マリア様がみてる
イラストコレクション短編 ハレの日
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大概《たいがい》、気持ちが裏切られるから。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)生徒会長の一人|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》
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ハレの日は嫌い。
大概《たいがい》、気持ちが裏切られるから。
頭ではわかっている。いつもと同じ、いつもの延長線上にあるただの一日。――そんな風《ふう》に、意識しないで迎えられればいい。
でも、やっぱりハレの日はハレの日だから。
カレンダーに丸をつけないまでも、「どうぞ何事もありませんように」と心の中でマリア様にお祈りしてしまったりしている、ばかな自分。
七五三とか、学芸会とか、運動会と、遠足とか、授業参観とか。
今まで、どれだけ期待し、どれだけがっかりさせられてきたことか。
わかっている。その大半は、自分の弱さからくるものだってことも。
体調が悪いのは嘘じゃないけれど、プレッシャーが呼び込んでしまった病だってあるのだ。
だから尚《なお》さら腹がたつ。小さい自分に嫌気がさす。
(――今日だって。)
ため息をついて、寝返りをうった。
ばかみたい。
無理かも、って逸《はや》る気持ちに何度もブレーキをかけていたはずだった。
でも、このところずっと調子がよかったし、春になって気候も穏やかで過ごしやすくなってきたし。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、大丈夫なんじゃないかな、って期待しちゃったのだ。
もし私が剣客《けんかく》だったら、開業と同時に命を失っていることだろう、――なんて。枕もとに置かれた、文庫本を手に取りながら思う。刀を構えるより先に、胸を押さえてうずくまる。いいや、約束の刻限までに立ち会いの場所に行く事ができれば御《おん》の字だ。
「ふふふ」
だから、私は剣客になんてはなかなかなれない。小説を読んで、その世界を楽しむのが関の山。
「――あ」
今、私は笑った。
ということは、それくらいまでには体調がよくなってきたということだ。
時計を見る。――午前十一時五分。
どう考えても、入学式は終わっている。もう間に合わない、行かなくていいという頃合いになって回復するんだから、世話はない。
私はもう一度「ふふっ」と笑ってから、そのまま布団に顔を埋めて泣いた。今回も負けた。そう思った。
どれくらいそうしていただろう。いつの間にか、泣きながら眠ってしまった。目が覚めたのは、ドアをノックする音が微《かす》かに耳に届いたからだ。
「由乃《よしの》? いい?」
控えめな「トントン」の後に聞こえるさわやかな声。私は、ベッドの枠に引っ掛けておいたヒヨコの濡れタオルをとって、あわてて顔を拭《ふ》いた。目の周りや頬《ほお》が、乾いた涙でガビガビになっていたからだ。
「どうぞ」
タオルをそのままおでこにのせて、まぶたを隠した。何となく、腫《は》れているような気がした。
「調子、どう?」
探るような声のトーンで、令《れい》ちゃんが部屋の中に入ってくる。
「うん、あんまり」
私は答えて、それ以上しゃべらない。
「だよね」
自分の入学式に出られなかったくらいだもん、という言葉が、令ちゃんの「だよね」の中には含まれていた。そしてその時、クローゼットの扉の前に掛けられた真新しい高等部の制服に、令ちゃんの視線が向けられていたのも、気配でわかった。
私より一年年上の令ちゃんは、一年分着古した制服を着ている。家には帰らず、学校から直接私の所に来てくれたのだろう。
「叔母《おば》さんが、由乃が起きていたら何か食べられるかどうか聞いてって言っていたよ。お粥《かゆ》でも、果物でも、って」
「今はいい」
「そっか」
言いながら令ちゃんは、机の上に何かを置いた。私は少しだけタオルをずらして、そちらを見た、それは、学校の名前入りの茶封筒のようだった。
「生徒手帳とか、諸々《もろもろ》の書類とか預かってきたから」
「そう」
「由乃は、一年菊組だよ」
「ふうん」
クラスの名前を聞かされても、大した感慨《かんがい》はない。菊組は令ちゃんが一年生だった時のクラスだから、教室が単純に洋服のお下がりみたいに感じられただけだ。
「入学写真は、明日撮るらしいから」
「から?」
「いや、明日は学校行けるといいね……って」
令ちゃんは、ベッドの側まで椅子《いす》を引っ張ってきて腰掛けた。
「きっと、明日はよくなるって」
「……」
励ましてくれているのに悪いけれど、私はちょっとだけ令ちゃんを恨《うら》めしく思った。これで明日もまた、学校に行くプレッシャーがかかってしまった。行けなければまた一枚、右上に丸く私の顔写真が入った集合写真が出来上がってしまうわけだ。
「行けるかな」
私はつぶやいた。本当の気持ちは、「行けるかな」ではなくて「行きたいな」だった。高校生活初日から欠席なのだ。これ以上、出遅れたくはなかった。
新しいクラスになって間もなくは、生徒達にとっては重要な時期だ。クラスメイトたちの自己紹介を聞き漏《も》らすだけではなく、自分の自己紹介だってできやしないのだから、転校生より孤独かもしれない。
