マリア様がみてる
薔薇の花かんむり
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一年|椿《つばき》組、松平《まつだいら》瞳子
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)小さいつ[#「つ」に傍点]
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[#挿絵(img/29_000.jpg)入る]
もくじ
お姉さまとロザリオと妹
耳に入ってくる話
ここにはいない
橋を燃やせ
サンタの差し入れ
奇跡の仕事人
ワルツはいかが?
あとがき
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[#挿絵(img/11_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/11_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
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マリア様がみてる 薔薇の花かんむり
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「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは| 翻 《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園《その》。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養《じゅんすいばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
ロザリオの玉を一つ。
指で手繰《たぐ》って、お祈りを捧《ささ》げる。
マリア様。私たちがいつでも正しい行いをすることができますように、お守り下さい。
すると、一つ薔薇《ばら》が咲く。
マリア様。迷える私たちをお導きください。
また一つ。
咲いた薔薇の花を集めてかんむりを作る。
マリア様。
私のお祈りでできた花かんむりを、喜んでもらえますか。
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お姉さまとロザリオと妹
真冬の朝のバスは、たかだか三十分という時間差だけで、体感気温がかなり違う。
それはもちろん、太陽が東から顔を出して間もない時間ということで、東京の空気がまだ温められていないせいと一言で片づけることもできるけれど、ことM駅北口発リリアン女学園経由の循環《じゅんかん》バスの場合のみについて述《の》べるならば、そう単純なものでもないのだった。
試しに七時三十分発のバスと八時ちょうどくらいのバスを乗り比べてみればいい。八時前後の、中等部高等部生徒が登校するピークのバスは、乗車率二〇〇パーセントとも言われ、つり革や手すりにつかまっている生徒たちはもう押しくらまんじゅう状態。自然、熱気もすごい。暖房の吹き出し口付近なんて場所に押し流されたひには、身につけたマフラーや手袋を投げ捨てたくもなる熱《いき》れなのだが、何分《なにぶん》ギュウギュウ詰めなので身動きもできず、ひたすらリリアン女学園前のバス停につくことを待ち続けるしかない。――とまあ、近頃の祐巳《ゆみ》の登校シーンはだいたいそんな感じなわけである。
(うー、寒い)
ではなぜ、今ガランとしたバスの中でちんまりと椅子《いす》に座ったまま震えているのかといえば、お察しのように「いつもより早いバスに乗っているから」にほかならない。にしても、もう少し乗車している生徒の数があってよさそうなものだが、このバスの直前に発車したバスが遅れていた上に停留場に待っていた人たちをすべて飲み込んで発車したため、後発のこのバスは十人あまり乗せただけで出発するはめになったというわけだ。暖房は入っているようだが、こうガラガラではなかなか空気は温まらない。
祐巳は窓ガラスの外を眺めながら、自分の胸もとに手を置いた。手袋とコートと制服分の厚みの下には、小さな重み。ロザリオの先についた十字架は、とっくんとっくんと心臓の鼓動《こどう》に耳を傾けている。
いつもより早いバスに乗ったそのことも、突き詰めればこのロザリオに行き着く。
(……今日こそ、瞳子《とうこ》ちゃんにこれを渡す)
その決心が、緊張や興奮や哀愁《あいしゅう》なんかを総動員して押し寄せたがために、今朝《けさ》はいつもより一時間も前に目が覚めてしまった。昨日はほぼ一日遠出してクタクタだったにもかかわらず、目覚まし時計なしで、である。
目が覚めてしまったものは仕方ない。何しろ「総動員」が邪魔《じゃま》をして二度寝なんてできるわけもなく、祐巳はまだあたりが薄暗い中、リモコンで暖房のスイッチを入れてからもそもそとベッドから抜け出た。この早起きを「今日のイメージトレーニング」だけに費《つい》やすのももったいないので、少し早めに学校に行くことにしたのである。登校ピークを外すことで、いろんな人に「昨日のデートどうだった?」なんて聞かれずにすむと気づいたのは、M駅に着いてからのことだ。
バスが、リリアン女学園の正門前で止まる。開く後方の扉から降りたのは、祐巳を含めて十人で、すべてリリアン女学園の生徒だった。最後尾の祐巳がステップに足を下ろしながら車内を振り返ると、優先席にいた中年女性が居心地《いごこち》悪そうに一人残っていた。
一緒《いっしょ》にバスを降りた九人の中に、特に顔見知りはいなかった。当然|紅薔薇のつぼみ《ロサキネンシス・アン・ブゥトン》である祐巳に気づく生徒もいたが、彼女たちは軽く会釈《えしゃく》をしただけで足早に先を歩いていく。早く登校したのには、各々《おのおの》それなりの理由があるものだ。笑顔で見送って、祐巳もゆっくりと歩き出す。
いつもはキツキツで前後の人と足並みを揃《そろ》えなければならない歩道橋を、自分のスピードでスイスイ歩く。山百合会《やまゆりかい》の仕事で、早く来たりすることはもちろんあるけれど、約束も予定もなく早い時間に登校することはそんなにはなかった。何時までに薔薇《ばら》の館《やかた》に行かなくては、なんて忙しい気持ちは今日はない。
歩道橋の隅に雑草の小さな葉っぱを見つけた。土埃《つちぼこり》がうっすらと溜まった所に、風が運んできたタネが着地したのだろう。まだ空気はこんなに肌寒いのに。歩道橋はほんの少し地面より太陽に近くて、日当たりもいいからなのかもしれない。春は、もうすぐそこまで来ているのだ。
背の高い門をくぐると、前を歩く人の数も多少は増えた。逆方向からのバスで登校する生徒や、徒歩通学の生徒が合流すると同時に、大学生や教職員といった制服以外の人の姿もちらほら見られるようになる。
枝だけになった銀杏《いちょう》の並木道を歩いて行くと、程なくマリア様の像が現れる。いつもはそこに居合わせた何人もの生徒と一緒に、後に控えた人を気にしながら手を合わせるのだが、この分だったら今日はゆったりお祈りできそうだ。
ほら。
今、まさに目の前に一人、生徒がお祈りを終えたところだった。
人の気配か、それとも足音に気づいてか、その生徒はゆっくりと振り返った。まるでスローモーションのようにこちらを向くその人の口は、目と目が合った瞬間、祐巳とまったく同じ形を作った。
「あ」
声になるかならないかの、微《かす》かな音が重なる。口を開けたまま見つめ合う二人。しかし、きっとそれはほんのわずかな時間だったのだろう。
目の前の少女は一瞬の驚きなどなかったかのように、瞬時にほほえみを浮かべて言った。
「ごきげんよう、祐巳さま」
今度の声は、ちゃんと腹から出ていた。
両耳の側で揺れる縦《たて》ロール、勝ち気そうな眉《まゆ》。一年|椿《つばき》組、松平《まつだいら》瞳子。演劇部所属。昨日、祐巳とデートした相手。そして――。
「昨日はどうもありがとうございました」
そうなのだ。こういう時ちゃんとした挨拶《あいさつ》ができるのだ、この子は。
「私が一本前のバスで来たみたいですね。発車する時、次のバスがロータリーに入ってくるのが見えて、乗っていた生徒たちは一斉にため息をついたんですよ。ああ一台待てばよかった、って」
それも、いつもと変わらぬ様子で。
「うん。ガラガラだったよ」
祐巳は遅ればせながらほほえみを作って、前に進み出た。そしてマリア像の前で立ち止まる。瞳子ちゃんの前を通り過ぎる時ちょっぴりドキドキしたけれど、気取《けど》られないように努力した。だって、何だかシャクだから。自分だけが舞い上がっているみたいで、恥ずかしい。
事実、舞い上がってはいるのだ。だって、道々ずっと頭の中に思い描いていた人が、突然目の前に現れたのだから。どうしていいかわからなくなっても、仕方ないのだ。
合わせた手を下におろして振り返っても、まだそこに瞳子ちゃんの姿があった。数歩あるいて手を伸ばせば、届く距離に立っている。
「お待たせ」
祐巳は歩いて隣に立った。胸の十字架が「いいの?」と聞いてきたけれど、瞳子ちゃんの右足と一緒に校舎に向けて歩き出した。
マリア様の前で出会えた今こそ、ロザリオを渡す絶好のチャンスだったかもしれない。でも、祐巳は「違う」と思った。
ロザリオを取り出すには、スクールコートのボタンを外さなければならない。
歩き出した瞳子ちゃんを、一旦呼び止めなければならない。
人目はどうだ。ぐずぐずしている間にも、後方から二人の生徒がこちらに向かって歩いてくる。
でも、そんなことは些細《ささい》なことだ。祐巳は瞬時に理解した。自分が「違う」と思った最大の理由が何であるかを。
だから、たとえば今コートのボタンが留まっていなくて、瞳子ちゃんの足が止まっていて、周辺に二人以外の人の姿が確認できなかったとしても、だめなんだ。
歩きながら、瞳子ちゃんが言った。
「何だか、早く目が覚めちゃって」
なぜいつもより早い時間に登校したのか、という理由らしい。
「ふうん」
気のない相づちを打ちながら、小さくときめく。単に睡眠のサイクルの問題かもしれない。でも、瞳子ちゃんも興奮して、早く目が覚めてしまったという可能性だってある。
昇降口の前で、二人は立ち止まった。校舎の中に入ったら、別の場所で上履《うわば》きに履き替えて別の教室に向かう。言いたいことがあるなら、今だ。
「今日の昼休みに」
そこまで言っただけで、察しのいい瞳子ちゃんには何のことかわかったようだった。
「はい」
小さくうなずいたので、祐巳は「マリア像の前で」とつけ加えた。
立ち話する二人の脇を、生徒たちが歩いていく。ある人は顔も見ずに。ある人は好奇の眼差《まなざ》しで、噂《うわさ》の二人を眺めながら。
それじゃ、と背を向けると「あの」と瞳子ちゃんに呼び止められた。
「お願いがあるのですが」
一年生らしき三人組がおしゃべりしながら通り過ぎたので、瞳子ちゃんは祐巳の耳もとに顔を近づけて囁《ささや》くように告げた。
「その時――」
それを聞いて、祐巳は驚いた。でも、瞳子ちゃんの表情から、聞き間違いでも何でもないってすぐにわかった。
瞳子ちゃんも、同じことを考えていたなんて。
それは一緒《いっしょ》に早起きしたことなんかと比べものにならないくらい、祐巳にとっては嬉《うれ》しい「お願い」だった。
一年椿組、松平瞳子。
演劇部所属。
昨日、祐巳とデートした相手。
――そして、数時間後に祐巳の妹になるであろう女の子。
二年|松《まつ》組教室の扉を開けると、思った通り中にいるクラスメイトの数は少なくて、心なしか室温もいつもより低く感じられた。
「ごきげんよう」
祐巳《ゆみ》はまず、先に登校していた三人と挨拶《あいさつ》を交わした。それから自分の席まで歩いていって、机の上に鞄《かばん》と手提げ袋を置く。手袋を外してコートを脱ぎ、それらを教室後方のロッカーにしまいにいく。再び席に戻って鞄から今日使うノートなんかを出し終えると、あれ、どうしよう。もうすることがなくなってしまった。
「なあに、薔薇《ばら》の館《やかた》じゃないの?」
椅子《いす》に座ったままの祐巳を見て、クラスメイトたちが珍しそうに寄ってきた。
「何となく、早く来ちゃっただけなの」
祐巳が返事をすると、クラスメイトたちは「あら、それは優雅なこと」とコロコロ笑う。聞けば早出常連の彼女たち、自宅と交通機関の関係でどうしてもこの時間帯に学校に着いてしまうらしい。バスなり電車なりを一本送らせると、遅刻の危機にさらされるとなれば、早起きも仕方ないというわけだ。
「毎日のことだから大変だなあ」
祐巳の場合は、M駅を挟《はさ》んでバス二台。道の渋滞なんかもあるから電車に比べて時間が読めなくて苦労することもあるけれど、それでも一本乗り遅れてもよっぽどのことがない限り十分も待てば次のバスが来るのだから、ありがたいと思わなくては罰《ばち》が当たる。
「日常だから、慣れよ」
「そうそう。慣れれば意外に快適」
「通勤通学ラッシュからは外れるし」
口々に言う。優雅なのは彼女たちの方だと祐巳は思った。
「部活の朝練《あされん》とか委員会とかで、もっと早く来ている人たちもいるしね」
確かに。鞄はあるものの、本人の姿が見えない席がいくつかある。『三年生を送る会』が近づいているので、通常は朝練なんて行わないクラブも臨時部活を行っているという話だ。
「ちなみに部活とか委員会とかやっていない人は、みんなが来るまでの三十分間、どう使っているの?」
どうぞ教えてください、と頭を下げる。エキスパートの面々なら、それは上手《じょうず》な時間の使い方を知っているに違いない。
「別に?」
ねえ、と顔を見合わせる三人。
「クリスマスとかバレンタインデーとかが近い時は、編み物したりしていたけれど。今は、そうね。学校に来てから宿題やったり英単語調べたりしているかな」
「そうそう。なにぶん、早起きしなきゃいけないから早寝なのよ。夜より朝の方が効率もいいわよ」
「はあ……」
こういう日に限って、予習も宿題もしっかりやってきている福沢《ふくざわ》祐巳。もちろん、編みかけの編み物などという気の利《き》いた物など持ち合わせていない。いつでも読みかけの本を持ち歩くほどの読書家でもない。
「うー」
時間がない時はいくらでも時間が欲しいと思うのに、こうしてポンと思いがけない時間が手に入ると何をしていいのかわからない。
「祐巳さん、って、つくづく……」
「そうね」
クラスメイト三人は、呆《あき》れたように笑う。無趣味ね、とか思われているに違いない。
「取りあえず、山百合会《やまゆりかい》の仕事があって良かったわね」
本当にその通りなので、祐巳は反論もしなかった。
「いっそ、薔薇の館に行ったら? 何かしら仕事があるでしょ」
「まあね」
『三年生を送る会』は次期薔薇さま主催《しゅさい》であるからして、もちろん仕事ならある。けれど、早出したり残業したりはみんなで計画を立てて行うことになっているのだ。それなのに。
「私が勝手に朝早く行って、仕事なんてしてしまったらどうなるか」
「ああ」
由乃《よしの》さんは「歩調を乱すな」とか「約束破り」とか言って喚《わめ》くだけだからいいにしても、乃梨子《のりこ》ちゃんは祐巳にあわせようと明日から早く登校してくるだろう。単純に暇《ひま》だったから時間をつぶすつもりが、大事《おおごと》になってしまうのは困る。
「本当はお姉さまのところに行きたいんだけれど、この時間じゃまだ来ていないと思うし」
祐巳は机の上に突っ伏した。すると、みんな意外そうな顔をする。
「あら、そうなの? 祥子《さちこ》さまは早めに来ていそうなタイプに見えるけれど」
「用事がなければこんな早くは来ない」
低血圧だから朝は弱い。冬場は特に、身体《からだ》も頭もエンジンがかかるまで時間がかかるのだ。
それでも、遅刻ギリギリで校門に飛び込むようなことは絶対にない。スカートをばっさばさ言わせて、セーラーカラーをひっくり返しながら走ることは、祥子さまの美的感覚に反する、みっともない行為の一つに数えられるからだ。
そうこうしているうちに、徐々《じょじょ》に教室の中にクラスメイトの数が増えてくる。すると先の三人は、意味ありげな言葉を残して各自の席に戻っていった。
「祐巳さんご健闘を」
「へ?」
ご健闘を、って。いったい、何だろう。聞き返そうと振り返る間もなく、どやどやと新たなる生徒の一団が教室に入ってきた。
「あー、祐巳さんいたっ」
一人がそう叫んだと思うと、あっという間に六人のクラスメイトに取り囲まれてしまった。
(あっ)
遅まきながら、「ご健闘を」の意味を理解する祐巳。
「昨日デートだったって噂《うわさ》、本当?」
「どうだった? 相手は例の松平《まつだいら》瞳子《とうこ》さんなんでしょう?」
「どこに行ったの? 私、昨日K駅周辺に行ってみたのよ」
「……えっと」
しょっちゅうこんな目に遭《あ》っているな、と祐巳は自分の成長のなさにほとほと呆《あき》れた。呆れてばかりはいられないので、取りあえず考える。
さて、この状況をどう乗りきるか。
志摩子《しまこ》さんなら、ニッコリ笑っただけで彼女たちの集中攻撃をかわすこともできるのだ。でも、真似《まね》しようとしても、元が違う。引きつった笑いしかできなくて、不気味がられるのがオチだ。
(そうだ。こんな時に相応《ふさわ》しいキーワードがあったっけ)
祐巳の口からどんな言葉がでるだろうかと、ワクワクしているクラスメイトの顔を見ながら「何だっけ?」と考える。真美《まみ》さんに教えてもらった、こういった状況になった時に唱《とな》えればいいという魔法の言葉。
「あのね、あれなのよ」
祐巳は右手の人差し指を立てて、それを振り回した。
「あれ?」
クラスメイトたちは、キョトンと首を傾《かし》げる。
「そう。あれ、あれよ」
あれなんだけれど、なかなか出て来ない。あれは何だったか。知っているけれど、言っちゃいけないというお約束みたいな言葉で。
「くーっ」
ここまで出てるんだけれど。喉《のど》もとを押さえてしかめっ面《つら》している祐巳に、「大丈夫《だいじょうぶ》?」とか「苦しいの?」といたわりの言葉が降ってくる。
「苦しい。言葉が、出てこなくて」
「はあっ?」
一瞬にして一同の表情が心配顔から呆れ顔に変わったのだが、うつむき加減だった祐巳はもちろん気がつかなかった。
「何て言葉なのよ」
痺《しび》れをきらして、聞いてくるクラスメイトたち。しかし、何て言葉と聞かれてもそれが出てこないから苦しいわけで。
「お約束というより、指令? そうだ。ラストに令がついた。ごにょごにょ……令、ふにゃふにゃ令」
「支倉令?」
「違う!」
「|生 類 憐《しょうるいあわれ》みの令《れい》?」
「もっと短い!」
「箝口令《かんこうれい》?」
「それだ!」
「それかっ」
おおーっという歓声の後、その場にいた全員でハイタッチして盛り上がった。
「箝口令じゃ仕方ないわね」
埋もれていた言葉を一致協力して掘り出した達成感も手伝ってか、クラスメイトたちは案外簡単に祐巳を解放してくれた。
輪の中から抜け出ると、扉の前に真美さんと蔦子《つたこ》さんが立ってこっちを見ていた。
「ごきげんよう。今ご登校?」
尋《たず》ねると、そうではないと言う二人。
「いつ助けに入るかってタイミング計っていたんだけれど」
「あれよあれよという間に面白い展開になっていったので、結局は二人並んで見物させてもらうことに」
ね、と笑い合うリリアンかわら版編集長と自称写真部のエース。
「えーっ」
見ていたのなら、助けてくれたっていいのに。面白かったから見ていた、だなんて。
「一人でできたんだから、それでいいのよ」
真美さんに言われて、あれ、そうか。なるほどそうかも、と思った。
「その通り」
カメラを構えながら、蔦子さんもうなずく。褒《ほ》められたみたいで、何だか照れた。
「えへへ。お姉さまの教室行ってくるね」
時計を見れば、ちょうどいい頃合い。そろそろ高等部生徒の登校時間も、ピークにさしかかるところだ。
「はい、いってらっしゃい」
二人の友人の言葉と小気味良いシャッター音を聞いてから、祐巳は廊下《ろうか》へと飛び出した。
暖房の入っている教室から一歩出ると、外はちょっぴり寒くて、思わず肩をすぼめた。けれど、行き交う生徒たちを見ているうちに、やがてそれも感じられなくなった。
「え? まだ、いらしていないんですか?」
祥子《さちこ》さまのクラスメイトは「ええ」と言って、わざわざ別校舎から訪ねてきた下級生に気の毒そうな視線を向けた。
「祥子さんらしくないわよね」
祐巳《ゆみ》の表情から、先読みしたように言う。席が扉の側だからなのだろう、よく取り次ぎをしてくれる彼女とは、これまで何度も言葉を交わしたことがある。
「あの、教室にいないだけじゃなくて?」
登校してはいるものの、今ちょっとお手洗いに行っているとか。日直の仕事で、出ているとか。祐巳はその可能性を考えてみた。
「そうね」
その人は上半身をひねるようにして、振り返った。教室の真ん中辺りの席を見る。つられて、祐巳もちょっとだけ身を乗り出す。
「残念。祥子さんの鞄《かばん》はないわね」
「そうですか」
肩ごしに見える教室内は、がらんとしていた。たぶん五人くらいしかいない。パッと見だけれど、鞄がかかっている机もあまりないようだ。
「ああ……。全体的に出席率が悪いんだけれど、祥子さんの場合は受験組じゃないから毎日来てはいるわよ」
「そうですね」
祐巳はうなずいた。もちろん、自分のお姉さまのことだ。休まず学校に来ていることは知っている。ここのところ祥子さまや令《れい》さまが楽隠居《らくいんきょ》と称して、山百合会《やまゆりかい》の仕事をほとんど二年生三人に任せっきりになって薔薇《ばら》の館《やかた》に顔を出す回数もめっきり減ったとはいえ、基本は仲よし姉妹である。場所が薔薇の館でなくても、一日一回は会って話をしている。そりゃ、挨拶《あいさつ》程度しか言葉を交わせない日もあるけれど。
「わかりました。ありがとうございました」
お礼を言って、三年|松《まつ》組教室を後にした。
「祥子さんが来たら、祐巳さんが来たことを言っておくわよ」
「あ、いえ。また休み時間に見に来ますから」
親切な先輩にもう一度頭を下げて、祐巳は廊下《ろうか》を歩き出した。
そのまま自分の教室に戻らず、昇降口まで歩いていって、ついでに下足室を覗《のぞ》きにいった。
もちろん、行ったからといって、たった今登校してきたお目当ての人に会えるなどという、うまい話は用意されているわけもない。簀《す》の子《こ》の上で忙しく革靴《かわぐつ》から上履《うわば》きに履き替える生徒たちの中に、小笠原《おがさわら》祥子さまの姿はなかった。
入れ替わり立ち替わり現れる生徒たちの波はなかなか途切《とぎ》れなかったが、ちょっと引いたところでこっそり三年松組の「小笠原祥子」という名札のついた靴箱の前に立ってみた。
(上履きか、下履きか)
表か裏か。丁《ちょう》か半《はん》か。そんな感じでロッカーの蓋《ふた》を開ける。
(――上履きだ)
ということは、やはりまだ来ていないのだ。
時計を見る。もうすぐ予鈴《よれい》が鳴る。生徒たちの動きも、慌ただしくなってきた。たぶん走ってきたのだろう、荒い息づかいがそこここに見つかる。
確かに、遅い。
(お休みなのかな)
本当は昨夜、電話をしようと思っていた。お姉さまにはデートの報告を、と思ったのだ。
箝口令《かんこうれい》というキーワードは、先程のように質問攻めにあった場合のために真美《まみ》さんが準備した言葉であって、厳密には発令されていない。後日発行予定のリリアンかわら版のバレンタインデート特集に影響が出ない程度なら話してもいい、そういう話だった。
しかし、土曜日に「デートから帰ったら電話をしてもいいですか」とお伺《うかが》いをたてたところ、祥子さまはあっさり「いらないわ」と言った。日曜日は出かける用事があって何時に帰るかわからない、というのがその理由だった。どんなデートだったのかは月曜日に聞くからと言っていたから、土曜の時点では今日は登校してくる予定だったわけである。
風邪《かぜ》でもひいたのだろうか。そんなことをぼんやり考えていた時。
「祐巳さんっ!?」
結構激しく名前を呼ばれて、我に返った。声がした方を見れば、二年生のロッカーの方からちょいと驚いたような顔をしてこっちを見ている人がいる。長い二つの三つ編みがトレードマークのその人のことは、もちろんよーく知っている。同じクラスにして、同じ薔薇のつぼみと呼ばれる立場。なんちゃって武士、島津《しまづ》由乃《よしの》さんである。
「何しているか知らないけど、このまま突っ立っていたら遅刻するわよ」
急《せ》かされて辺りを見ると、もうずいぶんと人の姿も少なくなった。みんな自分の教室に向けてダッシュした後なのだ。
「いけない」
早めに登校してきたって、朝拝《ちょうはい》の時間に教室にいなければアウトである。何にしても、由乃さんがこの場にいてくれて助かった。
一年生の半《なか》ばまでは身体《からだ》が弱くて体育のほとんどを見学していた人とはとても思えない、豪快《ごうかい》な走りっぷりの親友の背中を追いかけながら、なぜだろう祐巳はふと気になって廊下後方を振り返った。
(えっ?)
