マリア様がみてる
フレーム オブ マインド
今野緒雪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)目立ったいい写真[#「いい写真」に傍点]は
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[#挿絵(img/28_000.jpg)入る]
もくじ
フレーム オブ マインド―T
四月のデジャブ
フレーム オブ マインド―U
三つ葉のクローバー
フレーム オブ マインド―V
枯れ木に芽吹き
フレーム オブ マインド―W
黄色い糸
フレーム オブ マインド―X
不器用姫
フレーム オブ マインド―Y
光のつぼみ
フレーム オブ マインド―Z
温室の妖精
フレーム オブ マインド―[
ドッペルかいだん
フレーム オブ マインド―\
A Roll of Film
フレーム オブ マインド―]
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/28_004.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる フレーム オブ マインド
[#改ページ]
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは| 翻 《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園《その》。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治《めいじ》から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
放課後、ゴミ捨てを終えて教室に戻る途中、一階の廊下《ろうか》を歩いているところで、祐巳《ゆみ》は後ろから「あの、| 紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》」と呼び止められた。振り返ると、三人の生徒が押しくらまんじゅうするみたいに身を寄せ合って立っている。
「お仕事中、申し訳ありません」
見覚えはなかったが、たぶん一年生だろう。あまり親しくない上級生と話をする時の、下級生特有の緊張感とでも言えばいいだろうか、独特の雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出している。できれば自分以外の誰かが率先《そっせん》して話をしてくれたら――、そんな気持ちが態度に表れて団子《だんご》になってしまったわけだ。あ、まんじゅうだったか。
「これを教室に戻すだけだから、大丈夫《だいじょうぶ》よ」
祐巳は、ゴミ箱を下におろしてほほえんだ。それで何、と。
すると、「ほら」と他の二人に押し出された生徒が、手に持っていた何かをおずおずと差し出した。
「え?」
取りあえず手にとってみて、祐巳は首を傾《かし》げた。
それは、バレンタイン企画から数日経ったある日のこと。
半日デートよりちょっとだけ前にあった、小さな小さな出来事だった。
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フレーム オブ マインド―T
「あ、いたいた。ラッキー」
きれいに整頓《せいとん》された二年|松《まつ》組教室に帰ると、まばらに残ったクラスメイトたちの中には、写真部の武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さんの姿もあった。
放課後は、写真部の部室があるクラブハウスへ直行することが多い蔦子さん。自分の机に腰を落ち着けて何やら作業をしているなんて「珍しいこと」と、祐巳《ゆみ》はゴミ箱を教室の隅の所定の位置に戻してから側に寄った。
「何しているの?」
何枚かの写真を机に広げている。スペースが狭すぎて追いやられているのか、ただ単に出番ではないだけなのかわからないが、端にいくつも積まれた文庫本くらいの大きさの封筒の中には、まだたくさんの写真が入っているようだった。
「一人部活、かな」
蔦子さんは、手を休めずに答えた。面倒くさい説明を省《はぶ》いて一言で言えばね、と。
「え? だって、部室は?」
祐巳は重ねて質問した。もちろん、写真部員の主な活動といったら写真を撮ることで、そこにカメラさえあれば場所なんて選ばない個人プレーなわけだけれど、こういう事務仕事みたいなことをするのであれば場所として部室を選ぶのが正解ではなかろうか、と考えたわけだ。
「三年生が使っていて、私は立ち入り禁止なの」
トランプを配るような手つきで、蔦子さんは淡々と写真を選《よ》っている。一見、何のルールもないようで、彼女の中では明確な基準があるのだろう。時折動きを止めて、一枚、二枚と抜き取っては別の山に移動させたりする。
「どうして立ち入り禁止なの」
一応作業の邪魔《じゃま》をしないようにと、手持ちのカードにあたる写真の束が、蔦子さんの手もとから机の上にすべて移動したのを見計らって祐巳が尋《たず》ねると、蔦子さんは脱力したように髪の毛をかき上げた。
「あー、結局説明をしなきゃならないわけだ」
「……ごめん」
でも、どうにも気になっちゃって。
「いいわよ。最初に億劫《おっくう》がって省略した私が悪い」
蔦子さんは顔を上げて笑った。彼女の話によると、つまり、こういうことらしい。
卒業式を目前に、蔦子さんは三年生たちに写真対決を申し込まれた。部内に留まらず学園内でも何かと目立つ二年生部員に、最後くらい先輩としての意地を見せたいというところなのだろう。全員の進路もほぼ決まったということで、三年生は一致団結して「打倒、武嶋蔦子」に燃えているとか。
「発表まではお互いに手の内を見せないこと、って。何かいろいろと条件つけられててね。不便この上ないんだわ」
「なるほどね」
で、本日は三年生が部室を占拠《せんきょ》しちゃっているので、蔦子さんは仕方なく教室で写真選びをしているというわけだ。
「じゃ、二年生と一年生はみんな締め出し?」
「私ほど厳しくないから、許可をもらって忘れ物を取りに入ったりはしているみたい。それどころか一番新顔の笙子《しょうこ》ちゃんなんか、手招きしてウェルカムよ。見たって、専門的なことはわからないからスパイにもならないって、高《たか》をくくっているんでしょ」
「ほう」
三年生は一年生に甘い。どこも大体同じらしい。
「で、対決の場は?」
「『三年生を送る会』」
「え? ……ああ、そっか」
祐巳は一度首を傾《かし》げてから、思い直してパンと左手の平を右の拳《こぶし》で叩いた。
『三年生を送る会』。文字通り、卒業式に先駆けて行われる卒業生の送別会である。部活だけでなく個人グループなども参加して、在校生が展示や演目で卒業していく先輩方を楽しませるというのが主旨《しゅし》の催《もよお》しである(だから、写真対決の場が『三年生を送る会』と聞いて、ちょっと引っかかったのだ)。
しかし、それは去年までのこと。今年の『三年生を送る会』は各部からの要望もあり、卒業生の作品も多く発表されることになった。そこで新聞部の三年生たちも、この対決を思いついたのではなかろうか。
「蔦子さんなら、いい写真いっぱいあるんじゃない?」
楽勝楽勝、と祐巳は蔦子さんの肩を叩いたが、蔦子さん本人は浮かない顔をしている。
「でも、未発表のものという制約つきなのよ」
「そうか」
目立ったいい写真[#「いい写真」に傍点]は、学園祭で発表済みなわけだ。未発表となると、学園祭以降に撮った物。あるいは、何らかの理由で学園祭で展示しなかった物の中から選ぶしかない。
「いい写真だけれど発表しなかったっていうのは、それなりの事情があったわけだし。それなりの事情ってやつは、五ヶ月やそこらで解消されやしないものだし。あとは、どこかに埋もれていた物とか。いっそ、今から集中して撮りにいくか」
蔦子さんはブツブツと独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいた。自称写真部のエースとしては、この対決、負けるわけにはいかないらしい。先輩になら負けて当然と思う祐巳とは、そもそもの考え方が違うようだ。
「そういったわけで、私は自分の教室で一人部活なわけよ」
うんざりとした表情で机が叩かれた瞬間、振動で積んでいた封筒がバサバサと床に落ちた。
「あーっ」
蔦子さんがあわてて椅子《いす》から立ち上がって、それを拾い上げる。祐巳も一緒《いっしょ》にしゃがみ込んで、散らばった封筒に手を伸ばした。拾った封筒を蔦子さんに渡している時、祐巳の頭にある考えがひらめいた。
「ね、蔦子さん。いっそ、薔薇《ばら》の館《やかた》に来ない? 二階のテーブル、この机より広いし。今日は会合もないから、使ったらいいよ」
「えっ?」
蔦子さんはまずちょっと驚いて、「でもそれは」とか遠慮《えんりょ》したけれど、祐巳の「ここだとまた私みたいな邪魔《じゃま》が入るよ」という言葉に揺らいだようで、結局「よろしくお願いします」と言って荷物をまとめはじめた。写真入りの封筒たちを紙の手提げ袋に詰め込み、鞄《かばん》とコートを抱える。もちろん案内する祐巳も、身支度《みじたく》をして一緒に教室を出た。
「でも、知らなかった。写真部って三年生もいるんだね」
廊下《ろうか》を歩きながら思ったままを口にすると、蔦子さんは呆《あき》れたように笑った。
「私と笙子ちゃんだけだと思ってたの? 部員二人じゃ、同好会に格下げになっちゃってるわよ。一応部活動の日って設けてあるけれど、会議でもなければ、みんな好きな時に来て勝手に活動しているからね。高校の写真部にしては、いい設備が整っている部室だから、結構部員はいるの。休眠活動している人も多いけど」
「へえ」
そういえば学園祭の写真部の展示会場には、蔦子さん以外の写真も確かにあったっけ、と祐巳は振り返った。でも出品者の名前に心当たりがないと、あまり記憶に刻まれないというか、覚えているのは友達の蔦子さんの作品ばかりだった。
「で。対決って、どうやって勝者を決めるの?」
投票箱とか置いて、一番票を獲得《かくとく》した作品の出品者が勝ち、とか。なんてことを祐巳は想像したのだが、違うらしい。
「私たちの場合はね。誰かに決めてもらうんじゃなくて、あくまで自分たちの目が基準。いや、自分たちというより自分? 個々の中で決着がつけば、それでいいの」
「ごめん、よくわからない」
正直に言うと、蔦子さんは「つまりね」と指を一本立てた。
「芸術は、順位がつけられないものでしょ? 誰かに良い悪いを決めてもらう物でもない。もちろん、コンクールとかを否定しているわけじゃないよ。あれはあれで、必要なものだから。でも、うちの部の中ではいらないものなわけ。私たちはそれぞれの作品を見て、いろいろ感じたらいいんだな」
対決と銘打《めいう》ってはいるけれど、結局は己《おのれ》に勝つために努力する、という。こんなもんだろうという適当な態度で臨《のぞ》めば、他人にはわからなくても自分にはわかる。勝敗は、おのおのの中で決するものらしい。
そうか。蔦子さんがカメラを構えて、シャッターを切って、現像して出来た写真がいつも素敵に輝いているのは、一枚一枚が真剣勝負の上に成り立っているからなんだ。
「なーんてね。格好つけすぎか」
蔦子さんは、ちょっと照れたように小走りになった。それを追いかけ、追い越して祐巳は前に回り込む。
「ううん。本当に格好いい。思わず尊敬しちゃった」
すると蔦子さんは、いつの間に取りだしたのか、小型のカメラを構えて、祐巳の顔をカシャッと撮りながら「ありがとう」と言った。
不意打ちとフラッシュのまぶしさで、変な顔をしてしまったけれど、祐巳は知っている。それでも蔦子さんの手にかかると、思いの外《ほか》いい写真になるということを。これまでの、数多くの経験から。
「どうぞ」
薔薇の館の玄関を開けると、中の空気が静かに沈んでいた。きっと、ここ数時間は誰も足を踏み入れていなかったのだろう。空気がかき混ざっていない感じだ。昼休みに、今日は会合なしということを確認しあっていたので、それは当然のことだった。
ギシギシと音をたてて階段を上る。一階にも部屋はあるのだが、半《なか》ば物置と化していた。
二階は、思った通り誰もいなかった。
「今、お茶いれるね」
祐巳は取りあえず、湯沸かしポットに水道水を注いだ。
「お構いなく」
蔦子さんは荷物を椅子《いす》に降ろすと、さっそく紙袋から封筒を出しはじめた。
「今日はお客さんじゃなくて、間借《まが》り人だから」
「うん。でも、私が飲みたいからついで」
コンセントを入れて、それからすべての窓を開ける。カップとかティーポットとかを用意し終えた頃に窓を閉めた。外気はまだまだ寒いから、空気の入れ換えさえできればそれでいい。
二つのカップにお茶を注ぎながら、祐巳は何だか不思議な気分になった。今までだって、二人分のお茶を準備することは何度もあった。
お姉さまである祥子《さちこ》さまと自分。
由乃《よしの》さんと自分。
志摩子《しまこ》さんと自分。
または、自分以外の誰か二人のために。
それこそ、いろいろな組み合わせが存在した。
でも、「蔦子さんの分と自分の分」というのは初めてだった。
二年間同じクラスだったのに。教室ではよく話をする仲なのに。薔薇の館という場所に移っただけで、ちょっとだけいつもと違う空気を意識してしまうものなのかもしれない。
お茶を持って側まで行くと、蔦子さんは神経衰弱《しんけいすいじゃく》のように写真を広げていた。
「ここに置くね」
邪魔《じゃま》にならないように写真たちから離れた場所に、カップを置いた。蔦子さんが隠す素振《そぶ》りもないので、ついでに視線を写真に向ける。
「わあ」
祐巳は思わず声をあげた。写真の一枚一枚にそれぞれ二人ずつ、高等部の制服を着た少女たちが写っている。それらがさっきまで入っていたと思《おぼ》しき封筒の表書きには、『姉妹・その他』と書いてある。
「いいでしょ」
蔦子さんも、写真を見下ろしながらつぶやく。
カメラ目線の笑顔あり、カメラの存在に気づかず見つめ合う二人あり、不意打ちで驚く顔あり、手をつないで歩く姿あり。
何組ものツーショット写真の中の二人の間には、それぞれに無二のドラマがあるようだった。
[#改丁]
四月のデジャブ
[#改ページ]
「鈴本《すずもと》いちご? 鈴本さんっていうんだ?」
――そもそもの始まりは、それだった気がする。
リリアン女学園高等部の入学式が始まる前。集合した教室で。
私の前の席の「鈴木《すずき》二葉《ふたば》さん」が、振り返り様、机の上に貼られた私の名前を見て開口一番に言ったのだ。「私より一本多いのね」と。
既視感《デジャブ》。
頭がくらっとした。私は、このシーンを知っている。
まあ、鈴本の前に鈴木という苗字《みょうじ》が陣取《じんど》っていることは、義務教育中|往々《おうおう》にしてあったから、そのことだけをとってデジャブとは言わない。
だけれど、もうニキビがチャームポイントと言っていいくらい愛嬌《あいきょう》のある顔、小柄《こがら》でぽっちゃりとした体型、セミロングの髪の毛を「もっと伸びろ」とばかりキツキツに結んだポニーテールなど、どれもこれもに見覚えがあった。
私は、間違いなくこのシーンに遭遇《そうぐう》したことがある。
だから「一本多い」の後に、彼女が私の思った通りの言葉を続けたとしても、もはや私は驚かなかった。
「それで、出席番号も一つ多い、ってか」
ほらね、って。
だって、テレビの再放送と同じで、それはわかって当然のことなのだから。
*
その日から、デジャブに起因《きいん》する予知能力が折にふれて垣間見《かいまみ》られるようになったのだが、それに対して私はさほど動揺《どうよう》はしなかった。ここ一年ばかりの間にこの身に起こった様々《さまざま》な出来事が私を鍛《きた》えたか、もしくは驚くという感覚を麻痺《まひ》させたかどちらかだろう。
私は一年前に交通事故にあって、頭に怪我《けが》を負い、約十ヵ月間眠り続けていた。だが、二月のある暖かい日の朝、何の前触れもなく目を覚ました。検査とリハビリに明け暮れた二ヵ月を経《へ》て、どうにか学生生活に復活した時には、まるまる一年が経過していた。そんなわけで、長期欠席で出席日数も単位もまったく足りなかった私は、現在、一年遅れで高校生活を再スタートさせたところなのだ。多少のことでは動じなくもなる、ってものだろう。
ところで。
一見全快したかに見える私であるが、事故当日、つまり朝起きて事故にあうまでの記憶がない。いや、医者の言葉を借りれば、どこかに存在しているはずなのだが、その記憶を入れた引き出しが探せないだけ、らしい。
そんなわけで、記憶の一部が見つからないことを気の毒がった神様が、せめてもの慰《なぐさ》めにと、このヘンテコな能力を与えてくれたのだと私は解釈している。もしくは、この能力を得てしまったために、それに関わる記憶の一部を消されたのか。――まあ、とにかくこれは、二つで一セットの気がするのだ。
とはいえ、私に時折訪れるデジャブは、損も得もない、まったく無害といっていい代物《しろもの》だった。授業中に先生が言う駄洒落《だじゃれ》を数秒前に察知するとか、某《ぼう》先生は最初の授業から小テストをするとか、そんな程度。それは、例えば親しい上級生、部活の先輩やお姉さまがいる人ならば、デジャブなどなくとも簡単に過去の通例として知り得る情報だ。テストがあると予測できても、問題までわからなければ何の役にも立たないし、私の場合大抵はそれが起きる直前にやってくるので、準備のしようもないのだった。
「いちごさん」
振り返ると、二葉さんが笑って立っている。
「ほら、もう黒板は鏡みたいにピッカピカ」
私の手から雑巾《ぞうきん》を取り上げて、バケツの中で手際《てぎわ》よく洗う。辺りを見回すと、さっきまで片側に寄せられていた机は、所定の位置にピシッと揃《そろ》い、全開していた窓も閉められていた。私がぼんやりしている間に、教室の掃除《そうじ》は終わってしまったらしい。
「ふふふ。いちごさんって、時々どこか意識を飛ばしているでしょ? え? 不気味だなんて誰も言ってないわよ。近寄りがたい雰囲気《ふんいき》はあるけれど。みんなで、神様と対話しているって話しているのよ。いちごさんの横顔、きれいだから」
あれよあれよという間に、二葉さんはバケツを片づけ、私の鞄《かばん》を差し出して「一緒《いっしょ》に帰りましょ」と言った。
「いちごさんは、いいな。手足細いし、身長だって平均より高いし。シャープな顔立ちだから、短い髪が似合うし」
銀杏《いちょう》並木の道を歩きながら、二葉さんはおどけてつま先立ちになった。
「そうかしら、小さくたって二葉さんは可愛《かわい》いじゃない」
私はほほえむ。心からそう思っているから。
何も、私を羨《うらや》ましがることなどないのだ。私の手足が細いのは、闘病生活ですっかり筋肉が落ちてしまったためだし、髪が短いのは事故で怪我《けが》をした時治療のために丸坊主《まるぼうず》にしたからだ。二葉さんより身長が高いのだって、実年齢が一歳年上ということも多分にあると思う。
実際、私は二葉さんが好きだった。明るさも、カラリとした性格も、顔も、すべてが私にしっくりはまった。それこそ、昔からの親友のように。
「えへへ。私ね。今はこんなにチビだけれど、そのうちすらりと背が伸びるって信じているの。うち、そういう家系なの。お母さんもそうだったんだって」
「そう」
中でも一番好きなのは、私を呼ぶ時の声だ。
「いちごさん、いちごさん」
やさしく包み込むような声は、遠いどこかにいるはずの、誰かの声と重なり合う。
これも、デジャブなのだろうか。これまで夢の中に、何度となく現れ続けた声だ。
いちごさん、いちごさん、と私に囁《ささや》きかけるその声は、似ているけれど二葉さんのそれより儚《はかな》く、そして切なげだった。あまりに悲しそうなので、返事をしなければと思うのだが、いつでも私は声を出すことができない。その人の顔もわからない。
いったい、いつからその夢をみるようになったのかは定かではない。十ヵ月の昏睡《こんすい》状態中からか、目覚めてからなのか。だが、どちらにしても事故より後であるのは間違いない。
あまりに何度も同じ夢をみるものだから、もしかしたら現実のことなのでは、と疑ってみたりもした。つまり私が眠り続けている時に誰かがやって来て、私に呼びかけていたという説だ。
しかし、中学時代の友人でその声に該当《がいとう》する者はいなかった。二葉さんの可能性はないかと考えもしたが、その線はすぐに消えた。外部受験の私とリリアンの中等部から上がってきた二葉さんとは、入学前にまったく接点がなかった。ましてや一年ダブっている私は、二葉さんより一つ年上なのだから。
「ねえ、私の入院中に、誰か友達来てなかった?」
私は帰って母に聞いてみた。
「……友達、って? ミコちゃんやヒロちゃんのこと?」
名前が挙がったのは、公立中学時代の仲よし三人組の二人。
「そうじゃなくて」
「そうじゃないお友達なんて、お母さん知らない」
「だよねー?」
私は、一年前の入学式の日、学校帰りに事故にあったのだ。
「高校に入ってからなんて、友達作っている暇《ひま》なかったもんね」
同意を求めると、母は、
「そ、そうね」
なぜか、そこで視線を外した。
「お母さんは、よくわからないけれど」
そして、どことなく歯切れが悪い受け答え。何か、隠していることでもあるのだろうか。台拭《だいふ》きは、さっきからテーブルの同じ場所を何度も拭いている。
「どうしてそんなこと聞くの? いちご」
「ううん、何でもない」
何かを隠している人から、それを聞き出すのは難しいことかもしれない。明日は学校帰りに病院に行くので、入院病棟に寄って看護師さんにでも聞いてみようと思った。
「え……? いたんですか?」
隠し事をしていない人からは、容易《たやす》く情報が引き出せるものだ。
「うん、いたいた。今、いちごちゃんが着ているのと同じ制服を着た女の子でしょ? 毎日みたいにお見舞いに来ていたわよー」
顔なじみの看護師さんは、自信満々にうなずいた。
「毎日……?」
「そう。明るくて、感じのいい子。いちごちゃんに聞こえているかどうかもわからないのに、学校の話とかしてたわよ。その日やった授業のこととか、先生の寒い駄洒落《だじゃれ》とか」
「――え」
「そういえば夏休み前くらいから姿を見かけなくなったわね。どうしたんだろう」
私の記憶からこぼれ落ちた、かわいそうな私の友人。私はドキドキして尋《たず》ねた。
「……その人、どんな人でした?」
「そうね。小さくて、ぽっちゃりしていて、ニキビが花盛《はなざか》りの顔をしていたかなぁ」
その特徴は、どういうわけか二葉さんそのものだった。
* *
どういうことなのだろう。他人のそら似か。それとも私が好きになるタイプは、いつも同じだということか。クラスに中等部時代の友人が何人もいる二葉さんが、私同様一年ダブっているとは考えづらかった。
それはともかく、その人は間違いなく実在していた。リリアンの制服を着、眠ったままの私に学園生活の話をして聞かせていたのだ。
私のデジャブの大半は、何てことはない、その時耳から入った情報をさも自分が体験したかのように、ただなぞっていたに過ぎなかったのだった。
けれど、その人はいったい誰なのだろう。去年の入学式で出会っただけの人が、毎日お見舞いに来てくれるものだろうか。
そして、それほど仲よくなった友達が、ある時期を境に、姿を現さなくなったのはなぜなのだろう。
わからない。
だって私は、その時何も知らずに眠り続けていたのだから。
気は進まなかったが、母を問い詰めた。すると、思いの外《ほか》簡単に白状した。
「入学式でお友達になったらしいの。病室にもよく来てくれて。でも、お母さんが『もう来ないで』って言っちゃったから。それっきり、姿を見せなくなって。ごめんね、いちご。あの時、お母さん普通じゃなかったの」
入学式で意気投合《いきとうごう》して、一緒《いっしょ》に学校を出た二人。その人は私の事故現場に居合わせて、救急車で病院まで付き添い、毎日お見舞いにも来てくれたらしい。母も最初は感謝していた。けれど、そのうち少女の元気な姿を見るのが辛《つら》くなったという。すくすくと成長していく彼女の傍《かたわ》らで、眠り続ける我が子が不憫《ふびん》でならなかったのだ。
「うん、わかった」
母を責めることなど出来なかった。十ヵ月間、私はただただ眠っていただけで、辛かったり悲しかったり何かと戦っていたのは、私の周囲にいた人たちなのだから。
「そっか」
わずか一日のクラスメイトだったけれど、仲よくなった人がいたんだ。何だか、気持ちが熱くなった。
* * *
ある日私は、二葉さんが休み時間に廊下《ろうか》で上級生らしい人と話をしているところに出くわした。
それだけのことなのに。なぜだろう、滅多《めった》なことでは動じなくなっていたはずの私の心が、ひどく揺り動かされたのだ。
仲むつまじげな二人を目《ま》の当たりにし、前に歩くことも後ろに退くこともできず、その場で立ちつくした。
私の視線に気づいた上級生は、「それじゃ」と二葉さんに言ってから、私に軽く会釈《えしゃく》をして立ち去った。髪の長い、すらりとした肢体《したい》のきれいな人だ。
「今の方、二葉さんのお姉さま?」
私は震える声を抑えるようにして、振り返った二葉さんにそう尋《たず》ねた。尋ねながら、本心では否定してもらいたいと思っていた気がする。
リリアン女学園の高等部には、姉妹《スール》制度という名の、上級生が下級生を妹にして学園生活をリードする一風変わった校風があった。一対一である分、姉妹となれば親密な関係が築かれる。
「よくわかったわね。さすが、いちごさんだ」
日頃から私のデジャブを、単に「勘《かん》のいい人」と認識している二葉さんは、あっさり認めた。
「きれいな方ね」
「そう? そうでしょ? 私もそう思っているんだ」
誇らしげに笑う。二葉さんにとって、自慢のお姉さまらしかった。
私は、その人の名前や、どこで知り合ったのかとか、当然の流れで聞きそうなことを一切《いっさい》口に出さなかった。何か言葉を発しようものなら、二葉さんに、私の動揺《どうよう》を知られてしまうような気がしたから。
(動揺……?)
私は、ふと思い返す。
私は何に動揺しているのだろうか。お姉さまを得た二葉さんが、遠くへ行ってしまうような気がしたのだろうか。
(お姉さまなんて必要なの? 同い年だって、私たちこんなに仲よくなれたのに)
心の中で、叫び声がする。けれど、これは今の私の声ではない。
デジャブ? ――いいや、違う。
私は以前、確かに誰かにそう言ったのだ。
誰に? わからない。
夢の中で、私を儚《はかな》く「いちごさん」と呼ぶ、あの人にだろうか。
* * * *
何日か後、私は偶然「二葉さんのお姉さま」と帰り道で出くわした。
「あら?」
その人は銀杏《いちょう》並木の二股《ふたまた》の分かれ道にあるマリア像の前に立って、お祈りを終えたところで、後から現れた私を見つけると、ちょっと驚いたような表情をしてからほほえんだ。
「二葉のクラスの――」
「はい。ごきげんよう」
どうにか、挨拶《あいさつ》を返すことはできた。この人があと十秒長くお祈りをしていたら、逃げ出してしまっていたかもしれない。
「二葉は? 一緒《いっしょ》じゃないの?」
「はい。今日は、部活の見学に行くそうで」
「ああ、そんなことを言っていたかもしれないわね。あの子、バスケ部に入って身長を伸ばしたいらしいから」
口もとに手をあててコロコロと笑う。初めて見た時、清楚《せいそ》で物静かな印象だったけれど、思った以上に明るく活発な人なのかもしれない。
「あなたは? 一緒に部活の見学にいかなかったの?」
「はい。病《や》み上がりなので、しばらくは帰宅部です」
私の言葉に、二葉さんのお姉さまは「そう」とだけうなずいた。何の病気だったのかとか、どれくらい悪かったのかとかは、聞いてこなかった。
「それじゃ、帰宅部同士で仲よく帰りましょうか」
二葉さんのお姉さまは、私の手をとって歩き出した。私は二葉さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになったけれど、その手をほどこうとはしなかった。
その時、一瞬私をまぶしい光が包み込んだ。
カシャッ。ほぼ同時に、耳に届いたシャッター音に振り返れば。
「失礼。とてもいいシーンだったので」
そこに立っていたのは、写真部の武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さん。いや、今彼女は私より一学年先輩だから蔦子さまと呼ぶべきか。
「お二人は、姉妹《スール》?」
「あら、うれしい。でも、残念ながら違うわ」
二葉さんのお姉さまは、またコロコロと笑った。同じ学年ということもあって、二人は顔見知りのようだった。
「ん?」
蔦子さまは、カメラを下ろすとちょっと不思議な顔をしてつぶやいた。
「これってデジャブ?」
「え?」
「私、以前これと同じ場面を見た気がするのよね」
驚いたのは私だ。
なぜって。たった今、同じように感じていたのだから。
カメラを構えた蔦子さまが、二人に尋《たず》ねる。
お二人は姉妹《スール》? ――と。
でもそれは、果たして私の記憶だったのだろうか。
いつだったか、私でない、誰かの身に起こったこととは言えないか。
でも、私もその言葉を聞くのは初めてではない。
(あら、うれしい。でも残念ながら違うわ)
わからない。私は混乱していた。
西に傾いた陽《ひ》の光が、青葉を照らしてまぶしかった。
「蔦子さんは、たくさんの生徒を撮っているから」
似たようなことがあったのでしょう、と二葉さんのお姉さまは言った。けれど、それでは否定したことにはならない。だから、もしかしたら身に覚えがあったのではないか。蔦子さまに、「姉妹?」と尋ねられた誰かと、一緒の写真に収まったことがきっとあるのだ。
その証拠を、目ざとい私は、悔《くや》しいくらいいとも簡単に見つけてしまった。
蔦子さまと別れて、校門の前からM駅行きのバスに乗る際、二葉さんのお姉さまのパスケースが目に入った。二つ折りになった内側に一瞬見えたそれは、間違いなくリリアンの制服を着た二人の少女のツーショット写真だった。
一人は二葉さんのようだった。もう一人は指がかかっていて、よく見えなかったけれど、必然的にこのパスケースの持ち主、ということになるのだろう。
二葉さんとお姉さまが一緒に写真に納まっていたって、何もおかしなことはない。姉妹なのだから。
でも、私は面白くない。ツーショット写真を破って、その間に割り込んでしまいたかった。
けれど、その嫉妬心《しっとしん》がどちらに向いているのかわからなかった。二葉さん? それとも、二葉さんのお姉さま?
「部活、やってらっしゃらないんですか」
M駅から乗った電車の中で、私は尋ねた。写真のことが頭から離れなかったけれど、もんもんとして嫌な周波を出し続けるよりも、別の話題を探して和《なご》やかな空気を作った方が建設的だと思ったからだ。
「ええ」
さっき帰宅部だと言っていたのは、聞き違いではなかったらしい。二葉さんのお姉さまは、ドアの側の手すりにつかまりながら「縁がなくて」とほほえんだ。
「でも、だって、バスケ部に入ったんじゃ――」
つい口から飛び出した自分の言葉に、私はうろたえた。いったい私は、何を言おうとしているのだ。
「え?」
二葉さんのお姉さまも、首を傾《かし》げる。
「あ……、あの、二葉さんがバスケ部に入ろうとしているから。きっとそうかと」
部活の先輩後輩という関係で姉妹になる事例は、かなり多い。だから二葉さんもお姉さまを追いかけてバスケ部に入ろうとしているのではないかと私は思った、と。それで、一応のつじつまは合う。
「入学当初はそんな気持ちもあったけれど、何か、機会を逸《いっ》しちゃって。そのままきたの」
今度は口にこそ出さなかったが、私は心の中で「私のせい?」と尋ねていた。私のせいで、二葉さんのお姉さまはバスケ部に入れなかった。もう意味なんてまったくわからないけれど、その考えには確信すら覚えた。
(でも)
どうして、私のせいなのだろう。
改札を抜けて駅前に出た。当たり前のように、二葉さんのお姉さまが隣にいる。
そう。
彼女もまた、私と同じ駅を利用していることを私は知っている。いや、同じ駅なのは二葉さんだった。何だか、頭の中が混乱する。
いつだったか、こうしてこの人とこの道を歩いた。違う。それは二葉さんのはずで。
めまいがする。私は、バスターミナルの端で、しゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
すぐ側にいるはずなのに、二葉さんのお姉さまの声が、遠くに聞こえた。
「頭が痛い」
「救急車呼ぼうか」
救急車。
私はハッとした。
点滅する赤色灯《せきしょくとう》と、耳をつんざくサイレン。行き交う人たちのざわめき。
デジャブじゃない。それは、私の過去の記憶だ。
思い出した。
私はフラリと立ち上がった。
そうだ、この場所だった。バスターミナルの先に、交差点が見える。ここで私は、「一絵《かずえ》さん」と口論になって。
「『お姉さまが欲しいから、部活に入るなんておかしいわ』……って」
私はつぶやいた。一年前、この場所で叫んだ言葉だった。
(お姉さまなんて必要なの? 同い年だって、私たちこんなに仲よくなれたのに!)
私はあの時、一絵さんが私より親しい人を作ることが許せなかった。たった数時間側にいただけなのに、私は一絵さんが大好きだった。二人の出会いに、運命すら感じた。一絵さんも同じ気持ちであると信じたかった。
(いちごさんはいちごさん。お姉さまができたとしても、私たちの友情は変わらないでしょ?)
(もういい)
私は、一絵さんを振り切って走り出した。目の前の信号が、何色だったかなんて覚えていない。周りを見る余裕《よゆう》なんてなかった。一絵さんが見えなくなる位置まで、とにかく逃げてしまいたかった。
(危ない!)
