マリア様がみてる
ハロー グッバイ
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)独唱者《ソリスト》のアドリブ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》お嬢さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)秒報[#「秒報」に傍点]に急かされながら
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[#挿絵(img/33_000.jpg)入る]
もくじ
本日の目標
緑の鳥と白い花
大御所登場
元祖・「さん」付け問題
はなむけ三重唱
独唱者《ソリスト》のアドリブ
鎖をつなぐ
続く道
あとがき
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[#挿絵(img/32_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/32_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる ハロー グッバイ
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「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未《いま》だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
|ごきげんよう《Good morning》と|ごきげんよう《Good morning》で一日が始まり。
|ごきげんよう《How are you》と|ごきげんよう《Fine》で相手を気遣《きづか》い。
そして、
|ごきげんよう《Hello》と|ごきげんよう《Goodbye》の間には、大切な思い出が詰まっている。
だから、ただのお別れじゃないんだよ。
笑って。
手を振って。
――ね?
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本日の目標
1
心配していた瞼《まぶた》の腫《は》れも、一晩寝て起きたら大して目立たなくなっていた。
家に帰ってすぐに濡れタオルを目に当てて冷やした効果か、お風呂にゆったり入って全身の血の巡《めぐ》りが良くなったお陰《かげ》か、はたまた単に時間の経過により自然に腫れが退いただけなのか、何にしても助かった。
晴れの日に腫れ、なんてシャレ、とてもじゃないが笑えない。
そう、今日は笑わなくちゃいけないのだ。
常に満面の笑み、とまではいかなくても、泣き顔は禁物《きんもつ》。
お姉さまの門出《かどで》の日、今日は卒業式なのだから。
祐巳《ゆみ》は洗面所の鏡に向かって、イーッと口を横に開いて笑顔を作った。大丈夫、泣かない。そのために、昨日の夕方、お姉さまと抱き合って心行くまで泣きはらしたのだ。涙を溜めていたタンクも涸《か》れ果てて、もう一滴も出ないというくらいまで。
そのせいで、家族にはかなり心配をかけてしまったけれど。
涙は止まったものの目と鼻を真っ赤にして帰宅した娘を見た親は、当然「何があった」と慌てふためいたし、ああ見えてナイーブな弟は、ショックのあまりその場で固まってたもんね。
それでも正直にわけを話したら、みんなは納得してくれた。祐巳とお姉さまの絆《きずな》がどれほど強いか、ちゃんと理解しているからだ。
「祥子《さちこ》さんのお姉さんとか、来るの?」
気合いを入れて両手で両|頬《ほお》をパンパンと軽く叩《たた》いたところで、祐麒《ゆうき》が洗面所に入ってきた。
「卒業式に?」
祐巳は振り返りもせず、弟の顔を鏡越しに見ながら聞き返した。
「どうして蓉子《ようこ》さまが来るの?」
「……だよな。普通、来ないよな」
と、言うことは。
「何? 花寺《はなでら》じゃ、卒業生が後輩の卒業式に来る伝統でもあるの?」
祐麒の通う、花寺学院高校の卒業式は明日である。
「伝統じゃなくてさ。むしろ異例? 今年の卒業生が、ぜひ先輩に来て欲しいって頼んだらしい」
そこまで聞いて、祐巳の脳裏《のうり》には、ある人物の顔がスライドみたいにピカッと映し出された。
「……先輩って、柏木《かしわぎ》さん?」
「まあね」
答えた祐麒は、「やれやれ」と「うんざり」が混ざったような表情を浮かべていた。カリスマだった前生徒会長がいまだに生徒たちから慕《した》われているとあっては、複雑な表情にもなるだろう。現生徒会長としては。
しかし、柏木さんか。そういや、花寺の学園祭でも呼ばれて助《すけ》っ人《と》みたいなことをしていたっけ、あの人。パンダの着ぐるみなんて着て、ペロペロキャンディー配ったりして。
思い出し笑いしたら、突然祐麒が聞いてきた。
「祐巳さ、柏木先輩と何かあったの?」
「別に? 何で?」
祥子さまや瞳子《とうこ》がらみでいろいろやり取りはあったけれど(どっちも柏木さんの従姉妹《いとこ》という関係上)、それらを指して「何かあった」とは言わないだろう。――言わないよね。
「……祐巳とデートしたいって言ってた」
「あっそ」
何ふざけたこと言っているんだか。祐麒みたいに冗談を真に受ける人もいるんだから、口には気をつけてもらいたいものだ。まあ、瞳子とのことでは相談めいたこともしちゃったし、姉妹《スール》になった報告くらいはちゃんとしなきゃいけないとは思っているけれど、それも「デート」とは言わないはずだった。――絶対。
「そんなことよりね」
祐巳は振り返った。
「『祥子さん』じゃなくて、『祥子さま』。さっきさらっと言ってたけど、お姉ちゃんは聞き逃さないからね」
指を一本立てて詰め寄ると、どういうわけか祐麒はがくっと肩を落とした。
「そんなことより、か。俺、何か逆に先輩が気の毒になってきた」
「祐麒も、時々|素《す》っ頓狂《とんきょう》なこと言うよね」
何で祥子さまを「祥子さま」と呼ぶことで、柏木さんがかわいそうになるのだろう。
首を傾《かし》げていると、祐麒が「わかんないならいいよ」と言って鏡の前に割り込んできた。
「ちょっと、何するのよ」
「終わったなら、場所|譲《ゆず》って」
「あん、待って。まだリボンを結んでない」
取りあえず弟を脇に退かして、鏡の前に舞い戻る。
「えーっ。ずいぶん長いことここ占領してたけど、いったい何やってたんだよ」
鏡の中の自分とにらめっこしていました、とはちょっと言えない。
「待って、ってば。あと一分」
「朝の忙しい時に勘弁《かんべん》してくれよ。そんなの自分の部屋でやればいいじゃん」
「もうやりかけたんだからやらせて」
祐巳があわててリボンを手にすると、祐麒め。
「いいよ。五十九、五十八、五十七」
笑いながらカウントダウンを始めた。自分で「あと一分」と時間を区切った手前、ゼロがカウントされた瞬間にこの場を譲り渡さなくてはならない。
「ひーっ」
腕時計を見つつ弟が刻《きざ》む秒報[#「秒報」に傍点]に急かされながら、祐巳は左右に髪を束ねたゴムの上に、赤いサテンのリボンをキュッと結んだ。
そして鏡の中の自分に向かって、最終確認する。今日の目標、――大泣きしない。
目標はあまり高く設定してはいけない、とよく言うからこの辺りで手を打つのがちょうどいいのだ。たとえば、うっかり「一滴も涙を流さない」という目標を掲げたら、何かの拍子《ひょうし》でうるっと来て、目標達成ならずとなった瞬間から、なし崩《くず》しに泣いてしまいそうだから。
「お待たせっ」
結んだリボンの形を整え終えると、祐巳は鏡の前から退いた。祐麒からもらった一分を使い果たすまでは、まだ七秒も残っていた。
2
玄関で靴を履《は》いて「行ってきます」と出かけようとすると、お母さんが「待って祐巳《ゆみ》ちゃん」と走り出てきた。
「ハンカチちり紙はちゃんと持ちました」
もう子供じゃないんだから、って振り返ると、「そうじゃなくて」だそうだ。
「へ?」
「それから後ろ向いていて」
せっかく振り返ったのに、祐巳はお母さんに肩をつかまれてくるっと半回転させられてしまった。しかし、自分が見えないところで何をされるかわからないのはやっぱり不安。首だけちょっと回して様子をうかがうと、お母さんは左右の手に持った何かと何かを、まさに今打ちつけ合おうとしている。
「何、それ」
「火打ち石と火打ち金《がね》。切り火って知らない? お清《きよ》めの火」
両手を開いて、石と金属の板みたいな物を見せてくれるお母さん。
「そういや、時代劇とかでそんなシーンが」
そうそう、確か岡っ引きの親分なんかが、出かける時におかみさんに「行っておいで」とカチカチやってもらっていたっけ。
火打ち石と火打ち金を打ちつけ合うことで、火花が散る。それがお清めになる、ってシステムで、芸人や商売人なんかが仕事に行く時やってもらったり、道中の無事を祈って旅人にやってあげたりするものらしい。なるほど、その道具の使い方と目的は理解した。理解したけれど――。
「どうしてそんな物が家に?」
それは素朴《そぼく》な謎《なぞ》である。そりゃ、お父さんは小さいながらも設計事務所を営《いとな》んでいるわけだから、商売人って言えなくもないけれど。十七年この家の娘やっていて、今まで一度も切り火をしている両親の姿に遭遇《そうぐう》したことはなかった。
「もともとはお父さんの実家にあった物なの。確か物置にあったなって思い出して、この間探し出したのよ」
「なぜに……」
そうなると、どういったわけでわざわざお母さんはこれを探し出そうと思ったのか、という新たな疑問が生まれる。
「生徒会の選挙があった日、出かける祐巳ちゃんを見ながら、何かやり忘れていることがある気がしてね。で、後日時代劇の再放送|視《み》ていたら、カチカチってやってたじゃない。これだ、ってひらめいたの」
で、いつか使おうと、機会をうかがっていたらしい。しかし、やっぱりヒントは時代劇からか。
「今日は晴れの日だから、いいでしょう」
説明終わり、と言ってから、お母さんはいつの間にかまた対面していた祐巳の身体を、再度くるりと半回転させた。
「私の卒業式じゃないけど」
「でも、祐巳ちゃんにも大きな仕事が待っているでしょ?」
「うん」
カチカチ。背中に火花を散らしてもらって、一丁上がり。科学的には効果なんて証明されていないだろうけれど、やってもらうとそれなりに気持ちがよかった。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
何だか、背筋がシャキッと伸びるっていうのかな。そんな感じ。
門を出たところで、帰宅したお父さんに会った。
「おっ、行くのか」
「うん」
お父さんは最近、朝のジョギングを始めたのだ。施主さんの家とか建築現場に足を運んだりはするけれど、事務所が自宅の下ということで運動不足になりがちだから。
「がんばれよ。ま、いざとなったら志摩子《しまこ》さんと由乃《よしの》さんがついているから、大丈夫だろうけどな」
娘の肩をポンポンと叩《たた》くお父さんは、気にしているだけあってよく見るとお腹がちょっぴり出かかっている。
「ふふふ、行ってきます」
お父さんに手を振ってから、祐巳はちょっと小走りでバス停に向かった。一人一人とは短い時間だったけれど、家族とのふれ合いに時間をとられて、乗る予定だったバスに間に合うかどうかギリギリだ。
|柿ノ木《かきのき》さんの角を曲がる。
視界が開けて、青い空が目に飛び込んでくる。
今日はいい天気になりそうだ。
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緑の鳥と白い花
1
リリアン女学園前の停留所にバスが止まると、降車口の近くに立っていた祐巳《ゆみ》は真っ先に下車し、歩道橋を一番乗りで渡った。
集合時間までには、まだ間がある。教室まで歩いていっても、遅刻にはならないだろう。
(でも)
六人中五人が揃《そろ》っていたら、たとえ三分の余裕を残して到着しても、最後の一人は何となく出遅れた印象にはなる。
(特にな……)
今回はメンバーに由乃《よしの》さんが入っているから、理不尽な苦情を頂戴《ちょうだい》しそうだ。ああ、想像がつく。足を腰幅に開き、両手を腰に持っていって「遅ーい」って。
バスに乗っている時、周囲をチェックしたところ、待ち合わせをしている四人(徒歩通学の由乃さんは除《のぞ》く)の姿は見られなかった。たぶん、みんな一台前か二台前のバスに乗ったのだろう。やっぱり、駅までのバスを一台|逃《のが》したのは痛かった。
走りたいところだが、背後から数人の生徒が祐巳に続いて来ていることを考えると、早歩きが精一杯である。スカートを乱しながら走っていく姿をさらすなんて、次の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》としてはあり得ない行為だ。
「およ?」
銀杏並木の分かれ道の手前で、よく見知った生徒の後ろ姿を発見した。
「可南子《かなこ》ちゃん?」
振り返るのを待つまでもない。これだけ背が高い生徒は、この学園内にはそうそういなかった。
「あ。ごきげんよう、祐巳さま」
「どうしたの?」
祐巳より先にいるということは、前のバスに乗ってきたということだろう。けれど、だとすると今頃この辺りにいるのは、いささかゆっくり過ぎやしないか。一台前のバスなら五分以上前に発車したはずだし、途中渋滞でバスが遅れたのだとしたら、側に一緒に乗っていた生徒たちの姿がないと変だ。おまけに、可南子ちゃんは立ち止まっていた。
「鳥が」
「鳥?」
「校門をくぐったところで、枝にとまっていた小鳥に気を取られて、つい立ち止まって見入っちゃって」
「五分とか十分とか?」
「いえ」
可南子ちゃんは、クスリと笑った。
「たぶん、二分か三分かそれくらい。このままずっと見ていても仕方ないので歩きはじめたら、ここでロザリオの授受《じゅじゅ》をしていて、終わるのを待っていたんです」
「なるほど」
道の先を見ると、二人の生徒が仲よさそうに手をつないで歩いていく後ろ姿があった。彼女たちは人波が途切れるのを待ってロザリオの儀式を行っていたのだろう。鳥に見とれたために生徒の波から少し遅れてしまった可南子ちゃんは、そのタイミングにばっちりぶつかってしまったのだ。
しかし、祐巳も昨日の夕方見かけたけれど、卒業式の前の日や当日に姉妹《スール》になる人たちって、やっぱりいるわけだ。まさか、お姉さまが三年生なんてことは……、いや、ないとは言いきれないか。
「ご一緒させて」
祐巳は可南子ちゃんを促して、並んでマリア像に手を合わせた。ここで立ち話していると、次の人波が到着しそうだ。
「小鳥って、どんな鳥だったの?」
校舎に向けて歩きながら、可南子ちゃんに尋《たず》ねてみた。
「抹茶《まっちゃ》みたいな緑色をしていて――」
「ウグイス?」
抹茶みたいな小鳥といってまず思い出すのは、何といってもウグイスでしょう。祐巳は視線を上げた。もちろん、可南子ちゃんが見たっていうその小鳥は、そんなところにいやしないんだけれど。
「私もそうかしら、と思って眺めていたんです。やっぱり、梅の季節に見られるのかな、なんて」
ってことは。
「違ったの?」
尋ねると、可南子ちゃんは首をすくめた。
「結局わからなかったんです。ちょっと離れていたので、全体の色くらいしか見えなくて。メジロかもしれなかったし。形から見て、インコって感じではなかったですけれど。鳴いてくれれば、判断材料にはなったんですけれどね」
「ホーホケキョって?」
「ええ。ホーホケキョって」
ホーホケキョと鳴いたら、まあウグイスに間違いないだろう。物真似上手のインコでないのなら。
「メジロってどう鳴くか知ってる?」
「いえ。でも、少なくともホーホケキョではないんじゃないですか?」
「そうだよね」
その時、どこかからカーカーという鳴き声が聞こえてきた。
「あれでもないよね」
二人は顔を見合わせて笑った。
2
「遅ーい」
二年松組教室の扉を開けると、そこには予想通り、由乃《よしの》さんが仁王《におう》立ちで待ちかまえていた。
「あの、由乃さん。私の時計では、まだ一分の余裕が……」
祐巳が口を開く前に、新聞部の真美《まみ》さんがとりなしてくれたのだが、勢いづいた由乃さんは「五分前には来てなきゃだめでしょう」なんて鼻息が荒い。
思わずうなずきそうになったけれど、よく考えたら変な理屈だ。待ち合わせ場所には余裕をもって到着しているように、とはよく言われるけれど、五分前に着いていなければだめ、ってことじゃない。
「じゃ、みんな揃《そろ》ったから行くわよっ」
祐巳《ゆみ》の荷物とコートをはぎ取ると、観光客を先導するバスガイドさんみたいに、率先して歩き出す。由乃さんを除《のぞ》くメンバー五人は、目を瞬《しばたた》かせたり首をすくめたりしながら、その後に続いた。
「何であんなに張りきっているの、由乃さん」
歩きながら美佐《みさ》さんが、こそこそと祐巳に囁《ささや》いた。
「え?」
言われてみれば、確かに由乃さんのテンションは高い。けれど、たった今登校してきた人間に、いったい何がわかろうか。聞きたいのはこっちのほうだ。祐巳が教室に入る前に、由乃さんに何かあったんじゃないのか、と。
「さあ?」
正直に首をひねると、逸絵《いつえ》さんも歩くスピードをゆるめて祐巳たちに並び、「確かに謎だわ」と話に加わった。
「お姉さまが三年松組にいる祐巳さんならまだしも」
左右からクラスメイトが「ねーっ」と声を合わせる。前を歩く由乃さんに聞こえやしないかと祐巳は内心ハラハラものだったけれど、真美さんや里枝《さとえ》さんと話をしていたので大丈夫みたいだ。
由乃さん、真美さん、里枝さん、逸絵さん、美佐さん、そして祐巳。不思議な取り合わせのこのグループ、実は二年松組を代表して卒業生の胸に花をつける仕事を仰《おお》せつかった仲間なのである。
卒業生を祝福するその晴れがましい役は、例年一学年下の同じ組の生徒が果たすのが慣例だった。つまり、三年松組の生徒の胸に花をつけるのは、二年松組の生徒ということ。そこで、「お姉さまが三年松組にいる祐巳さんならまだしも」という言葉が飛び出すわけなのだ。由乃さんのお姉さまは、三年菊組。だから、お姉さまに花をつけるわけでもない由乃さんのはりきりよう、が謎なのである。
「でも、係を決める時から、やる気満々だったわよ」
祐巳がつぶやくと、左右の二人は「確かに」と腕組みしてうなずいた。
* * *
それは、一週間ほど前のことである。
帰りのホームルームの時間、二年松組の黒板には縦《たて》書きの力強い字で、でかでかと議題が書かれていた。
┏━━━━━━━━━━┓
┃卒業式の日のお手伝い┃
┗━━━━━━━━━━┛
その左に「@卒業生に花をつける係(6名)」、そのまた左には「A教室を飾る係(若干名)」とある。
「他薦自薦問いません」
今日の進行役の加枝《かえで》さんがそう言うと、教室中から「はい」「はい」と手が挙がった。黙って見ていた担任の先生は、「授業中もこれくらい挙手してくれたらなぁ」と間違いなく思ったはずである。それほどまでに、卒業生の胸に花をつける役は人気があるのだ。
「三年松組にお姉さまがいる人を、優先して差し上げたらどうかしら」
「でも、妹ならこれまでだって側にいられたわけでしょう? だったら今まで接点がない生徒にだって、憧《あこが》れの先輩の近くに寄るチャンスを与えてくれてもいいんじゃないの」
「やりたい気持ちが強い順……といっても、計りようがないわよね」
人それぞれにいろいろな考え方があるわけで、話し合いで決めることなんて所詮《しょせん》無理な話だった。
侃々諤々《かんかんがくがく》の議論が繰り広げられる中、祐巳は特に意見を言うこともなく、ぼんやりと「お姉さまの胸にお花をつけられたらいいな」くらいの気持ちでいた。やりたい人、という声がかかれば迷わず手を挙げる準備はあった。
「この際、平等にジャンケンということで」
結局、妥当な解決策がもち上がった。異議をとなえる者などいない、と思いきや、席の後ろのほうですっと一本手が挙がる。さっき「三年松組にお姉さまがいる人を優先して」と言った道世《みちよ》さんだ。
「一つ確認しておきたいんだけれど、ジャンケンに勝って権利を得たとして、それを別の人に譲渡《じょうと》するのはありよね」
「は?」
最初は何を言っているのか、よくわからなかった。
「だからね」
つまりはこういうことらしい。三年松組にお姉さまがいない自分は、どうしても花をつける係になりたいわけではない。だから、許されるならばジャンケンに参加して、勝ち残った場合三年松組にお姉さまがいる人に譲ってあげたい、と。親切な人だ。
「いいんじゃないの、別に」
譲渡は、三年松組にお姉さまがいるいないに関係なく誰にも利用可能だ。だから、仲のいい友達のために一肌脱ぐことだってできる、というわけ。反対はなかった。
「では、鹿取《かとり》先生お願いします」
加枝さんに促されて、担任が「ほいきた」と壇上にやって来た。
ジャンケン大会は、まずは先生対参加生徒全員という形で行われる。一回のジャンケンで、先生に勝った生徒だけが二回戦に進出できる。あいこ[#「あいこ」に傍点]と負けは敗退だ。この方式でいくと、クラスのほぼ全員が参加しようとも大抵二回戦か三回戦で決着がつく。決定戦で優勝者数が定員の六人に満たなかった場合は、その前段階で残っていた人たち同士の敗者復活のジャンケンで決めるというルールが決まった。
「ジャーンケーン」
ひときわ大きくかけ声を発したのは、由乃さんだった。
「ポイっ」
ジャンケンの勝因の何パーセントかは、勢いが占めていると思う。
「うわーっ」
グー・チョキ・パーを振り上げた約三十人の勇者たちが、一喜一憂《いっきいちゆう》の声を発する中、由乃さんは右手で力強く作ったチョキを掲げて「よっしゃ」と叫んだ。少し離れた席で、祐巳は開いた自分の手の平を見つめてため息をついた。
先生が出した手はパーであった。あいこで負けた。なんて中途半端なんだろう。いっそ、グーを出して完敗したほうがサッパリしたのに、と思われた。
勝者は二回戦であっさりと決まった。
由乃さん、里枝さん、逸絵さん、美佐さん、道世さん、水奏《みなと》さんの六人だ。
「この中で、権利の譲渡を希望する人は――」
すると、驚くことに由乃さんを除《のぞ》く五人が手を挙げた。それを見て、「何てもったいない」と思ったのは、祐巳だけではないはずだ。
「それじゃ、どなたにお譲りになるか、またその方がそれをお受けになるかを確認しましょう。まずは、最初に譲渡を提案された道世さん」
加枝さんが呼びかけると、道世さんは視線を祐巳の方角に向けてニコッと笑った。
「福沢《ふくざわ》祐巳さんに」
「えっ!?」
まさか自分が指名されるとは思わなくて、祐巳は目を剥《む》いた。そりゃ、視線は合ったけれど、同じ教室にいるわけだから視線くらいはいくらでも合うわけだし。だから、思わず「私?」って人差し指を自分に向けた。道世さんは大きくうなずく。
「私の代わりに係を引き受けてくださらない?」
「……いいの?」
それは、願ってもない申し出だった。迷わずうなずこうとした瞬間。
「ちょっと待った!」
里枝さん、逸絵さん、美佐さんが同時に声をあげた。
「私だって、祐巳さんにお譲りしようって思ってたのよ」
「ええっ!?」
福沢祐巳、大人気である。というより、みんなお姉さまが三年松組にいる祐巳に同情してくれたのだろう。
「でも、祐巳さんは一人だけだし……」
譲ってもらったところで、四人の席に一人で座るわけにはいかない。
「祐巳さん以外に、お姉さまが三年松組にいらして花をつける係をやりたい方がいたら、お譲りしますけれど――」
里枝さんたちは申し出たけれど、手を上げる人はいなかった。
「わかりました」
そんなわけで、道世さんを除く三人は、譲渡する意思表示を取り下げ、自《みずか》らが係として任務を全《まっと》うする決心を固めた。
でも、お気持ちはとても嬉《うれ》しかった。
「皆さん、ありがとう」
祐巳は頭を下げて、心からお礼を言った。
「ところで水奏さんは?」
そうそう、水奏さんも誰かに譲りたいと言って手を挙げた一人だった。
「ごめんなさい。勢いでついジャンケンしてしまったけれど、私、Aの教室を飾る係に変更してもいいかしら?」
「いいわよ。こちらは人数制限ないし」
加枝さんは黒板に書かれた「A教室を飾る係(若干名)」の左に、水奏さんの苗字《みょうじ》を書き加えた。
「でも、できれば代わりの人を指名してもらいたいんだけれど」
やりたい人はたくさんいる。またジャンケンするのは大がかりだ。
「じゃ、蔦子《つたこ》さん」
おおっ、と教室のあちらこちらで声があがった。その手があったか、って感じの声だ。
「ありがとう。でも、ごめん、辞退します」
今度はあちらこちらから、落胆の声。声のトーンが上がったり下がったり。もし音が目に見えたとしたら、二年松組教室の中で巨大ウエーブができていたはずだ。
「何で?」
やりたくないからやらない。普通、断るのに一々《いちいち》理由なんかないはずだけれど、加枝さんは聞いた。たぶん、みんなが聞きたがっているから、って判断したのだろう。だって蔦子さんのキャラからして、いかにも「やりたい」って言いそうだったし。
「そんな係引き受けちゃうとさ、写真撮りたくなっちゃうじゃない」
蔦子さんは小型のカメラを撫《な》でながら、さらりと答えた。
「は?」
それを期待しての指名だろうに、と祐巳は思った。蔦子さんは、誰もが知っている写真部のエース。カメラと蔦子さんは、切っても切れない間柄なのだ。
「写真を撮る係じゃなくて花をつける係なんだからさ、カメラなんて持っていったらだめでしょ」
確かに、言われてみればごもっともな理由である。
「じゃ、花をつける係としてではなくて三年松組に行くっていうのは?」
諦めきれない誰かが、そんな提案をした。自分は卒業生の胸に花を飾ることはできないが、せめてそのシーンを写真で見たいと思ったようだ。
「他のクラスでは、そんなことしないよ」
蔦子さんが微笑した。
「だから、悪いけれど」
たぶん、これ以上迫っても蔦子さんは首を縦に振らないと思われた。水奏さんは、「それじゃ」と向きを変えた。
「真美さんは? やっぱり取材したくなるから辞退する?」
指名された真美さんは、新聞部の部長である。
「いいえ。カメラみたいな道具を使わなくても、取材はできます。ですから、ありがたくお受けしたいと思います」
見聞きしたことを脳裏《のうり》に焼きつけ、その模様を記事にして『リリアンかわら版』の卒業記念号に載せるつもりだ、と意気込みを語った。
そんな経緯《いきさつ》で、係の六人は決まった。
「私だってさ、祐巳さんに譲ろうと思ったわよ」
後々、ボソッと由乃さんが言った。
「だけど、譲渡の言い出しっぺだった道世さんに、今回は花を持たせてあげたの」
「あれ、そうなんだ」
「そりゃそうよ。大切な親友に、お姉さまの花を飾る係をさせてあげたいって考えるの当たり前でしょ」
勝負事となったら、なりふり構わずただ「勝ちたい」って気持ちだけで突っ走ったのかと思っていた。
