マリア様がみてる
卒業前小景
今野緒雪
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝の挨拶《あいさつ》が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》お嬢さま
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)卒業集合写真は撮らせていただかなければ[#「撮らせていただかなければ」に傍点]ならない
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/32_000.jpg)入る]
もくじ
思い出し笑い
お姉さまのラケット
私とインタビュアー
卒業集合写真
菓子パンの宴
支えとスキンシップ
忘れた忘れ物
隣は何をする人ぞ
リボンの道
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/32_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/32_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる 卒業前小景
[#改ページ]
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未《いま》だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治《めいじ》から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
人生には、いろいろなドラマがある。
大きいものから小さいものまで。
ドラマティックな大河《たいが》ドラマもあれば、シリアスなコメディーも。
でもきっと、どれをとってもその人にとってはかけがえのない、一瞬一瞬のきらめきだったりするのだ。
卒業前だからね。
この時期、リリアンでも、
そりゃ、いろいろなシーンがあるものです。
[#改ページ]
思い出し笑い
「嫌ね」
牛乳の紙パックに挿《さ》さったストローから口を離して、令《れい》が言った。
「思い出し笑いなんかしちゃって」
「思い出し笑い?」
そんなことしたかしら、と祥子《さちこ》は考えたが、言われてみれば身に覚えがなくもない。少し前にうつむいて頬《ほお》を上げた、その感覚がまだ残っていた。
「それは失礼したわね」
差し向かい、それも一対一でランチをとっている人間が、何の脈絡《みゃくらく》もなく突然クスリと笑ったのだ。あまり気持ちいいものではないだろう。
「別にいいけれど」
令はビニール袋の口を破って中のパンを取り出すと、半分に千切って一方を祥子に差し出した。
「よろしければ、その思い出した面白《おもしろ》いことをお裾分《すそわ》けして欲しいな、なんてね」
もうすぐ昼の一時にさしかかろうという時間のミルクホール。通常ならばほぼ満席であるはずだが、今日は高等部の卒業式前日で午後の授業は休みとあって、現在埋まっている席は四分の一ほど。それでもミルクホールが開いているのは、お別れ会などをする生徒たちや、明日の会場準備をしている先生方の胃袋を満たすためなのだろう。この場では食べずに、パンと飲み物を買っていく人たちの姿も見られる。今さっきも、美術部の生徒たちが結構な数のパンを買い込んでいった。
そうしてただでさえガラガラのミルクホールなのに、珍《めずら》しくツーショットで現れた紅薔薇・黄薔薇の両薔薇さまに遠慮してか、二人の座っているテーブル付近はほとんど人気《ひとけ》がないのだった。
その割には、「どうしてここにいらっしゃるのかしら」などと遠巻きに囁《ささや》き合っている。こそこそしないではっきり聞いてくれたら、ちゃんと答えるのに。午後からちょっとした用事があるから、最後にミルクホールでお昼ご飯を食べるのもいいだろうということになったのだ。
「これは?」
パンを受け取って、祥子は尋《たず》ねた。
「焼きそばパン。知らないの?」
「まさか」
世の中には、そういうものが存在することくらい知っている。学園内で売っているパンである以上、クラスメイトが注文している場面に遭遇《そうぐう》したこともあったし、あまり行かないけれどコンビニのパンコーナーに並んでいるのを目撃したことだってある。記憶にないが、もしかしたら一度くらい口にしたこともあったかもしれない。それくらい、これは世間ではメジャーなパンだ。
しかし、炭水化物を炭水化物でくるんだ食べ物。さっき食べたのは、バンズに辛《から》いタラモサラダを挟んだパンだった。
「……」
買い慣れていないのでパンのチョイスは令に任せたが、これはごく一般的な趣味といっていいのだろうか。何しろ順番が回ってくるからパン当番はやってきたけれど、この三年というもので自分が注文することは滅多《めった》になかったのだ。
「大したことではないわよ」
令が聞く体勢をゆるめないので、祥子は焼きそばパンを一口食べてから答えた。何を思い出して笑っていたか、というあれだ。
「例《たと》えば。昨日、薔薇の館で私たちの忘れ物探しをしたのかしら、とか」
焼きそばパンは意外においしい。なぜだか、正月を思い出させる味だ。
「あ、それ。今日やるって、由乃《よしの》が言っていたよ。薔薇の館の一階探索」
「ああ、そうだったの。それじゃ、きっとこれからなのね」
令の妹の由乃ちゃんは、令の実の従妹《いとこ》でその上お隣に住んでいるから、登下校の時にでも話が出たのだろう。そういった点で、令の方が情報通だ。
「忘れ物探しが、そんなに面白い? 祥子は、絶対に自分の忘れ物はないって言っていたじゃない」
「そうよ」
去年の薔薇さまたちは油断していたから、置きっぱなしの私物がごろごろ出てきたのだ。しかしそれを見てきた自分たちは、むしろ注意深く生活してきたはずである。それでも少し気になったので、昨日の朝、妹たちに内緒《ないしょ》で忘れ物がないかどうかチェックしてきた。だから、完璧なのである。
「私の忘れ物がないと知った時の、祐巳《ゆみ》の顔を想像するのが楽しいのよ」
「そんなものかな」
「ええ」
祥子は紙パックのお茶を飲み干した。
「ま、お楽しみはこれからまだあるんだし」
令が含み笑いをした。これは未来を想像しての笑いである。
「そうね。そろそろ行く?」
立ち上がって歩き出すと、生徒たちの視線が一斉に二人に向けられた。
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》。
そう呼ばれるのも、今日を含めてあと二日だ。
ミルクホールの前の自動販売機の前で、二人は一度足を止める。
「何にする?」
「今お茶を飲んだから、別のがいいわ」
「私ももう牛乳はいいや。じゃ、コーヒー牛乳にするよ」
パンと同様、きっちり半分の小銭を出し合って、二人は紙パックのコーヒー牛乳を三つ買った。
「どの辺りにいるかしら」
外に出て見上げた桜の枝は、つぼみが膨《ふく》らんできたものの、花開くまでにはもう何日かかかりそうだ。
「彼女の行動パターンから分析するに」
令が手帳を出してつぶやいた。
「まだ三年生校舎にいるんじゃない?」
目的の教室に行き着く前に、二人は廊下で下級生たち数人に取り囲まれてしまった。
三年菊組教室の前だったから、令《れい》に用事があって待っていたものと思われる。一人、二人、三人……。祥子《さちこ》は目だけ動かして数えてみた。全部で七人。パッと見、一年生と二年生が入り交じっているようだ。
「あのっ、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》。サイン帳に何か一言お願いできませんか」
一名が、代表で声をかけてきた。
「いい?」
返事をする前に、令は祥子に確認をしてきた。行動を共にしている人間を待たせるわけだから、一応断ってから、ということなのだろう。
「どうぞ」
そう言い置いて、輪から外れ「そういうこと」と祥子は思う。
ここにこうして立っている、これが支倉《はせくら》令なのだ。
クラスが違うし、令の所属している剣道部とも縁がない自分が知っているのは、彼女の学校生活のほんの一部分でしかない。
受験から解放されて以降の令は、こうして望まれれば快《こころよ》くサインをしてきたのだろう。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》はサイン帳を断らないという噂《うわさ》が噂を呼んで、明日は卒業式だというのにまだ訪ねてくる生徒たちがいるのだ。
祥子は苦笑した。
二月の終わりだっただろうか、自分にも一度休み時間に、「サインをしてください」と文庫本を横に綴《と》じたようなノートを差し出してきた生徒がいた。その時は、何だったか覚えていないけれどとても急いでいて、サインをする・しないの選択をする余地もなく「ごめんなさい」と断った。人目が結構あったから、見ていて「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はサインを書かない」と思い込んだ人もいたのだろう。バレンタインデーにチョコレートを受け取らない前例も手伝ってか、以降サイン帳を頼まれることはなくなった。別に、令を見ていてうらやましくなったわけではないけれど、少しだけ後悔している。
最初のあの生徒。たぶん勇気を振り絞って声をかけてくれた彼女だけには、サインをしてあげればよかった。急いでいたのなら、サイン帳を預かって、後から届けたってよかったのだ。それが適わなくても、せめて名前とクラスを聞いておいたら――。けれど、残念ながら顔すら覚えていなかった。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》」
廊下の端に寄ってサインをする令の姿を眺《なが》めていると、突然背後から呼ばれた。
「今、お忙しいですか?」
見知らぬ下級生だった。いや、どこかで見たことがあった気もしたけれど、名前までは出てこない。
「いいえ。ご覧《らん》の通り」
人気者の友達を待っている間は暇《ひま》だった。
「サインをいただいてもよろしいですか」
「ええ、もちろん」
軽く壁にもたれかけていた左肩を起こしてうなずくと、サイン帳とマジックペンが差し出された。
「何を書けばいいかしら」
受け取りながら尋《たず》ねると、「お名前を」と言う。
「私の名前を書けばいいの?」
「はい」
令は名前以外にも何か書いているようだった。たぶん人によって変えているのだろう、リクエストに応《こた》えているのかもしれない。「心技体」という言葉が聞こえてきた時には、思わず「相撲《すもう》?」と噴《ふ》き出してしまった。
そして、祥子は。
立ったままで書いたから安定しなかったけれど、心を込めて名前を書いた。――小笠原《おがさわら》祥子、と。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「え?」
「もう一度来てくれてうれしかったわ」
「覚えていてくださったんですか」
「正直いって、顔を見ただけでは自信がなかったけれど」
祥子はたった今返したサイン帳を指で触れた。これに見覚えがあったから、確信がもてた。逆にサイン帳だけでもだめだっただろう。顔とサイン帳がペアになって、最初に断った彼女であるとわかったのだ。
「あの時、断ってごめんなさいね」
「いいえ。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は急いでいるからって、おっしゃいましたから。それじゃお忙しくなさそうな時に、ってチャンスをうかがっていたんですよ」
「そうなの?」
「はい」
そう。バタバタと断ってしまったけれど、気持ちはちゃんと伝わっていたの。祥子は小さく笑った。
よかった。
少なくとも、気になっていた彼女の目には「気むずかしくてうち解けにくい先輩」とは映っていなかったらしい。
「あの、私たちもいいですか」
令からサインをもらい終えた生徒たちが、おずおずと側に寄ってきた。サインをしないという噂の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が、サイン帳を持っている生徒と談笑している姿を見てその気になったようだった。
まったく、とため息をついてから祥子はうなずいた。
「でも、私は名前しか書かないわよ」
令ほどのサービス精神はないけれど、ほんのちょっと見習ってもいいと思ったのだ。
[#改ページ]
お姉さまのラケット
アイスクリームについている木のスプーンは、テニスラケットの形に似ている。
お祖母《ばあ》ちゃんが新聞を読む時に使うルーペも、ご飯をよそうおしゃもじも、ポーチに入った小さな手鏡も、今まで意識していなかったけれど基本ラケットの形だ。
網戸は、ラケットに張られたガットだ。お隣の家の風通しのよさそうな鉄格子《てつごうし》の門扉《もんぴ》も、そう思えば次第にガットに見えてくる。
(重症なんじゃない?)
自分の机に突っ伏して、桂《かつら》はふうとため息をついた。
先程片づけた教室《ここ》の掃除。あの時だって、形も素材もかなり遠い、プラスティックのちり取りがラケットに見えてきたのだから、もう末期かもしれない。
「桂さん、どうなさったの?」
ちょっと離れた所から声をかけられたので頭を上げてみると、教室の後ろにあるロッカーの前で藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》さんがこちらを窺《うかが》っている。
「どう、って?」
「身体《からだ》の調子でも悪いの?」
ちょっと不安そうな表情を浮かべて。美人だからどんな顔しても様にはなっているんだけれど、心配をかけてしまったのは素直に申し訳ない。
「あ、それは大丈夫」
慌てて首を横に振り、笑顔で元気をアピール。確かに重症で末期症状は出ているけれど、それは身体ではなくて心の問題なのだった。だからたとえ保健室に連れていってもらっても、こればっかりは治らないと思われた。
「志摩子さん、ずっといた?」
明日の卒業式の会場準備なんかがあるので、午後の授業は休み。昼の一時過ぎというこの時間に二年藤組教室に残っている生徒は、二人以外にいなかった。――というか、今の今まで桂は自分一人だと思っていた。三年生ならば、教室で仲間内のお別れ会をやっているかもしれない。けれど一年生二年生は、さっさと下校するか、理由があって残っている生徒ならばすでにその目的場所に移動しているわけである。
「ずっと? あ、いいえ? 今まで職員室に行っていたの。ここへは一度荷物を取りに戻っただけ」
志摩子さんはロッカーを開けて、自分のコートを取りだした。
「薔薇《ばら》の館?」
「ええ。ちょっとした雑用があって」
さっきまでは職員室、これからは生徒会室である薔薇の館か。さすが、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》は忙しい。
「私はね」
聞かれたわけではないけれど、桂は口を開いた。
「お姉さまと一緒に帰る約束をしているんだけど。ちょっとクラスで用事があるらしくて、終わるのを待ってるの」
志摩子さんに対抗したわけではないんだけれど、何となく。ただグズグズしているんじゃない、理由があって残っているんだ、って言い訳したかったのかもしれない。
でも、志摩子さんにしてみれば、クラスメイトが残っている理由に特別なこだわりとかもっているわけじゃないから、ただ普通に受け取るだけだ。
「そう。いいわね」
志摩子さんは、お姉さまと一緒に帰ることが素直に「いい」と思ったんだろう。でも、今の桂にはそんなに「いい」ものとも思えなかった。
「どれ。三年生の教室に行って、お姉さまの様子でも見にいってこようかな」
椅子《いす》から立って、志摩子さんと一緒に教室を出た。廊下で「ごきげんよう」と挨拶《あいさつ》を交わし、右と左へ分かれていく。
歩きながら、桂は考えた。
教室を訪ねてどうしようというのだ。行ったところで、お姉さまの用事が済んでいなければ、やはりその場で待たなければならない。それどころか、急かしているともとられかねないじゃないか。それはだめだ。最後の最後に、嫌なところを見せたくはない。
(でも、本当に教室にいるの?)
ふと、足を止める。
今、とても危険な考えが頭を過ぎった。
(何想像しているの)
お姉さまが教室にいないなら、いったいどこで何をしているというのだ。
(誰と?)
いけない、いけない。そんなことを考えたら、ますますラケット病が進んでしまう。
でも、見ないように聞かないように考えないようにしていたら、この病気は自然|治癒《ちゆ》してくれるものなのだろうか。
ラケットのことが頭から離れなくなったのは、いつからだったろう。
遡《さかのぼ》ること一週間くらい前。たぶん、十日は経っていない。
放課後、三年生がぬけて寂《さび》しくなったテニスコートで、素振りをしていた時だった。桂《かつら》は、妹の瑞絵《みずえ》に目がいった。
何だろう、いつもとどこか違う。
着ている物や髪形が変わったくらいの違和感。でも髪はいつものままだし、スコートも見慣れたものだった。
身につけている物のせいではない、と気づいたのは、しばらく見ていてわかった。持っているラケットが違う。だからフォームごと変わっていたのだ。
そのラケットどうしたの、と、その時すぐに聞けばよかったのだ。新しいの買ってもらったの? 誰かに借りた物? さらりと聞けば、何てこともなかったはずだ。そうしたら、瑞絵は答えただろう。そのラケットを使っている理由を。
しかし、桂は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したのだ。瑞絵の持っていたラケットは、よく見ると決して新しい物ではなかった。部室には予備のラケットが何本もあるが、それでもない。けれど、どこか見覚えがあるラケット。
そう。それは、桂のお姉さまのラケットだったのだ。
どうして瑞絵が持っているのだろう。
お姉さまが渡したのだろうか。たぶん、そうだろう。
先輩がラケットをくれると言ったなら、瑞絵でなくても喜んでもらうはず。だから、それはいい。じゃあ、問題はどこにある。
(……わかっている)
何でお姉さまは、瑞絵を選んでラケットを渡したのか。そこだった。
気になって気になって、仕方なかった。けれど、それをお姉さまに聞くことは躊躇された。
(そうよ。だって、私には責める資格なんてないから……!)
桂は、前でギュッと指を組んだ。
こうなったのも、自業自得なのかもしれない。
去年の今頃、当時テニス部の副部長だった二つ上の先輩から、桂もまたお姉さまに内緒《ないしょ》でラケットをもらっていたのだ。
あの時は、憧《あこが》れの先輩と心が通ったことが嬉《うれ》しかった。だって我が校のテニス部における卒業生のラケットは、学ランの第二ボタンに匹敵するほどの物である。ただ、お姉さまに対してはやはり申し訳なく思ったから、もらったラケットは、その時写真部の武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さんに撮ってもらったツーショット写真と一緒に、家で大切に飾ってある。
(あれは浮気じゃなかった。ただ、私はアイドルに憧れるみたいな気持ちで)
ならば、どうしてお姉さまに黙っていたのだ。どうして隠しておいたのだ。
そうだ。後ろめたい気持ちがあったから。だからお姉さまには知られたくなかった。
それがわかっているから、今はお姉さまの気持ちが聞けない。
逆の立場になって初めて、自分がとんでもないことをしていたかもしれないことに、桂はやっと気づいたのだった。
(参ったな)
廊下の窓に片手をついて、桂《かつら》はふうとため息をついた。
頭に血が集中しすぎて、足が思うように前に進まない。外の景色でも見ながら、ちょっと一休みだ。どこに向かえばいいのかも、わからなくなったことだし。ちょうどいい。
でも。
「あれー、桂さん?」
休憩しようと思ったのに、誰だ声をかけてくるのは。――と振り返ると、そこに立っていたのは一年生の時にクラスメイトだった福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さん。
「やっぱり桂さんだ。どうしたの?」
「どうって?」
「調子でも悪いのかな、と思って」
心配そうに顔を覗き込んでくる。
「あ、それは大丈夫」
慌てて首を横に振る。デジャブか、これは。そう考えたら何かおかしくなって、笑ったら、つられたように祐巳さんも笑った。
祐巳さんの笑顔はいい。浴びていると、何だか肩の力が抜けていく。
「祐巳さん、これから薔薇《ばら》の館でしょ? 何か雑用があるんだよね」
| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》である祐巳さんは、志摩子さんのお仲間。だから、たぶんそうだろうなと想像して言ったら、ドンピシャだった。
「何で知ってるのっ」
「超能力」
祐巳さんの顔の前に右手をかざしながら、桂は言った。
「わっ、その力でいつの日か私を助けてー」
「そうしてあげたいのは山々なんだけど、この力って使える時と使えない時があるからなぁ」
適当なことを言ってはぐらかしながら桂は、そんな能力が本当にあったなら、今すぐお姉さまの所に行って右手をかざすものを、と思った。
「桂さんは? どこか行くところ?」
「あ、お姉さまの教室に」
行くかどうか迷ってここで足が止まってしまったんだけれど、つい最初の目的地を口にしてしまった。でも、まあ、三年生の教室に行かなかったとしても、これから薔薇の館に向かう祐巳さんには知りようがないわけだし、さっき志摩子《しまこ》さんにもそう言ったからそのままでいいか、そう思った。
「――って、祐巳さん。薔薇の館は逆じゃない?」
ここで分かれると思いきや、祐巳さんは桂と一緒の方向に歩きだす。
「あー、そうなんだけどね」
祐巳さんは、照れくさそうにつぶやいた。
「私もお姉さまの顔を見てから行こうかな、なんて」
「えっ?」
それじゃ、このまま三年生の教室まで連行されてしまう。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は薔薇の館に来ないの?」
「たぶん、今日は来ないかな。でも、もう帰っちゃったかも」
そういや、雑用って言っていたっけ。勇退した薔薇さまたちに、妹たちが仕事をさせるわけがないか。
桂は観念した。これもマリア様のご意志かもしれない。とにかく、祐巳さんと一緒にお姉さまの教室の前まで行く。後のことは、その場になったら考えることにした。
(でも)
お姉さまは教室にいるだろうか。三年生の教室が近づくにつれ、ドキドキと心臓が高鳴っていく。桂は、自分の上履《うわば》きの先を見ながら歩いた。とにかく、前進していることだけは確かだった。
「ごめん、桂さん」
祐巳さんが小さく言って止まった。
「私、ここまでにするわ」
「え?」
気づかずに二歩ほど先に行ってしまったので、振り返る。それからもう一度振り返って、祐巳さんの視線の先を追ってみた。
「あ」
かなり遠いけれど、廊下の先に祐巳さんのお姉さまである|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の姿が確認できた。一年生だろうか、いや、二年生もいるかもしれない、数人の生徒たちに囲まれてサインをねだられているようだった。
祐巳さんは、お姉さまやその周辺にいる生徒たちに気づかれないように、そっとその場を去った。だから、桂はあわてて追いかけた。
「祐巳さん」
階段まで来て完全に身を隠せたと判断したのだろう、祐巳さんはそこでやっと立ち止まった。
「あれ? 何で桂さんまで引き返したの?」
きょとんとした表情で聞き返してくるものだから、脱力してしまう。
何で引き返したのか、って? それは、何だ。たぶん、祐巳さんのことが心配で追いかけてきたのだ。
「じゃ、逆に聞くけど。祐巳さんはさ。どうして引き返したわけ?」
「うーん、あの場に私がいない方がいいと思ったから、かな?」
「いないほうがいい、って」
「何かさ、気まずいじゃない。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》にサインしてもらっている人はさ、そこに突然妹が登場したら落ち着かないと思うんだよね。私は気にしないけれど、妹の私に遠慮しちゃうかもしれない。でもさ、せっかく勇気振り絞って『お願いします』って来てくれたのに、それじゃ申し訳ないじゃない」
「……そうかな」
そうつぶやきつつ、何で祐巳さんのほうが申し訳なく思わなくちゃいけないのか、桂にはわからなかった。
「お姉さまと約束していたわけじゃないんだし。たぶん十分くらい時間がずれていたら、遭遇しなかったわけでしょ。だったらいいじゃない。私があの場に存在しなくても」
「気にならないの?」
尋《たず》ねると、「うん」とさらりと返ってくる。
「どうして? 自分のお姉さまが、他の生徒にちやほやされているんだよ? 突っぱねないってことは、お姉さまだって満更じゃないってことなんだよ? いいわけ、それで? お姉さまなんて、妹が見ていないところで何をしているかわからないと思わない?」
祐巳さんが、ヤキモチを焼いてあの場を去ったのならわかる。できれば、そうであって欲しかった。でも、違うというのだ。友達の手前、やせ我慢しているようにも見えなかった。
これって普通なの? それじゃ、ラケット一つでもやもやしている自分だけが変なの? もう、さっぱりわからなかった。
「桂さん、何かあったの?」
戸惑っている祐巳さんは、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》の顔じゃなくてよく知っている祐巳さんの顔をしていたから、桂は「うわあん」と抱きついた。
もう、一人で立っているのがしんどかった。
「一時は、私も局地的にかなりヤキモチを焼いたけどね」
祐巳さんは、気象予報士みたいに言った。桂が具体的に何も言わなくても、何となく察したようだった。階段を上って階を変えてから、二人は校舎の端の非常階段に出て風に吹かれた。
「今はそんなに気にならなくなったかな」
「どうして?」
「お姉さまのこと信じられるし」
それから、と、ちょっと考えてから祐巳さんは付け足した。
「モヤモヤの素《もと》が生まれたら、直接言ったり聞いたりすることにしたから、大丈夫になったんだと思う」
ってことは、祐巳さんも最初は悩んだりしていたんだ、と少しホッとした。時間と諸々《もろもろ》の経験が、ちょっとやそっとじゃつぶれない心を作りだしたわけだ。
「私、聞けないんだ」
だったら、時間もない経験不足の人間はどうしたらいい。
「聞いたらどうなっちゃうんだろう。恐ろしい扉を開けちゃうことになるんじゃないかな、とか、はぐらかされてもっとモヤモヤが増殖《ぞうしょく》しちゃうかもしれない、とか気にしだしたらもうだめで」
すぐに祐巳さんみたいな境地にはたどり着けないまでも、ヒントなりとも欲しかった。
「でもさ、桂さん。本当に聞きたいなら、逃げないでその気持ちをお姉さまにぶつけないと」
「……うん」
それって、思いっ切り普通の解答なんだけれど。でも祐巳さんの口から出ると、妙な説得力があるのだった。
「あ、でも。波風を立てずにお姉さまを静かに送り出すのも、一つの道だと思うよ」
祐巳さんは言った。明日は卒業式だしね、というわけだ。
「でも、祐巳さんだったらぶつかっていくんでしょ?」
「たぶんね。大抵は自分が想像していたよりも大したことのないこと、だったりするものだし」
なるほど、案ずるより産むが易《やす》しってことですか。昔の人もそう言うなら、案外そんなものなのかもしれない。
「アドバイス、ありがとう」
「いえいえ。こんなんで、参考になりましたか」
「うん。考えてみる」
そろそろ、祐巳さんを薔薇の館に送り出さないと。桂はそのまま非常階段を下りていく祐巳さんに「ごきげんよう」と手を振った。
