謎の独裁者・金正日 テポドン・諜報・テロ・拉致
〈底 本〉文春文庫 平成十一年二月十日刊
(C) Sassa Agency 2002
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防衛庁官房長時代の著者を訪ねてきたフレデリック・フォーサイス氏
平成十年(一九九八年)八月三十一日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、日本の頭上を越えてはるかアラスカ沖の太平洋までテポドン弾道ミサイルを発射した。|金正日《キムジヨンイル》国防委員会委員長が直接指揮したと伝えられている。
北朝鮮は長い間アメリカ国防報告の分類ではキューバ、リビアなどと共に「テロ支援国家」というカテゴリーに類別されていた。
しかし、一九九三年五月、射程五百キロのソ連製スカッドC改を射程千キロにパワーアップした「ノドン一号」の発射実験に成功した。さらに十万の特殊部隊を悪用して二回に亘り潜水艦による対南浸透工作を試みるなど、国民が飢餓に陥っているというのに、核兵器開発(R)をやめず、生物・化学兵器(C・B)を貯蔵し(世界第三位)、それら大量破壊殺人弾頭兵器の運搬手段である中長距離ミサイルの開発に最優先資源配分を行っている。その意味で、アメリカ国防報告がテロ支援国家をさらにレベル・アップして「北東アジアにおける軍事紛争|虞犯《ぐはん》国家」と格付けをあげたのも無理からぬ話である。
北朝鮮政策は、アメリカも日本も硬軟両面でなんとか国際社会の一員として国を開かせ、話合いのテーブルにつき、ソフト・ランディングしてほしいと、軽水炉支援(KEDO)、人道的食糧援助、重油供給などの努力を続け、米朝協議、日朝交渉などの場が設けられているのに、その進み具合いははかばかしくない。折角|金日成《キムイルソン》がカーターとサミット会談して拓かれた正常化への道は、ともすれば閉ざされ、そして日米韓のソフト・ランディング努力の最中に、中国に対する事前通告もなしでテポドンを発射した。問題は金日成の後継者、共産主義の世界で史上初めての親子の世襲で独裁者となった金正日が、ものいわぬ謎の軍事独裁者で、一体なにを考えているのかまったくわからないということにある。
潜在的軍事的脅威に格上げになったからといって、「テロ支援国家」であることをやめたわけではない。北朝鮮の対日諜報・謀略・破壊活動は今後も続くことはまちがいない。
私は二十年の警察歴のうち「外事警察」と呼ばれる対諜報・国際テロ・謀略工作を取締まる活動に四回のべ六年半従事した。すなわち警視庁公安部外事課第一係長(ソ連・欧米担当)、大阪府警察本部警備部外事課長、警視庁公安部外事第一課長、そして警察庁警備局外事課長の四回がそれである。外務省に出向し、香港領事として情報の世界で過ごした三年四ヵ月を加えると約十一年の長きに及び、さらに初代内閣安全保障室長の三年を加えると約十四年という歳月を、スパイ、破壊活動との戦いに費やしたことになる。
一九九一年八月、軍事独裁共産主義の超大国だったソ連が崩壊し、長い間対諜報活動の主敵だったKGBがその機能をほとんど失って壊滅した。しかし、国際テロ、スパイの脅威は衰えず、ソ連にかわって不気味に台頭してきたのが謎の独裁者金正日率いる北朝鮮である。
平成二年、『This is 読売』に乞われてKGB中心のスパイ物語を十二回(一九九一年二月号〜九二年二月号)連載し、後に平成四年読売新聞出版部から『金日成閣下の無線機』と題して出版したことがある。表題は「金日成閣下の無線機」だったが、内容はソ連のKGBの物語が多かった。
本書冒頭の一葉の写真は『ジャッカルの日』などの世界的ベストセラー作家フレデリック・フォーサイス氏が訪日したとき、防衛庁官房長室でとった記念写真である。
彼は英国の情報・治安機関から私のことをきいて過去の実績をよく承知していて、彼のスパイものの大作『第四の核』の英語版にサインし、「フロム・ザ・ウォッチャー、トゥ・ザ・キャッチャー」とペンで書き込んだこの写真をくれた。『第四の核』に実名で登場したのはブレジネフ・ソ連書記長と、マーガレット・サッチャー英国首相、そしてなんとサッサ・アツユキの三人だけだったのである。
私にとっては長年のスパイ・キャッチャーとしての活動を評価してくれたことに感謝し、署名入りの本とこの写真は大切にしている。
本書は主題を過去における北朝鮮のスパイやテロ活動にシフトし、昔の大阪の現場における諜報無線の取締りの実体験(作業名や波長はフィクション)から、潜入脱出事件、文世光事件などのテロ工作、大韓航空機爆破事件など、さらにはノドン、テポドン発射という、ごく最近の軍事冒険まで、謎の独裁者金正日とはどんな人物なのか、何を考え、何をしようとしているのか、捜査上知りえた職務上の秘密はさけ、新聞報道や公判資料、警察の広報資料など公知の事実に、その事件の舞台裏で見聞したエピソードを加えて、書き下ろした。
これに読売版『金日成閣下の無線機』の内容も相当部分ドッキングさせて、本書とした。ソ連KGB、東独シュタージ、中国情報部の実例も添え物として収録し、大真面目に取り組んで大空振りに終わった、笑い事ではないが笑ってしまう珍事件も、頭休めのために加えた。
これだけの大国になりながら、日本がスパイ防止法をもたない“スパイ天国”“テロリストの楽園”のままでいて、果たして、これでいいのだろうか。私が意図したのは、これらに対する問題提起である。
法体系の不備から、報われない防諜・対テロ捜査に従事した“スパイキャッチャー”や“トラブル・シューター”たちの世に知られていない苦労とフラストレーションを、ボール一つストライク・ゾーンをはずしたノン・フィクションで紹介して世の識者に、日本国家の構造的欠陥について再考をお願いしようとするものである。
血のにじむような捜査の結果、スパイを検挙してもスパイ罪がないわが国ではいつも「出入国管理令」「外国人登録法」「外国為替管理令」違反の形式犯。判決はいつもハンコでついたように「懲役一年 執行猶予三年」、そして国外へ強制退去。少しマシなケースで窃盗罪(コピー用紙の価格相当分の窃盗)。国家公務員が国の機密を外国スパイに漏らし、報酬を得ても「国家公務員法第一〇〇条違反」で「懲役一年」。在日米軍の機密を盗むと日米相互防衛援助協定等に伴う刑事特別法(秘密保護法)によって「十年以下の懲役」というのも明らかに占領時代の遺物で、果たしてこれで、独立主権国家といえるのか。占領時代が続いているのかと怒りたくなる。せめて公務員のスパイ行為だけでも米軍刑事特別法なみの量刑と同じ「懲役十年」に改正すべきではないか。
平成十年(一九九八年)八月、文藝春秋から『さらば、臆病国家ニッポン――指導者よ、ライオンになれ』という本を出した。それは過去約四年間の月刊誌『選択』に連載した「続・危機管理のノウハウ」五十一篇を集大成したものだが、本書をお読みいただくと『さらば臆病国家』とは何を意味しているのかおわかりいただけると思う。
平成十一年二月
[#地付き]佐 々 淳 行
目 次
テポドン発射、テロリスト支援国家から軍事的脅威へ
知られざる北朝鮮のスパイ狩り
山形|温海《あつみ》事件の屈辱
何のために誰の指示で?
なぜ日本警察の拳銃が
全斗煥危機一髪
大韓航空機爆破事件
偽ドルまで造る北朝鮮
“嵐を呼ぶ男”
宮永事件・コズロフ大佐の空しい昇進
過去のカゲ引く対日諜報活動
「鋼鉄の剣」対「ブリキの盾」
日本警察のささやかな反撃
遂に突きとめたKGB機関長
シシェリャーキン事件の大空振り
トラの檻に放りこまれたキツネ
中国の情報活動は“上忍”
ジーグラス事件の奇妙キテレツ
機長、一緒に|テンコク《ヽヽヽヽ》にゆこう
亡命・暗殺・死刑宣告
大統領として帰ってきた金大中氏
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謎の独裁者・金正日
テポドン・諜報・テロ・拉致
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テポドン発射、テロリスト支援国家から軍事的脅威へ
東側諸国の崩壊
金正日国防委員会委員長とは、一体どんな人物なのだろうか。青瓦台事件、ラングーン事件、大韓航空機爆破事件と、相次ぐ朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の国際テロ関与の容疑が濃くなるにつれ、金日成主席の後継者、謎の独裁者金正日の姿が次第にクローズ・アップしてきた。
アメリカの国防報告は、七〇年代から一貫して北朝鮮を、イラン、イラク、リビア、シリア、アルジェリアと共に「テロ支援国家」として類別してきた。その所以は謎の独裁者金正日の存在と、十万人の特殊部隊を持つ北朝鮮の特異な軍制、そして、過去の犯罪的テロ歴とに由来する。
平成六年(一九九四年)七月八日死去した、北朝鮮の国家主席であり、朝鮮労働党総書記、そして国防委員会委員長の三枚看板だった故金日成は、息子の金正日書記を溺愛していたといわれる。
長男の金正日は、抗日パルチザンだった金日成の「苦難の行軍」の日々に亡命先のシベリアで生まれたとされていた。
一九八九年、マルタ会談により米ソの冷戦が終結した。そしてソ連軍がワルシャワ条約によって駐屯していた東欧諸国から撤退し始めると、東欧諸国に異変が起こった。
それはまず、同年十一月九日、ベルリンの壁の破壊から始まり、退陣したエーリッヒ・ホーネッカー東独議長の逮捕、裁判、亡命、そして九四年五月二十九日、南米チリの首都サンチアゴで肝臓がんのため、ホーネッカーは淋しくこの世を去った。八十一歳だった。そして東西ドイツは一九九〇年十月三日、悲願の統一を実現した。
そして次の悲劇の主人公は、ルーマニアのチャウシェスク大統領だった。一九八九年十二月二十二日、東欧の民主化運動を弾圧してきたルーマニアのチャウシェスク政権は、自由を求める民衆の一斉蜂起の前に脆くも崩壊し、チャウシェスク大統領夫妻は逮捕され、ボイクレス副首相と十人の軍人から構成される秘密裁判で死刑を宣告され、刑は直ちに執行された。息子のニク・チャウシェスク大臣も逮捕され、後日病死(?)と報ぜられた。
チャウシェスク夫妻処刑の生々しいビデオは、一九九〇年四月二十二日、フランスのTV・TFIの定時ニュースで放映され、全世界に衝撃を与えた。後ろ手に縛られて呆然と立ちつくす大統領。「チャウシェスクの子どもたち」と呼ばれた孤児たちからなる親衛隊に捕らえられ、「放しなさい、子どもたち、私は貴方たちを母のように育てたのよ」と泣き叫ぶ夫人。初めて公開された秘密法廷の模様。そして銃殺のシーン。一斉射撃は四秒間続き、血の海に倒れた夫妻の遺体が画面に登場する。
このビデオを見たとき、私は一九四五年に上映されたアメリカのニュース映画の一場面を思い出した。それは、パルチザンに銃殺されたイタリアの独裁者ムッソリーニと愛人クララ・ペタッチの血塗れの遺体が逆さ吊りになって曝しものになっている凄惨なシーンだ。そのシーンが記憶に生々しく甦ってきたものだった。
東欧の共産主義体制の崩壊は、一九九一年八月十九日、ソ連共産党保守派(面白い表現。“保守派”とはマルクス・レーニン主義者)のゴルバチョフ打倒のクーデターの失敗により加速された。エリツィン・ロシア共和国大統領やルツコイ副大統領の蹶起によってクーデターのもくろみは脆くも失敗し、二十二日にはヤナーエフ副大統領、ルキャノフ最高会議議長、パブロフ首相、ヤゾフ国防相、プーゴ内相、クリュチコフKGB議長、バクラノフ農民同盟総裁、チジャコフ企業・建設・運輸・通信協会会長の八名のクーデター首謀者たちは逮捕され(プーゴ内相は自殺)、エリツィンが権力を掌握した。
この結果、ユーゴスラビアは空中分解し、チェコ・スロバキアもチェコとスロバキアに分裂するなど、世界革命の夢も空しく、共産主義は死滅し、“パックス・ソヴィエティカ”七四年の人類的実験は壮大な無と化したのである。
ホーネッカーの追放とチャウシェスクの刑死とは、これを北東アジアの一角から見守っていた北朝鮮の金日成主席に強い衝撃を与えたといわれている。とくに共産主義世界における初の世襲を夢み、愛児金正日に政権を委譲したいと願っていた金日成は、目の前でチャウシェスク夫妻が銃殺され、息子のニクが連行されるニュースの画像をみて、その二の舞はなんとしても避けたいと願い、それまでの鎖国政策を一擲してにわかに開放政策に転じたのだった。まずこれまで絶対に拒んでいた西側のテレビ記者との会見に応じ、初めてCNNに登場して、北朝鮮が平和を望んでいること、アメリカと直接和平条約を話し合いたい旨のメッセージを送った。
これまではアメリカの傀儡政権である韓国に対し、「アメリカ帝国主義の占領下にある朝鮮」であるとしてその存在さえ認めず、まして対話をしようとしなかった。ところが、南北会談を申し入れ、国連同時加盟を提案したのである。
一方、対日外交もその方針を一変し、一九九〇年九月二十七日金丸信元副総理、田辺誠社会党副委員長の訪朝を促し、そして涙の謝罪、日韓併合時代だけでなく戦後四十五年間の賠償を約束させるという、外交上の勝利をかち取った。
最も注目すべきことは、一九九一年八月、日本の主要新聞社などの論説委員、解説員クラスのオピニオン・リーダーたちを招待し、初めて日本のマスコミに門戸を開放したことだった。
このあたりから、後継者金正日の扱いが一変し、金正日にスポットライトがあたりはじめるのである。
金正日プロモーション・ビデオ
まずこれまでは街頭の肖像、ポスターの類は「金日成主席」ひとりだったのが、「金正日書記」の写真などが登場するようになる。そして、シベリアで生まれたはずの金正日の生家が白頭山山麓で発見されたとして、それが聖地となり廟ができて招待訪問のコースに入れられた。そして極めつけは、日本のオピニオン・リーダーたちが約一時間の「金正日プロモーション・ビデオ」を全員鑑賞させられたことだった。
ふつう独裁者のプロモーション放送は、ヒトラーやムッソリーニにしても、現代の独裁者・キューバのカストロやリビアのカダフィ、イラクのサダム・フセインにしてもアジ演説、大獅子吼が売り物なはずなのに、なんとこの金正日プロモーション・ビデオはサイレントだったというのである。画面で金正日が手を振り、何かを指さし、様々な指示を与えているが、すべてサイレント。ナレーターがいて「今、偉大な金正日書記はこういう指示をされた。その結果このような立派な橋ができた」といった具合で、一時間サイレント・ビデオをみせられて一同閉口したという。この頃から“沈黙の独裁者・金正日の謎”が消息通の間で囁かれるようになったのである。
なぜ、声を出さない? ものをいわないのか? 神格化するための演出なのか、それともまともに話せないのか? 様々な憶測が流れるようになった。
何を考えているのかわからない不気味な沈黙の独裁者・金正日が目指すものは一体何なのか? 一九九八年九月五日の全国最高人民会議で示された大目標は「社会主義強大国」。それは三百万餓死者を出してもテポドンを製造し、軍事的優位を誇示することなのか、ヒトラーを崇拝し、ヒトラーの『わが闘争(マイン・カンプ)』を座右の書とし、第二次大戦にヒトラーがポーランド侵略やベルギー、フランスへの進撃で実践した「電撃作戦(ブリッツ・クリーク)」の信奉者で、ソウルを短時日で制圧する電撃作戦の立案に熱中して金日成主席に叱られたというエピソードも伝えられている。
映画とビデオが大好きで、映画村を建設し、自ら監督としてメガホンを持ち、彼のビデオ・ライブラリーは世界的なものだという。
生活享楽型エピキュリアンで、ブランデーを好み、閣議は美女の舞いを見ながら好物のブランデーを飲みながら側近たちと会合するという。韓国の著名な映画監督や女優・崔銀姫などを拉致してきて後宮にはべらせたりして話題になった。
金日成の葬儀、国防委員会委員長就任式、朝鮮労働党創設五十周年記念日と様々な機会があるのに、未だ肉声で演説したことがなく、ただ一度「人民武力軍万歳」と一声発したのみ……という誠に理解に苦しむ独裁者である。
日本の論説委員、解説員たちのピョンヤン滞在中の一九九一年八月十九日、奇しくもモスクワでヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB議長など、ゴルバチョフの“ペレストロイカ”開放路線を快く思わない保守派(この場合は『保守派』とはガチガチのマルクス・レーニン主義者で、むしろ北朝鮮の路線と合致する)のクーデターが起きた。ゴルバチョフ打倒には成功したが、ロシア共和国のエリツィン大統領と軍人出身のルツコイ副大統領が戦車の上に立ってモスクワ市民の蹶起を促し、二十二日にはクーデター派は潰走した。そして軍事大国ソ連は崩壊し、共産主義は死滅した。
この世界革命の総本山の大異変は、金日成にとってはホーネッカーやチャウシェスクの没落以上の大きなショックだったに違いない。私はその八月十九日以降の北朝鮮国内の反響に絶大な興味をもってこの訪朝マスコミ・リーダーたちの一人にきいてみた。
「八月二十日の『朝鮮新報』の記事はどれくらいの大きさでした? 何て論評してました?」
「それが一両日出なかったんだよ。だからわれわれは知らなかった。しばらくして『モスクワで政変』と小さな記事が出たけれど、案内の誰からも何の説明もなかった。だからわれわれが事の真相を知ったのは、訪朝の旅を終えて北京に出たときだよ」
なんと、世界を揺るがした一九九一・八・一九のソ連クーデターは、北朝鮮では国民に知らされなかったのである。
北朝鮮国民は各国から寄せられる米・重油などの人道的・経済的援助物資や、軽水炉支援(KEDO)などを「わが国が強いから周辺諸国はわれらを恐れて貢物をもってくるのだ」と政府に説明され、そう思い込んでいるという。情報管理によって外界から隔絶された謎の国の不気味な雰囲気がこの一事を以てわかるだろう。ガラパゴス島の象亀のように世界から孤立し、世界のことを何も知らない国が、テポドンを保有することによってますます自信過剰になり、「テロ支援国家」から「軍事紛争|虞犯《ぐはん》国家」へステップ・アップすることの恐ろしさは、まさにここにあるのだ。
愛する息子、金正日の将来の生き残りのためにあえて開放路線に踏み切った北朝鮮革命の英雄金日成は、一九九四年(平成六年)七月八日、この世を去った。この頃から朝鮮半島がきな臭くなりはじめる。親の心、子知らずともいうべきか、北朝鮮は折角国連に韓国と同時加盟したり、南北対話のテーブルにつき、日朝国交正常化の下準備も進み始め、ソフト・ランディングで国際社会に復帰するかにみえた一九九四年、突然国連の核査察を拒否するという不可解な行動をとり始めた。
一九九四年三月十三日、IAEA(国際原子力機関)代表が北朝鮮寧辺の核施設の査察を開始したところ、この査察を拒否、入国差し止めや国連代表たちの身柄を拘束するなど国際社会に公然と挑戦する暴挙に出た。
三月十九日には折角金日成主席が道を拓いた板門店の南北対話実務者レベル会議の席上で「ここ(板門店)からソウルは遠くない。ソウルは火の海になるだろう」と北朝鮮代表が暴言を吐き、南北会談は決裂した。また北朝鮮外務省高官が「もし日本が国連の対北朝鮮経済制裁に参加したら、日本にははかり知れない災害が及ぶだろう」と恫喝したのもこの頃のことである。
あとから考えてみると、金日成主席が死去したのはこの年の七月八日。おそらく北朝鮮の開放路線が迷走し始め、再び北朝鮮が軍事冒険路線、鎖国路線に逆戻りしそうになったことの背景には、絶対の権威であった金日成の病状が悪化して、指導力が低下し始めたのではないかと思われる。
この情勢をみた米国クリントン政権は、再び北朝鮮が危険な鎖国政策に戻るのを防ぐため、宥和政策をとることを決心し、カーター前米国大統領を派遣して金日成主席とのサミット会談で北朝鮮に核軍事開発を断念させることを条件に、米韓日三国が協力して軽水炉建設の資金援助(KEDO)を行うこと、人道的米の援助を行うこと、軽水炉ができるまでの間米国が北朝鮮の代替エネルギーとして重油の供給などの交渉が成立し、朝鮮半島危機は一応回避された。クリントン政権のこの宥和政策は、共和党などからは「ヒトラーなきミュンヘン会談」「現代のチェンバレン」という批判を招いた。
十万人の特殊部隊
だが、折角事態が鎮静しつつあった一九九六年九月十八日、「第一次北朝鮮潜水艦侵入事件」が起きた。
韓国江陵付近の海岸で座礁した北朝鮮の潜水艦が発見され、上陸した乗組員一人(李クアンス)を逮捕した。付近の山狩りを行った結果頭部に弾痕のある十一人の乗組員の遺体が発見された。
九月十九日、韓国軍と警察は自動小銃、手榴弾、拳銃などで武装した乗員七名と銃撃戦を交し、全員を射殺した。九月二十二日、さらに二人の潜入者を射殺、韓国兵も二日間で三人死亡し十四人が負傷した。
北朝鮮海軍は八十三隻の潜水艦を保有している。江陵海岸で座礁した潜水艦は「サンオ(さめ)級」全長三十四メートルの小型艦で、同型艦は十六隻。そのうち八隻が魚雷発射管をとりはずしてフロッグマンが海中で出入りできるよう改装してゲリラ戦用とし、特殊部隊に所属していたようだ。
北朝鮮の軍制は世界でも大変ユニークで、約百万の正規軍のほかに他の国にはない「特殊部隊」というテロ・ゲリラ・コマンド攻撃、重要施設破壊など特殊任務を帯びた非正規戦闘を専門とする特殊な軍種をもっており、その兵力は十万人といわれている。日本の陸上自衛隊が十四万五千人であることを考えると、十万人という特殊部隊がいかに強力なものであるかわかるだろう。
捕虜となった李クアンスの取り調べの結果、江陵付近から韓国領内に潜入した工作員は二十五人で、全員将校からなり、指揮官は大佐だったことがわかった。その目的、任務についてはあいまいで、重要国防施設の破壊あるいは要人の暗殺などが考えられた。
韓国の対北朝鮮姿勢はにわかに硬化し、金泳三大統領は十一月九日「北の謝罪がない限り軽水炉支援は協力しない」と声明を発し、対北朝鮮政策の再考を表明した。
北朝鮮は十二月二十九日「遺憾の意」を表明して事実上謝罪し、韓国は潜水艦乗組員の遺体二十四体を北に返還し、この紛争は決着した。
日本政府も十二月二十四日、橋本内閣において「わが国の領海及び内水で潜没航行する外国潜水艦への対処について」と題する閣議決定を行い、閣議を催す暇のないときは防衛庁長官に自衛隊法第八十二条の海上警備行動の権限を委任することを決定した。
そして一九九八年六月二十二日、またまた「第二次北朝鮮潜水艦侵入事件」が発生した。韓国領海内の東海岸沖で北朝鮮の小型潜水艇が漁網にひっかかって拿捕され、韓国海軍艦艇によって港まで曳航中沈没、後日引揚げられた艇内から九人の乗組員の遺体が発見された。そして七月十二日には東海市海岸に北朝鮮武装工作員とみられる水死体が漂着し、沖合で水中推進器が発見された。
韓国国防省は六月二十六日「休戦協定と南北基本合意書の違反であり、明白な意図的挑発行為」と断定し、金大中大統領も同様の声明を出し、沿岸警備の強化を指示し、七月二十二日米韓で北朝鮮からの対韓国侵入対策として、第七艦隊所属艦艇の展開に合意した。
一九九八年九月五日の全国最高人民会議で金正日は国防委員会委員長に就任した。「国家主席」という制度は廃止され、朝鮮労働党による軍のシビリアン・コントロールも消滅した模様で、金正日国防委員長はまさにかつて金日成主席が兼ねていた「国家主席」「労働党総書記」「国防委員会委員長」の三枚の看板を軍に一元化し、唯一無二の軍事独裁者となった。
九月九日に行われた建国五十周年祝賀閲兵式の出席者の序列をみると、金永南・最高人民会議常任委員長が従来の七位から金正日に次ぐ二位に上がったほか、国防委員会の委員たちが上位を占めた。ただ重病といわれる姜成山・前首相を除き、大方の長老の序列に変化がなく、No・3李鍾玉(80)、No・4朴成哲(85)、No・5金英柱(76)など、トップ・テンの平均年齢は金正日(56)を除くと七十三歳、元帥が金正日を入れて二人、次帥が三人と半数が軍人で朝鮮労働党幹部より上位にあり、軍事政権の色彩が濃厚となっている。
この人事発表をみて少し安堵したのは、金日成革命や「苦難の行軍」を金日成主席と共に経験した第一次世代の老臣宿将がまだ北朝鮮の上層部に残っていることである。
恐らくもうすでに実権は若手の軍・党・官の二世世代、金正日の側近である五十歳台の若手の掌中にあるのだろうが、軍事冒険主義でヒトラーの電撃戦(ブリッツ・クリーク)が大好きな金正日を補佐する老練な革命家が残っていることはわずかながら安心材料だ。
私が北朝鮮問題を論ずるとき、いつも念頭に浮かぶ歴史上の前例とのアナロジーは、甲斐の武将武田信玄とその子の勝頼の関係である。
天正元年(一五七三年)武田信玄が徳川三河の野田城攻めの最中五十三歳の若さで陣没したとき、「両三年は外征は慎み、内政を充実し戦力を貯えよ」と息子勝頼を戒めた。だが、血気にはやる軍事冒険主義者の勝頼は、山縣昌景、山本勘助ら信玄以来の武田二十四将とあがめられた歴戦の老臣宿将の意見を用いず、遺言に反して兵を進め、長篠の戦いで織田徳川連合軍に大敗し、多くの老臣宿将を戦死させ、以後勢力が衰えて天正十年(一五八二年)山中で自決、名門甲斐源氏武田家は滅亡した。享年三十七だった。
一九九七年二月十二日、金正日委員長の側近中の側近、No・3といわれた黄長書記が北京で亡命したとき、いよいよ金日成の老臣宿将の離反が始まったかと暗澹としたものだ。
なぜ、いま、テポドンなのか
そして軽水炉供与協定や人道食糧援助、重油の供給の話が進んでいる最中の平成十年(一九九八年)八月三十一日、午後十二時十五分、北朝鮮はテポドン・ミサイルを発射、三段式の同ミサイルの第一段は日本海に、第二段は日本上空を越えて太平洋三陸沖に弾着、第三段はさらに飛翔してアラスカ沖、射程約六千キロの海上に弾着した。なぜ、いま、テポドンなのだろう?
これより先、一九九三年五月、北朝鮮は射程一千キロのノドン一号(ソ連製スカッドC改。湾岸戦争でサダム・フセインが発射した射程五百キロのスカッドを改良したもの)を日本海に向けて発射し、実験は成功した。
この時点から北朝鮮はこれまで米国防報告書で「テロ支援国家」と格付けられた国際的なトラブル・メーカーだったものから中東のサダム・フセインのイラクと並んで「軍事紛争虞犯容疑国家」へと格上げされたのである。
CBR兵器(生物・化学・放射能兵器)は恐るべき大量破壊兵器で、北朝鮮はCとB兵器の貯蔵量は世界第三位に位置しているし、R(核兵器)について目下鋭意開発中と考えられている。しかしこれらCBR兵器は、戦略爆撃機、原子力潜水艦搭載SLBM、大陸間弾道弾(ICBM)という三つの運搬手段を保有しない限りは軍事的脅威にならないというのが世界の常識だった。
だが、一九九三年に射程一千キロの中距離ミサイルの保有に成功し、一九九八年、射程五〜六千キロのテポドンの実験に成功した北朝鮮は、北は北海道から南は沖縄まで、東京の霞が関、永田町をふくめて日本全土を射程におさめるに至り、その潜在的脅威は飛躍的に増大した。
このたびの成功は、崩壊した軍事大国旧ソ連の軍事技術者約二百人が協力したと報じられた。ノドン一号が開発された頃、北朝鮮は今世紀中に射程千五百キロのノドン二号を、二十一世紀前半までに同三千五百キロのテポドン一号、さらに五〜六千キロのテポドン二号の開発が進むだろうというのが大方の見方だった。ところが、今回一挙にテポドン二号の段階まで進んだとすれば驚異的なスピードで、CBRの弾頭化の進捗も意外と早いのではないかと懸念される。
今回アメリカは、まさか北朝鮮に太平洋側からアラスカの沖まで飛来するミサイルがあろうとは予想していなかったため、テポドンの弾道の航跡を把握することに失敗したようだ。
世界初の北朝鮮のテポドンの弾道航跡を見事に捕捉したのが日本の海上自衛隊のイージス艦「みょうこう」(艦長・鈴木英隆一佐、第六十三護衛隊司令・本多宏隆一佐)だった。米軍からの事前通報により、八月十六日乗組員の夏休み休暇を返上させた第三護衛隊群のイージス艦「みょうこう」は随伴艦「はまゆき」(艦長・吉田眞二佐)と共に十五日間日本海上に待機して、忍耐強くその瞬間を待っていた。大変な集中力で見ていないと、ノドン、テポドンは発射後七分〜八分で日本上空に到達してしまうから一瞬もフェイズド・アレイ・レーダーの画面から目を離せない。その極めて捕捉困難な近代電子情報戦において「みょうこう」はアメリカ第七艦隊のなみいるイージス艦どもを凌いで見事にテポドンを捕捉、直ちに解析して統合幕僚会議直属の情報本部に速報した。
アメリカ本土のレーダーは、もともと対ソ戦を想定して大部分が北極の空を睨んでいる。ごく一部がキューバを監視し、あと一基だけがアリューシャンから南に向かって太平洋を監視しているだけである。なぜなら太平洋越しにミサイルを撃ってくる国はないからで、その点電子情報戦においてレーダーの覆域すれすれに飛んだテポドンを捕捉し損ねたようだ。情報本部まで折角早く届いた貴重な電子情報戦の情報が小渕総理に届いたのは五十分後で、その後も政治外交の面で活用されなかったのは誠に残念なことだが、日本の海上自衛隊の電子情報戦能力は高く評価されてよい。
そのため北朝鮮の九月五日の最高人民会議席上で「人工衛星打ち上げに成功」と公表したことに、アメリカは同調して「軍事弾道ミサイルでなく、打ち上げに失敗した人工衛星である」と北朝鮮との摩擦を避けようとしているが、頭上を飛び越された日本は、民間機チャーター便の運行停止、食糧援助の凍結、衆参両院の対北朝鮮非難決議など対北朝鮮姿勢を硬化した。また戦域ミサイル防衛構想(TMD)の導入、偵察衛星の打ち上げなど、一時不況対策や金融安定化の議論にかき消されていた安全保障上の議論が再び活性化した。
軍事用潜水具を密輸出
なぜ、いま、潜水艦侵入作戦なのか。なぜ、テポドン発射なのか。沈黙の独裁者金正日の狙いがどこにあるのか。一体何をどう考えてみても賢明とはいえない挑発的軍事冒険をするのか、その謎を理解するには過去四十年間、北朝鮮が行ってきた対日スパイ活動、高速艇による工作員の潜入脱出、目的不明の日本人拉致事件の数々を思い起こし、不気味な北朝鮮の意図を正確に情報分析し、ミサイル能力やCBR戦(生物・化学・核兵器)の能力を高めるような軍事技術のスパイ活動を監視し、対日有害活動を封殺しなければならないだろう。
パキスタンの核実験と中距離ミサイル「ガウリ」の発射実験は、北朝鮮との相互秘密援助協定による代理実験かも知れない。
日本は今後国家の命運にかかわる防諜活動の重要性を再認識し、所要の法改正を行って、いまやスパイ天国であり、テロリストのパラダイスである日本を、まともな国家に再編成しなくてはならないだろう。
平成十年(一九九八年)十月十三日付の毎日新聞は、警視庁が軍事用潜水具二千三百セットを北朝鮮に不正輸出した疑いで、東京都渋谷区にある「大進商事」を外為法違反で捜査し、社長李健一容疑者(58)らを逮捕したことを報じた。
この潜水具は「高圧空気容器用ダブルバルブ」とよばれる磁石に反応しない特殊合金で作られており、この潜水服を着用すると機雷に反応しないため、領海に機雷が敷設されている敵国にも水中から侵入できるという。一九九八年七月十二日、上陸に失敗し、韓国東海市海岸で遺体で見つかった北朝鮮の工作員が着用していた潜水服はこの日本製のものとみられている。まさに諜報・謀略・破壊活動のお手伝い以外なにものでもない。
いま地球上に残った最後の軍国主義的独裁共産主義国家・北朝鮮のものいわぬ謎の独裁者・金正日の心に潜む野望は一体なんだろう?
それは「苦難の行軍」を終え、「社会主義強大国」(九月五日全国最高人民会議で示された国家目標)になり、周辺国家、とくに「敵」である日本に対する軍事的優位性を確立し、日本が当然北朝鮮に支払うべき巨額の賠償金を「あらゆる手段を尽くして勝ち取って偉大な朝鮮民主主義人民共和国の経済を再建する」(北朝鮮マスコミの大スローガン)ことが、その国家目標であり、金正日国防委員会委員長の野望なのである。そのためには三百万の餓死者を出しながら核兵器を開発し、生物化学兵器を貯蔵し(世界第三位の保有量)、ノドン、テポドンの開発に巨費を投じて民の苦しみを顧みない軍事独裁者。それが金正日の正体なのである。
このままではいけない。日本は心の武装を強化しなくてはいけない。
また二十一世紀に向けて、わが国は法制度的にいまのままの“スパイ天国・ニッポン”“テロリストのパラダイス”でいていいのだろうか。法の不備と諜報・謀略・破壊活動に対する警戒感の薄さから、日本がいかに弱体な国家であるか、そして北朝鮮は昔からいかに対日有害活動を執拗に続けてきたか、次の「深夜の諜報無線」と「金日成閣下の無線機」という実話を読んで知っていただきたい。
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知られざる北朝鮮のスパイ狩り
ついに獲物を捕らえた
……「クリック、クリック」……
日傭い労働者に変装した外事課中村巡査の掌中の携帯電波感度測定機GWD2型改(仮称)が微かなクリック音をたてる。線に光る夜光塗料ぬりの針が、激しく振れながら計測盤の目盛りの「7」から「9」を指し、ときどき「10」までいっぱいに振り切れる。
「課長はん、ドンピシャリ、ここや。この『五徳荘(仮称)』がヤサ(隠れ家)や」
日頃から無口で無表情。麻雀でテンパイしてもそ知らぬ顔でドラを待っていることから“コツ待ちの|兵《ひよう》やん”と異名をとる沈着な兵頭茂義警部(外事第三係課長補佐)の顔に、暗闇の中でもそれとわかる喜色が浮かんでいる。
ときに昭和三十八年(一九六三年)四月十六日午前一時三十七分。ところは春たけなわの大阪市西成区。お世辞にもガラがいいとはいえない桜通り四丁目の、橘小学校に近い深夜の街頭。スパイ・ハンターたちの狙う獲物は、北朝鮮系諜報無線「三〇八系」(仮称)発信源の北朝鮮エージェントである。
大阪府警捜査指揮規程第二条による「警察本部長指揮事件・指定第八二三号(仮称)特異重要事件」「三〇八電波管理法違反容疑事件」捜査班がついに追いつめた“金星”だ。
それは同捜査班第五十四次作業、つまり五十四回に及ぶ深夜の捜査の、執念とド根性がもたらした“大殊勲”であった――。
*
私は、昭和三十七年四月、警視庁公安部外事課の第一係長(ソ連・欧米担当)から大阪府警本部警備部の外事課長に昇任配置になった。
ただし、大阪府人事委員会は、本部の課長は、「上級職試験合格者でも勤続十年以上の者」という採用任命資格条件を固く守っていたことから、任官後八年の年足らずの私は、警察庁からは「外事課長」、大阪府人事委員会からは「外事課長心得ヲ命ズ」という二枚の正式辞令を交付され、名刺も二種類作るという変なことになった。
昭和三十七年といえば、北朝鮮スパイの動きが活発となり、日本海側の海岸経由の潜入・脱出がピークに達していた年だった。
これは、同年八月二十一日から日韓国交正常化のための予備折衝が、霞が関の外務省で始まっていたことと無関係ではない。
韓国側の襄義炳首席代表は、三十六年間に及ぶ日本の占領時代の補償として六億ドルの無償経済援助を請求し、杉道助首席代表をいただく日本側は、これに対して借款をふくめて三億ドルでおさめたいとの具体案を示し、いわゆる「請求権」問題をめぐって双方火花を散らしていた。
一体何を探ってる?
北朝鮮スパイを逮捕して取り調べると、彼らの任務は「在日米軍や自衛隊の情報、日米外交問題、日本の政局の動向、日韓関係等に関する非公然情報収集」と供述するのが常だった。
そこへ、積年の反日感情にわざわいされて七年間も中断していた日韓交渉が再開されたのである。三十八度線をはさんで南北あわせて百万を超える大軍が一触即発の緊張状態で対峙していたのだから、北朝鮮が、重大な情報関心を抱いて次々とスパイを送りこんできたのも当然だ。
まず「大寿丸事件」が発覚した。
昭和三十五年(一九六〇年)に山形県酒田市の海岸から潜入したスパイ、滝川洋一こと崔燦寔(44)が大阪在住の帰化日本人になりすまして漁船「大寿丸(二〇トン)」を購入、登録許可も正式にとって下関と北朝鮮の間を往復して工作員や諜報活動資金、器材を密出入国・密輸していたのが山口県警外事課の知るところとなったのである。
同県警外事課は、警察庁の指示の下、警視庁、大阪府警の協力を得て、昭和三十七年七月二十四日、この法政大学卒のマスター・スパイ崔燦寔とその一味を一斉検挙した。大阪府警も同船の船員らを逮捕してその一翼をになった。
「大寿丸事件」直前の四月一日には、日本潜入に失敗して溺死したスパイ二人の水死体が漂着した「第一次能代事件」、そして五月十日にはまた一体漂着した「第二次能代事件」(秋田県警)が起きている。
両事件とも諜報無線機、乱数表、トカレフ拳銃などの所持品から北朝鮮スパイと断定された。
そして九月二十四日には北朝鮮工作船「解放号」で潜入した金泰煥(40)、金鳳国(40)、李承基(21)を新潟県警外事課が検挙している。
だが彼らに対する判決はまたも「懲役一年」。捕らえても捕らえても「懲役一年」なのだから、外事警察のスパイ・キャッチャーたちが報われること少なく、挫折感、無力感をくり返し味わわされる苦衷をご理解いただけるだろう。
それにしても、私たちが首をひねってお互いに尋ね合ったことは、「彼らはあんなに苦労して日本に潜入してきて、何をスパイしてるんだろう?」という疑問だった。
日本という国は、国家機密などあってなきがごとき国で、防衛白書を一冊買えば、防衛年次計画から兵器体系、予算、部隊配置などなんでもわかる。
政局の動向にしたって、日米や日韓外交関係だって、マスコミの取材やテレビの国会中継で洗いざらい公然情報として新聞・雑誌・テレビに報道されている。
政府刊行物センターにいけば、日本の各省庁の行政に関する情報がいつでも手に入る。
それなのに、彼らは非合法ルートで日本に密入国し、地下活動に憂き身をやつす。
それも情報がほしければ世界の政治・外交・経済・情報中枢の東京――各国大公使館や報道機関、中央官庁がひしめく首都東京にもぐりこめばいいのに、経済都市大阪のスラム街にひそんで、時代遅れの“クローク・アンド・ダガー(黒マントと短剣・古典的スパイ活動)”をやってるのだから、さっぱりわけがわからない。
水面下ひそかな捜査
考えられることは、彼らの大きな狙いが対日諜報活動だけでなく、在日南北朝鮮人を獲得してお隣の韓国に革命・諜報・破壊工作員として送りこむ「対韓非公然活動」もまた、彼らの重要な任務であるということだろう。
ちなみに大阪に在住している外国人三万七千七十四世帯十五万五千四百五十一人中、北朝鮮系が九万一千四百十二人、韓国系五万六千六百四十五人と、南北あわせて十四万八千五十七人、実に九〇パーセント以上を占めている。それだけに絶好の“草刈り場”であり“隠れ家”であることもその理由の一つといえよう(人数は昭和三十八年三月二十一日現在調べ)。
彼らの任務がどのようなものであるにせよ、北朝鮮から次々とスパイが日本に送りこまれ、その多くが大阪に巣喰って諜報活動に従事していたことは事実で、府警外事課の最大の取り締まり対象は彼ら北朝鮮諜報員だった。
そして彼らは平壌放送による数字放送や、諜報司令部からの暗号無線による指令を受けて、深夜豆ランプをともしてその指令を乱数表と照合して解読する。
さらにその指令に従って情報収集をしたり、エージェントの獲得工作を行い、その成果を暗号数字に組んで、諜報無線工作員が本国に送信する……という、まことにしんどいアングラ活動を続けるのだ。
安穏な日々を過ごしまっとうな暮らしをしている善良な日本国民からみれば、「まさか」とか、「なぜそんなバカげたことを」といいたくなることだろうが、これが厳しい国際諜報活動の本当の姿で、それは今でも実在しているのだ。
*
昭和三十七年の大阪府警本部は、さしたる大事件もなく、平穏な日々が過ぎていったが、外事課スパイ・キャッチャーたちの水面下での人知れない捜査活動はずうっと続けられており、私も夜と昼が逆転する隠密捜査の指揮をとっていたのだった。
韓国でクーデター
そうして、翌三十八年(一九六三年)が訪れた。ふり返ってみるとこの年も多事多端な年で、フランスでは陸海軍将校たちによるド・ゴール大統領暗殺計画が発覚、逮捕された(二月)。後日、フレデリック・フォーサイスの超ベストセラー『ジャッカルの日』のモデルとなった大事件である。韓国ではクーデターに成功した韓国・|朴正煕《パクチヨンヒ》国家再建最高会議議長が政党活動を禁止し、言論・集会・デモの制限などを規定した臨時措置法を公布した(三月)。
アメリカでは、マーチン・ルーサー・キング牧師の指導する人種差別撤廃を求める黒人解放運動が盛り上がっていた(五月)。
東独の“赤い海”に孤立し、封鎖されていた西ベルリンに対するアメリカはじめ西側の支援物資“大空輸”が行われている中を、ケネディ大統領が自ら激励のため西ベルリンを訪問し、二百万市民の熱狂的な歓迎を受けた(六月)。
英国陸相プロヒューモが売春婦との交際が暴露されて辞任する“プロヒューモ騒動”も起きた(六月)。
そして同じ日に、イランのシーア派指導者ホメイニが、パーレビ国王に逮捕されている。
七月には英国で大スパイ事件が発覚し、元外交官ハロルド・フィルビーがソ連に亡命した。
また英国で爆発的な“ビートルズ旋風”がまき起こり(十月)、韓国では朴正煕が対立候補|尹善《ユンボソン》を十五万票差で破って韓国大統領に当選した(十月)。
そして十一月二十二日には、ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで、オズワルドという元海兵隊員に暗殺され、ジョンソン副大統領が大統領に昇格した。
この頃日米間テレビ衛星中継放送の実験に成功したが、くしくもその最初のニュースがケネディ暗殺事件の速報となった。
また宇宙開発競争では、ソ連の女性宇宙飛行士テレシコワ少尉がヴォストーク6号で地球を四十八周し、「ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)」と自分のコールサインで報告(六月)、アメリカにさらに差をつけて世界的な話題となった年でもある。
こういう世界情勢を背景に、大阪の“深夜の諜報無線”事件の捜査が進められていた。
*
当時、日本の空を飛び交っていた諜報無線と思われる暗号数字交信の「怪電波」は、約八〇〇系に達していて、そのうち平壌を「親局」の発信源とする「北朝鮮系」と判断されるものは、約七〇〇系だった。
その「怪電波」には特徴があって、周波数は四・二メガサイクルから八・三メガサイクル帯で、送信出力は七ワットから十ワット。
日本に潜入した北朝鮮諜報無線員の無線機は、乾電池式の送受信機が別々になった手づくりのもので、部品は、日本、ソ連、北朝鮮、韓国製の寄せ集めで、メーカー名も製造番号もいっさい入っていない代物だった。
日本の外事警察は、この目に見えない、そして人間の耳には聞こえない北朝鮮基地局と潜入スパイとの間の無線による|囁《ささや》きあいを、全国各地の固定局による日夜をわかたない地道な作業によって捕捉し、暗号解読に努め、方向探知機によって交点を探し求める捜査を続けていた。
微かな暗号に興奮
この諜報無線は、ほとんどの場合、深夜に交信が行われ、とくに土曜の深夜から日曜の明け方にかけて出現するから、始末が悪い。
平壌放送による暗号数字のアナウンスと並行して、「トトン・ツー・ツー」と平壌の親局が呼び出しを行う。
これに応えて「ピー・ピピッー・ピー」と親局より明らかに出力の弱い在日諜報無線局が答える。
私たちは、この親局を「A局」、子局を「B局」と呼称していた。
この「B局」の出現を捕捉すると、警察庁は多方向の固定捜査局に方向探知を行わせ、違法無線の発信源をつきとめようとする。
二本以上の方向線が交点を結んだところに諜報無線スパイが潜んでいるわけで、その交点を地図上に落として、その地点を管轄している都道府県警察本部の外事課に地上捜査を下命するのである。
出現時間帯も、交信メガ帯も、交信の継続時間の長さもわからない微弱な電波を、二十四時間態勢で捕捉につとめるのだから、それは気が遠くなるほどの辛抱強さと根気のいる仕事なのである。
かくして、その年、三十八年(一九六三年)、大阪府警察の管轄区域内で三つの交点が生じ、私の指揮下にあった外事課に、三系統の“深夜の諜報無線”の地上捜査が下命された。
以後この三系統を仮に「三〇八系」「四一一系」「五一五系」と呼ぶことにしよう。
「三〇八系」が最初に捕捉されたのは二年半も前の三十五年十月。交点は「大阪市都島区内」だった。
その後この交点は「西成区」に移動し、ことに土曜の深夜から日曜の明け方に出現する傾向があることが明らかになった通信系だ。
「四一一系」の交点を地図上に落とすと、「北区樋ノ口町付近」。
「五一五系」は、「生野区」あたりと思われるが、まだ確実ではなかった。
四月十四日、府警・和虹寮で本庁や近畿管区局の係官も参加して捜査会議が開かれた。その結果、当面「三〇八系」と「四一一系」の二目標に絞って車載及び携帯電波方向探知機による地上捜査を行うこととなった。
私は猛烈に張り切っていた。
諜報無線の捜査は、第二次世界大戦の戦争映画でみたことはあっても、実際にその指揮をとるのは初体験だった。
映画の中でスパイやレジスタンスが深夜、屋根裏や地下室から諜報無線を送信しているのを、FBIやゲシュタポの捜査官たちが方位測定をしながら追いつめてゆく姿がまぶたに浮かんで興奮する。
ちなみに、ショーン・コネリー演ずる英国情報部きっての腕利きスパイ、殺人許可の番号「ゼロ・ゼロ・セブン」を持つジェームズ・ボンドを主人公にしたスパイ・シリーズの第一作『007は殺しの番号』が日本で封切られたのは、その少しあとの六月のことである。
「三〇八系」の交点を地図に落とすと、現場は「西成区桜通り四丁目付近」。
出現予想時刻は四月十四日午後十一時から翌十五日午前二時頃の間。
捜査体制は、松下警部補、角田巡査部長、中村巡査、中井技官の四人の捜査班をあてることにした。
「四一一系」の容疑現場は「北区樋ノ口町付近」。出現予想時刻は、同じ日の同時刻。
これには大西警部補、宮里・奥村両巡査部長、大西・福田・柴田巡査、田辺技官の七名の捜査班をあてることにする。
“現場大好き”の外事課長だった私は、外事課第三係の課長補佐兵頭警部とともに、とりあえず「三〇八系」現場に近い西天下茶屋派出所に前進指揮所を設け、「四一一系」が出現したら直ちに天満六丁目派出所に移動することにした。
捜査車に車載方位測定機を積んで、携帯用方向探知機及び感度測定機十五セットを二つの捜査班によって集中運用させる。
発信源の至近距離に近寄ると、方向探知機は役に立たなくなる。そこから先は、夜光塗料ぬりの針と10の刻み目つきの送信機の電鍵音と送信出力感度測定機の出番となるのだ。
新婚捜査官出動す
捜査員は西成や猪飼野地区の土地柄にあわせたダボシャツ、腹掛け、ボロジャンパーに作業ズボン、地下足袋というスタイルに変装し、怪電波出現を知らせ合う点滅式懐中電灯などを携行している。私も妻がせっかく買ってくれた新品のジャンパーでなく、鳥撃ちで使い古した山歩きスタイルで参加する。
「三〇八系」の容疑家屋は、橘小学校に近いアパート「五徳荘」。
困ったことに二階木造モルタル塗りの安アパートで、南北両側上下六室ずつ、あわせて二十四室もあるやっかいな建物だ。
映画中のFBIの偽装捜査官になりきった心境で、イライラしながら貧乏ゆすりして待っていると、兵頭警部が囁く。
「課長はん、『四一一』が出よった。天満のハコ(交番)にいきまひょか?」
夜光塗料の腕時計をみると、午前二時十五分。ライトを消した捜査用車に飛び乗って北区樋ノ口町に急行する。
車載方向探知機の針がゆれながら一定方向を指し示している。レシーバーをかりて耳を澄ますと、モールスの送信音がきこえてくる。すごく興奮してきた。
「Bかい? 兵頭君」「これ、Bとちがいまっせ。Aや。親局や」
午前三時十五分、送信が途だえる。「B局」は応答しない。
本国からの一方的指示らしい。「三〇八は?」「AもBも反応なしや」……結局午前四時まで張り込んだが、西成区も北区も空振りに終わって、ガックリした私は、疲れ果てて阿倍野の官舎に戻った。
*
翌十五日午後十時半頃、兵頭警部が官舎に迎えにきた。例によって西成地区のドヤ街住民の雰囲気にあわせた服装に手拭いを首にひっかけ、髪はボサボサ、顔は煙草の灰でメークという変装で、黒塗りの捜査用車に乗りこむ。見送る妻は、さっぱりわけがわからないから不安そうな表情だ。
*
無理もない、実は私たちは新婚早々だったのだ。三十七年五月に結婚したばかりの妻は、ミッション・スクール出のお嬢さん育ちでまだ二十二歳。おまけに初めての子供の出産を六月に控えた身重の体だった。警察の事情などほとんど知らない。警視の階級にあった私をつかまえて、「巡査部長とあなたとどっちが偉いの?」と聞くありさま。当然ながら仕事の内容も知らせていない。
「どこへ、何しに行くの?」ときいてはいけないということは心得ているだけに、深夜になると姿を消す夫の奇っ怪な行動に、とても心細い思いだったようだ。
*
西天下茶屋派出所で、やたらにピースをふかし、貧乏ゆすりしていた私は、飛びこんできた兵頭警部と松下警部補の報告をきいて、思わず立ち上がった。
「課長はん、『三〇八』の『B』、出よりました!」
午前一時十七分、B局が送信を始めたのだ。
「三〇八系」第五十四次捜査を実施した十六日未明である。A局もこれに応えて出現し、午前二時二分まで四十五分間、交信が行われたのだ。
方向探知機を感度測定機にもちかえた捜査員たちが足音を忍ばせ、黙々と「五徳荘」の周辺の所定の測定地点に配置につく。
一時二十七分、B局は十分間の送信で沈黙したが、中村巡査の器具が7から9の感度を記録した。
記念日のプレゼント
意気揚々と和虹寮に引きあげた途端に、「四一一系」捜査班の大西警部補から至急報が入った。
「四一一のB出現。午前二時四十八分」
なんと今晩は、二つの系統が同時に出現したのだ。「三〇八」捜査班を直ちに増強配置し、私と兵頭警部も北区樋ノ口町付近に急行、十六人による方向探知捜査の指揮をとる。
山林の奥で雉や山鳥の羽音を耳にしたときのハンターのような興奮と緊張が、私を支配する。
「四一一系B局」は、二時四十八分から一分間、同五十六分から一分三十秒、三時二分から二分三十秒、継続的に三回計五分間、四六〇〇〜六八〇〇KCで送信したのだ。
だが残念ながら近接捜査用の感度測定機GWD2型改(仮称)には、反応ゼロないし測定不能で発信源の特定には至らなかった。
四月二十三日府警本部で警察庁・近畿管区警察局の担当官たちとの合同捜査会議が開かれた。
会議は熱気にあふれ、捜査員たちの目も輝いている。
府警外事課に対する第一、第二・四半期(四月〜九月)分の警察庁の捜査費割り当ての三百万円増額要求も直ちに認められた。
管区局からの五人増援、捜査用車二台増強、電波探知機材や証拠保全用録音機の増配、仮眠用ベッド追加など、二十四時間捜査態勢強化のための諸要求もすべて認められた。
次回交信予想日を四月二十七日より二十九日(昭和天皇誕生日)と決め、全力投球の態勢を敷く。
ああ、これでまた土・日曜ばかりか祭日までフイだと内心ため息をつく。
適用法規は「電波法第四条」。「郵政大臣ノ許可ナク無線局ヲ開設シタ者」、罰則は同第一一〇条、「懲役一年以下、又は罰金五万円以下」にすぎない。
やれやれ、また「懲役一年以下」かと嘆きながらも、四月二十七日「第五十五次捜査」を行うこととなった。
*
「またお出かけですか?」と寂しそうな顔をする妻を尻目に、また深夜の大捜査網の指揮をとりに西成地区に向かう。
どこかの家のテレビかラジオが、ハナ肇、植木等ら“クレイジー・キャッツ”の「スーダラ節」を流している。映画「ニッポン無責任時代」の「ハイそれまでよ」などが大ヒットしていた時代である。
スパイ・キャッチャーたちは、とても“気楽な稼業”とはいかない。
だが、滅私奉公、睡眠と週末などを犠牲にした「第五十五次捜査」は、大成功だった。
同夜半、またも「三〇八」と「四一一」の両方が、AB局とも出現したからだ。
「三〇八系」は二十七日午後十一時四十三分、「四一一系」は二十八日午前二時二十一分。「四一一」も十二分間送信したので、容疑家屋を四軒に絞りこむことに成功した。
これら“深夜の諜報無線”捜査のスパイ・ハントは、五月中も続き、|あろうことか《ヽヽヽヽヽヽ》、五月二十七日も両系ともAB局が出現、「五徳荘」の方は、一階第十六号室の西浩太郎(仮名)に特定でき、北区樋ノ口町の方は、五十二番地(仮番地)の木造モルタル二階建て、佐藤英吉こと尹洋鶴(仮名)にほぼ間違いないというところまでピン・ポイントできた。
なぜ「あろうことか」と思ったかというと、その日は初めての結婚記念日だったのだ。
家庭的には悲劇的なめぐりあわせだったが、公務の面では大きなプレゼントとなったのである。あとは証拠固めして逮捕するまでだ。
*
六月一日、「五一五系」がAB局とも出現した。A局は二日午前一時四十分からB局へ八十三語、B局は同五十分からA局に了解した旨応答した。
また捜査対象が増え、外事課員は疲労の極に達した。
六月二十日、家内が長男を出産した。その日も三系統の諜報無線捜査の会議が行われていて、私は初の息子の誕生に立ち会うことはできなかった。
この六月には、「三〇八系」や「四一一系」が五、十、十八、二十六、二十九日と五回も出現したからである。
しかし、「三〇八系」容疑者、西浩太郎の捜査は進み、彼は約三年前の昭和三十五年十月に一度交点が生じたことがある都島区の旭アパート(仮名)に居住していたことがわかる。
家賃四千五百円、権利金四万五千円という当時としては高額な家賃を支払いながら、「朝日新聞記者」と偽称し、実は仕事は何もしておらず、近所の人から「変な人」とみられていたこともわかった。
必ず部屋に鍵をかけ、管理人の入室を拒み、外出するときはハチ切れそうなカバンや縦長のオールウェーブ・ラジオ、一尺(約三十センチ)四方、厚み五〜六寸(十五〜二十センチ)の重そうな風呂敷包みを携行し、言葉に朝鮮人らしい|訛《なま》りがあるという。
また交信日には「五徳荘」アパートのほかの部屋が寝入っていて真っ暗な中、十六号室だけ豆電球が|点《つ》くこともつきとめた。