祐巳は我が目を疑った。そこで見た光景が、とても信じられるものではなかったのだ。
「何、ぼけっとしているの。置いていくよっ」
由乃さんの声に急《せ》かされて、再び走り始めた。
すでにチャイムが鳴り始めていたので、追いかけて確認しようもない。だから、きっと何かの見間違いに決まってる、と結論を出した。
だって。
長い髪を振り乱して三年生の教室がある方向に走っていく人が、あの、小笠原祥子さまだなんてこと。
絶対、絶対あり得ない。
「そりゃ、見間違いでしょ」
由乃《よしの》さんがキッパリと言い切った。一刀両断《いっとうりょうだん》。理由はやはり、「あの祥子《さちこ》さまに限って」。普段の祥子さまを知っているだけに、そんな姿で走っているなんて信じられない。それは祐巳《ゆみ》と同意見だった。
今は、一時間目と二時間目の間の休み時間である。
結局祐巳たち二人は、朝拝《ちょうはい》の放送が始まる直前にギリギリセーフで教室に滑り込んだ。そこから先は、同じ教室内で息を切らしながら聖歌をうたい、特別な連絡事項もないホームルームを無難にこなし、朝一番の授業を一緒《いっしょ》に受けてはいたのだが、残念ながら身を乗り出して雑談できるほどにはお互いの席は近くなかった。
でもって、一時間目の授業が五分ほど早く切り上げられて「起立、礼」の動作が終わるやいなや、由乃さんが飛ぶようにして祐巳の席までやって来たというわけだ。やっと話をすることができる、と。
お互いに、昨日デートだったことを知っている。首尾《しゅび》は、感想は、デート相手の言動はと、聞きたいことは山のようにあって、本当のところ授業なんて上の空だった。その証拠に、当てられた由乃さんは先生が出した設問を、あろうことか二度も聞き返したのだ。
聞きたいことは山々ではあるが、箝口令《かんこうれい》を持ち出したばかりの教室で話すのはちょっとはばかられる。本題は、放課後の薔薇《ばら》の館《やかた》まで取っておくのが賢明《けんめい》かもしれない。
「ところで、由乃さんはどうしてギリギリだったの」
そういえばと、当たり障《さわ》りのない質問をしてみる。
由乃さんは、いつも大体同じ時間に学校に着いている。徒歩通学は、電車やバスの運行状況に影響されないからだ。
「それが」
ちょっとふくれっ面《つら》を作ってから、由乃さんは答えた。
「寝坊」
「へえ……。珍しいね」
「令《れい》ちゃんが一緒に登校しないからさぁ」
由乃さんの握り拳《こぶし》が「無念」というように机をドンドンと叩く横で、祐巳は仰《の》け反《ぞ》った。
「えーっ。由乃さん、令さまにいつも起こしてもらっているのっ!?」
さすがは血縁も住んでいる場所も密着している黄薔薇姉妹。由乃さんたら自分の家のお留守《るす》を番《ばん》させたり、お茶をいれさせたり、クッションを投げつけたりするだけじゃ飽《あ》きたらず、自分のお姉さまを目覚まし時計代わりにまでしていたとは。
これは、リリアンかわら版の一面を飾る大スクープ。見出しが思い浮かぶ。
『逆転姉妹・ご主人さまの妹とメイドの姉!』
盛り上がっているところで、由乃さんが言った。
「なわけないじゃん」
「だよね」
ホッとして祐巳は笑った。あー、ビックリした。祥子さまと違って、「令さまに限ってそんなこと」とは言い切れないだけに、うっかり信じるところだった。
「……滅多《めった》にないってば」
「えっ」
滅多になくても、やってるんだ。もはや恒例《こうれい》となった「黄薔薇姉妹のエピソードを頭の中でこっそり自分たちにもやらせてみる」であるが、やはり祥子さまが家まで迎えに来てくれた上に起こしてくれるなんてこと、とてもじゃないが祐巳には想像することができなかった。
「うちのお母さん、ちょっと天然でさ」
由乃さんが三つ編みの先を| 弄 《もてあそ》びながら言った。
「私が起きてこなくても、まだ一時間あるとか勘違《かんちが》いしてることがあるの。当たり前だけれど、だとすると起こしてくれないよね。私はずーっと寝ているよね。でね、いつもの時間に私が家の前に出ていないと、令ちゃんが部屋まで上がってきて、叩き起こして、五分で支度《したく》をさせて、学校まで連れていってくれるわけよ」
でも、ここのところ入試とか合格発表とかで令さまは学校に来たり来なかったり。当然、定時に登校しない日は起こしに来てくれるわけがない。そのことは十分知っているはずの由乃さんだが、今朝《けさ》はつい油断したというわけだ。昨日の疲れで、目覚まし時計が鳴ったことにすら気づかず爆睡《ばくすい》していたらしい。
「だから。案外、あれは祥子さまだったのかもね」
「えーっ」
由乃さんの「あれ」は、さっき祐巳が見た「見間違い」を指している。
「聞いてすぐは、祥子さまに限ってなんて思ったけれど。人間、絶対なんて言い切れることはないんだし」
「そりゃ、そうだけれど」
でも、「タイが曲がっていてよ」「廊下《ろうか》は走らないの」「騒がないで」「もう少し落ち着きなさい」が口癖《くちぐせ》のような祥子さまが、スカートばっさばさ、カラーひらりで廊下《ろうか》を走ったりするだろうか。
「とにかく、祐巳さんが祥子さまだって思ったなら、やっぱり祥子さまよ。姉妹の勘《かん》って馬鹿に出来ないわよ」
「そうかな」
「確かめてくれば?」
由乃さんは腕時計をチラリと見た。祐巳も文字盤に視線を落とす。幸い前の授業が早めに終わったから、休み時間はまるまる余っている。三年生の教室まで行って帰ってくるだけなら、十分可能だ。
「三年|松《まつ》組教室に祥子さまの姿がなければ、やっぱり祐巳さんの見間違いだったってこと」
「あったら?」
椅子《いす》から立ち上がりながら、祐巳は尋《たず》ねた。
「そりゃ」
「そりゃ?」
由乃さんは笑った。
「祥子さまだった可能性が、ぐーっと高くなるんじゃないの?」
というわけで、約三分後、祐巳《ゆみ》は三年松組教室の前に立っていた。
もともと、休み時間にまた来るつもりでいたんだから。そんな風に自分の心に向かって何度かつぶやく。でも、言えば言うだけ言い訳に聞こえてくる。お姉さまのことを探っているみたいで、どこかで罪悪感をおぼえているせいかもしれない。
前の扉が半分ほど開いていたので中の様子を覗《のぞ》く。相変わらず閑散《かんさん》とした教室内に、祥子《さちこ》さまの姿はなかった。
(やっぱり、見間違いだったんだ)
ホッとして回れ右をする。クラスの人に聞いてみるまでもないだろう。祐巳は自分の教室に戻ることにした。
(そりゃ、そうだよ)
祥子さまが学校に来ていないのなら、さっきの人は別人だったということに決定。
何を寝ぼけていたんだろう。祐巳は苦笑した。そもそも天下の小笠原《おがさわら》祥子さまが、あんな優雅さに欠けた足運びで荒っぽく廊下を走るわけはないのだ。思い切って確かめに来てよかった。めでたしめでたし。――なんて軽い足取りで、数歩あるいたところで思いがけない人に出くわした。
「祐巳」
「お、お姉さまっ」
目の前に立っているのは、小笠原祥子さま。もちろん三年生の教室付近に三年生である祥子さまがいることはごく自然のことで、思いがけないことではない。けれど、たった今「いない」と結論を出したばかりの祐巳は、ついあたふたしてしまった。
「ご、ごきげんよう。今ご登校ですか」
教室に姿があった場合、祥子さまだった可能性がぐーっと高くなる。由乃《よしの》さんの言葉が、突然頭の中で再生された。
「何寝ぼけたこと言っているの。とっくに来ているわよ。今何時だと思っているの」
お言葉通り、祥子さまの手には学生|鞄《かばん》は握られていなかった。コートだって着ていない。そして、いつも通りの麗《うるわ》しいお姿。
「お手洗いよ。髪の毛がひどくって、櫛《くし》でとかしてきたの」
そうですかと表面上はうなずきながら、祐巳は心の中でお姉さまの言葉を繰り返していた。
髪の毛が、ひどくて? とっくに、来ている? ――何だか、嫌な予感がする。けれど、そんなことを考えているとは思いもよらないであろう祥子さまは、「そういえば」と明るく言った。
「朝訪ねてくれたんですって?」
「あ、はい」
「ごめんなさい。私、今日|朝拝《ちょうはい》ギリギリで来たものだかち」
さっきの決定が、簡単に| 覆 《くつがえ》されてしまった。
「お寝坊された、とか」
低血圧の祥子さまなら、あるいはそんなこともあるかもしれない。けれど、首を横に振られた。
「降りなければならない駅で、降り忘れたのよ」
「は?」
祥子さまの様子がいつもと違う。そのことに気づいたのは、たぶんこの時が最初だったと思う。
けれど、短い休み時間のことだったからゆっくり話も聞けず、「また昼休みに来ます」とだけ告げて祐巳はその場を去ったのだった。
「昼休みにまた来ますと言っていたけれど」
祥子《さちこ》さまは、祐巳《ゆみ》の顔を見ると呆《あき》れたように笑った。
「本当に来たのね」
廊下《ろうか》に出て、教室の扉を閉める。閉まる前にチラリと見えた三年|松《まつ》組の黒板には、大きく「自習」と書かれていた。
「あなただって、いろいろ忙しいでしょうに」
祐巳のタイに触れながら、祥子さまは言った。
「デートがどんな感じだったかいう話だったら、律儀《りちぎ》に一番に教えてくれなくてもいいのよ。お互いにもっと時間をとれる時にでも」
二人の側を、三年生と思《おぼ》しき三人組が通り過ぎていく。どの生徒もお財布《さいふ》を手にしていたから、ミルクホールにでも行くのだろう。
「気にならないわけではないのよ。でもね」
どんどん話を進めていく祥子さまに、祐巳はストップをかけた。
「それももちろんあるんですけれど。別にお話が」
その時自分はどんな顔をしていただろう、と祐巳は思った。一瞬、祥子さまの表情が固まった。祐巳の呪文《じゅもん》が、時間ごと止めてしまったかのようだった。
「そう。わかったわ」
やがて、祥子さまはうなずいた。そして、祐巳についてきた。どこに行くのかとは、聞いてこなかった。ただ祐巳の「お話」が昼休みの廊下《ろうか》で立ち話するような内容でないことを察したようで、ならば場所を変えるのは当然の流れと理解してくれたのだろう。
上履《うわば》きのまま、昇降口から外に出る。コートを着てこなかったのに、なぜか寒いとは感じなかった。
何も言わない祥子さまの隣を、無言で歩く。それだけのことなのに、どうしたわけか涙が出そうになる。言葉があってもなくても、祐巳の胸は締めつけられているはずだった。
図書館の脇の細い道。何度、こうして二人で歩いただろう。一つ一つの思い出が、小さな身体の中にはとても収まりそうもなかった。
「どうしてつらそうな顔をするの」
不意に、祥子さまが口を開いた。祐巳は立ち止まり、うつむいていた顔を上げた。
隣を見ると、お姉さまは笑っていた。どうして笑っているのだろう。逆に聞きたいくらい、やさしいほほえみだった。
「私は大丈夫《だいじょうぶ》よ」
右手で、そっと頬《ほお》を撫《な》でられる。
温かかった。寒くはなかったはずなのに、むき出しの顔はこんなにも冷えていたのだと、そんなことで知った。
「あなたも大丈夫《だいじょうぶ》」
頬を撫でていった手は、やがて祐巳の左手をとる。
「私はちゃんと、こうしてあなたと手をつないでいるでしょう? 放したりしないから、安心しなさい」
「お姉さま……」
祐巳の冷えた頬に触れた後なのに、その手からはぬくもりが感じられた。
「あなたが私にどんな話をしても、ちゃんと聞くから」
もしかしたら祥子さまは、何もかもわかっているのではないか。祐巳はそう思った。祐巳がこれからどんなことを言うか、何をしようとしているのかまで。
ならば、きっと大丈夫なのだろう。
瞳子《とうこ》ちゃんと姉妹になっても、祥子さまとの絆《きずな》が切れてしまうわけではない。祐巳が妹になって以降も、水野《みずの》蓉子《ようこ》さまと祥子さまの関係が変わらなかったみたいに。
そうして、リリアン女学園の高等部では、姉妹制度という伝統を受け継いできたのだ。妹になり、姉になった以上、この寂しさは受け入れなければならないものなのだ。
銀杏《いちょう》並木のマリア像の前まで来ると、祥子さまの足も自然と止まった。歩く方角からいって、ここに来ることは予想がついたのだろう。
祥子さまはつないでいた手を離して、一度白いマリア様を見上げた。それから、ゆっくりと祐巳に視線を向ける。
話は何なのかと、静かな視線で言っている。
だからもう、祐巳は腹をくくらなければならないのだ。辺りを見回すと、それに答えるように、マリア様のお庭の後ろから一つの影が現れた。
「……瞳子ちゃん」
祥子さまのつぶやきに被《かぶ》るように、現れた瞳子ちゃんは深々と頭を下げた。鼻が少し赤い。祐巳が三年生の教室に寄っていた分、寒空の下で長く待っていたということだろう。
他には誰もいなかった。クリスマスとかバレンタインデーとか特別な日には朝昼夕と人が多く集まるこの場所であるが、何かの日ではなく、暦《こよみ》の上では春とはいえまだ寒いこんな日の昼休みは、遅く登校してきた三年生が通ることはあっても、わざわざ来るような物好きはなかなかいないのだ。
三人が向かい合う。マリア様の前で、三角形ができる。
「そう。報告はデートのことだけではなかったのね」
合点《がてん》がいったと、祐巳を見る祥子さまの表情は。
「二人は姉妹になったのね」
あまりに静かで、すみきった湖の鏡のような水面《みなも》を思わせた。
「いいえ」
祐巳は首を横に振った。
「私たちはまだ、正式に姉妹になっていません」
「姉妹に、なっていない?」
祥子さまは、知らない単語を耳にした時のように聞き返した。祐巳はうなずいて首のロザリオを外し、輪がよく見えるように両手で持った。
一年前の学園祭の夜、この場所で祥子さまにかけてもらったロザリオだった。もう肌の一部と化した、そんな風に思えるほど、肌身離さず身につけていたものだ。
そしてその前は、お姉さまの身体《からだ》の一部であったはずだった。
「ですから」
祐巳は言った。
「お姉さまの前で、儀式を行ってもいいでしょうか」
「え……」
祥子さまは目を見開いた。赤い唇に添えた白い指が、微《かす》かに震える。
たぶん祥子さまは、ここまでの道すがら祐巳が話すであろう内容をいろいろ想像してみたはずだ。だが、儀式のことまでは予測していなかったようだった。
まるで突然大きな風が吹いて、穏やかだった水面に波が立ったみたいに動揺《どうよう》していた。
「お姉さま」
祐巳は意向を尋《たず》ねた。
「いいの?」
祥子さまは祐巳を見た後、瞳子ちゃんに視線を移した。瞳子ちゃんは「はい」と神妙にうなずく。
「二人の希望です。瞳子ちゃんも私も、お姉さまの前で、って」
長かった。
いろいろあった。
けれど危機や困難を乗り越えて、二人は姉妹という関係を手に入れようとしている。
マリア様も、さぞかし気を揉《も》んで見ていたことだろう。だからマリア様へ捧げるお祈りのためにある石の一つ一つにかけて、マリア様の前で姉妹になることを誓《ちか》うのが一番自分たちに相応《ふさわ》しい。そしてその場には、どうしても大好きなお姉さまに立ち会って欲しかった。
気持ちが通じたのだろう、祥子さまが微笑して一歩下がった。祐巳は輪に広げたロザリオを手に、瞳子ちゃんへと歩み寄る。
瞳子ちゃんが少し膝《ひざ》を曲げて低くなる。うつむいて髪の分け目をこちらに向ける。
妹にしたい、姉妹になりたいと願うようになってから、ずいぶん経つ。だから今更《いまさら》迷いなどない。けれど、ロザリオを首にかける瞬間だけは、気が引き締まった。マリア様に、肩をピシッと叩かれたみたいな、そんな緊張が訪れた。
瞳子ちゃんの縦《たて》ロールに引っかからないように、左右にずらしながらだったから、肩まで輪が降りるまで結構時間がかかった気がした。ロザリオから手を離すと、瞳子ちゃんが顔をゆっくり上げて膝も伸ばした。
これで、晴れて二人は姉妹になったのだ。
「おめでとう」
祥子さまが、左右の手で祐巳と瞳子ちゃんの肩に触れた。
「瞳子ちゃん。いつだったか私は、祐巳の妹は誰でもいいと言ったことがあったけれど、今は心からあなたがいいと思っていてよ」
「ありがとうございます。|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》の妹の名に恥じないよう、精一杯務めさせていただきます」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ」
祥子さまは、さっき祐巳にくれたのと同じ言葉を瞳子ちゃんにも言った。それから、ほーっと息を吐くと、まるでテレビのチャンネルを変えたみたいに明るく笑った。
「さて、祐巳」
[#挿絵(img/29_045.jpg)入る]
「はい」
「この他に、急ぎの話はあって?」
「は? いえ」
メインはロザリオの授受《じゅじゅ》だ。他に話がないわけではないけれど、特に急ぎかと問われればそうではないと答えるだろう。昨日のデートのこととか、今後のこととか、そんなことだ。
「それじゃ悪いけれど、私、そろそろ失礼してもいいかしら。実は、昼休みにやろうと思っていたことがあって」
祥子さまの上履《うわば》きの先が、校舎の方角に向けられた。
「あ、すみません。こんなところにまで足をお運びいただいて」
話があると言って半《なか》ば強引に連れ出してしまったが、お姉さまの都合とかまったく聞いていなかった。昼休みが始まってすぐに訪ねたから、お昼ご飯もまだ食べていないはずだ。もちろん祐巳だって、「お姉さまがやろうと思っていたこと」イコール「お弁当を食べる」だとは思っていない。そういえばと今更《いまさら》思い返してみると、お姉さまはそんなに暇《ひま》な様子ではなかった。話は時間がある時にゆっくり聞く、みたいなことを言っていた気がする。
「そうじゃないでしょ。私はうれしかったのよ」
「はい」
迷惑ではなかったことは、お姉さまを見ていたらわかることだった。
「あなた方は私を気にせず、ゆっくりお戻りなさい」
言い置いて、祥子さまは背を向けた。
「ありがとうございました」
二人はお辞儀《じぎ》をして、見送った。その姿が見えているうちは、無言のまま並んでずっと見ていた。
背筋の伸びた美しい後ろ姿は、程なく木立の向こう側に消えた。それでもしばらくは余韻《よいん》のように、その場で佇《たたず》んでいた。やがて、祐巳が口を開いた。
「瞳子ちゃん、姉妹になった手始めの仕事だけれど」
すると、瞳子ちゃんは変な顔をした。奇妙な味のお菓子でも口にしたような、変な顔だ。
「何?」
尋ねると、まずじっと祐巳の顔を見る。何か真意を探ろうとしているようだったが、生憎《あいにく》今の祐巳は心の裏側に何も隠しもっていないので、待っていても何も出てきやしない。それがわかると、瞳子ちゃんはがっかりしたようなほほえみを浮かべて一言いった。
「瞳子、と呼び捨てにしてください」
「えっ」
とっさの申し出にすぐさま対応できず、祐巳は前方よりの攻撃から身を守るみたいに身構えた。が、実は、驚いた祐巳の方が間違っているのである。姉妹《スール》となったからには、相手の呼び方だって改められて然《しか》るべき。瞳子ちゃんのそれは、極めてまともな要求なのだった。
「あっ、そうだね。でも」
急に呼び方を直せと言われても。ほら、約十一ヶ月間呼び続けてきた歴史があるわけで。
あたふたしていると、瞳子ちゃんは冷ややかに笑った。
「この様子を拝見するに。祥子さまのことも『お姉さま』ってなかなか呼べなかったんじゃありませんか、お姉さまは」
「うーっ」
ご推察《すいさつ》通りなので、反論もできない。
「だったら――」
「だったら?」
挑戦的な瞳が聞き返す。そこで気づいて、祐巳は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……ずるい」
瞳子ちゃんがさらりと言ったさっきの言葉。一つめの「お姉さま」は祥子さまを指しているけれど、二つめは祐巳のことではないか。
こんな風に難なく初「お姉さま」をクリアされてしまっては、「だったら、あなたが先にお姉さまと言ってみなさい」という反撃はできやしない。
「何が、ずるいんです?」
わかっている癖《くせ》に。
「何でもない。それよか、そろそろ戻らないと、お弁当食べる時間がなくなる」
祐巳は、右手で妹の手をとった。
「行くよ、瞳子っ」
「はい」
熱くなった頬《ほお》を、冷たい風が撫《な》でていく。
これから、こうやって二人は並んで歩いていくのだ。
大丈夫《だいじょうぶ》。
あいた左手には、まだ祥子さまの手のぬくもりが残っている。
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耳にはいってくる話
その日の放課後、掃除《そうじ》を終えた後で三年生の教室付近を歩いていたら、令《れい》さまに会った。
「おー。祐巳《ゆみ》ちゃん」
「ごきげんよう」
挨拶《あいさつ》をしながら、祐巳は令さまの格好をチェックした。学生|鞄《かばん》は持っていないが、スクールコートを着ている。
「今ご登校ですか。それともお帰りになるところで?」
この時間帯である。通常ならばまず下校を考えるところだが、今朝方《けさがた》由乃《よしの》さんが一人で登校したことを知っていたので、一応確認してみた。すると、案《あん》の定《じょう》。
「ご登校でぇす」
そんな言葉が返ってきた。入試や合格発表や諸々《もろもろ》の手続きなんかの関係で、受験生は休んだり不定時に登下校したりする。令さまの手提げ袋の中にも、下の方にどこかの大学名が印刷されていそうな茶封筒が一つ顔を出していた。
「もう学校での用事は済まされました? よろしければ、今から薔薇《ばら》の館《やかた》にいらっしゃいませんか」
「うん。この後顔を出すつもりだった。先に職員室に行ってきたから、もう帰るだけだし」
さあ行こう、と腕をとって歩き出すから、祐巳はあわててストップをかけた。
「ちょっと待ってください。今、うちのお姉さまを迎えにいこうって」
すぐそこにある三年|松《まつ》組教室を指さす。意味もなく三年生の教室付近をうろうろしていたのではない。ちゃんと目的があってのことだ。
「祥子《さちこ》?」
令さまはちょっと首を傾《かし》げた。
「祥子なら、さっき会ったよ」
言いながら人差し指が向けられたのは、三年松組教室とは反対の方角。
「えっ、どこでですか」
「うーんとね。昇降口を出た辺りかな。図書館の入り口の前」
ここで令さまに会ってよかった。その情報がなければ、ただ闇雲《やみくも》に探し回るところだった。さっそく足を一歩踏み出すと、今度は令さまがストップをかけた。
「追いかけるのは勝手だけれど、もうバスに乗っちゃったんじゃない?」
令さまは、自分が祥子さまを目撃してからずいぶん時間が経っているのだと説明した。「祥子と別れた後、職員室に行って十分は先生と話をしたわけだから」なんて腕時計を見る。
「ってことは、帰っちゃったってことですか。うちのお姉さま」
祐巳は情けない声を出した。
「うん。何、約束でもしていたの」
「……していないですけれど」
約束していなかったから、迎えに来たのだった。掃除《そうじ》を終えてすぐ教室に行けば、そこで捕まるだろうと安易に考えていた。
「三年生ってさ、今の時期授業とかあまりないからね。うちのクラスも自習とかホームルームとかの時間を使って、教室の掃除なんかしちゃったりしているよ」
「ですよね」
それだけでなくて、三年生は掃除区域が少ないから、うまいことやり繰りして、代わりばんこに掃除をしなくていい日を作るという裏技を使っているクラスだってあるのだ。以前、佐藤《さとう》聖《せい》さまに聞いていたのに、迂闊《うかつ》だった。
「何か、用事があるんだって言ってたよ」
「はあ」
何だか、一気に脱力した。
「まあ、私たちのいっこ上のお姉さまたちも、卒業間際にはあんまり薔薇の館に来なかったから」
そんなものよ、と肩を叩かれる。
「ええ」
そんなもの。一年前に経験していたから、わかっている。
それに薔薇の館での話題の中心は現在、『三年生を送る会』と『|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》 |黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》お別れ会』である。その準備で忙しくしていることを知っているだけに、後輩たちの邪魔《じゃま》はしまいと思っているのかもしれない。
でも、今日くらいは来てくれるのではないか、どこかで期待していた。お姉さまもそのつもりで祐巳が迎えにいくのを教室で待っていてくれる、そう思っていた。
「ま、今日のところは、令さんで我慢してよ」
令さまは明るく笑って、祐巳の肩をつかむと後ろから押した。
「しゅっぱーつ」
汽車ぽっぽのつもりらしい。かなりのハイテンションだ。
「令さま、『お別れ会』のこと聞きました?」
「あ、聞いた聞いた。来週の土曜日でしょ? 『送る会』の後。一週間くらい前かな、由乃から聞いた。今年はずいぶんと早手回《はやてまわ》しだな、って思ったよ」
「去年のことがありますからね」
ふっふっふ、と二人は汽車の前後で意味ありげに笑った。
ちょうど一年前、山百合会《やまゆりかい》の在校生メンバーたちは内輪《うちわ》の送別会である『薔薇さまお別れ会』のことを、ギリギリまで忘れていたという苦い過去をもっている。その時は、全卒業生対象の『三年生を送る会』の後に急遽《きゅうきょ》ブッキングすることで、事なきを得たのだった。
「貫禄《かんろく》ついたね」
「はい」
謙遜《けんそん》せず、素直にお誉《ほ》めの言葉を受け取った。失敗は成功の元。災《わざわ》い転じて福となす。同じ失敗を繰り返していたら、お姉さまたちが安心して巣立っていけないじゃないですか。
「そういや、由乃|大丈夫《だいじょうぶ》だった?」
「はい?」
首を後ろに回して聞き返すと、令さまは耳もとで言った。
「今朝《けさ》。遅刻しなかったか、ってこと。私、今日は午後から合格発表だったから、ゆっくり寝ていたんだけれど。目が覚めちゃうくらい、隣の家から大声が聞こえてきてね。由乃の『遅刻しちゃーう』って」
「朝拝《ちょうはい》滑り込みセーフでした」
「ああ、よかった。最後に『令ちゃんのばか』って聞こえたから、遅刻したら私のせいにされるかってヒヤヒヤものだったわよ」
「あはは」
目に浮かぶようだ。当たり散らして家を飛び出る由乃さんと、まったく責任はないのにベッドの上からあわてて飛び起きる令さま。
突然、令さまは足を止めた。連結していた手前、機関車役の祐巳も引っ張られるように停車した。
「元気になったのはいいんだけれど。もう少ししっかりしてもらわないと」
背後から、妙にしんみりした声が聞こえてきた。
「えっ」
「祐巳ちゃん。由乃のこと頼むね」
不意打ちだった。
こんな突然「遺言《ゆいごん》」を言われるなんて、心の準備もしていなかった。
「こんな事、祐巳ちゃんや志摩子《しまこ》にしかお願いできないからさ」
だって由乃には妹がいないから、って聞こえた気がした。耳から聞こえたのではなくて、令さまのおでこが祐巳の首筋にコツンと響いた瞬間、届いたのだ。
薔薇《ばら》の館《やかた》の二階には、すでに白薔薇姉妹と由乃《よしの》さん、そして瞳子《とうこ》ちゃん改め瞳子の姿があった。
「あ、令《れい》ちゃん来たんだ」
由乃さんは大好きな令さまが現れたというのに、軽く一瞥《いちべつ》しただけだった。そんなことより、と言うように、一緒《いっしょ》に入ってきた祐巳《ゆみ》に駆け寄ると、腕をむんずとつかんで部屋の隅まで連れていく。
「もしかして、もしかするのっ」
小声でコソコソッと言う。
「えっ、あの」
「私が来たら、瞳子ちゃんが乃梨子《のりこ》ちゃんと一緒に部屋の掃除《そうじ》をしているじゃない。それが済んだら、お茶の支度《したく》を始めたじゃない」
「あ。ちゃんとやっているんだ」
みんなに紹介するから放課後薔薇の館に来るようにとは言っておいたが、何かをしなさいと命じていたわけではない。というか、本当は姉として言わなければならなかったのだが、祐巳はうっかり忘れた。しかし、しっかり者の妹はちゃんと立場をわきまえていた。
「本人には聞きづらいし。乃梨子ちゃんも何も言わないし。志摩子《しまこ》さんだって気になっているみたいだけれど、お行儀《ぎょうぎ》いいから祐巳さんたちから何かあるまでは知らんぷりする気みたいだし。もう、祐巳さんが来るのが本当に待ち遠しかったわよ」
だから祐巳を見た瞬間、我慢できなくなって迫ったというわけだ。
「ちゃんと報告するから」
祐巳がそう言うと、由乃さんはならばよしと腕を放してくれた。
「皆さんにご報告が」
「祥子さまはいいの?」
「昼休みに話をしたので」
「そう」
