マリア様がみてる
あなたを探しに
今野緒雪
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乙女《おとめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)職員室の外[#「外」に傍点]壁
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/27_000.jpg)入る]
もくじ
| 兵 《つわもの》どもが答え合わせ
不在者チャンスの彼女
思いがけない言葉
デートの出端《でばな》に
「どうして」
修正と上書きと古い写真
開かれた扉
明日になったら
あとがき
[#改ページ]
[#挿絵(img/11_004.jpg)入る]
[#挿絵(img/11_005.jpg)入る]
[#地付き]イラスト/ひびき玲音
[#改丁]
マリア様がみてる あなたを探しに
[#改ページ]
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶《あいさつ》が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭に集《つど》う乙女《おとめ》たちが、今日も天使のような無垢《むく》な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
汚《けが》れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは| 翻 《ひるがえ》らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
私立リリアン女学園。
明治《めいじ》三十四年創立のこの学園は、もとは華族《かぞく》の令嬢《れいじょう》のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。
東京都下。武蔵野《むさしの》の面影《おもかげ》を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎《ようちしゃ》から大学までの一貫《いっかん》教育が受けられる乙女の園。
時代は移り変わり、元号《げんごう》が明治から三回も改まった平成《へいせい》の今日《こんにち》でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋|培養《ばいよう》お嬢さまが箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
あなたが何かをなくしたのなら、私も一緒《いっしょ》に探しに行こう。過去にポイと捨てたものを、再び取り戻したいと思っているなら。
あなたが自分を見失ってしまっていたなら、代わりに私が見ていてあげよう。
あなたが私を探しているなら、「ここにいるよ」と笑っていよう。
もしも、なくした物が何であるかも忘れてしまったとあなたが言うなら。
思い出すまで側にいよう。
[#改ページ]
| 兵 《つわもの》どもが答え合わせ
真美《まみ》さんの腕時計のアラームが、高らかに鳴り響いた。
ゲームセット。
宝探し終了の時間だ。
中庭には、すでに参加者たちが集合しはじめていた。真美さんの時計のアラーム音が聞こえなくても、それぞれがそれぞれの時計で時間を計ってやってくる。
四時四十分。
一つ一つの小さな言葉や笑い声が、重なり合って、寄せては返す波のように、この部屋の窓ガラスを外からノックした。
みんな、結果発表の時を待っている。
けれど。
ここ、薔薇《ばら》の館《やかた》の二階だけは、水を打ったように静かだった。
ラスト数分間に起こった出来事が、あまりにもめまぐるしくて、理解が追いつかない。
それとも、おもちゃ箱か何かをぶちまけたようなこの状況をどう収拾《しゅうしゅう》していいのか、答えに窮《きゅう》してしまった結果、この場にいる全員の頭の中が真っ白になってしまったのか。
状況を整理しよう。
まず、四時三十五分に、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》である小笠原《おがさわら》祥子《さちこ》さまが満《まん》を持《じ》して、紅いカードを隠した|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》であるところの福沢《ふくざわ》祐巳《ゆみ》に「お立ちなさい」と命じた。
祐巳が立ち上がりかけたその時、この日まったくご無沙汰《ぶさた》だった松平《まつだいら》瞳子《とうこ》ちゃんがすごい勢いで部屋に入ってきて、なまはげのような形相《ぎょうそう》で迫ってきたのだ。
「私を、祐巳さまの妹にしていただけませんか」
周りで見ていた生徒たちも、そりゃ驚いたろうけれど、一番驚いたのはやっぱり言われた本人で。だって一部の人にしか知られていないけれど、祐巳は一度瞳子ちゃんに姉妹《スール》の申し込みをして断られているのだ。そしてその上、まったく知られていない話だけれど、先週の土曜日、瞳子ちゃんに再アタックして、これまたかなり手ひどく振られたというありがたくない実績をもっている。
二人の間に、何か誤解が生じているはずだった。だからしばらくは距離を置いて、急激に上った血が瞳子ちゃんの頭から引くのを待ってから、絡んだ糸をほどくように、その誤解をといていこうと思っていた。多少、時間はかかるかもしれない。腰を据《す》える覚悟もした。
それなのに瞳子ちゃんは、何があったかグワッシ、グワッシ、バタン、ドスドスと、一足飛びに跳躍《ちょうやく》して、祐巳のもとにやって来た。嬉《うれ》しいとか何とか感情が盛り上がる前に、「何なの」って驚くのは無理からぬことだろう。
で、思わず椅子《いす》を立っちゃった。そこに顔を出した、紅いカード。お座布団《ざぶとん》と祐巳のお尻にきっかり一時間|挟《はさ》まれた結果、程よく人肌に温まっていた。
「あ」
そこで鳴り響いたのが、新聞部部長である山口《やまぐち》真美さんの時計のアラームだったわけだ。
さあ、どうする。
誰が、どう収拾《しゅうしゅう》つけるのだ。これを。
二十人だか三十人だか、数えている余裕《よゆう》はないけれど、結構な数の生徒たちが固唾《かたず》をのんで見守っている。
その時。
『四時四十分になりました。終了時間ですので、宝探しに参加されている生徒の皆さんは中庭にお集まりください。繰り返します――』
校内放送が聞こえてきた。
「はっ」
マイクを通した日出実《ひでみ》ちゃんの声が、皆を現実世界に引き戻す。日出実ちゃんは、本部である薔薇の館から動けない姉、真美さんの代わりに、放送室からゲーム終了を知らせることになっていた。もちろん、彼女の時計も真美さんの時計に合わせてある。数十秒の遅れは、慣れない放送室での仕事に戸惑ったせいだろう。
「いけない。外に出なくちゃ」
真美さんが、叫んだ。主催者《しゅさいしゃ》が遅刻してどうする、というわけだ。彼女にはこの後、結果発表という大仕事が残っている。
「皆さんも、早く中庭に」
急《せ》きたてるように言うと、我に返った生徒たちは「はい」とうなずいてビスケット扉に駆けだした。参加賞となる一口大のチョコレートを詰めた籠《かご》三つを、|白薔薇のつぼみ《ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン》にして今回はお手伝い役の二条《にじょう》乃梨子《のりこ》ちゃんが両手に提げて飛び出す。
その素早い動き。まるで避難訓練を見ているようだった。
けれど。
「ちょっと待って」
祥子さまが、真美さんを呼び止めた。
「一つ確認しておきたいのだけれど。紅いカードはどうするつもり?」
「あ……」
由乃《よしの》さんの黄色いカードは、田沼《たぬま》ちさとさんがゲットした。志摩子《しまこ》さんの白いカードは、未だ発見者が現れていないことから、このままだと不在者チャンスの中から当選者が選ばれることになるだろう。
けれど、紅いカードは?
タイムリミットギリギリではあったけれど、確かに紅いカードは姿を現した。けれど、けれどそれはあくまで「姿を現した」という表現がピッタリで、特定人物が手にとって「見つけました」と言ったわけではない。現に、今もってカードは多少冷めただろうけれど座布団《ざぶとん》の上に乗っかっているのだ。
「そりゃ……」
言いかけて、真美さんは口をつぐんだ。
同時に見つけた人がいた場合、公平にジャンケンで勝者を決めることになっていた。だが、この部屋にいる、ちさとさんを除く参加者全員にその権利を与えるのはどうだろう。だって、紅いカードを至近距離で見た人から、遠い場所に立っていて教えられてやっとそうと気がついた人まで、その程度は様々で、軽々しく「みんなでジャンケンです」と結論を出せるものではない。
四時三十五分過ぎに、祥子さまが「お立ちなさい」と言った時に祐巳が立ち上がっていたら、紅いカードは間違いなく祥子さまのものだった。けれど、瞳子ちゃんの出現で、事態は複雑になってしまったのだ。
「瞳子ちゃんのものよね?」
祥子さまが言った。
「え」
思いがけない言葉に、皆が一斉に息をのむ。祥子さまは、自分の利益《りえき》のために真美さんを呼び止めたのではないのだ。
「でも、それを言うなら|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》だって」
「私は確かに、お立ちなさいとは言ったわ。けれどその時祐巳は、一旦お尻を浮かしかけて、また座ったの。だから、祐巳を立たせたのは瞳子ちゃんだわ」
もしかして、と一瞬|微《かす》かな期待をもたされた参加者たちは、ガックリと肩を落とした。自分たちより、ずっと権利を主張していいはずの人物が負けを認めているのだ。それでも、と| 覆 《くつがえ》せるわけがない。
「祐巳さん」
真美さんが振り返って名前を呼んだ。それでいいか、という確認のつもりなのだろう。
祐巳はうなずいた。
祥子さまの言う通り、祐巳は一度立ち上がりかけたもののそのまま座った。完全に椅子《いす》から腰を上げたのは、瞳子ちゃんの言葉に驚いたからだ。
もしこれが瞳子ちゃんでない誰かであっても、祐巳は認定しただろう。相手が瞳子ちゃんだからって、何も複雑に考えることはないのだ。
「それじゃ、紅いカードは松平瞳子さんに。手続きは後ほど」
真美さんは早口にそう捲《まく》したてると、一直線にビスケット扉に向かってダッシュした。
「じゃ、皆さん外に」
その号令に従って、ラッシュアワーの電車に乗り込む人たちのように、皆が急いで部屋から出ていく。その流れに逆らわないように、祐巳もまた歩いていく。
瞳子ちゃんも祥子さまも、姿は見えているのだけれど、気がつけばどちらも手の届かないほど祐巳の場所から遠ざかってしまっていた。
「あーあーあー」
真美《まみ》さんが、ハンドスピーカーに向かってテストの声を出す。あんなに焦《あせ》って部屋を飛び出したのに、中庭に着いた途端「予定通りの時間に下りてきました」といった表情を浮かべ、「段取り通り進行いたしますよ」という態度で参加者たちの前に立つ。ちょっと声がかすれてしまったのは、ご愛敬《あいきょう》だ。
「これを持ちまして、カード発見の申請《しんせい》は締め切らせていただきます」
祐巳《ゆみ》、由乃《よしの》さん、志摩子《しまこ》さんという、次期薔薇さま三人も真美さんの側に並んだ。
ゲームの最中はちりぢりに散っていた新聞部員たちも、すでに持ち場から戻って中庭に集合している。ただ、日出実《ひでみ》さんだけは、さっきまで放送室で放送をしていたため、まだ姿が見えないようだ。
「それでは、結果発表をいたします」
真美さんの言葉に、雑談していた生徒たちも一時中断して前方に注目する。
「宝であるつぼみのカードですが、今年は二枚発見されました」
おおっ、というどよめき。結果を知っている人も初耳の人も、次の言葉に耳を傾ける。顔が紅潮《こうちょう》して見えるのは、大分傾いてきた西日《にしび》のせいばかりではないはずだった。
三枚中、二枚見つかって一枚はまだ出てきていない。それくらいの割合が、一番参加者の興奮をかき立てるものなのかもしれない。
「お名前を呼ばれた方は、前に出てきてください」
周囲の喧噪《けんそう》に負けじと、真美さんはハンドスピーカーに向かって声を張りあげる。
「まず、最初に発見されたのは黄色いカード。見つけた方は、二年|菊《きく》組|田沼《たぬま》ちさとさん」
拍手とともに、「ええっ」という驚きの声が方々からあがった。無理はない。ちさとさんが黄色いカードをゲットするのは、去年に引き続き今年で二回目。つまり、二年連続の快挙なのである。
沸きたつ声の中、ちさとさんは悠然《ゆうぜん》と、またみんなの反応にはかなり満足している表情で、数歩あるいて真美さんの側までやって来た。
「やれやれ」
由乃さんも首を回しながら、移動する。カードが見つかった場合、隠した本人が勝者の脇に立つ。それは、事前に申し合わせていたことだった。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
インタビューが始まった。
「まずは発見者第一号の、喜びの第一声をお聞きいたしましょう」
「気持ちよかったです」
思いの外《ほか》テンポ良く会話が進むと思ったら、さっきまで真美さんの手が握っていたハンドスピーカーがいつの間にかハンドマイクに変わっている。真美さんの背後を中腰で後退りする日出実さんが先のハンドスピーカーを抱えているところから推理するに、気を利《き》かせて放送室からマイク一式を借りてきたらしい。――できた妹だ。
「黄色いカードは、いったいどちらで見つけられましたか」
「職員室の外[#「外」に傍点]壁です」
案《あん》の定《じょう》、聴衆からはブーイングにも似たざわめきがわき起こった。先程|薔薇《ばら》の館《やかた》の二階でおこなった説明を、もう一度この場でしなくてはならないわけだ。
「職員室の外壁で間違いないですか。|黄薔薇のつぼみ《ロサ・フェテイダ・アン・ブゥトン》」
もちろんみんなの反応を予想していた真美さんは、あわてず騒がずインタビューを続ける。
「はい。間違いありません」
由乃さんはうなずいた。
「職員室は範囲外ではないか、という声がちらほら聞こえていますが?」
すると、由乃さんとちさとさんは勝ち誇ったような表情を浮かべて、同時に答えた。
「中はね」
それ以上は何も言わずに二人とも笑みを浮かべるだけなので、結局、またしても真美さんが後始末をしなければならないのであった。
「お手持ちの地図を広げていただければ、おわかりいただけると思いますが――」
まったく、お疲れさまである。
最後に一言と、マイクを向けられたちさとさんはニッコリ笑って言った。
「もし来年も宝探しのイベントが行われるとしたら、もちろん黄色いカード一本に絞《しぼ》って、三年連続|制覇《せいは》を狙います。その時は部長、殿堂《でんどう》入りとして、私の名前を後世《こうせい》まで残してくださいますか」
高等部は三年間。だから、三年連続勝者になったとしたら、その記録をやぶることは、留年でもしない限り無理だ。もちろん、今回は試験的に『不在者チャンス』という形で中等部の参加も認めたけれど、実際自分の足で歩き回って探し出すわけではないから、それは別枠《べつわく》と考えるのが妥当《だとう》だろう。
「お約束いたしましょう」
真美さんが請《う》け合うと、やんややんやの大拍手。実際、三年連続なんてそんなミラクルはないだろうけれど、それでもこの場はかなり盛り上がった。
「えー。続きましては、タイムアップギリギリに発見されました紅いカードですが」
しんと静まりかえる中庭。
「協議の末、勝者は一年|椿《つばき》組の松平《まつだいら》瞳子《とうこ》さんに決定いたしました」
その瞬間。
突然の地震のように地面が揺れた。前触れもなく雷が落ちた。いきなりの突風が校舎の壁を揺らした。――もちろん、実際そんなことは起きていないのだけれど、そう喩《たと》えていいほど、轟《とどろ》いた「ウォー」というよりむしろ「ドーン」とか「ゴォー」とかという声に、中庭の空気が大きく震えた。
様々な音がたくさん同時に発せられると、人間が作り出したとは思えないような音になるらしい。数秒でばらけた音たちには、一つ一つにちゃんと歓声、怒号《どごう》、悲鳴、拍手といった名前がついていたのだと知れる。ともかく、どれにも「驚き」がもれなくついているのは間違いないようだった。
[#挿絵(img/27_021.jpg)入る]
「松平さん、どうぞ」
沸きたつ声の中、呼ばれた瞳子ちゃんは、またみんなの反応なんて気にした様子もなく、数歩を淡々と歩き終えて真美さんの側までやって来た。
考えてみれば、ちさとさんといい瞳子ちゃんといい、タイムアップまで薔薇の館にいたのだ。そのため中庭に下りてきても、列座の前方、つまり館の入り口に近い場所に立っていたので、人をかき分けて出てくるというようなパフォーマンスは期待できないのだった。
「祐巳さんも、ほら」
志摩子《しまこ》さんに押し出されて、やっと祐巳も自分が瞳子ちゃんの横につかなければならなかったことを思い出した。
瞳子ちゃんの隣に立つ。
真美さんのアラームが鳴ってからこっち、バタバタしていたから意識する暇もなかった。けれど確かに、瞳子ちゃんは言ったのだ。
(私を、祐巳さまの妹にしていただけませんか)
思い出しただけでドキドキする。まるで、自分こそが宝を見つけた人みたいに、緊張した顔を人前にさらしている。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
祐巳がスタンバイしたところで、インタビューが始まった。多少のざわめきは残っていたものの、皆、紅いカード発見の経緯を聞き漏《も》らすまいと注目している。
「ところで、紅いカードはどちらで見つけられましたか」
「薔薇の館の二階です」
瞳子ちゃんは、答えた。すると真美さんは、更に突っ込んで聞く。
「もう少し詳しく教えていただけますか」
瞳子ちゃんは、チラリと祐巳の方を向いた。言っていいのか、と尋《たず》ねているようだった。もちろん、と祐巳はうなずく。答え合わせを兼ねているのだから、具体的な場所を言うのが筋というものだ。
「椅子《いす》の上です。|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》は、カードの上に座っていらっしゃいました」
瞳子ちゃんが言った瞬間、中庭は大爆笑に包まれた。
「|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》、間違いないですね」
「え、あ、はい」
真美さんに確認されて、取りあえずうなずく。祐巳としては、こんなに笑われるとは思っていなかった。なるほど、瞳子ちゃんはこういう事態を予測して、当初「薔薇の館の二階」と言ってくれたのだろう。
説明が不十分だと考えたのか、真美さんがつけ加えた。
「|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》はカードをお尻で敷いたまま、スタート直後から一時間ずっと椅子に座っていました。力ずくでなくても、誰かに立ち上がるよう言われた場合は、立つという決まりになっていました。終了五分前に、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》のお姉さまである|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が一度立つように指示なさいましたが、その時は一瞬立ち上がりかけたものの、再び腰を下ろしています。その後、松平瞳子さんが部屋に入ってきた勢いに驚いて、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》はつい立ち上がってしまった、というわけです。その場にいた参加者たちが証人となってくださるでしょう。|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》にも了承していただきましたし、|紅薔薇のつぼみ《ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン》も認めています。そういったわけで、松平瞳子さんを勝者といたしました」
真美さんがそこまで言った時、いつの間に薔薇の館に戻っていたのか、乃梨子《のりこ》ちゃんが書類の束を抱えて出入り口から飛び出してきて、真美さんに何かを耳打ちした。わかった、というようにうなずく真美さん。そして。
「先程は時間がなかったので、この場をお借りして」
ニッコリ笑って、瞳子ちゃんに向き合う。
「松平瞳子さん、お手数だけれど生徒手帳を拝見していいかしら」
「はい」
瞳子ちゃんはポケットに手を入れると、生徒手帳を取り出した。真美さんはそれを受け取り、乃梨子ちゃんが持ってきた書類と照らし合わせた。よもや資格がないとは思わないが、一応確認を、というわけだ。わずか五秒ほどの間だけれど、祐巳のドキドキはますます大きくなるのだった。
真美さんがうなずく。
「申込用紙も確かに。紅いカード保持者として、正式に認定いたします」
成り行きをじっと見守っていた参加者たちの間からは、拍手とため息が一斉に聞こえてきた。
「なお、不在者チャンスに万が一お二人が投函《とうかん》されていた場合、認定を取り消させていただくこともありますのでご了承ください」
二重応募していた場合、その権利は消滅するというわけだ。
「というわけで、残念ながら発見されなかったのは白いカードというわけです。予告通り、不在者チャンスの中から一名さまに、白いカードと副賞である半日デート券をプレゼントいたします。隠し場所と当選者の発表は、『リリアンかわら版』のバレンタイン特集号紙上にて行います。デートの模様も掲載《けいさい》されますので、こうご期待!」
真美さんが気持ちよくした学校新聞のピーアールに対する応えは、「えーっ」という多くの不服の声であった。そりゃ、そうだ。今日号外が出るわけでもないし、デートの様子も載るというなら、少なくとも発行は週をまたぐことは確実。そんなに長くおあずけするなんて、たとえどんなに優秀な犬だって無理というもの。
が、一度口に出してしまったものは、もう戻すことなんてできやしない。真美さんは無理矢理締めの言葉を出して、イベントをお開《ひら》きにした。
「これを持ちまして、バレンタイン企画『次期薔薇さまのお宝探し大会』を終了いたします。皆さま長らくのおつき合い、ありがとうございました。次期薔薇さまより参加賞のチョコレートがございますので、どうぞお帰りの際、一つずつお受け取りください」
祐巳は、乃梨子ちゃんが用意してくれた籠《かご》を一つ取って、中庭の端に急いだ。同じように由乃さんと志摩子さんも、校舎へつながる出入口付近とか、裏庭へ出る道の側とかに散って、生徒たちが一カ所に集中しないように誘導する。
「どうもありがとう。お一つどうぞ」
籠の中身は、一口サイズのチョコレートだけれど、参加者たちはこの上もない宝物のように受け取ってくれる。
「お疲れさまでした」
「楽しかったです」
笑顔ととともにそんな労《ねぎら》いの言葉をもらうと、「やってよかったー」って飛び上がりそうになる。もちろん、チョコレートが籠からこぼれ落ちると困るから、飛び上がりはしないけれど。
「祐巳さま。瞳子さんが見つけたことについて、どうお思いですか」
中には、そんな直球を投げかけてくる人もいる。こんなこと聞いて怒られないかな、というようなちょっと緊張気味な表情。一年生らしい。ラッシュ時ではなく、ちゃんと後ろの方で待っていて人が途切れた頃合いを見計らって来たものと思われた。
「どう、って」
祐巳は首を傾《かし》げた。
「だって、|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》が先に椅子《いす》の上だって気づかれたのでしょう? それなのに、ちょっと残念かな、って」
「そっか」
相手が真剣な分、嘘《うそ》を言ったり、はぐらかしたりする気にはなれなかった。だから、今の心持ちを素直に話す。
「あのね。瞳子さんでも|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》でも、まったく知らない誰かでも、多分私の気持ちは変わらないんだ。見つけてもらって嬉《うれ》しい、って。今はそれだけ」
そこまで言って、祐巳は悪戯《いたずら》っぽく自分の口に人差し指を立てた。
「そんなこと言っちゃ、見つけてもらえなかった志摩子さんに悪いわね。内緒《ないしょ》にしておいて」
すると、その一年生はやっと緊張をほぐして笑った。
「ただカードを見つけた人が、よく知っている人かあまり知らない人か、って違いはあるけれどね」
「じゃ、例えば見つけたのが私だったとしても?」
「もちろん。嬉しいよ」
「わかりました。変なこと聞いて、ごめんなさい」
「いいえ。参加してくれてありがとう」
差し出した籠からチョコレートを一つ摘《つま》み上げてから、その子はペコリと頭を下げて走り去った。何ともさわやかで、祐巳はしばらくその後ろ姿を見送っていた。
「終わった?」
そんな声に振り返れば、由乃さんが籠を揺らしながら近づいてくる。
「令《れい》ちゃんが欲しいって言うんだけれど、余ったからあげてもいいよね? チョコ」
「いいんじゃないの。……って待って」
中庭をぐるりと見回すと、まだ志摩子さんの周辺には生徒たちの一団が残っている。果たして志摩子さんの籠の中に残ったチョコレートは、あそこにいる全員に行き渡る分だけあるのだろうか。
「大丈夫《だいじょうぶ》。あの人たち、みんなもうもらっているから」
由乃さんは、あくびをしながら言った。
「もらっているのに、まだ帰らないの?」
「祐巳さんも覚えがあるでしょ。去年」
「ああ」
志摩子さんの隠した白いカードが、いったいどこにあったのか。『リリアンかわら版』の特集号まで待つなんてとてもじゃないけれど我慢できない、そんな人たちが帰らずに粘《ねば》っている。新聞部がそれを回収しにいくのに同行しようと。
「ですから『リリアンかわら版』で発表します、って」
困り顔で説明する真美さんの声が、かなり離れたここまで聞こえる。でもその実さほど困っていないことは、祐巳たちも知っている。そうやってふるいにかけて、適当な人数になるのを待っているのだ。また、それを知っているからこそ、一部の生徒たちは帰るように言われてもしぶとく残っているわけだ。
「ちょっと待ってて」
残っている生徒たちにそう言い置いて、真美さんがこちらに向かって走ってくる。
「これ以上減らすのは無理みたいだから、白いカードの回収に行ってくるわ。祐巳さん、由乃さんはどうする?」
一緒に行く? と聞かれて、二人は顔を見合わせた。ただでさえ十五、六人は残っている。それに写真部の蔦子《つたこ》さんや真美さん、主役の志摩子さん、その妹である乃梨子ちゃんを加えたらかなりの団体さんになってしまうだろう。あまり大人数だと小回りがきかなくなるし、もともと隠し場所を知っている二人は遠慮《えんりょ》することにした。
「薔薇の館を片づけているよ」
「そう? そうしてもらうと助かる。新聞部員たちにも、志摩子さんのヒントを片づけたら帰っていいって言ってあるから、もう遅いし、キリのいいところで切り上げて帰っちゃって。反省会は明日の昼休みにでも。じゃ」
祐巳たちの「うん」も待たずに、真美さんは再び志摩子さんたちのもとに戻って行った。そのまま一団は、志摩子さん先導で校舎にぞろぞろと吸い込まれていく。
すると、あら不思議。あんなにたくさんの生徒で埋め尽くされていた中庭が、今はほとんど人影もなくガランとした印象に変わってしまったのであった。
校舎への出入り口と薔薇の館の玄関に広げておいた濡れ雑巾《ぞうきん》を摘《つま》み上げて、|つぼみ《ブゥトン》二人は薔薇の館に入った。
「瞳子ちゃんだけれど」
階段を上りながら、由乃さんが言った。
「ん?」
「来なかったでしょ、祐巳さんの所に」
一瞬何のことだか首をひねったが、由乃さんが振り返って籠《かご》を掲《かか》げたので、参加賞のチョコレートを配った時のことを言っているのだとわかった。
「ああ、そういえば」
チョコを受け取る瞳子ちゃんの姿を、確かに祐巳は見なかった。
「そういえば、じゃないわよ。あの子、私の籠からチョコ取って帰っちゃったわよ。何なの、あなたたち」
「何なの、って?」
怒ったような呆《あき》れたような顔でギシギシと階段を揺らしていく友を、祐巳はあたふたと追いかけた。
「今さっき、姉妹《スール》になるのならないのって、みんなの前で大騒ぎしていた二人がよ? その後なーんにもなしって、そりゃないでしょうが」
と言われましても。
「今度はあっちから告白してきたんだよ。さっさとロザリオ渡して、イチャイチャとかイチャイチャとかイチャイチャとかイチャイチャとかしなさいよ、このっ」
祐巳が上りきるのを待って、由乃さんは後ろから祐巳の首に腕をかけて締め上げた。
「痛たたたた」
二人の籠から、チョコレートがバラバラと床に落ちた。
ギブアップ、と雑巾を放した右手で由乃さんの腕を叩くと、やっと力を抜いてもらえた。それで解放してもらえるかと思いきや、今度はそのまま滑るように両手を前から首に回して抱きついてきた。
「……良かったね、祐巳さん」
耳もとで、そう囁《ささや》かれた。
「うん」
身体《からだ》を離して、ほほえみ合う。喜びは倍に、悲しみは半分に。こんな風に自分のことのように心配してくれているんだから、友達ってありがたい。
「よーし。それじゃ、さっさと部屋を片づけて、教室で待ってる令ちゃん迎えに行って帰ろうー、っと」
感情を全身で表現して満足した由乃さんは、その言葉通り「さっさと」部屋に入っていった。
「……やれやれ」
二階の廊下《ろうか》に取り残された祐巳は、床に散らばったチョコレートをかき集めて籠に収め、雑巾《ぞうきん》を拾ってからビスケット扉に向かった。
「何やってるの、遅いよ」
部屋の中から、由乃さんの声が聞こえてきた。
チョコレートは置いてくるべきだったと気づいたのは、昇降口を出てすぐのことだった。
「お姉さま」
乃梨子《のりこ》は、前を歩く志摩子《しまこ》さんにつつつと近づくと、腕に掛かっていた籠の持ち手をつかんで自分の腕へと滑らせた。多めに用意してあったから、まだ中には二十個近いチョコが残っていた。
「あ」
志摩子さんも、思わず笑った。やはり、今の今まで籠の存在を忘れていたらしい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
志摩子さんのほほえみは、乃梨子を動かす上での良質のエネルギー資源である。由乃《よしの》さまや祐巳《ゆみ》さまに冷やかされようとも、お姉さま大好きを返上する気持ちはさらさらないのだ。
だから、答え合わせに向かう真美《まみ》さまに「どうする?」と聞かれて、もちろん「行きます」と即答した。志摩子さんが仕掛けた白いカードのからくりが皆の前で解き明かされる瞬間には、是《ぜ》が非《ひ》でも立ち会いたかった。
もちろん、瞳子の告白に対して祐巳さまがどう答えるのか、気にならないと言えば嘘《うそ》になるけれど、こちらがやきもきしたってどうにもならない。なるようになるだろうし、ここまで来て丸く収まらないはずがない。いや、そろそろ収まってくれないと困るってものだ。
乃梨子は籠を預かると、しばらくその場に立ち止まって、白いカードの答え合わせに向かう一団を見送り、再び列の最後に戻った。主役の志摩子さんの側で妹がチョロチョロして、参加者の目障《めざわ》りになりたくなかった。
「まるたのくしうさぎ」
目の前を通り過ぎる生徒たちの会話が、耳に届いた。
(丸太の串うさぎ?)
