[#表紙(表紙.jpg)]
よそ者
佐竹一彦
目 次
プロローグ
湯の里で人殺し
パンドラの箱
部外者
二人目の客
スキャンダル
別れの茶会
エピローグ
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プロローグ
「蛇に睨《にら》まれた蛙《かえる》、と言う言葉があるでしょう?」
と、日丸《ひまる》教授は言った。
東京の中野区にある警察大学校。夏の強い日差しの下で、油|蝉《ぜみ》の声が絶え間なく辺りに響いていた。
教室にいる四十七名の学生……、と言っても、ほとんどが各県警から派遣された三十代の警部たちばかりだったが、彼らは身じろぎもせずに耳を傾けていた。
「警察犬と目が合った時、犯人は正に、そんな心境だったそうです。潜んでいた藪《やぶ》の中から出てこなかったのは、本人に言わせれば、恐怖で体が動かなかったからだそうですよ。何しろ、警察犬は大型のジャーマン・シェパード。まぁ、無理もないでしょうな。ところが……」
日丸教授はニコリと笑って、
「ここで奇跡が起こったわけです。もちろん、犯人にとっての奇跡、と言うことになりますけどね。何と、その恐ろしいジャーマン・シェパードは藪の中に潜む犯人を無視して、通り過ぎて行ってしまったそうです。つまり、捜索隊は犯人を文字通り、目と鼻の先まで追い詰めながら、みすみす取り逃がしてしまったというわけです」
と言って、教室を見回すと、何人かの学生が手を上げた。
「はい、どうぞ」
日丸教授は、その中の一人を指さした。学生は立ち上がり、
「お言葉を返すようで恐れ入りますが、只今《ただいま》のお話は、少々、納得しかねます。私は機動捜査隊の勤務が長く、警察犬の出動も頻繁に要請しました。過去の経験から考えて、警察犬が藪の中の犯人を認めながら反応しなかった、というお話は信じられません。その犯人の供述は信用できるのでしょうか?」
と言って、まるで同意を求めるかのように周囲の学生を見回した。
「もちろん、供述自体は信用できるものです。そうでなければ、皆さんの前で、こんな話はしませんよ」
日丸教授は答えた。
「ただ、犬に聞いてみるわけにはいきませんからね。問題があるとすれば、この点です。つまり、犯人は、犬とは目が合った、と供述していますが、犬の方が実際に犯人を認めたのかどうか。それはわかりません。ひょっとしたら、犬は藪の中に潜む犯人の姿に気づかなかったかも知れませんし、或《ある》いは、気づいたけれども、人形か何かと見誤ったのかも知れません。残念ながら、それを確かめる術《すべ》はないのです」
「教授……」
別の学生が手を上げた。だが、
「まぁ、ちょっと、待って下さい」
今度は、それを制して、
「この話を聞いた後、私は現場に出向いてみたんです。今のあなた方同様、にわかには信じられなかったものですからね。現場は東京都下の、元はネギ畑だったという所に造成された新興住宅街でした。問題の繁みは予想していたよりも小さいもので、そうですな。ちょうど車一台分のスペース、といったところでしょうか。そこにツツジの木が五本ばかり、まとまって植えられていまして、高さは大人の腰ぐらい、というところです。私はしゃがみこんで、繁みの中を覗《のぞ》いてみましたよ。ご承知の通り、ツツジというのは細かい枝に小さな葉が、いっぱい付いている植物です。でも、奥が見通せないというほどではありません。もっとも、犯人が潜んでいたのは夜ですから、ひょっとしたら、犬には見えなかったかも知れません。結局、現場を見ても、結論が出せそうもありませんでした」
「…………」
「私は半ば諦《あきら》めて腰を上げました。その時ですよ、突風が吹いたのは。いわゆる春一番というやつですな。それで閃《ひらめ》いたんです。つまり、風に横っ面《つら》を張られて、犬が必死になって求めていたものにハタと気づいたんです。それは……」
日丸教授は学生たちを見渡した。教室からは、コトリとも音がしない。
「臭い[#「臭い」に傍点]ですよ。警察犬が追跡していたのは、犯人の臭い[#「臭い」に傍点]であって、犯人の姿形[#「姿形」に傍点]ではなかったんです。そのことに気づいたんです」
「…………」
静寂の中で、誰かが生唾《なまつば》をのんだ。
「当然のことながら、犬には、人間社会における善人と悪人を見分ける能力なんかありません。それが証拠に、皆さんの中には、聞き込みに行って、散々、吠《ほ》え立てられた、という人がいるはずです。あれは、見知らぬ人間が現れたら、吠えるようにと、しつけられているからでしょう? では、藪の中に潜んでいた犯人は、なぜ吠え立てられなかったのか……。答えは簡単。繁みの中の人間を発見しても、吠えるようには訓練されていなかった、ということですよ。もし、吠えるように訓練されていたら、犯人よりも先に、現場の刑事や警官たちが吠え立てられてしまいますからね。それじゃ仕事になりません。……でしょう?」
と、最初の質問者に問いかけた。
「ええ、まぁ……。それは、そうですけど……」
その学生が生返事すると、日丸教授は満足気に頷《うなず》き、他の学生たちに視線を戻した。
「警察犬はひたすら臭いだけを追跡するように訓練されているんです。それが悪人の臭いか、善人の臭いかは無関係。重要なのは、この点ですよ。つまり、繰り返しますが、警察犬は犯人ではなく、人間の臭いを追っていたということです。藪の中の犯人が吠え立てられなかったのは、風向きその他の関係で、犯人の臭いが警察犬の鼻に達してはいなかったから、と推測されるわけなんです。これが、私が現場で得た結論でした」
「…………」
「賢明な諸君のことですから、私が何を言いたいか、すでにお判りだと思います。私たちは、単に臭いを追っているだけの警察犬の動きを見て、逃走犯人を追っている、と錯覚してしまうんです。そういう勝手な思い込みというものが、捜査の目を曇らせ、判断を狂わせてしまうんです。諸君は間もなく、ここを卒業するわけですが、第一線に戻り、もし捜査に行き詰まるようなことがあった時は、ぜひ、この警察犬の話を思い出して下さい。正確無比なコンピューターのデータ。一流学者の鑑定所見。専門家による分析結果。その他、目撃情報や自白等々……。絶対に疑う余地がないとされている部分から、まず、疑ってみることです。そうすれば、道は必ず、開けると思います」
と言うと、眼鏡をずらし、細目をつくって壁の時計を見上げた。ほぼ同時に、終業時刻を告げるチャイムが鳴った。
「本日の講義は、ここまで……」
指先についたチョークの粉を拭《ふ》きながら、日丸教授は言った。
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湯の里で人殺し
三日ほど前、警察大学校の日丸という教授がわが県を訪れる、という噂《うわさ》を耳にした時、私は気にもとめなかった。
まさか、自分がその教授の世話係をさせられる羽目になるとは、夢にも思わなかったからだ。
私は藤山まゆみ、二十六歳。県警の捜査二課に勤務する巡査部長である。
ちなみに、殺人や強盗などの強行犯は捜査一課。空き巣や金庫破りなどの盗犯は捜査三課。暴力団犯罪は捜査四課と暴力団対策課。そして、私の所属する捜査二課は知能犯、つまり、脱税、汚職、選挙違反などを専門に担当している。
昨日の午後のことだった。上司から、大事な話がある、と言われた時、私はてっきり、税務署研修センターへの派遣の件だと思った。経済犯捜査のエキスパートになることが、私の目標だったし、機会あるごとに、アピールしていたからだ。
上司は最初、実は、警大教授の助手をしてもらいたいんだが……、と、切り出した。思いがけないことだったが、教授の助手、という言葉に心が動いた。だから、私でお役に立てるなら、と、答えたのだ。
ところが、話がすすむうちに、助手というのが連絡役に変わり、そのうち、世話係という風にもなった。そして、挙げ句の果てには、車の運転や身の回りの雑用も、ということになった。
よくよく聞いてみれば、その教授は、こともあろうに温泉旅館に逗留《とうりゆう》して、研究論文を仕上げるということではないか。それを知って、怒り心頭に発した。この私に、お酒の酌までさせようと言うのだろうか。いかに宮仕えの身でも、コンパニオンもどきの仕事までするつもりはない。
私はきっぱりと断ろうと思った。その時、実は……、と、上司が先手を打ってきた。
曰《いわ》く、これは一応、刑事総務課を通してきてはいるが、実は、警務部の教養課長直々のご指名らしい。ここで貸しを作っておけば、後々の君のためにもなると思う。税務署研修センターどころか、税務大学校派遣ということだって、決して夢ではない……。
こういうのを、悪魔の囁《ささや》き、と言うのだろう。言うまでもなく、研修を担当するのは警務部教養課で、そこのトップともなれば、決定的な発言力を持っている。
そんなわけもあって、私は、この特別任務から、いつでも離脱できる、という条件をつけた上で、引き受けることにした。普通、このような条件をつけることはできない。それができたのは、温泉地という環境、そして、私が未婚の女性だったからに違いない。
そして、今日――。
東京発の特急電車が到着するホームに、到着予定時刻の三十分も前から立った。と言うのは、教授は片方の足が不自由だ、と聞かされたからだ。
逗留先を温泉地としたのは、一向に回復しない古傷の湯治も兼ねている、と補足説明されて、ほんの少し安心した。
確かに、わが県の温泉の効能は有名で、中でも、教授が逗留する一色《いつしき》温泉は、関節炎、筋肉障害。隣の大滝《おおたき》温泉は眼病、視力回復。また、それ以外の温泉地でも、皮膚病、冷え性、痛風、神経痛、リューマチ、果ては、不妊症から養毛効果まで、効能はバラエティに富んでいる。
テレビや雑誌で、いささか大袈裟《おおげさ》に紹介されたこともあって、北海道や九州からの客もいるそうだから、東京からの客があっても、別に珍しくはない。だが、それにしても、温泉につかりながら、給料の貰《もら》える仕事ができるとは、誠に以《もつ》て、うらやましい身分だと思った。
先年亡くなった私の父は、最後まで所轄署のデカ長、つまり部長刑事、もっとわかりやすく言えば、刑事課勤務の私服の巡査部長だったから、退職する直前まで、足を棒にして街を歩き回っていたものだ。
幼い頃の父の思い出は、公園や遊園地でのことよりも、そのふくらはぎの上に乗ったことである。
休日の午後。縁側にうつ伏せになった父のふくらはぎの上で、私はサーカスの綱渡りのように両手を広げてバランスを取り、右、左、右、と足踏みをする。難事件と取り組んでいる時ほど、父のふくらはぎは固く、まるで石のようだった。一回踏むと一円、という約束で百回から百五十回も数えると、父は大抵、深い寝息をたてていた……。
送電線で囀《さえず》る雀を眺めながら、そんなことを思い浮かべていると、ホームは次第に混雑してきた。やがて、定刻通りに電車は到着。私は警察病院から借りてきた車|椅子《いす》のハンドルを握って、降りてくる客に目を配った。
ほんの三十分前まで閑散としていたホームは、目覚めたように活気づいている。乗降客は早足で行き交い、構内放送も早口で乗り換え電車を案内し、駅弁売りは独特の節回しで、地声を張り上げた。
目印は松葉杖《まつばづえ》、ということだったので、私は踵《かかと》を伸ばして、それらしい人物を探した。五分もすると、混雑していたホームは、まるで潮が引くように人影が疎《まば》らになっていった。残ったのは、地図を開いたハイカー連れ。大きな荷物を背負った仲買人のおばちゃんたち。赤ん坊を抱いた若夫婦。そして……、その後ろに、ステッキを頼りに、ゆっくりと足を運ぶ人影があった。
いた!……。
私は車椅子を押し、急ぎ足で、その人影に向かった。そして、五メートルほど手前で、
「失礼ですが、警大の日丸教授でしょうか?」
と尋ねた。私は間違いなく、いや、絶対に間違えないように、ひまる[#「ひまる」に傍点]、と言ったのだ。上司から、珍しいお名前だが、由緒正しいお家柄ということだから、くれぐれも失礼のないように……、と釘《くぎ》を差されていたからである。
ところが、その初老の紳士はステッキを止めて、
「はい、日の丸です」
と、自ら、そう名乗った。私は呆気《あつけ》にとられた。
スリーピースの茶色のスーツ。刈り上げ頭に黒縁の眼鏡。中肉中背。年齢は五十八歳のはずだが、少し老けて見えた。左手に薄い革のバッグを携え、右手には茶色の木製ステッキを握っている。
私は車椅子から手を離し、その横に立って、直立不動の姿勢をとった。そして、
「県警捜査二課の藤山巡査部長です。ご案内役を仰《おお》せつかっています」
と、挨拶《あいさつ》すると、
「そうかね。そりゃ実に助かる。何しろ、当地は初めてでね。西も東もわからない。ひとつ、よろしく頼むよ」
教授は白い歯を見せた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。……お荷物は?」
「宅配便で、宿の方に送ってあるんだ」
「そうですか……。あの……」
私は教授の足、そして、ステッキを見た。すると、
「まだ、車椅子の厄介になるほど酷《ひど》くはないんだけどね。せっかく準備してくれたんだから使わせてもらうかな」
と言って、車椅子に乗りこんできた。私が戸惑っていると、
「早く、押して」
教授はステッキで車椅子を、コンコンと軽く叩《たた》いた。
失礼します、と言って、私は車椅子を押した。教授はカバンとステッキを抱え込むように膝《ひざ》の上に載せ、かなり窮屈そうだったのだが、
「楽ちん、楽ちん」
と、はしゃいで見せた。
駅から直接、県警本部に向かうものだとばかり思っていたら、教授は、一色温泉へ向かうように、と言った。
県警本部を訪問すれば、アフターファイブも、ということになり、宿に着くのは深夜になってしまう、というのが、その言い分だった。
私は困惑した。刑事総務課の幹部から、寄り道せずに県警本部に直行するように、という指示を受けている。すっぽかして、叱責《しつせき》されるのは、教授でなく、この私なのだ。
どうしたものか……。
私がぐずぐずしていると、
「大丈夫だよ。電車の中から電話を入れた、と、日の丸が言っていた……、とでも何とでも、適当に報告すればいい」
教授が言った。
その言葉の意味を咀嚼《そしやく》するのに、数秒かかった。教授のせいにすればいい、ということなのだろうか?
面倒《めんどう》だったので、そう解釈することにした。
「では、お宿の方に向かいます」
私は静かにアクセルを踏んだ。
駅から一色温泉までは、車で、もちろん渋滞していなければの話だが、三十分くらいかかる。
駅前のロータリーから商店街を抜け、広い県道に出て十分も走ると、高いビルは消え、車両の数も減って、両側は田圃《たんぼ》と畑だけになった。
私はそっと後部座席を窺《うかが》った。教授は目を車の外に向けている。一体、何が物珍しく映っているのだろうか。時折、後ろを振り返った。そして、
「この辺りじゃ、何かね……」
と、教授は言った。
「はい?」
私は耳を後方に向けた。
「この辺りじゃ、事件と言えば、やっぱり選挙違反とか、大麻取締法違反のようなものが主なのかな?」
「選挙違反とか……、大麻取締法違反?」
またまた何のことかわからず、私は窓の外に目を向けた。
青空の下、遥《はる》か遠方まで、緑の野原が広がっている。いつもと変わらぬ長閑《のどか》な風景ではないか……、と思った時、質問の意味を理解した。
教授は、前時代的な金まみれ選挙や、山間地での大麻やコカの栽培のことを言っているのだ。そのことに気づいて、私は自分の生まれ故郷をバカにされたような気がした。
「おっしゃる通り、そんな事件もありますけど、ゼネコン絡みのサンズイ(汚職)もありますし、コロシやタタキ(強盗)にも結構、悩まされています」
いつも母から、乱暴な言葉遣いについて注意を受けている。確かに、警察用語はヤクザ言葉と紙一重で、嫁入り前の娘には似合わないかも知れない。職場から家に電話がかかってきたりすると、後で必ず母の小言だ。
でも、この場合、まともな法律用語を使ったら、軽く見られるような気がした。
「コロシだって?」
教授がやや高い声で言った。信じられない、という響きがこもっている。
「はい。そうです」
私の方にも力がこもる。
「現に特別捜査本部だって設置されているんですよ。一色温泉の隣に、大滝町という小さな街があるんですが、そこで、五十日間に、コロシが二件も発生したんです。しかも、被害者は二人とも外国人なんです」
決して自慢になることではないのだが……。
「ほう……、二件もかね。で、ホシは?」
「目星がつきません。捜査は膠着《こうちやく》状態のようです」
これは本当のことだ。最初の事件が発生してから、すでに三カ月目に入ろうとしているのに、捜一や、現場の捜査本部から、芳しい話は聞こえてこない。マスコミ関係者の間では、迷宮入りの噂《うわさ》さえ囁《ささや》かれている。
「そりゃ大変だ。一体、どんな事件なの?」
教授にとっては、全くの初耳のようだった。
象牙《ぞうげ》の塔にこもると、俗世間の出来事には無頓着《むとんちやく》になってしまうのだろうか? 当時、事件は全国ネットのワイドショーに、二日連続で取り上げられたというのに……。
私は半ば驚き、半ば呆《あき》れて、ルームミラーを見上げた。教授はぼんやりとした目を、窓の外に向けていた。
温泉と陶器の里――。それが大滝町のキャッチフレーズである。犯罪とは無縁なこの街で、猟奇的な殺人事件が発生したのは、七月初めのことだった。
その日、新聞配達の高校生が町民会館の駐車場で外国人女性、それは若い白人だったのだが、一糸まとわぬ姿で倒れているのを発見。すぐに一一〇番した。まだ夜が明けきらぬ午前四時ころのことである。
死因は打撲による内臓破裂。その上、首には太さが三ミリもある針金が五重に巻きつけられていた。死亡推定日時は三日から四日前。現場周辺の状況から、被害者は他の場所で殺された後、現場まで運ばれ、遺棄されたものと推定された。被害者の指先の肉は鋭利な刃物で削《そ》ぎ落とされ、身元の判明する物は発見されなかった。
もし、この事件だけだったら、何十年ぶりに発生した田舎町の一事件として、人々の記憶に長くは残らなかったかも知れない。大滝、の名が全県中に知れ渡ったのは、更に五十日後に、再び同じ手口による殺人事件が発生したからだった。
八月半ばの午前五時すぎ。今度は町民会館から二キロほど離れた鎮守の森の広場だった。ここは老人クラブのゲートボールの専用グラウンドでもあるのだが、犬の散歩をさせていた町役場の職員が、そこで、黒人女性の死体を発見した。心臓を鋭利な刃物で刺され、この死体も、やはり、十本の指先の肉が削ぎ落とされていた。
捜査一課は捜査員を増強。現在七十名体制で捜査に当たっている。しかし、いまだに被害者の身元さえ突き止められないという状況だった。
ひと通り、事件概要の説明を終えると、
「なるほど。不思議な事件だね……」
と言ったきり、教授は黙りこんだ。
捜査中の未解決事件と、教材に用いられるような事件とは、当然のことながら大きな違いがある。未解決事件の場合、犯人、動機、背景など、何もかもが雲を掴《つか》むような状況なのだ。
これは父の受け売りだが、事件が発生した場合、それが事件でない、というケースを含め、捜査員の前には、おもちゃ箱をひっくり返したように、様々な素材が提示されるのだそうだ。手袋とか合鍵《あいかぎ》が落ちていたからといって、それが事件と結びつくとは限らない。かと思えば、カラスがくわえてきた針金ハンガーが決定的な証拠、というようなこともある。そのような現場で、どれを選択し、何に重点を置くか……。
迅速かつ的確な判断が捜査の行方を決定するのだが、では、その迅速かつ的確な判断力というものは、どうすれば身につけることができるか? 残念ながら、近道はない。つまり、各自が現場を体験し、見いだすしかないのだ……。
「ところで、その事件に関する資料は手に入らないかな?」
出し抜けに、教授が言った。
「大滝事件の資料ですか?」
私は聞き返した。警大の教授ともあろうものが、捜査中の事件に興味を示すはずがない、と思ったからだ。
「何、そんなきっちりしたものでなくていいんだ。何だったら、君の備忘録のコピーでも構わないよ」
「……備忘録?」
オフィス革命は警察にも及んでいる。今時、重くてかさばる備忘録なんて、時代遅れだ。
「あの、私は捜査二課勤務ですし、コロシや死体遺棄は担当外です。それに……、備忘録は所有しておりませんので」
と、正直に告げると、
「備忘録は所有していない、だと?」
教授の口調が険しくなった。
「信じられんな……。一課だろうと、二課だろうと、類似犯罪からヒントを探るという手法は、捜査のイロハじゃないのか? 第一、公判に証人として召喚された場合には、どうするんだい? 備忘録がなけりゃ対応できないだろう?」
「失礼ですが、先生……。今は、コンピューターに全てのデータが記録されています。類似犯罪が発生した場合も、項目別に整理されてありますし、キーを叩《たた》くだけで、プリントアウトされます。ですから、手書きの備忘録よりも、正確に、詳細に把握することができるんです」
「……コンピューター?」
「はい。それに、個人的な活動記録にしても、今は、パソコンという便利なものがありますし……」
「パ、パソコン……」
「はい」
「そうか……。なかなか便利そうで結構だが……、しかし……」
教授は首を捻《ひね》って、
「すると、何かね……、捜査二課のコンピューターには、知能犯関係のみのデータだけで、コロシとか死体遺棄についてはデータ化されていないというわけか? それじゃ……、ゴンベン(詐欺)が動機でコロシに至った、というようなケースは、どうなるの?」
「もちろん、大きなヤマについては、他の課の情報も、ざっとですが、その……」
「データ化されているわけ?」
「はい。まぁ、一応は」
「じゃ、それでいいよ」
「は?」
「君のところのコンピューターでいい。プリント何とかという、その、紙に打ち出したものを恵んでもらえないかな?」
「で、でも、どうせなら、一課のコンピューターの方が詳しいですし、コロシは元々、一課の……」
と言いかけると、
「いやいや、捜査継続中じゃ、情報は管理されているはずだ。記録担当が、ああだ、こうだと、勿体《もつたい》ぶるのは目に見えている」
「まぁ……、それは、そうですけど……」
情報の管理については、一課に限らず、二課もうるさい。
私は断る口実を探した。だが、咄嵯《とつさ》のことで、思い浮かばない。そうこうしているうちに、目指す旅館の看板が間近に迫って来た。九十九《つくも》旅館――。一色温泉では指折りの老舗《しにせ》旅館だ。
翌日、私は県警本部に出勤した。
七階建て庁舎の五階に、私の所属する捜査二課調査資料係はある。この係の活動内容は、一言で言えば、捜査二課のデータバンク。つまり、情報の収集、管理、整理、提供である。
知能犯罪、ことに、脱税や汚職などは、殺人や強盗などと異なって、表面化することが少ない。従って、県内の各警察署から送られてくる捜査情報をチェックするだけでなく、新聞や週刊誌の記事にも目を光らせ、必要とあれば、人の集まる競馬場や、居酒屋に足を運んで耳をそばだてることもある。
私がこの課を希望したのは、経済犯こそ、社会を蝕《むしば》む巨悪だと思ったからだ。確かに、殺人や強盗、そして、誘拐などはマスコミを賑《にぎ》わす派手な犯罪だが、被疑者も被害者も数名単位で、凶悪という文字が紙面に躍ったことはあっても、巨悪という文字が使用されたためしはない。
それに比べ、一見、地味ではあるけれど、脱税、汚職、そして、選挙違反や談合行為などは、私たちの社会を蝕み、国民の権利を侵害する重大犯罪だと思う。
そんな理由から、私は捜査二課こそ、刑事部の中で、最もやり甲斐《がい》のある職場だと考えている。
さて、係の編成は係長以下六名で、私はもちろん末席。経験の浅い私は、まだコンピューターへの入力作業さえ許されていない。専《もつぱ》ら報告書の仕分けと、留守電形式のタレコミ電話の内容を確認するのが、主たる任務だ。
この日、私はコンピューターのキーボードを操作して、まず、データの中から、知能犯以外の犯罪項目を選択。次に、その中から、殺人・死体遺棄を選択した。
やがて、プリントアウトが始まると、部屋のドアが開いて、
「何だい? もう逃げてきたのか?」
上司である相沢警部の声がした。
「いいえ、ちょっと道草をしているだけです」
前を向いたまま、そう答えると、
「おいおい、よしてくれよ。東京からのお客様のご機嫌を損ねて、何だかんだと文句を言われるのは、この俺《おれ》なんだぞ」
「誤解しないで下さい。教授の指示で、捜査資料を取りに寄ったんです」
「そうか……、それはご苦労さん」
と返事したが、ドアを閉めた後に、
「……捜査資料だって?」
再び、不安気な声を発した。
「大滝署管内の例の事件の資料を所望されました」
「大滝の事件? 何で、外国人殺しの資料なんかが必要なんだよ?」
「さぁ……」
そんなことは、教授本人に聞いてもらいたい、と、心の中でつぶやいた。
「おかしいな。円谷紅雲《つぶらやこううん》と、どんな関係があるんだろ?」
「円谷……紅雲?」
意外な人物の名に、私は相沢警部の方を振り返った。
「昨日、帰りがけに、総務の係長と一緒に飲んでね。日の丸教授のことも話題になったんだが、滞在の目的は、どうやら円谷紅雲の件らしい」
「…………」
円谷紅雲とは十数年前、一色温泉の渓谷から、三十メートル下の激流へ投身自殺した日本画家のことで、自殺の動機については、創作上の行き詰まり、多額の負債、愛人問題などが取り沙汰《ざた》された。また、その一方、他殺を示唆する記事も見られた。
「これは個人的意見ですけど……」
私は言った。
「円谷紅雲とは関係ないと思いますよ。教授は少なくとも、大滝事件に関してはご存じではなかったみたいです」
「本当か?」
「はい。私に事件概要の説明を求めたくらいですから」
「そうか……」
相沢警部は一旦《いつたん》、頷《うなず》いたが、
「いやいや、油断はできんぞ。昨日の話じゃ、教授は目から鼻に抜けるようなお人だと言うことだからな」
と言うと、声を幾分、低めて、
「すまんがね、君……。その辺のことについて、何か把握したら、俺に連絡してくれないかな?」
「その辺のこと、とは、どの辺のことでしょう?」
私も声を潜めると、
「どの辺でもいいっ」
相沢警部は顎《あご》をしゃくって、
「ともかく、円谷紅雲のこと。それに大滝事件に関して……、いや、他の事件についてもだな。教授の言動について、報告してくれ。いいね?」
「はい……」
新たな任務が、また一つ加わった。
午後。コンピューターのデータ以外にも、事件に関する主だった内部資料、これは相沢警部が準備したものだが、それらを取り揃《そろ》えて、私は一色温泉に向かった。
九十九旅館は客が少ないという点では、静かな宿と言える。バブル期に、温泉街には五階建て、七階建てという豪華ホテルが次々にオープンし、九十九旅館もその煽《あお》りを受けた。
近頃の旅行客は、池にそそぐ水の音や、竹林に渡る風の音に耳を澄ますより、けたたましい電子音のするゲームコーナーや、カラオケルームで大騒ぎする方を好むらしい。
それでも、日本にはまだ、侘《わ》びさびを好む奇特なお客さまがいて、九十九旅館も何とか、古|暖簾《のれん》を下ろさずに済んでいるんですのよ……、とは女将《おかみ》の話だ。
九十九旅館の目玉は昭和天皇が宿泊したという部屋で、その他にも、有名な映画女優や俳人が宿泊した部屋がある。
教授は、それらのメモリアル・ルームではなく、明月庵《めいげつあん》という離れに宿泊していた。入母屋《いりもや》造りの草庵風の茶室で、先代の経営者の隠居所だったところでもある。
旅館の大玄関からロビーを素通りして、中庭に出ると、瓢箪《ひようたん》の形をした池がある。そのくびれた所に長さ一間というから、一・八メートルほどの石の橋が渡してある。それを過ぎると、木立と繁《しげ》みに突き当たる。更に、玉砂利の細い道を進むと、なだらかな上り坂。その先に質素な門が見えてくる。明月庵への出入りができるのは、ここだけで、周囲は竹を組んだ塀で仕切られている。
私は門を入り、玄関先に立って、元気よく挨拶《あいさつ》をした。
すぐに奥から、上がれ上がれ、と言う教授の声。私は靴をぬぎ、取次[#「取次」に傍点]から、待合[#「待合」に傍点]と呼ばれる部屋を経て、奥の部屋の前に立った。そこは寄付[#「寄付」に傍点]と呼ばれる部屋で、教授が寝起きしているところだ。
襖《ふすま》を前にして、
「あの、資料を持参いたしました」
もう一度、声をかけた。すると今度は、入れ入れ、という声がした。私は襖を開けた。寄付《よりつき》の縁側の障子は左右いっぱいに開けられていて、その先のぬれ縁の上に胡坐《あぐら》をかいた教授がいた。浴衣《ゆかた》の上に丹前をはおり、片手に手拭《てぬぐ》いを持っている。どうやら、朝湯から上がったばかりのようだった。
教授は私を見ると、笑顔を見せて、
「ここの岩|風呂《ぶろ》は最高だね。何よりも、本物の山が見えるのがいい」
と言いながら、手拭いで首の回りを拭《ふ》いた。
全く、うらやましいご身分だ……。
「お申しつけの資料です」
私は紙バッグを差し出した。
「ありがとう。その辺に置いてくれ」
教授はそれには見向きもせずに、
「温泉につかりながら、ずっと考えていたんだがね。ちょっと納得のいかない点がある」
と出し抜けに言った。
「納得のいかない点、ですか?」
「うん。被害者の指の指紋が削《そ》がれていることが身元の判明しない理由、ということだが、犯人はなぜ、死体そのものを隠さなかったのか……、まぁ、そこが解せない」
「はぁ?」
私は聞き返した。教授が何を言いたいのか、わからない。
「いや、昨日、夕ご飯をいただきながら、仲居さんと話をしたんだが、殺された二人の女性は、大滝町|界隈《かいわい》では見たこともない、という話じゃないか」
「はい。そのようです」
「それを聞いて、ふと思ったんだ。身元を隠す細工をして死体をさらすより、いっそのこと、死体そのものを隠した方が、合理的じゃないかってね」
「…………?」
「つまりだ。十本の指先の肉を削ぎ取る手間と暇をかけたなら、だめ押しに、死体そのものも隠したらどうか、ということだよ。ここは都会のど真ん中じゃない。昨日、君に運んでもらったが、行けども行けども、山と田圃《たんぼ》と畑、といった感じだったな。加えて、真っ昼間だと言うのに、通行車両も通行人も、ほとんど見かけなかった。おそらく、夜の八時すぎには、人っこ一人、通らないんじゃないのかい?」
「ええ、まぁ……。でも、その代わり、朝が早いんです」
「なるほど……」
教授はクスリと笑って、
「犯人たちのやり口は、頭隠して尻《しり》隠さず、だよ。ホトケはなぜ、駐車場や広場の中に、これ見よがしに転がされていたのか。それについて、話題にはならなかったかい?」
「あの、私は二課勤務ですので、そういうことについては……」
と、首を傾けると、
「あっ、そうかそうか。忘れていたよ」
教授は頭をかく仕草をして、
「ま、とにかく、そんなわけで、どうにも気になってね。ちょいと無理を頼みたいんだが、いいかな?」
「はい……」
何となく嫌な予感がした。
「事件現場に最初に臨場した警官と話がしてみたい。勤務の都合もあるだろうから、君にその根回しを頼みたいんだ」
「先着の警官、ですか?」
「そうだ。ただし、これは……」
教授は言いにくそうに、
「捜査本部の方には内密にしてもらいたいんだが、できるかな」
「内密に?」
「うん。別に、やましいわけじゃないけど、痛くもない腹を探られたくないんでね。失礼ながら、捜査が行き詰まっているとなると、皆さん、気が立っているはずだ。そんなところへ、東京くんだりから来た浴客が、ケチをつけようとしている、なんて、誤解されたくはない」
「承知しました……」
と頷いたが、それにしても、大都会の喧騒《けんそう》から温泉地へ逃れた人間が、なぜ、好き好んで、地元の事件なんかに興味を持つのだろう?……。
そんなことを思った時、教授は左|膝《ひざ》を、さも痛そうにさすって、
「白状するけど、実は僕には、この足以外にも病的なところがあってね。一旦《いつたん》、事件の矛盾点なんかに気づいたりすると、居ても立ってもいられなくなる。そんな時は、他のことには手がつけられなくなるんだ。これも長年、捜査に従事してきた職業病、いや、後遺症かも知れん。無理言ってすまんが、年寄りの病気治しのためだと考えて、ひとつ、よろしく頼むよ」
と言い訳した。
私は教授の要望を、ありのまま上司に伝えた。
相沢警部は数秒間、腕組みをしていたが、まぁ、断る理由もないしな、と答えた。
そんなわけで、私は仕事に取りかかった。
通信指令本部に行き、警察無線の通話記録を閲覧した。第一の事件現場に最初に臨場したのは、大滝一号。つまり、地元大滝署のパトカーであることが判明した。
乗務員は地域課の岡部という巡査長と、平田という巡査。早速、大滝署の地域課に連絡して、教授のことには触れずに、協力を申し入れた。大滝署の地域課幹部の反応は好意的で、二つ返事で承諾してくれた。
そして、翌日の午後。私は教授とともに、待ち合わせ場所である第一事件の発生現場に向かった。一色温泉からバイパスを使って三十分。短いトンネルを二つばかり抜けると、煙突が見えてくる。そこが温泉と陶器の里、大滝町である。山の麓《ふもと》の煙突は、もちろん焼き窯《がま》のためのもので、大滝焼、と呼ばれる伝統工芸品の他に、大量生産用の窯もある。
一方、高台には煙突が見当たらない。その代わり、ペンションや別荘が立ち並んでいる。
つまり、大滝町は下町≠ニ山の手≠ニに二分されていて、事件は、その中間点で発生した。
第一事件現場の町民会館の駐車場。
事件から二カ月以上が過ぎ、当然のことながら、犯行の痕跡《こんせき》はなくなっている。五十台ほど駐車できるスペースに人影はなく、隅の方に、三台の乗用車と一台のバイクが並べられてあるだけだった。
私は駐車場のほぼ中央に車をとめた。待ち合わせの相手に発見されやすいし、こちらも相手を発見しやすいからだ。
そんな風にして、待つこと五分。パトカーが赤色灯だけをつけて現れた。私は車を降りて、一礼した。パトカーは私の真正面に停車。左右のドアが開くと、
「もう来てたんけぇ? なげぇこと、待たせたんだんべぇか?」
助手席から降り立った制服警官が、独特のイントネーションで言った。
久しぶりに聞く方言。近頃、街中では、ほとんど耳にすることはない。
ひと口に、地方、と言うけれど、県庁所在地のような市街地と、草深い郡部とでは、生活や風習、そして、話し言葉も異なっている。市街地には、東京や大阪などの大都市からの出張者が多く、私たちは自然に標準語を話すようになっているが、大滝のような片田舎では、まだまだ昔ながらの方言が日常語として使用されている。
もう来ていたの? 長い時間、待たせましたか? と尋ねたのが、岡部巡査長。運転席から降りたのが平田巡査であることが、階級章でわかった。
私は改めて、それぞれに会釈してから後ろを振り返った。ちょうど後部座席のドアが開き、教授がステッキを地面に突き立てたところだった。
再び、警官たちの方に向き直ると、二人の顔から笑みが消えている。どうやら、私一人だと勘違いしていたようだ。
教授が近づく前に、私は、車から降りた人物が警大の教授であること。そして、今回の調査は非公式なものであることを手短に伝えた。
「忙しいのに、時間を空けてくれて、ありがとう」
教授はにこやかに言った。二人の警官はぎこちない敬礼をした。
「ちょっと、内輪の話がしたくて来てもらっただけなんだから、すぐ済むよ」
と言うと、周囲を見回しながら、
「まず、この場所についてだが、事件当時と比べて、変化した部分はあるかね?」
早速、最初の質問。
「変化した部分……」
「例えば、地面が砂利だったが、今はコンクリートになったとか、当時はプレハブ小屋が近くにあったが、撤去されているとか、まぁ、そういったことなんだが……」
「ああ、はいはい、了解しました……」
岡部巡査長は、何だ、そんなことかよ、というような顔で、周囲をグルリと見渡してから、
「当時と、ほとんど変わっちゃいませんが……、ま、強いて言うんなら、そうですな、葉っぱの色くらいなもんでしょうか」
と、慣れない標準語で答えた。
「葉っぱの、色?」
「はい。当時は梅雨の合間でした。今は秋で、町場の人にはわかんないかも知れませんが、同じ緑色でも、色の具合が、少しばかり違ってます」
「ほう……。で、他には?」
「環境的な変化と言えるのは、それくらいのものだと思うんですが……」
と言うと、平田巡査に対して、
「どうだ?」
と、念を押した。平田巡査は無言のまま、コクリと頷《うなず》いた。
「なるほど……」
教授も頷いて、
「非常に結構。どうか、その調子で当時を思い出してもらいたい。次に聞きたいのが、当日の勤務状況だ。死体発見の通報がなされるまで、どんな状態だった?」
「どんな状態?」
「そう。普段の勤務と比べて、何か違った点はなかったかい?」
「…………」
岡部巡査長は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、今度は私を見た。私にも質問の意味がわからない。だが、教授の前で、首を傾《かし》げるわけにはいかなかった。
「昨夜、事件に関する資料を読ませてもらったよ」
教授が言った。
「だから、事件の概要は大体、把握しているつもりだ。もちろん、資料にない点についても、広報官の新聞談話で、おおよそのことはわかる。僕が知りたいのは、それ以外の事実でね。それも、できれば、内輪の話が聞きたい」
「おっしゃる意味が、ちょっと……」
岡部巡査長が首を傾げた。すると、
「まぁ、何と言うか……」
教授は言いにくそうに、
「とかく、その……、ふだん静かな所轄署で、殺人や誘拐などの大事件が発生すると、何と言うか、落ち着きを失って……、もちろん、署員を一概に責めることはできないんだが、慣れぬことも手伝って、とかく対応に齟齬《そご》を来すことが往々にして見られる」
「…………」
「それに……、先着警官というのは、本署の混乱状態にも左右され、現場をあちこち歩き回ったり、触りまくったり、果ては、証拠を破壊してしまうことがある。更に、始末の悪いことに、現場における行動を忘れてしまうということなんだ。これは、パニックには至らないまでも、一種の興奮状態にあるからで、もちろん、君たちの場合、そういうことがあったとは言わんが……」
と、言いかけた時、
「お、お言葉ですが、断じて、そのようなことはありませんっ。現場保存は規則通り、実施いたしましたっ」
岡部巡査長の顔が真っ赤になった。
「わかってる、わかってる。どうか誤解しないでもらいたい。僕は無いものねだりする評論家じゃない。人倒れという通報のうち、事件性があるのは、せいぜい一割程度だということも承知している。それに、現場に到着もしていないというのに、無線は、他にも、一一〇番が入電していることを理由に、手早い処理を強制してくる」
「…………」
「そんな中で、単なる酔っ払いの寝込みと、コロシの被害者との違いを確かめるには、うつ伏せの体を仰向《あおむ》けにして、脈や瞳孔《どうこう》で生死を確かめ、更に、傷の状態と、それと符合する対象物の有無などを調査しなければならない。君たちの、そういう苦労は十分、知っている。だから、例えばだな……、たまたま、ハンドバッグの陰にあった凶器を蹴《け》っ飛ばしてしまったり、或《ある》いは、踏みつけてしまったようなことがあったとしても、断じて、僕は責めるつもりはない」
と言い終わる前に、
「現場には、ハンドバッグも、凶器もありませんでした。ですから、蹴っ飛ばしたり、踏んづけることなんか、ありませんっ」
岡部巡査長が吠《ほ》えるように言った。
「参ったな……」
教授は首の後ろを四、五回、さすってから、
「じゃ、質問を変えよう。僕の知りたいのは、何と言うかなぁ……、報告書に書かれていない点なんだ。発見時に漂っていた臭気とか、或いは、霧の夜だったとか、報告書には書くまでもない単純な事実なんだ。そういうことを知りたい」
「あの時は、何の臭いもしませんでした。それに、霧の夜ではなく、空気の澄んだ朝でした」
「例えば、の話なんだよ。臭いや天候のこと以外のことでもいいんだ。コロシの現場には、必ずと言ってよいほど、犯罪者につながる何らかの痕跡のようなものが隠されている。もっとも、この場合、正確には死体遺棄ということになるけど……」
「さぁ、自分には思い出せません」
岡部巡査長は不機嫌な顔で言った。
「そう……」
教授は二度、三度と、頷いてから、もう一人に、
「君は、どうかね?」
と尋ねた。
「自、自分ですか?」
平田巡査は一瞬、戸惑った表情を見せ、すぐに岡部巡査長の方を見た。すかさず、
「恐れ入りますが……」
岡部巡査長が半歩、前に出て、
「自分たちの現場活動に関しては、全て捜査本部の方に報告してあります。また、ご質問に対して、ここでお答えすることにやぶさかではありませんが、本日は無線メモを持参しておりません。不正確なご説明をいたすことは失礼と存じますし、また、先生のみならず、関係筋に、ご迷惑をかける可能性もあると思います。もし、差し支えございませんでしたら、後日、改めて、ということにいたしたいと存じますが、いかがなものでしょうか?」
一言一言、言葉を選びながら、という答え方だった。標準語を使うことを含めて、岡部巡査長にとっては精一杯の対応だったに違いない。
教授は小さくため息をついて、
「確かに、君の言う通りだ……」
と言うと、一転して、笑顔を作って、
「今日は、ありがとう。いろいろ参考になった。勤務の途中のようだから、引き取ってくれていいよ」
「それでは、失礼します」
二人は硬い表情のまま、ペコリと頭を下げ、私を一瞥《いちべつ》して、すぐにパトカーに乗り込んだ。そして、後ろを振り返りもせずに走り去った。
パトカーが町民会館の陰に消えると、教授は駐車場の中央部に向かった。死体が遺棄された場所だ。
教授は、そこで立ち止まり、しばらく地面を見つめていた。やがて、教授は周囲に目を配りながら、ゆっくりと腰をかがめると、ステッキをカランと放り出し、その場にゴロリと横になった。
「先生っ……」
私は驚いて駆け寄った。教授は仰向けのまま、キラキラした目を空に向けていた。
「昔のことだが、こんな風に、死体と同じ格好をすると、手がかりが見えてくる、と教えてくれたデカ長さんがいた。それ以来、捜査に行き詰まった時は、苦し紛れにやっちゃみるんだが……」
と言って、寝返りを打った。
その時、後方で、それも、かなり遠くで、
「おーう、どしたんだぁー」
と叫ぶ男の声がした。
振り返ると、駐車場の隣にあるレストランの二階、たぶん、厨房《ちゆうぼう》だと思うが、そこの窓から、コック服を着た若い男が、こちらを見ている。
「昼寝の邪魔をするなってば……」
とつぶやいただけで、教授は起き上がろうとしない。私はレストランの二階に向かって、
「大丈夫ですから……」
と大声で答え、ペコリと頭を下げた。しかし、
「大丈夫って……。そんなわきゃ、なかんべよ。現に、ぶっ倒れているじゃねか」
コックは怒ったような声で言った。私は返答に窮した。すると今度は、その隣にあるアパートのベランダで、
「遠慮すっこたねぇど。救急車さ呼んでやんべかぁ?」
と、中年の女性が声を張り上げた。さすがの教授も、
「全く……。ゆっくりと考え事もできないんだからな……」
と、ぼやきながら起き上がった。すると、
「大丈夫かやー、ジイさーん」
男が尋ねた。教授はステッキを大きく振り上げて、それに応《こた》えた。そして、
「長居は無用だ。とっとと帰ろう」
「は、はい」
私は小走りに車に先回りして、後部座席のドアを開けた。そして、教授が乗り込むと、心配してくれた二人に一礼して、運転席に乗り込んだ。
「どちらへ?」
と尋ねると、
「何かの拍子に、襟から砂が入ってしまった。背中がムズムズするんで、一旦《いつたん》、宿に戻ってくれないか」
「かしこまりました」
やれやれ……、と思いながら、私は車を発進させた。
駐車場を後にして、十分も過ぎたころだろうか。それまで、教授は一言も口をきかなかったのだが、突然、
「なるほどなぁ……。何もない田舎だからこそ、却《かえ》って目立つということか……」
「……何ですって?」
私はアクセルから足を浮かした。
「いやいや、こっちのことだ。そのまま、そのまま」
「はい」
「木を隠すなら、森の中ということだよ、藤山君。静かな田舎町の、だだっ広い駐車場にだ、汚ねぇジジイが一人、横になっただけで、あの騒ぎだ」
「…………」
「ところが、都会の繁華街には、路上生活者が十メートルおきに転がっている。ピクリとも動かないから、熟睡しているのか、死んでいるのか、実際のところ、わからない。けど、通行人は見向きもしないよ。風景の一部と化してしまっているからだ」
「…………」
「目立つ目立たないは、人口密度には関係ないということさ。むしろ、考えようによっては、こんな静かな町に死体を遺棄する行為ほど、ホシにとって危険なことはないかも知れんな。コトリとでも物音を出したら、住民はすぐにカーテンを開けて、表を覗《のぞ》くだろうからね。都会なら、物陰に身を潜ませるという応用もきくが、ここには、その肝心な物陰というものも少ない」
「…………」
「つまり、問題は、そんな不利な条件にもかかわらず、なぜ、ホシはこの町に死体を遺棄しなければならなかったのか、という点だ。ここら辺りがポイントになる……」
と、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
旅館に戻り、玄関フロアのソファーに腰を下ろして間もなく、ポケットベルが鳴った。ひょっとしたら特別手当てのことかも知れない、と思って、すぐに電話すると、
「今日の教授の行動について、報告してくれないか」
相沢警部が言った。
「そちらに戻って、ご報告しますから」
元々、そういう手筈《てはず》でしょう?