待てばやって来るならいざ知らず、帰ってしまったものは仕方ない。
「瞳子」
いらっしゃい、と呼ぶ。その様子を見て由乃さんが小さく「キャッ」と笑ったが、気にせず続けた。
「私こと福沢《ふくざわ》祐巳とここにいる松平《まつだいら》瞳子は、本日ロザリオの授受《じゅじゅ》を行い、正式な姉妹《スール》となりました。新米《しんまい》姉妹ですので慣れないことも多いと思いますが、温かく見守ってください。よろしくお願いします」
祐巳に会わせて、瞳子も深々と頭を下げた。
二人が同時に頭を上げると、拍手と一緒《いっしょ》に「おめでとう」と仲間の声が飛び交った。こうしてみんなに喜んでもらえることが、何よりの喜びだった。
いろいろ心配かけた。今日の日を迎えることができたのは、みんながいたからだって信じている。
「乃梨子?」
祐巳の隣にいた瞳子が、突然前に飛び出した。何事かとそちらを見ると、乃梨子ちゃんが目から大粒の涙を惜《お》しげもなくこぼしていた。ボロボロ、ボロボロ。まるで泣き虫神様のドロップみたいに。
「乃梨子は、うれしいのよね」
志摩子さんが言った。涙で喉《のど》が詰まって声が出せない乃梨子ちゃんは、その通りだというように何度も何度もうなずいた。
「乃梨子」
瞳子が友を抱きしめた。
「赤ちゃんみたい」
笑いながらそう言う瞳子の目尻にも、一粒のドロップが光ったように見えた。
[#挿絵(img/29_059.jpg)入る]
ほんの一瞬。
前髪を払うような仕草のついでに、指先ですぐに拭《ぬぐ》われてしまった。
隠さなくてもいいのに、と祐巳は思った。まったく素直じゃないんだから。
「えー。いいかな」
令さまが、授業中に発言するみたいに手を上げた。
「こんな目出度《めでた》い席に居合わせることができて、とってもうれしい。で、大きなニュースの前では霞《かす》んじゃうけれど、便乗して私も一つ発表していいかな」
どうぞどうぞとみんなが注目すると、ニカッと満面の笑みを浮かべる。
「私、支倉《はせくら》令。本日、受験地獄から無事生還いたましたー」
入試そして合格発表と、受験に関わるすべての日程をこなしたということだった。
「で、首尾《しゅび》は」
わくわくとドキドキで尋《たず》ねたところ、令さまの右手がピースサインを作った。
おおっ。
「全勝ですか」
「うん」
「素晴らしい」
霞んじゃうなんて、ご謙遜《けんそん》を。それこそ、ビッグニュースではないか。道理でテンション高かったわけだ。受験が終わったという解放感と合格したという安堵《あんど》感が、令さまをハイにしていたのだ。
「で、もう決めたの?」
通う大学、と由乃さんが聞いた。身体《からだ》が一つしかない以上、いくつ合格しようが一つしか入学することはできないのだ。
「まだ迷っているから、今晩じっくり考えることにするよ」
「ふうん」
つまらなそうに相づちを打つのは、間違いなく面白くないわけである。令さまがどこの大学を選ぼうが、その中にリリアン女子大が入っていない以上、由乃さんにとっては同じなのだった。
何はともあれ、全員で紅茶で乾杯した。目出度さが重なって、愉快で、ちょっとしたことで大笑いした。
この場に、お姉さまがいればよかったのに。祐巳は残念に思った。こんなに楽しい時間が過ごせるとわかっていたら、祥子《さちこ》さまは用事だって後回しにしてくれたのではないだろうか。
翌日の放課後、祐巳《ゆみ》はクラブハウスの新聞部部室にいた。
「時代は変わるものよね」
嫌に芝居《しばい》じみたため息をついて、その人は言った。
「よもや次期薔薇さまが、リリアンかわら版にネタを売り込みにくる日が来ようとは」
別に椅子《いす》に座ったままでよさそうなものだが、わざわざ立ち上がって使用中のパソコンに背を向け、ポーズをきめるは見覚えのあるポニーテールの生徒。両手を広げ、腹から声を出して朗々と語る。――もう絶好調である。
「ご無沙汰《ぶさた》しております、三奈子《みなこ》さま」
思いがけない人が待ちかまえていたことで、ちょっと怯《ひる》みながらも、祐巳は取りあえずご挨拶《あいさつ》をした。
「ご機嫌|麗《うるわ》しゅう」
「その通り。私のご機嫌は、とてもとても麗しい」
呆気《あっけ》にとられていると、真美《まみ》さんがコソッと耳打ちする。
「お姉さま、第一志望の大学に合格したのよ」
「ああ。それで」
実は祐巳、この真美さんの方に話があってきたのだった。部室に真美さん以外の部員がいたのはわかってはいたが、内緒話《ないしょばなし》ではないので構わず話を切りだした。すると、こちらに背を向けていた一人の生徒が、突然振り返って言ったのだった。時代は変わるものよね、と。
それが新聞部の前部長にしてリリアンかわら版の前編集長、おまけをつけるならそのお仕事をすべて引き継いだ山口《やまぐち》真美さんのお姉さまである築山《つきやま》三奈子さま、その人であった。
ちなみに、真美さんと祐巳は同じクラスであるから教室で話をすることもできた。しかし、祐巳はクラスメイトの山口真美さんではなくリリアンかわら版の編集長に話があったわけだから、筋を通して部室まで足を運んだのだった。
引退したはずの築山三奈子さまは、本来の話し相手である真美さんを押しのけて、祐巳の前に出た。
「その企画、我が新聞部はぜひとも一枚|噛《か》ませていただくわ」
ああ、もうちゃっかり新聞部を代表しちゃっている。その横で、真の代表であるはずの真美さんが苦笑い。自分のお姉さまの性格を十分わかっているから、気の済むまでやらせておくというスタンスらしい。早々に戦線離脱して、何かの書類に目を通しはじめた。
「つまり、祐巳さんはリリアンかわら版紙上で、ご自分が妹をもったことを発表したい、と。そういうわけでしょう」
「はあ」
仕方なく、三奈子さま相手にしゃべることになる。向かい合っているのが誰であれ、この部屋に真美さんがいて話を聞いていてくれるのなら、当初の目的は達せられるわけであるからいいのだけれど。
「リリアンかわら版の片隅にでも、ちょこっと載せていただければ」
祐巳は及び腰になりながら、人差し指と親指を近づけて、そこに小豆《あずき》を一個|摘《つま》むくらいの隙間《すきま》を作った。
「ちょこっとですって?」
三奈子さまの瞳がキラリと光った。
「ええ。ちょこっと」
困ったぞ。窓口が窓口なだけに、ちょこっとがどれくらいまで膨張《ぼうちょう》するかわからない。スタートはゴマくらいにしておけばよかった。
「ほーっほほほ」
突然、高笑いが聞こえてきた。もちろん発信元は三奈子さまである。
「だめよ祐巳さん。あなたは|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》。次の|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》。そのあなたが妹を作ったって大ニュースを、ちょこっとなんかで済ませられるものですか。済ませないのは私じゃないわ。これは読者の総意なの。みんなが求めているの。そうだわ以前やった祥子さんの『独占インタビュー! |紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》、妹について大いに語る』に匹敵《ひってき》する、いいえそれ以上のスペースを用意しましょう。こうなったら仕方ないわ。ここは大々的に、来週号は|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》姉妹誕生の特集号に差し替え――」
「だめです。お姉さま」
真美さんが遮《さえぎ》った。
「何でっ」
自分の言葉に酔っていた三奈子さまは、当然否定的な妹に向かって牙《きば》を剥《む》く。
「何で、って。来週はバレンタイン企画の副賞であるデート特集ですからね」
読んでいた書類から顔を上げずに、冷ややかに言う。さすが真美さん。たとえ仕事をしていても、ちゃんと話は聞いているのだ。三奈子さまの迫力に押され気味だった祐巳は、そこでホッと息をついた。
「デートはその次の号に回せばいいでしょ」
「その次は卒業記念号ですが?」
「……」
いくら三奈子さまでも、卒業記念号をなしにするとは言えない。だからといって、デート特集を二号も先送りしたらどうなるか。答え、鮮度が落ちまくる。
「今週号に予告だって打ってあるんですし。来週掲載するデートのレポートですけれど、すでに第一号はここに届いているんですよ」
手にしていた原稿らしきものを、軽く叩く真美さん。
「ちなみにこれは、今まさに話題になっている、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》姉妹のデートの模様です」
ということは、瞳子の提出したレポートということだ。確かに昨日、帰り間際に「読んでください」と手渡されて今日廊下で会った時にOKを出しはしたが、もう新聞部に渡っていたとは。
「いくらスクープのためとはいえ、せっかくのレポートをないがしろにはできませんからね」
真美さんはお姉さまに向かって、はっきりと意見を言った。
気合いの入った三奈子さまにはお気の毒だが、ここは当初の予定通り紙面の端っこにちょこっと『|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》の妹、松平《まつだいら》瞳子に決定』と載せてもらう、しかなさそうだ。一般紙でいったら、誰それが誰それと入籍《にゅうせき》しました、くらいの大きさで。
しかし、三奈子さまは諦《あきら》めない。
「リリアンかわら版の編集長なら、どうにかしなさい、真美」
理屈で無理だと理解しても、感情がそれを認めないのだ。
「話題は生もの時間が勝負。まだみんなが祐巳さんたちのことを知らないうちに、どどーんと出さないでどうするの」
「仮にどうにか来週号にねじ込めたとして、ですよ」
真美さんが、ため息混じりに言う。
「その頃にはかなりの生徒が、そのことを知っていると思いますが」
「だったら、今週号で発表しなさい」
「そんなの無理ですよ」
祐巳も叫んだ。もう滅茶苦茶《めちゃくちゃ》だ。一号作るのにどれだけ時間がかかるかは知らないが、それでも取材したり原稿書いたり校正したりした上でプリントもするわけでしょう。今日は火曜日。リリアンかわら版の発行日は、場合によっては前後することもあるけれど基本的には水曜日。今から仕事をして明日新聞の形にするなんて無理なことくらい、新聞部の人間じゃなくたってわかることだ。
「無理でも何でも、どうにかしなさいっ」
三奈子さまはキーッと高い声をあげた。すごく興奮している。今にも血管がぶち切れそう。三月の水曜日をもっと増やせだのと訳のわからないことを言い出すのも、もう時間の問題と思われた。
「わかりました」
真美さんは読んでいた書類から顔を上げた。
「どうにかしましょう」
真美さん、言い間違えているよ。正しくは、「どうにもなりません」だ。
(あれ? でも、すると「わかりました」っていうのは――)
「どう、どうにかしてもらえるっていうの」
肩で息をしながら、三奈子さまが睨《にら》んだ。うまい話を聞かされても簡単には騙《だま》されないぞ、そんな顔つきだった。
「ですから」
いとも簡単に、真美さんは言った。
「号外を出せばいいんです」
なるほど。――って。
えーっ!?
「それで」
薔薇《ばら》の館《やかた》で、志摩子《しまこ》さんが笑った。
「祐巳《ゆみ》さんは、首を縦に振らされたというわけね?」
「……まあね」
椅子《いす》に座りながら、祐巳は肩を落とした。三奈子《みなこ》さま一人だって押され気味だったのに、真美《まみ》さんと二人タッグを組まれた日には、太刀打《たちう》ちできやしないのだ。自分の勝利をイメージできない時点で、負けが決定したと言えなくもないが。
「いいじゃないの」
「えーっ、そうかな」
「そうよ」
所詮《しょせん》他人事《ひとごと》。けれど二年生になってから俄然《がぜん》プラス思考になった志摩子さんなら、自分の立場に置き換えても「いいじゃない」と言いそうだった。
「あまり小さい記事だと、みんな隅までチェックしませんよ」
とは、温かい紅茶を運んできた乃梨子《のりこ》ちゃんのお言葉。
「なるほど。それは一理ある」
二人によしと判断されたことで、祐巳もその気になった。現在、薔薇の館には白薔薇姉妹と祐巳しかいないから、これは過半数の支持である。
「そういえば、由乃《よしの》さんはどうしたの」
祐巳が二階に上がってきた時、志摩子さんの向かいの席には飲みかけの紅茶が入ったカップがあった。多分、それが由乃さんの分だ。祐巳はクラブハウスに向かう前に、「先に行ってるね」と教室を出る由乃さんの姿を目撃している。どこにとは言わなかったけれど、薔薇の館と考えるのが順当であろう。部活で武道館に行く時に祐巳に「先に言ってるね」とは言わない。
「それがね。田沼《たぬま》ちさとさんが訪ねてきて、一緒《いっしょ》に出ていってしまったの」
「田沼ちさとさんといえば――」
確か、日曜日に由乃さんとデートをした相手だ。
「そう。レポートの事で相談があったみたい。ほら、やっぱり新聞に載せるということは、たくさんの人の目に触れることだから。ここまでは書いていいとか、控えた方がいいとかってあるでしょう」
そう言うからには、志摩子さんのデートもレポートには書けないエピソードがあったということだろうか。えっと、何ていったか。志摩子さんとデートした相手の名前。カエルをアミで捕まえるみたいな感じの――。
「お姉さまはいいんですか。亜実《あみ》さんの相談にのって差し上げなくて」
ちょっと拗《す》ねたように乃梨子ちゃんが言った。そうそう、亜実さん。正解は「井川《いがわ》亜実」さんでした。
「いいのよ。私は」
志摩子さんはニッコリ笑った。その様子では、乃梨子ちゃんのプチ嫉妬《しっと》に気づいていないな。ホント、鈍感なんだから。
「いいって、どうしてですか」
チクチクと責める乃梨子ちゃんを見ながら祐巳は、こんなこと言っては失礼だが「可愛《かわい》い」と思った。実年齢より大人びた乃梨子ちゃんだけに、年相応にやきもち焼いたりするのを見ると、ついつい嬉《うれ》しくなる。
「亜実さんには相談相手が他にいるから」
「他? 他って?」
聞き捨てられない言葉に、祐巳は身を乗り出す。
「答えは、リリアンかわら版のデート特集で」
「えーっ。予告編だけですかっ」
そこまで話しておいておあずけとは殺生《せっしょう》な、とクラスメイトに何も語らなかった自分を棚《たな》に上げて祐巳は思った。
「ふふふ。お楽しみに」
「ぜひとも、読ませていただきます」
さすがの乃梨子ちゃんも煙《けむ》に巻く。志摩子さんの笑顔って、すごい。
「……仕事しよっか」
遅れてきた分を取り返そうと、祐巳は立ち上がった。部屋の隅の棚《たな》に積んである、書類に向かって歩き出すと、背後から「それが」と乃梨子ちゃんが呼び止めた。
「仕事が、ない?」
祐巳は耳を疑った。カレンダーを見るまでもなく、今は『三年生を送る会』の準備で大変な時期。日に日に積もる書類の整理。決めなければならない諸事項。その上、身内の送別会のことだって同時進行で考えなければならないのだから、やることは山ほどあるはずだ。
「正確には、今できる仕事がない、ということなの」
志摩子さんはノートを見ながら説明した。
「講堂のロビーの展示スペース割り振りに関しては、参加予定グループの希望アンケートがまだ揃《そろ》っていないので決められないの。舞台の使用時間についても同じね。両方とも締め切りである明日にならないと手がつけられないわ。花その他もろもろの購入予定品は、やっぱり会議にかけて決定しないと」
「なるほど。さっきまでは私がいなかったし、今は由乃さんがいないから、決めるに決められないわけね」
令《れい》さまと祥子《さちこ》さまは、来期の生徒会役員選挙が終わった時点でほぼ引退となり、以降|山百合会《やまゆりかい》の会議では出席者の数には入っていない。
「二人だけじゃだめでしょう?」
志摩子さんが笑った。
そうだ。三年生と入れ替わるように、今回紅薔薇ファミリーに新しいメンバーが加わったのだった。これで計五人、どうにかこうにか体裁《ていさい》を繕《つくろ》える数になった。
「そういえば、瞳子《とうこ》は部活?」
思い出して、同じクラスの乃梨子ちゃんに尋《たず》ねる。
「ええ。ここにちょっとだけ顔を出して、掃除《そうじ》だけしてまた出ていきました。祐巳さまによろしくと」
「ああ。『三年生を送る会』も近いしね」
瞳子の所属している演劇部は、部員を分けて複数の芝居《しばい》を上演するという話だった。『三年生を送る会』に参加するグループはどこも一緒で、多忙な日を過ごしている。ご多分にもれず、瞳子もまた然《しか》り。
それなのにデートのレポートの方はもう新聞部に提出したというのだから、大したものである。薄々気づいてはいたけれど、真面目《まじめ》で几帳面《きちょうめん》な性格なのだ。とにかく、ご苦労さまと頭が下がる。
「部長と二人芝居って話ですが、いったいどんな稽古《けいこ》をしているんでしょうね」
乃梨子ちゃんがつぶやく。
「どうして?」
「朝練《あされん》とか昼休みにも活動していたみたいなんですけれど、瞳子、手とか足とかが、……何ていうか、傷だらけなんですよ」
「傷?」
「はあ。一つ一つは大したことがないみたいなんですが」
それは軽い擦《す》り傷とか、桃の押し傷みたいな痣《あざ》とかであるらしい。ただ一つ一つが小さくても、数が多ければ確かに気になるだろう。
「今日会ったけれど、気づかなかったな」
「制服を着ていたらわかりませんよ」
乃梨子ちゃんは体操着に着替えた時に、目にしたらしい。それじゃ、クラスメイトにしかわからない。
「瞳子は何て?」
「大したことないから気にしないで、って。芝居に集中したいみたいで、あまり稽古《けいこ》の内容とか話したがらないんですよ。私俳優じゃないのでわかりませんが、現実と虚構《きょこう》とを境界線できっちり分けたいとでもいうんでしょうかね」
まだ乾いていない絵の具の隣に別の色を塗って互いに色がにじみあうのが嫌みたいな、と乃梨子ちゃんはわかるようなわからないような喩《たと》えを出して説明した。
「エイミーの時は、そんなことはなかったんですけれど」
瞳子は今年度の学園祭で、『若草物語』のエイミーを演じた。その時とは役作りとかに違いがあるのだろうか。蛇足《だそく》ながら、『若草物語』は演劇部の芝居で、同じ日に瞳子は山百合会の舞台劇にも出演した。だが、そのことを失念していたのか、乃梨子ちゃんは『とりかえばや物語』の右大臣《うだいじん》役はカウントしなかった。
「瞳子が気にしないでって言うなら、しばらくはそっとしておこう。私も、少し注意して様子を見てみるから」
そうこうしている間に、由乃さんが帰ってきた。
「ただいまー。あー」
椅子《いす》に腰掛けて、テーブルに上半身をベターっと倒す。
「お疲れ」
「ホント、疲れた。行った所やったこと全部入れてたら、規定枚数オーバーしちゃうし。だいたいレポートって基本優勝者の仕事でしょ? どうして私が一緒《いっしょ》に考えてあげなきゃいけないの。ちさとさんは去年も書いているから、お手のものでしょうに」
そこまでブツブツと愚痴《ぐち》をつぶやいてから、由乃さんは今更《いまさら》ながら気がついた。
「おっ、祐巳さんが増えてる」
間違い探しか。ガバッと身を起こすと、「ねえねえ」と肩を寄せてきた。
「ちさとさんから聞いたんだけれど、変な噂《うわさ》たってるんだって?」
人差し指を向けられて、祐巳は首をひねった。
「私?」
瞳子とのことだろうか。リリアンかわら版の号外が出るまでは、いろいろな噂がたつと覚悟はできていたけれど。
「違う、祐巳さんじゃなくて祐巳さんのお姉さま」
「祥子さま?」
それは予想していなかった。というよりどんな噂なのか、まったく内容が想像できなかった。
「ねえ。祥子さまって、リリアン女子大に行くのよね」
「そうよ」
「優先入学って、学校の成績だけで無試験で入れるんだよね」
「でしょ?」
だからこその優先入学。
「じゃ、今どうして必死で勉強しているの」
「勉強!?」
「休み時間も自習時間も、取り憑《つ》かれたみたいに何かの勉強をしているみたいよ」
人生、日々勉強である。だから、誰かが何か目的があって勉強を始めたとして、それ自体はまったくおかしいことではない。
だが、それを祥子さまに限定して考えたらどうだろうか。
「それ、ちさとさんが直接見たって言ったの?」
祐巳は、どうにもすっきり受け入れられない。「嘘《うそ》ぉ」と思ってしまうのだ。
なぜって、お姉さまは中間テストの時も期末テストの時も、勉強なんて一切せずにきた人だということを知っているからだ。
「さあ? 噂って言ってたから、又聞《またぎ》きなんじゃない?」
例えばちさとさんのクラスの誰かのお姉さまが祥子さまのクラスにいるとか、と由乃さんは言った。確かな出所はわからないようだ。
しかし、どこから降って湧いてきた噂話にせよ、すぐに決着がつくだろう。
「今度会ったら、それとなくお姉さまに聞いてみるけれど」
「それがいいわね」
志摩子さんがうなずく。噂は噂として、事実をちゃんと把握《はあく》しておかないと。今はただ祥子さまが勉強しているという内容だけだけれど、放置しておくと噂というのは尾ひれがついてとんでもないものに変化してしまうこともある。
「バラバラに質問しにいくのはご迷惑でしょう。かといって薔薇の館にわざわざ来ていただく程のことでもないし。ここは、妹の祐巳さんにお任せしましょう」
志摩子さんの提案に、由乃さんと乃梨子ちゃんがうなずいた。だから。
「わかりました。不肖《ふしょう》私が、この任| 承《うけたまわ》ります」
祐巳は胸を叩いた。でも、ちょっと力が入りすぎて咳《せ》き込んでしまった。
(ということは)
今後は妹のことだけじゃなく姉のことも注意して見てみないと。
ここに来て、いろいろ気になることが立て続けに起きるものだ。
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ここにはいない
同じような噂《うわさ》を、別の場所でも耳にした。
「祥子《さちこ》さんは何をやっているの」
翌日、昼休みに薔薇《ばら》の館《やかた》に行こうと教室を出たところ、扉の前で待っていた築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまに捕獲《ほかく》され、そのままズルズルとクラブハウスに連れ込まれた。
「何を、と言われましても」
わからない。三奈子さまの質問のポイントがどこにあるのかも、どんな答えを求められているのかも。返答に困って立ちつくす祐巳《ゆみ》に、三奈子さまは聞き方を変えてきた。
「珍しくガリ勉しているのよ。あの祥子さんが。祐巳さん知っているの?」
「はあ」
祐巳はあやふやに返事をした、知っているといっても、噂で、である。たぶん三奈子さま以上に知っていることなどない。
昨日の放課後は何も言っていなかったのだから、三奈子さまだって、たぶん実際に祥子さまのガリ勉ぶりを見た回数はそう多くはないはずだ。しかし彼女の場合、一度でもアンテナに引っかかったなら、そこからは早い。他から情報を集めて回る労力を惜《お》しまない、むしろ楽しみに変えるのは一種の才能である。
椅子《いす》を引っ張ってきて、座れという仕草をするので、祐巳は素直にお尻を降ろした。本音は長居をしたくないんだけれど。
「私は、何も存じませんが」
お姉さまに話を聞けばすぐに決着はつくだろう、そう思っていた。けれどわざわざ訪ねていって聞くほどのことでもない、会った時にでも「そういえば」と切りだせばいい、なんてのんびり構えていたのだ。
だって噂《うわさ》の内容が、生きるの死ぬのとかの大事ではなくて、ただ「勉強をしている」なのである。そんな噂に振り回されて会いにいったりしたら、「そんな暇《ひま》あったら仕事をしなさい」と祥子さまに叱《しか》られてしまいそうだ。
「この時期のガリ勉といえば、学年末試験の準備という可能性はあるけれど。三年生は学年末試験はないし」
「そうでしたね」
本当に何も知らないのだから、ひたすら聞く態勢でいようと祐巳は思った。下手《へた》に口を開けば、お姉さまに迷惑がかからないとも限らない。
それに気をよくした三奈子さまは、尚も話を続ける。
「それに。祥子さんはね、試験勉強なんかしない人なのよ」
「そうなんですか」
祐巳の相づちを聞いて、三奈子さまは一瞬顔を歪《ゆが》めた。しまった。ここは別の言葉だったようだ。
「惚《とぼ》けてもだめよ。私を誰だと思っているの」
「えっと」
この場合、何て答えるのが正解なのだろう。元新聞部の部長か、リリアンかわら版の元編集長か。迷っている間に、三奈子さまは立ち上がった。
「山百合会《やまゆりかい》フリーク。薔薇さまの追っかけ。彼女たちのことを知るためなら、ストーカーも辞さないというリリアンかわら版に青春を捧げた女、築山三奈子よ」
「……」
自分でストーカーって言っちゃったよ、この人。
「約三年祥子さんを見つめ続けてきたのよ。あの人が試験勉強をしないことくらい、知っているわよ」
フフンと勝ち誇ったように祐巳を見た。
「試験勉強をしない祥子さんが試験勉強をしているから、これはおかしいって話でしょう?」
ごもっとも。
「でも、どうして試験勉強だってわかるんです?」
祥子さまが読書好きなのは、よく知られていることだ。だから机でひたすら本を読んでいる程度では、誰も不思議に思わないはず。
「問題集らしきものを開いて、カリカリやっているもの。セーターみたいなカバーがかかっているから、何の試験問題かまではわからないけれど」
「セーターって、それ抹茶《まっちゃ》色のカバーですか?」
「色は覚えていないけれど、編み物みたいなやつよ」
「そうですか」
仮に、それが祐巳が去年のクリスマスにプレゼントしたブックカバーだったとしたら、その大きさからいって文庫や新書という線は消える。一口に問題集といってもいろいろだろうが、メジャーどころで教科書くらいの大きさと仮定すると、祐巳の作ったカバーとサイズもほぼ一致する。
「いったい何の試験なのー」
「だから、知りませんって。本人に聞いてみたらいかがです」
しなだれかかってくるのを必死に支えて、祐巳は言った。
[#挿絵(img/29_083.jpg)入る]
「甘いわね、祐巳さん。ストーカーに教えてくれると思って?」
チッチッチッと指のメトロノームがリズムを刻む。確かに、まあ、そうだな。
「リリアン女子大に行くのよね」
「そう聞いていますが」
クリスマスだったか、祥子さまははっきり言った。リリアンの大学にいくわよ、――と。
現物を見たわけではないが、優先入学の合格通知もすでにもらったはずだ。
まだあれから三ヶ月も経たないのに、進路が変更されたとも思えない。たとえ変更があったとして、妹の祐巳に言わないのはおかしい。第一。
「今の時期に入学試験ってあるんですか」
「ほぼ終わっているわね」
「だったら」
祐巳が否定する前に、三奈子さまは冷ややかに言った。
「二次募集って知っている?」
「……一応」
一回目の入試で入学する生徒が定員に満たなかった場合なんかに、もう一度募集をかけて試験を行うことだ。それならば、三月の末とか四月の頭とかに試験があってもおかしくない。
「二次募集って、リリアンのですか」
「相変わらずの天然キャラね。リリアン女子大に優先入学が決まっている人が、どうしてリリアンの二次募集を受けるわけ? そもそも、うちの大学定員割れすることってあんまりないわよ」
「あっ、そうか」
でも、お姉さまはリリアンの大学に行くと言ったのだ。どうして余所《よそ》の学校を受験しなければならないのか。
「それか。何かやりたいことができて、専門学校とかに行く気になった」
これでしょうと、自信満々に指を立てる三奈子さま。しかし、肝心《かんじん》なことを忘れてやしませんか。
「専門学校だって、大学入試と同じくらいの時期に試験があるものじゃ……?」
「あっ」
この人、本当に受験生だったんだろうか。しかし、すぐに引き下がらないところが築山三奈子さま。
「無試験の学校もあるわよ」
「無試験だったら、試験勉強する意味がないじゃないですか」
「しまった」
どっちが天然キャラだか。
「留学説ってのは?」
「もうさっぱりわかりませんよ」
頭の中がグジャグジャになる。だって、昨日の放課後まで祥子さまの勉強漬けの話なんて、まったく知らなかったのだ。
そりゃ、何か忙しそうにはしているけれど。薔薇の館に来ないし、朝だって遅刻ギリギリに来たりしたみたいだし、一昨日の昼休みだってロザリオの授受《じゅじゅ》が済んだらさっさと教室に戻ってしまったし。
(あれ……?)