「四一一系」容疑者・佐藤英吉こと尹洋鶴の尾行から、北朝鮮スパイ一味とみられる生野区猪飼野東四の二五(仮番地)に住む金大竜(仮名)も「B局員」であることを割り出した。
一網打尽への捨て石
「『泳がせろ』ですって? こんなに苦労して突きとめたのを見逃せっていうんですか?」
私は警察庁外事課長室で思わず大声を出した。粒々辛苦の末、やっと兜首を三つも挙げたのに、捨ておけというのかと、功名心に燃えた三十二歳の私は怒りで体が震える思いだった。
*
「そうだ、我慢して北朝鮮諜報組織の割り出しのため泳がすんだ。電波法違反は立証が難しい上、懲役一年だ。それより彼らの動向を視察して、スパイ網全体を洗い出す捨て石にするんだ。大阪外事課の功績は警察庁長官賞で報いるから。わかってくれ」
信頼する川島広守警察庁外事課長の大方針に、私は涙をのんで従った。この事件のため、私は、東京に八回も出張して、検挙に踏み切ることを粘りに粘って意見具申したのではあったが……。
「そんな殺生な」とふくれっ面の捜査員をなだめながら、私はこの命令を守り、名古屋、三重、新潟、鹿児島に及ぶ広域北朝鮮スパイ網洗い出しに成功した。
“深夜の諜報無線捜査”は、夏が来て秋になり、冬が訪れても続き、八月二十一日に実施した密入国者二十二人の一斉検挙の際も、西浩太郎、金大竜、尹洋鶴ら十五人のスパイ容疑者は指示どおりわざと見逃した。
そして翌年二月二十七日、金大竜らは三重県の材木輸送船「千代丸(仮称)」で、西浩太郎は同三月十二日新潟から、それぞれ北朝鮮に密出国して脱出した。
捨て石となった大阪府警外事課は、警察庁長官・団体賞を三本受賞したが、新聞には一行も報ぜられず、上部からの指示により表彰状を課長室の壁に掲げることも慎まなくてはならなかった。
スパイ罪をもつ“ふつうの国”だったら、彼らは死刑などの厳罰を科せられ、大阪府警外事課は世界にその名を知られたことだろう。昔はこんなド根性の捜査官がいたし、いまでもきっといるはずだ。
日朝国交正常化交渉は、開かれたり中止になったり、遅々として進まない。不仲だった隣人と仲直りするのは結構だが、“戦後五十年の謝罪と償い”を要求する北朝鮮の理不尽な態度と、これに迎合する一部の声には我慢がならない。
朝鮮戦争の際の火炎ビン闘争で殉職し、傷つき、幾多のスパイ事件捜査で苦労し、しかも沈黙している多くの元警察官に代わって、「冗談じゃねえや、迷惑したのはこっちだ。そっちこそ謝って償いをしろ」と叫びたい。
かくいう私も新婚時代大迷惑を被った一人だ。というのは、あとでわかったことだが、夫の度重なる不可解な“朝帰り”に懊悩し、生まれたばかりの長男を抱えた新婚の妻は、今は故人の父親に相談したそうだ。
勢いこんで「して、そのときの淳行君の服装は?」と問いかける父親に「汚いジャンパー姿よ」と答えると、義父はうめいたという。
「うむ、そりゃあ、“女”ではないな」
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山形|温海《あつみ》事件の屈辱
漂着した木造船
平成二年(一九九〇年)十月二十八日の早朝、まだ薄暗い福井県三方郡美浜町|久々子《くぐし》の浜辺に、無人の木造船が漂着した。
長さ八・八メートル、幅二・七メートル、高さ一メートル。マストなど上部構造物は何もなくて、平べったい甲板に船倉のような四角い切りこみが三つ、後部に幅一メートル、長さ二メートルぐらいの長方形の板囲い付きの操舵席がある。漁船にしてはおかしな形の、使途不明の奇妙な木造船で、船体後部は破損し、浸水している。
発見者の漁師は、「ハテ? こりゃあ何だろう?」とくびをひねり、早速地元の福井県警敦賀警察署に届け出た。
折から、福井県警本部は、十一月十二日に予定された天皇即位の礼を目前に控えて、反天皇制闘争を呼号する過激派のテロやゲリラ、海外からの破壊活動工作員の潜入に備えて、県下の各警察署に沿岸警戒体制の強化を指令し、防犯協会、漁業組合など関係方面に協力をよびかけていた矢先だった。
早速、敦賀署員が臨場して船内を捜索する。
二日前の十月二十六日には強風波浪注意報が出され、二十七日には最大瞬間風速二十二・六メートルを観測していた。発見当時、強風波浪注意報は解除されていたが、それでも波高は依然四〜五メートルあったというから、前日は大|時化《しけ》で、多分、難破して乗組員は遭難したのだろう。船体は厚さ六ミリのベニヤ板を使用、船倉が二つ、燃料室、船室、操舵室、エンジン・ルームという構造で、エンジンは三基。
一基推定二六〇馬力、米国製OMCというマーク入りのもので、三基フルに使えば実に七八〇馬力が出る高速艇であることがわかった。
捜査員たちは顔を見合わせた。
「これは、北朝鮮の工作員潜入脱出用の工作船だぞ、きっと……」
捜査員たちの頭にひらめいたその予感は、操舵室からビニールシートに入った乱数表、暗号表、換字表、そしてハングル文字入りの照明具などが見つかったとき、確信に変わった。
換字表の頭には、ハングル文字で「偉大な首領・金日成同志」とか「親愛なる指導者・金正日同志」「万寿無疆を謹んで宿願します」などと書かれていた。
乱数表や暗号表も、これまでの多くの北朝鮮のスパイ事件で押収されたものと酷似している。
福井県警本部では、本件を北朝鮮工作員の潜入、もしくは脱出事件と断定し、隣接の京都府警、石川県警とも連絡をとりあい、警備部長以下百十人の態勢を敷いて、出入国管理法違反事件として捜査を開始した。
また、海上の捜索については、第八管区海上保安本部の協力を得ることにした。
付近の海中などを捜したところ、さらにスクリュー(三枚羽)、マスト二本、電鍵(モールス信号送信用)、バッテリー二個、ゴムボート一艘、オール一本、金日成・金正日の写真入りの赤色手帳一通、紺色ジャンパー及びズボン、紫色セーター、救命胴衣などが続々発見され、工作員が何らかの海難事故により海中に投げ出された公算が大きい、と判断された。
そして五日後の十一月二日午後二時四十分頃、現場から約五十メートル離れた消波ブロック付近で、男性の水死体一体を発見した。
解剖の結果、その男性は二十〜三十歳の青年で、死因は溺死。死後長くても三週間以内、とわかった。長年にわたる同種事犯の例からみて、この木造船は、母船である北朝鮮特殊工作船(約七十トン、長さ二十六メートル、幅四メートル、最大速力約四十ノット)の後部ハッチから、沖合約二十キロメートルのところで海上に降ろされ、工作員を海岸に運んだ子船に違いない。
通常はこの子船は、波打ち際で潜入工作員をゴムボートに乗せて降ろし、また母船に戻って収容されて逃走するのだが、折からの荒天で、高波か突風によって消波ブロックに激突、難破し、海中にほうり出された工作員が溺死体となって漂着したものと思われる。
燃料がタップリ残っていたこと、乱数表などが未使用の新品だったことなどから判断して、本件は脱出事犯ではなくて「潜入」に失敗したケースで、もしかすると複数の特殊工作員がいて、あるいは無事泳ぎついて日本潜入に成功したものもいるかもしれない。そうみた福井県警本部は陸上での捜索も同時に実施したが、現在に至るも潜入者は発見されていない。
なお、北朝鮮特殊工作船の子船が日本の外事警察の手に落ちたのは、これが初めてである。
世界で二番目に古い職業
この事件の記事を読んだ読者の多くは、「“ベルリンの壁”もこわされ、マルタ会談以後緊張緩和が進む今日、まだ本気でそんなことをやっているの? なぜ? なんのために?」と、くびをかしげたことだろう。
この久々子海岸・北朝鮮スパイ船漂着事件は、“世界で二番目に古い職業”であるスパイが、いまでも人知れず地下で暗躍しているという厳然たる事実を証明するものだった(“世界でいちばん古い職業”はなにかといえば、ご存知のように、「売春」である)。
北朝鮮とは平成二年(一九九〇年)九月、金丸・田辺訪朝団と金日成主席との間で日朝国交正常化や、第十八富士山丸・|紅粉《べにこ》船長ほか一名の釈放問題などが話し合われた。金丸信氏が日韓併合三十六年間の謝罪と補償ばかりか、“戦後四十五年の償い”まで約束してしまって、話題をよんだ相手である。表面ではニコニコ笑みを浮かべて日朝国交正常化を求めて和解の握手の手をさしのべながら、裏では戦後四十五年、ずっと続けてきた対日諜報活動をやめていないという二重人格ぶりが、この久々子事件で端なくも浮き彫りとなった。
スパイのことを「第五列(5th column)」とよぶようになったのは、第一次世界大戦以来のことである。
「五列」とは、四列縦隊で行進する兵士の隊列の横に、目に見えない第五列目のスパイ軍団の隊列が並進しているという意味だ。
中世イタリアのボルジア家、メディチ家の権謀術数に象徴され、第一次世界大戦では絶世の美女スパイ、マタ・ハリに代表されるように、「諜報活動(エスピオナージ espionage)」のイメージは、「黒マントと短剣(クローク・アンド・ダガー cloak and dagger)」だった。
“オペラ座の怪人”のように、全身黒衣をまとい、顔は仮面で隠し、黒の長いマントにくるまって懐に短剣をしのばせて、闇の世に音もなくうごめく……というのが、古典的なスパイのイメージなのだ。
科学技術が飛躍的に発達した今日では、この「クローク・アンド・ダガー」のイメージは、とっくの昔に過去のものとなり、偵察衛星、電波情報、電子情報などをコンピュータで解析して回答を出すという、スリルもサスペンスも、ロマンも冒険もない、無機的な知的作業に変貌した。
情報収集の対象も、ミサイルの設計図とか最新型戦車の装甲板の厚さ、戦闘機の機数など、昔は重大軍事機密だった軍事情報よりは、政治・外交・経済などの国家基本政策など、レベルの高いヒューマン・インテリジェンス(指導者たちの頭の中にある考え方など)の方が、より重要なものとなってきた。
つまり、外務省なり首相官邸に“黒マントと短剣”の古典的なスタイルで忍びこんで、金庫の中の極秘書類を盗むという方式から、金庫の中の極秘書類の内容をことごとく知っている大物の政治指導者や高級官僚を、白昼堂々と訪問し、ディナーに招き、スケールの大きな政治工作によって味方にしてしまうという、公然活動に変わってきつつあるのだ。
昔は「非公然・秘密工作」が主軸だった諜報活動は、いまでは「公然・正攻法工作」に、すなわち、コヴァート(covert 隠密)からオーヴァート(overt 公然)へ、また、クランデスタイン(clandestine 後ろ暗い)、イリーガル(illegal 非合法)活動から、オープン(open あけっ放しの)、リーガル(legal 合法的)な工作へと変質しつつあるのが、現代のエスピオナージの特徴なのである。
戦車や戦闘機の配備数、ミサイル基地の所在などは宇宙偵察衛星に映ってしまうから、クローク・アンド・ダガーで苦労して情報収集する必要はない。湾岸危機を例にとっていえば、イラク軍の兵力展開状況などよりは、サダム・フセイン大統領がなにを考えているのか、その心を読むことの方が、よっぽど大切だったのである。
忍者ものの時代小説を読むと、伊賀・甲賀の忍者にも二種あったという。片方が敵方の城への潜入、戦術情報の入手や破壊ゲリラ工作、暗殺など“黒マントと短剣”を主任務とし、その代表が猿飛佐助とすれば、もう一方はさしずめ柳生但馬守宗矩だ。権力者の|帷幕《いばく》にあって、天下国家にかかわる大政略、軍略を練り、高度の政治外交情報の収集にあたるのである。
私は、昭和三十五年から約二年、警視庁公安部外事課のソ連・欧米担当デスク、昭和三十七年から約二年、大阪府警察本部警備部外事課長、昭和四十三年、警視庁外事第一課長、そして昭和四十八年から二年間、警察庁警備局外事課長と、四回にわたり通算六年有半、外事警察にたずさわった。その間、多くのソ連・東欧関係スパイ事件、中国の対日工作、北朝鮮の対日スパイ活動を捜査したが、私の印象では、中国の対日工作は柳生但馬守流のうねりの大きい政治工作、ソ連は二刀流、北朝鮮は常に“黒マントと短剣”式の非合法・秘密工作に終始していた。
北朝鮮スパイは懲役一年
戦後の北朝鮮関係スパイ事件は、昭和二十五年(一九五〇年)九月九日、米軍占領時代に警視庁が検挙した第一次朝鮮スパイ事件にはじまる。
島根県隠岐島から密入国した北朝鮮工作員・岩松吉松こと許吉松(37)は、東京を中心に約百人近い軍事スパイ網を組織し、同年六月二十五日朝鮮戦争が勃発するや、米軍の動向など軍事情報を収集し、北朝鮮に報告していた。警視庁はマスター・スパイの許吉松以下、翌昭和二十六年九月までに四十人のスパイを芋づる式に逮捕した。
この事件だけは占領中の事件だったので、昭和二十六年七月十一日、GHQ(連合軍総司令部)軍事裁判において、「占領軍の安全に有害なる行為」(勅令第三一一号)で懲役十年、罰金五千ドルの判決を受けた。
ところが、それ以後の事件、たとえば昭和二十八年九月二十日検挙の第二次朝鮮スパイ事件の主犯、大谷正夫こと金一谷(50)は、出入国管理令、外国人登録法違反で懲役一年の判決を受けたにすぎない。
昭和三十年六月二十六日、警視庁が検挙した第三次朝鮮スパイ事件――竹村基こと韓載徳(40)以下二十二人逮捕――も出入国管理令、外国人登録法違反で、懲役一年六か月、執行猶予四年と、きわめて軽い。
昭和三十三年十月三十日の第四次朝鮮スパイ事件――青山京一こと姜乃坤(38)を逮捕――も懲役一年、執行猶予四年であった。
そのほか、「弘昇丸事件」(金斗七、崔竜雲=北海道警)、「大寿丸事件」(崔燦寔=山口県警)、「解放号事件」(金泰煥、金鳳国、李承基の新潟県密出入国=新潟県警)などなど、スパイ事件はその後も続発。昭和六十年(一九八五年)三月一日、警視庁が検挙した「西新井事件」(小住健蔵こと朴某)に至るまでの間に、秋田、石川、大阪、兵庫、神奈川、山形、愛知など各府県警などが検挙した北朝鮮スパイは、実に四十五件の多きにのぼっている。そのほとんどすべてが、出入国管理令、外国人登録法、外国為替管理令違反などの軽い形式犯で、懲役一年、執行猶予四年という判決なのである。
つまり、日本が被占領国だったときに起きた第一次朝鮮スパイ事件は懲役十年だったが、昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約で独立を回復して主権国家となってからは、スパイ罪がないために、日本ではスパイ行為は「懲役一年、執行猶予四年」と、判でついたように量刑がきまってしまったのである。
どこの国でも、スパイ罪は死刑に該当する重大な犯罪である。このことは“ベルリンの壁”がこわれた以後でも同じで、たとえば平成二年(一九九〇年)十一月二十四日付の読売新聞は、「スパイ罪の在日韓国人に『無期』、ソウル高裁」という見出しで、韓国の裁判を報じている。それによると、三十年間にわたり、北朝鮮の指令を受けて韓国に対するスパイ活動を続けてきて、国家保安法違反で逮捕され、一審でスパイ罪で死刑判決を受けていた在日韓国人、徐順沢被告(61)が、控訴審判決で罪一等を減じて無期懲役が言い渡されたというのだ。
「懲役一年、執行猶予四年」の日本とは、えらい違いなのである。
北朝鮮も昔は日本を過大評価していて、彼の地のスパイ訓練所では「日本に潜入するにあたっては、決死の覚悟でゆけ」と厳しく指導訓練していたようだ。現に「第一次能代事件」(昭和三十八年四月一日発生=秋田県警)、「第二次能代事件」(昭和三十八年五月十日発生=同)の際には、北朝鮮工作員はソ連製のトカレフ自動拳銃を腰に潜入を企てたものだ。
ところが昭和四十年代後半ともなると、日本がスパイにきわめて寛大な“スパイ天国”であることが次第に知れわたって、拳銃など携行してくるものはいなくなった。
そして検挙された工作員の供述によれば、北朝鮮のスパイ訓練所では、「日本警察は腐ったカボチャ、押せば押すほどひっこむ」と教えているという話で、外事警察官たちを|切歯扼腕《せつしやくわん》させたものだった。
工作員|温海《あつみ》海岸に潜入
戦後発生した四十五件に及ぶ北朝鮮工作員の諜報活動事件、潜入脱出事件は、苦労して捜査し、検挙してもいずれも「懲役一年、執行猶予四年」という情けない結果に終わってしまい、そのつど、日本の外事警察は口惜しい思いをさせられてきた。そして、その中でもとりわけ苦汁をのまされ、悲憤させられた事件が「山形県・|温海《あつみ》事件」だった。
私はかつて警察庁警備局の外事課長時代、日本海側各府県の過去における北朝鮮工作員の潜入・脱出事犯の起きた海岸を逐一警備艇でまわり、つぶさに現場検証したことがある。私は根っからの“現場主義者”だから、なぜそれらの海岸が上陸地点として選ばれたか、自分で納得したかったし、それらの共通点を探れば、重点張り込み等による現行犯検挙の道も開けるのではないかと考えたためだ。
これら上陸地点を巡視してみて驚いたことは、彼らが実によく現場を実査し、最適の地点、時期を選んでいる、その用意周到さだった。潮流の流れ、潮の干満、月齢(明るさ)はもとより、(1)海上からみると一本松とか、工場の煙突とか、きわだった特徴の目標物があること、(2)県境・市町村行政区域の境、警察署管轄区域の盲点などであること、(3)近くに国鉄(現・JR)無人駅、バス停留所など公共輸送機関の乗降車地点があること、(4)国道・県道など自動車のアクセスもあること、(5)警察署・派出所・駐在所などから遠いことなどを、綿密にケイシング(casing 現場をふんで精査することをいうスパイ用語)しているのである。
「温海事件」の現場も、そんな特徴に合致する地点の一つであった。
昭和四十八年(一九七三年)八月五日の真夜中、午前零時頃のことである。
山形県西田川郡温海町の国道七号線を警ら中のパトカーが、トボトボと歩いている不審な三人連れの男たちをみつけた。
警察官の職務質問を受けると、一人が外国なまりの日本語で「青森から歩いてきた。これから“|鼠ヶ関《ねずがせき》”海水浴場に行くところだ」と答える。こんな真夜中に海水浴? おかしい。潜入スパイではないか――。そう感じた警察官が、
「朝鮮の方とお見受けしたが、外国人登録証を……」
ときくと、青森においてきてしまって、持っていないとの答え。そこで署まで同行を求めたところ、三人の男たちはやにわに質問中の警察官の腹部に空手の一撃を加え、もう一人の警察官に体当たりをくらわせ、なにか朝鮮語で大声で叫びながら三人それぞれバラバラの方角に向かって逃げ出した。
一人は追跡した警察官によって、格闘の末逮捕された。もう一人は、近くの海水浴場のキャンプ村に潜んで海水パンツ一つの海水浴客をよそおって浜辺にねそべっているところを逮捕された。午前四時頃のことで、海水浴には早すぎる時間だった。
もう一人は、国内のスパイ組織にかくまわれたのか、その後今日に至るまで|杳《よう》として行方がわからない。
この二人は、取り調べの結果、崔光成と、金興錫とわかったが、両名とも朝鮮咸鏡北道、水産管理処漁大津出張所の所員であり、遠洋運搬船「東海一号」の乗組員だと名乗り、暴風雨のため遭難し、船が沈没したため、ゴムボートで日本に漂着したのだと主張して、北朝鮮工作員であることを否認した。
だが、付近の岩かげから船外機付きのゴムボートも発見されたし、金興錫が職務質問を受けて逃走する際に海中に沈めたリュックサックから、ラジオ、薬品、粉末食糧などとともに、共犯崔の衣類が出てきた。しかも、その作業ズボンの右後ろポケットには暗号表、乱数表、換字表がおさめられていた。
また、所持品を子細に調べると、日本製マーク入りの作業衣、ピースの空き缶、日本製マッチ、ホワイト・アンド・ホワイトの歯磨き粉、日本製常備薬など、やたらに日本製のものが多く、遠洋運搬船の乗組員にしてはかえって不自然さが感じられた。
さらにおかしなことに、彼らが逮捕されてから三日たった八月八日、北朝鮮赤十字中央委員会から日本赤十字あてに、彼らの供述を裏付けるような、わざとらしい海難救助要請の電文が打電されてきた。
しかし、両名の供述はくいちがい、船の大きさも五トンの五人乗りから二十トンの十二人乗り、あるいは三十トンの六人乗りと、きくたびにでたらめで、気象条件を調べても、本人たちが申し立てた暴風雨などの悪天候があった事実もない。暗号表を解読すると「自衛隊」「米軍」「基地」「工作員」など、スパイ活動をにおわす用語が多かった。山形地方検察庁と地方裁判所鶴岡支部は、これらの事実からみて両名の申し立てる遭難事故は存在せず、彼らは対日諜報活動の意図をもって日本潜入をはかった北朝鮮工作員であるとの判断を示して、崔光成と金興錫の出入国管理令及び外国人登録法違反にかかわる公判は、順調に進行していった。
無線機・ゴムボートは「金日成閣下のもの」
実は、警察庁外事課長だった私は、この「|温海《あつみ》事件」は“一件落着”と考えて、大した関心を払っていなかった。
証拠は十分。最近日本海沿岸で起こった潜入事件と大同小異の、ごくありふれた北朝鮮スパイ事件の一つにすぎない。
昭和四十六年度などは、七月三十一日、北朝鮮対外連絡部員・金南鮮を検挙した「大聖寺事件」(石川県警)、九月二十一日、秘密工作員・呉順培を検挙した「石原事件」(大阪府警)、秘密工作員・朴環萃を検挙した「足立事件」(警視庁)と、三件も発生した。いずれも判決は、懲役一年、執行猶予つき。この「温海事件」も、どうせ懲役一年にきまっている。
それよりは、昭和四十八年八月八日、「温海事件」の三日後に東京・飯田橋のホテル・グランドパレスで起きた「|金大《キムデ》| 中 《ジユン》事件」で警察庁、警視庁は上を下への大騒ぎで、「温海事件」などかまっている暇はなかったのである。
裁判が結審したら、どうせすぐ強制退去。どこか希望するところ、ソ連であれ韓国、台湾であれ、香港であれ、受け取ってくれるところへ身柄を強制送還して、それで終わり。山形県警本部に対してはこれもおきまりの長官表彰の手続きをすればいいのだ。私は連日連夜、金大中事件の捜査や国会答弁、夜討ち朝駆けのマスコミの取材への対応などに忙殺され、「温海事件」のことなど、ほとんど忘れてしまっていた。そして昭和四十八年十一月二日、崔と金は、山形地方裁判所において、それぞれ懲役一年、執行猶予三年の判決を受けた。身柄は直ちに法務省仙台入国管理事務所に移された。
*
異変が起きたのは、このときである。
*
「君らは直ちに国外へ強制退去となる。どこの国に送還されたいか、希望をいってみなさい」という入管職員の問いに対して、二人は、「朝鮮民主主義人民共和国に送還してください」といい出したのだ。
これまで日本で逮捕された北朝鮮工作員は、本国に送還されると失敗した責任を問われて厳重な処罰を受けるとみえて、強制送還先としては、米国、ソ連、台湾、香港、韓国など、もし受け入れてくれれば北朝鮮以外を希望するのが常だった。
外事課のベテランたちは、この話をきいてお互いに顔を見合わせ、「変わっとるね、この二人は。あるいは最近になって、失敗して送り返されてきても北朝鮮じゃ処罰されなくなったのかな?」などと話題にしていたものだ。
そんなある日、警察庁外事課の第三係課長補佐(朝鮮担当)松本彰二警視が妙な表情を浮かべて私の部屋に入ってきた。
「課長、妙なことになりよったですわ。北朝鮮に強制送還せい、いうたあの崔と金の二人は、“ゴムボートや無線機、乱数表や工作資金、あれらはみんなワシらのものやない、金日成閣下のもんや、国(北朝鮮)に持って帰るさかい、返せ”いいだしよりましてん」
きいた私は、怒りがこみあげてきた。
「なんだと? ゴムボートや無線機、返せだと? ありゃスパイ活動の証拠品として没収したんだろ? 大体図々しいよ、ふつうの国ならスパイは死刑なんだ。日本はスパイ取り締まりの法規がないから国外追放で処置してるんだ。スパイ道具を返せ、“金日成閣下のもんだ”とは、一体何考えてんだ、やつらは!」
「それが課長、山形地検の担当検事さんもこりゃあかん、いうとりますのや。いい弁護士がつきよりましてな、証拠品の押収手続きが違法で無効や、“金日成閣下のもん”なら、第三者の所有物やから、官報に十四日間公告すべきなのに、山形地検は、やっとらんから被告らに返還すべきや、いうてまんね」
六法全書をひっつかんで該当条文を探す。
あった!!
「刑事事件における第三者所有物の没収手続に関する応急措置法」(昭三八・七・二三・法律第一三八号)。
同法第二条によると、被告人以外の所有に属する物の没収手続きについては、検察官は公訴を提起したとき、その第三者の所在がわからなかったり、当人に通告できないときは、官報、新聞に掲載し、かつ検察庁の掲示場に十四日間掲示して、没収するぞということを公告しなければいけない、と規定してある。
大体それまでの北朝鮮スパイ事件の被告たちは、「私のものです」というか「私のものじゃない」とスパイ道具との関係を認めるか、否認するのが常だった。「私のものです」といえば所有権放棄の手続きをとらせ、「私のものじゃない」といえば、無主物として没収し、証拠に使ったあとは、警察学校や公安幹部研修の教材として、無線機や乱数表などを活用してきた。
「これらは金日成閣下のものです」と主張したのはこの崔と金が初めてだったので、検察庁も山形県警外事課も、そして私らも意識の死角をつかれたのだった。
「金日成閣下の無線機だ」といわれたら、すぐ官報や新聞、掲示場に「金日成閣下、このゴムボートや無線機や乱数表は、貴下のものですか?」と、十四日間公告してたずねなければいけなかったのだ。
「そんなバカな……」と絶句して呆然としている私たちの目の前で、裁判所は「第三者所有物」、つまり「金日成閣下の持ちもの」であるゴムボートなど証拠品のスパイ道具一式を、被告らに返すように命じた。そして崔と金は、意気揚々、新潟港から定期船「万景峰号」に乗って、ゴムボート、無線機、乱数表などと共々、北朝鮮に帰国していった。
当時の山本鎮彦警察庁警備局長から「戦後日本の外事警察の最大の敗北だ」とお叱りを受けたが、とても信じられない悪夢のような“スパイ天国”物語だった。
こんなヘンな国だから、日本は金日成に“戦後四十五年の償い”を要求されなければいけないのだろう。
では対日潜入脱出工作はなくなったのかというと、決してそうではない。近年四十ノットの高速を誇る北朝鮮工作船があまり姿をみせなくなった。このことは対日潜入脱出工作が行われなくなったことを意味しない。
高速船の代わりに魚雷発射管を取り外し、フロッグマンが領海内の海岸間近で海中に這い出し、フィンを使って泳ぎ、夜陰に乗じて潜入し、脱出に際してはその逆という形で行われている公算が大きい。近年韓国で起きた北朝鮮サンオ(さめ)級の小型潜水艦侵入事件は、この憶測を裏付ける事実である。
海上自衛隊の対潜水艦水上艦艇は、しばしば国籍不明の潜水艦を探知して領海外に退去するか浮上して無害航行をするか警告しているが、これらの潜水艦は応じようとしない。やむなく爆雷に代わる発音弾を投下して浮上をうながすが応じようとしない。口惜しいが、これが“スパイ天国・ニッポン”の現実の姿なのだ。
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何のために誰の指示で?
武装ゲリラのテロ
戦後米ソのイデオロギー対立や共産国家中国の台頭などの不安定要因を反映して、朝鮮半島は常に北東アジアの“火薬庫”だった。
第二次世界大戦によって世界に東西ドイツ、二つの中国、南北朝鮮、南北ベトナムと四つの分裂国家ができてしまって、周辺諸国の安全保障上、あるいは治安上の不安材料となっていた。しかし、二十世紀の終わりに近づくにつれ、南北ベトナムは十年に及ぶ大戦争の結果統一され、共産主義の牙城だった超軍事大国ソ連の崩壊によって、最もむずかしいとされていた東西ドイツ問題が一挙に片づいた。そして中華人民共和国と台湾、北朝鮮と韓国というあと二つの分裂国家が、しかも日本のすぐ隣に存在し続けている。
特に隣りの朝鮮半島は、南北とも中規模の軍事独裁国家として、朝鮮戦争以来対峙し続け、いずれも朝鮮半島の統一を主張しつづけてきたところから、韓国の大統領は常に暗殺、クーデター、学生暴動による退陣要求の脅威にさらされる不安定な存在だった。
イデオロギー対立の冷戦構造が世界を二分していた頃は多くの国において国内に二つの価値観が対立していた。北の朝鮮民主主義人民共和国は「テロ支援国家」として知られ、対韓工作はあらゆる非合法な手段を用いて執拗に続けられ、時には日本も巻き添えをくらうことが多かった。武装ゲリラの奇襲侵攻作戦もしばしば敢行された。朝鮮戦争休戦以来最大規模の武装ゲリラ部隊による韓国大統領暗殺未遂が一九六八年の「青瓦台襲撃事件」だった。
この奇想天外な発想は、一九四四年ナチス・ドイツ軍最後の総反攻となったアルデンヌの森で展開された“ルントシュテット攻勢”の際のドイツSS部隊、スコルツェニー大佐指揮の米軍に偽装し、完全なアメリカ英語をしゃべる精鋭による連合軍の後方攪乱作戦のコピーだったといえる。
スコルツェニー大佐は、イタリアのバドリオ元帥降伏後、ローマ東方のグランサッソ山中の山荘に捕らわれの身になっていたムッソリーニ前首相を、軽飛行機シュトルヒに分乗した特殊部隊の精鋭を率いて空から奇襲し、ムッソリーニを救出して全世界をアッといわせた離れ技の主役で、ヒトラー総統じきじきに殊勲の鉄十字章を授けられた将校である。
これを真似したのが「青瓦台」朴大統領暗殺作戦で、立案者はヒトラーに心酔し、彼の著書『わが闘争(マイン・カンプ)』を愛読し、「電撃作戦」に夢中の金正日書記……といいたいところだが、金正日はこの頃は二十六歳の青年であるから、アイデアは金正日としてもその作戦の実行を命じたのは、抗日パルチザン・ゲリラ戦を指揮した金日成主席その人であったのではないかと推測される。
一九六八年(昭和四十三年)一月二十一日夜十時頃、韓国兵一個小隊が隊伍を組んで韓国の首都ソウルの大統領官邸「青瓦台」に向かって行進していた。
「青瓦台」とは、日本の総理官邸が「永田町」、ロンドンの首相官邸が「ダウニング街十番地」ワシントンの議会議事堂が「キャピトル・ヒル」とよばれるように、大統領府及び大統領官邸の屋根瓦の色からつけられた通称である。青瓦台にあと一歩という景福高校前付近で、折から巡回警邏中の崔鍾路警察署長一行のパトロールと遭遇した。それまで警察の夜間検問は「韓国軍情報部(CIC)の小隊移動」と言い逃れて無事通過してきたが、崔鍾路署長に見とがめられた。するとこの“韓国兵”たちはいきなり警官隊にむかって発砲し、深夜の官庁街は時ならぬ激しい銃声に包まれた。銃声を聞いた青瓦台警備の首都警備司令部第三十大隊の|全斗《チヨンド》|煥《フアン》大隊長は、当時の諸情勢から考えて「韓国軍反朴派のクーデター」と判断し、部隊を率いて現地に駆けつけ、銃撃戦に参加した。この全斗煥大佐が後の大統領である。
激しい銃撃戦の末、「クーデター部隊」は二十九人が射殺され、一人が付近の仁旺山に逃げ込み、もう一人は北へ逃走した。
韓国側も崔鍾路警察署長ともう一人の警察官が殉職し、通りがかりの一般人五人も巻き添えをくって死亡した。
仁旺山にたてこもったもう一人の犯人は「投降すれば命は助けてやる」という投降勧告をきいて下山し、韓国軍に投降した。
一切を自白
これら射殺された“韓国兵”は韓国第二十六師団のワッペンなどをつけ、韓国正規軍の装備で完全武装していたが、身元調査の結果第二十六師団所属のどの隊にも該当者がなく、偽韓国兵であることが明らかになった。
ところが取り調べの結果、捕虜となった一人は北朝鮮民族保衛省(現・人民武力省)偵察局第一二四部隊所属の朝鮮人民軍、金新朝少尉であることが判明した。金少尉は「北」が「事件は南のデッチ上げで、金新朝などという男は知らない」と北の関与を全面否定し、板門店で二十九人の遺体を返還しようとした韓国側の申出を拒否し、遺体を引き取らなかったことを知ったとき、北への忠誠心が音をたてて崩れ、一切を自白したという。金少尉は北朝鮮の清津に生まれ、興南機械専門学校卒業後朝鮮人民軍に入隊、民族保衛省偵察局第一二四大隊で対南浸透の猛訓練を受けた。一九六八年一月九日、黄海北道延山郡の第六基地で、偵察局長本人から「朴大統領を殺せ」という任務命令を受け、「これで自分は死ぬのか」と電気に触れたようなショックを受けたと供述している。
金少尉は選び抜かれた三十人の精兵と共に韓国陸軍第二十六師団の軍服を着、手榴弾など完全武装の上、二十四キロの背嚢を背負って零下二十度、膝まで没する雪にめげず、時速十一〜十二キロという驚異的体力で山道を行軍し、八日後軍事境界線を越えて韓国に侵入。三十八度線の検問所では「韓国軍情報部(CIC)の小隊移動」と偽ってなんなく通過したという。凍りついた臨津江を渉り、米軍第二師団と韓国第二十五師団の担当警備区の間を抜けて夜間行軍を続け、二十一日夜、青瓦台まであと数キロという|洗劍亭《セゴムジヨン》に降り立ったという。
何という壮大なエネルギーの空費、訓練しぬかれた忠勇な将兵の命の無駄使い、使い捨てだろう。金少尉はその後韓国内で釈放され、結婚しキリスト教に帰依して暮らしているという。
なぜこのようなバカげた韓国大統領暗殺未遂事件が起きたかというと、それにはそれなりの時代背景があった。一九六八年韓国は米国の要請に応じて南ベトナムに陸軍三個師団を派遣し、北ベトナム軍及びベトコンと交戦するに至った。東側陣営の一員として、金日成は中国の毛沢東ともども北ベトナムとベトコンに対する物心両面の支援を行っていた。このことは、青瓦台事件の翌日「プエブロ号事件」が起きていることからも明らかである。
一月二十二日、北朝鮮の元山沖でアメリカ海軍情報収集艦「プエブロ号」が「領海侵犯」を理由に北朝鮮警備艇に拿捕され、ロイド・ブッチャー艦長以下八十三人の米海軍軍人が「スパイ」として北朝鮮に抑留されるという大事件が起きた。アメリカ国防省は直ちに佐世保入港中だった原子力空母「エンタープライズ」を元山沖に急派した。なお日本で「エンプラ闘争」とよばれる原子力空母寄港反対の一大闘争が展開されたのはこの時である。
韓国は青瓦台事件もあったことから海空軍に非常待機命令を発し、北朝鮮もまた全軍非常警戒態勢に入り、朝鮮半島は一触即発の軍事緊張に包まれた。板門店で開かれた軍事休戦委員会では、「公海上の米海軍艦艇の拿捕は国際法違反の海賊行為である」と烈しく北朝鮮を非難し、北は「アメリカのスパイ行為」と反駁するといった応酬が十一か月に及び、ブッチャー艦長らが釈放になったのは十二月二十一日だった。「プエブロ号」は貨物船改造の八百トンの情報収集艦で、こんなボロ船に最高のハイテク情報機器を積み、護衛もなしで領海スレスレに情報活動をさせていた米海軍の姿勢や、北朝鮮警備艇などに急襲されたとき、暗号帳など機密文書は重しの鉛入りのズック袋にいれて海中投棄するマニュアルになっているのに、タイミングを失したブッチャー艦長の危機管理のあり方などがその後長い間論争のタネとなった。
また、北朝鮮はこの年の十一月韓国東海岸に約百名の武装ゲリラを上陸させて、民間人ら百数十人を射殺するという、これまた目的不明のゲリラ作戦を展開するなど、ベトナム戦争の余波は朝鮮半島にも及んでいた。
ちなみに私は当時、警察庁出向の香港領事として一九六七年荒れ狂った中国の文化大革命とベトナム戦争の煽りをくった「香港暴動」の真っ只中におり、三千人の在留邦人の安全確保と万一の場合の集団脱出の対策に腐心していた。そしてこれらの事件が起きた直後の一九六八年一月二十九日、折から出張した先の南ベトナム・サイゴンで世に名高いベトコンの乾坤一擲の総攻撃「テト攻勢」に見舞われた。タンソニュット空港がベトコンに占領されるなど烈しい市街戦の巷と化したサイゴンで、私は青木盛夫大使(ペルー大使公邸人質事件の際の青木盛久大使の父君)らとともに日本大使館に籠城し、八百五十人といわれた在留邦人の安否確認や外務省への戦況報告に忙殺され、外の世界から隔絶された情報ブラックホールにいた。二月中旬ようやく香港に脱出してきてから「青瓦台襲撃事件」「佐世保の反エンプラ闘争」そして「プエブロ号事件」を知って驚いたものだった。
日航「よど号」ハイジャック事件
北朝鮮がアメリカの国防報告が分類したように、キューバ、リビアなどとならぶ北東アジアでの「テロ支援国家」である事実が明らかになったのが、昭和四十五年(一九七〇年)三月三十一日に起きた「日航『よど号』ハイジャック事件」である。
日本国内で次第に追いつめられた日本赤軍政治局長田宮高麿をリーダーとする学生九人が、ピストルと日本刀で武装して、午前七時四十分頃羽田発福岡行きの日本航空ボーイング727型「よど号」(機長石田真二)を富士山上空でハイジャックし、乗員七人、乗客百三十一人を人質に、北朝鮮のピョンヤン行きを要求した。
この事件が起きたとき私は警視庁の警備第一課長で、直ちに羽田空港中心に非常警備体制を敷いた。「よど号」は一旦福岡に着陸し、給油した後、午後三時韓国の金浦空港に着陸した。日本政府は直ちに運輸省山村新治郎政務次官を長とする対策チームをソウルに派遣し、山村次官自らが身代わり人質となることを条件に、三日午後六時「よど号」はピョンヤン付近の空港に着陸、赤軍派九人は北朝鮮当局に投降し、北朝鮮は彼らの亡命を認め、これに政治的庇護を与えて今日に至っている。乗員乗客と機体は釈放され、無事帰還し、山村政務次官は「男、山村新治郎」と呼ばれて株を上げた。
その後も日本赤軍はピョンヤンを拠点に東欧・中近東・東南アジアのテロ組織と連携して各地で非合法活動を続けたが、そのなかの事件当時高校生だった柴田泰弘はその後日本に潜入したところを逮捕されている。
これら政治亡命者が北朝鮮から自由に出入国していたことは、彼らがテロ支援国家・北朝鮮から物心両面の支援を受けていたことを物語っている。
南侵トンネル
北朝鮮の対南侵透工作はさまざまな形で繰り広げられてきたが、一九七四年頃から北朝鮮は「南侵用トンネル」を休戦ライン全般にわたり二十数本掘削してきた。
このトンネルはジープなどがそのまま通過できる大トンネルで、「一個連隊が十五分で通れる」大きさ・広さといわれ、その第一本目は一九七四年に、二本目七五年、三本目が七八年に発見され、大変話題になった。そして一九九〇年三月三日、東部前線山岳の南北非武装地帯に四本目のトンネルが発見された。北朝鮮側は三月十四日板門店軍事休戦委員会席上での韓国側の抗議に対し、「南侵用トンネルなど掘ったことはない。南の政治謀略だ」とこれを全面的に否定し、会議上は未発見の他のトンネルを破壊せよと迫る米韓側代表との間に烈しい応酬が交わされた。
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なぜ日本警察の拳銃が
人事大異動当日に事件が
もう一つ、謎めいた朴大統領暗殺未遂事件がある。それが昭和四十九年(一九七四年)八月十五日、お盆のさなかに起きた第二の朴大統領暗殺未遂事件「|文世《ムンセ》|光《グアン》事件」である。
この日は太陽がギラギラ輝く真夏日だった。夏休みシーズンだというのに、警察庁警備局のものはほとんど出勤していた。なぜならこの日に警察の全国規模の大異動があって、実は私もこの日を限りに二年に及ぶ波瀾万丈の警備局外事課長の任を解かれ、すぐ隣りにある警備課の課長に配置換えになることになっていて、辞令交付は翌十六日の午前十時、長官室出頭ということになっていた。
警察庁外事課長在任中は、まったく息つく暇もない事件の連続で、長い警察庁警備局の歴史の中でもあれほど忙しかった二年は空前絶後だろう。何の因果か、いかなる星の下に生まれたのか、私は庁内では「事件屋」とか「嵐を呼ぶ男」とあだ名されていた。私の配置になる先なる先、必ず大事件が待ち構えていて、その部署はマスコミの取材、国会答弁、現場の事件処理に対する行政指導、関係国との対応など、途端に連日徹夜の大騒ぎになるのである。
外事課長二年間でかかわった重大事件・事案はざっと次のようなものだった。
(1)日中国交正常化、田中角栄総理訪中警備(72・9・24 73・2・1)
(2)ソ連大使館通商代表部ソロキン(KGB)逮捕(本書第十三話「トラになったKGB」参照 73・7・29)
(3)日本赤軍ドバイ・ハイジャック事件(73・7・20)
(4)山形県温海北朝鮮スパイ事件(本書第三話「金日成閣下の無線機」参照 73・8・5)
(5)金大中事件(本書終話「金大中事件の回想」参照 73・8・8)
(6)日本赤軍スキポール空港事件(73・9・13)
(7)愛知県北朝鮮スパイ金東一事件(73・12・22)
(8)日本赤軍シンガポール事件(74・1・31)
(9)日本赤軍クウェート日本大使館占拠事件(74・2・6)
(10)神奈川ソ連スパイ・クブリツキー事件(本書第十六話「シュタージ(東独秘密警察)の悲劇」参照 74・2・11)
(11)愛知県北朝鮮スパイ李白光事件(74・5・20)
(12)大阪レチキン・ソ連教授亡命事件(74・6・5)
(13)警視庁北朝鮮スパイ孔永淳事件(74・6・26)
(14)小牧空港日航機ハイジャック事件(74・7・15)
そして昭和四十九年(一九七四年)八月十五日、外事課長の掉尾を飾るともいえる「文世光事件」が発生した。私は翌日付で警備課長へ異動することとなっていたが、否応なくこの事件にまきこまれ、暫くの間、この事件処理の対応にあたった。外事課長としての在任期間は、要すればほとんど連日のように事件で幕をあけ、幕が閉じないまま後任者に引き継いだことになる。
*
話を「文世光事件」に戻そう。
この年の七月十八日、大阪府警南署の交番で休憩中の警察官二人の拳銃が二挺、帯革ごと盗まれるという窃盗事件が起きた。
庁内を流れた事故速報を見、新聞を読んで、私はしょうがないな、二人とも熟睡して気付かなかったんだろうか、一体何の目的でどんな奴が盗んだのかな、銀行強盗などに悪用されたら大阪府警の南署長は進退伺いものだな、と考えたことを記憶している。
しかし事件そのものは刑事局捜査第三課の所管で、警備局外事課長の私には関係のない事件なので、それっきりで忘れてしまっていた。
八月の定期異動の日付は十六日と決まった。
神様のいたずらか、悪魔の呪いか
午前十時に長官室集合、辞令交付との内示も受けた。私の後任は昭和三十一年組の警視庁外事第一課長の三島健二郎警視正だ。三島警視正は初任幹部科第五期生で、中野の警察大学で助教授だった私が担任したクラスの“一選抜”(Aクラスのこと)の一人で、外務省に出向してユーゴスラビアのベオグラード日本大使館の一等書記官として勤務したこともあり、警察庁外事課長としては適任の人物だった。
八月十五日。日本中お盆休み。帰省シーズンで多くの職場で夏休みを楽しんでいる最中だったが、警備局はそうはいかない。三百六十五日、二十四時間、いつ、何が起きてもおかしくない治安情勢の、いわゆる“警察戦国時代”の最中だから、私たち警備局幹部は夏休み返上で人事院ビル五階の暑い警備局で勤務していた。
現に一年前の八月八日、夏休み、お盆前だというのに警察庁の定期人事異動が発令された。とくに外事警察の幹部の人事異動の場合、誰か外事系統の主要ポストの者が動くと、警視庁の外事課長や大阪・神奈川・その他の県警の外事担当の部長が、芋づる式にみんな人事の線表にのってしまう。神様のいたずらか、悪魔の呪いか、その八月八日に例の金大中事件が起きて大騒ぎとなったのだった。今年はまさか、お盆の日、警察庁人事異動のその日に、昨年と同様大事件が起こることはあるまい……と思っていた矢先、「青瓦台の“光復節”祝賀行事中に朴大統領が拳銃で狙撃さる」という至急報が入電したのだ。
前年の金大中事件が依然ブスブス燻っていて、国会でもマスコミでも未解決の重大国際事件として槍玉にあげられているというのに、追い打ちをかけるようにまたも韓国がらみの大事件が起きたのだ。たちまち外事課の大部屋は鳴り響く電話のベル、コピーをとりに廊下を走る課員、私は局長室・次長室・長官室に足をはこんでとりあえず拙速の第一報を入れた。第二報、第三報と新しい情報が入るたびにますます頬がこわばってくる。「朴大統領は無事。弾は三発。大統領夫人の頭部命中。重態」、「犯人は吉井行雄」。
うわぁ、日本人なのか!! 「訂正、犯人は日本名吉井行雄こと文世光。大阪の韓青生野支部委員長」……日本から渡航した在日韓国人なのか? 「発生時刻は十時二十分頃」。
「六何の原則――何時、何処で、何が、何故、誰が、どうして」、5W1Hともいう情報の六要素というものは、実際の事件現場からはこうしてバラバラに、後先逆になったりして入ってくるものなのだ。
一九七四年版の私の黒の能率手帳、八月十五日午前中の欄には次のようなメモの走り書きがある。
「金大中そっちのけ。朴大統領狙撃。|三《ヽ》発。夫人頭部命中。重態。十時二十分頃。犯人吉井行雄こと文世光。韓青生野支部委員長。終日大騒ぎ」(第一報は『三発』だった)
「光復節」とは日本の「降伏」にひっかけた韓国の解放記念日の祝典のことで、場所は青瓦台(大統領官邸)ではなくて国立中央劇場。発生時刻は午前十時二十三分。朴大統領の祝賀演説中、最前列の席から|二《ヽ》発拳銃が発射された。大統領はとっさに演壇のかげに身を隠し、難を逃れたが、流れ弾が陸英修大統領夫人の頭部に命中したのだった。祝賀式典に出席していた女学生一人にも弾があたって死亡したという。日韓両国政府は直ちに日本人・在日韓国人の出入国を差し止めた。
やがて日も暮れ、情報の流れもとまったので、警備局としてかねて予定されていた異動する幹部の歓送迎会を手早く済ませてしまおうということになった。また明日から国会や自民党への報告、記者会見など忙しくなること必定だから、今のうちに簡単な歓送迎会をやってしまうことに一決したのだ。私も該当者の一人だ。五階の外事課長室から廊下を歩いてわずか数十メートルの警備課長室への引越しだが、異動には違いないのだから、私もお客様の一人である。会が始まったと思ったら私は当直から「緊急のICPOからの電報です。重要緊急とありますので、外事課長受取のサインお願いします」とのこと。時計をみると午後七時半頃だ。今頃緊急電? 不吉な予感が心をよぎる。急いで帰庁し、ICPO(国際警察機構、インターポール)の電報を一見したとたん、私は顔から血の気が引く思いがした。
「朴夫人死亡。この殺人事件に使用された拳銃の型式番号は次の通り。型式=スミス&ウェッソン(SW)製造番号四〇二五〇八」
私はベルを押して当直の課員を課長室に呼びつけて命令した。
「鑑識の当直に、先日大阪の交番で盗まれた拳銃の番号と型式をきくんだ。なぜきくのかときかれても理由はいうな。大至急だ」
待っている間、私は間違いであってくれと祈る思いだった。まさか、そんなバカなことが。もし文世光という犯人が犯行に用いた拳銃が日本警察の制式拳銃だとしたら、日韓関係は昨年の金大中事件ですでにメチャクチャなのに、今度は日本が悪いと大反攻に出て日韓国交は断絶だ。えらいことになってしまう。
ニード・トゥ・ノウ
間違いであってほしい。……鑑識の返事がきた。「大阪南署交番H巡査の盗まれた拳銃はSW。番号四〇二五〇八」
最悪の事態である。まさかと思った悪夢が現実のものとなった。その電報と鑑識課の答えのメモをもって私は歓送迎会の席に戻った。
ニード・トゥ・ノウの危機管理情報原則に基づいて、私は警備局長と警察庁長官を別室にいざなって事実をありのまま報告した。「ニード・トゥ・ノウ Need to Know」とは、「知る必要のある人に、知る必要のある情報を報告する」という原則だ。同時にそれは「知る必要のない人には知らせない」という情報保秘のルールでもあるのだ。
この種の事件報告は、「拙速」「一何の原則(何が起きたのかだけでも入れる)」「聞き取りのまま(自分の意見や判断、憶測は一切加えない)」「本当のいやな事実を勇気をもって上司にそのまま報告する」というのが大事な心得だ。叱られることを恐れてありのまま全部いわずに黙っていると、上司をミスリードし、楽観的にさせ、希望的観測に傾き、結局大きな判断ミスをさせてしまう。上司はまた、「悪い報告をした部下をほめよ、悪い報告をしなかった部下を罰せよ」という、五世紀に七十万騎馬軍団を率いてユーラシア大陸を席巻したフン族(匈奴)の大魔王アッチラが残した教訓を実践しないといけない。
腕組みをし、目を閉じて黙って報告をきいていた高橋幹夫警察庁長官は、暫くそのまま沈思黙考していたが、目を開けると開口一番「オレが責任をとって辞める。昨年金大中事件のとき辞めようと思ったが、君らが警察に非はありません、辞めないでくださいといってオレを守って頑張ってくれたんで辞めるのをやめた。だが今度はいかん。日本の警察官の拳銃が暗殺に使われたとなると事は重大だ。これから先、日韓関係は大荒れだ。オレが辞めたぐらいじゃおさまらんかも知れんが……」
とキッパリ言い切った。
私は「これが男の引き際だな」と感じ入った。
七四年の能率手帳の八月十五日の欄の夜の部には「朴夫人死亡。韓国で反日デモ。日本人、在日韓国人出国差止め。ICPOに重大電報。七/十八大阪府警南署H巡査の拳銃SW四〇二五〇八が犯行に。長官辞意」とメモされている。
十五日の夜、問題が持ち上がった。人事異動に伴う指揮権と責任は、いつ後任者に引き継がれるのかという大切な問題である。権限と責任は厳密に引き継がれ、いやしくも指揮権と責任体制に空白が生じるようなことは警察では許されない。だが、明十六日発令の内示は受けたものの、それは十六日午前零時なのか、それとも辞令交付を受ける午前十時に交代となるのか、あまり前例のない事態なので誰も知らないのだ。人事課にきいても「さあ?」とあいまいな返事。それでは午前零時からどうせ徹夜になるのだから辞令交付まで後任の三島健二郎警視正とダブル配置なら文句ないだろうということになり、三島新課長と連絡をとった。彼も警視庁公安部の歓送迎会に出席して不在だったが、やがて電話が入った。
「後任を命ぜられました。どうぞよろしく」と挨拶。
「うん、すまんがすぐ出勤してくれないか」
「それはまた、どうして? 何かあったんですか」
「電話ではいえない。すぐ来てくれ」
炎暑の真夏、八月十五日のことだ。夜中になっても熱気がたちこめ、おまけに昭和四十九年は石油ショックの年で省エネときている。
人事院ビルの管理権は“平和官庁”の人事院にあって、“危機管理官庁”の警察庁にはない。勤務時間終了後は冷房は切れ、エレベーターは運転停止。まるで蒸風呂のような警察庁五階の警備局の指揮所まで、後任者は地下室(一階はシャッターがおりている)から汗びっしょりになって昇ってこなくてはならない。やがて息をはずませ、汗だくのわが後任殿が姿を現した。
「何事です、一体、こんな夜中に」
腕時計をみつめながら私はいった。
「五、四、三、二、一秒、よし、午前零時。いまから君の仕事だ」
*
刻々と入ってくる韓国側の取調べ状況によると、反省させられる教訓が多々あった。まず大阪の交番で拳銃を盗んだときの状況は、立番の警察官はおらず、二人は休憩室で鼾をかいて熟睡していたそうだ。脇に帯革に差したままの拳銃が見えたので、ベルトの先をつかんでそっと引っ張ったところ、芋づる式に二挺の拳銃がからみあった帯革と共にズルズルと畳を滑ってこっちへきたという。文世光はその盗んだ二挺の拳銃を帯革ごとアパートの屋根裏に隠しておいたそうだ。後からこの供述に基づいて大阪府警が文世光のアパートの屋根裏を捜索したところ、供述どおり帯革二本と、もう一挺のSW拳銃が出てきた。
「光復節」祝賀会場に赴く日の朝、文世光はタキシードを着用に及び、ホテルで大型黒塗りのリムジンを呼んだ。黒の制服・制帽を着用した運転手付きのリムジンに乗って会場に到着した文世光は、受付の人たちや警備の制私服の大勢の警察官たちが見守るなかで、運転席を降りた運転手が後部座席のドアを開けてうやうやしく頭を下げるのを待って、堂々とゆっくり車から降り、皆に見えるように一万ウォンの紙幣をチップとして運転手に手渡した。思いもよらない高額のチップをもらって三拝九拝する運転手を尻目に、文世光は落ちつき払って会場内に足を運んだ。
大型黒塗りリムジン。黒ずくめの制服制帽のお抱え運転手。堂々たる礼装、一万ウォンのチップ。こうした道具だてが受付や警備陣を遠慮させ、これは相当偉い人だと頭から思い込まされてしまった彼らは、誰も凶器の有無をボディ・チェックしなかった。
こうして文世光は、ノー・チェックで会場に入り、演壇前、最前列に陣取って狙撃のチャンスを待ったという。
これが戦訓となって、日本の警護・警衛に際してはたとえ見かけがどんなに偉そうな正装であっても、国会議員バッチをつけていても、必ず身分確認をし、招待状などの提示を求め、事前からの約束ごととなっている車のステッカー、胸をかざる造花、名札、リボンなどを点検し、できれば空港にあるハイジャック防止用の金属探知ゲートを通らせるなどして、拳銃・ナイフなど暗殺用の凶器携帯の有無をチェックする、イベントなどの会場警備のセキュリティ・チェックが確立するのである。
しかし、それにしてもなぜ、日本警察の制式拳銃を交番で盗むといったリスクの大きい方法で武器の入手を図ったのだろう。大阪なら暴力団や麻薬密売組織などアンダーグラウンドの世界で、金さえあれば拳銃など容易に調達できる筈だ。それをわざわざ警察官の拳銃を盗み、それを朴大統領暗殺未遂に用いたということは、なにか陰謀の陰湿な匂いがする。日韓関係は一年前の金大中事件でさなきだにささくれだち、とげとげしくなっていた。日韓関係の離間工作として、それは極めて効果的だった。
事態は高橋長官の引責辞職ではおさまらなかった。ソウル市民は激昂して街頭に溢れ、日本大使館に向け大抗議デモを始めた。
一九六七年八月八日の金大中氏事件では一寸後ろめたい気分もあってか、目をあわさないようにし、ひたすら低姿勢で事態の鎮静化を待っていた感じの韓国政府や治安当局は、文世光事件で一転して高姿勢になり、烈しく日本政府の対北朝鮮破壊工作に対する取締りの手ぬるさを非難し、謝罪を求め、日韓関係はまさに国交断絶寸前という険悪な情勢になった。
八月十九日、田中角栄総理は訪韓し、陸英修大統領夫人の葬儀に参列し、朴大統領と会見して深甚な弔意を表した。
九月二日、金東祚韓国外相は、今回の事件は北傀の陰謀による在日朝鮮総連(北系の在日朝鮮人の団体)の仕業であると、朝鮮総連を名指しで非難し、日本政府に反韓国分子の制圧を要求した。さらに九月九日には大物特使の派遣と田中総理の親書による公式の謝罪を要求した。そして韓国内の反日運動は異常なたかまりをみせ、九月十日にはデモ隊が日本大使館に乱入し、日の丸を引き降ろす事件にまで発展した。
事件の真相とは?