トントントンという足音を聞いているうちに、一つ質問したくなったので尋ねてみた。
「ねえ、さっき言っていた『局地的』って、瞳子《とうこ》ちゃんのこと?」
「当たり」
階段と階段の間から、祐巳さんの声が返ってきた。
「そうか」
一度うなずいてから、桂は校舎に入って、非常口の鍵を内側から閉めた。
妹っていうのは、ある意味最大のライバルなのかもしれない。
取りあえず教室に戻っておとなしく待っていると、程なくお姉さまが迎えに来たので一緒に下校した。
大抵は自分が想像していたよりも大したことのないこと。その言葉に後押しされて、勇気を振り絞《しぼ》って聞いてみた。分かれ道のマリア像の前だったから、マリア様もそう言っているような気がしてきたのだ。
「ラケットを瑞絵《みずえ》ちゃんにあげたこと?」
立ち止まったお姉さまは、ちょっと複雑な表情をしていた。
「はい。その時のお姉さまのお気持ちをお聞かせいただきたいんです」
「私の、気持ち……」
「そうです」
桂《かつら》がそんなにストレートに聞いてくるとは、夢にも思わなかったようだった。だから、今お姉さまは言葉を探している。はぐらかすためではなく、ちゃんと伝えるための言葉を。そして、やっと一つの文章になった。
「そうね。たぶん、そうすることがあなたにとっていいことだと思ったから、かしら」
「私にとっていいこと、って」
何でここで自分が出てくるんだ、と正直思った。でも桂が聞きたいと迫ったのはお姉さまの気持ちなわけで、それがお姉さまの気持ちならば、こちらが口を挟むのは筋違い、黙ってその先に耳を傾《かたむ》けるべきなのである。
「瑞絵ちゃんが私のあげたラケットを無邪気に振っていたら、あなただって使えずにいるあのラケットを使えるんじゃないか、と思ったのよ」
「私が使えないラケット、って何ですか」
心臓がドックンドックンと鳴りだした。まさか、まさかと打っている。
「去年――」
「波留《はる》先輩からラケットをもらったこと、どうしてお姉さまがご存知なんですかっ!」
ああ、もう何もかも台無し。耐えきれなくて自分から言ってどうする、だ。しらばっくれることだってできたのに。もう、最悪。
桂は、心の中でつぶやいた。
祐巳《ゆみ》さん。
大抵は自分が想像していたよりも大したことのないことって言っていたけれど、その大抵の仲間には入れてもらえない落ちこぼれもいくつかはあるものなんだよね。だからそっちに入っちゃった場合は、考えもしなかった惨事《さんじ》ってものもそりゃ起こりうるってわけだ。
お姉さまは知っていた。何もかも知った上で、瑞絵にラケットを差し出した。
これは身勝手な妹に対する報復なのか。卒業を目の前にした今になって、なぜこんなことをするのだ。
それとも、卒業だからこそ、なのだろうか。
「それは」
お姉さまは口ごもった。
「言ってください」
もうヤケになっていた。
「本当のことを知りたいんです」
お姉さまはいつから知っていたのか。誰から聞いたのか。その時どう感じたのか。今、何を思っているのか。こうなったら全部ぶちまけてもらおう。
お姉さまの卒業式を明日に控えた今日、この関係が壊れるのは残念だけれど、元はといえば身から出た錆《さび》。誰のせいにもできやしない。
波留先輩にラケットをもらったことに対して、桂には弁解の余地はない。ロザリオを返すよう迫られたら、黙って従うしかなかった。
思えばテニス部に入部して間もなく、先輩たちの名前すら覚えきれていない時に「妹に」と望まれてその手をとった。一番最初に声をかけてくれた人だからOKしたのだ。それでもドキドキしたし、大好きだった。
「どうして知っているかって。それは」
「それは?」
桂は迫った。自分のことを棚に上げて、って。そんなことは十分過ぎるほどわかっている。
「私が頼んだことだから」
お姉さまは答えた。
「えっ?」
「桂が波留先輩に憧れていたことくらい知っていたよ。だから頼んだの。波留先輩には妹がいなかったし。そうしたら、波留先輩は快《こころよ》く承知してくれたの。いいよ、って。桂のこと可愛《かわい》がっていたからね」
そんなばかな、と思う反面、どこかで納得している自分がいる。この段になって、お姉さまが嘘《うそ》をつくとも思えなかった。
「一年前の私は、そうすれば桂が喜ぶだろうって思ったの。それくらい軽い気持ちだった。でも、あなたは決して波留先輩のラケットを部活で振ろうとしなかったわね。それで気がついたのよ。私は、もしかしたらとんでもない事をしてしまったんじゃないかしら、って。波留先輩のラケットは、私が考えていたよりずっとずっと、あなたにとって重い物になってしまったのね。ごめん、桂」
「お姉さま……」
桂の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。その時、きっとお姉さまだって傷ついたはずだった。それなのに、ごめんって。謝らなくてはならないのは桂のはずなのに。
「私が卒業しても、波留先輩のことを覚えている部員がいる以上、あなたはラケットを学校には持ってこられないでしょう。それじゃ、あなただけじゃなく波留先輩にも申し訳ないわ。だから」
だから、あえて。
「お姉さまのラケットを、瑞絵に……?」
「ええ。飾っておかないでちゃんと使ってね、って」
言いつけ通り、瑞絵はすぐに部活でラケットを使った。彼女にとってそのラケットは、さほど重い物ではなかったということだろう。
「でも、また誤解させて、桂にはつらい思いをさせたわね」
お姉さまは、桂の濡《ぬ》れた頬《ほお》を指で拭《ぬぐ》った。
「違います、これは」
桂は首を横に振った。
「お姉さまが大好きだって、そう思ったら出た涙で」
「そう」
お姉さまはほほえんで、今度は自分の頬に指を滑らせた。
「それじゃ私のこれは、桂が真っ直ぐに気持ちをぶつけてきてくれたのが嬉しくて出たものだわ」
お姉さまの濡れた手に自分の手を滑り込ませながら、桂は思った。
祐巳さん。
やって来たのは、自分が想像していたよりも「大したことのないこと」じゃなかったけれど、思い切ってぶつかってみてよかったよ。
思いがけない幸せが出てくることも、時にはあるものなんだね。
[#改ページ]
私とインタビュアー
何となく、嫌な感じがする。
具体的に何がどうと説明できないが、ここ二、三日、背中がどうにも落ち着かない。
何だろう、この誰かに見られているような、後をつけられているような、そんな気持ちは。
ただの気のせいか。それとも、悪い物でも取り憑《つ》いているのか。あまり続くようなら、お祓《はら》いとか、行ったほうがいいかもしれない。
「真美《まみ》、あなた何か感じない?」
築山《つきやま》三奈子《みなこ》は、たまたま廊下《ろうか》で出会った妹に聞いてみた。
「いいえ?」
真美は一度辺りを見回してから、軽く首をすくめた。
「人の気配《けはい》と言われるのなら、高等部の生徒はそこかしこ、それこそ山のようにいますけれど――」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ」
午前中の授業とホームルームが終わって間もなくの時間である。高等部校舎の廊下は、行き交う生徒の数が多かった。
「お風邪《かぜ》でもひかれたのではありませんか」
そう言って額《ひたい》にあてがわれた真美の手を、三奈子は「やめてよ」と振り払った。
「明日は卒業式ですからね。大事をとって、もうお帰りになられたらいかがです。それとも、少し保健室でお休みになられますか」
「病人扱いしないでちょうだい。私はすぐには帰らないし、保健室にもいきません」
「あら、何か用事でも?」
「……まあね」
その|……《てんてんてん》という間は何だ、と突っ込みを入れてもいいところだが、真美はどんな用事かまでは追及してこなかった。その代わりに。
「では、これを差し上げます」
「パン?」
差し出されたのは、薄い紙袋に入ったパン一個|也《なり》。
「今日の午後、部室で編集会議をひらく予定だったんです。それで今ミルクホールでパンを買ってきたんですけれど、急に中止になったので、よろしければどうぞ。それとも、お弁当を持ってこられましたか」
「持ってきてないわよ。それより、何で会議が中止になったの?」
「日出実《ひでみ》が急な歯痛で」
「何、甘やかしているのよ。あなたの妹でしょ。歯痛が何よ。気力があれば、会議くらい出られるでしょう」
「そうですね」
真美は右手で紙袋の口を摘《つま》んだまま、胸の前で腕組みをした。
「日出実だけなら、私もそのように言いますけれど。他にも二人、腹痛と頭痛の部員が出てしまいまして。それでやむなく」
他にも二人?
「仮病《けびょう》じゃないの」
「まあ、お姉さま。むやみに人を疑うものではありませんわ」
「……そうね」
ここはリリアン女学園。私たちは皆、天のお母さまであるマリア様の子供たち。仮病をつかう子も、根拠もなく人に疑いの目を向ける子も、いるはずないのだ。――ま、そういうことにしておきましょう、と三奈子は思った。
しかし、それが事実となると新聞部は病人だらけってことになる。保健室が必要なのは、三奈子より後輩たちのほうだったようだ。
「今日は各自自宅で休養をとり、明日の卒業式には万全を期して臨《のぞ》もうと、我がリリアン女学園高等部新聞部一同は――」
「はいはい。わかりました」
真美が言うことは大体が正論なので、三奈子は何だか聞くのが面倒《めんどう》くさくなって、差し出されたパンを受け取った。お財布を出そうとすると、「卒業祝いです」ときた。
「ありがとう」
軽く礼を言ってから、すぐに妹に背を向けた。卒業祝いがパン一個って。面白《おもしろ》すぎて涙が出そうになったから。
それで、真美《まみ》のくれたパンっていうのが、また涙が出るほど辛《から》い例のあれだった。
マスタード・タラモサラダ・サンド。
その強烈な個性ゆえに一般受けはしないが、どの時代にも必ず熱狂的固定ファンが少数いるので、パンの注文リストから名前が消されずに残っている息の長い商品である。仕入れの数が少ないとかで、ミルクホールのパンコーナーに並ぶことがほとんどないのに、店頭で売っていたとは珍《めずら》しい。今日は、クラス毎《ごと》に行っているパン注文がなかったからなのだろうか。
卒業式の会場準備のため、午後の授業がない。クラスメイトの半分くらいは帰って、残り組の三分の二くらいはどこぞに行ってしまい、教室にいるのはわずか数名である。二つのグループが、他のクラスの生徒を取り込んでプチパーティーのようなものを開いていた。
一人で昼食をとっている三奈子を見て一度「ご一緒にいかが」と声をかけてくれたが、丁重《ていちょう》に断った。ご厚意はありがたい。でも、仲よしグループのお別れ会に「その他」が参加なんてしたら、お邪魔したほうも迎えたほうも変な気を遣《つか》うに決まっている。一人のほうが気ままでいいのだ。
これって、前|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》の佐藤《さとう》聖《せい》さまが好きだったよなぁ。マスタード・タラモサラダ・サンドをかじりながら、三奈子はふと思い出す。
まったく、どうしちゃったんだろう。
もう一年も前に卒業した人の情報だ。頭の中から削除しちゃっていいはずだった。
今までほとんどかけたことのない、この先もかけるかどうかもわからない生徒の自宅の電話番号とか。
一部生徒の血液型。
誕生日。
制服のタイの結び目の特徴。
そんな、卒業したら使い道がなくなる情報を、三奈子は山ほど持っていた。
「用事、か」
真美にはそう言ってしまったが、本当のところ具体的に何かをしようという目的があって、残っているのではなかった。
何となく。
そう、何となく帰りがたくて学校にいる。
何もしなくてもいい。ただいたいのだ。
残っていたって、もう、リリアンかわら版を作ることはできない。なのに、気がつけば記事になりそうな話題を探している。目をひく見出しを考えている。キーボードを叩きたくて、指がうずうずしていることもある。
あんなに夢中になった学校新聞作りであっても、こうやってフェイドアウトして、ジ・エンドとなってしまうものなのだろう。明日はもう卒業式だし、卒業記念号に卒業生が卒業式のレポートを載せるなんて無理がある。
だけど、まあ、ただ残っているのもいいじゃないか。小さく笑って、パンの残りを頬張《ほおば》る。
(それにしても)
真美ったら、気の利かない。どうせなら、一緒にコーヒー牛乳でも買ってきてくれたらよかったのに。
「……いいけどね」
確かに癖になる味だし。
マスタード・タラモサラダ・サンドってやつは。
「三奈子《みなこ》さん」
腹ごなしにちょっと歩こうと廊下に出たら、そこに小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さんがいた。
まー、相も変わらず、麗《うるわ》しいお姿ですこと。長い黒髪はサラサラ。上質で形のいいパーツが絶妙な配置に納まったお顔。そこに存在しているだけで、にじみ出るような品の良さ。うっとりと聞き惚《ほ》れてしまう艶《つや》のある美声。
「お話ししたいことがあるのだけれど、いい?」
「な、何かしら」
平静を装いつつも、声が上ずってしまう。
心が沸きたつ。教室の前に立っていたということは、祥子さんがわざわざ会いに訪ねてきた、といっていいんじゃないだろうか。
いつも話を聞きたいのは、新聞部。追いかけているのも新聞部。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》である祥子さんは、日頃の取材攻勢に正直うんざりしているに違いなかった。
なのに、どうしたことか。祥子さんから「話がある」と接触してくるなんて。いったい何があったのか。
(何か……?)
そう、何かあったに違いない。
「ここではちょっと。もう少し、人のいない場所でないと――」
(話せない、と!?)
祥子さんがそこまで人目を気にするということは、もって来たのは重要機密事項なのかもしれない。
確か、以前にもこんなことがあった。一年半ほど前のことになるだろうか、その頃新聞部は祥子さんの妹候補と囁《ささや》かれていた福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さんを追いかけていた。
(まあね)
三奈子は、横目で祥子さんを見た。確かに、あれは多少乱暴な取材方法だったかもしれない。後から聞いた話によると、人からの注目を浴び慣れていない祐巳さんは、かなり弱っていたって話だったし。見かねたのだろう、ある日祥子さんはひょっこりと新聞部を訪ねてきて、自分が取材を受けるという条件をちらつかせ、その代わりに祐巳さんを追いかけ回さないことを三奈子に約束させて帰ったのだった。もちろん、後日紙面に載った祥子さんのインタビュー記事は、読者から大好評だった。
このパターンは、あの時とかなり似ている。これは、久々に大きな仕事が舞い込んできたのではないか。
祥子さんから接触してきたのだから、祥子さんだって今から話す事はリリアンかわら版の記事になってもいいと思っているに違いない。いや、むしろ記事にして欲しいのではないか。これは、うまくいけば後輩たちにいい置き土産《みやげ》ができそうだった。
(よしっ!)
胸の前で握り拳《こぶし》を作ると、祥子さんが「三奈子さん?」と訝《いぶか》しげに見つめている。
「あら、失礼」
いけない、いけない。お客さま放っぽって、自分の世界に入り込んでしまった。
「どこか静かで人気《ひとけ》のない場所でお話しできたら、と思うのだけれど。三奈子さんご存じないかしら」
「そうね……」
三奈子は教室を振り返った。たぶん、今日のこの時間、三年生の教室はすべて似たり寄ったりの状況だろう。だから却下。
廊下の窓から覗いたところ、中庭もそう多くはないけれど生徒の姿がちらほらあったからだめ。
図書館は静かだけれど、静かすぎてこちらの話し声が他にだだ漏れだ。
生徒同士が話をしたいからといって、生活指導室や進路指導室を貸してもらうわけにもいかない。
祥子さんの本拠地といっていい薔薇《ばら》の館には、放課後はだいたい誰かがいるものだし。それに、祥子さんがもって来たのは、もしかしたら「仲間内には知られたくない話」なのかもしれなかった。
どこか、と言ったわけだから、端から廊下で立ち話はパスということだろう。
他にどこか――、そう考えて三奈子はひらめいた。
「新聞部の部室はどう?」
「新聞部の、部室?」
祥子さんが聞き返す。
「でも、部員の方たちがいらっしゃるのではなくて?」
「それは大丈夫」
さっき真美が言っていた。予定してた会議は中止になった。歯痛や頭痛の人間が残っているわけはないし、元気な部員だって会議がないならさっさと帰るはずだった。
「薔薇の館に比べれば、かなり狭いけれど」
「いいえ。お邪魔するわ」
祥子さんが合意したので、二人はクラブハウスへと向かった。
「それが、どうしてこんな事になるのよ」
部室の椅子《いす》に座らされた三奈子《みなこ》は、目の前にいる二人の人間をにらみつけた。
「こんな事?」
二人のうち一人は、ここまで同道した祥子《さちこ》さん。
「最初に祥子が言ったんでしょ? お話ししたい、って」
もう一人は、ある意味祥子さんの相棒である支倉《はせくら》令《れい》さん。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》である。
紅《あか》と黄色の薔薇《ばら》さま二人は、部室の真ん中にある机を挟んで座っている三奈子を、余裕の表情で見据えている。通常、部屋の奥側は上座であろうが、お客人二人は頑《がん》として下座の席を譲《ゆず》らない。扉の前に陣取って、三奈子の逃亡を阻止しようというつもりなのだ。
「そりゃ、確かに祥子さんはそう言ってたけど。でも、令さんがここで待ちかまえているなんてことまでは、聞いてないわよ」
「あら、でも令が先回りしていない、とも言った覚えはないわ。二人で現れたら三奈子さんが警戒するだろうから、取りあえず一人で迎えに来た、それだけよ」
「迎えに、来た、ですって?」
じゃ、最初から新聞部の部室に乗り込んできて、その「お話」ってやつを聞かせようって腹だったわけか。
油断した。
祥子さんの神妙な顔つきに、コロッと三奈子は騙《だま》された。ああ、スクープ欲しさに目がくらんだ、己《おのれ》は何て浅はかだったのか。
しかし、まさか鍵がかかっていた部室に令さんが潜んでいて、中に入った瞬間両腕をつかまれて拘束《こうそく》されるなんて、誰が想像できただろう?
「真美《まみ》ーっ。そこにいるんでしょ。あんた二人の片棒担いだわね」
この悔しさを何かにぶつけなくちゃやってられないので、取りあえず祥子さんと令さんの間に見えている扉に向かって大声を出す。
令さんが職員室に行き、新聞部の部室の鍵を持ち出して勝手に中に入るのは難しい。これは手引きした者がいると考えるほうが自然だ。だとしたら、新聞部の鍵を取りに行っても不思議でない人物。令さまが部室に入ったら、また何食わぬ顔をして鍵を返しに行っても怪《あや》しまれない者、っていったら、もう新聞部内部の人間しかあり得ない。
「すみませんお姉さま。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》・|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》のご威光《いこう》の前には、私ももうただひれ伏すばかりで」
やっぱり。
扉の向こうから、弱々しい声が返ってくる。だが、一聴すまなそうに聞こえるその言葉も、よくよく聞いてみると歯の浮くようなセリフで、妙に芝居《しばい》くさい。絶対に面白《おもしろ》がっているに違いなかった。
なるほど、そう思って見れば、部室はいつもより少し、いや、かなりきれいにされていた。いつもは出しっぱなしの書類がきちんと棚に返されているし、パソコンやプリンタの位置も微妙に直されている。めったにしない掃除も、さっきやりましたとばかり。
振り返ってみれば、真美と廊下で話をしたから、三奈子だって新聞部の部室に来ようなどと考えたわけで、これは今さっき思いついた企《くわだ》てではなく、綿密《めんみつ》な計画のもとに実行された変事といっていいだろう。部員たちの歯痛も頭痛も腹痛も、嘘《うそ》八百だったに違いない。ああ、マリア様、未熟者の私たちをお許しください。
「あ、ちなみに日出実《ひでみ》が歯医者に行ったのは本当です」
察した真美の声が、扉を挟んで聞こえてくる。
「ふん、今更」
一つ本当のことが混じっていたからといって、何だというのだ。
こうなったら、もう観念するしかないのかもしれない。三奈子は開き直って、椅子にふんぞり返った。
「それで? これは何? 変種のお礼参りか何か?」
考えてみたら、祥子さんが新聞部に何か相談を持ちかけてくるなんて、普通だったら考えられない。むしろ卒業に際して、積年たまった思いをぶつけてくるほうが自然である。
「お礼参り、ですって?」
祥子さんは笑った。そしてどこに隠しておいたのか、小型のレコーダーを取りだして録音ボタンを押した。
「これから、築山《つきやま》三奈子さんの独占インタビューを行います」
「えっ!?」
彼女たちの言い分はこうだ。
この三年間というもの、築山三奈子には一方的に、時にはかなり乱暴な取材をされ続けた。このまま卒業してしまうのは、何だか釈然《しゃくぜん》としない。最後に一度くらいは立場を逆転したってよかろう、と。
「ちょっ、ちょっと待って」
「待ちませーん」
ごもっとも。言って待ってくれる相手なら、こんな強行手段に出たりはしない。
「インタビューに先駆けて、肩慣らしに、ここ数日のあなたの行動をいろいろチェックさせていただいたわ」
「何ですって?」
令さんが机に広げた取材メモもどきの紙切れを見ると、ここ何日かの三奈子の学校での様子が事細かく書かれていた。
登下校の時間、昼休みの過ごし方(どこで誰と何を食べたか)、教室以外で接触した人間――。
「わかったわ。あなたたちだったのね、私のこと見てたのは」
「尾行って、案外簡単なものね。全然気づかれなかったわ」
「気づいていたわよ。嫌な感じしていたわよ」
「それでも、それが私たちだってところまでは突き止められなかったじゃない、三奈子さん」
「視線感じて振り向いたって、そこに同じ制服着た人間がうじゃうじゃいたんじゃ、その中から探し出せるわけないでしょ」
とはいえ、慎重に観察していたら、そのうじゃうじゃの中に祥子さんなり令さんなりの姿があったわけだ。それも何だか悔《くや》しかった。
「築山三奈子さんの、高校三年間で一番興味深かった思い出は何ですか」
「はあっ?」
話題変えるの早くないか、祥子さん。
「えっとですね――」
「卒業後の進路をお聞かせください。できましたら、将来の展望なども併《あわ》せてどうぞ」
令さんは、一つの質問に対する回答が終わったら次の質問をしてください。
「座右《ざゆう》の銘《めい》は?」
「好きな教科は?」
「リリアン女学園への思いを一言」
二人は代わりばんこに、用意してきたいくつかの質問を三奈子にぶつけてきた。どれもありがちで退屈な内容だった。つまらない取材。これも含めて、彼女たちの嫌がらせだろうか。
「ねえ」
三奈子は口を開いた。
「面白くないでしょ。私にそんなこと答えさせたって」
「そうね」
祥子さんはうなずいて、レコーダーの停止スイッチを押した。
「えっ」
まさか本当に止めるとは思わなかったので、三奈子は唖然《あぜん》とした。
「い、いいの?」
「取材っていうのは建前」
令さんが笑った。
「建前……」
「こうでもしないと、あなたとゆっくりおしゃべりもできないでしょ」
言いながら令さんはその場で屈《かが》んで、床に置いてあった手提げ袋の中から何かを取りだした。祥子さんがレコーダーを片づけた後に机の上に置かれたのは、紙パックのコーヒー牛乳三本だった。
「これを飲み終わるまでの時間でいいから、私たちの雑談につき合ってよ」
「よくわからないんだけど」
雑談って。何でここで雑談なんだ。この人たちは私と雑談なんてしたいわけ? 三奈子の頭の中は、グルグル回って混乱した。その様子を眺めながら、祥子さんが笑った。
「いつだったか、祐巳《ゆみ》が言っていたの。取材しようって構えていない時の三奈子さんって、いいんですって」
「いい?」
何かまた、わからないことを上乗せしてくるんだから。
「よくは知らないけれど、三奈子さんの話はあの子にとってためになったみたいよ」
「まさか」
「あら、私の妹は嘘を言うような子じゃありません」
祥子さんは微笑した。ここは笑うところか。いや、たぶん違う。祥子さんは大真面目《おおまじめ》なのである。
いったいいつから、こんな風《ふう》に恥ずかしげもなく、のろけともとれる妹自慢をするような人になったのだろう。少なくとも高等部入学当時は、気むずかしくてとんがっていて、笑顔なんてなかなか見せない人だった。変われば変わるものである。
「私がためになる話をしたんじゃなくて、私のどうってことない話からでも、教訓を導き出せちゃう才能がおありなんでしょ。お宅の妹さん」
三奈子は代金をそこにおいてから、紙パックにストローを突きさしてゴクゴク飲んだ。薔薇さま二人がそうまでしておしゃべりしたいと言うなら、これ一本分くらいつき合ってあげなくもない。
「また、可愛《かわい》くないんだから」
「ま、そこが三奈子さんらしいところね」
令さんと祥子さんも、コーヒー牛乳に手を伸ばした。
「妹さんたちといえば」
ふと思い出して、三奈子は話題を振ってみた。
「祐巳さん、由乃《よしの》さん、志摩子《しまこ》さん三人|揃《そろ》って、ホワイトデーのお返しに可愛らしい物を作っていたみたいだけど?」
雑談なのだから、お題は何でもいいのだろう。
「まあ、相変わらずの早耳ね」
そりゃそうだ。新聞作りを引退したとはいえ、情報収集アンテナは未《いま》だ鈍《にぶ》っていないつもりである。
「それがね。あの子たち、でき上がった次の日に配っちゃったらしいわよ。ホワイトデーを待たないで」
「卒業式が近づくとバタバタするし、時間割通りに授業も行われなかったりすると、教室を訪ねても会えない可能性があるから。――っていうのは名目で」
「巾着《きんちゃく》だっけ? できたから、すぐに渡したくなったに決まっているわ」
ねー、とお姉さま方は顔を見合わせて言った。
「でも、その気持ちわからないでもないな」
三奈子はつぶやいた。例えば二号先のリリアンかわら版に載せるために取材したことがあったとして、その原稿を早く書き終えてしまったら、予定を変えて次の号に載せたくなる。それと同じだ。
「ということは、あの子たちは、ホワイトデーを待たないで、じゃなくて、待てないで、だったわけね」
三人はどっと笑った。
「祥子さんや令さんには? ないの? 手作り巾着」
質問すると、二人からは即座に「ないわよ」と返ってきた。
「そう。それってどんな気持ち?」
もうちょっと突っ込んで聞いてみたい気がした。駄目でもともと、そう思っていたのに、案外気軽に答えてくれるものだった。
「残念なような、これでいいような。複雑な気分ね」
「由乃が一生懸命作った物なら、欲しいような気もするけれど。他の人と一緒にされたら嫌、みたいな。あら、三奈子さんは何を笑っているの?」
「え?」
話を聞きながら笑っていたなんて、三奈子自身も気づかなかった。でも、確かに笑っていたかもしれない。取材だって身構えていない祥子さんと令さんの本音を聞けて、素顔を見ることができて、ちょっと愉快になっていたのだ。
「雑談って、意外にいいものだと思って」
今ここで耳にした話をリリアンかわら版に載せたなら、たぶん読者には喜ばれるだろう。でも、仕方ない。これは雑談なのだ。友達が気を許して話してくれたことを記事にするなんて、そりゃ野暮《やぼ》ってもんだから。
三十分くらい部室でおしゃべりして、二人の薔薇さまは帰っていった。
「楽しかったわ」
「またね」
そんな言葉を残して。
見送りながら三奈子は、さっきからずっと心に浮かんだ疑問を口に出せずにいた。
(ねえ。どうして、雑談する場所に新聞部の部室を選んでくれたの?)