やっぱり、おかしい。このところの行動、確かに祥子さまらしくない。
一つ一つは何てことない。でも、それが一時期に重なることで、見えない「何か」の存在を感じずにはいられない。
「とまあ、雑談はこれくらいにして」
考え込んでいる祐巳の目の前に、「これ」と何かが差し出された。
「は?」
「悪いけれど、今読んで。問題なければ、今日中に刷って明日配るから」
それは『リリアンかわら版』の号外だった。いや、号外の試し刷りだ。これから修正する箇所《かしょ》だろう、印刷の上から赤ペンで文字が入れられている。
号外ということもあって、いつもの半分ほどのサイズ。見出しの文字と二人の写真が大半を占《し》め、文章はさほど多くない。チェックはすぐに済んだ。
「噂話《うわさばなし》の推理をするためだけに、私を呼んだんじゃなかったんですね」
言いながら、祐巳は試し刷りを返した。特に気になる箇所はなかった。瞳子に確認するまでもないだろう。
「当たり前じゃない。ここまでの話はすべて雑談よ、雑談」
「記事にしよう、とかは」
「別に」
三奈子さまはそっぽを向いた。
「ただ、祥子さんのことが気になっただけなのよ」
試し刷りを団扇《うちわ》代わりにしてパタパタと扇《あお》ぐ。部室は、寒いくらいなのに。
クラブハウスからの帰り、祐巳《ゆみ》は瞳子《とうこ》の姿を見かけた。
中庭を駿馬《しゅんめ》のように走っていく。
「瞳――」
呼びかけてやめた。
今の瞳子には聞こえない。目に映ってはいるが、周りの景色が見えていない。
乃梨子《のりこ》ちゃんが言っていた言葉の意味が、おぼろげながら理解できた気がした。
現実と虚構《きょこう》との境界線をきっちり分けたい、とか。まだ乾いていない絵の具の隣に別の色を塗って互いに色がにじみあうのが嫌みたい、だとか。
瞳子は、今、ここにいない。
縦《たて》ロールの髪を揺らしながら走っているのは、瞳子の中にいる別の誰か。祐巳の知らない、お芝居《しばい》の中の登場人物なのだ。
祐巳が今さっき出てきたばかりのクラブハウスの中に、瞳子は真っ直ぐ吸い込まれていった。
お昼ご飯を教室で食べて、残りの昼休みはずっと稽古《けいこ》をするのだろう。
しばらく見送った後、祐巳は薔薇《ばら》の館《やかた》に向かって歩き出した。
瞳子は大丈夫《だいじょうぶ》だ。
多少の傷や痣《あざ》は、仕方ない。騒ぎ立てて、気を散らしてはだめだ。
それは、きっと瞳子が「誰か」になるために必要なものだったのだろう。
「クラブハウスに行ったのなら、漫画研究部の部室に寄ってきてもらうのだったわ」
薔薇《ばら》の館《やかた》に着いた祐巳《ゆみ》を待っていたのは、志摩子《しまこ》さんの残念そうな顔だった。
「そっか、今日が締め切りのアンケートか」
「あそこ、いつも遅いんだよー」
食べ終えたお弁当箱を|巾 着 袋《きんちゃくぶくろ》に戻した由乃《よしの》さんが、天を仰《あお》ぐみたいに大げさに仰《の》け反《ぞ》った。逆に、祐巳は自分のお弁当箱を開ける。おっ、今日は鶏《とり》そぼろご飯だ。
カップに焙《ほう》じ茶《ちゃ》をいれて持ってきてくれた乃梨子《のりこ》ちゃんに「ありがとう」とお礼を言ってから、祐巳は言った。
「でも、今日|水奏《みなと》さんに聞いてみたら、書類はできているはずだって言ってたよ」
漫研部員の水奏さんは、祐巳たちと同じ二年|松《まつ》組だ。
「へえ?」
同じ教室にいながらそれは聞いてなかったけれど、といった目つきで祐巳を軽く責めた後、由乃さんは。
「できているなら、なぜ出さない」
今度は背中を丸めて低い声を出した。まるで威嚇《いかく》している猫だ。余計な仕事が増えたり、仕事が予定通りに進まなかったりするのが我慢ならないらしい。
まあ、わからないでもないけれど。『三年生を送る会』は、実質、次の薔薇さまである自分たちのデビュー戦といっていい。お姉さまたちの力を借りなくても、立派にやり遂《と》げなくてはならないというプレッシャーに負けないように、いつも以上に哮《たけ》りたっているのだ。
「部長がお休みで、平部員《ひらぶいん》は知らなかったみたいよ。提出期限」
祐巳はお箸《はし》を軽く振り回した。ちなみに漫画研究部の部長は三年生で、水奏さんのお姉さまである。
「試験や合格発表の日程は事前にわかっているはずでしょう? 休むんなら、引き継ぎしていけってーの」
「いや、受験じゃなくて風邪《かぜ》だって」
「……じゃ、しょうがないか」
由乃さんはやっと引き下がった。風邪にかかる日程というのは、事前にわからないことがほとんどだから。とはいえ、出鼻《でばな》をくじかれたみたいで悔《くや》しかったのか、未練たらしく、しばらくはブツブツ言っていた。
それに引き替え。
「書類はその部長さんが持っているの?」
すでに|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》であり、去年『三年生を送る会』を無事成功させた志摩子さんは、落ち着いたものである。
「いや。たぶん部室のどこかにあると思うから、休み時間とかに探しておくって水奏さんが。でもな」
結構時間がかかるんじゃないかな、と祐巳は思った。以前|覗《のぞ》いたことがあるけれど、漫研の部室って紙と紙と紙とでできているような感じの部屋で、空《あ》いたスペースに墨《すみ》とかカラーインクとかペンとかが詰め込んである、部室というよりむしろ物置のような印象の場所なのである。そこから一枚のプリントを探し出すのは、至難《しなん》の業《わざ》ではないだろうか。
「手強《てごわ》そうね」
祐巳以外の三人も、何となく状況を察したようだった。
「もう一度書いてもらった方が早いかもな」
祐巳は、予備に取ってあった未記入のアンケート用紙を棚《たな》から一枚取って、半分に折った。
「とにかく、漫研の方は任せて。今日中になんとかしてもらう」
請《う》け負って、残りのお弁当をかき込んだ。
結果を先に言うと、放課後、祐巳《ゆみ》は水奏《みなと》さんと一緒《いっしょ》にクラブハウスまで行って、無事アンケート用紙を回収することに成功した。
聞けば水奏さんは昼休みを丸々使って、紙の山から、一枚の書類を発掘したという。つまり、新聞部の部室で祐巳が三奈子《みなこ》さまに雑談の相手をさせられていた時も、瞳子《とうこ》が演劇部の部長と二人で芝居《しばい》の稽古《けいこ》をしていた時も、同じクラブハウス内にいたということになる。
「悪いわね。取りに来てもらう形になっちゃって」
水奏さんは短い髪の毛を軽くかきながら、「へへへ」と笑った。相変わらず可愛《かわい》らしい声だ。見た目は男の子みたいで、でも声が甘くて、それでいて漫画ではホラーとか描いちゃうんだから。ギャップがすごい。
「見つかった時、昼休みが終わるところで、薔薇《ばら》の館《やかた》に届ける時間がなかったから、放課後にしようとそのまま部室に置いていったの。下手《へた》に持ち歩いて無くすと悪いしね」
水奏さんが昼休みに捜し物をした効果か、部室は以前見た時よりは整理|整頓《せいとん》されていた。展示用だろう、並べてあるカラーイラストの鮮やかな色彩にまず惹《ひ》きつけられる。
「これは?」
祐巳は、隅に重ねられたモノクロ原稿を指さした。
「ああ。これもスペースがあれば飾りたいんだ。同じコマ割《わり》同じセリフで、どれだけ違う漫画を描けるかの実験でね」
まず一ページ分の基本フォームがあって、部員はその枠《わく》の中で各々《おのおの》自由に絵を描き入れて作品を作る、といったものらしい。コマ割とセリフがまったく同じでも、出来上がりは見事に違う。学園物、ミステリー、時代物、ホラー。同じセリフを言いながら、紙上のキャラクターたちは、まったく好き勝手なことをしているのだ。墨一色《すみいっしょく》原稿だからこそ、それぞれの個性が引き立っているようだった。
「面白いね」
一枚ずつ見せてもらいながら感心した。うん、力はいっている。
「いやいや。私たち漫研なんか、まだまだ」
水奏さんは、手をワイパーのように動かして謙遜《けんそん》した。
「演劇部なんて、すごいわよ。ドッタンバッタン」
「ドッタンバッタン?」
「勢い余って廊下《ろうか》にまで飛び出てきたの、私が見ただけでも二度や三度はあるわよ」
「そうなんだ」
ドッタンバッタンがそんなに頻繁《ひんぱん》に。それが事実なら、確かに瞳子に複数の打ち身|擦《す》り傷ができていても不思議じゃない。
「プロレスのお芝居《しばい》でもやるの?」
「さあ?」
祐巳は首を傾《かし》げた。プログラムの資料として提出された書類にも、『演劇部三月公演』としか書かれていない。詳しい内容が決まっていなかったのか、それとも幕が上がるまでは内緒《ないしょ》のつもりなのか。
ともかく。
「あの縦《たて》ロールの子、祐巳さんの妹なんでしょう? 大丈夫《だいじょうぶ》?」
「……たぶん」
こっちの噂《うわさ》の方は、『リリアンかわら版』の号外を待たずして、かなり広まっているようである。
クラブハウスを出た所で、祐巳《ゆみ》は知った顔に出会った。
「瞳子《とうこ》ちゃんなら、ここにはいないわよ」
演劇部の部長は、コートを着て手には学生|鞄《かばん》を持っている。部室に忘れ物でもあって、帰る前に寄ったのか。それとも、しばらく部室に籠《こ》もって仕事でもするつもりなのか。
「そうですか」
瞳子に会いに来たわけではないが、わざわざそれを言う必要もあるまい。にこやかに会釈《えしゃく》して通り過ぎようとしたら、すれ違いざま声がした。
「今日は薔薇《ばら》の館《やかた》に行きたいから、って」
呼び止められたのだと思って、祐巳はゆっくり振り返った。部長もこちらを向いている。さっきと位置を逆転して、また同じように向かい合う形になる。
こちらに用事がなくても、先方にはあるようだ。だから、祐巳は記憶の中から彼女の名前をたぐり寄せた。心の中では「演劇部の部長」と呼んでいるが、さすがに本人に向かってそう呼びかけるわけにもいくまい。
「瞳子ちゃんも大変ね。この時期に、次期薔薇さまの妹になってしまって」
「つかささん……」
口から出た言葉が教えてくれる。そうだ、典《つかさ》さん。この人の名前は、高城《たかぎ》典さんだった。
たぶん瞳子が話をしたのだろう、典さんは二人が姉妹になったことを承知していた。
「滅私奉公《めっしぼうこう》とでもいうのかしら。山百合会《やまゆりかい》の仕事を手伝う時間を捻出《ねんしゅつ》するために、あの子……昼休みに稽古《けいこ》したりして」
何と答えたらいいのかわからずに黙って見つめていたら、典さんは「知っているみたいね」とため息混じりに笑った。
「じゃ、あの子の手足にできた傷のことは?」
「ええ」
祐巳はうなずいた。実際に見たわけではないけれど、そのことは乃梨子《のりこ》ちゃんに聞いて知っている。
「ええ、って。あなた、それで本当に瞳子ちゃんのお姉さまなの?」
典さんは呆《あき》れたように吐き捨てた。
「え?」
「それとも、苦もなく手に入れた妹なんて、その程度の存在なの? 自分の見えない所で、何が行われていようと、別にどうだっていいわけ?」
早口で捲《まく》したてられ、いったい何を責められているのか祐巳にはすぐに理解できなかった。それでも、耳に残った聞き捨てならない最後の部分だけは、辛《かろ》うじて否定した。
「どうだっていいなんてこと、ない」
「そもそも、あの子のことどう思っているの」
その態勢はどう考えても祐巳に対する攻撃なのだけれど、なぜだか典さんは自分こそが攻撃されているみたいな表情を浮かべていた。もちろん、同じように「どういうことなの」「どうしたの」という疑問を投げつけて来る、無邪気《むじゃき》なクラスメイトたちとも明らかに違った。
「あなた、瞳子のこと――」
普段は鈍感なくせに、どうしてこういうことは気づいてしまうのだろう。あわてて口をつぐんだけれど、そっちの方がむしろ失礼な行為だったのかもしれない。典さんはカッとしたように、顔を赤くして目をそらした。
「好きよ。だから言ったわ。私の妹になりなさい、って。でも安心して、すぐに断られたから」
「……」
この場合、ごめんなさいと言うのは不適切だ。だからといって、適切な言葉も見つけられないまま、祐巳は黙って典さんの横顔を見ていた。
「私、ずっと思っていた。瞳子ちゃんはあなたのことを好きだけれど、あなたはどうなのかしらって。もちろん、ロザリオを渡すくらいだから、嫌いじゃないんでしょう。じゃあ、どれくらい? 私があの子のことを思う半分くらいは、好きでいてくれているの? 愛情を計る機械があれば、見せてもらいたいわ」
どれくらい好きかと聞かれても、答えようがない。これくらいと胸の前で大きく手を広げればいいのか、富士山《ふじさん》より高くと表現すればいいのか、銀河系一と言えばいいのか。
好きという気持ちは、人の心の中にあって取り出せないから、計測なんかできやしない。銀河系一が、両手を広げたスペースより大きいとは限らないのだ。
「バレンタインデーのイベントで、妹にしてくださいって言われたから、妹にしたんじゃないの?」
真っ直ぐな視線が、祐巳に向かって突き刺さる。
「答えて」
答え如何《いかん》によっては考えがある、そんな決心さえ感じられる。
ここは舞台だ、と祐巳は思った。登場人物が二人きりの、逃げ場のない舞台上にいつの間にか迷い込んでしまったのだ。
私は女優ではないから、そう言って逃げることなんかできない。それでは瞳子を想ってくれるこの人に失礼だし、瞳子にも不実だろう。
「確かに、瞳子のことを好きだって意識したのはあなたより私の方が遅いかもしれない。愛情を計る機械にかけたら、もしかしたらあなたに負けるかもしれない。でも、瞳子への想いは、生半可《なまはんか》なものじゃないんだ」
言葉では何とでも言える。それじゃ納得できない。典さんの目がそう言っている。
「妹にしてくださいって言われたから、妹にした。それも間違いではないけれど、私はその前に一回瞳子に振られているのよ」
「いつ」
典さんは目を見開いた。
「二学期の終業式の日。玉砕《ぎょくさい》した」
「嘘《うそ》」
「嘘でこんな話しないわよ」
それは祐巳の古傷だ。瞳子と姉妹になった今だから、そんなこともあったと向かい合うこともできるようになったけれど。当時は、つらかった。本当にどうしたらいいかわからないほどのダメージを受けた。申し出を断った瞳子の方が、たぶん祐巳より傷ついた。そのことが一番切ない記憶だ。
古傷は、わざわざ誰かに見せるものではない。ましてや、嘘をつくための道具にするものでもない。
「わからないわ。どうして断ったのかしら」
それは瞳子の気持ちの問題だから、祐巳が語るべきことではなかった。
「だから、申し込んだのは私が先。バレンタインデーのあの日、瞳子は私の気持ちに応《こた》えてくれた。私はそう思っている」
しかしそんな説明では、典さんは許してくれない。
「そんなに前から瞳子ちゃんのことを好きだったっていうのなら、どうして何も言わないの。黙って見ているの。私があの子を叩いたりしていると、あなたは思わないの?」
問われて、祐巳はどうしてだろうと考えた。そして、自分の心の中に眠っていた一番真実に近いと思われる結論を見つけた。
「瞳子を信じているから」
たぶん。何かあったら、瞳子は話してくれる。
助けを求めてくる。
祐巳に言わないのは、言えないことをしているからではなく、言う必要がないからなのだ。
「でも、今からはあなたも信じることができるから」
祐巳は典さんにほほえみかけた。彼女の手にも、よく見ると生々しいひっかき傷が残っている。
「祐巳さん……」
典さんは、そうつぶやいたまま立ちつくした。それから徐々《じょじょ》に、氷が解けるように顔の表情がゆるんできて、やがてくしゃっとなった。ほんの一瞬、彼女の被《かぶ》っていた仮面がずれて、下にあった素顔が見えた気がした。
「私、あなたを見ていて悔《くや》しかったのよ。口を開いたら自分が惨《みじ》めになるってわかっていたのに、我慢できなくて。とうとう言っちゃった」
失敗失敗、と天を仰《あお》ぐ。
「でもね。いつかは言っちゃうと思っていたんだ。自分が惨めになっても、言えばすっきりするんじゃないか。きっとそうだ、って。で、やってみたら、どう? ますます悔しくなったわ。ばかよね、私」
そこまで言うと、典さんは笑った。逆にあなたたちの絆《きずな》を見せつけられることになるなんてね、――とこちらを向いた。
胸を張り、目に力を入れ、短めの髪がほどよく頬《ほお》にかかり、その姿はまるでモデルの決めポーズのように格好よかった。
「でも、私だって負けないわ」
[#挿絵(img/29_101.jpg)入る]
仮面を被《かぶ》り直して復活した典さんは、腹からのよく響く声で言った。
「まだ勝負がついたとは思っていない」
「え……?」
「いやだ、そんな顔をしないで。あなたの可愛《かわい》い妹を、横取りしようだなんて思っていないわ。ただ、負けっ放しは性《しょう》に合わないから。あなたには決してできないことを、私はするってだけの話よ」
何を、と聞く前に答えがあった。
「瞳子ちゃんを、舞台の上で輝かせてみせる」
それは確かに、祐巳にはできないことだった。祐巳だけではない。もしかしたら、誰であってもそれは敵《かな》わないことかもしれなかった。
瞳子のために。瞳子を輝かせるためだけに、この人は舞台に上がる決心をしているのだ。そんなことをしてのけるのは、たぶんここにいる高城典しかいないだろうから。
(まったく)
どっちが滅私奉公《めっしぼうこう》だ、と祐巳は思った。
そして、「よろしくお願いします」と心の中で頭を下げた。口に出して言えば、たぶん「あなたに頼まれることじゃない」と言われてしまいそうだから。
「お引き留めしてごめんなさいね」
典さんはそう言って、再び背中を向けた。クラブハウスに向かって、一歩二歩と足を進める。後ろ姿まで気を抜いていない。彼女もまた、女優なのだ。
祐巳も薔薇の館に向けて歩き出した時、背後から「ねえ」と声が聞こえた。振り返れば、クラブハウスの入り口に典さんは立ってこちらを見ている。
「わたし、ちょっとだけ思い直したわ」
「え?」
「愛情を計れる機械なんて、ない方がいいのよね」
さわやかに笑って、典さんはクラブハウスの中に消えていった。
「もう、どこ行ってたのよ」
薔薇《ばら》の館《やかた》二階にある通称ビスケット扉を開けると、由乃《よしの》さんが仁王立《におうだ》ちで待っていた。
「どこ、って。クラブハウスの漫研部室」
昼休みにそう言っておいたじゃない、と祐巳《ゆみ》はゲットしたアンケート用紙をヒラヒラさせた。その帰りに典《つかさ》さんと会って話し込んだことは、由乃さんたちとは直接関係ないことなので言わなかった。典さんの言っていた通り瞳子《とうこ》の姿はあったけれど、瞳子にだって話すつもりはなかった。
漫研から預かった記入済みのアンケート用紙を由乃さんに渡し、昼休みに持ち出した白紙のアンケート用紙を元の抽斗《ひきだし》に戻そうと歩き出した祐巳の背中に、冷ややかな声が届いた。
「遅いから、帰っちゃったよ」
「誰が?」
ぐるりと見渡す限り、いつものメンバーは揃《そろ》っている。志摩子《しまこ》さん、由乃さん、乃梨子《のりこ》ちゃん、そして瞳子。その、瞳子が言う。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》です、お姉さま」
「えっ!?」
「十分ほど待たれてましたけれど、また来ると」
乃梨子ちゃんが、カップを片づけながら言った。たぶんそれは、お姉さまが祐巳を待っている間に飲んだお茶だ。
「どれくらい前のこと?」
「十五分くらい前よ。家で何かする予定があるとかで、あまり長居はできない、と| 仰 《おっしゃ》っていたわ」
志摩子《しまこ》さんが、気の毒そうに眉《まゆ》を下げた。
「……帰っちゃったんだ」
何て間が悪いのだろう、と祐巳は思った。せっかくお姉さまが訪ねてくれたのに、こういう時に限って薔薇の館を留守《るす》にしている自分って。
「家で、何するのかしらね。勉強?」
由乃さんは腕組みをする。
「さあ? 聞かなかったの?」
「祐巳さんが聞くって言ったから、みんな聞きたいところをグッと我慢したんでしょ」
そうでした。
「ごめん。まだ聞いていないんだわ」
「えーっ」
由乃さんは、天井が落ちてきたみたいにオーバーアクションをした。
「だから、ごめんってば」
まったく祐巳さんは、とかブツブツ文句を言っている由乃さんを取りあえずなだめて、祐巳は冷静に話ができそうな志摩子さんに尋《たず》ねた。
「何しに来たって言っていた?」
「何しに、って具体的には何も。祐巳さんの顔を見に来たんじゃないかしら?」
「一日一回は顔を見ないと落ち着かない、みたいな?」
由乃さんが横から茶々《ちゃちゃ》を入れる。その一日一回説が本当なら嬉《うれ》しいけれど、たぶん違う。
「今日、ちらっとだけれどお姉さまに会ったよ。休み時間に廊下《ろうか》ですれ違った」
「何でその時、あの噂《うわさ》のことを聞かないのよ」
おあずけを食らったことが、よっぽど悔《くや》しいらしい。由乃さんは、ネチネチネチネチ突っついてくる。
「だって教室移動の時だもん。周りにぞろぞろクラスメイトがいる時に、聞くような話じゃないでしょ」
「あ。あの時か」
同じクラスの由乃さん。その時の状況をすぐイメージできたらしく、「なら仕方ない」と引き下がった。
由乃さんがおとなしくなったのを見計らって、大人の志摩子さんが言った。
「瞳子ちゃん、あれを」
「はい」
あれが何だか心得ているようで、瞳子がどこからか何かを取りだした。
「何、それ」
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》からの手紙です。お預かりしてました」
差し出されたのは折った白い紙。レポート用紙か何かだろう、四つ折りに畳《たた》んである。同じ手紙でも、よくクラスメイトたちが回し文《ぶみ》する時なんかに折っている、折り紙みたいなあれとはまったく| 趣 《おもむき》が違う。
祐巳がなかなか戻らないので、帰り間際ここでさらさらと書いていったらしい。
「祥子さま、そんな物置いていったの」
知らなかった、と由乃さん。さては偉そうに「遅い」とか言っていたけれど、本当は祥子さまが滞在していた時ここにいなかったようだ。
「しょうがないでしょ。剣道部の話し合いに出なきゃいけなかったんだから」
「別に責めてないってば」
「いいや。さては、って顔していた祐巳さん」
ご明察通り。いくら貫禄《かんろく》がついたと誉《ほ》められようとも、その実中身はあまり変わっていない。思ったことが顔に出る性格、健在だ。
(やれやれ)
瞳子から手紙を受け取ると、さっそく開いた。由乃さんが覗《のぞ》き込んできたけれど、どんな内容かわからないので、まずは自分一人で読むことにした。
失礼してみんなに背中を向けてから、書かれた文字を目で追う。が。
「何、これ」
思わず声が出た。
祐巳の声に引き寄せられるようにして、何事かと集まって来た仲間たちも、その文面を読んで絶句した。
見慣れた文字でしたためられた、縦にわずか三行だけの手紙。[#底本では罫線で囲まれている]
[#ここから2字下げ]
祐巳へ
明日の放課後、体育館裏で待つ
祥子
[#ここで字下げ終わり]
――これって、はたして果たし状?