誰かが叫んだ。気がつくと、目の前にトラックが迫っていて、次の瞬間私は何メートルか宙を飛んで。そのまま十ヵ月の間、目を覚まさなかった。
「危ない!」
誰かが叫んだ。気がつくと、私は横断歩道に片足を踏み込んでいた。パニックを起こして、突然走り出したのだ。
歩行者用信号は赤。右を見ると、すぐそこに車が迫っている。
デジャブ。
足がすくんで動けなかった。出した足を後ろに引けばいい、それだけのことができない。
(もうだめ)
目をつむった瞬間、私の右腕がすごい勢いで後ろに引っ張られた。目の前すれすれを、ワゴン車が通り過ぎる。「死にたいのか!」という捨て台詞《ぜりふ》が耳に届くと同時に、私たちは地面にお尻をついた。
私たち、――そう、私は二葉さんのお姉さまに助けられたのだ。
「……よかった。今度は間にあった」
「一絵さん……?」
「あ、思い出してくれたんだ。いちごさん」
歩道に手をついて上半身を起こしながら、その人は笑った。
「でも、だって」
思い出の中の一絵さんは、ちっちゃくてふっくらしていてニキビだらけで、今の二葉さんとそっくりな姿のはずだった。でも、「いちごさん」と呼びかけるその声は、二葉さんのものよりずっと一絵さんらしかった。夢で呼びかけ続けてくれた、あの声だ。
「一年前より手足が伸びたお陰で、捕まえられたみたいね」
おどけて舌を出す一絵さんに、私はがむしゃらに抱きついた。
『とおりゃんせ』の、能天気なメロディーが耳に届く。けれど信号が青になっても、そしてまた赤が来ても、私は一絵さんにしがみついていた。
(やっと会えた)
[#挿絵(img/28_037.jpg)入る]
あまりに大切すぎて、奥の奥にしまい込んでいた記憶。
今、それを取り戻すことができたのだ。
* * * * *
「何やってるの、二人して」
三回目の『とおりゃんせ』が鳴り終わった時、頭上から声がして私たち二人は顔を上げた。
「リリアンの生徒が、往来《おうらい》の障害物になるなんて。みっともないやら、迷惑やら」
何と、そこにいたのは二葉さんだった。
人目も気にせず抱き合っていた一絵さんと私は、あわてて身体《からだ》を離して立ち上がった。今まで磁石《じしゃく》のS極とN極のようにガッチリくっついていたのに、一瞬のうちに同じ極同士になったみたいだった。
「バスケ部の見学は?」
取り繕《つくろ》うように尋《たず》ねると、二葉さんからは冷ややかな返事が返ってきた。
「入る気まんまんだったから、入部届けだけ出して帰ってきたのよ」
当たり前だけれど、不機嫌だった。自分のお姉さまが、自分の友達と抱き合っていたのだ。心穏やかでいられるわけがない。
とにかくここで固まっていては邪魔《じゃま》になるので、一旦戻って駅のベンチに三人並んで納まった。一絵さん、二葉さん、私の順だ。
何をどう、そしてどこから話したらいいのだろう。うつむいて思案する私にではなく、二葉さんは一絵さんに向かって言った。
「お姉ちゃん、私の親友とらないでよ」
「お、お姉ちゃん?」
その上「でよ」って、お姉さまに向かってタメ口《ぐち》? あまりの違和感に、私は顔をそちらに向けた。
「何、驚いているの。この人が私のお姉ちゃんだってことは、いちごさんだって知ってるはずでしょ」
「え?」
知ってる、って? 私は、懸命《けんめい》に記憶をたどった。一絵さんとは知らずに一絵さんと再会したあの後、たしか二葉さんに尋ねて――。
(今の方、二葉さんのお姉さま?)
(よくわかったわね。さすが、いちごさんだ)
「あーっ!」
それって。
「二葉さんの本当の[#「本当の」に傍点]お姉さんという意味だったのっ!?」
「そうよ」
並んでうなずく二人は、全体の雰囲気《ふんいき》はまったく違うけれど、顔のパーツの一つ一つがそっくりだった。それより、二葉さんが一年前の一絵さんと瓜二《うりふた》つだということが、二人の血縁関係を物語る何よりの証拠だった。
「ああ……」
思い返せば、一絵さんの苗字《みょうじ》も「鈴木」だった。それで、一年前出席番号が一つ違いの私たちは、仲よくなったのだ。ちょうど、今年度の二葉さんと私のように。
「お姉ちゃんが家でいちごさんのことを、やけに聞くと思ったら。そういうことか」
「そういうこと、って?」
「だって、姉妹《スール》になりたいんじゃないの?」
「姉妹《スール》?」
私と一絵さんは、思わず顔を見合わせた。
「姉妹《スール》なんて、とんでもない。だって私」
私は、両手を振って否定した。今さっき一絵さんと一年ぶりに再会したようなものなのに、そんな大それたことまで考えられなかった。
でも。
「なろうか、姉妹《スール》」
二葉さんの向こう側から、ポツリとそんな声がした。
「え」
「そうだよ。私は二年生でいちごさんは一年生なんだから、十分その条件は満たしているわけでしょ? それで、また私こういう関係になりたい」
一絵さんは、ポケットからパスケースを取り出すと、中を開いて水戸黄門《みとこうもん》の印籠《いんろう》のように前にかざした。
それは、例のツーショット写真だった。今ならわかる。二葉さんに見えるのは一年前の一絵さん、そして隣にいるのは、幸福そうにほほえむ私だった。
「わ、昔のお姉ちゃんといちごさんだっ。どういうこと、これ」
事情を飲み込めていない二葉さんは、思い切り仰《の》け反《ぞ》ったけれど、子細《しさい》を話すと納得してくれた。
「ふうん。それじゃさ、いちごさんが事故にあわなければ、私がいちごさんの| 妹 《プティスール》になっていたんだね」
いたんだね、って。その自信はどこからくるのか。
「でも、ま、お姉ちゃんならいいか」
二葉さんは、ちょっと偉そうに胸をはって笑って言った。
「いちごさんはいちごさん。お姉さまができたとしても、私たちの友情は変わらないでしょ?」
これって、デジャブ?
――どこかで聞いたことがあるセリフだった。
[#改ページ]
フレーム オブ マインド―U
「あー、いたいた。本当にいた」
蔦子《つたこ》さんの一人部活動を兼ねた薔薇《ばら》の館《やかた》の二人お茶会に、新たなる客が現れた。
お邪魔《じゃま》しまーすと入室してきたのは、二年|藤《ふじ》組の桂《かつら》さん。
「おや、お珍しいこと」
先にいた二人は、顔を見合わせた。桂さんが薔薇の館にやって来るなんて、どれくらいぶりだろう。ちょっとやそっとじゃ思い出せないくらい、それはめったにないことだった。
桂さんと蔦子さんと祐巳《ゆみ》。お忘れかもしれないが、この三人は元クラスメイト。一年|桃《もも》組トリオである。
「蔦子さんに会いに来たの?」
先の言葉を受けて、祐巳は尋《たず》ねた。「あー、いたいた」だけならともかく、「本当にいた」となると、半信半疑《はんしんはんぎ》で来たということに他ならない。祐巳の場合、薔薇の館に「いたって当たり前のような存在」だから、そうなると残る可能性は一つ。すなわち、「本当にいた」のは蔦子さん、という推理が成立する。
「当たり」
桂さんは歩きながらそう言うと、お茶の準備をしようと立ち上がりかけた祐巳を「すぐお暇《いとま》するから」と制して、蔦子さんの前に立った。
「実はお願いがあってね」
それでも蔦子さんのお茶が目に入ったとたん喉《のど》の渇《かわ》きを思い出したのか、目で「ちょうだい」と断ってからカップを片手で持ってぐびりとやった。
「お願いって、テニス部の?」
蔦子さんが聞く。
「当たり、その2」
カップを元の位置に戻した手で、ピースサインを作る桂さん。まあ、今現在身につけているものが制服じゃなくてテニスウェアなわけだから、その結論にたどり着くのはさほど難しいことではない。桂さんは、高等部一年生の頃からずっとテニス部員だ。白の短いスコートが可愛《かわい》い。
「蔦子さんに写真を撮って欲しいの?」
「簡潔に言えば」
桂さんの口からは、三回目の「当たり」は出なかった。そりゃそうだ。高等部の生徒が蔦子さんに「お願い」と言ったら、その九割は写真撮影依頼である。統計を取っていないので正確な数字は不明だが、多分それくらいはいっているだろう。
「卒業する三年生のお姉さまたちに何か思い出に残るプレゼントを、って話になってね」
桂さんは、詳しい内容を語りはじめた。部活をしている在校生たちの姿をおさめた、小冊子《しょうさっし》というかミニアルバムというか、そういった物を作りたいというのだ。
「印刷するっていうのも考えたんだけれど、そうするとあまり手作り感がなくなるっていうか。だからあえて厚紙に写真を貼ったり、その横に直筆《じきひつ》のメッセージを書いたりすることにしたの。綴《つづ》り紐《ひも》も可愛いリボンなんかを使って、ね」
その写真を撮る仕事を蔦子さんに頼みたい、とそういうわけだ。で、元クラスメイトが頼むなら「昔のよしみ」で引き受けてくれるのではないかとの期待から、桂さんに依頼人の役が回ってきた。なるほど、普通は部長が来るものだ。
「いいじゃない」
蔦子さんは、身を乗り出した。女子高生の日常風景を撮るのが大好物の彼女の前に、テニスをしている生徒の写真を堂々と撮影できる、なんていう仕事をちらつかせて食いつかないわけがない。その上、『三年生を送る会』用に新たなる写真を撮ろうかと算段してた矢先、それは願ってもない申し出なのであった。
「予算があまりないので、実費でお願いできれば助かるんだけれど」
桂さんは言った。つまり蔦子さんの労働力に対してはお金は出せない、ということだ。まあ、蔦子さんだって、同級生たちからバイト代をとろうとは思っていまいが。
「それは、もちろんよ。その上その写真を『三年生を送る会』で発表してもいいって条件なら、フィルム代もこちらで出すけれど?」
蔦子さんは、さっそく交渉《こうしょう》を開始した。抜け目ない。
「え、それは助かる!」
桂さんは、手を叩いて喜んだ。が、すぐに思い直して「だめだわ」とつぶやいた。
「『三年生を送る会』って卒業式より前でしょう? 冊子《さっし》をプレゼントする前にその写真を発表されたら、困るわ」
サプライズにしたいわけだから、贈るその瞬間までそんな写真がこの世に存在することすら隠したいのだ。
「そっか。残念」
交渉|決裂《けつれつ》。蔦子さんは、ガッカリと肩を落とした。しかし、だからといって、最初の依頼を断ることはない。
「ということは、三年生がいない時に撮らないとだめということ?」
「そうなのよ」
桂さんは蔦子さんに言った。次の日曜日にテニス部が一日活動許可をもらっているから、いつでもいいからちょこっと出てきてシャッターを押してもらえないか、と。そうでもしないと、テニス部は部員数が多いので、正規の部活時間には必ず何人かの三年生が出てきてしまうというのだ。
「いいよ。次の日曜日ね」
蔦子さんは即答して、生徒手帳のスケジュール欄《らん》に書き込んだ。
「晴れるといいわね」
「本当だ」
剣道部とかバスケ部とかと違って、テニス部は屋外のテニスコートが活動の場。雨が降ったら、さすがに撮影会も順延《じゅんえん》だろう。
「週間予報だと晴れだったよ」
祐巳は二人に教えてあげた。前後の日に雨のマークもなかったから、ずれて天気が崩《くず》れることもなさそうだ、と。
「祐巳さんって、一週間分の天気をチェックしているの?」
「まさか。たまたまだよ」
と誤魔化《ごまか》したが、実はその日は祐巳にとって特別な日で、そのため天気を気にしていたのだった。そう。待ちに待った、瞳子《とうこ》ちゃんとのデート当日なのだ。
「へー、たまたまね」
桂さんは意味ありげに笑いながら、テーブルの上に広げられていた写真を、何となくといった様子で一枚また一枚と手にとって眺めた。そしてある一枚に当たった瞬間、「……これ」と言って動きを止めた。
「どれ?」
祐巳は覗《のぞ》き込んでみたが、それはかなり引きの写真で、そこにいる人物が誰だか特定するのさえ難しかった。
学校の中庭に二人の少女がしゃがんで、地面を見つめている。
「みんなは彼女のことをいろいろ悪く言っていたけれど、私は気持ちがわからないでもなかったんだ」
桂さんは、二人のうちの一人が誰だかわかっているようだった。遠い目をして言う。
「お姉さまがいたって、他の人に心が動く事ってあるものだわ」
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三つ葉のクローバー
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「みんなが言っているわ。立浪《たつなみ》繭《まゆ》には気をつけろ、って」
まぶたを真っ赤に腫《は》らした少女が、まるで私を人類の敵《かたき》みたいな目で見ている。
「あなた、いったい自分が何をしているのかわかっているの?」
ああ、そうか。正しく、人類の敵って言っているのね。みたい、じゃなくて。でも悲しいかな私は、そこまで大物じゃなかった。
私が黙っているのをいいことに、目の前の少女は次から次へと言葉を投げつけてくる。
「ちょっと顔が可愛《かわい》いからって、いい気にならない方がいいわ。あなた、最低よ」
かわいそうに。言えば言うほど、自分を惨《みじ》めにしていくことを、この人は気づいていないのかしら。
私を最低と思うのなら、相手にしないで徹底的に無視するべきなのだ。最低な私なんかと同じ土俵《どひょう》に上がったところで、損こそすれ一文《いちもん》の得にもならないんじゃないかしら。
でも、わからないでもないわ。
私に言ったところで何かが変わるわけではなくても、言わずにいられなかったのね。言葉で自分が汚れようとも、私を傷つけずにはいられなかったんでしょう。
だとしても、私はすべてを引き受けてこの子のモヤモヤの最終処分場になる気はさらさらなかった。だから、最後に一言だけいってやった。
「じゃあ、あなたのお姉さまには、まったく罪はないの?」――と。
*
「うわあああああ…………ん」
校舎に向かって泣きながら走っていく少女の後ろ姿をぼんやり眺めていると、不意に背中の方から声が届いた。
「朗子《あきこ》さんも言っていたけれど、繭さんって最低」
校舎と校舎の間にある中庭の、少し背の高い植え込みの陰からガサゴソと出てきたのは、同じクラスの田沼《たぬま》ちさとさんだった。
「いたんだ?」
私は笑った。そこで誰かが聞き耳をたてているとは、まったく気づかなかったから。気づいていたとしても、結局は泣かせてしまっただろうけれど。誰だっけ、……そう、あの「朗子さん」のことを。
「昼休みにこの辺りで髪留めを落としたらしくて、放課後を待って探しにきたの。そうしたら、後から繭さんと朗子さんがやって来て深刻な話を始めたから、出るに出られなくなってしまったのよ」
ちさとさんはこの場に居合わせてしまった事情を、かいつまんで説明した。故意に盗み聞きされたとは、私だって思ってはいない。
「で、髪留めは?」
見つかったの、と私が聞くとちさとさんは「まだ」と首をすくめた。
「じゃ、一緒《いっしょ》に探してあげる」
「遠慮《えんりょ》しておくわ」
「あら、あなたも思っているの? 立浪繭には――」
「気をつけろ?」
ちさとさんは鼻で笑った。
「私にはお姉さまがいないから、気をつける必要はないわよ」
「そうよね」
私は目下《もっか》、他人《ひと》のお姉さまに横からちょっかいを出して姉妹関係を破局させるという、噂《うわさ》の要注意人物なのである。
「ねえねえ、私のどこら辺が最低なの?」
頼まれもしないどころか一度辞退されているというのに、私は草の間やら植え込みの根もとに手を突っ込みながら、ちさとさんの後を追いかけていく。
「人の痛いところをついて、傷口を広げるところ。こんなことばっかりやっていたら、あなた本当に友達がいなくなるわよ」
ちさとさんは、しつこくつきまとう私に根負けしたのか、結局相手になってくれた。
「でも不思議。同じような忠告でも、個人的な恨《うら》みが入っていない分、ちさとさんの言葉には説得力がある。そこに、愛があるから」
私が胸に手を当ててほほえむと、ちさとさんは呆《あき》れた顔で言った。
「愛情なんて、全然ないわよ」
ちさとさんと親しくなったのは、高等部に入ってからのことだ。同じクラスで立浪と田沼。出席番号が一番違いの二人は、何かと関わる機会があったから。
「日も暮れてきたし、明日の朝にでも探しに来た方がいいかしらね」
ちさとさんはため息混じりに、そうつぶやいた。彼女の肩に掛かるストレートヘアは、午前中に髪留めが付いていた場所だけが、かすかにうねっていた。
「で? ちさとさんは、どうして昼休みにこんな所を歩いていたわけ?」
二月の半《なか》ばである。天気が良くても、中庭でお弁当を広げるような季節ではない。
「それは」
少し言いよどんでから、ちさとさんは答えた。
「今朝《けさ》、支倉《はせくら》令《れい》さまがこの辺りを歩いているのを、校舎から見たの」
「令さま……?」
ちさとさんの口から飛び出たのは、高等部では| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》と呼ばれている二年生の名前だった。ボーイッシュな外見から一年生に非常に人気のある生徒で、ちさとさんも彼女の信奉者《しんぽうしゃ》の一人であった。
「宝探しの下調べかな、……とか思ってね」
令さまはじめ、紅薔薇・白薔薇・黄薔薇の|つぼみ《ブゥトン》三人は、来《きた》るバレンタインデーに行われる宝探しのイベントにかり出されることになっていた。|つぼみ《ブゥトン》の隠したカードを探し出した人間は、その|つぼみ《ブゥトン》と半日デートをすることができるという。
「下調べ? 違うでしょ」
私の意見に、ちさとさんもうなずいた。
「だよね。そんなに堂々と行動するわけはない」
わかっていても、ちさとさんはその場所を歩かずにはいられなかったわけだ。
「令さまにチョコレートあげるの?」
私はしゃがんだまま、視線を地面にある草たちに向けた。
夏の勢いはどこへやら。それでも雑草と呼ばれるだけあって、完全に立ち枯れることもなく、地に踏ん張るように根を張る植物たちが、そこにはたくさんある。
「繭さんこそ、どうするのよ。高等部最初のバレンタインデー」
ちさとさんは切り返してきた。
「そうね」
私は、足もとに生えていたシロツメクサの茎《くき》を一本、根もとからプツンと摘《つ》んだ。
「誰かのお姉さまにチョコレートなんてあげたら、放課後に中庭に呼び出されて苦情言われるくらいじゃ、済みそうもないからなぁ」
「最初のお姉さま……本山栄江《もとやまさかえ》さまには」
ちさとさんが、ためらいがちに言った。
「私からさよならしておいて、今更《いまさら》復縁? 由乃《よしの》さんじゃあるまいし……っと、ごめん」
ちさとさんの表情が強《こわ》ばったのを見て、私は口に手を当てた。由乃さんは、ちさとさんのあこがれている令さまの妹なのであった。
「いいの。私も黄薔薇革命にはうんざりしている一人だから」
ちさとさんは立ち上がって伸びをした。そして、責めるでもなく、純粋な疑問のように私に問いかけてきた。
「繭さんは、どうしてこんなことばかりしているの?」
こんなこと。――それは妹のいる二年生に次々と近づく行為、を指しているのだろう。
「それはたぶん、私が三つ葉のクローバーだからじゃないかな」
私は笑って、手にしていたシロツメクサを遠くに投げ捨てた。
* *
幼稚舎《ようちしゃ》の頃、一時私の周りで四つ葉のクローバー探しが流行《はや》った。
四つ葉のクローバーを見つけると幸せになれると、最初に言い出したのは誰だったか。たぶん、お姉さんや身近に年上の女の子がいる、少しませた友達だったと思う。
とにかく、それから私たちは夢中になってクローバーの葉っぱの数を数えはじめた。
自由時間になると順番とりに走っていたブランコのことなんて、思い出すこともなかった。
幸い、園庭にはシロツメクサが自生している場所があった。先生方は、春には白く可愛《かわい》らしい花を愛《め》でたが、夏には増えすぎた草を刈っていた。だから、園児たちがクローバーを摘《つ》んだところで、何も注意はしなかった。
けれど、そう簡単に四つ葉は見つかるものではない。一人二人と、飽《あ》きてその遊びから抜けていき、最後まで残ったのは二人だけだった。朱祢《あけみ》ちゃんと私だ。
私は、自分がやめた後で朱祢ちゃんが四つ葉を見つけたらと考えると、やめるにやめられなかったのだ。
そのうち、二人だけのルールが出来上がった。今日はここからここまでと一人ずつブロックを区切って、その範囲内で探すのだ。大体、一メートル四方くらいであっただろうか。
「どっちがいい?」
朱祢ちゃんは、いつでも先に選ばせてくれた。けれど私は、選んだ直後にはもう切り捨てられた方がよく見えてしまうのだ。
「あ、やっぱりこっち」
そう言って、取り替えてもらったことが何度あったか。朱祢ちゃんは四つ葉探しが始まる前なら、それを「しょうがないな」と言って許してくれた。でも、スタートした後は決して場所を取り替えてはくれなかった。
「繭ちゃん、それはだめだよ」
おっとりしているが、朱祢ちゃんは物事の道理がちゃんとわかっている子供だった。
二人の遊びは、ある日突然終わりの時を迎えた。朱祢ちゃんが、とうとう四つ葉のクローバーを探し当てたのだ。
その日も、場所を選んだのは私だった。
朱祢ちゃんの手に握られていた一本の茎《くき》についた四枚の葉は、何日も費《つい》やしてやっと手に入れた勲章《くんしょう》であると同時に、未来の幸福を約束する証明書のように私には見えた。
私は、幸福をみすみす逃がした自分を責めた。あの時、逆の陣地を選んでいたら、四つ葉のクローバーを手にうれしそうにほほえんでいたのは、自分だったのかもしれない。
朱祢ちゃんが先に手に入れたことで、私の四つ葉探し熱は急に冷めていった。この園庭にあるシロツメクサの中で、四つ葉は一つしかないわけではないだろう。一生|懸命《けんめい》探せば、ほどなく私にも見つかったのかもしれない。けれど、もうどうでもよくなってしまった。
神様に愛されているのは性格のやさしい朱祢ちゃんの方なんだ、って。自分はその他大勢の三つ葉でしかないんだ、って思えてしまったから。
諦《あきら》めたら、多大な期待もしなくなった。
親の欲目で、小さい頃から「可愛い」を連発されて育ったけれど、よくよく見たら十人並みの可愛さで、いわゆる「美少女」とはまったく異なるタイプだった。
だから、高等部に入学したところで、私は薔薇《ばら》さまや|つぼみ《ブゥトン》たちのようなスーパースターの妹になるなんていう高望みは、もちろんもっていなかった。
勉強も顔もそこそこで、性格はちょっとキツイことを自覚していたから、お姉さまになってくれるという奇特な人がいるだけ御《おん》の字《じ》と思い、テニス部の先輩、本山栄江さまの差し出したロザリオを素直に受け取った。去年の五月|初旬《しょじゅん》のことだ。
お姉さまは穏やかでやさしかった。刺激はなかったけれど、それなりにうまくやっていたと思う。所詮《しょせん》は三つ葉のクローバー、平凡《へいぼん》を絵に描いたような高等部の生活は、自分に似つかわしいものと満足していた。
しかし私は、秋のある日その考え方を一八〇度転換させてしまうニュースを耳にした。
自分と同じく三つ葉のクローバーの一人だと思っていた福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さんが、令さま同様に生徒の憧《あこが》れの的《まと》であった| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》、小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまの妹になったというのだ。祐巳さんといったら、これといって特徴もないごくごく普通の女の子なのである。
けれど、祐巳さんはどんどん変わっていった。春に芽吹《めぶ》く新緑のように、日一日と成長しキラキラと輝いていく。もう三つ葉だなんて言えない。いつの間にか、彼女は四つ葉のクローバーになっていた。
そこで、私は思い至った。祐巳さんを輝かせているのは、祥子さまなのではないのか、と。祥子さまはたくさんの三つ葉の中から四つ葉を探し出したのではなく、たまたま手に取った三つ葉を四つ葉に変える魔力を持っていたのだ。
ならば、私を四つ葉に変えてくれる人だって、どこかにいるのではないか。祐巳さん以外にだって、キラキラ輝いている一年生はたくさんいる。何もそれは、祥子さま一人の特殊技能ではないはずだった。
けれど、今更《いまさら》遅い。ロザリオを受け取る前ならいざ知らず、姉妹《スール》になって半年も経《た》ってからお姉さまに「間違いでした」なんて言えるわけがない。ただでさえ、高等部は上下関係に厳しかった。
しかし、それをやってのけた大胆不敵《だいたんふてき》な一年生がいた。令さまの妹、島津《しまづ》由乃さんだ。
いわゆる「黄薔薇革命」と呼ばれる、妹から姉に姉妹解消を宣言するという前代未聞《ぜんだいみもん》のその事件は、少なからず生徒たちに衝撃を与え、一時は由乃さんの真似《まね》をしてロザリオを姉に返すパフォーマンスが流行《はや》った。
私も、その時期に栄江さまとお別れした。
「どうして」
私の首から外されたロザリオを見て、栄江さまはキツネに摘《つま》まれたような顔をした。
「栄江さまには、私は似合わないと思います」
「私は、うまくいっていたと思ってたけれど」
「申し訳ありません」
「そう。わかった」
栄江さまは私を引き留めなかった。ただ、黙ってロザリオを受け取ると背を向けて去っていった。いずれ私が後悔《こうかい》して戻ってくる、そんな風に思っていたのかもしれない。
黄薔薇革命ブームはほどなく終息した。便乗《びんじょう》組のほとんどが、元祖に倣《なら》って妹側から復縁を願い出たのだ。それでも、私が栄江さまを呼び出すことはなかった。そんなことをしたら、元の木阿弥《もくあみ》だ。もちろん、テニス部もやめた。
それからだ。私が、真のお姉さま捜しを始めたのは。気になる二年生を見つけると、積極的に声をかけてお近づきになる。大抵は妹がいたけれど、構わなかった。相性が悪い者同士が無理してくっついているより、ピッタリ合う人を見つけた方がお互いに幸せだと信じていた。だから、堂々と接近した。趣味などが合えば、学校の外で会ったりもした。
だがある程度親しくなると、必ず私の中に違和感が生まれた。最初は新鮮だけれど、栄江さま同様、自分を輝かせてくれる人ではない、とわかってくる。だからまた、次の人を探す。
前の人が、私が原因で妹と別れたからといって、私にはどうすることもできなかった。私は、「妹と別れて」とも「妹にして」とも言ったことはない。第三者がちょっと接近しただけで壊れるような姉妹なら、最初から壊れかけていたということだろう。
* * *
バレンタインデーの翌朝、ちさとさんは教室に入ってきた私を見るなり駆け寄って言った。
「令さまとデートなの。どうしよう」
バレンタインデーくらいはおとなしくしていようと自粛《じしゅく》した私は、当然宝探しゲームにも参加することなく早々に下校していた。だから、ちさとさんの興奮が何を意味しているのか、最初はまったく思い当たらなかった。
「みんなで黄色のカードを見つけたの。それで、グーで勝って、それで」
どうやら、複数の人が同時にお宝であるカードを見つけた場合ジャンケンで一人を決めることになっていて、見事ちさとさんがその権利をものにしたということらしい。
「レポートを書かなくちゃいけなかったり、大変なことはあるけれど、でもね私――」
「とっちゃえば?」
私は、興奮するちさとさんの言葉を遮《さえぎ》った。
「え?」
「だってちさとさん、普段から由乃さんのことよくは思っていなかったじゃない。あんなに素敵な令さまを振り回して罰当《ばちあ》たり、って」
「そりゃ、言ったけれど」
私の提案はやはり型破《かたやぶ》りだったのだろうか、ちさとさんは「でも……」とうつむいた。
「身体《からだ》が弱かった頃の由乃さんから令さまをとるのは気が引けるでしょうけれど、彼女、もう丈夫《じょうぶ》なんでしょう?」
「まあ、昨日は遅いなりに走っていたけれど」
「だったら、遠慮《えんりょ》することはないわ」
その時私は、自分と同じ罪をちさとさんに着せようと思ったわけではなかった。
ただ、もしちさとさんが令さまとうまくいったら、自分の信念が正しいことが証明される気がしたのだ。自分にも、ピッタリのお姉さまが現れるはずだ、と。
* * * *
それからほどなくして、信じられない噂《うわさ》が私のもとに届いた。
金曜日の放課後だったか、テニス部の一年生が私のクラスまでやって来て言った。
「栄江さまに妹ができたの、知っている?」
「え?」
一瞬の動揺《どうよう》を、彼女は見逃さなかった。
「ああ、でも繭さんはもう興味がないかしらね、こんな話」
親切ごかしで、報告しに来てくれたらしいが、心の中で「いい気味」って思っているのが見え見えだった。
彼女のお姉さまには、近づいたことはない。それなのにここまで嫌われているのだ。やはり私は、一年生の敵であるらしい。
「先日のバレンタインデーに、その人がチョコレートを渡したのがきっかけで……」
そんな経緯《いきさつ》は、どうでもよかった。
「誰?」
イライラと、私は尋《たず》ねた。
「教えて欲しい?」
テニス部の彼女は、ニヤリと笑った。
「教えて欲しかったら、教えてください、って頭を下げてお願いすれば?」
何言っているのだ、この人は。
「お断りするわ」
怒りに声が震える。笑顔が引きつる。
「あなたになんて、頭を下げたくないから」
言葉を吐き捨て、教室を出て廊下《ろうか》を歩き出した。あてなどない。ただ、このまま彼女と一緒《いっしょ》にいたくはなかった。
「な、何ですって――っ!?」
残された彼女のヒステリックな叫び声を、背中で聞く。頭を下げるところを見て笑いたいがために、わざわざ訪ねてきたような人に、誰が頭なんて下げるものか、って思った。
息苦しくなって、昇降口から外に出た。上履《うわば》きのままだったけれど構わなかった。私は、どんどん歩いた。考えるよりも先に、足が前に出る。まるで、自分の足ではないかのように。
足は、分かれ道のマリア像の前で止まった。
息が切れていた。気づかないうちに、早足になっていたようだ。
自分は、いったい何をしているのだろう。我に返れば、あまりに滑稽《こっけい》で、乱れた呼吸の中から咳《せき》のような笑いが漏《も》れた。
何も逃げることはなかったのに。百パーセント自分が正しいと信じることができたなら、誰に何を言われようともその場に残っていられたはずだ。それができなかったのだから、やはり私の中には後ろめたい気持ちがあったのではないのか。
じゃあ、どうすればよかったのだ。
私は、幸せな姉妹を壊して、楽しんでいたわけではない。
ただ、キラキラ輝く四つ葉のクローバーになりたかっただけ。なのに、どうしてこんな風になってしまうのだ。
私は、マリア像に手を合わせた。静かに見守るマリア様に、どうしても聞きたかった。
どうすれば幸せになれますか。
真剣に祈ったところで、奇跡がおきるわけではない。
目を開ければ、今までのことは全部夢で、そこにはやさしいお姉さまとたくさんの友たちが私を待っていてくれる、そんなことには、なっているはずもなかった。
(でも、もし)
私は自問した。自分は栄江さまに別れを告げたあの日に戻ってやり直したいのだろうか、と。
けれど、答えは出せなかった。誰かが、私の名前を呼んだから。
「繭?」
合わせた手を下ろして振り返ると、そこには何と栄江さまが立っていた。
「おね……」
言いかけて、口をつぐんだ。もう、この人は私のお姉さまじゃない。
「久しぶりね。元気だった?」
同じ高等部に在籍《ざいせき》しているのだ。別れてからも、何度か姿を見かけたことはあった。けれどこんなに近くで、言葉を交わすのはあれ以来初めてだった。
それは、私が会わないように努力していたから。廊下《ろうか》の向こうに栄江さまの姿を見つければ、引き返したり途中の階段に逃げ込んだり。ちょっと素敵だと思った二年生がいても、栄江さまのクラスだったら声をかけることを諦《あきら》めもした。それなのに。
こんな不意打ちだったら、隠れようもなかった。私は、マリア像を恨《うら》めしく見上げた。
けれど私に一番傷つけられたはずのその人はというと、恨み言の一つも言わず、親しげにほほえむ。
「どうしたの? 何かあった?」
なぜこの人は、自分を傷つけた相手のことをこんな風に思いやれるのだろう。
過去のことなど一切《いっさい》なかったかのように。ただ何となく疎遠《そえん》になった友と、思いがけずにここで再会したみたいな無邪気《むじゃき》さで。
「栄江さま……」
だから私は、一瞬、これはマリア様が起こした奇跡ではないかと思った。私を哀《あわ》れに思ったマリア様が、すべてリセットしてやり直すチャンスを作ってくれたのだ、と。
「私――」
手を伸ばし掛けたその時。
「お待たせしました、お姉さま」
栄江さまの後ろから、駆け足でやって来た生徒がいた。
「やっぱり、教室に忘れていました。……あ」
私に見覚えがあるのだ。相手もまた、栄江さまの隣にいる私の姿を見たとたん、瞬時に誰と気づいたようだった。
「繭さん?」
「……朱祢さん」
向かい合って名前を呼び合う一年生二人を見て、栄江さまが言った。
「あれ? あ、そうか。二人とも幼稚舎《ようちしゃ》からだもんね。知らないわけないか」
「え……、ええ」
うなずきながらも、私の胸ははち切れんばかりに鼓動《こどう》を激しく打ち鳴らしていた。
ああ、そういうこと。事情はすぐに飲み込めた。だから私は、瞬時に笑顔を作ってそれに対応しなければならなかった。
「お二人は、姉妹になられたんですって?」
今まさに、ショックを受けているところだなんて、知られてはならなかった。自分の自尊心のためというよりも、むしろ世界の平和のために。
「早耳ね」
お二人は、顔を見合わせて照れくさそうに笑った。
「テニス部のお友達が、真っ先に教えにきてくれて……」
私は、かなり上手《じょうず》に演技したのだろう。それとも、やさしくて穏やかな性格の栄江さまは、こんな場面で私が嘘《うそ》をつくなんて思いもよらなかったのか。
「ああ、そうなの。よかった。私たちが姉妹を解消して直後に繭が部活をやめたから、気になっていたの。でも、まだテニス部の一年生部員とは交流があるのね。安心したわ」
「はい」
その安心を壊さないように元気にうなずくと、不思議なことに、さっきのテニス部の部員もそれほど嫌な人ではない気がしてきた。
「で、繭はこんなところで何していたの?」
「昼休みに、髪留めを落としたみたいで」
とっさに口をついて出た言い訳は、ちさとさんからの丸パクリだ。
「一緒《いっしょ》に探しましょうか?」
朱祢さんが、澄んだ瞳で申し出た。私がいつもは髪留めなんて使っていないことを、彼女は知らないのだ。
「ううん、いい」
私は、首を横に振って辞退した。
「もう日も暮れてきたし、明日の朝、少し早く登校して探してみる。それに、ここじゃないかもしれないから」
「そう?」
「ええ、ありがとう」
朱祢さんがその気になって探したなら、ありもしない髪留めが本当に見つかってしまいそうだった。
「それじゃ。教室に戻らなきゃ」
「ええ、ごきげんよう」
私は、二人が背中を向けたのを確認してから踵《きびす》を返した。
* * * * *
月曜日の昼休み、一人机でお弁当を食べ終えて教室を出ると、廊下《ろうか》で、ミルクホールから帰ってきたちさとさんとバッタリ会った。
「いい?」
ちさとさんは、中庭を指さした。
「うん」
ちょうど話したいと思っていたので、私はうなずいて一緒《いっしょ》に外に出た。
同じクラスにいるというのに、今日の午前中、ちさとさんと口をきいたのは「ごきげんよう」の一言だけだった。
日曜日に支倉令さまと半日デートしたちさとさんは、休み時間ごとにクラスメイトたちに取り囲まれて質問攻めにあい、私が近づく隙《すき》などなかったのだ。
「くっついていた人たちは?」
「『リリアンかわら版』にレポートが載るまでは話せない、って言い続けたらやっとわかってくれたわ」
「なるほど」
先日髪留めを探して歩いた時は、ここはまだ寒い冬の庭だった。けれど今、太陽の下、まるで別の場所のように暖かかった。
あれから、まだ数日しか経《た》っていないのに。春は確実に近づいている、ということだろう。
「で? デートはどうだっ……っと」
私は言いかけてやめた。レポートが載るまではと、たった今聞いたばかりだったから。しかし。
「あれは方便。本当は、箝口令《かんこうれい》なんて敷かれていないの」
ちさとさんは、ペロリと舌を出した。
「何か、あんまり話したくなくってさ。でも、繭さんには聞いて欲しいことがあって。……あのね、私、今回のことで考え方が変わったの」
「何?」
「繭さんさ、『とっちゃえ』って言ったでしょう?」
「令さまのこと?」
言ったけど、と私は答えた。
「繭さんに言われて、正直私もそう思った。私なら、由乃さんよりずっと令さまのことを大事にできる。お近づきにさえなれたなら、もっとやさしい女の子はたくさんいるんだってわかってもらえると信じていたんだ。だから、正直期待していた。今回のデート」
「え? 期待はずれだったの?」
尋《たず》ねると、ちさとさんは「ちょっと違う」と答えた。
「令さまは、思っていた以上に素敵な人だった。でも、わかっちゃったんだ。あんなに素敵な令さまの中には、由乃さんがいるの」
「気持ちのこと?」