聞かずとも、大体の見当はついているのだ。
彼女たちは、三奈子の行動をチェックしていた。だから日に何度もクラブハウスの前を歩いて、結局中に入らずに帰っていたことだって当然知っていたはずだった。
祥子さんと令さんは、三奈子の気持ちをわかっていた。
二人がわかっていたことを、三奈子もわかっていた。
だから、それは言わぬが花。
それが粋《いき》っていうものだ。
[#改ページ]
卒業集合写真
そろそろ時間かな、と写真部の部室を出た時、クラブハウスの廊下で支倉《はせくら》令《れい》さまと山口《やまぐち》真美《まみ》さんに出会った。
「おっ」
蔦子《つたこ》はまず、最初に目が合った真美さんに挨拶《あいさつ》にしては短い声をかけて、それから令さまに「ごきげんよう」と頭を下げた。その差っていうのは何かというと、真美さんはクラスメイトでついさっきまで一緒の教室にいた仲であり、令さまは一学年上の先輩なのである。
「珍《めずら》しい取り合わせで」
いつもの癖《くせ》で、いい被写体に会うとつい無意識にカメラを向ける。この二人の共通点って、何かあっただろうか。
真美さんはお隣の部室を使っている新聞部に所属しているから、クラブハウスの中でもしょっちゅう見かけるけれど、剣道部の令さまは明らかにテリトリー外の人間だ。
「ふふふ」
二人が仲よくピースサインで応《こた》えてくれたので、蔦子は遠慮なくシャッターを切った。
「これから何かあるんですか」
角度を変えてもう一ポーズ。
「あるの」
令さまと真美さんは顔を見合わせてから、悪戯《いたずら》っぽく「ねー」と笑った。
「あ、でもこのこと三奈子《みなこ》さんには内緒《ないしょ》ね」
唇《くちびる》に人差し指を立てる令さま。
このこと、とは、令さまが新聞部の部室に入ろうとしていることだろう。三奈子さまは、真美さんのお姉さまだ。
つまり、令さまと真美さんが手を組んで、三奈子さまにドッキリでも仕掛ける気なんじゃないか。いや、何も仕掛け人が二人とは限らない。令さまの妹である由乃《よしの》さんとかも、一枚|噛《か》んでいる可能性はある。
「一応外から鍵をかけておきますけれど、内側からも開きます」
「うん、わかった」
令さまは部室の中に、真美さんは廊下に立って打ち合わせを始めた。
「ちょっと暗いですけれど、部屋の灯《あか》りは消しておいてくださいね。その窓、場所によっては外から見えますから」
[#挿絵(img/32_063.jpg)入る]
「OK」
どうやら、無人であるはずの部室に令さまが隠れている、というシチュエーションを作り出すのが、真美さんに与えられた任務であるようだった。
ちょっと聞きかじってしまった上は、事の成り行きはかなり気になる。隣の部室に籠《こ》もり、壁にひっついて聞き耳をたてるという手に出たいところだが、生憎《あいにく》蔦子にはこれから約束があった。後ろ髪は引かれるが、仕方ない。
「首尾よく成ったら、後で教えてね」
真美さんに囁《ささや》いて、クラブハウスを出た。
「さて。こちらはどうなりますことやら」
これから、写真部の先輩部員の「卒業集合写真」を撮りにいくのだ。
写真部恒例の卒業生集合写真。
それを撮る役に指名されることは、すなわち写真部の三年生たちが腕を認めた人間であるという意味で、在校部員にとってこの上もなく名誉なことである。
――が、それは表向きのことで、内情は卒業していく先輩の最後の我がままを聞かなければならない試練、そう言い換えてもよかった。
掟《おきて》があるのだ。
写真撮影に指名された者は、撮られる側からの注文通りに撮らなければならない。どんな無理難題を出されようとも、「あなたならできるでしょう」というわけだ。ある意味、誉め殺しである。そんな殺伐《さつばつ》としたイベントでありながら、出来上がった写真は、例外なく毎年とてもいい物であり、さすがは写真部と評価が高いのだった。
それもまた、プレッシャーなのである。
(特に、私は先輩たちには嫌われているからなぁ)
だから、半分くらいは、別の部員がカメラマンに指名されるんじゃないかと思っていた。技術はあっても、嫌いな相手には撮られたくないだろう、と。
しかし、白羽《しらは》の矢は自分に立った。ならば、こちらも逃げずに真っ向勝負しなければならない。
(とはいえ)
何をしろと言われることか。予想がつかないだけに、対策すらたてられない。
ちなみに去年は、全員が心から笑った瞬間を撮るように命じられたらしい。撮影者はとっさに小話をいくつか披露《ひろう》したが、ちらほらとこぼれる笑いは百パーセントに達することはなかった。三十分、四十分と時間ばかり経っていく。それでも先輩たちは笑ってくれない。ついに彼女は泣いてしまった。その瞬間、三年生たちは一斉に笑った、――という。
噂《うわさ》だ。ただの、噂。撮られる側の人間は卒業してしまい、撮った人間はその時のことをあまり語りたがらない。
けれど、少なくとも去年撮った先輩が、今年は撮られる側に回っていることだけは確かだった。まさか去年と同じお題を出されることはないだろうが、目薬くらいは持ってくればよかったかもしれない。
約束の場所は中庭だ。
他の部員が立ち会うことは許されていない。だから、先輩たちから「武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》の子分」と目されている笙子《しょうこ》ちゃんにさえ、いつどこで撮影会が行われるかは内緒《ないしょ》だった。言ったら、気になって絶対に見にきてしまうだろうから。
三年生はすでに来ていた。
全部で七人。
うわ、半年ぶりくらいに見る顔もある。
「時間にピッタリね」
蔦子の姿を確認すると、一人がニヤリと笑った。
「はあ。遅刻は論外、早くも来るな、と言われましたので」
「あら、そうだったかしら」
「……」
撮影とは関係ないことで叱られるのは面白《おもしろ》くない。だから、時計とにらめっこしながら来たのである。約束の二時ちょうどに着けるよう、途中歩幅を調整しながら歩いたりもした。それを、そうですか。「そうだったかしら」の一言で片づけてしまうわけですね。
だからといって、自分たちが言ったことを本当に忘れてしまっていたかというと、そんなことはないのである。時間が少しでもずれたりしようものなら、「なぜ言う通りの時間に来ない」と文句が出たはず。まったく、厄介《やっかい》なものだ。
「さて。ちゃっちゃと済ませてしまいましょう」
その言葉が合図だったのか、三年生たちは各々《おのおの》動いて集合写真を撮る体勢を素速く作り出した。前列三人がしゃがみ、後列の四人が三人の間に並ぶ。
かなりリハーサルをしたようである。これは手強そうだ、と蔦子は思った。
「どのようにお撮りしますか」
とにかく、先方の意向を聞いてみなければ始まらない。
「簡単よ」
後列の、向かって右端にいた先輩が答えた。
「そこに立って、カメラを構えたら私の号令に合わせてシャッターを一回切る。それだけ」
彼女は、写真部の元部長である。
「ここに立って、カメラを構えて、先輩の号令に合わせて、シャッターを一回切る」
確認のために、蔦子は今聞いた言葉を繰り返した。
「そう」
そう、って。
それのどこが簡単なんだ。
ここに立ってカメラを構えるのも、シャッターを切るのも、もちろん蔦子には難しい仕事ではない。問題は、「先輩の号令に合わせて」と「一回」という部分だった。
わざわざそこに一回という文言《もんごん》を入れたからには、シャッターを押していいのは一度きりということだ。それだけなら、できないこともない。たった一度のシャッターチャンスを生かした写真を、これまで山ほど撮ってきた。しかし、撮るタイミングまでも指示されたらどうだろう。
物理的には至極《しごく》簡単、小学生にだってできることである。けれど、ただ号令に従ってシャッターを一回押して、それで自分自身が満足できる写真を撮れるものだろうか。
「一回、ですよね」
念のためにもう一度聞いてみると、七人全員が大きくうなずいた。
「そう。私たちは忙しいの」
嘘《うそ》つけ。
先日部室で、みんな卒業後の進路も決まって暇《ひま》を持てあましていると言っていたじゃないですか。今日だって蔦子が来る三十分前には集合して、綿密な打ち合わせのもと、リハーサルを重ねたはずでしょうに。
だが、蔦子は喉《のど》もとまで出かかった言葉を全部飲み込んだ。言ったところで、こちらの得になることは何一つないのだ。
「できないわけないわよね。写真部のエースが」
前列中央がクスリと笑った。エースだなんて、思ってやしないくせに。
「期待しているわ。よろしくね」
いっそ、三脚の上にカメラをのせて、タイマーかリモコンにシャッターを押させたらいいのに。
(ああそうか)
そういうことか。名誉な仕事と持ち上げられて、結局は機械でもできる仕事しかさせてもらえないというわけか。
「何をグズグズしているの。蔦子ちゃんがカメラを構えなくても、カウントダウン始めるからね」
そう言われて、渋々《しぶしぶ》カメラを顔の前に持ってくる。どんなに厳しい条件でも、写真部の卒業集合写真は撮らせていただかなければ[#「撮らせていただかなければ」に傍点]ならない。それが伝統だった。
七人は一度|襟《えり》もとやスカートのひだを直してから、にこやかな表情でカメラのレンズを見つめた。首を傾《かし》げる様子もなければ、両手とも下ろしたきりで、特にポーズなどをとろうとはしない。まあ、ピースサインなんか出されるよりいいか。
「それじゃ、ゼロで撮ってね」
五秒前から、カウントダウンは始まった。
「四、……三」
さあ、勝負だ。蔦子は大きく息を吸った。
――が。
二がカウントされた時、先輩たちが全員小さく動いた。
「えっ」
蔦子は動揺したが、ゼロでシャッターを押すという使命がある以上、おいそれとはカメラを放せない。
「一」
その瞬間、被写体たるべく並んでいた七人全員が、カメラを構えてこっちを見ていた。
「ゼロ」
蔦子はシャッターを押した。
その瞬間、響《ひび》き渡った音は。
カシャッ、カシャッ、カシャッ、カシャッ、カシャッ、カシャッ、カシャッ、カシャッ。――全部で八つ。
「……やられた」
カメラを下ろして、蔦子は膝《ひざ》をついた。
「そうならそうと言ってくださいよ」
カメラを構えた集合写真がご所望ならば、いかようにでも凝った写真にできたのに。それをカメラマンに内緒で実行しようと、カメラを背中に回したり、ポケットに入れたりして隠していたなんて。
「だって事前に蔦子ちゃんが知っていたら、ここまで緊迫感のある写真は撮れなかったでしょ」
列を崩《くず》して、元部長が近づいてきた。
「まあ、そうですけれど」
確かに、緊迫感と言われたらその通りだから、蔦子は何も言い返せない。
「いい写真が撮れたと思うけど?」
「……ええ」
現像してみなくても、良し悪《あ》しって意外にわかるものだ。今年度の、写真部の卒業写真はいい出来だ。去年までの写真に、まったく引けを取らないくらいに。
「じゃあ、学園祭に八枚並べて飾ってね」
「八枚?」
蔦子は首を傾げた。ご命令通り、一回きりしかシャッターを押していませんが。
「――って、あ」
確かに、シャッターを切ったのは一回だけ。しかし、カメラは全部で八台あった。シャッター音も、八回。
「まさか」
先輩たちが一斉に撮った蔦子の姿も一緒に展示しろ、と?
「その通り」
元部長はじめ、七人がニヤリと笑った。
「えーっ」
もう、最悪である。武嶋蔦子は写真を撮られるのが苦手だって知っているくせに、晒《さら》し者にしようというわけか。
「まさか、笙子ちゃんに撮られた写真は発表できて、私たちのはだめだなんてこと」
「ないわよねー?」
先輩たちは口々に言って笑う。結局、そこまでが込みの卒業集合写真撮影会であったということだ。たかだか二年生の後輩一人相手に、何と手が込んでいることをしてくれたものだ。
「私たち卒業生と武嶋蔦子とのコラボよ。どう?」
元部長が、うなだれた蔦子の肩をポンポンと叩いた。
「どう、って言われましても」
嫌だと言えば、ますます先輩たちを喜ばせてしまうことは明らかだった。かといって、嘘でも「嬉しいです」なんて言える気分じゃない。
とにかく、今の気分を一言で言い表すとしたら。
「ギャフン」
――です。
[#改ページ]
菓子パンの宴
菓子パンの宴《うたげ》をひらこうと言い出したのは、どちらからだったろう。
美礼《みのり》先輩だったか、それとも自分か――。藻音《あやね》は、スケッチブックに鉛筆を走らせながら考えていた。
たぶん、どちらからともなく。
どちらからともなく、そんな提案が持ち上がり、すぐに採用になった。なぜって、探していたからだ。二人とも、二人で過ごすための口実を。
卒業式を明日に控えた、午後二時の美術室。
先週まで壁一面に掛けられていた、授業で描かれた油絵の作品のほとんどは返却されていたものの、相変わらず棚から出しっぱなしの石膏《せっこう》像や、静物画のための水差し、ひからびたドライフラワーなどが、隅《すみ》に寄せられた机の上に無造作に置いてある。床には誰かが落としていったのだろう、まだ十センチほどの長さが残った細い木炭が転がっていた。
美術室に入ってすぐは、油絵の具の匂いとか、何かの薄め液とか定着液とか糊《のり》とかが混じり合ったような匂いなんかを意識するけれど、しばらくいるとすぐに慣れてしまう。トイレの匂いと一緒よ、とは美礼先輩のお言葉であるが、それはあまり賛同できない。
一週間くらい前だったか、美術部のお別れ会があった。放課後、顧問の先生が近所の喫茶店でケーキセットを部員全員分注文してくれて、ここで食べた。出前のケーキって、生まれて初めて食べたけれど、やはり油絵の具|臭《くさ》かった(ちなみに、去年のお別れ会のラーメンはあまり匂いの影響は受けなかった)。
だから、お別れ会はとっくに済んでいた。三年生はみんな、部室代わりに使っていた美術室とか準備室とかに置きっぱなしにしておいた私物をすでに持ち帰っている。事実上さようならの儀式は終わっているわけなんだけれど、藻音は何かまだ終わっていない気がしていた。
美礼先輩に、まだちゃんと「さようなら」を言えていない。そういう思いがどこかにあった。
だから、卒業式の前日が半ドンになると知った時、二人きりで菓子パンの宴をひらくアイディアが出た時は渡りに船って感じだった。――ああ、何て素敵って。お互いに、まだ離れがたくていたのだと思う。
部活がある日は言うに及ばず、ない日だって、放課後二人はよく美術室に来て好き勝手な絵を描いていた。
パンの耳もよく食べた。木炭デッサンでは、消しゴム代わりに食パンの白い部分を使うため、耳の部分は必ず残る。もったいないから、胃袋の中に入れてしまうのだ。
そうだ、だから一度くらいは余り物ではなくてちゃんとしたパンを食べようって話がまとまって、それで本日の菓子パンの宴が催される運びとあいなった。
生憎《あいにく》今日はクラス単位のパン当番がなかったので、事前に注文はできない。売り切れていたら大変だ。ホームルームと掃除が終わったらすぐにミルクホールに駆けつける手はずだったけれど、「明日は卒業式だから念入りに」なんてはりきって掃除をする人なんかいて、なかなか解放してもらえなかった。
美礼先輩との約束で、パンは早く来たほうが買っておくことになっていた。待ち合わせの場所である紙パック飲料の自動販売機前にその姿がなかったから、パンコーナーに走って、とにかく目の前にあったパンを四つ掴んで会計をした。お釣りをもらった時に、誰かがチョンチョンと肩を突いた。
「これ、どうしよう」
振り返ったら、美礼先輩も一足先に買い終わったパン六つを抱えて苦笑していた。
「三回ほど呼んだんだけど。気づかなかった?」
聞けば、あまりにすごい形相《ぎょうそう》でパンを漁《あさ》っていたので、四回呼ぶのは諦めたらしい。小柄な先輩は、人混みの中では埋もれてしまうのであった。
というわけで、現在、六つの菓子パンが目の前の机の上にある。
四つは、すでにおいしく食べた。
それにしても、十個中同じパンが一組しか被《かぶ》っていなかったのはブラボーである。味覚もさることながら、色とりどりの菓子パンのパッケージ、及び本体は、机に並べてみると視覚的にも美しかった。
美術部で二人してパンを食べることだけが目的ではなかったので、お腹がいっぱいになったからといって解散する気にはなれない。
「せっかくだから、パンの絵描こうか」
美礼先輩は棚からスケッチブックを二冊出して、表紙に『AYANE』と書かれた一冊を藻音に差し出した。
「あれ? 先輩、まだスケッチブックを持ち帰ってなかったんですか」
「うん」
先輩が自分の椅子の上に置いたスケッチブックには、表紙に『みのり』の文字が見えた。
「何か全部持って帰ったら、ここに来ちゃいけなくなるみたいで、さ。あえて置いておいたわけだ」
「ふうん」
何となく、気持ちはわかった。藻音と一緒で、たぶんまだ先輩の部活も終わってはいなかったのだ。
「だから、今日持って帰るよ」
その時、本当に最後なんだな、と思った。でも、きっと今日こそ最後にするのが相応《ふさわ》しい日だったのだ。
「悪いけど、藻音ちゃんの鉛筆一本貸して」
スケッチブックだけ残しておいた先輩には、デッサン用の鉛筆がない。
「いいですよ」
うなずいて、棚から鉛筆が十五本ほど入った『AYANE』のプラスティックのケースを取り出す。蓋《ふた》を開いて「どれでもどうぞ」と差し出すと、美礼先輩は「どれでもいいんだけどな」と言いながら選りもしないで2Bの鉛筆を取った。
「それだけじゃだめでしょ」
藻音はついでに練り消しゴムも半分に千切って、ポンと先輩に投げてやった。
そうそう。
こんなにパンがあるのに、食パンは一枚もないから、今日は木炭デッサンをできないのである。
そうして二人は、菓子パンを載せた机を挟んで向かい合い、鉛筆デッサンを始めた。
お腹が空いたら、目の前のパンを勝手に食べていいルール。向かい合っているから互いの絵の進捗《しんちょく》状況はわからない。だから、故意にではなくても自分が現在進行形で描いているパンを食べられてしまう可能性は多分にあるし、逆ももちろんあり得る、かなりスリリングなゲームとも言えた。
「そういえば」
美礼《みのり》先輩が、手を伸ばしてパンを取った。
「あっ」
思わず、声をあげてしまう藻音《あやね》は修業が足りない。
「もしかしてビンゴだった?」
「いえ、別に」
何が別に、だ。本当は、大当たりなのだ。そのクリームパンのデッサンは、今まさに大詰めというところだった。
でも、シャクだから言わない。袋を開けて一口食べられた物を机に戻されても、どうしようもない。
「ふふふ。藻音ちゃんは、ババ抜きが苦手っぽいわね」
その上、完全にばれているし。ならばコソコソすることはない。スケッチブックを堂々とめくって、新しい紙を出した。パンはまだ四個残っている。また一からやり直すだけだ。
美礼先輩は、たぶんトランプの『ババ抜き』が得意なのだろう。藻音がパンを取っても、眉《まゆ》一つ動かさない。試しにフェイントで手をいろんなパンにかざしてみたが、同じだった。かといって、もう書き上がったというわけでもなさそうだった。スケッチブックの向こう側では、シャッシャッという音とともに鉛筆が動いている。ペタペタ、シュッと練り消しゴムを使っている気配もある。
「何が、そういえば、なんですか」
悔しいので、話題を変えた。
「え?」
「さっきそう言いましたよ。パンを取りながら」
「そうだっけ? えーっと何だろう」
もう忘れている。『神経衰弱』のほうは不得意なんじゃないかな、美礼先輩。肩が凝ったのか、一つ伸びをしてから椅子を立った。
「あ、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》が中庭を走ってる」
ほらほら、と手招きされたから、美礼先輩の側まで歩いていって、窓から下を覗《のぞ》いた。本当のところ、わざわざ見にいくほどの興味はない。なぜなら| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》の福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さんは同じ学年で、しょっちゅう廊下とかで見かけるから、藻音にはそれほど珍《めずら》しくないのだ。
「どこに向かっているのか賭《か》けようか」
「えー」
暇だなぁ、と一瞬|呆《あき》れたけれど、そもそも忙しかったらここでパンのデッサンなんてしていない。そんなのどうだっていいのにな、と思いつつ、「せーの」とかけ声がかかったのでとにかく思いついた場所を言ってみる。
「ミルクホール」
「ミルクホール。えっ同じ? 何で?」
何でって。だいたい、ターゲットが走っている方角で見当はつくでしょうが。それに、さっきミルクホールに行った時、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》がいたから、待ち合わせしているのかもしれないし。
「じゃ、仕方ない。私は古い温室にするか」
「で、答えはどうやって確かめるんですか」
決めたはいいが、事前に正解の紙を祐巳さんから提出されているわけではないので、答え合わせができない。おーい祐巳さん、って叫ぼうにも、もうここから声が届く距離にはいないのだった。
「そうね。じゃ、負けたほうが罰ゲームで直接祐巳さんに聞きに行く、っていうのどう?」
美礼先輩は、グッドアイディアとばかりに人差し指を立てた。
「……だから、その負けをどうやって決めるんですか」
「あ」
そこでやっと気づいたようで、美礼先輩はお腹を抱えて「やーね」と笑った。どうやらマジ惚《ぼ》けだったらしい。結局賭ける物っていってもここにあるパンくらいなものだから、この賭はお流れになった。
「祐巳さんってさ。去年一人で看板持ってったよね」
窓の外を眺めながら、美礼先輩がつぶやく。たぶん、『三年生を送る会』の時のことを言っているのだろう。今年と同じく美術部が看板を描いて、それを、人手が足りなかったのか祐巳さんが一人で取りに来た。
「あの時、がんばってるなって思ったんだけど。近頃は違うよね」
ちょっと大変そうだったから手伝おうかって声をかけたと思うけれど、断られたんじゃなかったかな。何か、頑《かたく》なな感じがした。
「がんばっているな、って思わせないで、ちゃんと仕事をしている。無理もしない。だから安心して見ていられる」
確かに、今の祐巳さんだったら「じゃ手伝ってもらおうかな」くらい言いそうだ。あれ、今年はどうしたんだっけ。そうそう、納品の日を延ばしてもらったお返しに、看板は美術部が薔薇の館まで届けたのだった。
「藻音ちゃんもそんな感じ」
「え?」
何ですって、と聞き返そうにも「それだけ」って締められちゃったら、しつこくできない。
「だから、私は藻音ちゃんに会いたくなって、予備校に通いながらも、時々ここに来てたんだな」