「すまんが、今すぐに頼むよ」
「はい……」
気まぐれな上司を持つと苦労する……。
私は腕時計を見ながら、記憶を辿《たど》った。
旅館到着から出発までの時刻、経過を報告した後、
「午後三時ころ、第一事件現場で、先着警官の大滝署地域課、岡部巡査長と平田巡査に接触、質問しました。質問の内容は、現場の変化している点。それに、公式の報告書に書かれていること以外に、何か気づいたこと、或《ある》いは、奇妙だと感じたことはないか、ということです」
「その他には?」
「質問は、それだけです」
「そうか。で、警官は何と答えた」
おそらく、二人の警官の報告と、私の報告が一致するかどうかの質問。つまり、確認のための質問だ。私はありのまま報告した。
「その後、教授はどこへ向かった?」
「旅館に戻りました。たった今、着いたところです」
「直接じゃないだろう? どこかに寄り道をしなかったか?」
「してません。お宿に直行しました」
「一時間もかけてか?」
「渋滞に巻き込まれたんです」
「…………」
電話の音声が全くのゼロ状態になった。手で受話器を塞《ふさ》いだためだ。そして、数秒後、
「で、明日の予定は?」
「何も、おっしゃっていません」
「そうか……」
と言って、また受話器が塞がれた。だが、今度はすぐに、
「君の推測でいいんだが、明日の行動はわかるかね?」
と聞いてきた。
そんなことは、十歳の子供でも予測がつくではないか……。
「断定はできませんけど……」
「うん」
「今日が第一でしたから、明日は第二だと思います」
「第二……」
「第二事件現場です。確か、鎮守の森の」
「あっ、そうかそうか、なるほど」
「…………」
「わかった。もし、何か具体的なご指示があったら、連絡してくれ」
はい、と答えると、電話は切れた。
妙だわ……。
私の中で直観が騒いでいた。
教授の行動を、なぜ気にかけるのだろうか? しかも、相沢警部は通話の途中で、受話器を塞ぎ、指示を仰いでいる様子だった。ということは、かなり高い地位の県警幹部が教授の行動に関心を寄せているということだ。
円谷紅雲の調査に、それ程の重要な意味があるのだろうか? それとも、私の全く知らないことが進行しつつあるのだろうか?
勤務解除時刻の五時には、少々早かったが、私は明月庵に向かった。風呂《ふろ》から上がれば、教授は上機嫌で、ひょっとしたら、私の知らないことを話してくれるかも知れない。
私はそう期待した。ところが、玄関を入ると、
「誰? 藤山君か?」
奥から、教授の声がした。車の中と打って変わって、厳しい口調だった。私は思わず足を止め、
「は、はい。そうです」
と答えると、
「明日は午後でいいよ。一時すぎに来てくれ。今日は、ありがとう。助かった」
一転して、柔らかな声が返ってきた。
「恐れ入ります。では、失礼します」
私は奥に向かって一礼した。
翌日――。
指示された時刻には三十分ほど早かったので、私は中庭の瓢箪池《ひようたんいけ》の橋の上で、時間調整をするつもりだった。
しゃがみ込んで、橋の下を泳ぎ抜ける魚を眺めていると、明月庵の方から足音と話し声がして、やがて、築山の陰から二人の男が現れた。
一人は捜査一課の阿久津管理官だった。その隣の白髪の男は、確か、大滝署の署長。そして、その後方から、もう一人。私のライバルが現れた。
桜木久美子は私と同期で、捜査一課に勤務している。階級は私と同じ巡査部長だが、彼女は第一線で活躍している正真正銘のデカ長≠セ。
「おっ、藤山君か。お役目、ご苦労」
管理官が白い歯を見せた。
「ど、どうも……」
私は管理官と署長に頭を下げた。だが、二人は私に対する答礼よりも、話の続きを優先させた。聞くともなしに、聞き慣れた家電メーカーの名や、製品名。そして、価格や製造台数などが耳に届いた。
「ちょっと……」
と、私の袖《そで》を引いたのは、久美子だった。
「抜き打ちバッサリは困るわ」
「抜き打ちバッサリ?」
「新聞には叩《たた》かれる、お偉方には叱《しか》られるで、みんなピリピリしているのよ」
「ひょっとして、昨日のこと?」
「そう。教授から呼び出されて、パトカーの二人はビビッているわ。何か、まずいことをしたんじゃないかってね」
「そう。それは気の毒だったわね。でも、別に、私は……」
と、言い訳しようとしたが、
「わかっているわよ」
久美子は私の言葉を遮って、
「初動捜査時の二人の対応は、決して百点満点じゃないわ。でもね、それは結果論というものよ」
「…………」
何のことか、わからない。
「実際、おが屑《くず》以外にも、現場には様々な、言うなれば、遺留品候補はあったのよ。例えば、タイヤ痕《こん》、それから、古い煙草の吸殻だって、事件と関わり合いがないとは言えないでしょう?」
「一体、何の話?」
と、聞き返すと、
「……知らないの?」
久美子は目を瞬《しばたた》かせた。
「だから、言おうとしたのよ。私はただの運転手。命じられた通り単純労働に従事しているだけだ、ってね」
「そうだったの……」
久美子は頷《うなず》いて、
「実は、事件現場の近くに、おが屑のようなものがあったのよ。でも、あの二人は、それを報告しなかったの」
「なぜ?」
「忘れたの? 当時は梅雨の真っ盛り。おが屑は流されてしまったのよ。ついでに、二人の記憶も流されてしまったというわけ」
「つまり……、二人は保存措置をミスったわけ?」
と言うと、久美子は顔を歪《ゆが》めて、
「だから、二課の皆さんは現場音痴だと言うのよ」
「現場音痴ですって?」
私はムッとした。
「あなたたち二課が取り扱うヤマは、脱税とか、汚職とか、背任とか、選挙違反とか、最初から犯人の目星がついているものばかりでしょう? つまり、二課の仕事は有罪にできる証拠を集めるだけ。緊急配備も、初動捜査も、警察犬も関係ない。だから、一刻を争う活動について、理解不足なのよ」
「…………」
確かに、その通りで、突発事案に関しては、当方、一言もない。
「あの警官たちは、たった二人で野次馬の整理や、立入禁止のロープまで張っているのよ。それ以外にも、通信指令本部への報告。大滝本署からの指示や問い合わせ。これだけでも、すでに、四、五人分の仕事をこなしている。その上、おが屑の採取からタイヤ痕、更には、足跡まで、全て保存しなさい、というのは酷すぎるとは思わない?」
「…………」
「おまけに、本署から応援を派遣しようにも、記録によれば、大滝二号は泥酔者を三十キロも離れている保護センターに運んでいる最中だったし、本署の起き番にしても、傷害事件やら、告訴騒ぎで手いっぱいだった。その処理を先送りするにしても、五秒や十秒で、はい、サヨナラ、というわけにはいかないのよ。結局、刑事課員が現着したのは、三十分後。現場の人間なら、この三十分というのは、決して遅くはないことがわかるはずよ」
「ひょっとして、教授には、その説明に?」
「そうよ」
「で、反応は?」
「さぁ、ポーカーフェイスが得意の先生とお見受けしたわ。大滝署長が、何か、ご不審の点があれば、捜査本部の方に直接、お問い合わせ下さい、と、申し上げたけど、柳に風という感じで受け流していたわね」
「教授は遠慮しているのよ」
「遠慮? 署員を呼び出して質問して、それで遠慮、はないでしょう?」
「…………」
「昨日みたいなことがあると、こっちの雑用が増えて困るのよ。何かというと、すぐ、この私が管理官のお供。おちおち、聞き込みもしていられないわ。だから、日の丸教授が視察するような時には、こっそり耳打ちしてもらえれば、助かる。今後は、そうしてもらえないかしら?」
「わかったわ。次からは、そうする」
と、約束すると、
「よろしくね……」
久美子は私の肩をポンと叩き、小走りに署長たちの後を追った。
「まさか、お歴々のご訪問を受けるとは思わなかったよ」
私を見るなり、教授は頭をかいた。
「昔、まだ外勤の主任をやっている頃、ある事件の捜査方法について、非難めいたことを口にしたことがある。もちろん、ごく親しい仲間内での話だったんだが、翌日になると、どういうわけか、そのことが広まっていてね。そのデカさん、大変な剣幕で怒鳴り込んできた。その時以来だよ」
「私は……何も話していませんけど」
「わかっている。でなければ、こんな話はしない」
「…………」
「商売柄、ちょっと気になって、ついつい、毟《むし》ってみようとしてみたんだが、とんだことになった。ごらん……」
教授は顎《あご》を床の間の方に突き出した。風呂敷《ふろしき》包みが置いてある。
「今回の事件に関する一件資料だそうだ。犯人の見当がついたら、ご教示願いたい、なんて、皮肉たっぷりに言われてしまったよ」
「先程、外で、おが屑とか、タイヤ痕の話を聞いたんですが、やはり、その件ですか?」
「君もかね……」
と、苦笑して、
「パトカーの二人は、おが屑は事件とは無関係と思っていたんだ。実際、無関係の可能性は極めて高い。でも、僕は、そういうことを知りたかったんだ。手がかりというものは、そういう何でもないことから、突如として、浮上することがある。昨日、二人は僕と別れた後、必死になって当日の記憶を辿《たど》ったそうだ。たぶん、不安になったからだろう。そして、思い出したことを上司に報告した」
「…………」
「署長さんは急遽《きゆうきよ》、全署員を集めて、報告漏れについては咎《とが》め立てしないから、事件当日のことを、もう一度、思い出すように訓示したそうだ。その結果、事件当夜、現場付近をツーリングと見られる数台のオートバイが通過。それに、峰沢岳《みねさわだけ》に向かうハイカーのグループの存在。更に、午前二時すぎに、現場付近で、犬が吠《ほ》えまくったという事実が判明したそうだ」
「そんなに報告漏れがあったんですか?」
「まぁ、報告漏れと言えば報告漏れだが、こういう情報は、勘繰れば、きりがない。例えば、おが屑のような物だって、雨に流されてしまったからこそ、そう思えるにすぎないのかも知れない。事件が発生した日に見たこと、聞いたこと、起きたことは、何でもかんでも、事件と関わり合いがあるように思えてくるものなんだ」
「…………」
「それより、とんだ宿題を出されてしまったよ」
教授は一枚のコピーを差し出した。そこにはワープロ文字で、様々な単語が並べられてあった。
左うちわ 駅 リスト 高速道路 電話 会社 夜の十一時 カポネ 完全 履歴書 最終的判断 誓約書
「一体、これは……」
私は教授とコピー用紙を交互に見た。
「遺留品のカセットテープに吹き込まれていた言葉だそうだ」
「遺留品のカセットテープ?」
「もちろん、事件と直接、関係しているかどうか不明だが、状況から見て、その公算は大ということだ。その単語を見て、何か気づくことはないかい?」
「何か気づくこと……」
私はコピーに目を落とした。何のことか、さっぱりわからない。そのまま、じっと目を凝らしていると、
「そんなに深刻に考えなくていいよ。ひょっとしたら、と思っただけのことだ。若い女性の視点、それに、捜査二課の視点というものは、僕らと違って、独特のものがあるからね。ところで……」
教授はバッグから財布を取り出して、
「すまんが、酒を二升ばかり、買ってきてくれないかな」
「お酒を?」
「うん。上等なのを頼む。それから、熨斗《のし》紙と筆だ。捜査本部の現場責任者と、設置署の署長さんに折角、足を運んでもらったわけだからな。その上、手土産に、捜査資料と、わけのわからない宿題まで頂戴《ちようだい》した。まぁ、普通なら、酒の一升も届ければ、仁義を切ったことになるけど、僕の場合は、そうはいかない。日の丸、なんて呼ばれているからな。倍の二升、届けなければならない」
「…………?」
「日の丸日本。つまり、日の丸二本、なんだとさ。安っぽい駄洒落《だじやれ》だが、こういうのは、すぐに広まって、なかなか忘れてもらえない。お蔭《かげ》で、こっちは、そのたびに懐の方がお寒くなると言うわけさ」
と言って、教授は笑った。
捜査本部が設置してある大滝署は、下町の最も賑《にぎ》やかな商店街の並びにある。元々、手狭だった上に、三階の会議室を捜査本部に提供したため、隣の空き地に急拵《きゆうごしら》えのプレハブ建物を設け、執務をこなすという有り様だった。
警察署の玄関前の駐車スペースは、マスコミ関係の車両に占拠されていた。その脇《わき》に、車をつけると、警杖《けいじよう》を持った制服警官が近づいてきた。私は警察手帳を呈示し、事情を説明した。警官は助手席の差し入れ物を見てニヤリと笑い、専用駐車場へ誘導した。
ズシリと重い酒瓶を右に左にと持ち替えながら、外階段を上り、非常口から廊下に入った。途中、関係者以外立入禁止の貼《は》り紙、そして、突き当たりの出入口には、捜査本部の貼り紙がしてある。
私は、その手前で、髪と服装の乱れを整え、ドアをノックした。
静まり返った大部屋……。七十名分の椅子《いす》は、もちろん、ほとんどが空席で、電話の側に一人、壁際の席に一人座っている。更に、もう一人は書架の側に立ったまま、資料に目を通していた。
私は壁際の席へ向かった。そして、その前で、
「先程は失礼しました」
と、頭を下げると、管理官は上目遣いに私を見たが、すぐに、手元の書類に視線を落とした。
「教授からです」
私は熨斗紙を管理官に向けた。
「祝杯用? それとも、残念会用かな?」
と、皮肉たっぷりに言ってから、
「ありがとう。その辺に置いてくれや」
管理官は顎を前方にしゃくって、
「教授はどんな反応だい? まだ何か、問題点を云々《うんぬん》されているのかな?」
「いいえ。余計なことをした、と、後悔していらっしゃいました」
「ほう。本当かね?」
「はい。いつになっても、野次馬根性が抜けない、なんておっしゃって、頭をかいておられました」
「野次馬根性? それを言うなら、デカ根性だろうよ」
「……デカ根性?」
「うん。デカ部屋暮らしは、かなり長かったはずだからな。体は警大に置いても、気持ちの方は、まだ警視庁の方に残っているんだろうよ」
「警視庁?」
と、つぶやいた私は、さぞ、間抜けな顔をしていたのだろう。
「ひょっとして、君は教授の経歴を知らないのか?」
「警大の……ユニークな教授だということは存じていますけど……」
「ユニークな教授か。なるほど、確かに、そうには違いない」
管理官は持っていた赤鉛筆を調書に挟んで閉じると、放り出すように未処理の書類箱に置いた。
ほぼ同時に、芳しいコーヒーの匂《にお》いがした。
失礼します、と言って、電話番をしていた警官がコーヒーを二つ、管理官と私の間に置いた。
「君はどうだ? 明月庵のお客人のことは知っているかい?」
管理官がその警官に尋ねた。
「日の丸教授のことでしたら、まぁ、一応は……」
「ほう。一体、どんな風に?」
「何でも、東亜銀行の頭取毒殺事件の捜査、それから……、国連大使|失踪《しつそう》事件の捜査でも、大変な活躍をされたとか」
「それに、東京湾連続殺人事件。ポピュラーな事件なら、こんなところだろう。どれも難事件だ。それらを解決した功労に相応《ふさわ》しく、警視正まで出世された。確か、最終ポストは刑事部理事官だったと思う」
「すると、警視庁から直接、警察大学の方へ栄転されたわけですか?」
「栄転? ま、栄転は栄転なんだろうが、何せロートルだからな。体《てい》よく追い出されたんじゃないの?」
「…………」
「ここだけの話だが、あの人は、もう過去の人だよ。確かに、かつては名刑事だったが、現在のなまの事件を捌《さば》けるかどうか、いささか疑問だね。今は全てが早い。その上、何もかもが専門的になっている。この俺《おれ》だって、正直なところ、ついていくのが、やっとだ」
と、ぼやいた時、電話番がクスリと笑った。管理官はそれをジロリと睨《にら》んで、
「軍隊だってだ。勘の鈍った将軍は、士官学校あたりの校長なんかに栄転させて、お引き取り願っているだろう? 日の丸氏の場合も、同じケースだと思うよ」
「…………」
「とは言うものの、粗末には扱えない。何せ、警察大学の教授様だからな。下手に機嫌を損ねたら、わが県警から入校している学生にどんなとばっちりが及ぶかわからない。ま、グラウンドを走らされるくらいなら、何てことはないが、卒業試験の成績なんかを減点でもされたら大変だ。そんなわけだから、君の方も、くれぐれも失礼のないようにね」
「はい……」
「何か、ご要望があるようだったら、君でも構わん。遠慮なく、言ってきてくれ。余程の極秘情報でない限り、ご提供申し上げるよ。こういう時は、貸しを作っておくに限るんだ」
「…………」
「その結果、わが県警の印象がよくなってだ、入校している学生諸君のテストの点数がよくなれば、当然、卒業成績もよくなる。そうなれば、お偉方の機嫌もよくなって、仕事でドカミスしても、始末書くらいで、クビがつながる……。どうだい? この五段論法は……」
と言うと、一瞬の間を置いてから、大声で笑い出した。
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パンドラの箱
捜査本部の阿久津管理官たちの訪問を受けてから、教授は大滝事件のことを話題にしなくなった。
教授の日課は、午前中が湯治。そして、昼食後は、九十九旅館から車で五分ほどのところにある温泉資料館に行き、調べものをする。調べものは一時間くらいの時もあれば、三時間以上に及ぶ時もあった。
資料館の事務員に、それとなく尋ねてみると、教授は大正期から昭和初期にかけての一色温泉の資料を借り受け、閲覧室にこもっているとのことだった。
六、七十年も昔の資料が、昭和末期の画家の死に、一体、どんな関わりがあるというのだろうか……。
確かに、円谷紅雲の自殺には、不審な点がなくもない。
実を言うと、この事件を第一次的に担当したのは、私の父だった。その頃、私はまだ八つか九つの子供で、狭い我が家に、大勢の記者たちが押しかけたことを覚えている。
自殺、という父の判断に、なぜ記者たちが色めき立ったのか? その理由を後年、私は警察学校の図書館で知った。
円谷紅雲は一色温泉近くの渓谷から身を投げたが、逗留《とうりゆう》していたのは、十キロも離れた隣の県の花沢《はなざわ》温泉だった。
七日の間、毎夜、芸者を呼んでのバカ騒ぎをした挙げ句、紅雲は行き先も告げずに宿を出て、そのまま行方不明になった。
翌日、ハイカーが一色渓谷と呼ばれる断崖《だんがい》の上で遺書と靴を発見。直下を流れる嵐川《あらしがわ》を捜索したところ、三百メートルほど下流の浅瀬で紅雲の遺体が発見された。
父は司法解剖にも立ち会い、投身自殺の損傷以外の不審な外傷等はないことを理由に、自殺と判断した。当時、父は、その職人的気質と仕事振りから、甚五郎《じんごろう》、と呼ばれていた。だから、その時点では、署長はもちろん、刑事課長も、特に説明を求めてくることはなかったとのことである。
ところが、遺族が記者会見をしてから、状況は一変する。紅雲の姉と弟が、断崖の上に残された靴は故人のものではない、と発言。会見場は騒然となった。
実際、紅雲は小柄で、足のサイズは二十四・五センチの上に、靴はイタリア製のオーダーメイド。だが、断崖の上に残された靴は二十六センチのドタ靴で、しかも安物だった。記事によれば、片方の靴の重さだけで、紅雲愛用の靴の優に二足分はあったという。
この直後、刑事部長の指示で、一カ月間に及ぶ異例の再捜査が実施された。その結果、断崖に残された靴は、紅雲が滞在していた宿の他の客のものであることが判明。紅雲の靴が見当たらないことから、紅雲がスリッパ代わりに履いて出た……と結論づけられたのは、筆跡鑑定で遺書が本人のものと確認されたことの影響でもある。遺族も、この遺書に関しては、異議を唱えていない。
結局、父が最初に認定した通り、自殺ということで決着した。つまり、ノイローゼ状態の紅雲が靴を履き間違え、且《か》つ、自殺場所を求めて十キロもの山道を歩いた、という説が支持されたのである。
父が生前に言っていたことだが、紅雲の死は、表から見ても裏から見ても、自殺。つまり、他殺の可能性は皆無、ということだった。ただ、話が問題の靴のことに及ぶと、不機嫌になったことを覚えている。
他人の靴、それも、サイズの異なるドタ靴を履いて、華奢《きやしや》な紅雲が十キロもの山道を歩けるのか? しかも、遺体の足にはマメ一つなかった……。
そんな質問があると、父は決まって、大は小を兼ねる、と答えた。更に続けて、トウシロウ相手に、込み入った話ができるけぇ……、と言って、プイと横を向いたものだ。
込み入った話とは一体、どんな話だったのだろうか?……。警官になった今、聞いておけばよかったと思う。
さて、教授の日課のことだが、資料館での調べものを終えると、宿に戻り、再び湯治。夕食後は、仲居さんの話によれば、何やら書きものをして、午後十時には部屋の明かりが消えるとのことだった。
早寝早起きの健康的日課だわ、と、最初のうちは感心していたのだが、もろくも、その化けの皮は剥《は》がれる。
ある日のこと。顔|馴染《なじ》みになった仲居さんが、私を見ると、階段横まで袖《そで》を引いて行って、
「お出かけする場合は、フロントの方に、一声かけてもらうわけにはいかないものかしら?」
と囁《ささや》くような声で言った。
「お出かけする場合、ですか?」
「そう。昨日は一日中、明月庵で書きもの、ということだったでしょう?」
「え? ええ……」
私は生返事した。
確かに、仲居さんの言う通りで、教授は明月庵で手持ちの資料を整理するということだった。そのため、私も旅館の方には顔を出していない。だが、仲居さんの内緒話は、そうではなかったことを物語っている。
「すみません。以後、気をつけます」
事情はともかく、頭を下げた。うるさ型のおばさんを満足させるには、この手に限る。すると、仲居さんは、そんな問題じゃない、という風に、首を二度ばかり横に振って、
「実は、余計なお世話だったかも知れないけど、昨日は、板さんに頼んで、昼のお食事を重箱仕立てにしてもらったのよ。それを玄関の上がり口のところまでお届けしたわけ」
と、前日の経緯を話し始めた。
「まぁ、その時に、召し上がって下さい、とか何とか、ご挨拶《あいさつ》すればよかったんでしょうけど、気が散るから、声をかけるな、と言うことだったでしょう? だから、そっと、置いてきたんだけど……」
「…………」
「ところが、夕方、板場の若い衆が重箱を下げに行ったら、箸《はし》をつけていないどころか、風呂敷《ふろしき》包みも解かれていないというのよ。私は慌てて、明月庵に向かったわ。だって、発作かなんかで、倒れているということだってあるでしょう?」
「は、はい。ごもっともです」
「ところがよ、明月庵は裳《も》ぬけの殻。先生は、どこにもいらっしゃらないのよ。お倒れになっていないので、ホッとしたけど、その一方で、がっかりしてしまったわ」
「そうだったんですか。ご心配かけて、すみません」
私は改めて頭を下げた。
「いいのよ。どうせ、こっちの独《ひと》り相撲だもの。でも、仲居としてはお客さんにサービスしてあげたいのよ。だから、お留守にするなら、そう言ってもらいたいのよ」
「はい。かしこまりました。ありがとうございます」
思いがけないところから、教授の隠密行動が明らかになった。
私は取り敢《あ》えず板場を訪ね、せっかくの好意を無にしたことを詫《わ》びたのだが、板長を待つ間、板前さんたちから、今度は教授の夜の行動について仄《ほの》めかされる羽目になった。
教授は時々、深夜に従業員通用口から外出しているらしいという。信じがたいことだった。私が首をひねっていると、窓の外で、じゃがいもの皮を剥《む》いていた見習いさんが立ち上がり、朝帰りする教授の姿を何度か見かけた、と言って、ハハハと笑った。その時、
「バカ野郎っ……」
ドアのところで板長が怒鳴った。そして、
「お嬢さん、い、いや、刑事さん。どうか、今の話は聞かなかったことにして下さい。板場の者が、お客様のことをペラペラ喋《しやべ》ったとなると、ただじゃ済みません」
板長は帽子《かぶりもの》を取り、板前さんたちは顔を強張らせて、立ちすくんでいる。
「聞かなかったことにして下さいって、一体、何のことでしょう? 私には包丁の音以外、何も聞こえませんでしたけど?」
と言って、微笑《ほほえ》んで見せると、
「ありがとうございます」
板長が深々と頭を下げた。
別に、礼を言われるほどのことではない。私にしても、その方が都合がよかった。
上司から、教授の動向を報告するように指示されてはいるが、人には、それぞれ事情というものがある。それに、教授にもプライバシーというものはあるし、プライバシーではないにしても、それを積極的に暴く権利は誰にもないはずだ。他人に迷惑をかけない範囲で、人は自由に行動する権利を有している。この時は、そう自分に言い聞かせた。
確かに、教授は深夜、宿を抜け出しては、朝帰りを繰り返していた。しかし、それは捜査のための隠密行動だった、と知ったのは、数カ月後のことだった。
ところで、私の方の日課は、通常の捜査二課勤務と比べれば、のんびりしたものだった。
午前八時三十分に、明月庵の玄関で朝の挨拶をし、温泉資料館への往復を除けば、終日、待機。もっとも、教授が望めば、車の運転以外、買い物などの雑用もこなす。そして、午後五時十五分になると、教授に退去の挨拶をして、県警本部に戻り、報告書を書いて提出すれば、任務は終了する。
仕事は単純作業。しかも、県警本部ビルのゴミゴミした空気の代わりに、景勝地のオゾンを胸一杯吸うことができる。そして、何よりも、口うるさい上司の目から逃れて、思い切り羽が伸ばせた。正直なところ、後ろめたさを感じるほど、気楽な日々だった。
その朝も、たっぷりと睡眠をとった私は、目覚まし時計が鳴る前に起きた。洗面を済ませ、キッチンに行くと、母がジューサーを使いながら、
「パンドラからの贈り物が届いているわよ」
と言って、ドアの横を目で示した。
振り向くと、電話の横に茶封筒が置いてある。
「パンドラ?」
私は新聞をめくりながら尋ねた。
「差出人の名前が、そうなっているわよ」
「私|宛《あ》てなの?」
「そうよ」
「…………」
私の家は、母と高校生の妹の三人暮らしだ。近所に住む叔父《おじ》の勧めで、ドーベルマンを飼うようになってからは、塀を乗り越えようとする不埒者《ふらちもの》はいなくなった。
しかし、年に一度か二度、必ず、いやらしい写真や品物が送られてくる。以前は、その度に鑑識に持ち込んだりしたが、近頃では、変態男ごときに向きになること自体がバカバカしくなり、無視の一手を通すことにしている。
どうせイタズラだろう、と思って、私は出勤の途中に捨てるつもりでいた。だが、ドタドタと階段を駆け降りてきた妹が、その封筒を目敏《めざと》く見つけて、
「パンドラって、誰?」
と、尋ねた。
「変態のことよ」
私がそう答えると、母が、
「そんなことを言って、本当にしたら、どうするのよ。試験に出るかも知れないのよ」
と、口を尖《とが》らせた。妹は来年、受験を控えている。
「ギリシャ神話にあるお話よ」
母はジューサーを使いながら妹に言った。
「パンドラとは地上最初の女性の名前。パンドラの箱とは、ゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした箱のこと。この箱を開けてしまったため、災いが飛び出したけど、急いで塞《ふさ》いだため、希望だけが封じこめられたんですって」
「へぇー、初めて聞いたわ」
妹は椅子《いす》から立って、トースト片手に、その封筒を手に取り、
「お姉さん、開けないの?」
と尋ねた。
「聞かなかったの? 災いが飛び出して来るのよ。開けられないわ」
「そう……」
妹は封筒の表と裏を交互に見ていたが、突然、トーストをテーブルの上に置き、勝手口から外へと飛び出して行った。
呆気《あつけ》にとられていると、やがて、息を切らして戻って来た妹の手には、封の破られた……、もっとも、両手で、しっかりと塞《ふさ》がれてはいたが、封筒が握られていた。
「なぜ、開けたのよ」
私が詰《なじ》ると、
「大丈夫。荒木さんちの前で開けて、すぐに塞いだから、この中には、希望だけが残っているはずよ」
「荒木さん……」
私は母と顔を見合わせて笑った。
荒木さんとは五軒隣の住人だが、犬が嫌いで、何かにつけて苦情を言ってくる。我が家の飼い犬を散歩させていた妹とも、一揉《ひとも》めあったらしい。
私は妹の行動に敬意を表して、中身を検《あらた》めた。カセットテープが一本。それ以外には何もない。
「……ラジカセ?」
妹は再び、居間の方に行きかけたが、母がすかさず、
「遅刻するわよっ」
と、たしなめた。
妹は時計を見て、やべぇ、と叫び、コップのジュースを一気に飲み干し、ペーパータオルでトーストを包み、カバンを掴《つか》んで表に飛び出して行った。
私はカセットテープを屑箱《くずばこ》の中に落とすこともできたのだが、そうはしなかった。希望、という妹の言葉が、妙に心の隅に引っかかっていた。
母は妹の言葉遣いについて、私のせいだと、ひとしきり説教してから、キッチンを離れた。そして、程無く、ラジカセ片手に現れた。
「さ、子供がいなくなったところで、希望の中身を聞きましょう」
と、妙に目を輝かせて、私の前に手を出した。
「呆《あき》れたわ」
私はテープを、その掌《てのひら》の上にのせた。
母は、ちょっと、ドキドキするわね、なんて言いながら、再生ボタンを押した。
やがて、スピーカーからは途切れ途切れに、男の声がした。
ネオン、景気、路地……。
一瞬のことだが、ネオンとか、景気とか、路地という言葉が、私の耳には卑猥《ひわい》に聞こえたのだから、人間の先入観というのは不思議なものだ。
言葉の間隔は約三秒。全体で三十秒に満たない不思議なメッセージだった。
母は腕組みし、首を傾げて、何のことかしら? とラジカセを睨《にら》んだ。
どうせ変態男の新手のイタズラだわ……。
私は心の中で、そうつぶやきながら、コップに手を伸ばした。その時、この贈り物≠フ意味に気づいた。
カセットテープの内容は、数日前、明月庵で教授が差し出した例の宿題≠ノ酷似しているではないか……。
私は母から奪うようにして、ラジカセを引き寄せ、巻き戻しボタンを押し、テープを再生させた。
ネオン 景気 路地 名無しの権兵衛 信号機 証券 今月 キャバレー
間違いない!
次の瞬間、私はラジカセを小脇《こわき》にして、妹と同じようにキッチンを飛び出していた。
あなたたち一体、何なのよ……、という母の声がした。それに何と応《こた》えたか、覚えていない。それほど、私は慌てていた。
自宅を飛び出したものの、実際は、住宅街の細い路地を抜けるまで、行き先に迷っていた。
捜査二課の自分の職場に持参したところで、上司は捜査一課に報告しろ、と言うだけだろうし、捜査一課にしても、結局、捜査本部へ速報するしかない。報告を受けた捜査本部にすれば、現物を見たい、いや、この場合、聞きたい、ということになる。
となると……、向こうがテープを取りに来るか、こっちが届けるということになる。つまり、捜査二課に出勤し、上司に報告しても、二度手間、三度手間になるだけだ。それならば、最初から、大滝署に向かった方が手間が省けるのではないか……。
考えがそこまで及んだ時、目の前に大通りが迫ってきた。
ええいっ、という気合とともに、私は勢いよくハンドルを大滝署方向に切った。
ところが、一分もしないうちに、今度は別の疑問が生じてきた。
届けられたテープは大滝事件と関連性があるとは思うが、でも、そんなものが、なぜ、私のような捜査二課勤務の巡査部長、それも、職場でなく、自宅なんかに送られてきたのだろう?……。ひょっとしたら、これまで同様、単なるイタズラではないのか?……。
そう考えているうち、車のスピードは気持ちに比例して徐々に落ちていった。私は路肩に車をとめ、唇を噛《か》んで、前方を見つめていた。その時、耳元で父の声がした。
積極的な対応をした結果の失敗には、悔いが残らないものだ……。
その声を聞いて、ようやく踏ん切りがついた。
駐車場に出てきた久美子は、私をまず一階の署員食堂に連れて行った。
そこで、自動販売機のコーヒーを買い、湯気の上がる紙コップを私に持たせた。そして、再び廊下に出ると、左右を見渡してから、隣の小部屋に入った。ドア上部のプレートには、会計課倉庫、という表示がしてある。
なぜ、こんなところに入るのだろう?
一瞬、不安になった。
内側の壁のスイッチを入れると、薄暗い部屋に明かりがつき、同時に、換気扇が回り始めた。そこは横長の狭い部屋で、左右には本棚のような仕切りが設けられてある。それぞれの仕切りには番号が書かれ、紙やビニールで包まれた品物が置いてあった。
久美子は左の棚にコーヒーを置き、
「テープは?」
と言いながら、右の棚にあったラジカセに手を伸ばした。私はハンドバッグを前に回し、手をかけた。すると、
「指紋を壊さないように気をつけて」
久美子が言った。
途中のドライブインで、濡《ぬ》れタオルで念入りに拭《ふ》いたんだから、残っているはずがない……、という言葉が喉《のど》まで出かかったが、
「そんなに心配なら、どうぞ……」
私は口の開いたハンドバッグを久美子の前に差し出した。
久美子は何かを言いかけたが、ポケットから白手袋を取り出し、ハンドバッグの中からカセットテープを摘み出した。
まるでガラス細工でも取り出すような手つきだった。テープをラジカセのポケットに入れ、再生ボタンを押した。
狭い部屋に、男の声が響き、久美子の表情が強張った。
「どう?」
と尋ねると、
「ノーコメント」
久美子は停止ボタンを押して、
「マスコミ関係者の目があるんで、こんな埃臭《ほこりくさ》い所へ入ってもらったけど、これから、上に上がってもらうわ。たぶん質問攻めにされると思うけど、協力してね」
「ま、仕方ないわね……」
「じゃ、行きましょう」
久美子はラジカセを片手に下げて、先に倉庫を出た。
捜査本部といっても、元々は大滝署の会議室なのだから、刑事部屋にあるような取調室はなくて当たり前だった。その代わり、大型ロッカーで三方を囲った取調代用室があった。
私はその狭いスペースの中に案内され、久美子が言ったように質問攻めにあった。
大滝事件に関連する物件が、なぜ、私の自宅に届けられたのか?
私自身が理解できないのだから、捜査員たちが理解できなくても当然と言えば当然なのだが……。
まず、今朝の経緯を一通り説明させられた後に、
問――今まで、このようなことは?
答――似たようなことはありましたけど、明らかに、イタズラでした。事件に関するものが投げ込まれたのは初めてです。
問――明らかなイタズラ? なぜ、そう断定できる?
答――卑猥な写真とか、男物の下着とか、そんなものばかりなんですよ。
問――すると、イタズラ電話も?
答――いいえ。以前はありましたけど、特殊な電話に変えてからは、ありません。
問――表札は、どんな風にしている?
答――そのままにしてあります。
問――そのまま? 意味がわからんな。
答――父が亡くなった後も、そのままにしてあるということです。
問――なるほど。ところで、君が警官であることを、周辺の住民たちは知っているのか?
答――はい。
問――そりゃ、あまり好ましくないな。せめて、公務員、とすべきだ。
答――はぁ……。(一体、カセットテープの件と、何の関係があるのだろう?)
問――今回の事件について、警官以外の人間に内部情報を話してしまった、というようなことは?
答――ありません。(無礼な……)
問――でも、家族には、つい、ポロリと口を滑らせたようなことはないか?
