マリア様がみてる
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)顔面|蒼白《そうはく》
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(例)[#改ページ]
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超お嬢さまたちが繰り広げる
しとやかで過激な学園コメディ!!
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|純粋培養《じゅんすいばいよう》の乙女たちが集う、リリアン女学園。
転校生の|乃《の》|梨《り》|子《こ》は、異邦人の気分だった。
ある日、降りしきる桜の花びらの下で、
生徒の憧れの『お姉さま』と出会う。
彼女の秘密を知ってしまった乃梨子だが――!?
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ちらちらと、粉雪のようにゆっくりと降っていく桜の花びらの中。そこにはマリア像が立っていた。
|薄《うす》|紅《べに》|色《いろ》の花びらが、髪に肩に積もるのを払いもせず、少し|斜《なな》め上に視線を向けて、じっと桜の木を見つめている。
やがて、こちらの視線に気がつくと、振り返って|優《ゆう》|雅《が》にほほえんだ。
「ごきげんよう」
よくよく見れば、そこにいたマリア様は、自分と同じ制服を着ていた。
銀杏《いちょう》の中の桜
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の|挨《あい》|拶《さつ》が、青空に|木《こ》|霊《だま》する。
リリアン女学園の中等部・高等部の乙女たちが、今朝も笑顔で背の高い門をくぐり抜ける。
「今朝は、よいお天気ですこと」
「ええ。マリア様のお心のよう」
|汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは|翻《ひるがえ》らせないように歩くのが、ここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
「あら、そこにいらっしゃるのは|乃《の》|梨《り》|子《こ》さんじゃありませんこと?」
「えっ?」
|銀杏《いちょう》の並木道を伏し目がちに歩いていた少女は、自分の名前が呼ばれたのに気づいて振り向いた。
少し伸びたおかっぱが、サラサラと小川のせせらぎのように揺れる。
「お一人? よろしければ、教室までご一緒いたしませんこと?」
そこには同じ制服を着た少女が三人、人なつっこそうな笑みを浮かべて立っていた。
「……えっと」
まずい。――乃梨子はそう思った。
反射的に振り返ってしまったが、それがいったい誰なのか、まるでわからない。
「まあ、入学式からまだ四日しか|経《た》っていないのですもの、名前を覚えていただけなくても仕方ありませんわね?」
|無《む》|邪《じゃ》|気《き》にほほえむ少女たちを前にして、
「実は顔も覚えていなかった」とは決して言えるものではない。とっさに彼女たちの表情を|真《ま》|似《ね》て、乃梨子は「ごきげんよう、皆さま」とほほえんだ。
「ごめんなさいね。私、まだクラス全員のお名前を覚えきれていなくて」
「無理ありませんわ。乃梨子さんは、他校から入ってこられた方ですものね」
三人の少女たちは、ご|丁《てい》|寧《ねい》に「|瞳《とう》|子《こ》です」「|敦《あつ》|子《こ》です」「|美《み》|幸《ゆき》です」と、その場で自己紹介しだした。ちなみにリリアンでは、同級生には名前に「さん」付けが|定《てい》|番《ばん》だった。
(無駄なんだけど……)
そんなことをしてもらっても、明日になったらきっと忘れてしまうのだから。
(だって、みんな同じように見えるんだもん)
顔や髪型はそれぞれ違うけれど、印象がまるで同じ。
彼女たちは古くさい制服と丁寧な言葉遣いが似合う、無邪気でお人好しな可愛い天使だった。
乃梨子が入試をパスしたくらいだから、べつに親の収入や家柄なんかの審査はないのだろうけれど、見まわせばどの娘もいいところのお|嬢《じょう》さまにしか見えない。
「さ、乃梨子さん。参りましょう」
天使たちに押し切られ、乃梨子はその後をついていくしかなかった。
私立リリアン女学園は、明治三十四年創立、もとは|華《か》|族《ぞく》の令嬢のためにつくられたという伝統あるカトリック系お嬢さま学校であった。
東京都下。|武蔵《む さ し》|野《の》の|面《おも》|影《かげ》を|未《いま》だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、|幼《よう》|稚《ち》|舎《しゃ》から大学までの|一《いっ》|貫《かん》教育が受けられる乙女の|園《その》。
すなわち。
時代は移り変わり、|元《げん》|号《ごう》が|明《めい》|治《じ》から三回も改まった|平《へい》|成《せい》の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培《ばい》|養《よう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園なわけだ。
しかし、何事にも例外はある。その一例が乃梨子ということになる。
「私、入学式の日から乃梨子さんとお近づきになりたいと思っていましたの」
たしか瞳子と名乗った、両耳の上で大きな縦ロールをつくった少女が言った。今時、見かけないヘアスタイルだが、アンティークなデザインの制服を着ているせいか、全然違和感を与えない。
リリアン女学園高等部の制服は、緑を|一《いっ》|滴《てき》落としたような|光《こう》|沢《たく》のない黒い|生《き》|地《じ》を使用していて、どこまでも上品。黒のラインが一本入っているアイボリーのセーラーカラーはそのまま結んでタイになる。
(そこまではいい。そこまでは、すごくいいんだけど――)
だが今時、ワンピースの制服って珍しいと思う。その上、ローウエストのプリーツスカートは|膝《ひざ》|下《した》|丈《たけ》だし。ついでだから言ってしまえば、それに三つ折りの白ソックスにバレーシューズ風の|革《かわ》|靴《ぐつ》がセットされる。
(天然記念物ものだよな……)
並んで歩く少女たちの格好を、乃梨子はぼんやり眺めた。しかし、皆その天然記念物をそれなりに着こなしているから立派だなあ、と。
それなのに自分だけは、どう考えても似合っていないように思える。だが、それはかなり精神的な部分からきているのだ。
私は、彼女たちとは違う。
自分が例外であることを、乃梨子はちゃんと認識できていた。
銀杏並木は、|蛇《だ》|行《こう》しながら先へ先へと延びていく。途中、図書館とかクラブハウスとかの独立した建物の脇を通るのだが、どれも外壁が|煉《レン》|瓦《ガ》でできていて風景に見事にとけ込んでいた。
銀杏並木の先にある|二《ふた》|股《また》の分かれ道の真ん中で、少女たちは立ち止まる。
そこには、|柵《さく》に囲まれた小さな庭があった。
小さな庭には、小さな池とそれを取り囲む小さな森があって、その中心には真っ白なマリア像が立っている。ちょうど、校門から入ってきた人間をここで迎える形になる。
「マリアさま、今日一日私たちが神の教えに従い、正しく生活できますようにお守りください」
目の前にいるマリア様は、どこまでも|慈《じ》|悲《ひ》深いほほえみを浮かべ、隣にいる|無《む》|垢《く》な天使たちは一心に祈りを|捧《ささ》げている。
(お許しください、マリア様)
乃梨子は、三人のクラスメイトたちに|倣《なら》って手を合わせた。そして心の中で|懺《ざん》|悔《げ》する。
(本当は私なんか、マリア様の前に進み出る資格などないんです)
「熱心にお祈りしていらっしゃったわね。乃梨子さんは、何をお祈りしていらしたの?」
疑うことを知らない少女たちの笑顔が、ますます罪悪感を|募《つの》らせる。
「あ。えっと、早く学園生活に慣れますように、と」
ひきつった笑顔で、そう答える。
「まあ、マリア様がきっとお守りくださいますわ」
(……ああ、針のむしろだ)
こんなことで、三年間、無事に終えることができるのだろうか。乃梨子は|密《ひそ》かにため息をついた。
学園生活は、始まったばかりだというのに。
※
――逆・かくれキリシタン。
それが、乃梨子が自分自身につけた|自虐《じぎゃく》|的《てき》なあだ名であった。
なぜなら乃梨子は、趣味が「仏像鑑賞」で|暇《ひま》さえあれば寺院を|巡《めぐ》って仏像を|愛《め》でるという、変わり種の少女であるからだった。やはりこの趣味は、カトリックの学校ではあまり大きな声で言えるものではない。
一年|椿《つばき》組の教室の窓から、桜並木が見えた。
入学式の日満開だった桜は、もうずいぶん枝があらわになってしまったが、それでも少し風が吹くと、降り始めた雪のようにはらはらと花びらを散らした。
ホームルームでは、担任のシスターが聖書にちなんだ話をしている。
(あの日、雪さえ降らなければ……)
乃梨子は、時々考える。
自分は、この場所に存在しなかったのではないだろうか。
あの日の雪と、十五の少女にしてはいささか渋い趣味が、乃梨子の人生を変えた。――受験戦争に敗れたのだ。
リリアン女学園の試験に合格したのだから、頭の方はそれほど悪くはなかった。第一志望の公立校も、絶対確実の|太《たい》|鼓《こ》|判《ばん》を担任に押されていた。
では、なぜ現在ここにいるかというと、それは公立校の試験日に試験会場まで行けなかったからだった。いくら絶対確実でも、試験を受けなければ意味はない。
試験の前日、乃梨子は|京都《きょうと》にいった。その日は、京都某寺の観音像が、二十年に一度ご|開帳《かいちょう》される|唯《ゆい》|一《いつ》の日であった。――二十年に一度。これを|逃《のが》せば、次は三十五歳の時。
考えるまでもなかった。|千《ち》|葉《ば》と京都、日帰りできない距離じゃない。
(行きはよいよい、帰りは怖いだったなぁ)
運悪く、大雪のために帰りの新幹線は不通になった。それで、すでに合格通知を受け取っていたリリアン女学園に通うしか道が残っていなかったと、こういうわけだ。
「|二条《にじょう》さん、聞いていますか?」
「あ、はい」
シスターは、生徒がよそ見をしていたにもかかわらず、怒らない。
マリア様が、いつでも見ていらっしゃいますからね。そう言うだけだ。
「ルカによる|福《ふく》|音《いん》|書《しょ》の、十五章にもあります」
それは、百頭の羊を持つ者がいて、羊の一頭がいなくなったとしたら、九十九頭を残してでもいなくなった一頭を探しにいくだろう、といった話だった。――聖書は、たとえ話であふれている。
シスターは教壇に立ったまま、両手を広げた。
「助けを求める者を、神は見捨てたりなさいません。共に祈りましょう。迷える子羊のあなた方を導くことが、神の喜びでもあるのですから」
※
放課後。敦子だか|和《かず》|子《こ》だか、そんな名前の編み込み三つ編みの少女が、乃梨子の顔を覗き込んで言った。
「乃梨子さん。よろしかったら、これからクラブ活動の見学にいらっしゃいません?」
「はあ、クラブ……」
「瞳子さんは演劇部、私と美幸さんは聖書|朗《ろう》|読《どく》のクラブですの。よろしかったら、一緒に聖書のことを学びましょう」
「せ、聖書?」
不意打ちだったので、声が裏返ってしまったかもしれない。だが、三つ編みの少女は、乃梨子の反応に気がつくこともなく首をちょこんと曲げてほほえんだ。
「いかがかしら?」
「え……。あっ、ごめんなさい。今日はちょっと用事があって」
言った後で、もっとうまい断り方はなかったのか、と思った。これでは、明日も誘われかねない。
「そう? 残念ですわ」
けっこうすんなりと、彼女は引き下がったのでほっとした。聖書の朗読をするクラブなんて、ぞっとしない。
「ごきげんよう」
またクラブの|勧《かん》|誘《ゆう》にあっては大変、と乃梨子はそそくさと校舎を後にした。
聖書の朗読から逃げるための|口《こう》|実《じつ》で、別に用事などなかった。
(遠回りしようかな)
すぐに帰ってもいいのだけれど、今だとクラブのない生徒たちの下校ピークにぶつかる。
そう言えば講堂の裏に、銀杏に混じって一本だけ桜が咲いている場所があった。
入学式の時、講堂から教室に戻る途中、初めて五分咲きのそれを見て、その時何となく心ひかれたのだ。
どうして、あの桜だけあんなにきれいなんだろう、――と。
「もう、散っちゃったかな」
記憶をたどり、講堂の砂色の壁に沿って小走りに駆けていく。
地面に、薄紅色の小さな丸い花びらが落ちているのを見つけた。
角を曲がる。足もとの花びらは、どんどん増えていく。
次の角を曲がった所に、それはあるはずだった。
目印のように、一枝はみ出して見えた。
(……そこだ!)