[#改ページ]
橋を燃やせ
木曜日の放課後。
リリアン女学園構内に一陣《いちじん》の風が吹く。
三月初めであれば、まだ多少の冷気は含んでいる。しかし、強くも激しくもない風だ。
花信風《かしんふう》、春嵐、東風《こち》、春一番。春吹く風の名前はいろいろあるけれど、吹いてくる方角も確定できなければ、その名で呼んでやることもできない。
そんな風をまといながら、祐巳《ゆみ》は足を進めた。その時、むしろ祐巳が風であったかもしれない。上履《うわば》きのまま、下校する生徒を一人二人と追い抜いていく。目指す体育館は、もうすぐそこにある。
立ち止まり、ポケットに入っていた紙片を取りだす。これで何度目になるか、書かれた文字を目で追った。
『祐巳へ  明日の放課後、体育館裏で待つ  祥子《さちこ》』
受け取ったのは昨日の放課後。一夜明けて、ちゃんと「明日」になった。そして、やっと放課後だ。
思えばこの二十四時間は長かった。
昨日|薔薇《ばら》の館《やかた》でこの果たし状と見まごう手紙を受け取り、その意味を計りかねながら帰宅した。いや、そこに書いてある文章は簡潔だから意味はちゃんとわかる。しかし、何のために祥子さまは祐巳をわざわざ体育館裏なんかに呼び出すのか。薔薇の館や、中庭や、教室の外ではだめなのだろうか。
たしか去年だった。由乃《よしの》さんが鳥居《とりい》江利子《えりこ》さまに呼び出されて果たし合いをした。
遅いぞ武蔵《むさし》、待たせたな小次郎《こじろう》。
結局、勝負はつかなかったという話だが、体育館裏はその舞台となった、いわく付きの場所なのである。
何に関しても遥か上をいく祥子さまが、自分なんかに勝負を挑むなんてことあるだろうか。帰宅してからも、この手紙のことが頭から離れず、お夕飯を食べながら、お風呂《ふろ》に入りながら、思い出しては首をひねった。もしかしてこれは表だっては果たし状のように見せかけて、実は秘密の手紙なのでは、とガスレンジの火であぶってみたりもしたが、当然新たな文字が浮き上がって出てくることはなかった。
いっそ電話をして聞いてみようかとも思ったが、電話で済むような話なら、祥子さまは最初からそうしたはずだ。不都合があるからこそ、わざわざ置き手紙で呼び出しをしたのだろう。
だから今朝《けさ》学校に来てから、祐巳は妙に落ち着かなかった。
放課後が来る前に、どこかで祥子さまに会ってしまったらどうしよう。校舎は別だが、会う日は廊下《ろうか》で二回三回とすれ違うことがある。偶然どこかで鉢合《はちあ》わせしてしまったら、どんな顔をすればいいのだろう。それでは後《のち》ほどと挨拶《あいさつ》して、そそくさとその場を去らなければならないのか。
しかし、そんな心配も杞憂《きゆう》であった。実際、祐巳は今日のこの時間まで、お姉さまに会っていない。会わないように逃げ回っていたわけではなかったが、今日は身辺が何かと騒がしくて、祐巳はあまりふらふらと廊下を歩いたりできなかったからだ。
リリアンかわら版の号外が出たのである。
久々に時の人となって思い出す。休み時間になると、別の教室から見物人がやって来るのだ。さすがに昔と違って「福沢《ふくざわ》祐巳って誰?」と顔を見に来る人は少ないけれど、扉を開けて「おめでとうございます」と手を振られたりする。顔が知られているだけに、お手洗いに行くのにもぞろぞろついてこられて難儀《なんぎ》した。放課後になって、やっとこさ解放されたところだった。
体育館はグラウンドを背にして建っている。だから体育館裏は、「裏」とは名ばかりの、楕円形《だえんけい》の陸上トラックが見下ろせる、とても開けた場所なのだった。その風通しのいい明るい雰囲気《ふんいき》は、とてもじゃないけれど人を呼び出すのに似つかわしい、正しい「体育館裏」ではない。
祐巳は、このまま真っ直ぐ行くとグラウンドに抜ける歩道を左にそれて、体育館の正面に出た。入り口の前を通ると、外扉も中扉も開け放たれて、中の様子が見えた。
バスケ部の生徒たちがボールを出している横で、ダンス部の生徒たちが柔軟《じゅうなん》体操をしていた。行事や大会が近づくと、こうしていくつものクラブがスペースを分け合って体育館や講堂やグラウンドを利用する。確か、ダンス部の後は演劇部がステージを使用することになっていた。
そこまで考えて、祐巳は苦笑した。
覚える必要もないタイムスケジュールが、しっかり頭に入っている。こういうのを職業病と呼ぶのだろうか。もう、どっぷり山百合会《やまゆりかい》漬けだ。
ボールが床の上で弾《はず》む音を聞きながら、角を曲がる。思った通り、さっき歩いてきた歩道とは逆サイドの体育館の側面に祥子さまがいた。
待つ、と書いてあったから、先に来ているだろうとは予想していた。お姉さまを待たせるのは申し訳ないと思いつつも、いろいろと免除《めんじょ》されている三年生と違って、二年生は授業もホームルームも掃除《そうじ》も通常通り。全部こなして真っ直ぐ来たって、この時間にはなってしまうのだ。待っていた祥子さまは、すでに帰り支度《じたく》まで整えているというのに。
「体育館の裏じゃなくて、脇かしら」
読んでいた本から顔を上げて笑う祥子さまにつられて、祐巳も笑った。
「でも、ここの方が裏みたいですよね」
体育館の隣に建った体育倉庫の外壁が、数メートル先に迫っている。建物と建物に挟《はさ》まれた、通路のような空間だ。ハードルとか高飛びのバーとか白い粉の入ったライン引きとかに用がある生徒が近道として利用することはあっても、気持ちよく散歩するにはお勧めできない、日の当たらない場所である。人目につかないという点では、本来の体育館裏にあたる場所よりは勝っている。
祥子さまは本を閉じて、体育館の外壁に立て掛けた学生|鞄《かばん》に戻した。祐巳のプレゼントしたブックカバーの中身が何であるかまでは、わからなかった。
「どうなさったんです? 果たし状みたいなお手紙で、呼び出されたりして」
祐巳は昨日の手紙を差し出した。
「果たし状?」
受け取りながら、祥子さまは首を傾《かし》げる。
「体育館裏で待つ、ですからね」
「ああ、それね」
思い出したようにコロコロと笑った。
「初めは、『体育館裏で待っています』と書くつもりだったのよ」
「え、そうなんですか」
じゃ、どうして今ここにある手紙は『待つ』になっているのだろう。
待っています、なら普通だ。今までだって、そんな手紙はもらっている。「女性限定の新年会を開きます」とか「図書館に行ってきます」とか。その流れで「明日の放課後、体育館裏で待っています」だったら、体育館裏がちょっと「ん?」と引っかかっても、そんなに騒いだりしなかったろう。
「待っての、小さいつ[#「つ」に傍点]をつい大きく書いてしまったのよね。『待つています』、じゃおかしいでしょ? だから『待つ』で止めたの」
ボールペンで書いてしまったので消しゴムは使えなかったのだ、と祥子さまは説明した。何ともお騒がせな。
「この文面を見た仲間たちが、『これは果たし状ではないか』と言いだして、一時は騒然となったんですよ」
多少大げさに言うと、手紙と一緒《いっしょ》に「あなたは?」と返ってきた。
「果たし状だとは思いませんでしたが、もしかして暗号が書かれているかもって」
「それで、隠されていた暗号は解けて?」
「残念ながら」
あぶった話は黙っていたが、レポート用紙の角がほんのりキツネ色になっていたのを目ざとく見つけて、祥子さまは「あなたって本当に面白いわね」と笑った。というより、かなりウケていた。お笑いタレントの定番ギャグを喰らった時みたいに、思いっきり大笑いしてくれたのだ。
ひとしきり笑った後、満足そうに言った。
「今日、あなたに会いにきてよかったわ。大笑いして、久しぶりに身体《からだ》が軟らかくなった気がするもの」
ということは、ここ数日はあまり笑わなかったし、肩の力とかが入りっぱなしになっていたということだろうか。
「放課後は大抵、薔薇の館にいますよ」
こんな顔を見てリラックスするならいつでも見に来てください、というつもりで誘った。引退したからといって、来ちゃいけないって法はないのだ。側にいようともお姉さまを頼らなければいい。要は、己《おのれ》の心の問題なのだ。
しかし。祥子さまの切り返しは、祐巳の度肝《どぎも》を抜いた。
「薔薇の館じゃ、二人きりになれないでしょう?」
「えっ!?」
過剰《かじょう》に反応すると、
「冗談よ」
と、いとも簡単にいなされた。
「はっ?」
「よく回る目玉だこと」
反応が面白くて、からかっているのだろうか。祐巳がそう思い始めた時、祥子さまが言った。
「でも、あなたの顔をゆっくり見たかったのは本当よ。人の出入りが激しくない場所って探しているうちに、ここを思いついたの。最初は屋上とかも考えたのだけれど、放課後は鍵《かぎ》がかかっているかもしれないし」
「鍵以前に、今あそこは『三年生を送る会』に参加する部活や個人グループの生徒たちで一杯ですよ」
「ああ、そうね」
それは忘れていたわ、と手を一つ叩く祥子さま。山百合会の仕事を離れたせいか、それとも噂《うわさ》のように試験勉強に集中しているせいか、高等部校内の情報をキャッチする受信装置は、どうやらこのところオフ状態であるようだ。
とにかく、わざわざ呼び出したからには何かあるはずだ。まさか遺言《ゆいごん》とか、と祐巳は身構えた。
しかし祥子さまは、言葉の通り祐巳の顔をじっと見ているだけだった。何も言わず。何も言いたげでさえなかった。
もし心の中に言葉があるとしたら、それは己に向かって投げかけられている、そんな気がした。祐巳と向かい合うことで、祐巳を鏡代わりにして、自分自身を映し出しているのではないか。何かを確認するためか。それとも、決心を促すためか。
「お姉さま。何かありましたか」
祐巳は尋《たず》ねた。
「何かあったように見える?」
「はい」
「あなたには隠し事はできないのよね」
ため息混じりにほほえむ。心を読まれた祥子さまの表情は、がっかりというよりむしろ楽しそうだった。
「お家で、変わったことでも?」
「いいえ」
「じゃ、ご自身のことですか」
「そうなるかしらね。でも、まだ内緒《ないしょ》よ」
当然、例の「祥子さまに関する試験勉強の噂」が頭に浮かんだが、内緒と先回りされた後では、聞けるものではない。由乃さんに「何やっているのよ」と怒られそうだが、お姉さまがまだ言いたくない話だったら、無理に聞くこともないと判断した。
「まだということは、いつかは話してくださるんですよね」
「そうね。いつかは」
それがいつになるかはわからないと、祥子さまは言った。数日後になるか、一年後になるか。
「じゃ、いいです」
必ず話してくれる、それが信じられたから、祐巳は待つことに決めた。
「祐巳」
突然、祥子さまの手が伸びて祐巳の肩を押した。
「あっ!」
不意打ちである。当然よろよろとバランスを崩《くず》した。体重を支えるために引いた右足に、遅れた左足が絡まってますます変な体勢になる。何かにすがろうにも、体育倉庫の外壁までは届かない。このままじゃ転ぶ、と思った瞬間、この事態の元凶《げんきょう》だった手が目の前に現れたので、両手で必死につかんだ。
「何するんです、お姉さま」
体勢を立て直して、祐巳は抗議した。こんな仕打ちをされる覚えは、まったくなかった。
「ごめんなさい。つい」
「つい、って!?」
ついで人を突いて、転ばせて(未遂《みすい》だけれど)いいわけがない。
「祐巳があまりにどっしりしているから、ちょっとくらい押しても動じないんじゃないかしら、って。そう思ったら、手が伸びていたの」
「どっしりー?」
ここ最近体重計に乗っていなかったから自分ではわからないけれど、端《はた》からは太って見えるのだろうか。なんて、トンチンカンなことを祐巳が考えている間、祥子さまはちょっと考え込むような仕草をして、それからちょっと上を向いて大きく空気を吸ってそれを肺から吐き、小さくうんとうなずいた。
「あなた、再来週《さらいしゅう》の日曜日は暇《ひま》?」
「はい?」
肩を押した話は強制終了ですか。昔から自己中心的でマイペースな所があったけれど。それを含めての、小笠原《おがさわら》祥子なわけなのだけれど。
「再来週ですか」
明明後日《しあさって》、次の日曜が来週とすると、再来週は――。
「『三年生を送る会』の次の日よ」
祥子さまが言った。
「ええ……まあ」
探り探りうなずく。今度はこの話がどこに流れていくのか、まったく読めない。下手《へた》に受け答えすれば、次は足でも蹴《け》られるんじゃないかと警戒する。
「じゃ、一緒《いっしょ》に遊園地に行かない?」
「はあっ!?」
今日の祥子さまはびっくり箱だ。
「思い出作りですか」
「思い出作り?」
そんな生やさしいものじゃないわよ、と強気な目が言っている。
「これはリベンジよ」
「……」
秋に遊園地に行った時、途中で気分が悪くなってリタイヤした祥子さま。確かにリベンジすると宣言していたけれど、卒業を間近に控えたこの時期に勝負をかけようとは。まるで高校時代に作った借りは、高校生のうちに返さなければならないと思い込んでいるようだった。
「お供しますよ」
こうなったら、どこまででも。負けず嫌いのお姉さまが、遊園地を克服《こくふく》するところをちゃんと見届けるのだ。
「ありがとう。でも、ジェットコースターには乗らないわよ」
「あれ、リベンジは?」
「ジェットコースターは最初から除外だもの」
どうやら、それだけは譲《ゆず》らないようである。
さて、と祥子さまは鞄《かばん》を持ち上げた。
「お帰りですか」
「ええ。今日は、自宅に家庭教師が来るの」
腕時計を見ながら帰宅予定時間を計算する祥子さまの横で、祐巳は「家庭教師」という言葉に吸い寄せられていた。
祥子さまは、高等部の一年生の時に、習い事などをすべてやめたはずだった。祐巳が妹になってからだって、家庭教師の話なんて聞いたことがない。だから、たぶんその家庭教師がついたのは最近のことなのだ。それは近頃|噂《うわさ》になっている、試験勉強を始めたという事実を裏付けるものではないだろうか。
「今日は祐巳の顔だけ見てすぐ帰ろうと思っていたのだけれど。遊園地の話までしてしまったわ」
体育館に添って歩きながら、祥子さまは「どうしてだと思う?」と祐巳に問いかけた。体育館では、バスケ部がフリースローの練習をしているようだ。
答えを探せないまま、後ろ姿を追いかけて歩いていると、祥子さまは分かれ道で立ち止まった。祐巳はこのまま図書館の脇の道を行って校舎へ、祥子さまは曲がって銀杏《いちょう》並木を通り校門へ抜けることになる。
祥子さまが、顔だけ祐巳に向けて言った。
「『burn one’s bridges』」
「は?」
諳《そら》んじられたそれは、格言《かくげん》とかことわざであろうか。しかしその英文を初めて耳にした祐巳には、すぐに意味を解することができなかった。
「今、橋を焼いたのよ」
そう言い置いて、祥子さまは角を曲がった。
*  *  *
家に帰って英和辞書を引いてみた。
――背後にある橋を燃やせ。
つまり、『背水《はいすい》の陣《じん》を敷く』という意味だった。
祥子《さちこ》さまと別れて、薔薇《ばら》の館《やかた》に行くと志摩子《しまこ》さんと由乃《よしの》さんしかいなかった。
つまり、二年生だけということだ。
「あれ、乃梨子《のりこ》ちゃんは?」
教室に寄って取ってきた荷物を、ドサッと下ろして祐巳《ゆみ》は尋《たず》ねた。
瞳子《とうこ》が、演劇部の舞台|稽古《げいこ》に出かけているのは知っていた。終わり次第来るような話だったが、無理はしなくていいと言ってある。
「乃梨子は、事務所にタウンページを借りにいってるの」
「タウンページ?」
「去年頼んだお花屋さんが閉店してしまったので、別のお店を探さないといけなくて」
どこかで会わなかったかと問われたが、乃梨子ちゃんの姿は見ていない。うんとうなずいて、椅子《いす》に座った。テーブルの上には、何種類かの書類が広げられている。
「それよか。どうだったの、祥子さまは」
由乃さんが椅子を側に寄せてくる。
こうなったら仕事は一時|休憩《きゅうけい》、雑談タイムに突入である。志摩子さんも書類から手を離して、聞く態勢になった。
「どう、って。別に」
「別にじゃないでしょ。あんな手紙で呼び出して」
「ああ、あれね」
果たし状のような文面になってしまった理由を知ると、由乃さんも志摩子さんも脱力していた。祐巳だって他人《ひと》のことは言えないが、いったい二人は何を期待していたんだか、である。
「でも、祐巳さんを呼び出したからには、祥子さまは何か用事があったんでしょう?」
「顔を見たかったんだって」
それを聞くと、二人は顔を見合わせて、「まあ」と言った。
「……祥子さまったら」
「それで、顔を見せてあげたわけね」
どうやら、自分のことでなくても顔が「ぽっ」となってしまうくらい、照れちゃう理由らしい。
「それで?」
急《せ》かすように、由乃さんが祐巳の腕を軽く叩く。
「何の勉強している、って言ってた?」
「ごめん。聞いてない」
「また忘れたの!?」
ほとほと呆《あき》れたというようなため息を聞きながら、首を横に振る。
「ううん。覚えていたけれど、今は聞かないことにしただけ」
「どうして?」
今度は志摩子さんが聞いた。
「いつか話してくれるっていうから、それまで待とうかな、って」
「えーっ」
「気にならないの?」
親友たちの問いかけに、祐巳は「うーん」と考え込んだ。
気にならないと言えば、嘘《うそ》になる。
祥子さまがどこで何をやっていようと何も心配しないかというと、そうではないのだ。去年の梅雨《つゆ》時に仲違《なかたが》いした、あのような「相手の気持ちがわからない」状態に陥《おちい》っているならば、嫌がられようともしつこく聞き出すはずだった。
「でも、私の好奇心を満たすためだけだったら、いいかなって」
祐巳がそれを了解《りょうかい》していてもいなくても、お姉さまに限って無茶はしないだろうし、悪いことに手を染めるわけもないと思うのだ。そして「まだ内緒《ないしょ》」と言うからには、それなりの理由があるに決まっている。
「私のことを必要な時は、ちゃんとこうして、会いたいってサインを出してくれるからさ」
祐巳は、果たし状みたいな置き手紙をポケットから取りだして、ヒラヒラと振ってみせた。
すると。
「……素敵」
志摩子さんがつぶやいた。
「へ?」
「祐巳さん、素敵だわ。そのどっしりとした感じ」
また、どっしりだ。志摩子さんは祥子さまと違って肩を押したりしなかったけれど、椅子《いす》から腰を浮かせると祐巳に向かい合って、祐巳の左右の二の腕を両手でよしよしと撫《な》でた。
その横で由乃さんが、耳の穴に指を突っ込んで首を傾《かし》げるといった、いわゆる「つまらなそうなポーズ」をわざととる。
「ホント、アンコ型の関取《せきとり》並みの重量感ね。お姉さまになると、こうも貫禄《かんろく》がつくものなのかしらね」
由乃さんのそれは、たぶん皮肉とか誉《ほ》め殺しの類《たぐい》の言葉であったろうけれど、ひねりがききすぎて祐巳には通じなかった。それより、耳に残った単語の方に気がいってしまう。
どっしりの後は、関取に重量感。
「私、やっぱり太った!?」
制服のウエスト辺りを摘《つま》んで、パタパタやる。ローウエストのワンピースは、お腹《なか》周りに緊張感がないから、多少太っても気づかないのかもしれない。
「そういう天然のところはあんまり変わらないのよね」
「そうね」
由乃さんと志摩子さんは、顔を見合わせて笑った。喩《たと》えだっていうことはわかったけれど、どうして自分が「どっしり」と表現されたかまでは、祐巳は今ひとつ理解できなかった。
「あ、そうだ」
由乃さんが手を叩いた。
「一年生がいない今だからの相談だけれどさ。あれ、どうする?」
「あれ?」
あれと言われても。世の中のほとんどのものが、その代名詞で呼ぶことが可能なくらい「あれ」というのは便利な言葉であるわけで。
「あれっていったら、隠し芸よ、隠し芸」
「ああ……」
この時期隠し芸といったら、あれである。去年の『薔薇さまお別れ会』で、当時一年生だった三人が、去りゆく先輩方を喜ばせるために捨て身で披露《ひろう》した出し物の数々。
「今年もやるなら、それとなく乃梨子ちゃんたちに耳打ちしておかないと」
突然「何かやって」と言って、即席で芸を披露《ひろう》できる高校生ってそんなにはいない。たとえ持ち芸があったとしても、それに必要な道具が揃《そろ》ってなければ興《きょう》ざめだ。
「でもさ」
祐巳は確認した。
「私たちは、佐藤《さとう》聖《せい》さまに騙《だま》されて準備したけれど。毎年そんなことをしていたわけじゃないんでしょ」
「そうね」
うなずく志摩子さん。
祥子さまの一人バレエも、令さまの片手りんご握りつぶしも、聖さまによる口から出任《でまか》せの作り話だ。たぶん。
去年はイレギュラー。じゃ、今年はどうする。元の形に戻すか、それとも試しにもう一年やってみるか。ここは思案のしどころである。選択次第では、一年生の隠し芸が恒例《こうれい》行事になるかもしれない重要事案だ。
志摩子さんは、あまり乗り気ではないようだった。
「一年生は現在二人で、ただでさえ一人一人にかかる負担が大きいわけでしょう? その上瞳子ちゃんは演劇部とかけもちだし。多忙な時期に隠し芸の準備までさせるというのは、酷《こく》なのではないかしら?」
「すまん」
「ごめん」
未だ妹を持たない由乃さんと、妹が忙しい祐巳は同時に頭を下げた。志摩子さんが「そういう意味では」と恐縮していた。
でも、確かに志摩子さんの言う通りなのである。去年はがんばりすぎた祐巳が、前日とうとうダウンした。二人はそのことについてあえて触れないけれど、苦い教訓として心に留めているはずである。
しばらく、沈黙が流れた。内輪《うちわ》のお別れ会だけなら大した仕事ではないのだが、その前に『三年生を送る会』がある。次期薔薇さまであるここにいる三人が中心になって仕切るにしても、サポート役の一年生にはその手足として働いてもらわなくてはならない。去年一年生だったから、その大変さは三人とも十分わかっていた。
甘いと言われてもいい。一年生には酷だ。
三人の間に、妙な空気が流れた。自分以外の二人の腹の内を探るように、視線が動く。
「だからって、今年も私たちがやるっていうのはなしよ」
ついに、沈黙に耐えきれなくなった志摩子さんが言った。祐巳と由乃さんも、間髪《かんはつ》入れずに同意する。
「そりゃそうよ」
去年は一番|下《した》っ端《ぱ》だったから、受け入れたのである。妹たちができた今年、誰もあっぱれ手品や即席|日舞《にちぶ》や安来節《やすきぶし》なんてやりたくない。というか、後輩に見られたら最後、なけなしの威厳《いげん》すら失墜《しっつい》する。
「突然、令《れい》さまか祥子さまがリクエストなさったらどうするの?」
何かやって、って。去年の聖さまのように。
「あり得る。去年ウケたしね」
そういうこともあるのだということを、耳に入れておかない方が一年生たちには酷《こく》なのではないか。考えすぎて、何だかよくわからなくなる。
忙しいのは自分たちも一緒。なのに何で仕事でもないことで、こうも思い悩まなければならないのだろう。
「とにかく、この話はまた今度」
結局、結論も出ないまま隠し芸問題は棚上《たなあ》げされた。
なぜか。
誰かが階段を上るギシギシという音が、二階のこの部屋に響いてきたからだ。
「ただ今帰りました」
元気にビスケット扉を開けた乃梨子ちゃん。その後ろには、瞳子の姿もあった。けれど、二人とも黄色い雑誌は持っていない。
「広告の内容や住所などから、当たりをつけて何軒か問い合わせてみました。条件的には、こちらの二軒がいいと思います。予算内で収まりそうですし、事前に依頼しておけば配達もしてくれるようです」
生徒手帳に書いたメモ書きを見ながら、乃梨子ちゃんが報告する。そして瞳子も。
「でも品物が生花ですので、扱っている花や店の雰囲気《ふんいき》なども見にいってから決めた方がいいと思うんです。もしよろしければ、今日の帰りにでも私と乃梨子で――」
遅いと思ったら。
手際のいい妹たちは、先回りして仕事を一つ片づけてきたようだった。
金曜日。
祥子《さちこ》さまは学校に来なかった。
土曜日。
登校したら、二年|松《まつ》組の教室前に祥子《さちこ》さまが立っていた。いつから待っていたのだろう、祐巳《ゆみ》の顔を見ると含み笑いを浮かべて近寄ってくる。
何かいいことでもあったのか、ごきげんようの挨拶《あいさつ》も省略して話し始めた。
「昨日、思いついたのよ。それで祐巳の意見を聞きたくて」
それは、遊園地デートの件だった。
「はあ」
その提案を聞いて、祐巳はまず驚いたけれど、祥子さまの話を聞きながら、「それもありかな」と思うようになった。
「わかりました。聞いてみます」
自分だけの判断で承諾《しょうだく》できることではない。取りあえずは保留ということで、返事は月曜日にすることにした。
「本当? よろしくね」
「大丈夫《だいじょうぶ》だと思います。っていうか、どうにかします」
遠足前の小学生みたいにワクワクがにじみ出ているお姉さまを見ていると、ここは一肌脱ぎましょう、という気持ちになる。
「無理|強《じ》いはだめよ」
口ではそう諫《いさ》めながら、多少のごり押しならばやむなし、と顔で言っていた。
「リベンジですからね」
それなりのお膳立《ぜんだ》ては必要かもしれない。
「そうね」
言いたいことを言ってすっきりした祥子さまは、機嫌よく廊下《ろうか》を戻っていった。
「あ。昨日何でお休みしたか聞き忘れた」
踊るような軽《かろ》やかな足取りの後ろ姿を見送りながら、祐巳は思った。
まさか、お休みして遊園地デートのことをずっと考えていたわけではないだろう。
[#改ページ]
サンタの差し入れ
月曜日の朝、祐巳《ゆみ》は下足室で上履《うわば》きに履き替えた後、少し移動して、三年生のロッカーがある場所までやって来た。いつもより、少しだけ早い。周辺に生徒たちの姿は見られるが、人にぶつかる心配をしないで自由なペースで移動できる程度。ガラガラでもなければスカスカでもなかった。
(失礼します)
三年|松《まつ》組、お馴染《なじ》みの蓋《ふた》を開けてみる。中に入っている上履きは、左右きちんと揃《そろ》えて後ろの縫《ぬ》い目を見せている。
(よし)
お姉さまは、まだ来ていない。土曜日のように、教室の前で待たせるなんてことは、今日はなさそうだ。
祐巳はポケットから紙片を取りだして、上履きの上に置いた。ロッカーの蓋を閉める時、ほんの小さな風が起きた。気になったのでもう一度開けてみると、微妙だけれど、紙片の位置が最初に置いた場所からちょっとずれている。紙は軽いから、わずかな風でも影響を受けるようだ。そうと知らずにダイナミックに開閉したら、風でどこかに飛んでいってしまうかもしれない。
思い直して、紙片を右の上履きの中に挿《さ》した。こうしておけば、多少の風が起きても飛び出る心配はないだろう。
(これでOK)
今度こそ蓋を閉めて教室に向かった。
「ごきげんよう、祐巳さん」
廊下《ろうか》を歩いていると、さっそく捕まった。後ろから肩を叩いたのは、美術部の部長だ。
「いいところで会ったわ。『三年生を送る会』の看板なんだけれど、見積もりを出したら、絵の具がストックしてある分じゃ間に合わなくなりそうなのよ。至急注文を出したんだけれど、それが手に入るのが明日の夕方で、そうなると木曜日にそっちに持っていくのは無理かもしれないんだわ」
歩きながら、話を聞く。そういえばこの人、一年前に木炭《もくたん》デッサンをしながら食パンの耳をかじっていたな、なんて思いながら。
「金曜日ならできるの?」
「できる。木曜日には描き上げるから、金曜日に完全に乾いたら搬入《はんにゅう》可能」
「了解《りょうかい》」
親指を立てる。スケジュールは多少の余裕《よゆう》をもっている。ちゃんと見通しが立ってるようだから、大丈夫《だいじょうぶ》だろう。
美術部の部長のクラスの前まで来たので、そこで別れた。
「遅れるお詫《わ》びに、薔薇《ばら》の館《やかた》に届けるわよ」
後ろ姿に声をかけられ、祐巳は振り返った。鞄《かばん》を持っていない右手を、頬《ほお》の横につけてスピーカー代わりにする。