小さく笑う美礼先輩の顔を見ていたら、涙腺《るいせん》がゆるみそうになったので、藻音はただ「私も」とつぶやくのが精一杯だった。
私も、先輩に会いたくて、部活がない日も一人でここで絵を描いていたんです、って。以前みたいに、ただ絵を描くのが楽しいだけで二人で残っていた日々は戻らなくても、ただふらりと美礼先輩が姿を現して一言二言何か言って帰っていく、その瞬間のためだけに美術室にいた時だってありました、って。
言葉に出さなくたって、たぶん通じていたと思う。美礼先輩は手を伸ばして、自分よりずいぶんと身長が高い藻音の頭を、そっといい子いい子していった。
「あ、そうだ。鉛筆だ」
と、突然美礼先輩が言った。
「鉛筆?」
なぜ、ここで鉛筆が出てくるの? って藻音は首を傾《かし》げた。
「ほら、さっき言ってたじゃない。そういえば、って、あれ」
今更、って感じの時差攻撃であるが、思い出したというのだからとにかく聞きましょうという体勢をとって待つ。
「最初に鉛筆デッサンした時、藻音ちゃんカッターで鉛筆を削れなかったじゃない」
「うっ」
思い出話はいいとしても、今更、古傷、えぐりますか。それも、ちょっとしんみりしてきた時に。
「でさ、私の一学年上の先輩たちに笑われて、それで次の部活では簡易鉛筆削りを持ってきたんだよね」
「……差し込んでクルクル回すの」
一辺二センチくらいの直方体に、鉛筆が入る穴が開いているやつだ。中が逆|円錐《えんすい》形になった穴の一部に刃が取りつけられていて、鉛筆を押し回すとかんな屑《くず》みたいな削りカスが横からニョロニョロと出てきて削れる構造だった。
「最初はカッターで削れない子もそりゃいるけど、鉛筆削り持ってきた子は初めて見たって、先輩たちまた大ウケで」
「それでいいわって言われたけれど、鉛筆削りじゃ思ったように芯を細く尖《とが》らせることができないんだって、描いているうちにわかって。ああ、これじゃだめなんだな、って」
「そうね」
「そうしたら、先輩たちが削ってくれましたよね」
「でも、すぐに削り方を覚えたじゃない」
「特訓しましたからね」
鉛筆はもったいないから、代わりに割り箸《はし》を使って。親指でカッターの背中を押し出す時の、角度と力加減のコツを掴むまでが難しかった。
「そうだ。その特訓、美礼先輩がつき合ってくれたんでした」
「そうお?」
覚えてないな、と先輩は首を傾げた。『神経衰弱』が苦手な先輩。でも、もしかしたら照れ屋さんで、わざと忘れたふりをしているのかもしれない。
「でも、いつの間にかこんなに上手に削れるようになったのね」
そう言って、2Bの鉛筆を目の前にかざした。
「せっかくだから、絵を仕上げちゃおうかな」
美礼先輩が作業を再開したので、藻音も着席した。
もうお腹がいっぱいになったのか、先輩は藻音が描いているパンを食べたりしなかった。だから、もうすぐこの絵は完成するのだろう。
パンが残ってしまっても、パンがなくなってしまっても、いずれこの時間は終わりを迎えるから。一枚くらいちゃんと記念に描き上げておこう。
鉛筆の音に被って、時折二人は言葉を交わした。無理には会話を続けない。そこにいるということはわかっている。
「できた?」
藻音が鉛筆を置くと、美礼先輩がほほえんでこちらを見ていた。ラストスパートは夢中だったから、すでに先輩が描き終えて待ってくれていたことさえ気づかなかった。
「それとこれ、取りかえっこしない?」
「いいですよ」
見せ合いっこしましょう、という意味かと思って、スケッチブックを差し出そうとすると「そうじゃなくって」と言われた。
「藻音ちゃんの絵を、記念に欲しいの。代わりに私の絵を持っていてもらいたいし」
「あの」
そりゃ、願ってもないお申し出であるが、ちょっと待て。
「有名美大にストレートで合格した先輩の絵と私の絵との物々交換なんて、レベルが違いすぎて取引が成立するわけもなく――」
こっちの一枚とそっちの一枚。同じ紙でも、一米ドル紙幣と千円札は取り替えないでしょう普通、って話だ。
「何グチャグチャ言ってるの。不足なら、ここに残ってるパンを全部つけるわよ」
「いや、そうじゃなくて。おまけをつけなきゃならないとしたら、それはむしろこちらのほうってことを」
言いながら、藻音は思った。おまけって、何だ。
「絵の価値なんてさぁ、技術の上手下手じゃなくて、究極のところどれだけ欲しがられているか、ってことじゃないの?」
「えっ、まあ……」
確かにそうだ。有名な画家の中には、デッサン力があまりない人もいる。逆に、写真みたいに上手に描けても、無名のまま終わった人だっていたはずである。無名だから、誰だって名前はあげられないけど。
「じゃ、先輩は私の絵を欲しいんですか」
「さっきからそう言っているじゃない」
藻音はただ、描くのが好きだから絵を描いている。それだけだった。だから、それを欲しいと言ってくれる人がいるなんて、まさに青天の霹靂《へきれき》。今までの価値観がガラリと変わる出来事だった。
「そういうことなら、是非《ぜひ》もらってください。お代はいりません」
藻音はスケッチブックを一枚ビリビリビリビリと破って、先輩に献上した。できあがったばかりの、ほくほくのパンの絵だ。
「おいしそうね」
美礼先輩は、うれしそうにそう言ってくれた。上手ね、と言われるより、よっぽど嬉しかった。
「あの、先輩?」
ただででも自分の絵をもらって欲しいとは思ったが、くれるというのなら美礼先輩の絵をいただきたい。なので、前言|撤回《てっかい》で「ください」と両手を出した。
「いいわ。ただし、おいしそうな絵じゃないわよ」
「は?」
よくわからないが、うなずいた。どんなできであろうと、美礼先輩の絵が欲しいことには変わらない。とにかく、見せてもらわないことには。
ビリビリビリビリ。
「はい、どうぞ」
差し出されたそれを見て、藻音は目を疑った。
「……え?」
「むしろ、おいしそう、だったりして」
そう言って笑う美礼先輩。
そこにあったのは、菓子パンなどではなかった。
藻音の真剣な顔が、鉛筆でモノクロームに描かれていた。
[#改ページ]
支えとスキンシップ
毎年恒例らしい『薔薇《ばら》の館の三年生の忘れ物捜索』が行われたのは、卒業式の前日のことだった。
らしい、とわざわざ断ったのは、去年の捜索活動には参加していなかったから。乃梨子《のりこ》は現在一年生。話は、だいたいお姉さまたちから聞いた。
「さて」
「そろそろ始めますか」
「そうね」
職員室に行っていたとかで、ちょっと遅れてやって来た二年生三人が、お弁当を食べ終わって立ち上がる。
薔薇の館の二階。午後二時。
先輩三人がぞろぞろと移動を始めたから、一年生の乃梨子と瞳子《とうこ》も洗い物を手早く片づけて後に続いた。
舞台は、普段はあまり使われていない一階の部屋なのである。半《なか》ば倉庫と化しているので、思わぬ忘れ物が地層の間から見つかる可能性が残っている。そんなわけで、この時期発掘調査を行い、卒業していく先輩に私物をお持ち帰りいただこうというのが、このイベント[#「イベント」に傍点]の主旨である。
捜索隊のメンバーは、五人。主役である持ち主の三年生は、当然加わらない。
「まあ、そんなに時間はかからないだろうけれどね」
とは、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さまの言葉。
「それでも形だけでもやらないと」
| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》島津《しまづ》由乃《よしの》さまがつぶやくと、上品にクスクスと笑い声が上がる。
「あら、もしかしたら何か出てくるかもしれなくてよ?」
この人こそが、乃梨子のお姉さまである藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》さん。二年生にして、すでに|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》。妹の贔屓《ひいき》目を差し引いても、美しくてやさしくてその上頭もいいという、非の打ち所のない女性である。
「出てくるかしらねぇ」
階段をギシギシ言わせながら下りていくメンバーの態度は、「やる気満々」からはほど遠かった。
みんなが、「さあ探すぞ」って気にならないのにはちゃんとわけがある。それは、何も出てこないことを知っているから、だった。
一週間ほど前だっただろうか、昼休みだったか放課後だったかに珍しく|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》がそろい踏みでやって来て、その時忘れ物の話になった。すると|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は。
『まあ、私たちに限って、私物を置き忘れているわけないじゃないの』
漫画に出てくる昔の王侯貴族みたいに、「ほーっほっほっほ」と高らかに笑った。そこまで自信満々ならばたぶん何も出てこないだろう、とその場でまず全員が思った。
裏付けは、ご本人の申告だけではなかった。先日、二年生三人が一階の部屋に入って別件の捜し物をした際の、「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》や|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の私物らしき物は目につかなかった」という報告もある。
(その上)
乃梨子はため息をついた。
祐巳さまに悪いから口に出さないけれど、昨日の朝、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が薔薇の館の一階の部屋から出てくるところを目撃してしまったのだ。
「ない」と言い切った手前、何かが出てくると都合が悪いので、捜索が入る前にチェックしに来たのだろう。実際に見てはいないが、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》だって同じようなことをしているに決まっている。
だから、捜したところで見つかるわけがない。見つからない物を捜さなくてはならないから、テンションが上がらないのだ。
そんなわけで、去年は卒業式の二日前に決行されたらしい捜索も、今年は「時間がかからないだろう」から卒業式の前日に「形だけ」やることになったわけである。まかり間違えても、大物が発掘されることはないわけだから、返却のためにわざわざ一日|猶予《ゆうよ》を設ける必要はない。
送り出す二年生たちも、何かと忙しいのだ。
薔薇《ばら》の館の一階にある部屋は、広さはあるが、陽《ひ》があまり差し込まない。そのせいか使用頻度も低くて、何となく使わない物の一時置き場みたいになって、今や納戸《なんど》化の一途をたどっている。
志摩子《しまこ》さんの話では、以前はここでお芝居《しばい》の稽古《けいこ》をしたこともあったというけれど、本当かなと思う。だって、たかだか一年半くらい前の話でしょう?
けれど、かく言う乃梨子《のりこ》だって取りあえず一時保管場所として、ちょくちょく利用しているわけで、小さな物でも積もり積もるとこういう状態になってしまうということだろう。そのうち、時間を見つけて整理したほうがいいかもしれない。
「じゃ、取りあえずエリアを決めて、やっつけますか」
漠然《ばくぜん》と五つのブロックに分けて、捜索を開始した。場所によっては置いてある物の量に偏《かたよ》りがあるから、終わったら他を手伝うという手はずだ。
「積んである段ボールの中までは見なくていいわよね」
「封がしてある物は、わざわざ開ける必要はないんじゃない? 蓋《ふた》が開いている物に関しては、ざっと中を覗《のぞ》く程度で」
「了解」
「私物っぽい物を発見したら、祥子《さちこ》さま令《れい》さまの物と確認できなくても、弾《はじ》いておくことにしましょう」
「私たちの誰かの忘れ物だったりして」
「あはは」
やり始めると、意外に楽しかったりする。私物じゃないけれど、机の脚《あし》の陰《かげ》から薔薇の館の備品が見つかったりすると、「やった」という気になった。残念ながら回収したサインペンは、ペン先が乾いていて使用不可能だったけれど。
「やっぱりないわね」
二十分くらい経っただろうか、もういいでしょうという雰囲気《ふんいき》になった頃、乃梨子《のりこ》は「あ」と声をあげた。段ボール箱と段ボール箱の間に、何かがヒラヒラと挟まっているように見える。
「なになに?」
集まる面々。備品であろうと紙くずと化した覚え書きだろうと、取りあえず網に引っかかった物は確認しなくては、って感じだ。
しかし。
「あら、これは――」
乃梨子がずらした段ボール箱の脇からそれを引っ張り出した志摩子さんが、紅薔薇姉妹、つまり祐巳《ゆみ》さまと瞳子《とうこ》を見た。
それは、黒いリボンだった。
ラッピング用のリボンにしては短いし、丈夫そうだから、たぶん髪を束ねるリボンだ。
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》も|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》も、リボンを常用していない。由乃《よしの》さまはお下げの先につけることもあるけれど、それはもっと長さもボリュームもない物だ。志摩子さんも、もちろん乃梨子も、リボンはつけない。――ということで、薔薇の館の住人で該当者は紅薔薇姉妹ということになるのだ。二人とも色こそ違うけれど、見つかった物とよく似た形のリボンで左右に髪を一つずつ結わいていた。
「お姉さまのですか」
瞳子が、祐巳さまに尋ねた。ならば、瞳子には見覚えのないリボンだったのだろう。
志摩子さんから回ってきたリボンを、祐巳さまはじっと見つめた。そして。
「……私のだ」
かなりためてからつぶやいた。
「何なの、その間《ま》は」
由乃さまが突っ込みを入れる。
「いや、まさかこんな所で再会するとは思わなかったから、ちょっとびっくりして」
そりゃそうだ。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の私物を捜していたのに、自分の無くし物が出てきちゃったんだからびっくりするわ、上の空になるわ。
(え?)
乃梨子は、自分の心のつぶやきにストップをかけた。びっくりはわかる。本人もそう言っているんだから。だけれど、何でそこで上の空が加わるんだ。
「そういや、そのリボン最近見てなかったわね。そっか、一本なくしたからつけなくなってたんだ。でも、いつどこで落としたのかわからなかったの?」
「えへへ」
由乃さまの言葉に、照れ笑いしている祐巳さまを観察してみると。やはり、どこか上の空にのようにも見えた。
でもって、それからわずか三十秒ほど後になると、「どこか」どころか明らかに考え事を始め、やがて結論を導き出したのか「あのさ」と口を開いた。
「もうそろそろ、この作業はお終《しま》いだよね?」
「ええ」
志摩子さんがうなずく。
「で、今日は解散ってことで」
どうやら、何か用事を思い出した模様。
「そうね。明日のことは気にしないでいいわ」
「そうそう。もう十分すぎるほど打ち合わせも練習もしたんだから」
祐巳さまの態度があまりにわかりやすかったから、志摩子さんも由乃さまも「その用事とやらに早く行きなさい」ってビームを発射している。
「ありがとう。瞳子、先に帰っていいからね」
言い置いて、バタバタと部屋を出ていく祐巳さま。
「いったい何事かしら」
応援する姿勢を見せていたものの、その実、親友の急用についてまったく見当もついていない志摩子さんと由乃さまが首をすくめる後ろで、瞳子が無言で立っていた。立ったまま、祐巳さまの出ていった扉をじっと見つめている。
斜め後ろ部分しか顔が見えなかったから、どんな表情をしていたかまではわからない。でも、だからこそ、見えない部分をこちらが勝手に補足して、寂《さび》しげだってことにしてしまいそうだった。
声をかけたほうがいいかな、でも何て言ったらいいのだろう。躊躇《ちゅうちょ》していると、志摩子さんが呼びかけた。
「瞳子ちゃん」
振り向く瞳子は、普通だった。
「はい?」
「祐巳さんの後を追いかけたい?」
志摩子さんがあまりにストレートに質問をぶつけるものだから、聞いている乃梨子のほうがドキドキしてしまう。瞳子も、少し驚いているようだった。
「いえ」
でも、笑って首を横に振る。
「たぶんお姉さまの用事は、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に関係していると思うので」
自分がついていっては迷惑だろう、そう思っているようだった。
乃梨子はそこでやっと、ああそういうことか、とわかった。祐巳さまは|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に会いにいったのだ。そして、瞳子はそれをすぐに理解したのだ。
だから扉を開けて一階のフロアに出ても、瞳子は玄関のほうには向かわなかった。由乃さまと志摩子さんの後について、トントントンと階段を上っていく。後ろ髪引かれる思いで、乃梨子も続く。祐巳さまを追いかけたいわけではないけれど、何となく瞳子の気持ちが自分の中に残ってしまったようだった。
「そうしたかったら、遠慮なんてしなくていいのよ」
また、志摩子さんは大胆なことを言っている。
「遠慮というか……、たぶん私が追いかけたくはないんです」
答えながら、瞳子は自分の考えをまとめているようにも見えた。
「ただ、私は何もできないんだな、ってそう思って、お姉さまのことを目で追っていたのでしょう」
「何もできない?」
一度足を止めて、志摩子さんは振り返った。そして、瞳子の次の答えを待っている。
「お姉さまが卒業するって、とても大きなことだと思うんです。それは一年後の自分を想像すれば、……いえ、たぶん実際にはその何倍も大変なんでしょうけれど」
瞳子が素直に自分の気持ちを説明するのは、志摩子さんが年上だからだろうか。それとも、志摩子さんが「お姉さまの卒業を乗り越えた人」だからだろうか。どちらにしても、自分じゃだめなんだって乃梨子は思った。
瞳子がそんなことを考えていたなんて、知らなかった。それも、内容が自分のお姉さまの卒業じゃなくて、お姉さまのお姉さまの卒業だ。
「私のお姉さまは特に、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》との絆《きずな》が強いから、卒業されるのは辛《つら》いんじゃないか、って。でも、そんな感じはまったく見せないで、いつも通り明るくしていて。それは一人で耐えるしかないんだって、悟っているからだと思うんです。だから、私もただ見ているだけしかできなくて。何かしてあげたいけど、どうしたらいいかわからないし」
そこまで黙って聞いていた志摩子さんが、再び階段を上り始めた。どんなアドバイスをするのだろう、乃梨子は瞳子と一緒に追いかける。
トントントントン。上りきったところでつぶやいた。
「いいのではないかしら、それで」
「は?」
「祐巳さんに何もしてあげなくていい、って言ったのよ」
卒業は、お姉さまが最後にくれる試練であり贈り物である。言われるまでもなく、瞳子だって、ちゃんと理解しているのだ。祐巳さまが一人で耐えるしかないことだ、ってことは。けれど、それでいいのか。もしかしたら妹にしかできないことが、どこかにあるんじゃないのか。そんな風《ふう》に、自信がなくなって、誰かに聞いてみたくなったのかもしれない。
「でもね。だからって、瞳子ちゃんがいてもいなくても同じという意味ではないの。瞳子ちゃんがただ側で見ていてくれる、それだけで祐巳さんの力になっているはずだから」
「本当ですか」
不安そうに、瞳子は志摩子さんを見つめ返した。
「もちろん。祐巳さんだって、そのことはわかっているはずよ。だって、先代の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の言葉をずっと大切にしているから」
先代の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》といったら、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》のお姉さまのことである。つまり祐巳さまにとっては「お祖母《ばあ》ちゃま」、瞳子にとっては「曾《ひい》お祖母《ばあ》ちゃま」にあたる人だ。
「先代の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の言葉って――」
瞳子が尋ねる。志摩子さんは、二階の通称「ビスケット扉」の前でほほえんだ。
「妹は支《ささ》え、って」
「支え……」
つぶやいたのは誰だったろう。瞳子か、乃梨子か、もしかしたら由乃さまも含めて三人一緒だったかもしれない。
支え。
ここにいる人たちは、すべて誰かの妹だった。
「悪い。私も失礼するわ」
先に部屋に入っていた由乃《よしの》さまが、鞄《かばん》とコートを手にした。扉の側にいた乃梨子《のりこ》は、一歩下がって道を譲る。
「お疲れさまです」
「ごきげんよう」
軽く手を上げて出ていくその姿は、状況とか表情とかは違うのに、先程一階の部屋を出ていった時の祐巳《ゆみ》さまを彷彿《ほうふつ》とさせた。由乃さまも、令《れい》さまに会いにいくのだろうか。それとも、別の用件なのか。とにかく、何か目的があってどこかに向かった、そんな風に映った。
「じゃ、私も帰ります」
けれど、瞳子《とうこ》の場合は違った。お姉さまの帰りをここで待つという選択だってあるけれど、そうすることでお姉さまの負担になりたくない、そう考えたのかもしれない。それとも、「先に帰っていいから」という言葉を、忠実に実行しようとしているだけか。やり残していた二階の掃除を乃梨子と一緒に済ませると、帰り仕度を始めた。
部屋の隅《すみ》には、まだ祐巳さまの荷物が残っていた。
「ごきげんよう、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》。じゃあね、乃梨子」
スクールコートの襟《えり》を締めて、瞳子が扉の前でほほえんだ。
「ごきげんよう」
志摩子《しまこ》さんがほほえみ返す。乃梨子は、「じゃあね」に応《こた》えて小さくうなずいた。
瞳子の姿が扉の向こうに消えて、階段を下りる足音が聞こえてきた時、「乃梨子」と呼ばれた。
「えっ……」
振り返ると、志摩子さんが荷物をまとめて立っている。いつの間に、って驚く反面、それくらいの時間、自分は瞳子のことを考えてぼんやりしていたんだろう、って自得した。
「あの、でもそれは」
志摩子さんが抱えているのは、なぜか乃梨子の鞄とコートなのである。
その心は?
