連合赤軍「あさま山荘」事件
〈底 本〉文春文庫 平成十一年六月十日刊
(C) Atsuyuki Sassa 2002
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
〈ご注意〉
本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。
目 次
「佐々君、ちょっと行って、指揮してこいや」後藤田警察庁長官から直命を受け、深夜、遺書と進退伺いを認めて厳冬の軽井沢に向かった
学園紛争の嵐が吹き荒れていた警察戦国時代に誕生したばかりの「赤軍派」に三年余にわたって、苦杯をなめることになろうとは……
爆弾闘争、銃による革命を標榜する凶悪集団に対抗すべく海外調査派遣されたものの、帰国直後、皮肉にも「あさま山荘」が待っていた
任務分担、指揮系統をめぐって「長野民族主義」が台頭、オール警察軍に亀裂がはしる。そこへ「県機二人撃たれた」の急報で事態一変――
特型警備車で山荘に接近したその時、観音開きの窓がパッと開き、散弾銃を構えた男がピタリ、照準を定めた。その距離およそ十二メートル
犯人側の銃声を合図に銃撃戦開始。だが、ほどなくして指揮官たちが凶弾にたおれ、頼む大鉄球もエンストでダウン。もはや銃使用もやむなし
大久保九機隊長は決断した。「隊長命令、一斉に突入、検挙せよ」……重い任務は終わった。殉職者、重傷者をふくむ余りにも苦い凱歌だ
章名をクリックするとその文章が表示されます。
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
連合赤軍「あさま山荘」事件
[#改ページ]
故内田尚孝氏
謹んで本書を、内田尚孝警視長、高見繁光警視正の御霊前に捧げる。
故高見繁光氏
さつき山荘の銃撃
騒ぎがはじまったのは、雨雲が低くたれこめた真冬の土曜日の午後だった。
昭和四十七年(一九七二年)二月十九日のことである。
その日、霞が関人事院ビル五階の警察庁警備局の空気は朝からピリピリ張りつめていた。
それもそのはず、このところ全国を股にかけて銀行や郵便局など金融機関の連続強盗を働き、また警察署、交番、警察幹部の私宅及び家族を狙う爆弾テロなど、血まみれの犯行を重ね、全国警察が血眼になって行方を追っていた連合赤軍兵士四人が国鉄軽井沢駅に姿を現わし、売店の小母さんの通報で軽井沢署員に逮捕されたという重大な報告が入ったからだ。
「連合赤軍、軽井沢に現わる」の報で警備局は騒然となった。関係の深い警備課や公安第一課の警電(注・警察専用電話)や加入電話のベルは絶えまなくけたたましく鳴り響き、課員たちは書類片手に廊下を急ぎ足で往き来する。
局長以下幹部たちの動きも烈しい。
四階の警察庁長官室に通ずる階段をせわしなく昇り降りする課長たちの姿が目につく。
夏の高級別荘地、ハイ・ソサイエティの代名詞である軽井沢と、血まみれ、垢まみれの連合赤軍とはどうも妙な取り合わせでイメージがしっくりしない。コンクリート・ジャングルの都市部ではしらみ潰しの“アパート・ローラー作戦”が、そしてお隣りの群馬県では|迦葉《かしよう》山、妙義山などで大掛りな山狩りが行われている矢先だったが、まさか軽井沢とは……。警備当局の意表をつく彼らの雪中山岳逃避行だった。
これより先の二月七日、榛名湖畔に不審車輛に乗ったうす汚い九人の男女が現われて、キャンプをしていると|杣人《そまびと》から通報があった。
この通報を受けた群馬県警では、大がかりな山狩りを行った結果迦葉山の山中で、国有林から盗伐した木材で建築した大きな丸太小屋の山岳アジトが発見された。さらに捜索隊はそれから十日たった十六日朝、妙義湖上流砂防堤に放置してあった東京ナンバー・足立55わ96の不審車輛と遭遇、乗っていた五人の男女のうち三人が逃走、ドアをロックして車内に立て籠った男女二人を森林法違反で緊急逮捕した。この二人は日共革命左派・京浜安保共闘の横浜国立大学生杉崎ミサ子(24)と慶大生奥沢修一(22)だった。
これ以後それまでは都市部に潜伏していると思いこんでローラー作戦に力を入れてきた警察庁は、山狩りの強化を関東管区警察局管内の各県警本部に指示したのだった。
そして翌十七日、捜索にあたった群馬県機動隊員四人は、妙義山中籠沢上流に焚火などの生活痕、そして附近の雪中に乱れた足跡のある洞窟を発見した。
用心深く接近したところ、突然岩陰から登山ナイフ、尖ったヤスリを構えた二人が襲いかかり、拳銃の威嚇射撃にも怯まず、隊員の一人を数回刺した。隊員は防護衣を着用していたため腹部に軽傷を負ったにとどまり、両人を殺人未遂、公務執行妨害で逮捕したのだった。妙義山中の洞窟内に潜んでいた二人は、赤軍派幹部、森恒夫(27)と日共革命左派・京浜安保共闘幹部の永田洋子(27)であった。
長野県警では、妙義山山岳地帯が長野県側の谷急山、恩賀峠、和美峠などとつながっているところから、軽井沢、佐久地方に一味が潜入してくる可能性もあると判断して、軽井沢、臼田、佐久の三警察署を中心に県機動隊一個小隊を応援派遣して国道18号線やバイパス料金所、国鉄軽井沢、中軽井沢、追分、小諸駅などに三十三人の制私服警官を張込ませて警戒にあたっていた。
逃亡中の連合赤軍テロリストたちが網にかかったのは、森、永田逮捕からさらに二日後のこの日、二月十九日。場所は国鉄軽井沢駅だった。
午前七時過ぎ、駅の待合室売店で煙草と新聞を買った四人連れの男女をみて、売店の小母さんは不審に思った。千円札をさし出した男の手は垢まみれで真っ黒、汚れ切ったヨレヨレの服装、鼻をつく異臭。もしかして手配中の赤軍派かもとひらめいた彼女は張込み中の軽井沢署員に通報した。ホームに急行した署員は七時五十九分発下り長野行普通列車に乗りこんだ四人を発見、職務質問した。男二人は偽の住所氏名を告げるなどして任意同行を拒否。別の車輛の向いあわせに坐っていた女二人も濡れたアノラック、スキーズボン、破れたキャラバン・シューズ、化粧のあともなく髪はボサボサ、近寄るとむせかえるほどの悪臭を放っていたという。突然四人は、一斉に別々の方向に向って逃げ出した。追いすがる署員に体当りする、噛みつく、登山ナイフを構える、手錠を馬鹿力でねじ曲げるなど暴れ廻った末に逮捕された。女二人は手製爆弾、散弾の実包などを隠し持っていた。銃砲刀剣類所持等取締法違反などで逮捕されたこの四人は、指紋照会の結果、
赤軍派 弘前大生 植垣康博(23)
赤軍中央軍 弘前大生 青砥幹夫(22)
京浜安保共闘 市邨学園短期大卒 寺林真喜江(23)
京浜安保共闘 日大附属高等看護学院生 伊藤和子(22)
とわかった。四人は横浜銀行の三百二十六万円強奪、宮城県泉町振興相互銀行黒松支店での百十六万円強奪容疑(植垣)、鉄パイプ爆弾製造容疑(青砥・寺林)などでいずれも指名手配中の連合赤軍兵士たちだった。
すわ、一大事、長野県警は直ちに柳沢警備課長を長に五十七人の応援部隊を軽井沢署に急派し、十個班四十七人の態勢で県境の別荘地帯の捜索を開始した。
二月十七日の山岳アジト発見によって、大掛りな山狩りが始まると、私は私への特命事項が欧米から持ち帰った爆発物処理器材の調達であることは承知の上ながらも、ついつい富田警備局長や鈴木課長に対して「警視庁の警察犬を十頭ぐらい貸して臭跡の追跡捜査をやってはどうか」とか、「関東管区機動隊、一個小隊応援派遣ぐらいじゃどうにもならんでしょう。一個大隊五百人投入されては如何」、「空から“鳥の目”で捜索しないと、地上の“虫の目”捜索じゃ、あの広大な山岳地帯では見つからんじゃないですか。警視庁のヘリを応援派遣しては」などと次々に意見具申してはうるさがられていた。
関東地方の五万分の一地図でプロットしてみると、連合赤軍の一味は迦葉山から榛名山、さらに妙義山へと南西へ雪中を移動している気配だから、方向としては和美峠から軽井沢の方向に向っている。だから国道18号線と和美峠一帯の検問の網の目を細かくしないといけないのではないか、と私は口を出すまい出すまいと思いながら、口を出していた。
二月十九日の午前中はといえば、私は居候をしている警備課長室で、課長と背中合せのデスクに向って爆発物処理技術及び機材調達のための欧米出張の公式報告書作成に余念がなかった。
これを仕上げたら今日こそは久しぶりに自宅に帰ろう、今年に入ってからほとんど丸二カ月、留守にしたり“午前様”の帰宅だったりでほっぽらかしていた子供たちと遊んでやろう、と思っていた。
私自身もいかに頑健だといっても一月は十六、二十三、三十日と三週つづけて週末を海外出張の移動日に使って休んでいない上、二月の週末も出張報告書の作成などに追われてしまい、心身ともにヘトヘトに疲れていた。この週末こそ休もうと決めていた。
その矢先に「軽井沢駅で連合赤軍兵士四人逮捕」の報がとびこんできたのである。
「銃声が聞こえる!!」
この一報を聞いたとたんに、それまでのけだるい疲労感はどこへやら、またぞろ血が騒ぎはじめた。
早速警備局長室に意見具申のために飛びこんで、性懲りもなく「警察犬、ヘリ、管区機動隊一個大隊の長野県急派」と兵力の集中運用策を再献言する。
一九六七年(昭和四十二年)文化大革命とベトナム戦争の余波をうけて香港が大暴動となったとき、香港領事として英国政庁の暴動鎮圧の手法をつぶさに見学していた私は、英国人が日本式の「兵力の逐次投入」を大変嫌い、「火は火花のうちに消せ」という兵力の大量集中配備を好むことを知った。そして威力配備により相手の意図を挫き無用の流血をさけることこそ英国流の植民地統治法の核心であることを知った。なにしろ九龍地区あたりで不穏な動きがあると、即座にグルカ兵と香港警察官を大量に配備して未然に鎮圧してしまうのだ。
これをみて私は英国式用兵思想にすっかり傾倒してしまった。だから警視庁警備課長時代も敢えて「牛刀を以て鶏を割く」という英国かぶれの用兵思想で、どしどし兵力の集中運用による警備実施を進めて、自分でいうのもなんだが、事態の早期収拾に成功してきた。
そこで警察庁の、いつも手遅れ、いつも足りないという「兵力の逐次投入」の警備思想とは毎度毎度ぶつかっていた。こんどもそうだった。だが富田局長はとりあってくれない。
「長野県警は軽井沢のは初めから潜伏していた別動隊とみてるよ。東京の人にはわからんだろうが、冬の妙義越えなんてそんなバカな、人間業じゃないって。だから迦葉山組は依然群馬の山中を逃げ廻ってるとみるべきで、早合点して長野に管機一個大隊投入なんて早計だよ」という(あとでわかったことだが妙義には“女人越え”という楽な山越えルートがあって連合赤軍は女性兵士たちもふくめてこのルートで逃走している)。私は警備局長のこの判断に全く不同意だったが、まあいいや、これは鈴木課長の所管で私のではない。口出しは無用だと自分を納得させて引き下った。
ところが、午後三時すぎ、そろそろ家に帰ろうかなと私が考えはじめていたとき、長野県警から入った一本の至急報で警備課の大部屋は総立ちになった。
三時六分、現地直通の一五〇メガ帯警備共通波無線のリモコンが、
「こちら、長野|一《いち》(パトカーの呼出し符号)、ただいまレイクニュータウン附近を検索中、過激派のアジトと思われる別荘発見、銃声が聞こえる!!」とがなりはじめたのだ。
遂に探し求めていた彼らを、追いつめたぞ。
これがあの歴史に残る大事件、「連合赤軍あさま山荘事件」の開幕を告げる第一報だった。そして、それは、河合楽器所有の「あさま山荘」ではなくて、軽井沢町大字|発地《ほつち》レイクニュータウン、別荘番号一二三三号の「さつき山荘」でまず始まったのである。
刻々と入電する現場からの情報をきいていると状況はみるみる悪化してゆく。
「さつき山荘」で連合赤軍と遭遇したのは、町田勝利分隊長(巡査部長)の指揮する、大野耕司、永瀬洋一郎、井出久実、|龝沢《あきざわ》正夫の四人の機動隊員たちだった。
「さつき山荘」は唐松通りの道路左脇下にある木造一階建て四十五平方メートルの別荘だった。唐松通りと「さつき山荘」の屋根は同じ高さになる。
五人の隊員たちは群馬県境方向から約三十センチの深い積雪に残る乱れた足跡を追って「さつき山荘」に至り、午後三時五分、北側雨戸を開けて内部をみようとしたとたん、いきなり屋内からライフルと散弾銃の発砲を受けた。弾は町田分隊長のヘルメットを掠め、雪をはじき飛ばし、金属音を残して|外《そ》れてゆく。
大野隊員は右顔面と左手に散弾の盲管銃創をうけて血まみれになりながらも果敢にコルト45式自動拳銃を二発応射。町田分隊長もコルト45を二発、井出隊員もニューナンブ回転式38口径拳銃一発を威嚇射撃して応戦した。山荘内からはライフル一挺、散弾銃四挺が交互に火を噴き、数十発が乱射された。三時二十分一味は血路を開いて雑木林や唐松林をぬけて坂道をかけ登り、西南方約五百メートルに位置する軽井沢町大字発地字牛道五一四─一八一番地の河合楽器保養所「あさま山荘」(レイクニュータウン別荘番号七二八号)に逃げこみ、留守番の管理人夫人、牟田泰子さん(31)を人質に、同山荘に立て籠った。三時三十分頃、永瀬隊員はライフルで三階バルコニーから狙撃され、尾てい骨部に盲管銃創を負って倒れた。井出隊員は直ちにバルコニーの犯人に向けて拳銃を一発発射して、永瀬隊員の救出を援護した。
雪と氷に閉されて陰鬱に黙りこくっていた冬の軽井沢の山々は、この烈しい銃撃戦によってその|静寂《しじま》を破られ、銃声は|谺《こだま》となっていんいんと峰に谷に響きわたった。
県警本部は《長野一》の至急報を受けるや直ちに全県下の警察官に最大動員の非常招集をかけ、軽井沢署に「連合赤軍軽井沢事件警備本部」を設置、六百三十二人編成の警備部隊を編成し、三百三十八人で「あさま山荘」を包囲するとともに、他の別荘の検索、国鉄信越線の各駅に百二十七人、主要道路の検問に百六十七人を緊急配備した。
管理人の牟田郁夫さん(35)は、六人の宿泊客を案内してスケート場に出かけていて、難を免れた。
警察庁でも直ちに、「連合赤軍あさま山荘警備本部」が富田警備局長を本部長として設置された。
だからいわないことじゃない。先を見越して応援部隊や警察犬やヘリを投入しておくべきだったんだ。
そこへ長田光義警視が入ってきた。
「長野県警の山内源七警備部長と連絡してるんですが、警視庁の応援はいらない、ライフルと警察犬だけ貸してくれっていい張るんです」
長田警視は警察庁警備課の警備実施担当課長補佐で、ノンキャリを代表する警備実施の第一人者だ。私の長い警視庁警備第一課長時代からのよきパートナーで、おたがい気心が知れており深く信頼し合った仲だ。
しょうがないな、長野県警は……。
教育県として名高い長野県は知的水準も高く、自立心の旺盛な誇り高い人が多いが、こんなときに自尊心をむき出して強情を張るのはよくない。第二次反安保闘争時代、長野県警は大学封鎖解除警備も形ばかり、爆弾や火炎ビンの洗礼もうけていないのだから、百戦練磨の警視庁機動隊の応援を素直にうけるべきだ。人の命がかかってるんだ。メンツにこだわるべきでない。
こうなると、私は黙っていられないたちだ。理屈とプライドで突っぱらかってる長野県警と、要請主義の慎重な立場でいつも後手後手となる警備局長とに任せておくと、タイミングを失い、犠牲者が増える恐れがある。
こうなれば非常事態に強い、危機管理の経験に富み、実兵指揮の実戦経験をもつものが指揮をとらなければいけない。鈴木課長に進言する。
「鈴木さん、どっちみち長野県警はひとりじゃやれんのですから、警視庁の当番機動隊を警察庁要請、つまり国家公安委員会から東京都公安委員会への要請という形で見切り発車させましょうや。雪の山道を重車輛が登ってくんだから早く発進させないと、碓氷峠が難所です。長野もメンツにこだわるべきでない。長野を納得させてから出したんじゃ明日になっちまう。長田さん、今日の当番隊、何機? ああ九機ね、特科車輛隊の高圧放水車とか、特型警備車は必ず要ることになるから、特車隊も二個中隊要請しましょうや。警察犬やライフルだけ行ったってどうにもなるもんでない。警察犬は天野君がいかなきゃダメ。ライフル狙撃班はオリンピック選手の保坂調司警部を指名しましょう。鈴木さん、見切り発車、いいですね。いらなくなったらその時点で廻れ右させりゃいいんだ」
こうなったら先任も後任もない。長田警視と私は、警視庁機動隊のことならどこのボタンを押せばどこがあくか、知り尽している。
「ヘリも『おおとり』『はやぶさ』前進待機だ。支援のヘリポート、長野県警に準備させましょう。部隊の宿舎、メシの手配、それと、多分山の中は不感地帯だらけだろうから通信局に言って無人中継基地の設置が必要です」
当番隊とは、警視庁では九個機動隊が毎日交代で当番勤務し、隊員を足どめして二十四時間いつでもどこへでも出動できるよう待機していることをいう。
平時の官僚的な手続きと年功序列の階級主義を守ってやってたんでは、現場のものの命が危ない。時間との勝負だ。応援を急派して早く鉄壁の包囲網を完成しないと、長野県警の百数十人の薄まき包囲では連合赤軍が血路を開くために銃を乱射しながら突撃してきたら、阻止線を強行突破され、折角網にかかった大魚を逸してしまう。
長田警視は、佐々さん、例によってまたやっとるわいといった顔付きでニヤリと笑うと、
「合点だ」とばかり電話に飛びつく。
これをやるからいけないんだ。長官、総監、局長といった上層部はわたしの行動力を高く評価してくれるが、その間の中間管理職の先輩たちがみんな顔をしかめるのは、私のこのやり方なんだ。だが、わかっちゃいるけど、戦いに勝つためにはやめるわけにはゆかない。
[#改ページ]
「局付、長官がお呼びです」
けたたましく鳴り響く電話のベル。ガアガアピイピイ雑音の入る警備無線のリモコン。怒鳴りあう課員たちの大音声といった喧騒のるつぼと化した警備課の大部屋で、一緒になって騒いでいた私に、誰かが、「局付、長官がお呼びです」と知らせにきた。
「後藤田長官が? オレを?」
はて、なんだろう。
「警備局付警務局監察官」という、前例のない奇妙キテレツな職名だから、局員たちも困ってしまっているとみえて、私のことを「佐々さん」と苗字でよんだり、「監察官」「局付さん」、はては「警視正」なんて、まちまちだ。実は後日、これが軽井沢で長野県警の人たちを悩ませる問題となるのだ。
とにかく、長官がお呼びじゃ仕方ない。なんだかわからないが、すぐ行かなくちゃ。
長官室のドアを開けると応接セットのソファに後藤田正晴警察庁長官がむずかしい顔をして坐っていた。そばに富田朝彦警備局長が同席している。
「お呼びですか?」
長官は顔をあげる。
「ああ、佐々君、あのなあ、野中君はなあ、こういう警備、やったことないでなあ、君、ちょっと軽井沢行って、指揮してこいや」
「野中君」とは長野県警察本部長、野中|庸《いさお》警視監(昭20・内務省採用)のことだ。
そんな無茶な……私は思わず心の中で呟いた。
後藤田さんという人はひとに重大な任務を命ずるとき、いつもこれだ。警備局長時代の昭和三十九年(一九六四年)米国ケネディ大統領が暗殺された直後、ケネディ事件の真相調査と、きたるべき東京オリンピックに備えた外国賓客警護について「アメリカのシークレット・サービスのやり方を調べてこい」と命じたときもこんな調子だった。ついこの間、一月初め、爆発物処理技術と機材の緊急調達のため欧米諸国に出張を命じたときも、「ちょっと行ってな」といった工合の|科白《せりふ》だった。おまけに「論語」の孔子の言を引用して「千里ヲ使イシテ君命ヲ辱シメズ」と言ったことも覚えている。
「私が……ですか?」
「そうだよ、君だよ」
「でも指揮してこいとおっしゃっても……」
「なんでや、日露戦争んときの児玉源太郎(満州軍総参謀長)見てみい。でかけていって乃木希典指揮して二〇三高地、陥したやないか」
「児玉源太郎は陸相も務めた乃木希典と同格の陸軍大将でしたよ。野中さんは九年先輩の警視監、私は警視正。階級も二階級ちがいます。無理です。どうしてもとおっしゃるなら、カミ、下さい。臨時に長野県警本部長を命ずっていう辞令、下さい。さもなきゃ長官室から出て『これからオレがこの事件の指揮とる』なんていったら、あいつ、とうとう頭にきたかってんで病院、いれられますよ」
「無茶いうな、辞令なんか出せるわけないやないか。君の年次じゃ長野県警本部長なんかになるわけ、ないぞ」
「ではどなたか、野中本部長と同格の方、派遣して下さい。その方の補佐役ならつとめましょう」
ハラハラしながらやりとりを聞いていた富田警備局長が口をはさむ。
「ではその線で人選するから、佐々君、君はいつでも行けるよう待機しておれ」
そして、週末のゴルフに行っていた丸山|《こう》警備局参事官が呼び戻された。警備局には参事官が二人いて、斉藤一郎参事官が公安警備を、丸山参事官が外事・調査を担当していた。本当なら斉藤参事官なのだろうが、警視庁、警察庁で警備を経験した丸山さんが選ばれた。昭和十九年内務省採用の丸山参事官は階級も野中本部長と同格の警視監だから、野中・乃木大将に対する児玉源太郎になれる人だ。私だとせいぜい兵隊の位でいえば、「准将」といったところで、正規の課長でやっと「少将」にあたるだろう。
スポーツシャツのまま夕方登庁した丸山参事官は、長官から「誰をつれて行きたいか?」ときかれたとき、言下に警備実施及び広報担当幕僚長として私を指名したという。そういう指名「あり」というならと、私も長年共に死線を越えた“戦友”警視庁警備部警備第一課の主席管理官(筆頭課長代理)宇田川信一警視を指名した。宇田川警視もまた、歴戦の部下、とくに“コンバット・チーム”とよばれていた若い現場情報班に出動を下命した。
こうして世にも珍しいプロジェクト・チーム、「あさま山荘」派遣幕僚団が編成された。トップは丸山参事官。NO・2の私は警備局付監察官、警備局調査課の菊岡平八郎理事官(広報)、通信局無線通信課の東野英夫専門官(通信担当)、警視庁からは健康管理本部長の医学博士梅沢勉参事官に中島安二医師、石川三郎警備部付警視正に、国松孝次広報課長、富田幸三広報主任(警部補)、警備部宇田川主席管理官に、九機大久保伊勢男隊長、西海弘・高垣修両副隊長、佐藤益夫・宮本喜代雄警備課課長代理、伊藤幸二郎調査課係長、小野弘警備課係長、福家敬総務課報道主任。
みればわかるように、「長(警察庁でいう『所属長』の意)」と名がつくのは国松広報課長と大久保九機隊長だけで、あとはナントカ官ばっかり、一体誰が偉くて誰がそう偉くもないのか、警察部内の者でも一向わからない混成指揮幕僚団ができあがった。
さらに後日、この顔ぶれに公安第一課、過激派担当の“過激派”《ドン亀》の異名をとる亀井警視が参加して、このチームに一層の凄みが加わることとなる。亀井警視とは、後年衆議院議員となったあの亀井静香代議士である。
当時兵隊やくざものが流行っていて、加山雄三を小隊長とする「独立愚連隊西へ」という映画がヒットしていた。まさに警察庁編成の特別幕僚団がそれで、一芸一能に秀でた人たちの集りで、階級などデコボコ、警視監から警部補、現場情報班コンバット・チームまでいれると平巡査にまで至るところから「凸凹幕僚団」と呼ぶ人もあった。
後藤田命令
現場派遣幕僚としては後藤田長官の事件処理方針をシッカリ頭に叩きこんで野中本部長を補佐しなければならない。長官室で後藤田長官の指示を受ける。
後藤田長官は「口でいうと間違って伝わるといけないから、いま紙に書くからな」といって、電話台上のメモ用紙をとりあげブツブツ口の中で呟きながら鉛筆で六項目からなる長官指示を書いて私に渡した。
みるとこんなことが書いてある。
一、 人質牟田泰子は必ず救出せよ。これが本警備の最高目的である。
二、 犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾をひく。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
三、 身代り人質交換の要求には応じない。とくに警察官の身代りはたとえ本人が志願しても認めない。殺される恐れあり。
四、 火器、とくに高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。
五、 報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
六、 警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。
これをみて私は、「これは百点満点の警備です。過去にも未来にも百点満点の警備実施はあり得ません。どこか一項、たとえば銃器の使用は現場指揮官判断に委ねて頂くとか、犯人は殺してはいかんが手か足を狙って撃つとか、なにか解禁してくれませんか」と意見具申したが、却下となった。
一応反対意見なり次善の策を献策するのは指揮幕僚の権利であり、義務である。
だが、決定は下った。決定が下ればあとは特別権力関係のルールを守って命令に服従し、任務を達成するのみ。
覚悟は決った。やるっきゃない。
でもまた、なぜ私が特命なんだ。先輩の正規の警備局課長が何人もいるのに編成された指揮幕僚団のメンバーは超変則。この人質救出作戦は誰がみてもまず成功の見込みは少ない難事件だ。となると初めから失敗を見越してキチンとした正規の職制にある主流派は温存しておいて、私たちに火中の栗を拾わせるということなのか。つまり私たちはエクスペンダブル(expendable)=使い捨ての駒なのだろうか。本当に私の指揮能力を評価してくれての任務附与なのだろうか。
そんなかすかな疎外感を覚えながら私は長官室を出て暮れなずむ警察庁五階の暗い廊下を洗面所に向った。
土曜日の午後遅くのことだ、警備局以外の各局はみんな半ドンで退庁しているから廊下はガランとしている。すると向うから他局の大幹部である先輩が歩いてきた。
「やあ佐々君、元気かい?」
「はあ、お蔭様で元気にしております」
「土曜日なのにこんな遅くまで何してる?」
「香港から帰って以来四年間ずうっと忙しくて……今日は本当に久し振りに『休暇』を頂きましてこれから『軽井沢』へ行ってまいります」
|休暇《ヽヽ》と|軽井沢《ヽヽヽ》にことさらアクセントをつけて答える。いつも辛い、難しい仕事ばかり割当ててくる上層部に対する精一杯の皮肉をこめたつもりだった。ところがである。
「えッ? 軽井沢? この寒いのに? 冬の軽井沢行って何するの? スキー? スケート?」
同じ警察でも私たちのように切った、張ったをやってる“運営管理部門”とちがって、人事とか会計とかデスク仕事の“行政管理”に携わっているお偉いさんはテレビも見ず、ラジオも聞かないのか。部下も誰も報告しないのかい。この人物は明らかにあさま山荘事件の発生を、まだ知らないでいたのだ。個室にひとりでいるとこうなる。
「ご存知ないんですか? 連合赤軍が軽井沢に潜伏してて、いま機動隊と銃撃戦やってんですよ。私は長官の指示で派遣幕僚としてこれから軽井沢、行くんです」
「そうか、知らなかった、それは御苦労さん、気をつけてな」
人柄のいい人なのだが、警察部内でも縦割り行政の弊害がすすむと「隣りは何をする人ぞ」になってしまう。まさに「他人の痛みは百年でも我慢できる」のだ。なにも悪意ではなくて善意の無関心がこういう冷たさにつながることになるのだろう。
初の日本版FBI
いまでも私は人からよく聞かれる。
「あさま山荘の現場指揮されたそうですが、佐々さんはあのときの肩書、役職はなんだったんですか?」
これは誠に困った質問で、ちょっとやそっとではわかってもらえない。くどい説明が必要になる。しばらく我慢して聞いて下さい。
今日、地下鉄サリン事件が起きて以来、警察の縦割り主義が問題にされ、全国かけ廻れるFBI式捜査官の必要性が叫ばれているが、私はいわばこのFBI式警備指揮官のはしりだったのだ。むずかしくいうと警察法第五九条による都道府県警察の相互協力義務と、同第六〇条による公安委員会の相互援助要求の規定によって、国家公務員兼長野県警警察官の併任となって、職務執行権や指揮権をもった“八州見廻り”みたいな、ボーダーレス警備指揮官になったのだ。
たしかに後藤田長官や富田局長の意識は進んでいて問題を先取りした新機軸だったのだが、いかんせん四半世紀早すぎた。
長官、局長の意図する「数府県にまたがる広域犯罪集団である連合赤軍に対する『連合警察軍』構想」は、たしかに先見の明はあったが、警察庁も長野県警もまだ頭が固くてついてゆけず、「FBI警備指揮官」の任を現実に果すものにとっては、摩擦や抵抗の多い試行錯誤とならざるを得なかった。
それまでも佐世保エンタープライズ入港阻止闘争などの際に警察庁から特命指揮幕僚団が派遣されたことがある。だが、現行の警察法では警察庁には都道府県の指揮監督権がないから「権限もなく責任も負わないのに口だけ出す」と地元の反発を買った。そこでこの後藤田─高橋(次長)─富田(警備局長)の編み出した新機軸の《トラブル・シューター》は、警察法第六〇条で地元警察の地方公務員併任として「首ごと口を出す」ことにしたものだった。
アメリカ映画にはFBIや麻薬取締官など連邦捜査官が、どこか地方で大きな事件、事故があると連邦政府から押っとり刀で現場にかけつけ、地元警察を「いまから連邦捜査官のオレが指揮をとる」といって、地元のシェリフや市警幹部に白い目を向けられながら事件処理をする場面がよく出てくる。
私の任務は、まさにこれだった。
しかし何しろ四半世紀早すぎた。だから、私の前途は茨の道だった。
そもそもこの二カ月ほど前の昭和四十六年末、突然警視庁から異動させられ、警察庁の今泉正隆人事課長からもらった辞令からして「警務局監察官 兼テ警備局付ヲ命ズ」という前代未聞、空前絶後の奇妙キテレツなもの。部内の者だって「それで、佐々さん、何するんですか?」ときくぐらい、わけのわからないポストだった。要するに、警備局の無任所課長。
ポストのあきがなくて、同列同級の課長たちはみんな五、六年先輩の昭和二十三、二十四年採用の人たち。昭和二十九年採用組の私を無理に本庁課長級である「一等級」に格付けするため、警務局にあきがあった「監察官」に就けておいて直ちに「警備局付」の《トラブル・シューター》にしたというわけだ。
しかも困ったことに「監察官」というのはいわば「警察官の警察官」、仕事上のミスやスキャンダル、汚職などを摘発する|検非違使《けびいし》、ないし憲兵みたいなもので、仲間うちから好かれる仕事ではない。上層部はひとり合点していても事情を知らない地元警察や警備局員からみれば、警務局があら探しのために派遣したお目付役と誤解されかねない人事だった。
辞令交付のとき、今泉人事課長(昭22年組)から「君の人事は上司、とくに富田警備局長の強い希望でやった人事で私の考えではない。君は警務局には席はないし、監察官といっても一等級に格付けするためだけで仕事はない。警務局には出勤に及ばず、警備局に行き給え」とのお達しがあった。警備局の庶務に出頭すると「困りましたね。上の方できまった人事で私どもは知らされてないんで、席もないんですが」という冷たい返事。警視庁を去るとき、土田国保警務部長から「これは富田朝彦警備局長の“是非貰い”だから変則な人事ではあるが、折角の期待に応えてしっかりやってくれ」といわれて送り出されたというのに。肝腎の富田局長のところに出頭すると「君は警備局の連絡官としてすぐ警視庁の最高警備本部に常駐してくれ」という。それならいままで通り警視庁に置いておけばいいのに……と腹の中で呟く。
相撲の世界でいえば、学生相撲の横綱だって両国国技館の本場所にデビューするときは「幕下つけ出し」が相場だ。たしかに私は警視庁警備第一課長として“優勝”したかも知れないが、上級官庁である警察庁の一等級課長職は県警本部長経験者で「警視長」の階級にある年功序列の高いものが就くポスト。
それを課長補佐を飛び越して破格の抜擢により年次は五、六年若い「警視正」の私が無任所課長とはいえ警備局の課長職に補せられることは、いわば学生相撲のチャンピオンがいきなり「つけ出し」の「張出し小結」と三役になるようなもので、はたから「ティーチャーズ・ペット」の転校生扱いされるのは当然のことだった。任務分担もヘンなことになった。
局議で富田局長は「佐々君には警備課長の任務を『|区処《くしよ》』して警視庁管内の警備を担当させ、それ以外は鈴木警備課長担当とする」と、なみいる課長たちに告げた。元海軍大尉だった富田局長の頭の中ではこの海軍式の「区処」は整理がついているのかも知れないが、きいたものはみんな首をかしげる妙な任務附与だった。
鈴木課長もあとで「あれは警備課長の僕に対する局長の『不信任』ということで愉快ではないね」と不快感を表わした。
だが、「私はどこに坐ればいいんですか」と相談すると根が親切な人柄のいい人だから私の困った立場をよく理解してくれて、「僕の部屋に机を入れて坐っていればいい」といって個室の課長室を割愛してくれ、私は鈴木課長と背中合わせに坐ることとなった。
かつて私も警備局で勤務したことはあるものの、それから大阪府警外事課長二年、外務省出向・香港領事四年、警視庁の外事・警備・人事課長など通算五年半、あわせて十一年半の空白があるのに、いきなり「つけ出しの張出し小結」になったのだから、とりわけ年功序列と年次にこだわる警察の世界で私が歓迎されるわけはない。
たまたま「日比谷公園松本楼焼打ち事件」や、あとで詳しくのべる「土田国保警視庁警務部長夫人小包爆弾事件」、あるいはそれがきっかけとなって特命された、爆発物処理技術と機材緊急調達のための欧米五カ国出張などなどで私はヤドカリみたいに肩身の狭い警備課長室に坐っていることはほとんどなかったために、いやな思いをすることはなかった。
「亭主は達者で留守がいい」という流行語があった。富田警備局長はいざ知らず、警備局にとって私は「局付、達者で留守がいい」だったに相違ない。
“昭和元禄”武士のたしなみ
警備課長室のデスクに戻った私は、手早く進退伺いと簡潔な遺書とを走り書きで書いて封筒に入れて封をし、机の中央の引出しに入れた。万一のとき遺品整理をする人が必ず見つけてくれるよう、役所のデスクに入れておくのがよい。生還して不要になったらすぐ破ってしまえばよい。平和な日々に育った今の若い人たち、あるいは古い世代でも幸い修羅場を知らずに平和に過した人々は、「そんなオーバーな」と思うかも知れない。
だが私は、この人質救出作戦がいかに難しくて成功の確率の低い任務であるか、そしてこれから軽井沢で戦わなければいけない相手がどんなに恐ろしい冷酷非情な殺人集団であるかを、過去三年有半身を以て体験し、知り尽していたから、最悪の事態の地獄図を出発を前にして心に描いていた。彼らの軽井沢「あさま山荘」への長い道は、暗い、血まみれの、死屍累累の「滅び」への道だった。
すでに現場では銃撃戦が行われている。鉄パイプ爆弾も飛ぶだろう。私も怪我するかも知れない。最悪の場合は殉職だ。警視庁時代から私はいつも覚悟を固め、自分に気合をいれてから危険で困難な任務に出陣していった。
いままでも役人生命にかかわるような事件処理は多々あったが、これから立ち向おうとしている任務は、政治的生命ばかりか、文字通り命がけのもので、多分これまで体験した危機の中でも最も危険な任務といえそうだ。
そういう生きざまを貫いてきた私にとっては、進退伺いや遺書を書くことは、重大な任務につくときの、ひとりぎめの手続きのようなものだった。
派遣幕僚十六人は、明朝現地・軽井沢警察署で集合ということで一旦解散した。
私は丸山参事官の公用車に便乗させてもらうこととなった。
丸山参事官の家は、川崎市百合ヶ丘だ。「一ぺん帰って着替えてくるよ、なにしろこれじゃね」とゴルフシャツをつまんでみせる。
出発時刻は午前三時三十分。
自宅前の表通りの環状7号線でピック・アップと決った。なにしろ冬の深夜、凍てついた碓氷峠の山越えをやろうというのだ。もう雪に埋もれているかも知れない。従って峠越えを日の出前後の薄明の時間にセットし、交通量が少いメリットも考慮して、逆算の結果、午前三時三十分出発と決ったのである。
午前一時過ぎに世田谷の自宅に帰ると、妻の幸子は寝ないで待っていた。
当時私は四十一歳。警察歴十九年。階級は国家公務員の警視正。職名は前にのべたように「警備局付警務局監察官」格付けは一等級でも俸給は年次相当、昭和四十六年度の給与支払い調書をみると、私の年収は、二百三十五万五千四十五円、五カ月分のボーナスを別にすると俸給月額は、十五万三千円。これで老母と妻子四人の五人家族を養い、プレハブ住宅建設費のローンを支払い、本庁課長としての体面を保ち、社会的地位にふさわしい交際もするというのだから、「繁に耐え貧に耐える(本当は耐繁耐閑)」昭和元禄侍は、使命感とボランティア精神という背骨が折れたらみじめなことになるは必定という境遇であった。
この「警察戦国時代」に滅私奉公する夫を支える三十一歳の妻も、ここ数年続いている状況には相当ストレスを感じていたらしく、時々喘息や皮膚アレルギーで苦しんでいた。子供は八歳の小学生の長男をかしらに、六歳、四歳と三人とも腕白盛りの男の子。
そのやんちゃな坊主たち相手に、実家は関西とあっては休日祝日はどこにも行くところもなく、妻は日々公園で父親代りをして過したらしい。
妻に向ってさっそく告げる。
「後藤田さんの特命で軽井沢、行ってくる。しばらく帰れない」
「そう、ニュースで聞いたとき、また貴方、行かされるなと思ってました。御苦労様です」
手早く軽い夜食を用意してくれる。
「子供たちは?」
私は食べながら訊ねる。明朝からはまたしばらくまずい警備食の日々が続くことだろう。
「もう眠ってます」
「おバアちゃんももうお休みだろうね、行ってきますだけのためわざわざ起こして心配させることはないよね、夜が明けたらそういっといて。危ないことはないからって」
子供たちも明るくなって起きてきて、この日曜も父親はいないときいたら、「またパパいないの?」とむくれるだろう。これじゃあまるで母子家庭だ。安月給で毎日帰りが遅くて、しかも土曜、日曜も休めない。お金がなくて閑がない父親をもって子供たちも可哀そうだ。香港から帰って四年、物心ついてからパパに遊びに連れてってもらったのはたった三回だと彼らはいう。よその家の子は日光へ連れて行ってもらった、正月は温泉だと家族旅行をしている者もいるというのに、ウチじゃあ上野の動物園と馬事公苑の桜のお花見。それに新宿伊勢丹屋上のウルトラマン大会の都合三回、それだけだと、子供たちは妻に文句いってるという話だ。
お 守 り
今年も一月半ばから二十一日間、欧米諸国をかけ廻っていた。子供の保育も勉強も遊びも、みんな妻任せ。夜も新聞記者の夜廻りが雪崩れこんできて深更まで騒がしい。
二十坪の狭い家では逃げ場がないから当然家族は巻添えだ。老母は隣接の古い日本家屋に別棟同居の形で住んでいる。というより香港に行く前に母の住む古い家の一部をとり壊して積水ハウスの小さなプレハブ住宅を建てて妻、長男|将行《まさゆき》の三人家族で住んでいた。
三年四カ月の香港在勤中に次男|敏行《としゆき》、三男|康行《やすゆき》と子供が増え、親子五人となったので、帰国早々木造一間五坪の子供部屋を庭に張り出す形で建て増しし、そこに二段ベッドやら子供の勉強机、洋服箪笥などを入れて三人の共同の部屋にしたものだ。
引き戸をあけてソッとのぞいてみると、オモチャや絵本がちらかって足のふみ場もない十畳間に、毛布にくるまった三人の子供たちが、常夜灯の仄明りの中で何も知らず安らかな寝息を立てて眠っている。
冬の軽井沢には行った経験がないから、どんな気候なのか知る由もないが、どうせ雪と氷の世界なのだろう。しっかり着込んでゆくことだ。新しいパンツとTシャツを妻に出させて着る。これは“昭和元禄”の武士のたしなみである。怪我して病院にかつぎこまれたとき恥をかかないようにするのが現場指揮官の心得だ。
役所の机の引出しに遺書と進退伺いが入れてあることはもちろんいわない。東大安田講堂警備のときもそうだった。結婚以来元旦や重大警備に出動するときには新品のシャツ、パンツ、靴下を身につける習慣を知っているので、妻はいつも新品の下着の買いおきをしてくれている。
普段は伊達の薄着で敬遠しているメリヤスの長袖シャツとズボン下を寒さ凌ぎのため着こみ、ワイシャツの上にウールのチョッキを着る。背広は海外出張のときいつも着る厚地ウールの紺の背広。ネクタイも紺の水玉。
内ポケットには香港以来使いこんだパーカーの万年筆に七二年版能率手帳。左手首ではロレックス・オイスターパーペチュアルのブラック・フェイスが時を刻んでいる。こいつは香港領事時代、一カ月分の俸給にあたる大枚、米貨八百五十ドルをはたいて、分割払いで買ったものだ。
香港暴動の催涙ガスの中でも、サイゴン・テト攻撃の市街戦のさなかでも、東大安田講堂の中でも、いつでもコチコチと正確に時を刻んでいた“お守り”だ。
厚地の紺オーバーを羽織る。先の欧米五カ国に緊急出張の時も、寒気厳しいワシントンで、ベルリンで、私と行動を共にした着なれた外套だ。この外套の一番最初の外遊は一九六〇年(昭和三十五年)三月。上司の中村正己警備第二課長がノースウェスト航空機事故で殉職し、インディアナ州山中の墜落現場に遺体や遺品捜索に急行したとき、インディアナ州の雪に蔽われた山中で、凍りつくような寒風から身を守ってくれたのがこの紺の古外套だった。
私は決して縁起かつぎではない。だが何度も修羅場をくぐり抜けて生きのびてくると、その時身につけていたものがラッキーな、運をよびこむお守りみたいに思えてきて、妙な愛着を覚えるものだ。やはり縁起かつぎなのだろうか。
とにかく航空機事故やなにかで突然花と散るとき、このロレックスもパーカーも私の死出の旅路のお伴をすることになることはまちがいない。
ボストン・バッグの中には着換えの下着、ワイシャツ、厚手のウールの靴下、セーター、洗面用具、それに睡眠薬代りのブランディ、ヘネシー・スリー・スター・ブラザルメが一瓶入っている。
足まわりはシッカリしなくちゃいけない。
警視庁時代にはきなれた警備出動靴、革ゲートル付き編みあげのコンバット・シューズ、それに寒さ凌ぎの赤唐辛子を三、四本いれたのを履いてシッカリ紐を結ぶ。これも東大安田講堂の中で、脛をなかば没する氷のように冷たい放水の濁流に浸った歴戦のシューズだ。きっと幸運をもたらしてくれるだろう。赤唐辛子ときくと笑うだろうが、当時は足の爪先用の小型ホッカイロなんていう便利なものはなかった。
グレーのマフラーに黒の革手袋。これで準備完了だ。
「では気をつけて」
妻の声を背中に家を出て表通りに立って迎えの車を待つ。
いざ、「あさま」へ出陣
腕時計を見ると午前三時二十五分。ほどなく黒塗りの公用車、ニッサン・セドリック七〇年型がヘッドライトを点滅してこちらに幅寄せしながら辷るように寄ってきて左側に停る。丸山参事官が後部座席に坐っている。
私をピック・アップした車は、ほとんど無人の環状7号線をスピードをあげながら北上し、豊玉陸橋交差点を左折し、谷原交差点に向ってひたすら疾走する。
車内は暖房がきいていて居心地がいい。
車窓はたちまち暖気で白く曇って外は見えないが、フロントガラス越しに赤や緑の街のネオンや行き交う車のライトが光っては後ろへ流れてゆく。厳冬の二月二十日の明け方だ。外気温はきっと零下だろう。日頃快活な丸山参事官も、眠くなったのか心なしか口数が少く、気むずかしい表情だ。前途に待ちうけている任務の難しさを思うと心が重いのだろう。
率いる指揮幕僚団は一芸一能に秀でた個性の強いのばかりの“独立愚連隊”。
現地で共に仕事をする長野県人は理屈っぽくて自尊心、独立心が強いということで知られている。共通の敵「連合赤軍」を前にみんな団結してくれるといいが、どうも幕僚長役の私がまとめ役のようだが、私自身も闘犬みたいなもので調整役には不向きだ。先が思いやられる。
「九機の防弾車や放水車、いま頃どの辺走ってるかねえ」
と丸山参事官。
「十九日夜には発進してますから、いかに低速でもそろそろ碓氷峠あたりじゃないですかね」
「警察犬はヘリに乗せると酔っちゃうからダメだと誰かいってたが……」
「ええ、ワゴン車で行ったはずです。丸山さん、例の防弾装甲車、遂に出番がきましたね。警備一課長のときあれを要求したら揉めましてね、やっと出来上ったら騒動がおさまっちゃって……『天下の三大無用の長物とは、万里の長城に戦艦大和、それに警視庁の特型警備車』なんていわれましたよ」
「あれはそうだ、ぼくが会計課長のとき予算とったんだ。僕も絶対に必要だって頑張ってね。あの時反対した奴に『ザマアミロ』っていってやりたいね」
と丸山参事官。
「あさま山荘事件」に登場して全国ネットワークのテレビで放映され、一躍国民の知るところとなった例の防弾装甲車は、正式名称を「特型警備車」という。
第二次反安保闘争の趨勢が次第に武器のエスカレートという方向に進むと見定めて、爆発物や銃器に強い耐爆耐弾の特殊車輛を正式装備として要求したのが昭和四十四年初頭だった。そして紆余曲折を経てようやくそれがオン・ハンドになった頃には学園紛争も終り、大規模な街頭武装行動も影をひそめてしまったため、前にのべたような批判をうけたのだった。
この「特型警備車」は総重量十一トン。車体は厚さ八ミリの特殊鋼で鎧われ、弾をはじき返すためグロテスクな多角面型ボディとなっている。フロントガラスも四周囲二個所ずつ、八個所の銃眼も、いずれも厚さ十ミリの防弾合板ガラスを使用している。この防弾ガラスは同一個所に三発ライフルが命中しないかぎり抜けないという性能を誇っている。
車はヘッドライトで闇を切り裂きながらひた走りに軽井沢へと向う。
走行距離は地図で調べると、熊谷まで七十キロメートル、熊谷─高崎間が四十四キロメートル、高崎から軽井沢まで五十キロメートル。この高崎─軽井沢間には中山道きっての難所、そして箱根に次ぐ天下の険、碓氷峠がひかえている。総距離は百六十四キロメートル。
平場は車が少いから飛ばせるが、雪の山道となると超安全運転となるから、所要時間は四時間といったところだろうか。
当時は関越自動車道のような高速道路は、もちろん出来ていない。でも碓氷バイパスは昭和四十六年十一月十一日に開通していた。
新大宮バイパスも昭和四十七年二月に国道17号線合流点までつながったばかりだった。
車は谷原交差点を右折して、笹目橋で荒川を越え、埼玉県に入りそのあと新大宮バイパスにのる。そして国道17号線を与野・大宮・上尾へと、ひたすら北上する。
後部右側座席で毛布を膝にかけて坐っていた丸山参事官が静かになった。みると腕を組み、体をまるめて眠りこんでいる。幕僚団長の丸山さんが睡眠不足で冷静さを失って判断を誤ったらそれこそ一大事だ。いまのうち、眠れるうちに眠っておいて頂こう。
丸山参事官のかすかな寝息をきき、白く曇る車窓越しに後ろへ後ろへ走り去る街の灯りをみるともなしに見ながら、これから戦う相手の連合赤軍の兵士たちが過去四年間にそれぞれ「赤軍派」として、あるいは「日共革命左派・京浜安保共闘」として次から次へとひき起こし、私自身も深くかかわった凶悪事件の数々が走馬灯のように脳裡をよぎり、そのときの憤怒や、虚脱感を想い出してはひとりで興奮し、私は眠れなかった。
知らず知らずのうちに、私は長い、長い回想に耽りはじめていた。
[#改ページ]
滅びの序章
そうだ、赤軍派との最初の出あいは、昭和四十四年(一九六九年)九月四日のことだった。警視庁三階の警備第一課長室に警視庁記者クラブ「七社会」のメンバーの読売の森、大内、河西記者、東京新聞の吉村記者、毎日の前田明記者、朝日の富永記者などの常連がドヤドヤ入ってきた。
「いやあ、ひでえやつらだ、いま葛飾公会堂での共産同『赤軍派』の結成大会、行ってきたんだけどさ、カンパだっていって一人千円の入場料、とりやがった。オレたちからもだよ」
「へえ、何だい、その『赤軍派』ってえのは?」
「共産同戦旗派から分裂して独立したんだ。リーダーは塩見孝也」
「何人くらい集った?」
「三百五十人ぐらいかな、みんなIRA(アイルランド共和国軍)の真似なんかしちゃって、女物のナイロン・ストッキング、頭からかぶってるから鼻がひしゃげちゃって、薄気味悪い顔になるんだよ」
正直いって私の反応は「へえー、そうなの」といった冷淡なものだった。三派系反代々木トロツキスト全学連も、分裂に次ぐ分裂でいまや五流二十三派にわかれてお互い内ゲバの武闘をくりひろげ、多数の死傷者を出している。それがもう一派増えて五流二十四派になっただけのこと。私は連日過激派学生によってバリケード封鎖された各大学の封鎖解除警備などに日夜忙殺されていて、ナイロン靴下かぶった、ひしゃげっ鼻の赤軍派などかまっていられなかったのである。
昭和四十四年(一九六九年)は“警察戦国時代”の最盛期だった。一年以内に学園を正常化して授業や入学・卒業試験をやれないような大学は廃校にしてしまうという佐藤栄作内閣の強力な大学法案が国会に上程されるとそれまで無責任、不決断の代名詞のようだった国公立、私立大学が一斉に学園封鎖解除要請を警察に提出してきた。
とくに同年八月に大学臨時措置法が施行されたこともあって、秋には“かけこみ”封鎖解除要請のため警備第一課長室の前の廊下には各大学の学長や学生部長が行列をつくる騷ぎで、早大、明治大、明治学院大、芝浦工大、駒沢大、水産大、東洋大、法政大、明治薬科大、立教大、多摩美大、農工大、国際基督教大、都立大などなど、国公立、私立の都内三十七大学に及んだ。学園紛争は大学にとどまらず高校にまで波及し、「高校生反安保共闘会議」(9・27)が結成された。
今時の方は「えっ? 高校もバリスト? まさか」と信じないだろうが、九月から十月二十七日までに全学スト、バリケード封鎖、授業放棄をやった高校は、東京十九校、大阪十一校をはじめ全国で四十九校に及んだ。
青山高校、立川高校で一部教室封鎖。竹早高校で生徒会の無期限スト決議、名門日比谷高校で教室封鎖、そして後の昭和四十六年には私立中高の名門、麻布学園の文化祭にヘル部隊が乱入し、機動隊導入、文化祭中止といった大騒動も起きている。
闘争のテーマは、長髪禁止令への反撥、受験指導への不信だったりしたが、政治闘争の色彩も濃く、「東京戦争」(本富士警察署襲撃など)を敢行した犯人グループ十三人が十月二十七日逮捕されたが、そのうちの九人がなんと高校生で、過激派の大学生にセクトに引きずり込まれた高校生のインスタント・ラジカルが俄然社会問題となった。赤軍派で検挙されたテロリストの中には高校生も含まれていたこともあり、文部省は十月三十一日、高校生の政治活動禁止令を発し、高校生が政治目的をもった学外のデモ集会に参加することを禁止し、違反者は退学などの処分もやむを得ないとする強硬方針を打ち出した。赤軍派のほかにも「反帝学評」「革労協」がこの頃誕生している。また学園封鎖の全共闘闘争は地方に拡大し、京大、広島大、岡山大、長崎大、埼玉大などでも城攻め騒ぎが起き、岡山大学では学生の投石により機動隊員一人が殉職している。
赤軍派が結成された九月四日の翌日には、日比谷公園で「全国全共闘連合結成大会」が開かれたが、この大会には革マル派を除く全国四十六大学の全共闘約一万人(主催者側発表)が参加し、反安保、大学立法粉砕の気勢をあげた。
そして九月五日の全国全共闘連合結成大会が開かれた日比谷公園の会場には、かねてから指名手配されていながら各地の反安保集会にゲリラ的に出席し、学生たちの喝采を浴びては逃走するという警察を愚弄する行動に出て秦野警視総監をカンカンに怒らせていた、東大全共闘議長山本義隆が現われて全国全共闘連合の議長に選任された。
それまで何回も影武者を使われたりして逮捕しそこねていた警視庁公安部もこんどこそは本物を現場で逮捕したものだった。
あんな強敵になろうとは
警視庁機動隊は、東奔西走、都内三十七大学の学園紛争に百八十四回出動し、“城攻め”すなわち暴力学生によりバリケード封鎖された校舎の封鎖解除警備を七十五回実施している。つまり二日に一度どこかの大学キャンパスに攻めこみ、五日に一度“城攻め”を行っていた勘定になる。
代々木系全学連や黄色ヘルの共産党系民青と、赤・青・黄・緑・黒・銀といったカラフルな五流二十三派に分裂した極左過激派全共闘集団との流血の“内ゲバ”武闘も、二日に一回の割で年間百八十二回発生し、その都度機動隊が出動し、鎮圧した。
一言でいえば、あの頃の警視庁機動隊は、私の指揮の下で一日平均八・五回、二千四百五十八人が出動し、毎日隊員が六・三人負傷し、平均二十八人を検挙し、二日に一度どこかの紛争大学のキャンパスに攻めこみ、五日に一回は要塞化した校舎の“城攻め”を行い、二日に一度は代々木系全学連と反代々木過激派との内ゲバ闘争の鎮圧をやっていたという、いまでは到底考えられないような“警察戦国時代”だったのである。
だから昭和四十四年九月四日の時点ではIRAの真似をしてナイロン・ストッキングをかぶって葛飾公会堂に集った三百人の新派閥「赤軍派」など、相手をしてる閑はなかったのだ。
それが以後八年間にわたって日本警察を悩まし続け、私自身もまた、「連合赤軍あさま山荘事件」から「テル・アビブ事件」「ドバイ、シンガポール事件」等一連のハイジャック事件、連続企業爆破事件など、警察庁警備局の局付警視正、調査課長、外事課長、警備課長として、命を|鉋《かんな》で削るような危機管理人生を強いられる強敵になろうとは夢にも思わなかったのである。
能率手帳の五月十一日欄の怒りをこめたメモをみると、この半年足らずで「土曜日は二十一日間皆出勤、日曜・祭日は三十三日中二十一日出勤、従って休んだのは正月休みをふくめて十一日間のみ」と怨みがましい記載があり、当時流行った森進一の「貴方にあげた夜をかえして」をもじって、国に向って「貴方にあげた土・日を返して」と半分本気で抗議している。
この年の一月の東大安田講堂攻防戦は、終りでなくて始まり、終章ではなく序章だったのだ。現に、赤軍派が結成された同じ九月四日に、京浜安保共闘が羽田空港滑走路に海上からゴムボートで潜入し、愛知外相訪米阻止を呼号して滑走路で火炎ビンを投げて日航機の離陸妨害をはかる事件が起きている。
さらに前日の九月三日には、早稲田大学|時子山《とこやま》総長の要請を受けた私は、勝手なことばかりいう時子山総長と烈しい電話での応酬のあげく、大隈講堂と第二学生会館の封鎖解除のため全機動隊約四千人を投入して、警備実施を行った。籠城して徹底抗戦の挙に出た早大全共闘の抵抗は凄じかった。東大安田講堂事件以来もっとも烈しかった警備といえよう。