「ありがとう」
というわけで祐巳はその時、取りあえず由乃さんにもお礼の言葉を述《の》べたのだった。
3
「由乃《よしの》さんって、詰まるところお祭り好きなんじゃないの?」
肩で風を切るように廊下を歩いていく、クラスメイトの後ろ姿を見ながら、逸絵《いつえ》さんが言った。
「お祭り好き……?」
「イベントがあるとはりきっちゃうっていうの? 体育祭や学園祭でも、テンション高かったわよ」
なるほど、そういうところはあるかもしれない。由乃さんという人は、高一の秋まで心臓に病気を抱えていたために、いろんなことを我慢して生きてきたから。手術をして丈夫な身体《からだ》を獲得してからこっち、ちょっとした行事でもみんなが退いちゃうくらい興奮してしまうきらいがあった。
由乃さんがこんな風《ふう》に勢いで突っ走っちゃうのは、卒業式という行事を前にして気分がハイになっているせい。一応の説明はつく。
(けど……)
それだけだろうか。祐巳には、何かちょっと引っかかった。
由乃さんのこの落ち着きのなさの原因は、卒業式というイベントのみにあるのだろうか。
そりゃ、もちろん由乃さんにとっては誰より大切なお姉さまである令《れい》さまが卒業してしまうわけだから、落ち着きがなくなるのも無理からぬこと。しかし、令さまの卒業はもうずっと前からわかっていたことだし、最近の由乃さんの様子からは「今更卒業なんかで動じない」と割り切っているようにも感じられた。
落ち着きがないというより、むしろテンパっている。それを隠すために、よくしゃべってよく動いているようにさえ見える。
卒業式のリハーサルは何度か行っているわけだから、今更あわてふためくのも変だ(もちろん練習と本番とではテンションは違うだろうけれど)。
かといって、卒業式の後に控えている支倉《はせくら》・島津《しまづ》両家による恒例お食事会くらいじゃ、ここまで由乃さんを興奮させられないはずだし。
(ふーむ)
これは、何かありそうだぞ。そういえば、昨日の夕方もバタバタ動いていたし。
「何よ」
職員室の前で、由乃さんは祐巳を振り返った。
「いえ、別に?」
「何か言いたそうだけれど」
「とんでもない」
美佐《みさ》さん、逸絵さんと首を横に振る。下手《へた》に刺激して、由乃爆弾をくらうほどのギャンブラーはこのクラスにはいない。以前はいたけれど、経験を積んで学んだのだ。
「そ?」
ならいいけれど、と由乃さんは扉の取っ手に手をかけた。
「すみませーん、お花取りに来ましたー。おっ?」
ガラガラガラと開いたところには、すでに先客が居た。
「あら」
志摩子《しまこ》さんに桂《かつら》さんがいる。ということは、二年藤組だ。二人の他にもう一人いて、全部で三人だった。
「由乃さんたちも、お花をつける係だったの?」
やわらかな笑顔を向けてくる志摩子さん。
「ええ……まあ」
逆に由乃さんの機嫌はというと、目に見えてどんどん斜《なな》めに傾《かたむ》いていくのだった。
理由は、だいたい想像がついた。
まず第一に、職員室への一番乗りを逃《のが》したこと(当の藤組はまったく意識していないと思われるが)。
第二に、白いコサージュの入っている箱は、一クラス三箱というのに、自分たちは六人という不必要な大人数でやって来てしまったこと(箱は二人で一つ持つほどの大きさはなく、中身はコサージュだから軽かった)。
そして、そのことは自分が率先して決めたのだ、ということ(全員|揃《そろ》うまで待って、職員室に花を取りきた)。
それを瞬時に理解してしまったのだ、由乃さんは。だから、くやしくてくやしくて堪《たま》らない。
「では、お先に」
一人一つ箱を持ってスマートに職員室を後にする二年藤組を見て、拳《こぶし》をギュッと握りしめる由乃さん。そんなことどうだっていいじゃない、と残り五人は思ったけれど、やっぱり恐いので口には出さなかった。
三年松組と書かれた箱三つを三人が持って廊下に出ると、今度はそこで二年菊組の生徒たちとばったり会った。あちらのクラスは五人連れ。――だから人数なんて、一々気にすることではないのだ。
「由乃さんたちも、お花をつける係だったの?」
ついさっき、まったく同じ言葉を別の人間から聞いた気がする。
「ええ……まあ」
何とまあ、受け答えまで同じだった。祐巳は殺気《さっき》を感じて、由乃さんが持っていた箱を慌てて取り上げた。かなりイライラしている。このままでは中に入ったコサージュごと、箱を握りつぶしてしまいそうだ。
えっと、職員室に来たのはこちらのほうが早い。やって来た人数ならば、六人も五人も大差ない。
ならば今度は何が気に障《さわ》った、と思って横を見ると、由乃さんの視線はある一人の人物のみに集中していた。にらみつけている、と言っても過言ではない。
(あ)
わかった。そこにいたのは、田沼《たぬま》ちさとさんだったのである。
ちさとさんという人は、故意なのか無意識なのか知らないが、由乃さんの気持ちを逆《さか》なでするのが非常に得意な人なのだった。二人は同じ剣道部員だし、バレンタイン企画でデートしたりした仲でもある。一緒にいるところを、祐巳も何度か見かけたことがあるけれど、相性は言うほど悪くなさそうだったが――。
「……も、ということは、ちさとさんは花をつける係なわけ」
由乃さんは、あからさまに嫌な顔をして言った。
「そういうこと」
ニコニコと答えるちさとさん。すごいな。由乃さんのピリピリに、まるで気づいていないみたいだ。
「そ、そう」
ピリピリピリピリピーリピリ。
二年菊組が担当するのは、三年菊組。ちさとさんは令さまのクラスの係なのだ。そのことが、今由乃さんを不快にさせていることは明らかだった。クラス分けのことは、自分の実力ではどうにもならないことだ。でも、どうして自分は菊組じゃないんだろうと、由乃さんは事ある毎《ごと》に自問してきたはずである。
令さまのお姉さまである鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまは、三年菊組だった。当時令さまも二年菊組だった。そのため体育祭では同じ色のはちまきをつけて戦い、卒業式の日には妹が姉の胸に花をつけることができたのだ。
「代わってあげようか」
また、ちさとさんったらできっこないことを言う。本人は冗談のつもりなのだろうけれど、由乃さんには笑えない。
「結構ですっ。行こっ、祐巳さん」
何ていうのかな、できればこういうのに巻き込まないで欲しいんだけれど、と思いつつ、一人じゃ勢いがつかないんだろうなと察することができたので、由乃さんに腕をとられるまま廊下を歩きだした。
途中、思い直したのか由乃さんは立ち止まって振り返った。
「代わってもらわなくて結構。あなたは、全在校生の代表として三年菊組に行くのよ。つまり、言い換えればもともと私の代わりに過ぎないんですからね」
何か言い返したくて、勢いで言ってしまったのだろう。けれど、聞いてて祐巳はちょっと感動した。
全在校生の代表か。
いいこと言うな、親友。――ってね。
4
一旦教室に戻って、箱を開けて、花の数を数えた。
薔薇《ばら》みたいな、花びらのたくさんついている白い花のコサージュ。目に痛いほどまぶしく、キラキラ輝いて見えた。
花の数に過不足がないのを確認し、手順を一通りおさらいすると、もうやることはなくなってしまった。あと十分遅く待ち合わせてもよかったね、とたぶんみんな思ったけれど、口に出さなかった。時間に余裕があるのはいいことなのだ、うん。
今日は放送の朝拝はない。朝のホームルームで出欠だけとったら、花をつける係は早々に教室を出て三年生の教室へと向かう。
「さっき水奏《みなと》さんに聞いたんだけれど、美術部の部長がいるクラス……桃だっけ? 椿だっけ? 何かすごいことになっているらしいよ」
廊下を歩きながら、逸絵《いつえ》さんが言った。
「すごい、って?」
何々と、残りの五人が聞き返す。二列で歩いていたから、ちょっと団子状態になってしまった。
「教室の飾り付け。やっぱり気になるから、他のクラスが手がけた三年生の教室を見て回ったらしいんだわ、水奏さんたち。そうしたら、一つだけレベルが違う教室があったんだって」
「レベルが違うっていっても、限度があるでしょう」
というのも、三年生教室の飾り付けには、エスカレートしないよう結構細かい規制が設けてあるのだ。飾っていいのは教室にある前後二つの黒板、窓と壁面。材料は模造紙、紙テープ、お花紙(以上支給品)、教室備え付けのチョークなど。セロファンテープや糊《のり》、マジックなんかは、自分たちの教室にある物を使用することになっていた。
「黒板にチョークで描いた絵なのに、まるで水墨画みたいなんだって。あと、模造紙で作った龍」
「龍?」
祐巳《ゆみ》が首を傾《かし》げると、機嫌の直った由乃《よしの》さんがつぶやいた。
「昇り龍でしょ」
又聞きだから詳しくはわからないけれど、どうやら黒板に鯉が滝上りしている絵が描いてあって、黒板の上の壁に龍(のオブジェ?)が飾ってあるらしい。鯉が龍になるという目出度《めでた》い図案で、卒業生の門出を祝したということか。さすがは美術部の部長。話のタネに、できたら後で覗《のぞ》いてみたいものだ。
そんな話と、里枝《さとえ》さんのミータン情報を聞きながら一行は三年生教室まで来た。三年松組教室の扉はピシッと閉まっていて、中から先生の声が聞こえる。どうやら、まだホームルーム中らしい。
教室の外で待っていたら、ホームルームが終わって、担任の先生が出てきた。
「ご苦労さん」
祐巳たちの姿を見て、中に入っていいよと合図する。
「失礼します」
真美《まみ》さんが、まず一礼してから教室内に足を踏み入れた。
さっきまで意気|揚々《ようよう》としていた由乃さんは、教室に入る直前で真美さんに先陣を譲った。
卒業生たちにとっては晴れの日。万に一つの粗相《そそう》があってはいけない。そう思ったかどうかはわからないが、つまりは足がすくんだのだろう。
その点、真美さんは何でもそつなくこなす人。突然前に出るよう頼まれても動じない。「私は露払《つゆはら》い。横綱《よこづな》は後から出てくるものよ」と由乃さんを気遣《きづか》ったコメントもまた、憎いばかりだ。
真美さんに続いて、ゾロゾロと五人が教室内に入った。祐巳はすぐにお姉さまの姿を見つけられたけれど、みんなの代表として来ているのだと自分に言い聞かせて、勝手に動き出しそうな手足と顔を懸命に押さえた。
教室内はとても素敵に飾り付けられていた。黒板には、フキダシで『ご卒業おめでとうございます』と言っているリリアンの制服を着た女の子たちのイラストが描かれていて、お花紙で作った花束を持っている。その花も、ただ重ねて折って開いただけでなく、色違いを重ねて中心に花弁を作ったり、複雑にハサミを入れて花びらにバリエーションをもたせたりと工夫されていた。そして、窓には紙テープで作った星で描いた星座――。
水奏さんは、美術部の藻音《あやね》さんのクラスと比べて自信をなくしたみたいだけれど、十分に素晴らしい出来だと思われた。この場にいたら、「よっ、さすが漫研」とかけ声をかけてあげるのに、残念だ。
「本日はおめでとうございます」
真美さんが代表して挨拶《あいさつ》をする。
「今から胸にお花をつけさせていただきます。精一杯務めさせていただきますが、不行き届き等ございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください」
六人|揃《そろ》って一礼すると、さっそく箱を持ってスタンバイする。里枝さんと美佐《みさ》さん、逸絵さんと真美さん、そして祐巳は由乃さんとペアだ。
「祐巳さんたち、真ん中お願い」
真美さんに指示されて、はっと気づく。花は二年生が卒業生の机を回りながらつけていくことになっているのだが、真ん中担当のエリアの後方には、何と祐巳のお姉さまである小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまのお席があるではないか。
(これは――)
偶然でも自惚《うぬぼ》れでもなく、完全にみんなに気を遣われている。祐巳にお姉さまの花をつけさせてあげようという厚意が、仲間内からにじみ出るというよりもうあふれ出しちゃっている。
そうか、そうだよな。花をつける係になったのは、ただお姉さまの姿を眺めるためじゃないんだ。ここで遠慮しては係を譲ってくれた道世《みちよ》さんにも申し訳ないので、素直に従って真ん中に立った。
取りあえず、お姉さまの席はまだ先。他の卒業生の皆さんにだって、心を込めてお花をつけてさしあげたいと思った。
「おめでとうございます」
由乃さんの手にした箱から一つ、白いコサージュを取りだし、安全ピンを外して制服の胸もとにつける。
「ありがとう」
それだけで、うるうるっときている人もいる。
「おめでとうございます」
背の高い人低い人、髪の毛の長い人短い人、胸の大きな人スレンダーな人、同じようにつけているつもりでも、手早く上手につけられる時と、時間がかかってしまう時といろいろありそうだ。
そんな中。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
普通だったら、そこで「失礼します」と胸に花をつけるのだが、ふと祐巳の手が止まった。あれ? って。その先の動きが、スムーズに進まない。何だろう、この感覚は。
白いコサージュに伸ばしかけた手を戻して、もう一度目の前に立っているその人の顔を見た。
背が低くて、可愛《かわい》らしいタイプ。どこかで見たことがあるような気もするけれど、誰だっただろうか。三年松組には、お姉さまを訪ねて何度も来ていたから、取り次いでくれた人ならば数多くいた。その中の一人だったか。
誰だったかは思い出せなかったけれど、なぜ手が止まったのかはわかった。そこにいる人が、何か言いたげに祐巳を見つめている。だから、気になったのだ。何だろう、と。
「あの」
どなたですか、と聞くのも変なのだが、このまま気になりながらスルーしてしまうのは、お互いのためにならないような気がした。かといって、思い出すまでにらめっこしていていいはずはない。箱を持って隣に立っている由乃さんだって、そろそろ不審《ふしん》に思い始めているはず。そんな祐巳の心の動きを理解したのか、その人は小さく息を吐くようにフッと笑うと、両手を上げて首の後ろに回すような仕草をした。
(え?)
それは、髪形を変える一連の動きの序章に過ぎなかった。その人は、肩より少し長い自分の髪を二つに分けると、両耳の脇まで持ってきて、その顔を祐巳に見せた。
「あ」
そうしてもらうと、確かに見たことがある。その時はもっと髪の毛が短くて、そう、ギリギリ二つに結べるくらいで、そうして言ったのだった。確か……そう。
祐巳さん、ここにはカードを探しに? ――って。
「ウァレンティーヌス!」
ウァレンティーヌスだ。去年のバレンタインデーにあった宝探しのイベントで、祐巳と一緒に温室内で紅《あか》いカードを探してくれたあの時の。祐巳がロサ・キネンシスの植えられている側の土を掘ったけれど見つけられなかった、そのことを一部始終見ていた、いわばたった一人の証人。
ウァレンティーヌスと言われて、その人は一瞬「おや?」といった表情を浮かべたが、やがて思い当たったらしく髪を下ろしてほほえんだ。
「ずっと気になっていたの。祐巳さんには悪いことをしたな、って。でも、これで最後だし、祐巳さんが私の胸に花をつけてくれるのも、マリア様のご配慮かもしれないから」
「は?」
「祥子さんに、あの日のことを話しましょうか。……そういうこと」
ウァレンティーヌスは振り返りもせずに言ったけれど、それでも彼女の二つ後ろの席にいる祥子さまに意識を集中し続けていた。
「あ……そうか」
祐巳も、時々考えることがあった。
あの日、温室で「あの人」に会わなければ、もしかしたら紅いカードは自分の物になっていたのだろうか。
あの日、「あの人」を一人温室に残していかなければ、紅いカードは消えたままで、誰が探し出して持ち去ったのかわからずに終わっていたのだろうか。
あの日、紅いカードを探し出した人は、なぜ宝探しゲームの勝者として名乗り出なかったのだろうか。
なぜ一度は掘り起こされた紅いカードが、また同じ場所へと埋め戻されることになったのだろうか。
わからなかった。いくら考えても、結局憶測の域を出ることはないのだ。
謎の「あの人」を見つけ出さない限り。
「あの人」に話をしてもらわない限り――。
その「あの人」が、今目の前にいる。あの日のことを話そうか、そう言っている。
「もういいんです」
祐巳は答えた。
結局、お姉さまはあの時祐巳の言ったことを信じてくれた。前日にしたけんかの仲直りもできた。紅いカードは祐巳が探し出せなかったけれど、二人でデートはできた。
わざわざあの時のことを蒸し返したところで、何も変わらない。取り返さなければならないものだってなかった。
「でも、だって……あなた」
ウァレンティーヌスが何か言いかけたけれど、首を横に振った。無理に真相を探ることはない。だから、あの時祥子さまが言った言葉を引用すればいい。
「あれは聖ウァレンティーヌスの悪戯《いたずら》ですから」
そして祐巳は、ウァレンティーヌスの胸にも、一つ白い花を咲かせた。
それにしても、年上の人だったなんて。同級生の中で探したって、いるわけがなかったのだ。失礼ながら、今だって一年生に見えなくもないほど若く見えた。
由乃さんが「何なの?」って顔をしていたけれど、今ここで説明している暇はないので割愛させてもらった。その辺は由乃さんもわかっているようで、「後で聞くからね」って目で合図をしてくる。
三人挟んで、祥子さまの番になった。
「おめでとうございます」
お姉さまだからって、他の人と区別するのはおかしい。だから淡々と進めようと心がけているのだが、本人の意志とは関係なくスペシャルにされてしまうことはある。
「うっ、うん」
祥子さまが咳払《せきばら》いをした。すると、周囲の人たちが慌てて自分の仕事を再開する。祐巳は気づかなかったが、どうやら紅薔薇姉妹、見せ物になっていたらしい。そういえば、お姉さまはバレンタインデーの時も、二人がチョコレートを交換するシーンをクラスメイトたちに覗き見されそうになっていた、って言っていたっけ。
(ふうむ)
さて、以上のことから何が言えるでしょう。
@三年松組の生徒は、野次馬が多い。A小笠原祥子は、視線に敏感だ。B逆に、福沢《ふくざわ》祐巳はそういうことにとことん疎《うと》い。
――全部だな、たぶん。
「いいわ、花をつけてちょうだい」
祥子さまが言った。祐巳が周囲を見回すと、何人かの人と目が合った。皆、自分の作業をしながらこちらの様子をチラチラ気にしているようだった。それでも一度|牽制《けんせい》球を投げたから、あからさまに見物する人はいなくなったわけで、祥子さまは「それでよし」と手を打ったらしい。全員がそっぽを向くまで待っていたら日が暮れてしまうし、そんな状態のほうが不自然である。
「では、失礼します」
祐巳は箱から白いコサージュを取って、安全ピンの針をお姉さまの制服の胸もとにそっと刺した。黒い生地を一センチほどすくって、針の頭を表面に出す。
ああ、ちゃんと平行に針を渡せた。幅も理想的。これなら、花が斜《なな》めになったり揺れたりはしない。後は、針を留め金に引っ掛ければ完了する。――と思った時。
「は?」
祥子さまは、祐巳の右手首に何か黒くて長い物を引っ掛けた。
「続けて」
「……は、はい」
安全ピンを元に戻して花の位置を整えている間に、黒く長いものはふわっと手首に巻きつけられる。
それは、黒いリボンだった。
一昨年《おととし》のクリスマス・イブに、祥子さまが祐巳に所望《しょもう》したクリスマスプレゼント。
昨日、薔薇の館の一階で見つけて、「お姉さまに返さなきゃ」って祐巳を走らせたあのリボン。
抱き合って泣いた時、二人の手首をしっかりとつないでいたあのリボン。
そのリボンが、今ここにある。
「預かっていて」
祥子さまが言った。
「式が終わるまでの間」
これはお守りだ、って祐巳にはわかった。もともとは祐巳が身につけていて今は祥子さまの所有物となったリボンを、祐巳が預かるという意味。
卒業式の間、広い体育館で卒業生と在校生の席は前列と後列ではっきり分かれている。けれど二人のことはこのリボンがしっかりつないでいてくれるだろう。だから大丈夫、そう祥子さまは言いたかったに違いない。
[#挿絵(img/33_053.jpg)入る]
目立つ場所では良くないだろうと思い直したのか、祥子さまはリボンをそっと外して祐巳の手の平に載せた。
「ポケットにでも入れておいて」
「はい」
祐巳は一度二枚貝が蓋《ふた》を閉じるように両手でリボンを包み込んでから、言われた通りに腰の位置についたポケットにしまった。そうして「できました」と一礼し、次の人の胸に花を飾るために席を一つ後ろに移動した。
なぜか、拍手《はくしゅ》がわき起こった。
ああ、やっぱり。
完全にショーにされていたようだった。
でも、どんなに拍手されてもアンコールはしないんだから。
5
一方、その頃三年菊組では。
同じように、二年生が三年生の胸に白いコサージュをつける儀式が行われていた。
教室に入ってすぐ、思わぬ光景を目にして田沼《たぬま》ちさとは脱力した。
室内で目を引くものといえば、備品の中でも特に大きな面積を占める黒板。そこには、卒業生の教室を飾りつける係が朝早く登校して制作した、卒業を祝うメッセージが中央にでかでかと残されていた。
『ご卒業おめでとうございます』
その文面は、たぶん各クラス共通であろう。中には『祝・卒業』とかもあるかもしれないが、基本同じ意味である。
黒板の周りには、菊をイメージしたものと思われるお花紙で作られた黄色い花が飾られている。これも、ありがちと言っちゃありがちだ。問題なのは、黒板の余白部分である。
『うれし涙で蛍の光を菊[#「菊」に傍点]』
『PTA会長の祝辞は親父ギャグはキ[#「キ」に傍点]ック[#「ク」に傍点]〜ッ!』
『卒業したくないなんてだだをこねても、菊[#「菊」に傍点]耳もちません』
『受験とおさらば。菊(キック)&パーンチ』
エトセトラエトセトラ。菊をお題にした駄洒落《だじゃれ》が、空《あ》いたスペースにこれでもかと書かれている。ここは寄席《よせ》か大喜利《おおぎり》か。
そういえば、と思い出す。教室を飾る係のリーダー、確か落研だったっけ。どこかのクラスは、水墨画に昇り龍って話だから、これは教室によってかなりギャップがありそうだ。それはそうと、先輩たちはこの駄洒落メッセージいったいどう受け取っただろう。
ちょっと心配になって、六人が様子を探っていると、どこかから声があがった。
「ねね、『おお菊[#「菊」に傍点]さけぼう、ごきげんよう』ってのどうかしら?」
「『駄洒落で菊ばりありがとう』ってことで!」
ああ、こういう先輩たちがいるクラスで本当に良かった。ちさとは、心底胸を撫《な》で下ろした。
(さて)
気を取り直し、ずらっと並んだ机をざっと眺める。そして。
(……いた)
お目当ての人物を見つけ出すと、素速くその人のいる列の前に陣取る。断っておくが、早い者勝ちではない。これは、実力で勝ち取った当然の権利なのである。
ちさとは、ジャンケンが強かった。
ジャンケンは、何と言っても直感がものをいう。ひらめき、と言い換えてもいい。センス、とも。
まずは頭の中を空《から》にする。
両腕を胸の前でクロスさせて指を組み、それを顔の前に持ち上げて左右の指の間にできた小さな穴から向こう側を見る、――なんて作業は一切しない。
左手の甲を右手の人差し指で持ち上げて、できたシワの様子を見る、――も同様。ただし一対一の勝負の場合、相手を動揺させるためにポーズだけするのは有り、だ。
いざ勝負の時間となったら拳《こぶし》を握り、「ジャンケン」の言葉とともに力強く振り上げる。そして次の瞬間、空の頭の中に何十分の一秒という短さで過《よ》ぎる信号、これを見逃さない。信号を引き寄せたら、そのまま右指に載せる。あとは、形にすればいい。指を二本出すか、すべて開くか、握ったままか、それだけのこと。だから、直感だけでなくある程度の処理能力も必要かもしれない。一連の動きが遅ければ、そのつもりがないのに「後出し」の汚名を着せられることになる。
そんなわけで、ちさとはめでたく憧《あこが》れの先輩、支倉《はせくら》令《れい》さまの胸に花を飾る役を獲得したのである。由乃《よしの》さんには悪いけれど、こればっかりは仕方ない。彼女も相当にジャンケンは強いが、如何《いかん》せん運がない。二年生のクラス替えで松組を引き当てた段階で、すでにこの勝負はついていた。
それでも、「代わってあげようか」と口走ってしまったのは、意地悪でも何でもなくて、本心からだった。できやしないことを言ったのだから、どんな風《ふう》にとられても仕方ないことなのだが、あの時由乃さんの悔《くや》しそうな顔を見ていたら、つい口をついて出てしまった。だから、もし「じゃ、代わって」と言われたら、クラスメイトたちを説得して、この時間だけトレードすることを許してもらったかもしれない。結局由乃さんが断ってくれたから、実現には至《いた》らなかったわけだけれど。
「おめでとうございます」
だからちさとは、由乃さんの言い放った言葉の通り、彼女の代わりにここにいるのだと思った。
「ありがとう、ちさとちゃん」
令さまは、ニッコリと笑った。
「剣道部に入部したのは一年の終わりだったけれど、がんばってみんなに追いついたよね。えらいえらい。後輩の面倒《めんどう》もよくみてくれたし」
「……令さま」
ちゃんと見ていてくれたんだ、と思ったらうるうるっときた。
最初は令さまに憧れて、自分の存在をアピールしたくて、剣道を始めた。剣道部の仲間に入れてもらって、まだまだ未熟だけれど、同級生部員と竹刀《しない》を交えてもすぐに負けるということはなくなった。そして今、こうして胸に花をつけることができる喜び。マリア様が与えてくれたプレゼントだとも思えた。
「令さま」
「ん?」
「私、令さまに感謝しています」
「どうして?」
花をつけてもらっているのは私のほうでしょ、というようにとぼけた顔で応《こた》える令さま。
「だって、いろいろなものをくださったから」
ちさとは花をつけ終わった指を開いて、一つずつ折りながら挙げた。
「まずは、剣道という趣味。ご存じでしょうけれど、私令さまに憧れて剣道部に入ったんです」
「うれしいことを言ってくれるね」
「それから、剣道をやり始めてできた仲間」
剣道部員たちを頭に思い描く。どういうわけだか、真ん中にはふくれっ面《つら》の由乃さんがいた。
「クラスメイトたちとは、つき合い方がちょっと違います。あと」
「まだあるんだ」
ちさとは「ええ」と笑った。
「似合うと評判のショートヘア」
そう言うと、それまでニコニコ笑って聞いていた令さまが、「おや?」という表情を浮かべた。ちさととしては、ここはオチだと思って言った決め台詞《ぜりふ》なわけで、ドッカーンと笑ってもらわなければ立つ瀬がない。
「ちさとちゃん、以前は長かったんだ?」
……何ですと?