何じゃ、それ。そう思いながらも、同時にものすごく太い串に刺さったウサギの丸焼きのイメージ映像が、乃梨子の頭にどどーんと浮かんだ。
丸太の串うさぎ。誰か有名料理人の創作料理か。
しかし、丸太と呼ばれるほどの太さの串に刺さるようなうさぎ、っていったい――。以前テレビで視た、食用に改良された大うさぎだってせいぜい中型犬くらいの大きさだったぞ。
「たのしくうさぎまる」
続いて聞こえてきたのは、こんな言葉だった。
(楽しくうさぎ|○《まる》?)
それとも「楽しく兎丸」だろうか。どちらにしても愉快な映像が浮かぶ。満月に浮かれて、兎のダンス。
「たくまのしるうさぎ」
(琢磨《たくま》の汁うさぎ?)
やはり創作料理か。「因幡《いなば》の白兎」に、ちょっと似ているが――。
そこまで考えて、乃梨子は「ああ」と気づいた。みんなはまだ、志摩子さんのカードの隠し場所を推理することをやめていないのだ。タイムアップの時点で、薔薇《ばら》の館《やかた》に届いたヒントは七つ中六つだったことは|紅薔薇さま《ロサ・キネンシス》の証言によって明らかだったが、今はずっと外で探し回っていた人たちも合流してすべてのヒントが揃《そろ》った。それで、文字と絵を並べ替えて、答えを考えている。
残念ながら「丸太の串うさぎ」も「楽しくうさぎ|○《まる》」も、正解ではない。「琢磨の汁うさぎ」に至っては、もう文章としてわけがわからない。第一、それらを手がかりにしてどこをさがせというのだ。少なくとも、高等部校舎付近にはうさぎ小屋はない。
「あのイラスト、うさぎでいいんだよね。それとも、何か別の読み方するのかな」
その言葉には、ちょっと乃梨子も堪《こた》えた。
(その通りです。ただの「うさぎ」と読んでは解けません。下手《へた》くそで、すみません。実は私が描きました)
本当は練習してもっと上手に描けるようになったのだが、由乃さまが「あまりわかりやすいとすぐ見つかるから」って、一番最初にうろ覚えで描いたのを出してしまったのだ。もし志摩子さんのカードが見つからなかった原因の多くが、この絵のせいだったとしたら、そう思うと申し訳なさでいっぱいだった。
図書館の脇を通り過ぎ、銀杏《いちょう》並木に出た。「うさぎと読んではいけないうさぎのイラスト」は置いておいて、ひとまずヒントとして出ている文字は六つ。
『く・し・た・の・ま・る(五十音順)』
さすがにここに至って、ここにある「ま」がマリア像の「ま」であるとは誰も思わない。いわんや、二股《ふたまた》の分かれ道の「ま」や「た」であるなんて考えつく人をや。だから近くを通ったって、完全スルーだ。
しかし歩いていけば、徐々に目的の場所へと近づくわけで。また、歩きながらの文字の並べ替えも、次第にいい線まで近づき、相乗効果であちらこちらから「あ」とか「もしや」とかの声があがってきた。
(そう。正解です)
校門の手前、守衛さんたちの待機所の後方にあるスペースが、駐車場だ。
白いカード救出部隊は、今まさに出車するところだった青い車を見送ってから、中に入った。
「志摩子さんの目論見《もくろみ》、ドンピシャだったわね」
駐車場の様子を見て、感慨《かんがい》深げに真美さまがつぶやいた。
「……本当」
二人の視線の先を追って、答え合わせに集まった生徒たちは一斉にダッシュする。乃梨子もあわてて飛び出した。手かごがちょっと邪魔《じゃま》だったけれど、チョコが落ちないように上から手で押さえて走った。
「はりきっているわね」
追い抜く時、真美さまに笑われた。真美さまも志摩子さんも、のんびりと歩いている。もちろん、乃梨子だってどこに隠したかということは知っているから、今更《いまさら》焦って答えの場所に行く必要はないのだ。けれど、それが今どんな状態にあるかは確かめたい。
現在駐車されている車の数は、さほど多くなかった。入って奥、つまり壁側が教職員用の駐車スペースだった。
「……」
その場所に到着すると、先に来ていた生徒たちが呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
(志摩子さんの勝ち)
乃梨子は心の中でガッツポーズをした。
教職員用の駐車スペースの一カ所、車一台分の長方形の枠《わく》の中には、クラフトテープで二カ所固定された透明ビニール袋がある。ビニール越しであっても、間違いない。中に入っているのは――。
「白いカードだ……」
誰かが言った。
「でも、私、一通りこの辺りも見回したけれど、さっきはこんな風には」
別の一人が、呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「宝探しの最中にここに駐車してあった車が、移動したということよ」
背後からの声に振り返れば、そこにいたのはやっと追いついた真美さま。並んで、志摩子さんも立っていた。
「というわけで、もう答えはおわかりね」
「……車の下」
「それだけじゃ、八十点」
その採点方法の基準はわからないけれど、真美さまはクラフトテープを剥《は》がして、カードの入ったビニール袋を地面から拾い上げた。
「さすが運転上手の青田《あおた》先生。一切《いっさい》タイヤの跡がついていないわ」
「青田……、あっ、ミッフィーちゃん!」
「そ。ミッフィーちゃん、というわけで青田先生の車の下が正解」
指をさされた所を見ると、車止めになっているコンクリートの突起部分に白いペンキで「アオタ」と書かれている。
青田先生のニックネームは、「ミッフィーちゃん」である。現在中等部の教諭なので、高等部からリリアン女学園に入学した乃梨子は習ったことがなく、失礼ながら未だ顔も知らなかった。
だから事前の会議で、生徒によっては有利不利があるのではないかとの意見も出たが、今年度の二学期にリリアンかわら版に載った青田先生の記事(「教えて! ○○先生」)において、プロフィールに「ミッフィーちゃん」と明記されていたため、GOとなった。
ちなみに、青田先生本人はこのことを知らない。新聞部の一年生が、スタート直前の、真美さまがルール説明をしている頃に、駐車場まで走って青田先生の車の下に忍ばせたのだった。それにしても、青田先生がイベントの最中に帰宅しないでくれて助かった。もし、早々に帰られていたら、「青田先生の車の下」ではなく、「青田先生がいつも車を停めている場所の地面の上」になってしまうところだった。
「宝探しの最中は、中等部の生徒たちが違反しないか気になって、帰るに帰れなかったんでしょうね。で、無事終了したのでお帰りになった」
それを見越して、志摩子さんに抜擢《ばってき》された青田先生の車。まさに、ドンピシャ。引き潮と満ち潮の喩《たと》え通り、時間によって隠した場所の表情がかわった。
「あーっ」
突然、一人の生徒が叫んだ。
「さっきの青い車!」
「そうよ。運転していたの、確かにミッフィーちゃんだった!」
口々に飛び交う言葉は、もちろん「悔《くや》しさいっぱい」ではあるけれど、それを口にする人の表情からは驚きだの愉快《ゆかい》だのが多分に含まれていた。
――面白くしたいの。
それが志摩子さんのテーマだったから。これは、大成功と言っていいだろう。
(なるほど)
青田先生ってあんな顔をしているんだ。
「ほんと、ブルーナにそっくりじゃない」
さっき駐車場を出ていった車に乗っていた中年男性の顔を思い出して、乃梨子が感心していたら、志摩子さんが側に寄ってそっと手を握ってきた。
(あ)
口に出さないけれど、「協力してくれてありがとう」って言っているのがわかった。
志摩子さんの手は、温かくて、やわらかくて、このままずっとつないでいたい。
(まずい)
籠《かご》の中のチョコレートが全部とけてしまいそうだ。
駐車場が盛り上がっている。
横目で眺めながら、感慨《かんがい》深げに令《れい》ちゃんがつぶやく。
「志摩子《しまこ》のカードが、青田《あおた》先生の車の下にあったとはね」
もう何度目だろう。
「去年の私たちは、そんなこと考えもしなかったな」
それはもう聞いたよ、と由乃《よしの》は心の中で突っ込みを入れたが、口には出さなかった。
令ちゃんの手には、紙の手提げ袋。その中に入っているたくさんのチョコレートの一番上には、市販品に一手間《ひとてま》加えただけのお粗末《そまつ》なチョコレートが、後生《ごしょう》大事にのせられていた。
「静かだね、由乃。もう怒っていないの?」
校門をくぐってから、令ちゃんが聞く。
「まだ怒っているよ」
「えっ」
「怒るのも疲れちゃっただけでさ」
由乃が言うと、令ちゃんはちょっとガッカリしたように、「そっか」とため息を吐いた。
本当のところを言うと、怒っているんだか怒っていないんだかもわからなくなってしまったのだった。それでも、祐巳《ゆみ》さんと一緒《いっしょ》にたくさんのカップをガーって洗って、「後は明日」って薔薇《ばら》の館《やかた》を飛び出したのは、ひとえに教室で待っている令ちゃんに会いたかったからだ。それを素直に口にすれば、令ちゃんを喜ばせられることくらいわかっている。なのに、それを言ってはあげない。「怒るのも疲れた」なんて意地の悪い言葉を吐いて、ガッカリさせてしまった。
本当に疲れているのは受験生の令ちゃんの方なんだから、やさしい言葉をかけたり、労《ねぎら》ったりするのが身近にいる者の務《つと》めなんだろうに。どうして自分はこんな風にしか接することができないのだと、ほとほと嫌になる。実を言うと、静かなのはそういう自己|嫌悪《けんお》に因《よ》るところもかなり大きい。
「そっか」
もう一度、令ちゃんはつぶやいた。疲れているから無口なんだ、そう思われたくなくて、あわててしゃべり出した言葉も、ピッタリ自分サイズの縦穴を掘る結果になったりするから厄介《やっかい》だ。
「今は重いから持たせてあげるけれど、その袋に入ったチョコレートは受験が済むまで私が預かっておきますからね。令ちゃんのことだから、渡したら最後、包みを開いて中身を確認したり、手紙を読んだりして、バカみたいに二時間や三時間は平気で潰《つぶ》しちゃうに決まっているんだから」
ほら、やっちゃった。「持たせてあげる」って何様《なにさま》だ、って。令ちゃんが包みを開いたり手紙を読んだりしちゃいそうなのは、バカなんじゃなくて、単純にやさしいからってわかってるくせに。どうして憎まれ口になっちゃうんだろう。
由乃は、足下に落ちていた小石を黒い靴《くつ》の先で蹴《け》った。小石はコロコロと転がって、学校の高い塀《へい》に当たって動きを止めた。
令ちゃんはやさしい。それは、由乃が一番よく知っているのだ。
「うん。ありがとう」
令ちゃんが言った。
「何が、ありがとうなの?」
由乃は片眉《かたまゆ》を上げた。心で思っただけで、「やさしい」なんてまだ言っていない。
「だって、そうやってぼやきながら、プレゼントしてくれた人のリストを作ってくれる気なんでしょ? 去年みたいに」
ううっ。この人ってば。どうしてこう、無邪気《むじゃき》に言っちゃうかな。
「……そういうことを気づくな、って」
由乃がうつむいて言葉を絞《しぼ》り出すと、「そっか」という呑気《のんき》な声が返ってきた。
「由乃がイライラするのは、そこなんだっけ」
これから気をつけるよ、と言った直後、令ちゃんは「あっ!」と大きな声を発した。
「な、何っ!?」
「お姉さまにも、『バレンタインチョコ・リクエスト受け付け券』を送るんだった!」
「……言ってる側からこれだよ」
令ちゃんの「細かいことを気にする性分《しょうぶん》」は、ちょっとやそっとじゃ治りそうもない。たとえ止《と》めたとしても、きっと今晩|江利子《えりこ》さまに『バレンタインチョコ・リクエスト受け付けます電話』をかけるに違いない。
仕方ない。
腹を立てながら、一生かけてつき合ってやるか。――夕日を見ながら、由乃はそう思った。
なぜって。
「由乃のチョコレートだけは、もらって帰っていいんでしょ?」
令ちゃんが言う。
「何を今更《いまさら》」
そんなの決まってるじゃない。
由乃は特別なんだ、って。
それだけは、絶対に揺らがない二人の間の真実なんだから。
由乃《よしの》さんは、「後は明日」と言って飛び出してしまった。
志摩子《しまこ》さんと真美《まみ》さんと乃梨子《のりこ》ちゃんは、白いカードを回収に行ったきりまだ戻ってこない。新聞部員たちも、イベント開始前に自分たちが配置した志摩子さんのヒントを片づけに行っている。
洗われたたくさんのカップが、水切り籠《かご》の中で伏せられ、したたる雫《しずく》を流し台の上に落としていた。ゴミ袋からは、お客さまの人数にカップの数が追いつかずに出した紙コップが、重ねられて顔を出している。
空《から》のバケツの縁《ふち》には、すすいできつく絞《しぼ》った雑巾《ぞうきん》数枚が、シワを伸ばして整然とかけられていた。
窓から差し込むオレンジ色の光の中、一つの綿埃《わたぼこり》がゆっくりと落ちていく。
さっきまでの賑《にぎ》わいが、嘘《うそ》みたいに静かだ。祐巳《ゆみ》は一人、部屋を見回してほーっとため息をついた。
| 兵 《つわもの》どもが夢の跡。
イベント、終わっちゃったなぁ、――と。お祭りの後は、寂しさがつきものだ。準備に忙しかった分、楽しければ楽しかっただけ、その余韻《よいん》にいつまでも浸《ひた》ってしまうもの。
「……帰るか」
祐巳はいらなくなったプリントの裏に、置き手紙を書いた。
『帰ります。後は明日』
志摩子さんたちが戻ってきても、後片づけは不要ですよ、というメッセージだ。
窓の鍵《かぎ》を閉めて、カーテンを引く。
籠に残ったチョコレートを一つ摘《つま》んで、ビニールを破って口に入れた。これは、今日よく頑張った福沢《ふくざわ》祐巳への参加賞だ。
薔薇の館を出て、校舎に入った。
少し回り道をして、一年|椿《つばき》組教室と二年|松《まつ》組教室を覗《のぞ》いてから下駄箱《げたばこ》に向かった。
もしかしたら、瞳子《とうこ》ちゃんが待っているかもしれない。そう思ったのだ。
「妹にしていただけませんか」という問いかけに対して、祐巳はまだ返事をしていなかった。だから、もしかしたら、と思っただけだ。
けれど、瞳子ちゃんはどちらにもいなかった。念のため瞳子ちゃんの靴箱《くつばこ》を開けてみたが、そこには上履《うわば》きがきちんと揃《そろ》えて置いてあった。
(そうだよなぁ)
約束していたわけではないのに、こんなに遅くなるまで待っていてくれるわけがない。
(でも)
瞳子ちゃんは祐巳の答えが気にならないのだろうか。最初に申し込んだのは祐巳だから、瞳子ちゃんのあの言葉で姉妹成立となるのだろうか。
(それとも)
瞳子ちゃんは言っただけで満足してしまって、答えのことなんかまったく思い出しもしなかった、とか。
「祐巳」
マリア像にお祈りをして目を開けると、そこには祥子《さちこ》さまが立っていた。
「お姉さま……」
「瞳子ちゃんと一緒《いっしょ》だったら、遠慮《えんりょ》しようと思っていたけれど」
そう言うということは、お姉さまはどこか人目につかない場所で祐巳がここを通るのを待っていてくれた、ということなのだろう。
「いいえ。私は一人です」
ニッコリ笑うと、祥子さまは「そう」とうなずいた。たぶん、あれ以降まだ瞳子ちゃんとは話す機会がなかったのだと、瞬時に理解したのだと思う。だからそれ以上瞳子ちゃんのことは口に出さず、「今日はお疲れさま」と言って祐巳と手をつないだのだ。
木々の間から見える駐車場には、すでに人影がなかった。祐巳が一年生と二年生の教室の梯子《はしご》をしている間に、志摩子さんたちは校舎の方に戻ったのだろう。行き違いになってしまったわけだ。
「お姉さま」
祐巳は、呼びかけた。
「なあに」
「もしかしたら、私のために、瞳子ちゃんに勝ちをお譲《ゆず》りになった、なんてこと――」
やさしい横顔を眺めていたら、ふと、そんな考えが頭を過《よぎ》ったのだ。お姉さまは、祐巳のことを一番に考えてくれる。祐巳が瞳子ちゃんを諦《あきら》めきれずにいて、瞳子ちゃんが歩み寄ってくれた今、二人のためにお膳立《ぜんだ》てをしてくれた、というのは考え過ぎか。
「違うわよ」
だが、祥子さまははっきりと否定した。
「確かにあれは、途中まで完全に勝てた試合だった。瞳子ちゃんさえ部屋に入ってこなかったら、勝者としてインタビューを受けたのは私だったはずよ。でもね、あの迫力に負けて一歩引いた時、勝負がついたの。だから、間違いなく勝者は瞳子ちゃんなのよ。私はただ、それを確認しただけ」
「そうですか」
「そうよ。変に勘《かん》ぐらないで。変な祐巳」
ちょっと早足になるお姉さま。つないだ手を離すまいと、懸命《けんめい》に追いかける祐巳。
バス停で立ち止まって、ふうと息をつく。
「本当、変な祐巳」
「お姉さま?」
「あなたがそんなことを言ったせいで、負けたことを思い出してしまったじゃないの」
「えっ」
祥子さまは、一度足を上げると思い切り地面を踏みつけた。
「……こちらも、思い出しました」
お姉さまは、負けず嫌いの性格だった。
[#改ページ]
不在者チャンスの彼女
翌日。
前日に緊張して椅子《いす》に座りっぱなしだったのが原因と思われる、軽い腰痛と筋肉痛を抱えて登校すれば、祭りの後に薔薇《ばら》の館《やかた》で「| 兵 《つわもの》どもが夢の跡」なんて一人|黄昏《たそが》れていたのが嘘《うそ》のように、リリアン女学園高等部は結構な騒ぎであった。
「聞いたわよ、祐巳《ゆみ》さん」
「へ?」
教室に入ると、四、五人のクラスメイトが取り囲んで、「ごきげんよう」もなしにいきなり切りだしてくる。
「松平《まつだいら》瞳子《とうこ》さんに、逆指名されたんですって」
「えっ」
机の横のフックに鞄《かばん》を引っ掛けようとして、思わず落としてしまった。
「あの?」
何だ何だ。床から鞄を拾い上げて、首を傾《かし》げる。
「惚《とぼ》けたって無駄よ。みんな知っているんだから。『私を、祐巳さまの妹にしていただけませんか』――って」
「およっ」
すっかり忘れていた。いや、瞳子ちゃんに「妹に」ってそう言われたことは決して忘れてはいない。忘れていたのは、それがかなりの人たちの前で行われた告白だったということだ。
人の口に戸はたてられない。ましてやこんなに旬《しゅん》でおいしいネタ、知ったら誰彼かまわずお知らせしたくなるのは人情。
「あの、それは」
逆指名ったって、発端《ほったん》は祐巳が瞳子ちゃんに「妹にならない?」と誘いかけたことに始まるわけで。まあ、一度は断られているから、その話はチャラになったといえばそれまでなんだけれど。
そんなこんなで、こちらサイドといたしましては、だから逆指名というより、むしろかねてから伝えていた祐巳の気持ちに応《こた》えてくれたという風に解釈しているというか。――でも、そんな事情まったく知らない人たちにとっては、それこそ降って湧いたような話なのだろう。ずいぶんと前、瞳子ちゃんは妹候補なんて噂《うわさ》されていたこともあったけれど、最近は薔薇の館にはとんとご無沙汰《ぶさた》だったし、何より先月行われた次期生徒会役員選挙に立候補したことにより、そんな目で見る人もめっきり少なくなっていた。
「で?」
「で、って?」
聞き返すと、みんなは目を輝かせて迫ってくる。
「もう、お返事はなさったの?」
「ええっ!?」
「妹にするの? しないの?」
「あ、あの……」
「姉妹《スール》になりたいのなら、祐巳さんのことを好きってことよね? なのにどうして、松平瞳子さんは今まで反抗的だったの?」
「そ、それは」
祐巳にだってわからないことを、聞かれても困る。
「やっぱり、あれかしら。嫌よ嫌よも好きのうち、って」
「まー、艶《つや》っぽい!」
「小さい男の子が好きな子をいじめる、的な?」
「まー、可愛《かわい》らしい!」
もう、祐巳をそっちのけで言いたい放題だ。こうなると、噂《うわさ》の本人がいようがいまいが関係ない。そっと抜け出しても支障《ししょう》がないと思われるが、何せ囲まれているからその「そっと」がなかなか難しい。
(えっと、何だったっけ)
以前、祥子《さちこ》さまに教えてもらった、こういう時の対処の方法。言いたいことがあったら、周囲の聞く態勢が整った時に一度だけはっきり言う。騒いでいる間は、柳に風。
だから、まだまだ終わりそうもない、周囲のおしゃべりに祐巳は耳を傾けてみた。
「松平瞳子さんって、演劇部なんでしょう? 今までの、全部演技だったりして!」
「きゃっ、助演女優賞!」
「主演じゃないの?」
「あら、だって主役は祐巳さんでしょ」
「違いないわ!」
(……だめだ。今回、お姉さま伝授の裏技は使えない)
聞く態勢なんてまったく整う気配はないし、第一、祐巳自身が彼女たちに何を伝えたらいいのか、さっぱりわからないのだ。
「それにしても、近頃の一年生って大胆《だいたん》よね」
「上級生に迫って、逆指名でしょ? 怖いもの知らず、というか」
「そうね、私たちの時代には考えられなかったことだわ」
なんて、年寄りの若者批判みたいな愚痴《ぐち》が出た時。
「それって、私のこと?」
背後から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
ピリピリとした言葉つきに殺気を感じて一同が振り返れば、そこには由乃《よしの》さんが厳《いか》めしい顔をして仁王立《におうだ》ちしているではないか。
「えっ」
誤解をとこうと、口を開いたクラスメイトの一人は。
「私たちが言っているのは……松平瞳子さんのことであって」
決して由乃さんのことではない、と言いかけたが口ごもった。
それは正しい。
「上級生を呼び出して、逆指名」
一年前の所行《しょぎょう》を、自らが披露《ひろう》するまでもない。由乃さんは、すでに一年生の時代に、噂《うわさ》の逆指名をしてのけた人であった。おまけに言うなら、それ以前にお姉さまにロザリオを突き返すという大技も経験済み。世に言う『黄薔薇革命』がそれである。
だから「私たちの時代には考えられなかった」どころか、これはすでに由乃さんが乱入済みの土地なのである。そして、その後を何人もの生徒がついていって引き返し、踏み固められてできた道だったのだが、最近はとんと忘れられて草ぼーぼーになってしまっていたから、すっかりみんなの記憶からこぼれ落ちてしまっていたのだ。
「……ごめんなさい。つい」
瞳子ちゃんへの批判、それはパイオニアたる由乃さんに向けられたも同じこと。それに気づいたクラスメイトたちは、素直に謝った。本当にそう思ったのなら別に謝ることもないのだけれど、もう面倒くさくなったのだと思う。由乃さん、ネチネチうるさいから。
「いいのよ。瞳子ちゃんがしたことなんて、大したことじゃないってわかっていただけたら」
ニッコリ笑う。それがまた怖い。
「ええ。……もちろん」
それぞれが後退りして、人の輪が崩《くず》れかけたところに。
「それじゃ、そろそろ祐巳さんをお返しいただいてもいいわね。これから、薔薇の館で反省会がありますの」
由乃さんが素早く輪の中に手を突っ込んで、その中心にいた祐巳の手をガッシリとつかんだ。そしてそのまま、あれよあれよという間に、教室の外に連れ出してしまった。
「反省会?」
それって、昼休みにやるって言っていなかったっけ。祐巳が尋《たず》ねると、由乃さんは「ばかね」と言った。
「方便よ。そうでも言わないと、あそこから抜けられなかったでしょ」
「あ、そっか」
祐巳が困っているのを見かねて、助けてくれたのだ。身を削《けず》って。
「ありがとう」
「どういたしまして」
反省会はともかく、昨日の片づけが中途|半端《はんぱ》だったから、朝のうちに薔薇の館へは行こうと思っていた。祐巳はコートを着たまま出てきてしまったが、「まあいいか」と由乃さんと一緒《いっしょ》に歩き出した。
「ところで、どうなっているの」
「どうって」
「瞳子ちゃん。何だかんだ言って、私もあの人たちと同じことしているわけだけれど。私にはいいでしょ」
そりゃ、いいけど。
「まだ、何も」
あの後、本人と会ってないし。たいして面白い情報は提供できない。
「電話は? ――って感じじゃないわよね」
「何だかね」
[#挿絵(img/27_057.jpg)入る]
もちろん、昨日帰宅してから三回くらいは電話機を見つめたまま一分程突っ立っていたりもした。でも、例えばプロポーズを電話でしたり、その返事をメールで送ったりするみたいで、結局は躊躇《ちゅうちょ》してしまった。遠距離恋愛している恋人同士ならともかく、ほぼ毎日同じ学園に通っているんだから、ちゃんと顔を合わせてするのが筋って気がした。もちろん、そんなこと気にしない人だってたくさんいるんだろうけれど。
「待ってなさい。私が、ひとっ走り一年|椿《つばき》組に行って、瞳子ちゃんを連れ出してきてあげる」
突然、由乃さんがそう言ったかと思うと、一年生の教室目指して方向転換した。
「ちょっ……。いいわよ、やめて」
祐巳は、あわてて腕をつかんで引き戻す。
「だって。あっちが投げかけてきたんだから、今度はこっちの番でしょ。毎度っ、昨日の返事を聞きに来ました、なんてうちのクラスに陽気に来られると思う? この状況でさ。いくら、大胆で怖いもの知らず[#「大胆で怖いもの知らず」に傍点]の瞳子ちゃんだって」
「……うん。まあ」
そりゃそうだけれど。
「でも、この状況だからこそ、っていうのもあるでしょ」
「妹にしていただけませんか」と言われた祐巳が、あれだけクラスメイトに質問攻めにあったのだから、言った本人はどれだけ大変な状況になっているだろう。そんな時にまた別の刺激が加われば、いったいどうなってしまうことか。
「なるほど。私が動けば、ますますこんがらがるか」
由乃さんは、納得して引き下がってくれた。上履《うわば》きの向きを再び変えて、針路を薔薇の館に定める。
「ごめん。親切で言ってくれてるのに」
「いいって。その代わり、何かして欲しいことができたら、声かけてね」
「うん」
例えばこんな風に。ほんの一か二くらいの言葉から、十も二十も察してくれる。そんな時、友情って進化していくものだなぁ、と感じる。
薔薇の館の中には、すでに白薔薇姉妹と真美さんがいた。
反省会は昼休みということになっていたけれど、やっぱりみんな気になって来てしまったのだろう。昨日は人の出入りが多かった割に、大雑把《おおざっぱ》な片づけしかしていなかったから。
「あの、祐巳さん?」
志摩子さんが、ためらいがちに聞いてくる。――あの後どうなったの、と。
目の前であれを見せられた人としては、結果が気になるのは当たり前だ。乃梨子《のりこ》ちゃんも、真美さんも、それぞれ別の場所を片づけていたのに、その話題に素早く反応して駆けつけた。奇《く》しくも、瞳子ちゃんが「妹にしていただけませんか」と言った場所もここ、薔薇の館の二階だった。