九月十九日、日本政府は椎名悦三郎自民党副総裁・元外相を特使として韓国に派遣し、田中親書とともに朝鮮総連を取り締まる旨を記載した補足メモを伝達し、一応文世光事件は外交的決着をみた。
もしこの事件が、韓国の主張するように北朝鮮の日韓離間の陰謀だとすれば、それはまさに絶大な効果をもって成功裡に敢行されたといえよう。
犯人の文世光は、一九七四年十二月二十日に死刑執行された。事件発生からわずか四か月と五日のスピード裁判だった。
果たして北朝鮮の暗殺工作だったのか、あるいは北朝鮮が反論するように、南の権力闘争の陰謀による“自作自演”だったのか、犯人の文世光があまりにもはやばやと死刑執行されたことはいささか疑問が残る。
しかし、真実を知るたった一人の歴史上の証人、文世光がこの世の人でない以上、文世光事件もまた、謎として後世に伝えられることだろう。
*
北朝鮮が、なにか事件が起きるたびに黒幕ではないかという疑いをかけられるには、それだけの情況証拠がある。
たとえば昭和四十九年(一九七四年)一月三十一日、日本赤軍二人とアラブゲリラ・PFLP二人の連合テロチームが、シンガポールのブクム島にあるシェル石油会社の巨大な貯油タンクを爆破しようとして失敗し、シェル石油のフェリーボート「ラジュ号」をマレーシア人船員八人を人質にしてシー・ジャックし、シンガポール港に碇泊、立て籠った事件が起きた。高橋警察庁長官の特命で、とるものもとりあえず警視庁大高時男警備課長と二人でシンガポールに急行し、現地で警察庁出向小田垣祥一郎香港領事と合流して、シンガポール駐在の魚本藤吉郎大使を助けて犯人との交渉、シンガポール治安当局との捜査協力など事件解決に腐心した。この事件は本書の主題ではないので詳しい話はまた別の稿に譲るが、この事件のポイント、すなわち本書の「国際テロ、スパイとの戦い」の北朝鮮がらみの話をすると、シンガポール当局が亡命を希望するなら当該国大使館名にマルをつけて返せとメモを差し入れたところ、戻ってきたメモに列挙されたシンガポール駐在の各国大使館・領事館のリストの中で「朝鮮民主主義人民共和国」の大使館の上にハッキリ丸印がつけてあって、ああ、やっぱりと思ったことを覚えている。
なお電話の交信は日本語を使わず、すべて英語だったが、英語で「ネヴァー・トゥ・トウキョウ」と答えたのが印象的だった。
国際テロ・暗殺・ハイジャック事件の蔭には、このようにいつも北朝鮮が見え隠れしていたのである。
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全斗煥危機一髪
ビルマ政府「北朝鮮の犯行」と断定
一九八三年(昭和五十八年)十月九日、ビルマ(現・ミャンマー)の首都ラングーンのアウンサン殉難者廟で、折から同国を訪問中だった韓国の全斗煥大統領暗殺未遂事件が起きた。
この日、全斗煥大統領はラングーンの国立墓地にあるアウンサン殉難者廟の参拝を予定していた。午前十時二十五分廟内に仕掛けられた強力な爆弾が、同大統領が到着する直前に爆発した。
廟内で大統領の到着を待っていた韓国の要人たち、徐錫俊副首相兼経済企画院長官、李範錫外相、徐相資源相ら十七人と、ビルマ高官四人が爆死、両国あわせて四十八人が重軽傷を負ったのである。全斗煥大統領は危うく難を逃れた。一説によると、警察の不手際で警護車列が交通渋滞にひっかかって予定の時間に遅れたことが幸いしたという。
もしも日本だったら、予定時刻どおり分秒たがわず車列を進行させるから、大統領も殉難しただろうなどと日本警察内部で囁かれたものだった。
同日午後韓国政府は、この事件は「北傀」(北朝鮮を指す)の仕業であると公表した。ところが北朝鮮も「これは韓国の陰謀である」と直ちに反論した。だが、事件処理にあたったビルマ政府は十月十一日、犯人の朝鮮人一人を射殺、二人を逮捕したと発表したのである。
北朝鮮は翌十二日関与を否定したが、ビルマ政府は十一月四日に至って捜査の結果犯人二人は「北朝鮮の工作員」であると断定し、犯人は北朝鮮人民軍の特殊部隊の正規将校であるジン・モ少佐とカン・ミンチョル大尉であると、全世界に向かって公表した。
ビルマ政府は当時どちらかというと東寄りとされていた。北朝鮮とも外交関係をもっていたが、事件の約一か月後の十一月四日、事件は北朝鮮工作員の犯行と断定し、北朝鮮との国交断絶を宣言した。ビルマ特別法廷は十二月九日ジン・モ少佐とカン・ミンチョル大尉に死刑判決を下した。この判決は翌年二月最高裁判所判決によって確定した。
なおジン・モ少佐は四月十日処刑された由だが、カン・ミンチョル大尉は後日、罪一等を減じられ、無期懲役となったといわれる。
この事件当時、私は防衛庁の官房長だった。航空幕僚監部の内話によると、アウンサン廟事件後、全斗煥大統領を乗せた特別機は、米軍の戦闘機の護衛つきで帰国の途につき、「北傀」の犯行ときいて激昂した韓国空軍の意気込みは凄まじく、航空自衛隊のレーダーには、大統領特別機を、起こるかも知れない北朝鮮空軍による攻撃から守るための三十数機のF5戦闘機の機影が映ったということだった。
何のためにそんな非道なことを……と人はいう。何のためだか誰にもよくわからないところに北朝鮮の不気味さがあるのだ。
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大韓航空機爆破事件
まさか重信房子では
「どうも犯人は日本人のようです。日本の旅券を持っていたそうで……。えらいことになりましたな」
「日本赤軍か? ソウル・オリンピック粉砕を唱えて動き出しているようだからな」
昭和六十二年(一九八七年)十一月二十九日の夕方のことである。
永田町・総理府ビル六階の内閣安全保障室は緊張に包まれた。私は当時、昭和六十一年七月一日に、内閣の危機管理中枢として新設された内閣安全保障室の初代室長だった。
その日、イラクのバクダッド発ソウル行きの大韓航空ボーイング707型機がビルマ(現・ミャンマー)沖のインド洋上空で突然爆破され、空中分解し、バラバラになって墜落した。
一九七七年九月二十八日のダッカ・ハイジャック事件以後鳴りを静めていた海外日本赤軍が、ソウル・オリンピックを断固阻止すると呼号して行動をしはじめたとの不穏情報が流れた。
昭和四十五年(一九七〇年)三月三十一日、日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮のピョンヤンに亡命した赤軍派田宮高麿以下九人のうち数人が、中東や東欧各地に出没しているとの情報もあった。同じ頃、赤軍派の内部抗争から身の危険を感じた女闘士重信房子が奥平純三と偽装結婚して、PFLPアラブゲリラに合流したという情報を得ていたので、大韓航空機爆破事件直後、「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」という日本人名義の旅券をもった男女が、途中の寄港地アブダビで降りたことから疑惑が集中し、バーレーンの公安当局に身柄を拘束されているという報告なのである。まさか「蜂谷真由美」と名乗る日本女性は、赤軍の女闘士、テルアビブ・ロッド空港乱射事件の黒幕でテロの女王・重信房子ではないだろうな。すると男は奥平純三か? もし日本人だとすれば日韓関係は最悪の事態に陥るだろう。
公安当局がとっさに「まさか重信ではないだろうな」と緊張したのも、無理のないことだった。
なぜかといえば、この事件五日前の十一月二十四日、日本赤軍の丸岡修(37)がこっそり日本に舞い戻って潜伏していたのが見つかって逮捕されたばかりだった。丸岡修は海外日本赤軍のコマンドの中心人物の幹部で、昭和四十七年(一九七二年)五月に起きたイスラエル第二の都市テルアビブ・ロッド空港乱射事件や、昭和五十二年(一九七七年)九月のダッカ空港日航機ハイジャック事件に加わったとして、殺人、航空機強取、不法逮捕監禁容疑で指名手配されていた凶悪犯だった。罪名は旅券法違反。七月に偽造旅券を取得した際に名義貸しをした沖縄県のレストラン調理師(34)と、丸岡とその調理師の仲介をした同県の飲食店経営者(45)も旅券法違反の共犯として警視庁公安部に逮捕された。
一九八六年十一月十五日には、フィリピンの首都マニラで三井物産マニラ支店長若王子信行さん(52)がゴルフ場を出たところを武装した五人組に襲われ、誘拐されて、巨額の身代金を要求されるという、いわゆる「若王子事件」が起き、内閣安全保障室も外務省領事移住部ともども陰で大変多忙な思いをしたが、後日この事件には日本赤軍ダッカ事件で超法規で釈放された殺人犯・泉水博が関わっていた疑いが持たれている。
また、一九八七年六月にはイタリアのベネツィア・サミット会期中にローマのアメリカ・イギリス大使館で起きた爆弾事件で、イタリア警察は日本赤軍の奥平純三(38)と城崎勉(39)が犯人と断定、逮捕状をとっている。
この頃、北朝鮮の国際テロ支援活動が活発化していた証拠はまだある。
一九八三年十一月十七日、韓国国防相スポークスマンは、北朝鮮が三八度線の休戦ラインの対南拡声器放送を通じて「金日成主席が銃撃戦で死亡した」と放送した旨発表した。かねてから金日成・金正日父子の革命路線のちがいから不和が伝えられていた折から、世界中がすわ金正日が金日成を暗殺したのでは? と大騒ぎになったことがある。このニュースは十一月十八日、金日成主席がモンゴルのパトムンフ人民革命党書記長出迎えのため平壌空港に姿を現したことから大誤報であったことが明らかになった。
とはいえ、どうも北朝鮮の国内で何らかの政治的権力闘争が行われており、超過激派の金正日書記が開放路線を歩み始めた父親の金日成主席に反抗して、国際テロリストへの支援を強化しはじめたとの見方が有力となった。
「よど号」ハイジャック犯逮捕
さらに、昭和六十三年(一九八八年)五月六日、日航機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮に亡命し、その政治的庇護を受けていた日本赤軍派九人のうち、当時最年少十七歳の高校生だった柴田泰弘(34)が東京・新宿で兵庫県警外事課員と伊丹警察署員に旅券法違反容疑で逮捕された。柴田泰弘は偽造旅券で日本に潜入し、国内滞在中フランス、イギリスなどへ三回も出入国していたことが判明、後日警視庁に「よど号」ハイジャック事件指名手配犯として再逮捕された。
「よど号」事件関係者で、しかも北朝鮮の政治庇護を受けてかの地に潜伏していると信じられた柴田が日本にいたことは日本警察にとってショックだった。「よど号」事件の犯人が日本で逮捕されたのは柴田が初めてだったが、出入国管理の厳しい鎖国状態の共産主義・全体主義国である北朝鮮に亡命しているハイジャック犯人が、同国政府の承認と協力なしに日本に潜入してくることはあり得ないことだ。前年の丸岡修逮捕ともども、公安当局はソウル・オリンピック妨害など国際テロ活動を北朝鮮が国家として支援していることの証左だったといえよう。
なお一九八八年四月十四日には、イタリア・ナポリの米軍クラブで自動車に仕掛けられた爆弾で五人が死亡、十七人が負傷した。
イタリア司法当局は四月二十一日、この事件は日本赤軍の組織的計画的犯行であると断定、奥平純三(39)、最高指導者の重信房子(42)に対する逮捕状が発布された。
危機管理情報の要諦は「悪い情報は早く、よい情報はゆっくり」である。犯人の身元については未確認のままだが、小渕恵三官房長官に最悪に備えて「もしかすると重信・奥平かも知れません」と報告した。
アメリカとイギリスの大使館に常駐する情報官に情報の確認を大至急依頼すると、やがてアメリカから返事がきた。それによるとバーレーンのスペシャル・ブランチ(公安部)の部長はアンダーソンという英国人で、その話だと「蜂谷真由美」と名乗る女性が所持していた日本国旅券は男性用の符号とナンバーのもので偽造の容疑があるので身柄を拘束した。ところが蜂谷真一と真由美の二人は取調べ中に隙をみて服毒自殺を図り、男は死亡したが、女は口中に入れたカプセルを口をこじあけてとりあげたことから自殺未遂に終わった。
カプセルの中身は青酸カリらしい……という。被害国である韓国の大使館員が公安部に強引かつ執拗に身柄の引渡しを迫っているそうで、アンダーソン氏は旅券法違反は明白であるので日本政府の捜査権が優先するのではないか。韓国側の主張する大韓航空機爆破事件の犯人で国家保安法違反という意見には今のところ証拠がない。きくところによると韓国KCIAは自白を得るのに指の爪を一本一本剥ぐといった“サード・デグリー”(拷問)を加えるそうだから、人権尊重の観点から韓国に引き渡すのは躊躇される。とりあえず日本側に引渡し、あとで日韓で交渉してもらったらどうかと考えている。だが今までの取調べでは犯人は一人はどうも朝鮮人らしい。女の方は流暢に日本語をしゃべるが男の方は日本語は通じないようだ。……といっているという。
「……で、日本、どうする? 私は韓国も兼務しているから仲介の労をとるのにやぶさかでないが、まずバーレーンに何と答えるか、至急回答がほしい」とアメリカ大使館の私のカウンター・パートはいう。
この犯人たちが重信房子、奥平純三でないことがわかって一安心したが、一難去ってまた一難。身柄引取りについてどう考えるべきか? 私はとっさに決断した。オリンピック警備という大きな課題を抱えており、しかもナショナル・フライトである大韓航空機を爆破され、多数の自国民の命を奪われた韓国が優先捜査権を主張するのはよくわかる。どうも今までの情報では日本旅券は偽造で犯人は朝鮮人の公算大だという。たしかに旅券法違反は明らかで日本に優先捜査権はあるが、どうも微罪だ。この際、金大中事件以来絶交状態の日韓捜査機関の関係をオリンピック警備協力の方向で改善するには、犯人の身柄を韓国に譲った方が賢明ではないか?
優先順位はどちらに
折からアメリカ国務省ポール・ブレーマー大使の仲介で、また警察庁派遣のソウル駐在官として四年間在ソウル日本大使館に勤務し、韓国語が堪能で、韓国治安当局と友好関係を保っている警察庁の石附弘警視正の斡旋で、ソウル・オリンピックを成功させるため金大中事件のわだかまりを一時棚上げして日韓協力し合おうと韓国側と話し合ったばかりだった。韓国側は金大中事件の捜査にあたった日本警察庁警備局の外事課長だった私に大変気を遣い、韓国側からアメリカのカウンター・パートと石附警視正とに仲直りの仲裁を頼んできたようだった。
この種の捜査管轄権の優先順位の問題がどんなに厄介な紛議をよぶか、私は多年の経験から熟知していた。連合赤軍「あさま山荘事件」のときに警察庁・警視庁・長野県警・群馬県警の間に起きた葛藤がどんなに根深いものだったかを知る私は、この大韓航空機爆破事件を関係省庁間の、あるいは日韓間の会議、協議にかけたら一体どんなことになるのか、よく承知していた。恐らく幕末に起きた生麦事件の際の幕閣のように「評定に次ぐ評定」、まさに「会スレド議セズ、議スレド決セズ、決スレド行ワズ」の小田原評定となり(『生麦事件』吉村昭著、新潮社刊)、何か方針が決まるとしても大変時間がかかることだろう。事は急を要する。私は小渕官房長官に報告し、意見具申し、指揮伺いをして、竹下総理の政治決断を仰いで「トップ・ダウン」「拙速」、そして責任を負う覚悟で危機管理型の対処をする決心をした。
早速小渕官房長官に(1)パスポートは偽造(2)犯人は朝鮮人らしい(3)捜査権の優先順位は事の軽重で判断すべし(4)旅券法違反で日本に引き渡されてもこの種の国際重大事件の危機管理のためには日本の政治行政は脆弱。韓国の身柄引渡し要求は必至(5)テロリストたちの奪還作戦・左翼シンパグループの釈放要求、韓国への身柄引渡し反対闘争(6)本体の爆破事件の捜査取調べ能力不足、刑事訴訟法令上の時間の制約などなどの理由をあげて、この際バーレーンと韓国には「日本は優先捜査権があるが事の重大性に鑑み譲歩する」と通告しましょうと意見具申した。
小渕官房長官は「もしもバーレーン当局が心配しとるように人権侵害の拷問が行われるとすると国際世論の非難を受けることになるな。そこのところは一体どうする」との仰せ。いつもの口答試問、テストなのである。
「韓国側にアメリカを通じて条件をつけましょう。サード・デグリーはやらないと約束させるという条件を守らせるのです。そうすればバーレーン当局も納得するし、人権も守られるでしょう」
「ようし、わかった。それでやってくれ。アメリカにようく念を押してな。人権侵害のないように」と小渕長官。
官邸の政治判断は下った。私は私の責任で独断専行、回答を待ちわびているアメリカのカウンター・パートに官房長官の意向を伝えた。
*
こうして「蜂谷真由美」の身柄は韓国に引き渡され、十二月十五日厳重な警戒の下、ソウルに身柄移送された。
金浦空港到着の際のテレビ中継の映像を、私は重大な関心をもって見つめていた。犯人「蜂谷真由美」は舌を噛んで自殺しないよう分厚い猿轡をかまされ、手錠をかけた手首にはタオルが巻いてあり、女性看守にはさまれてタラップを一段一段降りてくる。遠目で見た限りでは顔面に殴られたあともなく、今までのところ約束は守られているようだ。
何日か経ってから、例のアメリカの友人から電話がかかってきた。笑いを含んだ声で「韓国KCIAは約束を守っているよ。独房に入れているが居住条件をよくし、サード・デグリーは一切やらずに優しく諭しているようだ。食事などの待遇もよいそうだ。例のイソップ物語に旅人のマントを脱がせる“北風と太陽”の話があるだろう。KCIAは“太陽”を選んでやっているよ」と知らせてくれた。
やがて翌年「犯人はオチたよ。安心しろ、日本人じゃないよ。北朝鮮工作員だそうだ。金正日書記の直接の命令だったと供述しているそうだよ」との情報をいれてくれた。
北風と太陽
こうして日韓米共同の捜査が始まった。十二月五日、服毒自殺を遂げた男は、指紋照合の結果から旅券の名義人である「宮本明」(本名・李京雨)ではなく別人と判明した。男女とも指紋照合の結果、日韓両国の前歴者に該当者なしとの回答。
日韓合同の捜査の結果、「蜂谷真由美」が自殺を図って取調官に吐き出さされたカプセルの内容は青酸カリで、奇しくも一九八三年(昭和五十八年)十月九日、ラングーン事件の犯人だった北朝鮮特殊部隊の将校が携行していたカプセルと同じ成分のものだという。
十二月七日、小渕官房長官は身柄の引渡しを要求しないとの談話を発表した。
十二月八日、事情聴取にあたった日本大使館員に対し、その女性は「私は日本人ではない」と語った。韓国紙は「女は中国黒龍江省の出身」と報じたが、日本政府首脳は「蜂谷真一」は以前マレーシア北朝鮮大使館に勤務していた二等書記官であるとの確度の高い情報を得ていると表明した。
十二月十五日、「蜂谷真由美」の身柄と「蜂谷真一」の遺体とが特別機で韓国に移送された。
*
日米両国の申入れを了承した韓国当局は、「旅人のマントを脱がす北風と太陽」の太陽の手法を選び、徐々に供述を引き出し、翌一九八八年(昭和六十三年)一月十五日、「蜂谷真由美」は朝鮮労働党中央委員会調査部所属の特殊工作員「|金賢姫《キムヒヨンヒ》」(25)であると発表し、捜査の結果、この事件は北朝鮮の金正日書記の指令に基づく、ソウル・オリンピック妨害のための爆弾テロであると断定した。
一九八八年九月十七日からソウルで開催された第二十四回夏期オリンピック大会は、韓国が国家の威信をかけて、まさに国家的事業ともいえる大会であった。この大会に参加した国と地域は百六十、参加人数は約一万四千五百人、規模、内容と共にそれまでのロスアンゼルス大会をはるかに超す史上最大の大会となり、韓国に諸々の波及効果をもたらした。
オリンピックを跳躍台として韓国が発展を遂げることを妨げるため、世界諸国民が韓国の治安は悪く、大韓航空機に乗ると危険であるとしてオリンピック参加や韓国への渡航をひかえるようになり、オリンピックが不成功に終わることを狙って企画した国家的テロ行為であるというのが韓国政府の公式見解だった。
死亡した男性は金勝一(69)と判明した。一九九〇年(平成二年)三月、金賢姫は大法院(最高裁)で死刑が確定するが、翌月韓国政府は金賢姫は事件の唯一の生き証人であり、真犯人は北朝鮮当局そのものであるとして、彼女の刑を免除した。
しかし、北朝鮮側は事件を「南の自作自演である」として関与を否定している。
なお、捜査の過程で、金賢姫の日本語の先生で“|李恩恵《リウネ》”と名乗る日本女性がいて、彼女は日本から北朝鮮に拉致された女性であることが明らかにされ、そこから次の第八話で語る日本人拉致事件、とくに「李恩恵」問題が日本と北朝鮮の関係の喉に刺さった骨となって今日に及ぶのである。
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偽ドルまで造る北朝鮮
判明した“李恩恵”の身元
平成九年(一九九七年)五月、大韓航空機爆破事件の犯人・金賢姫の日本語の先生だった、日本から拉致された“李恩恵”の身元について、埼玉県警は「埼玉県出身の女性である可能性が高い」として、その三年二か月の捜査の結果を明らかにした。その女性の父は二十五年前に死亡し、母は佐渡出身で、兄と姉も複数いることを示唆した。埼玉県警は県内五百四十の小中学校を調査する一方、七万六千枚のポスターを貼り出すなど情報収集につとめた結果、一人の女性が浮かび上がってきたという。新聞報道では“李恩恵”は、東京都豊島区内に住んでいて、七八年六月に行方不明になった田口八重子さんだと言われている。北京で行われていた日朝国交正常化の第三回政府間交渉で、日本側は「日本警察は調査の結果“李恩恵”をほぼ特定した。北朝鮮はその調査をしてほしい」と迫ったが、北朝鮮側はこれに強く反発して「ありもしない日本人女性の問題を持ち出して会談の秩序を破壊し、共和国政府を国際的に信用できない国であると宣伝するたくらみである」としてこれを断固拒否し、日朝会談は暗礁にのりあげた。
以前から海岸地帯で謎の失踪事件が起こり、次第に北朝鮮工作員による拉致事件の疑いが濃厚になってきたのは、昭和五十年(一九七五年)頃からだった。
警察当局が拉致事件第一号とみているのは、昭和五十二年(一九七七年)九月の|宇出津《うしつ》事件である。被害者は東京都・保谷市在住の三鷹市役所警備員久米豊さん(51)だ。拉致したのは田無市の在日朝鮮人二世。北朝鮮からの指令で拉致を計画し、密貿易のもうけ話で誘って久米さんを石川県能登半島の宇出津海岸に連れ出し、戸籍謄本二通とともに工作船に送り込んだ。久米さんの行方は今もわからない。
世間の注目を集めたのは五十三年の夏、日本海沿岸と九州の海岸で、当時二十歳から二十四歳の若いアベックが三組、続けて蒸発したときだった。
七月七日、福井県小浜市で婚約中の大工見習い地村保志さんと衣料品店店員浜本富貴恵さんが謎の失踪を遂げた。
七月三十一日には新潟県柏崎市で中大生蓮池薫さんと美容師奥土祐木子さんが突然行方不明となった。
八月十二日、鹿児島県吹上町で電電公社(現・NTT)職員の市川修一さんと会社員増元るみ子さんが蒸発した。
これら三件のミステリーに解決の糸口を与えたのが、八月十五日富山県高岡市の海岸で起きた拉致未遂事件である。婚約中の会社員Aさん(27)と家事手伝いのB子さん(20)が海水浴をしていたところ、海岸にいたステテコ姿の六人の男に襲われた。二人は手錠に猿轡、ひもで縛られた上、袋に入れられて浜に横たえられていた。しかし、人と犬の気配で男たちは逃げ、B子さんは袋から逃げ出し、Aさんは兎跳びで民家に逃げ込んで奇跡的に助かった。六人の男たちは遺留品や話し方で日本人ではなく、他の三組のアベックも彼ら北朝鮮工作員に拉致されたものと推定された。
なぜ五十歳台の男と二十歳台の女性なのか。その謎は宇出津海岸・久米豊さん事件の犯人の朝鮮人二世の供述によって解きあかされた。犯人は北朝鮮から「五十二、三歳の身寄りのない男を拉致せよ。頭脳の程度は問わない」という不可解な指令を受けたという。また韓国で発覚した日本人拉致事件の犯人は「独身で前科のない五十歳台の男と、二十歳台の未婚女性を物色して北朝鮮に拉致せよ」との指令を受けていたという。
昭和五十五年(一九八〇年)には拉致グループの主犯辛光沫が、本国の指令は(1)独身で身寄りのない者(2)旅券の発布を受けたことがなく顔写真を官庁に提出したことのない者(3)銀行取引や金銭貸借のない者(4)長期間行方不明になっても問題にならない者(5)四十五歳から五十歳の日本で活動できる男――の拉致を命ずるものだったという。
どうも日本に潜入した北朝鮮工作員が完全に日本人に化けるには、戸籍謄本ごと実在の日本人を消してしまってその人になりすますのが有利との判断で、当面の工作目的にあった年齢の男女を拉致していくものと推定される。
やがて、二十年前の昭和五十二年(一九七七年)十一月十五日、新潟市の日本海に近い市街地に住む、日本銀行新潟支店勤務の銀行員を父に持つ市立寄居中学校一年生だった横田めぐみさん(13)が下校の途中消息を絶った。直ちに新潟中央署に捜索願いがだされたが、横田めぐみさんの行方は杳として不明だった。ところが二十年経った今日、韓国に亡命した北朝鮮工作員が、横田めぐみさんは北朝鮮に拉致され、生存していると証言したことから、日本人拉致問題は再び日朝交渉の重要案件として再浮上したのである。
北朝鮮にやはりいた
平成九年(一九九七年)五月一日、警察庁の伊達興治警備局長は、参議院決算委員会で北朝鮮工作員による日本人拉致疑惑についての質問に答え、「一九七七年に新潟市で行方不明になった横田めぐみさんについても、これまでの捜査を総合的に判断した結果、拉致の疑いがある」との見解を明らかにした。また、同局長は「北朝鮮に拉致された疑いのある日本人は七件十人になった」とも答弁している。
平成十年(一九九八年)八月四日の朝日新聞は、北朝鮮の工作員で一九九五年韓国に亡命した|安明進《アンミヨンジン》(29)が八月三日東京都内で記者会見して、「工作員として教育を受けた金日成政治軍事大学で、十人から十二人の日本人の教官をみたが、当時は日本人が拉致されてくるのは当然のことと思っていたので、特に注目しなかった。教官の中にえくぼの印象的な若く美しい女性がいて、かつて実践活動をしていた生活指導教官が『新潟で拉致した』と語っていた。そしてこの教官が再度新潟に行ったとき、その子を探すポスターが貼られていたと話していたことから、めぐみさんだと思った」と語った旨報じている。
また、同じ生活指導教官が「北海道で電気製品の配達をしていた男性を友人が拉致した」と語っていた由だ。また、六十歳台の教官が「工作船が日本漁船に見られたので中学生くらいの子供を庇って抵抗した年長の男を射殺して、乗っていた日本人を連れてきた」と語った。その場所は「ノト」とか「トノ」という半島か湾の近くだといっていた。後に昭和六十三年に石川県沖で叔父たちと出漁中に行方不明になり、現在は北朝鮮にいる寺越武志さん(当時十三歳)の話に似ていると気が付いたと語っている。
さらに安氏の話によると「日本人の男性教官から煙草をもらったことがある。この男性は鹿児島県の海岸付近で七八年に行方不明になったアベックの一人、市川修一さん(当時二十三歳)の写真に髪の分けかたがよく似ていた。その教官は『あなたたちのために私はここにきた』と話した」という。拉致した理由について安氏は「金正日氏が対南工作の総点検をして現地人化教育の徹底を指示したことがきっかけで、七〇年代半ばに始まった……と大学の講義で教わった」と説明した……と朝日新聞は報じている。
これらの証言を総合的に判断すると、この理不尽で目的不明、わけのわからない非人道的な拉致事件――拉致事件というと何となく聞こえはいいが、一言で言えば「人さらい」である――を陰で指揮命令していたのは、やっぱり金正日だったのかと思えてくる。
何の罪もないのに突然海岸で襲われ、縛られ、猿轡をかまされ、工作船で北朝鮮にさらわれていった十三歳の横田めぐみさんら、拉致事件の被害者たちの驚き、哀しみ、愛する子どもをさらわれた父母の嘆きに感情移入すると烈しい怒りがこみあげてくる。
日本政府はこれら拉致事件の背景に浮かび上がってくる謎の独裁者、沈黙のヒトラー崇拝者・金正日の顔を睨みつけ、今は諦めて日本語教官などで露命をつないで生きつづけている拉致された日本人たちを、不退転の決意で取り戻すため全力を尽くすべきだろう。
北朝鮮が拉致したのは日本人だけではなかった。一九七八年、四人ないし五人のレバノン女性が北朝鮮側に拉致され、ピョンヤンに連れて行かれた。レバノン外務省の儀典長がレバノン北朝鮮通商代表部に抗議し、その結果翌年秋までにすべての女性がレバノンに帰国した。
この事実をとらえて平成九年(一九九七年)参議院外交防衛委員会で二院クラブの佐藤道夫議員が、「レバノンができたことがなぜ日本にできないのか、拉致された邦人の日本送還を要求せよ。レバノンの女性らの拉致事件は事実か」と外務省に迫った。これに対し阿南惟茂・外務省アジア局長は関係者の追跡調査の結果、拉致はほぼ事実であると答弁した。
また小渕外務大臣(当時)は、「レバノン首相が訪日されたとき、どういう手段を講じて取り戻したか、お尋ねしてみたが、機密の問題なので詳しい話は得られなかった」と答弁している。
このほか、一九七八年一月、韓国のトップ女優・崔銀姫が香港のホテルから衣類や化粧道具も置いて姿を消し、半年後の七月には崔さんの夫で韓国を代表する映画監督・申相玉氏が、同じく香港のホテルから失踪した。六年後の一九八四年四月二日、韓国国家安全企画部は、「二人は拉致されて北にいる」と捜査結果を公表した。八年後の一九八六年五月十四日、二人は米国に亡命し、ボルチモアに姿を現して記者会見を行い、「事件は映画狂の金正日書記が仕組んだ誘拐劇」で北朝鮮の映画振興のために協力させられたものと、その真相を発表し、「映画よりも奇々怪々」と話し、大きなニュースとなったことも記憶に新しい。
*
もう一つ、見逃せない北朝鮮の対日有害工作がある。覚せい剤の密輸入である。
平成九年(一九九七年)四月十八日、宮崎県警生活保安課と日向警察署は日向市細島港に入港した北朝鮮船籍の貨物船「JISONG2号」(一、四九九トン)から五十八・六五キロ、末端価格で約百億円の覚せい剤を押収し、大阪市西成区の芦屋交易社長・李相守(45)と同副社長金昌弘の北朝鮮籍の二人を逮捕した。また船長のメン・ソン・チョル(50)も逮捕した。
この約五十九キロ、百億円相当の覚せい剤は、ブリキのはちみつ一斗缶十二個に隠されていたもので、門司税関管内では押収量、金額ともに過去最高だった。主輸入品は木材約二千本、六百二十一トンだったが、途中寄港した港がないことから北朝鮮の南浦港から直接密輸したものと推定された。
なお、船内を捜索したところ、無限乱数の暗号器が発見され、十七人の乗組員の中に北朝鮮スパイが少なくとも一名いるものとみて取り調べていた。
これまでは覚せい剤の密輸ルートは、台湾、韓国ルートが大部分であったが、最近中国福建省周辺で密造されたものが、九州の暴力団に流れている模様で、この北朝鮮からの五十八・六五キロの大量の覚せい剤密輸も暴力団がからんでおり、今後も福建省――北朝鮮ルートは警察の薬物密輸取締りの重要な対象となるだろう。
偽ドル造りも?
北朝鮮の対日、対外有害工作は通貨偽造にも及んでいる。
平成八年(一九九六年)三月二十五日、カンボジアで偽造米ドル紙幣、いわゆる「スーパーK」を大量に持って出国しようとした男が逮捕され、身柄はタイ警察当局に移送された。取調べの結果、犯人は「よど号事件」でピョンヤンに亡命した日本赤軍の「田中義三」(47)と名乗った。
田中義三は、昭和四十五年(一九七〇年)三月、日本赤軍田宮高麿ら八人とともに日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮のピョンヤンに飛び、乗員乗客百二十九人を解放した後北朝鮮当局に投降し、その政治庇護を受けて今日に至った指名手配犯人である。
この男はスワイエリン州で北朝鮮の大使館員三人と行動を共にしており、一緒に車で出国しようとしたところ数百万ドルの米ドル紙幣を所持していたことから偽アメリカドル犯人の疑いで逮捕されたものだった。
タイ警察は一九九七年六月六日、田中義三と行動を共にしていた児玉章吾と名乗る日本人を偽ドル使用犯として逮捕した。
アメリカ財務局シークレット・サービスもこの田中義三に重大な関心を示して現地に捜査官を派遣し、捜査を開始した。アメリカの法執行機関のおもしろさは、大統領護衛の機関として知名度の高い「シークレット・サービス」は司法省や内務省所属でなく、財務省に属していて、歴史を遡ると西部開拓時代のシークレット・サービスの任務は偽ドルの取締りだったということである。
大統領護衛はあとから派生してきた任務で、本業は偽金造りの捜査なのだ。シークレット・サービスのすぐ隣りの財務省の局は「麻薬・アルコール・銃器・カルト取締局」である。日本ではオウム真理教のようなカルト集団も宗教法人として、宗教法人法を所管する文部省(文化庁)が許認可権を持っているが、アメリカでは司法機関である財務省の一局が、なぜか麻薬、銃器、アルコールと一緒に所管している。アル・カポネを検挙したのも映画ではF・B・I(連邦捜査局)となっているが、実は密造アルコール、偽造通貨を取り締まっていたシークレット・サービスのエリオット・ネス捜査官が五万ドルの脱税でアル・カポネを逮捕したというのが実話である。
アメリカのシークレット・サービスは、田中が数百万ドルの米ドルを所持し、北朝鮮外交官の外交特権の傘の下に隠れて国境を越えようとした事実を重視し、製造元は北朝鮮の造幣局または印刷局という、きわめて高度の印刷技術をもつ国家機関ではないかとの疑いを抱いている。
偽造ドル紙幣が初めて発見されたのは一九九〇年だった。一九九四年に発見された精巧な偽造米ドルの総額は、なんと二億八百七十万ドル。その三分の二が海外で見つかっている。この巨額な米ドルの偽造に対抗して、一九九六年アメリカ財務省は百ドル紙幣のデザインを変え、偽造防止のハイテク技術による工夫を凝らした新札の発行に踏み切った。紙幣の表の肖像は同じベンジャミン・フランクリンだが、旧札とはハッキリ異なったデザインになっている。
北朝鮮の国際テロリストにテロ支援国家として供給するパスポートも、造幣局や印刷局など国家機関でなければできない精巧なものといわれ、偽ドル札の大量放出によってドルを基軸とする欧米、日本、東南アジア各国の通貨不安、通貨不信を狙う経済謀略工作である公算大で、偽造米ドル紙幣一掃のための国際司法協力が切に期待される。
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“嵐を呼ぶ男”
判明した“李恩恵”の身元
昭和四十九年(一九七四年)八月十六日から私は警備課長になったが、前年から引き続き捜査中の国際大事件、金大中氏誘拐事件の国会対策などがあって、直ちにハイさようならというわけにはいかなかったので、八月二十五日まで外事課長兼務のような形になった。
あとできくと警備課員は「“嵐を呼ぶ男”佐々課長がくる。忙しくなるぞ」とヒソヒソ囁き合っていたそうだ。
果せるかな八月三十日白昼、あの凄惨な爆弾テロ「三菱重工爆破事件」が起きたのである。昼すぎ、東京丸の内の三菱重工本社で、爆破予告電話の直後、強力な時限爆弾が玄関前で爆発、丸ビル街の窓ガラスという窓ガラスは粉々になって落下し、社員、通行人など八人が死亡、三百七十六人が重軽傷を負った。私も現場に臨場したが、その凄惨な光景は生涯忘れることは出来ないだろう。
そして犯人グループの「東アジア反日武装戦線」の「狼」「さそり」「大地の牙」と名乗る三グループのテロリストたちは、翌昭和五十年(一九七五年)五月十九日、佐々木規夫(26)、斎藤和(27)、浴田由紀子(27)、大道寺将司(26)、妻あや子(26)ら八人を逮捕するまでの九か月余の間に海外進出企業の三井物産・帝人・間組・大成建設・鹿島建設の各本社、間組大宮工場、韓国産業経済研究所、尼崎オリエンタル・メタル、間組江戸川作業所、横河工事の十一件と「連続企業爆破事件」を敢行し、警備課はその防止のための厳戒警備に忙殺されたのであった。
そして九月一日には台風十六号の影響で増水した多摩川の濁流が東京都狛江市付近で氾濫し、川岸の新興住宅地を激流が抉り、民家十八戸が流失。自衛隊が出動してコンクリートの防波突堤を破壊し、ようやく流れを変えて住宅流失を守るという災害警備がおこなわれた。
このあとも九月一日、原子力船「むつ」の放射能洩れに伴う大騒動が起こり、警察庁は「むつ」の定けい港、青森県むつ市の漁民の反対闘争の警備など、神経を使う警備の日々だった。
九月十三日、日本赤軍の武装ゲリラ三人がオランダのハーグでフランス大使館を占拠、スナール大使ら十一人を人質に、パリのサンテ刑務所で服役中の「スズキ」の釈放と身代金三十万ドルを要求する事件が起きた。フランス政府はこの要求をのみ、日本赤軍の四人はオランダのスキポール空港からボーイング707でテロ支援国家シリアのダマスカスに亡命した。後日「スズキ」は山田義昭(25)、三人組の犯人たちは和光晴生(26)、奥平純三(25)、西川純(24)と判明した。山田と和光はシンガポール・シージャック事件の主犯である。
十一月十八日にはフォード米国大統領が訪日した。戦後米国大統領の訪日はこれが最初で、しかも反安保闘争や沖縄闘争が続いている最中だったので、動員三万人規模の大警備陣が敷かれ、私はその全般の企画立案・調整・総合指揮にあたった。
その大警備を終えたその日に起きたのが、兵庫県八鹿町で起きた八鹿高校教師に対する父兄の集団リンチ事件に端を発し、日共と部落解放同盟の大集団抗争事件に発展した「八鹿高校事件」である。民青一万の黄色ヘルと部落解放同盟一万二千の白・赤・青・緑と、色とりどりのヘルとが人口一万二千人の八鹿町で対峙、武闘に及ぶという前代未聞の事件で、国会では社会党と共産党が激突し、いずれも警察庁に相手方の厳重取り締りを要求するという政治闘争と化し、各地で両派の抗議集会が開かれるという大騒動の警備となった。
和・洋クライシス・マネージャーたちの顕彰制度
昭和四十九年十一月のフォード米国大統領訪日に際しての警備・警護では、私は同大統領からその労に対し親しく握手する機会を得、サイン入りの肖像写真と壁飾り用の絵皿セットをいただいた。
さらにそのわずか六か月後の翌五十年(一九七五年)五月、英国エリザベス女王が訪日し、これは世紀の大親善行事となった。警備・警護についてはソフトだが入念な指揮をとり、私はエリザベス女王に謁見し、親授ではなかったが後日サー・フレッド・ウォーナー英国大使から、軍人・警察官に与えられるナイトに次ぐ栄誉のCBE勲章(コマンダー・オブ・ザ・ブリティッシュ・エンパイア)を受勲した。
私にとっては生涯に二度と味わえない栄誉に輝いた半年だった。
欧米流の発想はこのように「信賞必罰」で、功績をあげたものには必ず勲章や感状や昇進が与えられる“メリット・システム”がクライシス・マネージャーに適用されている。欧米の国王や大統領が来日した場合、警備上苦労が多かった日本側の警備責任者は、一行の離日前必ず相手国の警備責任者に女王や大統領のところへ寸暇を盗んで案内され、握手や謁見を賜り、嘉祥慰労の言葉をかけられる。
私はそれまでに「東大安田講堂事件」、二回に及ぶ「四・二八国際反戦デー騒擾事件」おなじく三回に及ぶ「一〇・二一国際反戦デー闘争警備」など、あるいは幾多のスパイ事件検挙で、大阪府警外事課長の頃からチーム・リーダーとして二十件近い「警察庁長官賞」や「警視総監賞」の団体賞を受賞している。
しかし警察には、警視以上は個人表彰をしないという不文律がある。そればかりか、部下のミスによる失敗の監督責任や、組織防衛のための結果責任、これは人事記録に記載されて昇任・昇給や叙勲に影響するのだ。
だから私個人の人事記録に残っている「功績」は昭和三十年(一九五五年)目黒警察署警部補の頃の「放火犯人検挙」の功に対する警視総監賞だけで、団体賞受賞の記録は一切記載されておらず、自分には非のない監督責任や組織防衛の結果責任としての懲戒処分だけはちゃんと記載してある。誠に不公平なトラブル・シューターだった。
多分この発想は昔の武士道、騎士道の「功は部下に譲り、責めは己が負う」という「ノーブレス・オブリージ」の表れだと思うが、下手をすると嫉妬による足の引っ張りあいや、責めだけ負わされては出世の妨げと任務付与を逃げ、不作為に徹し、人事記録をクリーンにしておこうという事勿れ主義や責任回避につながるものでもある。
私は英米のカウンター・パートたちに、「貴官はあれだけ命を的に重大任務を果たし、国家に貢献しているのに、なぜ日本のデコレーション(勲章)もサイテイション(感状)もメダルもリボンもつけていないのか?」と不思議がられたものだ。
「それは七十歳まで生きるか、死ぬかしないと日本では勲章は貰えないからだ」と答えると、理解できずに首をふり、「貴官はそういう国のクライシス・マネージャーに生まれて気の毒だ。わが国なら貴官の胸は勲章やメダルで一杯だろう」と慰めてくれたものだ。生まれて初めて授与された英国CBE勲章はそれだけに心がしびれるほど嬉しかったのだ。
そして六月三日にはこんどは一転して佐藤栄作前総理の国民葬が行われた際、武道館の前で三木武夫総理が愛国党の筆保泰に襲われてノックアウトされ、警視庁警備部長らと共に私は訓戒処分という懲戒処分を受けた。禍福はあざなえる縄の如しとはまさにこの事である。
ひめゆりの塔・火炎ビン事件
昭和五十年七月十七日、「ひめゆりの塔・火炎ビン事件」が起きた。皇太子・同妃両殿下が沖縄海洋博覧会開会式に出席のため、戦後皇族として初めて反本土感情の強い沖縄に行啓されたとき、この事件が発生した。
沖縄解放同盟の過激派は、本土の過激派約二千人の応援を得て阻止闘争を展開、私は本土からの二千四百人の機動隊応援部隊の総指揮官として沖縄に赴いた。そして「ひめゆりの塔」にご参拝中の皇太子・同妃両殿下に対し、沖縄解放同盟の黒ヘル・知念功が火炎ビンを投擲したのだった。
そして昭和五十年八月四日、私は「ひめゆりの塔」事件の暗黙の責任を負わされて警備課長から三重県警察本部長へと転出することになった。三重県警本部長も警備上の重要ポストだった。
発令のわずか四十日後の九月十三日から三重県で開催される第三十回国体に、天皇・皇后両陛下、皇太子・同妃両殿下が三回延べ十四日間行幸・行啓されるからである。
反皇室闘争の火はまだ燃えさかっており、七月十七日の沖縄「ひめゆりの塔」事件でタブーが破られ、皇族への加害行為の模倣犯がでそうな空気のなかでの警衛警備である。私が受けた厳命は「二度と一発も火炎ビンを投げさすな」という、いうは易く行うは難い任務だった。
結論からいうと、九月十五日伊勢神宮内宮参拝を終えて別宮滝原宮へ両殿下が移動中、警戒手薄となった内宮の|風日祈宮《かざひのみのみや》に火炎ビンが投げられ、門が炎上するという事件が発生した。両殿下の御身辺は安泰だったが、皇太子・同妃両殿下に対する火炎ビン攻撃はあとにもさきにも沖縄「ひめゆりの塔」事件と三重国体「風日祈宮」火炎ビン事件の二件のみで、しかもその二件ともが昭和五十年の夏に起きていて、私は皇太子・同妃両殿下を二回火炎ビンから守った、戦後五十年間でたった一人の警備課長・県警本部長となったのだった。
このように波乱万丈の一年間であった。
八月は魔物の住む月
だが、本項目の主題はこれらの事件の詳報ではない。
「八月」という月には魔物が住んでいる……という、危機管理のジンクスなのである。昭和五十年八月四日、人事異動による警備課長最後の日になんとまた、二年前の八月八日の金大中事件、一年前の八月十五日の文世光事件についで「まさか」と思っていたことが起きたのだ。三年連続して私の異動発令日、不気味なことに「日本赤軍・クアラルンプール米国大使館占拠事件」が起きたのである。後任者は若田・京都府警本部警備課長。前の年の後任三島健二郎氏は隣の桜田門の警視庁からだから即日赴任したが、今度はそうは行かない。
人事の発令を聞いた土田国保警視総監が唖然として「またか。これで三年連続、佐々君の人事異動の日に大事件が起きた訳だ。これから佐々君はうっかり動かせないな」と、冗談とも本音ともつかないことを呟いたものだ。
神が存在するとすれば、とてもいたずら好きな方だ。なぜか大きな危機は人間の組織が組織力を発揮できないような時に限って起こる。深夜、週末、五月の連休、夏休み、年末年始の休みといった具合だ。
昔、ヒトラーは大きな国際軍事冒険をやる時は意図的に土日を選んで行い、相手側首脳が週明けに対応しようとするまでに既成事実を作ってしまった。
危機管理上の大問題は「八月」に起こるケースが多い。その意味で「八月」は魔の月。「八の月には魔物が住んでいる」のだ。日付順に例を挙げよう。
・サダム・フセイン・クウェート侵攻。湾岸危機始まる(一九九〇・八・二)
・日本赤軍クアラルンプール事件(一九七五・八・四)
・B29広島に原爆投下(一九四五・八・六)
・金大中事件(一九七三・八・八)
・B29長崎に原爆投下(一九四五・八・九)
・ソ連軍対日宣戦布告(一九四五・八・九)
・日航機御巣鷹山墜落事件(一九八五・八・十二)
・太平洋戦争終戦(一九四五・八・十五)
・文世光事件(一九七四・八・十五)
・ソ連クーデター(ソ連崩壊)(一九九一・八・十九)
・三菱重工爆破事件(一九七四・八・三十)
・金正日テポドン弾道弾発射(一九九八・八・三十一)
そして私の場合、三たび人事異動発令日に重大事件が起きるという、一九七〇年代の警察戦国時代ならではの運命的な偶然の暗合だった。
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宮永事件・コズロフ大佐の空しい昇進
長官相つぎ非業の死
見上げるような|鎧《よろい》|兜《かぶと》で全身をおおわれ、利刃も鋭鋒もはねかえす頑丈な盾をかまえ、剛剣をふりかざしていた怪物じみた巨人が、突然武具のふれ合う音を|鏘々《そうそう》とたてながらよろめき、ドドッとばかり転倒し、断末魔の苦しみに悶えている……。
平成三年(一九九一年)八月二十二日、ソ連保守強硬派の軍事クーデターが、明智光秀の“三日天下”そのままもろくも失敗し、ウラジーミル・クリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長が逮捕されたと聞いたときの“スパイ・キャッチャー”たちの気持ちは、戦場でそんな化け物のような巨人騎士と刃を交えていた戦士たちが感じるであろう、虚脱感にも似た複雑なものだった。
「KGBが崩壊するなんて……。そんなことはありえない。きっとまた立ち上がって剣を振りかざすのでは?……」と、半信半疑だったにちがいない。
クリュチコフ議長が国家反逆罪で逮捕され、断罪を待つ身になったという、そのこと自体は別に不思議ではない。
KGBは、ソ連邦とその要人たちを外国の諜報活動や軍部のクーデター、政府転覆の陰謀や暗殺などのテロから守る、「国家の干城」だった。
四百万の全ソ連軍に九万といわれる「コミッサール(政治将校)」を配属させ、国境警備隊五十万のほかに十万の専従職員、十万の協力者を擁して、一党独裁のソ連全体主義政権を守ってきた「盾」なのだ。
その頭領が、あろうことかヤナーエフ副大統領、ヤゾフ国防相、パブロフ首相、プーゴ内相らクーデター派の一味となって陰謀に加担したのだから、その罪は人一倍重い。
それに、ロシア革命成就の一九一七年以来、「チェカー」「GPU」「NKVD」「MVD」そして「KGB」と、名称こそ変わったが、終始一貫、秘密警察(盾)と諜報機関(剣)の一人二役を果たしてきた“ソ連中のソ連”といわれた強大な国家機関である。
その議長ポストがクレムリン内部の権力闘争の的になるのは当然で、昔は風向き次第ではいつ|何時《なんどき》クビになり、粛清されるかわからない、危険がいっぱいのポストだった。
現に、第三代GPU議長のゲンリフ・グレゴリビッチ・ヤゴダは、政治犯たちを自分の手で拷問することを好んだ異常性格者だったと伝えられているが、猜疑心の強いスターリンに疑われて一九三六年逮捕され、処刑された。任期はわずか二年だった。
なお「チェカー=GPU」の初代議長、フェリクス・エドモンドヴィッチ・ジェルジンスキーは、一九一七年から二六年までの九年間、第二代のビヤチェスラヴ・ルドルフォヴィッチ・メンジンスキーは一九二六年から三四年まで八年間、この恐怖の魔王のポストを務めあげている。
血ぬられた出世コース
第四代のニコライ・イワノヴィッチ・エジョフ議長(機関名「NKVD」と改称)も、たった二年で失脚し、一九三八年粛清されている。
そのあとを継いだ五代目のラブレンチ・パブロヴィッチ・ベリヤも、六代目のフセボロド・メルクロフと交代で二回、五年間「NKVD」の議長を務めたが、一九五三年、三回目の議長のとき、わずか三か月で非業の死を遂げることになる。ベリヤは閣僚会議議長第一代理、大元帥にまで昇進し、スターリンの死後、マレンコフに次ぐ実力者だったが、政府転覆の陰謀を企てたかどで、かつての部下のNKVDに逮捕され、同年十二月、刑務所内で銃殺された。
スターリンの忠実な|僕《しもべ》として、血の粛清を冷酷に遂行し、恐怖政治の権力闘争の血の海を泳ぎぬいて生き残ったベリヤも、スターリン亡きあと、マレンコフの手で葬り去られたのである。
当時流布されたうわさとしては、ソ連共産党中央委員会幹部会の席上で、最高幹部会のメンバーの一人がベリヤを拳銃で射殺したという。
いずれにせよ、その末路は悲惨だった。
それ以来、十代目グルグロフ、十一代目セーロフ、十二代目シェレーピンと、KGB議長ポストは出世コースとなった。
そして十七代目のユーリー・ウラジミロヴィッチ・アンドロポフは、のちに書記長となっている。
一九八九年から三年間、第二十代目のウラジーミル・アレクサンドロヴィッチ・クリュチコフKGB議長の時代になって、再びヤゴダ、エジョフ、ベリヤと同じような悲劇が起こった。
クーデター首謀者八人衆に名を連ねたクリュチコフは、八月二十二日首都モスクワから逃亡をはかったが逮捕され、投獄されたのだ。
後任はワジム・バカーチンである。
ひき倒された銅像
そして、KGB王国の崩壊が始まった。
ロシア革命以来七十四年間に、秘密警察KGBに逮捕され、投獄され、拷問で無実の罪を自白させられ、シベリアに流され、ルビヤンカ刑務所の刑場で処刑されるなど、犠牲になったソ連市民は、実に二千万人に達したといわれる。
最近新設されたKGB名誉回復局の非公式情報によれば、その九九パーセントが無実の罪だったというから、ひどい話である。
長年の圧政と人権無視の恐怖の的だったKGBに対する民衆の怒りと恨みは激しく、深い。
KGBの創設者、初代長官フェリクス・エドモンドヴィッチ・ジェルジンスキーの銅像がひきずり倒された。
それはKGB本部の所在地、その名もジェルジンスキー広場にそびえたつ、共産主義独裁政権を支える恐怖の秘密警察KGBの権威の象徴だったのである。
保守強硬派によって追放された改革派の元内相、バカーチンの手によって、クリュチコフ派のKGB幹部が次々と逮捕され、解任されるのをみて、モンゴル、キューバなどでかつてのKGB機関員の亡命が始まっていると伝えられる。
KGB海外情報局次長、オレグ・カルーギンは、一九九〇年ゴルバチョフに“直訴”したことが発覚して解任され、すべての特権を剥奪されたが、今回のクーデター失敗で復権し、現在人民代議員の一人となっている。
彼は対アメリカ諜報組織のチーフだったが、日本の週刊誌記者のインタビューに応じて、スパイ活動は日本の方が「むしろ米国よりも成果が上がっていました。なぜなら、米国には共産主義や社会主義に傾倒する人はほとんどいませんが、日本には随分いますからね。お金なしで協力してくれる。……外務省、防衛庁、警視庁公安担当などの職員、政治家、ビジネスマン、学者……たくさんいました。米国よりはるかに多くのスタッフです」と語っている。