「ありがとう、助かる」
今日も忙しくなりそうだ。
昼休み。
薔薇の館の裏手で待っていたら、中庭を歩いてくる祥子《さちこ》さまの姿を見つけたので、祐巳《ゆみ》は「ここです」と手を上げた。
「ごきげんよう、祐巳。ところで、何がここです、なの?」
「は?」
何がって。この場合「ここです」の主語は「私」であって、「私はここです」という文章を省略して「ここです」と言ったわけだ。
「あの、お姉さま。私に会いにここに来られたわけでは……?」
「え?」
(――ないようですね、その反応だと)
「私」こと祐巳に会いに来たのだったら、「私はここです」に疑問を投げかけるわけがない。
「手紙、読まれてないんですか」
今日はバタバタと忙しくなる予感がしたので、すれ違いにならないように手紙で連絡を取ったのだった。休み時間のたびに三年生の教室を訪ねられればいいのだけれど、『三年生を送る会』関連でちょっとした問い合わせなんかだとみんな廊下《ろうか》や教室で声をかけてくるものだから、休み時間といえどなかなか個人の用事を済ますことができないのだ。お姉さまに訪ねてもらって、留守《るす》をしていたら申し訳ないし。
「手紙?」
首を傾《かし》げる。では、祥子さまがここを通ったのは偶然だったのか。だとしたらラッキーとしか言いようがない。でも、本当にそうなのだろうか。今ひとつ、信じきれないものがある。
「祐巳の手紙? どこに置いたの?」
「下駄箱《げたばこ》の……ロッカーの……上履《うわば》きの中に」
「上履きの中? まあ、どうしましょう気がつかなかったわ。そのまま履いてしまったのかも」
「いや、それはさすがにないでしょう」
いくら薄い紙っぺらだって、四つに折ったものだ。それ相応の厚みだってあるし、履けばがさがさと音がするはずだから絶対にわかる。なのに祥子さまは外壁に片手をついて、左足を上げると上履きの後ろの部分に人差し指を挿《さ》し入れてするりと脱いだ。
すると。
「あ」
中から、折った紙が出てきたのである。
しかし一連の動作を見ながら、祐巳はあることにひっかかった。
「お姉さま。私が入れたのは右の上履きなんですが」
恐る恐る尋《たず》ねる。気がつかないで履いたというのなら、どうして場所が入れ替わっているのでしょう、と。
ニヤリ。祥子さまが笑った。
「よかったわ。まだそれほど惚《ぼ》けていないみたいね」
「えーっ」
どうやら試されたらしい。でも、正解できたのでまあよしとしよう。
「どうです? 頭の性能はまだまだイケてますでしょ」
「それほど、と言ったのよ」
読んでご覧なさい、と手紙を渡される。祥子さまの踵《かかと》のぬくもりが残る紙を開くと、ご対面するはあまり上手《じょうず》とはいえない自分の字。
「どこかおかしいですか」
「よく見て」[#底本では手紙は罫線で囲まれている]
[#ここから2字下げ]
お姉さまへ
昼休み、薔薇の飯の裏で待ってます
祐巳
[#ここで字下げ終わり]
ここよ、と指さされた場所は。
「あーっ」
薔薇の館じゃなくて薔薇の飯[#「飯」に傍点]、って。花びらの炊《た》き込みご飯か。これじゃ、お姉さまに惚けていると思われても仕方ない。
「疲れているのではないの?」
祐巳は、ぶんぶんと首を横に振った。
「たぶん、昼休みと書いた時に、お弁当のことが頭に浮かんでこうなったのだと思います」
胸を張っていう言い訳ではないが、誤解されたままではまずい。手紙を書いたのは朝一番だから、まだ授業も山百合会《やまゆりかい》の仕事もしていなかった。これは、疲れとは別の次元の話である。
「それならいいわ。くれぐれも、無理はしないこと」
「はい」
お姉さまが、おいたをした赤ちゃんに向けるような「めっ」って顔で注意をするものだから、祐巳はついにやけてしまった。
「何、ニヤニヤしているの」
構ってもらってうれしいなんて、そんなこと言えるわけもないから背中を向けた。後々大変にならないように、今できる仕事を片づけておかなくちゃ。
それじゃこれでと薔薇の館に入ろうとすると、祥子さまに「待って」と呼び止められた。
「もう、そそっかしいわね。土曜日の返事を言うために、私を呼んだのではなかったの?」
「あ。そうでした」
だから疲れてるとか無理しているとかじゃなく、元来こういう粗忽者《そこつもの》なのである。
「OKです」
立ち止まって、振り返って、腕で頭の上に丸を作る。
「ご苦労さま」
お姉さまからは、人差し指と親指をくっつけた小さな丸が返ってきた。
そんな小さな丸一つで、俄然《がぜん》はりきったりするわけだ、妹なんてやつは。
薔薇《ばら》の館《やかた》(飯ではない)には、お客さんが待っていた。
「ごきげんよう、祐巳《ゆみ》さん」
受験が終わって、冬眠から覚めた動物みたいに活動を復活させた築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまだ。
「ご、ごきげんよう」
何かあったのかなと顔を覗《のぞ》きつつ、祐巳は先に来ていた瞳子《とうこ》の隣の椅子《いす》に座った。お客さまは立っているけれど、構わないだろう。部屋には、乃梨子《のりこ》ちゃんも由乃《よしの》さんも志摩子《しまこ》さんもいる。誰一人として椅子を勧めなかったなんてことはありえないので、三奈子さまはたぶん好きで立っているのだ。
「どうしたの」
瞳子が黙々と何か作業をしているので、ちょっと距離はあったけれど、逆方向で一番近い位置に座っていた志摩子さんに聞いてみる。
「それが」
三奈子さまに遠慮《えんりょ》して小声で説明してくれた内容を要約すると、三奈子さまは瞳子に仕事を持ってきて、待っているから今すぐやって欲しいと迫ったという。
「それで」
志摩子さんは椅子から腰を浮かせて、祐巳の耳もとで言った。今度は、瞳子を気にしたようだ。
「急にそんなことを言われても、って。一悶着《ひともんちゃく》あって。でも結局」
三奈子さまが二学年先輩の立場を強調して、ねじ伏せたらしい。
いったい何の仕事だろうと、瞳子の手もとを覗《のぞ》き込む。すると作業中の瞳子が、手は止めずに言った。
「リリアンかわら版の校正です」
今週号は、バレンタインイベントの勝者と次期薔薇さまのデートの特集だった。瞳子の前にあるのはその試し刷りで、瞳子は自分の提出したレポート部分を、チェックして赤ペンを入れているのだった。先週祐巳もやったけれど、文字の少なかった号外とは違って、今回の校正は時間がかかりそうだった。
「ね、どうするの」
向かいの席から、由乃さんが問いかける。
「どうするの、って言われてもね」
やるやらないで押し問答している時ならまだしも、すでに瞳子は仕事を引き受けたのだから、今更《いまさら》「姉でござい」と出ていって口を挟《はさ》むわけにもいかない。
祐巳は、お弁当箱を開けて食べ始めた。乃梨子ちゃんが、カップにお茶をいれて持ってきてくれる。ついでに三奈子さまにもお茶はどうかと聞いていたけれど、長居するつもりはないからと言われていた。
薔薇の館では、日頃、訪ねてくれたお客さまにはお茶のおもてなしをしているのだが、人の出入りが多いと予想される今週一週間は、その慣例《かんれい》を用いないことになっている。しかし、自分たちが飲む時には「いかがですか」と勧めるし、お客さまからの要求があればもちろんお出しする。
もうすぐ祐巳がお弁当を食べ終えるという時、隣の瞳子が立ち上がった。
「はい。できました」
立っていた三奈子さまのもとに歩いていき、にっこり笑って赤い文字の入ったリリアンかわら版の試し刷りを差し出した。さすがに女優。心の内側を顔には出さない。ふて腐《くさ》れているのがわかっている分、かえって怖いのだけれども。
祐巳もお弁当箱の蓋《ふた》を閉めて、立ち上がった。一応フォローというか、姉として無視してもいられない気がしたから。
「お待たせしまして、申し訳ありませんでした」
「こちらこそ。急がせてしまってごめんなさい」
祐巳が間に立ったので、瞳子は「失礼します」と言ってその場を下がった。当てつけなのか食欲なのかわからないけれど、食べかけのおにぎりに豪快《ごうかい》にかぶりついた。
「でも、三年生の三奈子さまがわざわざいらっしゃるとは」
よくよく考えてみると、これは「上級生のくせに使いっ走《ぱし》りにされているんですか」という皮肉にもとれるわけだが、あいにく祐巳はそういう技術を持ち合わせていないので、言葉通りの意味しか含んでいない。先週の号外は例外かと思っていたが、卒業直前になって新聞部に完全復活したのだろうか、と。
「後輩たちは忙しくしているから。手伝いをかってでたのよ。というか、むしろ押し売りって感じかな」
そして築山三奈子さまという人も、その辺あまり感受性の鋭い人ではないらしく、言葉通りに受け取って、ただ普通に答えを返すわけである。平和だ。由乃さんや乃梨子ちゃんが、ハラハラしながら聞き耳を立てていたなんてこと、どちらももちろん気づいていない。
「私はどんな形でも、リリアンかわら版に関わっていたいんだわ」
胸を張って言う三奈子さまは、リリアンかわら版に対する姿勢が一貫《いっかん》していて格好よかった。
校正済みの試し刷りを受け取ったら長居は無用とばかり、三奈子さまは「お邪魔《じゃま》したわね」と部屋にいるみんなに挨拶《あいさつ》をして歩きだした。見送ろうと祐巳が着いていくと、「ここでいいから」とビスケット扉の前で制された。
「それより。ねえ、知ってる?」
突然思い出したのか、三奈子さまはドアノブに手をかけたまま言った。
「例の祥子さんの奇行、ピッタリと止《や》んだわよ」
「奇行って」
いくら日頃試験勉強をしない人が問題集を解いていたからって、その言い方はないんじゃないかな。
「何だったのー、あれ」
しなだれかかってくる。
「だから、知りませんってば」
試験勉強をしているらしいという姿だって、この目で見たことがないのだ。だから今現在ピッタリと止んでいると聞くと、先に、本当に試験勉強なんてやっていたのか、その噂《うわさ》自体に疑問を覚えてしまうくらいで。
「とにかく、私は存じません」
祐巳は三奈子さまの体重を両手で受けとめて、そのままビスケット扉の向こう側に「お疲れさまでした」と送り出した。しばらく「そこを何とか」なんて聞こえていたけれど、扉が開かないようにノブを引っ張っていたら、やがて階段を駆け下りていく音が聞こえてきた。こんなことをしている暇《ひま》はない、と気づいたのかもしれない。
やれやれと肩を回してテーブルまで戻ると、瞳子がこちらをじっと見ている。
「|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の奇行って、優《すぐる》お兄さまと関係あります?」
投げかけてきたのは、不思議な質問。
「どうしてここに柏木《かしわぎ》さんが出てくるの」
そりゃ、あまりに唐突《とうとつ》すぎやしないか。三奈子さまは「祥子さん」とは言ったが、柏木さんの名前は言っていない。
「関係ないならいいんです。ただ、近頃優お兄さまが小笠原《おがさわら》家に毎日のように通っている、と聞いたものですから」
「毎日? 何でだろう」
しかし、さすがは親戚《しんせき》。瞳子の耳には、祐巳の知らない話も入ってくるようだった。
「存じません。でも、融小父《とおるおじ》さまやお祖父《じい》さまに用事があって、日参《にっさん》しているのかもしれませんし」
「まあ、そうね」
でも、祥子さまに会いに行っているということだってある。むしろ、そっちの可能性の方が高いような気がしてきた。
用事があるといって、連日早く下校する祥子さま。柏木さんと約束をしているから、とは考えられないか。
「うーん」
わからない。情報が流れてくる瞳子にわからないことなら、祐巳にもわからないし、祐巳にわからないことなら、ここにいる他のメンバーにもわからないだろう。こうして顔をつき合わせて考えるだけ、時間の無駄《むだ》な気がした。
そして。
「すみません。落研《おちけん》でーす」
「お菓子作り同好会でーす」
こうして次々にやってくるお客さまの対応に追われ、実際、のんびりと悩んでいる暇なんてないのだった。
火曜日。
講堂内の入り口、ロビー、通路など、展示スペースの割り振りを行い、展示部門の参加グループ各代表に通達した。
舞台を使った演目は、セットや上演時間、ジャンルなどいろいろな条件を鑑《かんが》みて順番を決定し、こちらも同じく参加グループに通達した。
それでも、不具合や不満を言ってくるグループはあるので、まだ『三年生を送る会』のプログラムは作成できない。水曜日一日|猶予《ゆうよ》期間を設けて、納得できる申し分であれば調整や変更を行う。なかなか、神経を使わなくちゃいけない仕事だ。
「さっそく、華道部と写真部が場所をチェンジしたい、って言ってきたわよ」
志摩子《しまこ》さんが言った。放課後一番に、華道部と写真部の部長が連れ立って薔薇《ばら》の館《やかた》にやって来たという。
「互いが希望しているなら、いいんじゃないの。理由聞いた?」
祐巳《ゆみ》は、荷物を下ろしながら尋《たず》ねた。ここに来るまで、三人の生徒に声をかけられ、四つの話をしてきたからちょっと遅れた。
「ここに、エアコンの吹き出し口があるらしいの」
志摩子さんは講堂の見取り図を取り出すと、一カ所をトントンと指で叩いた。祐巳は、由乃《よしの》さんと一緒《いっしょ》に覗《のぞ》き込む。
「展示する位置によってはさほどの影響はないとは思うけれど、やっぱり生花を扱う華道部としてはこの場所は避けたいということよ。写真部は、若干《じゃっかん》広くなるから変わってもいいって」
なるほど、水場が近いほうがいいんじゃないかとかは考えたけれど、エアコンの吹き出し口までは気が回らなかった。さっそく、パンフレットの草稿《そうこう》に書き込まれたグループ名を入れ替える。
「柔道部が舞台に上げる畳《たたみ》をどうしたらいいか、って言ってたけれど」
由乃さんも、ここに来る途中どこかで仕事を拾ってきたらしい。
「去年どうしたんだっけ。武道館から運んだ?」
「校舎の地下倉庫にある分を使ったのではなかったかしら。搬入《はんにゅう》の関係で」
志摩子さんが去年のノートを見ながらつぶやいた。武道館の畳を講堂に運び入れてしまうと、それ以降、柔道部は武道館での稽古《けいこ》ができなくなるからだ。逆に武道館で使っている畳でないなら、かなり前から準備しておくことができる。
「地下倉庫の畳か。じゃ、使用許可もらってもらわないと。えっと、書類ってここにあったっけ」
「あ、畳なら確か箏曲《そうきょく》部が使用申込書を持っていってたよ」
思い出して祐巳は指を立てた。
「そう。それなら、共同で申し込むように伝えましょう。舞台は一つなのだから、別々に用意することはないわ。そうすれば人手も増えて、搬入搬出も楽になるし」
二年生三人の会話を聞いていた瞳子《とうこ》が、そこで手を上げた。
「私、行ってきます」
「これから?」
質問すると、「はい」より先に今度は乃梨子《のりこ》ちゃんの声。
「私が一緒《いっしょ》に行きます。それで、その帰りに花屋に確認の電話をしてきます。そうだ、ついでに美術部に行って絵の具が手に入ったか聞いてこよう」
返事も待たず二人してドアの方に駆けだすから、祐巳はあわててストップをかけた。
「待って」
いろいろと気の回る後輩たちがいるのは、頼もしい限りだ。しかし、あれもこれもとがんばる姿は、去年の自分に重なる。
「看板が気になるのはわかるけれど、それは美術部に任せておけばいいから」
由乃さんもうなずいた。
「畳《たたみ》の件は、明日運動部の会合に私が出席するから、その時柔道部の部長に伝えるし。箏曲部《そうきょくぶ》の部長は志摩子さんのクラスだから、志摩子さんにお願いする。それでいいよね」
「ええ。もちろん」
立っているものは親でも使え。適任者がいるなら、素直に頼めばいいのだ。合い言葉は「無理をしない」。
「というわけで、二人には花屋への電話のみお願いします」
「はい」
ちょっと物足りなそうにしていたが、賢い二人は飲み込みも早いので、納得の上出かけていった。それを窓から見送りつつ、祐巳はつぶやいた。
「去年うちのお姉さまが、あなたたちがいてくれて助かる、みたいなことを言っていたけれど。その通りだな、って思うね」
「本当に」
志摩子さんがうなずき、由乃さんは渋い顔をした。
「悪いね。二人の妹に私の妹の分まで仕事をさせちゃって」
目下《もっか》由乃さんのお気に入りの有馬《ありま》菜々《なな》ちゃんは、中等部の三年生である。妹にしたくても、四月になるまでは叶わないのだ。
「そういや、お別れ会に菜々ちゃんは来るの?」
「来るわけないじゃん。呼んでもいないのに」
「あら、どうして? クリスマスには招待していたじゃない」
親友二人に質問攻めにされ、由乃さんは面倒くさそうに頭をかいた。
「あの時は蔦子《つたこ》さんだっていたからいいのよ。まだ妹になっていなかった瞳子ちゃんも、可南子《かなこ》ちゃんも」
でも、お別れ会は身内だけの送別会だから。現時点で妹でもない菜々ちゃんが参加するのは適当じゃない、由乃さんはそう判断したのだ。
「主役はあくまで三年生なんだし」
心中複雑な思いがあるようだ。
水曜日。
リリアンかわら版のデート特集号が発行された。
相変わらず忙しくしていたけれど、一服の清涼剤とでもいうのだろうか、その記事は読んでいる間、気持ちに潤《うるお》いを与えてくれた。
同じ日に、宝探しゲームの勝者とデートした三人。互いに、どんな風に過ごしたのかは漠然《ばくぜん》としか聞いていなかったので、記事を読んで「へえ、そんなことが」なんて。
由乃《よしの》さんとデートした田沼《たぬま》ちさとさんのレポートでは、新聞部の真美《まみ》さん姉妹が、志摩子《しまこ》さんとデートした井川亜実《いがわあみ》さんのレポートでは亜実さんのクラスメイトや写真部の蔦子《つたこ》さん、笙子《しょうこ》ちゃんが登場して賑《にぎ》やかさ楽しさが伝わってきた。逆に瞳子《とうこ》のレポートを読んで、由乃さんと志摩子さんは「あの予算でよくあんな遠くまで行けたわね」と感心しきりだった。
リリアンかわら版をつまみに、楽しくおしゃべりすると疲れが吹き飛んだ。そうして、また次の仕事への活力が生まれる。
放課後、由乃さんが運動部の会合に出かけて、お土産《みやげ》にまた仕事を二つ三つ持ち帰った。
木曜日。
印刷したプログラムに誤字がみつかり、昼休みに上からシールを貼って直す。刷る前に全員で見直ししたのに、見落としてしまったわけだから、やっぱりみんな少しずつ疲れていたのかもしれない。
気の遠くなるような作業かと思いきや、歌をうたいながらやったら、意外なほど早く片付いた。
放課後、由乃《よしの》さんと祐巳《ゆみ》で華道部に薔薇《ばら》の花を生ける花器を借りにいった。力仕事だからって乃梨子《のりこ》ちゃんが志願してくれたんだけれど、去年運んだ二人の方が持ち方とかコツとかがわかっていて都合いい。何せ、火鉢《ひばち》のような大物なのだ。
瞳子《とうこ》は、最後の舞台|稽古《げいこ》に出かけて留守《るす》。
それでも、仕事は順調に回っている。
金曜日。
昼休みに、予定通り美術部から看板が届いた。
去年は相撲字《すもうじ》だったが、今年は歌舞伎《かぶき》で使われる文字である。確かに、中村《なかむら》○○とか板東《ばんどう》○○とか市川《いちかわ》○○とか歌舞伎役者の名前とセットでお目にかかったことがあるような。勘亭流《かんていりゅう》というらしい。
「一見黒に見えるでしょ?」
部員二人と運んできた美術部部長が、文字を指さして言った。薔薇《ばら》の館《やかた》に入れる前、外光の下に看板を置いて。
確かに黒だと思ったので、受け取りに出た祐巳《ゆみ》は「うん」とうなずく。すると、重ねて聞かれた。
「よく見ても黒に見えるでしょ?」
「違うの?」
一緒《いっしょ》にいた瞳子《とうこ》と乃梨子《のりこ》ちゃんも、やはり黒にしか見えないみたいで首を横に振った。
「そう言われると思って」
ジャジャーン、と取り出されたのは黒の模造紙《もぞうし》。文庫本くらいの大きさにカットされたものだ。美術部部長が、それを勘亭流で書かれた「卒業生を送る会」という文字の横に近づけると――。
「おおっ」
あら不思議。本物の黒と並べてみれば、微妙に違うのが一目瞭然《いちもくりょうぜん》。こっちは、紫がかった深い紺《こん》色だ。
「絵の具にこだわっただけあって、いい色に仕上がっているなぁ」
感心していると、部長は気をよくし「もっと誉《ほ》めて」と更なる賛辞を要求してきた。
「粋《いき》だね」
「もう一声」
「待ってました、日本一」
「よーし、もってけ泥棒《どろぼう》」
最後は、どういうわけか美術部三人と薔薇の館の三人が一本締めをして、受け渡しは終了となった。美術部の部長、相変わらず面白い人である。
夕方、花屋から薔薇の花二百本が届けられ、乃梨子ちゃんと瞳子が正門までとりにいった。しかし戻ってきた時に二人が手にしていたのは、花だけではなかった。
「これは……?」
薬局のロゴが印刷されたレジ袋の中に入った、細長い小箱の数々を眺めながら、祐巳は乃梨子ちゃんに尋《たず》ねた。瞳子は今二人で運んできた薔薇を、水を入れたバケツに挿《さ》している。花の色は、紅、白、黄とサーモンピンク。今年は四色を各五十本ずつだ。
「『親切なサンタさんがくれました』」
棒読みで、乃梨子ちゃんが言う。
「へ?」
「――って言うように、と」
言われたわけね、親切なサンタさんに。
しかし、風変わりなサンタさんもいたものだ。三月という中途|半端《はんぱ》な時期に現れ、花も恥じらう乙女《おとめ》にはあまり似つかわしくないプレゼントを置いていくなんて。そして、サンタさんは大抵親切なもので、親切なサンタさんは自分のことを親切とは言わない。
「聖《せい》さまでしょ」
こんなものをくれるのは。
「正解です。よくおわかりですね」
「そりゃね」
乃梨子ちゃんからレジ袋を受け取り、入っていた金色っぽい小箱を一つずつテーブルの上に並べていく。間違いなく、栄養ドリンクだった。全部で十本ある。
そろそろ疲れている頃じゃないの、って。そんな顔が目に浮かんだ。
「何、聖さまからの差し入れの栄養ドリンク?」
「初めて見たわ」
デスクワークをしていた由乃《よしの》さんと志摩子《しまこ》さんも、手を休めて覗《のぞ》き込む。
世間一般の高校生は、あまり馴染《なじ》みのない栄養ドリンク。試しに統計をとってみたら、祐巳と乃梨子ちゃん以外は未体験だった。
「アルコールが入っているみたいだけれど、未成年が飲んでもいいのかしら」
成分表を見ながら、志摩子さんがつぶやく。
「でも、ここに『十五才以上』って書いてあるよ」
「十五歳以上の人!」
由乃さんのかけ声に、全員が「はーい」と手を上げた。ここにいる者は、すべて飲む資格があるようだ。
しかし、なかなか手は伸びない。これを飲んだら、「私は疲れていました」と認めてしまうようで躊躇《ちゅうちょ》しているのだ。
そんな中。
「私、飲むわ」
清水《きよみず》の舞台から飛び降りるみたいに、志摩子さんが悲壮《ひそう》な表情で箱を開けた。それほどのものでもないとは思うが、初めて口にする(得体《えたい》の知れない)物であれば、ある程度の決心が必要なのかもしれない。
ああしかし、箱の中には瓶《びん》を守るためのトレイがあって、その瓶には蓋《ふた》がついていて、付属のストローはビニール袋にパックされているのである。栄養ドリンク初体験では、なかなか手際《てぎわ》よくいかないもので。
「はい、お姉さま」
悪戦苦闘している志摩子さんに、乃梨子ちゃんがセッティング済みの瓶を渡した。そして、開封しかけだった志摩子さんの瓶を引き取る。
「お姉さまのお姉さまからの差し入れですものね」
「ええ」
志摩子さんはうなずいた。きっと聖さまの気持ちを、受け取りたいと思ったのだ。胃袋で。
「そうね。別に疲れているわけじゃないけれど」
由乃さんも箱を開けた。続いて祐巳も、瞳子も。
志摩子さんと乃梨子ちゃんが待っていてくれたから、みんなで「乾杯」って瓶同士をぶつけ合って飲んだ。
前祝い、ってやつだ。やることはやった。あとは、明日を迎えるだけ。
ちょっとだけ「ぽっ」ってなった身体《からだ》を揺らしながら、五人並んで銀杏《いちょう》並木を歩く。
「うちのお父さんさ、こんなの気休めって言いながら飲んでいるけれど、本当のところどうなんだろう」
空《から》になった瓶を手提げ袋から一つ取り出しながら、由乃さんがつぶやいた。
「それでも飲んでいるのなら、効いているんじゃない?」
絶対に効いていないと思っているなら、わざわざ買って飲みはしないはずだ。
「飲み続けることで身体が慣れて効きにくくなった、ってことはないんですかね」
瞳子の説に、乃梨子ちゃんも乗っかる。
「そしてより強い物を求める、とか」
「えーっ」
山百合会《やまゆりかい》のメンバーが薔薇の館で栄養ドリンクパーティーというのも、あまり体裁《ていさい》がよくないので、空瓶は持ち帰って捨てることにした。一番家が近い由乃さんが、請け負ってくれたのでお願いした。
手つかずの五本は、「佐藤《さとう》聖さまからの差し入れ」と付箋《ふせん》をつけて薔薇の館に置いてきた。箱に印字してあった使用期限は来年の十一月だったから、そのうちまた忙しくなって疲れることがあったら飲めばいい。例えば、そう。学園祭とか来年の『三年生を送る会』とか。
「子供の頃に飲んだ風邪《かぜ》薬のシロップみたいな味だったわね」
志摩子さんは思い出して笑った。どうやら苦い薬みたいな味を想像していたらしくて、思いの外《ほか》飲みやすかったのにはビックリしたという。
「それより、プリンのカラメルの味にちょっと似ていない?」
「そうかなー」
由乃さんの意見に、今ひとつ賛同できない祐巳。
「むしろ、お祖父《じい》ちゃんの薬用酒」
「それ、メジャーなんですか?」
校門の前で大爆笑してから、手を振って別れた。
気のせいかもしれないけれど、みんなちょっぴりハイになっていた。疲れているわけではないと思いつつも、実は知らずに溜まっていた疲れが、栄養ドリンクのお陰でとれたのかもしれない。
しかし残念ながら、栄養ドリンクには「すっかり忘れていたことを思い出させてくれる」という効能まではないようだった。
今更思い出しても手遅れだったかもしれないから、思い出さずにぐっすり眠れてよかったのだ、きっと。
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奇跡の仕事人
いつもより三十分以上早く家を出たはずなのに、そのバスは結構な混み具合だった。
それもそのはず、今日は『三年生を送る会』の本番である。
土曜日の授業、四時間分をつぶしてまるまるその時間が当てられることになっていた。
(ふむ)
祐巳《ゆみ》はつり革に掴《つか》まってみんなと一緒《いっしょ》に左へ右へと揺れながら、早出の同士たちを見える範囲で観察した。教科書やノートがいらないから、学生|鞄《かばん》を持っている生徒は少ない。だからといって、その分スペースが空《あ》いて車内に余裕《よゆう》ができるかというとそうではない。その代わりにスポーツバッグや紙袋、風呂敷《ふろしき》包みなどといった学生鞄以上の荷物を抱えている人が少なくないので、人の頭の数にしては身体《からだ》はギュウギュウ詰めの気分である。
早く来る生徒は、ほぼ百パーセント今日の『三年生を送る会』に出演したり作品を発表したりする人なのだ。だから、荷物が多いのは当たり前。中には衣装《いしょう》とか小道具とか、やっと仕上がった作品などが詰まっている。
(そういえば、去年は私もそうだった)
前日体調を崩《くず》したから今日みたいに三十分も前のバスには乗らなかったけれど、風呂敷《ふろしき》包みをさらに紙袋に入れた荷物を持って登校したのだった。もっともそれは『三年生を送る会』で何か出し物をしたからではなく、その後の『薔薇さまお別れ会』用の荷物だったのだが。
(『薔薇さまお別れ会』用の荷物……)
そこまで考えて、祐巳は「あっ!」と気づいた。実際、声に出していたかもしれない。隣に立っていた生徒が、訝《いぶか》しげにこちらを眺めていた。
(しまった。忘れていた!)
