんだそうです」
「信じられん……」
片岡は首を捻って、
「竹村長は一体、焚き火の痕跡の何から、目撃者の存在を見通したんだ?」
「さぁ、それは知りません」
「竹村長に聞かなかったのか?」
「勿論、聞きましたよ。でも、はっきりしないんです。トンプソン事件のことは覚えているんですが、具体的な捜査経過については、うろ覚えで……」
「うろ覚え?」
「ええ……」
関根は再び、周囲を見回して、
「ここだけの話ですがね。元来、そうなのか、それとも、最近になって、そうなったのか、私にはわかりませんが、竹村長は半年前の事件経過についても、殆《ほとん》ど覚えていません。これは確かなことです。備忘録に記録しているようですが、その備忘録の保管場所も度忘れする始末ですからね。三十年以上も前に起きたトンプソン事件なんて、当時の備忘録が出てきたとしても、捜査経過を思い出すかどうか、怪しいもんですね」
「ということは、つまり、惚《ぼ》けてしまっているのか?」
「さぁ、どうでしょうか……。刑事部屋の一部には、そういう陰口を言う人もいるようですけど……」
関根は口を濁した。
翌日、竹村と共に街に出た片岡は、幾分、緊張していた。トンプソン事件のことを意識していたからである。
しかし、それでもなお、竹村から受ける印象は変わらなかった。歩きながら、何度もその風貌《ふうぼう》を盗み見たが、年齢を差し引いても、腕利き刑事の面影を見いだすことはできなかった。
日焼けした顔に薄い眉。小さな両目に丸い鼻。その穴からは必ず、二、三本の鼻毛が飛び出ている。鱈子《たらこ》のような厚い下唇は常に開き気味で、今にも涎《よだれ》が垂れそうだった。身に着けているコートは撫《な》で肩のために、奇妙に変形している。肩を揺らして歩くその様は、やはり、サーカスのピエロのようだった。
片岡には、自分の斜め前を行く貧相な小男が捜査本部事件に参加したということさえ、信じられなかった。
そして、この日の竹村の行動も、前日と変わるところはなかった。署を出ると、すぐに宝石店に入り、店主と一時間以上も世間話をした。十時すぎになって、その店を出ると、今度はデパートに立ち寄り、呉服売り場と子供用品売り場を見物した。結局、昼食はそのデパートでとることになった。
「何か、心配事でもあるの?」
竹村が楊枝《ようじ》を使いながら尋ねた。
「いえ、別に……」
「ならいいけど、もし何か用事を済ませたいんだったら、遠慮なく、そう言ってよ。俺の方は一向に構わないから」
「あの……」
片岡はしばし逡巡《しゆんじゆん》してから、
「トンプソン事件のことを、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
と、思い切って尋ねてみた。
「トンプソン事件?」
竹村はキョトンとした顔をして、
「ひょっとして、奥多摩で死んだアメリカ軍の下士官のことかい?」
「いえ、下士官じゃなく、大尉だったと聞いていますが……」
「そうだったかな……。ずいぶん昔のことだから、忘れちまった」
「陰の功労者は、実は、長さんだったというようなことを耳にしましたけど、本当なんですか?」
「さぁ、そんな手柄を立てた覚えはないけどな。一体、どんな手柄?」
「目撃者の存在を主張されたのは、長さんだったと聞いています」
「目撃者の存在?」
竹村の目が宙を泳いだ。
「覚えておられないんですか?」
「トンプソン事件のことは覚えているよ。確か、長女が生まれた年だった。難産だったけど、側にいられなくてな。女房には気の毒なことをした」
「…………」
「その子が今年、二人目の子を孕《はら》んでいるんだ。全く、年は取りたくないよ」
と言うと、急に顔を顰《しか》めて、
「十四も年上の風来坊と、駆け落ち同然に所帯を持ちやがって、その上、今度はアメリカ国籍を取らせたいから、アメリカで出産するんだとさ。混じりっ気なしの日本人が、何でアメリカの国籍が必要なんだ。俺にはさっぱりわからん……」
いつの間にか、話が脱線しているし、竹村は本気で腹を立てているようだった。
――惚《ぼ》けている……。
片岡は、そう思った。
昼食後、今度は喫茶店に入った。そこでも竹村は女主人と長話をして、時間潰しをした。女主人が遅い昼食のために店の奥に消えると、週刊誌とスポーツ新聞に隅々まで目を通した。そして、出し抜けに大《おお》欠伸《あくび》をすると、
「たまには七つ屋(質屋)にでも顔を出すか」
と呟いて、新聞を放り出した。その時、ポケットベルが鳴った。
「どうせ飲み会の誘いだろう。すまんが、時間と場所だけを聞いておいてくれ」
竹村は腰を上げて、奥のトイレに向かった。
片岡は赤電話を探した。ウェイターがドアの横を手で示した。
刑事部屋に電話すると、
「紅葉台《こうようだい》で空き巣だ。こっちの手は塞《ふさ》がっているから、竹村主任にご出陣願いたい、との係長命だ」
一係の太田が言った。紅葉台は二人のいる喫茶店からは三キロも離れている住宅街である。
「詳しい所番地を送って下さい」
片岡はポケットのペンを探った。そして、メモをし、受話器を置くと、
「会費のことも聞いてくれた?」
竹村が真後ろで、しわくちゃなハンカチで手を拭《ふ》いていた。片岡は伝言を伝え、メモした被害場所を読み上げた。
「そうか。じゃ、行こう」
竹村はドアに向かった。しかし、表に出た竹村は突然、本署とは反対方向に歩き出した。慌てて、駆け寄り、
「ど、どこへ行くんです?」
「どこへって、現場に決まっているだろう?」
「……歩いて行くつもりですか?」
「そう。いい天気だしな」
「いい天気って……。現場は紅葉台ですよ?」
「わかってる。慌てて向かったところで、どうせ泥棒は逃げてるよ。いまさら追いつこうったって無理な話だ」
竹村は事も無げに言った。片岡は唖然《あぜん》とするばかりだった。
事件が発生しても、竹村の行動に変化はなかった。もし、二人がネクタイをしていなければ、傍目《はため》には、休日の親子が午後の散策を楽しんでいるように映ったかも知れない。竹村は通りがかりの主婦や老人から声をかけられる度に、立ち止まりこそしなかったが、いちいち笑顔で受け答えをしていた。
近道をしたということだったが、現場付近に到着するまでは一時間近くが経過していた。そして、紅葉台の住宅街に入ると、竹村の歩く速度は更に遅くなった。片岡の脳裏には、苛立《いらだ》ちを募らせる被害者の顔が浮かんでいた。
「長さん。早くしないと、苦情が寄せられますよ」
片岡自身が苛立っていた。
「そうかい? じゃ、一足先に行って、つないで[#「つないで」に傍点]いてくれ」
竹村は生け垣の間から、建築途中の住宅を覗き始めた。
事件の通報者は、アパート住まいの女子大生だった。
ドアをノックすると、隣のドアが開いて、
「何でしょう?」
二十歳前後の娘が不安気な顔を見せた。
「こちらの部屋の方に用事があるんですが……」
片岡は警察手帳を呈示した。娘はホッとした表情を見せて、
「ずいぶん早かったんですね」
と言いながら、表に出た。
「……早かった?」
「ええ。電話では二時間くらいかかる、と言われたものですから……」
「そうですか……」
拍子抜けする思いだった。
「すぐ、お調べになるんですか?」
娘は言った。
「ええ。立ち会って下さい」
と告げると、娘は一旦《いつたん》、隣の部屋に引き返し、両手に軍手をして、再び現れた。おそらく、本署からの指示によるものだろう。その軍手を見て、片岡は手袋を所持していないことに気づいた。
「どうぞ……」
娘は自分の部屋のドアを開けた。しかし、刑事が素手で現場に立つわけにはいかない。片岡はしばらく、その場に佇《たたず》んでいたが、
「すみません。急いで来た、い、いや、うっかりして、手袋を落としてしまったようです。すみませんが、余分な軍手があったら、貸していただけないでしょうか?」
と、遠慮がちに言った。顔が赤くなっていくのが、自分でもわかった。
部屋は押入れの中まで物色されていた。盗まれたものは、机の中の現金四万円と記念のテレフォンカードが三枚。典型的なこそ泥被害である。
一通り、検分した後、被害者から事情を聞こうとした時、竹村がようやく現れた。
いつの間にか、その両手には白手袋をしている。どこで調達したのか不思議だった。だが、つい先程まで瘤《こぶ》のように膨らんでいた上着の胸ポケットが、今はへこんでいる。
竹村が常に白手袋を携帯していること、そして、上着やコートの膨らみ具合から見て、他にも、まだ捜査活動に必要な小物を携帯しているらしいことに、片岡はこの時、初めて気づいた。
「お嬢さん、ラクロスをやっているの?」
竹村が出し抜けに尋ねた。
「ええ。大学で」
娘が後ろを振り返った。本棚の横に、虫取り網のような奇妙な物が立てかけられている。しかも、その網の部分はズタズタに切り裂かれていた。
「ひどいことをするでしょう? 盗まれるより腹がたつわ」
娘が頬《ほお》を膨らませた。
「全くだな」
と頷《うなず》いて、
「ところで……、街の不良共に付け回されたことは?」
竹村が尋ねた。
「街の不良?」
「ちんどん屋みたいな車に乗っている悪ガキ共だよ。声をかけられたことはない?」
「そう言えば、しばらく前、男の子に声をかけられたことはあります」
「しつこくつきまとわれたんで、彼氏に送ってもらってきたことが、何度かあるだろう?」
「ええ。遅くなった時、送ってきてもらったことがあります。……なぜ、ご存知なんです?」
娘は目を瞬かせた。
「角の奥さんに聞いたんだ。たまには挨拶した方がいいよ」
「……どうして?」
「交通事故で亡くなった娘さんと同じ年頃なんだってさ。あんたを見ると、その娘さんを思い出すそうだ」
「…………」
「送ってきてもらうこともいいが、そうもいかない時もあるはずだ。そんな時、危ないと思ったら、知らない家でも遠慮することはない。飛び込んで助けを求めることだ。いいね?」
「はい」
娘は素直に頷いた。
「故郷は九州の福岡かな?」
またもや、突拍子もない質問。
「はい。そうですけど……」
「やっぱりそうか。都会に出てきて心細いかも知れんが、東京は田舎者の寄せ集めみたいな場所でね。この辺の住民は、殆どが上京して二十年、三十年という人たちばかりなんだ。親しい人が一人増えれば、この部屋を守る鍵《かぎ》が一つ増えるようなもんだ。これほど心強いものはないと思うよ」
と言って、にっこり微笑んだ。
竹村の現場活動は、捜査というより防犯診断に近いものだった。その後、娘に対して、鑑識係が到着するまで、隣の部屋で待つように言い残し、被害現場を後にした。現場に留まったのは三十分にも満たない。
――老いて、意欲なし……。
片岡は竹村の後ろ姿を見つめながら、そう思った。しかし、その直後、
「こりゃ、少年係のヤマだな。あれは有馬か、でなければ……、及川のグループの仕業だ」
竹村が呟《つぶや》いた。
「何ですって?」
片岡は耳を疑った。
「ラクロスのステックを見たか? 網がズタズタに切られていたろう。あれはおそらく、腹いせだよ」
「…………」
唐突で断定的な言い方に、片岡は言葉を失った。その真偽はともかく、たった三十分の現場観察だけで、容疑者の名を挙げたというのが驚きだった。
「あの悪ガキどもは、以前にも似たようなことをやっている」
竹村は言った。
「目をつけた娘の後をつけまわしちゃ、おっ払われ、その腹いせに塀に落書きしたり、窓ガラスを割ったりして、警察|沙汰《ざた》になっているんだ。近所の住民の話じゃ、ここ数日、妙な男がうろついていたそうだし、その人相が有馬によく似ている。もし、有馬でなければ、及川のダチ公だ。有馬に似てるのが一人いる」
「すると、長さんは……、何と言いましたかね。あの虫取り網みたいなものだけで」
と言いかけると、
「ラクロスのステックか? たぶん、あの娘が持ち歩いているのを連中は目にしていたんだろうよ。行き掛けの駄賃とばかりに、切り裂いていったんだ。連中なら、やりかねない」
「…………」
片岡は自分なりに現場の状況を思い返してみた。すると、急に疑問がわいてきた。
「長さんは、なぜ、あの娘が福岡の出身とわかったんです?」
「単なる山勘だよ。あの娘の言葉の調子が、コスモス≠フママさんと同じだったからな。そう思っただけだ」
「コスモスのママさん?」
「婦人洋品店のママさんだよ。昨日、君も挨拶したろう?」
「…………」
確かに、商店街で何人かに会っているが、はっきりとは覚えていなかった。そして、疑問がもう一つ。
「先程から、ラクロス、ということをおっしゃっていますが、ご存知なんですか?」
「勿論さ」
「そうですか……。私は知りませんけど」
と首を捻《ひね》ると、
「何だって?」
竹村は驚いたように振り向いて、
「スポーツショップのショーウインドに飾ってあったろう? 見なかったのか?」
「そうでしたかね……」
「テニスとホッケーを足して、二で割ったようなスポーツだ。最近、学生の間に流行《はや》っているらしい」
「どうも世情には疎いもんで……」
片岡は頭をかいた。すると、
「冗談じゃない。そりゃ俺のセリフだ。最近の若い連中の流行には、とてもじゃないがついていけない。時々、デパートや商店街を覗いて、勉強しているつもりなんだが、それでも、現場で恥をかくことがある」
「…………」
「世間知らずだった若い頃は、被害者から、大島|紬《つむぎ》とか、天目茶碗《てんもくぢやわん》とか言われても、さっぱりわからなかった。それで、呉服屋や骨董屋《こつとうや》を回って商品知識を勉強したよ。また、そういうことをしていると、思わぬ捜査情報が得られることも知った。気心が通じると、こっちを信用してくれて、そっと耳打ちしてくれることが何度もあったな。大抵、それで事件は片がついた。ところがだ……、三十をすぎるころになって、ようやく一人前になれたかな、と思ったら、今度は若者に人気の横文字商品というのが、さっぱりわからない。まぁ、世情に疎くては、デカなんか勤まらないし、乗り遅れないようにはしているつもりなんだが、最近の舌を噛《か》みそうなカタカナ言葉には参るよ」
竹村は苦笑しながら首を振った。片岡には返す言葉がなかった。
勤務解除になったら、仕事のことは忘れる、というのが片岡の主義だった。だが、この日、風呂に入って手足を伸ばしても、竹村の言葉が脳裏から離れることはなかった。
焦点の定まらない目で湯気を見つめていると、
「竹村長が、探していましたよ」
湯船に入って来た後輩が言った。
「……いつ?」
「一時間くらい前ですね。刑事部屋の前を通りかかったら、声をかけられました」
「刑事部屋? まだ残っていたのか?」
「そうみたいですね」
「用件は?」
「さぁ、わかりません」
「そうか……」
と言って、片岡は湯船に身を沈めた。しかし、数秒後、弾けたように、そこから飛び出した。
大急ぎで着替え、生乾きの髪のまま階段を駆け降りた。なぜ急ぐのか、自分でもわからない。ただ、重大なミスを犯し続けているような不安感が片岡を焦らせていた。
刑事部屋のドアを開けると、竹村は自席で電話中だった。片岡を見ると、笑顔で片手を上げ、次いで、書類を頭上にかざした。
小走りに近づき、その書類を受け取った。有馬哲男という未成年の供述調書だった。
「有馬……」
それは数時間前に、竹村が容疑者として予想した人物と同じ名だった。
片岡はむさぼるように、その供述内容に目を通した。被害者に無視された腹いせに、空き巣に入ったことを自供している。
「これは……」
と言って、竹村の顔を見ると、
「少年係に、あのアパートのことを話すと、目の色を変えてね。三十分もしないうちにしょっ引いてきたよ」
受話器を戻しながら、竹村が言った。
「あちらさんも、前々から目をつけていたが、決め手がなくて困っていたそうだ。有馬を調室に放り込んで、前置きなしに、はったりをかましたら、あっさりとゲロしたそうだよ」
「そうですか。恐れ入りました……」
片岡は畏敬《いけい》の眼差しで竹村を見た。
「俺もだよ。野郎のことだから、もう少し悪あがきするかと思った。少年係の連中も、なかなかやるな」
と、まるで他人事のように呟いた。そして、
「でも、そっちを探していたのは別の用事なんだ。実は、帰りがけにタレコミがあってね。以前から、病院荒らしのホシを追っているんだが、これに似た男がパチンコ屋で働いているらしいというんだ。ネグラもわかっている。俺は車の運転ができないし、もし、差し支えなかったら、助けてもらいたいんだが、どうだ?」
「はい。お供します」
「何か、用事があるんじゃないのか?」
「ありません。是非、手伝わせて下さい」
「そうか。じゃ、頼むよ。但し、ホシは五十キロの金庫を担いで、走って逃げるほどの力持ちだ。素直に同行に応じるとは思えんし、必ず踊る[#「踊る」に傍点]はずだ。そのつもりでいてくれ」
「任せて下さい。私は何の取り柄もない男ですが、腕っぷしだけには自信があります」
片岡は本音で答えた。
しかし、この夜、片岡がたった一つの取り柄≠発揮することはなかった。安アパートに住む無口な大男は、不況のために工場を解雇された妻子持ちの善良な市民だった。
男に人違いを詫《わ》び、だが、通報者には丁重に礼を述べて、二人は署に向かった。そして、署まで数百メートルという交差点に差しかかった時、
「どうせ、ついでだ。上田商事にも寄ってみるか」
突然、竹村が言い出した。
「上田商事? こんな時間にですか?」
片岡は時計を見た。すでに十時をすぎている。
「近所で聞いた話だが、あの所長は働き者でね。従業員が帰った後も、夜遅くまで残業しているそうだ。あんなことがあった後だし、こんな面《つら》でも、見せてやれば安心するだろう」
「でも……」
却《かえ》って仕事の邪魔になる、という言葉を、片岡はのみ込んだ。
「それに、見てもらいたいものもあるしな」
竹村は上着のポケットを探った。
「……何です?」
「似顔絵だよ。事件の二、三日前に、土手の上から上田商事を窺《うかが》っている不審な男を、ジョギング中の主婦が見かけている。鑑識に頼んで、似顔絵を作ってもらったんだ。ひょっとしたら、顔見知りの犯行ということもあり得る」
「…………」
「この前、見てもらおうと思ったんだが、ついつい甘味に夢中になって、忘れちまってな。あれ……、なくしたかな……」
竹村は体のあちこちを探った後、最後にズボンのポケットに手をやると、
「あったあった。こんなところに隠れていやがった」
と言って、小さく畳んだ似顔絵を開いて見せた。
「そうですか。じゃ、向かいます」
片岡は似顔絵を一瞥《いちべつ》しただけで、ハンドルを切った。
幹線道路から商店街を抜け、住宅街に入ると、道路の街灯だけが目立った。堤防沿いの道に出て、目的地に向かう。街灯が疎らなため、家々の屋根も定かには見えない。辺りは昼間見た風景とは様変わりしていた。やがて、ヘッドライトに、この先百メートル、という上田商事の案内板が目に入った。片岡は徐々にスピードを落とした。
「こっちは期待通りだったな」
竹村が微笑《ほほえ》んだ。上田商事の事務所には明かりがついていた。しかも、その前の僅《わず》かなスペースには、車が二台も止めてある。
車を下りた竹村は似顔絵を片手に歩き出した。そして、表の入口の前に立つと、例によって、ノックもせずにドアを開けた。
事務所には所長と中年の男女がいた。三人はダンボール箱を挟んで、何やら、話し込んでいる様子だった。だが、前触れもなく現れた竹村を見て、
「刑、刑事さん……」
所長の顔色が変わった。
「刑事?」
中年の男女も腰を浮かした。その目には畏怖《いふ》の色が浮かんでいる。
「ご精が出るね、ご苦労さん」
竹村は似顔絵を頭上にかざした。それと同時に、男が奥のドアに向かって走り出した。
「バカッ」
と、所長が叫んだが、後の祭だった。裏のドアは開かないらしく、男は体当たりを始めたのである。
「おやおや、こりゃ一体、どういうわけだ?」
と、竹村が呟《つぶや》く前に、片岡は走り出していた。逃げる相手は追う、という警官の条件反射だった。
建物の脇を通り、裏側に抜けた時、男が向かってくるところだった。
逃げ出した男は片岡を見ると、一旦、後ずさりし、裏庭の隅にある角材を掴《つか》んで、殴りかかってきた。避けようとしたが、その先端が額をかすめた。戦慄《せんりつ》が全身に走り、片岡は我を忘れた。気がついた時、男は片岡の膝《ひざ》の下で、罵声《ばせい》と悲鳴を交互に上げていた。
片岡は組み伏せた男を、取り敢えず公務執行妨害罪の現行犯で逮捕した。連れの女は竹村を押し退けて逃げたが、間もなく、パトカーに発見され、本署に同行された。
手錠をかけられた男は観念した様子だったが、女はわめき散らした。そして、所長は何を尋ねられても、沈黙を続けた。
三人の行動の背景に、何らかの犯罪が潜んでいることは確かだった。男を取調室に閉じ込めて数時間。明け方近くになって、驚くべき事実が判明した。
所長は多額の個人的負債を相殺《そうさい》するという条件で、関西系暴力団のヘロイン取り引きに手を貸していたのである。男の自供に基づいて確認したところ、ダンボールの中の健康器具のパイプから、合計十キロものヘロインが発見された。
こうして、些細《ささい》な事務所荒らしの捜査≠ゥら、重大犯罪が露顕し、しかも、スピード解決を見たのだった。
思いがけない結末だったが、検挙は検挙。翌朝、報告を受けた署長は上機嫌で、早々と金一封を二人に手渡した。
「私にはわからないんですよね」
その熨斗袋《のしぶくろ》を見つめながら、片岡は首を捻った。
「署長賞なんて、その程度の金額だよ。価値があるのは中身じゃない」
安達が笑った。
「いや、わからないのは、竹村長さんの中身です」
「竹村主任の中身だと?」
「ええ。正直なところ、私はずっと竹村長さんを見くびっていました。忘れっぽいし、仕事は適当だし、一般常識にも欠ける人間だと思いこんでいたんです。時代に乗り遅れないために、或いは、情報収集のために、商店街を冷やかして回っていたなんて、夢にも思いませんでしたよ」
「何だ、そんなことか。そんなことなら誰でもやっているよ」
「ええ。その点は不見識だったと反省しています。でも……、ノックもせずにドアを開けるようなことは、皆さんはしていないでしょう? 考えて見れば、ドアノックなんて単なるエチケットなんですよね。ノックをせずにドアを開けたからといって、違法じゃありません。単なる不作法ですよ」
「…………」
「ここのところが、よくわからないんです。もし、長さんがドアノックをしていたら、あの三人は捕まらなかったかも知れません。捕まるどころか、事件そのものが認知されなかったかも知れないんです。つまり、見かけ上は、竹村長さんの不作法が偶然、悪事を暴いたということになるんです」
「…………」
「でも、私には偶然の産物とは思えないんですよ。昨夜の竹村長さんの、何と言うか、あの呼吸は実に絶妙でした。ノックもせずに、いきなりドアを開けて、パッと紙切れを頭上にかざしたんです。脛《すね》に疵《きず》持つ連中なら誰だって、逮捕状か捜索令状だと思いこんでしまいますよ。……ひょっとしたら、竹村長さんは、全てを承知の上で、わざと不作法を装っているんじゃないでしょうか?」
と尋ねると、
「そりゃ買いかぶりだ」
安達は即座に首を振った。
「俺も何度か、冠婚葬祭に付き合っているけど、竹村主任の不作法は正真正銘の本物だよ。それに、忘れっぽさには定評がある。隣の署に忘れてきた傘を取りに戻って、今度は、カバンを忘れて来るというお人だ。昔から、そうだったらしい」
「…………」
「事件を忘れるのも早いよ。だが、不思議なことに、特定のことに関しては、驚くほど詳細に記憶している。いつだったか、現場検証をしていて、十年も前の事件との類似点を指摘して、周囲を唖然《あぜん》とさせたことがある。まぁ、不思議な点をあげるとすれば、むしろ、その種の記憶力だろうな」
「……忘れっぽい一方で、記憶力が優れているんですか?」
片岡には理解しがたいことだった。
「そうなんだ。彼を見ていると、記憶力のよさというのは、どういうことをいうのか、わからなくなるよ。また、礼儀正しさというのは、どういうことなのか、わからなくなる。無駄なことを覚えている能力なんて、邪魔なだけだし、真心のこもっていない形だけの作法なんて、却って無礼なだけだからな」
「まぁ、それはそうですけど……」
片岡は再び、首を捻った。すると、
「君はドアノックにこだわっているようだけどね」
安達が言った。
「そんなエチケットは元を辿《たど》れば、欧米の風習だよ。戦前生まれの日本人には馴染《なじ》みのないものなんだ。因みに、外国に行った日本人が、音を立ててスープを飲んだり、パジャマのままホテルの廊下をうろついて顰蹙《ひんしゆく》をかったのは、それほど遠い昔のことじゃない」
「…………」
「俺が若い頃なんか、ナイフとフォークの使い方を本なんかで勉強したもんだよ。人前でゲップをしては失礼だということを知ったのも、その頃だったな。とにかく、欧米人のマナーを知らなければ恥ずかしいと、本気で思いこんでいた」
安達は苦笑してから、
「だが、おそらく、竹村主任には、そんな経験はないだろうな。つまり、彼にとっては、エチケットを含めて、そういうことについては無頓着《むとんちやく》なんだ。たとえ、嘲笑《ちようしよう》され、軽蔑《けいべつ》されてもね。と言うより……、自分が嘲笑され、軽蔑されていること自体に気づいていないんじゃないのかな。だから、堂々としているのかも知れない。それに比べ、俺たちは傍目《はため》を気にして、ついつい遠慮したり、躊躇《ちゆうちよ》したりする」
「…………」
「彼にはそういう面での配慮というものがない。よく言えば、自分に正直。悪く言えば、自分勝手。その結果、どういう違いが生ずるかと言えば、俺たちは仕事以外の部分で、あれこれと余計な気を遣うが、彼の場合、全てのエネルギーを仕事のみに集中できるということになる。ひょっとしたら、不思議な記憶力の秘密は、そんなところにあるのかも知れんな」
「なるほど……」
片岡は頷《うなず》いた。ほんの僅かだが、竹村の輪郭が見えたような気がした。
片岡は熨斗袋《のしぶくろ》の裏に、日付と事件名、そして、竹村の名をメモしてから、それを引き出しの奥に入れた。その時、ノックもなく刑事部屋のドアが開いて、竹村が現れた。
くすんだ色の安物のスーツの下から、ワイシャツがはみ出している。皺《しわ》くちゃなハンカチで手を拭いているところを見ると、たぶんトイレで用を足してきたのだろう。そのまま、自席に向かうと、何やら、探し始めた。
「まだ、見つからないんですか?」
向かいの席にいる刑事が刺々《とげとげ》しい声で言った。
「うん……。どっかに置き忘れたようなんだ。さて、困ったぞ……」
と、頭をかいていたが、片岡には、さして困惑しているようには見受けられなかった。
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第三話 ニセ刑事
警察が最も忙しくなるのは週末の夜である。大人たちは深酒をして日頃の鬱憤《うつぷん》を晴らし、若者たちは、その大人たちの世界から解き放たれて羽目を外す。また、私的な揉《も》め事を抱えている人々が、問題解決を図ろうとするのも、なぜか週末の夜が多い。休日の前夜、街は流血の事態に発展する要素に満ちている。
しかし、平日の夜に関しては、今も昔も変わらない。殊に月曜日の夜ともなると、管内一|賑《にぎ》やかな交番の警官でさえ眠気を催すほど、街は静かである。
その月曜日の夜、片岡は初めて私服姿で当直勤務につくことになった。係長の安達も心得たもので、夜なべ仕事≠言いつけてから帰宅した。印刷されたばかりの捜査資料に表紙をつけて、ホッチキスで綴《と》じ、それを三百部ほど作る仕事である。
片岡は夕食直後から、この単純作業に取りかかり、午前零時前には全て完了していた。後は仮眠室に入り、起こされるまで眠るだけだった。
接客用のソファーに寄り掛かり、就寝前の一服をしていると、廊下の方で、平和な夜には似つかわしくない靴音がした。
やがて、ドアが開いて、
「手が空いているのなら、一人、面倒見てくれないか?」
強行犯担当の栗山刑事が言った。
「事件ですか?」
片岡は煙草を揉《も》み消した。
「うん。だが、君は世間話をしてくれるだけでいい」
「世間話?」
「新井の親父さんだよ。また一人、とっ捕まえたそうだ」
「新井……」
片岡は思わず舌打ちした。
新井なる人物は刑事でも警官でもない。今年五十六歳になるクリーニング屋の主で、狛江《こまえ》署では最も有名な管内住民である。ゴルフや釣りは勿論、博打《ばくち》や女道楽は言うに及ばず、酒や煙草さえもやらないという男で、唯一《ゆいいつ》の趣味が犯罪者を捕まえるということだった。署長からの感謝状は十数枚に及んでいる。署員は新井のことを、賞状稼ぎと呼び、本人も、そう呼ばれることを喜んでいた。
「それで、今夜は一体、どんな生ゴミ[#「生ゴミ」に傍点]を運んできたんです?」
片岡は尋ねた。
「下着泥棒だ。住居侵入も絡んでいる。親父さんによれば、常習者らしいということだ」
「なるほど。ものが下着じゃ、商売|敵《がたき》とは言えませんね」
と笑ってから、
「それで、親父さんはこっちに向かっているんですか?」
「もう来ているよ。例によって、起き番の連中に武勇談を聞かせている。向こうが終わり次第、ここに押しかけるぞ」
「やれやれ、またハッパをかけられそうですね」