みんなに心配かけているなぁ、と申し訳なく思いつつ、だからといってない話[#「ない話」に傍点]を出血大サービスとばかりにてんこ盛りで提供するわけにもいかないから、由乃さんに言ったのとほぼ同じことを報告し、プラス、ここに来る前の出来事も付け加えた。新聞部の真美《まみ》さんがいたけれど、構わなかった。勝手に記事にはしないはずだ。
「そう」
志摩子さんはうなずいた。うなずいて、「いい形でまとまるといいわね」と言った。
「瞳子のことですが」
乃梨子ちゃんが言う。
「登校しているようなんですが、教室の中にはいませんでした。祐巳さま由乃さま、うちのクラスまでいらっしゃらなくて正解でしたよ。結構な騒ぎになってましたし。私まで、クラスのみんなに取り囲まれましたもん」
思った通り、一番大変そうなのは瞳子ちゃんのようだった。
誰も口にはしなかったが、早くロザリオを渡して、正式に姉妹《スール》となった方がいいのかもしれない。
昼休み、薔薇《ばら》の館《やかた》で反省会が行われた。
メンバーは、薔薇ファミリーから次期薔薇さまの二年生三人と乃梨子《のりこ》ちゃん、そして新聞部員たち。
実際にイベントを行ってみて良かった点、気になった点、改善すべき点、今のところ先生や生徒たちから寄せられた苦情などを、出し合って箇条書《かじょうが》きにする。昨日の今日なのですべて出そろいはしないだろうが、取りあえず取れたて生々《なまなま》の意見を集めておこうというわけだ。時間をおいて、参加者たちにアンケートなどもとる予定だ。
反省会なんて、あまり面白そうじゃないんだけれど、仕方ない。由乃《よしの》は竹輪《ちくわ》とチーズの唐揚《からあ》げを咀嚼《そしゃく》しながら、右から左から飛び交う活発な意見をぼんやりと聞いていた。
「あの。細かいことですけれど、紅いカードが、ちょっとシワっぽくなったかも」
祐巳《ゆみ》さんが手を上げて、発言した。座布団《ざぶとん》とお尻で約一時間プレスされて、出てきたとき何となく縒《よ》れていた気がする、というのだ。ああ、本当に細かい細かい。
「松平《まつだいら》瞳子《とうこ》さんが希望されたら、差し替えましょう。お手数だけれどその時は祐巳さん、カードを書き直してくれるかしら?」
真美《まみ》さんが、祐巳さんに確認を取るのを横目で眺めながら、由乃は横からつぶやいた。
「瞳子ちゃんが『取り替えてください』なんて言うわけないじゃない。祐巳さんが、ずーっと温めていたカードなんだよ?」
祐巳さんもチラリとそう思ったらしく、満更《まんざら》でもない顔をしてみせたが「でも、物事に絶対ということはないから」なんて真顔に戻ってしまった。最近の祐巳さんは、すぐに「ちゃんとするモード」になる。お陰で、ちょっと退屈だったから茶々を入れた自分が、かなり幼稚《ようち》に映ってしまうのだ。
とにかく瞳子ちゃんには、乃梨子《のりこ》ちゃんから聞いてもらうことになった。来年以降同じ場所に隠す可能性はかなり低いので、この場では「お尻と座布団《ざぶとん》の間で紙が縒《よ》れないための対策」は、特にたてなかった。
「黄色いカードですが。隠し場所はともかく、範囲内とか範囲外とかの説明が今ひとつわからなかったという意見が。列の後ろの方までは、なかなか伝わらなかったみたいです」
黄色いカードという単語に、由乃はちょっとドキッとした。
「わかりました。リリアンかわら版で、図面入りでフォローの記事を。紅いカード、白いカードについても同様に詳しく説明しましょう」
真美さんが黙々と処理する。
「タイムアップから回収に行くまでの間、しばらく白いカードが放置されていたわけですが、その間に誰かに見つけられて持ち帰ってしまわれる危険もあったわけで、やはり誰か見張りについているべきだったのでは、と」
「では、終了を知らせる放送と同時に、スタッフが回収してきてしまうとか」
「でも。そうすると、終了間際にスタッフがいる場所が、カードの隠し場所だと教えているようなものでは?」
「答え合わせには、やはり参加者を証人として連れていきたいわね」
(ふーむ)
――他、大きいのから小さいのまで、お昼ご飯を頬張《ほおば》りながら、様々な意見が飛び交った。本当に、皆さま真面目《まじめ》なこと。
「では、そろそろ」
食後の焙《ほう》じ茶が回された頃、真美さんがきっかけを出すと、乃梨子ちゃんが部屋の隅から段ボール箱を持ってきた。
本日のメインイベントといっていい、不在者チャンスの箱の開封である。待ってました、と由乃も手を叩いた。つまらない反省会を我慢していたのは、ひとえに不在者チャンスを開く瞬間を待っていたからだ。
箱は、宝探しが始まる直前に封をしたままの姿でそこにある。真美さんは投函口《とうかんぐち》ではなく、箱を逆さにした部分のもう一つの封(やはりクラフトテープとマジックペンで封印されていた)を破いて、中に入っていた紙をテーブルの上に出した。
「見るポイントは二カ所。まずは、名前の欄《らん》。田沼《たぬま》ちさとさんと松平瞳子さんの名前でないこと。もう一つは、場所。駐車場とか車とか青田《あおた》先生とか、ちょっとでも引っかかるキーワードが書かれていたら、残しておいて」
真美さんの指示にうなずき、みんなでひたすらより分ける。ポストに入れやすく用紙を折ってある物が多く、開くのになかなか手間取ってしまう。
(名前、名前……っと)
由乃もその欄に目を走らせる。
(飯田《いいだ》、坂下《さかした》、松永《まつなが》……ああっ、これもあれも違う)
由乃の場合、チェックする苗字《みょうじ》は三つ。田沼《たぬま》、松平《まつだいら》、そして有馬《ありま》だ。
(菜々《なな》。よもや不在者チャンスにエントリーしていない、なんてことはないでしょうね)
わざわざ中等部の校舎まで、宝探しのことを教えに行ってやったのだ。思いっきり食いつく、とまではいかなかったけれど、「それは楽しそうですね」と言っていたのだ。いや、「楽しいかもしれませんね」だったかもしれない。
(有馬、有馬、有馬はどこだ)
こうなったら、すべて自分でチェックしたいくらいだ。
もちろん、今更《いまさら》黄色いカードの正解が書かれている菜々の用紙を見つけたとしても、勝者が田沼ちさとに決まった以上はどうなるものでもない。それでも、由乃は知りたかった。菜々が、どこまで由乃のことをわかっているのか。由乃の考えに近づいていたのか。
「由乃さん、ちゃんと見てる?」
祐巳さんがコソコソッと囁《ささや》いた。
「何か、早くない?」
「あ」
名前だけ見ていたことを思い出して、舌を出す。でもシャクだから、間違いを認めない。
「まず名前だけをバーッとチェックして、それから場所って分けて見ているのよ」
適当なことを言って、見終わったつもりで横に置いておいた紙の束を、もう一度引き寄せる。
(古い温室のじょうろの中、校舎非常口の足ふきマットの下)
そんな所にないっていうの。心の中で突っ込みを入れながら、場所の欄を読む。正解を知っている由乃の目でみんなの予想を見ると、失礼ながらちょっと笑っちゃう。
「由乃《よしの》さん」
志摩子《しまこ》さんが、一枚の紙を差し出した。
「気になっているのは、これ?」
「これ、って?」
急いで飛びつく。
「……」
しかし。
「これは」
そこに書かれていた名前を読んで、いろんな意味で戸惑った。
――支倉《はせくら》令《れい》。令ちゃんの応募用紙だ。
「違ったの?」
志摩子さんが顔を覗《のぞ》き込んできた。
「ううん。ありがとう」
令ちゃんのこと、今の今まで忘れていた。その存在じゃなくて、令ちゃんも不在者チャンスに応募していたことを。
「図書館|閲覧室《えつらんしつ》の――」
ああ、何て単純な。令ちゃんが自信満々の時の筆跡で書かれていた隠し場所は、去年由乃が探し回った料理本や手芸本の置いてある棚《たな》、実用書のコーナーだった。
(去年のお返しのつもりか)
本当にばかなんだから。実用書のほとんどは禁帯出本《きんたいしゅつぼん》じゃない。去年隠す立場だったのに、そんなことさえ気づかないなんて。
ため息をついて、作業を再開した。
(武道館の畳《たたみ》の下? この一年生、私ファンか)
ちょっと機嫌が良くなる。
(職員室の前の壁)
惜《お》しい。もし黄色いカードが不在者チャンスに回ることがあったら、間違いなく候補にあげるところだ。けれど、今回は白いカード。駐車場の青田先生の車の下に、一番近い場所を書いた人を探さなければならない。
(でも、そんな所を書く人なんていないだろうな。駐車場とかだけでも難しいよ)
そう思ったその時。
「あっ!」
由乃は思わず叫んだ。
「ど、どうしたの」
みんなの視線が集中する。
「こ、これ」
由乃はその用紙を、真美さんに差し出した。
井川《いがわ》亜実《あみ》。
そんな、誰とは知らない高等部一年生の名前の下には。
「職員用駐車場の車の下」とはっきりと書かれてあった。
「井川《いがわ》亜実《あみ》さんいらっしゃるかしら」
一年|桃《もも》組教室の入り口で、志摩子《しまこ》は近くにいた生徒を呼び止めて尋《たず》ねた。
知らない人を訪ねるのは、少々緊張した。けれど、去年まで学んでいた教室ということもあって、懐かしいという感情がわずかながらも胸の動悸《どうき》を押さえてくれるような気がする。
「はっ」
その生徒は、志摩子の顔を見ると、一瞬顔を強《こわ》ばらせ、それから「お待ちを」と言って教室の奥へ向かって走っていった。逃げる、と表現するのが一番近いような感じだった。
驚かせるつもりはないのに。やはり上級生は、それだけで恐ろしい存在なのだろうか。
(わからなくもないけれど)
志摩子がこの教室で学んでいた頃、時折訪ねてきたお姉さまや祥子《さちこ》さまなどに声をかけられると、クラスメイトたちはまるでロボットのような動きをして、志摩子の所へ歩いてきて棒読《ぼうよ》みのようなしゃべり方で取り次いでくれたものだ。
やはり、一人で来て正解だったかもしれない。
当初は、真美《まみ》さんや同じ一年生ということで乃梨子《のりこ》がついてきてくれるという案も出た。けれど、まだリリアンかわら版に発表される前であることから、できるだけ目立たないようにというわけで、志摩子が一人その役を引き受けたのだ。昼休みに薔薇《ばら》の館《やかた》にいたメンバー全員が、その人の名前も顔も知らないのであるなら、ここは半日デートをする本人が会って今後の話をするのがよかろう、とそういうわけだ。
午後の授業の後の、清掃《せいそう》時間もそろそろ終わりという時間帯だった。取り次ぎを頼んだ生徒がすぐに戻ってこないところを見ると、井川亜実さんは教室の中にいるのだろう。視線を向ければ、窓際でさっきの生徒が一人の生徒に何か話をしている。
(あの人かしら……?)
距離が離れているし、耳から落ちたセミロングの髪で隠れていたので、顔はよくわからなかった。二人がいくつかの言葉をやり取りした後で、やっとその人がこちらに向かって歩いてきた。
「井川亜実です」
気のせいだろうか。一瞬、志摩子はこの人とどこかで会ったことがあったような気がした。
「ごきげんよう」
「私にご用とは」
「不在者チャンスに応募されたわね? その件で」
志摩子の言葉を聞くと、亜実さんは「ちょっとよろしいですか」と言って廊下《ろうか》を歩き出した。
「え?」
何が何だかわからないけれど、とにかく話をしなければならない相手が背中を向けるので、あわてて追いかけた。結構な早足で、これではまるで、二人はまったく別の用事で廊下を歩いている人たちみたいだった。
「すみません。人目につきたくなかったので」
着いた先は、非常口から出た、非常階段の踊り場だった。確かに、こんな寒い季節、風に吹かれて語らうような人は近くにはいない。
「私のクラスに、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》のファンが多いんです。私が不在者チャンスで勝ったと知ったら、みんなに恨《うら》まれてしまいます」
「選ばれたこと、あなたにはわかっているみたいね」
志摩子は二の腕を押さえながら尋《たず》ねた。やはり、外は寒い。
「ええ。もしや、程度ですけれど」
そのしゃべり方は、淡々というよりむしろぶっきら棒《ぼう》。もしや、「もしや」が当たって、困惑しているのだろうか。
「白いカードの隠し場所は駐車場だったと、今朝《けさ》クラスメイトたちが噂《うわさ》していましたから。それで」
愛想なんて期待していなかったけれど、こうも素《そ》っ気《け》ないと、日頃あまり邪推《じゃすい》などしない志摩子であるが、さすがに勘《かん》ぐってしまう。こうして直接訪ねてこられたのが、彼女にとって迷惑だったのだろうか、と。
考えてみたら、不在者チャンスには隠してある場所の予想だけで、具体的にどのカードが隠してあるかを書く欄《らん》はない。ここにいる井川亜実さんが「職員用駐車場の車の下」と書いた時に思い浮かべていたのは、黄色いカードだったかもしれないし、あるいは紅いカードだったかもしれないのだ。
「それで……、この白いカードと半日デート権は――」
一応、確認してみることにした。いらないと言われた場合どうするかまでは真美さんに指示されていなかったけれど、その場合次点の人が繰り上がるのが順当と思われる。しかし。
「もちろん、それはいただきます」
亜実さんは答えた。
「えっ、あ、そう」
その権利は、行使するらしい。次々に繰り出される予想外の反応に、志摩子は目が回りそうだった。
「せ、生徒手帳を見せていただけるかしら。形式的なことだけれど」
カードを渡す時は、本人確認をするようにと言われている。すでに、昨日のイベントに実際に参加した人の申し込み用紙の中に、「井川亜実」という名前がなかったことは確認されている。目の前にいるこの一年生が、井川亜実さん本人であることが証明された時点で、白いカード保持者として認定される。つまり、黄色いカードの田沼《たぬま》ちさとさんや紅いカードの松平《まつだいら》瞳子《とうこ》ちゃんと、同じ立場の人となるのだった。
「はい」
亜実さんはポケットから生徒手帳を取り出して、志摩子に見せた。
表紙を開いたそこには「一年桃組二番 井川亜実」とはっきり書かれている。
「結構よ。ありがとう」
うなずくと、亜実さんは生徒手帳をしまった。
「今後のことなのだけれど」
志摩子の言葉に、「そのことで」という声が被《かぶ》さった。
「え?」
「……そのことで、お願いが」
何かしら、と亜実さんに聞き返せば。
「できましたら」
またもや思いも寄らない話が、志摩子の耳に届いたのだった。
[#改ページ]
思いがけない言葉
志摩子《しまこ》さんが、ため息をついている。
「どうしたの? 何たら[#「何たら」に傍点]亜実《あみ》さんに会えなかったの?」
薔薇《ばら》の館《やかた》に来てからこっち、気が抜けたように椅子《いす》に腰掛けている姿を見て、祐巳《ゆみ》は声をかけた。
昼休みに不在者チャンスの箱を開けて、白いカードとその特典を手に入れられる人を決定したところで時間いっぱいになってしまった。そこで、志摩子さんとその勝者のご対面会は放課後、ということになった。そこまでは、祐巳も知っている。志摩子さんは当選者の申込用紙を受け取って、わずかに頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させていた。まるで、「お見合いが決まった娘さん」みたいだった。
そこから約二時間後。志摩子さんの身に、何があったというのか。
薔薇の館に来るのがいつもより遅かったから、その人と話が盛り上がっちゃったりしていたのかなと、勝手に想像していたのだが。この様子では、そうではないようだ。
「井川《いがわ》亜実さんよ。会うには会えたのだけれど」
「けれど?」
「……予想以上に大変というか」
「大変って?」
オウム返ししながら、「何が」と考える。その、井川亜実さん自身に問題があるのか。それとも、具体的には思い浮かばないけれどその周辺に不都合があるのか。はたまた、志摩子さんとの相性《あいしょう》の問題か。
「何がどうって、うまく説明できないのだけれど」
志摩子さんは、またため息をついた。
「ああ、まどろっこしいわね。はっきり言いなさいよ」
由乃《よしの》さんが、軽くだけれどテーブルを何度も叩いた。
「いったい、何が志摩子さんの気に障《さわ》ったの」
「気に障った、なんて言っていないわよ」
そこの所は、きっちりと訂正する志摩子さん。側で乃梨子《のりこ》ちゃんが、大きくうなずいた。志摩子さんが指摘しなければ、自分が言うつもりだったのだろう。
「志摩子さんは、その井川亜実さんに会えたんだよね?」
祐巳が確認すると、志摩子さんは「ええ」と答えた。
「白いカードは? 渡してきたの?」
「渡してきたわ。生徒手帳も見せてもらったし」
手はず通りだ。ここまでは、何の問題もなかったように思われた。
「それで、今後のスケジュールを話そうとしたら」
「したら?」
「今後は教室に訪ねてこないでもらえないか、と言われてしまったの」
「えっ!?」
誰もが耳を疑った。
「教室に訪ねてくるな、って。じゃ、どうしろって言うの。自分から志摩子さんの教室を訪ねる、ってこと?」
志摩子さんは、首を横に振った。
「定期的に会う場所を決めておくのはどうか、って提案されたわ。例えば、放課後に図書館の閲覧室《えつらんしつ》のどこそこの棚《たな》の前、とか」
「何それ」
由乃さんが顔をしかめた。もちろん祐巳も、同じような顔をしていたに違いない。
「とにかく人目につきたくないみたいなの。私と一緒《いっしょ》にいるところを」
けれど、半日デートのプランを一緒に立てなければならない志摩子さんと、会わないわけにはいかない。それで図書館の閲覧室、と。確かにあそこに来ている人たちは、自分の世界に没頭《ぼっとう》しているから、他人のことなどいちいち気にしたりしないかもしれない。
「だったら、薔薇の館に来てもらったら?」
すると志摩子さんは、言いにくそうにつぶやいた。
「薔薇の館で明日行われる説明会にも出たくない、……と」
「ええーっ!?」
どこの一年生さまだ、そいつは。そんな横柄《おうへい》な態度に対しては怒っていい。怒っていいはずなのに、なぜか脱力感が襲ってきた。
「なるほど」
由乃さんがつぶやいた。
「志摩子さんのグッタリの原因がわかったわ」
「……うん」
恐るべし、井川亜実ウィルス。インフルエンザなんて目じゃないほどの感染率。瞬《またた》く間《ま》に薔薇の館の二階に蔓延《まんえん》し、百パーセントを発症させた。症状は、虚脱《きょだつ》、ため息、倦怠感《けんたいかん》。
「ごきげんよう。あれ? どうしたの、皆さん。元気がないわね。昨日の疲れが、今頃出たのかしらー?」
少し遅れてやって来た真美《まみ》さんが、活気のない薔薇の館の面々を見て、明るい声をあげた。元気でいられるのは、今のうちだって。真美さんだって、井川亜実さんの話を聞いたら最後、同じ症状に見舞われるのだ。何せ、今のところ「百パーセント」なんだから。
だが。
「そう。しょうがないわね」
話を聞き終わっても、真美さんはしゃんとしたままだった。
「説明会があることはリリアンかわら版でお知らせしていなかったし、拒否したからといって権利を取り上げるわけにはいかないわよね。最低限、デートのレポートだけは提出してもらう。それだけは譲《ゆず》れないけれど」
さすが、新聞部の現部長。先生やいろいろな生徒たちと渡り合ってきた経験からか、「いろんな人がいるから」と、びくともしない。
「で、どうするの?」
「お手数だけれど。志摩子さんには、取りあえずは井川亜実さんの希望に適《かな》った方法で接してもらうしかないでしょ。目立ちたくないって人を、無理矢理表に出すわけにもいかないし。案外、そのうち慣れて平気で志摩子さんと校内を歩いたりするようになるかもしれないわ」
「わかりました」
志摩子さんはうなずいた。
「説明会の方は……そうね。詳細を書いた説明書を作って、渡すことにするわ。田沼《たぬま》ちさとさんと松平《まつだいら》瞳子《とうこ》さんの分もね。それで明日の説明会は、希望者のみの出席ということに変更しましょう」
「それで、いいの?」
「いいも悪いも。そうするしかないでしょ。変にごねられても困るから」
歩み寄れるところはこちらも妥協《だきょう》する、その代わりやるって約束したことはやってね、と、そういうことらしい。忙しいんだから、いちいち相手にしてられない、って。
「ところで、デートの日程だけれど。お三組とももうお決まり?」
で、真美さんはもう次の話題に入ってる。
「そのことなんだけれど」
由乃さんが手を挙げた。
「できれば、みんな同じ日にしない?」
志摩子さんと祐巳は顔を見合わせた。
「いいけれど」
「どうして?」
祐巳の場合、そんな提案をされなかったら、別の日もありだったなんて考えもしなかったのだ。なぜって。去年は令《れい》さまのところも志摩子さんのところも同じ日だったし、宝探しとは無関係にデートした祥子《さちこ》さまと祐巳も、偶然|一緒《いっしょ》の日だったから、当然のように同じ日だって思い込んでいた。
「どうして、って? そりゃ、新聞部の取材を分散させるため、に決まっているじゃない」
その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、ウォッホンという咳払《せきばら》いが聞こえた。見れば、真美《まみ》さんが渋い顔をして睨《にら》んでいる。
「その作戦会議。私がいないところで、やるべきものなんじゃないの?」
そりゃそうだ。現新聞部部長にしてリリアンかわら版編集長の真美さんは、ミス・新聞部とも呼べる人物なんだから。
「あ。聞かれてこまることじゃないから。それに、後から真美さんが知って、ゴチャゴチャするの面倒じゃない。相手の出方見たり、言い訳したりするのも、それこそ時間の無駄《むだ》だからそういうの全部カットしようってわけ」
悪びれもせず、由乃さん。
「なるほど」
納得する真美さん。こう堂々と| 謀 《はかりごと》をされては、抗議もしにくいものらしい。去年、デートの当日にK駅に行ったら、新聞部前部長である築山《つきやま》三奈子《みなこ》さまが変装までして張り込んでいた、あれは落ち着かない、みたいなことを由乃さんが言うのを黙って聞いていた。
「じゃ、再来週《さらいしゅう》の日曜に決行ということで」
今度の日曜だと、近すぎてデート内容を十分に練《ね》る時間もない。というわけで三人(志摩子さん、由乃さん、祐巳)合議《ごうぎ》の結果、その日に決まった。もちろん、デート相手の都合が悪かった場合は変更になると確認しあった。
「真美さん。それでいいわね?」
由乃さんが言うと、「望むところだ」との威勢《いせい》のいい返事があがった。真美さんも、挑戦されると乗っちゃうタイプらしい。
「それにしても。その井川亜実って生徒、どういう人なんでしょうね」
話が一段落《いちだんらく》すると、乃梨子ちゃんが不在者チャンスの申込書を指で弾《はじ》いて言った。
同じ一年生でも、クラスも部活も一緒《いっしょ》でなければなかなか接点がないものだ。ちょっぴりご機嫌斜めなのは、大好きなお姉さまが振り回されているのに憤慨《ふんがい》してか、それとも大好きなお姉さまとデートするのは誰であっても気にくわないのか。祐巳たちが日時を決めている間、黙ってずっと井川亜実さんのことを考えていたのかもしれない。
「そうね」
不在者チャンスで、唯一「駐車場」と「車の下」とを書いて、正解に一番近づいた人。それなのに、志摩子さんと一緒にいるところを見られたくないと思っている人。目立ちたくないから、薔薇の館にも来たくないと主張する人。
「もしかしたら、祐巳さんや由乃さんファン……?」
真美さんがつぶやいた。
「私も、それは考えたのだけれど」
志摩子さんが「違うと思う」と言うと、真美さんもすぐに取り消した。
「そうね。もともと誰のカード目当てだったかはともかく、こう頑《かたく》なに人目につきたくないという理由にあげるのには無理があるかな」
例えば、仮に、仮にだけれど、祐巳や由乃さんに憧《あこが》れていたとして、志摩子さんじゃ不服だったならば、最初に志摩子さんが訪ねていった時にその権利を放棄《ほうき》すればよかったのだ。志摩子さんとデートすることで薔薇ファミリーとのつながりを持ちたいと考えたならば、薔薇の館に来たくないなんて言うはずがない。
「目立ちたくない、って言っても。リリアンかわら版にレポートが載った時点で、アウトなんだけれどね」
最近の一年生は、まったく何を考えているのか。真美さんは、同じ教室にいるせいか、二年|松《まつ》組のクラスメイトたちと同じように、年寄りっぽい言葉を吐いたのだった。
結局、半日デートに関する説明会は、優勝者は誰一人として来ないことになった。
由乃《よしの》は、当日登校するなり二年|菊《きく》組を訪ねて、田沼《たぬま》ちさとに連絡をした。
「今日予定していた説明会、希望者のみの参加に変更になったけど」
どうすると聞くと、彼女は軽いノリで「うーん、止《や》めとく」と言った。
「放課後でしょ? 自由参加でしょ? 後で要点が書かれた書類もらえるんでしょ? デートに関する決まり事って、去年とそう大差ないんでしょ? だったら、わざわざ出なくてもいいでしょ」
これが、去年の勝者の貫禄《かんろく》というものであろうか。もちろん出ませんけれど、それが何か?――そんなトーンである。
「出なくてもいいなら、出たっていいんじゃないの?」
すぐに引っ込むのもシャクなので、取りあえずもう一押し。すると、御大《おんたい》はケロリと言った。
「そんなことないわよ。強制だと思ってたから、今の今まで出なきゃって思っていたけど」
「え?」
「だって、今日部活あるもん」
「あ」
そこで、由乃はやっと気がついた。
「あ、じゃないわよ。あなた、ずいぶんご無沙汰《ぶさた》じゃない。イベント終わったんだから、そろそろ剣道部に出てきなさいよ」
「……そうね」
「せっかくお隣に道場があるのに、どうせ帰宅したって竹刀《しない》握ったりしていないんでしょ」
「……まあ」
藪蛇《やぶへび》だった。選挙とかイベントとかにかこつけて、結構部活をサボっていたのだ。どうせ令《れい》ちゃんは来てないし、寒いしで。
しばらく出ていなかったものだから、活動の日だってことも忘れがち。
(そうか)
誰がカードを手にするかなんて未知の段階で日程を組んでしまったことに、この説明会がお流れになった敗因があるわけだ。もし来年もあるのなら、勝者が決定してから説明会の日時を決めるか、または少々強引であっても出席を義務化するべき。忘れなければ後で真美《まみ》さんに進言しておこう、と由乃は思った。
「三年生はほとんど来なくなって、今すかすかなんだから、こういう時にこそ稽古《けいこ》しないと。このままだと、春になって新一年生が入部してもまだ一番|下手《へた》くそのままよ」