スパイ取り締まりの法規をもたない日本は、“スパイ天国”といわれてきた。取り締まり法規がないだけでなく、まさにカルーギン元KGB情報局次長がいみじくも指摘したように、スパイに対する警戒心が日本人には欠落しているようだ。
KGBの機関員は、二十万人といわれる。その半分が秘密警察としての守りの「盾」の役、あとの半分が諜報機関としての攻めの「剣」としても、その勢力はまことに侮りがたいものがあり、日本を舞台にソ連スパイとその協力者たちが日本やアメリカの政治・軍事・外交・科学技術情報を非合法に入手しようと暗躍し、“スパイ・キャッチャー”の日本外事警察と|鎬《しのぎ》を削る|鍔《つば》競り合いを演じてきた。
KGB権力の象徴であるジェルジンスキー銅像がひき倒され、ソ連国内ではKGB秘密警察員に対する“魔女狩り”が始まったが、日本で諜報機関員として高級マンションに住み、高級車を乗り回し、豊富な情報収集費をふんだんにつかって情報提供者を獲得しようと、防衛庁職員や制服自衛官の行きつけの六本木のバーや小料理屋、米国人など外国人顧客の多い「ガスライト」「クラブ88」などをのみ歩いていた、あのKGB将校たちは、一体いま頃、どこで、何をしているのだろう。
たとえば、昭和四十六年(一九七一年)に起きた「コノノフ事件」の主役、コノノフ在日ソ連大使館付武官は、どうなっただろう。
F4情報とコノノフ事件
昭和四十六年七月二十九日、東京・小金井市のレストラン「ニュー・ロード」の駐車場にライトを消したマツダの「カペラ」が駐車していた。
運転席には四十歳ぐらいの日本人男性がひっそりと座っている。
午後八時過ぎ、街灯のあかりの中に、茶色の背広を着た、長身の中年の外国人の姿が浮かんだ。足ばやに「カペラ」に近づいた外国人は、なかに男がいるのをたしかめるとサッと助手席にのりこんで、息せき切って「町田(市)へ行ってくれ」と発車をうながした。
日本人男性は無言のままだ。間髪をいれず、あたりの暗闇から数人の男たちが現れた。
「警視庁外事課のものです。あなたのパスポートを見せてください」
英語で話しかけたのは、日本人エージェント「K」を|囮《おとり》に、張り込んでいた警視庁の“スパイ・キャッチャー”たちだった。
長身の外国人は、スパイ・キャッチャーたちが一年がかりで追っていたソ連スパイ、“レオ”。
駐日ソ連大使館付武官補佐官L・D・コノノフ空軍中佐(38)がその“レオ”だったのだ。
スパイたちを“レポ”の現場で“現行犯逮捕”するという、珍しいケースだったのである。
*
事件の発端は、一年前の昭和四十五年(一九七〇年)六月にさかのぼる。当時はまだ「国鉄」と呼ばれていたJR秋葉原駅前の電気器具商店街で通信機器の品定めをしていたKは、突然後ろから肩をたたかれた。振り返るときちんとした身なりの外国人だった。
「これは何ですか?」
流ちょうな日本語に驚きながらも、それが米海軍払い下げのレーダー部品であることを説明すると、その外国人は「アリガトー。もっと教えてください」とKを近くの喫茶店「えびはら」に誘い、「私は三菱プレシジョンの技術顧問のエドワードです」と自己紹介し、今後も仕事を手伝ってほしいと依頼した。
それ以来、「エドワード」は、Kの勤める電器商会を二、三日おきに訪れ、高価な通信部品を正札どおりの値で即金で買っていくようになった。よい顧客を得てKは喜んだ。
署名してから読む性癖
Kは、戦前陸軍少年通信兵として訓練を受け、戦後は工業専門学校を中退し、電気通信関係の会社を転々とした。電気機器販売員として腕のいい男だった。
米軍横田基地には、米軍払い下げ通信機器の出入り業者として通行証をもっており、フリーパスの身だった。英会話も達者だった。
六月下旬、郊外の喫茶店で「エドワード」に会ったKは、「航空観測装置のテクニカル・オーダーとその部品」を手に入れてほしいと頼まれた。
それはさして難しい注文ではなかったので、Kはこれを入手し、「エドワード」は言い値で、しかも即金でこれを買い上げた。
次は、米軍レーダー用の進行波管の入手を依頼された。それもたやすく入手したKは、郊外のレストラン「米沢」で彼に会い、十万円で購入した進行波管三本を手渡すと、「エドワード」は、なんとこれを二十万円で買ってくれたのである。
Kは、さして苦労することもなく手に入る機器にどうしてそんな大金を払うのかと首をかしげたが、とにかく金が欲しかったので疑うことをやめた。
こうしてKは、いつの間にか「エドワード」のエージェントとして活躍するようになった。「エドワード」には一年間で二十九回会い、合計六百万円にのぼる大金を手にしたのだった。
昭和四十五年当時の六百万円である。
やがて「エドワード」は、明らかに米空軍の機密文書にあたる資料を要求しはじめた。
その頃までに金の魅力にとりつかれていたKは、横田米空軍基地出入りフリーパスの立場を悪用して、米軍秘密文書を取り扱っているM米軍曹長に目をつけ、現金二十万円と十四万円相当のトランシーバー機器で同曹長を買収し、「エドワード」の欲しがる資料の入手に成功したのだ。
昭和四十六年に入ると、ある日「エドワード」は、「近く本国に帰ることになったので、留守中は同僚の“レオ”がこの仕事をやる」といって、“レオ”と名乗る白人の男を紹介した。
Kの「カペラ」で三人が東京・練馬区内を走っていたとき、春日町交差点付近で「エドワード」はKに停車するように命じ、そして二つ折りの紙片をKに渡し、空欄にサインすることを求めた。
Kはサインをして、その文章を読んだ。……ここが日本人の特徴的な反応で、「読んでからサインした」のではなく、「サインしてから読んだ」のだ。
それは「この仕事を絶対に口外しない。危険なことがあっても責任はすべて私が負う」という、スパイ誓約書だった。
同時にKは、暗号表、乱数表、そしてソ連本国と直接交信の指令日を示したタイム・テーブルを渡された。
Kは、後日警視庁外事課の取り調べに対して「これはえらいことになった。来るものがついにきた。もしこのことを誰かに話したら、自分は殺されるかもしれない」と思ったと供述している。
こうしてKは、「エドワード」から“レオ”に引き継がれた。「エドワード」はのちにソ連大使館付武官補佐官E・S・ハビノフ陸軍中佐であることが明らかになった。
彼らが狙った機密情報は、当時米空軍の主力戦闘機だったF4ファントムの搭載兵器、レーダーに関するテクニカル・オーダー(技術指示書)だった。
Kと“レオ”の連絡方法は次のようなものだった。
“レオ”からKに連絡するときは、午後九時三十分に、K宅の電話のベルを一回鳴らしてすぐ切る方法を三回くり返す。
Kから“レオ”への連絡は、火曜、金曜の夜十一時に、ポケットベルを呼ぶ。
そして、それぞれの秘密連絡のあった翌日午後八時に、小金井市のレストラン「ニュー・ロード」で秘密接触する。
もし“レオ”が都合が悪く名代が行く場合の合言葉は、「府中まで何キロありますか?」、Kが「二十五キロあります」と答えると、それがボナ・フィデ(身元確認)となり、“レオ”の代理が「ではご一緒しましょう」という手はずとなっていた。
このスパイ活動により、米空軍ファントム戦闘機の空対空ミサイル、火器管制レーダーなどのテクニカル・オーダー四十三点がソ連側に渡り、Kは約六百万円の報酬を得たのだった。
警視庁外事課のスパイ・キャッチャーたちは、一年余の捜査の結果、昭和四十六年七月二十一日、Kを刑事特別法違反で逮捕し、家宅捜索を行ったところ、無線通信機、ダンヒル煙草ケースに隠した乱数表、換字表、タイム・テーブル、暗号解読の計算メモ、暗号電波を録音したテープなど、逃れぬ証拠を発見、押収した。
そしてKの自供に基づいてモスクワからの暗号無線電波のモールス符号を捕捉し、暗号解読をしたところ、「七月二十九日午後八時、ニュー・ロードで待つ。七・二七・No.3」という指令をキャッチした。
そしてKを囮に使って仕掛けた|罠《わな》に、コノノフ空軍中佐が見事にひっかかったのであった。
まことに見事な刑事特別法違反スパイ事件の現行犯逮捕だったのだが、「外交特権」の壁は厚かった。コノノフ中佐は、外交特権をかさに任意出頭を拒否し、六日後の八月三日午後一時二十五分、羽田国際空港発のアエロフロート機で出国した。空港にはソ連大使館付武官が二人も監視兼身辺警護のために姿を現した。
Kは、昭和四十八年一月十一日、東京地方裁判所において、日米安全保障条約に基づく刑事特別法(米軍の秘密保護法)違反で、懲役二年、執行猶予三年の判決を受けた。
無念のコズロフ事件
昭和五十五年(一九八〇年)一月十八日、防衛庁は上を下への大騒ぎとなった。
警視庁外事課が陸上自衛隊のM元陸将補と、かつての部下である陸上自衛隊二等陸尉と准尉の三名を国家公務員法第一〇〇条違反(職務上知り得た秘密の漏洩罪)で逮捕し、Mの自宅から無線受信機、乱数表、換字表、タイム・テーブルなどスパイの証拠品を押収し、彼らのマスター・スパイだった在日ソ連大使館付武官Y・N・コズロフ大佐(46)に対し、外務省を通じて任意出頭を求めたからである。
コズロフ大佐は、その日の夕刻、各国大使館付武官団の新年会パーティーで、上機嫌でグラスを傾けていた。防衛庁幹部や制服幹部自衛官も招かれてそのパーティーに出席していた。
現場に居合わせた出席者の目撃談によると、メモを渡されてスパイ事件発覚を知らされたコズロフ大佐は、そのまま何気なく姿を消し、翌十九日の午後一時八分には警視庁の任意出頭要求を無視して「母の病気」を口実に、成田・新東京国際空港からアエロフロート五八二便であわただしく帰国の途についた。
実は、このスパイ物語シリーズで私は常に捜査当局の側からのストーリー・テラーの役を果たしてきたが、このコズロフ事件で初めて“取り締られ役”になったのである。
昭和五十二年以来防衛庁に出向していた私は、当時、同庁教育参事官(現・教育訓練局長)のポストにあった。スパイ事件の捜査はさんざんやってきたが、捜査される側にまわったのはこれが初めてだったのである。下手に動くと、警察側に防衛庁を守るための捜査状況の内偵と誤解されるおそれがあるし、防衛庁側からは警察の回し者と思われるかもしれないので、私は焦々しながらじっと事態の推移を見守っているほかなかった。まことに奇妙なポジションに立たされたものだった。
このスパイ事件は、昭和四十八年十二月、定年退職を間近にしたM一佐(当時)がロシア語の知識を生かして対ソ貿易関係の商社に再就職したいと考えて、ソ連側の心証をよくしておこうと……このへんの感覚がまた、スパイ行為について免疫性のない日本的感覚なのだが……駐日ソ連大使館を訪ね、P・I・リバルキン武官(当時53)に面会を求めたことから始まる。
諜報感覚の発達したリバルキン武官の方は「何か罠が仕組まれているのか?」と警戒したが、約三か月後「カワイ」という日本人名を使って公団住宅に一人住まいをしているM元一佐に接触をはかり、東京・渋谷駅近くの喫茶店でMと懇談し、Mのエージェントとしての適格性や情報収集能力をテストしてみた。
独善からワナにはまる
その結果、Mの動機は全く個人的なもので罠の仕掛けはないと判断し、中国の軍事情報に関する情報提供を求めた。
自衛隊在職中、情報関係の任務が長かったMは、中ソ軍事衝突を未然に防止することが日本の国益に合致するという独善的な国防観を抱いていたこともあって、リバルキン武官の求めに応じて、昭和五十年頃から中国に関する公刊軍事資料等を提供するようになった。やがてこれが有償の行為となり、接触場所や方法も合法から非合法へ、提供資料も元部下の現職自衛官であるO及びKに依頼し、中央資料隊の秘密文書へと変わっていった。
現職の二尉と准尉も、かつての上司であり退職時には陸将補にまでなった信頼すべき人であったこと、資料提供の報酬として現金を受け取っていたことなどから、Mの依頼を断りそびれて資料提供を続けていた。
リバルキンはMに接写用カメラなどスパイ用具を供与し、その受け渡しの方法としては“デッド・ドロップ方式”(既述のとおり、缶などに入れた情報資料を指定された時刻に指示された場所に置き、数分後にマスター・スパイが来て現金を入れた別の缶とすりかえるなどのやり方)が採用された。
この貴重な情報源は、昭和五十三年(一九七八年)十一月、リバルキンから後任のG・G・マリヤソフ武官補佐官(35)に、さらに昭和五十四年八月、大使館付武官として赴任したY・N・コズロフ大佐に引き継がれたのであった。
Mは約四年間に数百万円の報酬を受け取り、その一部を謝礼としてナマの防衛庁資料の情報源であるOとKにそれぞれ手交していた。
連絡・接触はソ連から流れてくる暗号による諜報無線の指示に従っていた。また、リバルキンとの暗号もいろいろあった。
たとえば「ゴルフ」「ベンチ」「鉄道」などといえば都内のゴルフ場、公園、駅などを意味し、エージェント名も、リバルキンは「カワイ」、Mは「BTR(ロシア語で装甲車の意)」だった。
Mと元部下のO,Kとの接触も秘密接触で、東京の亀戸や神田駿河台ニコライ堂付近などの路上で、決められた曜日の夜の決められた時間に「ブラッシュ・コンタクト(すれ違い接触)」をして、情報と報酬の授受を行っていた。
警視庁外事課は、長期にわたる捜査の結果、昭和五十五年一月十七日夜、神田の紅梅坂でのブラッシュ・コンタクトを捕捉し、M、O、Kの三名の逮捕に踏み切ったのであった。
昇進はしたけれど……
折から、国会が開会中だったからたまらない。陸将補といえば昔の「少将」にあたる高級将校である。
それが情けないことにソ連軍事スパイの手先を五年間もつとめていて、防衛庁内局も陸上自衛隊幕僚幹部も知らなかったとあって、マスコミは大騒ぎ。世論も沸き、国会も衆参両院の予算委員会から法務・外務・内閣など各常任委員会で、与野党あげて防衛庁糾弾が始まったのも無理はない。
私も防衛庁政府委員の一人として、はなはだバツの悪い肩身の狭い思いで国会通いをし、「警察に戻りたいな」という思いにかられたものだった。
長年の“スパイ・キャッチャー”としては、面目失墜の日々、しかもどうすることもできず、味方の弾で火だるまになったゼロ戦みたいな惨めな思いをした。
当のコズロフ大佐は、外交特権を盾に「ハイ、サヨナラ」で逃亡してしまったが、防衛庁に対する責任の追及は厳しく、時の防衛庁長官は衆議院予算委員会で立ち往生、辞任のやむなきに至るし、陸上幕僚長、副長、東部方面総監、調査部長から調査隊長、中央資料隊長ら、あたら有為の将来性ある高級幹部たち多数が、無念の涙をのんで自衛隊を去る羽目となった。
内局も、防衛事務次官から官房長、防衛局長、人事局長と、監督責任を問われて懲戒処分を受け、防衛庁と陸上自衛隊は傷だらけになったのである。
この事件に対しては、昭和五十五年(一九八〇年)四月十四日、東京地方裁判所において、M元陸将補は懲役一年、OとKはそれぞれ懲役八か月の有罪判決が下って、一件落着となったが、「コズロフ事件」は、深刻に反省すべき二つの大きな問題を、日本の法制及び行政責任のとり方、とらせ方について残した。
第一は、元陸将補らのスパイ行為が「国家公務員法第一〇〇条違反」(職務上知り得た秘密の漏洩)で、最高の罰則が「懲役一年」にとどまり、前述の「コノノフ事件」に連座した一民間人の電気機器セールスマンの刑が、執行猶予がついたとしても、「懲役二年」であったという、法制上の欠陥が露呈したことである。
つまり「日米相互防衛援助協定等に伴う刑事特別法」に反して在日米軍の軍事機密を盗むと最高「十年以下」の懲役刑となり、元国家公務員である元陸将補が「日本の国家機密」を漏らしても、一般公務員の非行などと同様「懲役一年以下」であるという法益の不均衡は、独立主権国家として放置できない“占領時代の遺物”ではないのだろうか。スパイ防止法が基本的人権に反するというならば、せめてスパイ行為という、他の国では死刑をもふくむ重罪を犯した者に対する処罰を在日米軍の秘密保護法と同格の「懲役十年以下」に法改正すべきだろう。
第二の問題は、日本的な行政責任のとり方、とらせ方である。
事件が収まってからしばらくたったある日、アメリカの情報関係者が「帰国後のコズロフ、どうなったか知ってるか?」と質問した。
「知らない」と答えると破顔一笑した彼は、
「少将に昇進したそうだよ。ふつう失敗したKGB、GRUはシベリア送りだが、コズロフは戦争もしないのに日本陸上自衛隊の有能にして前途ある将官たちをなぎ倒し、防衛庁長官のクビまでとった平時の功績が認められて、少将に昇進したんだ。将軍・提督を仕上げるのには三十年はかかる。ああいうときは被害局限措置を講じてクビにする将官を少なくしないと敵を利する結果になる。ちょうどロンメル元帥らをその国の政府の手で粛清させたようなものさ」と論評したものだ。
一時の怒りに任せて行政上の監督責任を厳しくとらせすぎるのは、国家百年の大計からみると考えものなのである。
ソ連暫定政策決定機関「国家評議会」は、平成三年(一九九一年)十月十二日、KGBを中央情報収集活動、共和国間防諜活動、共和国共同国境警備隊の独立した三つの機関に再編成することを承認した。
KGBの解体である。
それにしても、コズロフ少将(?)、今どうしているだろう。永遠不滅を信じて忠誠を誓った巨大「組織」が崩壊しつつある中で、今頃、せっかくの昇進の空しさを|噛《か》みしめていることだろう。
*
平成三年(一九九一年)十一月十九日、私ははからずもオレグ・カルーギン元ソ連KGB中将(56)と出会った。
フランスの上院と米合衆国・国際戦略情報センター共同主催により、パリで二日間にわたって開催された「西暦二〇〇〇年、対テロ国際会議」の席上でのことである。
カルーギン氏は、KGB海外情報局次長だったとき、改革派の一人としてKGBの体制改革について、クリュチコフ元KGB議長を飛び越してゴルバチョフ大統領に直訴したことが発覚してKGBに逮捕された。
「私は『国家機密漏洩罪』で逮捕され、階級も特典も、勲章も年金も剥奪され、裁判を待っていました。八月十九日のクーデター失敗によって釈放され、いまは定員四百五十人の人民最高会議代議員(国会議員に相当)候補の一人として復権しました。代議員候補は二千人おり、私はその一人です。私は二度と再びソ連邦をもとのような状態に戻してはいけないと思います。そこで『背水の陣』(Burning Bridges=逃げ道の橋を焼いて戦うの意)という本を出版しました」
そう語るカルーギン氏は、元KGB高官のこの種の国際会議初登板と知ってメディチ家が十五世紀に建立したというフランス上院議事堂の大会議室を埋める約三百人のフランス政府高官、報道陣を前にして、驚くべき率直さで国際テロや、新たな国際危機に対しKGBが果たすべき国際的役割について演説した。
聴衆の中には、クール・ド・ミュルビル元首相やシャルル・パスカ元内相、検事総長、最高裁判事、治安・情報・軍関係機関の幹部たちが多数参加していた。
「これからもKGBは、三つの機能にわかれて国家機関として、存続し続けるだろう。
一つは国際的対外情報機関、一つは国内秩序維持の治安機関、もう一つは国境警備隊である。ただし、当分はその機能は停止状態になる。なぜならはなはだしい財政難で、この十一月の職員給与が支払えないという有り様だから」
「レフチェンコ? よく知っている。私が東京を訪れて彼の報告をきいて、モスクワに帰った直後に亡命されて、私は大変困った」
「昔、ロンドンで起きたブルガリアの反革命組織指導者ギオルグ・マルコフを毒を仕掛けたコウモリ傘で暗殺した事件は、ソ連KGBが直接手がけた暗殺事件ではない。ブルガリアKGBの犯行だが、ソ連KGBの承認の下に、ソ連KGBが供与した毒針付きコウモリ傘を使って暗殺した」
「最近レバノンで人質にされていたソ連外交官三人が釈放された。それに関してKGBがレバノンのテロリスト指導者を誘拐して殺害し、体の器官の一部をテロリストグループに送って脅したといううわさは事実ではない。それは米国CIAの『偽情報部(ディスインフォメーション・ビューロー)』が流したデマだ(満場から笑い)。KGBはあらゆる外交的・政治的・経済的圧力を加えて、三人の外交官の釈放を勝ちとった」
次々と浴びせられる質問に、悪びれるところなく堂々と答えるカルーギン元中将をみながら、私はこんなことまでしゃべってしまって大丈夫だろうか、暗殺されないのだろうかと心配になった。それにしても一体何という様変わりだろう。一九九一年六月にワシントンで同趣旨の会議が開かれたとき、ワーキング・ランチの席で何人かから「次の会議にはソ連KGBを呼ぼうじゃないか」という冗談まじりの提案がなされたことは事実だ。
だがまさか二か月後にはソ連が崩壊し、ソ連共産党が消滅、KGBが無力化して、わずか五か月後にこの冗談まじりの提案が実現しようとは、六月の時点で誰が予想しえただろうか。
カルーギン元中将とは二日間の会議中、折にふれて歓談する機会を得たが、なぜか不思議に敵意はわいてこなかった。
むしろ一種の奇妙な友情に似た感慨を覚えたものだった。前年の十二月八日は、真珠湾攻撃五十周年記念日だった。日本海軍のゼロ戦パイロットと米海軍軍人が再会したとすると、これに似た感情を抱くものなのだろうか。
「国際情報共同体(インテリジェンス・コミュニティー)へようこそ。これからはKGBも非人道的な国際テロ、麻薬禍、マフィアとの闘いの一翼をになっていただきたい。とくに、核の第三世界流出防止と武器不正輸出防止の分野でのソ連KGBの責任は重い」と、私の持ち時間、二十分のプレゼンテーションの中でよびかけると、カルーギン氏は隣席で大きくうなずいていた。
コーヒー・ブレイクのとき、氏はいう。
「その『ソ連邦(USSR)』というのはやめてくれ。もうソ連邦は存在しない」
「では、何とよべばいい?」と私。
「以後は『主権国家連邦(FSS=Federation of Sovereign States)』とよんでくれ」
「国名はその《FSS》で決まりだね?」
「いや、また変わるかもしれないけどね」
……十二月九日、それは果たせるかな、「独立国家共同体(CIS=Commonwealth of Independent States)」であると、エリツィン・ロシア共和国大統領が宣言し、「ソ連邦」の消滅を世界に告げた。
*
元スパイ・キャッチャーとして、ふと思った。
こうなると、警察の任意出頭を無視して、“外交特権”をカサに即日帰国していったKGBたちは――コズロフ、コノノフ、ハビノフ……――国際法的には、どういうことになるのだろう?
外務省を通じてもう一度任意出頭をかけると、きっと喜んで来日して進んで供述し、政治庇護を求めるかもしれない。
日本政府は、ためしに“CIS”に声をかけてみたらどうだろう。
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過去のカゲ引く対日諜報活動
象徴的なKGBの紋章
平成三年(一九九一年)四月十六日、ソ連ゴルバチョフ大統領が来日し、海部俊樹首相との間で日ソ首脳会談が開かれた。
ソ連元首の来日は、同連邦建国以来初めての行事であり、前後六回、延べ十四時間に及ぶサミット会談というのも、外交史上稀有の、とくに日ソ外交史上初めてのことだった。
警視庁は二万数千人の警察官を動員して、厳重な警備態勢を敷いたが、ソ連側もKGB第九局要人安全保障課の精鋭警護員(SG)百人以上を、重量五・七トンの防弾・防爆要人警護専用車「ジル」十台とともに送りこんできて、話題をよんだ。
ソ連のKGBがゴルバチョフ大統領の身辺の安全について神経質になるのも当然だ。
リガチョフに代表される保守派と、ロシア共和国大統領のエリツィンが率いる改革派から挟みうちにされ、バルト三国は独立運動で大騒ぎ。
軍部の青年将校たちが組織する「ソユーズ」の批判、ゴルバチョフ打倒の大デモやストライキと、ソ連国内は危険がいっぱいの政情不安に揺れ、メーデーや革命記念日の赤の広場で爆弾男のカミカゼ特攻未遂や、猟銃発射事件など、一か月に約十件くらいの不穏な暗殺テロの動向があったという。
日ソ協力の大警備はこうした情勢の中で、警視庁とKGBとの間で始まった。
日本側が神経質になったのにもわけがある。
平成三年は「大津事件」百周年の年だったのである。
帝政ロシア時代の明治二十四年(一八九一年)、日清戦争直前の日露緊張時代に、季節も同じ“木の芽どき”の五月十一日、ニコライ・アレクサンドロヴィッチ皇太子(のちのニコライ二世皇帝)が、ウラジオストクで行われたシベリア鉄道着工式出席のついでに来日した。その際、滋賀県大津で、こともあろうに警護の任についていた津田三蔵巡査がサーベルで皇太子に切りつけるという大事件が起きた。
これが、世にいう「大津事件」である。
時の松方正義内閣がロシア融和策として「大逆罪」を適用して死刑にせよと司法当局に圧力をかけたが、児島惟謙大審院長がこれをはねつけて、ふつうの「謀殺未遂罪」で無期懲役の判決を下し、司法権の独立を守ったのは有名な話である。
ゴルバチョフの来日は、その意味でロシア国“元首”の二度目の来日だった。
日ソ両国の治安機関は、こと要人警護の問題となるとイデオロギーや体制の違いをのりこえて相互に協力を惜しまないことは、ミコヤン副首相来日の際と同じことで、ゴルバチョフ来日警備は何事もなく成功裏に終わった。
だが問題は、ソ連KGBのもつ「|剣《つるぎ》と|盾《たて》」という二面的性格にある。
KGBの紋章のデザインはまさにその任務を象徴する「剣と盾」をあしらったデザインなのだ。
たしかに当時、ゴルバチョフの「新思考外交」や「ペレストロイカ」「情報公開」という開明的政策によって、KGBの「盾」の面は次第にその実態が明らかになってきつつあった。
たとえばモスクワ市ジェルジンスキー広場にあるKGB本部の中に西側のテレビ取材陣の立ち入りが許可されたが、そこはかつて外側からカメラを向けただけで逮捕されかねない絶対撮影禁止の被写体だった。
ソ連の対テロ特殊部隊「ジェルジンスキー部隊」の姿も初めてテレビ放映された。ちなみに「ジェルジンスキー」とは、「ゲーペーウー(GPU)」やKGBの前身であるレーニン時代の秘密警察「チェカー」の初代長官の名前をとったものである。
北方四島のKGB国境警備隊の取材や、国事犯を収容しているルビヤンカ刑務所のカメラ撮りが許されるなど、たしかに「盾」としてのKGBについては「情報公開」が進んでいることは事実だ。
だが、「剣」の面、すなわち諜報・謀略活動を行う「剣」としてのKGBの実態は、解体されたとはいえ、依然としてぶ厚い秘密のベールに包まれている。
最近のKGBのイメージアップのための広報努力だけをみて、それが秘密警察であることも諜報機関であることもやめたと安易な幻想を抱くのは危険である。
KGBは極めて有能で、豊富な経験と実績をもつ強力な諜報機関であったことになんら変わりはなく、為政者をはじめとする各界の指導者たちはその実態を把握した上で日ソ問題に取り組むべきだろう。
ゴルバチョフの秘密
世界中どこでも、ソ連大使館のあるところKGBのいない国はなかった。
そして世界を股にかけて情報活動を展開しているうちに、皮肉にもソ連邦が内臓ボロボロの超重量級プロレスラーのような病める巨人であることに真っ先に気づいたのは、ソ連共産党でも軍部でもなく、ノーメンクラツーラ(特権階級)の高級官僚でもなく、ほかならぬKGBだった。
ソ連邦のなかで、世界の実情にいちばん明るくて、しかも自国の弱点をいちばんよく知っていたのは、実はKGBであって、そのためKGBは最も秘密主義でしかも最も開明的であるという、自己撞着にみちたユニークな国家機関だったのである。
ペレストロイカの始祖はニキタ・フルシチョフで、その伝統はKGB出身のアンドロポフに引き継がれ、そして、その秘蔵弟子のゴルバチョフによって強力に遂行された。一九八五年に歴史の檜舞台に登場して以来、六年の歳月を経ても、ゴルバチョフの生き残りの可能性については、世界中の識者が常に疑問を呈してきた。
とくに一九八九年末のマルタ会談以後のソ連内外の大変動に際しては、ことごとに「ゴルバチョフ政権はいつ崩壊するか」が話題となっていた。
ゴルバチョフが一九九一年末まで生き残れた秘密は、ソ連国家機構中の最強の機関であるKGBの支持があったからと考えるのが正解だろう。
英独の情報機関は、KGBが彼の身辺警護態勢を従前の五倍に強化したとの情報を入手していた。また、平成二年(一九九〇年)十二月十三日の読売新聞は、ウラジーミル・クリュチコフKGB議長が十一日夜、国営テレビで演説して、社会秩序維持のためKGBの活動を強化することを表明し、「KGBはソ連体制擁護の防壁」と述べたことを伝えている。
本来は秘密機関であるKGB議長が、テレビの前で政治演説を行うこと自体、極めて異例のことだが、この演説はゴルバチョフ大統領の指示によって行われたという。
クリュチコフ議長は、その演説の中で、KGBの使命遂行のため、国内全域でその職権を行使し、国を混乱に導く勢力に対する防壁となることを宣言した。
そして事実、KGBは国内の経済事犯やマフィア狩り、あるいは軍のスペツナズ(特殊部隊)に協力して民族紛争の鎮圧にも乗り出した。
一九九一年三月十七日に行われた、ゴルバチョフの政治生命を賭した連邦制是非の国民投票でゴルバチョフは辛勝したばかりなのに、未曾有の食糧危機やバルト三国、グルジアの反抗など、命とりになりかねない難問題山積の中で、彼がクレムリンを留守にして訪日・訪韓の外交日程消化のために外遊できたという事実は、国内でのKGBの非常に強力な支持があったという判断を裏付けるものだろう。
但馬守か半蔵か
改革派のエリツィンと対決し、民族問題でシェワルナゼ前外相と袂をわかったゴルバチョフは、マルタ会談に臨んだ彼とは別人であった。
権力の基盤がKGBと軍部の支持派に変わり、その基盤に軸足を移したゴルバチョフの政治外交は、当然KGBの立てる世界戦略と国内政策の路線に沿って展開されてくると考えなければいけなかった。
それを遂行したゴルバチョフは、生きながら改造された“非ゴルバチョフ(ディ・ゴルバチョヴィゼイション De-Gorbachevization)化されたゴルバチョフ”なのだ。
彼は、スラブ民族国家である大ロシア国の国益のため、共産党、軍部、官僚ら、ノーメンクラツーラ(特権階級)を指導する“上忍”の柳生但馬守、服部半蔵率いる“下忍”(諜報、破壊工作、謀略工作など担当の現場のスパイたち)を駆使して天下を治めた徳川家康のような、超弩級のマスター・スパイ政治家であるといえよう。ソ連のKGBは、すでにのべたように「剣と盾」の両機能を併せもつ特殊な諜報機関だったが、このほかにも「剣」としての「軍参謀本部情報総局(GRU)」という強力な軍事情報機関があった。
日ソ交渉の問題は本稿のテーマではないが、「剣」の情報機能をほとんどもたず、「盾」もスパイ罪のない、ペコペコの「ブリキの盾」しかもっていない日本が、ソ連の恐るべき情報能力と強靭な粘り腰の交渉力を過小評価して、「向こうのほしいもの(経済援助)はこっちがわかってるし、こっちのほしいもの(北方四島返還)は向こうがわかってるから」といった甘い楽観論で会談に臨んだのでは、勝敗は初めから明らかである。
ゴルバチョフ来日警備については、日本警察はKGBの「盾」の機能に関するかぎりは両国の国益が合致したからこそ友好協力関係を結んだのであって、同じKGBでも「剣」の機能、すなわち対日諜報謀略活動に関しては、敵味方に分かれて火花の散るような舞台裏のスパイとスパイ・キャッチャーとの闘いとなる。
ソ連のKGBは、その昔「ゲーペーウー(GPU)」に始まって、「NKVD」「MVD」と名称こそ変われ、「KGB」に至るまで、世界超一流の軍事大国として、経験と実績を重ねてきた。ゴルバチョフ来日以来、日ソ国交正常化の気運がたかまってきたが、その交渉のかなめに当たる政治指導者ゴルバチョフを支えるKGBの実態を十分認識すべきだった。
レフチェンコ証言
「剣」としてのソ連KGB、GRUの実態は、ペレストロイカと情報公開の進む今日でも秘密のベールに包まれていて定かでない。
昭和五十七年(一九八二年)七月十四日、米下院情報特別委員会における元KGBのアメリカ亡命者、スタニスラフ・A・レフチェンコ(38)の証言や、ジョン・バロン著『KGB』の内容などを総合すると、その概要がおぼろげに浮かびあがってくる。
KGBの総数は約三十万〜四十万の国境警備隊をふくめて約五十万人。そのうち、国内外に配備されている基幹職員は約十万人といわれた。GRUについてはその総勢力などはよくわからなかった。比較的信頼性の高いレフチェンコ証言に基づいて、KGBの対日活動を中心に話をすすめてみよう。
昭和五十四年(一九七九年)十月二十四日、在日アメリカ大使館から外務省に対し、「亡命希望のソ連人を保護している。本国政府は身柄を受け入れる用意がある」との通報があった。
亡命者レフチェンコは昭和五十年二月以来、ソ連ノーボエ・ブレーミア(新時代)社東京支局長として在勤していたが、実は少佐の階級をもつKGB将校であって、同日夜、亡命意思確認の上、パンナム〇〇二便でアメリカに亡命した。
そして昭和五十七年七月十四日、同少佐の米下院情報特別委員会の秘密聴聞会における証言によって、KGB第一総局指揮下のKGB対日諜報活動「アクティブ・メジャーズ・グループ」の実態が明らかにされたのであった。
当時KGBは、西側世界を十一の部に分け、その第七部が日本を担当し、「レジデント」とよばれる駐日KGB機関長の下で政・官・言論界のリーダーら十一人のエージェントを運営して、対日「アクティブ・メジャーズ活動」を展開してきた。
“アクティブ・メジャーズ”とは、与野党をふくむ政治家、経済人、ジャーナリストなどを対象としたハイレベルの政治謀略工作だった。
レフチェンコ証言によれば、その目的は、
(1)日米両国の離間(政治・外交・軍事)
(2)日中両国の関係発展阻止(政治・経済)
(3)ワシントン=北京=東京のトライアングル創設の可能性の阻止
(4)与野党をふくめ政界リーダー、実業家、言論界人士を獲得して日ソ政治経済協力発展、日ソ友好平和条約締結、北方領土返還要求断念などの方向に協力させる
(5)野党に浸透して自民党の国会独占支配を阻止するとともに、野党による連合政権樹立も妨害する
などの高度な政治謀略工作であった。
日本警察は、係官を渡米させてレフチェンコの供述調書をとり、レフチェンコ証言に登場した人物たちからの事情聴取も行ったが、スパイ罪のない日本では、“けしからん罪”に問われるにとどまり、刑事処分は行われていない。
だが、レフチェンコ事件は、KGBの対日政治謀略工作の実態の一部を世に知らしめた効果はあった。彼が担当していた工作はいわば柳生但馬守の「上忍」活動ともいうべき高度の政治謀略であって、これと並行して行われる服部半蔵が束ねていた伊賀忍者のような、より直接的で現場的な軍事・科学技術・行政全般に及ぶ「下忍」のスパイ活動については次でのべることとする。
もう一振りの「剣」
レフチェンコ証言によれば、昭和五十四年(一九七九年)当時の在日KGB機関員の数は五十人から六十人の間といわれる。
その大部分のものは、在日ソ連大使館の外交官に身分偽変して長期滞在し、外交特権を隠れ蓑に諜報活動を続け、発覚すると不逮捕特権を悪用して即日離日帰国するというパターンを繰り返している。
このほか、プラウダ、タスなどの報道機関、アエロフロート(国営航空)、インツーリスト(国営旅行社)等も彼らの活動拠点となっている。
ソ連の対日諜報活動のもう一振りの「剣」が軍の情報機関「GRU」である。
この機関は本来的には軍事秘密の収集が主任務で、日本の防衛政策、戦略・戦術情報、装備・兵器体系、軍事科学技術情報などを狙うから、どちらかというと「下忍」の“黒マントと短剣(クローク・アンド・ダガー)”タイプの事件が多い。
戦後、日本警察によって検挙されたGRUのスパイ事件は、たとえば、昭和四十六年(一九七一年)七月二十九日の「コノノフ(駐在武官補佐官)事件」、昭和五十一年五月十二日の「マチェーヒン(ソ連ノーボスチ通信社特派員)事件」、昭和五十五年一月十八日の「コズロフ(駐在武官)事件」などが挙げられる。
これらの諸事件については、また別の機会に紹介したいが、ソ連の対日諜報活動の最高峰である昭和十六年(一九四一年)の「ゾルゲ事件」も、このGRUの仕業であることを忘れてはならない。
「ゾルゲ事件」は、まさに日本の運命ばかりでなく独ソ戦の帰趨を狂わせ、さらには第二次世界大戦そのものの結果にも重大な影響を及ぼした、世紀の大スパイ事件だった。
昭和十六年、GRUの前身「RU」のエージェントだったドイツ人、リヒアルト・ゾルゲは、ソ連共産党の秘密党員でありながら当時全盛のナチス党に入党し、フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員として来日した。そしてその熱狂的ナチス信奉者の仮面に欺かれたオットー駐日・独大使の信任をかちとり、さらに時の近衛首相のブレーン・トラストだった政・官・言論・学会のメンバーに接近して、A紙論説委員H・Oをエージェントとして獲得した。
そして独ソ戦たけなわの頃,スターリングラードを死守するソ連は、日本が日独伊三国軍事同盟によってシベリアからソ連の背後を襲う「北進論」を選ぶか、それとも南方に進出して米英と決戦する「南進論」をとるのか、まさにソ連の命運を左右する選択を、かたずをのんで見守っていた。
そしてゾルゲが送った「日本、南進ヲ決意ス」との一本のスパイ報告が、ソ連のスターリンを救った。
モスクワは、極東ソ連軍正面で大軍事演習をして北進をするかのようなフェイントをかける日本関東軍を尻目に、シベリアのソ連軍を思いきって欧州正面に移動させ、スターリングラード防衛戦で勝利を得たのであった。
ゾルゲの正体はやがて見破られ、彼のスパイ網は一網打尽に検挙され、昭和十九年一月二十日、軍機保護法等により死刑判決を受け、刑場の露と消えた。
しかし、ゾルゲの命がけの諜報活動によって勝利を得たクレムリンは、昭和三十九年(一九六四年)、ゾルゲに祖国への卓抜した貢献と英雄的行為に対して与えられる「ソ連邦英雄」の称号と、レーニン勲章を授与した。
ラストボロフ事件
ゾルゲ事件は、KGBとGRUに大きな教訓をのこした。
完璧な身分偽変で日本の政策決定の最高中枢である首相官邸のブレーン・スタッフたちにくいこんでいたゾルゲが、警視庁外事課の対諜報捜査班にその正体を見破られるきっかけになったのは、日本共産党地下組織の一斉検挙であった。
この失敗を生かして、戦後のソ連の諜報機関は、スパイ組織と、その国の共産党組織とは絶対に無関係のコンパートメンテーション(縦割り)の原則を確立した。
とくに共産党が非合法化されている国では、秘密党員や地下抵抗組織の検挙が、同時にソ連スパイ網潰滅につながることになるということを骨身にしみて悟ったソ連諜報機関は、スパイ・エージェントはその国の共産主義運動と絶縁し、むしろ反ソ・反共の姿勢をとるか、少なくとも政治に無関心を装わせるよう厳格なスパイ教育を施すようになった。
その典型的な事例が「ラストボロフ事件」における外務省中堅幹部H氏のケースである。「ゾルゲ事件」がGRUの最高の成功例だとすれば、戦後の日本におけるソ連KGBにかかわる最大のスパイ事件は、昭和二十九年(一九五四年)一月二十四日に発覚した「ラストボロフ事件」といえるだろう。
当時、KGBはまだ「MVD」とよばれる諜報機関であり、ユーリー・A・ラストボロフMVD中佐は、外務省二等書記官に身分偽変して東京のソ連駐日代表部(ソ連大使館の前身)に勤務していた。
亡命の直接の動機は、MVDの直属上司、ベリヤ内相が逮捕、粛清され、身の危険を感じはじめていた矢先、昭和二十九年一月十八日、ルノフ駐日代表部参事官から帰国を命ぜられたことであった。
粛清の危機が迫ったことを悟ったラストボロフ中佐は、一月二十四日、おりから大雪の中、帰国準備を装って「娘の土産を買ってくる」と監視係をだまして駐日代表部を脱出し、在東京アメリカ大使館に亡命を申し出たものだった。
そして二月五日、その事件を知った彼のエージェントの一人、外務省アジア局勤務のA外務事務官(元在満州陸軍少佐)が「昭和二十六年以来ラストボロフに対し、約四十回にわたって日本の再軍備や米軍関係情報を提供していたソ連のスパイである」と自供した。
彼はその二日前、別のKGB機関員に呼び出され、「自殺しろ」と命じられたことから自首することを決意したのだった。
「ラストボロフ事件」の捜査の結果、戦後のソ連KGBの対日諜報工作の新手法、「誓約引揚者」の存在と、「スリーパー(Sleeper)」または「スリーピング・エージェント(Sleeping Agent)」とよばれるスパイ制度が明るみに出た。H氏はその一人だった。
昭和二十年(一九四五年)八月九日、まだ有効期限が七か月も残っていた日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、対日戦に参戦した。そして同十五日にポツダム宣言を受諾して無条件降伏した六十余万の日本軍将兵を、無法にもシベリアに抑留し、極寒の地で強制労働を科した。
飢えと寒さで死亡した日本兵捕虜は、無慮六万数千に達した。
その極限状況下の捕虜収容所で、KGBは脅迫と甘言により日本帰国後、ソ連のスパイとして諜報活動に従事することを日本兵捕虜に強要したのである。ラストボロフ中佐の供述によれば、このKGBの脅迫に屈してエージェントとなることを「誓約」した将兵は約五百人。情報提供などの協力を約した潜在的エージェントの数は八千人以上に達したことが明らかになった。
二月五日に自首してきたA元少佐は、そういった「誓約引揚者」の一人だったのである。
このほかにも敗戦直前、モスクワに在勤していた外交官、新聞記者などで、戦後抑留された日本人を対象に、タチアノフ・モスクワ地区MVD諜報部長が、洗脳教育と協力者獲得工作を行い、文書で帰国後の諜報協力を誓約した者が多数いたという。
ラストボロフとAの自供に基づいて、警視庁外事課が捜査した結果、ラストボロフに直接運用されていた日本人エージェント十五人、ラストボロフ以外のKGB機関員に運用されていた者十三人、その他対ソ誓約者八人、合計三十六人のスパイ網が洗い出された。
そして八月十四日、外務省兼内閣調査室事務官Bと通産省事務官(元外交官)Cを、八月十九日には元外務事務官Dを、国家公務員法、外国為替管理令違反などの容疑で逮捕した。警視庁が取り調べたKGBスパイ容疑者の日本人は二十人に達したが、処罰すべき法令がないところから不問に付された。
悲劇のスリーパー
「スリーパー」というKGBの手口は、昔から存在してはいたが、敗戦によって六十余万人の日本軍将兵、外交官、ジャーナリスト、商社マンなどの捕虜や抑留者を得たことにより、その人数を飛躍的に増大させる好機を彼らに与えた。
「スリーパー」とは、文字どおり「眠れるスパイ」ということだ。
帰国後、スパイとしてソ連に協力することを誓約した「誓約引揚者」たちは、プロのスパイとしての教育訓練を徹底的に施され、共産主義に洗脳された上で、まず帰国後日本共産党に近づくことを禁止される。
そして官庁や企業に復職または採用された場合は、重要な機密事項にアクセスをもてるような地位に昇進するまでは、「眠りにつくこと」を命ぜられる。
職務に忠実に、政府や企業の批判を慎み、親ソ・反米の言辞を弄することなく、ひたすら出世に専念させられる。
シベリア抑留を終えて舞鶴に引き揚げてきた復員兵たちの中には、埠頭に出迎えた“岸壁の母”など肉親の制止を振り切って、その足で上京して代々木の日本共産党本部に集団入党したグループもいたが、「スリーパー」たちはその中に加わることを禁じられていた。
そして、個人別に五年、十年、二十年とその時期は異なるが、十分社会的発言権や組織内の地位があがったころを見すまして、「ケース・オフィサー(スパイ運用担当のKGB将校)」が、抑留中の捕虜収容所であらかじめ決められていた合言葉でそのスパイに呼びかけ、「眠れるスパイ(スリーパー)」を揺り起こして、諜報活動を始めさせるのである。
外務省事務官A元少佐の場合には、「子供も母親もあなたを待っています。次の週の金曜日の午後七時半から八時の間に帝国劇場の裏で会いたい」という、地図入りの紙片だった。
出勤途上のAにこの紙片を「タバコの火を貸してください」と声をかけて手渡したのは、ラストボロフ中佐その人だった。
KGBもなかなか文学的で、この合言葉の出典は万葉集・山上憶良の歌「憶良らは、今は|罷《ま》からむ子泣くらむ そのかの母も吾を待つらむぞ」の下の句を使ったものだった。
こうして揺り起こされたスリーパーたちは、毎月一回以上路上や映画館などで連絡して、前回要求された朝鮮戦争に関連した米軍の動静情報や日本政府の方針などに関する情報メモをケース・オフィサーに手渡し、地位や能力に応じた報酬を現金で受領していたのである。
昭和二十九年、警部補として警視庁に配属になった私は、ある日新聞を開いてみて愕然とした。外務省の中堅クラス幹部の一人で、N課長やS課長とならんで最も切れ者の反ソ・反共の論客として知られていたH氏が外事課に逮捕され、東京地検でラストボロフの手先としてのスパイであったことを認め、諜報活動の全容を自供した後、四階の窓から飛び降り自殺を遂げたことが報じられていたからである。
実は私が東大法学部の学生だった昭和二十七年頃、キャンパスを支配する全学連のソ連礼賛の大合唱に反発する有志学生グループで「ソ連批判連続講演会」という、当時としては放胆きわまりない講演会を催した際、外務省から部外講師として招へいした三人の勇気ある反ソ理論家のうちの一人が、H氏だったのだ。
H氏が、ソ連に抑留された「誓約引揚者」の「スリーパー」だったことは、学生時代の私たちは知る由もなかったが、KGB(当時はMVD)の恐ろしさに、私は慄然としたことを、今でも鮮明に覚えている。
戦争は多くの有為な日本青年たちの人生を狂わせた。
あの戦争がなければH氏もソ連に抑留されて「スリーパー」になることもなく、どこかの大使として名誉ある外交官としての生涯を過ごしたことだろう。
ゴルバチョフ大統領は、訪日に際してハバロフスクの日本兵捕虜の墓地に墓参し、宮中晩餐会でシベリア抑留中に死亡した六万数千の日本軍将兵の霊に哀悼の意を表した。
しかし、H氏ら、スパイの汚名を着て不名誉な生涯を閉じ、あるいは「いつ声をかけられるか」と不安な日々に苦悩したであろう何百、何千という「スリーパー」たちの悲劇は黙殺されたままである。
戦争を知らない若い為政者たち、行政官たち、財界人、言論界のオピニオンリーダーたちは、こういう日ソの暗い過去の歴史をしっかりと認識した上で、日ソ外交の将来を論ずべきだろう。
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「鋼鉄の剣」対「ブリキの盾」
裸の国家機密
全身を鍛えのよい|鎧兜《よろいかぶと》で固め、「|剣《つるぎ》と|盾《たて》」の紋章入りの鋼鉄の大盾を左手に、右手の鋭利で肉厚の長剣を凄い腕力で振りおろしてくる、見上げるような大男の騎士と、右手にナイフ、左腕に“ブリキの盾”をかざしたパンツ一丁の小男がわたりあう決闘シーン……それがまさに、ソ連が誇った強大な諜報機関「KGB」「GRU」と戦う日本の外事警察の姿である。
敏捷に身を|躱《かわ》して相手を刺しても、鎧におおわれた騎士は傷つかない。相手の一撃を見事に受けとめても“ブリキの盾”は切り裂かれる。負けてたまるかという負けじ魂だけが頼りの苦戦。それを遠巻きにして傍観している日本人たち……。
最前線の日本のスパイ・キャッチャーたちが戦後一貫して味わわされた苦悩と悲哀をご披露し、「剣」はもてなくても、せめてちゃんとした「盾」だけはもつ“ふつうの国家”になりたいと訴えてみたい。
外国のスパイ活動から日本の国益を守り、国家機密を保護するスパイ防止法をもっていない国家は、多分日本とバチカン市国、モナコ公国ぐらいなもので、西側のサミット国家、ソ連、中国など東側の諸国、さらに中進国、開発途上国など、どの国でもスパイ罪は重罪である。とくに、国家公務員が国家機密事項を外国スパイに売り渡しても国家公務員法違反で懲役一年以下という国は、他に類例をみない。
出入国管理令とか外国為替管理令、国家公務員法から「窃盗罪」(秘密書類の内容は保護されず、“コピー用紙”の窃盗)など、逮捕してもせいぜい懲役一年以下か、国外追放しかできないという、ペコペコのブリキ製の「盾」で国を守っているのが実情なのだ。
アメリカは、「剣」としての中央情報局(CIA)、国防情報局(DIA、三軍統合情報本部)、「盾」としては連邦捜査局(FBI)を中心に軍の対諜報部や警察を擁している。イギリスは、ジェームズ・ボンドの007で名高い英国情報第六部(MI6=現・SIS、国外活動担当)を“攻め”に、同第五部(MI5=国内と英連邦担当)や、内務省系のスペシャル・ブランチ(SB=各警察本部に一応籍をおいた対諜報取り締まり機関)で“守り”を固めている。
ドイツの場合は、“攻め”の「ゲーレン機関」、“守り”の「ゲシュタポ(国家秘密警察)」が第二次世界大戦中悪名をとどろかせ、戦後も民主化された連邦情報庁と憲法擁護庁など、ちゃんと「剣と盾」を備えている。フランスも「剣」は「スデック」であり、イスラエルの「モサッド」も有名である。
ソ連の場合は、KGBが「剣と盾」の両機能を併せもつ、超|弩《ど》級の強力な国家機関であることはすでにのべた。
海外においては、KGBはその国の機密を盗むスパイ活動を行うとともに、同胞の祖国ソ連に対する裏切りや反政府活動を監視する両棲類のような機能を果たす。
荒ワザ、小ワザ
最近ではKGBも垢抜けてきて、高度の政治経済情報やハイテク技術の収集など、“上忍”のスパイ活動を行っているが、その前身である「チェカー」や「ゲーペーウー」などの時代には、暗殺や誘拐などかなり荒っぽいこともしてのけたようだ。
ロシア革命の大功労者で、スターリンと争って敗れ、国外追放の身となったレヴ・ダヴィドヴィッチ・トロツキーが、一九四〇年八月二十日、亡命先のメキシコで凶漢に襲われ、ピッケルを脳天にぶちこまれるという野蛮なやり方で暗殺されたが、その犯人はスターリンの放った「ゲーペーウー」の刺客であったと信じられている。
ましてソ連国内におけるその諜報・防諜活動は、まさに傍若無人なものがある。
日本では「通信の秘密」を侵すものとして違法とされ、捜査手段としても原則として禁止されている「盗聴」は、ソ連では官憲がこれを行うことは当然とされている。モスクワ駐在の各国大使館には、KGBの盗聴器が仕掛けられ、係官が館内の会話の一部始終を盗聴していることは公知の事実であり、館内での言動は盗聴されていることを当然の前提として注意深く振る舞うのが常識とされている。
一九八五年、モスクワに新しい大使館を建設中だったアメリカ政府は、八割がた完成した段階で壁の中などに多数の盗聴器が仕掛けられていることを発見し、その建設工事を中止した。アメリカ政府は議会に対し新館建て直しの予算を要求したが、議会はこれを否決し、一九九一年四月三十日に至って下院外交委員会においてやっとその予算要求が承認されたという経緯がある。
在モスクワ日本大使館についても、盗聴をめぐるエピソードにこと欠かない。
田中角栄元首相が訪ソした際、大使室で休憩していた一行が「さあ、そろそろ出かけようか」と腰を浮かしたとたんに、玄関前で待機していた車列警備のKGB護衛官たちの車が一斉にエンジンを始動し、「いまの話が聞こえたのか」と一同苦笑したという話がある。
あるとき、盗聴器捜索のため自衛隊の幹部自衛官の専門家二人がモスクワに派遣され、マイン・ディテクター(地雷探知機)で大使館内の天井や壁をスウィープ(壁面などにあて金属反応を探ること)する作業を行ったところ、館外に一歩も出ていない両名が同時に心臓発作を起こして危うく一命を落とすところだった。その原因は、どう考えても日本大使館の現地職員のロシア人メイドがサービスした紅茶以外にありえない状況で、KGBのエージェントが両自衛官に警告する目的で、致死量に至らない量の毒薬を盛ったものと推定された。両名はその後、半病人の状態で欧州経由で脱出、帰国したという秘話もある。
火事場も職場だ?