もちろん、私は幼稚舎からリリアン女学園に通っているから、クラスには知った顔も何人かいるとは思う。けれど、私のいない教室で私の噂《うわさ》話が囁《ささや》かれるくらいならば、むしろ誰も知った人のいないクラスのほうがいい。「病欠の島津《しまづ》由乃さんは、身体が弱くていらっしゃるから」なんて、うんざりする。――もう、遅いかもしれないけれど。
考えていたら、また胸が苦しくなった。
「由乃?大丈夫?」
「うん……」
精神的なものだから、少し冷静になれば治る。
「タオル、乾いてきちゃったね。濡らしてきてあげるよ」
「いいの」
私は、タオルを取り上げようとしていた令ちゃんの手を握った。
「いいの。このまま、ここにいて」
「わかった」
令ちゃんは、浮かせた腰をもう一度椅子の上に下ろした。
「令ちゃんは何組だったの?」
「また菊組。由乃とお揃《そろ》いだ」
「そう」
「ついでに言うなら、江利子《えりこ》さまも菊組なんだよ」
江利子さまっていうのは、令ちゃんのお姉さまでフルネームは鳥居《とりい》江利子さま。この春から、生徒会長の一人|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》という偉《えら》そうな称号で呼ばれることになったすごい人だ。偉いのは称号だけじゃなくて、成績優秀、頭脳|明晰《めいせき》、おまけに顔だって貶《けな》す場所を探せないくらい整っているという、スーパーウーマンらしい。
正式に紹介はされていないけれど、何度か令ちゃんと並んで歩く江利子さまの姿を校内で見かけたことがある。その時の令ちゃんは、私の前では決して見せたことがないような表情をしていて、正直が腹がたったのを覚えている。
そんな日の私は、決まって、家に帰ってから令ちゃんに当り散らしたんだけれど、令ちゃんはどうして私が荒れているのか、まったくわかっていなかったようだ。いつもの癇癪《かんしゃく》、虫の居所が悪かっただけ、そんな風に思っていたのかもしれない。
「由乃。こんな時に何なんだけれど」
令ちゃんは、制服のポケットに指を突っ込んで何かを取り出した。
その「何か」が何であるか、私は正しく理解していた。けれど、わかっていることを令ちゃんに知られたくはなかった。
「調子がいい時のほうがいいとも思ったけれど、私は一日でも早く由乃と……」
手の平にのせられて目の前に差し出されたからには、もう無視なんてできない。私は意を決してそれを見た。
それは予想通り、ロザリオだった。
「……きれいだね」
予想と外れていたのは、それが令ちゃんが日頃から身につけている、江利子さまからもらったものではなかったということだった。だからダークグリーンの色石がつながれてできたこのロザリオは、令ちゃんが私のために買ってくれたものということになる。
「似合うと思うよ」
「そうかな」
私たちは、高等部では姉妹《スール》になるのだといつの頃からか決めていた。
だから、令ちゃんは当然のように高等部に上がった私にロザリオを差し出す。「私の妹になりなさい」とか「姉妹になりましょう」なんて言葉はなくても、私がそれを喜んで受け取るものと信じて疑わない。
「掛けてあげようか」
「……ごめん。ちょっと、今は動きたくないから」
うれしくないはずはない。令ちゃんの妹《スール》になれるのだから。でも、手放しで喜べない気持ちが、私にはある。
「そっか……、そうだね」
令ちゃんはほほえんでから、私の手にロザリオを握らせた。それから「おやすみ」と言って、椅子を立った。
私は、もう一度「掛けてあげようか」と聞いてくれたら、うなずくのにと思った。だって令ちゃんは、顔に出さないけれどガッカリしている。人並みの姉妹《スール》のように、ロザリオを首にかける授受の儀式をしたいと思っていたに違いない。だから。
(令ちゃん)
私の念力が通じたのか、令ちゃんはドアの前で一度振り返った。でも、口から出た言葉は「掛けてあげようか」ではなかった。
「そうだ。学校に出られるようになったら、薔薇《ばら》の館《やかた》に連れていくから」
「江利子さまには……っ!」
私は、身を起こした。ついさっき、動きたくないと言ったばかりなのに。でも、そんなこと令ちゃんは気に留めなかった。
「大丈夫。由乃のことはちゃんと言ってある」
「そう」
従妹《いとこ》は身体が弱いので、ご迷惑をおかけするかもしれません。――そんな事を言ったのかな。令ちゃんの閉じたドアの音を聞きながら、ぼんやり思った。
令ちゃんは今まで、江利子さまに何をしてあげたのだろう。
江利子さまは、令ちゃんに何を与えてくれたのだろう。
まだ見ぬ|紅 薔 薇のつぼみの 妹 《ロサ・キネンシス・アン・ブウトン・プティ・スール》も、|白 薔 薇のつぼみ《ロサ・ギガンティア・アン・ブウトン》も、みんな丈夫で、何でもできる人たちに違いない。そんな輪の中に入って、私にはいったい何ができるというのだ。
私は、布団の中でもう一度泣いた。
やっぱり、ハレの日は嫌い。
いつもは考えなくてもいいことを、心に突きつけられるから。
令ちゃんには、きっとわからない。
私が、どんなにか令ちゃんを羨《うらや》ましく思っているか。
真っ直ぐ伸びるしなやかな若木のような美しい従妹《いとこ》を、私がどんなに愛しているのか。
令ちゃんがいなくなった椅子の上には、桜の花びらが一枚落ちていた。