マリア様がみてる
リトル ホラーズ
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)菜々《なな》ちゃん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三年|菊《きく》組
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)お姉さま[#「お姉さま」に傍点]であろうと
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[#挿絵(img/34_000.jpg)入る]
もくじ
リトル ホラーズ―T
チナミさんと私
リトル ホラーズ―U
ハンカチ拾い
リトル ホラーズ―V
ホントの嘘
リトル ホラーズ―W
ワンペア
リトル ホラーズ―X
胡蝶の夢
リトル ホラーズ―Y
おまけ・リトル パニック
あとがき
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[#挿絵(img/34_004.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる リトル ホラーズ
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リトル ホラーズ―T
菜々《なな》ちゃんだって、ユーレイは嫌でしょう?
そんな言葉に背中を押されてお使いを引き受けたものの、やっぱり気が進まないものは進まない。
「はーっ」
廊下《ろうか》を少し歩いて、三年|菊《きく》組教室のプレートが見えなくなったのを確認してから、有馬《ありま》菜々は大きなため息をついた。
四月もそろそろ終わりという、とある放課後のことだ。
リリアン女学園高等部は、上下関係が厳《きび》しいほうだ。一学年上の先輩が側《そば》にいるだけでも緊張するのに、相手は二学年上の三年生。それも運動部部活の先輩の命令ともなると、入学して間《ま》もない一年生の身では、「断る」という選択|肢《し》は残っていないと言ってもいい。
けれど、引き受けたってことは、百パーセントではないとしても、菜々もある程度は賛同しているということだ。
(それに)
確かに、ユーレイっていうのは困るのだ。うん、とうなずいて、重くなりがちだった足取りを速める。これから対決する相手はかなり手強《てこわ》いが、負けちゃいけない。二学年上であろうと、運動部の先輩であろうと、お姉さま[#「お姉さま」に傍点]であろうと、正しいと信じられることなら毅然《きぜん》とした態度で上申《じょうしん》するべきなのである。
ただし、相手が正論を素直に受け入れるかどうかは、また別問題だった。
「さて、どうすれば説得できるかな」
校舎を出て、薔薇《ばら》の館《やかた》と呼ばれる建物の入り口まで来た菜々は、さっきとはちょっとニュアンスの違う息を吐いた。
なぜって。島津《しまづ》由乃《よしの》という人は、なかなかどうして一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない御仁《ごじん》なのであった。
「は? いない?」
ここは強腰《つよごし》な態度で責めるべき、と、勢いよく階段を上ってきた菜々だったが、すぐに出端《ではな》をくじかれた。ちょうど二階の部屋から出てきた| 白薔薇のつぼみ 《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》の二条《にじょう》乃梨子《のりこ》さまに、目当ての人の不在を知らされたからだ。
「……えっと。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は、ここに、いらっしゃらない……」
菜々は、先程聞いたばかりの乃梨子さまの言葉を復唱《ふくしょう》してみた。言葉がわからないわけでも、言葉を疑っているわけでもないけれど、まさか「いない」というパターンがあるとは予想だにしていなったので、事実をすんなりと受け入れるのにワンクッション必要だったのだ。
「ええ」
乃梨子さまは、通称ビスケット扉と呼ばれるドアにもたれながら、「間違いないわ」というようにうなずいた。「|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》」とは、菜々のお姉さまである由乃さまの、生徒会での通り名である。だから、つまり、よーく考えるまでもなく、「由乃さまはここにはいない」ということなのだ。
「どうしたの? 菜々ちゃんは、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》を捜しているの? 今日、部活があるって言ってたよね? 終わったから来たの?」
乃梨子さまは、矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問を投げかけてきた。菜々は| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》であるから、|つぼみ《ブゥトン》という意味では立場は同じなわけだが、乃梨子さまは一年先輩ということもあって、年下の新入りを何かと気にかけてくれるのだ。
「部活はまだ終わってません」
取りあえず、菜々は最後の質問にだけ答えた。
「終わっていない、って。抜けてきていいの?」
新入部員が、って。心配されるのは当たり前だ。
「いいも悪いも。私は三年生の先輩から、お姉さまを連れてくるよう命じられたものですから」
「待って。それじゃ、今日の剣道部の集まりって、新入部員だけじゃなかった、ってこと?」
「はあ」
その様子から判断するに、由乃さまは他の仲間たちには「今日の部活に出るのは新入部員だけだから、三年生の私は出なくていいの」みたいな話をしていたのだろう。即《すなわ》ち、少なくとも部活に姿を現さなかったのは、不慮《ふりょ》の事故などに巻き込まれたわけではなく、計画的犯行だった、と。
まったく何を考えているのか、と菜々は小さくため息をついた。自分のお姉さまながら、呆《あき》れてしまう。程なく。
「何かあったの?」
その言葉とともにビスケット扉が開いて顔を出したのは、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》こと藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》さまだった。
「お姉さま。菜々ちゃん、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》を迎えにきたんですって」
乃梨子さまは、部屋を出てきた志摩子さまを振り返る。
「まあ」
志摩子さまは、小さくつぶやいた。その呼び名にふさわしく、清楚《せいそ》できれいな人だ。いつだったか誰かが白薔薇姉妹を「西洋人形と日本人形」と表したのを聞いたことがあったが、乃梨子さまと並ぶと本当にその対比が美しいのだ。でも、今日はいつもとちょっと印象が違う。――と思ったら、ウエーブのかかった長い髪をゴムで一本に結《ゆ》わいているのだ。
「由乃さんなら、ここにはいないわ」
志摩子さまは、花が開くようにほほえんだ。
「それは……伺《うかが》いました」
瞬間、甘い香りがしたような錯覚《さっかく》までさせるのだから、本物[#「本物」に傍点]はさすがに違う。いや、だからといって、由乃さまが黄薔薇の偽物《にせもの》と言っているのではない。断じて。
「では、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は」
菜々は気を取り直して質問を変えた。
「祐巳《ゆみ》さん?」
「お姉さまと同じクラスの|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》なら、何かご存じかと」
放課後薔薇の館に行く前にどこか寄ると言っていた、とか。今週はすごく時間がかかる掃除区域だとか。小さくともヒントがあれば、今どこにいるのか推理しようがあるというもの。
「それが……」
しかし、白薔薇姉妹はそう言って顔を見合わせた。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》もいないの」
「えっ」
それもまた、予想だにしていなかったことである。
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》である福沢《ふくざわ》祐巳さまは、部活動もしていないし委員会にも入っていない。薔薇の館にいる確率では、乃梨子さまと並んでトップツーといっていい人である。
「私たちも、遅いわねって話していたところだったのよ。ね、乃梨子」
「ええ」
三年|松《まつ》組で何かあったのだろうか。祐巳さまも一緒かもしれないとなると、さっきまで信じて疑わなかった由乃さまの「計画的部活サボリ説」もぐらついてくる。本当はちゃんと部活に出るつもりだったのに、どうしても行けない事情ができた、とか。しかし、その事情というのが皆目《かいもく》見当もつかなかった。
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「ね、菜々ちゃん。今から二人で三年生の教室に行ってみない?」
乃梨子さまが提案した。
「そうね。そうしたら? 私はここで留守番して、もし由乃さんが来たら引き留めておくわ」
志摩子さまが、それに乗った。
で、菜々はというと。三年生の教室に行って戻ってくるだけなら自分一人で事足りるとは思ったものの、断る理由もないので「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「いってらっしゃい」
志摩子さまはビスケット扉の前で手を振って、二人の|つぼみ《ブゥトン》が階段を下っていくのを見送ってくれた。
「うちのお姉さま、今日の部活は一年生だけ出るって言ってましたか」
階段を下りながら、菜々は乃梨子さまの背中に尋《たず》ねた。古い木造の階段は二人の体重を受け止めてギシギシ音を鳴らしていたからはっきりとは聞こえなかったが、前方からは「えー、あー、そうね」みたいな掴《つか》み所のない言葉が返ってきた。
「それ、いつ頃お聞きになりました?」
ちゃんとした答えを得たかったので、一階に着いてから重ねて聞いた。
「いつって……。さあ? 昼休み?」
乃梨子さまは一旦《いったん》足を止めると、ちょっと自信なさげに首を傾《かし》げながらつぶやいた。
「昼休み?」
菜々も首を傾げた。少し訝《いぶか》しげな表情を浮かべたのを察したのだろう、乃梨子さまはすぐさま思い至《いた》って前言を撤回《てっかい》した。
「いや、今日の昼休みは、薔薇の館に集まらなかったんだから、それはないか。じゃ、昨日の昼休み……」
「昨日は日曜日です」
休日なのに登校するって、どれだけ学校が好きなんだ、って突っ込み入れたいところだったけれど、相手は年上だったので取りあえず遠慮した。百歩|譲《ゆず》って事実だったとしても、授業がなければ「昼休み」って言わないんじゃないの、とも。
「……だったね。なら、今朝だったのかな。はっきり覚えていない。っていうか、ごめん、だんだん自信がなくなってきた。こうなると|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の言葉も、勘違《かんちが》いかもしれない、って気がしてきちゃうし」
ちょっと長めのおかっぱ頭をカシカシかきながら、乃梨子さまは出口である薔薇の館の玄関に向かって再び歩き始めた。菜々は追いかけながら尋ねた。
「あの、もしかしてうちのお姉さまを庇《かば》ってます?」
「それはない」
ノブに手をかけた乃梨子さまは、その部分だけはきっぱりと断言した。確かに、乃梨子さまが由乃さまの肩を持つ理由はなかった。
「けど。どうして菜々ちゃんは、いつってところにこだわるの?」
扉を開けて外に出ると、少しだけ風が吹いていて頬《ほお》や手、ふくらはぎといったむき出しの部分を気持ちよく撫《な》でていった。
「何でしょうね」
薔薇の館から校舎に入るまでの短い距離をそんな一言で埋めてから、菜々は自分の心の内を分析《ぶんせき》してみた。
「私が最後にお姉さまとその話、その話っていうのは部活の集まりについての話ですけれど、その話をした時は、お姉さまも出席するみたいな口ぶりだったので。最初からサボるつもりだったのか、それとも私と会って以降に気が変わられたのか、どっちだろうって」
「騙《だま》されたんだとしたら、悔《くや》しい、ってこと?」
並んで廊下を歩きながら、乃梨子さまが尋ねた。
「わかりません。そういう人だってことは、最初から知ってましたし」
「そういう人?」
「嘘《うそ》つきなんです」
菜々の言葉を聞いて、乃梨子さまはギョッとした顔をした。自分のお姉さまを「嘘つき」呼ばわりする人がいるなんて、信じられないことだったのだろう。
まだ菜々が中等部に在籍《ざいせき》していた去年の秋、剣道大会の会場で嘘の片棒《かたぼう》を担《かつ》がされたのがそもそもの出会い。その嘘も、結局二人が姉妹《スール》になったことで本当のことになってしまったが。
「つまりは、私は私に内緒《ないしょ》でお姉さまが面白《おもしろ》いことをしようとしていることが面白くないんだと思うんです」
「……すごい独占欲だね」
「ちょっと違うんですけれど」
二学年も違うんだから、できることとできないことがあるのは当たり前だ。つまり端《はな》から無理なことは諦《あきら》められる。けれど、同じ剣道部に所属していて、全員出席することが決まっている集まりに妹に内緒で出ないなんて、それはちょっと違うでしょう、と言いたいわけだ。
だから、三年松組教室に由乃さまがいて、どうしても外せない急用ができたから部活に出られなかった、という終結が菜々にとっては一番望ましかった。
「何か、企《たくら》んでいるんですかね」
「な、何かって何?」
「わかりません」
わからないけれど、匂《にお》いは感じる。
「わからないなら、変に勘《かん》ぐらないでさ、本人に会って聞けば解決することだし。それより、もっと明るい話をしようよ」
乃梨子さま曰《いわ》く。疑心は悪い人相を呼ぶ、そうである。
「だからって別にニコニコする必要はないと思いますけれど」
「わかった。じゃ、フラットな当たり障《さわ》りのない、ベタな話っていうのはどう?」
それってどういう、と菜々が言いかけると、乃梨子さまは言った。
「じゃあ、えっと、そうだ。高等部の生活にもう慣れた?」
――それは、本当にものすごくベタな話題だった。
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チナミさんと私
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せっかくガリ勉して入った高校なのに、初《しょ》っぱなからしくじった。
受験勉強から解放されて、宿題ももちろんなくて、我が世の春とばかりに連日中学の友達と遊び回った春休みにどこかでもらってきたと思われるインフルエンザにかかって、初日から欠席したのだ。
これから一年間同じ教室で学ぶクラスメイトとの顔合わせともいえる入学式、私としては這《は》ってでも出たいと訴えたのだが、これから一年間同じ教室で学ぶクラスメイトたちに病気を伝染《うつ》したら申し訳ないでしょう、と逆に母に説き伏せられて断念した。
それがもとで、一年間病原菌みたいに扱《あつか》われたら目も当てられないし、「インフルさん」なんて変なあだ名をつけられるのも嫌だ。
でもって、私が全快して憧《あこが》れの黒い制服に袖《そで》を通して登校してみると、ピッタリ入れ違いで隣の席の生徒が欠席してしまった。もちろん、私のウイルスが飛び火したわけではない。
「千波《ちなみ》さんは、海外へ病気の治療に行ってしまったの。照《てらす》さんが出席したら渡してって、これを預かっているのだけれど」
クラスメイトが差し出したのは、一冊のノートだった。
注射と薬のお陰《かげ》でインフルエンザの高熱は三日ほどで下がったけれど、子供の頃からお世話になっているホームドクターがなかなかOKを出してくれなくて、私が初登校したのは入学式から十日も経《た》った頃だった。その間に、オリエンテーションも終わって、すでに授業が始まっていた、というわけだ。
席が隣だったその親切な日比野《ひびの》千波さんが、私のためにノートを作ってくれていたらしい。ノート一冊に、授業があった教科すべての情報が記《しる》されてあった。それは勉強のことだけで埋め尽くされていたわけではなくて、先生の自己紹介の内容とか、場合によっては似顔絵が描かれていたページもある楽しいものだった。
「今日、照さんが登校していらして本当によかったわ。この続きを千波さんに頼まれていたのだけれど、私、千波さんほど字も絵も上手じゃないし」
ノートを開いて中を見たのだろう、私の一つ前の席の博恵《ひろえ》さんは、笑いながらそうつけ加えた。
* *
クラスメイトたちは、休んでいた私をあたたかく迎え入れてくれた。
お嬢さま学校として誉《ほま》れ高きリリアン女学園では、もちろん、誰一人として私を「インフルさん」なんてふざけたあだ名で呼ぶ生徒はいなかった。もっとも、ここでは誰にもあだ名はついていない。同級生ならば、名前に「さん」付けで呼ぶのが基本だという。
さて私はノートを受け取ると、クラスメイトたちが千波さんに頼まれたという続きを引き受けることにした。
私が出席したんだから、もう必要ないんじゃないか、って? 何言ってるの。このノートは今日を境に、休んでいる千波さんのためのノート、に切り替わるのである。
「手伝いましょうか?」
クラスの何人かにそう言われたけれど、私は「大丈夫」って断った。だって千波さんだって私のために一人でノートを作ってくれたんだから、私ができないわけないし、それより何より一人でやりたかった。
なぜって、今度は私の番だって思えたから。これは、私と千波さんの交換日記みたいなものだ。まだ会ったことはないけれど、千波さんは高校生になって初めての私の友達だったのだ。
私は、ノートを作りながら、千波さんのことをあれこれ想像した。
「千波さん? そうね。髪は短めで、丸顔。でも痩《や》せていて手足は細いかな。肌《はだ》の色が白く見えたのは、今思えば病気のせいで顔色が悪かったのかしらね。あと、八重歯《やえば》がある」
尋《たず》ねると、博恵さんはそう教えてくれた。丸顔で痩せていて顔色が悪くて短い髪で、八重歯があって――、断片的な特徴を並べられてもなかなか一人の女の子像を作り上げることができなかった。どっちかっていったら、タレントの誰に似ているとかの方がイメージしやすいんだけれど。博恵さんはうまいこと思いつかないらしい。
「強《し》いて言うなら、私の従姉《いとこ》に似ている、かな」
「…………」
残念ながら、博恵さんの従姉には一度もお目にかかったことがないし、今後もその機会はなさそうだ。
「物静かでお上品、真面目《まじめ》でしっかり者って感じかな」
それはノートに書かれていた整然とした文字を見れば、わかることだった。そして、つけ加えるならイラストもうまい。
ノートの余白に『テラスさん予想図』とタイトルをうって描かれたコミカルなイラストは、私より何倍も可愛《かわい》かったけれど、髪形とか顔のパーツの配置なんて絶妙で、全体の印象は、想像で描いたにしてはとてもよく似ていた。
* * *
「照さん。ご一緒にどう?」
お弁当を持って教室を出ようとすると、クラスメイトが声をかけてきた。
「ありがとう。でも、今日は天気がいいから」
外で食べたいの、と手を振って廊下《ろうか》に出る私。
別に、どうしても外で食べたいわけじゃない。太陽の下でお昼ご飯を食べるのは、今の季節そりゃ気持ちいいものだけれど、そこが外だってだけで虫はいるし、風が土埃《つちぼこり》とか小さな葉っぱとかを運んできたりもする。
それに「ご一緒にどう?」の返事は「はい」か「いいえ」のはず。「今日は天気がいいからあなた方とは一緒に食べられません」って受け答えは、へんてこりんだ。誘ってくれた彼女たちが、絶対に外で食べないという確証なんてない。外で一緒にお弁当を食べる、という選択|肢《し》だってあり得るのである。
「そう。じゃ、また今度ね」
クラスメイトたちは、無理|強《じ》いをしなかった。そしてまたしばらくすると、「ご一緒にどう?」と誘ってくれるのだろう。
私はよく一人でいた。
入学式から十日も過ぎると、クラスの委員を決めたり、お弁当を一緒に食べたり、同じクラブ活動同士でくっついたりしているうちに、仲よしグループっていうのはほぼ出来上がってしまっていた。そんなわけで出遅れた私は、なかなか自分の居場所というかポジションを定められないまま、ふわふわと教室内を漂う存在だった。
神様の悪戯《いたずら》か、綿貫《わたぬき》という苗字《みょうじ》の私は出席番号がラスト。名簿順で二人一組のペアを作らなくてはならない場合、現在千波さんが休んでクラスの人数は奇数だから「あまり一」になるのは私だった。
(あーあ。早く千波さんが学校に来ないかな)
板書《ばんしょ》もあまりない退屈な授業中、そう思ってため息をつくと、ジャストタイミングで声が届いた。
「お呼び?」
心の中のつぶやきに返事があったら、偶然だったとしても「何それ」ってなる。でもって私は、そんな理屈なんて考えるより先に、声がした方向に目を向けた。
右横の空《あ》いた席には、当然ながら誰もいない。
私は苦笑して、またつまらない授業に戻っていった。老教師が、チョークを折りながら数式を書いている。それを、自分用のノートにまず書き写す。
千波さんのわけはないのだ。彼女は海外で受けた手術が成功して、二週間もすれば戻ってくるだろうと、今朝方担任が言ったばかりだった。
しかし、たぶん空耳《そらみみ》だったのだろうと自分を納得させたのもつかの間、再びさっきと同じ声がした。
「無視か、こら」
今度はもっとはっきり聞こえた。私は、千波さんの席の周辺を見た。けれど前と右隣(私たちの席は最後列で、左隣は私の席だ)には、誰一人こちらを向いて「今声を出したのは私です」と私にアピールしている人はいない。それどころか、あんなにはっきりした「無視か、こら」すら気づいている人はいないようなのだ。
どういうことだろう。すると、また。
「そりゃそうだよ。照さんにだけ聞こえるようにしゃべっているんだから」
誰?
「ここここ」
ココココって、ニワトリか。
手を振っているところを見ると、間違いなく先程から私に話しかけてくる人物なのであろう。
(…………)
いや、人物って言っていいのかも疑問だった。
千波さんの椅子《いす》の上に座ってこちらを見ているのは、一見すると夏蜜柑《なつみかん》ほどの大きさの薄緑色した球形の物体。そこに、大きいが黒目の分量が少ない目玉と、肉食恐竜みたいなギザギザの歯がついたやはり大きな口、それに細くて短い手と足がくっついている。髪の毛なんて、トマトのヘタみたいに申し訳程度上に乗っかっているだけだ。
「えっと」
地方自治体やイベントのマスコットにありそうな形態だけれど、正直、お世辞《せじ》にも可愛いとは言えない容姿だった。
(千波さん……?)
私は心の中で尋ねてみた。どうしてそう思ったかというと、そこは間違いなく千波さんの席だったし、さっき千波さんのことを考えていた時に「お呼び?」と返ってきたからだ。これまでのやり取りで、声に出さずとも伝わることはわかっていた。
「うーん、まあそうね」
薄緑色の球体についた口から出たのは、はっきりしない返事。千波さんかどうかを質問したのだから、答えはYESかNOであるはずなのに。
だから私は、取りあえずこちらを暫定的《ざんていてき》に「チナミさん」と定めた。「千波さん」と区別するために、片仮名《かたかな》表記で呼ぶことにしたのだ。
昼休みになったので、私は右手にチナミさん、左手にお弁当を持って外に出た。中庭は人目がありすぎるから、今日はグラウンドの方まで遠出した。
「ねえ、チナミさん」
私が話しかけても、チナミさんは返事をしない。ぐるりとトラックを取り囲むように盛り上がっている土手の斜面を、奇声《きせい》を上げながら走り回っている。
諦《あきら》めてお弁当を食べ始めると、いつの間にか私の肩に乗っかって、箸《はし》が動くところを覗《のぞ》き込んでいる。ちょっと重いけれど、私は我慢《がまん》してお弁当を食べ続ける。せっかくチナミさんが側《そば》に寄ってくれたのに、逃がしては大変。そういうと、まるで目の前の枝にやっと留《と》まったトンボか何かみたいだけれど、本当にそんな気分なのだった。
でも、昼休みが終わってもチナミさんは居なくならなかった。千波さんの椅子の上で、授業を聞いているふりをしている。私は時折横目で見ながら、二人分のノートをとり続けた。チナミさんが千波さんなら、もう代わりにノートをとってあげる必要はないはずなのだが、あの細くて小さい手でシャーペンを持つことは至難《しなん》の業《わざ》と思われた。
* * * *
次の日もその次の日も、チナミさんは存在し続けた。
チナミさんはその場に応じて、大きさを自由に変えた。体育の時間は小豆《あずき》くらい小さくなって、私の耳の後ろに張りついた。昼休みなどは大きなスイカほどまで膨《ふく》らんで、木陰《こかげ》で一緒に昼寝をしたりする。
「ねえ、照さん。コスモス文庫の新刊は、もうお読みになって?」
たまに気が向くと、そんな話題も私に振る。本の話だけじゃなく、ファッション雑誌の記事や、テレビドラマ、アイドルグループの誰が好きかとか、なんていう場合もあった。
それは大抵《たいてい》が、その日の休み時間などに聞いたクラスメイトたちの雑談からヒントを得た話だった。それを、さも自分が思いついた話みたいにチナミさんはする。時には得意げに、そこにない鼻をツンと上にあげて「どうだ」って顔をして見せた。
私は「どこかで聞いた話だな」と思いつつ、「新刊はお小遣《こづか》いが出たら買うつもりよ。だから内容は黙っていてね」とか「私はブルーのスカートよりピンクのパンツの方が欲しいな」とか「センターで歌っている彼よりも、向かって右のダンスが上手な彼の方が好みよ」とか一々答えていくのだ。
すると、チナミさんは満足そうに「ギャギャギャ」と笑う。私の意見や好みを聞いても、お返しに自分のことを話そうとはしない。それどころか、私の話もさほど興味はないようだ。ただ、自分が振った話題に私が言葉を返した、それが愉快《ゆかい》なだけだった。
クラスメイトの口調を真似《まね》する時は、かなり気をつけて高校生の女の子らしく発音しているようだけれど、普段のチナミさんの声は割れてくぐもってそのくせうるさくて、へんてこだった。でもまあ、見た目もへんてこなんだからそんなものかもしれない。
奇声をあげて走り回ったり、ボールのようにびょんびょん跳《は》ねたり、時折私を蹴飛《けと》ばしたりするのも、ある意味その容姿にピッタリなのである。
それでも私が、チナミさんが単なる妖怪《ようかい》の類《たぐい》だと片づけられずにいたのは、彼女が授業に出続けているからだった。
ノートはとらないけれど、教室ではちゃんと自分の席についているし、教室を移動する時でも私の肩に留まったりポケットに入ったりしてついてくる。
千波さんは海外で病気の治療を受けているという話だけれど、きっとそこで改造手術を受けてこんな姿になってしまったのだろう。
手術が成功したのか失敗だったのかは微妙だ。でも、見た目が人間の姿からかけ離れてしまったけれど、元気に飛び回り好き勝手なことを口にしている彼女は、決して不幸には見えなかった。
* * * * *
朝のホームルームで出席をとる時、チナミさんは「日比野千波さん」の番が来ると元気よく「はい!」と手を上げる。残念ながらチナミさんの姿が見えず声も聞こえない担任は、「お休みですね」と言いながら出席簿に一つ斜線を引くのだが、時たまそれを忘れて次の「藤田明子《ふじたあきこ》さん」に進む。そんな時、もしかしたらチナミさんの「はい!」がどこかで漏《も》れてしまっていたのではないか、って私は思っている。
私は、輪《わ》をかけて一人で居ることが多くなった。チナミさんはいつでも近くにいるけれど、誰かが側《そば》にいると話ができない。クラスメイトたちは孤立する私を気遣《きつか》って、何かにつけて声をかけてくれるけれど、私は孤独ではなかった。さすがに担任に職員室に呼ばれて「いじめ」って単語が出た時には、ちょっと反省して短い休み時間とかにクラスメイトたちと話をしてみたりしたけれど、昼休みは相変わらず教室の外に出てチナミさんと二人で過ごした。
私が他の誰かとたわいない会話をした後、決まってチナミさんは荒れた。チナミさんもその場に居たんだから、内緒《ないしょ》で仲よくしているわけではないのだけれど、チナミさんにとっての理屈はそうではなかった。
「照さんの意地悪」
小さくて細い手で私を叩《たた》くこともあれば、ただ後ろを向いてすんすんと鼻を鳴らして泣くこともある。
「他の人と仲よくしちゃ嫌。私には照さんしかいないのに」
私は、その時「あれ?」と思った。チナミさんは最初「照さんにだけ聞こえるようにしゃべっている」と言っていたけれど、そうではなかったのだろうか。たまたま私に声が届き、たまたま私にしか姿を見ることができなかった。だとしたら、不安になるのは当然だった。私がクラスメイトたちの中にとけ込んでチナミさんを忘れたら、チナミさんは誰からも見向きされない存在になってしまう。「いない人」になってしまう。
私は「ごめんね」と言って、夏蜜柑|大《だい》のチナミさんを抱きしめた。チナミさんは「放せ馬鹿《ばか》ー」と暴れたけれど、そのうちおとなしくなって私の手の中で寝息をたてた。
最初のうち薄緑色だったチナミさんの丸いボディは、日に日に赤みがさしていき、今ではほんのりピンク色になっていた。
私はたぶん、チナミさんが好きなのだろう。姿形は関係ない。異形《いぎょう》だからといって、それが何の妨《さまた》げになろう。ちょっと見怖い顔だって、見慣れれば「愛嬌《あいきょう》がある」と言えなくもないのだ。
チナミさんが寂《さび》しい思いをするなら、他の人としゃべらなくてもいいや。私は本気でそんな風《ふう》に考えるようになった。
だから、クラブにも入らなかった。「お姉さま」を作るためには、部活に入るのが近道だってクラスメイトが教えてくれたけれど、別に特定の親しい上級生なんて欲しいとは思わなかった。
一学期の中間試験が終わって、私は全科目結構いい点数をとった。たぶん、チナミさん用にノートをもう一冊作っているのが功《こう》を奏《そう》したのだと思う。試験中、チナミさんは自分の席の椅子の上でごろごろと転がっていた。当然のことながら、机の上には彼女のための答案用紙は配られなかった。
* * * * * *
梅雨《つゆ》に入っても、私は作ったところで無意味なのかもしれない千波さんのためのノートを作り続けた。一冊にいろんな教科を詰め込んでいるから、そろそろページが尽きそうな教科もある。新しいノートを買わないとだめかな、と思っていたある日の放課後、担任に呼ばれて職員室に行った。また「クラスにとけ込む努力をするように」といった話をされるかとうんざりしたけれど、千波さんのノートを見たいという話だった。
「ふんふん。なるほど。良くできている」
先生はパラパラとページをめくって、その内容を誉《ほ》めた。
「最初の方は、日比野千波さんが私のために書いてくれたもので。それがわかりやすかったから、私はそれを真似してやってみただけで――」
「それでも。これは、きちんとしたノートだよ。よくやってくれたわね」
別に、先生にお礼を言われることではない。私は千波さんのために、いいや、たぶん自己満足のためにノートを作っているのだ。
「これ、ちょっと貸してくれない?」
先生が言った。
私はそろそろ二冊目に入ろうと思っていたからいいですよ、とそれを職員室に置いていくことにした。先生は「それじゃ」と、代わりに真《ま》っ新《さら》なノートを一冊私にくれた。
「綿貫さん。日比野さんが早く学校に出てくるといいわね」
私は無言で会釈《えしゃく》して、職員室をあとにした。
日比野千波さんが学校に出てくる?