ずばずば言ってくれる。反論できない分、堪《こた》えた。そりゃあもう、冷え切った冬の朝一《あさいち》の道場の床くらい。
「お邪魔《じゃま》しました」
これ以上、藪《やぶ》を突いて何か出てきては大変だ。由乃は早々《そうそう》に退散することにした。
「あ、由乃さん」
まだ何かあるのかよ、って立ち止まると、ちさとさんは言った。
「デートのプランなんだけれど、副賞ってのは勝者へのご褒美《ほうび》なわけだから、私が好きなところでいいんでしょ?」
「いいけど」
由乃は振り返った。言っちゃ悪いが、ちさとさんのデートに多大な期待なんかしていない。本人に希望があるなら、どうぞどうぞといった心持ちだった。
「じゃ、任せて。飛びきりの計画たてて、後で見せるから」
「そりゃ、どうも」
ちさとさんに一礼して、由乃は再び歩き出した。
(私とあなたで、どう飛びきりにするっていうんだ……)
廊下《ろうか》を行き交う生徒たちは、誰も彼もが自分より元気に見えた。
それが、今朝《けさ》の話。
昼休み。薔薇《ばら》の館《やかた》に現れた乃梨子《のりこ》ちゃんが、すまなそうに言った。
「瞳子《とうこ》は、説明会には来ないそうです。説明書をいただけるなら、それでいいって。何だか、休み時間もなかなか捕まらなくて。……申し訳ありません」
クラスメイトだからって、そんなに責任感じることはないのに、と端《はた》で見ていて由乃は思った。周囲が気の毒に思えるくらい、そりゃ一生懸命に詫《わ》びるのだ。
「いいっていいって」
祐巳《ゆみ》さんがなだめた。
「みんな来ないんだから。いっそさっぱりだよ。それより、乃梨子ちゃんにお使い頼んじゃって悪かったわね」
本来ならば私が行かなければならないところを、というわけだ。
「それはいいんです。祐巳さまにうちのクラスに来ていただいても、無駄足《むだあし》踏ませちゃうだけですし」
「そんなに捕まらないんだ? クラスメイトから逃げ回っているの?」
瞳子ちゃんも、すっかり時の人だ。そうはなりたくないから、井川《いがわ》亜実《あみ》さんは慎重になっているのかもしれない。
「よくわからないんです。授業中はいるんですけれど、休み時間になるとふらっといなくなるっていうか」
祐巳さんは乃梨子ちゃんの話を聞くと、腕組みをして天井を見上げ「そっか」と唸《うな》った。
これが、昼休みの話。
でもって、ここからが放課後の話になる。
(カード保持者、全員が説明会を欠席。そりゃそうだろ)
由乃は、廊下《ろうか》を歩きながら首を回した。強制でなければ、誰がそんなつまらなそうな会に出るか、っつーの。
予定していた半日デートに関する説明会がお流れになったから、放課後の集まりもなくなった。
(ああ、退屈)
志摩子《しまこ》さんは当初の予定通り、例の井川亜実さんとの定期的面会に行ってしまった。
祐巳さんは、瞳子ちゃんを探しにいく、みたいな話をしていた。
乃梨子ちゃんは、どうしているだろうか。予定がキャンセルになったから、久しぶりに早く下校したかもしれない。
別に会合がなくても、たとえ一人でも、薔薇の館でお茶でも飲みながらまったり過ごしたっていいのだ。けれど、何となく気が咎《とが》めて、由乃はそうする気にはならなかった。
(部活、行くか)
そろそろ顔を出さないと、本気で出にくくなる。忙しくしている理由があるうちは仕方ないが、何となく面倒くさくてぐずぐずしているうちに、敷居《しきい》はどんどん高くなるものだ。
それにちさとさんの言葉じゃないけれど、春になって入部してくるであろう新入生に、あまりみっともない姿を見せるわけにはいかなかった。三年生が下手《へた》くそでは、何を言っても説得力がない。いくら剣道を始めたのが二年生になってからだとはいえ、そんなこと初対面の人間にはわからない。いっそ、垂《た》れ先《さき》にでも言い訳を書いていちいち見せて歩こうか。
(新入生……)
武道館に行くはずが、気がつくと由乃は中等部校舎にいた。新入部員のことを考えているうちに、自然と足が向いてしまったのだろう。
勢いで、中等部三年生の教室に向かう。呼び出してもらうまでもなく、菜々《なな》は廊下に出ていた。
「あ、ごきげんよう」
由乃に気づくと、立ち話していた生徒に二言三言告げてから、駆け寄ってきた。なんて無邪気《むじゃき》なんだろう。こちらの気持ちも知らないで。
「いかがなさったんです?」
「ちょっといい?」
「ええ、もちろん」
わざわざ訪ねてきたのだから何か話があってのことだろうと、賢《かしこ》い菜々は瞬時に理解できるのだ。
「昨日は、イベントお疲れさまでした」
「ええ」
お疲れでしたとも。今もそれを引きずったまま、こんな場所まで来てしまったくらいだ。
わざわざ、二つも年下の少女に対して文句を言うためだけに。
「黄色いカードは、見つけられたとか」
「まあね」
「よかったじゃないですか」
「よかった!?」
菜々の言葉に、由乃は耳を疑った。
「だって、探してもらうために隠したんでしょう?」
キョトンとして、菜々。
「そりゃそうだけれど」
昨日見つかっちゃったら、不在者チャンスにチャンスは回ってこないわけで。そうなると不在者チャンスにしか参加できない中等部の生徒には、カードも半日デートするチャンスも巡ってくることはないのだ。
それで本当にいいわけ? という言葉を、由乃は飲み込んだ。所詮《しょせん》菜々にとって自分は、それくらいの存在だということなのだ。そう考えれば、すべて納得できた。菜々は、本気で勝ちにいってはいなかったのだ。
「私も、応募したんですけれどね。とてもじゃないけれど、職員室の外壁なんて考えつきませんでした」
「……そう」
それでも一応、答えはチェックしてくれていたのだ。それでよし、とするべきなのかもしれない。多くを望むから、失望もするのだ。
「私は、武道館って書いたんですよ」
菜々が言った。
「ふうん、そうなの」
由乃は、さほど興味なさそうな相づちを打った。本当のところ、そのことは聞かずとも知っていた。昨日の昼休みに不在者チャンスの箱を開けた特に、祐巳さんが見つけて菜々の申込用紙を差し出してくれたから。
「ベタだわね」
由乃が剣道部だからって、武道館。安易すぎて、見た瞬間に腹が立った。もう少し、考えてくれたっていいんじゃないの、と。武道館ったって、せめてその中のどこかくらいは書いておくものだ。
「そりゃ、ベタですよ。ウケ狙っても仕方ないですもん」
限定すればその分、範囲を狭《せば》めることになるのだ、という菜々。一理あるだけに、また悔《くや》しい。
「でも。完敗でした。由乃さまが予想以上に面白い場所を考えてくださる人で、うれしいです。今回は、中等部の生徒にもチャンスを下さって、ありがとうございました」
目を輝かせてお礼を言う菜々。その表情からは、社交辞令でもなんでもなくて、菜々が本心から言っていることがわかる。
(……)
由乃がイベントのことを知らせたから、おつき合いで参加してくれたわけではないのか。少しは期待してもいいのだろうか。
「よくわからないんだけれど。菜々の中でこのイベントは、結果を含めて楽しかったわけ?」
「もちろん、そうですよ」
何を今更《いまさら》、というように笑う。
「参加しただけで、いいんだ?」
その先に、優勝の栄誉《えいよ》とかご褒美《ほうび》とかいう文字はないということか。
「ええ、だって」
次の瞬間、菜々は思いがけないことを言った。
「私は、いくらでも由乃さまとデートできますもん」
「え」
――その後由乃が嬉々《きき》として部活動に励《はげ》んだことは、言うまでもない。
「志摩子《しまこ》さま」
図書館|閲覧室《えつらんしつ》の辞典類の棚《たな》の前に立っていると、背後から声をかけられた。振り返ろうとすると、「そのまま」と囁《ささや》かれる。
「そこの机に座っていただけませんか」
そこ、と示された場所は簡単な仕切りで三分され、それぞれにライトと椅子《いす》が一つずつあるだけの簡素な机だった。隣の様子が目に入らないので、グループで調べ物をするより、むしろ一人で学習するのに向いている席だ。今も右端一つは他の生徒が使用しており、真ん中と左の席が空《あ》いていた。
「わかったわ」
志摩子はうなずいて、机まで歩いていった。どちらに座ったらいいのか判断に迷ったが、真ん中の席に座ることにする。
「失礼」
先に座っていた生徒に軽く声をかけて、椅子に座る。すると、右端に座っていたその人は、仕切りの向こうで一瞬ピクッと肩を上げた。電車の座席などは端から埋まっていくことが多いから、席は二つ空いているのにいきなり真ん中を選択した意外性に驚いたのかもしれない。
志摩子が着席しても、なかなか左隣の席は埋まる気配がなかった。一分ほど間をおいて、「どうしたのだろう」と周囲を見回した頃、井川《いがわ》亜実《あみ》さんが隣に座った。別の生徒が席を探しているようにキョロキョロしながらこちらに歩いてこなければ、あと二、三分は待たされたのかもしれない。
「ごきげんよう」
時間を置かずに続けて着席したって、誰も二人の関係を気にすることはないと思われたが、きっと亜実さんにとってはそれは必要な儀式なのだろう。
「ご足労《そくろう》おかけして、申し訳ありません」
相変わらずのぶっきら棒《ぼう》。だが、言葉遣いは丁寧《ていねい》だった。
「これ。新聞部の部長から預かってきた、デートに関する説明書」
志摩子は間に設《もう》けられているちょっとした仕切りを脇から越えて、隣の席にプリントを滑らせた。これは、本来だったら、この時間、薔薇《ばら》の館《やかた》で行われる予定だった説明会で配られたはずの資料だ。
「ああ。今年は四千円なんですね」
ざっと目を通して、亜実さんがつぶやいた。
「去年のことを?」
志摩子は尋ねた。
「ええ。参考までに調べました。リリアンかわら版のバックナンバーで」
「そう」
小声で話しても、隣なので声は届く。仕切りがあるため、遠目には二人は別々の作業をしているようにも見えるだろう。亜実さんは、本を開いて読んでいるふりをする、という小技も繰り出しているようだった。
「他に関しては、去年とほぼ同じですね。良かったです」
「良かった?」
「ええ、実は」
すでに予定を立ててきたんです、と、今度は亜実さんの方から机の下を通って紙が届く。それは、レポート用紙にシャーペン書きされたものだった。
「これ……」
待ち合わせから解散まで、時間と場所がビッシリと書かれたその予定表を見て、志摩子は絶句した。彼女のことはまだほとんど知らないから、予想なんて何もしてこなったけれど、これはさすがに「なし」だと思った。
「あ、あのね、亜実さん」
「はい?」
「このデートは優勝者への副賞なのだから、亜実さんが好きな場所でいいのよ。そのために、私たちはこうして集まって相談しているわけよね?」
どう伝えればいいのか迷いながら、志摩子は告げた。亜実さんはよかれと思ってこの計画をたててきたのだろう。
「ええ。もちろんそうです」
何を今更《いまさら》、という感じで答えが返ってくる。
「……だからね」
聞けば、去年のリリアンかわら版まで読んだというほどの勉強熱心。どう話をしたら、傷つけないでこちらの考えをわかってもらえるだろう。
「去年のことを例に出すなら、勝者の蟹名静《かになしずか》さまは、ご自分のクラスメイトたちと勝手に計画をたてられて、私はただ振り回されていただけなのよ」
去年のリリアンかわら版のバレンタイン特集に去年のデートのすべてが書かれているわけではない。また、静さまの提出したレポートであるから、静さまが帰った以降のこと(佐藤《さとう》聖《せい》さまが現れたくだりなど)はもちろん記載がない。それでもレポートを読むと、あのデートは志摩子のために計画されたもののように映るのだろうか。実際体験した者は決して客観的になれないので、志摩子にはよくわからなかった。
「そうだったんですか」
亜実さんは、つぶやいた。それで理解してくれたのかと思ったのだが、すぐに「それはそれですから」と言った。今志摩子の手もとにある、レポート用紙に書かれた内容を撤回《てっかい》する気はないらしい。
「私が、この場所がいいんです。それともお嫌ですか。ご不快ですか」
まるでそれが最後の砦《とりで》とでもいうように、どうしても譲《ゆず》らない。それが亜実さんの地声《じごえ》なのかもしれないが、どことなく切迫《せっぱく》したようなしゃべり方に、最後は言わせられた形になってしまった。
「そんなことはないわ。亜実さんがここがいいなら、私に異存《いぞん》は」
「よかった。それじゃ、予算もアップしたことですし、家に帰って練《ね》り直してきます」
話は済んだとばかり、亜実さんは席を立った。
「でも、どうしてここなの」
志摩子は、預かっていたレポート用紙を差し出しながら尋《たず》ねた。
「だって」
次の瞬間、亜実さんは思いがけないことを言った。
「私、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》のファンなんですもの」
それは、志摩子を再び悶々《もんもん》とさせる結果となった。
クラブハウスの前で、祐巳《ゆみ》は瞳子《とうこ》ちゃんを見つけた。
「やっと会えた」
「……あ」
瞳子ちゃんは急いでいるのか小走りで現れたのだけれど、祐巳の姿を認めると観念したように立ち止まった。
「ごきげんよう」
肩に力の入っていない自然体のほほえみに、祐巳の胸はいっぱいになる。そこにいるのは、間違いなく素顔の瞳子ちゃんだった。
「こちらへは、どうして?」
クラブハウスの壁にもたれて、瞳子ちゃんが尋ねる。
「体育館の舞台で活動していた演劇部を覗《のぞ》いていたら、多分ここだろうって教えてくれて」
「そうですか」
「三年生を送る会でやる、お芝居《しばい》の準備をしているんですって?」
「ええ。三つのグループに分けて、小さな三作品を上演することになったんです。私たちは二人芝居なので、狭くても構わないので、何となくここがたまり場みたいになってしまって」
建物を見上げて、瞳子ちゃんが言った。
「やっぱり。逃げ回っているんじゃなかったんだね」
祐巳の言葉に、瞳子ちゃんは苦笑する。
「そう思われても仕方ないくらい、私、教室にいませんからね。知っているクラスメイトもいるんですが、好奇の目や質問攻めから逃げているという方が信憑性《しんぴょうせい》がありますから。部活関係で動き回っているという事実は、薄れてしまったんでしょうね」
「乃梨子《のりこ》ちゃんも、知らないみたいだったわよ」
「あ。つい、言い忘れていました。乃梨子も薔薇《ばら》の館《やかた》に行ったりと忙しそうだから、すれ違いがちなんです」
「心配していたよ。機会を見つけて、説明してあげて」
「わかりました。そうします」
神妙に返事をする。あまりに素直だと、拍子抜《ひょうしぬ》けする。実際、祐巳は戸惑っていた。
「デートのことですよね?」
「うん。……まあ」
他にも話さなければならないことはあった。でも、一つ一つ片づけていかないと、混乱しそうなので、まずはその話からすることにした。
「日時なんだけれど、次の次、再来週《さらいしゅう》の日曜日でどうかしら」
「その日で結構です」
瞳子ちゃんは即答した。
「どこか行きたい場所、ある?」
生徒手帳を取り出して日付を書き留める様子を眺めながら祐巳が尋《たず》ねると、瞳子ちゃんはちょっと考えるような仕草をしてから顔を上げた。
「私が行きたいところでいいんですか」
「もちろん。ただし、日帰りということと予算内でおさめるということをクリアしないといけないけれど」
祐巳は、真美《まみ》さんから預かっていた説明書を手渡した。
「なるほど。四千円ということは、一人二千円。すべて交通費に使ったとしても、片道千円か。そんなに遠くへは行けませんね。その上、そうするとご飯代が出ない……」
[#挿絵(img/27_099.jpg)入る]
ざっと目を通しながら、瞳子ちゃんがつぶやく。
「でも、定期で行ける場所だったら、一人二千円のランチが食べられるよ?」
「ああ、本当」
二人は笑った。デート費用四千円は、その使い方によって質素になったり豪華になったり、印象がずいぶん変わるものだ。
今回三組が同じ条件でデートをするわけだけれど、きっと組によってまったく様相が変わるはずだ。
志摩子《しまこ》さんは、今までまったく知らなかった一年生と。由乃《よしの》さんは、以前は天敵を見るような目で睨《にら》んでいたこともある、同じ部活の二年生。そして。
祐巳は、瞳子ちゃんを見つめた。もうすぐ、妹と呼べるかもしれない人だ。
ちゃんと話をしなければならない。今日は捕まえられたけれど、次はいつこんな時間をもてるかわからない。
「……と」
呼びかけようと口を開いた時、頭上から「瞳子ちゃん?」と声がした。
二人は同時に見上げた。すると、クラブハウスの二階の窓が開いていて、そこから一人の生徒が顔を出してこちらを見下ろしている。
同学年だから、祐巳も顔くらいは知っている。……そう、演劇部の部長だ。
「なかなか来ないから気になっちゃって」
彼女は、瞳子ちゃんの隣に祐巳を見つけると「あ」と声を発した。
「ごめんなさい。お話し中だったのね。寒いでしょ。よろしかったら、中にお入りになったら?」
「いいえ」
祐巳は、上に向かって声を出した。確かに寒いが、クラブハウスに入ったら、話そうと思っていたことは言えなくなる。
瞳子ちゃん一人に告げたい言葉だ。他の人の前で言うべきものではない。
「部活動の邪魔《じゃま》をしてごめんなさい。すぐ失礼するので」
「そう? でも、気になさらないでいいのよ。どうせ、私たちは二人きりだし」
ごゆっくり、そう言い残して窓が閉まった。
「それじゃ」
瞳子ちゃんは、説明書を折り畳《たた》んでポケットにしまった。
「あ、うん」
急《せ》かされたわけではないだろうけれど、部長を待たせているのが気になるのだろう。
瞳子ちゃんが、一礼して背中を向けた。
(あ)
呼び止めて、一言いわなければ。
呼び止めて、一言。そしてロザリオを渡すだけ。それは、一分もかからないはずだった。
(待って)
祐巳の右手が、瞳子ちゃんの背中を追った。何かを感じたのか、言葉を発する前に瞳子ちゃんが振り返った。
「あの、祐巳さま」
次の瞬間、瞳子ちゃんは思いがけないことを言った。
「お返事は、デートが終わってからお願いしたいんですが」
お返事、と言われて、心当たりは一つしかない。
「え?」
一分もかからないはずだったのに。
結局、祐巳はそれから一週間以上も待たされることになってしまった。
[#改ページ]
デートの出端《でばな》に
何だかんだ言ったって、一週間やそこらは簡単に過ぎていくものである。
宝探しのあった翌々週の日曜日。午前十一時ジャスト。
JR線K駅駅ビル一階広場に、由乃《よしの》は足を踏み入れた。
「あ。由乃さん、ごきげんよう」
何時から来ているのかは知らないが、田沼《たぬま》ちさとはすでに待ち合わせ場所にいて、由乃を見つけると軽く手を上げて笑顔を見せた。
去年|令《れい》ちゃんとデートした時とコートこそ同じ物だけれど、その下から出てるのは間違いなくジーパンにスニーカー履《ば》きの足だった。赤と白とピンクのヒラヒラスカートとは大違い。当たり前だが、デートにかける気合いがスタイルに反映するのであろう。こちらも似たような格好なので、お互いさまだが。
「……ごきげんよう」
あくびを噛《か》み殺して、由乃も取りあえず挨拶《あいさつ》した。だめだ。車の中でちょっとウトウトしたのが呼び水になったようで、払っても払っても睡魔《すいま》が襲ってくる。
「自転車で来た?」
ちさとさんの質問に、由乃は首を横に振った。
「えっ、バスに乗っちゃったの!?」
咎《とが》めるような言い方に、カチンと来る。
「乗らないわよ、車でお父さんに送ってもらったの」
気がついたら、待ち合わせ時間から逆算して、とてもじゃないけれど自転車じゃ間に合わない時間になっていたのだ。
「まあ、仕方ないか」
「ちさとさんはいいわよ。K駅までは定期券持っているんだから。でも、私は徒歩通学なのよ。交通費浮かせるために自転車で来い、なんて不公平だわ」
冬の自転車こぎは辛《つら》いのだ。そして若葉マークの自転車乗りにとって、一人で慣れない道を行くのは極めて危険な行為なのだ。
「だから、仕方ない、って言ってるじゃない。からむなぁ」
「その言い方が嫌味なんだってば。いいじゃない、お父さんの車だって。レポートには、自転車で来たことにすれば」
「帰りはどうするのよ。こっちは、ギリギリの予算で予定組んでいるんだからね」
「自腹《じばら》きるわよ」
令ちゃんだって、去年自分のお財布《さいふ》からお金を出したくせに内緒《ないしょ》にしていたんだから。レポートに書かなければいいだけのことだ。
「そういうこと言い始めたら、キリないでしょ」
予算内でデートするのが楽しいんだし、このデートを真似《まね》したいと思う人たちもいるんだから、適当に収支を合わせるわけにはいかない、――なんて、ちさとさんは熱弁をふるった。
「ま、いいわ。帰りのバス代くらいの余裕《よゆう》はあるから。じゃ、行こうか。時間もないし」
結局「いいわ」に落ち着くなら、最初から文句を言うな。由乃は、ちさとさんの背中に舌を出した。舌を出されたちさとさんは、何も気づかずスキップのような足取りでどんどん先を歩いていく。
(やれやれ……)
最初からこんな調子で、仲よくデートなんかできるのだろうか。
少なくとも、誰もが真似をしたいデートにだけはならないと思われた。
二人が最初に向かったのは、映画館だった。一つのビルにいくつかの劇場が入っていて、随時《ずいじ》何本かの映画がかかっている。
「高校生二人」
窓口にお金を出そうとするちさとさんの手を、由乃はガシッとつかんで引き戻した。おい、ちょっと待て、と。
「痛いわね、何なの」
何なのとは、こっちのセリフだ。
「ちさとさん。このベタベタのラブストーリーを観るって、当然のように進行するのはどういったわけで?」
「どう、って。好きでしょ? こういうの」
「好きなもんですかっ、こんなのっ」
由乃は牙《きば》を剥《む》いた。テレビコマーシャルで予告を見たことがあるけれど、この映画、フランスを舞台に美男美女が出会ったり別れたりすれ違ったりしながら、愛をはぐくんだり障害を乗り越えたりイチャイチャしたりするドラマなのだ。
「えーっ。コスモス文庫の愛読者が、ラブストーリー嫌い!?」
「それは、令ちゃんの趣味。私はもっぱらこっちの方」
由乃は、壁に大きくかかった看板の一つを指さした。四つ並んだ右端。青々とした月代《さかやき》が清々《すがすが》しい若侍《わかざむらい》とひげ面《づら》の浪人《ろうにん》が、背中合わせに刀を構えている。ちなみに後の三つはちさとさんリクエストのラブストーリー、それからホラーと、子供向けアニメである。
「あ、もしかしてコスモスでもブルー専門?」
「……全然違う」
説明しよう。
コスモス文庫とは、言わずと知れた宮廷社《きゅうていしゃ》が発行している少女小説のレーベルである。その中でブルーというのは、「BL」つまりボーイズラブを指す隠語《いんご》だ。カバーの色が青いことから、そう呼ばれるようになった。ボーイズラブっていうのは、言葉通り男の子のラブストーリーであるわけだけれど、恋する相手も男の子という、まあ、男の子と男の子とか、男の子と小父《おじ》さんとか、小父さんと小父さんとか、たくさん男性が出てきていろんなことをするわけで、男女の恋愛よりも好きという女の子が結構いるのだ。
それはそれで自由だけれど、生憎《あいにく》由乃はそうではない。誤解されたままでいるのはあまりいい気持ちがしないので、一応|訂正《ていせい》しておくことにした。
「好きなのは、男同士の恋愛じゃなくて、男同士のチャンバラなのっ」
「んんっ?」
「リリアンかわら版が、二人のアンケートを間違って出したのよ。ちっちゃいけど、何号か後でちゃんと訂正記事だって載ってたわよ。いい? 覚えておいて。私が主に読むのは、剣客《けんかく》もの」
「えーっ。リリアンかわら版なんて、興味がある記事しか読まないわよ。訂正記事に令さまの写真がくっついていたならともかく」
まあそうだろうな、とそこは由乃も納得した。
「でもさ。仮にも令ちゃんファンなら、令ちゃんの愛読書がコスモス文庫だってことに気づいてもよさそうなものでしょ」
よく持ち歩いているし、大好きなシリーズの新刊が出たりすると、休み時間のたびに読んでいる。
「ああ。あれ、由乃さんにつき合って読んでるのかと思った」
「んなわけないじゃん」
「あ、じゃもしかして。趣味が編み物ってのも、令さまなの?」
「そうよ」
「あー、そういうわけか。謎《なぞ》が解けた」
ちさとさんは嬉《うれ》しそうに笑った。
「謎って何」
「由乃さん、去年の宝探しで、閲覧室《えつらんしつ》に行って編み物の本のページを必死にめくっていたじゃない。あれ、ずーっと意味がわからなかったのよね。お陰ですっきりしたわ」
よくわからないけれど、ちさとさんがすっきりしたら何よりだ。
「だったら、ついでにこっちもすっきりさせてちょうだいな」
由乃はちょっと身をくねらせて、愛想笑いを浮かべた。
「ん?」
「映画、こっちのチャンバラにして。『若様浪人剣・玉と牙』、いいでしょ?」
「いやよ。私、この『パリ21[#「21」は縦中横]区のジュテーム』を観ようってずっと決めてたんだから。デートは私へのご褒美《ほうび》なんだから、私が好きな場所でいいでしょ」
「いいわよ。あなたの好きな場所で。映画館が嫌だなんて言ってないでしょ。でも、映画のタイトルを勝手に決めるのはなし」
「何言っているのよ。十一時半の回に合わせて、待ち合わせを十一時にしたのよ。この映画を観るに決まっているでしょ」
「『若様浪人剣』は十一時十五分からだから、まだ間に合うわよ」
キップ売り場に書かれた上映時間を指さして、由乃は言った。
「ブブーッ。もう十六分です」
ちさとさんは腕時計を見ながら、わざと顔を崩《くず》す。しかし、由乃だって負けていられない。
「予告編は五分や十分かかるものよ。今入場すれば、本編には間に合うわ」
「とにかく、いや」
「私だって」
本当のところ、ラブストーリーが鳥肌がたつほど嫌なわけじゃない。話題の映画だから、きっと観ればそれなりに楽しめるだろう。ただ、相手が観たいものというだけで、頑《かたく》なになっているだけだ。ここで譲《ゆず》れば、即《すなわ》ち敗北と、そんな雰囲気《ふんいき》になっていた。
「デートなんだからね。別々の映画を観るわけにはいかないのよ」
「わかっているわよ」
かといって、間《あいだ》を取って他の映画なんて選択|肢《し》は二人にはなかった。
どちらからともなく、二人は息をのんで右手を後ろに引いた。ジャンケン。
ポイ!