「全くだ。来たら、調室に閉じ込めて、表に出さないようにしてくれ。あの声でがなられたら、こっちの仕事が捗《はかど》らないからな」
「でも、それはちょっと、自信がありませんね。相手があの親父さんじゃ、間が持ちませんよ」
片岡が渋面を作ると、
「何、耳栓でもして、黙って座っていりゃいいんだ。親父さんの方は話題には事欠かないよ。相づちさえ打っていれば、朝まででも持つさ」
と言って、栗山は奥の取調室に入り、容疑者を迎え入れる準備にかかった。片岡はそこから最も離れた取調室のドアを開け、新井が現れるのを待ち受けた。
片岡に限らず、狛江署に着任して、最初に挨拶を交わすことになる人物。それが新井だった。
新井は新任の警官が着任したことを知ると、いち早く、青と白のツートンカラーの営業車で、その警官の元を訪れる。得体の知れない相手には名刺交換しない警官も、新井の場合だけは例外だ。自分の名刺を差し出し、簡単な自己紹介をして敬礼する。あらかじめ署の幹部から、丁重に応対するように、と言い含められているからである。
新井にとって、この名刺交換は重要な意味を持っていた。顔を覚えてもらわなければ、犯人確保の際に支障をきたす、というわけだ。このことは、数年前、自転車泥棒を追跡中、新米巡査に行く手を遮られ、犯人を取り逃がしたという苦い経験に基づいている。
片岡は以前から、この新井が苦手だった。ずけずけと物を言い、気配りというものを知らない。単に、それだけなら、笑って聞き流すこともできるが、新井の言葉には、往々にして正鵠《せいこく》を射ていることが多かった。それは他の警官に対しても同様である。街を歩いている時、遥か彼方に新井自慢のツートンカラー車を発見して、素早く物陰に身を隠すのは、片岡だけではない。
「片さんやーい。生きてるかー」
廊下の方で、靴音とともに、耳障りな濁声がした。片岡は思わず顔を顰《しか》めていた。
その数秒後、勢いよくドアが開いて、新井が現れた。片岡は挨拶代わりに片手を上げ、手早く茶を入れた。
「あれ? ホシは?」
新井は刑事部屋を見渡した。
「安心しろよ。今、栗山刑事が一生懸命、調べている」
「そう。栗さんが捌《さば》いてくれているの。じゃ、そんなに手間はかからないな……」
新井は奥の取調室に向かいかけた。
「おっと、待った……」
片岡は新井の袖《そで》を掴《つか》んで、
「あんたはこっち」
と、用意した取調室に誘った。
新井が下着泥棒を捕まえた五日後――。
当直予定だった刑事に弔事があって、片岡は急遽《きゆうきよ》、代わりを務めることになった。この交代の背景には、日勤の刑事たちがすでに帰宅していたという事情があった。
平日ならまだしも、土曜日の当直代行は有り難くない仕事だった。仮眠は勿論、食事も取れないほど多忙を極めるからである。
重い足取りで、刑事部屋のドアを開けると、そこはすでに修羅場の様相を呈していた。
十二、三名の被疑者被害者が群れを成し、刑事たちがその間を足早に行き交い、電話は鳴り続け、取調室では怒号が飛び交っている。脂ぎった男たちの顔、酒の臭い、額や腕の包帯に滲《にじ》む血の色……。片岡は思わず逃げ出したい衝動に駆られた。
「片岡、よく来たっ。ホシを頼むっ」
強行犯担当の係長が手を大きく上げ、取調室の方を指さした。まるで、嵐《あらし》の海で助けを求める遭難者のようだった。片岡はその取調室に駆け込み、暴れている男に組みついた。
二時間後。刑事部屋はようやく小康状態を取り戻しつつあった。だが、片岡が最後の被疑者を留置場に引き立てようとした時、突然、警報ベルが鳴り響き、続いて、署内放送が不審火事件の発生を告げた。
殆《ほとん》どの刑事がすぐに現場に向かった。一握りの刑事が署に留まったのは、事件処理を先送りできなかった事情による。その刑事たちも一人、また一人と、刑事部屋から消えて行く。
こうして、広い刑事部屋には、片岡一人だけが残ることになった。事件が起きてほしくない、と念じたが、そんな時に限って、厄介な事件は起きる。
突然、目の前の電話が鳴り出した。ベルが十回続いても、鳴りやむ気配がない。根負けして、受話器を取ると、
「傷害のホシを、一般人が捕まえてきているんですが……」
受付の警官が言った。
「一般人? また、新井の親父か?」
と、舌打ちすると、
「違います。被害者の知り合いのようです」
「そうか……」
ホッと胸をなで下ろして、
「で、傷害の程度は?」
「わかりません。今、病院だそうです」
「じゃ、関係者をこっちに来させてくれ」
単なる傷害事件なら、何とか処理できるような気がした。とは言え、念のために、引き出しの奥から捜査手続きの虎の巻を取り出し、そのポイントを確認……。よしっ、と頷《うなず》いた直後に、ノックの音がした。
顔を上げると、ドアのところに三人の男が立っている。制服警官の付添いはなかった。
「さて、おイタをしたのは、どなた?」
と尋ねたが、誰も返事をしない。三人のうち、二人は工員風の中年男で、片岡の顔をじっと見つめている。もう一人はサラリーマン風の初老の男で、ハンカチで顎《あご》を押さえていた。おおよその見当はついたが、
「黙っていちゃわからないよ。ケガをさせたのは、どいつだ?」
と、もう一度尋ねると、
「この野郎だよ」
口髭《くちひげ》を生やした工員風の男が、サラリーマン風の男の肩を押し出した。
「そうか」
片岡はその男に近づき、腕を掴んで、取調室の中に入れた。男は椅子《いす》に腰を下ろすと、机の上に両腕を置き、その上に顔を伏せた。
「ところで、ケガの程度は?」
片岡は二人に尋ねた。
「相当、ひどいな。入院することになるかも知れん」
赤ら顔の男が言った。
「そんなにひどいのか?」
「ああ、ひどいね。何しろ、ビール瓶で頭を四、五回は殴られている」
「ビール瓶で頭を?……。まさか、命に別状はないだろうな?」
「さぁ、どうかな。医者じゃないからわからないよ」
「尤《もつと》もだ。じゃ、医者に聞いてみることにしよう。どこの病院に担ぎこまれたんだい?」
「知らないね」
「知らない?」
「ああ、救急車が来たが、俺《おれ》たち二人は、あの野郎に掛かりきりだったからな。今にも逃げ出しそうだったんで、目が離せなかった。……なぁ」
と、口髭の男に相づちを求め、
「そうそう。凄《すご》いバカ力だったしね」
その男が大きく頷いた。
「なるほど」
片岡は電話に手を伸ばした。
消防庁に連絡して、けが人の収容先を確かめた。さらに、病院の看護婦に問い合わせると、被害者は治療中だが、ケガの程度は軽傷とのことだった。
「よかった。大したケガじゃないらしい」
と言って、受話器を戻すと、
「だからといって、あの男の罪が消えるわけじゃない」
赤ら顔の男が言った。
「その通りだ。そこで頼みなんだが、あんたたちのどっちかが病院に行って、ケガ人を連れて来てもらえないかな?」
「いやいや、それには及ばないよ」
赤ら顔の男は首を横に振って、
「奴さんは、出るところへ出て、シロクロをつけると息巻いていたからな。這《は》ってでも来るよ。心配することはない」
「そうか、わかった。じゃ、こっちは加害者の調べにかかることにするよ。あんたたちは、受付のソファーで待っていてくれないか?」
と、手をドアの方に差し出すと、
「何で?」
二人は、ほぼ同時に言った。
「何でって、見ての通り、ここには俺一人しかいない。部外者を刑事部屋に残して、取調室にこもるわけには行かないんだ」
「へぇー、そんなことを言って、まさか、あの男をこっそり釈放するつもりじゃないだろうな?」
口髭の男が言った。片岡は笑って、
「それこそ心配するなよ。釈放するにしても、裏口から帰すようなことはしない。身柄引受人を呼んだ上で一筆入れさせ、正面玄関から帰す。とにかく、後は警察に任せろ」
「いいだろう。だが、念のために言っておく。あの野郎は、俺は刑事だ、なんて、大見得をきって、逃げようとしたんだ。これだって、立派な犯罪になるんだろう?」
「刑事を名乗った?」
片岡は取調室の方を振り返った。
「ああ。確かに、そう言った。だから、警察手帳を見せろ、と言ってやったら、いきなり駆け出したのさ。それで、とっ捕まえてやったんだ」
「わかった。そのことも調べる。他にも何か、ご希望がおありかな?」
と尋ねると、二人はしばらく、お互いの顔を見合わせていたが、
「別にない……」
口髭の男が答えた。
二人を刑事部屋から追い出して、片岡は取り調べにかかった。
予想に反して、加害者は素直に犯行を認めた。男の名は牛山辰雄 五十三歳。冷凍食品会社の総務係長だった。
接待の後、たまたま目についたスナックに入り、カウンターの客と些細《ささい》なことで口論、殴り合いになったと、この夜の経緯を説明した。そして、
「酔った上でのこととは言え、私が人を殴ったことは間違いありません。また、逃げたい一心で、刑事だと名乗ったことも事実です。この上は、潔く罪を償います」
牛山は深々と、頭を下げた。
前科前歴はなく、罪を認め、反省の態度も見られる。身元も勤務先もはっきりしており、留置する必要はないように思われた。
しかし、肝心の被害者が、いつになっても、姿を見せない。片岡は受付で待っているはずの二人に事情を聞こうと、取調室のドアを開けた。
ところが、二人は刑事部屋にいた。しかも、課長席の机の上を覗《のぞ》いている。
「何をやってるんだっ」
片岡は思わず怒鳴った。その声に二人は一瞬、ひるんだ表情を見せたが、
「受付の人が、ここで待っていてもいい、と言ったんだ」
口髭の男が言った。
「仮に、そうだとしても、机の上まで覗いていいとは言わなかったろう?」
「覗いちゃダメだとも言わなかったぜ」
「そんなことは常識だろう」
と、二人を睨《にら》みつけてから、
「それより、被害者はどうしたんだ?」
片岡は詰《なじ》るような口調で尋ねた。
「さぁ、来ないところをみると、入院じゃないのかな?」
「軽傷でか?」
「頭のケガだからな。見た目より重傷だったんじゃないの」
まるで他人事のような口ぶりだった。
「全く……。あんたら、それでも友達なのかい」
片岡は首を振りながら、電話に手を伸ばした。そして、病院に問い合わせてみると、更に呆《あき》れる事態が片岡をうんざりさせた。
患者はすでに治療を終え、一時間以上も前にタクシーで帰宅した、という回答だったのである。
「おいおい、随分、様子が違うようだぞ」
片岡は二人の方を見て、
「這って警察に向かうどころか、タクシーに乗って家に帰っちまったとさ。頭を殴られたんで、まさか、忘れちまったわけじゃないだろうな……」
と、皮肉たっぷりに告げると、
「でも、事件の目撃者はここにいるよ。あの野郎がビール瓶で殴るところを、俺たちははっきりと見ているんだ」
赤ら顔の男が向きになった。
「この場合、目撃者がいても、証拠のビール瓶があっても、肝心の殴られた頭がなきゃ、どうにもならない」
片岡は煙草に手を伸ばした。
「ということは、つまり……、釈放するのか?」
「今夜のところは、一応、そういうことになるな。警察としては、被害者の出方待ちということになる」
「そんなバカな……」
赤ら顔の男が甲高い声を上げ、
「それはおかしいっ」
口髭の男は喧嘩《けんか》腰で言った。
「いい加減にしろよ」
片岡は火をつけたばかりの煙草を揉み消して、
「あんたらは一体、何なんだ? ケガ人は這ってでも来るとか、出るところへ出ると息巻いていたとか、太鼓判を押しただろう? ところが、このざまだ」
「…………」
「そもそも、ケガ人がわめき立てても、それを宥《なだ》めるのが、あんたたちの役目じゃないのかい? いい年の大人が喧嘩して、片方だけが清廉潔白ということで済むとでも思うのか? そんなことは、分別盛りの大人なら誰でもわかることだ。ケガ人は、それを悟ったから、警察に来るのを思い留《とど》まったんじゃないのか?」
と、まくし立てると、
「何だか、こっちが悪いことをしたみたいだな……」
口髭の男が不貞腐《ふてくさ》れた顔で言った。
「ああ。俺も段々、そんな気がしてきたよ。いいから、もう、帰ってくれ」
片岡は顎《あご》をドアの方へしゃくった。
「わかった。だが、何と言われようと、このまま、うやむやにしないからな」
二人は取調室の方を一睨《ひとにら》みしてから、刑事部屋を出て行った。
「全く、街の保安官、花盛りだ」
片岡は首を振りながら、取調室に向かった。
片岡の取り扱った些細な傷害事件は、その日の当直勤務の序幕にすぎなかった。
不審火事件捜査の最中に、まず幼女の拉致《らち》容疑事件が発生した。この事件は、別居中の母親の仕業と判明して事なきを得たが、ホッとする間もなく、隣接署管内で拳銃発砲事件が発生し、狛江署にも緊急配備がかかった。次いで、マンションの屋上で自殺志願男。その説得中に、多摩川で夜釣りをしていたサラリーマンが溺死《できし》体を釣り上げた。
死体を引き上げ、本署に運ぶころ、夜が白々と明け、それに合わせるかのように、街も静けさを取り戻していった。しかし、それで当直勤務の幕が下りたわけではない。
刑事部屋に戻ると、片岡の机の上に事件処理簿が置いてあった。宵の口に発生した傷害事件の概要を記入せよ、という無言の指示である。片岡はボールペンを執った。何日も前に発生した事件のような気がした。
軽微な事件の場合、被害者の意思が警察の対応を左右すると言っても過言ではない。つまり、片岡が最初にすべきことは、被害者に対して、加害者の刑事責任を追及するかどうか、その意思を確認することだった。
「もう出勤しましたけど……」
電話に出た被害者の妻は、消え入りそうな声で言った。
「出勤? 日曜日に、ですか?」
「はい。客商売ですので、火曜日が休みなんです」
「なるほど。ところで……、昨晩、ちょっとしたトラブルがあったんですが、奥さんはご存知ですか?」
と尋ねると、
「ええ……。存じております」
「それについて、ご主人は何かおっしゃっていませんでしたか?」
「別に、何も申しておりません」
「そうですか。では、勤務先を教えて下さい。私が直接、お聞きします」
「…………」
しばしの沈黙があって、
「あの、それだけはご勘弁下さい」
と、辺りを憚《はばか》るような声で言った。
「ご勘弁? どういうことです?」
「はい。会社の方にはご内分にお願いしたいんですが……」
「奥さん。勘違いされてはいませんか? ご主人は罪を犯したわけではないんですよ? 被害者なんです」
「ええ、わかっています。でも、うちの人も悪かったんだと思います」
「そうかも知れませんが、ケガを負われたのは、ご主人の方です」
「いえ、ケガと言うほどのケガじゃありません。大したことはないんです。どうか、今度のことは、お目溢《めこぼ》し下さい。もう二度と、ご迷惑はおかけしませんから……」
まるで、加害者の妻のような口ぶりだった。事件処理する上では好都合だったが、気がかりな点が一つ。半年も経ってから、蒸し返されることだ。
「しかし、奥さん。相手を訴えないにしても、それなりの意思表示をしていただかなければなりませんよ。よろしいですね?」
「……意思表示?」
「そうです。警察へ出頭して、その旨の供述をして下さい。もし、お忙しくて出頭できないようであれば、上申書でも結構です」
「上申書? それは……どこに頼めばよろしいんでしょうか?」
「人に頼むんじゃなく、ご主人が書けばいいんです。便箋《びんせん》でも半紙でも、白い紙なら何でも結構です。昨夜《ゆうべ》の事件に関しては、今後、一切、相手側に対して訴えることをしない、というようなことを書いて、署名し、判子を押すだけでいいんです」
「わかりました。それをお届けすれば、お目溢しいただけるんですね?」
相手は最後まで加害者の態度のままだった。片岡は苦笑して、
「そうです。できるだけ早く、刑事課の片岡|宛《あて》に送って下さい。送っていただけないことには、いつまでたっても、事件は継続中ということになりますよ」
と念を押し、相手の返事を確かめてから、電話を切った。そして、事件処理簿の備考欄に、当事者の意思により和解、と殴り書いた。
殆どの場合、これで一件落着となる。もし、そのまま何事もなく一ト月もすぎていれば、おそらく、この些細《ささい》な事件は、片岡の記憶に残ることはなかっただろう。なぜなら、同じ夜に発生した幼女拉致騒動や自殺志願男、更には、溺死体を引き上げた時の印象の方が、遥かに強かったからである。
だが、十日も経たないうちに、片岡は苦い思いで、事件を振り返らなければならなかった。
その日、昼食後の一服をしている時、片岡は突然、加害者である牛山の訪問を受けた。不意の来訪に戸惑いながら、椅子を勧めると、
「先だっては、ご迷惑をおかけしました」
牛山は菓子折を差し出し、深々と頭を下げた。
昼の光で見る牛山は背筋もピンと伸びて、酒臭を漂わせた先夜の牛山とは別人のようだった。
「何はともあれ、丸く収まり、こちらもホッとしております」
片岡も頭を下げた。傷害事件の加害者といえども、和解して十日近くも過ぎてしまえば、善良な市民ということになる。
「実は、そのことなんですが……」
固い表情で牛山は言った。
「滝沢さんは、まだ、納得されていないようなんです。本日は、そのご相談をするために参上しました」
「何ですって?」
片岡は引き出しを開けて、滝沢から届けられた上申書を取り出した。それは事件の翌々日、滝沢の妻が片岡に渡すようにと、受付に預けていったものだった。
片岡は改めて、その文面に目を注いだ。傷害事件について、何の請求もしないという旨を確約し、末尾には、滝沢正信という署名と印が押してある。
「私は先日、このような念書を受け取っていますが……」
と言って、それを差し出したが、牛山は見向きもしなかった。
「刑事さんを前に、甚だ申し上げにくいんですが、もし、この度のことについて、滝沢さんの方に、何らかの要求があるのでしたら、私は応じるつもりでいます。ですから、滝沢さんに圧力をかけないようにお願いしたいんです」
「何ですって?」
片岡は身を乗り出して、
「誤解しないで下さい、牛山さん。私は圧力なんて一切、かけていませんよ」
「しかし、刑事さんは、そのおつもりでも、無言の圧力というものがあります。おそらく、滝沢さんは、その圧力に耐えかねて、表面上は、やむなく訴えを取り下げたんだと思います」
「表面上? すると……、何らかの要求があったんですか?」
「申し訳ないんですが、それにお答えするつもりはありません」
「なぜです?」
「私にも生活というものがあるんですよ。もうゴタゴタから逃れたいんです。それだけのことですよ。申し上げにくいことですが、警察のお心遣いは、はっきり言って、有難迷惑なんです。ですから、私と滝沢さんのことについては、どうか、もう放っておいて下さい。本日は、そのことをお願いするために参上したんです」
牛山は思い詰めた表情で言った。些細な事件が深刻な事態に発展していることは明らかだった。
「牛山さん。どうか話して下さい。何があろうと、この念書がある以上」
と言いかけると、
「私は干渉しないでもらいたい、と申し上げているんです」
牛山が語気荒く、片岡の言葉を遮った。
「私が年|甲斐《がい》もなく、酔って喧嘩をしたのは事実なんです。そもそも、ケガをさせたのに、治療費も払わずに済むなんてことが、この世知辛い時代に、あるはずがないんです。それなのに、ついつい、甘えてしまいました。私は治療費、それに慰謝料を支払う意思があります。最初から、そうすべきだったんです」
「…………」
「断っておきますが、今後、どのようなことになっても、私は刑事さんのご希望には添いかねます。将来、私は何らかの取り引きをすることになるでしょうが、それは私の意思で、そうすることです。どうか、誤解なさらないようにお願いします」
と言って、牛山は腰を浮かしかけた。
「ち、ちょっと、お待ち下さい」
と、立ち上がった時、
「片岡くーん」
十メートルも離れた席で、間延びした声がした。見ると、ベテランの刑事が受話器を頭上にかざしている。
「は、はい」
片岡は会釈をして、牛山の方を振り向いた。しかし、すぐに、
「至急だとさー」
と、追加の声がかかった。
電話は受付からだった。用件は、先日の溺死体の遺族が来署しているので、現場まで案内してもらいたい、というものだった。またもや、当直絡みである。
「今、こっちはそれどころじゃない。他の人に頼んでくれ」
と、断ろうとしたが、
「頼めるようだったら、とっくに頼んでいますよ。他の人は捕まらない[#「捕まらない」に傍点]んです。詳しい場所を知っているのは、片岡さんしか在署していないんですよ」
「そう言われても、困るよ」
「そこを何とか頼みますよ。遺族の方は遥々《はるばる》、外国から見えているんです。休暇を取って、何千キロも飛行機を乗り継いできたそうなんです。お願いしますよ」
受付の係員は、今にも泣き出しそうな声で言った。
「わかったよ……」
片岡が渋々、承諾すると、
「至急、お願いします。線香を上げた後、新幹線で、静岡の実家に向かう予定だそうですから」
受付は念を押した。
受話器を下ろして、自席の方を振り返ると、いつの間にか、安達が牛山の相手をしている。片岡は慌てて、その側に向かった。
「急用なんだろう? 俺が引き継ぐよ」
安達が言った。
「でも……」
「いいから、行け」
安達は面倒臭そうに言った。
「じゃ、お願いします」
片岡は受付へ走り出した。急いだのは遺族のためではない。早く戻って、牛山の説明を聞きたかったからである。
ところが、廊下に出たところで、クリーニング屋の新井と鉢合わせした。
「片さん。元気?」
新井は片腕を横に出して、行く手を遮った。
「ああ、何とか、生きてるよ」
と、そのまま足を進めたが、
「待ってくれよ。ちょっと、話があるんだ」
新井が腕を掴《つか》んできた。
「今、急いでいる。後にしてくれ」
その手を振り切ろうとしたが、
「大事な話なんだよ」
新井は離そうとはしない。
「こっちも大事な用事なんだ」
「そう言わずに聞いてくれ。どこかへ行くんなら、俺が送ってもいいから」
新井はしつこかった。
「それには及ばない。いいから、離せっ」
と、力をこめて腕を引くと、袖《そで》の破ける音がした。あっ、と声を上げて、新井が手を離したが、
「離せと言ったろう!」
片岡は怒鳴っていた。新井の顔から笑みが消えていた。
「いい加減にしろ! こっちは遊んでいるわけじゃないんだ!」
と、一喝して、片岡は受付に向かった。
腹を立てたのは、新井に対してだけではなかった。収拾したはずの些細な事件が蒸し返されたこと。警察の介入を有難迷惑がる牛山。何事かを企《たくら》んでいるらしい滝沢。その解明を妨げる突然の雑用……。それら全てが腹立たしかった。
溺死者の遺族を川辺に案内し、その後、近くの駅へ送り届けて、片岡は本署に向かった。遺族が線香を手向《たむ》けている時も、そして、車代と称する封筒を押し返している時も、牛山のことが脳裏から離れることはなかった。
あの後、二人の間に何があったのか……。
片岡は一刻も早く、それを聞き出したかった。
渋滞の道路も片岡を苛立《いらだ》たせた。すでに一時間以上が過ぎている。
やっとのことで署に到着すると、片岡は走って刑事部屋へ向かった。そして、牛山が残っていることを念じながら、ドアを開けたが、すでにその姿はなく、安達だけが一人、自席で書類に目を通していた。
「牛山さんは……帰ったんですか?」
片岡は息を切らしながら尋ねた。
「うん、帰ったよ」
安達は素っ気ない口調で答えた。だが、牛山は安達とも会話を交わしている。
「何か……話してはいきませんでしたか?」
片岡は安達の顔色を窺《うかが》った。
「まぁね。初めのうちは何だかんだと、泣き言を並べていたが、結局は、事の次第を説明していった」
安達は手にした書類を放り出し、
「君は一体、どんな事件処理の仕方をしたんだ?」
と言いながら、傍らの事件処理簿を手元に引き寄せ、真新しい付箋《ふせん》のついたページを開いた。その付箋は要注意というレッテルでもある。漠然とした不安が脳裏をかすめた。
「牛山さんは罪を認めましたが、被害者側が事を荒立てないよう希望しましたので、事件扱いにしませんでした」
片岡は答えた。
「なるほど。じゃ、君にしてみれば、和解成立、解決済み、ということで、問題はないというわけだ」
棘《とげ》のある言い方だった。
「はい。……牛山さんは何と?」
片岡は遠慮がちに尋ねた。
「尾行をされているらしい」
「尾行?」
「そう、尾行だ。勿論、警察からじゃない」
「すると……、滝沢にですか?」
「さぁ、その滝沢なる人物が関与しているかどうか、まだわからん」
と首を振ってから、
「ところで、牛山氏は二人の男に突き出されたんだって?」
「はい。滝沢の知り合いに突き出されたんです」
「尾行しているのは、そのうちの一人らしい」
「ええっ?」
片岡は耳を疑った。
「口髭《くちひげ》を生やした男だそうだ。自宅から会社まで、一、二度。日曜日にはゴルフ練習場まで、ついてきたそうだ」
「…………」
「牛山氏はあれこれと考えて、ノイローゼになっちまったとさ。まぁ、自分で言うんだから、大したことはないとは思うけど、放っておくと、あれは本物になっちまうぞ」
「しかし、滝沢は上申書を書いて……」
と言いかけて、片岡は口を噤《つぐ》んだ。表面上の和解、という牛山の言葉を思い出したからである。
「その上申書は、おそらく、女房が勝手に書いて、持ってきたんだろうよ。君の机にあるのを見せてもらったが、あれは女の筆跡だ。気づかなかったのか?」
「……はい」
と答えたが、嘘《うそ》だった。気づいてはいたが、片岡は代筆と判断し、そして、代筆でも差し支えないと思っていたのである。
「俺は、その点が気になって、すぐに滝沢氏の女房に電話しようとしたんだが、思い留まった。もし、牛山氏の言うように、滝沢氏が何か良からぬことを企んでいるとしたら、こっちの動きを教えるようなもんだからな。藪蛇《やぶへび》になり兼ねない。それで、念のため、滝沢氏本人について調べてみた。君は調べていなかったようだからな」
「はい。被害者ですから、その必要はないと思いまして」
と言い終わる前に、
「調べるべきだったな。滝沢氏には、傷害と暴行の前歴がある」
「何ですって!」
片岡は驚きの声を上げた。
「つまり、君の事件処理は穴だらけだ。君は加害者から供述調書を取っただけで、事件を全く把握していない。たかが全治三日間の傷害事件だと、高をくくったんだ。被害者から直接、事情を聞くこともしなかったし、前歴の調査もしなかった。被害者は常に弱者。弱者は常に善良な市民、と錯覚した。その上、突き出してきた二人の名前も住所も聞かなかった。お蔭で、未《いま》だに、どこの誰かもわからない」
「すみません。その……、あの日は忙しくて、それに酷く疲れていて」
と、言い訳を口にした時、
「甘ったれるな! 君以外の当直は、もっと忙しかったし、疲れていたんだぞ!」
安達が真っ赤な顔をして、怒鳴った。片岡は思わず、直立不動の姿勢を取っていた。それまで騒がしかった刑事部屋が、水を打ったように静まり返った。
「と、まぁ……、こんな風に、新井の親父さんを怒鳴りつけたんだって?」
安達は一転して、静かな声で言った。片岡は答えることができなかった。安達の激怒する姿は、日頃温厚なだけに、すさまじい迫力と凄味《すごみ》があった。
「新井の親父さんは大事な用がある、と言ったろう?」
安達は続けた。
「は、はい……」
片岡は辛うじて答えた。
「親父さんは、情報を提供しに来てくれたんだよ。配達の合間に、わざわざ立ち寄ってくれたんだ」
「…………」
「親父さんの話では、しばらく前、見慣れない客が店に来たそうだ。コートとスーツをクリーニングに出して、そのついでに世間話をしていったそうだよ。親父さんの唯一の趣味を聞きつけてきたんだろうな。いろいろ話していったそうだ。お定まりの景気のことや、交通渋滞のこと。話は自然に信号機のサイクルのことから、当然、交通取り締まりのことに発展する。そして、警察のことや、そこで働く署員のことになって、ついには、片岡という刑事の話にも及んだそうだ」
「……私の?」
「そう。君の話もだ。親父さんは、そのことが気になったんで、知らせに来たんだよ。君のことを心配してくれたんだ。それなのに、頭ごなしに怒鳴りつけるとはな……。可哀相《かわいそう》に、親父さん、しょげ返っていたぞ」
「すみません……」
片岡は頭を下げた。
「俺に謝るのは筋違いだよ。それより、親父さんの話は実に興味深かった。何しろ、その見慣れない客というのは、中年の二人連れだったということだからな」
「中年の二人連れ?」
「そう。中年の二人連れだ。そのうちの一人は口髭を生やしていて、これが、牛山氏を尾行した男に実によく似ている」
「すると……、やっぱり、滝沢と組んで?」
「そうかも知れん、だが、ただの恐喝にしては、一連の動きが解せない。なぜ、牛山氏を尾行したり、新井の親父さんのところへ行く必要があるのか……。その辺のところが、さっぱり読めない」
「…………」
「俺としては、まずそれを突き止めたい。そこで、君にやってもらいたいことがある。当日の例の二人の言動について、できるだけ正確に思い出してもらいたいんだ。言葉、仕草、服装、態度……。何から何まで、どんな些細なことも漏れなく全部だ。それを報告書にまとめてくれ」
「はい」
「ただし、予断や推測を加えるなよ。事実のみを書いてくれ。実は、新井の親父さんにも、全く同じことをメモしてくれるように頼んである。君も早速、かかってくれ」