「そうじゃなくて。上手《うま》く言えないんだけれど、令さまの素敵な部分の何割かは、由乃さんでできていたの。例えば、由乃さんから令さまを奪えたとするでしょ? でも、私はその令さまに物足りなさを感じると思うの。私は由乃さんの混ざった令さまのことを、好きだったんだわ。それで……」
「わかったわ」
私が言うと、ちさとさんは目を丸くした。
「わかったの? こんな説明で?」
「うん。わかった。っていうか、最近私も似たようなことを考えたから」
今度は私が話す番だった。
「栄江さまに妹ができてね」
「……らしいわね。テニス部の人たちが騒いでいたわ」
「その相手が、傑作《けっさく》なの。なんと小磯《こいそ》朱祢さん。何か、もう、参ったって感じ。マリア様に座布団《ざぶとん》三枚、だわね」
ちさとさんはそのギャグがお気に召さないようで、ちょっと渋い顔をした。
「でね、栄江さまがすごくいい女に見えたの」
「いい女?」
「そう、いい女なの。私、あんなにいい女を捨てたんだ、ってショックを受けた」
でも、一番ショックだったのは、あの二人を見て、自分がすごく幸せな気持ちになったことだった。悔《くや》しくて悔しくて、どうしようもなくなっていても不思議じゃないのに。
「朱祢さんが、あそこまでいい女にしたんだなぁ、って。もう完敗よ完敗。でもね、完敗ってかなり清々《すがすが》しいものなのよね」
「うん。私もそう思う」
中庭を歩きながら、二人は肩を寄せ合って笑った。今目の前にいる友の気持ちを一番よく理解しているのは自分だと、わかっていた。
「あ、こんなところにあった」
突然ちさとさんはしゃがみ込んで、「私の髪留め」と言った。
「本当? この間は気がつかなかったのにね」
私も腰をかがめて、ちさとさんの視線の先を追った。
「やだ、見て。誰かの悪戯《いたずら》?」
それは花の飾りが付いた銀色のバレッタで、髪を押さえる部分をくぐって数本のシロツメクサが生えていた。その様子は、まるで髪の毛を留めているみたいだった。
[#挿絵(img/28_071.jpg)入る]
「暖かい日が続いたから、どんどん伸びてこうなったんじゃないの?」
髪留めによってまとめられた葉っぱを、私は指でちょんちょんと撫《な》でた。束《たば》になっていると、三つ葉は四つ葉どころか、五つ葉や六つ葉にも見えた。
「そうかなぁ」
ちさとさんはクローバーの束から、髪留めを引き抜いた。
「せっかく見つかったけれど、もうすぐお役ご免かな」
意味がわからず首を傾《かし》げている私に、ちさとさんは言った。
「髪の毛、切ろうと思って。短くバッサリね」
セミロングの髪をかき上げて笑う友は、ショートヘアが似合いそうだった。でも、もともと短めの私は、気分を一新したくて髪を切っても、バッサリとまではいかない。
だから私は、お役ご免のその髪留めをちさとさんからもらうことにした。
「いいけど。これ、安物よ」
言いながらちさとさんは、私の後ろに回って、両サイドの髪をすくい取るとバレッタでパチンと留めてくれた。
それでやっと、栄江さまと朱祢さんについた私の嘘《うそ》が、「本当」になった。
髪留めを外されて自由になったクローバーは、どれも三つ葉のまま風にそよいでいる。
きれいだな、と私は思った。
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フレーム オブ マインド―V
「そろそろ戻るわ」
写真を置いて、桂《かつら》さんが笑った。
三年生の先輩たちの手前、お手洗いに行くと言ってテニスコートを出てきたという。あまりに遅いと、具合が悪いのかと心配されてしまうから。一年生二年生はもちろん桂さんの抜けた理由を承知しているけれど、だからといって変に取り繕《つくろ》えばかえってボロがでないとも限らない。
そりゃごもっとも、とうなずいて、蔦子《つたこ》さんと祐巳《ゆみ》は友を| 快 《こころよ》く送りだした。そんな事情ならば、無理にお引き留めするわけにもいかないではないか。
「そういえばさ。何なの、あの子」
ビスケット扉の前で振り返って、桂さんは言った。
「あの子?」
「何て言ったっけ、一年生で髪の毛ふわふわの……えっと、蔦子さんの妹?」
妹の部分は引っかかったようだが、それでも該当者《がいとうしゃ》に心当たりがあった蔦子さんは、広げていた写真を集めながら「笙子《しょうこ》ちゃんが何かした?」と聞き返した。笙子ちゃんは、よく蔦子さんにくっついているので割とみんなから妹だと思われている。
桂さんが言うには。まず蔦子さんを捜しに写真部の部室に行ったところ、その髪の毛ふわふわの一年生がドアの前に陣取《じんど》って、蔦子さんはいない、どんな用かとしつこく聞いてきたらしい。
「私が私の友達に会うのに、わざわざその妹の許可をとる必要があるわけ?」
憤慨《ふんがい》して言う、桂さん。対して蔦子さんは、写真を封筒に戻す手を止めて「解《げ》せない」というように首を傾《かし》げた。
「どうしてクラブハウスにいるんだろう。あ、一応|訂正《ていせい》しておくけれど、笙子ちゃんは妹じゃないからね」
そこで、祐巳も思い出した。そういえば蔦子さんがさっき言っていたっけ。今日は三年生が部室を占領《せんりょう》している云々《うんぬん》って。蔦子さんの素振《そぶ》りから、そのことが笙子ちゃんに伝わってなかったとも思えない。
「で?」
祐巳は桂さんに先を促した。それでどうしたの、と。
「しょうがないでしょ。用件話して、やっとこさ解放してもらったってわけよ。妹じゃないなら、尚さら何なの。秘書か何かのつもり?」
「まあまあ。笙子ちゃんは蔦子さんの信奉者《しんぽうしゃ》だから。大目に見てやって」
「わかっているわよ。一年生ってさ、融通《ゆうずう》が利《き》かないっていうか、そういう頑《かたく》なで真《ま》っ直《す》ぐなところがあるものね」
そう言う桂さんも、クラブで後輩に手こずったりしているのだろうか。もしかしたら、過去の自分を振り返っての発言かもしれない。仕方ないわね、といったお姉さん顔で笑ってから、扉を開けて出ていった。
「ねえ。笙子ちゃんを妹にしないの?」
再び二人になった部屋で、祐巳は尋《たず》ねた。みんなが姉妹だと思っているほど仲がいいのに、どうしてってずっと思っていた。
「そうね」
蔦子さんは笑って、新たな封筒から写真を取りだしてテーブルに並べだした。
「姉妹になるだけがすべてじゃないでしょ」
そこに現れたのは、珍しく私服姿の少女たちが写っていた写真だった。
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枯れ木に芽吹き
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「お姉ちゃん」
正月も松《まつ》の内《うち》を過ぎ、明日は鏡開《かがみびら》きという日の夜に、妹が私の部屋を訪ねてきて、一枚の写真を差し出した。
「何の用?」
私は、大学の教科書から冷ややかに視線を上げた。
いつものことだ。
世間一般の姉がどのようなものかは知らないが、私は笑顔で妹を迎えることはない。昔からそうだったから、今更《いまさら》変える方が気持ち悪い。
正真正銘《しょうしんしょうめい》、実の姉妹である私と笙子《しょうこ》は、顔も性格も、ついでに言えば名前までも全然似ていない。そのせいだろうか、それとも三歳という年齢差によるものか、大きなけんかもしない代わりに何でも相談できる仲でもなかった。
だから妹が私の部屋に来るなんて、私の所持している分厚《ぶあつ》い辞書類を借りに来る時くらいのもので、それもそんなに頻繁《ひんぱん》にあることではない。
「お姉ちゃん、これ……」
それなのに今、真剣な顔つきで私にスナップ写真を差し出している。
「何なの、いったい」
笙子の表情は、本当のところはまだ迷っているといったものだった。姉にこれを見せてしまっていいものだろうか、と。
「どれ?」
私は妹の手から写真を取り上げて、見た。その瞬間。
「――――」
息をのんだ。
笙子の手の中にあった時にそれは、一見どこにでもある、初詣《はつもうで》で賑《にぎ》わう神社の風景写真でしかなかった。
笙子は、今年の正月に学校の友人と初詣に出かけた。だからその時写したものだろう、そう油断していた。
けれど、私の手に納まった瞬間、その写真は、もはやありふれた正月の風景写真ではなくなった。
「……どうして」
私は、動揺《どうよう》を取り繕《つくろ》うこともできないまま、妹の顔を覗《のぞ》き込んで尋《たず》ねた。
写真の中央には、去年まで同じ教室で学んでいたクラスメイトが華《はな》やかにほほえんでいたのだ。
*
そのクラスメイトは、いつでもすました顔をして私の前を歩いていた。
彼女にしてみれば、そんな気はさらさらなかったのかもしれない。いや、きっとそうだ。けれど。少なくとも、当時の私には、そんな風にしか見えなかった。――彼女はいつでもすました顔をして私の前を歩いている、と。
勉強なんて家でも学校でもしません、といった顔をしながら、テストではほぼ満点をとり、つまらなそうな顔をしながら、当然のように生徒たちの中心にいた。
私は、そんな彼女が気にくわなかった。苦労どころか、欲しいという意思表示すらしないまま、様々《さまざま》な物を手にしてきた彼女が許せなかった。彼女の存在自体が、努力の人である私を全否定しているように感じられてならなかったのだ。
だから、私はがんばった。人一倍勉強をして彼女の上に立つ、そうすれば、私の自尊心は保たれるはずだった。
私は、彼女には入れないであろう超難関大学に合格し、そしてこの卑屈《ひくつ》な高校生活にさよならするつもりでいた。
そうして、勉強|三昧《ざんまい》の生活を送った高等部での三年間は、すべて、勝者の笑みを浮かべて卒業する日を迎えるだけのために費《つい》やされた。リリアン女学園高等部にいながら、私は姉妹《スール》という名の、特別な先輩後輩さえ作らなかった。
しかし、蓋《ふた》を開けてみたらどうだ。彼女は、私に勝負すらさせてくれなかったのだ。
どういうこと? 私は、何度も何度も自問した。
偏差値《へんさち》や倍率や知名度、どれをとっても申し分ない、誰もが認める我が国におけるトップクラスの国立大のトップ学部に合格した私が勝てない[#「勝てない」に傍点]なんて。そんなバカな。
けれど、そんなバカな話は現実にあった。
他大学の芸術学部に進学だって。笑っちゃう。
私は彼女の選んだ進路を聞いて、本当に声に出して笑った。
これじゃ、まったく勝負にならない。
同じ格闘技でも、相撲《すもう》とボクシングほども形が違えば、選手の強さを測ることができないのと一緒《いっしょ》。文字通り、「土俵《どひょう》が違う」のだから。
私は、すぐ目の前にあった目標を、達成前に見失った。
いい成績を修めて、いい就職をするという、人生の設計図さえかすんで見えるようになった。
どうしたのだろう。あの人のために勉強していたわけではないはずなのに。大学に入って、目の前にすました顔の彼女がいなくなってから、勉強はあまり楽しくなくなってしまった。
そんな日々を八ヵ月も続けたある日。
十二月の半《なか》ばくらいだったろうか、「それ」を見つけた。
私は、前夜貸した英和辞典を返してもらうため、久々に妹の部屋を訪ねたのだった。
笙子はいなかった。学校に行っていたのだ。
自分の本を探すだけなのだからと、私は躊躇《ためら》わず部屋の扉を開けた。妹も、私の留守《るす》中に私の部屋に入っているようだし、母による掃除《そうじ》だって嫌がらない。大事な物が入っていると思《おぼ》しき抽斗《ひきだし》に手をかけなければ、構わないはずだった。
私は、最初に勉強机の上を見た。しかし、そこには私の辞典はなかった。それから、ぐるりと部屋を眺めた。
作り付けの本棚《ほんだな》には勉強とはあまり結びつかない、少女小説とかお菓子の本とか、ティーンズ向けのファッション雑誌とか、子供の頃お気に入りだった絵本やぬいぐるみなどが、無秩序《むちつじょ》に並べられていた。いや、秩序はあるのだろう。「女の子の本棚」、という名の秩序が。
「ふうん」
私の部屋にある物とほぼ同じ本棚なのに、中身はまったく違うわけだ。
新鮮な感動。
うらやましいわけではない。ただ、違う、それだけのことだった。
辞典は、結局ベッドの上で見つかった。ベッドメイキングされている上にあったところから推理すると、出掛ける間際《まぎわ》、私に返そうと思ってちょっと置いたきり忘れてしまった、というところだろう。
目的を果たした私は、すぐに妹の部屋を出るはずだった。けれど、さっき一瞬だけ目の端に映った映像が、私のスリッパの向きを百八十度変えさせた。
私は、本棚の前まで歩いていった。
指をかけたその背表紙は、「女の子の本棚」の中で少しだけ浮いていた。
「写真の本……?」
写真集ではない。カメラと、それを使って写す技術に関する情報で占《し》められた専門書だ。
「どうしてこんな物が、笙子の部屋に」
幼い頃から可愛《かわい》いらしい顔立ちをしていた妹は、両親が知人に口説《くど》き落とされて、一時期子供モデルをしていた。けれど、成長してすっぱりと足を洗った。モデル時代の反動からか、むしろ写真嫌いになってしまったはずなのに――。
「あの子に、何かあったのかしら……」
そういえば、自分は、難しい数式や漢字や英文法を知っているのに、妹のことをあまりよく知らない。
姉の目から見た「内藤《ないとう》笙子」は、ちょっと可愛《かわい》くて、人当たりが良くて、勉強なんて大嫌い、それよりもっと楽しい学園生活があるはずだって浮かれている、バカな娘。
「でも」
勉強が大嫌いな子が、さほど仲がいいとは言えない姉の辞書を借りに来たりするものだろうか。
「そうよ」
笙子だって、英和辞典は一冊……、いや二冊持っている。リリアンの高等部一年生の英語の宿題ならば、どちらか一冊でも十分事足りる。他の辞典類だってそうだ。両親は成長に応じて、私と同じだけ揃《そろ》えてくれていたはずだった。
「そういえば」
笙子が借りに来るのは、一ランク上の、情報量も多い大人向けの物。高等部の頃、クリスマスや誕生日に私が両親にねだって手に入れた物だった。
もっと知りたい。もっとわかりたい。
笙子と同じ年頃の私は、渇望《かつぼう》したものだった。
「…………」
私は、写真の本を棚《たな》に戻した。その時、かすかに本たちが傾《かし》いだ。一冊抜き取ってまた戻したことで、保っていたバランスが崩《くず》れたらしい。
(崩れた?)
しかし、この段は隙間《すきま》なく本が並べてあるように見えた。あふれた本が、背表紙たちにもたれるようにして、手前に立てかけて置いてあるくらいだ。
「……じゃ、ない?」
違和感を覚えて確かめてみると、立てかけてあると思っていた本は、その後ろを隠すための蓋《ふた》の役目をしているのだった。扉のようなそれをそっと外すと、そこには十五センチほどの幅の空間が現れた。
「どうして、こんな手の込んだことを」
人目を避けるかのようにそこに飾られていたのは、写真立てだった。マーブル模様の枠《わく》の中には、セピア色に染まった制服を着た二人の少女の写真が入っている。
それは、私と笙子だった。
私は、左右の本が倒れないよう注意しながら、恐る恐るその写真立てを手に取った。
――間違いない。私は、軽いめまいを感じた。
笙子は、これをどうして手に入れたのだろう。この写真は、いったい誰が撮《と》ったものだろう。
けれど、本棚の奥に隠すように置かれていた写真立てのことを聞くことは、姉妹とはいえ躊躇《ためら》われた。
心の中に土足で踏み込むようで、できなかったのだ。
それでも。その写真のことは、ずっと心の中に残っていた。
その写真の中にいる私は、自分でも信じられないくらい美しかった。
私は自分のアルバムの中に、こんな顔を見つけられない。クラスの集合写真も体育祭や学園祭のスナップ写真も、どれも「負けてなるものか」といったキツイ表情で写っていた。
対して、私の前をすまして歩いていた例のクラスメイトは、いつも美しかった。
憂鬱《ゆううつ》そうな顔、笑い転げた顔、冷ややかな微笑。いろいろな表情でありながら、どれも花のようにまぶしかった。同じフレームの中、いつだって私は彼女から少し離れた場所で、まるで敵に会ったみたいに肩に力を入れて、レンズをにらみつけているのに。
私は、いったい何と戦っていたのだろうか。
戦っていたと思っていた相手は、まったく私のことなど気にしていなかったというのに。
私は久々にアルバムをめくり、高校生の自分と対面して少しだけ泣いた。
今になって思う。私は、本当は笙子の部屋にあったあの写真の中の少女のまま、穏やかな表情であの人と一緒《いっしょ》に写真におさまっていたかったのだ、と。
(何を今更《いまさら》……)
私は涙を拭《ぬぐ》い、急いでアルバムを閉じた。
こんなことを考えるなんて、私らしくもない。きっと、勉強するための目標を見失って、気持ちが弱くなっていたのだろう。
卒業する前ならまだしも。別の大学に通う身の今となっては、もうどうすることもできない。それくらいのこと、わかっているはずなのに。
明けて今年の一月二日。私は、卒業したリリアン女学園にほど近い神社にいた。
ノスタルジー?
いいや、高等部の頃に帰りたくて来たのではない。去年買った合格|祈願《きがん》のお守りを、納めるために行ったのだ。
「やっぱり、誰も来ないか」
私は鳥居《とりい》の前で携帯電話を見ながら、一人ため息をついた。午後一時を、もう二十分も回ってしまった。
「期待もしていなかったけれどね」
それでも、約束通り来たのが自分だけとは、予想外だった。
仕方ない。こうなったからには、一人でさっさと用事を済ませて帰ろうと思った。これ以上待っていても、もう誰も来ないだろう。来る予定だったら、連絡の一本も寄越《よこ》してから遅刻するはずだ。
去年の今日。クラスメイト四人でやはりここに初詣《はつもうで》に来た。私たちは高校三年生の受験生だった。
発案者(私ではない)はクラスの受験生全員を誘っていたみたいだったけれど、三が日ということもあってなかなか人数は揃《そろ》わなかった。当然、「例の彼女」も声をかけられていたが、彼女はつまらなそうに髪の毛をいじりながらつぶやいた。
「行きたいけれど、うちは毎年お正月はハワイだから」
私は、少し離れた場所からその様子を見ていた。彼女が行かないと知って、ホッとしたような残念なような複雑な気持ちになったのを覚えている。二学期の終業式のことだ。
結局、当日になってのキャンセルもあって都合がついたのは私を含め四人。そんなこんなで集まった仲間だったせいか、変な結束が生まれ、一年後の同じ日、同じ時間に同じメンバーでお礼参りに来ようと約束していたのだった。
けれど、一年後の約束なんて、誰も覚えてやしなかった。
受験前の神頼みも、合格してしまえば忘れてしまうのか。新しい生活に追われて、過去の友達のことなんて振り返っている暇《ひま》などないのか。いずれにしても、来ていないものは来ていない。
私は一人、神社の中を去年と同じ道筋で歩いていった。本殿《ほんでん》の前で賽銭《さいせん》を投げて手を合わせ、合格の報告とお礼をした。
考えてみれば、カトリックの学校に通っていながら、神社に合格祈願に行くことに対して、何の疑問ももたなかった去年の自分たちはどこか可笑《おか》しい。確かに、リリアンという園《その》にいる間は、私も感覚がかなり麻痺《まひ》していた。一歩外に出たからこそ、そんな風に「見えてくるもの」があるのかも知れない。
(天台宗《てんだいしゅう》のお坊さんが最初に作ったっていうおみくじが、神社にあるのも面白い話だけれど)
元日三日に亡くなったから元三大師《がんざんだいし》。明日が命日の高僧に敬意を払って、私は今年もおみくじを引いた。
――吉《きち》。
「願い、かなう。待ち人、来《きた》る……か」
占い結果を読みながら、小さく笑った。
去年も吉だったが、今年の方が幾分いいような気がする。
去年は確か『願い、かなわない。待ち人、来らず。自分から行くべき。失せ物、出がたし』だった。それのどこが吉なのだと、四人で大爆笑したものだった。
けれど軽い運試しのつもりで引いたおみくじが、どこか自分の心情に合っているように感じられたのも確かだ。
|待ち人《あの人》は来ない。来ないからこそ、私は平静でいられる、と。
(ああ、そうだ)
あの時の私は、おみくじに何となく引きずられて、合格祈願のお守りをもう一つ買ったのだった。自分の物以外の、もう一つ。
(……自分から行くべき)
だんだん思い出してきた。クラスメイトたちには従姉《いとこ》の安産祈願のお守りを買い忘れたと嘘《うそ》を言って、引き返して買ったのだ。
三学期の最初の日の朝。
私は「あの人」の靴箱《くつばこ》の中に、お守りの入った紙袋を置いた。私からだということは、彼女にも他の誰にも知られてはいけなかった。あの時、私にとってあのお守りは、爆弾や拳銃《けんじゅう》に匹敵《ひってき》するほど危険で恐ろしいものだった。
(まったくね)
そして一年後の私は、過去の自分を笑いながら、おみくじを括《くく》りつける枝を探している。その差は成長という名のものだろうか、それとも退化か。渦中《かちゅう》にある、今の私にはわからない。
私は一度空を見上げ、そして視線を落とした。
何の木だろう。一見枯れているようにも見える、一本の木が目にとまった。
幹がボロボロで葉のすっかり落ちた枝にも、おみくじがポツリポツリと結ばれれば、まるで白い花が咲いたみたいに見えた。
私も、そこに一つ花を咲かせた。
おみくじを結び終えて再び歩き出したその時、人混みの中に見覚えのある人物を見つけた。
「……あれは」
横顔をチラッと見ただけだが、間違いない。さほど顔に特徴があるわけではないけれど、トレードマークの眼鏡《めがね》とカメラが正解だと語っている。
写真部の一年生、武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》。いや、それは私が在校生だった頃の話だ。二学年下だったから、今は高等部の二年生になっているはず。
彼女は、誰よりも上手《じょうず》に「あの人」を撮った。学園祭の時、写真部の展示室で、私は私に向かってほほえみかけてくる「あの人」の写真の前でしばらく動くことを忘れた。
(また……)
どうして、こう私は昔のことばかり思い出すのだ。それも、思い出したところで、どうしようもないことばかり。
(もうっ)
処理しきれなかった古い感情は、古いお守りと一緒《いっしょ》に供養《くよう》してもらえばいい。私は、古いお札《ふだ》やお守りを焼いてもらう「おたきあげ」の場に急いだ。
そうだ、それがいい。
声をかけようかどうか迷っている間に、蔦子さんは、人波に飲まれるようにして、いつの間にか私の視界から消えてしまったことだし。
そうして、お守りを手放して、すっきりさっぱりと家に帰ろう。私は人をかき分けるようにして、小走りで進んだ。
おたきあげの場所は、道しるべがなくともすぐにわかった。白い煙が、天に向かって真《ま》っ直《す》ぐ伸びている、そこを目指して行けばいい。
行く手がにじんで見えるのは、涙のせいではない。あの煙が、目にしみているだけだ。
「えっ!?」
おたきあげの場に到着したと同時に、私の心臓はドキーンと一度跳ね上がった。
「あら」
おたきあげの順番を待って並んでいた人の一人が、私の顔を見て無防備にほほえんだ。
「まあ、克美《かつみ》さんに会えるなんて」
――それは私の「あの人」こと、鳥居《とりい》江利子《えりこ》さんだった。
ピンク色の丈《たけ》の短いコートに茶系のチェックのスカートは若々しく、リリアンの制服を着ていた頃より幼く見えた。
「どうして」
不覚にも、混乱した私は、心の中のつぶやきすら声に出してしまっていた。
受験の年ですら恒例《こうれい》を曲げずにハワイで過ごした彼女が、どうして今年の正月は国内にいるのか。いや、国内どころの話ではない。もっと狭い、母校のすぐ側なんだからここは「地元」だ。
「ああ。克美さんは、去年のメンバーでもない私が来たことに驚いているのね?」
江利子さんは笑いながら、コートのポケットから「ジャジャーン」と何かを取り出して見せた。
「実は私も、ここのお守りを持っていたの」
「――――」
それは、間違いなく私が持っている物とまったく同じ、この神社の名前が入った合格|祈願《きがん》のお守りだった。
「これ、三年生の三学期の始業式の日に、靴箱《くつばこ》の中に入っていたのよ。結局、誰がくれたのかわからなかったけれど、受験した全部の学部に合格したんだから御利益《ごりやく》があるのでしょう。それで令《れい》……、妹にも買ってあげようと思って。あの子、今年受験なのよ」
「そ、そう」
「克美さんたち、一年後にお守りを返しに行くって盛りあがっていたじゃない? だから、もしかしたら誰かに会えるかな、と思って来てみて正解。時間がわからなくて適当に来たけれど、意外に会えるものね」
「ええ」
私は、声が震えていることを悟られまいと、相づちくらいしか言葉を発することができなかった。
それでも「御利益」とか「妹にも」とか「来てみて正解」とか、江利子さんの発した細切《こまぎ》れの言葉たちが、私の心の中でトランポリンのように弾《はず》んでいるのは感じられた。
「課題の提出とか忙しくて」
「男の人って、何を考えているのだか。ううん。考えているようで、あまり考えていないのかも」
「正月のスケジュール調整で、もう大げんかよ」
江利子さんは大学のこと、おつき合いしている彼に対する悩み、彼との仲を裂《さ》こうと画策《かくさく》している父親や兄たちの愚痴《ぐち》などを次々と話した。
お返しに私は、近頃妹のことがわからない、なんてことをちょっとだけ語った。
おたきあげの場で私たちは、並んでお賽銭《さいせん》を入れて、一緒《いっしょ》に手を合わせてお祈りし、同時に去年買ったお守りを火にくべた。
「じゃ、またね」
明日も会うクラスメイトのような挨拶《あいさつ》を交わして、私たちは別れた。十五分ほど一緒に時を過ごしただろうか、江利子さんはこの後、人と会う約束をしているという。それは高等部時代の妹、支倉《はせくら》令さんだろうか。それとも、卒業|間際《まぎわ》に噂《うわさ》になった、例の花寺《はなでら》学院高校の科学講師か。
後ろ姿を眺めながら私は、チラリと見かけた武嶋蔦子さんをあの時呼び止めていたら、と考えていた。そうしたら、きっと素敵な写真を撮ってもらえたのではなかっただろうか。
なぜ、って。
つかの間の時間ではあったが、二人は以前から仲のよかった友人のように、並んでほほえみ合っていたはずなのだから。
たとえぎこちなくても、私は確かに笑っていた。
あの、夢のような時間の中で。
そんな風に私は、結局「あの時ああしていたら」なんてことばかり考えてしまうのだ。
あの時。武嶋蔦子さんを追いかけていなかったから、江利子さんとは会えたのかもしれないのに。
*
「……どうして」
そうして今日。妹に、この写真を見せられたのだ。鳥居江利子さんの写真を。
「私の知っている先輩が、偶然鳥居江利子さまに会ったんだって」
「う、うん」
いつどこで会ったかなんて、質問する必要はなかった。
その「先輩」はちゃんと声をかけてからシャッターを押したのだろう、カメラ目線で笑っている江利子さんは、見覚えのあるピンク色のコートを着ている。そう、これは今年の一月二日、あの神社で撮影されたものだ。そして――。
「これ、お姉ちゃんだよね」
笙子が、江利子さんの後ろに小さく写った人物を指さす。
そう、最初に見た時から気づいていた。それは間違いなく、私の姿だった。
見せられるまでは、こんな写真が存在していることすら知らなかった。だから当たり前に、カメラなんかに気づいていない。
初詣《はつもうで》の神社は人でごった返しているし、あっちこちで写真撮影も行われていた。カメラがこちらを向いていても、いちいち反応なんてしなかったのだ。
写真の中の私は、江利子さんがそこにいることすら気づかずに、その後ろで、少し目線を上げてほほえんでいる。
なぜこんな表情をしているのかという謎《なぞ》はすぐ解けた。私は、おみくじを括《くく》るための枝を探していたのだ。手には、いつでも結べるように、細く折られたおみくじがしっかりと握られている。
枯れ木に咲かせる前の「花」だ。
「先輩は、お姉ちゃんだってこと気づかなかったんだけれど、私はわかった。で、黙っていようかとも思ったんだけれど、迷って……、それで、やっぱりこれはお姉ちゃんに渡した方がいいと思った」
「そう」
私は、妹の厚意をありがたく受け取ることにした。
「わかった」
一年前の自分だったら「余計なことを」と怒りだしたと思う。気持ちを見透かされて腹を立てていたと思う。でも、今はそれが無意味な行為だということがわかる。
その通りよ、と、写真の中の江利子さんも笑っている。
「それから、これ」
笙子はもう一枚差し出した。それは、私が今手にしているものとまったく同じ写真だった。
「何?」
「二枚プリントしてもらったから、お姉ちゃんから送ってあげたら?」
江利子さんに。
「うん」
うん、そうだね。そうしよう。私はうなずいた。
「それじゃ」
用事を済ませて、すっきりした顔で部屋を出ていこうとする妹に、私は「笙子」と声をかけた。
「武嶋蔦子さんによろしくね」
笙子は立ち止まって、ギョッとした顔で振り返った。
「どうして、それをっ」
っていうことは、図星《ずぼし》か。私の勘《かん》も、満更《まんざら》悪くない。
「ふふふ。三年長く生きているお姉ちゃんを甘く見ちゃいけないよ」
「うわぁ」
小さく叫んで、笙子はあたふたと逃げていった。そういうところは、まだ子供で可愛《かわい》い。
「どうやら、楽しそうな高校生活を送っているようね」
私は笑って机の上に写真を二枚並べた。
写真を送るのを口実に、手紙を書こう。あの時話せなかった、今の大学のこととか、リリアン女学園の高等部に通っていた頃のこととか。何なら、理由がなくとも会って話をしたっていいのだ。
いや、理由はある。
私たちは、同じ教室で学んだ仲間なのだから。
それだけで、十分なはずだった。
私は、写真を脇に置いて大学の教科書を開いた。なぜだか、無性に勉強がしたくなった。
江利子さんに勝つためではなく、江利子さんと肩を並べて歩けるように。同じ目線で笑えるように。
別々の道を歩いていても、どこかで会った時は、私はこんな風に生きているのだと自信をもって言えればいい。
もうすぐ春。
枯れたように見えた木も、すぐに緑の若芽《わかめ》を出し、花を咲かせることだろう。
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フレーム オブ マインド―W
「あれ?」
祐巳《ゆみ》はつぶやいた。何か、忘れていることがある気がする。
「キーワードは写真部……いや、写真かな。何だろう、思い出さなくちゃいけないことがあったような」
ヒントと言って、蔦子《つたこ》さんに答えを教えてもらえるわけでもない。しかし半信半疑《はんしんはんぎ》で投げたヘロヘロボールが、返ってくる時には意外にもちゃんとした球筋《たますじ》でグローブの中に飛び込んできたりするものだ。
「祐巳さんさ、私に何か用事があったんじゃないの?」
「用事って? 私は、蔦子さんの一人部活にくっついて薔薇《ばら》の館《やかた》に来ただけだよ」
「そうじゃなくて。ゴミ捨て終えて、教室に返ってきた時。私のこと見つけて『いたいた、ラッキー』みたいなこと言ってたでしょ」
「それって、桂《かつら》さんじゃないの」
と言っているうちに、じわじわと思い出してきた。
「確かに言ったね、私」
いたいた、ラッキー。
それはそこに蔦子さんの姿を見つけて、クラブハウスまで足を運ばなくてもよくなったことを受けて言った言葉だった。けれど、蔦子さんが机いっぱいに広げていた写真を見たり、部室を追い出されたりしたという話を聞いているうちに、すっかり忘れてしまったのだ。
「気づいていたなら、言ってよー」
「いや。私も忘れていたからさ、さっきまで」
「さっき?」
「桂さんがここに来た時。教室に入ってきた祐巳さんと重なって、あれって思った」
でも、桂さんの話を聞いているうちに、蔦子さんもまた忘れてしまったんだって。まったく、若者同士とは思えない会話である。
「じゃ、また忘れないうちに」
祐巳はスカートのポケットに手を突っ込んで、それを取り出すと蔦子さんに差し出した。ちょっと得意顔で。あーありがとう、祐巳さん。どこにあったの、探していたんだ。当然、返ってくるのはそんな感謝の言葉だと思っていたから。しかし。
「何、これ?」
蔦子さんは首を傾《かし》げて、「これ」をマジマジと見た。もちろん、蔦子さんが「これ」の単語を知らないはずはない。ある意味、学園中で一番それが似合う人と言っても過言《かごん》ではない。
「蔦子さんの落とし物でしょ。親切な一年生が拾ってくれたの。で、同じクラスの私に渡して欲しい、って」
それは、カメラの中に入れて写真撮影をするというごくごく一般的な市販のフィルムだった。片手に収まるほどの大きさ。お馴染《なじ》みの円柱に似た形で、製造会社の社名が印刷された側面には、マジックペンで黒々と『タケシマツタコ』と書かれてある。校内の落とし物が普通そうされるように落とし物係に直行せず、ここにあるのはそういった理由からであった。
名前は書いておくものだね、と祐巳は蔦子さんにフィルムを握らせた。かく言う祐巳も、以前盗まれて行方《ゆくえ》不明になっていた傘《かさ》が、名前を頼りに戻ってきたという経験をもっている。
「でも、これ私のじゃないわよ」
蔦子さんは自分の手の平の上にある物を、困惑顔で眺めている。
「えっ」
「少なくとも私が書いた文字じゃないし、私には行方不明になっているフィルムだってないもの」
そんなバカな、と思った。蔦子さんのものだって思い込んで、自信満々で返却を請《う》け負ってきた祐巳である。
「じゃ、このタケシマツタコっていうのは――」
人違いということだろうか。もちろん、片仮名《かたかな》だから「タケシマツタコ」が「武嶋蔦子」であるとは限らないわけだけれど。
「タケシマツタコなんて名前、学園内に他にいるかな」
竹島津田子とか、竹嶋ツタ子とか、武島都多子とか、そのものずばり武嶋蔦子とか。タケシマはともかくツタコとなると、あまり流通していない名前のような気がした。
さて、これをどうしたものか。二人して「うーん」と腕組みしていると。
「何、難しい顔しているの」
またしても新客が現れた。お客というより、ここの住人といった方がいいだろう。ご存じ、| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》の島津《しまづ》由乃《よしの》さんだ。今まで二年|菊《きく》組教室で田沼《たぬま》ちさとさんとデートの待ち合わせ場所なんかの相談をしていて、帰る前にちょっとだけ寄ってみたという。誰もいないと思いきや、クラスメイト二人が何か真剣に考えている場面に遭遇《そうぐう》し、よくわからないけれど面白そうとばかり首を突っ込んできたらしい。
「悩んだ時には、名探偵由乃にお任せあれー」
「……」
蔦子さんと祐巳は、顔を見合わせてひそかなため息を吐いた。解決どころか、引っかき回されるような予感がする。しかし、しつこさにおいては薔薇の館一の由乃さん。素直に話さなければ、ますます事態が悪化することは目に見えていた。
「なるほどね」
肘《ひじ》から曲げた右手を前に出して手の平をひっくり返しながら、由乃さんはうなずいた。ブランデーグラスでも持っているつもりなのかと注目していたのだが、一向に揺らす気配はない。どうやらパイプ煙草《たばこ》だと祐巳が気づいた時には、ずいぶんと時間が経過していた。由乃さんは今、気分はホームズなのだろう。
「犯人は、蔦子さんにこのフィルムを届けるために、タケシマツタコなんて書いたんじゃないの?」
「届けるため?」
また、突拍子《とっぴょうし》もないことを。それに、犯人って。
「そうよ、蔦子さんに届けるため」
由乃さんが言うには、推理小説なんかでも使われるトリックで、ある人に日数を置いて手紙を届けたい時(例えば自分が死んでしばらく経ってからとか)、差出人の欄《らん》に受取人の名前を書いて、受取人の欄にでたらめの住所を書くという方法があるという。相手に届かなかった手紙は、通常差出人に戻されるもので、いつもより時間をかけた上に確実に届くというわけだ。
「それってルール違反じゃない?」
祐巳が疑問を口にすると、由乃さんはやれやれとため息を吐いて両肩を小さく上げた。
「だーかーら、推理小説のトリックだって前置きしたでしょ? お話の中の出来事なの。実際にやっちゃだめってことくらい、みんなわかってるんだってば」
違法とか道徳とか言い始めたら、推理小説なんて読んでいられない、って。確かにその通りである。友達を言い負かした由乃さんは、気をよくして鼻息を荒くした。
「それで、その差出人に当たる部分が、今回はタケシマツタコなわけよ」
名前が書いてあれば、時間がかかろうとも必ず蔦子さんの元に届けられるだろう。なるほど。でも。
「誰が、何のために」
「それはわからないけれど?」
わからないんかい、名探偵。
「あのさ。私に届けたいなら、届けたい日の朝、下駄箱《げたばこ》なりに入れておけばいいんじゃないの」
蔦子さんは指摘した。
「確かに」
その方が確実だ、と祐巳も思う。落とし物係が蔦子さんに連絡を取るまでの時間よりか、よっぽど読みやすい。
「で? 中身は何なの」
「さあ」