一気にその角を曲がると、乃梨子はその場で息をのんだ。
「――――」
黄緑色の新芽をつけ始めた銀杏が|林《りん》|立《りつ》する木立の中でただ一本、大きく枝を広げた|染《そめ》|井《い》|吉《よし》|野《の》が今を盛りと花を咲かせている。
その下に、マリア様が立っていた。
そよ風にちらちらと降り出した粉雪のような花びらを、身じろぎもせずに眺めている。
桜の下には死体が埋められている、というのは有名な話だが、マリア様が立っているというのは初耳だった。
やがてマリア様は乃梨子の視線に気がつき、優雅に振り返って言った。
「ごきげんよう」
「……ご、ごきげんよう」
よくよく見れば、それは自分と同じ制服を来た人間の少女だった。ただしぬけるように色白で、人並みはずれて|整《ととの》った顔だちをしている。
あの、森のマリア像が二股の分かれ道から迷い出たと|錯《さっ》|覚《かく》しても、無理はないほど雰囲気が似ていた。
「桜が、きれいでしょう?」
彼女は目を細めて微笑した。
女らしい甘い顔立ちに、|綿《わた》|菓《が》|子《し》のようなやわらかそうな髪は、これまで見たことがないほどこの学校の制服が似合っていた。彼女が着ると、制服というよりも、青い目のアンティーク人形が着ているおよそゆきのドレスみたいだ。
(こういう人のために、デザインされた服なんだろうな)
悲しいかな、乃梨子の場合は人形は人形でも|市《いち》|松《まつ》人形のように純和風の顔立ち。だからどっちかっていうと、|鹿《ろく》|鳴《めい》|館《かん》のご婦人方のように「無理してドレス着ています」状態になってしまう。
「この桜も、見頃は今日まで。一人で鑑賞するにはもったいなかったから、お客さまが増えてちょうどよかったわ」
そう言いながら、幹をそっと|撫《な》でた。しゃべり方や落ち着いた雰囲気から、上級生かな、と思った。
「あまり桜がきれいで、忘れてしまったのかしら?」
「えっ?」
何を言われたのか、とっさにわからなかった。声をうわずらせながら聞き返すと、彼女は「言葉よ」と言った。
「……たった今、思い出しました」
「よかった。せっかくご一緒できたのに、お話できないかと心配したわ」
少しの沈黙のあと、二人は花びらの粉雪の中で小さく笑った。
「毎日、いらっしゃっているんですか」
「ええ。桜が咲いてからはだいたい。この木に誘われて」
「誘われる?」
「そう。誘われるの。あなたも誘われて来たのではなくって?」
彼女は言った。たくさん群れになって咲く桜も確かにきれいだが、この木のように特別に引きつけられることはない、と。
「どうしてなのかしらね」
「独りきりなのに、こんなにきれいに咲けるから……?」
つぶやくと、その人は少し驚いたような顔を見せて、「そうね」とうなずいた。
「本当に。あなたが言う通りだわ」
二人はそれから、しばらく散りゆく桜のその中に立っていた。
どちらも何も言わず、かといって|気《き》|兼《が》ねもなかった。
そうやって桜を見上げていることが、なぜだかとても心地いい。
乃梨子の訪れを待っていたように、桜は|惜《お》しげもなく花びらを散らしていく。
はらはら、はらはら。
彼女は何を考えているのだろう。そう思った時、マリア様似の整った顔がクルリと乃梨子の方を向いた。
「今、何時?」
「四時……五分前」
「本当に? じゃあ、もう行かないと」
何かの会議があるとか言って、その人は肩に落ちた花びらを払った。
「あの、髪にも」
「ああ、そうだったわね」
お願い、というように背を向けるから、乃梨子は桜の木から少し離れた場所で、彼女の髪に埋もれた花びらを一枚ずつ取ってやった。
ふわふわの髪は、見た目通りやわらかかった。大きく開いた|襟《えり》の中を覗くと、女でもドキッとするほど首筋が白くて|艶《なま》めかしい。
「ここは講堂の陰になっていて人の姿が見えないでしょう? きっと、時間の経過がわかりづらいのね。時計を教室に置きっぱなしにして来てしまったから、助かったわ」
並んで歩き出すと、彼女はそこにいるおかっぱ髪の少女について興味を示した。
「一年生?」
「はい」
「そう。私は二年だから、校舎は一緒ね」
並木道まで出ると、「じゃ、ここで」と言ってその人は背を向けた。乃梨子は夢でも見ていたような気分で、そのまま校舎方面に去っていく後ろ姿を見送っていた。何だか、すぐには去りがたかった。
十メートルほど進んだ頃だろうか、マリア様に似た彼女は不意に振り返って言った。
「また、お会いしましょう」
乃梨子は、その言葉をまっていたような気がした。
|幽《ゆう》|快《かい》の|弥《み》|勒《ろく》
「ただいま」
鍵を開けて中に入ると、奥の方から「お帰り」という声がした。
「あれ|菫子《すみれこ》さん、帰ってたの?」
「一足早かっただけ」
このマンションの持ち主は、リビングテーブルに足を投げ出したままの姿勢で、|乃《の》|梨《り》|子《こ》を迎えた。ストッキングが丸めてカーペットに脱ぎ捨てられている図は、なるほど、今帰ったばかりといった感じだった。
「映画観た後、ショッピングしてくる予定じゃなかったっけ?」
ストッキングを拾って手渡すと、「気が変わった」と小さく答えが返ってきた。出掛ける時の元気はどこへやら。
「|年《とし》|甲《が》|斐《い》もなく、ハイヒールなんか|履《は》いていくから足が痛くなったんでしょ?」
「年甲斐もなく、だけ余計」
「それは失礼。……おっと」
乃梨子はとっさに学生鞄で、飛んできたストッキングの砲弾をブロックした。
「菫子さんって、今いくつなの?」
「同じ女性のくせに、|歳《とし》を聞くのか、あんたは」
「いいじゃない、身内なんだし」
「安い飲み屋の水割り程度の、ね」
菫子さんは、投げ出した足をマッサージしながら、笑った。それくらいごくごく薄い血縁関係にある、という意味らしい。
乃梨子から見ればお父さんのお父さん、つまりお|祖《じ》|父《い》ちゃんの妹にあたる人が菫子さんだった。
「その『水割り』の面倒をみようっていう、物好きな人も世の中にはいるし」
世間的には大叔母といわれるその人を、乃梨子はチラリと見やった。
「リコはあまり面倒かけないでしょ?」
「先に言われちゃ、面倒かけないようにするしかないじゃないの」
「|是《ぜ》|非《ひ》とも、そのようにお願いしたいわね。何せ、私はもうお|婆《ばあ》ちゃんなんだから」
スーツとお|揃《そろ》いの、真っ赤な唇をつり上げてふふん、と笑った。自分では「お婆ちゃん」だなんて、絶対思っていないくせして。
(|敵《かな》わないよなぁ……)
頭をポリポリかきながら、自室の扉をスライドさせると、背後から「リコ」と呼び止められた。
「メープルパーラーのシフォンケーキ買ってきたからさ、お茶にしよう。超高速で、制服を着替えておいでっ」
返事も聞かずに、菫子さんはさっさとキッチンの方に歩いていく。
立ち上がる時に発せられた「どっこらしょ」という掛け声を聞かなかったことにしてあげたのは、乃梨子のささやかな友情の|証《あかし》といえた。
※
菫子さんのマンションのリビングの東に位置する六畳の和室が、現在乃梨子の城だった。
遠縁の|小《お》|母《ば》さんとの二人暮らしということになるのだが、複雑な家庭環境や込み入った事情があるわけではない。
高校進学を機に、この春から三年契約で菫子さんの部屋に間借りすることになったのだ。ちなみに平凡を絵に描いたような両親は、|千《ち》|葉《ば》の実家でピンピンしている。
「さて……と」
乃梨子はパソコンの電源を入れた。
ピーギュルギュル、カチャカチャという音をBGMに制服を脱ぐのが、すでに習慣になっていた。着替えながら、チョコチョコとマウスやキーボードを|操《そう》|作《さ》して、届いていた電子メールをプリントアウトした。
「さて。タクヤ君は元気になったかな」
乃梨子はTシャツを着ながら、プリンターから|排出《はいしゅつ》された趣味仲間からのメールに目を通した。
――遅くなってしまいましたが、まずは入学おめでとう。新生活はいかがですか?