私には、その意味がよくわからなかったのだ。
教室に戻ると、チナミさんが私の机の上で待っていた。「何の話だった?」とも聞かずに、静かに私を見つめるだけだ。
近頃、ちょっぴり元気がない。
湿気の多い、この季節のせいだろうか。私はチナミさんの生態を今ひとつ理解しきれていないので、この推理が合っているかどうかはわからない。丸いボディの色だけ見れば、赤く色づきピカピカと光って、健康そうに見えるのだが。
「バイバイ、また明日」
私は先生からもらったノートを鞄《かばん》に入れると、チナミさんに手を振って家に帰った。
いつもの儀式。
当たり前だけれど、チナミさんは私の家まではついてこない。「バイバイ」から次の「おはよう」までの間、チナミさんがどこで何をしているのか私は知らなかった。
ずっと学校にいるのだろうか。それとも家に帰るのだろうか。家だとしたら、それはどこなのだろう。日比野千波さんのお家《うち》か、それともチナミさんには別のねぐらがあるのだろうか。生態同様、チナミさんの私生活も私にとっては謎《なぞ》だった。
* * * * * * *
翌朝、登校してみるとチナミさんが椅子の上でブルブル震えていた。
「どうしたの?」
クラスメイトの手前、小声で尋ねてみたけれど返事はない。
私の声が聞こえていないわけではない。チナミさんは、声にしなくても私の思ったことを読み取る力を持っているのだ。
かといって、無視をしているようでもなかった。
返事をする余裕がないのと、「どうしたの?」に対する明快な返答を持ち合わせていないのではないかと思われた。
「保健室……はないか」
私にしか見えないチナミさん。連れていったところで、保健室の先生は、私の頭がおかしくなったと思うだろう。
私は途方に暮れた。友達の具合が悪そうなのに、何かをして助けてあげることができない。
チナミさんは私にわけを語らないまま、授業の間は席でひたすらブルブルガタガタと震え続けて、休み時間になると教室内を縦横無尽《じゅうおうむじん》に走り回った。その様子はまるで、何かから逃げようとして隠れる場所を探しているようにも見えた。
そんな調子で午前中を過ごし、お昼休みになった。
依然《いぜん》として一人でお昼ご飯を食べることがほとんどの私だが、梅雨|真《ま》っ直中《ただなか》のこのところは自分の席でお弁当を広げることが多かった。さすがに雨が降っていては、外でランチタイムとはいかない。
チナミさんは、四時間目の授業が終わった後、やはりロッカーの上や教壇の下なんかを、時々ガラス窓にぶつかったりしながら駆け回っていたけれど、突然ゼンマイが切れた玩具《おもちゃ》みたいに立ち止まって、廊下の方角に視線を向けた。何だろうと眺《なが》めていると、次の瞬間、今度は目一杯ゼンマイが巻かれた玩具みたいに、私目指してまっしぐらに走ってくる。
「どうしたの?」
「しっ」
チナミさんは自分の大きな口に細い指を立てると、梅干《うめぼ》しくらいの大きさになって私のお弁当箱のちょうど玉子焼きを食べて空いたスペースに潜り込んだ。
その時、私はチナミさんばかりに気をとられていた。だから、教室の中でちょっとしたざわめきが起きていたことに、まったく気づいていなかった。
「照さん、照さん」
私の前で四つ机をくっつけてお弁当を食べていたグループの一人が、振り返って私を呼んだ。
「は?」
何か用事でもあるのかと顔を上げたが、そうではないことはすぐに知れた。彼女は私に、教室の前扉の辺《あた》りを注目するようにと目で合図を送っている。指示通りそちらに顔を向けると、そこには一人の生徒がクラスメイト数人に囲まれて立っていた。
「あ」
彼女は目が合うと、ニカッと八重歯を見せながら、こちらに向かってゆっくり歩いてきた。奇《く》しくも、先程チナミさんが走ってきたのと同じ軌跡《きせき》をたどって。
「照さん」
彼女は、私の正面で立ち止まった。私が呆然《ぼうぜん》と顔を眺めていると、もう一度確認するように言った。
「休みの間、このノートをとってくれた綿貫照さんでしょ?」
目の前に差し出されたのは、昨日担任に預けたノートだった。私と千波さんの、交換授業ノート。
私は頭の中が混乱していろいろ自信がなくなりかけていたけれど、取りあえず自分の名前くらいは間違いないって信じられたので、その一回分だけうなずいた。
私がノートをとってあげていたのは千波さんしかいないわけだから、この人は日比野千波さんなのであろう。そんな風に理論立てて納得しなくても、私はその姿を見た瞬間、それが誰なのかすっかりわかっていた。
わかっていたのに、わからなかった。
千波さんが、クラスに戻ってきた。クラスメイトたちが興奮《こうふん》している。
私はお弁当箱の中を見た。
じゃ、ここで息をひそめて隠れているチナミさんは? チナミさんは、千波さんじゃなかったの?
「本当は朝から来ていたんだけど、長いこと休んでいたから、午前中は職員室やら生徒指導室やら保健室やら梯子《はしご》して、先生の話を聞かなきゃいけなかったの」
言いながら千波さんは、自分の机を私の机にくっつけた。
「今日の午後から授業復活よ。ただし、体育はしばらく見学だけど。あ、一緒にお弁当食べてもいいでしょ?」
すっかり食べる支度《したく》を調《ととの》えてから、思い出したように言ったから、私は小さくうなずいた。
チナミさんの手前断る理由を探したけれど、見つけられなかったのだ。
「あ、見っけ」
千波さんが、私のお弁当箱から何かを摘《つま》み上げた。
「あ」
それは、チナミさんだった。
「うわぁ、放せ」
身をよじりながら叫ぶけれど、千波さんは構わずそれを自分の口に押し込んだ。それは一瞬の出来事で、私は止めることさえできなかった。
むしゃむしゃ、ごっくん。
信じられない。千波さんはチナミさんを食べてしまった。
「ごちそうさま。照さんが勧《すす》めてくれるだけあって、とても甘いプチトマトだったわ」
「えっ」
私が勧めたって?
その上、千波さんはプチトマトを食べた気でいるらしい。
あれ、今日のお弁当にプチトマトって入っていたっけ?
言われてみれば、そんな気がしないでもない。
どうしよう。自分の記憶がだんだん信じられなくなっていく。
「お返しといっては何だけれど、うちの母親特製のクリームコロッケ試してみて」
千波さんは、「どうぞ」とお弁当箱を差し出した。
私は、そのコロッケに手足がないのを確認してから、口に入れて呑《の》み込んだ。
それだけの話。
私の隣で、千波さんは時々ギャギャギャと大口を開けて笑う。
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リトル ホラーズ―U
「由乃《よしの》さん? 見ての通りここにはいないわよ」
訪ねていった三年|松《まつ》組教室で、菜々《なな》と乃梨子《のりこ》さまを迎えた人物はそう言った。
「……のようですね」
「何なら中に入って捜していってくれてもいいけど――」
と、親切に前を開けてくれたが、その必要はまったくなかった。何しろ、教室内に残っていたのは、二人の前に立つ彼女、新聞部の山口《やまぐち》真美《まみ》さま一人だけだったのである。
「どこにいらっしゃるか、心当たりはございませんか」
乃梨子さまが尋《たず》ねた。真美さまは部長の座こそ妹の高知《たかち》日出実《ひでみ》さまに譲《ゆず》ったものの、未《いま》だ学校新聞『リリアンかわら版』の編集長である。高等部一の情報通、と言っても過言ではない。
「悪い。掃除区域が別だから、帰りのホームルーム以降の由乃さんの足取りに関してはわからないな。……あれ? 今日って、剣道部が菊《きく》組に集まっているんじゃなかった?」
真美さまは、乃梨子さまから菜々に視線を移して言った。
「はあ。その席に来ていないので」
「ふんふん、なるほどそれで捜しているわけか。薔薇《ばら》の館は――見てきたよね、当然」
「はい」
こちらが質問しているはずなのに、逆転して取材を受けている感じになってきた。もっとも、こんな小さな出来事は記事になりようもないから、警戒《けいかい》する必要もないのだけれど。
「部活サボったんでしょ? 帰ったんじゃない? 鞄《かばん》ないよ」
「でも、剣道部の会合が終わったら薔薇の館に行く、と朝は言っていたんです」
「ああ、それじゃ帰らないわね」
真美さまは、残念そうにつぶやいた。それ以上思いつく場所はないのだろう、黙々と帰り支度《じたく》を始める。
「ちなみに、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に関しての情報なんかは」
菜々が尋ねると、真美さまは顔を上げた。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》? 何、祐巳《ゆみ》さんも行方《ゆくえ》不明なの?」
「ええ。お二人がご一緒かどうかは定かではないのですが」
それほどの期待はしていなかった。物のついでに聞いただけだ。――が、真美さまは今度はさっきとは異なる反応を示した。
「祐巳さんなら、掃除が終わったら、急いで教室出ていったけど」
「えっ」
菜々は思わず隣にいた乃梨子さまの手を取って、目を輝かせた。
「もしかして、どこにいらしたかもご存じ、とか」
「うん、知ってる」
「ど、どこですか」
自分でしている質問すら、もどかしい。祐巳さまを見つければ、芋《いも》づる式で由乃さまも出てくるかもしれないのだ。
「それが」
真美さまは答えてくれた。
「薔薇の館」
「あー」
菜々のテンションが一気に下降したのは言うまでもない。結局、振り出しに戻る、だ。
「ごめんね。お役に立たなくて」
明らかに落胆《らくたん》している菜々に、真美さまは片手を立てて言った。
「いいんです」
期待しすぎたこっちが悪い。
「代わりと言っちゃ何だけれど、瞳子《とうこ》ちゃんの居場所ネタならもっているわよ」
「瞳子さま?」
「ついさっきね。日出実のところから戻る途中に、二年|桜《さくら》組だったかな。瞳子ちゃんが入っていくところ見かけたの」
「二年桜ですって?」
菜々は首を傾《かし》げた。瞳子さまは、二年松組である。所属している演劇部が普段活動に使っている教室も、二年桜組ではない。もっとも、今日は演劇部の活動日でもないのだけれど。
「うん。だから、私もあれ? って思ったのよね。ま、大した情報じゃないか」
「いいえ、そんなこと」
菜々は首を横に振った。松平《まつだいら》瞳子さまは、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》である。妹であれば、祐巳さまがどこにいるか知っているかもしれない。で、祐巳さまを見つけたら、そこからは芋づる式で――となる可能性は十分ある。
「そんなところで、時間切れ。実はこれから歯医者なの」
何があったのかは、明日聞くから、と言い置いて、バタバタと廊下《ろうか》を駆けていく真美さま。その姿が見えなくなるまで見送ってから、菜々は乃梨子さまに尋ねた。
「瞳子さまも、薔薇の館にいらっしゃらなかったんですか」
「あ、うん。言わなかったっけ?」
「はあ」
では、あの時点で薔薇の館には白薔薇姉妹しかいなかった、ということになる。ビスケット扉を開けて二階の部屋に入らなかったから、瞳子さまが来ているとも来ていないとも確認していなかったけれど、由乃さまも祐巳さまも来ていないという話題の時に、その名がつけ加えられなかったから、瞳子さまは当然来ているものと思い込んでしまっていたのだ。
由乃さま、祐巳さま、そして瞳子さままでが、薔薇の館に来ていない。これって、単なる偶然なのだろうか。
「行ってみましょうか」
菜々は、隣りに立っている乃梨子さまの顔を見た。
「え?」
「二年桜組」
せっかく真美さまがくれた情報である。瞳子さまが薔薇さま二人の行方を知っているかどうかはさておき、あたってみる価値は十分あると思われた。ついさっき、と言っていたから、今行けばまだ二年桜組教室にいるかもしれない。ぐずぐずしていたら、瞳子さままで見失ってしまう。
乃梨子さまはしかし、一緒に歩きだそうとした菜々を制して言った。
「じゃ、そっちは私が行くから、菜々ちゃんは靴箱を見てきてくれない?」
「靴箱、ですか」
「まさか帰られてはいないでしょうけれど、一応確認だけはしておいたほうがいいと思うの」
「ああ、なるほど」
急用ができて下校したということも、ないとは言い切れない。もしそうなら、校内を探し回るのはくたびれもうけ。取りあえずは外履《そとば》きが残っていることを確認してから捜索を再開しましょう、というわけだ。で、時間短縮のために、ここは二手に分かれたほうがいい、と。さすがは二年連続| 白薔薇のつぼみ 《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》を務める乃梨子さま。手際が違う。
「|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の分と|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の分、二カ所見てきてね」
「わかりました」
「で、またここで落ち合おう。いい?」
「はい」
菜々は指示通り、三年生の下足場《げそくば》へと向かった。途中、剣道部の会合が開かれている三年菊組教室の前を通ったから、扉の隙間《すきま》からそっと中の様子を覗《のぞ》いてみたが、思った通り由乃さまの姿はなかった。
菜々が三年松組の靴箱二つの蓋《ふた》を一回ずつ開閉してから、再び「ここで」と言われた三年松組教室前の廊下まで戻ってみると。
「あ」
乃梨子さまとは別に、もう一人の姿がある。遠目でもすぐにわかる。耳の横に大きな二つの縦《たて》ロールという、とても人目をひくヘアスタイルは、間違いなく| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》であった。
「ごきげんよう、瞳子さま」
「ごきげんよう、菜々ちゃん」
今日は朝チラリと廊下で会っただけだったので、互いに頭を下げて挨拶《あいさつ》をした。
「瞳子も、祐巳さまがどこにいらっしゃるかは知らないらしいわ」
会ってからここまで来る道すがら話してきたのだろう、乃梨子さまが菜々の質問を待たずに答えた。瞳子さまはそれを受けて、「ええ」とうなずく。
「ちょっと用事があって、桜組の友達の所に行っていたものだから。その辺の事情はまったく」
ほほえんだ時、気のせいだろうか、微《かす》かにいい匂《にお》いがした。
「瞳子さま、香水か何かつけていらっしゃいます?」
「え? いいえ」
「そうですか」
さっきの志摩子《しまこ》さまの時といい、今日は鼻がおかしいのかもしれない。
「私、何か匂う?」
瞳子さまは、自分の二の腕|辺《あた》りの匂いをかいだ。乃梨子さまも、「どれ」と瞳子さまに顔を近づけてくんくんと鼻を鳴らす。
「すみません、お花みたいな香りがした気がしたんですけれど」
でも、もうしない。やはり気のせいだったのだろう。
「お花?」
瞳子さまと乃梨子さまは、驚いたみたいに顔を見合わせた。思い当たることがあるようだ。
「何か――」
「二年桜組教室、今華道部が使っているの」
移り香ってことだろうか。しかし、その部屋にいただけで、実際に花に触れてもいない人に、花の匂いがつくものなのか。生け花に詳《くわ》しくないから、よくわからない。
「ところで、靴箱は? 見てきてくれたんでしょう?」
花の話題にはさほど興味がないのか、乃梨子さまが話を元に戻した。
「あ。お二人とも、現在|上履《うわば》きを履《は》いています」
由乃さまも祐巳さまも、その靴箱にはバレエシューズ型の黒い革《かわ》靴が、きちんと揃《そろ》えて残っていた。
「ってことは、学校のどこかにいらっしゃるってことよね」
瞳子さまが、腕組みしながらつぶやく。二人が上履きのまま下校したのでなければ、そういうことになるだろう。けれど、一番いそうな薔薇の館にも、まずまずいそうな教室にも、その姿はないのである。二人仲よくお手洗い……にしては、いささか長すぎる。そもそも、由乃さまも祐巳さまも、友達と連れだってトイレに行って、洗面台の前で身繕《みづくろ》いしながら長時間おしゃべりするタイプではなかった。
「私、薔薇の館に戻ってみようと思うのですが」
菜々がそう言うと、乃梨子さまと瞳子さまが同時に「え?」と聞き返した。
「もしかしたら、今頃うちのお姉さまは薔薇の館に来ているかもしれませんし」
それにサボっているとはいえ、部活が終わったら薔薇の館に来ると言っていたのだ。薔薇の館で網《あみ》を張っていれば、多少時間はかかってもいずれは引っかかるに違いない。
「そうね」
「行ってみましょうか」
二年生のつぼみ二人も、同意した。
「あ。何もおつき合いいただくことは」
と、言いかけて、菜々は自分の間違いに気がついた。そもそもは、菜々が由乃さまを捜しにきたところから始まったのである。そんなことがなければ、今頃乃梨子さまは薔薇の館で志摩子さまと一緒にのんびりとした時間を過ごしていたのだろうし、瞳子さまだって用事とやらが済んで薔薇の館に向かっていたはずなのだった。
薔薇の館の玄関には出欠札のような物があるわけではないから、扉を開けて中に入ってみても、由乃さまや祐巳さまが来ているかどうかはすぐにはわからなかった。ただ玄関ホールを見る限り、菜々が出ていった十数分前と何一つ変わってはいない。
「とにかく、二階に行ってみます」
階段に片足をかけたところで、乃梨子さまが「ちょっと待って」と言って菜々を止めた。
「何か、物音が」
「物音?」
振り返って乃梨子さまの視線の先を追うと、そこにあったのは一つの扉。普段あまり使用していない、半《なか》ば倉庫と化した一階の部屋の扉である。
「物音って、この部屋からですか?」
「わからないけれど――」
乃梨子さまが、そちらに向かって歩いていく。瞳子さまが後に続いたので、菜々も階段から足を下ろしてついていった。
菜々には、乃梨子さまの言う「物音」は聞こえなかった。けれど、二階に行く前にちょっと扉を開けて中を確認することくらいは何でもない。もちろん由乃さまがどこにいるかは気になるが、物音を無視して捜したら、今度は物音の正体が気になって仕方なくなるだろう。
「開けてみるね」
乃梨子さまが、ドアノブに手をかけた。声をひそめ、ノブは音をたてないように回す。そんな必要はないかもしれないけれど、なぜか気分的にそうなってしまうのだろう。わからなくはない。
扉はギイと開かれた。
「……」
照明のついていない部屋は薄暗く、また壁際に積まれた段ボール箱などが障害物となって中の様子はよくわからなかった。
「電気つけます」
菜々は部屋に入ってすぐのスイッチを探しだし、パチンと倒した。が。
「な、何」
「これ」
「うわっ」
|つぼみ《ブゥトン》三人は、天井を見上げて思い思いの声をあげた。部屋を明るく照らしだすはずの電灯が、チッカチッカと不気味に青白い光を発しながら点滅《てんめつ》している。いや、ちょっと違うか。点灯しようと努力するもそこまでには至《いた》らない、とてもつらそうな状態にある。蛍光灯の寿命《じゅみょう》がきたのだ。
「……気持ち悪いからスイッチ消して」
部屋の奥から、声が聞こえた。
「え?」
三人は更《さら》に中へと踏み込んだ。そして、そこで見た光景はというと――。
「お、お姉さま?」
壁際にへばりつくようにしゃがんだ、薔薇さま二人の姿。
「何、なさっておいでなんですか」
二人は、ハンカチで縛《しば》った何かを両手で大事に握っているように見えた。
[#改丁]
ハンカチ拾い
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目に映る物すべてが、癇《かん》にさわる。
青い空も、緑の若葉も、池の水面をキラキラ光らせる太陽も。
耳に届く音にだって、イライラする。
鳥のさえずりも、子供たちの笑い声も、通りすがりの人の腕時計から発せられた二時を報じるアラーム音も。
何もかも、大っ嫌い。
公弥《くみ》は公園のベンチに一人うつむきがちに座って、眉間《みけん》にシワを寄せた。
能天気にヘラヘラしているんじゃないよ。「さわやか」をまき散らしているんじゃないよ。
うっかり油断していると、いつか足をすくわれる。たとえ自分に非がなくても、ある日見ず知らずの人間によって、ポキンとへし折られてしまうのだ。何を、って? 喩《たと》えていうなら、そう、まだ葉っぱが四、五枚しか出ていない朝顔の蔓《つる》の先端あたりを、だ。
それでも、今見えている自分の制服のプリーツスカートのひだは、そんなに嫌じゃなかった。緑がかった黒という、落ち着いた色合いだからだろうか。これが水色のフレアとかだったら、また違うのかもしれない。そんな制服の学校が、この世にあるかどうかは知らないけれど。
黒いひだを見ていると、自然と襟《えり》もとのタイが目に入る。ちょっと前まで、憧《あこが》れていたアイボリーの太いタイ。
中等部の頃のタイは、黒くて細いリボンだったから、早くあの白いタイを結んで歩きたいと思っていた。校門から続く銀杏《いちょう》並木を。校外の、賑《にぎ》やかな街角を。――中等部以下の生徒たちにとって、リリアン女学園高等部は夢の国にも思われたのだ。
(けれど)
高等部の生徒になってみたら、どうだ。待っていたのは、中等部とそう変わらない日常だった。
中等部の頃とは制服が違う。校舎が違う。他校との入れ替わりもあるから、同級生たちの顔ぶれも多少違ったけれど、だからって何がどう変わるというのだ。高等部入学のその日から、同級生たちが魔法にかかったように、突然|素敵《すてき》な人になるわけがないのだ。
だからクラスメイトの中に、授業中に教科書に隠して漫画を読んでいたくせに、休み時間に「ノートを貸して」と言ってくる人や、掃除の時間には必ず五分遅れてくる人がいたって、驚くことはないのだろう。きっと、真面目《まじめ》にやっている方がばかなのだ。
上級生だってそうだ。期待する方が間違っている。一年や二年先に生まれたくらいで、憧れの先輩になんてなれるわけがない。試しに、自分を含めたクラスメイトたちの一年後二年後を想像してみればいい。指にできたささくれを爪《つめ》で挟《はさ》んで引っ張ってはいけないということと同じくらい、明確に答えは出てしまうだろう。
新入生歓迎会で見た生徒会長である薔薇《ばら》さまと|つぼみ《ブゥトン》と呼ばれるその妹たちは、確かに魅力的な人たちではあったけれど、所詮《しょせん》は雲の上の人。そんな人たちとは姉妹《スール》になれるどころか、お知り合いにだってなるチャンスはない。
(部活でもやろうかな)
そうしたら、上級生と交流がもてる。お姉さまもできるかもしれない。でも、やりたいことなんてないし。部活をすることによって、ますます人間不信にならないとも限らなかった。
池の側《そば》のベンチに座って、手の爪を眺《なが》めながら公弥は思った。
何で自分はこんな所にいるのだろう。この場所にある物が気に入らないのなら、長居せずにさっさと家に帰ればいいのに。
それでも今朝は、そんなに悪い気分ではなかった。気候の穏《おだ》やかな五月は、一番好きな月で、さわやかに目覚めることができた。土曜日だから、授業は午前中でお終《しま》い。お母さんもパートから帰っていない一人の家で、誰にも邪魔《じゃま》されずにだらだらとテレビを視《み》ながら近所のパン屋のサンドイッチでも食べよう、なんてささやかな計画を立てながら登校したくらいだ。
授業中だって、そう悪くはなかった。苦手な数学では、当たり日なのに指名されなかったし、英語のリーダーではしっかり単語を調べていったから、発音だけじゃなく訳も先生に誉《ほ》められた。
じゃあ、何がきっかけでこんなにむしゃくしゃしているのかっていったら、それはさっき下校途中にあった些細《ささい》な出来事に関係していた。
その時公弥は、中・高等部図書館の横の細い道を歩いていて、生《い》け垣《がき》のように道の端に植えられていた低木の葉っぱに、ふと目が留《と》まった。
植物に詳《くわ》しくないから、何の木かは知らない。けれど、その黄緑色の若葉があまりに瑞々《みずみず》しくて、艶々《つやつや》していて、つい立ち止まって覗《のぞ》き込んでしまったのだ。
よく見ると、枝を赤いてんとう虫が這《は》っている。てんとう虫はお天道様《てんとうさま》が大好きで、高いところ高いところへと上って飛んでいくから、この子が枝の先までたどり着いて羽ばたくまで見ていようと思った。
どれくらい見ていただろう。下校時刻にかかっていたから、その間に何人もの生徒が公弥の後ろを通り過ぎたが、誰も「何をしているの?」とは聞いてこなかった。
もう少し。がんばれがんばれと、心の中でてんとう虫を応援していた時。
「邪魔よ」
と、公弥は背後からドンと背中を押された。公弥が倒れ込んだので、生け垣の小枝がいくつもポキポキと折れた。低木ならば幹だって太さはたかが知れていて、高校一年生女子の体重なんてとても支えきれない。公弥はそのまま植え込みの土の上に両手をついた。
一体何が起こったのだろう。わけもわからず身を起こして振り返ると、道の先に一人の見知らぬ上級生が立っていた。他に人は見当たらなかった。状況から、この生徒が公弥を突き飛ばしたとしか考えられなかった。
ただ道端《みちばた》で、生け垣を覗き込んでいただけなのだ。邪魔だったとしても、口で言えばすむことではないのか。
「何よ、その目は。道の真ん中で立ち止まっていたあなたが悪いんでしょう?」
予想以上に大きく公弥が転んだせいか、その上級生はバツが悪そうに吐き捨てて早足で去っていった。てんとう虫もいつの間にか姿を消していた。
「じゃあさ、一人残された私はどうしたらいいわけ」
公弥は土のついた手を払いながら、つぶやいた。右の手の平を見ると、枝で引っ掻《か》いてできた傷から血がにじんでいた。
校舎に戻って保健室で手当てしてもらってもよかったけれど、栄子《えいこ》先生に「どうしたの」と聞かれるのが嫌で、そのまま帰った。
バス停には、あの上級生はいなかった。徒歩通学なのかもしれないし、先に来た別のルートのバスに乗ったのかもしれない。席は空《あ》いていなかったので、右の手の平をハンカチでカバーして手すりを握った。ハンカチは一枚しか持っていなかったけれど、幸い左手は血が出ていなかったから、学生|鞄《かばん》の持ち手が土で汚れるだけのことだ。
M駅でバスを降りて、電車に乗り替えて最寄《もよ》り駅で下車。最初はヒリヒリしていただけだったけれど、そのうち手の平がズッキンズッキンと痛み出した。
だから、なのだ。いつもは素通りする近所の公園に立ち寄る気になったのは。家はもう目と鼻の先だけれど、やはり血と土で汚れた手のまま帰るのは気が引けた。お母さんが留守だろうと、それは同じことだった。
水飲み場の水道で手を洗うと、傷はそう大したものではないようだった。汚れたハンカチをざっと水で洗って左手と右手の指先だけで絞《しぼ》り、それからベンチに座った。
ほっと一息ついたら、怒りが込み上げてきた。
何で自分がこんな目に遭《あ》わなければいけないのだろうか。
いったい、自分が何をしたというのだ。
ああ、それなのに街は今日もお構いなしに平和で。太陽も若葉も小鳥も、能天気に笑っているのだ。
キャーという小さい子のはしゃぎ声に、公弥は思わず顔を上げた。
見れば、十人ほどの小学生の集団が、ちょっと離れた芝生《しばふ》の上で円を作っている。その外周を、二人の女の子が追いかけっこをしていた。追いかけている方が白いヒラヒラした布を握りしめているところから推理するに――。
(ハンカチ落とし、か)
まあ、何ともレトロな遊びをしているものだ。けれど、それを知っている公弥もまた、レトロな遊びの洗礼《せんれい》を受けた身なのである。
この辺《あた》りの自治会は、何年か前から「心身ともに元気な子供を育てよう」なんて燃えていて、大人たちは子供たちに外で遊ぶことを奨励《しょうれい》している。だから一括《ひとくく》りに小学生といっても、大きいのから小さいのまで様々。公弥も中学受験するまで、積極的な同級生にしょっちゅうこの公園に連れ出されたものだった。
(あんな遊び、何が面白《おもしろ》いんだか)
そう思いつつ、目が離せなくなる。
円の外を歩きながら鬼は、穏やかに座っている人の後ろにそっとハンカチを落とす。そのハンカチは不浄《ふじょう》の物だ。だから自分の後ろに落とされた人は、慌《あわ》てて立ち上がり落とし主に返そうとする。しかし、落とし主は知らん顔をして一人分|空《あ》いたスペースに楽々と収まってしまう。もう自分は鬼ではないのだ、と。こうなったら、仕方ない。新たな鬼は考える。誰かにこのハンカチを押しつけなきゃ。
ああ、何て嫌な遊びなのだろう。
考えているうちに、またあの上級生のことを思い出してしまった。あの人は、たぶん汚いハンカチを握りしめて歩いていた。そんな時、たまたま目の前に公弥がいたから汚いハンカチを押しつけて逃げていったのだろう。しかし、もらった公弥はどうしたらいいのだ。次の人を探して、この「不機嫌《ふきげん》」を押しつければそれでいいのか。
目の前には、小さな女の子たちがいる。ちょっと突っつけば、すぐに泣いてしまいそうな子が山ほどいる。
(…………)
恐ろしくなって、目をそらした。ばかな、ばかな、ばかな、ばかな。何を考えているんだ。
気持ちを落ち着かせようと、スカートのひだに慌てて視線を落とす。その時、スカート越しに蟻《あり》の行列が目に入った。
蟻たちは、前の者について、ただひたすら前進している。
見ているうちに、「何、真面目に働いているのよ」とムカムカしてきた。
公弥は座ったまま、片足を上げた。そのままそれを蟻の行列の真上に持っていく。
今、ここで思い切り足を下ろしたら、何匹かの蟻が死ぬだろうか。直撃を逃れた後方の蟻たちは、何があったのかわからずにパニックを起こすだろうか。それを見て、自分の気は少しは晴れるのだろうか。それとも、むしろ落ち込むのだろうか。
公弥は、片足を上げたまま、どうしていいのかわからなくなった。誰か止めて。本当はこんなことしたくない。
その時、ピュッと風が吹いた。
公弥は上げた足をその場でキープしたまま、手を顔の前にかざした。そんなに大きな目ではないけれど、砂埃《すなぼこり》が入ったらそれなりに痛いから。
五月に入って春一番もあるまいが、そう思ってしまうほどの結構な突風だった。
「ありがとう」
そんな声が聞こえてきたので、公弥は意味もわからずしかめていた顔の筋肉をゆるめた。すると、続いてまた同じ声が叫ぶ。
「あ、だめ! 足下ろさないで!」
「えっ?」
足? そう思って公弥が自分の足もとを見ると、上げた右足のちょうど下に、何か白い物が落ちていた。
ハンカチだった。
きっと、さっきの風が運んできたのだろう。靴の底が触れる、ギリギリの位置にある。
蟻を踏もうとはしていたけれど、誰かのハンカチを踏むつもりはなかった。なので公弥は足を蟻もハンカチも載《の》っていない地面に着地させてから、ハンカチを拾って手で軽くはたいた。土埃《つちぼこり》と蟻が数匹くっついていたのだ。
「ありがとう」
そう言ってニコニコとハンカチを受け取ったのは、公弥と同じ制服を着た少女だった。生地《きじ》の風合いから、少なくとも一年生ではなさそうだった。
「二度もお礼を言う必要は」
それほどの親切をした覚えはないので、公弥は無愛想《ぶあいそう》にそう言った。
「あら、さっきのは踏まないでくれてありがとう。今のは拾ってくれてありがとう、だわ」
「そ、そうなんですか」
拾ったことに対してならわかるが、踏まないであげたことに対してお礼を言われるとは妙な気分だ。
「変かしら?」
公弥の表情を読んで、その人は首を傾《かし》げた。でもすぐにほほえんで自分で納得するように「うん」とうなずく。
「多いと思ったら、お釣り分は誰かにあげてくれればいいから」
そう言い置くと、クルリと回れ右をして走り出した。
「池に落ちなくてよかったねー」
ハンカチを振りながら子供たちの輪《わ》を目指して走っていく彼女は、特別美人じゃないけれど何だかえも言われぬ魅力があった。
子供の一人にハンカチを渡すと、その人はなぜかまたベンチまで戻ってきた。
「あなたのハンカチじゃなかったんですか」
「あー、うん」
言いながら、当たり前のように公弥の横に腰掛け、髪を大雑把《おおざっぱ》に縛《しば》っていた太くて黒いゴムを外す。
セミロングより少し長い髪が弾《はず》んで、肩に落ちていくのを眺めながら、公弥はきれいだな、と思った。さっきまで、さわやかな物は敵のように思えていたのに。サラサラという髪と髪とが触れあう音も、むしろ好ましく感じられた。
「人を待っている間、何とはなしに見ていたんだけれどね、ついなつかしくなってちびっ子たちに遊んでもらっていただけ。でも、さすがに小学生のすばしっこさには敵《かな》わないわ。こっちは制服だし、もうギブ」
「…………」
ハンカチ落としをしていた子供たちの中に高校生なんていたかなあ、と公弥は思った。けれど、本人がそう言うのだから、いたのだろう。こっちも、それほど真剣に見ていたわけではない。
「で? あなたは?」
人なつっこい笑顔で尋《たず》ねられて、言葉に詰まった。
「私は――」
学校で見ず知らずの先輩に八つ当たりされてイライラしたから蟻でも踏んづけて憂《う》さを晴らそうと思っていました。とは、まさか言えないので、公弥はただ「何となく」と答えた。
「何となく? そうね、そういう日もあるわよね」
適当な相《あい》づち。でも、その人にかかったら、妙に説得力があるというか、つまり過去にこの人もただ「何となく」という理由だけで公園に来たことがあったのではないか、と納得させられてしまうのだ。
それから特に会話もないまま時間が過ぎていったので、公弥は話題を振るつもりで声をかけた。
「待ち合わせている人、来ませんね」
そうは言いながらも、別にこのまま一時間でも二時間でも二人でベンチに座っていたって構わなかった。
「うん。いいの。待ち合わせてないから」
「え?」
さっき、人を待っていると言っていなかっただろうか。けれど、待ち合わせていないって――。
「約束してないの。ただ、いつかまた会えるって漠然《ばくぜん》と思っているだけ。こんな日は、予感がして」
聞けば名前も知らない人らしい。そんな人と、本当に予感だけで会えるものなのだろうか。するとその人は、言い訳するみたいに「あ、えっとね」と言った。公弥の不審《ふしん》な視線を感じたのかもしれない。
「預かっている物があるから」
「預かっている?」
「っていうか、落とし物かな? 交番に届けてもよかったんだけれど、持ち主の顔を覚えている私が持っていた方が、よりその人のもとに返りそうじゃない?」
あれ、おかしいな。公弥は思った。その人がほほえんだ時、何かがフワッと心に届いたのだ。自分はその落とし主ではないはずなのに、いったい何を受け取ったのだろう。
心に流れ込んできたそれは、とても温かかった。不思議だ。さっきまでのイライラがいつの間にか消えていたばかりじゃなくて、むしろ楽しい気分になっている。
ひと言二言、言葉を交わしただけで?