わかっているのは、このフィルムが使用前ではないことくらいだ。いくらカメラちゃんの蔦子さんでも、ケースの外側からさわっただけで、中にどんな画像が入っているかなんてわかるはずがない。
「ちょっと見せて」
由乃さんが手を伸ばす。蔦子さんは一歩下がって、フィルムを守った。なぜって。由乃さんに渡したら、何をしでかすかわからないから。
「ちょっ……!」
思い切り身を乗り出したはいいが目標物を失った由乃さんは、勢い余ってバランスを崩《くず》し、側にあったテーブルに両手をついて身体《からだ》を支えた。
「何なのよ。私が何をするって――」
身を起こしながら文句を言っていた由乃さんだが、ある物を見つけると急に黙り込んだ。
「これ……」
広げていた写真の一枚を手に持って、しげしげと眺める。
「これ、江利子《えりこ》さまよね」
蔦子さんに見せて確認する。
「私服なのに、よくわかったこと」
そうだと言わなかったけれど、その答えは間違いなく肯定《こうてい》を意味していた。
「そりゃね。永遠のライバルですから」
お正月だろうか、所々に着物姿が見える雑踏《ざっとう》の中で、由乃さんのお姉さまのお姉さまである鳥居《とりい》江利子さまが、カメラ目線でほほえんでいる。
「二人は、令《れい》ちゃんを通して今でもしっかり繋《つな》がっているのよ」
そう言って写真の中の「永遠のライバル」を見つめる由乃さんの目は静かでやさしかった。
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黄色い糸
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*
世の中のしくみというものは、案外うまくできている。
例えば、そろそろ中等部に飽《あ》きてきたなと感じはじめた頃に、高等部へと押し出されてしまったり。
その高等部では姉妹《スール》制度なんてものが待ちかまえていて、赤の他人の上級生と姉妹の真似事《まねごと》なんてやって結構面白かったのだけれど、一年も経《た》つと疑似《ぎじ》妹暮らしも慣れきってしまい、マンネリ生活に突入しかけたところで、今度は自分が姉になるという新たな楽しみを与えられるのであるから。
「それで? 江利子《えりこ》は自分の通学路とは逆方向であるにもかかわらず、正門付近までわざわざやってきて、新しいオモチャを物色しているわけ?」
あくびをしながら笑ったのは、たった今登校してきた腐《くさ》れ縁の友である。名前を佐藤《さとう》聖《せい》という。
「朝早くからご苦労なことね」
「苦労? これは楽しみよ」
江利子も笑って、聖と並んで銀杏《いちょう》の並木道を歩き出した。登校する一年生を眺めるのも、今朝《けさ》はここまで。そろそろ教室に向かわないと、自分自身が朝拝《ちょうはい》に遅れる。
季節は四月の終わり。やわらかな日差しも、心地好《ここちよ》い微風《そよかぜ》もちょうどいい。このまま授業など受けずに、友と並んでずっと散歩をしていたいくらいだ。
「江利子が本気出したら、やっぱり勝ちかな?」
聖が、独《ひと》り言《ごと》のように言った。
「何が?」
「薔薇さまたちが賭《か》けをしているらしいよ。江利子と蓉子《ようこ》、どっちが先に妹を作るか、って」
「私と蓉子? どうして、あなたは入っていないの?」
江利子は首を傾《かし》げた。聖だって、二人と同じ|つぼみ《ブゥトン》と呼ばれる立場にあるのだから、当然出走馬に入れられて然《しか》るべきである。
「誰も賭けないような馬は、最初から外されるんだってば」
わざと自嘲《じちょう》気味に笑う友であったが、その実そんなにがっかりもしていないことを、江利子は知っていた。型にはめられることなく、管理もされない。フワフワとクラゲのように漂《ただよ》っているのが好きなのだ、彼女は。
「で? 江利子はどんな子がお好み? あ、待って言わないで、当てるから」
聖は、江利子の唇の前に手をかざした。
「二年間江利子を退屈させない子、違う?」
「その通りよ。さすが、つき合いが長いだけあるわね」
幼稚舎《ようちしゃ》からだから、もう十年になる。
「目をつけている子がいたら、登校中の一年生を品定めなんてしないわよね。じゃ、やっぱり蓉子が先か」
「ちょっと、あなたまで賭けに参加するのやめなさいよ」
「さあて」
冷ややかに笑う友の腕を掴《つか》んだ時、二人の横を背の高い生徒が駆け抜けていった。
「おお。活《い》きのいい一年生が一匹」
「――のようね」
江利子も目を細めて、その姿を追った。真新しい制服の光沢《こうたく》と、タイの結び目のおぼつかなさを見れば、新入生だとすぐにわかる。
スカートのプリーツは乱さないように。白いセーラーカラーは| 翻 《ひるがえ》らせないように。
呼び止めて、注意することもできたけれど、やめた。走っているのは、彼女だけではなかった。一年生の教室は上級生より、ほんの少しだけ昇降口から遠い分、急がなければならないのだった。
分かれ道のマリア像の前にさしかかると、先刻の背の高い一年生が手を合わせていた。
よくよく見ると、男の子みたいだ。ベリーショートにすらりとした身体《からだ》。甘い要素がほとんどない、シャープな顔つき。スカートを身につけているから、辛《かろ》うじて女の子だと認めることができる。
「いったい何を拝《おが》んでいるのかね」
毎日のことなのに、と聖が笑った。
確かに、少年のような彼女は、かなり長い時間手を合わせたままその場に留まっていた。後から来た一年生たちは遅刻を心配してか、ほんの一瞬手を合わせただけでどんどん立ち去っていくというのに。大丈夫《だいじょうぶ》なのかとこちらが気にし始めた頃、彼女はやっと目を開けて、また走り出した。
その時、江利子は見たのだ。彼女の指先から伸びる、黄色く光る一本の糸を。
* *
あれは、多分|蜘蛛《くも》の巣か何かだったのだろう。――江利子は、今朝《けさ》の光景を思い出しながら小さく笑った。赤い糸ならともかく、黄色なんて。
ポットの口からは、湯気とともにフルーティーな紅茶の香りがたっている。
「何なの、ぼんやりしているかと思えば、思い出し笑いなんかして」
「何でもありません」
背後からの問いかけに、江利子は振り返って答えた。
放課後。生徒会室である薔薇《ばら》の館《やかた》には、まだ江利子と江利子のお姉さまである|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》しか来ていなかった。たぶんそう待たせることもなく、蓉子が息せき切って現れるだろう。続いて、蓉子のお姉さまの|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》、そして聖のお姉さまである|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》も。聖は――、招集があっても来たり来なかったりするからわからない。
「あら。何でもありません、じゃありません、って顔していたけれど?」
「こうやってお茶いれたり、真っ先に来て部屋の掃除《そうじ》をしたりするのも、もうすぐ終わりかと思うとうれしくて」
説明しようもないことなので、江利子は適当なことを言って誤魔化《ごまか》した。
「江利子の場合、嫌々やっているようには見えなかったけれど」
「ええ。楽しく雑用はさせていただきました。私、家では甘やかされていますので、新鮮でしたわ」
「で? 妹にしたい子ができたということ?」
|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》が、顔を覗《のぞ》き込んできた。
「いいえ、残念ながら」
江利子は唇に笑みを浮かべながら、紅茶を注いだカップをテーブルの上に置いた。
今朝《けさ》見かけた一年生のことは、報告するほどのものではないと思った。ちょっとだけ気になった、それだけのことだ。
「じゃ、さっきの『もうすぐ』っていうのは何?」
「一般論です。だいたい、姉妹《スール》になるなら一学期中でしょう」
「ぼんやりしてたって、| 妹 《プティ・スール》が飛び込んでくるわけじゃないのよ」
「ええ。でも、蓉子や聖に妹ができれば、どのみち雑用からは解放されるでしょう?」
そう答えたところで、「こら」とノートで軽く頭を叩《たた》かれた。
「残り物は雑魚《ざこ》ばかりとは言わないけれど、あんまり悠長《ゆうちょう》に構えていると、良い子はどんどん売れていくわよ」
「わかっています」
頭を叩いたノートが、今度は江利子の胸もとに飛んでくる。
「何ですか、これ」
受け取って尋《たず》ねると、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は言った。
「めぼしい一年生のリスト」
「この中から選べ、と?」
「まさか。この間、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》や|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》と戯《たわむ》れに作ってみただけ。今年自分が二年生だったらって仮定して、気になる一年生をピックアップしてリストにしたの」
「……お暇《ひま》なんですね」
「何とでも。よければ、参考になさい」
「蓉子には?」
「まだ。私が|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》にジャンケンで勝ったから」
それで、江利子から先に回すことになったらしい。
「参考にしないかもしれませんよ」
「わかっているわよ。でも、興味あるでしょ」
「そうですね」
確かに興味はあったので、パラパラめくってから「お借りします」と鞄《かばん》に入れた。
たぶん蓉子のものであろう、階段を駆け上る足音が聞こえてきた。
* * *
思えば、昔から希少価値に弱かった。
どれにしようか迷った時に、「より好ましい方はどちらか」と自分の心に向かって真剣に問いかける前に、その場に一点しかない物に手が伸びる。その性癖《せいへき》のお陰で、何度失敗をしてきたことか。
例えば、手土産《てみやげ》にもらったケーキなどの場合は、食べてしまえばそれでお終《しま》いなので何の問題もないのだ。
けれど、洋服とか靴《くつ》とかの場合は後々まで尾を引く分|厄介《やっかい》だった。家に帰って、手持ちの服とまったく合わない代物《しろもの》だったことは数知れず。店に一点しかなかったので買ったのに、近所に住んでいる女の子がまったく同じ服を着ていた時には三日間くらい落ち込んだ。店にないということは、人気があって売れてしまった可能性だってあるのだと、その時初めて気がついた。その服はクローゼットの奥に押し込んで、一度も袖《そで》を通さなかった。
教訓。見た目が他と違うからって、すぐに飛びついてはいけない。むしろ外観が目を引く分を、差し引くぐらいでちょうどいい。
昨日に引き続き、校門の側で登校してくる生徒を眺めながら、江利子は自分の心に言い聞かせた。
人は見かけで判断してはいけません。――まるで、今の自分のためにある言葉のようだ。
なのに江利子は、例の男の子みたいな一年生が目の前を通り過ぎると、その場を離れてふらふらと後をついていってしまった。昨日ここで聖と会ったより、ずっと早い時間だった。あの一年生は、今日は走っていない。
十メートルほど間をあけて、江利子は追いかけた。マリア像の前で、彼女は昨日より少し短めにお祈りをしていた。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、江利子はその指先を凝視《ぎょうし》した。しかし、残念ながら昨日の朝見えた糸は、見つけることができなかった。
いったい自分は、何を期待していたんだろう。江利子はため息をついて、彼《か》の一年生を見送り、その後自らもマリア様に手を合わせてから校舎に向かって歩いていった。
今朝《けさ》はもう、一年生を品定めする気が失せてしまった。
もっと、冷静にならないといけない。
その日の昼休み、江利子は教室でお弁当を食べ終えると、お姉さまから預かったノートを手に図書館へと向かった。めぼしい一年生のリストが書かれた、あのノートである。
何となく、昨日の夜は自宅で読む気がしなかったので、そのまま鞄《かばん》の中に入っていた。
冷静にならなくてはと思った時、真っ先に頭に浮かんだのがこのノートだったのだが、もちろん教室で開くわけにはいかない。無邪気《むじゃき》なクラスメイトが「それは何?」と覗《のぞ》きにきたら、大変なことになる。かといって、お姉さまたちが来ているかもしれない薔薇の館に行って読むなんて、絶対に嫌だった。
けれど図書館だったら、閲覧室《えつらんしつ》でノートを広げていようと、誰も覗きにきたりはしない。昼休みや放課後、ここはレポートや宿題、受験勉強などをする場所になる。他人《ひと》が何をしているかなんて、いちいち気にする者などいなかった。
席は通路側しか空《あ》いていなかったので、江利子はそこに座ってスタンドライトのスイッチを入れた。通路を挟《はさ》んで向こう側に書棚《しょだな》があるため、時たま人が脇を通るのが気になるが止《や》むを得ない。
「さて」
ノートを開くとそこには、二十人ほどがリストアップされていた。一ページにつき一人、クラスや部活、写真がない分を補《おぎな》うように、髪が長いとか背が低いとか目の下にほくろとか、目で見える特徴が書かれている。
対象によって情報量はまちまちで、得意科目や好きな食べ物まで書かれている人もいれば、名前とクラスしか記されていない人もいる。いったいお姉さまたちは、この人の何を気に入ってリストに入れたのだろうと首を傾《かし》げてしまう。
中には、名前を見ただけで顔が思い浮かぶ人もいたが、それは単に有名人というだけの話で、特別な感情などは芽生《めば》えなかった。
パラパラとめくり、結局最後まで引っかかる人もなくノートを閉じた。例のあの一年生は、リストには載っていない。
江利子は、彼女の名前を知らなかった。けれど、仮にリストアップされていたとしたら、その特徴として、ボーイッシュである外見について一言も触れていないわけがなかった。
「やっぱりね」
小さくつぶやいて、あわてて口をふさぐ。隣の席で分厚《ぶあつ》い参考書を広げている三年生らしき生徒が、注意するようにチラリと江利子を見た。
(やれやれ)
受験生も大変だ。どれ、お邪魔《じゃま》にならないように退散するかと、スタンドライトのスイッチを切って椅子《いす》を下げかけた時、江利子はまたもや声を発してしまった。
「げっ」
隣の席の生徒は、今度はあからさまに不快の表情を向けてきたが、江利子はそれどころではなかった。たった今、自分の脇の通路を通った生徒に、目が釘付《くぎづ》けになっていた。
(あの子だ……!)
一度は立ち上がりかけた椅子ではあったが、江利子は再度すとんとお尻を落とした。
(どうして、彼女がいるの)
胸がドキドキした。
高等部の生徒なのだから、休み時間にここ、中・高等部の図書館にいたって何ら不思議はない。でも、あまりにタイムリーだったから。だからちょっと驚いて、その余韻《よいん》で動悸《どうき》が止まらないのだろう。
自分が悪いことをしているわけではないのに、江利子は一旦は閉じたノートを開いて鼻から下を隠した。それより上、つまり目は、彼女を見るために出しておく必要があった。
そんな風に観察されているとも知らないで、男の子のような一年生は書棚《しょだな》と書棚の間を悠然《ゆうぜん》と歩いていた。ただ目的もなく背表紙を眺めているわけではないことは、時たま立ち止まって一冊二冊と本を抜き出していく様子から見て取れた。端から端へ、広い範囲を歩ききった後、彼女は十冊ほど積み上げられた本の柱を胸に抱えていた。
(料理本、時代小説、少女小説、体育の教則本……)
何て統一感がないチョイスなのだ、と江利子は眉《まゆ》をひそめた。タイトルは見えなくても、棚の位置から、抜き取られた本のジャンルくらいはだいたいわかる。
(その上、十冊って。おいおい、嘘《うそ》でしょう。貸し出しカウンターに直行?)
一度にそんなに借りられないってば、と心の中で突っ込みを入れながらも、あれだけ沢山《たくさん》の本を軽々持ち上げてしまう様子をほれぼれと見つめていたのもまた事実だった。
案《あん》の定《じょう》、カウンターですんなり貸し出し処理が行われることはなく、彼女は図書委員と二三言葉を交わした後に、積まれた本の半分を持って引き返してきた。
(やっぱり断られたか)
どのような基準で決めたかは知らないが、五冊を元の書棚に戻し終えると、彼女は貸し出し手続きの完了した五冊の本を持って、閲覧室《えつらんしつ》を出ていった。
江利子は今度こそ立ち上がって、席を離れた。隣の生徒はわざとらしいため息をついたが、そんなことはどうでもよかった。
「ここにこんなに大きく、『一人五冊まで』って書いてあるのにね」
カウンターの中にいた図書委員が顔見知りだったのをいいことに、江利子は世間話でもするように話しかけた。
「ああ、今の一年生のこと?」
見てたの、と図書委員は笑った。
「っていうか、他人の図書カードで借りようとしたから断ったのよ」
「他人の?」
「病欠の生徒の分なんですって。でも、規則でそれはできないから」
「病欠……」
もし断られなかったら、その五冊の本を持って、あの子は放課後に病欠の友人宅を訪ねる気だったのだろうか。カードを預けて頼むくらい親しい仲なのか、単に家が近所なだけか。
「だったら、横着《おうちゃく》しないで別々に五冊借りに来ればよかったのに。カードの持ち主ですって堂々としていたら、借りられたんじゃない?」
江利子がそう口を開くと、図書委員は「それは無理ね」と答えた。
「どうして? まさか、図書委員って全校生徒の顔と名前を覚えているの?」
「そんなわけないでしょ。けれど、いくら名案でも、残念ながらあの子には実行できないのよ」
なぜ、と聞く前に図書委員は言った。
「いくら何でも、制服の違いくらいはチェックできるわよ」
「え?」
「だって。病欠っていう生徒のカードは、中等部のものだったんですもの」
* * * *
面白い。
いや、興味深い。
ちょっと観察しただけで、いろんな謎《なぞ》が飛び出してくる。
人は、謎を提示されたことで、よりその人を深く知りたいと欲するものだ。
あの人は、どんな人なんだろう。目に見える部分の奥に、いったい何が隠れているのだろう、と。
一度に何でもかんでも知ってしまうのは、もったいない。だから、一言図書委員に聞けばわかったかも知れないあの子の名前も、あえて尋《たず》ねなかった。
江利子は、細心の注意を払った。自分が彼女に興味をもっていることを、本人にも第三者にも知られてはいけない。お節介《せっかい》な友人が、先走ってプロフィールなどを江利子の耳に入れないようにするためだ。
いずれ時が来れば、嫌でも知る日が来ることになるだろう。そんな風に、ごく自然に、江利子は彼女のことを知っていきたかった。
ただ、お姉さまである|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》にだけは、例のノートを返した時に「気になる一年生」の存在を明らかにした。そのうちお見せしますから、と。お姉さまは「名前は?」とか「クラスは?」とか質問したけれど、江利子はほほえんではぐらかした。実際、知らないのだから答えようがなかった。
次に見た時、あの男の子みたいな一年生は、また走っていた。
放課後、下校するべく歩いていた江利子は、高等部校舎の裏で向こうからすごい勢いで走ってくる生徒と出会った。すぐに彼女と気づかなかったのは、高等部の制服を着ていなかったせいだろう。けれど、ついにすれ違うというその時には、制服よりもむしろその格好の方こそが本来の彼女の姿であると、江利子は妙に納得してしまった。
面《めん》こそ着けていなかったが、あまりに特徴のあるその姿は、一目で剣道部のユニフォームとわかる。それにしても、胴《どう》と垂《たれ》を外す暇《ひま》もないくらい急な用でもあるのだろうか。すごい形相《ぎょうそう》だったのは、重い身体《からだ》で全力疾走しているせいばかりではなさそうだった。
(何なのかしら)
すれ違った後、振り返って行き先の見当をつけてみたが、高等部の校舎に入らなかったことくらいしか確認できなかった。追いかけて真相を探り出すことは、ポリシーに反するのでやめた。
温室を横切り、武道館にさしかかった時、中から中等部の制服を着た生徒が出てきた。
「ご苦労さま、ありがとう」
剣道部の顧問《こもん》の先生が、声をかけるのにペコリと礼で応《こた》えると、その生徒もまた校舎の方に走っていった。根拠はないが、その子が何かを伝えに来たから、あの男の子みたいな女の子が部活を中断してどこかに走って向かったのではないか、と江利子は推理した。
いや、もう「男の子みたいな女の子」なんて長い代名詞は必要ない。垂《たれ》に書かれた漢字二文字で、ちゃんと確認した。
あの子の苗字《みょうじ》は、「支倉《はせくら》」というのだ。
* * * * *
それからの江利子《えりこ》は、行動が早かった。
「剣道部の支倉です。お姉さま、一度見てください」
「支倉?」
リストに載っていない一年生では、苗字を聞いてもなかなかピンと来ないらしい。
「その支倉さんは、姉妹《スール》になることを了解しているの?」
「いいえ」
江利子の答えを聞いて、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》は少し考え込んでからうなずいた。
「いいわ。次の剣道部の部活の日に、一緒《いっしょ》に武道館に行きましょう」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはまだ早いわよ」
難しい顔をして、|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》が言う。
「約束をとりつけていないなら、剣道部の二年生にとられてしまうかもしれないじゃないの」と。
けれど、そんなお姉さまの心配は取り越し苦労だった。
稽古《けいこ》を見学させてもらっている間、部長に聞いたところによると、「支倉」は成績も優秀で性格もいいのだけれど、あまりに剣道が強いため二年生部員たちが気後《きおく》れし、姉に名乗りをあげないのだとか。
「それに、あの子――」
部長は言いかけて、「何でもない」と首を横に振った。
「先入観を植えつけちゃだめね。彼女に目をつけたなら、その目でよーく見極めて。総合的には、悪い買い物じゃないわ」
お姉さまはクラスメイトの意味深《いみしん》な言葉に「何それ」と返していたが、江利子はゾクゾクした。
「支倉」の秘密は、多分中等部と関係があるに違いない。
* * * * * *
五月の半ばに行われる、山百合会《やまゆりかい》主催の新入生歓迎会は、新入生を生徒会に仲間入りさせる大切な儀式である。
紅・白・黄の三薔薇さまが、おメダイと呼ばれるマリア様の彫られた小さなメダルを、一年生の首に一人ずつかけていく。
「マリア様のご加護がありますように」
江利子たち|つぼみ《ブゥトン》、つまり薔薇さまの妹たちは、お姉さまの補佐をするために隣につく。いつも定例会議などをサボりがちな聖《せい》も、今日ばかりは|つぼみ《ブゥトン》の役目を果たしている。
「支倉」のクラスがわかったのは、彼女が一年|菊《きく》組の列の中にいたからだ。
普段そんなに信心深くない江利子であったが、その時はなぜか、マリア様に肩を叩《たた》かれたように感じられた。――そろそろ潮時《しおどき》じゃない、と。
新入生歓迎会終了後、江利子は一年菊組に向かった。
今のところ妹がいないので、二年生といえども薔薇の館内では一番の下《した》っ端《ぱ》である。だから、本来ならば率先《そっせん》して荷物を運んだりするべきであろうけれど、そこを拝んで抜けさせてもらった。
「いいわ、江利子の分は私が持っていくから」
お姉さまが笑った。これから何が起こるのか、大方わかっているのだ。
「蓉子、あなたももういいわ」
|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が告げた。蓉子が一礼をして、後片づけの済んでいないお聖堂を出ていく。
「じゃ、私も」
二年生二人が抜けたので、聖も逃げようとしたけれど|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》によって「あなたはだめ」とセーラーカラーを掴《つか》まれていた。
「どうして私だけ」
聖のブーイングを聞きながら、蓉子と並んで歩いた。その時、江利子は自分のことで精一杯だったから他に目が向かなかったけれど、思えば蓉子もまた、これから江利子と同じようなことをしようとしていたのだ。
友の横顔は、凛《りん》として美しかった。
一年菊組は、帰り支度《じたく》をする生徒でざわめいていた。
「支倉さんを、呼んでちょうだい」
扉付近の生徒を捕まえて頼むと、程なく「支倉」は首を傾《かし》げながら廊下《ろうか》に出てきた。用件に、まったく心当たりがなかったのだろう。
「私が誰か知っている?」
「| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》……」
先程、おメダイをかけた|黄薔薇さま《ロサ・フェティダ》の隣にいた江利子の顔は覚えていたようだ。
「何度か、お目にかかったことがあるのだけれど?」
廊下を少しだけ歩いて振り返ると、後をついてきた「支倉」は小さくうなずいた。
[#挿絵(img/28_123.jpg)入る]
「いつでしたか、剣道部の部活を見にいらっしゃいました」
「そう。覚えていてくれてうれしいわ」
「はあ」
それでも頼りない相づちを打つだけということは、彼女はあの時自分を見に来たとは思っていなかったということだろう。
「|単 刀 直 入《たんとうちょくにゅう》に聞くわ。私の妹にならない?」
「は?」
突然の申し出に、「支倉」はキツネに摘《つま》まれたような顔をしてみせた。そのことも、江利子を十分満足させた。
姉妹《スール》の契《ちぎ》りをするのに、場所を選ぶ必要はなかった。その行為自体に、価値があるのだから。
けれど、だとしても廊下の片隅というまったく無味乾燥《むみかんそう》な場所で江利子が事に及んでしまったこともまた、「支倉」に心の準備を与えられなかった一つの要因になったことは間違いないだろう。上級生にマリア像の前に呼び出されたなら、どんなに鈍感《どんかん》な一年生であろうと、「もしや」と思うはずである。
「どうかしら?」
返事を催促《さいそく》すると、「支倉」は戸惑いがちに口を開いた。
「あの……。何かのお間違いでは」
「どうして? 高等部一年生で剣道部員の支倉さんは二人いて? それとも、あなたにはもうお姉さまがいらっしゃるのかしら?」
「いえ」
どちらも違うという意味で、「支倉」は首を横に振った。江利子は、それは重畳《ちょうじょう》とうなずいた。
誰かの妹になっていたら、さすがに引き下がらざるを得ない。しかし、それ以外のことならどんな障害もクリアする自信があった。
「| 黄薔薇のつぼみ 《ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン》の妹になったら、山百合会の仕事をしなければならないでしょう?」
そう、「支倉」は慎重に確認してきた。
「そうね。手伝ってもらえれば助かるけれど」
「でも、私は部活動をやっていて」
「知っているわ。できる範囲でいいのよ」
「それだけではなくて」
「中等部?」
江利子は鎌《かま》をかけてみた。
「……ご存じだったんですか」
「いいえ。ご存じ[#「ご存じ」に傍点]ないわ。だから差《さ》し障《さわ》りない範囲で、聞かせて頂《いただ》きたいわね」
すると、「支倉」はうなずく。江利子には聞く権利があると、判断したようだ。
「中等部の三年生に、身体《からだ》の弱い従妹《いとこ》がいるんです。彼女が具合が悪くなったと聞けば、私はすぐに駆けつけます」
「なるほど。部活動中であろうと、ね」
「は?」
「いいえ、こちらのこと。続けて?」
江利子は、どうぞという手振りで促した。
「えっ……。ですから、お手伝いする余裕《よゆう》なんて私には――」
「できる範囲でいい、と言ったはずよ」
「ですが、私はその従妹を| 妹 《プティ・スール》にすると決めているんですよ。彼女には生徒会活動なんて、とても無理です」
「私は、妹やそのまた妹に、労働力だけを求めてなんていないわよ」
江利子は、ぴしゃりと言った。
一年後のことなんて、今考えることではない。それより興味があるのは、目の前にいる彼女の気持ちだった。
妹になる気があるのか否《いな》か。二つに一つ。
「いったい、どうして私なんかを」
「支倉」は、今にも泣きそうな顔をしてつぶやいた。
「選んだ理由? そうね。私はあなたのことを、まだほとんど知らないけれど、あなたといると、楽しそうだから」
「た、楽しそう?」
今度は不可思議《ふかしぎ》な言葉を耳にしたような顔で、「支倉」は聞き返す。
「そうよ」
江利子は笑った。
「あなたは、どうかしら? 私と一緒《いっしょ》の学園生活を、想像してみて?」
部活のことや従妹のことは、ひとまず棚《たな》に上げて、と。
余計な雑音などいらない。姉と妹になるために必要なもの、それはただ二人の相性だけなのだ。他は大したことではない。
「……それは、かなり楽しそうですね」
やがて、「支倉」はほほえんだ。
これから起こりうるであろう様々《さまざま》な問題が、一瞬のうちに彼女の頭の中を駆けめぐったはずだ。でも、それをすべて飲み込んで、新たな世界に一歩足を踏み入れる決心をした。そんな表情だった。
「OKの返事と受け取っていいわね」
確認して返ってきたのは、「はい」というはっきりとした声だった。
江利子は契《ちぎ》りの印《しるし》として、自分の首にかかっていたロザリオを外して、目の前にいる一年生の首にかけた。
「妹って、いったい何をしたらいいのか……」
妹になったばかりの少女が、照れくさそうにうつむく。
「そうね……、手始めに教えてもらおうかしらね」
お姉さまになったばかりの、江利子が言った。
「あなたの下のお名前を」
「えっ」
「支倉」改め妹は一瞬絶句し、それから笑いながら宙に右手の人差し指を走らせた。
「令《れい》」
そう書いた彼女の右手の人差し指から、光る黄色い糸が伸びている。江利子は自分の指を前にかざして、そっとその糸を巻き取った。
たぶん、窓から差し込む夕日の、悪戯《いたずら》だったのだろうけれど。
[#改ページ]
フレーム オブ マインド―X
「そんなことより、フィルムよフィルム」
由乃《よしの》さんは不意打ちで、蔦子《つたこ》さんから例のフィルムを取り上げた。いや、言葉は悪いが「ぶんどった」と表現するのがピッタリであろう。
「中身を見れば、事件は一気に解決するわ。この中に、きっと犯人のダイイングメッセージが入ってるんでしょ」
「あーっ!」
そう言いながらフィルムに指をかけるので、蔦子さんと祐巳《ゆみ》は連係プレーで阻止《そし》した。犯人とかダイイングメッセージとか、突っ込みどころは満載なのだが、今はそれどころじゃない。祐巳が由乃さんを羽交《はが》い締《じ》めにして、こぼれ落ちたフィルムを蔦子さんがナイスキャッチ。
「二人がかりとは、卑怯《ひきょう》な」
由乃さんは、祐巳の手を振りほどいて口惜《くちお》しそうにつぶやいた。
「卑怯なって」
おい、名探偵。今、あなたは何をしようとした。もっとも、もはや名探偵の仮面は外して、武士の顔つきになっているんだけれど。
「処理する前のフィルムを光にあてちゃダメなのよ」
幼稚舎《ようちしゃ》の子供に諭《さと》すように、蔦子さんが言った。
「あら、そんなことくらい私だって――」
知っているわよ、と由乃さんは笑ったけれど、本当かどうか怪しいものだ。
「でもさ。現像して何が写っているかわかれば、落とし主もわかるんじゃない?」
「わかるだろうけれど、それはしちゃいけないでしょ」
「知らんぷりして現像して、間違いましたって言うのは? 見ず知らずの一年生だって蔦子さんの物だって思い込んでたんだし、蔦子さんが自分のだと勘違《かんちが》いしたって誰も責めないわよ」
「でも、私のじゃないもの」
「蔦子さんは固いなぁ」
「由乃さんが軟らかすぎるんだよ」
結局、やっぱり引っかき回されただけで、由乃さんからは建設的な解決法が提示されないまま「ふりだし」に戻る。さてこれをどうするか、腕組みして思案する。
「落とし物として届ける」
蔦子さんが言った。
「だね」
祐巳も同意する。このまま「どうしよう」と顔をつきあわせているくらいだったら、専門家(係)に託《たく》した方がいい。中身は何なのか、誰が落とし主なのかという興味は尽きないけれど、そう言ってばかりもいられない。明日にでも、落とし物係に持って行こうと思った。すると、蔦子さんも一緒《いっしょ》に行くという。
「私が行って説明しないと、また私のところに戻ってきちゃうでしょ」
なるほど、フィルムにしっかり「タケシマツタコ」と書いてある限り、蔦子さんの物だと思われるだろう。また蔦子さんという人は、いかにもそれの持ち主らしい人物なのだ。
「ごめん」
面倒くさい物持ち込んじゃって、と祐巳は頭を下げた。
「いいって。そもそものスタートは、親切な一年生なんだから」
そんな時、藤堂《とうどう》志摩子《しまこ》さんが部屋に入ってきた。
「遅くなってごめんなさい。お待たせしちゃって」
何か、とてもやつれた顔をしている。
「いや、待っていない……けど」
「え? あら、嫌だ」
どうやら志摩子さんは、今日会合がないことを失念していたらしい。
「どうりで乃梨子《のりこ》の顔が見えないはずね」
鞄《かばん》を置いて、照れ笑いした|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》。よほどお疲れのご様子だ。
「例の一年生と会っていたの?」
由乃さんが尋《たず》ねると、志摩子さんは「ええ」と小さくうなずいた。例の一年生とは、先のバレンタイン企画で行われた宝探しの優勝者の一人である。イベント当日は参加出来なかったものの、事前に行われた不在者チャンスで見事白いカードの隠し場所を当てた彼女(確か井川亜実《いがわあみ》さんといったか)は、志摩子さんとのデート権を手に入れていた。その井川亜実さんだが、実は相当の変わり者で、志摩子さんと一緒にいるところを見られたくないなどと言って、デートの相談をするのも一苦労なのだった。
「一年生とのつき合いって、思った以上に難しいわ。乃梨子がいかに楽だったか」
珍しく、志摩子さんの口から愚痴《ぐち》が出た。そりゃ、志摩子さんと妹の乃梨子ちゃんは、相性百パーセントとも囁《ささや》かれるほどの仲よし姉妹。乃梨子ちゃんを物差しにしたら、大概《たいがい》の一年生は「困ったちゃん」になってしまうだろうて。
「そうね。こっちが上級生だと、思っていることの半分も口に出して言わないし、逆にこっちの行動を変にとったり」
そう、蔦子さんが独《ひと》り言《ごと》のように言った。
「何それ」
意味深《いみしん》な発言に、次期薔薇さま三人トリオが、注目する。志摩子さんの愚痴も珍しいが、蔦子さんのぼやきも新鮮だった。
笙子《しょうこ》ちゃんが何かしたかな、と祐巳は思ったけれど、どうも違うらしい。誤解されそうだと気づいたのか、すぐに蔦子さんはつけ加えた。
「私の事じゃないけれどね」
そして、おしゃべりが過ぎたとばかり、写真の選別作業を再開する。新たな封筒に指をかけて、中身を開けずに脇に置いた。
「それは?」
「確認するだけ無駄《むだ》だから」
封筒の表書きには、「不可」という文字が丸で囲って書かれている。どうやら、ここに入っているのは発表できない写真の束らしい。
「でも、どうして?」
志摩子さんが、不思議そうにつぶやいた。
「蔦子さんは写っている本人がその写真を拒否すれば、ネガごと処分するはずでしょう?」
「あ、本当だ」
祐巳もうなずいた。蔦子さん流の「仁義《じんぎ》」を通すなら、一切《いっさい》この世には残らないはずなのだ。
「本人は気に入ってくれて、私が持っている許可ももらっているんだけれどね。それでも発表出来ない物はあるわけよ」
「何、それ。ヌード写真か何か?」
由乃さんがふざけて笑ったけれど、蔦子さんは「ある意味ね」と真顔で言った。
とてもいい写真なんだけれど、とほほえむ横顔を見ていると、発表できない蔦子さんも残念だろうけれど、それを見ることのできない自分たちも相当に残念な気がしてくるのだった。
[#改丁]
不器用姫
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「お先っ」
四時間目の授業が終わると同時に、私は教室を飛び出した。
「あ。寛美《ひろみ》さん、どちらに?」
「野暮用《やぼよう》! ランチタイムはパス」
「ちょっと。何を急いでいるか知らないけれど、椅子《いす》くらいちゃんと戻して行くものよ」
クラスメイトのぼやき声。聞こえていたけれど、振り向かない。そう。お言葉通り、今は急いでいるのだから。
一足先に出ていった老教師を追い抜く時だけ、少しスピードを落とす。知らずに、頬《ほお》がゆるんでいくのを止められない。今朝《けさ》、目覚めて窓の外を見た時に思いついた素敵なアイディア。それを耳にした時、あの子はいったいどんな顔をするだろう?