面白いのはその事件の事後措置としてのKGBの証拠|湮滅《いんめつ》工作である。事件直後のある日曜日、ほとんど無人の閉館中の日本大使館に、作業服を着た一団が「修理工事」と称して強引に立ち入り、大使室の壁をこわして持ち去ったという。多分最新鋭の高性能盗聴器が大使室の壁に仕掛けてあって、それを発見され没収されることを恐れたKGBの強引な隠蔽工作と思われるが、そのやり方の乱暴さはいかにもスラブ民族らしいものだったと、当時語り草になった。自衛隊スウィーパーたちの作業によって多数の盗聴器がすでに発見されていたが、そのいずれもが老朽化した旧式のものだったようだ。
なぜこのような昔の話を蒸し返すかというと、平成三年(一九九一年)五月一日の産経新聞、東京新聞などの夕刊に、「まだやっているのか」と驚かされるような記事が載ったからだ。
両紙の夕刊は、「KGB“火事場スパイ” モスクワ米大使館 消防士にまぎれ侵入」「米大使館の火災でKGBがスパイ行為 モスクワ 消防士を装い」という見出しで、三月二十八日、モスクワのアメリカ大使館で火災が発生した際の椿事を報じている。それによると、火災が発生した際、防火服を着て消防士を装ったKGBスタッフ四人が、大使館員の立ち会いなしで現場に侵入し、非常用の電話線を引き抜いたり、館員のパスポートや私物を盗んだり、壁に穴を開けたりしていたという。そしてジョイス公使のカバンを抱えて出ようとし、館員に見とがめられて逃走した。壁に穴を開けたのは、盗聴器を仕掛けた証拠を消すため、とみられている。アメリカ下院外交委員会がこの事件の調査にのり出す構えだ、と同紙は報じている。
下院外交委員会が在モスクワ米大使館の新館一部取り壊しと再建のための政府の予算要求を四月三十日に承認したのは、この椿事によって米政府の「安全保障上、新館再建が必要」という説明が正しいことが立証されたため、という。ゴルバチョフの「新思考外交」やペレストロイカによって、ソ連も随分よくなったのかと思っていたら、なんのことはない、KGBは昔とそっくりの荒っぽい手口の諜報兼防諜の工作をやっているのだなと、警視庁外事課時代を思い出した。
*
東京・麻布の|狸穴《まみあな》にあるソ連大使館を拠点とする、KGBやGRUのソ連のスパイ活動は、昭和二十年(一九四五年)、日本占領の連合軍とともに進駐してきたデレビヤンコ中将の「ソ連代表部」時代から始まった。
そして昭和二十五年、朝鮮戦争が勃発して米ソ関係が険悪になると、マッカーサー司令部のしめつけが厳しくなり、ソ連代表部は事実上開店休業状態となった。
KGBやGRUのエージェントたちが、都内のあちこちに「デッド・ドロップ(Dead Drop)」を設け、お茶や海苔の円筒型の缶にギッシリ巻きこんだ旧百円紙幣の束を土中に埋めてまわったのは、この時期だった。
「デッド・ドロップ」とは、スパイ用語で、神社・仏閣の古い松の樹の根元とか、銅像や記念碑の下、名所旧跡の石碑や有名な古い建物の縁の下、郊外の、たとえば“三本松”の真ん中の松の根元など、都市開発などによる現場変更の可能性が少なく、わかりやすくてしかも目立たない、人目につかない場所に、現金や無線機、乱数表、暗号による指令メモなどを埋めておき、暗号無線による指示を発して、スパイや情報提供協力者の日本人に掘らせるという、連絡の手口を呼称するものだ。
ここ掘れ“イワン”
「デッド」とは、文字どおり「生きていない」という意味だ。これに対して「生きている人間」を使って報酬や指令、無線機や乱数表などを渡す手口を「ライヴ・ドロップ(Live Drop)」という。そして「クーリエ(密使)」が喫茶店や映画館、公園や動物園などで協力者や共犯者と秘密接触して金品やレポを手渡しすることを「ブラッシュ・コンタクト(Brush Contact)」といい、その際は必ず「オータナティヴ(Alternative)」、つまり「第一接触点は帝国ホテル・ロビー、何月何日の午後一時。防諜機関の尾行や張り込みの有無を確認。怪しいと思ったら、第二接触点は同日午後三時、ヒルトン・ホテルのロビー」といった具合に、慎重に安全を確認してから「ブラッシュ・コンタクト」をする。
相手方が第二接触点にも姿を見せないときは、防諜機関に逮捕されたと判断して姿を消すのである。他人名義で借りているアパートの一室に双方が別々に現れて落ち合うという手口もあるが、その場合のアパートの部屋やホテルの一室を「セイフ・ハウス(Safe House)」とよぶ。なぜ朝鮮戦争前後のデレビヤンコ中将時代に「デッド・ドロップ」をつくって歩いたかといえば、GHQ(連合国最高司令官総司令部)のしめつけが強くなってソ連代表部が日本から追い出され、「ライヴ・ドロップ」や「ブラッシュ・コンタクト」が困難になる場合に備えて、「埋没・発掘方式」を重視したようだ。
いまどきなら、駅のコインロッカーなど格好の「デッド・ドロップ」だが、昭和二十年、三十年代にはそんな便利なものはない。
だから狸穴のソ連代表部に巣くう“狸たち”――KGB、GRUの“イワン”たちは、尾行点検をしながら都内や郊外の神社仏閣、名所旧跡、銅像や石碑を「ケイシング(場所の見定め)」しながら歩きまわり、そして夜陰に乗じて金品を埋めにくるのだ。
それを警視庁外事課の“スパイ・キャッチャー”たちが、粒々辛苦の工夫を凝らし、変装をし、尾行員がバトンタッチで交代し、“イワン”どもに悟られないように尾行し、“デッド・ドロップ”や“セイフ・ハウス”の所在をつきとめ、共犯者が掘り出しにくるまで辛抱づよく張り込みをかけたり、“ブラッシュ・コンタクト”をする日本人協力者が出現するのを待つのだ。
それはまるで子供の“宝探し”と“隠れん坊”をまぜ合わせたような、“スパイ”と“スパイ・キャッチャー”たちの、スリルと興奮にみちた虚々実々の知恵くらべだった。
*
昭和三十五年(一九六〇年)七月、私が警視庁外事課の第一係長(ソ連・欧米担当)の警視として着任した頃は、このようなソ連スパイ・ハンティングが真っ盛りの時代だった。
国際派が泣く
私の指揮下にあったのは、町田和夫、鴻巣福太郎両主任警部以下、百四人の“スパイ・キャッチャー”たち。そのほとんどが英語、ロシア語の読み書き、会話可能な、当時としてはズバ抜けて国際派の優秀な警察官たちで、昇任試験合格率の高いのが悩みの種という贅沢な係だった。警部補登竜門である管区警察学校の一位と三位を外事課第一係の二人の巡査部長が占めたこともあった。
だがせっかく精鋭をそろえたものの、いかんせん防諜捜査の「盾」が前にのべたように肝心のスパイ取締法規をもたずに、外国為替管理令とか出入国管理令だけで、機密書類を盗んでも内容は罪とならずに公文書用紙五枚・金十円也の「窃盗罪」といった、ペコペコの「ブリキの盾」だから、スパイ・キャッチャーたちにとっては、|切歯扼腕《せつしやくわん》、悪戦苦闘の日々の連続だった。
密入国して潜入してくる北朝鮮スパイなら、まだ出入国管理令違反(懲役一年以下)で逮捕することもできる。だが、ソ連のKGB、GRUの“イワン”たちは、外交官に身分偽変して大使館を拠点にしている人たちだ。“外交官特権”というぶ厚い鎧におおわれ、“不逮捕特権”という兜に守られているから、後年スパイ行為の現場で現行犯逮捕の状態で確保したL・D・コノノフ・ソ連大使館付武官補佐官事件(昭和四十六年七月二十一日)の場合も、任意出頭要求を尻目に翌日帰国するのを、指をくわえて傍観していなければならないのである。
この“外交特権”の鎧には歯が立たない上に、相手は新型の外車に乗り、諜報活動資金も潤沢、“スリーパー”方式による日本人エージェントを大勢抱えて動きも活発という切れ味のいい「剣」を振り回す。わが“スパイ・キャッチャー”の方は、一九四〇年製米軍払い下げの「中古」どころか、「大古」のフォードとか、シボレーといったガタピシの捜査用車、それに乏しい捜査費。盗聴も禁止。いわば「ナイフ」で「剣」とわたりあい、取締法規は「ブリキの盾」ときている。
捜査用車には冷房はもとより、暖房もついていないから、灼熱の夏の太陽の下、あるいは霜凍る真冬の深夜の張り込みは辛いものだった。
「係長、せめて車に暖房つけてくれませんかねえ。彼らが“クラブ88”や“クラウン”で遊んでいる間、うちの張り込み班は屋台の焼きイモ屋で焼きイモを買って、それを懐炉がわりにして|暖《だん》をとってる。ちょっと惨めだね」
と、岡本警部補、|国嵜《くにさき》巡査部長、岩船、遠藤巡査らがぼやく。
イモより愛をこめて
スパイ映画、ジェームズ・ボンドの“007”などみていると、相手が一流クラブやカジノに入れば、タキシード着て、タップリ捜査費を懐に堂々とのりこんで、ドム・ペリニョンのシャンペンのんで、美女とたわむれながら女王陛下のための公務を執行している。
だが、わが“スパイ・キャッチャー”たちの悲哀は、なかに入るための捜査費はおろか、“焼きイモ暖房”で震えているということだった。
「いい考えが浮かんだ。なかに入って遊興するのは予算上無理だ。ホステスたちに協力者になってもらって、“対象”のクラブ内部での言動や接触相手を通報してもらったら?」
ある日、私はそう提案した。
“イワン武官”や“イワン一等書記官”のお気に入りのホステスを調べた上、情報謝礼をポケットに、ホステスを口説きにいった“スパイ・キャッチャー”が戻ってきて言う。
「とても駄目ですわ。月千円お礼するから協力してくれって頼んだらね、“刑事さん、アタシの月収いくらだと思ってんの? 二十万円よ”ときた。哀しいね、あんな若い|女《こ》で二十万円だってさ。泣けてくるよ」
私の警視庁警視の俸給が当時月額三万五千円ぐらいだったから、ホステスは高嶺の花。この名案も役立たずだった。
外事課員は、しばしば高級ホテルに出入りする“対象”を追って、ホテルに入らなければいけない。野暮なくたびれた背広とシワくちゃのワイシャツ、泥まみれの古靴では目立ってしまっていけない。一応の服装は整えなければいけないが、これは個人負担である。
他の部課の私服たちは、無理して背広を新調するそんな外事課員の苦労も知らずに、「いい格好して、キザな英語しゃべって、捜査費使い放題なんだろう」などとひがむから、当方はいっそう辛い。
一方、外交官に化けたKGBたちが深夜、黒装束で「デッド・ドロップ」設定のイリーガル活動をするときには、“スパイ・キャッチャー”たちも忍者スタイルに早変わりする。真夏のある晩、KGB容疑の濃い一等書記官と三等書記官が車で目黒方向に向かった。
「ホレ、現金か無線機、埋めに行くぞ」
二個班集中投入でガタボロ捜査車で追尾する。行き先地は柿の木坂付近の雑木林だった。昼間のうちに「ケイシング」をやって立ち回った先だ。当時は目黒区柿の木坂は都内とはいっても田園地区で、緑の多い未開発の原っぱや麦畑の多い田舎だった。
私も初めてこの夜間捜査に参加した。
黒いシャツに黒っぽいズボン、足音を殺す地下足袋か黒く塗った運動靴。顔には靴墨に蚊よけの除虫剤塗布、という忍者スタイルだ。
じっと“忍”の一字
暗い夜空にひときわ目立つ一本松の下を、二人の“イワン”が一生懸命スコップで穴を掘っている。面白いことに一等書記官の方が汗まみれになって穴を掘り、三等書記官が立ってみていて、ときどきハンカチを貸してやったりしてる。前にものべたようにKGBは身分の下の者に化けるのを好む傾向がある。明らかに三等書記官の方が上役なのだ。この三等書記官は「KGB」と格付けしても間違いない。“スパイ・キャッチャー”たちは台地の斜面にへばりついて息を殺して作業を見守っている。
藪蚊がブーンブーンと羽音をたてて顔を襲う。
しまった、鼻に除虫スプレーをかけてない。蚊は鼻をねらって群がってくるが、音を立てられないから叩くわけにいかない。
やがて埋没作業を終えた一人が、台地の端に歩み寄る。張り込み員に気づいたのか? あの真下には国嵜巡査部長が伏せているはず。
と、やにわに“イワン”は立ち小便を始めた。まずい。あの真下にいる国嵜君が逃げ出すと張り込みがバレてしまう。しかし、イワン君、立ち小便を終え、もう一人と連れ立って暗闇に消えた。“スパイ・キャッチャー”たちは音もなく「デッド・ドロップ」地点に集まり、忘れないよう周囲の状況を記憶にとどめ、埋没地点を確認し、記憶に刻みこむ。
国嵜君が毒づきながらはい上がってくる。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないですよ。やつが近寄ってきて崖の上に立った。逃げようと思ったが、逃げると悟られるからじっと暗闇にひそんでた。そしたら野郎、頭の上から小便かけやがった。きっとわかっててわざとやったんだ」と憤慨している。
「蛙の面に小便ってえのは聞いたことあるが、“スパイ・キャッチャー”のツラに小便って、きいたことないな」と、一同暗闇の中で笑いをこらえる。
“ナイフとブリキ盾”のスパイ・キャッチャーは、こんな屈辱にも耐えなければいけない悲哀を、苦笑にまぎらわせて我慢しなくてはならないのである。
「大もの」を待つ
「ウォッカ空き瓶事件」というのもあった。
ある日の|黄昏時《たそがれどき》、あたりに目を配りながらソ連大使館から小包のようなものを小脇にかかえて忍び出てきた館員らしい外国人が、張り込み中の視察員の目にふれた。
ときどきふり返ったり、わざわざ尾行点検のため無駄足をふみながら、次第に芝公園の方向に歩いていく。
こりゃあ小包の大きさからみて諜報無線機かもしれない。
スパイ・キャッチャーたちは猛烈に張り切った。
どこかに置くか、埋めるか、「デッド・ドロップ」方式か、「ブラッシュ・コンタクト」による「ライヴ・ドロップ」でやるか、いずれにせよ、日本人エージェントとの接点があるにちがいない。
やがてそのソ連大使館員と思われる外国人は、うす暗くなりつつある芝公園の灌木のしげみにその包みをそっと隠し、あたりをうかがいながら立ち去った。
あとはそれを取りに来るスパイを気長に張り込んで捕えるのみだ。
私も猛烈に張り切って、三交代二十四時間監視態勢をとって、芝公園の「デッド・ドロップ」に怪しい人物が現れるのを、ワクワクしながら待った。
夜は更ける。三時間、五時間経つ。深更に至っても誰も来ない。こりゃあ徹夜になるな。だが、一瞬たりとも目を離すわけにはいかない。現場張り込み班は現場近くの目立たない場所に駐車した捜査用車の中から監視を続ける。
夜が明けても、まだ誰も現れない。
疲労が脂汗とともに“スパイ・キャッチャー”たちの顔に浮かび、いら立ちが幹部たちの間でさざ波のようにひろがってゆく。
「磯貝君が、思い切って開けてみましょうかと意見具申してきてますが、係長、やってみますか」と町田警部。
「もう少し待とう。うっかり手をつけると復元できなくて気づかれるといかん」と私。
「じゃあ、二十四時間、待つことにしますか。彼、手先が器用だからうまくやりますよ」
「まあ、待とうや、大物がかかるかもしれないから」……
こんなやりとりをして、焦燥感にかられながら待ちに待った。
サツよりコワイ
夕暮れが訪れる。二十四時間経過した。幹部を集めての捜査会議があわただしく行われる。
「その後、SE(ソ連大使館)の動きはないか」
「ありません」
「現場には誰も来ないのか」
「通りすぎるのはいますが、不審な動向を示すものはいませんでした」
「もう二十四時間、辛抱しようよ」
「でも現場はもうヘトヘトで、もちませんよ」
「もう一日、三交代でやってみようや」
私はどっちかというと、せっかちな方で、待つことは大嫌いだが、ここは我慢のしどころと、もう二十四時間、“張り”をかけることにきめた。
また一夜明け、四十時間近く経過した。
「どうします? 開けてみますか」と町田警部が促す。私も、もう辛抱し切れなくなった。
「だが、くれぐれも注意して、完全に復元しろよ」
「任せといてください」
|暫《しば》し煙草をふかしながら貧乏ゆすりして待つうちに、町田警部がなんともいえない顔をして戻ってきた。
「どうだった? 中身はなんだった? 無線機か?」
勢いこんできくと、
「それがね、係長、なんと中身はウォッカの空き瓶数本だったそうで」
「それ、どういうこと?」
「いや、私の推測ですがね、彼ら勤務中館内で酒のむの、禁止されているでしょ? だからどこかの部屋でこっそり真っ昼間から“ウォッカ・パーティー”やって、空き瓶の隠し場所に困って、館からぬけ出して芝公園に捨てに行ったんですよ、きっと。やつが警戒していたのは私たちじゃなくて、監督のKGBだったんですね。全くバカバカしい話ですよ」と町田警部、苦り切っている。
私はガッカリして、口もきけないくらいだった。二晩もほとんど徹夜したっていうのに、なんてえことだ、これは。彼らは日本警察よりKGBのことを怖がっていたのだ。
*
たまには嬉しいこともある。
多年にわたって予算要求してきた捜査用の新車が、外事課第一係に配分された。それも一挙に五台。昭和三十五年型トヨペット・クラウンである。いまは古い“観音開き”のやつだ。排気量一九〇〇cc。これならスピードも出るし、外車の容疑車両にも負けない。だが、きけば色は「黒」だという。
いかにも頭の固い警視庁らしい発想だ。なんで外事課捜査用車が「黒」でなきゃいけないのだ。「黒」といえばそれだけで官用車とわかってしまう。車で尾行しても、張り込みに使っても、すぐ悟られてしまう。
「だめ、だめ、装備課にいって色を塗りかえよう。何色にするかだって? そうだな、五台全部ちがう色にしよう。まず『赤』、それから『緑』、『ブルー』、『白』、『グレー』」
「本気ですか? 係長。目立ちすぎるし、上が文句いいますよ」と、町田警部も鴻巣警部も心配顔だ。
「かまわん、やっちゃえ。“イワン”ども、まさか外事課が真っ赤な車でつけてくるとは思うまい。街へ出てみろよ、車はいまはカラフルで、目立ちゃしないよ。これからは助手席に婦人警官を私服で乗せて、アベックを装うんだ」
色とりどりの新車五台が旧警視庁庁舎中庭の車庫に並んだときは壮観だった。真っ黒々の公用車の群れに交じると、目立つこと、目立つこと。運転要員がたくさん集まってきて、「外事課、いったい何考えてんだ。どうかしてんじゃないか」とさんざんな不評だったが、いざ実戦となると効果抜群。
まさか“スパイ・キャッチャー”たちが真っ赤な車に女を乗せて尾行してくるとは思わないから、“イワン”たちは安心して行動し、わが方は大きな捜査効果をあげたものだった。
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日本警察のささやかな反撃
|朧《おぼろ》月夜の大騒ぎ
……「課長、警視庁外事一課からの報告なんですが、ソ連の外交官がグデングデンの酔っ払い運転で高輪署管内で事故起こしましてね。署にきてからも椅子ふりまわして暴れて、みんな困っちゃってて、どう処置しましょうかってきいてきてるんですけど、どう答えます?」
昭和四十八年(一九七三年)三月二十九日、すっかり春めいた朧月夜の午後十時過ぎのことだった。
“ちぇっ、「イワン」めが、こんなときにつまんねえ騒ぎ、起こしやがって”と舌打ちする思いで警電経由の当直の報告に耳を傾ける。
「何署だって?」
「高輪警察署です」
「そいつ、なにやったんだ? ただの泥酔運転じゃ外交特権てえもんがあるから、酔いがさめるのを待って、おっ放すしかないぞ。警視庁の外事一課で処理できんのか、その程度の事件。こっちは二係の中国問題で忙しくて、ロシア人の酔っ払いなんて構っちゃいられないんだ」
疲れていた私は中っ腹で不機嫌だった。
実際、昭和四十年代後半の警察庁外事課にとっては、ソ連大使館員の酔っ払い運転なんぞ、いちいち相手にしていられない、まことに多事多端な日々だったのである。
「二係」とは、中国・東南アジア諸国関係担当の係、とくに中国がメインの「チャイナ・ハウス」のことだ。
現に、その晩も三月二十七日に着任したばかりの陳楚・中国大使を迎えて、新設の中国大使館主催のレセプションが、午後六時半から八時半までホテル・ニューオータニで行われ、私もその席によばれて、電話報告のちょっと前に帰宅したばかりだった。
いまでこそ中国大使館は、麻布の一等地に立派な公館をかまえているが、昭和四十七年には、ホテル・ニューオータニの十五階に仮公館を開設し、二月一日から同階の十二室を使って外交事務を開始したばかりだった。
これに対して、介石・中華民国(台湾)と断交し、北京で中華人民共和国との国交正常化を遂げた田中角栄内閣に抗議し、仮設の中国大使館の事務を妨害しようとする右翼諸団体が、しばしばホテル・ニューオータニにデモをかけたり、宣伝カーによる反対闘争を挑んだりで、警備課も外事課も、日夜多忙をきわめていたのであった。
昭和四十七年(一九七二年)二月二十一日、ニクソン米大統領が日本の頭越しに米中国交正常化を行うために訪中し、毛沢東主席と握手して、米国はアジア戦略の大転換を行った。
日本も遅ればせながら九月二十五日、田中角栄首相が訪中して毛沢東主席や周恩来首相と会談し、日中国交正常化も実現した。
この日中国交正常化交渉の過程で、私は訪中の際の田中首相一行の身辺警護の問題や、日中国交正常化に反対する右翼のテロ防止など、舞台裏で中国側との交渉にたずさわったものの一人だった。
東奔西走課長
昭和四十七年は、治安警備の面からみても歴史に残る激動の年で、機動隊と銃撃戦まで展開した、二月十九日から二十八日までの連合赤軍「あさま山荘事件」、五月三十日には海外赤軍・岡本公三らの敢行した「テルアビブ(ロッド空港)事件」、九月五日、ミュンヘン・オリンピックの選手村で“黒い九月(ブラック・セプテンバー)”テロリスト・グループがイスラエル選手の宿舎を占拠して起こした「ミュンヘン事件」など、テロ・ゲリラ事件が世界中で吹き荒れた動乱の年だった。
そういう世界の屋台骨を揺さぶるような国際的な地殻変動の不気味な余震は、翌四十八年に入っても、元旦から揺れやまず、前途の多難を占う不吉な前兆があった。
まず一月一日、小菅の東京拘置所で連合赤軍「あさま山荘事件」の主犯の一人、森恒夫が独房内で首吊り自殺をした。
二年前の昭和四十六年十一月、私は警察庁警備局に配置換えになって以来、中核派の「日比谷公園松本楼焼き打ち事件」等による千七百名を超える大量逮捕をはじめ十二月十八日の「土田国保・警視庁警務部長夫人・小包爆弾爆殺事件」と、それに関連してのトップの命による爆発物処理器材及び処理技術緊急調達及び調査のための欧米出張、帰国後すぐに起きた連合赤軍「あさま山荘事件」の現場指揮などと、文字どおり息つくひまもなく“トラブル・シューター”として東奔西走していた。
森恒夫自殺という不吉な情報を耳にした四十八年元旦も、これは大変な年になりそうだなと思ったものだが、この私の予想は的中した。
この年には日本赤軍「ドバイ日航機ハイジャック事件(七月二十日)」「金大中事件(八月八日)」と、これまた歴史的な大国際事件が続発して、当時外事課長だった私は、キリキリ舞いさせられる羽目となる。
余談だが、事件ばかりでなく、政治・外交的にもこの年は大変な年となった。
一月二十七日にはキッシンジャー米安全保障問題担当大統領特別補佐官と、北ベトナムのレ・ドク・ト代表との間で「ベトナム和平協定」の調印が行われ、一月二十九日、ニクソン米大統領がベトナム戦争終結を世界に向かって宣言している。
その後さらに南北ベトナムの戦いが続き、サイゴン陥落によって南ベトナムが消滅したのは、二年後の昭和五十年(一九七五年)四月三十日である。
ベトナム和平は、一九七二年二月二十一日の米中国交正常化とともに、七〇年代の米国アジア政策大転換の分水嶺(ウォーターシェッド)だった。
ベトナム戦争
当時新聞等に公表されたベトナム戦争総決算の統計数字は、あの戦争が米国にとっていかに大変なことだったかを如実に物語っていた。米国がこの痛手から立ち直るには、平成三年(一九九一年)の「湾岸戦争」の大勝利に至るまでの、いわゆる「ベトナム後遺症」を癒すまでに二十年の歳月を要したということでよくわかる。
米国民のベトナム戦争後遺症に関するデータとしては、その後いろいろな統計が発表され、いろいろな見方が成り立ちうるのだが、ニクソン米大統領がベトナム戦争終結を宣言した直後の新聞報道によれば、次のような数字になる。
一、一九六一年以降の戦死傷者
(1)米軍
戦死 五万六〇九六人
戦傷 三〇万三四五七人
行方不明 一七四三人
捕虜 五八七人
(2)南ベトナム軍
戦死 一六万三七五人
戦傷 四二万六五七六人
(3)北ベトナム軍
戦死 九一万一四九九人
戦傷 不詳
(4)南北ベトナム民間人
死亡 約一〇三万人
負傷 約三〇〇万人
二、米軍の戦費 一三三二億ドル
日本の国家予算が一九六五年〜一九七二年でドル換算一七九〇億ドルだったから、米国の費やした戦費がいかに膨大なものだったかがわかる。
三、米空軍の喪失機数
(被撃墜)固定翼機 三六九五機(うちB52一五機)/回転翼機(ヘリ)四七八三機
(地上撃破)固定翼機 二〇四八機/回転翼機 二〇二機
総合計 固定翼機 五七四三機/回転翼機 四九八五機
四、投下爆弾量 七五五万トン
第二次世界大戦が二〇六万トン(うち太平洋戦争一六万トン)、朝鮮戦争六三万トンという数字と比較してみれば、その消耗戦がいかに激しいものであったかがよくわかる。
また、別の新聞報道では、米軍の総戦費を四〇〇〇億ドルと推定している記事もあった。
これは米軍の直接戦費一三三二億ドルに、復員軍人福祉関係予算二二〇〇億ドル、タイ・韓国軍ら参加国の戦費四〇〇億ドルを加えた数字に、戦死者の遺族一人平均年一五〇〇ドルの四十年分の補償費を加算した数字である(ニューヨーク市立大学・カッチマン教授の推計)。
なお、過去の米国の戦費は、第一次世界大戦(一年半)二六〇億ドル、第二次世界大戦(三年八か月)三四一〇億ドル、朝鮮戦争(三年間)一七〇億ドルだったといわれている。
これでは米国がいかに富強なスーパー・パワーであっても、たまったものではない。
オイルショック
世界最大の債権国で、世界の富の半分を占めていたといわれた米国が、双子の赤字に苦しむ赤字国に転落し、「世界の銀行家であることも、世界の警察官であることもやめる」というニクソン声明となったのも無理のないことだった。
米国が国際的テロリストの主目標となって苦悩し始めたのも、この頃以来のことである。
昭和四十八年(一九七三年)三月一日には、スーダンの首都ハルツームで、国際テロリストの無法な要求には絶対妥協しないという、断固として確立された米国の国家政策「ノン・コンセッション・ポリシー」(脅迫には国家は一歩も譲歩せずという原則)を貫き通すためにリーダーが人間的苦しみを味わわなければいけないという事実を象徴するような、悲劇的なアラブ・ゲリラの大使館占拠事件が起きた。
「ハルツーム事件」がそれである。
スーダンのサウジアラビア大使館を占拠した“黒い九月(ブラック・セプテンバー)”アラブ・テロリスト八人が、折から会合に参加していた各国大公使たちを人質に、ロバート・ケネディ元上院議員暗殺犯人をはじめとするヨルダン・パレスチナ・ゲリラ犯人たち数十人の釈放を要求するという大事件が発生した。
米国政府はこれを峻拒し、ブラック・セプテンバーは、ノエル米大使、ムーア米前外交代表、エイド・ベルギー代理大使を次々と殺害したのち、同四日スーダン当局に降伏したのであった。
また、四月十七日にはニクソン米大統領を辞任に追いやった盗聴事件「ウォーターゲート事件」が起き、米国政治に大混乱をもたらした。
そして十月十七日、第一次オイルショックが世界経済を直撃し、日本でも七〇パーセントの原油価格引き上げによって、トイレットペーパー、洗剤の買い占めパニックが発生するなど、世界経済が大きく動揺した。
時代背景の説明で、話がえらく遠回りになってしまったが、こういう“国家剣呑、天下大乱”の大動乱期だったから、夜のトウキョウの一隅で起こったソ連大使館員の酔っ払い運転なんか、どうでもいい些事の一つにすぎなかったのだ。
深夜にその第一報を受けた私のいつわらざる心境は、“天下国家”を憂えて日夜憔悴している警備局外事課長にいちいち報告してくるほどのことじゃないじゃないか、という気持ちだった。
*
「署にきてからも、おとなしくならないで、おまけにばかに力の強いやつで、椅子で窓ガラスを割ったり、荒れてて手がつけられないんだそうで……」
「だからさ、そいつ、どうして署に連行したんだ?」
「最初、物件事故起こして、……一当(事故の第一当事者)はソ連人の方だそうでね……。ぶつけられた日本人が一一〇番して、臨場したパトカーの勤務員が高輪署に双方同行して事情聴取したんだそうで……」
「それで?……」
「そしたら身分証明書出して、“オレはソ連大使館員だ、警察はオレを逮捕できない。ソ連領事を呼べ、金なら弁償してやる”って」
「いいじゃないか、弁償させたら。相手は不逮捕特権もってんだから、泥酔運転で留置するわけにはいかんぞ。ソ連領事呼んで、弁償させて済ませりゃいいじゃないか」
「もちろん、ソ連領事、すぐ呼んだんです。そしたら、やつがその領事の態度が気にいらんっていって、殴りかかって署内を追っかけまわしたんで、ソ連領事、怒っちゃって、“酔いがさめるまで留置場にいれといてくれ”っていって帰っちゃったんです」
「しょうがないな、無責任な領事だね。そいつも。それからどうした?」
「そしたら、交通と外事の係員たちに日本円千円札一枚出して“これで勘弁しろ”っていったそうです。そんなのは収賄罪になるから受け取れないって断ったら、“そんなら、田中角栄総理に話して、今日かかわりのあった警察官をみんなクビにしてやる”って怒鳴ってるんだそうで……」
「本当にそういったのかい? 大体何語でしゃべってるんだ?」
「それが日本語ペラペラなんです。日本語で“みんなクビにしてやる”って……」
「日本語ペラペラ? そいつ、名前なんていうの?」
「セローギン(仮名)とかいってます。SC(通商代表部)の……」
一瞬、私の頭の中にソ連大使館関係のKGB容疑者名簿リストが浮かび、心の中でそのページをいそがしくめくる。
領事サジ投げる
ミハイル・セローギン(仮名)。通商代表部員。年齢はたしか四十歳。これまでに二度ほど、日本語研修や三等書記官あたりで日本勤務をし、流暢な日本語をしゃべるKGB機関員容疑者の一人。日ソ貿易の交渉の場や経済使節団の案内などでしばしば視察線上に浮かんできた人物である。通商代表部員は慣行上外交官扱いだが、厳密にいえば領事と同様、一〇〇パーセントは外交特権で保護されない準外交官である。
酔っ払い運転による「道路交通法」違反は堅い。署内の乱暴は、「公務執行妨害罪」。窓ガラスや椅子をこわしたのは「器物毀棄罪」……。いろいろあるが、なにより珍しいのはソ連領事が“留置場に放りこんどいてくれ”といって逃げ帰ってしまったという事実だ。
それに日本円千円札を出して云々というのは「贈賄罪」の未遂だし、いちばんけしからんのは「田中首相にいってみんなクビにしてやる」という|科白《せりふ》だ。こりゃあ立派な「内政干渉」だ。
このところ、外交特権をカサに、ソ連の連中の泥酔運転ぶりは目にあまるものがあって、つい数日前も神奈川県警の管轄する横浜で、通商代表部員アンドレアノフ(仮名)が人身事故を起こして、一罰百戒の強硬方針で事件処理を決定したばかりだった。
大体、ロシア人の飲酒癖は世界的に定評がある。
いまいましく思いながらもそれまで彼らの酔っ払い運転については、寛容に取り扱ってきたが、ふつうの外交官ならともかく“KGB”さんとなると話はちがう。
日頃“ナイフとブリキの盾”で、KGBやGRUの鋼の剛剣と闘ってきた日本外事警察として、一矢報いる好機到来である。
まして近年、ソ連領内でソ連軍軍事施設のそばをバス旅行したというだけで、日本の防衛駐在官、渡辺敬太郎一等陸佐、森繁弘一等空佐が外交特権を無視されて身柄を拘置された事件が実際に起きている。
在モスクワ日本大使館に埋設されたKGBの盗聴器捜索に赴いた自衛隊幹部二人が一服盛られた事件などのソ連当局のいやがらせが頻発していたのもあの頃のことだった。
直ちに留置せよ
外交の基本ルール、“相互主義”によって、一撃加えてやろうと決心した私は、直ちに上司の許可を得て、“国際問題”となることを覚悟で鳴海国博・警視庁外事一課長に、「セローギンを留置せよ」と指示した。
この“国際問題”になるから……という一言は、戦後の日本警察を萎縮させてきた“オキュペーション・メンタリティー”(被占領意識)の|残滓《ざんし》で、いつかは払拭しなければいけない日本警察の弱みだったのである。
*
翌朝、出勤してみると、果たせるかな、“国際問題”になっていた。
外務省欧亜東欧第一課に、朝一番にソ連大使館のチャソフニコフ参事官が乗り込んできて、厳重抗議の上、セローギンの即時釈放を要求しているという。
直属上司の山本鎮彦警備局長に報告したが、物に動じないので有名な同局長は、「ああ、そう」と平気な顔をしている。
現場担当の鳴海外事一課長は私の香港領事の後任だった後輩で、日中国交正常化に際して私と協力して田中首相一行の警護問題で先遣隊として北京に赴き、流暢な北京語で中国公安部と渡り合い、えらく尊敬された。
本番の際の同行警護で一行に随行したときも、公式晩餐会でとんでもなく高い席を与えられ、「どうなってんの、これ」と話題をよんだポーカー・フェースの強心臓男である。
「これ、断固やりましょうよ、佐々課長、ウン」などと、ひとりで気合いをかけ、自分で返事して張り切ってる。
上司と部下に支えられてるとなると、組織人たるもの勇気百倍だ。
やがて予想どおり外務省からの電話が鳴った。担当課長はわが親友、元陸軍幼年学校出身の剛毅な外交官である。名前はかりにA氏としておこう。
「佐々さん、基本的にはぼくも賛成で溜飲を下げてるんだけど、通商代表部員も一応不逮捕特権があるんでね、いまソ連大使館の参事官がのりこんできて厳重抗議してるんだけど、容疑事実と留置した理由は何ですか?」ときく。
「“泥酔運転”“物件事故”“公務執行妨害”に“贈賄未遂”“器物毀棄”もあるよ。それにソ連領事に対する“暴行”。ソ連領事が『酔いがさめるまで留置しといてくれ』といって逃げ帰ってしまったという事実も役に立つでしょう……」とるる説明した。
「どうもね、いままで挙げた理由じゃ、ちょっと頑張り難いですなあ、なんかほかにありませんか?」
「それじゃ、これどうです? 日本語で“田中首相に今晩のこといって、関係者皆クビにしてやる”っていったってえのは?」
「ウン、そりゃあ“内政干渉”だ。日本の法令守らないでいてそんなことをいうのはけしからん、よし、それ、頂きましょう」
*
しばらくしてまた連絡があった。
「さっきのアレ、利いたよ、チャソフニコフ、珍しく折れて出てね、そりゃ本人が悪い、だがなんとかそこを勘弁して釈放してくれっていってきたんで、もう十分懲らしめたから放してやってはどうですか?」
「じゃあ、四つ、条件つけましょう。第一は非を認めて供述調書に署名すること。第二は領事が署に出頭してガラ受け(身柄請書)に署名して身柄を引き取ること。第三は将来東京地検から呼び出しがあったら領事が責任もって本人を出頭させることを約束すること。第四は指紋を採らせること。その四条件、のんだら釈放しましょう」
指紋も採ってやれ
これは無理難題だ。指紋採取に応ずるKGBなんて、きいたことない。
もし素直にOKしたら、きっとKGBじゃない普通の外交官か、通産省からの出向者だが、拒否したら容疑濃厚。
まあ一種の“踏み絵”で、多分断固拒否するだろうことを承知の上の第四の条件なのである。
どう答えてくるか、興味津々で待っていたら、折り返し電話がきた。
A氏だ。“佐々さん、イタズラするな”と思っているのだろう、含み笑いしながら、
「あのねえ、三条件はのむけど、四つ目だけは応じられないって返事してきたよ」という。
「だめです。留置場規則上指紋採ってから釈放します」と、こっちも含み笑い。
A氏はじめソ連勤務をした欧亜局のソ連スクールの人たちは、みんなモスクワでひどい目に遭ってきているから、あんまりムキになって反論しない。
話によると、外務省タイピストのミスタイプ・コンテストの上位に入賞まちがいなしの公文書誤植例(もちろん発信前に発見されてはいるが)に、「グロ|ムリコ《ヽヽヽ》(グロムイコ)外相閣下に|敵意《ヽヽ》を表し(もちろん『敬意』)……」というのがあったそうだ。ソ連スクールの潜在意識の表れだとして当時笑い話となった。
警視庁に早速その四条件を告げて釈放を指示する。かつて私の所属していた警視庁外事課の第一線スパイ・キャッチャーたち、大喜びでセローギンを押さえつけて十指指紋やら掌紋やら、ベタベタに黒インクを塗りつけて採り、供述調書に署名させた上で、仏頂面で身柄引き取りに来たソ連領事に本人を引き渡したそうだ。
しばらくしてから警備局のN参事官が呼んでいるというので出頭すると、「そこまでしなくても」とたしなめられたが、現場経験をもつ私としては、心情的に現場のスパイ・キャッチャーたちの味方だった。
「いいんですよ、KGB容疑者なんだから。“国際問題”になんかなりっこありませんって。表沙汰にしたら向こうにとってヤブヘビですから。即日、本国送還になるに決まってます。指紋採られちゃったKGBなんて使いものにならないから、これで一丁あがりです。指だの掌にベタベタにインク塗って、がっちり指紋採ってやりました」と、大威張りして、“困ったやつだ”と苦笑しているN参事官のオフィスを辞した。
翌朝の帰国便
ミハイル・セローギンは予想どおり翌朝一番の航空便でモスクワへ向けて帰国した。
そして、現場からのその後の視察結果の報告をきいたら、上の指示があったとみえて、この“セローギン事件”までは傍若無人に外交ナンバーの車で酒酔い運転をしてはばからなかったソ連大使館員たちが、夜のトウキョウの巷にのみに出かけるとき、タクシーの相乗りで出かけるようになったときいて、|快哉《かいさい》を叫んだものであった。
この変則的なやり方でのスパイ退治は、“これにて一件落着”だったが、この話には後日談がある。
同年六月一日、英国大使館で英国女王エリザベス二世陛下の誕生日祝賀会のパーティーが催された。
警察庁外事課長として、この英国女王誕生日パーティーにご招待を受けて出席した私は、茶目っ気たっぷりの英国参事官につかまった。
“トラになったKGB”退治の物語は、もちろん新聞には一行も出なかったが、現場の警視庁の連中の口に戸はたてられない。
日頃KGBの人もなげな公然・非公然活動に切歯扼腕のスパイ・キャッチャーたちの口から耳へと伝わって、二か月後には英国大使館員の耳にも入っていたのである。
「おいおい、聞いたよ、“イワン”に一泡ふかせたってね、ウェル・ダン、ウェル・ダン。ところで、あなたはトロヤノフスキー・ソ連大使、面識ありますか?」ときく。
こっちはようく存じあげているが、多分向こうは私のことを知らないであろうと答えると、「それはいけない。日ソは仲良くしなければ。私が紹介してあげるから」と、ためらう私の背中を押すようにして、数人の招待客に囲まれてグラス片手に談笑しているトロヤノフスキー・ソ連大使のそばに連れてゆかれた。
「ユア・エクセレンシー(閣下)。謹んで日本警察庁の警備局外事課長のサッサ警視正をご紹介します」
振り向いたトロヤノフスキー大使は、背は五フィート八インチぐらい、あまり高くないが、小太りの恰幅のよい紳士だった。淡青色の目が柔和にこちらをみつめている。
なかなか趣味のいい、仕立てもいい背広を着こなした、ソ連人にしては洗練された外交官らしい外交官だ。さすが美人のオペラ歌手を令夫人にしているだけあって、この人なら西欧のどこかの大使だといっても通用するだろう。
大使のエスプリ
「警察庁外事課長のサッサです。閣下、お目にかかれて光栄です」
と、自己紹介しながら、覚悟をきめて公用名刺を手渡す。
横のポケットから名刺を出して気軽に名刺交換に応じたトロヤノフスキー大使は、しげしげと私の名刺を眺めていたが、やおら口を開いて、言ってのけたものだった。
「ああ、あなたが警察の交通問題の専門家でいらっしゃると伺った方でしたか」
三月二十九日夜の“セローギン留置・指紋採取”騒動に対する、痛烈でエスプリの利いた見事な皮肉である。
おっ、この大使閣下、なかなかデキルな、敵ながら|天晴《あつぱ》れと感服した私は間髪をいれず応じた。
「さようでございます。大使閣下、もし万一、大使もトウキョウで交通違反切符などお受け取りになりましたら、直ちに私にご一報ください」
傍らで息を凝らしていかが相成りまするやとかたずをのんで二人の応酬を見守っていたイタズラ好きの英国外交官が大声で笑い出し、
「実に喜ばしいことだ。日ソ友好でなによりです」と、大喜びしてる。
このやりとりですっかり上機嫌になった英国人氏、図に乗ってさらにいたずら心を強め、
「さあ、こんどは犬猿の仲の中ソ和解だ。私がこの間着任したばかりの陳楚・中国大使をここに誘導してくるから、あなたがトロヤノフスキー大使を彼に紹介しなさい」
といいだす始末。このいたずらは不成功に終わったが、私は、トロヤノフスキー・ソ連大使のユーモア感覚にはすっかり感服した。その後同大使は、長い間国連大使をつとめられたが、ソ連人にもこういうさばけた教養ある紳士がいることを知って、
「トロヤノフスキー大使閣下、中村敦夫演ずる“木枯らし紋次郎”の|科白《せりふ》じゃないが、『何の怨みもござんせんが、|兄《あん》さん、これも渡世の義理ってもんで、勘弁してやっとくんなさい』」
といいたくなる心|和《なご》む思いだった。
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遂に突きとめたKGB機関長
シナリオなきドラマ
平成二年(一九九〇年)という年の歴史劇の千両役者は、うたがいもなくソ連のゴルバチョフ大統領だった。八月二日の幕間に、イラクのフセイン大統領という、芝居の筋書きにはなかった“いがみの|権太《ごんた》”みたいな、とんでもない悪役が突然登場して、ついに、湾岸戦争が勃発し、人々をびっくりさせたが、世界史という大きな劇の主役はやっぱりゴルバチョフだった。
ところが、そのソ連でシナリオなきドラマが始まった。
ゴルバチョフと二人三脚で“新思考外交”を世界中で展開し、国内ではペレストロイカを強力に推進してきたシェワルナゼ外相が、一九九〇年十二月二十日のソ連人民代議員大会で突然辞意を表明したのが、まず“暗転”の一つ。
そして、ゴルバチョフ政権を支える大黒柱とみられていたKGBのウラジーミル・クリュチコフ議長が「民族独立運動と秩序攪乱とをこのまま放置すれば、ソ連邦は崩壊してしまうだろう」として、実力による弾圧措置も辞さない強硬姿勢を示した。事実、リトアニアやラトビア共和国に軍事介入したソ連軍は、中央の指示ではないとはいえ、武力行使に出て、死傷者多数を出す事態にまで発展、ペレストロイカは重大な危機を迎えることとなった。また、反ゴルバチョフ・クーデターがあり得るとすれば、その指導者はこの人しかないとうわさされた、前アフガニスタン派遣ソ連軍最高司令官ボリス・グロモフ将軍が内務第一次官に就任するなど、筋書きはいっそう複雑化したのである。
冷たい東風と暖かい西風が交錯して生じた乱気流に翻弄され、さらに寒流と暖流がぶつかって発生した霧に包まれて視界不良になったソ連邦は、このとき、経済破綻と連邦分裂の危機に直面したといえるだろう。
はたせるかな一九九一年八月十九日、ヤナーエフ・ソ連副大統領、クリュチコフKGB議長、パブロフ首相、ヤゾフ国防相ら八人の首謀者達によるクーデターが発生したが、徹底した組織によるクーデターでなかったこと、ロシアを中心とする住民がエリツィン・ロシア共和国大統領のもとで反クーデターを起こしたこと、米国を始めとする西側が強力に反発したことなどによりクーデターは三日間で終わった。そしてゴルバチョフが失脚、エリツィンの登場となったのである。
一九九〇年十一月二十九日の国連安全保障理事会で、対イラク武力行使決議案第六七八号に賛成の挙手をし、ブッシュ大統領をはじめ西側の信任を集めていた女房役のシェワルナゼ外相を失ったゴルバチョフは、既定路線を歩き続けることが可能だったのだろうか?