「そっか。その姿も一度見てみたかったな」
………………。
再びニコニコが復活となると、これはもはや計算されたボケではあるまい。令さまは、本気で髪が長かった頃のちさとに(初めて)会いたがっている。
「私」
ぷるぷると、全身が震えた。声も震える。でも、このまま笑って終了することなんて、とてもできない。
「ここにいるのは全在校生の代表で、いわば由乃さんの代わりなんですよね」
「うん?」
「――なんで、この場合一番適当な言葉を返させていただきます」
ちさとは、キョトンとしている令さまに向かって声を絞《しぼ》り出した。卒業していく人へ向けた、餞《はなむけ》の言葉ではないと承知の上で。
「『令ちゃんのばか』」
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大御所登場
1
「おやおや」
リリアン女学園の校門の前までやって来た彼女は、そこに見知った顔がいないことを確認するや、思わず感嘆《かんたん》の声をあげた。
「この私が最初とは」
珍《めずら》しいこともあるものだ。
もしかしたら門の前じゃなくて門の内側にいるかな、なんて、中を覗《のぞ》いてみたけれど、そこには簡易受付があるだけで、それらしき姿は見当たらなかった。
携帯電話でメールチェックするついでに、時間を確かめる。九時二十五分。そして蓉子《ようこ》からも江利子《えりこ》からも、新着メールは来ていない。
「卒業式って今日だよね」
一度その場を離れて、改めて門を眺めれば、白地に黒で『高等部卒業式』と書かれた看板が、向かって右の門柱に立てられていた。
「やっぱ、『明日校門前にテキトーに集合』なんて待ち合わせじゃ、うまいこと会えないのかね」
――普通は会えないものである。しかし、それでどうにかなってしまうと考える適当さ加減が、佐藤《さとう》聖《せい》らしいところなのだった。
「卒業式って、何時頃からだっけ」
九時半スタートとか十時スタートとか、そんな感じだったと思う。あれ、それとも九時だったっけ? 去年体験したはずだったけれど、一年も前のことだからもうすっかり忘れてしまった。
しかし、閑散《かんさん》とした校門周辺や人気《ひとけ》のない受付などを眺めるに、十時スタート説は「ない」かもしれないと思い直す。
では九時あるいは九時半スタート説を採用するとして、なぜ二人とも来ていないのだ。
それとも、先に行ったか。
いやいや、だったらひと言メールで断るだろう、蓉子の性格上。大学に入って性格が変わったということならば、それはそれでめでたいことだ。
さて、どうするか。
聖はとりあえず蓉子に「今どこ?」とメールを打って、校門付近をブラブラしてみた。とにかく返事が来てから、どうするかは考えよう。
「江利子は――」
どうしようか迷って、メールを出さずにおいた。もともと誘っていないのだから、たとえ来なかったとしてもこちらからは何も言うことはない。
(でも)
昨日のあの由乃《よしの》ちゃんの様子だと、由乃ちゃんが江利子を誘っていそうだった。
(そうよ)
だから「卒業式にいらっしゃいませんか」「蓉子さま誘って」であって、「蓉子さまだって、祥子さまの晴れ姿見たいんじゃないかな」なわけである。すなわち、江利子は由乃ちゃんが誘っているから令の晴れ姿を見ることができる、と解釈できた。当の聖はというと、妹の志摩子《しまこ》はまだ二年生で、晴れ姿も何もないのだが。
そう考えると、江利子に限っては先に行っている可能性は十分にある。彼女は、蓉子と聖が今日ここに来ることを知らないのだ。
携帯電話を畳《たた》んでコートのポケットに突っ込んでいると、何やら足もとでゴソゴソ動くものがある。
「おや」
視線を落として見れば、聖の穿《は》いているパンツの裾付近に焦《こ》げ茶色のトラ猫がまとわりつき、身体《からだ》をすり寄せていた。
「ゴロンタ。お前だったの」
久しぶりに抱き上げてよしよしと撫《な》でると、気持ちよさそうに喉《のど》をゴロゴロと鳴らす。
「大学校舎では全然見かけないけれど、こんなところには出没《しゅつぼつ》するんだねー」
可愛《かわい》いものだ。一年くらい会わなかったのに、こうして忘れずにいてくれる。
「お前、大きくなったね。もう女ボス猫っていう風格だ」
これだけ重いのだから、エサは足りているということだ。案外、知らないところでコロコロ子供とか産んでたりして。ま、それはともかく、ちゃんと自立はできているのだろう。よかった、これで志摩子に怒られないで済む。――と聖は思った。
「鳥や鼠《ねずみ》なんかを、狩ってるのかな。時々は、誰かにウインナーとか卵焼きとかをもらっていたりしてね」
ま、それも狩りと言えなくはないからいいのだ。
「ここ、撫でられるの好きでしょ。ほらほら」
しゃがんでゴロンタと遊んでいると、上から「何やってるのよ」と冷ややかな声がした。振り返れば、思った通り、蓉子が立っている。
「おー」
猫とじゃれ合うのに夢中で、道の向こう側の停留所にバスが来たことも、歩道橋を渡る人がいたことにも気づかなかった。
「おー、じゃないわよ。あなたね、メールを送りつけるだけ送りつけて、こっちの質問には何も返さないっていうの、どうかと思うわよ」
「へー?」
「間の抜けた受け答え、やめてちょうだい」
これは、……かなり不機嫌である。
「それは失礼つかまつった。拙者《せっしゃ》にどういう不手際があったか、お教えいただけまいか、蓉子殿」
「……ホント、腹が立つわ」
蓉子は自分の携帯電話を取りだし、親指でいくつかボタンを押して、ディスプレイを見ながら言った。
「昨日は、いきなり『明日、暇? 暇じゃなくても、都合つけておいでよ。たぶん、面白《おもしろ》いものが見られるから』ってメールでしょ。おいでって、どこに行けばいいわけ? 私は。場所くらい書いておきなさいよ」
「後から『高等部の卒業式』って追加で打ったじゃない」
「私が質問しなかったら、そのままだったはずよ。それにね、『校門前にテキトーに集合』って待ち合わせとは言えないわよ。『何時に?』って打っても、その後は待てど暮らせど返事が来ないし」
「へーへー、すんまへん」
こういう時は、ひたすら謝るに限る。
「そうしたら、さっきは『今どこ?』って。ちょっと一方的すぎやしませんか、ってことよ」
ケイタイ見ながらチクチクうるさいので、聖も自分の携帯電話を取りだした。やば、メールの着信が三件もある。それが、いずれも蓉子から。
マナーモードにしていたから、メールが届いたのに気づかなかったのだ。ポケットに入れておいたので、バイブで知らせてくれればわかりそうなものだけれど、残念ながら感じなかった。夢中で猫と遊んでいたせいだろうか。
ともかく、恐る恐る古いほうからメールを開けてみると。
「あー、蓉子今駅にいるんだ」
最初は『今? K駅の駅ビル』とある。
「いないわよ。今はあなたの前にいるでしょ」
確かに。他には、『あなたはどこにいるの?』と『何かあったの? 返事ちょうだい』なんて書かれた本文が送られてきていた。
「今ここで『リリアン女学園校門前にいます』とか返信したら、もちろん怒るよね」
「……いい度胸《どきょう》しているじゃない」
これ以上ふざけたら、本気で絶交されそうだ。少し早めに家を出て駅で用事を済ませようとしていた蓉子は、聖のメールを見るや「何かあったか」と慌ててバスに乗ってここまで来てくれたらしいから。
「それにしても、何なの? あなたにしては、ずいぶん早いじゃない」
蓉子は、ゴロンタの背中を撫でながら言った。ゴロンタは普段あまり人には触らせないが、聖が側にいるせいか嫌がらなかった。
「早いって? 蓉子は、いったい何時頃来ようと思っていたの?」
聖は首を傾《かし》げた。あのメールを打たなかったら、まだまだ蓉子は来なかったということだろうか。
「何時、って。あなたは具体的な待ち合わせ時間を言ってこなかったけれど、せいぜいお昼近くって了解していたわよ」
はっ?
「お昼っていったら、卒業式終わっちゃうじゃない」
蓉子ったら、何考えているのか。――と思ったら、蓉子のほうも同じように感じたらしい。
「えっ、あなた式に出席するつもりだったの?」
「違うの?」
二人は顔を見合わせた。そして、思わずケイタイと腕時計で現在時刻を確認し、苦笑した。
どう考えても、もう卒業式は始まっている。すでに「今更」の話だった。
「なるほどね。だから、何となくきちんとした服装してるんだ」
蓉子は、聖の格好《かっこう》を上から下へと眺めた。お察しの通り、コートの下は上下チャコールグレーのパンツスーツである。まあ、同じ敷地内の大学に通学する時は、同じコートでも中身はセーターとか厚手のシャツとかにジーパンだけれど。さすがに卒業式に出席するのに、ジーンズはどんなものかと考えたわけだ。
「だったら、メールにそう書いてよね」
式に出るつもりはなく来たわりに、蓉子はそれなりにちゃんとした感のあるファッションをしていた。コートの襟《えり》もとからは黒のハイネックのセーターに金のネックレスが覗いているし、スカートは隠れているからどんな物かわからないが、足はストッキングにパンプス履きである。
「そもそも、何のために私を呼んだの? 面白いものって、何なの。それは卒業式で起きるの? 何で昨日の今日なの?」
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問されて、聖は首をすくめた。
「知らない。だって、由乃ちゃんに誘われただけだから。昨日ね、明日蓉子誘って来い、ってさ」
答えると、思った通り蓉子はポカンとした。何でそこで由乃ちゃんが出てくるのだ、と。まあ、そうだろうな。
「面白いもの見せてあげる、って? そう言ったの? 由乃ちゃんが」
「いや。それは、私の期待がかなり入った予想」
「ふーん」
ちょっと考えるような仕草をしてから、蓉子は言った。
「だったら、やっぱり卒業式の後で仲間内が集まる場に来てみろってことだと思うわよ。いくら由乃ちゃんだって、卒業式で笑いをとるようなことはしないでしょ。卒業式っていうのはね、真面目《まじめ》にやるものよ。面白くなくて当たり前なの」
「そうお? 去年の卒業式は、結構面白かったけど?」
聖は口笛を吹いた。
在校生代表が大泣きして送辞を読めなくなったかと思ったら、会場のどこかからヒーローよろしく助《すけ》っ人《と》参上、で、二人力を合わせて無事送辞を務めあげましたとさ。みたいな。
「半分寝ていた人が、何を言ってるのよ」
蓉子の指が、聖のこめかみを軽く押す。「面白かった」の内容が妹の祥子がらみだってわかったから、話をすり替えたのだ。
「で? 江利子は? まだってことは、やっぱり江利子だって式が終わってからだと考えたわけでしょ」
「っていうか、誘ってないから」
「え? どうして」
本日二回目、水野《みずの》蓉子のポカン顔。自分が誘われたということは当然江利子も、と思うわけだな、やっぱり。卒業して一年経とうとも、いや、もしかしたらこのまま一生涯、自分たちは三人一組の腐《くさ》れ縁《えん》が続くのかもしれない。
「でも、たぶん来るよ」
ゴロンタが歩き出したので、最後にひと撫でしてから送りだした。
「それも由乃ちゃんが言ったの?」
「言わないけどさ」
聖は空を見上げた。
「何となく、そう思うんだ」
2
「何となく、そう思うんだ」
聖《せい》の言葉に、思わず納得しそうになった。江利子《えりこ》は、たぶん来る。むしろ、絶対。
「来るんでしょうけれど、私はこのままだらだらと待ちたくないのよ」
蓉子《ようこ》は、自分の携帯電話を取り出してメールを打った。もちろん江利子に。今日、本当に来るのか。こちらは校門にいるが、江利子は今どこにいるのか。どこかで落ち合いたいけれど、江利子の都合はどうか。だいだいそんなことを簡潔《かんけつ》に。――これは性分だから仕方ない。
江利子からは、すぐに返事が来た。メールではなく、直接電話がかかってきたのだ。
『あら。式が終わった頃に、って由乃《よしの》ちゃんが言っていたわよ』
やっぱり。江利子はまだ家にいた。
『いいから、二人で中に入っちゃってよ。どっちみち私は裏門だし』
「あ、そうか。そうだったわね」
江利子の自宅は、裏門からのほうが近いのだった。こんな風《ふう》に、在学中は当たり前だったことも、日常でなくなった途端に忘れていくものなのかもしれない。
『で、適当に時間を潰《つぶ》して、私が着く頃にマリア像あたりで待っていてくれない? そう待たせないから』
「わかった。慌てなくていいわよ」
電話を切って振り返ると、聖はまだ上を向いていた。
「何なの?」
今度は空ではない。もう少しだけ目線が下だ。バス停の側に植わった梅の木の枝、だろうか。薄紅色の花が咲いている。
「鳥」
「鳥?」
「ウグイスが花をついばみながら、チーチーチーって鳴いている。面白《おもしろ》いね」
「……」
ならば、それはたぶんメジロである。聖は動植物とか好きなくせに、種類とか名前とかに疎《うと》い。種としての人間にはそれほど興味はないようなのだが、こちらのほうも同様になかなか顔や名前を覚えない。
「江利子、中に入ってて、って」
そんな人に覚えていてもらえるだけでも、良しとしよう。蓉子はそう思った。
「来るって?」
聖は、上に向けていた顔を戻した。
「来るって」
そんな無邪気な顔でほほえまれたら、何でも許せてしまいそうだ。
正門を入ってすぐの所に設置された二組の机と椅子《いす》だけ出した受付には、暇を持てあました係の生徒が二人。一人は頬杖《ほおづえ》をつき、一人は欠伸《あくび》を噛《か》み殺していた。
ピーク時には係の人数が多く、活気もあったはずである。こんな中途半端な時間にやって来る人はほとんどいないから、時間帯を区切って規模を縮小したのだろう。
「はっ」
受付の机の前に立つ二人の顔を見た途端、係の二人は驚きのあまり飛び上がった。陳腐《ちんぷ》な喩《たと》えではない。本当に椅子からお尻《しり》が浮いたのだ。
「ロ、ロサ……っ!」
一年生でもない限り、蓉子や聖の顔を覚えていても不思議はない。
「元、ね」
なので、もう高等部の上級生ではない。だから、生徒たちが頬杖をつこうが欠伸をしようが、注意する義理などさらさらない。さらさらないとわかりつつ、ひとこと言いたくなるのもまた蓉子の性分なのだが、今回は本人たちが自主的に態度をピリッと改めてくれたのでホッとした。どうやら、向こうもかなり過去を引きずっているようだ。
聖はリリアン女子大の学生証、蓉子は名前と住所を記帳して関所を通過した。中途半端な時間に来たにもかかわらず、質問されたりしなかったのは卒業生であるからだろう。いや、質問はされた。守衛《しゅえい》さんと立ち話していた中等部の青田《あおた》先生が二人を見つけて、「元気か」とか「大学はどうだ」とか聞いてきた。
「なつかしいな」
銀杏並木を歩きながら、聖がつぶやく。
「リリアン女子大に通っているのに?」
「門から入ってちょっとは歩くけれど、あんま奥までは行かないからね」
「そうなの」
「高等部校舎のほうに用があっても、大学校舎からだとこの道通らなくても行けるし」
なるほど、そんなものなのか。いや、もしかしたら小恥ずかしい、とか。だとしたら、わからないでもない。
制服姿ではない自分を、この長い道の上に置いてみる違和感。
体育祭とか学園祭とか卒業式とか、特別な日はそれ程でもないだろう。それは、何でもない日常の中で特に強く感じられる気がした。
「お祈りするんだ」
分かれ道のマリア像の前で、手を合わせる蓉子に聖は聞いてきた。
「ええ」
卒業したから、と、プッツリとやめるほうが変だ。朝な夕なに家でお祈りなんてしないけれど、マリア様の前まで来て手を合わせない理由もない。直前に神道《しんとう》の祭壇で手を合わせてきたとか、そういう場合はパスすることもあるだろう。
「蓉子の家のお墓は、お寺にあるって言っていたよね。おまけに、リリアンに入ったのって中学からじゃない」
「おまけ、って何よ」
にわかクリスチャンとでも言いたいのか。まあ、否定はしないけれど。
「大学でもいるんだよね。昼休みにお祈りの時間てのがあって、自主参加なんだけれど、毎日必ず出てるの。志摩子《しまこ》みたいなタイプじゃなくて、なんとなーく惰性《だせい》でお祈りしています、みたいな感じ。癖《くせ》なのかな。やらないと気持ち悪い、とか」
「まあ、そうね」
日本人ってそんな人が多いでしょ。敬虔《けいけん》なクリスチャンの志摩子でさえ、自宅に帰れば寺の本堂で手を合わせているはずである。
「さて、どうしますか」
そう待たせない、と江利子は言っていたけれど、まだ自宅にいたのだから五分や十分で到着するとは思えない。
「ちょっとその辺散歩する?」
あまり遠くまで足を伸ばさなければ、いいだろう。
「うん、ちょっと待って」
歩き出した蓉子を、聖が止めた。何なのだろうと振り向くと、聖がマリア様に向かって手を合わせている。
「お祈りするんだ」
ちょっとびっくりして、思わず感嘆の声をあげてしまった。
「いいじゃない、別に」
そんな気になったんだから、って。長いつき合いになるけれど、やっぱりよくわからない性格である。
「じゃ、行きますか」
お祈りを終えた聖は、蓉子が行きかけた方向とは別の道を歩きだした。
「ちょっと、どこ行く気?」
蓉子は慌てて、聖の肘《ひじ》をつかんで止めた。特に目的があったわけではなかったが、「行きますか」と言った時の聖のちょっと悪戯《いたずら》っぽい表情が引っかかったのだ。
「そりゃ……ほれ」
なかなか白状しないから、こちらから言ってやった。
「体育館はだめよ」
「いいじゃん。ちょっと覗くだけ」
やっぱり。聖ってば、思った通り卒業式を見にいくつもりだったのだ。
「だめって言ったら、だめ」
ちょっと覗く、なんてことできるわけないではないか。そんなことが許されるならば、受付や警備の係が要所要所に配備されている意味がない。だから江利子の彼、何て言ったか、あの熊五郎《くまごろう》だって、去年の卒業式にはリリアンの敷地内にたどり着いていながら、体育館に入れてもらえなかったのだ。
「じゃ、正面から堂々と」
軽く親指を立てて歩き出す聖を、蓉子は力一杯踏ん張って止めた。
「もっとだめーっ」
それが佐藤《さとう》聖とわかれば、たぶん体育館の中に入れてもらえるだろう。しかし、時間に遅れてやって来た人って、静かに着席してもものすごく目立つのだ。それでも、それがただの父兄ならばいい。佐藤聖とわかれば、生徒たちの中に多少なりともざわめきが生じるはず。小さなざわめきはやがて大きなざわめきとなって会場中に広まる。
目も当てられない。
卒業式は退屈なものである。つまらなくて結構。何事もなく、粛々《しゅくしゅく》と式次第をこなしていけば大成功だ。
「お願いだから、私の可愛《かわい》い妹の卒業式を滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にしないでちょうだい」
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元祖・「さん」付け問題
1
その体育館の中では、蓉子《ようこ》の願い通り粛々《しゅくしゅく》と卒業式が進んでいた。
「着席」
進行役の教頭先生の声が、マイクを通して会場中に響《ひび》き渡る。
指示通り、国歌『君が代』を歌い終わった出席者は、各々《おのおの》の椅子《いす》に腰掛ける。衣擦《きぬず》れの他にザワザワという音が混じるのは、私語ではなく、紙がこすれたり煽《あお》られたりする音。PTAや来賓席には、あらかじめ、式の中盤に歌う予定の聖歌の歌詞がプリントされた紙が配られていたためだ。
聖歌といっても、難しいものではない。キリスト教に縁がない人でもどこかで聞いたことがあるような、メジャーな曲がちゃんと選ばれている。導入部を聞いたところで、メロディラインに覚えがあれば歌詞を見ながらだったら歌える、というわけである。
あのザワザワの中に、両親がいる。着席しながら、令《れい》は思った。
自分の両親だけではなく、由乃《よしの》の両親もいる。義叔父《おじ》さんは、有給休暇をとってまでわざわざ義姪《めい》の卒業式に参列した。――ああ、何てこと。
(来たって両親まででしょ、普通)
しかし支倉《はせくら》家・島津《しまづ》家は二軒で一ファミリーみたいなところがあって、世間一般の「普通」には当てはまらない規格外家族なのである。
(卒業生一人に対して、父兄席が四つ)
それでもまあ、お姉さまである鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまのご家族は去年六人分(内一人は体育館前で足止めをくって入場を断念)の席を陣取っていたという話であるから、まだまだ可愛《かわい》いものである。
(島津夫妻に関しては、由乃を見に来たということにしておこう)
だから、それはいいとして。令は、叔母《おば》夫婦を頭の中の戸棚に一旦しまった。
(それより)
今度は保留にしておいた、田沼《たぬま》ちさとちゃんのことを考える。あの、素直で明るいちさとちゃんが突然|牙《きば》を剥《む》いた。あれは、どう解釈したらいいものやら。
(令ちゃんのばか、――って? ああ)
由乃以外に言われる「ばか」は、さすがに破壊力がある。あの時は何が何だかわからなかったし、言ったほうはケロリとして「失礼いたしました」ペコリってな感じで、笑顔までまき散らしながらさっさと退場しちゃったから、こちらはただただ目を丸くしたまま立ちつくしてしまって、呆然としたまま今に至るのだけれど。こういうのって、時間が経つにしたがってじわじわと来る[#「来る」に傍点]ものらしい。
(私が、いったいどんなばかをしでかしたのだろう)
もちろん「ばかの令ちゃん」には、「ばか」と言われる理由なんて教えてもらえるわけもない。
ちさとちゃんには、その直前まで胸にコサージュをつけてもらっていた。初めのほうはそれは和《なご》やかなムードで、感謝の言葉すらもらった気がする。
(それが……)
その一分後とか二分後とかに何が起こったのか、まったく心当たりなどなかった。由乃がなんとか、とか言っていたような気もするけれど――。
(だめだ)
ばかと呼ばれたショックで、残念ながら何も思い出せない。
(ああ)
こんなことでいいのか、卒業式。
主役の一人であるはずなのに、まったく集中できない。
ああでも。
約二百三十人のうち一人くらい、そんな卒業生がいたっていいのかもしれない。
2
卒業証書授与が始まっている。
コース料理でいうならばメインディッシュの皿が運ばれてきた、さしずめそんなところであろうか。それでは直前にあった『国歌斉唱』は、スープということになる。『聖書朗読祈祷』はオードブル、『開式の辞』は食前酒。でもこの会場にいる大半は未成年なので、ここはノンアルコールの飲み物にしないと――。
(……何考えているのかしら、私ったら)
自分の卒業式というのは、存外淡々と進んでいくものだ。体育館の前方、卒業生の席で祥子《さちこ》は思った。
同級生たちが、一人一人名を呼ばれ、壇上に進み出て、卒業証書なる一枚の紙をもらって席に戻る。何だかテレビでも視《み》ているみたいに、その景色が遠い。
卒業生の中には、感極まってすでに泣いている人がいるのかもしれないけれど、少なくとも自分の周辺には見られない。
今から号泣《ごうきゅう》なぞしていたら、式が終わるまでに気力も体力も使い果たしてしまう、か。そういうわけではないかもしれないけれど、卒業式にはだいたい「さあここで泣いてください」という場所が設けてあるもので、リリアン女学園高等部の場合それは、例年、式の終わり間近に組み込まれた『仰げば尊し』から『校歌』にかけてのくだりなのである。
――ということは、送辞で号泣は、かなり早かった、と。
(いいのよ。去年の私は、卒業生じゃなかったのだし)
そう心に言い聞かせてみて、「しまった」と思う。それじゃ、絶対に今年は送辞以前には泣くわけにはいかないではないか。
(嫌だわ)
祥子は苦笑した。隣に座っているクラスメイトに気づかれないよう、唇《くちびる》の先だけ上げて。
(ばかね。泣くなんてこと、あり得ないのに)
昨日、祐巳《ゆみ》に誓った。卒業式では絶対に泣かない。去年の失態を取り返すための機会は、今日の卒業式をおいてほかにはない。大丈夫。祐巳が、あのリボンを持っていてくれる。心の一部を預けたのだから、安心していい。
しかし、自分の卒業式であるのに、まったく式に集中できない。そういえばお姉さまも言っていた。卒業式の最中、昔のことを思い出したりしていた、と。
「三年菊組」
教頭先生の声が、マイクを通して聞こえてくる。祥子は顔を上げた。令《れい》のいるクラスだ。ということは、もう二クラス分の卒業証書授与が終わったということになる。
令の苗字《みょうじ》は支倉《はせくら》だから、順番が来るまではまだ少しある。苗字と言葉とは比例しないだろうけれど、辞書でも「は」は全体の三分の二あたりの位置にある。
支倉令。いい名前だと思う。
お互いに幼稚《ようち》舎からリリアンだったから、出会いも何もない。いつの間にか顔を知っていて、名前も覚えて、必要ならば言葉を交わしながら学年を重ねた。たぶん何度か同じクラスになったことはあるはずだけれど、それがいつだったかは思い出せない。――祥子はあまりクラスメイトたちと深く関わることがなかったので、昔のことは記憶に留まっていないのだ。
令を意識したのはいつからだったろう。
(……あら)
考えてみれば、お互いが|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》になるまではあまり接点がなかったような気がする。
(でも)
その姿を見て、好ましくは思っていた。適当な言葉を探せないが、その中には「あこがれ」に近い感情も含まれていた。
何に喩《たと》えたらいいだろう。そう、真っ直ぐに太陽に向かって伸びていく若木。令は、そんなまぶしい存在だった。
人当たりがやわらかくて、さわやかで、徒党《ととう》を組まず、裏表がない。彼女の周りには、常に澄んだ空気と清らかな水が存在しているようだった。
その容姿と内面が、一貫していた。
体力測定で、何でもないただの走り幅跳びをしている同級生の姿を見て、祥子はその美しさにしばし見とれたことがあった。思い返してみれば、あれは間違いなく令だった。
一つ一つは短いシーンであっても、それをロザリオの珠《たま》のようにつなげると、令との思い出はそれぞれ光を映し合って、いつでもキラキラと輝いている。