答――ありませんっ。(思わず、口調が荒くなってしまった)
問――そう向きになるなよ。念のために尋ねているんだ。
答――……すみません。
問――よく考えてみてくれ。別に、君を責めるつもりはない。我々は、あのテープが、なぜ君の家に投げ込まれたのか、突き止めたいだけなんだ。
答――はい……。(我慢、我慢……)
取調室での会話は、整理すれば、概《おおむ》ねこんな内容だった。
さて、参考人として取り調べを受けた人が必ず口にするのが、警察というのは、効率の悪い質問の仕方をする、ということだろう。質問内容は整理されていないし、途中で質問者が変わったり、担当者が違っていたり、二度手間、三度手間は当たり前、というのが実態だ。
経費節減のため、日夜、無駄を省くことに頭を悩ましている企業人や商店主にとって、警察の対処の仕方はまどろっこしく、中には、当てつけに大|欠伸《あくび》をする参考人もいる。
しかし、種明かしをすれば、これは全て計算ずくのことで、実は、一つの質問を様々な形に変えて……、これは質問の内容だけでなく、質問の順序、質問者、質問時の状況をも変えて、さりげなく質問し、回答の矛盾を探っているにすぎない。
嘘《うそ》の供述をしている参考人は、相手を見くびっていることも手伝い、油断して、ポロリと口を滑らす。次の瞬間、抜け目のない刑事が、その正体をあばくはずだ。
私は警察内部の人間であり、そういうカラクリを熟知しているから、理不尽な事情聴取にも辛抱強く耐えたのだ。
だが、それにも限界がある。
ロッカー越しに、あのお姉ちゃんは? という品のないだみ声が聞こえ、しばらくしてから、ノックする音がした。
やがて、扉代わりのカーテンが開き、ジャンパーを着た中年の男が現れた。そして、私に渋い顔を見せて、
「なぁ、おめぇ、一体、どんな触り方をしたんだい? 封筒にも、カセットテープの方にも、指紋一つ出てこねぇぞぉ?」
と、どぎつい訛《なま》りで言った。
標準語が話せるのに、敢《あ》えて方言を使う輩《やから》がいる。わざと訛りを誇張し、相手をからかうと同時に、周囲の笑いを買おうとしているのだ。
このオヤジめが……。
プッツンという音をたてて、堪忍袋の緒が切れた。
「差出人が最初から、指紋の付かないような触り方をしたからだと思いますけど……」
私は精一杯の皮肉を込めて言った。
ジャンパーの男はキョトンとした顔をしている。頭の悪い男だ。
この種の警官は、指紋が出たら出たで、迂闊《うかつ》に触られちゃ困る、と言い、出なきゃ出ないで、どんな触り方をした、と文句を言う臍曲《へそま》がりなのだ。
私がドライブインで、カセットテープと封筒の指紋を拭き取った理由はここにある。もし、指紋を検出した場合、こういう無神経な警官は、妹の通う高校に押しかけ、参考人指紋を採取しようとするだろう。可愛《かわい》い妹を、そんな目には遭《あ》わせたくない。
「一体、何が問題になっているんです? 後学のために、教えてくれませんか?」
私は続けた。
「差出人が、わざわざ自分の指紋を付けて、うちのポストに投げ込むわけはないし、私はこれでも、刑事部の一員ですからね。指紋の付くような触り方をしていません。となれば、指紋は検出されなくて、当たり前だと思いますけど、一体、何だと言うんです?」
と言って、男を睨《にら》んでやった。これでもう、お姉ちゃん、などとは呼べなくなるはずだ。
案の定、ジャンパーの男の顔が、みるみるうちに赤くなっていった。
いい気味だわ。小娘だと思って、軽く見るからよ……。
そんな思いが脳裏をよぎった。すると、どういうわけか、何もかもが、急にバカバカしく思えてきた。私は目の前の取調官に視線を戻して、
「誠に恐れ入りますが、私も上司の命により、ある特別任務に従事しております。もし、差し支えなければ、そろそろ帰らせていただきたいのですが……」
と、慇懃《いんぎん》無礼に尋ねた。すると、それまで、椅子《いす》にそっくり返っていた捜査員が、組んでいた短い足を外して、
「そ、そうか。それじゃ、まぁ、今日のところは、これくらいで……。また、何かの時は、一つ、よろしくね」
と、作り笑いをした。
「かしこまりました。では……」
私は立ち上がり、形ばかりの礼をして、さっさと取調室の外に出た。
ドアに向かう途中、後ろから声をかけられたような気がしたが、私は無視した。そのまま廊下に出て、一階の受付に駆け下り、そこの電話で、たった今、出てきたばかりの捜査本部に電話した。
「あの中年デブ、一体、何なのよ?」
私は同期生に毒づいた。
「そう怒らないでよ。あの先輩は思い込みが激しいのよ」
と、久美子。
「そう。じゃ、いつか必ず、誤認逮捕するわよ。今のうちに、頭を潰《つぶ》しておいた方がいいわね」
私の腹の虫は治まらない。
「そんなこと言ったら、可哀相《かわいそう》。口で言うほど悪い人じゃない。あれで結構、涙もろくて、面倒見《めんどうみ》がいいのよ」
「面倒見がいいですって? それは、久美子に下心があるからじゃない? ああいうのには気をつけた方がいいわよ」
「はいはい。そう致します」
久美子はクスリと笑って、
「それより、大事な内緒話があるから、署の屋上で待っていてくれない? 五分以内に行くから」
「倉庫の次は、屋上?」
「うん。私、ここのところ、ブンヤに目を付けられているのよ」
「新聞記者に? さんざん気を持たせて、飲み逃げするからよ」
と冷やかすと、
「だったら、いいんだけどね」
久美子が小さくため息をついた。
五分後の屋上。冷たい風に私は震えていた。
「内緒話をするには、ここに限るの」
コート姿の久美子は、私を給水塔の陰に誘った。
そこはコンクリートの壁が風除けになった日当たりのよい一角で、おそらく、署員たちの密《ひそ》かな息抜きの場になっているのだろう。雨に濡《ぬ》れても、すぐ乾く木製の長椅子と、ペール缶が置かれている。
コートを脱いだ久美子は早速、煙草に火をつけた。彼女の喫煙の習慣は警察学校時代からのことだ。
「コートを着て捜査本部から出てきたとなれば、ブンヤさんは外出すると早合点する。嗅《か》ぎ回るつもりなら、今頃は、駐車場に先回りしているわ」
「と言うと、あの録音テープのことを勘づかれたの?」
「わからない。だが、あの人たちは鼻がきくし、あちこちにアンテナを張っている。油断はできないのよ。ところで……」
と言うと、煙草の煙を吐き出して、
「人間が初めて鶏《にわとり》の声を聞いた時、夜明けが近い、なんてことはわからなかったと思うわ」
と、話し始めた。
「そのことに気づいたのは、次の日も、更に、その次の日も、鶏が鳴いてから夜が明けたからじゃないかしら」
「いきなり、何の話?」
「事件と捜査も同じということを言いたいのよ。第一の事件現場では、犯人や犯罪の背景は、いつもぼんやりとしている。でも、第二の事件が発生すると、ある程度、特徴というものが見えてくるわ。すると、なぜ、第一の事件現場で、アレとコレを押さえておかなかったんだ? なんてことを言い出すのが出てくるのよ」
「まだ、わからないわ。前置き抜きに、はっきり言ってよ。久美子らしくもない」
「つまり、遺留品かどうかの判断は、事件の背景が見えてから、はっきりするということよ。後になってからだったら、誰にでも言える。そういうのは結果論なのよ」
「ははぁ……、大体、わかったわ」
私は頷《うなず》いて、
「先着した警官だけでなく、捜査員もミスをしてたのね?」
と念を押した。すると、
「それが結果論だ、と言っているのよ」
久美子が顔をしかめた。
「そう。じゃ、言い直すわ。結果論的に見て、捜査専務員も、初動捜査上のミスを犯したと言えるわけね」
「ん? ん……」
久美子が生返事をした。
「でも、そのことと、パンドラの贈り物と、一体、どういう関係があるの?」
私は質問を掘り下げた。
「……わからない?」
久美子は横目で私を見た。探るような眼差しだった。私は鼻で笑って、
「背景、いや、すでに事実を知っている捜査音痴は、ここにもいるみたいだわね。私は、まだ何も知らないのよ」
と、皮肉たっぷりに言うと、
「確かに、あなたの言う通りね。他人を責める資格はないわ……」
久美子は苦笑して、
「第一の事件現場で、捜査員が見過ごしたのは、カセットテープなの。おそらく、あなたの元へ届けられたカセットテープと同じ中身のものだと思う」
「…………」
「第一の事件現場、もっとも、その時点では、五十日後に第二の事件が発生するなんて夢にも思わなかったわけだけど、最初に到着した大滝署の刑事は、現場に落ちていたカセットテープを発見していながら、これを一般ゴミと判断してしまったのよ。つまり、事件との関連性はない、と、早合点してしまったわけね」
「…………」
「彼の頭にあったのは、凶器や血痕《けつこん》。それから、犯人の足跡なんかだったわけで、ビニール袋に入ったカセットテープなんか、眼中になかったわけよ。ま、無理もないと思うわ。カセットテープがコロシと結びついたという例なんか、記憶にないもの。通りがかりの高校生なんかが落としたか、捨てたかしたんだろう、と思いこんでも、責められないわ」
「だんだん、わかってきたわ……」
私は頷いた。久美子も頷いて、
「そういうことなのよ。五十日後、第二の事件が発生し、またもや、カセットテープが落ちていた。それで、その刑事は気づいたのよ。慌てて、第一の事件現場に向かって、あちこちを探しまくったけど、五十日もたっているんだから、あるはずがない」
「…………」
「事情を知った管理官は頭から湯気を出して怒ったわ。担当刑事は、その日のうちに、お払い箱」
「可哀相に……」
「でも、事情が明らかになった以上、誰かが責任は取らなければならない。その刑事さんは今、県南の某署でウサギを追っているそうよ」
「……ウサギ?」
「野菜泥棒よ。三課じゃ、野荒らし[#「野荒らし」に傍点]のことを、そう言うらしいわ」
「ここんとこ、天候不順の影響で、お野菜は高値続きですものね」
「…………」
料理嫌いの久美子には通じない。
「ところで、そのカセットテープ。つまり、第一の事件現場に落ちていたカセットテープと、パンドラが送ってきたカセットテープが同じものかどうか、まだ断定はできないでしょう?」
と尋ねると、
「いや、まず、間違いはないわ」
「本当?」
「声紋で比較すれば、はっきりすると思うけど、私の耳には、第二の現場に落ちていたテープの声と同じに聞こえたわ」
「声……」
「わからないのは、このカセットテープが、なぜ、あなたのところへ送り届けられたのか、という点なのよ。その理由がわからない」
「私だって、それは同じ。さっぱりわからないわ」
「わからないことは、もう一つ。パンドラの正体よ。念のために聞くんだけど、あなたには本当に心当たりがないのね?」
と、言い終わる前に、
「さっき、下で、お答えしたばかりですけど」
私は答えた。取調室で散々、質問されて、うんざりしていた。
「そう突っかからないでよ。捜査本部の中には、あなたには心当たりがあるんじゃないか、と勘繰る人もいるのよ。それで、一応、聞いてみたの」
「冗談じゃないわよ。なぜ、こんな薄っ気味悪い差出人なんかと関わり合いがなくちゃならないの? とんだ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だわ」
私は鼻を鳴らした。
「気を悪くしないで。捜査員も人間。苦しくなれば、何にでも手がかりを見いだしたくなるのよ。もし、このパンドラに心当たりがあるとなれば、そこから局面が開かれることになる。そうだったら、都合いい、という願いでもあるのよ」
「そう。じゃ、その捜査員に、はっきり言ってよ。私はパンドラにも心当たりがないし、なぜ、こんなカセットテープが送り届けられたのか、全く、心当たりがないってね」
「わかったわ。そう伝える」
久美子は苦笑しながら、煙草の吸殻をペール缶の中に捨てた。そして、
「そろそろ下りるわ。でないと、ブンヤさんたちに怪しまれる」
と言いながら、コートをはおった。
捜査本部員と同様、私にも、パンドラの贈り物≠フ意味、そして、その狙《ねら》いはわからなかった。
久美子の言うように、届けられたカセットテープが、第一事件現場の遺留品と同じ内容のものだとして、なぜ、それを私に、しかも、自宅なんかに投げ込んだのか、どう考えても理解できない。
一つの可能性として、父の関係者ということも考えた。つまり、パンドラは父の協力者で、しかも、長期間、服役していたため、父が死去したことを知らずにいる、という可能性だ。これは、表札をいまだに昔のままにしてある、ということから思いついたのだが、いかにそそっかしい協力者でも、父の消息を調べずに、一方的に送りつけるようなことがあるだろうか……。
結局、わからないまま、私は九十九旅館の駐車場に車を止め、いつものように、大玄関から中庭へ。そして、瓢箪池を渡った。
突如として閃《ひらめ》いたのは、明月庵の門が見えた時である。それまで頭の中に立ち込めていた濃霧は、庵《いおり》の客の顔を思い浮かべた時、一瞬にして晴れた。
パンドラの狙いは、私ではなく、日の丸教授ではないのか……。
カセットテープの存在と内容を、捜査本部や私にでなく、東京から来県した警大の教授に伝えたかったのではないか……。
教授の意向で、その滞在先については一部の関係者以外には伏せてある。だが、私の任務そのものは特に秘密にされているわけではない。現に、県警本部内にある喫茶部のマスターから、今回の任務について労《ねぎら》いの言葉をかけられ、コーヒーを御馳走《ごちそう》になった。
つまり、パンドラは、私を介して、あのカセットテープを教授に届けたかったのではないのか……。
教授は濡れ縁に座って、庭……、茶室の場合、正しくは露地[#「露地」に傍点]というのだそうだが、そこの木々に目を向けたまま、私の話に耳を傾けていた。
さすがは元警視庁の名刑事だけあって、私に対して、パンドラに心当たりはあるか? とか、或《ある》いは、指紋検出の有無など、瑣末《さまつ》なことについて口を挟んでこない。
教授が質問したのは、私の未熟な点だった。まず、
「ところで、そのテープは?」
と、教授に言われて、私は自分の軽率さに気づいた。
「あ、あの……、捜査本部の方へ」
私は答えた。
「そう……。じゃ……、具体的に、どんな言葉が吹き込まれていたの?」
「ど、どんな? それは、その……」
私はテープの内容を必死になって思い出した。そして、宙を睨《にら》みながら、首で調子を取りながら、
「ネ、ネオン……、ケーキ……、路地……、それから……、確か……、名、名無しの権兵衛……」
「すまんが……、藤山君」
教授は複雑な笑みを浮かべて、
「そのテープ、もしくは、テープを起こしたメモでも構わんのだが、そういったものを見せてもらえないだろうか? コピーで十分なんだが……」
「コ、コピー?」
ごもっともな御言葉。
「す、すみません。その、慌てていたものですから……。すみません」
私は頭を下げた。
明月庵の前で閃いた時、私は大滝署へ引き返し、テープのダビングを要求すべきだったのだ。いや、教授に話す前に、まず久美子に話すべきだったのだろう。自分のやることは、間が抜けている……。
私は自己嫌悪に陥った。
「そんなに深刻になる必要はないよ。なけりゃないで、いい。あったところで、どうせ、わからないさ」
教授は軽い口調で言った。
「それに、前々から、一度、テープの声を聞いてみたいと思っていただけのこと。単なる年寄りのわがままだ」
「…………」
私は恥ずかしくて顔を上げることができなかった。手を前に組んだまま、俯《うつむ》いていると、
「ひょっとして、僕と捜査本部の板挟みになっているんじゃないのかい?」
と、教授が尋ねてきた。私は首を左右に振った。
「そうか……。ま、それならいいんだが、僕は昔から自分勝手な人間でね。夢中になると、ついつい他人の迷惑も考えずに、突っ走ってしまう。そんなわがままな人間なんだから、嫌な時は、はっきり、嫌だ、と言って下さいよ」
「…………」
教授は明らかに誤解している。でも、やさしい言葉をかけられて、却《かえ》って、侘《わび》しい思いがこみ上げてきた。
私の短所は、細かい点ではそつはないけど、肝心な点では、間が抜けているということだ。この癖は、物心ついたころからのことで、いまだに直らない。
小学生のころ、夏休みの宿題を登校初日の朝に、転んで壊してしまってベソをかいた。今でも、やっとの思いで完成させた文書を、後片付けの際に、不要な書類とともに丸めて捨ててしまったり、パソコンから離れる時、保存[#「保存」に傍点]のボタンを押すべきところ、誤って消去[#「消去」に傍点]のボタンを押してしまったりすることが、時々ある。
今回のカセットテープについても、似たようなものだ。私は母と妹の指紋採取を避けるために、敢えて、封筒とカセットテープの指紋を消した。この行為によって、パンドラなる差出人の指紋も消すことになったかも知れない。でも、母や妹を犯罪捜査という領域から遠ざけるためには、そうせざるを得なかったのだ。
そこまで腹をくくったのなら、ついでに、あのテープをダビングすべきだったと思う。そうすれば、教授にパンドラの声を聞かせることができたのだ。全く、私のすることは中途半端で間が抜けている。
自宅に戻る途中、押し寄せてくる自己嫌悪に耐えきれず、私は道路|脇《わき》の電話ボックスに駆け込んだ。
「ダビングテープ? あれは今や、捜査本部の最重要証拠品よ」
久美子が驚きの声を上げた。
「わかっているわ。それを承知の上で、こうやって頼んでいるのよ」
私は祈る思いだった。
「私なんかじゃなく、管理官に頼んだら? 教授に資料を提供する、と言われているんでしょう?」
「それができれば、頼まないわよ。さっきの口喧嘩《くちげんか》、覚えている? どうせ、あの人たちがテープの担当なんでしょう?」
「そうか……」
「そうなのよ。今更、ノコノコ顔を出して、ください、なんて言えないわ。だから、お願い……」
「事情はわかるわ。でも、気の毒だけど、そうもいかないの。二課のあなたにはわからないかも知れないけど、証拠には二種類あるのよ。法廷に提出する表の証拠と、それを裏打ちするための、文字通りの」
「裏の証拠でしょう?」
私は久美子の言葉を遮った。
「そんなことは一課も二課も三課もないわよ。気のきいた捜査員なら、個人レベルでもやっていることだわ。そのことも考えた上で、こうして頼んでいるの」
「そう……。でも、何しろ、今も言ったけど、まるでトップシークレットという扱いなのよ。保管場所だって遺留品の専用ロッカーじゃなくて、金庫に入れたわ。ダビングするには、そこから持ち出さなくちゃならない。物理的にも、かなり難しい作業だと思う。そういう事情だから、悪いんだけど……」
「…………」
こういうのを裏目というのだろうか。あがけばあがくほど、事態は悪い方向に進んで行くような気がした。私は電話したことを後悔し始めていた。
だが、その翌日。私のデスクには茶封筒が届いていた。開封すると、カセットテープが二本。一本のカセットケースには、パンドラ・テープ、という記名。そして、もう一本には、8/20・No.2、とあった。八月二十日は第二の事件が発生した日だ。
久美子は、パンドラから送られてきたテープだけでなく、第二の事件のテープもダビングしてくれたのだ。それも、おそらくは、私が両方のテープを欲しがっている、と誤解した上でだ。
私は思わず吹き出してしまった。こういうのを怪我の功名というのだろう。
何と言っても、女同士。切羽詰まれば、頼りになるわ……。
私は早速、明月庵を訪ねた。教授も二本のテープには驚いた様子だったが、早速、その声に耳を傾けた。
久美子の言う通り、二本とも、同一人物の声であることは確かだった。教授は何度か、繰り返してテープの声を聞き、手元のメモ、これはテープの声を文字にしたものだが、そのメモと見比べていた。そして、
「言葉に訛《なま》りがないのには驚いたね。それに、想像していたよりも若い声だ」
とつぶやいた。
「このテープには、一体、どんな意味があるんでしょう?」
私は尋ねた。
「阿久津管理官にも尋ねたんだが、その質問は、このテープの内容のことを言っているのかね? それとも、このテープ自体のことを言っているの?」
教授は逆に問い返してきた。
「両方です」
と答えたが、全てが疑問だった。
「それも、阿久津管理官と同じだ」
教授はクスリと笑った。
「でも、先生、その通りなんですもの」
私が口を尖《とが》らせると、
「ものには順序というものがあるだろう? このテープの意味を探るには、まず、差出人……、何と言ったかな……」
教授がメモに目を戻しそうになったので、
「パンドラ、です」
すかさず口を挟んだ。
「そうそう、パンドラ。全く、ふざけた名前だ。ここがどこだと思っているんだ。日|出《い》ずる国だぞ」
「…………」
「そのパンドラの素性によって、自ずと、このテープの意味が限定されてくる」
と言って、教授は頬《ほお》づえをついた。
「阿久津君から、最初のテープ、これは、メモ書きだったが、そいつをもらった時、テープは警察に向けた犯人からの挑戦状じゃないか、と思った。『ボンクラ捜査官たちよ。俺《おれ》を捕まえられるものだったら、捕まえてみろよ』というわけだな。そういうケースは前例がある。阿久津君も、最初、そう考えていたようだ。それで、挑戦状を受けて、解明しようとしたが、いかんせん、問題が難しすぎる。阿久津君が僕に宿題を出したのも、それが理由だ。普通、この種の挑戦状というのは、ある程度は解明できるものなんだ。相手は愉快犯だからね。ヒントのようなものが含まれていることが多い」
「…………」
「ところが、例のメモの内容は、何が何だか、さっぱりわからない。それで、これは挑戦状ではなく、犯人の攪乱《かくらん》工作のための材料じゃないか、という考えを持つようになった。阿久津君から問い合わせでもあったら、そう答えようと思っていたよ。あまり、テープにはこだわらない方がいい、とね。ところがだ……」
と言うと、私の方をチラリと見て、
「そこへ、突然、パンドラ・テープだ。これで、また、わからなくなってしまったよ。そんなわけで、苦し紛れに、テープの声を聞いたら、何かわかるんじゃないか、と、淡い期待を抱いたんだが……」
教授はしばらく間を取って、
「何もわからん……」
と言って、ため息をついた。私も、体中の力が抜ける思いだった。ここ二、三日の苦労はなんだったのだろう……。
だが、短い沈黙の後に、
「と、まぁ……、ここまでが、明け方の布団の中で思っていたことだ。ところが、今朝一番に、露天|風呂《ぶろ》に入ったら、パッと閃《ひらめ》いてね。アルキメデス効果かも知れんな」
教授はいたずらっぽく笑って、
「パンドラ・テープの出現で、挑戦状説と捜査攪乱説の他に、もう一つの可能性が出てきたと思うんだ」
「もう一つの可能性?」
「そう。確証は全くないけどね。パンドラの正体が、警官、もしくは、警察関係者という可能性だ」
「何ですって?」
私は耳を疑った。
「すると、先生は、警官が犯人だと、おっしゃるんですか?」
「おいおい、パンドラが犯人だとは限らないぞ。その上で、パンドラの正体が警官と推定する余地がある、と言っているんだ」
「…………」
「問題は、パンドラの行動の理由だ。第一の事件現場に臨場した捜査員が、遺留されていたカセットテープを見逃した。ところが、パンドラは見逃さなかった。遺留品である可能性を見いだしている。だからこそ、保管したわけだ」
「…………」
「その判断が正しいことは、第二の事件が発生して、証明される。またもや現場でカセットテープが発見され、この時点において、前回の初動捜査のミスが明らかになったわけだ。捜査本部も、そのことに気づいた。だから、パンドラは保管していたカセットテープを捜査本部に提出すれば、感謝されたはずだ。ところが、そうせずに、今頃になって、君の自宅へ届けた。ここのところが、いかにも奇妙だ」
「私ではなく、先生に届けるつもりだったと思います。東京から先生がお出でになったから……」
と言いかけて、私は、一つの可能性に気づいた。
パンドラは捜査本部を信頼していないのではないだろうか? 第一の事件で、捜査員が初動捜査ミスを犯した時点で、その捜査能力を知り、頼るに足らず、と判断したのではないか?
確かに、そう考えれば、パンドラの正体が警官、或《ある》いは、警察関係者。更に、警察担当記者くらいまで、範囲を広げることはできる……。
私がそんなことを考えていると、
「ただ、気になるのは、ひょっとしたら、パンドラは録音テープ以外にも、重要な証拠を握っているかも知れない、という点だ」
教授が二本のテープを見ながらつぶやいた。
パンドラの正体が警官、という仮説は、私を興奮させ、また、暗い気持ちにもさせた。私は久美子に電話した。ダビングテープに対する返礼も兼ねてのことだった。
「すると、教授は、犯人が警官だ、と言っているわけじゃないのね? あくまでも、パンドラが警官の可能性あり、とコメントしたわけね?」
久美子は、そう念を押してきたものの、特に驚いた様子はない。私には意外だった。
「部外者なら、そう勘繰ってもやむを得ないかも知れないけど……、あまり、歓迎すべき傾向じゃないわね……」
「どういうことなの?」
私は尋ねた。
「何でもないわ、と……、惚《とぼ》けるべきなんでしょうけど、捜査が行き詰まると、いろんなことが、俎上《そじよう》に載ってくる、ということなのよ」
「例えば?」
「県警以外の人間には、聞かせたくないこと。だから、教授の前では口を滑らせないでもらえる?」
「わかった。私も県警の一員よ」
と、約束すると、
「あなた、萩の会、という名を聞いたことはある?」
「いいえ」
「じゃ、土曜会というのは?」
「いいえ」
「本当に?」
「本当よ」
「そう……」
久美子は少しの間を置いて、
「人が三人集まれば、四種の派閥が生まれるというでしょう? 刑事部内にも、県生え抜き組と、Uターン組が、つまり、何と言うか。その……」
「反目し合っているわけ?」
「いや、反目という程じゃないわ。まぁ、何と言うか、対抗意識を持っている、というところかしら。ある人に言わせれば、お互い、切磋琢磨《せつさたくま》し合っているんですって」
「ものも言いようね」
私は鼻で笑ってから、
「でも、そんな派閥があるなんて、私は初耳だわ。県生え抜き組と、Uターン組って、一体、どっちがどっちなの?」
「萩の会は生え抜き組。十年前に退職した栗林《くりばやし》元警視正を囲む会がルーツになっている。栗林の竹馬の友が経営する料亭萩≠ナ、機会あるごとに会合を重ねたことから、そう呼ばれるようになったということよ」
「…………」
「土曜会は、いわゆる生え抜き組以外の連中のグループ。こっちは九年前に退職した石井元警視正を囲む会で、石井宅に毎週土曜の夜、集まったのが、会の名の由来」
「今でも、存在するの?」
「もちろんよ。二人、つまり、栗林も石井も、退職したとはいえ、いまだに影響力を持っているわ。ただ、二年前に発生した選挙違反不正取り締まりの不祥事が発覚して以来、土曜会は勢いを失った。あれで、責任を取らされたのは、土曜会のメンバーばかりだったから」
「…………」
「選挙違反の取り締まりについて、新聞社にリークしたのは、萩の会の関係者じゃないか、と囁《ささや》かれていたのよ。元々、萩の会と地元のマスコミはつながっているし、目障りな土曜会を追い落とすには、スキャンダルが一番てっとり早いでしょう?」
「県警内で、そんなことがあるとは信じられない……」
「私も、そう思いたいわよ」
「…………」
「萩の会は、あの不祥事が発覚するまで、鳴かず飛ばずだったのよ。確かに、地元の有力者とはつながっていたけど、肝心|要《かなめ》の県警本部長に恵まれなかった。三代に亘《わた》って、土曜会のメンバーの大学の先輩だったり、警察庁で同僚だったり、奥さん同士が親友だったりして、付け入る隙《すき》がなかった。つまり、冷や飯を食わされていた。ところが、あのスキャンダル発覚で、本部長も事実上、更迭《こうてつ》されたわ。風向きが変わったのは、それからのことよ」
「…………」
「事の真偽は、ともかく、今回のリークは、その敵討《かたきう》ちかも知れない、というのが、先輩の言。地元のマスコミは萩の会が押さえているし、下手なリークをすれば、逆効果になるけど、その点、警大の教授なら、少なくとも、地元を贔屓《ひいき》することはないでしょう?」
最初、荒唐|無稽《むけい》に思えた久美子の説明は、次第に真実味を帯びてきた。
「何だか、心配になってきたわ。そんなことが表|沙汰《ざた》になったら、コロシのホシ探しどころじゃなくなるわよ」
と、思わず本音を漏らすと、
「捜査本部は、そういう派閥の利害を離れて、純粋に事件に取り組んでいるから、その点については安心して。だから、あなたには、教授の前での発言には注意してもらいたいわ。でないと、刑事部の恥だけでは済まなくなる事態に発展するおそれがあるから」
「わかったわ」
私は久美子の申し出を受け入れた。
受話器を置いた私は、思わず周囲を見回した。
刑事部の恥だけでは済まなくなる事態、という久美子の言葉は、単に、県警全体の恥になるという意味なのだろうか? それとも、他の部にも似たような実態がある、と示唆したのだろうか?
そもそも、ダビングテープは、久美子の一存で、私の元に届けられたのだろうか? ひょっとしたら、教授の見解を探るために、捜査幹部たちが計算ずくで送ってきたものかも知れない。さらに、久美子自身が、萩の会、土曜会のどちらかに属している可能性もないとは言えない……。
私の暗い気持ちはますます、その暗さを増していった。
それからしばらく、私は久美子の話のウラを取ることに終始した。
何人かの同僚、先輩に聞いて回ったが、誰もが首を横に振る。
二課には無縁なことだからだろうか? それとも、私が若手だからだろうか? 或いは、女性だからか?
私は思い切って、上司の相沢警部に尋ねることにした。勤続三十年のベテランなら、知っているかも知れない。
私はデスクの前に立ち、
「萩の会と土曜会のことをご存じですか?」
と、ズバリ尋ねてみた。すると、選挙情報をチェックしていた赤鉛筆がピタリと止まって、
「誰から、聞いた?」
と、聞き返してきた。心当たりがあるという証拠だ。
「一課の、ある人物です」
私は正直に答えた。
相沢警部は赤鉛筆を煙草に持ち替えると、火をつけて、
「勉強会だよ。一昔前のね……」
と、軽い口調で言った。
「勉強会? 派閥じゃないんですか?」
「藤山君よ……。君は新年会や忘年会のことを、酒飲み会とか、カラオケ会とは言わないだろう? それと同じだ。萩の会と土曜会は勉強会だよ。この意味がわかるか?」
「…………」
「栗林元警視正も、石井元警視正も、すでにかなりのご年配だ。確かに、多少の影響力は残っているかも知れんが、もうお二人の時代じゃないよ。萩の会や土曜会に集まるメンバーも、それはわかっているはずだ」
「…………」久美子の話とは様子が少し違っている。
「二つの会は言うなれば、高度成長期の社会の遺物だよ。古き悪しき時代の残滓《ざんし》だ。間もなく、幕を閉じる運命にある。お二人とともにね……」
「すると、自然消滅すると?」
「まぁ、そうだ。放っておけば、消えてなくなる。取り巻き連中も、余命わずかだからこそ、定期的に集まっている。ただ、それだけのことだ。だから、構うな」
「…………」
そうだろうか? と、心の中で自問していると、
「まさか、糾弾しようというんじゃないだろうね? それだけはやめた方がいい。七十すぎのジイさんを元気づけ、心中するようなもんだ」
相沢警部は顔をしかめ、首を振った。そして、椅子《いす》の背もたれによりかかり、天井の一点に目をとめると、
「その昔、東山浩一というサムライがいてね。この二つの派閥を公然と非難したことがある。正義感の強い男で、刑事総務の若手の警部だったが、まだ現役だった栗林警視正と、石井警視正に噛《か》みついた。だが、結局、退職に追い込まれたな」
「…………」
「これで静まるかと思ったら、性懲りもなく、また一人、ドン・キホーテが現れた。今度は、近松雄太郎という警部補が、よせばいいのに、二人に非公開質問状というのを送りつけた。この男も詰まるところは、中途退職。東山にせよ、この近松にせよ、有能な男だったが、正直すぎた」
「…………」
「どの社会にも、どの組織にも、いびつなところはあるものなんだよ。そんなところにこだわって、身を削るより、本来の仕事に取り組んだ方が、どれだけ世のため、人のためになるか……。彼らには、そういった大人の分別というものが欠けていたな」
「その方たちは今、どちらに?」
「二人とも死んだよ。もう、この世にはいない。命がけという言葉はカッコイイけどね。それは命が助かっての話だ」
と、突き放すように言うと、
「これが萩の会と土曜会のあらましだ。満足したか?」
相沢警部は念を押すように尋ねた。私が一応、頷《うなず》くと、
「よし。じゃ、もう忘れろ。俺の前で、二度と口にするなよ。わかったな」
と言って、再び、赤鉛筆を握った。
萩の会と土曜会の存在は、相沢警部が説明した程度のものなのだろうか?
私には疑問だったが、差し当たって、それを確かめる術はない。それで、調査を先延ばしにしていたのだが……。
そんなある早朝のこと。目覚まし時計に先んじて、電話のベルがけたたましく鳴った。夜の十時から明け方の六時まで、我が家にかかってくる電話は、全て私の部屋につながるようにセットしてある。ほとんどの電話が県警本部からの呼び出しだからだ。
明け方近くまで眠れなかった私は、受話器を毛布の中まで引っ張りこんだ。そして、耳に当てると、
「無線を聞いてみて」
騒音に混じって女性の声がした。
「藪《やぶ》から棒に、何です?」
と、目を瞑《つむ》ったまま尋ねると、
「ともかく、無線を聞いて。北部系よ。それに、今日は早めに出勤し、捜査系の受令機も一台、確保しておいた方がいいわね」
独特の言い回しで、相手が久美子であることがわかった。
「久美子。勿体《もつたい》ぶらずに話してよ。無線で一体……」
と尋ねた時、一方的に電話は切れた。
知ったことじゃないわ、と、再び、毛布をかぶった。しかし、すでに頭も体も目覚めていた。
私は体を起こし、窓のカーテンを開けた。夜は明けていたが、まだ空に星が残っている。
ベッドから下り、ハンドバッグの中から受信専用の小型無線機を取り出した。テーブルの上に置いて、スイッチを入れ、周波数を北部系に合わせると、すぐに切羽詰まった声が聞こえた。静かな朝には似つかわしくない早口である。
――道路を封鎖し、たとえパトカーといえども、警戒責任者の許可のないものは、一律に迂回《うかい》の措置を講ずること……。
一体、何のことか、わからない。私は無線機のボリュームを上げて、洗面所に向かった。そして、顔を洗おうとした時、
――大滝署管内の遺棄死体はアジア系の女性。所持品はなく、現在までのところ、身元は不明。従って、同署管内方向から来る車両等については、全車、停止させ、徹底した職質と車内点検を実施のこと……。
私の両手は水道の水を受けたまま、硬直していた。
九十九旅館に向かう途中、教授は現場に向かった、という連絡が入った。私はLターンして、大滝署管内を目指した。要領を得ない現場からの報告に、無線指令台が声を荒らげている。
「訓練じゃあるまいし、そうそう都合よく、状況は把握できないわよ」
思わず、独り言をつぶやいてから、通話マイクを口許《くちもと》に引き寄せて、
「捜査200から指令本部」
と呼びかけた。
捜査200とは、捜査二課専用のコードネームだが、滅多《めつた》に使用されることはない。大規模な訓練の場合か、幹部が視察する時くらいのものだ。
「捜査200、どうぞ」
とたんに、指令本部の口調が柔らかになった。
私は事件発生場所を尋ね、通行規制地区を確認した。そして、現場に最も近い空き地に車を止め、徒歩で現場に向かった。
幅四メートルほどの県道にパトカーが三台、停車していた。そこから、五十メートル手前に、立入禁止のテープが張られ、警官が二人、仁王立ちしている。
見物人の間をすり抜けるようにして、私は最前列に出た。
テープの内側には死体を覆ったシートも、血痕《けつこん》も見当たらない。ワゴン車が一台、置かれており、その周囲で鑑識係員が採証活動をしていた。
私は顔見知りを探した。久美子の姿はなく、一課の捜査員が四、五人、ひそひそ話をしている。確かに顔見知りだが、残念なことに、県警本部の廊下や食堂で出くわしても、そのまますれ違うという間柄だった。事実、そのうちの一人と目が合ったので会釈したのだが、何の反応も示さない。
警察手帳をかざしてロープをくぐるか、それとも、捜査本部のある大滝署の玄関で、教授を待つか、迷った。現場の捜査員は、私のような見学者≠最も嫌う。捜査の役に立たないからではなく、あちこち歩き回って、証拠を破壊するからだ。
やっぱり引き返そう、と思った時、
「まゆみじゃない?」
と、声をかけられた。振り向くと、鑑識の作業服を着た女性が立っていた。それが同窓生……、もっとも、久美子の場合のように警察学校ではなく、キリスト教系の女子大なのだが、わが校友である菊村澄江だと気づくまで、しばらくかかった。
「……澄江?」
私は目を疑った。
と言うのは、澄江は県警の職員だが、私や久美子のような警察官ではなく、いわゆる一般職。正確には、科学捜査研究所の技官だった。従って、鑑識課の作業服を着ているはずがない。
「科捜研の姐御《あねご》が、なぜ、こんな服を着ているのよ?」
私は澄江の上着を摘《つま》んだ。
「そういうまゆみだって、捜二の情報担当でしょう? なぜ、こんな所で、ウロウロしているの?」
「私は只今《ただいま》、特別任務。お偉方の命令で、当分の間、警大の教授のカバン持ち」
「警大の教授? すると、日の丸教授の?」
「そう。で、澄江は?」
「私も似たようなものよ。所長命令で、鑑識現場の実務を勉強させられているわけ。採証活動の苦労も知らない科捜研の技官なんて、ろくな仕事はできない、ですって」
「それは大変ね。ご苦労さま」
「とんでもない。仕事は大変だけど、苦労なんかしてないわ。却《かえ》って、楽しいくらいよ。ひょっとしたら、こっちの仕事の方が向いているかも知れないわね」
「澄江らしいわ」
私は笑った。澄江もひとしきり笑った後、
「日の丸教授だったら、捜査指揮車の中にいるわよ」
「捜査指揮車?」
「この先の空き地に停めてある。管理官とか、捜査本部の主だった幹部も一緒よ」
「そう……」
私は空き地の方を眺めた。
捜査指揮車内には、コンピューターや衛星通信設備だけでなく、ソファーとテーブル。それに小型の冷蔵庫まで積み込んである。言わば、走る捜査会議室だ。
「じゃ、慌てることはないわね」
私はワゴン車の方に視線を戻した。すると、
「見る?」
と、澄江が言った。
「どうしようかな?」
私は怖《お》じ気《け》づいた。
実は、警察学校の授業で、変死体の司法解剖を見学した時、失神してしまったという苦い体験がある。そのことが後々、捜査一課でなく、捜査二課勤務を希望した一因にもなった。
「遠慮することはないわよ。まだ、そのままにしてあるわ。捜査一課長が見たいとおっしゃっているんですって」
「一課長が?」
「そう。今日は、ご実家で法事の予定だったらしいけど、急きょ、こっちに向かう、という連絡が入ったんですって」
と言うと、腕時計を見て、
「さっき、駅に到着したという連絡があったから、あと十五分もしたら、到着するんじゃないかしら」
「十五分?」
私も腕時計を見た。時刻を確かめたわけじゃない。キザな言い方をすれば、自分の心を確かめたのだ。
一般職の澄江でさえ、死体を取り扱っている。特別職として、恥ずかしくはないのか……。
「じゃ、今のうちに見せてもらおうかな」
私は意を決してワゴン車に向かった。
もし、失神したら、病み上がり、と言い訳し、気分が悪くなったら、二日酔いを口実にしようと思った。
覚悟を決めて、ワゴン車の窓から中を覗《のぞ》くと、そこには女性の全裸死体が横たわっていた。年齢は十八から、二十三というところだろうか。褐色の肌、黒い髪、真紅のマニキュアと口紅。均整のとれた裸体は彫刻のように美しかった。すでに腹の両側が緑色を呈し、腐敗が始まっていることを示している。それさえなければ、まるで眠っているように映ったことだろう。
「死因については何と?」
私は窓ガラスに顔を寄せて、女の首回りに目を凝らした。鉛色の針金が見える。
「刃物による出血死というのが大方の意見だわ。首に巻きもの[#「巻きもの」に傍点]があるけど、顔面が鬱血《うつけつ》していないでしょう? これまでの殺し同様、死んだ後に巻かれているわ。まぁ、開いてみれば、はっきりするでしょうけど……」
澄江は目で左|脇腹《わきばら》を示した。乳房の下に幅二センチほどの刺創《しそう》があり、その周辺に乾いた血がこびりついている。私はワゴン車の床を確かめてから、
「でも、出血死にしては血痕が少ないわ」
と、素直な感想を述べると、
「もちろんよ。河原か、風呂場《ふろば》で血抜きされてから、積み込まれたんでしょう」
「…………」
私はもう一度、ワゴン車の窓ガラスに顔を近づけた。その時、屍臭《ししゆう》を感じた。ごく微《かす》かな臭いで、或《ある》いは、気のせいだったかも知れない。
だが、胃が勝手に迫《せ》り上がってくるような感じがしていた。もし、いつも通りに朝食をとっていたら、吐いていたに違いない。
「どうしたの?」
澄江が心配そうに尋ねてきた。
「何でもないわ。昨夜《ゆうべ》、遅くまで飲んでいたから、調子が悪いの。おまけに、こんなホトケさまを見せられちゃ……」
と言い訳すると、
「そうよね。死体は月の光の下では、見栄えがする時もあるけど、太陽の下じゃ、そうはいかない」
澄江は視線をワゴン車内へ戻した。
私はその太い神経に舌を巻いた。本人が言うように、研究室で顕微鏡や試験管を扱うより、刑事部屋に来て、検視官を目指した方が成功するかも知れない。
そんなことを思いながら、お腹に力を込め、迫り上がってくるものと格闘していると、重要なことが脳裏をよぎった。
「ねぇ、カセットテープはなかった?」
「今回は、なかったみたいよ。遺留品捜索を始める前に、特に留意して探すように、と指示されたけど、今のところ、発見されていないわ」
「そう……」
と答えた時、野次馬整理の警官がけたたましく警笛を吹き、白バイ警官がマイクを使った。
「予定より早かったわね」
澄江が襟元を正し、鑑識課の腕章を直した。
やがて、赤色灯を点灯したパトカーが停車すると、警官が左手で後部ドアを開け、右手で挙手の敬礼をした。
喪服姿の捜査一課長が沈痛な面持ちで車から降り立った。
現場から旅館に戻る途中、
「捜査本部じゃ、犯人が今回に限って、死体を車から下ろさなかった、という点に注目しているようだ」
と、教授がつぶやいた。
注目して、どうなるんだろう? と、私は思った。
「何らかの邪魔が入った、ということなら、手がかりが得られる可能性が高い。もし、その邪魔が通行人であれば、犯人を目撃しているという可能性さえある」
「…………」
「いずれにせよ、ここ二、三日の聞き込みが鍵《かぎ》になるだろうな。もっとも、犯人はワゴン車を放置している。こっちからも手がかりが得られるはずだ。見通しは明るい」
「でも、先生、ワゴン車は盗難車でしょう?」
「うん。一昨日《おととい》、千代田市内で被害にあった車だそうだ」
千代田市は山一つ越えた新興住宅街で、人口が急激に増加している。それに比例して、犯罪も急増している地区だ。
「犯人は、いざという時には、盗難車ごと放置して逃走することまで想定して、行動していたんじゃないでしょうか?」
「ほう……、ずいぶん弱気な見方をしているんだな」
「…………」
「だが、最初からワゴン車ごと放置する、というのと、万が一の場合だけ、ワゴン車ごと放置する、というのは、全く違うよ」
教授が言った。しかし、どう違うのか、理解できない。
「どう違うんですか?」
と尋ねると、
「藤山君は野球は好きかい?」
逆に問い返してきた。
「いいえ」
「やっぱり、そうか……。今の若い連中は、何かと言うと、すぐサッカーとか、バスケットだ。話が通じなくて困る」
「すみません……」
何で私が謝らなければならないんだ。
「まぁ、いいさ。野球嫌いに通じるかどうかわからんけど、一応、話すだけは話してみよう」
「お願いします」
「最初からワゴン車ごと放置する、というのと、万が一の場合だけ、ワゴン車ごと放置する、というのは、言うなれば、ピッチドアウトとウェストボールの違い。それほどの差がある」
「…………?」
「ピッチドアウトとは、例えば、スクイズを予想して、外角高めにボールを外すことだ。ウェストボールとは、スクイズなのか、犠牲フライ狙《ねら》いなのか、相手の出方が予想できないので、様子を見るために、取り敢《あ》えず外角高めにボールを投げること。投げる球種、コースは同じでも、意味あいは全く異なる」
教授の声には力がこもっているが、野球は何人でやるのかも知らない私には、さっぱりわからない。
「つまりだな、結論を言うと、詰めに差が出る。最初からワゴン車を捨てるという前提なら、髪の毛一本、落とさないよう気を遣うはずだ。今はDNAという凄《すご》い鑑定法があるからな。残したら最後、動かぬ証拠になる。ところがだ……、万が一の場合だけ、ワゴン車ごと放置するというのは、万が一の場合でない場合は、ワゴン車を捨てないということだ。……私の言っていることわかるかね?」
「は? はい……」
「つまり、詰めが甘くなるんだ。素手でルームミラーなんかを触った場合、初めのうちは、すぐに拭《ふ》き取ったりするだろうが、そのうち、拭き取らなくなる。『別に、この車を捨てると決まっているわけじゃないし、捨てると決まった時に、拭き取ればいい』ということになるんだ」
「ところが、いざ、捨てる状況になると、ルームミラーを拭き取る余裕はない……、ということですか?」
私は念を押した。
「その通りだよ。万が一、という場合は、そういう場合を言うんだ。切羽詰まった場合を言うんだよ」
「ピッチドアウトと……、ウェストボールですか……」
何となく、わかったような気がした。でも、わかったような気がするというのが、一番わかっていない、という言葉もある。
「例えばだよ。九回裏、同点で一死満塁。こりゃ、大ピンチだ。打者は、これまで全打席とも三振の四番打者だとする……」
教授は熱っぽい口調で言った。
「そんな時には、内野手は全員、マウンドに集まって、作戦を確認し合うわけだ。ベンチからの指示が『最初から、ピッチドアウトでいくぞ』という場合と、『取り敢えず、ウェストボールで様子を見てみろ』という場合じゃ、内野手の動きはまるで異なってくる」
「つまり……」
私の脳裏には、サッカーでのセットプレーの場面が浮かんでいた。
「コンセントレーション……。集中力の差、ということでしょうか?」
と言うと、
「そ、そう。正に、その通りだよ。集中力の差だ」
教授が嬉《うれ》しそうに顔を崩した。
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部外者
容疑者が判明したらしい、という噂《うわさ》が流れたのは、第三の事件が発生した翌日のことだった。
噂の元は鑑識課で、土曜日の午後だというのに、まず大滝署の署長と捜査本部の阿久津管理官が訪れ、続いて、捜査一課長。更には、刑事部長までが出入りしたというのが、その根拠だった。
もし、この噂が事実なら、『見通しは明るい』と予想した教授の言葉が、ズバリ的中したことになる。
私は早速、噂の発生源に電話を入れた。
鑑識課には知人はいないが、幸い、科学捜査研究所から派遣されている菊村澄江がいる。彼女からなら、噂の真偽を確かめられるような気がした。
開口一番、
「もうバレてるの?」
と、澄江は口をすべらせた。
「すると、噂は本物なのね?」
「まぁ、九分九厘は……。いや、おおよそ八分方……。んーと、厳密には、七、三というところかなぁ……」
「何? それ」
「微妙なところなのよ」
「微妙ですって? こっちじゃ、第一級の証拠だと、専《もつぱ》らの評判よ」
「まぁ、指紋だから、一級品には違いないけど、単に栄養ドリンクの小瓶から検出されたというだけのことなのよ。だから、殺人や死体遺棄、それに、車の窃盗を含め、犯罪行為と直接結びつく証拠とは言えないわ」
「そりゃそうだけど……。栄養ドリンクの小瓶ですって?」
「そう。運転席と助手席の僅《わず》かな隙間《すきま》に転がっているのを、ベテランの係員が見つけたのよ。ワゴン車の所有者に確かめたら、そんなドリンクは見たこともない、と言うので、試しにアルミの粉をまぶしてみたのよ。そしたら、きれいな指紋が三つも出たわ。それが前歴者の指紋とピタリと一致したというわけよ」
「なるほど、そういうわけなの。ところで……」
私は周囲を窺《うかが》って、立ち聞きされていないことを確かめてから、
「その前歴者については、口止めされているわけ?」
「もちろんよ。ここのところ、鑑識課長さん、マスコミに神経質になっているわ」
「マスコミ? じゃ……、私の場合は、教えてもらえるのかしら?」
前歴者の名はイニシャルでも仕方がない。でも、年齢と職業くらいまでは知りたいと思った。ところが、
「ちょっと待って……」
と言う声に続いて、ページをめくる音が聞こえたかと思うと、
「後藤辰雄、三十八歳、住居不定、無職。傷害と恐喝、それに銃刀法違反の前科があるわよ」
澄江はあっさり教えてくれた。おそらく、久美子だったら、こうも簡単には教えてはくれなかったと思う。
一般職の警察職員には、犯罪者と直接接触していないためか、品の良さというか、育ちの良さというか、おっとりしたところがある。初めから人を疑ってかかる刑事から見れば、危なっかしく映る一方で、うらやましくも思う一面だ。
私はペンを走らせながら、
「伊勢屋デパートの裏にある……アップルハウスという店を知ってる?」
と、話題を変えた。
「あそこの宝石は、うさん臭いけど、バッグやアクセサリーの方は混じりっ気なしの本物ですってよ」
「本当?」
「信頼できる筋の情報。生安部のブランド担当の話だから確実よ。バッグやアクセサリーで釣って、宝石を買わせる商法らしい、なんて言ってたわ。偽ブランド品は素人でも見抜けるけど、宝石は、鑑定士じゃないと無理でしょう? そこが盲点なんですって」
「へぇー、驚いたわ」
「証拠を掴《つか》み次第、手入れするって言ってたから、ブランド品を手に入れるんだったら、今のうちよ」
「そう。いいこと聞いたわ。今日の帰りにでも、めぼしい物を手に入れておこうっと。教えてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
お礼に、と言うより、罪滅ぼしに、取って置きの極秘情報を教えて、私は受話器を戻した。鼻唄でも歌いたい気分だった。
さしもの難事件も、遂に大詰めを迎えようとしている。数日前までの、重苦しい気分が嘘《うそ》のようだった。
パンドラを名乗る警官の存在。或《ある》いは、萩の会と土曜会の確執……。あれは一体、何だったのだろう?