大隈講堂の上から突き落された第八機の山根隊員は全身打撲、両手両足、腰骨骨折の瀕死の重傷を負ったほか、九十八人の機動隊員が重軽傷を負った。
高所恐怖症で足はガクガク……
とくに第二学生会館はてこずった。十階建ての同会館の内側階段は五階までスチール・ロッカーや机などで厳重にバリケード封鎖されていて、それらを一つずつ引きずり出して排除しようとしても頭上から火の雨と降る無数の火炎ビンに悩まされて作業は難航した。
それでは外側の非常階段から攻めようということになった。
ところが十階屋上からは垂直の鉄製非常梯子の上からかねて運びあげておいたとみられる灯油入りドラム缶を傾けて灯油を垂れ流し、それに火炎ビンで点火するからたまらない。学生会館は一瞬火の滝に包まれ、黒煙がねじ曲りながら立ちのぼって天に達する。
下からは特科車輛隊の高圧放水車が放水銃の仰角をいっぱいにあげ、気圧を加えた強力な水流を非常梯子の上端に狙いさだめて放水し、火を消し、群がる屋上の学生を追い散らす。そうしておいて機動隊員たちが非常梯子にとり付き、まるで黒い蟻の行列のように直立する十階建ての学生会館の外壁をよじ昇ってゆく。
よせばよかったのだが、血気にはやった私も隊員に伍して鉄梯子を昇っていった。両側の鉄製の手摺りは油と水でヌルヌル滑る。必死で五階近くまで昇ったとき、私は目を疑い、慄然とした。そこから上は非常梯子の鉄製のふみ板・ラッタルがないのだ。そんなバカな……。
五階までは内側の階段を封鎖した上、山岳部か体操部か、高所恐怖症とおよそ無縁な学生が鉄製ふみ板をはずしながら屋上まで昇り、機動隊がよじ昇ってこられないように細工したにちがいない。
下をみると垂直の非常梯子には青ヘルの隊員たちがはるか下の方の地面まで蟻の行列のようにつながって昇ってくる。私は突然高所恐怖症の発作に襲われた。
下腹から力が抜け、足はガクガク、手は力を失って萎えそうだ。降りたくても降りられない。みると目の前に五階ベランダの手摺りがある。体をよじってベランダの手摺りをつかみ、反動をつけて飛び移る。運よくそのベランダ越しにみえる部屋には籠城学生の姿はみえない。
一個分隊ぐらいの隊員が私の真似をして次々とベランダに飛び移り、窓から建物の内部に突入してゆく。ベランダから上を見上げてみて仰天した。なんと若い隊員たちはラッタルをはずした両側の鉄製手摺りのわずかなくぼみに出動靴の爪先をかけて器用に|登攀《とうはん》を続けている。放水の水が滝のように流れ、時々火炎ビンが降ってくるというのに……。
ポカッというような音とともに火炎ビンが一発、五階ベランダに|犇《ひし》めいていた私たちの真中に落下、炸裂した。一瞬みんな炎に包まれたが、冷静な隊員が腰につけた携帯用小型消火器をひっこ抜き、あっという間に火を消し止めたから一同無事だった。もうなれっこになっているのか歴戦の機動隊員の腕前はまことに鮮やかで、お蔭で私も火傷を負わずにすんだ。
こうして屋上に追いつめられた籠城学生九十人が全員検挙され、早大封鎖解除警備は成功裡に終った。
その晩には、アメリカ大使館とソ連大使館が同時に火炎ビン攻撃を受け、九月四日には「赤軍派」のほかにも「ML同盟」すなわち「全国学生解放戦線」が結成されている。
大学の封鎖解除警備も続いて行われ、九月八日慶応大学三田キャンパス、九月十日東京外語大、九月十三日東京医科歯科大学がそれぞれ過激派学生の不法占拠から解放された。
慶応大学で私を迎えた石川忠雄教授の、そして東京外語大で会った中嶋嶺雄教授の沈痛な面持ちがいまでもまぶたに焼きついて消えない。
そして警備当局は「一〇・二一国際反戦デー闘争」すなわち「新宿騒擾事件一周年記念闘争」に向け、大規模な街頭武装行動の準備をすすめている過激派各セクトへの対応に追われ、葛飾公会堂で結成された「赤軍派」など、意識の端をチラリとかすめたワン・オブ・ゼムの一派閥にすぎなかったのである。
神ならぬ身の哀しさ、後日この「赤軍派」が次々と凶悪な犯行を重ね、三年余りにもわたって警察を苦しめ、私自身もその正面に何度も立たされて苦杯を嘗めることになろうとは、夢にも思わなかった。
そしてそれは、本富士警察署襲撃事件から始まった。
本富士署長室炎上
赤軍派は結成と同時にトロツキズムの路線に沿って武装蜂起を始めた。
まず「大阪戦争」からだった。九月二十二日約三十人の赤軍派が大阪府警の阿倍野派出所など三個所に火炎ビン攻撃を加え、それを「大阪戦争」と呼号したのである。
九月三十日はこんどは「東京戦争」開始だった。この日約二千四百人の過激派が神田学生街に集結、「日大奪還闘争」をスローガンに神田、本郷一帯で同時多発のゲリラ闘争を展開、交通は一時麻痺し、附近商店街も早々と店仕舞する騒ぎとなった。拠点になった明治大学学生会館からは規制中の機動隊に向けて火炎ビンの集中攻撃が加えられ、道路に大学校舎から机、椅子をもち出してバリケードを築いて放火する。神保町、駿河台下、美土代町などで機動隊の輸送車を横転させ放火するなど暴れまわった。
その日私は警備第一課長として警視庁五階の総合警備本部の警電や警備無線などが集中する神経中枢の指令台に坐って全般的な警備指揮にあたっていた。
当時はまだ神田学生街の住民は心情的にゲバ学生たちの味方で、「機動隊帰れ」と叫んだり「機動隊がくるからうちの店のガラスが割れた」などと抗議するなど、機動隊の受難期は続いていた。
午後七時十分過ぎ「本富士署署長室炎上中ッ」という至急報が入った。
「署長室が炎上? まさか。外側の壁に火炎ビンが当って燃えてる程度じゃねえのか?」
当然神田・本郷は騒乱状態なのだから本富士署も非常態勢で外周警備の制服がいないわけがない。
それをむざむざ署長室をやられるなんて……と思った私は、直接国松孝次署長のデスクの上の直通電話のダイヤルをまわした。安田講堂事件の頃は楢島文穂君が署長だったが今は昭和三十六年組の国松君が署長だ。
リーン、リーンと信号音は聞こえるが応答なし。では久中清松副署長にかけてみる。久中副署長は安田講堂事件のときの第四機の副隊長で、歴戦の警備屋である。
こんどは応答があった。
「署長室炎上中と報告があったが、本当か?」はあはあ息を切らせながら久中副署長が応える。
「はい、目下消火中です」「署長は?」「はい御無事です。隣りの会議室で会議中でした」
ああ、よかった。前任者の楢島君は四六時中デスクに坐って卓上にならべた本庁、第五方面本部、東大当局などと七、八本の電話機を受けまくり、かけまくる癖があった。
もし国松署長が同じやり方をしていたら火達磨になって大火傷を負うか、殉職していただろう。
後日東大にいったときに立ち寄ってみたら窓ガラスは砕け、カーテンは焼け、デスク一帯は消火剤の粉末で真っ白。天井の蛍光灯のプラスティックカバーは熱でねじ曲り、書棚は焦げ、そして卓上の電話機は焼けて変色していた。これが赤軍派の仕業だった。
神田地区ゲリラの一隊、赤軍派約三十人が本郷二丁目の本富士署を奇襲して署長室の窓ガラスめがけて数本の火炎ビンを投げ、署長室を火の海にしたのだった。
この夜、警視庁は放火、凶器準備集合罪、公務執行妨害罪などで三百九十一人の過激派学生を逮捕したが、その中には本富士署襲撃の赤軍派は一人もいなかった。そしてこのことが秦野警視総監を激怒させ、署長室をやられながら犯人をとり逃がした|廉《かど》で本富士署長査問会となるのだが、このエピソードはまた後で機会をみて物語ることにする。
この国松本富士署長こそ、誰あろう平成七年(一九九五年)三月三十日、地下鉄サリン事件、オウム真理教捜査の渦中、何者かに狙撃されて重傷を負ったが、信じられないほどの気力体力で九死に一生を得た、国松孝次警察庁長官、その人である。
国松孝次署長は後日この「長い血まみれの道」の旅友としてあさま山荘派遣幕僚団“独立愚連隊”の一員となって登場する。
九月三十日の本富士警察署襲撃事件のあと、赤軍派は山梨県塩山市の大菩薩峠にある「福ちゃん荘」に合宿して、総理官邸襲撃の訓練と予行演習をはじめた。
赤軍派はダンプカーに乗り、鉄パイプ爆弾を投げながら総理官邸と警視庁に突入する「東京戦争」を企てていたのである。
彼らは七十人の団体で山歩きを楽しむ「ワンゲル(ワンダーフォーゲル)共闘会議連合」だと名乗って「福ちゃん荘」に三泊四日の宿泊を申し入れ、一人一泊三食付五百五十円で五十三人分を全額現金で前払いした。
そして朝八時頃から大菩薩峠にのぼり、午後四時頃まで山中で訓練を行っていた。
かねて秘かに内偵捜査をすすめていた警視庁、大阪、神奈川、千葉、茨城の連合私服捜査班百人が、山梨県警機動隊百五十人に守られてこの霧に包まれた山荘を急襲したのは、昭和四十四年十一月五日の午前六時五分だった。
寝込みを襲われた女子学生二人、高校全共闘九人をふくむ赤軍派五十三人は、抵抗するいとまもなく寝巻姿で寒さにふるえながら全員逮捕され、暁の大捕物は流血騒ぎもなく大成功裡に終った。
赤軍派が結成されたこの年の九月頃、「日共革命左派神奈川県委員会」という日共反党グループの中の親中共分子が「毛沢東主義」を掲げて「京浜安保共闘」と名乗る労学提携のウルトラ過激派を誕生させた。
革命路線の理論的指導者は川島豪。「革命は銃から生れる」と銃への異常な執着をもつ川島の影響をうけ、この派は赤軍派が爆弾に強い関心を示したのに対し、武装闘争の手段として銃砲店にあるライフル、散弾銃や、交番勤務の巡査が携行する拳銃の奪取を企てた。
赤軍派が塩見孝也の指導の下、レオン・トロツキーの唱導した世界プロレタリアート・同時・急進・武装革命の旗を掲げて爆弾闘争を展開したのに対して、「京浜安保共闘」は「下放・労学提携・反米愛国・一国革命論」で工場プロレタリアートの武装一斉蜂起と「銃による殲滅戦」を毛沢東式のゲリラ遊撃戦として展開しようとしていた点で路線の違いがあった。
しかし、赤軍派も京浜安保共闘も自分たちが銃と爆弾によるテロを断行して、人民大衆のなかにひそむ革命エネルギーの「起爆剤」となるのだという、狂信的な使命感において共通するところがあったのである。
大菩薩峠の「福ちゃん荘」で、地下武闘組織の主力を検挙されて大打撃をうけ、追いつめられた赤軍派は、やがて「P・B・M作戦」を展開しはじめる。
これは当初「パーソン(人質をとる)」「ベース(海外に闘争拠点を設ける)」「マネー(銀行強盗による資金調達)」の頭文字と誤り伝えられていた。本当は人質をとる「ペガサス作戦」、海外拠点づくりのため同志を海外に送り出す「ブロンコ作戦」、そして革命資金調達のための金融機関強盗を働く「マフィア作戦」の略だったことが後になって判明する。
翌昭和四十五年(一九七〇年)は日米安保条約改定の年であり、極左過激派集団ばかりでなくすべての反安保勢力が十年前の昭和三十五年(一九六〇年)安保条約が締結されたときの第一次反安保闘争以来、十年間固定期限が切れる一九七〇年をいわゆる「七〇年闘争」として闘争目標に設定していた年だったことが後になって判明する。
そして安保条約が一年毎更新自動延長システムに切換った六月二十三日を頂点に、全国規模で反安保共闘態勢が組まれ、大衆集会、デモなどの政治闘争が展開され、警備当局は社会秩序と治安維持に寧日ない状況下にあった。
しかし反安保大衆運動は六月二十三日を境に次第に引潮となり、やがて鎮静化していったが、赤軍派、京浜安保共闘などのウルトラ過激派のテロは、追いつめられ、学生青年層の支持を失うにつれて窮鼠猫をかむのたとえどおり一層過激となり、武器も次第にエスカレートし、「火炎ビン闘争」から「銃器・爆弾闘争」へと移行してゆくのである。
まず「赤軍派」の「ブロンコ作戦」は、キューバの砂糖きび刈りに就労してカストロに接近をはかり、武器や資金の援助をうけようとした。
さらにアメリカの爆弾テロ組織「ブラック・パンサー」や、英国のIRAやアングリー・ブリゲード、ドイツ赤軍のバーダー・マインホフ一派などとの連携共闘をはかろうとしたが、いずれも失敗に終った。
そしてついに北朝鮮の金日成の支援を期待してのこの年三月の「日航機よど号ハイジャック事件」、また中近東アラブ・ゲリラ、PLOのアラファト議長やPLOの武装ゲリラ組織「PFLP」との連帯を求めての重信房子、奥平剛士らの中東亡命(翌四十六年)へと突き進んでゆくのである。
日航機よど号ハイジャック事件
昭和四十五年(一九七〇年)三月三十一日(火)午前七時三十三分、富士山附近を飛行していた日航ボーイング727型「よど号」羽田発福岡行三五一便が、乗客をよそおって搭乗していた赤軍派田宮高麿以下九人に日本刀などで脅されてハイジャックされるという大事件が起きた。石田真二機長からの通報によると北朝鮮の平壌へ行けと命ぜられたとのこと。日本警察が初めて体験するハイジャック事件だった。この時も私は警視庁の警備第一課長だった。
ハイジャック事件発生の報に接した私は直ちに登庁して、「よど号」が羽田に舞い戻った場合に備えて本庁に警備本部を開設し、羽田空港に機動隊の当番隊を急派して警戒配備につかせた。八時五十九分、「よど号」は燃料補給のため福岡の板付空港に着陸した。
これより先、地下に潜行していた赤軍派最高幹部塩見孝也が逮捕された。それによりいよいよ追いつめられたと感じた政治局員田宮高麿、中央委員小西隆裕ら九人が北朝鮮亡命を企てたものと判断された。
秦野警視総監に報告すると、「絶対に福岡から飛び立たせるな。ライフルでタイヤを撃ってパンクさせ、飛び立てないようにしろ」という高姿勢。とはいっても事件の管轄は福岡県警だし、高橋幹夫警察庁次長は乗客の人命尊重が第一という警備方針をうち出している。
私にはもちろん福岡県警にああせい、こうせいと口出しする権限はない。しかし総監の強い意向であるということだけは警察庁に参考情報としてあげた。警察庁が運輸省航空局と日本航空に打診したところ、「もってのほかの暴論。自転車とちがってジェット旅客機のタイヤはライフルで撃ったからといってすぐパンクするものではない。飛び立つのを阻止するには役立たず、むしろ徐々に空気が抜けて着陸する頃にペチャンコになり、大事故につながることになる」と強硬な反対意見だという。総監に報告したが、総監は頑固に自説をまげない。困り果てていると、「よど号」が犯人に脅されたのか突然発進、離陸し、機側でチャンスをうかがっていた機動隊員たちは危くはね飛ばされるところだった。
そして山村新治郎運輸政務次官が身代り人質となって金浦空港から平壌に飛び、人質の乗客全員が無事に解放される四月五日までの間、警備当局はこの日本警察にとって初めてのハイジャックにふりまわされた一週間となった。政府与党はこの事件をきっかけにハイジャック防止法を制定し、三カ月後の六月にはこれを公布施行したのだった。
M(マフィア)作戦
「よど号事件」によって田宮高麿らが北朝鮮に亡命したあと、武闘派の森恒夫政治局員による赤軍中央軍の一元的支配が確立され、軍至上主義の森の指導の下、赤軍派は少数尖鋭主義となり、自滅の方向を辿ることになるのだが、自滅するまでの間に彼らが重ねた凶悪な犯行の数々により多くの人命が失われ、社会不安が醸成され、警察は奔命に疲れ、私も多忙を極めたのだ。
ひときわ社会不安をかきたてたのが赤軍派の「M作戦」すなわち金融機関を次々と襲う連続強盗事件だった。
彼らが昭和四十六年二月二十二日から七月二十三日の間に敢行した銀行・郵便局・信用金庫など金融機関に対する一連の「M作戦」強盗事件は、千葉県の辰巳郵便局、茂原郵便局、高師郵便局、夏目郵便局、横浜銀行相模原支店、宮城県振興相互銀行、横浜銀行妙蓮寺支店、米子市松江相互銀行米子支店の八件にのぼり、強奪された被害金額は、一千九百二十一万八千二百六十七円に達した。松江相互銀行米子支店強盗事件では、赤軍兵士酒井、近藤ら十八人が検挙され、奪われた現金六百万円を回収したので、被害額は結局、一千三百二十一万八千二百六十七円である。
軽井沢に向う車中で、私はふとこの一千三百二十一万円の強盗の稼ぎのうち、「あさま山荘」に立て籠った犯人たちはじめまだ逮捕されていない赤軍派が持っている残金は幾らあるのか計算してみる気になった。
何でも書いてあるくだんの黒表紙能率手帳を内ポケットから取り出し、車内灯をつけてメモに記入されている回収金額を集計してみる。
赤軍派兵士らが逮捕時に所持していた金額はというと、
榛名山周辺 中村愛子 四十万円。
妙義山洞窟 森恒夫 三百四十三万三百九十円。
同 永田洋子 四十六万一千円。
同 洞窟内遺留 九十八万円。
軽井沢駅 青砥・植垣ら 十五万円。
合計五百四十二万一千三百九十円となる。
従って残党がまだ持って逃げている資金は七百七十九万六千八百七十七円ということになる。
社会不安をかもし出した赤軍派のもう一つの動向は、火炎ビン闘争から爆弾闘争へと戦術をエスカレートしていったことである。
昭和四十六年六月十五日、赤軍派は警察施設や警察官を狙っての組織的計画的爆弾テロ闘争の火ぶたを切った。
十七日には極左各派は全国三十二都道府県百三個所で三万人の参加する「沖縄返還調印阻止闘争」と銘うった武闘を展開し、八百三十七人が検挙された。
午後八時五十九分、明治公園オリンピック道路で全共闘デモを規制中だった二機、五機の密集隊列に向って公園の暗いしげみから鉄パイプ爆弾が投げこまれ、轟然と爆発した。
二機の青野準分隊長、五機の新井留雄小隊長の二人が腹部裂傷、大腸露出の重傷を負ったほか、あわせて三十七人の隊員が重軽傷を負った。
警視庁五階の総合警備本部で警備指揮をとっていた私は「明治公園で大音響、多数の隊員がなぎ倒されてうめいている」との至急報に接し、畜生、やりやがったなと血が逆流するような激しい怒りを覚えた。
直ちに公園附近一帯の道路封鎖、交通遮断、一斉職務質問、検問を命ずるとともに、本多|丕道《ひろみち》警視総監に直ちに警察病院に自らお見舞いにゆくことを進言した。
刑事畑出身で警備公安に疎い本多総監はちょっととまどった。
「オレが見舞いにゆく? そういうもん、なのか?」
「そうです。暗闇から爆弾なんて現場の隊員にとっては誰でも怖い、いまみんな動揺しています。そんなとき総監がすぐお見舞いにこられ、激励の声をかけて頂くと隊員の士気があがります。おーい、秘書室長、総監が警察病院にお見舞いに行かれる。車、出せッ」
これが有事の指揮官の心得の一つなのだ。
部下が怪我したり、御家族に不幸があったりしたときは「上司の慶事より部下の弔事」、これこそが人心収攬、連帯意識高揚の秘訣なのだ。
飯田橋の警察病院の現場では、突然姿を現わした本多警視総監をみた機動隊員たちが「おう、総監がお見えだァ」と喚声をあげて出迎えたときく。
その本多警視総監が狙われたのが八月七日の夜だった。
この夜は千葉県警の成田警察署に対しても同時攻撃があり、成田署は爆破され、一部破壊された。
麹町一番町の警視総監公邸にかけつけたときは玄関脇に仕掛けられた時限爆弾を爆発物処理班が解体撤去の作業中だった。
爆発物を仕掛けた犯人をみて警戒中の機動隊員が追跡し、鉄門のところで捕えかけたのだそうだが、この犯人は痩せた奴で幅二十センチくらいの鉄格子の間をすり抜けて逃げ、体格のいい機動隊員は鉄格子につかえてしまってとり逃がした……という、チャップリン、キートンの喜劇映画そのままの現場報告をうける。
場所柄、事柄の性質上笑いごとではない。笑ってはいけない、いけないと思いながら、こみあげてくる笑いをこらえるのに苦労した。
どうしてこんな深刻な事態のときに限ってそんな滑稽なことが起こるのか。チャップリンのいうように「悲劇の極致は喜劇」、悲劇と喜劇とはいつもこうも背中合わせなのか、なぜだろう。
そんな最中に「おーい、みんな、何があったんだ、そこで何してる?」と頭上から声がかかった。見上げると正面玄関二階のベランダにパジャマ姿の本多総監の巨体が夜空に浮かんでいる。「佐々です。総監、時限爆弾です。危ないですからさがって下さいッ」
と下から叫ぶと、本多総監は答えて曰く、
「そうか、じゃあ寝るか」
この大人物ぶりに現場のものたちは顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。さがって下さいとはいったが、誰が寝ろといった。この滅法線の太い大人物の総監にはみんな恐れ入り、親近感を抱いたものだった。
時々|鉞《まさかり》でぶった斬るような果断な決断力を発揮する骨太の警視総監ではあった。
これより先、七月二十七日清水谷公園に集った革共同約三百人は、「我々は今や爆弾時代に突入した。そして爆弾時代を歓迎する。これについていけないものは闘争から脱落してもかまわない」と、野外の公開集会の場で公言した。
七月二十六日には成田闘争で電気釜に仕掛けた強力な地雷が登場している。
柴野春彦の死
一方「銃から革命が生れる」という川島豪革命理論に心酔し、銃に異常な執着をもつ「京浜安保共闘」が敢行したのが、昭和四十五年十二月十八日の志村警察署上赤塚交番襲撃事件だった。
歳末特別警戒中の十二月十八日、午前一時三十分頃、私は枕元の警電のベルの音で起こされた。当直の石田薫警部の緊急報告だった。
「志村署上赤塚交番が三人組の過激派に襲われました。立番中の高橋巡査が重傷です。相勤の阿部巡査長がやむなく拳銃を撃ちまして犯人の一人を射殺しました」
声が上ずっている。拳銃による過激派の射殺となると、マスコミも国会もすぐ警察の過剰防衛だ、職権濫用だと、夜があければ大騒ぎになることは必定だから緊張するのも無理はない。
「あとの二人の犯人は?」と私。
「あと二人にも弾があたり、二人とも検挙しました」
「ようし、よくやったと伝えてくれ。すぐ現場へ行く。車、廻してくれ」
警察内部の職務分担でいうと、警察官職務執行法第七条の「武器使用」の所管部長は警務部長である。深更ではあるが重大緊急事態であるので土田国保警務部長に警電で速報した上で、私は出迎えの公用車にとびのった。
練馬にある志村署上赤塚交番の現場へ到着したのは午前三時頃だった。
制私服の警察官で狭い交番はいっぱい。所内は拳銃発射のあとのいがらっぽい硝煙の臭いがたちこめ、あたりには|血《ち》|飛沫《しぶき》が付着し、コンクリートの床には射殺された人体の形が白いチョークで描かれ、血溜まりがみられる。
私服の鑑識係が忙しく立ち働き、指紋をとったり巻尺で計ったり実況見分に余念がない。私は阿部貞司巡査長(42)をかたわらによんで事情聴取をはじめた。
阿部巡査長は小柄で痩せぎすの温和なパトロール警官だった。まだ興奮がさめやらず蒼白な、ひきつった表情で|訥々《とつとつ》と語る。
「休憩室で眠っていたらガラスの割れる音や立番中の高橋巡査の大きな声が聞こえた。かと思うと、一人の大きな男が飛びこんできて拳銃保管箱に収めた拳銃をとろうとしました。
とっさに男を土間に蹴落し、拳銃を手にして、刃物を手にして襲いかかろうとする男に『刃物を捨てろ』と警告しましたが、なおも向ってくるのでやむなく二発撃ちました。
倒れた男をのりこえて事務所に飛び出ると高橋巡査が頭から血を流して倒れていて、若い男が二人馬乗りになってゴムホース入りの鉛管で殴りつけているので『やめないと撃つぞ』と警告した上で三発、足を狙って撃ちました。もし撃たなければ私も高橋巡査も二人ともやられていたでしょう」
高橋巡査の拳銃からも一発発射されていたが、同巡査は撃った覚えはないということで、拳銃を奪いあううちに暴発したものと思われた。
阿部巡査長は昭和四十四年五月十四日にも同じ上赤塚交番で、道案内を求めてきた若い男に突然ナイフで斬りつけられ、警棒で制圧したものの、左腕に負傷したという苦い経験をもっている。
私も目の前で時々痙攣を起こしたように身ぶるいしている中年の阿部巡査長の体格をみて、狭くて暗い交番の中でゴムホース入り鉛パイプと切り出し小刀と千枚通しをもった三人の若くて力のある凶漢に襲われ、すでに同僚がめった打ちにされて重傷を負い、その時点で、拳銃が奪われていたかも知れないという極限状況の下では「自己又は他人の正当防衛」になるなと納得できた。さらに拳銃を奪おうとした行為は「強盗罪」で拳銃使用の根拠法規である「警察官職務執行法」第七条の後段「死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁|こ《ヽ》にあたる兇悪な罪」にもあたるから警察官として正当な武器の使用だ。
私が阿部巡査長でもきっと同じことをしただろう。ようし、組織をあげて庇おう。私はその場で決心した。
指紋照会の結果、射殺された犯人は、京浜安保共闘最高幹部柴野春彦(横浜国立大四年生・24)とわかった。
柴野は愛知外相訪米阻止・羽田空港火炎ビン事件、昭和四十四年、一〇・二一闘争で米軍横田基地に手製爆弾を投げこみ、基地内に侵入して米軍機にガソリンをかけて放火炎上させた事件、そして岐阜県赤坂山石灰採掘現場からダイナマイト十五本、雷管三十本を盗み、十一月五日厚木米軍基地に爆弾を仕掛けた容疑など、幾多のテロ事件の容疑者として指名手配中の人物だった。
あとの二人も京浜安保共闘の横浜国大生渡辺正則(25)と川崎市在住の定時制高校生(18)と判明した。渡辺も愛知外相訪米阻止闘争で逮捕歴があり、少年も成田闘争で逮捕されたが手錠をかけられたままで逃走していた男で、手首には手錠のあとが残っていた。
京浜安保共闘の最高幹部、川島豪が逮捕されたあと最高幹部となった柴野春彦は、自ら先頭に立って川島豪奪還のために拳銃を奪うことを計画したようで、警視庁公安部は犯行の動機を「大衆の目をさまさせる先駆的理論に基づく毛沢東式軍事ゲリラ遊撃戦を展開するため、拳銃奪取をはかったもの」と判断した。
その線で私は警視庁記者クラブで行われた上赤塚交番襲撃事件の記者会見に臨んだ。
すでに極左過激派の弁護士グループ「救援対策センター」のスポークスマンはこの事件を「警察官の過剰防衛であり、拳銃による射殺は不当である」と声明し、糾弾活動を始めていたので、当然記者団の質問はその一点に集中した。
いち早く現場をふんで第一次情報を入手していた私は、「警察官の拳銃使用は正当である」と主張して譲らなかった。
そこへ意外にも土田国保警務部長が入ってきて、私の後ろに座ったのである。責任感の強い土田警務部長は武器使用が警務部の所管であるところから課長に任せておくことを潔しとせず、逃げないで早朝出勤までして私のバック・アップのために記者会見場に現われたのだ。
「警務部長、佐々課長は強気の発言をしているが、それでいいんですか、部長の見解は?」
という記者の質問に対し、土田部長は、
「佐々課長のいうとおり。警察官の拳銃使用は正当である」と言下にいい切った。ときの荒木万寿夫国家公安委員長も十八日朝の閣議で同趣旨の閣議報告を行った。
その日の夕刊各紙にはこの警察の公式見解が実際に記者会見をした私ではなくて、土田警務部長談として掲載された。
この、より上級者の名を公式にクォートするという事件談話報道の慣習と、それを知りながら逃げようとしなかった土田警務部長の勇気が、一年後に凄絶な悲劇を招くことになろうとは、土田警務部長も私も、夢にも思わなかった。
[#改ページ]
復讐戦の開始
上赤塚交番襲撃事件のわずか二カ月後の昭和四十六年二月十七日午前二時頃、栃木県真岡市の塚田銃砲店に「電報です」といつわって家人に戸を開けさせて侵入した犯人たちが家人を縛りあげ、レミントン自動五連散弾銃など十一挺、十二番ゲージの散弾など弾薬約二千八百発を奪って逃走するという強盗事件が発生した。
この同じ頃、赤軍派中央委員重信房子と京大全共闘の奥平剛士とが偽装結婚し、ベイルートに亡命し、PFLPに合流しているし、二月二十二日から赤軍派は「M作戦」を開始し、ここに連続金融機関強盗事件の幕があがった。
そして成田では第一次強制代執行阻止闘争が二月二十二日から三月六日までの間激しく展開され、極左四百六十一人が検挙されている。
真岡の塚田銃砲店から強奪された十一挺の銃と二千発以上の弾薬が、連合赤軍「あさま山荘」銃撃戦の主役を果したことは、いまさらいうまでもない。また、重信房子があの時ベイルートへ脱出しなかったならば、私たちは迦葉山山岳アジト付近の凍った土の中から永田洋子にリンチされ惨殺されて埋められた彼女の遺体と後日対面していたかも知れない。
人間の運命というものはわからないものである。
赤軍派は田宮高麿の北朝鮮亡命後主導権を握った森恒夫の過激派路線にそって爆弾闘争を展開していったことはすでにのべたが、上赤塚交番事件で射殺された柴野春彦の復讐戦とみられる京浜安保共闘の爆弾テロ闘争がそれに加わった。
毎月、「十八日」の前後になると警視庁の警察署、交番、家族宿舎、独身寮などが次々と爆破されるという、由々しい事態が発生したのだ。
警備当局は懸命の警戒網を張りめぐらせ、奔命に疲れ果てる日々が続くことになる。
貫井北町交番缶詰爆弾爆発事件(4・26)
警視総監公邸爆破未遂事件(8・7)
千葉成田署爆破事件(8・7)
警視庁「大橋荘」(職員寮)消火器爆弾爆発事件(8・22)
高円寺駅前交番爆破事件(9・18)
警視庁「松原荘」爆破事件(10・16)
同 葛飾区「青戸荘」(鉄筋コンクリート、五階建てアパート三棟家族百二十世帯)爆破事件(10・18)
そして十月十八日午前十時四十五分、西新橋一丁目日本石油本館内郵便局の小包集配所で若い眼鏡をかけた女性がもちこんだ20センチ×20センチ×6センチぐらいの小包二個が大音響をあげて爆発し、付近の小包、郵便物のたぐいを粉々に爆砕するという事件が起こった。
鑑識の結果、粉砕された小包の宛名は、一個は後藤田正晴警察庁長官に、もう一個は新東京国際空港公団今井|栄文《よしふみ》総裁に宛てたものとわかり、警察は八月七日の本多総監公邸爆破未遂事件に続く高官とその家族を狙う卑劣な犯行とみて一層緊張したのだった。
そして十月二十三日夜から二十四日未明にかけて都内の警察署、交番の六個所に時限爆弾を仕掛け、同時爆破をはかるとともにガセ(騒がせの略)の一一〇番通報で、「最高裁長官公舎」「東宮御所」「衆議院」など真偽とりまぜて二十個所に爆弾を仕掛けたと組織的計画的心理攪乱戦術を展開したのだ。
警視庁警備部は深夜騒然となり、午前二時十六分、管内全警察署に非常警戒を発令し、緊急配備、検問、検索、一斉職務質問を行って、爆弾事件の未然発見と被害局限措置につとめた。
代々木署清水橋交番に仕掛けられた3センチ×16センチの強力な鉄パイプ爆弾は幸い未然に発見された。板橋署仲宿交番、荻窪署四面道交番、養育院前交番の三個所の時限爆弾も検索によって発見され、未然に処理されたが、中野警察署自転車置場の爆弾は午前二時に爆発し、さらに本富士署弥生町交番の屋根に仕かけられた強力な指向性地雷が午前二時五分、大音響をあげて爆発した。私はこのうち荻窪署の四面道交番と本富士署の弥生町交番の現場に急行した。
警視庁全域で九千人による大捜査網が布かれたが、残念ながら一人も検挙できなかった。
二十四日早朝、本富士署弥生町交番を訪れると、厚さ十五センチの同交番のコンクリート屋根にポッカリと直径四十センチの大穴があき、その真下にあったスチールの事務机がなんとペッチャンコに潰れている。
指向性地雷の特徴で、何者かが深夜東大構内からコンクリート一階建ての同交番の屋根に梯子をかけてのぼり、方向性を真下に向けたクレイモア式地雷に似た手製爆弾を仕掛けたものと思われた。
本当にひどいことをしやがる。もし勤務員が立ち番しているか、机に坐って書類整理をしていたとすれば、その巡査は文字どおりミンチになっていたにちがいない。私が事情聴取した若い巡査はまだショックから立ち直れず、
「もしも私が交番にいたら……」
といって絶句し、ガタガタ震えていた。
本郷商店街の店二軒も爆風で被害を蒙り、「こんなことでは安心して交番の傍には住めない。交番の傍に住めば泥棒も入らないから安全だっていうのが常識じゃないですか。なんとか犯人を捕えなさいよ」と、署の幹部やかけつけた私たちに住民が抗議をする有様だった。
三島由紀夫事件勃発
このような滔々たる極左暴力破壊活動の狂瀾をくつがえそうとするもの凄いリアクションが起きた。
昭和四十五年(一九七〇年)十一月二十五日に起きた「三島由紀夫事件」がそれである。
午前十一時頃、警備無線に「ミシマという酔っ払いが暴れている」という至急報が入った時、誰がノーベル文学賞候補にまで擬せられた文学者の三島由紀夫があのようなクーデター|擬《まが》いの直接行動を起こしたと想像し得ただろうか。
この日「楯の会」の制服に身を固め、軍刀拵えの関孫六三本杉の銘刀を腰に下げた三島由紀夫は森田必勝ら「楯の会」の隊員たちを率いて陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にある東部方面総監室を占拠し、方面総監を人質にバルコニーから自衛隊のクーデター|蹶起《けつき》を呼びかけたのである。
作家三島由紀夫(本名・平岡公威)とは私は家族ぐるみのつきあいがあった。妹さんは姉・悌子と聖心女子大の仲好しの同級生であり、弟・千之氏は私の東大同期で、外務省に入った千之氏とはつきあいがあった。そんなことから私は、白面の秀才で痩身の大蔵官僚だった三島由紀夫とは面識があった。
その三島由紀夫から昭和四十三年(一九六八年)、香港領事で帰国間近だった私に宛てて一本の電報が舞いこんだ。いまならFAXなのだろうが、当時はまだ国際電報が有力なコミュニケイションの手段だったのである。
「ダイジナハナシ、ゼヒアイタイ、イサイメンダン。ミシマ・ユキオ」とある。
何だろう? 首をかしげていると、ある日サファリ帽にカーキ色半袖防暑服という、リビングストン博士のようないでたちの三島由紀夫が香港にやってきた。
噂どおり剣道とボディビルで見ちがえるように逞しく変身した三島由紀夫は、ソ連のチェコ自由化運動大弾圧の「プラーハの春」事件で政治に目覚めていた。
彼はそれより先、日本の文化人グループ「ペンクラブ」をまとめてチェコ文化人たちのソ連弾劾二千語宣言を支持する運動を始めていた。彼はいう。
「ソ連の暴虐は許せない。日本の治安も昨年十月八日の第一次羽田闘争以来急速に悪化し、このままでは日本でも共産革命が成就する。警察も弱くて頼りないし、自衛隊も萎縮している。ボクは憂国の士を集めて祖国防衛の私的軍隊をつくる決心をしたから是非協力してほしい」
私も第一次羽田闘争で千人もの機動隊員を負傷させてしまった警視庁首脳部の不手際を歯がゆく思っていた矢先だったので、三島由紀夫の公憤ももっともだと思った。
香港警察の英国人幹部からは「警視庁は三万人の規模だというが、一日一千人ずつ怪我させてゆくと何日持つかね?」と皮肉られ、私は警察庁の高橋警備局長や警視庁土田国保刑事部長などの先輩に宛てて、
「暴動鎮圧に催涙ガスの使用は世界の常識。なぜ催涙ガス使用にふみ切らないのか。国会や世論を恐れて警察の上級幹部は下級警察官を犠牲にして決断の責任を免れている」
といった趣旨の激越な意見具申の手紙を出したりしていた。この手紙が後日私を警視庁警備第一課長に起用するきっかけになったらしいが、三島由紀夫の私兵論に私は反論はしなかった。
多分私は、まさか彼が本気で私兵「楯の会」を創設しようとは思っていなかったからだろう。作家の一時の昂奮かと思っていた私は、帰国して警視庁警備第一課長に任命され、第二次反安保闘争警備の渦に巻き込まれた時、彼が本当に本気であることを思い知らされた。
国立劇場屋上で催された「楯の会」閲兵式に招待されるまではよかったが、以来大きな警備がある度に三島由紀夫から電話が掛り、「楯の会」をどこかに配置せよと迫られるのには閉口した。
上司に報告したところ「楯の会の配置など論外だが、警護をつけてどこかの現場を視察して頂き、マスコミの場で機動隊の応援をして頂くようお願いせよ」との指示があった。
そこで昭和四十四年十月二十一日夜、いわゆる「一〇・二一国際反戦デー闘争」警備の新宿の現場を視察してもらった。
現場から戻ってきた三島由紀夫は、
「もう僕らの出番はないよ。機動隊員たちは皆、白い歯を見せながら余裕|綽 々《しやくしやく》過激派を捌いている。僕らの出番を奪ってしまった佐々さん、貴方を怨みますよ」という。
私は「貴方には文学という本来の大きな使命があるじゃないですか。いま『豊饒の海』執筆中でしょ? もうゲバ闘争は終りです。貴方も文学の世界に戻られては如何ですか」と説得したものだった。
それ以来約一年間、三島由紀夫からの音信が途絶えた。私はてっきり私の助言通り文学の世界に戻ったものと思いこんでいた矢先に起きたのがこの事件だった。
私は土田国保警務部長に呼ばれた。
「君は三島由紀夫と親しいのだろ? すぐ行って説得してやめさせろ」との指示。
直ちに現場に直行したが、後の祭り、三島由紀夫は関孫六を振るって八人の自衛官を傷つけた後、割腹自決を遂げ、首と胴体は所を異にしていた。介錯をした森田必勝(25)も割腹自決した。
あの凄惨な現場となった市ヶ谷東部方面総監室に足をふみ入れ、三沢由之牛込警察署長の説明を受けながら三島、森田両名の遺体に近づいたとき、足元の絨毯が、
ジュクッ
と音を立てた。驚いて足元を見る。
東部方面総監室の床一ぱいに敷きつめられた絨毯の色は真紅。
そのため二人の遺体から流れ出たおびただしい量の血液が赤い絨毯にドップリ浸み込んでジュクジュクになっていたのを、真紅の絨毯と流血との見分けがつかずに血溜りに足を踏み入れてしまっていたのだった。
あの靴裏の不気味な感触は、四半世紀経った今でも忘れられない。
土田夫人殺害さる
そして上赤塚交番事件の一周年記念日がきた。昭和四十六年(一九七一年)十二月十八日である。
京浜安保共闘は、十月二十三日夜のように総力をあげて警視庁に復讐戦を挑んでくるにちがいない。警視庁も非常態勢で臨んだ。
志村警察署、上赤塚交番、阿部巡査長に高橋巡査、東京地検の新井検事などなど、事件にかかわった人々を対象に身辺警護を強化して、八方に目を配って配置についた。
私ども夫婦は、この夜土田警務部長夫妻ともどもアメリカ大使館員のクリスマス・パーティの晩餐会に招待されていた。
土田夫妻は香港領事の先々代の先輩で、昭和三十九年頃香港赴任に先立って妻も土田夫人から懇切丁寧に香港での生活について教えて頂いた仲だ。
当日午前十一時頃今晩のことの打合せのため、私は土田夫人に電話した。土田警務部長はキャリア、ノンキャリアの区別なく部下や後輩を可愛がる面倒見のいい人で、酔った勢いで雑司が谷の自宅に押しかけても、民子夫人は嫌な顔一つせず私たちを接待してくれたのでご主人共々みんなから慕われていた。
折柄豊島区雑司が谷の私邸は改築工事が完成したばかりだった。その晩の待合せ場所と時間、服装、手土産など事務的な打合せを終えたあと、「改築おめでとうございます、結局例の梅の古木は切らなかったんですって?」
「そうなんです。どうしても|義母《はは》が手をつけてはいけないって……。それで設計変更したんで一部引っ込んだ形になったりしまして、まだ外の塀ができてないんで不用心でいけません。引越荷物の山に埋まっていましてね」
そんな会話をして電話を切ってほんの十数分後の午前十一時二十三分頃、大部屋の長田警視から「土田邸で爆弾が爆発して夫人が亡くなられました」という、思いもよらない凶報が入った。いつも血色のいい赤ら顔が血の気がひいてひきつっている。
そんなバカな。たった今、電話で話したばかりの土田民子夫人がもはやこの世の人でないなんて。
「いま、オレと電話していたんだよ」
でも事実なのだという。なんということだ!!
私はしばらくの間、頭の中が真っ白になって、呆然としていた。
「御遺体の状況がひどくて御母堂か奥様か見分けがつかないので、むごい話ですが土田さんにお出で頂いて見わけて頂くことになったそうです。ひどい話です」
と長田警視。
「爆弾って、なんだ、鉄パイプか?」
「いえ、小包爆弾のようです。お歳暮の贈答品をよそおって届けられたようです」
私はすぐ車で現場に向った。首都高速5号線の護国寺ランプに近い閑静な雑司が谷の住宅地に土田警務部長の自宅がある。
故人となられた尊父精一氏は母校成蹊高校の校長でその頃からの親子二代の御縁で、お家も尊父以来の同じところだ。
あたりはパトカーや黒塗りの公用車、機動隊の警備車、社旗を立てた報道関係の車輛などでごった返している。土田邸内は制私服の警察官や報道のカメラマンでいっぱいで、張りめぐらされたロープの内側では白手袋をつけた採証班が指紋採取や爆弾の破片集めに熱中している。
白いシーツをかけた民子夫人の遺体に合掌する。
改築前の古い家には何回もお邪魔したが改築後は初めてだ。しかし新築直後の応接間や居間は家具や窓ガラスやふすまなどが見るも無惨にふっ飛ばされ、引越荷物と共に足のふみ場もないほど散らかっており、天井は抜け、床も根太がはずれてポッカリ口をあけている。
窓は窓枠ごと庭に吹っ飛んでいる。四男恭四郎君(13)も破片を浴び、火傷をうけて重傷ときく。
土田国保警務部長は顔面蒼白だったが、毅然として目を見据え、一歩一歩踏みしめながら目の前を通りすぎてゆく。
かけつけた槙野副総監と会ったが二人とも一言もいわず、目を見合せて二度、三度うなずきあっている。
八月七日の本多警視総監公邸、そして十月十八日日石・芝郵便局で誤爆した後藤田正晴警察庁長官宛ての小包爆弾に次いで警察最高幹部とその家族を狙う卑劣なテロで、一年前に死んだ柴野春彦の復讐を企てた京浜安保共闘の犯行と推定された。
あとでわかったことだが、差出人は昭和十八年内務省採用組の同期生久保卓也防衛庁防衛局長の名前が使われていて(職名をまちがえて警察庁交番局長となっていた)、お歳暮シーズンに同期生からの贈答品をよそおっての犯行だった。
午後四時すぎ、土田警務部長の記者会見がテレビで放映された。
キッとカメラをみつめた土田部長は、
「私は犯人にいう。君らは卑怯だ。……家内に何の罪もない。家内の死が一線で働いている警察官の身代りと思えば……もう一言、犯人にいいたい。二度とこんなことは起こしてほしくない。君らに一片の良心があるなら……」
こうして五分間の会見は終った。これをきいたすべての警察官は、犯人は必ずオレたちで挙げてやると心に誓いながら、みんな目頭を拭った。
盛大な葬儀が駒込の吉祥寺で催され一般市民も加わった約七千人の会葬者が同夫人の死を悼んだ。私はまた特別の思い入れで境内の一隅に佇んでいると、私の歪んだ顔、流れる涙をみた毎日の白木東洋記者が寄ってきて、
「ダメダメ、佐々さんがそんな顔してちゃ」
と励ましてくれたのがとても嬉しかった。
翌日の朝刊は「土田発言が刺激?」などの見出しを掲げて、「一年前の上赤塚交番襲撃事件で京浜安保共闘の最高幹部柴野春彦が射殺された件について、土田警務部長が警察官の拳銃使用は正当であると断言した、その一言が復讐を招いたのでは……」といった記事を掲載した。
だが実際に記者会見をやったのは私だった。土田さんは後から入ってきて、私を庇ったのだ。もしふつうの偉いさんなみに土田さんがあの記者会見を逃げていたら、公式見解のクレジットは私に与えられ、あの小包爆弾は私のところへ来て、私の妻がやられていたかも知れない。
この日の午後六時から赤軍派と京浜安保共闘は合同で板橋区民会館に約七十人を集めて「一二・一八柴野春彦虐殺弾劾一周年追悼集会」を開き、銃による遊撃戦勝利を声高にアジっていたが、さすがに土田邸小包爆弾事件の犯行声明は出されなかった。
連合赤軍誕生
この超過激派の赤軍派と京浜安保共闘がその血まみれの手を握りあって「連合赤軍」を結成したのは、昭和四十六年十二月三十一日、京浜安保共闘の榛名山アジトでのことだった。
赤軍派は京浜安保共闘の上赤塚交番襲撃事件を高く評価して、真岡塚田銃砲店散弾銃強奪事件以後北海道に潜伏していた京浜安保共闘が東京に戻ることを援助し、両派幹部が「統一赤軍」を結成すべく話し合いを行った。
その結果、トロツキズムの世界同時武装革命の赤軍派と毛沢東主義の反米愛国一国革命論の京浜安保共闘は、互いに路線を譲りあい、赤軍派は毛沢東主義を再評価し、京浜安保共闘は「反米愛国」の路線をおろし、両派はそれぞれ得意わざの爆弾テロと銃による革命を統合して「連合赤軍」を創設することで基本的合意が成立した。
そして昭和四十七年一月三日、榛名山アジトで「銃による遊撃戦」を展開する新党を結成し、中央委員(C・C)として赤軍派から森恒夫、山田孝、坂東国男、京浜安保共闘から永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦の合計七人が選任された。
新党の構成員は赤軍派四人、京浜安保共闘十二人計十六人だった。
土田夫人小包爆弾事件のすぐ後、こんどはクリスマス景気にわく新宿伊勢丹デパートの前の四つ角にある四谷署追分交番で、午後七時頃クリスマス・ツリーに見せかけた爆弾が轟音を発して爆発、大野文治巡査長(57)は両脚をふき飛ばされ、胸や顔に破片をうけて重態、相勤者の石井繁巡査(21)も軽傷を負った。通行人十人も巻添えをくって負傷し、追分交番は木ッ端微塵に爆破され、付近のレストランや商店にも被害が及んだ。
そして、これらの爆弾テロの続発に激怒した佐藤栄作総理から後藤田長官にじきじき爆発物処理方法の改善の特命が下り、長官の「ちょっと君、欧米に行ってな」という先述の特命で、一月十六日から三週間、三島健二郎警視庁外事第一課長と二人で、私は米英独仏伊の五カ国を三週間で廻るという超特急出張となった。幸い首尾よく特命事項である爆発物処理技術とその装備を発見して、日本警察に導入し、それまで素手と勇気で爆発物処理にあたっていた機動隊に、「液体窒素冷却法(リクイッド・ナイトロージェン方式)」を伝授することになる。これは私にとって初めての科学技術開発調査のための海外出張となった。
日本を発つときには全く前途に成功の光明はなかったな、あの欧米出張は……。
“ヘレン・ケラー”ではないよ
私は化学の知識がないので、どうぞ余人にお命じ頂きたいと、二度、三度固辞したが、後藤田長官は科学警察研究所の技官が各国の治安当局者とその国の科学捜査技術にかかわる難しい交渉ができると思うかといって遂に押し切られた。
同行の三島健二郎警視庁外事第一課長(昭32組)は、ユーゴースラビア駐在官として海外勤務経験も持つ国際派で、かつて警察大学校初任幹部科の学生だった時私が教官だったという関係もあって、気心の知れたパートナーだから、まあよかった。
当時は全世界的に爆弾テロの嵐が吹きまくっていて、米国ではブラック・パンサー、英国ではIRAとアングリー・ブリゲード、西独ではバーダー・マインホフ一味、仏では反ドゴールのアクティオン・ディレクトールや極右テロリスト、伊ではネオ・ファシストが、それぞれ過激な反体制爆弾テロを次々と敢行していた。
この爆弾事件対策のための海外出張の第一の障害は警備局の庶務だった。内規と先例によれば二つの大陸にまたがる出張は不公平になるから認めない。アメリカか欧州のどっちか一つにしろという。
海外出張を「慰労」とか「現物給与」の一種と心得、年功序列とまわり持ちで名目的な出張理由をつけ、必ずお伴や出張先でのアテンドの手配をした上で、偉い人が出かけるという、“アンシャン・レジーム”は当時厳存していたのである。
私たち海外勤務経験をもつ国際派は、秘かにこういうお偉方の出張者たちのことを「ヘレン・ケラー」という隠語で呼んで連絡し合ったものである。「ヘレン・ケラー」とは、外国語が読めず、聞こえず、話せない三重苦の旅行者で、しかも日本語をしゃべるだけ厄介な存在という意味だ。こういう“アンシャン・レジーム”の出張ばかり手掛けてきた庶務には三島警視正と私の両大陸に跨がる出張がなんとも癪にさわると見えて渋い顔で一々文句をつける。
佐藤首相の直命だろうが土田警務部長夫人爆死事件が起ころうが、また機動隊爆発物処理班の命にかかわる問題だろうが、小役人たちには関係ない。
こんなイヤな思いをしてまで出張しても、果して成果を得られるかどうか、私は不安だった。一つには海の向うにも官僚たちがいるから自国の爆弾テロ対策の手の内を、見ず知らずの私たちにそう簡単に教えてくれるとは思われないし、二つには難解な科学知識が不足し、約束事になっている専門家たちの隠語が理解できないことから、甚だ心もとない旅立ちだったのである。
一月十六日、三島警視正と私は羽田を出発し、機内泊でアメリカに向った。時間節約のため三島課長はニューヨークの市警本部、国連本部、私はワシントンでFBIやシークレット・サービス、ワシントン市警本部と手分けして爆発物処理器材と技術の調査を行うこととした。
私は在ワシントン日本大使館の新田勇一等書記官(昭32組・警察駐在官)と共にFBI本部やワシントン市警察本部に日参を始めた。
今日も駄目か……
やっぱり日本出発前に懸念したとおりだった。かねてから各国の治安当局が一面識もない私たちに自国の爆発物処理技術や器材についての手の内をそう簡単に教えてくれるだろうか……というのが私の心配するところだった。
果せるかな、FBIを訪れても警視の課長補佐ぐらいの捜査官が丁重に応対し、熱心にこちらの窮状をきいてくれるが、いんぎんに事の困難性を述べたてて、|何処《どこ》に泊っているか、|何時《いつ》まで滞在しているかを訊ね、「もしも御滞在中にお返事出来なければ然るべきルートを通じて警察庁に回答致すでありましょう」といって会見を打切り、丁重にドアを開け、エレベーターまで見送ってくれる。
ワシントン市警察本部でも同じことだった。やたら丁寧だが、教えてくれる気が全然ないことは一目瞭然だった。
今日も駄目か。ワシントン滞在日程は限られている。やっぱりこの任務は断わり通すべきだったかな、初めから無理だったのだ。
もし手ぶらで帰国したらまわり中から白い眼で見られること必定だ。なにも私個人の功名手柄にならないだけではない。増加傾向の爆弾テロ事件に第一線の機動隊員たちは今後も|素面素小手《すめんすごて》で立ち向わなくてはならなくなる。
昭和四十三年(一九六八年)頃から爆弾テロ時代の幕があがった。前年は件数で十三件、押収した爆発物は二十個だったのが、昭和四十三年には十九件の二百七十一個(内七個爆発)と急増し、四十五年、四十六年は既に述べたように爆弾テロ時代に突入していたのにもかかわらず、土田警務部長夫人小包爆弾事件や新宿交番クリスマス・ツリー爆弾事件に及ぶまで政府は全く無為無策で、法律改正も制度改革も、予算措置も装備資器材の整備も、爆発物処理技術の研究開発も、何ら処置を講じようとしなかった。取締法規ときたら「爆発物取締罰則」、明治時代の太政官布告で、自由民権運動の志士たちが明治の元勲に対して爆裂弾を投げつけるのを取締っていた古典的法律(実は平成の現代でも同じでこの太政官布告で取締っている)。
欧米諸国のような「ボンブ・スクォッド(爆発物処理班)」も編成されていないし、手製爆発物処理の器材も技術もない。爆発物処理の危険手当に至っては一件百四十円という非常識な低額。
各省庁の危険手当を調べたら農林水産省の技手に二百十円というのがあった。何の手当だろうと調べてみると、なんと畜産試験場で種馬、種牛の種付けを担当する技手のための手当で、興奮した牛馬に蹴飛ばされる危険に対するものと判明した。
こと程左様に日本では治安行政の優先順位が低く、警察官の命は不当に|廉《やす》かったのである。
私は怒った。警察官の爆発物処理の危険手当の積算の基準は、きけば拳銃弾製造工場の薬莢に火薬をつめる作業の手当だという。冗談じゃない。まかり間違えば処理に当る警察官が木ッ端微塵に吹っ飛ばされてしまうかも知れない爆発物処理の危険手当が、農林水産省の畜産試験場の種牛、種馬係のそれより低いなんて、そんなバカな話があるか。
早速大蔵省を相手に「一件二千円」(それでも安すぎるとは思うが)にアップすることを交渉し始めたが、いわゆる「枝ぶり論」で各行政の経費の伸び率を公平にしようとする大蔵省にとっては、百四十円を一挙二千円などと約十五倍、伸び率でいえば一千五百%の増額なんてとんでもない話で、交渉は難航を極めた。
この二千円へのアップは一年後にようやく認められたが、その頃は爆弾事件は下火になっていたのである。
そんな情況で警備部機動隊の爆発物処理班は大変な危険に身を曝して任務を遂行していた。
警察行政の担当官としては土田警務部長夫人小包爆弾事件や新宿のクリスマス・ツリー爆弾事件などの再発を防ぐためにも、この種の偽装爆弾を見破り、安全に解体する技術と装備資器材を一日も早く調達する必要に迫られていた。第一線の処理班たちのためにもなんとかしてこの海外出張を実りあるものにしなければならない。
成果が得られないまま、限られた手持ち時間がいたずらに空費されてゆくワシントンの日々は焦燥の日々だった。
「フォロー・ミー」
焦燥と失望にさいなまれながら新田一等書記官と共にワシントン市警察本部ビルを出ようとした時だった。先程案内された爆発物処理班(ボンブ・スクォッド)で会った二人の刑事が私たちを待っていて、ヒュッと口笛を吹き、こっちへ来いと顎をしゃくり、手招きしている。何だろう? 新田書記官と顔を見合す。
上下色違いのジャケットにノウ・ネクタイ姿、一人は痩せて背が高く、もう一人は肥っていて背が低い。まるで当時人気のあったアメリカの喜劇俳優コンビの“アボット・コステロ”みたいな二人組だ。
そばに行ってみると二人は「フォロー・ミー」といって私たちを本部ビル裏側の大きな倉庫へと導いた。
倉庫の大きな鉄扉をガラガラと音を立てて開けると、中には後部荷台に円筒状の鉄製容器を載せ、ノズルのついたガスボンベのような容器を積んだガッシリした造りのトラックが駐車していた。ボディには「ワシントン市警」とペンキで書いてある。
“アボット・コステロ”君は「ヒア・ウイ・アー」といってうなずいてみせる。
私は新田書記官とまた顔を見合せた。何だろう? どういう事なのか、とっさにはのみこめない。キョトンとしていると、
「これがアンタたちが探してるものだよ」という。「……というと?」
「リクイッド・ナイトロージェンさ」
リクイッド・ナイトロージェン? リクイッドは「液体」、ナイトロージェンて何だっけ? 「わからない、説明してほしい」というと、“アボット・コステロ”肩をすくめ、
「あんたら、“ボンブ・スクォッド”(爆発物処理班)だろ? 凍らせるんだよ、爆発物を。リクイッド・ナイトロージェンをかけるとマイナス百五十四度にフリーズされる。
デイトネイター(起爆剤)のバッテリー(乾電池)もアシッドも火も皆眠っちゃうだろ? 爆発物をニュートラライズしておいて眠ってるうちに解体するんだ」
わかったッ。液体窒素だ!