たった一人の笑顔だけで?
子供たちが、はしゃぎながらハンカチ落としをしている。
なぜだろう公弥には、そのハンカチはもはや不浄の物ではなくなっていた。
あれは「いい気持ち」のお裾分《すそわ》けだ。だから、子供たちはあんなに楽しげなのだ。
そろそろ帰らなくちゃ、とその人は立ち上がった。
「あ」
何だか別れがたくて、公弥はつい呼び止めた。すると、彼女は振り返ってニッコリと笑う。
「またいつか、お会いしましょう」
「はいっ」
だから、公弥も笑顔を返した。
そうだ。同じ制服の二人は、またきっと会える。
いつの日か――。公弥には、そう信じられた。
ハンカチ落としをしている子供たちに手を振って帰るその人の後ろ姿を見送ってからふとベンチの上を見ると、きれいに畳《たた》まれた白いレースのハンカチが残っていた。
慌てて追いかけたけれど、公園の外にはそれらしき人影は見当たらなかった。
時計を見れば、午後三時。四時には仕事を終えたお母さんが帰ってくるから、近所のパン屋さんのサンドイッチを買って帰って一緒に食べよう。
公弥は、足取り軽く歩いていった。
こうしてはいられない。
またいつか、はすぐにやってきてしまうかもしれない。
あの人と会えた時、もっと素敵な人間になっていたい。姉妹に、なんて高望みはしないけれど、せめて知り合いとして側にいても気後《きおく》れしない程度には。
どうすれば近づけるか、って。自《おの》ずと答えは出てきた。それは、目標とするあの人を思い描きながら生きていけばいい。
イライラしそうになった時、あの人だったらどうするだろう、どう思うだろう、と考えた。
「困ったわね」
「どうしてかしら?」
そんな風《ふう》に、ちょっと笑ってみる。すると不思議なことに、すーっと怒りが遠のくことがあった。もちろん、いつも、ではないけれど。
思えば、今まで自分は何もしないで多くのことを求めてばかりいた。
素敵な日常、尊敬できる先生、やさしい先輩、誠実な友人。
物事は見方を変えれば、まったく違ったものになる。
口やかましい先生は、親身になって生徒を指導しようという意欲的な教師なのかもしれない。
威張《いば》り散らしている先輩は、上下関係の厳《きび》しさを教えてくれようとしているだけかもしれない。
テストの出来ばかり気にしているクラスメイトは、向上心のある人。
どんなにがんばってもいい解釈《かいしゃく》ができない人に出会ったら――? その時は、反面教師にすればいい。この世界が素敵な人でいっぱいになるためには、まず自分が素敵にならないと。
だから、取りあえず笑っておけ、って自分に言い聞かせている。最初はうまくいかなくとも、いつかあの人みたいに周囲を幸せにできる笑顔を作れる日が来るかもしれない。
「公弥さん」
土曜日の放課後、教室の掃除を終えて帰り支度《じたく》をしている時に、クラスメイトが「あのね」と話しかけてきた。
「私のお姉さまのお友達が、公弥さんのことちょっといいな、って言っているらしいの」
「え?」
甚美《しげみ》さんのお姉さまのお友達が、自分のことを「ちょっといいな」と言っている――?
「つまり」
「あ、姉妹《スール》に、ってこと?」
「そう。さすが公弥さん。話が早くて助かるわ」
何でも、教室移動か何かで甚美さんと廊下《ろうか》を歩いていた時に、やはり甚美さんのお姉さまと一緒に廊下を歩いていたその方とすれ違ったらしく、ご挨拶《あいさつ》した公弥のことを気に入ってくれた、という話だ。申し訳ないが、こっちはまったく覚えていない。
「うーん。お姉さまかー」
正直、今更《いまさら》って感じもする。二年生もそろそろ二カ月目である。
「しかし、私のどこがよかったんだろう」
ちょっとすれ違っただけの生徒を、妹に、って望めるものなのかな、って単純に思った。
「笑顔がよかったんだって。公弥さんにお姉さまがいないって聞いて、あんな良い子がどうしてって思ったらしいわ」
「まあ」
嬉《うれ》しい言葉だが、そりゃちょっと誉めすぎだ。
「話をしてみたけれど、ちゃんとした方よ。いきなり申し込んではびっくりするだろうから、って、まず私を通してくださったわけだし」
「そうだね」
公弥はうなずいた。たぶん、真面目できちんとした人なのだろう。それは、会ってきたという甚美さんの話からもうかがえた。
「あのっ、すぐに結論出さなくてもいいし。週末ゆっくり考えてくれたら。それに試しに会ってみて断るのもあり、みたいな」
「妙に早口になるところをみると、さては甚美さん。今私がすぐに断ると思ったな?」
悪戯《いたずら》っぽくにらみつけると、甚美さんは叱《しか》られた子犬のように首をすくめた。
「だって。公弥さんさ、一年生の時、人探ししてたじゃない。もしかして、その人のこと今でも、って。……ごめん」
「いいって」
公弥は笑った。結局、一年かけてもあの人は見つけられなかった。もしあの時三年生だったら、この春卒業してしまって、高等部にはもはやいない。
「じゃ、考えてみてくれるの?」
「もちろん」
「ありがとう、公弥さん。これで私の顔も立つ。ありがとう、ありがとう、大好きっ」
考えてみる、という返事をしただけで、まだ受けたわけでもないのに、スキップに似た足取りで教室を出ていく甚美さん。たぶん、その足でお姉さまのところに報告に行ったのだろう。
やれやれ。小さく笑って、公弥も教室を出た。
廊下を歩いていると、窓ガラスのこちら側に赤いてんとう虫が張りついていた。
「ほら、おいで」
言いながら左手人差し指の第二関節を近づけて、そっと留まらせた。側を歩いていた一年生が不思議そうに見ていたので、窓を開けながら「いらっしゃい」と呼び寄せた。
外に手を出して指を真《ま》っ直《す》ぐに立てると、てんとう虫はそれをよじ登る。爪の先まで来ると、そのまま羽を広げて飛び立った。
「わぁ」
「てんとう虫は高い所が好きなのよ」
空を見上げてキラキラ輝く瞳《ひとみ》を見ていたら、こちらまで嬉しくなってきた。
青い空、緑の若葉、池の水面は午後の日差しを浴びて光っている。
耳に届く音は、鳥のさえずり、そして子供たちの笑い声。
確かこんな日だった。
公園のベンチに座り、公弥は目を細めた。一年前、あの人に会ったのは。
昨日のことのようにも、もう何十年も前のことのようにも思える。
けれど、一年だ。短かった髪が、肩を少し超えるまで伸びた。
時たま、思い返す。あれは現実だったのか、と。
リリアンの制服を着ていたあの人を、この一年間一度も学校で見かけることはなかった。会えるかと思って何度か公園に来てみたこともあったけれど、同じだった。
でも。
公弥はポケットに手を突っ込んで、そこに入っていた物を取り出した。
彼女の忘れたハンカチ。これが、夢ではなかったのだと教えてくれる。
これを返すという口実で、今日も公弥は公園に来たのかもしれない。あの人に、もう一度会いたかった。
(ハンカチ落とし、か)
土曜の午後。お昼ご飯を食べて集まった小学生たちが、十人ほど。芝生で輪を作って遊んでいる。
あまりにも楽しそうだったから、ベンチを立って駆け寄り「お姉さんも仲間に入れて」と声をかけた。
高校生が一緒に遊ぶなんて想定外だったのか、一瞬みんなポカンとした。けれど。
「いいよ。でもお姉さんが鬼だよ」
年かさの少女が、花柄《はながら》のハンカチを差し出しながら笑って招き入れてくれた。
「ありがとう」
遊ぶからには本気にならなくちゃ。公弥はゴムで髪の毛を一本に縛った。
円の外側を回って、一人の少女の背後にハンカチを落とす。すぐに気づかれて追いかけられるけれど、間一髪《かんいっぱつ》で空いた場所に滑り込む。
年上の新入りを構うのが面白いのか、三回に一回くらいハンカチを落とされ、そのたびに全力で走るから公弥はもうへとへとだった。でも、かいた汗《あせ》は気持ちいい。
その時、風が吹いた。
芝生に落ちていたハンカチを、吹き飛ばすくらいの大きな風だ。
直前まで鬼だった公弥は、慌ててハンカチを追いかけた。池に落ちたりしたら、大変だ。
幸い、その心配は現実のものにはならなかった。ハンカチは、方向を少しだけずらしてベンチの方へと飛んでいく。
そのベンチには、リリアン女学園高等部の制服を着た女の子が座っていた。
「ありがとう」
公弥は走りながら声を出した。
不審そうにこちらに顔を向ける少女は、一年前の自分みたいに眉間にシワを寄せている。
花柄のハンカチを受け取りながら、もう一度公弥は言った。
「ありがとう」
もしかしたら。
予感がした。
もしかしたら、ポケットの中の白いハンカチは、この子の手に渡るかもしれない。
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リトル ホラーズ―V
「何、なさっておいでなんですか」
わけもわからず菜々《なな》が足を一歩踏み出すと、由乃《よしの》さまが叫んだ。
「近寄らないで!」
「えっ?」
すぐさま反応したが、一瞬遅かった。足を止めたと同時に、菜々の上履《うわば》きの先が、床の表面にこぼれていた何かを蹴《け》って水しぶきのようなものを上げた。
ピシャッ!
「あーあ」
「だから注意したのに」
祐巳《ゆみ》さまと由乃さまは、絶望的な声をあげた。室内は相変わらずチッカチカと瞬《またた》いていたから、焦《あせ》りから落胆《らくたん》へと変化していく二人の表情が、まるでコマ送りみたいに菜々には見えた。
「どうしたんです」
賢明《けんめい》な白と紅の薔薇《ばら》のつぼみたちは、もちろん| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》の失敗を繰り返したりしない。菜々の立っている位置から前に出ることなく、薔薇さまたちに質問を投げかけた。
「そこに水たまりができてる、って言おうと思ったのに菜々ったら」
由乃さまのぼやきに、乃梨子《のりこ》さまが「ははん」というように鼻を鳴らした。
「注意が間に合わずに、哀《あわ》れ菜々ちゃんははまってしまった、というわけですか」
どうしてここにそんな物が存在しているかはともかく、「水たまり」ということは、不幸中の幸いと言っていいだろう。これが墨汁《ぼくじゅう》とかだったら――、なんて考えるだけでぞーっとする。いろいろな所に飛沫《しぶき》がかかったが、水だったのなら乾いちゃえばどうってことない。
「そういう注意事項は、『スイッチ消して』の前に言ってくださいませんか」
ちょっと安心したので、菜々は憎まれ口をたたいてみることにした。
「あら、スイッチ消して、と言ったのは祐巳さんよ」
「いいえ。間違いなくお姉さまの声でした」
確認の意味を込めて祐巳さまの顔を見てみたが、姉妹《スール》のたわいない口げんかには関《かか》わらないというように、そっぽを向かれた。もちろん、それは肯定を意味しているわけだけれど。
「どうして、そう、すぐばれるような嘘《うそ》をつくんですか」
「まーっ、人聞きが悪い」
舌《した》を出す由乃さま。この人、本当にあの志摩子《しまこ》さまと同じ学年なんだろうか。そして、どうして|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》になれたんだろうか。時々、本当にわからなくなる。
「で、いったいお姉さま方は何をなさっているんです?」
瞳子《とうこ》さまが、二人の薔薇さまに向かって尋《たず》ねた。内容のない口げんかはいつものことだから、黄薔薇姉妹のやり取りは大体普通に無視される。
「何って、見てわからない?」
逆に祐巳さまが聞き返した。
「見て、ですか」
瞳子さまが身を乗り出したので、菜々も乃梨子さまも同じようにして、わかるために見た[#「わかるために見た」に傍点]。
|つぼみ《ブゥトン》三人の前には、畳半畳《たたみはんじょう》ほどの水たまりができていて、その対岸には薔薇さま二人が向かい合うようにしゃがんでいる。向こう側はすぐ壁で、二人ともその壁にくっついている鉄筋のような物をハンカチを巻いて両手で握りしめているのだ。
「まさか」
つぶやいたのは、乃梨子さまだ。
「水道管が破裂した、とか」
えっ、と菜々はすぐ横にあるおかっぱ頭を振り返った。それ、マジで言ってるんですか。水道管って、そんなに簡単に破裂しちゃうものなんですか。けど。
「当たらずといえども遠からず、といったところかしら」
祐巳さまが、ため息まじりに答えた。
「かなり古い建物ですものね」
瞳子さまも、「納得」といった感じでうなずいた。
「最初はチョロチョロと水漏《みずも》れしていただけだったの、それがまさかこんなことになるとは」
祐巳さまの話を要約すると、こうなる。
今日一階の部屋に物を取りに来た祐巳さまは、そこで微《かす》かな水音を耳にした。何だろうとその出所《でどころ》を探しているうちに、ここだという場所を突き止める。そこには壁があったけれど、古い木造の建物だから壁板は意外と簡単に外せた。開けてみたら、そこには水道管が縦《たて》に通っていて、その一部から水がチョロチョロとしたたり落ちていたのであった。そんな時、一足遅れて由乃さまが登場する。一階の扉が開いていたので、不審《ふしん》に思って見に来たらしい。
「でも、チョロチョロなんですよね? 壁の中で漏れていただけで、その時はまだ部屋までは濡《ぬ》れていなかったんでしょう?」
「そこよ」
言いながら、祐巳さまが顔だけこちらに向ける。
「取りあえず応急処置しようってことになって、ハンカチで縛《しば》ってみたんだけど。その時変な力が加わっちゃったのかな、突然ピューってホースから出るみたいに部屋の中に水が」
「それが、この水たまりですか」
まあね、と由乃さまが首をすくめる。
「以来、人間が手で押さえてちょうどいい角度をキープしていないと、ピューピューって出ちゃうようになったの。それも二カ所」
「チョロチョロがピューピューに……」
なるほど、それでは助けを呼びに行きたくても、この場を離れられなかったわけだ。
「私、職員室に行ってきます」
乃梨子さまが、クルリと回れ右した。そうだ、こんな所でぼーっと経緯《けいい》を聞いている暇《ひま》があったら、大人にこのことを言いにいくべきである。菜々も一緒に行こうとすると、「一人行けばいいから」と乃梨子さまにはあっさり断られた。
「それより由乃さまと話をするんでしょ?」
「はあ」
話とは、あれだ。内容のない口げんかではなく、話題は「今日の剣道部部活動について」。
「それじゃさ、乃梨子ちゃん。部屋出る時、電気消していってくれない? おばけ電球、気持ち悪い。いっそ、暗いほうがマシ」
祐巳さまが言った。
「おばけ電球?」
何じゃそりゃ、というように乃梨子さまが振り返る。
「え、そう言わない?」
「さあ?」
首を傾《かし》げた乃梨子さまは、指示通り、部屋を出る時に照明のスイッチを切っていった。残ったのは、紅薔薇姉妹・黄薔薇姉妹になる。
「お姉さま。お疲れになったでしょう、代わります」
瞳子さまが、水たまりをぐるりと迂回《うかい》して壁際まで歩いていった。
「あ、私も」
菜々も、ぴょんと水たまりを飛び越えた。電気が消えた部屋であっても、まだ夕方というには少し早い時間。あまり日の差さない一階の部屋ではあるが、薄暗くとも近くに寄れば物の輪郭《りんかく》や人の表情くらいはちゃんと見える。
「でも」
祐巳さまは、仕事を妹に代わらせることに消極的だ。
「遠慮なさらないでください、お姉さま。こういう時のために、私はいるんです。大丈夫、絶対にヘマはしませんから」
「……そう?」
たぶん祐巳さまは、瞳子さまがヘマをするなんてことは考えていない。どちらかというと、この体勢的にきつい仕事を可愛《かわい》い妹に押しつけるのが忍びなくて躊躇《ちゅうちょ》しているのだ。
なのに、由乃さまときたら。
「じゃ、私も菜々に代わってもらおうかな。ホント、いい加減疲れてきちゃった」
――だって。
「いい? こことここを持って、心持ち手前から上に持ち上げる感じでギュッと握る」
「私が手を放したら、マッハで掴《つか》んでよ。失敗すると、水たまりが増えるだけじゃなくて、制服も濡れるからね」
互いにお姉さまのレクチャーを受けてから、|つぼみ《ブゥトン》二人は「せーの」で水道管を受け取った。引き継ぎは大成功だった。握ったハンカチはじっとり濡れていたけれど、水が勢いよく出ることもなく、当然新たな水たまりもできなかった。
「菜々ちゃん。ちゃんと握っていれば、常《つね》にそこを見ている必要はないのよ」
すぐに視線を水道管に戻す菜々を見て、祐巳さまが笑った。
「あ、はい」
でも、何となく。自分が引き受けてから水漏れをさせては申し訳ないと、つい目にも手にも力が入ってしまう。
「日が陰《かげ》ってきましたね」
瞳子さまがつぶやいた。言われて部屋の中に視線を漂わせると、確かにさっきより暗く感じられる。
「何か、雰囲気《ふんいき》あるよね」
由乃さまが、自分の二の腕をさする。
水がまかれて湿気を帯びたせいだろうか、気のせいか部屋の空気がどんよりと重い。何かが出そう、かもしれないけれど、こういう時それを口に出したらだめなのだ。
しんと静まりかえっていた。何か面白《おもしろ》い話でもしてこの場の空気を変えたいけれど、適当な話題が見つけられない。そんな時。
ギィ。
扉が開く音が聞こえたので、みんな一斉《いっせい》に振り返った。そして仲よく叫んだ。
「ぎゃあ!!」
なぜって、そこには人間の首から上だけが、ぼんやりと浮かび上がっていたのだから。
「あ、すみません。驚かせちゃいましたか」
生首《なまくび》が言った。否《いな》、よくよく見るとそれは見覚えのある顔。乃梨子さまだった。
「日が陰ってきたので、こんな物でもないよりマシかと」
差し出されたそれを見て、その場にいた者たち全員が脱力した。
「な、何だ、懐中電灯?」
上向きに持ってきたので、ちょうど顔だけ照らしだされてしまったのだ。顔から外された今は、もちろん乃梨子さまの胴体が確認できる。
[#挿絵(img/34_081.jpg)入る]
「わざとでしょ」
懐中電灯を受け取りながら、由乃さまがにらみつけた。
「わざと?」
「私たちをおどかそうとして、わざわざ二階から懐中電灯を取ってきた」
「滅相《めっそう》もない」
乃梨子さまは、真顔《まがお》で首を横に振る。
「懐中電灯を点《つ》けてきたのは、ちゃんと電池が入っているか廊下《ろうか》で確かめたからです。不自然な持ち方になったのは、他にも荷物を持っていたせいで――」
言いながら、持ってきた物を床に置いた。
「バケツに雑巾《ぞうきん》? 何なの、これは」
由乃さまが指差す。
「大体、あなたは職員室に行くって出ていったんじゃないの? それを何ぐずぐず……モゴッ」
「あ、ありがとね。乃梨子ちゃん」
何かを察した祐巳さまが、由乃さまの口を手で押さえて言った。貫禄《かんろく》の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、言葉を遮《さえぎ》られてモゴモゴ発しながら暴れる親友をまったく無視して続ける。
「ここはいいから、先生呼んできてくれる?」
「わかりました。では、後をよろしくお願いします。すぐ戻りますので」
一礼して退場する乃梨子さま。玄関の扉を開け閉めする音が聞こえたから、今度こそ校舎に向かったのだろう。
「何なのよ」
束縛《そくばく》を解かれた由乃さまが、憤慨《ふんがい》して言った。
「乃梨子ちゃんは気のつく子だから、水たまりをそのままにできなかったんでしょ」
祐巳さまはバケツの中に二枚入っていた雑巾を取って、水たまりの中に沈めた。菜々の位置からはよく見えなかったけれど、どうやら乃梨子さまが持ってきたのは、空《から》のバケツと乾いた雑巾であったらしい。
「ふん」
仕方ないな、というように鼻を鳴らして、由乃さまも水を吸った雑巾を手にした。
「気が利《き》かないばかりか、バトンタッチするタイミングも読み間違えたわね、私たち」
すぐ横で、瞳子さまがガッカリしたような顔をしている。こういうことこそ、お姉さま任せではなく妹が率先《そっせん》してやるべき仕事である。しかし水道管をガッチリ握って身動きがとれないこの身では、手伝いたくともできない。
すっかり水を拭《ふ》きとった床の上に、懐中電灯が立てて置かれた。懐中電灯が中心になるよう、薔薇さまたちが腰を下ろす。四人で囲む小さなキャンプファイヤー。というより、その形態からむしろ一本の蝋燭《ろうそく》を連想させる。
「まるで百物語やってるみたい」
瞳子さまがポツリと言った。もともと賑《にぎ》やかに歓談《かんだん》なんてしていなかったけれど、途端《とたん》にシーンと静まりかえる。
「あ、でも。懐中電灯は最初から一本だから大丈夫」
祐巳さまが、自分に言い聞かせるようにうなずいた。しかし、瞳子さまが冷ややかに言う。
「最後の一本という見立てにもなりますよ」
「えっと、それに、蝋燭と違ってちょっとやそっとじゃ消えないし」
めげずに前向きな意見を言う祐巳さまに、今度は由乃さまが追い討《う》ちをかける。
「電池が持てばね」
「やーめーてー」
たぶん由乃さまと瞳子さまは、怖がりの祐巳さまをからかっているのだ。怖がれば怖がるだけ、もっと怖がらせてやれ、となる。
「そうだ。だったら楽しい話をしようよ。それなら、消えたって百物語とは無関係でしょ」
「なら、むしろ恐い話でしょ。それで蝋燭が消えなかったらセーフじゃない」
どんな理屈だ。そして、それは懐中電灯であって蝋燭ではない。
しかし、由乃さまも瞳子さまも、よっぽど祐巳さまのことが好きなんだな。なんて考えていたら、突然「菜々」と呼ばれた。
「はい?」
「あなた、さっきから黙っているけれど、どっち寄りなの?」
「どっちって――」
心情的には、祐巳さまのほうについてあげたい。けれど、お姉さまである由乃さまと対立するのは正直きつい。だから今まで、参戦せずにただどうなるんだろうと眺《なが》めていたのである。
「それじゃ、菜々から話をしてもらおうかしら。もちろん、恐い話よ」
わかっているわね、というようにニヤリと笑う由乃さま。やれやれ、本当に悪い人だ。
「恐い話、ですか」
「ええ。何でもいいわ」
仕方ない。
「では」
菜々は由乃さまをじっと見た。
「お姉さまが嘘をついた話を」
「嘘? やだ、さっきの『スイッチ消して』のことをまだ言っているの?」
期待にワクワク胸|躍《おど》らせていたところにさっきの話を蒸《む》し返されたと思った由乃さまは、うんざりした顔で話題を追い払うように手を振った。
「違います」
菜々は言った。
「剣道部のことです」
すると、少しだけ由乃さまの顔色が変わった。
「ちょっと、菜々――」
「お姉さまが、何でもいいとおっしゃったので」
恐い話というリクエストにお答えする、だけである。
「嘘ばかりついているとオオカミ少年になる、ってよく言いますけれど。ユーレイになることもあるんですよ」
両手は塞《ふさ》がっているから声だけで、菜々は「恨《うら》めしや」という雰囲気を演出してみた。
それは、紅薔薇姉妹には何でもないけれど、由乃さまの背筋《せすじ》はきっと寒くなるはずの話なのだ。
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ホントの嘘
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きっかけは、ホリーゴーラウンドだった。
それ何?