目をチカチカさせて見ていると、それらの荷物は「よいしょ」と手渡された。
「志摩子さん?」
「ほーら」
志摩子さんは乃梨子の肩に手を掛けてクルリと回れ右させた後、ポンと背中を叩いて前に押し出した。
「友達もね、ただ側にいるだけでいいのよ」
一緒にいてあげなさい、そういう意味だった。
「瞳子ちゃんは、みんなが考えるよりずっと繊細《せんさい》みたいだし」
確かにそうかもしれない。お姉さまのお姉さまの卒業で、ダメージを受けているのだ。
「だから、いろいろ話をしてくれたの?」
乃梨子は尋ねた。
「お説教みたいになってしまったかしらね」
「ううん。瞳子は嬉しかったと思う。志摩子さんがそこまで自分のことを気にしてくれたんだ、って。私も、そんなお姉さまをもって幸せ」
「あら」
志摩子さんは、そこでクスッと笑った。
「じゃあ、がっかりさせてあげましょうか」
「は?」
「私、そんなに目配りができる人間じゃないの。瞳子ちゃんのことが気になったのは、乃梨子が気にしているからよ」
「えーっ」
でも、そのがっかりって、何か嬉しい。聖人君子みたいな人より、ちょっとは身びいきがある等身大のお姉さまのほうがいいな、と思う。
「ほら。瞳子ちゃんがもう薔薇の館を出てしまうわよ」
行きなさいって、押されたけれど乃梨子は一歩踏み出した足を戻して言った。
「私、去年の志摩子さんを支えてあげたかった」
「え?」
「瞳子の言葉を聞いて、想像力がない私もやっと気がついた。志摩子さん、去年は一年生だったのに一人で乗り越えたんだよね」
大変だったでしょうと、表面上はわかっているつもりでいた。けれど、でも、どんなに辛《つら》かったのかとか、真剣に真っ正面から心を重ねてみることがなかった。
「そんなこと無理だってわかっているけれど。けど」
言わずにはいられなかった。一年前の志摩子さんがかわいそうで。タイムマシーンで戻って、手を握ってあげたかった。
「ありがとう。でもね、妹はいなかったけれど、両脇から友達が抱えてくれていたのよ。だから」
そんな風に瞳子についていてあげて、そういうことなのだろう。
乃梨子は間に合わなかったけれど、志摩子さんには祐巳さまが由乃さまがいた。だから「大丈夫」なのだ。
「ちなみに、妹が支えなら、お姉さまは何なんでしょうね?」
前|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》のお言葉だ。当然、姉バージョンが対になっているものと思われた。
「何だったかしら。……そう、包み込んで守る、だったわ」
包み込んで、守る。
「私、今それをすごく実感しています」
大きな毛布を広げて、志摩子さんがすっぽりと包んでくれている。だから、安心していられた。
「実際にくっついているだけが、スキンシップじゃないんですね」
たぶんこのまま二人でいるより、瞳子を追いかけて一緒に帰るほうが志摩子さんのぬくもりを感じられるだろう。そう本気で思っているんだから、自分自身でも不思議だった。
「でも」
乃梨子は荷物を一度近くにあった椅子に置くと、志摩子さんの身体をギュッと抱きしめた。
もう、分かれ道のマリア像くらいまで走らないと瞳子に追いつかないだろうけれど、いいや。
「身体のスキンシップも、たまにはね」
「乃梨子ったら」
笑う志摩子さんをその場に残して、乃梨子は急いで友を追いかけた。
[#挿絵(img/32_107.jpg)入る]
[#改ページ]
忘れた忘れ物
何ですって?
その言葉を聞いた時、ドッカーンって衝撃が脳天《のうてん》に訪れた。
「支え……」
そうつぶやいたのは由乃《よしの》だけじゃなくて、瞳子《とうこ》ちゃん、乃梨子《のりこ》ちゃんも一緒だった。
だから、その場で耳にした人たちは多かれ少なかれショックを受けたのだと思う。志摩子《しまこ》さんの口から出た、前《ぜん》|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》、水野《みずの》蓉子《ようこ》さまのお言葉に。
曰《いわ》く、「妹は支え」なのだそうだ。
* * *
それは、一階の物置部屋(!)で祥子《さちこ》さまや令《れい》ちゃんの忘れ物を捜索し終わって、間もなくのことだった。
なぜだか祐巳《ゆみ》さんが急用でも思い出したみたいにバタバタと薔薇《ばら》の館を出ていって、残った四人、つまり白薔薇姉妹の志摩子さんと乃梨子ちゃん、あと瞳子ちゃんと由乃が二階へ続く階段を上っていた時。
由乃は一番先頭を歩いていたのだが、背後にいる志摩子さんと瞳子ちゃんの会話が妙にシリアスで、聞くとはなしに、というよりそういう風を装って、積極的に二人の話し声を聴取《ちょうしゅ》するよう努めた。
耳っていうのは、機能的に背後の音を聞くのが苦手にできている。おまけに薔薇の館の階段ってば、トントンという足音に必ずギシギシというきしみ音が被《かぶ》っちゃうほどオンボロだ。そういう事情で、途中聞き取りにくいところも多々あったけれど、つまりは瞳子ちゃんはお姉さまである祐巳さんのために何かしてあげたいけれどできない、みたいなことで悩んでいるようだった。
それに対して、志摩子さんが出したアドバイスっていうのが、先の「妹は支え」とのお言葉だったわけだ。
正直、由乃はびっくりした。神様が訪ねてきて、心臓をノックしたかと思った。もしくは電話をかけてきたかと。
もしもし、お前は大丈夫なのか、って。
でもって、胸に手を当てて考えてみた。
自分はちゃんと、令ちゃんの支えでいられたのかどうか。逆に、令ちゃんに寄りかかり、支えてもらってばかりいたんじゃないのか。
もちろん、心臓の手術をして丈夫になったから、身体のことで庇《かば》ってもらうことは少なくなった。でも「支え」っていうのは、たぶんそういうことを言っているんじゃない。もっと精神的なものだ。
妹は、何もしなくていい。そこにいるだけで、支えとなるから。
だったら結論としては「何もしなくていい」はずなんだけど、由乃は正直「違う」って思った。蓉子さまには悪いけど、それは一部のできのいい人たちの話なんじゃないの、って気がした。
ただそこにいるだけでいい妹も、確かにいる。
でも、地面にしっかりと立っていなかったり、曲がってたりグニャグニャだったりしていたら、支えになんて到底《とうてい》なれない。
自分はどっちだ。前者か後者か。
考え始めたら、居ても立ってもいられなくなった。
「悪い、私も失礼するわ」
鞄《かばん》とコートを手にして、とにかく薔薇の館を出た。
考えなくては。
もう、時間がない。
この二年間、令ちゃんの良き支えになれたかどうだか、まったく自信がなかった。
妹である自分のいいところはどこかになかったか、と探しだそうと思っても、考えれば考えるほど、自分のだめさ加減を突きつけられた。
わかった、もういい。――由乃はストップをかけた。
どうせ考えるのだったら、せめて令ちゃんのために今何ができるかを考えよう。そのほうが、よっぽど建設的だ。
昇降口をぬけて、図書館の脇道を急ぐ。なぜ早足になるのか。急いで帰る必要なんてないのに。
(ああ、そうか)
気持ちが急いて、それが足に出たのだろう。明日はもう卒業式だ。令ちゃんが高校生でいられるのは、あとわずかしかない。
(令ちゃんったら)
ぬけてるくせに、薔薇の館に私物の忘れ物をしていなかった。
後から何か見つかっても、お隣の由乃が届けてくれるだろう。そんな風に、油断しているんじゃないかな、って。少し、ほんの少しだけ期待していた。
でも、出てきたのは祐巳さんのリボンだけ。
令ちゃんの私物は、消しゴム一個も見つからなかった。
ここにはもう未練なんかないんだ。令ちゃんにそう言われたみたいで、何だかすごく寂《さび》しかった。
やり残したこと、言い残したことはないのかな、って。
去年、蓉子さまは卒業前に祐巳さんをミルクホールに連れ出して、祥子《さちこ》さまのことを頼むと言い置いたって話だ。
令ちゃんのお姉さまの江利子《えりこ》さまだって、由乃を呼び出して、言いたい放題言ってくれた。もちろん、由乃もそれに応戦したから勝敗はつかなかったけれど。
だったら、令ちゃんは?
誰かに何かを言い残したりするのだろうか。
(あっ)
そう考えた瞬間、暗転。――って感じで、由乃は真っ暗闇に立っているみたいな心持ちになった。
本当の由乃は銀杏《いちょう》並木にいて、枝の間から春の日差しが差し込んでいた。
「というわけで」
由乃《よしの》が切りだすと、その人は頬杖《ほおづえ》をついて笑った。
「由乃ちゃんが一人で私にコンタクトをとろうなんて、珍しいね。どういう風の吹き回しかな?」
「卒業時点で孫がいなかった聖《せい》さまのご意見を、是非《ぜひ》ともお聞かせいただきたく参上いたした次第」
何とぞよろしくお願いします、と頭を下げる。由乃は現在、学生ホールという、大学生たちのたまり場みたいな所にいた。本当は大学はもう休みに入っているらしいんだけれど、パラパラと人の姿はあった。
銀杏《いちょう》並木で絶望的な孤独感に襲《おそ》われた由乃は、取りあえずその足で大学校舎まで行って佐藤《さとう》聖《せい》さまを捜した。聖さまは、志摩子《しまこ》さんのお姉さまで前の|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》である。
学生の数が少なかったから、人捜しは楽だった。噴水のある庭や、購買部の前、大学校舎の廊下、掲示板が並んだ場所――。行き交う人が大勢いたら一々《いちいち》顔を見て回らなければならないけれど、ポツリポツリならすぐに目当ての人かどうかの判別ができる。ただ、その人がいるかいないかは別問題だった。
しかし、由乃はついに図書館から出てきた聖さまを捕まえた。調べ物のために、たまたま大学に来ていたという。
それで、立ち話も何だからと、ここまで連れてきてもらった。聖さまは年長者らしく、自動販売機で紙コップのカフェオレを買ってご馳走《ちそう》してくれた。
「……何か、そんなんばっかだな」
ぼそり、聖さまがつぶやいた。
「何が、です?」
由乃は、何が「そんなん」なのかわからなかったから聞き返した。
「もうちょっとさ。……つまり、うーん、例《たと》えば私に会いたくて会いたくて、もう我慢ができなくて大学校舎まで来てしまいましたとさ、みたいなのないわけ?」
「はあ?」
「あたしゃ、人生相談の先生じゃない、っつーの」
そこで、何となくある人の顔が思い浮かんだので言ってみた。
「祐巳《ゆみ》さんとか?」
「うん。最近はないけどね」
じゃ、以前は結構来ていたということだろうか。ふーん、って感じだ。
「志摩子さんは?」
祐巳さんが来ているんなら、妹である志摩子さんだって――、と思うのは当然であろう。しかし。
「志摩子か……とんとご無沙汰《ぶさた》だね」
学園祭でちょこっと顔を見たとか、そんなものらしい。
「会いたくないんですか」
「会いたいとか会いたくないとか考えないから」
「志摩子さんもそうなんでしょうか」
余所《よそ》さまの姉妹《スール》事情に首突っ込むのも何なんだけれど、気になったのでつい質問してしまう。自分としては、興味本位で聞いているんじゃないと思いたい。
「志摩子? わからない。でも、会いたくなったら来るでしょ。あの子の場合は、さ」
会いたくなったら来る、か。
そういえば、聖さまが高等部在学中も、二人はそんな関係だった。相手を自由にさせておいて、でも根っこの部分はつながっているみたいな。卒業しても、それは変わらないんだ。志摩子さんと乃梨子《のりこ》ちゃんの間《あいだ》は、また少し違っているんだけれど。
ん? 乃梨子ちゃん?
「あ、そうだ。先日は栄養ドリンクをありがとうございました」
乃梨子ちゃんと瞳子《とうこ》ちゃんが、三年生を送る会の前日だったか、聖さまからの差し入れを預かってきたことを思い出した。
「あれをくれたのは、サンタさんでしょ」
「そういう話でしたけれど」
サンタさんからだって知ってるということは、差し入れしたのが自分だって言っているも同然だった。しかし、志摩子さんには会わないで、その妹の前に出没していたわけだ、聖さま。何やってるんだか。
「つまり」
聖さまは話を戻した。
「由乃ちゃんは、未《いま》だ孫がいない令《れい》の気持ちを知りたい、ってわけね。かつて私がそうだったから、私ならわかるかも、って」
「そうですけど」
祥子さまには、瞳子ちゃんという孫ができた。だから、祐巳さんのことを託すこともできるし、やろうと思えば、どっちが祐巳さんのことを想っているか言い合いすることだってできる。でも、令ちゃんは――。
「なの、わかるわけないじゃん」
聖さまは、一刀両断してくれた。もうすっぱりと。居合い抜きで、巻き藁《わら》をスパッと切ったみたいに。こうなると、いっそ気持ちいいね。
「そうなんですか」
「令だからじゃなくてさ、祥子《さちこ》の気持ちだってわかんないよ。そんなの他人の心の中のことだもん」
そりゃそうだけど。でも、ヒントくらいないわけ? 出し惜《お》しみしているんじゃないの? って、由乃はちょっと思った。
「たとえばさ、私がこうしろって言ったら、由乃ちゃんするの?」
「……」
それは正直わからない。いくら何でも、逆立ちして高等部校舎の廊下を歩けって言われたら拒否するだろう。人間、できることとできないことがある。それ以前に、令ちゃんがそんなことを望んでいるわけないけれど。
「じゃ、いいじゃない。自分で思いつかないことなんて、することないよ」
聖さまはシッシッって感じに、手首を振った。
「でも」
「こういうことは、押し売りしてもだめでしょ」
押し売りってワードに、カチンときた。
「じゃあ、お聞きしますけれど。聖さまは、去年誰かに何かを伝えておきたいとか、託したいとか考えなかったんですか。例えば、志摩子さんのこととか猫のこととか」
令ちゃんがそうだとは言い切れないけれど、奥ゆかしいからリクエストがあるのに言い出せない人だっているかもしれない。だから、これは押し売りじゃない。むしろ、ご用聞きだ。して欲しいことがあったら、どうぞ言ってください、ってことなのだ。
「あ」
聖さまが、手をポンと打った。
「あったんですか」
由乃が身を乗り出すと、「そうじゃなくて」と否定された。
「思い出した。確か、去年も押し売りいたわ。志摩子のこととかゴロンタのこととか、何か言えって迫った小娘が」
「……祐巳さん?」
恐る恐る尋ねる。
「そ」
「あー」
何だって、行くとこ行くとこ先回りして待ち伏せてるのよ、祐巳さんったら、もう。心の中で文句を言う。――由乃流の理屈では、祐巳さんが早すぎたのであって、決して自分が出遅れたわけではない、のである。
「で?」
ともかく、その後どうなったか知りたいので、聖さまに先を言うよう促す。
「別に? 頼むことなんてないもん」
「それで引き下がりましたか」
あの、祐巳さんが。それでも何かないのか、とか言いそうだけれど。
「え? あー」
「何ですか」
聖さまは、意味ありげにニヤニヤしている。思い出し笑いか、何だか気分が悪いな。
「大したことじゃないよ」
「そういう言い方されると、ますます気になるんですけれど」
祐巳さんと聖さま、二人の間に、何か特別なやり取りでもあったのだろうか。だとすると、ずるい。祐巳さんにだけ伝授するなんて、そりゃ贔屓《ひいき》ってもんでしょう。
「教えてください」
一生懸命に恐い顔を作って迫ってみたけれど、もちろん強《したた》か者の聖さまには通用しない。面白《おもしろ》がって、カラカラ笑うだけだ。
「んじゃ、お口にチューしてくれたら話してあげる」
聖さまは鮹《たこ》の吸い口みたいに唇《くちびる》を突き出して、指さした。ここ、ここ、って。
「ふーん」
つぶやいてから、由乃は顔をプイッと横に向けた。
「それなら結構です」
祐巳さんに聞くからいいや。第一、聖さまだって本気でキスをせがんでいるわけじゃあるまい。話をはぐらかすためのパフォーマンス。……にしちゃ、いささか悪趣味だが。
それにしても。どんなに美人でも、崩せばここまで変な顔になるんだ。いいもの見せてもらった。
「つまんないな」
言いながら聖さまはひょっとこ顔を解除し、いつものきれいなお顔に戻した。
「聖さまだってご存じのはずです。私は祐巳さんほど、いじっていて面白い玩具《おもちゃ》じゃない、ってことは」
「そっか。そうかもね。あれ? どうして落ち込んでるの? 不本意だった?」
「……ちょっと」
自分で言っておいて何だけれど、やっぱりつまらないより「面白い」って言われるほうが気持ちがいい。決して、祐巳さんとはそういうところで勝負しているつもりはないんだけれど。
「令もさ」
紙コップのブラックコーヒーで喉を湿らせてから、聖さまは言った。
「別に遺言を残す気なんてないんじゃないの?」
「でも」
言いかけると、まあ話は最後まで聞きなさい、みたいに手の平を顔の前に出された。
「由乃ちゃんがそう思うのなら、由乃ちゃん自身が何か令に対して忘れ物をしている、ってこともあるよね」
「私が、令ちゃんに――」
ざわっ、って風が吹いた気がした。頭の中か身体の外か、とにかく強い風が吹き抜けていく感覚。
私が[#「私が」に傍点]、令ちゃんに[#「令ちゃんに」に傍点]。
なるほど。そうか。
「ありがとうございました」
紙コップの中身を飲み干して、由乃は椅子を立った。
「どうするの?」
座ったまま、上目遣いで聖さまが聞いた。
「ちょっくら、忘れ物をとりに行ってきます」
「忘れ物を、ねぇ」
そうと決まったら、善は急げ。スクールコートを引っ掛けて、鞄《かばん》を抱えてタタタと歩き出す。本当はダッシュしたいくらい気は急いているけれど、一応ここは大学校舎《ひとんち》だから我慢。でも、目の前の信号はとっくに青に変わっているのだ。
学生ホールの出入り口まで来た時、由乃は「そうだ」って振り返った。
「聖さま。もしよろしければ、明日の卒業式にいらっしゃいませんか」
「卒業式?」
「ええ。蓉子《ようこ》さま誘って」
「蓉子を? 由乃ちゃん、蓉子に会いたいの?」
キョトンとした目で聞き返す聖さま。そりゃそうだろう、今の今まで蓉子さまの「よ」の字も出なかったのに突然だもん。ヒントもなしにこの真意が解けたら、そりゃ間違いなくエスパーだ。
「会いたい、っていうか。蓉子さまだって、祥子さまの晴れ姿見たいんじゃないかな、と思っただけで」
「……ふぅん、蓉子さまだって[#「だって」に傍点]、ときたか。なるほど。それは、なかなか楽しいイベントになりそうですなぁ」
了解したのかしてないのか。それでも、とにかく大きく手を一回振ってみせたので、由乃はその場で「ごきげんよう」と挨拶して、学生ホールを飛び出した。
「さて」
楽しいイベントになるか否かは神のみぞ知る、ですか。
とにかく、すべては明日。
そのために、今日のうちに下ごしらえをしておかなくちゃ。
大学の敷地から出ると、由乃は銀杏並木を高等部校舎に向かって走り出した。
[#改ページ]
隣は何をする人ぞ
「妹は支え」という言葉を、胸の中で繰り返しながら瞳子《とうこ》は歩いた。
(何《なん》にもしなくていいんだ)
クスリと笑って、校舎に入る。今出てきたばかりの薔薇《ばら》の館には、その言葉を与えてくれた|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》と乃梨子《のりこ》が残っている。
振り返って、建物の二階辺りを眺めて、また歩き出す。
うらやましいわけじゃない。
さっき薔薇の館を出ていったお姉さまを追いかけたくはない、それは本当の気持ちだった。祥子《さちこ》さまと祐巳《ゆみ》さまが二人でいる、そのことこそが瞳子の幸せだった。
祐巳さまは、初めは祥子お姉さまを取った人、だった。
やっかみもあって、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の妹に相応《ふさわ》しくない、ってずいぶん反発していたのに。いつからだろう、気になって気になって仕方なくなった。
そして、その姿を目で追いかけるようになった。
とりわけ、祥子さまと祐巳さまが一緒にいる姿を見るのが好きだった。まるで、客席からお芝居の舞台でも眺《なが》めるように。
二人は、こちらに気づかないでいい。瞳子はそれで満足していた。
でも、いつの間にか同じ舞台に上げられて――。だから、戸惑っているのだと思う。まだ、三人でいるうちはいい。けれど、もうすぐ祥子さまがいなくなってしまう。その時、自分はどうすればいいのか。
祐巳さまにとって、祥子さまの存在があまりに大きすぎるのは、わかっている。その大きな存在がある日いなくなって、ぽっかりと穴が開く日が迫っている。瞳子には、それをふさぐ自信がなかったのだ。
「あれ、瞳子ちゃん?」
校舎の一階で、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》に会った。
一人だった。
帰るところなのか、コートを着て鞄《かばん》も持っている。相手も瞳子を見て、そう思っているに違いなかった。
「ごきげんよう、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》」
だから瞳子は、ただそう言って頭を下げた。「お一人ですか」とか「今お帰りですか」は聞くだけ野暮だ。
一年生と三年生の靴箱は離れているので、取りあえず一度別れて、昇降口で再会した。
「そういえば、どうだった?」
|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》が尋ねた。
「は?」
「今まで、薔薇の館の一階を捜索してたんじゃないの?」
瞳子の頭の上についていた綿埃《わたぼこり》をとって、ふーっと風に飛ばす。身長差とは、こういう時に意識するものだ。
「あ、ええ、していました。残念ながら、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の持ち物は何一つ発掘できませんでしたが」
「でしょうね。祥子のも?」
「もちろん」
二人は顔を見合わせて笑った。事前に|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が薔薇の館の一階をチェックしにきたことは、はっきり口には出さないけれど、もはや周知の事実なのである。
そうだ、と思い出して瞳子は言った。
「少し前に、由乃《よしの》さまが薔薇の館を出られましたけれど」
「あ、本当?」
「まだ学校にいらっしゃるかもしれませんよ。……お捜しになります?」
|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》が走れば、マリア像か、いっても正門前で追いつくだろう。
「うーん、別にいいや」
「私に構わず、どうぞ」
「それほどの用事もないし」
「ああ、そうでしたね」