「ありがとー。逆かくれキリシタンは、すごくスリリングな毎日を送ってます」
一方通行の手紙にもつい答え返してしまうのが、乃梨子の|癖《くせ》であった。ついでにいえば、電話でお|辞《じ》|儀《ぎ》をする癖もある。
――僕が入院している間に、ノリちゃんの身辺がずいぶん変わってしまって驚いています。
「突然、東京なんかに出て来ちゃったもんね」
三つ折りソックスを丸めて、|籠《かご》の中に投げ入れた。ストライク。
――でも、いかにもノリちゃんらしい。僕もスキーで足など折らなければ、何をおいても|玉《たま》|虫《むし》|観《かん》|音《のん》|像《ぞう》を観に行っただろうからね。
「みんなからは、バカだって言われたよ。観音様は二十年に一度、高校受験は一生もの、って。でも、後悔してないからね。私の玉虫観音!」
乃梨子は|畳《たたみ》の上に積まれた写真集の一冊を手にとって、ひしと抱きしめた。玉虫観音の|名《めい》|誉《よ》|挽《ばん》|回《かい》のためにも、勉強してトップクラスの大学いかなくちゃ、と思う。
――ところで、東京に引っ越したのならばH市にある|小寓寺《しょうぐうじ》はもう訪ねてみましたか。まだだったら、行ってみられることをお|勧《すす》めします。ノリちゃんお気に入りの|仏《ぶっ》|師《し》、|幽《ゆう》|快《かい》が|彫《ほ》った、|弥《み》|勒《ろく》|菩《ぼ》|薩《さつ》|像《ぞう》を所蔵している寺です。
そこまで読んだ乃梨子は、思わず立ち上がって叫んだ。
「幽快の弥勒!」
自分の目が信じられずに、もう一度メールの文字を追ってみる。
小寓寺・幽快・弥勒。――間違いない。
「|不動明王《ふどうみょうおう》とか|金《こん》|剛《ごう》|力《りき》|士《し》とか得意とする幽快が、弥勒を彫っていたなんて……!」
これは、観に行くしかない。
と、思ったと同時に、背後からガシッと|羽《は》|交《が》い締めにされた。
「リコっ。さっさと着替える、って言ってたくせに何してる」
「げっ、菫子さんっ」
「メープルパーラーのシフォンケーキを|蔑《ないがし》ろにすると、|祟《たた》りが――」
耳もとでは、|恨《うら》めしそうな声。
「あっ、はいはい」
「人が入ってきたのにも気がつけないほど、いったい、何を読んでいたの?」
菫子さんは身体を離すと、乃梨子の手もとを興味深げに覗き込んだ。
「何でもない。ただの手紙」
ややこしくなりそうなので、読みかけのままを机の上に伏せた。
「ふーん。ラブレター?」
「まさか!」
「そうだよね。そんな相手がいたら、寺巡りなんかしないでデートするよね」
菫子さんは鼻で笑うと、「紅茶が冷めちゃうよ」と言って、先に部屋を出ていった。
「お|生《あい》|憎《にく》さま。好きな人ができたら、一緒にお寺巡りするんだもんね」
乃梨子は、去っていく背中に向かって舌を出した。それからパソコンの電源を切り、ダージリンのいい香りが誘うリビングに足を向けた。
マリアと|菩《ぼ》|薩《さつ》
「マリア祭?」
「そう、マリア祭」
|瞳《とう》|子《こ》が大きくうなずいて、二つの縦ロールがバネのように上下した。
「|乃《の》|梨《り》|子《こ》さん、リリアン女学園の行事はあまり詳しくないでしょう?」
「あまりどころか、全然」
乃梨子は、読んでいた本から顔を上げた。すると瞳子はうれしそうに「そうでしょう」と言って、乃梨子の前の席にちゃっかり腰を下ろした。休み時間、その席の生徒はうまい具合に外に出ていた。
「私、決心しましたの。乃梨子さんがこの学園に慣れるまでお手伝いしよう、って」
「えっ」
「ですから手始めに、二週間後に行われるマリア祭について解説を」
結構です、と断る前に、読んでいた本を瞳子によって奪われ、|栞《しおり》を挟んで脇に置かれてしまった。かなり強引なのである。
(やれやれ)
お嬢さまたちが何かと世話をやいてくるので、その対抗策として読書を始めたのだがこれも効き目がなかったようだ。
「はい、じゃあどうぞ」
乃梨子がため息混じりに告げると、瞳子はぷーと|頬《ほお》を|膨《ふく》らました。
「乃梨子さん、迷惑そうな顔なさっちゃ嫌。瞳子、乃梨子さんのこと思っているのにぃ」
「別に、思ってもらわなくても。……え!?」
口をへの字に曲げたかと思うと、今度は|瞳《ひとみ》をうるうるさせている。
「ちょっ、ちょっと待って」
正直言ってあわてた。
「学校で泣くのって、小学校までのことじゃなかったの?」
「そんなこと、どなたがお決めになったの?」
しくしく、と両手で顔を隠しながら瞳子がつぶやいた。
「泣きたくなったら、我慢したって泣いてしまうものでしょう?」
「そりゃ、そうだけど――」
こんな所で泣かれたら、さらし者だ。乃梨子は立ち上がって瞳子の肩を抱き、そのまま廊下に連れ出した。
非常口から外に出て、階段にハンカチを広げて座らせる。
「ハンカチ、もうないから」
瞳子はうなずいて、自分のポケットから花柄のハンカチを取り出して涙を|拭《ふ》いた。
「どうして、こんなことくらいで泣けるのかしら……」
|呆《あき》れながらも、ほんの少しうらやましかった。感情のままに泣いたり笑ったりできるのは、人の目など気にせず生きている|証拠《しょうこ》だ。
こういう子が可愛い|娘《こ》、っていうんだろうな。そう思った。
「泣かせちゃって、ごめんなさいね」
「ううん。瞳子の方こそ」
「マリア祭のこと、教えてくれる?」
すると瞳子は、ぱっと表情を輝かせた。この|娘《こ》は、カラスか。着ている制服の色だけでなく、今泣いた――というやつである。
瞳子の説明によると。
マリア祭とは五月の半ばに行われるリリアン独自の祭りで、特にカトリックの行事のというわけではないらしい。たぶん母の日にあわせて、|聖《せい》|母《ぼ》の祭りを行うことにしたのだろうということだ。
祭りといっても、文化祭のように店を出したり研究発表したりするわけではない。学園中のマリア像を飾りたて、授業の代わりにミサが行われる。幼稚舎の園児たちが、天使の|仮《か》|装《そう》してこちらの校舎までパレードする図は、可愛らしくて一見の価値があるという。
「あと新一年生には、ミサの後、生徒会のお姉さまたちが歓迎の式を開いてくださいます」
「歓迎の式?」
「新しい妹たちとして、私たちを歓迎してくださるのですわ」
ミサだけでも|憂《ゆう》|鬱《うつ》なのに、その上まだ行事があるなんて。
「授業の方が楽……」
「また、乃梨子さんは|罰《ばち》当たりなことを。あっ、|噂《うわさ》をすれば――」
瞳子は非常階段から身を乗り出して、中庭を見下ろした。数人の生徒が、校舎に向かって歩いていた。
「あの方たちが生徒会の主要メンバーです。前から順に三年の紅ばらさま、黄ばらさま、そして二年の白ばらさま」
「|薔《ば》|薇《ら》……?」
早口言葉みたいなそれは、伝統的に伝わる高等部の生徒会幹部の愛称であるらしい。――女子校というものは、計り知れないものがある。
「休み時間を|惜《お》しんで、ばらのお姉さま方はお仕事をしてらしたのね」
すばらしいわ、と感激している少女は、乃梨子の驚きにはきっと気がついていなかったろう。
(あの人だ……!)
視線は、ラストを歩く二年生のみに注がれていた。
白ばらさまと呼ばれたその人こそ、桜の下に立っていたマリア様だったのである。
次の日曜日の昼前、H市に向かう電車の中に乃梨子はいた。
ゴトン、と揺れる|椅《い》|子《す》に身体を預けて目を閉じる。|行楽客《こうらくきゃく》がいるものの、下り列車の車内はガランとしていて、立っている人は探せない。
窓から差し込む|陽《ひ》の光が、カーディガンの肩を温めた。
お小遣いは、趣味につぎ込んでいる。だから服は、選ぶほど持っていなかった。去年買ってもらった赤いチェックのワンピースに、|生《き》|成《な》りのカーディガンを|羽《は》|織《お》ってきた。
ガタゴト、ガタゴト。
目を閉じていても、何となく|田舎《い な か》に近づいてきたことがわかった。
アナウンスが目的地の駅名を告げたので、立ち上がる。
乃梨子は、|小寓寺《しょうぐうじ》に近づいていた。
「チーズバーガーのセットください。ドリンクはウーロン茶で」
駅前のファーストフード店に入って、ハンバーガーを頬張る。時計を見れば、十二時をいくらか回っていた。
店内の素通しガラスから、バスターミナルが見えた。あそこから出るバスに乗っていく。お昼時という時間に訪ねては失礼かしら、と思い、もう少しここで休んでいくことにした。
少し時間の余裕ができると、何だか、ドキドキしてきた。
(|幽《ゆう》|快《かい》の、|弥《み》|勒《ろく》に会えるんだ……!)
何だか、あこがれのアイドルに会いに行くような感じで、昨日の夜はなかなか寝つけなかった。
あれからタクヤ君と、何度かメールのやりとりをした。小寓寺までの道順を詳しく教えてくれただけでなく、何と仏像の|拝《はい》|観《かん》許可までもらってくれたのである。タクヤ君には、何から何までお世話になってしまった。
気分的には、もうコンサート会場までたどり着いたくらいまで盛り上がっていた。
「あれ……?」
店のウィンドウの前を、知っている人が通り過ぎたような気がした。身を乗り出してみたが、すでに顔は確認できなかった。
「まさか、ね」
乃梨子は、残っていたウーロン茶をズズッとすすった。遠ざかる後ろ姿のその人は、地味めの着物を着ていた。
人違いだ。
こんな場所で、偶然あの人に出会えるはずがないのだ。
小寓寺は名前に反して、どでかい寺だった。何しろ、路線バスの行き先名が『小寓寺・北回り』だの『小寓寺・中央』だのとあるくらいだから半端じゃない。
「07番、07番……と。あ、これだ」
タクヤ君情報がメモされた紙片で確認し、07と書かれた『小寓寺・中央』行きのバスに乗り込む。
十五分ほどで着いたその寺は、小高い山を背にした広い土地に、どっしりと腰を下ろして建っていた。そして大きな|山《さん》|門《もん》の|風《ふう》|化《か》ぶりから、けっこう古くからある寺院であろうと思われた。
山門をくぐった所で、|掃《は》き掃除をしていた寺男に声をかけられ、乃梨子は名前を告げた。すると、ちゃんと伝わっていたらしく、すんなりと中に入れてもらえた。
本堂の畳に正座して、ほっと息をつく。
「タクヤ君、感謝!」
観光化した寺院ならば、|拝観料《はいかんりょう》を払えば見せてもらえるだろうが、普通の寺はなかなか入りづらいものがある。
住職が参ります、と言い置かれて待たされてから、五分ほど経っただろうか。待ちきれない時間でもないのに、立派な本堂に一人残されると、どうにもソワソワしてしまう。
ついには立ち上がり、ご本尊の前に進み出た。
「|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|如《にょ》|来《らい》だ……」
薄暗い本堂の奥に、|眩《まぶ》しいばかりの黄金の阿弥陀如来像が浮かび上がって見えた。|印《いん》を結んだ右手を膝から上げ、左手を前に|垂《た》らして|蓮《れん》|華《げ》|座《ざ》に座している。左右に|観《かん》|世《ぜ》|音《おん》・|勢《せい》|至《し》の二菩薩が|脇侍《きょうじ》しているところから、阿弥陀三尊像と思われた。
|金《きん》|箔《ぱく》は所々はげているが、それこそ時代を感じさせる。
「すごい……」
弥勒菩薩にひかれて来たが、蓮台も含めれば二メートルはあろうかと思われる本尊も、とても魅力的だった。
「気に入りましたか?」
背後からの声に振り返ると、そこには|袈《け》|裟《さ》姿の中年のお坊さんがニコニコと立っていた。この寺の住職と思われた。
「もしや二条乃梨子さん、ですかな?」
「あっ、はい」
「そうですか。あなたが……」
住職は自分のツルツル頭を一発叩いてから、はっ、と短く笑った。
「いや、失礼。|山《やま》|岸《ぎし》さんからご婦人とは聞いていたが、これほどお若い方とは存じませなんだから。拝見したところ、大学のお友達でもなさそうですな」
「恐れ入ります。趣味仲間なんです」
山岸さん、というのはタクヤ君の|苗字《みょうじ》だ。
「ああ、そう。弥勒をご覧にいらっしゃったんでしたな。あれは自宅の方にあるんです。どうぞ、ついていらっしゃい」
そう言って、住職は背を向けて先を歩いていく。十五歳の小娘が仏像に興味をもつのが、そんなにおかしいのか、時折肩を震わせて、笑いをこらえていた。
「あの、本当に幽快の作なんですか?」
廊下を歩きながら、乃梨子は気になっていたことを尋ねてみた。
「そういう風に伝わっていますが、それは大して重要なことではないでしょう」
「重要ではない、ですか?」
「……人によって、でしょう。学者や鑑定家にとっては、誰が彫ったかは重要です。でも、あなたは、ただ観るためだけにいらしたんでしょう?」
誰が作ったにしろ、いいものはいい。有名な仏師が彫ったとしても、魂の入っていない仏像がある。そう、住職は答えた。
「おわかりかな?」
「はい。仏像を観る時は、余計なことなど考えない方がいいということですね?」
「そういうこと」
渡り廊下で結ばれて、住職の自宅はあった。やはり外見通り内部はかなり広くて、何人もの人が手伝いで働いているようだ。
乃梨子が手前の和室に通されるとすぐに、上品な奥さんが茶を運んできた。
「おい、|志《し》|摩《ま》|子《こ》はどうした」
「駅前まで使いにいってましたが、先刻戻りましたよ」
「じゃ、呼んでくれ。わしは|村《むら》|西《にし》さんの家に|経《きょう》をあげにいかなくちゃならん。若い娘同士の方が、話もはずむだろう」
「それもそうですね」
「あの……」
夫婦だけで勝手に会話を進めるので、乃梨子には何が何だかわからない。
「じゃ、さっそく」
そう言って、奥さんはさっさと部屋を後にしてしまった。察するに、シマコというのはここの娘で、住職は彼女に乃梨子のお守りを押しつけるつもりらしい。
一分もしないうちに、廊下から「お父さま、弥勒像をお持ちしました」という声が聞こえてきて、|襖《ふすま》がゆっくりと開いた。
着物を着たその女性は、抱えてきた木箱とともに伏し目がちに部屋に入ると、そのまま深くお|辞《じ》|儀《ぎ》をした。
「志摩子です」
「あ、乃梨子です」
恐ろしいもので、学校での癖が出て、つい名前の方を名乗ってしまう。
「……?」
首を|傾《かし》げるような|仕《し》|草《ぐさ》をしてから、その人はゆっくりと顔を上げた。
お互いの目が合った瞬間、ほぼ同時に息をのんだ。あっ、と声をあげなかったのは上等だった。
(何で、ここにこの人がいるの!?)