これが秘中の秘、ワシントン市警の爆発物処理技術の奥の手なのだ。警視クラスの役人たちときたら、「野原に持っていってライフルで撃って爆発させる」とか「ダイナマイトで一緒に吹っ飛ばしてしまう」なんて、如何にもアメリカらしい荒っぽい処理法を教えてくれはしたが、やっぱり本当の事はヨソ者には隠していたんだ。
この“アボット・コステロ”は、私たちを日本の“ボンブ・スクォッド”だと思い国境を越えた警察官同士の独特の連帯感から上司に無断で私たちに現場を見せてくれたのだ。官僚主義の壁に阻まれて泣きべそをかきそうになっていた私たちに、現場主義者の立場から同情してくれたにちがいない。
「サンキュウ、写真撮っていいかな?」
「早くやれ、ひとが来ないうちに。オレたち昼メシに行くんだから早く早く」
私は感動した。だから現場第一主義がいいんだ。役人は世界中どこへ行っても同じだが、命がけの仕事をしてる者同士は国境を越えて助け合う。
震える手でカメラを構え、爆発物処理車や収納庫、ノズル付液体窒素ボンベなどを撮影しまくり、“アボット・コステロ”と握手をくり返し、心から感謝してワシントン市警本部を後にした。
つい先刻までお先真暗だったこの特別任務に成功の曙光が見えてきた。
あの二人の刑事たちの好意の協力がなかったなら、私たちは無明の闇をさまよい続けなければならなかったろう。
ニューヨークでニューヨーク市警察本部と国連本部の調査を担当した三島警視正とは、ワシントン・ダレス空港で合流し、その足でBOAC航空の夜間便に乗り、大西洋を機内泊で渡ることになった。
「開け、胡麻ッ」
三島警視正もニューヨークでは液体窒素のことは教えてもらえず仕舞だったが、新田書記官と私のワシントンでの成果を話すと大喜びし、勇気百倍、英独仏伊で米の成果の裏付けをとろうと張り切って英国へと向った。
英国ではスコットランドヤードから直ちに軍情報部に紹介され、ポーツマス軍港に近い旧英軍要塞に連れて行かれた。そこでは黒のタートルネックのセーターを着、腕まくりして太い腕をむき出しにした、まるで007映画に出てくるSAS(陸軍特殊部隊)の下士官そのままの二人の爆発物処理班の軍曹が待ち構えていた。
私たちを日本の爆発物処理班だと思い込んでいる英軍軍曹は、いろんな仕掛けの模擬爆発物を用意していて、「私たちはボンブ・スクォッドではない」との弁解もきかばこそ、小包爆弾やら時限装置付爆弾やらを爆発させないように解体してみろと迫る。
困り果てた私たちがやむなくペンチや鋏を使って入り組んだ複雑なリード線をカットするのを、舌なめずりし、掌をすり合わせて見守り、間違った線を切って模擬爆弾がボンと小さな音を立てて爆発したり、ライトがついたりすると大喜びで、「ユー・アー・デッドッ」と叫ぶのだ。「アメリカでは金属製の鋏は電気が通じて危いからセラミック製がいいときいたが?」
などといおうものならみるみる機嫌が悪くなり、
「そんな話、きいたことがねえや、ライト? ジョージ?」と同僚に声をかけ、相棒の黒タートルネックの“ジョージ”が「ライトッ」と深くうなずく。
私たちはこの教育訓練課程はほどほどに切り上げて本来の調査に入りたいのだが、軍曹さんたち、一定の訓練コースがすまないと釈放してくれない。私たちは閉口しながら英陸軍SASの爆発物処理技術の教育訓練を半日以上受訓する破目となった。
ようやく軍曹さんたちから解放されてロンドンに戻ると、北アイルランドのベルファストからわざわざ来てくれた英陸軍の野戦将校たちとのミーティングが待っていた。
最初の計画ではIRA(アイルランド共和国軍)の爆弾テロが続発している北アイルランドのベルファストに出張して、現地で現場を視察しながら爆発物処理技術と器材の調査研究をさせてほしいと申し入れていた。しかしベルファストは本当に連日市内で爆弾テロや銃撃戦が展開されていて甚だ危険であり、身の安全を保証できないとして断られ、その代り現場の英軍指揮官たちを招致してロンドンで会議が開かれる運びとなったのである。
真冬の午後四時頃となればロンドンはもう暗い。ベルファストで連日命がけの爆弾テロと戦っている英軍将校たちがドヤドヤ入室してくると、野戦迷彩服からは市街戦の硝煙の臭いが漂うような殺伐な雰囲気が部屋にたち籠める。
眼光鋭く、頬は削げ、殺気立った英軍SAS将校たちは、アイソトープを使った携帯用爆弾探知器「スニファー」(臭いを嗅ぐの意)を展示し、実験してみせてくれた。
そこで「リクイッド・ナイトロージェンのボンベは?」ときく。
これが効果抜群だった。アラビアン・ナイト物語の「アリババと四十人の盗賊」に、宝物庫を開ける「開け、胡麻ッ(オープン・セサミー)」という呪文が出てくるが、あれと同じで、「リクイッド・ナイトロージェン」という英語は、国際的ボンブ・スクォッド・クラブの扉を開かせる合い鍵、まさにキー・ワードだったのだ。
「貴官は知っているのか。オール・ライト、それでは液体窒素冷却法を説明しよう」……となり、これでアメリカで得た知識のバック・アップが英国でとれた。
アングロサクソンの米英両国が期せずして同じ手法を用いていることが明らかになった。
後で判ったことだが、元祖は英国のSASだった。アメリカの現場の刑事“アボット・コステロ”から液体窒素冷却法を学んだ私たちは、英国SASの孫弟子ということになる。
朝日と夕陽のヨーロッパ
米英での成功に意気軒昂、今や自信に満ちてドーヴァー海峡を飛び越えて西独のボンに向った私たちを、城内康光一等書記官が出迎えた。まったくドイツ流に時間単位で合理的で緻密な関係官庁のアポイントメントをギッシリ作って待っていた。そしていう。
「新田さんに皆できいたんですよ。パリの水町君もローマの森田君も連絡し合ってワシントンに『佐々・三島組は本気か?』って。
そしたら新田さんから『マジもマジ、血相変えて来たぞ。“ヘレン・ケラー”じゃないぞ』っていうから、それじゃあってんで娯楽・観光一切なし、仕事オンリーで日程、組みましたよ。文句はないでしょう?」と。
勿論、こちらも本気だから異存はない。
早速連邦刑事局(ブンデス・クリミナーレ・アムト)を訪れる。ここでも「開け、胡麻ッ」が利いた。
「リクイッド・ナイトロージェン」と呪文を唱えると、官僚主義の厚い扉はすぐ開き、いかにもゲルマン・チュートン族らしい発想の、合理的で首尾一貫した爆発物処理システムをしっかり教えてくれた。
米英のアングロサクソン流より進んでいたのは凍らせた爆発物を解体するためブンカー(地下壕)まであって、防弾ガラス越しに凍って眠っている爆発物を解体するマジック・ハンドまで見学させてくれたのである。
パリでは水町治一等書記官が内務省に案内してくれたが、どうもフランスは液体窒素冷却法は採用していなくて、「開け、胡麻ッ」の呪文は通用しなかった。
一番有効な器材は何かときくと、両手を出し「これだよ、人間の手ほど器用なものはない」という。冗談かと思ってみると、本気なのだ。そのあと爆発物歴史博物館に案内された。
そこにはナポレオン三世暗殺未遂に使われたという、ネズミに仕掛けた爆弾まで展示されていて、担当官はその干からびたネズミを手にとって「アミュザン?」ときく。水町書記官が「どうだ、面白いだろっていってますよ」と通訳する。
テロリスト対策も特殊工作班を編成して相手のアジトや事務所を爆破して歩けという、なんとも無茶苦茶な話で、なるほど狩猟民族の発想は凄じいものだと思い知らされた。いずれにせよフランスは参考にならなかった。
イタリアのローマに移ると、このラテン民族の特長はもっと顕著になった。
森田雄二・一等書記官が一生懸命アレンジしてくれたが、極左社会運動史の学者だというダゴスティーノ博士の座学が長く、ついでに昼食も食後の昼寝も長く、統計も不正確で技術的にも得るところがなかった。
一月十六日に羽田を発ってから三週間、欧米二大陸五カ国を飛び廻り、土曜、日曜を移動日に当て、娯楽も観光もなく、太平洋、大西洋を二夜、機内泊で飛び越え、言葉も制度も発想も異なる諸国の十指に余る治安機関を訪れ、朝日に照らされて官庁ビルに入り、夕陽を浴びてホテルへ戻る日々を、名づけて「朝日と夕陽のヨーロッパ」出張と呼んだものだ。二月五日(土)に南廻りの日航機で中東、インドを経由して二十数時間の機内泊で帰国の途についた。私たちの出張は成功だった。
体は疲れ切っていたが、精神は高揚していた。米英独三カ国で現に実施している液体窒素冷却法を学ぶことができ、車輛や器材なども撮影し、西独では親切にも亀の子の化学方程式まで教えてくれた。
後藤田流、人使いの法則
日航機内で私は三島警視正にいった。
「後藤田長官は仕事に厳しく、苛酷なまでに能率主義者だから、多分帰国早々七日の月曜には報告書を出せというだろう。機長は幸い知り合いの岩沙脩機長だから、事情を話してファースト・クラスのラウンジを借りて機中で二人が得た知識のつき合せをやって報告書をまとめてしまおうや」。そして徹夜で報告書の草案を羽田に着くまでに仕上げた。
言われる事がわかっているからには、言われない先に報告書を仕上げて、月曜日の朝一番にケロリとして提出して、長官の鼻をあかしてやらねばならない。
後藤田長官の人使いの荒さは定評がある。
ある日私は文句を言ったことがある。
「なぜロクでもない人をやたら誉めたりねぎらいの言葉をかけるのに、本当によく仕事をして役に立っている人を怖い顔で叱ってばかりいるんですか? 不公平じゃないですか」
すると後藤田長官はこう言った。
「ワシの人使いには三つの原則がある。明らかにワシより能力が上の者には何もいわん。明らかに劣っている者は叱ってもしようがないから誉めて使う。ワシと同等の能力ありと見たら徹底的に叱ってしごくんじゃ」と。
「それ、誉めてるんですか?」ときくと、
「そうだよ」とケロリとして答える。喜びかけているとさらにこう言う。
「ワシは徹底した能力主義じゃ。好きな奴でも出来ん奴は使わん。嫌いな奴でも出来る奴は使う」……。さぁまたわからなくなった。すると私は嫌われてるのかな……。
こういう上司には仕え方がある。叱られる前に先手を打って鼻をあかしてやることだ。
果せるかな、帰国すると「月曜日朝一番に長官室に出頭せよ」というメッセージが入っていた。「なッ、三島君、言ったとおりだろ? 仕方ない、時差ボケで辛いけど六日の日曜一日掛りで分担して草案を清書しようや」
二月七日の朝、警察庁長官室に三島警視正と共に出頭し、ぶ厚い報告書を示しながら出張結果を報告し終ったとたんに後藤田長官から、
「すぐ君たち、首相官邸に行き、佐藤(栄作)総理に直接報告せい。本件海外調査出張は佐藤総理の直命によるものだ。結果を早く知りたいといって待っておられるから、すぐ行け」と指示された。
佐藤総理には以前に個人的にお目にかかった事はあるが、公式に総理官邸で業務報告をするのはこれが初めてである。三島警視正にとっても恐らく初めての事だろう。二人は緊張して総理執務室に入った。
佐藤総理は大きな目を見開いて説明をきいていたが、
「ほんとに大丈夫なのか?」
とお訊ねだ。
「いや、まだテストしてみないと……」
「中東のレバノンとか、ベトナムのサイゴンとかでも爆弾事件が起きとるようだが、廻らなかったのかね、きっといい方法が他にもあるかも……」
どうも液体窒素冷却法に御不満のようだ。そんなことを|仰言《おつしや》っても総理、警察庁には海外出張を娯楽観光付きの有給休暇だと心得ている“アンシャン・レジーム”傾向が残存しておりまして、欧米二つの大陸を同時に訪れることさえ難色を示されまして、とても中東も東南アジアもと申すわけには……という空気なんでございます……と喉まで出かかるが、そんな事は言えない。
「アングロサクソンとゲルマンが実際にやっております最新の手法でありますので、きっとうまく行くと存じます」
と弁解する。
ついに堪忍袋の緒が切れて
総理官邸から戻って早速新技術の実用化のための関係局課会議を催したところ、技術屋さんたちと装備課から意外な抵抗が始まった。
化学方程式も読めない法学部出の警察官僚に爆発物処理の技術情報を持って帰られてすっかりメンツ丸潰れとなった科学警察研究所の爆発物専門の技官たちと、装備器材の研究開発と調達とは自分たちの仕事だと思っている装備課の面々が、意地になって反対のための反対を唱え始めたのだ。
「法学部出は、これだから困る。ニトロ系の爆発物は冷すと爆発力が大きくなるという化学の基礎を知らない。理論的に冷却法なんて成り立たない」のだという。
「爆発物本体をニュートラライズするのではないんです。起爆剤(デイトネイター)を眠らせ、眠っている間に解体するという発想なんです。プラクティカルなアングロサクソンと、理屈っぽいゲルマンとが両方とも実用化して現にベルファストなどで使っている液体窒素冷却法がダメである筈がないでしょう。実験してみましょうや」……というのが化学の知識は欠くが実践的な化学の利用法についてはプラグマティストである私たちの主張だった。
何日も不毛の言い争いをした揚句、人事院ビル内庭の人目につかない一角で、乾電池と豆電球をつけた模擬爆弾を、金属製容器に入れて液体窒素入りボンベとノズルを借りてきて実験してみた。
するとマイナス百五十四度まで冷却しなくてもマイナス十度ぐらいで乾電池は眠りはじめ、豆電球はしばらくまたたいていたが、やがて消えた。
実験成功!! 「ほら、効果あるじゃないですか」と私たちは勝ち誇る。
後藤田長官に報告すると、早速制式化をはかれというトップ・ダウンの命令が下った。
大喜び……しようと思ったら、
「しかし、ワシは記者会見で『佐々・三島組は任務失敗、手ぶらで帰ってきよった』というからな。処理器材が制式化して量産され、各都道府県警察に実戦配備になるまでは、新技術を見つけてきたということは極秘だ。敵を欺くにはまず味方を欺かねば……」
とのたまう。
それはないでしょう、三週間懸命に欧米を駆け廻って見つけてきたんですから……と心の中で抗議するものの、長官の言うことももっともなので泣き寝入りした。このため庁内でも「あいつら慰労出張で欧米旅行してきて手ぶらで帰ってきたそうだ」とか、蔭口をきく向きもあり、ある週刊誌の如きは「科学技術知識のない二人を派遣したのは税金の無駄使いで、本来は科捜研の技官を出張させるべきだった」という報道もみられ、三島警視正と私は命令を守って沈黙してはいても、全く納得できない心境だった。
(一年後新式の爆発物処理器材が制式化され、量産され、第一線配備となった時、全国県警本部長会議の席上で土金刑事局長より「この技術と装備を導入したのは、佐々・三島の二人である」と公表され、名誉回復がなされた)
頭の固い技官たちや装備課の先輩たちの全く感情的で不条理な反撥は続き、二月十八日の午後六時過ぎまで半蔵門会館で行われた会議でも烈しい言いあいが続いた。
ついに堪忍袋の緒を切らせた私は、列席の先輩上司に向って大暴言を吐いて会議に終止符を打った。
「こういう不毛の議論を続けている間にも第一線では機動隊員たちが素手で爆発物処理に当っているんです。もし新器材の開発がくだらない議論で遅れて殉職者が出たとき、装備課の方々、科警研の技官の方々、貴方たち、責任を負うんですか。負わないでしょうが。アンタたちは!! 責任を負ってやってるのは警備局なんだ、反対のための反対は、もうやめて頂きたい!!」……なんていったって私のいうのが正論だから諸先輩も誰も面と向って反論する者はおらず、会議は私どもの思ったような結論となったが、皆が「生意気な、後輩の分際で」と思ったことは間違いない。
だから私は中途半端な上司・先輩から憎まれるんだ。
だが、土田警務部長夫人爆死の悲惨な現場に臨場した私は、断じて官僚的な“不作為”の連帯無責任には与しない。
もしワシントン市警察本部でまさに“地獄に仏”の“アボット・コステロ”のような二人のボンブ・スクォッドの刑事がいなかったら、この液体窒素冷却法は導入できなかったかも知れない。国境を越えた現場の警察官の好意を、官僚的抵抗があろうが無にすることはできないのだ……。
[#改ページ]
心は重く、身は引き締まる思い
軽井沢に向う車のなかで知らず知らずのうちに長い長い回想に耽っていた私は、隣りで眠っていたはずの丸山参事官に声をかけられて、ハッと現実に戻った。
「いま、どの辺だい?」
「さあ、横川あたりでしょうかね」
外はまだ暗い。
国道17号線で熊谷、本庄、高崎ときて、高崎で国道18号線に乗り、東邦亜鉛安中精錬所をみながら松井田に達し、その辺で国鉄信越線の線路に並ぶ……はずだ。すでに百十四キロを走破して、あと軽井沢まで五十キロといったところか。
運転手さんに聞いてみると、「はい、もうじき横川です」とのこと。
国鉄の横川駅は右の一段上を走っていくから、国道18号からは見えない。冬のシーズン・オフの、しかもこの時間では灯も消えて静まり返っている横川名物の釜めし屋を左に見て進むと国道18号は右へ旧道、左へ碓氷バイパスと二つに分れる。
碓氷バイパスは昭和四十六年十一月十一日に完成した。碓氷川鉄橋を渡ると、いよいよ中山道最大の難所、碓氷峠にさしかかる。ここは海抜九百五十六メートル。日本海と太平洋の分水嶺である。
信越線の横川─軽井沢間は十一キロメートル。標高差は五百五十メートル。かつてはアプト式の電気機関車二台につなぎかえて列車を押上げていた。勾配は六六・七パーミル、つまり千メートルにつき六十六・七メートル高くなる。
碓氷峠も真っ直ぐ登れば前方の道路が見えないぐらいの急勾配になるから碓氷峠越えは右へ左へつづら折りにくねる日光いろは坂の長野県版になる。日光いろは坂は第一いろは坂で二十八カーブ、第二いろは坂で二十カーブだが、碓氷バイパスは五十カーブ。国道18号の碓氷峠となるとなんと百八十カーブ。真冬の真夜中のしかも路面が雪と氷で凍っていたら、こんな恐ろしい坂はない。
車は暁闇を衝いてひたすら、右に、左に、カーブを切りながら登ってゆく。やがて薄墨色の暁の空に突然|峨々《がが》たる妙義山の奇怪な山容が浮びあがった。
まるで天を指さす骸骨の三本の指のような不気味に尖った三つの山頂が、行く手に待ちかまえる不吉な運命を占っているような気がする。
三本の槍の鋭い穂先のような岳は、白雲山(標高千百三メートル)、中の岳(金洞山千百四メートル)、金鶏山(八百五十六メートル)と名づけられている。それまでは山蔭になって見えなかった妙義山が車窓の左前方に、左横に、左後方に車がカーブを曲るたびに揺れて移動する。
「不気味な山ですな、参事官、妙義山をこんな時間にこんな角度からみるなんて、恐らく最初で最後でしょうな」
「そうだねえ、ときにいま何時だろう?」
室内灯を点け、腕時計をみると六時前だ。
「もうじき日の出です。今朝はたしか日の出は六時三分です」
一応出発前に調べておいたのだが、妙義山の山頂の色が少し黄土色に輝きはじめ、暗黒の空の裾にかすかなブルーと淡いオレンジ色の帯がひろがり始めた。素晴らしい。人生に何度かしか見られない暁の山頂の御来光だ。これがレジャーの旅なら感動的な日の出なんだろうな。
だが行手に待ち構えているのは過去三年近くの間、軽井沢「あさま山荘」までの遠く、長い道を次々と凶悪な犯罪を犯し、多くの人を|殺《あや》め、傷つけ、転々と血痕を残して逃げ登ってきた狂信的な殺人集団なのだと思うと、心は重く、身は引き締まる思いだ。
東大安田講堂に籠城していたあの学生たちとは本質的にちがう連中なのだ。
空は次第に太陽が昇るにつれ、眩しい茜色と薄水色と群青色の三層に綺麗に染めわけられてゆく。外気温は多分零下十度位だろう。
軽井沢町に入ると道路の両側には白雪が深々とつもり、唐松、えぞ松などの針葉樹は樹氷や白い綿帽子をかぶって静まり返っている。
軽井沢署到着
二月二十日朝七時頃、車は軽井沢警察署に着いた。三時間半のドライブだった。
軽井沢署は国道18号線の北側にある木造二階建ての一見村役場風の古い建物で、狭い車寄せは、パトカーや警備輸送車などがギッシリ駐車している。すでに各隊現着しているらしい。
太陽はすでに高く昇り、頭上には快晴の青空がひろがる、爽やかで寒気厳しい冬の朝だ。
車を降りると暖房で暖まっていた体がキュッと引き締まる。ギシギシ、サクサク、約三十センチの積雪をふみしめながら玄関に向う。
附近には白で「9」とマークを描いた警視庁の二月十九日の当番隊、第九機動隊の投石や火炎ビン除けの金網を窓に張った紺色の大型輸送車や砲塔から斜めに放水銃を突き出した高圧放水車などの重車輛がディーゼル・エンジンをアイドリングさせながら駐車している。
紺色の出動服に白マフラーをつけた機動隊員があたりを往き交う。私の顔を見覚えているのか、挙手の敬礼を送ってくるのもいる。第二次反安保警備以来の古参隊員なのだろう。軽井沢署の|公廨《こうかい》(一階の事務室)はかつて勤務した警視庁目黒警察署を彷彿とさせる。
ギシギシ軋むようなすり減った木の床に、昔懐しいダルマ石炭ストーブが|燻《くすぶ》っていた。
署長室には眩しい朝の陽光が窓から燦々とさしこんでいる。
署長室には野中庸長野県警本部長、山内源七警備部長、唐木田秘書課長、柳沢警備第一課長、北原警備第二課長ら、県警の幹部が詰めている。関東管区警察局の口俊長公安部長、警察庁菊岡平八郎理事官、大久保伊勢男第九機動隊長らの顔も見える。
丸山参事官と野中本部長は旧知の仲だ。
早速警備会議といきたいところだが、腹が減っては戦さはできない。まず腹ごしらえだ。
朝食は丼飯に同じくドンブリ一杯の味噌汁に沢庵。
みんな揃って湯気にむせながら熱い味噌汁を啜りこみ、炊きたての米飯を食べる。空腹は最高の調味料だ。とても美味しい。
あたりの壁を見廻すと、断然ユニークなのは歴代署長の顔写真とか掛け札式の署員名簿のパネル、柔剣道大会の優勝旗やトロフィーなどの月並なものに混じって、軽井沢署管内に別荘をもつ政・官・財・言論界など各界各層の警護対象となるVIPたちの別荘一覧表のパネルが署長室の壁に掲げられていたことだ。
いかにも軽井沢署らしい。内閣総理大臣の名前もある。いまは冬場だからよかったが、この事件が夏に起きていたらそこら中VIPだらけで警察署は大変だったろう。
では早速現場をふもうということになり、特派幕僚団は数台の乗用車に分乗して、柳沢・北原両課長の案内でまず第一現場の「さつき山荘」そして「あさま山荘」へと向う。
軽井沢署を出て国道18号線を右折(碓氷峠からだと左折)して和美峠の方向にのぼってゆく。
レイクニュータウンのある|発地《ほつち》の東と北には軽井沢72ゴルフ場のコースがひろがっている。レイクニュータウン別荘地管理事務所のところにある入口から入り、南下すると「レマン湖」というスイス観光地になぞらえたネイミングの小さな湖がある。
標高千百八メートルの押立山を左に見ながら坂をのぼってゆくと、起伏する山の中腹に南軽井沢最大の新開発別荘地、レイクニュータウンの別荘群が一望できる。
「さつき山荘」には自動五連12口径散弾銃二挺、上下二連二挺、単発一挺の計五挺の銃、それに鉄パイプ爆弾一個が遺留されていた。
近くに地元では通称「若草山」とよんでいる小山があり、そこで警視庁から応援派遣された警察犬アルフ号がダイナマイト三本、雷管、導火線、資料多数、そして30口径ライフル弾四発、毛布九枚が雪中に埋められていたのを嗅ぎあて、掘り出すという功績をあげた。警察犬はすでに五頭警視庁から派遣されていた。
警備実施担当の柳沢警備第一課長が現場で説明する。
「連合赤軍の一味が坂をかけあがってあさま山荘に入る前に、機動隊の放った一弾がそのうちの一人にたしかに命中したようです。飛び上って倒れたといいます。犯人は四人とみられ、そのうちの一人はまちがいなく手負いです」
問題の「あさま山荘」、軽井沢町大字発地字牛道五一四の一八一、別荘番号七二八号は、鉄筋コンクリート三階建て、河合楽器の保養所である。標高は千百六十九・二メートル、かなり高地で寒気は厳しく、夜間は零下十五度となる。すぐ近くにNHK山荘、警視庁山荘がある。柳沢課長が大楯を構えながら説明する。
「この辺りで県機の永瀬隊員がバルコニーからのライフルの狙撃をうけて負傷しました。摘出された弾丸から彼らの所持しているライフルは22口径と判明しました」
それはよかった。30口径ライフルだとヘルメットも大楯も軽々と貫通してしまう。
雪と氷に閉ざされた「あさま山荘」の北側急斜面の下から見上げたときの第一印象は、
「こりゃあ昭和の“千早城”だな」
ということだった。雪におおわれた三十度ぐらいの勾配の谷側斜面は、雑木もほとんどなく、約二キロぐらい広々と視界が開けている。
装甲警備車を登攀させることはおろか、完全装備の機動隊員が大楯をかざして登ってゆくことさえ極めて難しい。登っても登っても辷り落ちてきてしまうだろう。
その斜面の上に空高く三階建ての「あさま山荘」がまさに“千早城”のようにそそりたっている。下から見上げると、四層の城砦だ。南北朝時代の武将楠木正成が河内で旗揚げし、金剛山の上に築いた「千早城」という山砦で押し寄せる幕府の足利尊氏の大軍をさんざんに悩まし、遂に千早城を守り抜いたのは有名な故事だ。
「あさま山荘」はまさに天然の要害で、攻めるに難く、守るに易い地勢になっている。
四層の一番下は崖にはり出した山荘を支える太いコンクリート柱によるピロティ。一階と二階は赤褐色の壁に囲まれたロビーや台所、応接室、客室となっていて、三階、下から見ると四階はきのこの傘のように二階以下よりは大きく前後左右に張り出した白壁の客間で、崖側に張り出した眺望台式のベランダがある。
南側は道路と三階が同じレベルで、玄関は道路から手摺りのついた石段を数メートル下って、さらに七、八メートル進んだところにある。
それが一階の入口になるわけで、山側のNHKテレビなどで中継されたのは七、八メートルの地隙をへだてた三階の部分である。
南側から攻めるのも建物にじかに警備車なりクレーン車なりをつけることができないから、肉弾戦の白兵戦になってしまう。
なんでこんな天然の要害を、偶然とはいえ、えらんで立て籠ったのだろう。
第一現場の「さつき山荘」だったら攻めやすかったのにと、愚痴の一つもこぼしたくなる。
あさま山荘は不気味に静まり返っていた。
山荘包囲の部隊は警視庁機動隊の応援約二百人をふくむ三百八十八人。
トランジスター・メガホンを使って機動隊広報班員が籠城している連合赤軍に向って説得広報を続けている。
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
「山荘にいる諸君に告げる。君たちは完全に包囲されている。のがれることはできない。これ以上罪を重ねることはやめなさい。管理人の奥さんは全く関係ない人だ。早く返しなさい。君達の仲間はすでに逮捕された。君達も抵抗をやめて出てきなさい。君達の家族や友人もみんな心配している。むだな抵抗はやめて出てきなさい」
応答は全くない。
突然、三階東側の窓から発砲した。
バンッ。
銃声は静寂な山々に響いて、峰から谷へ、まるで西部劇映画アラン・ラッド主演の「シェーン」でみた一場面のようにエコーする。
腕時計をみると、午後二時六分。それっきり二十日は発砲してこなかった。
持久戦の方針決定
午後二時三十分、東京からヘリコプターで富田警備局長、斉藤一郎参事官、長田光義警視の三人が現場視察に飛来した。再び「あさま山荘」の現場に赴いて柳沢課長が富田局長らに状況説明をする。
このあと記者会見に臨んだ富田局長は、
「焦って人質に万一のことがあってはならないので、持久戦もやむを得ない。人質の救出が第一なので時間がかかっても犯人説得に全力をあげる」と、持久戦の方針をうちだした。
軽井沢署二階の会議室で、長野県警、警察庁、関東管区警察局、警視庁の合同警備会議が開かれた。野中県警本部長が警備本部長、丸山参事官が派遣幕僚団長、私は警備実施(作戦指揮の警察用語)、警備広報、ならびに総括の特別幕僚長に任命された。
「警備局長より持久戦の方針が示されたが、まず『あさま山荘』に対して兵糧攻めは利くかどうか、管理人の牟田郁夫さんにきいた食糧、燃料などの備蓄状況を報告して下さい」
と私が会議を仕切る。県警の警備情報と公安捜査担当の北原警備第二課長が説明する。
「牟田管理人の話ですと、米二十五キロ、プロパンガスのボンベ大四本、二十日分。灯油二百五十リットル、食糧としては米のほかに缶詰十個、味噌、醤油、マーガリン相当量、ビール二十本、酒一合瓶三十本、ウイスキー二本、梅酒二升、カカオフィズ半瓶、それに今日、六人の宿泊客が予定されてましたので、紅鱒、鳥の腿、おでん六人前、野菜六人前。水は町水道ですがタップリあります」
「いかんな、それは。牟田泰子さんをいれて五人としても十日や二十日は楽に持つから兵糧攻めはダメだね。時間がかかりそうだな」と、一同顔を見合せる。
「電話は? ラインは通じているのか?」
「通じてます。電話は(〇二六七四)二局四一九一と一〇三〇番ですが、かけてもベルは鳴ってるんですが誰も応答しません」
「電話はかけ続けろよ。犯人が電話に出たら牟田泰子さんは無事か、無事ならその証拠に電話口に出せというんだよ」
「武器、弾薬はどうだ」
と丸山参事官。
「真岡塚田銃砲店で奪った十一挺のうち、『さつき山荘』に置いて逃げた五挺が回収されていますので、最大であと六挺、弾薬は奪われたのが二千八百発、いままで撃ったのがせいぜい百発ですからまだタップリあると思います。若草山で鉄パイプ爆弾一発を押収しましたが、かなり強力な爆弾でして、直径四・九センチ、長さ五・八センチ、重量三百二十四グラム。両端をゴム粘土で詰め、導火線は四・五センチ、なかのダイナマイトは七十二グラム、上下に八号散弾五十四グラム。鉄パイプの肉厚は二・二ミリ、点火後二、三秒で爆発します。鉄パイプには縦六筋、横五筋の刻み目があり、三十二片に割れて散弾粒五十四グラムの鉛玉と一緒に飛散します。殺傷力は大と判断されます」
県警の鑑識結果についての吉沢刑事部長の報告である。
明治公園爆弾事件の|凶々《まがまが》しい記憶が甦る。「あさま山荘」の連合赤軍犯人たちも鉄パイプ爆弾をまだ持っているだろうし、持っていれば機動隊員を殺すつもりで投げてくるにちがいない。その覚悟で作戦計画をたてなくてはいけない。
「後方支援の関係はどうですか。宿舎は? 警備食は? 通信は?」
「食事は三業者から朝・昼各九百食、味噌汁九百食、牛乳五百本、調達します。宿泊施設は軽井沢スケート・センターの水を抜いてリンクに寝袋で寝られるようにしたほか、他の五施設、あわせて五百九十六人分確保しました。特別派遣幕僚のみなさんは、県警共済組合の寮『高原ホテル』に宿泊して頂きます。通信については電電公社に加入電話の早期百回線増設を手配中です」
こんな具合に、緻密な警備会議が続き、この日は暮れた。
目に見えない最強の敵は、標高千メートルを超える南軽井沢レイクニュータウン一帯の寒さだった。日が沈むとたちまち気温は零下十五度となる。
「高原ホテル」に案内されてみると、それはネイミングのよさとおよそかけはなれた、ひなびた県警職員宿舎で、夏季の避暑用施設だから寒いのなんの。灯油ストーブや電気ストーブのような暖房器具などあるわけなく、風呂場も数人用の小さな浴槽に凍え切った数十人の本部要員が芋を洗うように混浴するから、皆が出たあとはお湯は膝の高さぐらいしかない。布団も夏用の薄いもので、丸山参事官と私は四畳半ぐらいの相部屋で一つ夜具に震えながら、お互いの体温で暖めあいつつ|同衾《どうきん》するという有様だった。
一番驚いたのは湯上りの濡れたタオルが二階の部屋に戻るまでの間にピンと凍ってこわばってしまったこと。深夜、明け方お構いなしにかけてくる取材記者たちの取材電話、それも警視庁七社会のキャップ級の大物記者の強引な取材とあっては、公人の身として断るわけにいかず、やっと凍えた体が暖まったかと思うと呼び出され、やっと眠ったかと思うと起こされる。そうやって不機嫌な気分で夜具にもぐりこもうとしたら、丸山参事官の寝息が布団の口元のところで霜になり、白く凍りついていたことにも一驚した。室内でも気温は零下であることの証拠だ。
こうして「あさま山荘」事件に派遣された現場指揮幕僚団の一日は終った。
君、それ湯呑み茶碗だよ
明けて二月二十一日は、月曜日。
外は快晴だが、寒さは相変らず厳しい。
明け方まで取材の記者たちに粘られて寝不足となった目には、朝日が眩しい。
午前七時。建てつけの悪い襖や障子をガタピシあけたてし、廊下をミシミシいわせながら、丸山参事官以下幕僚団の面々が朝食会場に指定された大広間に集ってくる。
野中|庸《いさお》長野県警本部長も「高原ホテル」備え付けのドテラをワイシャツ、ネクタイの上に寒さ凌ぎに羽織って坐っている。
私たちの宿舎となった「高原ホテル」とは、北佐久郡軽井沢町釜の沢一〇〇七ノ二九番地所在の木造二階建て、和室九、洋間七、計十六室、収容定員四十二人のハイカラなネイミングにはそぐわない古い県警共済組合の保養所である。夏の保養所だから暖房器具はない。
管理人は中村春繁さん、トシ子さんという、みるからに親切そうな中年の夫婦だ。
野中本部長は、京大法学部卒、昭和二十年高文(高等文官試験、昭和二十二年までの国家公務員上級試験のこと)内務省入省組。
上背があってガッシリした体格。角顔。眼鏡の奥から意志の強そうな眸がひとの顔を真っ直ぐみつめてくる寡黙な人物だ。顔は東大安田講堂事件のタフ・ネゴシエイターだった加藤一郎学長代行に似ている。かねて面識はあるが一緒に仕事したことはないので、その将器ぶりは未知数である。
朝食は米飯に生卵、味噌汁に野沢菜漬といった質素な献立だ。
私は黙々と箸を動かす主将、野中本部長を秘かに観察する。一体どんな人物なのだろう。ことの成否はこの人の采配のふり方如何にかかっている。私は総括兼警備実施兼広報担当の特別派遣幕僚長としてこの本部長に対する補佐に誤りなきを期するためには、速やかに彼の人柄を知る必要がある。だが、まあいいや、極限状況下で二十四時間共に過す現場では、人間関係が濃密だから、下からみていると上の人の全人格は二、三日で丸見えになってしまう。
「従卒の目に英雄なし」とはよくいったものだ。あらゆる点で優れた理想の上司なんてこの世には存在しない。司令官の長所、短所を早くのみこむことが幕僚の大切な心得だ。
丸山参事官はその隣りでユニークな生卵の食べ方をしている。みんなが御飯の上に生卵をかけてかきまぜ、かっこんでいる中で、丸山参事官は卵を注意深く二つに割った上で、まるで化学実験でもやるような手つきで黄身を左右の殻に丹念に移しかえ、白身をあらかた小鉢にこぼしてしまう。それから卵の黄身を御飯にのせてかきまぜ、醤油をたらして食べはじめるのだ。ほう、珍しい食べ方だ。私も早速真似してみる。なるほど、白身がうんと入ると白っぽくなってブクブク泡がたってヌルヌルした御飯になるが、このやり方だと白御飯の醤油味黄身まぶしとなってなかなか美味である。
丸山|《こう》警視監は地方出身者が多い警察幹部の中では珍しい東京ッ子。昭和十九年東大法学部卒、高文合格内務省入省、戦争中は海防艦に乗り組み船団護送の任にあたった元海軍少尉で「短現(短期現役の主計中尉のこと)で海軍にいった連中とちがってボクは兵科の将校だったんだ。アメリカの潜水艦一隻撃沈という戦果をあげたんだ」とよくいっていた。
私の何代か前の警視庁外事課長で、戦後最大のソ連スパイ事件である「ラストボロフ事件」を手がけた外事警察の大先輩である。長身でスマート、明るく親切でそのネアカな人柄は後輩や部下から親しまれていた。丸顔で目の大きいハンサムなナイス・ミドルで、ソフト帽が似合う数少ない警察官僚の一人だ。
後年防衛庁事務次官で役人人生を終えることとなるが、外柔内剛、柔和な容貌のかげに、いうべきことは上司に向って直言する気骨を秘めた、見かけによらない図太い神経の持ち主である。
これまでもしばしば私たち後輩に気前よく奢ってくれたよき先輩で、私とは特に馬があう。
沈思黙考型で、重厚、剛直な感じの野中県警本部長とこの円転滑脱で頭の回転の早い陽気な丸山幕僚団長とはいいコンビだ。関東管区警察局を代表するのは、口俊長公安部長(昭和20・高文・内務省入省)だ。
温和なバランス感覚に富む警察幹部で、なかなかのアイディアマン。後日作戦会議で土のうの構築など積極的な提案をすることになる。広報担当の警察庁警備局調査課の菊岡平八郎理事官が旺盛な食欲を発揮している。
「記者たちが待っているから早くいかなくちゃ」なんて呟きながら何回も御飯をお代りしている。
よく食べる奴だ。だが待てよ、どこかおかしい。よくみると彼、御飯茶碗は卓上に伏せたままにしてお湯呑みにせっせと御飯をよそっては食べている。思わず笑ってしまう。
「菊岡君、それ湯呑み茶碗だぜ」と注意すると、「あッ、そうでした」頭をかく。
無理もない、事件発生以来、夜を徹して軽井沢に急行し、何百人といううるさい報道陣を相手にまる二日間眠っていなくて“マイナス頭”になっているのだから。
重苦しい雰囲気だった朝食の席に、時ならぬ哄笑がわき起こる。大いに結構。警備指揮幕僚団が青筋立てていがみ合い、笑いを忘れたとき、それこそ警備本部の危機なのだ。
午前八時。軽井沢署署長室で出席者を限定した最高警備方針会議が野中本部長を中心に催された。
吉江利彦軽井沢署長は細かい気配りをして、ストーブで部屋を暖め、みんなに熱いお茶をすすめるなど、精一杯、私たち遠来の助ッ人をもてなそうと一生懸命だ。
自署の管内で発生した事件に強い責任を感じ応援に心から感謝していることが明らかで、いかにも実直朴訥な警察署長である。
警備実施担当幕僚長として、私が後藤田長官直筆のメモを片手に、この警備の基本方針について警察庁の考え方を披露する。
「まず第一に、人質、牟田泰子さんを救出することが本警備の最大の目的です。次はいままでのところ犯人側からは何の要求も出されていませんが、無法な要求には絶対に応じないこととします。特に長官は人質交換の要求には一切応じるなと強く言っておられます。政・財界の要人、警察幹部との交換は絶対に拒否すること。警察官や民間人で身代り志願者が名乗りでても一切認めないこと。獄中の同志の釈放要求にも一切応じない。それから銃器の使用は警察庁長官指揮事項とします。とくに射程が長く殺傷力の強いライフルについては長官許可とします」
そう説明すると反論が出た。
「それはどうでしょうか。警察官の身が危ないというときも一々長官に指揮伺いするんですか。我々は『さつき山荘』で正当な警察職務執行として拳銃を使用しましたが、警察庁はあれをどうお考えなんですか」
地元を代表して北原警備第二課長が質問する。
「『さつき山荘』の拳銃使用は私は正当だと思います。いま申し上げているのは人質の生命の安全を第一にということで『あさま山荘事件』での銃器使用のことをいっているんです。『さつき山荘』の時は人質はいなかったのですから」
と私が答える。正直言うと、私も拳銃使用積極派だ。警察庁長官室でも後藤田長官や富田警備局長の慎重論には高級官僚の国会対策最優先の考え方をかぎとって「銃器使用は現場指揮官判断に委ねて欲しい」と主張した。
だが、一度、決定が下ったら従うのが警察官の義務だ。私見はおさえて警察庁の方針を説明する。
「正当防衛、緊急避難はどうですか」
「長官はそこまで言っていません」
「では犯人らが銃を乱射しながら強行突破しようと突撃してきたときはどうですか」
「その場合は『やむを得ない場合』に当るから彼らを阻止するための拳銃使用は認めるという方針で如何ですか。但し人質を楯にしている場合は別命あるまでは発砲を差控えるということでどうです。そんな場合は県警本部長指揮で拳銃使用すべきでしょう」
野中本部長の顔をみると野中本部長は、黙ってうなずく。
警備会議はさらに続き、救援対策弁護団との接見要求や包囲網を解けといった要求、あるいはすでに押収した武器弾薬の返還要求も原則拒否、牟田泰子さんを釈放するという条件での逃走用ヘリや自動車の準備は交渉に応じる。まだ起訴になっていない最近捕まった連合赤軍兵士と泰子さんの交換は柔軟に応ずるなど「NO、BUT」交渉の原則に則って無法な要求には「NO」、人質救出につながる可能性のある譲歩可能な要求には柔軟に「BUT」で行こうということが決った。
さらにいずれの場合でも、
(1)交渉責任者をちゃんと決め、それ以外の人は勝手な受け答えをしない。
(2)要求が出されたら昼夜を問わず最優先情報として県警本部長に速報すること。
(3)必ず人質が生きていることを証明させること(電話口に出せ、ベランダに姿を見せろと言う)。
(4)深夜犯人らが強行脱出を試みたときの緊急信号は照明弾二発の打ち上げとする。
など、「あさま山荘」警備の基本方針を固めた。
なお長野県公安委員会は、すでに警察法第六〇条一項の規定により、要員、装備、資器材の応援派遣を国家公安委員会、東京都、山梨県及び神奈川県の各公安委員会に対して要請済みだったが、さらに京都府を加えることも決定した。
以上のような基本方針を決める戦略会議については、後藤田長官の指示事項はすんなりと受け入れられ、特命派遣幕僚として、私は一つ肩の荷をおろした気持ちがした。
牟田さんは生きているか
次の大きな検討事項は、「牟田泰子さんは生きているのか」「犯人たちは一体何人なのか」ということだった。
二月十九日の時点で三階北向きベランダで犯人たちがバリケードを構築し始めた時、ネッカチーフをかぶった人物の姿が包囲した長野県警機動隊員によって目撃された、との報告がある。
人質にされた牟田泰子さんがバリケード作りを手伝うわけがない。多分縛られてどこか一室に監禁されているのだろう。
そうなると犯人たちの中に赤軍の女兵士がいるのか。それとも単に防寒のため牟田さんのネッカチーフをかぶった男性なのか。
妙義山で逮捕された森、永田がペアだったこと、あるいは軽井沢駅で逮捕された植垣、青砥が寺林、伊藤と組んでアベックを装って逃走していたことからみて、「あさま山荘」に立て籠った連合赤軍の中に女性が混じっていることは十分に考えられる。
そして犯人グループは一体何人なのか。四人なのか、五人なのか。そのうち一人は長野県機動隊員の放った拳銃弾で負傷しているはずと長野県警側は主張するが、それならなぜ医師の派遣を要求してこないのか。
警備会議の結果、
(1)牟田泰子さんが生存しているかどうかを確認する。
(2)犯人の数の確認と面割りを行う。
(3)武器の種類と弾薬保有量を確かめる。
ことなどを目的に、
特型警備車を山荘に接近させ、強行偵察を行う。
高性能隠しマイクを山荘内に投入し、会話などを傍受する集音作業を行う。
強行偵察に対して窓を開けて発砲する犯人の面割り写真を撮影する。
犯人側を挑発して発砲させ、武器の種類を確認し、ジュラルミン大楯、ヘルメットなどの耐弾性をテストし、犯人側の弾薬をなるべく消耗させる。
ことなどを決定した。
長野“民族主義”の台頭
議題が地元長野県警と警視庁応援部隊の任務分担、指揮系統といった具体的な戦術会議に移行したとたんに、警備会議の空気はにわかに緊張し、激しい言い合いが始まった。
警備戦略会議は「おとな」の会議で、極めてスムースに進行したが、戦術会議に移行したとたんに、かねてから憂慮していたとおり“長野民族主義”が頭をもたげ、長野県警側が「警視庁の応援は無用です。防弾車や放水車を貸してもらえばすべて我々でやります」と強硬に言い始めたのだ。
野中長野県警本部長は腕組みしたまま黙ってやりとりをきいている。
県警の山内源七警備部長の立場は微妙だ。山内警備部長は「推せん組」とよばれる警察庁人事で全国廻りをするノン・キャリアの幹部で、“民族派”を抑え切るのは無理だ。
“民族派”の総帥は北原警備第二課長のようで、原機動隊長も同調する。吉沢刑事部長は黙っている。柳沢警備第一課長や唐木田秘書課長はもっと柔軟な考え方のようだ。
なんとか折り合いをつけさせようと私が調停を試みる。