「あーっ!」
力が入っている。どっちもグーだ。
「あいこで……しょっ」
今度は両者ともパー。
その後もグー、パー、パー、チョキと、本当は気が合っているんじゃないかと思えるほどのあいこが続いた。
ハアハアと息が上がる二人。ジャンケンといえど、一回一回真剣勝負で全身を使うものだから、ヘトヘトだった。そうこうしている間に、十一時二十分になってしまった。さすがに、『若様』の予告編もそろそろ終わるだろう。
「ね、いっそ他の人に決めてもらわない?」
ちさとさんが提案した。このままでは埒《らち》があかない。自分たちで決められないのならば、もう誰かに委《ゆだ》ねるしかない、というわけだ。
「いいけれど、どうやって?」
「次に来るお客が入った方の映画にする」
「でも、私、いろんな意味で不利じゃない?」
と言いつつも、上演時間が過ぎている時点で不利は承知のはずだった。由乃は、映画館周辺の通りを眺める。すると駅の方向から、こちらを目指して真っ直ぐに走ってくる男の人の姿が見えた。
「わかった、じゃあの人が入った映画にしよう」
男性一人で、『パリ21[#「21」は縦中横]区のジュテーム』はない。あの人は必ず『若様浪人剣・玉と牙』を選ぶと見た。
「OK」
走っていた男の人が後ろを振り返った時、ちさとさんがうなずいた。
「じゃ、彼と同じ映画を観る。何に決まっても文句はなしよ」
「あ」
しまった、と由乃は思った。後ろから女の人がついてきている。カップルだったら、『パリ』もあり。いや。むしろ、それしかないともいえる。何せ、ジュテームなんだから。
「この勝負、もらったわね」
ちさとさんが、勝利を確信したようにニヤリと笑った。
「いや、まてまて」
再びお金を出しかけた手を、由乃は払った。
「あれだけ急いでいるんだから。やっぱり『若様』かもしれないでしょ」
早くしないと予告編終わっちゃうよ、って。それでチケットを買うために、足の速い男性がまず先に走ってきた、と。
「単に良い席を取りたいだけよ」
「そんなのわからないよ」
男性が走る。女性も走る。映画の本編より、よっぽどハラハラドキドキの映像だ。
「意外と、そのまま映画館通り過ぎちゃったりして」
「ははは。だとしたら、その次の人に持ち越しね」
しかし、その心配は杞憂《きゆう》であった。
カップルと思われた男女の、男性の方が先に映画館の入り口まで着くと、息を整えてからチケット売り場に歩いていった。
さて、どちらだ。由乃とちさとさんは、ワクワクしながら結果を待った。いや、そんな風にのんびり見ている暇などない。男性の後ろについて、続いてチケットを買わなくては。
その男性は、迷わず一つの窓口の前に立った。
(え?)
「大人二枚」
それは、由乃たちが予想していた映画のどちらの売り場でもない。
「買えた?」
女性が追いついて、二人は腕を組んで入り口目指して歩いていく。
「お急ぎ下さい。間もなく始まります。お次の方は?」
売り場の小母《おば》さんが、取り残されて呆然《ぼうぜん》と立ちつくす二人を急《せ》かす。
何に決まっても文句はなし。自らバカな枷《かせ》を作ったものだ。
「高校生二枚っ」
やけくそで買ったチケットは。
「……『血みどろ屋敷の経文《きょうもん》』。」
――タイトルからもわかるように、間違いなくそれはホラー映画だった。
その頃、志摩子《しまこ》はデパ地下にいた。
少し離れた人混みに、リリアン女学園高等部の制服が見え隠れするのを視界の端で意識しながら、心の中で、今日何度目かの「なぜ」をつぶやく。
なぜ自分は、去年とまったく同じデートをすることになってしまったのか。
(いいえ)
まったく同じ、は、語弊《ごへい》があった。
去年、志摩子が買ったのはおにぎりだったが、今右手から下げたレジ袋の中には温野菜のサラダとシーフードマリネが入っているのだし、左手で持っている紙袋の中にはベイクドチーズケーキが一ホール入っているのだから。
(それに)
去年は私服で来たが、今年は制服を着ている。そして忘れてはいけないのは、デートの相手が違うことだ。
「お待たせしました。買っていただけましたか」
「ええ。これがケーキ。それからサラダとマリネ」
言いながらお釣りを渡す。十円玉と一円玉が数枚ずつ。メモ通りに買い物をしたら、ほぼ渡されたお金とピッタリだった。
「でも、三百グラムずつって、ちょっと多くはなかったかしら?」
志摩子の言葉が聞こえていなかったのか、亜実《あみ》さんは自分の袋を開けて、今買ってきた物を見せる。
「鶏《とり》の唐揚《からあ》げとおにぎりです。電子レンジ、薔薇《ばら》の館《やかた》にはないんですもんね」
「えっ……、ええ」
「おいしそうなピザがあったんですけれど、諦《あきら》めました。どんなにおいしくても冷めてチーズが固まっては、味が今ひとつですし」
「そうね」
駅北口のバスターミナルへと向かいながら、志摩子は考えていた。亜実さんは、このデートを楽しんでいるのだろうか。
今、隣にいる少女は口を真一文字《まいちもんじ》に結んで、真っ直ぐ前を見て歩いている。
志摩子のファンだと言っていた。しかし、それにしては初めて会って以来、嬉《うれ》しそうな表情を志摩子に対して一度として向けたことはないのだ。
最初は、緊張しているのだと思った。けれど、デートの計画を立てるためにもう何度も会っている。いい加減、気を許してくれてもいいはずだ。
だから、それが彼女の自然の姿だとも考えた。表情が乏《とぼ》しく見えるのは、個性であって、志摩子だけに向けられるものではないのだ、と。
しかし、それは違った。
先週の半《なか》ばだったか、昼休みの終わりに、志摩子は乃梨子《のりこ》と一緒《いっしょ》に校舎の一階|廊下《ろうか》を歩いていた。
二月には貴重な暖かな日で、雲も少なく、四月五月と見まごうほどの陽気だった。そのため、中庭にはたくさんの生徒が出ていて、お弁当を広げたり、語らいをもったり、その活気は二人のいた廊下の窓からも感じることができた。
「あ」
乃梨子が、ガラス窓に張りついて声をあげた。
「あの人でしょ、志摩子さん」
指さす先には、井川《いがわ》亜実さんの姿があった。クラスメイトと二人で、向こう側の校舎の壁にもたれて何やら話をしているようだった。
「どうしてわかったの?」
志摩子は尋《たず》ねた。亜実さんが目立つことをことごとく拒否していることをわかっている乃梨子が、教室まで行って顔を見てきたとは思えなかった。すると、乃梨子はちょっとだけ気まずそうに白状した。
「どんな人か気になって、今朝《けさ》、下駄箱《げたばこ》の側で張り込んじゃった。桃《もも》組の『井川』ってロッカー開けて上履《うわば》きに履き替えていたのを見て、この人かって。……ごめんなさい」
「いいのよ、謝らなくて」
一年生の乃梨子が一年生の下駄箱周辺にいても、確かに不審には思われないだろう。
「それで、どう思ったの?」
志摩子は、亜実さんの姿を眺めながら聞いた。どんな人か気になったという乃梨子の、実物を見ての感想を知りたかった。
「うーん。志摩子さんの言っていたイメージと、ちょっと違うような、でも確かにそういう部分もある、みたいな」
「そう」
志摩子自身も、それは時折感じていた。亜実さんは、本当にこういう人なのだろうか、と。
その時。
「え?」
突然、亜実さんが笑った。亜実さんの隣にいる、クラスメイトも笑った。
何がおかしかったのか、二人は互いの肩を叩きながら笑い合う。
「何か、別人……」
乃梨子の唖然《あぜん》とした声が、志摩子の耳に届いた。
亜実さんと友人は、白薔薇姉妹が見ていることにも気づかずに、それからしばらくの間、ずっと笑い続けていたのだった。
そういったわけで、志摩子はやはり釈然《しゃくぜん》としないのだ。
あの時、中庭で見た亜実さんが、本来の亜実さんの姿なのかもしれない。ではやはり、対する自分に問題があるのだろうか。相手の肩に力を入れさせてしまったり、身構えさせたりしてしまう何かを、気づかずにしてしまっているのだろうか。
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》」
亜実さんの声に顔を向ければ、バスターミナルにはリリアン女学園前を経由するバスが停車している。
「先に乗ってください。私は間をあけて乗ります」
「ええ」
言われた通り、素直に乗車する。どうして、なんて聞くことはない。もう慣れっこになってしまったのだ、このパターン。
バスは今来たばかりのようで、中は結構|空《す》いていた。隣に座ることはないとわかっていたが、志摩子は後方の二人がけの席に腰掛けた。窓際に詰めて、通路側を開けて待つ。
エンジン音も車内アナウンスも聞こえないバスの中で、志摩子はぼんやりと外の風景を眺めた。
時刻表を確認しなかったけれど、まだしばらくはバスは発車しないのかもしれない。
駅前の横断歩道を、二人の少女が笑いながら走っている。
(あら)
どこかで見たことがあると思ったら、真美《まみ》さんと日出実《ひでみ》さんだ。制服を着ていないから一人なら似ているだけという可能性もあるだろうが、二人一緒であれば間違いないだろう。
(楽しそう)
新聞部の二人はデートではなくて、デートの取材に来ていたのかもしれない。それでも、あんなに楽しそうにしている二人を見ていて、うらやましさがこみ上げてきた。自分も亜実さんをあんな風に笑わせることができたら、と思うのだ。
バスに、リリアン女学園高等部の制服が乗ってきた。一瞬亜実さんかと思ったが、違った。彼女は定期券を見せると、運転席のすぐ後ろの席に落ち着いた。
運転手さんがエンジンをかける。ドアが閉まりかけた時、亜実さんがあわてて乗ってきた。予想通り志摩子の隣には来ず、真ん中辺りの一人座りの席に座った。もし前方の席にリリアンの生徒が乗っていなかったら、志摩子の隣の席に座ったのかもしれない。わからないけれど。
『毎度ご乗車ありがとうございます、このバスは――』
アナウンスが鳴り、バスはゆっくりと動き出した。
乗るのは、駅前からリリアン女学園前まで。けれど、二人は離れたまま。
去年と同じルートなのに、まったく違うデートになりそうな予感がした。
時間は少し| 遡 《さかのぼ》る。
朝の八時五十分。祐巳《ゆみ》はM駅にいた。
待ち合わせは九時だったけれど、日曜日の道の混み具合はわからなかったので、結構な余裕《よゆう》をもって家を出た。道はそれほど混んでいなかったが、バスが時間通りに来なかった。そういったわけで、待ち合わせの時間よりちょっぴり早い到着となった。
改札が見える場所で待っていると、五分前に瞳子《とうこ》ちゃんが現れた。
「ごきげんよう」
短めの赤いコートの下は、デニムのロングスカート。踵《かかと》の低いブーツっていうか、お洒落《しゃれ》な長靴《ながぐつ》っていうか、そんなのを履《は》いている。そのスタイルを見て、思わず祐巳はほーっと息を吐いた。
「よかった。私のチョイスはそう間違っていなかった」
「は?」
「だって瞳子ちゃん、ミステリーツアーだって言って、行き先を教えてくれなかったじゃない。何着ていったらいいかって、すっごい悩んじゃった」
すると瞳子ちゃんは、やっと納得したらしく「ああ」とうなずいた。
ちなみに、ミステリーツアーというのは、出発までまたは現地に着くまで、目的地を参加者に教えない旅行のことだ。どこに行くのかわかるまでハラハラドキドキできて、お土産《みやげ》なんかもつくとかで、お隣の小母《おば》さんがよくお友達と行っているらしい。去年行ったミステリーツアーでは新巻鮭《あらまきじゃけ》一本をもらって帰り、うちにもお裾分《すそわ》けをしてくれた。
まあ、一人二千円の予算じゃ団体旅行に参加するわけもなく、同じミステリーでも本日は松平《まつだいら》ツーリストが知恵を絞《しぼ》って考えた格安ツアーのわけだけれど。
「ほら。ヒラヒラスカートじゃ、登山だった場合ちょっと無理があるし。かといってジーパンにTシャツだと、高級なレストランには入れないだろうし」
人は、行く場所と目的に応じて、服装を替えるものだ。
「日帰りの登山だったら、大した山じゃありませんからスカートだって大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。それに二千円のランチを食べるのに、ジーパンで入店断るお店ってこの辺りにはないんじゃありません?」
瞳子ちゃんは言った。大して悩むことではない、と。
「まあね。でも、ミステリーと銘打《めいう》っているわけだし。何があるかはわからないでしょ」
というわけで、祐巳はジーパンはやめてベージュのウールのパンツ、黒のハイネックのセーターを選び、いつものダッフルコートを引っ掛けてやって来た。玄関でスニーカーを履《は》きかけたけれど、思い直してお母さんのショートブーツを借りた。
でも、瞳子ちゃんのファッションを見て確信をもった。山登りの線も、ドレスコードのある高級レストランの線もなさそうだ。
「そろそろ行きましょうか」
「えっ、キップは?」
券売機を指さして尋《たず》ねる。瞳子ちゃんは電車の定期券を持っているけれど、祐巳の場合はバス通学だからキップがなければ改札は抜けられないのだ。
「ここでは買いません。必要ありませんから」
「は?」
言葉の通り、瞳子ちゃんは改札へは向かわなかった。そのまま流れる人の波をかき分けて、階段を下りる。
そして。
「まずはバスに乗ります」
そう言って瞳子ちゃんは、学校に行く時に乗るのとは違う、別の会社のバスを指さしたのだった。
[#改ページ]
「どうして」
リリアン女学園前の停留所で停車したバスは、制服の三人を降ろして再び走っていった。
「先に薔薇《ばら》の館《やかた》に行ってください。後から追いつきます」
ステップから下りると、亜実《あみ》さんはそう言って志摩子《しまこ》に道を譲《ゆず》った。
ここまで来たら、もう人目など気にしなくてもいいのではないか、志摩子はそう思った。けれど、ここが学校だからこそ、警戒するという考え方もできるわけで、結局口を挟《はさ》まず従った。運転席の後ろに座っていた生徒は、すでに歩道橋を渡っている。
去年のデートで来た時と違って、校門は日曜日なのに開いていた。
「お疲れさん。何部?」
中に入ると、守衛《しゅえい》さんが明るく声をかけてきた。
「あ。せ、生徒会……です」
思いがけない問いかけに動じて、つい、そう答えてしまった。自分は間違いなく生徒会長ではあるけれど、今日これから生徒会の活動があるわけではない。忘れ物を取りに来ました、でも、何でもよかったはずだった。
訂正《ていせい》した方がいいだろうか、とドキドキしていると、それに関してはまったく突っ込んで聞かれなかった。
「そう。がんばって」
制服を着ているからだろう、生徒手帳の提示も求められなかった。
一礼して、志摩子は銀杏《いちょう》並木を歩き出した。
(そういうこと……)
一つわかったことがある。今日は日曜日であるけれど、いくつかの部が活動をしているらしい。
チラリと後ろを振り返る。亜実さんが、今まさに守衛さんに挨拶《あいさつ》しているところだった。
もしかして、このことも彼女は知っていたのだろうか。休日だからといって校内に生徒がいないとは限らない。用心深い亜実さんならば、当日活動している部があるかないかくらいは、事前に調べておいたかもしれない。
校舎の昇降口の扉も開いていた。志摩子は二年生の下駄箱《げたばこ》に行くと、自分のロッカーを開けて上履《うわば》きに履き替えた。
ふと乃梨子《のりこ》のことを思い出して、一年生の下駄箱の方へ歩いていった。
一年|椿《つばき》組のロッカーの名札には、几帳面《きちょうめん》な文字で「二条《にじょう》」と書いてある。前後左右のロッカーが、若い娘らしくシールを貼ったり名札《なふだ》の紙をカラフルな物に入れ替えたりしている分、飾りっ気《け》のまったくない乃梨子の扉が目立っていた。
(ふふっ)
志摩子は一人笑った。飾りっ気がないといえば、去年、自分のロッカーも同じだったからだ。
そうだ。あまりそういうことに構わない祐巳《ゆみ》さんでさえ、小さなシールを一つ貼っていた気がする。
ロッカーのお化粧《けしょう》は、一年生特有のものと言っていい。二年生になると、ほとんどの生徒がやらなくなる。三学期の終わり、元の状態に戻して返すよう先生に言われて、大変苦労するからだ。
シールは剥《は》がしやすいタイプの物でも、一年も経てばかなり頑固《がんこ》にくっついている。調子に乗って名札に描いた模様がロッカーの扉にはみ出してしまったものなどは、ペンによっては何種類もの洗剤を使い分けて拭《ふ》かないと落ちなかったりもしたようだ。クラスメイトが濡れ雑巾《ぞうきん》を片手に必死に格闘する姿を、志摩子も見て知っている。
あんな苦労は二度とごめんだと思うのか、それとも一学年上になっただけでその行為が途端に幼稚《ようち》に見えるのか、二年生三年生の下駄箱のほとんどは手を加えられなくなる。――不思議なものだ。
そのまま薔薇の館に向かおうとして、何気なく一年|桃《もも》組のロッカーの前で立ち止まった。
先週乃梨子がそうしたように、「井川《いがわ》」と書かれたロッカーを探す。程なく見つかった亜実さんのそれも例外ではなく、扉にシールが貼られている。
「――し」
志摩子は、思わず口もとに手をあてがった。五枚貼ってあるすべてが、白い薔薇のシールだったのだ。
心の中を覗《のぞ》いてしまったようで、居たたまれなくなった。もうすぐ亜実さんが来る。早くここから移動しなければ。
踵《きびす》を返そうとした時、すぐ下のロッカーに目が留まった。
「え?」
一瞬、亜実さんのロッカーが二つあるのかと思った。なぜなら、そのロッカーの扉は亜実さんとまったく同じ、五枚の白い薔薇のシールで飾られていたからだ。
(『江守《えもり》』……)
名札を指で触れてみる。出席番号の前と後ろで、仲よしらしい。
(あれは、クラスで流行《はや》っていたのかしら)
歩きながら、首を傾《かし》げた。亜実さんだけなら、その白い薔薇を自分に重ねてみてしまいがちだけれど、他にもあるということは、深い意味はないのかもしれない。ただ単に、白い薔薇のシールが手に入ったから友達同士で分けたとか。そう考えると、少し心が楽になった。
薔薇の館に入って、電気ポットのプラグをコンセントに挿《さ》す。時計を見れば、十二時を回っていた。
「すぐにご飯よね……」
と思いつつも、持ってきた買い物を袋ごと冷蔵庫の中に入れた。チーズケーキとサラダとマリネ。どれも冷やしていいものだ。
待っている間お茶の準備をしようとしたが、あいにく亜実さんの好みがわからない。
(迎えにいこうかしら)
よもや薔薇の館の位置がわからないとも思えないが、敷居が高くて玄関の前で入りあぐねている生徒の姿も、志摩子はこれまで結構見てきた。薔薇の館の近くであれば、そうそう部活動の生徒もうろうろしていないだろうから、一緒《いっしょ》にいるところを見られる心配もないと思った。
玄関先には、亜実さんの姿はなかった。志摩子は校舎に入って、長い廊下《ろうか》の先を見渡した。
しかし、下駄箱《げたばこ》の方向には人影はない。
(どうしたのかしら……?)