そんなことを考えながら新聞を読んでいるうちに、私は三十年前のミコヤン・ソ連第一副首相の初来日の日々を思い起こした。
ナンバー2は取引の天才
アナスタス・イワノビッチ・ミコヤン。一八九五年十一月二十五日、アルメニアの寒村サナインの大工の家に生まれ、一九一五年に共産党に入党したオールド・ボルシェビキである。スターリンに見いだされ、二六年、三十一歳の若さでソ連共産党政治局員に抜擢され、“血の粛清”を免れて第二次世界大戦の戦時内閣閣僚を務めた。「取引の天才」とスターリンにいわせ、「赤いセールスマン」と西側からあだ名された彼は、ユダヤ人顔負けの商才を発揮、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフなどの時代を巧みに生き抜く。政界遊泳術は、まさに天才的で、一九一八年に反革命軍に二十五人の同志とともに捕らわれたときも、彼一人が銃殺刑を免れているし、五六年の第二十回党大会では、フルシチョフとともにスターリン批判の火つけ役を果たしている。
そのフルシチョフが、訪米した際、「もし、ミコヤン君がアメリカに生まれていたら、ニューヨークのパーク・アベニューに住む大実業家となっていただろう。だから、彼を長くアメリカにおいてはおけない。なぜなら、きっとミコヤンはたちまちアメリカ一の金持ちになってしまうだろう」と、随行の彼を紹介したという逸話もある。ともかく大変な経済人だった。戦争不可避論には反対の立場の平和革命論者なのに、長い権力闘争を生き抜き、七八年、「元最高会議幹部会議長」の肩書で八十二年の生涯を閉じることができた彼は、クレムリンでも稀な存在の政治家といえる。
昭和三十六年(一九六一年)、戦後十六年を経た日本が、初めて迎えたソ連最高首脳、そして、日ソ経済交渉の相手役であったミコヤンは、このようなしたたかな千両役者であった。
ペレストロイカの始祖は、いうまでもなくニキタ・フルシチョフである。その改革の|烽火《のろし》はアンドロポフを経てゴルバチョフに引き継がれた。フルシチョフの非スターリン化政策と“平和共存政策”を支えた陰の女房役は、アナスタス・ミコヤンだったといえよう。
“フルシチョフにおけるミコヤン”ともいえるグルジア出身のシェワルナゼを右腕に、ゴルバチョフは、一九八九年十一月九日の“ベルリンの壁崩壊”、東欧諸国の自由化、翌九〇年十月三日の東西ドイツ統一に大きな影響を与え、米ソの核軍縮など欧州正面における米ソ冷戦構造を解消した。そして、第一次世界大戦のドイツの名将、シュリーフェンさながら、まず西を片づけてから、やおら東に向きを変えようとして、一九九一年四月、「北方四島VS日本の対ソ経済援助」という大問題をひっさげ、史上初めてソ連邦のトップとして日ソ関係改善のために来日したのが、その表れだ。
それは、まさに、三十一年前のミコヤン第一副首相の初来日以来、最大の意義をもつ、いわば歴史の転換点ともいえる大きなイベントだといえよう。
しかも、歴史の大きな流れの変化を痛感するのは、ゴルバチョフが“ベルリンの壁崩壊”という冷戦構造消滅を象徴する歴史的事実をふまえて来日したのに対し、ミコヤン第一副首相が初めて羽田空港にその第一歩をしるした一九六一年八月十四日が、くしくも“ベルリン危機”が始まった歴史的な日であったことである。
その前日の八月十三日、ソ連軍と東独軍は「西側の煽動工作防止のため」東西ベルリンの交通を遮断すると宣言した。そしてラスク米国務長官をはじめとする西側諸国の激しい抗議声明を無視して、翌十四日には、東独軍の戦車、装甲車、兵員輸送車多数が数千の兵士、警察官とともに東西ベルリンの交通を遮断し、バリケードで境界封鎖を開始したのだ。やがてこのバリケードが“ベルリンの壁”として構築され、赤い海に浮かぶ孤島と化した西ベルリン市民を救うための“ベルリン大空輸作戦”に発展するのである。
ミコヤン来日の狙い
「ミコヤン第一副首相訪日」の第一報に接したのは、その来日約一か月前の七月十九日のことだった。当時私は、警視庁公安部外事課のソ連・欧米を担当する第一係長の警視だった。
警視庁外事課といえば、戦時中、ゾルゲ事件をあげ、戦後はラストボロフ事件を捜査した伝統ある課だ。現在は第一課と第二課に分かれているが、昭和三十五年(一九六〇年)に私が着任した頃は、一つの課で、課員三百人を超える強大な組織だった。「第一係長」とは、今でいう「課長代理」で、私の部下は実に百四人。八年後に二つに分かれたときの第一課の課員が約百五十人だったから、いかに強力な対諜報活動捜査機関だったかがうかがえるだろう。
ちなみに、今のように二課に分かれたのは私が香港領事から帰朝した昭和四十三年(一九六八年)のことで、同七月一日、私は帰国すると同時に初代の外事第一課長(担当=ソ連・欧米)に任命されている。なお、外事第二課は、それまでの第二係(同=中国・東南アジア)、第三係(同=北朝鮮)を一つにしたものである。
さて、ミコヤン来日の内報を受けとった頃、私の係は巡査部長試験大量合格の報に沸きたっていた。百四人の部下のうち、実に二十人が一挙に合格し、当時外事課は「巡査部長養成の“警視庁・管区学校”」と|嫉《ねた》み半分のあだ名がつけられるほど、若くて優秀な人材が集まっていた。
だが、ミコヤン来日ときいて外事課員は緊張し直した。
すでに戦後初のソ連工業見本市が、その夏に東京・晴海の国際貿易センター二号館で開催されることが決定していて、七月十五日には約八百トンの展示品が入荷していた。
日本初のソ連単独見本市で、会場の広さは二号館を中心に一万二千平方メートル。展示品八百六十種類・九千点。その八〇パーセントが機械類で、そのほか雑貨・毛皮・美術工芸品など総数九千点。当時、宇宙開発競争でアメリカに一歩先んじて意気軒高のソ連が誇る人工衛星(スプートニク)のヴォストーク2号や原子力砕氷艦レーニン号の模型とともに、高さ二十メートルの巨大なレーニン像やヤクーチャ産出の二千五百カラットのダイヤモンドの展示も予定されていた。そのテープカットにソ連邦を代表して、なんと、フルシチョフの信任厚い、ソ連の実力者ナンバー2のミコヤン第一副首相がくるのだ。外務省も警察庁・警視庁もにわかに忙しくなった。
レーニン・スターリン時代からの古参ボルシェビキ。「かしこい」「ずるい」「機敏」「忍耐強い」リーダーの代名詞。変わり身も早く「取引の天才」とよんで重用してくれたスターリンを、フルシチョフとともに真っ先に批判して平和革命論の旗手になった男。実弟アルチョム・ミコヤンは、ミグ戦闘機を設計した空軍技術少将。しかも開明的で、米国からソ連にアイスクリームを輸入して「アイスクリームの父」とよばれ、欧米女性の手にキスする、ソ連首脳陣きってのダンディー。ソ連英雄の宇宙飛行士、ガガーリン少佐の名を世界中に知らしめた名演出家……。容易ならぬ大物の来日と知って、外務省・警察合同の警備会議が連日開かれた。
来日の狙いは明らかだった。
革命後五十年にして、資本主義諸国を追い抜いてアメリカに次ぐ世界第二位の強国に成長し、しかも宇宙開発競争では世界第一位となったソ連である。余勢をかって、アメリカに追随する日本に対しその力を誇示し、昭和三十五年(一九六〇年)に締結されたばかりの日米安全保障条約の無意味さを悟らせ、「日ソ国交関係を正常化させたかったら安保条約を早急に破棄し、在日米軍及び基地を撤去させよ」と迫って日本の中立化をはかろうとするのが狙いに違いない。そして、この判断が正しかったことは、実際に来日した際のミコヤン自身の声明、あるいは池田勇人首相(当時)に手交されたフルシチョフ第一書記の親書の内容で立証された。
フルシチョフ親書は、ベルリン危機にからませて、日米安全保障条約を非難し、それは日ソ国交正常化の障害となることを明言し、在日米軍及び基地を一掃して、ソ連との間に平和・相互独立・主権尊重・内政不干渉・善隣友好関係を求める、という、まさに予想どおりのものだった。ミコヤン副首相は、八月十七日に東大を訪問した際も、ヴォストーク2号の成功を誇り、日本の学者は「日本をアジアの核非武装地帯とし、科学技術の振興と平和と反戦のために努力せよ」と演説した。一方、財界人にはソ連のシベリア開発に対する日本の協力を求めている。日米安全保障条約締結で硬化したソ連は、ベルリン危機のたかまりも加わって、その対日姿勢を厳しく恫喝的なものとしていた。
警察の果たすべき任務はただ一つ。予想される右翼のテロ、その右翼と来日を歓迎する左翼との衝突の未然防止。そして日本警察の実力を世界に示すことである。
当時の警察の警備公安陣営の顔触れは、三輪良雄警察庁警備局長、川島広守同外事課長、高橋幹雄警視庁警備部長、秦野章同公安部長と、いわば当時最強の布陣で、日夜綿密な警備計画が練られた。
KGBザハロフ中将
やがて公式にミコヤン第一副首相一行の日程と随員名簿が外務省から手交された。それによると、日程は八月十四日から九日間。一行は二十七人。行き先地は十五日の、東京・晴海のソ連見本市開会式出席に始まって、十八日大阪、二十日京都、二十一日に帰京して二十二日離日とのこと。実にまずい時機の来日だ。右翼にとっては、毎年八月九日のソ連対日参戦記念日は「反ソデー」。そして「終戦記念日の八月十五日をわざわざ選んでソ連見本市の開会日にするとは何事だ」と激高した右翼諸団体は、「断固ミコヤン訪日阻止」を呼号して活発な活動を開始した。一方、日本共産党、社会党、日ソ友好協会など親ソ陣営も一万人の歓迎陣の組織動員を行うなど、左右対決の緊迫した空気が漂っていた。
モスクワから「日本政府賓客」扱いで来日する随行員は、ネステロフ・ソ連商工会議所会頭、クズミン外国貿易省次官、ワガリノフ外務省極東部長、バシコキーロフ民間航空総局長、そして内務省ザハロフ陸軍中将ら二十七人と承知していたが、八月十日、突然追加通報があった。
「ステパン・アナスタソビッチ・ミコヤン(空軍少将)夫妻」とある。
「なんだ、こりゃ? 例のミグの設計者とかいう弟かね?」
「いや、令息夫妻だって」
「だが、少将にしちゃ若すぎる。弟じゃないのか?」
「ソ連じゃ党や政府、軍人の高官の子弟は、例の“ネポティズム”(親族えこひいき)ってやつで、特別昇任が早いんだろう」
「そんな公私混交やってて、社会主義国はいいのかねえ」
「ところで、このザハロフってえの、きっとKGBだよ。フルシチョフ訪米のときも名前の出た男だな」
私たちは、そんな会話を交わしていた。
なお、ミコヤン副首相は、昭和三十九年(一九六四年)五月十四日、ソ連最高会議議員団の団長として再来日した際には、こんどは次男のセルゴ・アナスタソビッチ・ミコヤン・ソ連世界経済研究所員を随員として連れてきているから、共産圏高官のネポティズムも相当なものだ。
一九八九年、ルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊して、若い息子のニク地区第一書記逮捕のシーンをテレビでみたとき、私はミコヤン“少将”のことを思い出した。
そうこうしているうちに、先遣隊として、ついにニコライ・S・ザハロフ中将(51)が、サロムチン補佐官を同行して八月九日――くしくも「反ソデー」の日の二十三時十分、BOAC機で羽田に到着した。
翌日、彼は大平正芳官房長官に面会を申しこんだが断られ、外務省法眼晋作欧亜局長、三輪良雄警察庁警備局長との会見のあと、午後三時から五時の間、外務省五階会議室で私たち事務担当者との警備打ち合わせ会議に出席した。
彼が入ってくると、好奇心にみちた私たちの視線が集中する。
身長は一メートル九十センチぐらい、体重は百キロを超える巨漢。気むずかしい厳しい表情。冗談など全く通じないタイプで、変な体臭が漂う。
ああ、これがアメリカのシークレット・サービスの連中がいってた「臭い、でっかいやつだよ。生まれてから風呂に入ったことがないって威張ってた」、かのザハロフ中将か。
ソ連大使館から来たのはジボトフスキー、ラブレンチェフ、クーロフ、サルマチンなどのお馴染みの面々だ。
ちなみに、そのとき三等書記官で連絡係をやっていたチジョフ氏はのちにロシア大使となった。わが方は法眼外務省欧亜局長、三輪警察庁警備局長、都倉・宮沢両外務省課長、警視庁・秦野公安部長に高橋警備部長。私も末席につらなる。相互に出席者紹介が始まる。
「ガスパジン・アキラ・ハタノ、ガスパジン・ミキオ・タカハシ……」。
あれ? タワリシチ(同志)じゃないから帝政時代のガスパジン(旦那)なのか。
わがガスパジン高橋幹雄氏、悠々とうなずく。身長はともかく、体重ではザハロフに負けていない巨漢だ。
いざ警備の打ち合わせが始まったら、ソ連側の押しつけがましくてうるさいこと、全く日本側を信用していなくて、なるほどこれじゃあ世界中の治安機関に嫌われるわけだと納得した。
いわく「ミコヤン身辺警護は、ソ連側の五人の警護官でいっさいやる」
「見本市会場にはミコヤン一行がいる間は、一般人はいっさい入れるな」
「カメラマンは十五人限り。近くに来させるな」
「行き先地は事前に公表するな」
「ホテル従業員はすべてソ連側でチェックする」
「政治的侮辱を許さず」……。
いい加減にしろ、といいたくなる無茶な要求で、わがガスパジンたち、いちいちはねつける。
いちばんもめたのは「拳銃はいっさい大使館に預けろ」と日本側が主張したときだった。ザハロフ閣下、目を据えて「拳銃なき警護員は、爪なき虎、翼なき鷲にひとしい」とのたまう。
結局、ザハロフ中将をミコヤン用乗用車の助手席に乗せ、日本側運転手と警護の松崎警部補ではさんで動けなくして、かりに拳銃をもってきても使えなくしてしまうことにした。
八月十四日午後零時十二分、ミコヤン一行を乗せたソ連政府特別機、イリューシン一八型機は、羽田十七番スポットに到着した。
空港には小坂善太郎外相、佐藤栄作通産相、社会党河上丈太郎委員長、共産党野坂参三議長ら、ソ連側はフェドレンコ大使、日ソ協会、国貿促関係者ら計約四千四百人が出迎えた。
ご一行様、珍事続出
グレーの背広にパナマ帽、胸にレーニン勲章をつけたミコヤン副首相は、六十五歳とは思われない身軽さでタラップを下りてくる。
「……日本の生活様式の視察と各界要人との会談、そして平和と幸福と繁栄のためのソ連見本市開会式出席のために訪日しました。……アリガトウゴザイマシタ(ここだけ日本語)」と挨拶したあと、白バイ三台に先導された十五台約三百メートルの車列は、ノン・ストップでソ連大使館に向かう。沿道には歓迎の数千の赤旗の波。二、三メートルおきに一人、背面警戒態勢で配置された制服警官。途中、右翼が弔旗やら高さ三メートルもある“ミコヤンの位牌”を掲げ、シベリア抑留兵士の歌「異国の丘」を宣伝カーで流したりする。これを規制しようとする制服警官ともみ合いになる場面もあった。なにしろ警視庁が動員した警備陣は、一日六千五百人、延べ七万人という大掛かりなものだった。
翌十五日、晴海の見本市会場では、午前十時から、皇族五人をふくむ内外政財官界、外交団要人約二千人の参加を得て、無事テープカットも行われ、九月四日までの、初のソ連見本市が始まった。
参考までに入場料は、大人百円、学生・子供七十円であった。
ミコヤン副首相一行の諸行事は、右翼の度重なるいやがらせを排除しながら整然と計画どおり進行していったが、予想もしていなかった珍事が次々と起こって、私たち外事課員を驚かせた。
一行は明らかに日本を過小評価していたようだ。
それは到着した十四日の夜から始まった。
夜の東京のネオンをみて、随員たちがロシア語のできる警護員にヘンな質問をする。
「今夜はミコヤン一行のために特別に夜の電灯をうんと|点《つ》けてるのか? 日本は米帝国主義の抑圧下にあり、貧困に喘いでいるはずで、ふだんは東京はもっと暗いんだろ?」
一行のために配車したハイヤーの運転手たちを、一行の動静に関する情報収集のため集めてみた。
「ご苦労さん、何か変わったことなかったかい? チップかお土産、くれたかい?」ときくと、「とんでもない。それどころかタバコ出したら“ダワイ、ダワイ”って取り上げられましたよ。チップくれるどころじゃないですよ」という不平が返ってくる。
十六日の午前中は都内視察ということで、皇居前に立ち寄ったあと、日本橋の三越百貨店に案内した。
ミコヤン副首相は、フェドレンコ大使らの先導で二百人余りの私服警官に守られ、一階から六階まで丹念に視察して歩いた。そして品物の豊富さ、デザインのよさに感心し、さらに東京タワーから東京を一望のもとに見下ろしたとき、「東京は戦災で焼けたときいていたが、まるで戦争なんかなかったみたいだ。この十六年間の復興ぶりは驚くべきものだ」と、正直な感想をもらしたものだった。
もっと驚いたのは、次官・局長級の随員たちの反応ぶりである。
目をまるくして一階から八階まで、三越の売り場を歩きまわり、木綿の下着、靴下、ビニールの雨除け封筒カバー、百円のキスミー口紅、ナイロン・ストッキングなど安いものを大量に買い漁るのである。とくに一律千五百円の靴の特売場では、到底入りっこない巨大な足を懸命に特売品の革靴にねじこもうと試してみる。
昨日の見本市の会場では、ミコヤン閣下は二十万倍の電子望遠鏡の展示場で「東京でマッチをすればモスクワから見えますよ」と豪語したものだ。
私たちはスプートニクを飛ばし、核兵器をもち、世界第二位の工業国になったと誇るソ連のことだから、次官・局長級の高位高官が木綿の下着だの、百円のキスミー口紅を買い漁るほど生活物資が不足しているとは夢にも思わなかった。それだけに一同顔を見合わせて「どうなってんの、これ?」と呆れたものだった。
とくに印象的だったのは、一行がキヤノン工場を訪れたときだった。
キヤノン側が最新の35ミリカメラ、当時四、五キロはあったと思われる新開発8ミリカメラ(ムービー)をミコヤン閣下に贈呈した。
ミコヤンの息子が喜んだの、なんのって、早速右肩からカメラ、左肩から8ミリ、たすきがけにして、せわしなく父親の写真と映像を撮りまくる。あげくに車列の編成、乗車割りの変更を要求して、ミコヤン閣下の乗用車に先行する警護車に乗るという。
走行中の車列を8ミリで撮り、行き先地に着くといちはやく飛び降りて父親の姿を撮ろうと、また8ミリをかまえる。
8ミリといったって、|今日《きよう》びのような“パスポート・サイズ”なんていう小型軽量化されたものじゃない。肩にかつがないと支えられないほど大きくて重い8ミリカメラなのだ。その重さに比べて、ミコヤン“空軍少将”の身の軽いこと。担当の町田和夫警部や、直近警護についた、ロシア語が堪能な須原良正警部補らと、
「あれで本当に“空軍少将”なのかねえ、ちょっと軽すぎると思わないか?」と、余計なお世話ながら、ソ連空軍のために心配したりしたものだった。
八月十七日、東京駅五番線ホーム。午後十時発の夜行寝台列車「彗星」で、一行は大阪に向かった。須原警部補も全行程直近警護ということで同じ列車で同行した。
列車が東京駅を発車し、ホッと一息ついた須原警部補がナイト・キャップ(寝酒)に一杯と思って、サントリー角瓶の封を切ったところ、アルコールの匂いをかぎつけたのか、寝台車のカーテンが開いて次々と随員たちが出てきた。
“ダワイ、ダワイ”といって回し飲みを始め、角瓶はあっという間に空っぽになってしまったという。きっと公務中は「禁酒」だったのだろう。
ミコヤン警備は、右翼のいやがらせはあったものの、こうして無事に終了し、八月二十二日午後四時、一行を乗せたソ連政府特別機は羽田を出発し、帰国の途についた。いまでも、私はこのミコヤン第一副首相一行の来日がその後のソ連の対日政策に大きな転換をもたらしたものと考えている。初めて訪米したフルシチョフが、巨大なアメリカの工業力をその目でみて、米ソ必戦論を修正し、平和共存路線に移行したように、日本の目ざましい復興ぶりを目のあたりにしたミコヤン一行の帰国報告は、対日認識を一変させたにちがいない。
すでにあの頃からソ連経済は|跛行《はこう》しっ放しで、今日の大破綻は当然の帰結だったのだ。
ソ連の激変は、私たちの予想をはるかに上回るものだった。平成三年(一九九一年)八月十九日、なんとヤナーエフ副大統領、ヤゾフ国防相らにKGBのクリュチコフ議長まで加担して、ゴルバチョフ打倒のクーデターが起きた。それも“三日天下”。乱世の雄、エリツィン・ロシア共和国大統領にシェワルナゼ前外相、ヤブリンスキー前特別補佐官、ルツコイ副大統領ら改革派の反クーデターによって、もろくも失敗に終わった。
そして、あれよあれよといううちにソ連邦は崩壊してCIS(独立国家共同体)に。共産党は解体され、KGBも骨抜きになってしまった。
「空っぽの鍋は戦車より強い」(ヤコブレフ)とは、まさに名言だ。今昔の感を禁じえない。
機関長は運転手
さて、ミコヤン一行の警備や身辺警護は、警視庁外事課の本来の任務ではない。
私たち外事警察がこの機会になんとかつきとめたかったのは、在日ソ連大使館のKGBやGRU(ソ連軍諜報部)の要員たち、とくに機関長が誰なのか……ということだった。
在日ソ連大使館の定員は百人ということに決まっていたが、当時、通商代表部も加えると定員オーバーの百三十二人だった。
私は「ザハロフ中将と対等に話をする者に注目せよ。その者こそ将官級のKGBかGRUの機関長に相違ない」と部下たちを督励していた。
私も常時車列に加わって随員たちの言動、とくにザハロフとの応対ぶりを注意深く観察していたが、一同一様にザハロフの前ではかしこまっていて、どれがKGBだか、なかなかわからなくて困った。
ちなみに、わが貧しい外事課の私の公用車は、米軍払い下げの中古フォード・一九四九年型で、馬力も弱く、ミコヤン一行の車列のノン・ストップ時速八十キロ、なんていうスピードについて走ると、車体が浮いてきてガタガタいい出すので閉口したものだった。
そんなある日、外事第一係のデスク、町田主任警部が、目を輝かせて報告にきた。
「係長、わかりましたよ、機関長らしいのがっ。晴海の国際貿易センターのソ連見本市の会場に張り付けといた者が目撃したそうです。それまで公使がこようが、参事官や一等書記官がこようが、ソ連本国からきてる会場の係員たち、全然挨拶もしないし、座っているやつは立とうともしないで知らん顔してたそうですが……。ある館員がフラッと入ってきたら、みんな直立不動の姿勢をとったそうです。そいつ、誰だと思います? 係長」
町田警部は思わせぶりに、一呼吸置いて続けた。
「例のフェドレンコ大使の運転手、いるでしょう? 背が高くって、口ひげ生やしてて、いつもパイプをくわえてるの。彼が入ってきたらみんなバッと立ち上がって不動の姿勢、とったそうです」
「そうか! あいつかあ。ようし、確証はないがこれでメンはとれたな。これからやつを重点視察対象にして確認作業をやろうや」と私。
ソ連のKGBやGRUにはヘンな癖があって、身分の下の者に化けたがる傾向がある。一九七六年、ルクセンブルクでスパイ事件が発覚したとき、コック、庭師などに|身分偽変《ヽヽヽヽ》したKGBが摘発されたときく。
その運転手の名前は? ですって?
それは言えません。「職務上知り得た秘密」をもらすと、国家公務員法第一〇〇条に触れますから……。
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シシェリャーキン事件の大空振り
ニキタ失脚す
昭和三十九年(一九六四年)は、同年十月十七日付の読売新聞の朝刊が、「世界、重大な転換点に」という大見出しで報じたように、世界的なエポック・メーキングな年だった。
いちばん大きな変動は、ソ連のニキタ・フルシチョフの失脚である。
キューバ危機に際し、ケネディの核恫喝により一敗地にまみれたフルシチョフは、それまでのスターリン路線、すなわち共産主義による世界暴力革命と、それを達成するための米ソ必戦論の路線を大きく軌道修正して、平和共存政策をうち出した。
同時に、“ペレストロイカ”の始祖として、ソ連邦の抱える諸問題の改革にのり出したが、スターリン路線が骨の髄まで染みこんだオールド・ボルシェビキたちの大反発を買い、突然解任されたのである。
ソ連共産党第一書記にはブレジネフが、そしてソ連邦首相にはコスイギンが就任し、平和共存政策の“羊頭”をかかげながら、つい最近まで続いてソ連経済を破綻させ、ゴルバチョフの大改革と、その失脚の原因となった大軍拡政策を推進して“狗肉”を売ることになったのだ。
このソ連最高指導者の交代は、十月十四日に起きている。
もう一つのリーダーシップの交代は英国で起こった。十月十五日、英国の総選挙が行われ、労働党が十三年ぶりに保守党を破って、十七日にはウィルソン労働党内閣が誕生した。
中華人民共和国が世界の“核ファミリー”に参加して一躍脚光を浴びたのも、この年のことである。
十月十六日、中国は西域で行われた初の核爆発実験に成功したことを公表して、核保有大国としての名乗りをあげた。
宇宙開発競争でアメリカに水をあけていたソ連が、医師と科学者を乗せ、コマロフ大佐が操縦する三人乗り宇宙船ヴォスホート号の打ち上げに成功し、宇宙滞在の世界新記録を樹立して、さらにアメリカとの差をひろげたのも、同年の十月十二日のことだった。
人種差別撤廃の人権運動の分野では、アメリカの黒人解放運動の指導者、キング牧師がノーベル平和賞を受賞している。これも十月十二日のことである。
*
日本にとっても、この年は重要な意義のある年だった。激動する世界情勢の背景の中で、日本国民の悲願だった東京オリンピックが開催されたからである。
第二次世界大戦勃発前の最後のオリンピックは、ベルリン大会だった。ヒトラーの率いる新興ナチス・ドイツ“第三帝国”は、一九三六年八月、第十一回オリンピック大会のベルリン開催に成功し、大量の金メダル狩りをやってのけて万丈の気を吐いた。
もちろん当時、宇宙中継のテレビ放映はない。国民はみな、日本放送協会の実況中継を放送するラジオの前で釘付けになり、女子二百メートル平泳ぎで金メダルをとった前畑秀子選手らの活躍にかたずをのんで耳を傾けたものだ。
あの絶叫にちかい「前畑、ガンバレ、前畑、ガンバレ」という河西アナウンサーの声が当時六歳だった私の耳にまだ残っている。
ドイツの次は、さあ、ウチの番だと張り切った日本の努力によって、四年後の一九四〇年の第十二回オリンピックは東京大会と決まった。
だが、着々と諸準備をすすめているうちに第二次世界大戦が勃発し、日本は無念の涙をのんだのである。
民族の祭典、オリンピックを日本に招致することは、戦前戦後を通じて日本がはぐくみ続けてきた大きな夢だった。それが努力の甲斐あって戦後十九年目の昭和三十九年に実り、十月一日には東京=大阪間の東海道新幹線が、すべりこみセーフといった感じで開通し、突貫工事の代々木体育館や駒沢競技場も、環状七号線も間に合った。
そして十月十日、秋晴れのさわやかな日に、九十四か国の参加を得て第十八回オリンピック東京大会が開催されたのである。
開会式当日、紺碧の大空に航空自衛隊ブルー・インパルス五機編隊が、分秒の狂いもなく予定時刻に五輪マークをかたどる五色の煙の輪を描いたとき、それを仰ぎみながら「日本も大した国になったなあ」と感動したものだった。
ちなみに、このときのブルー・インパルスの編隊長が、後年航空自衛隊幕僚長になった鈴木昭雄空将である。
オリンピック東京大会では、「東洋の魔女」が女子バレーボールで金メダルをとり、自衛隊の三宅義信選手が、重量挙げのフェザー級で合計三九七・五キロの世界新記録で優勝したり、幾多のドラマが華麗にくりひろげられた。この東京オリンピックを跳躍台として、日本の高度経済成長時代が始まったのである。
*
こんな時代背景の中で起きたのが、ソ連人ヴィクトル・イヴァノヴィッチ・シシェリャーキン(28)の亡命事件である。
*
当時私は、外務省に出向して、香港領事の発令を待つ身だった。
とりあえず赴任までの間は同省アジア局中国課に籍をおいていたが、政府あげてのオリンピック体制の中に組みこまれ、原富士男・中国課長の特命で、「亡命対策」担当官として警察庁・警視庁との連絡調整を命ぜられた。警視庁と大阪府警の外事警察担当官として政治亡命事件を手掛けた実績もあったし、興味深い任務でもあったから、私は大いにやる気になっていた。
大体、ソ連で政変があったり、KGBの長官が粛清されたりすると、必ずといっていいぐらいKGBの大物の政治亡命が起こるのだ。
最近はちょっと事情がちがうようだが、昔は秘密警察の長官の末路はロクなものではなかった。ヤゴダ、ジェルジンスキー、ベリヤなどの例にみられるように、非業の最期をとげるケースが多かった。
昭和二十九年(一九五四年)一月二十四日に起きた、戦後最大のソ連スパイ事件「ラストボロフ事件」も、当時の秘密警察の元締め、ベリヤが粛清された直後に発生している。
在日ソ連大使館二等書記官に身分偽変していた、ユーリー・A・ラストボロフKGB中佐は、親分のベリヤがやられたあと、本国への召喚命令が出たのを機会に在日アメリカ大使館にかけこみ、政治亡命を申し出たのである。
当時の警視庁公安部公安第三課長(現・外事第一課)山本鎮彦氏が渡米して、ラストボロフの供述調書をとってきて、戦後最大のスパイ・ハントが始まった。
昭和三十五年(一九六〇年)、私が外事課に配置になった頃までには、ほぼ事件捜査は終わりを告げていた。
外務省のH氏はじめ、いわば空母、戦艦級の大物スパイたちはすでに検挙され、私はせいぜい駆逐艦、哨戒艇クラスの“落ち武者狩り”の捜査の一端に辛うじて参加したのだった。この大事件は、山本鎮彦氏に「ムッシュウ・ラストボロチン(シズヒコをチンヒコとよんで)」というあだ名がつく由縁となった。
狙われた東京五輪
さて、東京オリンピック真っ最中の昭和三十九年(一九六四年)の十月十三日、私は原・中国課長に呼ばれた。
「ソ連人の亡命者がでたようでしてね、ご苦労ですけど警察とのリエーゾンを頼みます」との指示を受けた。大変丁寧なもののいい方をされる課長なのである。
もちろん|否《いや》はない。香港行きのための語学研修や、自動車運転の講習に明け暮れる日々を送って退屈していた私は、張り切って古巣の警視庁外事第一課に飛んでいった。
「町田警部、ソ連人の亡命があったって? SE(ソ連大使館の符号)のやつか?」
「いや、SEじゃありません。船から逃げてきたんです。東京港の晴海埠頭に停泊しているソ連のオリンピック観光船ウリツキー号の乗組員です。きのう(十二日)仲間三人とショア・パス(一時上陸)であがってきて、東京タワー見物にいく途中で、トンダらしいんです。いま、外事課で本人の身柄を保護しています。
はじめアメリカ大使館にいって、それから西独大使館に逃げこんだらしいんです。
亡命希望先ですか? どうも自由な暮らしを求めて西独に行きたいといってるようですよ」と町田警部がいう。
ソ連船ウリツキー号は、四八七〇トン。百四十九人乗り組みの観光船で、さる十日午前九時、ソ連、アメリカ、イギリス、フランス、ノルウェーなど十五か国のオリンピック観光客二百一人を乗せて東京・晴海埠頭に接岸、オリンピック終了の二十四日、出港することになっているという。
「身柄は?」
「いま、どこそこホテルで保護しています」
「誰が担当?」
「磯貝誠です」
「ああ、彼ならいいね」
磯貝誠警部補は、私が第一係長だった頃から外事課にいる、いわば“ロシア・ハウス”の|主《ぬし》のようなベテランで、ロシア語もたん能な、最も信頼できる警部補である。
事件の経緯をきいているうちに、私は緊張した。ニコライ・クズミッチ・アンブロゾフ船長自身がソ連大使館に通報し、それを受けたシャーロフ領事部長が午前三時五十分に警視庁に出頭して公式に捜索願いを出したという。
さらにこれとダブって、ポカチョフ一等書記官が晴海埠頭を所管する月島警察署に現れて、捜索を依頼したらしい。
午前三時五十分という異例な時間に、シャーロフ自身がきたとあっては、これはただごとではない。ひらの船員ひとりの失踪にしては、取り組み方が大げさだ。
これは、KGBの将校に相違ない。さる八月、ソ連ボリショイ・バラエティーの芸能団員二人がアメリカ大使館に亡命を申し出た際には、こんな大騒ぎはしなかった。よほど重要な人物なのだ。
早速、その脱走船員の記録に目をとおす。
名前は、ヴィクトル・イヴァノヴィッチ・シシェリャーキン(Victor Ivanovichi Shishelyakin)。年齢二十八歳。ロシア共和国チュメニ州チュメニ市カリーニン街一三番地居住。四人兄弟の長男。一等乗組員……とある。
ソ連のKGBは、運転手だのコックだの、わざと目立たない下の方の身分の者に化けることを好む傾向がある。「一等乗組員」とはますます怪しい。
亡命の動機は、ソ連の窮乏した生活に我慢できなくなり、自由と規律のある西独に住みたいという、単純なものだという。
もしかすると、経済難民のふりをして西独潜入を狙うインフィルトレイター(相手国の組織にもぐりこむスパイ)かもしれない。
*
翌十四日になると、この疑念はますます深まった。この日、ソ連最高指導者フルシチョフの解任が、突然発表されたのである。
そういえば、ベリヤ内相が粛清されたとき、ラストボロフ亡命事件が起きている。きっとシシェリャーキンは、うすうすクレムリンの内情を知っていて、身の危険を感じて亡命した、第二のラストボロフかもしれない。
外事課“ロシア・ハウス”の面々の興奮がたかまるにつれ、私も興奮してきた。
「町田警部、こいつは大物だぞ、きっと。俺が警視庁外事課にいる間に起こりゃよかったのに。いまは外務省で、直接捜査に参加できないのは、なんとも残念だな」
「任せといてください“係長”。私も久しぶりにいい仕事、できそうで。あれからウリツキー号の船長が直接警視庁に掛け合いにきたし、ベズルカベニコフ参事官が法眼(晋作)欧亜局長に本人との面会、申し入れてきたんです。それから今度は大使ですよ。ヴィノグラードフ大使自身が黄田外務次官に電話掛けてきたってんですから、こいつ、相当な大物ですよ」
と、町田警部も張り切っている。
シシェリャーキンは、ショア・パスで一応合法的に入国したわけだが、十三日午前七時で期限切れになっているので、適用罪条は「出入国管理令第七〇条七号」の「不法残留」にあたる。
手続きとしては出入国管理令違反で逮捕して、東京地方検察庁に書類送致することになった。
政治亡命事件であるので、東京地方検察庁ではこれを不起訴処分にし、外務省の交渉を待って受け取り、受け入れ国に向けて強制送還することになることだろう。
育ちに疑問符が
そうこうするうちに、ソ連大使館のシャーロフ領事部長が正式に外務省に抗議してきた。
「国際法上、領事はソ連市民を保護し、その自由意思を確認する義務がある。日本政府もそのように取り扱うのが当然である」として、本人との面会を強く要求してきた。
また、「本人は健康を害しているから、人道上不法に身柄拘束している日本警察に対し、即時引き渡しを要求する」ともいったという。
とにかく、えらい力のいれようなのである。こりゃあ面白いことになった。よっぽど重要な人物なんだ。ウリツキー号の乗組員というのでは日本のソ連諜報網のエージェントではないから、日本人スパイの芋づる検挙はあまり期待できないが、ソ連の国際諜報ネットワークについて貴重な情報が得られるにちがいない。
こうなったら身柄、渡すものか。
猛然とアドレナリンがでてくる。
きっとマッチャン(町田警部の愛称)も張り切ってるにちがいない。その後の取り調べの状況、ききにゆくか。
勢いこんで外事課の大部屋に飛びこんでみると、町田警部がなんとなく浮かない顔して座っている。
「あれからどうなった? 何かわかったかい?」と私。
「いやね。それがどうもおかしいんですな。本当にありゃあ大物なのかなあ」と町田警部、首をひねってる。
「おかしいって、何が?」
「彼をかくまってるホテルで、夕食出したんです。鶏の片腿のソテーと、パンと、リンゴと、コカコーラってえメニューだったんですが、コカコーラ、これまで飲んだことないらしいんだね、警戒しちゃって飲まない。毒でも入ってると思ってるのかなと思って、磯貝君が毒見だといってちょっと飲んでみせた。そしたら、こわごわ少し口にふくんで、舌先でチョッチョッチョッて味わってみてから、こりゃいけると思ったらしくて、やっと飲んだっていうんです」
「それが、どうかした? どういうこと?」
「少しおかしいと思いませんか? ソ連じゃKGBってえのは特権階級でしょう。コカコーラはアメリカの有名な飲み物ですよ。戦後敗戦国のわれわれだって飲んだじゃないですか。それをやつ、これまで見たことも飲んだこともないらしい……」
「さて、それはどうかな。彼、チュメニ生まれだっていうから、ソ連のそんな田舎じゃコカコーラなんか売ってないんだろう」
私はせっかく“大物”がとびこんできたと喜んでいた矢先だったので、町田警部がシシェリャーキンの値打ちについてやや懐疑的なのが意外だった。なにを心配してるんだろう?
「それだけじゃないんです、“係長”。鶏の片足とパンの食い方が、がっついてて下品なんだって」
「そりゃ、きっと腹減ってたんだろう」
「そいでね、食い終わったあと、磯貝君が皿をみたら、しゃぶり尽くしてツルツルになった鶏の足の骨しか残ってない。リンゴは、芯も種もガリガリ食っちゃって、ほら、リンゴの実が木にぶらさがっているときのちっちゃな小枝っていうんですか、あれっきゃ残ってないんだって。KGBの将校だったら、そんな食い方しないでしょう?」
私は思わずふき出した。
リンゴは野菜や果物に乏しい極寒のソ連では大変なご馳走で、彼らは芯まで食べるという話はきいたことがあるが、鶏の足の料理はふつう少しは皮や肉が残るもので、白い骨がツルツルになるまでしゃぶるというのは、上品な食べ方ではない。
「だって、ヴィノグラードフ大使までわざわざ黄田次官に電話してきたっていうんだから、まさかただの乗組員じゃないだろうよ」
私はまだ「シシェリャーキン大物説」に未練があるものだから、一応反論を試みる。
「まだあるんです。KGB将校なら、制服着るときネクタイ締めるでしょう? ところがあいつ、ネクタイ、締めたことないらしいんですよ」
「どういうこと?」
「亡命者として保護したとき、機械油のしみた作業服姿で、シャツもボロボロだし、靴もひどいもんだったんですよ。その話をしたら、川島公安部長が気の毒がって、“ブラ下がりでいいから背広、ワイシャツ、ネクタイ、靴と、一式買ってやれ”っていうから、そうしたんです」
川島公安部長とは、現在プロ野球コミッショナーの川島広守氏のことである。人情家だから、惨めったらしい亡命者にすっかり同情したらしい。
「それで?」
「そうしたら、ネクタイ、自分で締められないんだそうで、磯貝君が締めてやった。しばらくしたらバス・ルームに入っていって、トイレかなと思って待ってても戻ってこない。磯貝君、ハッとして“もしかしたら首吊ったか、安全剃刀でやったか、しまった、目を離したのがまずかった”ってんで、バス・ルームのドアに体当たりして飛び込んだ」
……私は話の急展開に驚いて、
「えっ、それでどうした!!」とせきこんで聞く。
「そしたら、やっこさん、鏡の前で右から見たり、左から見たり、鏡に映る自分の姿に見惚れてやがった。ちゃんとした背広着たの、生まれて初めてだったんじゃないですか?」
私の心の中でふくらんでいた“大物スパイ”の夢は、急速にしぼんでゆく。
「それからね、さて寝ましょうとなったら、やつ、いっぺんネクタイをほどいてしまうと自分ひとりじゃ結べないもんだから、結び目ゆるめて、大きなワッカにして頭越しにはずして、ワッカの状態のままサイド・テーブルに置いてベッドに入ったそうです。翌朝目をさましたら、それを頭からかぶって、両端をひっぱって締めたっていうんです。だから、やつ、これまでネクタイ締めたことがないみたいで、もしかしたら、ホントのただの乗組員じゃないんですか?」
「そうすると、なにか? 警視庁はカスつかんで、それに背広買ってやったり、ホテルにかくまってただめし食わしてるってわけ?」
「そうなんじゃないかと思って、がっかりしてんですよ」と町田警部。
さあ大変だ。もしもなんの値打ちもない、ただの乗組員だとなると、アメリカも西独も引き取ってくれないだろう。
そうなると警視庁はいつまでも彼を飼い殺しにして、ホテル代や食事代を捜査費で支払い続けなければならないことになる。さりとて人道上、ソ連に引き渡すわけにはいかない。参ったな、これは。この話をきいたら、あの人の好い川島広守公安部長も、さぞがっかりするだろう。
「それで、これからどうする気だ?」
「なんとか西独に引き取ってもらわなくちゃあね。憂うつなんですよ、私も」
門出に警視庁の餞別
外務省に戻って、西独との交渉の進展状況をきいてみると、西独は「さし迫った危険による政治亡命とは認め難い」といって、引き取りを渋っているという。
一方、ソ連大使館の執拗な面会要求が続いているそうで、外務省も困ってしまった。
結局、十月十五日夕刻、外務省の霞友会館で外務省と警視庁の係官の立ち会いの下、一回だけ、十分以内、説得はしない、という条件で、シャーロフ・ソ連大使館領事部長とシシェリャーキンを会わせることになった。だがシシェリャーキンの亡命の意志は固く、私たちが心ひそかに望んでいたように、翻意してソ連に帰るとはついにいわなかった。
*
その後、西独との交渉がうまく進んで、シシェリャーキンは国際難民救済団体の肝いりで、彼らの基金によって旅費を支給し、「自費出国」という形で、西独フランクフルトにある国連難民収容所入りすることとなった。
旅券を持たない彼に対して、在日アメリカ大使館が「渡航証明書」を交付し、西独がこれを受け入れる。日本政府は出入国管理令違反の不法残留は「微罪」とみなして不起訴処分とし、本人に出国勧告を行うという法的手続きによって彼を離日させることとなった。
十月十五日夜十時、鶏の足を骨がツルツルになるまでしゃぶり、リンゴを小枝だけ残して芯まで食べ、コカコーラの味も覚えたシシェリャーキン君は、オランダ航空(KLM)機で西独に向け、羽田空港から出国した。
翌日の新聞写真で当夜の彼のいでたちをみて、私はあれっ? と思った。おニューのパリッとしたレインコートを着、片手にソフト帽まで持っている。
颯爽たるその姿からは、ネクタイを自分で結べずにワッカにしたネクタイを頭をくぐらせて着脱していた、滑稽な乗組員という実像は想像もできなかった。
人の好い警視庁は、背広やワイシャツ、靴、ネクタイだけでなく、レインコートとソフト帽まで、新しい人生への門出の餞別としてプレゼントしてやったのである。
*
かくて香港赴任前に、ソ連KGBの大物の亡命事件を一件、手がけてやろうと張り切っていた私は、また元の語学研修や自動車運転の教習という、退屈な日常生活に戻ることになった。
しかし、このシシェリャーキン事件は、なぜか私の頭の片隅になにか納得できない謎として残った。
彼がもし、本当になんの値打ちもない、ひらの乗組員だったとしたら、なんでヴィノグラードフ大使やベズルカベニコフ参事官、シャーロフ領事部長などという在日ソ連大使館の大立物たちが、あんなに真剣に、執拗に、彼の身柄引き渡しを迫ったのだろうか。
民族の祭典、東京オリンピックという晴れの舞台で「非人間的で窮乏した共産主義社会がいやになり、自由と秩序のある西独に憧れた」ソ連の青年が亡命するという事態が、ソ連の体裁を傷つけると考えたためだろうか。
あるいは、亡命者をみすみす見逃すと自分たちの失点になるという、官僚的な保身のためのジェスチャーにすぎなかったのだろうか。
いずれにせよ、シシェリャーキン事件は、ホームランボールだと思ってフルスイングした警視庁外事課の大空振りに終わった。
*
後年、フレデリック・フォーサイスの『第四の核』や『悪魔の選択』、ル・カレの『ロシア・ハウス』など、KGBスパイ小説を読むうちに、チラッとある考えが心をかすめた。
あのシシェリャーキン事件は、もしかしたら西独にスパイを送り込むための、手のこんだ「インフィルトレーション(Infiltration=スパイ用語・敵国に対するスパイ潜入工作)」の高等戦術だったのではあるまいか、という疑念である。
もし演技だったら
シシェリャーキンが亡命したとき、もし在日ソ連大使館が関心を示さなければかえって治安当局の疑惑を招くだろう。いかにも重要人物の亡命であるかのように大使以下が大騒ぎをしてみせる。そうすると日本側は、彼を大物スパイだと思って過大評価をする。
ところが、当の本人がバカの役を演じてみせると、失望した治安当局は、早く厄介払いをしようとして西独の難民キャンプに送りこもうとする。
西独もそんな下級船員では政治亡命者として扱うわけにはゆかないが、人道上ほうってもおけないから難民キャンプなら受け入れてもよいと考える。
そうなると、ソ連KGBは楽々とエージェントを西独に合法的に入国させられる。そしてあわよくば、お人好しのアメリカが彼の入国を許可し、永住権を与えるかもしれない。……こういう読みをしてみると、シシェリャーキンはやっぱり下級船員に身分偽変した、KGBの優秀な将校だったのかもしれないと思えてくるのである。
スパイとスパイ・キャッチャーとの水面下の闘いの虚々実々は、まさに小説より奇なるものがあり、あの事件はまるっきりバカげた買いかぶりと思い入れによる“大空振り”だったのかもしれないし、あるいはKGBが緻密に考え出した新機軸の潜入工作だったのかもしれない。
もしも本物のスパイだったとすれば、リンゴの小枝と鶏の骨しか残さず、ネクタイの結び方さえ知らないふりをしたヴィクトル・イヴァノヴィッチ・シシェリャーキン君の演技力は大したものといわなければならない。
あれから早くも三十年以上の歳月が過ぎ去った。
当時二十八歳だった彼も、いまでは六十歳近い年齢に達している。
一九九〇年十月三日、念願の統一を果たしたドイツのどこかで、案外平凡に孫の赤ん坊でもあやしているのかもしれない。
あるいは、冷酷非情な元ソ連KGB機関員としてアメリカあたりに潜んでいるのかも――。もし、彼が演技力抜群な優秀なエージェントだったとすれば……である。
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トラの檻に放りこまれたキツネ
魔女狩りの歯車回る
ソ連保守派のクーデター失敗、共産党の解体で、強権と恐怖の象徴だったKGBが崩壊した。
そんな中で民衆の間から、この、“秘密警察”への復讐、魔女狩りの危険性がでたが、平成二年(一九九〇年)十月三日、歴史的な統一を実現した東西両ドイツでも、似たような状況が現出した。
喜びにわく東独市民の中で、共産党政治家、役人、軍人、さらに裁判官、検事、弁護士、技術者などは、議席を失い、あるいは解任され、資格を剥奪されて沈みこんでいたのだった。
旧体制の特権階級たちの前途は絶望的だった。
その前年の歴史的なベルリンの壁崩壊の瞬間を、わずか数日ちがいで目撃しそこねた私は、統一約三か月前の七月一日に実施された“強い西独マルク”と“弱い東独マルク”の通貨統一の日を、この目で見ようと、ポーランド経由で東ベルリンを訪れ、はからずもその実態を目の当たりにした。
爆撃機を改造したんじゃなかろうかと首をひねりたくなるソ連製のイリューシン型プロペラ旅客機LOT一六一便というガタガタの飛行機に、闇物資を山のように背負ったポーランド人の闇屋たちと一緒に詰めこまれて、東ベルリンに向かう。
激しく上下左右に動揺して|軋《きし》む機体。入国カードは? ときいてもスチュワーデスも誰も英語は通じない。
まあなんとか無事に東ベルリンのシェーネフェルト国際空港に着陸したとき、ポーランド人乗客が一斉に拍手した。彼らも彼らなりに心配していたのだろう。
空港に降り立つと、乗客はみな足早にパスポート・コントロールの行列に加わる。驚いたことに、ほとんどノー・チェックの素通りではないか。税関吏も荷物を見ようともしない。
持ち込み外貨の申告書は? と探すが、どこにもない。
機上で入国カードを配ってくれなかったのも道理、東ドイツ政府の官憲はほとんど職務放棄状態なのだ。
街に入ると、通りは旧式でデコボコ、|埃《ほこり》まみれ、黒いナンバープレートのポーランド人たちのトラック、ワゴン、セダンで交通大渋滞。
いたるところの道端で闇市を開くトルコ人たち。大道では黒・黄・赤に|槌《つち》と麦穂マークの東独国旗、ソ連軍兵士の軍帽、東独軍や国境警備隊のブルーや褐色の制帽、制服、勲章、階級章などが叩き売りされている。
まるで終戦直後の廃墟と化した東京を|彷彿《ほうふつ》とさせる大混乱だ。
街角に立つ警察官も、交通整理さえしようとしない。
東独マルク紙幣はもはや紙くず同然、銀行の前には七月一日の前に西独マルクに交換しようとする市民が長蛇の列だ。
ブランデンブルク門周辺は、トルコ人たちとポーランド人たちの青空闇市。
あれほど厳重だった西ベルリンへのたった一つの通路、チェック・ポイント・チャーリーも、ほとんどノー・チェックで車が出入りしている。
一体この姿はなんだろう? あの強大さを誇った東独秘密警察シュタージは、どこへ行ってしまったのだろう?
*
一九七三年の冬、「ベルリンの壁」越しに西側から垣間見た、国境沿いの雪におおわれた無人地帯の厳重な警備ぶりと、陰惨な街並みの記憶が|甦《よみがえ》る。
マシンガンを据えた望楼の上で、四六時中双眼鏡で壁を監視している国境警備隊員。獰猛そうなシェパードを連れたパトロールの兵士。壁を乗り越えて西ベルリン側に逃亡しようとして射殺された哀れな東独市民の霊を弔う、壁面の黒十字架とそれに捧げられた小さな萎れた花束……。
この様変わりぶりは、一体どうだろう?