ともあれ、私をホッとさせたのは、教授に対して、わが刑事部の恥部をさらけ出さずに済んだことだった。
教授は丹前姿で、瓢箪池《ひようたんいけ》の鯉に餌《えさ》を投げているところだった。私が声をかけると、横目でチラリと一瞥《いちべつ》して、
「顔色がいいね。何か、いいことでもあったの?」
と尋ねてきた。
仮に、私がポーカーフェイスの達人だったとしても、誤魔化《ごまか》すことはできなかったと思う。何しろ教授は、捜査に進展があることを、事件直後に予測し、見事、的中させたのだから……。
事ここに至って、隠し立てすることもないだろうと思い、私は澄江から得た情報を、そのまま伝えた。
「そう。そりゃ、よかった。おめでとう」
教授はニッコリ微笑《ほほえ》んだ。一応、お祝いを言われたので、
「いろいろと、ご心配をおかけいたしまして……」
と、頭を下げた。
「いやいや、僕は何もしていないよ。余計なことをして、却《かえ》って、皆さんの邪魔をしたようなもんだ」
教授は首を左右に振り、そして、しばらく間を置いてから、急に何かを思い出したように、
「傷害と恐喝、それに、何だって?」
「銃刀法違反です」
と答えると、教授はウーンと、低くうめいた。
「あの……、何か?……」
私は尋ねた。すると、
「いや、別に何でもない」
と、首を横に振って、
「ま、いずれにせよ、早く手を打つことだね。その後藤なる人物が、どんな役割の人物なのか、それを確かめるためにも、身柄を確保することが最優先課題だ」
教授は最後の餌を池に落として、両手を払った。
私は池に目をやった。緋鯉《ひごい》が餌に向かってくるところだった。やがて大口を開けた時、どこからともなく、黒い影のように真鯉《まごい》が現れ、その餌を素早く横取りして、池の底に消えた。
容疑者が浮上して以来、私は捜査一課から配信される内報に目を光らせていた。しかし、一向に、朗報は届かなかった。
教授は、そのことに触れて、ずいぶん手間がかかるね、と含み笑いをした。
私はとっさに、何分にも不慣れなものですから、と答えたのだが、もう少し、ましな答え方はできなかったものか、と思う。
その教授の言葉が耳から離れず、私は捜査本部へ電話を入れた。
いつもなら、呼び出し音が二、三回も鳴れば、受話器が上がるはずなのに、この日は、十数回も鳴ってから、ようやく人の声がした。
異様な空気というものは、受話器を通しても感じ取ることができる。捜査本部の電話番は落ち着きがなく、おどおどしていた。必要以上に低姿勢な応対に、私は何らかの異変を直観した。
やがて、ようやく、久美子が電話口に出て、
「実は……死なれてしまったのよ……」
と、ため息まじりに言った。
「……死なれた?」
誰に?
「重要参考人が浮上していたんだけど、先を越されたわ」
「重要参考人って?」
ひょっとして……。
「後藤辰雄、三十八歳、住居不定、無職。前科三犯」
「…………」
やっぱり、という言葉を、私はのみこんだ。
「指紋から割れた最重要参考人……、と言うより、実質的には容疑者ね。真っ黒ケのケ。本ボシもいいとこよ。居所を掴み次第、別件でパクって、ムシるつもりだったんだけど、ノビちまっちゃ、ダルマもいいとこ」
久美子が忌ま忌まし気に言った。一課のデカは私以上に品がない。母に聞かせたいくらいだ。
「でも、死なれたって……、自殺なの、それとも」
と言い終わる前に、
「後藤は自殺するようなタマじゃないわよ。コロシもコロシ。それも、絵に描いたようなコロシだわ」
「ホシは?」
「下手人《げしゆにん》? 当てて見てよ」
「…………」
「後藤の首には針金が巻かれ、両|膝《ひざ》に五寸|釘《くぎ》を打ち込まれ、それから、爪《つめ》も剥《は》がされているそうよ。しかも……」
一瞬、言葉が途切《とぎ》れて、
「そんなに知りたいなら、自分の目で確かめたら?」
久美子は面倒《めんどう》くさそうに言った。
「わかったわ。ただし、教授も連れて行くわよ」
「どうぞ、ご自由に。現場は和泉《いずみ》市の栄《さかえ》町の近くだけど、ホトケはこれから、本署の方に搬送するそうだから、そっちへ向かった方が、ムダ足を踏まずに済むと思うわ」
「そう。ありがとう」
和泉市は人口十二万ほどの県南の町。栄町とは、殺された女たちが住んでいたと推測されている町の一つだ。
三時間後――。私は教授とともに、和泉署の応接室にいた。
教授はソファーに寄りかかって、コーヒーを味わっていたが、私は一刻も早く死体を見たかった。と言うのは、和泉署に向かう道すがら、私が死体アレルギーであることを告白すると、教授は克服法を教えてくれたからだ。
その克服法とは、専門知識を持つ、という、ごく単純なものだった。
半信半疑の私に対して、教授は法医学の講義を始めた。警大の学生でもないのに、警大教授の講義、しかも、個人講義を受けたのは、おそらく、私が最初だと思う。
教授のコーヒーカップが空になる頃、応接室のドアがノックされ、紺色の活動服を着た刑事が現れた。
では、参りましょうか、と言う副署長の言葉で、教授が腰を上げた。私は深呼吸を繰り返しながら、その後に続いた。
ビニールシートの上に横たえられた死体は、網にかかって波止場に引き揚げられた鮫《さめ》のようだった。体中に無数の刺し傷、切り傷が見られ、そこから腐敗が始まり、独特の異臭を放っている。
私は教授と共に、死体観察を始めた。
変死体に遭遇すれば、それが白目を剥《む》いた形相をしていても、また、むせかえるような屍臭《ししゆう》が漂っていても、死体現象に対する興味が、それらを無視させてしまう……とは、教授の言。
実際、私も死体が目に入った五メートル前で、まず、その皮膚の色合いから薬物反応の可能性を探っていた。そして、近づいてからは、側に座りこみ、頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで、目を凝らした。
後頭部には鈍器による陥没の痕《あと》がある。顔面は腫《は》れ上がり、両目は潰《つぶ》れていた。首には針金の数条の圧迫痕。上半身が歪《ゆが》んでいるのは背骨をナタ様のもので断ち切られているからだ。局部は切り取られている。腹部、両手、両足には、それぞれ、まるで刃物の試し切りにされたような傷痕がある。両膝には二本ずつ釘が打たれ、手足の爪は剥がされて、もちろん、指紋は削《そ》がれていた。
「ひどいな。こんなのは初めてだ」
教授がつぶやいた。
返事しようと思ったが、声が出なかった。失神こそしなかったが、喉《のど》がカラカラに渇き、声帯が動かなかったのだ。だが、
「おっしゃる通りです」
と、私の代わりに誰かが答えた。
振り返ると、捜査本部の阿久津管理官が立っていた。
「複数によるなぶり殺しでしょう。おそらく、死因は脳内出血です」
「ほう……」
なぜ、わかるんだ? という目つきで、教授は管理官を見上げた。
「五年ほど前に、リンチ殺人を扱ったことがあります。その時のホトケさんも、顔を殴られてこんな風になっていました。しかし……、これじゃ、どれが死因か、あまり重要な問題じゃないでしょうな」
「…………」
教授は無言のまま、再び、死体に目を落とした。
「釈迦《しやか》に説法でしょうけど……」
管理官は続けた。
「ご覧のように、生体反応もいろいろでしてね。古いものから新しいものまで、形も様々です。それから、明らかに、死後につけられた傷もあります」
「死後にも、傷つけられているというのは、そのこと自体に、何らかの意味があるとでも?」
「はい。そう考えましてね。その筋の研究機関に調査を依頼したところです。ひょっとしたら、ホシの国籍くらいは特定できるかも知れません」
「なるほど。で、外国人地区の方は、どんな具合です? 手入れはしたんでしょう?」
「それが……」
管理官はポケットから煙草を取り出した。屍臭のプンプン漂っている死体置場で、煙草なんかを吸って、おいしいのだろうか?
「手入れはしたんですが、どこも裳《も》ぬけの殻でした。四、五日前まで、街角で、たちんぼしていた女たちが一斉に姿を消したんです。逃げ遅れた何人かに任意同行をかけて、情報を集めているんですが、例によって、ワタシ、ニホンゴ、ワカラナイ、の一点張りですよ。一向に埒《らち》があきません」
管理官はフッと笑った。
「四、五日前というと……」
教授の目が宙を泳いだ。
「全国に重要参考人手配する前日ですよ。ブン屋を除けば、外部の人間は後藤の後の字も知らなかったはずです」
「にもかかわらず、一斉手入れを予測して逃げ出したということは、何者かが回覧板でも回しましたかな」
「おっしゃる通りです。間違いありませんよ」
「ところで、実際のところ、外国人地区と、死体発見現場の位置関係は、どんな具合なんです?」
「目と鼻の距離です。和泉駅から二キロほど南の一帯は栄町と言うんですけど、昨今では、Yの字村、の方が通りがいい始末でしてね。そこから一キロほど離れた場所で発見されました」
「……Yの字村?」
「栄町のYの字交差点付近に、風俗店が密集しているんですよ。地形とYと、猥褻《わいせつ》のワイ、それから、女性の……」
と言うと、私の方をチラリと見て、
「いろんなことをひっかけて、いつしか、Yの字村なんて呼ばれるようになりました」
「…………」
「元来は、静かな街だったんです。そこへ、東京のサウナ風呂《ぶろ》業者が、ジャパゆきさんのマッサージサロンを開店しましてね。これが評判になり、週刊誌で取り上げられると、一変しました。何しろ、隣の県から押しかけたりしましてね。一時期、大変な賑《にぎ》わいでしたよ」
「ほう。で、取り締まりの方は?」
「生安部の方のことは、よく知りませんが、聞くところによると、非常に手こずったようです。何しろ、当県にとっては、初めてのケースでして、まぁ、警察庁の指導を仰いだり、他の県警に問い合わせて、一応、取り締まりをしたそうなんですが、思うような効果は発揮できなかったようです」
「…………」
「今にして思うと、違法検挙の誹《そし》りを受けても、早めに手を打つべきだったと思いますね。こう増えてしまうと、にっちもさっちもいかなくなってしまいます。ここにきて、取り締まりを繰り返しているようですが、俗に言う、いたちごっこらしいです」
「なるほど。しかし、いたちごっこなら、彼ら、いや、彼女らも、いずれ戻ってくるでしょう?」
「はい。まぁ、事件関係者も戻ってくればいいんですがね……」
と、死体に目を落とした時、制服の警部補が巡査を三人ほど従えて現れた。
「実務研修生に見せてやりたいんですけど、よろしいでしょうか?」
という問いに、教授も管理官も無言でうなずき、死体から数歩離れた。
警部補は、恐れ入ります、と会釈すると、研修生たちに向かって、
「よく見とけよ。こんなホトケ、滅多《めつた》に、お目にかかれねぇぞ」
と前置きしてから、死体現象の説明を始めた。
しかし、すぐに、その中の一人が死体に背を向け、中庭に向かって走り出した。そして、もう一人も……。
二人は植え込みと車の陰で、それぞれ、ひとしきり吐き、吐くものがなくなってからは喉を鳴らし、咳《せ》き込んだ。
それを目の当たりにして、私は自分が死体アレルギーを、ある程度、克服していることに気づいた。
九十九旅館に戻る途中、現場を見たい、という教授の希望で、私は車をYの字村≠ノ向けた。
私自身、同じ女性として、被害者たちが、どのような環境で、どのような暮らしをしていたのか、知りたいと思っていた。
ローカル線の和泉駅近辺は、何の変哲もない商店街で、特徴的なものはない。東側にバスのロータリーがあって、西側にタクシー乗り場。そして、駅前広場を取り囲むように、喫茶店、花屋、果物屋、パチンコ店、信用金庫、書店などが並んでいる。通行人も、中学生のグループから杖《つえ》をついた老人まで、平凡な田舎町の午後、という感じだった。
駅商店街を抜けると、突如として、幅三十メートルの近代的な道路に突き当たる。大型車両が地響きを上げ、猛スピードで行き交っている。十数年前、産業振興と渋滞対策のために完成したバイパスだ。
このバイパスを越えると、風景は一変する。道路に沿って、小さな工場や倉庫が雑然と続き、ところどころにコンビニエンスストアや、洋服や酒類などの大型販売店が派手な看板を掲げている。
車の通行量が多い割りには、歩道を行く人影は少ない。たまに荷物の積み下ろしをしている作業員を見ると、ホッとするほどだ。
やがて、道路はYの字に分かれる。その中央の地区が俗に言うYの字村ということになるのだが……。
ハンドルを握る手に、なぜか力がこもる。
そのYの字村には、四角い箱型のバーやスナックが並んでいた。もし、屋根や横の壁に、剥き出しのネオン管がなければ、建築現場の物置小屋と変わらない。そう思うほど、無骨な外見だった。
「あんな店に客が来るんでしょうか?」
と、私が首を傾げると、
「昼間の見た目なんて、どうでもいいんだ」
教授が答えた。
「要は夜。闇《やみ》というものは不必要なものを隠してくれる。あの手の業者はサーカスのようなものだよ。客が入るうちだけ商売して、さっさと次へ移る。見えないところにまで設備投資をする意味はないし、余裕もない」
「でも、いくら暗くったって、汚れはともかく、破れている壁もありますよ」
「ほとんどの客は酔っているし、見たいと思うもの以外は、見えないものなのさ。それに……、しらふの客にしてもだ。あんな店に行く時は、ピカピカに磨き上げられているより、適当に汚れていた方が入りやすいんだ。たとえて言えば……」
教授はしばらく間を置いて、
「そう……、ま、縁日の屋台のようなものかな」
「縁日の屋台?」
「うん。あまり上品だと、それらしい味がしないんだな。風俗の店も似たようなところがある。ま、これは、若い娘さんには理解できないだろうけどね」
「…………」
若い娘にはわからない、と言われたら、返す言葉はない。
速度を落として、という教授の注文で、私はアクセルを緩めた。
電柱に貼《は》り紙が目立つ。英語らしき横文字で何事か書かれているが、はっきりとは読み取れなかった。
空き地で、紫色のバンダナをした黒人の男が、火かき棒を片手にゴミを燃やしている。耳たぶにピアス。首に金色の鎖。両耳にはイヤホーンをつけ、リズミカルに体を揺らしているところを見ると、たぶん、本場のラップでも聞いているのだろう。
ここは本当に日本の片田舎だろうか?
わが目を疑いたくなる光景だった。
男のいる空き地の隣は、二階建てのアパート。どの部屋も分厚いカーテンが引かれている。
「ちょっと、止めて」
突然、教授が言った。私はブレーキを踏んでルームミラーを見上げた。教授はアパートの方向を見つめている。私も目を向けたが、自転車置場に、バイクが四台置いてあるだけだった。
「すまんが、十メートルほどバックして、エンジンを切ってくれ」
「はい……」
私は指示通り、車を移動させ、停止した。
教授が窓を開ける。すると、弦楽器と打楽器だろうか。どこからともなく、中東の音楽が微《かす》かに聞こえてきた。朗々たる男の歌声は、砂漠とラクダ、そして、シルクロードやモスクを連想させる。
やがて、私たちの視線の先に、東南アジア系の顔だちをした若い女性が現れた。緑色のトレーニングウェアにサンダルをつっかけ、片方の手に洗濯物の入ったポリバケツを下げている。
教授は無言のまま、その女性を、じっと見つめた。
その視線を察知したのだろうか。物干しに洗濯物をかけ始めた女性は、私たちの方を振り返り、慌てて、干したばかりの洗濯物を取り込み、逃げるようにして姿を消した。
「行こう……」
教授が言った。私はエンジンをかけ、車を発進させた。後ろで教授が少しずつ窓を閉めてゆくのがわかった。
しばらくして、交差点の赤信号で停止した時、
「悪いことをしたな……」
と、教授がつぶやいた。
死体発見現場は栄町三丁目十二番……。
メモをダッシュボードの上に置いて、車を走らせた。電柱の地名表示が近づくと、首が太く、目つきの鋭い男たちの姿が目につくようになった。言うまでもなく、男たちの素性は捜査員で、現場付近の実態の把握と、情報の収集をしているわけだ。
活動しているのは、私服員だけではない。更に現場に近づくと、突然、警笛が鳴って、物陰から制服警官が現れた。いつの間にか、後ろにも制服警官が立ち塞《ふさ》がっている。
私は窓を開け、警察手帳を呈示した。そして、後部座席の人物の素性を告げ、現場を見たい、と申し入れた。
警官は、お待ち下さい、と言って、無線のマイクを掴《つか》んだ。
間もなく現れたのは初老の警部。彼ら同士の会話から、地域課の課長代理であることがわかった。
課長代理は口をモゴモゴさせながら、
「すみません。忙しくて、朝飯も食えなかったもんで……」
と言い訳をした。
「ご案内します。どうぞ」
課長代理は後部ドアを開けると、ペコリと頭を下げ、先に立って歩き出した。私も後に続いた。気のせいか、微かに漬物の臭いがする。
テニスコートなら四面という広さだろうか。その敷地には、丸太が整然と積まれてあった。細いものでも、直径が三十センチもある。長さは五、六メートルくらい。どれほどの重さがあるのか想像もつかないが、いずれにせよ、運び出すには、かなりの手間と人手がかかるはずだ。
それを見越してのことなのか、一見したところ、盗難予防のための設備は見当たらず、囲いさえもない。
私たちの前を歩いていた課長代理は、杉の丸太が積み上げられた一角で立ち止まり、片手で地面を示した。
そこは道路からは十メートルほどの場所だが、外からは死角になる位置になる。地面の上には、誰が捧《ささ》げたのか、花束と煙草と缶ビール。そして、線香の燃え滓《かす》が残っていた。
「第一発見者は?」
教授が尋ねた。
「ダンボール工場の事務員です。工場長が打ったゴルフボールを探しに来ましてね。偶然、発見したんです」
「ゴルフボール?」
「はい。屋上の隅にネットを張って、昼休みに練習しているそうなんですが、古いネットらしく、破れたところから飛び出したようです」
「なるほど。ところで、この辺りは、夜になると、どんな具合なんです?」
「ご覧のように、民家や店がありませんからね。夜も十時を過ぎると、人通りはなくなります。以前は、アベックの車を見かけましたが、暴走族なんかがたむろするようになってからは、誰も近づきません。その暴走族も、例の事件の後ですから集まることもなく、夜はゴーストタウンのようになります。気味が悪いほどですよ」
「すると、パトロールは?」
「パトカーが、まぁ……平均二時間に一回、というところでしょうか。乗務員によれば、昨夜から今朝方にかけて、これといった特異な事案はなかったそうです。交信記録の内容も、同じでした」
「…………」
「警備会社の巡回車も、この前を通過しているんですが、不審者、不審車両についての心当たりはない、ということでした」
「巡回車が、材木置場を見に?」
「いえいえ、三百メートルほど先に冷凍食品倉庫があるんです。そこの見回りだそうです。えーと……」
と言うと、ポケットから手帳を出して、
「午後十時と午前三時の二回、巡回しているそうです。ひょっとしたら、と思ったんですけどね」
「それらしい対象は目撃していないわけですね」
「はい。夜は長いですからね。目撃を期待する方が間違っているのかも知れませんが」
「じゃ、昼については、どうです? ここへ来る途中、外国人は二人しか見かけなかったんですが……」
「見えませんけどね、確かにいますよ。以前に比べれば、ずいぶん目立たなくなってきてはいますが、確かにいるんです。不況と言っても、彼らにとっては円高の日本は、依然としてうま味が大きいんです」
「…………」
「先だって、検挙した中東の男なんて、プラスチック工場で、一日十三時間も、ぶっ続けで働いていたそうです。つまり、寝ている以外は工場の中で働いているわけです。これじゃ、人目につくわけがありません。にもかかわらず、彼らは情報に詳しいんです。どうやら、我々の知らないネットワークのようなものがあるようです」
「ほう……」
「一昔前と違って、近頃の不法滞在者の特徴は、分散化、定着化、長期化。この三つでしてね。日本人経営者にとっても、今や、彼らは不可欠な存在になっているんです。だから、会社の寮なんかで共同生活をさせているというわけです」
「ずいぶん、お詳しいようですが、地元署の代理さんとしては、今度の事件を、どのように見ておられるんです?」
「どのように?」
「はい。ここの外国人たちと、直接、関わっている方のご意見を、参考のために、お聞かせ下さい」
「いやぁ、私なんかの意見なんて……」
代理は一応は手を横に振ったが、
「でも、まぁ、遠路はるばる、お出でになったわけですから、当署の管内説明、ということで、お話し申し上げます」
と言うと、咳払《せきばら》いをして、
「和泉市民に限らず、おおよその日本人は彼らについて誤解していると思いますね。彼らは信心深いですよ。キリスト教徒は日曜には必ず、教会に行ってますし、イスラム教徒ともなると、一日五回の礼拝を欠かしません。単純労働をしていますが、彼らの中には、母国の大学院を卒業したエリートもいるんです。考えてみれば、勿体《もつたい》ない話ですよ。修士号や博士号の頭脳を持った人間に、筋肉労働だけをさせているんですからね」
「なるほど。で……、今回の殺人事件については、どんな風に?」
「これは、全くの個人的見解として、お聞きいただきたいんですが、よそ者の可能性が高いんじゃないか、と思うんです」
「……よそ者?」
「はい。妙な表現ですが、外国人にも、いろいろいるんですよ。栄町に腰を落ち着け、汗まみれ油まみれになって、ひたすら金を稼いで本国に仕送りする外国人と、日本での豊かな生活を楽しんでいる外国人。ジャパゆきさん目当てに足を運ぶのは、実は、日本人だけではないんです」
「しかし、そうは言っても、足を運ぶのは、日本人の方が圧倒的に多いんでしょう?」
「もちろんですよ。近頃の日本の女性は色恋よりも仕事ですからなぁ……」
と言うと、私の方をチラリと見て、
「それに、我々の頃と違って、えらく金がかかるらしいですよ。その点、Yの字村の女性たちは細やかに、健気《けなげ》に尽くしてくれるんだそうで、まぁ、それで、大概の日本男児はコロリと参ってしまうようです」
課長代理と教授は顔を見合わせて、ニヤリと笑った。下品で嫌らしい笑いだ。私は不愉快になった。
「Yの字村に来る男たちの中には、そういう女性の優しさとか、思いやりが嬉《うれ》しくて通い詰める男もいるんですよ。しかも、独身の若者だけじゃなく、妻子ある中年男もいるんです」
「すると……、当然、いろいろあるんでしょうな」
「はい。まだ心中はありませんが、刃傷ざたは三カ月前にもありました。一年に二、三回はあるんです。その他、女に金を貢ぐために銀行強盗した未成年。公金を横領した定年前の五十男。まぁ……、今回の事件も、そうだと言うわけじゃありませんが、生真面目《きまじめ》な男と、情の深い商売女との仲は、時代を越えているようです」
「…………」
教授は無言のまま数回、頷《うなず》いた。そして、
「大変、参考になりました。どうぞ、食事を続けて下さい。私たちは、ここら辺りを、もう少し見させていただきます」
「承知致しました。何か、ご用の節は、警備車の中におりますので、ご遠慮なく、お声をかけて下さい」
代理は挙手の敬礼をして、引き下がった。
教授は花束の置いてある場所に近づくと、その前にしゃがみ込んで、合掌した。私も、それに倣《なら》おうかと思ったが、思い止まった。殺された女性たちのことを思うと、そんな気にはなれなかった。
教授はしばらく、辺りをうろついてから、再び、花束の前に戻って、
「問題は……リンチした場所だな。それを突き止めることができれば、大体の見当がつく……」
とつぶやいた。
それが何の見当なのか、私にはわからない。そもそも教授は、どんな犯人像を抱いているのだろうか?
「先生。質問してもよろしいでしょうか?」
私は遠慮がちに言った。
「ホシの見当かい?」
教授の反応は早い。
「お二人のお話を伺っていて、疑問に思ったんですけど、日本人が犯人、というような可能性があるんでしょうか?」
「君は、どう思うんだ?」
「先程、和泉署で後藤の死体を見ましたけど、日本人が殺したとは思えないんです」
「ほう……。なぜ?」
「これは独断かも知れませんが、日本人は激情にかられても、犯行後、すぐに我に返るという面があると思うんです。それに、憎悪の対象であっても、その相手が苦しんでいる状況を見ると、同情してしまうような傾向もあると思います」
「うん……。それで?」
「死体の傷から見る限り、後藤は叫んだり、泣きわめいたりしたと思います。でも、死体は死んだ後も、かなりしつこく傷つけられています。普通の日本人には、そんな殺し方はできないと思うんですけど……」
「普通の日本人の殺し方、か……」
教授はフッと笑って、
「そんなことを言うなら、日本人が、日本人が犯人だと思わせないために、敢《あ》えて、そうした、という理屈も成り立つんじゃないのかい?」
「ええ、それは、そうですけど……」
「でも、まぁ、ファミコンゲームでの人殺しと違って、生身の人間を殺す時は、無我夢中なんだそうだ。血は流れるわ、大暴れするわ、死んだと思ったら息を吹き返すわで、小細工なんかできない……、というようなことを、経験者から聞いたことがある。事件の背景が単純な場合、君が言うように、ホシは外国人という確率が高いかも知れんな」
教授は肯定も否定もせずに、再び、花束の前に座った。
そして、いつか、第一事件現場でしたように、ステッキを放り出し、片手を地面についた。だが、すぐに、その手を引っ込めて、
「今日は、止めておこう。死人と間違えられたら事だ……」
と苦笑しながら、再びステッキを拾った。
人の命は地球よりも重い、と言ったのが誰なのか、私は知らない。
実際、その通りなのだろうと思う。でも、どの命も地球よりも重いことは確かなのだろうけれど、私の目には、地球よりほんの少し、つまり、一グラムか二グラムだけ重い場合と、千トン足しても、まだ足りないという場合があるような気がしてならない。
殺人事件の被害者は様々で、例えば、休日の午前中にボランティア活動をしている女子高校生が、無惨に殺されることもあれば、札付きのチンピラが酒の上の口論の末に、ガードレールに頭をぶつけられて殺されるということもある。
この二つは、どちらも、殺人という大事件に違いはなく、警察は捜査本部を設置して、事件解決を目指す。
しかし……、被害者によって、捜査員個々の熱意に、いわゆる温度差が生じることは否めない。もちろん、私はそういう差別や区別を、断じて容認するものではない。でも、そう思いながらも、双方の捜査結果に、ある程度の差異が生じてもやむを得ない、と思ってしまうのだ。
このようなことは、警官として、本来、口にすべきことではないと思う。今、敢えて、それを口にするのは、後藤殺しの捜査経過が思わしくないにもかかわらず、上層部が一言の苦言を呈することもなく、また、捜査員たちの表情にも焦りの色が見られない、という不可思議な現象を説明するためなのだ。
もっとも、醒《さ》めていたのは、和泉署の捜査本部だけではない。
本家本元である大滝署の捜査本部も、雰囲気が変化していた。その理由は、一つには、容疑者の後藤辰雄が殺されてしまったということ。つまり、目標を失ったということ。そして、もう一つは、後藤殺しの犯人は、海外へ逃亡した可能性が極めて高い、と、考えられたからである。更に、決定的な理由は、大方の関係者が、後藤殺しの犯人に、むしろ同情的だったということだ。
――これで、殺された被害者たちの家族や知人たちは、腹の虫が治まっただろう。日本にさえ戻らなければ、犯人は捕まらなくていい……。
大多数の捜査員、そして、サツ回りの記者たちも、口にこそ出さなかったが、心の底では、そう考えていたに違いない。白状してしまうと、実は、私もその一人である。
しかし、他方、そういう見方や考え方に異を唱える捜査員もいた。
久美子はその中の一人だった。彼女は和泉市で発見された後藤≠フ死体に疑問を抱いていた。大滝の死体同様、指先の指紋が削《そ》がれている以上、後藤本人と断定するには不安が残る、というのが、その主張だった。
確かに、上着の内ポケットの運転免許証から後藤≠ニ推定された死体の身元確認は、歯形と親族の証言のみによるものであり、物的な根拠は、たった一枚のカルテだけ、ということになる。
そして、気がかりなことが、もう一つ。それは類似犯罪の発生である。
新潟と横浜で外国人女性の死体が、相次いで発見され、新聞紙面を賑《にぎ》わしていた。記事を見る限り、手口も死体の状況も異なっており、一見、大滝の事件とは別件のように思えた。しかし、捜査本部としては、念のために、それぞれの捜査本部に、二名ずつの捜査員を派遣していた。
ところで、これらとは、また別の視点から、事件を再吟味する人物もいた。
ある日のこと。
「パンドラの贈り物のことだけどね」
と、教授が言い出した。
「パンドラの贈り物? ですか?」
「ほら、君の家に投げ込まれた茶封筒に入っていた、例のテープ」
「ああ、はいはい……」
別に忘れていたわけじゃない。今更、なぜそんなことを蒸し返すのか、そっちの方が不思議だったのだ。
「その後、あれはどうなったのか、聞いているかい?」
「別に、聞いておりませんけど……」
「聞いていない?」
「はい……」
「じゃ、すると……」
と、言いかけたが、教授は結局、口を閉ざした。
「あの、何かご要望があれば、関係者に確かめますけど……」
「いや、要望というほどのことではないけどね。捜査本部は後藤のことを、重要参考人などと、回りくどい呼び方をしていたが、実質的には、連続殺人と死体遺棄事件の本ボシ扱いをしているわけだろう?」
「ええ、まぁ、そうです」
そんなこと、当たり前じゃない……。
「それじゃ、パンドラの謎《なぞ》が解けてしかるべきだと思うんだが、そんな話は聞いていないかい?」
「それは……」
偽名や変名は、差出人の好みによるのではないのか、と言いたかったが、
「その件については、全く、聞いておりません」
と答えた。すると、
「そうか。じゃ、確かめてもらえないかな。後藤が本ボシなら、パンドラなんて源氏名[#「源氏名」に傍点]を、なぜ使ったのか、その理由もわかるはずだ。ぜひとも、それが知りたい。個人的にもね」
と言って、教授はなぜか首を傾げた。
常識的に見れば、少なくとも、後藤辰雄が連続殺人の犯人であることは明らかだった。住まいのアパートから、犯行を裏付ける針金やペンチも発見されている。
確かに、遺留品の録音テープの意味は、解明されていない。だが、死人に口なし。後藤から詳細な供述が得られない以上、その全容解明には、かなりの日にちがかかると見るのが至当な見方ではないのか……。
「そんなに不思議がることはないよ。何事も、細かいのが警視庁流、いや、学校の先生流なのさ」
管理官は皮肉たっぷりに言った。
「でも……、私は教授に説明しなければなりません。どんな風に、説明したらよろしいんでしょうか?」
と尋ねると、
「そうだな……」
管理官はライターを片手に、回転|椅子《いす》を左右に揺らしていたが、
「うん、捜査報告書を差し上げよう。そうすれば、君は何も説明しなくて済む」
と言って、煙草に火をつけた。
「あのテープについては、今、尾崎警部補と本郷君に任せている。数日中に結論が出るはずだ。教授には、もう少し待って下さい、と申し上げてくれ。もっとも、ご期待通りの結論に達するかどうかはわからないけどね」
「わかりました」
尾崎警部補という人物は知らないが、本郷刑事はバリバリの捜査一課員。刑事部のホープというだけでなく、県警のバスケットボールチームラビッツ≠フエースでもある。
「ところで……、後藤を生け捕りにできなかったことについて、教授は何かおっしゃっているか?」
管理官が尋ねた。
「いいえ。別に」
「それを聞いて、ホッとしたよ。またぞろ、典型的な後手の捜査例だなんて、警大の教材にでもされたりしたら、目も当てられないからな」
「教授は、非難めいたことは何もおっしゃっていません」
「そうか。どうやら、まだ第一線のご苦労を、お忘れではないようだな。非常に結構だ。じゃ、報告書の方も急がせよう。お気持ちが変わらぬ前にな」
「よろしく、お願いします」
私もホッとする思いで、頭を下げた。
たぶん、三日もすれば、捜査本部に呼び出され、本郷刑事が書いた捜査報告書というのを目にすることが、いや、ひょっとしたら、本人から直接、手渡されることになるかも知れない……。
私はそう期待していた。そして、その翌日、私は早々と電話連絡を受けた。ところが、電話の相手は本郷刑事ではなく、管理官でもなかった。
私は尾崎警部補とは面識がない。なのに、尾崎警部補は私に対し、まるで部下に指示するような口調で、折入って相談がある、と切り出した。そして、一方的に、面談の場所として、バイパス沿いにあるファミリーレストランの駐車場を指定した。
約束の時刻の十分前に、車を駐車場の奥に入れ、ラジオのアンテナに目印のハンカチを結んだ。一昔前のB級映画に出てくるスパイみたいで、少しドキドキした。
尾崎警部補は時間通りに現れた。車を私の左側にピタリと止め、助手席の窓ガラスに警察手帳を押しつけた。
窓のロックを解除すると、
「忙しいのに、こんな所へ呼んだりして、すまんな」
尾崎警部補はヤニの臭いを漂わせながら、助手席に乗り込んできた。
人事課で調べ、また、久美子からも聞いたことなのだが、尾崎警部補は県警本部の勤務経験がない。いわゆるどさ回り′Y事で、所轄署ばかり。それも、片田舎の小さな署ばかりを転々としている。だが、刑事としての能力は決して低くはない、ということだった。まぁ、現に、捜査本部員に選抜されているわけだから、それなりに腕はよいのだろうけど、それにしても……。
「日の丸教授は今、何してる?」
鼓膜が痛くなるような大声だった。
田舎の人間は……、まぁ、私もその中の一人だけれど、なぜ、こうも必要以上に大きな声で話すのだろうか?