「その独立自尊のプライドと気概は壮とするも、そうつっぱらないで警視庁の応援を受けたらどうですか。装備や車だけ借りてやるっていうけど、特車隊と徒歩隊の連繋動作も慣れていないと難しいし、放水車の扱いだって長野県警は初めてでしょう。あの第二次反安保闘争時代でも長野では火炎ビン事件はなかったでしょう。警視庁は約五年間、鉄パイプ、ゲバ棒、投石に始まって火炎ビン、鉄パイプ爆弾、と何千回と経験して今日に至っているんです。だから……」
「では局付、お訊ねしますが、警視庁機動隊は銃撃戦の経験、ありますか?」
と北原警備第二課長。私は、
「銃撃戦の経験はないけど……」
と鼻白む。
「そうでしょう。それだったら長野と同じじゃないですか。しかも我々は『さつき山荘』で撃ち合いをやったんだ。一日の長があるんです」
と北原課長が言い張る。
どう説明したら“民族派”にわかってもらえるのか、私はイライラした。柔道とか野球とかなら、すぐ勝負がついて力の差がたちどころにお互いにわかる。
だが、警備実施とか危機管理とかは、書道、茶道、詩吟などと同様、技量の上の者は下の者の技量の程度がすぐわかるが、未熟な者には上の者の技量の高さは測れないものだ。
夜を徹してはるばる東京から応援にきた警視庁の幹部たちにとって、こんなことを言われて愉快であるはずがない。国松広報課長も石川警備部付警視正も大久保第九機動隊長もみんな黙りこくっている。
法律論でいえば指揮命令権はあくまで長野県警本部長にある。警察庁派遣幕僚である私は、調整や助言はできるが、県警に対する指揮権がないことはいうまでもない。警視庁の面々も助ッ人にすぎない。野中本部長の顔を見るが、本部長は黙っている。
まあ仕方がない。なるべく県警をたててやってみるほかない。
宮城音弥教授の来訪
軽井沢駅で植垣ら四人の連合赤軍兵士らを挙動不審とみて警察に通報して彼らの検挙のきっかけをつくってくれた、駅の売店のT・Sという小母さんの身に危険が迫った。
心ないマスコミがこの小母さんの住所と実名を新聞に書いてしまい、関西赤軍派を名乗る過激派から脅迫電話や脅迫状が舞い込むという騒ぎになった。
ただちに署員五人を小母さんの家に配置して身辺警戒にあたらせる。協力者保護は大切だ。
二十一日早朝から行われていた「さつき山荘」の実況見分の結果、現場から九十四個の指紋が採取された。そのうちの一つ、便所で採取した指紋が、吉野雅邦のそれと一致した。
午後二時過ぎ、人質牟田泰子さんの夫、郁夫さんが激励の手紙と共にバナナ、リンゴ、みかんを盛った果物籠を差入れたいと言い出した。問題は、誰が届けるかである。
「オレが届ける」と大久保伊勢男警視庁第九機隊長がこの危険な任務を買って出る。
ヘルメットを脱ぎ、拳銃|帯革《たいかく》をはずして丸腰になった大久保隊長は、
「牟田さん、御主人からの差入れの果物です。赤軍派の諸君、撃つんじゃないよ。ちゃんと受け取って泰子さんに渡しなさい」
と大声で呼ばわって、白樺を模造したコンクリートの手摺りのある凍てついた階段を降り、山荘の玄関に手紙入り果物籠を置き、悠然と引き返す。無謀に近い大胆さである。
幸い山荘内の犯人たちの発砲はなかった。息をひそめて見守っていた私たちはほっとする。果物籠は夜になってもそのままで、山荘正面の崖の上に設置された五百ワットのクセノン大型投光機の光の輪に照らし出されて放置されていた。
午後二時頃、突然警察庁からの通報で「警備心理学研究会」の先生方を急派するから籠城事件処理のために心理学的な指導を受けよ、との指令がきた。宮城音弥東京工大名誉教授、島田一男聖心女子大教授、町田欣一警視庁科学捜査研究所技官の三人だ。高橋幹夫警察庁次長の|肝煎《きもいり》で出来た研究会で、暴動の際の群集心理や人質事件の被害者の心理分析など警察業務にかかわる心理学的研究を行い、警備局などに助言を行う目的で設立された。
午後三時四十八分、一行は警視庁のヘリコプター「はやぶさ」で軽井沢署近くの臨時ヘリポートに降り立った。
早速現場を視察したいと諸先生がいわれるので、山荘東側の第一地点と命名された地点へ。山荘から狙撃されないよう死角を選んで案内する。
見渡すかぎりの山も谷も白雪におおわれ、ところどころ雑木が枯木のように林立し、唐松、えぞ松などの針葉樹が白い綿帽子をかぶって立っている。空気が綺麗だから東京の煤煙に汚れた黒い雪と違って、白砂糖のようにサラサラして真っ白だ。滑らないよう一歩一歩踏みしめながら歩くと足元でキシキシと雪がきしむ。零下何度なのだろう。手の指先、足の爪先は凍えて痛い。吐く息が白くたなびき、意地悪な谷風に耳は千切れそうだ。風に吹かれた目から涙がとめどなく流れ、鼻と喉の奥はマラソンのときみたいに熱く乾く。
上を見上げるとぬけるように青い空が果てしなくひろがっている。「蒼穹」という言葉はこういう空をいうのだろうか。地上の人間たちのことなど全く無関心な空だ。「あさま山荘」事件の警備が成功しようが失敗しようが、この澄んだ青空はいつでも青空であり続けるのだろう……。
ちょっと感傷的になってしまう。
第一地点から約百メートル先にそそり立つ「あさま山荘」を、警備心理学の諸先生に警備車のかげから見てもらう。現場では広報車の脇で機動隊の広報主任の巡査部長がハンドマイクを握りしめ、懸命の説得活動を続けていた。
「山荘内の諸君に告げる。君達に人質にされている奥さんはふだんから体が弱いので、御主人や両親、家族の人たちは大変心配している。はるばる九州からかけつけている人もいる。君達が関係のない奥さんを人質にしていることを知り、大変嘆き悲しんでいる。これ以上関係のない奥さんを苦しめることをやめて、一刻も早く家族のもとへ返してやりなさい」(広報案第八案、原文のまま)
突然、諸先生の一人の町田技官が口を挟む。「あッ、今の言葉はまずい。犯人を刺激する。あッ、またいった。ダメダメ、もう言ってはいけない言葉を十もいった。私が心理学的に分析していい広報案文を作ってあげるから、これまでの広報文、全部まとめて私に渡しなさい」
極寒の雪の中で凍えそうになりながら懸命の説得広報を続けていた若い巡査部長は、いきなりハチャメチャに批判されたものだから、口惜しそうに唇をかんで沈黙する。
高橋幹夫警察庁次長のお声がかりできたものだから、町田技官、いいとこ見せようと張り切りすぎだ。
|流石《さすが》に心理学の泰斗、宮城・島田両先生は口出ししない。何だい、町田技官、私は知ってるんだよ、貴方の専門は筆跡鑑定じゃないか。現場代表として一発かましてやろう。
「ここは最前線の現場ですよ。いままでの広報文渡せったってそんなこと不可能ですよ。みんな一生懸命やってんだから。そうだ、あとから心理学的に分析してもらったって役に立ちゃしない。それより先生、その言ってはいけないとやらの言葉を避けて、心理学的に効果のある模範的な広報を、一つお手本としてやってみせて下さい。おい、広報主任。ハンドマイクを町田先生にお渡ししろ。先生が手本を示して下さるから」
町田技官は手を振って「いやいや、私は直接広報をやるわけじゃない。広報案文の心理学的分析のお手伝いに来ただけで……」
「そうでしょう、では現場は現場にお任せ下さい」
とキッパリと告げる。
広報主任の巡査部長君は、わが意を得たりとばかり私の顔を見て、諸先生には隠れて私に向かってニッコリ笑う。
軽井沢署に戻ってから先生たちの助言を幹部一同で承る。
「現状では心理学的には連合赤軍側が有利で、警察側が逆に追いつめられている。疲労を避け、交代で休息することが大切。隊員が十分情報を知らされておらず、インフォメイション・ハングリーとなってイライラしている。情報をこまめに全隊員に伝達せよ。人間は四十時間眠らないとまいってくる。明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らさないようにせよ。山荘が静まり返っているのはよい兆候でない。人質の身の安全が心配」
要約すると宮城・島田両先生の御意見はこういうことだった。そのあとは町田技官が「島田先生は何チャンネルに、宮城先生は何チャンネル、今日の現場視察結果についてテレビ出演、お願いします」とマネージャー役をやっている。なんだい、テレビ出演のための取材だったのかい。警備本部の幹部は一様にいやな顔をしている。“心理学的に”まずいんでないの、町田技官。皆の前でテレビ出演の段どりつけるのは。丸山参事官が珍しく怒り、東京の富田警備局長にみんなが聞いているところで抗議の電話をかけている。現場は忙しいんだからアカデミックな心理学の分析や、テレビ出演のための取材の協力はできないという趣旨の文句をつけている。みんなそうだ、そうだといった顔つきで丸山参事官の抗議電話をうなずきながら聞いている。
この心理学騒動の間に、西沢権一郎長野県知事が陣中見舞いのため来署された由。多量の煙草とあめだまの差入れがあった。
犯人の親たち
牟田泰子さんの実父、毛利計雄さんが来署された。「早く突入して泰子を助け出してほしい」という強い申し入れだ。「警察は万難を排して泰子さんを救出しますから、どうかお任せ下さい」というと、かなり激昂して「あんたらは命が惜しいのかッ」と面罵された。私も疲れていたからついムッとして、あやうく怒鳴り返すところだったが辛うじて自制する。
午後四時三十五分、警視庁のヘリコプターで吉野雅邦の母親淑子さん(51)と坂口弘の母親菊枝さん(58)が到着、薄暗くなった午後五時頃、山荘近くの警備車から呼びかけを行う。
「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。これではあんたのいっていた救世主どころじゃないじゃないの。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。こうなった以上、ふつうの凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出てきて。それがほんとの勇気なのよ」(吉野淑子さん)
「牟田さんの奥さん、申し訳ありません。奥さんを返してください。代りが欲しいなら私がいきますから」(坂口菊江さん)
寒風吹きすさぶ零下十数度の雪地獄からマイクをシッカリ握りしめて涙にむせびながら切々と訴える二人の母親の呼びかけは、峰に谷に展開して、耳を澄まし静まり返って聞いていた、何百という機動隊と報道陣の心を打った。はじめは「まあちゃん」なんていう甘い母親の呼びかけに、「大学生をまあちゃんだなんて、そんな具合に甘やかすからああいう息子になるんだ」などと舌打ちしながら聞いていた私たちだったが、約三十分に及ぶ涙の訴えを聞いているうちに子を思う母親の愛情の深さに打たれて黙りこくってしまった。広報班の機動隊員も思わずもらい泣きの涙があふれてきて記録ができなかったという。
しかし山荘は暗闇の中で|寂《せき》として静まり返り、不気味な沈黙を守っている。
この日の配備は防弾チョッキ着用の第一線配備二百五十六人、第二線配備二百九十八人、警備本部百五人など、千百六十八人。
夜になってから気温は急速に下がり、零下十六度。ひとまわり第一線を巡視すると隊員たちは風よけの雪のかまくらを造り、筵や炭俵を雪の上に敷き、足踏みしている。凍傷にかからないよう手を出動服の下に差し入れ、足踏みして警戒に当っている。防寒靴が必要だ。
給食が大問題になりつつある。かつて数年に及ぶ警視庁機動隊の警備において未だ経験したことのないトラブルが発生している。
なんと弁当が現地に配達された頃にはカチンカチンに凍って文字通り歯が立たないのだ。
地元の御好意の炊き出しで、よかれと思って準備し配給したカレーライスが、安食堂のガラス・ウインドウに展示されている蝋細工の見本みたいに凍りついていたという。
これでは食べられないと回収されたカレーライスは、こんどは一度温めて溶かしてからカレーお握りにして再配分したが、これまた黄色い氷の玉になっていたという。警視庁からキッチン・カーを派遣させて山上の隊員たちに温食給与を行い、一杯のお湯を飲ませることが喫緊の課題だ。本部に戻り、早速防寒靴とキッチン・カーの手配をする。
「あさま山荘事件」の起きた昭和四十七年(一九七二年)という年は札幌冬季オリンピックのあった年だ。つい二週間ほど前の二月六日には七十メートル級ジャンプで笠谷幸生選手が金メダル、金野昭次選手が銀、青地清二選手が銅と、史上初の金・銀・銅メダル独占の快挙を遂げ、日本中は「日の丸飛行隊」の大勝利に沸きたっていた。
しかし、私たちが欲しかったのは金メダルではなくて、冬季オリンピック警備に従事した北海道警が使ったと伝えられる電熱コイル入り防寒靴だった。早速警察庁に革ジャンパー防寒衣三百着と、電熱防寒靴三百足の保管転換手続きをとってくれるよう申し入れる。
余談だが、この要請を受けて防寒衣や防寒靴をダンボール箱に詰めて発送する作業を指揮した北海道警察本部警備調査官が、前長野県警本部長、松彬彦氏その人である。
母親の訴えに発砲
二月二十二日(火曜日)も快晴だった。昨晩も朝日の梅村鏡次記者に午前四時まで粘られたのでまた寝不足だ。まだ暖房器具が整わないので室内温度が零下三度。濡れタオルは掛けたままの姿で凍ってつっぱりかえっている。
まだ灯油ストーブも入らないので、またも寝息が口元の毛布で氷になっている。
午前九時二十三分、吉野淑子さんと坂口菊江さんを乗せた特型警備車が山荘玄関前約十メートルまで接近し、犯人らに対する説得を再開した。吉野さんが訴える。
「きのうニクソンが中国にいったのよ。社会は変ったのです。銃をすてて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。警察は出てきたら絶対撃たないといってます。早く出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか……」
坂口さんも「十時に電話するから奥さんの声だけでも聞かせておくれ。奥さんをベランダに出して家族の皆さんに姿を見せてあげておくれ」
と呼びかける。
折から二月二十一日ニクソン米大統領が北京を訪れ、毛沢東と会談し、歴史的な米中国交正常化が実現した直後だった。
「あさま山荘」を取り巻く千百人の警察部隊や千二百人の報道陣は固唾をのんで犯人側の応答を聞こうと耳を澄ましている。すると突然、一発の銃声が静寂を破った。
“ダーンッ”
ライフルだ。奴ら、ものも言わずに発砲しやがった。乾いた銃声は谺となってシャーン、シャーンと峰に谷に響き渡る。
このひとでなしめ。泣いて訴えている母親に向かって発砲するとは何ていう奴らだ。と、また続けて一発。
“バン”
このこもったような短い銃声は、多分銃身を切りちぢめた上下二連散弾銃だろう。
弾は、山荘玄関前約十メートルに接近した二人の母親を乗せた特型警備車に命中した。
母親たちの必死の訴えに対する息子たちの、あまりに非情な答えだった。
あーあ、こいつら実の母親に向かって撃つのかい。
そういう奴らかい。じゃあ機動隊に向かっても本気で殺す気で撃ってくるに違いない。
それにしてもなぜ何も言わないんだ。アジ演説もぶたない、電話が通じているのに何の要求もしてこない。ただ不気味に沈黙していて、答えは銃声のみ。
もしかして、牟田泰子さんはすでにこの世の人ではないのではないか、という不吉な予感が頭をよぎる。出会いがしらにもののはずみで殺害してしまって、自暴自棄になっているのでは? だから電話口にも出せないし、ベランダに姿も見せないのか。いや、まてよ、中にいるのは吉野、坂口ではないのではないか。連合赤軍の七人のC・C(中央委員)のうち森恒夫と永田洋子は捕まったが、まだ坂東国男、山田孝、寺岡恒一は捕まっていない。
やはり強行偵察をくり返して面割り写真をとり、犯人を特定した上で肉親を連れてこないと見当違いをやっているのかもしれない。
牟田さんは生きているのだろうか。生きていれば、有利な交渉材料として、ベランダに連れ出して、まだ生きている証拠を見せた上で逃走用の車やヘリを要求するという反応があっていいはずだ。
この不気味な沈黙は一体何なんだろう。
何か鬼気迫るものを覚え、背筋に冷たいものが走る。
モップル社、来訪
この日の午前九時二十分、軽井沢署に「救援連絡センター・モップル社」と名乗る四人が訪れ、連名の申入れ書を野中県警本部長に提出し、面談を求めた。
「何だい、モップル社ってえのは?」
「来訪者は次の四人です。浅田光輝。大正七年生れ、立正大教授、反党学生運動をやって代々木から除名処分を受けた人。二人目は丸山照雄。昭和七年生れ、モップル赤軍派、山梨、身延山久遠寺住職。三人目は東大原子核研究所助教授の水戸巌。東大卒、昭和八年生れ、反代々木・反党グループ。もう一人は、木村荘。昭和十三年生れ、信大卒、二十三期司法修習生出身の弁護士。以上です」
「それで?」
「木村弁護士がリーダー格のようで『事態は極めて切迫している。連合赤軍犯人と救援又は弁護活動を通じてかかわりをもつ私達は事態の好転を期待し、直接彼らと会って話したい。人命にかかわることだから貴職は私たちの希望を入れて頂きたい』ということのようです。検討の上回答すると言っときました。また後でくるそうですが、断りましょう」
「本部長を会わせるわけにはいかんが、私が会おう。来たら通しなさい」
と指示する。
お昼過ぎ、再度来訪したモップル社代表は署長室に入ってくるなり極左過激派救援対策センターの弁護団特有の挑戦的な口調で「折角私たちが話合いで事態の平和的解決をはかるため連合赤軍の諸君に会わせて欲しいと申し入れたのに、警察当局はそれを拒否するんですか」と切り出した。
「いえいえ、そんなことありませんよ、誰も断ると言ってませんよ。わざわざ遠路お出で頂いて誠に御苦労さまです。どうぞ説得して下さい」
相撲の手でいえば肩透し、はたきこみという奴だ。彼らは当然官僚的に拒否されることを期待していたにちがいない。拒否されたらすぐ記者クラブにいって「平和的解決に協力しようと思ったのに拒否された。警察は連合赤軍の同志たちを射殺しようとしている」とぶちあげるつもりだったのだろう。どうぞどうぞといわれてモップル社代表たちは、明らかに意表を衝かれて動揺した。
「ほんとにいいんですか?」
「どうぞ。おーい、広報班。先生方を山荘に御案内しろ。トラメガ(電気拡声器)をお貸ししろ」
モップル社の先生方はみんな顔を見合わせてモジモジしている。
「但し、条件がありますよ。一つ、身の安全については自己責任の原則。二つ、対話にあたっては通謀にわたることはしないこと。三つ、現場の警察官の指示に従うこと。以上三点については確認書、ほら、貴方たち東大事件のときもよく書面の確認書要求したでしょう、あれですよ。確認書を書面で署名捺印して提出して下さい」
「あのう、彼らは我々に向かっても撃つでしょうか」
「そりゃあ撃ちますとも。実の親に向かって発砲する手合いですからね。ではどうぞ気を付けていってらっしゃい」
彼らはヒソヒソ相談したあげく、
「私どもの一存ではどうも……東京の本部と相談してから返事します」
と言って早々に退散した。
後刻「確認書は出せない。無条件で会わせてほしい」と再度申し入れがあったが、それではダメだと断ると、記者クラブで自分たちに都合のいいことばかりいって警察批判の記者会見をやり、軽井沢町の「美登里荘」に宿泊して連合赤軍支援の宣伝活動を開始した。
彼らが附近住民や野次馬に配ったビラには「連合赤軍銃撃戦断固支持。山狩警官ピストルで射殺を企む。威嚇でなくて本当だ。警視庁から狙撃班五十人を集めた」とあった。
このモップル社代表の一人、身延山久遠寺住職、丸山照雄氏について後日調べてみると、彼は身延山久遠寺の支院である麓坊という宿坊の住職であった。そして同姓同名の人物がのちにオウム真理教批判の宗教評論家として活躍していた。
野次馬の数が次第にふくれあがり、警備上の大きな問題になり始めた。
レイクニュータウン別荘地帯の入口で交通遮断して上には行かせないよう規制してはいたが、違法駐車は三千台を超え、なんとか監視の目をくぐって「あさま山荘」を一目みたい、写真を撮りたいと|犇《ひし》めいている野次馬の数は数千人にふくれあがった。車のナンバーは長野だけでなく、山梨、東京、神奈川、群馬。野次馬たちは至るところから見物に押しかけてきていることを物語っている。この寒いのにミニスカートの女性もいる。なかには天体望遠鏡をかついでいるものまでいる有様。屋台が立ち並んでいて、焼芋をほおばっている野次馬もいる。
そして二十一日の夜、午後七時二十五分頃には第二地点のバリケードを乗り越えて立入禁止区域に侵入した男を軽犯罪法違反で検挙した。取調べの結果、この男は新潟市西堀通り六ノ八八七 スナック喫茶経営者 田中保彦(昭16・8・17生、30歳)と判明。「人質の身代りになるためにきた」と供述したので、今後二度とこのような行為を行わないよう説得して、午後十一時二十分釈放した。
後から思えば、そのまま四十八時間軽犯罪法違反で身柄を拘束しておけばよかったのだ。なまじ留置場に入れることもないだろうと微罪処分で釈放した情が仇となって、野次馬の民間人から死者を出すという悲劇に発展したのである。
「民間人一人、撃たれましたッ!!」
突然、思いもよらない至急報が軽井沢署の警備本部に飛び込んできた。
午前十一時四十分、「犯人説得のためといって山荘に接近した民間人が撃たれましたッ。男は昨夜の男と同一人物ッ」と無線モニターががなっている。
野中本部長以下幹部は顔色を変え、一斉に顔を見合わせる。どうして? 一般人は立入禁止で数キロ前から検問所、阻止線を設けて警戒している筈で、白昼そんなことが起こるわけがない。
報告によると、正午前後山荘の北側斜面の視界がひらけた雪と氷のスロープを、日野市から来た島田勝之(29)という画家と、SBC桂富夫(37)記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとして発見され、取り押さえられた。
だがその騒ぎのすきを縫って昨夜の男、田中保彦さんが北側斜面をよじ登り、山荘西側を廻って南側玄関に到達した。そして前日大久保九機隊長が玄関前に置いた果物籠を取り上げ、玄関のドアを半開きにして内部に向かって呼びかけていたらしい。そこを山荘内から狙撃され、玄関前に倒れたと言う。
しまったッ。これは夕刊で一斉に警備の手落ちと叩かれること必定だ。私が扱おう。
「山内君、いこうッ」
私は長野県警警備部長に声をかけ、軽井沢署を飛び出して、パトカーに乗ってサイレンを鳴らしながら現場へ急行する。
署の前やレイクニュータウンの入口付近に何百人と|蝟集《いしゆう》する野次馬が興奮してどよめき、「何かあったらしい」と叫びあい、なかには私たちに向けてカメラを構えシャッターを切るのもいる。
カーブの多い登り坂の雪道をスリップしながら登りつめ、山荘から約百メートル離れた崖側の死角に設置された最前線指揮所に乗りつける。
「どうなった!!」
「男は山荘玄関のところに倒れたままです。いま救出のための決死隊を編成中です。ロープをかけて引き摺りあげるしかありません。あッ、局付、いま立ち上がったそうです。階段をのぼろうとしている模様!!」
山荘から狙撃されないよう死角を選んで正面玄関前に接近すると、黒っぽいオーバーを着たズングリした大男が、雪に凍りついた階段を白樺風の手摺りにすがりながら這い上がってくるのが見えた。
機動隊員数名が走り寄ってジュラルミンの大楯で防護する。顔面蒼白、豊頬、百八十センチくらいの肥った巨漢で、ボサボサ髪の頭を右手で撫でながら自力で歩いてくる。
駆け寄って「おい、大丈夫か!!」と声をかけると「ああ痛え、オレか? オレは大丈夫だ」と呟く。
「担架だ、担架前へ。頭撃たれたのか、どれ、ちょっと見せてみろ」
といって、私はその巨漢にちょっとかがませて後頭部をみてみると右側に大きな瘤ができて血が滲んでいる。
よかった。固い頭蓋骨にあたって弾がそれたんだ。救急隊員が路上に担架をひろげる。
「歩いちゃダメだ、ここに寝ろ」「ここへ寝るんか?」
そう言いながら巨漢は右を下にして横になった。ちょっと反応が鈍い。脳震盪を起こしている模様で意識もうろうとしている。と、むっくり体を起こした男は「こっち側、下にすると痛えよ」といって寝返りを打つ。ああ、これなら大丈夫だ。
そう判断した私は携帯無線機UW4のボタンを押し、「局付から本部。現着(現場到着)し被害者救出。後頭部に大きな瘤。意識あり、歩いて自力脱出。生命に別状なし」――とやってしまった。
救急車はサイレンを鳴らして一路軽井沢病院へと山を走り下りてゆく。これにて一件落着。あとは原因を究明して直ちに再発防止措置を講ずることが大切だ。
ところが、驚いたことに男の怪我は擦過傷どころではなかった。軽井沢病院でレントゲン写真を撮ったところ、なんと八ミリ×一センチの38口径拳銃の弾が右耳後数センチのところで盲管銃創となって脳内に留まっていて重態とのこと。なんで? さっきひとりで歩いてちゃんと話もしたのに。患者はただちに開頭手術のため佐久病院に移送され、弾の|剔出《てきしゆつ》手術を受けたが、田中さんは帰らぬ人となった。
これで犯人らが38口径の拳銃も持っていることがわかった。
身元調査の結果、田中さんは麻薬取締法違反などで何回も警察に厄介になったことのある薬物中毒者と判明。動機については本人が死亡したのでついにわからず終いだった。幸い記者クラブは、この事件ではあまり騒がなかった。
「県機二人、撃たれました!!」
田中保彦さんを救出して警備本部に戻った私は、前日に引続き野中本部長の“御前会議”の形で今後の警備実施についての長野県警と警視庁との任務分担、役割分担をめぐる“民族派”の頑強な拒否反応をなだめるべく、手を代え品を代え説得に努めた。
「強行偵察はやはり慣れた警視庁に任せた方がいいと思います。それから面割り写真撮影についてですが、動きの早い警備写真の撮影は何万枚もの現場写真を撮った実績のある警視庁警備一課の現場採証班にやらせるのがいいでしょう。
それから通信ですが、聞いてるとどうも全県共通波の三十メガ帯の通信系で『あさま山荘』警備もやっておられるようだが、本格的なドンパチが始まると、とても共通系の一波だけでは混信してどうにもなりませんよ。
警視庁は警備専用の百五十メガ帯の通信系を第一波と第二波とふた|波《なみ》もってます。だから一系統丸ごと基地局から中継基地局、無人中継局、リモコン受信機から個人用受令器まで、そっくり一セット警視庁から借りて、それに山岳地帯で不感地帯だらけのようだから、無人中継基地を沢山設置する、これは通信局からきた東野技官にお願いしたらいい。
通信系統図がまだ出来てないようですね、各級警備本部の有線、無線通信は『発』と『受』をハッキリ分けておくこと。さもないと命令を下そうとする指揮命令の発信電話機に、情報報告が入ってみたり、補給関係が混信したりするから電話機は発受及び任務分担を明示しておくことです。
また心理学の先生が言ってたように、休養が大切。本部長は午前一時から四時まで眠って下さい。その時間帯、丸山参事官に起き番お願いします。食う、寝るところに住むところ、そういうロジスティックス、しっかりつめましょう」
と私。ところが地元は素直じゃない。
「局付、お言葉返しますけど、こんな重大な時に、なんで睡眠時間の割り当てだの、弁当のこと、最高警備会議で一々細かくやるんですか。そんな小さなことは下に任しておいたらいいんです。不眠不休、寝食を忘れて火の玉のようになってやるべき時でしょう。
強行偵察は警視庁にやらせるなんてとんでもない。我々長野県機動隊がやります。
通信もこれまで全県共通波のパトカー・メガでうまくやってきたし、いざとなれば長野県警にだって経験をつんだ通信|宰領《さいりよう》官がいるので、優先通話方式で捌きますから警視庁の警備波なんていりません。
写真にしてもそうです。少し長野県警を過小評価してるんじゃありませんか。ウチには関東管区内警察写真コンクールで優勝した鑑識課のカメラマンがいるんですよ」
“民族派”総帥の北原警備第二課長が青筋立てて、口角泡をとばして反論する。
「関東管区写真コンクールで優勝したとは知らなかった。それは失礼しました。しかし強行偵察の重車輛の運用、とくに放水はやったことのない長野県機だけではムリと思いますよ……」
激論を交している最中、至急報が入った。
「県管機隊員二人が撃たれました!!」
野中本部長ら首脳部は愕然として、顔を見合わせる。いま現在、部隊には行動命令は一切出ていないので全隊待機中のはず。なんで撃たれた?
「どうしたんだ」
と本部長。
「長野県管機(管区機動隊)が特型警備車使って山荘に接近したところを撃たれました」
丸山参事官が、
「誰もそんな命令、出しておらんぞ。本部長、貴方の指示ですか?」
「いや、私は命令してない。さっきからここでみんなと会議してたじゃないか」
「じゃあ誰が命令したんだ。山内警備部長、君か? なに、してない? 旧軍だったら命令なしで勝手に部隊行動起こして負傷者が出たりしたら軍律違反で、軍法会議ものだよ。命令もなしに勝手なことをやるんじゃないよ」
温厚な丸山参事官が顔を真っ赤にして怒っている。“民族派”の北原課長や原隊長も、さすがに軍隊経験があるだけあって事の重大性はよくわかっているとみえて、悄然としている。
きけば鑑識班員三人が、長野県警の写真器材が不足で、超望遠レンズの装備がないことから、山荘の銃眼から一瞬のぞく銃口の写真を撮影することが難しいと思った。そこで長野県警から差し出した関東管区機動隊員(長野県機動隊は一個小隊三十五人。県警本部長の指揮下にある。これとは別に関東管区機動隊に一個小隊長野県警が要員を拠出している。指揮は関東管区警察局長がとる)一個分隊がそばにいたので、特型警備車をちょっと出してくれないかと頼んだのだという。特型警備車を楯に山荘に肉迫し、銃眼を撮影しようというわけだ。
気軽な気持ちで低速で特型警備車を山荘に接近させ、車体に隠れて道路を東側第一地点から徒歩で前進した。ところが特型警備車と徒歩隊員の連繋動作というのは彼らが思ったより難しく、車と隊員の歩調が合わず、また凍った道路に足を滑らした隊員がいたこともあって、徒歩隊員が銃眼に対して露出したところを狙撃されたのだ。
三村哲司分隊長(巡査部長・30)は散弾銃にこめたボール・ベアリング弾で右膝貫通銃創をうけて倒れた。特型警備車はそうとは知らずに玄関前に前進して停止する。
野晒しになって倒れている分隊長を救おうとした隊員に向かって第二発目が発射され、小林定雄隊員(22)が首筋に盲管銃創を受けて倒れる。
小林隊員に当った弾は22口径ロング・ライフル弾で、弾は頸骨にも頸動静脈にも神経にも当らず、軟かい部分にめりこんでいて、奇跡的に殉職を免れたが、口もきけない重傷だと言う。
この事件は、任務分担と指揮系統をめぐる“民族派”の主張に痛撃を与える結果となった。しばし激論が交されたのち、野中本部長の決断で、以後強行偵察など山荘周辺における警備実施は一切警視庁機動隊に任せるという決定が下された。
後藤田長官の叱責
きっとくるぞ、くるんじゃないか……と思っていたら、やっぱりきた。後藤田警察庁長官から厳しい叱責の電話がかかってきたのだ。
それもまた、私宛だ。私を名指しで電話口に出るよう言っていると言う。野中本部長か丸山参事官を叱ればいいのに、私の方が言いやすいのだろう。東大安田城攻めの時と同じだ。秦野総監か下稲葉警備部長にいえばいいのにと思うのに、私にいって来たっけ。
「本部と第一線の指揮命令系統がシッカリしとらんのとちがうか? 焦るな、キミはせっかちだからあかん。ゆっくりやれ、と言うたろう? 人質だけでなく警察官の命も大事にせなあかんがな。油断があるぞ。ああいう隊員の負傷(三村・小林の件)はあかん。それに田中保彦、いう人。同じ人物に二回も警戒線を突破されるとはなっとらんぞ。本部長にキミからようく言うとけ。後藤田が怒っとったとな。それから本部長に深夜第一線を激励巡視せよと言うとけ」
電話口で「私の責任じゃありません。長野県警の“民族派”がいけないんです」なんて責任回避するわけにはいかない。
叱責は一身に受けるが、こんな軍律違反は二度と許してはならない。
前にも述べたように、私の任務は後藤田警察庁長官、高橋同次長、富田警備局長の新案特許、複数都道府県にまたがる広域犯罪取締りのための初の日本版FBI警備官である。
上層部のこの新機軸は四半世紀早すぎた。だから親元の警察庁警備局も納得していないし、まして地方の県警本部は当然反発し、白眼をむく。
もともと私は我慢強い方ではない。それを我慢に我慢を重ね、なるべく地元長野をたてるようたてるよう努めてきたつもりだった。もう忍耐も限界だ。怒りがこみあげてくる。
私はプライドの高い長野県警の反感を買うことは覚悟の上で、大声で怒鳴った。指揮官は人気稼業ではない。
「連合赤軍に対してこちらはオール警察軍で取り組んでいるんだ。私がいままで言ってきたことの意味が今日こそわかっただろう。私たちは人質の命はもとより何百という警察官の命を預かっているんだ。以後つまらん我を張って出さなくてもいい犠牲者を出したら、それこそ容赦せず懲戒処分にするぞ。
怪我をした三村、小林両君は誠に気の毒で二人に罪はないが、県警警備部の幹部の責任は大きい。私が後藤田長官から指揮権を与えられ、警察法第六〇条で正式に派遣された警備実施指揮幕僚長であることを忘れないように。以後私の了解なしに部隊を動かしたものは本部長に申し上げて即刻解任する」
私はここ数日事ごとに私に逆らっていた“民族派”の県警幹部をねめ廻して語気鋭く申し渡した。
みんな悄然としてうなだれている。野中本部長も丸山参事官も私を信任してくれているとみえ、沈黙していることによって私に「ネガティヴ・コンセンサス」を与え、私を支持してくれた。
この騒ぎの最中「アカハタ」の記者が私に会いたいといっていると、国松広報課長と菊岡理事官がいってきた。「アカハタ」本社、社会部大衆運動係の佐藤博明記者と名乗っているそうだ。なんだろう? モップル社の面々は反代々木派で連合赤軍のシンパだが、“代々木”(共産党本部のこと)は何を言いたいのだろう?
私は会見に応じた。佐藤記者に「どんな御用です?」ときくと、ちょっとあたりをうかがって声をひそめ、とんでもないことを言いだした。
「連合赤軍派の要求として日本共産党の不破書記長、松本善明議員のどちらかを身代りに連れてくれば人質を返すと言ったという話があるそうですが、その真偽のほどはどうですか? また本当だとしたら警察当局の方針はどうなんですか? 本部から確認して欲しいと言われてきたんです」
さては反代々木派の誰か、人の悪いのがいて、日本共産党へのイヤガラセにそんなガセ情報を流してるんだな。
「そんな話、聞いたこともありません。事実ではないです。かりに政界の誰かとの人質身代り交換の要求があったとしても、警察の方針はそういう無法な要求には一切応じないということですから、心配は無用です」
佐藤記者は納得して帰ってゆく。
大事件にはいつでもこの種のデマがつきものなのだ。
アルフ号との対面
二十二日午後警視庁関沢刑事部長から電話があった。
「必要なら十五頭まで警察犬を派遣する用意がある。警察庁や警視庁の上層部でいろいろ議論したが、警察犬が撃たれてもやむを得ない。警察官が殉職するよりましだ。警視庁の警察犬は銃を持っている犯人に噛みつくよう訓練してある。山荘の中に入れて犯人に噛みつかせろ。警察庁も同意しているから」とのこと。
そうだ、警察犬をみておこう。そう思い立った私は山荘西側の第二地点附近で待機している数頭のシェパードを連れた警視庁鑑識課の横山哲警部と天野重夫巡査部長に会いに行く。見事なシェパードたちがきちんとお坐りしている。そのうちの一頭が名高い名犬、アルフ・フォン・ムトウハイム号(雄・六歳)だ。
私は以前、このアルフ号を見たことがある。昭和四十六年栃木県真岡市の塚田銃砲店強盗事件が起きたとき、赤羽で京浜安保共闘の横浜国大生、尾崎康夫逮捕に大功をあげた警察犬アルフ号の表彰式がこの二月十七日午後、警視庁三階の刑事部長室で行われた。私も招かれて出席した。
目を輝かし、耳をたて、舌をたらしたアルフ号は、関沢刑事部長から首に銀メダルをかけてもらって、いきいきとまわりの立会人を見廻しながらキチンとお坐りしている。|流石《さすが》だ。
私はアルフ号の脇にアルフ号よりもっと嬉しそうな顔をして立会っている訓練係の天野重夫巡査部長に「アルフ号、わかってるんですか、ほめられてるってことが」ときく。
「そうです。賢い犬だからちゃんとわかってらっしゃるんです」と天野巡査部長。
変なところで敬語を使う人だ。まるで人間扱いだ。ちなみにこの時の副賞は牛肉の固りだった。
横山警部も天野巡査部長も、アルフ号やバルダ号など名警察犬が可愛くて可愛くて仕方がないのだ。それを警察庁、警視庁の上層部は山荘内に犬を突入させて噛みつかせろという。横山警部はなんとかそんなむごい使い方をさせまいとして、いろんな理由をあげて私に訴え続ける。
「犬の嗅覚は人間の一万倍なんです。だから催涙ガスの臭いには耐えられません。犬は色盲で暗闇じゃ目が見えないってこと、御存じですか。暗闇の中で犬は嗅覚だけが頼りなんです。銃をもった犯人に噛みつくよう訓練してあるとおっしゃいますが、訓練士が一緒に中に入ってその犯人を指さしてあいつが悪い奴だ、かかれといって初めて噛みつくのでありまして、バリケードを築いた山荘内ではそんな余裕はありません。
それに犬は興奮すると警察側のライフル狙撃手や催涙ガス射手も敵とみなすこともあります」
なるほど、警察犬たちは催涙ガスの臭いを嗅ぐとキュンキュン鼻を鳴らしてへたりこんで歩くのを拒否する。私も犬好きだから横山警部や天野巡査部長の気持ちはよく分かる。
連合赤軍の犯人らが銃を乱射しながら斜面をかけおりてきたときこそ、名犬アルフ号やバルダ号たちが活躍する時なのだ。「あさま山荘」内での警察犬の使用は無理のようだ。野外でならすでにアルフ号は二月十九日若草山で犯人らが隠匿した物資の発掘に大功をあげている(後刻、アルフ号は警視総監より総監賞を授与された)。
早速野中本部長と丸山参事官に意見具申し、警察犬五頭は野外決戦や逃走者の追跡に使うことにして、第一、第二地点に常時待機させることとした。
山荘に送電を続けることは、犯人たちがテレビ、ラジオなどで外部の情勢や警察の警備作戦にかかわる情報を入手する恐れがあるので、種々討議した結果、二十二日夜八時十分を期して山荘への送電を打ち切ることを決定した。
午後八時十分、送電中止と同時に山荘は真っ暗になり、外周二カ所に設置したハロゲン五百ワット投光機と、クセノン投光機の強力な照射の中に「あさま山荘」が白々と浮びあがった。
内部の犯人の動揺を物語るように、銃眼から数発の発砲があった。
そして午後十一時十六分、仕返しの意味なのか一発の銃声が響き、ハロゲン五百ワット投光機の照明灯に弾が命中、電球が破壊され、あたりは真っ暗になった。
非常呼集!
警備心理学研究会の提言もあったことから、「擬音作戦」を立案し、石川三郎警視庁警備部付警視正の直接指揮で実施することになった。
その要領は、催涙ガス弾の発射音、機動隊指揮官の号令、警備車のディーゼルエンジン音などを録音したテープを、防弾の特型警備車の拡声器に仕掛け、深更に「あさま山荘」に接近して擬装攻撃の陽動作戦を行い、連合赤軍の犯人たちを眠らせないようにし、できるだけ発砲させて弾薬を消耗させようという作戦なのである。まわりから投石する係もいる。
実は第二次反安保闘争警備の最中には、都内数十カ所のバリケード封鎖された大学のキャンパスに対し、毎晩擬装攻撃を仕掛け、ディスインフォーメイション作戦(明朝機動隊はキミの大学の城攻めをやるぞというガセ情報)を流して眠らせないようにする心理作戦を展開したものだった。
当時の朝日ジャーナルの「日大闘争の記録」の中に「今日もシンパの新聞記者から、明日払暁機動隊が出動するから用心しろという情報があり、全員ヘル・ゲバで待機したが夜が明けても来なかった。もう早くきてほしい。いつまで待てばいいのか」という趣旨の記述があったが、これが警視庁警備部の心理謀略作戦が行われたことの裏付けであり、心理学者のアカデミックな提言を受けるよりずっと以前から実施していたものである。
この「擬音作戦」を仕掛けて犯人たちを寝かさないようにしておいて、千五百人のわが攻城部隊はグッスリ眠らせようというのが狙いだった。「擬音作戦」の手筈をすっかり整えて真夜中に「高原ホテル」に戻る。
門から玄関までの登り坂の斜面はすでに凍りついて車がスリップして登れない。やむなく下車して徒歩で登ると、滑って膝をつく。
ようやく玄関にたどりついて板の間に腰をおろし編上げの出動靴のひもを解こうとしたら、ひもが凍りついてほどけない。
すると県警の一般職員の人がお湯を入れたヤカンをもってきて、凍った靴にお湯をかけて氷を溶かしてくれる。
また明朝早くはくんですが……と呟いていると「心配しないで下さい。明朝までに乾かしておきますからお任せ下さい」とのこと。膝から下は凍えてしまって感覚がない。お湯の少ない風呂に入ってやっと人心地つく。
東京から持ってきたブランディを湯呑み茶碗に注いで、丸山参事官、菊岡理事官、国松広報課長らみんなで睡眠薬代わりにあおり、凍えた体を内側から温めて布団に入る。
ウトウトとまどろんだと思ったら叩き起こされた。
「局付ッ、大変だッ、照明弾二発です。強行突破、脱出の合図ですッ」
はね起きて窓に走り寄り、山の方をみるとまぎれもなく闇夜に二発の照明弾があがり、線香花火のように火花を散らせながらユックリとあたりを照らしつつ落下してくる。
「丸山さん、強行突破ですッ」
隣りに寝ていた丸山参事官も飛び起きて素早く身支度をする。
私は四年前の昭和四十三年二月、サイゴン籠城の日々、毎晩見た米軍の照明弾投下の光景を想い出した。一月二十九日、「テト」すなわちベトナム正月の休戦協定第一日に始まった|乾坤一擲《けんこんいつてき》の総攻撃「テト攻勢」が始まった夜、私はたまたまサイゴンに出張していた。身分は香港領事だったが、本省から臨時にサイゴン日本大使館勤務一等書記官を命ずという電報の辞令がきて、八百五十人の在留邦人の安否確認を下命された。ベトコンの夜襲を防ぐため毎晩毎晩百機を超える米軍の武装ヘリがサイゴン上空を飛び廻り、何千発という吊光弾を投下してサイゴンを満月の夜のように明るくしていたものだ。物量に物をいわす米軍のベトナム作戦は、沈みゆく太陽を扇子で呼び返したという平清盛の権勢と、その後の平家の末路を想起させるような不毛の夜々だった。
「擬音作戦」の開始の信号は、照明弾一発の打上げと警備会議で決めたところである。
そして二発打上げは犯人たちが人質を楯に銃を乱射しながら突撃してきたときの合図と決められている。
こちらの「擬音作戦」の裏をかくつもりで奴ら出撃してきたか。北側斜面を駆け下ってくれば薄い阻止線は二線ともたちまち突破され、数分で彼らはライフル、散弾銃を乱射しながら報道陣のカメラの放列に雪崩れこむにちがいない。報道陣に死者や怪我人が出た上、包囲網を突破されて車を奪われ、逃走を許したりしたら警察の大失態だ。
「非常呼集だ。全員配置につけ。拳銃に弾こめ。特型警備車以下、全車輛ライトつけろ、クセノン、ハロゲン投光機スイッチ・オン、ライフル班、所定の位置につけッ」矢継早に命令が発せられる。私もパトカーで山荘前の前線警備本部に詰める。真っ暗な雪と氷の樹間を出動服の機動隊員たちがジュラルミンの大楯を投光機の強烈なライトに閃めかしながら、こけつまろびつ所定の配置につく。
投光機の照射を浴びて「あさま山荘」が黒い闇夜に白々と浮き上がる。昭和四十四年一月十八日夜の東大安田講堂を想い出しながら固唾をのんで敵の動きに目を凝らす。だが、おかしいな、「あさま山荘」は静まりかえっている。附近に人影もなく、銃声も聞こえない。
どうしたんだ? なんだ、この騒ぎは?