二人が一緒《いっしょ》に行動していると見られないよう用心するにしては、あまりに距離を取りすぎているのではないだろうか。校門を入ったところまでは確認している。だから、亜実さんは間違いなくこちらに向かっているはずなのだが。
志摩子は廊下を歩き出した。知らずに足取りが速くなる。
何もなければそれでいい。何かあったとしたら、と考えるとじっとしていられなかった。校舎内にいる人間は少ないのだから、具合が悪くなってうずくまっていたとしても、なかなか見つけてもらえない。
お手洗いの前を通りかかった時、中から話し声が聞こえた。
亜実さんは一人のはずだから違うだろう、と、一度は通り過ぎ、しかし思い直して引き返した。亜実さんは一人だったけれど、ここで誰かに会ったということは十分考えられる。だとしたら、なかなか薔薇の館に来ない理由もわかる。クラスメイトと偶然会って、話し込んでしまったのだ。
立ち聞きするつもりはなかった。ただ、志摩子はその声が亜実さんのものかどうかを確かめたくて、耳をすました。
「だから……」
「……今から……」
「できるわけない」
「……もう……」
とぎれとぎれにしか聞こえない。けれど、片方は確かに亜実さんの声のようだった。だから、志摩子は廊下を引き返した。亜実さんの話が済むまで、薔薇の館で待とうと思った。
校舎から中庭に出ようとした時、ドアが乱暴に開く音が聞こえて、思わず振り返る。すると驚くことに、先に出てきた少女が後から出てきた少女に手首をつかまれて、お手洗いに引きずり戻されようとしているではないか。
手をつかまれているのが亜実さんで、つかんでいるのはいつか中庭で亜実さんと大笑いしていたあのクラスメイトだった。
「亜実さん……」
志摩子が声を出すと、二人は同時にこちらを向いた。亜実さんのクラスメイトは志摩子の姿を見ると、あわてて手を放した。
「あ……私……」
何かを言いかけながらジリジリと後退りする。それでも結局言葉を探せないまま、そのクラスメイトは背中を向けて走り去ってしまった。
「あっ」
亜実さんは自由になった手を伸ばして呼び止めかけたが、もう追いつかないと悟ったのか、諦《あきら》めたように手を下ろした。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
何が起こっていたのかわからなかった。けれど志摩子は、お手洗いの前の廊下《ろうか》に残された亜実さんのもとに歩み寄った。
[#挿絵(img/27_131.jpg)入る]
「お騒がせしました。ふざけていただけなんです」
しかし、そう言いながら、亜実さんの手首は赤くなっていた。そして、片方の上履《うわば》きが脱げてドアの側に転がっている。多分、お手洗いの中で、すでにもみ合いになっていたのだろう。
「待っていて」
志摩子は上履きを拾って、亜実さんの前に置いた。そしてつぶやく。
「どうして……」
「ですから、ふざけていただけなんです」
小さく頭を下げてから、彼女は上履きを履いた。履きながら、呪文《じゅもん》のように繰り返すのはさっきと同じ言葉だ。
ふざけていただけ、と。
けれど、そんな風にはとても見えなかった。二人は、先週中庭で見たあの時のように、笑ってはいなかった。
「彼女に悪いことをしました」
しゅんとしたそんな声が耳に届いた時、なぜだろう、悪いことをしたのは自分だったのだろうかと、志摩子は思ったのだった。
「あんたにゃ、人に悪いと思う情操《じょうそう》はないのか」
公園で広げたお弁当を前に、由乃《よしの》はつぶやいた。
「は?」
ちさとさんは、涙を溜めた目を拭《ぬぐ》いながら聞き返した。池では、カップルがボートに乗っている。何が悲しくて、そんな景色を眺めながら、女二人でベンチに腰掛け、持参した弁当を突っつき合わなくちゃいけないのだ。
「だから。人のお弁当を見て、そんなに笑うのは失礼なんじゃないの、って言ってるの」
「ああ、そうね。それは失礼したわ。でもっ」
一度は収まったのに、地震の揺り返しのように、あははははと笑い出すちさとさん。
「本当に、令《れい》さまとはまるっきり違うのね」
だめだ、反省という言葉をどこかに忘れてきている、この人。
「令ちゃんの料理と比べないでもらえる?」
「ああ、そうね。ごめんなさい。令さまの唐揚《からあ》げは、外はサクサク中はやわらかで、プロみたいな出来だったものね。確かに、プロと比べちゃ悪いわ」
「ふん」
そう言いながらも、アマと比べても笑っちゃう出来だって、ちさとさんは思っているはずだった。由乃自身、それは自覚している。外側真っ黒、中は生焼けのそれは、見た目だけで言うなら唐揚げというより黒ごまをまぶしたぼた餅《もち》だった。ちなみにウィンナーは(さほど)焦げてないけれど、完成品は予定とは異なり、カニさんになる予定が「煤《すす》けた簾《すだれ》」、タコさんになるはずが「顔のある枯《か》れ尾花《おばな》」である。そして玉子焼きは、――もうこれ以上言いたくない。
早起きしてがんばった結果がこれだ。情けないったらありゃしない。
ちさとさんにお弁当持参と言われたから、当然お母さんに作ってもらうつもりでいたら、「もちろん自分で作るのよ」とつけ加えられて、仕方なく慣れないフライパンを握ったのだ。こういう行楽の場合、大抵令ちゃんがお弁当を作ってきてくれるから、やったことがない。日頃やっていないことは、ぶっつけ本番でやったところで成功するわけがない。そんなこと、やってみるまでもなく最初からわかっている。
「まあ、生焼けのお肉はともかく、あとは食べて食べられないこともないわよ」
笑うとお腹《なか》が空《す》くらしい。ちさとさんは、かなり茶色に焼けた「枯れ尾花」と、スクランブルエッグにもう一度玉子を加えて固めたような妙な玉子焼きを、モリモリ食べた。
それに引き替え。
「私のも食べて」
ちさとさんのお弁当はきれいだった。一つにつき具が一種類(鮭、キュウリ、玉子焼き、梅肉《ばいにく》)の細巻きの海苔巻《のりま》きは、切り口を上にして並べてあるからまるでお花畑みたいにカラフルだ。パプリカとタコとブロッコリーを楊枝《ようじ》で挿《さ》して唐揚《からあ》げ粉《こ》をつけて揚げたものなんて、素材によって火の通り具合が違うんだから、絶対に手がかかっているはずだ。
悔《くや》しいので、少し意地悪してやる。
「前テレビで言ってたんだけど、赤って食欲を増進させる色なんだって。でも、あんな映画の後だと、パプリカの赤も血を思い出させるわね」
「やめへよ」
今くわえたばかりのパプリカを口にくわえたまま、ちさとさんは奇声を上げた。正確には「やめてよ」と言いたいのだろう。
「思い出しちゃうじゃない。あの薄気味悪い暗い屋敷の仏間《ぶつま》で、お経《きょう》の上にポタリポタリと……きゃーっ」
「きゃーっ」
話を振った方も乗った方も、今さっき見てきたばかりの『血みどろ屋敷の経文《きょうもん》』を思い出して叫んだ。サドなんだか、マゾなんだか。ボートのカップルが、何事かとギョッとしてこっちを見た。
「怖くなんかない、なんてやせ我慢しちゃって。やっぱり怖かったんじゃないの、由乃さん」
ちさとさんが鼻で笑った。
「そっちこそ。映画が始まった途端、ブルブル震え出して、手ぇ握ってきてるんじゃないわよ」
由乃も反論した。
「先に握ったのあなたでしょ」
「あなたよ。手を握ったのも、叫んだのも」
「あれは叫んだんじゃなくて笑ってたの!」
「だったら、私のあれも武者震《むしゃぶる》い!」
結局。二人は無理して慣れないホラー映画を観たものの、恐怖に耐えきれず、相手の手をきつく握ったまま声をあげ続けたわけである。そんなに気が合うなら、我慢せずに「出よう」と提案したってよさそうなものだが、先に「出よう」と言えば相手に「弱虫」との称号を与えられかねないので、どちらも言い出せなかったのだ。チケット代がもったいないということもあるが、むしろそっちの理由の方が大きい。それで、ラストまで観ましたともさ。エンドロールまでしっかりと。
そうそう。最後の最後「THE END」と出た後の五秒間が一番怖かった。斜め前に座っていた、例の短距離走カップルはエンディングテーマが流れ出したらすぐに席を立ったため、あれを見逃してしまったのだ。まったく、来るのも帰るのもセカセカと忙しいカップルだった。
「いつだったかさぁ」
由乃は海苔巻《のりま》きを摘《つま》みながら、ちさとさんに尋《たず》ねた。
「料理苦手みたいなこと言ってなかった?」
鮭の塩味が効《き》いていておいしい。パッと見わからなかったけれど、酢飯《すめし》に白ごまが混ぜてある。
「うん。でも去年の令さまのお弁当見て、料理に開眼したの。あんな風になりたいって一年かけて自主トレしたんだから、少しくらいは様になってないと、でしょ?」
「ふうん」
努力したんだった。そういえば、ちさとさんは一年前とずいぶん印象が変わっている。髪の毛を切って、剣道を始めて、料理をするようになって……。もしかしたら、由乃が知らないだけで、もっともっといろいろな変化を遂《と》げているのかもしれない。悔しいけれど、前よりずっといい女になった。
「だからね。さっき笑ったのは、由乃さんのお弁当をバカにしたんじゃないのよ」
由乃のいびつなおにぎりが、ちさとさんの口の中で咀嚼《そしゃく》される。
「じゃ何?」
「一年前の私をそこに見つけて、懐《なつ》かしくなったの」
「……」
ずるい。そういうこと言っちゃうと、また好感度が上がるじゃないか。
由乃の中で、「田沼《たぬま》ちさと」は嫌なヤツでなければならない。令ちゃんに横恋慕《よこれんぼ》して、令ちゃんのカードを手に入れて、令ちゃんとデートして、令ちゃんと腕を組んで歩く姿を由乃に見せつけて――。
「ねえ」
由乃は質問した。
「どうして私たちは、去年令ちゃんとあなたがデートしたのと同じコースを辿《たど》っているの」
するとちさとさんは蓋《ふた》に注いだ水筒《すいとう》のお茶をすすりながら、「どうしてかしらねぇ」とお婆《ばあ》さんの独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいた。
「どうぞ」
水筒の蓋に注がれた液体から、湯気が立っている。
「ありがとう。……これは?」
「ウーロン茶です。家から持ってきました」
細長い水筒をヒョイと持ち上げて、瞳子《とうこ》ちゃんが言う。手提げ袋に入っていたらしく、今の今まで祐巳《ゆみ》も気づかなかった。
二人は、駅のホームの椅子《いす》に腰掛けていた。次に乗る電車が来るまでのひととき。ちょうど喉《のど》が渇《かわ》いてきた頃の、絶妙のタイミングだった。
「ありがとう」
ふーふーしながら一杯を飲み終えてカップ代わりにしていた蓋を返すと、今度は瞳子ちゃんが自分の分をついで飲んだ。
M駅からバスに乗って、まずは私鉄の駅に出た。そこから電車に乗って着いたのがこの駅。目的地に着くまでには、また別の電車に乗らなければならないらしい。
瞳子ちゃんがあえてこの回りくどいルートを選んだのは、一番安く行けるから。途中までJR線を使えばもっと早く着くだろうけれど、そうすると四千円という決められた予算をオーバーするというのだ。
(ん? 予算?)
祐巳は、ハッと気づいて椅子を立った。
「私、お弁当とか持ってきてないけど?」
「私もです」
ウーロン茶をすすりながら、瞳子ちゃんがのんびりと言う。
「あ、そう」
で、着席。水筒の準備をしてくるくらいだから、お弁当も持ってきたのかと思った。
「来ましたよ」
蓋《ふた》を閉めながら、瞳子ちゃんが言った。ホームの先に、減速して近づいてくる電車の姿が見えてきた。
日曜だからなのか、いつもそうなのかはわからないけれど、電車は結構混んでいた。リュックを持っている人や、登山靴《とざんぐつ》を履《は》いている人などもちらほら見かけられる。きっとこの電車の停車駅には、今から行って夕方には帰ってこられるくらいの、軽い登山やハイキングが楽しめる場所があるのだろう。
二つ並んだ座席が空《あ》いていなかったので、二人は扉付近に立った。電車はゆっくりと走り出す。
この駅の周辺自体、そんなに都会という感じではなかったけれど、駅を数えるたびに、畑や林や山が増えていって、東京からどんどん離れていくことが実感できた。
「私が病院を継ぐと言うと、祖父がとても喜んだんです」
突然、瞳子ちゃんが言った。風景を眺めていた祐巳は、驚いて扉のガラスから顔を離して瞳子ちゃんを見た。
「昔の話ですけれど」
「うん」
祐巳はうなずいた。瞳子ちゃんの話を聞きたかった。
バスの中でも、さっき乗った電車の中でも、瞳子ちゃんは無口だった。もちろん「整理券を取って下さい」だの「キップです」だのという、必要最小限の会話はする。けれど、退屈しのぎに祐巳が振った話には相づちを打つだけでノリが悪かったし、いろいろ質問しても「はい」とか「いいえ」とかでなかなか話が発展しなかったのだ。
瞳子ちゃんは何かを考えているのだろうか、そう思った。
だから祐巳は、黙って待つことにしたのだ。いつか、その考えていることを口にしてくれるものだと信じていた。
「病院って、お祖父《じい》さんの、だよね」
瞳子ちゃんの父方のお祖父さまは、東京近県の山の麓《ふもと》で小さな病院をやっているという話だった。確か、去年お亡くなりになった祥子《さちこ》さまのお祖母《ばあ》さまも、その病院に入院していたはずだ。
「ええ」
うなずいた後、瞳子ちゃんは視線を外して外の風景を見た。雑木林《ぞうきばやし》の上の方に、カラスが羽を休めていた。
「父が、医者にならなかったので。父も[#「も」に傍点]一人っ子ですし」
も、と言ったのは、瞳子ちゃん自身が一人っ子だからだろう。
「小さい病院なんですが、それでも地元の方や、遠くても気に入ってくださる患者さんたちに愛されていますので、いつか高齢の祖父が退いても、閉鎖《へいさ》したくはなかったんです」
「それで……」
「私が医者になってもいいし、なれなければ医者を婿養子《むこようし》に迎えたっていい。そう考えて準備もしていました」
「――」
若いのに、将来の計画をきっちり立てていたわけだ。祐巳は頭が下がった。一学年上なのに、自分は将来の職種はおろか、高等部を卒業した後の進路のことさえ、まだ考えていない。いや、のんびりし過ぎなのだろう。
「でも、考えただけではだめなんですよね」
ガラスにおでこをくっつけて、瞳子ちゃんはため息を吐いた。
「え?」
「どうにも動かし難いものはあって」
その時祐巳は、いつか瞳子ちゃんがしていた白地図《はくちず》の話を思い出していた。白地図の時はあらゆる可能性に満ちていても、色を塗り始めたら最後、思った通りにばかりはならないのだと思い知る、そんな話だった気がする。将来に対する絶望、それを喩《たと》えているのではないかという気がした。
「祖父はあと三年をめどに、引退すると」
「三年……」
祐巳は眉間《みけん》にしわを寄せた。
「それで、病院は?」
「今、祖父を手伝ってくれている四十代のご夫婦が共に医者で、病院は彼らに任せるって。私が病院を継ぐという話、祖父も両親も本気にしていなかったんです」
昔のことだと言っていた。だから、瞳子ちゃんが小学生とかもっと幼い頃のことかもしれない。小さな子供が将来を語って、大人を喜ばせることはよくあることだ。たとえ大人たちがそれを覚えていたとしても、とっくにいい思い出として処理されていることだろう。
けれど、瞳子ちゃんにとっては思い出でも何でもなかった。
「三年じゃ、私は高等部を卒業するのがやっとで、どこかの大学の医学部に入れたとしても、医師免許まではまだまだ遠い。だったら結婚とも考えましたが、未成年者の結婚は親の許可がいるんですよね」
「ご両親には」
尋《たず》ねながら祐巳は、こめかみ辺りから、汗が流れ落ちるのを感じていた。瞳子ちゃんの、この固執ぶりは何なのだろう。
「言いましたけれど。もちろん反対されました。好きな人と一緒《いっしょ》になるならともかく、病院のために結婚するなんて馬鹿げている、って」
「だろうね」
至極《しごく》まともな意見だと思う。瞳子ちゃんの方が、ぶっ飛んでいるのだ。でも、瞳子ちゃんにとって病院を継ぐことはそれほどの大事であったのだ。存在意義が、ぐらつくほどに。
「私のこと、もういらなくなっちゃったんだ、って思いました。すぐに使える代わりが出来たから、私はもう用済みなんだって」
「え?」
「そして家出したんです」
「あの日……」
思い当たってつぶやくと、瞳子ちゃんはうなずいた。
「そうです」
ご両親とけんかして家を出たという瞳子ちゃんが、祐巳の弟の祐麒《ゆうき》に連れられてふらりと福沢《ふくざわ》家に立ち寄ったのは、二学期の期末試験休みのことだった。お夕飯を食べ終わった頃、瞳子ちゃんの従兄《いとこ》の柏木《かしわぎ》さんが迎えに来て、意外とすんなり帰っていった。それでも瞳子ちゃんのお母さんは、娘の家出にショックを受けて、しばらく寝込んでしまったという話だ。
家出の原因は聞けなかった。
柏木さんが教えてくれると言ったけれども聞かなかった。志摩子《しまこ》さんの話から、何か家業を継ぐとか継がないとかで悩んでいるようだとは薄々気づいていたけれど、なるほどそういう事情だったのか。
でも。
「ごめん。よくわからない」
瞳子ちゃんが医者になりたいのなら、勉強してなればいい。その結果、お祖父《じい》さまの病院を引き継ぐというならわかるけれど、継がなきゃならない、って頑《かたく》なに思い詰めるわけが。
「おわかりいただけませんか」
瞳子ちゃんは小さく笑った。祐巳が「わかるわ」と反応するとは、端《はな》から思っていなかったようだ。
電車が駅に止まった。瞳子ちゃんはまだ下りようとはしない。駅名を確認せずとも、目的地かどうかは景色でわかるようだった。
二人は扉から離れて、乗降する人を通した。その扉からは七人降りて二人が乗り込み、やがて扉が閉まって再び電車は走り出した。
徐々にスピードを上げ、そしてまた一定のリズムを刻み出す。ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン……。
「だって、任せられる人がいるんでしょ?」
祐巳は途切れていた会話を再開した。お祖父さまの引退、即、病院|閉鎖《へいさ》ではない。今すぐ瞳子ちゃんが病院を継げないのなら、それはむしろありがたい話なのではないのだろうか。
瞳子ちゃんの話を聞いて、自分に何かができるとは思っていない。偉そうにアドバイスなんて、もちろん無理だ。
けれど、ただ聞くだけでも、自分の思ったことを口にするだけでもいいのだと祐巳は思った。瞳子ちゃんが自分を選んで話をしてくれているのだから、それでいいのだと言い聞かせた。
「あ……その人が病院の責任者になったら、患者さんがいじめられるとか、すぐに病院つぶしてマンションに建て替えるとか、それなら話は別だけれど」
祐巳がごにょごにょと言うと、瞳子ちゃんははっきり否定した。
「すごくいい人たちです」
今だってお祖父さまのよき片腕となって、医療に病院経営に尽力《じんりょく》してくれているという。ご夫婦とも子供の頃にお祖父さまの患者だったそうで、恩返しのようにお祖父さまの意に添って働いているとか。
「じゃ、今はその人たちに任せればいいんじゃないの? 先のことは瞳子ちゃんがお医者さんになったり、お医者さんと結婚したりした時に話し合えば」
「でも」
「瞳子ちゃんが病院を継がなくたって、瞳子ちゃんのことがいらなくなったなんて誰も思わないよ。現に、瞳子ちゃんのお父さまだって、病院を継いでいないけれどいらないなんて言われてないでしょ?」
「父と私は違います。松平の家を継ぐという目標が、私にとって生きていく上でどれ程心のよりどころとなっていることか」
まただ。頑なな部分が顔を出した。
「どうして?」
その質問に、瞳子ちゃんは答えなかった。答えなかったというより、黙り込んだ。
少し瞳子ちゃんに近づいたと思ったのに、また離れてしまったのだろうか。
いいや違う、と祐巳は思った。
寄りかかった扉が、ガタンゴトンと揺れている。ガラスの向こう側で、景色が走る。まだ見ぬ山が、木々が、空気が、「早くおいで」と急きたてる。
お互いに黙っているけれど、遠くに感じない。しゃべるのに疲れてしまったから、少し休んでいるだけだ。
自分は、瞳子ちゃんに確実に近づいている。
目的地に近づくに従って、祐巳のそれは確信へと変わっていく。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
この旅の目的地で待っているのは、きっと瞳子ちゃんの心なのだ。
[#改ページ]
修正と上書きと古い写真
電気ポットは、保温になっている。
「紅茶? コーヒー? 日本茶?」
志摩子《しまこ》は、椅子《いす》に座った少女に尋《たず》ねる。少女は、暗い顔をしている。
「はあ」
それではまるで答えになっていないことを、彼女は気づいていないようだった。仕方なく志摩子は言った。
「そうそう、お昼はおにぎりだったわね。やっぱり日本茶にしましょう」
湯飲み茶碗《ぢゃわん》にお湯を注いで温める。それから、急須《きゅうす》に茶葉を入れてお湯を注いだ。
薔薇《ばら》の館《やかた》の二階では、ケーキを除くデパ地下で買った食料がレジ袋から出され、テーブルの上に並べられていた。
志摩子はお茶の準備をしながら、それらを眺めた。おにぎり六つ、鶏《とり》の唐揚《からあ》げ六個入り、サラダとマリネ各300グラム……。どれもこれも、少しずつ分量が多かった。
意味もなくただ、ということも確かにある。でも何となく心に引っかかっていたものたちの中に、重要な理由が隠されていることは少なくない。それらのサインを見逃すな、ということなのだ。
「はあ」
また、ずいぶんと遅れて返事が届いた。「日本茶にしましょう」への同意らしい。
愛想がないのは最初からだが、これはいつもと同じレベルの話ではない。お手洗いの出入り口付近でのクラスメイトとのいざこざ(と言っていいのかわからないが)があってから、| 魂 《たましい》が抜かれたようになってしまった。
「ねえ」
お茶を注ぎ終えて、志摩子は言った。
「さっきの人、あなたのクラスメイトよね? いつだったか、……そう、一番最初に一年|桃《もも》組を訪ねていった時、取り次ぎを頼んだのは、確かにあの人だったわ」
「そうだったかもしれません」
「そうだったのよ。でなければ、つじつまが合わないもの」
「は?」
混乱したように、亜実さん[#「亜実さん」に傍点]の目が泳ぐ。そして志摩子の手もとを見ると、「あ」と叫んで指をさした。
「お茶碗《ちゃわん》が三つですけれど」
「ええ」
志摩子はうなずく。
「お友達も呼んで、私たちは三人でお昼ご飯を食べるの」
告げると、彼女は今まで見せたことがなかったキョトンとした表情を浮かべたので、志摩子を大いに喜ばせた。こんな顔もできるんだ、と。
「彼女をここに呼んできてくれないかしら」
「私が?」
「そう。今度はあなたが。井川亜実さんを連れてきて」
志摩子はほほえんだ。
そうだ。もう無理しなくていいのだ。
今からだって、遅くない。ちゃんと修正はできるはずだった。
ちさとさんはリベンジをしているのかもしれない、と由乃《よしの》は思った。
一年前のそれは、降って湧いたような「憧《あこが》れの令《れい》さま」とのデートに舞い上がり、期待もふくらんでいた分、令ちゃんのしくじりで玉砕《ぎょくさい》した時には、もう立ち直れない程のダメージを受けるという結果に終わったのだ。
(私のところまで苦情を言いに来たくらいだもん)
あの時は、不覚にも「かわいそう」なんて同情して一緒《いっしょ》に泣いちゃったりしてさ。思い出しただけで、由乃の方も「しょっぱいしょっぱい」なんだけれど。
でも、リベンジってのはいいアイディアかもしれない。リベンジという単語が攻撃的でいい印象ではないのなら、上書きでもいい。しょっぱい思い出の場所を、愉快《ゆかい》な場所に塗り替える。それはとてもいい。賛成、って思わず手を上げたくなった。
というわけで、さっそく提案。
「ねねね、動物園の方にも行かない?」
「何それ?」
予定にないわよ、とちさとさんが眉《まゆ》をひそめた。けれど由乃はめげない。
「ちさとさんの思い出の場所ばっかじゃ、ずるいってば」
「ずるい?」
「一年前のあの日、私一人で象や鹿やウサギを見たんだ」
「……なるほどね」
由乃の意図がわかったようで、ちさとさんは感心したようにうなずいた。けれど、園の入り口にさしかかった途端渋い顔をしてみせた。
「入園料、四百円なんだけれど」
「それくらいのお金はあるでしょ。どこかでコーヒー飲もうって言ってたじゃない」
この際、コーヒーは諦《あきら》める。水筒《すいとう》のお茶がまだ残っているし。
「千円あるから入れるよ。でも、そうすると由乃さんの帰りのバス賃《ちん》が出ない」
「えっ」
「当初は喫茶店《きっさてん》に入る予定だったけれど、バス賃を捻出《ねんしゅつ》するために、お手軽コーヒーショップの三百円コーヒーへと変更を余儀《よぎ》なくされていたわけよ」
「そんなっ」
由乃は左の手のひらを開いて、そこに指で数字を書いて計算してみた。算盤《そろばん》ができる人は、こういうとき宙に玉を浮かべてそれを弾《はじ》いたりするのだろうけれど、そんなの無理。映画のチケット代に入園料、それを二倍して四千円から引いた残りの金額でバスに乗れればいいわけだが。
「あっ。ああーっ」
十円足りない。
「だから自転車で来ればよかったのよ」
「ううう」
今更悔《いまさらく》やんだって仕方ない。それに、ちさとさんには言われたくない。お弁当作っていたから、家を出るのが遅くなったんだから。
「どうする?」
入るか入らないか聞かれて、由乃は答えた。
「入る」
今更引けますか、って。無きゃないで、どうにかなるもの。
「江戸《えど》っ子はね、宵越《よいご》しの金を持たないのよ」
「それ、使い方が合ってるようで間違ってる気がする」
ちさとさんは笑いながら、千円札を出して入場券を買ってくれた。
そこは、初めて降り立つ駅だった。
改札を抜けて駅前に出る。一緒《いっしょ》に降りたたくさんの乗客たちのほとんどは、バス停やタクシー乗り場、そして徒歩で行けるという別の路線の駅へと向かうべく、サクサクと歩き出していた。
けれど、瞳子《とうこ》ちゃんは動かない。腕時計を見て、小さくうなずくような仕草。何かを待っているのだ。
祐巳《ゆみ》もおとなしく待った。
どこに行くのか、何を待っているのか。そんなことを一切《いっさい》聞かずに、瞳子ちゃんの隣に立っていた。
よく見ると、他にも何人か、二人のようにどこへも行かずに立っている人たちがいる。そのうち一人は、家族だろうか、やって来た迎えの車に乗り込んで去っていった。
(あれ?)