私も初めてその名前を聞いた時は、それが何なのか知らなかった。ファッションブランドなのか、遊園地のアトラクションなのか、ゲームソフトの名前なのか。
でも、一部の、かなり限定された音楽ファンの中には、その名前を耳にしただけで「きゃーっ」て叫んじゃう人もいるらしい。知る人ぞ知る、メジャーデビュー目前のロックバンドの名前なんだって。
「やっぱり? ホリーゴーラウンドの会社なの?」
最初に耳にしたのは、昼休みの教室だった。
「え、……ええ」
お弁当を食べていたら、後方からそんな会話が聞こえてきた。
「真生子《まおこ》さんの叔父《おじ》さまがレコード会社にお勤めとは知っていたけれど、まさかホリゴラをゲットしたあの会社だったなんて。いいなあ」
しゃべっているのは別のグループの素美《もとみ》さんで、食事が終わったからふらりと寄ってみました、みたいな立ち位置で話しかけてきたようだった。彼女が通《つう》ぶって「ホリゴラ」を連発するから、私までホリーゴーラウンドの略称を覚えてしまった。
真生子さんと一緒にお弁当を食べていたクラスメイトたちも、同じだ。ホリーゴーラウンドのことは知らないようだったけれど、素美さんが絶賛するので「すごいわね」なんて相《あい》づちを打つ。何がすごいのかはわかっていないくせに、ただ雰囲気《ふんいき》に飲まれているのだ。
ホリゴラは小さなライブ会場出身の五人組で、大手レコード会社のスカウトを何社も断って、相性がいいという理由であまり名の知られていない会社と契約した。そこがまた格好《かっこう》いい、と素美さんは熱く語った。
「ごめんなさい。私、あまり音楽のことは知らなくて」
真生子さんは完全に及《およ》び腰だ。しかし、食べている弁当を置いて逃げるわけにもいかない。
「そうなの?」
「叔父とは一緒に住んでいるわけではないし」
「ふうん」
これ以上話していてもあまりいい情報を得られないと察知《さっち》した素美さんは、「じゃね」と言ってその場を去った。真生子さんのコネで、ライブチケットの一枚でも入手できれば、とか思って近寄ってきたのだろう。
そんなやり取りを、私は背中で聞いていたのだ。
(ふうん)
心の中でつぶやいて、お弁当箱をしまうと、私は五時間目の支度《したく》をすることにした。
「あ」
そこで、気づいた。今日のリーダーで進む範囲の英単語を調べてきていない。
どうしよう。思わず立ち上がった私を見て、後ろの席の真生子さんが「どうしたの?」と尋《たず》ねた。もうじき授業が始まる。今からお手洗いなんて、と単純に思ったのだろう。
振り向いた私の目は、真生子さんの机の上にあった単語帳に留まった。しかし、すぐにそらして言った。
「お腹《なか》が痛くて、保健室に行ってくる」
今さっきお弁当をペロリと食べておいて「お腹が痛い」はないかな、と思ったから、慌《あわ》ててつけ加えた。
「実は生理痛なの」
「まあ、大変。ありささんは生理不順だしね」
「生理不順? ああ」
そういえば先々週だったか、体操着を忘れたから「生理痛」と言って体育を見学したのだった。気をつけないと。覚えている人は覚えているのだ。
私は痛くもないお腹を押さえながら、保健室に行った。そしてどこも痛くないのに鎮痛剤《ちんつうざい》をもらって、五時間目をベッドの上で過ごして六時間目には教室に戻った。
私は迂闊《うかつ》な女の子ではない。忘れ物なんてしないし、予習を怠《おこた》ったことはないし、バスが遅れた以外の理由で遅刻もしたことはない。でも、多少の嘘《うそ》はつく。
世の中って、そういうものだ。
パパもママも、ちょっとずつ嘘を抱えて生きているから、家族にやさしくできるのだ。私は非の打ち所がないほど良い子だから、どちらの「いらない子」にもなったことがない。
私は、真生子さんの持っていないものを持っている。
「ありさ」
放課後の二年|桃《もも》組教室で、雑誌をパラパラとめくりながら、則香《のりか》さまが言った。
「今日の五時間目、保健室にいたんだって? もう大丈夫なの?」
「あ、はい」
私は、うなずく。学年が違う則香さまがどうして知っているのだ、とは思わなかった。保健室に入る時、則香さまのクラスの保健委員が入れ違いで出ていったから、耳に入るだろうと予想はしていたのだ。
「なら、いいけれど」
則香さまは一旦《いったん》上げた視線を、もう一度落として、雑誌の文字を拾った。彼女こそ、真生子さんが持っていないもの。「お姉さま」だ。
私はこうして、よく放課後お姉さまの教室に押しかける。二人とも部活に入っていないし、帰る方角が真逆《まぎゃく》だから、そうでもしないとなかなか一緒の時間をもてないのだ。
「心配してくださったの?」
私は、甘えるように腕にしがみついた。その時、何の気なしに見た雑誌の文字に引きつけられた。
「あ、ホリゴラだ」
メンバーの顔写真を見てわかったわけではない。ただホリーゴーラウンドという単語を見て、瞬発的に「ホリゴラ」と言ったにすぎない。ある意味、素美さんに洗脳されていたのだ。
「ありさ、知ってるの?」
いつもは音楽雑誌なんかに興味を示さない私が、「知る人ぞ知る」を知っていたから、お姉さまはちょっと驚いている。
「ええ。うちの叔父さんが、レコード会社に勤めていて。その関係でちょっとだけ」
そんなことを言うつもりはなかったのに、つい口をついて出てしまった。なぜって、いつになくお姉さまの目が輝いているのを見てしまったから。きっと、日頃から妹と趣味の音楽の話をしたいと思っていたのではないか。それが今日、思いがけずに叶《かな》って喜んでいるのだ。
「でも、あまり大きくない会社で」
もっと喜ぶ顔が見たい、って思ったら、つるつると嘘がこぼれていった。
「あ、もしかしてホリゴラがデビューするところ!?」
私は小さくうなずいた。
「小さいライブ会場で活動していたのだけれど、ついにメジャーデビューが決まって。相性がいいって、大手のレコード会社を蹴《け》って叔父さんの会社と契約してくれて」
本当の事みたいに淀《よど》みなくしゃべれた。真生子さんの話をなぞるだけなので、簡単だった。
「そうそう。へえ、すごいな」
「でも、私はあまり音楽のこと知らなくて。叔父さんも一緒に住んでいるわけじゃないから」
さっき入手した情報も品切れになったので、そろそろ話を切り上げようと思った。しかし、則香さまは素美さんじゃないから、何もかも同じように事が運ぶとは限らないのだった。
「じゃ、もしかして限定版とかも手に入るんじゃない?」
則香さまが尋ねてきた。
「さあ? でも、たぶん」
ホリゴラの限定版が何かわからないまま、私はうなずいた。そのレコード会社に勤める叔父さんなら、きっと持っているだろうと考えたから。事もあろうに私は、その流れで限定版が手に入ったら則香さまに貸すという約束までしてしまった。
「あれ、ありさ?」
則香さまが何かを見つけたように、顔を近づけてきた。嘘がばれたと思って、思わず目をそらしたが違った。
「化粧してるでしょ」
則香さまが言った。
「……え」
ほんの少しマスカラで目をぱっちりさせて、チークで顔色をよく見せて、グロスの入ったリップクリームを塗っているだけ。パッと見は気づかれないほどの薄化粧《うすげしょう》だけれど、こう至近《しきん》距離だとばれてしまうのだろう。
「化粧はだめよ」
則香さまは軽く「こらっ」て感じで注意してきた。けれど、そんなことは言わせない、って私は思った。私が初めて化粧をして登校した日に、則香さまは声をかけてきたのだ。
お姉さまは、私の化粧した顔が好きなのだ。
翌朝、私は銀杏《いちょう》並木のマリア像の前で真生子さんを待ち伏せした。大変言いづらい話を、するためだった。
「ホリゴラの限定版? ええ、持っているわよ」
真生子さんは一瞬驚いたみたいだったけれど、「なぜ」とは聞かずに教えてくれた。ホリゴラの限定版とは、メジャーデビューアルバムと同時にリリースされるCDで、収録曲は同じなのだけれどすべてインディーズ時代のライブ音源を使っている、枚数限定の超レアCDだそうだ。
何と、真生子さんは今その現物を持っているという。
「昨日叔父が家に遊びに来て、お土産《みやげ》だって置いていったの。素美さんがホリーゴーラウンドのことを言っていたことを思い出して――」
「貸してくれない?」
私は間髪《かんはつ》入れずに言った。
「え? ええ。いいけれど」
真生子さんは少し驚いていたけれど、すぐに鞄《かばん》からそのCDを出して私に差し出した。
「まだ素美さんには話していないから、先にどうぞ」
「本当?」
私は飛び上がるほど喜んだ。
「お役に立ててうれしいわ」
真生子さんのまつげはマスカラなんてつけなくても黒々と長く、頬《ほお》はチークなしでもうっすらピンク色をしていた。
私はさっそくその日の放課後お姉さまにそのCDを渡した。もちろん、借り物だとは話さなかった。
「ありがとう。今晩聞いて、明日返す」
則香さまのテンションは、思った通り昨日以上に高かった。
「いつでもいいですよ」
私はうれしくて一緒に笑った。そうは言っても、お姉さまは「明日返す」と言ったらちゃんと約束を守る人だと知っていたから。
しかし、初めて約束が破られた。
お姉さまは翌日学校に来なかったのだ。風邪で高熱が出たという。
最初は、仮病かと思った。一晩で返すのが惜《お》しくて、家でCDを聴いているのではないか。
でも、お見舞いに行ったら、則香さまのお母さんが出てきて、熱が三十九度もあってとても会える状況じゃないと言っていた。昨日|側《そば》にいたならうつしたかもしれない、と逆に心配される始末。もちろん、CDのことなんて言い出せやしない。
その日返せなかったことを翌日真生子さんに詫《わ》びると、彼女は「急がなくてもいいわ」と言った。ひとまず胸を撫《な》でおろした私だったが、そうそううまくはいかなかった。
どこで聞きつけてきたか、素美さんが限定版のことを知って次の予約を真生子さんに入れたのだ。彼女は私に、明日必ず持ってくるよう約束させた。明日、則香さまの熱が下がって学校に来る確証などなかったが、私は「持ってくる」と言ってしまった。持ってこられない理由を聞かれたら答えようがなかったからだ。又貸《またが》しが悪いことだということくらい、知っていた。
翌日、私はできるだけ素美さんから逃げて過ごした。休み時間のたびにお手洗いに行く振りをして教室を出たし、昼休みにはお弁当を持っているのにミルクホールに行って食べた。
でも、掃除区域が同じ清掃の時間だけは、逃げ場はなかった。
「持ってきてくれた?」
階段を箒《ほうき》で掃《は》いていた私に、雑巾《ぞうきん》を持った素美さんが近づいてきた。
「ええ、もちろん」
私はこの段になっても、嘘の上塗《うわぬ》りをした。
忘れたと言えば一日くらい猶予《ゆうよ》ができたかもしれない。けれど、素美さんのこの勢いだと、家にまで取りに来ないとも限らない。それで家になければ、おしまいだ。
「じゃ、教室に戻ったら渡してね」
限定版CDのことを考えただけで上機嫌になるのだろう、素美さんは鼻歌を歌いながら手すりを磨《みが》いた。私はイラっときて言った。
「もう真生子さんに返したわ」
「あ、そう」
自分で自分の首を絞《し》めているのは、十分過ぎるほどわかっている。でも、もうどこから修正したらいいのかわからなかった。嘘でした、なんて今更《いまさら》言えるわけがない。
掃除が終わって教室に行くと、一足先に戻っていた素美さんが廊下《ろうか》に飛び出してきて、私に言った。
「真生子さん、受け取ってないって」
そりゃそうなるでしょう、とは覚悟していた。実際、私は真生子さんにCDは返していないのだから。
「掃除に行く前、机の中に返したの」
私の嘘は、どんどん先に進んでいく。坂を転がり落ちるように加速がついて、もう自分の手の届かない所まで行ってしまった。
「真生子さん、ありささんがそう言っているから、お手数だけれど机の中を確認してみてくれない?」
私は素美さんに手を引かれ、真生子さんの前へと引きずり出された。お人好《ひとよ》しの真生子さんは、「あ、そうだったの?」と言いながら屈《かが》んで机の中を探した。そんなことをしたって、CDが出てこないことを私は知っている。けれど、私は認めるわけにはいかない。
「確かに入れたもの」
「そんなこと言って、あなた、本当はCDをなくしたとか壊したとかしたんじゃないの」
火花を散らす二人。
「友達の言葉を信じないのはよくないわ。掃除で机を動かした時に落ちたのかもしれないし」
おろおろする真生子さんに対し、素美さんはぴしゃりと言った。
「真生子さんは黙っていて」
当事者の一人である真生子さんを蚊帳《かや》の外に押し出すなんて、どう考えても間違っている。しかし、彼女は今限定版CDのことより、クラスメイトを断罪することに夢中なのだ。
「いいわ。あくまで返したと言い張るなら、明日の朝のホームルームでこのことを話しましょう。もう帰ってしまった人もたくさんいるし、教室掃除をした人たちに聞いてみたらいいわ。ホリゴラのCDを見かけませんでしたか、って」
「そうね。そうしましょう」
破れかぶれの私は、鼻息荒く同意した。
「それで見つからなかったら、新聞部に頼んで『リリアンかわら版』紙上で探してもらうから」
「え?」
「ありささんが言っていることが正しいなら、校内でなくなったんでしょ。誰か情報をもっているかもしれないもの」
それでいいわね、と問われて、うなずく他《ほか》になかった。「いい」わけなんて、全然ないのに。
教室を出た私は、校舎の中をさまよった。
どうしよう。
学校新聞に載《の》ってしまったら、いずれ則香さまの目にも入る。ホリゴラのCDがなくなった場所が、私の教室だって書かれている。それを見た則香さまは、私と無関係とは、きっと思ってはくれないだろう。自分が借りていたCDの出所《でどころ》を疑《うたぐ》るかもしれない。
どうしよう。どうしよう。
頭の中をそんな単語で一杯にして歩いていたら、職員室の前で中年の女教師とぶつかった。
「も、申し訳ありません」
生徒の生活面ではうるさ型で有名な先生だったから、放免《ほうめん》されたさのみで私は素直に謝った。
「廊下を歩く時は、よそ見するものではありませんよ。あら」
先生は、自分の服の胸もとを見て声をあげた。深い紺色《こんいろ》の綿《めん》セーターに、うっすらピンク色の粉がのっている。何という運の悪さ。それは私のチークと同じ色だった。
「これは、お化粧ですか」
「い、いいえ」
私は後退《あとずさ》りした。でも女子校教師歴うん十年の目は、誤魔化《ごまか》されない。
「今日は許してあげます。でも明日以降見かけたら、……わかりますね」
にらみをきかせる先生に、もう一度深々と頭を下げてから私は足早に立ち去った。本当は走りたかったけれど、そんなことをしたら呼び戻されて指導されかねない。
あてもなく歩き回って、一年生の教室が続く廊下まで戻ってきたら、あちら側から一人の生徒が歩いてくるのが見えた。
「……」
私は驚いて声も出せなかった。そこにいたのは、則香さまだったのだ。
「あ、よかった。一年|菊《きく》組教室に誰もいないから、ありさがどこにいるかも聞けなくて。戻ってきたところだったの」
「熱は」
私は駆け寄って、辛《かろ》うじてその言葉だけを発した。
「やっと下がって今日から出席。休み時間に何度か教室に行ったけど、ありさいなかったから」
はい、と手渡されたのは見覚えのあるCDだった。ホリゴラの限定版。
「これ、ありがとう。一昨日《おととい》返せなくてごめんね」
「いえ。……いいえ」
私は受け取って、抱きしめた。これを真生子さんに返せば、どうにかなる。ホームルームで問題にされることもないし、『リリアンかわら版』に載る心配だってなくなるのだ。
「鞄、取っておいで。校門まで、一緒に帰ろう」
私はうなずいて、「待っていてくださいね」と言い残して一人教室に戻った。
自分の鞄を取るついでにCDを真生子さんの机に入れかけたけれど、思い直して一番近いヒーターの下に置くことにした。CDは掃除の時に机から落ちて、ここに滑り込んだのだ。さっきはちゃんと探さなかったから見えなかった、それでいい。秋とはいえまだヒーターをつけるほど寒くないから、そこに置いておいても問題はないだろう。
ヒーターの前で中腰になった時、背後から声がした。
「ありさ? 何しているの?」
ドキッとして、私は思わずCDを落としてしまった。CDケースの角が割れた。拾って見るまでもなく明らかだった。
「どうしたの」
絶体絶命だった。まさかお姉さまがついてきていたなんて思わなかった。
私は床にしゃがみ込んだ。CDをヒーターの下に隠すところを見られたのだ。どういう言い訳をすればいいのかわからない。
「何かあったの? 私には力になれない?」
則香さまに知られたくない一心で、嘘を重ねてきたのに。本人に相談なんてできるわけがない。
「何があっても、私はありさの味方だよ」
そんなことはない。このCDが真生子さんの物だったなんて話したら、机の中に返したって嘘をついてそれを本当っぽくするために今また隠そうとしていたことを知ったら、明日小さい目で血色《けっしょく》の悪い顔色の私を見たら、途端《とたん》に冷めてしまうだろう。
何があっても味方、なんて嘘だ。
私の何を見て、味方だなんて言っているのだ。
クラリ。めまいがした。
あれ、私って何だろう。
最初から、則香さまの前に私はいたのだろうか。則香さまだけじゃない、みんなの前にいたのだろうか。
いや。
「もともと私なんかいなかった」
そうだ。口に出してみたら、こんなにしっくりすることはなかった。
「え?」
だから、私がついた嘘だってこの世に存在しない。
「いなかったの」
私がそうつぶやいた時、今度は大きく校舎が揺れた。
*  *  *
十秒ほど続いた大きな地震だった。
揺れが収まって顔を上げると、則香は一人見慣れぬ教室にいた。
「あれ? 私、どうして――」
ここは、どこだ。少なくとも自分の教室ではない。なぜこんな所にいるのだろう。
地震の直前に、誰かと話をしていたような気もするが、思い出せない。見回したところでその相手がいないのだから、気のせいなのだろう。
とにかく、ここを出ようと立ち上がったところで、扉が開いた。
「あ」
現れたその少女は、則香を見つけて明らかに戸惑《とまど》っている。このクラスの生徒なのだろう。クラスメイト以外の姿を見て、一瞬自分が間違えたと思ったようだった。
「私が不法侵入者」
則香がそう言うと、ホッとしたように笑った。
「結構な揺れでしたものね」
地震に驚いて近くの教室に駆け込んだ人、と思ってくれたようだ。実際にそうだったのかもしれない。
「あら」
少女は、則香の側《そば》に落ちていたCDを拾い上げた。
「こんな所にあったなんて。さっき探した時には見つからなかったのに」
それは少女の持ち物で、机の中に入れておいたのに、なぜか見当たらなくなっていたという。
「掃除の時に落ちて、そのまま教室の隅《すみ》にでも滑り込んで、今の地震でまた出てきたのでしょうね。ちょっとケースが欠けてしまったけれど、仕方ないわ」
どれ、とCDを覗《のぞ》き込む。
「あ、ホリゴラだ」
つい声に出してしまうと、少女が尋ねてきた。
「お好きですか」
「うん。好き、かな」
「私はこういう音楽よくわからなくて。レコード会社に勤めている叔父がくれた物なんですが」
どこかで聞いたことがあるような話だと思いつつ、どこで誰が話していたことかは思い出せない。そういえば、目の前でしゃべっているこの少女も、なぜか初めて会った気がしない。
「クラスメイトにファンがいるので持ってきたんです。あ、お貸ししましょうか? もちろん、そのクラスメイトの後になりますけれど」
「ありがとう」
則香は、そのCDを今どうしても借りたいという気持ちではなかった。けれどこの少女との縁《えん》をつないでおきたいと思ったので、予約を入れることにした。
「そうだ、私の名前は」
名乗ろうとすると、「存じております」と遮《さえぎ》られた。
「二年桃組の佐須《さず》則香さま」
恥《は》じらうように、少女はほほえんだ。
「私はこのクラスの、伊坂《いさか》真生子と申します」
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リトル ホラーズ―W
「う、嘘《うそ》って何よ」
由乃《よしの》さまは声を震わせた。予想通り、動揺している。
「今日の部活。出るような素振《そぶ》りをして、実際はいらっしゃらなかったじゃありませんか」
菜々《なな》一人ならどうとでもなる、と高《たか》をくくっていたのだろう。しかし祐巳《ゆみ》さまの前で断罪されるとなると、話は違ってくる。
「出る、ってはっきり言った記憶はないわ。だから、嘘とは言えないでしょ」
ここで罪を認めて「ごめんなさい」となれば、話を切り上げてもいい、と菜々だって考えていた。けれどこう開き直られては、こっちも引くに引けないわけである。
「今日は稽古《けいこ》じゃなくてただの顔合わせだから、そんなに時間はかからない。だから部活が終わったら、薔薇《ばら》の館に行きましょう、って。そんな言い方されたら、誰だって一緒に出るものと思いますよ」
同意を求めて紅薔薇姉妹を見れば、二人ともしっかりうなずいてくれた。
「時間になっても三年|菊《きく》組教室にお姉さまの姿が現れなかった時には、私|狐《きつね》に摘《つま》まれたような気分になりましたもの。お姉さま以外は三年生も二年生も新入部員も、みんな出席していたんですよ。今日の会合は、それくらい大切な集まりだった、っていうじゃないですか。先輩方に『由乃さんは?』と聞かれて、私のほうがどうしたのか聞きたかったくらいです」
思い出して、ちょっと涙ぐんだ。自分のお姉さま一人が部活に来ていなくて、その理由すら聞かされていないなんて。情けなくて仕方がなかった。
「で、どうしたの?」
祐巳さまが先を促《うなが》した。
「嘘もつけませんから、『わかりません』って答えましたよ。帰ってはいないと思います、とつけ加えましたけれど」
由乃さまは三年菊組には「行く」と言わなかったかもしれないが、薔薇の館には「行きましょう」と言っていた。だから、まだ帰るはずはない、そう思ったのだ。だからそのうち、ふらっと三年菊組に現れるかもしれない、なんてちっぽけな望みをつないでいた。
「そうしたら、先輩たちからお姉さまを見つけて連れてくるよう言われてしまいました」
「なるほどね」
うなずきながら、祐巳さまが由乃さまの顔を見た。見られた由乃さまは、気づかないふりをして菜々の側《そば》までやってくるとしゃがんで向かい合った。
「菜々。ねえ、菜々ちゃん? さっき見たでしょ? お姉さまはね、薔薇の館を水から守るために水道管を握りしめていたの。だから行きたくても剣道部の集まりには行けなかった、そういうことでしょう?」
今まで一度も聞いたことがないほど、それは甘ったるい猫なで声が、身動きできない菜々の身体《からだ》にぺちゃぺちゃとまとわりついてくる。正直、勘弁《かんべん》して欲しかった。こっちは逃げ場がないんだから。
「な、なら、どうして清掃時間が終わってすぐに三年菊組に行かなかったんです。薔薇の館に来るのは、剣道部が終わってからっていう話だったでしょう?」
「それは……えっと。虫の知らせ?」
人差し指を一本|頬《ほお》に立てて、上方を見る仕草《しぐさ》をしてみせるけれど。由乃さまが目指しているであろう「お茶目」には到底《とうてい》なっておらず、むしろ「滑稽《こっけい》」なわけである。
「――苦しい」
苦しすぎます、その言い訳。どうせだったら、もっと感心するような嘘か、もしくは大爆笑できる嘘にしてくれないだろうか。
「まあ、どこが苦しいの? 水道管なんて持っていないで、保健室に行ったほうがいいかもしれないわ」
どこまでおちょくる気だ。わなわなと水道管を握る手が震えた。いけない、いけない。微妙な角度を保たなければ、部屋が水浸《みずびた》しになってしまうのだった。ともあれ、この鉄パイプが竹刀《しない》でなかったことを、菜々は心の底からマリア様に感謝した。
「質問。幽霊《ゆうれい》っていうのは?」
祐巳さまが手を挙げて尋《たず》ねた。
「このままだとうちのお姉さまはユーレイになっちゃうから、どうしても今日は出席させないと、って先輩が」
「ああ、ユーレイ部員のことね」
瞳子《とうこ》さまがつぶやく。ユーレイ部員とは、言わずと知れた「名前だけ所属していて実際は活動をしていない部員」のことだ。
「先輩って、誰がそんなこと言ったの?」
由乃さまは立ち上がって、斜《しゃ》に構えると偉《えら》そうに胸の前で腕を組んだ。
「田沼《たぬま》ちさとさまです」
「はん、あの人が言いそうなことだわ」
余所《よそ》に敵を作って非難することで、どうにか自分の立場を守ろうとする由乃さま。もう、考え方が見え見えだった。
「由乃さん」
少し考え事をしていたみたいな祐巳さまが、由乃さまの正面に立った。
「な、何よ」
両肩をつかまれて、少しビクつく由乃さま。
「ちょっと菊組に行ってきて」
「えっ、でも、だって」
「いいから。請《う》け負ってきた菜々ちゃんの立場だってあるでしょ」
「菜々の――」
由乃さまは菜々を見下ろした。
「私、今日の剣道部は新入部員の集まりだって、由乃さんに聞いた気がする。全員出席するような集まりって知っていたら、何があっても行かせたわよ」
「それは……悪かったわよ」
「大事な部活をサボって薔薇の館にいた、なんて。私も志摩子《しまこ》さんも、剣道部の皆さんに顔向けできないわ」
「祐巳さんたちが責任感じなくても」
「私たちは、知らなかった、じゃ済まないの」
だから嘘は困る、って。そうか、そんな風《ふう》に理論だてて言えば、説得力があるのか。頭ごなしに「嘘をつくな」「どうして嘘をつくんだ」ではだめなんだ。
「由乃さん」
黙ってしまった由乃さまに、祐巳さまが返事を促す。
「わかったわよ。行くわよ、行けばいいんでしょ。菜々」
呼ばれて、菜々は顔を上げた。そこでやっと気がついた。「見つけて連れてきて」と言われたのだから、当然菜々も三年菊組に戻らなければならないのだ。でも。
「私は行きません」
どうしてか、菜々は言ってしまった。お姉さまお一人で行ってください、と。
「な、何ですって?」
声をあげる由乃さまを制して、うつむく菜々の側《かたわ》らにしゃがんだのは祐巳さまだ。
「菜々ちゃん。水道管なら、私が代わるから」
だから行って、って。ソフトな声に顔を上げると、やわらかい笑顔が待っていた。
「いえ。そういうわけではないんです」
一度引き受けた仕事を放り出すのが嫌だから、この場を離れられないのではない。
「じゃあ、どういうわけ」
由乃さまが冷ややかに尋ねた。
「わかりません。けれど、ここはお姉さまお一人でどうぞ」
「私一人だったら、三年菊組に行かないかもしれないわよ」
それでもいいの、という挑発《ちょうはつ》を菜々は笑顔でかわした。
「いいえ。お姉さまは行かれます。ですから、お目付《めつけ》役など必要ありません」
「……大した自信じゃない」
「それほどでも」
本当は、どこまで信じているのか、菜々は自分でもわかっていなかった。どっちかというと、「行く」という確信があるというよりも「行って欲しい」という願いに、感覚としては近い。そして、逃げられたならそれまで、という諦《あきら》めも多少はあった。
「わかった。じゃ、菜々ちゃんは残る。由乃さんは三年菊組に行く」
祐巳さまは由乃さまの肩をクルリと回して、出入り口の方向に向けた。
「いったい、祐巳さんは何がわかったの」
菜々自身が「わからない」って言っているのに、と由乃さまは顔だけ振り返った。
「菜々ちゃんが行きたくないこと。私はそれを支持する。さ、行ってらっしゃい。後のことは万事《ばんじ》任せて」
「えーっ」
背中を押され、由乃さまは渋々《しぶしぶ》部屋を出ていった。
「菜々ちゃん。これでいいわね?」
戻ってきた祐巳さまに、菜々は首を縦《たて》に振った。
由乃さまがいなくなって、一階の部屋にいるのは祐巳さまと瞳子さまと菜々となった。
「まるでゲームセット間近《まぢか》の近いトランプみたいに、人が減ってきたね」
途端《とたん》に静まりかえった部屋の中で、祐巳さまが口を開いた。
「ああ、なるほど」
菜々はうなずいた。さっきまでここには五人の人がいたのに、一人抜け二人抜けて今は三人。でも、この場にいるのは喜ぶべきことなのだろうか。トランプっていろいろなルールがあるけれど、どちらかというと最後まで残るより先に持ち札《ふだ》がなくなる人が勝ちって印象が強い。
「トランプといえば」
瞳子さまがつぶやく。
「最盛期はフルハウスでしたのに」
フルハウス? 菜々が首を傾《かし》げると、祐巳さまが瞳子さまに尋ねた。
「フルハウスって何だっけ。ポーカーの役《やく》?」
「ええ。同じ数字が三枚と二枚――例《たと》えば8が三枚と|J《ジャック》が二枚|揃《そろ》った、みたいな場合です」
ハートの8・ダイヤの8・スペードの8と、ハートのJ・クラブのJでフルハウス。
「|つぼみ《ブゥトン》が三人で薔薇さまが二人、だったってわけね」
で、乃梨子《のりこ》さまが抜けたことで、黄薔薇姉妹・紅薔薇姉妹のツーペアになった。
「そして今、由乃さまがいなくなってしまったので」
ついに、ワンペアになってしまった。
[#改丁]
ワンペア
[#改ページ]
背の高い門を抜けると、その先には、カーブを描きながら並木道が続いている。
葉はすっかり落ちてしまっているけれど、この木が銀杏《いちょう》だということは知っている。
初めて来る場所のはずなのに、なぜだかなつかしい。そう。彼の文字をたどって、ここにはもう何度も来ているから。
ほら。あの分かれ道には、記憶の通り白いマリア像も立っている。生徒たちは、ここで立ち止まってお祈りをするのだ。
だから、多子《なこ》も手袋を外してかじかむ両手の平を合わせた。
きんと冷たい空気の中、マリア様の顔をじっと見つめる。
「あなたは、何か知っているの?」
生徒たちが登校するにはまだ早い、早朝。
ここはリリアン女学園。
多子の言葉を聞いていたのは、マリア様だけだった。
*  *
「何にしても、後任の先生が見つかってよかったですよ」
朝の簡単な職員会議で新任の教師として高等部教師たちに紹介された後、引き合わされた五十がらみの貫禄《かんろく》ある女教師は、開口一番《かいこういちばん》そう言った。
「学級の担任は副担任《ふくたん》だった私が引き継ぎましたけれど、授業がね。ずっと自習というわけにもいかないので、その時間|空《あ》いている国語科の先生をかき集めてやり繰《く》りしていたんですから。それこそ一年生や三年生の先生だけでなく、中等部から助《すけ》っ人《と》を呼んだりしてね」
ふふふふ、と口を閉じたままビローンと横に伸びる唇《くちびる》。