ペンライトで左手首のロレックス時計をみる。刻一刻、秒針が時を刻むが状況に変化はない。時に二月二十三日午前一時四十分。第一報で叩き起こされたのが一時二十分。もう二十分も経った。これはおかしい。息を凝らして待機していた幕僚たちの間にさざ波のように私語が伝わる。「どうしたんだ。何があったんだ?」とお互いにききあっている。
やがて、これは現場信号係隊員の大チョンボと判明した。
「擬音作戦開始」の命を受けた信号係が照明弾を雪の上に立てて、お尻の導火線に点火したが、湿っていたのかブスブス燻るだけで発射しない。
あわてて予備の二発目をとり出して点火したところ、こいつはすぐ発火し、勢いよく中天高く舞い上って上空で炸裂し、あたりをこうこうと照し出した、――と思ったら最初に点火した遅発弾が元気になってきて、とめる間もなく発射。第二の照明弾となってしまい「“敵襲!!”非常呼集ッ」という騒ぎになったものと判明した。
なんということだ。向うを眠らせないための「擬音作戦」で、こっちの全軍が叩き起こされたんじゃ、なにをやってるのかわけがわからない。
時ならぬ緊急配備でたまげたのは千二百人を超える報道陣である。
すわ一大事とはね起きたカメラマンたちはTVカメラやカメラをかまえて雪の中を配置についた。それがガセとわかって彼ら、怒るまいことか。「警察はなにをやってんだ」と一斉に抗議される始末。
なんでこんな命がけの大警備をやってる最中に、こんなチャップリンやキートンの警察ドタバタ喜劇みたいな珍騒動を演じなければならないのだろう。毎度ながら危機と喜劇はいつも背中合せだ。
金嬉老の記録更新
四日目の二月二十三日は曇だった。
この日の朝、午前七時で「あさま山荘不法逮捕監禁事件」は「金嬉老事件」の人質監禁事件の記録、八十七時間を更新した。
「金嬉老事件」とは、昭和四十三年(一九六八年)二月、静岡県清水市で殺人を犯した犯人金嬉老(41)がふじみ屋旅館で十三人を人質に、ライフルとダイナマイトをもって八十七時間籠城した事件で金嬉老は無期懲役となった。
警察庁五階の警備本部に電話したところ、「金嬉老事件」当時静岡県警本部長として苦労した高松敬治警視監が刑事局長として本部につめていて、電話口に出た。当然、八十七時間という不法逮捕監禁事件の記録が破られたことが話題になった。
すると、高松刑事局長はあたりの耳を気にするかのように声をひそめて、
「一つ、つかぬこときくけど、丸山君は朝ウンコしてるかね。君はどうだ?」
変なことをきく人だな。そういえば今日もタイル張りの床にサンダル下駄という寒々とした「高原ホテル」のトイレで、サンダルを鳴らしながら大便所から出てきた丸山参事官と朝の挨拶を交したことを思い出した。
「はあ、しておられるようです。私も現場にゆく前必ず用便をすますようにしてます。雪と氷と人がいっぱいの現場では出来ませんものね」
と答えると、高松局長は嘆息して、
「へえー、やっぱり君たち警備屋の方が神経太いんだね。オレは金嬉老事件の間中、便秘だったよ」
二十二日、警視庁第九機動隊九十人は内田尚孝隊長指揮の第二機動隊百三十九人と一旦交代し、耐寒装備をした上で再び二十三日、大久保伊勢男隊長指揮下の二百十三人の兵力で再参加した。関東管区警察局の柏原及也局長も現地入りして早速現場の視察に出かける。
指紋照合の結果、籠城している犯人の一人は赤軍派C・Cメンバー、京大の坂東国男(25)であることが判明し、坂東の母親、坂東芳子さん(47)にも呼びかけの協力を依頼することとなった。坂東の指紋は「さつき山荘」のドアに残されていた。
すでに長野県警は最大動員体制に入っている。
昭和四十七年当時の長野県警の定員は、警察官二千三百五十人、一般職員四百八十九人、合計二千八百三十九人だった。その中から警察官八百三十八人、警察官定員の三十六%の総動員を行っているので、事件が長びくにつれ、後方治安が心配になってきた。
交通取締りが手薄になれば交通事故は増えるだろうし、窃盗犯も増えることが懸念された。
ところが日が経つにつれ次第に明らかになったことは、犯罪発生件数も交通事故も減少傾向を示し始めたのである。最初首をひねっていた私たちも現場にいた当初は知らなかったけれど、あとからテレビが異常なまでの高視聴率を記録していることを知って納得した。
そうだ、みんなテレビの前に釘付けになっていて自動車の絶対量が減ってるんだ。それにきっと泥棒もテレビの前に坐って一丁前に「あさま山荘」事件報道にのめりこんでいて、空巣に入る閑もないのかも知れない。これは実に面白い社会的実験である。
後方の補給班を担当したのは、県警会計課だった。厳寒の軽井沢山中の三十数カ所に配備されている千数百人の部隊への給食は大変な仕事だった。県警本部では百五人の警察学校初任科生も配達班に動員した。炊事場を担当した女子職員たちも、一日千個以上の食器類を洗うなど、手を真っ赤にはらして健闘した。
二十三日の定例の作戦会議で口俊長関東管区公安部長が気の遠くなるような提案をした。
山荘南側の道路、山荘側に土のうで土塁を築き、二枚ずつ重ね合せたジュラルミンの強化大楯で胸壁をつくり、銃撃から隊員の身の安全を守ろうといい出したのである。
この凍てついた大地にツルハシ、スコップを打ちこんで数千袋の土のうをつくろうというのには一同辟易した。そこまでしなくてもいいのではという消極論も出たが、口公安部長は断固として譲らない。
甲論乙駁の結果、口案は採用となり、機動隊はにわかに忙しくなった。まず所要の土のう数を検討した結果、千八百六十袋の麻袋、樹脂袋を調達することとなった。そして石のように堅い凍土を掘ってつめ、二十三日午後一時半から夕刻までに山荘正面の道路にまず三百二十袋、高さ一・五メートル、長さ五メートルの土塁を構築した。
この作業は犯人たちの神経にさわったとみえて、しきりに発砲してくる。
現場視察に行くと、二機の隊員が、
「奴ら本気で狙って撃ってきますよ。さっき土のうの端からスコップ出したらそれを狙って撃ってきやがった。“イチカチョウ”も気をつけて下さいよ」
と声をかけてくる。
イチカチョウとは、警視庁時代の私の呼名で「警備第一課長」のことだ。
長野県警の人たちはみんな私のことを「局付」だの「警視正」だのと呼び方に困っているが、かつて第二次反安保九百九十日を共に闘った警視庁機動隊の古参隊員にとっては、私はいつまでも「イチカチョウ」なのだ。
ジュラルミンの大楯については、わざと特型警備車の脇に突き出して彼らに撃たせ、耐弾性能をテストしたところ、22口径ライフルと銃身を切り縮めた散弾銃は一枚楯でとまる。しかし散弾の粒鉛弾を溶かして、バックショット(鹿弾)といわれる一つ弾にした弾は貫通することがわかった。38口径の拳銃はカバーヘッド(被甲弾)だと抜ける恐れがあるが、鉛の軟頭弾だととまるようだ。
そこで結論として大楯を二枚、針金で重ね合せた強化大楯三百枚を至急作製することに決る。私は私の後任の警視庁宮脇磊介警備第一課長に直接電話をかけて協力を依頼した。
宮脇課長も徹夜でこの要請に応え、翌日の朝には三百枚の強化大楯が搬送されてきた。
また北海道警からは待望の防寒靴はなかなか来ないものの黒革ジャンパー式の防寒衣が到着し、第一線配備の約三百人がこれを着用することとなった。黒革に薄桃色の裏地がついていて、ちょっと粋である。
銃後の守り
東京との定期便で妻からの下着の着換えやヘネシー・ブランディの瓶などと共に妻の手紙が届いた。喜んで読んでみると、世田谷の自宅は警視庁機動隊の大型ジープ改造型遊撃警備車一台と数名の機動隊員が二十四時間警備しているという。
かつて私の別室(副官)だった寺尾正大警部が「警視庁では土田さんの次に狙われるのは佐々さんだということになっていますので、お気を付け下さい」と電話してきたそうだ。
手紙にはこう書かれていた。
「淳行様
事件が進展せず毎日お寒い中を大変でしょう。北海道から毛皮のコートがいくようですから、中に着るものだけ、とりあえず入れます。お酒ももうないのでは? 一本入れます。『週刊現代』や『東京新聞』に名前が出てしまいました。家の方はずっとお巡りさんが居ます。又胃の調子がおかしくなってやせてしまいました。でも大丈夫です。康が少し風邪気味です。一日中TVとラジオのニュースを追っかけまわしています。一週間はかかるのではないでしょうか。お体無理されませぬよう、寒い時はカイロを皆に一個ずつもたせてはいかがでしょう。今便利で一日位持つのが出ています。
一日も早くうまく解決できますよう祈っています。
[#地付き]幸子」
そういえば前田明記者の署名入り記事で二十二日の毎日朝刊に、「南軽井沢前線本部、警備警察“全頭脳”ここに集結」と題する囲み記事が載って「東大安田城攻略の現場指揮官」という形で私があさま山荘の現場指揮にあたっていることが紹介されていた。
軽井沢駅で植垣ら四人のことを警察に通報した小母さんまでが殺すと脅かされているという状況では、まだ所在のつかめていない連合赤軍の一味が土田夫人小包爆弾事件のように私の家族を狙う可能性はかなり高い。
ちょっと心配になって仕事の合間を縫って自宅に電話して近況をきく。
妻の話によると、なんでも新聞雑誌に名前が出た直後、環七からの狭い路地を遊撃警備車がゆっくりとバックで入ってきて、家の前に常駐し、それを交番代りに機動隊員が家族を守ってくれているという。
湯茶の接待もしなければいけないし、小学校、幼稚園に通う三人の男の子も見張ってくれている由で、とても気疲れするらしい。
「平屋のプレハブでしょう、常時家のまわりを廻って警備してくれるのは有難いんですけどね、うっかり着換えもできやしない。将・敏・康はかえって大喜びしてます。パパはめったに家にいないし、いたってボクたちと遊んでくれないけど、機動隊のお兄さんたちはキャッチボールして遊んでくれるから大好きだなんて。でも子供たち、まだ小さいんですから危ない真似、しないで下さいね。寺尾さんの奥さんがいってらしたそうよ。東大出て、小さい子が三人もいるのに陣頭指揮なんて何考えてんでしょうって」(注・将=将行、小学三年生 敏=敏行、小学一年生 康=康行、幼稚園)
ああ、よかった。これで一安心だ。土田夫人小包爆弾事件にみられるように彼らは家族を狙う卑怯な連中だ。
現場に出動した私にとって一番心配なのは家族が襲われることだ。警視庁はちゃんと私の家族を守っていてくれたか。有難うよ。
「銃後」の守りは鉄壁だ。後顧の憂いなく断固としてやるぞ。
「はい、はい、わかりました。着換えとブランディ受け取ったよ。丸山さんたちと毎晩眠り薬と暖房代りに飲んでて空になりかけてたとこだった。オレのことは心配しなさんな。前線に出るときゃ防弾車の中だから……」
そんな会話を交して電話を切る。包みの中には新型の長持ちするという白金懐炉が入れられていた。
何故留守宅が心配だったかというと、いまと違って、あの頃はマスコミや世論がどちらかというと学生の反体制運動に同情的で、警察、とくに機動隊は権力悪の権化みたいな扱いを受けていた時代だったからだ。
あの頃は警察官の家族であるというだけで小学校などで日教組の教師から不当な差別をうけるという、今日の若い人たちには想像もできないようなイデオロギー優先の時代だった。
私が警視庁の警備第一課長で、東大安田講堂事件だの全共闘の街頭ゲバ闘争の警備などに寧日ない、いわゆる第二次反安保闘争はなやかなりし頃、ある日次男の敏行が区立の中丸小学校から泣きべそをかきながら帰ってきた。
きけば担任のSという女教師に授業中に「このクラスの子でお父さんが警察官と自衛官の子供は立ちなさい」と言われ、次男がほかの警察官や自衛官の子供たちと顔を見合せながら立つと、S教師は「この子たちのお父さんは悪い人たちです。あんたたちは立っていなさい」といわれゆえなく立たされたというのである。
世田谷の三宿に陸上自衛隊駐屯地があるところから、警察官と自衛官の子供は結構何人かいたようだ。親の職業で子供を差別して悪いこともしていないのに立たせるとは何事かと激怒した私は、早速校長先生に抗議した。校長は「日教組には私も困らされています。ですが相手が悪い。また子供さんにはね返ってもいけないから」と言を左右にして一向に煮え切らない。
「では教育委員会に公立小学校における親の職業による差別として正式に提訴しますから」と告げると、これはいけないと思ったのか、校長はS教師を家庭訪問の形でさし向けてきた。
S教師は「ベトナム戦争はけしからん、自民党政権は軍国主義復活を目指している。機動隊は学生に暴力をふるう権力の暴力装置だ」などと日教組の教条主義的な公式論をまくしたてる。
一通り言わせておいてから「私の言っているのはベトナム戦争や全共闘のことではない。貴女は親の職業で罪のない子供を立たせるという体罰を加えたようだが、小学校教師としてそれでいいのかと尋ねているんです。反省しないなら私は教育委員会に提訴するつもりです」という。
S教師はヒステリーを起こして「やるならやって御覧なさい。日教組の組織をあげて闘いますよ」と叫ぶ。
「どうぞ。私も貴女を免職させるまで徹底的にやりますよ。ではお引き取り下さい」と突っ放す。
すると免職という言葉にイデオロギーが負けたのか、突然S教師はフロアに土下座して「どうぞ許して下さい。教師をやめさせられたら暮していけませんので」と哀願しはじめた。
私は呆れ果てて一応鉾をおさめたが、「あさま山荘事件」の時代はこんなひどい話がまかり通っていた時代で、警察官の家族たちを取り巻く社会環境は、お世辞にも友好的と言えるものではなかった。
[#改ページ]
「地図を下さい」
二十三日の午後から特型警備車を使って、石川部付警視正直率の「特命偵察隊」、警視庁四十五人、長野県機十五人計六十人の部隊編成が行われ、警視庁後方支援隊四十人、ライフル班九人(うち警視庁六人)合計百九人の態勢で人質の安否確認のための強行偵察が開始された。
午後三時より約二時間、発煙筒十発、催涙ガス弾二十一発を使用してできるだけ山荘に接近し、人質牟田泰子さんの安否確認に努めたが、成果は得られなかった。
長野県警の意気は、壮んだったが、経験の不足からくる不手際はやればやるほど歴然とあらわれてきた。
山梨県警から派遣された多重無線指揮車を警備会議で「山梨多重」と呼称することに決めたのに、それが県本部の通信司令室に徹底していないものだから「多重? 多重とは何だ」「山梨? ここは長野県であって山梨ではない」といった応答が返ってくる。
長野はまだ多重無線車が配備になっていない県警だから仕方ないが、練度の不足は蔽うべくもない。
偵察に行く度に山荘の銃眼が増えてゆく。それにABCDEとアルファベット順に名称をつけてゆく。特型警備車がジリジリ接近して行くと銃眼から突き出たライフルや散弾銃の銃身がその動きを追って不気味に右に左に向きを変える。
防弾の特型警備車の助手席に同乗して初の強行偵察に参加した私は、
「銃眼Aから一地点方向、ライフル。気をつけろッ」
などという緊迫した無線の交信を精神集中して聞いていた。
“バン”という乾いた短い銃声と共に小粒の散弾が水|飛沫《しぶき》のように防弾板の車体にふり注ぐ。
“ポカッ”という感じの発射音は機動隊の催涙ガス銃だ。そんな緊迫した交信のさなか、ピュッという音がして間のびした交信がまぎれこんできた。
「|小諸《こもろ》一号から小諸警察署」
なんだ、こりゃ、「はい、こちら小諸警察署、小諸一号どうぞ」
「交通違反を検挙した。只今より免許証照会を行う。あいうえおの『え』、数字の5……」
何やってんだ。黙れ、黙れ、何が運転免許証の照会だ。こっちは軽井沢の「あさま山荘」の現場で命がけの強行偵察やってんだ。
プレストーク式無線送話機のボタンからその指、離しやがれ。地団駄ふんで叫んでも三十メガ帯|一波《ひとなみ》の長野県警だ。一人がプレストーク式発信機のボタンをプレスしたが最後、その間中三十メガ帯の通信がすべて麻痺してしまう。
職務に忠実な小諸一号君は全警備部隊のイライラをよそに長々とバカ丁寧に交通違反の事件処理を続けている。
多重八号車に戻れば電話の「発」と「受」を指揮系、情報系、ロジスティックス系とに分けてないものだから、指揮系の大切な電話機に弁当はまだか、という催促が入電したりする。
軽井沢署に戻った私は、地元の警備幹部を招集し、「警視庁の百五十警備メガ帯の通信系一セット借りて後方治安の三十メガ帯通信と切り離せといったとき、通信宰領でできますと君たち言ったよな、なんだ、今日のザマは。私のいった意味がわかったか!! わかったら片意地張らずに直ちに警視庁の応援を求めろッ」と大声で怒鳴った。
写真撮影の技量もダメだった。強行偵察の第二の目的が犯人の顔写真を撮影することであることはすでに述べた。そこで写真撮影を主目的とした白昼の強行偵察が行われた。
山荘北側の雪の斜面には報道陣の何十人というプロ・カメラマンたちが三脚を据え、それぞれ任務分担して担当する窓々にピタリと焦点をあわせて、強行偵察開始を今や遅しと待ち構えている。指もかじかむ酷寒の荒野でまことに見上げたプロ根性だ。
強行偵察が始まった。三輛の特型警備車が三方向からジリジリ山荘に迫る。山荘に立て籠る連合赤軍もあるいは窓をあけ、あるいは壁に穿った銃眼から十数回にわたって発砲してきた。さあもういいだろう。
「攻撃やめ、後退!!」
今日は何回か顔写真のシャッターチャンスがあった。きっといい写真が撮れただろう。
警備本部に戻った私は、山内警備部長に言った。「さあ、今日は奴ら何回も顔を出したね。さっき撮った写真、すぐ焼いて、検討会、やろうや」
「いえ、まだ出来てません」「どうして?」「まだ三十六枚撮り終ってないから、フィルムは現場のカメラの中に入ったままですから」「なんだって?」……怒りがこみあげてきた。
なんのために警視庁機動隊が命がけの強行偵察やったんだ。面割り写真撮るのが目的だって警備会議でいったじゃないか。
三十六枚撮り終るまで現像しないってのは、一体どういう感覚なんだ。
「直ちに回収して、すぐ現像しなさい!!」
私はつい声を荒らげる。すっ飛んでいった警備部長がすっかりしょげて戻ってきた。
「申し訳ありません、一枚も撮れてませんでした。なにしろ相手が意外な時に意外なところから顔出すもんですから、ピントあわせが間に合わなくて……」
だから言わないことじゃない。警視庁の現場写真班の応援を頑なに拒むからそういうことになるのだ。
「後学のためにきくけど、君たち、長野県警の写真技術をバカにするな、関東管区警察局管内の警察写真コンクールで優勝したことあるッていったよな。一体何の部門で優勝したの?」
「はい、静物の部で……」
「……」
面割り写真がなくて困り果てた私は、記者クラブに行き、東大安田攻め以来の“戦友”である読売新聞の安部誠一カメラマンら、気心知れたカメラマンたちに頭を下げて歩き、犯人の顔を捉えたすばらしい写真をコッソリ分けてもらい、東京に送った。
その結果、坂口弘が面割り写真で確認された。
その晩の記者会見で「本日の強行偵察の結果、犯人の一人は坂口弘と判明しました」とやったら、「質問ッ」という声がかかった。
みるとさっきこっそり写真を分けてくれた記者が笑いをこらえて手を挙げている。
「佐々さん、その面割りに役立った写真はいつ、どこで、誰が撮った写真ですか?」
私は答えに窮した。どこの修羅場にもこういうイタズラな新聞記者がいるものである。
これで吉野、坂東、坂口の三人がなかにいることは確認されたが、あとは一体誰なんだろう。それがあと一人なのか、二人なのか依然として分からず、烈しい焦燥を感じる。
二十三日夜、こんどは右翼団体がやってきた。岡山県の右翼団体、「士誉の会」、日本同志会青年行動隊総隊長武山晃(51)ら三人が「命がけで山荘に飛び込み、日の丸を立てる」といって軽井沢に車で乗り込んできた。
警備本部では情報幕僚らが翻意を促す粘り強い説得を行った結果、「折角来たのだから『国民新聞社』の取材として現場だけ写真撮影して帰る」ということで納得して二十四日朝引き揚げた。極左に代々木に薬物中毒。それに今度は右翼ときた。いろいろとやって来るものである。
「あさま山荘」から約百メートル離れた岩蔭に、多重無線車第六号をあげて現場警備本部とし、その隣りに同第八号を置いて前線指揮所として石川部付警視正が陣取った。
私も居心地がいい古巣の警視庁の多重第八号に乗っていた。
だが野中本部長座乗の第六号とは実戦経験の差は歴然たるものがあった。
多重第八号には現場で必要なあらゆる物資、器材、資料が搭載されている。目覚し時計、望遠鏡、ホッチキス、巻尺、セロテープ、マジックインク、ボールペンに色鉛筆、記事用紙に方眼紙、煙草、喉飴、煎餅、毛布、電熱器、当時新商品だったカップヌードル、湯沸しポット、皿小鉢、割り箸、缶詰、魚肉ソーセージ。ミカンまで座席の下だの棚だの、あらゆる空間を利用してよくまあこんなに気が廻ると思われるぐらい積みこまれている。
一方多重第六号の方は長野市でも軽井沢町でも何も積まずに空で山に登ってきてしまったのでまるで仕事にならない。絶えず長野の幕僚が第八号にやってきて、「すみません、紙と鉛筆貸して下さい」「セロテープの予備、ありませんか」と恐縮しながら無心する。
石川部付も「しょうがないな」と呟きながらも「もう、なんでも分けてやれ、ミカンもやれ」なんて要求されないものまでやっている。
口下手でとっつきは悪いが、根は善良で親切な人物だ。
するとまた長野県警の幕僚が入ってきた。
「地図を頂きたいんですが……」
「地図? 地図も持ってないの、五万分の一の地図を? ここ長野県なんだから、アンタ、自分の県の地図ぐらい自分で調達しなさいよ」と石川部付。
「いえ、五万分の一はあるんです。現場のこまかい地図がほしいんです。その地図を頂きたいんですが」「その地図? どの地図」「それです」
みると多重第八号の車内中央のデスクにひろげられた方眼紙の地図に、ここ数日間幕僚たちが足で稼いだデータを丹念に書きこんだ手書きの地図を指さしている。
さすがに人の好い石川三郎警視正が怒った。
「この地図は我々が手書きで作ったもの。ダメダメ、あげないよ。どだいアンタ、地元なんだろ? そっちが作って、こっちが下さいってならわかるけど、地図ぐらい自分たちで作りなさいよ」と気色ばむ。
その見幕に恐れをなして長野県警幕僚が退散したあとも、石川部付の怒りはおさまらない。
「なに言ってんだ。オンブすりゃダッコ、少しは自分でやりゃあいいんだ」とぶつぶつ呟いている。
鉄球大作戦
「あさま山荘」の現場に来てから、私は北側斜面の下から、南側道路上から、西側の芳賀山荘からと、あらゆる角度からつぶさに視察し、この難攻不落の“千早城”の攻城法を、考えに考え抜いた。
東大安田とは違う。掛矢、鳶口、電気鋸に削岩機といった東大安田城攻めの攻城道具ではこの要塞は歯が立たない。
何回も強行偵察で突入方法を工夫したあげく、私が下した決断は、東大安田城攻めで不許可になった「鉄球大作戦」しかないということだった。
起重機とモンケーン(鉄球)をリースして破壊工作により突破口を作るのだ。
安田講堂の時は、あれが安田善次郎氏の寄附した文化財だということで秦野警視総監に却下されたが、今度は河合楽器の了解さえとれればやれる。
北側からの攻撃はほとんど絶望だ。鉄筋コンクリート三階建ての「あさま山荘」は北側から見るとコンクリートの柱の下にひろがるピロッティ式の地階があるから四層になる。
北から接近しても結局西側の二層目から少人数ずつ入るしかない。そうなると攻撃正面は南側、正面玄関と西側の管理人出入口と台所入口しかない。
南側道路は山荘の三階と同じ高さで、深さ四、五メートル、幅七、八メートルの地隙があるから防弾特型警備車の横付けはできない。
そこで南側道路に防弾装甲板を取り付けたクレーン車を近づけ、アームを伸ばしてその先に吊り下げられた鉄球で正面玄関、屋根を破壊し、それが終ったら鉄球を「鉄の爪」につけかえて屋根をひっぺがし、爪でつかんで剥ぎとる。
むき出しになった屋根裏から敵の狙撃手を放水と催涙ガスで駆逐し、幅一・五メートル長さ十メートルの木橋をクレーン車で道路と屋根裏部屋に渡れるよう架橋し、下から突入した決死隊と上から攻めこむ決死隊とでベッドルームで挟みうちにして検挙する――というのが私が立案した攻城法だった。
警備会議の結果、野中本部長の採用するところとなり、警察庁にも報告して了承を取り付けることに成功した。
早速河合楽器本社と交渉したところ、快く同意が得られ、設計図の提供も受け、さらに解体業者の専門知識も借りて、鉄球の大きさ、重さは一・五トン、一・二トン、一トンのいずれが適切か、クレーンに吊り下げられた鉄球のテイク・バックは何メートルがいいのか。あまりスイングを大きく振ると「あさま山荘」の三階ぐらい一撃で谷底に転落してしまうというので、力学的にキチンと弧の描き方を検討し、重さ一トンの鉄球を使うことに決めた。
これで攻城計画の基本が固まった。
五日目、二十四日の朝、九時半頃から坂東国男の母親坂東芳子さんの呼びかけが行われた。
「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終ったのよお――。早く出てらっしゃい。あんたたちが世の中をよくしようとしてやったことはみんなが認めてますよ。警察の人もほめてますよ」
あんなことを言ってる。誰もほめてなんかいないぞ。この母親の言うことはちとひっかかる。
「お母さんはお前を生き甲斐にして今日まで一生懸命働いてきたのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てきてお母さんと一緒にあったかい御飯を食べようよ。あんたたちのことはみんな認めている。……警察にも立派な人がいます。二枚舌を使うことはない。警察の人が撃たないと約束したのよ。早く出て来なさい」
そのあとに、エヘヘヘヘと笑ったように聞こえた。なんだ、笑うとは、いや、もしかするとむせび泣きだったのかも知れない。
いずれにせよ、山荘からの応答はなかった。
あっ、撃ちやがった!
強行偵察第二日目の二十四日、第九機動隊二百十七人が大久保隊長指揮で再度来援した。
午後三時三十五分、ヘルメットと防寒革ジャンパーを着用した丸山参事官と私は、三機所属の特型警備車第二号車の助手席に乗りこんで山荘南側から強行偵察を行った。操縦者は三機の神田秀行隊員。山荘から約十二メートルの至近距離まで接近する。
丸山参事官はしきりに双眼鏡であちこち視察している。この距離じゃ双眼鏡はいらないと思うが、海防艦乗組みの元海軍少尉殿だから戦場に臨むときは双眼鏡がいると思い込んでいるみたいだ。
四時十分、銃眼に向け高圧放水開始。同時に発煙筒が投げられる。凄い寒さだから、放水した水が滝のようにトタン屋根や軒から流れるのが、みるみるうちに凍って|氷柱《つらら》になってたれ下る。
その時だった。正面三階のトタン板を張った観音開きの窓がパッと八の字に開いた。
一瞬、私は息をのんだ。みればそこには眼鏡をかけ、黒い鉢巻かスキー帽のようなものをかぶった黒っぽい服装の男が、上下二連散弾銃を構え、真正面からピタリと参事官と私に照準をつけて立っているではないか。
防弾ガラスときいてはいるが、素通しのフロント・ガラスのすぐ向う、手を伸ばせば届くほどの至近距離で、髑髏のうつろな眼窩のような不気味な十二番ゲージの散弾銃の銃口がこっちを狙っているというのは気持ちのいいものではない。
あっと叫ぶ間もなく銃声が響いた。
あッこの野郎、本気で撃ちやがった。ピカッ、ピカッと、二回閃光がきらめき、散弾の集束弾が真正面からバシャッと音を立ててフロント・ガラスに命中した。
思わず狭い助手席で体をよじり、伏せようとする。ヘルメットがゴツンとフロント・ガラスにぶつかり、鼻の上にかぶさり、視界が遮られて真っ暗になる。あわててヘルメットを手で押え、坐り直す。
一瞬の間だった。灰色トタン張りの観音開きの窓はパッと閉って、男の姿は消えた。
「ああ驚いた、一巻の終りかと思った。こんな近くで真正面から撃たれようとはね」
というと、丸山参事官はキョトンとしている。「えっ? 撃たれた? いつ?」
「見てなかったんですか、いま目の前の窓が開いて撃ってきたじゃないですか」
なんと丸山参事官は双眼鏡であさっての方向をみていて、目の前で発砲されたことに気づかなかったのだ。
散弾銃は、一の矢は約三十メートル先で何十発という鉛の粒弾を直径一メートルにひろげる。二の矢は約六十メートル先で散開する。だがこの十メートル程度の至近距離だとまだ散開しないで集束弾となっているからそれだけ破壊力も大きい。
防弾性のフロント・ガラスを仔細にみると二カ所に凹みがある。
ふと横をみると、運転席の神田隊員が白い歯をみせて笑っている。きっと彼は、もう何回も撃たれてこの特型警備車はビクともしないことを知っていて、初めての経験で必死に体を|躱《かわ》そうとした私の姿がとても滑稽に映ったのだろう。
時計をみると、時刻は四時二十七分だった。もし防弾ガラスでなかったら、昭和四十七年二月二十四日午後四時二十七分が私の人生の終点だったろう。
四時三十五分、催涙ガス弾の発射と高圧放水が続く中、また窓が開き、黒スキー帽、黒トックリセーター、黒手袋と黒ずくめの男が上下二連散弾銃をぬッとつき出し、|雁行《がんこう》する特型警備車第三号車を狙って連続三発発射した。多分自動五連だろう。
耐弾性テストのため携行した二枚重ねの強化大楯に一発命中したが一枚目が多少デコボコになっただけで、耐弾性が証明された。
強行偵察をくりかえしたある特型警備車には、全部で三百四十四発の命中弾の痕があった。数十発の鉛の粒弾を発射する散弾銃だから弾痕も多くなるのだ。
泰子さんは生きているのか
五日目ともなると、みんな体力の限界に達し、疲労困憊、こらえ性がなくなって幕僚たちの間にとげとげしい|諍《いさか》いが絶えないようになる。記者クラブもいつ解決するのかメドもたたない長丁場の警備でいら立っている。睡眠時間は三、四時間だし、果して牟田泰子さんは生きているのかどうか、それさえ分からない。もしもう殺されているのなら一挙に総攻撃をかけて決着がつけられるが、もし生きているとすれば慎重にやらなくてはいけない。
果して牟田泰子さんは生きているのか。これが警察庁にとっても長野県警にとっても一番知りたい情報となった。それによって作戦が根本的に変ってくるからだ。
強行偵察をやるたびに「どうだ、わかったか、牟田泰子さんの姿を見たか」と東京から矢の催促。
状況がまるでわかっていない。そばに行ってちょっと窓をのぞくというわけにいかない“千早城”なのに……。
「集音作業の結果はどうか」
それも毎日、毎晩やってます。隣りの芳賀山荘から指向性集音マイクをつけた竿を「あさま山荘」の窓に近づけたり、屋根に登って煙突からコードにぶら下げた秘聴マイクをたらしてみたりやってるのだが、泰子さんらしき声はとれていない。
屋根に登った捜査員などは足音を聞きつけた犯人が下からトタン屋根越しに発砲し、まるで灼けトタンの上の猫みたいに飛び跳ねながら命からがら逃げてきたものだ。
警察庁通信局無線通信課の|東野《とうの》英夫技術専門官(通信担当)は集音作業の最高のプロ。彼が全力を傾けて日夜作業しているがうまくいかないのだから、これ以上どうしろというのだ。
また警察庁が新案特許の作戦を示唆してくる。
「泰子さんが可愛がっていた愛犬チロを使ったらどうだ。首輪に秘聴機をとりつけて内にいれてやる。泰子さんがそれを抱きしめて『チロ』と叫ぶ。その声を拾ったら」
あのう、「あさま山荘」はバリケード封鎖され、窓もドアも開かないんです。ネズミ一匹入れません――と答えると、今度は、
「そうだ、ネズミだ!! ネズミに秘聴器つけて山荘内に放したら?」
あのう、秘聴器一個五万円するんです。「あさま山荘」は三階建ての保養所で部屋も多い。通常ネズミは屋根裏か床下にいきますね。人のいるところ、とくに牟田泰子さんのところへネズミが行くことは考えられませんね。
「医師の聴診器は凄く感度がいい。誰か聴診器を壁にあてて聴いていたらどうか」
あのう、牟田泰子さんが監禁されているのは、二階白樺の間と我々は推測しています。強行偵察の度にカーテンが揺れるのです。そうすると二階、三階の壁に聴診器をあてるには六、七メートルの身長を要します。梯子や脚立立ててという、のんきな状況ではありません。
「トイレの壁に耳をつけて小水の音を聞け。男女の放尿の音は違うからそれで生存を確認せよ」
不採用。理由は右に同じ。
「トイレの下の下水道を掘り、流れてくる排泄物を調べよ。血液が混じっていたら泰子さんは生存している」
とても無理。下水管は石のように固く凍りついた地面の下を走っていて、犯人に気づかれないよう掘るのは困難。もし人質が生理中でなければ無意味だし、あるいは男性に痔疾患者がいたら判定は不可能です。
これらの会話は実際に警察庁の警備本部と軽井沢の現地警備本部の幕僚たちの間で交された、本当に真剣な人質生存確認の方法をめぐるアイディアの数々なのである。
冷静な第三者が聞いたら喜劇と悲劇の背中合せの劇中劇と思うかも知れないが、みんな睡眠不足と強度のストレスに悩まされた“マイナス頭”で懸命に考えたことで、警察が罪のない人質、牟田泰子さん救出にいかに死にもの狂いだったかを物語っている。
深夜苦心の末、彼らが穿った銃眼から乾電池付きの秘聴マイクをひそかに山荘内に投げ入れたり、セットしたりしたこともある。
だが、いかんせん零下十五度の寒さが敵となり乾電池が眠ってしまうのですぐ機能停止してしまう。無線機も懐中電灯もみな同じだ。
一度だけ煙突から吊り下げた集音マイクに女性の声が入ったことがある。その録音テープを極秘裡に野中本部長、丸山参事官ら首脳だけで鳩首聴取した。ところが何回も何回もリピートして皆で聞くのだが、それは、
「ヘビ キモチワルイ」
というヒステリックな女性の声だった。
一体何だ、これは? 二十二日夜以来送電を切っているのでテレビ映画やラジオ・ドラマではないはず。もしかして携帯ラジオの電池がまだ生きていてラジオ・ドラマの科白を拾ったのだろうか? 丸山参事官が深刻な顔で腕組みしながら呟く。
「もしかして、泰子さんの精神が限界を越えてしまって気が狂ったのでは……。そうだとすると早く決断して突入して救出せねばいかんな」
野中本部長も沈痛な面持ちで考えこむ。
警察庁警備本部と軽井沢署現地本部のやりとりが疲労が深まるにつれて次第にギスギスした、とげとげしいものになってきた。
現場からみれば、望遠レンズで撮っているため遠近感のないテレビの画像だけみて「なぜ特型警備車を山荘に横付けにして壁を破壊して突入口をつくらんのか」などと無理解な叱責がきたりすると、なんだい、後方の安全な暖房の利いた部屋にいやがって……となりがちだ。
火中の栗を拾わされている者たちの被害妄想もある。
いまの私たちは現場で命を|鉋《かんな》にかけて削るような苦悩の日々を送っている。
蝋燭の両端に火をつけたような、寿命が倍速で縮まってゆく思いの毎日に対しては、もし人質救出に失敗したときはなんの酬いもないだろう。警察界でも「あさま山荘事件の失敗者」として葬り去られるにちがいない。
疲れ果てた頭脳は、次第に昨日と一昨日の区別がつかなくなって、いつまでも終らない今日が続いて、自分だけひどい目にあっているような錯覚に陥る。
軽井沢署の後方支援も、みんな疲れ果てて、折角の吉江軽井沢署長の心尽しの茹で卵に塩のつもりで白砂糖を添えて出してきたりする始末だ。
東京の警備本部も同様で、不眠不休、寝食を忘れて徹夜を続けていた局長以下が五日目ともなると全員ダウンしてしまい、重要な指揮伺いをしても本部に警部が一人で留守番していて、私たちに怒鳴られることになる。
その東京が「軽井沢はもう限界で、きっとヒステリー状態だろう」ということで、鈴木貞敏警備課長が実情視察にのりこんできたことがある。ところが意外にも軽井沢署の現場警備本部は笑いが絶えず、鈴木課長は帰京して「現場にはまだ笑いがあります。むしろヒステリー状態なのは警察庁じゃないですか」と報告したという話が伝わってきたりした。
軽井沢署の警備本部が極限状況の中にあって笑うゆとりを保っていたことについては、私も貢献したが、野中県警本部長がバランス感覚と自己統制能力に優れ、終始冷静を保っていたこと、それに幕僚団長の丸山参事官がユーモア感覚と本質的にネアカな楽観主義者だったことによるところ、大だった。
野中本部長とは知り合ってからまだ日は浅いが、朝から晩まで一緒に危機対処するという濃い人間関係の数日を過した今日では、彼の人物像がかなり鮮明に浮び上がってきた。
この人には指揮官適格性がある。黙ってはいるがよくわかっていて、FBI方式も受け入れたし、私という人間を信頼して、作戦にしても広報の方針にしても私たちに任せてくれている。
主将と軍師との人間関係にとって不可欠なものは相互信頼だ。この人は風貌だけでなく、性格も冷静で理性的なところが加藤一郎東大学長代行によく似ている。
地元泣かせの独立愚連隊
心配していたことが起こり始めた。四半世紀早すぎた日本版FBI方式、一技一能に秀でたトラブル・シューターたちのプロジェクトチームは、階級秩序がキチンと確立された長野県警に一波乱をもたらした。
丸山参事官は別格官幣大社だ。佐々警備局付監察官も東大安田講堂事件の警備第一課長として地元も一応一目置く。しかし「長」とつくのは国松警視庁広報課長だけ。あとは理事官、調査官、警視庁警備部付警視正などなど。一体誰が誰より偉いのか皆目見当がつかないのだ。
きくところによると長野県警は警備会議の席次序列を決めるのについてわざわざ会議をやったという。最初の会議で国松課長を上座に据えたら私などが「おい、国松君」とやるものだからすぐ降格になって下座に移される。
二月二十四日夕方、私の強い要請によって警視庁警備部警備第一課の「主席管理官」宇田川信一警視と警察庁警備局調査官の長田光義警視が到着したときも面白かった。「主席管理官」というから偉いのかと思って上座に席を設けたら、またまた私らが「宇田川君」とやるものだから、次の会議からは下座に下げられる。
私を「監察官」と呼ぶべきか「局付」と呼ぶか、討議をした結果、「警視正」と呼ぶことに一旦は決めたようだが、困ったことに「警視正」と呼びかけると佐々、菊岡、石川の三人がふり向く。
結局私は「局付」、石川警視正は「部付」と呼ぶことに決った。
だが次の問題は私の伝令の|後田《うしろだ》成美巡査と石川部付の伝令、宮本喜代雄警視を何と呼ぶかだ。そこで後田巡査は「局|付付《づきづき》さん」、宮本警視は「部付付さん」。
なんだか七分づきの米みたいなヅキヅキという変な呼称になってしまって、みんなの笑いを誘った。
そこへ態度が大きくて年次不詳の警察庁警備局公安第一課課長補佐、亀井静香警視が加わったからまた波乱が起きた。
亀井警視は群馬県に派遣されて|迦葉《かしよう》山の山岳アジトの検証や杉崎、森、永田ら妙義山組の取調べ立会などをやっているところへ「あさま山荘事件」が起きた。
血の気の多い亀井警視がおとなしくしているわけがない。警備局長に軽井沢派遣を申請したが、慎重な局長は亀井警視の過激な言動を心配してなかなか首を縦にふらない。
そして亀井警視から直接私に陳情があったので、私は富田警備局長に電話して「あさま山荘のような現場こそ亀井君にもってこいの現場です。私が十分指導しますから是非よこして下さい」と要請した。
私の口添えでようやく念願の軽井沢入りを果した亀井警視は、最初の警備会議の席上で「この事件は長野県警の手に負えるような事件ではない。佐々局付自ら陣頭に立ち、直接指揮命令権を行使して処理すべき警備事件である」なんぞと、長野県警が一番嫌がることを大音声で発言し、青筋を立てた北原警備第二課長から「アンタ、一体何者ですか。黙ってなさいッ」と一喝されるという一幕もあった。
しかし積極果敢な亀井課長補佐を迎えて、連合赤軍の公安事件としての捜査は、にわかに活気づいた。いうまでもなく、亀井警視とは、後の亀井静香衆議院議員である。名前は「静香」だがちっとも静かでない。なんで親御さんもこんな名前をつけたのだろう。
警視庁のセクショナリズム
長野県警の“民族主義”にも手を焼いたが、警視庁も“大国”に似合わないセクショナリズムがあって、私は調整に苦労した。
昔、陸軍と海軍の仲の悪さをからかって、「陸海内ニ争イ、余力ヲ以テ米英ト戦ウ」という警句があったが「あさま山荘」の昔も、「オウム真理教」の今も、都道府県警察間のセクショナリズムというものは永遠の課題なのかも知れない。
零下十五度の山上では一杯のお湯が貴重品だった。そこで警視庁のキッチン・カーを山頂にあげて湯茶のサービスと共に初めての試みとして当時の最先端商品だった日清食品の「カップヌードル」を定価百円のところを出血サービスで半額の五十円で警備夜食用として警視庁で購入し、厳寒の軽井沢で五十円の廉価で振舞うこととした。
このエポック・メイキングなアイディアでさぞかし隊員たちは喜んだろうと思いきや、夜の警備会議で「警視庁はけしからん、自分たちだけ温かいものを食べていて長野県警や神奈川県警にはわけてやらない」という苦情が出た。
それはいかん、誠にいかん。極限状況下の現場でなにが人の連帯感を損うかといって飲食物の不公平に過ぎるものはない。
早速警視庁の|庶務担《しよむたん》を呼んで一言注意すると庶務担は「これは警視庁の予算で購入し山上に運ぶのも水を汲むのもすべて警視庁がやりました。長野もやりたかったら長野のキッチン・カーをあげればいい」と抗弁する。
「あのなあ、長野にはまだキッチン・カーの配備がないんだよ。連合赤軍に対してこっちはオール警察軍でやってるんだから、長野にも神奈川にも、いや新聞記者にも食わせてやれ。予算措置を後で必ずするから」と説得する。
キッチン・カー一台ではできないというから二台にすることにし、「有料でいいですか」ときくから「もちろんだ」と答える。
さて、これにて一件落着と思っていたら、その晩また警備会議で苦情が出た。ややウンザリしながら「今度は何ですか」ときくと、
「なぜ警視庁は五十円で、我々は七十円なんですか?」……本当に困ったものである。
警備会議が長びいて、疲れたな、一寸甘いものが欲しいなと思う頃、歴戦の警視庁庶務担は実に絶妙のタイミングでキャラメルなどを入れた段ボール箱をひきずって会議場に入ってきて各自にキャラメルを配り始める。
ああ気が利いてるな、いいことだなと思って眺めていると、オヤッ? ふいに配るのをやめて何人かパス。そしてまた配り始める。
何しているんだ? ああ、わかった。警視庁と警察庁には配るが、長野や神奈川にはやらないんだ。しようがないな、目顔で警視庁の庶務担を呼び寄せ、声をひそませて「配るなら全員に配れ。長野や神奈川にやらないならここでは配るな」と注意する。
こういう具合だから地元の新聞に「軽井沢の署長室は警察庁や警視庁の金ピカに占領され、外では革ジャンパーの警視庁機動隊が肩で風を切り、長野県機は雪掻きをさせられている」なんて書かれるのだ。
一体このセクショナリズムというものは、どうしたら解消できるのだろうか。
地元の協力
県警と警視庁の小競り合いには閉口したが、長野県の地元の人々の協力ぶりは誠に心暖まるものがあった。
「高原ホテル」管理人の中村春繁夫妻は、私たちが何時に帰ってきても起きて待っていてくれ、午前一時、二時になっても風呂を沸かし、熱い湯茶を用意して疲れ果てた私たちをいつも笑顔で迎えてくれる。ビショ濡れになった出動服や出動靴を翌朝までにどうやって乾かすのか、翌朝気持ちよく着られ、はけるように手当てしておいてくれる。凍りついた折詰め弁当や握り飯を食べざるを得ない第一線の隊員たちに比べると、幕僚団は恵まれていた。中村管理人夫妻心尽しの温かい飯や豚汁を朝に晩にお茶碗で食べるという贅沢が味わえるからだ。質素な食事ではあったが管理人夫妻の献身的な奉仕ぶりには一同頭の下る思いであった。
軽井沢町の旅館、食堂など業者たちもよくやってくれた。明月館、旅館組合、油屋弁当店、千曲福祉センター、東信福祉事業協同組合、中島会館などは約三万五千食に及ぶ給食を百円から三百円の廉価で家内総出で炊き出しをしてくれる。
軽井沢婦人会の人々も山荘の犯人説得に参加したり、手を真っ赤に脹らせながら何百個という炊きたて御飯の握り飯をつくってくれた。もっとも山の上で配給される頃は凍って歯が立たなくなるが。
町役場、別荘管理人たち、レイクニュータウン事務所職員、国鉄軽井沢駅駅員の人々は、警備車輛を通すための徹夜の除雪作業をしたり、隊員に湯茶の接待をし、ストーブ、火鉢など暖房器具を提供するなど、自発的な協力を惜しまず、隊員たちの士気は大いにあがった。
宿舎を提供してくれた軽井沢スケートセンター、営林署寮、クリスチャンセンター、ますや旅館、日大寮、千ヶ滝西区公民館、安田信託銀行寮などなど公私二十六宿泊施設の従業員の人たちも、親身になって世話を焼いてくれる。
地元住民からは栄養剤、果物、缶詰、菓子など大量の陣中見舞が差入れられた。
とくに附近住民が手書きで書いて各宿舎に掲示されたポスターは、心からの応援のあらわれとして機動隊員たちの心を和ませた。
それにはこう書かれていた。
「連日の寒さと戦っての勤務を心より感謝申し上げます。お体には充分御注意下さいまして頑張って下さい。
千ヶ滝中区民 国土計画社員一同」
激励慰問のため二月十九日から二十八日までの十日間に軽井沢署を訪れた者は二百三十人。協力申し込みは約三十人。身代り志願者は約二十人に達した。抗議も約十人、精神病者も約十人にのぼった。
土のう作戦についても、県下農協の積極的協力により短時間で二千袋の麻袋が調達できた。ある業者は数十人の作業員を動員して、徹夜で土のう作りと現地までの搬送を手伝ってくれた。
長野県民の縁の下の力持ちというべきこのような協力が、どれほど「あさま山荘」警備を蔭で支えてくれたか、その貢献度は計り知れないものがあった。
警視庁からさらに増援が到着した。二月二十五日には小林茂之特科車輛隊長指揮の二十三人。二月二十六日には西田時夫第七機動隊副隊長指揮のレンジャー部隊三十七人。
これで隊長は二機内田、九機大久保、特車小林の三隊長、兵力は九機二百十三人、二機百三十九人、七機三十七人、特車二十三人、合計四百十二人。
そして二月二十五日には警備第一課主席管理官宇田川信一警視指揮の現場情報班、通称「コンバット・チーム」七人が参着した。
二月二十五日朝、高原ホテルの前庭の雪に蔽われた白樺の林の前でこの特殊班の査閲が行われた。宇田川警視が「コンバット・チーム集合しました。声をかけてやって下さい」と言いにきたのだ。
このコンバット・チームは実は私が生みの親だった。「第二次反安保以来ずっと一緒に戦ってきたが、連合赤軍をやっとあさま山荘に追いつめた。人質の救出、そして犯人たちの生け捕りという最高方針が示されている。諸君の活躍を望む」と短い訓示を与える。
加々見晃司警部が一同を代表して答辞をのべる。「数多い警視庁警察官の中から我々を指名して頂いて光栄です。御期待に添うよう頑張ります」
そして任務分担としては、加々見警部及び小野沢勇警部補は第二機と行動を共にする。|采女研覚濟《うねめけんかくさい》警部補と星川栄治巡査は第九機と同行。大塚金治巡査部長は山荘正面。近本厚生警部補は檜垣吉之助巡査と共に宇田川警視を補佐と決められた。
私の伝令は、警視庁警備第一課長時代の秘書、日野嬢と結婚して一児の父となったばかりの後田成美巡査である。
あと粟野健二、伊藤守弥両君は遊軍で、宇田川警視の下で全般状況の把握に当る。
これでやっと私は私の手兵をもつことができた。采女研覚濟という昔の剣客みたいな名前の警部補は、後日牟田泰子さん救出の第一報を山荘内から発信することになる。
宇田川警視には早速百五十メガ帯の警備通信の系統図作成を命じた。
第三次強行偵察
二月二十五日は快晴だった。
口俊長関東管区警察局公安部長が強行偵察に初参加する。
私は第二機の決死隊小隊長を志願した山野重俊警部補と特型警備車第二号車に同乗して午前十一時十八分発進した。
山野小隊長は前出の寺尾正大警部の友人である。口公安部長のアイディアによる土のう積み作業は負傷者もなく順調に進み、千八百六十袋で高さ一・五メートル、長さは玄関正面の部分は開けて左右に約十メートルの土塁と強化大楯をその上に立てた安全な胸壁が完成した。これで突入作戦の足掛りができた。
口公安部長の提案は最初聞いたときは正直いって労多くして功少いのではと思ったが、こうして出来上ってみると「急がば廻れ」の|譬《たとえ》どおりの名案で、この土塁のおかげで二十二日県機の二人が負傷して以来、一人も怪我人が出ていない。
犯人たちもこの土のう作業は癪にさわるとみえて、私の能率手帳のメモによると、この日午後四時十五分から同四十五分の三十分間に銃眼D・E・Fから合計十六発の銃弾が作業中の機動隊員を狙って発射されたが、負傷者はゼロだった。
多重無線車第八号車の前線指揮所へ戻ると、仲の好い読売新聞の安部カメラマンがやってきた。カメラマン一同の要望としてもし余っていたら取材拠点用に土のうをわけてはもらえまいかとの申し入れだ。調べてみると二千袋作製したのでまだ百袋以上あまっている。
本部長や参事官の指示を仰いだ上でOKする。
「但し、安部ちゃん、自分たちでかついでゆくんだよ」
「了解、了解」と安部氏は手をふって出てゆく。
やがて山荘南側道路の上の崖のふちにカメラマン用の低い土塁が積みあげられ、三脚やカメラが放列を布く。
岩蔭に駐車した前線指揮所多重第八号車に戻ると、昼食の弁当が配給されていた。
神田|志乃多《しのだ》寿司の折である。今日は千二百食しのだ寿司を調達したという。一折二百円。第二次反安保闘争中よく食べたものだ。甘辛い東京の味で煮しめた油揚につめたお稲荷さんだ。ちょっと冷たいが、美味しい。
テレビに映らなかった強敵は、零下十五度の寒さと全国から集った空前のマスコミ報道陣だった。後日丸山参事官が記者会見で「あさま山荘事件での本当の敵は何でしたか?」という質問を受けた。何でもズバズバいう丸山参事官は、「一にマスコミ、二に警察庁、三四がなくて五に連合赤軍」といい放って話題になったものだ。
取材記者の数は日刊紙、地方紙、月刊誌に週刊誌、NHK、民放テレビ、ラジオなど六百人を超え、カメラマンの数も約六百人。報道センターにあてられた軽井沢署の柔剣道場はいつも鮨詰めの状態で、あらゆる窓に記者会見取材用のテレビカメラが犇めき、毎日午前八時、十一時、午後二時、四時、八時、十一時と六回の記者会見を要求された。
また事態の進展につれて随時記者会見が行われたから、ときには記者会見は午前零時を過ぎることもしばしばあった。この仮設記者クラブは「連合赤軍軽井沢警察署特設記者クラブ」とよばれた。そして軽井沢署の道場に「報道センター」を設けた。
警察側の広報体制は、広報特別幕僚長の私の下に警察庁警備局調査課の菊岡理事官、警視庁国松広報課長、富田幸三広報主任、長野県警の吉沢刑事部長、唐木田秘書課長など警察庁、警視庁、長野県警の合同広報班十九人が編成された。
私は東京からきたデスク級、キャップ級のベテラン記者たちと話をつけて、野中本部長は原則として一日夕方に一回、あとは丸山参事官、口公安部長、それに私が交代で記者会見を行うこととし、その間随時吉沢刑事部長や、菊岡理事官、国松課長らも会見に応ずることとなった。それでも一日六回の記者会見ということは警察側にとっては大変なプレッシャーである。
強行偵察から帰って特型警備車から降りるや否や、数十人の取材記者にとり囲まれて、「牟田さんの生存は確認しましたか。犯人の特定は?」と質問の雨あられだ。本部長に報告するのが先なのに、身動きもできやしない。
道場に入って床をギッシリ埋めつくして犇めいている記者団を見渡すと、第二次反安保闘争警備以来の顔なじみ、読売の森暉夫、伏見勝、大内孝夫、河西和信、安部誠一、朝日の梅村鏡次、富永久雄、毎日の前田明、NHKの船久保晟一、石岡壮十、東京の吉村俊作、大熊秀治、日経の田村哲夫、サンケイの松浦和英、山村嘉昭、各記者などなど、ある者は笑い顔で、ある者は険しい表情でつめかけている。
「なんだい、こりゃ。“赤軍だよ、全員集合”だな」と、当時流行の人気テレビ番組、ドリフの「8時だヨ! 全員集合」にひっかけて冗談をいうと、みんな白い歯をみせて笑う。
記者団からの要求に応じて、東大安田講堂事件のときと同様、日本電電公社にかけあって、加入電話百回線ケーブルを軽井沢署にひいてもらい、そのうち二十二回線を記者クラブ専用として仮設した。
記者会見は、時には殺気立つこともあった。みんな寒さと疲労でイライラしていて、警察側も記者側も睡眠不足の“マイナス頭”で気が立って喧嘩ッ早くなっているから、無いものねだりの記者たちの要求に警察側が対応し切れず、小競りあいが絶えなかった。
ネガティヴ記者会見
記者団の特ダネ争いの焦点は二つだった。一つはいわゆる「Xデイ」すなわち強行突入の日取りはいつに決ったかということ。もう一つは、人質牟田泰子さんは生きているのかどうかということだった。
この特ダネを争ってただでさえ睡眠不足なのに丸山参事官や私は夜討ち朝駆け、各社いれかわり立ちかわりの取材攻勢でヘトヘトだった。なかにはこんな悠長な記者もいる。
「報道センター」こと、軽井沢署の道場で約六百人の記者を相手に午後三時の定例会見をすませ、そそくさと警備本部に戻ろうとしていた私は「佐々さんッ」と声をかけられた。
ふりかえると公共放送のある著名な解説委員がニコニコして立っている。
「やあ、しばらく。元気?」「ええ、まあ(元気にきまってるだろ、見りゃわかるだろうに)」
あたりを見廻して解説委員氏、
「うるさいねえ、ここ。どこか静かなとこ、ない?」(そんなとこ、あるわけないじゃないの、この騒ぎで)
「それで何です?」「うん、連合赤軍の話、ジックリ聞きたくてね。明晩のニュース解説、ボク、担当なもんで」「連合赤軍の話ってどこから?」
「どこからって初めから」(冗談じゃない)「あのねえ、私、警備実施の幕僚長もやってんだよ、広報も私の所管だけど、アナタ、ここには四十九社、一千人以上の報道関係者がいるんだよ。お宅とだけ単独インタビューやったらそれこそ“クラブ総会”ものだよ、吊し上げくっちゃうよ。それに連合赤軍の話、初めっからだなんてダメだよ、少しは自分で勉強してよ」
長野県警の広報班員もこのような世紀の大事件の、途方もなくスケールのでかい事件広報だから時々どう処理してよいか、分からなくなる。
「局付さん、午後三時の定例記者会見ですが、情勢に進展がなくて発表事項がないもんですから、会見は中止と言いましょうか」
「いかん、いかん、発表事項があろうがなかろうが、約束の定例会見はやらないといけない。キャンセルすると、本当に何にもなくても、あッ何かあったな、隠してるな、他社に特ダネ抜かれちゃ大変と疑心暗鬼になって一斉に道場から出て取材に歩きまわるものなんだ。折角六百人がこっちを信頼して道場でジッと待ってんだから予定どおりやらんといかんのよ。こういうのを“ネガティヴ記者会見”っていうんだ。やってみせるから後学のため見ておきなさい」
広報班員を従えて人いきれでムンムンする「報道センター」こと道場に入ってゆくと、待ちかねた約六百人の記者たちが一斉に居ずまいを正し、メモ用紙とペンを構え、窓という窓からのぞいているカメラの放列が撮影準備をはじめ、テレビ用のライトがつき、カメラが廻り出す。
「では午後三時の定例記者会見を行います。午後三時現在、『あさま山荘』の状況変化なし。従って発表事項なし。以上」
みんな、なあんだとガヤガヤするがそれで納得するのである。ある者は仮設電話で本社のデスクに「午後三時 何もありません。佐々局付の定例会見。ハイ、そうです」なんて報告している。
そして二月二十六日午前十一時三十分から軽井沢の「ますや旅館」二階の大広間で新聞、雑誌、テレビ、ラジオ四十九社のキャップたちを集めた史上空前の報道協定会議が開かれる運びとなるのである。
空しい呼びかけ
依然として籠城している犯人たちの四人目、あるいは五人目がいるとすれば五人目が誰なのか、わからない。
しかし、いままでの情報を総合して判断すると、七人のC・Cメンバーの一人、京浜安保共闘の横浜国大生、寺岡恒一(24)がいる公算が大きいということになった。
そこで二月二十六日、寺岡恒一の両親、寺岡一郎さん(60)百合子さん(50)のご両人にも現場に御足労願って呼びかけをするよう説得した。
午後六時四十分、すでに夜のとばりが下りて真っ暗となった山荘脇の広報車から約三十五分間、寺岡夫妻による説得が行われた。
「君たちの理論は正しいかもしれないが、私たちには理解できなかった。大衆の支持も得られなかった。独走してはならない。泰子さんは君たちの姉さんに当る。かよわい女性に危害を与えてはならない。人間愛があるならまず泰子さんを返すことだ。君たちの評価はこれからの君たちの行動にかかっている」
初老の両親たちが零下十五度の酷寒の闇に骨まで凍りつきそうになって切々と訴える、まさに声涙|倶《とも》にくだる呼びかけに、聞きいる隊員たちも報道陣もひとしく深く同情した。
しかし、何とも残酷な話だが、寺岡は山荘内にはいなかった。いや、それどころかすでにこの世の人ではなかったのである。彼は四十日前に榛名山の山岳アジトで同志たちにアイスピックでめった突きにされるなどして処刑され、裸にされ、冷たい地中に埋められていたのだった。
後日談だが、この寺岡の御両親の空しい呼びかけを山荘内できいていた坂口弘は後年その時の心境を次のような短歌に綴って同志殺しの罪を懺悔している。
「T君の死を知らぬ父上の呼掛けを籠城の吾ら俯きて聞く」
[#改ページ]
世紀の報道取材協定
晴天が続いていた軽井沢だったが、二月二十六日(土)の朝から天気が崩れてきた。
外は小雪が舞っている。天気予報によれば今日から関東地方山沿いは大雪になり、軽井沢も十〜十五センチの積雪が見込まれるという。「二・二六」か。そういえば三十六年前、昭和十一年の今月今日は昭和史に残る皇軍兵士のクーデター、「二・二六事件」の起きた日で、その日もやはり大雪だった。
軽井沢町の「ますや旅館」の火の気も乏しい寒々とした大広間は、熱気に溢れ、烈しい議論の応酬で喧騒を極めていた。長野県警本部と「連合赤軍軽井沢事件特設記者クラブ」加盟各社代表との間で「Xデイ取材報道協定」締結のための大会議が催されていたからだ。
「Xデイ」とは牟田泰子さん救出のための強行突入作戦の決行日のことである。ある時記者会見で私がアイゼンハワーのノルマンディ上陸作戦決行日の呼称「Dデイ」になぞらえてそう言ったのがマスコミ用語となり、それが長野県警にはね返ってきて「ますや旅館」では「X作戦取材報道協定」と題する公式文書になって出席者に配布された。
ワードメイカーの私は内心公式の名称とするのはまずいなと思っていた。果せるかな、二十七日の夕方警察庁からお叱りを受けて「X作戦」の名称は「牟田泰子さん救出作戦」に変更された。
会議は午前十一時半に始まったが、なにしろ日刊紙二十社、ラジオ・テレビ二十社、月刊誌、週刊誌など十六社、合計五十六社(ますや会議出席は四十九社)の合同取材報道協定だから長時間に及ぶ激論が交され、話し合いが決着したのは午後三時過ぎだった。
出席者は各社を代表するデスク、キャップ級の大物記者たちだから一筋縄ではいかない。私の例の能率手帳の該当ページには、次のような出席者名簿がメモされている。多分着席順に記入したのだろう。
「東京・小池、共同・高木、ニッポン放送・堤、日テレ・荻原、TBS・鈴木、朝日・和田、大阪・宮本、サンケイ・大関、毎日・山崎、読売・博多、池田、文化放送・成内、群馬テレビ・服部、週刊新潮・田島、明星・ポスト・崎原、日経・牛越、時事・寺崎、信濃毎日・岩本、小学館・女性セブン・小林、NHK・船久保、中日・風岡、TBS・小林、朝日・相田、信越放送・堀込、長野放送・フジテレビ・片山」
新聞と雑誌とラジオ・テレビでは締切り時間が全部違うから警察側に対する情報要求が異なり、とくに定例記者発表の時間についての注文がまちまちだから困ってしまう。
テレビは夜のゴールデンタイム、とくにニュースは午後七時、九時が大切だから夕方の記者発表を望む。ところが新聞はそんなことをされると翌日の朝刊がラジオ・テレビの二番煎じになってしまうから朝刊締切りギリギリの深夜の発表を要求する。
夕刊の締切りが午後一時だから午後二時なんかに重要事実の記者発表をすると夕刊に載っていないことをラジオ・テレビが報道するということになるわけだ。
ごく普通の刑事事件だってもめるのに「あさま山荘」事件のような世紀の大事件ともなると各社とも“特オチ”したら大変だから目の色が変る。一触即発、掴みあいの喧嘩になりそうな険悪な「ますや旅館」の広間に突然爆笑が起こる。
ちとピントはずれなのが一人、乱戦に割り込み、自社の権益を主張し始めたからだ。
「警察はですねえ、我が社の締切り時間のことも少しは考えて発表の段取りを決めてほしいですねえ」
目を血走らせ、殺気立って激論を交していた記者たちが一斉にその男を見る。
「お宅、どこ?」と誰かが訊ねる。するとその発言者はある知識人向けの月刊誌の社名を言う。すると満場がどよめき、誰かが、「何いってんだ、お宅の締切り、月に一度じゃねえか、我々は毎日分秒を争ってんだぞ」
満場笑い崩れ、俄かに緊張がほぐれた。
時々修羅場にはこういうトボケたのがいて、それが救いになるものなのだ。
果しなく続くかと危惧された長い議論も、NHK・船久保、東京・小池、朝日・相田といった警視庁記者クラブのボスたちが調整役に廻ってくれたお蔭でなんとかまとまり、前例のないほど包括的で大規模な取材報道協定が締結された。警察側としては二十六日中になんとか報道協定を成立させたいというのが切実な願いだったのだ。
なぜならば、その段階ではまだ秘密だったのだが、「Xデイ」は実は二月二十七日だったからだ。野中本部長は二十五日夜開かれた極秘の作戦会議で、人質牟田泰子さんは心身共に限界状況にあると判断せざるを得ないとして、二十七日早朝を期して突入救出作戦を決行する覚悟をきめていたのである。
そうなると二十六日夜までには車体の重さだけで約十トンの大型クレーン車と約一トンの大鉄球とを、クネクネ曲って凍てついた山道を運び上げ、標高約一千百メートルの「あさま山荘」南側正面玄関前路上の土塁の蔭に据えつけなくてはならない。
かりに深夜、カンバスでカバーして運んだとしても、二十四時間態勢で密着取材している約一千二百人の報道陣の目を誤魔化すわけには到底ゆかない。
ラジオでこちらの戦術の手の内を放送され、犯人たちに傍受されたら私たちの苦心も水の泡だ。大鉄球作戦は絶対に奇襲攻撃でなくてはならない。だから早く報道協定を結んで敵に手の内を教えるような事前の報道に縛りをかけて、作戦開始後解禁とする必要があったのだ。
報道ヘリコプターも十六機もきている。勝手に飛び廻られては空中衝突や墜落の危険もあるし、超低空に降りてくれば警察通信の電波妨害になるし、下から犯人たちに狙撃される危険もある。
だからヘリ取材は、日本新聞協会の「航空取材に関する方針(昭和46・6・9)」を厳守してもらい、一千フィート以下の低空飛行をしないことを申し合わせておかなくてはならない。
協定成立後は軽井沢警察署道場に仮設された「連合赤軍軽井沢事件特設記者クラブ」加盟社は腕章、社旗、身分証明書を携行着用し、非加盟のフリー・カメラマンやトップ屋などの立入りを記者クラブ幹事の名において禁止させることも大切だ。
なにしろ危険極まりない現場であり、無秩序な取材競争は取材記者が被弾したりテレビ中継車が凍った山道で滑って崖下へ転落するなどの事故を招くおそれもあり、犯人逮捕後は警察官の指示に従って山側の道路端に張ったロープの内側に並んで取材するとの申し合せも行った。
人質を無事に救出しても心身共に疲労の極限と思われるので、記者会見は医師の診断により面会謝絶とされた場合は取材競争を差し控えること。
万一機動隊が犯人を射殺した場合、その全責任は県警本部長が負うこととし、射殺した警察官の氏名は一切公表しないことなども決めた。
これは昭和四十五年(一九七〇年)五月十二日、広島で起きた「ぷりんす号シージャック事件」の反省から導き出した教訓である。
「ぷりんす号事件」とは自動車窃盗犯川藤展久(20)が福岡、広島、松山と逃げ廻り、警察官三人に重傷を負わせ、広島港でシージャックした瀬戸内海汽船、今治航路の観光船「ぷりんす号」に船客を人質にして立て籠り、ライフルと警察官から奪った拳銃を乱射、これを大阪府警から応援に派遣された機動隊のライフル射手が射殺したという事件である。
この事件で札幌の左翼系弁護士がライフル射手の巡査部長を殺人罪で告発し、長期に亘る裁判沙汰になったという、誠に日本的なケースで、警察はこの再発を防ぐため命令権者の県警本部長が全責任を負うこと、という方針を固めて報道協定に臨んだのである。
警備実施が終ったあとの「あさま山荘」の取材については、取材班を十人ずつのグループにわけ、三分ずつ写真を撮ったら交代、そして抜け駆けを防ぎ、公平を期するため、先に出てきた記者たちを機動隊が囲んで数台のバスに乗せ、全員揃ったところで前後をパトカーで挟んだバスの車列を麓のレイクニュータウン管理事務所前まで誘導し、そこで解禁し、あとは自由競争といった細かい手筈まで決めた。
報道協定の締結は難航し、午後三時頃までかかったが、幸い事件の性質上人質の命にかかわる問題であるところから、報道陣の協力を得られ、協定調印の運びとなった。これがどんなに難しい仕事であるかは、一度でもこの手のマスコミの取材合戦の渦中に巻き込まれた経験のある方ならお分りだろう。
この協定実現の過程では、菊岡理事官や国松広報課長が根回しに苦労したが、特筆すべきは富田幸三警視庁広報課主任の貢献である。
富田主任は階級こそ警部補だが長年警視庁の広報課を裏で取り仕切ってきた|主《ぬし》的な存在で、彼が口を開けば約三百人の警視庁詰めの社会部記者の|猛者《もさ》たちが言うことをきくという得難い人材で、だからこそ凸凹幕僚団の一員として招集されたのである。
この協定は翌二十七日新聞協会と警察庁との間でも調印された。まさに世紀の報道協定だった。
拍 子 抜 け
報道協定も成立し、報道態勢が固まったので、私は現場の戦術にかかわる作戦会議に出席することにした。その前にもう一度「あさま山荘」の現場を見にゆく。
チラホラ雪が舞い、寒気は厳しく、頭が締めつけられるように痛い。耳は千切れそうで、呼吸をすると鼻の奥や気管支がツーンと痛む。
私は「正ちゃん帽」をかぶった上にヘルメットをつけ、防寒黒革ジャンパーにグレイのマフラー、黒革手袋、出動靴といういでたちだ。
一昨日紺のオーバーに背広で最前線に行こうとしたら宇田川警視に呼びとめられた。
「局付、ちゃんとヘルメットかぶって革ジャンパー着て下さい。現場の隊員から苦情が出てますよ。私服で来られると犯人たちが偉い奴がきた、私服の指揮官だって狙い撃ちして弾が飛んできてハタ迷惑だから、まわりと同じ格好してくれって」
そんなことを言われても私は頭が大きいのでふつうのヘルメットは入らないのだ。大体私は幕僚要員だからヘルメットも防弾チョッキも割り当てがない。
仕方がないから三機の特型警備車に積んであった、白ペンキで「3」と識別番号が塗ってあるヘルメットを「これ、借りるよ」と断って借り、内装のウレタン・フォーム製の顎ひも付きクッションをむしり取って正ちゃん帽の上からかぶる。顎ひもがないから走るとガフガフ脱げそうになる。
「正ちゃん帽」とは、毛糸で編んでてっぺんに毛糸の玉を付けた防寒帽のことだ。一九二三年(大正十二年)朝日新聞に連載された樺島勝一の漫画「正チャンの冒険」の主人公がかぶっていたことから、そう名づけられた。防弾チョッキはすごく重くて体が曲らず、転ぶと亀みたいになって起きられないので、着用しないことにする。敏捷に走り廻っている方が被弾率が少い。「正ちゃん帽」をかぶると子供っぽくて上級指揮官としての威厳を損うところはあるが、この寒さでは仕方がない。
事件発生以来、冬眠状態だった夏のリゾート軽井沢町は、蝗の大群に襲われた寒村の麦畑みたいな憐れな状態となり、暖房器具、灯油、木炭、小型テレビ、携帯ラジオ、毛糸の防寒衣、煙草、お菓子類など、あらゆるものが売切れ、警備本部のテレビも一台で、一社の放映しか見られないのでテレビの緊急調達に人を派遣したところ、軽井沢はもとより、小諸、松本も売切れ、とうとう長野で入手するという騒ぎ。読売の河西記者曰く「ラーメン屋に入ったら散々待たされたあげく、前の客が使った、濡れた割箸で食わされて気持ち悪かった」そうだ。だから私のかぶっている正ちゃん帽も長野県警のロジスティックス班が苦労して入手してくれた貴重品なのだ。
報道協定も成就し、決死隊の編成や戦術会議もすませ、現地警備本部に戻ると、本部は騒然としていて丸山参事官がしきりに東京と電話で応酬している。野中県警本部長は腕組みし、憮然としている。
「どうしたんですか?」「大雪注意報だから大事をとって決行日を一日延期しろって言って来たんだよ、警察庁から」
聞けば明日の天気予報は大雪で、関東北部は十五センチから二十センチの積雪が見込まれるとのこと。みんな明朝決行と覚悟を決めているのに一日延期か。現場の状況判断は現地指揮官に任せたらいいのに。だが仕方がない。
「一日延期だとさ」とみんなに伝える。折角張り切っているのに延期されると拍子抜けしてしまう。
最後の警備会議
二月二十七日(日)、天気予報ははずれた。たしかに雪は降っているが大雪ではない。この程度なら今日でもやれたのに……。
午前十一時二十七分、ずっと掛け続けていた山荘の電話に初めて誰かが出た。誰かが受話器をとったのである。説得班が勢いこんで話しかけるが、相手は黙って電話を切った。一体誰が、なぜ出たんだろう?