(祐巳にも言えることだけれど、私はたぶん素直で真っ直ぐなタイプに弱いのだわ)
祐巳といえば、いつだったか質問されたことがあった。
「お姉さまたちは、いつからお互いを名前で呼び合うようになったのですか」
由乃《よしの》ちゃんや志摩子《しまこ》に対して、いまだに「さん」付けで呼んでいる祐巳にとっては、そのきっかけが気になるところだったのだろう。
「そうね……。いつの間にか、自然によ」
その時はそう答えておいたけれど、実はちゃんと覚えている。
* * *
「さっ、祥子はさ」
顔を紅潮させて、令が言った。
六月か七月に入ってからだったか。二人が|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》になってそう経っていない頃、どっちにしても一年生の一学期だったと思う。
場所は、薔薇《ばら》の館の二階だった。放課後、一年生の二人がお茶の支度か何かしていた時で、それまで特に雑談もしていなかったのに、突然令が口を開いたのだ。
「なぁに?」
祥子は内心、「さん」が取れたことにびっくりしてはいたが、外から見ればそう表情は変わらなかったようだった。
「えっと、あの、何だったっけ」
令が動揺している。「祥子は」と言葉を発するために全神経を総動員した結果、準備してきた話の内容をすっかり忘れてしまったのだということは、すぐにわかった。
だから重要なのは「祥子はさ」の後に続く言葉ではなく、令から「祥子」と発せられたことなのだ。
輪郭《りんかく》がはっきりしなくて、突っつけばハラハラと崩《くず》れてしまいそうな令の「祥子」だったが、問題ではない。名前から「さん」が外れるということは、自転車でいうなら補助輪がなくなったようなものだから、不安定なのは当たり前だ。
「私はね」
祥子はさ、を受けて祥子は口を開いた。
「紅茶のお茶|請《う》けに、紅茶のクッキーってどうかと思うわ」
助け船を出したつもりはない。ただ、令があたふたしているのを黙って見ていることに、耐えられなくなっただけだ。
「え?」
顔の中のありとあらゆる穴を全開したような表情で、令はこちらを見た。
「ではコーヒーならいいのか、って問われればそれも微妙ね。緑茶なんて論外」
祥子は視線をそらすと、黙々とお茶をいれる作業にとりかかった。
薔薇の館では、特にリクエストがなければ、大概《たいがい》紅茶が用意される。けれど、今日はお菓子の準備などはなかった。だから紅茶のクッキーは「仮に」の話なのだ。実際ここに紅茶のクッキーがあったとしたら、そのような話題は絶対に振らなかったであろう。自分たちに紅茶をいれるよう指示した先輩たちを、批判するようなものだから。
「じゃ、何ならいいと思う?」
令に尋《たず》ねられたので、祥子は少しだけ考えてからつぶやいた。
「ホットミルク」
「ホットミルク? ああ」
イメージがついたようで、令はうなずく。
「令は?」
とっさに呼び捨てにしたのは正解だったと思う。もし、ここで祥子が「令さん」と言ったなら、その後も「令さん」と呼び続けることになっただろうし、そうなると令にだって迷いが生じてくるはず。もし「祥子さん」に戻ってしまったら、最初の「祥子はさ」が無駄になる。決意し、顔を紅潮させてまで言った言葉が。
そんなのもったいない。
そして祥子の紅茶と紅茶クッキーの話にしても、ただの嗜好《しこう》の話として処理されるしかなくなるのだ。
「祥子の意見に乗っかっていい?」
令が言った。今度の「祥子」には、寸分のぶれもなかった。
「ホットミルクでいいの?」
「暫定《ざんてい》。っていうか、たぶんそれ以上の物って、これから先は見つからないと思う」
「じゃ、決定」
二人のやり取りを聞いていて、お姉さまたちが「何の話で盛り上がっているのよ」とクスクスと笑っていた。
気むずかしくてあまり薔薇の館に寄りつかなかった佐藤《さとう》聖《せい》さまがその場にいて、何がツボだったのか大笑いしていたのを、不思議と覚えている。
* * *
(それにしても)
依然として繰り広げられている壇上の卒業証書授与をぼんやり眺めながら、祥子は思った。どうして令はあの日、呼び方を変えようと考えたのだろう。それまではリリアンの伝統に忠実に、同級生の祥子には「さん」をつけて呼んでいたというのに。
呼び捨てにされても嫌な気持ちはしなかったから、これまで問いただしもしないできたけれど。
(そうね。そろそろ聞いてみてもいいかもしれない)
今なら、気まずくなって「祥子さん」に戻すこともあるまい。
「支倉令」
壇上では、自慢の親友が卒業証書を受け取るために一歩前に踏み出したところだった。
3
卒業証書を受け取り、再び三年菊組の自分の椅子《いす》に着席してから令《れい》は思った。
あっけない。
一旦手にした証書も、とりあえず壇を下りたところで回収されたから、今は手もとに残っていないし。実感のようなものが、希薄だった。
そういえば、卒業なさったお姉さまもそんなことを言っていた。実感がなくて、集中力も散漫で、式の最中なのに別のことが気になったり、いろいろなことが思い出されたりして、まるで他人事《ひとごと》のようだった、と。
まったく、その通りだった。そして、卒業証書さえもらってしまえば、ほぼ九割方仕事が終わった気になってしまうのは、約九割九分五|厘《りん》の気楽な卒業生なのであった。
「三年松組」
祥子《さちこ》のクラスの番になった。
小笠原《おがさわら》は「お」だから、出席番号はかなり早い。
「小笠原祥子」
ほら。すぐに回ってきた。
学校生活では、何をやるにも出席番号順ということは多いから、こんなに早いと、心の準備とかする前に自分の番がくるので大変そうだな、と常々思ってきた。
その点「支倉《はせくら》」は真ん中よりも後ろ、むしろお尻《しり》から数えたほうが早いくらいで、先発のクラスメイトたちのお手本[#「お手本」に傍点]を見てから事に当たれるという楽なポジションだった。待ち時間が長くて、退屈なことも少なくなかったけれど。
祥子が壇上に進み出ると、会場のあちらこちらから感嘆のため息のような声がわき上がった。
親友の欲目を差し引いてもなおお釣りがくるほど、小笠原祥子は美しかった。持って生まれた容姿は、知性と気位の高い魂《たましい》が宿《やど》ることにより、よりいっそう輝く。近頃はそれにやさしさやわらかさが加わって、美しさに艶《つや》と深みが増したように思える。たぶん、祐巳《ゆみ》ちゃんの力だろう。誰の目から見ても、祥子はリリアン女学園高等部のお姉さま代表だった。
祥子が証書を受け取り、壇上から下がる。再び、ため息。まるでショータイムが終わったかのよう。次の生徒が気の毒なくらいだ。
祥子とは、リリアンの幼稚《ようち》舎から一緒だったけれど、高等部に入るまで親しく言葉を交わした記憶はない。幼稚舎から他の園児とは違った雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出していて、すでに貴婦人の風格があった。
その頃は「貴婦人」なんて言葉を知らなかった令は、「ここにはお姫さまが一人いる」と思っていた。物心ついた時から、竹刀《しない》に見立てた竹の棒切れを振り回していた自分とは大違い。バレエをやっているという話で、身のこなしも優雅だった。
とてもきれいな女の子。
興味はあったけれど、どうやってお友達になったらいいのかわからなかった。他の園児たちも同じだったのだろう、近寄りがたい雰囲気に負けて遠巻きに眺めることしかできず、またはどう対処していいかわからないまま陰口《かげぐち》をたたいて笑ったりした結果、祥子は一人でいることが多くなった。今の令だったら、声をかけて一緒に遊んだだろうけれど、その頃は幼《おさな》すぎて、単独行動をしている祥子を「孤高の人」と尊敬していた。もちろん、そんな難しい言葉は後になって知ったわけだが。
初等部、中等部と、何度か同じクラスになったけれど、やはり祥子は令にとっては「きれいなお姫さま」のままだった。そのうち、大きな会社の社長令嬢だと知り、本当のお姫さまなのだとわかって納得した。
お姫さまは大口開けて笑ったりしないし、徒党を組んだりしないものだ。嫌味じゃなくて、本気でそんな風に憧《あこが》れていた。
(そういえば)
以前、由乃《よしの》に聞かれたことがあったっけ。いつから祥子さまのことを呼び捨てにしているの、と。「あっちはお姫さまだから、令ちゃんを呼び捨てにすることくらいどうってことないでしょうけど」というわけだ。
確かに、一番最初祥子を呼び捨てにするのには相当の勇気がいった。何しろ、相手は「お姫さま」だ。
「そりゃ。あっちから呼び捨てにしてきたんだから。同じ|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》として、『さん』付けのままっていうのもね」
なんて答えておいたけれど、正確には違う。いや、先に呼び捨てにはされたのだが、面と向かって、ではなかったと言ったらいいか。
――つまり、あれは、……どういうことだ。
* * *
遠巻きに眺めていた祥子がぐっと身近な存在になった日のことを、令ははっきりと覚えている。
五月に行われた山百合《やまゆり》会主催の新入生歓迎会、それが終わってすぐのこと、令のクラスである一年菊組教室に、後のお姉さまになる鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまがやって来て、藪《やぶ》から棒に言った。
「私の妹にならない?」
何と言っても相手は|黄薔薇のつぼみ《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》、一日二日考える時間があったら、やっぱり無理だって断ったかもしれなかったけれど、返事を急かされてOKしてしまった。考えすぎると、動物的な勘が鈍《にぶ》る。江利子さまと一緒にいると楽しそうだ、という直感は、結果的には間違いなかった。
ロザリオを受け取ってすぐ、仲間に紹介するからと言われて、教室から連れ出された。手を引かれて廊下を歩きながら、仲間が意味するもの、今から行く場所を理解して、臆《おく》しそうになった。
江利子さまのお姉さまである、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》が待っている。それだけではない、たぶん|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》も|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》も、そこには居るはずだった。
今さっき、高等部生徒会の頂点に立つ薔薇《ばら》さまたちを、憧憬《しょうけい》の思いとともに仰《あお》ぎ見たばかりである。まだ、心の準備ができていない。そもそも|黄薔薇のつぼみの妹《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン プティ・スール》としての実感すら、一年菊組教室付近の廊下にでも置き忘れてきてしまったような心持ちだった。
「あら」
江利子さまが立ち止まった。薔薇の館の前だった。
「何てことでしょう」
そこにいたのは、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》の水野《みずの》蓉子《ようこ》さまだった。
薔薇の館の近くに|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》がいるのは、ごく自然なこと。同じことが、|黄薔薇のつぼみ《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》である江利子さまにも言えることだった。だから|つぼみ《ブゥトン》のお二人が驚きの表情で互いを眺めていたのは、別の要素が加わっていたからに外《ほか》ならない。令にはわかった。蓉子さまは、江利子さまの横にいる自分を見て、驚いていたのだ。そして江利子さまは――。
蓉子さまの後ろに控えた一年生を注目している。それが、小笠原祥子だった。
祥子は自分を眺める江利子さまを見つめ返し、その後江利子さまがつないでいる手をたどって令の顔まで視線を移動させた。
目があった。
「え」
祥子は、一瞬小さく声をあげた。それから、すぐに花のような笑顔を向けてきた。
今から考えると、あれは社交辞令のほほえみだったのだろうけれど、それでもその時の令はいたく感心した。なぜって、自分はただぽかんと口を開けたまま立っていたのに、このような状況でほほえむ余裕があるなんて。さすがはお姫さまだ、と。
とにもかくにも、二人はほぼ同時に|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》になった、そういうことなのである。
仲間への紹介は、心配したほど緊張もせずに済んだ。二人一緒であれば、注目度も半分。ガチガチに震えるようなこともない。ただ、隣に祥子がいることで、なぜだかピリッと背筋が伸びた。
比較されるかも、なんて憂《うれ》うことはなかった。それより、祥子の側にいることに喜びを感じた。
そうだ、本当は遠巻きに眺めていたかったわけではない。彼女とは、こうして同じ場所に立って、互いの姿をその目に映し合っていたかったのだ。
それは、たぶん予感。
いつかかけがえのない友人になれると、未来の自分たちの姿を五感以外の感覚で感じとっていたのかもしれない。
その日、薔薇の館に新しい仲間として加わった二人を、先住人たちはいちご牛乳で乾杯し歓迎してくれた。どうしていちご牛乳かは知らないけれど、それは|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》のおごりだったらしい。当時| 白薔薇のつぼみ 《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》だった佐藤《さとう》聖《せい》さまが、買い出しに行かされてブーブー文句をたれていたっけ。一年生が入ってきたのに、どうして二年生が雑用しなければならないのだ、これは何の罰ゲームか、と。
振り返ってみれば、あれは本当に妹獲得レースに一人出遅れた聖さまに対する罰ゲームだったのかもしれない。
さて、そんなこんなでスタートした|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》としての生活だったが、すぐに祥子とうち解けた仲になったかというとそんなことはなかった。
「令さん、それを代わるわ」とか「令さんが部活に行っていた時にこんなことがあったのだけれど」とか、最初はもちろん「さん」付けで呼ばれていた。祥子は相変わらずお姫さまではあったけれど、|紅薔薇のつぼみの妹《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン プティ・スール》であろうと努力をしていた。雑用も嫌がらずにやった。いや、教室掃除だって嫌々やっているところなど見たことがない。むしろ積極的にやる。そして出来栄えは美しい。
部活で薔薇の館に顔を出せない日もある令に比べれば、祥子のほうがよく働いていた。まるで修行のように黙々と。
ある日、剣道部が部活で使用している武道館が修繕《しゅうぜん》のため使用できずに、部活が急に休みになったことがあった。そのため、令はいそいそと薔薇の館に向かった。日頃|怠《おこた》りがちな薔薇の館の雑用を、今日は思う存分やることができる。部活がある日なのに令が現れたら、お姉さまは喜んでくださるだろうか。
通称ビスケット扉と呼ばれる二階の部屋の扉を開けると、話に夢中だったようで、すでに中にいた祥子と江利子さまと|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》は、誰一人令に気づかずにおしゃべりを続けている。すぐに中に入って、「ごきげんよう」と挨拶《あいさつ》するべきところだった。事実そうしかかった。だが、足を止めたのは祥子のこんな言葉が耳に入ってきたからだ。
「令[#「令」に傍点]が悪いということはないと思います」
(私が、悪い?)
いや違う。祥子は「悪い」を「ことはない」と否定しているのだから、庇《かば》ってくれているのだ。
「じゃ、何が問題なのかしら。私たちの頭の固さ?」
「そのようなこと、申し上げていません。確かに令[#「令」に傍点]には多少の問題があります、でもそれは些細《ささい》なことです、そう言っているのです」
(問題って? もしかして部活をやっているから、|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》としての働きが不十分だってこと? でも、お姉さまは山百合《やまゆり》会の仕事はできる範囲でいいっておっしゃったはず――)
そのことはもちろん気になったけれど、実は令はもっと別のことに気がいっていた。
(今、令って呼び捨てにしていなかった?)
「中、入らないの」
その時、突然背後から声がした。
「うわっ」
「ご挨拶ね、このでかいチビちゃんは」
振り返ると、そこには佐藤聖さまが立っていた。しかし、でかいチビちゃんって呼び名はどうだろう。
「あら、令。来ていたの?」
江利子さまが振り返った。たった今自分たちが噂《うわさ》をしていた人物が現れたにしては、冷静な対応である。だからかえって、令のほうがどぎまぎしてしまった。
「は、はい」
それは祥子も、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》も同じだった。
「ごきげんよう、令さん」
「……ごきげんよう」
「令ちゃん、中に入りなさいよ。ついでに、その後ろに突っ立っている人もね。……ふふ、やっと来たわね、聖」
「たまに顔を見せないと、契約|不履行《ふりこう》で訴えられかねませんからね」
ドアノブを持ったままでいる令を横から追い抜いて、聖さまは|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》のもとまでやって来ると顔をぬーっと突き出しニカッと笑った。いつも不機嫌そうな顔をしている人だったが、今日は多少は機嫌がいいように見えた。
祥子がテーブルに広げていた書類のような物を片づけていたので、令は荷物を置いてお茶の支度をすることにした。まだ、テーブルの上にカップは出ていない。電気で湯沸かしするポットは、いい具合にシュンシュンと音をたてている。
茶葉をティーポットに落としながら、ふとさっき祥子の言っていた言葉を思い出す。
聞き違いであったろうか。
「ねえ、令ちゃん」
「うわっ」
振り返ると、またしても背後に佐藤聖さま。
「バリエーションないの、他に」
「すみません」
どうして謝らなきゃいけないんだ、と思いつつ、後輩は反射的に詫《わ》びの言葉を口にしてしまうものだった。申し訳ありません、すみません、恐れ入ります、失礼しました、エトセトラエトセトラ。
「さっきの、気になるんでしょ」
「さっきの、って」
とっさに取り繕《つくろ》ったけれど、無理があったはずだ。ビスケット扉のところにいた時、聖さまは令の後ろにいた。その人の耳にまで届いていた話が、令に聞こえていないはずはないし、ショックで中に入りそびれていたことまで見られていたわけだから。
「呼び捨て」
「は?」
「されてたよね。おひーさんチビちゃんに」
聖さまは振り返る。そこには、祥子が後ろ向きに立っていて、たった今現れた|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と立ち話をしていた。
「祥子さんのことですか」
でかいチビちゃんとか、おひーさんチビちゃんとか、勝手に呼ぶからわかりにくいのだ。リリアン女学園では、上級生には名前に「さま」、同級生は名前に「さん」をつけて呼ぶのが伝統。下級生に対しては「さん」または「ちゃん」、親しければ呼び捨てもありだ。
「へー、でかチビは相変わらず『祥子さん』なんだ」
「その、でかチビとか呼ぶのやめてもらえませんか」
「なら、令って呼び捨てにさせてもらおうかな。おひーさんがいいなら、私だっていいでしょ」
「……ご勝手に」
佐藤聖さまという人は、不機嫌な時はピリピリしていて恐い。が、ハイな時のほうがむしろお近づきになりたくない、と令は思った。機嫌がよろしくない時は、周囲にたいして「近づくな」という光線を出して威嚇《いかく》してくれる分だけ、親切だとも思った。
「でもさ、何か対等じゃないよね」
茶葉が開いたようなのでカップに注いでいると、聖さまがその様子を眺めながらつぶやいた。まだ終わっていなかったんだ、この話。
「君たち、同学年で両方とも|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》で。それなのに片や呼び捨て、片や『さん』付け。そう呼んでいるうちに、立場や力関係にも影響がでないといいけれど」
その助言には、ちょっとぐらついた。でも、山百合会は三色の薔薇さまたちが力を合わせて生徒たちを引っ張っていってるのだから、力関係なんて言葉は無縁なんじゃないだろうか。
「ごめんなさい。令さん、手伝うわ」
祥子が声をかけてきた。
「あ、いいから。普段、祥子さんにばかり頼っているので、できるときはやらせて。祥子さんほどおいしいお茶にはならないけれど」
令が振り向いて答えると、聖さまが横から口を出してきた。
「心配しなくても、私が見張っているから大丈夫」
「何も心配なんてしていませんけれど?」
ムッとしたように、祥子は背中を向けた。
「『さん』付いてますよ」
お茶をカップに注ぐ作業を再開しながら小声で言うと、聖さまは「ノンノンノン」と右手人差し指を一本立てて左右に振った。
「それはそれ、面と向かっては呼びにくいし。でも、第三者の前で呼び捨てしているわけでしょ? 本当はそう呼び合いたいんじゃないの?」
「呼び合いたい?」
「令、祥子ってさ。そうしたいって自分からは言えないあの子のプライドの高さ。わかってあげなよ」
そうだろうか。
令は、もう一度背後の祥子を見た。彼女は気づかず、今度は蓉子《ようこ》さまと話をしている。
もしそうなら。
こちらから、「祥子」と呼びかけてみようか。
今日は無理だから、明日。
ちょっと高そうなハードルだけれど、飛び越えられたその先には、お姉さまたちのような関係が待っているかもしれない。
「蓉子」、「江利子」、「聖」。
名前で呼び合っているお三方は、とても素敵なのだ。
4
「聖《せい》」
銀杏並木の分かれ道に立つマリア像の前にいやに目立つアメリカ人[#「アメリカ人」に傍点]を見つけて、でこちん[#「でこちん」に傍点]は軽く手を上げた。
「ああ、江利子《えりこ》」
先に気づいた蓉子《ようこ》が、手を上げ返す。聖はチラリと顔をこちらに向けたものの、肩を震わせて笑いをこみあげるのに必死で、挨拶《あいさつ》の言葉どころか仕草すら返せないご様子。
「これ、どうしたの?」
背中を丸めて小刻みに振動する妙な物体を指さして聞くと、蓉子は呆《あき》れたように肩をすくめた。
「さあ?」
「さあ、って。一緒にいたんでしょ」
とりあえずマリア様に手を合わせてから、江利子は尋《たず》ねた。お願い事なんてないから、形だけだ。
「一緒にいたけれど。突然、笑い出したのよ。私だって意味がわからないわ」
蓉子は、冷ややかに聖を見た。
「突然? そりゃ、気持ち悪いわね」
視線をそちらに向けると、ヒッヒッと引きつけを起こしたみたいに喉《のど》を鳴らす。ついに、聖は声をあげて笑い出した。お腹を抱え、涙まで浮かべている。
「ここに来る前に、道端のキノコでも食べてきたんじゃない? 笑い茸《たけ》」
「聖の場合、やりそうなところが恐いわ」
腕組みして「うーん」と唸《うな》る、親友二人。在学中、何で下級生たちはこんな人を「いい」と言っていたのだろう。謎《なぞ》だ。
やがて笑いの波がおさまった聖は、遠巻きに眺めていた二人に声をかけた。
「これこれ、そこのお女中。近《ちこ》う寄れ」
「は?」
「即席コントはいいから」
即席コント? 何ふざけたことを言っているのだ、自分のパフォーマンスを棚に上げて。
「元はと言えば、聖が悪いんでしょ。何がそんなにおかしかったの」
「悪い、悪い。思い出し笑い」
にしては、いささか笑いの規模が大きかったのではないだろうか。普通は「くすっ」くらいなものだろうに。訝《いぶか》しげに見ていると、聖は江利子を見て、今度は含み笑いを浮かべた。
「何なのよ」
一々《いちいち》癇《かん》に障《さわ》る。そういや、聖とは初対面からけんかした仲だったっけ。そもそも、多くを望むことが間違いなのだ。
「お宅の妹さん」
聖がつぶやく。
「令? あの子がどうしたの」
「勘違いしちゃって、祥子のことを呼び捨てに……クククッ」
「だから何なの」
はっきり言いなさいよ、と江利子がコートの襟《えり》をつかんで迫ると、聖は笑いながら口を開いた。
「いつだったかさ、祥子が江利子とあと誰だったかな、ま、とにかく薔薇の館で雑談していたの覚えている?」
「そんなぼんやりとしたあなたの記憶を頼りに、何を思い出せっていうの」
江利子は歯を食いしばったまま、唇《くちびる》の端を上げて言った。
いつだかわからない、一緒にいたのが誰だったかもわからない、おまけに薔薇の館で雑談、って。そんなので検索をかけられるわけがない。該当《がいとう》する事柄は、百や二百じゃきかないだろう。
「令と祥子が薔薇の館に来るようになって、そう経っていなかった頃よ。そうそう、何か問題を解いていたな。あの頃、どこかの雑誌でやってた、数学とパズルを組み合わせたみたいな懸賞問題が流行《はや》ってたじゃない、私たちの学年で」
「ああ」
そんなこともあったな、と思い出しながら、聖の襟から取りあえず手を放す。ずいぶん昔の話だ。
「それと私たちの妹と、何の関わりがあるわけ?」
今度は蓉子が、ちょっときつい口調で尋ねる。そりゃそうだ。令だけならともかく、祥子の名前まで出てきてしまったら穏《おだ》やかではいられないだろう。聖の、あの意味ありげな笑いの後では。
「最初からそこにいなかったから経緯《けいい》はわからないけれど、江利子とかが祥子に問題をやらせていたみたいだったな。あの雑誌広げてたから。そうしたら祥子が熱くなっちゃった、そんなことあったでしょ」