二人の間に、見えない|桜吹雪《さくらふぶき》が舞った。いや、|薔《ば》|薇《ら》の方が適当だろうか。
乃梨子の前に現れたその人は何と、マリア像にそっくりな「白ばらさま」だったのだから。
*
あとは若い人だけで、というまるで見合いの席の|仲人《なこうど》のようなセリフを残して、住職は部屋を出ていってしまった。
困ったのは、その『残された若い二人』だった。
志摩子は「庭にでも出ましょうか」なんてドラマみたいなセリフは言わずに、平静を取り戻してそっと木箱をテーブルの上に置いた。
「幽快の弥勒菩薩は――」
そう言いながら、縦横に渡して箱に封をしていた組み|紐《ひも》が|解《ほど》かれた。
「小寓寺ゆかりのものではなくて、我が家に代々受け継がれてきたものなのです」
「はい」
返事をしながらも、乃梨子の視線は志摩子の指先から、腕、そして顔へと、動いていった。
(間違いないよなぁ)
地味な着物を着て、髪を軽く一つにまとめていると、制服姿の時よりも二つ三つ多く見える。だが、確かに桜の下で言葉をかわしたあの人だった。
「ですから、その存在もほとんど知られていませんし、ご紹介がなければなかなかお見せすることもございません」
どうぞ、と言って、取り出した像を乃梨子に向ける。
「――これが」
今まで志摩子に興味がいっていたのに、差し出された瞬間、弥勒像に全神経が吸いこまれてしまった。
そんなに大きくはない。大きく見積もっても、高さが二十五センチそこそこといったところ。全体的に|荒《あら》|削《けず》りだが、木肌の色と顔の表情が相まって、何ともやさしい|半《はん》|跏《か》|像《ぞう》だった。
「きれい……。心が、洗われるみたい……」
住職の言っていた言葉の意味を、頭ではなく心で理解できた気がした。
幽快が作ったかどうか、なんて問題じゃない。誰が彫ったとしても、乃梨子は同じように感動したに違いなかった。
そこには、間違いなく仏が住んでいた。
「そう。それは、きっとあなたの心が純粋な証拠よ」
志摩子は澄んだ水のように、静かに笑みをつくって言った。
「観ていただいて、よかったわ」
本堂の入り口で脱いだ靴は、玄関の方に移動されていた。
「バス停まで送ってきます」
乃梨子が靴を|履《は》くと、志摩子は見送りに出たお手伝いの女性にそう告げて、|草《ぞう》|履《り》を引っかけた。
「あ、お気遣いなく」
「でも、来た時とは違うバス停だから」
寺はこちら側から見れば、ただの大きなお屋敷にしか見えなかった。門の所に掛けられた|表札《ひょうさつ》から、『|藤《とう》|堂《どう》』というのが志摩子の苗字であることを知った。
バス通りまでの細い道を並んで歩きながら、二人は何も言わなかった。
同じ沈黙でもそれは、二人で桜を見上げていた時のような、満ち足りたものではなかった。
何も言わなくていいのではなく、何か言わなくてはならない。そんな重苦しい沈黙だった。
「何も聞かないのね」
「えっ」
先に口を開いたのは、志摩子の方だった。
「私がお寺の娘で、それなのにカトリックのリリアンに通っている|矛盾《むじゅん》について」
「あの……」
聞きたいとは思っていたのだが、どう聞いたらいいのかわからなかっただけだ。それに矛盾と言われれば、仏像を観にきた自分についても弁解しなければならないことだし。
「乃梨子さんは小学校の頃、何になりたかったのかしら?」
「何って、職業ですか」
|突拍子《とっぴょうし》もないことを聞かれたものだと思いながら、乃梨子は「仏師」と答えた。すると志摩子からは、「それは、珍しいわね」と小さな笑いが漏れた。
「――私はね、シスターになりたかったの。本当に小さい頃から」
「シスター」
「笑ってもいいわよ」
お返しに笑い返そうと待ちかまえていた乃梨子だったが、そこには笑えない空気があった。
「反動かしらね。お寺の娘が、シスターなんて」
小さい頃は|無《む》|邪《じゃ》|気《き》に将来の夢を語ったものだが、だんだん物心がついてくるとそれは言ってはいけないことのように思えてきた。――そう、志摩子は言った。
「でも。押さえつければ押さえつけるだけ、カトリックへのあこがれは|募《つの》っていったわ。それで小学校六年生のとき、ついに父に言ったの」
「何て?」
乃梨子は先を|促《うなが》した。まるでミステリー小説を読んでいるみたいに、ドキドキした。
「十二歳になったら修道院に入る、って」
「えーっ!」
「それで両親はあわててね、説得を始めたわけなの。あら、そんなに変?」
「志摩子さんて、見かけによらずとんでもない人かもしれない……」
(どんなにあこがれたって、普通の十二歳がそこまで決心するか?)
芸能界じゃあるまいし、早ければいいってものでもないだろう。
「父はこう言ったわ。お前はまだ宗教の何たるかを知らない。カトリックの学校に入っていいから、そこでちゃんと勉強してくるように、って」
「それでリリアンに……」
志摩子はうなずいた。
バス通りに出ると、停留所がすぐ見えた。二人は少し歩き、当たり前のようにバス停の長椅子に腰掛けた。
「学校の誰も、このことは知らないわ。あなたが最初」
「隠しているんですか!?」
「そう、父との約束でね。学校でも外でも、私が小寓寺の娘でカトリックの学校に通っていることは隠す、って。……大きな寺だから、|檀《だん》|家《か》に知られると|厄《やっ》|介《かい》なこともあるのでしょうね」
これも|偽証《ぎしょう》になるのでしょうね、と志摩子はつぶやいた。
「でも私は、自分の信仰も大切だけれど、父のことも大好きなの」
そこまで言って、彼女は大きく息を吐いた。
「何だか、すっきりしたわ。罪を告白して、許しを得ようとしているみたいで」
「でも私なんかに……」
「聞いてもらえただけで、いいの。あなたに、何かを求めているわけではないから」
彼女は聞いてくれてありがとう、とつぶやくと、それきり黙り込んでしまった。
志摩子は何か考えているようだったが、乃梨子にはそれが全然わからなかった。
バスが見えてきた。
「それじゃ」
志摩子が先に立ち上がった。
「あ、あのっ。志摩子さんはどうするつもりなんですか?」
「え?」
振り返った寂しげな微笑を見て、乃梨子はハッと気づいた。
「もしかして、学校を|辞《や》めるつもりじゃないですよね? 私に知られたから!?」
乗車口の扉が開いた。
「乗って」
|急《せ》かされて、ステップに足をかける。乃梨子は振り向いて言った。
「私、言いませんから」
「えっ……」
「志摩子さん、私を巻き込みたくないから『黙っていて』って言えないんでしょ? でも私だって、志摩子さんほど深刻じゃないけど、マリア様を|欺《あざむ》いています。一つも二つも、同じことですから」
扉が閉まると、乃梨子は後部座席の方に走っていって開いていた窓から顔を出して叫んだ。
「志摩子さん!」
バスが動き出した。
彼女の驚いたような顔が、だんだん遠くなっていく。だが気持ちは伝えたし、通じたと信じられた。
小さくなった着物姿のその手が、大きく振られているのが最後に見えたから。
バスに揺られながら、乃梨子には一つわかった気がした。どうして志摩子があの桜の木にひかれたのか、が。
|銀杏《いちょう》の中に立つ一本の桜。
きっとあの木に、自分の姿を重ねて見ていたからに違いなかった。
ロザリオか|数《じゅ》|珠《ず》か
月曜日。
少し早めに登校すると、|乃《の》|梨《り》|子《こ》は真っ直ぐ例の桜の木がある場所までやってきた。
そこに行けば、|志《し》|摩《ま》|子《こ》に会えそうな予感があった。そこしか、二人の会える場所はないような気がしていた。
「ごきげんよう」
約束をしていなかったのに、彼女はいた。寄りかかっていた幹から身を起こして、やって来た乃梨子に静かにほほえんだ。
「まさか、本当にいるなんて……」
「だったら、どうして来たの?」
「どうして、って――」
桜の花は、すでにほとんど散ってしまった。二人がここで落ち合っても、花見という|酔狂《すいきょう》な言い訳を使うには、ちょっと厳しいものがある。
「会いたくて」
そう、乃梨子は心のままに告げた。
「私もよ」
志摩子も、真っ直ぐに乃梨子の顔を|見《み》|据《す》えて言った。
しばし沈黙が訪れ、乃梨子は懸命に言葉を探した。
「あの……。私、考えたんですけど、『言わないこと』は必ずしも『嘘をついていること』ではないんじゃないですか。それに志摩子さんは、心の中ではクリスチャンなんでしょう? たまたま生まれた家がお寺だったというだけで、それは志摩子さんにはどうにもできないことだし。神様を裏切る行為とは言えないんじゃないかな。……うまく言えないけれど」
「……うまく言えていたわよ」
志摩子は静かに、乃梨子の顔を見つめて言った。
「あ、あの……」
見られているのが恥ずかしくなって、思わず目をそらした。
実際、これが仏像やマリア像ならば、視線はこちらからの一方通行だからいいんだけれど。相手が生きた人間、それも|絶《ぜっ》|世《せい》の美女だと、女同士であっても妙にドキドキしてしまうものだった。
(何か言わなくちゃ、変に思われるかも。そうだ、学校を|辞《や》めないように、志摩子さんを説得しなきゃ……)
「わ、私なんか仏像愛好家にもかかわらず、ここに通っているんです」
あわてて口走った言葉は、あまり気が利いているものとはいえなかった。それでも一度話し出すと、途中で止めるわけにもいかず、そのままズルズルと話し続けるしかない。
「受験日の前日に、仏像観たくて|京都《きょうと》まで行ったはいいけど、大雪で新幹線が止まったものだから帰ってこられなくて、第一志望校ふいにしちゃって。すべり止めの受験料を親に内緒で旅費に当てちゃったもんだから、興味本位だけで受けたリリアンに入学するしか、もう道は残っていなくて――」
ふわっ。
志摩子の顔が突然アップになったかと思うと、乃梨子の首に両腕が|絡《から》みついた。
「えっ……?」
抱きつかれたと気づくまで、少し間があった。
「ありがとう。もういいわ」
「志摩子さ――」
「大丈夫だから。まだ、辞めたりしないから。今朝も、そのことをあなたに伝えたくて待っていたの」
「そうだったんですか……」
どっと全身の力が抜けていった。じゃあ、自分のバカ話を、偉そうにひけらかす必要もなかったわけだ。
「でも」
乃梨子は、志摩子から離れて聞き返した。
「今、『まだ』って言いました?」
そこが、少しだけ引っかかった。
「ええ。あなたに会う前の――、以前と同じ状況に戻っただけよ。私のことが|公《おおやけ》になることで、誰かに迷惑がかかるのならば、やはりこの学校にいてはいけないと思う」