「あら、失礼」
廊下《ろうか》の曲がり角で、危うくぶつかりそうになった人は、誰かと思えば二年|松《まつ》組の武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さん。
「こちらこそ」
前方不注意にスピード違反。明らかにこちらに非があるわけだから、さすがにこの時ばかりは立ち止まって挨拶《あいさつ》をした。蔦子さんとは一年生の時、一緒《いっしょ》のクラスで学んだ仲だ。
「おやおや、今日は余所《よそ》でお弁当ですか?」
私の手にしたお弁当包みを目ざとく見つけて、蔦子さんが言った。
「ええ、まあ」
私はお返しに蔦子さんの手もとに視線を落としたのだが、彼女が手にしているものはといえば、相も変わらず小型のカメラが一台。蔦子さんは自称「写真部のエース」で、まるで身体《からだ》の一部のようにいつでもカメラを持ち歩いているのだ。
「天気もいいことだし」
話が長くなるのも困るな、と思いながら、私は一年生教室の方角に視線を向けた。その瞬間、フラッシュが光った。
「きゃっ」
思わず目を伏せると、悪びれもせず蔦子さんは言った。
「失礼。いい顔していたものだから」
「いい顔?」
珍しいこと、と私は聞き返す。こんな感じで不意打ちでシャッターを切られたことは初めてだったから。もちろん、これまでも何度かプリントした写真をもらったことはあった。それは大抵が行事の時にこちらから頼んで撮ってもらったもので、知らない間に撮られたものであるならば、数人のグループでおしゃべりしているといった、私でも誰でも構わない感じの写真ばかりだった。
「出来たら、寛美さんのクラスに届けに行くわね。……えっと」
「藤《ふじ》組よ」
「あ、そうそう藤組。志摩子《しまこ》さんと一緒だったわね」
それから蔦子さんは、話の流れでクラスでの藤堂《とうどう》志摩子さんの様子なんかを私に尋《たず》ね、私は取り立てて気になったこともないから、「変わらないけれど」とだけ答えた。
「そう。ああ、お引き留めしてごめんなさい。じゃ、そのうち写真を持っていくわね」
「あ、蔦子さん」
「はい?」
すでに背中を向けていた蔦子さんは、私が呼び止めるとゆっくりと振り返った。
「近いうち、写真撮って欲しいってお願いに行くかもしれないけれど――」
「あらら。意味深《いみしん》だこと」
「いいかしら」
「もちろん」
声をかけてね、そう言って去っていった元クラスメイトに手を振ってから、私はまた廊下を小走りに駆けていった。
足取りは軽い。
目指すは一年|椿《つばき》組。そこには、可愛《かわい》いミケがいる。
「ミケ」
取り次ぎも頼まずに教室の入り口から声を出して呼んだのは、ミケが数人のクラスメイトに囲まれていたから。
「カン……いえ、寛美さま」
クラスメイトたちから逃げるように廊下に飛び出してきたミケは、相変わらず小さくて細い。
「もう、カンちゃんでいいよ」
「いえ。先輩にさまづけは慣例《かんれい》ですから」
「固いなぁ」
言いながら少しねじれたタイに触れると、ミケは人目を気にしているのか、ほんの少し顔を赤らめて、私の指から逃れた。
「昔とは違うんです」
「変わらないよ、何も」
昔は、男の子たちに引っ張られた髪の毛を、よく結び直してあげた。今よりもっと小さかったミケは、あまり手先が器用ではなかったから、いつも一つ年上の私に「お願い」と泣きついてきた。絡ませたあやとりの毛糸を、ほどいてやったのも私。子供会で出された缶ジュースを開けてあげたのも私。折りたたみ傘《がさ》をたたんでやったのも私だ。
「ところで、今日は何か」
ミケは教室の中に視線を向けた。先程、ミケを取り囲んでいたクラスメイトの一人が、じっとこちらを見ているのが気になっているようだ。
「それ、お弁当?」
私は、ミケが腕に引っ掛けていた小さな手提《てさ》げを指した。
「え? ……ええ」
「ちょうどいい。それ持って行こっ」
「行こう、って。どちらに?」
「いいから来て。今日は、外でお昼」
手をとって歩き出すと、ほぼ同時に例のクラスメイトがこちらへやってくるのが見えた。
「待って、さゆりさん。まだ、話が途中よ」
少女は厳しい表情で迫ってくる。私は一度止まって振り返り、ぴしゃりと言ってやった。
「ミケを借りるわ」
ミケのクラスメイトはさすがに上級生には逆らえないらしく、それ以上は追ってこなかった。ミケは一瞬クラスメイトと私との板挟《いたばさ》みで困ったような顔をしてみせたが、結局私についてきた。私は、気分がよかった。空気のよどむ教室内から、風通しのよい屋外にミケを連れ出すことに成功したのだから。
中庭までやってくると、私はミケに聞いた。
「何か、されたの?」
「え?」
「今の、クラスメイト。何だか、怖い顔をしていたから」
すると、そこでやっとミケは笑った。
「雅美《まさみ》さん? あれが、彼女の地顔です」
「そうなの?」
「ええ。いつもあんな顔してますよ。だから怖い顔なんて言ってはかわいそうだわ」
何がそんなにツボにはまったのか、ミケはコロコロと笑った。そして、彼女とは中等部からずっと同じクラスで、いろいろと相談にのってもらったりする仲なのだ、というようなことを言った。
「なんだ。私はまた、ミケが意地悪されているのかと」
「そんなことないです。それより、ここでお弁当を食べるんでしょう? 早くしないと、昼休みが終わってしまいます」
私が敷いたビニールシートの上にちょこんと座ると、ミケはお弁当箱を開けた。
天気のいい昼休みの中庭では、皆同じようなことを考えるらしく、すでにいくつかのグループが芝生《しばふ》の上で丸くかたまり、優雅なランチタイムを始めていた。けれど急遽《きゅうきょ》思いついた生徒がほとんどのようで、私たちのようにビニールシート持参組はほとんどいなかった。それでも彼女たちは諦《あきら》めずに、どこから調達したのか、古新聞やチラシなどをシート代わりに敷いている。白いソックスが新聞のインクで汚れてしまった、という笑い声が、少し離れた私の耳にも届いた。
平和。
ミケが否定するまでもなく、のんびりとした校風のリリアン女学園ではいじめなんてものはそうそうあるものでもなかった。だからこそいじめられっ子だったミケは、荒れていた地元の公立中学を避けて、私立受験をしたのだろう。
中学でも庇《かば》ってやろうと待っていた私は、その事実を知った時、正直気が抜けたものだが、ミケのためにはそれが最良の選択だったと、今ならそう思える。
私はふと聞いてみたくなった。
「ねえ、リリアンに私がいた時、どう思った?」
「どう、って?」
ミケは、お箸《はし》を止めて顔を上げた。
「すごくビックリしていたから。感想、聞いていなかった」
桜舞い散る四月。銀杏《いちょう》並木のマリア像の前でミケを見つけて、私は声をかけた。その時振り返ったミケは、こちらが恐縮してしまうほどに驚いていた。そう、まるで幽霊にでも会ったみたいに。
「ええ、本当にビックリしましたから」
ミケは微笑した。
「だって、私の家が隣の市に引っ越ししてから、寛美さまのお宅とはまったくおつき合いがなくなってしまっていたので。まさか寛美さまがリリアンにいるとは思いもよらず」
なるほど、そこにいるはずもない者がいる。幽霊に会ったという表現は、あながち間違ってはいないようだ。
「驚いただけ?」
私は顔を覗《のぞ》き込んで尋《たず》ねた。するとミケは、少し困ったような顔をしてみせた。
「なんていうんでしょう、単純な感情ではなく、過去のいろいろな記憶が一気に押し寄せてきたという感じでした。……うまく言えなくてごめんなさい」
「いいって」
それが、ミケの正直な感想なのだから。もちろん、「思いがけず会えて、すごく嬉《うれ》しかった」と答えられたなら、悪い気はしないだろう。けれど、器用に社交辞令《しゃこうじれい》を使いこなせるミケなんて、ミケらしくない。
「何か困ったことがあったら言うのよ。私が助けてあげる」
「そんな。寛美さまのお手を煩《わずら》わせるようなこと」
「遠慮《えんりょ》しない。もう前金もらったから」
私はミケのお弁当箱から、最後に残ったタコのウインナーを摘《つま》んで口の中に放り込んだ。
「何か、なんてないですよ」
ミケはお弁当箱の蓋《ふた》を閉じて、箸箱に箸を収め、そしてほほえんだ。
「あったら、の話」
「ええ。じゃあ、あったら」
五時間目が始まる十分前に、シートを畳《たた》んでミケを一年椿組教室まで送り届けた。
* * *
翌々日、私は意外な人の口からミケの名前がのぼるのを聞いた。
「寛美さん。あの、よく一緒《いっしょ》にいらっしゃる一年生のことだけれど」
放課後、藤堂志摩子さんが帰りかけた私を呼び止めて言った。
「ミケのこと?」
「ミケ……? ああ、そう。確かに三池《みいけ》さんって言っていたわ。彼女は、あなたの妹さん?」
「違うわ」
今はね、と心の中でつぶやいてから、私は志摩子さんに聞き返した。
「どうして?」
妹さん。
その質問自体は、たいして珍しくはなかった。
ミケを連れて歩いていると、クラスメイトたちが無邪気《むじゃき》に寄ってきては、その質問を二人に向かって浴びせかけるのだ。
そのたびに私は、志摩子さんに言ったのと同じように「違うわ」と否定してきた。いずれは姉妹になるものだと思っているけれど、私はまだミケにロザリオを渡していない。
入学式から、一月《ひとつき》しか経《た》っていないのだ。急ぐことはない。そう思っていた。
私が「違うわ」の後に「どうして?」と続けたのは、たぶん、質問してきたのが志摩子さんだったからだ。
志摩子さんは孤高《ここう》の人で、誰と誰が姉妹《スール》になったとか、どこそこの姉妹は今けんかしているとか、そういったワイドショーの芸能スクープ的な興味の向け方をする人ではないように思っていたから。
「少し気になったものだから。お節介《せっかい》とも思うのだけれど……」
志摩子さんは、ためらいがちに言った。最近知り合った一年生から聞いた話だ、と前置きしてから。
「一昨日《おととい》、昼休みに三池さゆりさんは上級生に連れ出されて、外でお弁当を食べたらしいのだけれど。誘ったの、寛美さん?」
「え? ええ」
「その後……、さゆりさんが五時間目を遅刻したって、ご存じだった?」
「え?」
私は耳を疑った。
「嘘《うそ》よ。私はちゃんと、余裕《よゆう》をもってミケをクラスまで送り届けたわよ。それで、私が教室に戻ってから始業のチャイムが鳴ったんだから」
そんな馬鹿げた話はあるものかと、笑って否定する私を、志摩子さんは静かに見つめ返した。
「彼女のクラス、体育だったんですって」
「えっ?」
「だとしたら、始業チャイムが鳴った時点で教室に着いていたとしても、授業に間に合わないかもしれないわ」
「そんな」
私は、足の力が抜けて、近くの机に片手をついた。頭に血が上ったのか、血の気《け》が引いたのか自分でもよくわからない。ただ、頭の中が真っ白になった。
「なんで、言わなかったのかしら」
私は、つぶやいた。誰かに向けて投げかけた質問、ではなかった。しかし、側にいた志摩子さんは律儀《りちぎ》に答えを返してくれた。
「言えなかったのかもしれない」
「言えない、って」
私は、今度は確かに志摩子さんに答えを求めた。
「だとしたら」
志摩子さんは最後まで言わなかったが、その瞳は「それは問題だわ」と語っていた。
はっきりと意志を私に伝えられないミケにも、問題はある。そして、そのことに気づいていない私の方にも。
だから、志摩子さんはあえて私にミケのことを伝えたのだろう。私が、その「問題」に対してもっと目を向けるべきだと。
それは、たぶん正しい。けれど。
「ご忠告、ありがとう」
私は、ほほえみを作ってから付け加えた。
「でも、志摩子さん。他人《ひと》の心配をしている暇《ひま》で、ご自分のことを考えたらいいんじゃないの?」
本当は、こんな皮肉を言いたいんじゃない。志摩子さんの行為も、心からありがたいと思っている。ただ、私は他人に弱いところを見せるのが苦手だったから。結果的に、こんな憎まれ口をたたいてまでも、自己防衛してしまうのだった。
「……そうね」
志摩子さんは小さくうなずいてから、教室を出ていった。志摩子さんの姿が消えて少ししてから、私も外に出た。
ミケは、なぜ言わなかったのだろう。
廊下《ろうか》を歩きながら、私の頭の中はその疑問でいっぱいだった。
単に、五時間目が体育であったことを、本人が忘れていた、と考えることはできないか。あの子はちょっと抜けているところがあるから。楽しい時間を過ごすうちに、そのことをうっかり失念してしまった、と。
では、どうして遅刻したことを言わなかったのだろう。あの後、何度か会った。けれど、昨日も今朝《けさ》もミケはそんなこと一言も口にしなかった。
遠慮《えんりょ》、なのだろうか。そう考えてみて、すぐに否定する。
私とミケの間柄《あいだがら》で、遠慮? まさか、あり得ない。
でも。
四年間の歳月が、それほどまでに人と人との心の距離を広げてしまうものだとしたら。
私は、あてもなく歩いた。じっとしているより、身体《からだ》を動かしていた方が考え事に集中できる気がした。
廊下《ろうか》を歩き、昇降口を出る。校舎にそって歩きながら、「それとも」と思う。
それとも、上下関係がはっきりしているリリアンの校風がそうさせるのか。ミケは後輩として、一緒《いっしょ》にいた先輩に気を遣《つか》って、遅刻したことを言えないでいる、とか。
いいや、支倉《はせくら》令《れい》さまと島津《しまづ》由乃《よしの》さんの黄薔薇姉妹のように、先輩後輩の垣根《かきね》がほとんどない関係だってある。
紅薔薇姉妹だってそうだ。福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》さんなんて、バレンタインデーの日、宝探しの正解の場所を巡って、温室でお姉さまである小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまと口論していたではないか。
どうしたら、ああいう関係になれるのだろう。彼女たちと私たちと、何が違うというのだろうか。
姉妹ではないから?
その疑問が心に浮かんだ時、私の目の前に突然ミケが現れた。
「ごきげんよう。どうなさったんです?」
ミケは持っていた空《から》のゴミ箱を地面に下ろすと、不思議そうに首を傾《かし》げた。私がたどり着いたそこはゴミ捨て場の前で、手ぶらで現れるにはなんとなく不自然な場所だったのだ。
「考え事をしていたら、いつの間にか」
私は、とっさに取り繕《つくろ》うこともできず、事実をそのまま語った。
「考え事?」
「うん」
考え事の内容が何であるのか、ミケは聞いてこなかった。今聞いてくれたら、もしかしたら道々考えてきたことすべてを、ミケに話せるかもしれない、と私は思った。
「寛美さま?」
けれど、私にはきっかけが与えられず、せき止められた気持ちは、その先へ送り出されることはなかった。
きっかけなんてなくとも、言いたいことを言えばいいのに。そんなこと、頭ではわかっているのだ。けれど――。
これも遠慮なのだろうか、と私は思った。
だとしたら、どうすれば、二人の間のこの垣根を取り去ることができるのだ。
「ミケ」
私は、耳の下で二つに結んだミケのリボンを、片方だけほどいた。
「これ、ちょうだい」
「え?」
「お願い。大切にするから」
私は、やっと結べるくらいの長さの自分の髪を、そのリボンで縛《しば》った。
「それから明日の放課後、時間作って」
「は?」
「話があるの」
「……はい」
「じゃ、掃除《そうじ》が終わったら教室まで迎えにいくから」
私は、踵《きびす》を返して駆けだした。
風になびくリボンは験《げん》かつぎ。
以前、祥子さまが祐巳さんのリボンの片方で自分の髪をまとめていたのを見た。
私は、リボンに勇気をもらいたかったのかもしれない。
* * *
私は翌朝、大学校舎まで足を伸ばしてロザリオを買った。
ロザリオを手に入れる方法は、いくつかある。けれど、一番手っ取り早いのは、大学の購買部に行くことだ。
外国の大きな教会でお土産《みやげ》として売っているような物や、インターネットなどで販売されている物に比べたら、個性や珍しさのかけらもないものだけれど、構わなかった。
ロザリオは、儀式のための道具にすぎない。私のミケに対する気持ちを、届けるための入れ物なのだ。
私は朝からずっと、ドキドキがおさまらなかった。授業中は、制服のポケットに入れたロザリオが気になって仕方なかった。教室でクラスメイトたちと食べたお弁当は、ほとんど味がわからなかった。
長くもどかしい学校の一日が終わりを迎えた放課後、私は掃除を済ませるとすぐに二年松組に直行した。
「蔦子さん、いい?」
タイミングよく、教室から出ようというところだった蔦子さんは、私を見るとカラリと言った。
「何? 今からロザリオでも渡しにいくのかしら?」
「どうしてわかるの」
「なんだ、正解? 鎌《かま》をかけただけよ」
蔦子さんは「そういうことなら」と、写真部の部室に行く予定を変更して私につき合ってくれることになった。
「部活ったって、写真は個人プレーだからね。みんな好きな時に来て、銘々《めいめい》活動して、勝手に帰っていくからいいのよ」
廊下《ろうか》の壁に寄りかかりながら、蔦子さんは笑った。それに、依頼を断ったためにいい作品を撮れなかったと思う方が悔《くや》しい、のだそうだ。
「で? どこでどのような写真を撮るのがご希望?」
聞けば、カメラマン同席コースとか、望遠隠し撮りコースとかメニューはいろいろあるらしい。私は、笑って首を横に振った。
「儀式が終わったら声をかけるから。マリア像の前で二人並んだ写真を撮ってもらえればいい」
「OK。んじゃ行きますか」
「あ、待って。あっちから来た」
「あっちから? 迎えに行くんじゃなかったの?」
「うん……。そうだけれど」
廊下を歩いてくるのは、間違いなくミケだった。でもミケは一人ではなく、一緒《いっしょ》に歩く生徒がいる。だから、たまたま通りかかっただけで、自分を迎えに来たのではないのかもしれない、と私は思った。
しかし、二人は廊下で立ち話していた私に気づくと、歩みを止めて会釈《えしゃく》した。
「どうしたの? 迎えに行くって言ったのに」
「申し訳ありません。私が、寛美さまとお話がしたくて押しかけました」
ミケの隣の少女が言った。
「私に? あなたが?」
確か、雅美さんだったか。ミケが地顔と言っていたきつい目つきのクラスメイト。
「よろしければ、もっと静かな所……。中庭かどこかでお話ししたいのですが」
「――いいけれど」
私はミケを見た。けれど、ミケは目を伏せて私と目を合わそうとしない。
「……いったい何の話?」
「それは、中庭に着いてからお話しします」
そう言うと雅美さんは、先に歩き出した。ミケがそれに続く。仕方なく、私も歩き出した。その時。
「ストップ。私も同行していい?」
蔦子さんが言った。三人が、一斉に振り返る。
「だって、あなた方は二人なんでしょう? だったら、こっちも二人で構わないんじゃな
い?」
その口調は、明らかに「あなた方」をミケと雅美さん、「こっち」を私と蔦子さんに分けていた。
「でも」
「部外者は口出しするな、って顔ね。ご心配なく、口出しはしないわ。単なる数合わせ。それとも、一対一にする?」
しつこく食い下がる蔦子さんに、雅美さんが折れた。
「いえ。結構です。どうぞ」
「どうも」
並んで歩き出した蔦子さんの袖《そで》を、私は引っ張った。
「蔦子さんたら」
「いいじゃない。あっちが了承《りょうしょう》したんだから。万事うまくいったら、その場で記念写真を撮ってあげるから」
そんなの話が済んだら呼びにいくのに、と思いつつも私は、蔦子さんが一緒《いっしょ》に来てくれることを、どこかで心強く感じていた。
「寛美さまのご用件を、まずお聞きしましょうか」
中庭に着くと、雅美さんが言った。
「いいわ。雅美さんのお話の後で」
ロザリオはポケットに入っているから、すぐにでもミケの首にかけられる。でも、第三者がいる前でそれをしたくはなかった。
それに雅美さんの話がどんな内容であれ、それを解決してすっきりしないことには、姉妹の申し込みなんかする気になれない。
「では、お先に」
雅美さんは、すぐに切り出した。
「お願いです。これ以上、さゆりさんにつきまとわないでいただけませんか」
「は?」
私は、かなり間抜けな声をあげた。話の内容の予想なんてしていなかったけれど、それでもまさかそんなことを言われるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「寛美さまは小学校の頃と同じに思っていらっしゃるのかもしれませんが、さゆりさんはもう以前のさゆりさんじゃないんです」
「言っている意味が」
「そりゃ、昔はいじめっ子の男の子たちから守ってくださったのかもしれない。さゆりさんだって、恩を忘れてはいません。でも」
「ちょっと待って。恩が云々《うんぬん》って、何のこと? ううん、そんなことより。だとしても、どうして、それをあなたが言うわけ? それはあなたじゃなくて、ミケの話でしょ? 他人の口から言われたって、はいそうですか、って納得できるわけがないわ」
おめでたいことに私は、この段になっても、まだ「これは何かの間違いだ」と思っていた。理由はわからないが、雅美さんはミケと私の仲を引き裂《さ》こうとしているのだろう、と。
「ミケ。どうなの。この子が言っていることは、あなたの気持ちなの?」
私は、雅美さんの陰に隠れるようにしてうつむくミケに向かって尋《たず》ねた。
違う、って言って。せめて、首を横に振って。私はそう祈った。けれど、ミケは雅美さんに背中を押されるようにして一歩前に踏み出すと、顔を上げて言った。
「そうです」
「……ミケ」
「ミケって呼ばないでください。私は猫じゃないんですから」
ミケは、今まで私が聞いたこともないくらい力強い声で言った。
「小さい頃から大嫌いだった、その呼び名。リリアンに入って、誰も過去の私のことを知らない世界で、やっと穏やかな日々を送ることができるようになったのに。やっと、忘れることができたのに。なのに、どうして私の前に……」
「それは」
可愛《かわい》いミケを守るために。でも、その言葉を私は飲み込んだ。
芝生《しばふ》の上に崩《くず》れるように膝《ひざ》をついて泣きじゃくるミケを見ているうちに、何を言ったってもうだめなのだ、と悟った。
「門の前で待ち伏せするし。ことある毎《ごと》に、昔の話をするし。昼休みに中庭に連れ出すし、おかずを勝手に食べるし。昨日なんて、伯父《おじ》さまがフランス旅行で買ってきてくれた大切なリボンをとるし。もう、我慢できません」
「――――」
ああ、そう。そうだったんだ。私が、ミケに対してしていたことは、ミケの側から見ればただの嫌がらせでしかなかったわけだ。
「わかった」
私は、努めて明るく言った。
「でも、同じ学校だから、時たま会っちゃうかもしれないね。目障《めざわ》りかもしれないけれど」
「仕方ありません。学校を出ていってとは言えませんもの。だから、せめて私のことは放っておいてください」
「ウインナーは食べちゃったから返せないけど、リボンはちゃんと返すね。ああ、でも今は持っていないの。どうしたらいいかな」
言いながら私は、「ウインナーって」と心の中で自分に突っ込みを入れた。
ミケは、リボンはミケの下駄箱《げたばこ》の中に入れてくれればいい、と言ったので私は了解した。
事務的な話が済むと、一年生二人は「それでは」と背を向けた。後回しにした私の話が何であったのかは、聞いてこなかった。これ以上関わらないで欲しい相手から、聞きたい話なんかないのだろう。ミケの肩を抱いた雅美さんは、険《けん》のないやさしい顔をしていた。
「三池さゆりさん」
私は強がりを言いたくて、最後にミケを呼び止めた。
「友達の力を借りなくても、ちゃんと言えるんじゃない」
ミケは振り返ると冷ややかに笑って一度頭を下げ、それから二度と振り返らなかった。
「……蔦子さん、わかっていたの?」
私は、ミケと雅美さんが校舎の中に消えてから蔦子さんに尋《たず》ねた。
「まさか。ただ、あまりいい話じゃなさそうだってことは感じていたけど」
「そっか。そうだよね」
ミケが、友達をともなって現れた。ただの世間話であるはずがない。
「蔦子さん。写真撮ってよ」
「いいけど……」
蔦子さんが言いたいことはわかっている。写真撮ってと言いながら、私の顔はみるみるくしゃくしゃに歪《ゆが》んでいくのだ。
「私、今日の日のことを忘れたくない。だから、記録として残しておきたいの」
「まるで徳川家康《とくがわいえやす》みたいね」
蔦子さんは、カメラをケースから出した。
「家康?」
「負け戦《いくさ》の後、肖像画《しょうぞうが》を描かせたの。三方《みかた》ヶ|原《はら》の合戦《かっせん》だったかな、知らない?」
「知らない」
でも、家康はその後天下をとったはずだから。今は何が起こったのかわからないくらい打ちのめされている私だけれど、お先真っ暗とは限らない。
「私は、正義の味方のつもりだったけれど。ミケにとっては、いじめっ子の襲来でしかなかったんだ」
蔦子さんが構えたカメラのレンズの前に、私は真《ま》っ直《す》ぐ立った。次から次へと涙がこぼれて落ちたけれど、拭《ぬぐ》わなかった。
「いつか、あの子にだってわかるわよ」
そんな友の慰《なぐさ》めの言葉を、私は否定した。
「わからなくていい。ミケがいつか、今日の私の涙に気づくくらいなら、一生あの子の心の中で、いじめっ子のままでいたい」
「……まったく。不器用なんだから」
呆《あき》れたようにつぶやいてから、蔦子さんは小気味いい音でシャッターを切った。
「でも、悪い顔じゃないわ」
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フレーム オブ マインド―Y
「お邪魔《じゃま》しまーす」
遠慮《えんりょ》がちにビスケット扉を開けたのは、細川《ほそかわ》可南子《かなこ》ちゃんだった。
「お。またしても、難しい一年生が一人」
由乃《よしの》さんが小声で囁《ささや》くのを、祐巳《ゆみ》は肘鉄《ひじてつ》でやめさせた。
「武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さまにお願いがあって……」
薔薇《ばら》の館《やかた》の二階をぐるりと見渡してお目当ての人を発見すると、ほっとした表情でほほえんだ。バスケ部のユニホームを着て、長い髪を一つに束ねている。先程の桂《かつら》さん同様、部活の途中で抜けてきたといった感じだった。むき出しの足が真《ま》っ直《す》ぐで長くて、女同士なのにちょっとだけ目のやり場に困った。
「今日は大人気だね」
冷やかすと、蔦子さんは「からかわないでよ」と言いながら椅子《いす》を立って、可南子ちゃんのもとに歩み寄った。何となく、用件はわかっているように見えた。
「バスケ部の部長から、話は聞いていたけれど。ごめん、今日だったっけ?」
「あ、いいえ。違うんです」
可南子ちゃんは肩の高さに上げた両手を、バイバイの要領で振った。
「具体的にいつとはお伝えしていなかったのですが、たまたま今日条件が揃《そろ》いまして……」
蔦子さんへの頼み事といえば、写真撮影。そして、この時期である。
「バスケ部も小冊子《しょうさっし》を?」
祐巳が尋《たず》ねると、「いいえ」との答えが返ってきた。
「寄せ書きです。色紙の真ん中に写真を貼るんです」
当たらずといえども遠からず、といったところだろうか。やはりどの部活も、卒業生のために何か用意しているようだ。
バスケ部における寄せ書き色紙用写真撮影の条件とは、@三年生がいない、A一、二年生がすべて揃っている、B顧問《こもん》の先生がいる、だったそうで、三条件すべてクリアしたためあわてて蔦子さんを迎えに来たという。そんな日に限って、蔦子さんは滅多《めった》に足を踏み入れない薔薇の館にいたわけだから運が悪い。
「誰から聞いたの? 蔦子さんがここにいること」
けれど結果的にこうして捕まえられたのだから、運が良いというべきか。
「テニス部の――」
「桂さん?」
「はい、そうです。クラブハウスから出てきたところで、ばったり会いまして」
聞けば、テニス部とバスケ部は部長同士が同じクラスの親友で、日頃から情報交換していたために、互いに蔦子さんに写真を撮ってもらおうとしていることは知っていた。バスケ部のユニフォーム姿で文化部のクラブハウスを訪ねる一年生生徒を見て、桂さんはピンときたのだろう、声をかけてくれたらしい。もしかしたら武嶋蔦子さんにご用だったのではない? ――と。
ふーんとうなずきながら、祐巳は「あれ?」と思い返した。
「ねえ。そもそも、桂さんはどうしてここに来たのかな?」
「そりゃ、テニス部の写真を撮って欲しいって言いに来たんでしょうが」
自分が来る間にあった話をかいつまんで聞いていた由乃さんは、何を今更《いまさら》と言うように祐巳を見た。
「それはわかっているってば。そうじゃなくて」
「祐巳さんが言いたいのは、蔦子さんが薔薇の館にいることを、どうして桂さんが知っていたか、ってこと?」
志摩子さんの言葉に、「うん」とうなずく。普通、蔦子さんを捜す場合、クラブハウスや教室までは考えつくだろうけれど、薔薇の館って思いつくものだろうか。
「笙子《しょうこ》ちゃんに聞いたんじゃないの?」
「ううん。笙子ちゃんには言ってない。薔薇の館に行くってことは」
「じゃ、二年|松《まつ》組で聞いた、とか」
「そうかなー」
確かに、二人が教室を出る時には、まだ何人かの生徒が残っていた。誰かに何かを言い残しては行かなかったが、聞くとはなしに二人の会話が耳に入っていたクラスメイトが、「たぶん」と前置きをして教えてくれた、とか。どう思う、と聞くつもりで蔦子さんを見れば、彼女の興味は別のところに向いているようだった。
「クラブハウスか……。笙子ちゃん、いた?」
祐巳の視線に気づかず、可南子ちゃんに尋ねている。
「一年菊組の内藤《ないとう》笙子さんですか? いいえ?」
一度否定してから、可南子ちゃんは言った。
「クラブハウスではなく、薔薇の館の前の中庭を歩いていらっしゃいました」
「中庭?」
蔦子さんは窓を開けて外を見た。しかし、残念ながらそこに笙子ちゃんの姿は探せなかった。もちろんその窓から中庭がすべて見渡せるわけではないから、まだ近くにいるのかもしれないけれど。
「何しているんだろう、あの子」
部室の扉の前に立っていたり、中庭を歩いていたり。確かに不審だ。クラブハウスにいるなら、部室の中に入ればいい(三年生に可愛《かわい》がられているという話だから、入れてもらえるだろう)わけだし、蔦子さんに会いたいなら中庭をウロウロしていないで薔薇の館の中に入ってくればいいだろう。
窓を閉めて振り返った蔦子さんは、みんなの視線が集中していることに気づくと、照れ隠しとも苦笑とも見える表情で言った。
「とにかく、体育館に行ってくるわ」
それからテーブルの上に出していた写真を素早く元の封筒に戻すと、今度は布製の手提《てさ》げ袋から一台のカメラを取り出した。さっき、薔薇の館に入る前に祐巳を写した小型のカメラとは別の物だ。カメラについてまったく知識のない祐巳にはさっぱりわからないが、本人にはいろいろと違いとかこだわりとかがあるのだろう。
「あ、そうだ」
蔦子さんは、例のタケシマツタコと書かれたフィルムを祐巳に手渡すのを忘れなかった。由乃さんの魔の手から死守するように、とそういうことらしい。
「祐巳さま」
蔦子さんと一緒《いっしょ》に歩き出した可南子ちゃんは、ビスケット扉の前で振り返ってほほえんだ。
「よかったですね」
階段を降りるきしみを聞きながら、由乃さんが「何が?」とつぶやいたけれど、祐巳にはちゃんと伝わった。
可南子ちゃんは、瞳子《とうこ》ちゃんとのことを言っているのだ。
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光のつぼみ
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その人を初めて見たのは、新入生歓迎会の日だった。
といっても、歓迎会でではない。その日の朝、高等部校舎の一階|廊下《ろうか》に一人|佇《たたず》んでいる姿を、斜め後ろから眺めた、それだけのことだ。
彼女は、開いた窓から外を眺めていた。
その姿は美しく、一編の詩のようだった。
予感がした。
この人との出会いは、自分の人生に大きく関わる大事となろう、と。
その人の名前は、すぐに知れた。
福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》。| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の妹。
新入生歓迎会で、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の隣に立って、お姉さまの補佐をしていた。
いくら高校からリリアンに入った私だって、高等部生徒会、山百合会《やまゆりかい》のトップである三人の薔薇さま、そしてつぼみと呼ばれる妹たちの存在を、それまでまったく知らないわけではなかった。
積極的に情報を仕入れようとしなくとも、自然と耳に入ってくるクラスメイトたちの会話の断片から、何となく理解できてしまうものだった。