風に乗って、どこからともなくやって来たいい匂《にお》いが、祐巳の鼻をくすぐった。
(香水、じゃない)
ほのかで、やさしい自然の花の香り。振り返れば、斜め後ろに立っていた二十代くらいのお姉さんの手に、きれいな花籠《はなかご》が握られていた。
ピンクの薔薇《ばら》とガーベラ。あとグリーンと、かすみ草だろうか、白っぽい小さな花が見える。きれいだな、と見とれていたら瞳子ちゃんに袖《そで》を引っ張られた。
「祐巳さま。来ました」
「ん?」
何が「来ました」なのかと見てみれば、駅前のロータリーに、今まさに白っぽいマイクロバスが入ってくるところだった。
「あれ(に乗るの)?」
「はい」
到着してバスの扉が開くと、駅前で立っていた数人が待ちかまえていたように乗り込んでいく。花籠を持ったお姉さんも乗った。
バスの側面には緑の文字で、『山の麓《ふもと》の松平《まつだいら》病院』と書いてある。
(ああ、そうか)
瞳子ちゃんの後についてステップを上りながら、祐巳はやっと自分がどこに向かっているのか理解した。
運転手さんは顔見知りのようで、瞳子ちゃんをみると「お久しぶりです」と挨拶《あいさつ》した。この『山の麓の松平病院』は、瞳子ちゃんのお祖父《じい》さまの病院なのだ。
「山の麓病院に行かれる方、いらっしゃいませんかー」
一度バスを降り、駅舎に向かって二、三度声をかけてから、運転手さんは再び運転席に戻ってバスを発車させた。
バスの中には、祐巳たちを除いて七人の乗客がいた。花籠のお姉さん以外にも、花を持っている小父《おじ》さんがいたし、何か大きな風呂敷《ふろしき》包みを抱えたお婆《ばあ》さんもいる。日曜日だから、お見舞いの人たちなのかもしれない。
「このバスは――」
祐巳がつぶやくと、瞳子ちゃんは先回りして答えた。
「送迎《そうげい》バスなんです。病院は駅から離れているので」
そしてあることに気づいたらしく、「もちろんただです」とつけ加えた。瞳子ちゃんが手にしている、軍資金《ぐんしきん》とも言える四千円が入っていた封筒の残金を、祐巳が気にしていることを見抜いている。ここまで使ったお金は、ざっと計算して千七百円近くにまでなっている。帰りも同じ分だけ必要だから、あと使えるのは二人で六百円くらいしかない。
一人三百円あれば、コンビニでパンくらい買えるだろうけれど、駅から離れていて送迎バスでないと行けないような場所に、果たしてコンビニがあるのだろうか。駅で何か買っていった方がよかったのではないだろうか。
(ああ、何だって私は)
こんな時に、お昼ご飯の心配なんてしているんだろう。せっかく瞳子ちゃんが、自分のテリトリーに入れてくれようとしている時に。
「お腹空《なかす》きました?」
「えっ。いや、その」
またもや見抜かれた、と思ってドキマギした。油断していると、百面相がすぐに顔を出す。瞳子ちゃんは笑った。
「私は空きました。もう少し待ってくださいね」
そうか、もうそんな時間なのだと時計を見ながら祐巳は思った。
バスは、どんどん市街から外れて田舎道《いなかみち》に出る。雪こそないけれど、やはり山の近くなのだろう、ガラス窓を通して見るからだろうか、風景は東京よりずっと寒々と感じられた。
十分ほど走っただろうか。瞳子ちゃんが文庫本の間から一枚の写真を取り出して、祐巳に見せてくれた。
それはカラーではあったけれど、何となく古い写真だということがわかった。リリアン女学園高等部の制服を着た少女たちが、五人並んで笑っている。いつの時代も変わらない、幸せなグループ写真だ。
「私の母がいます」
「この人?」
何の気なしに指さした。それは瞳子ちゃんとそっくりな、縦《たて》ロールを左右に一つずつぶら下げたおとなしそうな少女だ。
「……ええ」
瞳子ちゃんは静かに、満足そうにほほえんだ。
「そうなんです。これが、母です」
と。
[#改ページ]
開かれた扉
動物園の象の柵《さく》の前で、思いがけない人たちと会った。
「真美《まみ》さん?」
「え、あっ由乃《よしの》さん!」
仰《の》け反《ぞ》る二組。真美さんは妹の日出実《ひでみ》さんと、アイスクリームなんて食べていた。寒くはないのだろうか。
由乃は腕組みして質問した。
「どうしてここにいるの、って聞くのも野暮《やぼ》か」
真美さんは『リリアンかわら版』の編集長。─→今日がデートの当日だと知っている。─→デートの模様を取材しに来た。
今日この街に新聞部員が二名うろついているといえば、間違いなくそれしかないだろう。しかし。
「いや、聞いて聞いて」
真美さんたら、アイスを持っていない左手をヒラヒラさせて乗ってきた。
「これ、純粋にデートだから」
「はん?」
「取材とか関係なしで。マジで」
「え?」
「最初は、去年のお姉さまみたいに、目を血走らせて追いかけるのもあり、かと思っていたんだけれどね。考えてるうちに、何か空《むな》しくなっちゃってね。どこで何をするかは知らないけれど、今日、宝探しの勝者たちは間違いなく楽しい時間を過ごしているわけでしょう」
それを聞いて、由乃とちさとさんは顔を見合わせた。「ええ」とも「そんなことはない」とも答えようがなくて、あやふやにほほえむ。
「それなのに、私たちってば、その姿を追いかけるだけなんてバカみたいじゃない? せっかくの日曜よ? 探偵《たんてい》でもないのに、友達を捜して尾行して取材して。それでバイト代が出るでもなし」
そう考えて、真美さんは非常に落ち込んだわけだ。先週の金曜日の話らしい。
「でも、うちのお姉さまはただでは起きないんです」
横から日出実さんが、鼻息荒く言った。
「デートの模様を記事にしようと思って取っておいた枠《わく》を、私たちのデートレポートで埋めようと」
「はあ」
何だかわからないまま相づちを打っていると、今度は真美さんが説明した。
「つまり、実際四千円で何ができるのかっていうのをね、記者自らが体験し、宝探しの副賞である三組のデートと比較して読者に楽しんでもらおうというわけ。もちろん、我々の費用は自腹《じばら》だけどね」
実は、真美さんたちだけでなく、そういう姉妹《スール》は校内にたくさんいるのだとか。
「二パターンあってね」
真美さんは指を二本立てて、ピースサインを作った。
まずは、次期薔薇さまたちがデートするであろうと当たりを付けて、先週の日曜日、あるいは今日のどちらかにデートを決行した人たち。この場合デートの子細《しさい》が発表されていないので、多くが去年の予算である三千円で行動したと思われる。
続いて、『リリアンかわら版』のバレンタイン特集を読んでから、同じコースでデートしようと予定している人たち。来週の日曜あたりは、東京周辺の三カ所でリリアン女学園の生徒が異常発生するだろうと予測された。
「そういったわけで、お互い邪魔《じゃま》しないで別れましょ」
明るく手を振って、猿山の方に行ってしまった新聞部の二人。
「あれま。本当に、純粋デートなんだわ」
取り残された二人は、狐《きつね》に摘《つま》まれたような顔をして見送った。
キツネの柵《さく》は、残念ながら逆の方向だったけれど。
「いつ、気づかれたんですか」
さっきまで志摩子《しまこ》が「亜実《あみ》さん」と呼んでいた少女が、消え入りそうな声で尋《たず》ねた。その横には、同じように背中を丸めて伏し目がちに座っている少女がいる。
「いつからか、違和感は感じていたの。でも、確信を持ったのはさっき」
「さっき?」
志摩子は、「ええ」とうなずいた。
「お手洗いの前で、二人が言い争うような感じになっていたでしょう? 私は脱げた上履《うわば》きを拾って、その時に中底に書いてあった文字を見てしまったの」
油性マジックペンだろう、少しにじんではいたが、片仮名《かたかな》で『エモリ』とはっきり読めた。
「ああ……」
どちらだったろう、いや、両方だったかもしれない、納得したように目の前にいる少女が声をあげた。
「井川《いがわ》さんがエモリさんの上履きを履いているなんて、やっぱりおかしいわ。上履きを間違えて履いたことでけんかになったと考えるより、その上履きを履いている人が江守さんだと考えた方が無理がない気がしたの。それで、今までのことを思い返してみて」
考えてみたら、今まで「亜実さん」を井川亜実だと思い込んでいた根拠は、一年|桃《もも》組の生徒に呼び出してもらったことと、その名前の生徒手帳を持っていたこと、それだけだった。
例えば、取り次ぎをした生徒こそが井川亜実で、自分の生徒手帳を別人に預けていたとしたら、――つまり言葉は悪いが二人がグルだったとしたら、簡単に入れ替わることができるからくりだ。
だから「亜実さん」は、人目につくのを極力避けなければならなかった。志摩子と一緒《いっしょ》にいる時に、誰かに本名を呼ばれたら一発でアウトだ。そうでなくても、「亜実さん」が宝探しの勝者との噂《うわさ》がたってしまっては、この「とりかえばや」は失敗に終わってしまう。「亜実さん」が井川亜実さんではないことは、多くの人間が知っているのだ。
「だから、あなたは江守《えもり》さん」
志摩子は、まず「亜実さん」だった人を見た。それからすぐに、「亜実さんのクラスメイト」だった人を見る。
「そして、あなたが井川亜実さんね?」
二人は観念したようにうなずいた。
「道理で、乃梨子《のりこ》が井川亜実さんを見て、私の言っていたイメージとは違うと思ったはずね」
二人が見たのは別の人間なんだから、当たり前だ。
では、なぜ江守さんが井川さんになりすましていたのだろうか。それは志摩子にもわからなかった。それを知るためにも、二人|一緒《いっしょ》にこの場に揃《そろ》って欲しかった。
「教えてくれるわね?」
志摩子が尋《たず》ねると、本物の井川亜実さんがポツリポツリと語り始めた。
「私と千《ち》……江守さんは出席番号が前後ということもあって、入学当初から仲良しになりました。二人とも薔薇さまの中では|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》が好きで、お揃《そろ》いで白い薔薇のペンケースを買ったり、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》を真似《まね》して髪を伸ばしてみたり、何かと一緒に行動していました」
聞きながら、志摩子は下駄箱《げたばこ》のロッカーに貼られた白い薔薇のシールを思い出していた。
「そのうち、ちょっと声が似ているものだから、悪戯《いたずら》して先生が出欠をとる時に相手の名前で返事をしたり、時々お弁当を取り替えて食べたりして。学校にいる間の二人の境界線が、次第にあやふやになるというか」
「でもバレンタインの日、宝探しのイベントでは珍しく私たちは別行動でした」
そこからは、もと「亜実さん」だった江守さんが話を引き受けた。
「井川さんは不在者チャンスに申し込んで、私は宝探しに参加したんです。もちろん、二人とも白いカード狙いでした」
結果は周知の通り、当日白いカードは誰にも見つけられず、その権利は不在者チャンスに回されることとなった。
「翌日学校に行くと、井川さんが真《ま》っ青《さお》な顔をしていました。もしかしたら白いカードの権利が自分に回ってくるかもしれない、と言うのです。朝のうちには、すでに白いカードがどこにあったのか判明していたので、彼女は自分がかなり解答に近い場所を書いたのだとわかっていました」
不在者チャンスの申込用紙に書かれていた文字は、「職員用駐車場の車の下」。――真美さん流に採点するなら、九十点はもらえそうだ。
「どうしよう、と相談されました。どうしようも何も、デートすればいいじゃない、と私は突き放しました。けれど彼女、井川さんはできない、って。一人で|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》と話すなんて、ましてやデートなんて絶対無理、と言うんです」
亜実さんは「だって」とつぶやいた。
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》とお近づきになれたらあんなことをしたい、こんな話をしよう、デートするならあそこがいいと、想像しているうちは楽しかったけれど、実際それを手にいれられるとなると、どうしていいかわからなくなったんです」
志摩子自身は「そんな大げさに考えなくても」と思うのだが、山百合会《やまゆりかい》の幹部という肩書きが必要以上に自分を近寄りがたい人間にしてしまっているのかもしれなかった。
「それで、井川さんはパニックを起こして、辞退するなんて言い出すんです。そんなバカな、って思いました。みんなが望んでも手にすることができないものを、どうして簡単に手放そうなんて言うんだろう、って。だから、いらないんだったらちょうだい、って。つい言ってしまったんです、私」
江守さんはうなだれた。つい言ってしまったことを、ずっと後悔《こうかい》しているのだ。
「冗談のつもりでした。それで思いとどまってくれれば、って。そうしたら、亜実さん、いいよって。いつもみたいに入れ替わろう、って。それでも、まだ私は本気じゃなかったんです。亜実さんだって時間が経てば、気が変わると思っていました。それに、本当に白いカードが亜実さんの物になるのかって、半信半疑でしたし。でも、その日の放課後」
「私が教室に訪ねてきたのね」
志摩子はつぶやいた。あの日志摩子は、一年桃組を訪ねて「井川亜実さん」を呼び出してもらったのだった。
「そうです。どういった巡り合わせか、亜実さん本人が対応しました。そこで井川亜実は自分だって名乗るべきところを、私のもとまでやって来たんです。そして、約束だから代わりに行って、と。そして、私に自分の生徒手帳を握らせました」
それで、志摩子はすっかり信じ切ってしまったのだ。まさか、そんなことになっているとは知るよしもなかったから。
「何度か、打ち明けようと思いました。でも、やっぱりもったいないとか、今更《いまさら》言えないとか、いろんなことをグチャグチャ考えて。いいえ、私は本当はただ、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》とデートをしたかっただけなのかもしれません」
江守さんは涙を浮かべていた。責めるつもりではなかった。ただ、志摩子は真相を聞きたかっただけだ。
「それで?」
志摩子は立ち上がって窓を開けた。空気が淀《よど》んでいる気がした。今日は天気もいいので、カーテンを揺らして新たに入ってくる風は決して冷たくなかった。
「この、デートコースは亜実さんが?」
振り返って尋ねると、亜実さんが「はい」と言った。
「去年のレポートを読んで、楽しそうだったから同じことをしたい、って。実際にデートするのは江守さんなんですけれど。薔薇《ばら》の館《やかた》にさえ入ってしまったら、人目にもつきませんから好都合だし」
そうして二人は、入れ替わることになっても変わらず仲よく計画を立てたりしていたわけだ。なるほど、これまで志摩子が「亜実さん」に質問しても即答せずに、「明日までに考えてきます」だの「家に帰って練《ね》り直して来ます」だの言って、何かと宿題にしてしまっていたのはそういうわけか。すべて、本物の亜実さんに相談して決めていたのだ。
「私、本当はやっぱり亜実さんがデートをするべきだと思ってました。だから、当日まで、彼女の気が変わったらいつでも元に戻るべきだって。|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》には申し訳ないですけれど、わけを話して許してもらって、って。今日も待ち合わせの一時間前に二人で会って話し合いました。でも、亜実さんは頑《かたく》なで」
「だって今更《いまさら》、どんな顔をして出ていけばいいんですか。私は|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》を騙《だま》していたんです。ずるい人間なんです。そんな権利ないんです。本物の井川亜実は私ですなんて、出ていって楽しくデートなんてできるわけがありません」
騙していたはともかく、ずるいとか権利がないとか、そこまで卑下《ひげ》する必要があるのだろうか、と志摩子は思った。弱気になって逃げ出したことと「ずるい」は違うだろうし、少なくとも不在者チャンスで一番正解に近い答えを書いたのだから、その権利はあるはずだった。
亜実さんは続けた。
「でも、だったら| 潔 《いさぎよ》く退けばいいのに。私ってば、未練もたらたらで。二人の買い物の様子を離れて見ていたり、江守さんに説得されて取りあえず学校に行くバスに乗ってしまったり」
「それで、江守さんとお手洗いで話をしているうちに、薔薇の館に一緒に行こう行かないで口論になったのね?」
「そうです」
ことの真相がやっとわかった。「もういいわ」と志摩子が言うと、亜実さんは「でも」と言葉をつないだ。
「まだあるんです、私、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》に言わなくちゃいけないことが」
「白いカードの隠し場所を、事前に気づいていたこと?」
そう告げると、亜実さんは驚いたように目を見開いた。
「……どうして」
志摩子は席に戻って、正面から見据《みす》えた。
「そりゃね。青田《あおた》先生までは当てられなくても、あれはあまりに具体的過ぎたもの。それに不在者チャンスでしょう? 当日隠すところを見たわけではなさそうだし」
イベントの翌日、昼休みに薔薇の館で開票した時もその話は出た。しかし関係者の中で誰一人として情報を漏《も》らした者はいなかったので、どうしてわかったのかは謎《なぞ》だった。もし余裕《よゆう》があったら本人に聞いておいて、と志摩子は真美《まみ》さんに言われていたのだが、今まで余裕がなかったので聞けなかったのだ。
「|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》が|つぼみ《ブゥトン》三人と駐車場にいらっしゃるところを偶然見てしまって。それで、もしかしたら、と」
「やっぱり、あの時だったのね。気にしなくてよかったのに。あれは私のミスなのだから、ルール違反にはならないわ」
「えっ、そうなんですか」
亜実さんは、急に晴れやかな表情を浮かべた。今まで、知っているのに正解を書いてしまったと、罪悪感でドキドキしていたという。
「もしかして、当日参加しなかったのは」
場所を知っていたという話は初耳だったようで、江守さんは詰め寄った。すると、亜実さんは舌を出す。
「うん、そう。気が咎《とが》めて。でも当日誰も見つけられなかったのなら、もらってもいいかな、って」
「えーっ、嘘《うそ》ーっ」
「本当ーっ」
二人は大口を開けて笑った。いつだったか中庭で見たのと同じ顔だ。志摩子が見たいと望んでいた顔だ。
亜実さんは亜実さんを、そして――。
「江守さん。下のお名前、教えてくださる?」
志摩子は尋ねた。すると、かつて「亜実さん」だったその人は笑い涙を手で拭《ぬぐ》いながら答えた。
「千保《ちほ》。江守千保と申します」
千保さんは千保さんをようやく取り戻した、たぶんそういうことなのだろう。
「それじゃ亜実さん千保さん、遅くなったけれどお昼ご飯にしない?」
うっかり買いすぎた食料[#「うっかり買いすぎた食料」に傍点]が、たっぷり三人分はある。
まだまだ、デートは中盤戦。
大いに楽しまなくては、もったいない。
一人前三百円のご飯は、意外においしかった。
瞳子《とうこ》ちゃんのお祖父《じい》さまの病院に着いて、まず腹ごしらえとばかり瞳子ちゃんが祐巳《ゆみ》を連れていってくれたのは食堂だった。
レストランとして営業しているわけではないけれど、事前に予約しておくと、昼食三百円、夕食五百円で食べさせてくれるのだそうだ。何しろ山の麓《ふもと》の店などがあまり無い場所だから、そうでもしないと付き添いや面会客の食事に事欠くというわけだ。ちなみに今日のランチメニューは、オムライスと野菜サラダとコンソメっぽいスープだった。
「おお、瞳子!」
食事をしている最中、山羊《やぎ》みたいなお爺《じい》さんが食堂に入ってきて、瞳子ちゃんをギュッと抱きしめた。
「来るって聞いてはいたんだが、往診《おうしん》に行っててな。元気そうじゃないか。どうした、家出してパパやママを困らせてやったんだって? でかしたヤツだ」
瞳子ちゃんのほっぺたを甘つねりして笑う。
「いつの話をしているのお祖父さま。もう去年のことよ、遅れてるぅ」
「そうかそうか」
目尻を下げて何度もうなずく。可愛《かわい》くて可愛くて仕方ないというのが、端《はた》から見ていてもろわかり。
徳利《とっくり》セーターの上に、開襟《かいきん》シャツを長くしたような白衣を引っ掛けて。どうやらこの人が噂《うわさ》のお祖父さまらしい。例の、あと三年で引退するという。まだまだ現役《げんえき》のお医者さまでいられそうに、ピンシャンしているけれど。
「祖父です。こちら、学校の先輩の福沢《ふくざわ》祐巳さま」
ご対面が一段落《いちだんらく》すると、瞳子ちゃんはお祖父さまに紹介してくれた。
「ゆみ……さんっていうと、もしかして祥子《さちこ》さんの?」
「ご存じで?」
「ご存じも何も、彩子《さいこ》さんがよく話してくれてたからなぁ」
彩子さんというのは、確か去年亡くなった祥子さまのお祖母《ばあ》さまのことだ。そういえば祥子さまはここに入院していたお祖母さまのお見舞いのたびに妹の話をしていたらしく、お祖母さまは祐巳のことをご自分のお友達のように思ってくれていたという話だ。
「そうか、あなたが祐巳さん。瞳子をよろしくお願いしますよ。ビシビシしごいてやってください」
「え……あの、はあ……」
ビシビシしごけと言われても。何をどうしていいものやら。祐巳がしどろもどろになっていると、瞳子ちゃんがしらっと言った。
「気にしないでください。ただの体育会系ですから」
「あ、そ、そう」
深い意味はないらしい。瞳子ちゃんを妹にしたら、スパルタ教育をしなきゃいけないのかと思って、一人でドキドキしちゃった。
「ゆっくりしていけるのか?」
お祖父さまは尋《たず》ねた。
「祐巳さまにその辺をご案内したら帰ります。遅くなるとパパとママが心配するから」
瞳子ちゃんが答える。
「そうか。じゃ、今度はパパとママと三人でおいで」
「泊まりがけで来ます」
「そうしなさい。待ってるよ」
そう言い残すと、瞳子ちゃんのお祖父さまはあわただしく食堂を出て行った。これから入院患者の部屋を一つ一つ回るらしい。
二人の会話を聞いていると、この病院の行く末のことで意見が衝突したとは、とても思えなかった。
「結局、私は小さかったんですよ」
食べ終わったトレーを運びながら、瞳子ちゃんが言った。祐巳の分も持っていくから、あわてて追いかける。
「どういうこと?」
「孫悟空《そんごくう》は、結局お釈迦様《しゃかさま》の手の上から出られなかった、そんな感じです。私が一人で駄々《だだ》をこねて喚《わめ》いて暴れて……でも、いつだってそこは、大人たちの広げてくれた安全な手の上だったんです」
「うん?」
わかるようなわからないような。
「乃梨子《のりこ》にも言われたことがあるんです。小さいところにいるから、大きなものが見えないんだ、って」
ごちそうさま、と言って小母《おば》さんにトレーを返す。そのまま食堂を出るので、祐巳も頭を下げて瞳子ちゃんの後についていった。
病院の建物は木造で、映画やCMで見る「昔の小学校」のような| 趣 《おもむき》があった。ただ、床は元々の木の色をしているけれど、壁や柱は、白、黄みがかった水色、桜色といったペンキが塗られていて明るい。
廊下《ろうか》を歩いていると、時折「瞳子さん」とか「お嬢《じょう》さん」とか声をかけられた。そのたびに瞳子ちゃんは立ち止まって、挨拶《あいさつ》をしたり手を振ったりする。それは病院の職員だったり入院患者だったりいろいろで、それは瞳子ちゃんが時折ここを訪れて、さまざまな人たちとふれ合いをもっている証拠だった。
「ああーん」
突然の泣き声にそちらを見れば、日当たりのいい待合室のような場所で、入院患者のお婆《ばあ》さんが生後半年くらいの赤ちゃんをあやしている。側には赤ちゃんの両親と思われる若夫婦がいて、ニコニコと笑って見ている。早く元気になってと、孫の顔を見せに来たのだろう。いや、ひ孫かも知れない。
瞳子ちゃんも、目を細めてほほえんでいる。二人は並んでしばらくその場に留まった。それは、いつまで見ていても見飽《みあ》きることのない、幸福な光景だった。
「行きましょうか」
瞳子ちゃんに促されて、歩き出す。一度病院を出て木々の間の道を行く。確か、その辺を案内すると言っていた。けれど、当てもなくぶらりという感じではない。瞳子ちゃんのそれは、明確な目的地があるような足取りだった。何か名所でもあるのだろうか、と思いながら、祐巳は黙ってついていった。
どれくらい歩いただろう。たぶん歩き始めてから、十五分や二十分はとうに経っているはずだった。瞳子ちゃんが立ち止まった。
「十六年前、交通事故があったんです」
「交通事故?」
祐巳は周囲を見回した。そこは田舎道《いなかみち》ではあるがちゃんとした舗装《ほそう》道路で、側の山に添う形なのだろうか、緩《ゆる》やかなカーブを描いている。見通しは、そう悪くもないようだが――。
「道に張り出した枝が、きちんと切りそろえられているでしょう? 正確な場所はわかりませんが、だからきっとこの辺りだと思います」
事故当時は、もっと鬱蒼《うっそう》としていたらしい。事故があったことにより、整備されるようになったということか。
「乗用車とトラックの衝突事故で、乗用車の運転席と助手席に乗っていた夫婦が死亡しました。後部座席のチャイルドシートには生後間もない赤ん坊が寝ていたのですが、その子だけが無傷で助かって」
この話はどこへ行き着くのだろう。祐巳は胸がドキドキした。先を聞くのが怖い。けれど、瞳子ちゃんを止めることなどはできない。
なぜって、瞳子ちゃんの方が苦しそうだったからだ。胸を押さえた右手を包み込むようにくるんだ左手が、小刻みに震えている。そこまでして、話さなければならない事なのだ。祐巳は聞かなければならない。
「さっきのあの赤ちゃんくらい、……いいえ生まれて一ヶ月くらいだから、私はもっと小さかったはずです」
「え?」
「一人助かった赤ちゃん。その子が、私なんです」
――ああ。
祐巳は瞳子ちゃんの手を握って、そのまま抱き寄せた。どうすることが正解かなんてわからないまま、でもそうせずにはいられなかった。
瞳子ちゃんは身体《からだ》を強《こわ》ばらせていたけれど、祐巳が力を込めると、閉じていた腕をほどいてしがみついてきた。
向こう側から扉が開いた。そんな錯覚《さっかく》に陥《おちい》った。
瞳子ちゃんは泣いているのだろうか。しっかり抱きしめているから、祐巳からは顔が見えない。ただ、うわごとのようにつぶやく。
「私は、両親を一度に失って」
「もういいよ」
祐巳は言った。瞳子ちゃんが話すのが辛《つら》いなら、もうこれ以上はいい。けれど瞳子ちゃんは首を横に振る。
「いいえ、聞いてください」
まだ、足りない。言っていないことは、もっとあるのだと言うように。
「両親を失って、身よりといえば父方の年老いた祖母一人で。その祖母も、この病院に入院中でしたから」
この病院、と祐巳から身体《からだ》を離して振り返る先は、山の麓《ふもと》の松平《まつだいら》病院だった。
「とても私を育てることなんかできなくて。それで施設に入ることに決まって、でも直前に松平の両親が引き取って育ててくれたんです。母は何度か妊娠《にんしん》したんですが、いつでも出産までには至らなかった。その時も、流産のショックで精神を病《や》んで、祖父の病院で療養《りょうよう》していたんです。だから、これはお導きだって」
お腹《なか》の子供を失った母と、両親を事故で失った子供が、互いに失ったものを求め合うように家族になった。そういうことらしい。
「その松平の母がこの人で」