「でも、志摩子さん。この学校、好きなんでしょう?」
「もちろん」
志摩子は微笑した。
「だったら――」
「でも、誰かを困らせてまでここに通う意味はないのよ。どこにいても、キリスト教の勉強はできるから」
「志摩子さん……」
何だか、自分を追いつめているようで、志摩子がかわいそうな気がした。
「もっと、気軽に考えちゃいけないのかなぁ」
「気軽、って?」
志摩子が首を傾げた時、|予《よ》|鈴《れい》が鳴った。
「でも、学校でこういう話ができるなんて、今まで考えられなかったことよ」
「私でよかったら、いつでも話し相手になりますよ」
何だか、不思議な関係が生まれつつあった。
※
この頃、学校の話をするようになったね。と、|菫子《すみれこ》さんが言った。
「そうかなぁ」
「うん。始めの頃は、帰っても学校の話はしなかった。友達でも、できた?」
「友達、っていうか……。ただ、昼休みとか放課後とかに、話をする程度だよ」
「そういうのを友達って呼ばずに、何と呼ぶ?」
「そっか」
でも年上だしな、と思った。菫子さんも年上、タクヤ君も年上。もしかしたら、自分は年上の人の方が馬が合うのかもしれない。
志摩子とは、時たま桜の木の下で会うようになっていた。約束はしない。気が向けば足を向ける。会える時もあれば、会えない時もある。
乃梨子は生徒の中から、志摩子を見つけるのがとても上手になった。廊下や、校庭や、中庭で、彼女がどんなにたくさんの人に囲まれていようとも、その気になれば簡単に探し出せる自信があった。
志摩子との間に存在しているのは、いったい何なのだろう?
同情?
(そんなのじゃない)
友情?
(それも、ちょっとニュアンスが違う気がする)
志摩子のことは、好きだ。|側《そば》にいると、居心地がいい。
だけど、それだけでいいのだろうか。ただ、お互いの心情をわかりあうだけしかできない、そんな関係でいいのだろうか。
志摩子さんのために、何かしてあげたい。――最近、そんなことを考えるようになった。でもいったい、自分に何ができるというのだろう。
「わかんなーい」
乃梨子はテーブルに突っ伏した。
「おお、悩め悩め。たいしたことじゃないことで悩めるのが、若さの特権」
トリュフチョコレートの箱を差し出して、菫子さんは笑った。
「えー。たいしたことじゃないのかな」
「何を悩んでいるのか、知らないけど。ま、十年経ってから振り返ってごらん」
「十年か……」
現在十五の人間には、十年はとてつもなく長い歳月のように思われた。
「ねえ、菫子さん。もし、ものすごく熱心なクリスチャンがいて、その人がずっと神様を裏切りながら生きてきた、と思っているとするでしょ? どうしたら、救ってあげられると思う」
「何それ。リコ自身の悩みじゃなかったの?」
「私は熱心なクリスチャンじゃないよ」
「なるほど」
何となく、菫子さんになら相談してもいいかな、と思った。年の功、っていうやつに期待したわけだ。
「よくわかんないけど。神様に打ち明けて許してもらえばいいんじゃない?」
「そうしたら、|大《おお》|事《ごと》になるんだもん」
「じゃ、クリスチャンやめるんだね」
「ひえっー、大胆」
「あとは、さっき言ったように『時間』。時間は、どんな悩みにも効く特効薬」
菫子さんはそう言いながら立ち上がり、冷蔵庫の扉を開けた。
「――それか、何か大きな事件でもあればね」
「事件?」
「そ」
ガサゴソと、冷蔵庫の中身がかき回され、中からラップのかかった|小《こ》|鉢《ばち》が取り出された。
「大きな事件が起きればね、結果の|善《よ》し|悪《あ》しは別にして、一気に片がつくってものよ。それこそ、悩んでいる暇なんかなくなっちゃう」
「そっか……」
でも、事件なんてそうそう転がっているものではない。それに自分で起こすこともできないし――。
「でもね、リコ。そればっかり考えてると、|腐《くさ》るからね」
菫子さんはテーブルに戻ってくると、チョコレートで甘くなった乃梨子の口に、タクアンを一切れ放ったのであった。
※
「乃梨子」
家庭科室に向かう途中の廊下で、乃梨子は呼び止められた。そこは二年生の教室の前で、足を止めて|辺《あた》りを見ると、程なく呼んだ本人が教室から出てきた。
「あ、志摩子さん」
乃梨子と一緒に歩いていた|瞳《とう》|子《こ》たちが、彼女の姿を認めて「キャッ」と声をあげる。
いつからか、志摩子は呼び捨てで乃梨子を呼ぶようになっていた。それがあまりに自然だったので、最初からそう呼ばれていたような気さえする。
「ちょっと、いい?」
うなずくと、志摩子は階段付近の|人《ひと》|気《け》のない所まで、乃梨子を連れていった。面と向かい合ったり言葉を交わしたりするのは、ずいぶん久しぶりだった。
「ごめんなさい。このところマリア祭の準備なんかで忙しくて、なかなか乃梨子のいる時間にあそこに行けなくて……」
「朝早くて、夜遅いんでしょ? 身体、大丈夫?」
「大丈夫。……ありがとう」
志摩子の顔は、ほっとしたような表情に変わった。きっと行けない理由を一言告げたくて、たまたま見かけた乃梨子を呼び止めたのだろう。
(|律《りち》|儀《ぎ》だなぁ。別に約束しているわけじゃないんだから、いいのに)
「そうだわ、乃梨子に聞こうと思っていたのだけれど」
志摩子は、声のトーンを落とした。
「あなた、|数《じゅ》|珠《ず》も好きかしら?」
「数珠?」
「そう。祖母から譲り受けた数珠の|珠《たま》の中に、仏像が入っているのを思い出して……」
「ぜひ、観せてください!」
乃梨子の声が、思わず大きくなった。志摩子は「しっ」と言ってから、小さく笑った。
「そう言うと思っていたわ。明日持ってくるから、放課後あの場所で待っていてちょうだい」
「わ!」
それじゃ、明日ね。そう言って、志摩子は教室へと戻っていった。途中、少し離れた所から二人を覗き見していた瞳子たちに気づき、ニッコリと笑った。
「次の時間は、お|裁《さい》|縫《ほう》? 何が出来上がるのかしら?」
「スカートです。白ばらのお姉さま」
「そう。素敵に出来上がるといいわね。お|励《はげ》みなさい」
「は、はい!」
(ああ……。さすがの瞳子さんも、声が裏返っているよ)
志摩子のそういう|細《こま》やかな部分が、下級生たちに受けているんだろう。ついつい忘れがちだけど、こんな時に思い出す。
志摩子は学園のアイドル、白ばらさまなのだということを。
「あの、乃梨子さん」
「はい?」
|紺《こん》|無《む》|地《じ》の布を端まで|裁《さい》|断《だん》してから、乃梨子は振り返った。見ると、ずいぶん遠い席にいたはずの生徒が、乃梨子の後ろに立っていた。
家庭科室は雑然としていて、席を離れる生徒がいても目立たなかった。大きな机の上には、四人分の生地が所狭しと広げられていた。
「何か?」
あまり話したこともないその人は、言いにくい話題であるのか、まず「素敵な生地ね」とあからさまなお|世《せ》|辞《じ》を言い、その場の沈黙を埋めた。
「|蓉《よう》|子《こ》さんたら。乃梨子さんの生地を|誉《ほ》めに、わざわざいらしたの?」
脇で裁断していた瞳子が、少々|棘《とげ》のある言葉を口にした。どういうわけだか、彼女はさっきから機嫌が悪い。
しかし嫌味を言われた生徒は|怯《ひる》まず、意を決したように半歩乃梨子に歩み寄った。
「いいえ。私、お聞きしたくて参りましたの。……あの、乃梨子さんは、白ばらさまとお親しくなさっておいでですの?」
「はっ?」
「先ほどお話ししていらしたでしょう? 二年生の|藤《とう》|堂《どう》志摩子さまと」
「ああ、志摩子さんのこと……」
乃梨子の言ったが早いか、その周囲にいたクラスメイトたちが、ザワッと空気を震わせた。
「志摩子さん[#「志摩子さん」に傍点]、ですって……!?」
人の話を、みんなしっかり聞いているわけだ。
「志摩子さまを、『さん』付けでお呼びになるなんて」
「そんなに親密なご関係なの?」
「入学以前からのお知り合い?」
「お宅にうかがわれたこと、あって?」
「まさか、ご|親《しん》|戚《せき》でいらっしゃるとか」
先生が準備室に引っ込んだのをいいことに、皆、立ち上がって乃梨子の周りに集結してしまった。
「あ、あの。ちょっと待って」
乃梨子は人波にもまれて、|溺《おぼ》れる寸前である。
「実は、こういうことなのです」
一番最初に声をかけてきた生徒が、代表してしゃべりだした。
「三色のばらさま方は、高等部のみならず中等部の生徒たちからも|慕《した》われているほど、人気がおありなんです。ですから、ばらさまが特定のお一人と親しくなさっていれば、それは気になって当然でしょう?」
べつに|不《ふ》|倫《りん》しているわけじゃないから、廊下で話くらいするわな、と乃梨子は思った。それだけのことで、こんなに盛り上がるとは知らなかったのだ。
「志摩子さまは、あのように|楚《そ》|々《そ》としたお美しさをお持ちでしょう? いつも落ち着いていらっしゃるし。二年生というお若さで、白ばらさまを|継承《けいしょう》なさっていらっしゃるし。それなのに、まだ『妹』をお決めになっていらっしゃらないから、みんなやきもきしてしまうのですわ」
妹、と一人が言った瞬間、またもや周囲はザワついた。
「まさか、もう姉妹の|契《ちぎ》りを結ばれたなんてこと……」
悲鳴に近い声も、後ろの方から聞こえてきた。
「姉妹の契り?」
「もう、ロザリオをいただいてしまわれました!?」
詰め寄る生徒たちは、というと中等部からの持ち上がりが大半だから、乃梨子を無視してどんどん話が進んでいく。
「ロザリオ? いただく、って?」
何のことか訳がわからず、尋ねれば、|安《あん》|堵《ど》ともとれる含み笑いがそこかしこから|漏《も》れた。
「ロザリオのことをご存じないのでしたら――」
「ええ。まだ、そう心配することでも」
(何か、嫌な笑いだなぁ)
ロザリオがどんなものか、それくらいは乃梨子でも知っている。
(ロザリオっていうのは、あれだ。……そう、キリスト教で使う十字架のついた数珠)
つまり、とその中の一人が言った。
「リリアンの生徒は、昔から縦のつながりが強いのですわ。まるで姉妹のように、上級生はすべての下級生を指導し、下級生はすべての上級生に従うものとされてきたのです」
でも、それとは別に、個々につながりが結ばれる場合がある。それが先ほど噂になっていた『姉妹の契り』というやつで、上級生からロザリオを|授《じゅ》|受《じゅ》されることで成立するらしい。