「相変わらず、円谷紅雲の調査をされているようですけど」
私は必要最小限度の声で答えた。
「あんな黴《かび》の生えた昔のことより、こっちのことを探ってもらいたいね」
「すると、何か、問題でも?」
「大ありさ。実は……」
尾崎警部補は前後左右に目を配ると、幾分、抑えぎみの声で、
「声紋が一致したんだ」
「え?」
私は耳を疑った。
「声紋が一致したんだよ」
「声紋が一致?」
「そうだ。藤山君の家へ送りつけられたパンドラ・テープ。それに、第二現場から発見された録音テープ。それらが、後藤の留守電メッセージの声。つまり、後藤本人の声とピタリと一致してしまったんだ」
尾崎は深刻な顔で言った。
「あの……、声紋が一致しては、まずいんでしょうか?」
と尋ねると、
「まずいんでしょうか? だと?」
尾崎警部補が目を剥《む》いた。赤鬼のような顔に、ギョッとした。
「君は、自分が何を言ってるか、わかっているのか?」
元の大声に戻った。
「すみません。一課の事件に関しては素人なものですから」
私は舌を出して、可愛《かわい》っ子ぶってみせた。尾崎警部補はニコリともせずに、
「笑ってごまかすなよ。一課も二課も関係ない。つまり、捜査知識の問題じゃない。これは数学の問題、いや、算数レベルの問題だな」
「…………?」
「いいか? 第一と第二、それに、第三の現場では、いろんなブツが押さえられている。だが、それらのブツが実際、ホシに直接結びつくとは限らない。これくらいのことは、わかるだろう?」
「え? ええ……」
実はわからない。
「そもそも、塵《ちり》一つ、落ちていない現場なんて見たこともないよ。そんなのは元々、存在しない。原っぱなら、草ん中にボールの一個や二個は落ちているし、公園なら、おもちゃのシャベルとか、花火の燃えた滓《かす》なんかが、必ず、落ちているもんだ。そんなゴミと、犯行の際、ホシが落として行った物。それを、はっきり区分けすることなんか、絶対に出来ない」
「はい……」
何事も、わかりやすく説明してもらえれば、理解することができる。
「血のついた刃物とか、本物の拳銃《けんじゆう》ならともかく、ポケットから落とした物。例えば、ライターとか、ボールペンなんかになると、ホシのものか、通行人のものか、区別はつかない。鑑識の採証活動の多くは、ひょっとしたら遺留品かも知れないから、念のために遺留品扱いしておこう、というだけのことなんだ。遺留品かどうかがはっきりするのは、ホシが挙がってからのことだ」
「…………」
「今度の事件の場合だって、同じだ。これは外部には発表していないけれど、第一現場のトラックのタイヤ痕《こん》。第二現場のパチンコ玉。それに、第三現場のオイル漏れの跡。鑑識の連中は、それぞれ、完璧《かんぺき》な採証活動をしているが、その後の聞き込みの結果、該当者が現れ、三つとも事件とは無関係ということがわかった」
「…………」
「あの録音テープにしても、同じことだ。事件性があるのかどうか、まず、それを確かめることが先決だ。だが、俺《おれ》は、聞き込みをしながら、ホシの声のはずがない、決めつけていたな。なぜか、わかるか?」
「いいえ。わかりません」
「ホシの声ということになると、なぜ、そんなものが現場に残されていたのか、説明がつかないだろう? だから、後藤の声を入手したけれど、声紋は一致しないと読んだ。ところがだよ、声紋鑑定人は、ピタリと一致しました、と来た」
と言うと、腕組みして黙りこんだ。
目は空《うつ》ろに、前方を見つめている。私はかける言葉を失っていた。まだ、尾崎警部補の疑問が百パーセント、理解できなかったからだ。
「説明がつかないんで困っている」
尾崎警部補は言った。
「後藤は死体遺棄現場に、なぜ、あんな録音テープを残さなきゃならなかったのか、その理由がわからない。捜査を攪乱《かくらん》させるため、でなければ、警察に対する挑戦的行為。捜査本部の見方は、この二つのうちのどちらかだろう、ということだった。だけど、どんな目的にせよ、自分の実声を使うようなことが、あるだろうか……」
尾崎は今度は反対側に首を傾げて、
「それに、挑戦的行為とするには、少し弱い。これまでの例からすると、捜査員の神経を逆撫《さかな》でするようなコメントが入っていてしかるべきなんだ」
「…………」
「つまり、お偉方の見解にケチをつけるようで、少しばかり、言いにくいんだけれど、俺なりに知恵を絞った結果、どっちも該当しない、ということになった」
と言うと、ため息をついて、
「どう考えても、わかんない訳よ。こじつけさえ浮かばない。自分が、いかに想像力がないか、思い知らされた。こんな難問は、俺の能力の限界を超えている。そこでだ……」
尾崎警部補は腕組みを解いて、
「能力も経験も、俺の遥《はる》か上を行くお人の見解を是非とも、聞いてみたいんだ。お宿の方に直接、訪ねて行こうかな、とも思ったんだが、教授とは面識がないし……」
私とだって面識がないくせに……。
「鎮守の森で、行き違いにならなければ、こんな風に、君に相談ぶつこともなかったんだが、ま、仕方がない」
「…………」
鎮守の森?
「それに……、教授と面会したことが、お偉方の耳にでも入ったら、ちょっとまずい。皮肉を言われることはあっても、褒められることはないからな」
「あの……」
鎮守の森が気になっていた。
「鎮守の森とは第二現場のことですか?」
と、念を押すと、尾崎警部補は、うん、と頷《うなず》いた。私は体をよじらせて、
「教授と行き違いになった、とは、一体、どういう?」
教授を第二現場に案内した覚えはない。
「言葉の通りだよ。現場を見に来られた時、五分違いで、行き違いだ。教授は年寄り連中と、小一時間もゲートボールをやってたというのにさ。もう少し早く行ってれば、よかったんだよな。世の中、なかなか、うまい具合には運ばない」
「それは、いつのことです?」
私は更に尋ねた。第二現場に行ったことも、そこでゲートボールに興じたことも、教授から一言も聞いていない。だが、
「さっきから、君は一体、何を言っているんだ?」
尾崎警部補には関係ないことだった。
「そんなことは、教授に直に聞いたらいいだろう? それより、俺の方の頼みは、聞いてくれるのか? くれないのか? どっちなんだ?」
と言って、顎《あご》をしゃくった。
「す、すみません……」
私は頭を下げて、
「つまり、教授のアポイントメントを取れ、ということですね?」
「そうだ。会っていただけるかどうか、聞いてみてもらいたい」
「わかりました。お尋ねするくらいなら、お安い御用です。ただ、今までのことから考えて、おそらく教授は、その後藤の声を聞きたがると思いますけど……」
「ワカッタ、ワカッタと……、ゲタの音」
「…………?」
「たぶん、そんなことだろうと思って、ダビングテープを持ってきた」
尾崎はポケットから皺《しわ》くちゃな紙袋を取り出し、ダッシュボードの上に置いた。
「わかりました。お預かりします」
私は紙袋を受け取った。
しかし、後藤の声のテープや声紋一致のことよりも、私には、第二現場を訪れた教授の隠密行動の方が気になった。
教授は尾崎警部補の要望を快く承諾した。
何なら、ファミリーレストランの駐車場へ出向いてもいいよ、と言って、悪戯《いたずら》っぽく笑った。
私はついでに、鎮守の森の件を尋ねてみた。すると教授は、人違いだろう、と、あっさり否定した。
本当にそうなのだろうか?
疑問が残ったが、それ以上、追及するわけにもいかない。
教授に、ある種の疑惑を抱いたまま、翌日、私は尾崎警部補を明月庵に案内した。
玄関先で声をかけると、例によって、入れ入れ、という声がした。
教授は座敷の文机《ふづくえ》で、何やら書きものをしていたが、
「藤山君。すまんが、板場へ行って、包丁を借りてきてくれないかな」
と、ペンを動かしながら言った。
「包丁? ですか?」
「そうだ。なるべく切れそうなのを頼む」
「はい。で……、肉切り包丁ですか? それとも、菜切り包丁を?」
「羊羹《ようかん》を切るには、どっちがいいかな?」
「羊羹?」
私は尾崎警部補と顔を見合わせた。
「昨日、東京から小包が届いてね」
教授は肩越しに、親指で床の間を指さして、
「開けてみたら、寿堂の羊羹だった。こういうもんは一人で口にしても、味気ないからね。お客さんが来たら、一緒にやっつけようと思っていたんだ」
「わかりました」
私は引き下がった。入れ代わりに、尾崎警部補が敷居を前に正座して、
「お、お初に、お目にかかります。現在、捜査本部に、派、派遣されている美田署の捜査係長で、尾崎幸平と申します。このたびは、お願いを、お聞き届けいただき、ありがとうございます」
と言うと、両手をつき、深々と頭を下げた。
教授は羊羹の一切れを摘《つま》むと、
「さぁ、遠慮なく、やんなさい」
残りを皿ごと、私たちの方に押し出した。
「はい。では、いただきます」
尾崎警部補はペコリと頭を下げ、皿に手を伸ばした。そして、
「なるほど。これが、噂《うわさ》に名高い寿堂の羊羹ですか。気のせいか、お江戸日本橋の味がしますなぁ……」
と、旨《うま》そうに舌鼓を打った。風の噂に、尾崎警部補は大のどぶろく党だと聞いている。甘味もわかるとは驚いた。
この日、教授は上機嫌で、
「なぁ、藤山君よ。つかぬ事を聞くけど、君は茶道の心得はあるの?」
と尋ねてきた。
「はい。まぁ、ほんの嗜《たしな》み程度ですが……」
私は少し、見栄を張った。実際のところは、高校時代、『芸術』の選択科目で、茶道を履修しただけのことだった。
「そうか。それは好都合だ。せっかく、こんな立派な茶室に泊まっているのに、番茶に羊羹じゃ、愛想がない。先だって、ちょっと覗《のぞ》いてみたんだが、道具は揃《そろ》っているようだし、一度、暇な時に、イタズラしてみようじゃないか。どうだい?」
「そうですね……」
私は軽い気持ちで返事した。嗜み程度以下の心得だが、相手がズブの素人なら、それこそ、適当にお茶を濁すことはできる。
「ところで、先生……」
尾崎警部補が人差指で口の中を一回りさせてから、居住まいを正した。
「例の録音テープの件ですけれど、何か、お気づきになったことはございましたでしょうか?」
「そうそう、それそれ」
教授は文机の下から、テープレコーダーを取り出し、座卓の上に置いた。
「一つ確認したいんだが、このテープと、事件現場で発見されたテープとの違いについて、捜査本部は、どんな見方をしているのか、聞かせてもらえないかな?」
「見方……」
尾崎警部補の目が宙を泳ぐ。
「もちろん、もし差し支えがなければ、の話だが……」
「誠にお恥ずかしいのですが、先生……」
尾崎警部補は言いにくそうに、
「捜査本部は、今のところ、これと言う明快な結論を得ておりません。私がここに参りましたのも、個人的に、先生のご意見をお聞きしたいと考えた上のことでして……」
どうやら、遺留品のテープと、留守番電話のテープには違いがあるらしい。一体、どう違うのだろうか?
私は二人の会話に耳を澄ました。
「僕のことを、そんなに買いかぶられても困るんだが……」
教授は頭をかいて、
「でも、尾崎君から、このテープを借りてよかったよ。僕を悩ましていたのは、現場で発見された録音テープの声が不安定だった点だった。一言、一言の言葉のイントネーションは、それぞれ違うし、速さも違う。ひょっとしたら、声の主は、元来、そういう話し方の男なのかと思った」
「…………」
「この留守電メッセージの方を聞けば、後藤が、ごく当たり前の話し方をしていたことがわかる。おかげで、これまでモヤモヤしていたものがスッキリした」
「あの、スッキリとは……」
「つまり、遺留品のテープに吹き込まれている後藤の声は、自然な声、いや、自然な状態で録音された声ではない、ということになる。つまり、本人が自分の言葉を、一言一言、吹き込んだものではない、という可能性が浮上してくる」
「となると、先生……」
尾崎警部補は身を乗り出して、
「後藤は無実で、ハメられた上で殺された、という可能性が出てきませんか? 録音テープがそうなら、指紋の付いたドリンクの小瓶だって、そうかも知れないでしょう?」
「ま、理論的には、そうだ。その可能性がないとは言えない」
「一体、誰が、何の目的で、そのようなことを企《たくら》んだと、お考えですか?」
「おいおい、尾崎君……」
教授は目を丸くして、
「僕が、そんなことを知っているわけはないだろう? 第一、今、話したことは、単なる推測だよ。事実についてはわからない。ひょっとしたら、僕の推測は深読みで、マスコミが報道している内容が真実かも知れない。それを確かめるのは、君たちの仕事じゃないのか?」
「おっしゃる通りです。失礼しました」
尾崎警部補はペコリと頭を下げた。
教授はニッコリ微笑《ほほえ》んで、私の方を見た。そして、何事か言いかけた時、
「恐れ入りますが、先生。ご迷惑ついでに、もう一つ、お聞きしてよろしいでしょうか?」
尾崎警部補が言った。
「先程の、先生のご推測はご推測として、別の見方について、ご意見をお聞かせ下さい。捜査本部内には、あの録音テープは、報復……のためではないか? ということを言う者が一部におるのですが……」
「報復?」
「はい……」
「報復って、何のための?」
「それはわかりません」
「じゃ、誰に対する?」
「それは、もちろん大滝地区です」
「大滝地区? 大滝地区の何に対して報復しているというのかね?」
「それは、町そのものであることもあるでしょうし、まぁ、特定の個人ということはないでしょうけど……、その、役所とか、その……」
尾崎警部補が口ごもり、
「それに、警察も、ということかい?」
教授がズバリと言った。
「はい。まぁ……、ないとは言えないと思います」
うーん、と唸《うな》って、教授は口をつぐんだ。
「遺留品の録音テープは当初、攪乱《かくらん》工作、或《ある》いは、挑発行為のためだろう、と思われていたんですけど……」
尾崎警部補は言った。
「自分の声をテープに吹き込んで攪乱工作をするホシなんていませんよ。もし、いたら、それは精神医学の対象者でしょう。じゃ、挑発行為かというと、これもちょっと不自然なんです。捜査員の神経を逆撫《さかな》でするような言葉は一言も含まれていないんですからね」
それは、かつて、教授が私に説明したことでもある。
「ところが、報復、ということで考えると、一応の説明がつくんです。警察、い、いや、警察でないかも知れませんが、仮に、犯罪者が、警察、もしくは、大滝の署員に恨みを持っていたとすると、自分の声でメッセージを吹き込まないと、その相手にわからないでしょう?」
「……うん」
「あの意味不明のメッセージも、その相手、つまり、犯人が恨んでいる人物には、ピンと来る内容じゃないか、と思うんですよ。でも、その警官、い、いや、警官でないかもしれませんが、そのことを同僚なんかに話せないと思うんです」
「つまり、自分が原因で人が殺された、とは言えないということ?」
「そうです」
「なるほど。まぁ、それなら、一応の説明はつく。いや、僕の第三者録音説より、その説の方が無理がないかも知れんな」
「本当ですか?」
尾崎警部補の顔がパッと明るくなった。
「本当だよ。だが……」
「何です?」
「そうなると、後藤を殺した犯人像が、ちょっと違ってきやしないかい?」
「後藤を殺した……犯人像?」
尾崎が目を瞬かせた。
その犯人像とは、警官を意味しているということに気づくまでに、しばらくかかった。
尾崎が明月庵を後にしたのは、夕方近くになってのことだった。仕事以外にも、釣りや地酒談義で話が弾んだからである。
靴べらを使いながら、広い敷地なんで迷子になりそうだ、と、尾崎警部補がつぶやいた。
それを口実に、私は駐車場近くまで同道することにした。別に、冗談を真に受けたわけではない。私には気になることがあったからだ。
中庭を連れ立って進み、瓢箪池にさしかかった時、
「先程の話なんですけど、報復説のことは初めて耳にしました」
私は質問した。
「そりゃそうだろうよ。実を言うと、今夜、教授に初めて話したんだ」
「何ですって?」
私は思わず足を止めた。
「あれは、俺が一人で思いついたことなんだ。教授の手前、捜査本部の一部の意見、なんて見栄を張ったけれど、実は、俺一人の考えなんだ……」
尾崎警部補も足を止めて、
「捜査会議では、何度も喉《のど》まで出かかった。特に、録音テープ担当になってからはね。だが、発表できなかった。何しろ、現在、捜査本部員の五分の一は、大滝署員だ。そんな中で、『犯行の目的は警察に対する報復で、更に、大滝署員の中には犯人の目星がついている人もいるはずです。ただ、脛《すね》に傷持つ身であれば、口をつぐむ他ないでしょう』なんて、とてもじゃないけど、言えないな」
「…………」
「俺の言うことが正しくても、正しくなくても、どっちにしろ、恨みをかうことは確かだ。もっとも……、真相が明らかになる可能性があるのなら、恨みをかっても構わないけどね」
「…………」
「俺が心配なのは、今の捜査本部の状況が、まるでプロ野球の消化試合みたいなところだ。大方の捜査員は、容疑者の後藤が死んだことで、安心してしまってる。そんな連中と話をしてると、俺の方が、実は変なんじゃねぇかと思えてくるんだよ。だから、今日は、自分の意見を教授に話してみて、反応を見たかったんだ……」
「でも、教授は第三者録音説で、尾崎係長は本人録音説でしょう?」
「そんなの関係ない……」
尾崎が満面に笑みを浮かべた。
「教授は噂通りのお人だった。あの方は本物だ。俺もあそこまでは頭が回らなかった。あの第三者録音説は、とどのつまり、第三者犯人説だよ。後藤以外に連続殺人犯がいるという新しい考え方だ。ちょっと奇抜すぎるきらいはあるけれど、俺のを入れて、新しい仮説が二つ。これで踏ん切りがついた」
「……踏ん切り?」
「うん。もう少しばかり裏を取ってから、思いきって、捜査会議でドカンと一発、発表してみる。ダメで元々。解散命令を待ってるような野郎どもに喝を入れてやるつもりだ」
と言うと、尾崎警部補は豪快に笑いながら、足音高く瓢箪池の橋を渡った。
尾崎警部補の、もう少しばかり、というのが、一体、どれくらいの期間を言うのか不明だったが、その後も、捜査局面に目新しい展開は見られなかった。
ただ、私は思いがけない人物から呼び出しを受け、尾崎警部補の活躍≠間接的に知ることになる。
呼び出された場所は、何と捜査一課の特別小会議室。ここは防音設備のある部屋で、不祥事が発生したり、極秘捜査の打ち合わせなどに使用される。
捜査本部に梶山という警部がいる。仕事は捜査本部のハード面の担当。つまり、施設の管理運用や一般雑務、捜査員の勤務調整なのだが、広報の責任者も兼ねている。
その梶山警部が上席の回転|椅子《いす》で煙草をふかしていた。
机の上には、皿つきのコーヒーカップが一組だけ。人工的に作りだされた窒息するような静寂の中で、壁時計の音だけが殊更に大きく響いていた。
「急いでいるんでね。要点だけを話す」
椅子をすすめるどころか、楽に、とも言わなかった。
黒革張りの椅子に深々と身を沈めている梶山警部の前で、私は直立不動の姿勢のまま、用件を聞くことになった。
「この間の、明月庵での話だが……」
と、梶山警部は言った。
「あの話は忘れてもらいたい」
「忘れる?」
「そうだ。今度のヤマが片づき、しかるべき時期がきたら、その理由を説明する。だから、それまで、誰にも話してはならない。いいね?」
「…………」
一体、どういうことだろう?
私は事情を知りたかったが、梶山警部の態度には、問答無用という雰囲気が漂っていた。
結局、はい、と返事するしかなかった。
梶山警部は、確かに私より階級は上だが、捜査一課所属だ。私は純然たる捜査二課所属で、別に捜査一課に転用されているわけでも、派遣されているわけでもない。
近頃では、公私混同する人間は少なくなったが、この種の官職混同[#「官職混同」に傍点]については、まだまだ見られる。たとえて言うなら、大蔵大臣が命令できるのは、大蔵省の役人だけであって、通産省の課長や係長に命令する権限はない。このような当たり前の道理に無頓着《むとんちやく》な人物ほど、実は職場で幅を利かせている。
そんな相手から命令や指示を受けた際は、空返事をして、速やかに上司に報告することが肝要だ。
私は一礼して引き下がろうとした。すると、
「まぁ、待ちたまえよ」
と、梶山警部が言った。
「これは、一課や、捜査本部の問題としてではなく、二課を含めた刑事部全体の問題として、頼んでいる。本来なら、君の上司を通すべきなんだろうけど、先日の明月庵での件は、本来の二課の職務とは無関係だからな。そんなわけで、個人として頼んでいる」
梶山警部は、全てを承知の上で、話しているらしい。こういうのが一番、困る。
「そういうことでしたら、個人として、質問してもよろしいでしょうか?」
私は居直った。
「先だっての明月庵の話、とおっしゃいますが、具体的に、何について忘れなければならないんでしょうか? はっきり、お示しいただければ幸いです」
「もっともだ……」
梶山警部は二、三度、頷《うなず》いてから、苦み走った顔で、
「いわゆる報復説についてだよ。それとも、尾崎警部補説の方が通りがいいのかな? ともかく、後藤が警察を恨んで、その当てつけに外国人の女を殺して、大滝署管内に死体を転がしたという件《くだ》りだ。更に言えば、わが県警のある警官は後藤が犯人であることを知っているが、脛に傷持つ身のため、口をつぐんでいる、というヨタ話だよ」
と、吐き捨てるように言った。
「ヨタ話……」
「そう、ヨタ話だ。だが、ヨタ話であっても、当局筋からの情報、という記事に化けてしまうことがある。そうなったら、殺人事件は一転、警察疑惑の問題に発展する。まぁ、それが事実であるなら、記事になってもやむを得ない。別に、私は不祥事を握り潰《つぶ》し、闇《やみ》から闇へ葬ろうと考えているわけではない。むしろ、その反対だ。しかし、何の証拠もないのに、いかにも悪徳警官が存在するように吹聴されるのは、一般の真面目《まじめ》な警官に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せるようなものだよ。これは、言わば冤罪《えんざい》だ」
「…………」
「全く、尾崎君のバカ正直にも困ったもんだ。世の中には、敢《あ》えて誤った解釈をして、面白《おもしろ》がる輩《やから》もいるんだ。そういう連中に付け入る隙《すき》を与えないためには、慎重に言葉を選ばなければならない。彼には、その辺の認識が欠如している。全く、何年たっても、直らないんだからな。彼には失望したよ」
「お言葉を返すようで、恐れ入りますが……」
私には納得できなかった。
「警察組織や警官にとって不利なことは、捜査員は発言できないんでしょうか? あらゆる可能性について、仮説を立て、検証してゆくのが捜査員の務めだと思うのですが、間違いですか?」
「誤解してもらっては困るよ、藤山君」
梶山警部はギョロリと目を剥《む》いて、
「原則的に、何を発言しても構わんよ。私は本当にそう思っている。どんな仮説を立てても、いかなる検証をしても、一向に差し支えない。だが、それは、内部的に実践してもらいたいんだ。尾崎君はそれをしなかった。我々には一言の相談もなく、部外者のところへ出向き、思いつくままペラペラと喋《しやべ》った。それが困るんだ」
「……部外者?」
「そうだ。部外者でわかりにくかったら、よそ者だよ」
と、吐き捨てるように言った。
「よそ者……」
それが教授のことであることに気づくまで、しばらくかかった。
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二人目の客
忘れろ、と言われると、却《かえ》って忘れられなくなる。時期が来たら説明する、と言われると、時期が来る前に知りたい……。
それが人間の本性だと思う。
そもそも、梶山警部が、忘れろ、と命令したのは、尾崎警部補の報復説≠ノ関してであって、教授の第三者説≠ノ関してではない……。
もし咎《とが》められたら、そう言い訳しようと考えて、私は捜査本部に電話した。尾崎警部補を電話口に呼び出し、教授と面談した後、一体、どんな行動をして、どんな結末だったのか、尋ねるつもりだった。
ところが、電話番の回答は、尾崎警部補は捜査本部員の任から外され、すでに古巣に戻った、というものだった。
その冷たい口ぶりからすると、たぶん、電話番は大滝署員だったに違いない。
私は受話器を戻したまま、虚空を見つめた。脳裏に様々な光景が浮かんでは消える。
密談する梶山警部と阿久津管理官。冷ややかな眼差しの捜査員たち。肩を落として捜査本部を去る尾崎警部補の後ろ姿……。
私は再び、受話器を上げ、尾崎警部補の勤務する警察署に電話した。
受付の署員には、まだ任務解除の件は知れ渡っていないらしく、要領を得ないやり取りが続いた。それでも最後に、人事担当の警務係が電話に出て、本人が三日間の慰労休暇を取っていること、さらに、自宅に引きこもっているらしいことなどを教えてくれた。
私は電話ではなく、尾崎警部補に直に会って、話を聞こうと思った。なぜなら、態度や仕草を見なければ、発言の真意を見抜くことができないからだ。
尾崎警部補の自宅は市街地から離れた郊外にあった。大手の不動産会社が売り出した建売住宅で、道路の両側には、まだ派手なのぼりが立っている。
雑木林を貫く簡易アスファルトの路面。ところどころ、その割れ目から雑草が窮屈気な姿を見せている。
平日の午前中ということもあって、家々の庭先には干された洗濯物が風になびいていた。だが、主婦たちは屋内に引きこもっているらしく、人影はない。
狭い道路を住宅地図を頼りに、ゆっくりと車を進めて行くと、ジャージに長靴という姿の尾崎警部補を見つけた。首にはタオルを巻き、スコップで庭の土を掘り返している。私は車をネギ畑の横に停めた。
「やぁ、真っ直ぐ来れた?」
尾崎警部補は笑顔で迎えてくれた。
「はい。電話で教えられた通りにきましたから。……スコップの使い方が、お上手なんですね」
「当たり前だ。高校のころ、夏休みのアルバイトは道路工事専門だったからね。年季が入っている」
と言うと、スコップに足をかけて、
「もう少しなんで、このまま、続けさせてもらうよ」
「どうぞ」
「何を蒔《ま》くのか知らないが、今年は深く掘り返せってんでね。まぁ、菜っ葉作りは、女房の唯一の趣味なんで、言う通りにしている。これが終わったら、俺《おれ》の手打ちソバを食わしてやるよ」
「本当ですか? ソバは大好物なんです。嬉《うれ》しいわ」
私は喜んで見せてから、
「ところで、捜査本部勤務を解除されたそうですね?」
と、本題に入った。
「まぁな。リストラというところだ。経営不振の会社とご同様だよ。少数精鋭に改編するんだそうだ。じゃ、今までは、精鋭じゃなかったわけ? と言いたくなるけどね」
「ひょっとして、例の報復説のせいなんじゃないですか?」
「報復説? そりゃ一体、何のことだ?」
尾崎警部補は土を掘り返しながら言った。脳裏に一瞬、不機嫌な梶山警部の顔がよぎった。
「実は、私にも口止めがかかりました。それを承知の上で、お聞きしているんです。捜査会議で一体、何があったんです? 誰にも言いませんから、教えて下さい」
「誰にも言わないから教えてくれ、か……。捜査二課の君が、なんで、捜査一課のヤマなんかに首つっこむ? そんなに暇なら、県庁の飲んべぇ課長のことでも洗ったらどうだ? 噂《うわさ》じゃ、夜な夜な、ゼネコン業者らと派手に騒いでいるらしいぞ」
その噂は私の耳にも届いている。
「もちろん、二課勤務に復帰したら、本業に専念しますよ。でも、私は今、特命中なんです。教授のお手伝いをすることが、当面の任務なんです」
「だったら、円谷紅雲の資料でも漁ったらどうだ? そもそも、教授はそのために来県されたんだろう? いかに、警視庁で実績を上げ、警大教授にまで出世したからと言っても、ここは東京じゃないんだ。県警には県警の流儀というもんがある。頼みもしないのに、余計な口出しをするんじゃない」
と、まくし立てたかと思うと、一転して、
「とまぁ、ぶっちゃけた話、お偉方の反応は、こんな調子だったな」
と言って、ニッコリ笑った。私はホッとして、
「今日、お邪魔したのは、教授の第三者説について、捜査本部の対応というか、反応というか、それをお聞きしたかったからでもあるんです。いずれ、教授は私にお尋ねになることになると思いますので……」
「わかっている。俺はこんな風に外されてしまったし、実を言うと、どうしたもんか、と考えあぐねていたんだ。明月庵に押しかけて、あれこれ質問したわけだからな。それなりの事後報告をするんが、礼儀というもんだ。だから、君の方から申し上げてくれないか?」
「はい。承知しました」
「教授の第三者説、つまり、外国人の女たちを殺したのは、後藤以外にいるんじゃないのか、という説については、捜査会議で、俺は、いの一番に発表した。教授はこんな見方をしております、とね。だが……、今、言ったみたいに、会議場の空気は白けきっていた。雛壇《ひなだん》のお偉方なんか、寝たふりをしてね。要するに、わが県警の連中は、よそ者が嫌いなのさ。特に、東京者はね」
「…………」
「その点、俺なんか、生え抜きの土地っ子だろう? だから、親近感を持たれてる。お蔭《かげ》で、例の報復説を発表したら、大変な反響だった。大滝署の署長は苦笑いしてたけれど、刑事課長なんか、腕組みしてプイとあさって[#「あさって」に傍点]を向くし、捜査係長ともなると、拳骨で机をブッ叩《たた》いて、怒鳴り出す始末だ」
「つまり……、捜査方針は、これまで通り。変更なし、ということですか?」
「そうらしいな。野郎らにとっちゃ、警官が事件に関与してるなんてことは、口が裂けても言えないことなんだろうよ。ましてや、大滝署員が絡んでいるなんてことは、耳にするのも汚らわしいって、とこかな。つまり、タブーってわけよ」
「それで、いいんでしょうか?」
思わず、個人的不満が口に出た。
「よくないさ。しかし、よくなくても、現実が、そうなんだ。警察に限らず、お役所というところは全部、そうだ。いわゆる、組織防衛というやつさ」
「…………」
「だけど、考えてみれば、それも無理はない。たった一人の警官が悪さしただけで、全国津々浦々の警察まで非難される。全く不思議な話だ。これが、もし、新聞記者だったら、どうだろうか。単なる記者個人の行状として扱われ、新聞社の体質まで問題視されることはないと思うよ」
「…………」
「俺は別に、新聞社を非難しているわけじゃないよ。それどころか、新聞社の姿勢を見習え、と言ってるんだ。そろそろ俺たちも自らが、そういう意識を持つべき時期なんだよ。悪徳警官は断じて警察組織が生むものじゃないんだ。その人物の資質とか、人格の問題なんだ。そういうのは一般の警官とは異質なもんなんだから、排除すればいい。堂々と胸張って、叩き出せばいいんだ。かばい立てすることの方が、よっぽど恥ずべき行為だと思う」
と言うと、思い出したように腕時計を見て、
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ、女房が戻ってくる時分だ。夕飯には、ちょっと早いけれど、約束通り、手打ちソバを食わしてやる」
と言うと、家庭菜園にスコップを突き立てて、玄関に向かった。
夕刻、教授によろしく、と、尾崎警部補から新聞紙に包んだソバを渡された。
捜査会議の様子は知ることができたし、教授から質問されても、尾崎警部補の報復説に言及せずに、答えることができそうな気がした。もし、質問されたら、捜査幹部たちは興味を示さなかった、とだけ答えればよい。
その意味で、私は目的を達していた。大滝事件の捜査の善し悪しなんか、どうでもいい。恥をかくのは捜査本部であり、捜査一課なのだから……。
そう自分に言い聞かせたが、なぜか、腹の虫は治まらない。私は鬱憤《うつぷん》晴らしに、電話をかけた。
「何、怒っているのよ。ちゃんと説明してくれなきゃわからないじゃない」
久美子が言った。
「尾崎警部補のことよ。あなたも捜査会議には出席していたんでしょう?」
「尾崎……」
と言って、久美子が沈黙した。警察無線の音に混じって、管理官が何やら指示している声が聞こえる。そして、数秒後、
「一課には一課の……事情というものが、いろいろとあるのよ。あまり口出ししてほしくはないわね」
久美子が押し殺した声で言った。
「それはわかるわ。二課にも二課の事情というものがあるもの。でも、それを克服しようとして、前向きの努力をしている。少なくとも、課の都合で、事実を握り潰《つぶ》すようなことはしていないわ」
「ちょっと、待ってよ。それは聞き捨てならないわね」
久美子が向きになった。
「そうそう。その調子よ。ついでに、尾崎警部補の報復説についても、聞き捨てすることなく、真剣に議論してほしいわ」
と、負けずにやり返すと、
「また、その話?……」
久美子はうんざりしたように言った。そして、今度は、囁《ささや》くような声で、
「さっきも言ったように、こっちはこっちの台所事情というものがあるのよ。その時期が来たら、必ず説明するから……」
「忘れろ、とか、黙っていろ、とか、一課というところは、余程、口止めが好きなのね。まるで、半世紀前の秘密警察みたいだわ」
「な、なんですって……」
「そこまで口止めするなら、ご要望通り、沈黙を守ってあげてもいいわ。でも、久美子、同期のよしみで、一言だけ忠告しておくわ。これは、二課の研修で勉強したことだけど、汚職や収賄は、いくら巧妙に隠しても、いずれはバレるものなのよ。それに、公務所は、そういう不祥事を隠したがるけど、あれは、幹部が責任逃れのために隠すだけのこと。彼らの本音は、自分の在任中にバレなければいい、と思っているだけなんですってよ。その結果、どうなるかと言えば、責任を取るべき立場の人間は、たっぷりと退職金をもらい、年金生活を送るころになって、不祥事が明らかになる。残された後任者たちは、その時になって、そのツケを払わされることに気づくわけよ。でも、後の祭。奴らは、シメシメと舌を出して」
「もういいっ。よくわかったわ」
久美子が遂に怒った。
「今夜、七時、イブに来てっ。時間に遅れないようにねっ」
と言うと、一方的に電話を切った。
イブ≠ニは南欧風のパブで、東京の六本木にある店を真似た女性に人気の店だ。
メニューにはアルコール類もあるが、酔った客は入店を断られる。もちろん、煙草はダメ。大声を出したり笑ったりしたら、即座にフロアマネージャーに摘み出される、という店である。
七時の約束だったので、近くの喫茶店で時間調整し、五分前に店に入った。
蝶《ちよう》ネクタイをしたボーイに、待ち合わせであることを告げると、名前を聞かれ、すぐに店内に案内された。
十四、五席というテーブルは、ほぼ満席だった。空席にも、予約席≠フ三角プレートが立ててある。
ボーイは、私の先に立って、窓寄りの席に向かった。そこにアベックが一組。目を凝らすと、一人は久美子だった。
テーブルの手前でボーイが立ち止まり、二人に会釈した。ほぼ同時に、男が立ち上がった。私は息をのんだ。それが誰か、県警本部の女の子なら、知らぬ者はいない。
久美子は私に気づくと、腕時計を見て、
「時間通りね。いかにも、まゆみらしいわ」
と言うと、連れの男を見上げて、
「彼のことは知ってると思うけど、一応、紹介するわ。うちの課の本郷君。例の件で尾崎警部補とペアを組んでいたのよ。それで、来てもらったの」
「そ、そう……」
予想していなかったことなので、少し慌てた。本郷刑事は私に目礼して、
「初めまして。一課の本郷達也です。お見知り置きを……」
間近で見ても美男。スラリと伸びた長身に紺のスーツがよく似合う……。
「二、二課の藤山まゆみです。こちらこそ、よろしく」
と返礼して、つっ立っていると、椅子《いす》に手をかけたボーイが、どうぞお座りを、と促した。
「何か、食べる?」
久美子が言った。
「え? ええ。じゃ……、同じものを」
と、ボーイに注文すると、
「ずいぶん、おとなしいじゃない? さっきの電話とは大違いだわ」
久美子が皮肉たっぷりに言った。
そんなことはない、と言おうとしたのだが、本郷刑事がシャンパンのボトルを差し出していた。私はグラスを差し出した。
三人で乾杯。二課の打ち上げなんかで、脂ぎった中年に囲まれて飲むビールとは、一味も二味も違った。
もう一、二杯、続けて飲みたかったのだが、
「野暮なようだけど、先に用事を済ませるわ……」
久美子が言った。
「さっき、まゆみの言ったことだけど、あれは全部、誤解よ。それだけは、はっきりと言っておくわ」
「結論だけを繰り返して洗脳できるのは、ヒトラーのユーゲントたちだけよ」
我ながらキザな言い回しだ。今夜は一体、どうしてしまったのか……。
「もう酔っぱらっているの?」
久美子は冷ややかに笑って、
「梶山広報が、口止めする、と言った時、私は危ないと思ったのよ。二課の人間なんだから、二課の上層部を通すのが筋。まゆみも、そう思ったでしょう?」
「ええ、まぁ……」
「それなのに、今は、日の丸教授の専属だから、個人的に働きかけた方がいい、なんて言って……。話が広がることを懸念するのは間違いじゃないけど、戦術が甘すぎるわ。結局は、私や本郷君が、こんな風に苦労する羽目になる……」
と唇を噛《か》むと、
「桜木|長《ちよう》さん。順序立ててお話ししないと、おわかりいただけないと思いますが……」
本郷刑事が甘いテノールで言った。
「そうね……」
久美子はシャンパンを飲み干した。そして、
「日の丸教授が一色温泉に滞在している本当の理由を、あなたは知っているの?」
「本当の理由?……円谷紅雲の死の真相を調査するためじゃないの?」
「表向きはね。でも、自他殺の判定のためなんかじゃない。単に、他殺説を強調するためなのよ。それによって、自殺として終止符を打たれた円谷画伯の死が話題になればいいわけよ」
「なぜ、警大の教授が、そんなことをしなければならないの?」
「目的はただ一つ。第一次的には、わが捜査一課、と言うより、わが県警の評判を落とすためね。つまり、県警をダシに使って、凶悪事件の少ないローカル警察では、経験も人材も乏しいので、自他殺の判定もできない、と、まぁ……、そんな風に思わせることが本当の狙《ねら》いなのよ」
「バカな……。あなたたち、本気で、そんなことを考えているの?」
と、本郷刑事を見ると、
「実は、これは僕たちの推測ではないんです。信頼できる筋からの情報なんですよ」
「信頼できる筋?」
「そうです。具体的には申し上げられませんけど、確度の高い内部情報なんです」
「…………」
「教授はFBIシステム導入論者なのよ」
久美子が言った。
「つまり、今の県警相互の協力というシステムじゃなく、中央集権的な新システム。言わば、日本FBIを設立して、広域犯罪に対抗しようというわけ。教授はそういう提案を、もう十年も前から主張しているらしいわよ。でも、実現の見込みは全くない」
と言うと、フンと鼻を鳴らして、
「当たり前よ。目に見える実害が発生しなければ、腰を上げないというのが、日本古来の伝統ですものね。これは、官民共通。しかも、喉元《のどもと》すぎれば熱さを忘れてしまう。オウム事件捜査で、あれほど貴重な教訓を得ても、結局は、管轄区域外捜査、という改革しかもたらさなかったでしょう?」
「…………」
「教授は、県警単位の捜査力では限界があるということを、アピールしようと考えているのよ。円谷画伯の死を引き合いに出してね。円谷画伯が自殺か他殺かなんて、実はどうでもいいわけ。要は、ローカル警察がいかに創意、工夫、努力をしたところで、全国レベル世界レベルの、ビッグで、ワイドな事件に対応するには限界がある、ということを関係向きに知らしめたいわけよ」
「信じられないわ……」
私は一連の出来事と、久美子の話を頭の中で整理してみた。すると、大きな矛盾が一つ。
「いいわ。百歩譲って、あなたたちの言う通りだとしてもよ。それは円谷画伯に関してのことでしょう? 大滝の連続殺人とは関係ないじゃない。私が問題にしているのは、捜査本部の尾崎警部補に対する処遇よ」
と、自分では原点に戻すつもりだったのだが、
「尾崎警部補のことは、ひとまず、切り離して考えてもらいたいんです」
本郷刑事が口をはさんできた。
「その上で申し上げますが、教授は言うなれば、牛を馬に乗り換えたんです。つまり、十数年前の円谷画伯の件より、大滝事件の方が都合がいいわけですよ。何しろ三人、いや、四人も殺されているわけですからね。しかも、未解決。アピールするには、絶好の対象です。その証拠に、教授は円谷画伯の調査はしている様子がないでしょう?」
「え? ええ……」
「尾崎警部補に対しては、気の毒だと思います。でも、いくら仕事熱心でも、あの報復説は困りますよ。……大滝署の中に、後藤の恨みをかっている警官がいて、犯行の動機は、その恨み。しかも、その警官は当初から、犯人は後藤であることに気づいていながら、口を閉ざしていた……なんて、これじゃ、地元署なんかに任せられない、と宣伝しているようなもんじゃないですか。しかも、内輪の話ならともかく、よりによって、教授のところへ押しかけて、そのような仮説を宣伝するなんて……。鴨《かも》がネギを背負って行ったようなものです」
「他意はなくても、正直すぎるわ」
久美子が続けた。
「尾崎警部補には発言の政治的側面という認識が欠如しているのよ。上層部が任務解除したのも、私にはわかるわ。でも、教授が東京へ帰ったら、呼び戻すことも検討する、と管理官は言ってた。これで納得できたかしら?」
「納得できたか、と言われても……。目の間をトンカチで殴られた気分だわ。……注いでちょうだい」
私はシャンパングラスを本郷刑事に向けて差し出した。そして、揺れる琥珀《こはく》色の液体を見つめながら、
「ところで、久美子。その教授の狙いとやらを知ったのは、いつのことなの?」
と尋ねると、
「ごく最近よ。知っていて黙っていたわけじゃないわ。もっとも、黙っていろ、というのが、一課上層部の方針。何しろ、あなたは忌まわしい日の丸教授の臨時助手。ポロリと漏らされたら、厄介なことになる」
「なのに、私に話したの?」
「そうよ。承知の上での命令違反。バレたらただじゃ済まないわね」
「驚いたわ。大丈夫なの?」
「さぁ、どうかしら? ただ、私は一課にも、骨のあるデカ長がいることを、二課のデカ長さんにわかっていただきたかっただけのことよ」
キザな言葉だが、一応、様になっている。久美子は、いつもとは違う颯爽《さつそう》とした雰囲気を漂わせていた。
本郷刑事の前で、私だって……。
そんなことを考えていると、先程のボーイが料理の乗ったワゴンを押してきた。
久美子の話を聞いてから、教授に会うのが怖くなった。となれば、当然、足は遠のくことになる。
私は何かと急用を拵《こしら》えて、これまでの代休を消化したり、仮病を使って早退したりした。だが、逃げれば逃げるほど、嫌なことは追いかけてくる。ある日、私は上司の呼び出しを受けた。
てっきり小言だと、覚悟していたが、相沢警部は、誰もいない資料室に私を呼び込み、椅子《いす》に座らせると、心配そうな顔で、
「近頃、元気がないようだけど、体の具合でも悪いのか?」
と、尋ねてきた。
「体の具合? いいえ」
私は首を横に振った。すると、
「じゃ、何か、悩み事でもあるのか?」
「いいえ」
「もし、仕事の関係で、何か悩み事があるのなら、遠慮なく言ってほしい」
「別にありませんけど……」
一体、何を心配しているのだろう。
「君には教授の助手という仕事をしてもらっているが、教授の部下じゃない。あくまでも、私の直属なんだ。もし、何か無理なことを言われたら、遠慮することなく拒否してもらいたい。また、そうしてもらわないと、私が困るんだ」
「…………?」
「もし、今の任務を下りたければ、いつ下りてもいいんだよ。元々、そういう条件なんだから……」
しめた、と思った。ところが、
「上から何と言われようと、やっぱり男の警官をつけるべきだったんだ。迂闊《うかつ》だった……」
と言って、相沢警部は唇を噛んだ。
なんてことだ。教授にセクハラ疑惑が浮上している。しかも、被害者は、この私。今の任務から下りたいことには違いないが、しかし、ここで下りたら、教授のセクハラ疑惑を私が認めることにならないかしら?