「祥子が熱く……」
何だか、じわじわと思い出してきたぞ、と江利子は思った。一見おとなしそうな祥子が、その懸賞問題についてはっきり自分の考えを言うものだから、わざと逆のことばかり言ってその反応を面白《おもしろ》がっていた、そんなことが確かにあった。だが残念ながら、どのように終結したのかまではまったく覚えていない。
「例題がどうの、って議論してたんじゃないの」
「だったかしらね。覚えていないけれど」
会議でした発言でもあるまいし、雑談なんて一々記録も記憶もしていない。
「あれをさ、令が小耳に挟んで、自分のことだって思ったわけよ」
「え?」
「例[#「例」に傍点]が悪い、を、令[#「令」に傍点]が悪い、とかって聞き間違い。傑作《けっさく》でしょ。で、祥子に呼び捨てにされたと思い込んで。なら自分も、ってなったわけよ」
「何ですって?」
「祥子は、さぞびっくりしたろうね。突然、令から呼び捨てにされて。その時のこと、さっき急に甦《よみがえ》ってきて、そうしたらもう、おかしくておかしくて」
またもや笑いの波が押し寄せてきたみたいで、聖は「ははは」と笑った。対して、当事者の姉二人は、信じられないといった表情で顔を見合わせた。
「そうと気づいていて、令に教えてあげなかったの?」
蓉子が尋ねた。
「何で教えるの? こんな面白いことを」
キョトンとして聞き返す聖。
「わかった。あなたが令に焚《た》きつけたんでしょう。祥子のこと、呼び捨てにするように」
「まっさかぁ」
そう言って笑う表情を見て、江利子の疑念が確信に変わった。何という先輩なのだ。呆《あき》れて物も言えない。
いや、蓉子がつぶやいた。
「……そう、焚きつけたわけね」
と。
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はなむけ三重唱
1
「送辞」
教頭先生の声がした。
「在校生代表、二年|藤《ふじ》組、藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》」
名前を呼ばれ、志摩子は「はい」と返事をして椅子《いす》から立ち上がった。
前の席にいた桂《かつら》さんが振り返って、「がんばれ」と小さく言った。笑顔で送りだしてくれるクラスメイトたちに軽く頭を下げて、ずらりと並んだ椅子のブロックが途切れた通路へと抜け出す。
目の前には、体育館の舞台がある。
あの壇上に立ち、そして卒業していく先輩たちに向けて送る言葉を届けるのが、志摩子に課せられた仕事だった。
次第に高鳴る鼓動《こどう》。
一度大きく息を吐いて、それからゆっくりと前方に向かって歩き出す。もう、後戻りはできない。次にこの道を歩くのは、大任を果たして後。今とは逆の方向を向き、自分の席に戻る時だ。
卒業生席と在校生席の境界線となっている通路で、一度立ち止まる。志摩子は今、背後に約四百五十人の在校生を背負《せお》って、卒業生の集団を見つめている。
マリア様、どうぞお守りください。
無事、やり遂《と》げられますように。
珍《めずら》しく、マリア様に具体的なお願いをした。
たぶん、それほどまでにプレッシャーのかかった仕事だったのだ。――志摩子にとっては。
* * *
「あ、藤堂さん」
帰りのホームルームが終わり、担任の先生が教室を去り際に「ちょっと」と志摩子を呼んだのは、確か二月の半《なか》ばのことだった。
「はい」
廊下に片足を出した状態で待っている先生。扉が開いたままでは教室内に残ったクラスメイトが寒かろうと、志摩子は少し小走りで進み出た。が、その甲斐はなかったようである。すぐに掃除の時間に突入し、教室のありとあらゆる窓が開け放たれたのだ。
「掃除が終わったら、山村《やまむら》先生のところへ行って」
「はあ」
「職員室で待っているそうだから」
「はい」
「何か、質問は」
「いいえ」
「じゃ、頼んだよ」
事務的な連絡事項を伝え終えた担任は、そのままスタスタと廊下を歩いていく。一礼してその後ろ姿を見送っていると、耳もとで突然声がした。
「先生、何だって?」
「わ」
思わず心臓が跳《は》ね上がったけれど、身体《からだ》の反応が追いつかなくて、うまく驚いたことを表せなかった。それにしても、いつからそこにいたのだろう。横を見れば、クラスメイトの桂さんが志摩子の答えを待っている。
「掃除が終わったら職員室に行くように、と言われたのよ。山村先生が待っていらっしゃるのですって」
別段隠し立てするような内容ではなかったから、桂さんには聞いたままを話した。担任の先生がみんなの前で伝言を言わなかったのは、志摩子一人に告げればいい話だったからだろう。秘密にしなければならないならば、もっと別の場所まで連れていってから切りだすはず。もっとも、職員室の山村先生を訪ねるように、というメッセージには秘密のメッセージ性はまったくなかった。
「何で?」
桂さんが首を傾《かし》げた。
「さあ……」
志摩子も、同じように首を傾げた。
「聞かなかったの」
「だって、ご用があるのは山村先生でしょう?」
担任の先生に聞くことだろうか。職員室に行って、山村先生に会って、話をされないことには「何で」呼ばれたのかはわからない。
「でもさ。自分のクラスの生徒に他のクラスの担任から呼び出しの伝言を頼まれたとしたら、普通聞くものじゃない? うちの藤堂に何の用事です、って。絶対に聞いてるよー、知ってるよー」
桂さんは、子供が玩具《おもちゃ》をねだってぐずるような声を出した。
「それもそうね。……あっ」
「何」
「そういえば、先生、さっき質問は、っておっしゃっていたわ」
「それだよ。そこで『山村先生のご用は何でしょうね』って聞くのが、正解だったんだよ」
まったく志摩子さんは、と舌打《したう》ちのように指を鳴らす桂さん。しかし、すぐに思い直したように軽く笑う。
「でも、これはそんなに悪い話じゃないね」
「なぜ?」
「嫌なことだったら、ヒントとか出したくないじゃない。先生が『質問は』って聞いたということは、ちょっとくらいなら教えてくれるつもりがあったということよ。そうでしょう?」
なるほど、そういう考え方もあるわけか。
「桂さんって、頭がいいわね」
「……何か、志摩子さんに言われると、ちょっと複雑っていうか」
桂さんは言葉と同じように、何とも表現しがたい表情を浮かべた。わかりやすくていいな、そう志摩子は思った。
「どうして複雑なの? ……あっ」
志摩子がつぶやくと、桂さんはガクッと、寄りかかっていた物を外されたみたいな身体の動きをした。たまにやっている人を見かけることがあるけれど、これってどうやって身につけるのだろう。
「今度は何なの」
そうそう、そんなことを考えている暇《ひま》はない。
「掃除。まず掃除をしないと」
志摩子は手を一つを叩《たた》いて、教室に引き返した。掃除が終わったら職員室に行く、そういうことになっているのだ。
教室の掃除を済ませて高等部職員室に行くと、山村先生が先に志摩子を見つけて「ここ、ここ」と手を上げた。
「ちょっと待ってね。後から二人ばかし来るから」
先生は自分の机の側で、捜し物だか授業中に使用した資料の片づけだかをしていたようだったが、ちょっとだけ手を休め、留守だった隣の先生の椅子を引っぱってきて、志摩子に「座って」と言った。
「二人?」
椅子は結構です、と手で断りながら、志摩子は尋《たず》ねた。他に呼ばれている人がいたなんて話は、聞いていなかった。
「そう。藤堂さんが一番乗り」
「はあ」
ここで、桂さんなら絶対に聞くはずだった。「私に何のご用ですか」とか「あとは誰が呼ばれているのですか」とか。けれど、バタバタと動き回る先生を見ていたら、わざわざ呼び止めてまで聞くことではないような気がした。それより、早く来すぎてしまったかしら、と反省した。
それにしても、何の用事なのだろう。
山村先生。
授業は受けているから、もちろんまったく接点がないわけではない。でも最近志摩子は、授業中に目立った行動をした記憶はない。たとえそのようなことがあったとしても、問題があれば先生はその場で注意をするだろう。
「……」
山村先生は、志摩子を見て人違いとは言わなかった。だから、誰だか知らないけれどあとの二人が来て、話が始まるまで、ここで待つしかないようだ。
他に二人志摩子と同じように呼ばれている人がいるということで、話の内容に関してはもはや見当すらつかなくなってしまった。
これが由乃《よしの》さんなら、まだわかる。山村先生は剣道部の顧問であり、由乃さんは剣道部員だ。
(でも、私は剣道なんてしたことがないし)
だから、スカウトされる可能性だってない。
うつむいてため息をついて、気を取り直して顔を上げると、なぜだか目の前に由乃さんの顔があった。
「……!」
びっくりして、すぐに声が出せなかった。由乃さんのことを考えていたら、由乃さんが現れた。一瞬、魔法か幻《まぼろし》かと思った。
「やっぱり志摩子さんだ」
しかし由乃さんは、実体があった。志摩子の肩をぽんぽん叩いたあとで、職員室の入り口付近に向かって大きく手を振る。
「おーい、祐巳《ゆみ》さん。ここに志摩子さんもいるよー」
「あ、あの」
「待ってて。今、祐巳さん掃除日誌を出しているんだわ」
「ど、どうしてここにいるの」
事態が飲み込めなくて、志摩子は尋ねた。
「え? 呼ばれたから」
「私、呼んでいないわよ」
由乃さんのことを思い浮かべはしたけれど、それで瞬間的に引き寄せる能力なんて、今まで使ったことはなかったし、自分がその力を持っているかどうかを考えたことすらなかった。
「知ってるわよ。私たちを呼んだの、山村先生だもの」
「あ、そう。……えっ、山村先生!?」
ということは、あとから来る二人というのは、由乃さんと祐巳さんだったということなのだろうか。確認しようにも、近くに山村先生の姿は見当たらない。さっきまで、この辺りを行ったり来たりしていたのだけれど。
「あー。本当だ、志摩子さんがいるー」
考えてみたら、思い浮かべてもいない祐巳さんまでこうして現れたのだから、自分の仕業ではないだろう。志摩子はホッと胸を撫《な》で下ろした。
「祐巳さんたちも、山村先生に呼ばれたの?」
「も、ってことは、えっ、志摩子さんもなんだ」
奇遇ね、なんて祐巳さんは手を握ってきた。その様子からは、やはりどういった理由で呼ばれたのかはわかっていないようだ。「あと何人来るのかしら」なんてことまで言っていたし。
「なぜ三人が呼ばれたのか知っていて?」
「次期|薔薇《ばら》さまだからじゃないの?」
「……そうね」
三人に共通することといったら、まず真っ先に浮かぶのがそのキーワードだろう。一月末に行われた生徒会役員選挙の結果、来年度の生徒会長、つまり薔薇さまと呼ばれる三人が決まった。それが、今ここに顔を揃《そろ》えている三人なのである。
「バレンタイン企画のデートの件、とか?」
くれぐれも事故のないよう、注意するため。
「だったら真美《まみ》さんも呼ぶでしょう」
むしろ、真美さんから呼ぶはずだった。バレンタインデーで宝探しを企画したのも、その優勝賞品を次期薔薇さまたちとのデートに決めたのも新聞部だった。
じゃあ、いったい――。三人は見つめ合った。自分たちは、これからどんな話をされるのだろう。
少なくとも、祐巳さんが加わった段階で、剣道とは無縁《むえん》の用事であることだけは間違いない、と志摩子は確信していた。
「あー、島津《しまづ》さんに福沢《ふくざわ》さんも来ていたか。ご苦労ご苦労。お待たせしたね」
三人の表情に影を落としていた雲を吹き飛ばすかのように、山村先生が明るい声とともに登場した。
「全員揃ったから、じゃ行きますか」
「はい?」
まったく状況がわかっていない三人は、首を傾げながらも、先導する山村先生のあとをついていくしかない。
「あの、いったいどちらに」
志摩子は尋ねた。
「職員室だと人がバタバタしていて落ち着いて話せないから、場所変えようと思って」
確かにこの時間、教職員だけでなく先生に用事のある生徒、日誌の提出や部活で使用する部屋の鍵を取りに来る生徒などの出入りが激しい。
山村先生は、セーターの上にカーディガン代わりに着ていたジャージのポケットから何やら鍵を取りだし、ストラップのような物を指に引っ掛けるとクルリと回した。
「それに、これから三人にぶっちゃけトークしようと思って」
鍵に付いていたストラップには、『生活指導室』と書かれていた。
2
「送辞」
教頭先生の声がした。
「在校生代表、二年藤組、藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》」
名前を呼ばれた志摩子さんが「はい」と返事するのを、少し離れた席で祐巳《ゆみ》は聞いていた。
いよいよ始まる。
「二年松組、島津《しまづ》由乃《よしの》」
「はいっ」
さっきとは違って、今度の「はい」はかなり近い場所から聞こえる。この辺りで、来賓《らいひん》やPTAの席で小さなざわめきが起こった。送辞が二人? そういったザワザワなのだ。
もちろん想定内であるから、進行役の教頭先生はそのザワザワが収まるのをちょっと待つように一呼吸してから、続ける。
「二年松組、福沢《ふくざわ》祐巳」
三人目が呼び出されると、一瞬しんと静まりかえった。静寂《せいじゃく》の中、祐巳は「はい」と大きな声で答えた。
あまりに声を張りあげたので、喉《のど》が刺激されて若干コホコホと咳《せ》き込んでしまった。さっきざわめきが起こった場所付近からクスクスと笑いがもれているようなのは、祐巳の様子が面白《おもしろ》かったのか。それとも一人だと思っていた送辞に二人目の名前がコールされ、その後まさかの三人目が現れ、よもやと身構えたところで打ち止めという、まるでコントみたいな流れについ頬《ほお》がゆるんでしまったせいか。
どっちでも、構わない。っていうか、気にならない。
ザワザワもクスクスもしーんも、おまけを言うなら自分で出したコホコホさえ、この場が存在しうるために欠かせない、あるがままの音だと思えたからだ。たとえば、人間でいうなら心音のようなもの。いちいち気にしていたら生きていけない。
前の席の椅子《いす》の脚《あし》とクラスメイトたちの膝《ひざ》との間をすり抜けて、通路へと出る。先に名前を呼ばれた志摩子さんと由乃さんが、そこでちゃんと待っていてくれた。
三人|揃《そろ》ったところで、志摩子さんを先頭に歩き出す。
目の前には、体育館の舞台がある。
あの壇上に立ち、そして卒業していく先輩たちに向けて送る言葉を届けるのが、祐巳に課せられた仕事だった。
大丈夫、泣かない。
祐巳は今、全在校生の代表なのだ。
だから自分が泣いていいとしたら、参列している一年生二年生が全員泣いた時だけ。
三分の一ではない、全員だ。そう言い聞かせてから、壇に上った。
お姉さま。
送辞は全三年生に向けて贈ります。
でも、お姉さまにしかわからないメッセージも一緒にお届けしますから。
どうか受け取ってください。
* * *
「ズバリ、送辞の話なんだ」
生活指導室に入るなり、山村《やまむら》先生は言った。
「そうじ……」
時間的なことも手伝って、祐巳は最初「掃除の話」だと思った。志摩子さんや由乃さんも、同様だったらしい。
「まあ、立ち話も何だから、座って」
「はあ」
と答えたものの、生憎《あいにく》と呼び出されて学校生活[#「生活」に傍点]を指導[#「指導」に傍点]されるほど弾《はじ》けた生徒ではなかったから、この部屋にはあまり馴染《なじ》みがない。だから正直、どの席に収まるのが適当か計りかねた。中央には、応接セットのようなソファと椅子があるけれど、これって上座《かみざ》とか下座《しもざ》とかあるのだろうか。
「どこでもいいでしょ。じゃ、私こっちに座るからそっち側の椅子に三人並んで」
山村先生がテキパキ指示するので、由乃さん、志摩子さん、祐巳の順に腰掛けた。志摩子さんを真ん中に据えたのは、現在|唯一《ゆいいつ》の薔薇《ばら》さまを立てた、というより二年松組二人の自信のなさの表れだろう。何だかんだいって、どこか志摩子さんを頼っているところがある。
「そんなに堅くならないで。何もあなた方の生活態度に、いちゃもん[#「いちゃもん」に傍点]つけようっていうんじゃないから」
先生は笑ったけれど、未《いま》だ話がどのように転がっていくか読めない生徒たちとしては、つられて笑うこともできない。
生活指導室は、四人で秘密の会合を開くにしては十分過ぎるほどの広さがあった。けれど祐巳は知っている。ここに十四、五人詰め込むと、それはそれは窮屈《きゅうくつ》なのだ。
そう、ここは一年前に、当時在学中だった鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまが『イエローローズ騒動』関連で呼び出しを受けたあの部屋、心配した仲間が押しかけて談判の末全員入れてもらったあの部屋、なのである。
「先程、掃除と言われましたが」
志摩子さんが切りだした。
「どちらの掃除ですか?」
すると、先生は答えた。
「どちらって、そりゃ卒業式の、だけれど」
「では、体育館」
「そうなるわね」
この時点では、この部屋にいた四人すべてが、話が食い違っていることにまったく気づいていなかった。
「私たちに、何を」
体育館の掃除について話をしていると思い込んでいる志摩子さんは、当然そのように質問をした。卒業式の会場である体育館は、毎年一年生が掃除して椅子出しまで行うことになっている。今年も例年通りであるならば、このように二年生三人が呼び出されて話を聞かされる理由がわからない。
「つまり、送辞を三人に頼みたいの」
「さ、三人?」
黙っていた由乃さんが、半笑いで聞き返した。
「異例だけれど引き受けてくれないかな」
異例も異例である。今度は、図《はか》らずも三人同時に叫んだ。
「三人じゃ無理です!」
すると、先生は困ったような表情で、一人一人の顔を覗き込んだ。
「みんな、一人でやりたいの?」
「……は?」
「え?」
そこで、全員やっと気がついた。この会話、どこかおかしくない? ――と。
「送辞と掃除か」
氷解《ひょうかい》してみたら、何のことはない。そうか、送辞か。だったらわかる。
(ん? 送辞?)
「そ、送辞を、三人でですって?」
一回フェイントがあったものだから、驚きが時間差攻撃で押し寄せた。
「えーっ!?」
すごい衝撃。
体育館の掃除を三人きりでやると聞いた時より、祐巳はびっくりしたのだった。
「言葉を選んでうまいこと丸め込む、っていう話し方もできるんだけれどさ」
山村先生は言った。
「君たち賢《かしこ》いし、デコレーションしたりコーティングしたりした言葉の中にある内容というか、話の本質みたいなものを敏感に察知《さっち》しちゃうと思うんだよね」
「つまり飾るだけ無駄《むだ》だ、と」
由乃さんが、探るような目をして先生を見た。
「そういうこと」
で、ぶっちゃけトークか。何かすごいな。三人はそれでいいのだろうかという表情で、互いの顔を見た。
「送辞を読み上げるのは、通常一人。去年の卒業式に出た君たちは、一人で始まって二人で終わるという送辞を目《ま》の当たりにしたわけだけれど、あれはアクシデントといっていい。予定では最後まで一人で行うはずだったからね」
先生が今更確認するまでもない。去年、送辞を務めた二人というのは、今ここにいる由乃さんと祐巳のお姉さまである。
「で、今年の送辞だ。式で挨拶《あいさつ》する生徒代表を決める場合、もちろん立候補とかくじ引きとかじゃないことくらいわかっているよね」
「はあ」
成績優秀者かな、と祐巳は漠然《ばくぜん》と思った。
「入学式の新入生代表だと、どうしても成績の比重が高くなるよね。まだ入学していないので、他のデータが不足している。しかし卒業式になると、ある程度判断材料が揃ってくる。さて、私たち教師が、代表を選ぶときに気を遣《つか》うのは何だと思う? それは、生徒たちが自《みずか》らの代表として推《お》せる人物であるだろうか、という点なわけ」
なるほど、選ぶほうも大変なんだ。生徒を成績順に並べて、一番上の人を選ぶってシステムじゃなかったらしい。
「勉強ができても、生活態度が良くないのでは困る。人気《にんき》があっても、成績が芳《かんば》しくない生徒はやはり反発を招くよね。そんなわけで、ここ近年は生徒会幹部に白羽《しらは》の矢が立つことが多かった。選挙で当選したというのは信頼の表れとも言えるし、生徒会を率いていくのだから生活態度は問題ないだろう。自覚が目覚めて勉強するのか、薔薇さまやつぼみという称号がついた生徒は、おおむね成績も悪くない」
聞いていて、祐巳の肩身はだんだん狭くなってきた。自慢じゃないけれど、自分は何を取っても平均点で、とても送辞を務める人材ではない。選挙で次期薔薇さまに決まったのだって、親しみやすさや庶民性が受けたのだと理解していた。
「じゃ、間違いなく志摩子さんでしょ」
由乃さんが言った。
「そうだ」
祐巳も手を打った。志摩子さんなら成績優秀だし、生活態度は「もっと崩せば?」ってなくらい真面目《まじめ》だし、生徒たちから信頼もされ、慕《した》われてもいる。
「ちょっと待ってちょうだい。先生は三人で、とおっしゃったのだから」
志摩子さんが慌てて口を開いた。このまま黙っていては二人に担ぎ上げられてしまうと、危機感を感じたらしい。
「藤堂さん。先生も、まったく異論はない」
山村先生はソファに身体《からだ》を沈めつつ、腕組みして言った。
「が、って続きそうですね」
「そりゃね」
由乃さんに指摘されるまでもなく、そこで話が終わったら最初から「異論のない藤堂さん」に決まり、祐巳たちをここに呼んで「三人で」と提案した意味がなくなる。
「去年のあれ。さっきはアクシデントって言ったけれど、結構ウケたのよ」
「あれ、ですか」
あれ、といったら。送辞を読み始めた祥子《さちこ》さまが号泣《ごうきゅう》して、在校生席から令《れい》さまが飛び出してきて助けた、というあれである。
「送辞は、卒業するお姉さまがいる人のほうが盛り上がるんじゃないかな、みたいな意見が出たわけ」
「えっ」
「藤堂さんのお姉さまは、去年卒業しちゃったし」
今度は、由乃さんと祐巳が「ちょっと待ってくださいよ」と言う番だった。
「お姉さまがいないことは、その前の条件に比べたら微々《びび》たる問題で」
祐巳は言った。すると、由乃さんも続ける。
「現在高等部にお姉さまがいない志摩子さんは、いわば全三年生の妹的存在だし」
「そうそう」
正直言って、やりたくない二人。というより、やれないでしょうって思っている二人は、タッグを組んで、いかにもやれそうな志摩子さんを盛り立てる。
「わかりました。それなら私と祐巳さんが、卒業式までに責任をもって志摩子さんにお姉さまを作らせますので」
「はい、任せてください。……って、ん?」
さすがにそれは違う、って突っ込まずとも、明らかに「お姉さま云々《うんぬん》」は由乃さんの冗談だ。いや、半分くらい本気かな。志摩子さんも苦笑いしていた。
「高等部にお姉さまがいる生徒がいい、というのはわかります。では、答辞をやる方《かた》はすでに決まっているのですか」
苦笑いしながらの志摩子さんの質問に、ギョッと目を剥《む》く由乃さんと祐巳。
急に状況が変わった。去年の卒業式では、祥子さまが送辞、水野《みずの》蓉子《ようこ》さまが答辞を務めた。お二人は言わずと知れた姉妹《スール》。でもって、去年の送辞がウケたということは――。
「聞きたい?」
「いいえ、結構です!!」
祐巳は、由乃さんと一緒に力いっぱい断った。もしここで自分のお姉さまの名前でも出ようものなら、大変なことになるとどちらもわかっていた。
二人があまりに必死だったからか、先生はカラカラ笑った。
「言うわけないじゃないの」
「へ?」
「っていうか、たとえ教えてあげたくても、まだ決まっていないから。もちろん、候補は挙がっているけれど?」
ニヤリと笑って二年松組コンビを見るティーチャー山村。小笠原《おがさわら》祥子さまか支倉《はせくら》令さま、いずれかが候補になっていることは間違いなさそうだ。
「まあ、送辞と答辞を姉妹《スール》でワンペアにしなきゃいけないわけじゃないしね。姉妹は姉妹で、面白いけれど」
どっちの味方なんだ、と突っ込みたいところだけれど、そもそも先生は誰の味方でもないのである。
「でさ。高等部の先生たちの間で決選投票があったわけ」
「……決選投票」
この辺りが、ぶっちゃけトークの意味するところなんだろう。
「藤堂志摩子、島津由乃、福沢祐巳の三人のうち誰がいいか。で」
「で?」
ごくりと唾《つば》を飲む音がした。それを発したのは自分なのか、自分以外の誰なのか、判断できないほど祐巳は次の言葉に集中していた。
「決まらなかったのよね」
「決まらなかった?」
「票数は忘れちゃったけれど、ほぼ横並びで断トツ一位が出なかったわけ。一票差二票差じゃ、ちょっと決めにくい」
「それで三人……」
「そういうこと。やってくれるわよね」
山村先生が、こっちのコートに球を打ち込んできた。さてどうする。祐巳は、二人の顔を覗き込んだ。ソファに横一列で座っているから円陣は組めないけれど、とにかく作戦会議をしてこちらの意見をまとめないと、そう思った。
けれど。
「やります」
一人返事をした人がいる。
「由乃さん!?」
「三人でやらせてもらいます。ね? 志摩子さん、祐巳さん」
この人、勝手に何を言ってるんだ。三人でやらせてもらいます、なら、三人が合意してから発表しないとだめでしょうよ。もちろん、志摩子さんも目を丸くしている。
「三人が嫌だっていう人は、一人でやってもらうわよ」
「そんなばかな」
何だ、その理屈。
「だって、誰もやりたくないんでしょ?」
いや、祐巳の場合は、「やりたくない」というより、「できない」に近い感覚なんだけれど。
「だったら、しょうがない三人で引き受けるしかない。違うの?」
まて。落ち着いて考えよう。ここにいる三人には、「辞退する権利」が本当にないのか――。そんな祐巳の頭の中を読んだのか、顔の表情からもろわかりだったのか、由乃さんはフッと笑って言った。
「何のために、山村先生が生活指導室なんて借り切って、私たちにぶっちゃけトークしたかを考えてみなさいよ」
「え?」
何のために? 祐巳は首を傾げた。密室でぶっちゃけトークをした理由。それって、えっと――。
「あ」
まさか、先生。
「やっぱり、君たち賢いね。見込んだだけのことはあるわ」
秘密を知ったからには、もう足抜けは許されない。ドラマとかで悪の組織なんかがよく使う、あの手だと?