――クラスメイト。特に、松平《まつだいら》瞳子《とうこ》を筆頭とする愉快な仲間たち[#「愉快な仲間たち」に傍点]の周辺は、いつでも騒がしかった。
自己紹介ではしゃぎ、薔薇さまの誰それがうちの教室から見える廊下を歩いたと言っては黄色い声をあげ、出席番号の当たり日といえば興奮し、果ては健康診断までもイベントにした。
そんな彼女たちが、他校から受験して入ってきた生徒たちを放っておくわけはない。「一緒《いっしょ》にお弁当を食べましょう」に始まり、「お祈りを覚えるお手伝いをして差し上げましょうか」だの「わからないことがあったら遠慮《えんりょ》なく聞いてね」だのと何かと世話をやいてくる。親切の押し売りは買わない主義の私は、早々に無視を決め込んだことで比較的すんなりとターゲットから外してもらえた。その上「細川《ほそかわ》可南子《かなこ》さんは、少し変わっていらっしゃるから」とのありがたいお言葉まで頂戴《ちょうだい》した。
私は、中学までずっと公立の共学校だった。父の浮気から発生した両親の離婚は私の心に大きな傷を残し、男がいなければどこでもいい、そう思って高校は女子校を選択した。その中でも超難関と言われたリリアンに照準を合わせたのは、中学時代のクラスメイトたちに「都立に落ちたから私立に行った」と言わせないためだ。私は、男と同じくらいに男に媚《こ》びる彼女たちが嫌いだった。
自分のことを「私」ではなく名前で呼び、語尾を甘く上げる。松平瞳子のそんな言葉の端々や、しなを作るような仕草が不快だったのは、教室にいる約半数の男たちの目を気にする元クラスメイトたちを思い出させるからに他ならない。だから、松平瞳子とそりが合わないのは、そういう理由だと、私はぼんやりと思っていた。
程なく梅雨《つゆ》の時期がやって来た。
ある日の朝、私は学校に向かうバスの中で、福沢祐巳さまの隣の席になるという思いがけない出来事に遭遇《そうぐう》した。バス停で前方にいた私は気づかなかったが、祐巳さまは私の二人か三人後に並んでいたらしい。私は何も考えずにバスに乗車すると後方にある二人席に収まった。程なく、「失礼」と隣に着席したのが祐巳さまだった。
「ごきげんよう、| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》」
私は勇気を振り絞《しぼ》って挨拶《あいさつ》をした。
「ごきげんよう。相変わらずの天気ね」
声をかけられ慣れているのだろう。祐巳さまからは、気さくに挨拶が返ってきた。曇り空が憂鬱《ゆううつ》なのか、窓の外を見て小さくため息を吐く。
「雨、お嫌いですか」
「そういうわけではないけれど」
祐巳さまはそう言った後、すぐに笑顔を作って言った。
「湿気で髪の毛が撥《は》ねちゃうのは苦手」
| 紅薔薇のつぼみ 《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》なのに。まったくお高くとまっていないところが、この人の人気の秘密なのかもしれない、そう思った。
バスから降りるために立ち上がった時、祐巳さまは私を見て「もしかして三年生ですか」と焦ったように聞いた。座っていた時には気にも留めなかった私の背が思った以上に高かったので、上級生だと思ったらしい。
[#挿絵(img/28_167.jpg)入る]
「いいえ。一年生です」
私は笑った。日頃から背の高さを指摘されるのはあまり好きではなかったけれど、その時はまったく嫌な気がしなかった。
それから数日|経《た》ったある日のこと、私は妙な場面を目撃した。
ミルクホールの前の通路だった。松平瞳子と祐巳さまが、口論している。いや、口論ではない。どちらかといえば、松平瞳子が一方的に祐巳さまを責めている、そんな感じだった。
内容まではわからない。何かが、松平瞳子の気に障《さわ》った、そんな感じだった。しかし、祐巳さまは言われっぱなしではなかった。松平瞳子のことを真《ま》っ直《す》ぐ見据《みす》え、浴びせかけられた言葉が途切れるのを待って、「あなたにそんなこと言われる筋合いはないわ」とキッパリと言った。
美しかった。
微《かす》かに震える唇。力のこもった目。人と争うことなど無縁で育ってきたような彼女が、逃げずに立ち向かう姿は、いじらしくも神々《こうごう》しくも見えた。何か大切な物を身体《からだ》をはって守っている、そんなギリギリの美しさだった。
私は、祐巳さまを追い詰めた松平瞳子を憎々しく感じると同時に、彼女が滑稽《こっけい》で哀れに思えてきた。
私にはわかってしまったのだ。
私と松平瞳子はどこか似ている。心に抱《かか》えた暗い影を、受け入れることも払いのけることもできずにもがいている。
影は光を求めるものだ。だから松平瞳子の中の影も、敏感にそれを察知した。けれど光がそこにあるのに、手を伸ばすどころか、酷《ひど》い言葉を投げつけてますます自分の身を遠くへ押しやってしまうなんて。
私は、そんな愚《おろ》かしい真似《まね》はしない。光が恋しければ、自分から駆け寄っていけばいいのだ。
梅雨《つゆ》が明けて、ますます祐巳さまはまぶしく輝いていった。しばらく休んでいた|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が登校するようになったからだと誰かが言っていたけれど、私は髪の毛が撥《は》ねない季節になったからだって勝手に解釈している。
祐巳さまは、誰かがいなければ輝けないなんて、そんな人ではない。祐巳さまは太陽なのだ。そうして、自らが光を発し、その光で月の私たちを照らしてくれなくてはいけない。
図書館の閲覧室《えつらんしつ》で、つま先立ちで上の棚《たな》の本に手を伸ばしている祐巳さまを見つけた。
「取りますよ」
ヒョイと抜き取って手渡す。こういう時に、いつもは鬱陶《うっとう》しく感じる背の高さが重宝《ちょうほう》する。
「ありがとうございます。あいにく踏み台がどれも使用中で、助かりました」
祐巳さまは、私を見上げて言う。
「一年生です」
私は苦笑した。
「あ、そうなんだ」
「ええ」
祐巳さまはバスで隣り合わせただけの私のことなど、覚えていないのだった。
背が高くて髪の毛が長い人。その目立った特徴で、良いにつけ悪いにつけすぐに覚えられてしまう私が、彼女の記憶力からすっかりこぼれ落ちてしまっている。なぜだか、とても心地よかった。
「まだ手が届かない本がありましたら」
「じゃ、今の隣のお願いしていい?」
「もちろんです」
あと何回声をかけたら、私は一年生だと認識してもらえるのだろう。
名前を覚えてもらえるのは、いつの日だろう。
私は気長に待ち続ける。
それでいい。
銀杏《いちょう》並木のマリア像だって、まだきっと全校生徒の顔と名前を覚え切れていないだろうから。
[#改ページ]
フレーム オブ マインド―Z
「あれ、蔦子《つたこ》さんはいないの?」
次に現れたのは、新聞部の山口《やまぐち》真美《まみ》さんだ。
「本当。祐巳《ゆみ》さんが言ってた通り、今日は蔦子さん大人気だわね」
という、由乃《よしの》さんの言葉を受けて、真美さんは目を丸くした。
「ってことは、私より前に何人も?」
「ピンポーン。真美さんは三人目です」
蔦子さんに会いに、薔薇《ばら》の館《やかた》まで来た人間。来た順に並べると、桂《かつら》さん、可南子《かなこ》ちゃん、そして真美さんとなる。その辺をうろうろしているようだけれど、まだ姿を現していない笙子《しょうこ》ちゃんはカウントしない。現在蔦子さんがお留守《るす》なのは、二人目の可南子ちゃんに迎えに来られて体育館へ出張しているためだった。
「ちなみに真美さんは、誰からこの場所を聞いてきたの?」
「内藤《ないとう》笙子ちゃんだけれど?」
おっと、出ました内藤笙子ちゃん。
「クラブハウスで?」
「それとも中庭?」
祐巳と由乃さんが、代わる代わる尋《たず》ねる。こういう場合、志摩子《しまこ》さんは黙って聞いている。興味がないわけではないのだろうが、二人がやってくれるならお任せしましょう、というスタンスらしい。時に、スピードが早すぎて入るに入れないでオロオロしている場合もある。
「廊下《ろうか》だけれど? 職員室の側の」
真美さんは答えた。
「ってことは、校舎の中ってことか」
次期薔薇さま三人は、顔をつきあわせてうなずいた。それに対して、もちろん真美さんは首を傾《かし》げる。
「何、笙子ちゃんを探していたの?」
「そういうわけじゃないけれど」
「そう? たぶん、今なら保健室にいると思うよ」
「保健室?」
「何か、手の平|擦《す》りむいていてね。掃除《そうじ》の時間に転んで自分で手当てしたみたいなんだけれど、手持ちの絆創膏《ばんそうこう》がちょっと小さかったみたいで、擦り傷がはみ出て血がにじんでいたのよ。あれは、痛々しかったなぁ。だから、保健室に行きなさいって連れていったの。今さっきよ」
三人は顔を見合わせた。ということは、笙子ちゃんは手の平をヒリヒリさせたまま、クラブハウスから中庭、そして職員室の側の廊下を歩いていたということになる。保健室は不本意であったとして、この校内散策は、いったいどんな意味があるのだろう。まったくもって謎《なぞ》である。
「しかし、蔦子さんがいないんだったら」
真美さんは、ふうと息を吐いてから言った。
「大した用じゃないから、明日教室で話したっていいか」
「まあ、そう言わずにお茶でも飲んでいってよ。蔦子さんは体育館に行ってるだけだし、じきに戻ってくると思うから」
祐巳は立ち上がって、流し台の側の棚《たな》に伏せてあったカップを一つ取りだした。
「じゃ、一杯だけごちそうになることにするわ」
一旦は背を向けかけた真美さんだったが、お茶の支度《したく》が始まったので、戻って椅子《いす》に腰掛けた。先程、蔦子さんが座って作業をしていた場所だ。
薔薇の館で山百合会《やまゆりかい》の会議をしたり、お弁当を食べたりする時は、何となくいつも同じ位置に座りがちだけれど、お客さまが混じっているとイレギュラーになる。今回の場合は、まず蔦子さんと祐巳が最初に来ていて向かい合うように座り、そこに由乃さんがやって来て、志摩子さんも加わって、バランスよく四人が並んだところに蔦子さんだけ抜けたから、何となくその場所に収まるのがすっきりするようである。
「あら……、写真?」
真美さんが、隣の椅子《いす》の上から何かを摘《つま》み上げた。
「あ、さっきそこで写真の整理をしていたから」
蔦子さんは体育館に向かう前にテーブルの上を忙《せわ》しく片づけたので、一枚落としたことに気づかなかったのだろう。
「まあ、確かに」
真美さんは、目の高さで写真をヒラヒラと振った。
「外から見ているより、自分が主役になる方が面白いということも確かにあるわよね」
それは、古い温室の中で薔薇《ばら》に囲まれている少女の写真だった。
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温室の妖精
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古い温室には、妖精《ようせい》が棲《す》んでいる。
誰もが知っているけれど、口には出さない秘密の話。
* * *
それは高等部に上がって間もなくの、五月の初めのことだった。
「幼稚舎《ようちしゃ》から通っていながら、今日まであの温室に気づかなかったなんてことある?」
クラスメイトの依子《よりこ》さんが、都会でオオサンショウウオにでも遭遇《そうぐう》したかのような顔をして皐月《さつき》を見た。
休み時間。机を一つ挟《はさ》んだ前後の席で、雑談をしていた最中《さなか》のことだ。
「気づかなかった、っていうのとはちょっと違うの」
じゃあ、その場所にそれ以外の何があったのだと問われれば、何も思いつかないわけだから。いつでも、目の端にはそれが映っていたはず。ただ、意識したことがなかっただけのことで。
「ほら、例えば空気。空気だって、普段はそこにあることを感じながら吸ってはいないでしょ? それに似ている」
「じゃ、皐月さんは、今朝《けさ》に限ってたまたま空気を感じちゃったってわけね? 学校に早く着いて、何となく校内を散歩している途中で」
「空気は、たとえよ」
皐月は訂正《ていせい》した。たまたま感じた、というのも、実はちょっと違う気がしたけれど、そっちの方は具体的にその違いを言葉で説明できそうもないから黙っていた。何かに呼ばれた、何かに誘われた、本当のところはそんな感じだ。
「失礼。そうそう、温室だったわ。古い温室の方ね。それで?」
依子さんが「古い」を強調したのは、我が校には別に「新しい」温室があるから。教材としての機能は、すべてそちらに移行している。
「好奇心に駆られて覗《のぞ》いてみたの。そうしたら、意外にちゃんとしているじゃない。ビックリしちゃった」
きちんと整理されているし、植物は元気だし。
「あら、廃屋《はいおく》とでも思っていたの?」
「まあね」
皐月は首をすくめた。だって、外観はかなり古い物で、ガラスなんてひび割れている所もあるし。てっきり、もう使われなくなって長い年月が経《た》っている建物だと思った。
それなのに中に入った途端、色とりどりの薔薇《ばら》が咲き乱れるという夢の世界が広がっていたのだ。これが興奮せずにいられようか。
「初めてだと、そのギャップにやられちゃうのね」
依子さんは、呆《あき》れたような感心したような、そんなため息をついた。
「確かに素敵な場所には違いないけれど」
今まで何回か入ったことがあれば、それほどの感慨《かんがい》はないのだとか。所詮《しょせん》は学校の施設。依子さんにとっては、音楽室とかクラブハウスとかと同一線上にある物らしい。
「じゃさ。あそこの薔薇を、誰が世話しているのかも知っている?」
皐月が身を乗り出して尋《たず》ねると、依子さんからは「うーん」という、「知っている」とも「知らない」ともとれる答えが返ってきた。
「直接会ったことはないからなぁ。名前も知らないし」
「ああ、じゃあ、園芸部とか環境整備委員会とかの生徒が?」
「我が高等部に園芸部は存在しないわよ」
「あ、そ」
「でも、環境整備委員会は悪くない推理ね」
「悪くない、って?」
「あの温室を維持するための予算は、環境整備委員会の予算に計上されているわけ」
いやに詳しいな、と思ったら、依子さんは今期環境整備委員会に入っていたのだった。
「じゃあ……でも、あれ?」
環境整備委員の依子さんが、会ったことがないっていうのも変な話だ。
「実際、環境整備委員会活動に、あの温室の整備は組み込まれていないのよ」
「環境整備委員会が整備しないの?」
「いくら環境を整備する委員会だって、武道館や職員室の環境まで整備しないでしょ」
「あ、なるほど」
武道館は剣道部とか柔道部とか、その場所を使う生徒が整備するものだし、職員室は先生方の管理下に置かれているので生徒たちはノータッチ。
「ってことは」
古い温室も、主《ぬし》のような人間がいて、そこを任されているってことだ。
授業開始のチャイムが鳴ると、依子さんは座る向きを変えながら声をひそめて言った。
「古い温室には、妖精が棲んでいるのよ」
と。
古い温室には、妖精が棲んでいる。
それからというもの、皐月はその考えにすっかり取り憑《つ》かれてしまった。
意外だったのは、その伝説というか噂《うわさ》というか、とにかく温室に棲む妖精のことは、結構な割合で皆が知っていたということだった。
「妖精のこと? 知っているけれど?」
新聞部に入ったばかりの真美《まみ》さんもまた、箒《ほうき》の柄《え》を動かしながら「それが何か?」といった感じで聞き返した。皐月は、ちり取りを使って教室内の埃《ほこり》を集めていた。
「真美さんは、見たことある?」
「妖精を? まさか」
[#挿絵(img/28_181.jpg)入る]
「『リリアンかわら版』で突き止める予定とかないの?」
掃除《そうじ》中に何を聞いているんだか、と思いながら、でも皐月は聞かずにはいられなかった。高等部の学校新聞である『リリアンかわら版』は、時折刺激的な内容の記事が躍ることでも有名だった。
「ないわ」
真美さんは即答し、皐月の手からちり取りを取り上げると、ゴミ箱の方まで歩いていった。
「どうして、って顔しているけれど。これは私個人の意見ではなく新聞部の総意よ。もちろん、妖精の正体を暴《あば》くことはスクープには違いないけれど。今後もそれが記事になることは、まずないでしょうね」
「なぜ?」
追いかけながら、皐月は尋ねた。すると真美さんは「やれやれ」といった感じで、答えてくれた。
「新聞は、読者あってのものよ。学校新聞の読者である生徒の大部分が支持しないであろう内容を載せるわけないでしょ」
「え?」
「わからない? 生徒たちは、妖精の存在を信じていたいの。あばいて、絶滅させたくないのよ」
特別天然記念物のために、静かな環境を準備しましょう。クラスメイトの言葉は、まるでそう言っているみたいに聞こえた。
「先生。私わからなくなっちゃった」
掃除日誌を出しに行った職員室に、部活に向かう前の山村《やまむら》先生がいたから、皐月はすり寄っていってちょっと愚痴《ぐち》った。山村先生はこの学校のOGで、生徒たちのお姉さんみたいな存在だった。
「先生の頃からあった? 古い温室の妖精伝説」
「古い、は、ついていなかったけれどね。温室には妖精がいる、っていう話はあったわね」
「私、何でこんなに気になっているんだろう。あばいてやろう、っていうのとは違うのに」
「うーん、わかるような気がするな」
部活の準備を終えた先生は、椅子《いす》から立ち上がって言った。
「あなたは本当に信じているのよ。だから、その証拠を掴《つか》みたいと思っているんじゃないの?」
そうかもしれない。先生の説を聞いて、皐月は妙に納得してしまった。
それはサンタクロースを信じる子供に似ている。サンタクロースがお父さんかも、なんて考えることさえ知らず、ひたすら会いたがるだけの子供。
サンタクロースのほころびを引っ張ることは、自分の中のサンタクロースを殺すことに他ならない。だから皆、あえて妖精伝説に触れようとしないのだろう。それはある意味、正しい。分別《ふんべつ》のある大人の考え方だ。けれど、それをわかった上で、なおも皐月は会いたいと願った。あの、古い温室は楽園だった。あの世界を作り出したのが妖精ならば、一度でいいから会ってみたい。
それから、何度か温室に行ってみた。そう、何度か。そんなに多くはない。
休み時間や放課後にひっきりなしに通っていれば、あるいは会えたかもしれないが、それは妖精に対して失礼のような気がして、そうしなかった。
もしかしたら、人間が見ているところでは姿を現さないのかもしれない。そのために、植物たちの世話が疎《おろそ》かになって、結果、花が枯れてしまったりしたら大変だとも思った。
そのうち、妖精が花の世話をするところなんて見られなくてもいいと感じるようになってきた。この温室は、居心地《いごこち》がいい。気のせいかもしれないけれど、植物たちも、時折訪れる皐月を覚えて「いらっしゃい。お話ししましょう」と迎えてくれるようだ。
バスの乗り継ぎがうまくいって、少し早く学校に着いた朝。三日ぶりに温室に入ると、突然誰かが言葉を発した。
『お水、ちょうだい』
「え?」
辺りを見回しても、皐月以外には誰もいない。そもそも、ここで自分以外の人間に会ったことなどなかった。
でも。
「お水……欲しいの?」
馬鹿馬鹿しいと思いつつも、すぐ側にあった鉢植《はちう》えの薔薇《ばら》に声をかけてみる。すると、今度は声は聞こえないが、何となく『欲しい欲しい』と言っている気がする。
「わかった。待っていて」
皐月は、温室を飛び出した。すると。
「どこに行くの? 水道なら中にもあるわよ」
出口付近に人が立っていて、皐月を呼び止めた。皐月と同じ制服を着ている。上級生だろうか。見覚えはないが、高等部の生徒であることは間違いなかった。
その人は「こっちよ」と言いながら皐月を水道まで導き、如雨露《じょうろ》をセッティングして蛇口《じゃぐち》をひねった。
外壁のガラスを通して入ってくる朝の日差しが、その人の肩から背中までのラインをキラキラと照らした。あまりにまぶしくて、目が錯覚《さっかく》を起こしたのだろう。皐月は、そこに蜻蛉《とんぼ》のような透明な羽が見えた気がした。
ある程度水が溜まると、その人は「どうぞ」と如雨露を差し出した。
とっさに声が出ず、固まったままでいると、その人は笑った。
「わかっているわよ。あなたが飲むのじゃないことくらい」
「は?」
「あなたが約束したんでしょ。だからあなたがあげて」
「でも。お水って」
さっきの声は、この人のものではなかったのか。
「私は言わないわよ」
「え。だって」
すると、その人はさっき皐月がいた辺りまで歩いていって、あの時の薔薇にそっと顔を近づけた。
「まだわからないの? お水を持ってきてあげる、ってあなた自身ではっきりとこの子に言っていたのに」
それが、シーとの出会いだった。
夏休みのある日、皐月は古い温室にいた。
「ロサキネンシス。テリハノイバラ、サンショウバラ」
図書館の図鑑からコピーしてきたカラー写真と、開花している薔薇の花を照らし合わせて名前を呼んだ。時間を忘れて、没頭《ぼっとう》する。一つでも多く、種類を知りたかった。
「無理に名前を覚えることないわよ。名前は人間が便宜上《べんぎじょう》つけた記号なのだし。花たちにとっては、あまり意味のないことよ」
「シー!」
いつからそこにいたのか、ペットボトルのお茶を片手に持ったシーが、呆《あき》れたように立っていた。
「まさか毎日来ているの?」
「いいえ。四日ぶり。どうして?」
「私が来ると、必ずといっていいほどメイがいるから」
「じゃ、シーも四日ぶりってこと。……ずらしましょうか?」
植物に水をやりにくるだけだったら、一人でも事足りる。代わりばんこに来る日を決めれば、半分で済む。
「いいのよ。いつも言っているでしょ? ここへは義務を持ち込まない、って」
「『私たちは、ただ好きな時に来て、お花たちとふれ合いを持つだけ。この温室とここにある植物は誰の物でもない』」
「そうよ」
「でも、私たち二人とも来なかったら」
「来ているじゃない」
「……うん」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。私もメイも来られなくなった時は、また別の誰かがやってくるから」
「本当?」
「そうよ。薔薇たちが呼ぶのよ。メイだって呼ばれたんでしょ?」
「そうかな」
「そうよ」
シーは笑った。
「たぶん、今だって。薔薇たちが二人|一緒《いっしょ》に呼ぶんでしょう。私とメイのおしゃべりが聞きたいのよ」
「そっか」
「そうよ。だからリクエストにお応《こた》えしましょう」
いつの間にか温室に通ってくるようになった皐月を、シーはいつからか「メイ」と呼ぶようになった。皐月は覚えていないのだが、たぶん自分の名前を名乗ったのだろう。皐月は五月。だからメイ。
逆に皐月は、どうしてシーなのか知らなかった。シーは「C」なのか、それとも「SEA」や「SHE」や「SEE」なのか、それさえもわからない。もしかしたら、名前か苗字《みょうじ》が「シ」で始まるのかもしれないけれど、どちらも聞いていないので確かめていない。
二人にとっては、愛称以外に相手の情報なんて必要なかった。古い温室以外では会わなかった。ここにいるシーが、メイにとってのシーのすべてだった。
シーはただ、この温室内の植物が快適に過ごせるように手助けしているだけ、いつもそう言っていた。
花たちとはお友達でいたい。
きれいな姿を見せてもらうお礼に、出来ることをする。だから、それを仕事にするのは嫌。
皐月は、その考え方はとても素敵だと思った。
二学期になると、その気はなかったのに、ちょっとだけ温室の外のシーについて知ることがあった。
体育祭で、緑色の鉢巻《はちま》きを頭に巻いて緑チームを応援するシーを見かけた。
十月の初め、二年生が修学旅行へ行っていた時期に一週間温室に姿を見せなかった。
ああ二年|松《まつ》組なんだ、ってそう思っただけで、何も感慨《かんがい》はなかった。温室を一歩外に出たシーは、シーではない別の名前の生徒のように感じられた。だから、校内で見かけても、こちらからは声をかけなかった。
二年生が修学旅行から帰ってくると、すぐに学園祭の準備の追い込みが始まった。お互いにあまりクラスのことは話さなかったけれど、何となくシーが忙しそうなことはわかった。
皐月が温室に行っても、シーと会えない日々が続いた。
義務を持ち込まないと言ったのはシー。だから、来なくなったからといって皐月がどうこう言うことではない。
シーがいなくても、十日間くらいなら留守《るす》を守ることはできる。現に、修学旅行の時だってそのくらいは一人でがんばった。でも、旅行で海外に行っているのと、学校に来ているのに会えないのは、皐月の中でどこかが微妙に違うのだった。
たまに。如雨露《じょうろ》の位置が昨日の場所とは若干《じゃっかん》ずれていたり、そろそろ水を欲しがる頃だと思ってやってきてみれば、土が適度に湿っていたりする。それで、皐月はシーが来たであろうことを知る。
「シーが来たの? 元気だった?」
薔薇《ばら》の葉をそっと撫《な》でながら、どうしてその時に自分はここにいることができなかったのだろう、と思う。でも、蜘蛛《くも》のように巣を張って、ここで待つことなどできない。皐月は、一生徒であって、授業も受ければ学園祭の準備で放課後教室に居残ることだってあったから。
学園祭を翌日に控えた土曜日。
その日は、教室を展示場に変えるのに夕方までかかる予定だったので、皐月はお昼ご飯を食べた後で、そっと抜け出して温室に行ってみた。クラスメイトの中には、都合がつかずに午前中いっぱいで帰ってしまった人も、クラブ活動とのかけもちで駆け回っている人もいたから、教室の出入りは自由だった。
シーは来ていなかった。でも、来週からは、――学園祭さえ終われば、きっと元に戻るだろう。
また、二人で楽しくおしゃべりしながら、花に囲まれてすごそう。そろそろ冬支度《ふゆじたく》のことも考えなければならないだろうし。
わくわくしながら、踊るように温室内をぐるりと見回す。
「お前たちもうれしいでしょ? シーが――」
声をかけた時に、どこか感じた違和感。なんだろう、当然返ってくるはずの『うれしい、うれしい』という花たちの気持ちが、感じられない。
「どうしたの」
顔を近づけてみた時、皐月はそれを発見した。葉っぱがいつもの様子と違う。白っぽい粉のようなものが付着しているのだ。
「何、これ」
葉が白くなっているのは、その木だけではなかった。隣の木も、その隣の木も。よく見ると、その辺りの薔薇の木のほとんどが、程度はまちまちだが、葉に異変が見られた。
病気だ、と瞬時に思った。
「……どうしよう」
葉っぱ一枚だけなら、ハサミで切り落とせばいい。害虫ならば、がんばれば一匹ずつ駆除《くじょ》することもできる。だが、これだけ病気が広がってしまっては、皐月にはどうしていいかわからなかった。
もちろん、薔薇が「こうして欲しい」なんて言うはずもない。今まで何度となく感じた「薔薇が喋《しゃべ》った」というのは、ただの錯覚《さっかく》だった。
「お水ちょうだい」だの「鉢植《はちう》えの向きを変えて」だの。薔薇の言葉はいつだって、皐月の知識の範囲を超えることはないのだ。
だが、こうして「どうしよう」を繰り返しているうちにも、病気はどんどん拡大していくのではないか。
「シー!」
皐月は温室を飛び出した。シーなら、きっとどうにかしてくれる。病気の治し方を、知っているはずだ。
高等部校舎は、どこも活気があった。教室の扉を開け放し、廊下《ろうか》で作業をしている生徒たちも少なくない。
皐月は二年生の教室へと急いだ。頭の中は薔薇のことでいっぱいだったから、どこの廊下をどう歩いたのかは覚えていない。いや、たぶん歩いていなかった。必死の形相《ぎょうそう》で走っていたと思う。
「すみませんっ」
二年松組の入り口から、大声で中に声をかけると、何かの作業をしていた生徒たちが一斉にこちらを見た。
「呼んでいただけませんか、あの」
そこまで言って、その先の言葉を失った。
「あの……」
皐月は、シーの名前も苗字《みょうじ》も知らなかったのだ。
「はい、どなたにご用?」
手を休めて近づいてくる生徒は、シーではない。黙々と作業を再開した生徒たちもまた、シーではない。シーは教室にはいなかった。
「あの」
シー、と言ったところで、ここにいる生徒は誰もわかってくれないだろう。リリアン女学園高等部は、名前に「さん」をつけて呼ぶのが通例。ニックネームというものは、ほとんど流通していないのだから。
「急ぎの用じゃないので、出直してきます」
皐月は踵《きびす》を返した。
「あ、あなた?」
どう見ても「急ぎの用」だった。けれど、そうとでも言わないことには取り繕《つくろ》えなかった。
だって。名前も苗字も知らない人を、どうして訪ねたりするのだ。
廊下ですれ違う人の中にシーはいなかった。中庭に固まっていた人たちの中にも、シーはいなかった。
こんなにたくさん生徒がいるというのに、シーがいない。
温室で会うシーは、その時間と空間を共有する唯一《ゆいいつ》の人であったはずなのに、大勢の生徒に埋もれれば、探しだすことさえできないでいる。
そもそも、シーなんてこの世に存在しているのだろうか。温室が見せた幻想、もしくは妖精《ようせい》がいて欲しいという皐月の願望が作り出した| 幻 《まぼろし》だったのかもしれない。
シーを見つけることもできずに、温室に戻ると、そこには先客がいた。
「シー?」
そう思って後ろ姿に呼びかけると、その人は振り返って首を横に振った。
そう。シーではなかった。シーより少し髪が長くて、背が少し低くて、髪の質も違う。
「薬を散布しておいたから、もう大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「あ、あの」
「初めてだからびっくりしたでしょ? でも、こういうこともあるわ」
「どうして」
訳もわからず立ちつくす皐月に、その人はゆっくりと近づいてきた。
「薔薇に呼ばれたから」
「……え」
「っていうのは嘘《うそ》よ。あなたが必死でシーを探し回っているのを目撃したから、何かあったかなと思って温室を見にきたの」
「シーを知っているんですか?」
「もちろん知っているわよ。それから、あなたのこともね、メイ」
その時、皐月には瞬時にわかった。この人もまた、シーや自分と同じなのだということが。だから、薔薇たちの危機を察して助けに来てくれたのだ、と。
「ああ」
強《こわ》ばっていた全身から急に力が抜け、皐月はヘナヘナと温室の床に膝《ひざ》をついた。
もう、大丈夫。その言葉が、実感として心に届いた。大丈夫。花たちは助かるのだ。
「ありがとうございました。私、薔薇の声が聞こえなくて。どうしてあげればいいのか、だから全然わからなくて」
最初はお礼だったのに、途中から独《ひと》り言《ごと》になってしまった。
十日くらいなら一人でも守れるなんて、思い違いしていた。不測の事態になったら、一人じゃ何もできない。こんな人間に、薔薇たちの世話をする資格なんてあるのだろうか。
「シーみたいには、うまくいかない」
無力な自分が、情けなくて、口惜《くや》しかった。
土に両手をついたままうつむく皐月の上から、カラカラと笑い声が響いた。
「病気だったら、お医者さまにしかわからないこともあるじゃない」
「病気?」
皐月は顔を上げた。
「そうよ。現に病気だったの、この子たち。お母さんは赤ちゃんが、お腹空《なかす》いた、おむつを替えて欲しい、って言ってるのはわかるけれど、解熱剤《げねつざい》飲ませて、とか、抗生物質《こうせいぶっしつ》が必要だとかまでは判断できないって。新米《しんまい》ママさんは具合が悪そうだな、って気づけば、それで合格なんじゃないの?」
「合格、ですか」
「ベテランになったら、もっとわかるようになるって。メイはちゃんと気づいてシーを探した。上出来よ。あ、噂《うわさ》をすれば――」
その言葉に被《かぶ》るように、シーがすごい勢いで温室の中に飛び込んできた。
「メイ!」
「はあい、シー。遅かったわね」
明るく手を振るその人を見て、シーは目を丸くしてつぶやいた。
「フェ……? やだ、ごきげんよう、お久しぶり」
懐《なつ》かしそうに挨拶《あいさつ》した後、皐月に向かって紹介してくれた。
「彼女は、フェよ。私より一学年先輩の三年生。近頃はご無沙汰《ぶさた》だから、メイは初めてでしょう?」
去年、シーはずいぶんいろんなことを教えてもらったとか。そうか、シーだって最初から何でも知っていたわけじゃないんだ。
「シーが遅かったから、いいところ取りしたわよ」
「どうぞどうぞ」
シーは見回して、何が起こってどう処理されたのかを瞬時に把握《はあく》したようだった。「大変だったわね」と言って、皐月の肩を抱いて立たせてくれた。
「クラスメイトが、メイが訪ねてきたって教えてくれたからあわてて来たんだけれど、フェが来てたのなら心配することもなかったわね」
うんうん、と腕組みしてうなずくシーだったが、皐月は「でも」って首を傾《かし》げた。
「シーのクラスメイトは、どうして私がシーを探していたことわかったのかしら?」
「名前言ったからでしょ?」
「私、シーの名前知らない」