降格された前大使
前駐日・東独大使ディーター・イェーガー氏に、駄目でもともとの“ダメモト”精神で面会を申し込んでみた。イェーガー前大使は、東独外務省の「カナダ・北米・日本・オセアニア局長」という、とんでもなく守備範囲の広い局――ということはそれほど東独にとっては重要でないということなのだろうが――の局長に昇進しているときかされてきた。
目下多忙でとても会えまいと思っていたら、案に相違してすぐアポイントメントがとれた。
東独外務省の受付もノー・チェックだった。
そしてイェーガー“局長”に会ったところ、なんと二、三日前に「日本課長」に降格になっていたのである。日本課長のリュッツ・クライネルト氏は課長代理に格下げとなっていた。イェーガー“課長”は意気消沈のていで、「今年中に私は失職する」と寂しそうに語った。
きけば裁判官も検事も弁護士も、みんな資格を失って失業だという。それもそうだろう。私有財産権を認めない東独の法律を学び、それぞれの資格を取得した法曹関係者は、所有権を認める西独の法律が適用となる統一ドイツでは、民法も商法もわからないわけだから、失業するのももっともだ。
SE(システム・エンジニア)はプログラマーに格下げだという。「救済のための経過措置はないのか?」ときくと、「もう一度西独の司法官試験を受け直して、それに合格すればよいのだそうだ」との答え。
外交官も失業。とくにモスクワ大学卒業生はパージ(追放)だという。軍人も将校はほとんど失業。東独空軍のエリート・パイロットたちも同様で、最新鋭のソ連製ミグ29戦闘機隊だけはルフト・ワッヘ(西独空軍)に編入される方針だという。
あれだけの長い間、独裁者として東独に君臨していたエーリッヒ・ホーネッカー元国家評議会議長が公金着服と人道上の罪で追われる身となり、東独駐留ソ連軍の病院に逃げこんでかくまってもらっているという異常事態なのだから、政界、官界、軍部などあらゆる分野でのエリートたちが、出世の道と思ってのぼって行った階段が、突然オーバーにいえば絞首台への十三の階段だった、となるのも当然だろう。
「私は生涯のうちに二度、敗戦を経験した。最初は一九四五年。そして二度目は一九九〇年だ」とつぶやいたイェーガー前大使の言葉の意味がよくわかる気がした。
国家の中の国家
なかでもいちばん悲惨な運命に見舞われたのが東独秘密警察・諜報機関「シュタージ」(Stasi)の面々だった。
「シュタージ」とは、国家保安(Staatssicherheit)省の通称である。
エーリヒ・ホーネッカー国家評議会議長直属のエーリヒ・ミールケ国家保安相が育てあげた世界最強の“KGB”の一つだ。
ミールケは千軍万馬の八十二歳のオールド・ボルシェビキ。一九五七年から一九九〇年十一月の内閣総辞職まで、三十二年間にわたって、「シュタージ」を支配したドイツ版ジュセフ・フーシェである。
この二人の「エーリヒ」は、大モルトケ、小モルトケのように「大・小エーリヒ」とあだ名されていたようだ。
シュタージはいわば国家の中の国家で、ホーネッカーの後継者クレンツ書記長にでさえ、その活動内容は知らされなかったといわれている。
機関員は正規職員八万五千人、協力者十万九千人と発表されたが、協力者の実数は数十万人に達するとみられ、デメジエール前東独首相も、ベーメ前東独社民党(SPD)党首も、その「協力者」だったとの疑惑によって失脚している。
この強大な機関は、ソ連KGBと同様、“剣と盾”の両機能を併せもつ秘密警察・諜報機関だった。
国内の監視体制は厳しく、電話の盗聴、手紙の開封検閲、密告などあらゆる手段を駆使して東独国民の言動を監視し、同機関が保管していた個人情報ファイルは、東独の成人人口一千万人の二人に一人に及ぶ五百万人という膨大な数にのぼったという。
また、その保有する武器は、拳銃二十万挺、三千六百挺のマシンガン、三千五百門のバズーカ砲、その他ヘリコプター、装甲車両など、人民軍に次ぐもので、恐るべき武装集団でもあった。
“剣”の機能としては、その諜報活動の主力は西独とNATO諸国に指向されていた。
一九七四年に当時のブラント西独首相を辞職に追いやったのは、彼の個人秘書がシュタージのスパイであったことが発覚した、いわゆる「ギョーム事件」だった。
このように、国内外で絶対専制国家体制を支える超法規的な権力の乱用をほしいままにし、恨みを買っていた憎まれ役が、突然権力の保護を失って街に放り出されたのだから、その結果は想像にかたくない。
あたかもウサギやリスなど、か弱い小動物をいけにえにしてきた、狡猾で残忍なキツネが、虎の檻に放りこまれたようなもので、八つ裂きにされてしまうのもあたりまえの話だ。
とくに、海外で「特別任務(OIBE)に従軍していたシュタージの将校二千人(在外公館で外交官身分で行動していたスパイは、一九九〇年八月の時点で五百八十二人)の運命は、まさに悲劇的だった。
東西両ドイツの統一は、いかなる意味においても“対等合併”ではない。西独による、破産し、壊滅した東独の併呑である。
したがって東独のスパイたちにとっては、西独のスパイ・キャッチャーたち――憲法擁護庁(“盾”のFBIに該当)、連邦情報庁(BND・“剣”のCIA該当)、あるいは西独軍防諜部(MAD)などが待ち受けている取り調べ室に送りこまれるという、最悪の事態を迎えたにひとしい。
シュタージが使ったアジト、秘密監視所などは九千五百か所。同本部の第八号館のファイリングセンターに厳重に保管されている個人・団体資料などは、ならべると百キロメートルに及ぶ量だと伝えられる。
干上がった池の鯉
シュタージの暴虐に長い間耐えてきた東独市民の怒りの爆発は凄まじいものだったようだ。
一九九〇年一月の民衆ほう起による共産党政権打倒につづいて、峻烈なシュタージ狩りが始まり、シュタージ本部は襲撃され、職員は路上で袋叩きにあう始末だったという。
旧知の西独防諜機関幹部に会ったとき、その幹部は笑いながら、こう話していた。
「干上がった池で、逃げまどう魚をつかみどりしてるようなものだ。優秀なシュタージはソ連KGBが再雇用して、どんどんソ連に亡命している。西独の政府機関でも次々と東独スパイが逮捕されている。西独のテロリスト・グループ、赤軍派“バーダー・マインホフ”の残党を、東独でシュタージがかくまっていた事実も発覚した。気の利いたシュタージは、摘発されないうちに罪を軽くしてもらおうと、こっちの手の中に飛びこんでくる。私も長い間防諜部に勤務したが、こんなに面白い時期はない」
事実、彼のいうとおり、一九九〇年には西独政府の枢要な機関に巣くっていた東独シュタージの大物スパイが、次から次へと逮捕された。
十月八日、連邦情報庁(BND)の女性局長ガブリエレ・ガスト(47)が逮捕された。ガスト局長は、一九六八年以来シュタージのエージェントだったが、一九七三年、西独連邦情報庁潜入に成功した。それから十七年間、第一級の極秘情報を東独に流していた。
とくにコール首相になってからは、「首相事項」とよばれる最高機密情報の作成に参加する局長の立場にあった。
コール首相がその報告を読むより先に、東独シュタージがその報告を読んでいた、とさえいわれる重大な機密漏洩事件で、ブラント首相のギヨーム事件よりも大きなスパイ事件だった。
その二日後、西独憲法擁護庁に潜入し、二十八年間にわたって東独スパイ防諜対策に従事していたクラウス・クロン(54)が検挙された。
クロンは経済的理由から一九八二年以来、情報をシュタージに流しはじめ、約五十万マルク(邦価約四千五百万円)の報酬を得ていた。
彼は同庁のすべての極秘文書にアクセスを持ちうる立場にいた。
クロンは憲法擁護庁で“二重スパイ”担当官だった。二重スパイのマスター・スパイ本人が東独のスパイだったという、まことに複雑怪奇な立場にあったわけで、情報戦争の地下活動の陰惨さを物語ってあまりあるものがある。
発覚のきっかけは、本人の自首だったらしい。東独シュタージが解体されたあと、ソ連のKGBが彼をリクルートしようとして接近をはかり、クロンは意を決して上司にスパイ活動を行ったことを告白して逮捕された。
武士のナサケの“|寸止《すんど》め”
統一後、西独政府機関や軍部に潜入していて逮捕されたシュタージのスパイは、すでに二十人にのぼっており、西独政府はなお潜んでいるであろうスパイたちに向かって、任意出頭して自首するように呼びかけている。
世界の諜報史上、「シュタージ」の悲劇は、あまり前例のないケースだ。
敗戦国の情報機関が解体され、戦勝国によるスパイ狩りが行われたケースは、日本もナチス・ドイツも経験したとおり、ままあることだ。
だがそんな場合は、機密書類を焼却したり、自国のスパイたちの記録を抹殺したり、逃亡させたり、当該国の政府がなんらかの保護策を講じてくれるものだ。
だが、シュタージの場合には、トップのホーネッカーからデメジエールまで、ソ連軍キャンプに亡命したり、訴追されたりしてしまい、大きな政治変革のうねりの中で東独という国家自体が地球上から消え失せてしまったのだから、|庇《かば》いようがない。
まさに“分裂国家”の悲哀である。
十数万人の非公式協力者たちも、事実が白日の下に|曝《さら》されれば職を失うだろう。
東独政府の元閣僚のうち、少なくとも五人がシュタージと関係があったとうわさされ、東独人民議会の議員のうち、五十人以上がシュタージ協力者だったという疑いを受けたといわれている。
前にふれた西独防諜機関の幹部の話だと、東独政府は、はじめシュタージのいっさいの秘密書類を、ルーマニアのチャウシェスク大統領に引き取ってもらうことを考えていたらしいという。ところが意外に|脆《もろ》くルーマニアのチャウシェスク政府が崩壊してしまったため、この案はオシャカになった。そして、次はブルガリア、アルバニアなど、まだ共産主義全体主義政権が存続している東欧諸国に打診したが、実らずにいるうちに急速にドイツ統一が実現してしまったという。
その西独スパイ・キャッチャーは、こうもいった。
「こんな調子で徹底的に捜査すると、合併後の東独はめちゃめちゃになって失業者だらけになってしまうだろう。多分、悪質な者だけ重点的に逮捕したり追放したりして、ある段階で押収資料の保管倉庫に封印をほどこして不問に付すことになるのではないか」
ドイツ流の徹底的・緻密な調査をやると、多くの有為の人材が再起不能の打撃を受けることになるので、剣道でいう“寸止め”(撃ち込みの太刀を一寸手前で止めること)で事態を収拾するというのが、新・統一ドイツ政府の最終方針のようだ。
クブリツキー事件
東ベルリンの街をひとりで歩きながら、私は今昔の感に浸っていた。
かつて対諜報任務に就いていた元警視庁・警察庁外事課長として、入国審査も所持品検査もきっと特別に厳しく、時間をとられるだろうと覚悟しての訪独だった。
「どこに泊まる? 誰に会う? 目的は? 何日滞在する?……」
こういう入国管理の“シュタージ”係官の質問に対する答えも、頭の中で想定問答を作成ずみだった。
旅行カバンの中にはとがめだてされて問題にされるおそれのあるものはいっさい入れず、手帳もま新しいのを携行した。
当然尾行も盗聴も覚悟していた。
ところが、一体この無秩序ぶりは何だ。こういうのを「無政府状態(アナーキー)」というのだろう。
最後の駐東独日本大使新井弘一氏は長い間の親友である。
同大使に会ったとき、
「なんでちゃんと私の入国審査をしたり、視察対象にしないんだろう。拍子抜けだよ。全くなっておらん」
というと、同大使は笑い出して、
「うるさくつきまとわれたってぇ文句はウンときいたけど、変な苦情だね。大体東ドイツは消滅したって何回も報告しているのに、日本ではまだ東独政府というものが存在していると錯覚しているんだよ」という。
そういわれてみれば、そのとおりだ。
もともと東独の“シュタージ”は、日本にはあまり関心がなかったようだ。最大の諜報活動対象は、すでにのべたとおり西独、次はNATO諸国だったのだ。
思い起こすと、東独シュタージの対日スパイ事件は多分あったのだろうが、検挙された事例はない。
ただ昭和四十九年(一九七四年)、神奈川県警察本部外事課が検挙した、チェコスロバキア諜報機関のエージェントとみられる「クブリツキー事件」の捜査の過程で、本人の供述の中に“エゴン・ハイム”という名の、多分“シュタージ”のマスター・スパイと推定される謎の人物が登場したことがある。
当時私は、警察庁警備局外事課長だった。
無国籍者、クブリツキー・L・J(29)のスパイ事件である。
この事件は、チェコスロバキア生まれのチェコ空軍兵士、クブリツキーが、昭和四十八年(一九七三年)十二月二十七日、不正に入手した他人名義の英国旅券に自分の顔写真を貼りつけて偽造し、羽田から不法入国し、在日ソ連大使館付武官補佐官フョードロフ・G・N(40)の指示を受けてわが国の軍需産業情報の収集にあたったという事件である。
クブリツキーは、チェコスロバキアに生まれた。チェコ空軍に入隊したが、二十歳のとき脱走してオーストリアに逃亡した。
その後クブリツキーは西独に亡命して定着し、NATO英国警備兵として入隊した。
その頃、彼はチェコ情報機関の接触を受け、両親の安全及び脱走罪の免罪を条件に、チェコ情報機関の指令に服従することを誓約させられ、NATO欧州軍情報収集などのスパイ活動に従事することとなる。
そのくだりの供述の中に、謎のマスター・スパイ、東独シュタージ機関員と思われる「エゴン・ハイム(Egon Heim)」という怪人物が登場したのだった。
幻の怪人エゴン・ハイム
彼の供述によると、クブリツキーがNATO英国軍警備兵として西独で勤務していたある日、「エゴン・ハイム」と名乗るドイツ語で話す人物が接近してきて、彼を脅迫したという。
「エゴン・ハイム」という名をきいたとたん、私は戦前のドイツの名性格俳優フォン・シュトロハイムのことを思い出した。
|短躯《たんく》ながらがっしりした体格。剃り上げた坊主頭。猪首をグイっとそらして一気にショット・グラスのシュナップス(火酒)を喉にほうりこむような動作でのみほすシュトロハイムの姿が、“エゴン・ハイム”という名前にオーバー・ラップして、私のイメージに浮かんだ。
東独シュタージのエージェントの影がさしたケースは、私の扱った限りではこれが初めてだった。
クブリツキーはその後、マスター・スパイの新たな指示により、米国に移住してエージェント候補の選定などの任務を遂行してきたが、日本女性と同棲するようになってスパイ人生に嫌気がさし、スパイ組織離脱を決意してカナダに脱出した。
しかし、チェコ情報機関は執拗に彼を追跡して捕捉し、生命の危険をほのめかした上で「日本に偽名で入国した上、新聞に求職広告をして、ある人物と接触せよ」と指示され、すでにのべたように日本に不法入国したのだった。
その後、指示どおりに新聞広告をしたが、その広告をみて現れたのがソ連のGPU(軍情報部)の在日ソ連大使館付フョードロフ武官補佐官だったのである。
こうして彼はフョードロフから無線機と工作費を渡され、日本の軍需産業情報収集のソ連スパイとして再びスパイの世界に引き戻された。
だが、将来を考えると不安になり、昭和四十九年二月十一日、身辺保護を求めて神奈川県警察本部に自首したのであった。
海外情報「該当なし」
詳しくは第十八話「ネグシ・ハベシ国大使の犯罪」でふれるが、こういう“クブリツキー供述”ぐらい厄介なものはない。
チェコで生まれて二十一歳までチェコ空軍兵士。オーストリアに亡命。こんどは西独に入国してNATOの英国軍に入隊。そこで東独シュタージのエージェントと推定される人物“エゴン・ハイム”にリクルートされて、チェコ情報機関のために対NATO軍事スパイとなる。そこから別命によりアメリカに赴き、スパイ活動に従事したが、日本人女性と同棲、組織離脱を決意してカナダに亡命。
そこでまた居所をつきとめられてチェコ情報機関員の脅迫によって「英国人」に化けて日本に不法入国。そしてソ連大使館付武官補佐官フョードロフの指揮下に入って対日ソ連スパイ……。
全く“外事課泣かせ”のスパイ・ストーリーなのだ。
関係国だけでもチェコ・オーストリア・西独・英国・アメリカ・カナダ・ソ連と七か国。エゴン・ハイムという人物が東独シュタージ機関員だとすると、東独が加わるから八か国となる。
もちろん、チェコ・東独・ソ連については東側だから調査のしようがない。
このこんがらがった供述のウラをとらなくてはならない。さりとて、この程度の事件では、欧米各国に捜査員を派遣して裏付け捜査をやるほどの値打ちもないし、当時の外事課には海外出張費も捜査費もない。
「費用対効果」という観念は、どこの組織にも厳存するルールなのである。
舌打ちする思いで各国対諜報捜査機関への文書照会の準備をする。
もしかすると“エゴン・ハイム”なるドイツ人が欧米でその筋にはよく知られたマスター・スパイである可能性もある。
“ダメモト”精神でやってみよう。スパイ罪のない日本では、このての事件はどうせまた出入国管理令、外国為替管理令などの違反事件で、懲役一年に決まっているから、ファイトは出ないが、西側の諸国においてはスパイ罪は死刑をふくむ重大犯罪だから、日本にとって価値がなくても西側諸国の参考情報になるかもしれない。
このての仕事には無駄骨折りはつきもの。オーストリアとカナダはあまり関係なさそうだから、西独、英国、米国に照会してみることにした。
一九七四年は、前にのべたように西独のブラント首相の秘書ギヨームが、実は東独シュタージのスパイで、西独政府の極秘情報が東側に筒抜けだったということが発覚して、大騒ぎとなり、ブラント首相が退陣に追いこまれ、東独“シュタージ”の存在がにわかにクローズアップされた年である。
*
まず英国から返事がきた。
「NATO軍の英軍部隊に、クブリツキーなるチェコ人が兵士として採用された事実なし。基地警備のガードマンと思われるが、調査不能。“エゴン・ハイム”なるドイツ人について該当する資料なし」
*
やがて西独から回答がきた。
「エゴン・ハイムなる人物、該当なし。
チェコ人クブリツキーについても関連情報なし」
*
そして、アメリカからも返事があった。
「米国に関するかぎり、クブリツキー、“エゴン・ハイム”、両名とも該当なし」
さらに電話による口頭の回答があった。
「念のため、西側各国の防諜機関にも照会してみたが、答えはネガティヴ。どうもそのクブリツキーのいう“エゴン・ハイム”という人物は、実在しないのじゃないか」
*
やっぱり……。だが日本警察の立場からいえば、偽造旅券による不法入国、外国人登録法違反(英国人と偽って外国人登録)の二件があれば、事件として立件送致できる。
“エゴン・ハイム”という名前は、いかにもフォン・シュトロハイム演ずる異相のドイツ人らしくて気に入っていたのだが、こうなるとクブリツキーの供述の裏付けをするすべもない。
*
無国籍者、クブリツキー・L・Jは、昭和四十九年(一九七四年)七月二日、横浜地方裁判所において出入国管理令、外国人登録法違反で、懲役一年、執行猶予三年の判決を受けた。
*
平成三年(一九九一年)八月二十二日、ソ連保守派のクーデターが失敗に終わり、改革派を倒すためのクーデターが逆に保守派自らに対する“クー・ド・グラース(止めの一撃)”になってしまったとき、これはえらいことになったな、とくにせっかく政治庇護を求めてソ連に亡命したシュタージの残党にとっては、気の毒な話だなと思った。ほうほうのていで逃げこんだ隠れ家がまた安全でなくなったからだ。
果たせるかな、ホーネッカー元東独議長に対して、ドイツ政府が、ベルリンの壁を越えて逃げようとした東独市民の射殺命令を出したかどで、ホーネッカー元議長の身柄の引き渡しを求め、エリツィン・ロシア共和国大統領がこれに応ずる気構えを示したり、元シュタージ長官の召喚問題が起きたりしている。
ホーネッカー元議長は、モスクワ駐在のチリ大使館に政治庇護を求めたり、北朝鮮亡命の可能性を打診したりして話題になった。
平成三年十一月二十一日、私は訪独の機会に、旧知のその筋の高官に、「シュタージはその後どうなっている?」とたずねてみた。
というのは、ミュンヘンの一夜、その旧友と夕食を共にしたのが「プラッツル」というナチス・ドイツ時代から伝統的に政治批判をテーマとするショーを続けていることで知られる大衆的なビアホールで、その舞台に登場したコメディアンが「かつての東独のシュタージたちは、いまタクシーの運転手になっている。彼らの車に乗ると便利だよ、名前を名乗ると番地をいわなくても連れてってくれるから」などとやって満場を爆笑させていたからだ。
きっと彼らは|落魄《らくはく》の日々、傷心の毎日を送っているにちがいないと思っていたところ、その旧友は、「いや、シュタージたちは“われわれは国家のために奉仕してきた。それが不当に解雇され、市民の指弾を受けている。われわれはまちがっていない”と、あまり反省していない。彼らは優秀なエリート集団で力量のある者が多い。それが政情の激変で仕事を失ったことに非常に強い不平不満を抱いている。
彼らの一部は地下に潜行し、反政府的な政治秘密結社をつくろうとしていて、厳重な監視を要する」と語った。
これをきいて、やっぱりドイツ人はドイツ人なんだなと考えさせられた。
ナチス・ドイツが完膚なきまでに敗北し、組織が崩壊したあとも、旧ナチス党員たちは地下に潜行してネオ・ナチの秘密組織をつくり、第三帝国の再興を夢みて長い間反体制活動を続けていた。
いま、ネオ・ナチではなくて、「ネオ・シュタージ」が結成されつつあるとすれば、これは統一ドイツが貧しい一千七百万の東独国民とともに抱えこんだ、新たな政治上、治安上の課題となるだろうと思ったものだった。
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中国の情報活動は“上忍”
東夷には謀りごとをめぐらせ
昭和四十八年(一九七三年)一月三十一日、中華人民共和国の代理大使・米国釣氏ら一行十七名が羽田の土を踏んだ。
そして二月一日、ホテル・ニューオータニ十五階の十二室を借りていよいよ仮の中国大使館が開設された。
中華民国と断交して日中国交正常化をはかった外交方針の大転換を快しとしない右翼諸団体は、「暴に報いるに暴を以てせずと、日本軍部の罪を寛恕してくれた介石総統の恩を忘れ、共産主義世界革命を目指す毛沢東の“中共”を承認するとは何事か」と、連日激しい抗議闘争を展開し、ホテル・ニューオータニ周辺は物情騒然となり、機動隊の厳重な警戒配備が行われたことは前にものべた。
制服部隊による違法行為防止のための警備措置もさることながら、警察庁外事課長だった私にとっての最大関心事は、中国の対日諜報活動の活発化のおそれだった。
スパイ取り締まりは法規もなく、第二次反安保闘争の|余《よ》|燼《じん》がくすぶり、日本赤軍などの海外ハイジャック事件や爆弾テロ対策に主力を向けざるをえない治安情勢の中にあって、ただでさえ劣勢でソ連・東欧・北朝鮮の対日諜報活動の取り締まりだけで手一杯のところへ、新たな共産主義大国である中国のそれが加わったら、大変である。
当然のこととして増員要求や捜査費の増額要求をしたが、昭和四十七年(一九七二年)の年末恒例の予算ぶんどり合戦では一敗地にまみれ、日本の対諜報取り締まり機関である外事警察は、現定員と予算のままでこの新たな脅威に対処せざるをえない羽目となって、私はどうなることやらと憂うつだった。
なにしろ、三国志を読んでも、中国革命の近代史をひもといても、漢民族は名だたる諜報謀略活動の華麗な実績をもつ強敵である。
昔、中国には三国志の諸葛孔明のような大軍師がいた。
その諸葛孔明は、あるとき子弟たちから|東夷《とうい》・|南蛮《なんばん》・|西戎《せいじゆう》・|北狄《ほくてき》という中華思想からみて「|東夷《とうい》」にあたる日本について、「倭の国を破る手だてはいかん?」と問われたとき、
「倭の国は|慓悍《ひようかん》勇武、正面攻撃をすると恐るべき敵だが、謀りごとをめぐらし、内通者を獲得し、後方から攪乱すると分裂して容易に破ることができる」と説いたという。
なにしろ昭和四十七年当時でも人口が七億人(いまは十二億人といわれる)もいれば、諸葛孔明の現代版みたいな大謀略家もいるにちがいないのだから、本腰をいれて対日工作が始まったら現有勢力では受け太刀になること必定と、私たちは心配したのだ。
ただのけしからん罪
中国の情報機関は、三系統あるといわれてきた。
第一が「中国共産党中央調査部」
二つ目が「国務院国家安全部」
三つ目が「人民解放軍総参謀部第二部」
がそれである。すなわち、党系統、政府(行政)系、軍部系の三系統である。
これら機関の要員は、海外で活躍する大使館の外交官、駐在武官、友好団体、公司(商社)、報道関係者、留学生など、さまざまな身分をカバーとして、日本の政治・外交・防衛・科学技術など各分野にわたって政治工作や情報収集にあたっているとみられている。
「みられている」というのは、中国の場合はソ連や北朝鮮とちがって、スパイ事件の検挙件数が少なく、その活動の実態を解明するデータが十分でないからだ。
中国の情報機関による諜報活動と判断されるスパイ事件は、警視庁の事件簿にはわずか三件しか記録されていない。
一つは「汪養然事件」である。
昭和五十一年(一九七六年)一月二十六日、警視庁外事第二課は香港在住の中国人貿易商、汪養然(54)を、「外国為替及び外国貿易管理法違反」で逮捕した。
汪養然は上海に生まれ、その後香港に渡って貿易商を始め、五十歳をすぎる頃には貿易商社を三社も経営する大陸系華僑の成功者となった。
彼は中国大陸の産物の対日輸出などを扱う、日中貿易を手広く行っていた。
が、昭和四十六年頃、中国情報機関が汪に接近し、「香港において中国と取引する中国人貿易商は、祖国の防衛と建設に協力する義務がある」と働きかけ、日中貿易を続けさせる見返りとして、日本で軍事・産業・科学技術などの情報収集活動を行うよう指示した。
その後汪養然は、香港華僑を装って頻繁に来日し、内妻宅をアジトに日本人エージェント数人を“運用”しながら、中ソ国境地図などのソ連関係情報、外国の航空機エンジンなどに関する技術情報、日本の政治・経済・技術情報など、幅広い情報収集活動を行っていたのである。
昭和五十一年二月十六日、東京簡易裁判所は――簡易裁判所でスパイを裁く国は日本以外にないのだが――汪養然に対し、「罰金二十万円」の判決を下した。
次の事件は、科学技術関係データの中国流出事件である。
昭和三十七年頃、日本電信電話公社(現・NTT)職員Aは、友人の勤め先だった内神田の中国書籍専門店の社長Bから、民間企業の技術開発関係の資料を見せられ、「電電公社にお勤めならこんな資料は容易に入手できるでしょう。持ってきてくれれば買いますよ」と誘われ、Aは小遣い銭稼ぎといった軽い気持ちで承諾した。
初めは電電公社の資料から始まったこの情報収集活動は、やがて官公庁にまで及ぶようになった。
Aは、電電公社の公用名刺を出して、関係官庁の研究機関などを訪れては、「公社用に何部、何々の資料をください」と、あたかも公用であるかのように相手をだまして非公開・非売の研究データなどを入手してはB社長に売却した。
だんだん大胆になってきたAは、電電公社の上司である課長名で「参考文献寄贈依頼について」という公文書を偽造して、これを官公庁の研究所などに提出して資料を収集するようになった。また昭和五十二年(一九七七年)、電電公社電気通信研究所に配置換えになってからは、同研究所に送られてくる技術開発資料を盗んで中国側に流していた。
このように不法に入手された各種産業の科学技術資料は、一般には入手困難な非公開・非売の官公庁・企業の研究データで、捜査によって裏付けられたものだけでも八十三種類に及び、報酬の総額は昭和四十五年以降、合計九百五十六万円に達していた。
警視庁外事第二課は、昭和五十三年六月二日、Aを逮捕した。
罪名は、「詐欺」「窃盗」「公文書偽造・同行使」。Bは「けしからん罪」にすぎない。スパイ行為そのものは犯罪にならないからである。
この適用罪名をみても日本の対諜報活動がいかに困難で、かりにスパイを現場で捕えても刑法の各条文や特別法の違反をむりにこじつけて事件として立件送致することに苦労しているかがわかる。
たとえば官庁に忍びこんで重要書類を盗んだスパイを捕えたとしても、「建造物侵入」と“紙数枚”の「窃盗」にしかならないのである。
Aは東京地方裁判所において同年十月十八日、懲役二年、執行猶予三年の判決を受けた。
顔なき中ソ二重スパイ
もう一つの事件は、昭和六十二年(一九八七年)五月十九日検挙された、「中ソ横田基地二重スパイ事件」という、珍しい事件である。
このスパイ組織は昭和五十四年五月頃、在日ソ連大使館Y・A・エフィモフ一等書記官(54)の工作を受けた中国情報ブローカーAと、中国公司関係者から働きかけを受けた日中貿易会社社長、中国政経懇談会事務局長Bが中心になって組織したグループだった。
Aの任務は在日米空軍資料の入手だった。彼らはさらに在日米第五空軍横田基地・技術図書室従業員Cと、軍事評論家Dを一味にひきいれ、約八年間にわたって米空軍戦闘機及び輸送機のテクニカル・オーダー(技術指示書)を多額の報酬を得てソ連に売却し、ついでに中国にも二重売りをしていた。
Aは、昭和五十四年ごろ神田の日ソ図書店でエフィモフに“獲得”され、約五年間エフィモフとI・A・ソコロフ一等書記官(47)に“運営”されていた。
昭和五十九年ごろからは後任のV・B・アクショーノフ・ソ連通商代表部員(35)の指令を受けて、この任務を続けた。
その手口は、在日米空軍勤務のCが盗み出した米空軍テクニカル・オーダーなどを軍事評論家Dが受け取り、AはDを通じて得た情報資料をソ連大使館員に渡していた。
日中貿易会社社長Bは、Aから働きかけを受けて、訪中の際に中国公司関係者にテクニカル・オーダーのリストを渡して信頼を得ておき、昭和五十五年ごろからは中国側の注文に応じて、訪中のつど、Aから買い取った米軍のテクニカル・オーダーを中国側に売却して利益をあげていた。昭和六十二年五月十九日、警視庁外事第二課は、東京の井の頭公園でアクショーノフと秘密接触中のAを現行犯逮捕した。
Aの自宅を捜索した結果、ソ連の諜報無線通信用のスパイの“七つ道具”、受信機、暗号表、乱数表、スパイ通信のタイム・テーブルなどが発見され、押収された。
このほか、ソ連KGBエージェントとの緊急連絡方法として、選挙用ポスター掲示板に黄色い画鋲を打ったり、歩道橋に白のチョークを引くなどの方法が用いられていたことや、木の|空洞《うろ》でデッド・ドロップ方式(特定の神社仏閣など現状変更の可能性が少ない隠し場所に指令メモや報酬の現金などを置いて、あとからエージェントにとりに行かせる方式)の金品授受を行っていた事実も判明した。
警視庁外事第二課は、Aに引き続いてB、C、Dを一斉に検挙し、アクショーノフに対しては「ぞう物故買罪」(盗品買い受けの罪)の逮捕状を得て出頭を求めたが、同人は急遽帰国して出頭に応じなかった。
通商代表部員は、第十三話「トラになったKGB」でもふれたように、正規の外交特権、不逮捕特権をもつ大使館員よりは一格低い準外交官なので、裁判所も「ぞう物故買罪」――|贓《ぞう》物故買罪とは泥棒とくんで盗品と知りながら安く買いたたいてもうける質屋古物商などに適用される一般刑法上の条文で、スパイを取り締まる罪名としてはなんとも“締まらない”罪名だが――の逮捕令状発給請求に応じたのである。
一方、本物の外交官のカバーをもつソコロフ一等書記官は、折から一時帰国中だった。
外務省を通じて任意出頭を求めたが、ソコロフはそのまま日本には戻らなかった。
Aを逮捕した時点でケース・オフィサー(スパイ運営の係官)だったV・V・アクシューチン三等書記官に対しても外務省を通じて出頭要請が行われたが、アクシューチンも即刻帰国の途についた。
Bの情報提供は、訪中の際中国国内で行われていたため、中国情報機関の顔は、とうとう見えないままで終わった。
Aは、昭和六十三年(一九八八年)十二月二十六日、東京高等裁判所において、「ぞう物故買罪」で懲役二年六月、罰金百万円の判決を受けた。
Dは、同じく東京高裁で「窃盗罪」により懲役二年六月となった。
Bは、昭和六十三年三月二十二日、東京地方裁判所において、「ぞう物故買罪」で懲役一年六月、執行猶予三年、罰金二百万円。
Cは、「窃盗罪」で、懲役二年、執行猶予四年の刑を、それぞれ申し渡され、“一件落着”となった。
大頭脳を盗む「上忍」工作
長い間、対諜報捜査が警察によって行われ、多くのソ連・北朝鮮のスパイ事件が検挙されてきたが、なぜか中国情報機関によるスパイ事件は少ない。
はじめは中国のそれが巧妙をきわめ、わが方の捜査力が足りず摘発できないのだろうかと首をひねっていたが、やがて中国の情報活動は本質的にスケールの大きい政治・経済・文化工作が主力であることが次第に明らかになってきた。
日本に潜入して非合法地下組織をつくりあげ、日本人工作員を操って情報収集をさせ、本国に諜報無線で報告するといった“黒マントと短剣”式のスパイ活動、いわば忍者でいう“下忍”の仕事にはあまり力をいれない方針らしいのである。
すなわち、深夜官庁に忍びこんで金庫に保管してある機密書類をひそかに高性能カメラで接写して、それを秘密レポで本国の諜報機関に送るといった、ケチなスパイ活動は重視せず、その金庫の中身の機密事項を全部知っている高級官僚に政治工作を加え、その人物を親中国人士にして、頭の中にある情報をまるごとそっくり頂くという大政治・諜略工作、つまり“上忍”がその基本的手法と思われるのだ。
もちろん“下忍”も時と場合によっては使うのだろう。前にのべた三つのスパイ事件のほかにもそれに類似した容疑行動はいろいろとあり、随分捜査活動が展開された。
農業視察団の一員が東北寒冷地におけるビニール・ハウス方式の野菜栽培のやり方に感心して、帰りにその状況を記録したアルバム写真をこっそり隠し持って帰ろうとして、係員に指摘され、あわてて返したという小事件もあった。
これなど職務熱心な小役人の涙ぐましい情報収集活動といえよう。
海でたとえれば、せわしなく顔をたたく三角波ではなくて、ゆっくりと大きくうねる大波のような、規模の大きい、戦術より戦略的な狙いを重んじる政略工作であることが中国の特徴だ。
多難の年に国交は正常化
このことが明白になったのは、昭和四十七年(一九七二年)九月、田中角栄内閣によって日中国交正常化が実現したときだった。
この昭和四十七年という年は、まことに多事多端な大変な年だった。
とくに警察、それも警備局に勤務する者にとっては忘れることのできない七難八苦の「暗剣殺」の一年だった。
大きな国際行事としては、二月三日、札幌冬季オリンピックが開催された年である。
二月二十一日、ニクソン米大統領が正式に北京を訪れて毛沢東主席と会見し、米中国交が樹立され、米国と台湾の介石政権とは断交となった。二月二十七日には米中共同コミュニケ、いわゆる「平和五原則」の「上海コミュニケ」が発表された。
そして二月十九日から二十八日まで、厳寒の軽井沢山中の連合赤軍による「あさま山荘事件」が起きている。
私は、前年の昭和四十六年十二月十八日に発生した警視庁警務部長・土田国保氏夫人殺害小包爆弾事件に関連して、欧米の爆発物処理器材及び処理技術の緊急調査とその調達のため、約四十日間の強行軍の海外出張から、無事大任を果たして帰国したばかりだった。
が、当時の後藤田正晴警察庁長官の特命により、長野県警察本部に急派され、零下十五度の「あさま山荘事件」の現場で、さらに悪夢のような十一日間を過ごすことになる。
結局、この年の一月と二月、約五十日間は家に帰れない厳しい日々の連続だったことを思い起こす。
三月二十七日には、外務省機密漏洩事件、「西山記者事件」という珍騒動が起きた。
外務省の外交機密文書を新聞記者が高官の女性秘書と“情を通じ”て入手してスクープ、マスコミの「取材の自由」と国家公務員の守秘義務が真正面から法廷でぶつかった、いわば一種の国内スパイ事件だった。
ちなみに日本の裁判で判決文に“情を通じ”という卑俗な言葉が使われたのはこれが初めてだった。
ブラック・ユーモアをことのほか好む私たちクライシス・マネジャーの間で、こんな謎々がはやったのもこの事件の頃だった。
「(問)西山記者が逮捕されたが、その逮捕の態様は次のどれか? (1)現行犯逮捕、(2)緊急逮捕、(3)令状による通常逮捕」
正解は(3)。
なぜならこのケースは、逮捕令状による“通常(ツウジョウ=通情)逮捕”だから……。
五月三十日、イスラエル第二の都市テルアビブのロッド空港で突発した、アラブ・ゲリラPFLPと日本赤軍による“ロッド・マサッカー”(プエルトリコの団体旅行客など|無辜《むこ》の非戦闘員二十六人を“虐殺”し、七十三人に重軽傷を負わせたテロ事件)は、世界を震撼させ、その凶悪さのゆえに世界中の人々を憤激させた。
そして日本政府は、この事件によって国際的な指弾を浴び、苦境に立たされることとなる。
日本赤軍の奥平剛士(26)、安田安之(26)、岡本公三(23)が空港待合室で乗客の列に向かってカラシニコフ機銃を乱射したのだ。無辜の観光客多数を殺傷した上、奥平、安田両名は手榴弾を顎の下で爆発させて自殺、岡本公三は自殺し損ねてイスラエル当局に逮捕され、終身刑を言い渡された。
なお、岡本は昭和六十年(一九八五年)五月、イスラエル兵捕虜との交換により釈放されている。
乱射事件当時私は、警備局調査課長として、現地に派遣された佃泰外事課長との連絡や事件広報を担当した。
そんな年の七月七日、田中角栄内閣が誕生した。
昨日の敵と角さん警護
田中新首相は就任と同時に、日中国交正常化の希望を抱いている旨表明し、七月九日、周恩来中国首相がこれを歓迎する旨の声明を発表した。
八月三日には北京から正式な招待がきた。そうして九月二十五日の田中首相訪中へと発展するのである。
なお、国際的なテロ事件としては、この間九月五日にミュンヘン・オリンピック選手村のイスラエル選手宿舎にパレスチナ・ゲリラ「ブラック・セプテンバー」のテロリストたちが侵入し、多数のイスラエル選手を人質に立てこもるという大事件が起きている。
話を日中国交正常化問題に戻そう。
この国交正常化の準備と下交渉が行われていた頃、私は警備局外事課長に配置換えになっていた。外交交渉はもちろん外務省の専管事項だが、私たち警察庁の任務は田中訪中使節団の身辺警護の問題について、北京の公安部と打ち合わせをすることだった。
現地派遣は、私の香港領事の後任で当時警視庁外事第一課長だった鳴海国博警視正が選ばれた。警察界随一の北京語の使い手だったからである。
政治外交関係というものはまことに皮肉なもので、米国のアジア戦略、対中国政策の大転換とそれに同調した日本の田中内閣の対中姿勢の軌道修正によって、「昨日の友」台湾の政府とは断交し、「昨日の敵」中華人民共和国の治安当局と訪中団一行の身辺の安全について協力し合うことになったわけだ。
北京の対日情報工作を捜査し、取り締まっていた外事課長が、その交渉当事者になるというのも、どうもバツの悪い変な感じではあった。
この警護問題をめぐっていろいろなエピソードがあったが、それは本稿の目的ではないので一つだけご紹介するにとどめよう。
使えなかったコレクト・コール
鳴海警視正を先遣隊の一員として派遣するにあたって、私は「盗聴されてても構わない。その日あったことを逐一詳報せよ。電話代はコレクト・コールで本庁が支払うから気にせず長電話せよ」と指示した。
鳴海外事第一課長がそろそろ香港に着いたかな、と思っていたころ、部下の一人が私の部屋に飛びこんできた。
「大変です、課長、中国大陸とは有線電話回線もないし、国交もないのでコレクト・コールが利かないということがいま、わかりました」
「ありゃ、鳴海君にはコレクトしてやるから長電話しろっていっちゃったぞ。十分旅費や通信費、渡したか?」
「それがどうも、予算がなくて……」
「大変だ。香港の小田垣領事(警察庁出向)に至急連絡して、彼を香港で捕えてコレクト・コールができないから要点のみ報告せよと伝えないと……」
しばらくして報告があった。
「一歩違いで広東に入ってしまったそうです」
「そうか、仕方ない、第一回目の連絡があったときいおう」
……やがて上海から鳴海警視正の連絡が入った。
「ただいま上海に到着しました。いままでの状況を詳しくご報告します」と前置きして、詳細きわまる報告が始まった。
真面目で忠実な警視庁外事第一課長である。出発前の指示どおり逐一報告する。
「ちょっと、鳴海君、ああいったけどコレクト・コールの制度がないから、簡単でいいよ」
どうしたことか、いくら大声で叫んでも鳴海君の報告はとまらない。わかった、無線中継の国際電話で、通信機がプレス・トーク(ボタンを押して通話する方式)なのだ。
先方がボタンを押してる指を離さないかぎり、一方通行である。
ヤキモキしているうちに約四十分に及ぶ報告がやっと終わった。
「……以上です、課長。何かご指示は?」
やっと彼が指を離した。
「悪いけどコレクトできないようだから、以後報告は簡潔に頼むよ」
「はあ、そうですか」
電話の向こうで鳴海君、憮然としている。朝令暮改とはこのことだと思ったことだろう。
鳴海外事第一課長は、長身|痩躯《そうく》、銀縁眼鏡をかけた|白皙《はくせき》冷徹な青年官僚で、中国人の概念でいうインテリ型“北京大官”の風貌を備えている。物おじせず、いうべきことはケロリとしていい放つ、人もなげなところもある。
この人選は成功で、とかく過大な要求をしがちな全体主義国の治安当局と互角に渡り合って日本側のいうべきことを主張し、中国側の協力を勝ちとり、鳴海君も中国側から尊敬された。
九月二十五日午前十一時三十分、田中首相、大平外相、二階堂官房長官ら随員五十人を乗せた日航特別機は、北京空港に着陸した。
一行の警備に関する中国治安当局の気のつかいようは大変なものだったという。
それもそのはず、大政治工作を本領とする中国にとって、日本国の政治・経済・外交あらゆる分野の対中政策を決定する総理を日中友好人士として抱きこめば、けちな“下忍”の百千の諜報謀略工作にもまさる大成功となるからである。
国交正常化交渉は、周恩来首相と田中角栄首相の間でかなり激しい応酬もあった由だが、田中首相が日中戦争について深い反省の意を表し、周恩来首相も日米安保条約を認め、戦時賠償については深追いせず、日中の国交樹立、「一つの中国」という中国側の強い主張によって日台国交断絶ということで合意が成立し、九月二十九日の日中共同声明となった。
政治外交上はそれぞれの国を代表して、厳しい意見交換があったが、田中首相一行は北京でも上海でも熱烈大歓迎だったという。
この田中首相の外交努力を深く徳とする小平氏が、後年来日したとき、「井戸水をのむ人は井戸を掘った人の恩を忘れてはいけない」といって、政治的に失脚して失意の田中角栄元首相を目白の私邸に訪問して旧交を温めた話は有名だ。
中国側がいかに田中首相の処遇に意を用いたかについて、こんなエピソードがある。
観光のため万里の長城を訪れたとき、田中首相が建設技術上大変専門的な質問や意見を述べられたところ、中国側は驚いて「首相、お詳しいですね」とほめたという。
それに対し田中首相が「当たり前だ、私は一級建築士だから」と答えた。
中国側はその次の晩餐会だか、会見の席だかで急遽田中首相紹介の辞の中で、「日本国総理大臣にして自民党総裁、“一級建築士”の田中角栄閣下」と、その称号をつけ加えたという。
大変失礼しました、という気持ちだったのだろう。
毛沢東、周恩来のお土産
毛沢東主席も、九月二十七日夜、中南海の公邸に田中首相を招き、「ケンカはすみましたか? ケンカしないと駄目で、ケンカして初めて仲好くなれるのです」といって、訪中記念に古書「|楚辞集注《そじしつちゆう》」全六巻を贈呈した。
*
毛沢東主席の愛読書は「三国志」と「水滸伝」だといわれる。
そして万巻の中国古書の中からなぜ彼が「楚辞集注」をとくに選んで贈呈したかということについて、故安岡正篤先生の見方は非常に厳しいものだった。
安岡正篤先生は和漢の碩学。終戦の詔勅の起草者として広く知られている。
安岡先生によれば、これは意味深長な対日警告で、喜んでばかりいてはいけないという。
春秋戦国時代に強国秦と対抗するため趙・魏・韓などと六か国同盟を結んで「|合従連衡《がつしようれんこう》」の外交を展開した国の一つに楚があった。
「楚辞」は、その国の武断派(|合従《がつしよう》)の宰相で、|連衡《れんこう》(平和共存)に敗れて放逐され、|汨羅《べきら》の淵で投身自殺をした政治家、|屈原《くつげん》の書である。強国・斉を米国にみたて、中国を秦になぞらえて「斉(米国)と組んで秦に対抗して合従政策をとると、屈原になるぞ」と警告したのだというのが先生の見解だった。
安岡先生はまた、周恩来が色紙に書いて田中首相に献じた論語の一節「言必忠 行必果(いったことは真面目にやる)」というのも非礼だとする。
論語の中では、このあとに「|々然《こうこうぜん》トシテ|卑《ひ》ナルカナ(こせこせした小人也)」と続くからだという。
本来なら「千里ヲ使シテ君命ヲ辱メズ」の一句を選ぶべきなのだそうだ。
もしこの安岡正篤碩学の解釈が正しければ、随分なめられた話だが、周恩来首相も安岡正篤先生もすでに鬼籍に入られた今日、その真意はたしかめようもない。
フランス留学の故周恩来首相も、案外そこまで深い漢学の素養がなくて、|字面《じづら》だけみて、「言ったことは行いなさいよ、行ったら必ず成果をあげてくださいよ」ぐらいの軽い気持ちで色紙をしたためたのかもしれない。
それにしても昭和四十七年(一九七二年)の外交交渉の場で「論語」だの「楚辞集注」を使って政治工作を行うところなど、中国の対日工作のスケールの大きさを物語っている。
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ジーグラス事件の奇妙キテレツ
増える“外国人”の犯罪
頭休めに、こんな信じられないほどのバカ話もあったことを御披露する。
日本はいま、“不良外国人天国”といわれている。敗戦後の混乱期は、いわば占領下の無警察状態だったから、まあ仕方なかっただろう。だが、国民のたゆみない努力によって世界第二の経済大国になった今日でも、どうも日本人は“外国人”に対して脇が甘いようだ。
「スピード違反で白バイに捕まっても、英語でまくしたてて“ニホンゴ、ワカリマセン”といってれば、もてあまして釈放だよ」とうそぶくインチキ英会話教師のアメリカ人。
「ロッポンギ行きゃあ、ピチピチ・ギャル、よりどりみどりネ」と豪語するパリからきたフランス料理店のシェフ。ふところが暖かくて、頭は弱いが心臓の強いOLたちの中には、原宿や六本木あたりで外人の若い男性相手に“売春”するどころか“逆ナンパ”しているものもいるという。
近年はこれに発展途上国のじゃぱゆきさんたちやら、留学生やら、十万を超すといわれる不法残留者が加わったから、事態はいっそう混沌としたものになっている。
赤坂でたった一軒、頑張って営業していた“銭湯”(公衆浴場)も、洗濯物の山を持ち込む韓国やフィリピン女性のホステスさんたちに閉口して、ついに閉店したそうだし、新宿には午後十時以降“日本人オフ・リミット”の韓国系のバーも出現したときく。
平成二年(一九九〇年)十二月二十七日付の読売新聞・都民版「'90事件・事故・この一年一獲千金に多国籍化も進む」と題する記事によると、コロンビアの大規模な国際麻薬シンジケートが日本に本格的に上陸したとみる警視庁の見解を報道し、コロンビア船籍の貨物船から発見された史上最高の四十二キロのコカイン押収事件をはじめ、十一月までのコカイン押収量は前年のなんと六百二十二倍の五十八キロに達した事実を指摘している。
密輸拳銃による暴力団の武装化が進んでいることも問題だ。同記事は住吉連合系暴力団が中国製軍用拳銃四十二挺を隠していた事件を例にあげて、取り締まり当局の奮起を促している。
また外国人犯罪も、偽造十万円金貨の持ち込みや、不法残留のマレーシア人強盗団による会社襲撃・二千万円強奪事件など、急増の傾向を示している。
平成三年一月四日にも埼玉県八潮市のパキスタン人経営の肉店に、パキスタン人の八人組の強盗が押し入り、二百四十八万円を奪った事件が起きている。
これ以降も、外国人による犯罪は凶悪・悪質化し、増加の一途だ。
金融の国際化が進むにつれ、“マネー・ランドリー”もこれからの課題となっている。“マネー・ランドリー”とは、麻薬シンジケートや国際マフィアが、コカイン密売や賭博、売春などで儲けた汚い金を、ボーダレス時代の金融ビジネスなどを通じて“クリーニング”し、きれいな金に変えてしまうことだ。日本にはまだ、これを取り締まる法規がない。
コカイン禍に悩むアメリカでは、一九八六年「薬物乱用禁止法(Anti-Drug Abuse Act)」が制定され、“汚れた金の洗濯”に関しても同法の一部が「マネー・ランドリー・コントロール・アクト・一九八六」(連邦法典第十八篇・第一九五六号、第一九五七号)として施行されている。
組織犯罪の元祖、アメリカ・マフィアの日本進出は昔からのことだが、最近台湾、韓国、コロンビア・マフィアの暗躍がうわさされており、この調子だといまに“ソ連マフィア”も上陸してくるかもしれない。
日本は“スパイ天国”だが、この上“不良外人天国”にさせては大変だ。とくに日本の良好な治安を脅かす拳銃と麻薬の密輸については、罰則強化の法改正や、“マネー・ランドリー”規制の立法措置、さらには出入国管理行政や労働行政の改善とあいまって、外国人犯罪の取り締まり体制の強化など、早急に対策を立てる必要がある。
そんな国、どこだ?!
外国人犯罪を取り締まるのは、警察庁では刑事局国際犯罪課、警察庁ではいまでは刑事部の国際捜査課だが、かつては捜査第三課の所管だった。
ときどきスパイを取り締まる公安部外事課と捜査第三課の境界線上の事件が起こる。
かつて私が警察庁外事課の外事第一係長だった頃、取り扱った“ジーグラス事件”という、世にも奇妙キテレツな珍事件をご紹介してみよう。
*
話は昭和三十年代にさかのぼる。
昭和三十五年(一九六〇年)二月十一日、丸の内警察署は詐欺罪でチェース・マンハッタン銀行東京支店から告訴されたヘンな外人を逮捕した。
問題の人物は、ジョン・アレン・K・ジーグラス(36)。
身長一七五センチ、中肉赤毛の一見白人風の“自称米国人”である。前年十月、韓国籍の内妻を伴って羽田から入国した。
罪状は、チェース・マンハッタン銀行東京支店から偽造小切手で約二十万円、トラベラーズ・チェックで百四十米ドル(邦貨換算五万四百円=当時)を、さらに韓国銀行東京支店から十万円の合計約三十五万円を詐取したというもの。
当時の三十五万円といえば大金である。
警視だった私の月俸が米貨百ドルにも達しない約三万二千円。「米ドルでたった八十ドル相当。アメリカの巡査の週給じゃないか」とひそかに自嘲していた頃の話だ。
その私の年収に近い約一千ドルの詐欺とはふてえ野郎だ。だが待てよ、なんでそんな事件が外事課にまわってきたんだ? このての外国人犯罪は刑事部捜査第三課の所管のはずだが……。
そう思った私は、「どうしてウチが?」と町田和夫主任警部にきく。
このへんから話がおかしくなってきて、外事課はじめ関係省庁の係官一同、すっかりふりまわされることになった。
「それが係長、こいつはただのネズミじゃないんですよ。“ネグシ・ハベシ国”の移動大使で、アメリカの諜報機関員だっていうんですわ」
「移動大使? なんていう国だって? もう一度いってくれ、ネグシ……?」
「ネグシ・ハベシ国」
「そんな国、あるのか? 旅券は?」
「でっかいパスポート、持ってましてね、自分を逮捕するのは外交特権の侵害で、なんとか条約違反だから、すぐ釈放しろってわめいているんです。おまけにアメリカの諜報機関員だって。アメリカの諜報機関っていえばCIAでしょう。だから捜査三課は、オレんとこじゃない、外事課だっていうんでこっちへまわってきたんです……」と町田警部。
「どこにあるんだ、そのネグシ・ハベシ国ってえのは?」
「取り調べに当たった者の話だと、世界地図出して、お前の国はどこにあるんだってきくと、エチオピアのちょっと南のあたり指さすんだそうで……。それに週刊誌ぐらいある珍しいパスポートでしてね、ネグシ・ハベシ語で書いてあるからなんだかわからない……」
「ネグシ・ハベシ語って、どんな文字だ?」
「アラビア文字に似てるんですね、それが。最初はネグシ・ハベシ語っていう、わけのわからない言葉でわめくんで、外務省から通訳にきてもらったんですが、サッパリで……」
「それで、いま何語で調べてるんだ?」
「これが語学の天才でしてね、いまは英語でしゃべってますが、ドイツ語、フランス語、イタリア、スペイン、なんでもござれで、何か国語できるんだ? ってきいたら、十四か国語話せるっていうんです」
特大のパスポート
「もし本物の外交官だったら、国際問題だぞ、これは。外務省に確かめてみたか?」
「もちろん、すぐ中近東・アフリカ課に照会させましたよ。それが面白いんですね。電話に出た外務省の係官が、“少々お待ちください”って答えて、しばらくしてから“調べてみましたが、そんな国ありません”っていったそうです。近頃アフリカや中近東あたりで新しい独立国が次々と生まれてますから、本家本元の外務省も、ネグシ・ハベシってえ国、もしかしたら? って、自信なかったんでしょうね」と笑う。
「アメリカの方、チェックした? アメリカのエージェントだと、これまた厄介なお荷物だよ」
「ええ、すぐチェックしましたが、“該当なし”とすぐ回答がありました。そうしたらご本人、こんどは“アラブのさる国の諜報員”だっていい出す始末で、これも真っ赤なウソでしょう」
ネグシ・ハベシ国の正式(?)な国名は、「ネグシ・ハベシ・クールール・エスプリ」。
ケタはずれに大きい、そのネグシ・ハベシ国特別パスポートの、ジーグラスの資格を証明する欄には「ルー・ウブワリ・オクトラ・ネグシ・ハベシ・トラップ・トラッパ……」と読める字が綴られている。彼の翻訳によると、ネグシ・ハベシ国国連代表部・特命全権大使で、同時に移動大使(Roving Ambassador)、つまり、一か国に駐在しないで各国を歴訪して歩く大使……という意味だという。
*
「おい、おい、冗談じゃないよ、こんなヘンなの抱えちゃって、付きあってらんないよ、こっちは忙しいんだから。ただの外国人詐欺犯じゃないか。なんとか捜査三課に渡せないかねえ」
「それもやってみましたが、捜査三課はジーグラスはスパイにちがいないから外事課だっていって……」
「しょうがないな、それじゃあこっちで取り調べて、ウラ取って、スパイでも外交官でもないとハッキリわかったら、もう一回捜査三課とネゴしよう」……
こうして“ジーグラス事件”の捜査が始まった。
彼の携行していた外交官パスポートは、調べの結果どこの国の政府の発行した外交旅券でもなくて、ご本人手製の偽造旅券と断定された。
しかし、滑稽なことに、そのパスポートには昭和三十四年(一九五九年)十月十七日付で台北の日本国大使館が発給したホンモノのビザ(査証)をはじめ、東南アジア諸国駐在の日本国政府在外公館発給のビザのスタンプが幾つか押してあるのである。
この真正の査証がなければもちろん羽田で入国できるわけがない。
法務省入国管理局は、「すべて外務省の出先の責任で、当局には責任はない」と言い張る。
外務省では「いちばん最初に査証のスタンプを押した公館は、どこだ」という調査が始まるという騒ぎ。
この騒ぎをよそに、ジーグラスはそれこそウソ八百、口から出まかせのでたらめをしゃべりまくる。捜査当局としては、ウソだとわかってはいても、不法入国と詐欺罪の犯人として事件を立件送致しなくてはいけない。
そのためには、いちいち裏付け捜査をして、ウソであるということを立証しなくてはいけないから大変だ。
経歴は? と問われると、こう述べる。
「私はアメリカで生まれ、チェコ、ドイツを経てイギリスに行き、そこで高校を卒業した。第二次世界大戦では英空軍のパイロットで、ドイツ軍の捕虜になったこともある。戦後は中南米で暮らした。その後韓国で米軍の諜報機関員となり、やがてタイやベトナムでパイロットをやった。それからアラブ連合の特殊任務に就き、エチオピアの国境近くにあるネグシ・ハベシ国の外交官となった。日本にきたのは、アラブ大連合の日本人義勇兵募集という極秘任務遂行のためだ……」
バカバカしい話だが、いちいち外務省を通じて、エチオピア、アメリカ、ドイツ、チェコ、イギリス、韓国など、彼が挙げた国名の国に事実関係確認の照会をしなければならない。
「ネグシ・ハベシ語とはどこの国の言葉か?」ときけば、「回教のアラブ語系の言語でエスペラント語と同系統の言語だ」という。
そこで言語専門の大学教授数人をわずらわすことになる。
結論は、「このような単語や文法をもった言語は、世界中にない」とのこと。
韓国人の内妻も、韓国の正式のパスポートのほかにこのネグシ・ハベシ国のパスポートを持っており、彼のことをアラブ連合外交官だと信じ切っていたそうだ。
このパスポートが偽造であることは、世界中の政府が発給した旅券のいずれとも合致しないことのほかに、ホテルを捜索した結果、押収した印鑑、つまりジーグラス本人の印鑑と、旅券に押されていた発行責任者の印が一致したことによって証拠立てることができた。
東京地方検察庁もついにサジを投げて「国籍不明」として起訴し、国選の豊島弁護人も、被告がどこの誰だかわからないまま弁護にあたる……という前代未聞の珍事件と相成った。そして、そのあまりの不可解さに、英字紙は彼に「ミステリー・マン」というあだ名をつけて報道したものである。
米スパイ機撃墜さる
昭和三十五年(一九六〇年)五月一日、時あたかも第一次日米安全保障条約反対闘争が朝野を揺るがし、警視庁の総力をあげて日夜デモ警備に明け暮れていた頃、アメリカのスパイ機U2型機がソ連上空で撃墜され、パイロットのフランシス・パワーズ大尉がパラシュート降下してソ連の捕虜になるという大事件が起きた。
U2型機とは、ロッキード社が製造した高性能スパイ機で、二万七千メートルの高空をエンジンをとめて無音飛行し、地上の偵察目標の写真を撮るという、CIA秘蔵の特殊偵察機である。
パワーズ大尉は、機体破壊及び自殺用毒薬服用の命令に背いて脱出し、捕虜になった上、自分がCIAのスパイであることを自白してしまったから大騒ぎとなった。
せっかくフルシチョフの訪米を契機に、スターリン批判と平和共存路線を歩みはじめたソ連とアメリカとの間で“雪どけ”(緊張緩和)が始まっていたのに、この事件で米ソの関係は再び険悪となった。
外事課の本来の任務は、米ソの緊張が高まるにつれ活発化が予想されるソ連をはじめとする共産圏諸国のスパイの取り締まりである。その外事課員も、国会・官邸周辺のデモ警備に連日連夜動員されていた動乱の時代だから、ジーグラス事件のようなバカバカしい捜査はやっていられない。
早々に出入国管理令及び詐欺容疑事件として東京地検に送致し、忘れるともなく忘れてしまった。
ところが、その年の八月十日、またこのジーグラスが騒ぎを起こし、否応なしに私たちにその存在を思い出させることとなったのである。
判決公判の日に、法廷で派手に自殺を図ったのだ。
出入国管理令違反及び詐欺罪で起訴され、公判が行われていたジーグラスに対し、この日東京地方裁判所の二十八号法廷で、山岸裁判長から懲役一年の判決の言い渡しが行われた。
ところが通訳が判決内容を通訳しはじめると、ジーグラスは突然隠し持っていたガラスの破片で両腕の血管を切りはじめた。被告席に血が飛び散り、廷吏があわてて取り押さえに走る。すると彼は英語で「私は自殺する」と叫んで、派手に卒倒してみせたのだった。
「どんな容態だい、彼は?」
町田警部が答える。
「すぐ救急車で京橋病院に収容しましたが、全治十日間ぐらいの軽傷です。係長、これ、お芝居なんですよ。彼、未決勾留の間、“日本の刑法と刑事訴訟法を勉強したい。自分の弁護は自分でやる。英訳の刑事関係の法令を差し入れてくれ”って要求して、房内で一生懸命刑法や刑訴法、勉強してたそうです。それで、判決公判の際、刑の申し渡し中に被告に事故があったりすると、判決は効力を発揮せず、裁判はやり直し……と、どの条文を読んでそう思ったのかわかりませんが、そう思い込んだらしいんですね」
「地裁の廷吏もしようがないな。なんで入廷のとき身体捜検しなかったんだ。ガラスの破片、どこで入手したんだ?」
「腕時計のガラスを砕いて口の中に隠してたようです」
腕時計のガラス?……と、いまの若い人たちは首をかしげるだろうが、昭和三十五年の話だから、腕時計のガラスは現在の強化ガラスやプラスチック製でなく、砕けやすい普通のガラスだったのである。
判決の申し渡し中に自殺未遂をやると、裁判は無効となってやり直し……というジーグラスの「即席日本刑事訴訟法解釈」はまちがいだったようで、やがて傷が癒えるのを待って判決公判が再度行われ、彼は懲役一年の実刑判決を受けて刑務所で服役することとなった。
このおそまつな“ネグシ・ハベシ国大使”の事件も、これにて一件落着。また彼のことは多忙な毎日にとりまぎれて話題にもならなくなり、忘却の霧の中に再び薄れていった。
昭和三十五年という年は、ジーグラス事件なんかにかかずらってはいられない、多事多端な激動の一年間だったからである。
テロ、デモ、乾パン
第一次安保反対闘争が数か月にわたって吹き荒れ、三派全学連を主軸とする学生運動は過激化し、ハガティー事件とアイゼンハワー米大統領の訪日中止(六月十日、十六日)、国会・首相官邸を包囲する連日連夜の二十万人デモ(六月十一日ほか)、全学連の東大生・樺美智子さんの死(六月十五日)、長期に及ぶ三池炭鉱労働紛争(いわゆる三池闘争)、そして七月十四日には岸信介首相が荒牧退助という老右翼に刺されて重傷を負わされる右翼テロが起き、七月二十六日には東京・山谷で大暴動が発生している。
そして十月十二日には、浅沼稲次郎・社会党委員長刺殺事件という衝撃の大事件が起きた。ちょっと話はそれるが、浅沼事件の起きた十月十二日は、秋晴れのさわやかな日だった。
日比谷公会堂で三党首立会演説会が行われていたが、その行事の警備・警護の任務は警備部警備課と警護課の仕事であって、私たち外事課は関係がないので、久しぶりに外事課本来の対諜報活動取り締まりの作業について各班長を集めて大部屋で打ち合わせ会議をやっていた。
そこへ警視庁記者クラブ詰めのA誌のS記者がフラリと入ってきて、きく。
「何かありますかあ?」
「何もないよ」
「そうですか、じゃあ『独立愚連隊西へ』みてこようっと」
『独立愚連隊西へ』は、加山雄三主演の当時|流行《はや》りの“兵隊やくざ”映画である。
そのまま会議を続けているうちに、午後三時すぎ第一報が入った。
「日比谷公会堂で浅沼委員長が右翼に刺されました」
そして三時五十分頃、「浅沼委員長、日比谷病院に収容されたが死亡」という報告が入り、外事課の大部屋は騒然となった。
犯人は山口|二矢《おとや》という愛国党所属の十七歳の右翼少年で、凶器は脇差しだという。
さあ抗議デモがくるぞ、と私は身構えた。
日米安保条約反対の街頭大衆行動がやっとおさまったのが八月頃。ムードとしては反政府機運が濃厚に漂っているさなかの社会党党首の暗殺事件だ。社・共・総評・全学連の動員態勢はまだ健在だから、こりゃあ今晩あたりは一大抗議デモが組織され、また徹夜だぞ、と思った私の脳裏にとっさに浮かんだのは、ちょっと変わった二つの指示事項だった。
「おい、誰か有楽町・日比谷界隈の『独立愚連隊西へ』やっている映画館調べて、“A紙のSさん、至急警視庁にお帰りください”って呼び出しかけてやれ。それから六階の食堂行って百四食、夕飯を確保してこい」
S記者には「何もないよ」といってしまった手前、記者クラブのキャップに叱り飛ばされること必定の、この急場を救ってやらないと……と思ったのが一つ。もう一つは徹夜のデモ警備に備えてコメのめしで腹ごしらえしなくちゃという、いかにも昭和一ケタ生まれらしい発想からだった。
日本人は発想が硬直していて、非常食というとすぐ乾パン……とくる。
戦争中から今日に至るまで続いている固定観念なのだ。数か月に及ぶ第一次安保デモ警備の間中、私たちはあの干からびてまずい乾パンを支給されてうんざりしていた。
炎天下の国会議事堂構内で、飲み物もなしに乾パンかじったって唾も出なくて粉を吹いてしまう。それに当時警視庁庁舎には約三千人が勤務していたが、上の食堂が日常用意する宿直員用の夕食は三百食だ。
百四人のわが係員にはコメのめしを食わせてやろうと、とっさに思いついたのである。
A紙のS記者もすべりこみセーフ。「ありがとう、ありがとう、恩に着るよ」と手を合わせる。
抗議デモの動員は、予想を上回る早さで行われ、約二時間後の午後六時頃には警察庁(人事院ビル)と警視庁はアッという間に約十万人のデモ隊と林立する赤旗や組合旗に包囲されてしまった。
抗議デモは一晩中続き、「柏村(警察庁長官)辞めろ、小倉(警視総監)辞めろ」とシュプレヒコールしながら、桜田門一帯をグルグルまわっている。
「警視庁」という玄関の大看板がひっぱがされて、皇居のお堀にほうりこまれたのはこの晩のことである。夕食の出前なんか近寄れたものじゃない。だが、わが係員たち百四人は、コメのめしで腹ごしらえして配置につくことができた。
浅沼事件でいちばん驚いたことは、十万人のデモというものがいかに凄いエネルギーを発散させるかということだった。
何時間も包囲デモの渦巻きに囲まれているうちに、警視庁庁舎全体が揺れ始めて、天井の電灯がフラフラ動き出したのである。
当時の警視庁庁舎は戦時中空襲の際の弾薬投下に耐えうるよう屋上のベトンを厚くしたため、トップ・ヘビーの不健康なビルになっていた。
そのまわりを十万人×平均体重六十キロとしても六千トンの人間大槌でドンドン叩いたから庁舎全体がゆらゆらし始めた。
「まさに大警視庁が揺れる日ですな」といった町田和夫警部の、まことに適切な寸評を私はいまでも覚えている。
昭和三十六年(一九六一年)に入っても、岸首相刺傷事件、浅沼事件に続く右翼テロは収まらない。二月一日には愛国党の小森一孝が皇室の名誉を傷つけた深沢七郎の『風流夢譚』を掲載した中央公論の嶋中鵬二社長に天誅を加えるとして、東京・市谷の同氏邸を襲撃し、お手伝いさんを刺殺するという「嶋中事件」が起きている。
十二月十二日には右翼のクーデター未遂事件「三無事件」が検挙された。
こういう右翼テロの風潮の中で迎えたのが、八月十四日のミコヤン・ソ連第一副首相来日だったのである。
総監殿、百万ドル払え
そんな大揺れの日々が続き、ミコヤン警備の準備で大わらわの最中、服役中のジョン・アレン・K・ジーグラスが、またまた登場する。
私たちは|三度《みたび》、“ネグシ・ハベシ男”に悩まされることになった。
この男、こともあろうに獄中から時の原文兵衛警視総監らを相手取って、「横領罪」による処罰と、百万ドルの損害賠償を求める告訴を行ったのだ。
訴状によると、「日本警察はネグシ・ハベシ国移動大使・ジーグラスを不当にも逮捕し、所持していた同国の原子力開発の極秘計画書を没収し、横領した」という。
途方もない言いがかり、でたらめの告訴なのである。
百万ドルといえば、当時の邦貨三億六千万円である。「とんでもねえ野郎だ」と憤慨してみても、告訴されて被告呼ばわりされた以上、身のあかしを立てなくてはいけない。
「|誣告《ぶこく》罪」(人に濡れ|衣《ぎぬ》を着せる犯罪申告の罪)か「名誉|毀損《きそん》罪」でやっつけてやるかという声もあったが、それも大人げないし、この忙しいときにそんなこと、やってる暇はない。
司法当局や警察は、刑事事件の告訴があったときは捜査をすることになっているから、冷房もない、初夏の蒸し暑い警視庁内で「このウソ、本当にウソなのか?」ときいてくる刑事部捜査第二課や、警務部訟務課にいちいち事情説明しなければいけない羽目となった。
もっと困ったのは、突然わけのわからない事件の「被告」にされてしまった新任の原文兵衛警視総監に、この“ネグシ・ハベシ国大使の犯罪”を、あらためて発端から説明しなければならないことだった。
原総監は苦笑していたが、秦野章公安部長に、「ええ……このネグシ・ハベシ国というのは地球上に存在しない国でありまして……」などと説明していたら、
「この忙しいのにそんなバカな話、きいてる暇ねえよ、いい加減にしろっ」と、ギョロ目で|睨《にら》みつけられる始末だ。
大体「不存在の証明」ほどむずかしいものはない。事実無根で原告請求却下にもってゆくのに一苦労だった。
*
やがて同年秋、懲役一年のジーグラスの刑期が満了して出獄したとき、また一悶着起きた。
「町田警部、またジーグラスかい。こんどは一体なんだい?」
「それがね、国外退去強制処分にすることになったんですが、どこに強制送還するかでもめてるんですわ。ネグシ・ハベシ国ってえのは存在しないんですからね」と笑う。
なるほど、これは困った。ちょうどこの年の四月十二日、ユーリー・ガガーリン少佐を乗せたソ連の宇宙船ヴォストーク号が人類初の宇宙飛行に成功して「地球は青かった」という名|科白《せりふ》を吐いて話題になっていた頃のことだ。
「いっそ宇宙船で宇宙に打ち上げちゃうか」なんて冗談も出たが、鳩首協議の結果、日本に入国したときの最終寄港地、香港に送還することに決まった。
香港政庁はまたその前の寄港地に強制送還するだろうから。
「……しかし、次々と強制退去されていったら最後はどうなるのかねえ……」と、皆で心配したものだった。
それにしても、いま彼、ジーグラス君、どこで何をしているだろう?