と言うと、安達は再び、事件処理簿に目を落とした。
片岡は報告書の作成に取りかかった。
またもや、引き出しの奥から、こっそり虎の巻を取り出し、その作成例を真似て、一気に書き上げた。
そして、それを提出すると、
「……傲慢《ごうまん》な態度、だと? 何だい、こりゃ」
安達が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「あの二人は終始、捕まえて来てやったんだ、というような態度でした。私が質問しても、そのたびに面倒臭そうに」
と、説明しかけると、
「それは君の単なる印象だろう? そもそも、捕まえて来てやったんだという態度の、どこが傲慢なんだ。捕まえて来ました、と言って、土下座でもしろってのか?」
安達は皮肉な口調で言った。
「い、いえ。そうは思いませんけど、しかし……」
「書き直しっ」
安達は報告書を放り出した。書いたばかりの報告書は机の上を滑って、床の上に落ちた。
その一時間後。今度は、指摘されたことを念頭に、指図通りに書き直したつもりだったが、
「……午前十一時だと? 君は昼前から当直についていたのか?」
安達は冷やかな目で尋ねた。片岡は身を乗り出して、目を凝らした。
「そ、それは、午後です。午後の間違いです」
単純な書き間違いだった。しかし、手を伸ばす前に、報告書は床に落ちていった。
三回目も四回目も同じだった。安達は内容の誤りを発見した時点で、報告書を投げ返し、決して最後まで目を通そうとはしなかった。
そして、五回目。全十五ページに及ぶ報告書を手に、片岡は安達の前に立った。推測と予断を排し、誤字脱字についても、念入りに点検したつもりだった。
「自信がありそうだな……」
安達は薄笑いを浮かべながら、報告書に目を落とした。片岡は固唾《かたず》を呑《の》んで、それを見守った。まず、一ページ目はクリア。そして二ページ、三ページ……。しかし、四ページ目にかかった時、安達は三ページ目に戻り、片岡を見上げた。
「二人の男を甲と乙に分けるのは、捜査書類だけでなく、一般社会の書類にも、よく使われる様式だ。だが、この程度の報告書、しかも内部向けの報告書の場合は、それぞれの特徴を選んで、単に、口髭の男とか、赤ら顔の男、とした方がわかりやすいんじゃないかな?」
「でも……」
実は虎の巻を参考にした、とは言えない。片岡は口を噤《つぐ》んだ。
「変に格好をつけようとするから、アホみたいなミスをする。これもそうだ。途中で、甲と乙が入れ代わっている」
「ええっ?」
と言って、片岡は身を乗り出した。
「君には報告書そのものの意味がわかっていないようだな。何度注意しても、内容が推測と予断に満ちている。文面に表れていなくても、あの二人に対する敵意が見え見えだよ。こんな報告書は参考にならない。読み手の判断を狂わすだけだ」
と言うと、安達は爪《つめ》の先で、報告書を止めてあるホッチキスの針を抜き始めた。そして、
「どうやら、君を買いかぶっていたようだ。今回は、メモでいいよ。新井の親父さんのように、自分で見聞きしたことを、そのまま、何も考えずに、箇条書き方式でメモにしてくれ。捜査報告書なんか、おこがましい」
と言うと、報告書を片岡の頭上に投げ上げた。ホッチキスの針の抜けた報告書は、バラバラの紙片になって宙を舞い、床一面に散乱した。
嘲《あざけ》りの言葉を浴びせかけられ、屈辱的な仕打ちを受けても、片岡は腹が立たなかった。元々、捜査書類は苦手だったし、事件処理を誤ったことは、紛れもない事実だったからである。悔しさも反発も感じなかった。その分、侘《わび》しい思いだけが募った。
片岡は記憶を辿《たど》り、客観的な事実だけをメモしていった。字が書ければ、五歳の子供でもできる簡単な作業だったが、雑念がわいて捗《はかど》らない。
「こっぴどくやられたそうだな?」
主任の佐々木が、心配そうな顔で覗きこんできた。
「私がアホみたいな報告書を書いたからです」
片岡は自虐的に笑った。
「それで、また、書き直しか?」
「いいえ。私には報告書は無理だから、メモでいいそうです」
「……メモ?」
「はい。箇条書き方式のメモです。まぁ、これなら、私にもできますから」
「おいおい、まさか、本気で書くつもりじゃないだろうな?」
佐々木は片岡の隣に腰を下ろして、
「一体、どんな報告書を書いたんだい? 見せてみろよ」
「もう捨てました」
「捨てた? どこへ?」
「そこのゴミ箱です」
と、顎で部屋の隅を示すと、
「また、あっさりとしたもんだな……」
佐々木は呆《あき》れ顔で立ち上がり、ゴミ箱の中を覗きこんだ。そして、丸めて捨てた報告書を拾い出すと、一枚一枚、丁寧に机の上へ広げていった。
「そんなことをしないで下さいよ、長さん。その報告書はダメなんですから」
片岡が手を伸ばすと、
「そうだとしても、何も捨てることはない。せっかく書いたのに、勿体《もつたい》ないよ」
佐々木は片岡の手を振り払った。
「捜査書類は自転車と同じだ。コツを覚えるまでは転ぶ一方だが、一旦《いつたん》、覚えてしまえば鼻唄《はなうた》まじりにスイスイこなせる」
「…………」
「俺も昔は酷《ひど》い目にあったよ。一生懸命書いて、上司に差し出すと、すぐに呼びつけられて、紙縒《こよ》りを抜かれてね。……紙縒りって、知ってるか?」
「ええ。紙で出来た糸みたいな物でしょう?」
「そうだ。その紙縒りを抜かれて、書類を一枚一枚、目の前で細々に破かれた挙げ句に、窓の外へポイだよ。その後、何と言われたと思う?」
「さぁ……」
片岡は佐々木の顔を見た。
「ちゃんと掃除しておけ、だとさ」
「…………」
「悔しくてね。歯を食いしばって、勉強したもんだ。勉強するったって、その当時は、業は盗むもんだ、とか何とか言って、いちいち、教えてくれない。それで、よく資料室にこもっては、名人と言われたデカさんの書類を片っ端から暗記したもんだよ」
佐々木はしみじみとした口調で言った。
「俺だけじゃない。ここにいる連中は、みんな似たり寄ったりの経験をしてきている。たぶん、これから先も、そうじゃないのかな。いくら方向感覚に優れていても、自転車に乗れない出前持ちなんか、使いものにならんからね」
「…………」
「じゃ、始めようか。まず、基本的な書式からチェックしてみよう。千里の道も一歩からだ」
佐々木は皺《しわ》だらけの報告書を束ねて、それを片岡の前に置いた。
翌朝、まだ誰も出勤していないうちに、片岡は十ページに満たない報告書を安達の机の上に置いた。それは、佐々木のアドバイスを受けた後、自室に戻り、一晩かけて書き上げた苦心の作だった。何度も書き直したために、その一語一句に至るまで、頭の中に入っている。
しかし、間もなく出勤した安達は、報告書を一瞥《いちべつ》しただけで目を通そうとはしなかった。片岡は密《ひそ》かに、別に作成したメモを取り出し、最悪の事態に備えた。
その後、しばらくして、受付から一通の封筒が届いた。新井からのメモである。この時になって、安達はようやく、片岡の報告書に手を伸ばした。そして、しばらくの間、報告書とメモに目を凝らしていたが、
「ちょっと来い」
安達が指を鳴らして片岡を呼んだ。すぐにメモを持参すると、
「ようやく、謎《なぞ》が解けたぞ」
安達が微笑んだ。
「謎、ですか?」
「そうだ。いいから、その辺に座れ」
安達はもどかし気に言った。
「はい……」
片岡は素早く椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「まず、このメモを見ろ」
と言って、新井が書いたメモを差し出した。
そこには、片岡の身長から言葉遣い、更に、宿直当夜に身につけていた服のことまで書かれてあった。
「これは一体……」
片岡は安達を見た。
「自分のところじゃない。君以外のメモに大ヒントが隠されている」
「私以外のメモ……」
片岡は再び、メモを追った。
二宮という交通係長、芹沢《せりざわ》というヤクザ、身長が百九十センチもある警官、小太りで目の横に黒子《ほくろ》のある警官……と、メモは続いている。
「二宮なんて署員はいませんね。芹沢というヤクザも聞いたことがありません。この……身長百九十センチというのは、おそらく警備係の河野君のことでしょう。それに……、小太りで目の横に黒子というと、保安係の北村主任ですね。それとも、婦警の本多さんのことかな?」
と首を捻《ひね》った時、その数行後にあるメモが目に入った。
「……牛山という刑事?」
片岡は目を瞬かせた。
「やっと、行き着いたな」
安達は片岡の報告書を捲《めく》りながら、
「そのメモと、この報告書を読んだ上で、一連の経緯をじっくり考えれば、誰でも謎は解ける」
「…………」
「二宮とか、芹沢とか、のっぽの警官とか、小太りで黒子とか言うのは、目眩《めくら》ましの質問だよ。でないと、自分たちの狙《ねら》いが、警察に筒抜けになってしまう……と、二人は考えた」
「…………」
「二人の目的は、たった一つ。牛山という刑事の存在を確認することだったんだ。だが、それだけを質問すれば、新井の親父さんは警察に出入りしているから、そのことを警察に話してしまうかも知れない。それじゃ、自分たちの目論見《もくろみ》がバレてしまう。だから、虚実織りまぜて質問したのさ」
「そうか!」
片岡は思わず叫んでいた。
「そういうことだよ。二人は滝沢氏が殴られてケガをしたから、牛山氏を突き出してきたんじゃない。牛山氏が、俺は刑事だ、と名乗ったから、警察に突き出したのさ。しかも、ニセ刑事としてではなく、酔っぱらった現職刑事という確信を持ってだ。おそらく、あの二人と滝沢氏は、それほど親密な間柄じゃないと思う。断定はできないが、スナックで、たまたま一緒になった客同士というところじゃないかな」
「…………」
「牛山氏を突き出すと、案の定、片岡という刑事は、その酔っぱらいを留置もせずに、釈放した。身内だから、こっそり逃がした、というわけだ。そこで、この揉《も》み消し事件を明らかにしようと考えた。動かぬ証拠を揃《そろ》えた上で、新聞社にでも電話しようと思ったんだろう」
「…………」
「その手始めに、まず新井という警察に詳しい男のところに、客を装って近づいた。あれこれ世間話を続けながら、それとなく、牛山という刑事について尋ねたが、狛江署員ではないことがわかった。じゃ、他の署の刑事だろう、ということになった。尾行したのは、暴力刑事の勤務先を突き止めるためだ」
「しかし……、二人は牛山氏の自宅を、どうやって突き止めたんでしょう? 私は教えていませんよ」
片岡は首を捻った。
「突き出す前に、ポケットを探って運転免許証でも見たか、或いは、釈放後から尾行を始めたか……。ひょっとすると、その両方だったかも知れんな」
「なるほど……」
と、苦笑すると、
「牛山氏にとっちゃ、笑い事じゃ済まされないぞ。滝沢氏も危うく災難に遭うところだった。もし、担当刑事が牛山氏の言い分だけを鵜呑《うの》みにするようなあわて者だったら、前科者ということだけを根拠に、恐喝の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》で引っ張られるところだったんだからな」
安達は険しい目で片岡を見た。
「ええ……。とんでもない間違いをするところでした」
片岡は肩をすぼめた。
「すんでのところで、後味の悪い思いをしなくて済んだな。で……、これから、どうしたらいいと思う?」
「……どうしたら?」
「対策のことだよ。このまま放っておくわけにはいかないだろう」
「私には、とても思いつきません……」
片岡は唇を噛んだ。
「そうか。じゃ、宿題ということにしてやるよ」
「宿題?」
「君の扱った事件だからな。一応、明日の朝までに対策を考えてこい。もし、まともな対策を考えつかないようだったら、この事件は、佐々木主任に引き継いでもらうことにする」
「…………」
「だがな。自分の事件が捌《さば》けなくて、同部屋の誰かに引き継いでもらうなんて、デカとして、これほど恥ずかしいことはないんだぞ。事情はどうあれ、掠《かす》り傷程度の傷害事件も満足に捌けないとなれば、部屋の連中は、そういう目で君を見るし、また、そういう態度で接するようになるだろう。もし、それが嫌だったら、今夜一晩、死に物狂いで考えてこい」
安達は厳しい口調で言った。
その日は食事も喉《のど》を通らなかった。
それは宿題≠ニいう重圧のためだけではない。軽率な事件処理への後悔と、新井の善意を踏みにじった罪悪感からだった。
自室に戻り、深夜になっても、片岡はため息と舌打ちばかりを繰り返していた。部屋の天井や壁に、急に息苦しさを感じ、自室を出たのは、午前一時すぎのことである。足は自然に屋上に向いた。
空には月が輝き、夜風が心地よかった。片岡はフェンス際のベンチに腰を下ろし、夜の街を見下ろした。そして、そのまま、朝を迎えた。
小鳥の囀《さえず》りに追い立てられるようにして、階段を下り、自室に戻った。部屋の明かりを消し、窓のカーテンを開けると、目覚まし時計がけたたましく鳴り出した。片岡は思わず苦笑し、出勤の支度にかかった。
安達の出勤は時間通りだった。自席に座ると、いつもの通り、昨夜発生した事件と、この日の予定を確認して仕事に取りかかった。その表情や態度は、まるで宿題≠忘れてしまったかのようだった。茶を差し出しても、ありがとう、と言うだけだったし、署長室での朝の会議から戻っても、片岡を呼びつけることをしなかった。
片岡が戸惑いながら、その前に進み出たのは、出勤してから二時間もすぎてからのことだった。
「あの……、昨日のことについてなんですが……」
と、恐る恐る声をかけると、
「事件処理のことか?」
安達はペンを動かしながら尋ねた。
「はい……」
「そうか。で、何か、名案は浮かんだか?」
「いえ、名案と言えるほどではありませんが、一応、考えてきました」
「よし、聞いてやる。話してみろ」
安達は顔も上げずに、ペンだけを、ひょいと片岡の方にしゃくった。
「関係者全員に来てもらうことにします」
片岡は言った。安達は頷《うなず》きもしない。
「その席で、加害者から被害者に正式に謝罪してもらいます。更に、例の二人に対しても、手間をかけさせたわけですから謝罪してもらいます。謝罪の証《あかし》、つまり、熨斗袋《のしぶくろ》の中身については、牛山氏の判断に任せたいと思います」
と言って、反応を窺うと、安達はペンを止めて、
「被害者はともかく、あの二人が、そんなことで納得するかな? 牛山氏がどれほどの金を包むかわからんが、金額の多寡にかかわらず、いや……、却《かえ》って、不祥事揉み消しの買収工作と見るんじゃないか?」
「はい。そうなるかも知れません。しかし、仮に、そうなったとしても、止むを得ないと思います」
「止むを得ない? それは、ちょっと無責任じゃないのかな?」
安達は再び、ペンを動かし始めた。
「いいえ」
片岡は首を横に振って、
「あの二人を納得させるには、牛山氏が刑事ではないことを認めさせる必要があります。でも、謝罪の熨斗袋を買収工作と考えてしまうように、たとえ明白な証拠を突きつけても、彼らは信じないと思います。彼らには、説明や釈明は逆効果になるだけです。むしろ、何もしないことが最良の策と考えます」
「だが、牛山氏はどうなる? これからも尾行が続くんだぞ?」
安達は詰《なじ》るような口調で言った。
「もし、あの二人が今後も尾行を続けるようであれば、牛山氏に対して、二人が何を考えて尾行しているのか、明らかにすれば、少なくとも、以前のように悩むことはなくなると思います」
「さぁ、それはどうかな……」
安達は首を捻った。
「おっしゃるように、それでも尚、牛山氏が悩むようなら、それはむしろ、本人の資質、性格によるものじゃないでしょうか。我々ではフォローしきれない問題のような気がします。それに、意地悪な言い方をすれば、刑事だと名乗ったのは、当の牛山氏です。ある意味で、自業自得とも言えるんじゃないでしょうか」
「厳しいな……」
と言いながら、安達はペンを置き、煙草に手を伸ばした。片岡はすかさず、ライターの火をつけた。安達は椅子の背もたれに寄りかかって、
「だが、例の二人を呼び、その前で、牛山氏に謝罪させるという点は賛成だ。尾行についても、いざとなったら、軽犯罪法違反でパクってしまうという手もある。向こうは、やれ不当逮捕だ、やれ弾圧だと、騒ぎ立てるだろうが、それで、嫌でも、真相は明らかになる。警察にとっては、むしろ、事を荒立ててもらったほうが好都合だ。二人も赤っ恥をかくことになる。しかし……、問題は牛山氏だ。例の二人と警察の狭間《はざま》で、とばっちりを食うことになる。下手すりゃ、マスコミの……」
と言いかけて、安達は片岡の顔をしげしげと見つめた。
「ひょっとして、それも、いわゆる自業自得と言うつもりか?」
「はい。気の毒とは思いますが、私のような未熟な警官に担当された不運です。勿論……、私自身も、何らかの責任を取らなければならないと思っています」
片岡は伏目がちに言った。
「参ったな……。ところで、例の二人に対しては、どうする?」
「どうもしません」
「どうもしない?」
「はい」
「本当に、それでいいのか? あの二人は警察に対して敵意を抱いているだけじゃない。明らかに、我々の足をすくってやろうと、企んだんだぞ? おそらく、これからも、機会あるごとに、そういうことをするだろう。そんな連中を、このまま野放しにしておくつもりか?」
安達は挑発するように言った。
「でも、法に触れているわけではありませんし、目くじらを立てるほどのことじゃないと思います」
「ほう……。いつもの片さんじゃないみたいだな。まるで別人だ」
安達が、聞き耳を立てている佐々木に向かって微笑みかけた。片岡は佐々木の方を一瞥してから、
「確かに、あの二人は明らかに、警察に対して敵意を抱いています。おそらく、今後も警察の活動の妨害をすることはあっても、協力するようなことはしないでしょう。しかし、そのような敵意を抱くようになった原因の一端は、残念ながら警察にあるような気がしてなりません。彼らは警察に対して、憎しみや不信感を抱かざるを得ないような、おぞましい体験をしているような気がするんです」
「…………」
「ここで我々が、腹立ち紛れに何らかのしっぺ返しをすれば、彼らの憎しみや不信感が益々《ますます》募ることは、目に見えています。勿論、しっぺ返しをしなくても、彼らの敵意が薄らぐことはないでしょう。しかし、そんなことより大事なのは、我々が原点に戻ることだと思います。つまり、あの二人が、傷害事件の加害者をわざわざ警察まで連れて来てくれたことは事実なんですから、そのことに対して、警察は感謝の意を表すべきだと考えます。それが公の機関たる警察の本来の姿勢ではないでしょうか」
「…………」
「最初から、そうすべきだったんです。あの夜、二人に礼の一つも言って、お茶でも出して労《ねぎら》っていれば、ひょっとしたら、彼らも、牛山氏がニセ刑事であることを、すぐに察したかも知れません。私が忙しさにかまけて、渋々、仕事に取りかかったから、却って、彼らの疑惑を増幅させてしまったんです」
と言って、片岡は唇を噛んだ。
「そうか……。そこまで認識しているのなら、俺の方から、とやかく言う必要もないだろう。この事件の締めくくりは、君に任せよう。どうやら、この件に関しては、君の考えの方が深そうだ。すぐに、その方向で仕事にかかってくれ」
安達は片岡の報告書と新井のメモを差し出した。
「ありがとうございます」
片岡は両手で、それを受け取った。
「ところで、もう手だてを考えているとは思うが、念のために聞かせてくれ。肝心の例の二人はどこの誰だか、わからない。一体、どうやって探し出すつもりだ?」
「そうですね……」
片岡は宙を見つめて、
「今のところ、調べる方法をいくつか考えてあります。そのうちのどれかで判明すると思いますけど、その前に、まず新井の親父さんに相談してみようと思います。案外、それが一番、早いかも知れませんし……」
と答えると、
「そうだな。是非、そうしてくれ」
安達は満足気に頷いた。
片岡はすぐに準備に取りかかった。二日連続の徹夜で、疲労は極限に達していた。足は重く、目は霞《かす》んでいる。だが、頭の中だけは、奇妙に冴《さ》えきっていた。
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第四話 マドンナ刑事
その朝、出勤すると、係長席の後ろにある書類棚の上に、色鮮やかな花が飾ってあった。
昨日、その花瓶は部屋の隅にある複写機の下に置いてあって、竹定規と孫の手[#「孫の手」に傍点]の入れ物になっていたはずだった。片岡は花に近づき、その匂《にお》いを嗅《か》ぎ、上下左右から眺め、最後に、手で触ってみた。真紅のバラも純白のユリも造花ではなく、本物の花だった。花瓶にも水が入っている。
片岡は改めて刑事部屋を見渡した。空き机になっている朝倉刑事の椅子の上にハンドバッグが置いてある。
刑事課の紅一点である朝倉は、他署管内で発生した殺人事件の捜査本部に派遣されているはずだった。
私物でも取りに立ち寄ったか……。
そう思いながら、片岡はヤカンとポットを持って湯沸かし場に向かった。
朝倉潤子は二十四歳で独身。全ての点で他に抜きん出ていた。バイオリンが趣味で、英語とフランス語を流暢《りゆうちよう》に話す。有名女子大を卒業後、スチュワーデス試験に見事パスしたが、警官の道を選んだという異色の刑事だった。
着任直後、署内報の新人紹介コーナーで、朝倉は警官になった動機について、そこに警察があったから、とコメントした。以後、この種の質問をする署員はいなくなった。
片岡が初めて朝倉を見たのは二年前のことである。着任直後、先輩婦警とともに派出所に立ち寄った朝倉は、片岡に対し、警察学校方式の窮屈な敬礼をした。
ミニパト乗務なんかじゃ、物足りないだろう? と、冷やかし半分に尋ねると、朝倉は向きになって否定したものだった。
そんな冷やかしの言葉をかけたことを、片岡はすぐに悔やむことになる。この類稀《たぐいまれ》なる才媛《さいえん》は、運の強さも持ち合わせていたからだ。
数カ月後、外国人絡みの強盗事件が発生し、朝倉は通訳として捜査員の補助を命じられる。事件はスピード解決するが、朝倉の語学力によるところが大きかった。この時の功績と、熱心な仕事ぶりが上層部の目に留まり、朝倉は刑事課勤務を命じられる。異例の抜擢《ばつてき》人事だった。
片岡が二度目に朝倉を見かけた時は、縞模様のツーピースに捜査≠フ腕章をつけていた。制服警官に軽く会釈し、白手袋をはめながら立入禁止のロープを潜る姿は、まるで刑事ドラマのヒロインのようだった。更に、その一年後、朝倉は昇任試験に合格。今は、発令の日を待つ身である。
その恵まれた能力と強運を羨《うらや》む気持ちは、片岡にはない。ただ、個人的には、下積みの苦労を知らないまま、頭脳の明晰《めいせき》さだけで昇進していくこの種のエリートに、多少の不安を感じるだけだ。
三十分近い朝の打合せが終わっても、朝倉は姿を現さなかった。
「姫は、まだ署長室なのかな?」
主任の佐々木が尋ねた。
「ええ。たぶん、見合いでも勧められているんでしょうよ。何しろ、管内の大金持ちから引く手あまたですからね」
関根は顔も上げずに答えた。
「そうか。じゃ、長引くな……」
佐々木は名残惜しそうに朝倉の机を一瞥《いちべつ》してから、コートを掴《つか》んだ。やがて、関根も、
「ちょいと、ホシの様子を見てきます」
と言い残して、留置場に向かった。係長の安達は朝の打合せ以来、刑事課長と何やら話し込んでいる。片岡は一人、黙々とペンを動かし続けた。
前日の被害の概要と発生日時を記録し、一覧表にして署内各課に配付する作業は、盗犯係にとって重要な仕事だった。署外活動をする地域課員や交通課員らに、犯罪発生傾向を認識させれば、検挙の糸口になるからだ。そして、見習い刑事にとっては、他の課員と顔|馴染《なじ》みになる、という効用もある。
すでに日課になっているこの作業に、それほどの手間はかからなかった。最新のデータを記入し、必要部数をコピーすると、それを小わきに抱えて刑事部屋を後にした。
そして、三十分後。各課への配付作業を終え、片岡は刑事部屋に戻った。
係長席の前に、ベージュのスーツを着た女が座っている。一目で朝倉だとわかった。
安達は片岡を見て、
「すまんが、コーヒーを買ってきてくれ」
と、千円札をかざした。それと同時に、朝倉が振り返り、片岡に会釈した。以前よりも更に美しく、そして、眼差しも一段と鋭さを増していた。
紙コップのコーヒーを二つ、安達の机の上に並べると、
「君も、その辺に座れ。大事な話がある」
安達が言った。片岡が腰を下ろすと、
「急な話ですまんが、しばらくの間、二人には身辺警護をしてもらう。警護対象は外国人。しかも、女性だ」
「警護?」
片岡は朝倉を見た。だが、すでに朝倉は承知しているらしく、手元のメモに目を通している。
「警護は本来、警備課の仕事だが、これは署長命令でね」
安達は続けた。
「署一丸となって取り組まねばならぬことだから、持ち場に関係なく、適任者を充《あ》てたいという方針だ。朝倉君をわざわざ呼び戻したのも、そのためだ」
「…………」
「警護対象者はマリア・パティニョ 五十六歳。コロンビア人のジャーナリストで、三カ月ほど前、麻薬密売組織ボゴタ・カルテルの内幕について記事を書いた。これがマフィアのボスの逆鱗《げきりん》に触れ、何と、死刑宣告をされている。本人が世界各国での講演のために出国すると、十万ドルの賞金をかけたという話だ」
「賞金を? で……、そのジャーナリストは、いつ日本に?」
と尋ねると、
「もう来日しているよ。今、京都にいる。東京には明後日に到着する予定だ。表向きは、都内の某ホテルに滞在するということになっているが、当分の間、東都大学の寺西教授宅に、言わばホームステイする。教授とは留学生時代からの知り合いだそうだ」
「しかし、それにしても……」
片岡は首を捻《ひね》った。ボゴタ・カルテルとか、マフィアとか、死刑宣告という言葉の響きが現実離れして聞こえたからである。
おそらく、そんな片岡の心理を見透かしたのだろう。
「コロンビアマフィアが暗殺団を日本に送り込むことは、十分あり得ることだと思います」
朝倉が言った。
「私も署長からお聞きしたばかりなんですけど、マリア・パティニョは寺西教授宅で、次の原稿を書き上げる予定なんだそうです。もし、今回の旅行が、単なる観光や講演のための旅行なら、彼らは帰国を待って彼女の命を狙《ねら》うでしょう。けど、日本滞在中に、マフィア糾弾の第二稿を仕上げるとなれば、話は別です。完成前に、手を打とうとするんじゃないかしら」
「実は、寺西教授も、それを心配しているんだ」
安達が言った。
「マリア・パティニョは来日直後、コロンビアテレビのインタビューに答えて、その第二稿のことを公表してしまったそうだ。寺西教授にとっては寝耳に水のことだったらしい。それで心配になったんだろうな。目立たないよう警護してほしい、との要請があった。それで、署長も慌てて、警備部へSPの派遣を要請したんだが、知っての通り、一週間前からEC各国の要人が来日中だ。これが終わると、今度は、中東各国の首脳が和平会議のために来日する。その警備のために所轄署の補充員まで駆り出されている始末だ。そんなわけで、マリア・パティニョについては、当面、当署だけで警護することになった」
「事情はわかりました。しかし……、朝倉刑事はともかく、どうして私なんかが、そんな重要な任務に?」
片岡は尋ねた。
「謙遜《けんそん》することはないよ。君はサミット警備の時、たった一人で右翼車を阻止したし、皇太子の警備では、不審物を発見したろう? 幸い大事には至らなかったが、署長ははっきりと覚えておられたんだ」
「…………」
確かに、サミット警備の時、日の丸のステッカーを貼《は》った車の運転手に、道を聞かれたことはあるし、皇太子警備の時、警杖で草むらをつついていて、粗大ゴミを発見したことはある。だが、それは両方とも、たまたま付近を通りかかった機動隊の遊撃部隊が、過敏な反応を示しただけのことだった。
「詳細な警護計画は、警備課長が策定しているはずだ。午後には、その会議がある。以後、二人とも、警備課長の指示に従ってくれ」
と言うと、安達は片岡に対してウィンクして見せた。
その日の午後、片岡と朝倉は警備会議に出席した。
地球の裏側から来日した要人を警備するための会議にしては、ささやかな規模だった。出席者は署長を含めて十数名。会議場も、まだ午前中の会議の後片付けが済んでいない小会議室だった。
だが、それは警護対象者のマリア・パティニョを軽視したためではない。すでに狛江《こまえ》署はEC各国の要人の滞在先警備のために、連日、七名の若手署員を派遣していたし、生活安全課は覚醒《かくせい》剤事犯の特別取締本部、交通課は重大事故発生防止の緊急対策本部を設置し、それぞれ人員のやり繰りに四苦八苦していた。
刑事課も例外ではなかった。強行犯捜査係と暴力団捜査係は連携して、新興暴力団の傷害事件に対処していたし、知能犯捜査係は相変わらず、休日返上で選挙違反の追跡捜査に取り組んでいた。そして、盗犯係長である安達にしても、続発しているCD機荒らしに対して、特別捜査態勢を組むための根回しにかかろうとしていた。