「嘘《うそ》。言ってなかったっけ?」
シーは、大きく仰《の》け反《ぞ》った。ということは、今まで故意《こい》に本名を隠していたわけではないらしい。ただ、言ったつもりになっていただけ。そんなバカな、と皐月は思わず腰砕《こしくだ》けになった。
だがそれは本当のことで、その証拠にシーは生徒手帳を破るとフルネームを書いてそれを皐月にくれた。
ずっとシーをシーとしてしか認識していなかったから、初めて目にしたシーの本名は、見ていて何となくこそばゆかった。
「でも、どうしてシーなの?」
皐月は素朴《そぼく》な疑問を口にしてみた。シーの本名は、苗字《みょうじ》にも名前にも「海」はつかないし、頭文字《イニシャル》が「C」でもなければ「シ」すらつかないのだ。
シーとフェは顔を見合わせた。
「……何だったっけ」
「シー」は、もう卒業してしまった先輩がつけてくれたニックネームで、どこからついたのか由来はもうわからない、ということだった。
学園祭が無事終わって、また少しだけ穏やかな日々が戻ってきた。
一時は自信をなくした皐月だったが、今は少しでもフェやシーに追いつくように、勉強中だ。
「そんなにがんばらなくたっていいのに」
シーは言う。
「薔薇たちが笑っているわ。そんなガリ勉の妖精《ようせい》、見たことない、って」
「え、何か言った?」
図書館で借りてきた園芸の本から顔を上げて、皐月は聞き返した。
「メイのことよ。もう、立派な妖精でしょ?」
「まさか」
笑い飛ばして、再び本に集中する。冬に土に手をかけることによって、次の一年の病気や害虫をある程度抑えられるものらしい。
「ま、妖精の世界にもいろんなタイプがいるんでしょうから、好きにするといいわ」
「好きにさせてもらいます」
外は冷たい風が吹いている。
ガラスがひび割れていても、一歩中に入れば温室の中は意外なほどに温かい。
皐月は本を閉じると、シーと並んで中の通路をゆっくりと歩いた。
妖精の寿命《じゅみょう》は長くて三年、それならば、一生懸命に務めようと思うのだ。植物のことをもっと勉強して、もっと実践《じっせん》して、もっと花たちの言葉に耳を傾けて。
シーが卒業しても大丈夫なくらい、ちゃんと独《ひと》り立《だ》ちをしよう。
そうして、いつかこの愛《いと》おしい古い温室を引き継いでもらうのだ。
「花の声を聞いてきたの?」
ある日突然、この温室に紛《まぎ》れ込んでくるであろう、小さな羽をもつ若い妖精にでも。
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フレーム オブ マインド―[
「ただいまー」
帰ってきた時、蔦子《つたこ》さんは一人ではなかった。
「失礼します」
笙子《しょうこ》ちゃんがためらいがちに、薔薇《ばら》の館《やかた》二階の部屋に入ってくる。まるで、さっきまでここで繰り広げられていた彼女の|噂 話《うわさばなし》を、オンタイムで聞いていたかのようだ。
「すぐそこで会ったから、連れて来ちゃった。あ、真美《まみ》さん」
蔦子さんは、ついさっきまで同じ教室で学んでいたクラスメイトを見つけて「ごきげんよう」と言った。真美さんはそれに応《こた》えて挨拶《あいさつ》を返した後、笙子ちゃんに視線を移して軽く会釈《えしゃく》した。「さっきはどうも」みたいな感じで。
けれど笙子ちゃんはというと、それにまったく気づかないで、所在なさげに自分の指を| 弄 《もてあそ》びながら視線をあちらこちらに飛ばしている。真美さんの話通り、確かに彼女の両手の平には真新しい大判《おおばん》の絆創膏《ばんそうこう》が確認できた。
「どうしたの? 二年生ばかりで落ち着かないかしら?」
志摩子《しまこ》さんが空《あ》いている椅子《いす》を引きながら声をかけると、ハッとしたように振り返る。
「え、いえ。すみません。何となく、薔薇の館っていう場所に緊張しちゃっただけで」
「えー?」
思わず祐巳《ゆみ》は声をあげた。だって「ホンマかいな」と思ったから。笙子ちゃんが薔薇の館の二階に上がって来るのはこれが初めてのことではないし、初めての時だって一年生とは思えないほど落ち着き払っていたのだ。
それからの笙子ちゃんは、やっぱり変だった。
「お茶、どうぞ」
「あ、ありがとうございます。……熱《あつ》っ」
カップを持ち上げようとしていれたての紅茶の中に指を突っ込んだり、テーブルの一点を見つめてぼーっとしたり、話しかけても内容を把握《はあく》していなくて二度三度と聞き返したり。つまり、一言でいうと「上《うわ》の空《そら》」なのだ。
桂《かつら》さんが会った時には「秘書?」と言われるほどにテキパキしていたわけだから、擦《す》り傷が痛くて意識を集中できないとも思えない(その頃にはすでにケガをしていた)。まあ、蔦子さんが放っておけないと連れてきたのもわかる。
「あ、そうだ」
祐巳はポケットの中から、例のフィルムを取りだして蔦子さんに渡した。
「どうしようか、これ」
「それは?」
事情を飲み込めていない真美さんが、興味深げに尋《たず》ねた。
「さっき、見知らぬ一年生に渡されてね。ほら、タケシマツタコって名前が書いてあるから。でも、蔦子さんのじゃないんだって」
「なるほど、面白いわ。ちょっとしたミステリーね。由乃《よしの》さんや志摩子さんも、気になりますって顔しているわけだ」
「でしょ?」
なんて言いながら二年生が盛り上がっている輪の外から、突然声がした。
「あのっ、落とし物係に届けては」
驚いた。笙子ちゃんだ。さっきまで会話にまったく参加しなかったのに、いつの間に上の空を返上したのだろう。結構大きな声だった。
「ま、それが筋《すじ》よね」
蔦子さんの言葉に、祐巳はじめ志摩子さんや真美さんがうなずく中。ただ一人、首を縦に振らない二年生がいる。
「でも。落とし主が見つかったら、私たちにそれが誰だったか教えてもらえるのかしら」
由乃さんである。
「さあ。その人が黙っていてくれって言ったら、そうなるんじゃないの?」
情報を公開しなければ落とし主は落とし物を返してもらえない、なんてこともないだろうから。たぶん。
「えーっ。それじゃ、私たちは真相を知ることができないかもしれないの? それ、酷《ひど》くない? せっかく拾ってあげたのに」
「……」
お言葉ですが由乃さん、拾ったのは見知らぬ一年生三人組の誰かであって、あなたではない。そしてあなたは、彼女たちから託《たく》された人でさえないのですが。――下手《へた》に突っつくと面倒くさくなるから黙っているが、みんな心の中で突っ込みを入れていたに違いない。「……」の沈黙がその証拠だ。
「せめて蔦子さんだけでも、知る権利があるんじゃない? こうして、ほら名前まで騙《かた》られているんだから」
「……」
由乃さん、見え見えです。蔦子さんが教えてもらったあかつきには、こっそり自分も聞いてしまおうという腹だ。
「名前を騙られたとも限らないでしょ」
とは、蔦子さんの意見。そりゃそうだ。学園内に、竹島津田子さんとか、竹嶋ツタ子さんとか、武島都多子さんが存在しないという確証はないのだから。
「じゃ、何? まだ同姓同名説を捨て切れてないわけ?」
タケシマツタコなんて名前、そんじょそこらには存在しないわよ、と由乃さんは豪快《ごうかい》に笑った。
「その可能性も含めて」
係に託すべきだと、蔦子さんは主張した。
「でも、落とし物係って言っても、魔法使いじゃないんだから、手をかざしただけで持ち主がわかるわけじゃないんでしょ? じゃあ、私たちと条件は一緒《いっしょ》よ。タケシマツタコって名前の手がかりだけだったら、二年|松《まつ》組の武嶋蔦子さんを当たって、それ以上は探しようもないんじゃないの?」
「そうしたら?」
祐巳は尋ねた。落とし主にたどり着かなかった落とし物は、どうなってしまうのか。保管期間が過ぎたからといって、まさか学園祭のバザーで売るわけにもいくまい。新品のシーツとかタオルとかじゃないんだから。
「結局、先生の指示で、写真屋さんに持っていって現像してみるかもね」
同じ落とし物といっても、ハンカチとか髪留めとかと違って、フィルムの中には「情報」というものが入っている。
「だったら、写真屋さんの仕事を蔦子さんがやってあげたっていいじゃない」
「それはだめ」
由乃さんの提案を、キッパリとはね付ける蔦子さん。カメラマンもといカメラウーマンとしての仁義以前に、倫理《りんり》とか道徳とかの問題でそれを否定したのであろう。落とし主のプライバシーに関わることだ。
「私もそう思う」
由乃さん以外の全員が蔦子さんに同意したので、由乃さんはちょっとふくれて「言ってみただけでしょ」とそっぽを向いた。
「あのっ。やっぱり速《すみ》やかに係に引き渡した方がいいのでは。もしかしたら、今頃落とした人が紛失届を出しているかもしれませんし」
笙子ちゃんが言った。
「あ、そうか。こうして私たちが持ち続けていることで、本来の持ち主に返るのが遅れているということだってありえるものね」
とはいえ、もはや放課後。係の人が残っているとは限らない。
「明日の朝、一番で届ける」
「それがいいわね」
多数決で、対処が決まった。
それでも、未だ目の前にフィルムがあるのだ。自分たちには結末を知ることができないかもしれないミステリーだから尚さらだろうか、いろいろと思いを巡《めぐ》らしてしまうものだった。
「どんな人が落としたんだろうね」
祐巳の言葉に、「うーん」と考え込む一同。
「だめだ。想像してみても、蔦子さんの顔しか浮かばない」
真美さんが「はーっ」と息を吐きながら、テーブルに突っ伏した。生徒とか先生とか事務員さんとかシスターとか、いろいろなパターンを思い浮かべてみたけれど、結局顔は蔦子さんなのだそうだ。
「本当に蔦子さんの物じゃないの?」
由乃さんがもう一度確認した。由乃さんも真美さん同様、このフィルムから蔦子さんという要素を簡単に排除《はいじょ》することはできなくなってしまったらしい。ご多分にもれず、祐巳も同じなのだが。
「違うってば」
でも、蔦子さんの落とし物と仮定すると、あまりにすんなりうなずける。
「やめてよ。私じゃないって言っているでしょ」
同級生たちに懐疑《かいぎ》の視線を向けられた蔦子さんは、椅子《いす》の上で身を引いた。
そりゃ。態度を見ていれば、蔦子さんが嘘《うそ》を言っているかどうかくらいの判断はつく。あの目は信じられる。
でも、この蔦子さんと「タケシマツタコ」が無関係とはやはりどうしても思えない。
なのに、ここにいる蔦子さんは自分じゃないと言う。この矛盾《むじゅん》を埋めるためには、どう考えたらいいのだろう?
「蔦子さんが、もう一人いるとかね」
フィルムを落としたのは、ここにいる蔦子さんではない方の蔦子さん。だから記憶にないのは当たり前。
「つまり、ドッペルゲンガー説っていうのはどうだ」
「ドッペルゲンガー?」
ちょっとうんざり気味の表情になっていた蔦子さんが、「ドッペルゲンガー」という言葉を聞くやいなや、スイッチが入ったみたいに顔を上げた。
「あ、ドッペルゲンガーというのはですね」
「その説明は、いい。知っているから」
そうじゃなくて、と言いながら蔦子さんは紙袋の中に手を突っ込んで、ガサゴソと封筒を取りだしたり引っ込めたりしながら、やっと目的の物を探り当てた。
「ドッペルゲンガーで思い出したんだけれどさ」
封筒から一枚の写真を出して、祐巳の前に差し出す。
「ちょっと、これ見てくれない?」
――と。
[#改丁]
ドッペルかいだん
[#改ページ]
とおりゃんせとおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
マリア様の細道じゃ
ちょっと通してくだしゃんせ
ご用のない者通しゃせぬ
(――って、おい)
頭の中で歌っている場合じゃないのだ、と水奏《みなと》は自分で自分に突っ込みを入れた。
「どこの部?」
穏和《おんわ》そうな守衛《しゅえい》さんが、それでも仕事に関しては妥協《だきょう》は許さないといった表情で、こちらに視線を向け、じっと答えを待っている。
「えっと、漫画研究部……です」
言いながらビニールバッグからバスタオルを出して、こめかみに流れた汗を拭《ぬぐ》った。せっかく銭湯《せんとう》に行ってさらさらになった肌が、もうすでにじっとりしている。
「漫画研究部? ああ――」
守衛さんは、直前に門の中に入っていった一団を目で追った。
「そうそう。あの人たちの仲間です。私だけ、ちょっと遅れちゃって。おーい、先輩ー、涼子《りょうこ》さまー」
水奏は、マリア様の細道もとい、銀杏《いちょう》の並木道をどんどん小さくなっていく仲間たちに向かって、大きく手を振って助けを求めた。
夏休みの校内合宿は、校外の銭湯に行くのにさえもチェックが入る。若い娘が宿泊しているので、校内に不審者が入らないように厳しく目を光らせているのはもちろんだが、合宿中の生徒たちが外出したきり戻らないなんてことがないように、所属と人数、外出した時間と戻ってきた時間を書き留めてチェックするのは、守衛さんの大事な仕事であった。
ところで、水奏はTシャツにジーパン姿、その上短髪で身体《からだ》もガリガリだから一見男の子に見えなくもないけれど、正真正銘《しょうしんしょうめい》リリアン女学園の生徒である。学期中の制服と生徒手帳が、どれほど自分の身分を証明してくれていたのかと思い知るのは、こんな時だ。
「おかしいな、漫研さんは八人外出して八人帰ってきたのを確認したんだけれど」
守衛さんがノート片手に首を傾《かし》げている間に、騒ぎに気づいた仲間たちが戻ってきた。
「どうしたの、水奏ちゃん」
「どうしたもこうしたも、ひどい先輩。私を置き去りにするなんて」
水奏は、真っ先に駆けつけた部長の涼子さまに苦情を言った。
「置き去りって。えっ、水奏ちゃんさっきまで一緒《いっしょ》にいたわよね」
合宿参加の部員たちに、賛同を求める涼子さま。一、二、三……涼子さまを除いた六人が「たぶん」と自信なげにうなずいた。
「さっきって?」
水奏は尋《たず》ねた。
「だから、門を入った時でしょ?」
「はあっ?」
一緒に門を入ったなら、こんな風に門前で一人止められてはいないはずではないか。
結局もう一度守衛さんに人数を数えてもらって、やっぱり八人だったので、水奏は今度こそみんなと一緒に校内に入れてもらえた。
銀杏並木のマリア像までやって来ると、涼子さまはふいに足を止めて言った。
「やっぱり、変。さっきだって、守衛さんは八人って、声に出して数えていたもの」
「その心は?」
副部長の多紀《たき》さまが、尋ねる。
「水奏ちゃんが、二人いるとしか思えない」
涼子さまはそうつぶやいた後、水奏の方に向き直ってニヤリと笑った。
「気をつけてね、水奏ちゃん。ドッペルゲンガーを見ると、数日後に死ぬって話よ」
――もう、勘弁《かんべん》してください。
* *
「で、水奏ちゃんはどうして遅れたわけ?」
揚《あ》げたて熱々《あつあつ》コロッケをほおばりながら、涼子さまが尋ねた。今晩のメニューは、それプラス付け合わせのサラダとお新香とおみそ汁とどんぶり飯《めし》。普段自宅ではお茶碗《ちゃわん》にさらりとしかよそわないご飯も、合宿だとどんぶり一杯食べられちゃうから不思議だ。
「銭湯の帰り道に石塔《せきとう》があったので、書かれていた文字を読んでいたんです。ちゃんと、待ってください、って声をかけました」
水奏はちょっと拗《す》ねたように言った。あの時、ちょっと待っていてくれたら、守衛さんに止められずに済んだのに、と。
「聞いてないなぁ」
そりゃ涼子さまは、あの時先頭を歩きながら多紀さまと夕飯の献立《こんだて》の話題で盛り上がっていたから、聞こえてなかったのだろう。
高等部の校内合宿の食事は、大学の学食に用意される。八月初めのこの時期、校内合宿しているクラブは他にもいくつかあって、食堂は賑《にぎ》やかだった。
「で、庚申塚《こうしんづか》には何て書いてあった?」
「庚申塚って書いて……えっ、どうしてあれが庚申塚って知っているんですかっ?」
「去年も校内合宿したから、あの銭湯に行ったもの。古い塚なんて、何かのネタに使えそうじゃない?」
涼子さまの説明を聞いて、水奏はガックリとうなだれた。
「そんな。学園祭用の漫画のヒントにでもなるかと思ったのに」
先輩に先を越されていたなんて。後輩は、後から生まれたというだけで不利だ。
「使えば?」
「え? だって、涼子さまは?」
「使えそうとは思ったけれど、実際使っていないからいいわよ。べったべたのフランス王宮ラブロマンスである私の作品に、庚申塚はちょっと合わないわ。あなたたちは、どう?」
涼子さまは、他の二年生部員たちに尋《たず》ねた。ちなみにこの合宿に参加している漫研部員は二年生と一年生だけである。
「私の異世界ファンタジーにも似合わないわ」
そしてボーイズラブ系多紀さまも、首を横に振る。
「私もね、何度かチャレンジしたんだけれど、なかなかね。ボーイズラブで庚申塚っていったら、やっぱりお隣の花寺《はなでら》学院みたいな男子校を舞台にしたいでしょう。でもいつも途中で挫折《ざせつ》するの。だって、リアリティがないのよ。しょうがないわ、実態を知らないんだもの」
それから二年生部員は、「花寺では水泳の授業はふんどしだって本当かしら」とか「先生は全員お坊さんだって?」なんていう、かなりガセっぽい噂《うわさ》で盛り上がっていた。
しかし男子校の話題でこうも女子が盛り上がるんだから、逆、つまり男子の間で語られる女子校像たるや、相当すごいことになっているに違いない。
それはともかく、涼子さまは、脱線した話の輪から抜けて水奏に言った。
「水奏ちゃん。だからね、ここはホラー漫画の新鋭であるあなたに、庚申塚の件はお譲《ゆず》りしようというわけよ。そうそう、ドッペルゲンガーと絡めてはいかが?」
「はあ……」
「そうよ。ある日、主人公Mは庚申塚の前を通って登校すると、なぜか守衛さんに止められるの。もしもし、あなたはさっきもここを通りませんでしたか、って」
「あら、いいわねー」
男子校の話題が一段落《いちだんらく》した先輩方は、他人事《ひとごと》だから面白半分にひやかしてくれる。
「あらま、どうしたの? 水奏ちゃん、暗い顔して」
「だって、ドッペルゲンガーを見たら主人公は数日後に死んでしまうんでしょう? 自分がモデルっぽいのに、それはちょっと……」
「大丈夫《だいじょうぶ》。最後まで、本人が見なけりゃいいのよ」
何が大丈夫なのか、根拠《こんきょ》もわからないけれど、涼子さまは自信満々に答えた。でも。
「それってドッペルゲンガーって言えます? ただの他人のそら似の生徒が、うろうろしているだけじゃ……?」
「あら、それはそれで面白いじゃない」
「面白いって言われましても」
それは、すでにホラー漫画ではないと思います。
* * *
「……退屈」
教室の約半分に敷き詰められた畳《たたみ》の上で、誰かがつぶやいた。
「テレビのない夜がこんなに、長いものとは」
それがスイッチになって、次から次へと連鎖《れんさ》反応のように「何かないかな」とか「ゲーム持ってくればよかった」とかの声があがる。合宿初日や二日目あたりまではまだ「退屈」自体を面白がっていられるのだが、三日目くらいからはやはり「退屈」は退屈なのだと気がついてしまう。布団《ふとん》の上で行うトランプ大会も、二日続けば飽《あ》きるのだ。
退屈ならば漫画を描けばいいのだが、日中ほとんどの時間をそれに充《あ》てているわけだから、大好きなはずの部活にもまた飽きている。
どの部活も、たぶん似たり寄ったりであろう。だから十時に消灯《しょうとう》になる。退屈ならば、眠ってしまえというわけだ。しかし、まだ九時前だ。やることがないから早々と布団は敷いてしまったけれど、それでも消灯《しょうとう》までにはまだ一時間もあった。
そんなだらけた空気の中。部長の涼子さまが、すっくと立ち上がって言った。
「じゃ、ここらで肝試《きもだめ》しをいたしましょう」
「きもだめしー?」
「退屈なんでしょ。ほら、立った立った」
突っつかれて、ひっくり返っていた部員たちは、渋々《しぶしぶ》身を起こした。でも、ちょっと目が輝いている。
「場所は講堂。っていうか、講堂に入る前に上り階段あるでしょ、五段だか六段だか。まず、あそこに私がこれを置いてきます」
これ、と涼子さまによって示されたのはレンズ付きフィルム、通称「使い捨てカメラ」だ。銭湯《せんとう》の帰りにコンビニに寄った時、買ったものだろう。
「講堂前まで行って帰ってきたという証拠に、このカメラに自分たちの姿を写してきてね」
「何で講堂前の階段なんて――」
そこまで言って、水奏はハッと気づいた。
「ま、まさか!?」
「ピンポーン。その、まさかです。階段と怪談をかけました。そこで幽霊《ゆうれい》と遭遇《そうぐう》して、会談までしてこられれば、もう完璧《かんぺき》ってやつ?」
「――――」
そんな語呂《ごろ》合わせで、遠く離れた講堂まで行かなきゃならないとは。階段だったら、校舎の中に山ほどあるというのに。
「校舎なんてつまんないでしょ。というわけで、くじ引きです。二人一組ね。本当は一人ずつにしたいところだけれど、そうすると消灯時間までに終わらないから」
涼子さまは今度は、端にAとかCとか書かれた一センチ幅ほどに切ったケント紙を指し示した。さっき隅の机でこそこそ何か作業していたのは、どうやらこれを作っていたらしい。
「あれれ、数が足りませんが」
合宿に参加している部員は八人。けれど、紙は六本。
「先陣は不肖《ふしょう》私が。で、しんがりは水奏ちゃんがそれぞれ一人で務めます」
「えーっ。一人ですか」
「ホラー漫画描いているくせに、怖いの?」
「怖いから描けるんですってば。逆に、怖い思いなんてしちゃったら、二度と描けなくなりますって」
「なるほど。自分では決して経験できないことだからこそ、描き続けるボーイズラブ」
「その通りです、多紀さま。座布団《ざぶとん》一枚」
なんて水奏が感心してる隙《すき》をぬって、水奏と涼子さまを除く六人は、素早くくじを引いた。
「あーっ」
くじを引きそびれた水奏は、結局あぶれて、一人で回るはめになってしまった。
「いい? ちゃんと自分たちの姿を入れて写真を撮ってね。後日プリントして姿が写っていない部員には、もれなく罰《ばつ》ゲームがあります」
「えーっ」
「そりゃそうでしょ。行ってきました、なんて言って校舎の中をうろうろしただけかもしれないんだもの」
「信用ないなぁ」
先輩たちは笑いながら頭をかいたりしているけれど、校舎の中を人目につかないようにうろうろするのも、講堂まで行って帰ってくるのも、そう変わらないくらいの肝試《きもだめ》しメニューではないかと思われた。
「嘘《うそ》ついていなくても、写真がなかったら罰ゲームだからね。このカメラは二十七枚撮り。単純計算しても、一人三枚は撮れるでしょ。……そうね、ラストの水奏ちゃんは『一人でがんばりました賞』として特別に五枚撮っていいことにしまーす」
「あの……それだと一枚余りますよね」
どうでもいいことかもしれないけれど、水奏は気になったから質問した。
27 − 7 × 3 − 1 × 5 = 1
すると、涼子さまは「わかっていないわね」と笑った。
「百物語の蝋燭《ろうそく》は一本残しておくものよ」
「は?」
「蝋燭が全部消えると、恐ろしいことがおきるからよ。知らないの?」
「知ってます」
これでも、ホラー漫画専門に描いているんだから。百物語は百話全部聞いてはいけない。学校の七不思議と同じだ。
「そういったわけで、水奏ちゃん、|ラスト一枚《らすいち》だけは残しておいてね」
「はい」
水奏は素直に返事をした。百物語は、さすがに怖い。
「じゃ、行ってくるわね」
涼子さまは、嬉々《きき》として出かけていった。本当は王宮ラブロマンスじゃなくて、ホラー漫画の方が向いているのではないだろうか。
で。涼子さまは、ジャスト十分で戻ってきた。
「さすがに、一人は寂しいわ」
とか言いながら、顔は明らかに笑っている。後ほど一人で肝試しにいく水奏をからかっているのだ。この人、サドじゃなかろうか。
涼子さまと入れ違いで出ていったグループAは、ちょっとかかって十五分。やはり二人だからおしゃべりしながら歩いたり、写真の撮りっこなんかしていた分、時間がかかったのだろう。かなり余裕《よゆう》のある表情をして「ただいま」を言った。
グループBは、早かった。七分くらいであろうか、二人とも顔面蒼白で戻ってきた。
「だって、どこかで変な音が聞こえて――」
それで驚いて、二人同時に駆けだしたらしい。それでも罰ゲームは嫌なので、写真はちゃんと撮ってきたというからしっかりしている。どんな写真になっているか、涼子さまじゃないけれど楽しみだ。
グループCは、余裕のAとも蒼白のBとも違う表情で戻ってきた。帰って早々、すでに終了した組に尋《たず》ねる。
「あなたたち、いったい何枚撮ったの」
なぜかと尋ねる前に、グループCの多紀さまは怒ったように言った。
「私たちが撮ろうとしたら、もう十八枚は撮られていたことになっていたわよ。フルに撮ったって十五枚のはずでしょう?」
決められた枚数以内に収めないのは、明らかにルール違反と抗議する。
「本来なら六枚は撮れるところを、ラストの水奏ちゃんに五枚は残しておかなくちゃいけないから三枚に押さえたわよ」
「ちょっと待って」
涼子さまが止めた。
「私は一枚しか撮っていないわよ」
グループBとグループCも、それに続く。
「私たちは四枚」
「二人で六枚ですけど……?」
自己申告を信用するなら、一枚、四枚、六枚、で計十一枚。差し引き七枚は、では誰が撮ったというのだ。
「……カウンターが壊れていたんじゃ」
何か非科学的な考えが頭に浮かびそうなので、水奏は必死にそれを追い出した。
「業界大手の会社が製造しているカメラが? それは問題ね」
「じゃ、何だっておっしゃるんですかっ」
「何も言ってやしないでしょうが。後で現像すればわかることよ」
「今、わからないんですか」
「わからない方がいいかもよ。さ、行ってらっしゃい」
涼子さまは、笑いながら水奏の背中を押して教室から出した。――涼子さまのサド、決定。
思った通り、夜の学校は怖かった。
校内合宿で使用されている教室がある辺りは、廊下《ろうか》にも教室にも煌々《こうこう》と灯《あか》りがついていて賑《にぎ》やかなのだが、そのエリアから一歩外れれば暗くしんと静まった世界が広がっている。熱帯夜なのに、どこかひんやりしているようにさえ感じる。
幸い、指定されたルートには途中に理科室がなかったけれど、油断して歩いていると保健室の前でギョッとするはめになる。
「……ひっ!」
廊下に貼られた人体の写真ポスターは、暗がりではかなり不気味なものだ。
(校舎内だけでも、十分な肝試《きもだめ》しができるよ)
心臓のあたりを押さえながら、よろよろと進む。非常口から外に出ると、空が高く星が遠かった。それでも思ったより暗くないのは、所々に外灯がついていたからだ。普段は生徒たちが下校したら消灯するのだろうけれど、校内合宿の期間は、夜間も点《つ》けておくのかもしれない。
ザワザワと、木々が枝を揺らす。
(幽霊の正体見たり枯《か》れ尾花《おばな》)
心の中で繰り返して、歩く。Bグループのように、ちょっとした物音で走り出さないために唱《とな》える、おまじないの言葉だ。
何十回か「幽霊の――」を唱えて、やっと講堂までやってきた。同じ建物内にあるミルクホールへの入り口が、暗くぽっかりと口を開けて地の国へと水奏を誘っている。
(見ない見ない)
よくぞこちらの下り階段を写真撮影場所に選ばずにいてくれた、と、涼子さまに心の中で手を合わせる。あちらもこちらもわずか数段とはいえ、潜る方が何倍も怖い。
ミルクホール前を通り過ぎ、講堂の正面入り口前の指定場所に急ぐ。例のカメラは、階段の真ん中にわかりやすく置いてあった。
「よし」
ここで自分を撮影してカメラを持ち帰れば、それで任務は完了だ。ホッと息を吐いて、何の気なしにフィルム枚数のカウンターを見た水奏は、今吐いたばかりの息をゴクリと飲み込んだ。
「……嘘《うそ》」
表示されている数字は2。とすると撮影済み枚数は二十五枚ということになる。でも、Cグループは水奏のために五枚残したと言っていた。だったらカウントは、本来5でなければならないはずだ。
「あはは」
やっぱり不良品だったんだ、このカメラ。景気づけに一発笑ってみたけれど、気持ちが晴れるどころかむしろ不安に加速がついた。
(でも、もし不良品じゃなかったら)
誰かが、シャッターを押していることになる。背筋がぞくぞくっとして、それ以上はもう何も考えたくなくなった。考えたくはないけれど、とにかくもう水奏に残されているフィルムは一枚しかない。
失敗は許されない。フラッシュボタンを確認して、自分にレンズを向ける。この位置でちゃんと顔が収まっているだろうか。心配だけれど、撮るのも写るのも自分だから確認のしようがない。
(五秒前、四、三、二……)
その時。
「お手伝いしましょうか?」
「うわっ!?」
背後から聞こえてきた突然の声に驚いて、水奏の手もとが大きく揺れた。揺れただけなら良かったが、つい反射的に。
カシャッ。
「あーっ」
シャッターを押しちゃったのである。
「私の、ばかばかばかっ」
これが、ラストチャンスだったのに。賭《か》けてもいいけれど、今のは絶対に顔は写っていない。誰と賭けるかは未定だが。
「いったい、誰っ。驚かしたのは!」
水奏は振り返った。その時はまだ、部員の誰かだと思ったからだ。
「ごめんなさい」
申し訳なさげに出てきた女の子を見た瞬間、今度は別の意味で水奏はビックリした。思わず腰を抜かしそうになるくらい。
「悪気はなかったの。ただ、一人で写真を撮るのが大変そうだったから、つい声をかけちゃって。あら」
人なつっこそうにほほえみかけるその人は、なんと自分そのものだった。
ドッペルゲンガー。自分の分身の姿を見たら、数日後に死ぬ。
「私たち、似ていない?」
「似て……ああ」
相手に言われて、水奏は我に返った。
背丈《せたけ》も細い体型も短い髪も写したようにそっくりだけれど、似ているだけでよく見れば別の人間だ。同じ系統かもしれないけれど、顔だって瓜二《うりふた》つというほどは似ていない。声なんて、質も高さもまったく違う。
「Tシャツの色まで似てるものね」
「ああ、これは」
水奏はTシャツの裾《すそ》を摘《つま》んだ。
「うちのお母さんが、男の子みたいだからせめてピンクを着なさいって買ってきて」
見知らぬ人に、何を言っているんだかと思ったけれど、なぜだか止まらない。
「私は似合わないと思うんだけれど」
たぶん、同じようなピンクのTシャツにジーパンというスタイルなのに、明らかに目の前の子の方が素敵に見えたから、言わなくてもいい言い訳を言ってみたくなったのだ。
「そんなことないわ。とても可愛《かわい》いわよ。声とお揃《そろ》いのピンク色」
全然嫌味っぽくなく、その子が素敵にほほえんだから、水奏はちょびっと感じていた引け目を吹き飛ばした。本当は、容姿と相反する高くて甘い声を気にしていた。目の前の子みたいに、ちょっと低めの落ち着いた声に憧《あこが》れていたのだ。
「私、水奏。あなたは?」
「アリコ」
似ているからというだけじゃなくて、何となく、この子とは友達になれそうな気がした。
「ところでアリコさんは、こんな所で一人で何やっているの?」
「あら。それを言うなら、ミナトさんだってそうじゃない」
「じゃ、肝試《きもだめ》し?」
「そんなところ。でも、いいな。ミナトさんの|クラブ《ところ》、写真を撮ってくるだけでいいんでしょ?」
「アリコさんは、もっと大変なことするの?」
「まあね。借り物競走ってあるでしょ? あんな感じで、一年生は先輩が命じた品を持って帰らないと、許してもらえないの」
「えーっ、ひどい」
「でも私、大好きなの。その先輩のこと」
予想外のアリコの一言で、水奏の反発心はフニャフニャと萎《な》えてしまった。
「……その人、アリコさんのお姉さま?」
思わず質問すると、首を横に振られた。
「先輩は、私の友達のことを好きみたい」
「あ、ごめん」
一言で部活っていったって、漫研みたいに呑気《のんき》なところばかりじゃない。いろいろある、ってことだ。
「私のことはいいじゃない。それより、写真撮ってあげるよ。貸して」
手を差し出すアリコに、うなずきつつも水奏はカメラを出しあぐねた。
「どうしたの? フィルムはまだあるんでしょ?」
「あるにはあるけど……」
最後の一枚は百物語の百本目の蝋燭《ろうそく》だという話を水奏がするやいなや、アリコは急に青ざめた。
「じゃ、さっき失敗したのって、ミナトさんにとってはなけなしの一枚だったの!? ごめんなさいっ。どうやって謝ったらいいかっ」
「いいってば。声に驚いた私の、肝《きも》が小さかったってだけのことよ」
水奏は自嘲《じちょう》したが、アリコは笑わなかった。
「もし、写真撮れなかったらどうなるの?」
「罰《ばつ》ゲーム」
「じゃ、水奏さんの後の人全員?」
「私が最後だもん」
すると、アリコはポンと手を打った。
「なーんだ。じゃ、撮っちゃってもいいんじゃない? 最後の一枚」
「百物語は?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だって。蝋燭《ろうそく》じゃないんだもん」
「| 魂 《たましい》を吸い取られたりは――」
「ミナトさんって、何時代の人?」