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機長、一緒に|テンコク《ヽヽヽヽ》にゆこう
このあたりで、珍妙な国内での日航機ハイジャック事件の話を二つほどしてみよう。いずれも大真面目で滑稽な本当の話である。
昭和四十七年(一九七二年)十一月六日朝八時頃、羽田発福岡行き、日航三五一便ボーイング727型機(乗員六人、乗客百二十人)が浜松上空で、ゴム製のお化けの仮面をかぶり、拳銃を構えた男にハイジャックされ、同機は羽田に引き返した。
この年の私は、一月早々「土田邸小包爆弾事件」に関連し、欧米ではこの種の事件処理をどのように行っているのか、約四十日をかけて実情調査のため出張した。帰国後間もない二月には、「あさま山荘事件」の対応に追われてほっとする間もなく、五月には警備局調査課長に任命された。しかし事件は私を追いかけ、同月イスラエルの「テルアビブ・ロッド空港乱射事件」の対応に追われた。こうした中で同年七月、同局外事課長になって二か月半ばすぎたところで、このハイジャック事件が起きた。
私はただちに警備局に設置された警備本部に詰めた。刑事局の関係各課長も配置についた。赤軍などの過激派のように、政治的背景のある事件なら警備局、物盗り・怨恨等の刑事犯罪なら刑事局の所管となるが、初動体勢では両方とも和戦両様の構えをとるものなのだ。
実はこの日、警備局は朝から騒然としていた。
まだ深夜の午前一時六分、大阪発青森行きの夜行列車・急行「きたぐに」の火災事故が滋賀・福井両県県境の北陸トンネル内で起きていたのだ。
事故の速報では死者は二十九人(実際は三十人だった)。警察では、事故が起きた際に死者が二十人を超えると警備局の担当になる。警備局の中島二郎参事官は、すでに朝一番の新幹線に飛び乗り、現場へと向かっていた。
そんなさなかに飛び込んできたのが、このハイジャック事件の一報である。わが警備局は二つの事案に同時対処することとなってしまったのだ。
犯人は奇妙な要求を出した
「使い古しの米ドル紙幣二百万ドル用意しろ。ジュラルミンのトランク二個、落下傘、手錠、シャベル」
ええ? なんだ、これ? ふつう高額紙幣を要求するのにこやつ、使い古した小額のドル紙幣二百万ドルをよこせという。それがどれほどかさばるものか想像力が欠けている。
「足の短い727型の代わりに足の長いDC8を用意しろ」と要求している。行き先については「キューバ」といったとか、「北朝鮮へ」といったとか、情報が乱れている。当時アメリカで黒人テログループ「ブラック・パンサー」が荒れ狂っていて、ハイジャックが続発し、亡命先は必ず「キューバ」といったものだ。カストロ将軍がテロリストに政治庇護を惜しみなく与えたからだ。
交渉は長引いた。代替機DC8もハイジャック機から五百メートルの距離にタクシーイングしてゆく。待っている間、警備局名物のブラック・ユーモアのジョークが行き交った。クライシス・マネージャーたちは心の過度の緊張をほぐすため、緊迫した状況下でとんでもない冗談をいってみんなで爆笑してストレスを解消する傾向がある。ある時その種の経験に乏しいデスク型、平時の能吏型の上司が警備本部長になったことがある。緊張し、神経質になって食欲を失い、不眠症になってしまった。その人の前で夜食の握り飯を食べていたら、「君ら警備屋はどっかおかしいぞ、よくこんな時にメシが食えるな」と怒られた。警備局名物のブラック・ユーモアが飛び出してみな一斉に笑ったら「不真面目だ。こんな時にくだらんことをいって」とまた怒られ、辟易したことがある。
この時はこういう問いがでた。
「犯人は落下傘、手錠、シャベル、ジュラルミンのトランク二個、二百万ドルの使い古しの紙幣を要求したね。彼は一体これらの品々で何しようってんだろう」
答えが次々とでる。
「どこかの山の上でパラシュート降下して逃げるのさ。手錠? それはお気に入りの一番美人のスチュワーデスと合手錠にして人質に連れて行くのさ。ジュラルミンのカバン二個は二百万ドルの札をつめて振り分け荷物にして肩にかけ、手でしっかり押さえる」
「シャベルは?」
「山中に降りてから人質を殺して、穴を掘って埋めるんだろう」
そこで質問。
「一体パラシュートのひも、どうやって引くんだ?」(笑い)
「人質のスチュワーデスに頼むのさ」(笑い)
そうこうしているうちに、乗客百二十人とスチュワーデス三人が解放され、犯人はピストルを構えて機長ら三人の人質を盾にDC8に乗り移ろうとした。犯人がボーイング727からDC8に乗り移った瞬間、DC8機内に潜んでいた作業員に化けた警察官が飛びかかり、犯人は逮捕された。時に午後四時。
犯人は本籍は東京都文京区の駒込だが、昭和二十三年に米国に渡り、同三十二年に永住権を得、ロスアンゼルスでアメリカ生れの日系二世と結婚、三人の子どもと暮らしていた「ポール中岡」こと中岡達治(47)と判明した。
こうしてわが国三度目のハイジャック事件は、発生後八時間で解決し、ハイジャック防止法、銃刀取締法違反などの容疑で中岡は逮捕された。調べの結果、妻子とも別居中で米国での暮しに嫌気がさしたポール中岡は、二百万ドルを奪ってキューバへ亡命したいと考えていたことが判明した。後になって私たちがゾッとしたのは、彼が所持していたブローニング38口径の自動拳銃は本物で実弾六発がこめてあったこと、それに予備の実弾を五十発と手製爆弾六個を隠し持っていたことだった。少々精神に異常をきたしていたようで、まかり間違えば大惨事になるところだった。それこそ笑いごとではなかったのだ。
この便には久留米での公演に出演するために歌手の江利チエミさんと三田明さんが乗客として乗っており、マスコミの話題となった。
もう一つの事件は、昭和四十九年(一九七四年)七月十五日に起きた日航DC8乗っ取り事件である。
この日の夕方には、まさかハイジャックが起ころうとは神ならぬ身とて知る由もなく、警備局の幹部一同、東京地検・高検の公安部の幹部と懇親麻雀大会をやっていた。場所は法務省共済組合の寮「桂」である。午後六時スタートで九時頃まで。警察と検察の麻雀大会である。賭けは御法度だ。会費を払っての賞品麻雀だからクンロク(千点)であがる者はいない。みなチンイチだのサンアンコだのでかい手をつくって、一発パンチが入ると相手が沈むヘビー級のボクシング試合みたいな麻雀を存分に楽しんだ。一発振り込むとハコテン(破産)になりかねない。
麻雀がおわり、賞品授与もすんで解散となり、タクシーに乗ってラジオのニュースを聞いた私は、座席で飛び上がった。
「名古屋上空の日航機ハイジャック事件の一番新しいニュースをお伝えします。犯人は羽田へ行くように指示しています……」
しまった!!
「運転手さん、すみません、霞が関の人事院ビルに行ってください。世田谷野沢は取消し」
警察庁に向かう車中で私は考えた。
「一体どうして? 警備局の幹部全員が『桂』にいたのに、なぜ誰にも第一報が入らなかったのだろう。思想的政治的背景のないハイジャックということで、刑事局捜査第一課長の方に報告したんだろうか。しかし必ず機動隊を使うんだから警備課長に入るはずだが……」
私は警備局調査課長から外事課長になったばっかりだった。国内のハイジャックは外事課長の所管でないから私に第一次責任はないが、警備局としてはみっともない話だ。
あとでわけがわかって一同大変反省したのは、「みなどうせ法務省の寮にいるのだから何かあったら誰かに入るだろう」とお互いに“もたれあい”、「みんなで渡れば恐くない」とだれもが自分の所在を奥さんにも当直にもいっていなかったのだ。おまけに各自がポケベルを持っていたのに、電池がもったいないので「誰かのが鳴るだろう」と全員がスイッチを切っていたことが判明した。検察庁の検事さんたちも「警備局の幹部といるのだから必ず重大報告は入るはず」と、これまた当直との連絡態勢をとっていなくて、かくして全員不覚をとってしまったのだった。奥さんのところに当直が旦那の居場所知りませんかときいたから、「あら、検察庁の方々と麻雀といっていたのにおかしいわ、ウソかしら」と疑心暗鬼の奥さんも中にはいて、後で大変困ったという。
警察庁五階の警備局指揮所にフウフウ息を切らせながら駆け込むと、ちょうど山本鎮彦警備局長が着席したところで、とにかくすべりこみセーフ。そして一斉に情報収集・分析・作戦会議を始めた。
ハイジャックされた日航機は、大阪発羽田行きのDC8型(乗員八人、乗客七十六人)。
名古屋上空にさしかかったところをナイフを持った男にハイジャックされ、羽田空港に着陸した。犯人は乗員、乗客を人質に「赤軍派幹部の釈放」と「北朝鮮への亡命」を要求し、対峙状態となった。
いよいよ、これは警備局の事件だぞ。緊張がみなぎる。
そのうち警備本部の中で、「これは外事課の所管だ。佐々課長、外事課長の出番ですよ」という声があがった。
「なんで?」ときくと、要求がなかなか認められず苛立った犯人が、「機長、日本政府はあんた見放したんた。一緒に|テンコク《ヽヽヽヽ》(天国)に行こう」と朝鮮訛りの日本語を使ったから、濁音の発音ができない朝鮮人が犯人――だから外事課長だという。「きっと亡命希望先は『よど号』の犯人がいるピョンヤンですよ」など、勝手に決めているのもいる。
七月十六日午前一時すぎ、ハイジャック機は羽田を離陸し、名古屋空港に着陸、乗務員らの機転で乗客全員が無事脱出に成功し、愛知県警の警察官が機内に乗り込み、犯人を逮捕した。犯人は登山ナイフで首を切り自殺を図ったが果たせなかった。その後の調べで犯人は住所不定の岩越明(26)と判明した。
岩越は窃盗など逮捕歴六回の刑事犯で、政治的背景はなかった。
こんどこそ本物の“第二のよど号”事件で、北朝鮮亡命を企図した過激派の犯行かと緊張した警備局は、刑事局関係事件とわかってホッと安堵の胸をなでおろした。
これが本邦四件目の国内ハイジャック事件の顛末である。
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〔韓国政権の推移〕
第1・2・3代
李承晩(イスンマン)1948・8・13─1960・4・26(辞任)
この間 主席国務長官 許政が権限代行
第4代
尹善(ユンボソン)1960・8・12─1962・3・22(辞任)
この間 国家再建最高会議議長 朴正熙が代行
第5・6・7代
朴正熙(パクチョンヒ)1963・12・17─1979・10・26(暗殺)
この間 首相 崔圭夏が代行
第8・9・10代
崔圭夏(チェギュハ)1979・12・6─1980・8・16(辞任)
第11・12代
全斗煥(チョンドファン)1980・9・1─1988・2・25(8/27国民会議で選出)
第13代
廬泰愚(ノテウ)1988・2・25─1993・2・25(退陣)
第14代
金泳三(キムヨンサム)1993・2・25─1998・2・25
第15代
金大中(キムデジュン)1998・2・25─
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亡命・暗殺・死刑宣告
戦後韓国の政局は混迷が続き、クーデターや大暴動、暗殺などにより政権交代が起きる不安定さが目立った。
そして韓国大統領というポストは、建国以来その晩年に悲運に見舞われる場合が多い、悲劇の王座なのである。
独立回復後、初代の|李承晩《イスンマン》大統領も日韓併合の十年前の一八九九年反政府運動で終身刑の判決を受けて投獄されている。一九一二年米国に亡命していたが、一九四五年韓国が独立した際に帰国し、初代大統領となった。やがて政治の腐敗が始まり、一九六〇年(昭和三十五年)四月十九日首都ソウルで四選を狙った李大統領の不正選挙をなじり、独裁政権打倒を叫ぶ学生市民の大デモが起きた。政府はソウル、釜山など五市に戒厳令を布き、武力弾圧を試みた。
このためデモ隊百数十人が死亡、数百人が負傷した(四・一九学生革命)。四月二十六日になるとデモは五十万人にふくれあがって大統領官邸を包囲し、李大統領はこれに抗しきれず翌二十七日大統領を辞任し、十二年間に及ぶ李承晩大統領の独裁は終りを告げ、四月二十九日フランチェスカ夫人と共にハワイに亡命した。亡命後の李承晩氏は「国に帰りたい」というのが口癖だったが、一九六五年脳卒中で倒れ、九十歳の生涯を閉じた。異郷の地ハワイでの寂しい客死だった。
李承晩退陣後の韓国政局は混迷をきわめた。そして一九六一年(昭和三十六年)五月十六日、韓国軍が蹶起し、張都暎中将を議長とする軍事革命委員会が全権を掌握し、反共・親米を宣言し、五月十九日、軍事革命委員会を国家再建最高会議と改称し、軍事政権時代が始まるのである。
まもなく張議長に代わって、軍事クーデターの実質上の中心人物だった|朴正熙《パクチヨンヒ》少将(大佐から昇進)が最高会議議長に就任する。一九六一年五月の軍事クーデターで実権を握り、一九六三年十二月十七日、第五代大統領に就任して、三期十六年間韓国に君臨した朴正熙大統領も「青瓦台事件」「文世光事件」と二回も暗殺されそうになる。そして三度目の正直とでもいうべきか、一九七九年十月二十六日午後六時頃、あろうことかKCIA(中央情報部)夕食会の席上金載圭KCIA部長に拳銃で撃たれ、午後七時五十分死亡した。
このあと名目上は首相だった|崔圭夏《チエギユハ》氏が大統領となるが、一九八〇年九月一日、|全斗煥《チヨンドフアン》将軍が第十一代、十二代大統領となる。そして一九八八年二月二十五日、|盧泰愚《ノテウ》氏が大統領に就任し、一九九三年二月二十五日第十四代に|金泳三《キムヨンサム》氏が大統領となった。
異変は、全斗煥前大統領と盧泰愚元大統領が汚職や光州事件の弾圧、戒厳令司令官の逮捕解任など、軍刑法の反乱首謀などの容疑で逮捕されたことから始まった。一九七九年粛軍クーデターに際して戒厳司令部の全斗煥保安司令官が崔圭夏大統領の決裁も受けずに鄭昇和戒厳司令官を不法連行し、実権を奪った軍刑法反乱首謀の疑いと、光州事件で流血の軍事弾圧を行って多数の学生市民を死傷させた罪を問われて逮捕され、死刑判決を受けた。
盧泰愚前大統領も財閥からの三百億円の収賄などの容疑で逮捕され、これまた死刑の判決を受けたのである。
後日減刑、さらに免刑されたにせよ、軍事政権の大統領が文民大統領|金泳三《キムヨンサム》によって二人とも死刑判決とはまったくの異常事態だった。
二十二年ぶりの来日
従って戦後韓国の歴代大統領で、亡命・客死一人(李承晩)。暗殺一人(朴正熙)。危機一髪の暗殺未遂三人(朴正熙二回、全斗煥・|金大中《キムデジユン》各一回)。死刑判決三人(全斗煥・盧泰愚・金大中)。無傷で生き延びたのは第四代|尹善《ユンボソン》氏、第八〜十代崔圭夏氏、そして第十四代金泳三氏の三人という有様である。
現大統領の|金大中《キムデジユン》氏は、誘拐、謀殺未遂、逮捕、幽閉、死刑判決、とこの世の政治家として最悪の地獄を生き抜いてきた人物である。
その金大中大統領が、平成十年(一九九八年)十月七日、来日し、羽田空港で大統領特別機から降りてくる。二十二年前、飯田橋のホテルグランドパレスから白昼誘拐拉致され、洋上で工作船から海中に放りこまれて暗殺されそうになった、その東京へ国賓の韓国大統領として帰ってきたのだ。その胸中やいかに。言葉にならない感慨がこみあげていることだろう。
私は足を少しひきずりながらタラップを降りてくる金大中大統領の姿をテレビで見ながら、戦国の謀将・黒田官兵衛孝高のことを思い出していた。天正五年(一五七七年)羽柴秀吉が織田信長の命により、中国毛利攻めをはじめたとき、中国諸城主の投降勧告に異才を発揮している黒田孝高(後の如水)を摂津有岡城の荒木村重を誘降するため派遣した。天正六年十月のことである。ところが荒木村重は毛利氏や石山本願寺に通じて、織田信長に叛旗を翻し、単身荒木説得に赴いた黒田孝高を捕らえ、有岡城内の土牢に閉じ込めてしまうのだ。
それから約一年、翻意をすすめる村重に屈せず秀吉に対する忠義を貫いて、じめじめした陽の当たらない土牢で生きつづけた。そして翌天正七年十月、秀吉が有岡城を攻略したとき、黒田孝高は救出されるが、湿気の多い狭い牢獄に閉じ込められて一年余を過ごした孝高は病み衰え、その両膝は萎えて曲がってしまったという。信念を貫き通し、苦節二十五年、長い刑務所暮らしで、歩行に支障が生じてしまった金大中大統領の姿を、黒田孝高のそれとオーバーラップさせた私は、政治家の生きざまの手本をみた思いで、金大中氏事件の日々を思い出し、同情の念を覚えた。
これまでの韓国大統領は、全斗煥、盧泰愚、金泳三と、変わるたびに過去をむしかえし、宮中晩餐会のたびに天皇の謝罪の言葉を執拗に要求したが、金大中大統領は未来を志向し、過去については沈黙を守り、日韓関係の改善を願って歴代の韓国大統領が繰り返した過去の歴史についての日本の謝罪を求めなかった。金大中事件についても対日批判や不満は口にせず、日韓両政府の政治解決を継承する姿勢を示した。
帰国後も日本の歌・映画・本など日本文化に韓国の門戸を開放するという、対日文化政策の軌道修正を行い、また安全保障問題でも韓国海軍の大観艦式に日本の海上自衛隊イージス艦「みょうこう」以下三隻を招待するなど、将来に向けての日韓友好増進の路線を歩み始めている。
かつて白昼東京のど真ん中で誘拐拉致され、日本の朝野をあげて「韓国公権力の日本の主権侵害だ」と、容疑のかかったKCIAの関与を認めろ、認めないで二十年近く日韓両国の喉に刺さった骨となった金大中氏が、苦難の道を乗り越えて韓国大統領となり、ギクシャクしていた日韓関係の潤滑油になろうとしている姿は、誠に感無量なものがある。
韓国の諜報機関KCIAの公権力関与があったかどうか、政治決着をみてから議論は別れるところだが、厳然たる事実は、当時在日韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋が、飯田橋のホテルグランドパレスの金大中氏が泊った部屋に残されていたことである。金東雲書記官は警視庁公安部の任意出頭要求を受けると直ちに羽田から出国し、それ以来|杳《よう》として行方は知れない。同大使館の金在権公使は、警視庁の出頭要求に対し、「韓国は共産主義と国をあげて闘っている。北の侵略もいつ起きても不思議ではないという軍事的脅威の下、存亡を賭けて国を守ろうとしている。日本が安全でいられるのは、韓国が共産主義との防波堤として闘っているからではないか。日本の警察は我々の闘いを理解し、ともに共産主義と闘うべきで、出頭要求などもってのほか」という強硬姿勢を、遂に最後まで崩さなかった。
それにしても、あの金東雲一等書記官は今、一体、どこで、何という名前で、何をしているのだろう? テレビに放映される金大中大統領の迎賓館における栄誉礼を見ているうちに、私の脳裏には二十五年前の金大中事件の記憶がまざまざと甦ってきた。
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大統領として帰ってきた金大中氏
命の危機五回を乗り越えて
平成十年(一九九八年)十月五日、羽田発十五時五分の全日空七五七便で小松空港に向かうため、私は妻の運転する車で羽田に向かっていた。福井市で催される研修会の講師として招かれていたのだ。
空港の国内線出発ロビーに向かう車線に入ったところで、警視庁機動隊の検問にひっかかった。
「すみませんが、免許証見せてください。トランクの中、見せてもらえますか?」
「ご苦労さまです。何かあったんですか?」と妻が尋ねる。
「あさって、韓国の金大中大統領が訪日されるんです。検問に御協力、有難うございました」
ああ、そうだった。十月七日、あの金大中氏が大統領として日本に“帰って”くるのだった。車窓からのぞきこんでいる機動隊員は、まだ童顔の若い警察官だ。もちろん私が誰だかわからなかったし、機械的な一斉検問だから誰だかきこうともしない。「金大中事件」の当時の警察庁外事課長だと知ったら驚いたかも知れないが、この警察官は事件の起きた一九七三年八月には、もしかするとまだ生まれていなかったかも知れない。再び走り出した車中で、私は深い感慨に耽った。「光陰矢の如し」とはこのことか。あれからもう二十五年の歳月が流れたのか。飯田橋のホテルグランドパレスから拉致され、洋上で危うく殺害される寸前に命拾いし、ソウルに現れた金大中氏の人生は波瀾万丈、数奇をきわめたものだった。
一九七一年の大統領選挙初挑戦では、選挙妨害を受けながらも現職の軍事政権大統領朴正熙氏に九十四万票差まで善戦し、朴大統領の心胆を寒からしめたためか、アメリカに亡命した。
大統領になって帰った金大中氏
金大中事件で暗殺されそうになったが、九死に一生を得て帰国後、同氏は政治活動を禁止され、自宅軟禁となり、さらには投獄の憂き目をみた。
一九七九年朴大統領暗殺事件が起きた。束の間の「ソウルの春」は一九八〇年忽ち凍りつき、全斗煥氏を中心とした軍部勢力による「光州事件」が発生した。そして金大中氏は首謀者として逮捕され、死刑判決を受けた。この死刑判決は、その後無期懲役へ、さらに懲役二十年に減刑され、米国亡命を条件に執行停止となった。しかし、不屈の金大中氏は一九八五年帰国を強行したため、再び軟禁状態となった。一九八七年盧泰愚将軍の「民主化宣言」で政治的自由を回復した氏は、二度目の大統領選挙に挑み、盧氏に敗北、さらに五年後には三たび金泳三氏に敗れた。
十月七日正午過ぎ、羽田空港に到着した大統領特別機から夫人同伴でタラップを下りてきた金大中大統領のテレビ中継の映像をみると、氏は歩行がやや不自由で七十四歳の老いを感じさせた。無理もない。これまで暗殺未遂二回、反逆罪で死刑判決を受けるなど、死に直面したこと、五回、そして自宅軟禁や投獄された期間は約十年間。厳寒酷暑の獄中で長い間堅くて冷たい床板の上に座らされていた結果、足が萎えてしまったのだという。三回目の大統領選挙で金泳三氏に敗れたとき、一旦は政界引退を表明したが、一九九七年この不屈の政治家は、大統領選に四回目の挑戦をし、そして当選した。
まさに「ネヴァー・ギブ・アップ」の精神の権化ともいうべき信念の人であり、世の指導者に学ぶべき多くの教訓を示している。
日韓を震撼させた不幸な事件
「金大中事件」が突発して日本の朝野を震撼させたのは、昭和四十八年(一九七三年)八月八日のことだった。
この事件によって戦後約二十年の紆余曲折を経たうえ、昭和四十年六月二十二日、日韓条約の調印によってようやく正常化にこぎつけた日韓両国の友好関係は、再び険悪となり、朴正熙政権と、前年七月発足したばかりの田中角栄内閣との外交関係は|危殆《きたい》に瀕した。
「金大中事件」ときいても、なにしろいまから二十五年以上前の話だから、若い読者は「そういえば、きいたことがある」程度の認識しかないことだろうが、それはまさに、当時の外務大臣・大平正芳元首相が、くり返しくり返し国会で答弁したように、「日韓両国にとってまことに不幸な事件」だった。
その概要を当時の新聞記事で再現すれば、ざっとこんな事件だった。
〇昭和四十八年八月八日、韓国の野党、新民党の元大統領候補、金大中氏(47)が、白昼、東京・飯田橋のホテルグランドパレスから五人組の犯人たちによって|拉致《らち》され、行方不明となった。
〇警察は直ちに全国的な捜査を開始したが、発見に至らず、国会やマスコミは大騒ぎとなった。
〇八月十三日、事件発生後六日目に金大中氏は韓国ソウル市内の自宅で発見され、韓国の特務機関による犯行をにおわせる体験談を語った。
〇東京では「朴政権反対・韓国民主回復統一促進会議日本支部」が結成され、金大中氏が同会議議長に選出された。
〇日本政府は、八月十四日、法眼晋作外務次官から李駐日大使を通じ、韓国側に捜査協力、韓国側捜査の通報、被害者金大中氏と誘拐目撃者とみられる梁一東氏の再来日、いわゆる“原状回復”を要請したが、韓国側は八月十七日、この要請を拒否した。
〇八月二十三日、参議院法務委員会で時の田中伊三次法務大臣は、「第六感として某国CIAの仕業に違いないと思う」と発言、さらに翌日には「韓国側に責任がある」と指摘した。
〇八月二十三日、韓国政府は“政府機関介入”と報じた読売新聞の記事の取り消しを要求し、読売新聞はこれを拒否した。
〇翌二十四日、韓国政府は読売新聞ソウル支局閉鎖、三特派員の国外追放を発表した。
〇九月五日、政府は金大中氏誘拐事件の容疑で韓国大使館・金東雲一等書記官の任意出頭を要請、韓国側はこれを拒否し、日韓経済援助折衝は中断となった。
〇九月七日、野党四党は衆議院本会議で金大中氏事件の緊急質問を行い、対韓経済援助の打ち切りを要求、田中首相は「対韓政策の基本は変えない」と答弁した。
〇十月二十六日、金大中氏は七十一日ぶりに軟禁をとかれ、自宅で記者会見し、政界からの引退を表明した。また金溶植韓国外相は国際法上の原状回復は実現されたと述べた。
〇十一月一日、韓国政府は金大中氏事件について、在日韓国大使館金東雲一等書記官が事件に関係していた事実を認め、同書記官を罷免し、日本政府に対し遺憾の意を表明した。しかし日本の野党四党は、事件がきわめて政治的に解決されつつあることに反発し、それぞれ厳しい声明を発表した。
〇十一月二日、時の韓国・金鍾泌首相が朴正熙大統領の親書を携えて来日して田中角栄首相と会談し、日本政府と国民に陳謝し、田中首相は事件の収拾に同意し、日韓関係閣僚会議を年内に東京で開くことに合意した。
これが「金大中事件」のあらましで、一応は十一月二日をもって「政治的結着」はついた。しかし、刑事事件としての捜査はその後も数年にわたって続き、朴政権が倒れたあとも金大中氏の任意出頭をめぐって日韓関係が紛糾するなど、まことに後味の悪い事件だった。
*
当時の新聞報道ぶりを『昭和史全記録・一九二六〜一九八九(五十万時間のメモリー)』(毎日新聞社刊)に基づいて拾ってつづると、こんな経過となるのだが、当時の大平外相のいう「日韓両国にとってまことに不幸な事件」が起きたとき、私は、どういう運命の星の下に生まれたのか、警察庁警備局の外事課長だったのである。
*
「金大中氏事件」の捜査そのものについて語ることは、「国家公務員法第一〇〇条」の守秘義務にふれる恐れがあるので差し控えるが、同事件にかかわるエピソードを披露してみよう。
よりによって大異動日
長年「危機管理」を司るクライシス・マネジャーとしての人生を歩んできて、いつも不思議に思うのは、昭和史に残るような歴史的大事件は、なぜか人間の組織が即応できないような状況にあるときに限って起こるということだ。そして「管理危機」が起きてしまう。
「金大中氏事件」が起きた日は、夏空が眩しい、よく晴れた真夏日だった。
この日はまた、警察庁の、それも警備公安系統の全国大異動が発令になった日だった。
とくに警察庁外事課長だった私は、二年に及ぶ任期が始まったばかり、警視庁も大阪府警も兵庫県警も「外事課長」が一斉に動いた日だったのである。
挨拶まわりでごった返している警備局外事課に入った事件の第一報は、「神田のホテルグランドパレス第何号室に“ダンコン”!!」という、全く要領を得ないものだった。
過去の大事件で、第一報が正確かつ十分だったためしは一件もない。
三島由紀夫事件も「ミシマという酔っ払いが暴れている」だったし、三菱重工爆破事件だって、「タクシー衝突、プロパンガス爆発、死傷者数名」だった。
それにしても訳がわからない第一報である。
「ダンコン?“弾痕”か? それとも?……」
日本語は同音異義語が多い。もし“もう一つ”の漢字だと、それは警備局の所管事件ではない。“阿部定事件”なら刑事局か保安部の仕事だ。
「なんのことだ?」と問い合わせをやっているところへ、ある国会議員の秘書から警視庁に、「キンダイチュウ氏が行方不明になったので探してほしい」という、捜索願いが口頭で行われたという報告が入った。
この二つの報告がつながるとは、最初は予想もしなかった。
「キンダイチュウ? ああ金大中氏か。韓国大統領選で朴正熙現大統領と争って善戦したっていう野党の候補者だね。たしかアメリカに亡命するといって往きに日本に立ち寄った人で、そのときは保護願いが出てて警護配置をしたが、いつ、また日本に来たのかな? 行方不明とはどういうことかな?」……というのが第一報に接したときの私たちの反応だった。
そのうちにホテルグランドパレスの現場から警視庁経由で入ってくる情報は、「訂正っ、“弾痕”ではなく自動拳銃」、「さらに訂正、拳銃ではなく弾倉」……。
どういう事件なのかさっぱり見当がつかない。
やがてそれは、再生弾(一度発射した|薬莢《やつきよう》に再装|填《てん》した弾)をふくむ七連発の自動拳銃の弾倉と判明した。
正規の軍用拳銃や特務機関員の制式拳銃ならカバー・ヘッド(被甲弾)の弾を装填するもので、鉛弾の再生弾なんか使うのは、ヤクザ、暴力団に決まっている。
金沢大学の中先生!?
暴力団の組抗争だろうか? それなら刑事局の仕事だなどと論議しているうちに、失踪届の出た金大中氏はホテルグランドパレスから行方をくらましたことがわかり、この二系統の情報、報告が同一の事件であることがはっきりしてきたのである。
韓国大統領候補失踪事件となれば、同じ捜索でも防犯部少年課というわけにいかない。
それは警察庁でいえば警備局外事課第三係(朝鮮担当)、警視庁では公安部外事第二課、大阪以下各府県警察では外事課や警備課の所管だ。
ところが八日付の人事異動で私を除いてみんな動いているのだ。
警視庁外事第二課長だった国松孝次警視正は、外務省出向・在フランス日本大使館勤務一等書記官として外務研修所入りすることになっていた。
この日の午前中に警察庁外事課付となり、ついさっき、「君はこれから何もしなくていい、フランス語の勉強と自動車運転の練習に専念しろ」と指示したばっかり。
だが国松警視正、|健気《けなげ》にも「……といわれましたが、私はお手伝いします」とボランティアしてくれる。
あとでいちばん話題になったのは、外事課第三係担当課長補佐に任じられ、石川県警本部警備部長から赴任してきた松本彰二警視だった。
あとできいた話だが、警察庁栄転の辞令を受けてから県庁内の挨拶まわりを終えて部長室に戻った松本警視は、デスクの上にある「金大中先生事件発生」という緊急報告のメモを見て考えた。
「|金大《きんだい》の|中《なか》先生? それがどうかしたのかな?」
石川県では「金沢大学」のことを「キンダイ」と呼ぶ。松本警視は「金大中大統領候補」など馴染みの薄い名前だから念頭に浮かばない。
金沢大学の|中《なか》という教授が何か事件を起こしたのかな、と思ったそうである。
即日赴任せよとの指示で、とるものもとりあえず着任した松本課長補佐は、その日から徹夜に次ぐ徹夜。着たきり雀の数日を過ごした。
やがて「一度帰宅して、風呂に入って着換えしてきていいでしょうか?」ときくから私は、「もちろん、いいとも」と許可した。
翌日外事課の大部屋は笑いの渦となった。
松本課長補佐は新宿区払方町にあった、かの国家公務員宿舎の一戸を宿舎に割り当てられたそうだが、深夜寝静まった宿舎街に辿りついてハタと困った。
着任早々金大中氏事件捜査の大渦巻にまきこまれてしまった彼は、自分の官舎がどこなのか知らなかったのである。
夜中に他の宿舎の住人を起こして「私の官舎はどこでしょう?」ときくわけにはいかない。
考えあぐねた彼は、近くの交番を訪れ、「この二、三日の間に引っ越しのあった官舎、知りませんか?」と立番中の巡査にたずねたという。
六〇年代、七〇年代はこんな悲喜劇続出の危機管理ならぬ“マネジメント・クライシス(管理危機)”の日々が続いたのである。
国会答弁に明け暮れる
国会は「金大中事件」で、衆議院も参議院も沸きかえっていた。
外国の国家機関による“日本の主権侵害”であるという怒りの声が与野党一致で盛り上がり、白昼誘拐された氏を日本国内で発見救出できず、犯人たちも取り逃がした日本警察に対する手厳しい批判の声が両院のあらゆる委員会の大合唱となった。
野党の一部には日本警察も加担しているのではないか、という疑惑の声さえあった。
警察庁の担当政府委員である山本鎮彦警備局長、中島二郎警備局参事官はもとより、法務省の安原美穂刑事局長、外務省高島益郎アジア局長、中江要介アジア局参事官ら、関係省庁の政府委員たちは、連日衆・参両院のあらゆる委員会、すなわち、予算委員会、外務委員会、法務委員会、内閣委員会、地方行政委員会、はては海上保安庁所管の運輸委員会に至るまで出席要求が殺到し、朝から晩まで国会答弁に明け暮れる日々が続いた。
外事課長ら各省の課長クラスは、国会では政府側の「説明員」とよばれ、局長・参事官ら「政府委員」に出席できない事情がある場合に限定的な答弁を許される立場にある。
だが一日に同時に衆参両院の七つの委員会から出席要求がくる有り様なので、外事課長も代理で答弁せざるをえない。
最初は「課長なんかダメ、ダメ。局長、なぜ来ない」なんて怒られながら答弁しているうちに、だんだん、“認知”されてきて、そのうち「安原刑事局長、中江参事官、佐々外事課長」という“三点セット”のパッケージ答弁が定型化してしまい、昼食も抜きで各委員会のハシゴ答弁をやるようになった。
各委員会への出席回数は、金大中氏事件だけで実に二百数十回に達し、ある日など、山本局長と中島参事官が四つの委員会をこなしている間に、外事課長の私が三つの委員会を「政府委員代行説明員」として答弁したこともあった。
国会審議をめぐるエピソードは、それだけで一冊の本になるくらいたくさんある。なかでも忘れられない、いちばん困ったシチュエーションが、冒頭でふれた八月二十三日の参議院法務委員会における田中伊三次法務大臣の、有名な“第六感答弁”である。
もともと、田中法相は国会答弁をいやがらない、どちらかというと答弁の好きな大臣だった。テレビ中継のカメラの眩しいフラッド・ライトと、カシャカシャと|姦《かしま》しいスチル写真のフラッシュを浴びるとますます意気軒高となられるのだ。
かの一世を風靡した有名な“第六感答弁”をされたとき、私は法務大臣の隣の政府委員席に座っていた。
国会議事録にも残っている法相答弁を、記憶に基づいて再現すると、ざっとこんな具合だった。
第六感答弁にヘキエキ
金大中事件は、韓国の国家機関であるKCIAによる主権侵害ではないかとの野党の質問に対し、フラッシュを浴びながら立ち上がった田中伊三次法務大臣は、一種独特の抑揚のある名調子でこう答えたものだった。
「法曹生活四十年。国会議員として三十年。その政治家としての人生の大半を、私は、当法務委員会において過ごして参りました。
その私の“第六感”では、この事件が某国CIA、私は“K”とはいうとりませんよ。“K”すなわち“コリア”。私はそうはいっていない。
某国CIAの犯行にまちがいないと思います……が、本件は、まだ検察庁に送致されておりません。昔は“送局”といった。いまは“送検”。つまり警察が捜査を遂げて検察庁に事件送致しておらん段階でありまして、えー、従いまして本件は依然警察の捜査段階にあるので、法務大臣たる私が、某国CIAの犯行と断定するわけにはいかない。
そこでいまのご質問に対する答弁は、(突然私を指さして)ここに警察庁の外事課長が出席しておりますので、そちらからご答弁させます」
法務大臣答弁だと思って気をゆるめ、心の準備をしていなかった私は仰天した。
記者席や列席の国会議員たちの間から笑い声や野次が飛ぶ。
あそこまでいってしまっておいて、いきなりこっちに答弁をまわされても困るのである。
捜査中の事件で、しかも国家機関関与の確たる証拠もなしに推測で答弁するわけにはいかない。早速立ち上がって答弁する。
「捜査中の事件でありますので、答弁は差し控えさせていただきます」(「ちゃんと答えろ」との野次)
「では、質問の角度を変えましょう。では外事課長、本件はKCIAの犯行ではありませんね、はい、イエスかノーかでハッキリ答えてください」と野党議員の質問。
「それも答弁差し控えさせていただきます」
隣をみると田中伊三次法務大臣、一緒になって笑ってござる。
そして着席した私の耳元で「それでいいんだ、あんた、しっかりしとるから安心してきいてられる」と|曰《のたま》う。
当日の夕刊各紙は、一面大見出しで「法相国家機関関与を示唆“第六感”答弁」と報じ、それがまた他の委員会にはねかえって、警察庁政府委員は往生したものだった。
読売スクープでは大雷落下
虚をつかれてあらぬ非難を浴び、奮起した日本警察は、事件発生以来昼夜兼行、懸命の全国捜査を展開した。
そして九月四日までには在日韓国大使館の金東雲一等書記官が、事件現場であるホテルグランドパレスの金大中氏の泊まった部屋にいたという疑いの余地ない事実をつきとめた。
金東雲一等書記官が巷間伝えられるようにKCIAの工作員なのかどうかは証明するすべもないが、現場に残された指紋が、彼が以前新聞記者として在日していた頃、採取された外国人登録証用の指紋と一致したのである。
そのほかの捜査の経緯については公表することは許されないが、とにかく在日韓国大使館員が現場にいたことはまちがいないところから、いずれかの段階で同人の任意出頭を求め、事情聴取しようということとなった。
各社の取材競争は熾烈をきわめた。
私はもとより、警察庁、警視庁の関係捜査官たちは、役所では定例記者会見を求められ、帰宅すれば“夜討ち、朝駆け”。必ず数社の取材記者が午前二時頃まで座りこんでいるという有り様。電話が鳴ると、“夜回り”の記者がかたずをのみ、耳を澄まして金大中事件の報告かどうか、私の顔色をみている。
「捜査に進展なし、話すことはないよ」と、毎日毎晩言い続けなくてはならないのだ。
九月四日の深夜、粘っていた記者たちがようやく帰った直後、当直から急報が入った。
「読売がスクープしそうです。どこまで事実をつかんだかはわかりませんが、今朝の朝刊でなにかやる気配です」
当直の報告に、私は緊張した。もし読売新聞に特ダネがのれば、九月五日の朝は各新聞社、テレビ、ラジオが一斉に記者会見を要求してきて、警察庁と警視庁記者クラブは修羅場になる。
そして午前十時から始まる衆・参両院の各委員会は、一斉に緊急質問の通告をしてくるだろう。
直ちに警察庁・警視庁の最高首脳部の間で慌ただしい電話会議が行われ、五日早暁、外務省を通じて韓国側に金東雲一等書記官の任意出頭を求める方針が決まり、その決定は直ちに実行された。
翌朝七時頃出勤した私は、警察庁記者クラブで緊急の記者会見を行った。
睡眠不足で目が血走った顔々が並んでいる。
なかには昨夜というか、今朝二時頃まで粘っていた記者のうらめしそうな顔もある。
読売の朝刊が一面トップで大々的に「K一等書記官、任意出頭へ」と一大スクープをやっていたので、各社とも当然みんな知っている。
質問続出の記者会見を終えて外事課長室に戻ると、庶務の女性秘書が入ってきて、「後藤田官房副長官から山本警備局長と外事課長に、すぐ官邸に来いってお呼びです」という。
そうら、おいでなすった。田中角栄内閣成立と同時に、辞めたばかりの前警察庁長官・後藤田正晴氏が、乞われて官房副長官として入閣し、当時大きな話題となっていたが、高橋幹雄・新長官の厳命で、「官邸をはじめ、政治家には捜査結果は長官指示があるまで一切報告するな」という|箝口令《かんこうれい》が敷かれていたので、後藤田副長官にも報告してなかった。
覚悟はしていたが、やはり気が重い。
山本鎮彦警備局長のお伴で、官邸の事務官房副長官室に入ると、早速|大雷《おおかみなり》が落ちた。
「なぜワシに事前に報告せなんだ!! この事件は高度の政治的判断の要る難しい事件だぞ、なんで勝手に任意出頭をかけた」
山本局長は寡黙な人だから申し開きはもっぱら私の役である。
「政治家や官邸には報告するなという長官の命令であります」
「ワシはこの間までの長官だぞ、ワシは政治家やないぞ、議席、もっとらんど」
「でもいまの長官は高橋幹雄さんであります。その命令に従っただけです」
「一刻も早く総理に報告せにゃならん、読売に“K書記官”となっとるが、ありゃ何ちゅう書記官か」
「金東雲という一等書記官であります」
「本当に間違いないのか」
「はい、現場の遺留指紋と本人の指紋が一致しました」
報告を終えたらこういうときは長居は無用。目を三角にして怒っている副長官を尻目に早々に退散する。
外事課長室に戻ってやれやれとばかりタバコに火をつける。徹夜でしょぼくれた目に煙がしみる。
と、また女性秘書が入ってきた。「後藤田副長官がお呼びです」
「うん、いま行って怒られてきたよ」
「それが、またお呼びなんです」
やれやれ、まだ怒り足りないのか。また叱られにゆくのかと、しぶしぶ官邸に赴く。
「副長官、お呼びですか?」と恐る恐る部屋に入ると、待ちかねたように後藤田副長官、
「ホレ、何だ、すぐ言え、何ってった」
なにを怒っているのかさっぱりわからない。
「えー、なんでございますか?」と問い返すと、後藤田副長官、はったと私をにらみつけながら、
「えーっと、“西遊記”!! えーっ、“孫悟空”!!」と仰せ。
はて? なんのことだろう?
あっ、わかった、犯人の名前だ。
「あのう、金東雲ですか?」
「そうよ、それ、それ。なぁんか西遊記みたいな名前だったが、あんまり怒ったんで忘れてしもうた」といって、ニヤリと笑う。
孫悟空の乗り物の“|斗雲《きんとうん》”のことをいっておられるのである。私も思わずふき出し、
「副長官、“連想ゲーム”やってる場合じゃないでしょう」というと、
副長官、
「すぐ総理に報告せにゃ」と席をたつ。
あれはまさに生涯忘れがたい“官邸の「連想ゲーム」”ではあった。
*
金大中大統領は、金大中誘拐事件については「過去は問わない」という基本姿勢で、日本側の謝罪も弁解も求めようとはしなかった。韓国内においてもこの件はこれ以上追及しないと明言し、長い間の日韓関係の喉に刺さったトゲの一つは解決した。
金東雲一等書記官の所在は、その後杳としてしれず、朴正熙大統領もこの世の人ではない。金大中氏事件の真実は一体何だったのか、それは今後永遠の謎として歴史に残ることだろう。
金大中大統領になってから、日韓大衆文化の交流や両国海軍の連絡協議など、顕著な友好関係改善がはかられつつある。両国親善のために誠に喜ばしいことである。
時の大平外務大臣は、国会答弁で何十回となく「金大中氏事件は、日韓両国にとって誠に不幸な事件であります」と言いつづけていた。
その不幸な事件が心の広い金大中大統領の力によって、災い転じて福となし、雨降って地固まるのたとえどおり、日韓の将来に向かって友好の礎となってくれれば……。その不幸な事件の日本側捜査主任の苦しい任務を果たした私としては、心から願ってやまない。
[#改ページ]
[#地付き]佐々淳行
私は「東大安田講堂事件」や「あさま山荘事件」、「フォード大統領訪日警備」や「沖縄海洋博『ひめゆりの塔』事件」などで警備実施の手練れとして知られているが、実は本書をお読みいただければおわかりのように公務員生活の三分の一は「外事警察」とよばれる仮想敵性国家の対日有害活動に対する防諜・対破壊工作・テロ・ハイジャック対策などの専門家でもあったのだ。
本書はその実録「危機管理」なのだが、今回は北朝鮮とその独裁者・金正日に焦点を絞って書いたものである。
話の進行上、ドバイ・シンガポールなどの日本赤軍ハイジャック事件や、国際過激派のテロなどに言及しているが、それらの事件簿はまた稿を改めて「実戦危機管理ハイジャック編」のような形で執筆していきたいと考えている。
それにしても、明け方筆を置いて振り返ってみれば、私は本当に「嵐を呼ぶ男」とあだ名されるだけあって、どうしてこんなに事件にツいているんだろうと思わず慨嘆したものだった。
なお、執筆に際して個人名や団体名を引用しているが、当時の報道や公表された事実によっているものであり、非謗・中傷する意図はまったくなく、他意のないことをお断りしておきたい。また本書中、多くの法令を引用しているが、当時の法令によったもので、現時点では必ずしも符合しないかも知れない。
本書の刊行にあたっては文藝春秋の新井信さん、池田幹生さん、佐々事務所の石井健二事務局長、三浦佳代子さんに大変お世話になった。心からお礼申しあげる次第である。
本平成十一年厳冬
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本書は一九九二年四月に読売新聞社より『金日成閣下の無
線機』として刊行されたものに大幅加筆訂正したものです
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文春ウェブ文庫版
謎の独裁者・金正日
テポドン・諜報・テロ・拉致
二〇〇二年九月二十日 第一版
著 者 佐々淳行
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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