|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》と由乃さまは従姉妹《いとこ》同士で家も隣、その気になればすぐに会える距離にいるのだった。
「……何か?」
視線を感じて尋ねると、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は笑った。
「いや。瞳子ちゃん、最近自分のことを『瞳子』って言わなくなったな、と思って」
何かと思えば、そんなこと。
「言ってますよ。そのキャラのほうがうまく回る時は」
「キャラなんだ」
「……っていうか、お洋服です。時と場合に応じて、相応《ふさわ》しい服をクローゼットから取りだして着るんです」
「なるほど」
|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は、「あはは」と声をあげて笑った。どうやら、冗談だと思ったらしい。
冗談なのか本気なのか。瞳子自身もよくわからなくなったから、一緒に「あはは」と返しておいた。
「じゃ、悪いけどここで」
昇降口から出ると、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は左へ足を向けた。
「裏門からお帰りになるんですか?」
思わず尋ねる。いつもは|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》も、瞳子たちと同様に右へ進むからだ。しかし、よく考えてみたら、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は徒歩通学で、正門前から出ているバスに乗るわけではない。帰るための道筋も、いろいろあるのかもしれなかった。
「ううん。武道館《ぶどうかん》に寄ってから帰ろうと思って」
「武道館、ですか」
ならば、確かにここと裏門の間にある。武道館は、武道を行うための建物だ。|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は、剣道部に所属している。しかし、今から部活はないだろう。
「薔薇の館に忘れ物はしてないけど、武道館にはまだ防具とか置いてあるの。さすがに卒業式に持ち帰るわけにはいかないから、今日中にね」
首をすくめるようなポーズをとって、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は笑った。
「受験が終わったら、後輩とかにいっぱい稽古をつけてあげようと思っていたけれど、そんなにできなかったな」
それが、心残りだったのかもしれない。防具は忘れ物ではなく、わざと残しておいた物だったのだ。
「ま、いろいろあるけど、明日は卒業式だし」
「いろいろあるんですか」
「そりゃあるわよ。でも、言い出したらきりないし。だから、諸々《もろもろ》やり残した感も抱えての卒業でしょ」
みんながみんなじゃないけどね、と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》はつけ加えた。
「潔《いさぎよ》いですね」
「え、逆じゃなくて?」
|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》はカラカラ笑ったけれど、瞳子は本気でそう思ったのだ。
やり残していることがあるって認めて、「それでもいいや」って悟ることは潔くて清々《すがすが》しい。むしろ、「思い残すことは何もない」と胸を張る人より、見ていて気持ちがいいかもしれなかった。
左右の道に分かれて歩き出してから、ふと瞳子は思った。
――|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は、この時間までいったい何をしていたのだろう。
「あの後ろ姿は――」
校舎と図書館の間の道を歩いて、もとい走っている時、前を歩く生徒に目が留まった。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》……?」
姿勢を正した上品な身のこなし、黒くて真っ直ぐで遠目でも艶々《つやつや》と確認できる長い髪、均整のとれたプロポーション。間違いない、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》だ。
(ふうむ)
乃梨子《のりこ》はエンジンブレーキをかけて、徐行した。
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》だとしたら、この時間までいったい何をしていたのだろう。
今日は午後の授業がないから、用事がない生徒はとっくに下校しているはずである。薔薇《ばら》の館での忘れ物捜索にも参加しないわけだから、今日はもう帰ったかと思った。クラスメイトたちと、教室で別れを惜しんででもいたのだろうか。
それとも、そっくりさんか。
仮に彼女が下校する|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》だとしたら、この道の延長線上を歩いていくのは解せない。乃梨子同様、正門に出るためにこの曲がり角を左に曲がるはずである。
やっぱり、別人か。
確かめたい気持ちはあったが、瞳子《とうこ》を追いかけていたことを思い出して断念した。追いつく前に瞳子がバスに乗ってしまったら、送りだしてくれた志摩子《しまこ》さんの気持ちを無駄《むだ》にすることになる。
乃梨子は曲がり角を左折した。
徐々にスピードを上げながら、やはりあの後ろ姿の主のことが頭から離れない。
それにしても、似ていた。
あんなに似ているなら、学園祭で行われる『後ろ姿|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》そっくりコンテスト』で優勝しているはずである(そんなのないけど)。
帰るところじゃなかったのだろうか。
スクールコートは、着ていなかったと思う。鞄《かばん》は、持っていたかどうだか思い出せない。上履《うわば》きだったか外履きだったかも、記憶は曖昧《あいまい》だった。
帰るところじゃないのなら、いったい今からどこへ、何しに行くつもりなのだろう。
(あのまま真っ直ぐ行ったら、グラウンド。その途中には体育館)
もう、乃梨子の中ではそっくりさん説は完全に消え、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に当選確実《とうかく》マークがついていた。
分かれ道までやって来たので、急ブレーキを踏んで止まり、マリア像に手を合わせた。信心深い志摩子さんの影響で、一人でいる時もやらずにいられなくなった。超がつくほどの仏像愛好家が、まあ変われば変わるものである。
(考えてみれば)
再び走り出しながら、乃梨子は思った。あれが|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》であろうとなかろうと、どうでもいいことじゃないか。思いがけない場所に行かれたって、自分には何の影響もない。かくれんぼしているわけじゃあるまいし。なのになぜ、こんなに気になるんだろう。
「あ」
そこでやっと気がついた。
どうでもいいこと、なんかじゃない。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が予想外の場所に隠れてしまったら、祐巳さまが[#「祐巳さまが」に傍点]探せなくなってしまう。
瞳子の勘が正しければ、祐巳《ゆみ》さまは|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》に会いにいったはずだった。けれど、ついさっき思いついたみたいだから、約束しているわけではないのだろう。
人を捜す場合、その人のテリトリーをまずは押さえるのが常套《じょうとう》である。
祐巳さまはまず、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》のクラスである三年松組教室へ行ってみるだろう。その前に、まだ学校にいるかどうか確認するため靴箱を見てみるかもしれない。
教室にはいない、靴箱には下履きが置いてあるとしたら、どうする。次は、人が集まりそうな場所に行くのではないか。
ミルクホール、職員室……。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は部活に入っていないから、クラブハウスの線はないだろう。
――体育館。そういえば、今日は卒業式の会場準備で、あそこにも人が集まってはいる。では|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》は、そこに向かったのだろうか。
(だとしても)
肝心《かんじん》の祐巳さまは、たどり着けるだろうか。ちょっと難しい気がした。
校門を出ると、ちょうどバスが来たのが見えた。M駅行きの循環バスだったので、慌《あわ》てて飛び乗った。
「どうしたの?」
先に乗っていた瞳子は、息せき切って現れた乃梨子を見てつぶやいた。
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》は?」
バスは空いていた。だから、瞳子が座っていた二人席にするりと納まった。
「ちょっとね」
「ちょっと、って?」
乃梨子は、呼吸を整えてから言った。
「お姉さまの効用について語りにきた」
お姉さまは包んで守るもの、なんだそうな。
うわっ、蓉子《ようこ》なんかが言いそうなことだな、と思ったら、本当に彼女のお言葉らしい。参ったね、こりゃ。
しかし、話に夢中のお二人さん、すぐ後ろの席で聞き耳をたてている人がいることにまったく気づいていなかった。
ま、いいけどね。――聖《せい》は思った。途中でばれて、変に気を遣《つか》われるのも面倒くさい。このまま終点まで、息をひそめて二人の話に耳を傾けることにしよう。
停留所でバスを待っていた時には気づかなかったけれど、そこにはバネちゃんもいたらしい。
いや、バネちゃんは悪いか。祐巳《ゆみ》ちゃんにロザリオをもらって正式な妹になったそうだし、うろ覚えだった名前も、今ではちゃんと言えるようになった。えーっと、そうそう、松平《まつだいら》瞳子《とうこ》ちゃん。
聖のほうが、たぶん瞳子ちゃんより少し前から並んでいたのだろう。バスに乗り込むと、一人席が全部埋まっていたので、丸々空いていた二人席によっこらしょと腰を下ろしたら、目の前に縦《たて》ロールの女の子が座ったのだった。
今時、あんなに見事な縦ロールにはなかなかお目にかかれない。すぐに瞳子ちゃんだってわかったね。知らぬ仲じゃないし、声をかけて、ちょいといじって遊ぼうかとも思ったけれど、すぐに志摩子《しまこ》の妹が登場したので様子を見ることにした。乃梨子《のりこ》ちゃんは瞳子ちゃんしか眼中になかったみたいだから、他に全然注意を払っていないし。
乃梨子ちゃんが思うには、志摩子も祐巳ちゃんも「毛布」らしい。
瞳子ちゃんは、「大女優が降板した舞台に立たなくちゃいけなくなった新人女優さんの話」をしていた。
で、乃梨子ちゃんはこの時間、人が多く集まる場所ってどこだって瞳子ちゃんに聞いて、瞳子ちゃんは武道館《ぶどうかん》に行くとか行ったとか、そんな話をした。あと、忘れ物があると潔い人になれるんだそうな。何だ、そりゃ。
途中から、というかかなり初めの段階から、話について行けなくなってしまった。それも仕方ない。二人は聖とは逆向きの、前に向かってしゃべっているわけで、会話すべてを集音しきれるものではない。おまけに、聞き漏《も》らした単語があっても、盗み聞きしている人間は、「え?」「もう一回言って」と聞き返すことができないのだった。
しかし、毛布とはね。恐れ入った。
そういや、蓉子は一年生の時に、お姉さまたちから風呂敷に例《たと》えられていた、って話だったっけ。三年生で|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の称号で呼ばれていた頃には、彼女も毛布まで進化していたんだろう。
(蓉子、か)
由乃ちゃんが言っていたことを思い出して、携帯電話を開いた。そして、蓉子のアドレスを呼び出す。
件名は『明日、暇?』。
本文にはこう打った。『暇じゃなくても、都合つけておいでよ。たぶん、面白いものが見られるから』。
そうしてまた、聖は目の前で進行している青い話[#「青い話」に傍点]に耳を傾けたのだった。
[#改ページ]
リボンの道
桂《かつら》さんと別れて薔薇《ばら》の館にやって来ると、二階の部屋で由乃《よしの》さんが開口一番「お腹でも痛いの?」って聞いてきた。
「お腹? ううん」
答えながら祐巳《ゆみ》は、壁際に寄せてあった椅子の上に、コートとか鞄《かばん》とか手提《てさ》げとか、持ってきた荷物をドサッと置いた。
「ならいいけどさ。ほらさっき祐巳さん、『ちょっとトイレに』なんて言って別れたから」
「あ」
そうでした。今日は掃除が終わった後、志摩子《しまこ》さんと由乃さんと三人で職員室に行って、その後薔薇の館に行く予定になっていたんだけれど、一旦《いったん》荷物を取りに教室に戻ろうって話になって、クラスの違う志摩子さんとは「後でね」なんて教室前で別れて、教室で荷物を手にした途端トイレに行きたくなったから、クラスメイトの由乃さんにはそう断って先に行っててもらったのだった。でもって、すっきりして廊下に出たらそこで桂さんと遭遇《そうぐう》した、とそういうわけだった。
「ごめんごめん」
ちょっとトイレ、があまりに遅かったので、心配させてしまったらしい。
「どっかで道草くってたわけ?」
「桂さんとちょっと」
お弁当包みだけ持って、中央のテーブルのいつもの席につく。掃除の後すぐ薔薇の館に来た乃梨子《のりこ》ちゃんと瞳子《とうこ》はすでにお昼ご飯を済ませたみたいで、由乃さんと志摩子さんのお弁当箱はというと体積が半分ほどになっていた。
「桂さん?」
志摩子さんが言った。
「さっき私も会ったわ。お姉さまを迎えにいく、と言っていたかしら。じゃ、祐巳さんはあの後桂さんに会ったのね」
なるほど、志摩子さんと桂さんはクラスメイトなので、会う機会は祐巳たちより相当多そうである。
「あ」
ギャグマンガみたいに、祐巳の頭の中の電球がパッとついた。
「もしかして志摩子さん、桂さんに『これから薔薇の館に行って雑用をする』とか何とか言った?」
「言った……かも。なぜ?」
「何だ。だから知っていたのか」
エスパーの正体見たり、である。まあ、桂さんが超能力を使えるなんて、半分くらい眉唾《まゆつば》だと思っていたけれどね。
「そんなことより、可愛《かわい》い妹も心配していたわよ」
クイックイッと首をねじって、由乃さんが言う。指示通りに視線を向けると、祐巳の「可愛い妹」瞳子は、流しの側でお茶をいれていた。ちょっとくらい遅れても瞳子は気にしないと思うけれど、一応謝っておくことにした。
「ごめん」
「いえ」
お茶を運んできた瞳子は、心なしか元気がなかった。
これは、由乃さんが無駄に心配させるような話し方をしたんじゃないのかな、と思った。「遅いけれど大丈夫かしら」「お腹の調子が悪いのかしら」って。それとも、瞳子自身体調でも悪いのか。
「……」
桂さんのこともあったから、お姉さまは妹のことをもっとよく気をつけて見ていないと、と自分を戒《いまし》める。
今日はこの後、一階で、明日卒業する祥子《さちこ》さまと令《れい》さまの置き忘れた私物がないかどうかをチェックすることになっている。調子が芳《かんば》しくないようなら、瞳子を早めに帰らせたほうがいいかもしれない。無理は、するのもさせるのも禁物だ。
しかし、先に帰れと言っても、みんなが残って作業していたら瞳子は帰らないだろうな、とも思う。結構頑ななところがあるし。だから、さっさと終わらせるのがいいだろう。
祐巳はいつもの約一・五倍くらいのスピードでお弁当を咀嚼《そしゃく》し、志摩子さんと由乃さんのゴールには間に合わなかったけれど、そう待たせずしてフィニッシュした。
「まあ、そんなに時間はかからないだろうけれどね」
階段を下りながら、祐巳はつぶやいた。
「それでも形だけでもやらないと」
形だけ、と言っている時点で、由乃さんも乗り気じゃないのは見え見えだった。それでもやらなきゃいけないから仕方なくやる。「面倒くさいなー」という気持ちが、声にも態度にもにじみ出ている。
「あら、もしかしたら何か出てくるかもしれなくってよ?」
何となく期待しているっぽい志摩子さんの発言だが、それでも「もしかしたら」なわけである。
どうせ、二人の私物なんて残っていないんだし、ちゃっちゃとやって帰りましょう。――それが、捜索隊員の総意だった。
だから、それが見つかった時、誰もが「何でまた」と脱力したわけである。
捜索もそろそろ終わりという時、段ボール箱と段ボール箱の間から乃梨子《のりこ》ちゃんが見つけた一本のリボン。
その発見は、それまでのペンとか付箋《ふせん》とか、つまり薔薇《ばら》の館の備品が発掘された例とは、明らかに一線を画していた。かといってそれは、祥子《さちこ》さまや令《れい》さまの私物でもなさそうな様相であり、以降のやる気を起こす発奮《はっぷん》材料にもなりえない、中途半端な代物《しろもの》だった。
「お姉さまのですか」
瞳子《とうこ》にそう言われて、それを見た時、一瞬、祐巳《ゆみ》は「何?」って固まった。
(えっと……)
白薔薇ファミリーの志摩子《しまこ》さんに乃梨子ちゃん、由乃《よしの》さん、瞳子という捜索隊のメンバーたちは、みんな祐巳の出す答えを待っている。このような状況でおかしいのかもしれないけれど、背中にひやりと汗が流れた。尋問《じんもん》されているみたいに感じたのだ。
見覚えがあるし、自分のだってすぐにわかった。でも、どうしてこれがここにあるんだ、ってそのことが、祐巳にはすぐに理解できなかった。
どうして、これが、ここに。どうして、これが、ここに。どうして、これが、ここに。
頭の中で、そんな言葉がグルグル、グルグル攪拌《かくはん》された。
光沢のあるベルベットもどきの黒いリボンは、祐巳のお気に入りで、以前はここぞという時によく髪の毛に結んでいた物だ。
始業式とか終業式とかクリスマスとか――。
けれど今は、自室のクローゼットの抽斗《ひきだし》に、きちんと畳《たた》んでしまってある。
なぜって、二本で一|対《つい》だった物が一本になって出番が無くなったから。――という理由も間違ってはいないが、お姉さまと一本ずつ分けて持ち合っている大切な品だから、大事に保管している、のほうが気持ち的には近い。
一年生のクリスマス・イブの日、プレゼントを持ってこなかった祐巳に、お姉さまは髪を結わえていたリボンを所望した。
だから祐巳にとってこのリボンは、ハートを二つに割って分け合ったペンダントみたいなものである。
それが、なぜここに?
リボンが勝手に|テレポーテーション《テレポ》してきたのか?
そんな、ばかな。
じゃあ、つい自分で部屋から持ちだしたことも、ここに放置したことも、どちらも忘れてしまった、とか。としたら、かなり問題だ。記憶障害の疑いがあるから、病院でお医者さんに診《み》てもらったほうがいい。ま、それは冗談として。
(ということは――)
「……私のだ」
祐巳はつぶやいた。
「何なの、その間《ま》は」
当然の突っ込みが、由乃さんから入る。
「いや、まさかこんな所で再会するとは思わなかったから、ちょっとびっくりして」
だからこれは、お姉さまにあげたほうのリボンなのだ。思いがけない再会。お久しぶり。一年と三ヵ月ぶりくらいになりますか。
「そういや、そのリボン最近見てなかったわね。そっか、一本無くしたからつけなくなってたんだ。でも、いつどこで落としたのかわからなかったの?」
「えへへ」
一本になったからこのリボンをつけなくなったのは本当だけれど、落としたわけじゃない。手もとを離れた経緯も、しっかり覚えていた。しかしそれを簡潔《かんけつ》に説明するのは難しかったので、悪いけれど笑って誤魔化《ごまか》してしまった。それより今は、考えなければならないことがあるのだ。
なぜに、お姉さまにあげたリボンがここにあるのか。
祥子さまは髪の毛は長いが、普段リボンは使わない。だから束ねていたリボンを外してうっかりここに置いたまま忘れてしまった、なんてことはありえなかった。
そもそも、いつからこのリボンはここにあったのだ。
祐巳は、このリボンをお姉さまに手渡した一昨年《おととし》のクリスマス・イブから今日までの年表を頭に思い描いてみた。巻物みたいに、右から左へと時間が流れていく表だ。
スタートは一昨年のクリスマス・イブ。
パーティーが始まる直前だっただろうか、祥子さまは一度髪を束ねたリボンを外して手提《てさ》げ袋に入れた。会場の薔薇《ばら》の館では、紙で作った三角帽子とか王冠とかを被らされたから、なくしちゃ大変って言いながら。
でも、本当は恥ずかしかったのだと思う。祐巳と一本ずつ分け合ったリボンを誰かに見とがめられて、冷やかされるのが嫌だったのだ。だから、祐巳もそっと外して、代わりに定規で扱《しご》いてクルクルにした紙テープを髪に巻き付けた。そうしたら、「祐巳ちゃん、最高」と、思いがけずに蓉子《ようこ》さまにお誉めの言葉をいただいてしまったのだった。
つまり、手提げに入れられたリボンはそのまま、祥子さまの家まで行ったと考えるのが妥当であろう。
そして少し時間をおいて、去年の今頃。本日同様、薔薇の館の一階で荷物を整理した時には、少なくともリボンは見つかっていない。だから去年の三月まではなかった、と頭の年表に縦線《たてせん》を一本引く。
それから、大がかりな捜索は行われていなかったと思うけれど、それでも時折ここには来ていたし、簡単な捜し物程度はしょっちゅうやっていた。今年のバレンタインデーの宝探しで参加者たちが部屋に入るかもしれない、って多少は整理したけれど、その時も何も見つかっていない。――ということは二月中旬までは、ここにはなかった、と。
(簡単な捜し物……)
そうだ、つい先日だって、ここで捜し物をしたのだった。ホワイトデーに巾着《きんちゃく》を作ろうということになって、その時ミシンとアイロンを捜した。ミシンもアイロンも小さい物ではないから、細かい所まで物の出し入れをしたわけではなかったけれど、積んであった段ボール箱なんかはずらしてみたりした。その時すでにリボンがこの部屋にあったとしたら、たぶん見つかっていたはずだ。
(ということは)
リボンがここに置かれてからそんなに日は経っていない、そういう結論に達するわけだった。するとますますわからなくなる。
どうして、リボンがここにあるのか。リボンが勝手に|テレポーテーション《テレポ》した説を否定するなら、やはり祥子さまが持ってきてここに隠したと考えるべきだろう。
(でも、何のために?)