おそらく、朝倉の里帰り≠ェ認められたのも、限界に達した人員不足のために違いない。そして、警備課長が策定したマリア・パティニョに対する警備計画も、このような署事情を色濃く反映したものだった。
席上、警備課長が説明した警戒方法とは、寺西宅から五十メートルほど離れた空き地に、ワゴン車一台を常時待機させ、二名で警戒に当たる、というものだった。
「元はゴミ収集所だったんだが、悪臭の苦情があって、今は使われていない。待機場所にはおあつらえの場所だ」
と、警備課長が説明すると、
「やれやれ、またぞろ生ゴミ[#「生ゴミ」に傍点]置場というわけか……」
誰かが呟《つぶや》いた。二、三人が笑ったが、
「警戒員は二名だけですか?」
地域課の若い主任が、真剣な表情で尋ねた。
「そうだ。一名は常時、寺西家の周辺をパトロールして、不審な対象の発見に努めてもらいたい。もう一名はワゴン車内で待機し、無線の傍受と、緊急時のバックアップに備える。食事や用便のこともあるから、一時間ごとに、それぞれの役割を交代すれば、効率よく活動できると思う」
「となると、実質的には一名配置ですか……。ちょっと不安ですね」
質問者は首を捻った。
「わかっている。だが、この方式でも、二十四時間態勢となると、一組十二時間勤務として、日に四名を要することになる。ところが、四名というのは数字のマジックで、実質的には六名だ。寝ずの番をする夜の組を、翌日は休ませなければならないからな。残念ながら、この忙しい時期に、日に六名以上の人員を割く余裕は、当署にはない。ここが頭の痛いところでね。それで……、ない知恵を絞りに絞ったよ」
と言うと、朝倉と安達の方を一瞥して、
「警戒を二段構えにすることにした。刑事課の二人には、寺西家の敷地内で警戒に当たってもらう。つまり、内周警戒だ。幸い、朝倉君は英語が堪能だし、片岡君も日常会話ならOKということだから、万が一の場合、要警護者との意思の疎通にも齟齬《そご》を来《きた》すことはない。臨機応変な対応が可能となるし、それに、敷地内に二人もいれば、外周の警戒員も安心して自分たちの任務に専念することができるというわけだ」
「なるほど……」
と、何人かが低い声で呟いたが、
「質問です」
朝倉が手を上げた。
「まぁ、最後まで聞いてくれ」
警備課長はそれを制して、
「君たち内周警戒班の勤務は昼間だけだ。夜は自宅に帰ってくれていい。その代わり、毎日、詰めてもらうことになるから、そのつもりでいてくれ。……これで、質問の答えになったかな?」
「はい。一応は」
朝倉は小さく頷《うなず》いた。
「次の質問が出る前に、先手を打って説明しておくが、夜間帯は内周警戒を解除する代わりに、外周警戒を二段構えにする。ワゴン車を拠点にした寺西家周辺の外周警戒に加え、パトカーによる半径一キロ圏の警戒をしてもらう。機動隊がよくやっている方法だ」
「ちょっと待って下さいよ」
と、再び、地域課の主任。
「そりゃ、遊動警戒車のことでしょう? パトカーも、今回の警戒に専従することになっているんですか?」
「いや、専従はしない。通常勤務を通じて、優先的に寺西家の警戒に当たるということだよ」
「すると、つまりは、一般事件が頻発しない場合に限って、外周は二段構えになる、ということですね?」
「その通り。警備の基本方針は、あくまでも水際作戦だと考えてもらっていい。SPや機動隊のやり方から見れば、いろいろ不備はあるだろうが、人員、装備上、他に方法はない。当署でできるのは、これが精一杯だ。僅《わず》かな人員で、不安を感じるかも知れんが、警備部の方も、コロンビアマフィアの動向についてはアンテナを立てている。不穏な動きを察知した場合、直ちに、機動隊の特殊部隊を派遣すると約束してくれた」
「…………」
質問者は沈黙した。
「他に質問は?」
警備課長が言った。
「外周警戒員のトイレは?」
最後列に座っていたベテランの巡査長が尋ねた。
「申し訳ないが、あの辺りは、どこを見回しても、立派な塀や生け垣で囲まれた豪邸ばかりでね。貸してくれそうな家は一軒もない。ちょっと遠いが、百メートル先にある公園のを使ってくれ」
「百メートル先か……。下痢している時は、間に合わないかも知れないな」
という呟きに、今度は、殆《ほとん》どの出席者が笑い声を上げた。片岡も笑いながら、隣の朝倉を見た。能面のような無表情な顔が、そこにあった。
寺西教授宅は、俗に社長村と呼ばれる住宅街の一角にあった。その名の示す通り、そこは高台にある裕福な市民だけが住む高級住宅地である。
三百坪ほどの敷地の中に、母屋と茶室。そして、ガレージがある。片岡たちの与えられた待機場所は八畳敷の応接間でも、四畳半の数寄屋でもなく、車が二台入るガレージの中だった。母屋の玄関と、正門を見通すことができるというのが、その理由である。
このガレージに机と椅子を並べ、無線機をセットした。その横には防弾チョッキとガス弾の入った簡易ロッカー。更に、食事は本署から運ぶこととし、トイレは茶室脇にある雪隠《せつちん》を使用する許可を得て、一応、警戒拠点らしき形は整った。
そして、警戒初日――。マリア・パティニョは時間通りに、寺西家に到着した。二人はガレージの外に出て、それを出迎えた。
黒塗りのハイヤーはガレージの前を素通りし、玄関前で止まった。寺西教授と和服姿の夫人が出迎え、握手とキス。片岡たちもその側に向かった。だが、寺西たちは二人には目もくれずに、玄関の中へ消え、ドアはピシャリと閉まった。
「待機場所といい、主の態度といい、俺《おれ》たちはまるで、番犬扱いだな」
片岡が冗談半分にぼやいたが、朝倉はニコリともせずにガレージに戻った。
「予想していたより、ずっと若い。それに、写真で見るより、優しい感じだ。ジャーナリストというより、デザイナーかピアニストというところだな」
と話しかけても、
「ええ、そうね……」
朝倉は生返事しただけで、椅子に腰を下ろした。そして、すらりと伸びた足を組むと、机の上の英字雑誌に目を落とした。
片岡は三メートルほど離れた椅子に腰を下ろし、横目を使った。英字雑誌の見出しのスペルは読めるが、その意味がわからない。何の記事なのか理解できなかった。記事隅にある小さな写真に目を凝らしていると、朝倉の目が動いて、片岡に向けられた。棘《とげ》のある女性独特の眼差しだった。片岡は思わず目を逸《そ》らした。その直後、朝倉は椅子の位置をずらし、足を組み変えた。
勘違いしやがって……。
そう思ったが、舌打ちしても、逆効果になるような気がした。片岡は苦々しい思いを抱いて、目を前方の築山に向けた。
松やツツジを眺めて小一時間。出し抜けに玄関口が開いて、寺西夫妻とマリア・パティニョが姿を現した。
三人は談笑しながら庭先の池を覗《のぞ》き込み、築山を眺めながら、ゆっくりと足を進めた。
ブルーの瞳《ひとみ》が片岡の方に向いたのは、茶室に続く飛び石の道にさしかかった時だった。ガレージにいる二人を不審に思ったのだろう。夫人の耳元で、何事か囁《ささや》いた。硬い表情で、それに答える寺西夫人……。しかし、マリア・パティニョの表情に変化はなかった。夫人の言葉に対し、二、三度、頷くと、口元に笑みをたたえながら、片岡たちの方に足を進めた。
「お、おい。こっちに来るぞ」
片岡はたじろいだが、
「やっと拝謁できそうね」
朝倉は落ちつき払っていた。
ガレージの四、五メートル前まで来ると、マリア・パティニョは寺西教授に話しかけた。寺西はなぜか苦笑し、そして、片岡たちの方を向いて、口を開きかけた。その時、朝倉の口から流暢な英語が飛び出した。リズミカルな発音は、まるで歌を歌っているかのようだった。身振り手振りも自然で、板に付いている。評判通りの見事な語学力だった。
目を見張る寺西。だが、マリア・パティニョは嬉《うれ》しそうに目を細めて、朝倉に近づいた。後は二人だけの会話が続いた。その合間に、片岡にも話しかけてきたが、教室英語しか知らない片岡には、殆ど聞き取れない。
やがて、マリア・パティニョは朝倉に近づき、軽く抱擁して親愛のジェスチャー。続いて、片岡には握手だけをして、再び、茶室の方に向かった。
それを見送りながら、
「何の話をしたんだい?」
片岡は小声で尋ねた。
「ただの世間話よ」
「警護のことは?」
「そんな必要はないわ。私たちの素性を明かしただけで、十分よ。警護に関しては、彼女の方が慣れているわ」
朝倉はさらりと言って、ガレージの中に戻った。そして、椅子に腰を下ろすと、再び雑誌に目を落とした。
些細な警護でも、当初は神経をすり減らす。それは警護対象者の安全を慮《おもんぱか》ってのことではない。見知らぬ環境や、警護対象者との意思疎通など、警護任務そのものに神経を消耗するからだ。その手順を理解し、要領さえのみ込めば、後は、単調な勤務の繰り返しになる。
その実態を知り尽くしている上層部は、緊張感を維持させるために、警護員を頻繁に交代させる。そもそも、人間は環境に適応しやすく、隙《すき》を生じさせずに目を凝らし続けることができない生き物なのだ。
しかし、狛江署の場合、担当者を交代させるほどの人的余裕がなかった。外周警戒は二十四時間態勢のために、警戒員が交代したものの、その顔触れはいつも同じだった。つまり、緊張感が途切れる時期は、通常の場合よりも早く訪れたと言うことができる。
マリア・パティニョは午前と午後の二回、屋外に出た。午前中は茶室に入り、午後は池の鯉《こい》に餌《えさ》をやり、築山を眺めた。
朝倉はいつも、その側にいた。マリア・パティニョが散策の度に呼び寄せたからである。時折、笑い声を上げながら連れ立って歩く二人の姿は、マフィアの暗殺団に命を狙われているジャーナリストと、その警護員とは思えなかった。後ろから見る限り、それはまるで、親子か、師弟のようだった。
片言の英語しか話せない片岡は、いつも遠くから、二人を眺めているだけだった。この日も、ガレージの数メートル先に佇《たたず》んでいると、
「片さん……」
と、正門の方で声がした。振り返ると、外周警戒員の阿部が手招きしている。阿部は地域課の巡査長だった。
「どう? 中の様子は?」
阿部が尋ねた。
「平和そのものです。そっちこそ、どうです? 怪しい人影を見かけましたか?」
片岡も調子を合わせた。
「うん。社長村にも、野良猫が徘徊《はいかい》している実態を把握したよ。愛想のいい野良猫で、今や、我らがマスコットだ」
「へぇー、ひょっとして、変装していませんか?」
「安心してくれ。念のために、髭《ひげ》を引っ張って見た」
「それを聞いて、ホッとしましたよ」
片岡は大袈裟《おおげさ》に頷き、二人は声を合わせて笑った。
「こういう仕事は半日が限度だな。相棒との話のタネも尽きてしまったよ。野郎同士じゃ、面白くも何ともない」
阿部はガレージの方を窺《うかが》って、
「別嬪《べつぴん》さんと一緒の幸せな男がうらやましいよ。さぞかし、話が弾むだろうなぁ」
「とんでもない。こっちは、最初から、話のタネが尽きてますよ」
片岡は首を振った。
「最初から?」
「ええ。彼女は暇さえあれば、英語の雑誌ばかり読んでいますよ」
「ほう、英語の雑誌をね……」
阿部は首を捻って、
「かなり前のことだが、俺と話した時は、結構、気さくな感じがしたけどね。変わっちまったのかな……」
と言うと、急に声を潜《ひそ》めて、
「ところで、朝方、あちこち歩き回っているようだけど、片さんは承知しているの?」
「……彼女が、ですか?」
「うん。今朝、夜勤明けの連中から聞いたんだが、どうやら、俺たちの警戒範囲の更に外側を見回っているらしいぞ。煙草を買いに出かけた警戒員が、偶然見かけたそうだ」
「警戒範囲の外側を?」
「しかも、たった一人でだ。余計なお節介かも知れないが、少々、危なくはないか? この辺りは上品な金持ちばかりが住んでいるけど、別に有刺鉄線で囲ってあるわけじゃないんだ。夜明け前の薄暗い道を、あんな色っぽい脚で歩いていて、与太者なんかと出くわしたら、どうするつもりなのかね」
「少しも知りませんでした……」
「まぁ、若いからな。真面目で熱心なのはわかるが、ちょっと度がすぎているような気がする」
と言うと、阿部は辺りを見回して、
「そもそも、今度の仕事には裏があるんだ。コロンビアのマフィアが日本に暗殺団を送りこんでくるなんて、本気で考えている幹部なんていやしないよ。署長だって、腹の底じゃ、そんなことを考えちゃいないんだ」
「……本当ですか?」
片岡は眉間に皺《しわ》を寄せた。
「ああ。ここだけの話だが、寺西教授は市長と親交があるらしい。その市長と防犯協会長は竹馬の友だ。どうやら、協会長の方から署長の方に口添えがあったらしいな」
「…………」
「管内最大の警察協力者の顔を潰すわけにはいかないから、こんなとってつけたような警戒をしているけど、近いうちに、打ち切りになるらしい。以後は、本署内に警戒員を待機させて、万が一の場合に備えるという体制に切り替わるそうだ。警察が実際に警備実施してみた結果、警戒態勢を変更するわけだからな。寺西教授も納得せざるを得ないだろう、という読みだ」
「なるほど……」
「そんなわけだからさ。あの娘にも、あまり向きになるなと忠告してやれよ。苦労を買っているつもりなのかも知れんが、実にならない苦労なんか、腹が減るだけだ」
と言うと、阿部は片岡の後方を見て、素早く門から離れた。朝倉がガレージの方に向かってきていた。
片岡はしばらく、その場に留まった。門から数歩前に出て、左右を見渡すと、乳母車を押した女が植木職人と立ち話をしていた。その横を老夫婦が会釈をして通り過ぎて行く……。平和で長閑《のどか》な風景だった。
午後六時になると、寺西家の門は鉄格子の扉で閉じられる。内周警戒員の任務は終了し、片岡たちは車で本署に向かった。その途中、
「出勤前にも一仕事しているんだって?」
片岡はさりげなく尋ねた。
「私が?」
助手席の朝倉が驚いたように振り向いた。
「うん。朝方、一人で寺西宅の周辺を警戒しているという話を聞いた」
「ああ、そのこと……」
と苦笑して、
「美容のために、一駅前で下りて、徒歩出勤しているだけよ。ずっとデスクワークだったから、運動不足なの」
「そうか……。だが、夜明け前の一人歩きというのは、いかがなものかな。危なくはないか?」
「心配ご無用。その辺のことは十分、心得ているわ」
「そうだろうけど、勤務外勤務と誤解されるような行動をする時には、一言、言ってくれないかな?」
「どうして? 何か迷惑をかけた?」
「別にそういうわけじゃない。できれば、知っておきたいというだけのことだ」
と答えると、朝倉は大きな目を、しばらく片岡に向けていたが、やがて、
「わかったわ。これからは、そうします」
と素直に頷いた。
しかし、その後も、朝倉の徒歩出勤≠ヘ続いているようだった。片岡は何度か、中止するように忠告したが、朝倉は聞き入れなかった。あくまでもプライベートの問題だと言いたげに、首を竦《すく》めて見せるだけだったのである。そして、ある朝、事件は起きた。
出勤した片岡が警備課の前まで来ると、ドアが勢いよく開き、警備係長が血相を変えて飛び出して来た。
「何事ですか?」
と、呼び止めると、
「ちょうどよかった。一緒に来てくれ。朝倉刑事が一人パクったらしい」
「パクった?」
「ああ。ホシは外国人のようだが、詳しいことはわからん」
警備係長は走り出していた。
「外国人……」
片岡も走り出していた。
警備車に飛び乗り、助手席にある無線のスイッチを入れると、救急車要請の交信が流れた。意識不明、という言葉に、片岡は息をのんだ。
サイレンを鳴らし、赤信号を突破して、寺西家を目指した。まだ、朝もやも立ちこめている路地を進むと、パトカーが一台、赤色灯をつけて、道を塞《ふさ》いでいる。その先では、七、八名の私服制服の警官が一塊になって、地面を見下ろしていた。
片岡は車から飛び下りて、その人垣に分けて入った。路上に、建築作業服を着た男が仰向けに倒れていた。色の浅黒い中年の白人で、額から血を流している。
片岡は辺りを見渡した。朝倉の姿はない。やがて、路地陰の方から女の話し声がして、制服警官と共に、朝倉が現れた。思わず、駆け寄って、
「ケガはないか?」
と尋ねると、
「ちょっと、頭を打っただけよ。大したことはないはずだわ」
朝倉は倒れている男の方に目を向けた。
「その野郎のことじゃない」
と、朝倉の体を見回すと、
「私のこと?」
朝倉は一瞬、目を瞬かせてから、
「殴りかかってきたけど、よけたわ。そしたら、走って逃げようとしたから、追いかけて、ちょいと背中を押してやったの。転んで頭を打った責任の半分は、彼にあるわ。気絶しているみたいだけど、演技している可能性もあるわね。いずれにせよ、救急車が来れば、すぐわかる」
と、事も無げに言った。
「そうか……」
片岡はホッとため息をついた。
「心配してくれて、ありがとう」
朝倉が微笑んだ。そして、
「申し訳ないけど、彼を本署に連行することになると思うから、マリアの警護を頼むわ。たぶん、午前中いっぱいは戻れないと思う」
「わかった……」
片岡は頷いた。脇の下で、汗が流れ落ちて行くのがわかった。
未明の逮捕劇で、狛江署と寺西家周辺には緊張が走った。だが、急遽《きゆうきよ》招集された警官たちが現場に配備されることはなかった。
朝倉が逮捕した男は南米から派遣された殺し屋ではなく、中東から出稼ぎに来た違法滞在者であることが判明したからである。
男は、捕まるのが怖かったので殴って逃げようと思った、と自供。出入国管理法違反、及び、公務執行妨害罪の現行犯で逮捕された。
朝倉が本署で、その取り調べと逮捕手続きをしている間、片岡は一人で警戒に当たっていた。誤報≠ニわかっても、緊張の余韻だけは尾を引く。外周警戒員やパトカーは寺西家付近を頻繁に行き交っていた。片岡も同様だった。ガレージ内の椅子に腰を落ちつけていることができない。
広い敷地内を巡回していると、正門のところで、また阿部が声をかけてきた。
「可哀相によ。出稼ぎのアラブ人を苛《いじ》めることはないだろうに」
阿部は渋い顔で言った。
「ええ。確かに、そうですがね。薄暗がりの中で、いきなり、あんな大男と出くわしたら、私でもびっくりしますよ」
と笑ったが、
「俺は驚かなかったな。外国人と聞いて、すぐピンときた。この先の建築現場に行って見ろよ。働いている人間の一割は外国人だ」
阿部は皮肉な口調で言った。
「そうですか……。でも、私は驚きましたね。あの外国人を見た時、映画に出てくる変装の殺し屋を思い浮かべましたよ。思わず、辺りを見回し、爆弾の仕掛けられた花束を探してしまいました」
「建築作業員が花束なんかを持って、仕事に出かけるかよ」
阿部はニコリともしない。興を削がれて、片岡は口を噤《つぐ》んだ。
「そんなことより、今朝の騒ぎで、ここの仕事は当分続くことになるぞ。寺西教授もまた臆病風に吹かれるだろうし、警察側だって、間違いだとわかっても、引きにくくなる。お蔭で、警戒方法は当分、今のままだ。全く、余計なことをしてくれたぜ」
「ええ、でも……」
と言いかけて、片岡は口を噤んだ。朝倉を弁護したかったが、先輩である阿部の機嫌も損ねたくなかった。
「そもそも、あの娘の任務は内周警戒だろう?」
阿部は言った。
「あのオバさんの側に控えて、外敵から身を護ることだ。あくまで、内張り[#「内張り」に傍点]なんだ。表の警戒は、俺たちに任せてくれ。妙なのが塀を乗り越えないように、きちんとやっているよ。十分、目を光らせているから安心するように、よく言っておいてくれ」
「わかりました。すみません」
片岡は頭を下げた。
朝倉が本署から戻ったのは、午後二時すぎのことだった。勇み足≠ノも、特に悪びれた様子はない。その足で、マリア・パティニョに会い、ガレージに戻ったのは午後三時。小さくため息をついて、椅子に腰を下ろすと、
「お腹がすいたわ。食事していい?」
と尋ねた。
「……まだ、済ませていないのか?」
片岡は目を見張った。
「ええ。早く戻らなきゃならないと思って」
「バカな。そんな気遣いは無用だ」
「勘違いしないで。マリアのために、食事はしなかったの」
「そうか……」
片岡は苦笑し、朝倉のために茶を入れた。
間もなく、薄暗いガレージの中で、朝倉は遅い昼食を取り始めた。粗末な椅子で、背筋を伸ばし、静かに箸《はし》を使う姿は、片岡の目には健気《けなげ》に、そして、哀《あわ》れに映った。
警官なんかにならずに、スチュワーデスになっていれば、こんな油臭いところで、冷えた飯を食うこともなかったろうに……。
朝倉を横目で見ながら、片岡はそう思った。
しかし、それは片岡の単なる感傷にすぎなかった。朝倉は見習い刑事の尺度では計れないほど、大きく、逞《たくま》しく、強かったのである。
やがて、食事を終えると、
「勤務外勤務をする時は、話す約束だったわね?」
と前置きして、
「私、今夜は徹夜の警戒をするわ」
朝倉は出し抜けに言った。
「……何だって?」
片岡は耳を疑った。
「今夜は夜通し、警戒しますから、そのつもりで」
朝倉は念を押すように言った。片岡は眉間に皺を寄せて、
「ここでか? ここで夜明かしするつもりか?」
「ええ。寺西さんも、車くらいは貸してくれると思う。貸してくれなくても、屋根の下なら、平気よ」
「でも、明日の警戒はどうする? 俺たちには交代員なんかいないんだぞ?」
「そんなことはわかっているわよ。引き続いて、警戒するわ」
「驚いたな……」
片岡はため息をついて、
「しかし、理由はなんだ? テロリストの情報なんて、俺は聞いていないぞ」
と尋ねると、
「言うなれば、勘かしら」
「勘?」
「そう。何となく、嫌な予感がするのよ」
「嫌な予感?」
「ええ。今日はカルロス・シフェンテスの誕生日なのよ。七十回目のね……」
「……何だって?」
「カルロス・シフェンテス。マリアに死刑判決を出したマフィアのボスよ」
「…………」
「今までの例から、いつも誕生日の前日に邪魔者を殺しているわ。つまり、現地時間では、今夜がその前日。おそらく、日本時間で、明日の朝までが正念場になるはずよ」
「なるほど……。だが、それにしても、少々、考えすぎじゃないのかな。警備部の方からは、そんな情報は送られてきていない。あまり神経質になると、却って物事を見誤る。その方が恐いんじゃないのか?」
「ひょっとして、今朝のアラブ人のことを言ってるのかしら?」
朝倉の目がキラリと光った。片岡の脳裏に、阿部の顔と、その辛辣《しんらつ》な言葉が過《よぎ》ったが、
「いや。あれはあれでいいと、俺は思っている」
片岡は首を横に振った。
「そう。それを聞いてホッとしたわ。片岡さんも、他の人たちのように、腹を立てていると思った」
「…………」
「みんな、わかっていないわ。今の私たちには、むしろ、ミスすることが必要なのよ。勿論、ケアレスミスは許されないけど、この際、必要なミスは、敢えて犯すべきだわ」
「必要なミスだと?」
「そう。承知の上でミスを犯せ、と言ってるのよ。もし、テロリスト、若《も》しくは、その手先が、要人近くに現れた異国人に声もかけない警察の対応を見たら、一体、どういう印象を持つかしら? 世界には、異国人という理由だけで身柄を拘束する国もあるのよ。そんな国に慣れているテロリストから見れば、日本はやりたい放題のことができるパラダイスのように映るでしょうね」
「…………」
「テロリストにとって、警察に捕まるということは、文字通り、命取りになるのよ。死刑になるかも知れないし、運良く死刑を免れても、長い刑務所暮らしが待ってるわ。そんな彼らが軽々に事を進めるはずがない。私たちよりも何倍も知恵を絞り、慎重に行動するはずだわ。それに比べ、私たちは、たとえマリアが殺されたとしても、クビになることはない。始末書か、せいぜい左遷されるだけで済むでしょうね。この差を考えれば、むしろ、網にかからなくて当然よ」
「…………」
「勿論、噂《うわさ》通り、テロリストなんて暗躍していないのかも知れないわ。でも、私たちは取り越し苦労をすべきなのよ。彼らは思いもつかない方法で、今もこの私たちの会話を盗聴しているかも知れないわ。少なくとも、そういう危機感を持って対応しなきゃ、警護なんておぼつかないわよ」
「…………」
「正直なところ、あのアラブ人には気の毒なことをしたと思っているけど、もし、テロリストが一部始終を見ていたとしたら、多少は不安感を抱いたでしょうね。彼らには、こちらを手ごわいと思わせることが必要なのよ。与《くみ》しやすしと思われたら、今すぐにでも襲ってくるわ。襲ってこられたら、今の態勢では勝ち目はない。残念なことにね」
朝倉の言葉は確信に満ちていた。
結局、片岡は朝倉と行動を共にすることにした。しかし、それは朝倉の考えに共鳴したというより、男としての面子《メンツ》のためだった。
午後六時。外周警戒員は交代し、夜間態勢に入った。片岡は一旦、本署に戻り、休憩用に小型警備車を借り受け、照明具や毛布などの夜間資材を積みこんだ。そして、再び、寺西家に向かうころには、辺りに夜の闇《やみ》が迫っていた。
ガレージに警備車を入れると、玄関のドアが開き、寺西夫人が現れた。
「応接室をお使い下さい。夕食、それに夜食の準備も手配させましたから」
と、手を屋敷の方に差し出したが、
「ありがとうございます。でも、ここで結構ですから」
朝倉は首を横に振った。
「折角だから、使わせてもらおう。徹夜して警戒したところで、明日も丸一日、警戒しなければならないんだ」
片岡は言った。しかし、
「一日や二日の徹夜なんて平気だわ」
朝倉は首を振った。
「そうだろうとも。だが、二人がバカみたいに、ここにいることはない」
「でも、私たちが中に入ったら、敷地内に間隙《かんげき》が生じることになるわ」
「だったら、交代で、ここにいればいいじゃないか。何かあった時は無線で知らせれば済む。そうなりゃ、内周警戒が二段構えになるんじゃないのか?」
「二段構え?」
「そうだ。屋敷の中と外。二段構えだ」
「…………」
朝倉はしばらく考えこんで、
「わかったわ。じゃ……、奥さん、お言葉に甘えることにします」
と言ってから、
「二時間交代で行きましょう。先に片岡さんが休んで頂戴」
「いいよ。そっちが先に休め。レディファーストだ」
と言って、やさしく微笑んだつもりだったが、
「この際、はっきり言っておくけど、私を女として扱うのはやめてもらいたいわ。私も片岡さんを男としては扱わない。そういう問題じゃないでしょう?」
朝倉は険しい顔で言った。
「わかったわかった。仰せの通りにいたします」
片岡は舌打ちしてから、
「じゃ、お世話になります」
と、寺西夫人に対して頭を下げた。
「どうぞ、ご遠慮なく」
寺西夫人は先に立って、歩き出した。そして、玄関の数メートル手前で、
「お顔に似合わず、怖い人なんですね」
と、ガレージの方を振り返った。
「年に似合わず、頑固なだけですよ」
片岡は後ろも振り返らず、玄関の中に入って行った。
警官になって八年。その間、片岡は何度も、大警備に駆り出されている。その経験で発見した一つの法則≠ニは、緊張して警戒している時は、何事も起こらない、ということだ。事実、テロやゲリラ事案は、安心しきっている時にのみ、発生している。
この夜は明らかに前者のケースだった。朝倉は極度に緊張していたし、片岡も、外周警戒員も、それに引きずられていた。
そして、片岡の法則£ハり、この夜は普段にも増して静かだった。無線を傍受しても、一一〇番通報は少なく、交通事故も、駐車の苦情さえもなかった。
午前零時。片岡は玄関を出て、二回目の警戒についた。入れ代わりに、車から下りてきた朝倉の動きは鈍かった。早朝の逮捕行為に続いて、取り調べと書類作成。そして、休む間もなく、夜間警戒。朝倉が心身ともに疲れ切っていることは明らかだった。
「三時まで休めよ」
片岡は言った。
「いいえ。決めた通りにやりましょう」
と言い残して、朝倉は去って行った。
見ている方が疲れるぜ……。
そう呟《つぶや》きながら、片岡は警備車に乗り込んだ。運転席に腰を下ろし、前方に目を向けると、見慣れた築山の風景。風はなく、それはまるで影絵のようだった。十分も見つめていると、自然に瞼《まぶた》が重くなってくる。
いかん……、と思ったが、間に合わなかった。
夢の中で赤ん坊が泣いた。目を醒《さ》ますと、それはサイレンの音だった。片岡は反射的に無線機に手を伸ばした。いつの間にか、イアホーンが耳から外れている。慌てて、耳に当てると、火災情報が飛び込んできた。
「やれやれ……」
胸をなで下ろす思いで、片岡は警備専用の無線機に手を伸ばした。
「場所を聞き逃した。火災現場はどこだ?」
と、外周警戒員に問い合わせると、
「そこから見えないのか?」
という応答。
「ここから?」
片岡は車を下り、ガレージの外に出た。東の方を振り返ると、空が明るくなっている。 一瞬、ドキリとしたが、外勤勤務の長い片岡は、夜の火事が実際より近く見えることを知り尽くしている。改めて、具体的な場所を尋ねようとした時、その無線機に本署員の甲高い声がした。通話の内容は、火災現場付近にいる者は現場に急行せよ、というものだった。了解、という外周警戒員の声。その直後、玄関に明かりがついた。
「気に入らないわね」
朝倉が不安気な面持ちで言った。
「……何が?」
片岡には何のことかわからない。
「今、この家は無防備よ。テロリストにとっては絶好のチャンスだわ」
「そうかなぁ。仮に隙《すき》を窺《うかが》っているにしても、連中にそんな小回りができ……」
と言いかけて、
「まさか……」
片岡は息をのんだ。