二十七日午後、“X作戦”実施に関わる最後の大警備会議が軽井沢署訓授室で開かれた。
野中本部長より、「人質の心身の健康状態は百九十八時間の監禁でもう限界と判断する。従って明二十八日を期して強行突入し、人質救出作戦を決行する。人質の救出を最大の任務とし、焦らず、我方にも犠牲者を出さないよう時間をかけて実施する。なお銃による抵抗に対しては私の責任で拳銃使用を命ずる」という訓示が行われた。その後、私から警備方針及び作戦計画、警備戦術について具体的で徹底した指示を行った。
「この警備に自衛隊を出動させよという一部政治家の意見もあるときくが、本警備は長野県警を中心として警察だけの力でやり遂げる。オール警察軍の精神で小異を捨て大同に就き、各人割り当てられた任務を完遂せよ。
犯人たちは銃によってこそ革命が成就すると確信している。我らは彼らが革命の英雄でなく国民の敵であることを立証するのだ。それが本警備の大目的である。過去に多くの犠牲者を出した凶悪事件を犯した彼らに法的制裁を加えるのだが、警察庁の方針は彼らを生け捕りにし、国が公平な裁判を行って厳罰に処することだ。殺すと彼らは英雄になり革命の殉教者となる恐れがある。抵抗している間は仕方がないが、検挙してから私的な制裁を加えることは許さない。国民注視の警備であることを銘記せよ。厳正な規律の保持に努め、いやしくも立小便などしているところを写真撮影されたりテレビ放映されることのないよう心せよ。
装備資機材を最大限に活用して警察官に犠牲者を出さないよう細心の配慮を望む。場合により拳銃使用もやむなしと考える。
後方の交通規制、補給も重要な任務である。全警察官は見物人になってはならない。攻撃部隊を助けて全力を挙げよ。報道機関も報道協定を結んで警察に異例の協力をしている。協定に則って取材協力を惜しむな。
情報連絡の徹底に努めよ。情報は決死隊の生命にかかわる問題である。すべて情報は実施部隊に徹底するよう連絡を密にせよ。
各人、人事を尽せ、そして天命を待て」
これまで幾多の大警備に携ってきたが、これほど気合をいれた指示をやったのは初めてだった。実は東京からの情報だと自民党タカ派の議員たちの間から「機動隊のやり方は手ぬるい。自衛隊の空挺部隊を出動させろ」という自衛隊治安出動論が台頭し、後藤田警察庁長官が断固これに反対しているという。
また警察内部でも犯人たちを射殺せよ、現場は何をしているという強硬意見が強く、中村寅太国家公安委員長も「銃器を使うと人質にあたるといけないというなら短刀を持っていってグサッとやってしまえ」などと言い出したとも聞く。
事実、帰京後私が国家公安委員長に直接警備実施状況の報告をしたところ、「短刀で刺してしまうことは出来なかったのか」との下問があった。
私はそれこそまさに連合赤軍の思う壺だと反対していた。
自分たちが銃と爆弾とで武力革命の起爆剤となり、国民の心に潜む革命的エネルギーに火を点けると主張しているのだから、自衛隊が治安出動などしたら国会は大混乱し、マスコミも敵に廻り、国論を二分する政治危機になってしまうと考えていた。
だから警備会議の席上であらためて警察だけでやるという決意表明を繰り返したのだった。
「なに? もう一日延期だと」
そこへ警察庁からとんでもない打診があった。
決行日をもう一日延ばしたらどうだろうと言って来たのだ。なんで? 中央気象台に照会したら二十八日も大雪注意報で十五センチから二十センチの降雪が見込まれているので、車輛スリップ事故などが懸念されるからだという。
冗談じゃない。この警備は雪で滑って危いなんてものじゃないんだ。毎日毎日犯人たちは撃ちたい放題警備部隊に向って発砲し、すでに民間人一人が重態(三月一日死亡)、機動隊員が四人も撃たれているのだ。昨夜現地の軽井沢では「二十七日決行」と決め、本部長以下覚悟を決めていたところを「大雪注意報だから」といってすでに一日延期させられた。決死隊の人選も終り、すべて準備を整え、いざやるぞと士気を盛りあげたところなのに、上の方は何を遅疑逡巡してるのだ。
第一線が決死の覚悟をしているのに中央が優柔不断の一日延しは困る。
丸山参事官が怒って警察庁警備本部に電話している。
「一体何のために私どもを現地派遣したんですか。少しは私たちを信頼して現地の判断に任せたらどうですか」
と叫んでいる。私も警備課長に断固予定通り決行させてほしいと強硬に意見具申する。そして……また一つ、言わずもがなの言い過ぎをしてしまった。
「一日延せば明後日は二十九日でしょうが。今年は|閏年《うるうどし》だから二十九日があるんだ。閏年は四年に一回しか来ないんですよ。もし殉職者が出たらどうするんです。四年に一回しか命日、来ないじゃないですか!!」
これが私の悪い癖なんだと後から反省する。
現地派遣幕僚団の剣幕の烈しさに驚いたのか、警察庁は一日延期の示唆を撤回し、予定通り二十八日決行と決った。一日延しの不決断は決死の覚悟を決めた隊員たちの士気を足元から掘り崩してしまう。
たしかに私たち現地派遣幕僚団は、私もふくめ「フロントライン・シンドローム」(第一線症候群)に罹っていた。後方の安全なところから実情にあわない指示をしてくる警察庁に対するフラストレーションは、もう爆発寸前、ギリギリの限界に達していたのである。
また一人、身代り志願者が来訪したとの報告。もう十九人目である。一人はすでに撃たれ重態となっている。今度のもフツウじゃない。思い込みが烈しいというのか、ものの|怪《け》に取り憑かれているというのか、家を出るとき裁断器で切断したという小指を差し出して、「この決意を汲んでほしい」と牟田泰子さんの身代りになることを申し出て来たという。丁重にお断りしてお引き取り頂く。
「それは武士道に反します」
首脳部が鳩首して警備会議中の署長室に、国松広報課長が入ってきた。みると「正ちゃん帽」をかぶったまま、完熟トマトみたいに真赤な顔をし、目は血走ってボウッと焦点があわない。そのまま部屋を通過して出てゆく。
と、また署長室に入ってきて通り抜けてゆく。
「何やってんだ、国松君」と声をかけると「山内警備部長を探してます」「そこにいるよ。どうした。顔が赤いぞ」「はあ、熱がありまして……」「そりゃいかん、すぐ梅沢先生か中島先生に診て貰え」
警視庁の医師梅沢参事官に診察してもらうと、熱が三十九度あるという。すぐ休めというが絶対に休まないと頑張る。ゾンビみたいにもうろうとしながら歩き廻っている。流石に東大剣道部のキャプテン、気力体力人に勝っている。「ますや旅館」の報道協定の時もすでに風邪を引いて発熱していたらしい。
国松孝次警視も私ともども赤軍に悩まされ続けてきた警察幹部の一人である。
前にも述べたように、彼が本郷の本富士署長に赴任した直後、赤軍派によって本富士署が焼打ちをくい、署長室が炎上するという事件が起き、犯人たちを取り逃したと聞いて激怒した秦野章警視総監が国松署長の査問会を開いたことがある。
いくぶん瞬間湯沸し器的なところのある猛烈総監だから、国松署長の運命や如何にと立会人の私は内心ハラハラして見ていた。ところが国松署長は落ち着き払って「なぜ犯人たちを検挙できなかったか、理由がわかりました。本富士警察署は古い建物で|公廨《こうかい》(署玄関内の大部屋事務室のこと)からの出口のスウィング・ドアが狭く、完全装備の機動隊員だとつかえてしまったからです。早速改造しました。もう二度と失敗はしません」と鮮やかな申し開きをした。秦野総監もすっかり煙に巻かれ、それで査問会はお開きとなった。
私がこの後輩の本富士警察署長を見所があると思ったのは、その後の事だった。
東大当局はちょっとでもヘルメットの学生の姿を見るとやたらに機動隊出動を要請して来るようになり、秦野総監が「少しはガードマンか何かで自主警備しろ、以後オレの許可なしには東大には一兵たりとも機動隊を出すな」と|癇癪《かんしやく》を起こした時の事だ。
国松署長がこの措置に猛然と反撥して警備第一課長だった私に、「総監の考えは“武士道”に反します」と抗議して来たのである。
出動要請を渋った東大当局に対して、上智大方式の機動隊常駐警備でトコトン守ってやるからといって出動要請にふみ切らせたのは警視庁じゃありませんか。大学教授なんてもともと弱い人たちでその弱い人たちを守るための機動隊を一兵も出さないなんて言うのは、「武士道に反します」と言うのである。
まさに正論なのである。だが私も警視総監の命令に背くわけにはゆかない。
私も昭和元禄のサムライを以て任ずるアナクロ。そこへ七年も後輩なのに「武士道に反する」などという、私と同じような時代錯誤がいるのかと思うと嬉しくなった。
そこで妥協案を捻り出す。「国松君、君の説は正論である。だが警視総監の命令だから正規の機動隊は一兵も出せない。警備第一課長の権限で出来る事は『五方機』(本富士署の属する警視庁第五方面本部の方面機動隊の事)を出すことだ。五方機を一個中隊編成して本富士に預けるからそれで東大警備をやってくれ」と答える。
実際その頃大学管理法施行直前で廃校になっては大変と紛争大学が一斉に機動隊出動による学園正常化を要請して来て、警視庁機動隊は東奔西走、南船北馬、昭和四十四年だけで実に七十五回に亘るバリケード封鎖大学の城攻めで寧日なき日々だったのである。国松署長は五方機一個中隊の応援で東大を守り抜いた。
そういう「武士道」精神の国松広報課長だから、休めと言ったって休むわけがない。好きにさせておくことにする。
電線は切ったはずです
警備本部では警備実施計画の最終チェックが始まった。何百項目という確認事項を一つ一つ確認してゆくのである。警備実施の指揮官というものは、いわばオーケストラの指揮者と同じである。コンダクターがすべての楽器の出す音とそのタイミングを頭で暗譜しているように、警備指揮官は“槍先”のことから後方支援のロジスティックスまで全部掌握していなくてはいけない。
「車輛の駐車場所、確保したか?」
なにしろ警視庁の大型車輛だけでも防弾特型警備車、高圧放水車、多重無線車、キッチン・カー、バス型輸送車など合計六十輛。長野県警などの車輛が百二十一輛。駐車位置の指示だけで一仕事だ。
「はい、確保済みです」
「救護隊の編成、チェックしろ」
「はい、救護班は警視庁梅沢参事官、中島理事官の両医師、松本幾子婦長ら十人、医療救急班は県警医師二人、看護婦三人、救急員十四人の合計十九人、警備本部には兒矢野晨二健康管理本部課長。
救急病院には軽井沢病院など八病院、十七ベッド、救急車八台確保してあります」
「ようし、県警嘱託の監察医の待機、手配済みだね?」
これは万一牟田泰子さんが遺体となって発見されるという最悪の事態に備え、直ちに死因、死後経過時刻などを鑑定してもらい、即座に記者会見に応じられるようにするための念のための用意である。さもないと極左弁護団や過激派シンパのマスコミは機動隊が殺したなどと言い出しかねないことを過去の多年の苦い経験で知っているからだ。
「クレーン車操縦席の鉄板による防弾加工は?」
「はい、順調に工事中で明朝一番には間に合います」
「放水用の水の確保はできたか?」
「NHK山荘下のレイクニュータウン簡易貯水槽に八十トン。山荘西約百五十メートルの地点にカンバス製仮設水槽で約三十トン」
高圧放水は一分で約二トンの水を打ち尽してしまうから、これで五十五分間の放水用水を確保できた。
会議に列席していた特科車輛隊付の高見繁光警部(42)が立ち上り手を挙げて質問する。
「明日の天候、気温はどうですか?」
長野県警の幹部がなんでそんなつまらんことを今ここで聞くのという感じで、
「そんなことは後にして……」と高見警部の質問をさえぎる。
高見警部は、「私は特車の技術担当です。放水のためには明日の天気予報は大切な情報なんです」と頑張る。私が口をはさむ。
「警備部長、すぐ気象台に問い合わせて明日の天候の情報、頼みます。高見警部の言う通り、それは大切な情報ですから」と高見警部を支持する。直ちに気象台に問い合わせて明日の天気予報が報告され、高見警部は満足してうなずく。
確認事項をさらに明日の警備部隊千六百三十五人の弁当の手配、ヘリポートの手配、通信機材や二枚重ねの強化大楯の配分などと一つ一つ点検してゆくうちに、「電線切断」という項目にぶつかった。
そうだ、大鉄球作戦を遂行するのに鉄球のスウィングの弧の妨げになる恐れのある山荘に引き込まれた送電線や電話線をXデイ・マイナス・一日の夜陰に乗じて電信柱に上って切断しておくという措置をとる事を思い出した。
「おーい、電線切ったか?」「ハイ、切ったはずです」
「これは最終確認作業なんだ、以後『はずです』とか『思います』という答えは認めない。すぐ確認しなさい」と注意すると、県警の警備幹部がすぐ確認に走る。
戻って来て「確認しました。切ってあります」「ようし、チェック」と、その項目に確認済みのマークをつける。
作戦会議を終えて署長室に戻ろうとすると「局付さん」と高見警部が寄って来た。
「どうも警備会議では私を支持して下さって有難うございました」と言う。
当り前の事だ。「君の質問の意義の重要性は経験がないとわからないからね、気を悪くしなさんな」と言うと、高見警部は「では明日、また」とニッコリ笑って別れてゆく。
神ならぬ身の私は、これが高見警部との|永遠《とわ》の別れになろうとは露知らなかったのである。
それから私は内田二機隊長の部屋を訪ねた。ジョニーウォーカーの黒ラベルを一瓶、陣中見舞いに持って行き、内田隊長に渡す。
「御苦労様、皆で一杯やってよ」内田隊長はニコニコしながら差入れのウィスキーを受取り、「有難く頂戴します。明日警備を終えたら打ち上げの時に封を切りますわ」と答える。
今ではジョニ黒といっても若い人は別に有難がらないだろうが、昭和四十七年当時は、ジョニ黒といえば大変な高級品で貴重なものだった。
決死隊の警備会議に顔を出すと古参の隊員が緊張し切っている若い隊員に「警察法第二条の責務を果すには我々警察官は身の危険を顧みず身命を賭して任務を遂行しなければならない。明日はいよいよその日がやってくる。お互いに力を合わせて頑張ろう」と気合をいれている。
太平洋戦争の神風特別攻撃隊員がいよいよ明日は敵艦隊に突入するという晩にはこんなシーンもあったのだろうか。
その脇では強行突入の戦術を工夫している組がいる。自動車のバックミラーを棒の先に取りつけて、身を射撃の死角に置きながら部屋の中、曲り角の向うを偵察しようというのだ。
決死隊の指揮官は、先日強行偵察に同行した山野重俊警部補だ。私と目が合うと黙ったまま目礼する。
「内田隊長、これが最後の御奉公だね、頑張って下さい」帰りがけに私は内田隊長に声をかける。
後日私はあの時一体何ということを言ってしまったのかと唇を噛んだ。
今でも思い出す度に悔やまれる痛恨の失言だった。
第二次反安保闘争の嵐が吹き荒れた頃、内田警視を公安部から“是非貰い”して警備部第二機動隊長にしたのは実は当時警備第一課長だったこの私だった。
そして長期に亘る、文字どおり命がけの機動隊長の任務もそろそろ満期除隊ということで、この「あさま山荘」警備が終ったら彼は三階(警備部)から元の古巣の四階(公安部)の故郷に錦を飾って栄転し、晴れの公安第一課長に就任することに内定していたのだ。最後の御奉公とはそういう意味だったのだ。
戦術検討会をあとにして本部に戻ると、宇田川警視が寄ってきて囁く。
「隊員たち、局付をとても信頼しています。警視庁でもいつも陣頭指揮だったでしょう。当時も隊員たちは『おい、一課長が現場へ来てるぞ、今日のは荒れる警備らしいぞ』と囁きあったものです。いま決死隊の連中が集って話し合っているのをきいてたら、
『佐々警備一課長が現場指揮してるんだ。あの人の指揮した警備で殉職者は一人も出ていない。だから彼を信頼して作戦計画どおりやろうじゃないか』
ってしんみり話し合ってました」
何ということだ。責任の重大さに顔がひきつる思いがする。おいおい、宇田川君、プレッシャーかけるなよ。俺、神様じゃないんだから。
この土壇場になって警察庁からまたまた細かい指示が来る。
「決死隊から長男をはずせ」
日露戦争の時代と違うんです。次男、三男なんて貴重品で、今時ほとんどが長男。一人っ子でなくても男の子一人、女の子一人で打ち止めの家族計画が大流行なのです。決死隊員はすべて志願者です。それ以上何をお望みなんですか。「長男は手を挙げろ、長男は列外ッ」なんてこの土壇場で言えるとお思いなんですか。
「ではせめて妻帯者を除け」
指揮官に独身者はまず居りません。私もふくめ小隊長以上は妻帯者であり子持ちです。私の伝令の|後田《うしろだ》巡査もこの間赤ん坊が生まれたばかりです。人選は現場にお任せ下さい……。
警察庁の親心は有難いけれど、全然実情にあわないんだな、これが。
ヘルメットに白線を巻いた指揮官表示をとる、とらないで一悶着があった。指揮官が次々と狙撃され、「大尉の墓場」といわれたベトナム戦争の米軍の戦訓に則って、私は指揮官は指揮官表示を剥いではと提案した。
警視庁機動隊の指揮官たち、とくに内田二機隊長が強くそれに反対した。
「そんな事をしたら士気にかかわります」と言う。「機動隊は指揮官先頭が光栄ある伝統であります」
「それは分るが、敵に知らせる必要はないでしょう。ヘルメット後部に指揮官表示をしてはどうですか」
「いや、このままやらせて頂きます」
それも立派な哲学だ。私も自説を固執せず隊長たちの意向を尊重することにした。
ちなみに白線の階級章は細いの一本が分隊長、太いの一本が小隊長、二本が中隊長、警視の機動隊長は三本、太いの二本に細いの一本だ。
ないものねだり
夜に入って決行前最後の記者会見が軽井沢署の道場で行われた。広い道場には立錐の余地もない程各社の記者が坐りこんでいる。五、六百人はいるだろう。
野中県警本部長から人質の体力も気力も限界と判断されるので明日を期して強行突入・救出作戦を決行するとの発言があり、続いて救出作戦終了後解禁というエンバーゴつきで大鉄球作戦をふくめて手の内を明かす記者発表が行われた。
すでに報道協定が新聞協会と警察庁との間でも締結されていたので、「連合赤軍軽井沢事件特設記者クラブ」の加盟各社を信頼しての措置だ。
「本部長、質問」と道場の中央あたりから大きな声があがる。「どうぞ」と本部長。
「明日は『あさま山荘』を何時間で陥しますか。一時間三分ですか、二時間十五分ですか、それとも二十八分ですか」
見ると朝日の梅村鏡次キャップだ。しょうがないな、梅ちゃん、また酔ってる。しらふだといい人物なんだが酒を飲むとからみ癖が出て、ないものねだりをする。
本部長は真面目な人だから困ってしまって、「そんな事はやってみないと分りません」と答える。
「そんな事はないだろう。すぐ隣りにあの“警備の芸術”といわれた東大安田攻めを時計片手に指揮して予定通りに陥したといわれる佐々局付がいるじゃないか。何時間何分で陥すか、答えて下さい」と迫る。
道場の畳の上にあぐらをかいてぎっしり鮨詰めになった記者団は、また始まったという顔付で少々白けて黙りこくっている。ムリ言うなよ……みたいな顔で振り返って梅村記者を見てる若手記者もいる。「答えられないなら質問を変えます。明日の日の出は何時何分ですか、風速は何メートルですか」
さっきから何とか野中本部長の苦境を救おうと間に割って入るチャンスを窺っていた私は、しめたと思った。
明日の天候は先刻県警が気象台で調べて特車の高見警部に答えた結果をちゃんと手帳にメモしてある。ないものねだりは答えられないが、調べりゃわかる事はちゃんと調べてあるってことを見せてやる。
私は横から手を出してマイクをとり、ポケットから取り出した手帳を見ながら間髪を入れず答える。
「日の出、午前六時十三分、日没十七時三十分、天候小雪後晴、時々曇、西の風、風速五メートル、気温零下十五度、以上」
そしてニヤリと笑ってやった。途端に満場哄笑と拍手が起こった。
前列にいた「朝日」の腕章をつけた若い記者が「できたァ」と叫んで手を叩く。
「流石だァ」「立派、立派」という声もあがる。良識ある記者たちはちと眉をひそめる思いで同僚記者の酔余の無理難題を聞いていたのだろう。みると梅村記者もバツの悪そうな顔で苦笑している。
このやりとりで記者会見場はいっぺんに和やかになり、解散となった。
「高原ホテル」に引き揚げると、NHK・船久保、東京・小池、朝日・鈴木、相田、読売・大内、河西、毎日・前田といった古馴染みの記者たちが後を追ってやって来て、コップ酒を飲む。
前田明記者が「オレ、もう限界だよ、佐々さん。早くやってくれよ」と言う。誠に実感のこもったコメントだった。
Xデイの朝
二月二十八日(月)いよいよ決行の日“Xデイ”が来た。窓の外は晴れているが時々|霏々《ひひ》と雪が舞う。七時に起床した私は風呂場で身を浄め、武士の嗜みでまっさらな新しい下着を着ける。昨夜も夜廻りの記者たちの相手で夜ふかしし、睡眠不足気味だが体内には沸々とアドレナリンが湧いて来て気分爽快だ。こうなると私の体の中に流れている遠祖・戦国の武将佐々成政の血が騒ぎ始める。
近くは西南戦争の田原坂・吉次峠の激戦で戦史にその勇名を残した西郷軍熊本大隊|敵愾《てきがい》隊の隊長だった佐々友房は、私の祖父である。
いまその血が脈々と脈打つのが感じられる。朝食を済ませ出動までの束の間を、混雑の合間を縫って高原ホテルから留守番の妻に電話をかける。
「いよいよ、今日やるよ。そっちはどう?」
「巴町の勝郎伯父さんが二十二日急死なさったの。お通夜もお葬式も無事済ませました。こんなときですので主人は出られませんとお詫びしときました。国宏さんも久子ちゃんもそんなことはいいから頑張って下さいって。貴方に知らせてもかえって御迷惑と思って黙ってました」
そうか。東京に身寄りの少い関西出身の妻を日頃暖かく面倒をみてくれた義父朝香三郎の兄、日本橋で古美術商「好日堂」を営む飯田勝郎氏が亡くなったのか。
お世話になった親類だし、久子さんは妻の一番仲好しの従妹なのだから本来なら何をさておいてもかけつけるべきところだが、どうしようもない。任務を終えて帰京したらなるべく早くお線香をあげに行こう。
「それから?」
「康(三男)が熱だして、それが兄弟三人同じ部屋だからすぐ他の子にうつって、今は将(長男)が九度も熱があってうなされて気味の悪いうわごと言うの。“黒いの着てます”とか“お花が綺麗な公園でゴザイマス”なんて。お迎えが来てるのかって心配で心配で……あたしもそんなこんなでアレルギー性の喘息で、胃の調子も悪くて吐き気がして……それより貴方、まさか弾の飛んで来るとこ行かないんでしょうね」
「心配するなって。前へ出るときゃ防弾車の中だって言ったろ? 連合赤軍の主だった奴は山荘に追いつめたけど、まだ十数人所在不明だ。こいつら何するかわからないから、小包に気をつけろ。脅迫状や嫌がらせ電話が来たらすぐ警備の機動隊に知らせるんだよ」
電話で妻の心配そうな声を聞きながら、私の妻であることは大変な事だなとつくづく思う。
将行の流感も心配だが赤軍の復讐もさぞ怖いだろうな。結婚した頃はミッション・スクール出の何も知らないお嬢さんで、当時大阪府警外事課長の警視だった私をつかまえて「貴方、後何年すると巡査部長になるの?」なんてきく有様で、警察のことなど何一つ知らなかった。
警察官の階級は巡査・巡査長・巡査部長・警部補・警部・警視・警視正・警視長・警視監・警視総監となっていて、巡査部長にされたら三階級降格になってしまうのに……。
秦野章警視総監が当時の混迷する政局を批判して「昭和元禄田舎芝居」と酷評し、それが流行語となった時代のことだ。
ほかにもっと楽な道があるのに神のお告げに従って一番困難な道を選んだギリシャ神話の英雄ヘラクレスにちなんで、わざわざ七難八苦の道を選ぶことを「ヘラクレスの選択」という。
昭和元禄の町人国家が栄える中で、わざわざサムライの道を選んだ私の人生は、常に頭上からいつ糸が切れるかわからない“ダモクレスの剣”が吊り下っているような緊張の連続の日々だった。
東大安田城攻めをはじめとするいわゆる“七〇年闘争”とよばれた第二次反安保闘争警備の九百九十日間、無言電話に脅迫状。毎晩深夜に及ぶ取材記者たちの夜廻り。暁の出動に深夜の帰宅。電話には脅迫電話発信源探知の逆探装置。玄関脇には火炎ビンの焼打ちに備えての消火器に防火砂。
その昭和元禄のサムライの妻となったばっかりに、リュウマチに悩む老いた姑、病気がちな三人の男の子たちを薄給で養い育て、教育し、看病するのだから、妻の苦労は並大抵のことではなかったのだ。
何かいたわりの言葉を言わなくちゃと思うけど、うまい言葉が見つからないのでそっけなく言う。
「じゃあ切るよ。もう行かなくちゃ。終ったら電話する」
妻との交信を終えると私は夫であり父であり息子であることをキッパリ忘れ、頭を切り換えて冷徹な戦闘指揮官に立ち戻る。
指揮官はセンチメンタルでは務まらない。「鬼手仏心」を座右銘に部下に危険な任務を命令しなくてはいけない。指揮官は人気稼業ではない。人質の牟田泰子さん救出という、日本国民の期待を担った重大な任務が待っている。
そればかりではない。私は何百人という警察官の命を預かっている身だ。
今日決死の突入作戦に参加するすべての機動隊員には、私に私の事を心配している母や妻子がいるのと同様に、たった今、御先祖様の御位牌や神棚にお線香をあげ、灯明を灯して父が夫が息子が立派に任務を果し、無事生還しますようにと必死のお祈りを捧げている父母兄弟、妻や恋人たちがいるのだ。
彼らを待ちわびている肉親たちの元に無事に連れて帰るのが私の任務なのだ。自分の妻子のことはもう考えまい。
城攻め開始!!
早朝から山荘周辺には融氷剤が撒布された。山頂から陽光が差してきたが依然小雪が舞っている。
本日の警備部隊千六百三十五人。うち警視庁からの応援部隊五百四十八人。防弾装甲に鎧われた角張った特型警備車九輛、アームを折り畳み、モンケーン(大鉄球)をカンバスで蔽って隠した十トン・クレーン車。胴体に二・七トンの水を満載した高圧放水車四輛など、攻城用重車輛が凍った雪の路面を軋ませ、ディーゼルエンジンの音を重々しく響かせながら所定の位置につく。
野中県警本部長は「あさま山荘」から約百五十メートル離れた山蔭の多重八号に、石川部付以下の現場指揮所は隣りの多重六号にそれぞれ前進配備。
丸山、口特別派遣幕僚団十八人も二台の多重車内の配置につく。直接山荘を攻撃する部隊は警視庁二機、九機、七機レンジャー部隊、特科車輛隊、長野県機の合計三百八十二人。九機が北側から突入して山荘一、二階を攻め、二機が南側山荘三階正面から攻めるという作戦である。
七時三十分、特車隊員(特科車輛隊)が山荘南西約百メートルの山蔭に設置された五トン用三個、十トン用四個、計五十五トンのカンバス製などの仮設貯水槽に厚く張った氷をスコップで叩き割る。
そして地上に大蛇のようにうねり、のたうつホースを腰をかがめて走り廻り、ペチャンコにならないよう手で丸くして歩く。
ペチャンコになるとすぐ上下ひっついて凍ってしまい、気圧をかけた送水が来るとそこでホースがピシッと裂けてしまうからだ。
「ホースを踏むな、ホースを踏むなッ」と特車隊員は声を嗄らして行き交う機動隊員や報道陣に警告している。
二機の山野小隊が土塁の蔭で一団となってうずくまっている。三階突入の決死隊だ。隊員たちは実に明朗で、ジョークを交している。
死ぬなよ、皆。「人事ヲ尽シテ天命ヲ待ツ」とはこんな心境なのか。
神様、もしおられるんだったら、どうかこの健気な若者たちを銃弾から守ってやって下さい。
午前九時、警告広報開始。二機広報の|真篠《ましの》和義隊員の抑制の利いた声がスピーカーを通じて軽井沢の山上に流れる。事件当初から一貫してマイクを握りつづけた隊員だ。呼びかけのポイントは三つ。「人質を解放しなさい。武器を捨てて出て来なさい。午前十時までに決心しなさい」
これは東大安田講堂からの退去警告と同じ要領で、このあと三十分前警告、五分前警告と続くが、案文はより短く簡潔になり、次第に命令調になり語気を厳しくしてゆく。広報文案は心理学の先生方のいわれる通り大切なものだから、これは昨夜私が筆を執って作成した。言葉による危機管理である。
正面玄関南東側の土塁の裏に行くと、宇田川警視が潜望鏡式の新型カメラだけを胸壁の上に出し、首はひっこめたままファインダーを覗いて敵情を視察している。
「何だい、そりゃ?」
「いえね、局付から非常招集受けた日にとっさに思いつきましてね、神田の知合いのカメラ屋にかけこんで、これ借りて来たんです。買うと二十五万円もする高級カメラでね、『あさま山荘警視庁御用達だ』っていったら貸してくれたんです」
「どれどれ、俺にも見せろ」といって土塁の蔭からファインダーを覗いて見ると成程これは安全でしかもよく見える。
「これ、貸してくれよ」「ダメです」
そんな押し問答をしてると、内田二機隊長が寄って来た。
「ウダさん、いい物持って来たね、だが現場指揮官として、首ひっこめてるのは、それはどうかねえ」とからかう。
宇田川警視は、
「隊長だと士気にかかわるからどうかと思いますが、私は現場情報ですからいいでしょう。それより隊長、腕まくりはやめた方がいい。撃たれますよ」と忠告する。
見ると内田隊長は黒革防寒ジャンパーの袖口を十センチくらいまくり上げていて、裏生地のピンク色が白い雪の中でとても目立つのだ。
そう言われて見ると私もヤバい。機動隊員にはLサイズが多い。私に貸与になったジャンパーを着ていた北海道警の隊員も大男だったとみえて、私には袖が長すぎ、私も袖口をまくり上げていたのだ。
山荘前の空を見上げた私は、あっと息をのんだ。電灯線と電話線がちゃんとそこにあって、朝風に吹かれて揺れている。昨夜あれだけ確認したのに……。早速現場警備本部にかけ戻る。
「警備部長ッ、電線切ってないじゃないか!!」「いや、切ってますが」「見てみろ、切れてないじゃないか」「おかしいですね、確かめてみます」……といってどこかに電話を掛けていたが、やおらこう言うのだ。
「分りました。昨夜切ったのを確認したと言ったのはですね、送電を切ったという意味でして……」
「送電は二十一日夜に切ったじゃないか。昨夜のはペンチで電線を切断したかという意味だよ。クレーン車の鉄球のスウィングの邪魔になるから切ろうって前から決めてたじゃないか!!」
「では早速今から切らせます」
「もう駄目だよ、日が昇ってからでは。電信柱に上ったら狙撃されてしまうぞ」
結局電線が邪魔になってもそのまま鉄球作戦は予定通り行うこととした。
現実の作戦行動というのはこういうものなのだ。確認しても確認してもヒューマン・エラーというのはどうしても起きてしまうものなのだ。我慢しよう。皆疲れていてマイナス頭になっているのだから……。
九時五十五分、最後の五分前警告が行われる。
山荘内の連合赤軍犯人らは例によって警察側の呼びかけには一切応答せず、山荘は不気味に静まり返っている。
午前十時。多重第六号車の現地統轄指揮所より石川警視正の作戦開始命令が発せられ、その命令は百五十メガ帯の警備波に乗って全隊に示達された。
「各部隊は現時点を以て既定の方針通り行動を開始し、所定の警備に当れ」
十時七分、無言で壁の向う側に|蹲《うずくま》っていた怪物が咆哮した。三階南西側の壁に穿たれた銃眼Aから山荘玄関前道路に肉迫した特型警備車第三号に向って一発撃って来た。
“バーン”と乾いた銃声が響く。
これが彼らの回答だった。
それを皮切りに乱射乱撃の銃撃戦が始まった。
こうして全国の職場で、お茶の間で、結婚式場で、喫茶店で、六千万の日本国民をテレビの前に釘付けにし、史上空前の八十九・七%の高視聴率を記録したといわれる、あの世紀の「連合赤軍あさま山荘事件警備」の幕が切って落されたのである。
大鉄球作戦、開始
カンバスをかけて秘匿し、深夜ひそかに山荘玄関正面道路上の土塁の切れ目に駐車してあった大型クレーン車が始動を開始する。カンバスが剥ぎとられ、エンジンが重々しく唸り、窮屈な思いをさせられていた巨人が大きく伸びをするように、折り畳まれていたアームがむくむくと起きあがる。
私は三年前の東大安田講堂城攻め以来、アイディアをあたため続けてきたこの新兵器が世紀の大警備に役立つのかどうか、ジッと見守る。
まるで男性の攻撃性の象徴のように、一トンの大鉄球をぶらさげたクレーン車の折り畳まれていた巨大な鋼鉄のアームが、ぐい、ぐい、ぐいと天高く腕をのばしてゆく。午前十時四十八分。正面の銃眼、D、E、Fなどからしきりに銃声が起こり、硝煙が棚引き、銃弾がカキーン、カキーンとクレーン車の俄か造りの装甲板に当って跳弾となる。
大鉄球による破壊工作の第一撃は、三階の銃眼の三個所乃至四個所から同時に発砲が行われ、犯人たちが三階の防戦におびき寄せられ、二階以下がからになった時である。
第一目標はかねて設計図で調べておいた、二階から三階へ通じる階段。犯人たちの二階への退路を断ち、三階に孤立させ、屋根裏と正面玄関から突入した決死隊が彼らを挟撃するというのが作戦だ。
人質が予想どおり二階白樺の間に縛られて監禁されていれば下から突入する九機が救出できるだろう。まだまだ。まだ放すなよ。
十時五十四分、大鉄球をぶら下げた鋼鉄のワイヤーに絡めた引き綱が引き絞られ、大鉄球が次第に南側道路の真上にテイク・バックされる。
三個所の銃眼から一斉に発砲の硝煙があがる。
今だッ、引っ張れ、引っ張れ、引っ張れ、放せッ。
テイク・バックされた大鉄球はブウンと唸りを生じて第一目標、二、三階の階段めがけ、ドッカーンと大音響を発してめり込む。
白いモルタルの壁が破壊され、白い破片と粉塵があたりに飛び散る。東大安田城攻めで許されなかったこの本邦初の攻城用具の威力や如何にと固唾をのんで見守っていた私たち幕僚団の間で、言葉にならない呻き声があがる。引っ張れ、引っ張れ、引っ張れ、放せッ、ズシィーン。
二撃、三撃、凄い破壊音を響かせながら大鉄球は山荘の壁面にめり込み、破孔はどんどん大きくなってゆく。ざまあみろ、たまげたか。犯人ども!!
九日間撃たれっ放しで耐えに耐えてきた私たちの怒りが大鉄球に凝集されて、山荘を破壊してゆく。
十一時六分。階段は完全に破壊。直ちに第二目標、D銃眼を狙う。銃眼の脇に約六十センチ直径の大穴があく。続いて第二撃。穴の大きさは約一メートルに拡がった。続いてE銃眼、F銃眼を破壊してゆく。極めて順調だ。
十一時十七分、二機山野決死隊、三階南西側管理人室から山荘内に突入。同二十四分、これに呼応して九機長田幹雄中隊、一階突入。
上空を乱舞していた報道陣取材ヘリコプターの一機が突然高度を下げ、山荘スレスレの超低空で飛行する。たちまち警察無線の電波にハザードが生じ、ザアザアと音声が断続する。
協定違反じゃないか。どこの社だ、あれは。一機違反すると上空を旋回している七、八機のヘリがみんな高度を下げてくる。と、三階ベランダから上空に向けて“バン”と一発、発砲した。
ヘリを狙って撃ったのだ。危いッ、だから一千フィートの安全高度で取材しろっていったんだ。取材ヘリは一斉に急旋回、急上昇し、射程外に退避してゆく。やれやれ、よかった。
山荘前道路上南東側カーポート附近に構築された土のうと大楯二十四枚を用いた胸壁の隅から、二機香山昌一隊付警部と交代で顔を出したり引っ込めたりしながら敵情を偵察していると、管理人室の脇にさっきまではためいていた二機隊長旗が東側に次第に移動して来て、内田二機隊長が私の隣りに立つ。
今度は内田隊長と三人交代で胸壁の隅から覗いていると、内田隊長の脇に高々と掲げられた隊長旗と白線三本のヘルメットを見た山荘内の犯人たちはムキになって射弾を集中して来る。
ビシッ、ビシッと大楯に銃弾が命中する。
「この大楯は工合がいいな」と感想をもらす隊員に「継目は弾が抜けるから気をつけろ」と指揮官が注意している声が聞える。
その時、受令器のイヤホーンを耳に入れて無線交信を傍受していた無線手が絶叫した。
「イチイチニイロク、九機“カツラ”検挙ッ」
実はこれは「十一時二十六分、九機、一階“桂の間”占拠」の聞き間違いだったことが後で判明するが、内田隊長は
「何ッ九機が検挙だと? 二機、負けるな」
と叫び、二機部隊はにわかにいろめき立った。戦後“二予備”といわれていた時代から警視庁機動隊の基幹隊として活躍し、東大安田城攻めでも奮戦した伝統に輝く二機としては、三年前の東大事件のときには存在さえしていなかった新編の九機などに負けてたまるかという競争心が強く働いたのも無理からぬことではあった。
隊員たちは正面玄関前の土塁の切れ目に向って|鏘々《そうそう》と大楯をぶつけ合いながら詰め寄ってゆく。
作戦開始後約三十分間、大鉄球作戦は順調に進み、第二目標の銃眼破壊を終えたクレーン車は今度は山荘の上空高く鉄球を吊り上げてはドスンとトタン葺きの屋根の上に落下させ、屋根の破壊を開始した。
屋根に裂け目が出来たら、鉄球を爪につけかえて屋根のトタン板を鷲掴みにして剥がし、屋根裏部屋に山荘南側土塁後方に横たえてある木製の渡橋をクレーン車で架橋し、上から二機隊員が突入するのだ。
二機平井益夫隊員以下の決死隊はすでに正面玄関バリケード撤去にとりかかり、山野小隊は管理人室に突入、九機は一階を制圧して二階進出をうかがっている。
すべて順調。計画どおり作戦が進捗している。この調子だと一、二時間で陥せるかなという楽観的見通しが頭をよぎった途端、状況は暗転した。
次から次へと指揮官たちが撃ち倒され始めたのだ。
顔がひきつり、口が乾く。
高見警部が撃たれた!!
十一時二十七分頃、山荘正面道路上で身を銃撃に曝しながらクレーン車と二輛の放水車を指揮していた特科車輛隊の高見繁光警部が、現場情報班の宇田川警視の目の前約四メートルの地点で「わあッ」と叫び声をあげて大の字にぶっ倒れた。
特車隊員三名が走り寄り、大楯に乗せて引き摺ろうとするが、ビクとも動かない。
高見警部の顔面はみるみる朱に染まる。頭部や顔面の傷は出血が烈しい。みれば前額部に大きな射入口が口を開け、鮮血がどくどくとふき出している。
高見警部は身長約百八十センチ、体重約七十八キロの偉丈夫で、それに一・五キロのヘルメット、一キロのUW4型無線機、一・八キロの防護衣、五キロの防弾チョッキ、強化大楯二枚で約十キロと、総重量百キロの重さなので容易に動かない。
近くに待機していた西田時夫副隊長指揮の七機レンジャー隊員四名が身の危険を顧みず高見警部を乗せた大楯にザイルをかけて一挙に特型警備車の蔭に引き込み、後送する。
十一時五十五分頃、三階調理室を制圧していた二機四中隊長上原勉警部(38)が、談話室方向をのぞこうと顔をあげたところを散弾銃で撃たれた。警備無線にコンバット・チーム情報班小野沢警部補の声が流れる。
「至急、至急、現場一から統轄」「現場一どうぞ」「上原二機四中隊長、散弾銃で顔を撃たれる。隊員に抱えられ、後方に脱出。隊員の士気旺盛。犯人は談話室から銃撃。屋根裏部屋に通ずる非常梯子あり、屋根裏からも狙撃。四中は香山警部交代して指揮をとる。犯人の抵抗が烈しく膠着状態続く。以上、どうぞ」
管理人室から上原中隊長が隊員たちの手送りで後送されて出て来た。
「救護!!」「早く担架をよこせッ」
上原警部は左右両眼の上下に計六発の散弾を受け、流血|淋漓《りんり》、噴き出す血で顔面は赤鬼のようだ。
隊員たちは「隊長、しっかりしてッ」「死ぬんじゃないぞォ」と絶叫している。私は一目見て、また顔を撃たれている、上原中隊長も殉職かと一瞬心が凍った。
だが上原中隊長は気力盛んで「大丈夫だ、オレは死なん、是非二機の手で犯人を捕えてくれ、頼む」と大声で叫んでいる。
かけつけた救護隊員が「興奮すると傷にさわります」となだめながら後送する。
あとには上原中隊長の催涙ガスよけの水中眼鏡つきのヘルメットをかぶせた、血塗れの白い指揮棒が雪に突き刺して立ててある。まるで戦争映画の一シーンのような悲壮な光景だった。
正面玄関前土塁裏に犇めく二機隊員たちは殺気立っている。「落着けッ、落着いて行けよ」と声をかけながら私はその群に割って入る。
先頭にうずくまっているのは大津高幸隊員(26)だ。すでに何回か強行偵察で行動を共にした顔見知りの仲だ。数日前私は私のキヤノン・カメラで土のうの脇に待機中の彼の写真を撮ってやったこともある。深川の木場の育ちの生ッ粋の江戸ッ子で江戸火消しの|纏《まとい》持ちの流れを汲むいなせな若者だ。
「気をつけて行けよ」と肩を叩くと大津隊員は振り向いてうなずく。
滑川光明第一中隊長の指揮で大津隊員は体のバネを利かせて土のうを飛び越え、山荘内に突入しようとした。
その瞬間、山荘正面の銃眼から散弾銃が火を噴いた。大津隊員は顔面に被弾して一瞬棒立ちになってのけぞる。次の瞬間体を海老のように二つ折りに曲げ、真逆様に土塁の向う側に転落した。畜生ッ、やりやがったな。
血が逆流するような怒りがこみあげる。
勇敢な同僚が二人、大楯をかざしながら土塁の向う側に飛び降り、白樺まがいのコンクリートの手摺りのついた凍りついた階段にくずおれている大津隊員に黄色黒色ダンダラのザイルを巻きつけて遮二無二、大津隊員を土塁の上に引き摺り上げる。
ザイルは大津隊員の首にかかってしまい、苦しがってもがくがやめるわけには行かない。
また顔面だ。出血が烈しい。左眼に無数の鉛の粒弾があたり、失明の恐れある重傷だ。
九機が二階を制圧した。窓の雨戸が叩き破られ、中隊旗が窓から出て左右に振られる。星川コンバット班員の冷静な報告が無線に流れる。「対象の姿なし、人質も見当らない」
無念にも予測ははずれた。人質牟田泰子さんは二階白樺の間には居なかった。三階に連行され、犯人たちの人楯にされているのだ。
再び山荘南東側カーポート附近に戻ると、内田隊長が大声で話しかけてくる。
現場は上空を乱舞するヘリコプターの回転翼の音、轟音を発して山荘の屋根をベコベコに叩き潰している大鉄球の破壊音、犯人たちの間断ない発砲と応射する機動隊の催涙ガス銃の発射音、クレーン車や放水車の絶え間無いディーゼルエンジンの唸り、声を嗄らして号令をかける指揮官たちの胴間声などなど、騒音の|坩堝《るつぼ》だ。おまけにあたり一面催涙ガスが漂っているから喉は痛み、眼は涙目になって霞む。
隊員たちは手廻しよく水中眼鏡をかけているが私は素面だ。内田隊長の口がパクパクしているのは見えるが、何を言っているのか聞えない。
傍に近寄って耳を寄せると「統轄にいって鉄の玉でもう少しベッドルーム寄りを破壊して、二機の突入口を広げるよう指示させてくれませんか」と言っている。
「了解」私は全力疾走して山蔭の多重六号に駆けこみ、「二機隊長の要請。クレーン車アームをもう少し右に廻し、二機突入口を広げてほしいとのことです」と将校伝令の役を果す。
丸山参事官と石川統轄の了承を得たので、内田隊長のいる土塁南東端の地点に戻ると、そこは阿鼻叫喚の修羅場と化していた。
内田二機隊長が撃たれたのである。
内田隊長殉職!!