「言いにくかったら、無理に言わなくてもいいよ。こういうことは言いにくいことだ。こんな時、有馬君がいてくれたらなぁ……」
と、ため息までついている。有馬とは、産休中の有馬先輩のこと。そろそろ朗報が届いてもいい頃なのだが……。
「ま、今更、泣き言を言っても、始まらない。俺の方で責任をもって処置する。お偉方だって、事情を話せば、嫌とは言えないはずだ。任せてくれ」
相沢警部は独り合点して、腰を浮かしかけた。
まずい、これじゃ、冤罪《えんざい》になる……。
「あ、あの……」
私は言った。相沢警部は中腰の姿勢のまま、顔だけ私の方に向けた。
「今の仕事は……気に入っていますけど」
気がついた時は、そう口走っていた。お人好しのバカ者だ。セクハラで教授を追放できれば、願ったり叶《かな》ったり。私は二課勤務に復帰できるし、久美子たちからも感謝されるではないか……。
「何だと?」
相沢警部は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「別に、教授は私に無理なことをおっしゃったりしていません。それどころか、いろいろと気を遣っていただいております」
「…………」
探るような眼差し。そして、何らかの説明を求める沈黙。
「ここのところ、家庭上のことで、ちょっとありまして、沈んでいたのは、それが原因で、その……」
「……家庭上の?」
「はい。別に大したことじゃないんですけど……」
「…………」
「実は、その……、妹と、ちょっと……、犬の散歩の当番について、その……」
その場しのぎの、口から出任せだった。我ながら間抜けなことを言ったと思う。しかし、犬の散歩のことくらいしか、咄嵯《とつさ》に思いつかなかったのだ。しかし……、どういうわけか、それが知能犯のプロには真実味を帯びて聞こえたようだった。胃弱のため、いつも蒼白《そうはく》な顔に、今日は珍しく赤みがさしている。
「……犬の散歩だと?」
相沢警部は念を押すように尋ねた。
「は? あ……、はいはい」
と返事すると、
「バカ者っ。そんな下らない問題を職場に持ち込むなっ」
久しぶりの雷。
「すみません」
私は立ち上がって頭を下げた。
なぜ私は謝っているのだろう?
「もういいっ。さっさと九十九旅館に向かえっ」
相沢警部は顎《あご》をしゃくった。
「は、はいっ……」
私は追い立てられるようにして資料室を飛び出した。
実は、相沢警部があれこれと気を回すには、それなりの伏線があった。
教授は一昨日《おととい》の夜と、昨日の午前と午後の、合計三回。二課へ電話してきて、私と早急に会いたい旨の連絡をしてきたそうだ。
エレベーター待ちしている時、後を追いかけてきた事務担当の後輩が、そう教えてくれた。
私の足は疎《すく》んでいた。
教授が、どんな理由で私と会いたがるのか、それが不気味だった。
旅館の駐車場で、一時間近くも、あれこれ思いを巡らせた後、私は意を決して車から降りた。覚悟を決めたわけではない。もたもたしていたら、日が暮れてしまう。只《ただ》でさえ怖いのに、夜になったら、もっと怖くなると思っただけのことだ。
いつも通り、大玄関から中庭に抜け、明月庵へ向けて、重い足を進めていると、後方で、
「藤山まゆみさん……かしら?」
という女性の声がした。振り返ると、和服を着た五十前後の女性が立っていた。見たことのない顔だ。
「そうですけど……」
と答えると、
「やっぱり……」
その女性は値踏みするような眼差しを向けながら近づいてきた。やがて、私の前に立つと、
「初めまして、日丸の家内です。このたびは、主人がいろいろとお世話になっているそうで、ありがとうございます」
と、丁寧に頭を下げた。
教授夫人?……。なぜ、ここに?……。
思いがけない事態に、私は呆気《あつけ》に取られた。
そんな私を、どう見たのだろう。顔を上げた夫人は、私を見つめたまま、微《かす》かに頭を傾《かし》げた。私は我に返り、
「ご、ご丁寧に、恐れ入ります」
と、夫人よりも深く頭を下げた。夫人は明月庵の方をチラリと見てから、
「わがままで、勝手なことばかり言うでしょう? 適当に手を抜いて下さいね」
「いいえ。お手伝いと言っても、車の運転くらいのものですから」
「車の運転?」
「はい。それも、ほんの数えるほどしか、お乗せしていません」
「そう……」
と頷《うなず》いて、
「あの人のことだから、若いお嬢さんに、何だかんだと、甘えているんじゃないかと思って、心配しておりましたの」
「とんでもありません。ご迷惑をおかけしているのは私の方です」
「……あなたが?」
「はい。個人的な理由で、ここのところ、ずっと休んでいたものですから、先生のご用を果たすことができず、ご不自由をおかけしたようです」
「不自由を? そうかしら?」
夫人が不思議そうに首を捻《ひね》った。
「一昨日と昨日、三回も、デスクの方に電話をいただいたそうです」
「一昨日と昨日?」
と、夫人は一瞬、宙を見つめたが、すぐに頷き、最後に笑い出した。そして、私と目が合うと、
「ごめんなさい。ちょっと思い出したものだから……。あなた、それで今日、お見えになったわけ?」
「はい。そうです」
「そう。それはご苦労さま。でも、たぶん、今日は、そんなに大事な用事じゃないと思うわよ」
「どういうことでしょう?」
「主人は、私を藤山さんにお引き合わせするために、お呼びしたんだと思うわ」
と言うと、口の前で手を斜に構え、再び笑い出した。
明月庵の玄関の手前で、いつものように声をかけると、奥の襖《ふすま》が勢いよく開いて、ステッキも持たずに教授が現れた。
「おうおう、よく来てくれたな」
まるで少年のような笑顔だった。これが、わが県警を犠牲にしてまで、FBI構想の実現を企《たくら》む顔だろうか?
だが、その笑顔も、私の後方を見ると、一瞬にして真顔に戻った。
「嬉《うれ》しそうなお顔ですこと。何十年振りかで拝見しましたわ」
夫人は私の脇《わき》をすり抜けて、玄関から上がり、草履《ぞうり》を直した。教授が手招きしながら、私に近づいて来る。すると、
「何でしたら、もう一度、散歩に出ましょうか?」
再び、夫人の声。教授は弾《はじ》けたように私から離れた。そして、
「まぁ、ともかく、上がってくれ」
と、ぎこちない態度で言った。
言われた通り、私は座敷に上がり、教授と夫人の中間地点に座った。
いつもに比べ、部屋の中は整然としている。畳の上には塵《ちり》一つ落ちてはいない。部屋の隅の方に丸めてあるはずの丹前も、今日は衣紋掛けに、きちんと掛けてあるし、手拭《てぬぐ》いも、ピンと伸ばして手拭い掛けに干してある。
「主人が一人で旅に出たのは久しぶりなんですよ」
夫人がポットの湯をきゅうすに注ぎながら言った。
「ここ十年ほど、私を必ず連れて行くんですけどね。今回は、どういうわけか、久しぶりの一人旅。この人、外見に似合わず、そそっかしいんです」
「…………」
「かなり昔のことですけど、お風呂の水を出しっぱなしにして、ホテルを水浸しにしたりしましてね。大変な騒ぎでした。それから、去年は伊豆のホテルで、部屋の中に鍵《かぎ》を置いたままドアを閉めてしまいましてね。フロントに説明すればいいのに、見栄を張って、窓から入ろうとして、泥棒と間違えられたんですよ」
「つまらんことを言うなよ。この人とは関係ないことだろう?」
教授が口を挟んできたが、
「関係ないことはないですよ。藤山さんにお世話してもらっているんだから、そそっかしいということをわかっていただかないと」
「世話じゃない。助手だよ。臨時の助手だ。世話だなんて、彼女に失礼だろう?」
「臨時の助手? 確か……、金沢にいらした時は、臨時の秘書でしたわね。あの時も最初は……」
と言いかけた時、
「おい、よせよ。もう十年も前のことだろう? とっくにケリはついてるはずだ」
教授が上気した顔で言った。
「ま、いいでしょう。ともかく、公私のけじめだけは、きちんとつけて下さい。真夜中に歯が痛くなったから、臨時の何とかのアパートに押しかけた、なんて、そんな言い訳は通りませんよ。誰も納得しませんからね」
「わかっているよ」
教授は口を尖《とが》らせた。
その後、夫人は私の家族のことや、仕事のこと。それから、付き合っている友人のことや、将来の夢のことなどについて、私に質問したのだが、教授はその間、部屋の隅で、おとなしく座っていた。
夫人は夕刻に帰京する、ということだったので、駅までお送りすることにした。
一色温泉から東京行きの新幹線の停車する城山駅まで、一時間あまり。夫人は、空の青さが目にしみるようだわ、と、ため息まじりに何度かつぶやいた。
そして、朝晩は結構、冷え込むわね、と言って、長い沈黙に陥ったのは、九十九旅館を出てから、三十分もたったころだろうか。
私の車は二車線の県道上で、時ならぬ渋滞に巻き込まれていた。普段であれば、高速道路のようにスイスイ飛ばせる田舎道も、逃げ出した乳牛が道の真ん中に座り込んでいたり、大型トラクターがエンストしたりした場合は、迂回《うかい》路がないだけ始末が悪い。この時は、乗用車同士の単純な追突事故だったが、百メートルの車列はピタリとも動かなかった。
「先生はいつ、ケガをされたんです?」
私は、世間話をするような調子で、足のことを尋ねてみた。数時間前、教授が玄関に出てきた時、いつものように足を引きずっているようには見えなかったからだ。
「ケガ?」
夫人は一瞬、キョトンとした顔をしたが、
「ああ、足のこと? あれは確か……、四年前だったかしら」
「四年前?」
「自業自得なのよ。タクシーから降りた時、酔っていたものだから、よろよろっとよろけて、側溝に片足を突っ込んだの。落語好きの医者から、酔っ払っても六方(六法)を踏むとは、誠にもって仕事熱心ですな、なんて、ダジャレまで言われて」
「酔って? 公傷じゃなかったんですか?」
「とんでもない。結婚式の披露宴に出席した帰りだもの。それも、披露宴の後、二次会で飲んだのよ」
「…………」
やはり、私の目は正しかった。あの足は悪くなかったのだ。これで、教授の嘘《うそ》が一つ明らかになった。
「それが、最近になって、急に痛い、だなんて言い出して……」
夫人は続けた。
「だから、温泉で湯治、という話を聞いた時、何か、よからぬことを企んでいるな、と思ったのよ。でも、どうやら、外れたみたいね。それとも……、私、うまいこと騙《だま》されたのかしら?」
と言って、ルームミラーの夫人は私を見つめた。ここは立場上、弁護するしかない。
「そんなことはないと思います。先生は、湯治のためだけじゃなく、円谷紅雲のご研究にも精を出されています」
「円谷紅雲?」
「十何年か前に亡くなった日本画家です。今のところ、自殺が定説ですけれど……」
「亡くなったって、一色温泉で?」
「はい。もっとも、紅雲は花沢温泉に滞在していたんですけど、死に場所は一色温泉だったんです」
「花沢温泉?」
「隣の県にある温泉地です。やはり湯治場なんですが、どういうわけか、紅雲は一色温泉に来て自殺しているんです。ところが、どこの誰を訪ねたのか、いまだに、わかっていません。愛人の夫の目を眩《くら》ますために、自分は花沢温泉に逗留《とうりゆう》し、愛人を一色温泉に泊めおいたのだ、と言う人もいますし、単に死に場所を探していただけだ、と言う人もいるんですが、はっきりしたことは、今もわかりません。謎《なぞ》なんです」
「そう。主人は、それを調べに?」
「はい……」
一応、表向きの理由は、そういうことになっている……。
「先生は奥様に、そういうことをお話しにならないんですか?」
「何も言わないわ。昔から、どちらかと言えば、口は重い方ね。それに、私が聞いても、主人は、よほどのことがない限り、仕事の話はしないわ」
「今度のことも、ですか?」
「今度のことって、その亡くなった絵描きさんのこと?」
「ええ、まぁ……」
「一言も言わなかったわね。まぁ、殺人事件の現場か何かを見るためかな、と、漠然と思ってはいたけど、あの人は、さっき言ったように無口だから」
殺人事件?……。
意外な言葉だった。一体、何の殺人事件なのだろう。ひょっとして……、と思った時、
「主人の逗留している温泉の近くで、殺人事件が何件も発生しているんでしょう?」
と、夫人が言った。
私は息をのんだ。でも、一応、念のために、
「奥様は、こちらに来られて、それをお知りになったんですか?」
と、確かめた。すると、
「前から知っていたわ。主人が出発する前に、新聞の切り抜きをしているのを、こっそり後ろから覗《のぞ》いたのよ。そしたら、殺人事件の記事ばかりを熱心に集めていたの」
「それは、大滝事件の?」
「そうそう、大滝、大滝……。思い出したわ」
「…………」
何ということだろう。教授は大滝の事件を知っていたのだ。これで、二つ目の嘘が明らかになった。
「先生は、その殺人事件について、何か、おっしゃっていましたか?」
「何か、とは?」
「何でも、いいんです。警大の教授というお立場なわけですから、何か、おっしゃっているのなら、捜査の参考になります。何でしたら、オフレコということで……」
「オフレコ?」
夫人はクスリと笑って、
「あいにくだけど、特に言わなかったわね。もともと、主人には関係ない事件なんでしょう?」
「ええ、まぁ……」
「それじゃ、言わないわ。あの人は、他の人が担当している事件については、何も言わない人なんです。いつだったかしら、あれは、まだ警視庁にお世話になっている頃だったけど、こんなことがあった……」
と言うと、夫人は遠くを見つめるような眼差しをして、
「板前が魚屋の悪口を言うのは構わんが、コックの悪口を言ってはならん。それが、同じ料理人としての礼儀というものだ……、なんて、若い刑事さんに話しているのを聞いたことがあるわ」
「…………」
「まして、こちらの警察の事件となると、コックどころか、板前同士というような関係になるわけでしょう? あの人の性格じゃ、私にも話さないでしょうね」
「でも、奥様……」
私は食い下がった。一課のためでなく、刑事部、いや、県警のために。
「悪口ではなく、その反対、つまり、褒め言葉なら差し支えはないでしょう? 例えば、料理の味は良くないが、限られた材料で、よくこれだけのものを作った、というようなことなら、おっしゃっても、料理人の礼儀に背くことじゃないと思いますけど」
「…………」
「大滝の事件は表面上、解決しているんです。先生は、そのことについて、お褒めになるようなことをおっしゃってはいませんでしたか?」
「なぜ、そんなに、あなたは主人の言葉にこだわるの?」
夫人は不思議そうに尋ねた。
「それは……」
一瞬、本当の理由を話そうか、と思った。正直に打ち明ければ、教えてくれる……。夫人はそんな雰囲気の持ち主だった。
だが、事は個人的な問題ではない。
「一課に殺人事件の捜査をしている友人がいるんです。もちろん、女性で私とは同期なんですが、この前、会った時、先生がどんな感想をお持ちなのか、と、気にしていたものですから……」
と、作り話をすると、
「そう……」
夫人はにっこり微笑《ほほえ》んで、
「たぶん、主人は、心の中で褒めていると思うわよ」
「…………」
「そうでなければ、その何とかと言う絵描きさんの調査で、今は、頭の中がいっぱいなんだと思うわ。そんなに気になるのなら、直接聞いてみたら?」
「直接、ですか……」
どうも質問の仕方が悪かったらしい。
私は話題を変えることにした。
だが、その時、後方でクラクションが鳴った。渋滞していた前方の車列が動き出している。私は静かに車を発進させた。
やがて、事故現場。話の続きを始める前に、夫人は二十年も前の事故体験を語り始めた。身振り手振りを交えて説明する夫人の話に、なかなか割り込むことができない。
そうこうしているうちに、車は駅に到着してしまった。私は駅の構内からホームまで同道したが、乗車券の購入やダイヤの確認。そして、お土産選びの相談に忙しく、話どころではなかった。
やがて新幹線が到着……。
東京に来た時は、必ず寄るんですよ、と言い残して、夫人は車中の人となった。
窓越しに、私は手を振って見送った。そして、列車が遠ざかり、ホームが再び、静けさを取り戻したころ、私は九十九旅館に電話を入れた。
夫人が無事、電車に乗車したことを伝言してもらうつもりだったのだが、逆に、旅館に戻れ、という教授からの伝言を受けることになった。
忘れ物なら、もう間に合わない、と言いたかったが、相手がフロント係では、そうもいかない。
一体、どんな用事なのだろう? そもそも、教授は何のために、私を夫人に引き合わせたのだろうか?
私には見当もつかず、またまた不安だけが募った。
上司に相談しなかったのは、時間的な理由もある。
午後八時は、当直を除けば、すでに退庁している時刻。と言うより、酒場で、ぐい飲みやジョッキから、カラオケのマイクへ手が伸びる時刻だ。
元々、私の不安感は漠然としたもので、言うなれば、女の勘にすぎない。となれば、話の通じない中年男なんかに相談するより、女は女同士。それに、捜査本部には決まった退庁時刻はない。
電話番が、お待ちを、と言って数秒、久美子の声がした。
「そう。とうとう尻尾《しつぽ》を掴んだの」
久美子が言った。
「尻尾なのか、頭なのか……」
私はため息をついて、
「正直なところ、何が何だかわからないわ。まだ整理できていないんだけど、まぁ、一面的に見れば、あなたたちの読みが外れているとは言えないみたいね」
「回りくどい言い方ね。何を言いたいのかわからないわよ。具体的に、どう外れていないのかしら?」
「まず、足の古傷が痛むというのは、仮病らしいわ。仮に痛みがあったとしても、湯治というのは、温泉旅館に逗留《とうりゆう》するための口実でしょうね」
「やっぱり……」
「次に、大滝の事件についてだけど、どうやら教授は前々からご存じだったみたいよ」
「前々から、とは、いつ頃から?」
「東京にいる頃からよ。つまり、本郷刑事が言うように、円谷画伯の件から、大滝事件に乗り換えたわけじゃないのよ。標的は最初から大滝事件だったというわけ」
「本郷刑事の見解じゃなく、一課の若手の最終結論よ。ま、それはともかく、確かに、まゆみの言う通りかも知れないわね。警大の教授の立場なら、全国の捜査情報は簡単に入手できる。円谷画伯の件はダミーだった、と考えた方が自然だわ。……それで?」
と尋ねられて、私は現在、直面している不安を思い出した。しかし、どう説明したら、わかってくれるだろうか?
考えあぐねていると、
「何か……あったの?」
久美子が小声で尋ねた。
「別に、そういうわけじゃないけど」
私は電話コードを何度か捻《ひね》って、
「これから、教授のところへ行かなくてはならないんだけど、もう夜だし……」
と告げると、
「これから? もう八時を過ぎているじゃない……。明日にしてもらったら?」
「そうしようとも思ったんだけど、明日で済む用なら、今夜、来い、とは言わないでしょう?」
「そりゃそうだけど……。明月庵に直接、電話はつながらないのね?」
「インターホンもないわ。あると、安易に使うことになるから、という理由で、外してしまったらしいのよ。だから、フロントも、よほどの大事じゃないと、伝言は受け付けない」
「弱ったわね……。ちょっと待って……」
と言って、久美子は受話器を塞《ふさ》いだ。そして、しばらくしてから、
「わかったわ。こっちは、直にお開き[#「お開き」に傍点]になるらしいから、私が付き合ってあげる」
「付き合う? でも……、それじゃ、教授が変に思うわ」
「明月庵の中までは付き合わないわよ。入口のところで、耳を済ましているわ。もし、まゆみの危機が訪れたら、飛び込んで行って、回し蹴《げ》りか、正面突きを食らわしてやる」
久美子が巻き舌で言った。
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スキャンダル
九十九旅館に到着するのは、久美子の方が一足、早かった。捜査本部勤務の彼女の車には、脱着式の赤色灯とサイレンが装備されていて、いざと言う時には、緊急走行、という奥の手がある。
奥の手は、それだけではない。久美子はダッシュボードの中から超小型の送信機を取り出すと、有無を言わせずに、私のハンドバッグに仕掛けた。
私はすぐに、それを外そうとした。確かに、明月庵の外部から、中の様子をモニターするには重宝な道具だ。しかし、何しろ、相手は警視庁OBの警大教授。ブランド会社のロゴマークか、それを装った送信機か、一目で見抜いてしまうに違いない。となれば、むしろ逆効果であり、無礼にもあたる。
すると、久美子は言った。
「わざわざ部屋の中まで持って入る必要はないわ。玄関先でも、次の間でも構わない。適当な場所に置けばいいのよ。素人じゃないんだから、どの辺に置いたら電波の飛びがよいか、それくらいは見当がつくでしょう?」
さすがは、日頃から情報収集に苦労しているだけのことはある。この辺のノウハウは、二課の仕事にも応用できそうだ。
私はハンドバッグに向かって、本日ハ晴天ナリ、を三度ばかり繰り返して、送信機が正常に作動することを確かめてから、明月庵に向かった。
夜、明月庵を訪れるのは初めてだった。
暗闇《くらやみ》の風景を想像していたのだが、築山も瓢箪池も、本館に設置された照明装置によって、見事にライトアップされている。
明月庵に至る小道も、足元を照らす明かりによって、趣ある風情を浮かび上がらせていた。
玄関前を五分ほど行き来してから、意を決して、奥に向かって挨拶《あいさつ》すると、例によって、上がれ上がれ、の声がした。
私は取次に立って、辺りを見回した。すぐに、廊下の窓側にあるフックが目に入った。その位置と、久美子のいる駐車場の間に、電波の障害物になりそうなものはない。
私はそのフックにハンドバッグを掛け、マイクを座敷の方へ向けた。
これで、よし……、と思う一方で、電池切れの心配はないのかしら? などと、ついつい考えてしまう。
襖《ふすま》の前で、
「奥様は無事、新幹線に乗られました」
と、改めて報告すると、
「ありがとう。まぁ、中へ入ってくれ」
教授が答えた。
まず、襖をほんの少し開けてみた。アルコールの臭いはしなかったし、寝具も敷いてない。それを見届けて、今度は襖をいっぱいに開けた。この方が、いざという場合、逃げやすい。
夫人が去って、まだ数時間しか立っていないというのに、部屋の中は、もう散らかっていた。
座卓の上には楊枝《ようじ》が散らばり、畳の上に開いたままの新聞紙。きちんと重ねてあった座布団も乱雑に並べられ、そのうちの一枚は二つ折りになっている。夫人が消えたら、早速、昼寝、の状況証拠だ。
事実、教授は寝癖のついた髪のまま、いつものように、文机《ふづくえ》で書きものをしていた。やがて、私の方を振り返って、
「今日はすまんかったなぁ。女房が、東京へ戻る前に一度、君に会いたい、と言うもんだから、来てもらったんだが、タクシー代わりまでしてもらって……」
「いいえ。いいんです」
そんなことより、私を呼びつけた用件を言ってもらいたい。外では、久美子が耳を澄ましているのだから……。
「これは……私の気持ちだ……」
教授は文机の端にあった小さな紙包みを取って、座卓の上に置いた。大きさから見て、四つに畳んだお札に違いない。
「そういうことをされると困ります」
私は固辞した。当然のことだ。すると、
「いいから、いいから、大先輩の言うことは聞くもんだ……」
教授はその紙包みを手に持って、私に近づき、無理やり握らせようとした。
「や、やめて下さい、先生。そういうことをされては困りますっ」
私は後ずさりしながら、教授の手を振り払おうとした。その時、脳裏にハンドバッグの送信機が浮かんだ。
久美子は、あれで結構、そそっかしいところがある。勘違いして、今、踏み込まれたら、まずい。
そう考えて、やむなく、
「わかりました。一応、お預かりします」
と、紙包みを受け取った。
教授は満足そうに微笑《ほほえ》んで、座卓の横に腰を下ろした。
「今夜、わざわざ来てもらったのには、それを渡すためじゃない。折入って頼みがあるからなんだ。まぁ、突っ立っていないで、座りたまえよ」
「はい……」
私は紙包みを握ったまま、その場に膝《ひざ》をついた。
「捜査本部にいる君の友達だけど……、確か、桜木君と言ったかな?」
思いがけない久美子の名に、ドキリ、とした。
「違ったかな?」
「は? いいえ」
「…………?」
一体、どっちなんだ? という顔。
私は改めて、
「先だって、大滝署の署長と阿久津管理官の供をしてきた者であれば、桜木久美子と申す者です」
と答えると、
「そうか、で、どうだろう? ここだけの話だが、彼女は信頼できる人物かね?」
「は……、はい。もちろんです」
耳を澄ましている久美子のことを思えば、そう答えざるを得ない。
「でも、自分の頭で考え、行動するタイプじゃないだろう? どちらかと言えば、イエスマンじゃない?」
一体、今日は何という厄日なのだろうか。これじゃ、背中に拳銃《けんじゆう》を突き付けられているのと同じことではないか……。
「職場が違いますので、はっきりしたことはわかりませんが、少なくとも、上司の顔色を窺《うかが》うような人物ではありません」
とでも言わなければ、後で、どんなしっぺ返しを受けるか、わからない。
「そうか。それはよかった。実は、彼女を内密に、ここへ呼んでもらいたいんだけど、その根回しをしてくれないかな」
「い、いま、すぐに、ですか?」
「いや、そんな無理は言わないよ。こんな時間じゃ、もう帰宅して、化粧を落としているだろう」
「…………」
「明日でも、明後日でも構わない。彼女の都合のいい時で結構だ。ただ、早い方がいいんだが」
「わかりました。話してみます。で、どのようなご用件でしょうか?」
「内々に聞いてもらいたいものがある。だが、それが何かは、今は言わん方がいいと思う」
「…………」
「それから、できれば、もう一人くらい。これは、一般職だと好都合なんだが……、でも、あまり欲をかくと、あぶはち取らずになるからな。慎重を期して、そうだね、警務、総務あたりに、誰か信頼できる知り合いはいないか?」
「警務、総務……」
「そう。警務課や総務課なら、比較的、一般職と交流が多いだろう?」
「あの……、一般職の知り合いなら、一人いることはいますけど」
もちろん、菊村澄江のことだ。
「いる?」
「はい。科捜研の研究員なんですが、現在は、鑑識の方に一時派遣されています」
「鑑識課派遣の科捜研……」
教授の目が一瞬、宙を泳ぎ、
「そりゃいい。正に、願ったり叶《かな》ったりだ。じゃ、すまんが、その人にも一声かけてくれ」
「はい……」
「ただし、くれぐれも内密に願いたいんだ。この前みたいに、変に誤解されて、捜査本部の大幹部にねじ込まれたくはないからね。もちろん、お二人には、ご迷惑のかかるようなことはない。そう、お伝えしてくれ」
「しかし、先生。そうは言っても、理由も言わずに、ただ来てくれ、と言うだけでは、いかがなものでしょう……」
これは本音だ。何しろ、私自身、教授に漠然とした疑惑を抱いている。
「確かに、そうかも知れんな……」
教授は腕組みをして、しばらくの間、顎《あご》をさすっていたが、突然、膝を叩《たた》いて、
「そうだ、土産にしよう。お二人に、女房の土産をお見せしたいので、是非、お越し願いたい、と伝えてくれ」
「土産? ですか?」
「うん。二人にだけ見せたいわけだからな。他の人間が、ここに押しかけるわけにはいかなくなる」
「…………」
「これなら、後で、事が明らかになっても、二人の立場が悪くなることはない。声をかけた君にも迷惑はかからないし、おまけに、この僕も、後ろ指をさされることはなくなる。何しろ、東京から来た女房殿のご下命なんだからね」
「でも、先生……。奥様と二人は面識はないわけでしょう?」
「もちろんさ。だが、そのことは、誰も知らない。二人がここに来て、初めてわかることだ。だから、上役や同僚を騙《だま》したことにはならない。……だろう?」
「まぁ、それはそうかも知れませんけど……」
わかったような、わからないような、妙な感じだった。或《ある》いは、それが教授の狙《ねら》いだったのかも知れない。
ともかく、私は教授の意向を受け入れ、二人に打診してみることを約束した。
明月庵を出て、中庭にさしかかった時、暗闇の中で人の気配がした。
驚いて足を止めると、
「用は済んだの?」
久美子が木の陰から現れた。
私は後ろを振り返り、久美子の腕を掴《つか》み、急ぎ足で駐車場に向かった。教授に見られているような気がしたからだ。
そんなに引っ張らないでよ、と、嫌がる久美子を車の中に押しこんで、
「ねぇ、どう思う?」
と尋ねた。
「何が?」
キョトンとした顔。
「何がって……、私と教授の話をモニターしていたんでしょう?」
「モニター? 教授の部屋にハンドバッグを持って入ったの?」
「部屋じゃなく、廊下。窓にあったフックに引っかけたわ。こことの間に、電波の障害物になるような物はないし、感度良好のはずよ」
「何言ってんのよ。廊下に置いた送信機で、部屋の中のヒソヒソ話が聞こえるはずがないじゃないの」
「……聞こえない? じゃ、どうして送信機なんか持たせたの?」
「叫び声や悲鳴なら十分、聞こえるわよ。それに、トイレに立つ振りをして、送信機に囁《ささや》いてもらえれば、状況がわかる。なのに、何の音もしないんだもの。心配したわ。だから、様子を見に行ったんじゃない」
「そう……」
もっともな話だ。そうとは知らず、独り相撲を取っていた自分がバカみたいに思えた。
そんなわけで、私は教授の依頼を、最初から順を追って説明することになった。
「……お土産? なぜ、奥さんが私に?」
案の定、久美子が首を傾《かし》げた。
「と言う口実を使ってもらいたい、ということよ。もしも、上役に聞かれた場合はね。で……、どうする?」
「どうするって……。どうせ、もう安請け合いしているんじゃないの?」
久美子が横目を使った。
「なぜ、この私が安請け合いしなくちゃならないのよ。そんなこと言うなら、イエスマンタイプです、と報告してもいいのよ」
「一体……、何のこと?」
「こっちの話。それで、どうするの? 私はどっちでもいいわよ」
何だか、急に面倒《めんどう》臭くなってきた。
「ちょっと気味悪いけど、逃げたと思われるのも癪《しやく》だし……」
「そうそう、その意気その意気。さすがは一課の女デカ長さんだわ」
と、おだて上げたのは、私自身、夫人の土産≠フ中身を、ぜひとも知りたかったからだ。
約束の午後一時。私は久美子と澄江を伴って明月庵を訪れた。
三人並んで、正座すると、教授は、お楽にお楽に、と繰り返し、食事は? と問いかけた。
九十九旅館の鯛の杉板焼き≠ヘ絶品だという話を聞いたことがある。私はかねがね機会があったら、是非一度、味わってみたいと思っていたのだが、
「まだですけど、私はこれから、捜査本部に戻らなければなりませんので」
と、久美子が断り、澄江もダイエットを理由に断ってしまった。
「それより、先生。早速で恐縮なんですが、ご用件をお話しいただければ有り難いのですが」
久美子がわざとらしく腕時計を一瞥《いちべつ》した。
「そうかね。じゃ……」
教授は文机の陰から、ラジカセを取り出し、座卓の上に置いた。
「実は、三人に聞いてもらいたいものがある。またぞろ、録音テープなんで恐縮なんだが……」
と、苦笑して、
「これは、東京の自宅へかかってきた電話を録音したものなんだ。そんな録音テープを、なぜ? と、不思議に思うかも知れんが、女房は昔、外資系の商社に勤めていてね。専門外の分野について通話する時は、録音することが義務づけられていたそうなんだ。その習慣というわけではないが、結婚した後も、かかってくる電話は録音している」
「…………」
「考えてみれば、女房にとっては、警察の仕事なんて、専門外もいいところなんだろう。もし、聞き違えたりすれば、僕にだけでなく、電話してきた相手にも迷惑をかける、というわけで、今も続けている。ま、最近では、すっかりメモ代わりになってしまっているんだが、僕にとっても、その方が都合がいいんだ。言葉のニュアンスで、相手の真意がわかる場合があるんでね」
「…………」
「だが、僕も女房も、こんな電話がかかってくるとは、夢にも思わなかったな……」
と言って、再生ボタンを押した。
呼び出し音に続いて、会話が始まった。
男の声『知らぬは亭主ばかりなり、なんて言うけど、あんたの場合は、知らぬは女房ばかりなり、というところだなぁ』
夫人『それは……、つまり、私が何も知らない、ということかしら?』
男の声『そうさ。何にも知らないんだからな。可哀相《かわいそう》によ』
夫人『あなた、ひょっとして、探偵社の人?』
男の声『……何で、そう思う?』
夫人『浮気調査の売り込みじゃないかと思って』
男の声『(ムッとしたような声で)そんなんじゃないよ。いいか? ロハで教えてやるから、性根を据えて、よく聞きな。あんたの亭主は、一色温泉で、よろしくやっているよ。それも相手は、温泉芸者なんかじゃない。ピチピチした素人娘だ』
夫人『(しばらく、間を置いて)そう。証拠はあるの?』
男の声『証拠だと? 何で、俺が嘘《うそ》をつかなきゃならないんだ? 本当か嘘か、奥さんが自分の目で確かめてみろよ。ただし、前触れなしに踏み込むことだ。奥さんにとっては、ショックな場面に遭遇することになるだろうよ。相手の女は、県警の女刑事で藤山まゆみ二十六歳。全くうらやましい限りだ。やはり、畳と女房は新しいほどいいんだろうねぇ……』
私が、はっきりと記憶しているのは、ここまでで、その後の会話は、あまりよく耳に入らなかった。久美子と澄江が私の顔を覗《のぞ》き込んでくるたびに、私は首を横に振ったが、自分の頬《ほお》が火照《ほて》っているのがわかった。
後半部分を聞き逃したのは、気恥ずかしさのせいばかりではない。夫人がなぜ、九十九旅館を訪れたのか、そして、私と会い、会話を交わし、車で駅まで送らせたのか、その理由がはっきりとわかったからだ。教授のうろたえぶりも納得できる。
夫人は私と会い、ご自分の目で事の真偽を確かめようとしたのだ……。
しかし、なぜ、教授は久美子や澄江に、根も葉もないイタズラ電話を聞かせるのだろうか? それが私にはわからない。
教授は停止ボタンを押して、
「この歳になって、藤山君のような別嬪《べつぴん》さんと、浮いた噂《うわさ》を立てられるとは、誠にもって、オヤジ冥利《みようり》に尽きるんだが……」
と笑って、
「僕は、電話をかけてきた男の正体を知りたいんだ。この声に心当たりはないかい?」
教授は顎でラジカセを示した。すると、すかさず、
「先生。失礼ですが、なぜ、私たちが、この男の声を知っていると思われるんです? 電話をかけてきたのは東京の人間じゃないんですか?」
久美子が尋ねた。私も同感だった。
「いや、電話してきた男は、この土地の人間だよ。しかも、おそらくは警官、もしくは、警察に勤務する一般職だ」
「……何ですって?」
「その理由の一、僕の家の電話番号は警官しか知らないし、警官以外には教えないように手を打ってある。理由の二、僕の電話番号を知っている東京の警官は、電話が録音されることも知っている。従って、地声で、こんなデタラメ話を喋《しやべ》くることはあり得ない。理由の三、仮に、録音のことを度忘れしたとしても、東京の警官であれば、この先、妻と電話で話す機会があるわけだ。従って、声を覚えられていたら、後々、窮地に陥ることになる」
「…………」
「だから、東京の人間だとは考えにくい。どちらかと言うと、県警の警官、もしくは、関係者が立場を利用して、僕の家の電話番号を調べ出し、通話が録音されていることを知らずペラペラと喋った、と推定される。この男の口調には、何と言うか……、自分の正体はバレない、というような安心感というか、余裕というか、そういう響きがある。加えて、録音されてはいない、と頭から決めつけている感じがする。これは、警官の自宅の電話は、大概は録音されていない、という先入観のためだと思うんだ。何も知らない一般人なら、むしろ、あれこれと勘繰って、必要以上に警戒するものさ」
「それにしても、先生」
久美子は言った。
「電話の相手を突き止めて、どうされるつもりなんです? こんなことを言っては失礼かも知れませんが、単なるイタズラ電話でしょう?」
「桜木君。これは単なるイタズラ電話ではないよ。僕はこの電話の主こそ、パンドラだと思っている」
「パンドラ……」
と言って、久美子が生唾《なまつば》をのんだ。
「事実上、大滝事件は解決ずみということになっている。もちろん、僕もそうであればいい、と思っている」
教授は続けた。
「ただ、ひっかかるのが、パンドラの意図だ。そもそも、パンドラという名を名乗る理由がわからない。辞書をひいても、ギリシャ神話に登場する地上最初の女、としか出ていない。……だろう?」
「…………」
三人とも無言でうなずいた。
「それで、僕は図書館へ行って、ギリシャ神話の本を借りて読んでみた。警官たるもの、やはり、労を惜しんではいかんな。読んでみたら、あっさりわかったよ」
教授はニッコリ微笑んでから、
「パンドラの物語は、それ自体、なかなか面白《おもしろ》いんだがね。今の僕たちにとって重要な部分について述べるとすれば、地上に降りてきた彼女が、やがてエピメーテウスという巨神に嫁ぐ、というくだりだろうな。このエピメーテウスというのは、後で考える男、という意味なんだそうだ。繰り返すが、後で考える男、という意味なんだそうだよ」
「…………」
「それで、例の送られてきたテープは僕|宛《あ》て。つまり……、後で考える男とは、僕のことかな、と思った。でも、実は、このことは、かなり早い時期に、藤山君が主張していたことでもある。さすがは捜査二課のデカ長。見事な読みだ……」
と言って、教授はゆっくりと拍手した。
半ば冗談だとわかっていたが、久美子たちの手前、悪い気はしなかった。
「テープを送ってきた人物は、ちょっとした洒落《しやれ》っ気があるし、それなりの知性と教養の持ち主らしい。それで、僕は、このパンドラに付き合うことにした。歯ごたえのある相手に出会うと、勝負したくなるのが、昔からの僕の悪い癖でね」
「…………」
「そんなわけで、僕は僕なりに、東京の知人友人を通じて、例のテープを調べてみた。ところが、その結果が届く前に、第三の事件が発生してしまう。更に、遺留品から容疑者が浮かんだ。後藤だよ。この後藤が死体で発見されると、マスコミを含め、事件は解決、という雰囲気になった。まぁ、無理もない。その頃からだよ、僕について妙な噂が流れ始めたのは……」
教授は小さくため息をついて、
「この僕が、県警の不祥事を暴きにきたとか、捜査ミスを暴きに来たとか、そういう噂だ。これには正直、参ったね。君たちも聞いたことがあるだろう?」
と言って、私たちを見回した。私は反射的に目をそらしていた。隣の二人も同じだったと思う。
「最初、気にかけなかったんだがね。そのうち、これも、ひょっとしたら、パンドラの工作じゃないか、と思い始めた。それからは、少々、神経質になったな。そして、女房が突然現れたことによって、僕の山勘は確信に変わったよ。パンドラは間違いなく、僕を一色温泉から、いや……、この県から追い出そうとしている。今、この瞬間もね」
「…………」
「となると、なぜか、ということになる。それで、僕は自らを省《かえり》みたよ。その結果、理由として考えられることは、たった一つ。県警やマスコミは、大滝事件に関して、解決済みの方向に傾いているけれど、僕は違う。つまり……、パンドラは、大滝事件をこれ以上、ほじくり返してもらいたくないと考えている、という結論に達した」
「なぜ、ほじくり返してもらいたくはないんでしょうか?」
澄江が尋ねた。
「想像はつくけど、はっきりと知りたい。直接、本人に会って、確かめたいんだ。だから、君たちの力を貸してもらいたい。この声の主が誰か、心当たりはないかね?」
と言って、教授は再び、ラジカセに手を伸ばした。
再び、テープの音声が流れた。私は目を瞑《つむ》り、耳を澄ました。今度は、後半の部分も聞き取ることができた。
夫人『あなた、何か、勘違いしていない? 主人は物見遊山で温泉地に逗留《とうりゆう》しているわけじゃないんですよ。ちゃんとした公用なんです』
男の声『そこなんだよ、奥さん。旦那は公用だとは言ったが、その公用の内容までは話しちゃいないだろう?』
夫人『ええ、まぁ、それはそうだけど……』
男の声『それ見なよ。そこが旦那のうまいところだ。普段から、何もかも公務ということで済ませておく。役人の嘘は、ほとんどが、このパターンだ』
夫人『…………』
男の声『どうした? 奥さん。少しは心配になってきたかな?』
夫人『ねぇ、私、もっと詳しい話が聞きたいんだけど……』
男の声『おっと、危ねぇ。奥さんよ、俺《おれ》を呼び出して、顔写真でも撮ろうと考えているんだろうが、その手は桑名の焼き蛤《はまぐり》だぜ』
夫人『…………』
男の声『ともかく、旦那の逗留先に出向いて、自分の目で確かめることだ。そうすれば、全てがはっきりする』
やはり、私には聞き覚えのない声だった。久美子と澄江の方を見ると、二人も、心当たりがない、という顔つきをしている。
「どうかね? 誰かの声に似てはいないかい?」
教授が真剣な眼差しで尋ねた。
「残念ながら、ありません」
久美子が首を横に振った。教授は私を見た。私は無言のまま、首を横に振った。そして、澄江も同じだった。
「そうか……」
教授は失望の色を隠さなかった。両腕を組み、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、唇を噛《か》んで、座卓のラジカセに目を落とした。
「電話で、うっかり悪口なんか言えないわね。あんなのを付きつけられたら、ぐうの音も出ないわ」
瓢箪池の手前で、久美子がつぶやいた。
「あの声の主だけど、本当に県警の職員なのかしら?」
澄江は明月庵の方を振り返った。
「案外、梶山広報の配下あたりかも知れないわよ。今、教授を一番、追い出したがっているのは、梶山広報だもの」
「すると、梶山警部がパンドラだと言うこと?」
澄江がなぜか目を輝かせた。
「冗談よ。真に受けないで」
「こんな時に冗談なんか言わないでよ。こっちは相当、ビビっているんだから」
私も一瞬、真に受けていた。
「何にビビっているの? まゆみと教授の取り合わせなんて、誰も信じないわよ」
「夫人は信じたわ」
教授にはそれなりの前歴があるようだし……。
「問題は、そこよ。電話の相手の狙《ねら》いは、むしろ、そのことじゃないかしら? 夫人を一時的に、東京から遠ざけること。これなら、ありそうじゃない? ひょっとしたら、今頃、東京のご自宅じゃ、タンスの隅のへソクリがなくなったというんで、大騒ぎしているかもよ」
久美子が笑った。
「教授の話を、まるっきり信用していないみたいね?」
「そうでもないわ。教授の主張は、それなりに筋が通っている。絶対にあり得ない、とは言えない……」
と、独り言のようにつぶやいたが、すぐに軽い口調で、
「でも、正直なところ、揚げ足取りとしか思えないわね。評論家的発想よ。つまり、しょせんは、教授様、学者様、よ」
「結局は、信用していないんじゃない」
「まぁね。もっとも、あの声の主に該当する県警の……」
と言いかけた時、本館の方から足音がして、私たちの会話は中断した。
やがて、キンモクセイの木陰から現れたのは、尾崎警部補だった。
真っ白なシャツに鮮やかな色のネクタイをしている。ということは、勤務外ということだ。
「こりゃまた、珍しい」
尾崎警部補は私たちを見て、微笑《ほほえ》んだ。
「ひょっとして、係長も、夫人のお土産の件ですか?」
久美子が尋ねた。
「夫人のお土産? そりゃ何だい?」
「いや……」
久美子は私を一瞥《いちべつ》して、
「私たちは、そうだったものですから」
と、苦笑いした。
「それにしちゃ、三人とも手ぶらじゃないか?」
「荷物になるようなお土産じゃありません」
「ほう……、ほう……」
尾崎警部補は三人の顔を順々に見ていった。私のところで、目が止まったので、
「教授にお会いすれば、一目|瞭然《りようぜん》ですよ」
と答えた。
「そうかい。じゃ……、無くならないうちに、早いとこ、いただきに参上するか。じゃ……」
と、片手を上げて、明月庵に向かった。
久美子はその後ろ姿を見送りながら、
「どうやら、教授は、あの声の主を突き止めるまで、何人でも呼びつけるつもりらしいわね」
と皮肉な口調でつぶやいた。
「東京のお宅にかかってきたんですもの。仕方がないと思うわ」
「でも、無駄な努力よ。仮に、教授の言う通りだったとしても、正体を突き止めることはできないわ」
「どうして?」
「……わからない?」
久美子は肩を竦《すく》めてから、
「さっき、テープの声を聞いた時、私はある先輩の話し方に似ていると思ったわ」
「何ですって?」
「まぁ、最後まで聞いてよ。私は、話し方が似ている、と言っただけよ。声の質はまるで違う」
「…………」
「教授に一瞬、そのことを話そうか、と思ったけど、やめたわ。なぜなら、まゆみが今、思い違いしたように、教授も、思い違いをするかも知れないと考えたからよ。仮に、思い違いをしなかったとしても、先々、声の主について、全く手がかりなしで終わった場合、念のために一応、その先輩を調べてみよう、ということになるわ。必ずね」
「…………」
「その結果、どうなると思う? 私は先輩を売った、ということになってしまう。もし、そうなったら、その先輩に顔向けできないし、私の信用は台無しよ」
「つまり……」
澄江が言った。
「尾崎係長は心当たりがあっても話さない、ということ?」
「その通りよ。いかにバカ、い、いや……、真っ正直な尾崎係長でも、身内の人間を刺すようなことはしないと思う。そんなことをしたら、刑事生命を失うことになるもの」
しかし……、彼は自分の刑事生命なんかにこだわる人間ではない……。
私はそう思った。
「どうせ、空振りよ」
久美子は歩き出した。私もその後に続こうとした。澄江だけが明月庵の方を振り向いて、
「でも、ものの弾み、ということはあり得るわよ。話し方が誰かに似ている、というレベルなら、久美子みたいに思い留まることはできるでしょうけど、もし、そっくりそのままだったら、思わず反応してしまうんじゃないかしら……」
「…………」
久美子が足を止めた。
「しかも、何の説明もなしに、いきなり聞かされたら、正直に答えてしまうかも知れないんじゃない?」
澄江が心配そうな顔で言った。
「確かに、そうだわね。夫人のお土産だなんて、つまらない冗談なんか言わずに、本当のことを言うべきだった……」
久美子が唇を噛んだ。私も軽口をたたいたことを後悔した。
捜査本部に戻る予定だった久美子は、九十九旅館の玄関ホールに留まった。
明月庵から戻る尾崎警部補を待ち受け、結果を確かめるためだった。
三人は五分に一度は、壁時計を見上げた。そして、それを数回、繰り返して、
「私たちが、座敷にいたのは、二十分か、二十五分くらいじゃなかった?」
久美子が尋ねてきた。正確には覚えていなかったが、
「そんなに短くはないわよ。少なくとも三十分はいたわ」
私は答えた。でも、四十分以上でないことは確かだ。間もなく、その四十分になろうとしている。
「嫌な予感がする……」
久美子がソファーから立ち上がり、そして、すぐに座った。
「落ち着きなさいよ。今更、ジタバタしても仕方がないでしょう?」
と、たしなめたが、時間経過と反比例して、久美子が煙草に火をつける間隔が短くなっていった。やがて、煙草の箱が空になると、キョロキョロと辺りを見回した。
「自動販売機なら、エレベーターの横。燃えるゴミのゴミ箱なら、柱の陰よ」
私はソファーにもたれたまま言った。そういう私の足も貧乏ゆすりをしている。
久美子は煙草の箱を握り潰《つぶ》しながら立ち上がった。そして、二、三歩、行きかけたのだが、急に反転し、走り出した。
尾崎警部補が向かってきていた。私も立ち上がった。
久美子が何事か話しかけた。内容はわかっている。その問いに対して、尾崎は歩きながら、首を大きく左右に振った。
それを見て、私は足を止めた。ホッとする思いがするのは、なぜなのだろう?