(……カネゴン)
よくもまあ、ぴったりのあだ名をつけたものだ、と多子は命名者のセンスに感服した。本名は兼高《かねたか》先生というのだから、うっかりカネゴンなんて呼ばないように気をつけなければならない。
「あ。その出席簿持って。これから朝のホームルームですからね」
授業以外の時間、しばらくはこの人の下で学園生活に慣れるようにというお達しだ。肩書きは、高等部二年|藤《ふじ》組の副担任となる。
廊下《ろうか》を歩きながら、多子の耳は美しい音を拾った。
「賛美歌……?」
立ち止まって耳を傾ける。天使が飛び交《か》っていそうなメロディ。どうやら校内放送で流れているらしい。なるほど、これが朝拝《ちょうはい》か。イメージしていたものと、少し違った。
「どうしました?」
先を行くカネゴンが振り返った。
「いいえ」
そう答えて、多子は小走りで追いついた。
二年藤組教室の前にやってきても、カネゴンは中に入ろうとしなかった。今中に入ったら、見慣れぬ多子の存在が、生徒たちの気を散らすだろうという配慮らしかった。
教室の中から廊下へと、少女たちのみずみずしい歌声があふれ出てくる。
「突然のことだったし時期も中途半端でしょう? なかなか次の人を見つけるのも大変だったみたいで。一月《ひとつき》くらい欠員だったのよ」
待っている間の暇《ひま》つぶしに、カネゴンは口を開いた。さっきの話は、まだ終わっていなかったらしい。
「そうなんですか? 私は、国語を教えられる女性であればいい、とだけ」
事前に聞いた条件はそれだけだ。年齢も経歴も問われなかった。
「そんなことはありませんよ。もとは華族《かぞく》の令嬢が多く通った学園ですもの。未《いま》だ、教師には厳《きび》しい審査といいますか、どなたかのお口添えのある人間を採用するという風潮が残っていてね」
なるほど、教師としての経験もない多子が採用されたのも、この学校の同窓会の幹部である、大叔母《おおおば》の推薦《すいせん》がものを言ったのだろう。大叔母は大叔母で、前回のポカを返上しようと最後の切り札を送り込んだつもりであったろうが――。
「清水《しみず》先生は、これまでどちらに?」
「え? あ、はい」
清水先生とは自分のことだと思い出すのに、数秒かかった。先生と呼ばれることに、まだ慣れていない。教職免許を取るために通った母校でも、慣れずじまいで実習期間を終えた。
「大学を卒業して、そのまま大学院に」
多子は答えた。転校生と同じだ。とかく新入りは興味をもたれるもの、と割り切るしかない。
「お勉強がお好きなのね」
「いえ。就職が決まらなかったので、ズルズル居座っただけです。今回、こちらで仕事を得ましたので、一年も通わずあっさりやめたくらいですもの」
「あらあら。ご謙遜《けんそん》を」
音楽が終わり、放送ではお祈りの言葉が流れている。
「何にしても。清水先生を私は歓迎しますよ」
じき朝拝が終わるのだろう、カネゴンは教室の扉に指をかけた。
「女性がいいわね、やっぱり」
その言葉は、多子の心に妙に引っかかった。
『清水多子』とチョークで黒板に縦《たて》に大きく書いて、その脇《わき》に『しみずなこ』と平仮名《ひらがな》をつけて振り返った。カネゴンに新しい副担任だと紹介された後、一言自己紹介をと言われ、室温で曇《くも》った眼鏡《めがね》を拭《ふ》いてから教壇《きょうだん》に進み出たのだった。
「清水多子といいます。授業は古典を担当します」
古典と言った後に、ざわめきが起こった。同時にいくつかの唇が、音を発することなく「ひだせんせい」と動いたのを多子は見逃さなかった。
高校二年のクラスは、生徒の大半がまだ幼《おさな》さを残した顔つきをしていた。セーラーカラーのワンピースというクラシカルな制服のせいか、奇抜《きばつ》な髪型も化粧っけもないからなのか、皆|一様《いちよう》に清楚《せいそ》な印象を受ける。さすがは元華族のためのお嬢さま学校。未だ、品位は失っていないというところか。
「まずは皆さんの名前を覚えたいので、出席をとらせてもらいます」
多子は『二年藤組』と白いサインペンで書かれた、黒い出席簿を開いた。厚表紙の後にすぐ現れたページには、横書きで担任の名前が書かれている。
カネゴンの名前、『兼高|成子《しげこ》』の上には二本線で消された別の名前が書いてある。
『飛田《ひだ》一也《かずや》』
多子は誰にも見られないよう注意しながら、その名前に指でそっと触れた。
やっとここまでたどり着いた、と。
*  *
飛田一也が失踪《しっそう》したのは、約|一月《ひとつき》前のことだ。多子が知ったのは、伯母《おば》からかかってきた一本の電話からだ。大学の図書館から論文の資料に借りてきた分厚い本を、自宅のコタツで読んでいた時に電話がけたたましく鳴った。
二週間ほど一也と連絡がつかない、何か知らないか。そんな風《ふう》に切りだされた。一也は多子の、同い年の従兄《いとこ》だった。
互いに故郷を離れ、同じ東京に住んでいるといっても、多子と一也は一年以上会っていない。とはいえ、手紙だけは頻繁《ひんぱん》にやりとりしているから、だいたいの近況は把握《はあく》しているつもりだった。多子は肩と耳で受話器を挟《はさ》んだまま、小箱から一番新しい手紙を取りだした。そこには、相変わらず慣れない女子校での悪戦苦闘ぶりが書かれている。
「学校に電話してみた?」
来ていない、そう言われた、と伯母は不安げに答えた。
「一也のアパートの大家《おおや》さんには?」
『電話して聞いてみたわよ』
長く出かけると言い残してはいない、そういう回答だったそうだ。もっとも伯母が電話をする前に、アパートの玄関ドアには新聞が溜《た》まっていたとかで、大家さんは異変に気づいていたらしい。そのため、合《あ》い鍵《かぎ》で中に入って、部屋に一也の姿がないことは確認済みという。家の中で人知れず死んでいたという最悪の結末だけは回避されたことで、多子はホッと息を吐いた。
「わかった。明日でも笹井《ささい》の小母《おば》さまの所に行って、聞いてみる。だから、泣かないで。警察に届けるかどうかも、小母さまに相談してくるから」
伯母をなだめて、電話を切った。笹井の小母さまというのは、伯母の叔母《おば》。つまり多子にとっては大叔母にあたる人で、政界財界に顔も広く一族のドンと言っても過言ではない人物だった。リリアン女学園の新任教師に新卒の一也が採用されたのも、彼女のコネがあったればこそである。だから、いなくなる前に一也が何か相談していた可能性は十分にあった。
「一也のことでしょ? 正直、私も迷惑しているのよ」
笹井の大叔母は、訪ねてきた多子にそう言った。あからさまにうんざりした顔。一也の保証人として、学校側からもいろいろ言われたのだろう。
「小母さま、居場所はご存じないの?」
「知るもんですか」
相談も連絡もない、と仏頂面《ぶっちょうづら》が言う。
「やっぱり、多子にしておくべきだったわ。なのにあなたったら、大学に残りたいなんて言うから。一也なんかが手を上げちゃって」
「その話は、もう」
「もう、じゃないわよ。あの時、多子がリリアンの教師になっていたら、こんなことにはならなかったの。どう責任とってくれるの」
「責任?」
嫌な予感がした。
「一也の代わりの教師が至急必要なの」
思った通りだ。大叔母はニヤリと笑った。
「名門リリアン女学園の教師なら、私でなくても、いくらでもなり手はいるでしょうに」
「かもね。でも、今回は私が探して送り出さないといけないわ。なぜなら、……わかるわね」
大叔母は一日も早く、一也を推薦した失敗分を返済しなくてはならない。そういうことだ。
「必要なのは国語を教えられる女教師。私の手駒《てごま》は、もうあなたしかいないわ。大学院なんてやめちゃいなさい」
「考えさせてください」
多子は、そう答えて帰った。とはいえ、ほとんど断るつもりだった。考えさせてくださいと言ったのは、そうでも言わないことには、解放してもらえないと思ったからだ。
自分のアパートに帰ると、郵便受けに一枚の絵葉書が入っていた。
裏面はガウディの建造物の写真、表半分の宛名《あてな》スペースには多子の住所と名前。そしてその隣、残り半分のスペースには、
『今、スペインに来ています。一也』
と一行|記《しる》されていた。
「一也……?」
その絵葉書が、多子を動かした。
気がつくと笹井の大伯母に電話をかけて、「やります」と返事をしていた。
*  *
「名前を呼ばれた人は、手を上げて返事をしてください。相川亜紀美《あいかわあきみ》さん」
出席簿を開きながら、多子は呼びかけた。
「はい」
真ん中|辺《あた》りから、元気のいい声があがる。
「伊藤昌子《いとうまさご》さん」
「はい」
今度は右の後方。席は出席簿とは無関係のようだ。
生まれてこの方、女子校に通ったためしがない。出席番号の一番が女生徒だったり、教室すべてが女子で占められていることがこそばゆい。江藤春佳《えとうはるか》さん、小方満子《おがたみつこ》さん。育ちの良さか、はたまた新任教師相手に猫を被《かぶ》っているのか、皆、素直に手を上げる。やじる生徒など皆無《かいむ》だ。
その中で、まるで眠っているように頬杖《ほおづえ》をついたまま動かない生徒が交じっていれば、嫌でも目立つ。窓際《まどぎわ》の、前から三番目の席。うつむきがちなので、表情はよく見えない。
気になったが、出席をとり続けた。
「久我《くが》コハクさん」
「はい」
廊下側の前から四番目の少女が、手を上げた。目鼻立ちの整った、美少女だった。
細かいウエーブがかかったセミロングの黒髪を真ん中分けし、額《ひたい》を出すことでまつげの長い黒目がちの大きな瞳《ひとみ》が強調されている。そして人形のようにきめの細かい白い肌《はだ》、口紅《くちべに》も塗っていないのに赤い唇――。弱冠《じゃっかん》十六か十七で、まだあどけなさの方が勝る顔つきなのに、すでに艶《つや》のようなものが備わっている。
ずっと見ていたいという衝動を振り切って、多子は次の名前を呼んだ。
「久我メノウさん」
先程と似ている名前に首を傾《かし》げる。すると、久我コハクとは逆サイドから手が上がった。それなのに、久我コハクとまったく同じ顔がそこにもある。
「久我メノウさん?」
「はい」
それは、先程まで一人うつむいていた生徒だった。
「お二人は……双子《ふたご》のご姉妹?」
「そうです」
二人は同時に答えた。まるで鏡に映したみたいにまったく同じ顔。同じ声で。
「小林康枝《こばやしやすえ》さん」
多子は続けた。
「斉藤暎子《さいとうえいこ》さん」
出席簿がサ行になっても、タ行が終わっても、多子は久我コハクと久我メノウの存在が気になってならなかった。二人も、つまらなそうに視線を外しながらもこちらを気にしている。向かって右にはメノウ。左にはコハク。二人は一対の瞳のように、左右から多子の様子を観察している。そう考えるのは、多子の思い過ごしだろうか。
*  *
「久我コハクと久我メノウ?」
ホームルームを終えて一旦《いったん》戻った職員室で、カネゴンが多子の言葉を聞き返した。彼女たちがどうかしましたか、と。
「いえ。姉妹を同じクラスにするというのは珍《めずら》しいことだと思ったもので」
「ああ」
机の上に教科書を出しながら、カネゴンはうなずいた。彼女は数学の教師だ。
「一卵性の双子というのは似ているものですが、あの二人はその中でもかなり似ている部類に入るでしょう。中等部の頃だったか、いつの間にか入れ替わって授業を受けたり試験を受けたりしていたみたいでね。いえ、噂《うわさ》ですよ。教師たちは区別がつかないんですから、本人たちが否定する以上処分もできないわけで」
なるほど。見分けがつかないならばいっそのこと一緒にしてしまえ、というわけだ。少なくとも、一人二回同じ小テストを受けることは不可能になる。
「少し前に、髪型を変えた時はわかりやすくてよかったですよね」
話を聞いていた別の女性教師が、横から口を挟んだ。
「髪型、ですか?」
多子はそちらに顔を向けた。一時間目が始まる直前、職員室の中は教師たちが忙《せわ》しなく行き交っていた。
「そう。あの子たち、以前は二人とも腰にかかるほど長い巻き毛をしていたんですよ。それが、どういう心境の変化か。コハクの方が今の長さ、肩にかかる程度に切って。一週間くらい経《た》った頃かな、追いかけるようにメノウも切っちゃって、それでまた見分けがつかなくなったってわけ」
自分にそっくりな人間がもう一人|側《そば》にいるとは、どんな感覚だろう。多子はそれを自分に当てはめてみて、自分ならばできるだけもう片方と自分を区別できるようにするのではないか、そう思った。
コハクは実行した。けれどメノウがそれを許さなかった。そんなところだろうか。
「とにかく」
カネゴンが咳払《せきばら》いした。
「あの二人には、極力|関《かか》わらないように。いいですね、清水先生」
忠告というより、命令に近い口調だった。
「あの……」
「あなたは教師なのですから。特定の生徒ばかりに興味を示すのは感心しません」
本当にそれだけだろうか。多子は、思った。
特定の生徒が久我姉妹でなければ、そんなにうるさく注意しなかったのではないか、そんな風に感じられた。
ついでとばかり、カネゴンは言った。
「学園長からどのように聞いているかは知りませんが、前任者の話もしないこと。せっかく生徒たちも落ち着いてきたのです。気持ちを乱さないで」
これは、なかなか手強《てごわ》そうだ。
*  *
その日の夕方、一也の母親が上京してきたので、多子は請《こ》われるまま一也のアパートへ同行した。
大家さん経由で頼んでおいた通り、新聞はストップされていたから、一見、長く留守している部屋には見えなかった。ポストに、郵便物が少したまっているだけだ。
「多子ちゃん、どう?」
一也から届いた絵葉書を見せたことで、少し落ち着きを取り戻した伯母は、合い鍵でドアを開けるなり尋《たず》ねた。
「どう、って?」
「部屋の様子。何か変わったところはあるかしら」
「わからない」
変わったところもなにも、初めて中に入ったのだ。多子には、比べる材料がなかった。
「ムッとするわ」
伯母はこもった空気を逃がすために、窓を開けた。
「あの子、ふらっと出かけたのかしら」
ワンルームタイプの部屋のベッドの上には、まるで今朝《けさ》出がけに脱いだみたいにパジャマが無造作《むぞうさ》にのっていた。
冷蔵庫の中には、とうの昔に賞味期限が切れた牛乳、缶ビールが五本、そして熟《う》れきったトマトが入っている。流し台の上の水切り籠《かご》の中には、マグカップが一つ伏せてあった。
「ふらっと?」
パスポートを持って? 多子にはピンと来なかった。
「日記がないわ」
机の抽斗《ひきだし》を探っていた伯母が、つぶやく。
「一也、日記つけていたの?」
「そうよ。幼稚園の時からね」
筆まめなのは、その効果か。頻繁に手紙をやり取りしていたのに、そんなことさえ初耳だった。
「でも。日記だったら、抽斗とかじゃなくて、秘密の場所に隠しておくんじゃない?」
多子は言った。日記といったら、他人に見られたくない物の筆頭アイテムである。
「あら、一人暮らしで?」
「そうね」
確かに、それは一理ある。もし一也がすぐに帰るつもりでふらりと外に出たのなら、日記を隠したり持ち出したりするとは思えない。
留守中にあまりいじらない方がいいのではないか、多子はそう思ったが、伯母は探す作業を一向にやめようとはしない。ここに来た目的は最初から日記にあったのかもしれない。そこに失踪の手がかりが書いてあるのではないか、と思っているのだ。
「多子ちゃんからの手紙が出てきたわよ」
ほら、と伯母は多子に手紙の束を手渡した。もちろん、見覚えはある。多子が常用している封筒には、多子の文字で一也の宛先《あてさき》が書かれている。それらはここ一年ほどの間に投函《とうかん》した手紙だ。几帳面《きちょうめん》に消印の日付順に重ね、輪ゴムで一まとめにされてあった。
自分で書いた手紙だ。改めて中身を確認するまでもない。元の場所に返してもらおうと伯母に差し出した時、多子は妙なことに気がついた。
「一番新しいのがないわ」
一番上にあるはずの手紙が、ないのだ。一カ月以上前に出したのだから、とっくの昔に届いていていいはずなのに。
念のために、ポストにたまっていた手紙を見てみたが、すべてダイレクトメールや口座|振替《ふりかえ》の明細書の類《たぐい》だった。
「じゃ、一也が持っていったのかしら」
伯母の言葉に、多子は首を傾げた。
何のために? 旅先から多子に手紙を出すのに、住所の書かれた物が必要だったから?
結局、日記は見つからなかった。
伯母は諦《あきら》めて、溜まっていた一也の洗濯物だけ持って、伯父《おじ》の待つ自宅へと帰っていった。
*  *
多子がリリアン女学園の教師になって、二週間|経《た》った。
人に教えるという作業にもようやく慣れ、教科書から脱線して、雑談をする余裕も出てきた。
授業は楽しい。教科書を元に下調べをしたり、資料をプリントして配ったり、理解度を把握するための小テストを作ったり。経験してみて初めて、多子は自分に教師としての適性があるのではないか、と感じるようになった。
ただ、二年藤組教室の教壇に立つ時は、他のクラスより緊張した。それはホームルームでも同じだった。久我コハクと久我メノウがいる。それだけで、なぜだか心が騒ぐのだった。
放課後、多子は頻繁に校内を歩いた。
最初は職員室の観察から始まって、徐々《じょじょ》に範囲が広がっていったのだ。幸い新任の教師だったから、場違いな場所に迷い込んでしまっても、教職員も生徒も温かい目で見てくれた。一日も早くこの学園に慣れようとしている、そう皆の目には映っていたようだ。
その日も、多子は薄暗くなりかけた校庭にいた。校舎の裏手の高い木々を、数えるように歩いていく。これらはすべて桜だろうか。ならば、春に咲き乱れる様《さま》はさぞかし圧巻《あつかん》であろう。
ふと、多子は自分の前を歩く二つの影に気がついた。遠目でもわかる。それは、間違いなく久我コハクと久我メノウだった。
一瞬、引き返そうかと思った。けれど、好奇心が勝った。彼女たちは、どこへ行くのだろう。多子は後を追いかけた。
やがてコハクとメノウの姿は、焼却炉《しょうきゃくろ》の陰《かげ》に消えた。焼却炉の煙突からは煙は出ていない。何かを燃やしにきたわけではなさそうだ。
焼却炉に近づくにつれ、その向こう側に低い柵《さく》が巡《めぐ》らされている場所があるのがわかった。
そこに、コハクとメノウの後ろ姿がある。
吐く息は白い。けれどコートは着ていなかった。二人は、彼女たちの胸の高さもない、杭に細い板を二本渡しただけの柵にもたれて、中を覗《のぞ》いている。
四|畳半《じょうはん》、いやもっと広いだろうか。一見、何もないように見えるが、すぐにそうではないことに気づく。
そこにあったのは大きな穴で、中に枯れ葉が溜めてあるのだ。
コハクとメノウは、ゆっくりと振り返った。そこに多子がいることが当たり前のように、にっこり笑う。
「ごきげんよう。清水先生」
「あ、あの」
多子は焦《あせ》った。だからとっさにいつもは口にしない言い訳が、口をついて出た。少しでも学園に馴染《なじ》めるように歩いているのだ、と。
「ええ」
「そうでしょうとも」
二人は、まるで二人で一人みたいに、しゃべる。確かに、近くで見てもまったく見分けがつかない。けれど今の多子にとって、どちらがどちらであるかをはっきりさせる必要などどこにもなかった。
[#挿絵(img/34_135.jpg)入る]
多子は、コハクとメノウに並ぶように柵の前に立った。
「ここで、腐葉土《ふようど》を作っているのね」
落ち葉を溜めて微生物などに分解させ、栄養のある土を作る。多子が通っていた小学校でも、体育館の裏で作っていた。
「久我さんたちは、どうしてここに?」
園芸部か何かに入っているのだろうか。しかし、答えがやって来る前に、逆に多子は聞き返された。
「そういう先生は?」
「え?」
「放課後はよく校内を散策《さんさく》されているようですけれど、何かお探しなんですか」
「だから――」
少しでも学園に馴染めるように。もう一度それを言わなければならないのだろうか。だが二人はそんな言葉には興味がないというように、軽く視線を外した。
「例《たと》えば」
「飛田先生の死体とか?」
二人は、一度外した視線を同時に多子に向けた。
「えっ!?」
予想だにしていなかった言葉に、素直に驚いて、取《と》り繕《つくろ》うことすら忘れた。多子にできることはただ目を見開いたまま、コハクとメノウを見つめ返すことだけだった。
そうだ。多子は一也を探しているのだ。
スペインから、一也の絵葉書が届いた。それは一也は元気でいるという、何よりの証拠だ。事実、多子も伯母にその葉書を見せて安心させたのだ。しかし、多子はその葉書があったからこそ、ここにやって来た。
果たして、あの葉書は一也本人が書いて投函したものなのだろうか。
筆跡《ひっせき》は一也のものに酷似《こくじ》している。内容だって、怪《あや》しいと思わせるほどの文章量ではない。しかし、だからこそ多子は違和感を覚えたのだ。
なぜ一也は、失踪した理由について一切触れないのだろうか。
心配していると思って元気でいる旨《むね》伝えたかったのなら、多子に絵葉書を出す前に実家の両親のもとに国際電話の一本もかければいい。なのに、一也からは依然《いぜん》その一枚の絵葉書以降、家族や親戚《しんせき》には連絡らしきものはない。
多子は心のどこかで、一也はもう死んでいるのではないかと思っていた。彼が仕事を中途で放り投げ、理由も告げずに海外に旅立ったというより、その方がずっと納得できる気がした。
やがて久我姉妹の、片方がクッと喉《のど》を詰まらせるように笑った。
「鎌《かま》をかけただけなのに。可愛《かわい》い先生」
もう片方も、同じように笑う。
「飛田先生は、いなくなっただけなのでしょう? どうして学園《ここ》に死体があるの」
自分たちで振っておいたくせに、こんなに面白《おもしろ》いことはないというように、コハクとメノウはくすくす笑う。その様子を眺《なが》めているうちに、多子は多少冷静さを取り戻した。
「そうね。おかしいわね」
バカげている。どこかに一也の死体がある、という考えも。自分が、六つも年下の少女たちの、手玉にとられていることも。
「でも、あなた方はどうしてわかったの?」
死体|云々《うんぬん》はバカげた妄想《もうそう》としても、鎌をかけてきたくらいだ。少なくともコハクとメノウは、多子が一也と知り合いだったことに気づいていたわけだ。
「どうして、って」
二人は、顔を見合わせた。まるで、相手の顔に答えが書いてあるとでもいうように。
「一目見てわかったわ」
「そうね。先生、ギラギラしていたもの」
新任の教師なのだ。緊張ややる気でギラギラしていたっておかしくないだろうに。多子は思った。コハクとメノウは、よほど勘《かん》が鋭いのだろう。
「清水先生は飛田先生の何?」
片方が聞いてきた。
「従妹《いとこ》よ」
今更《いまさら》、隠すこともないだろう。多子は正直に答えた。
「ふうん。それだけ?」
「それだけ、って?」
「飛田先生のこと、好きだったんじゃないの。――ってメノウは聞いたのよ」
「大人をからかわないで」
好きという言葉にカッとなって、多子は声を荒らげた。しかし二人は動じることなく、キョトンとしている。
「大人とか子供とか、関係ないんじゃないの?」
メノウが言った。先程言葉を発したのがコハクならば、の話だが。
「そうね」
反論はできない。子供の言葉にカッとなった時点で、声高《こわだか》に大人を主張する資格などない気がした。教師としての適性があるなんて、自惚《うぬぼ》れもいいところだ。
多子は、目の前の落ち葉に視線を落とした。自分が取り乱した記憶を、この中に隠してしまいたかった。
「銀杏は向いていないんですって」
ふと、メノウがつぶやく。
「何が?」
「腐葉土に。だから、銀杏並木の落ち葉はここに入れてもらえないんですって」
あんなにあるのにね、と遠くを見ながらコハクが言った。建物や木々が邪魔《じゃま》してここからは見えないが、その視線は校門から続く並木道の銀杏に向けられているようだった。なるほど、あれらの銀杏の葉がすべて落ちるのだから、毎年相当な量になるだろう。腐葉土として再利用されないのは、確かにもったいないかもしれない。
でも。
「孤高《ここう》の植物だから。仕方ないのかもしれないわね」
多子は、思ったままを言葉にした。
「孤高?」
二人は同時に聞き返した。
「そう。銀杏は大昔から地球上にいて、厳しい氷河期《ひょうがき》も何とか生き残って、仲間はもう残っていないのよ」
腐葉土には不向きであることは知っていても、植物としての銀杏のことは詳《くわ》しくないらしい。コハクもメノウも、目を輝かせる。葉の形が鴨《かも》の足に似ているから、銀杏は鴨脚《おうきゃく》とも呼ばれていると話すと、二人は声をあげて笑った。
「葉っぱは、薬になるのよ。あと、そうね。栞《しおり》にすると、本を虫から守ってくれるし」
「それならリリアンの銀杏の葉っぱで、世界中の病気を治したいわ」
「世界中の本を守りたいわ」
こうしてみると、やはり高校二年生の少女だ。手始めに、銀杏並木で箒《ほうき》の目からくぐり抜けた落ち葉を探しにいこう、そんな相談まで始めた。
手をつないで、走り出そうという時、二人は思い出したように多子を振り返って言った。
「協力してあげるわ」
「え?」
ドキリとした。もはやコハクとメノウの頭の中は、銀杏の葉でいっぱいになっていたのではなかったのか。
「先生のこと、気に入ったの。だから」
「協力って、いったい何を」
まさか一也の死体を探すためにそこら中を掘り起こすつもりでは、と心配になったがそこまで具体的な提案ではなかった。
「先生が納得する答えを得るまで、つき合ってあげるという意味よ」
「私たち幼稚舎《ようちしゃ》から通っているから、この学園のことは詳しいわ。味方につけて損《そん》はないはずよ」
確かにそうだろう。学園のことに暗い多子にとって、その申し出はありがたいことに違いない。
しかし、何だろうこの不安は。
コハクとメノウに近づくことで、一也の真実に一足飛《いっそくと》びで近づく予感がしてならない。
それでいいのだろうか。
もしかして、一也を探したけれど見つからなかったという結末の方を、自分は選びたいと思っているのではないのか。
わからない。
しかし、もう遅い。多子は、呼び込んでしまった。天使か悪魔かわからない、そんな少女たちを。
日が落ちて辺りがすっかり暗くなった中を、多子は一人、校舎に向かって歩き出した。
コハクもメノウも、もうここにはいない。
そうだ。
今頃、銀杏並木のマリア像の前を、笑いながら走り抜けていることだろう。
協力してあげると言いながら、コハクとメノウのそれは、どちらかというと多子《なこ》を混乱させることの方が多かった。
「私たちの父親は、イギリスで仕事をしているの。だから一緒には暮らしていないの」
その日の「協力」は、そんな言葉から始まった。
彼女たちは、放課後多子が校内を散策《さんさく》していると、いつの間にか側《そば》を歩いている。それは校舎の廊下《ろうか》だったり、中庭だったり、図書館の閲覧室《えつらんしつ》だったり、場所はその時々によって違った。ただ、いずれの場合でも、周囲に人気《ひとけ》がない時に合流してくる。授業が終わった休み時間や、職員室にまでやって来て話しかけてくることは決してなかった。
ちなみに、今日は雨上がりの運動場のトラックの周りを歩いている。昼過ぎから小雨が降ったり止《や》んだりしていたので、普段は外で活動している運動部も、体育館やその他の場所に籠《こ》もっているようだ。
「そう。お父さまは忙しいのね」
学校は、たくさんの子供を預かる場所である。その中には家庭が複雑な子も少なくないわけで、今日日《きょうび》片親だからといって別段驚くことではない。多子は過剰《かじょう》に反応することなく、コハクの言葉を受け流した。
「でもね、本当は日本にいるの。東京に住んでいるの。パパは別に家庭をもっているから、私たちとはいられないんだわ。ママも死んじゃったし、向こうの奥さんの目を気にしながら会いにくるのも大変なんでしょ」
「…………」
そこで、多子はこの話題を「そう」で片づけることを断念した。しかし、どういう言葉をかけるのが適当であるか、皆目《かいもく》見当がつかない。
多子の心中を読んだかのように、メノウが言った。
「同情してもらうために話したんじゃないわよ」
コハクも続ける。
「そうよ。私たちには母親代わりの伯母《おば》さまがいるし、大きなお家《うち》もあるし、パパの送ってくれるお金で何不自由なく暮らしているんですから」
だから本題はここからなのだ、と二人は笑う。
「パパは、外国に住んでいるって私たちに思い込ませるために、定期的に手紙をくれるの。もちろん、イギリスからね」
「イギリスに住んでいる友人経由でね。だから切手はイギリスの物だし、消印もロンドンの郵便局の物が押されているわ。徹底しているでしょ?」
外国からの手紙というキーワードに、多子は足を止めた。
「飛田《ひだ》先生が、日本にいるとでも?」
多子は、コハクとメノウに一也《かずや》の絵葉書の件は話していた。なぜだろう、彼女たちに隠したり偽《いつわ》ったりすることは無意味な気がしたのだ。
反応を見たかった、というのも確かにある。
現物は見せずに、ただ絵葉書が来たという事実だけ。
その時の彼女たちは、驚きもせず「じゃあ、いくら探したって飛田先生の死体は見つからないじゃない」と呆《あき》れたように笑った。だが、だからといって「協力」をやめるとは言わなかった。多子に「納得」が訪れていないことをわかっているのだ。
「別に」
二人も立ち止まり、多子を見た。
「飛田先生が日本にいるなんて、言っていないわ。スペインにいるかどうかはわからないわよ、とは思っているけれど」
「そうよね。葉書にある日付の日に起こったニュースとか、一緒に書かれているならまだしも」
コハクの目が、メノウの目が、葉書なんて信用できないと言っている。
そうだ。
たとえば一也に絵葉書を渡して、宛先《あてさき》と当たり障《さわ》りのない文章を書かせる。後日、誰かが日付を書き加えてスペインから投函《とうかん》すれば、一也が現地にいなくてもことたりるのではないか。
その考えを突き詰めていけば、究極《きゅうきょく》、一也がもうこの世にいなくてもいいということになる。先日多子のもとにスペインから届いたあの葉書と同様の物を、死ぬ前に複数枚書き残していたとしたら、その枚数が尽きるまで、一也が生きていることを装えるのだ。
しかし、いったい誰が? 何のためにそんなことをする必要がある?