十一時五十六分、山荘三階屋根裏の銃座から22口径ライフルが発射され、土塁端の大楯の胸壁の隈から敵状を偵察していた内田隊長はずるずるとしゃがみこむように倒れた。
同隊長のかたわらにいた宇田川警視は「マフラーで止血しろッ」と叫び、西田清警備主任が素早く担架の手配をする。
私がかけつけた時は仰向けに大楯に乗せられた内田隊長が白い雪を点々と血で染めながら、隊員の手送りで後送されてくるところだった。
UW10の無線手今西弥市巡査部長、隊長無線の古賀|《めぐむ》巡査部長、伝令の小出明比古隊員が私の顔を見ると涙と鼻水でグチャグチャの顔をあげ、顔中口にして「隊長が……隊長がやられたあッ」と絶叫している。眼を吊り上げ、まるで父親の死を伯父か誰かに訴える少年のように身も世もない悲しみをぶちまけて、声の限り叫んでいる。
負傷部位をみると、畜生ッ、またも顔だ。
左眉の上にポツンと小さな射入口があり、そこから血が溢れ、白マフラーを真赤に染め、そこから地上の雪に滴っている。意識不明の内田隊長はガフガフと血にむせて咳きこみ、ゴウゴウと鼾のような苦しい呼吸をしている。
「内田隊長、内田君ッ、しっかりしろッ」
と呼びかけてみるが応答はない。数人の隊員たちが両側につき添って担架をかつぎ、「隊長ッ、死ぬなあッ」と叫びながら雪道を多重無線車の脇を通って救急車に向って走る。
統轄指揮所からは「副隊長、指揮をとれ」という冷徹な命令が無線機に流れてくる。
なんということだ。
内田隊長の緊急手術に立会ったコンバット・チームの小野沢警部補は、院長先生が額の射入孔から挿入した探りの細い管が三十センチ位どんどん脳内に入ってゆくのを見て、思わず息をのんだ。院長が呟く。
「弾がなかでグルグル廻ってますね。これは難しいな」
小野沢警部補は、今必死にヘリで軽井沢に向っている内田くら夫人に一体何を伝えようかと、内田隊長の絶望的な情況を目のあたりにしながら暗澹とした。先程「内田隊長、殉職ッ」という、早まった悲報が電波に流れたばかりだ。手術台上の内田隊長は鼾のような苦しげな呼吸を続けている。よし、せめてもの束の間の慰めを内田夫人にあげよう。とっさにそう判断した小野沢警部補は、
「内田隊長、自呼吸開始」と報告した。
多重八号の前線指揮所で蒼白になり、声を失っていた野中県警本部長以下の指揮幕僚団は、この報告をきいて一瞬救われた気分になったという。これは自分がよく知っている内田夫人への小野沢警部補のせめてもの思いやりだったのである。
高見警部が額を撃ち抜かれて倒れた時、小野沢警部補はすぐ傍にいた。それでそのまま重態の高見警部につき添って救急車で約五十分、揺られながら上田外科病院に同行した彼は、院長先生が同じように高見警部の額の射入孔に細い管を差し入れ、ズルズル三十センチも入るのを見て「弾がなかで廻っている」と呻いたのを聞いた。二人も続いて親しい友人の死の床に立会した小野沢警部補は、目の前が真暗になる思いだった。
天を仰ぐと雪はやんで青空がひろがっている。現場指揮をするようになってから八日間、強行偵察を何回も繰り返し、集音作業や写真撮影、土塁の構築など、犯人たちの銃の射程距離内で随分危い作業を行い、二、三百発の銃撃を浴びながら、これまで警視庁の応援部隊は一人も負傷者を出さずにうまくやって来た。
それなのに本番開始わずか二時間足らずの間に隊長一人、中隊長二人、隊員一人の四人に瀕死の重傷を負わせてしまった。
畜生ッ、こんなに一方的に撃たれて犠牲者が出ているのに拳銃を撃ち返しちゃいかんという法があるか。警察官にだって人権はある。正当防衛の構成要件も、警察官職務執行法第七条の武器使用要件だって完全に満たしている。私は多重八号に向った。怒りで目がくらむ。
水が飲みたい。走ると標高一千メートルの高山だし、寒気が厳しいから、喉はカラカラになり気管支は冷たい空気に痛めつけられてヒュウヒュウいう。おまけに催涙ガスだ。まわりは雪と氷だらけだが肝腎の水がない。
「雪は食うな、かえって喉が乾く」と忠告された誰かの雪山の心得が頭に浮ぶ。
放水警備車が放水をやめると気圧をかけた水の噴流が力を失ってチョロチョロとノズルから地上に落下する。するとまわりの隊員たちが先を争って掌に水を受けて飲む。これ、ひょうたん池の水らしいが背に腹はかえられない。私も掌にためて飲む。甘露だ。氷のように冷たい水なのに、まわりが氷点下のせいか何故か生暖かく感じる。
多重八号に飛び込んだ私は、野中県警本部長や丸山参事官に「警察庁に指揮伺いしましょう。拳銃使用を許可すべきです。このままでは犠牲が増えるばかりです」と、語気鋭く意見具申する。もちろん本部長も参事官も一議に及ばず賛成し、直ちに警察庁の警備本部に対し、拳銃使用の許可を申請した。
クレーン車、エンストっ
突然クレーン車のエンジンが停止した。
主力攻城用具である大鉄球が、アームの先端にとりつけられた鋼鉄のワイヤーに力なくぶら下ってダランとしている。天空に聳え立ってバリバリ破壊していた姿が男性的であっただけに、だらしなく垂れ下っている有様はなんとも情けない限りだ。
「どうしたんだ? 何故エンストなんだ」
多重六号も八号も知りたがって特科車輛隊にせっかちな問い合せが殺到する。
やがて原因がわかった。放水車の水が誤ってクレーン車のエンジンにかかり、エンストしてしまったのだ。
「早く直せ、まだ大鉄球で壊すところがある。鉄の爪につけかえて屋根を剥がし、渡橋を架けなければならんのだ」
と叫びまくるが、射界が開けた玄関正面で防弾板の外に出てエンジンの修理をすることは自殺行為に等しい。
これはまずい。NHKをはじめ民放各テレビ局が生中継放送しているのだから、当然警察庁の警備本部もこのだらんとぶら下った鉄球の映像を見るだろう。そうなると「早く直して作業を再開しろ」とせっついてくること必定だ。……といっているうちにももう電話が鳴り始める。
「なぜ鉄球による破壊作業をやめるんだ」
ほうら来た。「実はかくかくしかじかで」「早く直せッ」「わかってますッ」
そのうちに全国から「なぜやめた」と視聴者からの抗議電話が警察庁にも長野県警本部にも、軽井沢警察署にも何十本とかかり始めたという。
懸命の努力が続けられたが、二度と再びクレーン車のエンジンが始動することはなく、折角の大鉄球作戦も壮図半ばにして断念のやむなきに至った。
大鉄球による破壊作戦に大きな|齟齬《そご》をきたしてしまった。あとは放水と催涙ガス、そして拳銃の威嚇射撃しかない。
零時三十八分、ようやく警察庁から拳銃使用の許可が来た。だが、それは「適時適切な状況を判断し、適時適切に拳銃を使用せよ」というものだった。
こういう心理留保付きの命令だと現場は困るのだ。警察庁が一体何を以て適時適切と考えているかという価値判断の基準が発令者の心中に留保されていて明らかでないから、うまく行った時は中央の適切な指揮の功績になり、まずい結果になった時は現場の判断が不適切だったからと言われる恐れがある。
部下が「撃っていいか」と指揮伺いした時は「威嚇射撃せよ」とか「手足を狙って撃て」とか、具体的に命令してくれないと困るのだ。
だが一応許可は出た。そこで零時三十八分、石川統轄から命令が下った。
「二機副隊長宛、E、Fの銃眼からライフルを発射している対象に対しては射角を考慮し、拳銃を適正に使用し、これを制圧検挙せよ」
「談話室で散弾銃を所持している対象に対しては、状況により同じく射角を考慮し拳銃を適正に使用しこれを制圧検挙せよ」
警察庁の指示に忠実に則った命令だ。
さあこれで撃たれっ放しだった機動隊員は撃ち返すだろう。E、F銃眼とは山荘屋根裏部屋から南東側カーポート附近を見下す銃眼で、内田隊長が撃たれたのはこの射角である。
耳を澄ませて待っているが、拳銃の発射音は起こらない。
「誰も撃ちませんね」と私。「撃たないねえ」と丸山参事官。
やはり「ぷりんす号事件」の後遺症なのか。それに更に人質にあたったら大変と思うから誰も撃とうとしない。あるいは命令が伝わっていないのかも知れない。零下十五度の寒気は無線機の乾電池を眠らせてしまい、指揮通信系統が麻痺しているという事も考えられる。
「私、見て来ます」と将校伝令の役を申し出ると野中本部長と丸山参事官がうなずく。
私はまた後田伝令を連れて土塁南東端の胸壁の裏に戻る。カーポート附近の土塁の蔭では30口径スコープ付高性能ライフルの狙いを各銃眼にピタリとつけて狙撃命令を待ち受けている七人の狙撃班が待機している。
「ライフルはまだだぞ、拳銃は撃っていいぞ」と大声で伝えるが、誰も拳銃使用の許可が出たのは知らないと首を振る。
内田、上原と指揮官が相次いで倒れ、伝令や無線手が無線機もろとも、撃たれた隊長につき添って後退したためと、乾電池の機能停止とで、指揮命令通信系統がズタズタに寸断されてしまっているのだ。
山荘内に入っている副隊長も先刻の石川統轄の命令を聞いていないのかも知れない。私はとっさに私が直接伝達しようと決心した。山荘三階南西側の突入口、管理人室に行くには高見警部が狙撃された玄関正面の土塁の切れ目、約十メートルの遮蔽物がなくて銃眼からのこぶし上りの狙撃に曝された開口部を横切らなくてはならない。
誰かが山荘内部の副隊長や決死隊の小隊長に拳銃使用の許可が出たことを伝えなくてはいけない。私が自分で行くことに決めて移動を始めると後田伝令もはね起きて可搬式UW4型無線機をしょい直す。
「君は残れ、赤ん坊生まれたばかりだろう」と言うと「いや、絶対お供します」と力む。
するとそのやりとりを聞いていた傍らの二機隊員が南西側の土塁裏に伏せている同僚に向って大声で叫んだ。
「おーい、イチカチョウ、そっち行くぞオッ」「オウッ」と向う側からの返事。
「行くぞッ」と叫んで私は雪を蹴って走った。体をかがめ、躍るヘルメットを片手で押えて疾走する。無線機をしょった後田伝令が脇を懸命に走っているのが目の隅に入る。
彼はカモフラージュのつもりで白いヤッケを着てきたまではよかったが、まわりが真黒な革ジャンパーだものだからかえって目立つ。その白ヤッケが必死に走る。
気がつくと大楯をかざした二機隊員が二、三人、私と銃眼の間を私を庇いながら疾走しているではないか。
見ると向う側からも二、三人、お迎えが走ってくる。
そして数秒後私らは数人一塊りになって南西側土塁裏に雪煙をあげて辷り込む。
「辷り込み、セーフ」と私が叫ぶとまわりの隊員たちが白い歯を見せて笑う。
感動の一瞬だった。誰が命じたわけでもない。私も頼んだ覚えはない。だが先頭に立とうとした指揮官を撃たせまいとしてかつての上司のイチカチョウである私を全く自発的に身をもって庇ってくれたのだ。
「有難うよ」と彼らに感謝した私は、銃眼の方を見上げ、発砲の合間のタイミングを見計らって雪の階段を滑り降り、管理人室に駈けこむ。
薄暗がりの管理人室から調理室をのぞいた私は、見てはならないものを見てしまった思いに愕然とする。
強行偵察などでは常に指揮官先頭だった、あの勇敢な副隊長が拳銃片手にガックリうなだれ、隊員たちが「副隊長、シッカリしろッ。ちゃんと命令出せッ」などと突きあげている。
内田隊長を失ったショックで一時的にではあるが指揮能力を喪失しているのだ。
これがいわゆる「シェル・ショック(戦場放心症)」なのか。拳銃使用命令が出ても一向銃声が聞えないわけだ。いかん、いかん。これでは指揮系統は麻痺し、士気は低下してしまう。
よし、私が臨時に指揮をとろう。
再び射界が開けた玄関正面の開口部を横切ってカーポート附近の低い土塁に戻った私は、狙撃班長の保坂調司警部を呼び寄せた。
保坂警部は第十六回メルボルン・オリンピックに拳銃射撃日本チーム代表選手として参加した警視庁の誇る名射手である。昭和二十九年の第二回アジア体育競技大会ではフリー・ピストルで優勝し、さらに第三回アジア大会でも見事再び金メダルをとっている。
屋根裏は大鉄球で破壊されてポッカリ薄暗い口を開けているが、その開口部に布団を積み重ねて銃座を築き、そこから突き出た黒いライフルの銃身が右に左に傍若無人に発砲を続けている。
布団の向う側には黒い人影がうごめいている。あいつだな、内田隊長を撃った奴は。
腰をかがめて近寄って来た保坂警部に、
「拳銃使用の許可が出た。聞いたか?」ときくと知らないという答え。
やはり通信途絶のため指揮命令が到達していないのだ。
「誰か幹部が決心して撃たんといかん。責任は私がとる。あの銃座から突き出たライフルの銃身狙って撃ったら、あたるかい?」ときくと、
「あたりますとも。私が撃ちましょう。了泉庵と二人でやります」と力強く答える。
了泉庵とは了泉庵文男巡査部長のことだ。了泉庵巡査部長も昭和三十五年のローマ・オリンピックのピストル選手。第四回アジア大会では保坂警部の後を継いでゴールド・メダルに輝いた。射距離はわずか十メートル。必中射程だ。
保坂警部は腰の拳銃を抜き、素早く右へ移動して土塁の端から数メートルの地点に立っている直径三十センチばかりのコンクリートの電信柱を楯にとって拳銃を構える。
私も一挙動で電信柱の後ろに身を寄せる。
だが電信柱は二人が身を隠すには細すぎる。宇田川警視がすっ飛んできて腕を引っ張って叫ぶ。
「局付、危いですよ、二人は無理だ、戻って下さいッ」
そう言われてみれば、ちと無謀だ。言われるままに土塁の蔭に宇田川警視と二人で辷り込む。保坂警部は落着き払ってゆっくりと拳銃の狙いをつけ、リズムをとりながら五発発射。
“バン、バン、バン、バン、バン”
保坂警部の拳銃が火を噴き、鼓膜をつんざく轟音が響く。とたんに屋根裏部屋でガタガタ物音がし、布団の銃座から突き出ていたライフルの銃身がスルリと引込んだ。威嚇射撃の効果は極めて大きく、以後ライフル狙撃手は二度と屋根裏の銃座には姿を見せなかった。
二機と九機交代
多重六号に戻って二機の現状を報告し、無傷の九機との交代を進言しようと急ぎ足で歩いていると、NHKの石岡壮十記者に呼びとめられた。「佐々さん、あさま山荘に入りましたね、船久保キャップからのたってのお願いなんですがNHKの全国生中継に出て内部の状況話してくれませんか。全国の視聴者がイライラしてるんで……」冗談じゃない、私は解説者じゃない。隊員たちが命がけで戦っているのにNHKの解説なんか出来るわけがない。そういえば東大安田攻めの時も同じ船久保キャップから生放送出演の依頼があったが私は断った。今度も折角のお申し入れだが丁重にかつ、断固お断りする。
後で知った事だがNHKは朝九時から夜七時まで連続生放映の記録をつくり、視聴率も前述したように最高八十九・七%を記録したそうで、船久保キャップは「公共放送なんだから協力してくれてもいいのに」とぼやいていたという。
十二時五十一分。SBC放送の小林忠治記者が南側山上で撃たれた。左脚関節貫通銃創で安藤病院に収容されたとの報告。
午後一時三十七分。多重六号車内で野中本部長を中心に緊急指揮幕僚会議が開かれた。
私は見てきた二機の現状をありのまま報告し、指揮官が健在な九機を二機と交代させて三階の攻撃を行うことを進言した。
交代せよといえば二機は必ず怒るだろう。隊長をはじめ数名が撃たれた彼らの心情は痛いほど分る。さぞ自分たちの手で隊長たちを撃った憎い犯人共を逮捕したいことだろう。
だが警備実施にセンチメンタリズムは許されない。人質救出という至上目的遂行のためには指揮系統が寸断された二機は交代させなくてはいけない。
私の強い意見具申を腕を組んで暫く熟考していた野中本部長はやおら顔をあげ、キッパリと「よし、二機と九機交代ッ」と決断した。
沈思果断、寡黙だが指揮官にとって最も大切な資質、「責任を負う覚悟での決断」の出来る県警察本部長である。これは将器だ。
そして、
(1)午後三時三十分を期して九機は攻撃正面を三階に変更する。二機は交代して一・二階を担当
(2)救出作戦を続行し、必ず本日中に人質を救出すること。(夜を越すと恐らく人質は放水の水が凍って凍死するとの判断)
(3)銃器による抵抗に対しては拳銃を使用する。
(4)牟田泰子さん救出のため四人の特別決死隊を編成する。要員は警視庁二人、長野県機二人とし、最精鋭の志願者により編成する。
(5)各隊は放水、催涙ガス、ボール弾など全力を集中して突入決死隊を支援する……という作戦計画が決定された。
警備会議は迅速な議事進行を旨とし、約一時間で終了。警備現場での長会議、「会スレド議セズ、議スレド決セズ、決スレド行ワズ」という日本式小田原評定は厳禁である。
人の命にかかわることは「決断、責任を負う覚悟で指揮命令、そして直ちに行動」が正しい。
極端に言えば参加者を坐らせない「立ったまま会議」が正解だ。
さてこれで大鉄球作戦が頓挫し、二機が大損害を受けた事を踏まえた緊急の作戦変更会議はテキパキと進捗した。
あとは行動あるのみと萎えそうになる勇気を奮い起こして、「さあ、やるぞ」と気合をかけた途端、思いもかけない、あるいは懸念されていたことが次々と起き、指揮幕僚たちは蒼白な顔を引きつらせた。
第一の悲報は緊急作戦会議中の午後二時二十六分に入った。上田市小林脳外科病院で緊急手術中だった高見繁光警部死亡。死因は前額部盲管銃創。高見警部の命を奪った凶弾は鉛の散弾粒を溶かして一つ弾にした鹿弾(バックショット)と判明した。
最悪の事態となってしまった。多重無線車内は寂として声なく、指揮幕僚団は粛然と襟を正して高見警部の壮烈な殉職を悼む。
鉄パイプ爆弾炸裂
続いて二時五十分頃、“ズシーン”と腹に響く爆発音があたりを揺るがした。すわ爆弾か?
私は多重六号を飛び出して山荘を眺める。
管理人室附近から紫がかった白い煙が立ちのぼっている。小野沢警部補の至急報が耳のイヤホーンに流れる。
「至急、至急、現場一から統轄。状況報告。三階厨房室(調理室)を確保していた二機部隊に対し食堂方向から爆弾一発投げられ、中村巡査部長他五人重軽傷。救護班を要請する。以上、現場一」
玄関前で目撃していた現場情報班大塚金治警部補からも報告が入る。
「ドカーンという大音響がした。調理室附近から白煙が立ちのぼり、隊員一人転がるようにして出て来た。以上、現場一」
大塚警部補はとっさに昭和四十六年の「六・一七明治公園観音橋交叉点で起きた赤軍派の鉄パイプ爆弾事件」を思い出したという。あの時は三十五人の二機、五機隊員が一発でなぎ倒されたのだ。
大丈夫か? 中の二機は? 負傷した上原中隊長に代って四中隊を指揮していた香山昌一警部は、とっさに第二、第三の爆弾|投擲《とうてき》に備え、負傷者を搬送すると共に管理人室附近の二機隊員に一旦山荘外に緊急退避を命ずる。
二機四中の中村欣正分隊長(30)は爆弾で右腕を砕かれて重傷。八木橋幸男隊員(27)右脚打撲、牧嘉之(28)人見吉昭(23)酒井誠(26)平井益夫(25)の四隊員は爆風で鼓膜をやられて聴力を失う。
遂に最も恐れていた鉄パイプ爆弾が投げられた。奴らあと何発持ってるんだ。
まるで背中に氷のかたまりを入れられたように、冷たい恐怖が背筋を走る。皆もさぞ怖いだろう。
三つ目の困った事態は多重六号の中で起きた。
牟田泰子さん救出の決死隊四人の編成について、警視庁側は九機隊長の最も信頼する仲田康喜警部補が志願し、目黒成行巡査部長が仲田小隊長と生死を共にすると申し出て、すぐ決った。
だが、全く思いもよらないことに長野県機動隊長が「私はそんな部下に『死ね』というに等しい命令は出せません」と、長野県機動隊員からの決死隊志願者二人の人選を拒否したのである。
指揮幕僚団は唖然として顔を見合せる。
ガッシリした体格の如何にも機動隊長にふさわしい風貌の県機隊長が顔面蒼白、顔をひきつらせ、目を据えて頑なに断るのだ。
最初の段階では警視庁の応援無用、県機だけでやって見せると強硬に言い張る勇気凜々の長野県警の頼もしげな幹部だったのに、この土壇場になって一体どうしたことなのか?
やはりこれも高見警部の殉職、恐怖の鉄パイプ爆弾の登場といった、予想をはるかに超えた最悪の事態に直面して、人間の気力体力を超えた不眠不休の九日間の疲労が加わって一時的な「シェル・ショック」に陥ったのだろう。
私は声をはげまして言う。
「誰か志願者を募って下さい。機動隊長ッ。長野県警今後百年の名誉にかかわることですぞ。名目だけでもいい、二人志願者を募って参加させないことにゃ。警察庁の基本方針も長野県警をたててやるっていうことなんだから、心を鬼にして選抜しなさいッ」
丸山参事官も眉をしかめ、長野県警本部の唐木田秘書課長らもハラハラしている。
腕組みしてジッと黙っていた野中県警本部長がたまりかねたように口を開き、「本当に誰もおらんのか!!」と叱咤する。
警視庁だけでやるのはいと易いが、それでは本邦初の警察法第六〇条援用の応援派遣“FBI方式”の実験が不成功に終る。
なんとか長野県警機動隊を参加させねば……「隊長ッ、部下に死地に赴く命令を出すのが嫌なら、隊長、あんた、志願しなさい。俺も一緒に入る。怪我させないから、一緒に行こう。長野県警の名誉がかかってるんですぞッ」
と私が叱咤すると、機動隊長は野中本部長の方を見て、
「本部長の御命令ならば……」という。駄目だ、こりゃ……。
ところが誰か県警の者が多重に飛び込んで来て「志願者が現われました!! 本部長ッ、|龝沢《あきざわ》と永原です」と叫んだ。
私が大声で怒鳴っていたためか多重内の悶着が外部に伝わったと見えて誇り高い長野県機動隊員が県警の名誉に賭けて参加しないでおくものかと奮起して進んで決死隊参加を申し出てきたのだ。
よかったぁ。これで長野県警の名誉が救われた。みんな、ホッとする。志願者二人の官姓名をきいてすぐ思い出した。
「龝沢」という姓はただの「秋沢」と違って珍しい。どこかで聞いた名前だと思ったら、そうだ、二月十九日「さつき山荘」の連合赤軍との雪中の遭遇戦で、同僚二人を撃たれながら果敢に応戦し、連合赤軍兵士たちをいまの「あさま山荘」に追いあげた県機動隊町田分隊の一員だったのだ。
龝沢正夫(25)永原尚哉(28)両隊員は二人とも長野県山岳機動隊の精鋭で、体力抜群、雪山に強いとのこと。
早速両名は警視庁九機仲田康喜小隊長の指揮下に入る。仲田決死隊隊長は「俺たち四人は死なば諸共だ。俺にしっかりついてきなさい。死ぬ時は俺が真先に死ぬから」と、激越なハッパをかけている。
午後四時一分。上田市の小林脳外科病院から沈痛な声で新たな悲報が入る。
「内田隊長、只今息を引き取る。以上、現場一」
言葉にならないうめき声があがり、指揮幕僚団を沈黙が支配した。私同様内田隊長のことを警視庁勤務の頃からよく知っている丸山参事官が大きな目を閉じ、「やっぱり駄目だったか」と呟く。周囲に待機する機動隊員たちにもこの悲報が伝わったと見えて怒りの雄叫びが起こる。
「大久保隊長、それに二機、七機、特車の各隊指揮官。今度こそは俺の言う事を聞いてくれ。皆、ヘルメットの指揮官表示をとれ。飛び道具の合戦に旗指物は無用。指揮官は先頭に立て。しかも撃たれてはいかんのだ」
今度は全員素直に私の指示に従ってヘルメットに白ビニールテープで表示した階級章を剥ぎとる。
[#改ページ]
「まだやるんですか?」
さあ、態勢を立て直してもう一合戦だと自分に気合をかけて多重六号から降り立つと、真青な顔をした数人の新聞記者に取り囲まれた。
「佐々さん、内田隊長や高見警部が死んで怪我人が沢山出たというのに、まだやるんですか?」「一旦中止して様子を見るべきだ」「包囲を解いて交渉したら」「俺たち、もう見てらんないよ」
急先鋒は警視庁以外のどこかのクラブから来たA紙のIという記者だ。
「いや、続行します。人質救出という至上命令を果すまで、そして本日中に人質救出、犯人全員検挙を期して新手の九機で再突入する方針です」と、私も硬い表情で答える。するとI記者は激昂して「内田隊長らが死んだってえのにアンタは涙も流さないのか。血も涙もないのかッ」と叫ぶ。
これもまた「シェル・ショック」の一人だ。目が据わっている。そうだ、今、私は人間じゃない。指揮官なんだ。泣いてなんかいられるか。うるせえぞ。
「すまんが相手してる閑はない。どいてくれ」
ハト派代表の記者たちを押しのけて私は前線に赴く。
もう一つ、困ったことは山荘内に突入して数時間頑張って発砲する犯人たちと対峙していた二機決死隊の山野小隊長が交代を拒否してなかなか出て来ないことだった。
隊員たちも激昂して宇田川警視に「なぜ交代させるんだ」と食ってかかる。
逆に九機は任務交代を告げられたとき「わあッ」と喚声をあげたときく。
結果的には無人で撃ち合いはなかったとしても、九機は一階、二階と突入する度に決死の覚悟だったに違いない。
ひとがみな、嫌な事、危い事を逃げ、他人に押しつけようとするこの昭和元禄の町人国家に、このように敢えて火中の栗を拾おうと危険な任務を奪い合う連中がいるとは……。警視庁機動隊は当時は世界最強の勇敢な特殊部隊だったのだ。
山荘南東側の土のうと大楯をめぐらせた胸壁の蔭に戻る。山荘からの銃撃は一向衰えない。
奴ら一体あと何発、弾を持ってるんだろう。
銃声が轟き、銃弾が耳に擦過音を残してキーンとはるか彼方に飛び去る。バシッと大楯に当る。
土のう脇の凍てついた根雪にプシュッと音を立てて22口径ライフル弾が突き刺さる。
飛翔力を失った敵弾のバラ弾が後方の警備車の天井を鳴らしてパラパラ上空から降ってくる。と、隣りにいた隊員が「あッやられたッ」と叫んでしゃがみ込んだ。午後三時五十八分のことだ。
どうした? 弾は一発も大楯を貫通していない。何故? 「どこをやられた?」見ると一人は顔に手を当て、もう一人はふくらはぎを押えている。
うっすらと血が滲み出る。
その時後方でカキーンという金属音が起こった。わかったッ。跳弾だ。後ろの特型警備車の装甲板にあたって跳ね返った銃弾が私たちを後ろから襲ったのだ。
味方の防弾車のお蔭で不名誉な後ろ傷、負わされちゃたまったものではない。
特型警備車のボディを掌でバンバン叩いて「下がれッ下がれッ」と後退を命ずる。
二機の三上博次隊員(22)と須藤秀雄隊員(28)の二人が軽傷を負ったが応急手当を施して原隊復帰。
緊迫した雰囲気の中でも、思わず頬がゆるむユーモラスな事も起こる。多重八号に鎮座する主将、野中県警本部長が尿意を催したのだ。
昨夜の警備会議でも私はわざわざ「国民注視、マスコミガラス張りの警備だから立小便厳禁」と厳しく示達してある。
困ったことになった。多重の周囲は報道陣と警備部隊が一杯いて、本部長が一歩多重の外に出ようものなら記者たちは取囲んで質問攻めにすること必定だ。でも出るものは止めるわけに行かない。
「おい、機動隊一個分隊集合、大楯で本部長を防護しろッ」
果せるかな記者団がドッと駈け寄って来る。
「本部長、何があったんですか? どこ行くんですか?」
野中本部長は苦笑して「いや、いや」と手を振りながら雪の山林にわけ入り、機動隊が本部長をとり巻いて大楯を立てる。
追いすがった記者たちも何が始まったのかがわかると、「なあんだ」と苦笑して散ってゆく。
ガスか放水か
午後四時十分。九機仲田隊は三階正面玄関突入を計るが内から乱射を浴びて断念し、南西側の管理人室から再突入して調理室から談話室(食堂)のバリケードに到達。
一方西海弘副隊長指揮の上神正治分隊長以下八名の別動隊は鳶口や掛け矢で談話室正面ベッドルームのモルタルの壁の破壊を試みる。
小林茂之特科車輛隊長直率の催涙ガス新井分隊は屋根裏部屋に向けてガス銃の斉射を繰り返し、七機西田副隊長指揮のレンジャー中隊は手投げでガス弾を投げ込んで決死隊を支援する。
だがどうも状況がよく分らない。膠着状態が続く中で無線を傍受していると指揮命令の混乱が起きている。
先任の内田二機隊長亡き後、大久保、小林両隊長は同列なので、「催涙ガスだ、いや放水だ」と両隊長の意見が対立しているようだ。誰か先任指揮官が現場に行って、現場の実情を直接掌握して統轄一元指揮をしないといけない。冬の陽はつるべ落しでもうあたりは薄暗くなりかけている。石川統轄は多重六号を離れるわけにいかない。そうなると、動けるのはまた私だ。
「本部長、命令があれば私、前へ出ます。どうも混乱してる。このままでは暗くなって今日中に人質救出が困難になります」
野中本部長はマジマジと私をみつめ、本当にいいのか? という表情で、
「佐々君、やってくれるか?」ときく。
「やりましょう。丸山参事官?」と確かめると丸山参事官も、
「御苦労だが頼みます。気をつけてな」と激励してくれる。
「では私、山荘前最前線指揮所で指揮をとります。いいですね?」と指揮権委任を全員証人となってもらって確認をとる。
石川統轄がやや難色を示し「統轄は私だ」と呟いている。
私は本部長がうなずくのを見て多重を飛び出し、山荘玄関前に向って走った。忠実なる後田伝令が影のようにUW4型無線機の送話器を片手に伴走する。
やっぱり私の心配した通りだった。
大久保九機隊長と小林特車隊長とが烈しく言い争っている。
「なかの機動隊員が危いんだ、撃て、撃て、ガスを撃てッ」
親友の内田隊長と部下の高見中隊長を殺されて怒髪天を衝いた小林隊長は興奮し切っている。
大久保隊長は「なかからガスはやめてくれ。息が出来ないからもうやめてくれって言って来てるんだ。放水をやってくれって言って来てるんだから延長放水、やってくれ」
「水が無いんだ、もう。だからガスだ」と小林隊長はきかない。
周囲では九機、七機、特車の各隊員が心配そうに隊長たちの言い合いを聞いている。いかん、いかん、指揮官は部下の面前で争ってはいけない。
「ちょっと二人とも、こっちへ」と私は特型警備車の蔭に二人を誘う。九機の芦沢良知警部と特車の石原弘之警部もついてくる。
芦沢警部はUW4型を肩にかけ、一日中怒鳴りまくっていたものだから声はしゃがれ切っている。山荘内部からタオルで鼻と口を蔽った西海九機副隊長が飛び出して来て緊急作戦会議に参加した。これぞ文字通りの「スタンディング・セッション(立ったまま会議)」。危機管理会議の見本だ。
「ガスはやめて下さい。それより延長放水願います。筒先は私が持ちますから」
と西海副隊長。
「しかし、水が無いんだよ」と小林隊長。
「どうなんだ、石原君」と私。
「はい、今は水を打ち尽しましたが県下十二消防署と群馬県松井田消防署に緊急の協力をお願いしたところ、すぐ来援してくれてここから約四百メートルの地点の『ひょうたん池』から消防車六台を連結して水をポンプアップしてもらってます。間もなく仮設貯水槽に約三十トン貯ります」と石原警部。
「それで高圧延長放水、何分持つ?」と私。
「七気圧放水だと一分間約二トン。ベッドルームの壁ぶち抜くには七気圧では無理で、最大の十三気圧かけるとなると、さあ三トンですかね。だから約十分間」と石原警部。
延長高圧放水というのは大変危険な仕事で大の男四人がかりで筒先のノズルを抱えて押えていないと、高圧のかかったホースは大蛇のようにのた打ち始めて立っている人間など叩きのめしてしまう。
まして相手は銃撃してくるのだ。放水手を防護する大楯携行の支援班が要る。しかも水が足りない。十分乃至十五分の間の勝負だ。
さっきから統轄指揮所からの命令をきいていると、
「各隊は行動に当っては全隊員に対し防弾帽を深めにかぶり、しっかり固定させ、ひもを完全に結んで行動するようにされたい。また姿勢を高くしたり、車の間から姿を出さないようにされたい。負傷者は頭部をやられている」
といった受傷防止の指示が流れる。
また「九機はを使用せよ」とも言う。「各隊は、ボール弾で突入隊を支援せよ」。とは催涙ガス弾のこと。ボール弾とは米国が考案したガス銃で発射するゴムボール弾で相手を殺さずに制圧しようという新用具のことだ。
実際は室内をポンポンはね廻るだけで効果は少なかった。どうもズレてる。多重六号との距離わずか百五十メートルだが、指揮所の指揮命令と現場のニーズがこうも食い違っている。だから東京と軽井沢との情報落差がもっと大きいのは当然だ。
私は委任された指揮権行使を決意した。
十分間の延長放水に勝負を賭けよう。後田伝令に通信統制を破って割り込みを命ずる。
これはふつうはやってはいけないことなのだが、現場を見て何が必要かわかっているのはこの私だ。
「至急至急。局付より統轄へ、延長放水を行う。以上局付」待ち構えていた石原警部が、
「筒先は私が持ちます」とキッパリ宣言する。
特車隊の中原九州男隊員ら四人がしっかりとホースを抱く。
西海副隊長以下七人が重いホースをずるずる引き摺りながら正面玄関から突入してゆく。大久保九機隊長が「私も入りましょうか?」と聞く。
「いま山荘内に何人?」「西海副隊長以下十五人です」「少し足りないかな?」「私、入ります。芦沢を局付に残しますからここの指揮お願いします」と叫ぶや、大久保隊長が脇目もふらずに玄関に突入してゆく。
それを見た周辺に伏せていた九機隊員たちが「隊長入ったぞ、みんな続けッ」と叫んで次々と十数人が跳ね起きて後に続く。
芦沢警部がしゃがれ声でマイクを掴んでわめいている。
「なに? 誰の命令だ? 局付命令で延長放水ッ」……これが後で問題になった局付割り込み命令問題である。
佐々局付が指揮統制を乱して勝手に命令したと、ことあげする人々がいたそうだが、だからちゃんと多重の中で証人たちを置いて指揮権の一時委譲を確認してから前へ出たんだ。
七機レンジャー隊がみんな背伸びして山荘内部をのぞきこんでいる。
「姿勢を低くしろッ」と私が怒鳴りつけるとみなびっくりして伏せの姿勢をとる。無用の犠牲は出したくない。
もう一人、命令もないのに前に出たのがいた。亀井静香警視である。
山荘前の最前線指揮所で仁王立ちになっていると、その脇をすり抜けるように山荘へ向う私服がいる。
鑑識キャップをかぶり、防護衣のようなものをはおっているが何しろまわり中青ヘル黒ジャンパーの制服部隊の中に薄闇にもそれとわかる私服である。協定破りの新聞記者か? 一瞬そう思った私は|誰何《すいか》した。
「誰だ、そこの私服ッ」
見ると亀井警視だ。「何してる?」「はあ、後の捜査の参考にちょっと状況を……」
「君の今日の配置、ここじゃないだろう。駄目だよ勝手に出入りしたら、早く出ろ」私も思わず苦笑しながら叱る。
血の気の多い亀井警視のやりそうな事だ。
「佐々先輩、私は先輩を見損っていました。才気走った“口舌の徒”だと思うとりました。だが仲々やるもんですなぁ」
「バカ者、それが十年先輩に向って言う科白か。危いから早く多重に戻れ」
同じ東大出のキャリアにもとんでもない後輩がいたもんである。何だい、私のことを“口舌の徒”とは……。
ベッドルームの死闘
日没は午後五時三十分。見上げると青黒い夕闇空に黄色い月が浮んでいる。クセノン投光車の照明燈のスイッチが入れられ、屋根裏越しに山荘内照射開始。
警備無線は「突入したら体当りで検挙せよ」「犯人が人質を楯にした場合は大楯、防弾楯を前に立て一斉に検挙せよ」と叫び続けている。
催涙ガスと放水と大楯。これは東大安田講堂をはじめ過去何百回となく繰り返して来た警視庁機動隊の基本方針「汝殺すなかれ」の生け捕り戦法の、究極の方程式なのだ。
私も心配になって山荘内に突入する。
山荘内は真暗闇だ。屋根裏や台所から時折点灯した懐中電灯が投げ込まれるが、なにしろ放水した水がたちまち|氷柱《つらら》になって軒先に下がる寒さだ。乾電池が眠りはじめてスウッと灯りが消える。といって懐中電灯を手に持って照すとそれを狙って撃ってくる。
西海副隊長の声がする。
「現示球、投げろッ」現示球がベッドルームに向けて数個投げ込まれ、パチパチ火を発して暫く明るくなるが、やがて消えて元の闇に戻る。
現示球とは、いうなれば後年ソマリアのモガジシオ空港で、乗客乗員を人質にルフトハンザ航空のランズフート号にテロリストが立て籠った時、西独特殊部隊GSG9が強行突入の際に使用して一躍有名になった閃光・音響手投げ弾の雛形の雛形、どちらかといえば伊賀忍者の目くらまし火遁の術のネズミ花火式の発火弾に近い代物である。実際にはあまり役に立たなかった。
ベッドルームの漆黒の闇に時折ひまわりのような形の閃光がきらめき、轟然たる発射音と共に銃弾が大楯に命中する。
ピカリッと銃火が光ると一瞬対峙してうずくまる隊員たちのヘルメットや銀色の大楯が闇に仄白く浮んで消える。
室内は催涙ガスがたちこめ、床はすでに凍りかけた放水の水で滑る。
銃声は室内にこもって耳をつんざき、命中弾を受けた大楯がグラリと揺れ、隊員が両手で支えて必死に衝撃に堪えている。
談話室入口にいた宇田川警視の目の前で外から撃ちこまれた催涙ガス弾が炸裂し、目と鼻をやられた宇田川警視は「わあッ」と叫んで外へ飛び出し、雪に顔を突っこんで洗い流している。
宮崎正二隊員が散弾により顔面をやられ、後退する。
十三気圧をかけた延長放水の威力は凄じい。やはり延長放水の判断は正しかった。東大安田と同じだ。鳶口や掛け矢では破壊にあれだけ手古摺ったベッドルームと談話室との境のモルタル壁がみるみる破壊され、突破口がひろがってゆく。
午後五時三十七分。仲田隊が東側のドアからベッドルームに突入。犯人らがバリケード構築に使った冷蔵庫を楯に、大楯を構え、数メートルの至近距離で彼らと対峙する。
狭くて二人しか入れない。狂ったように乱射乱撃する犯人たち。弾は冷蔵庫にはじかれ、モルタルの壁を砕き、仲田小隊長の顔面はその破片で傷だらけとなるが、仲田、目黒両決死隊員は鳶口でバリケードを崩す作業をやめない。
五時四十分。クセノン投光機の照射するサーチライトが斜めに差しこみ、手元が少し明るくなる。“ダーン、ダーン、ダーン”と切れ目なく連続発射する銃弾は仲田小隊長の二枚重ねの大楯の一枚目を二十回以上も強打する。一枚目の楯は凹み、裂け、ベコベコになり、二枚目でやっと弾がとまっているという危い状況だ。これでは長続きしない。いずれ二枚目の楯も撃ち抜かれるだろう。
仲田小隊長は全力で揺れ動く大楯を支えて“検挙、前へ”の最後の命令を待つ。
午後六時。現場情報班の|采女研覚濟《うねめけんかくさい》警部補の状況報告が受令器に流れる。
「犯人らは人質を抱えこみ、ベッドルーム北側二段ベッドの下部に固まっている模様。九機は二方向より突入。仲田隊は入口ドア、西海隊は食堂正面突破口より。以上、現場一」
「泰子さんは生きている!!」
午後六時五分。特車石原警部から「間もなく水が切れる」との至急報が入った。
大久保九機隊長はこの瞬間に決断した。
「隊長命令ッ、一斉に突入、検挙せよッ」
六時七分。水が切れた。
九機副隊長伝令遠藤正裕隊員(24)が勇猛果敢、「わぁーッ」と喚声をあげ、大楯を構えて談話室側突破口からベッドルームに躍り込んだ。
その瞬間“ドン”と銃声が響き、遠藤隊員は38口径拳銃の銃弾を右眼に受けた。
弾は右眼脇から右耳上部を貫通する。遠藤隊員は重傷にめげず救護の手をふり払い、「俺に構うな、突っ込めッ、犯人を逮捕しろッ」と怒号する。
冷蔵庫の後ろで機をうかがっていた仲田小隊長は遠藤隊員の突入と同時に、犯人らが“ダーン、ダーン”と二発連続発射して弾切れとなったところを見すまし「今だッ」と大楯を人質を囲むようにしてうずくまっていた犯人たちの頭上に叩きつけ、散弾銃とライフルを払いのけて馬乗りになる。
目黒成行巡査部長(29)は目の上に散弾を撃ち込まれるも屈せず、犯人たちと格闘を始める。長野県機動隊の名誉を双肩に担って決死隊を志願した龝沢正夫、永原尚哉両隊員ももじゃもじゃの長髪をふり乱し半狂乱で泣きわめく男と格闘する。
仲田小隊長は無我夢中で目の前に出ていた手首を掴んで引き摺り出し、手錠をかけようとした。おや、手首が細い、体重が軽い。女だッ。その女性が「私、ちがいます」と言う。
牟田泰子さんだと直感した仲田小隊長は手を放し、その女性に蔽いかぶさっていた男の手首に手錠をかける。
目黒巡査部長は人質牟田泰子さんと思われる女性を背中にしょって談話室へと脱出。遠藤隊員が一番槍をつけた西海隊もベッドルームに雪崩れ込み、大楯で押えつけて二人の犯人を逮捕。
時に二月二十八日午後六時十四分、実に事件発生以来二百十八時間ぶりの凱歌だった。
この時の模様を采女警部補はこう報告している。
「第九十六報、現場一から統轄」
「現場一、どうぞ」
采女「泰子さんを発見ッ、どうぞ」
石川統轄「生きているのかッ、どうぞ」
采女「手が動いたッ、生存を確認ッ」
それは絶叫に近い狂喜の報告だった。
石川統轄が「生存を確認。統轄、了解」
正面玄関附近で芦沢警部の無線機を通じてこのやりとりを聞いていた私は、長年の習慣でこれは確認しなくてはと思った。
もしその女性が赤軍の女兵士だったら? と考えたからだ。その可能性は多分にある。事件当初にもベランダでバリケード構築にあたっているネッカチーフをかぶった人物がいたことが報告されている。
もし赤軍の女兵士だったら警察は天下の笑い物になる。常々言っているように危機管理情報処理の要諦は「悪い情報は早く、聞きとりのまま。よい情報はゆっくり、確認をした上で」上司にあげるなり、マスコミに公表すべきが指揮官の心得である。
私は暗闇の中で隊員たちが熱狂している談話室に入って、
「待て、暫く待て」と大音声でよばわった。
「確かに牟田泰子さんかどうか、確認しろッ」
皆、そういわれても、といった表情で顔を見合せている。無理もない。皆、初対面なのだ。懐中電灯で救出された女性の顔を照らす。その女性は長時間氷のように冷たい放水を浴びて全身ビショ濡れ、髪はざんばら髪で真青な顔色でブルブル震えている。夜目にも鮮やかな美女だ。気絶寸前だ。よし、本人に訊ねるしかない。私は彼女の頬を叩き、体をゆすぶって大声で訊ねる。
「貴女は牟田さんですか? 牟田泰子さんですか?」その女性はうなずいてかすかな声で答える。「はい、牟田泰子です」ようし、間違いない。泰子さんだ。泰子さんは生きていた。「あさま山荘事件」警備の最大目的だった人質の救出という、奇蹟に近い困難な任務を、我々は、長野県警も警視庁も、警察庁も神奈川県警も、皆小異を捨てて大同につき、心を一つにして見事やり遂げたんだ。
私の脇で一度は「人質確保、いや、暫く待て」とジッと確認結果を待っていた采女、芦沢、後田の三人が一斉に喜びの「人質救出。本人に確認した。牟田泰子さんに間違いなし。以上。現場一」と報告する。
時に午後六時十七分。この吉報に山荘を黒々と取り囲んだ数百の機動隊員、一千人を超える報道陣から期せずしてドッと歓声があがった。
この瞬間、人の心は一つになり、その感動は日本全国津々浦々、視聴率八十九・七%、六千万人といわれた日本国民に生中継で伝わったのだ。それは人生に二度とない純粋感動の一瞬だった。
隊員たちは争って牟田泰子さんを毛布でくるみ、手送りで山荘外に運び出し、担架に乗せる。山荘前に|蝟集《いしゆう》した報道陣や警備部隊から歓声があがり、拍手が起こる。
なおこの牟田泰子さん搬送の途上、山の上から読売安部誠一カメラマンが撮影した写真は、私の貴重な想い出の一枚となっている。
救急車で待ち構えていた警視庁の梅沢参事官と松本幾子婦長が泰子さんにより添い、体温で泰子さんを温め、「眠ってはいけませんよ」と励まし、マッサージを続けながらサイレンの音も高らかに軽井沢病院に向う。
談話室に戻るとそこは催涙ガスや硝煙の匂いと混って雨に濡れた獣のようなむせ返らんばかりの悪臭が立ちこめている。
長髪をふり乱し、まだ狂ったようにもがき、わめき散らし、ワァワァ泣いている犯人たちの汚れ切った体や衣類が放つ悪臭である。
何という凶悪な人相だ。興奮の極だ。泣くな、この野郎、今更なんで泣くんだ。
私は隊員たちに指示する。
「いいか、君らの隊長たちや仲間を撃った犯人たちは国が必ず裁いて極刑に処する。だから私的な制裁を禁ずる。これから報道陣の前を連行するがゆっくり歩け。報道にシャッターチャンスを与えろ。長野県機、先頭ッ」
警視庁は、兄貴株なんだから、検挙第一号の名誉は長野県機に与えることとする。
「こいつ、顔を見せまいともがくんです。髪の毛掴んで顔あげさせてもいいですか?」
と犯人たちを両側からシッカリ捕えている隊員が聞く。
「おう、いいとも、カメラの前でゆっくり顔を見せてやれ」
隊員は首を振ってまだ抵抗している犯人の汚ない長髪を鷲掴みにしてグイと顔を引き起こす。
後で分ったことだが、県機の龝沢、永原両隊員が逮捕したのは吉野雅邦だった。仲田小隊長が逮捕したのは未成年・Aだった。
後日、功績調査の結果、明らかになったところによれば西海隊でベッドルームに突入し、未成年・Bを折り重なって逮捕したのは、長田幹雄中隊長、福田忠央小隊長、上神正治分隊長、鬼沢貞夫、大谷勝博両隊員の五人。
吉野雅邦を逮捕したのは、前記長野県機動隊の龝沢・永原両隊員のほかに、小山信義小隊長、赤松昭男、吉山弘己両隊員の三人。
未成年・Aは前記の仲田小隊長、目黒分隊長の他に西海隊の鴻池静郎、首藤孝義、石川多一、小池啓太郎の四隊員が検挙活動に参加した。坂東国男を逮捕したのは壺井修三小隊長、稲村晁・増田茂樹分隊長、田中栄一、遠藤俊之、岩下正衛の各隊員だった。
ベッドルームでの最後の検挙活動に直接携わったのは、二十八人の機動隊員たちだった。
そして隊員たちが四人の犯人たちを連行し始めた時、もう一固まり真黒な人影がガタガタ音を立てながらベッドルームから出て来た。
「何だ?」「もう一人、いました。濡れた布団の下に隠れてました」
これが坂口弘だった。五人目の犯人坂口弘は、井口信分隊長、中村肇、野崎剛洋、西前恵夫、小沢清治、上田善司の五隊員によって逮捕された。やはり連合赤軍の犯人は五人で、「さつき山荘」の遭遇戦で一人に命中弾を与えたとする県警の最初の報告は事実でなかった。
五人目の坂口を送り出すとまた一団人影がもつれ合いながらベッドルームから出て来た。もう一人いたのか? と暗闇の中で目を凝らすと、それは片目失明の重傷を負った遠藤正裕隊員を搬送する救護班だった。
念のため屋内をもう一度総点検する。調理室に入った私は、思わず息をのんだ。鉄パイプ爆弾が爆発した調理室は天井は裂け、周囲の壁は崩れ、無数の鉄片が食い込み、食器棚が爆砕されていた。僥倖にも爆弾は食器棚に飛び込んでそこで爆発したのだった。もし集結していた十二人の隊員のド真中で爆発していたら……と思うとゾッとする。
ベッドルームには無数の空薬莢が散乱し、22口径ライフル一挺、散弾銃四挺、38口径拳銃一挺、実包はまだ五百九十一発も残っていた。
さらにゾッとしたのは鉄パイプ爆弾が三個ころがっていたことだ。延長放水は大成功だったのだ。水が点火式の鉄パイプ爆弾の起爆剤を湿らせ、使用不能にしたから一発で済んだのだ。なお現金が七十五万千六百十五円遺留されていた。
談話室に戻ると一人の若い隊員が赤いリンゴを皆に見せびらかして威張っている。
「これは歴史的なリンゴだぞォ」
通りかかった私が「何で歴史的なんだ?」と訊ねると、
「はい、これは牟田泰子さんのカーディガンのポケットに入ってたもんであります。見て下さい。牟田さんの歯形が残ってるでしょう。だから歴史的なんです」
成程。これは大久保隊長が大胆にも玄関前に届けた牟田郁夫さん差入れの果物籠に入ってたリンゴだな。
このユーモア感覚豊かな隊員の名前を知りたくて「あれは誰だい?」とそこら辺の隊員にきくと「鴻池静郎(26)っていいます」とのこと。
私が次にこのリンゴ青年に会ったのは、警察庁長官室における警察勲功章授与式の席上であった。
男泣きする隊員たち
県警本部長や警備部長ら、幹部たちが山荘の現場視察に姿を見せた。水にも濡れず泥もついていないまっさらな出動服が大楯やザイルなどで足の踏み場もない現場にそぐわない。
手送りで大楯などを山荘から運び出している警視庁の機動隊員たちは「邪魔だ、邪魔だあい」なんて魚河岸のお兄さんが見物のお素人に意地悪するように、道を開けようとしない。典型的な“フロントライン・シンドローム”である。
私が笑いをこらえて「本部長の巡視だ。道を開けろッ」と命ずると「ヘーイ、おう、皆、本部長様御一行、御視察だとよォ」
まるで魚河岸そのままだ。
報道陣は協定を守って山側のロープの内側でカメラの放列を布いて待機していた。
「人殺しッ」「お前たち、それでも人間かッ」「殴れ、殴れ」。なにしろ血の気の多い若い記者たちが多いから罵声が飛び交い、本気で殴りかかってくるのもいる。
それを機動隊員たちが犯人を庇って制止している。
なかには凄く要領のいいカメラマンもいる。サンケイの腕章をつけたカメラマンが犯人をポカリと殴り、さっと崖側に廻り、フラッシュを焚く。その角度は特ダネ写真になる。山側に並ぶカメラマンが一斉に「おい、サンケイ、汚ねえぞ」と叫ぶ。
犯人たちを連行する護送の一隊が遠ざかるにつれ、大歓声や拍手、怒号が次第に山の麓に下ってゆく。
「あさま山荘」を実際に攻略した警視庁約三百人の機動隊員たちは、深まりゆく山上の闇の中で立ち尽していた。
体中凍え、昼食も摂っていない隊員たちは、人質救出の興奮が冷めてくるにつれ黙りこみ、肩をふるわせ嗚咽が|小波《さざなみ》のように伝わってゆく。
今は亡き隊長たちのことや、今もなお生死の境を|彷徨《さまよ》っている同僚たちのことに思いをはせているのだろう。長男は除け、妻帯者は列外と気を配ってくれた警察庁の思いやりにもかかわらず、殉職した二人はもとより、重傷者は全員妻帯者だった。上原警部には越谷市の自宅に邦江夫人とゆかりさん、さゆりさんの二女がいる。中村巡査部長には流山市で待つ勝子夫人が、大津巡査には埼玉県幸手町にみつ子夫人が、そして遠藤巡査には千葉県富士見町に彼の無事な帰宅を待ちかねている春江夫人と長男裕司君がいる。
暗闇に包まれた山上の特型警備車の蔭で県警本部長の解除命令を待って悲しい思いに耽っていると、
「佐々さん、内田さんや高見さんを死なせてしまって、今はどんなお気持ちですか。コメントを」
と声をかけて来る者がいる。見ると今日の午後作戦を中止せよと迫ったA紙のI記者だ。なにを!! 何ていうことを聞くんだ。この野郎!