アリコはお腹《なか》を抱えて笑った。ひとしきり笑ったら、今度は突然「喉《のど》が渇《かわ》いた」と言った。水奏が一番近い水飲み場を探すより先に、人差し指を立てる。
「ね、ジュース飲まない? 奢《おご》ってあげる」
「えっ、いいよ」
「遠慮《えんりょ》しない。せめてものお詫《わ》びの印に、ね? 私、いちご牛乳が飲みたいんだけれど、やっぱり夏休みにはないかしら?」
「あると思うよ。だって今日の午前中、うちの部長が飲んでたもん」
「えっ、どこに? 連れていって」
「連れていって、って。ミルクホールだよ?」
水奏は指をさした。いちご牛乳の売っている場所っていったら、校内ではミルクホールしかない。もちろん、今はミルクホールは閉まっているから、正式にはミルクホールの外の自販機ということになるけれど。
「じゃ、行きましょ」
アリコが歩き出したので、水奏も後をついていった。
「ちょっと、どこ行くの。こっちだよ、ミルクホールって言ったじゃない」
入り口を通りすぎようとするアリコを、あわてて止めた。
「あはは、ちょっとぼんやりしちゃって」
「…………」
ぼんやりしていてミルクホールの場所を間違える生徒がいるだろうか。もしかして、これはキツネかタヌキに化《ば》かされているのではないか――。そんなことを水奏が考えているなんて思いも寄らないだろう、アリコは上機嫌でミルクホール前の階段をスキップしながら下っていく。暗い所も、全然平気らしい。
「あったわ。ありがとう、ミナトさん」
狂喜乱舞《きょうきらんぶ》しながら自販機にコインを入れて、連続して吐き出されたパックの一つを水奏に手渡す。
「ごめん、ミナトさんが何がいいか聞き忘れて、同じの買っちゃった」
「いいよ。ありがとう」
いちご牛乳のボタンの位置には、赤いランプで「売り切れ」の表示が浮かび上がっていた。どうやら最後の二個だったらしい。
喉が渇いていたはずなのに、アリコはいちご牛乳のパックにストローを挿《さ》そうとしなかった。
「ね、この勢いで写真撮っちゃおう。何なら、私も一緒《いっしょ》に入ってあげるから。ね、さっきの所、戻ろう」
アリコは水奏の手を引くと、階段を上って外に出た。そのまま、講堂の前まで躍りでる。
「いちご牛乳をほっぺにくっつけて。ほら、Tシャツの色もお揃いで、私たち双子《ふたご》みたい」
アリコが、顔を寄せ合う二人に向けてカメラを構える。水奏は、言われるままにポーズをとった。もう、アリコが狐狸《こり》の妖怪《ようかい》だって構わない。出来上がった写真をネタに一本作品を描いてやろうという、半《なか》ばやけくその境地だった。
「いい? 本当に最後の一枚なんだからね」
「大丈夫。このカメラには慣れているから。じゃ、いくよ。三、二」
その時。
「水奏ちゃーん」
遠くで、水奏を呼ぶ声が聞こえた。
「わっ」
カシャッ。
「あ」
カメラが大きく揺れたと同時に、フラッシュの光とシャッター音が二人を包んだ。
「ご、ごめんっ。大丈夫とか言っておきながら、この為体《ていたらく》……」
アリコは平謝りながらも、校舎の方から聞こえてきたさっきの声を気にしている。
「いいよ。前払いで、いちご牛乳もらったし」
水奏は、笑いながら言った。
「なら。私、行くね」
「うん」
うなずくと同時に水奏のもとに、アリコからカメラがポーンと投げ返された。
「じゃあね」
「うん、じゃあね」
その時水奏は、どうしてアリコが宿舎である校舎の方角ではなく、銀杏《いちょう》の並木道を走っていくのかなんてことには、まったく疑問をもたなかった。水奏はどこかで、やっぱりアリコは自分たちとは違う存在なのだと、思っていたのかもしれない。
「水奏ちゃん」
徐々に大きくなる涼子さまの声で、水奏は現実世界に引き戻された。涼子さまを交えた目の前の風景が、はっきりと見える。
「十時になっても帰らないから、心配したわ。よかった、無事で」
「無事じゃないですよ。私、自分の写真とれなかったんですから」
「おやまあ。そんなの、罰ゲームをすればいいだけのことでしょ」
水奏の手にしていたカメラを取り上げながら、涼子さまが言った。
「そういえば、罰ゲームって何ですか」
「まだ、考えていないけれど? そうね。私の妹になる、っていうのどう?」
「……私、ドッペルゲンガーを見たから、数日後に死にますけれどいいですか?」
「本当? 死ぬならせめて学園祭用の原稿を仕上げてからにしてもらえないかな」
「私の命より、そっちの心配ですか」
「ははは」
涼子さまは、水奏の肩を抱いて笑った。
「で、そのいちご牛乳はどうしたの?」
「キツネにもらったんです」
水奏が、真面目《まじめ》に答えると。
「水奏ちゃんさ、ホラーより民話の方がよくない?」
涼子さまは、目を細めて言ったのだった。
* * * *
朝になっても、いちご牛乳は何かに変化することなく、正しくいちご牛乳のままだった。
翌日現像に出したフィルムは次の日には仕上がってきて、合宿中にみんなで確認することができた。
結果からいうと、罰ゲーム者は出なかった。
水奏はCグループのすぐ後に、ちゃんと写っていると認定された。それもポーズを変えて、スリーパターン。
でも、水奏は確かに写真に失敗したのだ。
だからあれはアリコだ。けれど、そのことは誰にも言わなかったから、いまだにそれら三枚の写真は水奏ということで通っている。
いつの間にか消費されていた数枚分のフィルムは、結局、誰が写したのかわからず仕舞《じまい》いだった。人間が写っていれば手がかりになったろうけれど、木や建物の写真ではどうしようもない。
もしかしたら先輩部員たちが水奏を怖がらせようと仕組んだことかもしれないし、本当に人ならざるものの仕業《しわざ》だったのかもしれない。
「あれ、水奏ちゃんじゃなかったでしょ」
半年くらい経《た》ったある日、ふと涼子さまがつぶやいた。それで、水奏は涼子さまの妹になることにした。
アリコの正体は、何だったのだろう。水奏は時たま思い出す。知りたいような、放っておきたいような複雑な気持ちとともに。
「ね、蔦子《つたこ》さん。これって心霊写真かな」
二年生になって同じクラスになった写真部の武嶋《たけしま》蔦子さんに、アリコの写真を見てもらった。
けれどピントのあまり定まっていないその写真は、「お世辞《せじ》にも上手《じょうず》な写真とは言えないわね」というコメントしかもらえなかった。
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フレーム オブ マインド―\
「ちょっと、これ見てくれない?」
それは、ピンぼけ写真だった。これまでテーブルに出してはしまってを繰り返してきた数々の写真の中では異質といっていい、蔦子《つたこ》さんが撮ったにしてはあまりにお粗末《そまつ》な出来である。
「これ、誰だかわかる?」
「え?」
いろいろ聞きたいことはあったわけだけれど、蔦子さんがそれらをシャットアウトするように「先入観なしで」と言ったので、祐巳《ゆみ》は仕方なくじっとそれを注視した。祐巳以外の面々も、何事かわからないままその写真とそれを渡された祐巳の言動に注目している。
「知っている人に似ているけれど……でも、はっきり写っていないからどうかなって感じ。それと、暗くてわかりにくいけれどここうちの学校っぽいよね。でも、私服だし……日付は……一昨年《おととし》の夏か。じゃ、違うかな」
「何が?」
蔦子さんが尋《たず》ねる。何が違うのか、と。
「だから、人違い。似ているって思った人じゃない、って」
祐巳が返そうと差し出した写真は、「もう一度見て」とばかりに押し戻された。
「先入観なしで」
重ねて言われたので、もう一度リセットして顔だけじっくりと見た。
「友達に似ている」
「その人、うちの学校の生徒じゃないよね」
と言うからには蔦子さんも、祐巳が思い浮かべた人の見当はついているのだろう。「うん」とうなずくと、蔦子さんは「やっぱりそうか」とつぶやいた。
「何が?」
「実はこれ、水奏《みなと》さんからもらった物なの」
飛び出したのは、祐巳のクラスメイトの名前だった。
「あれ? あ、そうか。これ、水奏さんだったのか」
スリムな体型に短い髪。男の子みたいな容姿に合わせたピンク色のTシャツは、一見ミスマッチのように思われそうだけれど、彼女の甘い声を知っていれば「なるほど」とうなずけるものだった。
「そう思って見ればね」
ということは、違うという意味か。しつこく言われた「先入観なし」とは、そういうことだったのだろう。
「でも、彼女はこれを心霊写真だって言ったわけよ」
「心霊写真?」
「ドッペルゲンガーの証拠写真なんだって。その時はただ、水奏さんが自分で写したピンぼけ写真だと思ったから一笑《いっしょう》に付《ふ》したんだけれど、何か去年の秋あたりからモヤモヤしててね」
「もやもや?」
「そ。この写真みたいに」
果たして本当にこれは、「水奏さんが自分で写したピンぼけ写真」なのだろうか。そう、蔦子さんは思い始めたらしい。当初は見逃してしまったけれど、実は自分が思ったのとはまったく別のものが写っていたのではないか、と。
「いつでもじゃないけれど、時々思い出したりして。でも、ついこの間、突然ひらめいたのよ。それこそピントが合ったみたいにね。それで、祐巳さんに見てもらわなくちゃと思っていて――」
「そっか」
確かに。蔦子さんが思い浮かべたであろうその人に、自分は蔦子さんよりずっと近しい。祐巳はそう思った。
由乃《よしの》さんや志摩子《しまこ》さんは、この写真を見ても何も言わなかった。たぶん蔦子さんが「祐巳さんに」と名指ししたことと、「うちの学校の生徒じゃない」との情報から、自分とは無関係の人物だと思い込んでいるのだろう。
だから、祐巳も自分の胸にしまっておこうと思った。もしその推理が正しければ、そしてそれが明るみに出れば、その人物はちょっと、いやかなり窮地《きゅうち》に立たされるはず。だって、女子校の校内合宿に夜中に忍び込んだのだから。
男の子みたいな女の子の水奏さんにそっくりな、女の子みたいな男の子。
| 公 《おおやけ》になっていたら、少なくとも、学ランを着て堂々とリリアン女学園の敷地内に入ることは許されなかっただろう。
でも、それはあくまで蔦子さんと祐巳の想像でしかないわけで、本当はやっぱりここに写っているのは水奏さんなのかもしれない。水奏さんは漫画研究部の部員だから、漫画のネタを面白おかしく語って聞かせたのだ。
だから、学園祭の助《すけ》っ人《と》でお隣の花寺《はなでら》学院の生徒会メンバーがやって来たのが去年の秋だったというはまったくの偶然で。蔦子さんのモヤモヤや突然合ったピントとかの話は、すべてただの気のせい。そう考えれば、何の問題もないのだった。
「そういえば。私に何か用だったんじゃないの?」
蔦子さんは、真美《まみ》さんに尋《たず》ねた。道々、笙子《しょうこ》ちゃんに聞いたのかもしれない。
「用はあったけれど、もうなくなったから」
真美さんが言う。
「なくなった?」
「去年みたいに、デートの写真を撮ってもらおうと思ったけれど、よくなった、ってこと」
「あ、そりゃ、何より」
先約があったから、依頼されてもだめだった、って蔦子さん。そういえば、と祐巳も思い出した。デート当日に当たる次の日曜日、蔦子さんはテニス部の写真を撮るため、学校に出張することになった。決まったのは、ついさっきだ。
「でも、せっかく私を探して来てくれたんだから、手ぶらで帰すのも何よね」
蔦子さんは紙の手提《てさ》げ袋に手を突っ込んで、目当ての封筒を取り出すと「はい」と真美さんに差し出した。
「好きなの、『リリアンかわら版』に使っていいよ。写っている人たちには、ちゃんと了解とってあるから」
「あー。ありがとう、助かる」
その封筒には「バレンタインイベント」と書かれていた。きっと中には、宝探しの間、蔦子さんがあちらこちらと動き回って撮った写真の数々が入っているのだろう。
(ん? きっと中には……?)
祐巳は首を傾《かし》げた。今、何かが、引っかかった。
蔦子さんが「あ」と声をあげた。たぶん、祐巳より先にそのことに気づいたのだ。他にも何人も気づいた人はいたようだった。
「物に書かれている文字は、必ずしも持ち主の名前とは限らない」
「……そうよ」
この封筒の「バレンタインイベント」のように、中に何が入っているかわかるよう、インデックスのような目的で書かれることがままあるものだ。
「ということは」
このフィルムの中に入っている写真は――。みんな、蔦子さんを注目した。不覚にも、そのパターンは今までまったく考えなかった。普段授業中以外はカメラを手放さず、チャンスがあれば躊躇《ちゅうちょ》なくシャッターを押してきた蔦子さんが、写される側に回るなんてこと。
蔦子さん自身も、「嘘《うそ》ぉ」って顔をしていた。けれど五秒ほど間をおいて、今度は「もしや」という表情に変わった。
蔦子さんの視線が、ゆっくりと移動する。目標の位置に達する前に、居たたまれなくなったのだろう、そこにいた人物がガバッと頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
「えっ、笙子ちゃん!?」
次期薔薇さま三人、プラス真美さんが声をあげる中。
「やっぱり、そうか」
蔦子さんだけが、苦戦していたパズルがやっと解けた、そんな顔をして苦笑した。
「これ、笙子ちゃんのだよね」
これ、と言って右手の親指と人差し指で摘《つま》まれた物は、「タケシマツタコ」と書かれたフィルムだった。
[#改丁]
A Roll of Film
[#改ページ]
キュッキュッと、油性《ゆせい》マジックペンが独特の匂《にお》いを醸《かも》しだしながら走る。
箱から取りだしたばかりの写真用フィルム(二十七枚撮り)の側面に書いた文字は『タケシマツタコ』。
わずか七文字の片仮名《かたかな》を書いただけで、こんなにドキドキするなんて。スペースの都合で諦《あきら》めたけれど、これが片仮名以上になじみ深い漢字(武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》という)だったりなんかしたら、私はどうなってしまっていたか。ドキドキがバクバクになって、その場で膝《ひざ》をついていたかもしれない。
いけない、いけない。毎日お掃除《そうじ》当番がきれいにしてくれているとはいえ、ここは生徒用トイレの個室。壁に寄りかかるくらいに留めておかなくては。
なぜ、私がこんなにドキドキしているのか、そしてどうして放課後のガランとしたトイレに籠《こも》ってこんな作業をしているのか、すべてはある一つの理由で説明できる。
それは、私が『タケシマツタコ』ではない、からだ。内藤笙子《ないとうしょうこ》、というのが正真正銘《しょうしんしょうめい》の本名だ。
タケシマツタコでもないのに、タケシマツタコと書いて、その後ろに「様」のような敬称をまったくつけない。このドキドキ加減をどう説明したらいいだろう。たぶん、相合《あいあ》い傘《がさ》で好きな人の名前を自分の名前の隣に書くとか、好きな男の子の苗字《みょうじ》の後ろに自分の名前を書いてみる、とかくらいのドキドキにそれは匹敵《ひってき》するはずである。ああ、恥ずかしい。
そもそもの始まりは、三年生のお姉さま(先輩)方の一言であった。
「笙子ちゃんも、写真展に作品を出すんでしょ?」
「えっ? いえ、滅相《めっそう》もない」
お姉さま方は写真展と言っているけれど、それは『三年生を送る会』に合わせ、自由参加で作品展示を行う合同展示会のことである。我が写真部も早々と参加を表明し、すでにスペースを確保していた。
「入部して間もない私なんかが作品を出したら、写真部の名を汚《けが》すだけで」
「あら、蔦子ちゃんに手取り足取り教えてもらっているんじゃないの?」
ねえ、と目配せして笑うは三年生五人。個々にはお目にかかったことはあったけれど、これだけいっぺんに部室に揃《そろ》うと何か迫力。こんなにいたんだ、って感じ。いや、名簿《めいぼ》を見たことがあるので、まだこれが全員でないことくらいは私だって知っているけれど。
「手取り足取りなんて滅相もない。それこそ、足を引っ張らないようにくっついているだけですよ」
私は、愛想笑いとともに後ずさった。二学年も違うと、さすがに「大人の女」という感じで太刀打《たちう》ちできそうもない。
「ま。いいわ。でも、作品は出すこと。我々三年生も参加するけれど、主旨《しゅし》は『三年生を送る会』なわけだから、新しい門出《かどで》を祝ってくれるという気持ちこそが大事なの。私たちは可愛《かわい》い笙子ちゃんに、目に見える『作品』という形でおめでとうを言ってもらいたいのよ」
[#挿絵(img/28_243.jpg)入る]
「はあ」
口ではもっともらしいことを言っているけれど、お姉さま方は私を新しい玩具《おもちゃ》くらいにしか思っていないのだ。一学年下で、自ら「写真部のエース」なんて名乗って憚《はばか》らない蔦子さまはいじりようもないくらい隙《すき》がないから、その子分(と彼女たちは思っている)である私を、蔦子さまの代わりにして撫《な》でたり突っついたりと楽しんでいるわけだ。まあ、歪《ゆが》んだ愛情表現と言えなくもない。
今日だって、放課後は自分たちが現像するからって二年生たちを部室から閉め出したくせに、廊下《ろうか》を歩いていた私だけをうまいこと(「蔦子ちゃんも来るからおいで」なんて)言って連れ込んだのだった。しかし、部室の中に入ってみれば現像どころか、前室でお菓子パーティーである。もう、呆《あき》れて物も言えない。
「上手下手《じょうずへた》ではなく、気持ち、ですよね」
恐る恐る、確認する。
「そりゃそうよ」
お姉さま方はニッコリ笑った後、つけ加えた。
「でも、下手はだめよ。だって、気持ちですもの」
いざという時の保険のつもりで確認したのだが、さすがは海千山千《うみせんやません》の三年生。結局私は、どうあがいたところでうまいこと転がされてしまうのだ。自分たちをお姉さま方、と私に呼ばせるのも、彼女たちの趣味だった。
「あ、そうそう」
帰り際、「お姉さま方」の中の一人が私を呼び止めた。
「だからといって、蔦子ちゃんに手伝ってもらっちゃだめよ」
「えっ」
そんなことは考えてもいなかったけれど、蔦子さまを頼ってはいけないと改めて釘《くぎ》を刺された私は動揺《どうよう》した。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。現像くらいは、私たちが一緒《いっしょ》にやってあげるわ。あなたは、ただ自分の力だけで撮影して、後日フィルムをここに持ってくればいいの。もちろん、私たちに、ううん作品を目にするすべての人たちに、あなた一人で撮ったと納得してもらえる作品じゃないとだめよ」
不安げな私に、未使用のフィルムが一本渡された。
「でも、どうしたら……」
自分の力だけで撮ったと、証明することができるだろう。
「そんな顔しないで。よく考えてごらんなさい。少なくとも一つ、方法があるから」
「え…?」
空《あ》いた口に、ビスケットが差し込まれた。
「あ」
薔薇《ばら》の館《やかた》の二階にある扉に似た形のそれを咀嚼《そしゃく》しながら、私は転がるように部室を出、クラブハウスを後にした。
その足で、大学の売店まで走って油性《ゆせい》のマジックペンを買うと、私は高等部校舎に引き返して生徒用のトイレに入り、今もらったばかりのフィルムの箱を開けたのだ。
キュッキュッと、油性マジックペンが独特の匂《にお》いを醸《かも》しだしながら走る。
箱から取りだしたばかりの写真用フィルム(二十七枚撮り)の側面に書いた文字は『タケシマツタコ』。
私は今日から数日間、カメラにこのフィルムを入れて持ち歩く。
このフィルムをその人の写真で一杯にするという意気込みで、『タケシマツタコ』と名前をつけた。
蔦子さまに気づかれないように。考えただけで、ワクワクする。
だって。
その時はまだ、それがいかに大変なことかわからなかったから。
そして、その撮り終わったフィルムが一悶着《ひともんちゃく》を起こすなんてこと、想像だにしていなかったのだから。
[#改ページ]
フレーム オブ マインド―]
「これ、笙子《しょうこ》ちゃんのだよね」
蔦子《つたこ》さんが言った。
「はい」
笙子ちゃんがうなずく。
「ええ――――っ!?」
大きな驚きが津波のようにやって来る。ならば先の「ごめんなさい!」宣言は、地震といったところだろうか。
でも「笙子ちゃんのだよね」と聞かれて「はい」なわけだから、これはもう素直に驚くべきでしょう。
「いったい、いつわかったの?」
由乃《よしの》さんが蔦子さんに噛《か》みついた。名探偵のお株を奪われて、面白くないらしい。
「比較的早い段階から、気にはなっていたの。もしかしてって思ったのは、体育館から帰る途中で笙子ちゃんを見つけた時。思い詰めたような表情、っていうのかな。これは何かあるぞ、って。でも、確信はなかった」
「比較的早いって?」
蔦子さんが体育館に行っていた間を除《のぞ》き、ほぼ一部始終を一緒《いっしょ》に見てきた祐巳《ゆみ》である。ここはぜひとも、聞きたいものである。参考までに。
「さっきさ。桂《かつら》さんがどうして薔薇《ばら》の館《やかた》に来たのか、って話題になったじゃない? 私がここにいることを誰に聞いたのか、みたいな」
「ああ、あったあった」
「あれって、やっぱりクラブハウスに行った時に笙子ちゃんに聞いたって考えるのが、一番すんなりくるのよ」
「でもあの時、蔦子さんは、笙子ちゃんには言ってこなかったからって、否定したじゃない」
「そこよ」
蔦子さんは指を鳴らした。
「そのことを伝えていないのに笙子ちゃんは知っていた。つまり、それはどういう事かというと」
「エスパー?」
祐巳のお粗末《そまつ》な結論に、由乃さんは呆《あき》れたように「違うだろっ」と突っ込みを入れ、志摩子《しまこ》さんが代わりに答えた。
「笙子ちゃんは、見ていたということかしら? 蔦子さんが、薔薇の館に入るところを――」
「正解。……よね?」
蔦子さんが、笙子ちゃんに確認する。
「はい」
するってぇと、何だ?
「たまたま見かけたっていうパターンもあるだろうけれど、ここはあえて笙子ちゃんはあの時間二年|松《まつ》組教室の側にいたんだって考えた。じゃ、どうして笙子ちゃんはそんな所にいたんでしょーうか」
「どうして、って」
どうしてなんて疑問を投げかけられたって、笙子ちゃんがそこにいた理由どころか、蔦子さんが廊下《ろうか》に出てきても声をかけず、薔薇の館まで密《ひそ》かについていった意味だって、まったくもってわからない。
「今から思うと、あれは私を監視《かんし》するというより、私に近づく人がいないかチェックしていたんだと思う」
蔦子さんの解説を、笙子ちゃんも一緒《いっしょ》に聞いている。
「いったい、何のために?」
真美さんが尋《たず》ねた。
「私にフィルムが渡らないように。だって書いてある文字がタケシマツタコだもの。誰かに拾われたら、まず私のところに届きそうなものでしょ。怪しい人を見かけたら、真っ先に近づいてフィルムを取り戻そうと思っていたのよ。同じ部活の笙子ちゃんになら、みんなすんなりと託《たく》すでしょう。私に渡しておくとでも言えば」
けれど、蔦子さんは薔薇の館へ移動してしまった。そこで、笙子ちゃんは作戦変更にでた。蔦子さんが薔薇の館にいるなんていうこと、誰も考えはしないだろう。ならば薔薇の館の側で張り込みをするのは、無駄《むだ》ではないか。みんなが「蔦子さんがいる」と思う場所で網《あみ》を構えて待っていた方がいい、と。
「そこでクラブハウス」
「その通り。そんな時、桂さんと会ったのよね? で、フィルムとは無関係の用だってわかったから、薔薇の館にいることを教えてあげた。笙子ちゃんはというと、しばらくはクラブハウスにいたけれど、そのうちじっとしていられなくなって、徘徊《はいかい》し始めた。中庭はたぶんフィルムを落としたと思われる場所。職員室の側は、落とし物を保管している部屋っていうのがあの側にあるから」
でもって、そこで真美《まみ》さんに会って保健室に連れていかれた。すごい推理だ。祐巳は、感動した。ちょっとしたヒントからここまで考える力もすごいけれど、もっとすごいのは、それがおおむね間違っていなさそうなところである。
「でも、だったらどうして落としちゃったんだろう? そんなに大事なら、きっと慎重に扱っていたでしょうに」
確かに解《げ》せない。みんなが同意する中。笙子ちゃんが弁明した。
「なくしたり蔦子さまに見られたりしないよう、肌身離さず持っていたんです。けれど今日の掃除《そうじ》の時間、中庭で転びまして。その時、ポケットから落ちてしまったみたいで。気がついたのは傷口を水道で洗った後で。あわてて戻ったんですが、見つけられなくて」
そこから、笙子ちゃんの挙動不審《きょどうふしん》行動がスタートしたわけだ。
「で?」
「これには、私を隠し撮りした写真が入っているわけ」
渋い顔をして、蔦子さんはフィルムの上部をトントンと叩いた。
「ごめんなさい」
ひたすら謝る笙子ちゃん。けれど、それで「はいそうですか」とはいかなかった。
「由乃さんを止めなければよかった」
そう言ったかと思うと。
「え?」
蔦子さんはフィルムを左手で持ち、「そうれ」というかけ声とともに右手で巻物を引っ張るような動きをしてみせた。
「あーっ!? だめーっ!」
祐巳は両手で目を覆《おお》った。撮影済みのフィルムは、処理するまでは光にあてちゃだめなのだ。しちゃだめだって十分に知っている人間が、それをやったらダメでしょう。
「……なこと、するわけないじゃない」
その声に恐る恐る目を開けると、蔦子さんは笑いながら左手の手の平でフィルムを転がしていた。手の平で転がるということは、もちろん無傷。フィルムは、中から引き出されてはいなかった。ただ引き出すふりをしただけらしい。
しかし、冗談にしては、いささかパフォーマンスが過ぎるのではないか。心臓が止まるかと思った。
「私だって、隠し撮りはするもの。自分だけ対象になりたくない、なんて我がまま言わないわよ。しかし、よく私に気づかれずにシャッターを切れたものだわ」
感心する蔦子さん。
でも、ここにいる仲間たちは、心の中で妙に納得していた。
笙子ちゃんはここ数ヶ月、ずっと蔦子さんの背中を見つめてきたんだから。知らない間に、いろんなものを吸収しているはずなのだ。写真の技術などはこれからかもしれないけれど、すでにプチ蔦子の片鱗《へんりん》を見せている。
「楽しかったでしょ?」
蔦子さんが振ると、笙子ちゃんは「少し」と言った後、舌を出して笑った。
「いえ、かなり」
――と。
* * *
ちなみに、後日現像した「タケシマツタコ」のフィルムは、暗くて何が写っているかわからなかったり、ピントがぼけていたり、前に飛び出してきた第三者の肘《ひじ》のどアップだったりと、ほとんどがちゃんとした写真になっていなかったらしい。
けれど、たった一枚。誰もが唸《うな》るような、とてもいいものができあがった。
それは、カメラを構える蔦子さんの真剣な横顔の写真だった。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは、今野《こんの》です。
この本は、2005年から今年(2007年)の前半までに雑誌Cobaltに掲載された『マリア様がみてる』の番外編をまとめた一冊です。これまでもこのような形の文庫は二回出させていただきましたので、『続・続・バラエティギフト』とか『バラエティギフト3』のようなものです、と言った方がピンときていただけるかもしれませんね。
雑誌掲載順に並べてみますと、「不器用姫」が2005年4月号、「温室の妖精」が同8月号、2006年に入りまして、「三つ葉のクローバー」が2月号、「黄色い糸」が4月号、「ドッペルかいだん」が8月号、「枯れ木に芽吹き」が12[#「12」は縦中横]月号、そして「四月のデジャブ」が2007年4月号となります。それに書き下ろし「光のつぼみ」と「A Roll of Film」を加えて計九つ。必然的に、短編同士のつなぎとなるのりしろ部分[#「のりしろ部分」に傍点]は十個。前の二冊(『バラエティギフト』と『イン ライブラリー』)に比べるともうキッツキツです。
さて、今回のキーワードは写真です。とはいえ、「ドッペルかいだん」のように直接写真が関わっているものから、「黄色い糸」のように写真という単語が本文に出ているだけというものまで、さまざま。タイトルの『フレーム オブ マインド』は写真をイメージするフレームという単語を使いたかったということと、前二冊の短編集のタイトルがオール片仮名《かたかな》だったので、それらに合わせようということで決定しました。直訳すると心の一コマ、でしょうか。気持ちとか、気分とかという意味になるらしいです。
ところで、前巻『あなたを探しに』で祐巳《ゆみ》と瞳子《とうこ》がいいセンまで行ったので、次こそはと期待された皆さん、ごめんなさい。この「フレーム オブ マインドT〜]」は、バレンタインイベントから優勝賞品のデートまでの間の、ある日の放課後の話になります。つまりこの本は時間的には『あなたを探しに』にすっぽり入ってしまうわけです。その上、今回ののりしろ部分。姉妹が一切《いっさい》出てきません。ま、たまにはそういうカラリとしたお話もいいじゃないですか。
あー、なんて書いている間にあとがきにいただいたページも、そろそろ使い果たしてしまいそうです(駆け足だったけれど、書き忘れていることないかな?)。
またすぐに雑誌に短編を書く予定があるのに、次回の短編集のキーワードがまったく思い浮かびません。……私ってば、のんびりしすぎているのか、気が早いのか。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる フレーム オブ マインド」コバルト文庫、集英社
2007(平成19)年07月10日 第1刷発行
初出:「Cobalt」集英社
2005(平成17)年04月号……不器用姫
2005(平成17)年08月号……温室の妖精
2006(平成18)年02月号……三つ葉のクローバー
2006(平成18)年04月号……黄色い糸
2006(平成18)年08月号……ドッペルかいだん
2006(平成18)年12月号……枯れ木に芽吹き
2007(平成19)年04月号……四月のデジャブ
入力:WQRCxTTMV0ToeD
校正:TJMO
2007年06月28日作成
2007年09月09日校正
この作品は、すでにShare上に流れている以下のデータ
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第28巻 「フレーム オブ マインド」.zip tLAVK3Y1RCVwyj0k1m 27,949,176 e8c29d166fdb30839bd37183057305f5d0f2d5a7
を底本とし、同じくShare上で流れていた
(一般小説) [今野緒雪] マリア様がみてる28 「フレーム オブ マインド」 [ルビ有TXT版].zip WQRCxTTMV0ToeD 98,849 e7918d4ff6567058565999e8d699ae79a28eb07d
を、さらに校正し、挿絵を追加したものです。それぞれのファイルの放流者に感謝します。きわめて精度が高く、三・四ヶ所程度しか直すところを発見できませんでした。[#誤認識とか空行、ルビ振り忘れ、表記揺れ(?)程度]
なお、元テキストで指摘されていた「底本で気になった部分」は、明らかなものは訂正しています。こだわる方は各自で戻しちゃってください。
また、挿絵位置ですが、厳密にページ通りではなく、あえて本文にあわせた位置にしています。これは底本だと見開きになるためそれほど違和感ないタイミングで挿入される挿絵も、テキストにしてしまうとあきらかにおかしいタイミングで表示されてしまうのを防ごうとしているためです。
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底本で気になった部分
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※底本では物を数えるときに使う「ヶ」「ヵ」が混在しているが、あえて変更せず、そのままにしている。
※底本p086 04行目
考えてみれば、カトリックの学校に通っていながら、神社に合格祈願に行くことに対して、何の疑問ももたなかった去年の自分たちはどこか可笑《おか》しい。
――可笑しい=@「面白い、滑稽」という意味ならば問題ないが、「変」という意味なら「おかしい」。判断つかず、そのまま。
※底本p129 08行目
見ず知らずの一年生だって蔦子さの物だって
――蔦子さんの物。脱字。訂正済み。
底本p187 14行目
ここにいるシーが、メイにとってのシーすべてだった。
――シーのすべてだった。脱字。訂正済み。雑誌の時から直ってないのかよorz
※底本p203 05行目
手をかざしただけで持ち主がわかるわけじゃないんでょ?
――ないんでしょ? 脱字。訂正済み。
※底本p244 14行目
「え…?」
――なぜか「……」ではなく「…」になっている。訂正せず、そのまま。
※底本p245 06行目
私は今日から数日間、カメラにこのフィルム入れて持ち歩く。
――フィルムを入れて。脱字と思われる。訂正済み。