わからない。
一也が生きていると思わせなければならない理由も、その人物も、多子には心当たりがなかった。
ばかな。これでは、まるで一也が本当に死んだみたいではないか。
いつもそうだ。彼女たちと話をしていると、どこか迷宮《めいきゅう》に引っ張り込まれ、そこで手を離されて置き去りにされる。
昨日《きのう》は、中等部校舎の地下室に連れていかれた。一昨日《おととい》は、温室に閉じこめられかけた。劇薬が保管されているという理科室の棚《たな》の鍵《かぎ》を管理している教師や、一也とそりが合わなかったという教師の名前を耳打ちされたこともある。
これが彼女たち流の協力なのかと疑問を感じつつ、多子は二人を拒絶できない。放課後、いつ現れるのかと二人を待っていることすらある。
「きゃっ」
野生の鳥が、三人の頭上の枝を揺らして飛び立っていく。コハクとメノウの大きな瞳《ひとみ》は、鳩《はと》くらいの大きさの鳥が羽ばたいていく様《さま》をずっと追いかけている。その二人のことを、多子はずっと眺《なが》めていた。
髪に落ちた雨粒が真珠《しんじゅ》の髪飾りみたいにきらめいて、彼女たちをますます美しくひきたてていた。
*  *
ある朝、多子は学校に着くなり、先輩教師カネゴンに職員室の隅《すみ》へと連れていかれた。
「困りましたね。清水《しみず》先生」
「はい?」
いつもは、多子より十五分は後に通勤してくる人である。今朝は言いたいことがあって、早めに来て多子を待っていたのだろう。教師たちは、まだほとんど揃《そろ》っていない。
「久我《くが》コハクとメノウですよ。昨日の放課後、中庭を一緒に歩いていたでしょう」
「はい」
多子は素直にうなずいた。
教師と生徒である。一緒に歩いているだけで、責められるいわれなど何もないと思われた。コハクとメノウだけではなく、昼休みなどには教室で生徒たちと一緒にお弁当を食べたりしているし、身体《からだ》を温めるレクリエーションの輪《わ》に加わったりもしている。
「あの二人には関《かか》わらないように、そう言ったはずです。これは、あなたのためを思って言っているんですよ」
カネゴンは、目を充血させながら捲《まく》したてる。真剣に諭《さと》していることはわかるが、詳《くわ》しい理由も告げられずに頭ごなしに関わるなと言われても、「はい、わかりました」と呑《の》み込むことはできなかった。
「今日は、うちのクラスの授業もないみたいだから、ちょうどいいわ。朝も帰りもホームルームは私一人でみます。あなたは頭を冷やしなさい」
カネゴンはそう言い残すと、二年|藤《ふじ》組の出席簿を持って職員室から出ていった。
「…………」
ホームルームまでは、まだ相当時間がある。廊下の冷気にさらされたら、たぶん彼女の方こそ頭が冷えて、早々に戻ってくることだろう。
その前に、と多子は一人の女教師の前まで歩いていった。以前、コハクとメノウの髪型が変わった件を教えてくれたあの教師だ。名を、秦野《はたの》という。
まだほとんど人のいない職員室内で、不自然に教科書を顔の位置まで掲《かか》げて読んでいる。多子とカネゴンの話に、聞き耳を立てていたのは明白だった。
「何かあったんですか」
多子は尋《たず》ねた。コハクとメノウに関わることが、どうして多子のためにならないか。彼女なら知っているかもしれない。
「いいえ。私は何も」
椅子《いす》をクルリと回して背を向ける。多子はそれを追いかけて、また顔を覗《のぞ》き込んだ。
「教えてください」
多子が諦《あきら》めないので、仕方なく秦野先生は口を開いた。
「兼高《かねたか》先生は、あなたのことを気に入っているのよ。だから」
「だから?」
「前任者の二の舞《まい》はさせたくない、って思っているんでしょ」
前任者。その言葉に、多子の心臓は飛び上がった。前任者といったら、一也のことに他ならない。
「どういうことです。飛田先生は、ただいなくなったんじゃないんですか。その前に、何かあったんですか」
「これ以上は、私の口からは」
秦野先生は、逃げるように椅子《いす》から立ち上がった。折しも、数人の先生が雑談しながら職員室に入ってきたところだったので、多子もそれ以上の追及は諦めた。
*  *
朝も帰りもホームルームには出なくていいと言われていたので、多子は六時間目の授業を終えると、コートだけ羽織《はお》って学園を飛び出した。バス停にして二つほどの距離に、笹井《ささい》の大叔母《おおおば》の家がある。
昼休みのうちに、放課後訪問するという連絡は入れておいた。多子は、大叔母にどうしても聞かなければならなかった。
「一也がいなくなる前に、何かあったんですか?」
「何なの、怖い顔をして」
玄関に入るなり切りだすと、大叔母は茶化《ちゃか》すように言った。多子の用件を、察していたようだ。まあ座りなさいと、リビングに通されたので、多子は憮然《ぶぜん》とソファに腰掛けた。
「先日、小母《おば》さまは一也のことでは迷惑している、っておっしゃっていたわ。確かに無断欠勤かもしれないけれど、行方《ゆくえ》不明になっているのよ? 学校側が、保証人だからといって小母さまを責めたりするかしら。他に何かあったとしか思えません」
「一也のことで、何か聞いたの?」
「いいえ」
多子は首を横に振った。
「でも、感じるんです」
「そう」
大叔母はシガレットケースから煙草《たばこ》を一本取ると、ライターで火をつけた。ゆっくり半分ほど吸った後、煙を吐き出した口で言った。
「無断欠勤もなにも、一也は辞《や》めることになっていたのよ」
「え?」
多子は耳を疑った。
「失踪《しっそう》する直前に、不祥事《ふしょうじ》を起こしてね。まあ、いろいろあって、どうにか依願退職という形で収めてもらうことになったんだけれど。一也は明日|辞表《じひょう》を持ってくると言って帰ったきり、そのままいなくなったの」
「そんな」
彼には、失踪をする理由があった。そういうことだろうか。しかし、やはり信じられない。誰か別の人の話を、聞いているみたいな気分だ。
「だからね。どこかで自殺でもしているんじゃないかって、心配もしたわけよ。だとしたら、辞めるはずだったことをわざわざ公表することもないから、その辺のことは伏せて後任を入れたってことになっているの。でも、海外旅行していたなんて。まったく、こっちの気遣《きづか》いも知らないで」
「不祥事って?」
質問すると、大叔母は吸いかけの煙草を灰皿にグジャグジャと乱暴に押しつけて、火を消した。
「生徒に痴漢《ちかん》行為をはたらいたそうよ」
「まさか」
多子は、思わず笑いかけた。だが、大叔母は真顔《まがお》だ。
「相手の生徒が、学年主任の先生に訴え出て。詰問《きつもん》したら、一也もその事実を認めたらしいわ」
「……信じられない」
「身体を触ったとか、キスをしたとか、そういう類《たぐい》のことだったらしいけれど。親戚《しんせき》の中では真面目《まじめ》な好青年で通っていた一也も、所詮《しょせん》は愚《おろ》かな男だったってことよね」
大叔母の話は、多子には不快以外の何ものでもなかった。それでも、わかったことがある。大叔母が、一也の後任を決める上で女という条件にこだわった理由が。
「相手は誰なんですか」
多子は身を乗り出した。自分が授業を受け持っている生徒だろうか。まさか、二年藤組の中にいるなんていうことは――。
「あなたが知ってどうするの」
「事情を聞きます。一也がそんなことをするなんて、何かの間違いだわ」
興奮《こうふん》して立ち上がると、大叔母は目線だけ動かして、座るよう命じた。依然《いぜん》立ったままでいると、今度は「多子」と静かに名前を呼ばれた。
「私は、冷静に話をできる相手としか話をしたくはないわ」
その言葉に、我に返った。確かに、今の多子は頭に血が上っている。まともに話を聞く態勢ではなかった。
憤慨《ふんがい》するのも考えをまとめるのも、取りあえず後回しだ。まずは情報収集しなければ、何も始まらない。
「取り乱して、申し訳ありませんでした」
一礼してソファに腰掛けると、話が再開された。
「たとえその生徒が大げさに言ったとしても、誤解されるような行動をとった一也が迂闊《うかつ》だったの」
「でも」
「相手が悪かったってことも、多少は言えるわね。その生徒の父親は、名前を聞けば誰でも知っているような有名代議士でね。学校へは、多額の寄付金も出してくれているわ。だから、誰も一也のことを庇《かば》ってくれやしなかったでしょう」
「そういうことですか」
ならば、一也はやってもいない罪を強引に認めさせられたのかもしれない。けれど、同じリリアンの生徒なのに、親が誰かによって対応が変わるなんて、どう考えてもおかしい。
「わかったのなら、関わるのはおよしなさい」
なぜだろう、大叔母はカネゴンと同じことを言う。
「帰ります」
多子は椅子を立った。長居したところで、大叔母からはもうこれ以上の情報は聞き出せないだろう。
「どこに?」
「学校です。やり残したことがあったので」
大叔母の家を後にすると、多子は走って学園に戻った。ホームルームはとっくに終わり、掃除もすでに済んでいる。テニスコートからは、ボールの弾《はず》むスコーンといった気持ちいい音が聞こえていた。
多子は校舎には入らず、その足で校舎の裏側へと歩いていった。いつもとは逆だ。多子が、コハクとメノウを探している。
いつだったか、彼女たちに聞いたことがある。どうしてすぐに多子の姿を見つけることができるのか、と。すると彼女たちは不思議そうに首を傾《かし》げて、「何となく」と答えたのだった。
今の多子は、その「何となく」がわかる。あそこにいるはずだ、と確信のようなものが多子を急がせているのだ。
*  *
思った通り、腐葉土《ふようど》を作っているあの柵《さく》の側《そば》に人影を見つけた。
しかしいつものように二人連れではなく、一人の姿しか見られない。
けれど、それでも構わなかった。二人一緒でなくても用は足りる。多子は、息を整えながら近づいていった。少女は柵の内側に立って、四角く切り取られた地面の中に眠る大量の落ち葉を見下ろしていた。
以前来た時には気づかなかったが、柵の一カ所に出入りのための扉がついている。多子は、それを開けて中に入った。
「どっち?」
後ろ姿に向かって尋ねる。
「何が?」
コハクだかメノウだかわからない少女が、振り向いて聞き返した。
「どっちが、一也の恋人だったの?」
「恋人ですって?」
少女は鼻で笑った。けれど、多子は笑えなかった。
「あの人は、嫌がる女の子を力ずくでどうにかしようとする人じゃないわ」
大叔母の話を聞いてピンと来た。確信と言ってもいい。痴漢をされたと訴え出た生徒は、コハクかメノウのどちらかだ。
そうだ。どちらかと恋仲になったのだ。けれどそのことが露見《ろけん》しそうになったので、一人で罪を被《かぶ》ったのだ一也は。
「してもいいって言わないのに、接吻《せっぷん》したわよ彼。それは力ずくとは言わないの?」
接吻という言葉に、一瞬頭に血が上った。けれど感情的になってはだめだと、自分に言い聞かせて話を続けた。
「あなたに? それとももう一人の方に?」
しかし、多子の質問に少女は答えない。
「先生の大好きな飛田先生は、そんな人なんだわ。男なんて、みんな汚くて身勝手な動物なのよ。口先だけで、真心なんてありゃしない」
言いたいことだけ、しゃべり続ける。だが、多子は根気強く尋ねた。
「それで、あなたはどっちなの? コハクさん? それともメノウさん?」
「清水先生、私、先生のそういうところ好きよ。わからないことはわからないって正直に言うでしょ? だから、ついつい教えてあげたくなるんだわ」
コハクだかメノウだかわからない少女は、向かい合った多子の背中に両手を回して、身体を密着させた。
「君が好きだ、って。メノウと君とは違うんだ、って。双子《ふたご》の片割れではなく、君個人を愛している、って。そう言ったのよ、彼。ここで私をこうして抱きしめて」
「え……?」
多子の胸はドキドキと高鳴った。それは一也に抱かれて愛を囁《ささや》かれているような気持ちになったからなのか、それともこの美しい少女自身に欲情を覚えているのか、自分でもわからなかった。
わからない。けれど、この鼓動《こどう》の速さだけは彼女に気づかれたくない。なのに、腕を振りほどき触れあった胸を離すことが、どうしてもできない。
「痴漢にあったって訴えたのは、あなたなの?」
辛《かろ》うじて、多子は言葉を紡《つむ》いだ。
愛していると言った男を、痴漢として突き出したのか、この少女が。いや、それをしたのはもう片方かもしれない。二人は、見分けがつかないほど似ているのだから。
「飛田先生は、メノウが先生方に訴え出たと思ったみたいね。コハクと飛田先生を別れさせるために一芝居《ひとしばい》うった、って」
「違うの?」
多子の言葉に、少女はクスッと笑った。
「どっちでも同じなのよ」
「同じ?」
コハクであろうとメノウであろうと、彼女たちにとっては同じということだろうか。けれど彼女たちがどう思おうとも、一也にとってはどちらが訴えたかということは、重大な関心事であったはずだ。その答え如何《いかん》によっては、天地がひっくり返るほどの。
「ここで私をこうして抱きしめて、彼は言ったわ。学校を辞めなければならなくなった。もう会えない。だから一緒に来ないか。君はこのままメノウといたらだめになる」
「どうして一緒に行かなかったの」
コハクは、メノウと自分を区別したくて髪型を変えたのではなかったのか。もしコハクがメノウと決別したいと望んでいたとしたら、恋人だった一也こそが、この世界から救い出してくれる王子さまに成り得たはずなのに。
「わからないわ。どうして」
つぶやいた多子の肩先で、小さな苦笑がもれた。
「行けるわけないじゃない」
多子の身体は解放され、ほぼ同時に背後から別の声があがった。
「そうよ。彼女はメノウなんだから」
「えっ」
振り返るとそこには、いつからいたのか、メノウ、いやコハクだろうか、もう一人が立っていた。
新たに現れた方は、先にいた方をメノウだと言った。
でも、さっき聞いた話では一也はコハクと恋仲だったはず。そしてメノウは、一也に抱きしめられたと言っていた。
「だから――」
コハクはゆっくり歩いてきて、メノウに並んだ。
「……わかったわ。一也は、間違えたのね?」
多子が慎重に確認すると、二人はうなずいた。
「そう。偉《えら》そうなこと言って。髪型だけで判断していたのよ、彼」
何のためにそうしたのかわからない。けれどメノウは、コハクと同じように髪を切って一也の前に現れた。一也はメノウが髪を切ったことを知らなかった。だからメノウをコハクだと思い込んで、一緒に逃げようと持ちかけてしまったのだ。
「何てこと……」
それは、コハクへの裏切りだ。
一也が「二人は違う」と言い続けていたとしたら、最初から見分けがつかないと諦めている人間より、よっぽどたちが悪い。自分と同じ顔をした別人を抱きしめる恋人を見た時の、コハクの絶望は想像にあまりある。そして、それはメノウに対しても同じ仕打ちだったと言えないか。
「それで?」
多子は二人に尋ねた。
「一也を、どうしたの?」
期待させておいて、彼女たちのプライドをズタズタにした一也。彼は、その後どうなったのか。
「殺したの?」
「殺さないわ。ただ」
コハクは「こうしただけよ」と言って、両手で多子の肩を思い切り突いた。
「あっ」
不意打ちだった。ちょうど落ち葉の貯蔵場を背にして立っていたから、腐葉土の上に背中から落ちた。気がついた時には、辺《あた》りは湿った落ち葉でいっぱいだった。
「清水先生は飛田先生が好きだったんでしょう? だから、あの日と同じことをしてあげただけよ」
「あの日?」
一也が失踪したあの日のことを、言っているのだろうか。
メノウが先に来ていて、二人が抱き合ったところでその後コハクが現れた。多子がたった今体験したことは、あの日の一也の行動をなぞっているということなのか。
「一也はどこ」
多子は落ち葉の中で身を起こして、穴の縁《へり》に立つ二人を見上げた。髪にもコートにも土や葉っぱをつけたままだったが、構わなかった。
「知らないわ」
「私たちはここに落としただけ」
冷ややかな視線が返ってくる。
「まさか」
多子は半狂乱になって、足もとの落ち葉を素手《すで》でかき起こした。一也がここに落ちた。その後、どうなったのだ。まさか、まだこの下に――。
必死で掘り返していると、頭上から高笑いが聞こえてきた。
「きれいよ先生」
「あなた、本当に素敵《すてき》だわ」
言い残して背中を向ける二人。
「待って」
多子は、無我夢中で穴から這《は》い上がると、必死で追いかけた。落ちた時にひねったのか、右足が痛くて思うように走れない。それをあざ笑うかのように、コハクとメノウは蝶《ちょう》のようにヒラヒラと逃げる。まるで、ここまでおいでと、からかっているみたいだ。
銀杏《いちょう》並木を進んで、マリア像の前まで来ると、二人は立ち止まって振り返った。
追いついた多子に、ニッコリとほほえむ。
天使だろうが悪魔だろうが構わない。
あまりに美しくて、多子は何もできないまま立ちつくした。
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*  *
「それでは、出席をとります。相川亜紀美《あいかわあきみ》さん」
出席簿を開きながら、多子は呼びかけた。
「はい」
真ん中辺りから、元気のいい声があがる。
「伊藤昌子《いとうまさご》さん」
「はい」
右手後方からの声は、少しかすれている。風邪《かぜ》気味のようだ。
風邪がはやっている。このクラスも、今朝は五つほど空の机がある。マスクをしている生徒も目立つ。
右足首を捻挫《ねんざ》した多子を「不注意」「体調管理がなっていない」と叱責《しっせき》した翌日、カネゴンも風邪でダウンした。そのため、図《はか》らずも多子は、二年藤組の副担任としてホームルームに復活した。
あれから数日。多子は足のこともあって、放課後に校内を散策することをやめた。もちろん、腐葉土を溜《た》めたあの場所にも近づいていない。
「小方満子《おがたみつこ》さん」
考えてみたら、女で中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》の多子がすぐに抜け出すことができたくらいの穴だ。身長がわりとある一也が落ちたとして、自力で出られないわけはないのだ。一瞬であっても、どうして一也の死体が埋まっているだなんて思ったのだろう。
「加山幸代《かやまさちよ》さん」
でも、もし。
ただ突き落とされただけ、ではなかったとしたら?