「ありゃ東京者だと思うな。言葉に江戸|訛《なま》りがある」
尾崎が私に言った。
「江戸訛り?」
確か、し[#「し」に傍点]とひ[#「ひ」に傍点]を混同するのが、東京弁の特徴だと、何かの本で読んだことがある。しかし、それを実際に、耳にしたことはない。
「それにしても……」
久美子は首を捻《ひね》って、
「教授はそのことを、私たちには一言も言わなかったわ」
「当たり前だ」
尾崎は笑って、
「当人にはわからないもんさ。自分の言葉の訛りには気づかないもんだ。俺たちだって、そうだろう?」
「まぁ、そりゃそうですけど。で、教授は、これから、どうされると?」
久美子が尋ねた。
「そのことを申し上げると、教授も納得されてね。あのテープは、ひとまず、東京へ送り返すそうだ」
「東京へ?」
「うん。何せ、警視庁には三十年近く勤めておられたという話だからね。心当たりに相談するおつもりのようだ」
「そうですか……」
久美子はホッとしたように、白い歯を見せて、
「最初から、そうすべきだったのよ。まず、足元を調べて、耳実検をするのは、それからにしてほしいわ」
「いや、全く、その通り。教授も、そのことに触れられてね。東京の方で、結果が出るまで、恥ずかしいから他言はしないでくれ、と言われたよ」
「大山鳴動して、鼠も出なかったというわけですね。とんだ茶番だわ」
久美子は腕時計を見て、
「うわっ、こんな時間。大変だわ。私、帰らせてもらいます」
それまで、何度も時計を見ていたはずの久美子だったが、慌てて走り出した。そして、澄江もそれに続いた。
尾崎警部補はにこやかな表情で、その後ろ姿を見送っている。
「ご機嫌ですね? 何か、いいことでもあったんですか?」
私は尋ねた。
尾崎警部補とは、たった三回しか会っていない。だから、断言することはできないが、この日の態度、いや、明月庵に向かう時と、今では、雰囲気に微妙な違いがあった。
「そうかい? そんなにニヤついているかな?」
尾崎警部補は玄関のガラスを鏡代わりにして、右、左と、顔を映すような仕草をしたかと思うと、髪とネクタイを直した。
やはり、変だ……。
いつもの尾崎警部補だったら、あんな土産なんかで、機嫌がいいわけないだろう、とか何とか言って、私を笑わしたと思う。
「さっきのお話、本当なんですか?」
私は尋ねてみた。すると、
「おいおい、突然、何を言い出す。俺が嘘《うそ》でもついていると言うのか?」
さも驚いたように、目を丸くした。
「そういうわけじゃありませんけど、江戸訛りを指摘されたくらいで、テープを東京へ送り返すなんて、教授のなさることとは思えません。間が抜けすぎています」
「…………」
「そもそも、言葉訛りなんて、初期段階で検討される事柄でしょう? 教授は、それを踏まえた上で、わが県の人物じゃないか、と当たりをつけられたんじゃないですか?」
「それは……」
と言うと、首を振って、
「俺はテレパシーの能力はない。教授の胸の内はわからないよ。君がそんなに知りたいんだったら、ご本人に直接、聞いてみたら、どうだ?」
尾崎警部補は明月庵の方に顎《あご》を突き出した。そして、
「じゃ、人待たせているんで……」
と言って、足早に出口に向かった。
残ったのは私一人。疑問を投げかける相手も、議論する相手もなく、自問自答を繰り返すだけだった。
そして翌日。私は尾崎警部補の言葉通り、教授に質問することを決めていた。
一介のデカ長としては、出すぎたことかも知れないが、私は今、教授の助手という特別の立場なのだし、質問する資格は十分にあるはず……。
これが、前夜、テレビも見ずに考えた末の結論だった。
ところが、明月庵の前まで来ると、いつもは開いている門が、この日に限って閉ざされていた。立ち止まって、把手《とつて》のところを見たが、閂《かんぬき》もなく、鍵《かぎ》もない。
その気になれば、扉を開けて、中に入ることもできたが、門が閉じているということは、客の来訪を拒否する意思表示でもある。私はひとまず本館の方へ引き返すことにした。
玄関ロビーからフロントに向かう途中、私の目は、電話コーナーにいる一人の人物に止まった。前頭部が禿《は》げ上がった初老の男で、見覚えのある顔だった。
男は通話中だった。目が合ったので、私は会釈しようとした。だが、その前に、男はクルリと背中を向けた。
ということは、向こうは当方を知らない、ということか?
しかし、確かに、どこかで見た顔なのだ。あれこれと思いを巡らせてみたが、どうしても思い出せない。
やがて、その男は受話器を戻し、私の方を振り向きもせずに、駐車場の方に足早に去った。
ミニパト時代の交通違反者だったのか、知能犯関係の参考人だったのか、それとも、飲み会の二次会で立ち寄った居酒屋の主か、スナックのマスターか……。
後ろ姿を眺めながら、記憶を探っていると、顔見知りの仲居さんが通りかかった。
私は駆け寄って、明月庵の門について尋ねてみた。すると、
「女将《おかみ》さんからは、そのようなご指示はありません。先生ご自身が、お閉めになったのでないかと思いますけど……」
「先生が?」
「はい。まぁ、稀《まれ》に、本館の方にお泊まりのお小さいお客様が、イタズラで閉めてしまうことも、ございますけど……。もし、何でしたら、確かめさせましょうか?」
「え? ええ。ぜひ、お願いします」
「かしこまりました」
仲居は、そのまま、帳場の奥に消えた。そして、数分後、
「門は開いているそうですけど……」
と、いぶかしそうな顔で現れた。
「……開いている?」
「はい。番頭さんが、たった今、明月庵の前を通ってきたそうですよ」
「…………」
一体、どういうことだろう?
私は明月庵の方を振り返った。
その時、玄関先の車止めに、先程見かけた初老の男。そして、黒塗りの大型乗用車が目に飛び込んできた。
男は後部ドアを外から閉めると、車の周りを足早に半周して運転席に乗り込んだ。
運転手? すると、後部座席の人物は一体、どこから? フロントの前は通っていない。と言うことは……。
本館の客でなければ、明月庵の客だ!
私は反射的に窓に駆け寄った。
車は静かに動き出していた。スモークガラスのため後部座席の人物を見ることができない。やがて、ピカピカに磨き上げられた黒塗りの高級車は九十度の左折をした。白ナンバーが自然に目に入る。
交通課勤務の頃に受けた苦手な訓練の成果が、今頃になって役立つことになった。教官が教えてくれたスピード記憶術……。
ナンバーはもちろん、車名、色、型式、そして、車のホイールまで……。
「どうかなさいましたか?」
と、仲居が声をかけてきたが、聞く耳を持たずに、フロントに直行。下手に返事なんかをしたら、頭の中の数字と記号が逃げ出してしまう。
私はカウンターのペンとメモ用紙を引き寄せ、息もつかずに、記憶の内容を書きなぐった。
「警務部の……理事官?」
久美子の声が途中で裏返った。一時間ほど前、ナンバー照会の回答を受けた私の反応も、似たようなものだった。
黒塗りの乗用車の所有者は県で、その使用者は県警本部。具体的には、警務部が管理している車両だった。
装備課に問い合わせなくても、県警本部の地下駐車場に行けば、それが理事官の専用車であることは、車両配置表で一目|瞭然《りようぜん》。初老の運転手、いや、運転者についても、運転歴三十年のベテラン、鈴木孝一郎巡査部長であることが判明した。
道理で、見覚えがあるはずだ……。
「教授が会っていたのは、理事官よ。間違いないわ」
私は言った。
「もちろん、教授と理事官が、どういう間柄なのか、わからない。だから、理事官が明月庵に教授を訪ねても、不自然ではないけれど、問題なのは、秘密に会っている、ということなのよ」
「秘密に?」
「そう。警務部の事務をしている女の子に、それとなく聞いてみたら、理事官の外出先は警察研修所。その口実は、新しい射撃訓練場の視察ですって」
「…………」
「教授の方も、門を閉めていたし、二人が人目を憚《はばか》って会っていることだけは確か。そこが気になるところなのよ」
「まさか……」
久美子が唇をかんだ。
「どうしたの?」
私は身を乗り出した。
「まさか白馬トンネルの件じゃないとは思うんだけど、ひょっとしたら……」
「白馬トンネル?」
「うん。今日の夕刊か、明日の朝刊を見ればわかるわ。実は、捜査本部の捜査員が……、まぁ、正確には、元捜査員ということになるけれど、白馬トンネルの中で大型トラックと正面衝突して即死したのよ」
「何ですって!」
「そうなのよ。大滝署員なんだけど、しばらく前からノイローゼぎみで、仕事も休みがちだった。それで、数日前に捜査本部員から外れたんだけど、交通捜査課からの説明では、居眠り運転なのか、自殺なのか、はっきりしないということだったわ」
「…………」
「いずれにせよ、職員事故だから、その原因・動機・背景を調査するのは警務部の仕事。けど、理事官クラスが乗り出す事案ではないし……」
久美子は首を捻った。しかし、教授の言動に疑問を抱いていた私には、理事官の行動も、その延長線上に置いて考えることができた。
「でも、理事官クラスが乗り出さなければならない事案とも考えられるんじゃない?」
「……どういうこと?」
「久美子の前で言いにくいけど、大滝事件捜査で、一部に浮上した警官関与説に関連しているんじゃないかしら? 警務部といえば、監察室がある。職員の不祥事を調査究明し、処分するのが仕事でしょう?」
それで、報復説の主張者である尾崎警部補が上機嫌だったことも、説明がつく。
「すると、白馬トンネルで死んだ大滝署員が、関与していたと言うわけ?」
「一つの考え方よ」
「それは、ちょっと変だわ」
久美子は認めようとしない。
「もし、そうだとしたら、何らかの形で、捜査本部の方に説明があってしかるべきだわ。でも、そんな説明は一切、ないのよ。ないどころか、今朝なんか、交通安全五つの誓いなんかを配付して、全員で唱和よ。コロシの捜査本部だっていうのに……」
「私には、その辺のことはわからない。ただ……」
「ただ、何なの?」
「ただ、捜査本部には連絡できない事情、というのが、あるかも知れないでしょう? もちろん、何の根拠もない憶測だけど……」
と、私は言葉を濁した。捜査本部員を前にして、それ以上のことは言えない。
でも、久美子は鋭い勘と頭脳の持ち主だった。
「つまり、共犯者的立場の人物が、まだ捜査本部内に残っているから、と言いたいわけね……」
と、伏目がちにつぶやいた。
私は教授に対して、どう対応してよいか、わからなくなっていた。
警務部理事官と言えば、私たちにとっては雲の上の存在。その理事官と教授が密談したとなると、これは単なる犯罪捜査の域を越えている。
かつて父も、『高度な政治的判断の前には、被疑者も被害者も、そして、事件そのものも、一夜のうちに消えてなくなる』と、ため息まじりにつぶやいたものだ。
今回の場合、雲の上で一体、何が進行しているのだろうか?
私は巨大な組織の中の、小さな歯車の一つにすぎないけれど、事の成り行きを、しっかりと見定めておこうと思った。
私は腹をくくって、明月庵に向かった。
玄関で、いつものように元気よく挨拶《あいさつ》すると、今日に限って、返事の代わりに物音がして、やがて、教授が現れた。
「よく来てくれた。ちょうど、呼ぼうとしていたところだ」
教授は作り笑いを浮かべた。そして、
「早く早く、上がれ上がれ」
と、私の袖《そで》を引っ張った。
靴も揃《そろ》える間もなく、私は上がらされ、座敷の座布団の上に座らされた。
「並木氏の運転担当から、藤山君に見られたかも知れない、と、連絡があってね」
並木とは警務部理事官の名で、運転担当とは、もちろん、鈴木巡査部長のことだ。
「その後、警務部の方からも、ナンバー照会の事実があった、という連絡だ。参ったよ。君も、なかなかやるな」
と、冷やかすように言った。その情報入手の速さに、私は内心、舌を巻いた。
「くれぐれも見られないように、と釘《くぎ》をさしておいたんだがね。運転担当氏の娘さんは臨月で、お孫さんが誕生間近だったらしい。それで、ついつい公衆電話に走ってしまったようだ。公用車を使わざるを得ないような時に限って、こういうことが起きる……」
と、苦笑しながら頭をかいて、
「今の僕たちにとって、あれこれと詮索《せんさく》されることが一番、困る。特に、君たちにはね。それで、いっそのこと、事の次第を説明してしまった方がいいだろう、と思ってね。来てもらおうとしていたところなんだ」
「…………」
私は一言も発することなく、教授を見つめ続けた。一応の筋道は通っているが、言葉通りには受け取れない。何百回も騙《だま》されてきたような思いがした。
「実を言うと、東京の僕の家にかかってきた例の電話だけどね。声の主が判明したよ」
「判明した……」
私は思わず身を乗り出していた。
「誠に遺憾ながら、当県警の元警部補で近松雄太郎という人物だ」
「近松……雄太郎?」
「名前を聞いたことはないか? なかなか有能な男だったが、目立ちたがり屋の変わり者だったという話だが……」
「近松雄太郎……」
どこかで耳にした名だった。だが、これも思い出せない。
「そうか。知らんか。本人が聞いたら、さぞ、がっかりするだろうな」
と、鼻で笑って、
「だが、去る者は日々に疎《うと》し。世の中とは、そういうものだ」
「その方はいつごろ、退職しているんです?」
「七年前だ。現在はアルファ精機という会社に勤めている。だが、なぜか、大滝事件に絡んでいるんだ。しかも、捜査本部周辺の関係者を巻き込んでいる可能性が濃厚なんだ」
「…………」
「そこで、彼の企《たくら》みを暴くことにした。だから、申し訳ないが、しばらく、この件について知らぬ振りをしてほしいんだ。近松雄太郎は、こっちの動きに神経質になっている。だからこそ、僕を東京へ追い返そうとして、妙な噂《うわさ》を流したり、それが効果がないと知ると、わざわざ僕の自宅へ電話して、よからぬ告げ口までしたわけだ」
「わかりました。でも、もし、差し支えなければ、教えていただきたいんですけど?」
「ん? うん……」
差し支えがありそうだったが、私は構わずに、
「先程、先生は、近松という人が、捜査本部周辺の関係者を巻き込んでいる可能性がある、と、おっしゃいましたが、捜査本部周辺の関係者とは、捜査本部員という意味でしょうか? それとも、大滝署の署員という意味でしょうか?」
「それは、まだわからんよ。出入りのブン屋連中を利用するという手もあるし、その他にも、情報を入手する方法はいろいろあると思うよ」
身内をかばっているつもりなのだろうが、説得力に欠ける。
「そうはおっしゃっても、その近松という人は元警部補で、現役の県警関係者とつながりがあるわけでしょう?」
「その通りだ。だが、今の時点から、一つの忌まわしい構図を決めてかかる、という姿勢は、いかがなものかな? 仮に、不幸にして、警官の中に協力者がいたとしてもだ。その警官が全てを承知の上で、近松雄太郎に協力しているとは限らない。最初から、魔女狩り的態度で、事を進めるのは間違っている」
「…………」
「また、万一、全てを承知の上で、近松に協力していたとしてもだ。そうしているからには、何らかの事情があってのことだと思う。それを知る必要が、我々にはあるとは思わないか?」
「よくわかりました。それで……、私は一体、何をすればよろしいんです?」
「いや、何もしないでもらいたいんだ。寝た振りをしていてくれ」
「寝た振り?」
「そう。今の時点では、僕がテープの声の主を突き止めたことを知られるのが、一番困る。だから、当分の間、誰に何を聞かれようと、知らぬ振りを通してほしい」
「はい……」
私は素直にうなずいた。県警の理事官と内談した警大教授の申し入れを拒否できるわけがない。
それにしても、近松雄太郎という名には、確かに聞き覚えがあるのだが……。
明月庵を後にした私は、首を傾《かし》げながら中庭から瓢箪池を渡り、大玄関を抜けた。
それほど古い記憶ではない。それがわかっているだけにもどかしかった。
駐車場に出ると、到着したばかりの中型バスが駐車位置にバックしているところだった。その前で、赤い顔をした六、七人の中年男たちが、一升瓶の回し飲みをしている。
一体、どこから来た酔っ払い? とバスのフロントガラスを見上げると、緑青会ご一行様、とある。
その貼《は》り紙を見て、私は思わず息を飲んだ。
近松雄太郎とは、萩の会と土曜会に対し、非公開質問状を送りつけた人物ではなかったか……。
しかし、相沢警部の話では、確か、すでに死亡していて、この世にはいないということだったが……。
そう思った瞬間、全身に鳥肌が立ち、体が震え出した。未熟な私は、浅はかにも幽霊を連想したのだ。
死亡とは刑事生命を失ったということ。そして、この世とは警察界のこと……。
そういう大人の言い回しに気づくまで、私の幼い震えは止まらなかった。
[#改ページ]
別れの茶会
近松雄太郎という元警部補のことを、私は改めて相沢警部に尋ねてみた。
ところが、二度と聞くなと言ったろ! と、頭ごなしに怒鳴りつけられてしまった。
仕方なく人事課へ行き、捜査二課の退職者名簿を確かめるような振りをして、本人の人事記録を閲覧した。驚いたことに、近松は銀時計組だった。銀時計組とは、警察学校を優秀な成績で卒業した者たちのことで、卒業式の際に贈られる銀メッキの懐中時計にちなんで、そう呼ばれている。
ただ、人事記録を見る限り、三十歳まではトントン拍子で出世しているが、その後は、それほどでもない。また、これといった実績もなく、功労も見当たらなかった。
私は経歴を追った。退職時のポストは、国際捜査課の主任。これは今でも、花形ポストとされている。
続いて、国際捜査課の名簿を取り出し、現在の勤務員を調べてみた。課長以下、馴染《なじ》みのない名ばかりが続く。これが交通部とか生安部なら、どこの課にも一人や二人、内緒話のできる知人がいるのだが……。
同じ刑事部だというのに、名簿の中には同期生、そして、二課のOBの名さえ見当たらなかった。
それもそのはずで、元々、国際捜査課は刑事部よりも、どちらかと言えば、外事課、つまり、公安部との交流の方が深い。
私は諦《あきら》めて、名簿を閉じようとした。その時、一般職、という文字が目に入った。通訳専門の事務吏員……。それは、科捜研の技術吏員である澄江と共通した立場だ。
「一般職同士と言っても、事務職の皆さんとは、基礎研修でご一緒しただけなのよ。それほど親交があるわけじゃないわ」
澄江が言った。
「それに、国際捜査課の通訳職員は、ベテランの人ばかりじゃなかったかしら。たぶん面識はないと思う。私と同じ年度に採用になった人は、通訳センターに配属されているはずよ」
「通訳センター……」
それは、交番勤務員や、交通事故処理係など外勤警官専用の通訳機関だ。
「一体、国際捜査課の何が知りたいの?」
澄江が尋ねた。
「大したことじゃないわ。大滝事件の被害者が外国人だから、多少は関わっているのかどうか、ちょっと、気になっただけ」
私は惚《とぼ》けた。身勝手なようだが、約束した以上、近松のことを打ち明けるわけにはいかない。それは単に教授だけではなく、間接的には並木理事官と交わした約束でもあるからだ。
「私は門外漢だから、はっきりは知らないけど……」
澄江は言った。
「少なくとも、鑑識課の人たちから聞いた話じゃ、国際捜査課が関わっているというような話は聞いたことがないわよ」
「そう……」
と生返事すると、
「何だか、信用していないみたいね。だったら、久美子に直接……」
と言いかけて、
「あ、そうか。出張しているから、私のとこへ電話してきたというわけね……」
初耳だった。
「……出張? 久美子は出張捜査をしているの?」
と聞き返すと、
「……知らなかったの?」
「ええ、知らないわよ」
「福岡の件よ。そのことは知っているでしょう?」
「福岡の件? 何? それ」
「…………」
「どうしたの? 福岡の件って、一体、何なのよ?」
「困ったわ、私……。てっきり、知っているものとばかり思っていた」
「じゃ、知っていたということにして、教えてよ」
「そんな……。代理さんに叱《しか》られるわよ。部外者には言うな、と口止めされているんだもの」
「大丈夫よ。本当に口止めするつもりなら、澄江にも話さないはずよ。それに、私は部外者じゃないわ」
「捜査本部員以外は部外者よ」
「どっちだっていいわ。もう半分、話してしまったようなものなんだから、後半分、話しても同じこと。五十歩百歩よ」
「…………」
「それに、鑑識主任はフェミニスト。叱られたら、泣く振りすれば、すぐ許してくれるわ」
知りたい一心で、私は口から出任せをまくし立てた。
「……誰にも言わない?」
澄江が念を押してきた。
「もちろん。天に誓って、神かけて」
この期に及んで、みんなに言いふらす、と答える人間はいない。
「五日前、福岡市内で、風間とかいう男が捕まったのよ。それで、捜査本部員が派遣されたわけ」
「大滝の事件と関連性があるの?」
「直接的にはないわ。男の容疑は覚醒剤《かくせいざい》取締法違反。それで家宅捜索したら、水中カメラが出てきたんですって」
「水中カメラ? 大滝の事件と、どう結びつくの?」
「大ありよ。三人目の被害者はワゴン車の中で発見されたでしょう? 覚えている?」
「もちろん。現場で、澄江に見せてもらったわ」
「あのワゴン車は盗難車。その所有者が、水中カメラがない、と訴えていたのよ。それで、念のために、盗難品として、製造番号を手配していたわけ。男が持っていたのは、その水中カメラだったの」
「そう……」
鑑識課長代理が口止めするのは当然のことだと思った。もし、気の早い新聞記者の耳にでも入ったら、朝刊に、容疑者浮上、という見出しが躍るに違いない。
明月庵に向かったのは、福岡の情報を教授に伝えるためではない。
もし、教授の耳に届いていたら、もちろん、今後の展開について、質問するつもりだったが、何も知らないようだったら、すぐに帰るつもりでいた。
いつものように駐車場の奥に車を置き、本館の正面玄関を入り、フロントに挨拶《あいさつ》をして、中庭に抜けた。
そして、瓢箪池を渡って、なだらかな坂……。だが、その坂を登り切る前に、私の足は止まった。明月庵の入口の門が閉まっていたからだ。
今日も理事官が訪れているのだろうか? しかし、駐車場に黒塗りの乗用車は見当たらなかったような気がするのだが……。
私は本館に引き返し、フロントで訪問者の有無を尋ねた。
フロント係はキョトンとした顔を左右に振った。
そんなわけで、私は駐車場へ行き、黒塗りの乗用車を探した。理事官の専用車のナンバーは手帳にメモしてある。
しかし、専用車はなく、他の車の中を覗《のぞ》いてみたが、それらしい車は見当たらなかった。
次に、前回同様、警務部の知人に電話してみた。理事官は県警本部の来賓室で外来者と面会中ということだった。
すると、一体、今日の明月庵の客は誰なのか?
私は玄関フロアのソファーに腰を下ろし、窓の外の風景を見つめながら、あれこれと考えを巡らせた。
しかし、五分もしないうちに、宿泊客が話しかけてきた。それを追い払うと、今度は、注文もしないのに、コーヒーが届けられた。周囲を見回すと、フロント係がニッコリ微笑《ほほえ》んでいる。
私は会釈して、コーヒーカップを手前に引き寄せた。だが、次の瞬間、慌てて、手を離した。
フロント係が微笑んだからと言って、コーヒーをサービスしてくれたとは限らない……。
案の定、僕のコーヒーは? と、先程、声をかけてきた宿泊客がフロントに尋ねた。私は静かに立ち上がり、玄関に向かった。
未熟な人間が、僅《わず》かな知識と乏しい経験で、あれこれ考えるから、思い違いすることになるのだ。
迷路で立ち往生したら、壁をぶち破って、真っ直ぐに目的地を目指せ……。
耳元で、父の声がした。
私は辺りに人目がないことを確かめてから、工具箱にあったカッターで、四ツ目垣を結んでいる棕櫚縄《しゆろなわ》を切った。次に、縦横に組んである竹を広げ、体をよじらせて中に入り込んだ。
蜘蛛《くも》の巣を払いながら、五メートルも進むと、灯籠《とうろう》と蹲踞《つくばい》のある場所に出た。ここから、足元には飛び石が続いている。飛び石の道は二手に分かれ、右へ行くと躙口《にじりぐち》、つまり、茶席へ行き着く。左へ行くと、中門、更に、腰掛待合を経て、教授のいる部屋へと行き着く。
私は足音を忍ばせて、左の道を進んだ。中門をくぐり、腰掛待合の手前で、繁みに身を隠し、首だけを前に伸ばした。期待に反して、寄付《よりつき》の障子は閉まっていた。
だが、中から微《かす》かに人の声がしている。私は少しずつ近づいて行った。そして、立ち止まり、耳を傾けた。その時、何らかの気配を感じ、私は地面に目を向けた。何と、数メートル横を、ヘビが身をくねらせながら通り過ぎて行く。
ヘビは大の苦手。全身に戦慄《せんりつ》が走り、鳥肌が立った。悲鳴を上げなかったのは、声帯が硬直していたからだ。
にもかかわらず、体は反射的に動いていた。その時、うかつにも枯れ枝を踏んだ。乾いた音が辺りに響き、静寂を破った。私は慌てて、その場にしゃがみこんだ。
微かに聞こえていた人の声は、もう聞こえない。その代わり、しばらくすると、カラリと障子の開く音がした。そして、
「どなたかな?」
と言う教授の声。私は息を殺した。首筋に冷たい汗が流れ落ちて行く……。
「隠れていないで、出てきなさい」
再び、教授が言った。続いて、
「背中が見えているぞ。それじゃ、頭隠して、背中隠さず、だ」
と言う男の声がした。どこかで聞いたことのある声だった。
向こうから見えていては、仕方がない……。
私は観念して立ち上がった。ところが、
「何だ、君か……」
と、教授が渋い顔で言い、
「おやおや、本当に隠れていたんですね」
男が笑った。それで、騙《だま》されたことに気づいた。
「ご存じなんですか?」
男が教授に尋ねた。年齢は四十五歳前後。背はそれほど高くはないが、ガッチリとした体格だった。目が鋭く、顔色はゴルフ焼けなのか浅黒い。髪はオールバックで襟足まで伸ばしている。一匹狼の実業家、という雰囲気だった。
「二課のデカ長さんだ。僕の臨時の助手をしてもらっている。門が閉まっていたので、心配してくれたんだろう」
「そうですか……」
と、頷《うなず》くと、
「君、こっちへ来たまえ。塀を乗り越えてくるなんて、不作法だぞ」
男が言った。でも、私の足はすくんで動かない。
「言う通りにしなさい。心配しなくていいよ」
今度は教授が言った。それで、張り詰めていた緊張が、ほんの少し、緩んだ。
上がりなさい、と言ったのは、教授でなく、男の方だった。
一体、何者なのか、私には見当もつかない。じっと男を見つめていると、
「自己紹介したら、どうだ? 君の後輩だろう? 近松君」
と、教授が言った。
近松?
その名を聞いて、私は息をのんだ。
「いやいや、こんな出来の悪い先輩じゃ、後輩には迷惑というものでしょう。なぁ、そうだろう?」
と話しかけてきたが、私には答えられなかった。
近松雄太郎が、なぜ、ここにいるのか……。そして、教授とは一体、どういう関係なのか。
例によって、教授は、そんな私の心を見透かしたように、
「近松君は、私の口を塞《ふさ》ぎにきたらしい」
と、まるで他人事のように言った。
「……口を塞ぎに?」
一体、どういう意味なのだろう?
私は近松に目を向けた。すると、近松は欧米人がするように肩を竦《すく》めて見せた。日本人には似合わない仕草だ。だが、近松の場合、キザを通り越して、言うに言われぬ凄味《すごみ》がある。
「君は茶道の心得はあるのか?」
唐突に近松が言った。
「茶、茶道?」
私は教授を見た。教授が、答えなさい、という風に頷いた。
「高校生のころ、ほんの少々……」
と答えると、
「そりゃ、よかった」
近松はニッコリ微笑んで、
「先生、話の続きは、お茶をいただきながら、ということで、どうです?」
「お茶か……。いいね……」
と、教授も微笑んだ。
私は慌てた。前にも述べたが、茶道の経験と言っても、本格的なものではない。
「でも……、ずいぶん、昔のことで、よく覚えていないのですが……」
と、茶席での亭主[#「亭主」に傍点]の役を逃れようとしたのだが、
「それは、こっちもご同様だよ」
近松が言った。
「さっきも、先生と話したんだが、二人とも茶道には素人だ。お互いが素人ということは、お互いが玄人ということと同じようなもんだろう? 茶道具は一通り揃《そろ》っているということだし、適当に湯を沸かして、適当に飲めばいいんじゃないか」
「適当に、ですか……」
それならいいけど、それにしても、心得があるなんて、なぜ言ってしまったのだろう。
後悔したが、後の祭だった。
明月庵は本来、茶室である。
一つ屋根の下に、言わば、控室≠ニ宴席≠ェあるのだが、茶道の作法によると、明月庵のような造りの場合、客は一旦《いつたん》、わざわざ外に出る。そして、庭≠歩き、途中で手を洗い、口を漱《すす》いだ後、躙口《にじりぐち》なる狭い出入口から、窮屈な思いをして茶席に入る。
これが席入りの正式な作法だ。
しかし、教授も近松も、そんな作法はどこ吹く風、といった様子で、襖《ふすま》を開けると、そのまま廊下をズンズン進み、立ったまま茶席に入りこんでしまった。
口うるさい茶道の先生が見たら、腰を抜かすかも知れない。でも、急いでいる時なんかは、確かに、この方が手っとり早い。もっとも、急いでいる時に、茶をたてようとする粋人はいないだろうけど……。
茶席に入ると、急がないから、のんびりやってくれ、と言って、教授は近松とともに躙口近くに座った。
私は一旦、隣の部屋に入った。そこは水屋《みずや》と呼ばれる小部屋で、劇場で言えば、舞台に対する楽屋にあたる場所だ。
私はまず、炭の準備から始めなければならなかった。茶の湯では、一年が炉と風炉《ふろ》の季節に分かれる。つまり、早い話が、畳を上げて囲炉裏≠ナ湯を沸かす冬の時期と、持ち運びできる火鉢≠ナ湯を沸かす夏の時期に分かれている。
衣替え同様、その時期は、きちんと定められている、と教わった記憶がある。だが、今の時期はどちらなのか、覚えていない。
どうしようか、と迷ったが、二人のいる茶席の炉は閉じられていたし、そもそも、炉の準備には半日くらいかかるものなのだ。となれば、風炉でやるしかない。それに、確か、風炉はオールシーズン、というようなことを聞いた記憶もある。
その準備に、取りかかると、茶席の方で、
「なかなか、風情があって結構ですね」
と、近松が言い、
「同感だ。現代人には、こういう落ち着きがほしい」
教授が同調した。
土風炉と書かれた棚から、火鉢≠引き出し、古バケツの中の灰を入れた。確か、この灰の形にも作法があったと思うが、どうせ、灰の上には炭を置くのだから、気にすることはない……。
「ところで、先程の話の続きですが、後藤が本ボシじゃないと、いつ、お気づきになりました?」
茶席の方で、近松の声がした。
後藤が本ボシじゃない? 一体、どういうことだろう?