「一人のお姉さまに対して、妹になれるのは一人きり。一対一の関係ですから、契りを交わしたことで、一番親しい間柄だと認めてもらえるわけです。他の方々だって遠慮なさるような、ステディな関係、とでも申しましょうか」
「なるほど。そんなシステムが……」
乃梨子は、うつむいてつぶやいた。
「あら。でも、ロザリオをいただけなくても、ガッカリすることはありませんわ」
「そうですわ。私たち応援していますから」
どうやら、志摩子からロザリオをもらいたがっている、と勘違いされたらしい。
(頭、痛い……。何なんだ、この学校――)
「泣かないで、乃梨子さん。私たちは乃梨子さんの味方ですから」
(……泣いてない、ってば)
「乃梨子さんは頭もよろしいし、どこか近寄りがたい雰囲気をもっていらっしゃるし。志摩子さまが妹にお選びになっても、きっと誰も異論を|唱《とな》えたりいたしませんわ」
何で、話がそっちに行ってしまうんだろう。
その時。ガタン、という音とともに隣に座っていた少女が、立ち上がった。
「少し、お静かにしていただけない?」
ずっと黙っていたので、そこにいたのが瞳子だったことを、すっかり忘れていた。
「どうして皆さん、そんな無責任なことおっしゃられるのかしら。乃梨子さんが白ばらさまの妹に選ばれるなんて、そんなこと……、そんなこと絶対あるわけございませんことよ!」
瞳子は目をうるうるさせながら、勢いよくバタバタと走り去ってしまった。
「瞳子さん!」
追いかけようとしたが、「そっとしておいたほうがよくってよ」とつぶやく声があった。
「あの方は『ばらさま』の妹になって、いずれはご自分も――、という夢をおもちでいらしたから」
「ええ。乃梨子さんが親しくしていらっしゃると知って、きっとショックだったのでしょうね」
瞳子の立ち去った席には、タイトスカートを作るにはちょっと首を傾げたくなるような、ど派手な薔薇柄の生地がぽつりと残されていた。
※
大事件の|予兆《よちょう》はすでに、じわじわと乃梨子の周りに忍びよっていた。
|発《ほっ》|端《たん》は、靴だった。
当番で日誌を書いていて、いつもより下校が遅れた乃梨子は、自分の靴箱が空っぽであることに気がついた。
「今、私は|上《うわ》|履《ば》きを|履《は》いている。ということは、革靴が行方不明ということか……」
誰かが靴箱を間違えたとしたら、ここには上履きが入っていなければならないのだが、それもない。
「さて、どうしたものか」
上履きで帰らなくてはならないか、と昇降口に出てみると、扉の手前にきちんと揃えた革靴が置いてある。
「??? ……いったい、どういうこと?」
中敷きにニジョウ・ノリコと書かれた靴を上から眺めて、ノリコはしばし考え込んでしまった。
「――で、今朝はクリップが入っていた」
「クリップ?」
乃梨子のぼやきに、志摩子は首を傾げた。何かと忙しい白ばらさまは、約束通り翌日の昼休みに、お弁当持参で講堂の裏手に現れた。
「そう、クリップなのよ。やるんだったら普通、画びょうでしょう?」
「画びょうを上履きに入れるの?」
痛そうね、と眉をひそめる。そして、何のためにするのかしら、と厚焼き玉子を|箸《はし》で|摘《つま》みながらつぶやいた。
「――志摩子さん。もしかして少女漫画とか読まない? 上履きやトウ・シューズに画びょうといったら、嫌がらせの|常道《じょうどう》じゃないの?」
「そうなの?」
「……今じゃめっきり、そういう漫画も減ったけれどね」
説明しだすとそれだけで昼休みが終わってしまいそうなので、取りあえず少女漫画論は脇に置いておくことにした。
志摩子の部屋の本棚には、漫画はもちろん仏像の写真集なんていうのも、入っていないに違いない。
「でも、クリップだったんでしょう?」
「そこよ」
入っていたのが画びょうだったり、上履きがゴミ箱からでも発見されれば、立派な嫌がらせなのだけれど、どうにも中途半端すぎる。その行動を起こした人の心理が、よくわからない。
「たまたま、上履きに入ってしまったんじゃないのかしら?」
「五センチもあるクリップが、たまたま入る? それも両足に」
「そうねぇ。でも、何のために、乃梨子に|悪《いた》|戯《ずら》しなくてはならないの?」
「……」
乃梨子は黙って、お昼のサンドイッチをぱくついた。
この人は自分がどれだけ人気者であるのか、とか、そのために乃梨子が周囲から|嫉《しっ》|妬《と》されるかもしれない、とか考えたことがないに違いない。
「あー、もう。ただでさえロザリオの話が出て以来、瞳子さんが口をきいてくれなくなったっていうのに」
「……ロザリオ? あ、それで思い出したわ」
志摩子は弁当箱のふたを閉めると、「忘れないうちに」と、ポケットから何かを取り出した。
「これ」
差し出されたそれは、小さな|巾着袋《きんちゃくぶくろ》に入っていた。
「?」
「忘れたの? これをわたすために、ここに来てもらったんでしょう?」
「あっ」
数珠だ。それらしいケースに入っていなかったので、すぐにはわからなかった。
「ここで開けないで」
志摩子の指が、乃梨子の指の動きを止めた。
「マリア様に申し訳ないわ。家に持って帰って、ゆっくり観て。気に入ったら、しばらく持っていていいから」
「……いいの?」
「私は、乃梨子ほどの目を持っていないもの。それより、さっきロザリオって言っていたわね? いったい、何があったの?」
(……何だ。ちゃんと聞いていたんだ)
「それがね」
昨日の|経《いき》|緯《さつ》をかいつまんで告げると、志摩子は「ロザリオが欲しいの?」と、ちょっと的のはずれた質問を返してきた。
「別に」
「あげるのはやぶさかではないわ。けれど今のあなたに、果たしてそれが必要かしら?」
「……うん。わかった」
乃梨子はうなずき、立ち上がって尻に敷いていたハンカチを|畳《たた》んだ。
ロザリオなんかなくたって、こうやって会える。話をすることもできる。
(でも)
心のどこかで、ガッカリしている自分がいる。
(私は、志摩子さんにどう言ってもらえば、満足したんだろう――?)
自分だけは特別、という|証《あかし》が欲しかったのだろうか。
(何より、私が「欲しい」と言えば、志摩子さんはロザリオをくれるつもりだったのかしら)
そう思ったとき、乃梨子は自分が志摩子の心を測りたかったのだということがわかった。
教室に戻ると、机の端にチョークでドラえもんの絵が描いてあった。
「消すのがもったいないくらい、うまいじゃないか……」
今のところは実害のない、可愛げのある悪戯ばかりだ。
(別に、エスカレートすることはないかもしれない)
なんとなく、そんな風に感じてきた。
――しかし、それはまだまだ甘い考えだった。
だが、それも仕方がない。乃梨子も志摩子も、講堂の裏で巾着袋を|授《じゅ》|受《じゅ》する場面が誰かに見られていたなんて、この時点では知るよしもなかったのだから。
マリア様がみてる
歌を口ずさみながら、天使たちが歩いている。背の高い順に、大天使・花まき天使、羽のない小天使に|扮《ふん》した幼稚舎の園児たちだ。天使たちは幼稚舎からかなり離れた、中・高等部校舎の方までパレードをする。――敷地内の、すべてのマリア像をお訪ねするのだ。
今年のマリア祭は天候に恵まれ、天のお母さまのお心のように、空には雲一つない青空がどこまでも広がっていた。
今日はどのマリア像も、花を飾っておめかしをしていた。小さな森に住むマリア様も例外ではない。いつもは白いマリア様が今朝に限って菊人形のように色とりどりの花に埋まっていたために、知らずに登校してきた|乃《の》|梨《り》|子《こ》をギョッとさせた。
教室に向かう途中、廊下の窓から、|志《し》|摩《ま》|子《こ》を見かけた。お|聖《み》|堂《どう》に向かう途中らしく、中型の段ボール箱を抱えて歩いていた。
「志摩……」
声をかけようとして、やめた。今はまだ、生徒会の一年生歓迎会のことで頭がいっぱいだろう。
(終わったら、少し会えるかな)
乃梨子の|鞄《かばん》の中には、先日借りた|数《じゅ》|珠《ず》が入っていた。返すチャンスを|狙《ねら》って、毎日持ってきているのだが、なかなか志摩子に会えなかった。
一日一回は|菫子《すみれこ》さんの拡大鏡を借りて、数珠を眺めた。
|水晶《すいしょう》でできた一連の数珠は、紫の房の上にあるひときわ大きな一粒の珠の中に、小さな仏様がはめこまれていた。|象《ぞう》|牙《げ》か何かで彫られたそれは|釈《しゃ》|迦《か》|如《にょ》|来《らい》のようで、|小豆《あ ず き》くらいの大きさであるのに、五指が見えるほど精密に作られていた。その、|慈《じ》|悲《ひ》深い表情は、人の心に訴えかけるものがある。
仏像を観る時、邪念は禁物だが、手にしているとつい「高そうだなぁ」などと思ってしまう、それは立派な数珠だった。
教室に行ってみると、授業がないせいか、生徒はまだ数人しか登校してきていなかった。
「乃梨子さん。今年は何の|余興《よきょう》があるか、白ばらさまからお聞きになっていらっしゃる?」
乃梨子が席に着くなり、数人が近寄ってきて、そう尋ねた。
「余興?」
「歓迎会では毎年、ばらさま方が何か出し物を見せてくださるそうですわ。お歌とか、お芝居とか。……噂では、志摩子さまはピアノの名手でいらっしゃるとか。楽しみですわね」
(はぁ……。ばらさまたちも、ご苦労なことで)
|素人《しろうと》の隠し芸を見て面白いかな、と思ったが、その中に志摩子が混じっているとなると、やはり多少は興味が湧いてきた。
そんな時、出入り口付近にいた生徒が、やってきて乃梨子に告げた。
「ばらさまがいらしてましてよ」
「あ、はい」
志摩子だと思って廊下に出てみると、そこには思いがけない二人組が乃梨子を待っていた。
(――紅ばらと黄ばら)
|薔《ば》|薇《ら》は薔薇でも、色が違った。三年生の二人だ。
「ごきげんよう、|二条《にじょう》乃梨子さんね?」
背が高く、短めの髪がトレードマークの『黄ばら』が友好的に声をかけてきた。
「はい……?」
『紅ばら』の方はというと、相棒とは対照的に、上から下まで|舐《な》めるように乃梨子を眺めていた。
「ふうん」
やがて紅ばらは、|艶《つや》やかな黒髪をサラサラとかき上げて言った。
「この娘が、志摩子のね……」
「まだ、原石ってところか。……どれ?」
「あっ!」
黄ばらは乃梨子の|顎《あご》をつかむと、いろんな方向に顔を向けさせた。
「何するんです!」
乃梨子は、黄ばらの手を払いのけた。
「おや、反抗した。けっこう|狂暴《きょうぼう》だ」
(何なの、この人たち。人を野生動物みたいに!)