「わからないわよ。目的のためには手段を選ばない、というのが彼らのやり口だわ」
「すると、この火事が連中の陽動作戦だと言うのか?」
「その可能性がないとは言えないわ。雑誌に載っていたんだけど、彼らは救急車を使って病院に入り込み、入院中の裁判官を殺している」
「…………」
「念のために、そのつもりで対応しましょうよ。警察が後れを取るのは、それが前例のない方法だからだわ。いつも、まさか、で失敗している。取り返しのつかない失敗をして歯ぎしりするより、取り越し苦労して、バカにされた方がマシだわ。そうは思わない?」
朝倉はじっと片岡を見つめた。
「よし、わかった。だが、外周警戒の連中は当てにはならないぞ。火災現場に向かっている」
「外周警戒員だけでなく、本署員も当てにはならないわ。おそらく、頭の中は火事のことだけでいっぱいでしょうね。説明したところで、聞く耳は持たないでしょうし、応援要請しても、無視されるだけだと思う」
朝倉は淡々とした口調で言った。
その時、玄関のドアが開いて、ガウン姿の寺西教授が現れた。寺西は小走りに近づいてきて、
「消防署の方が表に……」
と言いながら、正門に向かいかけた。
「待って下さい」
と、それを呼び止めて、
「どう思う?」
朝倉が言った。片岡の目の奥を、射抜くような鋭い眼差しだった。
「確かに、タイミングがよすぎるな。外周警戒の連中が火事場に向かった直後だ」
と答えると、
「私もそう思う」
朝倉は東の空を見つめて、
「風もないし、火の手が、ここに迫っているとは思えないわ。なのに、どうして、ここの家のインターフォンを押すのか、わからない。妙だわ……」
「だが、無視するわけにも行かない。俺が確かめてみる」
「確かめるって、身分証明書でも見せてもらうつもり? 偽者なら、それなりの準備をしてきているはずよ」
「バカにするなよ」
片岡は顎《あご》をしゃくって、
「これでも警察の飯を十年近くも食ってきているんだ。本物と偽物を見分ける術くらいは心得ているよ」
「わかったわ。じゃ、表は片岡さんに任せる。私は裏口を見るわ」
「裏口?」
「念には念よ。正面を突くと見せかけて、搦手《からめて》から攻める……。何百年も前から繰り返されてきた古い手だわ」
「なるほど」
と頷くと、朝倉は寺西に向かって、
「教授はマリアの側にいて下さい。もし、私たちに何かあったら、この無線機で警察を呼んで下さい。たぶん、電話線は切られているはずですから」
と言って、警備用無線機を手渡した。受け取った寺西の手が震えていた。
「じゃ、始めましょう。私の方は三十秒あれば、裏口に行けるわ」
朝倉はハーフコートの下から拳銃を取り出し、弾倉を検《あらた》めた。
「了解。三十秒間、ここで待つ」
片岡も拳銃を取り出した。
「でも、消防士は本物かも知れないわよ。お互い、誤射だけはしないように心がけましょう」
朝倉は微《かす》かに笑ってから、闇の中に消えて行った。
正門の格子越しに、二つの人影が見えた。二人とも、消防服を着ている。片岡は植木の陰に身を隠しながら接近し、樫《かし》の大木に身を寄せてから、
「何の用だ?」
と尋ねた。
「夜分にすみません。調査のため、敷地内に入らせてもらいたいんですが」
一人が答えた。
「ほう。燃えてる最中に、一体、何の調査だい?」
「万一のためです。私どもの資料によると、こちら様には立派な池があるということですので、火災の状況によっては、使わせていただきたいと思いまして……」
「消火栓は使えないのか?」
「ですから、万一のためです。消火栓が使えないような状況が発生するかも知れませんし、万全を期したいんです」
「なるほどね。確かに、池はあるし、水もたっぷりとある。火の手が間近に迫ってきたら、門を開けるよ。安心してくれ」
「ありがとうございます。一応、確認したいんですけど、よろしいでしょうか?」
「何を確認するんだ?」
「池の状況とか、道路までの距離とか、消火活動上、支障を来《きた》さないよう見ておきたいんです」
「それなら、心配ない。火災現場には何度も立ち会っているけど、支障はないと思うよ。広い敷地だから、いざとなれば、消防車も入れる」
「…………」
相手は一瞬、沈黙したが、
「一応、見せていただきたいんですが……」
再度、申し入れてきた。
「折角だが、断る。実は、寝たきりの病人を抱えているんでね。こんな夜中に起こしたくはないんだ」
「近所で火事が発生しているんですよっ」
相手の声が荒くなった。
「わかってるさ。あんたたちも、ここで押し問答しているより、余所《よそ》も当たった方がいいんじゃないのか? 池の数は多い方がいいんだろう?」
と言って、片岡はその場で、わざと足踏みした。引き返したと思わせるためである。門の前の二人は顔を見合わせていたが、突然、そのうちの一人が鉄格子に手をかけた。すかさず、
「手を離せ! 一歩でも敷地に入ったら、拳銃の弾をお見舞いするぞ!」
片岡は怒鳴った。二人は凍りついたように動かなくなった。
「おい、二人のうちの、どっちでもいい。消防総監の名前を言ってみろ」
「…………」
相手は答えない。
「じゃ、手頃なところで、消防署長の名前でもいいぞ」
「…………」
相手は沈黙したままである。片岡は拳銃を握り直して、
「トップの名前を度忘れするような消防官は信用できないな。とっとと消え失せろ。でないと、本当にぶっ放すぞ」
と言って、片岡は口を噤《つぐ》んだ。
二人は無言のまま後ずさりし、足早に門を離れた。
その場でしばらく様子を見てから、片岡は忍び足で門に近づき、格子の間から、そっと表を窺った。二人の姿は消えている。
拳銃を握った右の拳《こぶし》が硬直していた。
数時間後、ようやく火災は鎮火して、外周警戒員は元の配置場所に戻った。
しかし、朝倉は気を弛《ゆる》めなかった。二人の厳戒態勢は夜が明けるまで、そして、夜が明けてからも続いた。その努力の成果だったのかどうかはともかく、結果的に寺西家には何事も起こらなかった。
朝倉の早朝パトロールから数えれば、おおよそ三十六時間に及ぶ警戒は、こうして終了したのである。
夕刻、二人を出迎えた警備係長は、お疲れさん、と労《ねぎら》いの言葉をかけてきたものの、その顔には複雑な笑みを浮かべていた。
真剣に取り組んでくれるのは有り難いが、度が過ぎるのも困る……。
おそらく、警備係長はそう言いたかったに違いない。
「消防庁の反応は、どうでした?」
片岡は尋ねた。寺西家に現れた二人の消防士について、警備課に調査を依頼していたからである。
もし、消防庁が寺西家前での件を把握しているようであれば、片岡が目撃した消防士は、紛れもない本物。そうでなければ、偽者ということになる。
「かなりしつこく尋ねてみたが、そのような消防士については該当はない、という回答だった」
警備係長は言った。そして、少し間を置いてから、
「今のところはね」
と付け加えた。いずれ該当者は判明する、と言いたかったのだろう。
「いいえ。いくら待っても、該当者が名乗り出るようなことはないでしょうね」
朝倉が言った。
「どんな事情があるにせよ、消防総監や消防署長の名前を答えられなかった、なんて、上司には報告できないと思います。小言や厭味《いやみ》を言われることはあっても、褒められることは絶対、あり得ませんものね。仮に、報告したとしても、今度は上司が握り潰《つぶ》すでしょう。消防全体の恥になります」
「ほう……。その口ぶりじゃ、君は例の消防士について、本物である可能性もあり得る、と認めるわけか?」
警備係長は念を押すように尋ねた。
「もちろんです。テロリストにしては、何と言うか、淡白すぎるような気がします。表玄関はともかく、裏口の護りはスカートをはいた小娘一人だというのに、攻めてくる気配さえありませんでした。時々、明かりの下に体をさらして、誘ってみたんですけどね。アタリ[#「アタリ」に傍点]はありませんでした」
「…………」
警備係長は唖然とした面持ちで、目を瞬かせるだけだった。
「では、疲れていますので、これで失礼します」
朝倉は軽く会釈すると、拳銃のホルスターを片手に下げて、拳銃倉庫に向かった。
片岡がその後に続こうとすると、
「お、おい、片岡君。ちょっと待て」
警備係長が呼び止めた。
「君たちは例の消防士をテロリストだと確信して、対応したんだろう? そうじゃなかったのか?」
「ええ、まぁ、そうです」
と、生返事すると、
「まぁ、そうですって、……朝倉君の口ぶりじゃ、そうじゃないみたいじゃないか? 一体、どうなっているんだ?」
警備係長は口を尖《とが》らせた。
「いやいや、これは私の推測ですがね。朝倉刑事の本音は違うと思いますよ」
片岡は朝倉の後ろ姿を眺めながら、
「おそらく、彼女は今も、五十パーセントくらいの確率で、例の消防士をテロリストだったと思っていますよ。裏口で隙を見せたのに襲ってこなかったのは、相手が、それを罠《わな》だと深読みしたからかも知れない、と思っているはずです」
「……本当か?」
「ええ。まず間違いありません。ついでに言えば、後の四十パーセントくらいが、テロリストは警官か、野次馬なんかに化けて、寺西家に接近しようとしていた、と思っているでしょうね。係長のように、テロリストなんか最初から存在しなかったとする考えは、残りの十パーセントくらいなもんでしょうよ」
「…………」
「彼女がそういうことを説明しなかったのは、説明したところで、平和ボケした連中には理解してもらえない、と思っているからですよ」
と言って、警備係長の顔色を窺《うかが》うと、
「そうか。驚いたな……」
警備係長はため息まじりに言った。
「ええ、全くです。彼女には最初から、驚かされてばかりいますよ」
片岡はクスリと笑ってから、朝倉の後を追った。
結局、消防士の正体は解明されることはなかった。
そして、火災の夜から一週間後、マリア・パティニョは帰国した。予定が早まったのは、コロンビアマフィアの大ボス、カルロス・シフェンテスが警察によって射殺されたからである。それは、隠れ家を包囲した警察の特殊部隊との激しい銃撃戦の結果だった。
慌ただしく空港に向かうマリア・パティニョは、タクシーの中から朝倉と片岡に手を振った。呆気《あつけ》ない別れ、そして、呆気ない特別任務の終わり方だった。
即刻、警戒態勢は解除。警戒員は全員、元の勤務に復帰することになった。その日のうちに、片岡は刑事部屋へ戻り、朝倉も一日だけ休み、翌々日には、再び特捜本部へ戻って行った。
マリア・パティニョは去り、朝倉も去って、狛江署は元の静けさを取り戻した。その静けさに一抹の寂しさを覚えたのは、おそらく片岡だけだったに違いない。
やがて、数日を経ずして、署員の間には、一つの笑い話が囁《ささや》かれるようになった。火災の夜の片岡たちの行動が、現実を無視した荒唐無稽《こうとうむけい》な茶番劇と揶揄《やゆ》されたのである。
片岡を呼び止めて、事の次第を確かめてくる者。或いは、片岡を見て、笑いをかみ殺しながら足早に通りすぎる者。署員の反応は様々だった。
しかし、片岡は一切、反論や釈明をしなかった。固定観念に凝り固まった署員たちに、朝倉の発想を説明したところで、理解を得ることはできないと判断したからである。
そんなある日のこと。いつものように書類整理をしていると、
「片岡さん。みんなにバカにされて、悔しくはないんですか? 少しは言い訳したらどうです?」
向かいの席の関根が言った。
「藪《やぶ》から棒に、何のお話?」
片岡は書類に目を向けたまま答えた。
「惚《とぼ》けないで下さいよ。特別警戒のことに決まってるじゃないですか」
「ああ、そのことか。そのことなら、言い訳してもムダだ。やめておくよ」
「ムダでも、黙っているよりはマシですよ。徹夜勤務して、その上、バカにされるなんて、間尺に合わないでしょう? たとえ嘘でも、襲撃に関する未確認情報があった、とでもブチ上げるべきだと思いますね。そうすりゃ、連中もシュンとしますよ」
「そりゃ、恥の上塗りになるよ。そんな情報はなかった」
片岡は首を横に振った。関根は眉間に皺を寄せて、
「ひょっとして、片岡さんも内心では、あの日の徹夜勤務を無意味な警戒だったと思っているわけですか?」
「とんでもない。そんなことは思っちゃいない。でも、百歩譲って、仮に、そうだとしても、俺にとっては貴重な体験だった。それで十分だと思っている。バカにされようが、一向に気にならない。所詮《しよせん》、猫は虎の心を知らず、だよ」
「なるほど。すると、この私も、その取るに足らぬ猫の中の一匹、と言うわけですか……」
関根が不貞腐《ふてくさ》れたように言った。
「わかったよ」
片岡はペンを離して、
「同じ釜《かま》の飯を食っている大先輩になら、言い訳しても罰は当たらないだろう。で、一体、どんな言い訳が聞きたい?」
と言いながら、煙草に手を伸ばすと、
「ありのままですよ。紛れもない真実です」
関根がライターの火をつけた。
「そりゃ、無理だ。あの夜の真実はわからない。神のみぞ知るだよ。ただ……」
片岡は長い煙を吐き出して、
「結論から言えば、あの夜の俺たちの行動は、皆さんがおっしゃるように、一人|相撲《ずもう》だったかも知れないと思っている。これは本音だ。おそらく、朝倉刑事も、そう考えているはずだ」
「…………」
「だが、確かなことが一つだけある。もし、万に一つの確率で、あの火事騒ぎが陽動作戦で、消防士もテロリストだったとした場合、彼女と俺がいなかったら、マリア・パティニョは間違いなく殺されていたということだ。実際、あの夜、俺たち以外は全員、炎の勢いに、我を忘れて持ち場を離れている。餌《えさ》につられて、まんまと罠《わな》にかかった形だった」
「…………」
「もちろん、持ち場を離れた連中にも、それぞれ言い分はあるだろう。だが、真夜中の火事に浮き足立ったことだけは確かなことだ。これだけは否定できない。大の大人がいい年をして、たかが火事騒ぎで、肝心のマリア・パティニョのことを忘れてしまった。考えてみれば、プロとして、これほど情けないことはない。あの場合、テロリストが実在したかどうかなんて問題じゃないんだよ。重要なのは、差し迫った状況下で、どう対応できたのか、という結果なんだ」
と言って、灰皿に手を伸ばした時、関根の目の動きと、辺りの気配で、他の刑事たちが聞き耳を立てていることがわかった。
「その点、今にして思えば、朝倉刑事の対応は惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほどだった。実に見事だったよ」
片岡の声は自然に高くなった。
「彼女は単に頭が切れるだけじゃない。切羽詰まっても、冷静沈着。何よりも、度胸が据わっている。あんな可愛い顔をしやがって、これから命のやり取りをしましょうよ、なんて、涼しい顔で拳銃を取るんだからなぁ……。ど肝を抜かれた。たった一軒、民家が燃え上がっているのを見て、右往左往するオッさんたちとは大違いだ」
「…………」
「今まで俺は、女の上司とか、青二才のエリート幹部なんかは、脆《もろ》いものだとばかり思いこんでいた。映画なんかで、経験の浅い指揮官が、その道一筋のベテランの助言を無視して失敗するという話を、面白がって見ていたもんだよ。だが……、それは、俺たち凡才の自己満足のために誇張されているおとぎ話じゃないのかな。もちろん、全部が全部じゃないだろうけど、エリートと言われる人間には経歴や経験、それに性別を越えた何かがあるよ。悔しいけど、そう認めざるを得ない」
「…………」
「朝倉刑事と一緒に仕事をしてみて、そのことを思い知らされた。おそらく、実際に、この目で見なければ、俺は彼女を、単に美人で、頭のいいキャリアウーマン、とくらいにしか、思わなかっただろうな」
と呟いて、係長席の後ろに目を注いだ。
十日ほど前まで、そこにあった花はなくなっていた。花瓶は再び、部屋の隅にある複写機の下で、竹定規と孫の手の入れ物になっている。
しかし、片岡の目には、艶《つや》やかな花の色が、まだ鮮明に残っていた。
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第五話 迷宮論争
検察庁の事務官と通話中に、横から手が伸びてきて、片岡は鼻を摘まれた。
メモを取りながらだったので、その手を振り払うことができない。書類の不備を詫《わ》びる言葉が、アヒルのような声に変わった。事情を知らない相手が機嫌を損ねるのは当然である。鼓膜が破れそうな音を立てて電話は切れた。
「いい加減にしろっ。そんな悪ふざけをして、何が面白いんだ」
片岡は受話器を戻しながら、横でニヤついている男を睨《にら》みつけた。
荻原孝太郎 三十歳。片岡とは同期で、吉祥寺署の捜査係に勤務する巡査部長である。
「洒落《しやれ》だよ。洒落、洒落」
荻原はケロリとした顔で言った。
「洒落で済むかよ。電話の相手はコチコチの石頭なんだぞ。少しは他人の迷惑も」
と言いかけて、片岡は口を噤《つぐ》んだ。荻原は相手が向きになればなるほど、面白がる男だったからである。
「ところで、お前……、一体、何しに来たんだ?」
片岡は尋ねた。
「出張捜査」
「何の?」
「サンズイ」
サンズイとは警察隠語で汚職のことである。荻原は詐欺や汚職などを捜査する知能犯担当だった。
「ホシを追っているうち、狛江《こまえ》署さんと競合してしまってね。合同捜査をすることになった」
「ほう……。それで、うちの署を根城にするのか?」
「うん。三階の小会議室が対策本部だ。まぁ、捜査対策本部だなんて、名前だけは仰々しいが、捜査員は七人しかいない。こぢんまりとしたもんだ」
「そうか。まぁ、こっちの邪魔にならないように、せいぜい頑張ってくれ。顔見せ大儀」
と言って、仕事にかかろうとすると、
「別に俺《おれ》は、仁義を切りに下りてきたわけじゃないよ。片さんに、小粋な店を一軒、紹介してもらおうと思ってね。それで来たんだ」
「紹介だと? 冗談じゃない」
片岡は首を横に振って、
「折角だが、そいつは御免被りましょう。とばっちりを食って、俺まで出入り止めになりたくはないからな」
荻原には以前、馴染《なじ》みの店をけなされ、そこの主を怒らせたことがある。
「ああ、あの件か……。あれに関しては、申し訳なかったと心から反省しているよ。まさか、真後ろに女将《おかみ》がいるとは思わなかったんだ」
荻原は頭をかいて、
「だが、今回は俺個人の頼みじゃないんだ。実は、うちのキャップの御下命でね。静かで落ちついた店を一軒、探さなきゃならない。同期のよしみで、面倒みてくれ。頼むよ。この通りだ……」
と言って、両手を合わせた。
「俺を拝むより、うちの知能犯の連中にでも聞けばいいじゃないか。一緒に仕事をしているんだろう?」
「実は、俺もそう言ったんだが、うちのキャップは顔に似合わず、結構、口が奢《おご》っていてね。狛江署の方々と、顔合わせの時に使った店が気に入らなかったらしい」
「へぇー、何という店だい?」
「聞いたけど忘れた。田子作とか、与作とか、間抜けな名だったな」
「そんな屋号の店は聞いたこともないよ」
と答えたが、片岡には心当たりがあった。
多摩川沿いに、元警官の経営する小さな店がある。三、四年前に、忘年会の二次会で、一度だけ連れられて行ったことがあったが、散々、説教された上に皿洗いまでやらされて、酔いが醒《さ》めてしまった覚えがある。
「別に仕事で使うわけじゃないんだよ」
荻原は言った。
「帰りがけに吉祥寺組だけで、軽く一杯やるだけなんだ。静かで落ちついた雰囲気の店があったら紹介してくれ」
「静かで、落ちついた雰囲気の店か……」
片岡はボールペンの頭で額を擦《こす》った。脳裏に、様々な店の看板が浮かんでは消えた。
さほど親しくない知人に酒場を紹介する時は、贅沢《ぜいたく》な店に限る。味やサービス、そして、料金にこだわると、相手が気に入らなかった場合に恥をかくことがあるからだ。味覚には個人差があるし、サービスにも好みがある。そして、信じがたいことだが、料金の高低だけで、店のランク付けをする客もいる。
過去の苦い教訓を踏まえて、片岡は荻原に管内随一の料亭を紹介することにした。
老舗《しにせ》松風亭≠ヘ、駅から十分という場所にありながら、静かで落ちついた雰囲気の店だった。障子を開ければ、中庭に風情ある山水。耳を澄ませば、池に注ぐ水の音が聞こえてくる。酒、料理、サービス、客層。そのどれを取っても、非の打ち所がない。料金についても、赤坂や銀座に比べれば、多少、ひけをとるが、裕福な客の自尊心を傷つけるほど、安くはなかった。
片岡は引き出しの奥から見つけた松風亭のマッチを封筒に入れ、三階に届けた。吉祥寺署員の懐具合を無視したのは、かつて荻原に、馴染みの店をけなされたことへのささやかな報復でもあった。
吉祥寺の刑事たちが松風亭の座敷に上がった、という噂《うわさ》を耳にしたのは、数日後のことである。そして、その翌日、荻原から早速、電話があった。
「どうだった? 気に入ったかい?」
片岡は笑いを噛《か》み殺しながら尋ねた。
「勿論だよ。さすがは片さんだ。キャップも喜んでいたし、俺も鼻が高いぜ」
「そりゃよかった。気に入ってもらって、ホッとしたよ」
鮪《まぐろ》の刺し身が一切れ千円もする店を喜ぶはずがない。請求書を見て、顔色を変える男たちの姿が目に浮かんだ。
「でも、危うく本館の方に入りそうになってね」
荻原は言った。
「……本館?」
「ああ。冷や汗かいたぜ。仲居さんに念を押されて、助かったけど、知らずに入っていたら、付け馬がつくところだった。まぁ、新館の方も安くはないけど、梯子《はしご》酒をしたと思えば、何と言うことはない」
「…………」
新館のことは初耳である。
「今の時代、一流の料亭も庶民相手の商売を工夫しなきゃ、生き残れないということなのかなぁ。吉祥寺の方にも、あんな風な店が欲しいよ」
「そうかい……」
と答えたが、半信半疑のままだった。
「とにかく、ありがとう。それで、キャップが礼をしたいと言ってるんだが、今夜、体は空いてるか?」
「今夜? 別に、用はないけど……」
「じゃ、来てくれよ。松風亭の若|旦那《だんな》からは名刺も貰《もら》ったし、こっちで予約しておく。仕事が長引いても、七時までには顔を出せると思う」
「わかった。ところで、キャップの名前は何と言うんだ?」
「土門だ。その名で予約しておく」
「土門? どっかで聞いた名前だな」
と首を捻《ひね》ると、
「警察学校じゃないか? 一時期、知能犯捜査の特別講師をしていたこともあるそうだからな」
「ほう……。土門講師ね……」
片岡には思い出せない。
「とにかく、会えば、はっきりするさ。じゃ、キャップには、そう言っとくぞ」
と言って、荻原は電話を切った。そして、片岡が受話器を戻した時、
「土門だって?」
横の方から安達の声がした。振り向くと、
「まさか、三階にとぐろを巻いている毛虫野郎のことじゃないだろうな?」
と、念を押すように尋ねてきた。
「吉祥寺署の……土門係長ですけど……」
片岡は戸惑いながら答えた。安達はまじまじと片岡を見つめて、
「一体、君は……、土門とは、どういう知り合いなんだ?」
「知り合いなんかじゃありません。同期生の上司というだけのことです」
「そうか……。で、奴は一体、何だと言ってやがるんだ?」
安達は喧嘩《けんか》腰で尋ねた。
「い、いえ、ただの飲み会の誘いです」
「飲み会だと? そうか、飲み会か……」
安達は一旦《いつたん》、目を伏せたが、すぐに、睨《にら》めつけるような目で、
「それで、どうするんだ? 行くつもりなのか?」
「はい。特に予定もありませんし……」
と答えると、安達の顔が微《かす》かに紅潮した。
「で、でも、断っても構わないんです。別に一緒に飲みたいと思っているわけじゃありませんし……」
片岡は慌てて言い直した。だが、
「何も、俺に遠慮することはない。君は君だ。誰とでも、勝手に飲むがいいさ」
安達は不貞腐れたように言った。
友人を毛虫野郎と呼ぶ人間はいない。安達が土門に好意を抱いていないことだけは確かなことだった。しかし、その理由を本人に確かめる勇気はなかった。土門の話をしてから、安達は急に不機嫌になったからである。
二人の関係について、何人かの刑事に聞いて回ったが、突き止めることはできなかった。その点が気がかりだったが、勤務終了後、片岡は約束通り、松風亭に向かった。
駅前通りから路地に入り、しばらく行くと、駐車場のはずだったところに、いつの間にか居酒屋風の店が建っていた。真新しい看板には、松風亭新館、とある。大通りからは死角になる目立たない場所だった。今まで、気づかなかったのは、そのためだった。片岡は戸惑いながら暖簾《のれん》をくぐった。
店の中は意外に広く、和服を来た娘が笑顔で出迎えた。ヤキトリの煙が漂う中で、琴の音が流れている。大衆酒場と高級料亭の中間という感じの店だった。
店員に予約を確認しようとすると、奥の方から片岡を呼ぶ声がした。見ると、衝立《ついたて》から顔を出した荻原が手を振っている。
片岡は店内の品定めをしながら、その席に向かった。
「思いのほか、早く終わってね。待ちきれなくて、先に始めさせてもらった」
荻原が言った。上座には、安達とほぼ同年齢の男が座っている。初めて見る顔だった。
「うちの土門係長だ」
荻原が紹介し、
「片岡です」
と頭を下げると、
「お噂はかねがね。この度は、こんな結構な店を紹介してくれて、ありがとう」
土門が会釈した。広い額の下に、異様に太い眉毛《まゆげ》が目につく。
なるほど、毛虫とは、このことか……。
「じゃ、乾杯しようか」
荻原が伏せてあったコップを片岡に差し出し、ビールを注いだ。そして、乾杯。
五秒でコップが空になると、
「噂に違わず、飲みっぷりがいいね。故郷はどこ?」
今度は、土門がビール瓶を差し出してきた。それを両手で受けてから、
「申し遅れました……」
と、居住まいを正して、片岡は自分の略歴を述べた。年齢、出身地、趣味、特技と続くところだったが、
「大学卒業後って……、一体、どこの大学を卒業したんだい?」
土門は途中で口を挟んできた。片岡が大学名を口にすると、
「奇遇だな。僕もそうだよ」
土門が目を輝かせた。
「本当ですか?」
「本当だとも。法学部。三十九年の卒業だ」
「すると、大先輩ですね」
「嬉《うれ》しいねぇ……。先輩なんて呼ばれるのは何年ぶりかな」
土門が満面に笑みを浮かべて、握手を求めてきた。
自己紹介の場は一転して、OB会の場に変じた。話題も、大学受験の動機から始まって、女子大生の話。名物教授の思い出話。負け続けている野球部の監督批判……。
この間、ライバル校出身の荻原は部外者の立場に追いやられ、片岡は益々《ますます》、土門に親近感を抱いた。
やがて、大学の話題も尽きるころ、片岡は安達のことを思い出した。
「ところで、先輩。うちの係長とは、どういう間柄なんです?」
片岡は土門の杯に酌をしながら尋ねた。
「うちの係長って……、一体、誰のことだ?」
土門が杯を口に運びながら言った。
「安達と言いますけど」
と言った瞬間、土門は咳《せ》き込んだ。そして、ハンカチで口元を拭《ふ》きながら、
「君は、あのうらなり野郎のところの兵隊[#「兵隊」に傍点]だったのか?」
うらなり野郎、というあだ名は初耳だったが、
「ええ、一応は」
と答えた。
「……一応? 何だい? そりゃ」
「実を言うと、私は正式な捜査係じゃないんです。欠員の一時的補充員ですから」
「なるほど。そういうことか……」
土門は頷《うなず》いた。その顔からは笑みが消えている。
「何か、わけありのようですけど、お二人は一体、どういう間柄なんです?」
片岡は再度、尋ねた。
「君は聞いていないのか?」
「はい。聞いていません」
「そうか……」
土門は数秒間、煮え立つ鍋《なべ》を見つめていたが、
「君の前だが、僕と奴の関係は、俗に言う犬猿の仲というやつだ」
「犬猿の仲?」
「うん。まぁ、不倶戴天《ふぐたいてん》の敵とまでは言わないがね。もし、君が奴の下で働いていることを知っていたら、大学のOB同士といえども、ここには呼ばなかったかも知れんな」
と言って、杯の酒をあおった。
「警察学校で、上川事件のことは勉強しただろう?」
土門は言った。
「君達がまだ小学生のころに発生した事件だ。あの時、僕と安達は捜査本部で一緒だったんだよ。二人とも、まだ駆け出しに毛が生えた程度の下っぱだったが、ベテラン捜査員の手伝いをさせてもらったんだ。ところが、知っての通り、あの捜査は変な終わり方をした。その時以来、安達とは酒を飲まなくなったというわけさ」
上川事件とは昭和四十八年に発生した有名な事件で、現在も真相は謎《なぞ》とされている。その事件概要は次のようなものだった。
パーレビ・ホテル総支配人 上川範貞 四十七歳は、七月五日の午前九時半ころ、日本橋の丸越デパートに入ったのを最後に行方不明になり、翌六日の午前零時半ころ、品川区内のニュー・パーレビ・ホテルの工事現場で、遺体となって発見された。発見者は巡回警備中のガードマンだった。
当初、単なる飛び下り自殺と見られていたが、遺体を解剖した東都大学の法医学教授は、死体に見られる損傷の中に、墜落以前に受けたと思われる損傷がある、と発表。捜査本部は殺人事件として捜査を開始した。
ところが、その捜査の最中に、城南大学の法医学教授が、解剖所見のデータと、生前の精神状況などを総合して、遺体の損傷は全て墜落時のもの、と主張し、真っ向から対立する。
捜査本部内にも、事件発生当初から、自殺、他殺で、激しい内部対立があった。しかし、およそ六カ月、延べ二万人以上の捜査員を動員した結果、警視庁は『自殺と推定せざるを得ない』という発表を行い、捜査本部を解散する。