女子高生一人では無理でも、二人ならば成人男性一人くらい――。いや、まさか。
でも多子は近頃、一也が生きていようが死んでいようが、どうでもよくなっている自分に気づいている。
「木下《きのした》りえさん」
昨日、一也からまた絵葉書が届いた。今度はエジプトにいるらしい。しかし、やはり肝心《かんじん》なことは何一つ書いていなかった。
でも、一也が無事生きているのなら、それも何となくわかる。
多子は、あの日のことを誰にも言わない。コハクとメノウのことは、日記にも手帳にも書いていない。
だから、たとえ明日死んだとしても、二人に対する想《おも》いだけは、誰に知られることもないだろう。
この胸の内を知っているとしたら、あの日見ていたマリア様だけだ。
「久我コハクさん」
今日も多子は、何事もなかったかのように、出席をとり続ける。
「久我メノウさん」
教室の両側から、一対《いっつい》の宝石がこちらをじっと見つめているのを感じながら。
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リトル ホラーズ―X
一人、二人、三人いたよ♪
四人、五人そこでストップ♪
(フンフフ、フンフフ、フンフフ、フフフン)
五人のリリアンガールズ♪
最初は、そんな感じで徐々《じょじょ》に仲間が増えていった。
菜々《なな》が、三年|菊《きく》組教室を出てからこっちの話だ。
薔薇《ばら》の館の階段を上った時は一人。でも、階段を下りる時は二人だった。乃梨子《のりこ》さまがついてきたから。
校舎に行ったら三人に増えた。瞳子《とうこ》さまが加わったのだ。
三人で薔薇の館に行って、一階の部屋を覗《のぞ》くと、今度は一気に五人になる。由乃《よしの》さまと祐巳《ゆみ》さまが、水道管を握ったまま身動きとれずにいたためだ。
そこが天辺《てっぺん》。それから、徐々に人数が減り始める。
まず、乃梨子さまがいなくなった。次いで、由乃さまも出ていった。そして、今はたった三人。
頭の中に、先程浮かんだメロディーが甦《よみがえ》る。
(五人、四人、三人いたよ♪)
脳内にいる誰かが、勝手に嫌な歌詞を作って替え歌を口ずさむ。
困った。
元歌では、十人いたインディアンボーイたちは、最後に一人になってしまうのだ。
今は三人いる。しかし、このまま一人ずつ減って、終《しま》いには一人のリリアンガールになってしまうのではないか。
(そして誰もいなくなった)
菜々は、小さく首を左右に振った。バカな。何を考えているんだ。
五人が三人になった、それだけのことではないか。何を大げさに考えているのだ。
何の根拠もない、ただの偶然。
水道管が壊れたことは、誰かが先生に言いにいかなければならなかった。それが、たまたま乃梨子さまだっただけの話。
由乃さまを剣道部の会合に行かせたのは、菜々である。
何か変な力が働いているとも思えない。
きっと、この薄暗がりのせいなのだ。太い一本の蝋燭《ろうそく》のような陵中電灯の光が演出する、えも言われぬ雰囲気《ふんいき》が心細くさせているに違いない。
きっと、乃梨子さまだってそろそろ戻ってくるはずだ。そういえば、今どれくらいの時間なのだろう。
「今、何時頃でしょう」
菜々はつぶやいた。時計を見たくても、腕を返せない。隣りにいる瞳子さまも、「さあ?」というように首をすくめた。
「えっと。四時ちょっと過ぎかな」
祐巳さまが懐中電灯に左腕をかざして言った。
「乃梨子さま、どれくらい前に出られましたっけ」
「あー、それは確認しておかなかったな。五分くらい前?」
「いえ、五分前ってことは」
五分前だったら、由乃さまだってすでにここにはいなかった。
「あ、そうか。乃梨子ちゃんが先で由乃さんが後か」
すると、十分。いや、十五分は経《た》っているか。職員室に行って帰ってくるだけだったら、十分すぎるほどの時間だ。
「そういえば、乃梨子は遅いわね」
菜々の心の中を読むように、瞳子さまが言った。
「そうですね」
大丈夫だ。少なくとも、菜々と同じように水道管を握っている瞳子さまだけは、いなくならない。だから、菜々は決して最後の一人にはならないだろう。
むしろ注意すべきは祐巳さまの言動。もし次にいなくなるとしたら、それは祐巳さまに外《ほか》ならない。
が、予想に反して先に動いたのは瞳子さまだった。
手持ちぶさたに床板《ゆかいた》の木目を指で撫《な》でていた祐巳さまに、突然「お姉さま」と声をかける。
「何?」
祐巳さまだけでなく、菜々も顔を上げた。
「すみません、少し代わっていただいてもよろしいでしょうか」
これ、って。指で示せないから、顔を水道管に向けて言う。
「いいわよ。疲れた?」
よいしょ、と腰を上げて祐巳さまが近づいてくる。
「いえ」
では何だろう、と菜々もその答えに注目した。すると。
「お手洗いに行きたくなってしまって」
「あら」
そっちを代わってあげられない以上、当然水道管のほうは祐巳さまが引き受けることになる。
「いいですか。では、せーの」
さっきとは逆に、水道管は瞳子さまから祐巳さまへと持ち手が代わった。
「ダッシュで戻って交代しますから」
「ゆっくりいってらっしゃい」
菜々があわわあわわとなっている間に、ついに二人になってしまった。生理現象っていうのは、不可抗力《ふかこうりょく》である。「変な力」とは関係ないと思いたい。
それはともかく、こうなったからには菜々と祐巳さまは運命共同体。どちらか一人がいなくなるなんてことは、あり得ない。
しかし、同志は意外な言葉を口にする。
「菜々ちゃんは、お手洗いいいの?」
「えっ」
「行きたかったら、遠慮なく言って。少しの間だったら、一人でも大丈夫だから」
何ということだ。顎《あご》を突き出しながら「左手でここ持つでしょ? 手を伸ばして右手でそっちを持つ」なんてシミュレーションまでしてみせる。菜々は慌《あわ》てて首を横に振った。
「い、いえっ、大丈夫です」
祐巳さま一人で大丈夫なら、菜々一人に任せることも可能ということになる。もし、「それなら私が」なんて出ていかれたらどうしようと不安になったが、幸い、そんなことにはならなかった。
祐巳さまの興味は、もうお手洗いから別の場所に移っていた。
「菜々ちゃん。どうして由乃さんと行かなかったの?」
三年菊組、って。菜々が行きたくないことがわかった、で、終わりにしたわけじゃなかったようだ。
「全員出席しなきゃならないんだったら、菜々ちゃんだって行かないといけなかったでしょ?」
確かに。理屈ではそういうことになる。
「今日の集まり、部の役員を決める会議だったんじゃないの?」
「そうです。よくおわかりになりましたね」
「そりゃ。四月に運動部の部員が教室に集まる、っていったらそんなところでしょう。その上、由乃さんが逃げ回っているわけだから。でも、由乃さんを部長になんて誰も担《かつ》ぎ上げないでしょ?」
ただでさえ忙しい|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》に、部長の仕事まで負わせるのは、どう考えても無理である。
「ええ。部長だけは、大体昨年度の終わりから内々に決まっていたみたいで」
「あ、そうなんだ。誰?」
「田沼《たぬま》ちさとさまです」
「あらま」
ちょっと驚いている理由はわかる。ちさとさまは三年生ではあるけれど、一年生の終わりに部に入った、まだ剣道歴は一年ちょっとという経験の浅い部員だからだ。当然、実力的には上という二年生もゴロゴロいる。
「でも、一番強い部員が部長になるわけじゃないものね。ちさとさんなら、ピッタリだわ」
祐巳さまの言葉に、菜々もうなずく。部長は、部をまとめる力がある人がなるべきなのだ。
「で、ちさとさまは、うちのお姉さまに副部長をやらせようとしています」
「あー。うまいこと考えたな」
書記や会計などと違って、副部長には具体的に「これ」という仕事はない。強《し》いていうなら、部長の補佐《ほさ》。部長に何かあった場合以外は、さほどの出番はない。空席にしている部だってあるくらいだ。もちろん、逆に副部長が腕をふるう部活も少なからず存在するが――。
「部にあまり出られなくても副部長なら、ってわけね。でも、それを嫌がる由乃さん」
「はあ」
「で、このままではユーレイ部員になっちゃう、とちさとさんは心配してるんだ。どうして?」
祐巳さまは考え込む。由乃さまは、二年生の時だって生徒会の仕事を手伝いながら、できるだけ部活をやっていた。由乃さまのお姉さまである支倉令《はせくられい》さまだって、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》になったからといって部活をやめたりはしなかった。ではなぜ――。
「まさか、令さまがいなくなったから部活に出ない、なんてことはないよね」
はははと笑う祐巳さま。たぶん、冗談のつもりで言ったのだろう。菜々が笑わずにいると、「おや?」というようにそっと顔を覗き込んできた。
「もしかして、菜々ちゃんは自分が入部したせいだと思ってる?」
「……」
「なるほど」
答えなければ、肯定にとられても仕方ない。四月に入ってから由乃さまが部活に顔を出さなくなったという話を耳にした時、山百合《やまゆり》会の仕事が忙しいから、と考えるよりも先に、菜々はまず自分の存在がそうさせているのではないか、と疑った。
「部活がきっかけでくっついちゃう姉妹《スール》は多いけれど、姉妹《スール》になってから同じ部になるっていうのは、大変なこともあるのね。そういえば、以前由乃さんが入部するしないで令さまともめたことがあったなぁ」
「そうなんですか」
初耳だった。さすがは同級生。祐巳さまは、菜々が知らない由乃さまの歴史をその目で見てきたのだ。
「なぜもめたんでしょう」
「知らない。令さまが頭ごなしに反対した、って由乃さんは言っていたけれど」
他人にはそう説明しているだけで、表面からは見えないいろいろな葛藤《かっとう》が、二人の間にあったのだろうと、祐巳さまの目が言っていた。菜々もそう思う。
それでも結局、その荒波を乗り越え、令さまと由乃さまはあるべきところに落ち着いた。どうしたら、そんな風《ふう》に互いによしと思える道を見つけることができるのだろう。
「まあ、令さまと由乃さん、由乃さんと菜々ちゃん、じゃ、ケースが違うよ。だから、詳細《しょうさい》を知ったところで、それほど参考にはならないと思うな」
祐巳さまは笑った。
「剣道のことはよく知らないけれど、たぶん由乃さんがどんなにがんばっても菜々ちゃんには勝てない。菜々ちゃんが悩んでいるのは、そんなところ?」
「はい」
図星だった。
絶対に勝てない、ということはないだろうけれど、物心ついた時から竹刀《しない》を握っている菜々と、剣道が身近にあったとはいえ始めて一年そこそこの由乃さまでは、実力的に差がつくのは仕方ないことだった。
高等部に入学してすぐ、いや、入学する前から、「菜々は剣道部に入るもの」と由乃さまは思っていたらしく、実際口に出しても言っていた。だから、菜々も当然の流れで剣道部に入部届を出した。家に道場がある。何も学校でまでと思わないでもなかったが、お姉さまの希望ならばという気持ちが背中を押した。自分のテリトリー以外で、腕をふるってみたかったという思いもあった。
でも、由乃さまはどんな気持ちなのだろう。姉妹《スール》の上下関係が、部活内では崩《くず》れる。今まで一度も立ち合ったことはないけれど、いずれは竹刀を交える日も来るだろう。その時、二人はどうなってしまうのか。
勝負の世界だから、お姉さまを打ちのめしてしまうこともある。その時、由乃さまの心までも折れてしまわないか。だからといって、手加減なんてしたら、かえってプライドを傷つけてしまうだろう。
もし二人が同じ部にいることで、どちらかの居心地が悪くなったとしたら――。その場を去るのは自分ではないか、と菜々は思うようになったのだ。
だから、由乃さまと一緒に三年菊組には戻らなかった。さっきはわからなかった。けれど、今ならばそう分析《ぶんせき》できる。
「由乃さんさ。以前、自分より剣道が強い子は妹にしたくないって言ってたんだよね」
祐巳さまが、ポツリと言った。その言葉を聞いて、菜々は「やっぱり」と思った。やっぱり、嫌なんだ。それが何であれ、自分より上に妹がいるというのは面白《おもしろ》くないことなのだろう。
祐巳さまの話では、その発言を聞いたのは去年の秋頃。山百合会主催の茶話会《さわかい》前後というから、まだ二人が出会う前のことだ。
「でも、結局菜々ちゃんを選んだ。それって、どういうことかわかる?」
尋《たず》ねられて、正直に首を横に振る。何がきっかけで剣道上級者を妹にしたいと考えを改めたのかもわからなかったし、祐巳さまがそんな話をする理由もわからなかった。
「そんな条件がどうでもよくなっちゃうほど、菜々ちゃんが良かったってこと」
「え」
思わず、水道管を離しそうになるほど驚いた。でもすぐに「まずい」と思って、慌てて握り直す。そんな菜々の様子を、祐巳さまは横目で眺《なが》めながらほほえんだ。
「菜々ちゃんを好きになっちゃったんだから。菜々ちゃんが妹になってくれるだけで、十分だってことじゃないの?」
ああ、こんな時に。菜々は恨《うら》めしく隣りにいる人を見た。
「本当に大切な人は、ただ側《そば》にいてくれるだけでいいんだってば」
どうして、こんな殺し文句をさらりと言ってくれるのだろう。
[#改丁]
胡蝶の夢
[#改ページ]
目が覚めたら、女子高生になっていた。
それとも、それが夢なのか。
「周《めぐり》さん、どうかしたの?」
お弁当箱の中の肉団子を箸《はし》で転がしていると、善紀《よしき》さんと春氷《はるひ》さんが聞いてきた。二人並んで心配顔。一年生の三学期が始まって間もなくの、昼休みのことだった。
「どうかしたの、って?」
つくねとつみれとミートボールの定義について考えていたの、とか何とか。一瞬私は、そんな風《ふう》にすっとぼけようかとも考えたが、やめた。なぜって、どう考えても気の利《き》いた言い訳には思えなかったからだ。
それに、確かに年明けからこっち、どうかしているのは自覚しているわけだから、ここは下手《へた》な小細工《こざいく》なんかしない方が身のためなのだ。
「このところ上《うわ》の空っていうのかしら――」
善紀さんがつぶやく。キューピーさんにそっくりなのは顔だけではなくて、左右から指を組んだ手の甲《こう》もまたぷくぷくだ。
「授業中も休み時間も、ため息ついたりぼんやりしたりしているし」
「そうそう」
と、うなずきながらその後を引き取る春氷さんは。しっかり起きているのに目がトロンとしていて、手足がひょろりと細くて、アメリカの子供番組で有名なカエルのキャラクターを思い起こさせる容姿をしている。
「その上の空が、お弁当を食べている時にまで及んでは、もう放ってはおけないわよ」
そして二人は、同時に私に迫ってきた。
「周さん。冬休みに何かあったの!?」
…………。
ちなみに私の姿は、喩《たと》えていうなら髪の毛がバリバリボーボーのヤマアラシだった。ヤマアラシっていうのは、身体《からだ》が棘《とげ》のような毛で覆《おお》われているちょっと大きなネズミみたいで、見ようによっては可愛《かわい》らしいと言えなくもない動物だが、喩えられて嬉《うれ》しい十六歳の女の子はあまりいないと思う。もっとも、喩えられて嬉しいかどうかという点でいうなら、キューピーやカエルも微妙な線であろう。
「何か、って?」
私は肉団子を口に押し込むと、お弁当箱の蓋《ふた》を閉めた。
彼女たちが思い描く「何か」って、いったい何なのだろう。
親の転勤、体重の増加、遠い親戚《しんせき》の死、成績不振によるお小遣《こづか》いの大幅カット――。恋、という単語が浮かんだ時、「いやそれはない」と自分で突っ込みを入れた。何であれ、二人が思い浮かべる「何か」は私の身に起きた「何か」とは一致しないだろう。それくらいの予想はつく。
「嫌だ、聞いているのは私たちの方でしょ」
というわけで、私は善紀さんと春氷さんの「何か」を聞くチャンスを与えられないまま、先の質問に答えなければならなくなった。
えーっと、何だ。そうそう。
冬休みに何かあった? ――だった。
私は別段答えたくないわけでもなかったし、嘘《うそ》をつく理由もなかったので「あった」と正直に告げた。
「あったの?」
「ええ……まあ」
そう、あったのだ。年が明けてすぐ。私の身に起きた「何か」とは、世間《せけん》で言うところの「初夢」なのだ。
「実は」
信じてくれやしないだろうな、と思いつつ、それでも心配させっぱなしも悪いので、私は声をひそめて打ち明けた。
「私の正体はおっさん[#「おっさん」に傍点]なの」
「はあっ?」
二人が思った通りの反応をしてくれたので、私はすこぶる満足した。そりゃ、にわかには受け入れ難いことだろうさ。目の前にいるクラスメイトが、実は「おっさん」だった、なんて事実は。
信じてくれるくれないはともかく、初夢から覚める前の「私」は、さえない中年の「おっさん」だった。そして、今は女子高校生だ。――決してさえてはいないけれど。
でもって、善紀さんと春氷さんは、さえない女子高生である私の友達だ。いわゆる「仲良し三人組」ってやつ。私たちは一緒にトイレに行き、机を寄せ合ってお弁当を食べ、部活には入らず、放課後は同じバスに乗って早々に帰る仲なのである。
「ふんふん、それで?」
冗談ばっかり、なんて笑い飛ばさずに、二人は私の言葉に耳を傾けた。本気にしているわけではないけれど、取りあえず乗っかってみよう、って感じ。きっと、新種の遊びか何かだと勘違《かんちが》いしているのだ。
「はいっ」
目の前で、大きく手が挙がった。
おおっ。授業中も、ホームルームでも、およそ挙手なんてしたことがない善紀さんが積極的である。私は「善紀さん」と言いながら指を差して、彼女に発言を許した。
「じゃ、あなたはおっさんであって、周さんではない、というわけですか? それでは、私たちの友達だった周さんは、どこに行ってしまったのでしょう?」
「いや、周は周なんです」
記憶もちゃんとしているし、この身体に違和感もない。
ただ、本当の自分は「おっさん」で、「おっさん」が夢の中で周という女の子になっている、そういう心持ちなのである。
「よくわからないわ」
善紀さんと春氷さんは、首を傾《かし》げた。
「そうよね」
こんな説明でわかってもらえるとは思っていないし、わかったと言われたらかえって心配になる。なぜって、私自身がこの状況と折り合いをつけたのはつい今しがたのことなのだから。
「さっきね」
私は、二人の顔を見ながら言った。
「先生が『胡蝶《こちょう》の夢』の話をしてくれたじゃない」
「ああ」
春氷さんがうなずいた。
「荘子《そうし》が蝶々《ちょうちょ》になって楽しく飛び回る夢をみて、目が覚めた時、自分は蝶になった夢をみていたのか、蝶が夢の中で自分になっているのかわからなくなった、みたいな話だったわよね」
それは四時間目の授業中、教科書の区切りがいいところまで済んでしまって、中途半端に余った時間を埋めた先生の雑談なのである(ちなみに、英語の時間だった)。
「私、あの話を聞いて『そうか』って思ったの。そういう考え方もある。というより、私の求めていた答えに近い、って」
「おっさん」の私と、周の私。どちらが蝶で、どちらが荘子か。
「つまり、周さんは私たちと一緒にいる今が夢かもしれないと思っているわけ?」
春氷さんが顎《あご》を突き出して言う。さすが我が友、話が早い。私はうなずいた。
「ただね」
だからといって、この世界の方が夢だと確信しているわけでもないのだ。
「これが夢じゃない、っていう根拠も見つからないわけ」
厄介《やっかい》なのは、そこなのだ。
「つねってみたら?」
善紀さんが自分の頬《ほお》を指《さ》して、ベタな提案をした。
「やってみたけど、当たり前に痛いわよ」
私はこれまで何度となく試してみたことを友達二人の前で実演してみせた。頬ではなく、左手の甲を右手で思い切りつねるのだ。もちろん痛いし、赤くもなる。
「じゃ、こっちが現実でしょ」
一件落着、と善紀さんが笑う。
「でもさ。痛いって思っている夢、だってあるんじゃないの?」
「ああ、なるほど」
善紀さんがポンと手を打った時、黙って聞いていた春氷さんが「そうよ」と口を開いた。
「私、小さい時……幼稚園の頃だけれど、まだ時々おねしょしちゃっててね。だからお母さんに毎晩トイレに起こされていたんだ。けれど、そのうち『お母さんにトイレに起こされる夢』をみるようになって、トイレに行った気になっておねしょしちゃうことがあったの。で、夜お母さんに連れられてトイレに行くでしょ? そうすると必ず、これは夢か現実かってお母さんに確認してから便座に座るわけね。けれど、そのうち夢でもそれをするようになったから、もう夢だか現実だか判断しようがなくなっちゃったの」
「つまり。夢ってかなりうまいこと現実のふりをする、ってわけか」
三人は空《から》のお弁当箱の前で、腕組みをしてふーっと大きく息を吐いた。
夢はかなり精巧《せいこう》に作られているもの。だから善紀さんと春氷さんがどんなに「こっちが現実」と太鼓判《たいこばん》を押してくれたって、何の証明にもならないのである。そういった夢をみた、ですべて片づいてしまうわけだから。
「後から考えると変な夢っていっぱいあるけれど、その中にいる時はそれがその世界のリアルだったりするからね」
まったく、春氷さんの言う通りなのだ。
彼女たちが言うところの「こっちの世界」は、実にリアルだ。しかし、私が「おっさん」であるという思い込みも、また強烈。
私は考える。『胡蝶の夢』だって、どっちの世界も荘子にとっては現実だったのではなかったか。
例《たと》えば、私たちは眠るという行為をすることによって別の次元にワープして、そこでは別の人格として生活している、とか。普段はそうとは気づかずにスムーズに移行しているけれど、何らかのシステム異常によってあっちとこっちの情報が混在してしまうというエラーが発生することがまれにある。それが、今の私の状態なのだ。
「あ、私、そういう話聞いたことある」
春氷さんが言った。
「え?」
「誰が書いた小説だったかな。主人公が二つの世界を行き来する、って話」
「あら、それなら私も知ってるわ。でも漫画じゃなかった?」
とは、善紀さん。
「ううん。だって、お父さんの本棚にあった本だもの」
「ふうん。じゃ、別の話か。探せば、その手の話はもっとあるかもしれないわね」
二人の会話を聞いていると、まるで、作り話ならばそこら中に転がっている題材だ、って言われているみたいな気分になった。そういえば二人とも、最初から「眉唾《まゆつば》ものの話」ってノリだったっけ。
「でも私が読んだのは、眠ることであっちとこっちを行き来するって話じゃなかった気がするなぁ」
「漫画の方は、眠りが大きく関《かか》わっていたわよ」
春氷さんと善紀さんは、かなりザックリとではあるが、それぞれのストーリーを私に教えてくれた。
「で? その話の結末はどうなるの?」
ためしに聞いてみると。
「あれ? 何だっけ」
二人とも、肝心《かんじん》の部分はすっかり忘れていたのだった。
それからの二人は、私の人生相談そっちのけで漫画と小説の話題で盛り上がっていた。それは、五時間目の予鈴《よれい》が鳴るまで続いた。
「あ、そうだ」
チャイムの音を聞きながらやれやれと席を立つ私に、善紀さんが尋《たず》ねた。
「周さんさ、女の子たちを見て、いやらしい気分になったりする?」
視線の先を目で追うと、余所《よそ》でランチタイムを過ごしたクラスメイトたちが、はしゃぎ声をあげながら教室に戻ってきたシーンにぶつかった。
「…………」
ふーん、そういうことが気になっちゃうわけだ。まあ、わからないでもないけれど。なぜなら目の前にいるのは、見た目は女子高生だけど、自分が「おっさん」だとカミングアウトしている人間なのだ。
「安心して。身体もないと、反応しないみたい」
私はニッコリと笑った。
嘘じゃない。脳を含めて身体が男でないから、女の子を見ても性的には興奮《こうふん》しないようなのだ。だから、たとえば体育の後でビールを飲みたい、なんてこと考えたりもしない。
「それならいいや」
善紀さんはそう言うと、「この話はこれでお終《しま》い」というように私に背を向けた。結局その程度の興味、ということなのだろう。そんなことより、教科書を開いて次の授業で当てられそうな練習問題の一つも解いておいた方が身のためなのだ。
* *
それでも当事者ならば、そうも言っていられない。
何でこんなことになったのか、私は推理する。システムの異常以外にも、原因となるべき事柄《ことがら》があったのではないか。
例えば。大きな声では言えないが、向こう側で「おっさん」の私は、女子校の中に異常なほどの興味を抱いていた、とか。
趣味は女子高生ウォッチング。暇《ひま》さえあれば、用もないのに女子校の周りをウロウロする。そんな日々を送っていたところ、ある日突然天から声がした。
そんなに気になるのなら、いっそ女子高生になってしまえ。――と。
逆もあるだろう。
いっそおっさんになってしまえ。
(……あれ?)
こっちの方は、身に覚えがなくもない。年末だったか、私は兄貴とたわいない口げんかをした。その時、あろうことか「おっさんみたいだ」との言葉を浴びせられた。
それは兄貴が、世間一般の女の子は身だしなみや身繕《みづくろ》いのための努力を惜《お》しまないものだ、という勝手な幻想《げんそう》を抱いていたがための不幸である。とにかく彼は、リリアン女学園という世間が認めるお嬢さま学校に通っているにもかかわらず、日頃からまったく洒落《しゃれ》っ気のない妹を嘆《なげ》いて言った。俺を見ろ、男子高生だってもっと見た目に気を遣《つか》ってるぞ、と。
女子高生になってしまえ、と、「おっさん」みたいだ、が重なり合ってショートした。これって、かなりいい線いってる推理じゃないか。
(そりゃね)
私は、斜《なな》め前方に座っているやわらかな長い巻き毛のクラスメイトを眺《なが》めた。西洋人形のように白くてきめの細かい肌《はだ》、整った顔立ち、にじみ出るような気品――。
生まれながらに志摩子《しまこ》さんくらいの素材があったなら、私だってもっといろいろと構うと思う。
(ううん)
それほどの素材がなくても、人々に注目されるような立場だったら、それなりに見てくれに注意を払うだろうし、きれいな人たちに囲まれていたら、その差を埋めるべく努力もしただろう。
そこまで考えて、私はフッと笑った。
(ばかだな。女子高生の最高級品と比べてどうする)
志摩子さんは、今をときめく生徒会長の一人である|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の妹なのだ。
* * *
どうせ夢なら、いつかは覚めるなら、この世界でがんばって勉強することも、きれいになるための努力をする必要もないんじゃないだろうか。
じゃあ、もしこれが夢でなかった時はどうするのか。
考えなくもないけれど、そんな消極的な理由では、なかなか「やる気」なんてものは出ないのである。
「ねえ蔦子《つたこ》さん」
私は同じ掃除区域のクラスメイトにそれとなく話を振ってみた。
蔦子さんは、自称・写真部のエースで、女の子の写真を撮るのが好きだと公言してはばからない人物。私は私がこうなる前から、常々《つねづね》蔦子さんには「若い女の子が大好きなおっさん」が入っているのではないか、と疑っていた。そんなわけで、最近「おっさん」になった私には、蔦子さんはお仲間、いや、先輩に思えてならなかった。
「はい?」
掃除用具をしまいながら、蔦子さんが「何でしょう」と振り返る。
「ここだけの話ですが」
私は蔦子さんの顔に、自分の顔をそっと近づけた。
「蔦子さんは、ご自分がおっさんだということに関してどう考えていらっしゃいます?」
「はあ?」
目を見開いて、口をぽかんと開けて。蔦子さんの頭の上には、明らかに| ? 《はてな》が浮かんでる。
しかし、だからといってすぐに諦《あきら》めてはいけない。彼女はまだ、私が「おっさん」であることを知らないだけなのだ。だから警戒《けいかい》して、そんな態度をとっているのだろう。ならばここは私から腹を割《わ》って話をし、蔦子さんの心を開いてもらうしかない。
「私は、その自覚があるんです。ですから」
そこまで言ったところで、蔦子さんが口を開いた。
「ストップ」
右手を大きく開いて前に出すというジェスチャー付きで、全身で私の言葉を遮《さえぎ》ろうとしている。
「悪いけど、周さんの告白を聞いたところで、私には周さんが期待しているような答えは出せないと思うから」
だから、私に「言い損《ぞん》だ」と忠告してくれたらしい。
「端《はた》からはそう見えるかもしれないけれど、私にはおっさんの霊とか取《と》り憑《つ》いていないし。私は単純に、女の子を写真に撮ることをこよなく愛する女の子、なだけです」
蔦子さんはキッパリと言い切った。
「はあ……」
先達《せんだつ》の意見を参考にしようというもくろみは、儚《はかな》く消えた。
「あ、いたいた。周さんよ」
その時、バタバタとクラスメイト数人の集団が教室内に入ってきた。
「どうしたの?」
と、私が口にするより早く、「善紀さんと春氷さんは?」と聞いてくる。
「え?」
善紀さんと春氷さん?