瞳子ちゃんはさっきの写真を撮りだして、また見せてくれた。瞳子ちゃんと同じ髪型の少女。あの時はとても似ていると思ったけれど、二人の間に血縁関係はないのだ。
「そしてこの人」
もう一人、瞳子ちゃんが.「松平の母」と呼ぶ人から、二人置いたところで笑っている少女が指さされた。
「この人が、私を産んでくれた人だそうです」
「え……それじゃ――」
「偶然ってあるんですね。二人は高校時代のクラスメイトだったんです」
瞳子ちゃんを産んでくれたお母さんは、短髪で細身で、瞳子ちゃんとはあまり似ていないようにも思われたが、眉毛《まゆげ》あたりに面影《おもかげ》がなくはない。でも小さい写真だから、はっきりそうだとも言い切れないけれど。
「そのことを知ったのは最近です。でも松平の家の子じゃないっていうことは、だいぶ前から知っていました。両親はとても気を遣《つか》ってくれましたが、無神経な大人たちが、子供だからわからないだろうと私の前で私の出自《しゅつじ》の話をしたり、事情を知らない人でも私の顔を見て両親のどちらにも似ていない、とか言ってましたし。そんな積み重ねで、子供ながらに『もしや』って思います。ある程度知恵がつけば、戸籍《こせき》を見ればわかります」
誰でも一度は両親の子ではないのではないか、と疑いをもつものだが、それを現実として突きつけられた時の衝撃はいかばかりだろう。
「産んでくれた母は、小さな劇団に入って演劇をやっていたそうです。だから、それを知った時、演劇をやめようかとも思ったんです。でも、突然やめたら両親が気を回すかな、とも思って」
気を回しすぎるのは、瞳子ちゃんの方だと祐巳は思った。
「私、今の両親が大好きなんです。だから、生まれることのなかった二人の子供の代わりになりたかった。でも、傷つけてしまったんです。病院のこと、両親は祖父の意見に賛成でしたから。私なんてもういらないの、って。両親はその時まで、私が知っていることに気づいていなかったのに。それから、母はまた不安定になって。赤ん坊を取られる夢をみて、うなされるんです」
「そっか……」
これが、柏木《かしわぎ》さんが言っていた「瞳子ちゃんの秘密」。柏木さんが教えてくれると言ったけれど、やっぱり聞けなかったあの話なのだ。
「どうして、私にそんな話を?」
「祐巳さまには、すべて知っていただきたいんです。だから、お話ししました」
それで瞳子ちゃんは、祐巳からの返事を先延ばしにしたのだ。全部さらけ出した上で、祐巳に決めて欲しいと思ったのだろう。
(受け止めるだけの覚悟があるか、ってことさ)
柏木さんの言った言葉が| 甦 《よみがえ》る。祐巳はフッフッと息を吐いて、その幻想を振り払った。
受け止める覚悟も何も、瞳子ちゃんが祐巳を選んで預けてきたのだ。受け止めなくて、どうする。
いいや、もうそんな段階じゃない。祐巳は、妹を手に入れてしまった。
瞳子ちゃんが瞳子ちゃんであればいい。
その決心の前で、受け止めるとか受け止めないとかいう議論は、まったく無意味なのだった。
[#改ページ]
明日になったら
「デートしていたのは最初から亜実《あみ》さんで、お昼過ぎに偶然忘れ物をとりにきていたクラスメイトの千保《ちほ》さんと、偶然会って合流したということにしましょう」
お昼ご飯を食べ終えてから、志摩子《しまこ》たちは作戦会議を開いた。
入れ替わりというか替え玉というか、つまり最初のうち井川《いがわ》亜実さんではない別人がデートしていたということに関して、志摩子はすでに「それでよし」と納得してはいるのだが、一般生徒たちの立場に立って考えると、それで済むわけはなかった。
志摩子の本心を言えば、そのものズバリをレポートにして提出する方が、新聞の読み物としては面白いと思う。しかしそうすると、亜実さん千保さんの二人が「ルール違反」として糾弾《きゅうだん》されかねない。カードおよびそれに伴《ともな》う権利の譲渡《じょうと》は、禁止されているのだ。
「いい? 前半は千保さん、後半は亜実さんがレポートを書くのよ」
それで、どうにかつじつまが合うはずだった。『リリアンかわら版』の読者を欺《あざむ》くことになるかもしれないけれど、丸く収めるためには致し方ない。現に志摩子は、前半はずっと千保さんを「亜実さん」と呼んで信じていたわけだから、あながち嘘《うそ》でもないというか。――方便である。
「あら?」
チーズケーキを切り分けている時、階段がギシギシ揺れる音が聞こえてきた。
「?」
日曜日に、薔薇《ばら》の館《やかた》を訪ねてくるのは誰だろう。三人は顔を見合わせた。すでに打ち合わせ済みだから、この面子《めんつ》を見られたからといって動揺《どうよう》することはない。だが、ほんの少し身構えた。
トントン、ガチャッ。返事を待たずにビスケット扉が開く。
「ちわーっ。写真部ですけれど、ご用はありませんかー?」
「えっ……?」
中に入ってきたのは、何と武嶋《たけしま》蔦子《つたこ》さんだった。後ろには、後輩でやはり新聞部の内藤笙子《ないとうしょうこ》ちゃんを従えている。二人とも制服姿だ。
「どうしたの?」
志摩子は、ケーキナイフを置いて駆け寄った。
「あれ、志摩子さんだったんだ。へー、二年連続同じとは思わなかったから、てっきり祐巳《ゆみ》さんか由乃《よしの》さんかと」
蔦子さんもまた、思いがけない人を見たように目を丸くしていた。お互いさまだ。
取りあえず、新旧の客、三対二で「ごきげんよう」と挨拶《あいさつ》をした。それから作業の途中だったケーキを切り分けて、みんなで食べた。蔦子さんや笙子ちゃんは最初こそ遠慮《えんりょ》したけれど、千保さんの存在があったからすんなり加わった。三人も五人も一緒《いっしょ》だ、というわけだ。
「いや。中庭を歩いていたら、窓が開いているのが見えてね。誰かいるのかと思って寄ってみたの。ただ昨日閉め忘れただけなら、代わりに閉めてあげようかな、って。そうしたらやっぱり誰かいる気配がするでしょ? デートだったらお邪魔《じゃま》かとも考えなくはなかったんだけれど、記念写真の一枚も撮《と》って差し上げられるし。もちろん、新聞部には内密でね」
チーズケーキを口に入れた後のフォークを振りながら、蔦子さんが軽くウィンクした。
「それはわかったけれど。そもそも、どうしてお二人は学校に?」
志摩子は、窓を閉めながら尋《たず》ねた。今日はいくつかの部が来ているとは知っていたが、写真部もとは思っていなかった。
「桂《かつら》さんに頼まれて、テニス部の写真を撮りに来たの。卒業する先輩たちに、部活動をしている写真を貼った手作りの小冊子《しょうさっし》を贈りたいんですって。寄せ書きとかも入れて。朝や放課後よりいろんな面で条件よさそうだから、天気予報も晴れってでてたしね」
それで日曜日に学校に来てみれば、他にも体操部やいくつかの文化部が活動をしていたものだから、いろいろな場所を梯子《はしご》しては、さっきの「ちわーっ」という要領で写真を撮って回ったらしい。
「私たちも撮ってもらう?」
亜実さんと千保さんに尋ねると、大きくうんとうなずいた。一年生の二人にとって、蔦子さんに写真を撮ってもらうというのは一種の憧《あこが》れだったらしい。
「合い言葉は?」
カメラを構えて蔦子さんが尋ねる。
「チーズケーキの『チ』」
千保さんがそう叫んだ時、シャッターが切られた。
「あ」
その瞬間、志摩子は突然思い出した。
「千保さん、宝探しの時、この部屋に一度入ってきたでしょう」
すぐにいなくなってしまったけれど、確かに来た。来たというより、跳び込んできて疾風のように走り去ってしまった。
「確か……志摩子さまの『し』、を見つけたと言って――」
ヒントをばらまいた志摩子のもとには、あの時間たくさんのそういった生徒たちが訪れてきたのだった。
「すごい、|白薔薇さま《ロサ・ギガンティア》。あのゴチャゴチャした状況で、よくそんな人の顔まで覚えていられましたね」
千保さんがコロコロと笑った。しかしそれが本当だったら、千保さんはすごい心臓の持ち主だ。宝探しに参加しているところを見られていながら、不在者チャンスに応募した人になりすましていたのだから。
「あたり?」
しかし、千保さんは「違います」と首を横に振った。
「正解は、志摩子さまの『ま』です」
――だそうだ。
一通り動物たちを冷やかして、それから歩道橋の上から大声で「令《れい》ちゃんのバカ野郎ー」って二人で叫んだ。
ちさとさんも由乃《よしの》も、今日のデートで一年前のデートをしっかりさっぱり上書きしてしまった。
「楽しかったわ。本当よ」
ちさとさんはK駅の改札前で、由乃の手を握って言った。これは、握手っていう行為だ。
「令さまには悪いけれど、一年前よりずっと。あの時、私は自分をよく見せようとして、偽物《にせもの》の自分を連れていってしまったのね。でも、今日は本当の私だったから、心から楽しめたんだと思うの」
「それって、私だと気を遣《つか》わないでいいって意味に聞こえるけれど?」
「そうよ。でも、褒《ほ》め言葉でしょ?」
「……そうとも言う、か」
ま、いいか、と由乃は思った。こちらだって、楽しくなかったわけでもない。
やせ我慢の反動で大笑いしながらホラー映画を見たり、失敗作のお弁当を食べたり、動物を見たり、大声を出したり。
いいや、むしろ楽しかった。二人の時間が、名残惜《なごりお》しいと感じるほどに。だから、ついポロッと口が滑った。
「ちさとさん。今から令ちゃんに会いにいかない?」
「行く」
思いがけない申し出なのに、ちさとさんは即答した。
「何か物足りないと思っていたのよ。そうよ、令さま。令さまに、どんなに楽しかったか報告しないと、このリベンジは完成しないんだわ」
そうしようそうしよう、とちさとさんが盛り上がるものだから、誘った本人の方が気圧《けお》されてしまう。
「ちょっと待った」
落ち着いて考えよう。
「何よ」
「ごめん、忘れてた。ちさとさんは定期券があるからいいけれど、私、十円足りないんだった」
十円足りなければ、バスに乗れない。
「あれ、でも自腹《じばら》切るって言ってたじゃない」
「うん。まあ」
最初はそのつもりだった。けれど、何ていうか、今回のデートが結構イケてただけに、収支を誤魔化《ごまか》すのがなんか気が引けてしまって。つまり自分のお財布《さいふ》から二百十円を出してバスに乗って帰ったくせに、二百円余りましたみたいなことで締めるのがあまり気持ちがよくなくて、ちさとさんにはバスで帰ると見せかけて家まで歩こうかと思っていた。もちろん、ちさとさんがレポートに由乃が往復自転車と書くことに関しては、まったく頓着《とんちゃく》しない。要は自分の気持ちの問題だった。
「ふうん。じゃ、つき合うよ。歩いて令さまの家まで行こう」
「えっ。どれくらいかかると思ってるの」
バス停にしていくつだ。指を折って数える。八つか九つ? いや、まだ全部の停留所名を思い出していないと思うから、もしかしたら十は超えているかもしれない。
「だって由乃さん、できない距離じゃないから、それをやろうと思ってたんでしょ? それに帰りはバスでさーっと帰るし」
定期券をしまって、さっさと歩き出すちさとさん。
「もうっ」
本人がいいって言うんだから、いいことにした。
しりとりしながら、なぞなぞしながら、スキップしながら、時には歌いながら、二人でバス停を一つ一つ巡っていった。
そしてリリアン女学園前のバス停前までやって来た時には、たっぷり一時間は経っていたというわけだ。
バス通りを通って来たのにはわけがある。たぶん令ちゃんだったら、近くて安全な道を知っているのだろうけれど、由乃の場合、慣れない道で迷わないようにするのが精一杯。ちさとさんにしても、K駅から学校、M駅から学校、といった通学する時の道順でしかこの辺りまで来られないのだった。
というわけで、ここまで来ればもう自宅(支倉《はせくら》家)までの道を間違うわけもなく、道路を渡るべく歩道橋を上った。
少し高い場所から学校を見ると、木々が多く、ちょっとした森のように見えた。落葉樹《らくようじゅ》の葉がない冬でさえそう見えるのだから、夏にもなればここから見下ろす風景はさぞかし圧巻《あっかん》だろう。
「何を感慨《かんがい》にふけっているわけ?」
ちさとさんが、由乃の肩を叩いた。毎日この歩道橋を渡って登校してくる人にとっては、これは見慣れた風景でしかないのだ。
「うーん」
何ていうのか、この感情を言葉にするなら。
「いつもいる場所を、ちょっと離れて見るのもいいかな、って」
大好きだよ、って再認識するために。
またらしくないことを、と笑われるかと思ったら、ちさとさんも隣で「うん」とうなずいてくれた。
M駅行きのバスがやって来るのが見える。
歩道橋から見下ろしていると、校門から走って乗りこむ一団がある。
二人は同時に別の名前を叫んだ。
「志摩子《しまこ》さん?」
「蔦子《つたこ》さん?」
そして相手の言葉を耳で受けとめて、「え?」と聞き返す。けれど、その人たちを飲み込んで、バスはもう発車してしまった。もはや確認しようがない。
バスに乗った生徒は、他にも数人いた。二人だけで行動しているわけではないかもしれないけれど――。
「どうして志摩子さんと蔦子さんが、一緒にいるわけ?」
それも学校に。
いくら考えてもさっぱりわからない由乃は、握り拳《こぶし》を顔の高さまで振り上げた。
「明日、志摩子さんに絶対に聞かなくちゃ」
明日になるのが楽しみだった。
「私、祐巳《ゆみ》さまのこと大嫌いでした」
瞳子《とうこ》ちゃんがつぶやいた。
「明るくて、無邪気《むじゃき》で、何でも持っていて、ドロドロした部分なんて全然もっていません、みたいな顔をして」
瞳子ちゃんのお祖父《じい》さまにご挨拶《あいさつ》をして、病院を出たのは三時頃。やはり送迎《そうげい》バスに駅まで送ってもらって、行きと逆のルートで帰宅の途《と》についた。そして今、二人は電車に揺られている。
「いや、人並みにもっているけれど。……ドロドロ」
祐巳は答えた。
「今ならわかります」
「あ、そ」
事故現場に行ってからこっち、おとなしくなっちゃったと思ったら、いきなり「大嫌い」パンチ。その上、祐巳のドロドロを肯定する。普通は「そんなことありません」くらい言って、フォローするものではないのか。しかし、萎《しお》れた花より、棘《とげ》むき出しで咲いている花の方が瞳子ちゃんらしいと、座った左側にぬくもりを感じながら祐巳は思った。
「ドロドロした部分がない人なんて、人間らしくありませんもの」
瞳子ちゃんは小さく笑って、「だから」と言った。
「私はきっと祐巳さまのようになりたかったんです。なりたかったのになれない。それでうらやましくて、悔《くや》しくて、反抗して。もう側にいない方がいいとさえ思ったのに。祐巳さまってば、私が必死でこしらえた垣根《かきね》を、どんどん壊してやって来るし」
「人を怪獣みたいに言わないでくれる?」
「本当のことですもん」
瞳子ちゃんは、しらっと言った。私は怪獣に押しつぶされまいと必死で逃げまどう市民でした、と。
「そのうち、祐巳さまの妹候補だなんて噂《うわさ》までたってしまって」
今度は、すごく迷惑そうに吐き捨てる。
初夏、祥子《さちこ》さまが学校をしばらくお休みしていたので、瞳子ちゃんに生徒会の手伝いを頼んだことがある。その時と、学園祭で舞台劇に出てもらった時、薔薇《ばら》の館《やかた》に頻繁《ひんぱん》に出入りしていたことから、そういう噂がたったのだ。きっかけは、どっちも祐巳がからんでいる。そうか、そんなに迷惑だったのか、と反省した。
「みんな好き勝手なことばかり言うんです。私はそれまで、そんな大それたことは考えたことがなかったのに」
興奮して声をあげるから、祐巳は瞳子ちゃんの手提げから顔を出していた水筒《すいとう》を取ると、蓋《ふた》にお茶を注いで差し出した。病院を出る前に、もらってきたからまだ熱い。
「……いえ、一度も考えたことがなかったわけでもないですけれど」
お茶を一口飲んで、瞳子ちゃんはつぶやいた。
「瞳子ちゃんは、ずっと山百合会《やまゆりかい》の薔薇さまになりたかったんだものね」
それは漠然《ばくぜん》とした憧《あこが》れで、きれいでやさしくて何でもできるやさしい先輩に、少しでも近づきたい、自分もそうなりたいという純粋な気持ちだったはずだ。祐巳もそうだった。だからわかる。
「噂《うわさ》ばかり先走りして。そんなわけないのに。祐巳さまは私のことを嫌いなのに、って。心の中で、必死で否定しました。だって、私は嫌われるようなことばかりしていたんだから。でも、それとは裏腹に足がどんどんそちらに向く。行ったらだめだとわかっているのに、行きたくて行きたくてしょうがない。だからまた、私は逃げて」
噂に自分が飲み込まれないように、逃げて、逃げて。
「そうよ、必死で逃げたのに。今度は、本人が唐突《とうとつ》に『妹にならない?』ですって。意味がわからなかった」
「ごめん」
祐巳は、瞳子ちゃんにそう言葉をかけた。そこで謝るのが適当かどうかはわからないけれど、そうせずにはいられなかった。
瞳子ちゃんは、祐巳に怒っている。無責任な噂をばらまく生徒たちに怒っている。うまくいかない歯車に。逃れられない運命に、そして。自分自身に怒り続けていた。
だったら、もっと怒ればいい。
もっと、もっと。怒りにまかせて声をあげ、癇癪《かんしゃく》をおこし、手足をばたつかせて泣き喚《わめ》けばいい。
[#挿絵(img/27_195.jpg)入る]
そうして今まで黙って自分の中に溜める一方だった思いの丈《たけ》を、一気に吐き出せばいいのだ。
文句はいくらだって聞いてあげる、と祐巳は思った。
電車を乗り換えて、バスに乗って、M駅に着くまでの間はずっと。それで足りなければ、明日も明後日《あさって》も。休み時間のたびに教室に会いにいって、一つ一つ聞いてあげる。
みんなに呆《あき》れられたっていい。冷やかされたっていい。言いたい人には言わせておけ。
だって、自分たちは姉妹《スール》になるのだから。
全部吐き出してすっきりしたら、空《あ》いた場所に、今度は楽しい思い出を入れていこう。
祐巳が祥子さまとそうしてきたように。辛《つら》いことも悲しいことも、全部含めて楽しいと、そう言える月日を積み重ねていくのだ。
あと少しでM駅に着く。
「瞳子ちゃん?」
緊張がゆるんだのか、しゃべり疲れたのか、瞳子ちゃんは隣で安らかな寝息をたてている。
窓の外が、バスに乗った時より暗くなっている。
交差点を大きく回った時、カチャリと言ったのは何だったのだろう。
封筒の中に残された、デート資金の小銭?
それとも、祐巳のコートのポケットの中のロザリオ?
何かを囁《ささや》くように、小さく可愛《かわい》い音をたてた。
(お返事は、デートが終わってからお願いしたいんですが)
見覚えのあるバス通りに出る。デートの出発点であるM駅に帰って、今日のミステリーツアーは完結する。
(もうちょっと待っていてね)
祐巳はポケットに手を突っ込んで、ロザリオにそっと触れた。
明日、学校に行って。
それから。
[#改ページ]
あとがき
『ちさとさん』
『不在者チャンス』
――声に出して読みにくい単語、今巻の両横綱《りょうよこづな》。
特に「ちさとさん」の場合は、五文字|平仮名《ひらがな》が続いている上に「ち」と「さ」と「と」が似ているから目で追っていてもこんがらがってしまいます。間違えて「ちとさちん」と書いてあっても、パッと見「ちさとさん」って読んじゃいそうじゃない?
同じ平仮名三文字の名前でも、「かずよさん」とか「みどりさん」とか「あかねさん」とかだと、それほど難しくないのにね。
こんにちは、今野《こんの》です。
約三ヶ月の、長かったのか短かったのかわからない「おあずけ期間」が終わり、お届けする運びとなりました、新刊『マリア様がみてる あなたを探しに』でございます。
前巻『クリスクロス』の発売以降、いただいたお手紙の片隅(あるいは真ん中)には、結構たくさん白いカードの隠し場所予想が書いてあって、楽しませてもらいました。ありがとうございます。
正確な統計をとっている暇はなかったので、大雑把《おおざっぱ》な印象でしかありませんが、だいたい六〇パーセントから七〇パーセントくらいが正解だった気がします。私としては、ほっと一安心です。負け惜《お》しみではなくて、それくらいの人がわかるといいな、くらいの気持ちで本文中にヒントをばらまいたので。みんながわかってもつまらないし、まったくわかってもらえないのは問題があるしで、ね?
正解以上に正解っぽい答えは、今のところ来ていません。答え合わせに向かう途中、乃梨子《のりこ》が耳にした呪文《じゅもん》のような数々の言葉のように、辛《かろ》うじて文章になっても、それを元にどうやってカードを探せばいいのかわからないと、ヒントとして成り立ちませんからね。当たり前か。でも、まだ私が読んでいない手紙の中に、すっごいお宝が隠されているかもしれませんけれど。
最近というかここ数ヶ月間に、私の身近であったカトリックに関係のある出来事二つ。
まず一つめ。
高校一年生以来の仲の良い友達が、洗礼を受けていた。
ちょっと前から教会に通っているという話は聞いていたけれど、まさか洗礼までとはビックリ。なぜそんなに驚いたのか。私たちの母校がリリアン女学園のような学校だったら、そういう友人がごろごろいて珍しくもなんともないのでしょうが、カトリックとは無縁なんですよ。その上、その友人、お母さまのご実家がお寺だからね、また驚いたわけ。それを聞いた時、思わず叫んじゃった。――「志摩子《しまこ》だ!」。
これはいいとばかりに、リアル志摩子に取材したところ(コンサート帰りの喫茶店《きっさてん》でした)、最近のカトリック教会についていろいろ話を聞けました。やはり私の知識は、幼稚園《ようちえん》プラス数年の日曜学校まで。ほぼ三十年くらい前で凍結しちゃっていたので、その間いろいろ変化があったんですね。お祈りの文句が今風に変わっていたことには、結構なショックを受けました。お祈りって、不変なものだと思い込んでいましたから。「えーっ、祐巳《ゆみ》には私が唱えていたお祈りをさせちゃったよ」と気づいても後の祭り。いいんです。リリアン女学園は、伝統のある学校なので、昔のままのお祈りを継承しているんです。なので、今後も『マリア様がみてる』の中では「めでたしせいちょう」であり「てんにまします」です。
二つめ。
シスターとの素敵な出会い。
それがすごいの。去年の十二月、用事があって久々に卒園した幼稚園を訪ねた時、同じ敷地内にある修道院の前でシスターがお二人立ち話をしていたんです。前を通り過ぎる時、ご挨拶《あいさつ》して二言三言お話したら、お二方とも私が幼稚園時代にいらしたシスターで、うちお一人は私が大好きだった担任のシスターだったというわけ。そのシスターはもう三十年くらい前に幼稚園から転勤なさっていたので、まさかいらっしゃるとは思っていなくてビックリ。最近こちらに戻って来られたばかりだそうです。シスターも私のことをよく覚えていてくださって、久々の再会に女子高生のようにお互いの手を合わせて(せっせっせの要領)「きゃーっ」と声をあげ合いました。マリア様のお導きとしか思えませんでした。
「ゆっくり遊びにいらっしゃい」とお誘いいただいたので、年が明けてから修道院を訪ねました。取材という気持ちはほとんどなく、ただ懐《なつ》かしくておしゃべりしただけなのに、たくさん勉強になりました。
私がカトリックの女子校を舞台にした小説を書いていると知ると、シスターはとても喜んでくださいました。「お役目だからがんばりなさい」との、ありがたいお言葉もいただきました。まるでマリア様からお許しをいただいたみたいで、胸が熱くなりました。
カトリック信者ではないけれど、これからも書かせていただきます。
マリア様、見ていてください。
[#地から1字上げ]今野緒雪
底本:「マリア様がみてる あなたを探しに」コバルト文庫、集英社
2007(平成19)年4月10日 第1刷発行
入力:ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw
校正:TJMO
2007年03月29日作成
2007年04月10日校正
2009年03月17日校正(暇な人z7hc3WxNqc 48行 縁→緑)
2009年12月31日校正(暇な人z7hc3WxNqc 1182行 上演時聞→上演時間、1806行 気が筈《とが》めて→気が咎《とが》めて、1912行 欲しいど思った→欲しいと思った)
この作品は、すでにWinny上に流れている以下のデータ
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第27巻 「あなたを探しに」.zip tLAVK3Y1ul 24,496,836 3eb1aa2b764e64dac71ef5d7d6156ce6
を底本とし、Share上で流れていた
(一般小説) [今野緒雪×ひびき玲音] マリア様がみてる 第27巻 「あなたを探しに」 (青空文庫形式対応TXT、ルビ有挿絵付き).rar ヾ[゚д゚]ゝABs07Yvojw 4,559,410 a7f692422c8d84ea6cd27ce459a917cfa5f14489
を、さらに校正したものです。それぞれのファイルの放流者に感謝します。
-------------------------------------------
底本で気になった部分
-------------------------------------------
底本で見つけた違和感のある文章や校正ミスっぽいものをまとめてみます。
青空文庫の方針としては底本のまま打ち込み注釈を入れるのですが、見た目が悪くなり読みづらくなるため、あえて訂正することにしました。
直し方が気に入らない方はこちらを読んで修正してください。
底本p012 10行目
二十人だか三十人だが、数えている余裕《よゆう》はないけれど、
―――「二十人だか三十人だか、」の誤りであろう。訂正済み。
底本p019 15行目
私の名前を後生《こうせい》まで残してくださいますか
―――後世まで、の誤りであろう。訂正済み。
底本p029 16行目
それに新聞部の蔦子《つたこ》さんや真美さん、
―――蔦子《つたこ》さんは写真部である。訂正済み。
底本p034 14行目
以前テレビで視た、食用に改良された大うさぎ
―――「視た」には視察とか調査の意味があるが、ここは普通に「テレビで見た」、でいいのではないか。判断つかず、そのまま。
底本p037 08行目
追い抜かす時、真美さまに笑われた。
―――「追い抜く時」または「追い越す時」ではないか。訂正済み。
底本p067 01行目
ため息をついて、作業を再会した。
―――「再開」の誤り。訂正済み。
底本p067 17行目
そんな、誰とは知らない高等部一年生の名前の下には。
―――「誰とも知らない」ではないか? 訂正せず、そのまま。
底本p079 07行目
ミズ・新聞部とも呼べる人物なんだから。
―――「ミス・新聞部」じゃないのか? 訂正済み。
底本p094 03行目
予想なんて何もしてこなったけれど、
―――何もしてこな「か」った、か? 訂正せず、そのまま。
底本p096 13行目
そこいるのは、間違いなく素顔の瞳子ちゃんだった。
―――「そこにいるのは」。脱字。訂正済み。
底本p139 10行目
瞳子ちゃんがあえてこの回りくどいこのルートを選んだのは、一番安く行けるから。
―――「この」が連続するため、文のリズムがおかしくなっている。「あえて回りくどいこのルート」「あえてこの回りくどいルート」のどちらかにしたほうが良いと思う。後者にして訂正済み。
底本p177 06行目
……いいえ生まれて一ヶ月くらいだから、
底本p198 11行目
約三ヶ月の、長かったのか短かったのかわからない「おあずけ期間」が終わり、
底本p199 14行目
最近というかここ数ヶ月間に、
―――ここだけ「ヶ」月。他は「カ」月。訂正せず、そのまま。
底本p096 13行目
「生んでくれた母は、小さな劇団に入って演劇をやっていたそうです。
―――産んでくれた、で良いと思われ。訂正済み。