このことが却《かえ》って衆目を集めることになり、意見の対立する大学、新聞社同士の論争へと発展することになった。
「あれは他殺だ。間違いない」
土門は言った。
「事件当初は、他殺の線で捜査は進められていたのに、突然、自殺ということにされた。裏に、政治的圧力があったのさ」
「やはり、石油ですか?」
片岡は尋ねた。
パーレビ・ホテルのオーナーは、当時のイラン国王 ムハンマド・レザ・パーレビの血縁者で、上川総支配人に対して、日本人のホテル従業員の大量首切りを指示していた。従業員側は反対闘争を展開。これを全国的な労組が支援したことから、労使関係は更に悪化した。
元々、従業員に同情的だった上川総支配人は、労組に突き上げられる一方で、オーナーからも早期首切りを迫られ、双方からの板挟みに苦しんでいた。そんな状況下で事件は発生したのである。
「昭和四十八年にオイルショックがなかったら、捜査は他殺の線で進められ、事件は解決していたさ。政治家共はイランからの石油が止められるのが怖かったんだ」
土門は苦々しい顔で言った。
「そのことは本で読んだことがあります。労組員の犯行と見せかけた陰謀、という見方は捜査本部の内部にもあったんですか?」
「勿論、あったさ。事件の一週間後、三、四人の外国人が、現場付近で不審な行動をしていた、という情報を得て、捜査してみたら、その辺り一帯で血液反応が出たんだ。この不審な外国人はSAVAKであることも確認した。事情聴取をしようとしたが、何と、彼らは外交特権をチラつかせてきた。結局、手は出せなかった」
SAVAKとは、パーレビ国王の国家治安情報機関のことである。当時、ホテルオーナーの警護を兼ねて、十数名のSAVAK関係者が日本に常駐していたことは周知の事実だった。
「上川事件は世間で言われているほどの難事件じゃないんだ。純粋に捜査的観点から検討してみても、他殺であることは容易に判断できる」
土門は続けた。
「まず、遺書がない。上川夫人も、『大学生の長男が夏休みで帰ってくるというのに、別れの食事もしないで自殺するはずがない』と言っていた。次に、上川総支配人は強度の近眼だったのに、現場付近から眼鏡が発見されていない。更に、解剖の結果、ほぼ十時間、食物をとっていないことがわかった。上川総支配人は胃潰瘍《いかいよう》で、痛む時にビスケットを齧《かじ》ると楽になるというので、ちょいちょい間食していたことは、よく知られている。それから、遺体の衣服についていた染料は工事現場にはない染料だった。決定的な証拠は、飛び下りたと思われる十階部分の足場に、血痕《けつこん》が残っていたということだよ。これは、飛び下りる前に殺されていたという何よりの証拠だ」
「…………」
「まだ、あるぞ。遺体が発見された六日の朝八時ころ、パーレビ・ホテルの清掃員が一階にあるトイレを掃除している時、荷物台に白墨で、『五・一九・上川 袋』と書かれてあるのを発見している。この白墨の文字を誰が書いたのか、突き止めることはできなかった。だが、この文字の内容から、犯人の動きがはっきり見えてくる」
「でも……」
片岡は荻原を一瞥《いちべつ》してから、
「それは日本語で書かれてあったんでしょう?」
と質問すると、土門は大袈裟《おおげさ》に顔をしかめて、
「SAVAKのメンバーが直接、動いたら、人目についてしまうだろう? 当時はまだ、外国人が通ると、日本人は振り返る時代だったんだぞ。彼らは、人目につきやすい仕事は日本人にやらせたんだ。白墨の文字は、五日の十九時、上川総支配人の死体を袋に入れて運べ、という意味に取れる」
「…………」
「つまり、事件を総括すると、こういうことだ。上川総支配人は日本橋の丸越デパートで何者かと接触した。約束があったのかどうかは不明だが、それはさほど重要な問題じゃない。呼び出さなくても、尾行していれば、その機会は得られるからな。とにかく、上川総支配人は何者かと接触し、そのまま、いずれかに連れ去られた。人目のあるデパート内で、店員や回りの客に助けを求めなかったという点から見て、おそらく黙って後をついて行ったと思われる。しかも、上川総支配人は自分の車を待たせていたんだ。運転手に一言も断らずに、後をついて行かなければならない相手となると、それが誰か、子供でもわかるんじゃないのか? 雇い主であるホテルオーナーの命を受けたSAVAKの手先以外、考えられない」
「…………」
「どこに連れ去られたかも、おおよそ察しはつく。パーレビ・ホテル関連の倉庫か、SAVAKの施設だ。そこで、待ち受けていたSAVAKに殴る蹴《け》るの暴行を受けた。彼らは従業員の首切りに消極的な上川総支配人にヤキを入れたんだ。ところが、連日の激務に憔悴《しようすい》しきっていた上川総支配人は死んでしまった。SAVAKはさぞ慌てたことだろうよ。もし真相が明らかになれば国際問題に発展しかねない。そこで、労組の跳ねっ返りが殺したように見せかけるために、工作したのさ」
土門は不快気に口元を歪《ゆが》ませた。
「しかし、上川総支配人は失踪《しつそう》後、都内のあちこちで目撃されていますよね?」
「ああ、あれか……」
土門は鼻先で笑って、
「確かに、前日の午後二時から五時半まで、喫茶店に長居したということになっている。だが、上川総支配人はヘビースモーカーだったというのに、灰皿には吸殻一本、なかった。それに、店員にお世辞なんかも言っている。上川総支配人をよく知っている人は、はっきり偽者だと言っているよ」
「偽者?」
「うん。某新聞記者が主張しているように、何者かが上川総支配人を装ったのかも知れないな」
「いわゆる替え玉説ですね?」
「そうだ。それから……、他の目撃者についてだが、午後六時四十分ごろ、現場付近ですれ違ったという男の証言は問題外だ。確かに、一メートルくらいの至近距離から見たということだけど、後で、かなりの近眼ということがわかった。これについては、目撃者本人が後日、上川総支配人の写真を見せられた時、別人のような気がしたが、刑事がしつこく、『そうだろう』と言うんで、面倒だから、『そうです』と答えた、と語っているよ」
「…………」
「それ以外の目撃者についても疑問を挟まざるを得ない。上川総支配人を見たという人間は、現場付近で十三人、失踪した丸越デパートで四人、地下鉄で一人、合計十八人に及んでいるけど、このうち、現場付近での目撃者は事件後半月もたってから現れている。しかも、半月前に目撃した割りには、やけにはっきりしているんだ」
「はっきりしていては……まずいんですか?」
「立場を自分に置き換えて考えてみろよ。半月前に見かけた通行人のことを、どの程度、思い出せると思う? 思い出せても、大雑把《おおざつぱ》な印象だけさ。にもかかわらず、はっきりした人相着衣を言えるということは、何らかの拠《よ》り所があるからだ。つまり、目撃者たちはマスコミ報道によって、予備知識を持っていたということだよ」
「なるほど……」
「上川事件は明らかに他殺だよ。まぁ、状況的には、傷害致死だとは思うが、殺意について、未必の故意は存在しただろう。つまり、殺人だ」
と言うと、ため息をついて、
「だが、真実も政治の壁には勝てん。あの当時、日本は産油国にビクビクしていた。実際、機嫌を損ねて石油を止められたら、日本経済は立ち行かない情勢だったんだ。僕たちにも、それはわかっていた。だから、やけ酒で憂さを晴らすしかなかったのさ」
土門は悔しそうに握り拳で座卓を叩《たた》いた。
「でも……、自殺を主張した捜査員もおられたんでしょう?」
片岡は遠慮がちに尋ねた。
「ああ、いたとも。安達も、その中の一人だ。君の前だが、あの連中は救いようがないよ。目撃者の証言を鵜呑《うの》みにして、頭から自殺と決めつけたんだ。彼らには科学的捜査という認識が欠如している。勿論、長年の経験に裏付けられた勘というものを、僕は否定するものではない。だが、それも程度によりけりだ。十手を持った岡っ引きじゃあるまいし、現代は勘に頼る時代じゃないだろう? そうは思わんか?」
土門は腹立たし気に言った。
「は、はい。おっしゃる通りです」
片岡は頭を下げた。そして、酌をしようと徳利に手を伸ばした。しかし、どの徳利も、いつの間にか、空になっていた。
翌日、軽い二日酔いで出勤した時、片岡は上川事件のことを忘れていた。二十年も前の事件の印象は、一夜過ぎてしまえば、下ろしニンニクの臭いほど強くは残らなかったのである。
しかし、実際に捜査に参加した人間にとっては、上川事件は忘れることのできない事件だったのだろう。一昼夜が過ぎても、安達は不機嫌な顔のままだった。出勤直後に茶を差し出した時は、臭いな、と、不快感を露《あらわ》にしたし、その後も、決裁書類の些細《ささい》なミスにまで難癖をつけてきた。
安達は自分の過去を知られるのを恐れていたのかも知れない……。
普段とは異なる神経質な安達を見て、片岡はそう思った。
ぎくしゃくとした空気の中で、長い一日が過ぎて行った。やがて窓越しに、午後五時を告げる市役所のチャイムが聞こえた時、片岡はホッとする思いで後始末にかかった。そして、三十分後、安達の前に進み出て、退庁の挨拶をしようとすると、
「今日も飲む予定なのか?」
安達が尋ねた。
「いえ。今日は寮から一歩も出るつもりはありません」
と答えると、
「そうか。じゃ、今日は、俺に付き合え」
「……え?」
思いがけない誘いに、片岡は戸惑った。
「尤《もつと》も、土門の酒は飲めても、俺の酒は飲めない、と言うのなら、話は別だがな」
安達が皮肉な口調で言った。
「と、とんでもない。喜んで御馳走になりますよ」
片岡は作り笑いを浮かべた。
「よし。じゃ、昨日と同じ場所で飲もう。一体、どこの店で飲んだんだ?」
「松風亭ですけど」
と答えると、
「何? 松風亭だと?」
安達がギョッとするのがわかった。
「新館ができたんですよ。料金も、並みの小料理屋より、二、三割、高い程度なんです」
「そ、そうか……。じゃ、そこにしよう」
安達がホッとするのがわかった。
安達の希望で、前日と全く同じ場所に席を取った。二日連続で、同じ店の同じ席に座るのは初めてだった。ただ、安達は土門とは敢えて異なる席を選んで腰を下ろした。
酒と肴《さかな》を注文しても、安達は仏頂面のままだった。やがて、枡酒《ますざけ》が運ばれてくると、慣れた手つきで塩を一摘み口の中に放りこみ、息もつかずに一気に飲み干した。そして、
「じゃ、聞こうか。あの毛虫野郎はどんな話をしやがったんだ?」
と、目を剥《む》いた。
「そう言われても、その……」
片岡は返答に窮した。
「あの野郎、上川事件のことを話さなかったか?」
「え? ええ……」
「やっぱり、そうか……。そんなことじゃないかと思っていたんだ。あいつは何も知らない若い連中を捕まえちゃ、洗脳教育をしていやがるんだ」
と、憎々し気に言ってから、
「俺たちが政治家共に屈伏したと言ってたろう?」
安達は探るような目で尋ねた。
「ええ、まぁ……」
と生返事すると、
「冗談じゃない」
安達は空になった枡を口につけて、一啜《ひとすす》りしてから、それを頭上に上げて店員を呼んだ。そして、二杯目を注文すると、ネクタイを緩め、上目遣いに片岡を睨《にら》んで、
「いいか、よく聞けよ。これから、あいつが説明しなかったことを説明してやる。まず初めに、はっきり言っとくが、ある政府関係者は上川事件について、他殺を仄《ほの》めかす発言をしているんだぞ。それも、まだ解剖所見が発表される前にだ。嘘だと思うなら、図書館で調べてみろ」
「……政府関係者が?」
「ああ、その通り。本来、発言すべき筋合いのものじゃないし、そんな立場でもないのに、そう発言したんだ」
「…………」
「それには理由があったんだ。当時は、日本のあちこちで市民運動が盛り上がり、それを支援する労組の勢いも凄《すご》かった。成田闘争から、杉並区のゴミ処理場反対運動まで、与党政治家や役人たちにとっては、頭の痛い問題が目白押しだった。パーレビ・ホテルの労使紛争を支援していた労組も、政府打倒がスローガンだったし、目障りな存在だったんだ。つまり、役人たちは、何かというと、すぐにプラカードを振り回す反対運動にうんざりしていた。そんな折りに、上川事件は発生した。そこで、他殺説を展開して、あたかも労組の仕業のように臭わせ、市民運動や労組活動のイメージダウンを狙《ねら》ったんだよ。だが……、俺たちは最初から一貫して、自殺を主張しているんだ。ここが肝心なところだぞ。高級役人は他殺説を臭わしたが、俺たちは自殺の線だったんだ。ここのところをきっちりと認識してもらわなきゃ困る」
「は、はい……」
片岡は思わず膝《ひざ》を固くした。
「それに対して、労組系の政党はどうしたと思う? 事件直後は、労組の関与を否定する立場から、自殺を主張していたんだぜ。ところが、それが途中で変わった。例のSAVAK、つまり、イランの国家治安情報機関の暗躍が囁《ささや》かれるようになると、彼らはSAVAK謀殺説、つまり他殺説を声高に主張するようになったんだ。すると、今度は、それまで他殺を主張していた政府関係者が、それを否定するために、自殺説を主張するようになる。どっちもどっち、いい加減なもんだ」
安達は拳で座卓を叩いた。その時、店員が二杯目の枡酒を運んできた。今度は、枡の受け皿の方にも、たっぷりと酒が満ちている。それに気づいたせいかどうかはともかく、安達の表情が微かに緩んだ。
「大学も、新聞社も、対立したそうですね?」
片岡は尋ねた。
「その通り。捜査本部の内部も、自殺派と他殺派の二派に分かれていた。俺と土門は、それぞれの末裔《まつえい》というわけだよ」
「後学のために、純粋な捜査的観点から、自殺説に至った根拠を聞かせてくれませんか?」
「純粋な捜査的観点だと? ひょっとして、科学捜査ということを言いたいのか?」
安達はニヤリと笑って、
「確かに、科学捜査という言葉は耳に心地よく響く。他殺派の連中は、それを強調して、あたかも真実のみを追求しているかのように主張しているが、それはまやかしだ。彼らの言う科学捜査とは、他殺説を立証するための道具にすぎない。つまり、最初に他殺説があって、それを立証できる証拠だけを取り上げ、立証できない証拠については、故意に排除しているんだ。そんな恣意的なやり方は、真の科学捜査とは言えない」
「…………」
「他殺派の連中は、そんな自分たちの独善を棚に上げ、俺たち自殺派が、あたかも勘だけを頼りに捜査したように吹聴しているんだ。とんでもない言いがかりだよ。俺たちだって、科学捜査的視点で事件を検証している。しかも、何の先入観も抱かず、つまり、他殺の可能性まで含めて検証したんだぞ。ここのところが、最初から自殺説を排除して検証した土門たちとは、大きく異なる点だ」
と言うと、安達は一息入れて、
「まず、遺書がない、という点だが、遺書のない自殺なんて、珍しくもないよ。上川総支配人はノイローゼぎみだった。遺書はない方が、むしろ自然だと言える。夫人は他殺を主張していたようだが、それは単に、家族としての心情にすぎないよ。何の証拠にもならない。職場の同僚なんかは、根っからのホテルマンである上川総支配人が、神聖なホテルの建築現場を血で汚すはずがない、と主張しているようだが、これについては、何をか言わんや、だな。仕事人間だからこそ、死に場所として職場を選ぶということは、山ほど前例がある」
「…………」
「次に、発見されなかった眼鏡についてだが、自殺の現場から全ての所持品が発見されるとは限らない。この種の現象は、現場では時々、見られることなんだ。誤解されやすいところなんで、説明が難しいが、強いて言うなら、発見されないということと、そこに存在しないということとは、区別して考えなければならない、ということかな」
「…………」
「三番目は、胃が空っぽだったという点だ。他殺派の連中は、これを以て、監禁の形跡と考えているようだが、飛躍も甚だしい。死を覚悟すると、何も喉《のど》を通らなくなるという現象は、死刑囚の例を引くまでもないだろう。四番目は、衣服についた染料のことだ。これについては、なぜ問題になるのか、いまだにわからない。議論する意欲さえわいてこないよ。尤も、他殺派の連中に言わせれば、染料が付着したのは監禁場所なんだそうだ。俺たちは、どこでもいいと考えている。公園でも、空き地でも、駐車場でも、あの染料のある場所ならね。ただ、その場所を突き止められなかったことについては、力不足だったと反省している」
「…………」
「その他、目撃者のことを否定的に言ったろうが、他殺派の言うことは全て、矛盾している。まず、半月前の目撃にしては鮮明すぎる、と主張しているけど、うろ覚えの記憶が、ちょっとしたことではっきりすることは、よくあることだ。早い話が、小学校時代の友人と何十年振りかで会って、名前が思い出せなくても、苗字《みようじ》の一文字を教えられただけで、フルネームを思い出したという経験は誰にもあるはずだ。それから、至近距離で上川総支配人を目撃した男のこともケチをつけたと思うが、これも、他殺派の主張には矛盾がある。確かに、あの男は近眼だった。後で上川総支配人の写真を見て、違うらしいと感じたということだが、その写真を見た時、彼は眼鏡をかけて見たのかね。それとも、外して見たんだろうか……。どっちにしろ、実際にすれ違った時は、ひどい近眼の目で見ているわけだ。一体、何を根拠にして、写真の顔とは違う、と判断できたのか不思議な話だ」
「…………」
「喫茶店で目撃された人物が、上川総支配人本人かどうかも問題にされているようだが、我々自殺派としては、どちらでもいいと考えている。自殺説を覆す根拠にはならないからだ。尤も、荒唐無稽な替え玉説を主張する輩《やから》に、敢えて一つの指摘をすれば、灰皿に吸殻がなかったとしても、それは煙草を吸わなかったという証拠にはならないし、ヘビースモーカーといえども、眠りながら煙草は吸わない、ということだな。聞くところによると、その喫茶店の客は、ちょっと休ませてくれ、と言って、ずっと眠っていたらしいぞ」
安達は皮肉たっぷりに言うと、
「土門が主張したのは、こんなところだろう? 他に何かあるか?」
と尋ねた。
「そうですね……」
片岡は土門の説明を思い返した。安達が言及していない点が二つある。
「パーレビ・ホテルのトイレにあった伝言メモ。それに、工事現場の血痕についても、話していましたね」
「伝言メモと血痕か……」
安達は鼻先で笑って、
「あれが本物の伝言メモだとは、とても考えられんな。白墨で、これみよがしに書くなんて、まるで探検ごっこだ。もし、トイレに入った第三者が無意識に消してしまったら、一体、どうするつもりだったんだろうか? まぁ、運良く消えずに残ったわけだが、不思議なことに、伝言を読んだ人間は、なぜか消さずに立ち去っている。それとも、手違いでトイレには行けなかったのだろうか? そもそも、本気で伝言するつもりだったら、小さな紙にあらかじめ伝言内容を書いておいて、便器の裏にでも張りつけておいた方が、メモする時間も省けるし、安全確実だ。あの伝言メモは明らかに悪戯《いたずら》だよ」
「…………」
「それに、工事現場の血痕についてだが、機会があったら、一度、工事中のビルを見学してみるがいい。ヘルメットをつけなきゃならない理由がわかるよ。足場は悪いし、あちこちに親指ほどもある鉄の棒が剥《む》き出しになっている。現場検証に臨場した捜査員の中には、真っ昼間だというのに、すっ転んでケガをした者もいる。上川総支配人は真夜中に、明かりもなしに、そんな場所を歩いているんだ。無傷で十階まで上ったとは思えないな。ここで俺が言いたいのは、死体発見場所以外の血痕が、即、死体の血痕とは限らないということだ。些《いささ》か、屁《へ》理屈めいて聞こえるかも知れんが、科学捜査を標榜《ひようぼう》するのなら、その辺のところまで検証すべきだと思う」
「…………」
「だが、土門たちの他殺説が破綻《はたん》する決定的な証拠は、彼らが提示している証拠の中にある。もし、上川事件がSAVAKの企んだ謀殺だとしたら、つまり、労組の活動家による殺人犯罪に見せかけたものだとしたら、なぜ、上川総支配人の胸にナイフを突き立てて、人目のつく所に放り出さなかったんだ? なぜ、自殺と疑われるような方法を、わざわざ選択したんだ?」
「…………」
「こういう指摘をすると、他殺派の連中は、SAVAKは急いで計画し、実行したので、齟齬《そご》を来《きた》した点もある、と、取って付けたような説明をする。一方で狡猾《こうかつ》で緻密《ちみつ》な謀殺だと主張しておいて、その矛盾を指摘されると、今度は掌を返したように、粗雑だったと主張してくるんだ。その奇怪さは、上川事件の謎《なぞ》を遥かに凌《しの》ぐよ」
安達は吐き捨てるように言った。
分別盛りの二人の警部補が、向きになって上川事件の解説をするということは、事件から二十年を経た現在でも、関係者の間に根深い対立があることを物語っていた。
思いがけず、その一端を垣間《かいま》見た片岡は、上川事件に対し、興味を抱くようになった。当時の新聞を読み、事件に関する文献に目を通し、ベテラン署員にも質問してみた。しかし、そのどれもが、土門と安達の説明の域を越えるものではなかった。多くの先人たちがそうであったように、片岡もまた、迷路の中で立ち往生するだけだったのである。
そして、いつしか上川事件への興味も薄らぐころ、土門たちが取り組んできた汚職捜査は目的を達成し、対策本部は解散することになった。
合同捜査の成功に気をよくした刑事課長は慰労会を計画した。ところが、当初、知能犯捜査関係者だけでささやかに行われるはずだった宴は、署長の意向で、係レベルから課レベルに拡大されることになった。会場も、刑事課長行きつけの寿司屋の二階から、予算とスペースの関係で、署員食堂に変更となった。出席者は当直員を除く刑事課員全員。当然、盗犯係長である安達も含まれている。
こうして、およそ二十年ぶりに、安達と土門は酒席を共にすることになったのである。
その当日。管理職の出席者を含め、およそ三十名が署長の会場入りを待っていた。土門係長以下三名の吉祥寺署員は上座に据えられ、安達は四、五メートル離れた席に座っていた。見習いの片岡は勿論、出入口近くの下座である。
やがて、署長が登場。全員が起立して迎えた。署長はいつものように遅刻の言い訳をしてから、まず、吉祥寺署員を褒めたたえ、次いで、刑事警察の重要性を力説し、最後に、全員を叱咤《しつた》激励して挨拶を終えた。署長が腰を下ろすと、刑事課長が立ち上がり、署長に謝意を表し、知能犯担当者たちを労《ねぎら》う言葉を述べ、その後、副署長の発声による乾杯の音頭ということになった。
男だけの酒宴が始まった。出席者は仕出屋特製のお摘み弁当≠肴《さかな》に、十分ほどビールで喉を湿してから、席を立って酌に回る。いつもの光景だ。
しかし、見習い刑事が飲めるのは、乾杯の一杯だけで、二杯目をじっくり味わう暇はない。瞬く間に空になるビール瓶を部屋の隅に運び、新しいビールを届ける役目があるからだ。
栓抜きをくわえて、会場内を何度も往復した。やがて、ビールケースが二箱も空になると、飲み物の注文は徐々に、日本酒へと変わって行く。一升瓶を三本、そして、ウィスキーと焼酎《しようちゆう》を一瓶ずつ運んで、ようやく新米の役目は終わった。
片岡は自分の席に戻り、上着を脱いで、二杯目のビールを口に含んだ。安達が席を離れるのを見たのは、その時である。行き先は上席だった。しかも、土門の席に向かっている。片岡は固唾《かたず》を呑んで、事の成り行きを見守った。
意外なことに、二人は握手を交わし、酌の順番を争い、やがて、酒の入ったコップを合わせた。この日の二人は笑顔まで作っていた。毛虫野郎と罵《ののし》り、うらなり野郎と蔑《さげす》んだ態度は微塵《みじん》もない。片岡は拍子抜けし、そして、ホッとする思いで手酌のビールを飲み続けた。
「世話になったな」
という声に顔を上げると、斜め後ろに荻原が立っていた。片方の手に一升瓶をぶら下げている。
「おめでとう。大漁だって?」
片岡はコップに残ったビールを飲み干し、それに酒を受けた。そして、返杯しようとすると、
「二次会があるんで、勘弁してくれ。気持ちだけ受けておくよ」
荻原はコップを押し返した。
「二次会? またぞろ、松風亭かい?」
片岡は笑った。
「いや、こちらの課長さんの招待だから、どこかわからない」
「じゃ、寿司屋の二階だ」
「そうか。まぁ、どこだっていいさ」
と言うと、片岡の隣に座って、
「それより、ちょいと小耳に挟んだんだが、上川事件のことを調べているというのは、本当か?」
荻原は真面目な顔で尋ねた。
「誰から聞いた?」
「同じ屋根の下で仕事をしていれば、自然と耳に入ってくるよ。古いデカさん連中を質問攻めにしているって、三階でも評判になっていたぞ」
「質問攻めだなんて、とんでもないよ。当時の話を聞かせてもらっただけだ。図書館へ行って文献を調べても、デカさん連中の内緒話のことまでは載っちゃいないからな」
「そうか。で……、どうだった?」
荻原が身を乗り出してきた。
「さっぱり、わからない」
片岡は首を横に振った。
「惚《とぼ》けるなよ。うちのキャップに言わせれば、あの事件に対する見方で、その刑事の資質がわかるそうだ。後輩の意見が聞きたいとも言ってたぞ」
「なるほど。他殺説を主張するのが見込みのある刑事で、自殺説を主張するのはぼんくら刑事というわけか?」
片岡は皮肉を込めて言った。
「まぁね。乱暴な括り方かも知れんが、上川事件に関しては、俺もそう思うな。科学捜査的な観点で判断すれば、そういう結論にならざるを得ないよ。そもそも、疑わしきは捜査する、というのが、警察の基本姿勢であるべきだ。上川事件を自殺として捜査本部を解散したことは、警視庁の汚点として歴史に残るだろう。実に残念なことだ」
と言って、荻原は上席の方を一瞥した。その視線の先を確かめなくても、誰を見たのか、片岡にはわかった。
「それは自殺派への謂《い》われなき偏見だ」
片岡は言った。
「自殺派の捜査員も、他殺派の捜査員同様、検討に検討を重ねた結果、一つの結論に到達したんだ。仮に、警視庁上層部に対して、政治的圧力があり、その結果、自殺説が利用されたとしても、そのことと自殺派の捜査姿勢とは無関係だ。ここのところは混同しがちだが、区別して考えるべきだと思うな」
片岡は素直な感想を述べた。
「その口ぶりじゃ、片さんは自殺説だな? うちのキャップは、さぞ、がっかりすることだろうな。でも、安達係長は喜ぶだろう。めでたし、めでたしだ」
荻原が冷やかすように言った。
「冗談じゃない。俺は正式な刑事じゃないんだ。どこかの誰かさんみたいに、お師匠さんの説を後生大事に継承して行く義理なんかないよ」
片岡は吐き捨てるように言った。
「おいおい、それこそ謂われなき偏見だぞ。俺は俺なりに考えて、他殺説の方が少なくとも、自殺説よりは道理に叶《かな》っていると思っているんだ」
荻原が珍しく口を尖《とが》らせた。片岡は笑って、
「嫁さんも、その方式で決めたのか? 親が選んだ二人の娘と付き合って、そのうちのマシな方を嫁さんにもらったのかい?」
「それは、どういう意味だ?」
荻原が気色ばんだ。
「まぁ、親が選んだ娘でも、本当に好きになったのなら、それでもいい。どっちを選ぼうとね。だが、もし、両方とも好きになれなかったら、無理に結婚を急ぐことはないんじゃないかと思ってね」
「回りくどい言い方をせずに、はっきり言ってみろっ」
荻原が顎《あご》をしゃくった。その時、上席の方で、荻原を呼ぶ声がした。
「お師匠さんが、お呼びだよ」
と茶化すと、
「わかってるよ」
荻原は舌打ちをして腰を上げた。
一時間もすぎると、宴会の出席者は数名が一固まりになって話しこむようになる。和やかに談笑する者。唾《つば》を飛ばして議論する者。額を寄せ合って密談を凝らす者。それぞれのグループの表情は際立っていて、面白い。
そんな中、上席付近では、七、八名が刑事課長の回りを囲んでいた。刑事課長は、いわゆる説教|上戸《じようご》で、聞き役に回っているのは、中堅から若手の刑事たちばかりだった。
何人かの刑事は、すでに目立たないように座を抜けていた。だが、片岡は下座の席で、一人、冷や酒を呷《あお》りながら、宴会が終わるのを待っていた。見習い刑事には後片付けという仕事が、まだ残っていたからである。
腕時計を見ては、上目遣いに会場の様子を窺《うかが》った。しかし、中締め≠フ気配さえない。ため息を繰り返していると、上席近くに座っていた刑事が立ち上がって、大声で片岡の名を呼んだ。見ると、手招きをしている。片岡は弾けたように立ち上がり、ビールケースに残った最後の二本を引き抜いて、小走りに上席に向かった。
たむろしていた刑事たちが、片岡のために椅子を引いた。片岡は刑事課長に会釈してから、その前にビールを置き、栓抜きを当てがった。
「ビールなんかいいよ。それより、勿体《もつたい》ぶらずに話してみろ」
目の縁《ふち》を赤くした課長が言った。
「……何のことでしょう?」
片岡は尋ねた。
「何のことって、上川事件のことに決まっているだろう?」
「上川事件?」
片岡は回りを見渡した。狛江署の刑事に混じって、荻原がいた。
「そういう難しいことは、私なんかより、プロの皆さんの意見を」
と言いかけたが、
「もう聞いたよ」