「一緒じゃないの?」
先頭にいた桂《かつら》さんが、鼻息荒く私に迫る。
「どうして?」
もともと掃除区域が別のグループだ。この時間、二人と私が一緒にいるわけもないのだが――。
「二人とも掃除をサボったのよ」
「サボった!?」
それはまた。らしくもない。
「そりゃ、何かどうしても外せない用事ができたなら仕方ないわよ。お互いさまだもん。でも、だったら一言誰かに断っておいてくれたっていいんじゃないの? 一つのグループで二人抜けられたら、残りの人の負担だって大きくなるわけだし」
「うん。その通りだよね」
「だから、その、仲のいい周さんも一緒かな、って。……ごめん」
桂さんの声は、徐々《じょじょ》に先細りになった。私の手がしっかり濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》を握りしめているのを見て、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だってわかったらしい。
それにしても、二人とも掃除をサボって何をしているのだろう。
* * * *
二人の机の脇《わき》には、学生|鞄《かばん》が掛かっている。だから、家に帰ったわけではなさそうだ。
もしかしたら、どちらかが具合が悪くなったかケガをしたかして、もう片方が保健室に連れていってそのまま付き添ってあげているのかもしれない。
「善紀さんなら、今さっき事務室の前にいたけど?」
他の掃除区域から帰ってきた祐巳《ゆみ》さんが、私たちの輪《わ》の中に顔を突っ込んで言った。
「春氷さんも一緒だった?」
質問すると、今度は別の場所から声がした。
「あ、春氷さんは図書館に入っていくところを見たわ。ホームルームが終わってすぐかしら。そうそう、私が清掃に行く時に」
そう言ってほほえむ志摩子さんは、掃除の時間なのに図書館に向かうクラスメイトを見て、何も疑問に思わなかったのだろうか。
「え? 何? 私、何か変なこと言った?」
――思わなかったんだろうな。志摩子さんは敬虔《けいけん》なクリスチャンで、無闇《むやみ》に他人を疑《うたぐ》ったりはしないのだ。
「それで、どうしたの二人が」
祐巳さんが尋ねてきた。
「掃除に来なかったんですって」
「……偶然?」
片や図書館、片や事務室の前。距離的にはそう遠くはないけれど、示し合わせて掃除をサボったとも言い切れない。
みんなが「うーん」と腕組みして考え込んだ時、廊下《ろうか》からバタバタと足音が聞こえてきた。
「廊下は走らない」
通りかかった上級生に注意されたようだが、「はい」と返事をしてそのまま走り続ける足音は、耳をすませば二つ。
「追いかけっこかしら」
志摩子さんがおっとりとつぶやくのとほぼ同時に、足音は我《わ》が一年|桃《もも》組教室の前でピタリと止まった。
「周さん!」
もつれるように、開いた扉から入ってきたのは、ピカソの『ゲルニカ』に描かれた牛と、ムンクの『叫び』で耳をふさぐ人、――ではなく、噂《うわさ》の善紀さんと春氷さんだった。
「はっ?」
その尋常《じんじょう》じゃない形相《ぎょうそう》に驚いて、私を取り囲んでいたクラスメイトたちは一斉《いっせい》に一歩引いた。でもって次の瞬間、私は左右から二人に同時にガバッと抱きつかれた。
「周さん、お願い」
「おっさんでも何でもいいから、私たちの前からいなくならないで」
私の頬の周辺に、赤ちゃんを抱いた時みたいな、生《なま》暖かい湿った空気が漂った。これは何だ。そうか、二人の涙がここら辺の湿度を上げているのだ。
「……ごめん、皆さん」
私はクラスメイトたちに一礼すると、両肩に親友二人をぶら下げるみたいな格好《かっこう》で、教室を退場した。呆気《あっけ》にとられたみんなは黙って送りだしてくれたけれど、たぶん後で根掘《ねほ》り葉掘《はほ》り聞かれるはず。そのことを考えると、肩だけでなく頭も重くなってくる。いったい、これをどう説明したらいいものやら。
とにかく、落ち着く場所を求めて廊下を歩いた。道中行き交《か》う人たちに好奇の目で見られたはずだったが、真《ま》っ直《す》ぐ歩くことに精一杯《せいいっぱい》で一々気にしてなんていられなかった。
中庭までたどり着くと、私は足を止めた。校舎から離れればもっと人気《ひとけ》のない場所はあるはずだったが、もはや限界だった。左右から抱きつかれたまま階段を下りる作業なんて、ほとんど拷問《ごうもん》だった。
「いったい、どうしたのよ」
私は、私の首に巻かれた善紀さんと春氷さんの腕を一旦《いったん》外して、それから深呼吸をした。二人の顔を涙でグチャグチャにした原因は私にあるんだろうな、と薄々見当はついていた。
「掃除サボって、何をしていたの?」
私は、できるだけ穏《おだ》やかに聞いてみた。
「事務室の前の公衆電話で」
善紀さんが、鼻水をすすってから口を開いた。
「電話をかけてた」
「電話?」
「従姉《いとこ》の家。結婚して、今は埼玉に住んでいて。去年、女の子産んで、可愛いの」
従姉に関する情報は、本筋とは関係なさそうだが、話をスムーズに進めさせるため、私は「うん」とうなずいてから聞いた。で、その従姉にどうして電話したの、と。
「漫画」
「え?」
「あの漫画の結末、聞こうと思って」
「漫画って、あの、主人公が寝てる間に別の世界に行っちゃう、っていうあれ?」
私の問いかけに善紀さんがうなずいたところで、春氷さんが「私も」と涙で喉《のど》を詰まらせながら言った。
「私も図書館で本を読んでいたの。お父さんの本棚にあったあの本を探して。家に帰るまで待てなくて。……長いからラストの部分だけだけど」
「……まじで?」
二人とも、さっきは私のうわごとにさほど関心があるような素振りは見せなかったのに、その実、気にしてくれていたのだ。つられて、私までうるうるっと来そうになったけれど、そこをグッと堪《こら》えた。
「それで、どういう結末だったの?」
恐る恐る尋ねる。ちゃんと聞くのが、私の役目だ。私のために、クラスメイトたちの反感を覚悟で行動を起こしてくれた二人に対して、今できる唯一《ゆいいつ》ともいうべき。
「あっちの世界に行っちゃったの」
善紀さんが、つぶやいた。そして一旦止まっていた涙を、再びボロボロとこぼした。
「私の方も。主人公はあっちの世界に留《とど》まる、って」
春氷さんも、「うわぁ」と声をあげて泣いた。
「それでも、周さんだけはあっちに行かないで」
二人は、また私にしがみついて泣いた。
「うん、うん」
私は、まるで雑木林《ぞうきばやし》の大木にでもなった気持ちで、足を踏ん張りながら、胡蝶ならぬ季節はずれのミンミンゼミのような泣き声を空を見上げながら聞いていた。
吐き出された三本の白い息が、一つになって、雲になる前に消えた。
* * * * *
二人が読んだ本は、どちらも、二つの世界を行き来していた「彼」が片方を選んで留まる、という結末になっていたらしい。
あっちに行かないという約束を守って、私は、未《いま》だ女子高生のまま、日々を送っている。
本当のところ、あっちに行かないためにはどうしたらいいのかなんてわからない。でも、親友たちは言うのだ。そんなの、簡単なことだよ、と。
曰《いわ》く。あっちより、こっちの世界により多くの居場所を見つければいい、のだそうだ。
私たちは、今日も仲よくお手洗いの洗面台の前に並んで立っている。
「あっちに行っちゃった人たちは、あっちに行くことを自分で選んでいるのよ」
善紀さんが肉厚《にくあつ》で小さな唇《くちびる》に、リップクリームを塗《ぬ》った。
「必要とされたり、やり残した仕事を引き受けようと決心したり。決め手ってあるものよ。それをこっちの世界に見つけるの」
春氷さんは、目薬を差してしょぼしょぼになった目をハンカチで押さえた。
たぶん、善紀さんや春氷さんにとっては、自分たちがいる世界こそが「こっち」なんだろうけれど。あっちとか、こっちとか。私にはよくわからない。
女子高生の周でいる間は「おっさん」の記憶がないから、私にとっての「こっち」は彼女たちの「こっち」と同じなのかもしれないけれど、「おっさん」の私にとってはこの世界こそが「あっち」なのではないか、と思う。じゃ、あっちの世界で「おっさん」が生き甲斐《がい》を見つけちゃったら、私はこっちの世界を引き払うってことだろうか。
「ふうん」
私はバリバリの髪の毛に櫛《くし》を入れながら、気のない相《あい》づちを打つ。
まあ、物語のようにいずれどっちかを選ぶ日が来るとも限らないし。一生、こっちとあっちで住み分け続けるのかもしれない。
もちろん、依然《いぜん》として私と表裏一体《ひょうりいったい》であるところの「おっさん」自体が、私の妄想《もうそう》って説も捨てがたいわけで――。
それでも、今、こっちの私はこっちに居《い》たいな、と思っている。
たとえば私がこの場所をどうでもいいと投げだして、こっちが夢になってしまったら、善紀さんと春氷さんまでもが夢になってしまうと悟ったから。
そんなもったいないこと、私にできるわけがない。
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リトル ホラーズ―Y
パチパチという、手を叩《たた》くような音が聞こえた。
「何でしょう」
部屋の中からではない、天井を挟《はさ》んだ更《さら》に上の方。つまり。
「二階の部屋……?」
「そうね、そんな感じ」
祐巳《ゆみ》さまも、つぶやく。菜々《なな》と同じように、顔を上に向けながら。
「上にいるのって」
言いながら菜々は、薔薇《ばら》の館における人の出入りを思い返してみた。生憎《あいにく》指を折って数えることができないので、頭の中にゲーム盤のようなものをこしらえて駒《こま》を出し入れしていく。
最初に薔薇の館の二階にいたのは、志摩子《しまこ》さまと乃梨子《のりこ》さま。そこから乃梨子さまが菜々と一緒に薔薇の館を出ていったから、残ったのは志摩子さま一人。
祐巳さまと由乃《よしの》さまは、その間一階のこの部屋にいた。そこに|つぼみ《ブゥトン》三人が加わって、五人になる。この部屋のマックスはこの時だ。
程なく乃梨子さまが、部屋を出ていく。一旦《いったん》二階に行って、懐中電灯と雑巾《ぞうきん》と空《から》のバケツを持って一階の部屋に戻ってきて、それから職員室へと向かう。二階の部屋に、依然《いぜん》として志摩子さまは一人。
続いて由乃さまが、剣道部の会合に出るため部屋を出る。瞳子《とうこ》さまがお手洗いに立つ。三年|菊《きく》組もお手洗いも、高等部校舎にある。
すなわち、一階のこの部屋から人が消えていったところで、その分二階の人数が増えることはないのである。
薔薇の館を出ていった人たちは、皆水道管の事故のことは知っている。だから、戻ったのなら必ず一階の部屋を覗《のぞ》きにくるだろう。
「上にいるのって、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》だけですよね」
菜々は確認した。もちろん一人でいたって手ぐらい叩くだろうけれど、何だか自信がなくなってきた。そう考えると、心なしか足音が複数聞こえるような気さえしてくるから不思議だ。
「さあ?」
祐巳さまは首を傾《かし》げた。
そうか、祐巳さまは薔薇の館に来てすぐに一階で足止めをくらってしまったから、二階には行っていないのだ。だから志摩子さまが二階にいたという確証ももてないし、二階に志摩子さま以外の人間がいたかどうかもわからない。
(あれ?)
そこで菜々は気がついた。自分だって、それは同じなのではなかったか。
二階の部屋から志摩子さまが出てきたのは見た。でも、話をしたのは、ビスケット扉の前であって、菜々自身が部屋の中まで入って中を確認したわけではない。だからこそ、真美《まみ》さまに聞くまで、瞳子さまは薔薇の館の二階にいるとばかり思っていたのだ。
ならば、元々二階には志摩子さまと乃梨子さま以外の人間もいた、という可能性だってある。菜々たちが薔薇の館から校舎に移動しているわずかな時間に、訪問者があったかもしれない。
だとしたら乃梨子さまはどうして、懐中電灯を持ってきた時にそのことを話さなかったのだ。そして、志摩子さまが一度も様子を見に来ないのはなぜだ。
そもそも、志摩子さまが今も二階にいると言い切れるだろうか。でも、志摩子さまが二階にいないとすると、二階の部屋には誰がいるのだ。
「菜々ちゃん」
「ぎゃっ」
「どうしたの」
「すみません、何か私……」
ちょっと、トリップしていた。この部屋は雰囲気《ふんいき》がありすぎて、すぐに変な考えに取《と》り憑《つ》かれてしまう。
「私も気になるから、上に行って見てきてくれない?」
「はい?」
「さっきも言ったでしょ? 少しの間なら、一人でだって持ちこたえられるから、水道管」
「でも」
自分が行ってしまっては、祐巳さまが一人取り残されてしまう。この薄暗い空間に。
もう一度パチパチパチと音がした。そしてドンドンドンと天井、つまり二階の床を踏みつけるような音も加わる。
一瞬、ラップ音という言葉が浮かんだ。実際に聞いたことはないけれど、家がきしむ音とか何かが弾《はじ》ける音とかいろいろあるって本に書いてあった。
「菜々ちゃんの気が進まないなら、私が行こうか」
「いえ、私が行きます」
見にいくのも恐い。でもここに残るのはもっと恐い。幸い祐巳さまはさほど怖がっていないみたいだから、ここを託《たく》していくことにした。
せーの、で水道管の受け渡しが済むと、菜々は扉に向けて歩き出した。ずっと同じ体勢だったから、腕も膝《ひざ》もガチガチに固まっていた。
「様子を見てきたら、すぐに戻りますから」
扉の前で振り返ると、中から「どうかな」と声がした。
「え?」
「だって、そう言ってみんな戻ってこなかったでしょ」
不吉なことを言っているのに、祐巳さまの声はなぜか笑っていた。
菜々はできるだけ平常心(の振り)で階段を上った。
一階の玄関ホールに出た時には、まだパチパチドンドンは聞こえていたが、階段を上り始めるとピタッと止《や》んだ。足音を耳にして息をひそめるなんて、まるで泥棒《どろぼう》みたいだ。
しかし、薔薇の館に泥棒なんて聞いたこともなかった。それに泥棒ならば、できるだけ静かに仕事をするもので、物音を立てるわけがない。
では、ダンスの練習? 志摩子さまが? 一階で仲間たちが必死で水道管を握っている時に、あり得ない。
二階の部屋で、誰が何をやっているのか菜々にはまったく想像がつかなかった。
想像はつかないけれど、何が一番嫌かって、中に入ったら誰もいなかった、っていうパターンだ。
ゴチャゴチャ考えている間に、とうとう二階に着いてしまった。
ビスケット扉の前に立つ。深呼吸して、拳《こぶし》を胸の高さまで上げた。
トントン。
取りあえず、ノックする。しかし、返事はない。扉に耳をつけて中の様子を探ってみれば、人の気配はする。
トントン、ともう一度叩いてから、今度は返事を待たずにノブを回して扉を開けた。何が出るかわからないが、とにかく覚悟を決めたのだ。
ガチャ。
部屋に入った途端《とたん》。
パンパーンと、破裂音が鳴った。今度こそラップ音? そう思う間もなく、頭上から何かカラフルな物が降ってくる。
「えっ?」
何が起こっているのか、わからない。微《かす》かに火薬の匂《にお》いがする。クラッカー? 髪の毛に絡《から》みついた色とりどりの細い紙テープを手にとって、まじまじと見た。
「待ってました」
ここにはいるはずのない、乃梨子さまが戸惑《とまど》う菜々の手をとって、部屋の中へと誘う。
「ええっ?」
他にも、いるはずのない瞳子さまがいる。いるはずがない由乃さまがいる。そして、いるかどうか怪《あや》しかった志摩子さまが、黄色いホールケーキみたいな物をもって現れた。いや、違う。ホールケーキみたいな物ではなく、ホールケーキそのものだった。
「あ、ちゃんとできてる。お呼びがかかるまで思ったより時間がかかったから、何かアクシデントでもあったかとやきもきしちゃった」
背後からの声に、思わず飛び上がった。
「ゆっ……!?」
それこそ幽霊《ゆうれい》を見てしまったような衝撃。振り返れば、そこには祐巳さままで立っていたのである。
「ケーキはとうにできたのだけれど、部活に行った由乃さんが戻ってくるのを待っていたのよ」
菜々の驚きなどお構いなしに、薔薇さまたちは会話を続けた。
「やっぱりそうか。はい、由乃さんのハンカチ」
当然のように「どうも」と受け取る由乃さま。それは、どう見たってさっきまで菜々が握っていた水道管に巻かれていたハンカチなのだった。
「あ、あの」
思わず三年生の輪《わ》の中に跳《と》び込む。
それって、取っちゃっていいの? それ以前に、祐巳さまはあの二カ所の手を離してきて大丈夫なの?
聞きたいことはたくさんあるのに、何から尋《たず》ねたらいいのかわからない。頭の中がグルグルかき混ぜられて、つい菜々が口走った一言はといえば。
「修理の人が来たんですか」
――だった。それを耳にした五人からは、大爆笑が起きた。
「ごめん、ごめん」
「菜々ちゃんをこの部屋に入れないために一芝居《ひとしばい》打ったの」
「実は、水漏《みずも》れなんてしてなくて」
お腹《なか》を抱えながら、口々に説明してくれるのだが、やっぱりわからないものはわからない。
つまり、水道管に亀裂《きれつ》が走って、いい具合に押さえていないと部屋が水浸《みずびた》しになる、っていうのはすべて嘘《うそ》だった、と。そこまでは理解したけれど、どうしてそんなことをしてまで二階の部屋に入れたくなかったのか、そこの部分が説明不足である。このクラッカーの歓迎も。
「あら、まだ狐《きつね》に摘《つま》まれたみたいな顔をしている」
「じゃ、これでどう? じゃじゃじゃーん」
白と紅のつぼみが両手を広げて、壁に張られた模造紙《もぞうし》を「どうだ」とばかりに指し示す。
そこには、
┌────────────┐
│  菜々ちゃん歓迎会  │
└────────────┘
――と、書かれてあった。
「えええっ」
菜々ちゃん歓迎会、って。私の歓迎会、ってこと? 菜々は仰《の》け反《ぞ》った。またまた頭の中が混乱する。それ以外の何ものでもないはずなのに、そんなまさか、って思ってしまう。
でも部屋を見回すと、カーテンをきれいなリボンで絞《しぼ》ってあったり、折り紙で作ったイカリングのような鎖《くさり》が天井付近の壁に渡されていたり、テーブルの上には生花があったり、これで志摩子さまの持っているケーキが並べば、どこからどう見たってパーティー仕様《しよう》なのだった。
「そういうこと。さ、席について。予定より遅いスタートなんだから、時間がもったいないわ」
無理矢理着席させられた菜々は、なぜだかわからないけれど厚紙でできた王冠《おうかん》を被《かぶ》せられた。部屋の隅《すみ》に置かれた段ボール箱に、「クリスマスパーティー用」と書かれているのを見て、何となく納得してしまった。
「菜々ちゃんは中等部|在籍《ざいせき》中に由乃さんの妹になって、高等部入学当初から| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》でしょ? このままだと五月の新入生歓迎会だって、歓迎される側じゃなくてこっちの方に並ぶ可能性があるからね」
「それじゃあんまりだから、一足先に、ささやかな歓迎会を開こうってことになったのよ」
「志摩子さんが即席ケーキを作ってくれて」
由乃さまの言葉に、志摩子さまがケーキを切り分けながらニッコリ笑う。
「乃梨子が部屋の飾りつけをしてくれて」
すると、乃梨子さまは照《て》れたように「飾りつけなんて大げさな」と頭をかく。
「瞳子は、華道部に体験入部して花を生けてきたのよね」
祐巳さまに言われた瞳子さまは、「実はトイレではなく、これを取りにいってきたの」と花器《かき》に生けられたライラックを指して笑った。
「あ、ありがとうございます。皆さま、私のためにいろいろしてくださって」
こんなにしてもらったら、「騙《だま》された」って怒ることもできない。だって、これはサプライズパーティーなのだから。
「それじゃ、何もしなかった私と祐巳さんでいれた、とびきりおいしい紅茶で乾杯《かんぱい》しましょ」
由乃さまがカップを配りながら笑う。
「お姉さまは」
菜々は尋ねた。
「ちゃんと剣道部に行かれたんですよね?」
「行ったわよ」
さっき志摩子さんが言っていたでしょ、とか何とか、由乃さまは面倒《めんどう》くさそうにブツブツ言う。そのことは確かに耳に入っていたけれど、ちゃんと本人の口から聞きたかったのだ。
「で?」
どうしたんですか、と先を促《うなが》す。自分には聞く権利がある、と菜々は思った。
「あの場に行ったってことは、ちさとさんの希望を受け入れるってことよ。仕方ないでしょ、副部長を拝命《はいめい》してきましたとも」
ふて腐《くさ》れたようにつぶやく横顔を見ながら、菜々は少し嬉《うれ》しかった。これで、きっとお姉さまはユーレイにならなくて済むのである。
「いい? いくらあなたの方が剣道が強くたってね、お姉さまであって、二学年上であって副部長でもある私は、立場的にはすごく偉《えら》いんだって覚えておきなさいよね」
「はい」
元気よく返事をすると、由乃さまは複雑な表情を浮かべた。
菜々の歓迎と由乃さまの剣道部副部長就任を祝って二回乾杯してから、パーティーは始まった。
志摩子さまの作った黄色いケーキは、缶詰《かんづめ》の栗《くり》を使ったクリームで飾りつけられていた。
栗きんとんの匂いに似た甘いケーキを頬張《ほおば》りながら、菜々は思った。
「誰もいなくならなくてよかった」
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おまけ・リトル パニック
「うわっ」
乃梨子《のりこ》ちゃんが突然叫んだ。
放課後の薔薇《ばら》の館の二階。叫んだ乃梨子ちゃんはといえば、ちょうど窓辺でカーテンに可愛《かわい》いリボンを結んでいるところだった。お菓子とかお花とかについていたきれいなリボン。いろいろ使い道があるので、クッキーの入っていた缶の中にクルクル丸めてとってあるのだ。
それはさておき。
うわっ、と聞いたからには、すぐに「何」って聞き返すのが正しい反応だ。もちろん祐巳《ゆみ》も由乃《よしの》さんもそのセリフを言いながら、駆け寄ることも忘れなかった。泡立《あわだ》て器で生《なま》クリームをかき混ぜていた志摩子《しまこ》さんだけ、三秒ほど遅れて「どうしたの」と声を発した。
たぶん乃梨子ちゃんの「うわっ」は聞き逃している。瞬時に反応した祐巳たちを見て、何事か起きたのだと判断したのだろう。
「菜々《なな》ちゃんがっ」
乃梨子ちゃんは、「うわっ」の続きを言った。窓の外を指差して。
「菜々?」
「菜々ちゃん?」
由乃さんと祐巳が覗《のぞ》き込んだ時にはもう姿は見えなかったけれど、乃梨子ちゃんがそう言うからには菜々ちゃんが薔薇の館の外にいたのだろう。
「外歩いていただけ?」
「薔薇の館に入ってきたの?」
だが、二人の薔薇さまの質問に乃梨子ちゃんが答える必要はなかった。
ガチャ。
微《かす》かではあるが、玄関の扉が開く音が聞こえたから。
「ちょっと、部活はどうしたのよ」
由乃さんの話では、だいたい部活[#「部活」に傍点]は三十分くらいはかかるはずだった。こんな早く終わるなんて予定外だったから、何もかもが間に合わない。
由乃さんが小声で言った。
「乃梨子ちゃん、菜々を足止めして」
「えっ」
ミシッ、ミシッ。階段を上る足音が聞こえてきた。
「何とか理由つけて、薔薇の館の外に連れ出して。十分でいい」
「じ、十分?」
「それまでに私たちが新しい作戦考えておくから」
「新しい作戦、って?」
「今から考える。わかった、一階。戻ってきたら、一階の部屋に連れ込んで」
由乃さんが、乃梨子ちゃんの背中を押す。
「とにかく、今はお願い」
菜々ちゃんの足音が、もうすぐ階段を上りきる。仕方なく、乃梨子ちゃんはビスケット扉を出ていった。まったく練《ね》れていない打ち合わせに、かなり不安そうな表情をして。
間一髪《かんいっぱつ》間に合った乃梨子ちゃんの「|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》はここにいらっしゃらないけれど」という声を聞いて、由乃さんは、そっと扉から遠ざかった。何かのきっかけで扉が開いた時に、見えないようにテーブルの下に潜り込んだのだ。
志摩子さんと祐巳は扉から近すぎず遠すぎずの距離を保って、向こう側の会話に耳を傾けた。けれど、菜々ちゃんはまだ引き返す気配はない。
(どうする?)
内側の薔薇さま三人は、アイコンタクトを交わした。このままぐずぐずして、結局「中で待たせてもらいます」なんて菜々ちゃんに言われてはすべてが台無しだ。
(私が行くわ)
持っていたボウルを祐巳に手渡すと、志摩子さんが口を大きく開いてゼスチャーで伝えた。
(大丈夫?)
志摩子さんがうまく嘘《うそ》をつけるのかな、と不安になったけれど、本人がやるというのだから任せることにした。
(祐巳さんはもっと離れて)
手で押すような仕草《しぐさ》をして、祐巳を扉からもっと遠くに下がらせる。言う通りにすると、志摩子さんはビスケット扉を開けて出ていった。
「何かあったの?」
(あ)
髪の毛をゴムで縛《しば》ったままで出ちゃった。菜々ちゃんが、違和感をもたないといいけれど。
「由乃さんなら、ここにはいないわ」
志摩子さん、結構すらすらと言った。二対一。白薔薇姉妹に阻《はば》まれたら、菜々ちゃんだってこの扉を強行突破できないだろう。
扉を挟《はさ》んでなので、向こう側の会話は相変わらず聞こえたり聞こえなかったりだったけれど、そのうちあるキーワードがはっきり聞こえた。
「祐巳さん?」
自分の名前である。雑音混じりでも、アンテナにはしっかり引っかかる。菜々ちゃんが、由乃さんの行方《ゆくえ》を知るため同じクラスの祐巳の名前を出したのだろう。
さて自分の出番か、と思いきや、白薔薇姉妹はこう言った。
「それが、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》もいないの」
というわけで、祐巳もまた由乃さん同様足音をたてないようにしてテーブルの下へと潜り込まなくてはいけなくなった。事情を知らない第三者が見たら、どう思うだろう。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》と|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》がテーブルの下で縮《ちぢ》こまっているのだから。
結局、乃梨子ちゃんがうまく誘ったようで、どうにか菜々ちゃんを追い返すことができた。
「行ったわ」
志摩子さんが部屋の中に戻ってきた。いつもはしなれないことをしたことで、何だかちょっと楽しそうだった。
念のため乃梨子ちゃんと菜々ちゃんが薔薇の館を出るのを確認してから、祐巳は由乃さんと連れだって階段を下りていった。志摩子さんは、残ってケーキ作りをしなくてはいけない。
ケーキができて、瞳子《とうこ》が花を持って戻って、会場の準備が整ったら、志摩子さんに手を叩《たた》いて合図してもらうことになった。聞こえないようだったら足踏みをプラスして知らせる、と。
「昼休みには、うまく来させずに済んだのにね」
実は、菜々ちゃん歓迎会の準備は昼休みから始まっていた。菜々ちゃんは、放課後ちょっと部活に出て帰りに薔薇の館に寄って、そこでパーティーを知るわけだから、そのちょっと(由乃さんが言うには三十分くらい)の間に会場を整えなければならない。そのため事前の下準備は必須《ひっす》だった。また、冷蔵庫を開けられて、生クリームやら市販のスポンジケーキやらを見られたらアウトだから、当然、昼休みから薔薇の館に来させない作戦に出た。
「うまくいきすぎて、油断したね」
昼休みはまったく薔薇の館に近づかなかったから、放課後も予定通りいくと高《たか》をくくっていた。が、そうそううまくはいかないわけだ。
「一階で何するつもり?」
先導して部屋に入っていく由乃さんに、祐巳は聞いてみた。乃梨子ちゃんにああ言った手前、多少は考えがあるのではないかと思ったのだ。
「さあ、何しようかね」
手応《てごた》えのない返事に、不安になる。
「まさか、戻ってきたところで、閉じこめる、なんてことは――」
「さあ」
さあ、って。言いながら、顔には完全に「そのつもり」って書いてあるではないか。
「それは反対。騒ぎになる」
祐巳は即却下した。開けてー、開けてー。ドンドンドン。そんな音が薔薇の館の外まで聞こえたら、間違いなくどこからか助けが来てしまう。
「そうね。じゃあ、どうしようか?」
甘えるような目つきをする由乃さん。
「おい」
思いついた作戦って、閉じこめるって一個だけだったのかい。思わず突っ込みを入れたものの、漫才《まんざい》に深入りしている暇《ひま》はない。ここは、一緒に「どうしようか」を解決するのが正解だ。
「一階、一階……ここって、何かあるかな」
「近年は、ほぼ荷物置き場と化しているじゃない」
「そうよね」
電灯のスイッチを入れると、蛍光灯がチッカチッカしておばけ電球になっている。
「確か、ここに買い置きがあったわよね」
すぐに蛍光灯のストックは見つけたけれど、今は取り替えている暇がないので後回しだ。取りあえず、部屋の隅《すみ》に立て掛けておく。
「ねえ」
由乃さんがつぶやいた。
「つまりは菜々をここから動けなくさせればいいわけでしょ? 無理矢理とかじゃなくて」
「そう、だけど」
「だったら、水道管が壊れればいい」
「え?」
「いつだったか聞いたことがあるの。昔、そんなことがあったらしい、って。詳《くわ》しいことは忘れちゃったけど、水漏《みずも》れだかして、調べてみたら壁の中を通っている水道管に亀裂《きれつ》が入っていたんだって。どこだったかな、確かこの辺」
詳しいことは忘れたにしては、結構具体的な場所を示す由乃さん。聞けば以前、お姉さまのお姉さまである鳥居江利子《とりいえりこ》さまに、面白《おもしろ》半分で見せてもらったらしい。
「ほら」
簡単に板張りの壁を外して、由乃さんは水道管を指し示す。確かに、二カ所ほど修理したような跡がある。
「ここの部分を持っていないと、水が噴《ふ》き出すとしたら」
嫌でも手を離せなくなる。
「それ、いいかもしれない」
時間もないし、それを採用することに決めた。
「傷口にハンカチ巻いておこう」
「濡《ぬ》らした方がリアルだね」
「あ、だったら少し床も濡らしておいたら? 私、水を汲《く》んでくる」
由乃さんが急いで部屋を出ていく。
そう考えると、蛍光灯が点《つ》かないのは好都合だ。部屋の中があまりはっきり見えては、ボロが出やすい。祐巳はさっき出したばかりの蛍光灯のストックを、より見つかりにくい場所に移動させた。
二階から水を入れたバケツを持って帰ってきた由乃さんは、ハンカチを水に浸《ひた》してパイプを縛ると残りの水をすべて床にぶちまけた。
「ちょっ、まき過ぎだよ」
「計算外の所も、リアルなんじゃない?」
「物は言いようだ」
バケツを二階に戻してから、二人は一階の部屋に入って扉を閉めた。床の水たまりを飛び越えて、壁際にしゃがむと水道管を握った。
これを離したら、部屋中水浸しになる。心の中でそう唱《とな》えて、力を込めた。
程なく、玄関が開閉する音が聞こえた。
ギリギリセーフ。二人は声を出さずに、目で言い合った。
さてさて、うまくいきますでしょうか。
「開けてみるね」
乃梨子ちゃんの声とともに、一階の部屋の扉がギイと開かれた。
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あとがき
「了」という文字を打ってから中一冊|挟《はさ》んで、もう再開かい! という突っ込みを入れている方、たぶん少なからずいらっしゃいますよね(笑)。
こんにちは、今野《こんの》です。
まあ、雑誌掲載分が文庫化されていなかったわけですし、「すぐ出るでしょ」との予想も多かったのですが(それでも、あえて「了」の字を書きたかった。こればっかりは、作者の我がままです)。――というわけで、この本は『マリア様がみてる』の短編集です。俗《ぞく》に『バラエティギフト4』とも言います。(嘘《うそ》です、言いません)。
初出を雑誌Cobalt掲載順に紹介しますと、「ワンペア」が2008年2月号と4月号の前後編「チナミさんと私」が2008年9月号、「胡蝶の夢」が2009年1月号、「ハンカチ拾い」が2009年5月号になります。2007年に発表した「|私の巣《マイ ネスト》」については、ちょっと毛色が違うので入れるのを見送りました。「リトル ホラーズT〜Y」「おまけ・リトル パニック」「ホントの嘘」は書き下ろしです。
短編の括《くく》りは、いなくなっちゃった人[#「いなくなっちゃった人」に傍点]、でしょうか。あと、これという着地点がない話、かな。読み方によって、いろいろ違う解釈ができるような気がします。そうそう、既存《きぞん》のキャラが出ていない物語については特に年代を定めていませんので、「いづれの御時《おんとき》にか」となります。
のりしろ部分は、新入り菜々《なな》の目線で進みます。彼女は、入学と同時に| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》になってしまった苦労人。入学当日に妹になったというなら由乃《よしの》も同じですが、立場はまだ| 黄薔薇のつぼみの妹 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン プティ・スール》でした。一年生でつぼみとなった先輩|乃梨子《のりこ》だって、ロザリオを受け取ったのは梅雨《つゆ》に入ってからですものね。由乃がお姉さまというだけでも、大変そうだ。
サブタイトルに「ホラー」なんてついていますが、のりしろ部分についてはいつも通り、ドタバタです。主要キャラたちがたくましいお姉さまに成長しているように見えるかもしれませんけれど、たぶん後輩の目というフィルターを通した結果であって、本質はあまり変わっていないと思います。それは、ラストの章を読めばおわかりいただけるんじゃないかな。
さて。取りあえずお約束の「形を変えて」がスタートしたわけですが、今後どう進むかはまだ模索中です。
雑誌にチョコチョコ短編の番外編を書かせてもらっているので、たまればまたこのパターンは有りかな、とは思っています。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる リトル ホラーズ」コバルト文庫、集英社
2009(平成21)年07月10日 第1刷発行
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月18日作成
2009年12月31日校正
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(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第34巻 「リトル ホラーズ」.zip 白百合lPvqOensU9 25,065,827 e507bcc35309be382e308726edd49f3a95a88c14
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
白百合lPvqOensU9氏に感謝いたします。
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