何って、瞳子《とうこ》と乃梨子《のりこ》ちゃんに、隠し芸のことを話しておくのを、だ。
(いや、待てよ)
話さないことにしたんだっけ? と、考え直す。一生|懸命《けんめい》に働いている一年生に、隠し芸の心配までさせるのはかわいそうという話になったような。でも、それでこの話はお終《しま》いだっただろうか。
(そうそう)
三年生に突然リクエストされるかもしれない、って意見が出て。突然何かやらなければならない方が酷《こく》ではないか、ってことになって。
(それで、どうしたんだっけ)
一年生が戻ってきたから、この話は棚上《たなあ》げになって――。
その後、すっかり忘れた。
(えーっ。本当にっ!?)
自分たちのしたことだが、信じられない。本当に忘れたんだろうか、もしかしてちゃんと対処したのに思い出せないだけなのか。必死に記憶を手繰《たぐ》ってみたが、しかし「棚上げ」以降その話題はぷっつりと消息を絶っている。
(どうしよう。いくら出来のいい乃梨子ちゃんと瞳子だって、今日言って今日隠し芸をするなんて無理だよ)
バスの混雑も手伝ってか、カーッと頭に血が上った。
(落ち着け)
とにかく、落ち着こう。
一人で悩んでいてもいい考えは出ない。まずは薔薇の館に行って、志摩子《しまこ》さんと由乃《よしの》さんに相談する。三人で必死に考えたら、解決策が浮かぶかもしれない。
やっと降りたリリアン女学園前のバス停で、新鮮な空気を吸ったところで、ポンと肩を叩かれた。
「お姉さま」
もちろん、祐巳をそう呼ぶのは瞳子しかいない。
(うわあ、本人)
逃げ出したくなるところを堪《こら》えて、振り返る。と。
(……あれ?)
何か、変だ。間違いなくそこに瞳子が立っていたのだが、いつもとどこかが決定的に違う。
「同じバスにお姉さまがいらしたことは気づいたんですけれど、ちょっと場所が遠くて、声もかけられなくて」
そこで、祐巳の間の抜けた表情にやっと気づいた瞳子は、「ああ」と手を上げて耳に髪の毛をかけた。
「これですか」
これ。
「そう。それっ、髪の毛よ」
祐巳は指さした。
瞳子のトレードマークといっていい、左右二つの縦《たて》ロールが、ドリルが、バネが、コロネがそこにない。ないといっても、髪の毛がなくなっちゃったわけではなくて。
「今朝《けさ》は巻かないできたんです」
そう。それ。
「今日のお芝居《しばい》の役で髪の毛を下ろすので」
役に応じて髪型も変える。そりゃそういうこともあるだろう。実際、学園祭の劇でだって縦ロールじゃない髪の毛をみたことはあった。けれど、それは衣装込みの「変装」だったから、自然に受け入れられたのだ。こうして制服を着ているのに縦ロールじゃないと、何だか別の人みたいだ。
瞳子が言った。
「そろそろいいですか」
「へ?」
「驚くの。せっかく早く来たのに、バス停で立ち話してたらもったいないですから」
その言葉に辺りを見回すと、一緒《いっしょ》のバスで来た生徒たちの姿はすでにない。見上げた歩道橋に、黒っぽい制服を着た一団がぞろぞろと列をなしている。祐巳がいちいち髪型のことで驚かなかったら、二人とも今頃あの列の一部となっていたはずである。
瞳子が歩き出したので、続いた。瞳子に知られたら怒られそうだが、今度は後ろ姿を珍しく眺めた。
瞳子の真っ直ぐな髪が、背中で揺れる。由乃《よしの》さんや祥子《さちこ》さまほどじゃないけれど、たぶん志摩子《しまこ》さんくらいの長さはある。巻いている髪は、伸ばすと意外に長い。そんなの常識だけれど、実際それを目《ま》の当たりにすると「その通りだな」と感心してしまうのだった。
瞳子もまた、大きな荷物を持っていた。旅行にでもいけそうなくらい大きい、黒のナイロン製ボストンバッグだ。上部中央を走るチャックはきっちり閉められているから、何が入っているかはわからなかった。演劇部のお芝居《しばい》で使う衣装《いしょう》か小道具、といったところだろう。かなり重そうに見えた。
教室には寄らずに、薔薇《ばら》の館《やかた》に真っ直ぐ行った。
授業はないが朝拝《ちょうはい》とホームルームはいつも通りあるので、それが始まるまでに会場に看板などを運んでおこうというわけだ。
「一時、置かしておいてください」
瞳子《とうこ》は家から持ってきた大きな荷物をもって、薔薇の館の一階の物置部屋に入っていった。出てきた時はなぜか乃梨子《のりこ》ちゃんも一緒《いっしょ》で、彼女もまた瞳子の髪型を物珍しげに眺めていた。
「今日一日、ずっとこんな風なのかしら」
瞳子の予感通り、二階に行けば志摩子《しまこ》さん由乃《よしの》さんにも同じ反応をされた。たぶん一年|椿《つばき》組でも、同様の扱いを受けるだろう。
五人|揃《そろ》ったところで、美術部から預かった看板と、華道部から借りた花器、そして薔薇を持って講堂に行った。入り口に看板を、中に入った所に薔薇を生けた花器をセッティングし終えて会場内の様子を見にいくと、すでに通路やロビーに展示物が揃《そろ》い、配置の角度を変えたり照明の位置を決めたりといった最終チェックに取りかかっていた。
舞台裏や袖《そで》には、机や畳《たたみ》、また箏《こと》などの大きな楽器がすでに運び込まれ、まだかまだかと出番を待っている。
「あーあー。ワン、トゥー、ワン、トゥー」
マイクテストをしている放送部の生徒が、客席に現れた山百合会《やまゆりかい》の面々を見て軽く会釈《えしゃく》した。
準備は着々と進んでいる。祐巳たちは、いったん会場を後にした。
大丈夫《だいじょうぶ》。
自分たちはきっとやり遂《と》げてみせる。
三年生に頼らなくても、やっていけるのだということをお姉さまたちに見てもらうために。自分自身にその覚悟を刻みつけるために。必ずや、この会を成功させてみせる。
それは『三年生を送る会』に参加する一年生二年生の、共通の思いだった。
「それじゃ、ホームルームが終わったら会場で」
薔薇の館に戻って、円陣《えんじん》を組んだ。会が始まる前に五人全員揃う機会は、今を逃すともうないかもしれない。
「がんばりましょう」
五つの手を重ね、「おー」と気合いを入れてから解散した。
館を出る時、瞳子は一階に置いておいた荷物を取ってきた。
(あれ?)
バッグのふくらみが小さくなり、さっきより軽そうに見えたのは、祐巳の気のせいだったのだろうか。
いざ始まってみると、時間は転がるように過ぎていくものだ。
そして主催者《しゅさいしゃ》はというと、開会、閉会の挨拶《あいさつ》くらいで、大きなアクシデントでもない限り主《おも》だった仕事はない。だからといってぼんやり出し物を鑑賞できるわけじゃなくて、プログラム片手に客席の後方や舞台|袖《そで》にスタンバイし、| 滞 《とどこお》りなく進行しているか、不都合は起きていないかと、場内くまなく目を光らせる。つまり出番がないのは、いいことなのだ。
だから、クラスに席はあっても、座ることはなかった。
「詰めてくれていいよ」
クラスメイトにはそう言ったのだが、みんなは「ちょっとでも時間がとれたら座って」と祐巳《ゆみ》と由乃《よしの》さんの席を通路側に二つ確保してくれていた。見れば、二年|藤《ふじ》組も一年|椿《つばき》組も、同じように、働くクラスメイトたちのために席を取ってあるようだった。無駄《むだ》になるかもしれないのに。心遣いがありがたかった。
祐巳は、舞台袖にある客席を写したモニターを見た。前方の三年生の席に、祥子《さちこ》さまの姿があった。舞台上は落語研究部の部員たちによる大喜利《おおぎり》。「り」「り」「あん」を使ったあいうえお作文での珍回答に、顔を崩《くず》して笑っている。
(よかった)
心から楽しんでくれているようだ。入り口で会場入りする三年生をお迎えした際、ちょっとだけ言葉を交わした。その時、お姉さまからは「がんばりなさい」といった励《はげ》ましの言葉は一切《いっさい》なかった。祐巳の「楽しんでいってください」との声に、「そのつもりよ」と返してきただけだ。
さて、大喜利の後に控えているのは、柔道部・剣道部・空手《からて》部による形《かた》のデモンストレーションだ。
下りた幕の前では、セットチェンジの場つなぎで聖書朗読部による文字通り聖書の朗読が行われ、幕の後ろでは速《すみ》やかに落研の部員たちが座布団《ざぶとん》を片づけた後、柔道部員たちが舞台後方に畳《たたみ》を並べていく。
「祐巳さん」
呼ばれて振り返ると、そこに剣道着姿の由乃さんが立っていた。
「持ち場を離れてごめんね。終わったら代わるから」
「いいって、いいって」
そんなことを気にせず演技に集中しろ、と尻を叩く。山百合会《やまゆりかい》の仕事で部活を休みがちで、ただでさえ練習時間が少なかったのだから。
「へへへ」
舌を出して、剣道部員の輪の中に戻っていく由乃さん。竹刀《しない》は持っているが、防具は着けていない。着物の衿《えり》をすっきりと併せ、袴《はかま》さばきも決まっていた。こうして見ると、立派な剣士だ。
(なんちゃって武士なんて言って悪かったな)
しかし、ちょっと見直したとたん。
「ちがう、由乃さん。あなたはあっち」
田沼《たぬま》ちさとさんが逆サイドから叫ぶ。幕が上がりかけたところだったから、たぶん舞台|下手《しもて》から上手《かみて》に向かって走る由乃さんの足は、客席から丸見えだったと思われる。顔は見えなかったけれど、それが誰であったか、見る人が見ればわかったようだ。なぜって、三年生の席で一人頭を抱える令《れい》さまの姿が確認できたからだ。
武道のことは、祐巳にはまったくわからない。けれど、柔道、剣道、空手と、入れ替わり立ち替わりで披露《ひろう》する形は舞踊《ぶよう》にも似て美しかった。由乃さんは間違えずにできたのだろうか。頭を抱えていた令さまが、次第に前のめりになっていったから、たぶんいい出来だったのだと思われた。
柔道部の出した畳の上に箏《こと》を運び、そのまま箏曲部《そうきょくぶ》の演奏会となった。この後は、演劇部の公演だ。
衣装《いしょう》だろうか、艶《あで》やかな着物姿の生徒たちが祐巳の後ろに集まり始めている。瞳子《とうこ》はまだ見えない。典《つかさ》さんと二人|芝居《しばい》という話だったから、着物の彼女たちとは別の劇なのだろう。
「あれ?」
演劇部員たちをぬうようにして、制服姿の生徒が祐巳のもとまでやって来た。それは、客席の後ろにいたはずの志摩子《しまこ》さんだった。
「ここ、代わるわ」
「え? でも」
志摩子さんの持ち場は、と尋《たず》ねる前に答えが返ってきた。
「乃梨子《のりこ》に任せてきたから」
それじゃ、乃梨子ちゃんがしていた仕事は? とか。由乃さんがまだ戻ってないし、とか。今の時間瞳子が抜けているのに、とか。そんなことは、志摩子さんの一言ですべて吹き飛んでしまった。
「祐巳さんは客席で観て」
そんなジョーカーを真顔で出されたら、もうこちらがどんな手札を用意したって無理なのだ。
「ありがとう。そうさせてもらう」
祐巳は頭を下げて、袖《そで》から下がった。関係者通用口と張り紙された扉から通路に出る。そのスペースに展示されているのは、いつか見た漫研のカラーやモノクロ原画だ。まぶしく目を細めながら、写真パネルの飾られた場所に出る。エアコンの吹き出し口を確認し、「ああ本当だ」と小さく笑った後で客席後方の扉をそっと開けた。
ちょうど箏曲《そうきょく》部の演奏が終わったところで、幕は閉まっていた。扉の側に控えていた乃梨子《のりこ》ちゃんに目で「ありがとう」と合図して、姿勢を低くして二年生の席へと急ぐ。取っておいてもらった席に座って顔を上げると、下りた幕の前にマイクを持って典《つかさ》さんが出てきた。
「えー。演劇部三月公演に先立ちまして、客席の皆さまに私部長の高城《たかぎ》より内容をご説明させていただきたいと思います」
典さんはまだ制服姿ではあったが、ヘアメイクはすでに済んでいるようだった。ドーランで肌を整え、髪の毛はピンを多用してまとめている。
「今回、演劇部は三つのグループに分かれ、三つの劇を上演いたします」
三つの劇は、どれも全幕通して行われない。時間の関係もあり、ある一部を抜粋《ばっすい》したものである、とのことだった。つまりいいところ取り、というわけだ。三つともよく知られた話であるので、途中のワンシーンであっても十分楽しんでもらえるだろう、と挨拶《あいさつ》をして典さんは舞台|袖《そで》へと戻っていった。それと同時に、幕が開く。
セットはなかった。舞台下手から着物をきた少女が、一人歩いてくる。杖《つえ》をついているが、足が不自由というわけではなさそうだ。立ち止まって汗を拭《ぬぐ》う。ああ、旅をしているのか、とそこで気がついた。着物の裾《すそ》を少し上げているのは、そのためだ。
舞台|上手《かみて》から、また別の少女が飛び跳ねるようにして現れる。先の少女より多少地味目の着物で、舞台を軽く走り回ってから旅の少女の前で止まった。
「『桃子《ももこ》さん桃子さん。そのお腰につけた吉備団子《きびだんご》、一つ私にくださいな』」
会場からドッと笑いが起きる。何の話かと考えながら見ていた観客には、ここで『桃太郎』だと明かされる。
「『いいわ。あげましょう。でも、これから私がいく鬼の征伐《せいばつ》に一緒《いっしょ》にこなくてはだめよ。犬子《いぬこ》さん』」
「『お供しますわ』」
どうやら桃子さんは怖い者知らずのお嬢さまらしい。猿子《さるこ》さんやキジ子さんも仲間に引き連れて、いざ|鬼ヶ島《おにがしま》にレッツゴー!
――で幕。しかし、セットらしいセットがないので、幕は十秒ほど閉まっただけですぐに開き、次の芝居《しばい》が始まる。舞台上には、男の子のような姿の二人。そして数脚の椅子《いす》。
「『カムパネルラ』」
一人がもう一人に向かって呼びかける。特徴ある名前にすぐピンときた。『銀河鉄道の夜』だ。切り取られたのは、鳥採りの一エピソードだ。悲しいラストシーンがないため、とりとめのない夢のような味の芝居に仕上がっている。それでも、ちらりと「カムパネルラは本当は今頃」なんて思い出してしまい、悲しくないシーンだからこそ、かえって胸が締めつけられてしまった。
ここまで、瞳子《とうこ》は出てきていない。最後の芝居が、典さんとの二人芝居なのだ。
演劇部公演の最後の幕が開く。
舞台中央よりやや向かって右側の床の上に、二人はいた。共にやや古めかしいドレスを身にまとい、眼鏡《めがね》をかけた典さんが瞳子を抱えるようにして座っている。
セットは、舞台左に立つ一メートルくらいの高さのポールのみ。
典さんが瞳子の手の平に、自分の手を押し当ててしきりに動かす。
「『ウォーターよ、ヘレン。これはウォーター。W、A、T、E、R』」
ヘレン、ウォーター、といえば。
(『奇跡の人』だ)
「『エッグ。E、G、G。これには名前があるの』」
『奇跡の人』は。赤ん坊の時に視覚と聴覚を失ったヘレン・ケラーとその師アニー・サリヴァンの、奇跡の物語である。アニーはヘレンに人間らしい生活をさせるために、手話を教える。しかしヘレンは指遊びのように単語を覚えても、それに意味がついていることを理解できない。
家族に甘やかされて育ったヘレンは、自分の思い通りにならなければ暴れる。それを許さないアニー。傷だらけでヘトヘトになる二人。
そして、あまりに有名なラストシーン。
典さんが瞳子を、いいやアニーがヘレンを引きずって、唯一のセットであるポールのところまでやって来た。これはポンプだ。アニーは故意に水をこぼしたヘレンに、罰《ばつ》として水を汲《く》ませようとする。
「『さあ、汲んで』」
母親に助けを求めるヘレン。
「『いいえ、お母さんはいないわよ。汲んで!』」
ヘレンは暗闇の中にいる。音のない世界にいる。乱暴な手が、ヘレンの手をとり、ポンプのハンドルへと導く。
(あ)
実際そこにはただのポールがあるだけなのに、ヘレンの手がその位置に来たとたん、そこにハンドルが現れた。見えないハンドルを上下する。今度は水が出てくる。
水差しからこぼれた水がヘレンの手を濡らす。アニーがW、A、T、E、Rとヘレンの手に手話で綴《つづ》る。
その時。
何も映していなかったヘレンの瞳に、光が点《とも》る。心の目が開いた。
言葉を発することのなかった唇が、震える。唇だけではない、身体全体がどうかなってしまうのではないかと思われるほど、揺れている。そして爆発する。
「『ウァー、ウァー』」
水を探り、指でW、A、T、E、Rと綴る。
今、わかったのだ。WATERが水の名前であることが。
寄り添う二人にまぶしいライトが当たる。そして幕。
幕が下がりきっても、会場は静まりかえっていた。まるで、ヘレンのいた音のない世界のようだった。
やがて、客席が明るくなると、我に返った観客たちが拍手を思い出し、それが怒濤《どとう》のように押し寄せた。
鳴りやまない拍手の中、祐巳《ゆみ》は客席から立って一人歩きだした。スタンディングオベーション。続けて、カーテンコールの気配を背中で感じる。
「祐巳さま……」
乃梨子ちゃんがいることをすっかり忘れて、後方扉まで来てしまった。
「瞳子には内緒《ないしょ》ね」
ボロボロの涙でグチャグチャになった顔を、指さして出ていく。
(ああ、もう)
演劇部の公演が終わったらすぐに仕事に戻ろうと思っていたのに、こんな顔じゃ人前に出られそうもない。お陰で、しばらくはどこかに身を潜《ひそ》めなければならなくなりそうだ。
『奇跡の人』は、原題を『THE MIRACLE WORKER』という。直訳すると「奇跡をおこす人」で、当然アニー・サリヴァンを指している。だから、アニーはもっと前へ前へと出ていってもいいはずだった。それなのに。
お手洗いの扉を開けて、祐巳はフフッと笑った。
(やってくれたじゃない、典さん)
祐巳は心から、嫉妬《しっと》していた。
(確かに、この勝負は勝てないわ)
でもその嫉妬は、決していやなものではなかった。
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ワルツはいかが?