「わかりました」
志摩子さんが目を開けて言った。ってことは、今まで閉じてたんだ。祐巳や由乃さんがガーガーうるさいから、目をつむって考え事に集中していたのかもしれない。
「私はやらせていただこうと思います」
「志摩子さんっ!?」
「いろいろ考えたのですが、お引き受けしたほうがいいと判断しました」
でも、と志摩子さんは続けた。
「これは私の気持ちだから、嫌なら嫌と祐巳さんは言っていいのよ。強制じゃないわ」
そうですよね、と確認する志摩子さん。先生は「もちろん」とうなずく。要は、三人のうち一人でも送辞を任命できればいいのである。
「私にはないわけ?」
由乃さんが、志摩子さんを軽く睨んだ。けれど。
「だって、由乃さんはさっき意思表示したじゃないの」
シャッターを下ろしたみたいに、シャットアウトされた。
「まあ……そうだけれど」
由乃さんったら一番最初に「やる」とは言ったが、たとえば祐巳が一人辞退できたならば、それはそれで悔《くや》しいみたいだ。
「うん。じゃ、やる」
祐巳はうなずいた。
決定打は、やっぱり志摩子さんの決意のような気がする。志摩子さんがいろいろ考えた結果引き受けたほうがいいと思ったのなら、その通りなんじゃないかと思ったのだ。本当は自分でいろいろ考えるべきところなのだが、そうすると時間がかかりそうだから。信用できる志摩子さんの意見に、乗っかることにしたのだ。
というわけで、今年の卒業式の送辞は次期薔薇さま三人が務めることとなった。
思い通りに話を運ぶことができた山村先生は、とても満足そうだった。でも生活指導室を出るときに、「そうだ」と一つ勧告した。
「最初から三人揃って壇上に立つのよ」
去年のあれがウケたからといって、途中から一人ずつ加わるっていうのはだめだからね、と。
3
「送辞」
教頭先生の声がした。
「在校生代表、二年藤組、藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》」
名前を呼ばれた志摩子さんが「はい」と返事するのを、少し離れた席で由乃《よしの》は聞いていた。ちょっとだけ、心臓が騒ぎ出す。でも、それは時間にしたら五秒とか十秒とかそれくらいで収まるはず。
志摩子さんの名前が呼ばれたら、次は自分の番。スタートしてしまえば、もうドキドキなんてしている暇がない。ジェットコースターみたいに急降下して、気がついたら着地していた。そんな感じになるに決まっている。
「二年松組、島津《しまづ》由乃」
「はいっ」
二人目の名前に、来賓《らいひん》やPTAの席から小さなざわめきが起こる。
やれやれ。送辞が複数だっていうだけで、一々《いちいち》うるさいな。――そう思いながら、由乃は席を立って歩き出した。自分が最初聞いた時に相当驚いたことは、もちろん棚に上げた。
こんなんじゃ、三人目が呼ばれた時みんなひっくり返っちゃうんじゃないかな。先に通路で待っていた志摩子さんと目で挨拶《あいさつ》した時に、問題の三人目の名前が場内にコールされた。
「二年松組、福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》」
息をのむように、しんと静まりかえった体育館に、祐巳さんの腹の底からわき出すような「はい」という声が大きく轟《とどろ》いた。
ちょっと格好《かっこう》いいじゃない、って惚《ほ》れなおすのもつかの間、コホコホと咳《せ》き込む音が追いかけてくる。
あちゃ。やっちゃった。
でも、祐巳さんはまったくめげることなく、志摩子さんと由乃が待っていた通路に笑顔で現れた。
三人|揃《そろ》ったところで、志摩子さんを先頭に歩き出す。
目の前には、体育館の舞台がある。
あの壇上に立ち、そして卒業していく先輩たちに向けて送る言葉を届けるのが、由乃に課せられた仕事だった。
ま、ちょいと行ってきますか。
本来ならばすごく緊張するところだろうけれど、大丈夫。側には志摩子さんと祐巳さんがついていてくれる。
(そんなことより)
大変なのは、むしろこの後。
卒業式という大舞台が終わった後に待ちかまえている小さいけれど重大な催し、そっちのほうは成功するもしないも、すべて自分にかかっているのだから。
志摩子さんの上履きを見ながら、わずか数段の階段を上がる。舞台上には前をすっぽりと木で覆《おお》われたような机が、在校生代表の到着を待っている。多少|窮屈《きゅうくつ》だったけれど、詰め合ってどうにか三人がそこに収まる。
顔を上げると、そこから見下ろす会場はまるで大海原《おおうなばら》のように見えた。
リハーサルとはまるで違った。紅白幕やPTAや来賓が加わっただけで、こうも雰囲気《ふんいき》が変わるものなのか。
(ああ、そうか)
卒業生の胸に咲いた白いコサージュが、まるで波の花のように見えるのだ。
祐巳さんが原稿を広げ、マイクの角度を直した。
「リリアン女学園高等部を巣立っていかれるお姉さま方」
トップバッターのハキハキとした声で、異例の三人送辞はスタートしたのだった。
* * *
「そういうこと。やってくれるわよね」
山村《やまむら》先生の問いかけに、「やります」と由乃は真っ先に答えた。
もちろん、送辞をやりたくてやりたくて仕方がなかったから。――なんてわけでは、断じてない。このままだらだら話をしていたら、どんどん自分が不利になっていく、そう判断したためだ。
志摩子さんの口から「答辞」という言葉が飛び出した時、正直ギョッとした。自分たちの身に降りかかった仰天《ぎょうてん》ニュースに気を取られて、答辞のことなんかすっかり忘れていたものだから。
しかし、さすがは志摩子さん。驚きながらも、ちゃんと冷静に状況を判断している。送辞と答辞、なるほど二つで一セットだった。
先生方の意向が、送辞を「卒業するお姉さまのいる人にやらせる」であるとする。となると、どうなる。姉妹《スール》での送辞答辞にこだわらないみたいな話ではあったけれど、やはり答辞の妹というのが最有力候補となるのは必至。
ここだけの話、由乃は令《れい》ちゃんが答辞を読むと踏んでいた。
去年の送辞は祥子《さちこ》さまだった。同じ薔薇《ばら》さまなのだから、今年は令ちゃんの番である。令ちゃんだって成績は優秀だし、生徒たちからの信頼も篤《あつ》い。何一つ祥子さまに劣る点などないのだ。無理に探すなら、髪の毛の長さが負けているくらいなもの。
言いたくないけれど、祥子さまは去年しくじった。それをフォローしたのが令ちゃんだ。去年のあれは、パフォーマンスとして確かに父兄にウケたかもしれない。けれど同じ過《あやま》ちを繰り返す可能性がある人物は、極力避けるのが正しい選択。だから、今年は令ちゃんに任せるはずなのだ。祥子さまは、ああ見えて泣き虫だから。
令ちゃんが答辞となると、ぐーんと由乃に送辞のポストが近づいてくる。このままでは危ない。長引く説得に先生が疲れて「三人で送辞」という提案を退けたら、由乃が一人でやらなくてはいけなくなる。
そうなる前に、この辺で妥協しないと。で。
「やります」
思わず口走っていた。祐巳さんと志摩子さんは、ものすごく驚いていた。でも背に腹は替えられない。一人でやるのだけはごめんだった。
送辞って、自分たちで原稿を作らないといけないらしい。
もちろん先生は相談にものってくれるし指導もしてくれる。でも、基本送辞を読む人間の手に委《ゆだ》ねられる。卒業生を送る言葉なのに他人が書いた原稿を読んでどうする、って。そりゃそうなんだけれど。
過去の送辞で読まれた原稿を広げ、自分たちらしさを出しつつ、推敲《すいこう》を重ねて、最終稿が出来上がった時には卒業式まで一週間を切っていた。
ずっとかかりきりだったわけではない。初めのうちは「早めに取りかかったほうがいいわね」という余裕があったし、中盤は「そろそろ考えなくっちゃね」になったし、ラストスパートの頃は「どうしよう、もうすぐだよ」という焦《あせ》りが生じるといった感じで、徐々《じょじょ》に盛り上がっていったのだ。
その間に、バレンタイン企画の副賞であるデートをしたり、遊園地に遊びに行ったり、ホワイトデーのお返しを作ったりと大忙しだった。祐巳さんなんか、妹作ったり、お稲荷《いなり》さんにお礼参りに行ったりもしていた。
原稿が完成してほっとしたところで、どのように読むかという話になった。確か、薔薇の館の二階にいた時だった。
「声を揃えて読むんじゃないの?」
祐巳さんが、すっとぼけたことを言った。おいおい、この結構長い原稿を三人で一斉に読むっていうのかい大変だぞ、って由乃が突っ込みを入れようとしたところで、志摩子さんが口を開いた。
「三人。できればそれもいいわね」
えっ。
「私たちは通常一人の送辞を三人で引き受けたのだから、心を一つにして読み上げられたらそれは素晴らしいわ」
うっそぉ。志摩子さんも、三人で口を揃えて読むのに賛成? と思って口をパクパクしていたら、「でも」と続いた。
「難しいような気もするの」
「難しい?」
「ええ。そうね。口で説明するより、……立ってみて」
言われたのは祐巳さんだけだとテーブルに立て肘《ひじ》をついたま眺めていたら、「由乃さんもよ」と促される。
「えーっ」
「いいから、ちょっとだけ」
志摩子さんは祐巳さんの隣に由乃を立たせ、自分もその横に立った。
「本番、体育館の壇上に置かれる机は、このくらいの幅だと思うの」
目の前にあるテーブルの上に、シャーペンと定規を置いておおよその長さを示す志摩子さん。
「この机の上に、こう、原稿を広げるでしょう? あ、マイクもいるわね。このペンケースにしましょう」
いろいろな物が配置され、どんどん模擬《もぎ》壇上ができていく。
「さあ、いいわ読んでみましょう」
志摩子さんの「一、二、三、はい」のかけ声のもと、三人は声を揃えて原稿の最初の部分を読み上げた。
「『リリアン女学園高等部を巣立っていかれるお姉さま方、ご卒業おめでとうございます。在校生を代表して、心よりお祝い申し上げます』」
そこで一旦《いったん》区切って、志摩子さんは祐巳さんに尋ねた。
「どう?」
「読みにくいね。っていうか、そっちの端の文字ほとんど見えない」
現在、原稿に向かって右から志摩子さん、由乃、祐巳さんの順に並んでいる。そのため原稿を真ん中に置いた場合、縦書きの最初の行は、左端の人からはかなり遠くなってしまうのだ。
「でも、ちゃんと読めてたじゃない」
由乃は、祐巳さんに言った。三人で声を揃えて読んだ文章は、自分で言うのも何だけれど、かなりきれいに揃っていて耳に心地よかった。
「そりゃ、最初のほうは暗記してるもん」
なるほど。試しに由乃は祐巳さんと場所を交代してみたが、やはり左端に立つと右端にある行の文字は見えにくくなった。単に遠いというだけではなく、間に二人の人間が立っているから、影ができたり肩先が視界に入って邪魔になるということもある。
「これを清書して、もっと大きな文字にしたとしても、実際の会場では角度やライトの関係で条件がもっと悪くなるかもしれないし」
「そっか。だから、三人一緒に読むのは難しいわけなんだ」
祐巳さんは、合点《がてん》がいったと手を叩いた。ついでに由乃も感心した。ただ「大変だぞ」って却下するより、祐巳さんだってずっと納得しやすかったと思う。
「お姉さまと令さまが一緒に読み上げられたのは、二人だったからか」
祐巳さんの言葉に、うなずく志摩子さん。
「そういうことね。三人が同じ原稿を用意していって、各自目の前に広げるには、机が狭すぎるわ。全員が全文暗記するなら、多少見えにくい箇所があっても、原稿一枚で大丈夫でしょうけれど」
全員が全文?
「それはなし!」
志摩子さん以外の二人は、同時に声をあげた。全文暗記なんて、とんでもない。祐巳さんは、即刻「声を揃えて読む」を取り下げた。
「それじゃ、読む場所の割り振りを決めましょうか」
志摩子さんが笑った。
何度も交替して読むのは落ち着かないので、各自が一回、一巡ということに決まった。
「大体三分の一になるように割るとして、でも話の内容がちょうど区切りになっていないとおかしいし」
線を引いたり記号を入れたり、テキパキ作業する志摩子さんをうっとりと眺める。普段はどちらかというとおっとりしている人なのに、何だか頼もしい。
「さ、いいわ。最初は祐巳さん。次に由乃さん。最後に私」
「え、もう順番も決まってるの?」
「ええ」
キリリとした目つきで、キッパリと言い切る。
「どうしてか聞いていい?」
祐巳さんが、興味|津々《しんしん》と志摩子さんの顔を覗き込む。
「どうして……あら、どうしてかしら。でも、なぜかこの順番がいいと思ったの」
いつものフワフワ志摩子さんに戻って、首を傾《かし》げた。まるで、今まで何かに取り憑《つ》かれていたみたいだ。
「だからいいじゃないの、このままで」
たとえ憑き物が落ちても、決めた順番は譲らないわけだ。
「まあ、いいけれどさ」
理屈じゃなくて、なぜかわからない時に強くそう思ったのならば、何かあるに違いない。ここは逆らわずに従っておこう、と由乃は思った。
志摩子さんは自分の損得で動く人じゃないから。
彼女の勘みたいなものを、ここは信じてみたっていいのだ。
4
「最後となりましたが、お姉さま方のご健康とご活躍をお祈り申し上げ、これを送辞とさせていただきます」
志摩子《しまこ》さんが、原稿の終わりの部分を読み上げる。
「在校生代表、藤堂《とうどう》志摩子」
続いて、
「島津《しまづ》由乃《よしの》」
最後に、
「福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》」
と、一人ずつ自分の名前を言って送辞は終了した。
最初と最後の部分が前年のものとまったく同じ文章なのは、前回送辞を務めた小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまへのオマージュ。――だけでなく、毎年だいたいそこら辺は過去のテキストから拝借《はいしゃく》してくるもののようだった。
とにもかくにも、無事終わった。
(ん? 無事?)
あれを、無事といっていいのだろうか。
祐巳が送辞を読んでいた時は、確かに何事もなかった。本番ということで多少緊張したから、何度も練習したうちのベストには届かなかったけれど、自己採点の結果及第点、百点満点でいったら九十点くらいはつけていい出来だったと思っている。
中盤を読む由乃さんにも、とてもいい流れでバトンタッチできた。徐々《じょじょ》に調子を上げてきた由乃さんの弁舌《べんぜつ》はよどみなく、さながら放送部のアナウンサーのよう。
そんな時、事件は起こった。事件で語弊《ごへい》があるなら、事故でもいい。
何ということだろう。どこからか虫が飛んできて、送辞を読み上げている三人の側を旋回《せんかい》し始めたのである。
広い体育館、その舞台の上をわざわざ選んで、送辞の真っ最中に飛んでくることもなかろうに。確かに啓蟄《けいちつ》は過ぎたけれど、まだ東京《とうきょう》は寒い。もう少し(あと一時間でいいから)だけ、おとなしくしていてくれてもいいんじゃないか。
最初、原稿を読んでいた由乃さんはもちろん、寄り添って原稿に視線を落としていた志摩子さんと祐巳も、そのことに気づかなかった。けれど、目がいい人って結構いるみたいで、大きさにして一センチちょっとくらいの虫がただ一匹、舞台の上方を飛んでいるのが目に入っちゃったりするわけだ。人が虫を払う動作とかしていたのなら、わかって当然なんだけど。
送辞の最中だったけれど、気づいた生徒は「ほら、あれ」って囁《ささや》くくらいのことはする。その囁きを聞きつけた人は、何事かって注意して見るから、また飛んでいる虫を発見。次の「ほら、あれ」が生まれる。
そんな、ちょっとしたざわめきが耳に入り、やっと三人は会場の様子がおかしいことに気がついた。そして、生徒の座っている席の所々でこちらを指さすポーズを見つける。
自分たちに変なところはないはずだった。そこで、原稿を読んでいる由乃さんはそのままに、祐巳と志摩子さんだけ辺りを見回した。
うわっ、って叫びそうになったのを、両手を口にあてがって寸前で止めたのは、我ながら上等だった、と祐巳は思った。今は由乃さんの方角を向いているマイクだったが、依然祐巳の至近距離といってもいい場所にあるので、もし叫んでいたら「うわっ」がものすごい音量で会場に轟《とどろ》き渡ったに違いなかった。
そこにいた虫は、蜂《はち》だった。もしかしたら虻《あぶ》とか蠅《はえ》の仲間なのかもしれないけれど、少なくとも祐巳には蜂に見えた。
声にはならなかったが祐巳のオーバーアクションが気になったようで、由乃さんが一旦原稿を読むのをやめた。
その時。
まるで狙ったように、その虫は三人の目の前を滑空《かっくう》し、送辞の原稿の上に着地した。
思った通り、それは蜜蜂だった。
祐巳と志摩子さんは事前にその姿を見ていたから、多少は心の準備があったけれど、何しろ由乃さんにとっては突然だった。
人間、驚く時って結構手続きを踏むもののようだ。
まず、原稿の上に何かが落ちた。目と耳と振動で、由乃さんは息を飲み、肩がちょっとビクッて上下する。その時点では、物体が何かを認識していない。
やがて脳が画像を結び、それが蜂であると判定し、蜂イコール針で刺すとの情報が記憶の引き出しから出てきた結果――。
「ぎゃああああああああ――――――!」
思わず耳に手をあてる人々。被害が大きかったのは、スピーカーの側の席であろう。マイクは、由乃さんの口に向けて正しくセッティングされていた。
それで当の蜂はというと、由乃さんが原稿を放り投げた拍子《ひょうし》に舞い上がり、再び空中を飛び回っている。パニックを起こした由乃さんは、祐巳の背中にしがみついた。
ちょっとの間ザワザワしていたけれど、すぐに静かになった。みんな、はたと気づいたのである。今は送辞の最中だった。
さて、これをどう処理したらいいのか。
しんと静まった会場の中で、志摩子さんが一人、ゆっくりと動いた。何をするのかと見ていると、少し後方に下がって、由乃さんが放り投げた送辞の原稿を拾い上げる。そして元の位置に戻り、マイクの角度を調節してから言葉を発した。
「私たち二年生、一年生の生徒たちにとって」
すごい。志摩子さん。まずは由乃さんが読み残したところまで遡《さかのぼ》って、送辞を続けた。蜂のアクシデント、完全に無かったことにしちゃってる。
そうだ。これが正解なのだ。
祐巳は背中から引っ付き虫をそっとはがし、机の前に立たせると、自分も戻った。蜂は相変わらずブンブン飛んではいるけれど、こっちが攻撃しなければ大丈夫だろう。スズメバチやクマバチのように大きくないし、何といっても蜜蜂なんだから。
そのうち、由乃さんも落ち着きを取り戻してきた。けれど、送辞もそろそろ終盤戦だ。
結果的には、志摩子さんが最後のパートを引き受けてくれてよかった、ということになりそうだ。もちろん志摩子さんはエスパーじゃないから、こうなることを見越して順番を決めたのではないと思う。しかし、もし順番が違っていたら、きっと祐巳や由乃さんではうまく収拾つけることなんてできなかった。
もしかしたら、知らずに超能力が発揮《はっき》されたのかもしれないし――。祐巳は一つ置いた隣の人の顔をそっと見る。
「最後となりましたが、お姉さま方のご健康とご活躍をお祈り申し上げ、これを送辞とさせていただきます」
志摩子さんが、原稿の終わりの部分を読み上げた。
大きな拍手《はくしゅ》が鳴り響《ひび》く。
それは去年に決して劣らないものだったけれど、質はまるで違っていた。
例えば去年が愛と涙の感動巨編を観た後の拍手ならば、今年はドタバタ新喜劇を観た後の拍手とでもいいますか。
――プラス、「志摩子さんよくやった」「お疲れさん」の拍手も入っている、かな?
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独唱者《ソリスト》のアドリブ
1
「答辞」
教頭先生の声がした。
「卒業生代表、三年松組、小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》」
名前を呼ばれ、祥子は「はい」と返事をして椅子《いす》から立ち上がった。
来賓《らいひん》やPTAの席で、息をのむような音がする。さあ答辞は何人出てくる? そういった「スー」なのだろう。
もちろん、送辞が三人だったからそのような反応があるわけで、想定内のことのため、特に気にはならなかった。祥子の名前が呼ばれたあと、次がないので、今度は「ハー」と息を吐く音が漏《も》れた。
期待させて申し訳なかったが、答辞は一人なのだ。
卒業生の代表として答辞を読む。そのために今、自分は壇上《だんじょう》に足を進めている。祥子は、それだけで満足していた。
送辞はとてもよかった。途中のアクシデントには驚いたけれど、飾らない素顔の生徒会を覗き見ることができた。それは、思いがけないことが起こったからこそのケガの功名《こうみょう》。由乃《よしの》ちゃんには気の毒だったけれど。
去年の送辞とは雲泥《うんでい》の差だ。もちろん、雲が今年である。自分の心の弱さから大泣きして、友におんぶにだっこしてしまった送辞など論外だ。
祥子は壇に上った。
送辞を読んだ去年の自分と、答辞を読もうとしている今年の自分。どちらも同じ人間のはずなのに、まるで別人のように思える。
一度、左から右にゆっくりと生徒の席へ視線を送る。卒業生の席には令《れい》が、在校生の席には一年生は乃梨子《のりこ》ちゃんや瞳子《とうこ》ちゃん、二年生は志摩子《しまこ》と由乃ちゃん、そして祐巳《ゆみ》がいるはずなのだ。
祐巳。
祥子は妹の姿に視線を止めることなく、マイクの角度を直した。
発信してくれたメッセージは、確かに受け取った。
ちゃんと見ているから、と、祐巳は言葉でなくその姿で伝えてきた。
だから、大丈夫。もう崩《くず》れたりしない。
(さて)
祥子は左右と上下を折って封筒代わりにした紙を外して、静かに中の物を取りだした。原稿は、巻いて折り畳んだ一枚の紙だ。
(あら)
送辞が終わって、三人の姿が壇上から消えたと同時に見えなくなった虫が、答辞を読もうという段になってまた現れた。
少し上を向いて、飛ぶ様子を眺《なが》めてみる。
(蜂《はち》だったのね)
由乃ちゃんがあんなに叫んだから、そうだと予想はついていたけれど。やっぱり。でも、そんなに大きくはない。ただの蜜蜂《みつばち》だ。
蜜蜂は、一度針を使うとその個体は死んでしまうという。こちらが仕掛けない限り、攻撃してくるとは思えなかった。が、しかし。ただ周囲を飛び回られるだけで、鬱陶《うっとう》しいことには違いない。
(どうしたものかしら)
蜂は、祥子の頭上一・五メートルくらいの場所を旋回《せんかい》している。
(どうしたも何も、このまま答辞をやるしかないでしょうね)
このようなことが起きたらどう対処するか、事前に指導された記憶はない。先生方だって想定外であろう。一度中断して、蜂を会場の外に逃がしてから卒業式の続きを行う、なんてことをしていたら、どれくらい長引くかわかったものではない。
(第一、今すぐ蜂を逃がす算段《さんだん》がつくとは思えないし)
冷静にそんなことを思いつつ、巻紙を広げようと手をかけた。
その時。
まるで狙ったように、その蜂は祥子の目の前を滑空《かっくう》し、開きかけた答辞の原稿の上に着地した。
「……」
考えるよりも前に、勝手に手が動くということはある。祥子の行動が、まさに「それ」だった。
原稿は、巻いた紙の折り目三つ分くらい開いていた。蜂は毛筆で書かれた文字の字間に、漢字の一種のように留まった。祥子は、録画した映像を逆回転するみたいに、巻紙を元の位置まで早回しで巻き戻した。
それだけだ。
哀《あわ》れ、蜂は巻紙の中に囚《とら》われの身となった。
「蜜蜂も、私たちの門出《かどで》を祝いに来てくれたみたいですね。でも、少しはしゃぎ過ぎのようなので、しばらくはおとなしくしてもらおうと思います」
祥子はマイクに向かってそう言いながら、念のため、原稿を覆ってきた紙の封筒に、蜂ごと巻紙を戻し入れた。
「あとでちゃんと外に逃がしてあげましょう」
蜂入り封筒を机の上の脇に置いてから、祥子は改めて正面を見据えた。
「私たちの旅立ちを祝ってくださったすべての皆さま」
答辞が始まる。
* * *
「答辞をやりたいのですが」
それは、祥子のそんなひと言から始まった。
一月のある日。
確か、生徒会役員選挙の前だったのではなかったか。放課後、職員室を訪ねて言った。
「は?」
山村《やまむら》先生は、意味不明の言語を耳にした時のように、顔全体を突きだして聞き返した。声こそ出さなかったが、フキダシをつけて「Pardon?」と書き入れるとピッタリはまるような、そんな表情だった。
「ですから、答辞をやりたいのです。教頭先生にお願いしにいきましたら、そういうことは山村先生に言うようにと」
その前に担任、学年主任、とたらい回しされたことは、特に重要ではない情報なので省略した。
「念のために聞くけれど」
山村先生は、声をひそめて言った。
「とうじって卒業式の答辞のこと?」
「はい」
他に何があるというのだ。「湯治」か「刀自」か。メジャーどころの「当時」も「冬至」も、「とうじをやりたい」という使い方はしないし、「悼辞」に至っては近々に悼《いた》まなければならない相手はいない。
「そうよね。リリアン女子大への進学が決まっている小笠原さんが、酒造りを一から勉強したいなんて考えるわけないか」
先生は、笑って椅子の背に寄りかかった。どうやら、まずは職業としての杜氏《とうじ》を思い浮かべたらしい。
「先生は日本酒党ですか」
「最近ね。いや、そんなことはどうでもいいんだけれどさ」
山村先生は、頭をカリカリとかいた。
「何で立候補なんて? 私がお酒を造る人だって勘違いしちゃうくらい、答辞は、……送辞もそうだけれど、毎年立候補者なんて出ない仕事なんだよ。だから伝統的に、まず教師たちがこれぞという生徒を決めて、『やってくれないかなー』って甘い声でお願いするわけよ」
確かに、去年の送辞の時は、生活指導室だかに呼び出されて「送辞に決まったからやるように」と言い渡されたのだった。山村先生ではなかったけれど。
「……ということは、今年度もそのような決め方で?」
「例年通りならば、そうなるんじゃないかな。でも、悪いけれどまだ何一つ具体的になっていないの。三年生を担任されている先生方は、今は進路のことで頭がいっぱいだし」
「そうですか。いえ、そうだとは思ったのですが。意思表示だけでも、しておいたほうがいいと思いまして」
決まってからでは遅い。だから、まだ一月の半ばで早いと思いつつ、卒業式の話をしにきたのだ。
「答辞をやりたいという、小笠原さんの希望はわかりました。でも、これは私一人でどうこうできる話じゃないから。今日のところは、これで帰って。他の先生たちとも諮《はか》ってみるから」
今日のところは――。祥子はうなずいた。最初から、すぐに決着がつくとは思っていなかった。
毎年やりたい人がいないのなら、今年はやりたい人にやらせてもいいのではないか。そうも思ったが、やりたいと手を挙げた生徒たちがジャンケンで決める場面を思い描いて、やはり違うのではないかと考え直した。送辞や答辞は生徒の代表なのである。
「よろしくお願いします」
頭を下げて職員室を去ろうとすると、後ろから山村先生の声がした。
「どうしてやりたいの?」
祥子はゆっくりと振り返った。
「リベンジです」
「リベンジ……。まさか去年の送辞の?」
「それ以外にありますか?」