「まあまあ、ってところ?」
「そうね」
二人は顔を見合わせて、何やらコソコソと話していた。それから「邪魔したわ」、と言って背を向けた。
「待ってください」
カッとなって、乃梨子は二人を呼びとめた。
「ん?」
「人を呼びだしておいて、説明もなしなんですか。自分たちだけで|納《なっ》|得《とく》して、それで終わりですか」
黄ばらは乃梨子の顔を見て、「それは、一理ある」とつぶやいた。
「私たちは、ただ単に乃梨子さんの顔を見たかったから、来たの。――これでいい?」
「顔を見に?」
「そ。他にご質問は?」
「……ないわ」
「じゃあ、こちらから一つ。乃梨子さん、志摩子のこと好き?」
「好きです、けど?」
「――それならOK。がんばってね」
そう言い置いて、今度こそ紅ばら・黄ばらは乃梨子の前から去っていった。
「がんばれ、って……? いったい、何を……?」
首を傾げて教室の中に入ろうとすると、扉の所で瞳子とぶつかりそうになった。
「白ばらさまの次は、紅ばらさまや黄ばらさまにまで取り入ろうとはね」
瞳子は、こんな顔もできるのか、というくらい憎たらしい表情を浮かべて、そう言った。
「そんなんじゃないわよ」
――何だか、気が休まらない。どうしたら、穏やかな学園生活を送ることができるんだろう。
席に戻ると、鞄の|蓋《ふた》が開いていた。
(……?)
|嫌《いや》な予感がして、あわてて中身をあらためた。確認していくうちに、だんだんと乃梨子の顔から血の気は引いていった。
(どうしよう……!)
志摩子から預かっていた数珠だけが、そこから消えてなくなっていた。
※
午前中は、|余《よ》|所《そ》の教会からいらした神父さまによる、高等部全体のミサが|執《と》り行われた。だがありがたい説教も、聖歌隊の美しい歌声も、乃梨子の頭には全然入ってこなかった。
なくなった数珠のことを考えると、居ても立ってもいられなかった。
(いったい、誰が……)
信じたくはない。だが家を出る時は、間違いなく鞄の中に入っていた。そして、蓋が開いていた鞄――。誰かが、|盗《と》ったとしか考えられなかった。
(いつもの|悪《いた》|戯《ずら》? ううん、違うわ)
ならばもうとっくに、数珠は乃梨子のもとに戻っていていいはずだ。
(でも、誰が? 何のために? 果たして、数珠と知って?)
クラスメイトの顔が、まともに見られなかった。鞄をいじっていて、|不《ふ》|審《しん》に思われないのはここにいる人たちだけだ。
この中に、犯人がいる。しかし、その人間の心中を察すると、何やら背筋に寒いものが走る乃梨子であった。
ミサが終わって、志摩子を探したが、見つからなかった。
(どうしよう。数珠のこと、志摩子さんに言わなくちゃ……)
昼食の時間を|割《さ》いて校内を走り回ったが、忙しい白ばらさまは、結局見つからず仕舞いだった。
そして、乃梨子がグッタリと肩を落とす中、午後の生徒会主催の歓迎会は始まったのであった。
教師もシスターもぬきで、その儀式は始まった。リリアンでは生徒の自主性を重んじて、生徒会には大人は|介入《かいにゅう》しない習わしであった。
お|聖《み》|堂《どう》には一年生約二百人が集められ、クラスごとに六つのブロックに分けられて座っていた。
さっきまで神父さまがいた|辺《あた》りには、胸に生花を付けた生徒会の上級生たちが、約十人ほど立っている。真ん中の三人は名前にちなんで、それぞれ紅・黄・白の薔薇を|挿《さ》し、脇を固める数人はピンクの薔薇を挿していた。
「まずは、入学おめでとう」
紅い薔薇を付けた生徒が、マイクを持って前に進み出た。一際華やかな顔立ち、――紅ばらだ。
「さて、わがリリアン女学園高等部生徒会は、マリア様のお心にちなんで『山百合の会』と名づけられています。そのため、毎年マリア祭の日に新一年生を迎える儀式を行ってきました」
薔薇だの|百《ゆ》|合《り》だの忙しい。|挨《あい》|拶《さつ》はいいから、さっさと終わらせてくれないものだろうか。
紅ばらの隣に控えた志摩子は、乃梨子のように落ち着きなく周囲を見回したりせず、あくまで平常心といった感じで立っている。
(志摩子さーん。大変なことになっちゃったよ。どうしよう)
話したくても、こう遠くてはどうしようもない。
「私たち二、三年生は、心より新しい妹たちを歓迎します。共に、マリア様に恥じること無い学園生活を送ることにいたしましょう。後ほど|趣《しゅ》|向《こう》も用意してありますから、お楽しみに」
役員たちによる歌や隠し芸なんか、別に楽しみではない。でも、志摩子さんのピアノならば、ちょっと聞いてみたい気もする。
(――って、それどころじゃなかった)
「まずは記念におメダイの|贈《ぞう》|呈《てい》を」
そして、マイクは背の高い、短めの髪の生徒、――黄ばらに渡された。
「呼ばれたクラスは一列に並んで」
|李《すもも》組は紅ばらの前、|藤《ふじ》組は黄ばらの前、菊組は白ばらの前、と|手《て》|際《ぎわ》よく整列させられる。
ところで乃梨子はラストの|椿《つばき》組なわけだから、菊が済んだ後に志摩子の前に並ぶことになるらしい。
メダイは、遠目にはペンダントみたいなものに見えた。鎖で首から下げる、メダルのようなものだ。
「マリア様のご|加《か》|護《ご》がありますように」
三人がかりで六クラスであるから、思ったより時間がかからない。紅・黄・白、各ばらさまは補助役の生徒が持った籠からメダイを取り、手際よく一年生たちにかけていく。
「次、桃組・松組・椿組。前に」
呼ばれるまま、乃梨子も重い腰を上げた。
「マリア様のご加護がありますように」
志摩子は、一人一人にそう言いながらメダイを首にかけていく。
あと二人で乃梨子の番だ。
(もしかして今頃、数珠は鞄に返されているかもしれない)
順番待ちしながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。だが、クラスメイトは全員この場にいる。
(あと一人)
「マリア様のご加護がありますように」
(次……)
直前にメダイをもらい終えた生徒が後ろに下がり、目の前に現れた志摩子が乃梨子を見つけてほほえんだ。
「マリ――」
志摩子が言いかけたその時。
「お待ちください!」
乃梨子の背後から、その声はあがった。
「その人は、白ばらさまからおメダイをいただく資格などありません」
ざわめく生徒をかき分けるようにして、声の主は前に進み出た。
「瞳子さん!」
乃梨子は、その顔を確認して叫んだ。
「お姉さま方。神聖な儀式のお邪魔をしてごめんなさいっ」
瞳子はまず乃梨子を|一《いち》|瞥《べつ》し、それから三色のばらに向き合ってペコリと曲がった。トレードマークの縦ロールが、バネのようにブルンブルン揺れた。
「これはどういうことなの、瞳子さん」
「聞いてください、紅ばらさま。もう瞳子、我慢できなくって」
でた。
必殺、お目々うるうるの術。
(この|娘《こ》、いったい何を言うつもりなんだか)
たらり、と乃梨子のこめかみに汗が流れた。
「乃梨子さんが、おメダイを受け取る資格がないと聞こえたようだけれど――」
「そうなんです。黄ばらさま」
いつもの調子で、瞳子は紅と黄、二色のばらの注目を引きつけることに成功した。
その時、残った白ばらの顔色が変わった。
(志摩子さん……?)
志摩子の視線を追うと、瞳子の左手に行き当たった。
(何だろう)
目をこらしてよく見て、「げっ!」と声を出しそうになった。彼女の手が握りしめていたものには、確かに顔色を変えるだけの|威力《いりょく》があった。
(どうにかして、取り返さないと……)
乃梨子が手を伸ばしかけたその時、|満《まん》を|持《じ》して瞳子の左手が大きく上がった。
「あなたには、こちらの方がお似合いよ!」
窓からの光を受けた水晶の数珠は、瞳子の高笑いをBGMに、まるで|後《ご》|光《こう》のように|燦《さん》|然《ぜん》と輝いたのだった。――アーメン。
本当は、それどころじゃない状況だったのだけれど。この時、お|聖《み》|堂《どう》の中でキラキラ光る数珠が、本当にきれいで、乃梨子はしばらく見とれていた。
|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》だけど、けっこうこの場所に似合っているじゃない? なんて、思った。
「これは、あなたの物ね?」
瞳子は勝ち誇ったように告げた。
乃梨子は、今にも飛び出しそうな志摩子を目で制してから、|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになって「私のじゃないわ」と答えた。
それは志摩子から預かったものであるから、嘘は言っていない。
「瞳子さんこそ、どうしてそれが私のものだと断定するの?」
「それは……」
乃梨子の鞄から見つけたと言えば、他人の鞄を無断で開けたことを白状しなければならない。
(答えられるもんなら、答えてもらおうじゃないの!)