刑事課長は面倒臭そうに言った。
「吉祥寺署の諸君は他殺説、わが狛江署の諸君は自殺説だ。まぁ、土門君と安達君の手前、そうせざるを得なかったかも知れんが、君は別格だ。正式な刑事課員ではないし、安達君の下で働いてもらってはいるが、聞くところによると、土門君の大学の後輩らしいからな。つまり、今日の出席者の中では、最も公平な立場と言える」
「そんな……。無茶苦茶な理屈ですよ。どうかご勘弁下さい」
と言って、下がろうとすると、
「こらっ、逃げるなっ」
刑事課長が一喝し、回りの刑事たちが片岡の肩と腕を押さえた。
「きっと、飲みが足りないんでしょう」
荻原が言った。それと同時に、目の前に氷入れが差し出された。ウィスキー用の氷入れである。瞬く間にビールが注ぎ込まれ、一気、の掛け声がかかった。逃げ道はなかった。
氷入れを空にすると、期せずして、拍手が沸き起こった。
「俺はちゃんと知っているんだぞ」
課長がニヤリと笑った。
「君は上川事件のことを調べているそうじゃないか。ネタは割れてる。さっさと吐け」
まるで、容疑者の取り調べのようだった。いつの間にか、会場のあちこちに固まっていた刑事たちも、周囲に集まり出している。それに勢いを得たのか、課長は続けた。
「今日の飲み会は無礼講だと、署長もおっしゃったじゃないか。無礼講の席で、若い衆が口にしたことを根に持つような奴は、男じゃないよ。……なぁ、そうだろう?」
と言って、首を伸ばした。その視線の先には、署長を挟んで土門と安達がいる。二人共、課長の問いかけに作り笑いで応じた。
「さぁ、これで、君も安心したろう。遠慮しないで、上川事件に対する意見を言ってみろ。それとも……、まだ、飲みが足りないか?」
課長が周囲を見回した。すかさず、飲みかけのビール瓶が数本、集まった。
「わ、わかりましたよ」
片岡は氷入れを両手で塞《ふさ》いだ。そして、
「私は一応、自殺説に賛成です」
と、密かに抱いていた自分の考えを述べた。
「やっぱりな」
課長が頷いた。安達も満足気な笑みを浮かべている。一方、土門は顔を曇らせ、荻原は冷やかに笑っていた。
「ただし……」
片岡はやや強い口調で言った。生酔いが反骨精神を刺激したのかも知れない。
「自殺の現場はニュー・パーレビ・ホテルの工事現場ではないと思っています」
と付け加えると、
「何だと?」
課長が目を瞬かせた。
「自殺の現場は、死体の発見された場所とは、全く異なる場所だと思います。特定はできませんが、おそらくホテルのオーナーの滞在先でしょう。その後、遺体は発見場所へ移動されたのではないでしょうか?」
「一体、何を言ってるんだ? 君は……」
課長は唖然《あぜん》とした面持ちで言った。
「丸越デパートから行方不明になった上川総支配人は、そのままオーナーの元に出向いたのだと思います」
片岡は続けた。何を言っても、無礼講のはずである。
「デパート内で拉致《らち》された、という説があるようですが、周囲の目や、連れ去る手段等を計算すれば、これほど不利な場所はありません。万一ということもあるわけですから。そんな危険を犯すくらいなら、むしろ、運転手を含めた車ごと拉致した方が安全なはずです」
「…………」
「従来の説の不合理な点はもう一つ。拉致した理由がわかりません。殺害が目的なら、柱の陰からズドンとやるか、通りすがりにグサリとやれば、それで事足ります。にもかかわらず、拉致監禁したということは、上川総支配人に、ある行動を強制する目的があったはずです。この点から言えることは、少なくとも、ホテルオーナー側に、その必要はない、ということです。拉致しなくても、電話一本で、上川総支配人は駆けつけますよ。もし、命令に従わない場合は、総支配人をクビにし、自分たちの言いなりになる人物を新たに就任させれば事足りるんです。人目を避けて、こそこそ動かなければならない理由はありません。つまり、動機の点から見ても、SAVAKは明らかにシロです」
会場は水を打ったように静まり返っていた。唖然としていたのは課長だけではない。安達も、土門も、そして、署長までもが、訝《いぶか》し気な目を片岡に向けていた。
「上川総支配人は丸越デパートを出た後、ホテルオーナーの元に、自ら出向き、従業員たちの解雇撤回を懇願したのではないでしょうか。しかし、オーナーは聞き入れるどころか、逆に罵倒《ばとう》し、解雇の速やかな完全実施を命令したんでしょう。上川総支配人は絶望し、その場で、発作的に飛び下り自殺を図ったんだと思います。一つは部下の従業員たちに対する詫《わ》びの気持ち。そして、もう一つは、オーナーに対する抗議のためです。ひょっとしたら、自分の自殺によって、大量解雇の方針が変更になるかも知れない、という一縷《いちる》の望みを抱いていたのかも知れません」
「すると……、都内のあちこちで目撃された上川総支配人らしき人物の素性は、どういうことになるんだ?」
誰かが尋ねた。
「それは、あまり重要な問題ではないと思いますよ」
片岡は答えた。
「単に、上川総支配人がデパートを出た後、寄り道してからオーナーの元に向かったか、寄り道せずに直行したかの違いにすぎませんよ。つまり、目撃された人物が上川総支配人本人であったなら、都内のあちこちを徘徊《はいかい》した後、オーナーの元に出向いた、ということでしょう。別人であったら、他人の空似だったということです。もちろん、替え玉ということはあり得ません。そうしなければならない理由や必要というものがないんですからね」
「…………」
「ただ、問題のSAVAK、つまり、イランの国家治安情報機関は暗躍したと思います。しかし、それは、事が発生した直後からだと思います。オーナーの滞在先で、総支配人が抗議の自殺をしたということが明らかになれば、世論は上川総支配人に同情し、逆に、オーナー側へは非難の声が寄せられることになります。下手すれば、殺害したと疑われる可能性もあります。そうなれば、従業員の首切りどころの騒ぎでは収まりません。そこで、オーナーはSAVAKに命じて、自殺場所の変更を画策したわけです。ニュー・パーレビ・ホテルの工事現場は、根っからのホテルマンだった上川総支配人の死に場所としては、少なくとも不自然な場所ではありませんし、SAVAKにとって、人目を避けて工作する上では、打って付けの場所だったんです」
と言って、片岡は口を噤《つぐ》み、周囲の反応を窺《うかが》った。
数秒間の奇妙な沈黙があって、突然、署長が大声で笑い出した。それにつられるように課長も笑い出し、やがて、安達も土門も、そして、全員が笑い出した。
「もういい。わかった、わかった。君は世渡りがうまい」
課長が片岡に下がるように目配せした。
会場には元の騒がしさが戻っていた。片岡は自席に戻り、嗄《か》れた喉を冷や酒で潤した。隠し芸をバカにされたような気分だった。
間もなく、課長代理が立ち上がり、宴を終える触れの声を上げた。そして、最後に、署長が締めくくりの挨拶をして、慰労会は終了した。
畳の席と異なり、椅子席の宴の場合、出席者たちの引き足は早い。一分もしないうちに、会場からは人影が消えた。
一人残った片岡は、ワイシャツの袖を捲《ま》くり上げ、古バケツを片手に上席に向かった。そして、飲み残しのビールや酒を、それに空けながら、
「どいつもこいつも、大口開けて笑いやがって……」
と、吐き捨てるように呟いた。
―参考文献―
[#地付き] 「資料・下山事件」 みすず書房 ほか
[#改ページ]
第六話 霊感刑事
片岡が入院中の中山刑事を訪れようと考えたのは、近々、退院するらしい、という噂《うわさ》を耳にしたからだった。
それまで、片岡は一度も中山の元を訪れていなかった。本来なら、もっと早い時期に、病気見舞いをすべき立場だったのだが、片岡は当初、短期間のうちに補充員の任から外されると独り決めしていたし、その後は、ただ無計画に訪問を先送りしていたのである。
元々、片岡と中山は、単に狛江《こまえ》署員同士というだけで、それほど親しい間柄ではなかった。ごく最近まで、片岡は中山のフルネームを知らなかったし、中山の方は現在でも、片岡の顔だけしか知らないという可能性もある。そんな疎遠な関係が、訪問を遅らせていた理由でもあった。
中山は盗犯第二係に籍を置いていたが、刑事としてよりは、むしろ柔道選手として勇名を馳《は》せていた。署対抗試合ではいつも大将として出場し、三年連続、チームを優勝に導いている。もし、練習試合で重傷を負わなければ、この年、狛江署は予選敗退の憂き目を見ることはなかったはずだった。そして、刑事課は有能な捜査官を欠くこともなく、更に、片岡は戸惑いと不安の日々を送らずに済んだというわけだ。
立川市の郊外。鬱蒼《うつそう》とした木立に囲まれて、警察病院西東京分院はある。車から下りると、青葉の懐かしい薫《かお》りが鼻をつき、高木の梢で囀《さえず》る小鳥が片岡に空を仰がせた。
受付で面会許可を得て、果物籠《くだものかご》を片手に、教えられた病室に向かった。途中、車椅子の若い男が片岡を見上げ、笑顔で会釈した。入院患者の殆どは警官である。見覚えのない顔だったが、片岡は精一杯の笑顔を作り、会釈を返した。
中山の病室は六人部屋で、ベッドはカーテンで仕切られていた。ドアの横の案内図で、中山の名を確認し、片岡は静かに足を進めた。
その手前で、そっと首を前に伸ばして、
「失礼します……」
と声をかけると、天井を見つめていた男の目が動いた。左足にはギプスをしている。それが中山だと気づくまで、しばらくかかった。
「はい……」
中山は身を起こした。髪は伸び、運動不足のせいか、顔色は白く、やや浮腫《むくみ》を帯びている。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。地域課の片岡です。現在、盗犯二係のお手伝いをさせていただいております」
片岡は頭を下げた。
「おう、おう……」
中山は満面に笑みを浮かべて、
「聞いているよ。会えるのを楽しみにしていたんだ」
「恐れ入ります。これ、つまらないものですが」
と、果物籠を差し出すと、
「ありがとう。すまんが、その辺に置いてくれ。女房は夕方にならないと来れないんだ。そんなわけで、お茶も出せない。勘弁してくれ」
中山は体をよじって、壁際の椅子《いす》に手を伸ばしかけた。片岡はその椅子を横取りするように引き寄せ、果物籠をテーブルの上に置いた。そして、腰を下ろしながら、
「どんな具合です?」
と、型通りの質問をすると、
「お蔭さんで、来週にはギプスが取れることになったんだが、今度はリハビリが待っている。どうやら、そっちの方が時間がかかりそうだよ」
「あまり、無理しないで下さいよ」
「うん。みんなには申し訳ないと思うが、そうさせてもらうつもりだ」
と言うと、ギプスに目を落として、
「あの程度の相手にのしかかられて、こんなケガをするようじゃ、俺《おれ》の体も焼きが回ったもんだ。ケガの治り方も昔に比べると、ずいぶん遅くなったような気がする。まぁ、四捨五入すれば、四十だからなぁ。当たり前のことなのかも知れないが、我が身のこととなると、些《いささ》かショックだよ……」
中山は肩を落とした。
「まだまだお若いじゃありませんか」
と、世辞を言うと、
「回りから、そう言われることが、年を取った証拠さ」
中山は自虐的に笑った。そして、
「ところで、君の方はどうなんだ? 刑事部屋の雰囲気には慣れたかい?」
と、話題を変えた。
「はい。一応、何とか」
「そりゃよかった。何事も、習うより慣れろと言うからな。外から見るのと、中でやってみるのとは、全然、違うだろう?」
「ええ。違いますね」
「俺も最初は驚いた。だが、ビビることはないぞ。スピードに慣れさえすれば、何とかこなせるようになる。野球選手だって、最初はプロのスピードに面食らうらしいけど、そのうち、ボカボカと打ち出すようになるという話だからな」
「それはスピードというより、素質の問題でしょう?」
片岡は笑った。反論ではなく、自分を卑下したつもりだったのだが、
「勿論、そうだ。だがな、刑事の素質とは、やる気と粘りだよ。この二つを失わなければ、大概のヤマは越せる」
中山はニコリともせずに言った。
「はい……」
片岡は神妙に頷《うなず》いた。
中山はタフな刑事の典型である。精神的にも肉体的にも頑強で、困難な仕事であればあるほど、闘志を燃やす。そして、犯人に対し敵意を剥《む》き出しにする一方で、その家族の行く末を案じるという人情味|溢《あふ》れる刑事だ。
確かに、そういうタイプの刑事にとっての素質とは、やる気と粘りなのだろう。だが、それとは全く異なる素質を持った刑事がいることを、片岡は知っていた。
「不承知らしいな……」
中山が探るような目で言った。仕事柄、相手の気持ちを見抜く目は鋭い。わざとらしい弁解をしても通用しないような気がした。
「別に、不承知というわけではありません」
片岡は首を振って、
「確かに、やる気とか、粘りというものは大切なものだと思います。でも、それとは別の素質を持った刑事がいるということを、私は刑事部屋に来て、初めて知ったんです。その印象が鮮烈だったものですから……」
と、率直に自分の感想を述べると、
「ほう……。それは一体、誰のことだい?」
中山は目を瞬かせた。
「竹村主任と、朝倉刑事です」
「竹村主任と、朝倉女史?」
「はい。この二人の素質は天性のもののような気がします。どんなに努力しても、私なんかには到底、及びもつきません」
「なるほど、そういうことか。まぁ……、朝倉女史については、俺も異論はない。彼女は、おそらく十年、或いは、二十年に一人という逸材だろう。だが……」
中山は首を捻《ひね》って、
「もう一人については、どうかな? 単に個性が強いというだけのことじゃないのか? 傍《はた》から見る限り、仕事の進め方は、捜査効率を無視した、まどろっこしいやり方だし、一体、何を目的に行動しているのか、判然としない。たまたま、運よく、ホシが挙がっているからいいけど、そうでなかったら」
と言いかけて、
「おっと危ねぇ。これ以上言うのは、よそう。悪口になっちまうからな。壁に耳あり、障子に……、いや、カーテンに目ありだ」
中山はおどけて見せた。
「お言葉ですが、竹村主任は他の皆さんとは異なる次元で、物事を見ているんじゃないでしょうか?」
片岡は言った。
「正直なところ、どういう次元なのか、私にはわかりません。でも、竹村主任の、何と言うか、特異な視点というものが、犯罪者たちを戸惑わせ、結局、尻尾《しつぽ》を出すことになっているんじゃないでしょうか? 私には、そんな感じがするんです」
「…………」
「それに、買いかぶりかも知れませんが、竹村主任の実績が運のせいとは、私には思えません。仮に運のせいだとしても、あの人には、運を引き寄せる能力のようなものがあるような気がするんです」
「運を引き寄せる能力か……」
中山は再び、ギプスに目を落として、
「なるほどね。見ようによっては、そんな見方ができるかも知れないな。間近にいるだけに、俺たちは、うっかり見過ごしているのかも知れん。だがな……」
と言うと、顔を上げて、
「そういう意味での能力なら、刑事部屋には、もっと凄《すご》い人物がいるぞ」
「もっと凄い人物?」
「うん。しかも、桁外《けたはず》れ……、いや、常識外れと言うべきだろうな」
「誰です?」
片岡は身を乗り出した。
「記録の小杉主任だよ」
「小杉主任ですって?」
片岡は耳を疑った。小杉は刑事課員だが、公傷の後遺症のためにデスクワークに専従している。捜査書類の送付や受理。そして、整理、保管、記録等の事務を専門に担当し、一般の捜査活動には直接、関与することはない。従って、服装も制服だった。
「あの人こそが、おそらく、狛江署一、いや、間違いなく警視庁一の特殊能力の持ち主だろうよ」
中山はしたり顔で言った。
「ひょっとして、記憶力が人並み外れているというような?」
「違う違う。捜査に関する能力だよ。尤《もつと》も、純粋に捜査能力と言えるかどうか、些か、疑問だけどね」
「…………?」
「これは、小杉主任の前任署の刑事から聞いた話だから、多少、引き算して聞いてくれよ。不可思議な話には、えてして尾鰭《おひれ》がつきやすいものなんだ」
と言うと、一息ついて、
「その刑事によると、小杉主任は前任署において、何の証拠もなしに犯人を捕まえたということなんだ」
「証拠もなしに、とは、どういう?」
「言葉通りだよ。指紋照合とか、目撃者の証言とか、犯行の痕跡《こんせき》。そういった根拠によらず、逮捕したということだ」
「それじゃ、違法逮捕じゃないですか」
「まぁ、固い解釈をすれば、そういうことになるかも知れないな。だが、犯人は自供し、その後、犯行を裏付ける証拠も出てきたそうだ」
「一体……、どんな事件だったんです?」
「銀行強盗だ。通報と同時に緊急配備がかかり、当然、署員は管内の要所要所に配置されることになる。久方ぶりの大事件だったんで、幹部も泡を食ったんだろう。半病人の小杉主任まで配置につけたんだそうだ。持ち場は駅の改札口。小杉主任は地域課の新米巡査と二人で、目を光らせていたそうだが、何を思ったか、いきなり一人の乗客に近づくと、有無を言わせず手錠をブッかけたんだとさ」
「人相とか着衣とかが、一致して」
と言い終わる前に、
「全く一致していない。仮に、人着が一致していたとしても、その程度のことじゃ、手錠は無理だ」
「…………」
「ちなみに、手配された銀行強盗犯の人着は、つなぎの作業衣にフルフェイスのヘルメット。色付きのフードだったんで、顔は見えなかったそうだ。つまり、おおよその身長以外、何もわからない。人相、年齢、人種……。それに、身振りだけで金を要求したということだから、厳密に言えば、性別もわからない状況だった。ところが、小杉主任が手錠をかけた相手は、バリッとしたスーツを着た中年の紳士だったそうだよ。間もなく、容疑者確保の報を聞きつけて、刑事連中が駆けつけたが、何が何だかわからない。ところがだ……」
中山は首を捻って、
「手錠の男は観念して、あっさりと犯行を自供したそうだ。その自供に基づいて、コインロッカーを調べたら、奪われた現金が、そっくりそのまま、銀行の帯封付きで出てきたそうだよ。つまり、犯人は犯行後、着替えて逃走を図ったというわけだ」
「なるほど。ところで、小杉主任は一体、何を根拠に、そのことを見抜いたんです?」
「それがわからない。前任署の刑事は、霊感に違いない、と言っていた。真面目な顔をしてね。霊感刑事なんだとさ」
中山は胸の前で両手をブラリと下げて、幽霊の格好をした。
「ひょっとして……、私をからかってはいませんか?」
と、横目で中山を見ると、
「と、とんでもない。見舞いに来てくれた人をからかうなんて、そんな罰当たりなことはしないよ」
「しかし、いくら何でも、霊感刑事、はないでしょう?」
「同感だ。実は、この話を聞いて、俺は小杉主任に確かめてみた。ところが、知っての通り、元々が無口な上に、人見知りする人だから、はっきり言わない。勘違いだったとか、誤報だったとか、わけのわからないことを、ボソボソと言うだけなんだ。そのうち、何だか、年寄り苛《いじ》めをしているような気分になっちまってね。係長にも、もう止せ、なんて言われちまって、それっきりだ」
「…………」
「だが、小杉主任は確信があったからこそ、手錠をかけたに違いないんだ。じゃ、その確信とは一体、何か? あれこれと俺なりに調べてみたが、やっぱり、霊感とするしか説明がつかないんだよな」
「そんなバカな。あり得ませんよ」
と、首を振ると、
「納得できないのなら、直接、本人に確かめてごらんよ。小杉主任は取っつきにくい人だけど、あれで結構、思いやりがあるらしい。下積みの見習い刑事が教えを乞《こ》いに来たとなれば、冷たくあしらうようなことはしないだろう。ひょっとしたら、事の真相を話してくれるかも知れんぞ」
中山は意味あり気に眉毛《まゆげ》を動かした。
中山を見舞った翌日。片岡が出勤して、最初に目を向けた先は、勿論、小杉の机だった。
今年五十歳になる小杉は、警官というより町役場の出納《すいとう》係という雰囲気のする男だった。刈り上げ頭は七三に分けられ、髭《ひげ》はきれいに剃《そ》り上げられている。その席は、壁際にあって、回りを書類棚に囲まれていた。椅子に座ると、小杉の姿は陰に隠れてしまい、もの静かな性格も手伝って、存在感を希薄なものにしていた。
片岡は、今や日課になったお茶酌み仕事のための湯を沸かしてから、ドアに注意を払い続けた。小杉は他の刑事のように、朝の挨拶と共に現れることはない。いつの間にか、出勤し、いつの間にか、退庁している。そのため、陰で猫殿、或いは、猫主任、と呼ぶ者もいた。
午前八時すぎ。その小杉がいつも通り、足音も立てずに現れた。持病の腰痛のため、重い革製の支給靴の代わりに、軽いスポーツシューズを履いている。そして、氷の上を歩くように足を進める。おそらく、腰に負担をかけないためだろう。その姿勢は前かがみで、視線はいつも下に向けられていた。
そんな小杉に対して、片岡は元気よく朝の挨拶をした。小杉は驚いたように立ち止まった。そして、片岡の方に正対し、丁寧に一礼してから、再び、静々と足を進めた。
この朝、片岡はベテラン刑事に優先して、真っ先に小杉の席に茶碗《ちやわん》を運んだ。
「どうも、ありがとうございます」
小杉は片岡に対して、深々と頭を下げた。
「主任さん。教えていただきたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」
片岡は尋ねた。
普通、巡査部長を呼ぶ時は、長さん、或いは、所轄署においては、主任、と呼ぶ。だが、小杉の場合、その礼儀正しい物腰が、目下の者をして、主任さん、と呼ばせていた。
「何でしょう?」
小杉は不思議そうなまなざしで言った。
「突発的な事件が発生した場合の、対処の仕方なんですが、どのような点に気を配ったらよろしいんでしょうか?」
まず、差し障りのない質問で、小杉の反応を探った。
「初動捜査のことなら、私よりも、課長代理に聞かれた方がよろしいと思います。確か、機動捜査隊におられたはずですから」
「しかし、機捜といえども、スピーディーに対応するというだけで、詰まるところは、後追い捜査でしょう? 現場に急行して、捜査情報を入手し、それを元に心当たりを捜査するという基本パターンに変わりはありません。入手した捜査情報が誤りであったり、或いは、乏しい場合は、空回りするだけです。私がお聞きしたいのは、そんな状況下での対応の仕方です」
「どうも、私には難しいお話で」
小杉は困惑したように首を傾げた。
「主任さんは前任署で、何の手がかりもなしに、犯人を検挙されたということを伺っていますけど」
片岡は思い切って尋ねてみた。
「あの件ですか……」
一瞬、その表情が硬くなった。そして、
「実は……、あれは勘違いなんですよ」
と、言い訳するような口調で答えた。お出でなすったな、と思ったが、
「勘違いですって?」
片岡はわざと甲高い声を上げた。
「はい。お恥ずかしい限りなんですが、怪我《けが》の功名なんです。あの時、私は無線機を持っていませんでした。犯人の人相や服装について、誰かから間違った情報を聞いたんです。たまたま、犯人が間違った情報と同じ服装をしていたんですよ」
小杉の答えも、わざとらしいものだった。
「でも、いきなり、手錠をかけたということは、情報以外に、何らかの決め手があったわけでしょう?」
と、中山の疑問をそのまま提示したが、
「それも誤解なんですよ。実際に手錠をかけたのは、奪われた現金が出てきてからなんです」
「……本当ですか?」
「はい。あのこと以来、皆さんに聞かれるんですけど、本当のところは、私の早とちりなんです。思い出すたびに、今でも、冷や汗が流れますよ」
小杉は照れくさそうに頭をかいた。
「そうですか……」
と、半信半疑のまま、小杉の顔を見つめていると、安達が大声で片岡の名を呼んだ。
「ありがとうございました」
片岡は一礼してから、小走りに係長席に向かった。
「タレコミ情報だ。手配中のホシが舞い戻ったらしい。佐々木主任と一緒に張り込んでくれ」
安達が顔写真を差し出した。
「やれやれ、これで三回目だ……」
佐々木が助手席に乗り込みながら言った。
「三回目?」
と聞き返すと、
「うん。最初は空振り、お次は人違いだった。成ろうことなら、三度目の正直といきたいね……」
佐々木は渋い顔でシートベルトを締め、
「じゃ、ぼつぼつ、行こか。慌てることはないぞ。ゆっくり急げ」
「はい……」
片岡は車を発進させた。
札付きの宝石泥棒という男の立ち回り先は、愛人の住むマンションだった。すでに二回も無駄足を踏んだ佐々木の指示で、片岡は車を高台の駐車場に停車させた。そこはマンションのドアと通路が一望できる張り込みには絶好の場所だった。
監視態勢に入って、およそ三十分。マンション付近に、怪しい人影は現れなかった。
やがて、それまで息を殺すようにして双眼鏡を覗いていた佐々木が、軽いため息をついて両腕を下ろした。そして、ダッシュボードの上に双眼鏡を置くと、懐からおもむろに煙草を取り出して、
「ところで……、私にお茶も入れてくれないで、猫殿と何をヒソヒソやってたの?」
と、尋ねてきた。
「いや、大したこっちゃありませんよ。中山さんから聞いた話を確かめていただけです」
「へぇー、中山君の話って、何?」
佐々木が手の甲で涙目を擦りながら尋ねた。片岡は十分に間を取って、
「神秘に満ちた霊感捜査についてです」
と告げると、思惑通り、
「何だって?」
佐々木がパッチリと目を開いた。
片岡は中山から聞いた話と、この朝、小杉と交わした会話について説明した。その間、佐々木は黙って聞いていたが、
「そう言えば、いつだったか、中山君が酒の席で、そんなことを話していたな」
「私は初耳でした。小杉主任の説明は、言葉通りに受け取るべきなんでしょうかね?」
「当たり前だよ。霊感でホシが捕まえられりゃ、私らは失業だ」
「でも、中山さんの話を聞いてから、私なりにいろいろと考えてみたんですがね。よく言われる、刑事の勘というのも、霊感の一種と言えるんじゃないですか? あれも、何となく、ピンとくるものなんでしょう?」
「まぁね。だが、もしそうだったら、私も霊能力者の一人ということになるな」
佐々木はひとしきり笑ってから、
「しかし、残念ながら、それは違うな。刑事の勘とは経験則にすぎない。長年、この仕事をしていれば、犯罪のパターンというものが、ある程度見えてくる。例えば……、そうだな……、夫を殺された妻が、異常に多弁な場合、或いは、異常に寡黙な場合は、往々にして事件に関わっている場合がある。じゃ、何を以て、その妻が多弁、もしくは、寡黙、と判断するかと言えば、それは観察者である刑事が、夫を殺された妻の姿というものを、数多く見ているからだよ。それで、おや、と思うわけだな」
「…………」
「まぁ、ここは片岡君に百歩譲って、刑事の勘を霊感の一種ということにしてもだ……。失礼ながら、猫殿には、その現場の経験というものが乏しい。彼は駆け出しのころ、犯人を追って屋根から転がり落ちてね。気の毒なことに、背骨と腰骨を負傷した。以来、後遺症に悩まされ、第一線から離れた。つまり、勘働きする素地というものがない。やっぱり、ここは本人の言うように、怪我の功名と考えるべきだろうな」
「しかし……、霊感なんてことを言われるからには、少なくとも、それなりの素地があるからだと思うんですよね。俗に言うでしょう? 火のない所に煙は立たないって……」
「変な譬《たと》え方だ」
佐々木はクスリと笑って、
「そうさなぁ……、まぁ、強いて理由を上げるとしたら、トランプ占いのせいかも知れないね。彼の趣味のようだから」
「トランプ占い?」
「うん。署員旅行の時、彼が座敷の隅でトランプ占いをしているのを見たことがある。旅館の仲居さんも感心していた様子だったし、結構、当たるんじゃないの。私は占ってもらったことはないけどね」
「しかし……、いくら何でも、トランプ占いで銀行強盗の犯人を当てたなんて、それはちょっと……」
片岡が首を捻ると、
「おいおい、勘違いするなよ。私の言ってるのは、君の言う煙の正体のことだよ。つまり、噂の根っこのことだ。トランプ占いと結びつけられて、霊感なんて言われているのかも知れないという……」
と言いかけて、
「来たっ」
佐々木は小さく叫び、素早く双眼鏡を手に取った。
マンションの玄関前に、男が佇《たたず》んでいた。片岡は車のエンジンをかけ、発進態勢を取った。だが、
「ありゃりゃ……。また、あの男だよ。この辺りはうろつくなと、釘《くぎ》を差しておいたんだがな……」
佐々木が舌打ちした。どうやら、二度目の人違いのようだった。
翌日の昼休み。後輩から借りたトランプを片手に、片岡が小杉の席に向かったのは、占いの腕を確かめるためだけではない。むしろ、小杉と親しくなることによって、強盗犯人逮捕の真相を聞き出したいという下心のためだった。
顔色を窺《うかが》いながら、トランプを差し出すと、
「どなたからお聞きになったか存じませんが、娘に教わったトランプ占いなんですよ。子供向けの占いなんです」
小杉が呆《あき》れ顔で言った。
「じゃ、私にはピッタリですよ。心は少年ですから」
片岡は軽い口調で応じた。
「面白い人なんですね……」
小杉はまじまじと片岡の顔を見つめた後、
「まぁ……、やれと言われれば、やりますけど……」
気は進まないようだったが、ともかく、トランプは受け取った。片岡は、小杉の机の横に椅子を引き寄せ、その手元に注目した。