一週間ほど前だっただろうか、祥子さまは薔薇の館の二階で、漫画に出てくる昔の王侯貴族みたいに、「ほーっほっほっほ」と高らかに笑った。
『まあ、私たちに限って、私物を置き忘れているわけないじゃないの』
そこまで自信満々に言い切った人が、自分でわざわざ私物を隠しにくる意味がわからない。それともこれは、妹たちへの挑戦状か。細いリボン一本見つけられないなんて、どういう探し方をしているのかしらね、って。
(いや、違う)
勘《かん》だった。
これは、お姉さまの忘れ物ではない。
以前祐巳が使っていた黒いリボン。それが祥子さまの手に渡ったことを、ここにいる人たちは知らない。ならば、祐巳以外のみんなにとって、これは「祐巳の落とし物」なわけである。
ということは、こうは考えられないだろうか。
お姉さまは、祐巳にだけわかるようメッセージを残した。
そうだ。絶対に間違いない。
「あのさ」
祐巳は、志摩子さんと由乃さんに向かって声をかけた。
「もうそろそろ、この作業はお終《しま》いだよね?」
「ええ」
志摩子さんがうなずく。
「で、今日は解散ってことで」
すると、二人は一瞬顔を見合わせた。たぶん突然帰る話を始めた祐巳に対して、「何事」って思ったのだろう。けれど、あえてそのわけを聞き出そうとはしない。軽くうなずいてから、笑顔で答えた。
「そうね。明日のことは気にしないでいいわ」
「そうそう。もう十分すぎるほど打ち合わせも練習もしたんだから」
解散後に祐巳が具体的に何をしようとしているかなんて、志摩子さんも由乃さんもわかっていなかったはずだ。でも、祐巳の意識がすでに薔薇の館の外に向けられているのを感じ取ったのか、気持ちよく送りだしてくれる。さすが、親友。
ごめんね。
本当は二人とも、この後明日の最終打ち合わせをしようと思っていたかもしれないのに。
「ありがとう」
とにかく、今はその気持ちを素直に受け取ることにする。部屋を出ようとした時、一瞬瞳子の姿が目に映った。
「瞳子、先に帰っていいからね」
言い置いて、出ていった。ちょっと気になったけれど、志摩子さんも由乃さんも乃梨子ちゃんもいる。
大丈夫だ。何かあっても、任せられる。
勢いで薔薇《ばら》の館を出たけれど、どこに行くというあてなどはなかった。
ただ、祐巳《ゆみ》は「お姉さまが呼んでいる」そう思った。
一年三ヵ月経て、再び手にしたリボンをギュッと握る。
これは、みんなにとっては、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の忘れ物ではない。だから、今日も明日も「お返しする」儀式は必要ないのだ。
けれど、祐巳だけは知っている。このリボンの持ち主が誰であるのか。だから、届けなければならないだろう。
お姉さまは、それを待っているのだ。
今、どこにいるだろう。
(順当に考えれば、教室)
その前に、祐巳はお姉さまの下足箱を見にいった。もし上履《うわば》きが残っていたら、すでに下校した可能性が高いから、捜しにいくのはそこで断念するほかない。
(やっぱり)
果たして、『小笠原《おがさわら》』とかかれた小型ロッカーの中には、バレエシューズ型の黒い革靴《かわぐつ》がきちんと揃《そろ》えて入っていたのである。
お姉さまは、まだ学校に残っている。それは間違いない(ぼんやり上履きで帰ってしまったのでなければ、だが)。
下足場から出ると、その足で三年生の教室へ向かった。もし先程のようにお姉さまが廊下でサイン攻めにあっていたとしても、今回は身を隠すことなく、終わるまで堂々と待っていよう、そう決めた。
けれど、そのような光景はなかった。
あれからずいぶんと時間が経っている。サインを欲しいとやってくる下級生たちも、もはやいないのだ。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》はとっくに帰った、と思っているのかもしれない。
「失礼します」
三年松組教室の扉を開けると、まだ結構な人が残っていた。
「あれ、福沢《ふくざわ》祐巳ちゃんだ」
「本当だ。| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》」
いらっしゃいいらっしゃい、と手招きされたので、遠慮無く中に足を踏み入れる。
全部で十人ほどか、お昼休みみたいに机を寄せ合って、何やらパーティーをしているみたいだ。お別れ会かな、と思った。
「祥子《さちこ》さん、いないけど?」
「……そのようですね」
十人の顔を確認するのに、そう時間はかからない。
しかしこの人たち、去年一人教室で黄昏《たそが》れていた聖《せい》さまとは大違い。お菓子やジュースなんかが並べられて、ずいぶん楽しそうだった。
「どこ行ったか、知ってる?」
親切な三年松組の皆さんは、祐巳のために「祥子さん」の目撃情報を集めてくれた。
「一時前に、ミルクホールで菊組の令《れい》さんと一緒にいたのを見たけど?」
「はあ」
その情報は、いささか古すぎるようだった。一時をかなり過ぎてから、祐巳はそこの廊下でサインをしている姿を見ている。思い返せばあの時、近くに令さまの姿もあった。二人は、ミルクホールから帰ってきたところだったのかもしれない。
「あら、令さんじゃなくて、私は新聞部の三奈子《みなこ》さんと一緒に廊下を歩いているのを見かけたわよ」
「三奈子さま?」
それは、祐巳も初めて聞く情報だ。だから、もう少し突っ込んで質問してみる。
「どこに行かれたかは」
「さあ……? でも、あっちのほうに向かってたから、新聞部の部室かもしれないわね。三奈子さんとだし」
あっち、と大雑把《おおざっぱ》に指さす方向には、確かにクラブハウスがあった。
しかし、三奈子さまと新聞部の部室へ? いったいお姉さまは、何しにそんな所へ行ったのだろうか。
「さっきトイレ行った時に令さんを見かけたけれど、じゃ、とっくに祥子さんとは別行動していた、ってこと?」
「そのようね」
ここでプッツリ情報が途切れた。当たり前だ。皆さん、この教室でパーティーをしていたのだろうから。
「薔薇の館は?」
「今、そこから来たんです」
「なるほど」
他を捜してみるか、そう思った時、棒状のスナックにチョコレートがかかっているお菓子が祐巳の口に入れられた。
「まあ、祥子さんの鞄《かばん》はあるんだし、おっつけ戻ってくるでしょう」
「あ、ほうでふか」
教室に鞄を残していったということは、「ちょっとそこまで」的なお出かけなのであろう。少なくとも、これで上履きを履いたまま帰ったわけではないことが証明された。そして、このお菓子がとてもおいしいことも。
「だから、ここでちょっと待ってみたら?」
「はあ」
理屈ではそうだしありがたいお申し出なんだけれど、気が急いて、ここでパーティーにお呼ばれしながら待つ気持ちにはとてもなれなかった。
「ごちそうさまです」
ペコリと頭を下げて、三年松組を後にした。祥子さまが帰ってきたら、祐巳が来たことを伝えてもらうよう頼んだ。
学校にはいる。けれど教室にはいない。
じゃあ、お姉さまはいったい今頃どこにいるのだろう。
祐巳《ゆみ》はいないだろうなと思いつつも、自分のクラス、二年松組教室に行ってみた。もしかしたら、祥子《さちこ》さまが祐巳に会いに来てくれているかもしれない、と、そんな考えがちらりと頭を過ぎったからだ。
教室の中には、人影が一つ。席について窓の外を眺めていたようだが、扉の開く音に気がついて軽く手を上げた。
「おや、祐巳さん」
「あれま、蔦子《つたこ》さん」
今頃どうしたの、ってお互いの顔に書いてある。
「さっきまで部室にいたんだけれど、なんかいろいろ考えちゃって、感傷的になるっていうか……。だから場所変えたの」
蔦子さんはそう言って、小さく笑った。
「気にしないで。たぶん、先輩の卒業記念写真なんて撮ったからだと思うから」
「そっか」
蔦子さんにはお姉さまがいないけれど、写真部に所属しているから親しい先輩もいるだろう。あ、いや、蔦子さんの場合、逆の意味で可愛がられている[#「可愛がられている」に傍点]という話だったか。でも、「けんかするほど仲が良い」という言葉もあることだし、そういう対抗していた人たちがいなくなるということは、寂《さび》しいものなのかもしれない。
「祐巳さんは?」
「お姉さまを捜してるの」
「祥子さまを? 何、かくれんぼ?」
「隠れているほうに、その自覚があるかどうかはわからないけれどね」
「そりゃ大変だ」
蔦子さんは教室に来てから十分くらいになるけれど、少なくともその間は祥子さまの姿は見ていないと証言した。いないだろうなと思いつつ確認しにきたわけだから、別にがっかりもしなかった。こちらも、また場所を変えるだけだ。
「あ、そうだ。明日はよろしくお願いします」
会ったついでに、明日のことを念押しした。
卒業式の後、祐巳たちは仲間内で写真を撮ることになっている。去年同様、蔦子さんがカメラマンとして名乗りをあげてくれたわけだ。
「あー、うん。こっちも楽しみにしているから」
任せて、と指でOKサインを出すものだから、もう、大船に乗ったつもりでお任せしちゃう。
「そうだ、クラブハウスには行ってみた?」
教室を出ようとすると、蔦子さんが尋ねてきた。
「クラブハウス? ううん、まだ」
でもどうして、って祐巳が振り返って聞くと、蔦子さんは「根拠はないんだけれど」とまず断ってから言った。
「根拠はないんだけれど、新聞部の部室前で|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》と会ったから」
「令《れい》さまと?」
「うん。真美《まみ》さんが一緒にいた」
令さまと真美さん? そりゃ、かなり珍しい取り合わせ。
「祥子さまと三奈子《みなこ》さまじゃなくて?」
「何それ。どっちも違うじゃない」
薔薇さまと新聞部員って共通点はあるんだけれどな、と祐巳は思った。
「あ。でも、そういうことよ」
蔦子さんがつぶやく。
「何が?」
「私が会ったのは令さまだけれど、もしかしたら後から祥子さまも来たかもしれないでしょ。そういう可能性もある、ってこと」
もっとも、蔦子さんが令さまを見たのは時間的にはかなり前の話らしい。未《いま》だに新聞部の部室にいるかどうかは怪しい、という意見だった。
そうだよな、と祐巳も思う。三年松組には、「さっきトイレ行った時に令さんを見かけた」と言ってた人もいたわけだし。
でも――。
「ありがとう。ちょっと見てくる」
蔦子さんにそう言って、祐巳は教室を出た。怪しい場所は、一つ一つ潰《つぶ》していかなくちゃ、って。
クラブハウスの建物の外側から眺めてみたら、お目当ての部屋の窓には灯りがともっていた。
イコール「誰かいる」ってことだから、中に入って階段を上り、新聞部の部室のドアをノックする。
「はい」
すぐに出てきたのは真美《まみ》さんだ。祐巳《ゆみ》のクラスメイトである。
「ああ、祐巳さん」
ため息をつくみたいに言った。
「どうしたの?」
本来ならば、訪ねてきたほうが聞かれる質問を祐巳はした。だって、何ていうか真美さんがすごくお疲れみたいだったから。いや、ちょっと違うかな。途方に暮れている、って感じにも見える。
「うーん」
また、ため息みたいに声を押し出す。それから、思い出したように「何かご用だった?」と言った。
「三奈子《みなこ》さま、いる?」
取りあえず、祐巳は尋ねた。真美さんの様子から、祥子《さちこ》さまが中にいないことだけはわかったから。一緒にいたはずの三奈子さまに聞けば、いつ頃別れて、どこに行くと言っていたかくらいはわかるかもしれなかった。
「いるにはいるけれどね。今、ちょっと放心状態で使い物にならないわよ」
真美さんがそう言って振り返った時、部屋の奥から三奈子さまの声がした。
「祐巳さん? 祐巳さんなの?」
「あ、はい」
祐巳は、自分は間違いなく「ゆみさん」であるから、返事をした。真美さん曰《いわ》く「放心状態」の三奈子さま、よろよろとドア近くまで歩いてきて、祐巳を確認するとギューッと抱きついてきた。
「えっ、あっ、何っ」
思いがけないスキンシップにどぎまぎしていると、その理由になるかどうかはわからないが三奈子さまが言った。
「ありがとう。祐巳さん」
「はっ?」
「あなたのお陰《かげ》よ。何て素敵」
「ちょっ、ちょっと三奈子さまっ」
もう、さっぱりわからない。とにかく、三奈子さまの妹の真美さんが見ている所でこの抱擁はまずい(見ていない所で、のほうが問題かもしれないが)。しかし、身をよじってもなかなか解放してくれない。今日の三奈子さまは、どこかの運動部に入ったほうがいいくらい怪力の持ち主だった。
「お願いですから放してくださいー」
困っていると、真美さんが冷静に祐巳の肩を叩いた。
「ありがとう」
「はあっ?」
もう、姉妹してわけのわからないことを言ってくれるから。でも、真美さんはちゃんと説明してくれた。
「一つは、私のお姉さまを幸せにしてくれたことへの感謝。もう一つは、放心状態から呼び戻してくれたこと」
それから真美さんは、三奈子さまの手を祐巳から冷静かつ力任せに外した。お陰で祐巳は自由の身になれたわけだが、三奈子さまはまったく悪びれる様子もない。
「とにかく、サンキューでしたぁ」
そう言って機嫌よく部室の奥に戻っていく姿を目で追いながら、真美さんが笑った。
「さっきまで|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》がここにいてね、お姉さまとおしゃべりしていたのよ。それが余程|嬉《うれ》しかったんでしょ」
「待ってよ。私、関係ないじゃない」
だったら、祥子さまと令《れい》さまの手柄である。妹まで感謝されることはあるまい。
「そうね。でも、うちのお姉さまが祐巳さんのお陰だって思っているわけだから、それでいいじゃない」
そういうもんだろうか。何か腑《ふ》に落ちないけれど。
「それより、うちのお姉さまやっぱり来てたんだ」
「うん。でも|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》と一緒にクラブハウスを出ていったわよ。ずいぶん前だけれど」
「その後どこに行く、とか」
「ごめん聞いてない」
「だよね」
新聞部の部室にいないということがわかっただけよし、と思おう。
「祐巳さん、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》を捜しているの?」
「うん、まあね」
祐巳は、少し開いていたドアを押しながらうなずいた。
さて、次はどこを探しにいこうか。
こうなったら、お姉さまがつけた足跡を追いかけてみよう、と思った。
目撃されたのはずいぶん前だとしても、その場所に二度来ないとも限らない。犯人は事件現場に現れるものだ、ということだし。
けれど、ミルクホールに行ってみたら、すでに閉まっていて中には入れなかった。
ま、そんなこともあるだろう。ちょっと頭をかいて、気を取り直して、よし、次行ってみよう、ってな具合である。
目撃情報はなかったけれど、ここまできたのだからと、道を外れて古い温室まで足を伸ばしてみることにした。
足を踏み入れると、室温は外気より少し高いように感じられた。今日は天気がよかったから、日差しが温室内の空気を温めたのだろう。中は五月くらいの陽気である。
誰が植物たちの面倒をみているのか知らないが、いつも清潔《せいけつ》に保たれていて、気持ちのいい空間だった。人の気配はない。たぶんさっきまでここにいた『妖精』も、今日はすでに下校したようである。
ゆっくり歩いて、目的地で立ち止まる。ここは、ロサ・キネンシスの木が植えられている場所だ。
一年生の学園祭の前日、泣きながら走っていった祥子《さちこ》さまを追って、祐巳《ゆみ》はこの温室にたどり着いた。入ったのは、初めてだった。
(あの時は)
思い出して、クスリと笑った。ギンナン王子こと柏木《かしわぎ》さんは、叩かれて痛いわ、ギンナンの上で転ばされて臭《くさ》くなるわで散々な目に遭《あ》ったんだっけ。で、そんな目に遭わせたのが、祥子さまと祐巳。今となってはもう笑い話だ。あの日から、ずいぶんと遠くまで来てしまった気がする。
(そう)
あの時、祥子さまは奥の棚に座っていた。祐巳は祥子さまの隣に置いてあった鉢植えに退いてもらって、そこに腰掛けたのだった。
(ちょうど、あの辺り)
振り返ると、その棚はあの日のままそこにあった。祥子さまはいないけれど、ちゃんと二人が座れるだけのスペースがある。
懐かしくなって、祐巳は近寄ってみた。あの日並んで座った棚の上で、初めて祥子さまと心が重なった思いがしたのだ。
「あれ……?」
祐巳は、棚の上に輪染みのような跡を見つけた。直径十五センチほどであろうか、濡《ぬ》れたようにそこだけ他より濃い色がついているのだ。あの時二人が座っていた、ちょうど真ん中あたりに。
このマークには見覚えがあった。すぐ横の棚の上にあった鉢植えを持ち上げてみると、そこに大きさは違うがほぼ同型の形が現れた。ということは、以前、ここには植木鉢が置いてあったということである。それも空《から》の鉢ではなく、土が入っていて、尚《なお》かつ植物も植えられていたはずだ。ちゃんと水やりをされていたから、鉢のお尻が湿っていたのだ。
「わっ」
突然|団子虫《だんごむし》が出てきて鉢の側面を駆け上ったので、思わず声をあげた。びっくりしたのは、団子虫も同じだったろう。ごめんね、とつぶやいてから、持ち上げていた鉢植えを元の位置にそっと下ろした。
(それにしても)
祐巳はキョロキョロと辺りを見回した。ここにあったはずの鉢植えは、今はどこにあるのだろう。
捜し物はすぐに見つかった。祐巳の上履《うわば》きから約五十センチくらい離れた床に、それはあった。底の大きさが染みのサイズに匹敵《ひってき》する植木鉢だ。
植えられていたのは、葉っぱは松っぽいのに、姿はおよそ盆栽《ぼんさい》らしくない植物だった。普通の素焼きの鉢に植えられていて、剪定《せんてい》っていうのかな、枝や葉っぱを切りそろえるような作業がまったくなされていない、自由に三十センチ伸びました、みたいな木だ。土に挿《さ》さった小さなプラスティックのプレートに片仮名で「ゴヨウマツ」と書かれていたから、やっぱり松の仲間らしいけれど。
ちょっと重いが、確認のために「よいしょ」と持ち上げてその染みの上に載せてみると、その形は印章《いんしょう》と印影《いんえい》みたいにピッタリ合った。
だからこの鉢植えは、ついさっき、少なくとも一時間くらい前まではここにあったわけである。いや三十分前でも堅いかもしれない。
誰が、何のために、置き場所を変えたのだろう。
「お姉さま……?」
祐巳は鉢植えを見た。それはロサ・キネンシスはおろかバラ科の植物でもなかったけれど、確かに祐巳に囁《ささや》いていた。
祥子さまが来たよ、祥子さまが来たよ、と。
「ありがとう。あと、何度も動かしちゃってごめんね」
鉢を元の棚に戻して、祐巳は古い温室を出た。
クラブハウスを出た後、祥子《さちこ》さまは令《れい》さまと別れた。
令さまは教室のある棟まで一緒に戻る気だったけれど、祥子さまは「用があるから」とでも言って、一人古い温室へとやって来たのだろう。
どれくらいそこにいたのかはわからないが、ゴヨウマツの鉢植えに席を譲《ゆず》らせたわけだから、棚に座ってぼんやりするくらいのことはしたはずだ。祐巳《ゆみ》のように、あの日のことを思い出していたかもしれない。
古い温室に、特別用事があるとは思えない。強《し》いて言うなら、祥子さまにとって古い温室に来ること[#「古い温室に来ること」に傍点]こそが用事であったのだろう。
祐巳は想像した。祥子さまは、もしかしたら思い出をたどっているのではないか、と。
一年前の聖《せい》さまが、教室にお別れをしていたみたいに。
蓉子《ようこ》さまが、やってみたかったことを片っ端からやっていたように。
江利子《えりこ》さまが、由乃《よしの》さんと言いたいことをぶつけ合ったことも、友達同士が教室でパーティーをして盛り上がることも、部活の後輩に記念写真を撮らせることも、みんな正しく卒業するために必要な儀式なのだ。
ならば、次はどこへ行ったらいい?
祐巳は歩いた。当てはあるような無いような。足の向くまま気の向くまま。たぶん、お姉さまだってそうして歩いたはずだから。それでいいんだ、って気になった。
途中で祥子さまに会ったらどうしよう。
やっぱり、一人がいいのかな。一緒に歩くのはお邪魔《じゃま》かな。
(でも)
このリボンがあるから。自分は呼ばれた人間なんだって、思っちゃおう。もともと、祥子さまを捜しにきているんだから、挫《くじ》けちゃいけない。
校舎を右に、図書館を左に眺《なが》めながら、歩いた。グラウンドへと続く道。
けれど、グラウンドまで行かないで手前を右へ折れる。
体育館が何か賑《にぎ》やかだな、と思ったら、卒業式の会場準備に先生方が残っているのだった。椅子出しは昨日一年生たちがやったけれど、紅白垂れ幕を掛けたり、式次第を貼ったり、国旗や校旗を出したり、あと諸々細かい作業なんかが残っているのだ。
「もう少し右下げて」
「あれ、これ上下逆じゃない?」
「去年の資料ありましたー」
床近くの細い窓や開け放たれた出入り口から聞こえてくる会話に耳を傾けると、どうやら先生方に混じって何人か生徒もいるようだ。たぶん、麺《めん》食堂の食券か何かをもらってお手伝いさんを引き受けたのだろう。
中の喧噪《けんそう》とは打って変わって、体育館の裏は相変わらず人気《ひとけ》がなく静かな空間だった。
「やっぱりいないか」
今日は『体育館裏で待つ』はなかったから、お姉さまが待っているはずはないのだ。でも、祐巳はうつむいてほほえんだ。
体育館と体育倉庫に挟まれた狭い空間には、まばらではあるがうっすらと土埃《つちぼこり》が積もっている場所がある。そこに祐巳は、自分以外の真新しい足跡を見つけたのだ。試しに、そのすぐ横に立ってみたら、ほぼ同じような足跡がついた。
おまけで先にあった足跡に自分の上履《うわば》きを重ねてみたら、大きさはピッタリだった。
「犯人は、足のサイズが二十三センチです」
女の子としては平均的なサイズに入るけれど、薔薇《ばら》ファミリーの中では祐巳ともう一人しか当てはまらない。――誰であろう、小笠原《おがさわら》祥子さまである。
犯人の足取りをつかんだから、もういい。再び体育館の前を横切って歩いていると、中から鹿取《かとり》先生が出てきた。
「あれ、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》も」
祐巳の姿を見て、そうつぶやいた。いつもは「福沢《ふくざわ》さん」と呼ぶのに変なの。それに最後の「も」って何だ? 勢いで出ちゃっただけだろうか。いろいろ疑問は残るものの、取りあえずは挨拶《あいさつ》する。
「お疲れさまです」
「うーん。疲れてるの。よかったら、手伝っていかない? ケーキとコーラで」
「ケーキ?」
麺食堂の食券じゃないんだ。
「今から買い出しにいくところ」
鹿取先生は、手に持った黒い財布を振り回した。
「ケーキといっても、コンビニのだけどね。一軒じゃ人数分には足りないだろうから、梯子《はしご》するの」
裏門から出て、塀に沿ってぐるっと回って正門までにあるコンビニのケーキをすべて買い尽くしてやる、と意気込んでる。
「豪勢ですね」
「スポンサーがついたから」
「スポンサー?」
「渥美《あつみ》先生が、軽いぎっくり腰になっちゃって、使い物にならなくなっちゃったの。無理すると明日の卒業式に出られなくなっちゃうでしょ? だから私にお財布渡して、これで何とか、ってね。あ、内緒よ。他のみんなには」
まあ、教師が何かをお金で解決しようっていうのは、確かに外聞がよろしくない。しかし、腰痛で苦しんでいる渥美先生はお気の毒だから、ここは胸にしまっておいてあげよう、と思った。
「で、どうする?」
どうする、とは、ケーキで労働を請け負うかどうかを問われているのであろう。
「せっかくですが」
丁重《ていちょう》にお断りした。
「姉妹してつれないな。断り方も|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》にそっくり」
「恐れ入ります」
なるほど、だから祐巳は「| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》」であり、語尾に「も」がついちゃったというわけだ。
「でも先生。私はともかく、うちのお姉さまは明日の主役ですから。お手伝いさんにスカウトするのはどうかと――」
「あ、そうか」
すっかり忘れていた、といった感じで手を叩いた。渥美先生のお財布が邪魔をして、いい音が出なかったけれど。
「小笠原さんなんか、つい最近入学してきた感じなのにな」
年を取ると時間がどんどん速く進んじゃうんだ、って、鹿取先生は言った。それを聞いて祐巳は、自分は今だってそう感じるんだから、先生くらいの歳になったら目が回っちゃうんじゃないかと思った。
「寂しくなるね」
「はい」
うなずいたけれど、今は寂しさにひたるような、そんな気分じゃなかった。
鹿取《かとり》先生とは、昇降口の前で別れた。
「おや」
福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》選手、校舎に入ると思いきや、一旦《いったん》道を引き返して銀杏《いちょう》並木の方に大きくコースを変更しました。この先の分かれ道には、マリア像の置かれた小さなお庭があります。そこを目指しているのでしょうか。
(もちろんです)
思い出をなぞるのであれば、ここはやはり外せない。
祥子《さちこ》さまが、最初に声をかけてくれた場所。
学園祭の後夜祭で、初めてロザリオを掛けてもらった場所。
祥子さまに見守られて、瞳子《とうこ》と姉妹《スール》になった場所――。
(おっと)
福沢選手は、突然足を止めました。目的地までは距離があるようですが、ここでその先に行くのを断念した模様です。
マリア像の前に、先客がいたのだ。
人影は二つ。
最初は、下校する生徒がマリア様にお祈りをしているのかと思った。ならば、終わるまで少し待てばいいわけだけれど、それにしては様子が違った。
二人は並んでマリア様に手を合わせているわけではなく、向かい合って互いの顔を見つめている。そして片方がポケットに手を入れ、おもむろに何かを取りだし――。
遠すぎてその取りだした物が何だかわからなくても、その後の仕草で何が行われているかは明らかだった。
今、まさにロザリオの授受が行われた、姉妹《スール》が誕生したところだった。
そうとわかったからには、終わるまで待っているなんて無粋《ぶすい》なことはしない。「どうぞごゆっくり」と心の中でつぶやいて引き返した。
がんばれ、新米姉妹。
これからいろいろあるだろうけれど、負けるな。
泣いたり怒ったり口をきかなくなったりしても、その手さえ放さずにいれば、きっといつかはわかりあえる。
誰かに不意に、お姉さまを、妹を「好きか」と聞かれても、迷わずうなずけたなら、大丈夫、相手も同じ気持ちのはず。
――と、レース経験者の福沢選手は思うのだ。
上履《うわば》きについた土を拭って、校舎に入った。
そろそろお姉さまが戻っているかもしれないから、もう一度三年松組に行こうかと思案しつつ歩いていたら、事務所の前に由乃《よしの》さんがいた。
もっと詳しく説明すると、事務所の前にある黄緑色の公衆電話の前に、こちら側に背中を向けて立っていた。――どこかに、電話をしているらしい。
別に待っていることもないので、スルーしようかと思ってたんだけれど、すぐに受話器がフックに戻された。
ため息をつきながら振り返る由乃さんは、祐巳《ゆみ》の姿を見つけると、
「うわっ!」
――と、仰《の》け反《ぞ》った。
でもって、その反応があまりに大きかったので、祐巳もびっくりして「うわぁ!」と声をあげた。
「……何なのよ。驚かせないで」
「そりゃ、こっちのセリフだよ」
由乃さんはコートも着て鞄《かばん》も持っていたから、今から帰るところなんだろう。けれど祐巳が薔薇《ばら》の館を出てから、もう結構な時間が経っている。その間、由乃さんは何をしていたんだろう。二階でお茶とか飲んで、みんなでおしゃべりしていたのかな。
「祥子《さちこ》さまには? 会えた?」
「ううん。……って、何で知ってるの」
「エスパーだから」
出ました、桂《かつら》さんに続いて今日二人目の超能力者宣言。
「というより、どうせ私の顔に書いてあったんでしょ」
騙《だま》されないぞ。顔に書いてあったから、さっきだって「もういいからさっさと行きなさい」って感じで、送りだしてくれたんでしょうが。
昔から、祐巳は考えていることがすぐ顔に出るたちだ。相当な年季が入っているから、そう簡単に治るものではない。
「うーん。まあ、急用ができました行かせてください、的なことは書いてあったかな」
由乃さんは笑って、それから「エスパーなのは」とつけ加えた。
「瞳子《とうこ》ちゃんなんだよね」
「瞳子?」
瞳子がエスパー? なんじゃ、それ。
「そ。瞳子ちゃんが、言ってたの。祐巳さんの用事は祥子さま関係のことだ、みたいなことをさ」
「そうか」
瞳子にはわかっちゃったんだ。祐巳は、驚かなかった。ふーん、って。妙に納得できたりして。
「でも、本当はエスパーでも何でもなくて、ただの妹なんだよね」
それってすごいことだな、って由乃さんは言った。
「それで、瞳子は帰ったの?」
「たぶん。でも、ごめん。私のほうが先に薔薇の館出たから、絶対とは言えない」
「いいよ、聞いてみただけ」
首を横に振りながら、祐巳は、じゃあ由乃さんはどこで何をしていたのだろう、って本格的にわからなくなった。
「私、これから中等部校舎に行ってくる」
「え、あ、そう」
何しに行くかは聞くだけ野暮。由乃さんは、有馬《ありま》菜々《なな》ちゃんに会いにいくのだ。エスパーじゃなくてもわかることだった。
「行ってらっしゃい」
何か戦場にでも赴《おもむ》くみたいな表情と姿勢だったから、深くは聞かずに手を振った。その時祐巳は、さっき薔薇の館を出る時に何も聞かず送りだしてくれた親友たちの心に、一瞬だけ重なり合った気がした。
10[#「10」は縦中横]
三年松組教室の前に着いた時、祐巳《ゆみ》は狼狽《うろた》えた。
教室に、電気がついていない。
それは、廊下からでもわかることだった。
午後三時半を過ぎて、陽は大きく傾いていた。隣の教室では、煌々《こうこう》と電気が点っている。
まさか、パーティーが終わってしまったなんてこと――。嫌な予感がした。それでもただ立っているだけでは埒《らち》があかない。ノックのための拳を作って、扉の前に進んだ。
すると、背後から「何かご用?」と声がかかる。振り返ると、たぶんこのクラスの生徒だろう、三年生が立っていた。
「あら、福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》ちゃん」
ちょっと待ってね、といった感じで、教室の扉を開けて中に入っていく。さっきこの教室で行われていた、パーティーの参加者ではなかった。
「祥子《さちこ》さん、帰っちゃったみたいよ。鞄《かばん》ないし」
すぐに戻ってきたその人は、祐巳にそう報告した。祥子さまの机周りを見てきてくれたらしい。
嫌な予感は的中した。
扉から覗いた教室内には、今入室した彼女の姿しかなかった。いくつもくっつけて大きなテーブルのようにしていた机も元のように直され、今は何事もなかったように整然と並んでいる。黒板に何かメッセージなりとも残っていないか、と目をこらしたが、残念ながらそれらしい文字は何一つ書かれていなかった。
「ご覧《らん》の通り、私も出ていて今戻ってきたばかりだから、祥子さんがいつ頃帰ったかまではわからないわ」
立ち去らずに教室の中に視線を漂わせる祐巳に、その人はすまなそうに告げた。
「いいんです。ありがとうございました」
頭を下げて、廊下を歩き出した。
祐巳が来たことを伝えて欲しいと伝言を残しておいたけれど、請け負った人たちだって、ただそれだけのために帰宅せずに残っているわけもない。第一、そんなことまでしてもらったら、頼んだほうが申し訳なくて困ってしまう。
だから、この結末はどこも間違っていない。
敗因があるとしたら、祐巳の判断ミスだ。
教室で待っているように助言されたのに、外に探しにいった。クラブハウスやミルクホールで見つからなかったらすぐに戻ればよかったのに、古い温室や体育館裏、果ては銀杏《いちょう》並木のマリア像のほうまで足を伸ばしてしまったことも。
パーティーが、いつまでも終わらずに続いているわけはなかった。
そんなことさえ、気づかずにいた。
(帰ろう)
とにかく、一度|薔薇《ばら》の館に戻って荷物を持って、家に帰ろう。
そうだ。
急げば、もしかしたらバス停あたりで祥子さまと会えるかもしれない。
折れそうな気持ちを奮い立たせて、小走りで足を進める。ともすると、その場でしゃがみ込んでしまいそうだった。
さっき薔薇の館を出た時は、こんな結果を抱えて戻ってくるとは思っていなかった。何の根拠もなく、どこかで祥子さまに会えると信じていたのだ。
人間の勘《かん》なんて、大したものではない。
薔薇の館の玄関扉を開けながら、祐巳は小さく笑った。
そういえば、と振り返る。思い出の場所といったらここもそうだ。
一年生の秋、蔦子《つたこ》さんにそそのかされて、祥子さまに会いにやって来た。そうそう、中になかなか入りづらくてグズグズしていると、クラスメイトだった志摩子《しまこ》さんが声をかけて案内してくれたのだった。
ギシギシと音をたてる木造の階段も、明かり取りのはめガラスも、何もかもが祐巳の目には珍しく映ったものだ。
階段を上りきって右手に曲がると、廊下の先にビスケットのような扉が現れる。志摩子さんに続いてこの扉の前までやって来た時、中から大きな声が聞こえてきたのだ。
(横暴ですわ! お姉さま方の意地悪!)