良かったと誉めてくれる人もいる去年の送辞だったが、祥子にとってあれは汚点でしかない。
良かったのは、令だけ。
あの送辞をやり直すことなどできないけれど、あの無様《ぶざま》な印象を残して旅立ちたくはない。
答辞は、そのリベンジができる最後のチャンスだった。
2
それからしばらくは音沙汰《おとさた》がなかった。
山村《やまむら》先生から呼び出しがあったのは、二月の半《なか》ば。一カ月も待たされてしまったことになる。
その間に次期生徒会長が決まり、バレンタインデーも終わった。
生活指導室に連れていかれ、二人で向かい合う形でソファに収まると、先生は言った。
「二人で、っていう案が出ているんだ」
「二人?」
「誰とは言えないけれど、候補者がもう一人いるの」
もう一人ということは、自分は候補者の一人に残っているのだと、祥子《さちこ》はまず安堵《あんど》した。しかし。
「二人で、ですか。いい気持ちはしませんね」
一人で行う予定だった送辞を、令の力を借りてやり遂《と》げたことに悔《く》いが残っているのに。最初から二人だとしたら、リベンジの意味がない。
「小笠原《おがさわら》さんはそう言うと思った」
リベンジだものね、と笑う。山村先生だけには、気持ちが正しく届いているようだ。
では、他の先生が異論を唱えているのか。
「私の去年の失敗が、私自身の首を絞《し》めているのですか」
思い当たって、祥子は尋ねた。
「そうは言っていないわ。ただ、小笠原さんは不本意かもしれないけれど、去年の送辞は教職員たちもみんな良かったと思っているわけ。だから」
「また私が同じようにしくじっては、目も当てられませんものね」
ついカッとなって、声を荒らげてしまった。これだからだめなのだ。痛いところを突かれると、すぐに感情的になってしまう。
山村先生は、静かに祥子を見つめている。
「……すみません」
謝罪して、話を続ける。
「その候補の方は、私と二人で答辞をやるということに関しては何て?」
ここで山村先生に見放されては、答辞の道は閉ざされてしまう。たぶん。
「まだ、彼女には言っていない。候補者であることすらね。まずは小笠原さんに話してから、と思ったの。私の独断で」
「恐れ入ります」
その判断は、とてもありがたかった。もしもう一人の候補者が、祥子と一緒にやると答えていたら、話が無駄《むだ》にこんがらがってしまっただろう。
「先生」
祥子は真剣な表情で告げた。
「その方がどなたかは存じませんが、私は戦います。そして自《みずか》らの力で、答辞を勝ち取りたいと思います」
「あくまで、一人に拘《こだわ》るわけね」
「はい」
うなずくと、山村先生はほほえんで密やかなため息をついた。そうなるだろうな、と覚悟をしていたが、やはりその通りになった、そんな表情に思えた。
「わかりました。あなたの気持ちも考慮して、再度話し合ってみましょう」
「よろしくお願いします」
そんな会話があってから、一週間ほど経ったある日。
「小笠原さん、ちょっと」
昼休みに廊下を歩いていたら、向こう側から歩いてきた山村先生に呼び止められた。
「はい?」
答辞の件だということは、すぐわかった。また生活指導室に連れていかれるのかと考えていると、往来の邪魔《じゃま》にならないように少し端に寄っただけで、そこで立ち話を始めた。
「候補者がもう一人いたって話、覚えている?」
「ええ」
あの時は、まだ本人は候補者であることは知らない、という話だったか。
「あなたのことは伏せて、答辞の話をしてみたらね」
「はい」
「断られた」
「断られた?」
それは、予想外だった。祥子のように立候補する生徒は少なくても、答辞をやるように言われたら、ほとんどの生徒が引き受けるものだと、心のどこかで考えていた。生徒の代表に指名されたのだから、名誉なことだ。
「そう。やりたくありません、って。もうスッパリとね。あそこまではっきり断られると、かえって気持ちよかったなぁ」
山村先生は、思い出し笑いをした。
「だから、あなたにはもう戦う相手がいなくなった、ってこと」
「……」
言葉の意味は理解できたが、喜びが込み上げることもなかった。強《し》いていうなら、意気込んで出ていったところで、突然戦意をなくすようなことを言われた、みたいな。
「どうしたの? あなたが答辞に決まった、って言っているのよ」
「はあ」
この場合、不思議そうな目で見る、先生のほうが正しい。
「嬉《うれ》しくないの?」
「嬉しいです。でも」
「戦って手に入れたかった?」
「えっ」
鋭い推理をされて、祥子はたじろいだ。
「わかりません。……いいえ、きっとそうなんです」
まだすべてが白紙の段階で立候補した時は、ただ答辞をやりたいのだという一心のみで突き進んでいた。自分がその役に相応《ふさわ》しいかどうかなんて、考えることさえなかったように思う。
候補者が二人と聞いた時は、もう一人に勝って答辞の役を手に入れればいいのだと思った。正々堂々と勝負し、そして相手に勝ったならば、自分のほうが相応《ふさわ》しいということになる。そういった形で、みんなを納得させたかった。
でも相手が戦わずに下りたら、どうだろう。急に不安になってきた。本当に、自分でよかったのだろうか、と。
「いいこと教えてあげようか」
本当はマル秘なんだけれどね、と前置きしてから、山村先生は言った。
「その候補者には、もう一人候補者がいることを話していなかったの」
「はい」
「なのにこう言ったのよ、彼女。答辞は小笠原祥子さんが相応しい、って」
「え?」
「小笠原祥子さんが一人でやるべきだ、って。だからね、あなた一人の気持ちじゃなくて、あなたが答辞を務《つと》めるのがいいと思う人が、他にもいるということなのよ。……どう、やる気が出てきた?」
「あ……」
本当に自分で良かったのかと、気弱になったのがばかばかしい。
そんなことを思い悩むくらいなら、やめてしまえばいい。
答辞をやりたいのなら、相応しいかどうかを考えることは不毛なことだ。
ただ、みんなが認める答辞を読めばいい。それが、推薦《すいせん》してくれたもう一人の候補者の気持ちに応《こた》えられる唯一《ゆいいつ》のことだと悟った。
「じゃ。子細《しさい》はまた後日ね」
山村先生は軽く手を上げてから、廊下を歩き出した。
「あのっ」
祥子は、振り返って叫んだ。その声を聞いて、先生もまた振り向いた。
「あの」
呼び止めたまではいいけれど、すぐに言葉が出てこなかった。先生には、言わなければならないことがある。一つでなくて、二つも三つも。そのほとんどは、たぶん感謝の言葉だ。
「いいって、いいって」
何からお礼を言ったらいいかわからず、うまく言葉にできずにいる祥子に、先生はそう言って笑った。
言わなくても、わかってしまったようなのだ。
「小笠原さんが自信をなくしてさ、今度は答辞をやる人がいなくなったら大変だからね」
言い残して去っていく後ろ姿に、祥子はただ「ありがとうございます」とだけ頭を下げた。
山村先生は、リリアン女学園のOGである。
在学中は、それは素敵なお姉さまだったに違いない。もちろん、今も素敵だけれど。
3
「――というお礼の言葉をもちまして、答辞とさせていただきます」
お姉さまがニッコリと笑う。
「卒業生代表、三年松組、小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》」
最後は、祐巳《ゆみ》の顔を見た。思い過ごしでも自惚《うぬぼ》れでもない。こんなに遠い場所にいるのに、目と目を合わせることはできるのだ。
場内から、割れんばかりの拍手《はくしゅ》がわき起こった。みんな、手が真っ赤になるほど叩《たた》いている。いつまで経っても、鳴りやまない拍手。それどころか、席のあちらこちらから立ち上がる人まで出てきてしまった。
スタンディングオベーション。
答辞でそんな現象が起きるなんてこと、リリアン女学園高等部史上あっただろうか。断言はできないけれど、たぶんないと思われる。
答辞の原稿で蜜蜂を捕獲《ほかく》した祥子さまは、答辞を読まなかった。代わりに、答辞を述《の》べたのだ。
丸暗記した原稿を、そのまま諳《そら》んじたわけではない。自分の今の気持ちを、思ったまましゃべった。元の原稿の内容を知らない者にさえ、それはわかることだった。
形式に乗っ取った謝辞の言葉を、否定することはない。けれど、祥子さまの選ぶのびのびとした言葉は、生きて聞いている人の心に届いた。
初めから最後までずっと顔を上げて、一緒に卒業していく仲間たちを、残していく妹たちを、導いてくれた恩師を、育ててくれた家族を、お祝いに駆けつけてくれた来賓を見つめながら言葉を紡《つむ》いだ。
素晴らしかった。
今、祥子さまは壇上から下りるところだ。それでも、拍手は鳴りやまない。
教職員席にいた渥美《あつみ》先生が立ち上がり、祥子さまに近づくと答辞の原稿を受け取って、体育館を出て行った。蜂を逃がしにいってくれたのだろう。少し腰を庇《かば》うような歩き方だったけれど、どうにか式には出られたようだ。
祥子さまが卒業生の席に戻っても、まだ拍手は続いていた。
祐巳は拍手をしながら、両目から涙をぽろぽろと落とした。
大泣きしないという目標だったけれど、いいのだ。これは、別れを惜しんでの涙ではないのだから。
小笠原祥子さまは、やはり格好いい。
これが私のお姉さまだ、と誇りに思っての涙だった。
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鎖をつなぐ
1
私は蜜蜂《みつばち》。
本当は人間なんだけれど、いつもは使わない魔法の呪文《じゅもん》で、蜂の姿に変身したの。すごいでしょ?
「まあ、魔法使いですって? 私もかれこれ十九年生きていますが、生まれて初めて会いましたわ」
実はね、今日は後輩の祥子《さちこ》と令《れい》っていう二人の女の子の卒業式を祝うためにリリアンに駆けつけたの。でも、体育館には入っちゃいけないって、意地悪なお友達が言うのよ。だからちっちゃな蜂になって、こっそり卒業式の様子を覗《のぞ》きにいったわけ。
「それで、中の様子はどんな感じでした?」
そうね。何だか結構盛り上がっていたわよ。でも、夢中で観察しているうちに、失敗失敗、渥美《あつみ》先生に見つかって、外に出されちゃったの。あーあ、もう少しで最後まで見られたのに、ざんねーん。
「ざんねーん、じゃないわよ」
耐えきれなくなって、とうとう蓉子《ようこ》は二人の親友を振り返った。
「もう、ふざけるのやめてくれない? 江利子《えりこ》も江利子よ。面白《おもしろ》がってつき合ってね、聖《せい》を調子に乗らせないでちょうだい」
反応すれば増長するとわかっているから、背後で繰り広げられていたばか話を無視し続けていたけれど、もう限界だった。何が蜜蜂。何が魔法。意地悪な友達って、いったい誰のことを言っているのかしら。
「いいじゃん、べつに」
一つ伸びをしながら、聖が笑った。
「まあ、カリカリしなさんな。蓉子」
江利子が顔を覗き込んでくる。確かに言われた通り一人でカリカリとしていたので、気まずくなって目をそらした。
「気が散るのよ」
目の前を、蜂が元気に飛んでいる。
蜜蜂の黄色と黒を基調にした身体は、青い空によく映えた。
この個体は、体育館の中から追い出された蜂だ。なぜかというと、先程、渥美先生が体育館から出てきて、白い紙のような物をパタパタやってすぐに戻っていった。その時、紙の間から虫のような物が飛び出していた、それがこの蜂というわけ。
それだけの材料からさっきの、魔法で蜜蜂に変身して卒業式を見にいった、なんてストーリーを即席に作ってしまえる聖の能力には正直感心する。呆《あき》れ半分ではあるけれど。
三人の卒業生は今、なぜか体育館の側にいた。
あとから合流した江利子が、体育館の裏手なら見張りの手薄な場所があるよ、なんて余計な情報を耳に入れるからこんなことになったのだ。遠回りだけれど、人目につきにくいルートもあるし、なんて。
すると、一旦《いったん》は諦めかけたというのに、聖の覗き見根性がまたメラメラと燃えあがった。江利子の注いだ油のせいである。
「でもさー、体育館には行っちゃいけないみたいなことを言っていた人が、一番真剣に聞き耳立ててるんだから、わかんないよねー」
外壁に一番近い位置にいた蓉子を指さす聖。
「そうじゃないわよ。式の進行状況を知りたいだけよ。あ、『仰げば尊し』になった。そろそろ行くわよ」
「行くの?」
「その約束で来たんだから。というか、二対一で押し切られた感じだったけれど」
ちょっとだけ。そう言いつつ、結構な時間ここにいる。出入り口がある壁面ではないから、受付の生徒や一時的に外に出てきた渥美先生には見つからなかったが、閉式して生徒たちが退場したらこの辺りだって危ない。
中の音ははっきりとは聞こえなかったけれど、盛り上がっている様子は感じられたからそれでいい。
「ほら、早く」
江利子と聖の襟を引っ張る。
次は、何だっけ?
そうそう、由乃《よしの》ちゃんが何か面白い物を見せてくれるという話だ。
2
日差しが温《あたた》かい。
昇降口から外に出た瞬間、祥子《さちこ》は思わず目を細めた。
「祐巳《ゆみ》」
光の中に、妹がいる。
「待っていてくれたの?」
歩き出すと、向こうから駆け寄ってくる。
「はい。……これ」
差し出されたのは、祐巳に預けておいた黒いリボンだ。
二人のお守り。離れていても二人をつないでくれていた物。
祥子はうなずいて、きれいに畳《たた》まれたリボンの端を摘《つま》んだ。引っ張ると、祐巳の手の平から扇を開くように立ち上がる。
それからそれは、二人の間にゴールリボンのように渡る。朝はなかった縛《しば》り跡が、今は何カ所かついているのが見えた。
手の平から離れる瞬間、残っていたほうの端を、祐巳が親指と人差し指で押さえた。そうして、二人は悪戯《いたずら》っぽくリボンを引っ張りっこする。
一回、二回、三回。
そうして、祐巳から手を放した。二人はほほえむ。言葉なんかなくても、ちゃんと言いたいことが伝わっている。
祥子はもう一度、今度は自分の手の平の上でリボンを畳《たた》むと、ポケットにしまった。そして、空になった手を、手提げ袋の中に入れた。
「じゃ、私からはこれね」
そう言って、ティッシュケースを祐巳に差し出す。
「あっ」
祐巳はちょっと狼狽《うろた》えた。赤くなっている鼻を、見とがめられたと思ったのだろう。
「鼻をかむとすっきりするのよ」
「あの、これはですね」
涙じゃなくて、とでも言うつもりなのだろうか。祐巳が鼻に向けた人差し指を、祥子はそっとティッシュを持っているほうの手で下ろした。
「何でもいいのよ、そうでしょう?」
ドライアイでも花粉症でも。そう言ったのは、確か祐巳だった。覚えているかどうかは知らないけれど。
「はい。ごちそうさまです」
祐巳は、ケースの口から少し出ていたティッシュを一枚抜いた。あまりに自然に言うので、聞き逃しそうになったが。
「ごち……?」
「あ、間違った! いただきます、かな」
ごちそうさまを聞いたあとでは、いただきますも食事の挨拶《あいさつ》に思えた。
「ヤギじゃないのだから」
祥子がそう笑った時、祐巳の鼻をかむ音がちーんと鳴り響いた。
3
日差しが温かい。
昇降口から外に出た瞬間、降りそそぐ太陽の日差しに、令《れい》は思わず目を細めた。
晴れの日に晴れ。
卒業式のほうは、中盤ちょっとハラハラしたところもあったけれど、最後はこれ以上ないというくらいピシッと締まった。
いい式だった。すべてにおいて。うん。
お別れのホームルームも、黒板の大喜利《おおぎり》効果か三年菊組は湿っぽいところは全然なくて、カラッカラのうちに終了した。卒業証書と高等部最後の成績表を受け取り、上履きも手提げに入れた。
立つ鳥|跡《あと》を濁《にご》さず。心は見上げた空のように、さわやかだ。
ちーん。
自由に飛ばしていた思念を引き戻す音が耳に届いて、令は振り返った。
「あ」
そこに、祥子《さちこ》と祐巳《ゆみ》ちゃんがいた。
祐巳ちゃんの手には使用済みティッシュが握られていたし、さっきの物音は明らかに鼻をかんだ時に出た音だったけれど、その色気のない場面においてなお、二人は花畑の中で佇《たたず》むような表情をして見つめ合っていた。生徒たちが周囲を行き交う中、そこだけ別の所から切り取って貼り付けたみたいだった。
「あら、令」
そっとその場を離れようと思ったが、祥子に見つかってしまった。
「どこに行くの、待ち合わせはマリア像の前でしょう?」
「あ、うん」
「由乃《よしの》さん、少し遅れると言っていましたから、先に行ってましょうよ」
祐巳ちゃんが駆け寄ってくる。邪魔《じゃま》しないようにするつもりだったのに、もうすでにお邪魔虫だ。
「お疲れ、祐巳ちゃん。お疲れ、祥子」
気を取り直して、まずは送辞と答辞の労をねぎらう。
「ありがとうございます。でも、途中アクシデントあってドタバタ喜劇になっちゃった」
舌《した》を出す祐巳ちゃんの脇から、祥子が口を挟んだ。
「私は、祐巳たちのことよりむしろ令が心配だったわ。由乃ちゃんが叫んだ時、席から飛び出して舞台に上るんじゃないか、って」
「『由乃ー』?」
「そう『由乃ー』」
本人を目の前にして、クスクス笑う紅薔薇姉妹。
「やらないわよ」
令は吐き捨てるように言った。もちろん、ポーズだ。本当は、あの時腰を浮かしかけた。
「卒業式が始まる前に、祥子が私に向かって魔法の呪文《じゅもん》をとなえたからね。動きたくても動けなかったんだ」
「えっ、どんな呪文ですか」
興味|津々《しんしん》と尋ねる祐巳ちゃん。祥子が、令より先に答える。
「『入場したら退場まで席を立ってはいけない』よ」
「でもそうしたら、令さま卒業証書を受け取れないじゃないですか」
「そうでしょ? 私もそう言ったの。そうしたら祥子ったら、しらっと言うの。卒業証書をもらいに行く時はいいわ、って。だから、歌うたったりする時も除く、って呪文に加えて、って言ったの。そうしたら何て答えたと思う? そんなの常識でわかるでしょ、ですって。適当だと思わない?」
「……かなり長い呪文になりそうですね」
祐巳ちゃんが、感嘆のため息をついた。
「まあね」
でも、そのお陰《かげ》で、去年のように飛び出さずに済んだのだ。
送辞の時も。――そして、答辞の時も。
「呪文、解かなくていいわよね。もう卒業式は終わってしまったのだし」
歩き出しながら、祥子が言った。
「うん」
もう、終わってしまったから。あとは、仲間たちで記念写真を撮るだけだ。
「あっ」
もうじき分かれ道のマリア像というところで、前を行く生徒の姿を見つけた令は、思わず走り出した。
「令?」
「ごめん。すぐ戻るから」
振り返らず、祥子に言い置いてスピードを上げる。
「|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》?」
待ち合わせ場所にすでに来ていた乃梨子《のりこ》ちゃんや瞳子《とうこ》ちゃんの前を素通りし、銀杏《いちょう》並木をひた走る。
「ちさとちゃん!」
声が届く距離まで追いつくと、そう叫んだ。
「れ、令さま?」
名前を呼ばれた本人は、驚いたように振り返る。
「ご、めん。おも、い、だした」
「え?」
全速力で追いかけたので、息が切れた。とにかくこのままでは会話が成り立たないので、取りあえずは呼吸を整える。
「ちさとちゃん。髪の毛カーラーで巻いていたよね」
卒業式の間考えて、ようやく思い出した。ちさとちゃんは、去年のバレンタイン企画で優勝し令と半日デートした女の子だ。
「……」
「え、違ってた!?」
絶対だと思ったんだけれど。すると、ちさとちゃんは首を横に振った。
「違ってないです」
よかった、と令はホッとした。もし間違っていたら、ばかの上塗りだった。
「じゃさ、今朝の『令ちゃんのバカ』は取り消してくれる?」
調子に乗ってそう言うと、ちさとちゃんはうつむいた。
「……です」
「ん?」
「令さまは、やっぱりばかです。私なんかが言ったこと、一々《いちいち》気にしなくていいのに」
「えっ」
うつむいた瞳《ひとみ》からぽろぽろと涙がこぼれ、並木道に落ちた。何てことだろう。
「ごめん」
謝るために追いかけたのに、結局泣かせてしまうなんて。
やっぱり自分はばかなのだ、令はもう一度「ごめん」とつぶやいて、ちさとちゃんを抱き寄せた。
4
「あれ? 祐巳《ゆみ》さま、今日黒いリボンしていましたよね?」
乃梨子《のりこ》ちゃんが尋《たず》ねてきた。
「うん」
待ち合わせのマリア像の前には、すでに一年生の二人と志摩子《しまこ》さんが来ていて、祐巳と祥子《さちこ》さまが到着したので、あとは黄薔薇姉妹を待つのみとなった。
写真を撮ってくれる蔦子《つたこ》さんは、撮影場所の下見をしながら、リクエストがあれば生徒たちに向けてカメラのシャッターを切ったりしている。もちろん、子分の笙子《しょうこ》ちゃんもくっついている。
「目がいいね」
祐巳は、乃梨子ちゃんに言った。
黒いリボンをしていたのは、卒業式の間だけだ。式の前後には乃梨子ちゃんに会っていないから、祐巳が黒いリボンしているところを見たとしたら送辞の時だろう。けれど、祐巳が送辞を読んだ舞台は、一年生の席からはかなり遠かった。
「でも。お姉さまは、朝このリボンだったわよ」
祐巳の赤いリボン越しに、瞳子《とうこ》が乃梨子ちゃんに言った。正解。でも。
「あれ、瞳子と今朝どこで会ったっけ?」
祐巳は、首を傾《かし》げる。今朝家を出てからここで落ち合うまでの間、瞳子と会った記憶がない。今日の瞳子のリボンだって、初めて見る物だったし(中央に黒のラインが入った赤いレースは、たぶんおニューだ)。
「廊下を歩いていらっしゃるのを、お見かけしただけです」
目がいいのは、志摩子さんの妹だけじゃなくて、我が妹もだったらしい。と、密かに祐巳は笑った。
「式の間だけということは、祐巳さまは何か験《げん》のようなものを担《かつ》いでいらしたんですか?」
「あの黒いリボン。……昨日薔薇の館の一階で見つけた物ですよね」
これも正解。目だけでなく勘も鋭いようである、|つぼみの妹《ブゥトン プティ・スール》たち。
「そうだよ。お守り。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が貸してくださったの」
祐巳の言葉に、「でもあれは」と言いかけた乃梨子ちゃんだったけれど、すぐに思い当たったみたいで、それ以上は尋ねてこなかった。瞳子も、「そうですか」と言ってほほえんだだけだ。頭の回転も早いなぁ。
頼もしい二人の妹たちに支えられて、来年度の山百合《やまゆり》会も安泰《あんたい》だ。――って、それは本人ではなくむしろ卒業生のいう言葉だった。
ね、お姉さま。そう思って振り返ると、三人とは少し離れて話をしていた祥子さまと志摩子さんが同時に叫んだ。
「お姉さま!」
(へ? お姉さま?)
二人こそが祐巳の、乃梨子ちゃんのお姉さまなのに。だから、聞き間違いかな、って思った。でも二人の薔薇さまの視線の先を追っていくと、そこには確かに彼女たちの「お姉さま」がいたのである。
前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の水野《みずの》蓉子《ようこ》さま。
前|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の佐藤《さとう》聖《せい》さま。
そして、前|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまのお姿まで。
三人はにこやかに近づいてきて、祥子さまと志摩子さんの前で止まった。だから、祐巳も慌てて駆け寄った。
「わわわわ」
麗《うるわ》しのご尊顔《そんがん》を拝し、もう興奮するしかない。三人そろい踏みなんて、いったいどれくらいぶりだろう。剣道の交流試合の時以来だから、かれこれ四カ月となろうか。
「ごきげんよう。みんな元気だった?」
江利子さまが尋ねる。
祥子さまと志摩子さんは、「お陰《かげ》さまで」「ごきげんよう」と嬉《うれ》しそうに答える。しかし、祐巳はというと。
「どどどど」
思いがけない来訪者に興奮して、壊れたレコーダーみたいになってしまった。すると、聖さまがわざとらしい真顔を作って言う。
「解説しよう。祐巳語を通訳すると『どどどど』は『皆さんどうしてこちらにいらっしゃるのです?』となりま」
言い終わらないうちに、聖さまの肩を押して前に進み出る人がいる。
「それくらいわかっているわよ。……相変わらずね、祐巳ちゃん」
「蓉子さまぁ。今日は、うちのお姉さまの卒業を祝ってくださりに?」
大好きな「お祖母《ばあ》ちゃま」に会えて、ピョンコピョンコ跳《は》ねた。後ろで瞳子が見ていたことに気づいたが、もう遅い。お姉さまの威厳《いげん》も地に落ちた。――って、もともとそんなもの備わっていないのだけれど。
「ええ、もちろん祥子におめでとうを言うためにね。そもそものきっかけは、このハチ公だけれど」
「ハチ公?」
「今は人間の姿でいるけれど、この人|蜜蜂《みつばち》らしいわ」
聖さまを指して、眉《まゆ》を下げる蓉子さま。
「えっと」
いつもは理論的な蓉子さまだけど、時々|素《す》っ頓狂《とんきょう》な言動をすることがある。聖さまが蜜蜂。何かの喩《たと》えだろうか。それにしても、今日は蜜蜂づいている。
「由乃《よしの》ちゃんが来てみろって言うからさ、ちょっと見に来てみた」
と言うのは蜜蜂さん。
由乃さんが呼んだんだ、と祐巳は少し驚いた。だってそんなこと、ひと言も聞いていなかったから。
(あ、もしかしてこれか)
今朝から由乃さんをテンパらせていたものって。でも、前薔薇さまたちを呼んで、いったい何をするつもりなのだろう。
「江利子も由乃ちゃんに呼ばれたらしいわよ」
ね、と蓉子さまが振り返ると、そこにいたはずの江利子さまがいない。
「江利子さまなら今」
言いながら、志摩子さんが視線を横に流す。すると、なぜだか写真部の二人の側で、立ち話をしている江利子さまの姿が。
「悪い、悪い。ちょっと、武嶋《たけしま》蔦子さんに写真のお礼を言ってきた」
江利子さまは、駆け足で戻ってきて言った。
「写真?」
「お正月に神社で偶然会って、その時撮ってもらったの。先に済ませておかないと、後回しにしてると忘れちゃいそうだから。ついでに、妹の笙子ちゃんにもご挨拶《あいさつ》をね」
「笙子ちゃんは妹じゃないですよ」
祐巳は、すかさず訂正した。笙子ちゃんは蔦子さんの側にいるけれど、妹じゃない。まだ、って言ったらいいのかもしれないが、本人からは今のところ何も報告はない。
「あら妹よ」
江利子さまは、笙子ちゃんを振り返って笑った。
「克美《かつみ》さんのね」
ああ、そうか。江利子さまは、知っていたんだ。笙子ちゃんが、内藤克美さまの妹だという事を。
「でも肝心《かんじん》の由乃ちゃんは? 令の姿も見えないし」
祥子さまがつぶやいた、その時だ。
道の右と左から、同時にこちらに向かって歩いてきた。
――令《れい》さまと由乃さんの入場です。
5
図書館の脇の道を歩いて、分かれ道の手前まで来ると、徐々《じょじょ》に視界が開けてきた。
マリア像の前の人混みの中に、仲間たちの姿がある。
さあ、始まる。
本日のメインイベント。由乃《よしの》の心臓が、ドックンドックンと高鳴っていく。
それでも、こんなことくらいでは倒れたりしないんだ、ってわかっている。手術前のヤワな心臓じゃないんだから。由乃は令《れい》ちゃんがいない学校でも生きていけるって、そう判断したから、令ちゃんはリリアンを飛び立つことに決めたんだ。
(いた……!)