「ね。いったい、どうしてわかったの?」
「それは、偶然、乃梨子さんの机にぶつかってしまって、飛び出たのを見つけたのよ」
瞳子は準備してきたみたいに、|流暢《りゅうちょう》に答えた。
「嘘つくんじゃないわよ!」
(こいつは、お|聖《み》|堂《どう》の中でよくもしゃあしゃあと……)
「どうなの、乃梨子さん。本当にあなたの物なの?」
紅ばらが尋ねた。
「違います、ってば」
「マリア様に誓える?」
「もちろん」
胸を張って、乃梨子は答えた。瞳子はそれを聞いて、フフン、と鼻先で笑う。
「じゃ、これ捨てちゃってもいいわね?」
「えっ!?」
数珠は瞳子の手を離れると、ポーンと|弧《こ》を描いて空中を飛んでいった。
「あなたがこの数珠の持ち主じゃないなら、どうなったって構わないでしょう?」
キャッチした黄ばらが、お手玉のように数珠を|弄《もてあそ》んだ。
返して欲しければ、自分の物だと言え、ってことか。
とんでもない宗教裁判だ。
「数珠が、踏み絵なわけね。……わかりました、認めます。それは、私が持ってきた物です」
「乃梨子!」
志摩子が、たまらなくなって駆け寄った。
息をのんで成り行きを見ていた生徒たちは、意外なところで白ばらが飛び出してきたことにざわついた。
「志摩子さんは、余計なこと言わないで」
「でも」
「いいから。今、問題になっているのは、私なんだから」
乃梨子は志摩子に背を向け、かばうように前に出た。
「いい心がけね」
紅ばらが笑った。
「別に、マリア様を|冒《ぼう》|涜《とく》するつもりで数珠を持っていたわけじゃないわ。学業に無関係の物を、持ってきたのは悪かったかもしれないけれど、だったら本やCDと同じことじゃない。校則に、仏具を持ってきてはいけない、なんて記述はないもの」
「おや、開き直ったね」
黄ばらが呆れたように言った。
「数珠を返してください」
鼻息をあらげ、乃梨子は黄ばらの前に手の平を出した。
「返して欲しかったら、持ち主の名前をおっしゃい。乃梨子さん、あなたさっき、それは自分の数珠じゃない、って言っていたでしょう?」
紅ばらは、華やかな笑顔を向けて問い詰めた。悪いことしていないなら、言えるでしょう、と。
「乃梨子……」
前に出ようとする志摩子を、乃梨子は押し戻した。そして安心させるように、そのまま手を握った。
「それは……」
言葉に詰まった。
確かに、悪いことはしていない。だが、言えないことも確かにある。
(自分以外の人に、迷惑がかかるから……?)
そうだ。
乃梨子がここで真実を口にすれば、このばかげた宗教裁判は志摩子にまで及んでしまう。
そんなこと許せない。
(だって。私はともかく、志摩子さんは純粋な心でキリスト教を信仰しているんだもん。もし知られたら、学校を辞めるという決心までしているのに……)
「どうしたの、乃梨子さん」
紅ばらが、乃梨子の目を|見《み》|据《す》えて回答を迫った。
(どうしよう……)
ここで自分の所有物だと認めれば、これ以上の追求はないかもしれない。しかし、そうすると、マリア様の前で嘘をつくことになってしまう。
志摩子のために乃梨子が嘘をつくことを、彼女は果たして許してくれるだろうか。
乃梨子はそこで追い込まれた。
(でも、今は嘘をつくより他に――)
「何とか言いなさい、乃梨子さん」
「さっきまでの元気は、もうお|終《しま》いなの?」
こちらが言葉につまれば、相手の攻撃は増長する一方だった。
自分とつながった志摩子の手が、ギュッと握られた。それが「もういい」のサインであったことは、後になってわかった。
「もう、およしになって!」
志摩子が叫んだ。気がついた時には、彼女は乃梨子よりも半歩ほど前に進み出ていた。
志摩子は大きく一息吸うと、はっきりと言った。
「それは、私のです」
「志摩子さん!」
他にも、「志摩子!」とか「白ばらさま!」だとか、|一《いっ》|斉《せい》に彼女の呼び名が口にされた。お|聖《み》|堂《どう》内はどよめき、志摩子の言動に注目する、顔、顔、顔。
志摩子は振り返り、ぐるりと一周お|聖《み》|堂《どう》の中を見る。すると、一瞬にしてざわめきが止んだ。
「説明してくれるわね?」
紅ばらは、志摩子に真っ直ぐ向かい合って尋ねた。
「その前に、乃梨子を許してください。彼女は、私をかばってくれていただけですわ」
「どういうこと……?」
「ですから、私の数珠を乃梨子が預かってくれていただけ。罰ならば、すべて私が引き受けましょう」
志摩子は、|毅《き》|然《ぜん》として言った。
「いいえ、罰なら私に……!」
乃梨子が駆け出すと、その肩をやさしく止める者があった。――それは、何と黄ばらだった。
「乃梨子さん。お願い、邪魔しないで」
「え……?」
ほんの少しでいいから、と小声で言ってから、彼女は再び志摩子に注目した。
「誰よりも|敬《けい》|虔《けん》なクリスチャンのあなたが、どうして――」
紅ばらが、静かに問うていた。
もはや、ざわめきは消えていた。皆が、志摩子の答えに注目していた。
「私の家が仏教の寺だからです」
十字架に向かい合って堂々と宣言する志摩子は、言葉で言い表せないほどきれいだった。
誰も、何も言えなかった。
乃梨子は力が抜けて、その場に尻をついていた。
(……とうとう、言っちゃった)
へたばったまま、|輪《りん》|郭《かく》がぼやけた志摩子が近づいてくるのを見つめていた。
「せっかくかばってくれたのに、ごめんなさい」
「志摩子さんっ!」
乃梨子は抱きついて、子供のように泣いた。
どうして涙が止まらないのかわからない。
(これで、何もかも終わっちゃったんだ……)
いつだったか、瞳子が言っていた言葉を思い出した。我慢したって、泣きたい時は泣くものなのだ。
パチパチパチ。
どこかで、誰かが拍手をした。
「やっと言ったわね。志摩子」
それは、紅ばらだった。
「やれやれ。今年の余興は大がかりだったねぇ」
黄ばらも首を|竦《すく》めた。
志摩子と乃梨子は、同時に「え?」とつぶやいた。
「美しい姉妹愛を見せてくれた、志摩子と乃梨子に、盛大な拍手を!」
紅ばらがマイクを握って、その場をまとめた。
信じられないことに、お|聖《み》|堂《どう》内はどしゃ降りの雨が降ったような拍手で包まれた。何だかみんな、ドラマでも見たような表情をしている。何が何だかわからないまま、涙を流している人もいる。
キョトンとしている二人に、紅ばらは言った。
「どうして、今まで隠していたわけ? お寺の娘はカトリックの学校に通ってはいけない、なんてこと本気で思っていたの?」
「まったく。|真《ま》|面《じ》|目《め》だというか、|頑《がん》|固《こ》というか。でも、お|膳《ぜん》|立《だ》てした|甲《か》|斐《い》があった」
得意げに、黄ばらがうなずく。
(お膳立て?)
「じゃ、私の家のことは……」
「知ってたに決まっているでしょう。うちの祖父はね、|小寓寺《しょうぐうじ》の|檀《だん》|家《か》なのよ」
「えっ!?」
「ついでだから、いいこと教えてあげるわ。檀家はみんな知っているわよ。だって、志摩子がいつ|告白《カミングアウト》するか、住職と|賭《か》けをしているくらいだもの」
紅ばらは、いとも簡単に言ってくれた。こっちは、けっこう悩んだというのに。
「別に、無理に告白する必要はないと思うわ。でも志摩子、隠しているのつらそうだったから。みんなの前で宣言するのが、一番いい方法だと考えたのよ。……でも、だましたみたいな形になって、ごめんなさいね」
これが、|荒療治《あらりょうじ》というやつか。乃梨子は、何となく|釈然《しゃくぜん》としないまま、鼻をすすり上げた。
(大衆の|面《めん》|前《ぜん》でさらし者になった、私の涙っていったい――)
「乃梨子さんという存在に目をつけた、私の手柄も大きいですわね?」
「瞳子さんっ!」
駆け寄ると、彼女はうふっと首を傾げて笑った。
「あのね。瞳子、紅ばら・黄ばらのお姉さま方にどうしても、って頼まれちゃって。でも、悪役やるのって楽しかったー」
そうだ。こいつは、演劇部だって言ってたっけ。
「じゃあ、クリップとかも瞳子さんの――」
「もちろん? 乃梨子さんに危機感与えたかったんだけど、さすがに画びょうは痛そうだものね。でも、講堂の裏で巾着袋渡しているところを目撃しただけで、『これは怪しい、絶対に何かある』ってにらんだ瞳子ってすごーい」
瞳子は目を閉じて、ゆっくりと自分に|酔《よ》いしれた。
「そうだ、乃梨子さんに瞳子からのちゅ・う・こ・く。大切な物が入っている時は、鞄の鍵を締めましょう。乃梨子さんて、意外とぼーっとしているから、見ようと思ったら、いつでも鞄の中なんか見ることができたわよ」
この、何とも言えないナイスな性格。これから一年間も同じ教室で学ぶと思うと、めまいすら覚えた。
「ばらのお姉さま方、瞳子お役に立ったでしょうー? 誉めてくださーい」
「瞳子ー! あんた、その前に謝れよッ!!」
そして|怒《ど》|濤《とう》のような乃梨子の怒鳴り声が、お|聖《み》|堂《どう》の高い|天井《てんじょう》に響きわたったのであった。
※
残っていた生徒の首にメダイをかけ、山百合の会の新入生歓迎式典はお開きになった。
「志摩子は、罰を受ける、って言ったわよね」
新入生を見送りながら、紅ばらが言った。
「乃梨子さんも罰を受けたい、って言っていたのを耳にした」
黄ばらが口もとで笑みをつくった。
と、いうわけで後片づけはお願いね。――そう言い残して、幹部も手伝いの生徒も、先に返ってしまった。
「でも、ちょっと面白かったね」
乃梨子たちに聞こえないように、黄ばらがつぶやき、紅ばらも「ええ」と小さく笑った。
後に残ったのは、志摩子と乃梨子。さらし者にされた上に罰当番とは、何だか腑《ふ》に落ちない。
そもそも、これは何の罰なんだ?
(私たちは何か悪いことをしたでしょうか。――マリア様、教えてください)
「乃梨子。ちりとり持ってきて」
「あ、はい」
でもお聖堂を掃除する志摩子は、どしゃぶりのあとの青空のように、初夏を渡る風のように、なかなか出なかったくしゃみがやっと出た時のように、さわやかで幸せそうだった。
(だから、ま、いいか)
乃梨子は、そう思うことにした。
マリア様が見ている。
午後の日差しがステンドガラスに差し込み、とても美しい空間を作り上げている。
(帰ったら、タクヤ君に教えてあげよう)
仏像もいい。でも、マリア像も違った美しさがあるんだ、って。
(マリア様を観に、教会巡りするのもいいな)
だが、一番|側《そば》にいる制服を着たマリア様はというと、「今度、一緒に仏像でも観に行きましょうか」と、ほほえんだのであった。
[#地付き]〈集英社「コバルト」一九九七年二月号掲載〉
底本:「コバルト」1997年02月号 集英社
入力:vQT4 (WQRCxqIbCx)
校正:TJMO (Ac8uU4eWPr)
2007年02月07日入力
2007年04月04日再校正
2007年2月6日
(一般小説) [今野緒雪×あおい由麻] マリア様がみてる.zip 12,438,712 13811624a122f8b2d110bd4845f11666
を元に、手入力でテキスト作成、目視校正 (WQRCxqIbCx)
レア物を放流してくれた人に感謝!
同年4月4日
目視による再校正:TJMO
※「マリア様がみてる」シリーズの原型となった読切り版。イラストはあおい由麻が担当している。
******* 底本の校正ミスと思われる部分 *******
8行
転校生の乃梨子は、異邦人の気分だった。
転校生じゃないよう
160行
それは自分と同じ制服を来た人間の少女だった。
同じ制服を着た
1097行
ステンドガラス
間違いではないのでしょうが、ステンドグラスと表記されるほうが多いような。
********************************************