机の上の茶碗と、眼鏡を隅に寄せてから、小杉はカードを切り始めた。それほど鮮やかな手捌《てさば》きではない。
やがて、カードが横に数列、並んでいった。その列とは別の位置に、伏せられたカードが一列に並べられていく。途中から、手の動きが遅くなり、小杉の眼差しは、次第に真剣になっていった。
「どんな具合ですか?」
片岡が首を前に伸ばすと、
「ちょっと、待って下さい……」
小杉は裏返しのカードを一枚、開いて、
「これは確か……、遅刻のカードだったかな?」
と、自信なさそうに呟《つぶや》いた。
「遅刻? それは、どういう?」
「遅刻するおそれがあるということです。三のつく日ですね」
「そうですか……。気をつけます」
片岡はペコリと頭を下げた。
小杉は二枚目のカードを開いた。スペードの5だった。
「ひょっとして、それは五のつく日のことですか?」
と尋ねると、
「いいえ、四のつく日です。でも、この日については……、何もないですね。平穏無事ということです」
「…………」
そして三枚目。
「八のつく日は、高い場所に上がらない方がいいですね」
「はい……」
退屈な占いだった。
「もっと、ドッキリするような占いはありませんか? 何と言うか、こう、ハラハラするような……」
と、注文をつけたが、
「ないことはありませんが、まぁ、痴漢くらいのもんですね。何分にも、女子高校生向けのトランプ占いですから」
「痴漢ですか……。痴漢じゃ仕様がないなぁ。仕事が増えるだけだ」
と、ぼやくと、その直後に、
「お待たせしました。いいのが出ましたよ」
小杉の口調が変わった。
「何です?」
片岡はカードを覗きこんだ。クラブの10だった。
「転校。つまり……、片岡さんの場合、職場が変わるということでしょうね。配置替え、もしくは、ご栄転ですよ」
「なるほど。10はテン。だから、転校ですか……」
それは占いというより、数字の語呂合わせゲームのようなものだった。
「すると、左遷もあり得るわけですね?」
と、冗談口調で尋ねると、
「いやいや、片岡さんに限って、そんなことはないでしょう。見習い勤務から、晴れて正式な刑事に格上げになるということじゃないですか。ひたむきに努力している方は必ず、報われるものです。近いうちに、吉報が舞い込むと思いますよ」
小杉は真面目な顔で言った。
街角の占い師のように、小杉もまた、人物観察から、そのおおよその将来を予見する術を心得ているようだった。トランプ占いそのものは他愛もないものだった。だが、僅《わず》か数時間後に、その予言が意外な形で的中することになるとは、この時、片岡は予想だにしなかった。
仕事を終えて、寮に戻ると、郵便受けに封書が一通、入っていた。差出人は保険会社に勤める大学時代の友人で、文面は、電話連絡を乞う、というものだった。
片岡は息をのんだ。その友人は数カ月前、転職について相談を持ちかけていた相手だったからである。片岡は封書を握り締めて、すぐに寮を出た。
通りを百メートルほど行ったところに、電話ボックスがある。片岡は周囲に人影のないことを確かめてから、ダイヤルを回した。
「職場の電話じゃ、オープンに話せないと思ってさ。それで、手紙を書いたんだ」
友人は言った。
「気を遣わせてすまんな」
と言って、片岡はもう一度、周囲に目を配った。
「いやいや、仕事柄、こういうことには慣れている。ところで、早速だが、お前、アスレチッククラブで働く気持ちはないか?」
「アスレチッククラブ?」
「アスレチッククラブと言っても、そんじょそこらの安っぽいクラブじゃないぞ。うちのお得意さんなんだが、名門の会員制アスレチッククラブだ。温水プールに青芝のテニスコート。設備の豪華さは、東京でも三本の指に入る」
「ほう……」
「先だって、そこの役員と一杯やる機会があったんだが、二次会の席で、口が固くて信頼できる人材が欲しい、と言い出した。それで、お前の話をすると、紹介してくれ、ということになった」
「だが……、それは酒の上の話だろう?」
「実は、俺もそう思っていた。ところが、次の週に電話があって、履歴書が届いていない、という催促なんだよ。その時は、しらふだったぞ」
「そうか……。だが、理由がわからんな。そんな一流のアスレチッククラブが、何で、俺なんかを欲しがるんだ?」
「そりゃ、この俺が酌をしながら、腕利き警官だと売り込んだからさ」
と、得意気に言ってから、
「実は、会員の中には、芸能人や有名人がいる。それを知って、ファンとか、雑誌記者とかが潜入するらしいんだ。今のところ、サインをねだったり、軽いインタビュー程度で済んでいるらしいけど、クラブ側は、これが襲撃とか、盗み撮りというような事態に発展することを心配している。つまり、お前は、その対策要員だな。警官なら警備のコツも心得ているだろうし、好都合というわけだ」
「なるほど。まぁ、それなら、わからないこともないが、俺はそれほど警備には詳しくないぞ」
「だったら、今のうちに勉強しておけよ。尤も、向こうだって、大臣警護をしているような現役のSPを引き抜けるとは、最初から思ってはいない。そんなことは、ある程度、承知の上のはずだ」
「…………」
「給料、勤務条件については、ご満足いただけると思う、なんて言ってたぞ。だが、その点は、俺も保証する。何せ、一流商社の経営するクラブだからな。地盤は固い」
「そりゃ嬉《うれ》しいね。保険会社が保証してくれるなら、心強い限りだ」
と、相づちを打つと、
「で、どうする? 向こうは、早いほどいいと言っているが、お前の方にも、都合があるだろうし……。何はともあれ、軽く一杯、やりながら、ご対面と行くか?」
「そうだな。向こうさんも、その方がいいんじゃないのか?」
「よしきた。じゃ、その旨を伝える。おそらく、来週の末にでも会うことになると思うから、そのつもりでいてくれ。勿論、俺も同席するよ」
「わかった。いろいろ世話になるな。恩に着るよ」
「水臭いことを言うな。日時がはっきりしたら、連絡する。これは、電話でも差し支えないだろう?」
「ああ、差し支えはない」
「よし。じゃ、来週、会おう」
と言って、電話は切れた。
「なるほど、吉報だ。占いの通りになったな」
と呟きながら、片岡は電話ボックスを出た。
確かに、不況の折に職探しをしている者にとっては、願ってもない吉報のはずだった。しかし、なぜか嬉しさがわき起こってこない。それが片岡には不思議だった。
数日後に連絡があって、アスレチッククラブの関係者とは土曜日に面談することになった。場所は一流ホテルのロビー。相手側は役員の他に、人事担当の責任者も出席するということだった。
数カ月来の願いは叶えられそうな成り行きだった。しかし、その日が近づいても、相変わらず、片岡の気持ちは冷めたままだった。
きらめくプールや、緑鮮やかなテニスコート。そして、そこで働く自分の姿を想像しても、気持ちが高ぶることはなく、むしろ、心の隅に澱《おり》のようなものが淀《よど》んでいた。その澱の正体が何なのか、見極めることができない……。
昼食後、頬づえをついて、物思いに耽《ふけ》っていると、
「昨夜のことでも、思い出しているんですか?」
関根が声をかけてきた。
「……何だって?」
片岡は目を瞬かせた。
「口から涎《よだれ》が垂れそうですよ」
と、顎をしゃくる関根。
「そ、そうか……」
片岡が慌てて口に手をやると、
「冗談ですよ」
関根はコーヒーを片岡の机の上に置いてから、自席に向かった。その後ろ姿を見て、片岡は関根が転職経験者であることを思い出した。
「関さんは確か、元サラリーマンだったよね?」
「ええ。機械部品のメーカーに勤めていました」
「他にいくらでも働き口はあったろうに、なぜ、警官なんかになったの?」
「また、妙なことを聞くんですね?」
関根がキョトンとした顔で言った。
「うん。前々から、一度、聞いてみたいと思っていたのさ」
「そうですか……」
と笑って、
「確かに、会社が倒産した時、お得意さんなんかから、お誘いの言葉はいただきました。でも、どうせ再就職するなら、それまでとは全く違う職種にしようと思ったんです」
「ほう、なぜ?」
「それはですね……」
関根は宙を見つめて、
「それまで三年間、仕事をしてきて、組織のことや、自分の力量もわかっていました。つまり、自分の将来が見通せたんですね。どんなことができて、どんなことができないか……。おおよその見当がついたんです」
「…………」
「まぁ、慣れた仕事につけば、それほど苦労せずに女房子供を養うことはできたでしょう。でも、それだけのことですよ。そう考えると、どうせのことなら、もっと面白みのある仕事をしてみたいと思ったんです」
「もっと面白みのある仕事、か……」
片岡は我が身を振り返った。就職情報誌に目を通した日々が、遠い昔の出来事のような気がした。
「それで、職安へ行って、いろいろと物色したもんです。ところが、どれも似たりよったりでしてね。なかなか、これと言ったものがない。丁度、その頃だったんですよ。運転免許の更新の時期がね。手続きを終えて、帰りがけに、ため息をつきながら、ふと顔を上げると、垂れ幕が目に入ったんですよ。警察署の建物に下がっている例の垂れ幕です」
「なるほど。あれは年中、下がっているからな」
と言って、二人は笑った。
「で……、片岡さんの場合は、どうだったんです? 大学からストレートだったんでしょう?」
今度は、関根が尋ねてきた。片岡は首を振って、
「俺の場合は、最初から雇ってくれる会社がなかっただけのことさ。それより……、再就職する時、どうだった? 迷いや不安はなかったかい?」
「そりゃ、ありましたよ。片岡さんたちに比べれば、三年も遅れてスタートするわけですからね。いろいろ、不利な面があるとは思いました。それに、警察学校では、かなり絞られる、という話を小耳に挟んでいましたので、体力面に、若干の不安がありましたね」
「でも、それを乗り越えたわけだ」
「いやぁ、乗り越えるというほどのことじゃありませんよ。能天気なだけです。三年間のサラリーマン生活は、警察の仕事にも役立つかも知れないと考えましたし、警察学校の訓練が、いくら厳しくても、命までは取られないだろうと思ったんです。尤も、いざ入ってみたら、命を取られた方がマシだと思うようになりましたけどね」
と言って、関根は再び、笑い声を上げた。
その夜、片岡は自室に閉じこもっていた。関根のように、自分の先行きを楽観的に割り切ることはできなかった。心の澱《おり》は、大きくなるばかりだった。それが、迷いなのか、不安なのか、未練なのか、それとも、単なる感傷なのか、見極めることができない。
大の字に寝ころび、天井を睨《にら》んでいた片岡は寝返りを打った。目の前で、小さな蜘蛛《くも》が足音も立てずに畳の上を移動している。その姿をじっと見つめていると、突然、インターホンのスピーカーから騒音が流れ、片岡は目を瞬かせた。
やがて、マイクに息を吹きかける音が二度ばかりして、中年男のだみ声がした。
それは署の当直室からの緊急連絡で、内容は、管内で放火事件が発生したため、寮員は直ちに出勤せよ、というものだった。片岡は時計を見た。午後十時を回っている。
警察署の上に独身警官の寮があるのは、こういう時のためである。寮員招集が発令されるのは、重要な事件が発生し、犯人が逃走途中、というような場合で、発令は年に数回という程度だが、寮員にとっては、深酒もままならない恨みの制度≠ナもある。
「アスレチッククラブじゃ、まさか、こういうことはないんだろうな……」
片岡は独り言を呟《つぶや》きながら、着替えにかかった。
刑事部屋に明かりはついていたが、刑事の姿はなかった。
机の上には、食べかけのラーメンが湯気を立てたまま放置されている。床には灰皿と吸殻が散乱し、捜査資材が収納されているロッカーのドアは、半開きの状態になっていた。刑事たちの慌てぶりが目に浮かぶ。片岡はすぐに、当直員のいる大部屋に向かった。
事件直後の混乱を第一波とするならば、当直員たちは第二波の混乱に陥っていた。現場に出動した警官たちからの報告、確認、問い合わせが津波のように押し寄せていたからである。それに加えて、続々と参集してくる寮員たちに、具体的任務と配置場所を指示しなければならない。署に残った当直員は、当然のことながら、必要最少人員。その忙しさは現場に優るとも劣らない。
縦一列に並んだ寮員は、次々に配置場所を指示され、無線機を渡されて行く。やがて、片岡の番になると、
「君は私服勤務だろう? 捜査係の指示を受けてくれよ」
当直員が口を尖《とが》らせた。
「刑事部屋には、誰もいません」
と答えると、
「じゃ、無線で指示を受けろ」
当直員は面倒臭そうに言った。すると、
「待て待て。先発組は、それどころじゃないはずだ」
交通課長が横から口を挟んできた。この日の当直責任者である。
「こんな時に、指示も糞もあるもんか。私服員は情報収集に当たれ」
交通課長は頭ごなしに命令した。
「でも……、一体、何の情報を収集するんですか?」
と尋ねると、
「野次馬になればいいんだよ。火事見物をしている振りをしながら、ひたすら耳を澄ますんだ。関わり合いを恐れて口を噤《つぐ》む住民も、火の手に煽《あお》られて、ついつい口を滑らす。耳寄りな情報が得られるかも知れん」
「なるほど……」
「感心している場合か。さっさと行けっ」
交通課長が顎をしゃくり、片岡は追い立てられるように中庭に向かった。
中庭の中央には大型警備車が待機していた。だが、運転担当はフロントガラスを拭いている。すぐには出発しそうにもなかった。
ガレージに目を向けると、交通課の事故処理車が、通行止めの標識や標示灯を積み込んでいた。片岡は駆け寄って、最後に残ったロープを一束、荷台に運んだ。そして、
「すみません。急いでいるんで、現場まで乗せて行ってくれませんか?」
と、愛想笑いすると、
「ああ、大いに手伝ってもらったからな。荷台でよかったら、勝手に乗んな」
「荷台?」
「生憎《あいにく》、助手席は資材で塞《ふさ》がっている。今更、客のために積み替えるなんざぁ、億劫《おつくう》だ」
交通係は巻き舌でまくし立てながら、運転席に乗り込んだ。片岡が慌てて荷台に飛び込むと、ほぼ同時に事故処理車は発進した。
現場はアパート密集地だった。
路地は狭く、二、三百メートルも手前で、交通規制がされている。車から下り、小走りに現場に向かった。前方で、闇の空に向かって炎が舞い上がり、火の粉が降っているのが見えた。
現場に近づくにつれ、野次馬の数が次第に増えていく。路上は勿論、ガレージの屋根、ベランダ、ブロック塀の上、木に立てかけた梯子《はしご》のてっぺん……。野次馬は火災現場の周囲のあらゆる場所にたむろしていた。
火災現場から、パーンパーンという破裂音がして、続いて、ドーンという崩れ落ちる音がした。それと同時に、近くで、ウォー、という群衆のどよめきが上がった。足は自然に、その方向に向いた。
どよめきは公園からだった。四、五十名の住民が火事見物をしている。情報収集≠ノは格好の場所だった。
その群衆を目指して、片岡は足を進めた。そして、十メートルも行かないうちに立ち止まった。群衆から少し離れた場所に、私服姿の小杉を発見したからである。
「主任さん……」
と声をかけると、
「こりゃ、どうも。ご苦労さまです」
小杉が振り向いて、目礼した。
「一体……、どうされたんです?」
片岡は尋ねた。小杉は当直勤務を免除されているし、自宅は立川方面のはずだったからである。なぜ、そこにいるのか、不思議だった。
「代行ですよ」
小杉は言った。
「代行?」
「ええ。中村刑事のご親族に不幸がありましてね。それで、私が急遽、代わりを務めることになったんです。当直勤務なんて、かれこれ三年ぶりですよ」
小杉は白い歯を見せて、
「どうせ今夜は何もないだろう、なんて軽く考えて引き受けたら、この始末です。参りました」
「なるほど。しかし、それにしても、代行してくれる人が、他にいなかったんですか?」
「皆さん、帰った後でしてね。私はたまたま急ぎの仕事を抱えていましたので、居残っていました。それで、代わりを買って出たんです」
「そうでしたか。で……、ここで何を?」
と尋ねると、
「たぶん、片岡さんと同じだと思いますよ。交通課長に命令されてきたんでしょう?」
「すると、主任さんも?」
「ええ。私は電話番ということで、刑事部屋に残っていたんですが、交通課長が入って来られましてね。電話番なんか、他の者にやらせるから、現場で情報収集をしろ、と追い出されました」
「新任の課長だから、主任さんのお体のことを知らないんでしょう。わけを説明しなかったんですか?」
「いや、代行は代行です。引き受けた以上、務めは果たしますよ。飛んだり跳ねたりは無理ですが、これでも、耳を働かすことくらいはできますからね」
と言った時、火災現場の方から、再び、激しい物音がした。そして、野次馬たちのどよめき……。
「情報収集は私がやりますよ。主任さんは、ここで休んでいて下さい」
片岡は野次馬の中へ入って行った。
複数で火事見物している住民に的を絞り、片岡はその後ろに立って、じっと聞き耳を立てた。
話の内容は、火事の見たままを口に出しているというのが殆どだった。稀《まれ》に、突拍子もない消火方法の話、火災保険の話。そして、延焼を期待するもの……。しかし、放火犯人の心当たりや、放火の目的などについての噂話《うわさばなし》を聞くことはできなかった。
三十分ほどかけて公園を一周し、元の場所に戻ると、小杉の姿が消えていた。片岡は改めて公園内を見渡し、小杉がいないことを確かめてから、道路に出た。
幅四メートルの道路の片側に、人の列ができている。僅か三十分の間に、野次馬の数は二倍以上に増えていた。そこにも、小杉の姿はないように思えた。諦《あきら》めて公園内に引き返そうとした時、電柱の陰に潜む人影を発見した。
その人影は火災現場とは異なる方向を窺《うかが》っている。片岡は目を凝らした。薄暗がりに紛れているが、それは紛れもなく小杉の後ろ姿だった。
片岡は小杉に近づき、
「どうかしましたか?」
と、背後から声をかけた。しかし、小杉は振り返らない。
「主任さん……」
片岡は小杉の顔を覗《のぞ》き込み、そして、息をのんだ。小杉はまるで憑《つ》かれたように、瞬きもせずに、何かをじっと見つめていたからである。その顔は能面のように無表情で、目だけが異様な光を放っていた。
片岡は、小杉の視線の先に目を向けた。そこには四、五人の見物人がいる。だが、その中の誰を見ているのか、わからない。
突然、小杉は歩き出した。例によって、腰を庇《かば》う前かがみの姿勢だが、いつもより足取りが早い。戸惑いながらも、片岡はその後を追った。
小杉は一直線に一人の男に向かっていた。その男は二十五歳前後で、他の野次馬同様、腕組みをして火災を見物している。男は自分の目の前に立った小杉を見て、怪訝《けげん》そうに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「君だな?」
小杉は出し抜けに言った。抑揚のない低い声だった。男は小杉を無視するかのように数歩、横に移動した。小杉もそれを追うように移動して、
「君なんだろう?」
と、繰り返した。
一体、何事が起きたのか、片岡には理解できなかった。小杉の耳元で、
「知っている男なんですか?」
と尋ねたが、小杉は答えない。瞬きもせずに、ただ、じっと男を見つめているだけだった。その眼差しは、まるで催眠術師のようだった。そして、男の方も、催眠術にかかったように、その場に佇《たたず》んでいた。
「悪いようにはしない。一緒に来なさい」
小杉が言った。男は微《かす》かに首を横に振ったが、喉仏《のどぼとけ》が上下に動くのがわかった。
「一緒に来なさい」
小杉は男の腕を掴《つか》んだ。
「嫌だ……」
男は掠《かす》れた声で言った。そして、おそらく、その場から逃げ出そうとしたのだろう。小杉の手を振り払って、足早に歩き出した。
片岡は反射的に男に駆け寄り、その肩を掴んで、小杉の前へ引き戻した。そして、
「一体……、この男が、どうしたって言うんです?」
片岡は強い口調で尋ねた。その声で、ようやく小杉が片岡を見た。無表情だった顔が次第に普段の表情に戻っていく。やがて、
「あの……、犯人だと思うんですけど……」
と、いつもの口調で言った。
「……何ですって?」
片岡は耳を疑った。
「彼が……放火の犯人だと思います」
小杉は繰り返した。
「放火の……犯人?」
片岡は男の方を振り向いて、
「おいっ、本当か?」
と、その肩を揺すった。
男は怯《おび》えた目で片岡を見上げ、すぐに目を伏せ、やがて、小さく頷いた。片岡は言葉を失った。
自分は今、夢でも見ているのだろうか……。
片岡は何度か首を振り、目を瞬かせた。しかし、夢から目覚めることはなかった。
男を本署に同行し、自供に基づいて、火災現場付近を検索すると、ガソリンの臭いのするペットボトルが発見された。後刻、このペットボトルからは指紋が検出され、男の指紋と一致することになる。
狛江署管内では数カ月前から不審火事件が続発していたこともあり、誰もが放火犯の余罪関係に注目した。
しかし、逮捕功労者である小杉は、この余罪の追及はおろか、本件の取り調べにさえ関わることはなかった。放火犯を本署に連行して間もなく、持病の腰痛が悪化。しばらくソファーに臥《ふ》せっていたが、明け方近くになって、パトカーで病院に向かったからである。
「そんなわけで、逮捕手続書は、この私が書く羽目になったというわけです」
片岡は寝不足の目を擦りながら言った。
「なるほどね。だが、それにしても、この程度の手続書に三時間とは、ちょっと手間のかけすぎじゃないのかな」
佐々木が首を傾げた。
「ちょっとも、うんともないですよ」
片岡は顔を顰《しか》めて、
「捜査書類はありのままを書けばいい、と教わりましたけどね。今回の場合、そんなわけにはいかなかったんです。ありのままを書いたら、捜査書類の体を成しませんよ」
「……捜査書類の体を成さない?」
「ええ。手続書には、野次馬の中から不審な人物を発見、と書いてありますけどね。本当のところは、あの放火犯には不審な点が、全くなかったんです。服装態度が、特に目立ったということもありませんでしたし、顔つきや目つきも、平凡……と言うより、善良、と言った方が相応《ふさわ》しいでしょう。つまり、警官が、もしもし、と声をかけなければならない要素はなかったんです」
「…………」
「近くに寄っても、同じでした。前髪や眉毛《まゆげ》が焼けていたとか、上着の袖口《そでぐち》が焦げていたとか、石油の臭いがプンとするとか、そういった放火犯に見られる一般的特徴は一切、ありませんでした。小杉主任が、なぜ、あの男に目を付けたのか、さっぱりわからないんです」
「本人に聞かなかったのか?」
「もちろん、聞きましたよ。でも、いつもの調子で、のらりくらり。なぜ、あの男に目を付けたのか、はっきり言わないんです。終いには、『何でもいいから、それらしく適当に書いておいて下さいよ』なんて言い出す始末なんです。腰を押さえてウンウン唸《うな》りながらね。青息吐息の病人に、それ以上、聞けません」
「男にマエは?」
「ありません。犯人には前科前歴はもちろん、少年時代の補導歴もないんです。つまり、小杉主任が犯人に関する予備知識を入手していたという背景はないんですよ。にもかかわらず、薄暗がりに佇む何十人という野次馬の中から、あの男を指さして、犯人だと断定したわけです」
「…………」
「全く以て、不思議な話ですよ。おそらく、目の前で見せつけられない限り、いや……、見せつけられても、大方の人間は信じないでしょうね」
と、首を竦《すく》めて見せると、
「いや、俺は信じるよ」
上席で安達の声がした。振り向くと、
「元々、人間はその種の能力を備えているものなんだ。例えば……、敏感な女性は、他人の視線を背中で感じることができるし、男だって、正夢を見たり、虫の知らせとか、胸騒ぎがすることはある」
「しかし、それとこれとは……」
佐々木が首を捻《ひね》ったが、
「いやいや、こういう話がある。オーストラリアの警察では、先住民のアボリジニーを警官に採用し、大いに効果を上げているそうだ。彼らは見渡すばかりの大草原の中から、いとも簡単に遺留品や証拠品を探し出してくるそうだよ。何の手がかりもなしにね」
「……本当ですか?」
「ああ、本当だ。我々警官にとっては、正に願ったり叶《かな》ったりの、文字通りの千里眼なんだが、惜しいかな、いわゆる文明生活に馴染むに従って、そういう不思議な能力というものは次第に減退して行き、ついには、枯渇してしまうんだそうだ」
「…………」
「このアボリジニーに見られる現象は、進化と退化のバランスというのを、実にわかりやすく示していると思うね。これは言うなれば、双眼鏡を発明した時点で、人間には、5・0とか、6・0の視力が不要になったということだよ。つまり、文明の進んだ現代という時代は、いわゆる霊感や超能力がなくても済む時代。いや、むしろ、不要な時代と言えるんじゃないのかな」
「…………」
「小杉主任の能力は、アボリジニーの不思議な能力と同じ種類のものだと思う。彼が自分の能力について説明しないのは、実は、自分でも、よくわからないからじゃないのかな。5・0とか、6・0の視力を持つ人間に、なぜ、そんな風に目がいいのか、と聞いても、おそらく、答えられないと思うよ。普通の視力をした人間が、なぜ、そんな風に普通の視力をしているのか、と聞かれることと同じことだからな。聞かれた人間は、生まれつきです、としか答えようがない」
「つまり、自分でもわからない、ということですね?」
「そういうことだ。それに、仮にわかっていたとしても、小杉主任の場合、口には出すわけにはいかないだろう。もし、霊感や超能力で犯人を捕まえた、なんてことを明らかにしたら、今後の公判廷にどう影響するか、仕事柄、身にしみて知り尽くしている」
「なるほど……。それで、猫殿は手柄話をしないわけですか……」
佐々木が呟いた。
片岡も無言のまま頷いた。その時、目の前の電話のベルが鳴った。
「片岡さんでしょうか?」
週末に会うはずの友人からだった。片岡は周囲を見渡して、
「そうです。ご用件は?」
と、わざとよそよそしい声で答えた。
「まずいことになった。今、話せるか?」
友人の声の調子が変わった。
「承知しました。折り返し電話します。そちらの番号をどうぞ」
片岡は事務的な口調で言った。そして、電話番号をメモすると、おもむろに腰を上げ、ゆっくりとドアに向かった。そして、廊下に出てからは急ぎ足で、玄関を出てからは小走りに、表通りの電話ボックスに向かった。
「探したぞ。昨夜、電話したんだが、寮にはいないって言うし、少々、慌てた」
友人が早口で言った。
「すまん、事件があって、一晩中、仕事をしていたんだ」
「そうか。だが、謝るのは俺の方だ。実は、例の話だが、ダメになった」
「ダメ?」
「うん。実は、アスレチッククラブでスキャンダルが発覚した。お前をスカウトしようとした例の役員だが、事もあろうに重婚で訴えられた」
「……重婚? 何だ? そりゃ」
「いい年をして、若いフィリピーナと懇ろになってね。マニラ旅行の際に、せがまれて結婚式の真似事をしたんだとさ。ところが、手違いで、婚姻届けも出されていたらしい」
「バカな……」
片岡は思わず、舌打ちした。
「運の悪いことに、それをゴロツキに嗅《か》ぎつけられ、強請《ゆす》られていたらしい。まぁ、それに応じなかったから、バレてしまったわけだが、お前を雇う気になったのは、どうやら、そのゴロツキを押さえ込むためだったようだ。元警官なら、睨《にら》みがきくと思ったのかな」
「おいおい、冗談じゃないぞ」
と、甲高い声を張り上げると、
「面目ない。まさか、そんなことを企んでいるとは夢にも思わなかったんだ。すまん」
「まぁ、いい……」
片岡はため息をついて、
「お前には悪気があったわけじゃないし、まぁ、何と言うか、不可抗力だよ。手遅れにならなかっただけ、よしとしよう」
腹は立ったが、他に答えようがなかった。
「嘘でも、そう言ってもらえると、ホッとするよ」
「嘘じゃないさ。そう落ち込むな。後講釈するわけじゃないが、元々、話がうますぎると思っていたんだ。あれからずっと、何となく、心にひっかかるものが……」
と言った時、安達の言葉が脳裏をかすめた。片岡は後ろを振り返って、
「ま、言うなれば、不吉な予感だな。胸騒ぎと言うか、虫の知らせというか、そういうものを感じていたよ」
「……本当か?」
「ああ、本当だ。だから、そのスキャンダルが発覚していなくても、最終的に話に乗ったかどうかはわからない。いや……、おそらく、思い止まっていたと思う」
「そうか……。でも、ともかく、近いうちに、この埋め合わせはするよ。詳しい経緯も、その時に話す」
「わかった。落ちついたら、連絡してくれ」
と言って、受話器を戻した。
「なるほど、霊感か……」
片岡は苦笑しながら、電話ボックスの外に出た。正体不明だった心の澱《おり》が消えている。
「なるほど、霊感か……」
片岡は独り言を繰り返した。
目の前には、いつもと変わらない町並みが広がっている。片岡は試しに、その風景に目を凝らし、そして、耳を澄ましてみた。
だが、目に映るもの以外は何も見えず、耳に響くもの以外は何も聞こえなかった。
角川文庫『刑事部屋』平成10年9月25日初版発行
平成14年5月20日4版発行