江利子《えりこ》さまの姿を確認し、小さくうなずく。お膳《ぜん》立ては整った。もう逃げられない。それでいい。
道の向こう側から、令ちゃんが歩いてくるのが見えた。どうして校門のほうから引き返してくるのかわからなかったけれど、そんな理由は今気にしている場合じゃないのだ。
当然由乃に気づいた令ちゃんは、複雑な表情をしている。こちら側のただならぬ気配に、何かを察知したのかもしれない。いいや、令ちゃんだけではない。紅薔薇ファミリーも、白薔薇姉妹も、前薔薇さまたちも、写真部の二人も、息を殺して由乃と令ちゃんのことを見つめている。
由乃は、令ちゃんより一足先にマリア像の前に着いた。
「江利子さま、今日は来てくださってありがとうございました。ごきげんよう蓉子《ようこ》さま。聖《せい》さま、昨日はありがとうございました」
まずは、元薔薇さまたちに挨拶《あいさつ》をする。三人は「いいえ」とも「ごきげんよう」ともとれるあやふやな笑みを浮かべて、会釈《えしゃく》を返してくる。
令ちゃんは、マリア像の前に江利子さまたちの姿を見つけても、ちょっと驚いた表情をしただけで、はしゃいで駆け寄ったりはしなかった。
「令ちゃん」
令ちゃんは、由乃を見ている。
そして由乃の後ろにいる人を、すごく見ている。
引き絞《しぼ》った弓のように、空気がぴんと張り詰めた。
やがて。
「菜々《なな》ちゃん」
と、令ちゃんが呼びかけた。にこやかにほほえんで。
由乃の後ろに控えていた菜々は、令ちゃんの呼びかけに応《こた》え三歩ほど前に出ると、そこで頭を下げた。
「|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう、菜々ちゃん。ごめんね、由乃が無理に連れてきたんじゃないの?」
腕時計を見ながら、令ちゃんが言う。高等部は卒業式でも中等部は通常授業で、今はちょうど昼休みの時間にあたる。
「いいえ。私が是非《ぜひ》に、と。直接お祝いを申し上げたくて参りました」
本当は令ちゃんの推理が大正解だったけれど、できている菜々はばか正直には言わない。由乃を立てて、自分が押しかけましたという姿勢を取ろうとする。
昨日由乃は、事務室前の公衆電話から江利子さまに電話をかけて、卒業式が終わった頃にマリア像の側まで来てくれないかと話した。その後中等部に行って、菜々には、明日(つまり今日)の昼休みに時間が欲しいと言いにいった。
二人とも、何の話かは聞かなかった。
だから、まだ言っていない。祐巳《ゆみ》さんにも、志摩子《しまこ》さんにも、もちろん令ちゃんにも打ち明けていない。これからしようとしていることは、この世で由乃しか知らないことだった。
「令ちゃん。見てて」
由乃は、令ちゃんを見つめた。令ちゃんは、ただうなずく。そう。ただ見ていてくれたらいいのだ。あとは何もしなくていい。
「菜々」
今度は菜々を見つめる。見つめ返す菜々は、不安そうな目をしていた。令ちゃんは「見てて」と指示されたけれど、菜々は自分が何をしたらいいのかわからないのだ。
由乃は、両手を首の後ろに回した。セーラーカラーの襟もとに指を滑らせ、そこに鎖状につながった小さな石を探り当てると、引きだして首から外した。
出てきたのは、ダークグリーンの色石がついたロザリオだった。
誰かが息をのむ音が聞こえた。
ロザリオは、由乃の左右の親指と人差し指の間にそれぞれかけられ、菜々の目の高さに掲げられた。
「以前、菜々に質問されたことがあった。私の妹はこのロザリオをもらえるのか、って。覚えている?」
――支倉《はせくら》令さまの妹さま。あなたの妹は、そのロザリオをもらえるんですか。
「はい」
銀杏《いちょう》並木も、マリア像の周辺も、生徒たちがたくさん集まって賑《にぎ》やかだった。けれど、由乃の周りは静かだった。
「まだ答えを言ってなかった。――そうよ。このロザリオの次の持ち主は、私の妹」
菜々の鼓動《こどう》すら聞こえてきそうなくらい、静かだった。
「それは、あなただと思っている」
言った。由乃は息を吐いた。ついに言ってしまった。
でも、言っただけで安心しちゃいけない。自分はあなたを妹だと思っている、そう気持ちを打ち明けただけでは不十分なのだ。そのことに気づいた由乃は、言葉を続けた。
「本来なら、四月になって菜々が高等部に入学してから申し込むべきところだけれど、私は私のお姉さまに、私の妹を紹介したかった。だから、あえて今日の日を選んだの。有馬《ありま》菜々さん、私の妹になってください」
深々と頭を下げる。これで由乃のやるべきことは、すべて終わった。あとは、審判を待つのみだ。
令ちゃんの視線が、菜々に注がれた。いいや、令ちゃんだけではない。紅薔薇ファミリーも白薔薇姉妹も、前薔薇さまたちも、写真部の二人も、息を殺して菜々の出す答えに注目している。
「私」
菜々が口を開いた。
「初めてそのロザリオに触れた時、あまりにもきれいで、とてもひかれました。それはもう、そのまま返したくなかったくらい。人の持ち物を欲しがるようなこと、今まで一度もなかったのに。なのに、それが欲しくて欲しくて。だから、不躾《ぶしつけ》にあんなことを聞いてしまったんです」
菜々の話がどこに続いているのか、わからなかった。今のところ、YesなのかNoなのか、そのヒントすら見えなかった。
「先日、それにそっくりのロザリオをお店で見つけました。試しに手に取らせてもらったのですが、なぜだか全然欲しいと思わなかった。どうしてでしょう。本当にそっくりなのに。それで私、趣味が変わったのだと思ったんです。欲しかったのはあの時だけ。自分の気持ちの中だけでも流行《はやり》ってあるんだな、って」
だからもうロザリオはいりません、妹になる必要もなくなりました、と。流れ的に、話はそっち側に転がりそうだ。
しかし。
「でも今、そのロザリオはとても欲しいんです」
菜々は、思いも寄らない言葉を発した。
「やっぱり欲しくて欲しくてたまらない。……そんな理由で、あなたの妹になってもいいのでしょうか」
真剣な目で、由乃に答えを求めてくる。姉妹《スール》の申込みに、諾否《だくひ》以外の返事が返ってくるとは、思いも寄らなかった。
「こういう時には、ばか正直なんだね。菜々」
「そうしなければ、後々由乃さまに話が違うって怒られてしまいそうですもの」
「そうだね」
由乃は笑った。菜々はよくわかっているな、と。
こんなお手頃な下級生、次はいつ見つかるかわからない。
いや、たぶん二度と見つからないだろう。
正直もったいなかった。もったいないけれど、仕方がない。
由乃は両手で持っていたロザリオを、右手で持ち上げ左の手の平の上に落とした。そして、菜々に差し出す。
「あげる」
「は?」
「私の妹にならなくていいから」
最初から、菜々がこのロザリオを気に入っていたことくらい知っていた。ロザリオ目当てだっていい、そう思ったことは何度もある。今だって、正直ぐらついている。
それでもいいよ、って、このまま菜々の首にロザリオをかけたら、妹にできる。でもそれじゃやっぱり惨《みじ》めだって、自分のちっぽけなプライドが許してくれない。
ロザリオのおまけでお姉さまにしてもらって、どうするよ。だからせめて格好《かっこう》つけて、菜々に背中を向けることにしたのだ。
「いりません」
けれど菜々は受け取らなかった。
「何で? 欲しいんでしょ?」
「もう欲しくありません」
「何なのよ」
「いらないって言ったら、いらないんです」
喫茶店のレジ前で小母《おば》ちゃんたちが財布から出したお金を、「あげる」「いらない」と押しつけ合うように、ロザリオは行き場を見失っていた。
「ストーップ!」
それを、令ちゃんが菜々と由乃の間に入って取り上げた。
「もう、まどろっこしい」
令ちゃんはロザリオを丸く広げると、「祐巳ちゃん」と援軍を呼んだ。
「は、はいっ」
突然の指名に、転がるように前に出てくる祐巳さんに、「ここ押さえてて」と指示したのは無理矢理ロザリオを握らせた由乃の左右の手だった。
「任せてください」
祐巳さんは、由乃の背後に回って、ロザリオごと由乃の手を握る。
「放してったら」
ちょっとやそっと暴れても、グッと力を込めて放さない。
「あっ、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》、何なさるんです」
そこへ菜々を羽交《はが》い絞《じ》めにした令ちゃんが、近づいてくる。そして、ロザリオの輪目がけて菜々の頭を突っ込んだ。
「あーっ」
迫ってきた菜々の頭は、由乃の鼻先ギリギリで止まった。
「両足ちゃんと地面に着いているね。よし」
令ちゃんが、菜々の身体から手を放す。それを合図に、祐巳さんも由乃の手を放す。すると、どうなる?
菜々の首に由乃がロザリオを掛けようとしている、という形が出来上がってしまったのだった。
(これ……、いったいどうしたらいいの)
思わぬ状況に、固まっていると、令ちゃんが由乃の脇の下をこちょこちょとくすぐった。
「わはははは」
身体をよじった弾《はず》みで、由乃の手からロザリオがこぼれた。次の瞬間、菜々の首に落ちるロザリオ。
「はい、いっちょ上がり」
「れ、令ちゃん!」
何てことしてくれたんだ、って由乃は掴《つか》みかかった。けれど令ちゃんは、冷ややかな目をして由乃の後ろを指さした。
(後ろ……?)
振り返ると、菜々が、自分の首にぶら下がっているロザリオを、うつむいていとおしそうに指で撫《な》でていた。
「どうして……?」
欲しいって言ったり、いらないって言ったり。けれど首にかけられたら、こんなに幸せそうな顔をする。
「わかってないね、由乃は」
「私が何をわかってないっていうのよっ」
「菜々ちゃんにとっては、由乃の妹の証《あかし》じゃないロザリオなんか何の価値もない。そうだよね、菜々ちゃん」
令ちゃんに尋ねられて、菜々はうなずいた。ちょっと恨《うら》めしそうな顔をして、由乃のことを見ている。
「……そうか」
そうだったのか。由乃は菜々に近づいた。
令ちゃんが、祐巳さんが、きっと仲間のほとんどが菜々の気持ちを正しく理解していたのに。由乃だけが、言葉の意味をそのまま受け取って、突き放してしまった。
「気づいてあげられなくて、ごめんね」
令ちゃんのばか、ならぬ、由乃のばか。
「菜々はあの時、このロザリオがいつか菜々の物になるってわかったんだね」
自分の物だから、手放したくなかった。そう思ったら、妙にすっきりした。やっぱり運命の相手だったんじゃない? ――って。
「姉妹《スール》成立でいいのかしら?」
祥子《さちこ》さまが尋ねた。由乃が菜々と一緒にうなずくと、少し離れて見ていた仲間たちが「おめでとう」と集まってきた。
ことに菜々はすぐに乃梨子《のりこ》ちゃん瞳子《とうこ》ちゃんに取り囲まれて、「菜々ちゃん、仲よくやっていこうね」「何でも聞いてね」と声をかけられた。
なるほど。
菜々が由乃の妹になるということは、来年度の|黄薔薇のつぼみ《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》。同じく|つぼみ《ブゥトン》となる乃梨子ちゃん瞳子ちゃんと、学年は違うけれど同じ立場になるのだった。
菜々が、自分の妹が、志摩子さんの妹、祐巳さんの妹と一緒になって笑っている。不思議だけれど、何だかうれしい。格好つけられなかったけれど、何とも楽しい。
目を細めて見ていたら、令ちゃんが後ろから肩を抱いてきた。
「由乃」
えっ、何。そう、振り返ろうとしても、強い力でなかなか離してくれない。
「こうなるだろうって、薄々《うすうす》感じていたけれど。それでも、菜々ちゃんのことはうれしかった。ありがとう」
私のために、って。
じゃあ、忘れ物は無事令ちゃんのもとに届けられたということだ。
よかった、と由乃は、由乃の肩を抱く令ちゃんの手に、自分の手をそっと重ねた。
6
結局|由乃《よしの》さんは、まだ中等部の生徒にロザリオを渡すという、前代|未聞《みもん》の大事件を起こしてしまったことになる。
前代未聞といえば、由乃さんはこれまで、お姉さまに自分からロザリオを返すという黄|薔薇《ばら》革命、そしてそしてその後破局したお姉さまに復縁《ふくえん》を申し込むという珍事を行ってきた人である。今更驚くことはないが、また一つ勲章《くんしょう》が加わった、といったところだろうか。
「由乃ちゃん」
江利子《えりこ》さまが、由乃さんに近づいて言った。
「約束を果たしてくれてありがとう」
「どういたしまして。令《れい》ちゃんに見せるついで[#「ついで」に傍点]ですから」
「ついで、ですって? たとえ本心ではそう思っていても、その言い方はどんなものかしら。私は、令のお姉さまなんですからね。妹もできたことだし、由乃ちゃんはもう少し年上を立てることを覚えたほうがいいわね」
「立てて欲しければ、そのネチネチした意地悪を、まずはあらためていただかないことには」
「まーっ」
ここの二人は、相変わらずである。ある意味、似たもの同士なのかもしれないけれど。
「相変わらずね」
祥子《さちこ》さまが、祐巳《ゆみ》の横でふーっと息を吐いた。
「あの二人は似たもの同士だから」
「……」
「何?」
じっと見つめる祐巳に、祥子さまが聞き返す。
「いいえ」
今、同じ事思った。そんな小さなことがうれしいって言ったら、お姉さまはどんな顔をするだろう。「ばかね」と言いながら、ご自分のほうがもっとうれしそうに笑うだろうか。
「そういえば、お姉さまのお祖父《じい》さまが式に来ていらっしゃいましたよね」
「あら、なぜわかったの? 祖父に会ったことがあって?」
「いいえ。でも、清子《さやこ》小母《おば》さまの隣に座っていた方がそうでしょう?」
「その通りよ」
祥子さまは驚いていたけれど、種明かしをすれば、お祖父さまは融《とおる》小父《おじ》さまそっくりだったのだ。柏木《かしわぎ》さんに歳を加えていくと、融小父さまになって、もっと加えるとお祖父さまになるといったらいいのか。つまり、あのタイプ[#「あのタイプ」に傍点]の男なわけだ。
「もうお帰りになってしまわれましたよね。ご挨拶《あいさつ》したかったのに残念です」
「お帰りになるも何も、卒業式には来ていないことになっているのよ」
「は?」
「今日は重要な会議があるのだけれど、祖父は朝から急な高熱で会社をお休みしているの。母は、付きっきりで看病ね。そんな二人が、卒業式に来ているのはおかしいでしょう?」
「……そうですね」
つまり、お祖父さまはどうしても孫娘の卒業式に出たいあまり、仮病を使って会社を休んだらしい。出し抜かれた融小父さまは気の毒だが、以前結婚披露宴を中座して娘の体育祭に来た前科があるのだから、どっこいどっこい。文句も言えないだろう。
「もうすっかり曾《ひい》お祖母《ばあ》ちゃんね」
蓉子《ようこ》さまと江利子さまが笑い合う。二人からわざわざ距離をとって、聖《せい》さまが言う。
「一緒にしないでよ。ノリリンが妹作るまで、私はまだなんだからね」
「ノリリンって、私のことですかっ」
聞き捨てならない、と乃梨子《のりこ》ちゃんが抗議する。けれどいくらしっかり者の乃梨子ちゃんであろうと、あの聖さまに敵《かな》うわけもなく、結局逃げ帰って志摩子《しまこ》さんにブーブー文句を言っていた。
「じゃーねー、私はナナッチって呼ぼうかな」
面白がって、江利子さまが菜々ちゃんの顔を見た。来期|つぼみ《ブゥトン》の中で、一人残った瞳子《とうこ》はというと。
「……」
不安げに、蓉子の顔を窺《うかが》っている。
「あ、瞳子ちゃんは瞳子ちゃんで」
「――ですよね」
何だか、ホッとしたような残念そうな、瞳子はそんな表情をしていた。
こんな風《ふう》に。
この学園では人と人とが鎖《くさり》のようにつながっていくのだ。
お姉さまが、祐巳を見た。祐巳もお姉さまを見ている。
何も言わないでいい。
大丈夫、自分たちはつながっている。
――ホーホケキョ。
どこかで、ウグイスの鳴き声がする。誰とはなしに、空を見上げた。
マリア様の青い空が、そこにある。
「それじゃ、そろそろ写真撮りまーす」
蔦子《つたこ》さんの声が響いた。
[#改ページ]
続く道
「祐巳《ゆみ》」
とある月曜日。
校門を入って間もなくの並木道で、祐巳は背後から呼び止められた。
「あ、お姉さま」
立ち止まって振り返る。
「ごきげんよう」
そこに、私服姿の小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまが立っていた。
四月に入ってから、この並木道やバス停なんかで時たま、リリアン女子大に通うお姉さまの姿を見かけることはあるのだけれど、これが全然慣れないのだ。自分が制服なのにお姉さまが私服、ということの不思議。おまけに、今日はジーンズなんて履《は》いているし。
まだ、少し早い時間だったので、登校してくる生徒もまばらだ。祐巳は、新入生歓迎会の打ち合わせがあってこの時間に来た。
「はい、これ」
祥子さまは、少し厚みのある白い封筒を差し出した。
「この間話した物」
封はされていなかったので、ちょっと中を覗いてみる。
「あ。春休みに一緒に行った旅行の写真だ!」
「祐巳と会う時に限って、持ち歩いていなかったものだから。今日こそは渡そうと、待ち伏せしてみたのよ」
「恐れ入ります。朝に弱いお姉さまが私のために」
「まあ、言ってくれるわね。いろいろと対策をたてて、結構大丈夫になったのよ」
言いながら祥子さまは、祐巳の襟に触れた。その指はセーラーカラーのラインをなぞり、タイに到達するとそこで離れた。
「お姉さま?」
「やめましょう。あなたはもう、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》なんですものね」
タイを直すほうも直されるほうも、小さく笑った。日常の一部と化していた習慣を改めるのは、なかなかに難しい。
ちょうどそこに、門を走り抜けてくる生徒があった。
「瞳子《とうこ》?」
「あ、お姉さま」
こちらに気づいた瞳子は、取りあえず立ち止まりスカートのプリーツを直してから、「ごきげんよう」と挨拶《あいさつ》した。
うまく取り繕《つくろ》ったつもりだろうけれど、トレードマークの縦《たて》ロールがかなりグジャグジャ。これは、バスを降りてからここまで、ずっと走ってきたに違いない。
「祥子さまもごきげんよう。ではお先に」
軽く頭を下げると、瞳子は銀杏《いちょう》並木を高等部校舎の方角に歩いていく。走らないで、とわざわざ注意する必要はなかった。
「きっと私より後じゃないってわかって、焦《あせ》らなくてもいいと思ったんですよ」
後ろ姿を眺《なが》めながら祐巳が言うと、祥子さまは目を丸くした。
「何か、瞳子ちゃんらしくないわね」
「最近、肩の力が抜けてきたんですよ。いい傾向だと思って」
山百合《やまゆり》会の仕事も、演劇部の活動も、クラスメイトとのつき合いも。緩急《かんきゅう》をつける、っていうのかな。どれもその場に応じて、全力投球したり力を抜いたりできるようになった。
「そう」
ほほえんで、祥子さまは祐巳の背中を軽く押した。
「あなたも、そろそろお行きなさい」
「はい」
祐巳は、ゆっくりと一歩を前に踏み出した。
ごきげんよう、ごきげんよう。
さわやかな朝の挨拶がこだまする銀杏並木を、背筋を伸ばして歩いていく。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。
もう姿は見えないけれど、この道の上には、前には瞳子、振り向けばお姉さまがいるはずだった。
薔薇の館には、すでに揃《そろ》った仲間たちが、祐巳が来るのを待っている。
教室にはクラスメイトが、そして――。
二股の分かれ道にあるマリア像の前で立ち止まると、後ろから来た生徒が遠慮がちに声をかけてきた。
「ごきげんよう、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》」
祐巳は笑顔で振り返る。
「ごきげんよう」
そんな何気ない子羊たちの日常風景を、ほほえみながらマリア様が見てる。
[#地から1字上げ]―了―
[#改ページ]
あとがき
あとがき、って書いてからかれこれ三十分は経過しているのですが、その後の文章が出てこなくて、これじゃだめだと、とりあえず今の状況をパソコンに打ち込んでみることにしました(うん、二行書けた)。とにかく何か書かないと、いつまで経っても「あとがき」以降は白紙で、まかり間違ってこれを本として発行してしまったらメモ欄付きの文庫になっちゃうし。
書くことが何もない、わけではないのです。むしろあります。でも、頭の中でうまくまとめてアウトプットできない感じ、っていうのかな。たとえば今日はちょっと歌う気分じゃないな、という時でも、乗りやすいリズムとか誘い上手なイントロとかが流れてきて、まあそうまで言うならちょっとだけと歌い出すと、徐々《じょじょ》に調子が出てきて歌いまくる、みたいなことが起きないだろうか。そんな期待半分、とにかく何か書いてみようと思ったわけです。
だから、今書いているこの文章は、いわば「呼び水」。
本来の水があふれ出て、結果いらないと判断された場合、消えてしまうかもしれない文章を、今私は書いています。
こんにちは、今野《こんの》です。
何ていうんでしょうね、あとがきの冒頭から一般的には共感しがたいような世迷《よま》い言を言って読者を混乱させているよ、この人は。――客観的には、そんな感じです。ご迷惑おかけしております。
以前、ある月刊誌を読んでいた時、こんなことがありました。
新連載の小説のはずなのに、中身が作者のエッセイなんです。そういう形態の小説なのかと読み進めていったのですが、にしてはタイトルとは無縁《むえん》の日常が描かれています。そしてその号はそのまま終了し、次の号もその調子。どれくらいエッセイが続いたのかは思い出せませんが、面白《おもしろ》かったので私は毎号その作品を楽しみにしていました。しかしある時、突然小説に切り替わったのです。その作者にとって、小説が始まるまで書いていたエッセイのようなもの(自分にそっくりな主人公が登場するフィクションかもしれませんが)は、新連載を開始するまでの助走のようなものだったのでしょう。スタートした小説も、面白かったので毎号欠かさず読んでいました。単行本化された物を手にとってはいないのですが、あのエッセイは入っているのでしょうか。気になります(そのうち確認してくることにいたしましょう)。
つまり何が言いたかったかというと、書けない時には助走をしてみるのも一つの手だ、ということです。ここまで読んで、その小説のタイトルと作者の顔が思い浮かんだ方は、一緒にするなと思っているかもしれませんが。
でもって、助走だけでページが埋まってしまっては大変なので、そろそろ前述の「書くことがある」を書こうと思います。
以前あとがきでも触れましたが、祥子《さちこ》の卒業をもって『マリア様がみてる』の祐巳《ゆみ》・祥子編は終幕となります。
祐巳の時間で一年半。私の時間で十年八カ月。都合三十四冊。アニメ関連の本やイラスト集も含めると三十六冊!(あってるよね?)
何をとってみても、何か「すごいなー」と感慨を覚えます。シリーズとしては、いつの間にか(とっくに)『夢の宮』を抜いていたし。
今回のサブタイトルは、『ハロー グッバイ』。
最初の候補として挙がっていたのは、『|ごきげんよう《ハロー》 |ごきげんよう《グッバイ》』もしくは『|ハロー《ごきげんよう》 |グッバイ《ごきげんよう》』でした。でもただでさえサブタイトルは小さい文字なので、ふりがなまでつけてしまうとキツキツです。背表紙になんて、絶対入りません。というわけで、ルビなしの『ハロー グッバイ』に決定しました。
小説の冒頭部分にも書きましたが、「ごきげんよう」は「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「元気?」「さようなら」と、いろいろな意味に使える便利な言葉です。時々開催していただくサイン会でも、交わす挨拶《あいさつ》は「ごきげんよう」です。また「ごきげんよう」は「ご機嫌よう」(『大辞林』によると「よう」は形容詞「よい」の連用形の音便、だそうです)で、「ご気分よく過ごされますように」と相手を気遣《きづか》う意味が入っているところが、またいいなぁと思います。だから「ハロー グッバイ」には、「ごきげんよう」の気持ちを入れたつもりです。
今回脱稿間際、私の夢に『マリア様がみてる』のキャラクターが頻繁《ひんぱん》に出てきました。夢なので、起きた時にはほとんど中身を忘れてしまっていたのですが、ちょっとだけ覚えている内容をご紹介しますと、新旧|山百合《やまゆり》会のメンバーが温泉旅行をしている、というものがありました。みんな、旅館で浴衣《ゆかた》とか着ています。私は何をしているかというと、その様子をオンタイムで書いているのです。精神的に追い詰められていたんでしょう、「原稿|三昧《ざんまい》」というより、もう「寝ても覚めても原稿」ですね(とほほ)。でも、私もどこかおかしいと思っている。だって、さっきお布団に入る前に書いていたシーン(卒業式)と、旅館にはあまりにもギャップがありすぎます。私が気づいたら、キャラクターも気づきました。
「ねえ、こんなシーン必要だっけ?」
うろ覚えですが、たぶん言ったのは江利子《えりこ》あたりだった気がします。
何でこんな夢をみたんでしょう。私自身は、温泉に行きたいなんて切望していなかったんですけれどね。
分析してみるに、どうやら私がキャラクターたちを慰安《いあん》したいと考えていたようなのです。
一年半だか十年八カ月だか、ずっと一緒に走り続けてきた可愛《かわい》い娘たちに感謝の気持ちを表したくて、でも実際には何もしてやれないから、せめて夢の中で温泉に連れていってあげたのでしょう。
ご苦労さま。ゆっくり温泉につかって、心身の疲れをとってね。夕食においしいお料理が出るといいね。
というわけで、『マリア様がみてる』も一区切りなわけですが、ここでこの世界が終わるわけではありません。形を変えて、お目に掛かることがあると思いますので、気が向いたらまたリリアン女学園の物語におつき合いください。
ごきげんよう。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる ハロー グッバイ」コバルト文庫、集英社
2009(平成21)年01月10日 第1刷発行
2008年12月29日作成
2009年03月17日校正(暇な人z7hc3WxNqc 78行 澗《か》れ→涸《か》れ 753行 陳腐《ちんぶ》→陳腐《ちんぷ》 1584行 蝿→蠅 1829行 すごいでしよ?→すごいでしょ? 2311行 ぺージ→ページ)
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本140頁13行 立て肘をついたま眺めていたら、
ついたまま、では?