あれが祥子さまの声だって知った時は、相当びっくりしたものだけれど。もっとびっくりしたのは――。
祐巳は、ドアノブに手を掛けてゆっくりと回し、手前に引いた。
すると。
「あっ!」
という叫び声とともに、何か勢いよく部屋の中から飛び出してきた。
落ち着いて思い返せば、扉を開く前に向こう側から物音がしたとか、ノブを引いた時にいつもより軽く感じられたとか、開いた瞬間に部屋に灯りがついていたとか、いろいろヒントはあったのだろうけれど、現場では一瞬の出来事だから、それらの情報が有効活用されることはないのだ。
「うわっ!?」
飛び出してきた「何か」が人だとわかった瞬間、祐巳は身体の全面に軽い衝撃を受けた。ついで視界が傾《かし》ぎ天井が回って、その後すぐにお尻に激痛が走った。
記憶って、再生するだけで痛いものだっけ?
あの日とまったく同じといっていい災難に遭《あ》って、祐巳の思考能力もまたぶっ飛んだ。
胸からお腹あたりにかけての「むぎゅ」っていう圧迫感も、顔に覆《おお》い被さった自分以外の長い髪も、何もかもそっくりそのまま再現されている。
例《たと》えば、映画とかでこんなシーンがあると、主人公は過去にタイムスリップしたりするものなんだよな。それで、会いたい人に会いに行ったり、後悔していることをやり直したり、伝えるべきことを伝えに行ったり、時には歴史を変える偉業を成し遂《と》げたりするもので。
じゃあ今身を起こすと、そこは一年半前の世界になっているのだろうか。
(大丈夫!?)
すぐ側で、志摩子さんと蔦子さんが心配そうに見守り、騒ぎに気がついた前薔薇さまたちが部屋の中からゾロゾロと出てくる。
(あーあ。ずいぶん派手に転んじゃったわね)
(え、祥子の五十キロに押しつぶされちゃったの? 悲惨ー)
(おーい。被害者、生きてる?)
令《れい》さまと、その陰《かげ》に隠れるような由乃《よしの》さんの姿もきっとある。
懐かしい光景。懐かしい――。
「祐巳、大丈夫!?」
揺り起こされて、顔を見ると、それはやはり祥子さまだった。
「あ、いけない。頭打っているかもしれないから、動かしてはいけない、って令が言ってたのだった」
「あ、大丈夫です。お尻を打っただけだから」
慌《あわ》てて起き上がって周囲をキョロキョロ見てみたが、その令さまの姿はないし、他にも誰もいなかった。
「本当に大丈夫?」
「ええ」
うなずくと、祥子さまは不安げな表情をゆるめ、やっと穏やかな顔になった。
「よかった」
無事とわかったら、さっさと部屋に戻っていくわけだ。祐巳も、苦笑してお姉さまの後を追いかけた。
どうやら、タイムスリップは起きなかったようである。
「お姉さまは、どうしてここに?」
テーブルの上には飲みかけのお茶が半分ほど入ったカップと、栞《しおり》を挟んだ文庫本が置いてあって、その席だけ椅子が乱暴に飛び出し、他の整然と納まった椅子たちの作り出した秩序《ちつじょ》を乱していた。
「あら、あなたに会いに来たに決まっているでしょう?」
「え?」
「違ったの? クラスメイトが、言っていたわよ。祐巳が教室まで訪ねてきた、って」
祥子さまは背もたれを持って、乱れていた椅子をテーブルの下に戻した。
「……違いません」
それじゃ、パーティーがお開きになる前に祥子さまは教室に戻って、そこで祐巳の伝言を聞いたわけだ。だから薔薇の館まで来てみた、と。祐巳の荷物があったから、お茶をいれて読書しながら待っていたのだろう。
「いったい、今までどこに行っていたの?」
その口調には「お姉さまを待たせておいて」という含みが見え隠れしていたので、「お姉さまを捜しにいっていました」とはとても言えなかった。
「散歩、ですかね」
祐巳は、苦し紛《まぎ》れにそう答えた。もちろん、お姉さまを捜しながらいろいろな所を歩き回っていたのだから、嘘《うそ》ではない。
祥子さまは、ただそっけなく「そう」とつぶやいた。どこを歩いていたかまでは、追及してこなかった。
「そうだ。これ」
祐巳は思い出して、黒いリボンをポケットから出した。
「ああ。ちゃんと見つけてくれたのね」
そう言って笑うわけだから、やっぱりわざと隠したらしい。
「いらないから私に返した、なんてことは」
「まあ、ずいぶんと刺々《とげとげ》しい意地悪を言えるようになったものね。本当にそう思ったら、私に届けに来ないでしょうに」
祥子さまは、祐巳の手から黒いリボンを当然のように摘《つま》み上げた。
「それにしても、一度だけでなく二度もなんて。こんなことも、あるのね」
ビスケット扉を振り返って言う。祥子さまもまた、一年半前に同じような事故があったことをちゃんと覚えていたようだ。けれど。
「あなたったらなかなか帰ってこないし、正直待ちくたびれたわ。それでやっと階段を上る音が聞こえてきたものだから見にいったら、私がノブに手を掛けたと同時に向こう側から勢いよく開ける人がいるのですもの」
困ったものだわ、と、まるで自分のほうが被害者みたいな言い草である。
でも。
負けず嫌いで、高ビーで、ヒステリーで、自己中心的で、我がままで、可愛くて、やさしくて、情が深くて、綺麗《きれい》で、挙《あ》げだしたらきりがないけれど、そんなお姉さまのことが祐巳は大好きなのだった。
「まったく、あなたって子はいつだって落ち着きのない――」
そこまで言ってから祥子さまは、はたと気づいたように苦笑して首を横に振った。
「いいえ。落ち着きのないのは、今回は私のほうだったわね」
その通りですよ、って言いかけて、でも言えなかった。下手《へた》なことを言うと、涙があふれてしまいそうだ。
「祐巳?」
「あの日と同じ場所なのに」
本当に、二人はずいぶんと遠くまで来てしまった。
ほら、言わんこっちゃない。涙腺《るいせん》の蛇口《じゃぐち》が壊れてしまった。でも、それが何のために流れた涙なのかはよくわからない。
「そうね」
祐巳の頬に触れながら、祥子さまは言った。
「祐巳はあの頃に帰りたい?」
「え?」
何を尋ねられているのか、すぐにはわからなかった。あの頃に帰りたい? 帰れるわけはないのに。
「私はね」
祥子さまは一度天井を見上げてから、つぶやいた。
「懐かしくは感じるけれど、帰りたくはないわ。あれから一年半経った今のほうが、ずっといいの。いろいろあったけれど、それらの月日を経て今の祐巳を手に入れたのだから。もし今神様に一年半の時間を好きに使っていいと与えられたなら、だから迷わず未来のために使うでしょうね」
ああ、そうだ。その通りだ、って祐巳も思った。
「私も今のお姉さまのほうがいいです」
あの頃に戻ってしまったら、今まで積み重ねた日々が夢になってしまうだろう。そんなの嫌だ。今ここに、目の前にいるお姉さまでなくっちゃだめだ。
すると、祥子さまはこの上もなく美しい笑顔を見せて言った。
「白状するわ」
「はい?」
「もう祐巳にはばれてしまっているでしょうけれど、リボンを隠したのは、祐巳と二人きりで会いたいと思ったからよ。だったら直接祐巳にそう言えばよかったのでしょうけれど、呼び出す口実がみつからなかったの」
「口実……」
「自分でもよくわからなかったの。どうして祐巳に会いたかったのか。姉妹《スール》なんですもの、ただ『会いたい』だけでも会えるはずなのに。おかしいでしょう? なぜか、会いたい理由があった気がして」
祥子さまが言わんとしていることが、祐巳にはちゃんと通じた。
だって、祐巳もまたなぜだかわからなかったけれど、リボンを見て、「お姉さまに会わなければならない」って思ったから。
ただ、会いたいだけじゃない。会って、何かするべきことが、二人にはある気がした。
「今、わかったわ」
祥子さまは左右から黒いリボンを引っ張って、目の高さまで上げた。
「それじゃ、まるで『写真に写っちゃいけない人』みたいですよ」
ちょうど目の位置に黒いラインが来てたから、祐巳は思わず笑った。
「本当ね」
祥子さまも唇《くちびる》の端を上げた。
「もう、冗談ばっかり」
祐巳は、祥子さまの手を取ってそのまま下ろした。するとそれと同時に、現れた祥子さまの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お、お姉さま……」
思わぬ事に狼狽《うろた》えて、祐巳の手の平は祥子さまの手の甲から滑り落ちた。けれど、何がどうなったのか、落下した右手がリボンを巻き込み、お姉さまの左手とまるで手錠のようにつながってしまった。
「祐巳に会いたい。会いに来てもらいたいわけが、わかったのよ」
右手はリボンを放して自由になっているのに、祥子さまは涙を拭《ぬぐ》わなかった。
「私は、明日の卒業式では泣かないわ」
泣きながら、お姉さまが言う。
「はい」
祐巳はうなずいた。左手は空いていたけれど、やはりそれを目もとや頬《ほお》に持っていこうとは思わなかった。
この左手は、自分の涙を拭くためにあるのではない。
大切な人を、しっかりと抱きしめるために存在しているのだ。
「だから、明日泣かない分、今日は祐巳の前で思う存分泣きたいと思ったのだわ、きっと」
二人は空いている手で、お互いの身体を引き寄せた。
黒いリボンが、二人の手首に巻きついて離れない。
触れあった場所から、お姉さまのぬくもりが伝わってくる。
二人の涙が混ざり合って、制服を、床を濡らしていく。
祐巳も、今わかった。
こうして抱き合って泣くことこそが、二人にとって必要な儀式だったのだ。
[#改ページ]
あとがき
作品のイメージからか、私はゲームとかまったくやらなそうに見えるらしいのですが、そんなことはありません。
とはいえ、新しいゲーム機が販売されたら並ぶとか、出たら必ず買うゲームソフトのシリーズがあるとか、そんなことは全然ないので、「まったくやらなくはないけれどそんなにはやらない」、でも「ゲーム機は四台持っている」というその程度のレベルです。そしてその四台とも、一つの機械に一つのソフトがささりっぱなし状態(専用機か?)で、最近とんとご無沙汰《ぶさた》しています。――仕事が詰まっていると、彼らと遊んでいられませんからね。
こんにちは、今野《こんの》です。
冒頭で書こうとしていた何かが、ふと気を抜いた瞬間に記憶のざるの編み目からこぼれ落ちてしまって、まるで風に飛ばされた紙切れのように飛んでいって、待っていても戻ってこないので、取りあえず頭に浮かんだことを書いてみました。とにかくあとがきを書き上げないと、(基本)本にならないからね。
でもって、弾《はず》みがついたのでゲームの話を少々。
私が好むゲーム(電気で動かして遊ぶやつね)の傾向っていうのを分析した結果、以降のようになりました。
○単純なゲーム
○徐々《じょじょ》にレベルが上がっていくゲーム
○やめたい時にちゃんとセーブができるゲーム
○一人でやる(けれどプレイヤーは複数登録できる)ゲーム
○過去のスコアを記録し、それを超えると記録を上書して讃《たた》えてくれるゲーム
――と、ま、だいたいこんな感じ。
全部クリアするのは難しいかもしれないけれど、この条件が多く揃《そろ》っていればいるほど、私がはまる確率が上がる気がします。
そんなわけで、大好きなゲームなのになぜこうしてくれなかったの、ってこともよくあります。例えば、始めたら最後、セーブができない(一時中断はできるけれど、電源は落とせない)とか。その場の一回限りのゲームで、過去の自分の記録を超える楽しみが味わえない、とか。
先に書きましたように、単純なゲームほど好きなので、メインじゃなくておまけでついているゲームに夢中になることがよくあります。たとえば、『ドンキーコング』のフィッシングとか(私はかなり上手にサルに魚を釣《つ》らせることができます)、『もっと脳トレ』の細菌撲滅《さいきんぼくめつ》(一時期、細菌を退治したいがためだけに川島《かわしま》教授に会いにいってました)とか。
思いの外《ほか》ゲームの話を長く書いてしまったので、この辺で今回の作品について触れておきましょう。
サブタイトルは「卒業前小景」です。漢字五文字を見ての通り、卒業前の小さな景色(説明無用ですね)。イントロにもありますように、卒業前はそりゃいろいろあるもの。送るほうも、送られるほうも。小さなドラマを集めた、というと短編集みたいだけれど、『バラエティギフト』をはじめとした一連の短編集とは形式が違います。章ごとにキャラクターの視点は変わりますが、物語は一つですから。
別れの直前ですので、どうしてもしめっぽい話が多いかもしれません。みんな悩んだり、迷ったりもしています。うーん、好き嫌いが別れそうな物語、ですかね。
さて。この夏(2008年8月)に、台湾《タイワン》へ行ってきました。
『マリア様がみてる』の台湾版を出してくださっている台湾の出版社のご招待で、二泊三日。イラストレーターのひびき玲音《れいね》さんもご一緒です。
メインは、台北《タイペイ》で行われた漫画博覧会というイベントの中でのサイン会です。
漫画博覧会っていうのは、大――きなイベント会場に、いくつものブースや舞台が設置されていて、そこでさまざまな(たぶん漫画やアニメやライトノベルやフィギュアなんか……見物できなかったので正確じゃないかもしれないけれど)催《もよお》しが繰り広げられているのです。コミケみたいなものですか、と質問したところ、こちらは同人誌関係の参加はない、ということでした。なるほど。
台湾のサイン会は、日本のサイン会とはひと味もふた味も違って面白《おもしろ》かったです。
まず、サイン会場には舞台があります(イベントの一環だったからかもしれないけれど)。そこで、司会者やアシスタントさん(リリアンの制服を着用)が前説のようなことを行い、お客さんを温めます(まるで公開バラエティ番組のようです)。具体的に何をやるかといいますと、「ごきげんよう」の練習とか、「もっと盛り上がらなきゃ、先生たちは出てこないぞー(というようなことを言っているらしい)」と言ってテンションを上げさせたり。しかし、舞台すぐ横に設置された控え室にいる私たちには丸聞こえ。時折出てくる日本語の単語以外はわからないのですが、熱気だけは伝わってきます。
というわけで、サインする側(ひびきさん、私、通訳さん、コバルト編集部)は舞台に上がり、そこでサイン会が始まります。台湾のサイン会では本にサインをしないそうで、大概はイラストのついた色紙にする、とか。しかし今回のイベントで使用した色紙は、ジャジャーン、透明の樹脂《じゅし》でできていました(紙じゃないから、色紙っていうのも変ですが)。いつもと勝手が違うので慣れるまで大変でしたが、本のように「開く作業」がないのは楽でした。書いている間に閉じないよう、押さえている必要もないしね。でも、ペンがすぐにかすれてしまうので、ペン先をトントンとメモ用紙に押しつけてインクを出しながらサインをしました。白い紙がどんどん金色の水玉模様に変化していく……。あ、ちなみにペンのインクはゴールドでした。
サイン会に来てくださったお客さまは、皆さん明るくて元気(前説の効果か? お国柄か?)。日本語をしゃべってくださる方も多くいらして、助かりました。もちろん、通訳さんを通して会話ができるのもありがたいです。
こういう機会があると、行った先の言葉ができたらどんなにいいだろう、と思います。私が使えたのは、ありがとうの「謝謝《シエシエ》」とごきげんようの「平安《ピンアン》」だけ。ホント、申し訳なく思います。ドラえもんの「ほんやくコンニャク」が本気で欲しいです。
ちなみに『マリア様がみてる』は『瑪莉亞的擬望』と表記されています。私の名前は漢字そのままでしたが、ひびき玲音さんは『響 玲音』さん、になってました。
サイン会の他には、メディアインタビューがあったり、ラジオ番組に出演したりとかしてきました。すべて一日でこなしたので、まるで芸能人にでもなったみたいな気分でしたよ(笑)。
サイン会に来てくださった皆さん、スタッフの皆さん、ありがとうございました。――と、お礼の言葉をここで書いても、この本が台湾版になるのはもっと先なので、届くのは何年後になるかわかりませんね(私の手もとにすでに届いている台湾版は『いとしき歳月』の後編で、サイン会用色紙のイラストは『パラソルをさして』でした)。
まだちょっとページがあるので、近況など。
雑誌Cobaltでちょこっと書きましたが、最近ぬか漬けを始めました。キュウリ、ナス、ニンジン、ダイコン、カブ、セロリ、オクラ、ヤマイモ、アスパラガス、ミョウガ、ウリ、ズッキーニ……いろんな物を漬けました。八月中はヘビーに働かせ過ぎて、ぬか床が「疲れました」と訴えたので、今は少し休ませています(野菜を漬けないで時々かき混ぜる、するとまた元気になる、らしい)。もうそろそろ再開しようかな、と考えています。
かき混ぜると手にぬかの匂いがつくのは仕方ないこと。ただ、マニキュアはタブーなので、つけて出かけても、帰ったらすぐに落とします。世の中にはぬか味噌《みそ》をかき混ぜてくれる便利な機械があるのですが、自分の手で触って状態を把握《はあく》したいと思っているので、ひたすら手で混ぜます。
私のぬかは今のところベジタリアンを通しているので、ゆで卵やチーズは入れていません。味に興味はあるので、容器を分けてチャレンジしてみようかな、とは思っています。
もう飽《あ》きたかもしれませんが、夏恒例(?)ヤモリ情報。
この夏、また私の部屋に出ました。ヤモリの子供。二度目撃して、二度外に出そうと試みましたが、夜だったので二回とも見失いました(だって小さくてチャコールグレーなんだもん)。なので、外に出たかもしれないし、出なかったかもしれないし、一匹目が二匹目だったのかもしれないし、一匹目と二匹目は別の個体だったのかもしれません。
なぜ、部屋の中に出没するのか。それも赤ちゃんといっていい大きさの子ばっかり。
姉の推理はこうです。
「エアコンから入ってくるんじゃない?」
確かに、室外機は文字通り部屋の外についてますし、水が出ていくホースは十分すぎるほどの太さはあるし――。去年は「まさかー」って笑い飛ばしましたが、今年は「そうかも」と思い始めています。
それくらい小さかったんですよ、今年見た子は。
無事、外に出ていてくれればいいのですが。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる 卒業前小景」コバルト文庫、集英社
2008(平成20)年10月10日 第1刷発行
2009年02月22日二次?校正(暇な人z7hc3WxNqc)
----------------------------------------
底本の校正ミスと思われる部分
----------------------------------------
底本の校正ミスは青空文庫の方針としては底本のまま打ち込むべきなのですが、本テキストでは読みやすさを考慮してあえて一部を訂正しています。
底本8頁14行 一環教育
一貫教育。訂正済み。
底本35頁1行/14行 瑞枝
瑞絵。訂正済み。
底本65頁7行 さすがは新聞部
内容的に「さすがは写真部」のはず。訂正済み。
底本68頁17行 自分自信
自分自身。訂正済み。
底本93頁16行 ちょくょく
ちょくちょく。訂正済み。
底本96頁16行 上の空にのように
「に」が余分。
底本108頁11行 大かれ少なかれ
多かれ少なかれ。訂正済み。
底本148頁11行 勢い薔薇の館
勢い「で」薔薇の館、では。訂正済み。