いくらやることがいっぱいあったからって。いくら次から次へと衝撃的なことが起こったからって。
大切なことをスコーンと忘れてしまうのは、いかがなものか。
特に私、と祐巳《ゆみ》は思った。
志摩子《しまこ》さんと由乃《よしの》さんはまだいい。ずっと忘れっぱなしだったんだから。
何を、って。瞳子《とうこ》と乃梨子《のりこ》ちゃんに、隠し芸のことを言っておかなかったことを、だ。
今朝方《けさがた》バスの中で「忘れていたこと」を思い出して、そのことはかなりショックだったのだけれど、にもかかわらず、学習能力がないのか単に記憶再生装置がいかれてしまったのか、またもやスコーンと忘れてしまった自分って、いったい。
瞳子の髪型があまりにインパクトがあったとか、『三年生を送る会』のことで頭がいっぱいでとか、言い訳するのも恥ずかしい。
結局、午前中はずーっと忘れっぱなしで、思い出したのは、今日二つめの送別会である『|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》お別れ会』が始まる直前という間抜けっぷり。当日を迎えてしまったらいつの時点で一年生に告白したって「今更《いまさら》」であろうけれど、それでも隠し芸を披露《ひろう》しなければならないかもしれない会の直前というのは、我ながらひどすぎる、と祐巳は思った。
全校生徒参加の『三年生を送る会』は、大盛況《だいせいきょう》のうちに幕を閉じた。終了予定時間を三十分オーバーしてしまったけれど、あとは特にアクシデントなどもなかった。大きなイベントを無事やり遂《と》げさせてくれたマリア様に、心からお礼を言った。
さて、各教室で帰りのホームルームを済ませたら、内輪《うちわ》の送別会の準備に取りかかった。主役の二人には呼びに行くまで教室で待っていてもらって、一年生と二年生で薔薇《ばら》の館《やかた》の二階をパーティー会場に整える。
『三年生を送る会』のために用意した薔薇は、閉会後三年生に一本ずつ配ったがまだ若干《じゃっかん》残っていた。それを、志摩子さんが小さな花器に移し替えて飾る。
朝、通学路を少し寄り道してコンビニで買ってきてくれたサンドイッチを、由乃さんが一口大に切って皿に並べる。
で、お菓子作り同好会がお裾分《すそわ》けしてくれたクッキーを袋から出した時、祐巳はやっと思い出したのだった。
「あ」
テレパシーってあると思う。由乃さんと志摩子さんの手が止まった。そして祐巳が言葉を発する前に、二人がかりで口を押さえた。
「んごっ」
幸い、瞳子と乃梨子ちゃんは流しの側でお茶やカップを選んでいて、二年生三人の珍奇《ちんき》な行動を目撃していない。
言いたいことはわかったから騒ぐな。由乃さんの目の指示にうなずくと、口を塞《ふさ》いでいた手が離れ呼吸が楽になった。
「どうするのよ」
三人は額を寄せ合い、小声で相談した。棚上《たなあ》げにした荷物が、突然上から落っこちてきたみたいだ。
「今更言える?」
「でも、言わずにいられる?」
いつ三年生から「隠し芸」という言葉がでるかとヒヤヒヤしながら、送別会の席に着いているなんて。心臓に悪いことこの上ない。
「けれど言ったら、今度は一年生二人がドキドキしながら席に着くことにならない?」
すべて疑問形。投げかけるだけで、答えを出せる者はいない。
コソコソ密談していると、瞳子と後ろを向いて話していた乃梨子ちゃんが、クルリと振り返った。
「そろそろ、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》と|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》をお迎えにいきましょうか」
時計を見れば、もうじき二時だ。いくら押せ押せになったからといって、予定は一時スタートだったのだから、これはさすがにお待たせしすぎである。
「そ、そうね。お願いしようかしら」
「瞳子も一緒《いっしょ》に行ってきて。お茶の支度《したく》は私たちでやっておくから」
体《てい》よく二人を追い出して、相談を続けた。
「じゃあ、お姉さまにこっそり、今日は隠し芸はありませんからって言うのは?」
「こっそりって。いつ言うの」
「そりゃ……あ」
そう。一年生に三年生を迎えにいかせた以上、こっそりなんて隙間《すきま》、一ミリもない。だからといって、今更瞳子と乃梨子ちゃんを追いかけて、自分たちが行くから帰るようにと命じるのは、あまりに不自然だ。
「三年生が隠し芸と口に出したら最後、隠し芸を出さないわけにはいかないわよ」
「わかっているわよ」
リリアン女学園高等部は、基本、下級生は上級生に逆らえない。お姉さまだって口に出してしまったものは引っ込められないから、誰かが何かをやらない限り許してはくれないはずだ。
「私、踊るわ」
志摩子さんが、すっくと立ち上がった。
「カセット持ってきてないよ」
どうするつもり、と由乃さん。適当な音楽があったなら、志摩子さんに踊ってもらうつもりなのか。
「口で歌いながら、日舞《にちぶ》を。平気よ。祥子《さちこ》さまだって、歌いながら四羽の白鳥を踊られたのだし」
志摩子さん、かなり動揺《どうよう》している。祥子さまが自ら歌いながらバレエを踊ったというエピソードは、志摩子さんのお姉さまである佐藤《さとう》聖《せい》さまの創作である。
でも、可愛《かわい》い妹に恥《はじ》をかかせるわけにはいかないという気持ちは、痛いほどわかる。事前に言い忘れていたのは自分たちの責任。
「わかった。その時は、私も歌いながら安来節《やすきぶし》を踊る」
志摩子さんが「扇《おうぎ》、扇」と言いながらそこら辺にあった紙でハリセンみたいな物を製作している横で、祐巳もお財布《さいふ》から五円玉を出して綴り紐《ひも》に括《くく》り、小道具作りを始めた。手ぬぐいはタオルで代用できそうだけれど、ざるはどうしよう。流しの洗面器でいいか、なんて考えながら。
「そんなに可愛いかね」
呆《あき》れたように見ていた由乃さんには、妹がいない。しかし。
「タネや仕掛けがないと、マジックってできないのよね」
なんて言いながら、ハンカチや五百円玉や安全ピンを机に並べて、コソコソといじり出した。
祥子《さちこ》さまと令《れい》さまが薔薇《ばら》の館《やかた》に到着したのは、二時ちょうどだった。
いざという時の小道具を部屋の後方に片づけ、上にスクールコートを掛けたその時、階段を上ってくる音が聞こえてきた。ギリギリセーフだ。
ビスケット扉を開けてお迎えすると、華《はな》やかな紅薔薇と黄薔薇がほほえんでいた。
「今日は私たちのためにありがとう」
二人ともサーモンピンクの薔薇を、茎《くき》を短くカットして胸に挿《さ》していた。
「道々話していたのだけれど、『三年生を送る会』もとてもよかったわ」
「ホント。みんな、よく頑張《がんば》ったね」
それは今日、たくさんの三年生にたくさんもらった言葉だったけれど、祥子さま、令さまに言ってもらうと、なぜだか同じように「ありがとうございます」とは返せなかった。ありがとうございますの気持ちはあるのに、心の中にあるのはそれだけじゃなくて、だからそれだけ取りだして口にするのは無理なのだった。
自分たちは、この人たちのためにがんばったのだ。『三年生を送る会』はすべての三年生のために開かれた会であるし、主催者《しゅさいしゃ》としてはもちろん全三年生に喜んでもらいたいと願って努力したのだけれど。次期薔薇さまの肩書きを一旦下におろしたならば、一個人として、大好きな二人のことを考えながら仕事をした。参加した部活や個人グループの一人一人も、きっと大好きな誰かのためにがんばったはずだ。そのがんばりの一つ一つが集まって、『三年生を送る会』になったと信じている。
「とにかく、お席にどうぞ。今お茶を」
言ってから、ハッと気づく。小道具作りに熱中していて、お茶の支度《したく》を引き受けたことを忘れていた。あわててポットの方へ行くと、瞳子《とうこ》が言った。
「お姉さま、私と乃梨子《のりこ》でやりますから」
「……ごめん」
すごすごと戻ると、令さまがじっとこちらを見ていた。何か言いたいことでもあるのかと、見つめ返すと、令さまは笑って首を振った。見ていたのは自分のことではなかったのだろうか、と祐巳《ゆみ》は思った。
「乾杯」
恒例《こうれい》の紅茶で乾杯をしてから、会が始まった。とにかく二時である。まずはお腹《なか》を満たすべく、みんなの手はサンドイッチやクッキーに伸びる。話題の中心は、やはり『三年生を送る会』のこと。準備段階の諸々《もろもろ》エピソードから、それぞれの演技に至るまで。そうそう、親切なサンタさんがくれたプレゼントの話でも非常に盛り上がった。
咀嚼《そしゃく》しながら、おしゃべりにも花が咲く。口の周りが忙しい。
「令ちゃん?」
由乃《よしの》さんが、どうしたのって尋《たず》ねた。そういえば、確かにさっきから口数が少ない。ぼんやりというか、心ここにあらずというか、何かここにない物を見ているみたいだった。
「いや。こういうのって、クリスマス以来だな、って思って」
そう言って笑う。じゃあ、令さまが見ていたのは過去だったのか。過去を懐かしんでいるようには見えなかったけれど。
「クリスマスね」
祥子さまが目を細めた。こちらは、間違いなく過去を反芻《はんすう》している表情だ。いろいろあったわ、って、そんな顔。
「ええ」
祐巳もうなずく。
あの時は、まだ瞳子は妹じゃなかった。
可南子《かなこ》ちゃんや、菜々《なな》ちゃんなんかも招待して、ゲームをしたりケーキを食べたりした。そうそう、蔦子《つたこ》さんがカメラマンで、たくさん写真もとったっけ。
普段は八人分の椅子《いす》が置いてあるテーブルに、二つ椅子を足して十の席をつくって。トランプを引いて座る場所を決めた。
今、この部屋には七人の仲間がいる。だから一つ席が余っている。令さまの視線は、その辺りを漂っていた。
祐巳にはわかった。
令さまは、きっと菜々ちゃんの姿を探していたのだ。
いつまで経っても、三年生からは「隠し芸をやって」というリクエストはなかった。
別にやりたくて仕方ないわけではないけれど、いざという時のためにと諸々準備していただけに、なかなかその話題が出ないと「まだかな」みたいな気持ちに傾いてくる。特に、去年は隠し芸が盛り上がったから、パッと明るい気持ちで会をお開きにできたわけで、隠し芸がない場合の会の上手《じょうず》な締め方が今ひとつわからない。ここはいっそ、自分たちで「隠し芸をやります」と言って始めてしまおうか、なんてことまで考えてしまった。
「ねえ祐巳《ゆみ》」
隣の席にいた祥子《さちこ》さまが、小声で言った。
「私、すっかり忘れていたのだけれど」
「はい?」
世間は、忘れていたブームだろうか。それとも風邪《かぜ》のように、側にいると感染するのか。とにかく、お姉さまにも来たらしい。
「何ですか」
ここで「隠し芸」が出てきたなら笑えるが、そうではなかった。
「遊園地のこと」
「はあ」
遊園地といえば、明日のデートの行き先だ。まさか、デートを忘れていたなんてことは、と身構えたがそれも違った。
「さっき思い出したのだけれど。クリスマスのことを話している時ね。ふと」
「ふと?」
「遊園地って、みんなで行く約束をしていなかったかしら」
「……でしたっけ?」
言われてみれば、そんな気がしないでもない。でも、そんなきっちりと「行きましょう」と決めたわけでもないような。つまり、よく小父《おじ》さんたちが道端でやっている、「今度飲みにいきましょう」「いいですねー」みたいなノリの会話ではなかったか。そういう話って、自然と流れちゃっても「約束したくせに」って恨《うら》まれたりはしないはず。もちろん、みんなで遊園地も楽しそうだから、積極的にこの話流しちゃえとは思わないけれど。でも、祥子さまは気になるようだ。
「皆さん。私と祐巳は明日遊園地に行きまーす」
突然立ち上がって宣言する祥子さまを、みんな一瞬ギョッと見た。酔っぱらっているんじゃないか、って明るさで、もしやと辺りを見回すと、祥子さまのカップの陰から、栄養ドリンクの空《あ》き瓶《びん》が出てきた。親切なサンタさんからのプレゼント。うわ、これ飲んで酔っぱらっちゃったんだ、お姉さま。
「で?」
令《れい》さまが聞き返す。それはただの報告なのか、その先にまだ何か話があるのか、ということらしい。
「もしよろしければ、どうぞってことよ」
「はあっ?」
「ああ。私の家でもないのに、どうぞっていうのも変ね」
祥子さまはコロコロと笑った。
「つまり。一緒《いっしょ》に行かないか、って誘っているの?」
「いいえ?」
自分と祐巳は約束しているけれど、他の人は来るも来ないもご自由に、ってことらしい。
「わかった。出欠はとらない、現地で会えたら一緒に遊びましょう、ってことね」
令さま、よくわかったなあんな説明で。さすがは長年の親友同士、と感心した。
「いいの、祐巳さん」
由乃《よしの》さんが腕を突っつく。デートなんでしょう、二人きりじゃなくなるかもしれないわよ、と言っているのだ。
「うん。まあ」
どっちみち、最初から二人きりじゃなかったし。四人も、六人も、八人も、一緒だろう。かえって賑《にぎ》やかでいいかもしれない。
パーン、パンパーン!
突然発砲音のような音と共に、ビスケット扉が開いた。いや、ビスケット扉が開いてから音がしたのだ。
見れば、破裂《はれつ》したクラッカーを持った瞳子《とうこ》と乃梨子《のりこ》ちゃんが笑って立っている。
いったいいつの間に中座したのか、祐巳はまったく気づかなかった。二人は荷物を抱えて部屋に入ってくる。瞳子の持っているのは、例の大きなナイロンバッグだ。なぜだか、ふくらみはまた復活している。
「あら、何が始まるの?」
祥子さまは祐巳に、令さまは由乃《よしの》さんに聞いたけれど、どっちも「さあ」と首を横に振る。もちろん、志摩子《しまこ》さんだって知らない。一年生たちは何をしようとしているのだ。
「イッツア ショータイム!」
乃梨子ちゃんがそう叫ぶと、瞳子がバッグを開けて何かを取りだした。祐巳はその形を知っている。バイオリンケースだ。
瞳子は中からバイオリンを出すと、そのまま『ジンタ』を弾《ひ》きだした。すると今度は乃梨子ちゃんが自分の手提げ袋から、何やら祝い箸《ばし》の束のような物を取りだした。祐巳はこれも知っている。これは――。
「さては、なんきん玉簾《たますだれ》!」
――それ。
二年生が戸惑っていようとお構いなしに、ショータイムは進む。昔懐かしいサーカスのメロディー『ジンタ』で、なんきん玉簾。日舞《にちぶ》『マリア様の心』に匹敵《ひってき》する力業《ちからわざ》だ。みんな、座っていた椅子を回して二人に注目する。
乃梨子ちゃんの玉簾は、リリアン女学園の正門になり、お釈迦《しゃか》様の後光《ごこう》になり、ナポレオンの帽子になり、と、次々と変化する。
「私たちの小道具、必要ないみたいね」
「うん」
やんややんやの大拍手を贈る祥子さまと令さまを見ながら、二年生三人はうなずき合った。
「それにしても……」
瞳子と乃梨子ちゃんは、いったいいつ、どこでこれをやろうと考えたのだろう。
「ふふふ」
自然と笑いがもれてくる。スーパー一年生コンビは、自分たちが心配する必要がないほど気が回るし、しっかり者だったようだ。
「何か、リクエストがありましたら」
弦《げん》の調律をしながら、瞳子が尋《たず》ねる。乃梨子ちゃんのなんきん玉簾は、これで終了らしい。
「じゃ、『マリア様の心』をお願い」
祥子さまが言って椅子《いす》を立った。
「わかりました」
瞳子がバイオリンの弓を構えると、祐巳は祥子さまから左手を差し出された。その手を右手でとって、吸いつくように身体《からだ》を寄せる。考えるよりも前に、身体が覚えている。
八分の六拍子だけれど、四分の三拍子で踊れる。
[#挿絵(img/29_193.jpg)入る]
一、二、三、二、二、三。
ワルツのステップ。ナチュラル・スピンターン。
一年生の時の学園祭で、覚えた。シンデレラの劇中、舞踏会《ぶとうかい》のシーンだった。
後夜祭では、二人きりで踊った。姉になり、妹になったあの時。マリア様の前で。遠く聞こえる、生徒たちの歌声に合わせて。
あれから、ずいぶん月日が流れた。
ロザリオを掛けてもらった時、未来なんて見えなかった。一年半後のお姉さまの卒業なんて、永遠のように先のことだと信じていた。
お姉さまが自分の側からいなくなってしまったらどうしようと、無性に不安になった日々もあった。
けれど、今はここにいる。
お姉さまの送別会なのに、泣かずにいられる。
一、二、三、二、二、三。
瞳子の奏《かな》でるメロディーに合わせて。
お姉さまにつられて笑う。
由乃さんが令さまの手をとって踊りに加わった。志摩子さんが、渋る乃梨子ちゃんの手を引っ張っている。
踊れなくて大丈夫。身体をくっつけて、音楽に合わせて揺れているだけで。
ほら、ダンスってこんなに楽しい。
瞳子がまた一番に戻って弾《ひ》き続ける。
一、二、三、二、二、三。
いつかは終わりがくるとわかっているけれど。
こうして仲間に囲まれて。
このまま、ずっと踊っていたかった。
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あとがき
あ、また薔薇《ばら》だ……!
こんにちは、今野《こんの》です。
『マリア様がみてる 薔薇の花かんむり』。
また、薔薇をつけてしまいました。サブタイトルでは、『黄薔薇革命』、『薔薇のミルフィーユ』に続き三作目になりましょうか。しかし、カバー上は見えていないところ、つまり一冊の中に入っている複数の物語の中で、たまたまサブタイトルと同名ではないものなどを含めると、「薔薇」は結構使っています。まず黄薔薇ファミリーが中心になる話はたいてい『黄薔薇――」ですし、『|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》、人生最良の日』とか『薔薇のダイアローグ』とか。キリがないのでこれくらいにしておきますが、それこそ山のようにあります。
登場人物にそれぞれ薔薇の呼び名がついているから、というのはかなり大きな理由にあげられると思います。キャラクターたちの代名詞として、「薔薇」が使われているパターンですね。例えば『紅薔薇さま、人生最良の日』ですと『水野《みずの》蓉子《ようこ》、人生最良の日』に、『薔薇のダイアローグ』だと『祥子《さちこ》と令《れい》のダイアローグ』に置き換えが可能です。
しかし今回の『薔薇の花かんむり』の「薔薇」は、誰かを指しているわけではありません。純粋に、花の薔薇です。
では「薔薇の花かんむり」とは何ぞや、というと、(ご存じの方も多いとは思いますが)ロザリオです。ロザリオは、聖母マリアにお祈りを捧げる「薔薇の輪」「薔薇の冠」という意味があります。
ですから今回のサブタイトルは、言い換えればずばり「ロザリオ」。祥子から祐巳《ゆみ》に、祐巳から瞳子《とうこ》へと繋《つな》がっていく絆《きずな》の象徴として選びました。
リリアン女学園では、姉妹の約束としてロザリオを首にかけるという儀式を行いますが、通常カトリック信者は首にかけることはありません。手に持って、お祈りを唱える毎《ごと》に玉を指で手繰《たぐ》ります(仏教の数珠《じゅず》にも、そのような使い方がありますね)。
薔薇といえば。
山百合会《やまゆりかい》なのにどうして薔薇さまなんですか、と時々ご質問を受けるのですが、それはたぶん私の中で、マリア様をイメージする花といえば「薔薇」と「百合」の両方であって、どちらか一つを選べなかったからではないかと思います。
思い返すこと、んー十年。幼稚園の時にいただいた御絵には、たしかイエズス様をお抱きになったマリア様に、きれいなお姉さんたち(うろ覚えですので、もしかしたら天使だったという可能性もありますが)が薔薇の冠を捧げているシーンが描かれていました。
そして、あまりに有名な『受胎告知《じゅたいこくち》』の絵。白い百合は純潔の象徴として、大天使ガブリエルとともに描かれております。これはお約束のようです。
さて、近況。久々、でもあまり珍しくもない話題を一つ。
今年の夏も、部屋に出ました、ヤモリの子供。煮干しの小さいヤツというか、ちりめんじゃこの大きいヤツというか。尻尾《しっぽ》をいれると長さはもっとあるんでしょうけれど、太さとかね、印象としてそれくらい。灰色というより黒に近い、お洒落《しゃれ》に言うならチャコールグレーで、見た目はとってもラブリー。
しかし、ホント、どこから入ってくるんだろう。テレポ(ーテーション)しているとしか思えない。約二週間くらいの間に三匹、現れました。それも、私の部屋だけで。
――二勝一敗でした。
何かというと、二匹は無事外に逃がしてやったけれど、一匹は死んでしまったということです。ある朝、見つけたけれど見失って、それからずっと行方《ゆくえ》不明で、四日後発見した時はすでに変わりはてた姿でした。死因は何だったのか、熱中症だろうか(その頃は連日相当暑かったし、水だってないし)それとも事故だろうか、いろいろ考えましたが私にはわかりません。しかし、ロールカーテンを動かした時に、上からボトンと落ちてきた時のショックといったら……お察し下さい。亡骸《なきがら》は庭に穴を掘って埋めて、冥福《めいふく》を祈りました(合掌《がっしょう》またはアーメン)。
ところで。今回の物語では、まだ解決していない事柄がいくつか残っています。それは次回までのお預けです。もったいぶってはおりますが、別にクイズではありませんし、答えを聞いても「え、そんなこと?」かもしれません。だったら先延ばしするな、という意見はこもっとも。でも引っ張るんです。じらす志摩子《しまこ》と一緒です。
「答えは『マリア様がみてる』の次巻、遊園地デートの中で。ふふふ。お楽しみに」
――だめだ。私は、祐巳と同じで、志摩子の真似《まね》をしても引きつった笑いしかできそうもありません。
不気味がられる前に、退散します。
[#地から1字上げ]今野緒雪
【参考文献】『奇跡の人』ウィリアム・ギブソン=作 額田やえ子=訳 劇書房
[#改ページ]
底本:「マリア様がみてる 薔薇の花かんむり」コバルト文庫、集英社
2007(平成19)年10月10日 第1刷発行
入力:ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw
校正:TJMO
2007年09月29日作成
2007年10月09日校正
2009年05月14日ルビのミス修正(暇な人z7hc3WxNqc 1392行 間髪《かんぱつ》→間髪《かんはつ》)
2009年12月31日校正(暇な人z7hc3WxNqc 138行 時聞帯→時間帯)
この作品は、すでにShare上に流れている以下のデータ
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第29巻 「薔薇の花かんむり」.zip tLAVK3Y1RCVwyj0k1m 25,603,243 e78dbcb4a025d4cc83c17fb5108268438ebde6ad
を底本とし、同じくShare上で流れていた
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第29巻 「薔薇の花かんむり」(青空文庫形式対応TXT、ルビ有挿絵無し).rar ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw 1,249,140 66d5b5645da04d97c73a5e3a9a62383f908188a0
を、さらに校正し、挿絵を追加したものです。それぞれのファイルの放流者に感謝します。
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底本で気になった部分
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底本で見つけた違和感のある文章や校正ミスっぽいものをまとめてみます。
青空文庫の方針としては底本のまま打ち込み注釈を入れるのですが、見た目が悪くなり読みづらくなるため、あえて訂正することにしました。
直し方が気に入らない方はこちらを読んで修正してください。
※底本p010 10行目
暖房の吹き出し口付近なんて場所に押し流されたひには、
――押し流された日には、と漢字にしたほうがいいのでは。訂正せず、そのまま。
なお、この後に続く「熱《いき》れ」とは蒸されるような熱気のこと。「草いきれ」とかは知っていたけど、漢字ではこう書くんですねえ。
※底本p047 01行目
「あなた方は私に気にせず、ゆっくりお戻りなさい」
――私を気にせず、ではないか。訂正済み。
※底本p060 09行目
受験地獄から無事生還いたましたー」
――生還いた「し」ました、では? 訂正せず、そのまま。
※底本p079 12行目
祐巳はあやふやに返事をした、知っているといっても、噂で、である。
――「祐巳はあやふやに返事をした。知っている……」というように文を区切ったほうがいいのでは。訂正せず、そのまま。
※底本p087 11行目
試し刷りを団扇《せんす》代わりにしてパタパタと扇《あお》ぐ。
――団扇(うちわ)。訂正済み。
※底本p092 16行目
出来上がれは見事に違う。
――「出来上がりは」あるいは「出来上がれば」。前者にして訂正済み。
※底本p126 15行目
ひねりがきききすぎて祐巳には通じなかった。
――ききすぎて。訂正済み。
※底本p136 07行目
鞄《かばん》を持っていない右手を、頬《ほお》の横につけてスピーカー代わりにする。
――メガホンじゃね? 訂正せず、そのまま。
※底本p148 14行目
志摩子さんは講堂の見取り図を取り出すと、一カ所をトントンと指で叩いた。
――ここだけ一「カ」所。ほかは「ヶ」。訂正せず、そのまま。
※底本p148 14行目
空《から》になった瓶を手提げ袋から一つ取り出しながら、由乃さんがつぶやいく。
――つぶやいた、つぶやく、のどちらかの間違いだろうと思われる。前者として訂正済み。
※底本p169 12行目
空手《からて》部による形《かた》
――正しくは「型」。ただし「形」でも間違いではない。訂正せず、そのまま。
以下蛇足。
つまらなそうに相づちを打つのは、
――以前、カーリー(高殿円:著)をやったときに「つまらなさそう」が正しいとか書いたけど、間違っていたようです。詳細は以下のページを参照のこと。
http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/shoukoku/kotoba/kotoba3.htm
burn one's bridges/boats 「背水の陣を敷く」
――出典はユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の故事から。橋・船を焼いて退路を断つことから、不退転の決意を示すこと。「ルビコン川を渡れ」「賽は投げられた」と同じ意味・同じ出典の故事成語。
なお「背水の陣」は前漢の名将韓信が、河を背後に布陣することで兵士に死力を尽くさせ、趙の大軍を撃破した故事にちなむ。
八分の六拍子だけれど、四分の三拍子で踊れる。(p192)
――八分音符は四分音符の半分。四分音符三つで八分音符六つ。たんたんたん、と、たたたたたた。
本編の場合は八分音符二つずつ×3のリズムで踊ることになる。
ちなみに八分の六拍子イコール四分の三拍子、というわけではない。八分音符三つ×2というパターン[#たーんたーん]もあるし、一小節ごとに入れ替わるパターン[#たーんたーんたんたんたん]もあるためだ。