「今の気持ちだと? 君にとっては内田だ、高見だ、記事にするただの名前に過ぎないだろうが、俺にとっては第二安保をずっと一緒に戦って来た生身の仲間なんだ。君に俺の気持ちなんか分るか!!」
そう怒鳴った私は涙を流しながら拳を固めて一歩踏み出す。
この男、殴ってやろうと本気で思ったのだ。途端に傍らにいた読売の伏見勝記者がI記者を押しのけて無精髭面をつき出し、「俺は分るぞ、俺も一緒に泣いてやらあッ」
と叫んで私に抱きつき、オイオイと泣き出した。
無精髭がザリザリして少し痛かったが、私は嬉しかった。見かけはゴツイが優しい心を持った伏見記者は、多分夜廻りに行って内田隊長の家族にも会ったことがあるのだろう。他の記者クラブから「あさま山荘」にだけ来たI記者のようなヨソ者と違って伏見記者は立場こそ違え警視庁の身内だったのだ。
後日、このI記者が「佐々たちは山の中でオイオイ泣いていて|女々《めめ》しかった」と言ってるとか、言ってないとか耳にしたがいかにもA紙記者らしい物の見方だ。“縁なき衆生は度し難し”だ。
いつまで待っても解除命令が来ない。山の上は寒いし皆腹ペコなのだ。
石川部付警視正が「どうなってんのかね、これ。なぜ解除しないんだろ? ちょっと本部に聞いてみろ」と宮本“|部付付《ぶづきづき》”に指示する。
問い合せた結果「ずっと山上にいたなんて知りませんでした。とっくに警視庁は警視庁で解除してお帰りだと思ってました」という返事。
部隊運用の基本を知らなかったためと判明した。命令は県警本部長に一元化されていて、警備本部長の任務解除命令がない限り、勝手に帰るわけには行かないのに。
やっと解除命令が来たのは午後八時十分。やがて命がけの大警備を終え、ズブ濡れで腹ペコで疲れ果てた警視庁機動隊三百人の勇士たちが、目をキラキラ輝かせながら闇に沈む「あさま山荘」を後に、整然と隊伍を組み、黙々と、粛々と雪の山道をふみしめながら山を降り始める。
居並ぶ何百人という報道陣や長野県警の人々が左右に道を開け、彼らの健闘を讃えて惜しみない拍手を送っている。
出動服姿の中年の長野県警の人が感極まって「警視庁の皆さん、本当に御苦労様でしたア、有難うございましたア」と涙声で叫んでいる。
吉良邸討入りを果して泉岳寺へと隊伍を組んで引き揚げる赤穂四十七士を出迎えた江戸町民の感激もかくやとばかりの歓迎ぶりで、それは疲れた警視庁機動隊員たちにとって何よりの御褒美だった。
多重六号に戻ると、石川部付、大久保隊長ら指揮幕僚団の一同が黙って坐っていた。
「大久保隊長、本当に御苦労様でした」といって握手を交すと、大久保隊長が突然せきを切ったように涙をこぼし、肩が烈しく上下する。
私も彼の肩を叩きながら熱いものが目からふきこぼれてくるのをとめようがなかった。
丸山参事官と軽井沢署に引き揚げたが、県警本部長以下記者会見などに忙殺され、長野県警全体が警備の成功に沸き立って誰も構ってくれない。
昼食抜きなのでせめて温かい夕食と熱い一杯のお茶が欲しいところだが……。
温厚な丸山参事官が「御苦労様ってお茶ぐらい飲ましてくれたってよさそうなもんだ」とこぼす。
私は「丸山さん、“木枯し紋次郎”って知ってますか?」と訊ねる。
「知らない。何だ、それ?」
「笹沢左保という小説家の|旅人《たびにん》ヒットシリーズでね、中村敦夫って俳優が主演するテレビドラマになってましてね、村人を苦しめる悪代官やヤクザ一家をバッタバッタとなぎ倒して、村人が大喜びして紋次郎にお礼言うのも忘れてる内に『あっしにゃぁかかわり合いのねえ事でござんす』と捨て科白残して長い楊子咥えて風のように立ち去るんですよ。それが今時カッコいいんです。十日間も難しい時期の記者会見は我々でやって、今晴れがましい凱旋記者会見には“木枯し紋次郎”は出ない方がいいんです。高原ホテルに帰ってメシ食いましょうよ」
「ふーん、木枯し紋次郎ね、そういうもんかねえ」と丸山参事官。よく分らなかったようだ。
午後六時過ぎ赤軍派最高幹部坂東国男の父、基信さん(51)が「世間を騒がせたことを死んでお詫びします」という遺書を残して大津市粟津町の自宅で首吊り自殺を遂げた。この父君も「あさま山荘事件」の犠牲者の一人である。
心重い凱旋
明けて二月二十九日(火)は快晴だった。後藤田警察庁長官一行がヘリコプターで現場視察に飛来した。一行に随行して山荘南東側土塁の内田隊長殉職の地点まで来た時、私は胸にグッと熱いものがこみあげてくるのを覚えた。
慰霊の花束と共に私の陣中見舞いのジョニーウォーカー黒ラベルの瓶が封も切らずに供えてあるではないか。
無精髭だらけの二機の隊員たちが革ジャンパーの袖でゴスゴス涙を拭きながら参拝している。
せめて一口、飲んでもらいたかった。あの時一緒に乾杯を……と言えばよかったと思うと、何とも悔いが残ってやりきれない気持ちだ。
二十九日朝になってやっと北海道から電熱コイル入り防寒警備靴が三百足届いた。札幌オリンピックに使われたものだ。危機管理というのはいつもこれだ。トゥ・リトル、トゥ・レイト、“いつも足りず、いつも後の祭り”なのだ。
二月二十九日朝十一時頃、丸山参事官ら派遣幕僚団を乗せた警視庁のヘリコプターは軽井沢72ゴルフ場の仮設ヘリポートを飛び立ち、東京市ヶ谷自衛隊駐屯地へ向った。
その日は快晴でヘリの機上から眼下に一望する雪山の風景は絶景だった。山肌の白銀の照り返しは寝不足の目には眩しい。
尖った三本の指で天を指す妙義山の鳥瞰図など恐らく二度と見る機会はないだろう。その妙義山を暁の空を背景に見上げたのが、つい昨日のような気がする。
フッと殉職した二人の事が心に浮ぶ。私たちはこうして帰りの妙義山の絶景を見下しているが、二人は二度と見ることはないのだ。
往きて二度と帰らぬ人となった二人の遺族たちにこれから会わなくてはならないと思うと心が重い。
心が重いのは殉職者とその遺族への思いのせいばかりではない。本来なら未曾有の人質救出作戦に成功しての心晴れ晴れとした凱旋であるはずなのだが、昨夜遅くある記者が伝えてきた嫌な噂が濁った|澱《おり》のように疲れた脳にたゆたい、私を憂鬱にさせていたのだ。
その記者の言によると警察庁では「あさま山荘警備は大失敗」との批判の声が高いという。「僅か五人の鼠賊のために千五百人の警察官が十日もかかって、しかも殉職者二人、負傷者二十四人も出して、よくオメオメと帰って来れるな、誰も辞表を出すのはおらんのか」と言ってるともいう。
誰が言ってるのか知る由もなく、真偽の程さえ確めようもない嫌な噂だが、現地に派遣された、疲れ果てた指揮幕僚団を激昂させるには十分な、あまりに現場の諸事情に無理解な酷評だった。
気の立っている現場の人々にはこういうヒソヒソ話が驚くべきスピードで伝播する。悲憤する者あり、失望落胆する者あり、失敗だといわれると責任問題を心配する者あり、折角の感激に冷水を浴せられる思いがした。私は疲れていた。かなり重症の「フロントライン・シンドローム」に罹っていた。私は警視庁警備第一課長時代、数千回に及ぶ激しい極左過激派の集団不法行為取締りの警備で、延べ一万五千人を検挙し、警視庁機動隊に延べ一万二千人の負傷者を出した警備指揮官だが、過激派を一人も殺さなかったし、我が方にも私が指揮した警備に関する限りただの一人も殉職者を出したことがない。それは単なる運のよさにすぎなかったかもしれないが、私のプロフェッショナルな誇りでもあった。
「あさま山荘事件」では無残にその無敗記録がストップし、立派な人を二人も死なせてしまった。
私は決心した。誰か辞表を出せというなら私が出そう。それは初めから覚悟の上だ。辞表はすでに書いて役所のデスクの引出しに入れてある。
「丸山さん、私が責任をとります。辞表はデスクの引出しに入ってますからそれを受理して下さい。但し私は警察庁に辞表を出す気はありません。殉職した内田と高見の遺族に申訳ないから出すんです」
丸山さんは、「いかん、君は何を言うんだ。君が辞めることはない。君は実によくやった。批判してるのがいるとすれば批判する方が悪い。警察庁が本当に『あさま山荘』警備は失敗で誰か責任とれといってるんだったら、私が辞める」と真剣になって私を慰留する。
市ヶ谷駐屯地に降り立った時も私の決心は変らなかった。
「せめて警察庁に行って報告をすませてからにしては……」とひきとめる丸山参事官らの忠告をふり切って、私はそのまま鎌田運転手の運転する警備局さし廻しの車に乗って、真直ぐ世田谷の自宅へ向った。
あとできくと乗った途端に私は泥のような眠りに落ちたそうだ。
我が家に着くなり、私を出迎えて無事を喜び、労をねぎらってくれる妻に、
「警察を辞めることになるだろう。警察庁では大失敗だったと言ってるそうだ。二人も死なせてしまったからね。俺はベストを尽した。悪口を言われるいわれはない。とにかく眠い。記者なんか来ても誰にも会わないし、電話にも出ないからね」と言い捨てて、そのままベッドにもぐり込み、深い眠りに落ちた。……どれ位眠ったろう。妻に揺り起こされた。
「貴方、後藤田長官からお電話よ、どうなさる?」
妻にしてみれば幼い子供が三人もいるのに突然辞められてはという思いがあって、誰の電話にも出ないといったって、後藤田長官の電話には出てほしいと考えたとしても無理からぬことだ。私は渋々電話口に出た。どうせ拗ねてないですぐ出頭しろというお叱りに決っている。
「はい、佐々です」と不貞腐れた声で電話に出ると、これまで聞いたこともないほど穏やかな後藤田長官の声が流れて来た。
「佐々君か? あのなあ、いろいろ言うとる奴はおるが、だ、君をおいてあれだけやれる奴はおらんかった。ようやってくれた。お礼を言います。御苦労様でした。疲れたろう。ゆっくり眠ってくれ」
私の体を電流のように喜びが走った。あの秋霜烈日、“カミソリ後藤田”と言われ、人を叱るか、悪口言うかのどっちかで、それまで誉められた事も無ければ優しいいたわりの言葉なんか一度もかけられたことのなかった私は、このトップからの一本の電話で感激した。
この人はわかっていてくれたのだ。
「士ハ己ヲ知ル者ノタメニ死ス」だ。
お湯のように暖かなものが胸に湧きよせ、このところゆるみっ放しの涙腺がまた熱くなって来た。
「有難うございます。一眠りさせて頂いたら出勤して御報告致します」
電話を切ってから、傍らで心配そうにしている妻に「おい、辞めるの止めたよ」というと「どうなる事かと思ったけど、それはよかったですね」と素直に喜んでくれる。
湾岸戦争の指揮官、コーリン・パウエル元統合参謀会議議長の言葉にこういうのがある。「これはとてもどうにもならないと絶望的に見えた事も、一眠りしてから見ると、さしたる事でない事に気づく」
まさに至言だ。
なお、局長からは軽井沢にも自宅にも一本の電話もかからなかった。
部下の弔事が優先
指揮官が何をさておいても真先にしなければならない事、それは殉職した部下の遺族への弔問だ。「上司の慶事より部下の弔事」これがゲマインシャフト・リーダーシップの源泉の一つだ。
眠りからさめた私は、その日の夕暮れ、まず遠い方の高見家の弔問に向った。
自宅は保谷市だが高見家の菩提寺は杉並区の最勝寺である。無言の帰宅をした高見繁光警視正(殉職により二階級特進、勲四等)の御遺体の枕辺に端座する未亡人久子さん(41)と高校生で大学受験勉強中ときく長男敏明君(18)と中学生の次男・真明君(15)の三人は、実に毅然として私たちのお悔みを受けている。
やはり男の子は違う、シッカリしてる……とやや救われた感じだ。私も昭和二十三年(一九四八年)父親・弘雄が若くして他界した時、高校三年の十七歳、丁度敏明君と真明君の中間の年だった。
「私も十七歳で父親を亡くしてね、君らお母さんを大事にしてシッカリやるんだよ」
と早く父親を失った先輩として激励し、やがて退出する。
それから目黒区五本木の内田邸を弔問した私は、昭和元禄の戦後の日本ではめったに見る事の出来ない光景を目撃して粛然と襟を正した。
畳敷きの八畳間に北を枕に安置され、白布を顔にかけ、武家の作法通り鯉口を切った短刀を胸にのせた御遺体の傍らで、未亡人くらさん(42)と長女の高校生尚子さん(17)と次女の中学生の孝子さん(14)の三人が、身も世もあらぬ悲しみに抱き合って号泣している。
よほど内田尚孝警視長(殉職により二階級特進、勲三等)が生前二人のお嬢さんを可愛がっておられたのだろう。その純粋な悲しみようは正視に耐えない。
その三人を、なんと端然と正座した白髪の切下げ髪の老母が「尚孝はお国のために死んだのです。泣いてはいけません」と気丈にもたしなめているではないか。
いまや日本で絶滅に瀕している武士という種族の最後の母親たちの一人がそこに坐っている。
息子を返せと恨み、悲しみをぶつけてきてくれる方がどれほど楽か。
立派な警察幹部を死なせてしまったという喪失感が胸に迫り、|刀自《とじ》と呼ぶにふさわしい品のいい御母堂への慰めの言葉が見つからず、私たちは俯いて畳の目をジッと凝視しているばかりだった。
警察庁上層部をふくめてほとんどの人にとって、内田、高見という殉職者の名は新聞の活字に過ぎないが、共に戦った者にとってはこういう遺族との身を切られる思いの出会いが待っているのだ。
[#改ページ]
歴史の曲り角
連合赤軍の「あさま山荘事件」を支持したのはモップル社だけではなかった。
三月一日夜、日比谷野外音楽堂で開かれた「三・一朝鮮独立五十三周年、日韓条約粉砕、入管法・外国人学校法案国会上程阻止蹶起集会」に出席したオールド・ボルシェヴィキ、日本社会党の高津正道元代議士は、
「連合赤軍はわずか五人で|千《マ》四|百《マ》人の警官隊を相手によく戦った。今や社会主義運動は言葉だけでなくなった。私は五十年もの間この日が来ることを首を長くして待っていた。これで革命も間もないことだろう」と激越なアジ演説を行い、参加した六百人から大喝采を浴びていた。
帰京直後警察庁でこの情報を聞いたとき、私は烈しい憤りを感じた。
そうか、社会党左派はやっぱり本質はボルシェヴィキなのか、武力革命をやるならやってみろ、断固制圧してやるぞと心に決したものだった。いま思うとまさに今昔の感がある。
連合赤軍のメンバー、二十九人のうち、二月二十八日までに十三人が逮捕されたが、まだC・C級(中央委員)の大物、山田孝(赤軍派・27・京大)や寺岡恒一(京浜安保・24・横浜国大)をはじめ十六人の所在が不明だったことから「あさま山荘事件」が終っても依然第二の「あさま山荘事件」による獄中の同志釈放闘争が行われることを予想して、山狩りや検問を続けていた。
そして三月七日、青砥幹夫が自供を始め、未成年・ABがあとの十四人はリンチで殺して埋めてあると仄めかした時も、捜査官は半信半疑だった。それが事実であることが確認され、次々と供述どおり遺体が発掘され始めたとき、日本国民は唖然とし、嫌悪し、憤激し、国内における極左過激派の革命闘争は完全に世論の支持を失い、急速に衰退して行った。
その意味で、連合赤軍「あさま山荘事件」は日本社会運動史上エポック・メイキングな歴史の曲り角の大事件だったのである。
「あさま山荘」を包囲している間、私たちが感じ続けていた、あの得体の知れない不気味さは後から思えばこの血塗れの集団リンチ殺人事件の犠牲者たちの死霊が犯人たちの“背後霊”となって魔界から怨みをこめて一部始終をジッと凝視していたせいかも知れない。
そう思うと思わずゾッと背筋が寒くなる。彼らが十日間呼びかけても応ぜず、アジ演説もせず、要求も出さず薄気味悪く沈黙していたのも、死霊にとり憑かれていたためだったのだろうか。
連合赤軍「あさま山荘事件」は、当然マスコミ各社の激甚な取材競争をひき起こした。抜いた、抜かれたの特ダネ合戦は悲喜|交々《こもごも》のエピソードを数多く生んだが、こんな笑えない事件もあった。
救出後の牟田泰子さんは当然ドクター・ストップで取材はお断り、さらに重要な参考人として長野県警本部が厳重に警護し、面会規制をしていた。
それなのにA紙のみが牟田泰子さんと捜査担当の警部、それとごく一握りの県警上層部と警察庁幹部しか知り得ない事情聴取の内容を次々と特ダネとして報道し、物情騒然となった。
一時は担当警部に情報漏洩の疑いがかかったことさえあった。競争紙は当然県警を吊し上げる。その騒ぎの最中に長野県警本部柳沢警備第一課長が軽井沢病院の牟田泰子さんの病室に無許可で入室した挙動不審の男を、赤軍派の一味かと思ってとっ捕まえた。
ところがこの男、A紙の記者で牟田泰子さんのベッドの下に仕掛けた盗聴器の発信器の電池が弱ったのを交換に来たところを捕まったものと判明した。
A紙のS氏、A氏などの大物記者たちが警察庁警備局などに懸命のもみ消し工作をして、どういう話し合いの結果になったのか、この事は表沙汰にならなかった。
当時この事件が競争他社に知れていたらただではすまなかった事だろう。もともと三面記事の事件ものに弱いA紙は、盗聴器が没収されたあとはまた元の抜かれっぱなしのA紙に戻ったのであった。
「あさま山荘事件」については、受傷者や功労者に対する表彰が行われ、多くの機動隊員たちが受賞した。それぞれの「賞」の授与は同一月日ではないため、所属階級が異なっているものがある。
受賞者の勇気と名誉を讃え、その階級および氏名を公表する。
【勲三等旭日中綬章(叙位 正五位)】
警視長 内田尚孝
【勲四等旭日小綬章(叙位 従五位)】
警視正 高見繁光
【勲七等青色桐葉章】 十九人
警部 石原弘之 塩澤秀登 上原勉 長田幹雄
警部補 仲田康喜 壺井修三 福田忠央 小山信義 上神正治
巡査部長 目黒成行 岩淵弘 大津高幸 平井益夫 井上康夫 中村輝夫 遠藤正裕 宮崎正二 鴻池静郎
巡査 龝沢正夫(長野県警)
【勲八等白色桐葉章】 三十二人
巡査部長 中村欣正 小池啓太郎 中田作男 稲村晃 赤松照男 中川誠人
巡査長 中村肇 惣田定一 石川多一 吉山弘己 野崎剛洋 上田善司 首藤孝義 鬼沢貞夫 佐々木積 大佐古保正 岡英男 熊谷芳一 内藤秀夫 中村利美 小沢清治 大谷勝博 田中栄一 西前恵夫 岩下正衛 遠藤俊之 加藤司 吉川訓 松元康則 中原九州男 土谷豊明
巡査 永原尚哉(長野県警)
以下、部隊名と階級、氏名を記す。
【警察勲功章】 十三人
警視庁第九機動隊
警部補 仲田康喜 壺井修三 上神正治
巡査部長 目黒成行 宮崎正二 遠藤正裕 鴻池静郎
警視庁第二機動隊
巡査部長 岩淵弘 平井益夫 大津高幸 井上康夫 中村輝夫
長野県警察本部機動隊
巡査 龝沢正夫
【警察功労賞】 三十八人
警視庁公安総務
警部 石原弘之
警視庁学校
警部 塩澤秀登
警視庁第二機動隊
警部 上原勉
巡査部長 中村欣正
警視庁第四方面本部
警部補 福田忠央
警視庁第九機動隊
警部 長田幹雄
警部補 小山信義
巡査部長 小池哲太郎 中田作男 稲村晁 赤松昭男
巡査長 中村肇 惣田定一 石川多一 吉山弘己 野崎剛洋 上田善司 首藤孝義 鬼沢貞夫 佐々木積 大佐古保正 岡英男 熊谷芳一 内藤秀夫 中村利美 小沢清治 大谷勝博 田中栄一 西前恵夫 岩下正衛 遠藤俊之
警視庁特科車両隊
巡査部長 中川誠人
巡査長 加藤司 吉川訓 松元康則 中原九州男 土谷豊明
長野県警察本部機動隊
巡査 永原尚哉
(警察庁長官賞詞、警視総監賞詞、長野県警察本部長賞受賞者氏名は、資料3 参照)
「あさま山荘事件」が起きてから満二十四年の歳月を|閲《けみ》した。平成六年二月十九日に実に二十一年ぶりに坂口弘、永田洋子らに対する最高裁判所の判決が確定した。しかし昭和五十年八月四日のクアラルンプール事件の際超法規的措置で釈放した、内田隊長射殺犯人と思われる坂東国男にはまだ正義の裁きが下っていない。
軽井沢の山中で生死を共にした“独立愚連隊指揮幕僚団”、警察庁九人、警視庁十六人計二十五人は、丸山参事官を中心に、そして元警察庁国松孝次長官や亀井静香元運輸大臣も参加して、毎年二月二十八日には必ず築地の「スエヒロ」の「あさま山荘の間」に集り、内田、高見両殉職者に代表墓参と遺族の近況報告を欠かさない石川三郎部付警視正の音頭で二人の御冥福を祈って黙祷を捧げるのだ。
この追悼行事は、二十四年間一度も欠かすことなく続けられ、これからも命ある限りこの戦友会は終りなく続けられることだろう。
また、当時長野県警警備第二課長だった北原薫明氏の書簡によれば、長野県警本部の当時の幕僚たちも、野中元本部長を中心に「旧友会」とよぶ会をつくり、二階突入の任務を果した県機動隊員の組織する「かえで会」ともども、あさま山荘事件を語る会合をいまに至るも催しているという。この二つの会は、解散前に必ず殉職二氏の顕彰碑に参詣している由で、オール警察軍として一致団結、一つの目的達成に結ばれた警察官のあの事件に対する想いがいかに深いものであるかを物語っている。
[#改ページ]
連合赤軍「あさま山荘」事件 関係資料
●連合赤軍「あさま山荘」事件関連年表
64年(昭和39年)
12月10日 日共系全学連再建大会
65年(昭和40年)
2月1日 慶応大学学費値上げ反対全学スト
3月13日 社学同大会開催
30日 社青同解放派結成
7月8日 中核派、社学同、解放派=三派都学連再建大会
8月30日 反戦青年委員会結成
66年(昭和41年)
1月18日 早稲田大学学費値上げ反対全学スト
12月17日 全学連(三派)再建大会
67年(昭和42年)
1月20日 明治大学学費値上げ反対で大衆団交
6月10日 東京教育大学、筑波移転強行決定でストへ
10月8日 佐藤首相ベトナム訪問反対で三派系全学連、機動隊と衝突=第一次羽田事件
11月12日 第二次羽田事件
68年(昭和43年)
2月20日 金嬉老、ライフル銃で二人を射殺後、寸又峡で十三人を人質に籠城
26日 成田空港設置反対で農民・学生と機動隊が衝突
5月31日 日本大学学生三万人デモ
6月17日 安田講堂占拠学生を機動隊が排除=東京大学全学ストへ
7月8日 三派系全学連分裂
9月30日 日本大学全共闘、大学側と大衆団交
10月21日 国際反戦デー 新宿、国会周辺で大規模デモ=騒乱罪適用
12月30日 東大、東京教育大、入試中止を決定
69年(昭和44年)
1月18日 安田講堂占拠学生に機動隊出動『東大落城』(佐々淳行著 小社刊)
4月27日 革共同幹部、破防法で逮捕
28日 沖縄デー 全共闘系学生と機動隊衝突
中核派、共産同(ブント)に破防法適用
9月3日 早稲田大学大隈講堂に機動隊出動
4日 共産同「赤軍派」結成大会(葛飾公会堂)
〃 京浜安保共闘、愛知外相訪米阻止で羽田空港滑走路妨害
5日 全国全共闘連合結成大会(日比谷公園)
8日 慶大三田キャンパス封鎖解除
10日 東京外語大封鎖解除
13日 東京医科歯科大封鎖解除
22日 赤軍派、大阪府警阿倍野派出所など三か所に火炎ビン=「大阪戦争」
30日 過激派、「日大奪還闘争」をとなえ神田周辺でゲリラ闘争=「東京戦争」
10月21日 国際反戦デー=「新宿騒擾事件一周年記念闘争」全国六百か所で統一行動
11月5日 大菩薩峠「福ちゃん荘」で武闘訓練中の赤軍派逮捕
12日 佐藤首相訪米で反対デモ
70年(昭和45年)
3月31日 赤軍派、日航機「よど号」をハイジャック
5月12日 「ぷりんす号」シージャック事件(犯人射殺)
6月14日 各地で日米安保反対デモ
8月4日 革マル派、中核派に報復宣言=「内ゲバ」開始
11月25日 三島由紀夫ら市ヶ谷の自衛隊に乱入
12月18日 京浜安保共闘三人組、板橋志村署の上赤塚交番を襲撃、犯人一人射殺
71年(昭和46年)
1月25日 赤軍派、日共革命左派共同集会
2月17日 京浜安保共闘、栃木県真岡市塚田銃砲店に押し入り散弾銃等を強奪
22日 赤軍派「M作戦」を開始
3月3日 成田強制代執行で機動隊と衝突
6月17日 明治公園反戦集会で鉄パイプ爆弾爆発 機動隊員多数負傷
7月15日 赤軍派、日共革命左派「統一赤軍」結成宣言(→「連合赤軍」へ)
26日 成田闘争で電気釜に仕掛けた地雷登場
27日 革共同「爆弾闘争宣言」(清水谷公園)
8月6日 広島反戦集会で「連合赤軍」のビラ
7日 本多警視総監公邸、千葉県警成田警察署に時限爆弾
22日 陸上自衛隊朝霞駐屯地で自衛官殺害 11月、赤衛軍幹部ら七人逮捕
9月16日 成田第二次強制代執行で警察官三人死亡
10月11日 ハイジャック防止条約(通称)公布
18日 日石本館内郵便局で後藤田警察庁長官宛の小包爆弾爆発
23日 「都内二十か所に爆弾を仕掛けた」と組織的計画的心理攪乱戦術
11月19日 沖縄返還協定反対デモで学生約千九百人逮捕
〃 日比谷公園で松本楼炎上
12月18日 土田警視庁警務部長宅に小包爆弾、夫人死亡
24日 新宿追分交番でクリスマス・ツリーに見せかけた爆弾が爆発
31日 京浜安保共闘、榛名山アジトで「連合赤軍」創設で合意
72年(昭和47年)
1月3日 「銃による遊撃戦」を掲げて新党結成
2月7日 榛名湖畔で不審車輛に乗った男女九人発見
16日 妙義山で連合赤軍の杉崎ミサ子、奥沢修一逮捕
17日 妙義山で逃走中の森恒夫、永田洋子逮捕
19日 連合赤軍男女四人、軽井沢駅に出現=植垣康博、青砥幹夫、寺林真喜江、伊藤和子逮捕
〃 午後三時六分「過激派のアジトと見られる別荘発見、銃声が聞こえる!」の無線が入る
28日 犯人全員逮捕、人質解放
3月7日 連合赤軍リンチ事件発覚、十四人の遺体発見
5月31日 アラブ赤軍派の日本人ゲリラ、テルアビブのロッド空港で銃乱射
73年(昭和48年)
1月1日 連合赤軍森恒夫、東京拘置所で自殺
7月20日 日航機、アムステルダム上空でハイジャック、ドバイで犯人丸岡修らを逮捕
74年(昭和49年)
1月31日 日本赤軍、シンガポールで製油所襲撃・シージャック事件
8月30日 三菱重工本社ビル爆破事件
10月14日 三井物産本館前で爆破事件
12月10日 大成建設爆破事件
75年(昭和50年)
2月28日 間組本社、大宮工場で同時爆破事件
5月19日 警視庁、一連の爆破事件犯人を検挙(東アジア反日武装戦線「さそり」「大地の牙」「狼」)
76年(昭和51年)
1月6日 京都平安神宮、時限発火装置により本殿、内拝殿など全焼
3月2日 北海道庁ロビー爆破事件
77年(昭和52年)
9月28日 日本赤軍、日航機ハイジャック、ダッカ空港に強制着陸 拘留中の同志九人の釈放要求(超法規措置)
11月25日 ハイジャック防止法案成立
94年(平成6年)
12月19日 連合赤軍坂口弘、永田洋子に最高裁判決
[#改ページ]
〈事件の総括〉
連合赤軍「あさま山荘事件」を警察側のデータを総括して見ると、ザッとこんな工合になる。
警備実施期間、二月十九日から二十八日まで十日間、二百十八時間。動員兵力のべ三万四千九百四十九人。二月十七日の群馬県内山岳アジト発見からの検問、山狩りなどに二十八日までの間に動員された警察官の数は十六都県のべ十二万二千七百人に及んだ。
死傷した警察官、民間人の総数は死亡三人、重軽傷二十七人(内一人報道関係者)
使用した武器、規制用具は、拳銃二十二発、内訳「さつき山荘」関係、長野県機六発、「あさま山荘」警視庁十六発(威嚇射撃)
催涙ガス弾三千百二十六発、発煙筒三百二十六発、ゴム弾九十六発、現示球八十三発、擬音弾百七発、催涙ガス銃八十二挺。
放水量二時間三十分二十五秒(十五万八千五百リットル)、その殆んどが二十八日当日で、二時間二十二分二十五秒(十四万八千五百リットル)、軽井沢の山上でいかに水の確保が困難だったか、あれだけの長い期間の警備でたった二時間半しか使えなかったのである。
「あさま山荘事件」にかかった予算は、もちろん後の「集団リンチ大量殺人事件」の捜査費を除くが、一億円足らずだった。
総額九千六百五十九万三千円(国費二千六百七十五万六千円、県費六千九百八十三万七千円)である。
いま問題になっている住専処理のための公的資金六千八百五十億円という国民の税金がいかに巨額なものか、比べてみるとわかるだろう。政治と行政が「ポリティコ・エコノミィ」(経済政治学)「ポリティコ・ファイナンス」(金融政治学)にここ五十年偏向していて、国民の身体・生命・財産を守るのがその第一の任務であることを忘れ、治安と防衛、すなわち「ポリティコ・セキュリティ」(安全保障政治学)「ポリティコ・ミリタリィ」(軍政学)の優先順位を低くしていたことの証左である。「あさま山荘」警備の後方支援、食糧、燃料の調達、のべ五十万枚に達した報告書などのコピー、印刷製本費、通信費など調達はいずれも事後精算で、手続きに厖大な書類を要する。しかし給食は地元業者から調達した多額の代金を精算時まで延ばすのは中小企業に対して申し訳ないところから、銀行から一時借入れするなど、東大安田講堂事件の時の弁当代騒ぎと同じ悩みを長野県警は味わわされた。
いかに警察官の命がけの働きが金銭的に酬われないか、ということを事実で示せば、サムライは金銭の事を口にすべからずと躾けられてきたから言うのは嫌だし、お金が目的でやっている事ではないが、「あさま山荘」警備に出動した私は、帰京後警備局から「十日間の長野県出張の旅費日当の精算払い」を受けた。支給された手当は、四万二千円だった。警視正には超過勤務手当は支給されない。
サムライは「無定量の勤務」に服すべしという昔の官吏服務令の世界にいたのだ。
現地で十日間を共に過した報道関係者、特に待遇のいい民放テレビ記者たちが、「あさま山荘」の超勤が四十万円、それに勤務調整のため強制休暇一週間などときくと、翌三月一日から引き続き残務処理や残心の構えとしての山狩り、検問実施のため一日の休みもなく出勤していた私にとっては、羨しい限りだった。子供たちとも遊んでやれない日々はまだまだそれから丸三年、果しなく続いたのである。
赤軍派がM(マフィア)作戦という連続金融機関強盗事件で、総額一千三百二十一万八千二百六十七円の活動資金を得ていたことはすでに述べた。
警察がどれだけ被害現金を回収したかというと合計一千百七十七万八千二百三十四円に達する。
「あさま山荘」で七十五万一千六百十五円を回収したのに加え、三月十四日すでに殺されて埋められていると思われていた中村愛子(22・日大看護学院)を、これも虐殺されたものとしてマスコミが大騒ぎしていた幼児と共に警視庁が逮捕した時、彼女が四十万円預っていたことが判明し、盗難現金の回収率は約九十%、回収不能の盗難現金はわずか百三万三千四百三十二円となる。
連合赤軍二十九人のうち「あさま山荘事件」の五名で合計十三人が逮捕されたが、依然として十六人が所在不明であったところから、警察庁としては彼らは群馬、長野のどこかの山中の山岳アジトに潜んでいる公算大と見て、山狩りや検問を続行していた。
逮捕者を整理して列挙すると次のとおりだ。
1 二月十六日 妙義湖畔 二人
奥沢修一(22)慶大(赤軍派)
杉崎ミサ子(24)横浜国大(京浜安保)
2 二月十七日 妙義山籠沢上流
森 恒夫(27)大阪市大(赤軍派)
永田洋子(27)共立薬大(京浜安保)
3 二月十九日 軽井沢駅
植垣康博(23)弘前大(赤軍派)
青砥幹夫(22)弘前大(赤軍派)
寺林真喜江(23)市邨学園(京浜安保)
伊藤和子(22)日大看護学院(京浜安保)
4 二月二十八日「あさま山荘」
坂東国男(25)京大(赤軍派)
坂口 弘(25)東京水産大(京浜安保)
吉野雅邦(23)横浜国大(京浜安保)
未成年・A(19)東海高卒(中京安保)
未成年・B(16)東山工業高校(中京安保)
この後、三月十日山本保子(28)(中京安保)
同十一日前沢虎義(24)工員(京浜安保)
同十三日岩田半治(21)東京水産大(京浜安保)
同月十四日に中村愛子(22)日大看護学院
と四人が逮捕されるのだが、依然C・C(中央委員)の赤軍派・山田孝(27・京大)や京浜安保の寺岡恒一(24・横浜国大)らが行方不明だった。やがて青砥らの自供から同志十四人が「総括」という名の集団リンチにかけられ極めて残虐な殺し方で殺害されて埋められていた、「連合赤軍集団リンチ殺人事件」に発展し、世間を震撼させる。その概要は次の通りである。
〔一〕 榛名山角落山中 八体
(1)尾崎充男(22)東京水産大 京浜安保 12/31殺害
(2)進藤隆三郎(21)秋田高卒 赤軍派 1/1殺害
(3)小島和子(22)市邨学園 中京安保 1/2殺害
(4)加藤能敬(22)和光大 京浜安保 1/4殺害
(5)遠山美枝子(25)明治大 赤軍派 1/6殺害
(6)行方正時(25)岡山大 赤軍派 1/6殺害
(7)寺岡恒一(24)横浜国大 京浜安保 1/15殺害
(8)山崎順(21)早大 赤軍派 1/17殺害
〔二〕 沼田山中 三体
(1)山本順一(28)会社員 中京安保 1/2殺害
(2)大槻節子(23)横浜国大 京浜安保 2/5殺害
(3)金子みちよ(24)横浜国大 京浜安保 2/8殺害
〔三〕 妙義山中 一体
山田孝(27) 京大 赤軍派 2/10殺害
この他にすでに昭和四十六年八月、千葉県印旛沼附近に、向山茂徳(21)清陵高卒 京浜安保、早岐やす子(21)日大看護学院 京浜安保、以上合計十四人がリンチにより虐殺され、埋められていたことが発覚した。
私たちが「あさま山荘」を攻撃している間中感じ続けてきた底知れない不気味さは、実はこの集団リンチ殺人の暗い、血まみれの過去を引き摺っていた事実にほかならなかった。
[#改ページ]
〈警備功労者一覧〉
警視庁関係者
◇警察庁長官賞詞
・警視総監賞詞一級
参 事 梅沢 勉(健管部長)
警 視 西海 弘(備 一)
警 部 芦沢 良知(備 二)
警部補 三村 裕二(学 校)
警 部 香山 昌一(二 機)
警部補 狩野 博( 〃 )
巡査部長 金子 輝雄( 〃 )
〃 牧 嘉之( 〃 )
巡 査 岩永 宏造( 〃 )
〃 猪川慶次郎( 〃 )
〃 相島 叶幸( 〃 )
〃 酒井 誠( 〃 )
〃 山口英三郎( 〃 )
〃 若松 恒徳( 〃 )
〃 江村 稔( 〃 )
〃 中川 進( 〃 )
〃 梶原 三男( 〃 )
巡 査 池口 貞吉(二 機)
〃 人見 吉昭( 〃 )
〃 八木橋幸男( 〃 )
警 視 大久保伊勢男(九機隊長)
巡査部長 小野 千秋(九 機)
〃 金沢 里孝( 〃 )
〃 米谷 静夫( 〃 )
〃 野々垣季成( 〃 )
〃 早川 進( 〃 )
〃 増田 茂樹( 〃 )
〃 三輪 亨三( 〃 )
〃 井口 信( 〃 )
〃 宝地 哲男( 〃 )
〃 毛利 孝夫( 〃 )
巡 査 村上 正俊( 〃 )
〃 守屋 典生( 〃 )
〃 田村 博州( 〃 )
〃 愛垣 皓一( 〃 )
〃 加瀬 武( 〃 )
〃 山本 悦二( 〃 )
巡査長 桑原 慶吉(特 車)
警部補 石川 昇(池 上)
警 部 采女研覚濟(日 野)
・警視総監賞詞三級
警 視 小林 茂之(特車隊長)
〃 西田 時夫(備 一)
巡 査 星川 栄治( 〃 )
警 部 鈴木 武夫(刑 管)
巡査部長 佐々木栄治(一 機)
警 部 滑川 光明(人 二)
警部補 原 弘臣(二 機)
〃 森岡 紀昌( 〃 )
〃 西田 清( 〃 )
〃 渡部 忠利( 〃 )
〃 岩下 正男(二機兼教養)
〃 田原 達夫( 〃 )
巡査部長 桜田 武雄(二 機)
〃 千葉 強( 〃 )
〃 鎌田 憲雄( 〃 )
〃 浜口 和義( 〃 )
〃 実川 賢一( 〃 )
〃 篠田 銀一( 〃 )
〃 水野谷勝永( 〃 )
警部補 高橋 直洋(二機兼教養)
巡査部長 三井 和義(二 機)
〃 古賀 ( 〃 )
〃 今西 弥市( 〃 )
〃 津渡 邦康( 〃 )
巡査長 大場 勇( 〃 )
〃 大谷 久雄( 〃 )
〃 真篠 和義( 〃 )
〃 酒井 徹( 〃 )
〃 飯迫 征三( 〃 )
巡 査 三上 博次( 〃 )
〃 須藤 秀雄( 〃 )
〃 坂本 実( 〃 )
〃 藤吉 一博( 〃 )
〃 黒川 英男( 〃 )
〃 細矢 久幸( 〃 )
〃 小平 文蔵( 〃 )
〃 前田 清( 〃 )
〃 佐々木精衛( 〃 )
〃 佐藤 紘信( 〃 )
〃 藤田 和栄( 〃 )
〃 石川 正男( 〃 )
〃 長倉富久治( 〃 )
〃 山田 秀夫( 〃 )
〃 貝塚 寿亀( 〃 )
〃 真壁 瑛( 〃 )
〃 浅井 英利( 〃 )
〃 佐藤 光也( 〃 )
〃 土井 慶男( 〃 )
〃 飯塚 正弘( 〃 )
〃 増子 正雄( 〃 )
〃 松下 星路( 〃 )
〃 高岡 始( 〃 )
〃 柳 良一( 〃 )
〃 村川 正博( 〃 )
〃 池田 和二( 〃 )
〃 木曾竹次郎( 〃 )
〃 鳴海 幸雄( 〃 )
〃 佐藤 俊二( 〃 )
〃 高橋 隆男( 〃 )
〃 大谷 晴夫( 〃 )
〃 鮫島 篤之( 〃 )
〃 藤村 栄( 〃 )
〃 扇谷 亨( 〃 )
〃 川村 志行( 〃 )
〃 小出明比古( 〃 )
〃 菅原 実( 〃 )
〃 知本 一男( 〃 )
〃 渡辺 博( 〃 )
〃 服部 貢( 〃 )
巡査部長 寺本 武義(四 機)
〃 植山 喜芳(五 機)
巡査長 前川 隆身( 〃 )
巡 査 山岸 弘( 〃 )
〃 斉藤富士夫( 〃 )
巡査部長 小玉 正明(六 機)
〃 渡部 武和( 〃 )
巡査長 小野 勝昭( 〃 )
巡 査 妹尾 善夫( 〃 )
警 部 緒方 一孝(七 機)
警部補 新川 勝利( 〃 )
巡査部長 成松 孝忠( 〃 )
〃 福島 照明( 〃 )
〃 松岡 良朋( 〃 )
〃 武田 哲男( 〃 )
〃 川添 進( 〃 )
〃 山本 芳美( 〃 )
巡 査 石川 孝則( 〃 )
〃 野稲 雄二( 〃 )
〃 岩田 清美( 〃 )
〃 斉藤 純一( 〃 )
〃 五十嵐 豊( 〃 )
〃 菊地 守( 〃 )
〃 大久保国重( 〃 )
〃 市川 正雄( 〃 )
〃 瀬沼 美一( 〃 )
〃 池田 進( 〃 )
〃 井上 喜好( 〃 )
〃 佐々木 均( 〃 )
〃 長江 正利( 〃 )
〃 田中 勝( 〃 )
〃 政所 寿保( 〃 )
〃 宮本 功( 〃 )
〃 金子 俊治( 〃 )
〃 上田 幹男( 〃 )
〃 湯原 宗登( 〃 )
〃 遠藤 紀夫( 〃 )
〃 三浦 裕美( 〃 )
〃 大森 正広( 〃 )
〃 橋本三次郎( 〃 )
〃 田崎 進( 〃 )
〃 宇賀神康夫( 〃 )
〃 比普川弘文( 〃 )
〃 木下 四巳( 〃 )
〃 塩川 秀俊( 〃 )
〃 伊藤 満夫(八 機)
警部補 安達武四郎(九 機)
巡査部長 田島 松之( 〃 )
〃 野村 則夫( 〃 )
〃 久保 安秀( 〃 )
〃 佐藤 節郎( 〃 )
〃 吉田 明( 〃 )
巡査長 豊田 勉( 〃 )
巡 査 千葉 恭一( 〃 )
〃 酒井 操( 〃 )
〃 加藤 真一( 〃 )
〃 佐藤 昌二( 〃 )
〃 高岡 一豊( 〃 )
〃 宮本 一幸( 〃 )
〃 辻村長三郎( 〃 )
〃 丸山 金一( 〃 )
〃 山崎 拓( 〃 )
〃 前峠 法道( 〃 )
〃 団迫 順治( 〃 )
〃 羽田 孝利( 〃 )
〃 春口 徳造( 〃 )
〃 野崎 健( 〃 )
〃 岡 次郎( 〃 )
〃 矢野 文夫( 〃 )
〃 安田 正美( 〃 )
〃 高沼 重信( 〃 )
〃 田中 一昭( 〃 )
〃 坂根 昌夫( 〃 )
〃 内田 秀夫( 〃 )
〃 尾崎 光政( 〃 )
警部補 仲島勝太郎(特 車)
〃 新井 次男(特車兼教養)
巡査部長 矢口 敬(特 車)
〃 長尾 和美( 〃 )
〃 福原 伸( 〃 )
〃 中島 正明( 〃 )
巡査長 高橋 好一( 〃 )
巡 査 乾 昌美( 〃 )
〃 川端 徳松( 〃 )
〃 稲田 修二( 〃 )
〃 大西 昭雄( 〃 )
警 部 保坂 調司(教 養)
巡査部長 了泉庵文男( 〃 )
〃 玉井 恒雄( 〃 )
長野県警関係者
◇警察庁長官賞詞
巡査部長 町田 勝利(機 動)
〃 三村 哲司(中 央)
巡 査 大野 耕司(諏 訪)
〃 永瀬洋一郎(機 動)
〃 井出 久実( 〃 )
〃 小林 定雄(中 央)
・関東管区警察局長賞詞
警 部 横山 信男(機 動)
巡査部長 箱山 好( 〃 )
巡査長 宮崎 健武( 〃 )
〃 高橋 章夫( 〃 )
巡 査 荻野 茂( 〃 )
〃 東川 保幸( 〃 )
〃 小林 伸毅( 〃 )
〃 長谷川礼司( 〃 )
〃 塩沢 隆充( 〃 )
・本部長賞詞
警部補 柳沢 惇(企 監)
吏 員 春日 範雄(鑑 識)
巡査長 百瀬 実( 〃 )
警部補 村山 親重(備 一)
〃 宮崎 幸教( 〃 )
警 部 横山 信男(機 動)
警部補 小林 甲市( 〃 )
巡査部長 箱山 好( 〃 )
〃 池上 正憲( 〃 )
〃 町田 勝利( 〃 )
巡査長 谷津 朝人( 〃 )
〃 宮崎 健武( 〃 )
〃 高橋 章夫( 〃 )
巡 査 北原 良彦( 〃 )
〃 小林 伸毅( 〃 )
〃 長谷川礼司( 〃 )
〃 塩沢 隆充( 〃 )
〃 永瀬洋一郎( 〃 )
〃 山本栄之助( 〃 )
〃 東川 保幸( 〃 )
〃 丸山 一司( 〃 )
〃 井出 久実( 〃 )
〃 山浦 良夫( 〃 )
〃 荻野 茂( 〃 )
〃 藤原 正文( 〃 )
〃 斉藤 和幸( 〃 )
巡査部長 宮入 範吉(交 企)
巡 査 上原 万侍(巡 ら)
巡査部長 三村 哲司(中 央)
巡 査 小相沢幸夫( 〃 )
〃 嶋田 政美( 〃 )
〃 與水 勝昭( 〃 )
〃 柳沢 和春( 〃 )
〃 中沢今朝三( 〃 )
〃 大野 芳彦( 〃 )
〃 小林 定雄( 〃 )
〃 石井 光吉( 〃 )
〃 浦山 知久( 〃 )
〃 井出 明( 〃 )
巡査部長 大野 耕司(諏 訪)
巡 査 駒津 猛(塩 尻)
巡査部長 龝沢 正夫(豊 科)
〃 永原 尚哉(大 町)
[#改ページ]
「連合赤軍『あさま山荘事件』」の最高裁判所判決は、平成六年二月十九日に下った。
奇しくも事件発生の二十一周年記念日、そして警察庁長官として事件を指揮した最高指揮官だった後藤田正晴氏が確定判決が下った時の法務大臣だったこともまた、運命を感じさせるものがあった。
それにしても坂口弘、永田洋子両被告の死刑判決と、懲役二十年の刑を不服として上告していた植垣康博被告の刑が確定したのが二十一年目であるというのは、何とも裁判が長すぎて国際社会から見ると全く異常な司法制度といわざるを得ない。
熱し易く冷め易い日本民族の国民性は「あさま山荘事件」などを、とっくの昔に忘却の彼方に押しやり、事件は風化しつつある。
だが、私たちあの事件解決のため死を賭して現場で戦ったものたちにとっては、「あさま山荘事件」はまだ終っていない。なぜなら、内田尚孝第二機動隊長をライフルで狙撃して殺害したとみられている犯人の坂東国男は、「人命は地球より重い」とする、いわゆる超法規釈放によって中東へ逃亡し、まだ逮捕されていないからだ。
そして二十四人に及ぶ負傷した機動隊員たちにとって、片眼失明といった生涯恢復不能な後遺症を残すものもあり、それは決して忘れることの出来ない事件なのである。
私にとっても殉職者二人を出してしまったという悔いは、生涯負わなければならない指揮官の十字架である。
東大安田講堂事件など、九百九十日に及ぶ第二次反安保闘争警備を戦い抜いた私や、私の仲間の警備警察官たちにとって、「あさま山荘」は「終り」ではなかった。
それはその後も約八年間に亘って続いた海外赤軍のドバイ、シンガポール、クアラルンプールなど一連のハイジャック事件や三菱重工爆破事件を皮切りとする連続企業爆破事件など、さらなる過激なテロリズムの「始まり」だったのである。
昭和五十二年(一九七七年)九月のダッカ・ハイジャック事件を最後に、昭和四十二年(一九六七年)十月八日の第一次羽田闘争を起点とする十年間の“警察戦国時代”は終り、いわゆる“八〇年代”の平和と繁栄の時代に移行し、「あさま山荘事件」も「東大安田講堂事件」も歴史の一頁となり、国民はバブル狂躁曲を歌い、踊っていた。
平成七年(一九九五年)三月二十日、日本はオウム真理教地下鉄サリン事件によって泰平の夢からよび|醒《さま》され、人間がいかに残虐非道なことができる恐ろしい存在であるかを再認識させられた。
「あさま山荘事件」の犯人群像を見たとき、私は戦後の日本があまりに平和で、豊かで、自由であることから、「文明病」としての奇形児が生れたのだなと思った。自ら自由を捨ててセクトに隷属し、リーダーに絶対服従する道を選び、平和に飽きて戦争ごっこを始め、豊かさを恥としてパンの耳をかじり、敝衣蓬髪、風呂にも入らぬ山岳アジトでの籠城に生き甲斐を見出し、そして人間性を喪失して信じられないほど残虐な「総括」という名の集団リンチ殺人事件で同志十四人を殺して山中に埋めるという凶悪犯罪を犯した。
いま平成の世に麻原彰晃に盲従するオウム真理教殺人集団を目のあたりにして感じたことは、「自由と平和と豊かさ」に恵まれすぎて人道に|悖《もと》った、あの連合赤軍の再来ということだ。さらにいえば、科学知識と技術で武装された、より優秀で、より非人間的な「文明病症候群」の、増幅されたアナロジーというべきだろう。
警察vs. オウム真理教の約一年に及ぶ戦いは、人道に悖る国民の敵との烈しい戦いだった。そして、四半世紀前の「連合赤軍『あさま山荘』事件」における酷寒の軽井沢山上での十日間の死闘もまた、国民を守り、人道を守る正義の戦いだったのである。
この本は、平成八年一月から三カ月間、月刊『文藝春秋』に連載した「連合赤軍『あさま山荘』事件」のドキュメントに、加筆訂正し、補筆してまとめたものである。
古今東西を問わず、|類《たぐ》い稀れな使命感と忠誠心に燃えて、ひとの命を救うため己れを犠牲にした勇敢な男たちの武勲は、次の世にまで語り継がれるべきものである。
平成の人々は、今一度いまはあまり評価されない男たちの勇気と犠牲的精神の尊さを見直すべき時がきているのではないだろうか。
この本は、内閣の閣僚でもなく、どこかの国の大使でもない、全く名も無い一主婦を、非人道的なテロリストの魔の手から救出するために自らの命を捧げた正義の戦士のための鎮魂賦であり、傷つき倒れた勇敢で忠誠な治安の戦士たちの勇気を讃える武勲詩であり、後世にその人々の名を残す顕彰碑なのである。
本書で述べたことは、すべて事実である。その資料となったのは、第一次情報である筆者の当時のメモ、当時の筆者の任務を支えた多くの幕僚たちの話、そしてその資料が主である。文中関連する会話の部分が何箇所も登場するが、関連する会話は、すべてその当時録音や記録されていたものではない。従って、筆者の記憶や資料と当時の情況から、そういう言葉になったであろうと考え再現したものである。
また、文中「例えば」という事例を挙げているのがあるが、「良い、悪い」は別にしてこれも当時の時代の背景を忠実に再現したものであることを、ご理解いただきたい。
終りに本書出版について、二十年余も前から熱心に執筆をすすめてくれた文藝春秋の堤堯氏に、そして真摯に御協力頂いた同社の中井勝氏、白石一文氏、立林昭彦氏、直接資料を提供してくれた宇田川信一氏、西海弘氏、加藤眞一氏、長野県警、さらに佐々事務所の石井健二事務局長、三浦佳代子さんに、深甚な謝意を表する次第である。
平成八年 春
[#地付き]佐々淳行
「十年、|一昔《ひとむかし》」とよくいうが、早いもので連合赤軍「あさま山荘事件」から二十七年の歳月が流れた。
死刑判決を受けた主犯たちが、最高裁判所の最終宣告も決ったのにまだ刑を執行されていなかったり、「超法規的」な措置による「釈放」で海外に亡命した、警察官殺害の下手人と思われる坂東国男がまだ捕っていなかったり、二十年の懲役刑の最高裁判決を奇妙にも事件後二十一年目に受けて司法警察関係者たちを「一体服役期間をどう計算するのだろう?」と、他の国では絶対に心配のない心配をさせたり……。「あさま山荘事件」は関係者にとってはネヴァー・エンディング・ストーリーとして終っていないのである。
この間この警備に従事した多くの警察官たちが物故した。彼らはあの世で内田警視長、高見警視正に会って、「まだ終っていないのか」と呆れられていることだろう。
哀しい物語は本書に登場する警視庁第二機動隊の大津高幸隊員(当時26歳)の孤独な死である。昭和四十七年二月二十八日正午頃、二機決死隊の先陣を切って山荘内に突入しようと土のうを乗り越えた瞬間、大津隊員は散弾銃の銃撃をうけ、左眼失明の重傷を負った。
それ以来、彼はいつ右眼も失明するかという恐怖にさいなまれながら警備部警備第一課で採証班員として一級身体障害者のハンデを背負って生き抜き、昇任試験の難関にもうちかって警部補まで昇進していた。彼の左眼奥には鉛弾が入ったままで、下手に摘出手術をすると、視神経というのは奥で一つになっているため、鉛毒が右眼にも及んで全盲となる恐れがあって手術ができなかったのである。
「あさま山荘事件」がほとんど風化し、昭和史の一頁として紙の色が黄ばんでしまった平成九年四月二十三日、ペルー日本大使公邸人質占拠事件が百二十七日ぶりに特殊部隊の強行突入によって解決されたその朝、私は二十五年前の「あさま山荘」突入を想い出しながら指揮官のバレル大佐、ヒメネス大尉殉職、隊員二十四名重軽傷というニュース中継の報道を強い感情移入をもってききいっていた。「あさま山荘」事件の殉職者の遺族や、片目失明の大津・遠藤両隊員ら、当時の隊員たちは一体どんな気持ちでこの中継をみているだろうなと思っていたところへ、大津高幸警部補急死の電話報告が粟野隊員から入ったのである。テレパシーとよばれる心霊現象は、こういうことなのだろうか。
事件後、夫人に先立たれ、男手で子女を育て、やもめとなってアパートで一人暮しをしていた大津警部補はその朝烈しい喘息の発作に襲われ、看護する者もなく孤独の窒息死を遂げたというのだ。一瞬私の脳裡に、“地球より重い人命”を救うため、自らの“地球より重い命”を捧げてあの世へ旅立ったバレル大佐、ヒメネス大尉と、三途の川で落ちあった大津警部補が、彼らと連れ立って内田・高見両先輩の下に向う姿がよぎり、目頭が熱くなった。
本書のまえがきには、内田尚孝警視長、高見繁光警視正の御霊前に捧げる献辞を書いた。
このあとがきは、文庫版出版のこの機会に片目失明というハンデを背負って苦難の二十五年を生き、奇しくもペルー日本大使公邸占拠事件解決の日にひとり寂しくこの世を去った、いわば“事後殉職”ともいうべき故大津高幸警部補の御魂に捧げる鎮魂の辞である。
終りにのぞんで本書の文庫版を世に出して下さった文藝春秋の新井信氏、池田幹生氏の御苦労に深甚な謝辞をのべる。
平成十一年六月
[#地付き]佐々淳行
単行本
一九九三年一月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
連合赤軍「あさま山荘」事件
二〇〇二年四月二十日 第一版
著 者 佐々淳行
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Atsuyuki Sassa 2002
bb020405