私は耳を澄ました。
「そうだねぇ……。僕に関する妙な噂《うわさ》が流れ始めた頃かなぁ」
教授が答えた。
「僕を誹謗《ひぼう》中傷する行為が、録音テープを送りつけてきた手口に、どことなく類似していると感じたな。はっきりと確信が持てたのは、東京の妻へ匿名電話があった後だ。あの不倫の告げ口には参ったが、僕を東京へ追い返そうとしていることがわかった。それで、後藤は本ボシじゃない、と、ピンと来た」
「どうしてです?」
「当時の捜査本部のムードは、容疑者の後藤が死亡したので、捜査にも終止符が打たれようとしていた。それに対して、後藤の身辺を洗い直す必要性を主張していたのが、僕だ。その僕を追い出そうとするのは、僕の主張が、当たらずとも遠からず、ということにはならないかね?」
「…………」
「それで、事件を別の角度から見直してみたんだ。すると、一つの構図が浮かんできた。とても恐ろしい構図だったがね」
「ほう……。一体、どんな構図です?」
「あの三人の外国人の女は、単に、録音テープの声の主を探し出させるため……、ただ、それだけのために殺され、遺棄された、という構図だよ。つまり、殺人死体の側に、あの録音テープを残せば、警察は当然、事件との関連性を認めて捜査することになる。それが狙《ねら》いだったという構図だ」
「…………」
「だが、捜査本部は当初、録音テープに注目しなかった。第二の殺人が発生して、初めて注目するが、それでも、手がかりとしては、まだ半信半疑の状態で、それほど大きな比重を占めていなかった。そこで……」
と言った時、
「それは、表向きの言い訳ですよ」
近松が割り込んだ。
「捜査本部の本音は、録音テープを遺留品とは思いたくなかったんです。第一の事件現場で、踵《かかと》の潰れたスニーカーやコードの切れたアイロンなんかと一緒に、ゴミ捨て場に投げてしまっているわけですからね。そんなことがマスコミの知るところとなったら、初動捜査でチョンボ、とか何とか、大々的に書き立てられることになります。それを恐れたんですよ。いかにも小役人らしい発想です」
「なるほど……」
「本来の捜査とは異なる不純な要素が、捜査の進展をはばんだんです。録音テープに注目したのはいいが、科捜研に音響分析の依頼もしなければ、マスコミに声の公開もしない。今の科学なら、声の分析で、身長、年齢、顔かたち、出身地、更に、職業まで解析できる場合があるのにですよ。先生に対してだって、テープの声でなく、それを紙に記録したものしか、お渡ししなかったでしょう?」
と言って、近松は鼻で笑った。
「それで、藤山君のところへ録音テープを送りつけ、僕を通じて、捜査本部に働きかけようとしたわけか?」
と、教授。
「先生なら、捜査本部だけじゃなく、警察庁、それに、警視庁の専門機関にも働きかけていただけますからね」
なるほど、そういうことか……。
目から鱗《うろこ》が落ちる思いだった。さすがは警大の教授だ、と感心する一方で、なぜ、近松が? と、不思議に思っていると、
「藤山君、準備は進んでいるかい?」
と、教授が催促してきた。私の手が止まっていることがわかったらしい。
さて……、炭にも、炭置き、という作法がある。でも、釜《かま》をのせれば見えないのだから、適当に並べることにした。
茶席の方では、教授が話し出している。
「目論見通り、捜査本部は録音テープに注目した。だが、相変わらず、捜査の方は進展しない。当たり前だ。あんな録音テープで、声の主が突き止められるわけはない。だから、本ボシは三人目の外国人の女を殺すことにした。よほど焦る事情があったんだろう。そして、今度は、別の品物を残すことにした。それが、栄養ドリンクの空瓶だ。ここで、ようやく、捜査本部は成果を上げる。空瓶に付着していた指紋が、後藤の指紋と一致。捜査本部は殺人の最重要容疑者として手配する」
「…………」
「僕の構図を完成させるには、本ボシが、その手配情報をいち早く入手する立場の人物であり、なおかつ、警察よりも早く、後藤の身柄を押さえることができなければならない。つまり……、警察内部に親しい知り合いがいる一方で、警察の手の及ばない犯罪組織にも深入りしている人物、ということになる」
「…………」
「おそらく、犯罪者仲間の情報を得て、後藤の居場所を突き止めたんだろう。そして、本ボシは後藤を捕まえ、殺し、その上、一連の外国人殺しの犯人に仕立て、しかも、敵討ちによって殺された、という風に工作した。正に、離れ業。一石二鳥、いや……、三鳥にも及ぶ」
「実は、四鳥なんですよ、先生」
近松が得意気に言った。
「そうかね。いずれにせよ、本ボシは計算高く、緻密《ちみつ》な人物だ。ところが、なぜか、東京の僕の家には、不注意な電話をかけてきた。全く、らしからぬミスだ」
「まさか、あの電話が録音されているとは、夢にも思わなかったんですよ。それに、電話の相手は先生ではなく、奥様だったわけで、ついつい、油断してしまったんです」
「頭のいい人間は、いつも、それで足を掬《すく》われる。ほんの僅《わず》かのミスなんだが、これが致命的なミスなんだ。テープの声を県警の関係者に聞いてもらったわけだが、四人目で声の主が判明した。実に呆気《あつけ》なかったぞ」
四人目? 最初は、私と久美子と澄江だったから……、四人目というと、やはり、尾崎警部補だったのだ……。
「録音テープを使って、いろいろ画策したパンドラが、録音テープで正体がバレるとは、全く皮肉なものですな」
近松が自虐的に笑っている。
何だか、妙な雰囲気だ……。
しかし、私には茶の準備がある。
えーと、釜、釜、と、辺りを見回すと、ぶんぶく茶釜の絵本に出てくるのとそっくりな茶釜があった。宝珠釜《ほうじゆがま》、という記名がある。釜は、これでよし。次は水……。
「ところで、先生。パンドラが捕まった場合、精神異常の猟奇殺人者ということで、無罪になるとは思いませんか?」
近松が尋ねた。
「まず、無理だろうね」
教授が答えた。
「なぜです?」
「そりゃ、君。わかりきっていることじゃないか。パンドラは計算ずくで犯罪を起こした。何しろ、言わば、撒《ま》き餌《え》の材料にするために、何の関わりもない三人もの女性を殺したんだからな」
「…………」
「僕は、自分の思い描いた大滝事件の構図が、間違いであってほしいと願ったよ。それは冷酷とか、残虐の域を超えている。人間はそこまで無感情になれるはずがない、とね」
と言うと、一転して、
「他に方法はなかったのか? それとも、外国人そのものに、何か特別の恨みでもあったのか?」
教授が刺《とげ》のある声で言った。
その時、私は近松の声を思い出した。教授夫人に電話をかけてきた男の声。その声にそっくりではないか……。
すると、近松がパンドラで、本ボシということだろうか?
「夢中だったんですよ、先生……」
近松が言った。
「先生は先程、計算ずく、とおっしゃいましたが、私の感覚としては、次から次へと、息つく暇もない苦しい日々でしたよ……」
「…………」
「後藤、いや、その当時は、どこの誰だか、わからなかったわけですけど、私の会社が何者かに恐喝されているとなれば、殊に、その恐喝の内容が、会社の存立に関わる内容だとしたら、恐喝者の正体を突き止め、何らかの手を打つのが、総務課長たる者の使命なんです」
「警察とタッグを組めば、何ということはないだろう? それとも……」
「はい。その通りです。恐喝の内容が問題だったんですよ。まぁ、恐喝とは、えてして、そういうものですけどね。かつての警察仲間にも相談できませんし、ましてや、その恐喝の内容を打ち明けるわけにもいかなかったわけです」
間違いない! 近松がパンドラで本ボシ。数メートル先に、連続殺人犯が、教授とともに座っている……。
私の体は小刻みに震え出していた。
「これでも元警官ですからね。聞き込み、張り込み、尾行、それに……盗聴。その他、いろいろ罠《わな》を仕掛けて、一応、恐喝者に関連するブツは入手できましたよ」
近松は続けた。
「会社にかかってきた恐喝の電話。待ち合わせ場所で恐喝者が吸っていた煙草の吸殻、例の栄養ドリンクの空瓶。コーラの缶、望遠レンズで写真も撮りました。おそらく、警察にいる時だったら、半日もしないうちに、恐喝者が後藤であることを突き止められたでしょうね。ところが、どんな大企業でも、コンピュータールームに、前科者の指紋や血液型まではファイルされていません。それがネックだったんです」
と言って、近松はため息をついた。
「たぶん、そんなことだろうと思った。だが、それにしても……」
教授もため息をついて、
「何の罪もない外国人の女を殺すことはないだろう? 君ほどの切れ者だったら、誰も傷つけずに、そう……、後藤も含めて、それから、白馬トンネルで死んだ男もだ。誰も傷つけず、誰も巻き込まずに、総務課長の役割とやらを果たすことができたはずだ。僕の言っているのは、そういうことなんだよ。君には、それだけの才覚が備わっているはずだ」
「ありがとうございます。私にとって、何よりの褒め言葉です。でも、先生……。実を言うと、その才覚を働かせる前に、一人目の外国人の女は殺されてしまったんです」
「……何だって?」
「そうなんです。言うなれば、ウォーミングアップの最中に、スタートの号砲が鳴ってしまったようなもんでしてね。ランナーとしたら、とにもかくにも走り出すしかなかったんですよ」
「…………」
「私が日頃、雑用に使っているヤクザ者の弟分というのが、ラブホテルで、外国人の女を殺してしまいましてね。どうしたらよいか、と、兄貴分の方が泣きついてきたんです。もちろん私は、自首を勧めましたよ。でも、受話器を戻して十秒もしないうちに閃《ひらめ》いたんです。それで、その自首に待ったをかけたというわけです」
「…………」
「私の警察時代の部下が一人、大滝署に勤務していることを思い出しましてね。彼からなら内部情報を得られる自信がありました。それで、ラブホテルから死体を運び出し、恐喝者に関連するブツと一緒に、大滝署管内に放置したんです。煙草の吸殻、コーラの缶……。恐喝電話の録音テープだけは、内容を知られないようダビングしました。捜査陣は必ず、食いついてくる、と読んだんですけどね。ちょいと、当てが外れました」
近松はクックッと笑った。その笑いを制するように、
「僕に理解できない点が一つだけある」
教授が言った。
「もし、警察が、その録音テープや、煙草の吸殻、それに、コーラの缶などの、ニセ遺留品から、後藤を割り出し……、まぁ、実際、第三の事件で割り出すことになるわけだが、そうなると、捜査本部は逮捕状を請求する可能性がある。今回、そうしなかったのは、捜査本部に余裕があったからだよ。マスコミに煽《あお》られれば、逮捕状は請求したかも知れん。その結果、身柄を確保され、取り調べを受けたら、後藤は、君の会社を恐喝していることを、ゲロしてしまう可能性があった。そうなったら、元も子もなくなるんじゃないのかね? この点、君らしくない」
「いやいや、そんなことはありませんよ。よく、お考え下さい。もし、後藤が逮捕されたら、これは紛れもない冤罪《えんざい》ですよ。この私が仕組んだ違法逮捕です」
「…………」
「そのことを知っているのは、身に覚えのない後藤本人ですよ。私が後藤だったら、コロシのアリバイ証明に全力を尽くしますね。嵌《は》められたことにカッとして、恐喝のことをペラペラと喋《しやべ》っても、警察を喜ばせるだけですよ。後藤は、冤罪で捕まったんです。つまり、無実です。腹立ち紛れに洗いざらい喋って、仮に大滝事件の容疑は晴れたとしてもですよ、お解き放ち、ということにはなりません。今度は恐喝罪で、そのまま、留置場行きですよ」
「…………」
「私は警察で、十三年間も悪党を扱ってきましたからね。連中の習性は知り尽くしていますよ。連中は善悪に疎《うと》い分、損得計算には長けているんです。私は百パーセント、成功すると読んでいました」
「なるほど……。だが、恐喝者の正体を突き止めるために、三人も殺したというのは、いかにも効率が悪すぎる。いや、それよりも、良心は痛まないかね?」
「先生、私は綺麗事《きれいごと》は言いません。この世の中、食うか食われるかですよ。それが自然界の摂理です。我々だって、三度の食事に、牛や豚や鳥……。生きているものを殺して、平気で食っているじゃないですか」
「…………」
「あの三人も同じです。不法滞在の外国人だから、身元確認のためには、警察は所持品や遺留品を洗うしかない。そういう意味で、効率のよい格好の餌《えさ》だったんです。腹をすかした我々が命をつなぐために、本能に従って、殺して食ったようなものです」
「そういう理屈か。すると……、僕たちも、その餌というわけかな? だが、この二匹、息の根を止めるとなると、少々、手間がかかるぞ?」
教授が開き直るように言った。
「そう睨《にら》まないで下さいよ、先生。確かに、相変わらず腹はすいていますけどね。下手に先生の口封じなんかしたら、全国各地から凄腕《すごうで》の教え子さんたちが束になって押しかけることになりますよ。そうなったら、私は日本にはいられなくなります」
「…………」
「ここへは、意趣返しのために来たわけじゃありません。そんな野暮は、例のゴロツキどものやることですよ。私は、自分の計画を見破ったのは、一体、どんなお方なのか、この目で確かめたかった……。ただ、それだけのことです」
「そうかね。僕にはまだ、やるべきことが残っているんでね。それを聞いて、ホッとしたよ」
そして、立ち聞きしている私も、ホッとしていた。
いつの間にか、茶釜から湯気が昇っていた。
準備はできたが、本来、この火鉢と釜≠ヘ、あらかじめ茶席の定められた場所に準備しておくもので、客の座っている目の前を、ヨイショ、ヨイショと運ぶべきものではない。一体、どうしたらよいのだろう?
そんな私の悩みをよそに、茶席の方では話が続いていた。
「ところで、これから、どうする?」
と、教授。
「そうですね。しばらく考えます」
「さて、そんなにのんびりしていていいもんかね? 捜査本部は悠長に待っていてはくれんぞ。福岡で捕まったチンピラが自供するまで、せいぜい三日。死んだ気になって頑張っても、五日が相場というところだろう。何せ、覚醒剤の中毒患者だからな」
「全く、あのヤッコにも困ったもんです。盗んだワゴン車の中に、たとえ一万円札が散らばっていても拾ってはならん、と、きつく釘《くぎ》をさしていたんですがね」
「…………」
「後藤の死体を転がした時でさえ、私は指先を削《そ》ぎ取ったんですよ。削ぎ取らない方が、すっきり身元確認できるのに、敢《あ》えて、削ぎ取ったんです。それは、あの外国人の女たちの死体と、少しでも異なっていたら、鼻のきく捜査員に、疑われると思ったからなんです。こっちは、それほど細心に、周到に事を進めているというのに、よりによって……」
「水中カメラは、水圧の関係で、デザインが普通のカメラと違っている。ヤツの目には、それがカッコよく見えたんだろうよ」
「金なら、たっぷり払ってやったんですがね。あんな水中カメラなら、何百台だって買えたはずなのに……」
近松が舌打ちした。
「それが、あの連中の悲しき習性だよ。おいしい餌に釣り針がついているとわかっていても、目の前にぶら下げられると、反射的に食いついてしまう。つまり、堪《こら》え性がないんだ。だから、社会のルールも守れない」
「おっしゃる通りです。人材とは、優れた才能を持つ人間ばかりを言うわけじゃないんですな。指示通りに作業する人間が、いかに貴重な存在か、今頃になってわかりました」
近松は独り言のようにつぶやいた。教授はそれに答えなかった。茶室に一瞬の静寂。
えーい、なるようになれ、と思って、私は茶道口の襖を開けた。
茶道口とは水屋と茶室の境目にある出入口のことだ。とにもかくにも、火鉢と釜《かま》≠ェ茶席にないと、茶道にならない。
途中で、ひっくり返すことになるかも知れない、と不安を感じながら、両手をかけると、近松が素早く立ち上がった。そして、後ずさりする私に代わって、火鉢と釜≠持ち上げ、定座まで、軽々と運んだ。
やれやれ、助かった、と思ったが、一難去って、また一難。今度は、水指、棗《なつめ》と茶碗《ちやわん》、建水などの、道具を運び入れなければならない。これにも、細々《こまごま》とした作法がある。
何しろ、五、六年ぶりのことで、左|膝《ひざ》から立ち上がってしまってから、右膝からということに気づく始末だった。
道具を運び終えたら、鏡柄杓《かがみびしやく》。これは左手で柄杓を持ち、右手を添えて持ち直し、構えなければならないのだが、緊張していたので、手が滑り、柄杓を落としてしまった。すると、それを見かねたのか、
「僕がやろう……」
今度は教授が立ち上がった。
教授は明らかに茶の心得があった。私は教授から少し離れた所に座った。そんなわけで、いつの間にか、半東《はんとう》の立場になっていた。半東とは亭主を補佐する役だ。どうやら、私は何をやるにしても、教授の助手、という立場に落ち着くらしい。
「ところで、近松君はなぜ、警察を辞めたんだい? ヘッドハンティングでもされたのかね?」
教授が帛紗《ふくさ》を使いながら言った。
「いやいや、元々、熱しやすく、冷めやすい性格なんです。私は子供のころから、何をやらせても、長続きしませんでした」
近松は冗談口調で言った。
「目を瞑《つむ》れ、とまでは言わんけどね……」
教授は一瞬、手を止めて、
「耳を澄ましてごらんよ、近松君。小鳥の囀《さえず》りが、いつもより冴《さ》えて聞こえないか? こんな場合に、軽薄な言葉は、却《かえ》って野暮というものだ」
「…………」
「もう一度、聞くけど、十三年も勤めた警察を、なぜ、辞めたのかね。干菓子代わりに聞かせてくれないか?」
本来の茶会では、薄茶には干菓子が用いられる。私は茶菓子については詳しい。
「干菓子代わりに、ですか……」
近松がフッと笑った。
教授は柄杓を扱って湯を汲《く》み、茶碗に入れ、置き柄杓をした。茶を点てる直前の段階だ。
「私が辞めたのは、自分の能力を生かす仕事をしたかったからです」
近松が話し始めた。
「別に、警察に不満があったわけではありません。不満がないわけですからね。上司や同僚、それに、家族や友人たちを納得させられませんよ。それで、当時、県警のガンと言われていた年寄りどもに喧嘩《けんか》を売って、辞めやすくした、というわけです」
「…………」
「どんな仕事でもよかったんです。私は命を削るような仕事をしたかった。コンピューターのキーボードを叩《たた》いたり、通訳や翻訳の仕事なんか、警官でなくてもできますよ。それに、コンピューターや語学力は、私の能力のほんの一部にすぎないんです」
近松の声は次第に早口になっていった。
「憚《はばか》りながら、私は柔道もできるし、剣道もできる。逮捕術に至っては、署課隊対抗試合の代表選手になり、準優勝までしましたよ。射撃だって人並み以上だし、体力検定はA級です。そんな私が、終日、暖房のきいた快適な部屋で、事務を執っている。一体、自分の人生は何なんだ? そう思いました」
「一般の警官が聞いたら、さぞ、うらやましいと思うだろうな」
「おっしゃる通りです。大方の警官たちは、遅く出勤して、楽な仕事をして、早く退庁したがるだけですからね」
「…………」
「自宅へ帰って、自宅の居間でビール片手にナイターを見る、というのが理想なんですから、たぶん、私のような立場はうらやましく映ったことでしょうよ。でも……、そんな警官ばかりじゃないんです。人生は、あっと言う間に終わり、後には何も残らない、という真実を知っている警官もいるんです。そういう人間にとっては、今をいかに生きるかが大問題なんです」
「そんなに大袈裟《おおげさ》なことかなぁ……。職場変えを申し出れば済むんじゃないか?」
「申し出ても、ダメでした。なぜなら、私はスコアブックをつけるために試合に出られない野球部員のようなものだったんです。代打に出たくても、スコアブックをつけられる選手がいないんです。あれは結構、難しいですからね」
「だから、監督も君の貢献に対して、それなりに応《こた》えたわけだろう? つまり、君の多才を認めていたからこそ、県警は人事面で、君に報いたんじゃないのかね? 聞くところによると、君は、いわゆる出世頭だったそうじゃないか」
「そんなことは当たり前ですよ。雀の涙ほどの給料で、黒子として人一倍、努力し、しかも、ご褒美にあずかれる機会は皆無に等しかったんですからね」
「…………」
「いつだったか、同窓会で学友から聞いたんですがね。仕事でよい成績をあげると、海外旅行とか、長期バカンスのご褒美があるんだそうです。うらやましい限りでした。その点、こっちは事務屋ですからね。どんなよい結果を出しても当たり前。晴れの場で、ご褒美がもらえるのは、刑事課とか、機動捜査隊みたいな、犯罪や犯人を直接扱っている連中ですよ。若い頃、一時期、デカ部屋にいただけに、彼らが心底、うらやましかったです」
「そうだろうか……」
教授は首を捻《ひね》って、
「君の上司は、実は、君の持ち味というものを見抜いておられたんじゃないのかな。とかく上役というのは、部下から見れば無能に映ることもあるが、それなりに世の中を見てきている。図星とは言えないまでも、見当外れなことは言わないものだよ」
「…………」
「そんなわけで、僕は君の上役ではないけどね。警察の先輩として忠告をさせてもらうよ。法律に詳しく、警察や検察の手の内も知り尽くしている君のことだから、万全の対策を立てているんだろうけど、どうかね? それを敢えて放棄して、潔《いさぎよ》く自首したらどうだ? 未練たらしくジタバタする被疑者被告人なんて、もう見飽きているはずだ。そういう連中に男の手本を見せてやったらどうだ?」
「ご忠告、ありがとうございます。でも、ここまで、我を通してきたんですからね。たとえ悪あがきと言われても、もう少し我を通させていただきます」
「そうかね。それは実に残念だ……」
教授は棗の蓋《ふた》を取り、茶を二杓ほどすくい茶碗に入れた。柄杓で湯を汲み、茶碗に入れ、残りを釜に返し、切柄杓をした。
茶筅《ちやせん》を取り、茶碗の中で細かく振った。静寂の中で、茶を点てる音と、釜の音だけが辺りを支配した。
教授が点てた茶を、半東役の私は近松の前まで運んだ。私が元の位置に戻ると、
「ところで、しばらく前に週刊誌にスクープされたAという会社のことだが……」
教授が言った。
「あれは、君の勤めている会社のことじゃないのか?」
「ほう。わがアルファ精機のことが、何と書いてあったんです?」
近松は茶碗を正面に置き直し、頂戴します、と頭を下げた。
「確か、高性能工作機械と衝撃試験機を中東の某国に売却した、という記事だったな」
教授は続けた。
「大量破壊兵器の拡散防止のために、日本でも間もなく厳しい輸出規制が開始される。大量に在庫を抱え、赤字経営に悩んでいるA社は、その規制を恐れて駆け込み輸出をした、という推測記事だ」
「ああ、あのことですか。私は一介の総務課長で、総会屋や人権屋を捌《さば》くのが専門ですからね。営業のことはわかりませんよ」
「そうかね。じゃ、社長命令でプロジェクトチームが編成され、証拠|湮滅《いんめつ》が図られているというんだが、そんな噂《うわさ》を耳にしたことはないかね」
と、言い終わる前に、
「プロジェクトチームのことについては、寡聞にして存じません。大滝の件については、この私が一人で考え、実行したことです」
近松はきっぱり言った。
「見上げた態度だが、かばったところで、いずれは判ることだよ」
「別に、かばっているわけではありません。これはプライドの問題です。今回の仕掛けは、捜査を知らない素人なんかには思いつきません。この私の経験の裏付けがあってこその発想ですよ」
「そうかなぁ……」
教授は首を傾げて、
「それには異論があるな。外国人の女を撒《ま》き餌《え》にして、大滝署員から情報を得る、というアイデアは、却って、素人の方が思いつきやすいような気がするぞ。ま、それを実践するには、捜査の知識が必要だろうけどね」
「お、お言葉ですが、そんなことはないと思いますっ」
近松が向きになった。だが、すぐに、手にした茶碗に目を落として、
「ど、どうも失礼を……」
と、小さく会釈した。そして、上気した顔を隠すように、茶碗を口元に運んだ。
「君の話を聞いて、ふと思ったことなんだがね……」
教授は続けた。
「僕には、外国人の女の殺害という前提が発生してしまった、というのが、妙にひっかかるんだ」
「…………」
「君に聞くが、もし、アイデアだけだったら、実行したかね? いや、実行できたかね?」
「それは……」
「少なくとも、二の足を踏んだのではないかと思う。元警官なら、それが当然だ。警察を辞めたとは言っても、一度は正義感に燃えた人間なら、違法行為を犯すことには抵抗を覚えるんじゃないかと思う。まして、何の罪もない女性を殺すなんて、おそらく、許さないと思うよ」
「…………」
「もし、そういう君の性格を会社幹部が洞察していたとしたら、どうだろう? 目的のためには手段を選ばない経営陣が、近松課長に相談する前に、殺してしまえ、ということにならないか? 既成事実が発生してしまえば、否応なしに、実行せざるをえなくなる」
「…………」
教授の言葉は思わぬ事態を招いていた。
茶を飲み終えた近松は前屈みになり、茶碗《ちやわん》を鑑賞している形を取っていたが、その手は震えていた。
教授はそれに気づいていない。亭主は客に対して横向きであり、正対していないからだ。
「それに、失礼かも知れんが、近松君にアイデアを思い浮かばせるために、いろいろヒントを与えた、と、考えるのは、意地悪な見方だろうか?」
と言って、教授は近松の方を向いた。そして、一瞬、ギョッとしたように、目を見開いて、
「これは……、どうやら、余計なお世話だったようだね……」
と、低くつぶやいた。
その後、一体、どのくらいの時間がたったろうか。近松は茶碗を置き直して、私の方を向き、目配せした。
茶碗を下げろ、ということなのだろう。私は立ち上がり、茶碗を客の前から亭主のところまで運んだ。
教授は茶碗を膝《ひざ》前に置き、湯を汲《く》み、その湯を建水に捨てた。その時、
「おしまいを」
と、近松が言った。
この挨拶《あいさつ》があったら、亭主は茶碗をしまう作法になっている。
教授は一瞬、いぶかしそうな目で近松を見たが、では……、と言って、作法通り、しまいの茶筅通しを始めた。すると、今度は、
「どうか、ご両器の拝見を」
近松が言った。それまでと違って、表情が強張っている。
両器拝見の所望、つまり、客が茶器と茶杓の拝見を望むと、亭主は両器を残し、柄杓《ひしやく》、蓋置、建水を持って水屋に下がる。
二人の間には、もはや日常会話は交わされず、無言の中に、独特の緊張感が漂っている。
教授は作法通りに振る舞った。この場合、半東は両器を客の前へ運ぶ役目がある。しかし、私が立ち上がると、教授は手にした建水を私に差し出した。それは、一緒に下がれ、という無言の指示だった。私は何が何だか、わからないまま水屋に下がった。
亭主が茶道口から出ると、客は両器を取りに出る。そして、両器を仮置きし、茶道口が閉まるのを待って、自席に戻り、そこで両器を鑑賞するという手筈《てはず》になっている。
客が鑑賞を終え、両器を元の場所に返して座に戻る頃、再び亭主が出て、挨拶をする。教授も、水屋の棚に、柄杓、蓋置を戻した。そして、さも肩が凝ったように、首を曲げたり、回したりしていたが、やがて、作法通り、茶道口から茶席に入り、すぐに、私を呼んだ。
私も茶席に戻ったのだが、すでに近松の姿はなかった。躙口《にじりぐち》がぽっかりと開き、そこから風に揺れるシダの葉が見える。
「やれやれ、草履もはかずに露地に下りるとは、不作法な客だ」
教授がつぶやいた。私は反射的に、躙口に駆け寄ろうとした。その時、
「藤山君っ」
と、教授が小さく叫んだ。私は足を止め、振り返った。すると、
「茶席では、そんな作法はないよ」
教授が静かな口調で言った。
犯人と知りながら、教授はなぜ、近松を見逃したのだろうか?
しばらくの間、私は解しかねていた。
その理由は、まず、私の身に危険が及ぶことを避けるため。次に、たとえ見逃しても、ある一つの結果に至ることを見通していたから。さらに、これが最も大きな理由だと思うが、近松の話を裏付ける証拠は一切なく、従って、その時点においては、身柄を拘束する法的根拠もない……。
そう理解したのは、ずっと後になってからのことだ。
教授の予想通り、福岡で逮捕された風間某という容疑者は自供し、捜査本部は直ちに近松雄太郎を重要参考人として全国手配した。
そして、私にとって気になる事件が発生した。東京湾の大井|埠頭《ふとう》、アルファ精機の倉庫内で、同社の企画室長が死体で発見されたのだ。まだ三十六歳の企画室長は切れ者との評判が高く、将来を嘱望されていたエリートだった。
気になるというのは、その殺され方が、後藤の場合と同じだったという点だ。茶席での教授との会話が記憶に鮮烈だった私は、この企画室長殺しに、近松の影を感じた。
「もし、そうだとしたら、責任の一端は僕にもある」
瓢箪池の前で、教授がつぶやいた。
「僕は、会社幹部の陰謀の可能性なんて、近松君の視野には、当然、入っているものとばかり思っていたんだ。だが、茶席での彼の反応で、そうでないことが分かった。あの時は後悔したよ」
「…………」
「考えてみれば、僕の発言ほど、彼のプライドを傷つけるものはなかったかも知れん。若い頃から有能な人材として将来を嘱望され、彼自身も、それを意識していたはずだ。そんな自分を上回る別の人間が存在し、しかも、うまく踊らされたなんて、信じたくはなかったろうな」
「それで、企画室長を呼び出して、問いただしたわけですね?」
「たぶんね。もっとも、茶席での彼には、思い当たる節がある、という表情も窺《うかが》えた。ひょっとしたら、あの時点で全てを悟ったのかも知れん。とすれば、企画室長への拷問は九十九パーセント、報復目的ということになる。ただ、その一方で、僕の指摘したことを否定してほしい、というような矛盾した思いも抱いていたんじゃないかな」
「でも、残酷な結果になったわけですね」
「うん。殺された企画室長、そして、殺した近松雄太郎にとってもね」
教授の顔が曇った。
「私にはわからないことがあります。あの人は警察を中途退職してまで、よりよい人生を歩もうとしました。なのに、なぜ、あんな凶悪犯罪を引き起こしてしまったんでしょうか?」
私は近松と会って以来、ずっと抱き続けていた疑問をぶつけてみた。すると、教授は複雑な笑みを浮かべて、
「突飛な例かも知れんけどね。僕には、学問的興味だけで原子爆弾を作ってしまった科学者に、どことなく似ているような気がするんだ。あの科学者たちには科学者以前のモラルというものが欠如していた。近松雄太郎には正義感というものが、元々、欠如していたんじゃないのかな」
「正義感……」
「うん。でも、それは年寄りの常識論、結果論で、実際のところは、違うかも知れん」
「…………」
「結局のところ、真相というものは、その当人でないとわからないよ。いや……、当人であっても、わからないかも知れん。それが人生というものだ」
「今……、あの人は一体、どこで何をしているんでしょうか?」
私には、なぜか、もう一度会いたいような気がしていた。
「さぁな……」
教授は池に餌を落としながら、
「どこで何をしようが、どうせ人殺しのやることだ。ろくなことじゃないさ……」
と、苦々し気に言った。
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エピローグ
教授が帰京することになった、と聞かされた時、私にはそれほど唐突な感じはしなかった。
近松雄太郎との接触以来、教授の表情や言動から、何となく、そんな雰囲気が感じられていたからだ。
そして、その当日――。
後部座席に教授を乗せて、私は駅に向かっていた。
「先生……」
私はルームミラーを後部座席の教授に合わせた。どうしても確かめておきたいことがあったからだ。
教授は窓の外に目を向けたまま、
「ん?……」
と生返事した。
「先生は最初から、大滝事件を捜査するためにいらっしゃったんでしょう?」
私はズバリ尋ねた。
「ほう……。なぜ、そう思うんだい?」
「だって、今度の大滝事件に関しては、県警内部に疑惑の目が向けられても当然です。それで、うちの警務部理事官が先生をお呼びしたんではないですか?」
「そんなことはないよ」
教授はあっさり否定した。
もちろん、その言葉を鵜呑《うの》みにはできない。何しろ、茶道の心得がない、と言いながら、見事に亭主役をこなしたお方なのだから……。
「じゃ、お伺いしますけど、円谷紅雲画伯の死の真相究明について、何か収穫はあったんでしょうか?」
と、更に尋ねると、
「円谷紅雲……、それは……」
教授が口ごもった。
「どうしました? 画伯の最期について、真相を調査されるのが、ご滞在の目的だったんでしょう?」
多少の皮肉を交えて、追い打ちをかけた。教授は沈黙したままだった。
「警務部は監察室を抱えています」
私は続けた。
「職員の非行があれば、調査に乗り出しますが、その対象が捜査一課となると、やりにくいと思います。何しろ、相手は捜査のプロ集団ですからね。尾行、張り込み、取り調べはお手のものです。そのような相手の身辺調査をしようとすれば、すぐに見抜かれてしまいますよ。下手すれば、逆に捜査され、一体、何のマネだ、なんて、ねじ込まれてしまいます」
「…………」
「だから、理事官は東京から先生をお呼びしたんじゃないですか? 警視庁の捜査一課で長らく活躍された先生なら、うちの捜査一課を相手にしても、五分に、いや……、それ以上に張り合えるはずですからね」
「おいおい、あまり買いかぶらんでくれよ。僕はシュワルツェネッガーじゃない。たった一人で百人を相手にはできないよ。それに、あれは映画の中のお話だ」
「でも、先生。たった一人、というのは上辺だけで、実は陰で、何人もの、いや、何十人もの助手たちが動いていたとすれば、映画でなくても可能でしょう?」
「それは……」
と、口ごもった後、
「ま、少なくとも、有能な助手さんが一人いたことだけは間違いない」
教授は話題を逸《そ》らすかのように言った。私はそれを無視した。
「理事官が先生をお呼びした理由は、まだ他にもあります。ひょっとしたら、こっちの方が大きな理由だったかも知れませんね」
「…………」
「もし、警務部の監察室が独自に動いて、その行動が明らかになった場合、しかも、非行の疑惑が間違いだった、というような結果になった場合、警務部と刑事部は抜き差しならない関係になってしまいます。でも……、もし、先生を引き合いに出して、いかにも本庁の調査であるように装えば、お互いのメンツは立ちますし、折り合いはつきます」
「なるほど……」
と、今度は真顔でうなずいて、
「まぁ、確かに、並木理事官とは二十年来の付き合いでね。困った時なんかは、相談を持ちかけたり、持ちかけられたりという仲だ。そのことについては否定はしない。で……、まだ、その他にあるかね?」
と言って、ニヤリと笑った。
「あります。何よりの証拠が、この私です」
「君?」
「はい。助手にするなら、捜査一課の人間の方が何かと便利なはずです。何せ、先生は円谷紅雲画伯の死の真相を究明するためにいらっしゃったわけですからね。自他殺の判定なら捜査一課の領分です。それなのに、捜査二課の私を指名されました。これは、捜査一課に先生の情報、それも、独り言とか、ため息とか、先生の本音の部分の情報が筒抜けにならないようにするためでしょう?」
「…………」
教授は無言のまま、何度か頷《うなず》いていたが、ゆっくりと拍手をして、
「見事な読みだ……。できることなら、その通りだ、と、言いたいところだが、もし、僕がここで、円谷紅雲の死についての研究成果を発表したとすれば、一体、どういうことになる?」
「どういうことって……」
私は戸惑った。思いがけない質問だったからだ。
「実は、まだメモの段階で、清書はしていないんだけどね。円谷紅雲の件に関しては、一応の結論に達している。それを話したら、さっき君が口にしたことは言い触らさないでくれるかな?」
「言い触らすなんて、私は別に……」
「わかっている。だが、単なる憶測でも、僕の助手をしていた人の発言ともなると、一人歩きしてしまうおそれがある。それでは、並木理事官が窮地に陥ることになる。自らの県警の捜査機関を差し置いて、個人的に日の丸教授に捜査を依頼した、ということになったら、メンツ丸潰《まるつぶ》れだ」
「それは……」
事実だからか、それとも、事実ではないからか……。
そう尋ねたかったが、それよりも、円谷紅雲の件の結論というのが気になった。
「わかりました。おっしゃる通りにいたします」
「そうか。じゃ、僕が円谷紅雲のことを調べに来た、という証拠を示そう」
教授は一つ咳払《せきばら》いをして、
「紅雲は自殺だと思う。問題の入水場所は一色渓谷ではなく、十キロほど上流。すなわち、花沢温泉の、いずれかの場所。当初、そこには紅雲の遺書と履物が、きちんと並べられていたはずだ」
「で、でも……」
遺書と靴は一色渓谷で発見されている、と反論する前に、
「何者かが、紅雲の遺書と履物を一色渓谷まで運んで並べたんだよ。その行為に、犯罪的な背景はない。動機は、単なる観光目的のためだ。つまり、有名画家の自殺によって、花沢温泉のイメージが損なわれ、客足が減ることを恐れたわけだ。ま、結果は、紅雲の自殺場所にされた一色温泉が有名になってしまったわけだけど、世の中とは、そういうもんだ。思惑通りに、事は運ばない」
「なるほど……」
私は父の言葉、そして、意味あり気な眼差しを思い出していた。
教授の言うことが事実とすれば、父は、その遺書と履物を移動させた人物を突き止めたのではないだろうか。ところが、それを公表できない事情があった……。
トウシロウ相手に、込み入った話ができるけぇ、と、巻き舌で啖呵《たんか》をきった裏には、花沢町の篤志家か有力者……、ひょっとしたら、警官の影を見抜いていたのかも知れない。いずれにせよ、紅雲は自殺という理由を以《もつ》て、父は苦い譲歩をしたのだろう。
脳裏の中で、十数年ぶりに、父の顔と声が鮮やかに蘇《よみがえ》っていた。私は尊敬と感謝の思いを込めて、ルームミラーの教授を見上げた。
この日、珍しく道路渋滞はなく、車は予定よりも早く駅についた。
見送りはないという話だったが、駅頭には、数人の制服警官が立っていた。私が車を着けると、その中の一人が素早くドアを開け、そのまま、教授を構内へと先導した。
この時、何人かの県警幹部が待ち受けていて、教授はホームで談笑。定刻になると、背伸びして、誰かを探し始めた。
やがて、私と目が合うと、ニッコリ微笑《ほほえ》んでから、ありがとう、と言うのが、口の動きでわかった。でも、すぐに、見送りの男たちの陰に隠れてしまった。
教授を見たのは、それが最後である。と言うのは、車窓へも男たちが群がったからだ。そんなわけで、ささやかなお土産を渡すこともできなかった。
やがて、電車は出発。瞬く間に、ホームから消えてしまった。そして、しばらくすると、いつものように、ホームは閑散とした光景に戻った。
これで私の特別任務は終了した、いや……、まだ、上司への報告が残っている。私は電話コーナーに向かった。
行方不明だった近松雄太郎の消息を知ったのは、その報告をし終えてからである。
「遺体の発見場所は青木ヶ原。ほれ、自殺の名所で有名な、富士|山麓《さんろく》の樹海だよ」
相沢警部が甲高い声で言った。
「苔《こけ》の収集をしていた大学の講師が発見したそうだ。死体の側には安物のウィスキーと睡眠薬。遺書は発見されていないが、自殺には間違いないということだ。ホトケのポケットには三百八十円の小銭しか残っていなかったそうだよ。哀れなもんだ……。どんなに不満があっても、男が一旦《いつたん》、職についた以上、途中で辞めるもんじゃないよ」
と、まるで自分のことのようにつぶやいた。
私は受話器を戻して、すぐに、駅の事務室に小走りに向かった。近松雄太郎のことを電話で、車中の教授に知らせようと思ったからだ。
エスカレーターを駆け登り、改札口の隣にある事務室のドアをノックした。
その時、ふと、教授はすでに承知しているのではないか、という思いがよぎった。
そもそも、警察庁警視正という地位、そして、警察大学校の教授という肩書をもってすれば、相沢警部や私よりも、はるかに迅速、かつ、詳細に捜査情報を入手できるはずである。
教授は近松の最期を見通したからこそ、いや……、その行く末を見届けたからこそ、東京に戻ることにしたのではないか……。
考えがそこまで及んだ時、事務室のドアが開き、若い駅員が顔を出した。私は慌てて、結構です、と頭を下げ、逃げるように、その場を去った。
改札口を出ると、東口と西口へ向かう人々が慌ただしく足を進めていた。私もその中に分け入った。
もう急ぐ必要はないのに、周囲の人に合わせて早く歩かなければならない。
前には、カバンをさげたビジネスマン。右側にOLの四人連れ。左側は学生服とセーラー服。そして、後ろの方では、ゴロゴロと旅行カバンのキャスターが鳴っている。
そんな雑踏の中で、私はようやく特別任務の終了を実感していた。
角川文庫『よそ者』平成12年10月25日初版発行